[#表紙(表紙.jpg)] 私の骨 高橋克彦 目 次  私の骨  ゆきどまり  醜骨宿《しこほねやど》  髪の森  ささやき  おそれ  奇 縁 [#改ページ]     私の骨      1  下の階で電話が鳴り続けている。槙子《まきこ》が出るだろうと思いながら布団の中でベルの音を数えていた。頭がぼうっとしている。布団に入ったのはすっかり夜が明けてからだった。朝一番に入稿しないと間に合わないと編集者に泣きつかれて徹夜仕事になった。文句を言いたいのはこちらだ。もっと早目に作者が原稿を入れてくれれば、こちらも余裕を持って挿絵を描くことができる。絵組みを聞かされてから、たった二日しか余裕のない情況でも、手を抜くことのできない仕事である。編集者の方は、なんとか恰好《かつこう》さえつけてくれれば、などと謝り半分で口にしていたが、雑誌の読者にはその情況が分からない。手を抜けば、結局、自分一人にはね返って来る。しかも形までが変更となった。はじめは小さな横の絵も入っていたのに作者の枚数が予定に達しないことも考慮に入れて縮小拡大に都合のよい縦ばかり三枚。おなじことだと軽く考えているのだろうが、とんでもない。こちらは絶えず画面効果を考えて構図を決める。小さい絵なら顔を大きく描くし、頁一杯なら細かく背景を描く必要も出てくる。憤懣《ふんまん》やる方ない思いだったが、諦《あきら》めて一昨日の夜から着手した。アイデアの固まったのが昨日の昼。それから食事や風呂以外にほとんど休みなしに筆を走らせて終了したのが今朝の五時である。私の場合、鉛筆で下書きを開始してから一枚の仕上がりまでにだいたい四時間はかかる。さすがにくたびれて布団に潜り込み、うとうととしていたら、この電話だ。 (だれだよ……)  十を数えても鳴り止まないベルに私は苛立《いらだ》った。数えはじめてから十回だから、実際はその倍近く鳴っているのかも知れない。 (槙子はどうしたんだ)  買い物にでも出掛けたのだろうか。布団を頭まで被《かぶ》って忘れることにした。やがてチンと電話は鳴り止んだ。安心してまた眠ろうとしたら二分もしないうちにまた鳴りはじめた。脅迫されているような気がした。私は溜め息を吐きながら起きると階段を駆けた。タッチの差で間に合わなかった。こうなると気になる。時計を見た。十二時だ。台所のテーブルを確かめた。編集者が八時に受け取りに来る約束をしていたので、仕上がった原稿を袋に入れてテーブルの上に置いていたのだ。槙子はちゃんと渡してくれたらしい。サンドイッチの皿の下に「ご苦労さま。新宿に買い物に行きます」と書かれたメモが挟まれていた。  すると今の電話は編集者のものではない。  ふと槙子の顔が浮かんだ。  私は眠気と戦いながらコーヒー用のお湯を沸かした。腕が酷《ひど》くだるい。  なんとなく面白そうだったので出版社に勤める友人の紹介で引き受けた挿絵の仕事だったが、半年もしないうちに後悔が生まれた。苦労の割りに合わない仕事だ。挿絵の画料は一点八千円。二万四千円のために毎月必ず徹夜に近い仕事を強いられる。教えているデザインスクールは休日が多いので、こうして徹夜の仕事になっても影響は少ないが、今はこの連載が終了したら挿絵の仕事から手を引くつもりになっている。  湯が沸いたと同時に電話が鳴った。  私はガスを止めて電話に出た。 「なんだ。叔父《おじ》さんか」  二回も電話に出なければ普通は留守だと思って数時間は待つ。ひょっとして槙子が事故にでも遭ったのではと嫌な想像をしていた私は叔父と知って肩の力が抜けた。叔父は岩手の田舎に住んでいる。自分が広い屋敷に暮らしているので、ベルが聞こえないこともあると単純に思い込んでいるのだ。 「今日にでも岩手《こつち》に来てくれないか」 「なんです、急に」  私はまた嫌な想像に戻った。 「叔母《おば》さんでも悪いの?」 「兄貴の家《うち》な……面倒なことになった」  叔父の言葉に私は戸惑った。兄貴の家というのは私の実家である。一年ほど前、そこに一人で暮らしていた母が死んで、家は無人となった。父は四年ほど前に亡くなり、一人息子の私は再三に亘《わた》って母を東京に誘ったのだが、まわりに親戚も多いことから母は田舎を離れたがらなかったのだ。その母も死んで、田舎に戻るつもりもない私は家を処分することにした。叔父を介して売れたのは三カ月前のことである。三百坪で千五百万。東京の感覚で言うと嘘のような安さだが、過疎問題が深刻となっている村ではまあまあの評価だろう。築五十年という古い建物なので所有者は整地して新しい家を建てると耳にしていた。 「売買契約が反古《ほご》になったとか?」 「骨が出て来た」  なにを言われたのか咄嗟《とつさ》に分からなかった。 「骨。人の骨が見付かった」 「どこから?」 「だから、兄貴の家と言っただろう」 「だれの骨?」 「それが分からないから警察が騒いでる」 「えーと……どういうこと」  私にはまだ叔父の言葉がピンと来なかった。 「整地して基礎工事をはじめたら、兄貴の家の床下と思われる場所から壷に納められた人の骨が発見されたんだ。分かったか?」 「…………」 「警察がおまえに事情を聞きたいそうだ」 「事情たって……俺にはなんのことか」 「警察からも連絡が行くはずだ。それで電話したんだ。おまえがびっくりしないようにな」 「ちょっと前に電話した?」 「いや、はじめてだ」  さっきのしつこい電話は警察だったのだ。私は急に寒気を覚えた。      2  さっぱり要領を得ないまま私は翌日の朝早く新幹線に乗った。田舎は盛岡で在来線に乗り継いで三十分ほどのところにある。正確に言うとその駅からまらタクシーで二十分。  午後二時過ぎ。ようやく駅に辿《たど》り着いた私は叔父《おじ》の家に行く前に警察に立ち寄った。  てっきり厳重な取り調べ室を思い描いていた私は庭に面した明るいオフィスの椅子に案内されて少し気が楽になった。普通の服を着た年配の男が現われて私の前に腰を下ろした。ずんぐりとした小男だった。浅黒い顔の中心に人懐っこい二重の円い目玉が光っている。叔父の後に電話をよこしたのも彼だった。 「わざわざご足労をおかけしました」  男はあらためて大野と名乗ると冷えた麦茶を勧めながらのんびり質問をはじめた。 「この位置なんですがね」  大野は取り壊された私の家の簡略な見取り図をテーブルの上に広げた。 「骨の出たのはここです。あなたが使っていた部屋だと聞いておりますが……」 「そうです。高校を卒業するまでこの部屋に」 「床下の高さはどんなものでした?」 「さあ。三、四十センチぐらいでしょうか」  今は床下など滅多に見掛けなくなったが、古い家では高い床下が当たり前である。 「じゃあ大人でも楽に潜れたわけですな」 「と思います。子供の頃は面白がって床下で遊びました。結構高かった記憶があります」 「潜れたのはいつ頃まででした?」 「そう言われても……中学になったらそういう遊びをしなくなったですし」 「いや。あなたのことを聞いてるんじゃありませんよ」  大野は苦笑した。 「骨の発見された場所の四方は板で囲って入れなくしていたような痕跡があるんです」 「いつから?」 「だから、それをあなたにお訊《たず》ねしてるんでしてね。ずうっと子供の頃からそうだったのか、あるいはあなたが東京に移られてからそうしたのか……だれに聞いても分からんもので、それが特定できなくては厄介なんです」 「と言いますと?」 「まだ鑑識の結果がこちらに届いておりませんが、場合によっては殺人の可能性も」  私は唖然《あぜん》となった。  だが、考えて見ればその通りだ。自分にまったく覚えがないので、ただ不思議なことだとしか思っていなかっただけだ。 「あなたが子供の頃から囲われていたとすれば最低でも三十年は経っています。しかし、東京に移られてからとなると……ええと、盛岡の大学を卒業して東京の広告会社に就職なさったのは十二年ほど前ですね」  手帳に目を移しながら大野は確認した。 「時効の問題ですか」  嫌な感じだった。 「不愉快なお気持は承知しておりますが、これが私どもの職務でして。肝腎《かんじん》の建物が壊されてしまったので、こちらとしてもあなたにお伺いする他になかったんです」 「まだ鑑識の結果は出ていないんでしょう」 「ええ。もう少し時間がかかると思います」  大野は素直に認めて、 「もっとも、どんな結果が出ても、私は時効になっていると思っていますがね」  確信を持った言い方をした。 「そんなに古い骨ですか」 「骨の古さは素人に見分けがつきませんよ。条件によってずいぶん違ってきます」 「すると?」 「骨の入っていた壷の表面に数字が刻まれてありました。釘で引っ掻《か》いたようなね」 「…………」 「それでどうしてもあなたにご足労願ったわけです」  大野は急に厳しい視線をして見詰めた。 「三十二・八・十六……」  大野の呟《つぶや》きに私は吐き気を覚えた。 「最初はなにを意味する数字なのかまるで見当もつきませんでしたがね」 「私の……誕生日……です」 「気がついたのは私です。村役場で調べているうちに、おなじ数字だと」 「どういうことなんですか」  私はつい声を荒げた。 「どう見ても子供の骨のようでした。もしかしてあなたには双子のご兄弟でも?」 「ないですよ」  私は喚《わめ》き散らした。 「お母さんも亡くなられているので確かめることは不可能になりましたが」  大野は私の気持を落ち着けるように低い声で続けた。 「生まれて直ぐに亡くなったご兄弟でもあったんじゃありませんかね。あなたは産婆さんが取り上げたとお聞きしていますが」  私は頷《うなず》いた。 「その産婆もとっくに死亡しています」 「すると……死産の子供を隠したと?」 「それが一番自然な考えでしょう」  私は当惑しながらも首を縦に振った。 「それ以外にあの数字の意味するものに解答を与えることはできません。ご心配なく。そうと決まれば骨を埋めたのは三十四年前のこととなって事件は成立しません。もともと殺人でもないので当然ですけどね」 「私に兄弟ですか」  頷きつつも私にはまだ信じられなかった。 「あくまでもこちらのお願いになりますが、明日か、遅くとも明後日には正式な鑑定結果が届くと思われますので、できればこちらにご滞在していただけませんでしょうか」  私は承知した。私の問題でもある。 「それにしても……」  一通りの話が終わると大野は笑顔を見せて、 「柱、という屋号は珍しいですな」  私の家の屋号を話題にした。  私の名字は佐藤と言う。実家の周辺には佐藤姓が多いので、互いに呼び分けるには昔からの屋号を用いることが普通だ。私の家は何百年も前から柱の佐藤と呼ばれていた。けれど、なぜ柱と呼ぶのかだれも知らない。 「本家だったので大黒柱の意味だろうとは思いますけど。それは大昔のことで」 「ああ。なるほど大黒柱ね」  大野は得心したように首を振った。      3  久し振りに叔父《おじ》の家に顔を出し、夕食をご馳走《ちそう》になると私は盛岡に逆戻りした。どうせ家もない。せっかく戻ったついでに大学時代の仲間と盛岡で飲む約束をしていた。盛岡までは従兄妹《いとこ》の総美が自分の車で送ってくれた。総美は盛岡のマンションに住んでいる。私が東京から戻ると聞いてわざわざ実家に帰っていたのだ。私と六歳違いの二十八。まだ結婚はしていない。デパートに勤めている。従兄弟《いとこ》の私が言うのもなんだが相当な美人だ。大学時代に総美も盛岡の女子高に進学して寮に入っていた。白状すると私はその頃にたった一度だけ総美と口づけをしたことがある。互いに忘れたフリをしているが、もちろん総美も覚えているはずだ。私は胸の騒ぎを隠しながら助手席に座っていた。あれ以来、二人きりになったのはこれがはじめてだ。 「槙子さんも一緒だと思ったわ」  なんとか約束の時間に間に合いそうだと分かると総美は煙草に火をつけた。 「喫《す》うのか?」 「親父がうるさいから内緒にしてるの」  総美は綺麗《きれい》な髪を煙草を持った手で掻《か》き上げた。仄《ほの》かな香水の匂いが漂った。 「デパートも辞めたのよ。おふくろや兄貴は知っているけど、この歳になって女だらけの職場にいるといろいろ嫌なのよね」 「今はどこに?」 「ずうっとアルバイトしていたお店に。よかったら友達と飲みに来て。英一兄さんが来るんだったら私もまた店に出るわ」 「スナックか」 「盛岡じゃ結構有名なお店。ミニクラブ」 「どうして結婚しない?」 「だって英一兄さんが結婚したんだもの」  いきなり言われて私はどぎまぎした。 「冗談よ。相手がいないの。けど……今の兄さんの様子を見てると覚えているみたい」 「…………」 「あれがはじめてじゃなかったけど、正直言ってショックだったわ。従兄弟だから好きになっちゃいけない人だと子供の頃からずっと心に言い聞かせていたのに……でも、英一兄さんはそれきり東京に行ってしまった。何日泣き続けたか分からない」  私には返事ができなかった。あの頃、総美を好きだったのは確かだ。だが従兄妹だと思う気持が歯止めをかけていた。それでわざと大学の友達を総美に紹介したりしていた。自分の心をだれにも悟られたくなかったのだ。総美は私の友達と付き合い、休みの日には二人で映画などに行く仲にまでなった。私の中に嫉妬《しつと》が生まれたのはそれが原因だった。私は自分が紹介しておきながら総美に友達のあることないことを教えた。その友達が他の女と付き合っているのも事実だった。総美は突然泣き出して私の胸にすがって来た。私は抑えることができず総美に口づけした。総美は慌てて私を突き放すと部屋を飛び出た。私は自分の卑しさに自分で愛想がつきた。総美からはそれから連絡もなかった。二カ月後、卒業した私は総美にさよならも言わず東京に移り住んだ。次に総美と会ったのは私が槙子を連れて田舎に戻った時だった。四年が過ぎていた。槙子の前でなにか言われないかと私はビクビクしていたが二十歳になったばかりの総美は屈託のない笑顔で私に祝いを言った。ホッとした半面、眩《まぶ》しいくらいに美しい総美を眺めて槙子との結婚が色褪《いろあ》せた感じに襲われたのも事実だった。  あれからだいぶ時間が経つと言うのに……総美の美しさは少しも衰えていない。 「今夜は二人で飲むか」  私の本心がつい口に出た。 「友達と約束があるんでしょ」 「どうせ断わるつもりだった。まさかこんな妙な事件とは思わずに約束したんだ。盛岡には二、三日いることになるだろうし、やつとは明日の夜でもいい。こっちも疲れたよ」 「だったら私の部屋に来ない?」 「本当に一人なのかい」 「嘘を言ってどうなるの」  楽しそうに総美は笑った。  私の胸はざわざわと騒ぎはじめた。 「そう言えば、柱って屋号ね」  総美は思い出したように口にした。 「お客さんでそういうことを調べている人がいるの。私のところも厩《うまや》って言うでしょ。昔、馬を飼っていたからとばかり思っていたら、もっと深い意味があるんじゃないかって。そうよね。馬はどこでも飼っていたはずだわ」 「柱はどうなんだ?」 「人柱じゃないかと笑っていたわ」 「人柱?」 「ほら、橋とかを作る時に工事の成功を願って水の神様に人身御供を捧げるでしょ、時代劇なんかでよく見るわ」 「それに先祖のだれかがなったとでも?」 「大笑いしたけど、有り得るような気がしない? 柱なんて変な屋号じゃない」 「人柱か……なんだか急に人里離れたとこに戻ってきた感じがする。一昨日なんか徹夜で仕事をしてたんだぜ」  私は苦笑いした。東京からわずか三時間と離れていないと言っても、やはり岩手にはまだそういう雰囲気が残されている。 「警察ではなにを聞かれたの?」  総美は私の顔を覗《のぞ》いて言った。叔父の家には他の親戚も顔を揃えていたので詳しい話はなにもしかなった。人殺しの可能性や死産した兄弟があるらしいなどと遠い親戚にまで告げる気にはなれなかった。 「壷に刻まれていた数字のことは?」 「聞いてないわよ」 「警察の隠し玉だったというわけか」 「数字って、なに?」 「三十二年八月十六日。壷のは数字だけだがそれに間違いない」 「それって、もしかして英一兄さんの?」 「よく分かるな」 「お盆だから覚えていたの。子供の頃はよく私の家でお誕生会をしたでしょ」  そうか、そういうこともあった。私は一人っ子だったので三人兄妹のいる叔父の家にしょっちゅう遊びに行っていた。 「でも、どうして? 壷がなにか英一兄さんと関係があるわけ」 「警察はそう見ている。それで東京から呼び出しを食らった。骨の鑑定結果が出るまで東京には戻らないようにと釘を刺されたよ」 「不気味な話ね。てっきりあの家が建てられる前に埋められたものだと思っていたわ。それなら……伯父《おじ》さんか伯母《おば》さんが?」  私も認めるしかなかった。 「嫌だわ。父さんもそれを?」 「言ってない。鑑定がはっきりしてからと思っているんだ。たとえ親父たちの仕業とはっきりしても三十四年前なら完全に時効となっている。警察もそれ以上は騒がない。その場合はわざわざ教える必要もないさ。俺に双子の兄か弟がいたと分かったところで叔父さんたちには関係もないしな」 「双子……ああ、そうか」  総美も直ぐに理解した。 「だけど病院の方で連絡しないかなぁ?」 「俺は産婆さんの世話になったそうだ。いくらでもごまかすことができただろう。双子を嫌うって話もあるだろ。その時代はどうか知らないが、死産してしまったら無理に公表することもないと判断したのかも」 「そして、その骨を兄さんの部屋の床下に埋めたってわけ? なんだか怖い話ね」 「その時はその上が俺の部屋になるなんて思っていないさ。偶然そうなったんだ」 「伯母さんは知ってたはずよ。そしたら英一兄さんの部屋になんて考えると思う? 私だったら反対する。分からないわ」  総美の言葉に私も鳥肌が立った。 「もっと別の理由があるのよ。母親なら絶対にそんなことを許すわけがないもの」 「別の理由と言われてもな」  大野の言うと通り、双子以外にあの数字の意味が分からなくなる。 「双子だったかどうかは直ぐに調べられる」  総美は断言した。 「産婆さんはとっくに死んでいるそうだ」 「家での出産なら必ず親戚のだれかが手伝いに行ってるに違いないわ。私が確かめる」 「しかし……」 「女の勘よ。伯母さんはそういう人じゃない」  私は……やがて了承した。 「ついでに女の勘を披露するとね」  総美は小悪魔のように微笑《ほほえ》むと、 「槙子さん、私を嫌っていない?」  私は返事に窮した。 「彼女、私が英一兄さんを好きだってこと昔から気付いていると思うな」 「まさか……五、六回しか会っていないだろ」 「互いに女の勘は回数の問題じゃないわ。だから私も心の中では喜んでいたの」 「どうして?」 「私を槙子さんが嫌うのは……英一兄さんが私を好きかも知れないってこと。それを槙子さんが感付いているから私を遠ざける」 「信じられないな。槙子と二人で総ちゃんの話をしたことなんか滅多にないぜ」  私の心が槙子に知られているわけがない。 「それなら私の部屋から槙子さんに電話をかける勇気があって? どんな説明をしても槙子さん、信用しないと思うわ。私たちの仲を勘繰るに決まっている」 「言わない方が無難ということか」 「もし英一兄さんがそれでも私の部屋に来ると言うんならね」  私は総美の膝に手を置いた。総美に誘われたというより、私は槙子に対して怒りのようなものを感じていた。必死で私は総美を忘れようと努力して来た。それは槙子のためでもある。なのに、その私の気持を槙子はずうっと疑い続けている。総美には口にできなかったが、槙子の総美嫌いは相当なものだった。思い出して無性に腹が立って来た。 「昔から総美のことが好きだったよ」  私は後戻りができなくなっていた。      4  翌日の昼近く。  総美とのことで激しい後悔に襲われながら、ホテルのベッドで悶々《もんもん》としていると大野から連絡が入った。鑑定結果が出たので大野が盛岡の県警本部までやって来たと言う。  私は三十分後にホテルの喫茶室で話を聞く約束をした。大野の口調の厳しさが少し気になった。が、私はそれどころではない気分だった。総美の体が忘れられなくなりそうで自分が怖い。他人ならともかく総美は従兄妹《いとこ》だ。もしこのまま関係が続いて発覚した時にはどうなるのか? ただの浮気では済まされなくなる。欲望に負けて総美を抱いた自分を呪いたい。なんとかこれきりにしよう、と思うのだが、あのしなやかな姿態を思い浮かべると、また今夜も会いたくなるのだ。骨のことなど私の頭のどこからも消えていた。  私は寝不足の顔を洗って服に着替えた。 「こんな時間なのでお出掛けとばかり考えておりましたが、ちょうどよかった」  喫茶室には大野が待っていた。 「結果が出るまでは村に行ってもすることがないですからね。昨夜は遅かったし」 「盛岡は朝まで飲める店もありますからな」 「それで? どうなりました」 「それが……困っておるんですよ」  大野は真剣な顔をして私と向き合った。 「あの骨は一歳から三歳頃までの幼児のものと判定されました」 「…………?」 「埋められた時期は特定できません。それでも、二、三十年は過ぎているだろうという結論でした。したがってどんな事件であったとしても時効が成立します。これで我々の管轄ではなくなりますが……」  大野は深い溜め息を吐いた。 「いったいなんだったんでしょうかね。二、三歳まで生きていたのであれば双子の可能性は完全に無視していい。あなたにだって記憶が残っているはずです」  私も頷《うなず》いた。 「想像を逞しくして、どこかの子供を殺して埋めたのかとも考えましたが……そうなると壷に刻んであった数字の意味がちょいと……」 「親父やおふくろとは無関係かな?」 「お気持は分かりますが、それはないと思いますよ。埋めたのはご両親でしょう」 「やはり殺したに違いないと?」  つい声が大きくなって私は慌てた。ウェイトレスの目が私に向けられた。 「解けてみれば他愛のない謎かも知れませんが……どうにも気になって仕方がない」  大野はアイスコーヒーを一気に飲んだ。 「昨日、囲いの板の痕跡があったとおっしゃいましたが」 「ええ。工事をしていた男たちの証言です」 「それ……もしかして舟をバラした板かな」 「そうです。家材とはちょっと異なるので連中が覚えていたんですよ」 「だったら記憶にある。囲いと言うより単純な仕切りだと思っていたので昨日は……」 「いつ頃からありました?」 「物心ついた頃からあったはずです」 「具体的には?」 「少なくとも幼稚園の辺りには」  私の返事に大野は何度も頷いた。 「辻褄《つじつま》は合う。昭和三十二年生まれの子供が二、三歳で死ねば三十一、二年。今から三十数年前の話だ。その時に板で囲えば、あなたが幼稚園の時分にはもちろん塞《ふさ》がっている」  大野はどこか納得した顔だった。なにか考えていたことがありそうな頷きである。 「推理を聞かせて貰えませんか」  私が言うと大野は曖昧《あいまい》に濁した。しつこく私は食い下がった。私には見当もつかない。 「これは……あくまでも私の想像ですよ」  やがて大野は諦《あきら》めて白状した。 「あの数字があなたの誕生日を示すものであるのは明白です。だから双子だと確信を抱いたのですが……死産ならともかく、一年から三年の間となれば存在を世間に隠すことができません。となるとどうなるか。いろいろと頭を悩ませた末に、ふと思い付きました。あれは、あなたの骨じゃなかったのか、とね」 「私の骨?」  背筋に寒気が走った。 「そうです。昭和三十二年八月十六日に生まれた佐藤英一さんの骨」 「なにを言ってるんです」  私は笑うしかなかった。 「あなたは本当に佐藤英一さんでしょうか」  大野は真面目な顔で私に言った。 「あなたの責任ではありません。あなた自身も佐藤英一さんであると信じて生きて来た」「と言うと……つまり?」 「二、三歳なら記憶がなくても不思議じゃありませんよ。あなたは本当の佐藤英一さんの代わりにどこかから貰われたか誘拐されたのじゃないかと考えていました」  私は絶句した。 「壷に生年月日を書いたのは母心でしょう。本当は名前も刻みたかったのかも知れない」「冗談じゃない!」  私はテーブルを激しく叩いた。 「なんの権利があってそんな勝手な推理をするんだよ。あんたには無関係な話じゃないか」  店の客が私に注目した。 「謝ります。確かに余計なことでした」  大野は直ぐに詫《わ》びを入れた。客の目もあって私は怒りをなんとか鎮めた。 「悪い癖です。忘れて下さい」  大野は詫びを重ねると伝票を手にした。 「こちらこそ。つい大声を上げて」 「これでいつでも東京に戻られて結構です」  大野は頭を下げてレジに向かった。      5  大野と別れてから、じわじわと大野の言葉が私の心を支配しはじめた。信じたくないが数字の合致を思えば、そう考えるのが自然であろう。私は必死で記憶を辿《たど》った。母の乳を吸った記憶は私にない。だが、そいはだれにも言える。なにかの本で読んだが、最も古い記憶の平均は四歳くらいからで、それ以前となればほとんどの人間が忘れてしまっているらしい。百人に一人、いや千人に一人程度が乳幼児の記憶を持っているだけだ。その頃になにかが起きても自分には記憶として残らないことになる。 〈俺はさらわれて来たのか?〉  大野は貰いっ子の可能性も口にしていたが、冷静に考えれば有り得ない。死んだ翌日にでも養子を迎えたと言うのならごまかすこともできるだろうが、一週間も間が空けば親類縁者に死亡が伝わってしまう。どうしても二、三日の間にさらったとしか思えない。しかも、それは生まれて一年に満たない頃に違いない。三歳前後なら顔にも特徴が出ているし言葉も話す。一年未満なら、なんとか親戚さえも騙《だま》すことができるのではないか?  だが、なんのために?  また疑問が生じた。子供を失った母親が他人の子を誘拐する話はよく聞く。しかし、直後は珍しいはずだ。どんなに辛いにしても、まず自分の子の葬式を立派に挙げてからと思うのが人情である。子供の死を隠し、他人の子を誘拐しようと考えるわけがない。  だが……  頭が痛くなった。どこまでも堂々巡りだ。 〈あれは私の骨なのか?〉  すると私はだれなのだ? 私は苛々《いらいら》と煙草を喫《す》い続けた。もしそれがはっきりしたら私の戸籍はどうなるのだろう、とも思った。 〈私と総美に血の繋《つな》がりはないかも知れない〉  それを考えた時だけ救われた気持になった。どうせ両親とも死んでいる。その意味では余計なことで悩む必要もないのだ。いまさら本当の親を捜す気もないし手立てもなかった。 〈どうでもいいことか〉  私は無理にその考えを自分に押し付けた。 「まさか、なに言ってるのよ」  総美は電話で聞くなり笑い飛ばした。  体の関係ができてから、なぜか総美には遠慮なくなんでも話せる。 「それ以外にどう解釈できる?」 「だって、そんなことあるわけないわ。たとえ一歳未満だとしてもウチの親戚の親しさは英一兄さんも承知でしょ。顔ばかりじゃなく肌や肥り具合まで違うのよ。そりゃ、半年も外国に逃げていたら別でしょうけどね。絶対に分かるわよ。そんなの有り得ない」 「そうかな。そう言えばそうか」  私も認めた。大野の推理は頭の中だけのものだ。現実を無視している。 「英一兄さんには子供がいないから分かっていないんだわ。猫でも区別がつくのよ。人間の子ならもっとはっきりする」 「俺の骨じゃなかったってことか」  私の言葉に総美は押し黙った。 「理屈ではそうなるだろ。あの骨は佐藤英一のものだとさっきまで考えていた」 「縁起の悪い言い方はやめてよ。なんだかゾクッとしちゃった」 「あの日付はなんだろう?」 「お墓だったら、普通、死亡した日を書くんじゃないの? 誕生日って少し変よ」  あっ、と思った。その通りだ。 「じゃあ、俺が生まれたとおなじ日に死んだ子供ってことになる」 「その方がもっと不思議だけど……他に考えられることはない?」 「ないよ。充分に考え尽くした」 「私、それとなくおふくろたちに訊《き》いてみるわ。このままじゃ気になるもの。英一兄さんも行かない? ウチに泊まればいいでしょ」 「そうするか。総美が盛岡にいないんじゃホテルにいても退屈だしな」 「じゃあ日帰りする? 明日でもいいけど」 「せっかくだ。叔父《おじ》さんの家に泊めて貰おう。今度はいつ来れるか分からない」  私は自分の欲望を必死で抑えた。今夜も総美と二人で過ごせば取り返しのつかないことになるのが自分でも分かった。      6  警察が手を引いたと真っ先に報告したら叔父《おじ》は安堵《あんど》した。それから宴会がはじまって、布団の敷かれている客間に下がったのは真夜中に近かった。どれだけ飲まされたのかよく覚えていない。それでも意識がはっきりしているのは、総美との関係を叔父夫婦に悟られてはならないという緊張のせいである。 〈迷惑をかけたな〉  広い床の間に足付きの碁盤や掛軸の箱などが山と積まれ、大きな風呂敷で覆われていた。連絡もせずにやって来たので叔母《おば》が慌てて片付けたものに違いない。  最初は単純にそう思った。  だが、客間は十二畳もある。  この程度のものなら隅に寄せれば済むことだ。大事な客でもない。甥《おい》の私に恰好《かつこう》をつける必要もないだろう。元から置かれていたとしか思えないが……床の間に風呂敷の覆いはいかにも不自然に映る。狭い家ならともかく、この家には空き部屋がいくつもあるのだ。 〈俺に見せたくなかったのか?〉  なんだかそんな気がした。見られては困るものだから慌てて覆いを被《かぶ》せた。それ以外に考えようがない。酔いも手伝って私は床の間にそっと這《は》い寄ると風呂敷の端を捲《めく》った。 〈なんだ……〉  すべてが私にとって馴染みの品物だった。もともとは私の家にあったものばかりだ。古い碁盤も掛軸の箱にも見覚えがあった。それで叔父たちは私に見せたくなかったのだ。両親のことを思い出して悲しむとでも考えたのか……そう思うと同時に、嫌な想像も生まれた。私はもう二十過ぎの大人である。両親を懐かしんで悲しむ歳でもない。見せたくなかったのは別の理由ではないかと思い付いた。叔父たちが無断でこの品物を私の家から持ち帰ったのではないかという想像である。私の母は交通事故で突然亡くなった。その連絡を受けて戻った時は、叔父夫婦が母の遺体に付ききりで、あらゆる手配を済ませていた。  その気になればいくらでも家の品物を持ち出すことが可能だったはずだ。 〈言ってくれればいいのに〉  古い碁盤とか正月飾りの掛軸に興味はない。欲しければ喜んで形見分けをした。俺はそんなにケチな男と思われていたのか……そう思ったら少し悔しくなった。  私は他になにがあるのか調べた。  親父の大切にしていた小さな本箱が碁盤の後ろに隠されていた。昔の和綴《わと》じ本を納める箱である。全体に黒い漆が塗られていて、前には蓋《ふた》がついている。その蓋を開けると本が横積みに納められているのだ。ずいぶん前に見たきり私の記憶からは欠落していたものだ。  私は上の把手《とつて》を握って箱をそっと奧から抜き出した。中に入っているのがどんな書物だったのか確かめてみたかった。子供の頃にこれを開けて親父にこっぴどく叱られた覚えがある。ちんぷんかんぷんで、やたらと黴臭《かびくさ》かったのだけは頭に残っていた。 〈なんだこりゃ?〉  箱から出てきたのは刊行された書物ではなかった。自筆の稿本ばかりだった。しかも相当に古い。ぱらぱらと捲って見たが、あまりの達筆で私には読めなかった。恐らく先祖が書き残した日誌の類であろう。 〈読めたら価値も分かるんだが……〉  私は七、八冊を次々に手にした。 〈ん……〉  表紙に大きく「呪」の文字を認めてドキッとした。読み違えではない。私はその稿本を一頁ずつゆっくりと眺めた。まさに眺めるとしか言い様がない。なんとか読める文字は一頁にいくつもなかった。これでは暗号解読と変わりがない。 〈これは佐藤だな〉  頻度で見当がついた。やはり先祖が書いたものと見做《みな》して間違いなさそうだ。 〈こいつは……柱だ〉  佐藤とワンセットになっている。その中間の文字は「の」かも知れない。 〈そうそう、柱の佐藤だ〉  私の目は柱の上にある文字に動いた。  人、という簡単な文字だった。  人柱の佐藤……続けて読んで怖くなった。  総美は笑っていたけれど、正しく柱は人柱を略したものだったのである。  私は膝を正して頁を捲った。太い筆遣いも目を細めて見ると読みやすくなる。  女、という文字。同年同月同日、という文字。時間をかけるにしたがって読める文字が増えはじめた。私は夢中で取り組んだ。 〈家は呪術師の家系?〉  読める文字だけを繋《つな》げたものなので正確とは言えないが、私の解釈ではそうなる。本来は岩手を支配していた南部藩に仕える武士の家系のようだが、藩の河川工事の監督を命じられた際に力を示した先祖がいたらしい。その力というのが呪術だった。先祖はその力を認められ一介の藩士から、この地方の田畑を賜《たまわ》り一躍近郷に鳴り響く名主となった。以来、佐藤の家は呪術を裏の職業として藩の窮地をたびたび救ったと言う。 〈たわごとだ〉  私はさすがにバカバカしくなった。呪術など迷信に過ぎない。親父もおふくろも、ごく普通だった。そもそも親父は中学で化学を教えていた人間なのである。狭心症でぽっくり死ななければ今頃はどこかの校長ぐらいにはなっている。そんな親父が呪術と関わっていたなど信じられる話ではなかった。法螺《ほら》話の好きな先祖が面白おかしくでっち上げた文章に違いない。バカバカしいだけでなく、私はだんだん不愉快になった。床下の骨のことで嫌な思いをしている上に呪術だなんて……。 〈骨……〉  床下には私と同年同月同日の骨があった。  慌てて私は稿本を捲り直した。  そこには、同年同月同日生まれの者を人柱に用いるべし、と書かれてあった。 〈勘弁してくれよ〉  この本を親父は確かに読んでいる。そして私の家の床下には私とおなじ誕生日が刻まれた骨壷。信じたくはないが、親父がなにかの目的でそれを行なったのだけは間違いない。双子とか誘拐などよりも、もっと恐ろしいことが裏に隠されているような気がした。 〈なんのための人柱だったんだ?〉  私は親父に問い掛けた。      7  翌日の朝。  叔父《おじ》の家に大野が訪ねて来た。骨の処分をどうするか叔父と相談しに足を運んだ大野は、私がその家にいる偶然に驚いた。とりあえず佐藤の菩提寺《ぼだいじ》に保管することにした。大野は帰り際、私に話があると言って外に誘った。  私たちは小川に沿って少し歩いた。 「柱という屋号ですがね」  大野の言葉に私の足が止まった。 「どうも気になって調べたんですよ」 「なんだったんです?」 「盛岡の県立博物館には民俗学の専門家がいる。昨日、あの足で訪ねてみました」 「その人はなんだと?」 「人柱じゃないかと言っていました」  反応を確かめるように大野は私を見据えた。 「そう言われてもピンとこない」  笑って大野は続けた。 「あれこれと質問していたら、その先生が盛岡近辺に伝えられている人柱の話を捜し出してくれましてね。それを読んだら薄気味悪くなりました。説明しましょうか?」  私の返事も聞かず大野は細かく口にした。      *  北上川が盛岡市の南まで来て雫石《しずくいし》川、中津川の三川合する所に杉土堤といふて堅固な護岸堤がある。此辺《このあたり》昔南部家の厩《うまや》があつた所から、厩尻とも云ふ所である。此の厩尻は毎年のやうに洪水に破られて、城下の人々はどれ程苦しんだか知れぬ。そこで三百年ばかり前に殿様の命令で、此所《ここ》に永久的な護岸工事が始められたが、ある一個所どんな大石を埋めても、どうしても何の効果もない所があつた。時に工事主任佐藤某といふ者、万策尽きて或《あ》る山伏に訊《き》くと、其《そ》れには酉《とり》の歳、酉の月、酉の日、酉の刻に生れた処女の人柱を埋めたらきつと成就すると云はれる。それを捜したところが、その条々にあつた生娘は、自分の一人娘の小糸といふのだと解つて悲嘆にくれてゐる。  所がある日、旅の巡礼の母娘の者が、此の名主(佐藤某は名主であつた)の家に来て宿を乞《こ》ふに、明日と迫つた愛娘《まなむすめ》の巧徳のためにと思つて快く泊める。そして何気なく娘の齢を訊くと、今年十六になつて、丁度娘小糸と同じ齢、それも酉の歳、酉の月、酉の日、酉の刻に生れたのだといふ。それを聞いて名主は其の夜その巡礼の娘を自分の娘の身代わりにして厩尻の川底に埋めた。それと知つて母の巡礼も其所《そこ》へ身を投げて死んだが、それからは面白い程工事が進んで、今の様な立派な堤防が出来上つたと云ふ。