[#表紙(表紙.jpg)] 高橋克彦 南 朝 迷 路 目 次  序 幕  一 幕 長山と亜里沙、迷路への道行に出立すること  二 幕 南朝の秘宝と隠岐での脅迫のこと  三 幕 吉野にて後醍醐天皇の残照に出逢うこと  四 幕 青森と長野の大川原の狭間に立つ塔馬双太郎のこと  五 幕 迷路を解き明かす塔馬の新たな困惑のこと  終 幕 [#改ページ]  主な登場人物  トーマこと塔馬双太郎《とうまそうたろう》……浮世絵研究家  チョーサクこと長山作治《ながやまさくじ》……ペンネーム流山朔、推理小説家  リサこと名掛亜里沙《なかけありさ》……女性誌の編集者  タコこと山影哲夫《やまかげてつお》……山形県警の刑事  スポンジこと笹川順吉《ささがわじゆんきち》……青森県警の刑事  石川……カメラマン [#改ページ]  序 幕  青森県黒石市|板留《いたどめ》温泉。  全国的には知名度が低いが、弘前《ひろさき》から向かえば八甲田山と十和田湖へ抜ける二本の扇状に開いた道の要《かなめ》の位置に当たる小さな温泉町だ。そのために夏や紅葉の季節には観光客で賑《にぎ》わいを見せる。と言っても、もともと宿が少ないから数は知れている。最盛期でも町の宿全部を合わせて三百人の客を収容できるかどうか。板留温泉は黒石温泉郷に含まれている。代表的な温泉は温湯《ぬるゆ》温泉で、団体客のほとんどがそちらに吸収されてしまうのだ。板留温泉の人気のあったのは古い時代だ。宿泊料金の安い湯治場として戦前は長期の滞在者が東北各地から集まってきたらしい。今の温泉を支えているのは、大手の観光会社と若者の旅行客なので、こういうキャパシティの小さい温泉町や歓楽街を持たない場所は敬遠される。冬になって八甲田と十和田への道が閉鎖されてしまえば一軒の宿に平均して五、六人の客しか泊まらない。いや、その程度でも客があればいい方だろう。町の若者たちが飲み屋代わりに広間を使って宴会をしてくれることで息を繋《つな》いでいる宿が大半なのだ。  それでもこの日はたいていの宿が満員だった。恒例のことだが、その賑わいはたった一日で終わる。八月の盆の十六日だ。  板留温泉を流れる中野川。それに沿って八甲田山を目指し、車で三十分ほど遡《さかのぼ》ると大川原という村落に達する。その村で、毎年八月の十六日には東北の奇祭の一つとして有名な「火流し」が執《と》り行なわれる。人口|僅《わず》か百人前後の静かな山村に、この日ばかりは一万人を超える見物客が全国から訪れる。弘前や青森といった近隣の客たちは車で帰れるが、他の人間たちは麓《ふもと》の板留や温湯に宿泊するしか方法がない。夜の七時から九時頃までの祭りなので交通機関がなくなってしまうのだ。肝腎《かんじん》の大川原には宿もない。  その祭りを夜に控えた昼過ぎ。板留温泉のバス停から大川原行きのバスに乗り込んだ二人の男女がいた。どちらも若い。黒石始発のバスには五、六人の年寄りたちが無表情な目をして腰をかけていた。手を繋ぎ合って乗車してきた若い二人を見て見ぬ振りする。二人は席がたくさんあるのに、わざわざ狭いシートに肩を並べて笑い合った。男の腕が女の肩にまわる。互いに顔見知りの年寄りたちは呆《あき》れた目で頷《うなず》き合った。 「祭りには間があるぞい」  側《そば》にいた男が代表して声をかけた。 「祭りできたんじゃろうが」 「川ざらいがあるとかって宿の人から」  活発そうな女が年寄りたちを振り返った。 「あんなのを見てどうするかね?」  火流しは藁《わら》を束ねて拵《こしら》えた巨大な松明《たいまつ》を、藁の舟に取り付けて中野川に流す祭りだ。灯籠《とうろう》流しに似ているが、最初から最後まで舟を七、八人の男たちが縄で引き摺《ず》って渡るところに特徴がある。あまりにも松明が大きすぎるので、舟の安定が悪いのと、中野川そのものの浅さに理由があった。浮かべても自然に流れるような水位ではないのだ。洪水や大雨の直後なら水深が一メートルを越える場合もあるが、普段は平均四、五十センチ。これでは水を含んだ重さが一トン近くにも達する舟の底が川床に引っ掛かってしまう。川床には尖《とが》った岩がゴロゴロしている。投げ捨てられたゴミやガラスの破片もあるだろう。だから祭りの当日には川ざらいが必要となった。それをきちんとしておかなければ事故に繋がる危険があるのだ。岩に足を取られて舟の下敷きにでもなれば命を失う。静かな祭りなら注意も払えるが、舟は三つ作られて、ゴールまでの速さを競う。その情況ではなにが起きるか予測もつかない。まして舟を引き摺る人間はいずれも血気盛んな青年たちなのである。 「ただのゴミ掃除?」  説明を聞いて女は失望した。 「まあ……クレーン車も使って岩を動かしたりもするがの」  年寄りは少し大袈裟《おおげさ》に言った。 「それでも……わざわざ見物するほどのもんじゃありゃあせんよ」 「どうしよう。夜までには時間があるわ」 「喫茶店ででも潰《つぶ》す他はないな」 「喫茶店なんぞ村にゃ一軒もねえ」  年寄りたちがいっせいに笑った。 「四時頃からは松明作りがはじまる。若いおめえさんたちにゃ退屈だろうが、見るものってば、そったらもんしかねえ。村の真ん中に共同の風呂がある。小せえが温泉にゃ違いねえ。それにでも入って一休みするしか」 「ふうん。温泉があるんですか」 「一緒には入《へえ》れねえぞ。別々の風呂だぁ」  後ろで太った婦人が甲《かん》高く笑った。  村の見物は二十分で終わった。若い二人はまたバス停のある小学校前に戻った。本当になにもない。民家が三十軒ほど川沿いに固まっているだけだ。小学校前の橋のたもとには食料品店がある。中を覗くとラップで覆われた刺身のとなりに玉葱が並べられていた。それでもコーラは売っている。ジャムパンと甘く煮たスルメも買って若い男は店をでた。女が小学校の校庭のベンチで待っている。 「なに、これ」 「こんなもんしか売ってない。諦めろ」  女はさきほどから機嫌が悪かった。あまりにも退屈な村なのだ。今はまだ二時。祭りには五時間以上もある。藁の舟作りにしても十五分も眺めれば飽きるに違いない。 「責任取ってよ。もう帰りたくなった」  言いながら女はパンを齧《かじ》った。ボソボソして味もそっけもない。 「帰るったって……バスは二時間も待たないと。それで戻ったら、今度は祭りにも……」 「どうでもいいわよ。もう見た気分だわ」  浅くて狭い川幅を眺めただけで充分だ。女は意地悪く言い放った。 「だから、車でこようって言ったのに」 「いまさらそんなこと言われてもな」  男はさすがに憮然《ぶぜん》となった。 「親に嘘までついてくるところなんかじゃないわよ。帰って宿をキャンセルするわ」 「キャンセル?」 「コーヒーも飲めないなんて、最低」  女の額には汗が浮かんでいる。猛暑だ。 「勝手にしろ! 一人で帰りゃいい」  男はコーラの缶を地面に叩きつけた。半分以上も残っていた中味が泡を噴いた。男はジャムパンを踏み躙《にじ》ると女に背中を向けた。女の言い分はもっともだ。それは承知している。しかし後には引けなかった。それにしても、こんなに下らない女だとは思わなかった。たった二十分歩かされた程度でぶつぶつと嫌味ばかり並べ立てる。いい村じゃないか。景色も綺麗だし、空気も旨い。喫茶店や土産物屋がなくたって五時間は潰せるよ。だいたい川ざらいの件を聞き込んで早めに行こうと言ったのはどっちなんだ。板留が詰まらない町なんで祭りのある大川原で時間を潰そうと言いだしたのはどっちなんだ。男は叫びたい思いだった。 「待って!」  案の定、女は追いかけてきた。男は橋の手摺《てすり》に手を添えて川を見下ろした。 「ごめん。私が悪かったわ。許して」  女は甘えた声で謝った。都会の真ん中ならともかく、こんな山の中の村で放りだされたら大変だと悟ったようだ。男は頷いた。 〈帰った方がいいかな〉  男はぼんやりと川面を見詰めた。たった今は美しい村だと思ったが、やはりここで五時間を過ごすのは辛《つら》くなってきた。映画館も食堂もパチンコ屋も本屋も、ありとあらゆる店がない。ここに何人の若者たちが暮らしているんだろう。オレなら耐えられない。都会の夜に馴れたオレには三日も我慢できないだろう。文句を言った彼女と大差はない。意地を張るよりは、次のバスで戻って弘前にでも向かった方がよさそうだ。あそこにはディスコもある。オレたちには無縁の村だ。  男は女の肩を抱いた。  だが……  その二人の立っている橋の真下のくさむらには、二人とほとんど歳の変わらない若者の死体が転がっていた。カッと見開いた瞳は橋の裏側を凝視している。そうして川ざらいで自分の死体が発見されるのを静かに待っていた。 [#改ページ]  一 幕 長山と亜里沙、迷路への道行に出立すること      1  名掛《なかけ》亜里沙はじりじりとして腕の時計を何度か確かめた。遅い。約束の時間から一時間半がとっくに過ぎている。もともとアテにならない男だ。しかし、今度はこちらの頼みごとでもある。多少の遅れは目をつぶるにしても、連絡くらいは入れてもいいはずだ。場所と店の名前は、最低一年は忘れないほど繰り返している。アパートに電話を入れてみたが、もちろんいない。たぶんこちらに向かっていると信じたい。夕方からは別の用事が入っていた。ヒマな体ではない。亜里沙の目の前に可愛らしいエプロンをつけたウェイトレスが、コーヒーポットを捧げてやってきた。亜里沙は訊《き》かれる前に小さく首を横に振った。この店はホテルのラウンジ並みにコーヒーのお替わりがきく。いつもは嬉しいサービスだと思っていたが、こんな時は逆に鬱陶《うつとう》しい。もう三杯も飲んでしまった。有料なら威張って注文できるのに…… 「へえ。まだいたとはね」  静かな店内に長山作治の声が響いた。 「まだってことはないでしょ」  亜里沙はそれでもホッとした。相変わらず長山の派手な恰好《かつこう》には辟易《へきえき》する。四十をとっくに越したと言うのにアメリカの学生が着そうな赤と白のウィンドブレーカーに細身のジーンズ。それにカウボーイブーツときた。痩《や》せているから似合わないわけでもない。本人もそれを知っている。だが、やはり店内の視線は長山に集中していた。ただ、残念なことに彼が推理小説を書いている流山朔《ながれやまさく》だと分かっている人間は一人もいないようだった。それに長山だけが気付いていない。長山は店内の視線を意識しながら亜里沙の前に座った。 「元気そうじゃねえか」  長山は亜里沙を点検した。大学の同級生なので言葉にも遠慮がない。 「こっちはカンヅメでくたくただ」 「じゃあ昨日の電話の後に?」 「ああ、出版社の側《そば》の旅館に拉致《らち》されたよ。ぶっ通しで三十五枚だ。楽な商売じゃねえな。まだ四時前だが、どっかで酒でも飲むか」 「あと三十分も時間がないのよ」 「おいおい、そりゃあねえだろ。人を呼び付けておいて。身勝手な言い分だ」 「二時間も遅れる方が悪いんじゃない。私にだって予定があるんだから」 「久し振りに麗しのリサとメシでも食おうと張り切ってきたんだぜ」 「だめ。六時までに府中に行かなきゃ。連載エッセイの原稿を貰《もら》う約束をしてあるの」  受け取った原稿は明日中に印刷所に入稿しておかないときつくなる。それに相手は明朝から東京にいない。いつもぎりぎりで原稿をくれる人間だから今回は早めの約束をした。 「用件は何時に終わる?」 「本当に原稿が書き上がっていたら、それで今日の仕事は終わりだけど……」 「書いてねえ可能性があるわけだな」 「うん。昼の電話ではまだだった」 「よし。じゃあオレも府中に付き合おう」 「まさか、なに言ってるのよ」  亜里沙は呆《あき》れた。 「原稿ができてたらそのまま二人で帰ってくりゃいいわけだし、まだならどこかでメシでも食いながら待てばいいさ。まさかその先生のとなりでネジを巻くわけじゃねえんだろ」 「そりゃそうだけど……」 「親しい相手か?」 「ううん。担当者が別の仕事で留守にしてるからピンチヒッター」 「だったら平気だ。二、三時間後にまたくるって言われた方が相手も気が楽になるぜ」  長山の言葉に亜里沙は頷いた。書き手の側の心理は長山の方が専門だ。それに二、三十分では長山となにも話せない。頼もうとしている仕事のアウトラインさえまだなのだ。 「忙しいんじゃないの?」 「さっき終えたばかりだ。今夜と明日はなにもねえ。いっそオールナイトと行くかい」  口の割に真面目な人間であることは先刻承知だ。亜里沙は苦笑しながら同意した。      2  別れて三十分もしないうちに亜里沙は戻ってきた。府中駅前にある大きな本屋の二階の喫茶店だ。 「どうだった?」  長山は読んでいた本を閉じて質《ただ》した。 「原稿ができてたわ。これで仕事は終わり」  亜里沙は解放された顔をしている。 「府中は久し振りだ。新宿に戻って店を捜すより、こっちでなにか食おうぜ。リサなら旨い店をたくさん知ってるんだろ」 「なにがお望み?」 「ここんとこ妙に洋食続きなんだ。肉やエビフライは食い飽きたよ。できるんなら冷酒が飲めて、鰻《うなぎ》の白焼きとか冷ややっことか漬物がいいね」 「その程度ならどこにだってあるわよ」  亜里沙は踏切りを渡って大きなスーパーマーケットの脇の路地に入った。小さな店が並んでいる。目の前の十字路の角に鰻屋の看板が見えた。そこをアテにしてきたが席は客で埋まっていた。そのまま真っ直ぐ進むと東京でも有名なうどん屋がある。確かその近所に和風料理の広い店があったことを思い出した。あそこならなんでもある。捜し当ててガラス扉を開くと、清潔そうで感じのいい店だった。この辺りでは高級な店なのか、若い客は少ない。皆、静かに酒を飲んでいる。 「うん。なかなかいい店だ」  ブーツを脱いで小上がりに胡座《あぐら》を掻《か》くと長山は嬉しそうな顔で品書きを見渡した。 「蟹の刺身って線もあるな。リサはなんでも好きなものを頼め。遠慮はいらねえぜ」  とりあえず長山は生ビールを二つ頼んだ。 「仕事の方はどう?」  亜里沙は切り出した。前に長山と会ったのは、彼の二十冊目の本の出版を祝ったパーティの席上だった。あれから半年が過ぎている。 「そろそろ限界じゃねえか……と世間は見ている。もともと大した仕事をしてねえから、オレにゃ限界がない。ミステリーなんてのは遊びだからな。人殺しとセックスと舞台を変えりゃなんとかなる。その程度のもんだ」 「予定はびっしり詰まってるの?」  いくつか注文しながら亜里沙は訊《たず》ねた。 「書き下ろしが溜まってる。もっとも、約束した締切には間があるけどな。先月に連載が一本終わった。少しのんびりするつもりだ」 「割り込めないかしら」 「マジに仕事の話か?」  長山は意外だという顔をした。 「前ならともかく、おまえさんが今度異動した雑誌じゃ小説を扱ってねえはずだぜ。ほとんど食い物と旅行と洋服の記事で頁《ページ》が埋まってる」 「チョーサクって、結構有名人になっちゃったのよ。あの事件のお陰でね」  チョーサクとは大学時代からの長山の仇名《あだな》だった。あの事件とは、その大学時代の仲間に起きた殺人事件だった。人気スターの月宮蛍までが関係していたので雑誌や新聞が大きく取り上げ、渦中にいた長山も推理作家という意味から話題となった。 「そういうのに編集長は敏感なの。どうせおなじ企画ならチョーサクに頼めって」 「だから……どんな仕事だ」 「歴史は得意?」 「なんだよ。いきなり」 「私が提案した企画なんだけど……案外いけると思うんだ。これまでの旅の特集って表面ばっかりで歴史に入り込んでないのね。簡単な解説でごまかしてるの。たいていは私たちが資料片手に書くんだもの」 「………」 「と言って、歴史の専門家に頼めばむずかしくなっちゃうし。面白おかしく書いてくれる人じゃないとうちの雑誌じゃやれないわ」 「そういう本ならいくらでもあるぜ。女が読まんだけだろ。別に新しい企画でもねえさ」 「そのぐらい分かってるわよ。でも、若いOLや女子大生は歴史読本なんて滅多《めつた》に手にしないわ。郷土料理の紹介記事とかお菓子の美味《おい》しい店なんかの情報の方が大事なの。だけど……それじゃあ勿体《もつたい》ないと思わない?」 「思わんね。人の勝手だろうが。だいたいオレは旅行客ってヤツが嫌いでな。わけも分からんくせして、なんでも見たがる。恥を知らなさ過ぎる。いつだったか松江に行ったことがあったが、ラフカディオ・ハーンの記念館を訪ねたら東京の女子大生ってヤツらがわんさかやってきていた。ハーンが小泉八雲だってことをはじめて知ったヤツもいれば、八雲の名前すら初耳だってヤツもいた。そんな連中が見たって意味もなかろう。興味のあるヤツは専門書を読む。それでいい。バカな女どもにゃお菓子の店の紹介で充分さ」  長山は冷酒を頼んだ。 「それは……情報がないせいよ。ガイドブックに書かれてある短い記事ぐらいで八雲に興味を持てと言っても無理じゃない? 彼女たちは情報を得る手段さえ知らないんだから」  長山は少し聞く態勢になった。 「半年だけでも付き合って。うちのような雑誌だからこそ面白いと思うんだ」 「取材にはおまえさんも同行するのか?」 「もちろん。引き受けてくれる?」 「枚数があまり多いと面倒だな。正直言って歴史は得意な方じゃねえんだよ」 「二十枚。資料はこっちが集める」  長山は考え込んだ。 「具体的な案はあるのかい」 「隠岐島《おきのしま》なんてどう? あそこには二人も天皇が流されているわ。行ったことは?」 「ない。あれはだれだっけ?」 「だれって……天皇のこと? 後鳥羽上皇と後醍醐天皇」 「そうか、後醍醐天皇だ。後醍醐って言うと確か南北朝の時代だな」 「なんか急に心配になってきた」  亜里沙は苦笑した。 「オレもだ。ま、資料さえ揃《そろ》えてくれりゃ二十枚程度はなんとかできる。ひょっとするとオレの方も新分野を開拓できるかもしれんな。歴史ミステリーは売れるみたいでね」 「これまでに書こうと思ったことは?」 「注文がなかったと言う方が正解だ。こっちは残酷と性と暴力が売り物の作家だぜ。歴史物なんて編集者のだれも思いつかんさ」 「私が最初ってわけだ」 「編集長だろうが……おなじ企画ならオレにやらせろってことは、リサの企画書に別の名前があったってことだ」 「鋭いわね、やっぱり」 「そんなのはガキにだって分かる。まあ、いい。おまえさんの顔を立ててやるよ。リサと旅行するのも悪くない。互いに独り身だ。遠回しのプロポーズと解釈しよう」 「なに考えてんのよ」 「二人きりの旅行だ。覚悟してるだろうな」 「大丈夫。他にカメラマンもいるもの」 「なんだ。そういうことか」 「当たり前でしょ。バカみたい」  亜里沙は笑い転げた。 「もう結婚しちまったらどうだ」  長山は苦々しい口調で言った。 「目障りなんだよ。リサのせいでこっちも婚期を逃がしちまう。相手はいねえのか?」 「四十なのよ。いまさら結婚なんて」 「いないんならオレが引き受けるって前に言っただろうが。忘れたわけじゃあるまい」 「チョーサクとは無理。だれともするつもりはないけど、もし考えるとしたら、やっぱり胸がドキドキしないとね。チョーサクだって私を前にしてドキドキしないでしょ」 「いや。結構その気はあるんだ」 「ふうん。変な人ね」 「変てことはなかろうが。変なのはおまえさ」 「結婚するよりも友達のままでいる方が楽しい相手ってのもあるわ」  そんなものかね、と長山は首を傾《かし》げながら、 「寝るってのは大したことじゃねえぜ」 「でしょうね、経験豊富なんでしょ」 「まあな。けど、それだけのことだ」  長山はしばらく言葉を捜していた。が、諦めて亜里沙の杯に酒を注いだ。亜里沙にはビールがまだ半分もジョッキに残っている。 「なんでリサだけは口説けんのか……そいつが最大の謎だよ」      3  それからおよそ半月を、亜里沙は仕事のかたわら資料集めに費やした。たった二十枚の原稿に、と思う時もあったが、長山の様子ではほとんどなにも知らないらしい。資料だけはたくさん読んでもらわないと不安だ。企画の成功は一回目にかかっている。あれから何度か旅行の日程の打ち合わせを兼ねて電話でやりとりしているが、長山は完全にこちらに任せ切りだった。試しに後醍醐天皇のことを少し聞いてみたけれど、知識は府中で話した時以上に増えていない。簡単な歴史の入門書すら読んだ気配はなかった。 〈あれじゃあ先が思いやられる〉  亜里沙は少し後悔していた。けれど、この仕事を決めてから亜里沙は長山の書いた小説を五、六冊読み返し、才能を見直してもいた。描写や展開が分かりやすいばかりか的確だ。テーマが不気味なだけで、文章は上手《うま》い。乗り気になってくれさえすればユニークなものができそうだった。見抜けなかったのは、学生時代の長山のでたらめさを厭《いや》と言うほど知っているので、なんとなく信用していなかったせいに違いない。 「亜里沙さん。予定を確認しておきたいんですけど」  仕事から戻ると契約カメラマンの石川が社にやってきていた。丸顔の陽気な坊やだ。年齢は二十八。世間的には立派な大人でも、四十の亜里沙から見れば一回り違う。独身だが人畜無害。これまでにも何度か取材に付き合ってもらっている。腕は確かな男だ。石川は流山朔の仕事と聞いて張り切っていた。信じられないけれど前からのファンらしい。かわいそうに、長山もこれで一人のファンを失うわけだ。あの毒舌と下品さを目《ま》のあたりにすれば、いくら石川だって呆れ果ててしまう。 「変わりないわ。明日の夜から四日間。飛行機のチケットは届いたでしょ」 「やっぱり二人は寝台ですか」  亜里沙はうんざりした顔で頷いた。  本当は大阪から隠岐行きの飛行機に乗り継ぐ予定だったのに、長山が絶対に飛行機は厭だと言い張り、やむなく電車に切り替えたのだ。長山は自分一人でいいと言ったが、まさかそういうわけにもいかない。飛行機なら大阪経由で東京から僅《わず》か三時間なのに、陸路を伝ってフェリーに乗るとなれば待ち合わせも含めて隠岐の島前《どうぜん》まで十八時間はかかる。そこで石川には最初の予定通り飛行機の切符を渡し、隠岐で合流することに決めたのだ。全員が十八時間の長旅に耐える必要などない。 「二十時間近くかかるんでしょう。いくら飛行機が嫌いだと言っても……この時代に」 「変わり者なの。時間の感覚なんて、あいつにあるわきゃないわ。笑ってるけど君だって大変じゃない。せっかく隠岐に着いても、またフェリーに乗り換えて島前までこなくちゃいけないのよ。四時間はプラスされるわ」  飛行場のあるのは島後《どうご》の方だ。隠岐は四つの島で成り立っている。合理性を重んじるのであれば島後で合流するのが当たり前である。だが夜行寝台で東京を発《た》つと、それに連絡するフェリーは島前行きしかない。島後に行くつもりなら六時間以上の待ち合わせとなる。いくら気の合う仲間だと言っても長山をそれだけ待たせるわけにはいかなかった。 「平気です。それでもこちらは七、八時間ですからね。それにしても亜里沙さんが流山さんと大学の同級だなんて信じられないな。ずうっと若いと思ってた」 「どっちが?」 「亜里沙さんに決まってるでしょうが。歳を聞いたことはなかったけど、ぼくと五、六歳しか違わないとばかり」 「ってことは……三十三、四に見てくれていたってわけ? うんと御馳走しなきゃ」 「だって、だれが見たって」  石川は亜里沙を眩《まぶ》しそうに見詰めた。端整な美人というタイプではないが、生き生きとした黒い瞳に少年っぽい刈り上げ気味の短い髪。百七十は越す身長にカチッとしたジャケットスーツがよく似合っている。感じの似ている女優と言えば……『エイリアン』や『ゴーストバスターズ』にでたシガーニィ・ウィーバーだ。それは前々から思っていた。 「君はチョーサクのどんなとこが好きなの」  亜里沙は石川に訊ねた。 「さあ、面白いから読んでるだけで……」 「しつこく訊かれるわよ。ファンレターなんて一度ももらったことがないってぼやいてたもの。本当のファンなのか根掘り葉掘り問い質してくるわ。そういうタイプ。最初からファンだなんて白状しない方が安全じゃない」 「酒も強そうだなぁ」 「ノセたらボトル二本はいくわね」 「威《おど》かさないでください。狂暴になるとかってことはないんでしょうね」 「体力はないから。骨に皮だけの人間」 「せっかく楽しみにしているのに……なんだか気が重くなってきた」 「大丈夫よ。口が悪い割に人はいいから」  少し言い過ぎたかと亜里沙は反省した。 「後醍醐天皇ですけど」  石川は話を変えた。 「ぼくの近所の村にも伝説がありますよ」 「ふうん。どんな?」 「いや、詳しくは知りません。なんでも後醍醐天皇が落ちのびてきたとか」 「君ってどこの出身だっけ」 「青森です。黒石って知ってますか」  亜里沙は首を捻《ひね》った。 「だいぶ前にNHKで三田佳子が主演した大河ドラマなんだけど『いのち』って覚えてないですか。女医の話です。あの舞台になったのが黒石。弘前の直《す》ぐとなり」  ああ、と亜里沙は頷きながら、 「それなら勘違いよ。後醍醐天皇が青森に逃れたなんて聞いたこともない。関東にだって足を踏み入れてないもの」 「そうですか。そんな風に聞いてたけど。大川原の火流しって祭りの由来ですがね。結構いい加減なもんだったんだな」 「英雄伝説の一つじゃないの? 日本人て、なんでもかんでも有名な人物と絡める癖が」 「後醍醐天皇って……英雄ですか」  石川の言葉に亜里沙も戸惑った。 「そうね。英雄とは言わないか。まあ、神様の一人って感じかも知れないわ」 「あとでちょっと聞いてみます。親父はそんな話にやたらと詳しいんで」 「わざわざ青森まで電話するの?」 「どうせついでがあるんです」  石川は隠岐での宿泊予定のホテルの電話番号を手帳にメモして帰った。 〈青森の黒石か……〉  もし今の話が本当なら、なぜ行きもしない場所に後醍醐天皇の伝説が残っているのかを探るのも面白いと思った。流された隠岐とか、彼の政治の中心となった奈良の吉野では、いかにもありふれている。 〈でも……まさかね〉  石川の記憶違いに決まっている。  亜里沙は苦笑しながら資料の整理にかかった。長山にはこの四日の旅の間に基礎的な知識程度は詰め込んでおいてもらわないと。 〈八雲を知らない女子大生を笑える立場じゃないわね。天皇だったということしか知らないんじゃないの〉  コピーする量の多さを考えて亜里沙は溜め息を吐《つ》いた。      4  二日後の朝。  亜里沙と長山は鳥取県の米子《よなご》駅のホームに降り立った。寝台特急出雲三号は東京を前夜の十時近くに発車した。十二時間は揺られ続けたことになる。A寝台と言っても、さすがに疲れは隠せなかった。 「腹が減ったな。フェリーはどこから出港するんだっけ?」 「朝はいつも食べないんじゃなかった?」 「起きがけならな。せっかく眠ってたのに車掌が寝台を座席に直しにきやがって。十時に着くってのに七時に起こす必要がどこにある」 「皆が米子で降りるんじゃないもの」  だが亜里沙も同感だった。はじめにそれを聞かされていなかったので、九時まではゆっくり眠っていられると計算していたのだ。二時頃まで目が冴《さ》えていたので、実際には五時間も睡眠を取っていない。 「だから個室コンパートメントにすりゃよかったんだ。あれなら目的地までそのままだ」 「接続されてないんだもの、無理言わないで」  まったく我儘《わがまま》な男だ。それなら飛行機にしていれば問題はない。 「余裕はあったはずだな」 「ええ。十二時五十分の出港だから三時間は」 「そんなにか……もっと早い船は?」 「ないわ。一日に二、三便。でも、フェリーの出る境港《さかいみなと》にはここから一時間かかるの。余裕は二時間ってとこかしら」 「充分だよ。ついでに米子市内も見物できる」 「どうせなら美保関《みほがせき》の方に行ってみない?」 「美保関? なんだそりゃ」 「まったく、しようがないわね。昨日渡したコピー読まなかったんでしょ。私のメモも入っていたはずだわ。後鳥羽上皇と後醍醐天皇が隠岐に流される時に何日か滞在した行在所跡《あんざいしよあと》があるわ。仏谷寺《ぶつこくじ》というお寺」 「なるほど。それなら見逃せん」  長山には反省の色も見えない。 「じゃあタクシーで行きましょう。美保関と境港は大して離れていないから」 「食い物屋はあるんだろうな」 「あるわよ。観光地なんだもの」 「そんなに行在所ってのは有名か?」 「関の五本松って聞いたことがない? 唄にもなってるわ。それと美保神社。えびす様の総本山なんだって」  美保関に到着したのは十一時前だった。小さな港を一杯にイカ釣り船が埋めている。港に面して土産物屋とレストラン、宿屋が軒を連ね、観光客の姿も目立つ。タクシーを降りるとイカ焼きの匂いが漂ってきた。あちらこちらに屋台が見える。無性に食欲をそそられた。長山はようやく職業意識に目覚めたと見えて、小型のカメラをバッグから取りだすと町のたたずまいを何枚か撮影した。宿の名前や食堂の見本ケース、屋台の看板、そんなものが多いようだ。 「カツ丼でも食うか」  長山は亜里沙を振り返った。 「イカ刺って言うかと思った」 「そんなヤボじゃねえよ。イカなんてのは味が想像できる。食わなくたって書けるさ」 「カツ丼だって洒落《しやれ》た食べ物とは……」  まあ、この程度は序の口だ。亜里沙は長山に続いて食堂の暖簾《のれん》をくぐった。 「おやおや、こんなとこで小姓吉三様とご対面かい。日本てのも不思議な国だぜ」  行在所のあった仏谷寺の山門脇にある案内板を読んで長山は小首を傾げた。  八百屋お七の恋人だった小姓吉三の墓がこの寺にあるらしい。お七が鈴ヶ森で処刑されたあとに吉三は出家し西運と称して全国の寺を巡り歩いた。そしてこの仏谷寺において七十歳の生涯を終えたのだ。 「吉三が七十まで生きたとは知らなかった」  長山は墓を訪ねて写真に撮った。墓と言っても山門横に立てられた小さな石だ。 「八百屋お七ってのは実在感が薄いんだよな。芝居や映画のせいかも知らんが……ましてや吉三となりゃ。この調子なら日本のどこかに猿飛佐助や丹下左膳の墓まであるかも分からんぜ。なにしろキリストや釈迦の墓まである国だ。少年ケニヤとか冒険ダン吉のがあってもおかしくはねえよ」 「キリストの墓が青森県にあるのは知ってるけど、お釈迦様のもどこかに?」 「おなじ青森県にある。もちろん眉唾《まゆつば》もんだろうけど。大釈迦という地名だったはずだ」 「青森県って、そんなのばかりね」 「なんだい、そんなのばかりってのは」 「後醍醐天皇が落ちのびたという伝説もあるんだって。絶対に行ってないのに」 「へえ。どういうことかね」  と言いながらも長山は興味のない顔をして境内を本堂に向かって歩きはじめた。 「行在所がここにあったというだけで、この建物とは全然関係がないようだな。どう見たってこの寺は二百年も経ってねえ感じだ」  長山は説明文を読みはじめた。  後鳥羽上皇は承久三年(一二二一)七月二十七日より八月五日まで、後醍醐天皇は元弘二年(一三三二)三月十九日より四月二日までこの仏谷寺に滞在して隠岐へ渡ったと書かれてある。天候の影響だろう。 