[#表紙(表紙.jpg)] 幻少女 高橋克彦 目 次  神社の教室  祈り作戦  電 話  幽霊屋敷  恋の天使  明日の夢  機械室の夢  埋められた池  ありがとう  ミスター・ロンリネス  廃墟《はいきよ》の天使  雪の故郷  正之助《しようのすけ》どの  ピーコの秘密  心霊写真  いたずら  百物語  不思議な卵  お化け屋敷  素敵な叔父《おじ》さん  桜の挨拶《あいさつ》  幻のトンネル  見るなの座敷  色々な世界  雪明かりの夜  大好きな姉  万華鏡 [#改ページ]   神社の教室  怖い話になるかも知れないな。  今日が君たちとはじめて会う日だと言うのに、いきなりこんな話をはじめれば、変な先生だと嫌われてしまいそうだが、ぼくはどうしても君たちを守らなければいけないと思って、この学校への赴任を希望した。二度とあんな悲劇を繰り返すわけにはいかない。  ぼくも君たちとおなじように、この学校で学んだ生徒なんだよ。しかも四年と五年のときは、この教室に居た。新しい学校になる前のことで、木造の狭い教室だったけどね。一階のここだったことは間違いない。教室の裏手の道に古い鳥居があるだろう? 神社がないのに鳥居だけがぽつんと立っている。あれって、不思議だと思ったことはないかい。子供の頃、ぼくは不思議に感じた。それで担任の先生に訊《き》いたことがある。そしたら先生はきちんと教えてくれた。神社はちゃんとあったそうだ。この教室があった場所にね。戦争で焼けて、その跡に学校が建てられたんだ。けれど燃え残っていた鳥居は学校の敷地から食《は》み出ていたせいで、そのままにされてしまったのだと言う。確かに鳥居を潜《くぐ》って真っ直《す》ぐの方向にこの教室がある。有名な神社だったら直ぐに再建されたに違いないが、あいにくと由緒のはっきりしない小さなものだったので市が学校用地にしたんだそうだ。なんでも、この場所で天狗《てんぐ》隠しにあった子供のために両親が勝手に建てた神社だったらしい。天狗隠しと言っても君たちにはピンとこないだろうが、今で言うなら行方不明だね。奇妙なことに、この場所では頻繁《ひんぱん》にそれが起きている。先生も調べてみたが、江戸時代から今まで、およそ三十年に一度の割合で十人以上が消えているんだよ。そう、まるで空気に溶け込んだとしか思えないような消え方をするんで、天狗の仕業と皆が思った。  だいたい察しがついた人も居ると思うが、ぼくが君たちと一緒の年頃で、この教室で学んでいたとき、それがちょうど前の事件から三十年目の年に当たっていた。ぼくはすっかり不安になった。先生は天狗隠しにあう場所がなくなったんだから大丈夫だと笑っていたが、なくなったわけじゃない。この教室がちゃんとある。  心配しはじめたら、変なことに気が付いた。ぼくたちのクラスの人数は四十六人のはずなのに、ときどき何度数え直しても四十七人のことがある。なのにぼく以外だれもそれに気付いちゃいないんだ。増えたのがだれなのか、何度確かめても分からない。全員見知った顔なんだ。授業の間中、一人一人の顔を眺めて名前を口にしても全部言える。でも、絶対一人多いんだ。怖くなって友達に相談した。神社に関係ある、とぼくが主張したら彼も信じた。勇気のあるやつでね。彼は放課後皆を教室に残して一人ずつ番号を言わせた。やっぱり四十七人だった。女の子たちは怖がって泣きだした。彼は外に出て鳥居を潜ろう、と叫んだ。なんの効き目があるか分からなかったけど、皆も頷《うなず》いて教室を飛び出ると次々に鳥居を潜った。そしたら……元の四十六人に戻った。安心したのは一瞬だった。消えたのは、鳥居を潜ろうと提案した順一君だったんだ。  ぼくらは職員室に走って先生に報告した。  それから警察や順一君のお父さんたちがやってきて……あちこち捜したがだめだった。いつの間にかぼくらの数も四十五人に減っていた。そしていまだに順一君は戻ってこない。三十年が過ぎたというのにね。  放っておけば今年もまた君たちの中のだれかが教室の地下に眠っている魔物に連れ去られる恐れがある。だから警告にきたんだ。でも、防ぐ方法があるかどうか、ぼくにも本当は分からない。ただ、思い出したことがある。順一君の家は鳥居の向こうにあって、いつも鳥居を潜って学校に通っていた。あの鳥居を潜らないと、もしかしたら幻の神社に行き着かないんじゃないかな。だったら、鳥居を潜らなければ安全という理屈になる。これから一年は絶対に鳥居を潜らないと先生に約束して欲しい。実を言うとそれを確かめたくて先生はさっき鳥居を潜ってみたんだよ。どうしても一人連れて行きたいのなら、ぼくが君たちの代わりになろう。ぼくは順一君に対して責任を感じながら生きてきた。悔いはない。  この教室の生徒は三十八人だろ。  ちゃんと確かめてみたまえ。今は三十九人居る。またあいつが狙《ねら》っているんだよ。  女の子たちが、わっと怯《おび》えて泣き出した途端、先生の姿がふわっと薄れて消えた。皆はパニックにおちいった。そのとき教頭先生が悲しそうな顔で現われた。 「新しく君たちの教室を受け持って貰《もら》うつもりでいた先生が、たった今事故で亡くなりました。腐った鳥居が先生の上に崩れ落ちたそうです。先生はこの学校の卒業生で、君たちに会うのをとても楽しみにしていたのに……」  教頭先生は生徒があまりおとなしいので顔を上げた。生徒たちの顔は凍り付いていた。 [#改ページ]   祈り作戦  きっかけは、かなえちゃんだった。  でも、その前にまりちゃんやゆかちゃんたちはそれをやっていた。あれはもう一カ月も前のことだろうか。春一番になるかも知れないとお母さんが言っていた通り、その日は授業の途中からガラスが物凄《ものすご》い風でガタガタと音を立てはじめた。思わず見やった校庭には桜の花びらが雪のように舞っていた。せっかく咲きはじめた桜なのに……あの花びらの中にはぼくたち五年生が入学のときに植えて以来ずっと育てている桜の花も混じっているのかも知れない。だけどその桜がどうなっているか、ぼくたちの教室からは見えない。休み時間になるとぼくたちは皆で飛び出して桜の様子を確かめに行った。嫌な想像は当たっていた。桜の花びらがほとんど散っていた。でも……たった一本だけ美しく花を咲かせている桜がある。ぼくたちは歓声を上げた。それはぼくたちの桜だったんだ。そのとき、ぼくのとなりを走っていたまりちゃんとゆかちゃんが飛び上がって喜んだ。二人は授業の間中、互いの手を結び合って、ぼくたちの桜の花びらが落ちないようにって祈り続けていたと言う。お祈りが通じたんだね、とぼくは言ったけど、本当は信じたわけじゃなかった。だって、そんなことはよくある偶然だろ。  でも、かなえちゃんのこととなると偶然とは思えない。二カ月も前から入院していたかなえちゃんが、いよいよ手術することになった。先生はすごく大変な手術なので皆で成功を祈りましょうと言った。そしたらまりちゃんが立ち上がって手術の時間を訊《き》いた。午後の三時からだと言う。まりちゃんは皆に提案した。その時間に皆が互いに手を結び合ってかなえちゃんの手術が無事に済むように心の底から祈ろう、と。皆も賛成した。その日、学校は二時で終わりだったけど皆は教室にそのまま残って三時を待った。皆も内心では桜のことが不思議だと思っていたんだ。それでまりちゃんの言葉に頷《うなず》いたのさ。三時にぼくたちは手を結び合って、かなえちゃんがまた一緒に遊べるようにと祈り続けた。そしたら三十分もしないうちに先生が教室に駆け込んできた。手術が中止になったんだ。朝に心臓の手術のための予備検査をしてみたらすっかり回復していたんだ。それで今まで様子を見ていたそうなんだけど、どんどん良くなっていく。何万人に一人という奇跡らしい。ぼくたちの方こそ信じられなかった。 「お父さんが教えてくれたの」  まりちゃんが涙を流しながら言った。 「弱い動物たちは敵から自分の身を守るために耳や鼻や目が人間よりも発達しているんだ、って。それは神様が与えてくれたものなのよ。人間は武器を使えるし、言葉で危険を訴えたり、望遠鏡で遠くのものを見ることができる。だから神様は人間からさまざまな力を奪ってしまった。でも、人間の子供は動物と一緒で弱いわ。自分で身を守ることができない。神様はそれを知って、たった一つだけ子供たちに大人に負けないための力を授けてくれたの。それが、祈りなの。家族といつまでも幸せに暮らしていたい。元気で皆と遊びたい。そういう祈りが私たちをこうして守ってくれている。私が本当にそれを願って祈っている限り、いつまでも私の周りには平和が続くんだ、って」  ぼくたちは思わず顔を見合わせた。 「私も最初は信じなかった。でも、ゆかちゃんが私とおんなじに桜を心配していたからお父さんの言葉を思い出して二人で祈ったの」  ぼくたちはいっせいに頷いた。 「私とゆかちゃんは祈りの力を信じた。皆にも信じて欲しかったの。かなえちゃんのことは皆が心配していた。皆の心が一つになって、かなえちゃんが助かれば皆も祈りの力を信じるようになるでしょ?」 「ぼくたちの祈りが神様に通じたんだ」  ぼくの言葉にまりちゃんは微笑《ほほえ》んだ。 「なんでも神様はかなえてくれるの?」 「皆が本当に心の底から願っていることならね。でも、ゲームとか成績はだめみたい。私、とっくに試してみたもの」  まりちゃんの返事にぼくたちは笑った。  そして、その日からぼくたちの祈り作戦がはじまった。ぼくはこっそりテスト用紙が風に運ばれてぼくの家の窓に入り込むよう祈ってみたが、やっぱりだめだった。自分が頑張ればできることに神様は手助けしてくれないらしい。自分たちにはどうにもならなくて、しかも皆の願っている力が大きければ大きいほど神様は手助けしてくれる。  ぼくたちは皆で何度か祈った。  学校の周辺にたくさんの横断歩道ができたことや、児童公園が急に増えたのは、きっとぼくたちの祈りが通じたせいだ。今、ぼくたちは他の学校の子供たちにも話しかけて、この世から戦争をなくする祈りを計画している。大人になってしまう前に、それだけはどうしても皆でかなえておきたい。未来の平和はぼくたち子供にこそ委《ゆだ》ねられている。 [#改ページ]   電 話  落ち込みのはじまりは、この時計である。特別な意味などない、と頭の中では分かっていても、つい気持ちが時計を通じてあの頃に戻されてしまう。引き出しにしまってもおなじだ。その片隅で相変わらず時間を刻み続けるのだと思えば気が滅入《めい》る。ネジを巻かずとも二年は保《も》つ電池がセットされている。こういう時計が出回りはじめた当初は便利な発明としか感じなかったが、今はなぜか鬱陶《うつとう》しい。使わずにしまい込んでいても時計だけはそのまま生き続けるのだ。忘れるためには時計を捨てるしかない。が、壊れてもいない時計を捨てる気にはなかなかなれない。机の上に放り投げてあれこれ考えていたら雅美が外出の支度を整えて書斎に現われた。 「いいわよ」  雅美は一昨日に届いたばかりの毛皮を腕に抱えていた。まだ二十八だ。道代はおなじ頃、二十三、四のときに買った薄いコートを大事に使っていた。と言って雅美を責めるわけにはいかない。私の暮らしが大きく変わったのだから仕方のないことだ。 「どうしたの、その時計」  雅美は目敏《めざと》く見付けて質《ただ》した。 「昔していた時計だ。ネクタイを選んでいたら洋服|箪笥《だんす》の隅に転がっていた」 「ずいぶん安物ね。似合わないわ」  雅美は手にして苦笑した。 「通販で買った時計みたい。笑われるわよ」 「いくらぐらいだろう?」 「貰《もら》った物なの? どうりで」 「スイス製だぞ。きっと安くはない」 「スイス製だから高いなんて言うのは年寄りだけよ。聞いたこともないメーカー」  雅美は乱暴に時計を机の上に戻した。 「待たせちゃ悪いわ。今夜のパーティはあなたが主役なのよ。行きましょう」 「悪いが……一人で行ってくれ」 「どうして?」  雅美は目を丸くした。 「少し疲れた。どうせ君の親戚《しんせき》や友達ばかりだ。俺《おれ》が居ない方が気楽な会になる。皆によろしく言ってくれ。レストランの味見の方は別の日にゆっくりとさせて貰おう」 「兄さんが気にするわ」 「他意はない。君からきちんと説明すれば分かってくれる。酒もこの頃飲み過ぎでね」  雅美はちょっとふくれて見せたが、やがて頷《うなず》いて書斎から出て行った。玄関に向かう雅美の鼻歌が聞こえた。私は溜《た》め息《いき》を吐《つ》きながら椅子《いす》に腰を沈めた。同時に電話のベルが鳴った。営業部長の竹田からのものだった。競合している量販店がビデオカメラを大量に仕入れて来週のチラシの目玉に据えるらしいとの情報である。本格的な対策は明日の会議で相談するとして、とりあえずは在庫のビデオカメラを超特別価格で提供するように指示を与えた。わずか二十台でも、それを買った客は他店の品物に手を出さない。  たばこに火をつけると、また電話が鳴った。やれやれ、と私は腕を伸ばした。北川です、と名乗ると相手は無言で耳を澄ませていた。 「もしもし……どちらですか」  それでも返事がない。 「もしもし……」 「幸福なの?」  は、と私は耳を疑った。電話は切れた。どこかで聞いたような女の声だったが、思い出せなかった。いたずら電話にしては妙だ。 〈幸福じゃないさ〉  私は自嘲《じちよう》の笑いを洩《も》らした。確かに暮らしに不自由はない。親父《おやじ》が細々とやっていた電器屋を立て直して今は年商二十億を超える量販店にまで伸《の》し上がった。この小さな町では大成功者と言えるだろう。だが、それは本来の私の望みではなかった。あの事故さえなければ私は今も東京の大学に残って歴史の研究を続けていたに違いない。電器屋の社長にしては珍しい大きな書斎を拵《こしら》えたのは、その忸怩《じくじ》たる思いを引き摺《ず》っているせいなのだ。生活は苦しかったが、大学の講師時代は毎日が楽しかった。学生時代に知り合って一緒になった道代も日本の中世史を専攻していて、休みになると金を工面しては京都や吉野などを訪ね歩いた。子供には恵まれなかったものの、それがかえって私たちの仲間意識を強めた。私が学問の世界で名を成すことは道代にとって子供の成長を見るのとおなじだったのだ。そこに、あの事故……私が運転していたおんぼろ車は奈良の郊外で酔っ払い運転の車に正面衝突されたのだ。運転していたのは大阪の大きな建設会社の社長の息子だった。私は左腕と脚に大怪我《おおけが》をし、道代はフロントガラスに頭を打ち付けたせいで脳を挫傷《ざしよう》して下半身不随の身となってしまった。そんな道代をそのままに大学へ勤務するわけにはいかない。私は故郷に戻ることにした。加害者の側からの莫大《ばくだい》な慰謝料を店の立て直しに注ぎ込み、三年もしないうちに私は成功した。言うなら道代が自分の体を犠牲にして得た金である。感謝はしていたものの、生活が豊かになると私は次第に道代の存在が辛《つら》くなりはじめた。私が悪かったのは分かっている。すべて私の我《わ》が儘《まま》だ。道代に罪はない。けれど私はまだ三十八歳だった。女の体が恋しい。浮気《うわき》をしても当然だと自分に言い聞かせ、道代が家から一歩も外へ出ないことをいいことに遊びほうけた。学問の道にもはや戻れないという絶望も多少は関係していた。ある日、女と遊んで夜明けに戻ったら道代が車椅子に座ったままの姿勢で手首を切って自殺していた。もちろん、私は泣いて道代に詫《わ》びた。半年は自分なりに喪に服したつもりである。しかし派手《はで》な生活が私をまた元に戻した。年収一億近い独身男を女たちが放ってはおかない。やがてクラブで知り合った雅美の若い肉体に私は溺《おぼ》れた。結婚までは考えなかったが雅美に押し切られて現在がある。雅美は私の過去の夢や生活をほとんど知らない。知る必要もないし、私も望んでいない。 〈幸福じゃないさ〉  私はまた繰り返した。この時計は貧しかった時代に道代が家計費を切り詰めて私の誕生日の祝いに買ってくれたものなのだ。あの日の幸福を私は忘れない。私たちの暮らしにおいてこの時計がどんなに贅沢《ぜいたく》なものだったか……この時計を箪笥《たんす》の中にしまい込んだのは道代が死んでからのことだ。私はそうして道代を忘れようとしたのだけれど、時計は箪笥の暗がりの中で二年近くもこうして私たちの時間を刻み続けていたのである。道代が死んでも、道代の分身に等しい時計はひっそりと闇《やみ》の中で生き続けていたのだ。なのに……雅美は安時計と笑った。ピアジェやカルティエしか時計ではないと思っている雅美では当然だ。たかだか二、三万の時計と感じただろうが、この時計には私たちの夢と愛情が詰め込まれているのだ。私は涙をこらえて時計を腕に嵌《は》めた。 〈道代……許してくれ〉  私は本当に泣いた。道代がたまらなく恋しかった。自殺したとき、私は心の奥底で重荷から解放されたような気が少しでもしなかったか? 家に戻ると書斎で歴史の本に読みふけっている道代を眺めて、あてつけだと怒りを覚えなかったか? 私は厭《いや》な男だった。だからこそ道代を憎みはじめたのである。  あの事故さえなかったら、私は道代とともに貧しくとも幸福な人生を続けていられたに 違いない。道代こそ私が生涯のうちで得た唯一の宝石だった。雅美などに汚して貰《もら》いたくない。雅美は私の財産だけに惚《ほ》れている。無能でこずるい兄と結託して、私の人生を目茶苦茶《めちやくちや》にしようとしている。 〈あの事故さえなかったら……〉  ふっと私は妙な考えにとらわれた。あれが私の人生の分かれ道だった。もしあのとき私の方が植物人間にでもなっていたら世界はどうなっていたのだろう。道代は私の面倒をずうっと見てくれただろうか。私の考えは目まぐるしく変わった。植物人間どころか、私が死んだ可能性とてあった。もし、あのときに自分が死んでいて、その自覚がなく頭の中でその後の人生を構築しているとしたら……有り得ない想像であるが、その考えは私をほんの少しだけ幸福にした。別の世界に道代が生きているとしたなら私の心も安らぐ。 〈さっきの……あの電話〉  道代の声に似てはいなかったか? 思い出して背筋が冷たくなった。確かに似ていた。ひょっとしてあれは別の世界に生きている道代ではなかったのか? 道代にとっての分かれ道は、もちろん自殺した日であろう。死んだ道代と、それを思い直した道代がどこかに存在していて、私の現在を確かめに電話してきたのだとしたら……道代以外に私の幸福を気にする女が他にどこに居るというのだ。  私は感傷的になっていた。道代との暮らしが私の頭を一杯に満たす。東京の生活が懐かしい。私はいつの間にか電話を手にしていた。指は無意識にボタンを押していた。私たちのアパートのものである。今はどんな夫婦がそこに暮らしているのだろう。呼び出し音の鳴るのを聞きながら私は涙を流していた。 「もしもし、北川ですけど」  電話から女の声が聞こえた。私はそれに応じることができなかった。北川と女ははっきり答えたのである。背後に子供の泣き声が響いた。その子供をあやす幸福そうな男の声が重なって聞こえた。 「もしもし、どなたですか」  間違いなく道代の声だった。後ろで子供を抱いて陽気な笑いをしているのは……私のように思えた。 「幸せそうだね」  私はそれだけを言って電話を切った。 [#改ページ]   幽霊屋敷  その家はそのまま残されていた。  淡い月明かりだけが頼りの目には、四年前そのままに見える。私は家を見上げる道路にしばし立ちすくんだ。タクシーは私を下ろすと転げるような勢いで坂道を引き返して行った。駅前で拾ったタクシーで、噂《うわさ》はなにも知らない様子だったが、新興住宅地の突き当たりに黒い影を作っているこの家の不気味さを鋭敏に感じ取ったのだろうか。もっとも、昼間だって異様に違いない。この家を中心に両隣までが空き家なのだ。古い家ならともかく、三軒ともに築後五年が過ぎていない。その新しさが逆に禍々《まがまが》しさを覚えさせる。特に両隣の家の窓には不動産屋が人の侵入を防ぐために打ち付けた板が夜目にもはっきりとしている。それがなんとも薄気味悪い。何年も買い手のないことを如実に示していた。少し責任を感じた。顔までは忘れてしまったが、両隣の住人には挨拶《あいさつ》を交わしたことがあるのだ。確かどちらも若い夫婦たちだったと記憶している。せっかく購入した家を安く手放さなければならなくなって嘆いたことだろう。  私は家への短い石段を上った。  両隣の家の庭が見えた。  どらも丈の高い雑草で埋められていた。  放置されて二年以上は経つように思えた。  右隣の家の庭には赤と黄のチューリップが植えられていたのを唐突に思い出した。麻美《あさみ》たちの部屋の窓からそれが見えて喜んでいた。あの頃はだれもが明るい笑いをしていた。  私は真っ暗な玄関の前に立った。引き手に指をかけてみたが、もちろん開かない。チャイムを押してみたい誘惑と戦った。押せば中に響き渡り、本当に麻美《あれ》がいるのならば私の到着を知るであろう。だが——したくはなかった。なぜなのか私にも分からない。私は庭の方に足を忍ばせてまわった。噂が真実としたら必ずどこかの窓が破られている。ぞくぞくと寒気が私を襲っていた。やはり不動産屋に断わって来るべきではなかったか? 訪ねれば事情を詳しく説明してくれたかも知れない。が、その勇気もなかった。なんと名乗ればいいのだ? 幽霊の父親ですと正直に言えばいいのか?  そんな哀《かな》しいことは口にできない。  今頃信子はどんな思いで病室のベッドに横たわっているのだろう。この家に私が到着した頃だと察しているはずだ。私と違って信子は麻美に心底会いたがっていた。母親の強さをあらためて感じた。私ときたら……どこかで娘に怯《おび》えているのである。  一昨日の午後だった。  大学の講義を終えて信子の入院先に立ち寄ると、信子は私を待ち兼ねていた様子で袖《そで》に取り縋《すが》った。信子の目は涙で赤く腫《は》れていた。 「あの娘《こ》が苦しんでいるの」  そう言って信子は嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。なんのことか私には分からなかった。信子は膵臓《すいぞう》を悪くしてベッドから離れられない。それで苛立《いらだ》ちがつのる。 「絶対にあの娘よ。町も話もぜんぶ一緒。あの娘に間違いがないの」 「なにがあった?」 「昨夜のラジオで聞いたの。お化けのこと」  信子はしどろもどろながら説明した。麻美の嫁いだ町の話だったので興味を抱いたらしい。ところが……聞いているうちに、それが麻美の話のようだと気がついた。若くして家を建てたはいいが、ローンの重圧のせいで夫は意欲を失い、その鬱屈《うつくつ》を酒や女に求めはじめた。やがて会社の同僚である若い女と駆け落ちをしてしまった。一人残された妻はピアノの出張教授をしながらローンを払い、必死に生きていたのだが、運悪く酔っ払い運転の車に撥《は》ねられて死んでしまった。別に首吊《くびつ》り自殺でもないので後始末を頼まれた不動産屋は改装もせずに売却した。それがまずかったのか、以来、その家に幽霊が現われると言うのである。新しい家人が眠っているところに、玄関の鍵《かぎ》を開ける音がして、ごく普通の足音が廊下を軋《きし》ませる。気配は台所に移り、水道を使う音や女の溜《た》め息《いき》が聞こえる。堪《たま》ったものではない。怖々《こわごわ》と電気をつければ、むろんだれの姿もない。するといつの間にか二階の部屋の明かりが点《とも》っている。死んだ女が寝室に用いていた部屋だ。女はどうやら自分の死を自覚していないものと見える。姿こそ見えないが夜中の便所に香水の匂《にお》いが漂っていることもあった。あまり頻繁にそれが続くので彼らは二カ月も過ぎないうちに引っ越した。彼らばかりか両隣の家も同様だった。真夜中に、だれもいないはずの家から泣き声や激しく物が壊れる音がする。電気を止めているのに時々明かりが点滅する。ガラス越しに屋内から庭を眺めている女の顔さえも見えた。これでは怖くなって当たり前というものだ。三軒全部が空き家になる頃には噂が広まっていた。不動産屋が相場の三分の一まで値を下げても買い手がつかない。噂を耳にした若者や酔っ払いたちが肝試《きもだめ》しに窓を破って泊まり込むことがある。だが翌朝を待たずに逃げ帰る。必ず異変に襲われるのだ。窓を何度直しても悪戯者《いたずらもの》が後を断たないので不動産屋も今は諦《あきら》めて放置しているらしい。  信子の話はそういうことだった。  はじめは笑っていた私の体も強張《こわば》った。偶然にしては似過ぎていた。家を建てて間もなく夫に逃げられた麻美は、子供の頃から得意としていたピアノの教授で生計を立てていたのである。家を売り払って東京に戻って来いと何度も誘ったが頑として聞かなかった。夫が戻ると信じていたのだろう。そして……車の事故に遭って二十八の若さで死んでしまった。私たちにはたった一人の娘だったのに。 「だから私たちには来なかったのね……」  信子は顔を覆って泣いた。 「死んだと思ってないのよ。まだあの家であの娘は暮らしているの。幽霊でもいい。会いに来て欲しい。どうして私のところには……」 「やめなさい。意味のないことだ」 「あなたは可哀相《かわいそう》と思わないんですか? あの娘はなんにも知らずに、あの家に……」  言われて私も胸が詰まった。娘の幽霊を他人が見ている。しかも見世物とおなじような目で。それを思うと気が狂いそうになる。 「会いに行ってあげて」  信子は突然口にした。 「私たちがどんなに愛しているか……それをあの娘に伝えて貰《もら》いたいの」 「馬鹿な……作り話かも知れない」 「頭がおかしくなりそうなのよ。あの娘は一人でそんな家にいて怖くはないのかしら」  普通なら笑い飛ばしてしまう言葉だが、私もおなじ気持ちだった。真っ暗な闇《やみ》に漂う麻美を想像すると涙が込み上げて来た。行かねばならないと思ったのはそのときだった。  やはり噂通りに裏庭に面した窓が破られていた。明朝のことにしよう、とどこかで考えていた私の迷いはそれで消えた。娘を怖がる親がどこにいる? たとえ幽霊であろうと麻美には違いないのだ。それにしてもこんな親子が他にあるだろうか。肉親の幽霊を見た話は多く聞くが、幽霊屋敷に住む娘の霊魂を訪ねて父親がやって来るなど……思わず苦笑が洩《も》れた。どこまでも手を焼かせる。 「麻美……私だ。会いに来たよ」  窓を開けて私は闇に声をかけた。そう口にすることで少し恐れが薄れた。  屋内は凍り付いたように静まっている。用意して来た懐中電灯で照らし見る。そこは私と信子が泊まったことのある和室だった。無惨な荒れ様だった。ぼろぼろにささくれた畳にたくさんの靴跡がある。ビールの空き缶がいくつも転がっていた。壁には若者のものらしいスプレーで書いた文字。部屋の隅に大便をしたようなティッシュペーパーの盛り上がりを見付けて激しい怒りを覚えた。ここは麻美の夢を膨らませた家なのである。他人が無断で入り込み、それを壊す権利などない。哀しみを必死で抑えつつ私は窓から入った。  押し入れの襖《ふすま》は半開きになっていた。中を照らしてから襖を閉じた。隠されていた方の襖には小さな穴がいくつもあいていた。なんだろう。指で突いたような穴だ。  ぱたん、とどこかでドアを閉める音がした。  ぞぞっと総毛立った。  二階の扉かも知れない。  私は闇に耳を澄ませた。しーんという闇の音が耳の底で震えているばかりだ。もちろん空耳だったのだろう。約束の客を待ちながら書斎で仕事をしているとチャイムの空耳を何度も聞くことがある。今の私はどんな小さな物音でも聞き逃すまいとしている。だから鼓膜に想像の音が伝わる。  私はたばこを取り出して口にくわえてから灰皿代わりにビールの空き缶を拾った。点《つ》けたライターの炎が震えているのが分かる。情けない。ここは娘の家だと言うのに。  埃《ほこり》も気にせず私は畳に胡座《あぐら》を掻《か》いた。  まず気持ちを落ち着かせなければ。急ぐ必要はない。今夜は泊まってやるつもりだった。  開け放たれた襖の先に長い廊下がある。懐中電灯で照らして見た廊下にも大小の無遠慮な靴跡がついていた。畳に胡座を掻いたまま私は家の間取りを思い出していた。一階はこの和室の他に広い台所と居間。二階は夫婦の寝室と将来は子供部屋にするための六畳。そんな未来を麻美は夢見ていたのだ。 〈あの男が頑張れなかったのは麻美に子供ができなかったからなのだろうか〉  今は、あの男としか呼びたくない。あの男が放棄さえしなければ麻美には違う未来があったはずなのだ。子供だってわざと我慢しているのだと麻美は信子に言ったと聞いている。あの男にどんな理由があったにしろローンをそのままに駆け落ちなど敵前逃亡も一緒だ。  麻美は疑いもしていなかったが、女にだらしなさそうな男であるのは最初から感じていた。あの男の勤務していたデパートは女性の多い職場である。と言って娘の選んだ相手に親が異を唱える時代ではなくなっていた。それが今となっては悔やまれる。  たばこを揉《も》み消して私は立ち上がった。麻美のことを思っているうちに恐れもいつしか薄まっていた。不幸な娘である。  廊下に出ようとした背後に怪しい気配を感じ取った。だれかが闇《やみ》に立っている。首筋から背中へと鳥肌が広がった。確かにいる。  みしみし、と畳を踏む足音が聞こえた。  咄嗟《とつさ》に振り向き懐中電灯を向けた。  だれの姿もない。  慌てて部屋の隅々を照らした。明かりの輪から逃れるように白い煙が天井へと走った。目で追う。だがそれも直《す》ぐに闇に溶け込んだ。  ぶつっ、ぶつっ、と異様な音がする。紙に穴をあけているような……気付いて押し入れの襖《ふすま》を照らした。襖が奥にたわんでいる。  悲鳴を上げたかった。  見ている前で襖に穴があいていく。それも指の大きさで四つずつ。私には見えないなにかが襖に指を突き刺しているのである。  穴は次々に増えた。  無意味なだけに怖かった。麻美と出会うにしても別の形を頭に描いていたのだ。 「お前……なのか?」  応じるごとく一挙に五十もあいた。  ぶつ、ぶつ、ぶつ、ぶつ、ぶつ。  そして——いきなり終わった。  私は廊下に逃れながら見守った。なにも起こらない。私は肩で大きく息を吐いた。  そこに玄関のチャイムが鳴った。  思わず身を縮めた。客などあるはずのない家だった。はーい、と二階から声がした。  心臓が破裂しそうだ。  あれは間違いなく麻美の声だ。  とんとんとんと階段を下りる音が近づいて来る。私はそこに凍り付いたまま見詰めた。  しかし階段からはだれも下りて来ない。玄関も何事もなかったように静まり返っている。  麻美の声と確信できなかったなら私はここで逃げ去っているに違いない。 「麻美! いるんだね」  思い切って階段に走った。上を照らす。 「…………」  そこには冷たい闇しかなかった。  懐中電灯を握る掌《てのひら》が汗ばんでいた。  