因《ちなみ》に曰く、その名主の佐藤某家は、今も立派にある豪家だと云はれてゐる。併《しか》し其の巡礼母娘の怨恨《えんこん》でどうしても相続人に男子が生れぬと云ふ話である。 [#地付き]佐々木喜善『岩手郡昔話』より       * 「なんとも不思議な合致ですねぇ」  小川の岸に腰を下ろしながら大野は煙草をゆっくりとふかした。 「おなじ岩手郡。佐藤という名主。同年同月同日の人柱。あなたの家の屋号が柱で……今伺った親戚の屋号は厩。どんなに鈍い私でも、この話があなたの家の先祖の話だとピンと来ました。それで村に戻ってから年寄りに訊《たず》ねてみたんですよ。あなたのお宅は代々女系家族で婿養子を迎えていらっしゃるとか」  私は認めた。父も婿養子である。 「大正辺りまではこの近辺一の名主さんだとも伺っていますよ」 「だからなんだと言うんです」 「私は本当のことが知りたいだけでしてね」  大野は川の流れを見ながら呟《つぶや》いた。 「あなた、二歳の時に肺炎に罹《かか》って死にかけたことを覚えていませんか?」 「覚えてないけど、話には聞いている」 「ちょうどその頃ですよ。またあなたの家に巡礼の呪いがはじまったと村の連中が騒ぎ出したのはね。村のだれもが、あなたは死ぬものだと決め付けていたらしい。佐藤の家には男が育たないと信じ込んでいたようですな」 「…………」 「奇跡的にあなたは一命を取り止めた。医学の力だけなら……喜ばしいことです」 「違うとでも?」  私は大野が怖くなった。 「三十年程度なら、まだ資料が残されておるんです。時期も限定されている。まさかとは思いつつも本部の資料室に問い合わせてみました。その頃に二歳の子供が行方不明になったまま未解決の事件はないか、とね」 「…………」 「盛岡の子供が消えていました」  大野ははじめて私を睨《にら》み付けた。 「あなたとおなじ誕生日のね」  私は思わず大野から離れた。 「どうしてあなたのご両親がその子供の誕生日を突き止めたのか分からない。もっとも、やれと言われたら私にもできる。盛岡の大病院ならおなじ日に何人もの子供が生まれているでしょう。カルテの保存は最低三年と定められています。もし病院の職員を金で丸めることができれば二、三日であなたとおなじ誕生日の子供を五、六人はリストアップできます」 「その子を身代わりにしたとでも?」 「子を思う親は時として鬼にもなります」  大野は世間話のようにして続けた。 「ご両親は亡くなられている。たとえ私の考えが当たっていたとしても、いまさらどうにもならない事件でしょう。調べたら、その子の両親も今は行方が分かりません。まあ、時間をかけても捜し出して骨を返してやりたい思いはありますが……逆に辛さが甦《よみがえ》るだけの結果になるかも知れないですし」 「ぜひ返して上げて下さい。それまで私が大切に預かります」  私の言葉に大野は、 「それで苦労した甲斐《かい》がありました」  温かな笑顔を見せた。 「正直言って、あなたが簡単に信じてくれるとは思いませんでした。人柱だなんてね」  私は……大野の目の前で泣いた。  人柱の力など私は信じない。私が治ったのは医学の力に決まっている。だが、人柱にすがって私を救おうとした父と母の心を思うと悲しくて涙が出た。二人は巡礼の呪いを信じていたのだ。だから逆に人柱の力も信じる。 〈バカ野郎!〉  私のために殺された子供になんと言って謝ればいいのか?  私は大野が立ち去ったことも知らず泣き続けた。親たちは私の成長を見届けながら、その背後に自分たちの殺した子供の影を常に感じていただろう。そういう親を想像すると耐えられなかった。      8  私はようやく自宅に戻った。  たった三日でしかないのに、私は何カ月も家を留守にしていたような気がした。 「どうしたんだ?」  部屋の中は真っ暗だった。  明りもつけずに槙子が台所の椅子に腰掛けていた。槙子は私が明りをつけるのをぼんやりと見ていた。頬に涙のあとがあった。 「なにかあったのか」  私は不安に襲われた。 「総美がテープを送り付けて来たわ」  槙子はそう言うなり泣き伏した。 「総美と寝るなんて!」  槙子は顔を上げると私に唾《つば》を吐きかけた。 「テープって……なんの話だ」  私は心臓のざわめきを必死に抑えながら質《ただ》した。見当はついたが、まさかと思う。 「顔も見たくない。出てって!」  槙子は私にテープを投げ付けた。 「間違いない総美とあなたの声よ。とうとうあいつの罠《わな》に嵌《は》まったってわけね。おめでとう。二人で仲良く暮らせばいい」 「ちょっと待て」  私は逃げようとする槙子の腕を掴《つか》んだ。 「とうとうってのはどういう意味だ?」 「いまさらなにを言っても無駄よ。放して」 「だから、どういう意味なんだ」 「あいつは私を呪い続けていたんだから」 「総美が呪う? 狂ったのか」 「じゃあ見てちょうだい」  槙子は私を振り切って奥の部屋に向かった。槙子は小さな人形を握って戻った。私も覚えている。結婚祝いに総美が贈ってくれたアンティークのフランス人形だ。 「私たちに子供ができないのは、あいつのせい。あいつは悪魔よ」 「いい加減にしろ!」  私は槙子を思い切りぶった。  槙子はぶたれて少し落ち着いた。 「その人形のおなかの中に……」  やがて、しゃくり上げながら槙子は言った。 「針が何本も突き刺さっているわ」  ゾッとして私は人形を確かめた。  深く押すと指先に鋭い針が触れた。指から粒のように血が出た。  私は唖然《あぜん》としてその血を見詰めた。  悲鳴を上げて私は蹲《うずくま》った。  怖かった。  なにもかにもが怖かった。  なぜこんなことを総美がしたのか、どうしても理解ができない。母の心も、父の思いも、これを内緒にして私と平和に暮らしていた槙子の気持も分からない。 「どうしてなんだよ……」  私は何度も床を叩きつけた。  総美が槙子を呪っていたのではなくて、私がだれかに呪われていたのではないか?  ふと、そんな疑惑が私の胸をよぎった。  見上げた私の目には槙子の顔がまるで見知らぬ女の顔に見えた。  女は私を見下ろして冷たく笑った。 [#改ページ]     ゆきどまり      1  ヘッドライトの明りの中に、いきなり若い女の顔が浮かんだ。  驚愕《きようがく》と恐怖と不安の全部が、恐らく悲鳴を上げているらしい顔に見てとれた。ホンの一、二秒だったろう。けれど聞こえるはずのない悲しい叫びがぼくの耳にたっぷり三十秒は続いた。スリップの危険を承知で雪の坂道に急ブレーキを踏んだ。後ろのタイヤが深い轍《わだち》から外れて車体がフワッと横に滑る。尻の穴が縮まった。自分が踏ん張っても意味がない。それでもぼくは必死で背中をシートに押しつけた。車はゆっくりとスローモーションの映画のように半回転し、後ろのバンパーが右手の崖をギリギリと擦《こす》った。と思ったが、それは除雪されて道路脇に片付けられた高い雪の壁だった。本物の崖なら車が目茶苦茶になっている。 〈頼むぜ、おい〉  夜の雪道だからスピードはだしていない。手応《てごた》えのないハンドルを操りながらぼくは生まれてはじめて神に祈った。うまい具合に雪壁がクッションとなって車体を正面にたて直してくれた。前輪はまだ轍に残っている。幸いこちら側は登りだ。この様子ならなんとかなる。対向車が滑ってぶつかってこない限り大丈夫だ。ばくは前を見た。  いない。安堵《あんど》しながらも慌てた。 〈おちたのか!〉  やがて車は斜めに停止した。体中にびっしょりと冷や汗が流れている。ハンドルを抱えながら何度も溜め息をついた。心臓が象の鼓動のように大きく鳴っている。 〈バカやろう。一時停止もしないでカーブに突っ込んできやがって〉  どうせ雪道の怖さを知らない都会人に決まっている。ぼくは車から降りるとライトを持って走った。腰でも抜けたみたいに体が妙にふわふわする。恐怖がまだ残っているのだ。  禍々《まがまが》しいスリップの痕は弄《あめ》のように千切れたガードレールを越えて左側の暗い林に消えていた。怖々とライトを向けて確かめる。十五メートルほど先の窪地《くぼち》に頭を太い木にめりこませた黄色い軽自動車が見つかった。衝撃で被《かぶ》っていた雪が落ちたのだろう。車は半分厚い雪に埋まっていた。チカチカとルームライトが点滅している。  ぼくは腰までの雪を泳ぐように掻《か》き分けて車に近寄った。自分の車を安全な場所に移動させることも忘れていた。 「おい、大丈夫か!」  ガラスを叩きながらぼくは叫んだ。中には二人の若い男女がいる。助手席に腰掛けていた女が頷《うなず》くようにガラスを弱々しく叩き返した。男の方は、駄目らしい。ハンドルの軸が飛びでて胸に刺さっている。目をカッと見開いたまま両腕を下げていた。ライトが点滅するたびにズボンのドス黒い血が光った。 〈こっちのせいじゃないぞ〉  あんたらが悪いんだ。ドアを埋めている雪を掻きだす手を休めずにぼくは何度も自分に言い聞かせた。どうせいちゃつきあいながら飛ばしてきたのだろう。ようやくドア全体が現われた。把手《とつて》が凍りついている。ぼくは靴で蹴った。女もぼくの行動に気づいて中から肩でドアを押す。駄目だ。衝突のショックでいかれてしまったらしい。ウィンドーを試してみるように合図した。グルグルと小さく腕を回す恰好《かつこう》に不審な顔をしていた女が、何度も頷いて、やがてガラス窓が下りはじめた。 「ありがとう」  女は……笑っていた。突然の出来事に情況を把握できないでいる。あるいは運転していた男の死体を側にしておかしくなったのか。 「ケガは? でてこれるかな」 「私は……なんともないわ」  女はぼくに手を差しだすと小さな窓から器用に両肩をだした。女を抱え上げる。形のいい乳房がTシャツの広い襟《えり》から丸見えだ。なんてこった。この真冬だってのに。 「海にでも行くつもりだったのかい」  女は雪に身を晒《さら》すなり、ぼくにしがみついてきた。足がガタガタと震えている。当然だ。Tシャツから下はサンダルに小さなパンティ一枚。それがすべてだった。くびれた腰のあたりに被った雪を払い落とす仕草を眺めているうちにバニーガールをフッと連想した。 〈ふざけたヤツらだ。ペッティングしながらこの雪道を走ってきやがったのか〉  ぼくは無性に呆《あき》れて腹が立った。 「服をとれよ。死んでしまう」 「ないのよ」 「冗談だろう。こっちは君を殴りたい気分で一杯だ。遊びで命をとられちゃたまらない」 「本当に——ないの」  女はじっとぼくを見詰めた。 「…………」  とにかく女をぼくの車につれて行かなければならない。立ち話をするにはあまりにも環境が悪すぎた。ぼくはダウンジャケットを脱ぐと女に着せてその場に屈《かが》んだ。 「のれよ。裸足《はだし》の足じゃこの雪は無理だ」      2 「あの人は死んだのね」  生気のない声で呟《つぶや》くと珠紀《たまき》は軽く目を瞑《つむ》った。まだ正気に戻れないでいる。人間ってのは想像を越える情況におちいるとすべてが現実から離れたものに思えてしまうらしい。 「寒いわ。感覚がなくなっちゃった」  膝に掛けたダウンジャケットの下で掌《てのひら》が動いている。凍えた腿《もも》を摩《さす》っているのだ。 「恋人だったんだろ」  ぼくはバッグから厚手のセーターをとりだすと珠紀に与えた。後ろの席にはコーヒーを詰めたポットが転がっている。 「飲む? インスタントのブラックだけど」 「いただくわ。このままじゃシャーベットになってしまいそう」 「恋人だったんだ」  ぼくは重ねた。なんとか名前を聞きだせただけで彼女のことをなにひとつ知らない。年齢はせいぜい二十二、三。長い髪が痩《や》せた肩にまで伸びている。綺麗《きれい》な髪だ。こんな情況だってのに、ぼくはさっきの珠紀の姿を頭に描いていた。ジャケットに隠された足はかもしかのように引き締まっている。小さなお尻にビキニのパンティが似合う。学生だろうか。 「なにも訊《き》かないで。話したくないの」  珠紀は大きな目でぼくと向き合った。 「兄妹ってこともないだろ」 「どっちでもなかったわ」  珠紀は湯気の上がった紙コップを受けとると無言で飲んだ。コーヒーの香りだけが現実だった。ぼくは言葉を探した。 「言いたくないなら構わないさ。どうせ警察に行けば正直に答えなくちゃならない」 「警察? どうして」 「どうしてって……当たり前だろ。君たちの車は事故を起こして人も死んでいるんだぜ」  説明しながらゾッとした。珠紀はショックで頭をおかしくしているのかもしれない。それともぼくは面倒な事件に巻きこまれてしまったのだろうか。本当に死んだ男が恋人でなかったとしたら、パンティひとつの恰好《かつこう》はいかにも不自然だ。売春組織かなにかに関わっていて逃げられないような姿に強要されていた、ということだって……。 「誘拐じゃあ……ないよな」  それなら警察と聞いて喜ぶはずだ。 「あなた。このあたりの人じゃないでしょう」 「ああ。この土地ははじめてだ」 「だったらあなたがきた道を戻った方がいいわ。警察のある町は山を二つも越さなきゃならないの。急いでも三時間はかかるのよ」 「戻ってもおなじだ。警察なんてなかった」  ぼくは即座に否定した。それに天候もだいぶ酷《ひど》くなってきている。対向車もこないような山道を戻るかと思えば寒気がする。 「三十分ほど戻れば温泉宿があったはずなの。そこで電話を借りた方が早いんじゃないかな」 「温泉? そんなのはなかったぜ」 「脇道を入るの。見逃したんだわ」 「そうか。だったらその方がいい」  ヘタをすれば吹雪になりそうだ。ぐずぐずしてもいられない。ぼくはハンドルを握るとバックにギアをいれた。少し戻ると広い場所がある。珠紀は首を伸ばして自分たちが落ちた場所を確認していた。  車を反転させると彼女の膝からジャケットが滑り落ちて白い足があらわになった。薄いレースのパンティの下に柔らかな繁みの陰りが見える。ぼくは慌てて視線をそらせた。 「仕事は? 学生さんじゃないんでしょ」  珠紀はダッシュボードに置いてあったジッポの蓋《ふた》をカキンカキンさせてぼくに訊《たず》ねた。クラブの後輩たちが卒業記念に贈ってくれたもので大学の校章がくっついている。 「岩手の大学で教えているんだ」 「大学の先生? へぇ、ちょっと意外だな」 「だれにも言われるよ。どう見たって先生ってガラじゃない。体育を担当している」  ぼくの答えに珠紀は納得した。 「二十六、七かしら。奧さんは?」 「そんな嬉しい相手がいたら正月にひとりでスキーなんかにきやしないさ」  ぼくは笑った。なんだか知らないが妙な女の子だ。人が死んでいるってのに世間話を楽しんでいる。  二十分ほど戻ったところに間違いなく看板はあった。黒い杉板に白く「雪泊温泉・2キロ」とだけ書いてある。除雪された雪に隠されてうっかりすれば見過ごしてしまうほど小さな案内板だ。道は山の方にたよりなく延びて暗い闇に消えていた。ほとんど訪れる客もいないのだろう。タイヤの痕も見えない。 「あれはなんと読むの」 「ゆきどまり。そのまま」  珠紀は二杯目のコーヒーを注ぎながら言った。ぼくは雪道の深さを確かめるために外にでた。せいぜい十五センチ。吹き溜まりもなさそうだ。道の両側には平板な林が広がっている。これなら脱輪しても危険はない。ぼくは慎重に車を脇道に進めた。 「青森県には夏泊半島ってのがあるけどね。雪泊とはまたロマンチックな名前だ。このあたりじゃ有名な温泉場のなかい」  言い忘れたが、ぼくたちのいるところは山形県と宮城県との境目。蔵王《ざおう》の裏側だ。正月休みを利用してぼくは盛岡を起点に秋田、山形の順にスキー場を訪ね歩いていたのだ。あとは蔵王で滑って仙台から岩手に戻る。その途中でこんな目にあったのだ。 「ほとんど知られていないわ。宿も一軒しかないし……この国道ができるまでは本当に行き止まりだったそうなの。昔は殿様のお鷹狩りの休息所だったと聞いたけど。明治時代に建てられた木造の古い温泉宿」 「詳しいんだな。泊まったことが?」  珠紀は一瞬眉根に皺《しわ》をよせて考えると、 「ない、はずよ。それとも子供の頃にでも行ったことがあるのかなぁ」  自分でも不思議そうな表情になった。 「ねえ。変なことを聞くけど、ここに温泉があるってこと……あなたが言いだしたのよね」  ぼくはブレーキを踏むところだった。やはりおかしい。きっと頭のどこかをぶつけたに違いない。ぼくも大学時代に似たような経験がある。ラグビーでタックルをかけられて地面にいやというほど頭を叩きつけられたのだ。ぼくは正常のつもりだったが仲間に言わせると、直後の一時間前後は支離滅裂な話を続けたらしい。どうも小学校の友達と遊んでいると錯覚したようなのだ。チャンづけの知らない名前で呼ばれて仲間はさぞかし焦っただろう。こんなときには気づかぬフリをした方がいい。本人が不安を抱くだけだ。 「どうして私はあなたの車にいるの? さっきまでは分かっていたような気がしたけど」  もうぼくも驚かなかった。珠紀の横顔をソッと確かめた。別に汗も掻《か》いていない。軽い脳震盪《のうしんとう》を起こした程度ならいいが……。 「手足に痺《しび》れでも感じないかい」 「大丈夫。温かくなったから平気」  それなら大したことはないはずだ。 「なんだか気味が悪いわ。引き返した方がいいんじゃないかしら」 「無理だ。狭い道でバックができない。あと少しだよ。電話連絡が先さ」      3  地吹雪のために何度か立ち往生し、ようやく雪泊温泉のものらしい黄色い明りに巡り合ったときは心底|安堵《あんど》した。脇道に入ってから二十分は経っている。2キロの表示を信じれば時速六キロで走ってきた計算になる。アスピリンのように細かな雪が車を包みこむようにしきりと舞っていた。フォグライトに切り替えても視界は五、六メートルってとこだ。 「もう泊まるほかはないわね」  珠紀も諦《あきら》めた口調で言った。  車のエンジン音に気がついたのか、宿の玄関フロアーに明るい蛍光灯がともった。ガラス戸を開けて中から二人の男女がでてくる。背にした明りと、この吹雪のせいで黒い影にしか見えないはずなのに、ぼくにはなぜか二人の顔がはっきりと分かった。  どちらも五十代後半。きっと夫婦だろう。粉雪が目に入ってか涙を流しているように見える。ちゃんと宿の印半纏《しるしばんてん》を着ている。まだ帳場で仕事をしていたようだ。とにかく人の顔を見られてホッとした。主人らしい男はぼくたちの車の前に立ちはだかると駐車場に誘導した。送迎用のライトバンがある。 「電話を借りたいんです」  ぼくは挨拶もそこそこに訊《たず》ねた。開けた口に容赦なく雪が入りこんでくる。歯が冷たい。 「あいにくと電話は夕方から不通です」  相手は申し訳なさそうに答えた。 「なにか急用ですか?」 「事故です。この人の乗っていた車が道から外れて……運転していた男の人は死にました」 「それは——この近くでございますか」 「国道から蔵王の方に向かって二十分ぐらいの場所かな。大きなカーブのところ」 「弱りましたな。この通りの状態ですから今夜は無理です。よくここまでこられたものだと家内と感心していたほどでして」 「まいったな。早く警察に連絡しないと」 「とりあえずお入り下さい。あるいは雪も降りやむかもしれません」  助手席でやりとりを聞いていた珠紀がぼくのセーターを引っ張って小声で囁《ささや》いた。 「戻りましょうよ。なんだか変よ」 「いや、ご主人の言う通りだ。視界がほとんどないんだぜ。晴れるのを待つしか方法がない」  まったく気が変わりやすい性格だ。ぼくは珠紀を無視してバッグを手にした。  怖々とぼくに従ってきた珠紀の姿を見るなり宿の二人は絶句した。無理もない。 「助けだすときにスカートを剥《は》ぎとったんです。シートベルトにからまっていたから」 「まあ……それは大変でしたでしょう」  婦人はぼくの嘘にすぐ頷《うなず》いた。 「熱いお風呂にでも入って温まって下さいな。その間に着るものを用意しておきますからね」  彼女は珠紀を庇《かば》うように近寄った。  珠紀はその手を払うと小さな悲鳴を上げてぼくにすがった。 「どうしたんだい?」 「なんだか……顔がふたつに見えたの」  まただ。ぼくは呆《あき》れた顔で見詰めている婦人に苦笑して見せた。確かに薄暗い電球の下では真っ白な化粧が能面のようにも思えるが、笑顔の優しい温かそうなオバさんだ。 「神経が高ぶっているんです。それに、熱い湯は少し様子を見てからでないと」  ぼくの言葉に婦人も納得した。 「どうかしたのか?」  暗い廊下の奥から凛《りん》とした声が届いた。 「旦那様。まだお寝《やす》みには」  婦人が頭を下げた。どうやらぼくの見当違いだったらしい。二人は番頭夫婦だったのだ。 「こんな夜遅くにお客さんかね」  本当の主人が暗がりから顔をだした。四十五、六。でっぷりと太った体にまん丸い顔がチョコンとのっていた。手足も湯にふやけたようにぶよぶよして、いかにも温泉宿の主人然としている。マシュマロマンだな。ぼくは珠紀を隠す姿勢で軽く会釈した。何気なく触れた珠紀の体が激しく震えている。早く炬燵《こたつ》に入れて暖をとらせないと風邪をひく。 「国道で事故に遭われたそうです」  番頭の短い説明が終わると、主人は珠紀の裸足《はだし》の足を少し睨《にら》んで部屋の容易を言いつけた。      4 「ひとりにしないで。本当に怖いの」  炬燵を抜けだしたぼくに珠紀は真剣な目で訴えた。丹前の襟首《えりくび》を寒そうにしっかりと抱えている。隙間風の入ってくる十畳の広い部屋にはもちろん布団が一組しか敷かれていない。ぼくの部屋は廊下を挟んで離れた場所にある。こちらの方が広いので番頭夫婦が食事を運んでくれたのだ。けれど、珠紀もぼくもほとんど食事には手をつけられなかった。 「外の様子を確かめてくるだけだ。この分じゃ諦《あきら》めるほかはなさそうだけどね。それから風呂に入って、もう一度顔をだす。頭が痛いなんてことはないだろ?」  珠紀はコックリと首を振った。 「すぐ戻ってよ。お願いだから」 「子供みたいなことを言うなよ。まさか幽霊を本気で怖がっているわけじゃ……」  言いながらハッとした。もちろんそうに決まっている。数時間前まで一緒にいた男が現実に死んでいるのだ。それに気づかないぼくの方がおかしい。ぼくは死んだ男のカッと見開いた目を思い出した。寒気が背中に走る。 「一緒に寝てくれる?」  珠紀はぼくを見上げた。丹前姿が艶《つや》っぽい。長い髪がさらっと揺れ落ちた。掻《か》き上げた二の腕のせいで広い袖口から白い胸がのぞかれた。小さくて形のいい乳房がぷるんと震える。 「君が……望むなら」  いやな男だ、と自分で思った。珠紀の恐怖心につけこんで妙な期待を抱いている。 「心配ない。今夜はぼくが一晩中寝ずの番をしてあげるよ。炬燵で本でも読んでいるさ」  ぼくは珠紀を安心させると動揺を隠しながら真っ暗な廊下にでた。  小さな宿だと思っていたが道に迷った。廊下が複数に入り組んでいて方向感覚がまるで掴《つか》めない。階段が多いのは山腹の傾斜に合わせて設計されているせいだろう。さっきは通らなかったはずの長い渡り廊下にぶつかって戸惑った。これはきっと下の風呂に通じているのだ。十メートル間隔に灯されている豆電球の寒々とした明りでは先が見通せない。  ひたひたと暗がりの遥《はる》か向こうから登ってくる足音が聞こえた。二人の男がひょいと豆電球に照らされた。丹前姿の肩に白い手拭《てぬぐ》いをかけている。ぼくたちのほかにも客がいたのだ。客の姿は豆電球の下を過ぎるたびに見え隠れし、話し声も次第に近づいてきた。屈強な体格の若い男たちだ。 「離れだそうだ。小林麻美にそっくりだってよ。もったいねえな」 「オレはガキの趣味はねえ。小林麻美だなんてロリコンもいいとこだ」 「いいじゃねえか。手伝えよ」  男たちは話に夢中でぼくに気づかない。 「すみません。帳場はどっちです」  二人はぼくの声にギョッと立ち止まった。 「なんだか迷ったようで」 「その先の角を右に行って突き当たりを左だ」  ぼくは礼を言うと二人をやり過ごした。男たちは何度かぼくを振り返った。こんな夜中に宿の中で道を聞かれるなんて思いもよらなかったのだろう。それはこちらもおなじだ。豆電球の数で二つほど離れてからぼくは彼らの後を追って戻った。彼らも右に曲がる。  角に着いたらもう姿がなかった。途中に部屋でもあるのか。ぼくは廊下を確かめて歩いた。どこにも部屋などない。後をついてくるぼくに不安を覚えて足早になったに違いない。  しばらく進むと帳場の明りが見えた。 「娘さんが寂しがっていましたよ」  番頭は後片付けをしているところだった。 「食事も召し上がらなかったようで……」 「雪は——やみそうにないな」  ぼくはガラス越しに外を眺めた。玄関前には深い雪がしんしんと降り積もっている。 「明日も無理じゃないですかね」  番頭はのんびりとぼくの背後で言った。 「まさに雪泊まりだ。ほかのお客さんも大変でしょう。正月だからいいのかな」 「……お客さんに会われましたか」  番頭は呟《つぶや》くように訊《たず》ねた。 「若い人たちが風呂から戻ってきました」 「ああ。あの連中ね。あいつらは客なんてものじゃない。ずっといるんです」 「離れがどうとか言ってたけど」  番頭はそれには答えなかった。  ぼくは自分の部屋に戻った。  替えの下着を手にして廊下にでると、珠紀が目の前に立っていた。 「私もお風呂につれていって。あなたと離れるのがいやなの」  珠紀の顔は青ざめていた。 「だって混浴じゃないぜ。今だって風呂から戻った男たちと擦れ違った。まさか男湯に入るわけにはいかないだろ。すぐに戻るよ。そんなにひとりがいやならフロントにでも」 「ダメ。あの人たちが怖いんだから」  珠紀はぼくの裾を掴《つか》んだ。 「あなたが入っている間、私は脱衣場で見ているわ。それならいいでしょ……」 「まいったな。分かった。三、四分で上がるようにする。ただし風呂の外で待っていてくれ。なにかあったら声をだせばいい」  珠紀はなんとか承知した。見ず知らずのぼくに頼らなければならないほど彼女は怯《おび》えきっている。それを思うと哀れになった。  ぼくたちは風呂場に向かった。  今度は迷うこともなく渡り廊下に辿《たど》り着いた。相変わらず豆電球がうすら寒く感じられる。珠紀はぼくの掌《てのひら》をきつく握った。 「だれか向こうからくる」  珠紀が立ちすくんだ。  ひたひたとスリッパの音がする。姿がぼんやりと浮かぶ。二人。今度も男たちだ。新年会でもあったのか。人影は次第に近づいてきた。声が届く。 「離れだそうだ。小林麻美にそっくりだってよ。もったいねえな」 「オレはガキの趣味はねえ。小林麻美だなんてロリコンもいいとこだ」 「いいじゃねえか。手伝えよ」  若い男の視線がブルブルと震えているぼくの目とまともに合った。相手も立ち止まって怯えている。珠紀が悲鳴を上げた。ぼくも必死で恐怖と戦った。  さっきのヤツらだ。珠紀の絶叫は暗い廊下の板壁に反響した。男たちは転げるように廊下の闇に逃げ去った。まだぼくの足は立ち直れない。膝がガクガクと崩れそうになる。 「なんなの。今のは。足がなかったのよ」  珠紀がボロボロと泣きだした。 「さっきの連中だ。おなじことを話していた」 「どうかなさいましたか?」  間近で声がした。番頭さんの奥さんだった。 「悲鳴が聞こえたものですから」 「幽霊を見たんです。若い男たちの」 「今の方たちですか。ご冗談でしょう。土地の若いものたちです」  彼女の能面のような表情を変えずに笑った。ぼくらを落ち着かせようとしている。こうはっきり断言されてみると、ぼくは急速に自信を失った。足音が聞こえたからには足もあったのだろう。珠紀のことだ。アテにはならない。顔だってこの薄暗がりだ。さっきの男たちだと思ったのは単純な勘違いかもしれない。だが、話までおなじと言うのはどうだ。 〈集まっていた若い連中の間で小林麻美のことが話題になっていたのかもしれないな〉  第一、彼らが本物の幽霊だとすれば、どうしてぼくたちに驚くんだ。ぼくは苦笑した。そんな幽霊なんて聞いたこともない。あれは珠紀の悲鳴にビックリしたのだ。 「まだお風呂に行くつもり!」  珠紀は声を震わせた。 「思い違いだよ。今のは幽霊なんかじゃない」 「私は……とても耐えられそうにないわ」 「だったら奥さんと戻ればいい。汗を流さないと気持が悪いんだ」  そのつもりはないが、今夜はなにが起きるか分からない。汚れた下着だけは替えておきたかった。それがエチケットだ。  珠紀は躊躇《ちゆうちよ》したあと奥さんに先導されて部屋に帰った。豆電球に浮かび上がる珠紀の後ろ姿が心細い。  ぼくはアップテンポの唄を口ずさみながら風呂に向かった。扉を開けると脱衣場の明りが寂しい点滅を繰り返している。露が一面についているガラス戸を透かして広い岩風呂の湯面が見えた。ゆっくりと白い湯が波うっている。ぬるぬると光った板の洗い場だ。 〈雰囲気はあるな〉  前を丁寧に洗って肩までつかる。  ミルク状の重い湯に包まれていたら今日一日のすべてが嘘のような気がした。目を瞑《つむ》れば珠紀の細い裸身が浮かぶ。ぼくは岩を枕にして体をのんびりと湯の中に漂わせた。 「落ち着かれましたか?」  心臓が止まりそうになる。  すぐ隣に主人の丸い顔があった。  その脇にお下げ髪の少女がはにかんだように肩をすくめて俯《うつむ》いている。歳は十三、四。 「娘です。この子は体が弱いもので、ひとりでは風呂に入れられなくて」  ぼくは態勢を戻すと曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。ガラス戸の開く音がしなかったから、もちろん、先に入っていたのだ。 「大変な目に遭われましたね。それにこの雪だ。こんな吹き降りは珍しいんですよ」  少女がくくっと笑った。小さな波の輪が少女を中心にして生まれた。人形みたいな可愛い顔をしている。どこかで見たような……。 「あの娘《こ》は大丈夫ですか?」 「だと思います。お陰で助かりました」 「どうやら覚えていないようだった」  主人は悔しそうに低い声で言った。 「どこの人なんです。ぼくにはなにも教えてくれない。もし、ご存じなら……」 「わたし、のぼせちゃった」  突然少女が立ち上がった。  少女はてらいもなく幼い繁みをあらわにした。湯が短い柔毛からしたたり落ちる。その奥に粘土を小指でえぐったような綺麗な割れ目が見える。年甲斐《としがい》もなくドキドキした。 「まだ……駄目なのかね」  主人はだれに言うでもなく苦渋の顔で呟くと、少女に続いて湯から上がった。 「この子は離れに暮らしています」 「…………?」 「まあ、あなたには関係ないことなんだ」  笑った顔が頭から照らす明りのせいで物凄《ものすご》く見えた。手を繋《つな》いで脱衣場に消えた二人を目で追いながら、ぼくは唖然《あぜん》としていた。 〈離れか。じゃあ連中が話していたのはあの子のことか〉  確かに昔の小林麻美にどこか似ている。酷《ひど》いヤツらだ。あんな幼い少女をどうにかしようなんて——ぼくは思い出した。  連中は離れを今夜にでも襲うつもりでいる。  それを主人に伝えておかなければいけない。まだ脱衣場にいるはずだ。慌てて湯船から飛びでた。  戸を開けても——二人の姿はなかった。  そのまま渡り廊下にでる。いない。上方へなだらかに伸びた廊下には暗い豆電球が蛍のように続いている。どんなに目を凝らしても彼らを見つけることはできなかった。 〈離れってのどこにあるんだ〉  たぶん主人は少女を送って行ったのだ。こうなれば探すほかはない。服を着る間、部屋で待っている珠紀の顔が頭をかすめた。 〈体の弱い子だ。あんなに早く歩けるわけがない。途中のどこかに潜《くぐ》り戸がある〉  ぼくは丹念に廊下を調べた。やはり想像は当たっていた。風呂から十メートルほど進んだところに小さな板戸があった。金輪に曲がった釘を引っ掛けるだけの簡単な鍵がついている。上に外して戸を開けた。渡り廊下と直角に狭い廊下が続いていた。間違いない。二人はここに消えたのだ。ぼくは躊躇なく板戸を潜った。風呂場で聞きそこねた珠紀のことも気になる。  なんでこんなに廊下が長く、階段が多いのか最初は分からなかった。が、今は理解した。これは冬に本館と離れを結ぶ通路なのだ。雪のない季節には庭を横切ったり、ちゃんとした道を利用しているのだろう。風こそ遮断されているが通路は冷凍庫のように寒い。  ようやく離れに辿《たど》り着いた。  時代劇でよく見る紙の貼られていない格子戸がある。開けると土間が広がっていた。筧《かけひ》もあって本来は茶室にでも使われていた感じだ。こんな寂しいところに少女が本当に暮らしているのか。襖《ふすま》の隙間から細長く明りが洩《も》れている。二人のスリッパは見えない。  声をかけてもまったく返答がなかった。  人の気配さえないのだ。ぼくは薄気味悪さを抑えつけながら襖を静かに開いた。  ザワッとした。  襖のすぐ裏側に太い格子が一面に嵌《は》められていた。  ここは……座敷牢なのだ。  噎《む》せるような化粧品と薬の匂いがぼくの鼻をついた。皓々《こうこう》と月光のさしこむ広い部屋の真ん中に小さな布団が敷かれている。だれかがそれにくるまってひそひそ泣いていた。  見たくない。起きてこないでくれ。ぼくはその場に立ちすくみながら祈った。逃げようにも体が動かない。布団が蠢《うごめ》く。気づいたのだ。細い指が布団の縁をゆっくりと掴む。顔がだんだんと上に……。  ぼくの皮膚は恐怖に粟だった。  そいつは……珠紀だった。  ぼくは渡り廊下の板戸の前にいた。信じられない。今のはなんだったのだ。ガタガタと板戸が激しい音をたてた。慌てて板戸から逃れた。なにかが戸の反対側にいる。  しかし……あとは物音ひとつしない。  鏡で自分の顔が見れたらさぞかし驚いただろう。こんなに怯えたのははじめてだ。 〈幻覚だったんだ〉  ぼくは何度も安堵《あんど》の溜め息を吐いた。そうなのだ。そもそも主人がこの板戸から行けたわけがない。鍵はこちら側に掛かっている。これは離れへの出入り口などではなく、外への非常口かなにかだ。音も風がぶつかっているだけだ。そうは思っても、板戸の向こうを確認する勇気はぼくになかった。      5  襖《ふすま》を開けるのが少し怖かった。幻覚だと分かっていても、座敷牢にいた珠紀の冷たい顔を思い出すと引手にかけた指にも躊躇《ちゆうちよ》がでる。 「あなたなの? 返事をしてちょうだい」  気配を察した珠紀が中から詰問した。 「まだ眠ってないんだろ」  覗《のぞ》くと、珠紀は炬燵《こたつ》を部屋の隅に移動させて背中を壁に押しつけていた。 「どうしたんだ。またなにか?」 「ううん。こうすると安心できるの」  珠紀は泣きそうな顔で笑った。まるで子供みたいに思える。抱きしめてやりたくなった。長い睫《まつげ》の奥の濡れた瞳《ひとみ》がぼくをそそる。 「よかった。追いかけてきてくれたのね」  珠紀は甘えるようにぼくを招いた。 「追いかける? ぼくはどれだけ留守にした」  時計がないから自分では分からない。 「私はたった今お部屋に戻ったところよ」  これほど奇妙なことが続けば、だれだって不感症になる。時間の差なんてどうでもよくなった。ぼくは珠紀と並んで炬燵に入った。 「ね。これだと背中が怖くないでしょ」  珠紀はしなだれかかると、ぼくの左腕をとって自分の肩にまわした。痩《や》せて頼りない。髪が流れて目の前にうなじが見えた。小さなほくろがふたつ首筋に並んでいる。ぼくはきつく背中から抱いた。珠紀が向きを変えてしがみついてくる。そのまま彼女を畳に仰向《あおむ》けに押しつけた。広げた両方の手首をしっかりと押さえて、真上から彼女の顔を覗きこむ。珠紀はわずかに顔をそむけた。唇を正面に戻す。激しく彼女と舌をからませながらぼくは胸元に手を滑りこませた。  なにも身につけていない。すべすべした肌に掌《てのひら》を這《は》わせて胸から下におろす。細い帯の部分で掌が圧迫される。少し力をこめただけで帯は簡単に緩んで丹前の前が両方に割れた。下も丸裸だった。真っ白い肌に柔らかな繁みが目を射った。 「いや……お布団があるのに」  珠紀はぼくの手を払って前を合わせた。  恐怖など、どこかに消し飛んでいた。  珠紀の喘《あえ》ぎはぼくを夢中にさせた。  彼女もこうすることで怖さから逃げられるのだろう。ぼくたちは布団を被《かぶ》り互いを求めあった。中は体温で蒸し風呂のように熱い。繁みの奥に舌を這わせると彼女は痩せた体を上にそらせる。珠紀はぼくの髪を乱暴に引っ張った。横抱きにすると、珠紀は布団をはね上げて自分からぼくの上になった。  