「リサが必死になって調査してくれるのはありがたいがね、やっぱり当時の建物じゃねえと感慨は薄いぜ。頼朝公十五歳のしゃれこうべ、って雰囲気じゃねえか」  長山はさっさと本堂を離れた。 「しかし吉三の墓はめっけもんだ。それなりに甲斐はあったというもんさ」  憎々しい口調で言う。  山門を出て美保神社に向かう狭い路地には一面に石畳が敷き詰められていた。なかなか風情がある。港から直ぐに山が立ち上がる猫の額のような土地なので、道幅も充分に取れない。向き合っている店と店との間隔は二メートルもなさそうだ。当然陽射しも悪くなる。それが逆にしっとりとした落ち着きを与えている。日本は明るい太陽よりも、薄暗い木洩《こも》れ陽の方が似合う国なのだと亜里沙は思いながら、石畳を踏む靴底の感触を楽しんだ。  神社の見物を終え、待たせていたタクシーに乗り、境港に到着したのは出港ぎりぎりの時間だった。埠頭にはスマートな形をした高速船マリンスターが接岸して乗船を開始していた。これに乗り遅れたら今日の便はない。 「本当かよ!」  さすがに長山も慌てた。急ぎ足になる。 「大丈夫。船の人が私たちを見てるから」  そんなに走らなくてもいいと遠くで頷いていた。窓から乗客も覗いていた。 「ったく、おまえの呑気《のんき》さには呆れるな」  なんとか間に合って席につくと長山はほうっと深い息をした。と同時に船が静かに埠頭を離れる。危ないところだった。 「ちっとは余裕のあるスケジュールを組んでくれ。焦って足踏みしたってタクシーの中じゃどうしようもねえぞ」 「あんな田舎で渋滞があるなんて思わなかったのよ。間に合ったんだもの、いいでしょ」  亜里沙は取り合わずに船内を見渡した。観光シーズンも終わったと見えて、船には定員の五分の一も乗っていなかった。空席ばかりが目立つ。それに意外と狭い。高速船だから、あまり大きな構造にはできないのだろう。売店でもあるかと捜したが見当たらなかった。コーヒーでも飲みたい気分だ。久し振りに走ったせいか喉《のど》がカラカラに渇いている。 「厭だね。あちこちに洗面器が積み重ねられてる。よっぽど揺れるに違いない」  長山が不安そうに顎《あご》で示した。正面のテレビの真下に銀色のボウルが置かれてあった。 「船も苦手ってわけ?」  確か出身は広島のはずだ。海の側である。 「皆が漁師ってわけじゃない。つまりはデリケートなんだよ。想像力の問題だ」 「どこにも取材に行けないじゃないの。それでよく物書きがつとまるわね」 「だから、想像力の問題だって。行かなきゃ書けねえなら、人を殺さんとミステリーは書けない理屈になる」 「世界が狭いのはそういう理由《わけ》か」 「厭なことを言う女だ。しかし……当たってるかも知れねえな。沖縄なんて舞台にしようとも思わん。無意識に敬遠してるんだ」 「ま、いまどき沖縄を舞台にしたって、ちっともスケールが大きいとは思わないけどね」  亜里沙はアハハと笑って、 「チョーサクの小説ってさ、やたらと温泉がでてこない?」 「気がついたか」 「だれでも気がつくわよ。この前読んだ短編集には三つもでてきた。七つのうち半分近くが温泉の話。なんで?」 「あれは怪奇小説を集めたやつだからな。日常を離れた場所で幽霊となりゃ、温泉てのが読者にも納得されやすい。もっともオレ自身の温泉好きも関係してる。編集者の中にゃ温泉作家だと面と向かって言うヤツもいる。温泉芸者よりはよかろうと言い返してやった」 「あのう……」  亜里沙の背中で女性の声がした。亜里沙は振り返った。真面目そうで美しい女の子が緊張した顔付きで通路に立っている。 「失礼ですけど流山先生じゃありませんか」 「そうですけど」  長山は急に丁寧な物言いをした。女の子はぱっと顔を輝かせて頭を下げた。 「私、堀川礼子と言います。浦郷で読書サークルを作っています」  浦郷は島前の中心地だ。今夜の宿もそこに決めている。亜里沙は頷いた。 「さっきから後ろでお二人の話をうかがっていて……ごめんなさい。どこかで見た人だなと考えていたんです」 「イスに腰を下ろしたら?」  亜里沙はとなりの席を勧めた。彼女は嬉しそうに腰をかけた。眩しいほどの若さだった。 「先生の小説は読んでいませんけど、サークルの仲間に推理小説の好きな子がいて」  正直な点もいい。けれどそれは亜里沙の感想で、長山は少し失望したらしかった。 「隠岐には取材でこられたんですか?」 「そう。この人の雑誌に連載を頼まれて。そっちの雑誌なら読んでいるだろう?」  長山が誌名を口にすると彼女は歓声を上げた。若い女性の読者が大半だ。 「凄《すご》い。なんだか興奮してきちゃった」  そう言われて亜里沙も悪い気はしない。 「それで、何日間いらっしゃるんでしょう?」 「島前には明後日の昼まで。それから島後に行くの。だから二日ぐらいしか」 「ぜひ案内させてください。明日は休みを貰ってでも」 「お仕事は?」 「幼稚園の保母をしています」 「私たちには願ってもない話だけど……迷惑じゃないの?」 「迷惑だなんて。私、休みの日は兄の会社を手伝ってタクシーの運転もしてるんです。島ならどんなとこでも案内できますから」 「へえ。タクシーの運転をね」  長山は興味を覚えたようだった。 「どっちみちタクシーなんだろ。だったら彼女でいいんじゃないか?」 「あ、そんなつもりでは。私の車で」  彼女は恐縮した顔で首を振った。 「ううん。その方がこっちも気楽。行きあたりばったりの取材ですもの、何時に終わるかも分からないし……そうしてくれない?」  亜里沙も頼んだ。それなら案内のお礼をどうするかと悩む必要もない。 「でも……困っちゃったな」  彼女は頬を染めた。 「別に困ることはないさ。料金だってこの人が払うわけじゃない。どうせ会社の金だ」  長山は無責任に付け加えた。 「甘えていいんでしょうか?」  彼女は亜里沙と向き合った。 「甘えなさい。母親みたいな人だよ」  思わず亜里沙も噴き出した。      5  島前の浦郷港に船が着いたのは三時ちょっと前。時間にして二時間程度のものなのに亜里沙と長山は何日も船に乗っていたような気がした。穏やかな航海だったのは最初の三十分ばかりで、外海に突入したら話もしていられないくらいの激しい揺れがはじまった。前後左右、まるで沈むかと不安に襲われるほどだった。二階の窓にまで波がせり上がってきた。船には自信を持っていた亜里沙も必死で吐き気と戦った。長山もとなりで青い顔をしていたが、若い彼女が側にいる手前、不様《ぶざま》なところは見せられないと頑張ったのだろう。吐瀉《としや》用のボウルを持ってこようかと亜里沙が囁《ささや》いても無言で拒否した。掌をしっかりと握ったままだったから、相当に参っていたに違いないのだが……。海原の向こうに隠岐の島影を見付けた時の長山の安堵《あんど》した目が忘れられない。幼い子供みたいな横顔だった。 「じゃあ、宿には七時過ぎにうかがいます」  彼女がぺこりと頭を下げた。  長山が今夜彼女の仲間たちのよく集まるスナックに顔をだすと約束したのだ。読書サークルと言ってもただ本を読むばかりではなく、映画の上映会を開いたり、機関誌などを発行して島の文化向上を目的としているらしい。長山のような作家が島を訪れているのに、その機会を見過ごす手はない。長山はその誘いに気軽に応じた。自分のファンがそのスナックの経営者と聞かされてはなおさらだろう。 「船は酷《ひど》いもんだったが……」  手を振って先を急ぐ彼女を眺めながら長山は続けた。 「いい島じゃねえか。気にいったよ」 「まだ着いたばかりなのに」 「だいたいの情報は彼女から仕入れた。島前の人口はおよそ一万人足らず。その半分以上がこの浦郷の周辺に暮らしている。本屋は小さなヤツが一軒きり。パチンコ屋は潰れてしまって今はない。映画館はもちろんなし。飲み屋は食堂を兼ねたものが十二、三軒。本土と島を結ぶフェリーは一日に二、三便。聞かなかったがディスコやゲームセンターは当然なかろうな」 「それがどうかした?」 「典型的な離島じゃねえか。高校を卒業した若者のほとんどが大阪や松江に出て行くって聞いたろ。ここは過疎の代表みたいなもんだぜ。台風シーズンともなりゃ船が三、四日就航しないのも普通だって言ってた。つまりは密室と一緒だ。ここで殺人が起きりゃ……」 「ちょっと待ってよ。いい島ってのはそういう意味? 呆れた。自分の小説のことを考えてたんだ。少しはうちの雑誌のことだって」 「分かってますよ。二十枚なんてのは半日仕事だ。心配するなって」 「うちの目玉なんだからね。でなきゃ二十枚の原稿でこんな遠くまで取材になんかだしてくれないわよ。分かってるのかなぁ。後鳥羽上皇とか後醍醐天皇には今の過疎なんて無関係。それこそ飲み屋さんの数もね」  言いながら亜里沙は長山の取材力に感心していた。くだらない質問ばかりだと笑っていたのに、ちゃんと辻褄《つじつま》が合っている。 「村起こしってのが全国で盛んになってる。この島じゃそれをやってるのかね。見たところ活気はなさそうだ」  亜里沙は無視してタクシーに手を振った。 「松の下旅館……歩いて五分ですよ」  タクシーの運転手は親切に道を教えてくれた。原タクシーとボディに書いてある。 「堀川礼子さんをご存知でしょ」  彼女の兄が経営している会社の車だ。 「あれ、礼子を知ってるんですか」  運転手は兄だと名乗った。まだ三十前後。 「明日案内してもらう約束を」 「ああ、船で一緒だったんですね。昨日から松江に本と洋服を買いに行ってたんで」  彼女の兄は後ろのドアを開けた。 「どうぞ。そういうことならサービスをしておかなくちゃ。車で一、二分ですけど」  人懐っこい笑顔で亜里沙たちを促した。 「いいお部屋じゃない」  亜里沙は自分の部屋に荷物を置いただけで長山の部屋を訪ねた。窓から真っ青な海が見える。長山はもう浴衣に着替えていた。 「カメラマンは何時に着く?」 「そろそろ。私たちと一時間半の差だから。それまでにお風呂にでも入ってきたら? 夕食は五時半に頼んできたわ。少し早いけど、七時には彼女が迎えにくるし」 「よっしゃ、そうするか。おまえさんはどうする。浴衣の方が楽だぜ」 「また着替えるのも面倒。このままでいい。お風呂もいいわ。寝る前じゃないと」  亜里沙は受話器を取ってゼロ発信から社のダイアルをまわした。無事に到着した報告をしておかないと編集長が心配する。 「当たり前のことなんだろうが……東京までダイアルまわすだけで通じるなんて信じられんな。こんなに苦労して渡ってきた海なのに」 「そうね。東京でこの宿に予約の電話を入れた時はなんとも思わなかったけど……こっちにくると凄いことなんだと実感するわね」  石川は予定通りに到着した。あれほど釘を刺しておいたのに石川は大ファンだと挨拶に言い添えた。せめて「大」だけは外して貰いたかった。長山は横柄に頷いている。 「青森の後醍醐天皇はどうだったの?」  亜里沙は話題をそらした。 「やっぱりぼくの勘違いでした」  石川は面目無いという目で口にした。 「後醍醐天皇に無関係ってわけじゃないんですがね。落ちのびてきたのは後醍醐天皇に仕えていた武士たちだったそうです」  それなら話は分かる。平家の落武者とおなじだ。亜里沙は少しがっかりした。 「なんでも……長野の方に暮らしていて、後醍醐天皇の子供のなんとかって言う皇子を守っていた武士らしいんですけど」  亜里沙は興味を失った。石川の言い方にも責任がある。なんとかと言う皇子とか、長野の方の武士だけでは興味の持ちようがないのだ。名前ぐらいは覚えてきてもらわないと。 「まあ、それはどうでもいいんですが」  石川は長山と亜里沙を交互に見詰めた。 「そこで殺人があったと言うんです」 「そこって?」 「だから、大川原ですよ。しかも後醍醐天皇の霊を慰めるための火流しのあった日に」  石川の話は意外な展開を見せた。殺人と聞いて途端に長山の目が光った。 「しかも、殺人の原因が後醍醐天皇にあるらしい。どうです、面白そうでしょう」  石川は得意そうな顔をした。亜里沙と長山は思わず息を呑み込んだ。      6 「それだけの話?」  石川の説明を受けて亜里沙は笑った。青森県の片田舎で、自分たちが取材している後醍醐天皇に関係した殺人が起きたと耳にして、はじめは緊張したのだが、詳しく聞いてみればこじつけのようなものだった。殺されていた人間のポケットの中から後醍醐天皇に関するメモが発見されたというだけに過ぎない。そもそも火流しという祭りは後醍醐天皇に所縁《ゆかり》のあるものだと言うし、その祭りを見物にきていた観光客であるなら、天皇に関するメモを持っていても別に不思議はないはずだ。亜里沙はそれを言った。 「そりゃあ……そうでしょうが」  石川は不満そうな顔で認めた。 「くだらないミステリーの読み過ぎよ」 「くだらない、とは、ご挨拶だね」  長山が脇で苦笑した。亜里沙はペロッと舌をだした。ミステリー作家が側にいることをうっかりと忘れていた。 「言ってくれるじゃないのと思う……って気分だぜ。しかし、まあリサの言う通りだ」  長山も頷きながら、 「せめてメモの内容でも分かりゃ、もう少し検討のしようもあるがな」 「無理ですよ。ウチの親父は刑事や新聞記者でもないんですから。新聞に報道された程度のことしか……。もし興味がおありでしたら、なんとか手をまわして聞いてみますけど」 「報道関係も後醍醐天皇絡みの事件だと?」 「いいえ。親父がそう思っているだけで」  これで長山の関心は薄れた。 「殺されたのはどんな人だったの?」 「二十五、六の男で、観光客だったとしか。もちろん詳しい点を親父が忘れたという話で、身許《みもと》不明ってわけじゃありません。ずいぶん遠いところからきた人間らしいです」  石川は自信を失った様子で茶を啜《すす》った。 「殺害方法は?」 「撲殺と聞きました」 「なんだか地味な事件だな。その祭りには一万人以上の観光客が集まるってんだろ。流しの犯行って線が濃厚だよ。見知らぬ観光客なら怨恨とも考えられんし」 「結局……そういうことなんでしょうね」  石川も諦めた口調で頷いた。 「現実は小説のようにはいかないか。てっきり流山先生の目の色が変わるとばかり」  小さく肩を落とす。 「しかし、その火流しってぇのは面白そうだ。親父さんに頼んで資料を送って貰えないか。今度のヤツに使えるかも知れんし、別の小説の材料にもなりそうだ」 「いいですよ。親父も喜びます」  三人が揃ったので部屋に食事が運ばれてきた。メインは隠岐で獲《と》れる魚介類。特に小鯛とアワビは二、三時間前に海から揚がったものだと言う。品の良い宿の女主人はそれぞれの材料を丁寧に説明してくれた。東京では滅多にお目にかかれない新鮮さだ。長山はたちまち大半を平らげた。瀬戸内育ちなので魚は好きらしい。 「良かったら食べてくれない?」  亜里沙は箸をつけていない焼き魚を勧めた。 「なんだ。食わんのか」 「見ているだけでお腹が一杯」  大きなテーブルから食《は》み出て汁椀や天ぷらが畳に置かれている。一人前十二、三品はあった。長山は首を振ると亜里沙の前にある焼き魚の皿を箸で手元に引き寄せた。 「下品なんだから。不精しないでよ」  亜里沙は箸を手で払って皿を手渡した。 「塗物のテーブルにも傷がつくわ」 「女房みたいな口を利きやがる」  いつもこの調子だ、と長山は石川に言った。石川は笑って自分の酢の物を差し出した。 「宜《よろ》しかったら。ぼく嫌いですんで」 「おお。いいよ。こうなりゃとことん食ってやる。恰好つける相手なんぞいやしねえ」 「じゃあ、これも献上ね」  すかさず亜里沙はいくつかを押し付けた。 「好き嫌いばっかりしてると育たねえぞ。もっとも、おまえさんにゃこの意見もご無用か」  亜里沙の身長は一メートル七十以上もある。 「チョーサクに押し付けといて、こんな言い方は変だけど……どうして太らないんだろ」 「体質としか言えんな。いくら食っても体重に変化なしさ。ま、虚弱体質って編集者に見せかけてりゃ、なにかのときに便利だ。いつ入院してもおかしかぁねえと思われてる。そいつで二、三度締切をごまかしたよ」 「本当に胃腸でも悪いんじゃないの」 「バカ言え。体を壊してたら人の分まで食えるか。煙草五十本、コーヒー十杯、酒五合、それが平均の日常なんだぜ。悪けりゃ、とっくに倒れてる。自覚症状ゼロ」  長山は鼻で笑って焼き魚を軽く片付けた。 「怪物君だわね。それに食事も一度きり」  本当ですか、と石川は長山を見詰めた。 「慣れりゃ平気なもんさ。たいてい晩メシしか食わん。今日は珍しく昼も食ったけど」 「そのくらい食べれば、私だって明日の夕方までは我慢できそうよ」  亜里沙は並べられている皿の半分近くにも箸をつけられず食事を終えた。フェリーに激しく揺られたせいもあるのだろう。まだ胃の辺りが落ち着かない。 「四十分か。そろそろ彼女が迎えにくる頃」 「彼女の迎えって?」  石川が怪訝《けげん》そうな顔で亜里沙に訊ねた。 「スナックにこの島の若者たちが集まっているの。フェリーで知り合った女の子が読書サークルに関係してて、ぜひ流山先生の話をうかがいたいんですって。綺麗な子。それで張り切ってるのよね、流山先生としては」 「よせよ。おまえさんに流山先生なんて呼ばれると背筋が冷たくならぁ」  長山は噎《む》せ込みながら、 「じゃあメシは切り上げて、風呂に入ってくるとしようか。少し酔いを醒《さ》ましておかんとまともな返答もできん」 「呆れた。さっき入ったばかりなのに」 「風呂は健康と長寿の秘訣だよ」  名残り惜しそうにグラスの酒を一口飲んで長山は立ち上がった。 「カメラマン氏も一緒に行かんか。お宅の場合は脂を少し絞り取る必要がありそうだ」  石川は慌てて手を振った。 「健康って言葉があれほど似合わない人間もちょっと珍しいわね」  長山がいなくなると亜里沙は笑った。 「気さくな人なんで安心しました」 「どうかしら。今日は機嫌がいいみたいだけど安心はできないわよ」 「二人はいいコンビですね。学生時代は相当に仲が良かったんでしょう」 「どちらかと言えば毛嫌ってた方」  亜里沙の言葉に石川は噴きだした。 「変なヤツだったの。喫茶店のテーブルの上で固形燃料を燃やして追いだされたり」 「なんで?」 「暖房費をケチってる店への抗議だなんて言ってたけど……お陰で仲間まで当分は立ち入り禁止。でも……今になって考えてみると、チョーサクの抗議も当たっていた感じ。その店は客の回転率を良くするために暖房をワザと弱めていたんじゃないかしら。一杯のコーヒーで何時間も粘られてはかなわないもの。店の人たちは厚着してたわ」 「昔はそんな店もあったんですか」 「学生街は皆似たようなものよ。それに、やっぱり日本全体が貧しかったのね」 「二十年くらい前の話でしょう。嘘みたいだ」 「本当に豊かになったのは、ここ十五、六年じゃない? 君が中学生の辺りからかな」 「貧しさに負けた、って唄がありましたね」 「そうそう。その頃だった」 「あれは赤色エレジーでしたか」 「昭和枯れすすき……違った?」 「そうか。いつも混乱するんです」 「愛は愛とてなんになる、だものね。混乱するのも無理はないわ。それに赤色エレジーには一郎って名前が登場してるし、昭和枯れすすきを歌ったのは、確か、さくらと一郎のはずだわ。『時間ですよ』の挿入歌でしょ」 「思い出した。藤竜也が篠ひろ子の店で飲んでいると必ずバックに流れたんだった」 「その時、君はいくつだったの」 「ええと……中学校の一、二年かな」 「歳の差を感じるわ。私はもう会社に勤めてたわよ。大学を卒業して三、四年経ってた」 「へえ。そんなに」  石川はまじまじと亜里沙を眺めた。  その頃、長山は湯舟に身を浸していた。広い浴槽なので気持がいい。酒を飲んだ後の湯は体に悪いと言う意見もあるが、長山は逆だった。熱い湯に入って汗を掻《か》くと頭がすっきりする。仕事の合間に酒を飲んで、風呂で酔いを醒ます。その習慣が何年も続いている。他に入浴客のいないのを幸い、長山は浴槽からでると洗い場に大の字になって寝転んだ。ほてった背中にタイルの冷たさがなんとも言えず心地良い。枕替わりにしているプラスチックの湯桶を指で弾きながら鼻歌を口ずさんでいるとガラス戸が開いた。石川と思ったが、他人だった。長山はゆっくりと半身を起こした。若い男は長山を認めて会釈した。 「大人げないとこを見られたな」  長山の言葉に相手は苦笑した。 「君も観光できたのかい?」  分かりきっていることを長山は訊いた。この島に商用でくる人間はほとんどいない。相手は曖昧《あいまい》な笑顔を浮かべて湯に体を沈めた。長山は若者と並んで湯に入った。学生よりは大人びている。二十四、五というところだ。長身で逞《たくま》しい筋肉をしていた。 「……!」  若者の太い右腕に髑髏《どくろ》の刺青《いれずみ》を見付けた。西洋風の海賊の旗印のようなものだ。 〈元は暴走族ってとこか〉  長山の視線を感じてか若者はタオルでそれを隠した。髪はきちんとしている。  長山は少し若者から離れた。 「推理小説を書いておられるとか」  横顔のまま唐突に若者が言った。 「ああ……どうしてそれを?」 「フロントで聞きました。こんな寂しい島にこられた目的はなんです?」 「なにって……ただの取材さ。後鳥羽上皇とか後醍醐天皇の足跡を辿《たど》ってな。隠岐島を紹介する。それだけのこった」 「本当かな。ま、それなら構いませんがね」  妙に含んだ物言いに長山は不審を覚えた。 「構わないってのは、どういう意味だ?」 「別に……」 「………」 「噂を聞いたわけじゃないんですね」 「噂? どんな」  長山は思わず相手を見返した。  相手はしばらく無言でいる。 「なにか面白い噂でも流れているのかい」  長山が重ねると、 「ならいいんです。忘れてください」 「そいつはなかろう。そっちから質問しといて無礼ってもんじゃねえのかい」  相手はジロッと長山を見据えて、 「後醍醐に深入りすれば殺されますよ」  囁くように言うと風呂から上がった。  長山は唖然《あぜん》として若者を見送った。 〈なんだ、あいつは〉  どうやら、そのことだけを伝えるのが目的で自分に近付いてきたらしい。追いかけて問い質したい衝動に駆られたが、その決心がついたときには遅かった。脱衣場に若者の姿は見えない。廊下を遠ざかっていくスリッパの足音が聞こえる。慌てて浴衣を着た。 〈……ん〉  足下に小さく畳まれた紙が落ちている。側に濡れた足跡があるのを見れば、今の若者が落としたものに違いない。長山は拾い上げて紙を開いた。「黒・二時」とだけ書かれてあった。これではなんのことやらさっぱり分からない。時間はともかく、黒とは?  長山は風呂場からでるとフロントに急いだ。フロントと言っても昔風の帳場だ。若い女の子が帳簿を開いて仕事をしている。 「背の高い若いヤツが泊まっているね」  長山が言うと彼女は顔を上げた。 「彼はどこからきた男かな」 「男のお客さまですか? 今日は先生方の他に女性の団体客しかおりませんけど」 「まさか。たった今風呂で会った」 「ああ。あの人は入浴だけのお客さまです。さっき帰られました」 「入浴だけ? じゃあ地元の人間なのか」 「いいえ。見たことのない方でした。そう言えばフェリーで先生を見かけたとおっしゃって名前を訊ねられたものですから教えて差し上げたんですが……なにかご迷惑でも」 「いや……それならいい」  長山は首を振った。 「私もそろそろ『慶』に行くつもりで」 「『慶』って……君も読書サークルに?」  昼に聞いたスナックの名前だった。 「礼子とは小学校からの同級生なんです」 「ふうん。だったらわざわざ迎えにきてくれなくても君で良かったわけだな」 「私は遅れるかも知れなかったので」  長山は頷いた。大きな丸い眼鏡さえ外せば岡田奈々に似た可愛い顔立ちだ。この島にはなかなか美人が多い。 「店には何人ぐらいが集まるんだい」 「サークルの仲間は十二、三人ですけど……急な話だったので連絡のつかない人間も。それでも七、八人は必ずくるはずです」 「カメラマンも一緒でいいかな。まさか一人だけ部屋に残しとくわけにもいかん」 「もちろん。かえって皆が喜びます」  彼女は軽く請け合った。 「本当に、殺すって言われたの!」  長山の説明に亜里沙は目を丸くした。 「殺す、じゃなくて、殺されるだ」 「おなじことじゃない」 「大違いだろうが。殺すと言ったなら、あいつは我々の敵ってことになるが、殺される、じゃ親切な忠告とも取れる」 「相手の立場よりも、私は自分たちの立場を言っているの。犯人がだれであろうと殺される人間は私たちに変わりがないわ」 「深入りをするなって言われたが……情け無いことにオレにゃまるで見当もつかん。深入りするにも、基礎知識が皆無ときたよ」  長山は自分で言って笑った。 「後醍醐となると、やっぱり御所《ごしよ》問題かしら」 「そいつはなんだ?」 「ったく呆れるわね。相手もチョーサクを買い被《かぶ》ってるんだわ。この程度の人間だと知ったらバカバカしくなる」 「ごたくはいいから御所問題を教えろ」 「この隠岐には後醍醐天皇の行在所と言われる場所が二つもあるの。この島前に一つと、海を隔てた島後に一つ」 「ふうん。それがどうした?」 「どちらかが間違っているってことね。ただの伝説なら問題もないけど、片方は国の史跡に指定されてて、もう一つは県の史跡に認定されている。皇太子殿下が前に隠岐を訪れた時に、どちらが正しいのか判断に困って二ヵ所を公平にまわったというのは有名な話よ。全国の史跡の中でもこんなのは珍しいんじゃない? 御所問題は隠岐のタブーにもなっていて、郷土史家たちはこの問題になると互いの意見を主張して一歩も譲らないらしいわ」 「国と県なら……国の方が強いと違うのか」 「それが反対みたいなの。昭和のはじめに、御所が島後の国分寺にあったらしいという文書が発見されるまで、すべての伝承はこちらの黒木御所に集中していたんですって。だから大正天皇や今の天皇が皇太子時代に島根県を訪れた際に、まったくの疑問も持たず黒木御所に案内したのね。ところが、決定的とも言える文書が見付かったので、国は島後の国分寺跡を御所跡と認めて国史跡とした。島根県側は仰天したってわけよ。本当に国分寺が御所だとしたら、大正天皇と今の天皇を違う場所に案内したことになるんだから。それで県は真っ向から異議を唱え、とうとう黒木御所を県指定の史跡に加えたってわけ。面子《メンツ》の問題ばかりじゃなく、情況証拠ではこちらが遥かに納得できる場所らしいわ」 「黒木御所って言ったな」  長山は浴衣の袖から拾った紙を取り出した。 「もしかして、この黒ってのは、黒木御所のことじゃねえのか」 「そうね。きっとそうよ」 「すると……さっきの男は明日の二時にこの黒木御所に現われるってことだな」 「明日? どうして」 「直感だよ。今日のことなら用済みのメモは破り捨てたに違いない。明後日以降なら日付も書く。それが一番自然だろ」  亜里沙と石川は同時に頷いた。 「ちょいと面白くなってきた。その時間に合わせて黒木御所に行くとするか。どうせダメモトだ。どっちみち御所には行く予定だろ」 「危険じゃないかしら」 「真っ昼間だぜ。観光客の大勢いるところで襲ってくるバカもいねえさ」 「でも……深入りするなって」 「御所の見学程度で深入りと判断されるなら、何千人という観光客も殺さなきゃならん」 「本当に御所問題がポイントだとしたら」  石川が長山に向かって言った。 「それを流山さんに解決されるのを恐れているってことでしょうか」 「考えられないわね」  亜里沙が断言した。 「今までこの問題に取り組んだ人はたくさんいるもの。いくらチョーサクが推理作家だと言っても、よほどの証拠を握らない限り、仮説を越えることはできないはずよ。もし相手が御所問題の渦中にいる人物なら、当然分かっていると思うわ。恐れる理由なんて……」 「だったら、別の問題じゃないのかな」 「たとえば?」 「そんなのぼくに分かるわけが……隠岐もはじめてだし、御所問題だって初耳なんですよ」 「二人にゃ悪いが、オレはそもそも御所問題にすら関心がねえよ。どっちでも構わん」  長山は煙草に火をつけた。 「墓がどっちにあるかって問題なら少しは興味もあるがな。御所ってのは、暮らしてた場所に過ぎんだろうさ。後醍醐天皇は隠岐を脱出して京都に戻っている。言わば通過地点だ。それを突き止めたところで歴史が変わるわけでもなかろう。地元の人間にとっちゃ観光の目玉にも使えるだろうし、大問題だってのも分かるが……部外者にはどうでもいいこった。大人が何人も集まって貴重な時間を費やすなんてのは無駄の典型としか思えんね」 「それじゃ困るわよ」  亜里沙は声を荒げた。 「取材にきた意味がなくなるわ」 「なんだ。おまえさんの狙いは御所問題だったというわけか」 「それだけじゃないけど……てっきりチョーサクが興味を持つとばかり。歴史の謎って言うとそれくらいしかないもの」 「書けってんなら書くがね」 「参ったな。その程度の認識?」  さすがに亜里沙は苦笑した。 「おいおい、さっきおまえさんも言ったろ。よほどの証拠を見付けない限り、仮説の域をでないってな。それじゃオレが書くこともあるまい。リサの方がオレよりも詳しそうだ。どうせ仮説ならおまえが書いてもおなじさ」 「それにこだわってるわけだ」 「別に……読者に関してはオレもオレなりの考え方を持ってる。これぐらいの謎じゃだれも面白がらねえよ。そいつは確かだ」 「君はどう思う?」  亜里沙は石川の意見を訊いた。 「どっちにもいなかったという新説でも登場すれば面白そうだけどな……」  長山はアハハと笑った。  同時に電話のベルが鳴った。亜里沙がでると、堀川礼子が迎えにきたという連絡だった。 「直《す》ぐ階下《した》に降りて行きます」  亜里沙は受話器を置くと、脅迫の件は内密にしようと二人に念を押した。狭い島だ。話が大袈裟《おおげさ》に伝わる恐れがある。その気がないのに、誤解されて襲われてはたまらない。      7  狭い店には十人近い若者が犇《ひし》めいていた。  長山が顔を見せると歓迎の拍手がわいた。案内された真ん中のテーブルには酒の用意がされていて、二本の真新しいボトルが並べられていた。ボトルには白いペンで文字が書かれてある。「来島記念・流山朔先生」それを読んで長山は相好を崩した。必死にニヤけた顔を元に戻そうとするのだが戻らない。亜里沙は俯《うつむ》いて笑いをこらえた。長山にははじめての経験なのだろう。憎めない男だ。  とりあえず、と礼子が三人に水割りを拵《こしら》えながらメンバーを紹介した。宿の帳場にいた女の子もワンピースに着替えて後ろにいる。 「せっかくの歓迎会だが……酒以外はオレの奢《おご》りにさせてくれ。ファンに御馳走になったと編集者に聞こえりゃ笑われる。なんでも頼んでいいよ。南京豆でもチーズでもな」  相変わらずバカバカしい冗談を長山は口にした。第一、ここにいる若者たちがファンとは限らない。それでも皆がドッと笑った。 「先生が酔わないうちに……」  店のマスターと名乗った若者が長山の書いた本を四、五冊カウンターから持ってきてサインを求めた。 「隠岐の片田舎でご対面とは嬉しいね」  バカ! 亜里沙はハラハラした。