念のために私は玄関へまわった。ドアの覗《のぞ》き穴から外をそっと窺《うかが》う。もちろんだれの姿も見当たらない。目を離すとふたたびチャイムが屋内に響き渡った。 「どなた……」  今度は廊下の奥から微《かす》かな声が聞こえた。  からかわれているのだと悟った。  麻美はまだ私と分からないのだ。承知していればこんな悪戯《いたずら》をしない。それとも……幽霊になってしまうと別のものになるのか。心が通じると思うのは生きている者の願望に過ぎないのかも知れない。 「お父さんだ。安心しろ」  安心しろと言われたいのはこっちだが……私はじりじりと声の方向を目指して進んだ。  左手に台所がある。この中から声は聞こえたような気がした。曇りガラスの引き扉を乱暴に開けて懐中電灯を突き付けた。流し台の他になにもない台所が広がっていた。  ううう、とどこからか声がした。  黒い影が私の足元をよぎった。  私は飛び上がった。  黒い影は流し台の陰に隠れた。向けた明かりに二つの目玉が光った。痩《や》せて汚れた猫と知って私の緊張は一気に緩んだ。猫は明かりから逃れられず怯えて蹲《うずくま》っている。破れた窓から忍び込んだものだろう。仲間を得た気持で私は猫を照らしながら屈《かが》んだ。 〈?……〉  これは麻美が一人になった寂しさから飼っていた猫ではないだろうか。どこか見覚えがある。麻美が亡くなってほどなく、猫はどこかに消えたのだ。引き取るつもりでいたのだが、消えた猫を待ってこの町に残るわけにはいかなかった。信子もそれをずっと気にしていたのである。  おいで、と手を出すと猫は怖々ながら私に擦り寄って来た。撫《な》でた背中の毛は土埃《つちぼこり》でざらざらだった。涙が零《こぼ》れた。鉤型《かぎがた》に曲がった短い尻尾《しつぽ》には記憶がある。麻美がよくこの尻尾に指をかけて遊んでいた。 「お前の家だものな」  私は猫を抱き上げた。外で食べ物を見付け、夜にはこの家に戻っていたのだ。麻美がいなくなって三年……どんな思いでこの猫は夜を過ごしていたのか。 「おいで……」  どこからか声がした。猫はぐるると喉《のど》を鳴らして顔を動かした。私の腕から逃れようとする。手を放すと短い尻尾を立てて廊下へ駆け出していった。私も後を追いかけた。猫は迷わず階段を上った。胸がどきどきする。  寝室のドアは半分開いていた。猫はするりと寝室に入った。そっとドアを押して覗いた。部屋の真ん中では猫がころころと転がっていた。なにもない空間の一点に猫の目は注がれている。嬉《うれ》しそうな顔だった。まるで遊んでくれる相手がいるかのように。猫の喉の音も鳴り止《や》まなかった。猫には麻美の姿がはっきりと見えるのだろう。だから毎夜戻って来ていたのだ。  私はじっと猫の様子を眺めた。猫の視線の先には必ず麻美がいる。位置を見定めて懐中電灯を消した。明かりが妨げている可能性があった。それでも……見えなかった。  そのとき、階下で激しい物音がした。  猫は唸《うな》りを発した。明かりを点けて確かめた。猫は不安そうに耳を動かしている。が、視線は変わらず元のままだ。猫はそこにだれかがいるごとく怯《おび》えた目で蹲った。猫の背中の毛が波打っていた。寒気がする。見えない指で撫でているのだ。そこにまた物音が——  私は気付いて階段を下りた。  麻美は猫と一緒なのだ。としたら階下の物音は麻美と関係がない。だれかがこの家に侵入している。物好きな酔っ払いだろうか。  音は台所から聞こえる。  コップを投げ付ける音に似ていた。床にガラスが砕ける音だ。酔っ払いだとしても、いったいなんのために?  身の危険を覚えた。そんなところに姿を現わせば、相手も驚いて私を幽霊と勘違いする。  廊下でしばらく見極めることにした。  音はさらに激しくなった。鍋《なべ》を投げたり椅子《いす》をテーブルに持ち上げてぶつける音がする。喧嘩《けんか》でもしているような騒がしさだ。 〈椅子?〉  そんなものは取り払われている。たった今、家具がなに一つないのを見たばかりだ。ましてや鍋など……覚悟を決めて扉を開けた。  物音は一瞬のうちに消滅した。  台所はがらんとしていた。  恐ろしい意味が分かるまでには時間がかかった。麻美は確かに二階にいたのである。つまり……この家にはもう一人幽霊が存在するのだ。それ以外に考えられない。  たたたた、と猫が後ろの廊下を走り抜けた。  和室に向かっていく。  慌てて私も走った。外へ逃げられたら東京に連れて帰ることができなくなる。  だが猫は逃げようとしたのではなかった。  和室の押し入れを睨《にら》んで威嚇していた。  押し入れの中から荒い息遣いが聞こえる。  不気味な笑いもした。 「だれだ! だれなんだ」  私は襖《ふすま》を足で蹴《け》った。笑いは続いた。私は押し入れに飛び込んだ。  生臭い風が反対に抜け出た。  白い柱に似たものが部屋の真ん中にふわふわと浮かんでいた。畳に血が広がった。私は猫とともに後じさった。邪悪なものである。  廊下の暗がりよりなにかが転がる重い音がした。私は振り返った。  男の首だった。  男の首がごろごろと音をさせて部屋に入って来た。首は私を睨むように瞼《まぶた》を開けた。  私はへたへたとその場に腰を下ろした。  もう……なにも考えられない。  いや、考えたくないことだった。 「麻美……お前が殺したのか」  やがて私はまた二階へと戻った。猫も懐《なつ》いて私の足元にいる。 「そうなんだね。駆け落ちしたと見せ掛けたわけか」  首はあの男のものだったのである。死んでいなければ幽霊になるわけがない。死体は恐らく和室の床下にでも埋められているのだろう。麻美はその死体が気になったのだ。事故に遭って亡くなる直前に麻美の心を占めたのはそのことだけに違いない。だから人をこの家に近付けさせまいとした。私たちのことを思う余裕など麻美にはなかった。これも想像だが、あの男は麻美の目の前にも現われていたのではないか? そう思うと麻美が哀れであった。麻美は幽霊に怯えながら耐えていたのだ。 「どうして欲しいんだ?」  口にしつつも私の考えは定まっていた。 「お父さんがこの家を買い戻すよ」  気のせいか麻美の安堵《あんど》が伝わった。 「だれにも手を触れさせない。心配することはないんだ。この先ずっとあの男は見付からない。猫も私が育てる。名前は?」 「……みーこ……」  今度は歴然と聞こえた。猫が喜んだ。 「一度でいい、姿を見せてくれないか。母さんががっかりするだろう」  麻美はそれに嗚咽《おえつ》で応じた。やり切れない長い嗚咽だった。  そして麻美は本当にいなくなった。  顔の半分が潰《つぶ》れた顔を私には見せたくなかったに違いなかった。 [#改ページ]   恋の天使  やめろと言われればかえってやりたくなるもんだ。特にそれが魔法に関わっていることならね。  さすがに教室でやって見付かればこっぴどく叱《しか》られるので魔法盤を持ち込むことはしなかったけど、クラスの大半が拵《こしら》えてこっそりと自宅で遊んでいた。と言っても一人ではできない。どうしても三人が必要だ。それで勉強会と称しては親しい仲間がしょっちゅう集まることになった。魔法盤とぼくらは言っているが、昔はこっくりさんと呼んでいたらしい。五十音を書き並べた大きな紙の四方に鳥居を書き込み、その鳥居の一つに五百円玉を置く。その紙を囲んで座った三人が指を延ばして五百円玉の上にそっと添える。十円でも一円でもいいそうだけど五百円の方が当たりそうな気がするのは気分の問題だ。それに大きいから三人の指が重なっても扱いやすい。そうして準備を整えてから恋の天使に皆で呼び掛ける。もちろん心の中でだ。それから占ってもらう者の名を口にして指に思いを集中させる。そうすると五百円玉が五十音の上をぼくらの意思とは関係なしに動きはじめて、占ってもらう者を密《ひそ》かに恋している相手の名を教えてくれるという仕組みだ。恋の天使は恋愛を任せられている神様だから、それ以外のことは聞いちゃいけないことになっている。でも本当は違うということを皆は知っている。なんにでも答えてくれるんだけど、それをやれば恐ろしいことになるんじゃないかと皆薄々感じているんだ。だからわざと恋の天使なんて優しい名前をつけて、そこから食《は》み出ないようにしているのさ。こっくりさんが流行《はや》った時代に怖いことが起きたのを映画やテレビで知っているもの。自分のことを好きな相手の名前を教えてもらうぐらいなら大したことじゃないだろ?  いったいだれがこの魔法を学校に持ち込んだのか……となりの町でも流行っているらしいから自然に入り込んで来たんだろうが、本当によく当たる。いや……当たっているんだろうか? 実を言うとそれもよく分からない。だれかがぼくのことを好きだと分かっても、それを本人に聞くわけにはいかないだろ? でも奇妙にそれらしい名前が出てくるから不思議だ。勝俊《かつとし》のときなんて、立ち会い人にぼくと良司がなって恋の天使に訊《たず》ねたら、ちゃんと麻紀の名前が示された。思わず三人で万歳を叫んだ。勝俊なんか照れちゃってさ。自分も好きな相手だから嬉《うれ》しそうだった。  そしていよいよぼくの番が回って来た。この魔法は一日に一度だけ、しかも間を四日あけなければいけないことになっている。自分の番が待ち遠しかった。彩子《あやこ》だったらいいな、と願いながら恋の天使に祈った。良司と勝俊の指がぼくの指と触れている。五百円玉がゆっくりと紙の上を滑りはじめた。ぼくは怖くなって目をつむった。あ行のところへ向かっているらしい。やった、と思った。やがて指が止まった。ぼくは目を開けて見た。そこは「あ」ではなく「か」だった。ぼくはがっかりした。と思う間もなく五百円玉が動く。次は「や」だ。そして最後に「こ」のところで止まって動かなくなった。  かやこ? そんな名前なんて知らないよ。  彩子の間違いではないかと勝俊が言った。ぼくも頷《うなず》いた。そうであって欲しい。けど、それを確かめる方法はない。  なんだか面白くない気分で家に戻った。  そして次の日。  ぼくは教室で佳也子《かやこ》と出会った。ぼくの学校に大阪から転校して来たんだ。髪が長くて背の高い子で大きな目をしている。ぼくの胸はどきどきしっぱなしだった。だってかやこなんだぜ。絶対に偶然とは思えない。勝俊もびっくりした顔でぼくに目配せしていた。  それから学校が楽しくなった。  あれは恋の天使の予言だったに違いない。  またやらないかと勝俊たちは誘ったが、もうぼくには魔法は必要なかった。佳也子以外にぼくのことを好きだと思ってくれている子が居ても関係ない。彼女に嫌われないようにぼくは頑張った。あんまり成績が悪いと笑われる。まだろくに話も交わしていないけれど、いつかは分かってくれると信じていた。 「付き合い悪いぞ」  良司はゲームセンターに行くのを断わるとぶすっとして言った。 「あんなの嘘《うそ》っぱちだ。あれは俺《おれ》がやったんだ。魔法なんかじゃない」  ぼくは良司がなにを言っているのか分からなかった。 「職員室で見たんだ。そういう子が転校して来るって。だからおまえをからかったんだ。五百円玉を動かしたのは俺だよ」 「…………」 「勝俊のときだって……麻紀のことあいつが好きだと知っていたからな」  ぼくは呆《あき》れて声も出せなかった。でも、「だったらおまえが天使だったというわけか」  ぼくは良司のいたずらに感謝していた。 [#改ページ]   明日の夢      一  ピルケースから取り出した小さな錠剤を左の掌《てのひら》にのせ、テーブルのコップに手を伸ばした途端、脇《わき》を通る女の固いバッグが私の肘《ひじ》にぶつかった。コップを持ったばかりの腕が震える。それに気を取られて錠剤をとり落とした。ころころテーブルから転がり落ちて薬は汚いレンガの床の隙間《すきま》に消えた。失礼、と女は振り向いたが、薬のことには気付かず、そそくさと立ち去った。込み合った狭い店内である。自分の責任ではないという傲慢《ごうまん》な態度の女を叱《しか》るより、私は落とした錠剤の方が気になった。降圧剤である。しかも最後の一粒だった。夜には自宅に戻れるのだから半日辛抱すればいいのだけれど、これから何時間も新幹線に乗らなければならないので不安が生じる。もっと予備の薬を持ってくればよかったと後悔した。この二日間、慌ただしい研修日程と酒の飲み過ぎから薬を服《の》む回数が増えていたのだ。まさか三錠の予備が足りなくなる状況になるなど……血圧で倒れるのは旅先が多い。それも私を苛々《いらいら》させる。  大丈夫ですか、と向かいの席の西口千絵が案じた。まだ新米の英語教師だが、陽気で美しい娘だ。西口のとなりの大場みゆきも頷《うなず》く。  心配ない、と私は応じた。錠剤の一粒くらいでおろおろしていたと陰口を叩《たた》かれるのはいやだ。それにしても、なんでこんな混雑した店に入ってしまったのだろう。次の集合時間まで私が退屈そうにしていたので二人が付き合ってくれたのだが、これでは私が反対に付き合っているようなものだ。ピザとスパゲッティの専門店になど私一人なら絶対に入らない。西口の前にイカスミのスパゲッティが運ばれてきた。真っ黒な色が食欲を減退させる。ああ、この場面は知っている、と思った。夢で見ている。そうか、見知らぬ娘とは西口千絵のことだったのか。西口の赤いセーターもはっきりと記憶から甦《よみがえ》った。そう言えば、錠剤を落として慌《あわ》てた夢も見ている。埃《ほこり》だらけのレンガの床に転がり落ちて必死で拾おうとしている夢だった。別々の日に見た夢が、こうして一つになっているのだ。私は店内を見渡した。趣味の悪い緑色の壁にスパゲッティやピザのメニューがずらっと掲げられていて、ワインの瓶が天井に何十本となく吊されている。間違いない。西口と一緒のときの夢とおなじである。私は苦笑した。その夢を見たときは、てっきり不倫をするのだと思って少し不安を覚えたものだ。なんのことはない。研修旅行の一場面を見ていただけに過ぎない。  どうしたんですか、と西口が私を見詰めた。 「既視感というやつを知ってるね?」 「夢とかで予知することですか?」 「そう。今のこの瞬間を前に見たことがある。そのときは相手が君とは知らずにいた。それを思い出したんだ。その、変わったスパゲッティを頼んでくれたお陰で記憶に強く刻まれた」 「本当ですか?」 「信じないなら夢日記を見せてあげようか。この店の様子や、君の赤いセーターのことまでちゃんと記録した覚えがあるよ」  西口は仰天した。大場は笑った。大場は勤めて五年にもなるので私の夢日記のことを承知だ。だったら私のことも書いてあるんですか、と大場は質《ただ》した。覚えがない。それなら夢を見た当日にでも大場に話していただろう。そこが夢の不思議さでもある。きっと大場のことも見たのだろうが、見知らぬ西口が珍しくて、彼女にばかり興味が動いたのだ。 「夢日記だなんて……信じられません」 「教頭先生の夢日記は有名よ」  知らないのがおかしい、と大場は言った。 「凄《すご》い。だったら予言者じゃないですか」  西口は驚いた顔で大場に返した。 「今|流行《はや》りの地球の破滅とか有名人の死でも夢に見れば金持ちになれそうだがな」  私は笑って、 「君がこの店で黒いスパゲッティを食べるとか、阿部先生がチョーク消しの粉を頭に被って職員室に戻ってくるなんてことを予言したってなんの意味もない」  あれも夢で見ていたのか、と二人は爆笑した。三日前のことである。べったりとしたチックをいまどき用いている男なのでチョークの白い粉が簡単に取れなかったのだ。それを生徒らも承知の上でいたずらしたらしい。 「君たちだってきっと見ていると思うよ。あまりに日常的な夢なんで忘れているだけさ。夢には三種類あってね、過去を思い出すものと、今の心が反映した想像と、未来だ。過去を見た夢は目覚めたあとも思い出しやすい。前に一度体験したことだから現実の記憶としても残っている。心が反映した想像もそうだ。自分の常日頃の願望と重なっている上に、空を飛んだり、片想いの相手とセックスしたり、思いがけない出来事なので印象が強く刻まれる。ところが、未来の夢となれば自分たちの日常なので平凡だ。風呂《ふろ》に入ったり、教室でやる気のない生徒に教えていたり、蕎麦《そば》屋で天丼を食べていたり……だから目覚めてすぐに忘れる。後で大統領にでもなるような人間なら、未来の夢も相当に刺激的な内容になると思うが、我々のように平凡な一生を終える者には、もともと未来なんて詰《つ》まらない」  私は近頃、夢をそのようにとらえていた。 「派手な予知夢を口にして騒がれる人間が居るね。あれは本当は逆だと思うんだ。騒がれて有名になるから環境が変わって派手な人生を歩むようになる。そうすれば夢で見る未来も我々の日常とは違って派手になる。だからその夢も印象に残りやすくなる」 「だったら教頭先生も予知夢を口にして有名になったらどうなんです?」  無理だ、と私は西口に応じた。 「有名になった夢などこれまで一度も見ていない。一九九九年がどうなるかってこともぼくは知らんしね」 「ノストラダムスの予言は嘘《うそ》ですか?」 「さあ。少なくともそれらしい夢は一度も」 「その前に教頭先生、死んじゃったりして」  大場の冗談に西口は吹き出した。 「だから見られないってことか」  私には笑えなかった。有り得ることのようにも思えたのだ。一九九九年まであとわずかである。私自身はそれほど興味を抱いていないが、生徒たちは結構気にしている。その意味では私も無関心とは言えない。夢日記は六年も前からつけている。それを読み返すと四、五年先の未来を夢に見ていることもあるのだ。なのに、今のところ一九九九年以降の未来を見たと思われる夢の記述は見当たらないようだ。それがなにを意味するのか。大場が言った通り、その前に私が死ぬと考えてもおかしくはなかろう。私にとって存在しない未来なら夢に見ることもできない。 「いやだ、本気にしないでください」  大場は慌てて謝った。      二  家に戻ると食事もそこそこに私は書斎に向かった。夢日記を調べるためだった。この六年間でノートも二十冊近くに膨らんでいる。たいていは短い記述に過ぎないが、気になった夢はほとんど記録している。明らかに過去を見たものは二重丸、心の反映と思われるものには三角の印を冒頭に記している。さすがに未来の夢は少ない。と言うより平凡で起床とともに忘れることが多いせいだ。その未来の夢の大半が四角で囲まれている。これは後でそのまま現実となって再現されたものだ。  この夢日記を記録する切っ掛けとなったのは母親の死であった。交通事故と聞かされて八王子の病院に駆け付けた瞬間、私はその待合室のたたずまいや、若い医師の顔をすでに夢で見ていたことをありありと思い出したのだ。亡くなって葬式を終えるまでの間に私はそれを他に何度か体験した。九州からわざわざ通夜に参列してくれた大伯父と、私の勤めている学校のいじめの問題で口論したことも、数年前の夢ではっきりと見ている。もっともそのときは母の通夜の席とは思わなかった。ただ、あまりに生々しい口|喧嘩《げんか》だったので記憶に刻まれていたのである。どんなメカニズムかは知らないが未来を告げる夢に関心を抱いた。それから印象的な夢をできる限り記録しはじめたのだ。私にとって母親の死ほどショックな出来事は滅多《めつた》にない。案に相違して未来の夢はそれほど重要でもないと一年後辺りには感じるようになったが、もはやクセになって現在に至っている。  ノートを捲《めく》っていた私は鹿の柄のナイフの記述をようやく見付け出した。研修旅行で出掛けた町は刃物の生産で有名なところである。土産物屋には包丁やナイフが目立った。西部劇を思い出させる鹿の柄の大型ナイフを目にして少年時代の願望が甦った。安くはなかったけれど迷わず購入した。帰りの新幹線の中で同僚たちに自慢して見せているうちに、このナイフのことも夢で見ていると思い出したのである。夢日記の記述はまさに正確だった。大きさと皮ケースの色まで同一だ。だが同僚たちに自慢している記述はない。またノートを当たった。冒頭に二重丸や三角の記号がなく、四角で囲まれていない文章を探すだけなので面倒はない。なぜか近頃夢が現実となる頻度が増大して、まだ実現していない夢の数がぐんと減っている。やはりあった。電車の中で加藤と道又の二人に買ってきたばかりの土産を披露している他愛《たわい》もない夢。加藤の若作りのジャケットが似合わない、と書いてある。今日の加藤は旅行のために買ったという派手な柄の服を着ていた。どういうことなのだろう。こんなことははじめてだ。今日がそれほど重要な日とは思えない。なのにこれまでの夢が今日に集中している。薬のこと。西口のスパゲッティ。レストランの様子。鹿の柄のナイフ。加藤の派手なジャケット。いずれも、どうでもいいような現実なのに……私はノートをさらに捲った。また思い当たる記述を発見した。赤い太鼓橋の上で女に囲まれて悦に入っている私。女の中には若い大場みゆきも居る、とある。冒頭には三角マークの他に?の印もつけられていた。心が反映した夢か未来の夢か判断がつかなかったのだ。が、これは今朝の宿の庭での記念写真撮影のことに違いない。またまた見付かった。広い廊下で擦《す》れ違った道又が、ひどい下痢でしてね、と言いながら内股で歩いている様子がおかしい、と書いてある。道又は自律神経失調症の気味があり、下痢は珍しくない。しかし、この光景は今日の宿の中のことである。  私の心臓は騒ぎはじめた。  この重なりはあまりにも異常だ。他愛のない出来事の連続でも、今日のことをこれまでに何度となく夢に見ていたことが異常なのだ。大場みゆきの口にした言葉が重要なヒントではないだろうか。なぜ私は一九九九年という未来を見ることができないのか? 本当に私は一九九九年を知ることなく死んでしまうのではなかろうか。血圧の調子も、妻には内緒だが、あんまり良くはない。それに近頃の学校の荒廃。いじめはますますエスカレートしてマスコミにまで伝わっている。教頭という立場から私は何度となく矢面に立たされる。血圧にストレスは大敵だと言われているのに、逃れられない状況にある。  急に不安に駆られた。  他になにか示唆する記述はないだろうか。四角で囲まれていない文章を必死で点検する。たった一つを除いて、他は日常的なものばかりだった。妻との口論。これはしょっちゅうある。あまりにあり過ぎて、現実となったのに気付かないでいるのかも知れない。巨人の日本シリーズでの優勝。もしかすると未来の夢ではなく心の反映とも考えられる。息子の早稲田への合格。これだって願望か? そう思いたくなかったのでわざと未来の夢の方に分類したことを私は思い出した。  私は恐ろしくなった。  公平に判断すれば絶対にこれは未来の夢に違いないと確信を持てるものがほとんどないことに気が付いたのだ。この半月ほどの間に大半が実現してしまっている。  たった一つを除いては。  夢に登場した相手から思うに、過去では有り得ない。心の願望が反映したものでももちろんない。とすれば未来の夢としか思えなくなる。恐ろしい未来だ。  私はその文章をじっと見詰めた。  見知らぬ生徒がいきなり職員室に乱入してきてバットで教師たちに殴りかかってくる。あまりの形相《ぎようそう》にだれもが怖がって止められない。ついに生徒が私を狙ってきた。私は逃げようとして椅子《いす》に足を取られた。生徒は私の頭上にバットを振りかざした。バットの先には太い釘が何本も打ち込まれている。居合わせたテレビカメラがそれを撮影している。  三年前に見た夢である。  今の私には、その見知らぬ生徒の想像がついていた。いじめの中心人物と見做《みな》されている二年の斎藤和也のことに違いない。彼を恐れて三人の生徒がこの半年で退学した。職員室にまで踏み込む生徒となると斎藤以外に思い当たらない。 〈それが私の未来なのか……〉  悲しくなって不覚にも涙が溢《あふ》れた。あんなくだらない者の手にかかって私は死ぬのか。大学進学を間近にした息子や、私が校長になると信じて頑張ってきてくれた家内を残して。  あまりにも情けない。テレビ局もいい加減ではないか。なぜ助けもしないで撮影に熱中する。あの連中に学校の実態など分かるはずがない。無責任にいじめを糾弾しているだけだ。  明日はPTAとの会合がある。それをまた連中は冷ややかに撮影するだろう。 〈明日!〉  一瞬のうちに冷や汗が噴《ふ》き出た。  ちょうど明日はテレビカメラが学校に入っている。この夢が明日のことを示している可能性は強い。いや、そうに違いない、と私は絶望とともに確信した。異常なほどの夢の実現がそれを警告しているのだ。私の人生にとって、死を予感する日ほど大切な日はあるまい。だからこの日に未来の夢が集中しているのではないのか。私には明日しか残されていないのだ。私はぶるぶると震えた。      三  思った通りだった。  テレビカメラは職員室の外から私を無慈悲にも撮影しているだけだ。助けになんかきてくれない。こんなに職員室が血に溢れていると言うのに、それを無情に撮影している。 「やめて!」  逃れて廊下に飛び出た西口千絵が泣きそうな叫びを発した。だがもう間に合わない。  私の足元には斎藤和也の死体が転がっている。殺される前に職員室に呼び出して例のナイフで腹を貫いてやったのだ。これで私はこの男に殺される心配がなくなった。 「どうして!」  逃げ遅れて職員室の隅に蹲《うずくま》っている大場みゆきが泣き喚《わめ》いた。彼女を襲う気はない。 「このままだと私の未来がなかったんだ」  私は平常心を取り戻して言った。頭がおかしいなどと彼女に思われたくない。 「生徒を殺して先生にどんな未来が……」  どきんとした。  私は斎藤和也に目を動かした。  結局はおなじ未来だった、と私はそのとき気が付いた。 [#改ページ]   機械室の夢 「階段のとこに立ってみて」  私はファインダーから目を上げて助手の久美子に言った。ライトの加減を調整していた彼女は頷《うなず》いて階段に駆け上がった。もう一度ファインダーを覗《のぞ》く。階段だけでも歯車の大きさは見当がつくだろうが、やはり彼女が立つ方がより明確となる。 「えーっ、私が入るんですか」  そのままシャッターを押しはじめた私に久美子は驚きの声を発した。カメラマン志望であってモデルではない。そもそも、私の撮影する写真は廃棄させられた機械や品物がメインで、人物が登場することは滅多《めつた》にないのだ。 「巨大さを分からせる物差しだ。気にしないで機械を眺めていてくれ」  機械が大きければ大きいほど無駄と空虚さが伝わるに違いない。このテーマに巡り合ったのは三年前だった。田舎の大きな薬問屋の倉庫を覗かせて貰《もら》ったときのことである。そこには期限切れとなった点滴の瓶などがピラミッドのごとく積み上げられていた。勿体《もつたい》ない、としか思えなかった。と言って期限切れではどうしようもない。と同時に、豊漁のせいで価格が下落し、市場安定のためにむざむざと捨てられる魚や、野菜のことが頭に浮かんだ。なぜそれを有効利用できるような社会ではないのだろう。どうせ期限切れとなるのなら、その直前に上手に回転させるシステムが作れないものなのか? なんだか無性に腹が立って仕方なかった。それ以来、廃棄処分される品物や巨大機械などを意識的に撮影するようになったのである。新製品が発売されたために新品のまま潰《つぶ》されるパソコンの山。バブルがはじけて建設途中で放棄されてしまったマンション。ドアが壊れただけで廃車となった車。それらに向けてシャッターを押すたびに日本人の贅沢《ぜいたく》と傲慢《ごうまん》が痛感される。一枚や二枚ではさほど意味を持たないが、五百枚も並べればだれしもが空虚感を抱くに違いない。たとえば今日の現場である。莫大《ばくだい》な投資をして建設したスキー場なのに、客が思ったほど集まらず、わずか二年で閉鎖となってしまった。リフトの機械も当然放置されたままだ。機械の値段はよく知らないが、最低でも一億はするはずだ。無駄、というよりも私には放置された機械が哀れに思える。人間のわがままでここに据えられ、さしたる働きもしないうちに捨てられ、あとは錆《さ》びた鉄くずになっていく。人間はなんと傲慢なのか。山の樹木を倒し、鳥や獣の生活を奪っただけではあきたらず、品物や機械も使い捨てにする。そんな私の思いがこの写真から少しでも伝わればありがたい。 「どうした?」  私は久美子が歯車に向かって合掌しているのを認めて顔を上げた。 「まだ生きてる……」  久美子はぼんやりと呟《つぶや》いた。 「ひさしぶりに人と会って嬉《うれ》しいみたいです」  私も頷いた。この仕事を通じて私には機械や品物にも心があるような気がしてならなくなった。プライドを傷付けられ、あるいは自分の限界を知って嘆き悲しんでいる機械や品物を私はいくつも見てきた。私の感傷的な見方に過ぎないとは思うけれど、十分に働ける、それでいて人間の何倍もの大きさの歯車を見詰めていると、そこに意思の存在を感じてしまう。久美子も私の助手として半年を過ごすうちにそれを感じ取れるようになったのかも知れない。 「私の父、下町でこういう大型機械の部品を拵《こしら》えていたんです。三年前に仕事中の事故で亡くなってしまいましたけど」  初耳だった。もっとも、私は久美子の私生活についてほとんど知らない。私の個展の会場で弟子入り志願されただけだ。弟子を持つ身分ではないから、わずかのアルバイト料を払って助手に頼んでいる。 「もしかして父の拵えた部品もこの機械のどこかに使われているのかも……」  それで合掌していたのだろう。一人で納得していると久美子は、 「とうさん……私にカメラマンは無理だよね? かあさんの手伝いして工場を続けた方がいい?」  思い詰めた顔で歯車に話しかけた。  私はぎょっとなった。  久美子はじっと歯車を見ている。  私の目も歯車から離れない。  放置されていたはずの歯車がゆっくりと一回転して止まった。久美子は微笑《ほほえ》んだ。  久美子が助手を辞めて実家に戻ったのは、その翌日である。  あの歯車が動いたのはただの偶然だと私は思っているのだが、本当のところは……分からない。 [#改ページ]   埋められた池  ぼくはね、皆の知らない物凄《ものすご》い秘密を知っているんだよ。酒が入ると酔いにまかせて何度もこうして話しているんだから、本当は秘密でもなんでもなくなっているんだけどね。もう、何十年も大昔の話になるけど、ぼくが高校に通っていた頃のことなんだ。ぼくの高校は変な場所に立っていた。平安時代あたりの城跡でね、こんもりとした小高い丘の上だった。当時は今ほど遺跡保存についてうるさくはなかったから学校の建設も許されたんだと思う。だから学校の周りの土を掘ると面白いように土器とか椀《わん》などがでてきた。もっとも、そんなものを掘って喜んでいたやつは、ぼくを含めて三、四人ばかりで、ほとんどは興味も示さない。