暗い天上を背景に珠紀の白い肌が浮かぶ。その体全部から汗が湯気となって立ちのぼっている。綺麗だと思った。彼女は昇華しているのだ。乳首をつたって落ちた汗がぼくの口に入る。これはぼくが作った汗だ。 「あなたもよ。あなたもよ」  珠紀のしなやかな腕がぼくの首に伸びてきた。息が苦しい。指に次第に力が……ぼくは必死で耐えた。手首を掴《つか》んで離す。見上げると珠紀は目を瞑《つむ》って快楽の波に身をゆだねていた。ぼくの首を絞めたことなど忘れている。  ガタンと音を立てて全部の襖《ふすま》が開いた。  珠紀のあそこがギュッと締まった。  ぼくは慌てて廊下の闇に目をやった。  襖と廊下の間に太い格子があった。座敷牢だ。ぼくはあの座敷牢の中にいる。  そして……闇の奥では主人と番頭夫婦が悲しい目をしてぼくたちを見詰めていた。その上の欄間からさっきのヤツらが下卑《げび》た顔をにゅうっとのぞかせている。  悲鳴を上げたのはぼくだったのか、それとも珠紀の方なのか。いや、珠紀なんかじゃない。ホンの一瞬だったが、ぼくには上にのっている彼女が風呂場で会った少女に見えた。絶望に襲われながらぼくは少女の中に放出した。それは、いつまでも、いつまでも続いた。      6  朝だった。手首に頭をのせている珠紀の重みで気がついたのだから、やはり眠っていたのだろう。腕を静かに抜きとると、彼女は眠ったまま幸福そうな笑顔で寝返りをうった。 〈どうなってるんだ〉  もちろん襖《ふすま》は閉じられたままだ。  夢なんかじゃないことは隣にいる珠紀の裸で分かる。けれど、窓からの眩《まぶ》しい光にぼくは救われた思いだった。テレビでもつけて現実に戻りたい衝動にかられたが、珠紀は隣で可愛らしく寝息をたてている。起こしたくない。  ぼくは布団をでると、まず襖の裏側に格子がないことを確認した。そのまま自分の部屋で洋服に着替えると帳場に向かった。昨夜はあれほど薄気味悪いと思った廊下にも陽《ひ》が溢《あふ》れている。外の雪が反射しているのだ。帳場には石炭ストーブがあかあかと燃えていた。 〈なんだ。だれもいないのか〉  それでも、ここには人の生活がある。何気なしに表を眺めて首を傾《かし》げた。昨夜あれだけ降っていたはずの雪の痕跡がどこにもない。せいぜい三センチほどの量だ。外はまだ冷えきっている。溶けたとも思えなかった。  ゲタを無断で借りて外にでた。番頭が除雪したわけでもなさそうだ。ぼくの車の屋根にも雪はまったく積もっていない。 〈まあ、いいか。これで出発できる〉  考えることが面倒になっていた。玄関の床に新聞が落ちている。こうして新聞まで配達されるぐらいだから道も大丈夫だろう。ぼくは拾い上げるとロビーのイスに座った。習慣で社会面から広げる。  派手な見出しが目に飛びこんだ。 〈五人惨殺・少女の犯行〉  その脇には殺された五人の顔写真が罫《けい》で囲まれて掲載されていた。やれやれ、正月早々だってのに悲惨な事件だ。ぼくは寒さも忘れて記事に目を通した。  包丁で刺し殺されたのは温泉宿の主人と男女の使用人、そして不幸にも二人の男客が巻き添えをくっている。五人殺しの犯人と目される少女は宿の主人の一人娘で、まだ十三歳。溜め息がでる。どうして十三の子供にこんな恐ろしい犯行が可能だったのか。 〈なるほど。母親を早く失くしたせいで極度のヒステリー状態だったんだ〉  ぼくは記事を読み進めて頷《うなず》いた。  実例こそ知らないが、大学時代に精神衛生の授業で習ったことがある。人間の筋肉は疲労を防ぐため無意識に自己規制が行なわれているらしい。ところが精神のコントロールが崩れると歯止めがなくなって、加減が分からなくなるのだ。いわゆる火事場のなんとか力もそれに近い。だから少女だと言っても決して力を侮ることはできない。実際に殺人を犯した少女は何年も離れに隔離されていたほどの状態だったのだから、精神の方も相当……。 〈離れ?〉  なにかがひっかかる。  ぼくは死者の顔をもう一度丁寧に見た。  じわじわと背筋が凍りついていく。  主人の丸い顔がある。使用人たちは見慣れた番頭夫婦だ。巻き添えをくった二人も……あの渡り廊下で出会った若者たちだった。気が狂いそうだった。 〈しかし……場所は違う〉  おなじ東北だが県が異なっている。温泉の名前も平凡なもので雪泊ではない。第一、ぼくはこの写真の全員と昨夜遅くに会っている。今朝の新聞に記事が間に合うわけがない。仮に皆が殺された、としてもだ。 〈他人の空似だ。温泉宿の主人や番頭なんて、だれも似たような顔をしているんじゃないか〉  説得力はないけれど、そう思うほかに仕方がない。離れも偶然にすぎない。ぼくは無理に自分に言い聞かせた。想像が事実なら今頃は警察や新聞記者でこのロビーがごったがえしになっているはずだ。番頭でも戻ってくれば笑い話になってしまう。そうだ。こんなバカげた話など世の中にあるものか。  顔写真に釘付けになった視線をやっと離すと、すぐ上の日付が目に飛びこんだ。  昭和五十三年十月七日。  ぼくは床に新聞を振り落とした。  十年以上も前の新聞なのだ。  なぜ、幽霊たちがぼくにとりついたのか。もうなにも考えたくない。理屈が分かっても余計なことだ。とにかく一刻でも早くこの宿から逃げださないと……珠紀の直感は当たっていたのだ。ぼくは新聞を拾うと部屋に走った。いやな予感がする。  案の定、ぼくたちの部屋は格子で塞《ふさ》がれていた。中に珠紀が眠っている。 「起きられませんね」  布団を覗《のぞ》きこむ姿勢で五人がとり囲んでいた。今の声は番頭のものだ。 「どうしたんだろう、この娘《こ》は」  主人が心配そうな口調で続けた。 「これじゃあ、おまえたちに悪いよ」  ごく日常的な会話だけに不気味だ。彼らの足は十センチばかり宙に浮いていた。なんとなく分かってきた。もう珠紀を助けることはできない。ぼくは廊下を後じさりした。スリッパを引き摺《ず》る音が彼らに聞こえたようだ。  能面のような婦人が静かに振り返った。ほかの四人もぼくを見る。彼女はすうっと滑り寄ると、狭い格子の穴から白い顔をだした。 「おはようございます。お食事はまだ?」  ぼくはその場に尻もちをついた。 「なぜ、離れで見たことを娘に伝えてはくれなかったのかね。そうすれば……」  背後から肩を掴《つか》まれた。主人の手だ。 「お父さん! 怖いの。変なお兄ちゃんたちが怖いの。助けて。珠紀をいじめるの」  布団の中から彼女の泣きわめく声がする。 「いたいのよ。お願い。お父さん」  それはやがて少女の声に変わった。 「…………」  主人に押さえこまれながらぼくは珠紀の名前を何度も叫んだ。珠紀は布団を押しのけた。裸の体を丸く縮めて泣きじゃくっている。次第に珠紀の体が小さくなった。あの子だ。昨夜風呂場で見たあの女の子だ。  これもぼくの幻覚だろうか。 「お母さん。珠紀のところにきて!」  珠紀は絶叫した。  部屋と廊下を隔てていた牢格子が中に倒れた。薬の匂いが部屋から廊下に吹きだしてきた。主人の手がぼくから離れた。なにかに怯《おび》えている。主人は廊下にうずくまって頭を抱えていた。 「また……おなじことを繰り返すの?」  珠紀の後ろに女があらわれた。 「違うんだよ。私はただ理由が知りたかっただけなんだ。脅かすつもりは……」 「理由? あなたには分からないの?」  珠紀が布団から立ち上がった。女の影が珠紀に重なる。珠紀は薄い唇で笑った。 「なぜ、父親の私まで殺されなければならなかっのかね。可愛がっていたのに」  主人は必死で珠紀に訴えた。 「あなたたちが……私を殺したからよ」  ヒェッと奇声を上げて番頭夫婦が珠紀の側から逃れた。人の形が崩れて、濃いガスのようなものになった。二人のガスは交わって部屋の中をグルグルと飛びまわった。 「知っていたのか……それで珠紀を使って」  主人は哀れな声で言った。 「珠紀も分かっていたのよ。だから、こんなになってしまった……あなたもそれに気づいていたんじゃありませんか? それで、あんな暗い部屋に珠紀を閉じこめて……」  主人は恐怖の目で珠紀を見詰めた。 「そんな目で私を睨《にら》まないでくれ。おまえはどっちなんだ。私は父親じゃないか」  主人の姿は廊下にうずくまった形のまま大気に溶けこんでいった。哀願する声だけがしばらく廊下に残った。いつの間にか二人の若者も消えていた。ぼくは珠紀の顔をしっかりと見据えた。珠紀の体がふたつに揺れる。 「ありがとう。これで珠紀も寂しくないわ」  印刷ズレのように重なっている彼女の唇から二人の声が流れてきた。珠紀は裸のまま両手を広げてぼくに歩み寄ってきた。涙が後から後から湧いている。ぼくは手をさしだした。 「あなたも一緒なのよ」  そして……いなくなった。  ぼくは混乱した。もう、なにも信用することはできない。珠紀はどこにいる?  部屋中を捜しまわった。館内を声を出して走った。珠紀どころか宿にはひとりの人間もいなかった。新たに恐怖に襲われた。  ぼくは外に飛びだすと車にのった。この寒さなのにエンジンは一発で唸《うな》りを上げた。アクセルを目一杯踏む。スリップしながらも車はグンと雪を蹴った。細い山道をぼくは強引に進んだ。これまでの恐ろしさに較べれば、滑って木にぶつかる方が現実的でいい。      7  広い国道に躍《おど》りでて、ぼくはさすがにホッとした。このまま警察に駆けこんで事情を説明するばなんとかなりそうだ。それから宿に戻って珠紀を見つけだす。  しばらく無我夢中で走ると前方に何台もの車が停車していた。昨日の事故現場だ。こちらが連絡しないでもだれかに発見されるのだ。当然だ。あの千切れたガードレールを見れば、だれだって事故を想定する。これならぼくの話も信じてもらえるに違いない。  路上には警察の車のほかに新聞社の旗を掲げたジープも見られた。皆、現場の方に行っているらしい。大勢の人間たちが落ちた車の周辺にいる。ぼくは車を停めて坂を降りた。 〈少し様子を見た方がいいな〉  ヘタに言いだせば、なぜ連絡をとらなかったかと詰問されそうだ。ぼくは車の撮影をしている警察官の背後にまわって覗《のぞ》いた。  刑事らしい男を記者が囲んでいる。 「だから……狂っておったんだよ」  年配の刑事は額の汗を拭《ぬぐ》った。 「病院から連れだした男だって相当おかしかったんじゃないかな。宿直していた事務員だったんでしょう? 管理がなっていない」 「まあ……娘を好きだったんだろうから」 「それで殺されれば本望ですか」  記者の言葉に耳を疑った。男と珠紀の関係は分かったが、殺されたというのは? 「いくら本人に精神障害があったと言っても、彼女は十年以上前に五人も殺した女なんですよ。警察の側でも厳重な監視下におくべきだったとは思いませんか。今後もありえる問題だ」 「それは……私の立場では」  刑事はたじたじとなりながら続けた。 「それに、彼女は決して冷酷な殺人鬼なんかじゃないよ。狂った原因も大体分かっている。母親が亡くなった直後、父親に再婚話があってね。相手は殺された番頭夫婦の娘だった。多感な年頃だったから傷も大きかったんだろうね。可哀相な娘だったんだ。病院の方も特別な監視はいっさい必要なしと——」 「しかし、巻き添えをくった客もいた」  違う! ぼくは危うく叫ぶところだった。あの若いヤツらが珠紀に乱暴して——それが、すべてのはじまりだったのだ。 「現にあの男も殺されたじゃないですか」  記者は車の中の死体を示した。  ぼくは気になって覗きこんだ。 「…………」  男の首に絞められた痕があった。  あれは事故ではなかったのだ。ぼくはゾッと自分の首をさすった。運転中の男の首を本当に珠紀が絞めたと言うのか! ちょうどあの最中に珠紀の腕が伸びてきたように……。 「さっきから説明しとるじゃないか。娘の体にも何カ所か生傷がある。むしろ正当防衛だったんじゃないかと私は考えておるんだ」 「甘いですよ。ハンドルを握りながら乱暴すると思いますか。これは殺人です」  ちょっと待ってくれ。娘の体ってのはどういうことだ。珠紀は戻っているのか? 「撮影は終わりました。上に運びます」  車の陰から別の警察官がでてきた。不吉な予感がよぎった。やがて、タンカにのせられた死体が姿をあらわした。シーツで隠されていたが、それは確かに珠紀だった。凍りついた裸足《はだし》の足が少しだけはみでている。 「やっぱり私どもが見たのは幽霊だったんですね。あのお嬢さんでしたよ」  ぼくの背後でだれかが言った。  振り向くと見知らぬ男たちが立っていた。雪泊温泉と襟《えり》にかかれた半纏《はんてん》を着こんでいる。 「死体を早く発見して欲しかったんだろう」  刑事も暗い表情で頷《うなず》いた。 「でも……どうして、こっちの人と一緒だったんでしょうかね。知り合いでもなさそうだし。それだけが不思議でございますよ」  刑事たちも首を傾《かし》げながら離れた場所に目を動かした。ぼくも首を伸ばした。  ぼくの車が雪に埋まっていた。  壊れたフロントガラスからぼくが半身をのりだして死んでいる。体が細かく震えた。 「そうなの……そうなのよ」  隣に珠紀が並んでいた。  そうなんだ。ぼくも思い出した。 「ぼくも一緒だったんだね」  珠紀は溢《あふ》れる涙を拭いながら笑った。  ぼくは珠紀を抱いてキスをした。 [#改ページ]     醜骨宿《しこほねやど》      1  東北新幹線で盛岡、そこから高速バスに乗り継いで秋田県の鹿角《かづの》市に辿《たど》り着いたのは午後遅くだった。東京よりおよそ五時間。さほどの旅でもないが、ほとんど徹夜に近い仕事をこなした上での遠出である。新幹線で眠るつもりでいたのに、運が悪いというか、となりの席にやってきたのは若くてなかなかの美人だった。まさかその側でいびきを掻《か》くわけにもいかない。必死で睡魔と戦いながら頑張った。鹿角市までのバスの中ではうとうとしたものの、それが逆に疲れを誘っている。私は重い足取りで北国の湿った道を踏みしめた。 「警察署はどっち?」  バス停の目の前にある食料品店でタバコを買ったついでに私は訊《たず》ねた。店の女性は丁寧に店先にでて警察の建物を教えてくれた。 「湯瀬温泉は近いんでしょう?」  読んできたガイドブックによれば鹿角市に隣接しているようだが、それにはタクシー料金のことが書かれていなかった。店の女性は少し考えて、車で二十分くらいだと応じた。それなら料金も知れている。バス路線もあるのだけれど、私の体が億劫《おつくう》になっている。警察だって、建物が見えてさえいなければ、たとえ七、八分の距離でも車に乗ってしまいたいところだ。もっとも……駅前にタクシーはまったく見当たらない。人通りもまばらだ。鹿角市は有名な大湯のストーンサークルや十和田湖に近く、陸奥《むつ》観光の拠点の一つだと本では目にしたが、バスから下りたのも四、五人だったし、観光客で賑わう町とはとても思えない。まだ夏には間があるせいだろうか。  広い寒々とした道を、警察署目指して歩いた。寒々と感じるのは用件にも関係がある。  見た目には手が届きそうな距離だったのに、警察署には十分近くかかった。  受付を訪れて手帳にメモしてある田口|俊雄《としお》の名を口にすると直ぐに田口が現われた。電話の印象より遥《はるか》に若い男だった。せいぜい三十。私より七つ八つ下に見える。 「ご苦労さまです。吉村先生ですね」  と言いながら田口も私をもっと貫禄《かんろく》のある人間と思っていたようで、少し戸惑っていた。それとなく私の派手なブルゾンとスニーカーに視線を動かす。田口が頭に描いていた小説家のイメージと私とが結びつかないらしい。 「斎藤さんの容態はどうなんです」  二階に案内されながら私は質《ただ》した。 「おかげさまで持ち直しそうです。家族が昨夜到着して病院の方へ。先生にはくれぐれもよろしくと言っておりました」 「じゃあ、話もできるわけだ」  私が言うと田口は階段で立ち止まり、 「まだそれは無理でしょう。持ち直したと言っても体だけで意識の方は曖昧《あいまい》な状態です」  困った顔で私を見詰めた。  私は小さな応接室に通された。茶が運ばれてくるまで私は無言で部屋を眺めていた。田口もなにから話せばいいのか迷っている。 「相当な美人さんでしたよ」  やがて茶碗《ちやわん》を手にして田口が言った。 「斎藤さんの娘さんです。桔梗《ききよう》さんと言って取手市で小学校の先生をしているとか」 「ふうん、そんな娘さんが」 「本当になにもご存じじゃないんですね」  田口は苦笑した。 「醜骨《しこほね》という地名がないのは事実ですか」  私は田口の笑いを無視して訊ねた。 「ありません。なにかの勘違いでしょう」  田口は真面目な顔に戻して断言した。 「だったら斎藤さんはなぜ?」 「それはこちらで伺いたいセリフです。娘さんもどうして父親がこんな町にやってきたのか不思議がっていましてね。私らとしては理由はどうあれ犯人を捜せばすむことですが」 「手掛かりはまだなにも?」 「まったく……あれだけ脚を潰《つぶ》されていたんですから自分で歩いてきたはずはない。車で運ばれてきたとしか思えないんです。ところが……夕方だったと言うのに目撃者は……」 「湯瀬温泉は鄙《ひな》びたところ?」 「いえいえ、賑やかな温泉町です。そりゃあ熱海《あたみ》なんかに較べれば田舎でしょうが、たくさんのホテルがあります。土産物屋も立ち並んでいますし、いくら夕方で宿が忙しかったと言っても、だれかは必ず見ているはずだと思いますよ。なのに……」 「なにがあったんだろうな」  私は溜め息を吐いた。 「山菜採りの連中と喧嘩《けんか》になったんだと見ている人間もいます」 「なぜその人たちと関わりがあると?」 「斎藤さんは山に入っていたらしいんですよ。宿の従業員が斎藤さんから直接耳にしていることです。ああいうことになる三日前から連日山歩きをしていたとか。迷わなければいいがと心配していたそうで」 「連日の山歩きか」 「今朝、捜していた斎藤さんのリュックサックが見つかりました。ほとんど道もなくて山菜採りの連中しか入らん山の麓の沢です。脚の怪我も屶《なた》の頭でやられたように見えます。あるいはそうかも知れません。目撃者が名乗りでないのだって、ひょっとしたら知人を庇《かば》っているのかも……そうなると厄介ですよ」 「…………」 「山に対する思いは都会の人には想像ができんでしょう。松茸《まつたけ》の生えている場所なんかになると親子の間でも秘密にします。縄張りを荒らされたという喧嘩もしょっちゅうですしね。可能性はあります」 「どうして斎藤さんは偽名を使って宿に泊まっていたのかな。それも分からない」 「ですね。先生宛てのハガキが部屋から見つからなければ身許確認にもう少し時間を取られていたはずです。その節はご迷惑を」  田口はあらためて頭を下げた。 「リュックサックからなにか手掛かりは?」 「別に……財布には十五万の現金がそのまま残されてありました。物盗りの線も考えておったんですが……リュックサックの発見された周辺には争った形跡もなかったそうで。まったく謎だらけです。なんで大事なリュックサックを斎藤さんがあの場所に放置したのか……同僚の中には冗談半分に神隠しじゃないのかと言う者もいるぐらいで」 「神隠し……」 「突然消えた人間が、離れた場所に出現するという、あれですよ」  田口は自分で言って鼻で笑った。 「そういう伝説が多いのかい?」  私は田口を真っ直ぐ見詰めた。 「どこにだってあるでしょう」  田口は笑いを止めずに、 「今の子供たちなら神隠しって言うより、UFOの仕業だと騒ぐんじゃないですか」  ポケットを探ってタバコを取り出した。      2  田口から教えられた病院は鹿角市の中心にあった。古い建物だが大きな病院だ。夕方で広い待合室は閑散としていた。受付で斎藤の入院室を聞いて私は階段を上がった。エレベーターもあったが、二階では使う気にもなれない。部屋の番号を確かめてノックした。と言っても扉は半分開いている。斎藤らしい男が寝ているベッドの脇で、椅子に腰掛けて文庫本を読んでいた若い女性が廊下に居る私を認めて軽い会釈をした。二人部屋なので窓際の患者の身内とでも思ったのだろう。 「斎藤さんはいかがです。吉村ですが」  名乗ると彼女は慌てて腰を上げた。 「娘の桔梗です。このたびはお世話になりました。お陰で早めに連絡をいただいて」  親しみのこもった笑顔だった。確かに田口の言う通り綺麗な娘だ。微笑《ほほえ》みの中に毅然《きぜん》としたところがある。  私は部屋に入って斎藤の様子を見た。  斎藤は私が想像していた以上に年寄りだった。うつろに口を開けて、鼻に酸素吸入のチューブを取り付けられているせいもある。 「さっき眠ったばかりなんです」 「まだ意識がはっきりしないと聞きましたが」 「ええ。でも脳波には特に異状が見られないそうなので、一時的なショックじゃないかと」 「脚の怪我はどうです」 「それも思ったより軽いみたいです。三週間もすれば歩けるようになるとか」 「それはよかった」  私は安堵《あんど》して斎藤を見下ろした。が、妙な気分でもある。目の前の斎藤とはここ三カ月の間に五、六通の手紙のやり取りをしただけの関係に過ぎない。入院したと耳にしてもわざわざ見舞いに足を運ぶような深い付き合いではなかった。警察から斎藤について問い合わせさえなければ、たとえ死んだと分かったとて、そうかと頷《うなず》く程度のことだったはずだ。なのに、自分はこうしてここに居る。 「あの……よろしかったら外でお茶でも」  桔梗はとなりの患者を気にして言った。 「病院の側に美味《おい》しい喫茶店があるんです」 「お父さんを見ていなくて大丈夫?」 「直ぐに母が買い物から戻ってきます」  私は喜んで頷いた。 「失礼ですけど……」  コーヒーカップを手にして桔梗が訊《たず》ねた。 「父とはどういうご関係なんですか」 「何度か手紙を貰っている」 「いつもの宝捜しの件で、でしょうか」  桔梗は恥ずかしそうに口にして、 「すみません。私、先生の書かれた本を一度も読んだことがないんです。ですから、どうして父が先生に手紙を書いたのか、なにも分からなくて……警察の方から父が先生に出そうとしていたハガキを見せて貰い、はじめて先生と父が手紙のやり取りをしていたことを知りました。両親とは離れて暮らしています」 「やり取りと言っても……ここ数カ月だよ」  私はバッグから手紙の束を取り出してテーブルの上に置いた。なにか警察に誤解でもあるようなら見せるつもりで持って来たものだ。 「上から順になっている」  私に促され桔梗は便箋《びんせん》を抜いて読みはじめた。薄い紙の裏に細かい文字が透けて見える。  私はしばらく桔梗の顔を見守った。  素早く文字を追う瞳《ひとみ》が聡明《そうめい》で美しい。瞬《まばた》きするたびに睫《まつげ》の長さが目立った。 「…………」  桔梗の瞳が一点に止まった。 「醜骨《しこほね》山だろ」  私が言うと桔梗は目を上げて頷いた。 「まあ、珍しい名には違いない。菅江《すがえ》真澄の『雪の出羽路』という随筆の中に紹介されている。東鳥海山のことを昔はそう呼んでいたそうだ。正確に言えば雄醜骨《おしこほね》山なんだが、それじゃおどろおどろしさが薄められてしまうんで頭の雄の字を抜いて小説に用いた。ぼくはほとんど東北に無縁でね。鳥海山なら知っているが、東鳥海山は初耳だった。地図で調べても分からない。きっと鳥海山の東側の丘陵をそう呼んでいたんじゃないかな。ごつごつした岩場が多くて、骸骨《がいこつ》の背骨みたいに見えたに違いないと想像している。あるいは屍《しかばね》の発音が『しこほね』に変化したとも……」  桔梗は熱心に耳を傾けていた。 「資料調べをしているうちに偶然見つけた地名だったが、なんとなく魅せられてね。ぼくは怪奇小説も書く。これは舞台に使える地名だなとピンときたんだ。それで平|将門《まさかど》の娘の滝夜《たきや》柿しや姫をテーマにした物語の中で、姫の潜む山の名を醜骨山と命名した。滝夜叉姫は巨大な骸骨を操ったと言われているから、ちょうどぴったりの地名だと思ってさ……そしたら、その小説を読んだ君のお父さんから」 「この手紙が届いたというわけですね」 「正直言ってびっくりしたよ。あの小説の元になった材料を教えてくれと言われても……ほとんど想像で拵《こしら》えた物語なんだ」 「父は将門伝説となると他人の迷惑なんて少しも気にしない人なんです」 「なるほど……それで君の名が桔梗か」  私は思い出した。桔梗とは将門が最も愛した愛妾《あいしよう》の名である。 「だとしたら、ずいぶん昔から将門伝説に興味を持っていたんだな」 「祖父の代からです」  桔梗は溜め息とともに言った。 「将門の残した黄金を求めて」 「将門に黄金伝説なんてあったかい」 「私は信じていませんけど……古い先祖は奥|秩父《ちちぶ》の豪農だったらしく、桔梗の生まれた家だと言うんです。その書き付けと一緒に将門の隠し金山のことを記した文書が」 「奥秩父か……確かにそれなら伝説で読んだ覚えがある」  私は大きく首を振った。だが、桔梗の血族が今に続いているとは初耳だ。桔梗は将門側から見れば、最愛の夫を裏切った妻である。関東一円を制圧し新王朝を樹立しようとしていた将門を討たんとして相馬御所に潜入した俵|藤太《とうだ》は、うまく愛妾の桔梗に取り入り、将門の肉体の弱点を聞き出した。そのために将門はこめかみを射たれて絶命したと言われている。全国に数多い将門伝説の中には桔梗が俵藤太の妹だったと記しているものもあるが、いずれにしろ将門が桔梗の裏切りによって殺されたという点は共通している。将門の桔梗に対する怨念《おんねん》は尋常でなく、一族ばかりか花の桔梗にまで呪いが込められた。そのせいで将門の支配した土地にはいっさい桔梗の花が咲かなくなったと言う。将門|贔屓《びいき》の強い関東において桔梗に連なる一族はさぞかし肩身の狭い思いをしたことだろう。だからひっそりと歴史の影に隠れた。家系が明らかにされていないのも当然のことなのだ。 「それにしても……隠し金山とはね」  私はさすがに首を傾《かし》げた。 「あれだけの勢力を誇った将門だ。隠し金山を持っていても不思議じゃないが……それがどうして桔梗の方に」  残されているのか。 「我が家に伝わる書き付けでは桔梗姫が決して将門を裏切ったわけではないと……難を逃れて数人の侍女とともに生家に辿《たど》り着き、そこで将門の悲報を耳にし、自害したと言い伝えられています」 「そうか。そういう話もあったね。じゃあ、奥秩父って大滝村のことだろ。桔梗塚というのを写真で見たことがある。流した血で小川が真っ赤に染まって、それ以来、大血川と呼ばれるようになったとか」  桔梗は頷きながら、 「将門は桔梗に秘密を預けたんです。裏切ったと敵に思わせておけば、もし捕まったときでも殺されないという将門の配慮だったと父は解釈しているようですけど」  私は何度も首を振った。それは有り得る。 「だけど……だよ」  私は桔梗に問い質《ただ》した。 「君のお父さんは将門の隠し金山のことなんて一度も書いてこなかった」 「先生に打ち明ければ話が広まると心配したんだと思います。すみません、勝手ばかりで」 「いや、その心配は分かるよ。ぼくだって君のお父さんの立場なら迂闊《うかつ》に口にしない」  私はかえって納得した。 「すると……隠し金山の在処《ありか》と醜骨山ってのが関係あるわけだね」  私はようやく斎藤の手紙の意図が分かった。彼は私の小説を読んで醜骨山という名に興味を覚え、ぜひとも現地を訪れてみたいから醜骨山に関する資料を教えてくれと書いて寄こしたのである。あれは想像の山で実際には存在しないと返事を出したら、ではなぜ滝夜叉姫と醜骨山とを繋《つな》げたのかと、またまた妙な質問が返ってきた。最初はしつこい読者だと反発も感じたが、将門伝説についても詳しそうで、あるいは郷土史家かも知れないと思い、小説の虚と実とをできる限り説明した。郷土史家には生真面目な性格の人間が多いので、無視するとこじれる場合もある。斎藤と私との手紙のやり取りはそうしてはじまった。醜骨山は私の創作だが、秋田県にかつては雄醜骨山と呼ばれる山が実在したと分かって、斎藤は私に感謝していたようだった。それがどうしてなのか私には見当もつかなかった。だが、警察からの問い合わせのときにも、醜骨の地名が口の端に上った。斎藤は私宛てのハガキの文面の中に醜骨山に登ったと書いていると言うのである。警察は斎藤の身許が分からず、そのハガキの住所で私の電話番号を突き止め、心当たりがあるかと訊《き》いてきたのだ。醜骨の地名があると聞いてピンときた私は直ぐに斎藤の住所を調べて教えた。と同時に鹿角市に行くつもりになった。本当に醜骨山が実在すると言うなら、この目で見てみたい。しかも鹿角市は私が小説で設定した醜骨山の所在地である秋田の生保内《おぼない》からは目と鼻の距離にある。これで興味が湧かないとしたら、物書きとは言えない。そして、その成果はあった。なぜあれほどに斎藤が醜骨山という地名にこだわっていたかが見えてきたのだ。 「金山は陸奥の醜骨山にあると……でも、父や祖父はそれをなにかの暗号だと解釈していたようでした。全国の将門伝説を追いかけ、実際に旅に出たのも数えきれないくらい」  桔梗は苦笑いして続けた。 「それでも、最近は落ち着いていたんです。伝説の土地に近ければ楽になると言って、わざわざ将門伝説の本場の取手にまで仕事を捜して引っ越したほどの父だったのに……ようやく憑《つ》き物が取れたと母と安心していたら今度のようなことに……」 「原因はぼくにあるようだ」  私は謝った。 「違います。醜骨山が秋田県にあったのは嘘じゃないんでしょう。でしたら先生のせいじゃありません。永年捜していた山の手掛かりを得て、父の心が動いたんです」 「だけど警察ではこの近くに醜骨山と呼ばれる山は絶対にないと断言していた」  私の言葉に桔梗も頷いた。 「お父さんの意識さえ戻ればいろんな謎に答えがでるんだろうけどね」 「父は何年も前から、将門の隠し金山が本当にあるとしたらこの鹿角市の周辺だろうと力説していました。そこに先生が田沢湖近くに聳《そび》える醜骨山の物語を書かれたので衝撃を受けたんだと思います」 「現実に田沢湖の一帯には滝夜柿姫が逃れてきて暮らしたという伝説が残されている。特別な偶然でもないさ。その程度は君のお父さんだって承知だったよ」 「私そんなに詳しくないんですけど……滝夜柿姫の伝説って東北にたくさんあるんですか」 「いや……福島に一つと秋田に一つだけ」 「福島の伝説はどういう?」 「磐梯《ばんだい》山の恵日寺という寺の旧境内に如蔵尼の墓がある。墓碑によれば如蔵尼とは将門の娘で、将門没後、その意思を受け継いで立ったものの、破れて恵日寺に逃れ、尼となって余生を過ごしたらしい。どこにも滝夜柿姫とは書いていないけど、将門の娘となれば滝夜柿姫しか知られていないからね」 「田沢湖の方はどうなんです」 「こちらはちゃんと滝夜柿姫の名がはっきり伝わっている。その意味では正統的な伝説と言えるかも知れない。だからこそぼくも滝夜柿姫の本拠地として田沢湖周辺を設定した。それに、なぜか滝夜柿姫の伝説には善知鳥安方《うとうやすかた》伝説が重なってきている。芝居や江戸の小説は皆そうだ。無実の罪で日本の北と南の果てに流された親子の話なんだが、これがどうにも分からない。結局親の善知鳥安方は許されぬまま青森で亡くなった。子を思う安方の魂は鳥になり血の涙を流しながら『うとう』と鳴くと、その子供の鳥が『やすかた』と応じると言う。いかにもかわいそうな話ではあるんだけど、それと滝夜柿姫がどう繋がるのか……『うとう』の鳴き声を単純に『討とう』の語呂合わせに用いたという説もあるが、そんな簡単なことじゃないはずだ。その程度で滝夜柿姫の復讐譚《ふくしゆうたん》のタイトルに使うわけがないさ。山東京伝の書いた読本は『善知鳥安方忠義伝』と言うんだよ。内容はすべて滝夜柿姫のことで埋められているのに」 「不思議だわ」 「今は忘れられてしまった事実があるんだろうな。ぼくには見当もつかないが、それもあって田沢湖の伝説を重視した。安方伝説は青森。福島の恵日寺は少し遠い。話が重なるとしたら土地の近さがきっと関係している」 「父もおなじ結論に達していたと思います。将門の父親は陸奥鎮守府将軍でしたよね。その支配は東北の奥深くまで及んでいたとか。だったら滝夜柿姫が田沢湖の近くまで逃れてもおかしくありません。福島辺りではまだ危険ですもの」 「結構君も知っているじゃないか」 「毎日のように父が話していましたから」 「黄金伝説については初耳だったが、もし将門の隠し金山が存在するとしたなら、この周辺の可能性は高いと思うよ。つい最近、青森の恐山から金脈が発見されたみたいに、古くからこの辺りは金の産地として有名だった。平泉の黄金文化もそれで支えられていた」 「…………」 「ただし、滝夜柿姫の伝説と隠し金山が繋がるかどうかは分からない」 「繋がるんです」  桔梗は私を見詰めて言った。 「書き付けには醜骨山に遺族が逃れたとも」  私は大きく息を吐いた。  それでは斎藤が驚愕《きようがく》して私に手紙で問い合わせてきたのも当然のことだ。 「これを見て下さい」  思い切ったように桔梗は黒い手帳をバッグから取り出すと頁を開いて私に手渡した。 「だんぶり長者……」  そこにはその文字の下にいくつかの地名が羅列してあった。ほとんどが鹿角市の近くだ。 「だんぶり長者って、養老の滝だよ」  私は戸惑いながら桔梗に言った。 「蜻蛉《かげろう》に導かれて山の奥深くまで入り込み、酒の湧く泉を発見する話だ。それで大金持ちとなり、蜻蛉の方言であるだんぶり長者と呼ばれた。だけど、これとなんの関係が?」 「この話も黄金伝説なんですって」 「…………」 「だんぶり長者は無尽蔵の金を所有していたと言うんです。父はもしかしたらだんぶり長者が将門の隠し金山を発見したのではないかと疑っていました」 「それは……ぼくのせいだ」  私の言葉に桔梗は目を丸くした。 「雄醜骨山が秋田にあると知ったのは、だんぶり長者のことを調べていたときなんだよ。その山にも養老の滝伝説がある。そいつは君のお父さんにも伝えた。それでお父さんは田沢湖周辺のだんぶり長者伝説を再検討したに違いない。だんだん読めてきた」 「じゃあ、父のリュックサックが発見された五の宮岳と言うのが……」 「おそらく醜骨山なんだろうな。それ以外に考えられないじゃないか」  私は興奮を抑えて口にした。 「君のお父さんは隠し金山を発見したのさ」      3  喫茶店でだいぶ時間を取られた。私と桔梗が病院に戻ったときは一時間が過ぎていた。二階に上がるなり、桔梗の姿を認めて遠くから年老いた女性が急ぎ足でやってきた。病棟全体が妙に慌ただしい。 「お父さんがどうかしたの!」  桔梗が青ざめた。 「居なくなったんだよ」  私と桔梗は思わず顔を見合わせた。 「居なくなるなんて……まさか」 「私が買い物から戻ってきたらどこにも」 「だって歩けないはずじゃない」 「だから病院の皆さんが心配してくれて」  桔梗の母はおろおろと訴えた。気持が少し落ち着いたのを見て私は名乗った。桔梗の母は動転しながらも私に丁寧な挨拶をした。 「となりの患者さんも見ていないんですか」  私が訊《き》くと桔梗の母は頷《うなず》いた。 「信じられないな。意識が戻ったんだろうか」  目が覚めたものの、見知らぬ病院に自分が居ると分かったら相当に慌てるはずだ。 「ギプスはしていたよね」  私の質問に桔梗は首を縦に振った。 「それなら無理すれば歩けるかも知れない。二人が居なかったので不安を覚えて逃げ出したんじゃないかな。ここに運ばれたときは意識がなかったんだから、斎藤さんには入院したという実感さえなかったのかも」 「どうすればいいんでしょう」  桔梗は私の腕にすがった。 「とにかく警察の田口さんに知らせないと。駅やタクシー会社にも連絡を取ろう」 「警察にはもう知らせました」  桔梗の母は涙声で言った。 「電車やタクシーは使えないわ。父はお金を持っていないし……薄い寝間着一枚きり」 「そうか……タクシーに乗ったとしたら会社の方から病院に問い合わせがくるはずだ」 「この近くに居るんです。病院のどこかに隠れて居るのよ」  桔梗の推理の方が正しそうだった。私と桔梗はとりあえず全階のトイレから捜すことにした。看護婦たちも心当たりに走った。  桔梗の名を呼ぶ院内放送を聞いたのは一階のトイレを確かめていたときだった。慌てて廊下に出ると桔梗が待っていた。 「見つかったんじゃないかい」  私たちは二階の階段を駆け上がった。と同時にナースステーションの側のエレベーターから担架に載せられて斎藤が運ばれてきた。顔には酸素吸入のマスクが被《かぶ》せられている。 