やっぱりどこか舞い上がっている。 「ぜひ隠岐も小説に書いてください」  マスターは本当にファンらしかった。 「ミステリーに使えるような材料があるかい。それが見付かりゃ直ぐにでも」 「怪奇小説にはうってつけです……島には街灯が少ないんで道路が暗くて。擦《す》れ違ったりするとお化けのような女がたくさんいる」  五、六人の女の子が口を尖《とが》らせた。 「いや、この島の女の子は幽霊タイプだ。化け物にしちまうには美し過ぎる」  パチパチと女性の間に拍手が起きた。 〈頭が痛くなってきそう〉  亜里沙は水割りを口に運んだ。さっき脅迫されたばかりの人間とはとても思えない。 「あの……これ読んでくださいませんか」  一人の女性が長山に薄い雑誌を差し出した。 「サークルで拵えた本です。自筆のコピー印刷ですから読みにくいと思いますけど」  長山は気軽に受けとって捲《めく》った。亜里沙もとなりから覗いた。読書サークルというので感想文や読書ガイドが中心かと想像していたが、中味はもっと広い範囲に及んでいた。情報交換やビデオソフトの解説まで掲載されている。東京で雑誌を作っている亜里沙の目から見れば他愛もない小雑誌だ。しかし熱気は充分に伝わってきた。映画や音楽といった、今では日常的なものまで、この隠岐では立派な文化として取り扱われている。なまじ東京に暮らしているために、自分たちは大事なものを見落としているのではないか、亜里沙はふと反省した。 「この……黄金伝説ってのはなんだい?」  長山が告知板の頁でそれを見付けた。国賀海岸に黄金伝説を求めてテントを張ろう、とだけ書かれてある。投稿原稿のようだ。  長山が口にした途端、笑顔で見詰めていた何人かの表情が厳しいものに変わった。 「ただの遊びです。根拠なんて……」  店のマスターが代表して答えた。 「しかし……伝説とあるからにゃ、それらしい話でも残っていそうだな」  長山は亜里沙と目を合わせた。 「国賀海岸て……断崖絶壁で有名な国立公園でしょ。黄金のことは知らないけど」 「後醍醐天皇の遺産が隠されているなんて面白半分に言い触らした連中がいるんです。きっと中学生辺りでしょうが。流されていた天皇に遺産があるわけもない。大人たちはバカにして笑っています」 「なるほどね。理屈ではあるな」  しかし、長山の目は光っていた。 「いつ頃から騒がれだした?」 「最近ですよ。騒いでいると言っても一部の人間だけで外部の人はほとんど知りません」  マスターはしきりに大した問題じゃないと繰り返した。若者たちも頷く。そんなことよりも長山の話が聞きたいらしい。女の子の一人は、長山が女優の月宮蛍と親しいことを知っていた。その質問がでると、関心は小説よりも芸能界の方に移った。長山は閉口しながらもいちいち丁寧に応じた。亜里沙の雑誌にも歌手や俳優が登場する。長山を囲む文化的ディスカッションのつもりが、一時間もすると主役は亜里沙に変わった。若い女の子たちにとって女性編集者は憧れの職業なのだ。長山はカウンターに移動してマスターと二人でミステリー談義にふけっている。 「妙な展開になったわね」  十一時を過ぎたので、盛り上がっている若者たちを残して店をでた亜里沙は、前を歩いている長山に謝った。 「小説よりタレントの話の方が面白いに決まってるさ。別に気にしちゃいねえ」  長山は軽く手を振った。 「それより……深入りってのは黄金伝説のことじゃねえのかな」  長山の言葉に石川も同意した。 「あいつらはなにか隠してる。絶対だ」 「確かにおかしかったわね。チョーサクの話をそらしている感じだったわ」  酔った頬に潮風が気持いい。三人は海岸道路に沿って歩いた。店から宿まで五、六分と離れていない。波の音が静かだ。明るい月が真上の位置にある。海が輝いていた。 「結構根拠があるってことだろうな」  長山は立ち止まった。後ろから駆けてくる足音が聞こえたからだった。 「礼子さんよ」 「明日の時間を打ち合わせると言って抜け出してきたんです」  追いつくと礼子は肩で息をした。 「すみません。ああいう会になるなんて」  礼子は長山に頭を下げた。 「先生が国賀のことを訊ねられたので……皆がなんとなく警戒しただけなんです」 「警戒? なんでだい」 「先生に興味を持たれて雑誌にでも書かれたら大変だと」 「………」 「あの記事……私たちのでっち上げなんです」  長山たちは絶句した。 「冗談半分で載せたら評判になって……いまさら嘘だと言えなくなったものだから、だれかの悪戯《いたずら》投稿だと……申し訳ありません」 「よくあることよ」  亜里沙は笑って礼子の肩を叩いた。 「それでウチの雑誌に紹介されたら困ると心配したわけね。ようやく納得できたわ」  亜里沙が頷くと礼子は安堵した。明日の時間を決めて礼子は戻って行った。 「ますます面白くなってきやがった」  長山は指を鳴らした。 「今の話は恐らく出鱈目《でたらめ》だぜ」 「どうして?」 「仲間に言い含められて彼女が追いかけてきたのさ。どうせ明日の案内を彼女に頼んでいるんだ。告白なら明日でも遅くはない」 「それは……そうね」 「早いうちにオレたちの関心を断っておきたかったんだ。今夜にでも宿の連中に妙なことを訊かないようにな」 「そこまでは考え過ぎじゃない? 明日まで嘘をついているのが厭だったとも……」 「訊いてみりゃ分かる。宿の女将《おかみ》はまだ起きているはずだ。その反応で見当がつく」 「さすがミステリーを仕事にしているだけありますね。ぼくなんか簡単に信用しました」  石川は唸《うな》った。 「アタリよりも、ハズレの推理の方が多いんだから。余計にことをむずかしくするだけ」  前の事件のときにも何度か長山の迷推理に混乱させられている。自分の小説の中ではともかく、現実となれば重箱の隅をつつくような推理を展開する人間だと亜里沙は見ていた。 「国賀の黄金伝説ですかぁ?」  女将はしきりに首を捻《ひね》った。 「聞いたこともありませんねぇ」  長山はがっくりと肩を落とした。 「読書サークルの雑誌にありましたが」  亜里沙は脇から補足した。 「後醍醐天皇の遺産だとか」 「それでしたら黒木御所のある碧風館で訊ねられたら分かるかも知れませんねぇ」  三人は礼を言って部屋に戻った。全員が一人部屋だが、長山のところが一番広い。 「大ハズレもいいとこね。本当に評判になっていたら観光旅館の女将さんが知らないはずないもの」 「だったら風呂で会った男はなんだ? 御所問題でもない、黄金伝説も嘘だとなりゃあ、まったく想像もできん」 「からかわれたんじゃないの」 「バカ言うな。あいつは大真面目だったよ」 「またハズレるような予感がする。明日の二時が楽しみだわ。でも、ちょっとは緊張したから損てこともないわ」  風呂に入って眠ると言って亜里沙は部屋をでた。石川はまだ元気な顔だ。 「飲み直すかい。冷蔵庫にビールがある」 [#改ページ]  二 幕 南朝の秘宝と隠岐での脅迫のこと      1  翌日は朝から晴れ上がっていた。堀川礼子との約束は十一時なのでゆっくり起こしてくれと帳場に頼んでおいたのだが、亜里沙は八時前に目覚めた。港の側《そば》の宿なので湾を往来する船の音が意外に賑やかだ。亜里沙は窓のカーテンを開いて海を眺めた。煙草を取り出して静かに喫《す》った。こんなにのんびりした気分は久し振りだった。青い海原に無数の兎が飛んでいるように見える。この位置からは穏やかに思えても、海は荒れているのだ。 「お目覚めですか?」  部屋の気配を察して女将《おかみ》が襖《ふすま》の外から声をかけてきた。返事をすると、間もなく女将は熱いお茶を運んできてくれた。 「お寒くはございませんでした?」  てきぱきと布団を片付けながら訊く。 「ちっとも。お陰さまでゆっくり」 「昨日の伝説のことですけどなぁ」 「ええ」 「懇意にしておる学校の先生に訊ねてみましたが、やはり耳にしたことがないと。隠岐の歴史を調べている方なので間違いは……」  亜里沙は何度も頷いた。 「ただ……」 「………」 「最近になって島の若い者たちがあちらこちらを歩きまわっているのは確からしいと。それが伝説と関係があるかどうかは分かりません。二、三ヵ月前には長野や東北方面からも若い人が隠岐にやってきたんですよ。観光ではなくて若者同士の交流ということでしたけど」 「交流ですか……」 「はい。ゆくゆくは姉妹都市にするんだとか言ってウチの娘も張り切って……でも、若者同士の間で内密に進めている話らしく、私どもにはなんの相談もありませんのですよ。別に断絶があるわけでもないのにねぇ」  女将は苦笑しながら部屋からでていった。 〈東北方面……〉  亜里沙は黒石市の大川原を思った。 「まさか。いくらなんでも」  思わず声になった。  それにしても、若者たちが島を捜し歩いているというのは、なんだろう? もし、それが昨夜会った若者たちなら、長山の言う通り、嘘をついていたことになる。彼らは黄金伝説を真っ向から否定していたのだ。 〈けれど……〉  長山には言わないでおこう、と思った。伝えれば必ず堀川礼子をねちねちと追及するに決まっている。彼女が真面目で素直な子であるのは、女の勘で分かっていた。加えて、島を歩きまわっていることと伝説が関係あるかどうかは女将にも自信のない話だ。下手に騒ぎ立てれば迷惑をかける心配だってある。特に長山は他人を考慮に入れない人物なのだ。もう少し具体的な事実が分かってからでも遅くはない。亜里沙は自分に言い聞かせた。      2 「おはようございます」  帳場から連絡を受けて三人が玄関にでると、礼子は薄手のセーターにジーンズという恰好で車のフロントガラスを磨いていた。 「いい天気になりましたね」  ドアを開けながら礼子は微笑《ほほえ》んだ。 「どういう順番でまわりましょうか」 「君に任せるわ。ただ……黒木御所には一時頃までに行きたいの。メインの場所だから撮影時間をたっぷり取りたいと思って」 「じゃあ、最初に行った方がいいんじゃ?」 「午後がいいんだとさ」  最初に乗り込んだ長山が言った。 「オレにゃ分からんが、朝と昼とじゃ光の加減が違うそうだ。カメラマン氏の意見でね」  下手な嘘だが礼子には通じた。 「黒木御所に一時となれば……一時間半くらいしか余裕がありませんね。ここから真っ直ぐ向かっても二十分はかかるんです。どうしようかな。それなら摩天崖でも見ていきましょうか。後醍醐天皇とは関係ないけど隠岐で一番景色のいいところなんです。今日のような天気の日なら最高じゃないかしら」 「いいわね。見たいと思ってた」  助手席に腰かけた亜里沙は頷いた。  礼子の運転は抜群だった。対向車の多い狭い道を鮮やかに走り抜ける。それに頭に描いていたよりも島は広い。山道を登っていると自分たちが島にいることを忘れそうになる。鬱蒼《うつそう》とした森がどこまでも続いていた。 「バカにしてたってわけじゃないんだが」  一、二分ごとに擦れ違う車に呆れた顔をして長山が言った。 「これほど車が普及してるとは思わなかった。どの家の庭にも二台くらい停めてある」 「車がなかったら生活できません」  礼子が笑った。 「暴走族だってちゃんといるんですよ。端から端まで走っても三十キロぐらいしかないのであんまりスピードは出しませんけど。それに島の皆が顔馴染みですし、悪いことなんて絶対にできないんです」 「顔馴染みと言っても島には一万人近い人間が暮らしているんだろ。識別ができるもんかい? オレなんか名前と顔が一致するのはせいぜい百人程度のものだ」 「名前はもちろん知りませんが、どこの家の次男だとか、あの店の主人だとか……観光シーズン以外はほとんど人の出入りがないから自然に覚えてしまうんです」 「なるほど。人の出入りがないってのが重要だな。それならオレにも千人ぐらいは」  長山は了解した。 「隠岐に雪が降るのはご存知ですか」 「だろうね。広島にも降る」 「何メートルもですよ」 「冗談だろ?」 「いいえ。新潟にも負けないほど」 「だったら青森よりも凄《すご》い」  石川が割って入った。 「石川さんは青森の出身?」  礼子が振り向いた。 「そうだよ。黒石って町だ」  礼子の顔が一瞬引きつった。 「どうしたの?」  鋭く亜里沙が見咎《みとが》めた。 「……ずいぶん遠いんだなと思って」 「まあ、日本の端と端みたいなもんだね」  石川はのんびりと応じた。 〈勘違いだったのかしら〉  平静に運転を続ける礼子の横顔をこっそり観察しながら亜里沙は小さく息を吐《つ》いた。 「凄い場所だ」  摩天崖を横から見通す丘の上に立って石川は歓声を上げた。湾を隔てた向こうに切り立った断崖が見える。なだらかな高原の端がナイフでスパッと切り取られたように、垂直に海に面している。遠くにあるので高さの感覚が掴《つか》めないが、礼子の説明によると二百メートルはあるらしい。 「あそこから突き落とせば簡単そうだ」 「またぁ、自分の小説のことばかり考えて」 「あの端まで行けるのかい?」  亜里沙を無視して長山は訊ねた。 「遊歩道が中腹まで。そこから先は草原ですからだれでも歩いて行けます」 「どんな気分かね。こっちは高所恐怖症なんで見たいとも思わんが」  自分たちの立っている丘でさえ相当の高さがあった。長山は怖々《こわごわ》と下を覗いた。海が穏やかな表情を見せて広がっている。  石川が続けてシャッターを切った。 「そんな写真は使うなよ」  及び腰でいるのを自分でも知っているらしかった。長山は慌てて道路側に戻った。  十二時少し過ぎに車はふたたび浦郷の港に戻った。昼食を取ろうにも、この周辺にしか食堂がない。礼子は観光船の待合所の三階にあるレストランに皆を案内した。メニューにコーヒーを見付けて長山はホッとした。朝は寝過ごしたためにコーヒーを飲む余裕がなかったのだ。 「食事はいいの?」  うどんを注文しながら亜里沙は質《ただ》した。石川と礼子はカレーライスを頼んでいる。 「コーヒーで充分だ。地元の彼女はともかく、隠岐まできてカレーやうどんを食うほど野暮じゃねえんでね。ここ何日かは新鮮な海の幸しか食わんことに決めた」 「刺身定食もあるけど」 「バカ野郎。昼に刺身が旨いもんか」  乱暴な理屈に三人は笑った。けれど、言われてみればそんな気もする。亜里沙もあまり昼に食べた記憶がない。 「この島じゃピザが食えるのかい?」  長山の取材がはじまった。 「ええ。何軒かの喫茶店で」 「ステーキはどうかな」 「隠岐牛って有名なんですよ」 「ふうん。案外揃ってるな。それなら食い物には困らねえわけだ」 「でも単純なものばかりで、シチュウとか美味しいコンソメなんかは飲めないんです」 「そりゃあ贅沢《ぜいたく》ってもんだ」 「贅沢じゃないわよ」  亜里沙は長山の認識の低さに呆れた。 「女の子なら当たり前の要求だわ」 「そうかね。だいたいコンソメってのがオレにゃよく分からんのだ。ラーメンのスープとあんまり変わらんもんじゃねえのか。何度食っても旨いものとは思えんな。なにも入っていないくせしてポタージュよりも高いってのがそもそもけしからん」  礼子は笑い転げた。 「グルメ小説とも無縁みたいね」  クスクスと亜里沙は肩を揺すりながら、 「どうりでチョーサクの本を女の子が読まないわけだわ。旅は嫌い。料理も興味なし。それに残酷趣味ときたら、お手上げ」 「救いは男前だけか」 「どこが……ミステリー界の黄金バットと呼ばれてるの知ってる?」  長山はブワッと噴き出した。 「酷《ひで》ぇヤツだと思うだろ。いつもこれだ」  長山は石川と礼子に苦笑した。  車はいよいよ黒木御所に向かった。  しばらく海岸沿いに走って、小さな橋を渡った。その下にあるのは海ではなく運河である。この運河が作られたお陰で内海から外海へ簡単にでられるようになった。それまで浦郷港から国賀海岸にでるには島を大迂回しなければならなかったと言う。黒木御所はこの橋を渡って十分ほどのところにある。  途中で礼子は車を停めた。 「あの森の手前に大きな石がありますね」  礼子は道路から左側に延びた細い道の突き当たりを指差した。白い案内板のとなりに亀の背中のように丸くて巨大な石が見える。 「後醍醐天皇は黒木御所を脱出して、この海岸から沖の商船に乗り移られたと伝えられています。その時に小舟の用意が整うまで、あの石に腰をかけられてお待ちしていたとか」 「どこにでもあるもんだな。ずうっと前に会津若松で土方歳三《ひじかたとしぞう》の腰掛石ってのを見たことがある。義経もいろんなとこに腰をかけたらしくて、これまでに三、四ヵ所は見物した」 「憎まれ口はいいから……降りて見る?」  亜里沙は時計を見ながら長山に訊いた。じきに一時だ。本当は二時なので時間にたっぷり余裕はあるが、礼子を急《せ》かせておいて、ここでのんびりするのも妙なものだ。 「帰りに寄ろう。石は逃げんよ」  礼子は頷いて車を発進させた。  黒木御所は島前において浦郷と並ぶ良港・別府を間近に見下ろす小高い丘の上にある。島の人々は普通に御所と呼ぶが、当時の建物が残っているわけではない。御所跡と言われる丘に神社が作られ、後醍醐天皇を祀《まつ》っているだけのことだ。その丘の下には碧風館という小さな記念館があり、隠岐時代の後醍醐天皇に関連した資料を取り揃えている。  礼子は車を碧風館の前に着けた。 「とうとうきたわね」  亜里沙は武者|震《ぶる》いを覚えた。  丘に上る広い石段の前には巨大な石柱が立ち、真正面に堂々とした筆遣いで黒木御所阯と彫られてある。これを前にしている限りでは隠岐に二つの行在所跡があることなど忘れてしまいそうだ。亜里沙は石柱を背にして海と向き合った。絵ハガキでも見ているように美しい場所だ。右手の鄙《ひな》びた別府港にはイカ釣り船が午後の温かな陽射しを浴びながら体を休め、山々は錦の紅葉に彩られている。海は深いエメラルドグリーン。白い水鳥がのんびりと波の揺れに身を任せている。その側を小型の観光船が白い尾を引いて通過しても逃げようとはしない。時間が無意味に思えた。こういう景色なら一日中眺めていても飽きないだろう。 「いいところじゃない?」  亜里沙はとなりの長山に声をかけた。 「いつでも都会に戻れるんならな」  長山はベンチに腰かけて煙草をくわえた。 「後醍醐天皇は観光客じゃねえんだぜ。景色を楽しむ気分じゃなかったろうさ。いつもこの海の向こうの都を考えていたはずだ。恐らくあの鳥たちを見ても、羨《うらや》ましさが先に立ったことだろうよ」 「そうか。それは言えるわね」  少しは長山を見直した。 「後醍醐天皇ってのは、こっちが考えてる以上に精神力の強靭《きようじん》な人間だったかも知れんな。脱出したのはどんな船か分からんが、今の快速艇よりも貧弱だったのは確かだろう。あの荒波を思えば、オレなら逃げる気にもならんよ。この穏やかな景色に負けてしまう。たとえ都に未練があったとしてもだ。なのに一年足らずで脱出に成功した。船乗りだったとか、鍛え上げた武士なら驚かんが、天皇って言うと、一般的には軟弱な印象だぜ。だいたい、配流《はいる》された天皇が脱出に成功したケースなんてのは後醍醐天皇の他にあるのかい?」 「さあ……聞いたことがないな」 「だろ。そういう点から見直すべきだよ。飛行機を使えば一時間程度でこられる島なんで、それほど遠いって実感もなかろうが……昨日の若い連中から聞いた話じゃ、後醍醐天皇は暴風に見舞われて三日も海を彷徨《さまよ》ったということじゃねえか。もちろん、そんな危険も承知の上で実行したに違いねえ。よほど度胸がなきゃできねえこった」 「本当にその通りだわ」 「強靭な精神力の持ち主だという視点で後醍醐天皇を書くのと、ただの権力志向ととらえるのじゃ、同じ事実が百八十度変わってくる。なんだか書けそうになってきたぜ」  長山は煙草を揉《も》み消すと立ち上がった。 「記念館はあとにしよう。下手すりゃ昨日の男と鉢合わせしちまう。丘の上から見張ってる方が安全だ。隠れる余裕もあるしな」 「礼子君はどうする?」 「ここで待っててもらうんだな。撮影の邪魔だとか言って……なんとかごまかせるさ」  長山たちは御所跡に通じる石段を上った。勾配《こうばい》のきつい石段だが、頂上までは僅《わず》か五十メートル前後。若い頃からスポーツで鍛えている亜里沙には苦にもならなかった。  頂上には狭い広場があった。黒木神社の境内である。と同時に見晴らし台にもなっていて、そこからは海がパノラマのように一望された。ベンチが海に向けられていくつも置かれてある。斜面に沿って這《は》い上がる爽やかな潮風が亜里沙の短い髪を下からくすぐった。 「意外に小さな神社ですね」  石川が早速写真に納めた。山頂で土地の狭いのが一番の理由だろうが、後醍醐天皇を祀る神社にしては寂し過ぎる。プレハブの物置小屋を一回り大きくした程度だった。ここに大正天皇をはじめ数多くの皇族が訪れたと案内板には書かれている。  長山は軽く拝むと、境内を歩いた。 「御所跡はこっちらしいぜ」  神社の右手に奥へ延びる道があった。丘陵に沿って歩く。三、四分で御所跡だった。 「なんだ。本当かよ」  長山は信じられないという目で眺めた。目の前には四角く囲まれた十畳ばかりの広場があって、その真ん中に御所跡を示す石柱が立てられているばかりだった。いくらなんでも狭い。御所と言うより庵《いおり》だ。人間一人がようやく住める程度のスペースである。 「しかし……確かにここじゃ立派な建物を作る土地もないな。山のてっぺんだ」  長山は囲いのまわりを巡った。斜面が直ぐ両側からはじまっている。 「この山に一年か……天皇がだぜ」  長山の溜め息が亜里沙にも伝染した。石川は長山をフィルムに納めている。  神社の境内に戻ると長山は石段を見下ろせる位置を物色した。間もなく一時半。メモの解読が正しければ、昨日の男がそろそろやってくる。亜里沙も緊張した。 「よし。ここなら相手にも気付かれんはずだ。見上げる目線が別の方にある。急な石段を上りながら脇見をするとは思えん」  位置を決めると長山はベンチに腰かけた。 「くると思う?」  亜里沙の声は震えていた。もし、脅迫が本気だったとしたら……亜里沙は長山から聞かされた髑髏《どくろ》の刺青《いれずみ》を頭に描いてゾッとした。 〈深入りすれば殺されますよ〉  もう私たちは深入りしている。自分たちにはなんのことか見当もつかないが、ここでその男と出会えば、必ずそう思われるに違いない。亜里沙は激しい後悔に襲われた。      3 「まさか、あいつらじゃねえだろうな」  木陰から石段を見下ろしていた長山が呟《つぶや》いた。亜里沙が見ると石段をゆっくりと登ってくるのは二人の若い女性だった。髑髏の刺青をした男の待ち合わせ相手としては少し健康過ぎる。ただの観光客に違いない。 「二時までにはまだ十五分ある。この神社の見物なら五分もかからんはずだ。オレたちゃ関係ないフリして海でも眺めていよう……おまえさんは女をくどくのが得意かい?」  突然長山に問われて石川は慌てた。 「あの女たちがいるときに例の男が現われたらこっちの計略も水の泡だ。もし見物に時間がかかるようだったら、なんとか上手いことを言って帰らせろ。雑誌のグラビアに使いたいから下の港で写真を、とでもくどけばたいてい話に乗ってくる。それだけ立派なカメラを持っているんだ。疑われはしねえさ」 「でも、万が一、彼女たちが待ち合わせの相手だったらどうします?」 「そのときゃ諦める他にない。二時近くになってもこの神社から離れる素振りがなかったら、オレたちが下に降りる。あんな女たちが絡んでいる程度の問題なら、どうってこともなかろう。これ以上の深入りは無用だ」  長山の判断に亜里沙も頷いた。  長山は木陰からベンチに戻ると煙草に火をつけて反対側の海を見下ろした。間もなく女たちが境内に姿を現わした。三百六十度近い大パノラマに歓声を上げる。ともに二十二、三。学生ではなさそうだ。先客の亜里沙たちにも特別な反応を見せない。二人は境内の真ん中にある案内板をチラッと読んで、神社に近付くと、派手に鈴を鳴らした。 「中になにがあるんだろ?」  一人が言うと、もう一人が階段を上がって格子の中を覗き込んだ。 「なんにも。ただの倉庫みたい」  扉に手を掛けて乱暴に開いた。滑りの悪い、きしんだ音が響き渡った。 「やっぱり関係ないようね」  長山のとなりに腰かけている亜里沙が苦笑しながら囁いた。長山は無言で首を振る。  女たちはつまらなそうに神社から離れると御所跡の表示板を見付けて奥に向かった。 「いまどきのギャルってのは……」  神社の扉を半開きにしたまま立ち去った二人を目で追いかけて長山は舌打ちした。 「あいつじゃないんですか?」  石川が小声で長山を手招いた。下の広場に大きなエンジン音を響かせてバイクが停車しようとしている。長山の頬に緊張が走る。 「間違いねえ。野郎だ」  長山は逡巡した。最初の目論見《もくろみ》では上がってくる姿を認めたら御所跡に先回りして藪の中にでも隠れるつもりだったが、そこには二人の女たちがいる。いくらなんでも二人を無視して藪に入るわけにはいかない。 「どうする。下りる道は他にないわよ」  バイクの男は石段に足を運んでいた。 「あの中だ。そこでヤツをやり過ごす」  長山は神社の扉を顎で示すと階段で靴を脱いで入り込んだ。亜里沙と石川も続いた。 「ちょっと危険じゃない? 境内ならなんとでも言い訳がつくけど、この中に隠れているのを見付けられたら……それこそ」  取り返しがつかない。亜里沙は恐れた。 「大丈夫。待ち合わせしている人間が神社に参拝するもんか。ギャルはともかく、常識ある人間なら神社の扉なんぞ開けやしねえよ」 「脅迫するような人間に常識があるなんて思えないわね」 「相手は一人だぞ。そのときゃ腹をくくってやるだけだ。なにか武器を捜しとけ」  長山は亜里沙を暗がりに押しやると、息を殺して格子の隙間《すきま》から境内を窺《うかが》った。やがて昨夜の男が長山の視界に入ってきた。通り過ぎて御所跡に向かうと思ったが、男はゆっくりと境内を見回すと時計を眺めてベンチに腰を下ろした。「黒」とあったのは黒木御所跡ではなく、黒木神社だったらしい。長山はさすがに胸の動悸《どうき》を覚えた。幸い男は神社に背を向けているが、待ち合わせの相手が遅くなれば神社に興味を持たないとも限らない。亜里沙が長山の袖を引いた。 「座ってろ」  長山は耳打ちした。立っていると震えが床に伝わる。亜里沙と石川は素直に同意した。  じりじりと刻《とき》が過ぎていく。と言っても、それは僅か三、四分のものだったろう。御所跡の方から笑い声が近付いてきた。男はギョッと後ろを振り向いた。格子の前を二人の女たちが平和そうに歩いて行く。入れ替わりに石段から二人の男がぬうっと出現した。男たちは軽く頷き合った。石段を下りて行く女たちの声が遠ざかると三人の男は神社に真向う位置で合流した。いずれも屈強な体格をしている。後からやってきた二人はレイバンのサングラスにジーンズの上下。年齢は二十五、六といったところだ。長山は一人の手の甲に昨夜の男と同様の髑髏の刺青を認めた。 〈ヤバイな〉  あの連中を相手に戦う自信はない。もしこの神社にいることが知れたら…… 「作家先生の様子はどうだった?」  レイバンの男が風呂の男に訊ねた。 「分からん。口振りじゃ、なにも知らない感じだったが……タイミングが良過ぎる。もしかすると例の殺しを嗅《か》ぎつけて」 「いくら推理小説が商売だからって吉野のことまでは繋げられんはずだ」 「死体もでてねえんだぜ」  もう一人のレイバンが笑った。 「考え過ぎだ。やっぱり偶然だろう。それよりあっちの方の情報は?」 「本物なら一千万は保証するとさ」  レイバンの男たちは口笛を吹いた。 「ってことは十枚で一億か」 「でもない。一枚だけってのが貴重らしい。数が出ると途端に値が下がる。百枚も出てくりゃ、せいぜい百万てとこらしい」 「それでも……ざっと一億にはなるな。どうする。宝物捜しは諦めて、こいつを一千万で売り渡しちまうか……それとも、ヤツの足取りを辿って億万長者の夢を追うか」 「なんであいつはたった一枚しか持ち出さなかったんだ?」  風呂の男が首を捻った。 「本物かどうか確かめてからと思ったのさ。持ち出すには重過ぎるほどあったということかも知れん。下手すりゃ百枚どころか、その百倍もあるかも知れんぜ」 「百億の財宝ってわけだ」 「しばらく様子を見るか。売るのはいつだってできる。もし、こいつの存在が世間に知れりゃ、騒ぎが大きくなる。宝捜しの競争相手を増やすだけだ」 「それで決まりだ。いったん東京に戻って人数を揃えよう。三人じゃ動きが取れん。古臭い資料を読めるヤツも集めんとな。やみくもに隠岐や吉野を歩いても仕方がねえよ」 「人なら心当たりがある」  レイバンの男は頷きながらポケットを探ってコインのようなものを取り出した。 「こんなのが一千万とはな」  ニヤッと笑うと指で弾いて宙に飛ばした。が、受け止めるのに失敗して男は慌てた。コロコロと地面を転がって行く。男は乱暴に靴で踏み付けて押さえた。 「海に落とされたんじゃ堪《たま》らねえぜ。人一人殺して手に入れた宝物なんだ」  風呂の男が安堵した顔で叫んだ。  それから五分後。三人が消え去った境内に亜里沙たちはそろそろと忍び出た。 「警察に届けるべきじゃない?」  亜里沙の顔は蒼白になっていた。 「なんて? 信用すると思うか」 「だって、あいつらは人殺しなのよ」 「死体が発見されてないって言ってただろ。それに、連中がどこのだれかも分からん。そんな話にまともに付き合ってくれるほど警察はヒマじゃねえんだよ。吉野のどこを捜せば死体が見付かるかと笑われるに決まってる」 「そんなものなんですか」  石川は信じられないという顔をした。 「まあ、そこまでは大袈裟かも分からんがな。証拠もなし、被害者の身許も、加害者の正体も不明じゃ警察だって動きが取れんだろう。その上、こいつが新聞ダネにでもなってみろ。連中は間違いなくオレたちの命を狙ってくるぜ。得することはなに一つない」  長山は亜里沙たちを無視して腰を屈《かが》めると柔らかな地面を慎重に捜した。 「こいつだ! ぼんやりとだが写ってる」  長山に言われて亜里沙たちも眺めた。地面の上には靴の跡と丸いコインの形が見られた。レイバンの男が踏み付けた場所だ。 「写真に撮影しといてくれ。この状態じゃ輪郭程度しか見えんが、大きく引き伸ばせば、どんなコインだったか分かるかも知れん」 「ホームズ顔負けですね」  石川は興奮した目でカメラを構えた。 「それにしても……一千万もの値がつくコインなんてのが実在するとは思えねえな。十両大判ってぇなら話も納得できるが。確か豊臣秀吉の拵えた天正大判は二千万くらいするはずだ。けど、そいつには稀少価値の他に金そのものの価値も含まれている」 「たった一枚しかないって言ってたわ」  亜里沙は男たちの言葉を思い出した。 「つまり、これまで未発見という意味じゃないの。それなら一千万でも」 「こいつがかい?」  長山はコインの押し型を見詰めた。真ん中に四角い穴のあいた、なんのへんてつもなさそうな銅銭に見える。 「これがオレの手元にありゃあ、苦労して三、四冊の本を書かなくてもいいわけだ」 「なに、みみっちいこと言ってるのよ」  亜里沙は噴き出した。 