まあ、それが当たり前だよ。  ある日のことだった。  ぼくは一人で学校の裏手の池跡にでかけた。ここはとりわけ奇妙な場所で、前々から発掘してみたいと願っていたのさ。なんでも城があった当時は神社の神聖な池だったらしく、ここで吉凶占いなんかも行われたそうだ。本当かどうか知らないが若い娘たちが神への生贄《いけにえ》として何百人と捧《ささ》げられたという怪しい伝説も残されている。その娘たちの幽霊が出るという噂《うわさ》が広まって、江戸時代になってから完全に埋め立てられてしまった。確かに妙な空間だった。古い石段を下りて行くと真ん丸い広場が、まるで土の池みたいに広がっていた。昼でもちょっと薄気味悪さが漂っていて、だれも滅多《めつた》に近付かないので、その広場には草が生い茂っている。でも、ぼくには目的があったから怖くはなかった。市の博物館にはこの池の発掘調査のときに出土した銅鏡がいくつも展示されているんだ。その美しさにぼくは魅せられていた。その銅鏡も神への捧げ物として池に投じられたものなんだ。全部が発掘されたわけじゃない。少し掘れば一つぐらい見付けられるんじゃないかと張り切ってでかけたってわけだ。  だが、三、四十センチ掘ったところで池の底に到達はしない。太陽も沈みかけてきたし、甘かったと思いながら埋め立てられた池を取り囲む土手に腰掛けて眺めていたら……急に真ん中からごぼごぼと水が湧《わ》いてきて、一瞬のうちに綺麗《きれい》な池に変わってしまった。  嘘《うそ》じゃないよ。夢でもない。土がすべて水となった。  ぼくはびっくりして眺め続けた。  そうしたら池の中心から長い髪の美しい少女がゆっくりと現われた。その顔を見てぼくは思わず声を上げそうになった。知っている少女だったんだ。幸いにぼくの姿は藪《やぶ》に隠されていて少女には見えないらしかった。  見間違いではないかと、ぼくは目をこすりながらしっかりと確かめた。  やっぱりとなりのクラスの美智恵だった。打ち明けてこそいなかったが、好きな女の子の顔を見間違うわけもないだろ。どきどきしつつ見守った。彼女の姿が膝《ひざ》まで水の上にでると、あっという間にその水が引いて、また土の池に戻った。あの不思議な光景が今も忘れられない。彼女は埋め立てられた池の真ん中に膝から下を土に隠して立っていた。怖いというより圧倒された感じだった。  彼女は無言のまま足を土から抜いて広場に立つと、ぼくが盗み見ているのも知らず、石段を静かに上がって行った。ぼくはもちろん彼女のあとを追いかけた。どんなに似ていても彼女ではないことがその時点では分かっていた。でも、好きな彼女にそっくりだから恐怖は少しもなかった。  夕焼けの中を彼女は迷いもせずにすたすたと歩いて行く。やがて到着したのは小さな家だった。そこは美智恵の家だった。ますますぼくは混乱に襲われた。では、やっぱり彼女本人だったのだろうか。彼女は当たり前のように玄関を開けて入っていった。そこから後のことは分からない。まさか訪ねることなんかできないだろ。  翌日、ぼくはとなりのクラスの友人に美智恵のことをそれとなく質《ただ》した。なにか変わった様子はなかったか、とね。大ありだった。ぼくは知らなかったが、彼女は大病して半月ばかり学校を休んでいたそうだ。が、急に元気になって今日から通学しているらしい。  それでぼくはすべてを理解した。  ぼくが見たものは死ぬ予定になっている美智恵と入れ替わりに神から遣わされた新しい霊魂じゃなかったのか、とさ。そうして魂が再生しているに違いない。それとも、親の悲しみを神さまが哀れんでくれたのか。彼女は今も幸せに暮らしているはずだ。いずれにしろこの世には神も霊魂も存在する。本当だよ。あ、やっぱり信じないって顔してるね。 [#改ページ]   ありがとう  足の骨折だけで済んで幸いだったと皆は言う。さっき見舞いにきた健一は、悪運の強いやつだとぼくのことを笑っていた。だけど二カ月だぜ。これから暑い夏になるって言うのに両足にギプスをしてベッドから動けないなんて最悪だ。病院の先生は大丈夫だって言ってくれているけど、ぼくは知っている。もうクラスで一番速い足じゃなくなった。秋のジュニア・サッカーの大会も諦《あきら》めなくちゃならないだろう。監督や仲間は練習試合があるからと言って、五分も病室に居てくれなかった。すっかり見限られてしまったんだ。ぼくを突き飛ばした犯人はまだ捕まっていない。駅前でロケしていたテレビドラマに気を取られながら歩いていたので、ぼくもまったく犯人がどんなやつだったか覚えていない。  どん、と背中を押されて、気が付いたら道路に転がっていた。たくさんの人が周りに集まっていたから恥ずかしくなって立とうとしたけど、体が全然動かない。車に轢《ひ》かれた後だったんだ。なにか体にぶつかったという記憶が少しあるだけで、痛みはまるでなかった。そしてまた気を失って、次に覚えているのは救急車の中。知らない大人が何人かぼくの顔を覗《のぞ》き込んでいて、ちょっと怖かったな。  あのまま死ぬのなら、ちっとも痛くない、と思った。ママの場合は事故じゃないけど、やっぱり死んだときは痛くなかったのかも知れない。それが分かったのは嬉《うれ》しかった。  おばあちゃんは、あんな大きな車に轢かれて足の骨折だけで助かったのはママが守ってくれたからだ、と言い続けている。ぼくもそう思いたいけど、そんなのは嘘《うそ》だ。本当にママが守ってくれているなら、そもそもあんな目に遭うはずがないじゃないか。だいたいおかしいよ。ぼくは被害者なのに、皆がぼくのことを運がいい、運がいい、とばかり。  その反対だろ? 皆がロケに夢中になって犯人を目撃していないことだって、ぼくの運のなさじゃないか。お陰で警察もぼくの言葉を半分以上は本気にしていないみたいだ。轢いた運転手も見ていないらしい。彼もロケに目を動かしながら運転していたんだ。  絶対に嘘じゃない。轢かれた後のことならともかく、はっきりと背中を突き飛ばされたのを覚えている。凄《すご》い勢いだった。  ぼくの言葉を信じて、熱心に聞き歩いてくれているのは父さんだけだ。絶対に許さない、と父さんは怒った。半年前にママが病気で亡くなって、家には父さんとぼくしか居ない。犯人は必ず父さんが見付けると約束してくれた。ぼくも手伝いたい。でもこの足では無理だ。だから余計に苛立《いらだ》ちがつのる。  悔し涙が湧《わ》いてきた。  なんで轢いた運転手の言葉を信じて、轢かれたぼくの言葉を警察は信じてくれないんだ。  そこに父さんがやってきた。  ぼくは慌てて涙を拭《ふ》いた。 「おしっこには慣れたか?」  父さんは優しい笑いでぼくに言った。立って歩けないから、おしっこはおばあちゃんや看護婦さんに助けて貰《もら》っている。  頷《うなず》きながらぼくは父さんの目を見詰めた。父さんの目は真っ赤だった。さっきまで泣いていたんじゃないだろうか。 「どうかした?」 「犯人を見付けたよ」  父さんは一枚の写真をポケットから取り出して説明してくれた。 「ドラマのロケをビデオで撮影していた人たちが何人か居たんだ。そのうちのだれかがおまえの事故の瞬間を偶然撮影しているかも知れないと思い付いてね。訊《たず》ね歩いてとうとう突き止めた。画面に小さく事故の瞬間が映っている。そのビデオを借り受けて父さんの友達のところへ持って行った。友達はパソコンが趣味で、いろんな機械を持っている。ビデオの画面をパソコンに取り込んで拡大することもできる。見たら……確かにおまえの背中を突き飛ばしている人間がちゃんと映っていたよ。おまえは嘘を言ってはいない」  だったらどうして父さんはこんなに悲しそうな顔をしているんだろう? 「見てごらん」  父さんは大きな写真をぼくに手渡した。拡大写真でピントがぼやけている。だが、次第に目が慣れる。ぼくが車の前に立っている。その直《す》ぐ後ろに女性が立って背中に腕を突き出していた。紛れもない証拠だ。 「ママだ。ママなんだよ」  父さんは深い溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。 「突き飛ばされて車に轢かれたんじゃない。車に轢かれそうになったおまえを……ママが助けてくれたんだ。ママの幽霊がね」  そんなバカな! ぼくは首を横に振った。 「よく見るんだ。ママの顔だよ。第一、ママでなければこの女性も一緒に轢かれている」  ぼくは写真に目を戻した。本当だ。車が迫っている。その上、ぼくは車道に出ていた。 「ママがぼくを……守ってくれたんだ」  ぼくは泣いた。父さんも泣いていた。 [#改ページ]   ミスター・ロンリネス      一 「耳鳴り、まだ治らないの?」  待ち合わせの喫茶店で週刊誌を読んでいた弘子は私の顔を見上げて眉《まゆ》を曇らせた。 「耳鳴りってのとは違うんだ」  コーヒーを注文すると弘子は微笑《ほほえ》んだ。いつもだと弘子を促してすぐに店を出てホテルに向かう。そういうホテルが軒を並べている新宿の裏通りである。喫茶店の客もまばらだ。 「今日も仕事中に何度も薬を服《の》んでいたわね」  二人切りになると上司関係が無縁となる。と言っても弘子はもはや私の直属の部下ではない。私が部長をしている出版部から離れて今は女性向けの雑誌の編集部の方に移っている。弘子との関係はむしろ互いの部署が変わってから出来上がった。小さな会社なので部署は別でもフロアは一緒だ。 「会社の中では関係ない顔をしてくれ」  気にして何度も様子を窺《うかが》われると同僚に気付かれる心配がある。もっとも、五十に近くて頭も薄くなった自分と、帰国子女でアメリカの大学を卒業した二十五歳の弘子とを結び付けて考えるようなものは少ないはずだ。弘子の美貌《びぼう》は同業の他社にまで伝わっている。自分でもどうして弘子がそのつもりになったのか、まだ信じられない。 「よっぽど酷《ひど》いみたい」  耳朶《みみたぶ》を何度となく乱暴に引っ張る私を見て弘子は首を傾げた。 「こうすると少しは楽になる」  左の耳の鼓膜がずうっと振動し続けているのだ。医者の見立てでは鼓膜を動かす小さな筋肉に痙攣《けいれん》があるそうだ。痛くはないのだがやたらと気になる。たんたんたん、と耳元で小太鼓を叩《たた》き続けられているのと一緒だ。うるさい! と叫びたくなるほどだ。苛立《いらだ》ちがつのって仕事に集中できない。奥歯の噛《か》み合わせが悪いのか、ストレスに原因があるらしいのだが、治らないのでは理由が分かっても意味がない。これが五日間も続いている。鉛筆を深く差し込んだり、小指を突っ込んでいれば振動は一時的に治まる。しかし、鉛筆を差し込んだまま人とは会えない。 「二、三日で痩《や》せたみたい」 「正直言って気が狂いそうだ。ナチスの拷問で瞼《まぶた》に水滴を落とし続けて眠らせなくするやつがあったそうだが、ほとんどそれに近い。強い睡眠薬を使わないと眠れなくてね。こんな病気が世の中にあるなんて思わなかった。針を差し込んで鼓膜を破りたくなる」 「そんなに?」 「こっちが誘っておいて悪いが今夜はこのまま帰るよ。楽しいことでもあれば治るかと思ったのに……一向に良くならない」 「いいけど……大変ね」 「自分でも腹が立つ。女房はなにか感付いているみたいで、罰じゃないかと言ってる」  弘子は無言でコーヒーを口に運んだ。 「休暇願いを出そうかね。頭に包帯でも巻いてりゃ納得してくれるだろうが、耳の奧じゃだれも信用してくれない。そりゃそうだよな」 「明日の夜、騙《だま》されたと思って取材に付き合ってくれない? 霊能力者と会うの」 「そんなのを信じてるのか?」 「特集で半月ほど前から取材してる女性。凄《すご》いわ。本当に掌《てのひら》から真珠を出すんだもの」 「手品に決まってる。子供じゃあるまいし」  私はひさしぶりに笑った。 「病気を治して貰《もら》った人も大勢いるわ。だから、騙されたと思って……明日の仕事は?」 「夜はなんの約束もないけど」 「その病気が治れば彼女の能力も本物ってことでしょ。私も本当のことが知りたいの」 「なんだ、結局実験台か」  それならまだ気が楽になる。私は頷《うなず》いた。      二  プレハブの安っぽい道場は熱に浮かされたような二、三十人の男女で埋められていた。正面には巫女《みこ》姿の鈴木美奈子が端座していた。思っていた以上に美しい女だった。それに若い。畳に胡座《あぐら》をかいて見詰めているうち、なんだかもやもやした不審と胸の強い動悸がはじまった。見覚えのある女だ。 「どうしたの?」  弘子が私の膝《ひざ》をつついて耳元に囁《ささや》いた。 「知ってるよ、彼女。そっくりなんだ」 「だれに?」 「俺の好きだった子さ。三十年前に突然蒸発した。瓜《うり》二つだ。もしかして彼女の娘と違うかな。こんなに似てるなんて考えられない」  私はまじまじと美奈子を観察した。若い頃の記憶がはっきりと甦《よみがえ》る。忘れようと言い聞かせて頭から追いやった存在だ。甘酸っぱい感傷が私を満たした。今でも彼女の蒸発が納得できない。私たちは愛し合っていたはずだ。なのになんの前触れもなく失踪してしまったのである。警察も事件の疑いがあると見做《みな》して近隣を捜索したが、半年後に間違いなく彼女の声の電話が両親の元に入った。無事だとばかり告げて電話が切れた。私にはなんの連絡もなかった。私の大きな傷となっている。 「彼女の娘なら歳勘定も合う」 「だって……そんな偶然がある?」 「俺は三十年もずっと捜し続けてきたんだ。仕事柄、何万人もの相手と会っている。こうして巡り合っても不思議じゃない」 「そんなに好きだったの」 「蒸発した理由が分からないんだ。なんとしてもそれだけは聞きたいと思ってね。互いにまだ二十歳前だったが結婚の約束もしていた」 「彼女、両親に捨てられたんですって。施設で育ったそうなの。母親がその人だとしても、きっとなにも知らないんじゃないかな」  静かに、と前の席の男が振り向いて制した。  美奈子に神が憑依《ひようい》したらしい。  美奈子はゆらゆらと立ち上がった。  両手を広げる。皆の視線が美奈子の掌に集中した。私も膝を立ててしっかりと観察した。  広げている両方の掌にいきなり真珠が出現した。皆は歓声を発した。美奈子は掌を返す。真珠が畳に落ちる。前の席の男女がいっせいにそれを奪い合う。美奈子はまた掌を天井に向けた。固唾《かたず》を呑んで見守っていると、やわらかな掌の肉を押し分けるようにして真珠がふたたび出現した。私は唖然《あぜん》となった。とても手品とは思えない。もちろん天井から落とされたものでもなかった。美奈子は目を開くと二つの真珠を客の中に投じた。わっとばかりに皆が飛び付く。畳に転がった小さな真珠を追って道場は騒然となった。 「どう……手品だと思う?」 「信じられないが……手品じゃないとしたらなんだと言うんだ? まさか神だなんて」  私の笑いはそれでも力を失っていた。 「彼女はこの世界では有名なのか?」 「それほどでもないわ。テレビの仕事はいっさい断っているそうよ。顔写真も困ると念押しされたの。宣伝する気がないみたい」 「こんなに凄いのに?」 「でしょ。アメリカでも見たことがない」 「病気も本当に治すのか?」 「この前は車|椅子《いす》の人が歩いて帰ったのよ」 「サクラってこともあるからな」 「だから一緒にきて貰ったの」  弘子は私を立たせて前に進んだ。  あらかじめ弘子から聞かされていたらしく美奈子は無表情の顔で挨拶《あいさつ》した。私は間近から美奈子を見据えた。絶対に間違いない。彼女は真紀子の娘だ。目元や額の形まで似ている。それに、綺麗《きれい》な歯並びだって……。 「気になる耳の方を」  美奈子は冷たい目で促した。私は膝を進めた。美奈子の指が私の耳に触れる。ぞぞっと寒気がした。この指の感触。忘れていたが真紀子のものだ。小さな白い掌を握り締めたい欲望と私は戦った。美奈子の指が私の耳の後ろを探る。じーんと痺《しび》れのような熱が耳の奧に達した。鼓膜の振動が薄れる。そして、まったく聞こえなくなった。それが美奈子にも分かったらしく、微笑んで指を離した。  私は耳朶を抓《つま》んで何度も引っ張った。  完全に治まっている。 「どうなの?」  弘子が答えを急《せ》かした。 「治った……嘘じゃない」  道場に拍手が広がった。私は客たちに頷いた。晴れ晴れとした私の顔に皆は笑った。 「しかし……なんでこれが……」  私にはまだ信じられなかった。一週間近くも悩まされた病いである。顎《あご》を動かして奥歯の噛み合わせを確かめる。それでも鼓膜の振動はまったくなりを潜めている。  美奈子は次の客を目で促した。      三  道場の近くの深夜レストランで私と弘子は美奈子の来るのを待っていた。今夜の会が終わったらインタビューに応じてくれる約束だ。 「まだ耳鳴りは起きない?」 「大丈夫みたいだね。こんなに人のざわめきが心地好《ここちよ》いのはひさしぶりだ」  弘子に付き合ったホットケーキを味わいながら私の気分も上向きになっていた。 「余計な質問は私の後にしてよね。機嫌を悪くされちゃ嫌だもの。自分を捨てたママの話なんてしたくないに決まってる」 「出身はどこなんだ?」 「それもよく分からない。大阪の施設と聞いたから、きっとあっちの方だと思うけど」 「島根から遠くに離れるとしたら大阪をたいてい目指す。ますます可能性が強まった」 「どんな人だったの?」 「だから彼女と一緒さ。体つきもおなじだ」 「居なくなったのは十九なんでしょ。それらしい悩みもなんにもなくて?」 「俺《おれ》にはそう見えた。俺へのセーターを編んでくれている途中だった。自惚《うぬぼ》れじゃない。彼女の心なら分かっていたつもりだ」 「彼女のお家の方に問題でも?」 「なかったと思う。俺は彼女の弟とも仲がよかった。もちろん詳しく確かめたさ。いきなりなんの理由《わけ》もなく消えたんだ。金も持っていた形跡がない。それで警察は事件に巻き込まれた可能性があると疑った」 「不思議な話ね」 「島根辺りには神隠しの話が多い。彼女から電話があるまで、それじゃないかと一時は評判になった。俺は信じなかったけどな」 「どうして電話をくれなかったんだろ」  弘子は私を気の毒そうに見詰めて、 「私だったら両親より好きな人の方に……」 「電話で無事が確認されるまでの半年間、毎日|辛《つら》い思いだったよ。身元不明の死体が発見されるたびに彼女じゃないかと案じてね。全国の警察から彼女の両親に連絡が入る。俺の町でも一つ見付かった。海に飛び込んだ遺体で、半分骨になっていた。時期がほとんど一緒だったから彼女に間違いないと皆が思った。でも歯形や服装で別人と分かった」  弘子は溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。 「その辛さが続いていたんで、とりあえず無事と知って喜んだ。今となってみると、本当に彼女の声だったのか疑いたくもなるけど、両親も信じたかったんだろうね。その気持ちも分かる。警察から連絡があるごとに悲しい想像をしたくない。俺も生きているに違いないと信じることにした」 「そんなことがあっても……男の人って別の人と結婚できるのよね。彼女が可哀相《かわいそう》」 「可哀相なのは俺の方だろう。なんにも相談されずに捨てられたんだぞ」 「奥さんはそのことを?」 「知らんさ。話す必要もない」  そこに美奈子が現われた。短いスカートに明るい色のセーター姿だった。巫女のときとは格段に違う若さが感じられた。店のBGMは懐かしのポップスの有線放送だ。耳が治ったのと重なって私は浮き浮きしはじめた。この曲たちが流行していた頃に付き合っていた恋人と瓜二つの女の子を前にしている。時間が遡《さかのぼ》ったような錯覚にとらわれる。  美奈子は弘子の質問に澱《よど》みなく応じる。  私にはまるで興味がないようだった。  それが当然だ。二十二、三の娘にとって五十近い男など、もはや興味の対象ではない。それでも私は幸せだった。美奈子の仕草や微笑みに真紀子が重なって見える。今夜は余計な質問などせずに、また会えるような段取りをつけようと私は思っていた。彼女に本の執筆でも依頼すれば付き合いが深まる。そうしてゆっくり聞き出せばいい。   ミスター・ロンリネス   さびしい一人ぼっちの男   いつも恋に憧れて、ただ一人夢み  スピーカーから好きな唄が流れてきた。スリー・ファンキーズの歌った『ミスター・ロンリネス』だ。だれにも理解されない男の悲しみと恋心を、それでいてさらっと歌い上げている。ロマンチシズムに溢《あふ》れた唄だ。私は全部の歌詞を諳《そら》んじている。私の青春の唄の一つと言ってもいい。二人が前に居ることも忘れて私は無意識に曲に合わせて低く口ずさんでいた。この曲を聞くのは何年ぶりだろう。   ミスター・ロンリネス   だれか、この悲しいぼくを   そっとやさしく愛して   抱いておくれ、すぐに  しかし五十近い男が人前で口ずさむ唄ではない。気付いて自分ながら苦笑した。  二人が私を見詰めていた。  美奈子と目が合った。  美奈子の唇も小さく動いていた。無音で彼女も私と同じ唄を口ずさんでいたのだ。  私の視線を察して美奈子は歌うのを止めた。  私の体に緊張が生まれた。  美奈子は怪訝《けげん》な表情で私を凝視《ぎようし》した。  なにか言いたそうな様子でもある。  それは真紀子と変わらぬ顔だった。 「どうしたんですか?」  弘子は美奈子に質《ただ》した。  美奈子の表情が元の冷たさに戻る。美奈子は小首を傾げて首の後ろを揉《も》んだ。 「だれに教えられた唄なんだい?」  たまらず私は美奈子に訊《たず》ねた。 「え?」  美奈子には質問の意味が分からなかったらしい。今口ずさんでいた唄だ、と私が重ねると美奈子はますます戸惑って、 「私、そんな唄なんて」  はっきりと否定した。 「変だよ、彼女」  美奈子がインタビューを終えて立ち去ると私は真っ先に弘子に言った。 「唇の動きで分かった。あの唄を知ってる」 「それがそんなにおかしいの?」 「三十年も前の唄だぞ。普通なら彼女がちゃんと知っているわけがない、間違いなくだれかに教えられたんだ。なんでそれを隠す?」 「昔の唄を知っている人はたくさん居るわ」 「真紀子にレコードをプレゼントしたんだ。ラブレター代わりにね。俺の思っていることのすべてが代弁されている気がしたんだ」 「……」 「それから真紀子との付き合いがはじまった。大ヒットした唄じゃない、LPにしか収録されていなかったんだよ。それをどうして彼女が俺と同じようにすらすらと歌える?」 「ママから教えられた唄ということ?」 「それ以外に考えられるか? 絶対にそうだ。なのになんで隠したんだろう」 「ママのことで知られたくないことでもあるのかしら?」  弘子も私の言葉を信じはじめた。 「五日後にまた今夜と同じ会があるの。取材は終わりだけど、原稿を見て貰う約束があるから、それとなくママのことを聞いてみる」 「そうしてくれ。俺も行けたら付き合う」  私の胸はあやしく弾《はず》んでいた。もしかすると真紀子自身の消息が掴《つか》めるかもしれない。      四  仕事の都合で遅くなった。この分ではすでに会も終わっているだろう。遅れた場合はこの前と同じレストランで待ち合わせてある。  思った通り道場の明りは消えていた。  私はレストランに引き返すことにした。公園を抜ける方が近い。私は暗がりに向かった。  遠くから言い合いしている声が聞こえた。  私は立ち止まって音の方角を見やった。  明りの少ない公園で様子がよく分からない。  私は足音を忍ばせて藪《やぶ》に入った。声はどうやらその向こうから聞こえてくる。身を隠す必要などないのに、状況が分かるまでは覗《のぞ》き見とあまり変わらない。声が近付く。 〈なんだ……〉  暗さでシルエットにしか見えないが、それは弘子と美奈子だった。声をかけて藪から出ようとした私だったが、なにやら気まずい雰囲気に躊躇《ためらい》が生じた。弘子は美奈子の母親について質問しているのだろう。それなら私が側に居ない方がよさそうにも思えた。  美奈子の笑いが遠くから伝わる。  弘子もくすくす笑いはじめた。  美奈子が弘子に心を許したと思える。  私はほっとして一人頷いた。その瞬間だった。  美奈子が紐《ひも》を手にして弘子の首を締めた。弘子は突然の襲撃に無防備だった。  低くて長い悲鳴が私の耳に届いた。  あまりのことに私の足は強張《こわば》っていた、声を発することもできない。がたがたと体が震《ふる》えた。目でその光景を凝視していながらも動きがとれない。情けないと思いつつも私は自分の気配を悟られないようにするのが精一杯だった。弘子が地面に崩れた。美奈子はそれでも念入りに首に巻いた紐を締め上げる。  そしてずるずると弘子の死骸を引き摺《ず》りはじめた。その姿が暗闇《くらやみ》に溶け込んで行く。  怖かった。恐ろしくてたまらない。  膝がようやく動くようになったのは、それから二、三分後のことだった。藪から飛び出して美奈子の姿を捜した。見当たらない。弘子の死骸をどこかに隠して逃げ去ったのだ。彼女の住まいを私は聞いていない。私は呆然《ぼうぜん》とその場に立ち尽くした。  駅前の交番に駆け込んで事件を報告した。  警官は私の言葉を簡単には信じなかった。  私から酒の匂いが漂っていたのも関係している。女が女の首を締めているのを黙って見過ごしていたという点も納得できなかったらしい。あの怖さは間近で見ていなければ理解はして貰えない。私は喚《わめ》き散らして警官を美奈子の道場に連れて行った。私の知る手掛かりはそこしかなかった。  私は警官の制止を無視して道場のガラス扉を蹴破った。中に入った途端に石油の匂いが鼻を衝《つ》いた。警官がライトを向けた。道場の真ん中に女の死骸が転がっていた。石油をかけられて燃やされたらしく死骸は無惨な状態だった。が、幸いにも火はそれ以上広がらなかったようだ。私は弘子の死骸に駆け寄った。  顔が辛うじて識別できる。  強烈な吐き気が私を襲った。  それは弘子ではなかった。  美奈子の死骸だったのである。 〈では……私の見間違いだったのか?〉  そんなはずはない。断じて首に紐を巻き付けたのは美奈子だ。有り得ない。  黒く焼け爛《ただ》れた美奈子を見下ろしながら私は困惑と恐ろしさの両方を覚えた。      五  三年後。  私は出張で仙台を訪れた。この町に長編を依頼している作家が住んでいる。 「世間には知られていないけど、凄《すご》い超能力者が居るんですよ」  若い作家は馴染みのクラブで私に教えた。 「あれは絶対に手品とは思えない。だって、ぼくが睨《にら》んでいる目の前に真珠を出す。あれが手品なら、それもまた物凄い才能だな」 「真珠を?」  私の心臓がざわめいた。 「まだ若くて綺麗《きれい》な女性です。興味ありますか。あるなら彼女の店に案内しますよ」  若い作家は敏感に見抜いた。この店の近くで小さなスナックを開いているという。  いや、と断わって店の名と場所だけ聞いた。美奈子であるはずがない。死骸は私がこの目で確認している。私はあの厭《いや》な事件を思い出していた。警察は必ず私が事件に関係していると睨んでしつこく調べ上げてきた。弘子の死骸も結局発見できなかった。これで美奈子に他殺の痕跡でも見付かれば私は重要な容疑者に仕立て上げられていただろう。美奈子は焼身自殺と断定されたのである。弘子の方は失踪と判断された。死体がなくては事件が成立しない。私がなぜその現場に居たかについては取材の途中だったということで警察にも一応の納得を得られた。が、女房はなにか感付いたようで、それから間もなく私たちは別居した。離婚しないのは単に世間的な体裁でしかない。嫁入り前の娘の存在も大きい。 〈もう関わるのはごめんだ〉  私は無理に厭な思い出を追い払った。  作家と別れてホテルへ向かう途中で私はまた繁華街へと引き返した。もう一時を過ぎている。店が閉まっているだろうと思いつつ訪ねると、まだ店の中は明るかった。私は扉をそっと開けてカウンターを覗いた。  心臓が凍り付きそうになった。  そこで二人の客と談笑している女は、紛れもなく弘子だったのである。眩暈《めまい》がする。本当に私の膝は崩れた。弘子がこちらを向いた。 「どなた?」  弘子はカウンターから出てきた。私はよろよろと腰を上げた。弘子にすがる。 「生きていたのか……」  悔しさと嬉《うれ》しさが同時に込み上がった。 「てっきり俺は君が……」 「どちらさまですか?」  弘子は冷たい目をして私を押し返した。 「弘子君だろ。俺だよ。どうしたんだ」 「人違いだわ。お帰りください」 「美奈子は自殺として処理されたんだ」  だから大丈夫だと私は重ねた、弘子を見た瞬間、私は弘子こそが犯人だと分かったのである。それで弘子は他人のふりをしているに違いない。ここには人の目がある。 「メトロポリタンの五一〇号室だ」  私は小さく頷いて弘子に耳打ちした。 「帰ってよ。警察を呼ぶわよ」  弘子の叫びに二人の客が立ち上がった。 「君は弘子だろ。その首の包帯だって……」  たじたじとなりつつ私は返した。 「警察を呼べば困るのは君だぞ。その包帯の下には締められた痕が……」  弘子の平手打ちが私の頬《ほお》に決まった。  私は急に怖くなった。  その冷たい表情は美奈子のものだった。      六  とんとんとん、とガラス窓の叩《たた》かれる音がずうっと続いている。私は目が覚めてもぼんやりとしていた。ここが仙台のホテルということも咄嗟《とつさ》に思い出せないほどだった。ホテルに戻ってもなかなか寝付かれず冷蔵庫のウィスキーをあらかた呑み干したのだ。頭が割れるように痛い。とんとんとん……だれかが窓を叩いている。私はベッドから起き出してカーテンを大きく開け放した。  窓の外に弘子が立っていた。  ここが五階であることを私はその瞬間思い出して悲鳴をこらえた。ベランダなどない。  弘子の体がふわふわと闇《やみ》に漂っている。  逃げようとした途端、ガラスを突き抜けた弘子の腕が私の肩を掴《つか》んだ。私はへたへたと不様《ぶざま》に尻餅《しりもち》をついた。弘子が入ってきた。ガラス窓を叩いていたのはただの確認だったのだ。 「またおまえだったのか」  弘子は浮いたままで私に言った。 「余計なことをしてくれた」  これは絶対に弘子ではない。化け物だ。 「客たちが怪しむようになった」  弘子は私を憤怒の顔で睨んだ。 「あの女の体でまだ二、三十年は保つと思っていたのに……それもおまえに邪魔された」  なんのことだろう? 私は見上げた。 「この女にしたばかりだぞ。なぜしつこく付き纏《まと》う。おまえはあの女のなんだったのだ」 「……」 「すっかり私の体になっていたのに……あの唄で女の脳が目覚めた。それで捨てねばならぬ羽目となった」  私にもだんだんと分かりかけてきた。  あれは美奈子ではなく、本当の真紀子だったのだ。そして、真紀子に変わる前のこいつは……あの、海に飛び込んで半分ほど骨と化していた死骸だったに違いない。