「どこに?」  担架に駆け寄った桔梗が看護婦に訊《たず》ねた。 「一階の手術室です。気を失って倒れていました。なにがあったか分かりません」  看護婦は慌ただしい声で応じた。 「ギプスを壊そうとして鉄のパイプに脚をぶつけていたみたいです」  看護婦が薄い毛布から食《は》み出ているギプスを示した。だいぶ石膏《せつこう》が崩れている。 「なにをしてたのよ、どうして!」  桔梗が涙を浮かべて斎藤の肩を揺さぶった。看護婦がその手を離した。 「血圧が相当に低くなっていますので集中治療室に運びます。しばらくの間はご家族の方もご遠慮下さい。あとで先生からお話が」  そう言って看護婦は立ち去った。 「…………」  桔梗は肩を小刻みに震わせながら見送った。  それから一時間後。  私は一階のロビーで田口と会っていた。斎藤の病状が少し軽くなって桔梗は集中治療室に付き添っている。 「普通じゃありませんよ」  天井を見上げながら田口は嘆息した。 「先生もお疲れになったでしょう」 「くるんじゃなかったと後悔してる」 「奥さんまで急に血圧が上がって……娘さんも大変だ。ま、奥さんは旅の疲れがでただけらしいが。こっちも苛々《いらいら》します」  桔梗の母親は診察室で休んでいる。 「それにしてもよく歩けたもんだ。医者は不可能だと……火事場のなんとかかな」 「だろう。まさかだれかが手伝って斎藤さんを手術室に運んだわけがない」 「やっぱり逃げようとしていたんでしょう」 「両足のギプスじゃどこにも行けない。ギプスを壊せばもっと歩けなくなるのに、斎藤さんには怪我をした意識もなかったに違いない」 「意識がないってのは本当ですか」  田口は疑わしい目をして、 「はっきりしていなけりゃ手術室まで行ったり、ギプスを壊す気にもならないはずだ」 「もちろん、そのときは意識が戻ったのさ。そうしているうちに血圧が急に下がって」 「怪しいもんだな。ないフリをしてるとは思えませんか?」 「なんのために?」  私の問いに田口は詰まった。 「斎藤さんは被害者だよ。別に意識のないフリをする必要はどこにもない。さっきまでは不安もあっただろうが、今は娘の桔梗さんが側に居る。フリなら直ぐに打ち明けるさ」 「それはその通りですがねぇ」  田口はタバコの煙を空に吹かして、 「どうにも納得がいかないんですよ」 「まだ目撃者の情報は?」  私は話を逸《そ》らした。 「そうそう、斎藤さんの目的が五の宮岳にあったことが判明しました」 「…………」 「四日前に湯瀬の年寄りが斎藤さんと会っておるんです。あの辺りの歴史に詳しい年寄りでしてね。斎藤さんが怪我をしたという噂を耳にして駐在所に連絡してきました。先生がおっしゃっていた例の醜骨の件ですが……」  田口はポケットから紙を取り出し、 「山の名前とは違いますが、五の宮岳の奥深くに屍《しかばね》宿の伝説が残っているそうです」 「屍宿……」 「斎藤さんは湯瀬の周辺に醜骨とか屍という呼び名の山がないかと質《ただ》したらしいんですね。それで屍宿の話なら五の宮岳にあると教えたらしい。地元に居て恥ずかしい話ですが、私もはじめて聞きました。もともと五の宮岳はだんぶり長者の孫の墓所という伝説がある山で、いわゆる聖地になっておるんです。だんぶり長者のことはご存じですか?」  私は曖昧《あいまい》に頷いた。 「有名ですもんね。そのだんぶり長者の娘が天皇に見初められてお后《きさき》となり、生まれた皇子が母の田舎を慕って都から戻ってきた。五番目の皇子だったんで五の宮と呼ばれていたそうです。皇子はこちらで亡くなって近くの山に葬られた。それ以来、あの山を五の宮岳と呼ぶように……ま、伝説ですよ」  田口は苦笑した。 「屍宿の話は?」 「山菜採りの連中の間に伝わっている話で、ほとんど世間には知られていないそうです。皇子に従ってきた女たちが、黄金の墓を守り、骨となって今も生きているとか。その女たちの住んでいる屋敷が屍宿です。うっかり山に迷い込んで屍宿に誘われたら命はない。年寄りの話では、その連中が他の人間を山に入れないための拵《こしら》え話だろうと言っていました」 「骨となって生きているなら……醜骨宿でも一緒だな」 「村の人たちは符牒《ふちよう》であの山を屍山とも言うらしいです。皇子とは言え、墓のある山には違いありませんからね。斎藤さんが醜骨山に登ったと書いたのはそれですよ」  私が頷くと田口は探るような目で、 「五の宮岳になにがあるんです?」  私の顔を真正面から見詰めた。 「さあな……」  私は言葉を濁した。 「土地の我々さえ知らない呼び名を斎藤さんは知っていた。それは先生だって同様です。意味もなく登ったとは思えませんが……」 「だんぶり長者の伝説とそっくりな話が鳥海山の麓に残されている。その山は昔、雄醜骨山と呼ばれていた。斎藤さんはその謎を追求していたんだ。それしかぼくは知らない」 「秋田におなじような山が」  田口はあんぐりと口を開けた。だが、それで少しは合点がいったらしい。 「五の宮岳が聖地だとしたら」  私は思い付いた。 「やっぱり村の人たちの仕業かも」 「何人かに当たってみましたが、なかなか口が堅くて。山の中の事件となれば目撃者も期待できません。斎藤さんの証言だけが頼りというとこです。おなじ日に山に入っていた人間は結構居るようでした」 「ただの喧嘩《けんか》程度なら安心だけど」 「もっと裏のある事件だと?」 「まさか斎藤さんは醜骨宿に迷い込んだってわけじゃないだろうな」  田口は失笑して、 「タケやヤスが憑《つ》いたとでも言うんですか」 「タケやヤス?」 「屍宿の女たちです。骨だけの体なので本物の女に乗り移りたがっているとか」 「タケとヤス……タケヤスなら滝夜柿姫だ」  私はゾクゾクと寒気を覚えた。田沢湖周辺に残されている滝夜柿姫伝説は、正確に言うならタケヤス姫伝説なのである。滝夜柿姫の名が訛《なま》った形で伝えられているのだ。 「滝夜柿姫……それはなんです?」  田口は怪訝《けげん》そうな顔で私を見た。 「実在するとしたら、A級の怨霊《おんりよう》さ」  私の返事に田口は眉間《みけん》を寄せた。  そこに階段を駆け下りる足音が聞こえた。 「直ぐに集中治療室にいらして下さい」  看護婦は私を斎藤の身内とでも勘違いしているらしく大きな声で叫んだ。ただならない様子に私と田口は腰を浮かせた。  集中治療室に一歩足を踏み入れて——  私は吐き気を堪えた。  生臭い血の匂いが部屋に漂っていた。  白い壁のあちこちに黒い染みが見られる。  二人の看護婦が床に転がって暴れている斎藤を上から取り押さえていた。斎藤の胸からは血が大量に溢《あふ》れていた。  桔梗の姿はどこにも見当たらない。 「なにがあったんだ!」  田口が喚《わめ》いた。 「ちょっと目を離した隙にこんなことになっていて……私たちにもなにがなんだか」 「娘さんは? 付き添っていたんだろう」 「醜骨宿だ……」  苦しい息の中で斎藤が発した。 「桔梗はあれに……」  斎藤はそれきり気を失った。 「先生はどうしたの!」  斎藤の肩を押さえていた看護婦が叫んだ。 「早くきてもらわないと間に合わないわ」  斎藤は激しい痙攣《けいれん》をはじめた。      4 「面倒なことになっちまいました」  田口は奥のテーブルに居る私を認めると参った表情で前の席に座った。病院の側のレストランだ。もし田口が警察から戻ってきたらここで食事をしているからと看護婦へ伝言を残してきたのである。 「なんであの娘さんが父親を殺そうとしたのか……上の方はその動機も無視して、事実優先の一点張りですからね。逃亡したと信じて疑っていません。近隣の町にも手配を終えたところです。電車やタクシーはすべて調べました。あとは行きずりの車を利用したか」  田口は疲れた顔で紅茶を頼んだ。 「見つかればいいがな」 「まったくです。父親の謎に加えて、また謎が重なった。彼女が父親の命を狙《ねら》ったという事実を優先したとしても、肝腎《かんじん》の凶器がまるで特定できない。医者はハンマーのようなもので胸を叩《たた》きつけたんだろうと言っていましたが、そんなものがどこにあったんです。集中治療室ですよ。彼女が手になにも持っていなかったのは看護婦の皆が証言している。第一、犯行は五分足らずの間です。こんな目茶苦茶な事件ははじめてだ。父親はあれきり意識を取り戻してくれないし……」 「姿を消して二時間か」 「この町にはもう居ないでしょう。金も持たず、スリッパのままでは遠くに行けるはずもありませんが、と言って、この町に潜んでいたら必ず見つかります。狭い町だ」 「斎藤さんが妙なことを言ったな」 「醜骨宿ですか」  田口もやはり聞いていた。 「桔梗はあれに……とも言った」 「…………」 「斎藤さんは彼女の行き先を我々に教えたんじゃないのかい」 「冗談でしょう」 「うわごととも思えなかった」 「それは……確かにそうでしたが」  田口は戸惑いながらも頷《うなず》いた。  ここまできたら隠してもいられない。私は桔梗から昼に聞かされた話を詳しく伝えた。 「五の宮岳が将門の隠し金山!」  さすがに田口は絶句した。 「斎藤さんの家に伝わっている書き付けが本物かどうか保証はできないが……隠し金山があったのは嘘じゃないと思う。そしてそれがこの辺りにあることもだ。将門の娘滝夜柿姫の伝説が離れ小島のように田沢湖周辺にあるのだって不思議な話じゃないか。ましてや、その伝説では滝夜柿姫の末裔《まつえい》が裕福な暮らしをしたと言われているんだよ。落ち武者には不自然な言い伝えとしか思えない。それが事実ならこの一帯は将門の勢力範囲だったと考えるのが一番妥当だ。おまけにこの周囲には黄金伝説が集中している。だんぶり長者の発見した金山を将門が受け継いだと想像すれば、すべての謎に説明がつく。もしかしたらだんぶり長者の娘が后《きさき》になったという相手は、新天皇と称した将門だったかも知れないぞ。伝説の年代や事実関係を特定するのはむずかしいが、たいていなんらかの根拠はある。むしろ、遠い京都の天皇に娘を献上するよりは、平泉の藤原氏とか、直接の統治者である陸奥鎮守府将軍に接近するのが確実で有利だよ。将門の家系は代々陸奥守護の役目を担わされていたんだから荒唐無稽《こうとうむけい》な仮説じゃない」 「…………」 「とすれば五の宮と呼ばれた皇子だって将門に連なる血筋かも知れない。五の宮岳が隠し金山だったと想像してもおかしくはないさ」 「それで屍宿の守り女がタケとヤスか」  田口は唸《うな》って腕を組んだ。 「金山に人を近づけさせないための作り話だとは思うんだが……」 「斎藤さんは、はっきりと口にしましたね」 「それが不気味なんだ。しかも桔梗さんの行方とも関わりがあるような気がする」 「湯瀬方面を徹底的に調べてみます。もし彼女の足取りが掴《つか》めたら捜しに行きましょう」 「五の宮岳にか!」 「先生がおっしゃったんですよ。どうせなんの手掛かりもないんです。万が一彼女があの山に迷い込んだとしたら危険だ」 「だけど、だれも信用しないだろう」 「そのときは我々だけでも、向こうに行って事情を話せばきっと何人かの協力は得られる」 「…………」 「私だって全部を信用しているわけじゃありませんよ。ただ、今度のことが常識じゃはかれない事件ってのだけは分かります。町の捜索は私が抜けても続けられる。五の宮岳に彼女が居なければそれでも構わない。いや、逆に居ないで欲しいと願っています」 「もう夜なんだぜ」 「だからこそ早く行動に移らないと」  田口は立ち上がって署へ連絡に走った。      5  私の前には闇が広がっていた。  五の宮岳の樹々が拵《こしら》える闇だ。  沢から上がる靄《もや》が私の足元に渦巻いている。  懐中電灯の明りはこの濃い靄のせいで十メートルも届いていないだろう。  できれば引き返して温かな布団に潜り込みたい。振り返ると湯瀬温泉の賑やかな明りが見えた。耳を澄ましたら沢の音に混じって笑い声や歌声も聞こえる。僅《わず》かの距離を隔てて天国と地獄があるような気分だ。もちろん私は地獄の縁に足を踏み入れている。  だが、戻るわけにはいかない。  桔梗がこの五の宮岳に潜んで居るのはおそらく間違いないはずだ。  桔梗を乗せてきたと思われる小型トラックが湯瀬温泉の入り口付近の崖から転落しているのが発見されたのである。幸い運転手は怪我で済んだものの、彼の胸には斎藤と同様の殴打の痕跡が認められた。ハンマーなどではない。証言によればただの拳だったと言う。 「明りもなしにこの山に入ったのかね」  私の脇を歩いている老人が囁《ささや》いた。若い頃から五の宮岳に登り、この辺りでは最も詳しいと紹介された老人だ。桔梗の足取りが判明したので警察が援助を要請したのだ。この老人と田口の他に警察官が五人と、湯瀬温泉から掻《か》き集めた八人の若者が後に続いている。 「死ぬ気ならともかく……普通じゃ考えられんな。麓を捜す方が先決じゃろう」 「醜骨宿の話は知っていますか?」  私は老人に訊《たず》ねた。 「それと関係あるのかね」  老人はギョッとして立ち止まった。 「そんたな話は聞かされてねえぞ」  老人は田口に叫んだ。 「まさか、捜してる娘が屍宿の女に憑《つ》かれたってんじゃあるめえな」 「迷信でしょうが」  田口は老人の剣幕に呆《あき》れながら言った。 「おらは帰《けえ》らせてもらう。ただの娘っ子だと聞いたから手伝う気になったが……屍宿と関わりがあるんならごめんだで」 「あんたが帰ったら山の捜索は無理だ」  田口は慌てて老人の服を掴《つか》んだ。 「これだけの人数が居るじゃないか。いい歳してなにを怖がってる」 「悪いがまだ死にたくねえ。日中《ひなか》ならともかく、こんたな夜に五の宮岳に登るなんて……あんたらは山の怖さを知らねえ」  老人のたじろぎに若者たちも尻込みした。 「人の命がかかってるんだぞ」  田口は一喝した。 「どうしても屍宿に行きてえんなら、沢を辿《たど》って一本道だ。おらの道案内なぞなくても行ける。頂上近くに湧き水があって、それがこの沢の源流だ。そっからもう少し右へ上がると古い塚があるだよ。土地の者《もん》はその一帯を屍宿と呼んで、滅多に近づかねえ」  老人の言葉に何人かの若者が頷《うなず》いた。 「どうしますか?」  老人の決意を見てとって田口は私に訊ねた。 「行く他にないさ」  私は勇気を振り絞って答えた。桔梗の美しい瞳《ひとみ》が私の脳裡に浮かんだ。 「分かった。我々だけで登る」  田口は老人に帰れと顎《あご》で命じた。 「ただし、麓に戻ったら署に報告しといてくれ。朝まで待って我々が戻らなかったら応援を頼むと伝えるんだ。絶対に忘れるな」  田口の言葉に老人は首を何度も振った。  湧き水に辿り着いたのは真夜中近かった。沢を登って三時間だ。昼ならこの半分で登れただろうが、靄と闇とが邪魔をした。全員がヘトヘトに疲れ切っていた。膝を持ち上げるのさえ辛い。 「本当に彼女が明りもなしにここまできたと言うなら化け物としか考えられませんよ」  田口は額の汗を拭《ぬぐ》いながら言った。 「正直言って、途中で何度か引き返そうと口にしたくなりました。登る前までは確信があったけど、今じゃ信じられない」 「ここから先は二人ずつ組みになって捜した方が早い。なにかを発見したら直ぐに合図をするという方法を取れば大丈夫だ」 「先生も元気がありますね」  田口は苦笑して頷くと一人を湧き水に残し、他の四人を二組みに分けた。私と田口は一緒に行動することにした。湧き水から右手方向に狭い扇の形を取って進む。私たちは中央を選んだ。腰までの藪《やぶ》が足取りを阻む。 「よほど人間が足を踏み入れてないんですよ」  藪を掻《か》き分けて田口は舌打ちした。 「迷ったら屍宿に誘われなくたって死にます」 「あれじゃないのか?」  前方に小高い塚らしいものが見えた。その周囲には樹木もない。いかにも墓のようだ。そこだけが蒼《あお》い月に照らされて輝いている。 「間違いないみたいです」  田口は頷くと大声で合図した。だいぶ遠くから何人かが応ずる声が聞こえた。 「桔梗さん、居るのか!」  私は声を限りに叫んだ。  しんとして物音一つしない。  私と田口は塚を目指して急いだ。  藪を抜け出ると塚が目前にあった。ところどころにきちんとした石組みが見られた。明らかに人工の塚である。古墳に較べれば小さな規模だが、それでも円周はかなりある。 「…………!」  ゆっくりと塚をまわっていた田口が私の袖を激しく引いた。塚の裏側に狭い空洞を発見したのだ。側にはスコップが落ちていた。 「斎藤さんが掘ったものじゃないか?」  私が言うと田口も同意した。 「墓の中を調べようとしたんでしょうね」 「人が潜れそうな穴だ」  私はしゃがんで穴の奥に光を当てた。だいぶ深い。これが五の宮の墓に違いない。  懐中電灯を持つ腕に鳥肌が立った。  光の先に白い足が見えたのだ。 「どうしました!」  田口が私の背中を揺すった。 「桔梗さんがこの中に寝ている」  振り向いた私の顔には恐怖が浮かんでいたはずだ、田口はワッと後じさった。 「これが醜骨宿なんだ。屍体を封じ込めている宿なんだよ」 「どうしてあの娘さんがこの中に」  田口は震えながら叫んだ。  不意に——  墓の中から絹ずれの音が聞こえた。  私と田口はその場に立ちすくんだ。  狭い穴から最初に細い腕が現われた。  続いて桔梗の長い黒髪が——  田口は悲鳴を上げて腰を抜かした。 「わらわを追うてきたのかえ」  穴から白い首を出して桔梗は私を見詰めた。と、見る間に桔梗の体全部が蛇のようにするすると外に抜け出た。そのまま桔梗は宙に浮いた。田口は地面に顔を伏せた。 「桔梗さんじゃないな」  私は恐怖を堪えて言った。自分のどこにこんな勇気が秘められていたのか分からない。 「滝夜柿姫か?」 「名前などもはや忘れてしもうた」  女は口許を歪《ゆが》ませて笑った。 「この女はもう役には立たぬ。ここまで戻る間に脚を痛めてしもうた。せっかくあの男から移ったばかりと言うに……」  私は納得した。斎藤にとり憑《つ》いてこの女は山を下ったのだ。そうして病院で次に桔梗へ乗り換え、斎藤の口を封じようとして命を狙ったのに違いない。 「これほど早うに新しい脚が手に入るとは思わなんだ。わらわは運がよい女子じゃ」  女はふわふわと私のまわりを漂った。 「闇は恐ろしいぞえ。百年か、千年か……わらわは闇に閉じこめられておったのじゃ。この世に闇ほど恐ろしいものがあろうか。おぬしなどには分かるまい」  女の瞳から涙が溢《あふ》れた。 「闇の中にわらわは暮らしていたのじゃぞ」 「乗り移ってどうするつもりだ」 「わらわにも分からぬ。だが、移らねばならぬ。ここにはもうおられぬ」  女はさめざめと泣いた。  私の裡《うち》から急速に恐怖が薄れて行った。  哀れな女なのだと思った。  闇から逃れたい一心だけがこの女の魂を世にとどめさせていたのだろう。その思いが果たされれば……あるいは。 「桔梗さんは生きているのか」  私の問いに女は静かに頷いた。 「ぼくがあんたの脚になろう」  私は決心した。それでどうなるか私にも分からない。だが恐れはなかった。自分の心を他人に預けることで、もっと大きな恐怖から逃れられるような気がしたのだ。  二カ月前から覚えはじめた胃の痛みが、ただの胃潰瘍《いかいよう》でないことを私は薄々感じ取っていたのである。私も闇から逃れたがっていた一人なのだ。  私は女の前で目を瞑《つむ》った。  私のものとは違う温かい感情が不意に私の胸を埋めた。新しい肉体を得た喜びにそれは満ち溢れていた。  私の目から熱い涙が迸《ほとばし》った。 [#改ページ]     髪の森      1  永年の仕事仲間でもあり、大学のクラブの先輩でもあった山崎悟の消息が途絶えてから、およそ四十日が過ぎた。山崎はルポライターとして全国を巡り歩いている。東京のアパートにいるのは月のうち半分もないだろう。連絡がないのもしばしばだった。それで私もうっかりと見過ごしていたのである。妙だなと感じたのはつい十日前辺りだった。山崎から一カ月も連絡のないのは、やはり珍しい。電話を入れたら留守番電話になっていた。ちょっと旅行に出て四、五日後には戻ると、その頭の部分には吹き込まれていた。それには聞き覚えがあった。だいぶ前に遊びの誘いを入れたら、確かその時もおなじ文句だったような気がする。いくら旅行がちな日常とは言え、留守録の頭にいつもその言葉を用いているわけがない。不審を覚えながらも、戻ったら連絡をくれるようにメッセージを入れ、何日かを待った。三日過ぎても五日過ぎても電話はこない。山崎は独身で郷里は山梨。もしかしたら病気で入院でもしているのかと考えて私は郷里の実家に問い合わせた。山崎の母も息子の身を案じていた。もともとずぼらな性質のようで山崎から家に便りがあるのは滅多にないそうだが、それにしても一カ月以上もどこにいるか分からないことははじめてだと母親は私に訴えた。捜して見ます、と私は約束して電話を切った。その足で私は山崎のアパートを訪ねた。母親から話を通して貰っていたので、管理人立ち会いの下に私は山崎の部屋に入ることができた。特に変わった様子は感じられなかった。あいかわらず机の上は散らかっていて、書き掛けの原稿がそのままになっていた。埃臭《ほこりくさ》さが山崎の永い留守を示しているだけだった。いつから旅にでたのだろう。私は電話の脇に吊《つる》されているカレンダーを調べた。日付の下に日程を書き込むための空白があるカレンダーだ。しかし、よく分からない。旅の予定はいくつか記入されていた。その日とて大阪にいることになっていた。念のために私は留守録も再生してみた。最近のものしか入っていなかった。四、五日前に私が入れたはずのメッセージも消えている。テープ容量が一杯になって、巻き戻されたのだ。私は留守録にメッセージを入れている相手の名と電話番号を手帳に控えた。名前だけを告げている者もいたが、それはたいてい電話の側の電話帳《でんわちよう》で判明した。それを済ませてからカレンダーの旅行予定をメモした。  なにが考えられるだろうか? 旅先で病気になったり、事故の場合でも必ずアパートか実家に連絡がくるはずである。仕事柄、名刺や運転免許証を常に携帯している。よほど気に入った土地で長|逗留《とうりゆう》になったとしても、外国ではない。一度くらいはアパートに戻るのではないか? いや、確かに外国という考えはどうだろう……それなら一カ月戻らなくても不思議ではない。だが、外国となると簡単には行けない。もちろん実家にそれを告げて旅立つだろうし、もう少し部屋だって片付けるに違いない。書き掛けの原稿を広げたまま外国に行くとは思えなかった。  探偵でもない私にその場でできることはその程度である。アパートを辞去した私は近くの喫茶店に入って、メッセージを吹き込んだ相手に電話した。六人のうち二人とは連絡が取れず、四人と話した。幸いだったのはその中の一人、藤原という男が山崎と同業のルポライターだったということだった。私は山崎と仕事仲間と言っても、分野が異なる。私はテレビのディレクターをしていて、書き手ではない。藤原は山崎の仕事について詳しいことを聞いていたらしかった。私は藤原と新宿の喫茶店で会う約束を交わした。  その結果、私はこうして青森県の田舎道を走るバスに乗って揺られている。  と言って、自分にも行き先がはっきりしているわけでもない。それは山崎とて同様だった。山崎は青森県▲▲村の奥深く、髪の森のさらに奥にあるという隠れ館《やかた》を捜しに東京を出発したのであった。  私は藤原との話を思い浮かべた。 「もう一カ月以上にはなるな」  藤原は私に言った。 「間違いない。ほら、俺のメモにも長野の松本ってあるだろ。あいつと一緒に行くことになってたんだ。それで連絡したらどうしても掴《つか》まらない。それで長野には一人で行ってきたけどね。それが一カ月前のことだ」  私も書き写してきたメモを確認した。そうなるとその前に山崎は姿を消したことになる。メモで見ると、長野行きの十日前の日付に青森の地名があった。四、五日旅に出ると留守番電話に吹き込んだのは、きっとこの青森への旅の直前に相違ない。 「まさかあれきり戻ってないなんてな……長野の件以来、会わなきゃならん用事もなかったんで、そのままにしていた。実家の方にも連絡なしかい?」 「青森にはどんな取材だったんですかね」  私は訊《たず》ねた。仲間同士なら聞いている可能性があると思った。 「青森のどこってのは?」 「▲▲村の営林署とだけ」 「▲▲村……」  藤原は私のメモを覗《のぞ》き込んだ。が、カレンダーにはそれしか記入されていなかった。 「なにか心当たりでも?」 「隠れ館があるらしい……とか」 「隠れ館? なんですそれ」 「別の仕事をしているときに山崎が聞き込んだ。別の仕事と言っても、老人医療とボケ問題だがね。寝たきりの老人ホームにも入れずに病院を転々とさせられている老人を取材しているうちに、妙な年寄りとでくわしたそうだ。病院側はボケだと判断しているらしいが、山崎にはそう見えなかった。話が荒唐無稽《こうとうむけい》なだけで、あれは真実じゃないかと」 「隠れ館ですか?」 「十五、六年ほど前にその年寄りが迷い込んだという話だったな。何人かの仲間と茸採《きのこと》りに八甲田山の奥深くに足を踏み入れて、その年寄りだけが迷っちまった。二日近く必死で歩いていたら、山の中に、まるで御殿のような館があった。やれ嬉しやとその館を訪ねたら、五、六十人の人間たちが暮らしていた。年寄りは最初、座敷牢みたいなところに閉じ込められたが、道に迷ったのが本当だと分かると館の人間たちは同情してくれた。何日かそこで過ごして、ある日、外に連れ出された。半日ほど山を歩き、大きな木のところで解放された。ここで待っていると営林署の連中が見回りにくると言って彼らは立ち去った。その言葉通り、何時間もしないうちに営林署の人間が現われた。年寄りは自分の体験したことを訴えたが、営林署の連中は信じやしなかった。彼らは山のプロだ。地図を作るために山のあちこちを歩いている。そんな館があるなら必ず分かる。結局、道に迷った年寄りの幻覚に違いないと結論が出た。以来、その年寄りは隠れ館のことをあまり口にしないで暮らしたそうだが、病院で寝たきりの体になってから、しきりにそれを言うようになった。このまま自分が死ねば、だれにもその館の場所が分からなくなる、と山崎に訴えたそうだよ。年寄りはまだ六十五。ボケるには早い」 「山崎さんはその話を信用して?」 「信じてたね。俺も信じた。信じたいじゃないか。でなきゃあまりにも詰まらん世の中だ」 「話としては面白いけど、それと実際に確かめに行くのは別ですよ」 「そういうやつだったんだ。だから年寄りだってこと細かく教えてくれたのさ。馬鹿にしていれば向こうも口にはしない」 「すると▲▲村の営林署ってのが……」 「年寄りを発見した営林署だ。そこを訪ねればなにか分かると思ったんだろう。髪の森という手掛かりもある」 「かみのもり……」 「髪の毛の森と書くそうだ。館の近くに柳の群生している円い池があったとか。館の連中はそこを髪の森と呼んでいた」 「なるほど。柳の群生地は珍しい」 「柳が髪の毛に見えるんだろうな。ひょっとすると営林署の人間なら知っているかもしれん。そう山崎は言っていたよ」      2  地図を眺めた時はさほどにも感じなかったが、▲▲村は信じられないくらい遠い場所だった。東京を八時の新幹線に乗り、終着の盛岡で東北本線に乗り換え、三沢で下車して十和田市行きのバスに乗る。そこからまた十和田湖に向かうバスを利用して十和田湖温泉郷。そしてまたまた八甲田山の|酸ケ湯《すかゆ》温泉行きに鞍替《くらが》えだ。観光バスで回るのなら大したこともない距離だろうが、待ち合わせ時間が平均して四、五十分も取られる旅は辛い。酸ケ湯温泉の手前の▲▲村に到着したのは六時ちょっと前だった。およそ十時間。三度もバスに乗ったせいで体がふらふらする。こんな時間ではもちろん営林署も閉まっているだろうし、私も気力を失っていた。すべては明日のこととして私はバス停近くのタクシー会社を訪ねるとS温泉に真っ直ぐ向かった。村で泊まれるところと言えば、その温泉しかない。本当は東北の名湯と聞く酸ケ湯に泊まって見たかったのだが、そこだと▲▲村から少し離れすぎていた。バスの便は悪いし、タクシーで回るには遠い。第一、今度の旅は観光と違う。  タクシーから覗《のぞ》く外の風景は、まだ六時前だと言うのに、恐ろしいほど暗かった。目の前に八甲田山が裾野を広げているはずなのに、輪郭すら分からない。狭い林を縫うようにタクシーは無言で走った。時折、前方の闇に金色の目玉が光る。狐か狸だろうと運転手は教えた。こんな山奥の温泉に来る酔狂な客があるのだろうか? 私の問いに運転手は笑った。紅葉などの観光シーズンだと予約で一杯だと言う。電気のない宿で夜はランプを用いているらしい。それが逆に都会の人間には喜ばれていると言うのだが……人捜しにやってきた身にすれば寂しいだけだ。もうじき雪のために閉鎖すると運転手は付け加えた。ますます気が滅入った。念のために二泊を予約しているのだが、明日の夜はもう少し賑やかな宿に移った方がいいかも知れない。 「八甲田山、死の彷徨《ほうこう》って映画があったね」  私の問いに運転手は当然のごとく頷《うなず》いた。 「いくら雪山でも何百人もの人間が迷うなんてのはちょっと信じられないな」 「八甲田山てのは広いですよ。一つの山じゃありませんからね。八つの山の連なりの総称なんです。車でドライブコースを走っている分には心配ないですが、うっかり踏み込むと今だって危ない。山菜採りや茸採《きのこと》りの連中が毎年のように迷って死んでいます。連峰をぐるっと取り囲んでいる道の他に小さな山道もない。ほとんど原生林です」 「今でもそういう事故が……」 「観光地だからと安心してるんじゃないですか。地元の人間は怖さを知っているんで、行く時は人数を揃えて……迷うのはたいてい他の県からきた人たちですわ」 「…………」 「お客さんも山に入るつもりですか?」  運転手はミラーで私の顔を見た。 「一人で行くのは避けた方が……ろくな地図もないし、冗談じゃなく迷いますよ。死体《ほとけ》さんの発見されていない方が多いくらいです」 「人が知らないような場所もあるのかな」 「そりゃ、いくらでも」 「けど営林署の連中だったら……」 「全部の山は無理でしょう。結局、獣道みたいなとこを伝って歩くしかない。大雑把《おおざつぱ》に掴《つか》んでいるだけと違いますか? どうしても下りては行けない沢や谷がある。そういう場所は上から眺めるしか手がない」 「そんなものかい?」 「金にならない木ばっかりですしね。事故でもない限り、そんなに歩き回ることは……」 「運転手さんは詳しそうだ」 「まあ、子供の時分から馴染んだ山ですしね。それでも決まったとこにしか」 「柳が群生してる池があると聞いたけどな」 「まさか、柳なんて」  運転手は苦笑して、 「柳って、平地の木でしょう。八甲田に柳が生えているわけはない。この辺りだって海抜五、六百メートルはあります」 「だよな」  私も頷いた。藤原から耳にした時は群生が珍しいとだけ思ったが、いかにも高山に柳は奇妙だ。植物に詳しい私ではないが、これまでにそういう風景を映画やテレビなどでも見た覚えはなかった。運転手の言う通り、平地の樹木のような気がする。 〈……ガセネタだったかな〉  さっきまで抱いていた山への幻想が薄らいでいった。隠れ館など年寄りの作り話に決まっているのだ。それを信用して山崎は八甲田山に迷い込んだだけだ。そうなると私の手におえる仕事ではない。足取りを確認できたら警察に協力を頼むのが正解だ。 「それは大変ですね」  山崎が四十日くらい前にこの山を目指した可能性があることを口にすると運転手は気の毒そうに頷いた。 「八甲田のどこに登ったかも分からないんじゃ、捜すのは無理かも知れませんよ。あと一週間もすれば雪が積もりはじめますし」 「ただの失踪《しつそう》だったら嬉しいけど」 「しかし……なんだってこっち側から? なにか特別な事情でもあったんですか。普通は酸ケ湯とかロープウェイのあるスキー場の方から登りますが」 「馬鹿な話なんだ。ボケた老人の話を真に受けて隠れ館ってのを見付けにきたらしい」 「…………」 「その年寄りは道に迷って隠れ館に辿《たど》り着き、最後にはこの村の営林署の人間に助けられたと言ったとか。それで友人はこの村に」 「四十日くらい前と言いましたか」  運転手は私を振り向いた。 「村には満足な旅館もないし、その方もきっと泊まったとしたらS温泉のはずです。帳場で訊《たず》ねてみればなにか分かると思いますよ。一軒宿ですから」 「明日はとりあえず営林署を訪ねてみようかと考えていた」 「営林署のだれでもいいんですか?」 「知り合いでもいますか」 「S温泉の主人がそうです。正規の職員じゃないですが、山に詳しいんで臨時に採用されている。S温泉は営林署の連中が頻繁に利用するところなんです」 「それは好都合だな」 「別の土地から回される職員が多いんで、結局、地元の人間が頼りにされるんですよ。たいてい三年程度の任期で異動しますしね」  ますます都合がよかった。三年程度で交替する職員なら、十五、六年前のことを訊ねても埒《らち》が明かないのは目に見えている。たぶん山崎とてそれを知ったら主人にあれこれと質《ただ》したことだろう。そうに違いないと私は思った。山崎はルポライターだ。だれに聞けばいいのか敏感に嗅《か》ぎ分ける才能を持っている。  ここまで来た甲斐《かい》があったと思った。      3  露天ではないが、風呂は宿の母屋の裏手、渡り廊下で少し下がったところにあった。脱衣所にランプは点《とも》されているものの、中は真っ暗だった。蒼《あお》い星明りが白く濁った湯を闇に浮き上がらせている。もちろん客は私一人だ。体が凍えそうな寒さなので躊躇《ちゆうちよ》く衣類を脱いで湯に飛び込んだが、とてものんびりという気分ではなかった。壁や天井もぬめぬめと光り輝いて薄気味悪い。板の浴槽の底にはざらざらとした感触があった。湯の花が底に溜《た》まっているのだ。足で掻《か》き混ぜると粒が浮いて体に纏《まと》い付く。湯を掌《てのひら》ですくって匂いを嗅いだ。硫黄《いおう》と塩の混じったような匂いだった。湯はぬるい。上がって体を洗う気にはなれなかった。しばらく浸《つ》かって私は風呂から出た。なんだか無性に寂しかった。なんで自分がこんなところにいるのか……朝は東京の喧騒《けんそう》に嫌気がさしていた私だったのに、やはりこういう山奥には住めない。早めにケリをつけて戻りたいと思った。山崎の家族に頼まれたわけでもないのに休暇を取って足を運んだ自分がバカに思えてきた。仕事仲間とかクラブの先輩と言っても、月に一、二度顔を合わせていた程度の仲でしかない。結局、隠れ館という存在が私を誘ったのだ。ひょっとしたら番組にできるかも知れないという私の欲が招いたことである。だから、隠れ館が作り話のようだと分かって山崎の捜索への関心も薄れた。そういう自分の心をはっきりと知らされた寂しさも加わっていた。 「ちくしょう」  寒さに身震いして思わず声になった。  どうせ休暇を貰えたのなら、山崎のことなんか忘れて賑やかな温泉にでも行けばよかったと私は後悔した。なんの因果でこんな山奥の、だれもいない宿に一人で泊まっていなければならないのか。テレビもなければろくな暖房設備すらないのである。  やめた、やめた。  明日は早くに宿を出て弘前《ひろさき》の観光でもして帰ろう。山崎は警察に任せるべきだ。私は自分に言い聞かせると風呂を出た。  食事を終えた頃合を計って主人が顔を見せた。私が宿に到着した時には留守にしていた主人である。歳は四十前後。まだ若い。 「すみません。会合で出ていたもので」  主人は自分の持ってきた銚子《ちようし》を差し出して私に勧めた。私は湯呑みに貰った。熱い酒で体を暖めないことには寒さがこたえる。 「会合と言うと営林署ですか?」 「いやいや、村の接客業の寄り合いです。営林署の方は月に何度か駆り出されるだけで」 「もう何年にも?」  私も主人の茶碗《ちやわん》に注ぎながら質《ただ》した。 「ええ。かれこれ二十年でしょうか。なに、道案内をする程度ですがね」 「奥さまにもさっきお訊《たず》ねしましたが、四十日くらい前に山崎悟という男がここに泊まりませんでしたか。歳は三十四です」 「その頃ですと紅葉のシーズンでしたから。宿帳を確かめましたが、そのお名前は……」 主人は申し訳なさそうに首を横に振った。 「団体の予約で一杯だったので他に泊まったんじゃありませんか」  私も頷《うなず》いた。名前を偽る男ではない。宿帳にないなら泊まっていないのだろう。 