「殺される危険があったかも知れないってのに……呆れた」 「この件と、島の若い連中の黄金騒ぎは一緒なのかね? どうもしっくりしねえ」  長山の目は苛立《いらだ》っていた。 「おんなじ話なら、さっきの連中が警戒してもいいはずだと思うがな。と言って別々の黄金伝説が偶然重なったというのも……」 「知らないってことも考えられるわ。私たちだってあの小雑誌を見せられなければ情報が得られなかったんだもの。旅館の女将《おかみ》でさえ耳にしていなかったのよ。隠岐にきて二、三日じゃ知らないのが当たり前かも」  ここまで進展したら隠してもいられない。亜里沙は朝に宿の女将から聞かされた話を二人に伝えた。島の若い連中がだいぶ前から妙な動きをしていると聞いて長山は頷いた。 「だろ。あの黄金騒ぎはガセじゃねえと睨《にら》んでいたよ。長野や東北方面から若いヤツらが来たってのも怪しい話だ。こいつにゃまだまだ奥がありそうだぜ」  長山は苛々と髪を毟《むし》った。 「吉野なら分かるが……東北や長野ってのはなんだ? 後醍醐天皇と関係あるのか」 「最初は大川原かと思ったけど」  亜里沙の言葉に長山は唖然とした。 「長野に関しては全然」 「冗談じゃねえぞ。そいつが本当だとしたら二件の殺人が絡んでるってことに」 「だから……まさかよね。東北は広いわ」 「早急に確認する必要がありそうだ」  無意識に長山は下の広場に停車しているタクシーを眺めた。礼子の姿も見える。 「駄目よ。彼女はきっと無関係」 「だな。下手に質問すりゃ勘繰られる」  長山は別の意味で礼子を諦めた。 「お陰で筋道が見えてきた」  やがて長山が言った。 「このコインは後醍醐天皇と関わりを持ったものだ。それをだれかが発見した。恐らく島の連中はその男が隠岐にでもやってきたときに接触したんだろう。それで若者たちの独自の宝捜しがはじまった。長野や東北ってのもその男の繋がりかも知れん。男はコインを発見した後に吉野でさっきの連中に殺された。男は隠岐から戻ってきたばかりだったんで、連中はコインの発見場所を隠岐と見做《みな》し、手掛かりを求めてフェリーに乗った。ところがおなじ船にオレたちがいるのを知って慌てたってわけだ」 「そうかしら……」  亜里沙は疑いの目をした。 「途中までは納得できるけど……船で私たちを見たからと言って慌てるとは思えないわ」 「オレもそう思うがね。そうとでも考えなきゃ理屈が通らんだろうさ。風呂でヤツに威《おど》かされたときにゃ、まだ黄金伝説のことなんてこれっぱかしも聞かされていなかったんだぞ。第一、黄金伝説の話が出たのも偶然だ。オレがあの雑誌を読んで質問しない限り、島の若い連中は隠し続けたに違いない。そういう状態で威しをかけてきたとなりゃ、ヤツらがオレに怯《おび》えていたとしか解釈ができん。きっと推理小説を書いてる人間は刑事とおなじような存在だと勘違いしたんじゃねえのか」 「そんな間抜けがいるかしら」 「だったら別の解釈が聞きたいね」  長山は憮然《ぶぜん》となった。 「わざと近付いてきたってことは?」 「へっ。なんのためにだ」 「分かんないけど」  亜里沙は首を横に振った。 「どうかしてるぜ。どこの世界に人殺しをした人間が、わざわざそれを教えるような真似をするってんだ。腕っぷしはどうか分からんが、連中の頭は大したものじゃねえ。そいつは警戒もなしにこんな場所で平然と殺しの話をしただけでも分かる。ビクビクしてたからオレに神経を尖《とが》らせた。そんなところさ」  釈然とはしなかったが、亜里沙にも他の考えはない。渋々と同意しながら、 「で……どうするつもり? 警察に届けないのなら、黙って見過ごすの」 「バカ言え。こいつを見過ごすようじゃ男がすたるってもんだ。物書きには物書きなりの方法がある」 「どんな?」 「後醍醐天皇の黄金伝説を派手に書きたてるのさ。そうなりゃ宝捜しが秘密でもなくなる。もはや連中にしたって口封じの意味がなくなっちまう。迂闊《うかつ》にコインを市場にも出せやしない。そうして牽制しといて事件の裏を探る」 「書くのはいいけど、アテはあるの? 裏付けのない噂程度じゃ仕方がないわ。逆にあの連中を刺激する結果になることも……」 「現実に連中はコインを握ってるんだぞ。どこかに財宝があるのは分かってるんだ。そんじょそこらの黄金伝説とは違う。心配するなって。読んだ人間が明日にでも隠岐や吉野に行って宝捜しをしたくなるような仮説をぶち上げてやる。後醍醐天皇の資料を丁寧に読めば必ず手掛かりが得られるはずだ」 「分かった。任せる」  亜里沙は了承した。殺人にさえ触れなければ危険もなさそうに思える。 「さてと……そうと決めたらこんな場所でのんびりともしていられねえな。資料は持ってきてあるんだろ。オレは宿に戻ってそっちに取り掛かる。リサたちはそのままタクシーで観光を続けろ。適当に案内してもらえばいいさ。もう観光地はどうでも構わん」 「取り掛かるって……宝捜し?」 「無論だ。ある程度の仮説を立てておかんと島の連中に突っ込んだ質問もできんだろう。頭を下げたって口は割らん相手だ」 「なにを聞こうっての?」 「おいおい……ったく、これだから素人は厭《いや》だね。もちろん吉野で殺された人間の手掛かりに決まってるだろうが。島の連中は確実にその男と接触してるに違いない。その情報をなんとかして引き出さない限り、今後の進展なんぞは有り得んよ。上手く名前でも聞き出せれば、警察に話のしようもある」 「そんな面倒をするより、ダイレクトに殺された可能性を伝えて訊ねたら? 殺人事件となれば協力してくれると思うけど」 「盗み聞きの件がバレるぜ。島の連中は殺人と無縁だろうが……どんなことからさっきの連中の耳に入らんとも限らん。オレたちが黒木神社で立ち聞きしていたと分かれば、躊躇《ちゆうちよ》なく襲ってくる。絶対に殺人の件は伏せて吉野で殺された男の情報を得ないといかん」  亜里沙は溜め息を吐《つ》いた。むずかしい相談に思える。そもそも島の若者たちは黄金伝説のことすらひた隠しにしているのだ。ましてや、その発端となったかも知れない人間の情報など、すんなり教えてくれそうにない。 「宿帳を調べたらどうでしょうか」  石川が提案した。 「警察ならそうしますよ」 「この隠岐に何軒の宿がある? おまけにその男が隠岐にきた日付も不明だ。あるいは偽名という可能性もある。写真もなし。筆跡も分からねえ。それでどうやって突き止めるつもりだ? 第一、そんな権限がオレたちにあると思ってるのか。現実は小説や映画のように甘かぁねえよ。一年も隠岐に滞在する気持がありゃあ別だがね」  石川は苦笑して認めた。 「なんとかごまかして島の連中から聞き出す他に方法は……オレだって命は惜しい」 「………」 「彼女に言っといてくれ」  長山は広場のタクシーを見下ろしながら亜里沙に言った。 「今夜も昨日のスナックに遊びに行くってな。それまでにはなんとか黄金伝説を組み立てておこう。それと……」  長山は石川と向き合った。 「今の写真は直ぐに現像してくれ。確か港の周辺で五十分プリントって看板を見かけた」 「この島でですか!」  石川は困った顔をした。 「自分できちんと現像したいんですが」 「焼き付けはいらねえ。ネガだけでいい。こうなりゃ仕事どころじゃねえぞ」 「だったら、違うフィルムでもう一度コインだけを撮ります。こっちには先生が写っている。島のカメラ屋に任せるわけには」  石川は新しいフィルムを装填すると露出を変えて何枚も撮影した。      4  六時前に亜里沙と石川は宿に戻った。外はすっかり暗くなっている。真っ直ぐ長山の部屋を訪ねると、長山は珍しく机に資料を広げて真剣に取り組んでいた。 「スナックの件は大丈夫よ。彼らも、私たちがヒマなら誘おうと考えていたんですって。人数は少ないらしいけど。ちょうど良かったみたい」  亜里沙は入るなり言った。 「こんな暗闇で、見るとこがあったのか?」  長山はメモを取る手を休めた。 「観光船に乗って島を一周してきたわ。波が荒れてて沈没するんじゃないかと思った」 「ホントに。覚悟を決めましたもんね」  石川は笑いながら袋を長山に渡した。現像されたばかりのネガが入っている。 「お、どれどれ」  袋から取り出して明りに透かす。 「思った通りだ。ネガを反対から見ると文字がちゃんと読める。反転した押し型じゃどうにも解読ができなかったんだ」 「なるほど、それでネガか」  亜里沙もネガをホルダーから抜いた。 「でも、これじゃ無理だわ。あんまり小さ過ぎて判読は不可能よ」 「プロならルーペを持ってるな?」  長山は石川に質した。部屋のバッグの中にあると頷いた石川に、 「返事はいいから持ってこい」  急《せ》いた口調で命じた。 「なに焦ってんの」  亜里沙は資料に目を落とした。 「見当でもついたっての?」 「コインに関してはな」  長山は小刻みに首を振った。 「しかし……それがなんで隠岐と関係あるかは、まったく見当がつかねえ。別の銅銭を後醍醐天皇が隠し持って隠岐にきたというなら話も分かるが……もし、あのコインなら百パーセント有り得ねえことなんだよ」  そこに石川がルーペを片手に戻った。  長山は受け取ると丹念に見詰めた。  想像通りらしかった。  それでも長山のネガを持つ指は小さく震えていた。息も多少荒くなっている。 「どうなの! 私にも見せて」  亜里沙はネガとルーペを手にした。  蛍光灯の光の中にはっきりと文字が浮かび上がった。四つの文字が四角い穴を囲むように配置されている。だがまだ細かくて読み取れない。下と左側の通宝という二文字だけは分かる。細かいという理由よりも、漢字の見当がつかないだけだ。長山はあらかじめ文字を予測していたので簡単に解読ができたのに相違ない。 「乾坤《けんこん》通宝……一番真上の文字は乾燥の乾だ。確かにそう読めるだろ」  長山に言われて見ると、それは間違いなく乾の字だった。 「乾坤通宝って……聞き覚えがあるわ」 「当たり前だ。建武中興の後に後醍醐天皇が作らせた銅銭じゃねえか。御所問題だとか、どうでもいい目先の謎にだけとらわれて肝腎のことを見落としてやがる」  長山は鼻で笑った。まったく図々しい。昨夜までは、その御所問題さえ知らなかった人間なのに。亜里沙は苦笑した。 「あの……乾坤通宝って、そんなに珍しいものなんですか?」  石川がのんびりとした声で訊ねた。 「珍しいもなにも、鋳造されたという記録が残されているだけで、これまでに一枚も発見されてねえんだよ。研究者たちは鋳造すら疑問視している。もし一枚でも見付かりゃあ、歴史の教科書がひっくり返るぐらいの大騒ぎになるってしろものだ。こいつなら一千万でも買うヤツがいるだろうさ。昼の連中の言葉は決して大袈裟じゃねえ。ひょっとすれば一億でも売れる可能性だって……」 「一億! こんなものが」  石川はネガをしげしげと眺めた。 「もっとも……たった一枚ならばな。千枚も出てくりゃ確かに連中の言う通りガクッと値が下がる。もしオレが発見者なら小出しにして効率良く売るがね。連中にゃその知恵がなかろう。見付けたらドッと市場に流すつもりみたいだったな。阿呆の典型さ。苦労して残りを発見するより、あの一枚をどうやったら高く売れるかを考えた方が遥かに簡単で得になる。恐らく千枚も出れば一枚の単価は三、四十万にもならんぜ。その上、大量に売り捌《さば》くにはコイン業者の手を借りなきゃいかん。相当のマージンを取られる。おまけに発見場所が他人名義の土地ってなると……結局、一億ぐらいにしかならんのじゃねえのかね」 「一万枚ならどうです?」 「まあ……そうなりゃ五億程度は手にすることができるかも知れんが」 「後醍醐天皇が隠したものなら、最低でもそのくらいはあるでしょう」 「十万枚はあるかもよ」  亜里沙の目が光った。 「五十億の可能性があれば、一枚を売るよりも、そっちを狙って当然だわ。一枚でも世間に知れれば皆が宝捜しに加わってくる」 「なんでそう欲が深いんだ? 一枚で一億になるなら、それで充分だと思うがな。貧乏人はこれだから始末が悪い」 「一枚あれば本を何冊か書かずに済むって言ったのはどこの人?」 「冗談はともかく……だ」  長山は取り合わずに言った。 「オレの調べた限りじゃ、乾坤通宝がこの隠岐で発見される確率はゼロに等しい。こいつが鋳造されたのは建武元年以降だ。後醍醐天皇が隠岐から脱出して京都に新政権を樹立してからの話だぜ。その後に一度も隠岐にはきていねえんだから、もし本当に隠岐で見付かったとしたら後醍醐天皇以外の人間が持ち込んだという結論になる」 「恩賞という可能性はどうなの?」 「恩賞?」 「だって……隠岐を脱出する際に、見張り役のなんとかって役人が協力したはずだわ」  後醍醐天皇を中心に据えた軍記『太平記』によると隠岐での見張りを命じられていた佐々木義綱が北条方を裏切って後醍醐方につき、出雲や近隣の武士たちとの間を取り持ったと書かれてある。その働きで無事に脱出に成功したのだ。もしこの人物がいなければ、後醍醐天皇とて簡単に島からは出られなかっただろう。しかし、佐々木義綱の役目はそこまでで、その後はほとんど歴史に登場しなくなる。創作された人物でないとしたら、後醍醐天皇を脱出させた後はふたたび隠岐に戻ったとしか思えない。当時の隠岐判官は佐々木氏なので、その一族だったと推測される。建武中興の陰の立て役者として恩賞に与《あずか》っても不思議ではない人物だ。 「彼が恩賞に乾坤通宝を貰っていたら、この隠岐で発見されてもおかしくないわよ」 「残念ながらハズレだな」  長山は一笑にふした。 「後醍醐天皇が恩賞に乾坤通宝を与えたとしたら、これまでに一枚も発見されていないってこたぁ絶対にねえよ。貨幣として流通しなかったから埋もれてしまったんだ。それだけは断言できる。だからこそ研究者たちは鋳造に疑問を抱いているんだぜ。せっかく作りながら流通しないなんてのは有り得ない。子供の銀行ごっこじゃねえんだ。まさか百枚しか作らなかったなんてのも考えられんし」 「流通しなかったコイン……ですか」  石川は唸った。 「まさに幻のコインってわけだ」 「作っておきながら使われなかった、という謎に答えを出すよりゃ、最初から作られなかったと考えた方がすっきりする。それだけ常識外れのコインてことさ。たった一枚でも発見されれば歴史がひっくり返ると言ったのはそういう理由だ」  長山はもう一度ネガを明りにかざすと煙草の煙をゆっくりと吐き出した。 「隠岐じゃないとしたら、どこかしら」 「知るか。必死で資料を読んだが……乾坤通宝となると仮説の立てようがねえ。どこかに隠されたとなりゃ、後醍醐天皇の時代じゃねえかも知れねえぞ。後醍醐天皇は吉野で病没している。金を隠す必要なんかはどこにもなさそうに思えるな。これが逃亡の途中で亡くなったというなら分かるがね」 「………」 「伝説もなに一つ残ってない。そういう情況でどうして発見できたのか……そっちの方がオレには謎だ。後醍醐天皇に仕えていた人間辺りが古文書でも書き残していたってことだろうな。発見者はその子孫てとこか」 「残念だわ」  亜里沙は深い息を吐いた。 「殺人さえ絡んでいなきゃ、このコインの写真を雑誌に発表できるのに……どうしたって無理よね」 「当たり前だ。こんなのを掲載したら直ぐに連中がオレたちを殺しにくる。こいつが存在するってことは当分は秘密だぜ」  長山は二人にきつく念を押した。      5  ここで簡単に後醍醐天皇に触れておく。と言っても南北朝の攻防は複雑で、短い枚数ではとても説明しきれない。事件に関係ある部分はその都度加えることにして、とりあえずは簡潔な『日本歴史大辞典』(河出書房新社刊)からの転載で済ませておきたい。  ごだいごてんのう   後醍醐天皇 ごだいごてんわう   一二八八─一三三九 九六代の天皇。名は尊治。後宇多天皇の第二皇子。母は談天門院忠子(参議藤原忠継の女)。一三〇二(乾元元)年親王宣下、〇三(嘉元元)年元服、〇四年大宰帥、〇七(徳治二)年中務卿を兼ね、翌〇八(延慶元)年立太子、一八(文保二)年花園天皇の譲を受けて即位。在位二一年に及ぶ。大覚寺統から出て、激しい持明院統との抗争のうちに育った。はじめ後宇多上皇は後二条天皇の皇子邦良親王を花園天皇の皇太子にと考えたが幼弱なため尊治親王をまず立太子した。一八年上皇は遁世に際し、所領文書を尊治に譲り、その一期ののちは邦良に譲与するよう置文している。だから、後醍醐天皇は邦良を皇太子とし、後宇多法皇の院政のもとに即位したのである。しかし法皇は院政が成年の天皇にふさわしくないと考え、一三二一(元亨元)年吉田定房を幕府に派して、政務はことごとく天皇の親政とすることに成功した。天皇はまず吉田定房・北畠親房・日野資朝・同俊基らの人材を集め、学問武芸に励み、記録所を再興して訴訟をきくなど、政治の改革に努めている。と同時に、荘園農村の状態の変化と幕府が人民や武家の信望を失う機会に、権力の王朝統一をゆめみて討幕の計画を練った。一三二四(正中元)年に起った正中の変はその第一次のものであったが無惨に失敗した。すると持明院統の後伏見上皇は皇子量仁親王の立太子を、邦良親王はみずからの即位を期待して幕府に運動するという事態になった。しかし、二六(嘉暦元)年にわかに皇太子邦良がなくなったので天皇はその皇子の立太子を望んだところ、幕府はおして量仁親王を皇太子とした。これに憤激した天皇は天皇陰謀の噂の渦中にあって、南都北嶺の僧徒や在地の豪族に訴えて討幕の計画をすすめた。三一(元弘元)年の元弘の変は、吉田定房が幕府に密告し、幕府また俊基・文観らを捕え、ついで天皇に及ぼうとしたことから起った。天皇は八月東大寺に走りついで笠置にたてこもったがこの笠置も九月六波羅勢に落された。天皇は有王山で捕虜となり一三三二(元弘二)年三月隠岐に配流された。この元弘の変は畿内の内乱に火をつけ、翌三三年には四国・九州に波及し全国的な大内乱となった。天皇は閏二月隠岐を脱出して伯耆の名和長年にたより、五月赤松・千種らの反乱軍が六波羅を陥れると、迎えられて新政府の元首となった。こうして建武中興が開始されるのであるが、政府機関は公家勢力と武家勢力の雑居したもので、ことに荘園公領の再分配を要求する武家の満足をかうことができなかった。一三三五(建武二)年、足利尊氏は北条時行の反乱を鎮圧し、関東で反旗を翻した。翌年正月西上した尊氏の大軍に抗することができず、天皇は京都をすてて東坂本に逃げ、また西国に下った尊氏が五月大挙東上したときは、楠木正成らを討たれて、ふたたび東坂本に逃げた。こうして尊氏が幕府を開いて、天皇と和睦し、事実上これを花山院に幽閉したとき、わずか二年余で中興政府は倒れ、全国的な支配圏をもった古代王朝は歴史のうえから姿を消した。天皇はその年の一二月吉野に逃れ、ねばりづよく王朝の再建を図ったが無駄であった。三七(延元二)年、北畠顕家は摂津阿倍野に、新田義貞また越前藤島に死んで、みるまに力を失った。それで義良・宗良両親王を北畠親房につけて関東に、懐良親王を征西大将軍として九州に送り、地方の経営に当らせたが、いずれも成果が得られなかった。落魄して病にかかり、三九(延元四)年皇太子義良に譲位の翌日、吉野に崩じた。遺詔で後醍醐天皇と諡し、吉野山如意輪寺の後山に葬り、塔尾陵とよぶ。      6  夕食を慌ただしく終えると長山たちは昨夜のスナックに足を運んだ。 「いらっしゃい」  マスターは長山を笑顔で迎えた。店の中には堀川礼子の顔もあった。その他に二、三人。 「昨日の今日なんで、これくらいしか」 「いいよ。別に講演会をするつもりはねえから」  長山がボックスに陣取るとマスターは仕事を若い女の子に任せて、自分も席に腰かけた。 「礼子から聞きました。先生、途中で気分が悪くなられたとか」  そういう理由をつけて宿に戻った。長山は頷きながらグラスを手にした。 「風邪気味でね。ゆうべ黄金伝説を耳にして以来、妙な咳《せき》に悩まされてるんだ」 「妙な咳って?」  亜里沙まで不審な顔をした。 「ケンとかコンってな」 「………」  マスターの顔が強張《こわば》った。 「どういうこったろう。お宅たちにゃ心当たりがないかい。隠岐でケンコン風邪が流行してるとか」  亜里沙はハラハラした。なにがそれとなく聞き出すだ。 「どこでそのことを?」  マスターの顔には諦めが浮かんだ。 「後醍醐天皇絡みの黄金となりゃ、それしかなかろうさ。ちょいとカマをかけてみただけだ。こっちも後醍醐には詳しいんでね。ってえと見事に的中したわけだな。どうだ、オレの言った通りだったろう」  長山は亜里沙と石川に笑った。 「明日の飲み代を賭けてきたんだぜ。二人は黄金伝説なんて信じていなかったが」 「乾坤通宝に関しては認めますけど……本当に根拠なんてないんですよ。はじめは熱中しましたが、今じゃ皆も諦めて」 「でもなかろう。それならあんなに隠す必要がねえ。結構本気と睨んでるがね」 「参ったな。先生は騙せそうにない」  マスターは礼子と笑い合った。 「先生が妙に興味を抱いたようなんで、雑誌に書かれちゃまずいと……アテはないんですが、もう少し捜してみようと言い合っていたばかりだったので。申し訳ありません」 「謝るこたぁないさ。宝捜しに全国から人が押し寄せたんじゃたまらねえ」  長山は笑顔で頷いた。亜里沙はホッとした。どうやら礼子たちは長山の言葉に少しも疑いを感じていないらしい。 「しかし……隠岐にそんな伝説があるのかい。乾坤通宝って言やぁ幻のコインだぜ。大判小判よりも遥かに面倒な捜し物だ」 「伝説なんてありません」 「だったら、なんで捜すつもりに?」  長山の質問にマスターは逡巡した。 「まさか、裏の畑でポチがないたってわけじゃねえんだろ」  長山の冗談に礼子が噴き出した。 「滅多《めつた》なことじゃ宝捜しなんてのに取り組もうとは思わんぜ。十中八九はガセネタだ。幻の乾坤通宝なんかよりもオレにゃそっちの方に興味がある。いい若いもんが、なんでそんなヨタ話を信用したもんかとね」 「ヨタ話じゃありません」  長山の誘いにマスターは乗った。 「先生は、後醍醐天皇の皇子で瀬戸内から九州に在住する武士たちの取り纏《まと》めをしていた懐良《かねよし》親王のことをご存知ですか」 「大宰府を鎮圧して九州全体に睨みを利かせていた親王だったな。後醍醐天皇が亡くなると間もなく九州に出向いて、その後四十年以上もの長期間にわたって勢力を誇っていた人物だ。南朝の支えとも言われた」  へえ、と亜里沙は感心した。僅か数時間で思いのほか知識を詰め込んでいる。これが昨日だったら、だれのことだと問い返していたに違いない。 「でしたら、懐良親王が日本の国主として中国と交流を計っていたことは?」 「ふうん。そいつは初耳だ」 「当時は明《ミン》が建国されたばかりで、明は盛んに日本に使節を送り込んできたらしいんですね。明は東シナ海での倭寇《わこう》の出没に頭を悩ませて、日本に討伐を頼みたいというのが本音だったようです。ところが肝腎の日本は南朝と足利の息のかかった北朝に分裂していた。使節は九州に辿り着いて、大宰府にいた懐良親王と会う他になかった。懐良親王にしてもその情況では倭寇対策などおぼつかない。それでも明と繋がりを持っていれば、いつかは役に立つと考えたんでしょう。国主の立場で五度ばかり使節を送っているんです」 「それが?」  どうしたという顔で長山は訊ねた。 「と同時に親王は瀬戸内を中心とした海賊勢力をも傘下に抑えていました。それが足利勢力と対抗し得た最大の理由なんです」 「………」 「しかし、結局は敗退した。四十年以上も支えたんですから立派だとも言えますが……親王が没すると九州にいた南朝の残党たちは海賊の船を利用して朝鮮を目指したと伝えられています。背後にある明の支援を期待したとも思えます。決して荒唐無稽な話ではありませんよ」 「そいつは分かるが……」  長山は苛立った。 「博多一帯を幕府側に制圧されては、壱岐や対馬に寄港できない。残党たちはこの隠岐をいったん目指しました」 「なるほど、話が繋がってきたな」 「乾坤通宝は懐良親王が九州に運んできていたんです。後醍醐天皇はもちろん正式な通貨として作らせたんでしょうが、ようやく鋳造されたときにはすでに南北に分裂していた。経済の中心である京都を手中にしていたのは北朝だったので、乾坤通宝なんかが世間に通用するわけはありません。けれど、いずれ南朝が実権を握れば貨幣として価値を持つ。親王はその幻とも言える恩賞を餌《えさ》にするつもりで九州に持ち込んだ。だが、幸いにと言うか、九州自体に複雑な権力争いが存在していたので親王は乾坤通宝を利用するまでもなく取り纏めに成功したんです」 「まるで見てきたような話だ」  長山の言葉に亜里沙も頷いた。 「残党たちは……」  マスターは気にせず続けた。 「国賀海岸に密かに上陸し、風の様子を見ながら出港の機会を窺っていました。ところが隠岐の役人に発見され包囲された。彼らは乾坤通宝を洞穴に隠すと、軽くなった船で逃亡した。後で取り戻す気持だったのでしょうが、やがて南朝は完全に敗北してしまった。もう乾坤通宝の価値はゼロに等しくなってしまったんです。危険を冒してまで取り戻すほどのものじゃなくなっていた」 「ふうむ。一応は筋が通ってる」  長山は何度も首を振った。当時では無価値の財宝だったから黄金伝説にもなり得ない。隠岐の役人にしても、海賊を追い払った程度の認識でしかなかったかも知れないのだ。 「どこから仕入れた情報だい?」 「懐良親王の側近だった中原資世という人がいまして……南朝の大蔵卿を務めていた人物です。この人の子孫が島を訪れて我々に教えてくれました。古文書が残されているということでしたよ。乾坤通宝は九州ばかりか、他の皇子にも与えられて長野や東北にも隠されている可能性が強いと」 「長野や東北……」  長山の目が光った。 「宗良《むねなが》親王が長野や東北に足取りを残しているんです」  長山と亜里沙は互いに頷き合った。それで島の若い連中は南朝の皇子たちの伝説の残る地方の若者と交流を持ったに違いない。 「それにしても……その子孫て人物は、なんでそんな重大な秘密を皆に洩らしたんだ。黙って一人で捜せばよさそうなもんだ」 「国賀海岸をご覧になったでしょう。ほとんど断崖絶壁で海からじゃないと近寄れない場所ですよ。だれかの手を借りない限り洞穴一つ近付けやしません。その船の運転を頼まれたのが我々の仲間の一人で……」 「それとなく聞き出したというわけだ」 「ええ。もっとも三、四日で宝捜しは諦めたようでしたが……だから、あっさりと」 「長野や東北の方が捜しやすいってことかね」 「そうかも知れません。陸と海に面した断崖じゃ、そう思うのも当然です」 「信用できそうな人間だったか?」 「さあ……そう言われるとなんとも。でもオレたちを騙したってなんの得にもならないんじゃありませんか? 別に宝の隠されている地図を売ろうとしたわけでもないし。保険の勧誘や結婚詐欺でもなさそうだった」 「そいつぁ確かだな」  長山は爆笑した。その笑いは全員に伝わった。さきほどまでの緊張が緩んだ。 「皆に教えたんなら……オレにも詳しいことを話してくれるかも知れん」 「………」 「どこの、なんていう人間だ?」 「名前は大原とか言ってましたが……東京からきたと言うだけで」 「大原? 中原じゃなく」  亜里沙が確認した。 「そうです。直系じゃないらしかった」 「東京の大原だけじゃむずかしいな」 「何歳ぐらいの人なの」  亜里沙が重ねた。 「三十前後かな。テントもかなり古そうだったんで、山の経験もありそうでしたね」 「もう少し具体的な手掛かりはねえのかい。ってことは宿にも泊まってなかったんだろ」  長山は思わず溜め息を吐《つ》いた。 「その程度のことで宝捜しをはじめたとは、呆れ返った話じゃねえか」 「ヒマだったんです。島には楽しみが少ないんで。ついでに洞穴の地図も作ろうなんて皆が盛り上がっちゃいまして」  マスターはしきりに頭を掻いた。 「写真なんてのもなさそうだな」 「でも、吉野に行ったら……なにか」  マスターのとなりにいる男が言った。 「吉野? どういうことだ」 「島からそっちにまわるって……あそこには後醍醐天皇の資料を展示しているとこがあるそうですね。一応は古文書を見てもらうつもりだと話してました」      7 「明日の船は何時だっけ」  宿に戻るなり長山は亜里沙に訊ねた。 「十二時三十五分。なぜ?」 「もっと早い船はないのか」 「なかったはずだわ。土・日だったら朝早くのマリンスターに乗れるけど」 「島後《どうご》じゃなくて境港《さかいみなと》に行くヤツは?」 「ちょっと待ってね。調べてみる」  亜里沙は自分の部屋に戻って時刻表を持ち帰った。時刻は直ぐに分かった。 「黒木神社の側にあった別府から十時近くの境港行きがあるわ」 「それだと吉野には何時頃に着く?」 「吉野? 島後の取材はどうするの」 「いいから、続けてくれ」  亜里沙は頁を捲《めく》って時間を見た。境港には一時半頃に着く。そこから米子に一時間。二時三十一分の『やくも12号』に上手く乗れれば岡山に五時近く。新幹線で大阪に向かい、今度は近鉄特急で吉野。それぞれが一時間程度だから、乗り換えを含めても八時前後にはなんとか吉野に行ける。 「ざっと十時間てとこか。やっぱり遠いもんだな。厭になっちまうぜ」  長山もさすがに呆れた顔をした。 「島後で飛行機に乗れば簡単よ。十二時の船で出発しても夕方には大阪に着く」 「ホントかね」  亜里沙は頷いて時刻表を突き出した。島後の西郷港には二時半に到着する。そこから四時過ぎに大阪行きの便があるのだ。これだと乗り物に要する時間はたった四時間。 「覚悟を決める他にねえか」  飛行機嫌いの長山も諦めた。 「そいつにしよう。殺される危険があるってのに、飛行機を心配しても仕方がねえさ」 「そんなに急ぐ必要があるの?」  亜里沙は首を傾《かし》げた。 「だいたいは上手くごまかせたと思うんだが……今夜の話が昼の連中に伝わらないとも限らねえ。頭のいい連中なら心配もねえんだが、誤解されて襲われちゃたまらんぜ。逃げ場のない島にいるよりゃ本土の方が安心だ。それに、宝捜しをテーマにすると決めたら無関係な島後を見ても意味がなかろう。さっさと島を離れて、殺された男の手掛かりを追いかけるのが筋道ってもんだ」 「ぼくもそう思います」  石川が同意した。 「連中は東京に戻ると言っていましたが、今夜だって島にいないとは保証できません」 「あんがい弱虫じゃない、二人とも」  亜里沙は失笑した。 「そういうのを蛮勇ってんだ。人殺しにゃ歯止めがねえぜ。ましてや何十億のためならな。平気でオレたちを殺しにかかる」  亜里沙は押し黙った。 「それにしても……殺された男はどこで乾坤通宝を発見しやがったんだろう。今の話じゃ、やっぱり隠岐とは違う場所のようだ」 「吉野じゃないかしら」 「かもな。長野とか別のところで発見したんなら、わざわざ隠岐にくる必要はねえ。理屈で言うと、隠岐の次に向かった吉野が一番可能性が高い。すると……見付けた直後に殺されたってわけだ。男の足取りを辿れば乾坤通宝にぶつかるかも知れん」 「それと……死体にもね」  亜里沙が言うと同時に電話が鳴り響いた。