私は……真紀子と巡り合ったのだ。  だが……正体を突き止められそうになったこいつは……弘子を殺して中に入り込み、真紀子の死骸を処分した。石油で焼いたのは指紋の照合を避けるためだったのだ。そうして次々に人間を移り変わって生き延びている。 「今度はおまえにするしかない」  弘子は首の包帯を解いた。するとどす黒い痣《あざ》が首を囲んでいた。弘子は包帯を手にして私に迫った。私は一歩たりとも動けなかった。   ミスター・ロンリネス   さびしい一人ぼっちの男   ミスター・ロンリネス   不幸な、かわいそうなこの男  乗り移った途端、その唄が私の口をついて出た。知らず知らず涙が溢《あふ》れた。  そうだ。  私はまさにこの唄とおなじ存在なのだ。  どこまでも、たった一人で人間の体を転々として生きて行かなければならない。  私を理解する者などこの世に一人も居ない。  私をこの世に追放した神だとて……。   ミスター・ロンリネス   不幸な、かわいそうなこの男   ミスター・ロンリネス   さびしいこのぼくを愛しておくれ  女の方は屋上からの飛び下り自殺に見せ掛けようと思いながら、私はいつまでもこの唄を口ずさんでいた。 [#改ページ]   廃墟《はいきよ》の天使  なぜこんな奥深い山の中に巨大な建物の廃墟があるのか? 私は驚きと混乱を覚えながら足を踏み入れた。二、三年前に発行された地図であるが、この辺りは自然道ばかりでなんの施設もないはずである。いや、地図が古いから掲載されていないなど有り得ない。この建物は少なくとも四、五十年も昔に建てられたもののはずだ。廃墟だから最近の地図から抹消させられたと見るべきなのだろう。それにしても……中に立って廃墟を見渡して私は思わず溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。なにかの工場跡と見えるけれど、山奥にはまったくそぐわないものであった。床には深くて広い坑が何本も掘られている。この坑に潜ってなにかの作業をしたものらしい。私に思い当たるものは電車や自動車の修理工場だ。この坑の上に車両を置き、人が坑の中に入って車体の底部の点検や修理を施すのである。だが……それも奇妙な話だ。電車をここまで運ぶ線路の跡や大型の車が上ってこられる道はどこにもない。修理ではなく、ここで組み立てたとしてもおなじことであろう。どこにも運べない。この工場に他にどんな用途が考えられるかとあれこれ頭を巡らせてみたが、私の乏しい想像力では思い浮かばない。もしかして戦争中の秘密の軍需工場という可能性は? それなら敵に発見されにくい山の中に建てることも十分に考えられる。戦争が終わって五十年。広かった山道もすっかり藪《やぶ》に覆われてしまったというわけだ。そういう廃墟であれば地図に記載されていないのも不思議ではない。私はリュックサックからカメラを取り出して撮影した。死ぬ覚悟でこの山へやってきたというのに……カメラを無意識に詰め込んだ自分に気が付いて苦笑が洩《も》れた。いつもの山歩きのクセがでてしまった。山にしか興味の持てない自分をなんとか引き上げて入社させてくれた大先輩。預金者の金を使い込んだのはその大先輩だが、薄々知っていて見過ごしていた自分にも責任がある。自分がすべてを背負って死ねば大先輩の家族にも辛《つら》い思いをさせずに済むのだ。私はどうせ独り身の気軽な立場である。 「そうよ、これは戦争の廃墟なの」  カメラを構えている私の真正面に、いきなり少女が出現した。危うくカメラを取り落とすところだった。信じられない。少女が軽装で、しかも一人でこられるような場所ではない。 「でも、あなたの知っている戦争じゃないわ」 「そりゃそうだよ。ぼくはまだ二十八だ」  屈託のない少女の笑顔に私の警戒心は薄れた。この少女がたとえ化け物だとしても、明日には死んでいる予定の私にすれば恐るるに値しない。むしろ身近な存在だ。 「そんな意味じゃないけどな」  少女はくすくす笑って、 「ここはあなたにとって未来の戦争の廃墟なのよ。私が十歳のときに起きた戦争」  私は首を傾げた。意味が分からない。少女の年齢は十五、六。それなら五年前に戦争があったことになるのだが……。 「私の名前は純子」  名乗って少女は私をしっかりと見詰めた。 「おじいちゃんの初恋の人の名前なんでしょ」 「え?」 「おじいちゃんから聞き出したの。中学のときの同級生だったって。金井純子さん」  ざわざわと背筋に寒気が伝わった。それは私の恋していた女の子の名前だった。 「私はここで友達皆と死んだの」 「…………」 「工場見学のときに大きな爆弾が町に落とされて……一瞬だから怖くもなかった」 「つまり……君は幽霊か」 「違うわ。だってこの時代には私はまだ生まれてもいないもの」  彼女はにっこりとして、 「十歳で死んじゃったのは悲しいけど、それまで毎日が楽しかった。産んでくれたおかあさんにも、そのおかあさんをこの世に誕生させたおじいちゃんにも感謝してる。だから、おじいちゃん、死なないで。でないと私も生まれてはこれないわ。たった十年でも、私には大事な、かけがえのない十年なの」  それだけ言って姿を消した。  私の周りから廃墟の幻も消えた。  私は狭い山道に立っていた。 「今の工場は……」  私の故郷の自動車工場だと思い出した。  私は未来の自分の孫娘によって自殺を押しとどめられたのである。孫娘は、たった十年の命でも大事にしようとしていた。地球の未来がどんなに悲惨であろうと、私はあの孫娘のために生きる決意を固めていた。 [#改ページ]   雪の故郷  雪に包まれた盛岡の町並みは本当に美しかった。近代的なマンションも雪の化粧でロマンチックに見える。私は幸福な思いに満たされながら歩いていた。こういう季節に帰省したのは、いったい何年ぶりのことだろう。しかも正月で綺麗《きれい》な振《ふ》り袖《そで》の女の子たちとも擦れ違う。真っ直《す》ぐ実家に向かうつもりでいたのに、雪に歓声を上げながら小さなスキーを手に駆け抜けていった子供たちにつられて、私も城跡への道を辿《たど》った。城の長い坂道でスキーをした少年時代の思い出が甦《よみがえ》ったからだ。今も子供たちがおなじ遊びをしているらしい。  この城跡もひさしぶりだ。啄木《たくぼく》が、空に吸われし十五の心、と溢《あふ》れる青春の夢とあこがれとを詠んだ場所だ。二十年も昔のことになるけれど、私も高校の授業をさぼっては、この城跡の草むらに寝転んで青い空を見上げていたものだ。女の子とデートもしている。  城跡の中心の広場に通じる坂道ではたくさんの子供たちが雪遊びをしていた。盛岡でもこの時期に十五センチの積雪は珍しい。  私の胸はわくわくしはじめた。  東京には暗い目をして携帯電話で連絡を取り合っている子供たちまで居るのに……どうして私はこんなに豊かな町を捨ててしまったのか。本当の生活はこちらにこそある。自分に責任の大半があると承知していながらも、妻や子供たちと別れることになったのは東京という町のせいだったのではないか、と感じた。この静かな町でのんびりと仕事をしていればあるいは……よそう。すべては愚痴だ。  私の肩の辺りをかすめて雪合戦の雪玉がいくつも飛んでいく。頬《ほお》を真っ赤に染めた男の子が元気に突進してくる。  私は坂道を下りて広場に足を踏み入れた。  この広場には、かつて小さな動物園があった。熊や狸や鹿を見ることができた。幼い頃には母親にせがんでよく見物にきたものだ。  おや……動物の檻《おり》がまだある。だいぶ前に廃園になったと耳にしているのに。また作られたようだ。私は足を早めた。  私の大好きだった熊の檻の前に年配の男と女が立っていた。真剣に檻の中を覗《のぞ》いている。  私も二人のとなりに並んで檻を眺めた。  だが、そこは熊の檻ではなかった。  私がついこの間まで暮らしていた杉並のマンションの一室だった。私が妻と激しい口論をしている。中学生の娘はその喧嘩《けんか》も気にせずに側で音楽を聴いている。私は妻に灰皿を投げ捨てた。仕事の帰りが遅いのは私のせいではない。会社が危なくなっているのだ。  地獄だった。  なぜ妻や娘と手を取り合っていこうとは考えなかったのだろう。なぜやり直そうと思わなかったのか。  場面は一変した。  私が一人で、空っぽのマンションにいる。 「辛《つら》いよねえ。たった一人だもの」  となりの女が私に優しく声をかけた。それは私の母親だった。十二年も前に死んでいる。  私はまた檻に目を動かした。檻の中の私はベランダにでて……六階から飛び下りた。 「俺《おれ》……死んだのか」  私は懐かしい母に訊《たず》ねた。そうだ、盛岡にもう実家などない。両親とも死んでいる。 「詰まらねえ男に育っちまいやがった」  悲しい顔で父が私を見詰めた。  私は振り向いて雪面を探した。  白く積もった雪に私の足跡はなかった。 [#改ページ]   正之助《しようのすけ》どの 「正之助どの、どこかにお散歩でござるか」  玄関先で出張から戻った父さんとぶつかりそうになった。 「やめてよ」  機嫌のいいとき父さんはぼくのことを必ず正之助どのと呼んで時代劇ドラマのような言い方をする。学校でもさんざんからかわれているんだからたくさんだ。まったくなんだってこんな妙な名前にされてしまったんだろう。ぼくのクラスには自然とか雄大というかっこいい名前のやつも居る。なのにぼくは正之助。ぼくが生まれたときはまだひいお祖父《じい》さんが元気で、自分の子供の頃にそっくりだと言って無理に押し付けた名前らしいが、断わってくれたらよかったのに、と切実に思う。いくら偉いひいお祖父さんだったとしても強引だ。それだけぼくの将来に期待してくれたんだと皆はなだめる。でもこの名前で苦労しているのはぼくなんだぜ。そりゃ、ひいお祖父さんのこと尊敬してるよ。駅前に銅像が立ってるくらいなんだもの。この町の恩人なのも確かだ。物凄《ものすご》いアイデアマンで、いろんな玩具《おもちや》やお菓子を考案した。昭和のはじめにふりかけの原形みたいなものまで作ったと言うんだからびっくりする。ひいお祖父さんの存在がなければこの町はただの田舎町になっていただろう。けど、名前は貰《もら》いたくなかった。  ぼくは父さんを睨《にら》み付けて城跡に向かった。  まだ友達にも秘密にしている凄い場所を見付けたんだ。あれが昔から言われている抜け穴に違いない。昨日は懐中電灯がなかったんで二メートルくらいしか入れなかったが、今日はちゃんと用意してある。あれはただの隙間《すきま》じゃない。絶対にどこかに通じているはずだ。それを思うとわくわくした。仲間を誘うべきか迷ったけれど、もう少し調べてからにしようと決めたんだ。直《す》ぐに行き止まりだったら笑われる。町に残された伝説通りなら城の財宝だって隠されているかも知れない。  だけど、どうしてあの石垣にあんなに大きな隙間が突然できたんだろう。目立たない場所だから見落としていた可能性もある。しかし、この一週間かそこらにできた隙間なのは間違いない。ぼくは城跡が好きでよく行く。二日前の大きな地震のせいかも知れない。それで抜け穴を塞《ふさ》いでいた土が崩れたのかな。  城跡の坂を駆け上がって藪《やぶ》を掻《か》き分ける。  隙間はまだそのままだった。人が近付いた様子もない。土にはぼくが昨日つけた足跡しか見当たらない。懐中電灯をつけて中を照らした。やっぱり相当奥まで穴が通じていた。  心臓がどきどきしはじめた。  楽に行けそうな穴だが、土の天井が崩れてこないだろうか。そうなれば生き埋めだ。とにかく、五、六メートルは入ってみようと決心した。ここで尻込《しりご》みするのは男じゃない。  ぼくは口笛を吹きながら穴に潜り込んだ。  変な虫とかが居るんじゃないかと、それは心配だったが穴は綺麗《きれい》に掘られていてみみず一匹見当たらない。ますます確信を抱いた。五、六メートルのつもりがどんどん勇気が湧《わ》いてきた。崩れそうな天井でもなかった。  どれだけ歩いたんだろう?  心細さを感じたときにタイミングよく目の前が明るくなった。出口に達したらしい。この方角なら城の池の辺りに違いない。財宝がなかったので失望したものの、ほっとする。  そのとき——  また大きな地震に襲われた。体が浮くほどの強さだ。恐怖だった。もし出口が崩れて塞がれたら閉じ込められてしまう。ぼくは必死で出口を目指した。もうちょっとだ。ぼくは駆けた。今にも天井が落ちそうだ。  出口から飛び出した瞬間、本当に穴から激しい地響きがした。ぼくは振り向いた。穴が完全に塞がっている。寒気が後から襲った。土煙がもうもうと穴から噴き出している。もう少しで死んでいたに違いない。ぼくは気を失った。きっとだれでもそうなる。  何時間か後。ぼくは見知らぬおじさんに揺り起こされた。おじさんは驚いていた。 「なんでこんな山の中に一人で?」 「抜け穴を通ってきたんです」  ぼくは後ろを示した。抜け穴らしきものは消えていた。ぼくは深い山の中に居た。こんなこと有り得ない。城跡から五百メートルも離れていないはずなのに…… 「どこの町だって?」  ぼくの説明におじさんはますます驚いた。 「その町なら汽車で一日はかかるぞ」  ぼくは思わず泣いた。だって……町ばかりか時代も違っていたんだ。大正十二年だとおじさんは言ったのだ。それなら、ひいお祖父さんの生きていた時代じゃないか。そんなの嘘《うそ》だよ。そんな馬鹿な話があるもんか。  泣きながら、ぼくはひいお祖父さんのことを思い出していた。ひいお祖父さんは孤児だったと聞いている。ふらりと町に現われて住み着いたのだ。ぼくとおなじような歳の頃に。 〈だからおなじ名前にしたのかい?〉  ぼくはひいお祖父さんだったのかも知れない。ぼくもふりかけが大好物だもの。  目の前のおじさんが大嘘つきであって欲しい、とぼくはそれだけを念じていた。 [#改ページ]   ピーコの秘密  ピーコが居なくなって三日にもなる。今日こそはきっと戻っていると信じて学校からどこにも寄らずに走って来たんだけど、ママの沈んだ声を聞いたらそれで分かった。パパは雪がとけて春になったから仲間たちと一緒に遊んでいるだけさ、と慰めてくれるが、三日も帰らないなんてはじめてだ。事故にあって動けなくなっているんじゃないだろうか。猫同士の喧嘩《けんか》で怪我《けが》をしたのかも知れない。それとも犬にでも追いかけられて迷子にでもなったのか。布団に入ると嫌な想像ばかり浮かんでくる。ノラ猫とでも間違えられて保健所に連れて行かれていたらどうしよう。三味線なんか今は売れないから猫捕りなんて居ないよな。もしお腹を空《す》かせていたら可哀相《かわいそう》だ。だれか親切な人に出会って缶詰でも貰《もら》っていればいいんだけど。あいつは他人に滅多《めつた》に懐《なつ》かないやつだから、きっと我慢しているに違いない。ぼくの布団にしか入ってこないやつなんだもの。考えていると涙がでてくる。はじめてピーコと出会った日のことが思い出された。どしゃぶりの日だった。ピーコは公園の滑り台の下で雨を怖がって泣いていた。大人たちは皆知らないふりをして通り過ぎて行く。近付けば逃げると思ったのにピーコはぼくが側にしゃがむとよろよろと寄ってきた。前足に怪我をしていた。毛は雨に濡《ぬ》れて、痩《や》せた体がはっきり分かった。小さかった。ぼくは思わず抱き締めた。ピーコはごろごろと喉《のど》を鳴らしてぼくの胸に頭を押し付けた。動物はだめと言われていたけど、このままにはしておけなかった。ぼくは家に連れて帰った。パパとママはもちろん叱《しか》った。でも、嬉《うれ》しそうに皆に甘え続けるピーコを見てパパも許してくれた。その代わり次の学期には算数で満点を取る約束をさせられたけどね。あれから……三年が過ぎている。ピーコはすっかり大人になって、今では我が家の主のようにいばりくさっている。でもぼくの命令だけは聞く。ピーコはぼくの一番の友達だ。  我慢ができなくなってぼくはピーコを捜しに出た。パパやママには内緒だ。真夜中の二時だもの、許してくれるわけがない。  ピーコの遊んでいた公園や駐車場を覗《のぞ》いて見たが見付からない。だんだんと知らない場所に踏み込んで怖くなってきた。星が綺麗《きれい》な夜なのでなんとか耐えられる。そのとき、ぼくは夜空を駆ける大きな火の玉を見た。ゆっくりと飛んで公園の方に落ちた。あれはUFOじゃないのか? ぼくは公園に向かった。怖いとは思わなかった。きっと、皆も見ていて公園にたくさんの人が集まっているに違いない。逆にわくわくした。  だが、公園はひっそりと静まりかえっていた。火の玉が落ちた様子もない。ぼくは公園をあちこち捜し回った。そして発見した。藪《やぶ》の中に二メートルほどの小さなUFOが、まるでかくれんぼをしているかのように着陸していた。柔らかな光を発しながらゆっくりと回転している。さすがに怖さが戻った。なにが出てくるか分からない。でも足がすくんで動けなくなっていた。なんで大人たちが来てくれないんだろう。これを見ていたのはぼくだけなんだろうか。ぼくはこのUFOにさらわれてしまうかも知れない。  ふいに後ろからたくさんの猫の唸《うな》り声が聞こえた。ぼくは振り返った。金色の目玉を光らせて五、六十匹の猫がぼくを取り囲んでいた。一番前にいて尻尾《しつぽ》を膨らませているのはノラ猫のクロだ。いつも顔を見ると頭を撫《な》でてお菓子をやっているのに、今は獣のようにぼくを脅かしている。 「殺せ、殺せ」  そんな声が耳の中に響いた。猫たちの声がなぜかはっきりと理解できたのだ。たぶんテレパシーというやつに違いない。 「見られたからには殺すしかないぞ」  そう言っているのは花屋のトラだった。名前は知らないがぼくはそう勝手に呼んでいる。その声と同時にUFOの扉が開いた。小さな扉から二本足で立った猫たちが五、六匹出てきた。公園の猫たちは駆け寄って歓迎した。 「この子供は?」  出てきた猫が皆に訊《き》いた。 「見られました。すぐに片付けます」 「待ってください!」  猫たちを掻《か》き分けてぼくの前に飛び出てきたのはピーコだった。ぼくは嬉しくて泣いた。 「この子は我々の味方です。いや、地球の子供たちは皆そうですよ。私は命を救われました。私にどうかお任せください。この子供たちこそ大事に守っていかなければ……」  たくさんの猫たちもピーコに頷《うなず》いた。 「では任せよう」  UFOから出てきた猫がぼくにレーザーガンのようなものを突き付けて発射した。  そしてぼくは……布団の中で目覚めた。  夢だったんだろうか。慌てて起きたぼくの足元にはピーコが背中を丸めて眠っていた。なんだ、やっぱり夢じゃないか。 「夢じゃないよ」  ピーコは片目でウインクすると、大きなあくびをしながらぼくの布団に入ってきた。 [#改ページ]   心霊写真  たいていの番組では事前に写真を見せてくれるのだけれど、今日は違った。生放送で、スタジオに集まっている客が持ち込んだものをその場で判断するのである。心霊写真の除霊や霊魂の存在を証明するのが番組の目的ではない。私の出演は小さなコーナーで、言わばお遊びのようなものだった。せっかくゲストに招《よ》んだのだから、ついでにその鑑定もさせて番組を盛り上げようとディレクターが思い付いただけのことに過ぎない。私も気にならなかった。ある程度|瞑想《めいそう》しなければ細かなことは分からないが、それが本物の心霊写真かそうでないかぐらいのことは、見ただけで分かる。でなければ仕事が務まらない。どうせ十分やそこらの時間の中で七、八枚を見るのだ。詳しい説明を要求されるはずもない。もし、そのままに放って置けないものと巡り合ったときだけ、慎重に対処すればいい。  スタジオには二百人近い客が詰め掛けていた。半月ほど前の呼び掛けに応じて心霊写真を持ち込んだ者はせいぜい十二、三人と見当をつけていたのに、その時間がくると三、四十人が私の前に並んだ。若い女性のアシスタントがとりあえず写真だけを預かって私のテーブルの上に積み重ねた。ますます楽になった。ざっと眺めて興味を覚えた写真を五、六枚選び、咄嗟《とつさ》の判断を少し述べるだけで終わりだ。持ち込んだ当人たちには不思議と感じる写真でも、私の目にはただの陰影のいたずらとか偶然の染みや自然現象にしか思えないものが大半だ。 「これは?」  思わず声にして私はアシスタントに見せた。深い山の中を撮影したものである。廃線となったらしいアーチ型の石組の鉄道橋が、まるで廃墟《はいきよ》となった王宮の門のように谷間を塞《ふさ》いでいる。その手前には藪《やぶ》が生い茂り、美しい草花も咲き乱れている。その草花に囲まれる形で一人の少女が立っていた。 「あれ……なあんだ」  アシスタントは苦笑した。 「そう。写っているのは私」 「ですよね。これはどなたが?」  彼女は写真を手にしてスタジオの客たちに見せた。前の方に座っていた女子高生らしい子が立ち上がって頭を下げた。 「それ、あゆみさんが別の番組に出演していたときに会場の正面で一緒に並んで写させてもらったものなんです」  彼女は大真面目《おおまじめ》な顔で答えた。 「現像してみたら私たちが消えていて、あゆみさんだけが……」  その子の側に居る何人かが頷《うなず》いた。 「もう一度見せてください」  私はアシスタントから写真を受け取って見詰めた。彼女たちと一緒に写した記憶はもうなくなっていたが、この場所を訪ねた記憶もない。けれどどう見ても私に間違いなかった。背景も合成とは思えない。 「不思議な話だけど、あゆみさんはこうして元気なわけだから……心霊写真ではないですよね。これはどういう現象なんです?」 「私にも……よく分からない」  正直に言うしかなかった。行ったことのない私がその景色の中に存在しているので不思議な写真ということになるのだけれど、眺めただけでは普通の写真である。私はその写真を胸に押し当てて瞑想した。  甘い花の匂《にお》いが私を包み込んだ。  心地好《ここちよ》いせせらぎの音も聞こえる。  さわさわと枝を揺する爽《さわ》やかな風。小鳥たちの忙《せわ》しないさえずり。緑を透かした穏やかな陽射《ひざ》し。藪の中を動き回る小さな動物たちのはしゃぎよう。小魚が跳ね上がって水面に落ちる気配。その水輪まで目に浮かぶ。  なんと豊かで心静まる世界だろう。遠くからかっこうの声も響き渡る。鹿の親子が藪からひょっこりと顔を覗《のぞ》かせて、悠々と鉄道橋のアーチを潜り抜けて行った。使われなくなった橋の上には無数の花が群れ咲いている。そのすべての中心に私は立っていた。まさに幻想の世界だ。  が、決して幻想ではない。  わずか二十年前には、確かにそこに存在した現実であった。その自然を無残にも壊し尽くして、あの市民ホールが建設されたのだ。  目を開けた私から涙が溢《あふ》れた。  あらゆるものが生きている。そしてもちろん霊魂も。私が手にしているものはまさしく心霊写真だった。あの土地の精霊たちがその悲しみを必死で私に訴えていたのである。私の涙は止《や》むことがなかった。 [#改ページ]   いたずら 「悲しい報告があります」  先生は教室に入ってくるなり、本当に泣きだしそうな目をして言った。 「一年生たちの飼っていたウサギの耳にホッチキスでいたずらした生徒がいます」  ええっ、と皆は騒いだ。 「可哀相《かわいそう》にウサギは血だらけでした。幸い小さな穴があけられただけで済みましたが、小屋の中にあった足跡から見ても生徒のだれかのいたずらだとはっきりしています」  ひどい、と泣きはじめた女の子も居る。 「このところ続いているね。先週はお腹を裂かれたカエルが校庭に捨てられていた。動物に対するいじめがニュースなどで騒がれている。きっとそれを真似《まね》しているだけのことだと思うが、先生にはそれが許せない。ヘビやカエルを気持ち悪いと感じる生徒も居るだろう。蜘蛛《くも》や毛虫を死ぬほど苦手な人も居ると思う。ハエやゴキブリは汚い。だからと言って簡単に殺していいものだろうか? 片方で人間は食糧として牛や豚を殺している。なぜそれが許されてカエルやウサギをいじめることがそんなに悪いのかと思う生徒だって居るかも知れないが、さしたる理由もなしに強い立場の者が弱い者をいじめては断じていけないことだと先生は思う。むしゃくしゃしたり、辛《つら》いことは理由にならない。それは自分だけの問題だろ。動物になんの関係もないことなんだ。畑を荒らす害虫を駆除することは、農家の人にとって自分の暮らしを守ることに繋《つな》がる。虫は生きるためにやっているから、虫の立場になれば可哀相ではあるけれど、それでもなんとか許される。でも道端のカエルやウサギはそれと違う。それを考えて欲しいんだ。こう言う先生だって、田舎《いなか》で育ったから子供の頃はずいぶん虫や小さな生き物を殺した。怖かったから踏んづけたり、棒で叩《たた》いた。けれど……大学生の頃だったかな……電車の中である出来事があって以来、この世はすべての生き物が共存して暮らしているのだと気付かされた」  先生はぼくたちをゆっくり見渡して、 「電車の中でうとうとしていたら、不意にだれかが名前を呼んだような気がした。目を開けたらだれも知っている人間は居ない。おかしいなと思いながら車内を探した。そしたら床に小さなコオロギがよろよろとした足取りで歩いていた。どこかの駅で紛れ込んだに違いない。ぼくはじっと眺めた。コオロギもぼくを見上げた。その瞬間——どうしてなのか分からないが、さっき呼んだのはこのコオロギだったと分かった。コオロギは脚の何本かが取れているようで動きが鈍い。ぼくとコオロギはしばらく見詰め合った。半年前に亡くなったおじいさんだ、と咄嗟《とつさ》に感じた。別におじいさんがコオロギに似ていたわけじゃないのにね。ぼくは泣きたくなった。おじいさんは必死で乗客の足を避けながらぼくに助けを求めている。次の駅になれば確実に踏み潰《つぶ》されてしまうだろう。ぼくは慌てて椅子《いす》から立つとコオロギを両手で包んだ。コオロギはぼくの指の隙間《すきま》から嬉《うれ》しそうに見上げていた。涙を流しているように見えた。ぼくも嬉しかった。次の駅でぼくは降りると改札口を出て草むらに放してやった。コオロギはぼくを何度となく振り返りながら消えた。そのしぐさは本当におじいさんそっくりだった。今でもぼくはあのコオロギがおじいさんの生まれ変わりだと信じているよ。おじいさんがぼくを見付けて電車に乗ってきたに違いない、とね。生まれ変わりが本当にあることなのか、ぼくはよく分からない。でも、コオロギのような小さな生き物にも魂があって、ぼくらとおなじような感情があるのだと、そのとき心の底から実感した。言葉で言えないだけなんだ。それから……ぼくは変わった。ハエやゴキブリを見ても汚いとは思わなくなったし、蜘蛛や毛虫も懸命に生きていると感じはじめた。皆、人間と変わらないんだよ。人間だけが生きている地球って……きっと寂しいよ。皆が仲良くしなきゃいけないんだ」  そして先生は……ぼくを見詰めた。どきっとした。先生はぼくのいたずらだと最初から見抜いて話をしていたんだ。でも、先生には分からない。パパを失ったばかりのぼくの悲しみがどんなだか分かっちゃいないんだ。  その帰り道。  ぼくはコンクリートの壁をゆっくりと這《は》うナメクジを見付けた。石で潰してやろうと思った。そしたら、先生みたいに名前を呼ばれたような気がした。ぼくはナメクジをじっと見詰めた。ナメクジの目がぼくの方に向けられた。小さな頭を斜めにして見ている。  パパだ!  のんびりと昼寝をしているパパの姿がぼくの頭の中に浮かんだ。あのときのパパの顔に似ている。ぼくは石を捨てて顔を近付けた。  やあ、元気そうだな。  パパは笑うと挨拶《あいさつ》して壁を上りはじめた。  パパもこうして元気で居る。ぼくもママを守って頑張《がんば》らなくちゃ、と思った。先生の言ったこと、本当だったんだね。 [#改ページ]   百物語 「今日は合宿も最後の日だから、なにか面白いことをして夜を過ごそう」  先生が夕食のあとに提案した。ぼくたちは秋の合唱コンクールのために夏休みの三日間を費やし、町から離れた山の寺に泊まり込んで練習していた。ぼくたちの小学校は、例年全国大会に出場して入賞を続けている。 「どうせ肝試しだろ」  俊夫が言った。先生には怪談先生という仇名《あだな》がついている。幽霊話が好きで、授業もそれでしょっちゅう脱線する。 「百物語というのを知ってるかい。江戸時代にずいぶん流行した遊びだ。集まった人間たちが自分の経験や聞いた怪談話を次々に話していく。それが百になると必ず幽霊やら妖怪《ようかい》が出現する。だから九十九話で止めるのが決まりらしいが、いたずら者はいつの時代にも居るもんだ。たいてい一つをわざと付け足して怖い目にあったそうだ。先生もいつか試してみたいと思っていたが、百の話となれば大変だ。五人だと一人が二十も話さなくちゃならない。でも、ここには四十五人が居る。一人が一つずつ話して、先生が五つ話そう」 「それだと五十だよ」 「君たちは小学生だから半分でいいさ」  よく分からない理屈だったが、面白そうなのでぼくたちも喜んで本堂へ移った。そこの方が雰囲気も盛り上がる。先生は最初から予定していたようで本堂には五つの灯籠《とうろう》が置かれて淡い輝きを見せていた。趣味悪い、と女の子たちは怖がった。 「昔は百本の蝋燭《ろうそく》を使った。一つの話が終わるごとに一本を消していく。だんだん部屋が暗くなり、九十九話が済めば蝋燭も一本しか残らない。見事な演出だと思わないか?」  先生は得意そうな顔でぼくたちを灯籠の周りに座らせた。そして百物語がはじまった。  たいていどこかで聞いたり読んだことのある話だったけど、灯籠の明かりがついに一つしか残らなくなった辺りには、気のせいか知っている話でも怖く感じるようになった。ぼくの番がきた。ぼくは去年死んだおばあちゃんの話をした。パパが見た話だ。半年も寝たきりでおばあちゃんは亡くなったんだけど、それから三月くらいして、おばあちゃんの部屋ががたがたと騒がしいのでパパが覗《のぞ》きに行ったら、おばあちゃんが真っ暗な部屋の中を走り回っていたそうだ。壁を駆け上がったり、天井を這《は》ったりしていた。パパはびっくりして逃げ出した。なぜおばあちゃんがそんなことをしていたのかぼくにも分からない。それだけの話なのに、女の子たちは耳を塞《ふさ》いで悲鳴を上げた。怪談先生まで目を丸くしていたから、だいぶ怖かったに違いない。  そしてとうとう四十九話目になった。それを話したのは俊夫で、最低のジョークだった。 「怖いかいだんがある。それって、マンションの非常階段で、三階から下まで手摺《てすり》がついていなかったんだ。怖い階段だろ」  笑ったのは怖がりの連中ばかりで、たいていはしらけた。雰囲気がぶち壊しだよ。 「さて……最後の五十話になったが、どうする? ここで止めるか。君たち次第だ」  先生は灯籠のスイッチを握りながら訊《たず》ねた。ぼくたちは続けると主張した。