「十五、六年ほど前に……」  私は話を変えた。 「この村の営林署の人に命を救われたという年寄りがいるんですよ。道に迷って何日も山を歩いて、営林署の人に発見されたとか」 「そういうことはしょっちゅうです」  主人は当たり前のように言った。 「年に一度や二度はありますよ。自分ではちょっとのつもりで道路から外れるんでしょうが、磁石も地図もなしに入ると、たちまち迷ってしまう。そういう場合はじっと動かずに待っている方が安全なんですが……どうも、人間てやつは不安になると動きたがる。それでますます奥に入ってしまうんですね。いつぞやは三山も離れたところで発見された人も」 「隠れ館を見付けたとか」 「はあ?」 「その年寄りです。それを盛んに主張したらしいが、営林署の人は信じなかったと」  私の言葉に主人は笑った。 「いくら山奥だと言っても、まさか隠れ館なんて……この時代ですよ」  私も苦笑した。 「山に迷うと不安が極度に高まる。一番の原因は闇です。我々みたいに馴れていても、あの怖さにはちょっと……大して危険な動物がいるわけじゃありませんが、闇に囲まれると些細《ささい》な物音にも身震いします。とても眠れたもんじゃない。それを二、三日も繰り返せば頭が変になりますよ。幻覚を見ても不思議じゃありませんね。雪女だとか天狗《てんぐ》の類は皆それでしょう。亡くなった親に導かれて里への道を見付けたという人間も多いです」 「だろうなぁ。考えただけで怖そうだ」  私は納得した。それから後はとりとめのない話に終始した。主人は私がテレビの仕事をしていると知って興味を持った。気のいい主人だった。一時間ほど雑談をすると主人は帰った。主人がいなくなると途端に時間を持て余した。ランプの明りで本をしばらく読んでいたらタバコがなくなった。  私は帳場にタバコを買いに行った。  だれの姿もない。  何度か声を張り上げたら奥の方で返事があった。厨房《ちゆうぼう》の後片付けをしているらしい。  私は寒さに震えながら待った。無意識に帳場の本箱に目がいった。貸し出し用なのか雑誌や推理小説が並んでいた。  不意に——  山崎悟の書いた本を見付けた。  ざわざわと背中に寒気が走った。  こんな偶然があるとは思えなかった。あれは山崎が名刺代わりに宿に進呈した本に違いない。彼は取材の便宜がはかって貰えるからと、常に何冊かの本を持ち歩いているのだ。〈どういうことだ?〉  主人はそれを忘れたのだろうか?  まさか、と思う。こういう山奥の宿に物書きがくるのは珍しい。ましてや、本まで持参した客だ。その上、何年も前ならともかく、四十日前のことなのだ。  だとしたら……。  主人は私に嘘をついたことになる。  だが、なんのために?  じっと本箱を見詰めている私の脇に、いきなり主人が姿を現わした。 「なにかご用でしょうか」  主人は相変わらず笑顔で言った。さきほどまでは人懐っこい笑顔に見えたが、今はおなじ笑いが作り物に感じられた。目の奥には得体の知れない冷たさが潜んでいた。 「あの……タバコを切らして」  私は必死で本箱から目を逸《そ》らそうと試みた。が、思えば思うほど目が離れない。 「マイルドセブンとセブンスターぐらいしか置いてありませんが」  主人はゆっくりと私の視線を辿《たど》った。 「マイルドセブン」  私の声は掠《かす》れていたに違いない。  主人は頷くと帳場に入った。ポンと無造作にタバコをカウンターに置く。 「寝タバコはご遠慮下さい」  主人は私の顔を見ないで言った。  逃げるように私は部屋に戻った。布団に潜り込む。歯がガチガチ鳴った。なんだか恐ろしい。嘘をつく理由がまったく分からない。だから恐ろしいのだ。  山崎は殺されたのかも知れない。  唐突にその考えが浮かんだ。  だとしたら私も危ない。  主人はきっと私が山崎の本を眺めていたのを知っている。私がなにを考えたかも承知しているのだ。もし山崎殺しの犯人があの主人なら、口封じのために……。  私の心臓は高鳴った。 「おやすみでいらっしゃいますか」  ひいっと私は身を縮めた。主人の声だ。 「あの……さきほどのお訊ねの方ですが」 「…………」 「家内に聞いたら、私の留守の時にお泊まりになられたお方ではないかと」  私は布団から首を出した。 「どうぞ」  私は廊下の主人に声をかけた。 「これはどうも……お邪魔しまして」  主人は畏《かしこ》まった顔で入ってきた。主人の手には山崎の本が握られていた。 「宿帳への記帳代わりにこの本を下さったとかで……団体があったものですから家内がそれきり記載しないでしまったんです。私は宮城県の方に出掛けておりましてね。お客さまが本箱を見られていたので、なんだろうと捜したら私もこの本に気がついて。なんだか嘘をついたように思われてはこちらも申し訳なくて……そういう事情なんです」 「そうですか。ご主人が留守の時に」  だが、私は信じなかった。信じたフリをする方が安全だと判断しただけである。とりあえず無事に宿を出るのが大事だった。 「そのお客さまは翌日早くに酸ケ湯の方に回られると言って出発なさったとか。それ以上のことは私どもでは分かりかねます」 「それは、どうもご丁寧に」  私は主人に礼を言った。主人と私はしばらく顔を見合わせていた。      4  朝食を済ませると身支度もそこそこに私は呼んでいたタクシーに飛び乗って宿を後にした。今朝も昨日とおなじ運転手だった。運転手は結果をしきりに聞きたがったが、私は多くを語らなかった。主人と運転手は親しい間柄に思える。下手に疑惑を口にすればどうなるか知れたものではない。▲▲村でバスを待ち、十和田湖温泉郷で下車した私は、小綺麗《こぎれい》な喫茶店に入って電話を借りた。  相手は▲▲村の警察だ。  私はのんびりとした口調の相手に苛立《いらだ》ちながら経緯を説明した。後は警察に任せるつもりだった。山崎の足取りはあの宿で途切れている。警察が調べればなにか分かるはずだ。 「あの宿の旦那が営林署に?」  それはなにかの間違いだと警察は言った。 「しかし、確かに聞きましたよ。臨時の職員だと。それはタクシーの運転手さんも」 「違うはずですがね。まあ、事情は分かりました。あらためてご家族の方からご連絡下さるようにして下さい」  警察はそう言って電話を切った。私は電話帳を調べて営林署にかけた。警察の言った通りだった。宿の主人は営林署の職員ではなかった。なぜそんな嘘をついたのかと営林署の人間が逆に私に質《ただ》した。 〈となると、あの運転手も〉  怪しい。最初にそれを言ったのは、あの運転手なのである。私はどうしてそういう話になったのか記憶を辿《たど》った。そうだ。私は今日、営林署を訪ねると言ったのだ。そうしたら、運転手は宿の主人の方がいろいろなことを知っていると口にした。ということは……私を営林署に行かせたくない理由があったのだ。宿の主人のところで話を終いにしてしまいたかったとしか思えない。 「四十日くらい前のことですが」  私は山崎のことを訊《たず》ねた。 「ああ、見えられましたよ。私どもで作成している管内地図のコピーが欲しいと言って」 「そんなものがあるんですか」 「市販はしていませんがね。一万分の一の地図の元になるやつです」  私の胸は騒いだ。恐らく山崎はその地図を手に入れてからS温泉に泊まったのだ。 「これからお訪ねしてよろしいでしょうか」  どうぞ、とあっさり返事があった。  私はそこからタクシーを飛ばした。もう▲▲村のタクシーを使う気はない。私は営林署の前にタクシーを待たせて飛び込んだ。  営林署は閑散としていた。  二人の男がいるだけだった。 「行方不明ということですが、山に入った確証でもありますか?」  電話で話した相手が椅子を勧めた。 「それが……分からなくなりました」 「いくらなんでも、たった一人で行ったとは思えませんがね。我々でも躊躇《ちゆうちよ》する場所です」  そう言いながら男は大きな手製の地図をテーブルに展《ひろ》げた。原本ではなく青焼きコピーを繋《つな》ぎ合わせた地図だった。 「あの方に作って差し上げたのはこれです」  私は食い入るように地図を眺めた。  カミノモリと記入された場所があった。深い谷と谷で挟まれた一画だった。それを発見した時はさすがに胸がどきどきした。 「ここは?」  私はカミノモリの文字を指差した。 「山の上から見ると、そこだけ真っ黒い髪のように見えます。土地の人間は昔から髪の森、髪の毛の森ですね、そう呼んでいますが、もともとは神さまの森というのが本当なんじゃありませんかね。簡単に近付ける場所じゃないが、村の人間も意識して足を踏み入れません。柳だと分かっていますから、我々も上から眺めるだけですよ。この谷を下りるにはだいぶ苦労します。下流の方からだと幾つもの滝や崖を攀登《よじのぼ》らなければ……」  とうとう発見した。私は眩暈《めまい》さえ覚えた。  少なくともあの年寄りの話に嘘のないことが判明したのだ。確かに▲▲村の周辺に髪の森は実在したのだ。しかも柳の群生地である。  山崎は興奮を隠し切れずにS温泉の主人にそのことを話したのではないか? それが原因で山崎は殺された。そう考えるのが自然だった。S温泉の主人は必ず隠れ館となにかの関わりを持っている。主人はその秘密を守るために山崎の命を奪ったのだ。  しかし……証拠はなに一つない。  こんなことを警察に訴えたところで信用されないに決まっている。 「ここにはどれくらいかかります?」  私は目の前の男に訊ねた。 「五、六時間で行けますが……まさか?」 「友人もここに行ったはずです」  実を言うと、それは口実に過ぎなかった。  隠れ館に対する好奇心が私の胸のすべてを占めていた。 「家族と相談してまた出直しますので、その際にはご協力をお願いします」  それも嘘だが、営林署の男は頷《うなず》いた。  あの時に、なぜ営林署の男たちに頼んで同行を求めなかったのだろう。  地図を検討して、タクシーで近付けるぎりぎりの場所を捜し、下車してから山に入って四時間。私は酷《ひど》い後悔に襲われていた。  信用される話ではない、ということもあったが、それよりは自分が独占したいという欲だ。それしか考えられない。それと、▲▲村の人間についての不信感も確かにあった。山崎を捜しに何人かで山に入るとなると、たちまち村に話が広まる。今のところ温泉の主人とタクシーの運転手だけだが、それ以外にも関係している人間がいないとは限らない。邪魔ぐらいならいいが、もっと悪い想像もできる。山崎の運命を思うと、決して有り得ないことではなかった。だから私はたった一人で山に足を踏み入れたのである。  それにしても……。  もう限界にきていた。  地図を睨《にら》みつつ営林署の人間たちが使う獣道を忠実に辿っているので迷う恐れはないけれど、あまりの勾配《こうばい》のきつさに膝が笑っている。これも山に対する私の無知が招いたことだ。目的の場所は標高八百メートル。村との高低差は四百メートルもない。平板な道だろうと勝手に決めつけた。しかし、それは道路やトンネルがあってこその話だ。小さな丘や急な斜面を幾つ越えたか分からない。  営林署を出たのが十時だったので、もちろん陽《ひ》はまだ高い位置にある。が、戻りを考えると危ない時間だった。懐中電灯や軽食は用意してあるが、さすがに泊まりのことは計算に入れていない。私は地図を確認した。年寄りの救出されたのが▲▲村の営林署だった関係で私も▲▲村から山に入ったのだが、実際は髪の森は酸ケ湯寄りの場所にある。村に戻るよりも、このまま進んで酸ケ湯を目指した方が早そうだ。隠れ館の住人たちは、わざと遠回りして▲▲村の営林署の人間たちに年寄りを発見させたのだろう。  そう信じて歩きはじめたのだが……。  それも私の都合のよい考えだった。  地図の上では近く見えても、酸ケ湯に下りるには深い谷と高い山を越えなければいけないことを、やがて思い知らされた。  私はほとほと途方に暮れた。  すでに六時間近くが経過していた。迷ってこそいないが、現実はそれとおなじだった。 村に戻るにしても、酸ケ湯を目指すにしても、必ず夜となる。もはや疲れたなどと言ってはいられない。なんとかしなければ……。  時間は呆《あき》れるほど早く進む。  戻るか、進むか……その判断もできぬまま私の足は藪《やぶ》を掻《か》き分けていた。  たった十五分でいいから休みたい。私は不覚にも涙を零《こぼ》した。なんという馬鹿な男なのか。あれだけ忠告されたのに、山を舐《な》めてかかっていた。こんな場所で夜を過ごせば必ず死ぬ。雪が間もなく降ってくる季節なのだ。私が山に入ったことはだれも知らない。救出の手が差し伸べられる可能性はなかった。  陽はすでに傾きかけていた。見渡す限り、原生林だった。どこにも人の気配はない。 どうする、どうする、どうする。  それしか頭に浮かんでこない。  地図を展げる。  髪の森に近付いているはずだった。これで見ると右手下方にあることになっている。  私は道から外れて斜面を下った。ここからだと樹木が邪魔をしている。 〈あった……〉  紅葉した谷間の底に、そこだけぽつんと、正しく髪の毛のように見える森があった。いかにも柳の群生地である。 〈どうすればいい?〉  私は自問した。本当にあの近くに隠れ館があるのなら、そこを頼るのが一番だ。が、本当にあるのだろうか? 山に対する怯《おび》えが私の思考能力を低下させている。信ずればこそ目指した私だったのに、今では麓に無事辿り着くことしか頭にない。  しばし考えて私は決断した。とりあえず髪の森に向かうしかない。どうせこのままでは夜になる。山の途中で動きが取れなくなるよりは、髪の森の方が安全そうだった。今の時間ならなんとか谷まで下りて行かれる。私はどこかで営林署の救出を願っていた。その場合、髪の森は恰好《かつこう》のポイントであろう。私がそこに興味を持っていたのを男は知っている。それに、柳の群生できる場所なら寒さとて少しは違うかも知れない。  死への恐怖は思いがけない度胸も生み出す。普通なら尻込みする急斜面に私は足を踏み出した。陽の暮れる方が怖い。何度か滑って転げ落ちそうになりながらも私は崖を下った。岩に掴《つか》まる私の掌《てのひら》は血だらけになった。それでも痛みは感じない。  たった二十分で私は谷底に下りた。崖を見上げて自分でも信じられなかった。支えの樹木があったからなんとか下りられたものの、ほとんど垂直にも感じられる斜面だった。追い詰められていなければ絶対に試みようとは思わなかったはずだ。  足から緊張が解けた。へたへたとその場に尻を落とした。直ぐ目の前に髪の森がある。 〈これからどうなるんだよ〉  ちくしょう、ちくしょう、と私は喚《わめ》き続けた。谷底はもう闇に包まれはじめている。  気を取り直して私は髪の森に向かった。髪の森は二つの谷川が交わる三角形の土地の突端にあった。幸い谷川は浅い。岩を伝って私は髪の森に上がった。  不思議な場所だった。  どう見ても自然の群生ではない。柳の並びには明らかに人の手が加えられている感じがした。話に聞いた通り、中心には円い池がある。これとて人が掘ったものに違いない。 〈やっぱり隠れ館があるんだ〉  私は確信を抱いた。ここは隠れ館の住人の憩いの場でもあるのだろう。ベンチこそないが、紛れもない公園である。私は頭上を見上げた。背の高い柳がすっぽりと覆っている。上からは池が見えないようにできている。 〈ん?〉  薄暗がりのせいで最初は気付かなかったが、池の表面には湯気が漂っていた。私は池に近付いて手を入れた。温泉だった。低めの温度だが、なんとも心地好い。それで柳も生きていられるのだ。柳が池をドームのように覆ったのは、この仄《ほの》かな熱を吸収するためである。  私は安堵《あんど》の息を吐いた。  このドームの中にさえいれば、一日くらいは無事に凌《しの》ぐことができる。勢いづいた私は焚《た》き火にするための枝とベッド代わりの枯れ葉集めにかかった。池の側なら火事の心配も無用だ。  池を回りこんで裏手の藪に入ると、直ぐに奇妙な立石を発見した。ストーンサークルの中心に立つ石に似ている。高さは私の肩の辺りまであった。似ているのも当然だ。それは紛れもないストーンサークルだった。私の足元には円い石が大きな輪の形に敷き詰められていた。東北にはストーンサークル遺跡がたくさん遺されている。落ち着かない心を抑えながら奥に進んだ。もう一つ、おなじ規模のストーンサークルがあった。通り過ぎてから私は振り向いた。二本の立石は、まるで髪の森の門柱のように見えた。縄文時代の頃からこの髪の森はあったのだろうか? そんなはずはない。柳の樹齢はせいぜい二百年もないだろう。もっと少ないかも知れない。  藪をあちこち歩いていたら、湿地に大勢の足跡を見付けた。山に向かって狭い道が延びていた。私はごくっと唾《つば》を呑み込んだ。 〈隠れ館に通じる道か〉  恐らく間違いない。このままこの道を辿るべきか迷った。しかし、試みるにはあまりにも闇が迫り過ぎていた。途切れずに道が続いている保証はどこにもなかった。広い場所に出て道を失えば完全に迷う。明日にしよう、と思った。朝を待って進めばいい。せっかく髪の森という寝場所を見付けたのである。      5  悪夢に魘《うなさ》れ続けた。  怖さに必死で目を覚まそうとしても、睡魔の方が勝っている。それでも何度か目を開けた。池から立ち昇る湯気が地面を這《は》って私の体を包み込んでいた。その湯気を吸い込むとたちまち体が重くなる。奈落の底に沈む気分だった。目を瞑《つむ》るとまた悪夢の続きだ。早く朝になればいいと念じた。体は綿のようにくたびれ果てている。七時間以上も山を歩いては、それも当然だろう。悪夢も疲れが見させているに違いない。池の中になにかが潜んでいる。水面から顔を出し、黒い大きな目玉で私をじっと見詰めていた。酷《ひど》い夢だ、と思った。私の意識は私の体を抜け出て池の上を彷徨《さまよ》った。するするとそいつは池に頭を沈めた。が、輪郭は分かる。河童《かつぱ》だな、と感じた。人間にそっくりな体付きでも、小さくて手が異様に長い。河童はのびのびと水の中を泳いでいた。河童はいったん底に沈むと、片手になにか丸いものを提げて戻った。水の中でそれを齧《かじ》っている。瓜のようなものだ。私も空腹を覚えた。河童は私の空腹に気付いたらしく、水中からそれを、ぽーんと投げてよこした。ごろごろと転がって私の体にぶつかる。私の意識は体に戻っていた。目を無理にこじ開けて私は視線をそれに注いだ。  冷や汗がどうっと噴き出た。  山崎の首だった。  山崎の首は私の腰の辺りにちょこんと立てられていた。山崎は薄笑いを浮かべた。  夢の中で私は悲鳴を上げた。  一度しっかりと目を瞑って、また開ける。  場面は一転していた。が、山崎が登場していることには変わりがない。山崎はS温泉の主人によって腹を裂かれていた。赤い内臓がどろどろと引き出される。それでも山崎は笑っていた。S温泉の主人は内臓を引き千切ると池に餌を撒《ま》くように投げた。がばあっと水面から河童が飛び出して内臓を口にくわえた。  ほう、上手なものだ……。  私は池の縁に胡座《あぐら》をかいて見物している。  主人は私にも投げろと示唆した。  私も山崎の腹に手を入れて手頃なものを捜した。心臓らしい塊があった。どくどくと蠢《うごめ》いているそれを私は乱暴に引いた。山崎は泣き喚《わめ》いた。構わず池に投げる。また河童が跳躍して大きな口で受け止めた。  河童は緑の肌を月明りに輝かせていた。  ええい!  気合いを込めて私は目を開けた。  だが、まだ夢の中にいる。何度試みても夢の頁を捲《めく》るように別の夢が続く。  白い湯気が私を追ってくる。けれど、私の足は絡み付いて前に進めない。湯気は無数の蛇となった。足に巻き付いて枷《かせ》となる。広がる湯気の中に私は倒れた。湯気を割って細い腕が突き出た。腕は私の口に侵入した。喉《のど》を押し広げて腕が胃袋へと伸びる。吐き気が襲った。腕は私の胃袋の中で大きく掌《てのひら》を広げた。胃袋が掌の形に広がった。私は細い腕にすがって、それを引き出した。吐き気は続いた。その腕は私の胃袋からなにかを引き上げていた。私の口は顔とおなじくらいの大きさに開けられた。苦しい。目から涙が出る。腕はずるずるずると獲物を引いている。真っ白な肌をした赤ん坊だった。赤ん坊が私の口から取り出されているのだ。赤ん坊は腰の辺りまで引き出されて私を見詰めていた。どこかで見た顔だと思った。  そのはずだ。  それは私だったのである。  私は今度こそ絶叫した。  私は闇の中に目覚めた。心臓の動悸《どうき》がまだ止まない。半身を起こすと酷い頭痛があった。  懐中電灯を点《とも》して池を確かめる。  静かだった。湯気がゆらゆらと闇に消えている。私は肩で息を衝《つ》いた。  こんなところに一分たりともいられない。  頭上の柳はひそひそと揺れていた。  不意に——  背後で藪《やぶ》を分ける物音がした。  私の心臓は凍り付いた。 「だれだ!」  ありったけの声を発したつもりだが、それが声になったかどうか分からなかった。  逃げようとして私は転がった。  足が痺《しび》れて動かない。私は足を叩いた。強く打っても感覚はなかった。麻酔を注射されたように重い。これも夢の続きなのだろうか。  だとしたら慌てることはない。私は物音のした闇に目を凝らした。幾つかの懐中電灯の明りが藪の中に現われた。五、六人の男たちがこちらに歩いてくる。  私は彼らに手を振った。夢でないとしたら営林署の人間たちだろう。  が——  目の前に立ったのはS温泉の主人とタクシーの運転手だった。私はぼんやりと二人を見上げた。やはり夢に決まっている。足は相変わらずこちこちだった。辛うじて両腕だけが動かせる。私は曖昧《あいまい》な笑いで会釈した。 「かわいそうになぁ」  運転手は私の側にしゃがんで言った。 「まさか一人でここにくるなんて考えなかったものだからよ……俺たちの言い方が悪かったのかも知れねえ。諦《あきら》めてくれや」  運転手は私に合掌した。 「…………?」  私はきょろきょろと皆を見渡した。男たちはそれぞれ手拭《てぬぐ》いを口に当てはじめた。 「まだ口が利けるか?」  温泉の主人が私の顔を照らして訊《たず》ねた。私は頷《うなず》いた。が、言葉にはならなかった。舌がもつれている。歯で強く噛《か》んでも実感はない。生温いものが口から流れ出た。私は手の甲で拭った。血だった。切れるほど強く噛んだのである。なのに少しも痛みはなかった。 「神さまを見たかね?」  運転手は私の顔から目を背けるようにしながら質《ただ》した。 「気の毒だが、あんたは直ぐに死ぬ。神さまがお呼びなさったんだ。ここは神さまがずうっと昔から暮らしておられる森なんだ」  神さまの森? すると、ここは髪の森ではなく、神の森だったというわけだ。 「昔は俺たちの村の者もここで何人か死んだ。今は分かっているから滅多に近付きゃしねえが……その代わり、外の人間にも教えねえ。そんなことをすれば神さまの祟《たた》りがある。この神さまは山の守り神だ。機嫌を損なってはどんなことになるか……見て見ねえふりをするのが一番だ。これまではそうしてきたが、さすがにこう続くとな……心持ちが悪い」 「あんたの知り合いもここで死んでいた」  温泉の主人が重ねた。 「俺たちが見付けて他の場所に埋めた。ここは神さまの土地だ。だれも入れられない」 「旦那は親切であんたに言ったんだぞ。ここにあんたを近付けさせまいとしてな」  私は頷きながら泣いた。体がどんどん強張《こわば》っていく。湯気のせいだと私にも分かっていた。どういう成分が含まれているのか知らないが、毒ガスとおなじようなものだろう。それが幻覚をも生み出す。少量ならば幻覚程度で済むが、私のように湯気の中に何時間も浸っていればこうなる。恐らく隠れ館も、この湯気によって年寄りが見た幻想なのだ。それを信じてここを訪れた山崎もまた私とおなじことになった。それが真相である。 「昔は近隣から娘を選んで神さまの嫁にしたそうだ。もちろん、何百年も昔のことだ。今はそんなことをしねえ。それで神さまは自分から人を招かれる。こんな山奥だってのに、毎年二人か三人がここで死ぬ。不思議なことだとは思わねえか? やっぱり神さまはいるに違いねえ。たいていは死体《ほとけ》さんになってから見付けるが、あんたみたいに、まだ生きてる者も何人かいた。皆、神さまを見たって言ってたな。河童みてえな姿だったと」  私も運転手にゆっくりと頷いた。  男たちは暗い顔で頷き合った。 「悪く思わんでくれよ」  運転手は皆を促して私から離れた。 「どうせあんたは助からん。神さまの食い物を横取りしたんでは、俺らに祟りがある。三日くらいしたらまた来る。きちんと骨は家族に戻るようにしてやるから、恨まんでくれ」  私は気が狂いそうになった。  神さまの食い物って……なんだよ? 私の様子で運転手も察したらしかった。 「あんたの知り合いな……たった二日しか経っていなかったのに、綺麗《きれい》な骨になっていた。獣の仕業じゃねえ。たぶん神さまだろう。いつもそうなんだ」  私は泣きながら腕を伸ばした。しかし、その腕も今ではぴくりともしない。  男たちは池に一礼すると、私に合掌してひっそりと立ち去った。  夢だ。夢だ。夢に決まっている。  私は闇を見上げながら胸に繰り返した。  第一、毒ガスならどうして柳に影響が出ない? 柳だって死ぬはずじゃないか。  私は笑った。  夢以外にどう解釈できる? まさか、獲物が近付いた時にだけ都合よくガスが放出されるわけでもあるまい。  どきっ、とした。  それは考えられた。  湯気でごまかしてガスを放出させることは可能だ。無論、ガスがあればの話だが。温泉は動物たちの恰好の溜まり場ともなる。そこに巣を張れば、労せず獲物を手に入れることができるのだ。蟻地獄とおなじである。  私は、しかし、その考えを無理に追いやった。河童の存在を認めるよりは、私の夢と考える方が遥《はる》かに合理的である。  私は笑い続けた。  なんてしつこい夢だろう。  必死に夢から覚めようと試みた。  が、何度試みてもおなじ闇が真上にある。  ざばざばざば……  水面の揺れる音が聞こえた。  確かめようにも私の頭は上を向いたままだ。それに、どうせこの闇ではなにも……。  へたへたへた……  足音がした。水に濡れた足音だった。  水|飛沫《しぶき》が私の頬にかかった。  夢ならば覚めてくれ。  でないと……私は夢の中でこの化け物に食い殺されてしまう。  私は何度となくまばたきを繰り返した。 [#改ページ]     ささやき      1  私の生まれ育った岩手県のA町に行くには、と言っても東京を起点にした場合だが、まず新幹線で終着の盛岡まで行き、そこで三時間半ほどかかる三陸海岸沿いのB市行きのバスを利用するか、あるいは東北本線に乗り継いで青森県の八戸《はちのへ》市で、やはりB市行きの電車に乗り換えて南下するか、二つに一つしかない。普通だと電車を使う方が早そうに感じるけれど、八戸での接続が悪い。下手をすると一時間以上も待たされることがある。盛岡と八戸は特急で一時間、八戸とB市は二時間。それに一時間を加えれば、すんなりと盛岡でバスに乗る方が楽だ。  東京と盛岡は新幹線のスーパーだと二時間半ちょっと。つまり、盛岡に着いてからの方が時間がかかることになる。  説明しても、これについてはなかなか分かって貰えない。だれもがまさかという顔をする。それでも、今は画期的に時間が短縮された方だ。盛岡からのバスがなかった頃、足は電車しかなかった。二十年以上も昔の話である。その当時、私は盛岡の高校に学んでいて、親戚の家に下宿していた。長い休みに入ると、もちろん郷里に戻るのだが、そのたびにうんざりとしたものだった。急行に乗っても、どうせ八戸での接続が悪いので鈍行を利用する。盛岡から八戸まで鈍行だと三時間。八戸ではたいがい一時間以上は待たされた。ようやく乗ったと思うと、今度はB市まで四時間。やっとB市に辿《たど》り着いた時には、固い座席のせいで体がガタガタしている。それでも私の家のあるA町には、なお三十分、バスに揺られなければならない。順調にいって九時間、運が悪いと十一時間もかかった。いくら岩手県が広いと言っても、おなじ県内でこれほど時間距離のある場所は珍しい。盛岡とB市の間に二つの高原地帯が立ちはだかっていて、それが大|迂回《うかい》をやむなくさせていたのである。高原地帯に無数のトンネルを穿《うが》ち、盛岡・B市間を結ぶバスが運行されたのは、運の悪いことに私が高校を卒業した翌年だった。バスは当初五時間で盛岡とB市を結んだ。電車の半分近くに短縮されたことになる。このバスが通じたお陰で、それまで文化とは無縁の暮らしを余儀無くされていた大勢の人たちが救われた。近隣に暮らしていた自分でも信じられないのだが、A町から五キロも離れると電気の通じていない家がいくつもあった。自家発電の装置はあるのでテレビは見られたけれど、そこまでしてテレビを見ていた家は限られていただろう。五十年も昔の話ではない。わずか二十年ちょっと前のことだ。  もっとも、新宿区よりも何倍も広い高原に十数軒の家が点在している状況では、電力会社が躊躇《ちゆうちゆ》するのもよく分かる。  だが、その高原に立派なバス路線が通じた。日に数本とは言え、県庁所在地に繋《つな》がるバスが走っている。周辺の開発は急速に進み、バスが開通して一年以内には電話と電気の通じない村落が一つもなくなったのである。  日本のチベットという蔑称《べつしよう》はこれで消滅した。そう、四十代以上の方なら一度は必ず耳にしたことがあるはずの『日本のチベット』と呼ばれた地域が私の故郷なのだ。  理不尽な呼び方だと当時の私は憤慨していたものだが、身勝手なもので、東京暮らしが永くなると、それも仕方ないと思うようになった。やはり新幹線に乗っている時間よりも、乗り換えたバスの方が長いという現実では、呆《あき》れられて当たり前である。盛岡から青森市や秋田市に行くよりも遠いのだ。この私でさえ億劫《おつくう》になって二年に一度帰ればいい方だ。 それでも……。  バスが二つ目の高原を越えてB市に近付きはじめると私の心はうきうきしはじめた。  開発が進んだと言っても、それは道路の周辺だけで、まわりの山々は変わりがない。バス停から乗り込んでくる客たちの顔付きにも懐かしさを覚える。東京に頬の赤い娘たちはいない。腰の曲がった老婆もだ。私はきっとにこにこして客たちを眺めていたのだろう。親しみを感じてか一人の年寄りがとなりに座った。雨でもないのに長靴を穿《は》いている。 「どこまで行きなさるかね」  私はA町と告げた。そこの出身だとも。 「墓参りかなんかかね」  季節はちょうど秋の彼岸に間近かった。 「仕事の関係もあってね」 「なんの仕事してる人だね」 「テレビの……」  放送台本を書いていると説明しても通じそうになかった。だが、それで相手は満足した。 「ほうかね。テレビなぁ」  その話が聞こえたらしく、前の席に並んで英語の単語を互いにやり取りしていた女の子たちが振り向いた。私も満更ではなかった。東京では放送作家など、それこそ掃いて捨てるほどいるが、地方に旅をすると下手なタレントよりも優遇される場合がある。 「おじいさんは見たことがないかな」  私は関わっている番組をいくつか挙げた。  そのたびに女の子たちの顔が輝いた。  嘘ではない。メインではないが、それらに携わっているのは事実だ。今度もその中の一つの取材のためにやってきている。 「A町の出身なんですかぁ」  女の子の一人が信じられない顔をして質《ただ》した。私が頷《うなず》くと二人は意味もなく笑った。 「じゃあ、あの人なんかとも?」  二人は声を揃えて霊能力者の女性の名を口にした。いま最も人気の高い女性だ。私が挙げた番組に時々出演している。 「今度の取材はその下調べだよ。本当だったら、あの人に霊視して貰うつもりだ」  ええっ、と二人は顔を見合わせた。 「こんな田舎にくるなんて……」 「あの人は日本全国まわってるじゃないか」 「それはそうだけど……嘘みたい」 「ささやき、って木を知らないか?」  年寄りよりも、こういう女の子たちの方が詳しいかも知れない。私の問いに女の子たちはきょとんとした。 「ささやき。もちろん語呂合わせだ。なんの木かは分からない」  私は女の子たちに詳しく説明した。だが、二人は首を捻《ひね》るばかりだった。あると言われるA町は、近いと言っても彼女たちの村からは一時間も離れている。 〈ま、期待はできないな〉  生まれ育った自分にさえ初耳だった。ついでに里帰りができれば、という軽い気持で出掛けてきたに過ぎない。      2 「ささやき? なんだよそりゃ」  水割りを拵《こしら》える光夫の手が止まった。私とは幼馴染みで、今はA町の中心街で小さなスナックを経営している。家で軽い食事を済ませた私は真っ直ぐ光夫の店を訪ねたのだ。 「あれば面白いんだがな」  私は苦笑しながら言った。 「あの人を知ってるだろ」  私は例の霊能力者の名を口にした。光夫は即座に頷《うなず》いた。まったく大した知名度である。ひょっとすると首相なみに知られている。いや、人気はそれ以上だ。私が彼女の名を告げると店にいた何人かがカウンターに目を向けた。この店ではピザが食べられるので若い女の子の客が多いと光夫から聞いている。 「霊視されたんだよ。あの人に」  タイミングを計って口にしたら、案の定、店のあちこちから声が上がった。皆が私の話を聞きたくてうずうずしている。 「こいつ、俺の悪ガキ仲間でさ」  光夫も得意そうに紹介した。 「テレビの台本を書いてる」  光夫の言葉に何人かが頷いた。番組がオンエアされるたびに説明していたのだろう。 「皆、この町の人かい」  私は分かりきっていることを訊《き》いた。斜め側に陣取っていた女の子三人が頷いた。中に一人、美しい子がいる。 「ささやき、って木があるそうなんだ」 「この町にですか?」  その子が目を円くして言った。 「ぼくもこの町の出身だけど、聞いたことがない。けど、あの人は必ずあるって言うんだよ。ぼくの左肩にとりついている霊が教えたらしい」  女の子たちはざわざわとなった。 「切っ掛けは一枚のハガキだった。局に高校生の女の子が書いたと思われるハガキが舞い込んだ。自分の暮らす岩手の山奥の町の林の中に、根の部分が洞《ほら》になった太い老木がある。その洞に入って耳を澄ませると、やがていろんな音が聞こえてくるそうなんだ。最初はただの雑音としか感じられないが、次第に人の声になる。それが、どうも自分の声みたいなんだね。確かに自分の声に違いないと思いはじめるには理由があって、その本人にしか分からないはずの話が次々に耳打ちされるからなんだ。どうやら心の声が反映されたもののようだ。一晩をそこで過ごせば、魂が洗われたようになる。それはそうだろう。自分の本音と向き合うわけだからね。その木は『ささやき』と呼ばれていると投書は括《くく》られていた」 「そんなのが、この町にあると?」  光夫は首を傾《かし》げた。 「いや。わざとだろうが住所は書かれていなかった。女の子の創作に違いないと断言する者もいたが、ちょっと心を魅《ひ》かれる話だ。おなじ岩手の出身だったら承知じゃないかと担当ディレクターが問い合わせてきた。こっちもずいぶん調べたが分からない。いずれにしろロマンチックな話だろ。スタジオで話題にしているうちに、あの人が興味を持って俺の霊視を試みたというわけだ。そしたらドンピシャリ。俺の守護霊が現われて、この町にあるとご託宣したってことさ」 「話ができすぎていやしないか」  光夫は眉をしかめた。 「だから、こうして確かめに……本当にあれば、あの人の霊能力が本物だということを証明できる。それで俺が調査を任命された」 「だったら、あの人も一緒の方が」  だれかの言葉に皆が頷いた。 「もし、なければ番組にはできない。残念だが、テレビってのはそういうものだ」  私が言うと皆は、やっぱりという顔をした。 「この町って広いぜ」  光夫は話を戻した。地図の上からでも、町を囲む境界線の中に名のついた山が二十近くもある。もともと三つの村が合併して生まれた町だ。おなじ町の中でも住所だけでは見当のつかない場所がいくらでもある。 「ここらじゃないのは確かだな」  光夫が言うと皆も首を振った。 「洞のある木なら稲荷《いなり》の裏手にあるけどよ」  光夫の言い方が下品だったので、若い女の子たちはゲラゲラ笑った。 「ってことは、いまだに使ってるのか?」  光夫は女の子たちに訊《たず》ねた。 「まさかぁ、あんな気持の悪いとこ」  女の子の一人が否定した。 「いいよな、今は。