全員がビクンとなって受話器を見詰めた。もう十二時近い。 「もしもし……」  警戒しながら亜里沙は電話に出た。  が、相手はなにも言わなかった。荒い息遣いだけが受話器の底から聞こえる。真っ青になった亜里沙と長山が代わった。 「……先生ですか……」  風呂で会った男の声のようだった。 「約束は守ってくださいよ。でないと……」  それだけ言って電話を切った。 「おい、待て!」  長山は叫んだ。体がゾクッとした。 「あいつはまだ島にいたの?」 「分からん。ただの威《おど》かしかも知れんが……時代錯誤な真似しやがる。ふざけやがって」  それでも長山の額には一瞬の間に冷や汗が滴っていた。 [#改ページ]  三 幕 吉野にて後醍醐天皇の残照に出逢うこと      1 「予定を変更したってのに……よくこんな立派な宿がとれたもんだな」  吉野を代表する宿坊、竹林院群芳園の大きな山門を仰ぎ見て長山は喜んだ。 「観光シーズンじゃないからよ。桜の季節なんて半年前から予約しないと無理みたい」 「だろうな。あまりにも有名な宿だ」  門を潜《くぐ》ると目の前に竹林院の小さな本堂がある。宿はあくまでも院を訪ねた客を泊めるためのものだったのだが、今では宿の方が名高くなって、肝腎の寺は見捨てられている印象を覚えた。暗くてなにも見えないが本堂の背後には群芳園と呼ばれる庭園が広がっているはずだ。千利休が設計した庭で、細川幽斎が改修したという、絢爛豪華な歴史を背負った庭だ。本堂の右手に落ち着いた宿の玄関がある。格式の高そうな雰囲気だ。  ガラス戸を開けると女将《おかみ》が笑顔で迎えた。 「朝に予約を入れた名掛《なかけ》です」 「ああ、東京の雑誌社さんですね」  女将は亜里沙に続く長山に視線を移して、丁寧に挨拶をした。 「この時期の吉野ははじめてですか?」 「この時期もなにも……吉野にきたのはこれが生まれて最初ですよ」 「まあ、それじゃ勿体《もつたい》ないですね。桜がないと吉野は良さが半分も割り引かれて」  女将は長山の荷物に手を伸ばした。 「軽いから、彼女の方を」  長山は首を振って断わった。重厚で広いロビーだ。客の少ないせいか静か過ぎて寂しい気さえする。宿坊と聞かされて、古い建物を連想していたが、近年に改装したのか、豪華なホテルという感じだ。 「ここは高ぇんだろうな」  従業員に先導されて廊下を歩きながら長山は亜里沙に囁《ささや》いた。石川も頷《うなず》く。明け放たれた広間を何気なく覗き込むと、歴史を感じさせる襖絵《ふすまえ》が威圧するような筆致で迫ってきた。 「任せなさい。隠岐が安かったから、今夜は豪華版よ。最高級の部屋を頼んだ」 「ホントかよ。そいつぁ楽しみだ」 「下品な態度は慎んでね。東京の有名な作家というフレコミで無理を聞いてもらったの」 「どうりで。女将の態度が丁寧過ぎると思った。大作家と勘違いしてるわけだな」 「いいじゃない。別に無銭飲食をしようとしてるわけじゃないんだもの。作家には違いないでしょ。卑下しなくたって」 「そこまでは思ってねえ。リサにそう言われたら、なんだか急に情け無くなっちまった。万が一、色紙でも頼まれたら松本清張とでも書いておくか。その脇に小さく、の同業者と書きゃあ、詐欺にはならんぜ」  後ろにいる石川が笑いをこらえた。  案内された部屋はまさに特別室だった。十六畳の中央に厚さ三センチはありそうなペルシャ絨毯《じゆうたん》がでんと敷かれてある。テレビも木調の二十九インチ。テーブルは黒檀《こくたん》。床の間の絵や置物まで吟味されている。おまけに次の間も十二畳。天皇陛下や皇族が吉野を訪れた際に利用された部屋らしい。 「凄《すご》いや。このトイレ見てください」  従業員が座を外すと直《す》ぐにトイレや風呂の点検をはじめた石川が溜め息を吐《つ》いた。三畳ほどの板の間の真ん中に白い洋式便器が鎮座ましましている。 「便器の両脇に二人ぐらい寝れそうだ」  覗いた長山も唸《うな》った。  となりにある風呂にはもっと驚いた。  総|槇《まき》造りはさほど珍しくもないが、なにしろ大きい。小さな温泉浴場という規模だ。風呂場の中で三人がわいわい騒いでいると、茶菓子とポットを手にした仲居がひょいと顔を見せた。クスクス笑っている。特に長山が湯の張られていない風呂桶に体を沈めているのには意表をつかれたようだ。 「大浴場に行くのは勿体ない気がするな」  長山は軽い咳《せき》払いをして風呂からでた。 「皆さま、そうおっしゃいます」  仲居は軽く頷いて先に立った。 「お食事は新館の方の部屋にご用意をしてございます。それと、新館にはお二人のお部屋も別々に」 「二人の部屋っていうと?」  茶碗に茶を注ぐ仲居に長山は訊《たず》ねた。 「ここはチョーサクの部屋よ。私と石川君は新館のシングルを頼んであるの」  代わりに亜里沙が答えた。 「ここで構わんだろ。こうして広い部屋が二つもあるんだし。オレと彼氏がこっちに寝る。リサはとなりに寝りゃいい」 「いいわよ。遠慮しないで。こういう部屋に泊まるなんて一生に何度もないんだから」 「怖いんだ」 「怖いって……なにが?」 「幽霊さ」  皆が爆笑した。 「いや、マジに怖い。ホテルのシングルなら平気だが、由緒ありそうな宿の、だだっ広い部屋に一人はごめんだ。おまけにここは吉野の山ん中だぞ。どれだけ人が死んでるか。首を賭けてもいい。夜中になりゃあ、絶対怪しげなヤツが障子の裏側とか、次の間に出没する。もし三人一緒が厭《いや》ならリサの部屋の方にオレが移る。リサはこっちに寝ろ」 「私がこの部屋に移れば編集長に叱られるわ。幽霊なんて子供みたいなこと言わないで」 「好意はありがたいがね、眠れねえんだ。前に東北の旅館に取材で行ったことがあるけど、サービスのつもりか、そこの主人が百二十畳の大広間の真ん中にオレの布団を敷いてくれてな……怖くて怖くて夜が明けるまで一睡もできなかった。顔をどっちに向けても海のように畳が広がってるんだぜ。結局、自分で広間の隅っこに布団を動かした。あんな不安な思いに襲われたのは滅多《めつた》にねえ」  リサは困った顔をした。 「宿にも失礼よ。幽霊が怖いなんて」 「せっかくですからお二人さまがこちらに移られたらいかがですか。私どもの方は別に」  仲居は笑顔で亜里沙に勧めた。 「石川君はどう?」 「そりゃあ……もちろん」  それで話が決まった。長山はホッとした顔で頷いた。      2  宿に到着したのが遅かったので、食事を終えて三人が部屋に戻ったのは十時近かった。 「やっぱり大したもんだったな。隠岐の料理も旨かったが、こっちのには文化が感じられたよ。舌よりも目が嬉しがってる」  珍しく長山が料理を誉《ほ》めた。手の込んだ懐石料理よりも丼物の方が旨いと、絶えず力説する人間がである。 「二人ともお風呂にでも行ってきたら? ここは温泉じゃないから十一時頃までよ」 「そうだな。とりあえずは大浴場で軽く疲れをとって、部屋の風呂は夜中の楽しみにしよう。こっちは何時でも大丈夫だろ」 「でしょうね。ホテル形式の宿だから」  本当に風呂の好きな男だ。 「その前に電話をしとこう」  長山は思いついてバッグから手帳を取り出してきた。 「だれ? 担当の編集者の人」 「タコだよ。今なら自宅の方かね」 「タコって、山影さん?」  久し振りに名前を聞いて亜里沙は大きく頷いた。山影哲夫は前に自分たちの仲間うちに起きた事件を担当した刑事である。巨漢の坊主頭で大酒飲み。そのヌーボーとした風貌から長山がタコと仇名《あだな》をつけた。山形県の尾花沢署に勤務している。本来なら事件が解決すれば無関係になるはずなのに、長山は職業的興味からか、その後も電話などで付き合いを保っていた。亜里沙もつい半年ほど前に長山の出版記念パーティで顔を合わせている。 「電話してどうするの?」 「あいつなら死体なき殺人だって信用してくれるかも知れん。奈良県警に捜査を示唆するまでは無理だろうが、面倒が起きた場合、前もって話してあるのと、ないとじゃ、相当に違う。上手くすりゃ知り合いだっているかも」  長山はダイアルをまわした。  自宅にはいなかった。まだ署にいるらしい。何度も自宅には電話をしているようで、長山は親しそうな口調で電話を切った。 「奥さん?」 「ああ。会ったこたぁねえが、十歳も若いと聞いてるぜ。タコも意外にモテるんだ。あの顔でどうやってくどいたもんかね」  ふたたびダイアルをまわす。  やがて山影が電話にでた。 「ちょいと面倒に巻き込まれたようでね」  長山は簡単に説明すると亜里沙を手招いた。発端から詳しく説明しろと言って、乱暴に電話を亜里沙に押し付けた。 「お久し振りです」  温かな山影の声が耳に響いた。 「奈良の吉野にいらっしゃるとか」 「ええ。まだ着いたばかりで……山影さんはお変わりがないみたいですね」 「暇な署ですから。あの事件が懐かしい。あれからウチの管内では死亡事故一つ起きておらんです。まあ、それに越したことはないんですがね。月給泥棒の気分ですな」 「なにから説明すればいいんでしょうか」  それでも亜里沙は思い出すままにこれまでの経緯を伝えた。山影はときどき質問を挟みながらも熱心に耳を傾けた。が、 「結論から申し上げますと、死体もない、被害者の身許も分からないでは、どこの署にしても動きようがありません。もちろん、お二人の証言を無視するわけではないんですが」  話を聞き終えると直ぐに言った。 「やっぱりそうなんでしょうね」 「何度か脅迫されたのは事実ですね」 「はい。髑髏《どくろ》の刺青《いれずみ》をした若者たちです」 「しかし、その連中の身許も分からないってことでしょう? せめてそれだけでもはっきりしていれば恐喝罪でオトすこともできる」 「でも……お金を要求されたわけでは」 「いや、お二人が精神的に被害を受けたと主張なされば、警察も一応は事情聴取ができます。犯罪と断定されるかどうかは保証できませんが、少なくとも危険は減少するものと」 「その上で殺人事件の調査を?」 「怪しい態度があれば、ですよ。別件でもあればともかく、その程度では説諭で帰す他にないでしょう。あくまでも牽制です」 「それなら、逆効果だわ。私たちが連中の殺人を知っていると伝わればどうなるか……」 「死体の発見は無理ですか?」 「と思います。殺されたと想像される大原という人物の顔さえ知りません」 「となると……吉野から引き揚げてくれとしか言い様がありませんな。相手の正体も掴《つか》めない情況で深入りするのは……奈良には友人もおるんですが、ガードを頼んでも果たして動いてくれるかどうか」  そうだろうと亜里沙も思った。 「大川原のことを話してみろ」  長山が亜里沙の脇腹をつついた。 「だって……なんの根拠もないわ」 「いいじゃねえか。あっちはれっきとした殺人なんだし、そいつと絡ませて話せば、あるいはタコだって」  耳元で囁く。 「どうかしましたか?」  もしもしと山影が言った。 「青森県の黒石市で少し前に殺人事件があったんです。それが、噂では後醍醐天皇に関係した殺人だと。もしかしたら今度の吉野での事件と関連があるような」 「黒石市での殺人事件ですと?」 「ご存知ですか」 「いや、初耳です。もちろんそれは未解決なんでしょうね」 「と聞いています」 「後醍醐天皇絡みというのも事実ですか」 「正直なところ詳しい内容はほとんど……ただ、後醍醐天皇を祀《まつ》るお祭りの日に殺されたのは確かなので。八月の十六日です」 「分かりました。そちらの方は明日にでも調べてみましょう。もし吉野と繋《つな》がりでもでてきたら早速ご連絡しますよ。と言っても青森と奈良では私のでる幕はなさそうだ。お二人が山形まで逃げてきてくだされば、なんとでも理由をつけて介入できるんですがね」  山影は自分で言って笑った。 「くれぐれも慎重な行動を」 「私はそのつもりですけど、なにしろ臆病なくせに無謀な人が一緒ですから」  亜里沙は受話器を下ろした。 「事件が起きないことにゃ警察は動かんってわけだ。だれかが死んで見せなきゃ公金の無駄遣いってことだな」  長山は煙草の煙を宙に吹かせた。 「山形まで行けばなんとかなりそう」 「バカ言え。トラベルミステリーじゃあるめえし、そんなに簡単に行けるもんか。もし行ったところで、連中が山形まで追い掛けてきてくれなきゃタコだって動けんよ。誘うって方法もないわけじゃねえが、わざわざ危険を冒す必要もあるまい。タコが動く前に殺されたらアウトだ」 「だったらお終《しま》いにしない?」 「殺された人間がいるってのに?」 「無関係な相手よ。たまたま盗み聞きしたっていうだけで、新聞記事で目にする殺人事件とレベルは変わりがないわ。雑誌の方だって後醍醐天皇を外して別のテーマにすれば問題がないじゃないの。連中もチョーサクが手を引いたと知って襲わないと思うけど」 「男がすたるって言ったはずだぜ」  長山は憮然《ぶぜん》とした。 「あんな若僧にちょいと威《おど》かされた程度で引き下がるわけにゃいかんのだよ」 「昨日の電話では震えていたじゃない」 「だからオレ自身が頭にきてるんだ。暴走族かなんか知らねえが、一対一ならぶちのめしてやる自信はある。威かされて東京に逃げたとなっちゃあオレも終いさ」 「相手がいないと途端に威勢がいいみたい」  亜里沙は苦笑した。 「怖いんなら東京に帰れ。オレ一人が吉野に残って調査を続ける。おまえんとこの雑誌に書かなきゃ連中の狙いはオレ一人に絞られるはずだ。後醍醐天皇の財宝捜しなら、他の雑誌にだって書ける。迷惑はかけん」  長山は真剣な目で亜里沙を見詰めた。 「分かったわ。付き合うわよ」  亜里沙は諦めた。 「そうと決めたらトーマに連絡とってくれ」 「トーマも巻き込むつもり!」  亜里沙は首を振った。塔馬双太郎は亜里沙たちの大学時代の仲間だ。浮世絵の研究者として名前が通っているが、卓抜した推理でいくつかの事件を解決している。けれど塔馬をわざわざ危険な目には遭わせたくない。 「巻き込むんじゃねえ。あいつの知恵をちょいと借りたいだけさ。どう見ても喧嘩の戦力にゃならねえ男だからな」 「いくらトーマだって死体の埋まっている場所までは無理よ。少し様子を見てからでも」 「たとえばリサが殺されてからか」 「………」 「冗談だよ。怒るなって。事件のことよりも後醍醐天皇の宝のありかを推理してもらいたいんだ。ヤツには才能がある。資料さえきちんと読めば、オレとは違った結論をだすかも知れん。もし連中よりも先に見付けだすことができりゃ、それで事件が解決したも一緒なんだぜ。一円の得にもならんのにオレたちを殺す阿呆もいるまい」 「確かにその通りだけど」  亜里沙は逡巡した。 「いいよ。オレがやる」  長山は返事も聞かずに電話に向かった。  いなければいいと亜里沙は願った。と同時に塔馬の声も聞きたかった。 「おお、オレだ、オレだ」  長山は受話器に声を張り上げた。 「オレとリサが今どこにいると思う? 念願のハネムーンで奈良見物だぜ」  ったく。まだ冗談を言っている。 「嘘じゃねえよ。リサの声を聞かせてやる」  亜里沙は慌てて代わった。 「本当に奈良にいるのかい」  塔馬の笑顔が目に浮かんだ。 「奈良はホントだけど、ハネムーンなんてのは嘘っぱちよ。地獄街道まっしぐら」 「雑誌の取材かなんかで?」 「そのつもりだったのに、妙な事件に関わってしまったの」  言うつもりはなかった。しかし、塔馬の声を聞いていたら自然にそれが口をついてでた。 「妙な事件と言うと?」 「殺人事件」 「まさか。酔ってるんじゃ?」 「私だってそうしたいわ。こんなことから解放されてお酒でも飲みたい気分」 「さっき飲みましたよ。ちゃんと」  背中で長山が大声を上げた。 「浴びるほどよ」  亜里沙はキッと振り返った。 「ちゃんと説明してくれ」  塔馬が戸惑いの口調で言った。 「ふうむ。とても信用できる話じゃないな」  やがて塔馬は呟《つぶや》いた。 「脅迫してきた男ってのは、リサたちが隠岐で後醍醐天皇を調査する前にチョーサクに近付いてきたって言うんだな」 「チョーサクは相手が推理作家も刑事も同類だと勘違いして先走ったと言うんだけど」 「だったら逃げるだろう」 「そうよね。私も違うと思うんだ」 「リサたちの隠岐行きを知っていたのは?」 「どういうこと?」 「勘違いじゃないとしたら、前もって警戒していたとしか考えられない」 「編集部の仲間は皆知っていたけど……それを言ったらキリがないわよ。秘密の取材じゃないんだもの。宿の予約だって一週間も前から済ませていたし。チョーサクにしたって親しい編集者には教えているはずだわ」  亜里沙の言葉に長山は頷いた。 「じゃあ準備期間はあったわけだ」 「でも、ウチの編集部のだれかから耳にしたとしたら、目的が宝捜しなんかじゃないと分かるんじゃない? 脅迫は藪蛇《やぶへび》になるわ」 「そこが一番の問題だな。なんだかオレには長山をわざと宝捜しに巻き込んだように思えるけどね」 「それも一度は考えたの。だけど、これには殺人が絡んでいるのよ。そんなのあり?」 「死体なき殺人だろ。ひょっとしたら殺人なんて作り話かも知れない」  あっ、と亜里沙は絶句した。 「チョーサクに殺人の可能性を仄《ほの》めかせば、絶対に乗ってくる。そいつが狙いで、これ見よがしに待ち合わせの紙を捨てたということも充分に想像できるな」 「じゃあ、全部連中の芝居ってこと?」 「オレはその場にいないんで芝居か真実か判断もむずかしいけど……どんなに安全な場所と分かっていても、殺人の話なら自然に小声になるんじゃないかな」 「でも、それは私たちがどこにいるか知っていての話じゃない? 神社の中に私たちが潜んでいることは絶対に知らなかったと思うわ。観客のいない芝居なんてあり得ない」 「なるほど。考え過ぎか」 「そもそも芝居をやってどうなるの?」  亜里沙は興味を持った。 「自分たちの代わりにチョーサクに乾坤《けんこん》通宝を捜してもらうつもりだったのかしら」 「上手く捜してくれりゃいいが……反対に宝の件を派手に書き立てられればマイナスだ。むしろ、連中だってそっちの可能性の方が強いと分かっていたはずだ。チョーサクは書くことを商売にしてる人間なんだから」 「だったら他にどんな理由が?」  塔馬はしばらく考え込んだ。 「データがなさ過ぎる。やっぱり本当に殺人があったという可能性も捨てられないな」  さすがに塔馬も溜め息を吐《つ》きながら、 「それにしても……リサたちが乾坤通宝を見たってのは確かなのかい?」 「実際に手にしたわけじゃないけど……乾坤通宝に関してトーマはなにか知ってる?」 「風俗史を専攻しているくせに恥ずかしい話だが、これまで気にしたこともなかったよ。言われてみりゃ、後醍醐天皇に関わる幻のコインてのがあったな、という程度だ」  塔馬は正直に答えた。 「チョーサクは一枚何千万もするって」 「本物なら、おかしくはない値段さ。写楽の異常な高値だって結局は稀少価値だからに過ぎない。世界で一枚しか発見されていない作品がいくつかある。また、そういうことに執着する馬鹿な人間がこの世には何人もいるんでね」  皮肉の混じった笑いを上げた。 「チョーサクが乾坤通宝を入手して、売るつもりがあったら、二日もしないうちに買い手の四、五人は見付けてやれるよ。あるいは一億ぐらいの値がつくかもな」 「トーマはちっとも関心がないみたい」 「宝捜しの虚《むな》しさを厭《いや》と言うほど聞いている。それに……オレにとっての宝は、皆のイメージしているものとは違うようだ。生活のための金は必要だが、それ以上のものにはあまり興味がない。チョーサクやリサだってそうなんだろ。今回は殺人事件が絡んでいるから抜けられなくなっているだけで、宝捜しが目的じゃないはずだ。もし宝捜しにウェイトが置かれているってんなら、くだらん夢は捨てて東京へ戻ってきた方がいい」  塔馬は二人の身を案じた。 「なにをダラダラ話してやがるんだ」  長山が亜里沙から電話をもぎ取った。 「話は了解したろ。トーマの研究室にゃ資料も揃ってるよな。おまえさんの知恵が借りてえんだよ。乾坤通宝が埋まっていそうな場所を探り当ててくれ。こっちも無論そうするが、なにしろ酷《ひど》い歴史音痴でね。とりあえずはガキを納得させる程度の推測でいい。そいつをリサの雑誌に発表すりゃ世間が騒ぎだす。乾坤通宝の存在が知れ渡って、ヤツらだけの秘密じゃなくなる。それでオレやリサが殺される危険は消滅するって寸法さ。頼む」 「懐良《かねよし》親王の話は使えないのか。隠岐に運ばれたという古い文献があるってんなら充分じゃないか。別に問題はないと思うけど」 「しかし、殺された男は隠岐でなにも見付けた気配がねえ。きっと吉野か東北だろうと思う。なのに隠岐の仮説を発表すりゃ、連中への牽制にはならん。危険が増大する」 「どうしても諦めないつもりらしいな」 「ああ……人間てのは一度身を引けばクセになる。そして、だんだんと腐っちまうんだ。引くことに抵抗がなくなってな。そんなにして八十まで生きたかぁねえよ」 「………」 「もはやオレ自身の問題さ」  その決意に塔馬は、できる限り調べてみようと約束して電話を切った。 「ちょっと恰好《かつこう》良すぎるんじゃない。チョーサクの生き方の問題で私や石川君が巻き込まれるわけ?」 「ああいう風に言わんとトーマは乗ってこない。そういう男だ」 「なんだ。少しはチョーサクを見直していたところだったのに」  亜里沙は苦笑した。      3  翌日は霧雨になった。  午前中に後醍醐天皇が吉野で政治を行なっていた吉水神社や吉野の象徴と呼ばれる金峰山寺を訪ね、午後からは後醍醐天皇の陵のある如意輪寺や、吉野の最奥、金峰《かねのみたけ》神社を車でまわる予定を立てた。竹林院からだと、如意輪寺や金峰神社は歩くには遠すぎる。 「吉水神社は近いのかい?」  玄関をでると宿で借りた傘を片手に、空を見上げた長山が亜里沙を振り向いた。 「坂を下って行けば五、六分でしょうか」  見送りにでていた女将が微笑《ほほえ》んだ。 「蔵王堂も直ぐ先ですから」  蔵王堂は金峰山寺の本堂だ。 「五、六分ならタクシーじゃ笑われる」  長山は諦めて傘を広げた。 「お食事の用意は十二時頃に?」 「ええ。その頃には戻れると思います」  亜里沙は女将に頭を下げて長山に続いた。ただの取材であれば慌ただしく車でまわって夜には京都なり大阪に向かったはずだ。大して広い土地ではない。しかし、殺された男の手掛かりを得るのが目的でやってきた場所である。アテがあるわけではないが、せめて二日は滞在しようと長山との意見が纏《まと》まった。もともと今度の取材には四日間を予定していたのだから時間にも余裕があった。 「事件にさえ巻き込まれなきゃ、相当に贅沢《ぜいたく》な旅ですよね。あの部屋に二泊もするなんて自慢のタネになりますよ」  重い機材を軽々と担いでいる石川が、のんびりとした顔で言った。 「贅沢な旅か……言えてるわ」  昨夜は脅迫の電話もなかった。朝は総槇の広い内風呂にゆったりと体を浸し、おいしい朝食を食べ、部屋に運んでもらったコーヒーを飲みながら、霧雨にけぶる美しい庭を小一時間ほどぼんやりと眺めた。自分がなぜここにいるのかも忘れてしまうくらい心が空っぽの時間を過ごした。長山がもう一日この宿に泊まろうと言い出したのも、自分と同様の幸福を感じたからではないのだろうか。 「今夜は部屋の風呂に入っている写真を撮影してくれって」 「チョーサクが? なによそれ」  亜里沙は現実に引き戻された。 「亜里沙さんとは無関係です」  石川は首を小刻みに振った。 「天皇とおなじ風呂に入っている自分の姿を記念に残しておきたいと」 「呆れた。子供とおんなじ発想」 「オレもセルフタイマーで写してみることにしました。構いませんよね」 「私に断わる必要なんてないわよ」 「でも、一応は仕事できてるわけですし。自分の楽しみとなれば気が引けて」 「男って……変な動物だわ」  亜里沙は笑った。脅迫されている状態にありながら、風呂での記念写真を頼んでみたり、この情況でも律義に仕事を忘れずにいる。 「やっぱり余裕の差なのかしら」  思わず口にでた。 「でもないでしょ。オレから見ると亜里沙さんが一番落ち着いているように」  石川は眩《まぶ》しそうな視線で見詰めた。 「山影さんやトーマに打ち明けたからだわ。それまではあれこれと厭な想像ばかり」 「塔馬さんて、そんなに凄《すご》い人ですか」 「凄いって表現はどうかな? まあチョーサクよりは頭がいいし、度胸もあるわね。誠実さと人間的な温かさも比較にならない」 「聞こえてるぞ」  四、五メートル先を歩いていた長山が立ち止まって亜里沙を睨《にら》んだ。 「ちょいと目を離せば直ぐこれだ。それじゃオレなんざ人間のクズじゃねえか」  それでもその目は笑っていた。 「いくらここの名物が葛《くず》だってな」  長山はまわりの土産物屋を顎《あご》で示した。どこの店先にも吉野葛と大書されている。 「クズ、クズってオレのことを言われてるみたいで気分が悪くならぁ」  亜里沙と石川は笑い転げた。 「しかしなぁ」  笑いが収まると長山が言った。 「観光客の姿はオレたちの他に見あたらねえ。いくらシーズンじゃないと言っても酷い寂れようだ。土産物屋も開店休業だ」 「ホントね。もっと賑《にぎ》やかだと思ってた」  亜里沙も頷いた。長い坂道には地元の人間らしき姿しか見えない。宿の女将の話では土・日になると大阪や京都方面から若いドライブ客がくるそうだが、平日は数えるくらいしか泊まり客がいないと言う。 「ここも隠岐と一緒さ。地元の若い連中は高校を終えると皆、大都市に行っちまう。土産物と林業が主体の土地じゃ働き場所もねえもんな。第一、このメインストリートにしたってスナック一軒ねえぜ。たとえ観光シーズンでも日帰りの客が大半てことだ」  亜里沙も頷いた。自分は女だからスナックのあるなしなど気にもかけなかったが、土産物屋がずらっと並んでいる割には、温泉場とは雰囲気が異なる。 「吉野って聞くと華やかそうな感じだが、これで案外過疎問題に悩んでいるかも知れねえな。泊まり客の絶えない温泉場とは別だ。たまに訪ねる客にとっては、いつまでも静かな町であって欲しいと願ってるだろうがね」 「偶然かしら」 「なにが?」 「後醍醐天皇よ。隠岐といい、吉野といい。それに青森の大川原だって過疎って聞いたわ」 「そうです」  視線の合った亜里沙に石川は言った。 「そりゃあ凄い過疎地帯ですよ。鰻の寝床みたいに山に挟まれた村落ですし、一年の半分は雪に閉じ込められてしまう。若い連中は村を見捨てて弘前や青森に出ていきます」 「当たり前だろ。だから隠岐は配流の島にされたんだぜ。何十万もの人で賑わっているような土地なら島流しの意味がねえさ。吉野だっておんなじだ。山奥だからこそ攻められにくいし、敵の足利尊氏にしても矛先《ほこさき》が鈍る。こいつが吉野じゃなく大阪辺りに逃げていたら五十年は保《も》たなかったと思うぜ。尊氏も徹底的に壊滅作戦を展開しただろう。政治への影響力が格段に違うからな。人里離れた吉野なればこそ南北朝が成立し得たんだと思うね。一方、大川原は後醍醐天皇側の落武者たちが逃れた場所ってんだろ。それなら寂しい土地で当然だ。どこの世界に落武者たちが町中でかっぽれを踊ったりする?」 「後醍醐天皇の運命が、そのまま土地に反映してるってことね」  かっぽれのことは無視して亜里沙は続けた。 「そのテーマもいけそうだなぁ。過疎地帯なんてさ、ほとんどの人から無視されているでしょ。調べてみて後醍醐天皇絡みの土地の大半が過疎地帯なら面白いわよ。これまでの旅行記事とはまったく別の視点で土地の見直しができるんじゃない?」 「隠岐や大川原はともかく、吉野を過疎だと決めつければ叱られるんじゃねえかい」  自分から先に過疎だと言っておきながら長山は興味のない顔で足を進めた。  下り坂が上り坂に変わって真正面に金峰山寺本堂の巨大な屋根が目に入った。吉水神社はその手前右手。急な石段を下りて、また上がる。馬の背のように狭い山稜の上に作られた門前町だ。至るところ勾配のきつい道がある。 「吉野で後醍醐天皇の古い資料なんかを展示しているところっていうと、ここと如意輪寺しかないって女将が話してたな」  鄙《ひな》びた楼門を潜《くぐ》りながら長山が言った。 「大原って男が古文書を鑑定に持ち込んだのがこの神社だと面倒はねえんだが」 「あら……ここが一目千本なんだ」  亜里沙が右手に広がる展望台の立て看板を目敏《めざと》く見付けた。視界に千本の桜が広がるという意味から名付けられた場所だ。桜の季節ともなれば雑誌やテレビなどで頻繁に紹介される名所中の名所である。もっとも今の季節ではただの奥深い樹木が下界一杯に見えるだけに過ぎない。  ──義経の行方も知れず花の峰── 『源義経』を書いた村上元三がここを訪れた際に詠んだ句が展望台の脇に掲げられている。頼朝に追われ静御前と共に吉野へ逃れた義経が、この吉水神社に身を潜めていたという歴史がある。また豊臣秀吉がこの山に五千人を引き連れて盛大な花見の宴を開催したときにも、ここが本陣となった。五日間に亙《わた》って能楽、茶の湯、歌会がこの院を中心に催された。もともとは神社ではなく、金峰山寺の僧坊だった建物だ。確かに単層で入母屋《いりもや》造りの屋根には神社というより雅びた公家屋敷の雰囲気が漂っている。神域とは違う人間臭さが亜里沙には感じられた。それに小さい。本当にここで後醍醐天皇が政務を司《つかさど》っていたのだろうか。いくら仮の皇居とはいえ、信じられない。 「どうする? 拝観受付でいきなり訊ねるってのも芸がねえな。中を一回りしてからにしようぜ。訊《き》くにしても、大原という名前ぐらいしかこっちにゃ手掛かりがない」  亜里沙もおなじ意見だった。三人が拝観受付に近付くと、暇そうな顔で座っていた神官が石川の機材を睨んで、内部の写真撮影は禁止ですよと念を押した。石川は軽く頷くと機材を受付に預けた。もし撮影が必要なら、後で交渉すればいい。  靴を脱いで畳に足を踏み入れた瞬間から、亜里沙は歴史を肌で感じた。おなじものであるわけはないけれど、義経や後醍醐天皇が踏んだ畳のような錯覚におちいったのだ。 〈畳は違っても空間は一緒なんだわ〉  それにまわりの襖絵や柱もだ。天井の染みだって、ひょっとしたら義経が眺めた染みであるのかも知れない。奥に進むと左手に二つの間が縦に並んでいた。手前が義経潜居の間、奥が後醍醐天皇玉座と説明されている。どちらも十畳くらいの狭さだ。玉座の後ろの壁には金泥の絵が描かれてあって、一見華やかに思えるが、本物の天皇がその前に座っていたのだと考えたら、逆に哀れになった。後醍醐天皇はここで十ヵ月ほど政治を行ない、その後は金峰山寺近くの実城寺に設けられた御所に移られた。今はその御所が消失してしまったので規模や内部装飾もはっきりしていないが、きっと似たようなものだったのだろう。時代区分では南北朝と呼ばれても、実態は足利時代で、南朝は細々と存続していたと言うのが正しい。亜里沙はそれを認識させられた。  そう言うと長山も頷きながら、 「けど、ものは考えようだぜ。後醍醐天皇はたった数年と言いながらも、鎌倉幕府を倒して正式な天皇に返り咲いたんだ。