俊夫のお陰で怖さがすっかり薄れていたこともある。 「でははじめよう。もう後戻りはできないぞ」  先生は急に怖い顔をして、 「実を言うと、これがこの合宿の目的だったのさ。魔界に連れ込むには昔から定めがある。この百物語をやらないと、魔界の扉が開かない。君たちは自分からそれを望んだ。この明かりを消せば、そこはもう今までの世界じゃない。我々の世界なんだよ」  大真面目《おおまじめ》な先生の顔にぼくはぞっとした。皆もきょろきょろ顔を見合わせている。 「望んだよな? 後悔はしないよな」  先生はスイッチに指をかけた。 「やめて、怖い!」  女の子たちが泣きそうな声で騒いだ。  その瞬間、目の前が真っ暗になった。  ポクポクポク、と物寂しい木魚の音がした。ぼくたちはパニックになった。  先生の陽気な笑いとともに明かりがついた。 「どうだ、すっかり涼しくなっただろ」  先生は笑顔で仏壇の裏に向かった。暗闇《くらやみ》になると同時に木魚を叩《たた》くよう、だれかに頼んでいたらしい。ぼくたちは笑い合った。怪談先生らしいいたずらだけど悪くない。  だが——  仏壇の裏から戻った先生の顔は真っ青になっていた。だれも居なかったようだ。  ポクポクポクポク……  また木魚の音が聞こえた。これも先生のいたずらだと思ってぼくらは驚かなかった。 「だれだっ、だれなんだ」  先生は本堂を探し回った。あんまり真剣な様子にぼくらは不安になった。慌てて皆が残りの灯籠全部に明かりをともす。  先生はぼくらを振り向いた。ぼくは恐怖に震えた。先生の真っ黒な髪が、いつの間にか真っ白に変わっていたのである。 [#改ページ]   不思議な卵 「不思議な卵なんだぞ。どんなものが生まれてくるか、世界中のだれ一人もまだ見たことがないんだ。学校の科学研究室に届けられたばっかりのやつをこっそり持ってきてやったんだから、看護婦さんにも言うんじゃないぞ。訊《き》かれたらアメリカに住んでいるおじさんが贈ってきてくれたと説明すればいい。この卵の凄《すご》いのは、なんでも夢をかなえてくれるってとこさ。生まれた瞬間はだれも見ていないんだが、育て主の心を察して変身するらしい。おまえが退院する頃にちょうど生まれるはずだ。なにが欲しいか祈りながら育てるといいよ。枕元《まくらもと》に置いて撫《な》でているだけでいいんだ。面倒なことはなにもない」  ぼくはそう言って弟のベッド脇《わき》のテーブルの上に卵の入った箱を置いた。弟は目を丸くしてそれに見入っていた。細い腕を伸ばして卵に触る。そっと揺らすと中で液体が動く音と鈴の音がかすかに聞こえた。弟はびっくりして指を引っ込めた。不思議な卵なんかじゃない。ぼくがこの夏休みに拵《こしら》えたものだ。小さな鈴を膨らませたゴム風船に入れて口を閉じ、それをさらに水を半分詰めたプラスチックのボールの中に押し込める。そいつを紙粘土で卵の形に包んでからピンクの絵の具で綺麗《きれい》に塗り潰《つぶ》し、ラッカーで仕上げる。工作の宿題に提出するつもりだったけど、あんまり本物っぽくできたので入院している弟にプレゼントすることにした。退院の日までにぼくが弟の望みを聞き出し、その日の朝にはこの卵がそれにすり替わって弟の枕元に置かれる予定となっている。パパとママも協力を約束してくれた。テーブルに載らないような大きなものなら無理だけど、ゲーム機やラジコンカーくらいなら簡単に変身できる。 「いつ頃生まれるんだろ」  弟は喜んで卵を撫で続けている。 「二カ月ぐらいよ。退院とどっちが先かな」  ママもそう言って卵を優しく撫でた。 「ぼく、そのときは眠らないで卵を見てるんだ。本当にどんなことでもかなえてくれるんだね。可愛い犬になってくれたらいいな」 「犬だったら大丈夫さ」  ぼくとママはしっかりと請け合った。  なんでもない約束だったはずなのに……弟は退院できなくなった。病気が重くなったのだ。体の抵抗力がなくなったらしくて今は感染を防ぐために透明なビニールに包まれたベッドに移されてしまっている。消毒が面倒なので、ぼくは部屋のガラス越しにしか弟と会うことができなくなった。でも弟はいつも笑顔で、ぼくのプレゼントした卵を胸に抱いている。これだけはどうしても育てると言って看護婦さんたちに泣いて頼んだそうだ。いまさらぼくも嘘《うそ》だとは言えない。看護婦さんたちも分かっていてくれて、弟の側に行くたびに皆が卵に触れて祈ってくれているとか。  痩《や》せ衰えていく弟を見るのが次第に辛《つら》くなった。卵が生まれる予定の二月目がそろそろ近付いている。あんなに小さいのに、あんなに立派に病気と戦っている弟に嘘をついているのが苦しい。弟の望みがあの卵にだけ向けられていたらどうしよう。もう弟はゲーム機やラジコンカーを望んではいないはずだ。退院して皆と一緒の食事がしたいとでも願っているに違いない。でも、卵にそんな力はない。パパやママもそれを察して今は卵を暗い目で眺めている。そのたびにぼくの胸は詰まる。ぼくは神様に祈った。どうか弟の病気を治して、家族皆で食事ができるようにしてください。そしたらぼくもいい子になります。 「卵が生まれそうなんですって」  危ないかも知れないと学校に連絡が入って病院に駆け付けたら、ママが涙を溜《た》めた目でぼくに言った。弟はベッドにぐっすりと眠ったまま身動きもしない。けれど卵だけは弟の胸に抱かれていた。看護婦さんが無意識にその卵を優しく撫で続けていた。 「卵が生まれるって?」 「卵が熱くなったと言って喜んでいたらしいの。それから直《す》ぐに意識を失って……」  ママは我慢ができずに泣いた。ぼくはガラス越しに弟を見詰めた。看護婦さんが立ち去って今は弟一人だ。ぼくは卵に目を動かした。弟の手の中で卵が光っていた。ママは泣いたままだ。ぼくには卵しか見えない。つるつるの表面に亀裂《きれつ》が走った。本当に生まれそうだ。見る見る亀裂は広がった。そしてポンと割れた。割れた卵から小さな子供が……背中に翼を持った子供が生まれた。天使だ。天使はゆっくりと舞い上がると弟に微笑《ほほえ》んで消えた。  弟はぱちっと目を開けた。頬《ほお》に赤みが戻っている。弟はきょろきょろ辺りを見回した。ぼくと目が合う。ぼくは大きく頷《うなず》いた。 「卵が生まれたよ。見た?」  弟はぼくに訊《き》いた。 「なにをずっと願ってたんだ?」  ぼくは弟に訊《たず》ねた。 「元気になって自由に跳び歩くこと」  卵がその願いをかなえてくれたんだとぼくは確信した。看護婦さんやぼくたち皆があの卵を本物の不思議な卵に育てたに違いない。  そしてなによりも弟の信じるという心が。 [#改ページ]   お化け屋敷  その家は学校の近くにある。  五、六年前に建てられたばかりの家で外観はちっともお化け屋敷みたいじゃない。ごく普通の綺麗《きれい》な家だ。でも、前の持ち主が売り払ってから二年以上も買い手がつかない。いや、何人かが買おうとしたそうなんだけど、変なものが家の中を飛び回ったり、あるはずもないピアノの音が聞こえたりするものだから怖がって直《す》ぐに逃げ出すらしいんだ。もちろん、噂《うわさ》だよ。ぼくたちは信じちゃいない。いつも明るい時間に見ているせいもあるに違いないが、それらしい感じが全然しないんだ。ときどき、肝試《きもだめ》しだと言っては庭に入り込んだり、ガラス窓から薄暗い部屋を覗《のぞ》いたりした。あの噂は、もしかすると子供たちが入り込むのを防ぐ目的で持ち主がわざと広めたものなのかも知れない。最初は面白がって何度も立ち寄ったものだが、皆、直ぐに飽きてしまった。やっぱり蜘蛛《くも》の巣が張っていたり、襖《ふすま》に血の痕《あと》でもないとね。  だから今日、その家に入ったのは肝試しでもなんでもなかった。健司と二人、サッカーの練習を終えてアニメの話をしながら歩いていたら、その家の前に可愛い子がぽつんと立っていたんだ。なんだか困った顔をしている。健司が声をかけた。こういうの得意なんだ。 「庭にスカーフを飛ばされたの」  確かに白いスカーフが見える。 「お化け屋敷だから怖いのか」  健司は笑って低い塀を飛び越えた。ぼくも続いた。仕方なく女の子もついてくる。 「お化けなんていやしないよ」  健司はスカーフを手渡すと家の中を覗いた。珍しく庭に面したガラス戸が開いていた。健司は体を半分ほど中に入れて様子を確かめた。だれも居ない。可愛い女の子が側《そば》に居るとぼくらはつい張り切ってしまう。女の子が怯《おび》えた顔をするのでなおさらだ。ぼくたちは靴を脱いで上がった。まだ陽《ひ》が高いので怖くない。 「お化け屋敷なんて不動産屋が流した噂さ」  がらんとした床に座って健司は言った。女の子もほっとした様子で頷《うなず》く。 「それより、もっと怖い話がある」  健司はクラスで評判になっている噂を教えた。寺の側のショッピングセンターの中に置いてあるプリクラの話だ。そこで写すと百組に一組くらいの割合で見知らぬ妙な顔が紛れ込むらしい。寺の側だから幽霊が写っても不思議じゃない。噂を耳にしてずいぶんたくさんの連中がわざわざそこまで写しに行く。 「写真を見たことあるの?」 「まだない。でも本当らしい」  ぼくも請け合った。こんなお化け屋敷より確かな話だ。 「記念に三人で写しに行かないか」  健司は上手《うま》いタイミングで女の子を誘った。このまま別れてしまうのは残念だ。 「行こうぜ。金ならあるよ、ほら」  健司はポケットの金を鳴らした。女の子は少し考えて頷いた。と決めたらお化け屋敷なんかに用はない。ぼくたちは立ち上がった。  そのとき——  二階で扉の開く音が聞こえた。  パタンと乱暴に閉じられる。  女の子は悲鳴を上げた。健司とぼくは顔を見合わせた。聞き間違えなんかじゃない。  続いて階段をゆっくり下りてくる足音。  健司が真っ先に庭に逃れた。女の子は泣きそうな顔でぼくに取りすがる。ぼくは女の子の腕を引いて庭に飛び出た。靴を握って道路に走る。心臓がどきどきして死にそうだ。 「なんだ、今のは?」  健司は塀から頭を出して怖々《こわごわ》と家の様子を確かめた。だが、もうなんの気配もない。 「不動産屋の親父《おやじ》だぜ、きっと」  健司は馬鹿馬鹿しいという顔で笑った。 「ガラス戸が開いてたじゃないか。点検だ」  そうかも知れない。ぼくは息を吐《つ》いた。 「でも、階段を下りてこないわ」  女の子は信じなかった。 「また二階に戻ったんだよ。幽霊なんて居るわけないじゃん」  気を取り直して健司は歩きはじめた。居るわけないと言いながら、ぼくたちは幽霊との写真撮影を願っているんだから変な話だ。  幸いプリクラのボックスは空いていた。  ぼくと健司は女の子を真ん中にして得意のポーズを取った。あっかんべーだ。  写真が出来上がるまで時間が少しかかる。  女の子はトイレに行った。  やがて写真が飛び出た。健司が手にする。どこにも怪しいものは写っていない。ぼくと健司があっかんべーをしている。  ぼくと健司だけ?  どれを見ても女の子の姿はなかった。ざわざわと寒気が襲った。なんのことかよく分からない。健司の顔も強張《こわば》っている。  ぼくたちは同時に思い出した。  あのお化け屋敷には女の子が住みついているという噂を、だ。女の子が事故にあって、両親は思い出の多い家を売り払ったのだ。  写真を持つ健司の指はがたがた震えていた。 [#改ページ]   素敵な叔父《おじ》さん 「こう、どんよりと空が曇って、今にも雪が降りそうになってくると、いつも思い出すよ」  叔父さんは窓から目をはなして続けた。 「おまえとおなじくらいの、小学生の頃だった。アキラ君という仲良しの友達があってね、互いの家をしょっちゅう行き来していたもんだ。あの日も宿題かなにかのことで訊《き》きたいことができて、夕方近くになってからアキラの家に自転車を飛ばした。そうしたら家の前にアキラのお父さんが出ていて、ぼんやりと立って通りを眺めていた。白い浴衣《ゆかた》で呑気《のんき》そうな顔して近所の子供たちのキャッチボールを見物していたよ。何度も会ったことのあるお父さんだったから自転車から下りて挨拶《あいさつ》した。お父さんも笑顔で挨拶してくれた。門の前だったからなんとなく入りにくい。ぼくは少しお父さんと並んで立ち話となった。なんの話をしたかは忘れたが、学校のことや好きな野球選手の名を聞かれたような記憶がある。お父さんは不精髭《ぶしようひげ》を生やしていた。雪が降りそうだと言うのに、首筋にびっしり汗をかいていてね、しょっちゅう手の甲で汗を拭《ぬぐ》っていた。よく見ると裸足《はだし》で下駄《げた》を履いている。寒くないのかな、とちょっと不思議に思った。こっちは体が凍《こご》えるくらいの天気だったんだよ。早く中に入りたくてアキラが居るかどうか訊《たず》ねた。お父さんはゆっくり頷《うなず》いて、今泣いているところだから、とぼくに教えてくれた。ぼくはお父さんの脇《わき》をすり抜けて玄関の戸を開けた。本当に家の中からは泣き声が聞こえた。けれどアキラ一人のものじゃない。声をかけたら、やがてアキラが目を真っ赤にして現われた。どうしたんだ、とぼくはびっくりして訊いた」  叔父さんは少し言葉を途切らせてから、 「お父さんがさっき死んだ、とアキラは言った。そしてまた泣き出す。ぼくは笑った。だってそうだろ。ぼくはたった今アキラのお父さんに会って話をしたばかりなんだ。思わず門のところを振り向いた。お父さんの姿は消えていた。本当にざわっとしたな。考えてみればこんな時期に薄い浴衣一枚で外に出ているはずがない。あれは幽霊だったんだと気付いた。あとで知ったが、お父さんは心臓が悪くて十日くらい前から近くの病院に入院していたらしい。アキラは付き添っていたお母さんからお父さんが病院で死んだという電話を受けた直後だったんだよ。きっとお父さんはアキラに会いたくて死んだままの格好で戻って来たんだね。でもアキラは泣きじゃくっている。その姿を見るのが辛《つら》くて門の前で時間を潰《つぶ》していたのさ。幽霊が時間潰しするなんて妙な気がするけど、そうとしか思えない」 「…………」 「それだけのことなら不思議な経験をしたに過ぎないが、そのお父さんの幽霊を葬式のときにも見た。これはおまえのお母さんも知っている。姉さんとぼくは二人で葬式に出掛けた。アキラの家が近付いて、あの門のところで幽霊を見たんだよと姉さんに教えたら、姉さんはびっくりした顔でアキラの家の屋根を指差した。屋根の上に白いものが乗っていた。浴衣を着たお父さんがうつぶせになっている、と分かった瞬間、姉さんは悲鳴を上げて逃げ帰った。ぼくも逃げたかった。でも、お父さんの姿はもうどこにもない。アキラのためにぼくは勇気を出して家の中に入った。アキラはお父さんの写真の前に座って涙をこらえていた。屋根にお父さんがいたことなんか伝えられるわけがない。これからアキラはどうなるんだろう、とぼくは心配していた。お母さんと二人きりになってしまう。お経を聞きながら考えていたら、祭壇に飾られている菊の花が風もないのに揺れている。ぼくは菊をじっと見詰めた。だれもそれに気付いていないんだ。花の揺れはますます大きくなった。お父さんがアキラに自分の居ることを知らせたいんだろうと思った。ぼくは祭壇のあちこちを探した。そうしたら……祭壇の真上の天井板が外れていて、そこからお父さんが覗《のぞ》いていた。そこから風が吹き付けていたのさ。あれは怖かった。怖過ぎて悲鳴も上げられなかった。お父さんの目はアキラとお母さんに向けられていた。悲しそうな目だった。ぼくも泣きたくなった。それからはもう天井を見られない。お経が済んでからもう一度確かめた。天井板は閉じていてお父さんの姿はどこにも見えなかった」  叔父さんは話を終えると病院のベッドに寝ているぼくの頭を何度も撫《な》でた。 「死んでも家族を思ったり辛さが続くんだぞ。死ねば全部が解決するわけじゃないんだ。死んでしまって、気持ちがありながらなにもできない方がもっと苦しいに違いない。ぼくだって死にたくなるくらいのことは何度もあったさ。けれど頑張れた。アキラのお父さんの辛さを思い浮かべるとね。いじめなんか気にするな。いじめる人間より、おまえのことを大事に思う人間の数の方がずっと多いんだ」  ぼくは嬉《うれ》しかった。嬉しくて泣いた。  もう自殺なんか考えない、とぼくは叔父さんに誓った。ぼくは素敵な叔父を持っている。 [#改ページ]   桜の挨拶《あいさつ》 「いよいよ明日なんだって」  ニュースを見てぼくは台所でトンカツを揚げているママに教えた。 「なにが?」 「あの小学校の桜。可哀相《かわいそう》だよ。百年近くも咲き続けた桜だってのに」 「そうか。明日だったんだ」  ママもしんみりとした。転校する前の小学校の庭に咲いていた桜だ。今度古くなった校舎を全面的に建て直すことになったらしいのだが、建築中だからと言って学校を休みにするわけにはいかない。それで校庭に仮校舎を作るため名物の桜が伐《き》られることになったのだ。もちろん反対運動が起きたけれど、根がぼろぼろに腐っているのが分かった。別の場所に移しても枯れてしまう確率が高い。本気でやるには一千万近い費用がかかると言う。反対運動にもかかわらず市は伐り倒すことに決めた。放っておいても五年やそこらの寿命だとか。確かにぼくが居た辺りでも花はもうそんなに咲かなくなっていた。ママやパパが通っていた頃はまだ元気に咲いていたと言う。 「明日かぁ。パパもがっかりするわね」  ママはうっすらと涙を浮かべていた。  その夜。  ぼくは桜の夢を見た。  高くて太い桜の枝に昌司が乗って体を揺らしている。わずかに咲いていた桜の花びらが散って風に運ばれて行く。綺麗《きれい》だ。女の子たちは抗議している。けれど昌司はますます面白がって止めない。そこに先生がやって来た。昌司は慌てて下りようとした。昌司はバランスを崩して高い枝から落ちた。皆目を瞑《つむ》った。頭から落ちたと思ったのに昌司の体は下の枝に吊《つ》り下げられていた。襟首のところが引っ掛かって助かったのだ。ぼくらは歓声を上げた。そのときぼくは見たような気がする。桜が一緒に笑っている姿をだ。ぼくは目覚めた。なんだか変な気持ちになって台所に下りた。  ママもパパも起きていた。お茶を飲んでいる。パパはぼくを見詰めると、 「今ママとも話していたんだが、これから三人であの桜を見に行かないか」 「こんな夜中に?」 「夢を見たんだ。あの桜の下でクラスの花見をしたときの夢をね。ママも見たそうだ」 「私はあの桜の花びらで首飾りを作ったのよ」 「ぼくもだよ。皆が見るなんて……」  ぼくたちは顔を見合わせた。 「桜がお別れの挨拶《あいさつ》をしてくれたのかな」  いつも仕事が遅くて滅多《めつた》に話をしないパパが優しい顔でそう言った。  ぼくたちは桜を見に行くことに決めた。車で三時間も離れているけど明け方には着ける。  ぼくは桜にお別れの花を持って行くことにした。桜に花なんて変なのは分かっている。でも真夜中だったから玄関にあったバラの花しか思い付かなかったんだ。  パパは車の運転をしながら桜の話ばかりしていた。夏には大きな木陰を作って学校でも一番涼しい場所だったそうだ。 「変だな。なんでこんな時間なのに渋滞するんだ。どうして車が多いんだろうな」  パパは苛立《いらだ》った。信号のたびに車が列を作ってずいぶん待たされる。 「きっと皆が桜を見に行くのよ」  ママは当然のように口にした。反対車線に車はほとんど見当たらない。皆がおなじ方角を目指している。信じられなかったけど、ママの想像が当たっているような気もする。  小学校にはとても近付けなかった。学校の周辺は駐車した車で埋められていた。ぼくたちも道路に車を停《と》めて歩きはじめた。中学生からおじいさんたちまで、まるで町の人全部が集まったかのようだった。 「おまえ、神田だろ」  パパが人込みの中で声をかけられた。 「根本か。どうしたんだ。二十年ぶりだな。おまえ、札幌の大学で教えているとか」 「ああ。夢を見て駆け付けたんだよ。六年間、毎日見ていた桜だもんな。友達と一緒さ」 「おまえも夢を?」 「さっき山崎も見掛けた。夢に誘われたんだ」 「じゃあ……この人たち皆が?」  何千という人たちを見渡してパパはびっくりした。周りの人たちが笑顔で頷《うなず》く。 「だれもがあの小学校の卒業生さ」  なんだかぼくは泣きたくなった。  校庭に入ったら白い輝きが目に入った。暗闇《くらやみ》にあの桜が美しく花を咲かせていた。  もう咲かなくなったと聞いていたのに。 「人の数が増えるたびに花も増えているのよ」  知らないおばさんが教えてくれた。 「全国に散らばっていた卒業生たちが桜に会いに来たから喜んでいるんだわ」 「皆さん」  スピーカーから大きな声が流れて来た。 「私はこの町の市長です。安心してください。桜はこのまま残すことにしました。私もこの小学校の卒業生です。私も夢を見ました」  校庭を埋めていた人たちの拍手はいつまでも鳴り止《や》まなかった。ぼくも手が痺《しび》れるくらいに拍手をし続けた。 [#改ページ]   幻のトンネル  トンネルをわずかも入らないうちに私には、ここだという確信が生まれていた。東北生まれの私にとって旧東海道を辿《たど》るのはこれがはじめての経験である。だからこのトンネルを歩くのもはじめてということになるのだが、故郷に戻ったときのような心のはずみと温《ぬく》もりが私を満たしていた。このトンネルは真っ直《す》ぐに見えるが、実はY字になっている、と案内の男が教えてくれた。明治の中頃、鉱山鉄道を通すためにこのトンネルは掘られた。が、その途中で堅い岩盤にさえぎられ、直線のつもりがやむなく、くの字のトンネルになってしまったのだと言う。しかし、昭和のはじめ、鉱山が廃鉱となってから鉄道も地元の所有と変わり、あらためて直線に掘り直されたものらしい。その当時には岩盤を掘削する技術が進歩していたのだろう。そして、その位置から左に伸びていた古いトンネルはレンガで完全に封鎖されてしまった。鉱山に向かって開いていたトンネルの出口も同様である。つまり、このトンネルの真ん中辺りから左に両方の出口を閉ざされたトンネルがいまだに残されていることになる。入り口の案内板に「幻のトンネル」と書かれていたのはそういう意味だったのだ。  この辺りです、と言って案内の男は手にしていた杖《つえ》の先でこつこつと叩《たた》いた。その音はトンネルに乾いた響きを立てたが、レンガ壁の奥が空洞であるかどうかはよく分からなかった。同行したカメラマンはさしたる理由もなくその辺りに向けてシャッターを切った。フラッシュのまばゆい光が案内人の顔を一瞬くっきりと闇《やみ》に浮かび上がらせた。  私は思わず我が目を疑った。  壁の奥にどこまでも伸びるトンネルが見えたような気がしたのだ。白い二本のレールも残像として少しの間私の目に残った。  また懐中電灯だけの明るさに戻ると、その幻は消えていた。冷たくごつごつしたレンガの壁が案内人の後ろをふさいでいる。私は手で触れて確かめた。びくとも動かない。 「見えなかったかい?」  私はカメラマンを振り返った。 「なにがです?」 「幻のトンネルだよ。俺《おれ》はここからきた」  はぁ? とカメラマンは首を傾《かし》げた。  私も……自分がなにを言ったのかよく分からなかった。自分のはずなのに自分の言葉でないような奇妙な気分だった。 「閉じられてしまったとは思わなかった。だからどこを探しても見つけられなかったんだ。ずうっとここを探し続けていたんだよ」  カメラマンと案内人は顔を見合わせた。 「もう一度フラッシュを」  私は頼んだ。カメラマンは唖然《あぜん》としながらも壁に向けてシャッターを切った。  幻のトンネルがまた現われた。  遥《はる》か先まで見通すことができる。トンネルの出口から明るい秋の陽射《ひざ》しが中に差し込んでいる。その暖かな陽射しを浴びて少女が立っていた。少女は私の方を哀《かな》し気な表情で見詰めている。あれは優子に間違いない。  優子は今でも私を待っていてくれたのだ。  私の手はレンガ壁を押した。  ふにゃりとレンガはへこんだ。けれどまだ潜り抜けることはできない。 「フラッシュを!」  私の中のだれかがカメラマンに懇願した。カメラマンは慌てて何度もフラッシュを点《とも》した。こちらの明かりに気付いたらしく少女はゆっくりと駆けてきた。トンネルは完全に開いている。私の中からだれかが抜け出て陽炎《かげろう》のように揺れているレンガの壁に向かった。その白い影は壁を突き抜けて幻のトンネルの中に立った。少女の顔が喜びに変わる。  私から急速に力が抜けた。  砂利に膝《ひざ》をつきながら私は二人を見やった。二人はトンネルの中で抱き合っていた。そのまま二人の姿は消えた。壁が私の視野を埋める。私は溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。 「どうしたんです?」  カメラマンと案内人は私の様子に苦笑を浮かべていた。どうやら私にしか見えない幻だったらしい。  私が案内人からこのトンネルにまつわる不思議な話を聞かされたのは、山を下りてからのことだった。昭和のはじめ頃のことだと言う。トンネルの崩落事故で一人の若者が土砂の下敷きとなって行方不明となった。恋人だった少女は彼の死を決して信ぜずに、毎日このトンネルに通った。すると、ひょっこり彼がこのトンネルから戻ってきたのだと言う。恐らく、その少女の名前は優子と言うに違いない。 [#改ページ]   見るなの座敷      一  嫌な話だった。大真面目《おおまじめ》に怯《おび》えているらしい義姉《あね》の様子に最初は苦笑で受け答えしていたが、次第に腹が立ってきた。幽霊と言ったところで、見ず知らずの相手ならともかく、おふくろのことじゃないか、と思った。実家を出ておよそ十五年。滅多《めつた》におふくろと会えなかった私にすれば幽霊でも懐かしい。義姉とおふくろの折り合いが悪かったのは兄や妹の口から何度も聞かされていた。それで東京の私の方で一、二年預かってくれないかと兄に頼まれたこともある。三DKのマンションではもともと無理な相談だった。それを義姉は根に持っていて、わざとこんな話をしているのではないのか? もうおふくろは半年も前に死んだのだ。義姉《ねえ》さんの天下じゃないか。幽霊になってときどき現われるくらい認めてやってくれよ、と言いたくなる。長い闘病生活の果てに亡くなったのなら別だが、旅行中の交通事故である。家に未練が残っておかしくはない。慰謝料をたっぷり貰っておきながら、化け物扱いは少し酷過《ひどす》ぎる。 「兄貴も見ているわけ?」  義姉のビールを受けながら私は質《ただ》した。兄は用件が長引いて遅くまで戻れないと連絡が入った。こっちも出張で仙台へ来たついでに思い立って足を延ばしただけだから仕方ない。 「納戸にしか出ないのよ。それに……いつも居るってわけじゃないし」  義姉は声を潜めて応じた。どうやら兄は見ていないようだ。二人の甥《おい》は七時を回ってもまだ学校から戻らない。こんなに薄暗くてだだっ広い家に一人で居るのは怖いだろう。だから妙な幻影も生まれる。おふくろが乗っていて事故を起こしたバスは大きな観光会社のものだった。おふくろの他に二人が亡くなり、慰謝料は一律三千二百万。その上保険金も加えれば八千万近い金が転がり込んだはずだ。辛《つら》く当たり続けてきた義姉に罪の意識が生じても不思議ではない。葬式の間中、私はさぞかし義姉が喜んでいるだろう、とそんなことばかり考えていたものだ。 〈せいぜい意地悪されればいいさ〉  めっきり若返った義姉に私の冷たい視線を感じられないようビールを口に運んだ。義姉はおふくろの苦労をなに一つ知らない。この地方の旧家に後妻として入ったおふくろは旧弊な親族たちから白い眼で見られ続けた。私はおふくろがこっそりと陰で泣いている姿を何度となく眺めている。農業だけやっていればいいものを、親父《おやじ》が運送業に手を広げて失敗して以来、おふくろの苦労はさらに増えた。親父が二十年前にあっさりと死んでからは、おふくろが大黒柱となった。僅《わず》かに残った田畑を守り、この屋敷をなんとか人手に渡さず兄に受け継がせたのである。  確かに気丈なおふくろだった。親子でなければ耐えられないところもあっただろう。義姉の言い分も理解できる。しかし……おふくろはもうこの世に居ない。おふくろをこれ以上責めないでくれ。気持ち悪くて納戸に入れないだなんて、おふくろが可哀相《かわいそう》だよ。 「今夜は納戸に寝てみようかな」  ふと私は思い付いた。 「本気なの?」  義姉は眼を丸くした。 「布団……敷けるよね」  納戸は六畳のスペースがある。箪笥《たんす》や長持ちの隙間《すきま》も相当にあったはずだ。 「怖くはないさ。自分の親じゃないですか」  あんたとは違うよ、という気持ちからと、東京に引き取れなかった後悔が重なっていた。三月やそこらなら東京暮らしを経験させることができた。あからさまな女房の反対でやむなく断わったのである。 「もし出たら……二度と義姉さんに迷惑をかけないように言ってやるよ」 「でも……なんで納戸なんだろうね?」  私の嫌味にも気付かぬ風で義姉は言った。 「義母《かあ》さんの部屋はそのままにしてあるのに。そんなに遠慮深い人じゃなかったわ」 「そいつもおふくろに聞いてみよう」 「信じてないんでしょう」  義姉は暗い目をして私を見詰めた。  遅く戻った兄と一時間ばかり飲み直して私は寝ることにした。明日は朝が早い。 「詰まらん意地を張るなよ」  兄は舌打ちした。 「あんなに怖がられると俺《おれ》も少しは不愉快に思うが……客間にしろ。俺が布団を運ぶ」 「意地じゃないよ。本当におふくろが出るんなら会ってみたい。ときどき夢を見る」 「おふくろのか?」 「ああ。兄貴と違って俺は田舎を捨てた人間だからな。どこかに後ろめたさがあるんだろう。それでおふくろの夢を見るのかも」 「由里子の話は嘘《うそ》じゃない。出るよ」  兄は辛そうな顔をした。 「見たのか?」 「由里子には言っていない。あいつが留守にしたとき納戸に籠《こも》って待ってみた。やめた方がいい。悲しくなるだけだ」 「なんで悲しくなる?」 「おふくろは成仏していないのさ。墓にこっそりと行って拝んだが無駄だった。さっきは由里子が居たからおまえに言えなかった」  兄に義姉以上の怯《おび》えを見てとった私は背中に寒気を感じた。だが、成仏していないと聞いたからにはますます放っておけない。 「俺がおふくろの話を聞く」 「なにも話さないんだ。餓鬼になって、ただ納戸から追い払おうとする」 「餓鬼?」 「寺の地獄絵なんかで見たことがあるだろ。あれと一緒だ。顔がおふくろってだけで……あいつはおふくろと違う。化け物だ」  ざわざわと鳥肌が立った。 「納戸を潰《つぶ》してしまおうかと思ってな。今日の用件はそれさ。いっそのこと全部建て直すつもりで住宅会社の人間と会っていた」 「おふくろの居場所をなくす気か?」 「見ればおまえにも分かる」  兄は反論もせず押し黙った。      