ちょいと車を飛ばせばモーテルがいくらでもある」  光夫は私に同意を求めた。私は曖昧《あいまい》に頷いて水割りを口に運んだ。 「恰好つけて。おまえもずいぶんあの洞には世話になった口じゃねえのかい」  光夫が言うと皆は爆笑した。 「俺たちの若い頃ってぇと、あそこが逢引《あいびき》の場所って決まってたもんさ」 「気持悪いわよねぇ」 「それを言うならモーテルだって一緒だろうが。前の日には知らない男と女がそこに寝泊まりして励んでたんだぞ」  光夫の言い方に女の子たちは厭《いや》な顔をした。 「おまえら、贅沢《ぜいたく》だ。昔はこういう店もなかった。牛乳にアンパン齧《かじ》って、それが最高の楽しみだったんだぞ。こういう田舎に金儲《かねもう》けを度外視して開いている俺に少しは感謝して貰わなきゃいかん」 「だったらティラミスなんかも置いてよ」  女の子の言葉に私は苦笑した。東京ではとっくにティラミスは廃《すた》れて、だれも頼まない。情報だけは早くても、肝腎《かんじん》の物が入ってこないからこういうことになる。 「役場に行けば分かるかな」  私は光夫に言った。 「せっかくきた以上は結論をだしたい」 「町史は当たったのか?」 「いや。でたのか?」 「去年な。町制四十周年を記念して纏《まと》められた。強制的に買わせられたから、おまえの家にもあるよ。あれには民話なんかもずいぶん入ってた。きっとそれでも参考にして投書したんじゃねえのか」 「なるほど、それはありがたい」 「家にない場合は役場に行け。作り過ぎて役場の倉庫の床が潰《つぶ》れそうだって噂だ」  光夫は笑って言った。 「七千人しかいねえ町なのに五千冊も刷ったとさ。まったく、よそのだれが買うんだ。一千冊を超せば紙代だけの問題だと言われたらしいが、売れない本を抱えても仕方ねえぜ。どうせ仙台の印刷会社に騙《だま》されたのさ。第一、岩手の町の本をなんで宮城県の業者に頼む必要がある? 町長も今度の選挙は危ない」 「五千なら大した冊数でもないだろう」  私は思ったが、普通の本でないことを考えると確かに多いのかも知れない。一家に四人と計算すれば町の戸数は千七、八百。実際はもっと少ないはずだ。そこに五千冊。 「町長は責任を感じてせっせと配り歩いているそうだ。それだって、本代はどうなってるのか。町の予算からでてるに違いない」 「まるで町会議員みたいだな」 「でるつもりだ。今度はな」  光夫が言うと客たちが拍手した。 「稲荷の洞の木の保存運動でもやるかね。あそこにくすぐったい思い出を持ってるやつはいっぱいいる。案外いけそうだ」  自分で言って光夫は頷いた。 「百票は堅い。百五十ありゃ当選圏内だ」 「そんなものなのか」 「だよ。町の人口から計算してみな。選挙権を持っているのは五千もいねえ。そこに町議が二十二人だぜ。百五十ならぎりぎり入る」 「楽な選挙だな」 「馬鹿言え。だからこそきつい。十票取ると落とすじゃ天と地の差がある。選挙のときにきてみな。万札が風に乗って飛んでいる」  どうも本題から外れた話になる。ここにくれば町の情報が集まると踏んでいたのだが。  私は諦《あきら》めて選挙の話に耳を傾けた。 「ひさしぶり」  あらかたの客が帰って店内が静まると、店の片隅で飲んでいた一人の女が声をかけてきた。顔を眺めたが記憶にない。 「ずいぶん有名になったのね」  女は、いい? と言いながらとなりに座った。なかなかの美人だった。年齢は……私とおなじくらいだろうか。 「こんな美人と知り合いだったかな」  私は女の掲げたグラスに合わせた。 「二度ほど会っているはずよ」 「いつ頃?」 「よっぽど記憶に薄い女だったみたい」 「前から美人?」  冗談のようにごまかしたが、なんとなく私は落ち着きの悪さを覚えた。女の態度が妙に挑戦的に感じられたのだ。 「店が閉まるまでに思い出して」  女は光夫にカクテルを頼んだ。私は光夫に目配せした。光夫も首を傾げていた。 「打ち明けると……私じゃないの」  女は私に耳打ちした。 「どういう意味?」 「あなたが付き合っていた女の子が、私の親友だったの。その関係で二度くらい一緒にお茶を飲んだわ」 「だれのこと?」 「そうね。あなたはたくさんの女の子と付き合っていたんでしょうから……そう言ってもピンとこないわよね」 「だって、こっちでの話なら二十年も昔だろ」  私は苛立《いらだ》ちはじめた。女は笑顔を浮かべているものの、その底辺には冷たさが見られた。咄嗟《とつさ》に一人の女の名が浮かんだが、もし人違いだったら藪蛇《やぶへび》となる。私は無言でいた。 「たくさんの子と付き合っていたと言うけどね……君が思っているほど多くない」 「じゃあ、何人?」 「言う必要があるかい?」 「ないわよ。私には関係ないもの」  勝ち誇ったように女は笑った。 「由紀子さんか?」  私は思い切って口にした。 「驚いた」  本当に女は目を円くした。 「名前をちゃんと覚えてくれていたわけ」 「一度だって忘れたことはない」  それは本当だった。ただ、意味は少し違う。懐かしい思い出として私の中に残っていたのではなく、罪の意識とともに刻まれている名前であった。私は溜め息を吐いた。 「由紀子がそれを聞いたら喜ぶわ」 「…………」 「あの子、あなたのために人生を狂わされたんだから」 「…………」 「あなた、ときどきテレビにでるでしょ。そのたびになにかを投げつけたくなったわ。この男は鬼だと子供たちに教えたわよ。由紀子をあんな酷《ひど》い目に遭わせておいて、自分だけはテレビにでて……許せないと思った」 「テレビにでたって意味はないだろ」 「にこにこしてる顔を見るのが癪《しやく》なのよ」  女はじっと私を見据えた。 「酷い目に遭わせたと言うけど」  私は反論を試みた。 「君は俺と彼女のことでなにを知っている。彼女と別れた後、俺はB市の喫茶店で彼女が他の男と肩を抱き合いながら話しているのを見たことがある。それ以後のことを言われたって俺には責任が取れっこないよ」 「由紀子はあなたを必死で忘れようとしていたんだわ。あれから由紀子は変わったの。男に貢いだり、何人もの男と同時に付き合ったり。全部、あなたに捨てられたせいだわ」 「十七だったんだ」  私は言った。 「俺も彼女も、ほんの子供だったんだ。別に言い訳するつもりじゃないが、もう少し互いが大人だったら違った道があったはずだ。俺も彼女も恋に憧《あこが》れていただけで、将来のことまで考える余裕はなかった」 「由紀子は考えていたわ。あなたと結婚できるものと信じていた」 「勘弁してくれよ」  私は泣きたくなった。 「そうよ。あなたは無責任な男だった。由紀子に紹介されて私は直ぐに分かった。それを何度となく由紀子に言ったわ。あんな男の言葉を真に受けちゃ怪我をするって……でも、由紀子はもうあなたと契り合ったと」  女の古めかしい言い方に寒気を覚えた。 「私がそれを聞かされたのは、由紀子があなたと付き合って二カ月も経っていなかったはずだわ。信じられなかった。由紀子はそれまで一人の男とも付き合いがなかったのよ。なのに体を許すなんて……そこまで由紀子が思い詰めていると知って、私にはもうなにも言えなかった。あなたにすれば、たった二カ月で体を許す女は遊び人に思えたでしょうけど、由紀子はそういう女じゃなかったの」 「彼女はどうしています?」  私は質《ただ》した。 「今もB市に?」 「結婚して秋田にいるわ。二人の子持ち」 「ご主人は?」 「実直な人よ。ただのサラリーマンだけど」 「よかった」  私は心底そう思った。 「信じては貰えないだろうが、本当にいつも気にしていた。若気のいたりだと自分で口にするのは卑怯《ひきよう》かも知れない。けど、それ以外に彼女とのことは説明できない。なぜあんなに冷たい仕打ちができたのか、自分でも分からないんだ。彼女に罪はない。全部俺の責任だ。あんまり彼女が重くのし掛かってきたんで不安になったんだ。十七だったんだよ。まだまだしたいことがたくさんあった。結婚なんかできるわけがない」  私は泣きだしてしまいそうになった。 「彼女がどうしているか、自分が別の階段を上がるたびに思い出しては辛くなった。できるなら、謝っていたと伝えて欲しい」  私は深々と頭を下げた。  女が店をでて行くと私は汗を拭《ぬぐ》った。 「なんだか、酷い状況だったな」  光夫はブランデーを勧めながら笑った。 「彼女はしょっちゅうくるのか?」 「いや。初めての客だ」  光夫も首を捻《ひね》った。 「偶然てのも恐ろしいもんだ。あんたが町に戻るなんてのは何年ぶりかだろ。そこに昔の女の友達が居合わせるとはね。それとなく聞いてたが、由紀子って、あの由紀子かい」 「あの由紀子さ」 「だったら恨まれて当たり前だ。あいつにばっかりは互いに酷いことをした」 「戻ってくるんじゃなかったよ。けど、これで肩の荷が少しは軽くなった。旦那と子供がいるそうだ。安心した」 「いやだな」 「なにが?」 「あの女、俺を訪ねてきたのと違うかね。偶然なんてそんなにあるわきゃねえぜ」 「なんのために?」 「こういう商売していると、いろいろな。店の客とできちまうこともある」 「それと由紀子とどんな関係がある」 「関係はないが、叩けば埃《ほこり》のでる体だ。俺が選挙にでる噂は広まってる。そうなる前にスキャンダルで潰そうと思ってるやつだって」 「考え過ぎだ。ただの女じゃないか」 「ただの女じゃねえよ。なんかこう寒気を感じさせる女だった」  それには私も頷いた。      3  由紀子と出会ったのは高校三年の初夏。盛岡での放送コンクールの表彰式の当日だった。私の所属していたクラブがドラマ制作で、由紀子の入っていたB市の女子校がドキュメンタリー部門でそれぞれ優秀賞を獲得したのだった。表彰式の後、私たちは盛岡市内の喫茶店で合同の受賞祝いをした。祝いと言ってもコーヒーにケーキだけのささやかなものに過ぎないけれど、主催が地元の放送局で、しかも第一回のコンクールだったので私たちは盛り上がった。ドラマの台本を書いたのは私だった。その上、出身中学はB市だ。自然に私は場の中心にいた。由紀子の方は隅に腰掛けていたと思う。彼女はまだ二年生。クラブの中心メンバーでもなく、音声の手伝いをしていた程度だったと記憶している。だが、可愛らしさは群を抜いていた。私はそれとなく彼女のことを聞き出した。たぶん、その場にいた女の子たち全員の家業を聞いたような気がする。由紀子の家はB市でも名の知れた鮮魚店だった。B市は港町なので魚屋が多い。知っている、と私が頷《うなず》くと由紀子は顔を輝かせた。こうして思い出しているだけで、恥ずかしさに顔が赤らむ。厭《いや》なガキだったと、自分でもヘドがでそうだ。たかだか地方放送局の、しかも高校生だけを対象としたコンクールで優秀賞を貰っただけなのに、なんだか天下を取ったような気分になっていた。明日にでも放送の世界で生きていけるような気がしていた。そういう自惚《うぬぼ》れた子供は、大人の目から見ると嫌味に映るが、同世代の異性には眩《まぶ》しい存在と感じられる。私の経験から言うとそうである。東京の大学に進み、世の中には自分よりも優れた才能がいくらでもいると気付かされるまでの何年間、私はずいぶん女性にモテた。自信を失い、真面目にシナリオと取り組みはじめたら、途端に女の子が寄り付かなくなった。自信というのは一種のオーラなのかも知れない。その光に吸い寄せられるように異性が集まってくる。それに、同時進行で複数の女の子と付き合っているのも、モテる要素となっている。飢えていないから余裕を持って女の子と接していられる。迫る男よりも、本音の見えない男の方に、特に若い女性は弱い。由紀子にとって不幸だったのは、私がそういう時期にあったということだ。しかもコンクールで認められ、絶頂にいた時だった。もう少し前か、あるいは大学に進んで何年か後のことなら、私と由紀子の付き合いはまるで違ったものになっていただろう。もしかすると結婚していた可能性もある。私はまだ独身なのだから、充分に有り得た。その当時付き合っていた女の子たちについてはほとんど思い出すこともないのに、由紀子の名と顔は月に何度となく頭に浮かぶ。心の傷だと今までは思っていたが、考えようによっては愛と言えないこともない。私は寝付かれぬまま布団から起きだした。 年に一度も帰らぬ私のために、母親はこうして私の部屋を残してくれている。 壁には由紀子の描いたペン画が飾ってある。  付き合いはじめて半年後くらいに貰ったものだ。由紀子らしからぬ不気味で暗い作品である。それが当時の流行《はや》りだったのか、ボッシュやエッシャーの影響が丸見えだ。丘の上に太い枝を張った老木が一本。木の瘤《こぶ》はいずれも人の顔になっている。呻《うめ》いていたり、泣いていたり、叫んでいたり、すべてが苦痛に歪《ゆが》んだ顔をしている。しかし、目を上の枝に転ずると、ふさふさと茂った葉の中にたった一つ、実がなっている。無垢《むく》な顔をした赤ん坊だ。赤ん坊は柔らかな笑顔を見せて眠っている。太い幹の苦痛は、この赤ん坊を産むために通過しなければならない人間の業のように思える。私はじっくりと絵を眺めた。  物真似に過ぎないのだろうが、十七の女の子が描いたにしては上出来だ。由紀子は放送クラブの他に絵画部にも所属していた。 〈木か……〉  これも偶然なのだろうか。  私は『ささやき』という木を捜しに故郷へ戻っている。その故郷の私の部屋に不思議な木を主題とした絵が飾られている。しかも、木の幹に埋められた無数の顔はすべてなにかを囁《ささや》いているのだ。まあ、囁きよりは激しい声のはずだが、木が声を上げているという意味では共通している。  赤ん坊の顔は私に似ていた。  それに気がついて少し怖くなった。  あの当時は思い付かなかった。赤ん坊よりも私の関心は苦痛に歪む人々の方に注がれていたに違いない。絵に込められた由紀子の本心に触れた思いがして辛くなった。そんなにも由紀子は私を愛してくれていたのだろうか。  不意に描かれているはずの木がさわさわと揺れ動いた。私はわっと後退した。人々の顔にも血が通いはじめた。私を見詰めてなにか言っている。だがなにも聞こえない。無数の声が重なっているせいだ。声は風の音としか感じられなかった。 〈ああっ〉  赤ん坊が風に揺られて落ちそうだ。  ぼたっ、と確かな音をさせて赤ん坊は地面に落下した。落ちた途端、頭が潰《つぶ》れた。 〈そんなバカな!〉  これが現実であるわけがない。私もようやく気付いた。そもそも由紀子の絵を今も部屋に飾ってあるはずがなかった。別れて直ぐに処分した記憶がある。  私は目覚めた。  首筋から肩にかけてびっしょりと汗を掻《か》いていた。どこからが夢なのか……由紀子のことを考えながら眠りについたのは確かだ。そのまま私は夢に引き込まれたと見える。  明りをつけて壁を確認した。  そこにはカレンダーが飾られていた。 〈なにか意味があるのか?〉  私は夢を反芻《はんすう》した。 〈赤ちゃんができたみたい〉  そう由紀子から電話を貰った時、私は信じなかった。映画やテレビによくある話だ。そうやって男の気持を試す。由紀子が重荷になりはじめていた私にとって、その言葉はますます由紀子の存在を鬱陶《うつとう》しいものにした。第一、十七の自分に「産んでくれ」と言えるわけがない。相談されても返事は一つだ。それを承知で試すなんて卑劣な女だと思った。 それから何日かして生理があったと電話があった時、私は別れる決意を固めていた。 〈許してくれ〉  別れるにしても、そのやり方が残酷だった。私には現実とドラマとの区別がついていなかったのである。      4  家にあった町史に目を通し、なんの手掛かりも見付けられないまま、私は東京の事務所に電話を入れた。フリーでは仕事にありつけないので私はプロダクションに所属している。 「あの人がやたらと気にしてたぜ」  私の報告を聞き終えると仲間が言った。 「深入りをしない方がいいとか」 「やっぱり見立て違いか?」 「いや、そんな感じでもないんだが……嘘をつかれたような気がするんだとさ」 「だれに?」 「だから、お宅の肩にとりついてた人にだ」  言って相手はケラケラ笑った。 「つまり、お宅の場合は悪霊ってことだ」 「厭《いや》なことを言うなよ」 「あの人がそう言ったんだ。よくあるらしい。咄嗟《とつさ》に嘘をついただけなら悪戯で済むが、もし他の意図があれば大変だから、連絡が入ったら直ぐに戻るように言ってくれと」 「本当にそう言ったのか?」 「こんなことで嘘を言っても意味はあるまい」 「…………」 「も一度お宅を見たいとも言ってた。なんか、お宅の部屋に木を描いた絵でもあるかい?」  私は耳を疑った。 「どうした? 心当たりでもあるのか」 「ゆうべ、その絵を見ている夢を見た」 「マジかよ」  仲間が絶句した。私もしばらく無言でいた。 「なにか妙なことは起きてねえか?」  やがて仲間は慎重に質《ただ》した。 「あの人はなんと言ってる? 絵のことはどうして分かったんだ」 「知るかよ。だから霊能力者じゃねえか。それにしても……こんなに当たるとはな」  仲間の声は少しかすれていた。 「その絵が『ささやき』を描いたもんだとさ」 「…………」 「俺が聞いたのはそれだけだ」 「だったら知っている」 「お宅の町にか?」 「山の稲荷《いなり》にある洞《ほら》の木だ。そういう話は一度も聞いたことはないが、そうだろう」 「それなら一度戻ってこい。あの人と相談してからにしよう。ちょいとヤバそうだ」 「あの人の能力を信じていなかったんじゃなかったっけ?」 「これまではな。けど、お宅の知ってる絵まで言い当てたとなりゃ、信用しないわけにはいかんだろう。もしかすると悪霊ってのも存在するかも知れん。そっちの心当たりは?」 「ないよ。まったくない」 「なら安心だが……先祖の祟《たた》りってことも」  私は笑った。相手は視聴率のことだけ考えて企画を立てている男だった。それがいきなり先祖の祟りだなんて。 「迷惑になるかも知れないから、絶対に口にするなと釘を刺されたんだがね」  仲間は口ごもった。 「まだ他になにか?」 「左の目の下に小さな黒子《ほくろ》のある女を——」 「なんでそれを知ってる!」  さすがに私は背筋が凍った。  由紀子のことだった。 「その子がとりついているらしいぜ」  仲間も怖々と言った。 「だって、彼女は生きている」 「生霊ってことは?」 「冗談じゃない。平和に暮らしていると聞いたばかりだ。冗談じゃないよ」  私は乱暴に受話器を下ろした。  鳥肌はしばらく消えなかった。私は嗚咽《おえつ》を必死でこらえた。なにか奇妙なことが私のまわりに起きているのは確実だった。      5  日中をB市で過ごし、私は夕方になって町に戻った。へとへとに疲れていた。  私は開けたばかりの光夫の店に入った。 「どうした、真っ青だぞ」  光夫は私の顔を眺めて唖然《あぜん》とした。 「『ささやき』を突き止めた」  私はロックを注文した。薄い水割りなんかを口にする気にはなれなかった。 「本当にあったのか?」 「稲荷《いなり》の洞《ほら》の木のことさ」  私が言うと光夫は小さく頷《うなず》いた。 「あそこの洞の中に入ると、確かにいろんな音が聞こえる。枯れて空洞になったいくつかの枝が、ちょうどパイプオルガンに似た作用をするんじゃないのか。耳元から裏手の滝の音がしたり、上から境内の砂利を踏む足音が聞こえたこともあった。もちろん、人の声がすることもある。きっとそれを知った高校生辺りが創作して局に送ってきたんだろう。俺たちはあの洞の木を別の目的で利用していたから、そういう風にロマンチックには取らなかっただけさ。夜に妙な音が聞こえれば、ひたすら怖いだけだった。足音が近付くとヤクザが恐喝にでもきたんじゃないかと怯《おび》えた」  私の言葉に光夫はニヤニヤした。 「あんたも相当に利用した口か」 「勇気がなかったから二、三回だけだ」 「あんたはほとんどこの町にいなかったし」 「あれが『ささやき』の木だなんて紹介されると照れるやつがたくさんでてくるんじゃないか? もっとも、洞の中で囁《ささや》きあっていたのは間違いない。最近は?」 「いや。行ったことはないな」 「それなら、行って見ないか」 「稲荷にか」 「明日の朝には東京に戻らなくちゃならない。今日行こうと思っていたが、野暮用があって果たせなかった。企画が通るかどうか分からないが、やはり見て帰りたい」 「いいよ。もう少ししたらパートの子がくる。一時間ぐらいなら留守を頼める」  光夫は落ち着かない目で承諾した。 「こんばんは」  ドアを押して入ってきたのは昨日の女だった。私と光夫はぎょっと顔を見合わせた。 「また会えると思ってきたのよ。迷惑だったかしら。それとも昨日の涙は嘘?」 「泣いたかい」  私はとなりの椅子を勧めた。 「光夫が気にしていたよ」 「よせよ」  私が言うと光夫が遮った。 「俺よりも君の狙いは光夫じゃなかったのかってさ。偶然にしてはでき過ぎている」 「マスターにもなにか弱味があるのかしら」  女は意地悪そうな顔で言った。 「この町の人じゃないよな」  光夫はじろじろと女を見詰めた。 「赤坂利江さんだったとしたら」  私は女の反応を見ながら続けた。 「結婚して高崎に暮らしているはずだけどな」  私の言葉に女はきょとんとした。 「違うのか?」  女が首を捻《ひね》ったのを見て私は怖くなった。ついさっきまでそう信じて疑わなかった。 「失礼。俺の勘違いだったみたいだ」  私はどぎまぎして謝った。 「赤坂利江? 聞いた名だ」  光夫は女に顔を近付けた。 「そうだよ。こいつ、利江だぜ」 「会ったことがあるのか?」  後じさった光夫に私は声を荒げた。 「由紀子ってやつの友達だろ」 「だから、どこで会ったんだ」  付き合っていた私でさえ紹介されていない相手なのだ。彼女は私と二、三度お茶を飲んだと言ったが、それは嘘だったのである。古い話だったのと、由紀子の名を言われて動転していた私はその嘘に気付かなかった。小さな町で噂になるのを恐れた私は、いつもB市を離れて二人きりで会っていた。だから彼女の顔に見覚えがないのも当たり前だった。 私の剣幕に光夫は青ざめた。  その瞬間、女は店を飛び出た。 「なんだよ?」  光夫は喚《わめ》いた。カウンターからでて外を確かめる。私も道を覗《のぞ》いた。女は闇に消えた。 「なんなんだ。あいつは!」  光夫はカウンターに並んでいたグラスを腕で払った。グラスが飛んで粉々に砕けた。「稲荷の洞の木に行ったんだ」  なぜかは知らないが私は確信を抱いた。 「ふざけた真似をしやがって」  光夫はドアに鍵を掛けると裏口に走った。 「なんの魂胆か白状させてやる」  叫んでドアを開けた光夫に続いて私も車に飛び乗った。ハンドルを握る光夫の目は恐れと怒りと不安に揺れ動いていた。  車は暗闇を駆け抜けた。稲荷に到着するまで私たちは一言も口にしなかった。      6  稲荷と言っても小さな社である。町から少し離れた丘の上にあり、周りは鬱蒼《うつそう》とした森に囲まれている。洞の木は、祠《ほこら》の奥に立っている。樹齢千年はあろうかという大木だが、太さに較べて高さは十メートルもない。途中で折れてしまったのだ。それで芯が腐りはじめて、とうとう空洞になった。江戸時代にその空洞から白狐のミイラが発見されたことがあったらしく、その関係から根元に稲荷社が勧請《かんじよう》された。空洞の広さは畳三枚ほどもある。十人の子供たちが腕を広げてやっと届くという円周なのだから当然であろう。いつの頃からか洞の木のてっぺんには屋根が架けられた。雨が染みて腐るのを防ぐためである。それが若者たちに恰好の逢引《あいびき》場所を提供することになった。洞の木は人里離れた丘の上にあり、滅多に立ち寄る者もいない。その上、見晴らしもいいので、接近する者をだいぶ前から知ることができる。いつしか洞の木の中には藁《わら》まで敷き詰められるようになった。大人たちも見て見ぬふりをしていた。と言っても、盛んだったのは戦前辺りまでの話で、私たちの時代にはもちろん廃れていた。私のように好奇心から数回利用したというのが大半だったはずである。それも真昼に限られている。夜中にこの洞の木を訪れる男女などいなかったに違いない。  しかし、互いをその気にさせる魔力を確かに洞の木は持っていた。もともと人目のない森の奥だ。洞に入ると真上の屋根の隙間から眩《まぶ》しい光が差し込み、幻想的な気分に誘う。鳥の囀《さえず》りや風が樹木を通り過ぎる音が間近に聞こえ、肌寒い季節でも暖かい。この世にたった二人きりのような気になる。それで好き合っている二人がどうにかならなければ、逆におかしい。そもそも、ここにやってきたことが、承諾の意味でもあった。  最初に由紀子を抱いたのはここだった。  そうなればいいという期待で案内した場所だったが、まさか本当に抱けるとは思わなかった。複数の女の子と付き合っていると言っても、最後の一線を越えた相手は一人もいなかった。由紀子とだって、それまでキスすらしていなかった。なのに……二人で洞の木の底に肩を並べ、屋根からの光を浴びているうちに自然に唇が重なり、気がついた時には互いに全裸となっていた。由紀子は涙を溢《あふ》れさせながら私のものを受け入れた。いっぱしの大人気取りでシナリオなどを書いていたくせに、私は子供だったといまさらながらに思う。以来、会うたびに由紀子の肉体を求めながら私の由紀子に対する思いは強まるどころか減退していったのだ。あまりにあっさりと自分に体を与えた由紀子が処女であったはずがない。私はそう思い込んだ。相手が二十歳を過ぎた女だったら、それも別に気にならなかっただろう。だが、由紀子は十七だった。自分が誘ったことも棚に上げて、私は由紀子を軽い女なのだと考えた。抱くたびに由紀子が他の男と体を重ねている姿を想像した。それに……由紀子の体に染み込んでいる魚の臭いも気になりはじめた。由紀子は店の手伝いをしている。自分でも気にして、私に抱かれるたびにそれを質《ただ》した。私は無論匂わないと安心させていたが、髪に顔を埋めた時や、肩を抱いて耳元に囁《ささや》いた時、微《かす》かな魚の臭いが伝わってきた。その二つのことが、私の気持を由紀子から遠ざける原因となった。 〈酷《ひど》いやつだったよな〉  洞の木を間近に見上げながら私は慙愧《ざんき》の思いに捕らわれていた。  私は夏と冬の休みにしかこっちに戻ってこない。会えるのはほんのわずかの時間だ。由紀子は私の心を繋《つな》ぎとめるために、本当に覚悟を決めて私に体を与えたのだ。体の臭いにしても、由紀子は私と会う日には、それこそ肌が擦り剥《む》けるほど洗ったに違いない。  それなのに、私はその由紀子の心をまったく理解してやることができなかった。人目につくのを避けたのは、いずれ別れる日のための伏線でもあった。そのくせ、休みに戻ると由紀子を呼び出し、体を求めていた。 〈恨まれて当たり前だよな〉  私は洞の木に向かって胸の裡《うち》で呟《つぶや》いた。  光夫が由紀子についてのふしだらな噂を聞き込んできた時も、私は疑わなかった。B市の高校の番長の女だと光夫は言った。夜遅くまで遊び歩き、ときには酒を飲んで複数の男たちに体を与えているらしい。顔は綺麗《きれい》だが公衆便所なんだと光夫は教えた。私の求めるままにどんな体位でも受け入れる由紀子を頭に思い描き、私も頷《うなず》いた。赤ん坊ができたらしいと電話を貰ったのはその辺りだった。私は由紀子ときっぱり別れる決心をした。光夫もその方がいいと勧めた。だが由紀子には番長という厄介な男がついている。下手をすれば恐喝される恐れがあった。私は光夫に、適当な女を紹介してくれと頼んだ。光夫は何人もの女と遊んでいる男だった。年上の、いかにも水商売風の女を紹介された私は、由紀子を待ち伏せし、わざと目につくように二人で肩を並べながらB市でも有名な連れ込み旅館の門を潜《くぐ》った。由紀子の方から愛想をつかすように仕組んだのである。陳腐な筋書きだが、ドラマの世界ならそれで効果がある。門を潜る私の目には、顔を伏せて行く由紀子の横顔が見えた。  それで私と由紀子の縁は切れた。  もっとしつこいだろうと覚悟していた私にも意外だったほど簡単な幕切れだった。 〈だが……〉  それには違う真相が隠されていたのだ。  私は躊躇《ちゆうちよ》している光夫の肩を押して洞の木へと促した。光夫は決心した顔で歩いた。 「…………!」  洞の木の中には女が蹲《うずくま》っていた。  光夫は悲鳴を上げた。顔を上げた女の目が虚《うつ》ろだったからだ。私は中に入って女の肩を揺り動かした。光夫も怖々と入ってきた。 「あなたたちは?」  女は我に返ると不思議そうな顔で見詰めた。 「赤坂利江さんでしょう」  私は今度こそ確信を持って訊《たず》ねた。女はゆっくりと首を振って認めた。 「でも……どうしてこんなところに?」 「由紀子の霊が導いたんです」  私の声は震えていたに違いない。 「俺は今日まで由紀子が自殺したなんて知らなかった。それも二十年も前に……」  私は口にしながら泣いた。 「いろんなことが重なって……俺はB市まで出掛けて調べてきたんだ」  私は光夫に向かって言った。 「由紀子の通っていた高校に行き、それとなく事務の人に消息を訊ねているうちに……由紀子が二十年以上も前に死んだということが分かった。俺はたまらなくなって由紀子の実家を訪ねた。俺が由紀子と付き合っていたことを両親はまったく知らなかったようだった。母親はなぜか俺が訪ねたことを喜んでくれて……アルバムを持ち出してきた。その中にこの、赤坂利江さんの顔がたくさん写っていた。幼い頃からの仲良しだったと言う。この人と昨日会ったと伝えたら母親は首を傾《かし》げた。高崎に暮らしていて、滅多に帰ってこない。戻れば必ず由紀子に線香を上げにきてくれるのに、と母親は付け足した。アルバムには利江さんの他に頻繁に由紀子と写っている女性がいた。彼女も仲良しの一人で、今はB市で洋品店を営んでいると教えてくれた。俺はその足で洋品店に向かった」 「…………」 「名乗ったら、いきなり頬を打たれたよ」  私は光夫を睨《にら》みつけた。 「俺は洗いざらいを彼女に話した。彼女は俺の話を信じなかった。由紀子が俺以外の男と付き合っていたはずがないと彼女は断言した。番長なんかの噂も有り得ない。由紀子は真面目な女の子だった。俺といずれは結婚して小さな家に暮らすんだと、いつも嬉しそうに話していたと言う」  私は光夫の胸倉を掴《つか》んだ。 「なのに、なんでおまえは俺に嘘の噂を吹き込んだんだ? 会ってもいないはずなのに、どうして赤坂利江さんのことを知っている」  光夫はわなわなと震えた。 「あんただわ!」  利江は光夫の顔をしげしげと眺め、 「由紀子に付き纏《まと》っていた男ね」  ペッと唾《つば》を吐きかけた。 「俺もずうっと好きだったんだよ」  光夫はへたへたと腰を崩した。 「中学ん時から好きだったんだ。なのに、こいつが由紀子を横取りしやがった。しかも、ここで抱き合っていやがった。俺はこいつらがここに上がって行くのを見たんだ」  光夫は泣きながら訴えた。 「だから別れさせようと思ったんだ。番長の女だって言えばこいつがビビると思って」 「そればかりじゃないわ」  利江は光夫に詰め寄った。 「私になにをしたか……この人の前でちゃんと話して下さい。でなければ、浮かばれない」  光夫は唖然《あぜん》として利江を見上げた。私も利江を見詰めた。  利江の顔には由紀子が重なっていた。  光夫は絶叫した。 「あなたが待っていると……」  由紀子は私と向き合った。 「この男が迎えにやってきたの。私とあなたしか知らないはずのこの場所で。私は信じて従った。ここに着いてもあなたはいない。そうしたらこの男が私に……私は必死で抵抗した。でも、この男は私に言った」 「やめてくれ。勘弁してくれ」  光夫は泣き喚《わめ》いた。 「あなたも承知のことだと。飽きたから譲り受けたんだと……私は死ぬほど悲しくなってこの男に……もう私に生きている意味はなかった。私にとってあなたがすべてだったの」 「由紀子……許してくれ」  私は由紀子の前に両手を揃えた。 「もう、いいの」  由紀子は笑った。 「ずうっとあなたの側にいたけど、あなたは悪い人じゃなかったわ。私が側にいることに気付いた人が現われたので、心が乱されてしまっただけなの。ごめんなさい。もう、あなたを独り占めにはしない。好きな人ができたら結婚してもいいわ。でも……この男だけは許しておけなかった。だから利江の体を借りて……後で利江には謝ってちょうだいね」  由紀子はぺこりと頭を下げると私に腕を伸ばした。  私はその手をしっかりと握った。 「俺を……許してくれるのか?」  ひさしぶりに見る由紀子の顔はあどけなくて可愛かった。どうしてこんな子と俺は別れてしまったんだろう、と思った。 「それだけで嬉しいわ」  由紀子は笑顔を浮かべて利江から離れた。由紀子は洞の中に浮いた。ゆっくりと上がって行く。私は由紀子を目で追った。 〈今日からは本当に由紀子を愛していけるよ〉  白い由紀子を見上げながら、私は思っていた。それは『ささやき』の木が引き出した私の真実の思いに違いなかった。 [#改ページ]     おそれ      1 「せっかく、こういう話をするんだったら、雰囲気を盛り上げるために部屋の明りを消した方がいいんじゃないかい。そうそう……それじゃ、真っ暗すぎてビールのグラスも見えない。料理だって暗闇《くらやみ》の中じゃ旨《うま》くもなんともない。ああ、それでいい。窓際の小さな明りだけで充分だ。障子を閉めれば間接照明になって蝋燭《ろうそく》みたいだね。暗闇で思い出したが、皆さんは闇鍋《やみなべ》ってのを試したことが? やっぱり、世代の差なんだろうか。ぼくらの若い頃にはよくやったものなんだが……。クラブの合宿で田舎の宿なんかに泊まると楽しみが全然ない。今と違って二十年以上も前の田舎っていうと、ホントに酷《ひど》い田舎でね。もちろんカラオケのできる飲み屋もなければ、宿の部屋にはテレビもなかった。まあ、もともと合宿で行く宿だから安いところさ。一泊五百円とかね。今の金に直しても三千円程度のものだろう。それで三食付き。テレビがなくて当たり前だ。景色はいいんだが、男同士の合宿で景色を愛《め》でるやつはいない。それで夜は、ちょうど今夜のようにそれぞれが怖い話をし合ったり、女の話をする。ここには女性もいるから、どんな内容かは具体的に言えないがね。合宿に参加してるのは二十歳前後の連中ばかりだ。まだ女を知らない者もいる。キャバレーに行ったらどうしたとか、今にして思えばその程度のものなんだが、結構ワクワクしたもんだ。その合宿では最後の夜が闇鍋と決まっていた。クラブの伝統だった。野菜をだしで煮ただけの大きな鍋がテーブルの真ん中に置かれてある。そこに幹事が、皆からあらかじめ預かった食べ物をいっぺんに放り込む。我々は廊下の外にいるから、どんなものが煮られているのか分からない。正式には皆が鍋の側に集まって、暗い中で勝手に放り入れるらしいが、それだと食べれないものを入れたり、汚いものを持ち込むやつがいる。うちのクラブでも昔は酷かったそうだ。宿の便所の雑巾《ぞうきん》を入れたり、下駄の鼻緒とか……それでそういう形になった。基本は食べられるもの。それを幹事が丼に取り分けてテーブルに並べる、部屋は真っ暗だ。我々は座布団を頼りに自由な席を選ぶ。そして闇の中で割り当てられた丼を平らげるわけさ。丼の中身は分からない。しかし食い物のことは確かだ。頭で想像していると薄気味悪い気もするが、あれって、意外につまらないものでね。味覚は視覚だって言うが、本当だな。暗い中で食べていると味が分からなくなる。鱈《たら》だとか肉だと分かっていれば経験で味を感じるだろうが、なんだか分からない状況だと、よほど強烈な味でもない限り区別がつかない。後で試して見ればいい。まあ、皆は目の前の料理をすでに見ているから、だいたいの見当がついて味もちゃんと分かるに違いないがね。とにかくあんまり面白いものではなかった。しかも若い男たちが持ち寄る食い物だから知れている。キャラメルだったり、せんべいや羊羹《ようかん》の類さ。鍋にできないものをと考えるから逆に似通ったものが集まる。笑い合っているのは最初だけ。だんだん皆が不機嫌になる。醤油《しようゆ》味の羊羹なんて旨いわけがない。それでも食えたのは、暗いからだった。旨さを消す代わりに、まずさも隠す。それが闇鍋だ。なんだか本題から外れて行くようだが、この雰囲気を見て、ちょっと思い出した。それで……怖い話だったね。いきなり言われたんで咄嗟《とつさ》には思い付かないが……こうして他の話でお茶を濁しながら考えているわけだ。人から聞いた話でも構わないわけだろ。皆さんはいい、こっちが話している間に考えられる。