隠岐から戻れただけでも幸運なのに……この世は運次第だってことを後醍醐天皇くらい身をもって経験した人間は少ねえよ。いずれ京都に戻る日がくると信じてもおかしくない。きっとこの部屋にいても、狭さに対する不満は一つも感じなかったんじゃねえか。まわりには信頼できる側近がいて、その気になれば京都にだって歩いて行ける。希望さえ失わなきゃ、たとえ牢屋にいたって平気さ。オレたちゃ歴史を知っているから感傷的になってるだけだ」 「そうかもね。その通りだわ」  亜里沙は少し救われた。  三人は玉座の間を後にすると、資料や伝世品《でんせいひん》が展示されてある部屋に入った。義経が着用していたという鎧《よろい》がケースに飾られていた。重要文化財に指定されているから本物だ。 「ずいぶん小さな鎧」  後醍醐天皇を忘れて亜里沙は見入った。 「さすがに上手い字だな」  長山は後醍醐天皇の宸翰《しんかん》を見上げてしげしげと眺めていた。 「なにが書いてあるのか読めねえけど」 「これ、直筆なんですか?」  石川が驚きの声を上げた。 「後醍醐天皇じゃなくても、天皇の直筆を見たのははじめてです」 「いかにも。そう言われりゃオレにもあんまし記憶がねえ」 「しかも、たくさんありますよ」 「南朝の正当性がそれだけ認められてこなかったという証拠だ。早い時期に認められていれば、別の場所に移されていただろう。明治になるまで南朝の歴史は完全に黙殺されていたんだぜ。なにしろ南北朝以降の天皇はずうっと北朝に繋がっている。認めにくかった事情も分かるがね」  ゆっくりと見物を終えた三人は部屋をでて庭の見える縁側に腰を下ろした。 「写真撮影はどうします?」  石川が亜里沙に訊ねた。 「外観は許可がなくても大丈夫でしょうが、やっぱり直筆なんかも撮影した方が……なにしに吉野まで行ったと叱られますよ」 「さっきの様子で許可が下りるかね」  長山は首を傾《かし》げた。 「相当な剣幕でお宅のカメラを睨んでたぞ。下手に喧嘩でもされりゃ事件の手掛かりを掴むなんてのも不可能になる」 「上手く頼んでみるわ。どうせ明日まで吉野にいるんだから、明日撮影させてくださいって言えば誠意が通じるんじゃない? なんの連絡もしないで、いきなり撮影させてくれとか言うから気分を害するのよ。それでもだめならあっさりと諦める」  亜里沙は一人立ち上がった。  五分もしないうちに亜里沙は笑顔で戻ってきた。どうやら許可を貰ったようだ。 「ただし、大原に関しての収穫はゼロ」 「訊ねてみたのか」 「ええ。古文書を鑑定に持ち込んだ人間はだれ一人いないんだって。それ以上のことは特に訊かなかったけど」 「じゃあ如意輪寺の方だ」 「簡単に引き下がるのね」 「ここの人間が嘘をつく必要はねえさ。鑑定を頼まれただけなんだ。それが事実ならそう答えるよ。無関係な古文書なら忘れることもあろうが、後醍醐天皇の側近が記録した文書となりゃ絶対に記憶に残る」      4  金峰山寺と、その近くにある南朝皇居跡の記念碑を見学して宿に戻ったのは十一時半。皇居跡にはかなりの期待をしていたのに、実際にはなにもなかった。廃墟の礎石さえ見られなかった。 「蔵王堂の巨大さには驚いた」  迎えにでた仲居に感想を聞かれて長山は靴を脱ぎながら応じた。 「浅草の観音くらいはあったね。こんな山の奥によく建てたもんだ」 「もっと大きいのよ。木造の建物では奈良の東大寺に次いで二番目ですって」  亜里沙が補足した。仲居は頷いて、 「銅《かね》の鳥居はご覧になりましたか」 「ええ。あれも巨大だったわ」 「奈良の大仏さんを拵えたときに、余った銅を運んで作ったものだと言われています」 「へえ、そんなに古いのか」  長山は何度も頷いた。 「お帰りなさいませ」  女将がフロントから顔を覗かせた。 「先ほど東京の塔馬様からお電話がございまして、お戻りになられましたら大学の方に連絡が欲しいとの伝言を承りました」  亜里沙と長山は顔を見合わせた。 「それと、隠岐様とおっしゃる方からも」 「隠岐? そういう名前ですか?」  亜里沙は聞き返した。 「はい。隠岐島の隠岐と書くと」 「そんなヤツは知らねえな」  亜里沙も石川も頷いた。 「例の件は保証できなくなったからよろしくと……それだけをおっしゃって」 「………」 「ご存知の方では?」  真っ青になった亜里沙を見詰めて女将は怪訝《けげん》そうな顔をした。 「絶対にあの連中よ」  部屋に入ると亜里沙は震えた。 「例の件は保証ができないって……私たちの命のことだわ」 「威かしだって。そんなに気にするな」 「どうして吉野にいることが知れたの」 「隠岐を出発したのを知って吉野の宿を当たってみたんだろうさ。宿の数は知れている。オレたちゃ後醍醐天皇を取材して歩いているんだぜ。簡単な想像じゃねえか」 「あんまりしつこすぎるわよ」 「かえってファイトが湧いてきた。本当に殺すつもりなら、これほど頻繁に威しをかけてくるわけがねえ。どこかで襲えば済むこった。ヤツらは少し慎重になってるんだ。恐らく吉野にもいねえと思うぜ。脅迫電話もこうたびたびだと慣れてきたよ」  それで亜里沙も落ち着いた。 「それよりトーマだ。電話しろ」 「髑髏の刺青をした連中だと言ったね」  繋がると塔馬は直ぐにそれを確認した。  脅迫電話を貰った矢先だったので亜里沙はドキッと胸が痛んだ。 「昨日はうっかりと聞き流したが……」 「なんなの? 特別な意味があるとでも」 「まさかとは思うけど……立川流という可能性はないかな」 「立川流って、あのセックス宗教のこと?」 「そう。後醍醐天皇が立川流を擁護していたのは当然知ってるだろ」 「うん。後醍醐天皇のブレーンの一人に文観という僧侶がいるわ。立川流の大成者として有名な人物。天皇は彼の影響で建武中興を推進したという説もあったはずよ」 「立川流に関しては調べてみたかい」 「いいえ。よくある話と思ったから」 「立川流のシンボルは髑髏本尊だぜ」 「え……なによそれ」 「本物の髑髏を加工して作る。手元に資料がないから詳しい説明はできないがね。それだけは確かだ。立川流は弾圧のされ続けで江戸時代に完全に消滅したはずなんだが、隠れキリシタンのように存続していると説く研究者もいる。それが事実なら秘密結社的色合いを持っている集団と見做《みな》される。チョーサクは単純に暴走族だと信じてるようだが、いくら金になるからといって後醍醐天皇に暴走族が興味を持つとは思えない。むしろ立川流の髑髏と解釈する方が自然だと思いついたんだ」 「………」 「立川流の信奉者なら後醍醐天皇に詳しくて当たり前だ。文観が乾坤通宝に関しての文書を残していたとしても不思議じゃない。リサは知らないようだが、後醍醐天皇の擁護ってのはただの金銭的援助じゃなかったんだ。自分自身も立川流に帰依して、自ら呪詛《じゆそ》を行なった形跡がある。立川流を含む密教は魔術と紙一重のものだぜ。文観はそれの指導者として、ある部分では後醍醐天皇に命令さえ出せる立場にいた。もし乾坤通宝の鋳造が文観からの示唆によるものだと仮定すれば……」  亜里沙は溜め息を吐《つ》いた。 「その想像が当たっていたらどうなるの」 「危険だということさ」 「………」 「数人程度の暴走族ならタカが知れている。だが宗教で結ばれた秘密結社となれば……この先どうなるか予測もつかない」 「脅迫電話がまたきたの」  塔馬がゴクッと唾を呑んだ気配がした。 「私たちが留守にしていた間にね」 「なんと言ってきた?」 「おなじよ。命の保証ができないと」 「行動を見張られていたってわけか」 「チョーサクはただの推理で捜し当てたって力説してるんだけど……そんな感じもするわ。ずうっと怪しい気配はなかった」 「吉野に向かったのを知っていた人間は?」 「またそれ? でも、今度は少ないわ。宿への到着が遅かったから会社にも連絡を取らなかったし。編集長なんか私たちがまだ隠岐にいると思っているわよ。まさか脅迫を恐れて隠岐から逃げたなんて言えないじゃない」 「だれ一人知っているはずはないと?」 「連中がもし隠岐に残っているとしたら断言はできないわ。そもそも私たちが吉野を目指したのは、隠岐の若い人たちに大原の消息を聞いたからですもの。それとなく訊ねれば、疑いも持たずに教えるんじゃないかな」 「オレが確認してみよう。そのスナックとかの電話番号は分かるかい」 「手帳に書いてあるけど……どうして? そんなに重要な問題かしら」 「隠岐の若者にも聞かず、見張られていた気配もないとしたら、敵は相当なヤツらだ。反対に、隠岐でリサたちの居場所を知って慌てて脅迫してきたのなら大した相手じゃない。最低でもその程度の判断はつく」 「だったら、私がする?」 「オレがやった方がよさそうだ。リサは嘘が下手すぎる。隠岐の連中には殺人事件のことを伏せてあるんだろ」 「じゃあトーマに任せる」  番号を聞き終えると、また夜にでも電話すると言って塔馬は受話器を置いた。 「立川流とはな……厭な想像をする男だ。妙なことを知り過ぎてるから推理が飛躍する。時代錯誤もはなはだしいぜ」  長山は亜里沙の説明を受けて嘯《うそぶ》いた。 「今の世の中に立川流なんぞがあってたまるもんか。乱交パーティの味付けに持ち出されるのがせいぜいってとこだ」 「髑髏本尊って知ってた?」 「昔の映画かなんかで見た記憶はあるな。金箔《きんぱく》を塗った派手なもんだったが……今の今まで本物の髑髏を加工したものとは知らなかった。てっきり拵えたものとばかり」 「刺青をしていた連中ってさ……とても暴走族には見えなかったわよ。刺青のために暴走族だと先入観を持っただけじゃない?」  亜里沙が言うと石川も同意した。 「オレにゃ、秘密結社の人間が得意げに刺青をしてる方が信じられねえぜ。それじゃ安手の冒険小説だ」  鋭い点を長山はついた。  そこに電話が鳴った。 「トーマだろ。オレが出る」  長山が受話器を取り上げた。 「なんだ。山さんか」  タコだよ、と亜里沙に囁く。 「まだ宿にいらしたんですね」 「そっちが電話しといて妙な言い方だ」 「居場所でも分かっているかと思って宿に電話しただけですよ」 「なにか大川原の件で?」 「お二人は本当になにも知らずに大川原の殺人を私に教えたんですか?」 「というと?」 「嘘じゃないんでしょうな」  山影は焦《じ》らした。 「殺された男の身許を確認しました。名前は中野真一。年齢は二十七。出身地は奈良県の吉野です」 「吉野!」  長山は吐き気を覚えた。 「冗談じゃない。そんな馬鹿な!」 「しかも、中野の遺留品には山陰地方のガイドブックが入っていたそうです。家族に問い合わせてみたら、青森に出掛ける直前に隠岐へも旅行していたと」  長山は眩暈《めまい》を覚えた。 「青森県警では、なぜ私がこの事件に関心を持ったかとしつこく訊いてきました。まだ未解決でした。もしもし、聞こえますか?」  長山は辛《かろ》うじて声を上げた。 「後醍醐天皇絡みの事件であることもほぼ間違いはありません。被害者が持っていたメモには後醍醐伝説の残る全国の地名がびっしりと書き込まれていたそうです」  長山は耳が次第に遠くなった。      5 「こんなことをしてる余裕なんてないんじゃねえのかい?」  タクシーが吉野の山道を登りはじめると、長山が亜里沙に耳打ちした。山影からの電話の動揺がまだ収まっていないらしい。亜里沙も頷いた。車で吉野の山をまわる予定を立てて、朝のうちに予約していたタクシーだったが、断わろうとした矢先に車が宿にきてしまった。仕方なく乗り込んだものの、青森の大川原の殺人がこの吉野と繋がっていたと聞かされては落ち着かないのも当たり前だ。 「と言って……することもないわよ」  その殺人事件と自分たちが巻き込まれている事件が関わり合っている証拠はなにひとつない。今の段階では奈良県警も動きようがないはずだと山影からも言われた。 「融通性がないってのか……日本の警察もだらしねえもんだぜ。青森で殺された中野ってヤツが隠岐に行っていたのは間違いねえ。オレたちゃその隠岐で吉野の殺人を耳にしてる。ガキにだって怪しいと分かりそうなもんだ」 「こっちの事件は死体がないもの」  死体と聞いてか、運転手の耳が動いた。 「大川原の事件に髑髏の手掛かりでもあれば少しは関心を示してくれるんだろうけど」 「またそいつかい。立川流なんて無関係だって。トーマの勇み足さ」  長山は取り合わなかった。 「青森の殺人事件って……この前のですか」  年配の運転手がバックミラーを覗いて亜里沙に訊ねた。亜里沙は首を振りながら、 「なにかご存知なんですの」 「死んだ息子の方は良く知りませんがね。中野さんはだいぶ長いことこっちにいたから」 「なにをしていた人だったんです?」 「もちろん林業ですよ。この辺りの人間は林業がほとんど」 「じゃあ、仕事をやめてどこかに?」 「十五年くらい前でしょうか。家族全員で名古屋の方に移ったと思いました」 「どうして青森の事件を知ったんです」  車が急カーブにさしかかった。亜里沙は長山の方に体を引っ張られた。 「吉野には殺された息子さんの同級生がたくさんいますんでね。狭い町だから自然と耳に入ってきたんですわ。最初はまさか中野さんの子供さんだと思いませんでしたが」 「警察の捜査はどうだったのかな」  長山が割って入った。 「さあ、私は聞いてません。特に問い合わせもなかったんじゃ……吉野に暮らしていたと言っても十五年も前のことですし」 「どこに移ったって?」 「それもちょっと……腕を買われて行ったと聞いてますから、山の中には違いない。名古屋市内じゃなかったはずです」  いずれ山影に聞けば分かることだ。長山はあっさりと頷いた。 「まだ犯人が分からんのですか?」  逆に運転手が長山に訊いた。 「青森の警察じゃ、流しの犯行と睨んでいるらしい。そういうのが一番面倒なんだ」 「とんだ災難ですね。二十六、七でしたか。その歳まで育てても、殺されてしまえば甲斐がない。ようやく大学を卒業してこれからってときですもんねぇ」 「独身だったんだろうな」 「そう聞きましたよ。正月だったか、クラス会があったとかで吉野にきたそうですが」 「同級生のだれかに会えないかな?」  長山は思いついた。 「ウチの会社にいる人間の弟が確か同級生だと聞いたな。ちょっと確認してみますか」  運転手は無線のマイクを握った。本社を通じて、運行中の同僚を呼び出す。相手は直ぐに、その通りだと答えた。中野真一と同級だった彼の弟は高校を終えると大阪の大学に進み、そのまま大阪の商事会社に就職したという。電車で一時間程度しか離れていないので、頻繁に吉野には戻ってくるらしいのだが、もちろん今日はいない。 「たいていそうなんですわ」  運転手はマイクを元に戻した。 「吉野じゃ働き口がないもんですから」 「大阪に行けば会えるわけだ」  長山の言葉に運転手は頷いた。 「仲が良かったのかしら?」  亜里沙は口にした。ただおなじクラスにいたという程度の関係であれば、会っても収穫が期待できない。どうせ訪ねるのなら情報を持っている人間でないと…… 「そりゃそうだな」  長山も首を振った。 「も一度訊いてみましょう。ヤツの弟と一緒のクラスで吉野に残っている人間を知っているかもしれませんからね」  運転手は面倒がらずにまた訊ねた。 「仲間だったかどうかは知らんけど……役場の観光課にいる高橋はそうだ」 「ああ、あの太いヤツか」  運転手も良く知っている男らしかった。 「山を一巡りしたら訪ねてみますか。役場ならたいていいますよ」  無線を切りながら長山に言った。  亜里沙と長山は互いに頷き合った。      6  タクシーは対向車も擦れ違えないような狭い山道を進む。宿を出発しておよそ三十分。ようやく金峰《かねのみたけ》神社に到着した。  ここは吉野の最奥、と同時に吉野山信仰の原点でもある。祀《まつ》られている神は金山彦命。その名から想像できるように鉱山に関わりの深い神だ。全国の有名な鉱山の近くにはたいていこの神が祀られている。吉野も古くは鉱山であったらしい。古文献によれば、この山の地下に黄金の鉱脈があって、多くの鉱山師が一攫《いつかく》千金を夢見て集まったと記されている。また深山の鉱山には修験《しゆげん》僧がつきものだ。恐らく、山の専門家である彼らが鉱脈を発見し、新しい鉱山が次々に生まれたのであろう。古来より著名な鉱山は必ずと言っていいほど修験の名山でもある。ガイドブックなどの説明によれば、金峰神社の黄金伝説はただの伝説に過ぎないと書かれてあるが、金山彦命と修験がセットになって吉野に存在することを思えば、あながち伝説とも否定できない。実際に金が発見されたことも充分に考えられる。 「金山だとさ。乾坤通宝よりゃ、こっちの方が捜し甲斐があるってもんだ。金ならどれだけ掘っても価値が下がる心配もねえ」  タクシーを降りて案内板を熱心に読んでいた長山が亜里沙と石川に囁いた。 「どこを掘るって言うの? 鉱脈のありかを描いた地図でもあれば別だけど……一ヵ月も経《た》たないうちに破産しちゃうわ」 「そいつは乾坤通宝だっておなじだろ」 「大原って男は一人で発見したのよ。鉱脈を掘るより簡単てことでしょ」 「だけど、大原には代々伝わってきた古文書があった。オレたちとは条件が違う」 「日増しに欲が深まっていくみたい」  本気で金鉱捜しをしそうな長山の口調に亜里沙は失笑した。 「小説ってそんなに儲からない?」 「少なくとも、楽じゃねえな。菓子や電気製品と違って、どんなに売れてもおなじものを書くわけにゃいかん。毎日毎日、前の日とは別の文字を原稿用紙に埋めていくんだぜ。と言って、あいうえおかきくけこ、じゃまずい。その辛《つら》さはだれにも分からんさ。本当に見つけられるものなら、それで足を洗いたいね」 「でも、好きなんでしょ」 「嫌いならとっくにやめてる。因果と好きなもんで決心がつかん」  長山は苦笑しながら階段を上がった。神社そのものは意外に小さい。ここが吉野の総本山とはとても思えなかった。 「写真は撮影するのか?」  階段の途中で長山は石川を振り向いた。 「一応、撮影しといて」  亜里沙が声をかけた。妙な事件に巻き込まれたせいで取材どころではない気分だが、せっかく吉野まできている。 「一応、ときたか。それもそうだよな」  気乗りのしない様子で長山は石川のカメラに収まった。 「西行庵はどうする?」 「ついでだから行きましょう」  案内板には神社から徒歩で二十分ほどのところに西行が暮らしていた庵《いおり》があると書かれてあった。だが、それは健康な若者の脚でという意味で、普通の人間なら往復に一時間は軽くかかると運転手から聞いている。 「見ておかないと後で後悔するわ」 「そうかね。まあ、いいけど」  長山は神社を軽く覗いて階段を下りた。亜里沙は慌てて神社に掌を合わせると長山に続いた。石川は三脚を階段にセットしている。 「お二人は先に行ってください。何枚か神社を撮影してから行きます」 「タクシーの中の話だけど」  急な坂道を長山と並んで歩きながら亜里沙は言った。足音の他になんの物音もしないので、自分の声がやけに大きく感じられた。 「なんだかハラハラしたわ」 「なんでだ?」 「あの運転手さんは信用できそうな人だけど、あんまり殺人事件のことは口にしない方がいいんじゃない。もし青森の件まで髑髏の刺青の連中の仕業《しわざ》だとしたら、間違いなく命を狙われるわ。連中は私たちが殺人事件に関してはなにも知らないはずだとタカをくくっているから電話の脅迫程度で安心しているのよ。なのに殺人事件を追いかけていると耳に入れば……考え過ぎかな」 「リサだって質問してたじゃねえか」 「当たり前でしょ。青森の殺人がどうとかってあんなに大きな声でチョーサクが騒いでいるんだもの、隠し切れないわ」 「そのお陰で殺された男の同級生に会えるんだぜ。心配するなって」 「心配するわよ。チョーサクの判断には根拠なんてないんだから」 「分かったよ。だったらどうする? 殺人事件に関して深く追及するなって言われても、役場に連れて行ってくれるのは、あの運転手なんだ。まさか役場に着いてからラーメンの旨い店を教えてくれとごまかすわけにもいくまい。それとも同級生は諦めるか?」 「観光課の高橋さんて言ったわね。観光課だったら運転手さんの紹介がなくても大丈夫だと思うの。吉野を雑誌に紹介したいから詳しい話を聞かせて欲しいと頼めば、宿にきてくれるんじゃないかしら。それが仕事でしょ」 「なるほど……観光課か」 「任せて。そういうのは得意だから」 「宿なら安心できるな。人目の多い役場で殺人事件の話をするよりゃずっといい」 「タクシーに戻ったら役場への案内をやんわりと断わるわ。そうすれば私たちが殺人事件に興味がないフリもできるし」 「さすが女だ。気配りが違う」  長山は何度も頷いた。 「それにしても酷《ひで》ぇ坂だ。頂上が全然見えねえよ。こいつぁ三十分どころじゃねえぜ」 「もう息が上がったの。運動不足よ」  安心したのか亜里沙は軽快な足取りで前を進んだ。山歩きは嫌いではない。 「二、三百メートルで下りの標識があるって聞いたのに……もう五百はきてるぞ」 「男のくせしてだらしないわね」 「ベッドの上でしか男じゃねえ。そのためにだけ体力を温存してる」 「怪しいもんだわ。その調子なら」 「今夜にでも試してみるかい」 「結構。今はそんな気分じゃありません」 「へえ。今は、ってことは、いつかは可能性があるってことかね」  亜里沙はどぎまぎした。 「大進歩だな。実を言うととっくに諦めていたんだぞ。こいつは希望が湧いてきた」 「冗談は止《よ》してよ。女の子には不自由してないはずだわ。いろんな噂を聞くもの」 「トーマの方が好きか?」 「またぁ……関係ないでしょ」 「やはりな。あいつならしょうがねえ」 「もう四十なのよ。結婚はしないつもり」 「老人ホームに一緒に行こうぜ。トーマも誘ってな。毎日茶飲み話でのんびりと暮らすんだ。リサが寝たきりになったらオレが便器なんかを尻にあてがってやる」 「老人ホームかぁ」 「ちょいといいプロポーズだろ」 「どこが? 変態ぽいだけ」  長山は爆笑した。  それにしても想像以上の急勾配だった。前|屈《かが》みの胸が地面にくっつきそうになる。ようやく下りの標識を見つけ、脇道に入った亜里沙は、呆れた顔で長山を振り向いた。急な石段が生い茂った樹々を縫うように遥か下にまで続いている。中腹に小さな広場が見えた。きっとあそこが目指す場所だ。ざっと眺めただけでも七、八百段はありそうだ。心臓には楽でも、本当は下りの方が足腰に負担のかかることを亜里沙は知っている。 「おいおい、冗談じゃねえぞ。あそこまで降りて行ったら、またこの階段を上がってこなきゃならん理屈だろうが」  それでも下り坂なので長山の顔には安堵の色があった。ここまでくるのに長山は何度立ち止まっては煙草を喫《す》ったことだろう。たぶん景色を見たり煙草を喫うフリをして、破裂しそうな心臓を休ませていたのだ。 「西行庵は諦める?」 「バカ言え。これほど苦労してきたんだ。ここで止めりゃ全部が無駄になる。絶対あそこで証拠の写真を撮ってもらうからな」  そこに機材を背負った石川がやってきた。 「あれ、まだこんなとこに?」  神社の撮影に十分近くもかけた石川は、二人に追い付いたのが信じられないようだった。太った体つきをしているが、日頃重い機材を担いでいるので足腰は鍛えられている。 「お宅を待ってたんだよ。標識を見落として迷子になられちゃ面倒なんでな」  肩で荒い息をしながら長山は言った。 「オレはもうなにも信用しねえぞ」  脚の筋肉が吊ったとわめきながら広場に到着した長山は、楽しみにしていた西行庵が近年になって復元されたものと知って枯れ葉を乱暴に蹴散らした。 「考えてみれば当たり前よね。西行がここに庵を結んでいたのは今から八百年くらいも前のことなんだもの。そのまま残っていると思う方がおかしいわ」  亜里沙は広場の中心に建てられている庵に近づいた。土壁も真新しい。少し広い茶室という感じだろうか。家具ひとつ置かれていない板間には西行の像が飾られている。障子や板戸をすべて取り払ってあるので、寒々とした印象を受ける。 「車でこられるとこなら笑い話で済むがな。洒落《しやれ》にもならねえぜ。年寄りならあの坂道で血圧が上がっちまうよ」 「でも、素敵な場所じゃないの。桜のシーズンだったら絶景かもよ」  亜里沙は辺りを見渡した。西行庵と向き合って広場を挟んだ崖の縁に屋根の架けられた見晴らし台がある。そこから眺めると、吉野の山々が屏風絵《びようぶえ》のように亜里沙の視界を埋めた。ベンチやテーブルが広場のあちらこちらに設置されているところを見れば、桜見物の名所なのかも知れない。 「ついさっきまでだれかいたんだ」  長山が亜里沙のとなりにきて首を傾げた。 「あそこのベンチの上に温《ぬる》くなったコーヒーの缶があった。取り除いて座ろうとしたら中味が半分ほど残ってたよ」 「飲んだの?」 「そんなこと言ってるんじゃねえ。おかしいと思わんのか。ここは一本道だぞ。広場は行き止まりだ。オレたちゃだれとも擦れ違っていない。どういうこったろう」 「苔清水に行く道があるわ。ここから少し下がったとこ。きっとそっちよ」 「へえ。じゃあオレの勘違いか」 「なにを考えてたの?」 「隠岐の黒木神社さ。あのときゃオレたちが陰で見張ってたが、今度は反対に物陰から監視されてるんじゃねえかと」 「まさか。私たちがここにくるなんてだれにも予測がつかないじゃないの」 「つくよ。吉野に観光にきて西行庵にこないヤツの方が珍しい。八割以上の確率さ。道だって他にあるわけだし、タクシーに乗ったと知ればいくらでも先回りができる」  石川も不安そうな顔をして見晴らし台の中に入ってきた。 「見張ってどうするの」  亜里沙は否定した。 「無意味な推理の積み重ねとしか思えない。西行庵の近くに死体が埋まっているとか、乾坤通宝があるんだったら不安で見張るということも考えられるけど……そうじゃないなら必要もないわ。麓《ふもと》で待てば済むことよ」 「この近くに死体……ね」  長山は小さく首を振った。 「そいつは、ありそうな線だ。ここにゃ桜のシーズン以外に観光客がきそうにねえ。殺しには絶好の場所じゃねえかい?」 「まったく目茶目茶な論理ね」 「どこが?」 「たった今チョーサクが言ったばかりでしょ。吉野にきた観光客の八割以上は西行庵を訪ねるはずだから先回りは簡単だと……なのに、今度は観光客が滅多《めつた》にこない場所だなんて」 「そうか」 「そうかじゃないわよ。どちらかを立てればどちらかが崩れる。その程度の推理」  長山はアハハと笑った。 「違いねえ。どうも慎重になりすぎてるようだ。缶コーヒー程度でビクつくなんてな」  それから四十分後。三人は無事にタクシーの待っている金峰神社の鳥居前に戻った。 「ごゆっくりでしたね」  運転席で週刊誌を読んでいた運転手が足音を聞いてドアを開けた。 「石段で五回も休んだ人がいたんです」  亜里沙が言うと運転手は苦笑した。 「私たちの前に戻ってきた人がいたでしょ」  ついでだからと亜里沙たちも苔清水を経由してきたのだ。 「いや。だれもきませんでした」 「おかしいわ。じゃあ山で仕事をしている人なのかしら?」  亜里沙は先ほどの件を説明した。 「伐採の人間だとしたら、わざわざ西行庵まで降りて行ってコーヒーを飲むとは思えんですけどねぇ。自動販売機があるわけじゃなし。きっと脇に逸《そ》れて近道でもしたんでしょう」  亜里沙はそう信じることにした。長山は、それ見たことか、という顔で目配せした。 「それと……さっきの件ですけど」 「……?」 「役場の方にはまわらなくても」 「ああ、そうですか」 「今度の取材とは全然関係ないですし」  運転手は簡単に信じた。      7  後醍醐天皇の陵が裏山にある如意輪寺に到着したのは四時近かった。まだ陽はあるが、すでに夕闇が忍び込んできつつある。 「今回のメインイベントってわけだな」  駐車場で車から降りると長山は張り切った。 「いよいよ後醍醐天皇とご対面だぜ」 「大原という人がここにきていればいいわね。じゃないと吉野まで足を伸ばした意味も」  タクシーから離れると亜里沙が言った。 「きてるさ。吉水神社を除いたら古文書の鑑定をしてくれそうなとこは、ここしかねえ」 「今度は先に訊いてみようか」  拝観受付の窓口に着くと亜里沙は切符を買い求めながら、それとなく訊ねた。 「後醍醐天皇さんの側近の方が書かれた文書ですかぁ? ウチにも手紙くらいならいくつか宝物殿に飾ってありますがなぁ」  若い僧侶はお釣りを勘定しながら応じた。 「ここにあるものではなく……少し前に鑑定を頼みにきた人がいるはずですけど」 「少し前と言いますと?」 「一ヵ月かそこらです」 「さあ……知りませんねぇ。きっとなにかの勘違いじゃありませんか」 「吉水神社とここ以外で鑑定してくれそうな場所は他にあります?」 「どんなもんですかね。鑑定って言われても、私らでも自信がない。天皇さんならともかく、側近となれば比較するものがないと」 「………」 「骨董《こつとう》屋に持ち込むか、奈良の博物館辺りだったら調査をしてくれるでしょうけど。いずれにしろ、それが本当なら必ず私らの耳に届いているはずです。聞こえないわけがない」 「乾坤通宝について書かれてあるとか」  思い切って亜里沙は口にした。 「乾坤通宝って……あの乾坤通宝ですか」  僧侶は絶句した後、ニヤニヤ笑った。 「それこそ、有り得ない。一行書かれてあるだけで吉野がひっくり返るくらいの大騒ぎになる。実際にその文書があるんでしたら是非《ぜひ》見たいもんですね。今では発行されたのも疑問視されている貨幣なんですよ」 「まいったな。またまた行き止まりか」  如意輪寺の境内から延びている後醍醐天皇陵への石段を登りながら長山は溜め息を吐《つ》いた。すっかり足取りが重くなっている。 「てことは……鑑定に持ち込む前に殺されたとしか思えねえな」 「現実に古文書は存在するのかしら?」 「だろうさ。そいつを手掛かりにして大原ってヤツは乾坤通宝を発見した。じゃない限り見つけられっこねえよ。その上、髑髏の刺青をした連中が古文書を入手しているのも確実だ。文献を読めるような人間を仲間に加える必要があるとか言ってただろうが」 「だけど、あんまり手掛かりがなさ過ぎると思わない? 私には大原という人間さえ幻のように思えてきた」 「なにを言ってる。だったら隠岐の若い連中が会った大原も幻だと? 何日か大原と行動をともにした若いヤツもいるんだぜ」  石川も側《そば》で頷いている。 「冷静に考えるんだ。大原が架空の人間だとしたら、隠岐の若い連中ばかりか、髑髏の刺青組までもがオレたちを騙してることになるんだぞ。いったい何人が関係してる? そうやってオレたちを騙してなんになる。ましてや青森の大川原の殺人は、オレたちが後醍醐天皇に興味を持つ前の事件だ。あっちも死体なき殺人てのならオレもちったぁ疑いたくもなるがな。紛れもねえ殺人事件じゃねえか」 「でも……あるいは無関係の事件かも」 「リサの願望だろうよ。本気でそう思っているなら、阿呆の典型としか言いようがないね」 「………」 「妙な展開になってるのも確かだ。