二  納戸には四〇ワットの裸電球が吊《つ》り下げられているだけである。いかにも寒々とした部屋だった。庭にある蔵には興味も手伝って何回となく出入りしているが、この納戸には数えるほどしか足を踏み入れていない。子供の頃には豆電球で気味が悪かった。それに箪笥にしまっている着物の防虫剤の臭いも関係していた。ひさしぶりにこの納戸に入って、私はおふくろがここにこだわる理由が分かった気がした。ここは母の城だったのだ。思えば、こっそりおふくろが泣いていたのも、この納戸だった。唯一、一人になれる空間だったのである。田舎の家は開けっ広げで身を隠す場所が少ない。  私は手近の箪笥の引き出しを開けた。義姉は自分たちの部屋に箪笥を並べているので、今ここに置かれているのはすべておふくろのものばかりだ。古臭い着物や帯がしまわれている。きっと死んだ祖母のものも混じっているのだろう。葬式のときに形見分けの話もされたが、着物は要らないと家内は断わった。私の目から見ても大した着物ではない。 〈こんなものに未練を残しているのかい〉  途端に哀れさが私を襲った。執着の心が魂を餓鬼の姿に変貌《へんぼう》させるのだと兄は言った。寺の住職から耳にしたことらしい。 〈おふくろの人生って……〉  なんだったのか、と胸が詰まった。後妻として周囲から決して温かくは迎えて貰《もら》えず、親父《おやじ》の事業の失敗のツケを払い、農業という辛《つら》い仕事を死ぬまで続け、息子らの嫁には嫌われ、挙げ句の果ては事故死だ。そして未練がこの防虫剤臭い古着だなんて……あまりにも惨めではないか。不覚にも涙が溢《あふ》れた。  私は次々に引き出しを開けた。  呆《あき》れるほどに貧しい着物ばかりだ。樟脳《しようのう》臭さでおふくろの匂《にお》いも消されている。何番目かの引き出しに風呂敷《ふろしき》で包まれたものを見付けた。解いて見るとチューリップがプリントされた派手《はで》なワンピースやブラウスが何枚か出てきた。おふくろの着ていたものだろうが、まったく記憶にない。若い頃はいつも着物しか纏《まと》っていなかった。この派手な柄から察するに二十代の前半辺りの服と思える。おふくろが親父と一緒になったのは確か二十八、九。としたなら結婚前に着ていたワンピースか。  こんな時代もあったんだ。  私は少し嬉《うれ》しさを覚えた。おふくろがチューリップの柄のワンピースを着ている姿など想像できない。ぜひ見てみたかった。にしても、このフリルのついたブラウス。どうしてこんなものをおふくろは大事に取っていたのだろう。青春の思い出でもあった服なのか。 〈だれにも見られたくなかったのかい〉  整理をしないうちにおふくろはいきなり死んでしまった。それが幽霊の出現と関係しているような気がする。私だって絶対に家内には見て欲しくないものをいくつか隠し持っている。処分しなければと思いつつも面倒臭さや思い出が邪魔をして、ついそのままにしてあるのである。家内と知り合う前につき合っていた恋人の手紙など、二度と読み返すことなどないのになぜか捨てられない。手紙の背後に自分の存在があるからだ。もしおふくろと同様に事故に遭って死んだときには相当に慌てるだろう。家内に見せまいと必死になるのではないか? 〈見るなの座敷……〉  この地方に伝わる民話を頭に浮かべた。山の中の立派な屋敷に迷い込んだ男が、そこで数年を主人である娘と優雅に暮らす。どの部屋でも自由に使って構わないが、たった一つだけ見てはならない部屋がある。その約束を男は破って部屋の襖《ふすま》を開けた。そこには世にも美しい桃源郷が広がっていた。と思ったのも束の間、屋敷は消え失せ、男は藪《やぶ》の中に立っているという話だ。見てはならない部屋の扉を開ければ一瞬にして夢が消滅する。だれの心にも「見るなの座敷」が一つや二つ隠されているのだ。  背中の暗がりから嗚咽《おえつ》が聞こえた。  空耳ではなかった。  きっとおふくろだろう。  そう思っても直《す》ぐに振り返る勇気がでない。  嗚咽はさらに物悲しく耳に響いた。私の全身が鳥肌で包まれている。兄の言葉が私に不気味な先入観を植え付けている。  思い切って首を後ろに向けた。  部屋の片隅にそれは蹲《うずくま》っていた。  五、六歳の幼児としか見えない。全裸で異様に腹が膨らんでいる。長い髪がぼうぼうと伸び、肌は赤黒く剥《む》けていた。私は悲鳴を堪《こら》えた。そいつが顔を上げた。  おふくろだった。  おふくろは私に向かって掌《てのひら》を擦り合わせて何度も頭を下げた。私はただ眺めていた。  やがておふくろは壁を這《は》い上がりはじめた。蜘蛛《くも》に似ている。剥けた肌から膿《うみ》のようなものが滲《にじ》み出て壁に痕《あと》をつける。なめくじの這ったものにそっくりだ。おふくろは箪笥《たんす》の上にどたっと腹這いになった。涙を溜《た》めた目で私をいつまでも見下ろしている。  なにか声をかけてやりたいのだが、私の喉《のど》はぴたりと貼《は》り付いて声にできない。  おふくろの細い腕が蛇のごとく伸びた。箪笥の引き出しの奥へと滑り込んで行く。なにか訴えているらしい。私はがくがくとした膝《ひざ》を無理に立てて引き出しの奥を覗《のぞ》いた。引き出しの裏に封筒のようなものが隠されていた。 「これか?」  ようやく声になった。  おふくろは小さく頷《うなず》いた。  そして……目の前から消えた。  私は引き出しを外して封筒を取り出した。折り畳まれたところがぼろぼろになっている。何度も取り出しては見たものらしい。  中身を見るのが怖かった。  私の指は震えていた。この感触では写真に違いない。幽霊になってまで人に見せまいとしたおふくろの秘密がこれに隠されている。  息を大きく吐いて写真を引き抜いた。  ポルノ写真であった。  素人が撮影したもののようで男女の顔はまったく撮《うつ》されていない。ただ結合の部分がアップになっているものばかりだった。  緊張の糸が緩んだ。  こんな他愛《たわい》もない写真のためにおふくろが幽霊になって現われたと思えば悲しいが、笑みも零《こぼ》れた。今はもっとどぎついものが出回っている時代だ。義姉がこれを発見したとて大笑いするだけだろう。おふくろの杞憂《きゆう》だ。 〈ばかだな。夢の中で教えてくれりゃいいのに。そしたら直ぐに処分してやったぜ〉  こんなものに親父が亡くなったあと慰めを求めていたのかと思えば愛しい。それでも気丈なおふくろはそれを自分の恥と見ていたに違いない。なのに捨てることができなかった。  私は何枚かの写真を電球にかざして眺めた。  一枚にチューリップの柄のワンピースが写されていた。女の裸の脇《わき》に脱がれている。  どきん、と心臓が破裂しそうになった。  私は慌てて何枚かを調べた。  白黒の小さな写真ではっきりとはしないが、女の乳房の下に痣《あざ》のようなものが見える。  おふくろに間違いなかった。  そして男は親父のように思える。  おそらく二人が結婚する前に撮影した記念の写真だったのであろう。親父が死んだあとおふくろはこの写真を箪笥の奥から引き出しては眺めて、生きる勇気を得ていたのだ。  どこからか解放された安堵《あんど》の息が聞こえた。  おふくろのものだ。 「恥ずかしくなんかないよ、かあさん」  私は闇《やみ》に向かって言った。 「おふくろは親父のこと本当に好きだったんだね。これは俺《おれ》の宝だ。俺が大切にする」  涙はいつまでも止まらなかった。 [#改ページ]   色々な世界 「本調子じゃないみたいだな」  並べられている料理にはほとんど箸《はし》をつけない私を見やって上田は心配そうに訊《たず》ねた。無理もない。あの事故以来、長い入院のせいもあるけれど体重が十キロも落ちている。 「和子さんからちょっと耳にしたが……退院してから部屋に閉じ籠《こも》り切りだって? 食事も一人でしているらしいじゃないか。心配してたぞ。寝たきりの状態なら仕方ないが、こうして外出できるぐらい回復したってのに、なにか問題でもあるのかね」  上田は詰問の口調になった。なるほど、と私は頷《うなず》いた。今夜の誘いは嫁の和子が頼み込んだものに違いない。私の本音を聞き出してくれとでも言ったのだろう。 「和子についてはまったく問題ないよ」  真っ先にそれだけは伝えた。 「むしろ、可愛《かわい》くてしょうがない。あんなに親身になってくれてありがたい」 「そりゃ、義父《おや》なんだから当然だろう」  それでも上田は軽い驚きを浮かべていた。気の利かない鬱陶《うつとう》しい女だと和子のことをこれまでいったい何度上田に訴えたことか。 「あんまり可愛くて、頭が変になりそうだ。目の前に居られると抱きたくなってしまう。しかし、嫁に手をだすわけにはいくまい。息子にも申し訳ない。それで部屋に閉じ籠ることにした。思いを抑えるためだ」  上田は肩を揺すらせて笑った。 「そんな冗談がでるんなら大丈夫だな」 「本心なんだ」  私の言葉に上田はぎょっとして、 「そうか……入院中に看病を受けて和子さんの良さが分かったということか」 「いや……和子は滅多《めつた》に来てくれなかった。きっとこっちの視線を気にしたんだろうな」  私は和子の美しさを頭に描いてうっとりとなった。あの女にならどんなに辛《つら》い仕打ちをされようと耐えられる。 「本気で嫁に惚《ほ》れちゃまずかろう」  上田は私に酒を勧めながら言った。 「違う女なんだよ。前の和子とは」 「そうかね。俺《おれ》には分からんが……まあ、惚れれば確かに違って見えるかも知れん」 「そういう意味じゃない」  私は首を左右に振った。 「和子一人のことじゃなく、世の中全部が違って見える。たとえばおまえのことだって」  私はとうとう打ち明けるつもりになった。 「気が触れたと思われるのが辛くて、ずうっと内緒にしていたんだが……あの事故で頭を打ってから、どこかがおかしくなったらしい」 「…………」 「うーん、困ったね」  私はぽりぽりと頭を掻《か》いた。検査結果では正常なのだから、おかしくなったという言い方は間違っている。事故のお陰で長年の狂いが正常に戻ったと言うべきであろう。 「なにが言いたいんだ?」 「おまえ、事故の直後に見舞いに駆け付けてくれたよな」  戸惑いつつも上田は頷いた。 「あのとき、俺はおまえのことが分からなかった。医者は事故で頭を強く打ったせいで一時的に記憶を失っただけだと説明していたが、どうもそれとは違っていたようだ」 「どのように?」 「記憶を失ったんじゃないんだ。本当に知らない顔だったんだよ。はじめて見た顔だった。だから分からないのが当たり前だろ」 「おまえ、やっぱりおかしいぞ」  上田は薄気味悪そうな顔をした。 「俺が知っている上田は色が豚のように生白くて丸顔で嫌なじじいだった」  からかわれたと思ったのか上田は爆笑した。 「そうだよ。見た通り、俺は嫌なじじいさ」 「違う」  私は断固として否定した。 「褒めるつもりはないが、今、俺の前に居るおまえは、俺のこれまでの語彙《ごい》で言うなら浅黒い肌をした細面のダンディな男だ」 「お世辞でも嬉《うれ》しいね」 「お世辞じゃない。実際にそう見える」 「…………」 「だから見舞いに来て貰《もら》ってもおまえだとは分からなかった。おまえだけじゃない。息子も、孫も、みんなそうだった。俺の知っていた顔は一つもない」  ポイントを明瞭《めいりよう》に伝えたはずだったが、上田はまだ困惑の表情を見せていた。 「調べたことがなかったんで、この歳になるまで気付かないで過ごしてきたが、どうやら俺は目に障害があったらしい。と言っても視力とは関係がないから生活に不自由はなかった。ただ、色や形の識別がおまえたちとはだいぶ違っていたというだけさ」 「馬鹿を言うな」  上田は遮った。 「色や形が違って見えていたら生活に差し支える。調べて貰わなくてもおまえ自身が気付くはずじゃないか。だったら赤信号が青に見えるってことだろ。そんな毎日を繰り返していりゃ、とっくに事故で死んでいる」 「途中からの障害なら俺に混乱が生じるだろうが、生まれつきなら問題がない」  私は説明した。自分自身が戸惑いの末に辿《たど》り着いた解釈である。病院のベッドの上に二カ月も縛りつけられていたお陰で考える時間だけはたっぷりとあった。 「確かに事故に遭うまで、俺には赤信号がおまえの言う青色に見えていた。だが、俺はその色を子供の頃から赤と教え込まれてきたんだよ。色の名は自分が決めるものじゃない。だれかから教えられるものだ。赤い郵便ポストにしろ、真っ赤な太陽にしたって、一緒だ。俺の目と取り替えることができれば、おまえにはそれが青いポストや太陽に見えるだろうが、俺はその色を赤と認識しているから問題はなに一つない。絵を描いても同じ結果だ。太陽を描くには、迷わずに赤絵の具を選ぶ。感覚だって変わりがない。健康的な小麦色の肌って言うよな。俺にはそれが、おまえの目で言うなら青白い色に見えていた。しかし、小さな頃からそれが健康的だと教えられていたんで問題は少しもなかったのさ。涼し気な氷の旗だって、おまえに言わせれば暑苦しい赤なんだろうが、俺はそれが涼しい色だとずうっと思い込んでいた。だから旗を見ると爽《さわ》やかな感じになった」 「ちょっと……待ってくれ」  上田は自分の頭をごんごんと叩《たた》いて私の説明を理解しようとしていた。 「もし……それが本当だとしてだな」  上田は私をじっと見詰めて、 「いきなり正常に戻ったら大変なことにならんかね?」 「なっているさ。退院して部屋に閉じ籠《こも》っているのにはそれも関係している。二カ月やそこらで慣れるわけがない。最初はびっくりして医者に訴えたんだが、どこにも異常がないと言われた。異常がないって言われてもな、こっちにすれば大問題だよ。道路を歩くのさえ怖くて仕方ない。青空と夕焼けの区別が特にむずかしい。まるで昼夜逆転した気分だ。俺にはどうしても真っ赤な夕焼けにしか見えないのに、和子や孫たちは真っ青な夏空だと言う。闇《やみ》だけはおなじだから、つい夜更かしするようになった。まるで吸血鬼だな」 「笑いごとじゃなかろう」  上田は深い溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。 「そうだ。深刻な状況だよ。おまえは俺の食欲のないのを案じてくれたが、それだって色と無縁じゃない。たとえばこいつだ。ヒラメの刺身を頼んだはずなのに、俺にはどう見たって鮪《まぐろ》としか思えん。この色が白だということを頭に言い聞かせているんだが、俺のこれまでの認識では、肌色に近いものに見える。そんなヒラメが食えると思うか? それにこいつもだ。イクラおろしってことは知ってるが、青いイクラでは箸《はし》を伸ばす気にならん」 「だって、これは赤いぞ」 「だから言っただろうに。この色を俺はこれまで別の色で見ていたんだ。目がおまえとおなじになったら、青い色だと分かった。俺が教え込まれている青い色だとね」 「どうもこんがらがってきたが……色は別でも味は変わらん。違うか?」 「大違いだ。味には色が大いに関係している。そこにある枝豆だって、正直言うと俺には兎の糞《ふん》にしか見えん。噛《か》み締めれば味は一緒かも知れんが、御免こうむりたいね」 「そんなにひどいのか」 「一人で食事するときは電気を消している。そうすると色が見えなくなって、なんとか我慢できるのさ。ただし、相当にまずいぞ」 「色盲だったというわけだ」  上田は自分を納得させようとしていた。 「色盲とは違うみたいだ。俺も気になって調べた。色盲はそもそも染色体の問題なんで頭を打ったくらいでは治らん。それに色の転換にも一定のルールがある。白が別の色に見えることは有り得ないそうだ。視神経の伝達に障害があったとしか思えない。色盲だったら形にまで影響を与えるはずがないし……」 「形ってのは、どんな具合に?」 「主に高低の差だな。それと、幅もちょっと関係ある。検査した結果じゃないから断定はできんが、たいていがこれまでよりも背が高くて痩《や》せて見える。きっと目のレンズが圧迫されて広角レンズのようになっていたんだと思うよ。これも生まれつきだから奇妙さに気付かなかったんだ。トンボの目玉とおなじさ。トンボにはすべてが複眼と単眼で見えている。もし、あれが突然に単眼だけになったら世の中がまったく違うものに見えて動転するに違いない。まあ、俺の場合、歪《ゆが》みが多少是正されたに過ぎないから大した問題でもないが、そのわずかの高低差ってのが厄介でね……」  私は苦笑いした。 「キンキンとがなり声を上げて、不健康で性根の悪い嫌な女だと思っていたのに……はじめて病室にやってきた和子を見たとき、本当にベッドから転げ落ちるほど驚いた。すらりと痩せて、鼻がつんと高くて、健康的な肌をしていて、どこにも文句のつけようのない完璧《かんぺき》な女だった。この歳になって勃起《ぼつき》したよ」  上田はあんぐりと口を開けた。 「恥ずかしいが本当なんだ。目を合わせることさえできない。心臓がどきどきする。おなじ屋根の下に居ると思うだけで眠れなくなるほどだ。俺がこれまでに出会った女の中で和子くらい美しい女は覚えがない。あんな女にだったら多少冷たくされても我慢できる」 「どうもついていけんな……決して悪口じゃないんだが、和子さんのどこが健康的なんだ。青白くて陰気な人としか思えん」  上田は首を小さく横に振った。 「さっきも説明したじゃないか。おまえの目には青白く感じるだろうけど、俺のこれまでの認識だと、その色は健康色なんだよ。日焼けした肌の色は俺にとって、おまえの言う青白い色だったのさ。その認識で六十年以上も暮らしてきたんだ。色が逆転しても、その認識はなかなか変えられない。俺には病院に入院している患者たちの方が元気な者より遥《はる》かにエネルギッシュに思える。和子もそうなんだ。理屈では虚弱体質だと分かっていても、俺にはすこぶる健康に見えるんだ」 「なんだか……頭が痛くなってきた」 「泣きたいのは俺の方だ」  私はテーブルを揺さぶった。気が狂いそうになるのと毎日必死で戦っている。私のこれまでの色の認識で言うなら耐えられないもので世界が満ちている。青い太陽に青い夕焼け、赤い海に赤い深緑の森。真夏の海にはゾンビのように青白い者たちばかりが遊んでいる。ステーキは緑に見えるし、カレーライスは水色だ。唯一の利点は黄ばんでぼろぼろになった畳がまっさらなものに見えるということぐらいであろうか。つい最近も蚊を潰《つぶ》したら青い血が噴き出た。この状態に慣れるのが先か、あるいは狂うのが先か……私にも分からない。 「気をつけた方がいいぞ」  私は意地悪く上田に言った。 「これは俺《おれ》ばかりとは限らん。ひょっとしておまえだってそうなのかも知れん。人の目に色や物がどう映っているかなんてのは他人に絶対に分からないことなんだ。このイクラだって、おまえには俺の認識で言う緑に見えている可能性がある。けど、おまえはその色を赤と教え込まれているから一度として疑問を感じたことがないだけなんだ。なにかの拍子で目の機能が正常に戻れば俺とおなじになる」  上田はゾッとした顔で私を見返した。  闇《やみ》に紛れて私は家に戻った。  離れの部屋なので庭から直接に上がることができる。布団がそのままになっていた。着替えて布団に入ろうとした私はその上に水色の美しいものを認めた。アイスクリームのように涼し気だった。私は両手ですくい上げた。どろっとして柔らかい。ひさしぶりに食欲がわいた。私はそれに鼻を近付けた。 「お義父《とう》さん、なにしてるの!」  和子の声で私は振り向いた。  私が帰った気配を聞き付けて様子を見にきたのだろう。和子は廊下に立ちすくんでいた。 「よしなさい!」  和子は悲鳴を上げた。 「これ……なんだろうね」  私は水色のものに鼻を埋めた。そして、なんであるか分かった。 「あなた! きて。お義父さんがボケてしまったの。うんこを食べてる」  和子は言うなり飛びかかって大便を私の手から払い落とした。私は布団に尻餅《しりもち》をついた。  そうか……ボケだったのか。  私はようやく気付いた。目は正常なのに、それを識別する脳の方に障害が起きていたのかも知れない。  いや、本当のところは分からないぞ。  私にはまだそれが水色に見えている。  この症状を世間がボケと見做《みな》しているだけかも知れないのだ。  だが……私にはどうでもいいような問題に思えた。これで寝たきりになれば和子の看病が受けられる。その方がずっと楽しい。  私はボケを装ってヘラヘラと笑い続けた。 [#改ページ]   雪明かりの夜      一 〈おめえさん……お仲さんじゃねえのかね〉  そのフレーズがなんとしても頭から離れない。短編の締切りがぎりぎりに迫っていて、この二、三日、他の仕事の合間にそのアイデアで苦しんでいる。喫茶店や風呂《ふろ》に入るたびあれこれとストーリーを構築してみるのだが、どうしても上手《うま》く纏《まと》まらない。すべてはそのフレーズに原因している。なぜだか分からないが、その言葉がずっと頭に浮かび続けて他の物語を阻《はば》んでいる。小説を書いたことのない人には理解して貰《もら》えないことだろうが、書いている最中に、これはだれかの力によって書かされている、と思う瞬間がときどきある。普段はまったく関心を持っていない問題について、脇役《わきやく》のだれかが突然口を挟んできたりするのだ。自分が拵《こしら》えている小説なのだから、もちろん違和感を覚える。その問題に踏み込んでも私に立派な解答があるわけがない。慌てて削除しようとするのだが、奇妙に会話が弾んでいく。気付いたときには三、四枚が進んでいる。読み返す限り自分の文章に間違いはなく、自然に物語に溶け込んでいる。知識はあったのに、その問題に興味が持てなかっただけなのだろう、と納得するしかないけれど、どうも不思議だ。仲間の物書きに質《ただ》してみたら、だれもが一様に頷《うなず》いた。まったく作り物のミステリーやホラーの場合そうしたことは少ないが、歴史物を手掛けていると実に頻繁《ひんぱん》にそれが起きる。登場人物の行動の意味を必死で頭に思い描き、ぽつりぽつりと書き進めていると、唐突に筆が速くなる。心臓がどきどきしはじめる。無意味に涙が溢《あふ》れる。嘘《うそ》ではない。感きわまって書けなくなることもある。ところが……あとで読み返すと、泣ける部分ではないのだ。なんの変哲もない会話のことが多い。これがどうにも理解できない。その人物の霊が降りてきて私にその部分を書かせたとしか思えないのである。何時間も寝ずに仕事を続けた明け方にその状態になることが多いから、いわゆるトランス状態に見舞われているのかも知れない。当初は薄気味悪さを覚えたものの、それにもやがて慣れてきて、むしろ快感とさえ思うようになった。枚数が進むのもありがたい。一時間に三枚が私のペースなのに、そういうときは二時間程度で十三、四枚も書けたりする。自動書記という現象に近い。思えば小説とは人の心を忖度《そんたく》するものだから、波動を送り続けているようなものだ。その相手が実在した人物であった場合、それに呼応することも有り得る気がする。もちろん断言はできない。ただ、私はそう信じているということだ。  だから、短編のアイデアを練っているとき、どうやっても〈おめえさん……お仲さんじゃねえのかね〉というフレーズが頭から離れないのは、なにかの信号を与えられているのではないかと思いはじめた。登場人物の名前を決めるのにも苦労する私なのに、お仲という名がすんなりと出てきたのも奇妙である。第一、このセリフからはじまる小説が、それほど魅力的とも思えない。二、三日も考えていればもっと面白そうな出だしを必ず思い付くはずだ。  書けと言うからには書くしかない。  逆に私はこの一行を手掛かりに推測をはじめた。この言葉遣いからして時代は江戸から、せいぜい昭和のはじめといったところだろうか。場所は東京の下町とたいていが感じるだろうが、咄嗟《とつさ》に私の脳裏に浮かんだのは雪のしんしんと降り積もる田舎《いなか》の山道。しかも右手が深い谷となっていて蒼《あお》い川が流れている光景である。なぜ、と問われても分からない。ただその景色がはっきりと浮かんだだけだ。  このセリフを口にしたのは……私である。  さすがにそれを思い付いたとき、私の背筋に寒気が走った。短編だと主人公を「私」と表記するのはそんなに珍しくない。けれど、それは書いている私とは違う。小説の中の主人公が私と名乗っているだけのことだ。だが、今度の場合、本当の私を意味している。この小説を書いている私が、小説の中でだれかを見掛けて、 「おめえさん……お仲さんじゃねえのかね」  と声をかけているのである。  ここで私は行き詰まってしまった。なんで私がこんな言葉遣いをしなければならないのだろう。そもそも私では霊が降りたことにならないではないか。別の展開を必死で考えはじめたが、あのフレーズと一緒で、今度はその光景がいつまでも消えない。いったいどういうことなのか私にも分からない。      二  翌日の真夜中となっても、相変わらず私は短編のことで苦しんでいた。朝にはせめてタイトルを含めた五、六枚をファクシミリで流さなければならないのに書き出せないでいる。原稿用紙にはタイトル用の空欄と私の名前の他に〈おめえさん……お仲さんじゃねえのかね〉という一行があるばかり。窓の外に見える近所の屋根には降り積もった雪が月明かりに輝いて青白く光っている。窓を開けて入れ替えをした。たばこの煙が充満しているのもあるのだが、苛立《いらだ》ちを鎮めたい方が大きい。  冷たい空気が私をしゃきっとさせる。しかし眠気と戦っているのではないから、なんの助けにもならない。困ったものだ。こうしてぼんやりとしている時間が惜しい。他にまだ仕事を抱えている。それならそっちを先にすればいいのに、となると短編のタイトルなどそっちのけになってしまう。  ここ何時間かのうちに雪がだいぶ降ったらしく、窓から見下ろす道も真っ白になっていた。雪の光景が私の中に浮かんでいたのは、単純にこの雪からの連想だったのかも知れない。四、五日前から十二月には珍しく雪が降り積もり、すっかり冬景色となっている。  私は散歩に出ることにした。  眩《まぶ》しい月明かりに誘われたのである。幸い雪は止《や》んで夜空も晴れ渡っている。地方都市なので真夜中に開いているのはコンビニ程度しかないが残り少なくなっているたばこを買いがてら外を歩いて気分転換しようと思った。だれの足跡もないまっさらな雪道を歩くのも気持ちがいいものだ。それに雪は人が思うより寒くはない。凍《こご》えるのは吹雪《ふぶき》のときだけだ。  マフラーを首に巻き、分厚いブルゾンを着て外に出る。雪道は輝いていて心を浮き立たせた。私の住まいは閑静な住宅地にあるので車の往来もこの時間ではなくなっている。どこまでも続く白い道は私一人のものだ。さくさくさくという雪を踏む足音もなにやら懐かしい。思えば外出はいつも車を用いて、雪道を歩くことなど珍しくなった。雪を車の窓から眺めるばかりだ。子供の頃はあんなにも雪を待ち侘《わ》びて、夜遅くまで外で遊んでいたのに……雪が重荷となりはじめたのは家を建てて屋根の雪下ろしや門前の雪|掻《か》きが義務のように伸《の》し掛かってきてからだ。子供は無責任に雪と戯れていればいい。  本当に雪は楽しいものだった。  一面に降り積もった雪が境界線をなくしてくれるのも嬉《うれ》しかった。私は農家の多い田舎の村にも暮らしたことがあるので特にそれを実感した。普段は道に縛られて迂回《うかい》しなければならない間近の小学校に、冬は雪の積もった平らな田圃《たんぼ》を越えて一直線に向かうことができる。スキーを使えばもっと速い。その田圃は広大な運動場にもなった。雪の土俵を拵《こしら》えてクラス対抗の相撲《すもう》に興じ、五十人もが加わっての戦争ごっこを繰り広げた。田舎は土地が有り余っていると言うけれど実際は水の張られた田圃や作物の茂る畑なので子供たちの遊ぶ場所は意外と少ない。雪の降る冬こそ子供たちの天国と変わるのである。転び回っても痛くないし、濡《ぬ》れるだけで服が汚れないのもありがたい。かまくらを作って自分の城を持つこともできる。私の父親は医院を開業していたので試験管がいくつも家にあって、冬になると私はアイスキャンデー屋に変身した。試験管に割り箸《ばし》と砂糖水を入れて雪に深く差し込んでおけば朝には立派なアイスキャンデーが出来上がっている。売りはしないが、仲間たちにはずいぶん喜ばれた。  しかし、なんと言っても心を弾ませてくれたのは雪明かりの夜の美しさではなかっただろうか。田舎の夜は怖い。田圃ばかりなので外灯もほとんどなく、真っ暗な闇《やみ》となる。だが冬は違う。たとえ月が照っていなくても雪の白さがいつも足元にある。これに月明かりが加われば、それこそ雪原がきらきらと輝いて幻想の世界となる。月に照らされて青白い光を発する雪明かり。それに誘われた子供たちが夜中に集まってかまくらで遊ぶ。真夜中に外で遊ぶことなど滅多《めつた》にできない。その興奮もあって皆から笑いが絶えない。  豊かな子供時代だったとしみじみ感じた。  それとも、今の子供たちもおなじように雪と戯れているのだろうか。私たち夫婦には子供が居ないのでその辺りがよく分からない。      三  たばこを買っても家に帰る気にはなれなかった。雪明かりが私を子供時代に戻していた。  だいぶ歩いたので体も温かい。私はわざと遠回りの道を選んだ。家が密集しているのは大きな通りに面している一帯だけだ。少し脇《わき》に入ると林や藪《やぶ》が残されている。二十年ほど前に開発された住宅地で、それ以前は畑ばかりのなだらかな丘陵だったと聞いている。林の手前には一里塚もあるから江戸時代には街道も通じていたに違いないが、その頃は人家も滅多にない森だったのだろう。興味を引かれて私は一里塚の方まで足を延ばした。場所は知っていても間近で見たことはない。だいたい私に散歩の習慣はない。せいぜい近所の喫茶店か本屋に行くくらいのものだ。この雪明かりの夜の高揚が気紛《きまぐ》れを起こさせている。  それにしても、だれも通っていない道に自分一人の足跡をつける快感はたまらないものがある。体力の続く限りどこまでも歩いていたくなる。雪は足の裏に柔らかくて疲れない。疲れるのは雪の深いときと固く凍っているときだ。鼻歌混じりで私は雪道を進んだ。一里塚までの途中の雪原に太い三本杉が、いきなりという感じで立っている。どうやら古い神社の境内に生えている杉らしい。神聖な場所なので、その杉だけ伐採されずに残ったもののようだ。かつての森の名残である。私は境内に踏み込んだ。神社を見掛けると、なんの神様を祀《まつ》っているのか確認するクセがある。反対に言うなら、それほど明るい夜であった。普通ならいくら好きでも真夜中の神社になど近付きはしない。なにしろ本殿脇に掲げられた由来書《ゆらいがき》の文字まではっきりと読めるほどなのである。