ああ、そうだ。何人かには話した覚えがあるけど……ここには初対面の人もいる。これ、相当に怖いよ。実際に俺が経験したことだ。今、思い出しても鳥肌が立ってきた。ほら、この腕のとこ。鳥肌って、どうも不思議だな。なんで怖いとザワザワするんだろう。動物もそうなのかな。鳥なんて、もう鳥肌の立つ余裕はないと思うけどね……冗談はさておき……これは五、六年ほど前のことだ。夏が過ぎた辺りだったな。なにかの集まりで、その夜は終電で帰宅した。桜ケ丘の駅に着いたのは夜中の一時半前後。タクシーに乗ろうとしたら、もう三、四十人が並んでいる。なのにタクシーは五分に一台くらいしかやってこない。二時近くまで待って諦《あきら》めた。駅から家までは歩いて三十分。そのまま待っていればもっと時間がかかりそうだった。俺の他にも諦めて列から離れるやつがいる。幸い歩くには適当な季節だった。三十分なんて、昔は平気で歩いたものだが、近頃じゃ、ついタクシーを足にする。夜の闇を怖がる年齢でもないしね。それでも……なんだかその夜は気持悪かったな。歩きはじめて住宅地に差し掛かるとそれを感じた。二時をとっくに過ぎて周辺の家は真っ暗だ。裏道を選んでいたから外灯も少ない。あの辺りにはまだ開発の進んでいないところもある。梨の畑や江戸時代からの古い寺もあってね。散歩代わりと思っていたのに、だんだんと気が滅入《めい》ってきた。そうしたら正面にぽっかりと明りが見えた。眩《まぶ》しいくらいの明るさだった。小さな人影がその明りの中にちらほら見える。なんだろうと最初は思った。明りはだいぶ遠い。そのまま明りを目指して進んでいるうちに、分かってきた。だれかが死んで通夜でもしているらしい。それでこの真夜中に人が出入りしているんだ。分かって見ると不思議でもなんでもない。むしろホッとした気分で俺は明りを頼りに歩いた。通夜を怖がるほどの子供じゃない。近所の家でもないから挨拶も要らない。それでも多少は気になる。俺はやがてその家の門前に辿《たど》り着いた。なかなか大きな家だった。玄関の戸が半分ほど開いていた。中からはだれの声も聞こえない。しかし、大勢の客があるのは玄関に揃えられている訛で分かる。明るいと感じたのは玄関の照明ばかりじゃなく、家全体に電気がつけられていたせいだった。他人の家のことなのに、奇妙に立ち去りがたかった。あれが、おかしいと言えばおかしかった。なにかに出会うって時はそういうものかも知れない。だれかがやってきたら、どういう人が亡くなったのか聞こうと思った。それだって変なことさ。俺はその家となんの関わりもない。まあ、あるとしたなら、たまたまこの時間に通りかかった縁というやつかね。俺はしばらく門の前に立っていた。表札を見たはずだが、名前は覚えていない。どのくらい待っていただろうか。二、三分のような気もするし、十分以上という気もする。そうしたら後ろの方からなにかが近付いてくる気配があった。訛音ではなかった。だが、息遣いは人間に間違いない。振り返るのも大人気ない感じがして俺は表札を眺めていた。その瞬間、背筋に寒気が走った。気配は間近にある。俺はちらりと後ろに目をやった。悲鳴を上げたかった……そこには逆立ちした若い女が居た……女と俺の目は確かに合った。なのに女は俺に気付かなかったように、俺の脇を通り過ぎて行った。ひたひたひたと掌《てのひら》で小さな音をさせながら逆立ちのまま玄関に向かう。白いスカートが捲《めく》れもせず真っ直ぐ伸ばした足に絡み付いている。女は玄関に消えた。なにか起きるかと思って俺は耳を澄ませた。が、なんの騒ぎもなかった。またあの女が出てきたらどうしようと思って俺はその場から逃げ出した。あの女の真っ白な目玉が今も忘れられない。あれはいったいなんだったんだろう……」      2 「ばあちゃんの話をします。ばあちゃん、なんて言うと子供っぽく思われそうですが、祖母は俺が十三の時に死んだんで、気取った言い方ができないんです。やっぱり、ばあちゃんじゃないと……それにしても、宍戸《ししど》さんの話は怖かった。きっとそれは死んだ娘さんの幽霊だったんでしょうが、どうして逆立ちして歩いてきたのか……理屈が分からないんで、それが怖い。怖い話って、たいていそうです。俺もこういう話が嫌いじゃないから、仲間同士でよくやるけど、因果応報ってんですか、そいつがしっかりしてるのは案外怖くない。そりゃ、先生方の書かれる小説や映画のようにプロが手掛けたものなら心霊写真なんかより怖い話はいくらでもありますけど、素人が思い出しながら話すことなんて筋もいい加減でしょ。細かい部分が飛ばされているんで、先が読めちまう。出版の世界に入ってまだ四年にもなりませんが、あ、こりゃ小説にならないなって無意識に考えてしまいます。だから怖くないのかも知れないですね。しかし、本当に怖い話も、やっぱり小説にはできないような気がします。理屈をつけていけばいくほど怖さから離れてしまうんじゃないでしょうか。たとえば、これから話すばあちゃんの幽霊のことにしたって……担当している先生方の何人かに話しているんですが、怖がってくれたわりに小説のネタに使ってくれないんですよ。なんだか、わけが分からない。だから小説にはできないんだと思います。実際、俺もなんでばあちゃんがあんな真似をしたのか……ばあちゃんっ子だったんで、きっと俺が寂しいと思ってくれたんでしょう。ばあちゃんは家の二階の六畳間に暮らしていました。足腰が丈夫だったんで階段の上り下りも苦にならないようでした。でも、やっぱり面倒だったのか、しょっちゅう俺はばあちゃんに呼ばれて用をたしていました。今考えると、そうやって用事を言いつけては俺に小遣いをくれたかったのかも知れません。煙草を喫《す》うばあちゃんで、おふくろはそれを気にしていました。健康のためにです。それもあったんでしょうね。俺はおふくろに隠れてばあちゃんの煙草を買いにでかけました。俺が一人でいると分かるとばあちゃんは必ず二階から声をかけてくるんです。ばあちゃんの部屋には大きな箪笥《たんす》が一つあって、ばあちゃんはその一番下の引き出しからへそくりを取り出して俺に金を渡しました。そのばあちゃんが、中学二年の時にぽっくりと死にました。風邪をこじらせて二日も寝ないで死んでしまったんです。もちろん寂しかったですよ。ずうっと一緒に暮らしていたばあちゃんでしたから……けど、それにもいつしか慣れました。親父やおふくろだったら別でしょうが、ばあちゃんはちょっと違う。あれはばあちゃんが死んで十日くらい過ぎた頃のことです。その日は俺一人が留守番をしていました。テレビにも飽きて、ぼんやりと天井を眺めながら寝転んでいたら、二階から俺を呼ぶ声がしたんです。俺は返事をしました。ばあちゃんがまた煙草を買ってきてくれと言うんだな、と思いました。死んだのを忘れていたんです。ぼんやりしていたせいでしょう。二階への細い階段を上がりながらも俺は気付きませんでした。ばあちゃんの部屋の襖《ふすま》を開けて、だれも居ないので、ようやく死んだのを思い出したぐらいです。なんだ……と思った。空耳だったんでしょう。でも、なぜかばあちゃんが懐かしくなって俺は部屋に入りました。ばあちゃんが居なくなっただけで、部屋はそのままになっています。俺はばあちゃんがよく座っていた窓際の座布団に腰を下ろしました。すると、やっぱり頭の中にばあちゃんの笑い声のようなものが聞こえる。あの時の気持はなんて説明すればいいのか自分にも分からないんですが、俺は立ち上がって箪笥の前に進みました。どうしてもこの箪笥の一番下の引き出しを開けなければいけないような……他のことはなにも考えられないんですよ。この引き出しを開けるために呼ばれた気がしました。俺は引き出しの把手《とつて》に指をかけて、思い切り前に引きました。そしたら、ばあちゃんが、こうして身を縮めて引き出し一杯に詰まってたんです……ばあちゃんは笑っていました。俺はびっくりして引き出しをそのままに階段を駆け下りました。小さいばあちゃんだったけど、まさかあんな薄い引き出しに入っているなんて……それからは、もう駄目です。ばあちゃんって言うと、あの引き出しの中のばあちゃんの顔しか頭に浮かんでこない。箪笥も怖い。人の家を訪ねても、引き出しから目が放せなくなって……」      3 「ぼくの経験も相当に怖いと思ってたんだけど……今の野村さんのやつを聞いてたら、大人と子供の差だなと思いました。それに、どっか似ているような。やっぱり留守番してた時のことですしね……小学校の五年頃の話です。学校から帰ったら母親の手紙が炬燵《こたつ》の上に置かれてありました。お客さんがくるから買い物にでかけるが、行き違いになると申し訳ないので留守番をしていてくれ、というものだった。友達と遊ぶ約束をしていたんですが、それなら仕方がない。電話で断わって炬燵で漫画本を読んでいました。そしたら、いきなり『伴彦《ともひこ》っ』って大きな声で名前を呼ばれた。反射的に返事をして玄関を見ました。細長い家で、居間からガラス障子越しに玄関が見渡せたんです。でも、だれの姿もない。あれ、勘違いかな、と思って漫画本に目を戻した。すると『伴彦ぉ』って声がまたしました。今度は勘違いなんかじゃない。返事をしながらぼくは玄関に立ちました。玄関を開けても人っ子一人見当たらない。台所かなと思って、そっちも見た。どこにも人の気配はありませんでした。ちょっと怖くなった。炬燵に肩まで入って漫画を読み続けた。そしたらまたですよ。『伴彦』と今度は物凄《ものすご》く静かな呼び声がした。どこから呼んでいるんだろうと、震えながら耳を澄ませた。ようやく分かりました。声のした方向はぼくが背にしていた押し入れの中のようなんです。『伴彦』としつこく繰り返している。間違いありません。薄い襖を挟んでだれかがぼくの名前を呼んでいた。押し入れには布団がびっしりと詰め込まれているはずだった。襖とぼくとの間は五十センチもない。がたがた震えながらぼくは襖を見守った。すると襖もがたがた騒ぎだした。死にたいほど怖かったですよ。そこに客がやってきた。親戚のおじさんでした。ぼくは泣き喚《わめ》いておじさんに助けを求めた。おじさんは飛び込んでくると、いきなり襖を開けた。わっと目を瞑《つぶ》ったのに……中にはだれも居ない。布団がどさっと落ちてきただけ。ぼくには信じられませんでした。ぼくは確かに襖の隙間から食《は》み出た白い指を見ていたんです。おじさんは錯覚だと言って笑いました。それきりです。お定まりの、人が死んだという連絡もなければ、その後、押し入れの中の声を聞いたこともない。もっとも、二年くらいでその家を引っ越したので断定はできませんが……それからですよ、襖を開け放す癖がついたのは。閉めきりの襖を見ていると、その後ろにだれかが隠れているような気がしてなりません。だから、こういう旅館なんかでも、最初に襖を開ける役割は苦手なんです。たいてい鼻歌を唄って襖を開けますね。これから開けるぞって、幽霊かなにかに教えているわけです。でないと、でくわしてしまいそうで……皆さんはこういう経験がないから平気でしょうが、襖の陰には絶対になにかがいますよ。気をつけて下さい」      4 「よろしくお願いします。私もできたら東京からのバスにご一緒したかったんですけど、住まいがおなじ東北なものですから直接この宿にやってきました。先生がずうっと講師をして下さっている大学の教務課におります。中沢初美です。担当編集者の皆さんのことや、先生と同級生だった宍戸さんや、後で話される渡辺さんのことも先生からお名前をたびたび伺っているので、初対面という気がしなくて……でも、やっぱり場違いだったかなと、さっきから少し反省しています。おっちょこちょいなんです。先生のご招待で、温泉に泊まって美味《おい》しいものを食べられるんだ、と単純に喜んでいました。私は関係ないのかな、と思っていたら、しっかり順番が回ってきて。先生はこのために私を誘って下さったんだと今やっと分かりました。あの『戻り足』のことですよね。私が見たことを先生にお聞かせしたらエッセイに書いて下さり、それに『戻り足』というタイトルを……タイトルをつけられたら、もっと怖くなりました。担当の皆さんでしたら、たぶん『戻り足』を読んでいらっしゃると思いますけど、あれホントのホントにあったことなんです。三年前の夏休みに入る直前のことでした。ウチの大学は短大で男女合わせて三百人足らずの小さなところです。一年生は寮に入ることを義務づけられていて、あの当時、入寮していた男子学生は四十人ぐらいだったと思います。もともと女の子の数が多い大学なんです。一学期が無事に終了し、明日から夏休みだという夜、男子寮では恒例のすき焼きパーティーが開かれることになりました。教務からも何人かが招待されて、私も呼ばれていました。食事の支度から買い物、後片付けまで全部学生たちがやってくれて、私たちは来賓扱い。楽しみにして寮を訪ねたのですが、予定の時間になっても二人の学生が食堂に姿を見せません。二人は後片付けの役割で、働かなければならないのは後のことです。それでバイクを飛ばして近くの海に遊びに行ったとのことでした。パーティーの時間までにはきっと戻ると言っていたのに、三十分過ぎても現われないんです。外はもう暗くなっていました。海岸は大学から二十分ほどの距離にあります。渋滞があるような道でもないですし……なにかあったんじゃないかと皆は心配しました。そしたら、心配通りに警察から連絡が入りました。二人は海から戻る途中、スピードを上げすぎたのか、カーブを曲りきれずに十メートル下の海に飛び込んでしまったんです。対向車のダンプカーからの急報で警察が直ぐに駆け付けたそうですが、間に合いませんでした。二人は浅い海の岩場に頭からぶつかって……引き上げた二人の体は市立病院に運ぶ途中だと警察は教えてくれました。すき焼きパーティーどころではなくなりました。寮の仲間が死んだんです。皆が揃って病院に行くことになりました。でも、大学への連絡や留守番が必要です。二人の死体を見るのが辛かった私は、望んでその役目を引き受けました。亡くなった二人は、ちょっと不良だったけど、愉快な人たちで、私も何度か喫茶店でお茶を飲んだことがあります。他の、それほど親しくない学生だったら私も病院に行ったと思いますが……私はたった一人で寮に居残りました。なんにも怖くはありません。その寮で亡くなったのとは違いますし……町に住んでいる先生方に連絡を取って、後は寮の事務室でぼんやりとしていました。電話ははじめに何本かあったきりで、呆気《あつけ》ないほど静かでした。テレビを見るのも二人に悪い気がして、適当な週刊誌を捲《めく》っていたら……ギイイイッってドアを押す音が聞こえました。だれか戻ってきたんだとホッとしながら入り口に目をやりました。でも、だれも居ません。私は事務室のドアを開けて廊下を確かめました。廊下の突き当たりに裏口があるんです。学生たちは玄関よりも裏口の方をよく利用しています。だけど、廊下にも姿は見当たりませんでした。廊下は学生たちが全部留守にしているので真っ暗です。事務室は明るいんだから、私を見掛けたら声をかけてくれるはずです。風のせいだったのかな、と思いました。事務室に戻ろうとしたら、なんだか妙な音がするんです。ペタペタペタって、ちょうど餅つきをしているような音が。私はまた廊下を覗《のぞ》きました。裏口のガラス窓を透かして町の明りが見えました。真っ暗と言っても、目が慣れてきていました。どんなに目を凝らしても、人影はありませんでした。それなのに、相変わらずペタペタという音は続いています。私は廊下にしゃがみ込みました。音は下の方から聞こえます。そうしたら……こうして思い出すだけで冷や汗がでてきます……最初はなんだか見当もつきませんでした。廊下の真ん中を二つの白いものが……鼠くらいの大きさでした。それがゆっくりと私に向かってくるんです。怖い時に悲鳴を上げるなんて嘘だと思います。私は怖くて声を上げることさえできませんでした。なのに目はその白いものから逸《そ》らすこともできない。近付いてくると、はっきり形が分かりました。くるぶしから下だけの、足だったんです。まるで白|足袋《たび》みたいでした。足は廊下を一歩一歩踏みしめるようにして歩いてきました。私はその場に釘付けになりました。足は私の近くの部屋の前に止まると、ちょうど半開きになっていたドアの隙間から入って行きました。ペタペタという音が今度は畳を擦る音に変わりました。私はやっと自分を取り戻して玄関から逃げ出しました。きっとその足は亡くなった学生の部屋に入ったんだと想像していらっしゃるでしょうけど、後で調べたら無関係なんです。二人の足が切断されていたわけでもありませんし……今でもあれがどんな意味を持っていたのか私には分かりません。でも、おなじ日のことなので偶然ではないと思います。あんまり怖かったので、後で先生にお話ししたんです。こんな程度でよろしいでしょうか」      5 「どうも皆さん大変な体験をしていらっしゃるようで……何度も背筋がゾクゾクっとしました。こういうのは後になればなるほど分が悪い。怖さに慣れるって言うか、前の話よりも怖くなければ感じない。私は医者を仕事にしています。だから死体も見慣れているし、怖い話をたくさん知っているはずだ。たぶん彼はそう考えて私の順番を後に回したんだと思いますがね……死体を怖がらないのと、こういう話とは別物ですよ。さっきからなにを話せばいいかずうっと悩んでおりました。私は若い頃にはっきりとした幽霊を見ている。しかし、皆さんの話のように怖くはない。友達の幽霊だったから怖くなかった……と言うよりも、翌日まで彼が幽霊だと思わなかったんですよ。私の下宿に……山田という男でしたが……ふらりと遊びにきた。いつものことだった。一週間に一度は必ずやってきて、一緒にメシを食べたり、映画を見に行く仲だったからね。別に珍しいとも思わず部屋に上げて何時間か話した。その時の山田の話は今でもちゃんと覚えている。奇妙なことに幽霊の話をしたんだね。どうして幽霊を怖がるんだろう、みたいなことを切り出した。魂だとしたらおなじ人格のはずだと山田は主張した。人は体や顔で付き合っているわけじゃない。結局は人情じゃないかと言う。人情だったら魂も生身の人間も変わりがない。なのに怯《おび》えるのはどういうことか、と。こっちは大学で解剖実習をしていた頃だったから、そもそも幽霊なんか存在しないと力説した。どうでもいい話だったが、あんまり山田がムキになって言うから、ちょっと腹を立てたのかも知れない。私と山田は幽霊論を闘わせた。じゃあ、この場に君の好きなカフカの幽霊が現われたらどうだ、と山田は訊《たず》ねた。それでも怖いか、と重ねる。怖くはないが、カフカが日本語で話してくれなけりゃ俺には通じないと私は応じた。なんともとりとめのない話でね。しまいにはなんの話をしていたんだか互いに分からなくなった。メシでも食いにでかけようかと誘ったら、ちょっと家に帰ってくると言う。彼の田舎は長野だった。そうか、と私も下宿の玄関先まで見送った。山田は何度となく私を振り返って手を振った。そしたら翌日の朝に山田の実家から連絡が入った。昨日の昼に山田は旅先の仙台で車に轢《ひ》かれて死んだという知らせだった。まさか、と私は笑った。山田はその頃私の下宿に何時間も居たんだから。それを話したら山田の母親は泣いた。昨日の山田は幽霊だったと分かった。だが、ちっとも怖くはなかった。少しザワッとした程度かな。山田の葬式に出て、何日か過ぎた辺りに、あの日のことを思い出すと、笑いたくもなった。あいつはきっと何度も私のところへ遊びにくるつもりだったんだよ。だから幽霊は怖くないってことを説明しようとしたに違いない。それで必死になって自分が死んだのを私に隠し続けたのさ。考えると哀れな話だ。私は何度となく山田の魂に呼び掛けて、遊びにこいと言ってみたんだが、それ以来一度も山田は姿を見せない。私の経験で言うなら、幽霊はまったく私たちとおなじだね。ちゃんと服の手触りも感じられたし、汗も掻《か》いていた。死んだと知ったから、あれが幽霊だったと分かっただけで、知らされていなければ今でも本物の山田だと信じていたはずだ。それからですよ、この世の中には人間に混じって幽霊が共存しているんじゃないかと思いはじめたのは。通りすがりの、もともと名前も素性も知らない人間だったら、それが生身の人間なのか幽霊なのか我々には分かりっこない。自分たちが死をはっきりと確認できる相手の数はほんの一握りに過ぎない。ひょっとすると我々は死人だらけの中で暮らしているのかも知れないよ。あははは。それは冗談だ。いくらなんでもそれはね……だが、幽霊が怖い存在じゃないのは山田のことで納得がいった。月並みだが、やはり怖いのは人間の心だな。もう、十五年以上も昔の話だが……同僚の医者の一人息子が亡くなった。同僚が学会で留守にしていた時のことだ。風呂場で石鹸《せつけん》で足を滑らせてタイルに頭をぶつけてね。あんなことは珍しい。奥さんから連絡を受けて駆け付けたが手遅れだった。可愛い高校生で夫婦の自慢の種だった。奥さんは半狂乱になっている。同僚は大阪で、どうしてもその夜には戻ってこれない。我々も心配で夜通し側に居てやろうかと思ったんだが……奥さんは断わった。息子を一人で見守っていてやりたいらしい。その気持は痛いほど分かる。我々は奥さんと息子を二人きりにして帰った。それが後でなんとも悔やまれる結果に繋《つな》がった。私は医者だよ。あの時の奥さんの様子を見て、精神がおかしくなっていると判断すべきだった。なのに……母親として当然の動転としか見抜けなかった。その夜に奥さんが息子になにを語り、なにを思ったのか、私には分からない。だが……翌朝、病院へ行く途中に立ち寄ったその家の玄関には鍵が掛けられていた。何度呼んでも返事がない。自殺したんだ、と私は直感した。直ぐに病院へ電話し、仲間を呼んだ。家の雨戸も全部閉ざされている。私たちは玄関を蹴破って入った。入った瞬間に血の匂いを感じた。私は真っ直ぐ息子が安置されている部屋に走った。部屋は血の海だった。奥さんの血じゃない。それは……息子の血なんだ。裸に剥《む》かれた息子は髪を丸坊主にされ、性器を切断され、耳を落とされ、無残に傷付けられていた。その隣に奥さんが、やはり裸で眠っていた。私の叫びに気付いて奥さんは飛び起きた。奥さんは首を小さく横に振りながら、この子を全部燃やしてしまいたくなかった、と言い続けた。髪の毛を剃《そ》ったのも形見のつもりだったんだろう。それをしているうちに性器を切り落とし、だんだん包丁を持つ指が止まらなくなったんだな。しかし、奥さんが狂っているのは明白だった。奥さんは自分の裸を隠そうともせず、右手に握った息子の性器を優しく撫《な》で続けていた。なんと言ったらいいのかね……私はたまらなくなって奥さんを抱いた。涙が止まらなかった。真夜中に息子の肉を切り刻んでいたことを想像したら、哀れでならなかった。幽霊よりも私には遥《はる》かに恐ろしい経験だったよ。あの奥さんは今どうしているんだろうかね」      6 「いやぁ……頭に描いていたよりも、ずっと怖い話が並んだね。いや、まだ明りはそのままでいい。皆に話を頼んでおいて俺だけ聞き役に回っちゃ申し訳ない。それにしても、渡辺さんの今の話は凄《すご》かったですよ。初耳だったからでしょうか。他の皆のは前に聞いている。それでもやっぱり本人の口から聞かされると迫力があるな。宍戸の見た逆立ちの幽霊ってのは今昔《こんじやく》物語にも紹介されてるよ。筋はうろ覚えだが、旅をしている武士が田舎の大きな家の前を通り掛かると逆立ちして橋を渡ってくる女に出会うって話だ。女は武士に腰の刀を貸してくれと頼み込む。不義を働いた亭主が自分を殺した上に、墓から出れないように棺に釘で足を打ち付けた。しかも若い女を家に入れている。自分の気持はどうにも収まらない。それでこういう浅ましい姿でやってきたんだ、と言う。武士は女の気迫に押されて刀を手渡す。女は刀を口にくわえてすたすたと家の中に消えた。様子を見守っていると家の中から悲鳴が聞こえた。若奥様が化け物に殺されたと騒いでいる。因果応報だから、宍戸の話に較べると怖さは少なくなっているけどな。それに沖縄には有名な逆さ幽霊って話もある。やっぱり化けて出ないように女の足を釘で打ち付けていてね。子供の頃に大蔵《おおくら》映画で見た。もっとも、それは逆立ちで歩いたりしない。天井から逆様にぶら下がった状態で現われたり、開けた玄関にぶら下がって出てくる。あれって、結構怖かったな。たぶん宍戸の見た若い娘さんは足でも悪かったんじゃないだろうか。じゃないとしたら……なんだか分からない。野村君も言ったように、理屈の分からない話の方が怖いのは確かだ。宍戸の話には理屈をつけない方がいいかも知れないな。引き出しの中のおばあさんとか、押し入れから聞こえた声だとか、足首だけの幽霊とか……その意味で言うなら全部理屈が通らない。共通点は一つも見当たらないように感じるだろうけど、異界の存在を示唆している点ではどれも一緒だ。我々に理解できないだけで、強靭《きようじん》な意思を感じる。逆立ちの娘にも、おばあさんにも、押し入れの中に居たなにかにも、足首にも、山田君という幽霊にも、なにかを成し遂げようという心の動きが感じられないかい。別にそれを推理するつもりはない。言いたいのは意思力、つまり我々と同様に魂を持ったなにかが、この世の中に存在するということだ。我々が死んだ後に変化するものか、まったく異なった世界の住人なのかは断定できない。それを確かめるには自分が死んでこの目で見るしかない。しかし、人間が心の底から魂の存在を信じることができたら、どんなに安らぐことだろう。病気をしても怖くなくなる。家族を失っても悲しみの度合いが違う。貧しくっても来世を思えば耐えられる。人間が宗教に頼るのは、そういうことさ。宗教の根本は神の世界、言うなれば現実とは別の世界が存在することを教える点にある。決して今の生き方を教えてくれるわけじゃない。安心して死になさいよと慰めてくれるものなんだ。けれど、今の我々みたいに宗教を迷信だと考える人間には救いがない。言葉でどんなに宗教の根本を説かれたって、どこかに疑いの心が宿っている。我々は科学を絶対的なものだと教えこまれた。それが宗教を信じる心の妨げとなっている。そういう我々に来世はない。がむしゃらに仕事をしている時は来世なんてどうでもいい問題だが、いったん自分の体に自信を失うと……やたらと怖くなってくる。自分が死ねばどうなるんだろう、ってね。俺も怖い。だから幽霊の話なんかにすがりたくなる。宗教はいまさら信じられないが、幽霊の話は別だ。宗教とは無縁に来世の存在を確信させてくれる。絶対にあるよ。別の世界がね。だけど、見知らぬ世界であるのも確かだ。俺には一人で行く勇気がない。だから旅をして楽しそうな仲間を選んだ。まず家内。俺には子供が居ないから、俺が死ねば彼女はこっちの世界に一人ぽっちになる。それじゃ可哀相だよ。なんだい、皆、不思議そうな顔をして……主治医の渡辺さんだけは分かったらしい。そうなんだ。渡辺さんは俺が知らないと思っていたみたいだけど、自分の体は自分が一番よく分かる。家内からも聞き出しました。あと半年も保《も》たないんでしょう? この胃の重さは普通じゃない。やっぱりね。渡辺さんの顔に書いてある。これで分かっただろ。そういうことなんだ。俺は皆が好きだよ。家族を支えている人間は申し訳ないんで、結局はここに居る皆にしか声を掛けなかった。独身だからあんまり迷惑にはならないよな。宍戸も離婚話が進んでいるようだし、未練はないはずだ。俺と一緒に行こうよ。皆で行けば怖くない。一人で死ぬから怖いんだ。冗談? そう思うかい。だったらそれでもいい。もう遅いんだから。悪いけど皆のビールの中に薬を入れさせて貰った。俺も後戻りができないんだ。バスに乗り込む直前に家内を殺してきたんだよ。電話をかけて確かめてもいいよ。だれも出ない。家内は納得して死んでくれた。どうせ生きていたってつまらない世の中じゃないか。皆で愉快に繰り出そう。狂ってるって言うのかい? 狂ってやしない。弱虫なだけさ。いつだって一人では暮らせない。それだけなんだ」      7 「おいおい……厭《いや》だね……本気にしたのか。幽霊なんかの話よりも、もっと怖い話を演出しただけさ。なにをそんなに怖い目で見ている。冗談だよ。当たり前じゃないか。初美ちゃんも泣くなよ。俺は物書きだぞ。こんな嘘はしょっちゅう口にしてる。だから信用できないってのか? 呆《あき》れたもんだ。こうして安心させて毒が回るまでの時間稼ぎをしてるだなんて、野村君もよく思い付くもんだ。そこまではしないって。ただの遊びだ。洒落《しやれ》だよ。旅行会を面白くしようとしただけだ。帳場に電話なんかするな! 俺に恥を掻《か》かせるつもりか。毒を飲まされた体かどうか、自分で判断もできないのかよ。ったく情けない……何時間も経ってから効く薬なんかを俺が手に入れられるわけがないだろ。冷静になれば分かることだ。しっかりしてくれよ!」  だが渡辺は喉《のど》に指を差し込んでビールを無理に吐き出しはじめた。野村と宍戸も慌てて喉に指を入れた。私は彼らの行動に底知れないおそれを覚えた。そして気がついた。渡辺が私の嘘を信じたということは……先日の精密検査の結果のせいではないのだろうか。私は……本当に半年の命かも知れない。おそれはさらに強まった。 [#改ページ]     奇 縁      1  ひさしぶりに角田《すみだ》大悟が訪ねてきた。と言っても、たかだか一月ぶりでしかないが、一時期はほとんど毎日のように顔を見ていた相手だから、ずいぶん永く会っていない気がした。角田を気に入っている家内は、昼に彼がくることを私から聞かされると直ぐに市内のデパートに買い物にでかけた。そのデパートの地下にあるケーキ屋の手作りクッキーが角田の大好物なのだ。角田は私の住んでいる市から車で二時間ほど離れた山村に暮らしている。歳は確か四十一。私より十歳も年下だ。私は弁護士、角田は製材業者。普通なら付き合いが生じるはずもない遠い関係にあるが、ひょっとした縁ができて半年前から行き来するようになった。もっとも、私が角田の住む村を訪ねたのは一度きりで、常に角田がこちらにやってくる。村議を務めている角田は県庁所在地であるこの市に頻繁に用事があるのである。県庁を訪れるついでに角田は必ず私の事務所や自宅に立ち寄り、珍しい山菜や茸《きのこ》などをどっさりと置いていく。だから事務所の女の子や家内には特に好かれている。素朴で愛すべき男だ。いつも村の発展を願い、汗を厭《いと》わない熱血漢。私は角田をそう見ていた。  角田は電話での約束通り、ぴったり四時に私の家のチャイムを鳴らした。今日は土曜で事務所は午前中だけだ。 「ご無沙汰《ぶさた》しまして申し訳ありません」  玄関で家内に挨拶する角田の元気な声が書斎にまで響いた。家内の笑い声がした。またなにか土産を貰ったのだろう。私は書斎を出て角田を迎えた。 「あなた、松茸《まつたけ》をこんなに」  家内は新聞紙で無造作に包んである松茸を私に見せた。太い松茸が七、八本あった。 「村で採れたもんです。無料《ただ》ですから」  角田はその他に、事務所の皆さんにと言って、地鶏《じどり》の肉と玉子を発砲スチロールの大きな箱に詰めたものをどんと置いた。 「いつも貰ってばかりだね」  私は角田を応接間に招きながら礼を言った。 「アキちゃんに取りにこさせればいい」  明日は日曜なので悪くなる。私が言うと家内も嬉しそうな顔で頷《うなず》いた。 「冷蔵庫に入れて置けば月曜まで保《も》ちますよ」  勝手知ったるなんとかで、角田は箱をまた手にすると家内に従って台所まで運んだ。 「クッキー程度じゃ角田さん、割りに合わないわね。今日はどこかでご馳走《ちそう》しないと」  私もそのつもりでいた。角田の話はいつも面白い。陽気な男だった。 「とんでもない。私、加害者ですから」  角田の言葉に家内はころころ笑った。  ひょんな縁と言うのはそれだった。  半年ほど前に、私は角田の車に追突されたのである。市内の中心部で角田がスピードを上げていなかったのが幸いして怪我はほとんどなく、軽い鞭打《むちう》ちで済んだ。調べて見たら事故の原因は私の側にあった。左折を示すテールランプが壊れていたのだ。それを知らずにいて左折しようとしたら、てっきり直進するものだと信じた角田がつっ込んできた。警察も角田に同情的だった。なのに角田は自分の注意不足だと謝り続け、念のために行なった精密検査の四日間の入院にも毎日律義に顔を見せた。近所ならともかく、二時間も離れた村からの見舞いだ。もちろん、それには村議の立場も多少は関係していたかも知れない。それで最初は重荷に感じたが、だからと言って毎日これるものではない。私や家内も次第に打ち解けた。事務所では、ぶつけられるなら角田さん、という冗談まで出たほどだった。  退院後もしばしば角田は挨拶にきた。  そうして私たちは親しい仲となった。交通事故の場合、加害者と被害者は事後の補償のことでたいてい敵対関係になる。その意味でも私と角田の関係は珍しいものと言えるだろう。すべては角田の誠意が基となっている。  妙な言い方だが角田は理想的な加害者だ。皆が角田のようであれば、無駄な訴訟も起こらない。結局は真心なのだ。 「忙しかったみたいだな」  ソファに腰掛けた角田に私は言った。 「ずいぶん顔を見せないんで、事務所の皆も病気じゃないかと心配してたよ」 「ちょっと面倒なことになりまして」  角田は陽気な笑顔をしまって私を見詰めた。 「なにか?」 「私、これから自首しようかと」  思わぬ言葉に私は戸惑った。 「ただ、どこに自首していいものやら……それでご相談に上がったんです」 「いったい、なにをしたんだ?」 「先生ももちろんご存じのはずです」 「…………」 「あの、偽家具の一件でして」  私はあんぐりと口を開けた。 「悪いことはできないもんですね。たった一月もしないうちに発覚してしまいました」 「あれは……君が?」 「はい。と言っても、村の青年団の合意でやったものですが……相談に預かっていたのが私ですので、やはり私が自首すべきだと」 「村の青年団の合意!」  私には信じられないことだった。  偽家具の事件とは一週間前に発覚したものだった。全国的にも知名度の高い家具メーカーがこの県にある。いわゆる民芸家具というもので、どっしりとした重量感を売り物にしている。天然の木材を用い、その素朴な肌触りが評判となっていた。が、べらぼうに高い。椅子一脚でも十五万はする。品質の良さはだれにも分かるのだが、さすがに箪笥《たんす》一|棹《さお》が三百万を超えると手が出ない。なのに、世間には金持ちがたくさんいるものだ。十五年ほど前に、ある美術雑誌で特集が組まれたのを契機にして、そのメーカーは飛躍的な発展を遂げた。今では県を代表する企業にまで成長した。市内の中心に巨大な展示場を拵《こしら》え、捌《さば》ききれないほどの注文に応じているほどだ。  その偽物が東京の小さな美術店で売られていた。店はそのメーカーの品物と信じて疑わず、小箪笥を扱っていたらしいが、それを買った客たちから今度はメーカーの方に直接の注文が舞い込んで事件は明らかになった。問い合わせを受けてメーカーがカタログを調べたところ、そういう形の小箪笥を製造していないのがわかったのである。  美術店に品物を持ち込んだ男はメーカーに実在する営業マンの名刺を用いていた。古いタイプの小箪笥が在庫過剰になったので扱う気はないかと訪ねてきたと言う。民芸を得意とする美術商なので、そのメーカーの家具にはもちろん知識がある。紛れもなくいい品物だった。しかも安い。在庫処分だから、付き合いのある家具店には回せない。それをすればメーカーの信用が下がる。他にもいろいろ事情を並べたようだが、美術店の主人は価格を聞いただけであっさりと十棹全部を引き取った。そのタイプの小箪笥は一棹四十万はしていた。それを相手は十二万でいいと言ったらしい。ただし現金払いが条件であった。  美術商はその箪笥に二十五万の値をつけて店に出した。一週間もしないうちに箪笥は売り切れた。客もそのメーカーの小箪笥がどういう値段で売られているか承知していたのだ。  知ってメーカーは激怒した。  が、名刺は本物でも、当人ではない。場所も東京では、それ以上の追及が面倒だった。  地元だけに、こちらの新聞は大騒ぎした。  ここのところ連日のように後追いの記事が紙面を飾っている。  その犯人が、まさか角田とは……。  私は思わず深い息を吐いた。 「やはり、東京の警察の管轄でしょうか」  角田も困った顔をして私を眺めた。 「どういうことかね……村の青年団の合意ってのが私にはなんのことだか……」 「あのメーカーが今ほどに業績を伸ばした本当の理由をご存じでしょうか」  角田は私に質《ただ》した。 