刺青組は威《おど》かしをかけるだけで、なかなか実力行使にゃ及ばねえ。不自然なほどにな」 「そうよ、絶対におかしいわ」 「待ちなって。リサは相手が狙ってくるのを期待してるのか? 現実ってのはこうしたものなのかも知れねえぜ。殺人鬼でもない以上、無駄な殺しは避けたいと思うのが当然だ。自惚《うぬぼ》れのつもりじゃねえが、オレを殺せば相当に世間が騒ぎ出す。現役の物書きが殺されたなんて今までに聞いたことがあるか? それも政治絡みじゃなくってな。その程度は連中にだって想像がつくだろうぜ。大川原の殺しや吉野のヤツとは違うんだ。おまけに今度は三人もいっぺんに殺さなきゃならん。威かしで手を引いてくれるならそれに越したことはなかろう。オレが連中の立場でもギリギリまで様子を見る。まあ、ヤツらより少しはましな威かしを考えつくと思うが……」 「それが正解ですよ」  石川は同意した。 「青森に死体が転がっていた以上、殺人者は必ずいる。オレの想像ではあの刺青組だ。とするなら吉野の件も可能性が強い。たまたま自分たちに手掛かりが見つけられねえからと言って、大原の実在を疑うってのは、それこそあらゆるものの否定に繋がるぜ。リサなんぞは、自分が見たことがないという単純な理由で宇宙人を信用してねえタイプじゃねえのか。女にはよくいるんだ」 「それとこれとは別だわ」  しかし、亜里沙は笑った。 「どれほど妙な情況でも、今のところ大原の実在を疑う根拠などねえよ」  三人は陵の前に立った。特にどうという想像をしていたわけではないが、それは思いがけないほど整然としていた。石の柱で囲まれた前庭の奥に小さな鳥居があって、その裏に円墳がある。だが、墳墓の上には樹木がびっしりと茂っているので形も分からない。鳥居や石柱の囲いがなければ、普通の森としか見えないだろう。 「あんまり怖いもんじゃないんですね」  陵を見るのはこれがはじめてだという石川が、なんだという顔で言った。もっとおどろおどろした空間を頭に描いていたようだ。 「この陵は京都に向かって作られている。後醍醐天皇の遺言なんだそうだ。魂になっても京都に戻りたいと願ったらしいな」 『太平記』には──玉骨はたとひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕《ほくけつ》の天を望まんと思ふ──と後醍醐天皇の鬼気迫る臨終の言葉が記されている。また僧形で葬られることも拒否し、生前そのままの姿での埋葬を願ったとも伝えられている。死後の安寧よりも、一族のために守護神になろうと祈願されたのだろうか。古来から天子は南面す、という言葉があった。それに従って歴代の天皇陵は南向きに作られてきた。その慣習さえ無視して北向きの陵を作るように命じた後醍醐天皇の心中はただごとではない。 「あの……単純な発想なんですが」  石川が長山におずおずと口にした。 「この陵に乾坤通宝が埋められているってことはないんでしょうか。天皇陵って、発掘調査がなされていないんでしょう? もしかしたら石棺の中にびっしりと……」 「そうよね。古墳の副葬品に貨幣があるのは珍しいことじゃないわ。有り得る」 「残念ながらハズレだろうよ」  長山は即座に首を横に振った。 「後醍醐天皇は相当の現実主義者だったみたいで、殉死を禁じたり、財宝を埋める必要はないと遺言ではっきり言い残している。それに天皇陵と言っても、南朝は明治になるまで正統視されてこなかったんだぜ。江戸時代辺りなら普通の豪族の墓程度の扱いで、監視の目もほとんどなかったんじゃねえか。断言はできねえが、盗掘されている可能性は大きいと睨んでるよ。なのにこれまで乾坤通宝が一枚も発見されていないのは、はじめから埋められてなかったと見るのが……」 「盗掘! まさか」  亜里沙はあんぐりと口を開けた。 「別に大した話でもなかろう。応仁や仁徳天皇の陵だって盗掘されているんじゃねえかと見ている研究者がいるんだ。正式な調査ができねえんで曖昧《あいまい》になってるだけだ。ましてや南朝となりゃ、遥かに簡単なことさ」 「なるほどなぁ。確かにここならその気にさえなればやれますよ。裏の方からまわって穴を掘れば人目にもつかない。水を張った深い濠《ほり》もないですもんね。多少の音を立てても下の如意輪寺までは届かないだろうし」  石川は山をぐるっと見まわした。どこにも侵入を拒むものは見当たらなかった。エジプトのピラミッドよりは盗掘が易しそうだ。 「こういう場合もやはり拝むもんかね」  長山が亜里沙に質《ただ》した。 「でしょう。お墓参りと一緒じゃない?」 「昔から拝むってのがどうも苦手でな。なんでか照れちまう。真剣に拝んでいる自分を想像して笑いたくなってくるんだ」  長山は言いながら掌を合わせた。  三人は黄昏《たそがれ》の迫る石段を足早に降りて境内に戻った。石段の降り口に小さな塚が建てられてある。楠木|正行《まさつら》主従の鬢《びん》塚だ。建武三年に彼の父である楠木正成が湊川の戦いで壮烈な戦死を遂げてから十二年目。また後醍醐天皇が崩御して九年目に当たる貞和三年(一三四七)十二月二十七日。楠木正行は足利軍との最後の決戦という覚悟を固めて、出陣の前に吉野にやってきた。後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇への別れの挨拶と後醍醐天皇陵参拝が目的であった。彼に従う部下は総勢百四十三人。後村上天皇から命を大切にするようにとのお言葉を頂戴した後、一行は陵に真向かい掌を合わせ、南朝のために一命を捨てる覚悟を伝えた。ゲリラ戦で足利軍を悩ましているとはいえ、楠木正行は南朝に利がないことを知っていた。不様《ぶざま》に転戦を重ねるよりは楠木一族の名誉を重んじ、見事に討ち死にして果てようと主従は誓い合った。陵の参拝を終えると主従は如意輪寺の本堂にそれぞれの鬢を切って投げ入れ、形代《かたしろ》となした。その鬢を埋めて楠木一族の栄誉を今に伝えているのが鬢塚なのである。また彼ら主従は本堂の板壁に各々《おのおの》の名を矢尻で刻み込み過去帳の代わりにした。全員が名を刻み終えると楠木正行は戸板へ辞世の歌を記した。   返らじとかねて思へば梓弓     なき数にいる名をぞとどむる  生きて二度と吉野には戻らないという決意の表われだ。その言葉通り、楠木正行主従は翌年の正月五日、大坂四条畷で足利軍八万を率いる高師直《こうのもろなお》と対戦し、全員が華々しい働きを見せたあと壊滅した。血みどろの南北朝血戦史にあって楠木正成・正行親子の忠誠は一筋の光明となって今に語り伝えられている。 「本物かよ」  宝物殿に足を踏み入れて直ぐ、長山は楠木正行の辞世の歌が刻まれた戸板を見つけて唸った。表面はすっかり黒ずんで文字も読み取れない状態だが、斜めから見ると確かに痕跡がある。亜里沙は丹念に見詰めた。 「なんて言えばいいのか……感動もんだぜ。こんなのが六百五十年も保存されているとはな」 「絵とか仏像じゃないものね」  亜里沙も深く頷いた。陵の前に立ったときにも感じたことだが、歴史の凄さがひしひしと迫ってくる。目と鼻の先の土の下に後醍醐天皇が眠っているのだと考えたら体が少し震えてきた。その上にこの戸板だ。目を瞑《つぶ》ると、二十三歳の若さで散った楠木正行の凜々《りり》しい姿が浮かんできた。カリカリと矢の先で戸板に文字を刻む正行。戸板はそれを見ていたのだ。      8 「そろそろくる頃よ」  酒だけ飲んでいつまでも食事に移ろうとしない長山に亜里沙は言った。七時に役場の観光課の高橋が宿にくる予定になっている。 「こちらが呼び立てておいて、のんびりと食事をしているわけにもいかないでしょ」 「もう充分だ。味噌汁とメシはいい。できたら握り飯にしておいてもらえんかな」 「ロビーの喫茶室で待ち合わせでしたね。だったらオレが先に行っていましょうか」  食事を終えた石川が腰を浮かせた。 「そうだな。きたら連絡をくれ。直ぐに降りて行く。余計な話はするなよ」 「心配なら一緒に行けば。そうやってぎりぎりまでお酒を飲むつもり?」 「分かったよ。皆で行こう」  長山も諦めて立ち上がった。  食事の用意されていた新館の二階からロビーは階段を降りて直ぐだ。七時にはまだ十分もある。ロビー側にある土産品売り場を覗いてみようと思ったが、奥の喫茶室にはすでに高橋らしい男の姿があった。  男は亜里沙たちが近づくと軽く頭を下げた。マシュマロのように太っている。そのせいで年齢が良く分からない。二十歳前と言われれば、そうかとも思うし、反対に三十五、六でも通用しそうな落ち着きも感じられた。 「高橋さんですね」  亜里沙は名刺を差し出した。 「こちらは作家の流山さんとカメラマンの石川君。昨日から吉野にきていて」  よろしく、と長山も席につく。 「今頃の吉野を紹介してくださるなんてありがたい話です。昨日のうちに連絡をいただけば私らの方で案内できましたのに」  高橋は吉野のどこを見てきたかと訊ねた。しばらく雑談が続いた。長山はタイミングを計って言った。 「コーヒーじゃなんだな。部屋に戻って酒でも飲みながらゆっくりと話を聞こう」 「あ、自分の車できましたんで」 「酒は嫌いに見えないけど」 「ええ、そりゃあ」 「だったらタクシーで帰ればいい。家もそんなに離れていないんじゃ?」  長山の誘いに高橋は嬉しそうな顔をした。  ビールで乾杯して十分も過ぎない間に長山は話を切り出した。ここなら遠慮もない。 「どうして中野のことをご存知なんです」  高橋は目を丸くした。 「ここにいる石川君の故郷が黒石なんだ。未解決の殺人事件となりゃ物書きの興味が疼《うず》く。偶然だろうが、その殺された男の出身地が吉野と分かって関心が強まった。たまたまタクシーの運転手さんとそんな話をしていたらお宅が同級生だと聞かされたのさ」 「きっと柴田の兄貴でしょう、タクシー会社にいる。あの人から聞いたんですね」  長山は曖昧に頷きながら、 「正月にクラス会があったんだって?」 「ええ、中野もきましたよ。オレは何度か会ってましたが、大半は十五年振りだから、皆懐かしがっていました」 「じゃあ、仲が良かったわけだ」 「仲がいいと言うより……互いにおなじようなことをしてましたんで。まあ、資料の交換みたいなことを」 「おなじようなこと?」  長山と亜里沙は首を捻った。 「郷土史の研究です。私の方は仕事の延長に過ぎませんけど……中野は大学で歴史を専攻したらしくて」 「なるほど、そういう意味か」 「資料の交換と言っても、こっちが頼まれて資料を送ってやる回数の方が多かった。去年の夏は休みのほとんどを費やしてこっちにきていましたからね。教師は時間が取れていいなと羨《うらや》みました。長野にも調査にこいと誘われていたけど、とうとう行けなかった」 「長野……名古屋じゃなく?」 「ええ。南アルプスの麓の大鹿村というとこです。ヤツはそこで教員を」 「どの辺りなんだい?」 「どの辺りと言われても……飯田市を知ってますか? 天竜川に沿った伊那谷の中心地。東京からなら不便でしょうが、名古屋からは高速バスで二時間くらいです」 「………」 「家族はその飯田市に暮らしていて、中野はそこから車で三十分ほど離れた大鹿村に」 「あの……」  亜里沙が口を挟んだ。 「中野さんが調査にきたというのは後醍醐天皇のことで?」 「そうですよ。関係なくなったと思っていたら、また後醍醐天皇だと笑ってた」 「またとは……どういうことだ」  長山は身を乗り出した。 「それもご存知じゃないんですか……大鹿村は昔の大川原。宗良《むねなが》親王が没したと伝えられている場所です」 「大川原!」  亜里沙たちはゾクッと身震いした。  宗良親王は後醍醐天皇の第四子。母親が歌道の大御所である二条家の出身であったことから、幼い頃より詩歌に親しみ、その性格も後醍醐天皇の多くの皇子の中では最も穏健だったと伝えられる。だが後醍醐天皇の数奇な運命に巻き込まれ、波瀾《はらん》の多い一生を過ごした。そのはじめが後醍醐天皇の命によって十歳にも満たないうちに天台宗の三門跡の一つである妙法院に入室させられたことだ。これには二通りの解釈がある。鎌倉幕府は天皇の権力を封じるため、その継承権に関しても厳しい干渉を加え、天皇の系統が大覚寺統と持明院統の二つに分かれていることを幸いに、践祚《せんそ》を両統が交互に行なうべしとの裁定、と言うよりも命令を与えていた。こうすれば天皇権力が一代限りのものとなり、また、互いの反目も生じてパワーが減少する。後醍醐天皇とて例外ではなく、即位こそできたものの次の天皇に予定されているのは自分の皇子ではなかった。だがその皇子たちをそのまま宮廷にとどめ置けば鎌倉幕府よりあらぬ疑いを持たれる結果となる。そこで仕方なく皇子たちを次々に仏門に帰依させた。それが第一の解釈。もう一つはもっと積極的に後醍醐天皇が討幕の意思を持って皇子たちを仏門に加えたという解釈だ。この当時、強大な幕府軍に真正面から対抗できる力を内在していたのは比叡山延暦寺などに代表される僧兵だった。おまけに仏門には全国に張り巡らされた膨大な情報ネットワークがある。もしこれを掌握できれば不可能と思われていた討幕も決して夢ではなくなる。後醍醐天皇はまず最初に宗良親王の兄の護良親王を、やはり天台宗の三門跡の一つ梨本門跡に入室させ、わずか五年も経たないうちに二十歳の若さで天台座主の地位につけることに成功した。座主とは全国にある天台宗寺院の統括者。次いで宗良親王を妙法院に入室させ、十五になるかならぬかの歳で門跡を継承させた。兄弟二人がトップの座にいるのだから天台宗は後醍醐天皇の傘下に入ったことになる。後醍醐天皇のそれからの生涯を考えると、二人の皇子の仏門入りは、討幕の準備段階と見做して間違いがなさそうだ。護良親王が天台座主に就任する直前の嘉暦元年(一三二六)より後醍醐天皇は宮中において幕府|調伏《ちようぶく》を目的とした祈祷を開始している。名目は中宮の安産祈願となっているが、この祈祷はなんと四年間も続けられたのだから安産祈願であるわけがない。祈祷の指導者は真言立川流の文観。もともと立川流は天台密教の流れを汲むものなので、うがった見方をすれば文観との出会いが後醍醐天皇をして天台宗への接近を図らせた要因であったのかも知れない。討幕の準備は着々と進んでいた。これより前の正中元年(一三二四)に幕府討伐の陰謀が発覚し慎重になっていた後醍醐天皇は、今度こそという気構えで勢力拡大を密かに行なっていた。もし側近の吉田定房の六波羅探題への密告がなければ、鎌倉幕府討伐はもっと早くに成就していた可能性がある。しかし元弘元年(一三三一)幕府はこの密告を受けてただちに関係者の逮捕に踏み切った。正中の変の際には家臣の一存であるとごまかした後醍醐天皇も、二度目の謀反《むほん》発覚となっては申し開きができない。護良親王や宗良親王とともに京を逃れ、笠置山に陣を敷いた。だが大軍の前にあって間もなく敗退。護良親王は楠木正成と一緒に逃亡できたが、宗良親王は後醍醐天皇と運命をともにし幕府に捕らえられた。一度目は寛大な処置を取った幕府も二度目の謀反に激怒し、天皇の地位を奪い、後醍醐天皇を隠岐に、宗良親王を讃岐に配流した。資料によると、逮捕されてからの宗良親王は幕府の事情聴取においても柔順で、討幕の意思は否定したものの、常にさめざめと涙を流していたという。強靭な精神力を持ち、また、野心に長《た》けた後醍醐天皇の皇子として生まれた不幸とも言える。血なまぐさい戦さよりは、文学を愛する皇子だった。むしろ讃岐への配流が決められたときは安堵の方が強かったかも知れない。だが、二年もしない間に情勢は変化し、後醍醐天皇が隠岐から脱出し建武の新政を成功させた。もちろん宗良親王も讃岐から京都に戻ることができ、天台座主のポストを与えられる。兄の護良親王は仏門に復帰せず、武士を束ねる征夷大将軍の地位に就く。これで済めば宗良親王も安穏な生涯を送れたはずである。だが、今度は鎌倉幕府の代わりに足利尊氏が叛旗《はんき》を翻した。尊氏は後醍醐天皇によって地位を剥奪された北朝の元天皇・光厳上皇に接近し、正式な皇統はこちらにあると天下に宣言し、いわゆる南北朝の争いが勃発《ぼつぱつ》する。南朝方は足利に敗れ、宗良親王はふたたび仏門から離れ、勢力拡大のために、静岡、山梨、長野、新潟の豪族の取り纏《まと》めを後醍醐天皇より命じられた。以降、およそ五十年の歳月を宗良親王は南朝の戦力を支える影の役割を果たしながら諸国を転々とした。享年は不明であるが、七十歳を越していたと言われる。亡くなったのは南北朝が和睦し合体する直前であった。動乱の発端から合体に至る五十有余年をほとんど体験した、ただ一人の人物でもあろう。地の利の良さからか、諏訪を中心とする信濃には長期滞在した。特に伊那谷の大川原を支配する豪族|香坂高宗《こうさかたかむね》を信頼し何度となく訪れた。大川原には宗良親王の御所跡も残されている。 「とんでもねえことになってきたぜ」  高橋から一通りの説明を受けると長山は亜里沙や石川と顔を見合わせた。 「青森の大川原は長野から逃げ延びてきた南朝の残党が拵えた村だと言ったな」  長山は石川に確認した。 「そいつは長野の大川原の連中だろうよ」 「でしょうね。親父からは、長野に隠れ住んでいた後醍醐天皇の皇子を守っていた豪族の一族だと聞きましたから……おなじ地名といい、絶対に間違いありません」  その言葉に今度は高橋が驚いた。 「大川原って……青森にもあるんですか」 「なんだ知らないのか? 中野真一が殺されたとこだぞ」 「まさか! オレは黒石市としか」 「ま、普通はその程度しか言わんだろうな」  長山は納得した。東京や大阪みたいな大都会ならともかく、地方都市での事件なら弘前で殺されたとか、別府の近くだとしか説明をしないはずだ。 「いったいどういうことなんです?」 「そいつが分かれば苦労もない」  長山はグラスをあおった。 「ってことは、お宅も青森の大川原に関してはなにも聞いていなかったらしいな」 「ええ、まったく初耳です」 「火流しについてはどう?」  亜里沙の質問にも高橋は首を振った。 「中野君は後醍醐天皇のなにを調べていたんだ? 資料を送ったと言ったろ」 「それが良く分からないんですよね。ただ後醍醐天皇よりは九州に派遣された懐良親王のこととか、皇子の情報を知りたがっていた」  隠岐で耳にした大原の興味と同一だ。長山たちは小さく頷いた。 「乾坤通宝のことはどうだい?」  長山が言うと高橋は絶句した。 「なんでそのことを?」 「やっぱり探ってたわけだ」 「探るってほどじゃありませんが、存在を信じているようでした。論文を書きたいとか」 「だんだん読めてきたな」  だがそれ以上を長山は口にしなかった。      9 「なんのために呼び出されたか変に思っていないかしら」  高橋が帰ると亜里沙は言った。 「結局、同級生の話だけでしたね」  石川も頷いた。 「それに、途中からチョーサクは話を逸《そ》らすし。フォローに苦労したわよ」 「当然だろうが。まさかあの男に大原殺しの件を打ち明けるわけにゃいかん。中野のことを聞き出しただけで充分さ」 「読めてきたって、どんな風に?」 「大原の家に伝わる古文書には、乾坤通宝が軍資金として皇子に渡されたと書かれていた。九州の懐良親王の分は隠岐の洞穴に隠されている。残るは宗良親王だ。となりゃ、一番怪しいのは長野の大川原となる。恐らく中野真一は大川原の学校に勤めているうちに、古い資料でも見つけて、そいつを知ったんじゃねえかな。もともと吉野生まれで後醍醐天皇には関心があった。だが、残念なことに宗良親王を匿《かくま》っていた豪族の子孫は逃亡して青森に移住した。軍資金である乾坤通宝もそのまま青森の大川原に運ばれた可能性が高い。それを突き止めようとして中野は青森に向かった」 「有り得るわね」 「今度は大原との繋がりだ」 「………」 「乾坤通宝絡みの殺人が、別々の偶然とはとても思えねえ。まさか無関係な人間が時期をおなじくして宝捜しをはじめたなんてのは絶対にねえさ。どっちがどっちに近づいたかはもちろん断定もできねえが、二人は知り合いだったと思う。中野も間違いなく古文書を読んだはずだ。あるいは青森で乾坤通宝を発見した中野を欲に駆られた大原が殺そうと狙い、その実行を刺青組に依頼したんじゃねえか。ところが今度は大原が殺《や》られた。刺青組は大原を殺して古文書を手に入れたものの、乾坤通宝の発見者は中野なんで、肝腎の場所が分からなくなった。そこでとりあえず大原の足取りを追って隠岐に渡った。隠岐には中野だって行っているんだから、そう考えても不思議はなかろう」 「なーるほど。完璧ですね」  石川は興奮した顔で頷いた。 「縺《もつ》れた糸がそれで全部繋がります」 「だいたいの筋は納得できたけど……」 「なんだ、まだご不満かい」  長山は亜里沙を睨んだ。 「私たちの行動を警戒した理由は? そんな行き当たりばったりの殺人を犯した連中だったら、私たちにまで注意をしないと思うわ」 「そいつは分からんぞ。連中にしてみりゃ、なんの気なしに隠岐にきたら、後醍醐天皇のことを調べまわっている雑誌社の人間と鉢合わせになったというわけだ。オレたちは当然隠岐で後醍醐のことをあれこれと嗅《か》ぎまわる。すると少し前に隠岐を訪れた大原についても情報を得るかも知れん。そいつを手繰《たぐ》られて吉野の殺人を突き止められれば厄介《やつかい》だ。傷口が広がらないうちに手当てをしようとしてもおかしくはねえよ。実際にオレたちゃ大原の情報を島で得たんだ。矛盾はねえぜ」  そうかしら、と亜里沙は思った。長山の推理を聞いた限りでは確かに論理が通っている。けれど、どこかに穴があるような気がした。 「明日は長野に行くぞ」  突然の言葉に亜里沙は噎《む》せ込んだ。 「ちょっと待ってよ。どうして?」 「吉野で死体を捜すよりは、現実的な中野殺しを追いかける方が早いってことさ。中野と大原が知り合いだとしたら、必ず大原も長野の大川原に行っている。刺青組だってまさかオレたちが長野にまで足を延ばすとは思っていないだろう。ようやく出し抜けるチャンスだ。上手く大原の情報を得られりゃ警察だって信用してくれるかも知れん」 「その通りですよ。それが一番だ」  石川が少年のように目を輝かせた。 「すべての鍵は長野にある」  長山は言い切った。 [#改ページ]  四 幕 青森と長野の大川原の狭間に立つ塔馬双太郎のこと      1 〈オレも物好きなもんだな〉  東北新幹線の窓に流れる変化に乏しい田園風景をぼんやりと眺めながら塔馬双太郎は苦笑した。別に頼まれたわけでもないのに、こうして朝早い列車に乗って、本州の北の果て青森を目指している。 〈どうも東北がついてまわっている〉  これで何度目の東北新幹線なのだろう。最低でもここ二、三年の間に五回は乗った。盛岡だけでも三度は訪ねている。性に合う土地があるとするなら自分にとっては東北なのかも知れない。と言ってもまだまだ未知の町の方が多い。弘前《ひろさき》にはだいぶ前に骨董《こつとう》屋を訪ねて行ったことがある。その時はまさか、となりの町の黒石市に、こういう形で向かうことになるとは想像もしていなかった。そもそも黒石市の名前さえ記憶にない。調べてみたら相当に古い歴史を持つ町だ。骨董屋もたくさんあるに違いない。なぜ前回に外したのか自分でも分からなかった。 〈あの時は一週間で東北を回ったからな〉  きっと先を急いだのだ。福島の郡山からスタートして会津若松、仙台、青森、秋田、酒田の順に泊まり歩いた。弘前でさえ途中下車だったのだから黒石は諦めて当然か…… 〈そろそろ仙台だ〉  アナウンスが流れるとおなじ車両に乗り合わせていた団体客が降車の準備にかかった。どういう集まりなのか分からないが五十代の婦人ばかりの団体だ。男と違って酒を飲んだりはしないけれど、それ以上に凄《すさ》まじいお喋《しやべ》りだった。東京からここまで跡切《とぎ》れることなく悪口や自慢話が塔馬の周囲を飛び交った。何人かの共通の友人らしい三度も離婚した女性に対する噂話には、塔馬も本を読むのを止めて聞き入った。公平に判断すると、盛んに悪口を言っている婦人たちよりも、この場にいないその女性の方が魅力的に感じられた。  仙台で団体客がいなくなると車両は急に静かになった。だれかが溜め息を吐《つ》くと、あちらこちらで苦笑が洩れた。たいていが辟易《へきえき》としていたようだ。 「ご苦労さまです」  背後から塔馬に声がかかった。 「本当にこられたんですね」  塔馬は笑って山影に席を勧めた。 「盛岡まではノンストップだから、もうだれもこの席にはきませんよ」  山影は頷《うなず》くとバッグを網棚に上げた。 「お互い、物好きだと思いませんか」  塔馬の言葉に山影は首を振った。塔馬は昨日の夜、吉野の長山に電話をした後、突然に黒石行きを思い立ち、ついでに山影にも連絡した。おなじ東北なので知り合いの刑事でもいたら紹介して貰おうと考えたのだ。そうしたら山影が休暇を取って自分も合流すると言い出したのである。山形の尾花沢からだと合流地点は仙台。互いに時刻表を確認して約束はしたものの、内心では危ぶんでいた。いくら暇な署でも昨日の今日だ。 「奈良にはとても行けませんが……黒石くらいでしたら付き合えますよ。長山さんにもだらしない警察だと笑われましたんでね」 「山影さんと一緒なら助かります」 「いやいや……管轄外の事件ですんで。お役に立てるかどうか。向こうさんにしても、無関係な私を歓迎してはくれません。まあ、長山さんのお叱りもごもっともですな」 「………」 「塔馬さんが青森まで足を延ばされるというのに、警察にいる私がなにもしないでは情け無い。言わば面子《メンツ》の問題でして」  山影はこともなげに言った。まさか、と塔馬は思った。山影も心の奥底では長山たちを心配している。だから決心したのだ。 「今夜の宿はもう?」  山影は塔馬に訊《たず》ねた。 「決めていないんでしたら、同僚からいい宿を紹介されてきましたよ。大川原の麓《ふもと》にある温泉宿。板留《いたどめ》温泉と言いましてね。民宿がほとんどなそうですが、安くて食事が旨いという評判です。火流しの日以外は開店休業みたいなものらしいんで予約がなくても大丈夫だと。そこからなら大川原も車で直《す》ぐです」 「私は構いません。温泉か。山影さんとは妙な因縁ですね」  塔馬の言葉の意味を山影も理解した。山形の鄙《ひな》びた温泉宿での事件が塔馬や長山たちと山影を結び付けた発端だった。 「しかし……長山さんも職業柄というか、事件に巻き込まれますな。あれから一年も過ぎておらんのに。電話を貰って驚きました」 「異常……でしょうね。普通の人間が連続して殺人事件に巻き込まれる確率はゼロに近いと思っていましたが、これでは持論を撤回する他にないかなと考え直していたところです」 「だから職業柄だと……推理小説を書いていれば、おかしな話を持ち込んでくる手合いもおるんじゃありませんか。外国と違って日本では私立探偵も今一つ信用がない。かと言って警察に相談すれば後戻りができなくなる。身近にそういう作家でもいれば頼りたくもなりますでしょう。医者や坊主が死体と馴染みのように、ミステリー作家なら犯罪と親戚のようなもんですしね」 「耳にするケースが多いのは分かりますが。今度の場合はチョーサクが探り当てた殺人です。それとは事情が違う」 「しかも、青森の殺人事件を奈良にいて、ですからな。まったく面白い」  ちょいと、と山影は車内販売を呼びとめて缶ビールを四個買った。 「あ、そうか。塔馬さんは昼酒をしない人だった。コーヒーの方が?」 「いや……せっかくだから一本だけいただきます。ちょうど喉《のど》が渇いていました」 「旅行となると、こいつが楽しみで」  山影は坊主頭を掻《か》いた。地元では怪物と仇名《あだな》されるほどの酒好きだ。仕事を離れると軽く二升は飲む。缶ビール三本は水代わりに過ぎない。それを知っている塔馬は今夜のことを想像して少し不安になった。塔馬も酒は嫌いな口ではないが、果たして山影にどこまで付き合えるものだろう。 「青森に酒仲間がいまして……いや、こいつがとてつもなく飲むんですわ。体は私の半分くらいしかないってのに、平気でボトル二本は空ける。仲間うちじゃスポンジって名で通ってます。どれだけ酒を吸い込むか見当もつかん。夜はそいつと飲むことにしました」  塔馬は噎《む》せ込んだ。 「あ、塔馬さんはご心配なく。あいつと会うにしても夕方からです。仕事を終えてから合流する約束を交わしたので。あなたは気にせずのんびりと温泉にでも浸《つ》かっていれば」 「山影さんより強い人が? さすが東北だ」 「女も大したもんですよ。前にいた署は特に酒豪揃いでした。五人の婦警がおったんですがね、女ばかりの忘年会で旅館に酒を持ち込んで六本を飲み干したという噂だった。しかも夕食時に飲んだビールは勘定に入れていないってんだから呆《あき》れた女どもだ。そのうち三人が嫁入り前の娘でしてね。綺麗な娘たちだったが、あれじゃ男も尻込みする」 「………」 「都会と違って田舎は遊び場も少ないし、狭いんで人の目もうるさい。男はまだしも、女たちは自分の部屋で酒を飲むしかストレスを発散できんのでしょうな。特に警察に勤めていれば酒場に出入りするのもちょいとね」 「それに較べたら水割り十杯ぐらいで自慢なんかしてられないな」 「毎日が退屈だから酒に頼る。東北六県の酒の消費量はどこも全国平均を遥かに上回っているそうです。秋田が一位でしたか……考え直さないといかん問題かも知れん。私のような年寄りは仕方がないにしても、結婚前の娘が酔っている姿を見るのはどうもねぇ」 「まだ年寄りにはほど遠い年齢でしょう」  塔馬より一、二歳上だったはずだ。 「あなたも世間的には年寄りなんです。私なんぞ飲み屋の娘にいつも言われています」  塔馬は苦笑して山影を見詰めた。同世代の自分から見ると、山影には気力と若さが感じられた。丸い童顔のせいもある。 「ところで、後醍醐天皇のことですが……」  山影は話題を変えた。 「いや、後醍醐天皇のことってわけじゃないな。全然無関係な話です」 「なにか?」 「尾花沢にも天皇陵があるのをご存知ですか」 「天皇陵って……本当の?」 「地元の連中は信じておりますがね。順徳天皇の陵だと伝えられております」 「順徳天皇……」  咄嗟《とつさ》に言われても分からなかった。 「後鳥羽上皇の息子で佐渡に流された──」  ああ、と塔馬は頷いた。鎌倉幕府の政治に不満を抱き、源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されたのを契機に討幕の旗を掲げ、結局は北条氏に敗北した後鳥羽上皇。その第三皇子だ。謀反《むほん》は承久三年(一二二一)に勃発《ぼつぱつ》したので、承久の乱と呼ぶ。平定後、後鳥羽上皇は隠岐に、第一皇子の土御門天皇は土佐、そして順徳天皇は佐渡に配流された。後醍醐天皇が隠岐に流されるおよそ百年も前の事件である。後醍醐天皇は運良く隠岐を脱出し、幕府討伐に成功したが、後鳥羽上皇一族はそれぞれが配流の地で虚《むな》しく没した。順徳天皇の崩御したのは仁治三年(一二四二)九月十二日、四十六歳。佐渡での生活は二十年にも及んだ。 