猿田彦《さるたひこ》と少彦名《すくなひこな》神の二神の名があった。古代の蝦夷《えみし》の信仰したアラハバキ系列の神だが、神社の創建は江戸時代となっていてあまり古くはない。そういう伝承があった土地に江戸時代になってから再建したということだろう。だれの姿もないのを幸いに私はたばこをくわえて火をつけた。あらためて三本杉を眺める。境内の中から見上げると相当に高い。四百年くらいは樹齢がありそうだ。  木に生命があるのなら考える力や感情もあるのだろうか。脳がないから感情もないとするのは間違いのような気もする。蚊《か》に脳はあっただろうか? たぶんあっても顕微鏡でしか見えないものだ。それほど小さな脳でも人間と結構知恵|較《くら》べする。木の中にそういう細胞があっても不思議はない。水分を求めて根を張り巡らす能力を自然の力と見做《みな》すのは安易過ぎないか? 動かないから動物とはまったく違う存在と決め付けているだけだ。目がなくても風や雨を肌で感じることができる。音は振動として認識できる。二千年も生きていられる木が感情を持たないわけがないではないか。でなければ退屈してしまう。  この杉たちもここでこうやって辺りの移り変わりを見守ってきたのだ。いつもはこんなことを考えもしないのに……空の月と雪明かりが私を詩人にさせている。神社の境内は心を透明にする場所でもある。  さく、さく、さく、さく。  遠くから雪を踏む足音が聞こえてきた。  こんな真夜中にだれだろう。  私はたばこを雪に落として消した。恐らく市内で遅くまで呑《の》んでの帰りと思われるけれど、境内の中にたばこの火が揺れていれば仰天される。幽霊とでも勘違いされるかも知れない。私は本殿の脇に隠れてやり過ごすことにした。見知らぬ他人と挨拶《あいさつ》する気もない。 〈しかし……〉  この先に家があっただろうか。一里塚の奥は深い林で、その先は川となっている。もちろん橋を渡れば別の住宅地に行き着ける。だが、だいぶ遠い。その住宅地の住人なら別の道を用いるのが普通だ。私は足音のする方角に目を動かして捜した。小さな人影が真っ直《す》ぐ私の潜《ひそ》む神社を目指して歩いてくる。なんだかどきどきしはじめた。もしあの人影が私と同様に雪明かりに誘われて散歩をしているのであればどうしよう。この境内に入ってきたら嫌でも顔を合わせてしまう。驚かす前に自分の存在を示すべきではないのか? と思ったが、接近した影を眺めてぎょっとした。男は和服を着ていた。裾《すそ》をからげて黙々と歩いている。それがなんとも怖い。寝間着《ねまき》のまま家を出てきたようだ。しかし、夏ならともかく、この時節に信じられない。精神状態を疑われる。そんな人間とこんな真夜中に関わりたくはない。私は息を潜めて見守った。  男はついに神社の前までやってきた。道から本殿に手を合わせて一礼する。私の存在には気付いてもいない。けれど私は男を間近に見てがたがた震えていた。一礼した男の頭にははっきりとちょん髷《まげ》が見られたのである。着物も寝間着ではない。時代劇などで目にする旅装束だった。いったいなにが起きているのか見当もつかない。今の時代となっても、わざとちょん髷にしている人間が居ることは聞いている。だが私の暮らす町では耳にしたことがない。かつらだとしても、どうしてそんな格好で真夜中に出歩くのか?  男はふたたび歩きはじめた。  深い安堵《あんど》に私は包まれた。凄《すご》いものを見たという興奮が次に襲ってきた。その男の謎《なぞ》をあれこれ想像するだけで短編が書けるはずだ。事実は意外に詰まらないことに違いないが、そこはどうとでも作れる。本殿から境内に戻った私に今度は別の足音が聞こえた。  さく、さく、さく、さく。  今の男の足音とは違う。  男と擦れ違ったらしく挨拶の声もした。女の声だった。あの姿を見て悲鳴を上げてもいない。私が知らないだけで、この辺りの名物男なのかも知れない。なんだか気が抜けた。  だが——  神社の鳥居の前に現われた女は……丸髷を結った女だった。私は慌てて身を隠した。  いくらなんでもおかしい。  女は丁寧に手を合わせて本殿を拝んだ。雪明かりに照らされて美しい女の顔が見える。あんな若い女が丸髷を結っているわけがない。  そこに雪道を踏み鳴らしながら男が駆け戻った。女は怪訝《けげん》な顔を男に向けた。  男はまじまじと女を見詰めている。私は聞き耳を立てた。 「おめえさん、お仲さんじゃねえのかね?」  男ははっきりとそう言った。ざわざわと私の背中を寒気が伝う。腕に鳥肌が立った。 「やっぱりお仲だろう。間違いねえ」  男は女に詰め寄った。女はじわじわと後退した。回り込んで境内に逃げ込む。 「こんな田舎に隠れていやがったのか。ふざけやがって。てめえのお陰で俺《おれ》がどうなったか知りもしめえ。今はこのざまだ」  女は悲鳴を発して逃げ回った。男の足の方が速い。女は雪の境内に転がった。 「謝るなら勘弁しねえでもねえものを……そんなに俺が嫌いか。嫌いならなんで俺を誑《たぶら》かした。あの金を俺がどんなにして工面したと思う。おめえと一緒になれると思えばこそ俺は鬼になった。ほんの少しでも俺のことが好きでやったことなら俺も悪いと諦《あきら》める。おめえは……おめえは仲間うちで俺のことを笑っていたそうだな。口が臭ぇ豚だとよ」  男は女の首を絞めながら泣いていた。 「放っといてくれりゃよかったんだ。そんなに銭《ぜに》が大事か? 死ぬほど嫌いな男に抱かれても銭のためなら辛抱できるのか? 豚はおめえの方だ。臭くて臭くてたまらねえよ」  女は手足をばたばたさせた。白い雪が舞い上がる。助けに行かなければならないと思いつつ私にはできなかった。これが現実のものとは思えない。二人の姿はときおり透けそうになる。女の断末魔の悲鳴が耳に響いた。  私は雪明かりに目を凝らした。  二人の姿は消えていた。黒い残像だけがぽっかりと白い境内の真ん中に残っている。      四  私は三本杉の右端の根本に立っていた。  この下にお仲の死骸《しがい》が埋まっている。  小説などとは無縁のことだったのだ。  前の家からこの住宅地に引っ越してきて三年になる。おなじ土地に降り積もる雪を眺めているうちに私の心の奥底に隠されていたものが目覚めたということなのだ。たまたま短編の締切りと重なっていたので私はそれと気付かずに、ここ何日かそれを必死で思い出そうとしていたのだ。そして前世の私に導かれて私はここへやってきた。  お仲をここで殺したのは私である。  私にはお仲の懇願する顔が、昨日のことのように思い出されていた。  あれから何年が過ぎてしまったのか。  お仲の骨はすっかり朽ちて、この杉の一部となっているに違いない。もしかするとここへ私を導いたのは杉の中に居るお仲だったのではないかという気もしてきた。 「お仲さんじゃねえのかね」  私は杉に向かって呟《つぶや》いた。  杉に積もっていた雪がどさっと私の足元に落ちてきた。風もないのに。  私は杉に手を合わせて境内を出た。  白い道には、当たり前のことだが私一人の足跡しか付けられていなかった。  私は殺人者だったのだ。  罪の意識よりも、私にはそれがこれからの勇気に繋《つな》がるような気がしてならない。もっと我《わ》が儘《まま》に生きていい年齢に差し掛かっている。 [#改ページ]   大好きな姉      一  事情《わけ》があって田舎《いなか》から遠ざかっていた私に、ずっと病床に伏していた父が亡くなったという連絡が入ったのは長雨の続く九月下旬の肌寒い日だった。二度と戻らぬと決めていた私であったが、さすがに父が死んだと聞かされて心が揺れた。一日考えた末、葬式にだけは顔を出すと母へ伝えた。と言っても家は松江よりバスで一時間半、さらに細い道を歩きで四十分の山の中にある。東京からでは飛行機を利用しても出雲《いずも》空港と松江はだいぶ離れている。乗換えまで含めると八時間は覚悟しないといけない。行くと決意したのは夕方だった。どうせ飛行機は使えない時間だ。私は夜行寝台で松江に向かった。  父のこともあったが、狭苦しさと肌をチクチクと刺す寝台のせいで寝付けなかった。駅に停車するたび私はトイレに立ち、デッキでたばこを喫《す》った。なぜ夜行列車は無駄な時間調節を繰り返すのか。人を乗せるでもなく、十分や十五分を悠然とホームで潰《つぶ》している。この時間待ちがなくなれば軽く数時間は短縮できるはずである。一刻も早く到着して貰《もら》いたい私にしたら、苦痛以外の何物でもなかった。  車両はがらんとしていた。いまどき夜行寝台を利用する客は滅多《めつた》に居ない。 〈何年ぶりだろうか……〉  十一の時に大阪の親戚《しんせき》の家に預けられて以来だから、かれこれ二十年は経つ。 〈そんなになるのか?〉  自分でも意外だった。思い出さないようにして来たが、あの当時のことは、まるで昨日のごとく覚えている。不意にサキ姉《ねえ》の白い顔が脳裏に浮かんで胸が落ち着かなくなった。たばこを持つ指が小刻みに震えた。まだ義姉《あね》が私の心を支配している。  私は急に後悔に襲われた。  父が死んだから戻る決心をしたのではない。サキ姉が一人でどうしているのか、それを確かめたい気持ちが大きかったような気がする。  私は吐き気を堪《こら》えた。  義姉のイメージとともに生臭い血の匂《にお》いが思い出されたからであった。      二  朝早くに松江に着いた。バスには一時間以上も間がある。私は広い駅前通りに出てホテルを探した。ホテルなら早朝でも食事をすることができる。小学校の五年までしか田舎に居なかった私にとって松江はほとんどはじめての町とおなじだ。記憶など一つも残っていない。それでも町は日本全国似たようなものだ。五分も歩かないうちにビジネスホテルが見付かった。ベーコンエッグにトーストとコーヒーだけのモーニングセットを頼み、新聞を手にすると猛烈な眠気が襲って来た。松江に着いたということで緊張が緩んだのだ。いや、その反対かも知れない。極度の緊張は眠気を誘う場合もある。が、昨夜はほとんど眠れなかったのも確かである。  朝の太陽が眩《まぶ》しい。私は目を瞑《つむ》った。 「あの、お客さま」  目を開けるとボーイが困った顔をしていた。 「なに?」 「コーヒー、お取換えいたしましょうか」  一瞬、なにを言われたのか分からなかった。 「すっかり冷めてしまいましたが」  ぼんやりとテーブルを眺めたら、いつの間にか食事が運ばれて来ている。コーヒーは冷え切って黒い水に見えた。時計に目をやった。二十分が過ぎていた。 「お取換えいたします」  ボーイは私が起きたので安心したのか、笑顔を見せるとカップを下げた。直《す》ぐに新しいカップを置いて熱いコーヒーを注ぐ。湯気をじっと見詰めているうちに、むかむかと吐き気が襲って来た。慌てて口を押さえた。立ち上がろうとした膝《ひざ》がテーブルにつかえた。我慢できない。私は押さえた掌《てのひら》の中に吐いた。指の間から胃液が溢《あふ》れてテーブルに滴った。 「大丈夫ですか!」  ボーイは眉《まゆ》をしかめつつも案じた。 「どうも。もう下げてください」  ボーイの差し出したナプキンで口の周りを拭《ぬぐ》いながら私は謝った。若い女の客たちが私を不快そうに眺めている。これ以上この席にはいられない。伝票を手にして私は外に出た。 〈コーヒー……〉  吐いた原因がコーヒーにあることは分かっていた。二十年前の記憶がまだ私の奥底にはっきりと残されていたのだ。サキ姉からの連想で生々しく甦《よみがえ》ったのである。毎日何杯となく飲んでいるコーヒーなのに……思い出すとふたたび吐き気がした。こんな状態で本当に大丈夫だろうか。このまま出雲に向かい、飛行機に乗って東京へ帰る方がいいのではないのか? やはり来るべきではなかった。吐いたせいで寒くなった体を縮めながら思った。      三  バスに乗っている間に激しい雨となった。  山の天候は変わりやすい。椀《わん》を伏せたような出雲独特の小山が延々と続く山道をバスは侘《わび》しく走った。ひさしぶりなのに懐かしさも感じない。近付くにつれ後悔ばかりがつのる。雨が心を暗くさせている。だれか迎えに来ていると思うが、この豪雨の中を一時間近くも歩かなければならないかと想像するだけで鬱陶《うつとう》しくなった。家は三百年以上も続いている出雲の旧家で、山林を経営している。その気になれば家の前まで車の通れる広い私道を作れるはずなのに、山を神聖なものとする先祖の考えもあって、わざと昔のままにしている。冬などは麓《ふもと》に暮らす使用人たちに命じて毎日道を確保させている。その面倒たるや大変なものだ。都会に永く住んでいる私にはとても我慢ができない。使用人たちだって毎日あの山道を往復しているのだから苦労していよう。  アナウンスが私の下りる停留所を告げた。  雨の滴が横走りに伝う窓を通して私は前方に目をやった。黒雲が町の屋根を覆っている。  バスを待つ何人かの姿が見えた。あの中に迎えの者がいるはずだ。二十年ぶりでは私を知っている者も少なくなっている。が、迎えの見当は直《す》ぐについた。私の家の家紋を描いた唐傘《からかさ》がその中に混じっていたのだ。女であった。私は窓越しに手を上げて自分がそれであるのを示そうとした。だが私の腕は強張《こわば》った。  顔を上げた女は左目に黒い眼帯をしていた。 〈サキ姉……〉  どうしてサキ姉が私を待っているのか。膝ががくがくと震えた。まさかこんなにも早くサキ姉と会うなど……どんな顔をすればいいのかも分からない。立ちすくんでいる私に運転手は苛立《いらだ》った口調で下車を促した。  私は諦《あきら》めてタラップに足を進めた。下りたのは私の他に老人が二人だけだった。 「史郎さん?」  サキ姉は私の足元から頭まで確かめるように眺めた後、真っ白な顔を向けて訊《たず》ねた。 「サキコ姉さんですね。ひさしぶりでした」  私はサキ姉から渡された傘を受け取りながら頭を下げた。眼帯から必死で目を逸《そ》らす。胸が詰まった。これは私がつけた傷である。私のせいでサキ姉は片目を失ったのだ。 「どうしてサキ姉……義姉《ねえ》さんが迎えに?」  兄が事故で十年前に死んでからサキ姉は私の家を出て一人で暮らしていると聞かされていたのである。佐波島の本家には当主の家族しか住めないしきたりとなっていた。次兄が当主となったので、兄の嫁であったサキ姉は別に家を貰《もら》い、そちらに移った。と言えば聞こえがいいけれど、実際は縁を切ったも同様だ。子供でも居れば違っただろうが、次兄に嫁いだ義姉《あね》がサキ姉を嫌ったという話も母からちらっと耳にしている。  確かに十年を一緒に暮らした父の葬式だからサキ姉が来ていても不思議ではない。しかし、私の迎えにサキ姉が来るとは……。 「別宅のお客さまの接待を頼まれて」  サキ姉は当たり前のように説明した。  別宅はこの町にある。山の中ではなにかと不便なことが多い。それで昔から麓の町に別宅を設けて来客の応対に用いているのだ。私も子供の頃は別宅から学校に通っていた。 「雨でお山への道が崩れてしまったそう」  サキ姉は別宅への道を辿《たど》りながら言った。 「せっかくいらしたのに。明日には行けるわ」  この豪雨でありがちのことだ。私は頷《うなず》いた。むしろホッとした。泥の山道を歩かずにすむ。それに……サキ姉に会ってしまった今となっては心の重しも薄れている。サキ姉が昔とちっとも変わらずに私と接してくれているのが嬉《うれ》しかった。子供の頃には恐ろしい化け物と信じたこともあったが……すべては私の無知から生じた幻想である。憎まれているという私の思いが、サキ姉に対する恐れとなって今に残っていただけのことなのだ。 「申し訳ありませんでした」  こんなに簡単に謝りの言葉が出るなんて自分でも信じられない。サキ姉の屈託のない笑いに誘われたのだ。 「目のこと? いいのよ。気にしないで」  サキ姉は微笑《ほほえ》んだ。私と八歳違いのはずだから今年で三十九。だが、その微笑みには兄に嫁いで来た十九の頃の面影があった。 〈十九……〉  それにあらためて気が付いて泣きたくなった。サキ姉は十九で片目を失ったのだ。女としてどんなに辛《つら》かっただろう。サキ姉ほどの美しさなら、兄が死んだとていくらでも再婚話が持ち込まれたはずだ。十年前ならまだ三十にも達していない。片目が潰《つぶ》れているためにその道が閉ざされたとしたら、それも私の責任ということになる。 「今日は史郎さんと私の二人きり」  サキ姉は別宅の門を押して振り向いた。 「お客さま方は昨日から本家の方に……構わないかしら。料理も残り物ばかりだけど」  二人きりと聞かされて胸が騒いだ。もう怖さからではなかった。私はサキ姉を最初に見た時から好きだったのである。着物の襟足から覗《のぞ》いた白い肌が私を少年時代に戻した。      四  別宅は昔のままだった。だだっ広くて迷路のようだった家よりも私はこの別宅の方が気に入っていた。と言えばこぢんまりとした建物を想像するだろうが、こことて部屋数は二十以上もある。本家に比較すれば小さいだけに過ぎない。私は子供の頃に使っていた八畳の部屋に泊まることにした。他は十二畳以上もあって落ち着かない。部屋の窓からは昔通りの庭が見渡せる。松の枝振りにも見覚えがあった。時間が逆転したような不安が芽生えた。あの白い土塀の向こうには二十年前の時代が広がっているのではないか? 私の学習机がないだけで、壁の色から天井の染みまで一緒である。百年もの歴史を持つ建物だ。たかだか二十年では大きく変わるわけがない。  私は着替えを済ませると一眠りすることにした。食欲がないので昼食は断わってある。それにこの雨では町の散歩もできない。それよりも体が酷《ひど》く疲れていた。敷き布団と枕《まくら》だけを押し入れから取り出して横になった。厚い檜皮葺《ひわだぶき》の屋根は激しい雨の音さえ吸い込んで、心地好《ここちよ》い子守唄に変えていた。 「お綺麗《きれい》なお姉さまができて、よろしゅうござりましたな」  暗い厨《くりや》で仲間たちと酒を呑《の》んでいた彦造が、ぼくの姿を認めて黄色い歯を見せた。ぼくも得意だった。はじめて見た義姉は昔のお姫さまのように美しかった。女の姉妹の居ないぼくにとって、サキ姉は今日からぼくの自慢となる。それに、この賑《にぎ》やかさも嬉しい。普段は家族と使用人しか居ないこの家に、今日は二百人近い客が集まっている。初対面の親戚《しんせき》も大勢居た。全部がぼくの親族や父の招いた来客ばかりでサキ姉の知り合いが一人も居ないのは不思議であったが、それもしきたりだと母から教えられて納得できた。どうせサキ姉以外にぼくは関心がない。結婚というのもピンと来ていなかった。ただ突然に姉ができたという感じだ。兄とは十七も離れていて、兄弟の繋《つな》がりが稀薄《きはく》であった。  ぼくはその日からサキ姉に纏《まつ》わりついた。サキ姉も一番年下の弟を懐柔すれば早く家に馴染《なじ》めると思ってか可愛《かわい》がってくれた。ちょうど夏休みに入っていてぼくは家に戻っていたのである。兄は毎日朝早くから夕方まで山や町へ仕事に出掛ける。父はたいてい母と別宅で来客の接待だ。この広い家にサキ姉とたった二人ということが頻繁にあった。二人の兄たちは松江の学校の寮に入っていて、すでに家を出ていた。サキ姉も寂しかったに違いない。それに十九と言えばまだ若い。仕事の手が空くとサキ姉は厭《いと》わずにぼくの遊び相手になってくれた。二人きりでやるババ抜きなんて楽しくあるはずもないが、サキ姉はよく笑った。  サキ姉はコーヒーが好きで、二人だけの時はこっそりぼくにもコーヒーを作ってくれた。まだ早いと母から叱《しか》られていたのである。砂糖をたっぷりと入れたコーヒーの焦げた味はぼくとサキ姉の秘密の味となった。  そんなある日。サキ姉が庭から母屋《おもや》の方に向かって来るのを見付けた。ぼくは驚かすつもりで先回りした。が、サキ姉はなかなかやって来ない。痺《しび》れを切らして探した。便所の戸が開けられる音がした。ぼくはそっちに足音を忍ばせて近付いた。出て来た音だと思っていたのに、どうやら入ったばかりらしい。息を潜めて便所の前に屈《かが》んで待った。サキ姉がどんなにびっくりするだろう。その時、中から心地好い水音が聞こえた。サキ姉のおしっこの音だ。便所は汲《く》み取り式のものなので音が響く。だれも居ないと安心しているのかサキ姉のおしっこの音は伸び伸びとしていた。なんだが胸がどきどきしはじめた。なんでおしっこの音なんかに……眩暈《めまい》がしてしゃがんだ。かさかさとちり紙を揉《も》む音が聞こえた。ぼくは耳だけの存在になった。サキ姉は今おしっこを拭《ふ》いている。着物の帯を直す、しゅるしゅるという音もぼくを興奮させた。  サキ姉の出て来る気配にぼくはその場から逃れた。半ズボンの前が痛い。触ってびっくりした。ぼくのちんちんが堅くなっている。こんなことはだれにも言えない。物陰に隠れているとも気付かずサキ姉は通り過ぎた。  サキ姉が厨に消えたのを見届けてぼくは便所に入った。来客が多い家なので便所は広く豪華に作られている。床には薄縁《うすべり》も敷いてある。奥の便所の扉を開けると、ぼくはサキ姉がしていたようにパンツを下ろして屈んだ。こうしているだけで奇妙な甘酸っぱさが感じられた。ぼくは股《また》の間から暗い便槽を覗いた。深い便槽は怖い。目が馴《な》れるまでちょっと時間がかかった。どきっとした。床下の梁《はり》のところに真っ白なちり紙が引っ掛かっていたのだ。あれはもしかしてサキ姉が使った紙ではないだろうか。前にだれかが捨てたものなら乾いているはずがない。どきどきどきと心臓の音がする。ぼくは便所の薄縁に寝転んで便槽の中へ腕を伸ばした。もう少しだ。あと二、三センチで指が届く。ぼくは便槽に顔を入れて頑張った。便やおしっこが溜《た》まっている底には二メートルもの高さがあるから臭いはそれほど気にならない。たとえ臭いがあったってぼくはおなじことをしたはずだ。  ちり紙がようやく指に触れた。ぼくは落とさないよう慎重に取り上げた。間違いない。真ん中だけがおしっこで濡《ぬ》れている。そっと匂《にお》いを嗅《か》いだ。甘い匂いがするのはちり紙からのものだ。家では香りを染み込ませたちり紙を用いているのである。ぼくはどうしていいのか分からなくなった。とりあえずちり紙をポケットに入れて便所を出た。凄《すご》い宝物を手にした気分だった。  廊下に出るとサキ姉の呼ぶ声がした。足がすくんだ。サキ姉の直《す》ぐ後に便所に入ったのを知られたと思った。が、厨から現われたサキ姉の顔に変わりはなかった。コーヒーを作るから飲むか、と聞かれただけだった。  ぼくはコーヒーを受け取って部屋に戻った。夏休みの宿題がまだ片付いていないと嘘《うそ》を言ってだ。あんなことの後でサキ姉とまともに向き合ってはいられない。それもあったが、本当はもっと試してみたいことがあった。ぼくは黒いコーヒーをじっと見詰めた。ポケットからちり紙を取り出す。決心してカップの上でそのちり紙を絞った。ぽたぽたぽた、と金色の滴がコーヒーに落ちた。サキ姉のおしっこだ。またどきどきがはじまった。ぼくは頭が変になるんじゃないだろうか。でも我慢ができない。ぼくはコーヒーの匂いを一杯に吸い込んだ後に、少しずつ嘗《な》めるように飲んだ。おしっこの匂いはしなかった。だが、サキ姉を自分だけのものにしたという喜びに満たされた。  それからますますサキ姉に夢中になった。  ぼくはサキ姉の様子を窺《うかが》い、便所に立ったと知ると必ず直後に入り、ちり紙を探し求めた。しかし、偶然が続くわけがない。いつもちり紙は手の届かない底に落ちていた。  汲み取り口からだったら拾うことができるかも知れない、と思い付いた。庭にまわって汲み取り口の蓋《ふた》を開ければ簡単に手が届く。サキ姉は何枚も紙を使うのだから、上から落ちて来たやつを掴《つか》むことだってできるかも。  この想像はさらにぼくを興奮させた。便所の脇《わき》には庭に下りる階段がある。そっと忍んで汲み取り口の蓋を開ければサキ姉に気付かれないはずだ。ぼくは密《ひそ》かに機会を狙《ねら》った。  そして、その機会は間もなく訪れた。  家にはサキ姉とぼくの他にだれも居なかった。サキ姉の足音が便所に向かっている。便所の戸が開けられた。ぼくは急いで庭にまわった。そっと汲み取り口の蓋を開ける。家から突き出た汲み取り口なので下より見上げることはできないが、ちり紙が落ちてくれば分かる。わくわくしてぼくは待った。  ぼたっ、と上からなにかが落ちて来た。  ぼくの目は便槽に動いた。溜まった便の上に黒い塊が落ちている。なんだろう、と思った。もちろん便などではない。ぼくの体が影となって、よく見極められない。ぼくは少し身を引いて確かめた。  吐き気と恐怖がぼくを襲った。  それは真っ赤な血の塊だったのだ。  腰が抜けそうになった。どう見ても血の塊である。なぜこんなものが……サキ姉は怪我《けが》でもしたのだろうか。いや、そんなことはない。さっきだって元気に笑っていた。  ぼくは悲鳴を必死で堪《こら》えた。  かさかさとちり紙を用いる音がした。ぼくの目はまた便槽に戻った。ちり紙が落ちて来た。それにも血がべっとりと付いていた。  ぼくは慌てて逃れた。  サキ姉が怖くなった。便所でなにをしていたんだろう? だれにも内緒でなにかを食べていたのだ。あの塊は血にまみれたなにかの頭だったのかも知れない。  ぼくは部屋に戻って押し入れに隠れた。  サキ姉が怖い。覗《のぞ》き見していたのを知られると、ぼくもきっと食べられてしまう。  サキ姉が部屋にやって来た。ぼくの背中に鳥肌が立った。サキ姉は首を傾《かし》げて出て行った。ぼくは両親が戻るまで押し入れに潜んでいた。皆に言うつもりだったが、サキ姉はいつもと変わらない笑顔を見せていた。皆はこの笑顔に騙《だま》されているのだ。正体を見たのが便所でなければぼくも口にできたけれど、それを言えばぼくまで叱《しか》られてしまう。  両親や兄を見ていたら勇気が湧《わ》いて来た。  もっとはっきりした証拠を掴《つか》んで皆に突き付けてやる。ぼくは決心した。  その翌日、家に大勢の客があった。県の偉い人が山の視察に来たとかで、母やサキ姉はその接待にかかりっきりだった。父は泊まりがけで来たその偉い人のために大阪から芸人を招《よ》んでいた。使用人たちも広間での見物を許されて、家はまるで芝居小屋のようだった。家族たちは一番前の席で見ていた。ぼくはおしっこが我慢できなくなった。けれど、左の襖《ふすま》は幕で塞《ふさ》がれている。便所に行くには使用人たちの間を通って後ろの襖から廊下に出ないといけない。落語が終わるまで、と必死で堪えていたのだが無理だった。何気なくサキ姉に目をやると青い顔をしていた。  ぼくは立ち上がって便所に急いだ。廊下を歩いていると漏らしそうになる。慌てて便所の戸を開けた。なんとか間にあった。ほっと息を吐《つ》いたら、奥の便所に人の気配がした。スリッパはもう一つちゃんとある。なにも考えずに扉に手をかけて奥を覗いた。  サキ姉がそこに屈んでいた。  目と目が合った、はずなのにサキ姉にはぼくが見えていないらしかった。ぼくは悲鳴を上げた。それでもサキ姉は黙っている。  ぼくは便所から転げるように逃げた。広間に戻って確かめた。一番前の席にサキ姉がちゃんと座って落語を聞いている。ぼくは暗い廊下に目を戻した。サキ姉がそこに立っていた。サキ姉は壁を通り抜けて広間に入った。 「お化けだよ! サキ姉はお化けだ」  ぼくは皆に叫んだ。皆はぼくを振り向いた。  一人が笑うと皆も爆笑した。 「見たんだ。この目で見たんだ」  ぼくは泣き喚《わめ》いた。側に居た彦造がぼくを広間から連れ出した。ぼくは彦造に訴えた。 「若奥さまはずっといらっしゃいました。今日は大事なお客さまですからね。旦那《だんな》さまに叱られますよ、ぼっちゃん」  彦造は取り合わずにぼくを部屋まで送った。  ぼくは部屋で震えていた。  あれは絶対に夢なんかじゃない。サキ姉は本当に便所に居たんだ。ぼくは怖くなって敷いていた布団に潜り込んだ。  天井が目に入った。  心臓が止まりそうになった。  サキ姉が天井にへばりついてぼくを見下ろしていたのである。  ぼくは布団を被《かぶ》ってサキ姉から逃れた。  いつまでそうしていただろう。  父の声にぼくは怖々と布団から顔を出した。天井にサキ姉の姿はなかった。 「怖いよ。サキ姉がぼくを食べに来る」 「なにを見たって?」  父に問われるままぼくは便所で見た血の塊のことを話した。 「お前も大人になったら分かるようになる。忘れるんだ。いつか教えてやろう」  父は真面目《まじめ》な顔で頷《うなず》くとぼくの頭を撫《な》でた。 「家はこうして栄えて来たんだ。大事なお客さまの前で妙なことを言うのはよしなさい」  父はそれだけを言うと広間に戻った。  次の日、ぼくは別宅へ移されることになった。ぼくに正体を知られたサキ姉が手をまわしたに違いない。邪魔なぼくを追い出して父や母を食べるつもりに決まっている。そうはさせるもんか。だれも信じないなら、ぼくが化け物を退治するしかない。  蔵に入ってぼくは長い鉄の火箸《ひばし》を持ち出した。もう一度襲って来たらこれで刺してやる。  サキ姉が一人になるのをぼくは待った。  サキ姉が客間の花を取換えに行く。  ぼくはそっと後を尾《つ》けた。 「史郎ちゃん?」  サキ姉は暗い廊下で振り返った。 「ぼく、知ってるよ。知ってるんだ」  そう言うとサキ姉は笑った。 「お父さまから私のことを聞かなかった?」  ざわざわと寒気がした。父もぐるだったんだ。ぼくは悲しくなって火箸を突き付けた。  ぎゃっ、と悲鳴が上がった。サキ姉が廊下を転げまわっている。サキ姉は左目を掌《てのひら》で押さえていた。血が噴き出ている。ぼくは恐ろしくなった。ぼくは火箸を捨てて外へと逃げ出した。それが限界だった。  夢なのか、それともうつらうつらとしながら昔のことを思い出していたのか……ふと我に返ると暗い天井が目についた。  ここが別宅だと気付くまで少し時間を要した。やはり夢を見ていたらしい。時計を見たら五時をとっくに過ぎていた。 〈酷《ひど》い夢だ……〉  いや、夢ではなく現実である。昔の場所に戻って、記憶が鮮明になったと言うべきだろう。私は苦い思いで夢を反芻《はんすう》した。大人になった今ではすべてに理屈がつけられる。サキ姉はただの生理だったのだ。落ちて来たのは血を吸った脱脂綿である。それが十一歳の私には血にまみれた動物の頭に見えた。便所で見たサキ姉は珍しい現象ではあるけれど幽体離脱だったのではないか? サキ姉もきっと私のように必死で尿意を堪えていたに違いない。そんな時、たまに幽体離脱現象に見舞われる。便所に行きたいという願いが、もう一人の自分となって現われる。そういう事例がいくつもあることを私は本を読んで知った。天井に出現したのもそれとおなじだ。サキ姉は私がなにを言い出すのか心配でならなかったはずである。