「確かに品質がいいのは本当です。でなければあんなに高く売れませんからね」 「他に別の理由があると?」 「小売店への卸値が異常に安いんです。通常は七掛けが限界なのに、あそこは店頭価格の五割五分前後で引き渡します。それなのに、店頭価格の値崩れを厳重にチェックする。定価の一割引き以下で売買すると、次からはその小売店との取り引きを破棄してしまう。自社製品の高級イメージを守ることと、利幅が大きいことを小売店に納得させて、それを販売戦略に用いているんです」  私は曖昧《あいまい》に頷いた。 「もし三百万の箪笥ならどうなりますか?」  焦《じ》れったそうに角田は言った。 「小売店はそれを百六十五万で買い取る。二百七十万から三百万の間で売れば、百万以上の儲《もう》けになるでしょう。たった一棹の箪笥を売るだけで百万なんです。どんな店もあのメーカーのものを置きたくなる。桐の箪笥だって今は人気がなくなって、せいぜい百万前後でしょう。しかも仕入れ値は七十万。儲けは三十万もあればいい方だ。おなじ扱うなら、あのメーカーになりますね。家具屋のスペースは限られている。どうせなら利幅の大きなものを置くのがベストです」 「なるほど、それは理屈だな」 「そうやってあのメーカーは発展しました。全国に名が広まったのも、その商法です」  私も納得した。知名度があって、しかも安く仕入れられるとなれば小売店が殺到するのも当たり前だ。 「しかし、その陰には犠牲を強いられている者がたくさんいるんです」  角田は膝を乗り出した。 「消費者だって、言わば犠牲者ですよ。半額近くで仕入れた品物を定価で買わされているんですからね。小売業者は自分たちが儲かっているから、絶対にそれを口にしない。税務署も問題にしません。メーカーと小売業者双方がきちんと申告して税金を納めている限り、どこにも問題はないんです」  私も当然のごとく頷いた。 「けれど、納まらないのは村で家具を拵《こしら》えている連中たちです」  角田は興奮していた。 「あのメーカーの箪笥類は、うちの村の連中たちが注文を受けて拵えているんですよ」  そう言えば、聞いたことがあった。 「彼らが店頭価格三百万の品物をメーカーにいくらで引き渡しているかご存じですか?」 「…………」 「たった五十万。たった五十万なんです」  それは酷《ひど》い。私は溜め息を吐いた。 「五十万で作らせた箪笥だからこそ、あのメーカーは小売業者に百六十五万で卸すことができるし、莫大な宣伝費も使える。もちろん村の連中も自分の作った箪笥がいくらで売られているか承知している。それを言って買い取り価格の引き上げを主張してもメーカーは聞いてくれない。宣伝に何億がかかっているとか、設備投資でまだ営業的には借金財政だと言い抜けてばかりです。それに、設立当初の苦境をしつこいほど言い立てて……」 「と言うと?」 「確かにその点ではメーカーには世話になりました。メーカーが一手に箪笥を買い上げてくれていたので、村民の収入安定にも繋《つな》がったのは否定しません。作る技術があっても、売ってくれる人間がいなければ一円の収入にもなりませんからね。あのメーカーは村に投資してくれたんです。最初の何年かはメーカーの言う通り、確かに赤字が先行したかも知れません。価格には売れない分の損失も上積みされます。それでも大変だったでしょう。向こうの言い分にも納得できますよ。それにしたって、今は違うわけでしょう。あんなに儲かっているじゃありませんか。少しは村民の願いに耳を傾けてくれても……」 「まあ……それが商売の鉄則だからな」  私はメーカーが簡単に買い取り価格を引き上げないのも当然だと思った。それをやればキリがなくなる。 「メーカーと訣別《けつべつ》して、新たな会社を作ろうという動きが昨年辺りにありました」  角田は続けた。 「それでやれるなら、安くて品質のいいものを消費者に売ることができます。村もその案には乗り気になって、それとなくメーカーと話し合いしたのですが……」 「無理だったのかい?」 「おなじようなデザインの箪笥を拵えて売ったら訴えると言われたんですよ。意匠登録こそしていないが、二十年近くもあのメーカーの商品として売買している実績は、それと一緒だと主張するんです。まったく別の材質で別の製品であれば訣別も止むを得ないが、もしおなじ場合は裁判も辞さないと」 「…………」 「それにこっちには販路もありません。せっかく安い製品を拵えても、小売業者が扱ってくれないでは、全員が失業しますからね。小売業者だって高いマージンが取れるメーカーの品物を優先的に仕入れようとする」  私は唸《うな》った。メーカーの言い分も、小売業者の利益優先も理解できる。と同時に角田の暮らす村の人たちの怒りも分かった。 「いい考えが出ないうちに、青年団が先走りましてね」  角田は額の汗を拭《ふ》いて、 「小売業者が扱ってくれないなら、都会の美術店はどうだろうか、と」 「…………」 「大きな箪笥は無理でも、小箪笥ぐらいなら売ってくれるかも知れない。そうやって販路をこっそり作ってからだと、メーカーにも対抗できる。デザインを変えれば問題はない。いいものを分かってくれるのは、やはり都会しかない……と、どんどん妙な方向に話が膨らんでしまったんです」 「じゃあ、偽物ではなかったわけだ」 「無論です。とりあえず十棹を拵えて勝負して見ようということでした」  私の興味も膨らんできた。 「トラックで東京まで運び、青山辺りの名の知れた美術店に持ち込んで打診する。上手《うま》く買い取ってくれるようなら、そこを窓口にして販路を広げる。それだけのつもりでした。私も青年団の連中にそう聞かされて、いいアイデアだと思いました。メーカーとはいずれこじれてしまうに違いないと睨《にら》んでいましたので。その前に打つ手があるなら、なんでも試みて見るべきだと思っていました」 「…………」 「ところが……ああいうことになってしまった。持ち込んだ男も嘘をつくつもりではなかったんですよ。なのに、店の主人からいきなり、あのメーカーの品物だなと言われて、つい頷いてしまったとか。財布には付き合いのあるメーカーの営業マンの名刺が何枚も入っている。信用して貰いたいばかりに、うっかりとそれを渡してしまったんです。泥棒に疑われたようだと言っていました」 「だろうな。トラックで十棹も運べば、たいていはそう思う。美術商もそれを承知で買い取ったんだろうからどっちもどっちだが」 「それでも、相手は十二万で買い取ってくれました。若い連中は大喜びでしたよ。メーカーでは、あのタイプの小箪笥を六万でしか買い取ってくれません。倍でもちゃんと買ってくれる相手がいると分かったんです」  私は角田の話を聞きながら、いつもの癖で裁判になった場合のことを考えていた。まったく問題はなさそうに思える。第一、そういう事情であればメーカーの方から告訴を取り下げる可能性が強い。メーカーも単純な偽物と見たから強気の態度に出たのだ。それが下請けの仕業と判明し、その上、買い取り価格の異常な安値が世間に広まれば、一気に信用を失う結果にも繋がる。また、たとえ告訴と決まっても、美術商の方から先にメーカーの名を出したのであれば詐欺罪に問われる確率は低い。楽な裁判だ。  私はしばらく細かなことを角田に質問した後に、自首は少し見合わせるように言った。 「それでは私の気が済まないんです。相談を受けながら、そこまでのことも考えずに、まるで励行するような言動を……若いやつらに罪はない。臭いメシを三年や五年食らう覚悟で女房ともみ水盃《みずさかずき》を交わしてきました」 「そんな必要はないさ」  私は苦笑いした。 「一晩考えて見よう。悪いようにはしない」  私は角田に請け合った。  まったく、どこまでお人好しの男なのか。 四十を過ぎているというのに、まだガキ大将の気分が抜けていないらしい。      2 「それで、どうなさるの?」  三人で食事をして、角田をホテルまで送った後、私は家で家内に事情を説明した。 「あのメーカーの社長とは共通の友人が何人かいる。月曜にでも会って経緯を説明しようと思っているんだがね。そうすればメーカーの方で自発的にこの問題から手を引く。損をするのはメーカーの方だ。それが分からない会社でもないだろう」 「それで済むんですか?」  家内は不安な顔をした。 「告訴を取り下げるもなにも、まだ犯人が分かっていないわけでしょう? 警察はそのまま捜査を続行すると思いますけど」  なるほど、迂闊《うかつ》だった。私は角田の告白を聞いたので、すでに裁判のことまで考えていたのである。だが、現実は未解決のままだ。たとえメーカーが犯人捜査は不要と申し立てても、警察の動きを止めることはできない。 「やはり、いったん自首させるしかないか」  詐欺ではないと警察を納得させてから示談に持ち込むしか方法がなさそうだ。 「示談もむずかしいんじゃないかしら」  家内はそれにも首を横に振った。 「これだけ世間が騒いでいるのよ。示談にでもなればきっと新聞が裏の事情を探ろうとするはずだわ。そうなるとメーカーの方だって」 「黙ってはいないか……」 「それが角田さんたちにとって有利に運べばいいけれど、あのメーカーは新聞やテレビにたくさんの広告を提供している会社でしょう。最終的には角田さんたちが負けるんじゃないかしら?」 「しかし、だれが考えても角田の主張の方が正しい。たった五十万の品物を我々は三百万で買わせられているんだ」 「そういう品物はいくらもあるでしょう」  家内は反論した。 「宝石がそう。店が幾らで仕入れているかだれも知らない。時々、半額セールなんかもするから、もっと安く仕入れているんでしょうね。でも、それを採掘している人が訴えても、どうにもならないわ。もともと夢を買っているようなものなんですからね。夢だからこそお店の信用が大事なの。見た目にまったくおなじダイヤが二つ並んでいて、片方はデパートで二百万、そしてもう片方はスーパーで三十万だとしたら、女性はきっと二百万のダイヤにするわ。お金があればの話ですけれど……安いから買うなんて男性の考え方ですよ」 「五十万の箪笥を三百万で買って平気かね」 「それがブランドというものだわ」  家内はあっさりと言った。 「そもそも三百万の箪笥なんて、一般とは無縁な品物なのよ。原価が五十万だと分かったところで、それも一般には無関係。バカな金持ちたちだと笑うだけじゃないかしら」  メーカーに批判が集中するなど有り得ない、と家内は付け足した。 「ずいぶんメーカーの肩を持つんだね」  意外な気がして私は家内を見やった。 「角田が聞いたらがっかりするだろう」 「だから、角田さんのために言っているの」  家内は私の鈍さに呆《あき》れた顔をして、 「示談に持ち込んでも角田さんたちのためにはならないと思いますよ。結局はメーカーの力に押し切られてしまって……そればかりか、村の人たちが仕事を失ってしまうかも」 「そういうことか」  私も頷《うなず》いた。確かに考えられる。犯罪まがいのことを行なったのは角田たちだ。メーカーはもっと厳しい対応に出る。最悪の場合は買い取り契約さえ破棄するかも知れない。自分たちで売ろうとしてもメーカーの名を外された家具を小売店や美術商が取り扱ってくれるかどうか……家内の言う通り、客は品質の良さよりもブランドに頼っているのだ。私もようやくそれに気がついた。六万で仕入れた小さな箪笥が四十万とは理不尽だ。それが二十五万で買えるなら、いかにも得をすると思う。しかし……二十五万でもまだまだ高い。角田たちが二十五万で売り出したところで客は簡単に飛び付きはしないだろう。 「案外面倒なことになりそうだ」  単純に裁判の勝ち負けで言うなら自信はあった。が、それが角田たちにとってなにをもたらすかと言えば、なにもない。むしろ職を失う結果になることもあるのだ。それでは裁判をやる意味がなくなる。 「でも……もし裁判で角田さんたちの拵《こしら》えている品物がはっきりメーカーのものとおなじ品質で安いと世間に知れ渡ったら……」  家内の言葉はまさに天の啓示だった。 「それだよ。なにも示談なんかに持ち越す必要はない。戦えばいいんだ。詐欺の事件だと世間には思わせておいて、品質の優劣を正面に押し出せばいい。そうして無罪を勝ち取れば角田たちのところに家具の注文がくる可能性がある。それだとメーカーとも訣別《けつべつ》ができるじゃないか」 「できますの?」 「絶対に勝てる。メーカーはそれを悟って示談を申し入れてくるだろうが、こっちはそれを断わって、あくまでも法廷で戦う。長引けば長引くほど有利だ。決着がつく頃にはメーカーの信用が完全に失われているだろう。反対に角田の村で拵える家具の優秀性が世間に浸透している。そして無罪となったら、きっと応じ切れないほどの注文があるぞ。小売店を通さずに直販の方法を採用すればメーカーが三百万で売っていた箪笥も百万以内で販売できるようになる。有名ブランドよりも品質がいいと裁判で実証済みだ。その日から角田の村の製品が有名ブランドとなる」  私自身が興奮してきた。 「ブランドへの無条件な信頼を突き崩すいいチャンスでもある。やり甲斐《がい》のある仕事だ」  方法はいくらでもあった。友人にマスコミの人間は多いし、自分で言うのもおこがましいが、私はこの県の弁護士会の中心にいる。メーカーとて、私が角田たちの弁護人を引き受けたと知れば慌てるに違いない。  こんな小さな事件に私が関わるなど、相手はまったく予想していないはずである。  決心すると私は角田に電話を入れた。 「正面から戦うのがいいみたいだね」  私の言葉に角田は絶句した。 「私が弁護を引き受ける。もし、裁判に勝って家具の直販ルートが確立したら、相当安く販売できるんだろう?」 「そりゃ、直販となったらいくらでも。箪笥も七、八十万ぐらいで販売できるんじゃないでしょうか。今が五十万なんですから」 「どうせなら村が家具で自立できるところまでを目標にしよう。裁判には勝てるが、それには犯人を自首させなければいけない」 「村のためなら喜んで」 「君では駄目だ。やはり美術商に家具を持ち込んだ当人でないと」 「…………」 「この市の警察で構わない。逮捕されたと同時に、あれは偽物ではなかったと村を挙げてメーカーへの告訴を行なって欲しい。デザインが違うんだから一応は告訴も成立する。それからが本当の勝負だ。こちらが告訴している限り、たとえメーカーが訴えを取り下げたとしても裁判は進行する。その間に君たちの拵えている家具の優秀性を認めさせる。買い取り価格のことや、小売業者への卸値に関しても、もちろん問題とするつもりだが、狙いはあくまでもメーカーとの品質較べにある」 「それなら自信がありますよ。引き出しの底板や背板についても吟味しています。若い連中は今後の足掛かりになると信じて、特に念入りに拵えましたから」 「それを聞いていたんで、こっちもやれると思ったのさ。本物よりも立派な偽物は存在しない。現物を較べれば裁判所の方だって偽物ではないと判断を下すに決まっている」 「勝てますか?」 「私を信用して欲しいね。それより、村の側からの告訴は可能だろうか?」 「任せて下さい。先生が弁護を引き受けてくれて、しかも、必ず勝てると言うのでしたら皆も心を一つにします」 「くどいようだが、最初にメーカーの名を口にしたのは美術商の方なんだね。それをしっかり確認してから行動して貰いたい。万が一、その青年の方から口にしていれば、完全な勝利は保証できない。まあ、それでも執行猶予にはできるし、品質較べについてもまったく影響はない。勝ちには変わりがないがな」 「それも大丈夫です。嘘をつくような男じゃありません。ご心配なく」 「だったら安心だ。恐らくその彼も二日程度で自宅に戻されるはずだ」  私の頭にはさまざまな作戦が浮かんでいた。村からの告訴というのも、世間にアピールするための方法であった。品質の良さを浸透させるには、裁判そのものへの世間の興味を拡大させなければならない。裁判所という密室のような場所で判断が下されても無意味なのである。無罪となっても、世間が知らなければなんの効果もない。メーカーが敗北したと広く世間に知らしめる必要があるのだ。相当派手な裁判を演出しなければならない、と私は考えていた。あのメーカーの家具の素晴らしさを広めた雑誌にも、責任を取って貰う形で参加を求めなければならない。手蔓はいくらでもある。その雑誌社の顧問弁護士がだれであるか調べられれば、間に入ってくれる人物を見付けるのも簡単だ。いったん火がつけばマスコミも放ってはおかない。策はいくらでもでてきた。      3  それからおよそ半年が過ぎた。  私は角田の村に新しく完成したウッディ・センターの落成式に主賓として招かれた。  裁判はまだ続けられている。が、すでに勝利したのも同然であった。私の計算通り、村からの告訴が報じられるとマスコミはわっとばかりに食い付いてきた。取材陣が角田の村を訪れ、村の若者たちが真剣に家具造りに取り組む様子を放送し、裁判の前にメーカーの製品との比較を行なったりした。ある局など、テレビを通じての直販の交渉まで村に持ち込んできた。世間の反響も凄《すご》かった。なにしろ、模倣や偽物ではない。メーカーが買い取っていたものだから本物である。それがメーカー価格の四分の一前後で手に入ると分かって、直接村を訪れる客が増えた。東京の幾つかのデパートからも引き合いがあった。家具を取り扱わせてくれという打診である。  もちろんメーカーも黙ってはいない。逆告訴の手段にでたが、走りはじめた車の勢いはもうだれにも止められなかった。致命的だったのは、やはりそのメーカーにソファなどを買い取って貰っている下請け業者が名乗りを上げたことだった。村と同様に販売価格の二割前後で納入していたと言う。これでメーカーの信用は失墜した。  メーカーは買い取り価格を倍にするという条件で私のところに和解を申し入れてきた。角田と相談して私は拒否した。倍だと確かに村の連中は助かるが、それでは消費者価格が安くはならない。世間は安い家具を望んでいる。倍の利益はなくても、安い家具を売ることが自分たちの使命であると村は判断した。  そこまで考えていたわけではないが、裁判がはじまって三カ月目にメーカーの社長が交替した。ブランド名だけを有し、自社製品をほとんど持たないメーカーの今後は私の目から見ても危ういものだった。  反対に角田の村には未来がある。  それは落成式に出席しているだれの顔にも窺《うかが》えた。皆、輝いた目をしていた。 「先生、おひとつ」  ウッディ・センターの広間で宴会がはじまると皆が私の席にやってきてビールを注いだ。 「このたびはありがとうございました」  角田の妻が笑顔で挨拶にきた。もと地元放送局の美人アナウンサーとして名を馳《は》せていた彼女だけに眩《まぶ》しいほど美しい。角田と親しくなった理由の一つとして彼女の存在があったことも否定はできない。彼女が私の入院していた病院に角田と連れだって顔を見せた時は驚いた。彼女がテレビにでていたのはずいぶん昔のことだが、その明るさと頭の回転の早さに好意を抱いていた私だったのである。男の器量を妻で決める、というとおかしいが、私が角田を見直したのは彼女のせいだった。 「先生のお宅の方には足を向けて寝られないと主人が……いつもお世話になってばかりで」 「当たり前のことをしただけだよ。村の製品がよかったからこういう結果になった。私じゃなくてもおなじことになったさ」 「今日はごゆっくりできるんですか?」 「村でタクシーを頼んでくれている」 「それなら、ぜひ家の方に寄って下さいませ。つまらないものですけど、奥さまに山菜でもと思って用意してありますので」  私は礼を言った。彼女は一礼すると悪い右足を引き摺《ず》るようにして別の席に移った。宴会の頭に永い挨拶が続いたので辛かったに違いない。正座が一番きついと彼女から聞かされたことがあった。立っている分には少しも気付かないのだが、歩くと体が右に揺れる。それがテレビ局を辞めた理由のようだ。 「や、どうも、どうも」  宴会がはじまって十五分も経ってはいないのに、もう茹《ゆ》で上がったタコみたいな顔をした男が私の前に胡座《あぐら》をかいた。村の観光課の課長と男は名乗った。確か何度か会っている。 「お陰さまでこんなに立派な建物が」  男は私の手を握って頭を下げた。 「先生にはぜひとも名誉村民になっていただかねばと皆で相談していたところでしてな」 「私の力じゃありません」 「とんでもない。先生のお力添えがなければあのメーカーに太刀打ちできませんでした。実際、二年以上も前からなんとかしなければと皆で知恵を出し合っていたんですが……どうにも私らの頭では無理だったですよ」 「青年団の若さが突破口を開いたということですね。切っ掛けさえできれば、後はなんとでもなるところまで熟していたんです」 「最初は村長が先生の名を挙げたんです。あの時に思い切ってお頼み申し上げていたら、もっと早く話が進んでいたんでしょうが」 「ほう。そんな話も」 「この県で頼りにできるお人は先生しかいない。事情を話せばメーカーとの間に立って下さるんじゃないかと……しかし、先生はあまりにも有名な人なんで……ここだけの話ですが、何百万も金を積まなければ引き受けて下さらないに違いないと」  私は苦笑した。が、それも一理あった。その時点で話がきても、恐らく私は断わっていただろう。金の問題ではなく、状況に対する認識の問題である。企業が利益を優先するのは当たり前のことだ。どんなに不当な買い取り価格であっても犯罪とは異なる。そこに介在したとてなんの意味もない。弁護士を職業としている以上、依頼があれば一応の話は聞くけれど、引き受けるか断わるかは、裁判に勝てるか負けるかの予測によるものではない。簡単に勝てると見ても断わる場合があるし、勝つのは面倒だと覚悟しながら引き受けることもある。すべてはやり甲斐《がい》があるかどうかである。大会社の顧問弁護士を幾つも引き受け、贅沢《ぜいたく》な暮らしをしている同僚もあるが、私は違うと自負している。一般が想像しているよりも裁判には永い時間がかかる。年に三つも事件を引き受ければ、それで手一杯になる。若い頃ならともかく、五十を過ぎた今、下らない民事裁判に関わる気はなかった。たとえ敗北を喫しても、その裁判を通じてなにかを世間に訴えることができれば私の役割は果たしたことになるのだ。  私は男にそれを伝えた。 「そういうことなら、私らも運が良かったんですなぁ。角田さんの株も近頃ではめっきり上がっておりましてね。次期村長候補だなんて周りから期待されとります」 「彼は村のことになると熱心だから」 「青年団を取り纏《まと》めて例の箪笥《たんす》を東京に持って行かせたのも角田さんなんですよ」  私は料理から顔を上げて男を見詰めた。 「先見の明って言うかね……私らにはとても考えつかない策でした。喧嘩《けんか》しちゃった方が早いんだ、なんてね。私らはメーカーの顔色だけ気にしてましたから。これからは角田さんのような人の時代ですな。先生とのお付き合いにしたって、私らにはほとんど教えてくれんかったですよ。それが大逆転でしょう。あっと思いました。村長が前に先生のお名前を出した時に、そういう段階なら先生が引き受けて下さらんと分かっていたんで、かえって迷惑になると判断して反対の立場に回ったとか。なかなかできるこっちゃない。私だったら先生とのお付き合いを自慢気に皆に言い触らしておったでしょう」  頷《うなず》きながらも私は首を捻《ひね》った。 「村長が私の名を言ったのはいつ頃です?」 「ですから、もう一年半も前でしょう」  私は思わず宴席に角田の姿を捜した。  私と角田の付き合いはまだ一年にも満たない。なにか厭《いや》な感じがした。ただの嘘に過ぎないのだろうか? それにしても不自然だった。今の話が本当なら、角田は村長が私に頼もうとした提案を阻んだことになる。付き合ってもいないのだから、そういう仕事を私が引き受けるかどうか角田には分からなかったはずだ。 「角田君はどういう反対理由を?」 「さあ……古いことなんで忘れてしまいましたが……私らは角田さんが村長の行政に批判的な立場にあったんで、単純な横槍《よこやり》だと思いましてねぇ。まさに不徳の至りですわ」  男は頭をぽりぽりと掻《か》いた。  不徳の至りなどではない。男の睨《にら》んだように、その時の角田の反対はまさに横槍であったに違いなかったはずだ。それが、ひょんなことから私と知り合いになって、今ではそういう理由であったとすり替えているのだろう。 〈けっこうずるいところもあるんだな〉  角田のイメージが少し変わった。そう考えると入院当時の角田の熱心な見舞いにも頷けるものがあった。角田はチャンスだと思ったのではないか? 私と親しくなっておけば、なにかの時に私を利用することができる。村は弁護士を必要とするほどの難問を抱えていた。しかも、偶然に、私は村長たちが依頼しようと検討していた相手なのだ。  角田は私と親しくなるにつれ、私がどういう事件に触手を動かすか調べはじめた。今にして思うと、角田はしつこいほどに私の手掛けた事件について質問してきた。弁護士も人間だから癖がある。私が興味を魅《ひ》かれるのは、まさに今度のような事件であった。 〈これは……やられたか〉  私は苦笑いした。  角田は私の性格を見抜いた上で今度の事件を演出したのではないか? 話し合いなどで解決する問題ではないことを角田は知っていた。喧嘩をした方が早い、というのは乱暴だが正論でもある。だが、負ければ元も子もない。勝つには世論を巻き込む必要がある。突き詰めて行けば方法が見えてくる。理不尽さを世間に訴えた程度では駄目だ。犯罪まがいのことまでしなければならないほど追い詰められているというアピールが大切だ。そこではじめて世間は同情してくれる。メーカーが値上げ交渉に応じてくれない、などと訴えたところでだれも関心を持たないのだ。 〈ただの熱血漢と思っていたが……〉  なかなか利口な人間である。事件が起きるまで角田は私に村とメーカーとの確執を一言も洩《も》らさなかった。もし少しでも事情を聞いていたら、私はあの事件が仕組まれたものだと疑ったかも知れない。その場合、どれほど同情の余地があったにせよ、私は弁護を引き受けなかったはずだ。角田はその点もきちんと計算している。 〈ん?〉  なんだか奇妙な気がした。私が角田の立場であったら……たぶん村の窮状をそれとなく口にする。なにかいい知恵はないかと問い質《ただ》しもするだろう。それをしなかったということは、よほど早い時期から角田が裁判になるまでを予測していたことにならないか? 見舞いにきていた間に思い付いたとしたら、ずいぶん冷たい男だと思った。利用するという気持しか角田にはなかったのだ。 「どうかしましたか?」  ぼんやりと角田を眺めている私に男はビールを差し出した。私はグラスを出した。 「お、きたな」  照れた笑いを見せて隣に座った若者の肩を男はぽんぽん叩いた。 「その節はご迷惑をかけました」  若者は私にぺこりと頭を下げた。東京の美術商に小箪笥を持ち込んだ青年であった。彼に関しては詐欺罪に当たらないとしてケリがついていた。 「元気にやっているようだね」 「お陰さまで。皆、張り切っています」 「あのアイデアは角田君だったんだって?」  私はわざと口にしてみた。 「ええ。俺がヘマしたせいで妙なことになってしまって反省してます。メーカーとは関係ないと胸を張って言えば問題なかったのに」 「気にすんな」  男は若者にビールを勧めて、 「そのヘマが幸いしたんだ。でなきゃ、今だってメーカーの言いなりだったに違いない」  陽気に笑った。 「話が通ってるって聞いていたから、慌てたんです。それに泥棒を見るような目だったし」 「話が通ってる?」 「角田さんの知り合いだって聞いてました」 「あの美術商が?」 「大学時代の友人の親戚だとか。それで皆が頑張ったんです。けど、なんの行き違いか、まだ話が伝わっていなかったらしくて。だからこっちもしどろもどろで……買ってくれたので安心しましたが」  それも無論初耳だった。 「どうしてそれを警察に言わなかったのかね」  私は不愉快さを覚えた。 「別の店だったんです。角田さんが地図を書いてくれた時に間違えて」  聞いて男は爆笑した。 「行きもしない店のことなんかを言えば、迷惑になるからと角田さんが……」  なるほど、その通りだろう。が、私は信じなかった。そんな大事な店の地図を角田が間違えるなど有り得ない。その店は紛れもなく角田の知り合いの店だったのだ。店の役割は箪笥を買いとることと、あのメーカーの品物であると、この若者に言わせることだった。でなければ詐欺事件が成立しない。若者がメーカーとは無関係な品物だと力説したものを、メーカーの製品だと偽って販売すれば、罪は美術商に転嫁される。それを防ぐために別の店のように見せ掛けて若者を動揺させた。実に巧妙な手口だ。もしそれでも若者がメーカーの品物だと言わなかった時は、下請け業者であると認めさせればいい。本物の下請け業者が拵《こしら》えた品物なら、それはすなわち本物となる。メーカーの製品だと言って美術商が売っても罪に問われる心配はないのだ。  私は角田という男が恐ろしくなった。  角田は村の若者たちを唆《そそのか》し、詐欺事件となるように画策したのである。 〈となると……〉  メーカーに小箪笥を注文したのも、ひょっとしたら角田ではないのだろうか。  彼の狙いは一刻も早く事件を公にすることにあった。充分に考えられる想像である。 〈と言って……〉  これは犯罪ではない。若者が自分からメーカーの名を口にしていない以上、言わば勘違いによる詐欺事件なのだ。現に警察もそう判断して取り下げた。続行中の裁判はその事件についてのものではなく、若者の持ち込んだ箪笥がメーカー製品の偽物かどうかの問題なのである。ここで角田の画策が明らかになったところで、裁判にはなんの関係もないことだ。本物のダイヤか偽物かで言い争っている時に、その持ち主が犯罪者と分かっても、鑑定になんの影響がないのと一緒だ。 「なんにしろ、おまえは立て役者だ」  男は一礼して立ち上がった若者に言った。 「災い転じて福となす、ってな」  若者は照れた笑いをして立ち去った。 「本当に角田さんは村長になりますよ」  男はふたたび私と向き合った。 「先生も応援してやって下さい」  私は曖昧《あいまい》に首を振った。 「なにしろ、情熱がありますからなぁ。あの奥さんと一緒になった時だって……一年も前から、必ずあの人と結婚すると宣言して、結局、その通りになった。粘りがある。政治家には一番の基本でしょう」 「彼女もこの村の出身だったかな?」 「いやいや、東京の人です」 「じゃあ、大学で一緒だったとか?」 「歳が違いますよ」  男は笑った。 「村では伝説になってましてね」 「伝説? どんな」 「あの奥さん、昔は美人で有名なアナウンサーさんでした」  私はもちろん頷いた。 「いわゆる一目惚《ひとめぼ》れってやつですな。テレビで見ているうちに惚れちまった。俺の女房はこの人しかいないと思ったらしい」 「…………」 「だから暇があるとバイクを飛ばして市に出掛けていたとか。行ったって会えるわけじゃないのに、とにかく週に二度くらいは放送局の前をうろうろしてたそうですよ。ずいぶん後になってから聞かされた話ですがね」 「…………」 「通いはじめて半年ぐらいでしょうか。やっとあの奥さんが放送局から出てくるのを見付けた。しかも直ぐ目の前だったようです。びっくりして角田さんはバイクで追った。ところが……慌てていたもので、思い切りアクセルを回してしまった。それで……」  ドーンと言って男は両手を弾《はじ》いた。 「気の毒に二カ月の重傷ですよ。奥さんの足の怪我はその時のものです」  私は唖然《あぜん》となった。 「普通ならそれでお終《しま》いなんでしょうが……角田さんは偉かった」 「見舞いを欠かさなかったんだろうね」  私はつい意地悪な言い方になった。 「そうです。二カ月、一日も欠かさずに」 「その真心に彼女は感じたということか」 「口では二カ月と簡単に言いますが、滅多にできることじゃない。はじめは憎んでいたらしい奥さんも、次第に角田さんを頼るようになったとか。恨んだところで足の怪我が治るわけじゃない。角田さんもあの通りの人柄でしょう。それに家業も県内では有数の製材業ときたら、文句はありませんよ」 「ちょっと失礼」  私は男を遮ってトイレに立った。正確に言うならトイレに立つフリをした。  聞くに耐えない話だったからだ。  私には確信があった。  角田は彼女をわざと轢《ひ》いたに違いない。  ファンだと名乗ったところで彼女がまともに相手にしてくれる確率は低い。だから角田は彼女にバイクをぶつけた。そうして加害者となれば、否応《いやおう》なしにゆっくりとした対面がかなう。私の場合とおなじだった。  バイクならせいぜい怪我で済む。  彼女は角田という蜘蛛《くも》の張った網に捕らえられた蝶なのだ。そうとも知らず彼女は毎日見舞いにくる角田の優しい笑顔に騙《だま》された。私も永い入院を経験しているので分かるが、自分が気弱になっている時ほど、人の親切が身に沁《し》みるものはない。ましてや彼女の場合、あの怪我では職場復帰も諦《あきら》めざるを得ない状況だったろう。  すべての原因は角田にある。それが分かっていても、なかなか人間は憎み通せないものだ。憎めば憎むほど、自分が卑しく思えてくるのである。その上、相手がまったく悪意の感じられない青年で、自分をこよなく愛していると知れば……憎しみがたちまち愛に変わっても不思議ではなかった。敵を許すという気持、それほど甘美なものは滅多にない。  恐ろしい男だ、と私はまた思った。  その方法を取るならば、どんな人間とでも親しくなることが可能だった。  理屈だけで言うなら総理大臣でさえも。  隙間を見付けて車を追突させれば済む。  どんなに相手が偉い人間であろうと、入院先に見舞いに行けば、加害者の立場なら部屋まで通すはずである。それを拒む人間はいない。見舞いにもこないと言って怒る話は世間にたくさんあるが、見舞いにきすぎると怒る被害者はいない。その何日かを利用して誠心誠意を尽くす。そうすれば被害者も心を開く。交通事故は犯罪ではない。加害者と言っても殺人犯や強盗とは違うのである。相手だって、いつ加害者の側に立たないとも限らない。そのことで警戒されるわけがないのだ。妙な話だが、私の場合、角田に連帯感まで覚えた。人間の一生の中で被害者と加害者の関係になるのは、ごく珍しいと言えるだろう。日常から逸脱した関係なのだ。私は職業柄これまでに何千人という人間と付き合ってきたと思うが、私にとっての加害者となると、角田を含めて数人しかいない。いずれも交通事故であるけれど、そのだれの名前も顔もちゃんと頭の中に刻まれている。恐らく一生忘れない人間たちだろう。事故はそういう特殊な人間関係を一瞬にして形成する。普通は補償のことで加害者の方から縁を切ろうとする。しかし、角田のような態度で接してこられたらだれだって親しく付き合うに違いない。  ちょうど私が角田と親しくなったように。  角田は妻を獲得した方法をまた私に試みたのである。左折のライトが故障していたと主張したのも角田だった。その部分に追突されたので今は実証する方法もない。  が、私は疑わなかった。  角田は私を利用して村の抱えている問題にケリをつけようとしたのだ。 「お体の具合でも悪いんじゃ?」  トイレのドアを開けて角田が覗《のぞ》いた。  私は動揺しつつ角田を睨《にら》みつけた。 「このまま今日は帰らせて貰う」  私はなおも睨み続けた。 「田舎料理は口に合わんでしょう」  角田は薄笑いを浮かべて立ち去った。  ゾッとするような冷たい目だった。  それから一年。  角田はあれきり自宅に寄り付かなくなった。裁判の関係で事務所には何度か顔を見せたが、用事を済ませるとそそくさと帰った。  私も角田に関心はない。  事情を知らない家内だけが角田のこないのを寂しがっている。  そうしたある日。  私は角田の名を新聞で見付けた。  中央に太いパイプを持つ代議士が交通事故で入院したという記事だった。雪道でスリップした車に追突されたのである。運転していた男の名は角田であった。 〈今度は代議士の椅子が狙いか……〉  平身低頭で詫《わ》びを入れている角田の姿が不意に頭の中に浮かんだ。  私は新聞を屑籠に投げ捨てた。 本書は、平成四年六月三十日に小社単行本として、平成八年一月二十五日にカドカワノベルズとして刊行されました。 角川ホラー文庫『私の骨』平成9年4月25日初版発行             平成14年6月20日12版発行