そうとは知らない第三者からは怖いものに見えるけれど、化け物とは異なる。  思えば可哀相《かわいそう》なサキ姉であった。  旧家に嫁に来たことで毎日が緊張の連続だったのではないか? 心の重圧が幽体離脱に繋《つな》がるのもしばしばであるらしい。だが、本人にはなんの自覚もない。可愛《かわい》がっていた私から急に襲われて、サキ姉はさぞかし仰天しただろう。怖い存在はサキ姉の方ではなく、私の方だったのだ。ひょっとしたら、そっと様子を窺《うかが》っていた私にサキ姉は気付いていたかも知れない。不気味な子供だと映っていたのではないか?  私がサキ姉だったら、たとえ二十年が過ぎても許せるものではない。大事な片目を奪った相手なのだ。しかも、旧家ということで罪も公にはならず、のうのうと生きている。  私はサキ姉の寛大さに涙が溢《あふ》れた。  そんな優しい人を私は傷付けてしまった。  どうすればこの罪が許されるのだろうか。  サキ姉の苦しみを思うと切なくなった。      五  どこを探してもサキ姉の姿がない。雨がようやく上がったので買い物にでも出掛けたのだろう。客間には食事の用意がしてあった。朝からなにも口にしていないので腹が空《す》いていた。冷えきった煮物でも旨《うま》い。一人で食べていると電話が鳴った。サキ姉と思って出たら母だった。母は私と分かると絶句した。 「どうしてあなたがそこに?」 「だって道が崩れたと聞いたよ」 「彦造とは会わなかったの?」 「迎えに来てくれたのはサキ姉だった」  サキ姉と聞くと母は怯《おび》えた。 「なんだい。知らなかった?」 「お父さまからなにか聞いていた?」 「なにかって……なにさ」  問い詰めると母は口ごもった。 「なんのことなんだ?」  私はつい声を荒げた。母の沈黙が不気味なものに感じられたのである。 「お父さまが亡くなる前に……また家が元のように栄えるとおっしゃったの」 「…………」 「オサキサマがお前と一緒に戻るって……」  背中から首筋へと寒気が伝わった。なんのことかちっとも分からないが、ただ恐ろしい。 「そんなところに居ないで戻ってちょうだい。今はだれも住んでいない家なのよ。彦造に管理を頼んでいるだけ。彦造が朝から見えないので探していたの」  まさか。別宅は昔のままだ。見渡してゾッとした。畳には埃《ほこり》が分厚く積もっていた。 「オサキサマってサキ姉のこと?」 「もういいの。浩だけで充分。家なんか潰《つぶ》れたって構わないわ。お金も要らない」  母は泣き出した。浩とは亡くなった兄の名だ。サキ姉と結婚した兄である。父の跡を継いでいた兄が亡くなってから家業は酷く傾いている。それを父は案じていた。家に戻ってくれと、私も再三口説かれていたのだ。  ブツッと電話が切れた。  私は慌てて家に掛け直した。が通じない。  急に恐怖が甦《よみがえ》った。  逃げるつもりで襖《ふすま》を開けた。だが、それは押し入れだった。  上段の棚にサキ姉が寝ていた。  私は飛び上がった。  サキ姉はそれでも動かない。  死んでいるとしか思えなかったが、耳を澄ますと寝息が聞こえた。  サキ姉はまた体から抜け出ているのだ。電話を切ったのもサキ姉に違いない。これはサキ姉の抜け殻なのだ。  分かっていたはずじゃないか。  私は自分に言い聞かせた。  昔から分かっていた。ただ……あまりに怖かったので、無理に記憶から追いやっていたに過ぎない。答えはこの眼帯の下にある。  私ははっきりと見たのだ。  火箸《ひばし》でサキ姉の目玉を突いた時に。  火箸は目玉を突いた後にサキ姉の目尻《めじり》まで引き裂いた。その時私は見たのである。  破れた皮膚の隙間《すきま》からごわごわとした毛がぶわっと飛び出たのを。  確かめれば分かる。  震える指で私はサキ姉の眼帯を摘《つま》んだ。サキ姉はびくとも動かない。眼帯をそっと持ち上げた。指の先に毛の手触りが感じられた。  目玉の窪《くぼ》みから毛が食《は》み出ている。  サキ姉はまだ静かに眠っていた。  眼帯を取り去ったサキ姉の目玉からふさふさとした毛が見える。  私の首筋に温かな、生臭い息が吹き掛けられた。振り返る勇気は私に残されていない。 [#改ページ]   万華鏡      一  もう、かれこれ二時間以上もリストを眺めている。六〇年代ポップスベスト30と頭書きしたそれには挿入や削除の線が入り乱れ、新しく書き写さないと整理がつかない状況になっている。だが、書き直したところで、さらなる変更や削除が延々と繰り返されるに違いない。古いレコードやCDを聴くごとに歌手や曲名がころころ変わっていくのだ。三日前に作成を開始して、今もそのまま削られずに残っているものは五、六曲しかないはずだ。こうして眺めている今とて満足はしていない。この選曲で私の青春を伝えることはむずかしい。三十曲では無理だ、と思うのだが、レコードコンサートの時間はおよそ二時間と決められている。一曲の平均時間は二分半程度だから、曲にまつわる私の思い出話も含めれば三十曲が限界だろう。 〈にしても……〉  これではちょっと当たり前過ぎないか、という気がしてきた。もっと自分の好き嫌いだけで選べばいいのに、ラジオで流す以上、あの時代の雰囲気や六〇年代ポップスのカッコ良さを若い連中たちにも教えたくて、私の好き嫌いを超えた選曲となってしまうのである。 〈しかし……〉  それではなんのためにこういうことをはじめたのか、意味がなくなってしまう。好きな音楽番組を作らせてくれ、と知り合いのディレクターに話を持ち掛けたのは私なのだ。若い頃、私はオール・ナイト・ニッポンなどのDJに憧《あこが》れを抱いていた。その願望をなんとか果たしてみたい。その階段では徹底的に自分の趣味だけで色付けしたものをやろうと決めていた。たとえば私が熱中していたフランス・ギャルとかスーザン・シンガーの特集である。なのに、いざOKの返事がきて、しかも公開のレコードコンサートを収録する形になった時点から、欲が出たというか、方針ががらりと変わった。局の方では大々的にPRをして熱気のあるレコードコンサートにしたいと言う。そうなれば多くの人に喜ばれる選曲をしたくなる。あまりにマイナーな曲ばかりではノリが悪い。小説の場合、プロとアマの違いは読者を想定できるか否《いな》かにかかっていると私は信じている。読者の存在を無視して好き勝手なことを書けば、それは必ず失敗作となる。  その原則はすべてに通じる。私は本職のDJではない。コンサートに失敗したところで構わないはずなのに、読者を想定するいつものクセが出てしまったのだ。そして今はがんじがらめになっている。せめて五十曲の枠があれば自分の好みを反映させながら六〇年代を甦《よみがえ》らせる選曲が可能となるのだが……これではありきたりの音楽番組になってしまう。私は溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。  そこに電話のベルが鳴り響く。  締切間近で緊張している編集者からのものだった。まだ考えが纏《まと》まらない、と言い訳をして締切りをなんとか一日延ばして貰《もら》う。考えが纏まらないどころか、今はこのリスト作りに熱中していて小説など脇《わき》に遠ざけている。いや、それは反対だ。小説のアイデアがまったく浮かばないので、リスト作りに逃避しているというのが正解だ。レコードコンサートの日取りはまだ半月も先のことである。 〈どうなっちまったんだ……〉  自分でもわけが分からない。小説を書く気力が完全に失われている。ストーリーをあれこれ考えていると苛立《いらだ》ちばかりがつのり、心臓がどきどきするのだ。リストを作るために懐かしい曲を聴き、思い出に浸《ひた》っていると心が安らぐ。それでつい締切りを頭から追い出してしまう。あと三日がぎりぎりだろう。四十枚の約束だ。今日|辺《あた》りから書き出さないと本当に危ない。分かっていながらも私はまたリストに目を戻した。  カセットデッキの曲はコニー・フランシスの『ハートでキッス』に変わった。日本語バージョンである。これもやたらとノリがいい。リストでのコニー・フランシスは『夜のデイト』にしてあるが、またまた気持ちがぐらついた。どっちが流行《はや》った曲なのか調べないといけない。彼女の大ヒット曲はもちろん『ヴァケーション』を筆頭に『可愛《かわい》いベイビー』『渚《なぎさ》のデイト』『カラーに口紅』『大人になりたい』『想い出の冬休み』『ボーイ・ハント』などであるのだが、私のお気に入りは『ミスター・ツイスター』『夢のデイト』『夜のデイト』といった曲だ。それで悩んでしまう。三十曲しかかけられないので一人につき一曲と決めたのが禍《わざわ》いしている。『ロコ・モーション』しかヒット曲のないリトル・エヴァなら簡単だが、コニー・フランシスがたった一曲とはちょっと辛《つら》い。  そこにふたたび電話が鳴った。また先程の編集者の声が響く。せめて挿絵《さしえ》を先に進行したいので大体のイメージを教えて欲しいと懇願してきた。無理である。明日の朝にはなんとか、と言って電話を切った。たばこに火をつけてリストに手を入れる。やはり『ハートでキッス』の方がコニー・フランシスの元気さに溢《あふ》れている。『ヴァケーション』や『渚のデイト』を予測してきた客たちは意外性に少し驚くかも知れない。 〈ヘレン・シャピロも考え直しだな〉 『夢見る恋』に線を引いて消す。彼女もなかなか決まらない。『悲しい片想い』を外せば他は一線上に並んでいるようなものだ。あとは好みの問題でしかないのに大ファンだっただけにうじうじと悩んでしまう。『キッスン・ラン』『リトル・ミス・ロンリー』『涙がいっぱい』『恋のハッスル』『浮気《うわき》はだめよ』と、この三日、何度聞き較べたことだろう。  同世代の者でなければ、おそらくまったく無意味なものであろうリストを手にして、私はゆっくりとコーヒーをすすった。このリストの裏側には私の青春が確かにある。  六〇年代ポップスベスト30  コニー・フランシス(ハートでキッス) ヘレン・シャピロ(未定) ディー・ディー・シャープ(マッシュポテト・タイム) ビーチ・ボーイズ(リトル・ホンダ) モーリン・グレイ(カモン・ダンス) シェリー・フェブレー(ジョニー・エンジェル) スーザン・シンガー(悲しきハート) レスリー・ゴーア(涙のジュディ) ジャンとディーン(ポプシクル) ジョニー・ソマーズ(内気なジョニー) ミーナ(太陽はひとりぼっち) トロイ・ドナヒュー(恋のパームスプリングス) フランス・ギャル(ベビー・ポップ) ナンシー・シナトラ(にくい貴方) アン・マーグレット(ジム・ダンディ) リトル・エヴァ(ロコ・モーション) ロネッツ(ビー・マイ・ベイビー) ポール・アンカ(クレイジー・ラブ) エキサイターズ(テル・ヒム) クリフ・リチャード(淋しいだけじゃない) マーシー・ブレーン(ボビーに首ったけ) ジーン・ピットニー(ルイジアナ・ママ) ジョージ・マハリス(ルート66) リトル・ペギー・マーチ(プリンセスではないけれど) エルヴィス・プレスリー(思い出の指輪) ブレンダ・リー(未定) リンダ・スコット(イエッサリー) フォー・シーズンズ(シェリー) チェビー・チェッカー(ザ・ツイスト) ジャッキー・デシャノン(ピンと針)  やはり中途半端だ。これでは大御所が何人も抜けている。パット・ブーン、ニール・セダカ、リック・ネルソン、ロイ・オービソン、デル・シャノン、ディオン、アルマ・コーガン、アネット、ワンダ・ジャクソン、シルヴィ・バルタンも落とせないところ。シュレルス、シフォンズ、クリスタルズ、シャングリラス、エンジェルスのようなガールグループも少ない。カスケーズ、トーネイドース、ベンチャーズはどうなる? そもそもビートルズの扱いが不透明だ。彼らのデビュー以前というくくりはできるが、そうなると六〇年代ポップスというタイトルでいいのかどうか。もしビートルズを加えるならローリング・ストーンズやデイヴ・クラーク5、サーチャーズ、アニマルズ、ペースメーカーズ、ダコタス、ホリーズくらいまで含まないと落ち着かない。女性ドラマーのアニーを中心とするハニーカムズも居た。『ハヴ・アイ・ザ・ライト』一発で人気を得て来日すら果たした。忘れられない存在である。  くそっ、なんで電話ばかりが続く。  受話器を取ると別の雑誌の編集者だった。そちらも締切が逼迫《ひつぱく》している。今取り掛かっているものを片付けたら直《す》ぐに書くと言って適当にごまかした。この調子だと今月は雑誌に穴をあけることになるのではないか? こんなリスト作りをしている場合ではない。承知しながらも心はあの時代に戻っている。もしビートルズを入れるとしたなら『ロール・オーヴァー・ヴェートーヴェン』か『オール・マイ・ラヴィング』にするか。たばこを深く喫《す》うと、珍しくくらくら眩暈《めまい》を感じた。リストの文字が歪《ゆが》む。なんだろう? ふわぁっと気が遠くなっていく。椅子に腰掛けていなければ間違いなく倒れている。天井が大きく揺れた。どかどかどか、と心臓が高鳴った。変だぞ。床に沈んでいくみたいだ。慌《あわ》てて深呼吸を繰り返す。乗り物酔いのときはこれで楽になるのだが喪失感は変わらない。胸を拳《こぶし》で叩《たた》いてみた。それでもおなじだ。どくん、どくん、どくどくん、と心臓の音が乱れる。首筋にびっしりと汗が噴《ふ》き出た。手首の血管を探して脈搏《みやくはく》を計る。気のせいか弱まっている。  立ち上がって階下の家内に声をかけた。立ってはいられなくて床に膝《ひざ》をついた。ぐるぐると部屋が回転している。 〈死ぬのか?〉  不安が私を襲っていた。どきどきどき、と心臓が乱れるたびに胸が苦しくなる。こんな経験ははじめてのことだ。呼吸をすると錐《きり》で刺されるようにチクチクと痛む。  電話が鳴った。  取り上げる気力はない。  どうせまた仕事の催促だろう。それを思うとさらに不安に包まれる。 〈どうしたんだ?〉  私の声が家内には届いていないらしい。このままだと本当に死ぬぞ。私は必死で声を張り上げた。      二  ベッドでうつらうつらしていると家内が見舞いの編集者を案内しながら現われた。 「びっくりしました」  彼は本心から案じてくれているような顔で口にした。突然の休載で苦労したはずなのに、ゆったりとした笑顔を浮かべている。 「血圧が百九十と百四十だったんですってね。信じられませんよ。とにかくよかった」 「なのに脈搏は五十もなかった。高血圧なら脈搏も増えるはずなのに。救急車で運ばれているときの記憶が薄れている。あれで死ねるんだったら楽だな。痛みは少しもなかった」  私の冗談に家内は暗い顔をした。冗談ではなく、事実危ないところだったのだ。私を襲ったのは心筋|梗塞《こうそく》の発作だった。それにはまだ得心できかねずにいる。わずか半年ほど前に人間ドックに入って心電図に異常がないと診断されたばかりだったのだ。しかし、医者の説明によれば心筋梗塞と狭心症に関する限り、簡単な心電図検査ではその発見がむずかしいと言う。心電図をとる時間は平均して二、三分のものだ。そこにタイミング良く不整脈が重なれば異常を確認できるが、でないと正常と判断されてしまう。本当にチェックする気なら心電図計を装着したまま十分ほどランニングや体操を行って心臓に負荷をかけ、変化を丁寧に計測する必要があるらしい。たとえば私の場合、入院直後に二十四時間心電図というものを試されて、一日のうちに六百回近くも不整脈が起きていると分かったのだが、これを時間で割れば、せいぜい三分に一度の確率でしかない。しかも不整脈はむしろ眠っている間の方が多いようなので、日中だと五分に一度程度のものとなる。心電図検査と不整脈とが上手《うま》く合致するのは十人に一人くらいのものだ、と言うのだが……それでは心電図検査の結果を鵜呑《うの》みにしている患者はたまらない。異常なしと診断されれば当然のこととして心筋梗塞の可能性など頭から追いやっている。 「いつまでの入院になるんです?」  編集者は質《ただ》した。 「しばらくは我慢しないと」  家内が代わりに応じた。 「動脈硬化で血管が細くなって心臓を動かす筋肉に血が行き渡っていなかったそうなのね。様子を見て心臓カテーテルをしたいと医師《せんせい》がおっしゃってるの。その結果で心臓のバイパス手術の必要があるかどうかを……発作の原因はストレスらしいから、当分は仕事を忘れてのんびりするしか。私もいい機会だと思っています。これまでが働き過ぎだったのよ」 「最低でも二ヵ月は安静にしていろとさ。昼夜逆転の仕事も心臓に負担をかけていたそうだ。それに、覚悟して体重を減らさないといけない。鰻《うなぎ》やトンカツともこれでおさらばだ」 「仕方ないでしょう。命が一番です」 「何度も注意したのよ」  家内が厳しい目で私を睨《にら》んだ。 「夜中にカレーやカップラーメンを食べる人なんだから。運動も嫌いでしょ。いつかはこうなるんじゃないかと思っていたわ」 「年に二キロずつ太っていたからなぁ」  私も多少は反省している。が、夜の十一時に起き出して朝の六時頃まで机に向かっているとどうしても腹が空《す》く。なにか食べずにはいられない。面倒だからカップラーメンやピザといった冷凍食品に頼る。物書きになった辺りから比較すると、十五年で二十キロは体重が増えてしまった。近頃は自宅の階段の上り下りでも直《す》ぐに息切れを感じるようになっていた。心電図に異常が認められないのが自分でも不思議だったのである。 「ウチの仕事の最中のことなんで責任を感じます。連載は何も心配なさらないでください。元気になるまでお待ちしますから」 「連載と言っても君の雑誌は短編の連作だから、倍も苦労する」  長編の連載ならなんとか締切に合わせて書き進めることもできるが、短編はアイデアが決まらないうちは一行も書き出せない。 「分かって引き受けたのはあなたでしょ」  仕事の話を止《や》めるようにと家内が遮《さえぎ》った。 「そうですね。体に悪いですよ」 「タイトルは決まってたんだ。『万華鏡』ってね。三、四枚は進めていたのに」  私は嘘《うそ》をついた。まさか仕事をさぼってポップスのリストを作っていたとは言えない。 「骨董《こつとう》屋でイタリー製の古い万華鏡を見付けてね。日本みたいに最初からビーズを仕込んであるんじゃなく、筒の前の方にガラス玉や凸《とつ》レンズとかステンドグラスの円板が取り付けられるような仕掛けがしてあるんだ。もの凄《すご》く複雑な世界が出現する。麻薬でトリップしているときは、あんな世界を見ているんじゃないかな。覗《のぞ》いているだけで想像力を刺激される。ストーリーはまだだったが、その映像をなんとか描写していた」  行き掛かりから説明しているうちに本当に小説に仕上げられそうな気がしてきた。なぜ思い付かなかったのだろう。 「面白そうですね。万華鏡か」 「玩具《おもちや》なのに四十万もした。補修をしてあるけど百年以上も前に作られたものらしい」 「無駄遣いよ」  家内は嫌な顔をした。買った当日に見せたら一度覗いて放り投げたのである。モザイク模様に無限に広がる世界は確かに慣れないと眩暈に襲われる。 「明日持ってきてくれ。書庫の棚にある」  なぜか無性に見たくなった。 「仕事を離れられないの? 他の病気と違って元気に思うだけで、いつ発作がくるか分からないのよ。いい加減にしないと」 「ただ見たいんだ。仕事のためじゃない」  私は言いつのった。不整脈は相変らず続いているけれども薬もきちんと服《の》んでいるし、入院中なら心配も少ない。なにより締切りと無縁になったのが神経を休ませている。      三  万華鏡が手放せなくなった。枕元に置いて暇さえあれば覗いている。入院の身では暇ばかりなので一日の大半は万華鏡の覗き穴に目玉をくっつけていることになる。もっぱら愛用しているのは凸レンズだ。これを用いると現実の景色が非日常的なモザイクに一変する。そのファンタスティックな興奮を言葉で言い表わすのはむずかしい。レンズと筒の中に嵌《は》め込まれた三枚の鏡の集光力が良いせいなのか、枕元の豆電球を覗いただけでも眩《まぶ》しい光の洪水となる。覗き穴の中に五、六百の明かりが瞬《またた》くのだ。少し筒をずらすと、その明かりに白壁の色や花瓶の赤い薔薇《バラ》の色が交じり合い、息を呑むような幻想美が出現する。筒をそのまま回転させるとミニアチュールの花園がきらめきつつ揺れ動く。蜂の巣の中に作られた天然世界。しかも鏡の角度によるものなのか、一つ一つの景色が微妙に異なる。薔薇にレンズを接近させれば目の前のすべてが真っ赤な血に染まる。凸レンズだから焦点も合っていて肌理《きめ》細かな花びらの質感がそのまま伝わってくる。一瞬にして私は何百本という薔薇を覗くことになるのだ。なんという恍惚《こうこつ》。なんという驚き。カレンダーの味気無い写真でさえ、この万華鏡を通せば色のパノラマに変化する。複眼を持つトンボはこれ同様の世界を眺めているのだろうか? だとしたら羨《うらや》ましい。世界は驚異に満たされている。この万華鏡を双眼にして眼鏡にできたら、もっと凄いだろう。何万という色に自分が包まれるのだ。その上、すべての対象は細かく分解され、立体が平面に置き換えられる。世界の全部が芸術だ。ビーズや色ガラスの破片を覗く万華鏡は単に幾何《きか》学模様の変化を楽しむものでしかない。この凸レンズは空間を逆転させる奇跡の道具とさえ言える。試みに私は血圧を計りに来た看護婦の顔をこれで覗いてみた。豆粒のような彼女の顔が何百と見える。筒を近付けたら笑っている目玉だけが何百となく私を見詰めた。肌色をベースにしたキャンバスに描かれた無数の目玉。その瞳はぎろぎろと動いている。なんだか恐ろしくなって筒を逸《そ》らすと黄金色の六角形の枠が無数に現われた。彼女の眼鏡のフレームが取り込まれたのである。黄金の六角形の真ん中に瞬いている黒い瞳の集合。深い意味を秘めた宗教画のようでもある。瞳の曼陀羅《まんだら》図。平凡な顔立ちの中年女性なのに、この瞬間、私は彼女に神が同居しているのをはっきりと感じた。  そうなのだ。  ありとあらゆるものに神は存在している。  私にはイスラム世界のモスクを彩る華麗なモザイクスタイルの幾何学模様の秘密が解けたような気がした。あれは神の住んでいる世界を表現したものなのだ。幾何学が古代は哲学と同一視されていたのも不思議ではない。幾何学模様こそ神に近づく道である。シンメトリーを完璧と見做《みな》す底力には神の存在が関わっていたのだ。かつては万華鏡という道具に頼らずとも神の世界を眺められる者が居たのであろう。その証言を基にモスクは鮮やかな幾何学模様で埋められた。曼陀羅も同様の発想で描かれたものであろうし、そう言えば神を象徴する六芒《ろくぼう》星も幾何学から生まれている。万華鏡に誰しもが魅《ひ》かれる理由は、知らず知らずそこに神を見るせいではないのか。家内は反発を覚えたらしかったが、それだとて神への畏怖《いふ》と言い換えられぬでもない。 〈もっとはっきりと見たい〉  願望が増大した。焦点は綺麗に合っているものの、一つ一つの像が小さ過ぎる。実感にして一辺が一センチ程度の三角形の中に収まっている。それでは細部が分からない。神が存在していると感じるのは複雑な幾何学模様から受ける印象ではなく、真実なのかもしれないのだ。部品である三角形の一つを拡大して見ることができれば、そこの神の存在を確かめられるのではないか? 「ビデオカメラを持ち込んでどうするの?」  家内は呆《あき》れた。 「見舞客を撮影しておくんだ」 「よっぽど退屈なのね」 「ついでにこれも買ってきてくれないか」  私はカタログを開いてビデオカメラのレンズに取り付ける顕微鏡撮影のためのアタッチメントを示した。これを使えば小さな覗き穴の世界を撮影できるようになる。ズームも可能なので何十倍にも画像を拡大できる。それを病室のテレビでモニターすればいい。筒の先を自分に向ければ、これまで無理だった自分の姿さえ眺めることができる。万華鏡の中に居る自分はどう見えるだろうか。 「こんなの、なにに使うつもり?」  さすがに家内も不審を抱いた。 「万華鏡を撮影してみたいのさ」 「この頃、おかしいわよ」  家内は私の精神状態を案じた。見舞いに来るたびに万華鏡を覗いている私と出会う。 「医師《せんせい》も心配ないと言っているじゃない。退院許可が出ないのは大事をとっているだけ」 「そんなに悪いのか?」  家内の口調にはそういうニュアンスが感じ取れた。私は気楽に構えていたのに。 「別に……思い詰めてるようだったから」  家内は慌《あわ》てて否定した。 「確かに……妙なんだよ。仕事をしてないせいなんだろうけど。やたらと昔のポップスのことを考えたり、神の存在が気にかかったりする。ひょっとして死ぬのかね」 「よしてよ。縁起でもない」  家内は歴然と動揺が見られた。      四  万華鏡の覗き穴には取り付けネジがないのでカメラのレンズにくっつける形で持ち上げているしかない。だがビデオカメラは三脚で固定し、リモコンを使えるからさほど支障はなかった。テレビ画面をビデオ入力に切り替えて私は試みた。カメラの方の焦点がなかなか合わない。画像が極端に揺れ動く。  一瞬、くっきりと画像が結実した。  思わず声になった。  直ぐにまたぼやけてしまったが、このやり方で間違いはなかったようだ。しかし、筒の重さで揺れが激しくなる。金属製だから片手で支えるには辛《つら》い。やはり固定する工夫が必要だろう。直径七、八センチならマイクスタンドを流用できそうな気がする。けれどもう家内には頼めない。手帳を探して融通の利《き》く編集者の自宅に電話をかけた。彼なら適当なマイクスタンドを見付けて買って来てくれる。  私からの電話と知って相手は戸惑っていた。入院の間に電話したのははじめてだ。それに夜の十時過ぎである。個室だから消灯時間もあまりうるさくは言われない。 「退院なさったんですか?」  信じられないという様子で質《ただ》してきた。 「まだだ。今日は頼みがあってね」 「はあ」  マイクスタンドのことを切り出すと相手はしばし返事をしなかった。 「口述筆記でもするおつもりで?」 「違う。例の万華鏡だ。あれをなんとかビデオに収めたい。それで苦労している」 「体調の方はいかがです?」 「関係ない。凄い発見をするかも知れん。万華鏡ってのは曼陀羅の原型だぞ。もしかすると神との遭遇ってことになるかもな」  相手はますます困惑していた。 「いい加減にしてちょうだい」  翌朝、顔を見せるなり家内は嘆いた。 「びっくりしてたわよ。夜中に電話してマイクスタンドを買ってくれだなんて」 「あいつから連絡があったのか」 「私に言えばいいでしょ」 「サイズが色々とあって面倒なんだ」 「夜中まで覗いているんですってね。どうしちゃったの? おかしいわ」  家内はぼろぼろと涙を溢《あふ》れさせた。 「おまえこそどうした? なんだよ」 「無茶はしないで。今夜から泊まるわ」 「馬鹿言うな。恰好が悪い」 「だったらもう止《よ》してよ。お願い」  大|真面目《まじめ》な顔に私は寒気を感じた。なにか私には隠していることがあるらしい。確かに夜中に電話してマイクスタンドを注文したのは非常識だったが、泣かれるほどのことでもないだろう。私は溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。不整脈が一向に治まらないのも気にかかる。その不安もあって万華鏡に熱中しているのだ。 「手術の必要はないと医者が言ったんだろ」  それに家内は小さく頷《うなず》いた。 「なんで弟らが田舎から見舞いにきた?」  急に不安が増大した。  家内は万華鏡を持ち帰ると言ってきかない。主治医に家内が呼ばれた隙《すき》を狙《ねら》って私はビデオカメラをセットした。ベッド用の食事テーブルの上に本を積み上げて万華鏡を挟むようにすれば固定できると思い付いたのだ。簡単なことだ。たちまちテレビに焦点の合った美しい画像が映った。まさに曼陀羅そのものだ。片目で眺めるより遥かに陶然となる。窓の外の景色のようだ。緑が基本となっていて、無数の色彩が溶け合っている。こういう世界に自分も逃げ込んでしまいたい。リモコンをズームにする。画面がどんどん拡大される。肉眼では豆粒ほどにしか見えないものがモニター一杯にまで大きくなった。私は画面に目を凝《こ》らした。もやもやとなにかが蠢《うごめ》いている。どうやら風の動きのようだった。私は窓の外を覗いた。もちろん風の動きなどとらえることはできない。なのに万華鏡ははっきりと風のうねりを映しだしているのだ。レンズと鏡が合体することで人間の目には見えない世界を映像化させている。それらが神の暮らす世界のように感じさせていたのか。 〈ん?〉  黒い島のようなものが画面に現われた。風の海を泳いでいる。外に目を転じても確認できない。としたなら万華鏡の世界に潜んでいる生き物に違いない。それはどんどん接近してきた。ひょっとして筒の中に紛《まぎ》れ込んだ羽虫では? 私は筒のレンズに顔を近付けて覗き込んだ。私の歪んだ顔がテレビ画面に映される。奇妙な感じだった。ズームをゆっくりと戻す。無数の私が画面に出現した。心臓の鼓動が今までになく乱れた。呼吸が苦しい。貧血と眩暈《めまい》が同時に襲いはじめた。それでも私の目は画面に釘付けとなっていた。黒い影が私の背後に迫っている。震える指でズームへと切り替える。黒い影も大きくなった。  正体がはっきりとする。  私は最後の悲鳴を発した。  それは……死神だった。  思わず後ろを振り向いた。  なにも居ない。  だが、画面の中の死神は私の首筋を狙って巨大な鎌《かま》を振り下ろした。 「覚悟していたと思います」  家内が私の死骸《しがい》の胸をさすりながら医者に言っていた。私はテレビの中から眺めている。 「必死で怖さと戦っていたんです」  そうかも知れない。私も頷いた。死ぬことは分かっていた。だから自分の青春があんなに愛《いと》しかったのだ。神について思いを馳《は》せるようになったのも心の準備だろう。もはや手術にも耐えられない血管だった。 「でも、なんでこれにこだわったのか……」  医者はテレビ画面を見やって首を傾《かし》げた。美しいが、ただの幾何学模様にしか見えていないだろう。仔細に目を凝らせば私がその模様の一つ一つに隠れていると分かるはずなのに……家内も私の居る画面を見詰めた。  死神が私を促《うなが》した。 「それは捨てるんだ」  私は家内に叫んだ。家内はしっかりと万華鏡を握りしめている。もし寂しさに負けて覗き込めば私と同じ目に遭《あ》いかねない。  だが、豆粒のような私が発する声など家内には届かなかった。  死神は乱暴に私を引きずった。 本文中に登場する曲は MISTER LONELINESS by Bradford Boobis / Robert Stevens / Neil Nephew を引用しました。 角川文庫『幻少女』平成14年1月25日 初 版 発 行