「さすがにいろんなことを知っている」  逆に細かな説明を塔馬から教えられて山影は笑った。 「歴史の上では佐渡で即刻|荼毘《だび》にふされ、遺骨は京都に運ばれて埋葬されたことになっているらしいんですが、本当は亡くなられたのは偽者で、本物の天皇は佐渡を脱出して新潟から出羽に抜け、最上川を遡《さかのぼ》って尾花沢まで到達したと……それから四年間を尾花沢の御所で過ごされ五十歳で亡くなった。その御所跡は現在、御所神社と呼ばれております。境内の背後には順徳天皇を葬ったとされる天子塚もちゃんと……」 「脱出して尾花沢でなにをしていたんです」 「さあ……昔の尾花沢では、佐渡とあまり変わりのない環境だったでしょうな。それでも陸続きでどこにも行けるという安心は別物かも知れません。佐渡で順徳天皇のご遺体は翌日に荼毘にふされたと聞きました。そういうことは絶対に有り得んそうじゃないですか」 「でしょうね……よほどの事情がない限り」 「幕府の検死から逃れるためだと……私は別に興味を持っているわけじゃないが、なんにしても尾花沢のような山深い田舎にそんな伝説が残っているのは不思議です。火のないところに煙は立たず、と言うでしょう」 「前にそれを聞かされていたら見たのに」 「あんな事件の最中では無理と言うものだ」  山影は二本目のプルトップを引いた。 「東北は昔から幕府に抵抗していたわけですし、あながち嘘とも言い切れませんよ。青森の大川原にしても、南朝の残党が逃げ込んだのは事実らしいですからな」  山影の言葉に塔馬も頷いた。鎌倉幕府は平泉政権を討伐したことによって完全な全国制覇を為《な》し遂げた。逆に言うと東北には鎌倉方にくみしない人々が大勢いたということだ。その討伐を図った後鳥羽上皇や後醍醐天皇に好意を抱くのも当然と言えるだろう。順徳天皇の陵の存在は、その象徴でもある。長山や亜里沙から青森の山深い場所に後醍醐天皇を祀《まつ》る祭りがあると聞かされた時は違和感を覚えた塔馬だったが、決して荒唐無稽の話ではない。塔馬は静かにビールを喉に流し込んだ。      2  盛岡から高速バスに乗り継いで弘前に到着したのは午後の三時。ここから黒石市までは約二十キロ。タクシーを利用すればせいぜい三十分だ。山影はバスセンターで板留温泉に電話を入れて今夜の宿を予約した。 「簡単に予約できました」 「青森のスポンジさんは?」  タクシー乗り場の前で煙草を喫《す》っていた塔馬は戻った山影に質《ただ》した。 「あいつは八時過ぎに車でくるそうです。青森からだと東北自動車道を飛ばして板留温泉まで三十分もかからんそうですよ。明日は休みなんで朝まで飲もうと張り切ってました」 「どっちも警察の人とは思えないな」 「県警本部にいるので大川原の事件も良く知っております。担当ではありませんが資料をコピーして見せてくれると」 「それは好都合だ。やっぱり山影さんに同行していただいて良かった」 「そいつは資料を見てから言ってください。なんの手掛かりもなくてお手上げの情況だと言っていました。期待はできません。なにしろ祭りの当日には一万を越える人間が出入りしたと聞いてますからね。流しの犯行なら割り出しがほとんど不可能かと」 「殺された男はいつから大川原に?」 「祭りの三日ほど前から黒石の旅館に投宿していたと聞いてますね。私から警察に問い合わせれば教えてもらえるでしょう。最初はそっちから回ってみますか? 聴取済みの宿に我々が行くと知ればいやがりますかな」 「そういうものですか?」 「冗談ですよ。そういう誤解が世間にある」  山影はニヤリとして煙草をくわえた。 「はじめてでしたら、珍しいでしょう」  タクシーが黒石市内に入ると、それまで無口だった運転手が古い商店街のアーケードを二人に紹介した。木造の庇《ひさし》が店から大きく迫《せ》り出してずうっと続いている。 「こみせ、と言うんです。雪|避《よ》けの工夫ですよ。あれがないと大雪で通行ができなくなる。こみせの下には雪が積もらないんで」  塔馬には珍しかったが、積雪の多い山形に暮らす山影には見慣れたものらしかった。 「住所から言うとこの辺りかな」  運転手は狭い道をくるくると走った。古い木造家屋が残されているせいか町の印象は暗い。しかし、こぢんまりとしていい町だ。雑然と広がる弘前よりも人情味が感じられる。  中野真一の泊まっていた宿はビジネスホテルに近いものだった。停止したタクシーの窓からフロントを透かし見て塔馬は失望した。この形式では客との接触が乏しい。出入りも割合に自由にできる。 「あとはよろしいですか。なんならメーターを倒してお待ちしますけど」  商売上手か親切なのか分からない。山影はここまででいいと断わった。市内ならタクシーが他にいくらでも拾える。 「若い連中はどこに行っても干渉されないホテルに泊まりたがる。旅館だと窮屈なんでしょうな。お陰で捜査がむずかしくなりました」  山影もおなじことを考えていたようだ。 「前にもお話しいたしましたが……」  フロントの男は山影が警察の者だと知ると面倒臭そうな顔をした。まだ三十代に思えるけれど、この宿の支配人だと言う。代々続いた旅館を改造して間がない。 「私どもはここの警察ではありませんので」  曖昧《あいまい》な言い方だが、男には通じた。殺人事件となれば全国の警察がきてもおかしくはないと思っているらしい。こちらへ、と言って二人を食堂を兼ねた喫茶室に案内した。 「で……なにから?」  コーヒーを言いつけて二人と相対する。額の秀でた神経質そうな顔付きだ。日焼けのない青白い肌をしている。 「殺された中野真一は記憶に?」 「まあ……なんとか。三日も滞在するお客は滅多《めつた》にありませんので。と言っても、その程度のことです。私は一日に一度ぐらいしか顔を合わせませんでした。戻りはたいてい真夜中だったですよ。そういう場合はフロントに鍵を置いて休んでしまいますし」 「危なくはないですかね?」 「休むと言いましても、実際にはフロントの脇の部屋に……玄関のドアが開けば部屋のチャイムが鳴ります。その気になればいつでも確認ができますから、はっきり宿泊客だと分かれば顔を出さないだけです」 「どこで判断します。監視カメラでも?」 「一応は用意してありますが、ほとんどは気配で……それが商売ですんで」 「じゃあ、すべての出入りはカメラに?」  塔馬が訊ねた。 「それも警察の方に訊《き》かれましたがね……現実には意味がないんですよ。ロビーはフロント付近を除いて照明を消してしまいます。鍵を取りにきたお客の判別はつきますけど、そのまま階段を上られればカメラには写らない。ウチばかりじゃなく、どこでもそうです」 「いい加減なもんだな」  山影は少し憮然《ぶぜん》となった。 「それでもこれまで泥棒に入られたことは一度も……苦情を申し立てられたことだって」 「宿の事情を知っている者には、見咎《みとが》められずにいくらでも出入りが可能なわけだ」 「見て見ぬフリをしなければいけないことも時々はあります。あんまり厳重にすると」  支配人は言葉を濁した。観光客が町で女性を拾う場合もあるのだろう。 「まあ、いいでしょう。つまりは……中野真一を訪ねてきた客のこととか、彼がどこに行っていたかも分からないと言うわけだ」 「挨拶ぐらいしか交わさなかったので」 「宿帳にはきちんと記入を?」 「ええ。あの人のポケットからウチのマッチが発見されて、直ぐに問い合わせがきました。記帳されていた電話番号は自宅のものだった」 「所持品は部屋に置いてあったとか」 「もう一泊の予定でしたから」 「特に変わった様子は?」 「無理ですよ。あの前後はお盆の真っ最中で客も多かったですし、よほど妙な態度でもない限り気がつきやしません。従業員のだれに訊いてもおなじ答えでした」  なあ、と支配人はウェイトレスに同意を求めた。コーヒーを運んできた女の子も頷いた。 「むしろこの子の方が私より知っているはずです。毎朝ここで食事をしていたから」  支配人はしきりにフロントを気にした。 「中野に外線が入ってきませんでしたか」 「電話ですか? いいえ、どこからも」 「反対はどうです。部屋からかければ記録が残るはずだ」 「それは警察の方に……確か自宅に何回かかけていたと記憶しておりますが。他は特に」  山影は頭を下げると、あとはこの娘さんに伺うと言って、支配人との話を終えた。 「コーヒーのお代は結構ですから」  ホッとした顔で支配人は席を立った。 「今の話以外になにか記憶はありますか」  代わりに山影は娘に席を勧めた。林檎《りんご》のような頬をした純朴そうな娘だった。山影に見詰められてか、丸い目が少しおどおどしている。娘は両手を膝に揃えていた。 「支配人のおっしゃった通りです。毎日、遅めの朝食を終えると、そのまま外に出たきり。私は夕方までの勤務なので夜のことは……」 「どこに行っていたんでしょうな。思いつきでも結構なんだが」 「………」  娘は押し黙った。が、ただの沈黙ではない。山影は直感を抱いた。 「なんでも構わんですよ。迷惑はかけない」 「いつだったか、町で見かけました。でも、私の見間違いかも知れないし」 「どこで?」 「中町の通りです。仕事を終えて買い物をしていたら市役所の車に乗ったあの人が」 「市役所の車?」  山影と塔馬は顔を見合わせた。 「あ、でも、やっぱり勘違いかも」  娘は慌てて首を横に振った。 「知っていた方が同乗していたんですな」  山影はカマをかけた。無関係な相手なら躊躇《ためら》う必要もない。市役所に忠義を尽くすなどとは考えられないことだ。 「観光課の人じゃないのかい」  塔馬の言葉に娘は唖然とした。 「ご存知だったんですか」 「彼は後醍醐天皇に興味を持っていたからね。教育委員会とか観光課を訪ねても不思議じゃないよ。心配は無用だ」 「なんだ、そうだったんですか。私、どうして近藤さんが一緒なのかと……」  娘は明るい顔に戻った。      3  塔馬たちは六時過ぎに予定の宿に入った。二人とも昼には新幹線のビュッフェでカレーを食べたきりなので腹が空いていた。風呂は後回しにして早速夕食の膳についた。山菜や川魚が食欲をそそる。 「ほほう。これははじめてだ」  楽に一升は入る巨大な杯の中央に焼き上げられた岩魚《いわな》が二匹。その上に仲居が薬罐《やかん》で沸かしてきた熱い酒をたっぷりと注《つ》いだ。酒の匂いに香ばしい焼き魚のそれが溶け合って、山影の喉がゴクッと鳴った。フグのヒレ酒に似た感じだが、豪快さが違う。赤い塗りの温泉に岩魚が泳いでいる。 「これは一人分かね?」 「お酒が一升ですよ」  もちろん二人分だと言って仲居は笑った。 「明日は近藤という男に会ってみますか」  ようやく人心地がつくと山影は口にした。娘から話を聞き終えると二人は警察を訪ねて捜査の進展をそれとなく問い質したのだ。収穫はゼロに等しかったが、中野が市役所の人間と会ったことは警察も掴んでいなかったようだった。もちろん、ただの観光の問い合わせに過ぎなかった可能性もある。けれど、あれほど地元で騒がれた事件であるなら、市役所の方でも情報を提供するのが自然ではないか? それが二人の持った感想だ。 「関わり合いになるのを恐れる理由はない」 「中野が市役所に連絡を取ったのも間違いありませんからね」  警察で見せてもらった中野の電話記録には市役所の番号が二度も含まれていた。代表番号なので市役所のだれにかけたかまでは突き止められない。だが、恐らく観光課の近藤だろう。警察では観光客が市役所に電話するのは別に不審なことでもないと判断したらしく裏を取った気配もなかった。 「ひょっとすれば、ひょっとしますよ」  山影は言いながら岩魚の骨酒《こつしゆ》の大杯を両手で抱えた。塔馬はグラスに一杯分けてもらっただけで、残りは全て山影に預けた。 「市役所が終わっていたのは、むしろ幸いだったかも知れませんな。いきなり行けば、こちらにも余裕がない。攻め方を工夫する必要がありそうです」 「観光課か。やたらとそんなのばかりだ」  昨日の夜も長山から吉野の観光課の人間に話を聞いたと連絡を受けている。 「長山さんたちは向こうの大川原に到着しましたかね。あっちもだいぶ遠いとか」 「ええ。いったん名古屋に出て、飯田市まで高速バスで三時間近く。そこからまた電車に乗り換えるとか。昼に吉野を出ると言っていたんで、ちょうど今頃じゃないでしょうか」 「日本も広いもんですよ」 「そうだ。奈津子君に連絡をしておかないと」 「奈津子さん? ああ、秘書の子でしたな」 「宿が決まったらお互いに彼女のところに居場所を知らせる約束を……」  酔わないうちに塔馬はダイアルをまわした。まだ長山から連絡はなかった。今夜はどこにも外出しないと伝えて電話を切った。 「外出したくとも飲み屋はない」  山影は苦笑して窓の外を眺めた。真っ暗だ。まだ七時を過ぎたばかりなのに真下に見える川沿いの道には人一人歩いていなかった。 「これでも大川原に較べると都会だって言うんですから……尾花沢で文句を言えば罰が当たるというもんだ。田舎でも飲み屋だけは多い町でしてね。車で十五分も離れていないのなら黒石市内に泊まっても良かったかな」 「真言立川流? ええ、名前だけは」  塔馬からその話が飛び出すと山影はポカンと口を開けた。 「確かに長山さんから髑髏《どくろ》の刺青《いれずみ》をした連中のことは耳にしておりますが……」 「それを偶然の印《しるし》か、あるいは必然性のある髑髏かと考えることによって事件の様相はだいぶ異なってきますよ。私も髑髏が後醍醐天皇とまったく関係のないものなら、こんな妙な想像はしません。山影さんは後醍醐天皇が真言立川流に帰依していたことをご存知ですか? 当時の真言立川流の指導者文観は後醍醐天皇の側近の一人だったんです」 「ほう。天皇が立川流をねぇ」 「そもそも乾坤《けんこん》通宝の命名にすら文観の影響が感じられます」 「………」 「乾坤とは天地と同一の言葉です。陰と陽、火と水、この地上のあらゆる物は究極的に相反する二つの物に分けられる。その陰陽道の説く二元論を密教に取り入れて、陰陽の合体にこそ浄土が存在するとぶち上げたのが真言立川流でした。まあ、もっと複雑な理論ですけど、単純に要約するとそうなる。しかし、現実に陰陽の合体と言ってもむずかしい、そこで陰と陽とを人間に当て嵌《は》めた。もう分かるでしょう? 女と男が陰と陽で、その合体となればセックスしかない。セックスで得られる快感が、いわゆる浄土の法悦というわけだ。なんとも強引でバカバカしい理論に思われますが、これを説く人間が密教を学んだ僧侶だったので人々も信用した。当時の仏教は最高の学問でもありましたからね。一般人の言葉とは重みが違います。その上、その実行にはなんの努力も必要としない。政治権力を完全に封じ込まれて、日々を悶々《もんもん》と過ごし、享楽に捌《は》け口を求めるしかなかった貴族には願ってもない宗教でした。後ろめたさを覚えることなくセックスに励めるわけです。おまけに真言立川流は陰陽道をも吸収しているので黒魔術的な部分もあった。呪いというヤツは他力本願の最たるものです。自分の手を汚さずに相手を倒すことができるんですから、これも貴族の好みに合う。幕府討伐を心に秘めていた後醍醐天皇が真言立川流を擁護したのも決して不思議ではありません。文観は相当に早い時期から朝廷内部に食い込んでいました。天皇が乾坤通宝の鋳造を発表した時には彼が一番信用されていた時代です。なんと言っても不可能と思われた幕府の討伐に成功した直後ですからね。天皇自身も祈祷の効果が現われた結果だと考えていたんじゃないでしょうか。その気持の表われが乾坤通宝という命名に影響を与えたと私は思います。これは明らかに真言立川流の説く乾坤の思想です。もし後醍醐天皇がもっと現実的で自分の力だけを信じていた人間であれば、建武通宝とでも名付けていたでしょう。実際に年号を建武としているのですから、その方が自然です」 「なるほど……乾坤の思想ですか」 「乾坤通宝の鋳造に文観が絡んでいたと見るのもおかしくはない。そこまで考えると髑髏の刺青が果たして偶然なのかと勘繰りたくもなってくる。立川流の本尊は髑髏ですから」  山影は唸った。 「しかも、相当に不気味な髑髏ですよ」  塔馬はその製造方法を詳細に伝えた。  ──髑髏本尊には大頭、小頭、月輪《がちりん》形と三種ある。大頭とは頭蓋骨と顎骨を含めた完全な首の骨である。しかしどの頭蓋骨を使っても良いと言うのではなく尊い本尊とするのには智者・行者・国主・大臣・将軍・長者・父母・千頂・法界髏の九種から選ぶのである。つまり知識ある人、仏に仕えて修行した人、身分の高い者、血の繋がって尊敬していた者、千人の髑髏を集めて細かく砕いてその粉で練り固めたもの、また法界髏というのは重陽の日に墓地に行って多くの髑髏を集めて神呪を唱えて加持したとき、その中で明るく光った髑髏を選び出して用いるか、霜の朝に墓地に行き霜のおりていない髑髏を選ぶか、あるいは頂上に縫合のない髑髏を選ぶとする。いずれにしても墓荒らしの盗掘の罪は逃れられない危険を伴うし、すべて条件のむずかしい髑髏である。  こうした髑髏を入手すると、まずこれに舌や歯を補って完全な形に整え、その上に上等の漆《うるし》を塗り重ねて人の顔状に作る。上等の漆であるから今日で言う梨子地《なしじ》漆あたりで、透明度の良いものを用いる。漆で外形を人面に仕上げるのであるから骨胎の乾漆面である。恐らく凹所や頬|眼窩《がんか》などは地の粉か砥《と》の粉《こ》で下地仕上げしたものであろうが、薄気味悪く光る首ができあがる。  漆が良く乾燥したらこれを箱に入れて祭壇に置き、兼ねて定めておいた美貌の女性とその前にて交合し、溢れる二諦(男女の愛液)を器に採って、これを百二十回髑髏に塗り重ねる。乾いては塗り、乾いてはまた愛液を採取して塗りするから異様な臭気の中で根気のいる作業である。  これが済んだら毎晩午後十二時頃から午前二時の間に反魂香《はんごんこう》をたいて、髑髏をその煙に翳《かざ》しながら千遍の反魂真言を読誦することを数日繰り返す。西欧の魔女の祭事《サバト》的で、暗い陰湿な密室で燭灯に照らし出される光景は、この雰囲気だけで妖魔が髑髏に乗り憑《つ》かんと思われるほどであろう。  こうして反魂真言の供養が終わると髑髏に真言秘密の符を墨書し、頭蓋の中に相当の物を填め金銀箔を交互三重に貼る。秘密の符も相当の物も秘伝相承であるからわからない。この様に符を書き、箔押しの作業中も美女と交合歓喜しながら行なわねば効果を生じないのであるから倒錯的醜悪さであるが、それにしてもこうした雰囲気に女性が果たして堪えられるかどうかは問題である。男女共に心身すべて陶酔せねばできぬことであり、互いに催眠状態で忘我の境地であろう。  さらに交合を続けながら金色に光る髑髏に曼荼羅《まんだら》を書く。これら交合しつつの作業には必ず美酒|佳肴《かこう》を用意して飲食しながら交合を続けるというのであるから、醜怪な髑髏さえなければまさに青楼に遊ぶ心持ちであろうが、すべては刹那《せつな》的歓びに一貫して、心を他にそらしては効果がないのであり、長期の交合の繰り返しはむしろ苦痛であろう。  仕上げとして歯には銀箔を押し、舌や唇に朱を描き目を描くが、絵の具を溶くには男女の二諦をもってし、好みの美女、稚児の貌《かお》にするが福々しく表現せねばならぬ。舌や口に朱を描くというのであるから、この首は口を開いている顔になるのであり、福々しくするとは笑顔ということである。金銅仏と同じに仕上がった首であるが、仏師の彫刻と違って絵心の無い者が描いたとしたら土俗的人形の首より異様であろうが、それだけに催眠的幻覚に酔える妖しさがあるかも知れない。  こうして仕上げた髑髏は再び祭壇に供えて、午後十二時から午前四時に山海の珍味を供え、激しい交合を続ける。人間の魂魄はすべて二諦のうちに宿っているものであるから、この二諦を塗ることによって髑髏の中に魂魄を呼び起こし相応させて成仏させるのだとする。故に性神本尊であるから入魂の儀式として最後の根限りの交合を捧げるのである。常人ではとても肉体がもつものではない。立川流の唱えるところは淫欲是道であるから、この様に勉励しなければ霊験ある本尊は作れないのである。こうして作製された髑髏本尊は錦の袋に包み、それ以降はいかなることがあっても決して開くことは許されない。  あとはこの本尊を身体につけて七年間昼夜怠ることなく祈念すると、修行のすぐれた行者であると八年目に過去・現在・未来の三世を見通すことができるという。中位の行者であれば睡眠中に夢によって一切のことが告げられ、下位の行者は夢幻のうちに告示を得て、あらゆる望みが達せられるという。     (笹間良彦『性の宗教』第一書房刊より関連事項を抜粋引用) 「いやはや、実に……」  説明が終わると山影は溜め息を吐《つ》きながら、 「呆れ果てたもんですな。現実にそんなことが可能ですかね。完成までにどれだけの日数がかかるか見当もつかん。その間、つまり、女と……し続けってわけでしょう?」 「不可能だから本尊としての価値が高まります。簡単に作れるものならだれも拝まない」 「それに……よほど暇のある人間じゃないと。仕事抜きで朝晩励まにゃならん。我々のような貧乏人は、製作の途中で飢え死にだ」  山影の言い方に塔馬は笑った。 「やっぱり貴族にしかできん遊びだな」 「でもありません。真言立川流は農村部にもだいぶ浸透したと聞いています。確かに髑髏本尊を作るのは無理でも、それを拝むことはできる。観音を信仰している人間が観音を彫刻する必要もないわけですし……昼に山影さんが言っていたのと一緒ですよ。楽しみが少ないから酒に頼るのとおなじだ。セックスを解放してくれる上に、それが極楽に繋がる道だと教えられれば無条件で受け入れる。東北には夜這《よば》いの風習が近年まで残されていましたね? もしかすると、あれは真言立川流の名残りなんじゃないかな」 「なーるほど、夜這いですか」  山影はうんうんと頷いた。 「江戸の末期に真言立川流は完全な邪教扱いをされてしまったので寺院や信徒が表面的には消滅しましたが、宗教は心の問題だ。壊滅したと信じる方が、むしろ安易な想像かも知れませんよ。本尊や寺院を破壊されても信仰心は消えない。ましてや信仰に苦行を伴うような宗教でもなかった。きちんとした理論背景を確立できたなら、むしろ今でも歓迎される宗教に発展できる素質を持っているんです」 「怖いことを言いますね。塔馬さんは独身だから平気だろうが、私には五歳の娘がいます。そいつが真言立川流なんかに帰依したらと思えば……ぶん殴っても引き止めます」  山影はゾッと肩をすくめた。 「もっとも……性犯罪は減少するかも知れんな。男に乱暴されて人生を狂わせられてしまう娘だって……」 「まあ、両刃《もろは》の剣というところでしょうか」 「ってことは後醍醐天皇も髑髏本尊を?」  山影は話を変えた。 「当然です。宗教の中心に本尊がない方が逆に不自然だ。後醍醐天皇は自ら幕府調伏の祈祷も行なっている。その目の前には最高の髑髏本尊が供えられていたはずですよ。もちろん後醍醐天皇自身が本尊を拵えるわけはないけど……文観が弟子辺りにでも命じて作らせた可能性は高い」 「とてつもない話だ」  寒々とした目で山影は酒を口にした。 「塔馬さんの想像では、真言立川流を信仰する連中が、例の刺青のヤツらだと?」 「ただの暴走族が乾坤通宝などに興味を持つとは信じられない。宝捜しよりも、もっと現実的で金になることをたくさん知っている連中じゃありませんか? もし暴走族と無縁だとしたら、よほどの事情でもない限り刺青なんかしませんよ。それも何人かが同一のものをね。理屈ではそうなるんですが……」  塔馬は言葉を切った。 「これ見よがしに刺青をした秘密宗教がどこにあるとチョーサクに笑われました」  山影は戸惑いを浮かべながらも頷いた。どちらの意見にも一理ある。 「噂をすればチョーサクだな」  部屋の電話のベルに塔馬が素早く手を伸ばした。勘は当たっていた。 「とんでもねえことになったよ」  長山はいきなり口にした。      4  話は少し遡ってその日の午後。  予定を変えて朝の九時に吉野を出発した長山たちが長野・飯田線の伊那大島の駅に降り立ったのは、もはや陽が中央アルプスの山の端に隠れようとしている時間だった。近鉄特急を利用して名古屋に向かい、そこから中央高速を走るバスに乗り飯田市で下車。そして飯田線でここ伊那大島である。待ち合わせ時間も含めてざっと七時間。東京から隠岐まで列車とフェリーで行ったことを思えば、さほどの時間でもないが、それには寝台の十時間が入っている。日中の七時間とは違う。ようやく目的の駅に到着した時は長山、亜里沙、石川の全員がへとへとにくたびれていた。それでもまだ大川原は先だ。 「なんにもねえ駅だ」  外へ出ると長山は嘆息した。伊那大島は南アルプスの登山口に当たる。もっと賑《にぎ》やかだと想像していたのに駅前には喫茶店もない。だが、タクシーが停車して客待ちをしているところを見れば、駅が町から離れた場所に作られているだけなのかも知れない。亜里沙がタクシーに駆け寄って大川原のことを訊ねた。隠岐や吉野は取材予定地だったので宿の手配や見るべき場所も押さえてあったけれど、大川原となればまったく白紙の状態だ。 「大川原って……大鹿村だね」  さすがに運転手は分かっていた。 「行くには行けるけど……あそこにゃ宿屋なんて一軒もありませんよ。どこか知り合いでもあるんですか?」  長山たちの大きなバッグを眺めて言う。 「それじゃ、また戻ってくる他にないのね」 「民宿が一つくらいあったかな? 滅多に観光客のこないとこだから。どこを見るんです」 「行ってから役場の人にでも訊こうと思ってきたんだけどな。無理かしら」 「この時間だと直ぐに陽が沈みます」 「どうしよう。今日は諦める?」  亜里沙は困った顔で長山に訊ねた。 「泊まるんだったら飯田にしようぜ。電車に乗りゃ直ぐじゃねえか。この町に泊まるよりは面白そうだ。飲み屋もずいぶんあったし」  亜里沙も頷いた。確かにこの駅の感じでは、通過してきた飯田の方が安心に思える。 「けど、このまま戻るのも癪《しやく》ってもんだ。昨日の話だと大川原に宗良《むねなが》親王の御所跡があるって聞いたな。どうせ観光地でもねえんだから時間は関係ない。行ってみないか」 「宗良親王の御所跡ですか?」  運転手は首を捻って本社に無線で問い合わせた。なかなか分からない。無線を傍受していた他の運転手が割って入ってきた。正確には御所平と言うらしい。大鹿村からさらに山の中へ二、三十分も入ったところだ。 「行かれますか?」  場所を確認しながらも運転手は質した。 「ここからなら何分かかる?」 「まあ、四、五十分もあれば」 「じゃあ日没前だ。なんとか今日のうちに見ておきたい。帰り道は真っ暗でも構わん」 「そうね。せっかくだもの」 「撮影は無理みたいですね」  石川が残念そうに言った。 「お宅も結構余裕があるな。ここにきてまで仕事を忘れんたぁ感心な男だ」 「だんだんリサの思惑通りになってきた」  窓から外の景色を眺めて長山が苦笑した。 「思惑通りって?」 「前に言ってただろ。後醍醐天皇絡みの土地はほとんどが過疎の典型だって。隠岐や吉野も相当なもんだと思ったけど、ここはもっと酷《ひで》ぇぜ。東北の山奥だってこんなに寂しくはなかった。良く人が住んでいられる。車のない時代はどうやって生きていたもんかね。オレにゃ三日と保《も》ちそうもねぇ」 「ここばかりじゃなく、伊那谷一帯が似たようなものですよ」  運転手が笑った。 「東京にゃ空がねえと智恵子が言ったが、今じゃ土地もねえ。そういうヤツはここに引っ越してくりゃいいんだ。五億もあれば村の半分が買える。そうだぜ、皆が東京にしがみついてさえいなきゃたいていのことは解決するってのにな」 「本当ね。こんなに景色がいいのに」  これも観光客の目にしか過ぎないのだろうか。暮らす人間にとっては景色よりも遥かに切実な問題があるのかも知れない。 「今はまだいいんですが……冬になると逃げ出したくなります。都会の人にはとても堪えられんでしょうなぁ」  運転手の言葉は重く響いた。  タクシーは明日改めて訪ねる予定の大鹿村を簡単に通過した。村の中心部にはいくつかの食堂や雑貨店が見られたものの、残りは大半が農家だ。両側を深い山に包まれた小さな村である。道路にも起伏が多い。 「話を耳にした時にゃ、そうかと思っただけだったが……本当にこの村に宗良親王が暮らしていたのかね。いくら足利幕府に押されていたとは言え、天皇の皇子だぞ」  疑わしい目で長山は家並みを見詰めた。もちろん現在よりはずっと家も少なかっただろう。 「守り易いのは分かるけど」  村の入り口に当たる場所は両側の山が接近して狭い道しかない。あそこをしっかりとガードしておけば敵の侵入も防げそうだ。村の中心部は高台にあるし、砦《とりで》としては理想的にも見えたが、そもそもこんな辺鄙《へんぴ》な村にまで敵が襲ってくるとは思えなかった。 「これじゃあ島流しと一緒だな。ゴジラが出てきたって不思議じゃねえとこだ」  運転手も爆笑した。  けれどその感想はまだまだ甘かった。車が狭い山道をいつまでも上り続けるに従って長山たちは無口になった。どこまでも山を這い上がって行く。民家はどこにも見えない。深い樹木が果てしなく広がっている。 「道を間違えたんじゃ?」  亜里沙が不安な顔で訊いた。 「大丈夫です。一本道ですから」 「でも、こんな奥深いところに御所が?」 「一本道に入る場所を間違えたんじゃ?」  石川も念を押した。 「そうでしょうかね……まあ、もう少し先まで行ってみます。どのみちここではUターンもできませんので」  二人に言われて運転手も自信を失った。とは言ったものの、Uターンできる場所はなかなか見つからなかった。右手は急な崖で、落ちれば命がない。おまけに道幅がだんだん狭くなっていく。このまま行き止まりになれば、バックでこの危険な道を戻らなければならない。運転手の横顔にも緊張があった。 「ここは危険だな」  運転手が車を停めた。急なカーブが目の前にある。しかも道は車幅すれすれ。 「皆さんは車から降りて歩いてもらえますか。私一人の方が安心できます。カーブの向こうで待っていてください」 「オレが誘導しよう」  長山は真っ先に降りた。  車は長山の指示に合わせてゆっくりと進む。車の中から見ていたよりも道幅は広かった。注意すれば楽々乗り切れる。 「この先にUターンできる広場があるわよ」  偵察に出ていた亜里沙の嬉しそうな声が皆の耳に響き渡った。 「えーっ。ここが御所平だ」  カーブの向こうで亜里沙が叫んだ。 「オレぁ、なんだか泣きたくなってきたぜ」  御所跡の中央に立ちすくみ、眼前に間近く聳《そび》える南アルプスの厳しい山容を睨みながら、本当に長山は唇を震わせた。  広場と言っても畳三十枚も敷けない場所だ。今は跡形もなく雑草が生い茂り、ここが御所だと示すものは、端に建てられてある小さな祠《ほこら》と石柱だけだ。石柱には御所平とたった三文字が刻まれている。 「これじゃあ雨月の浅茅《あさじ》ヶ宿だ」  あまりにも惨《むご》い現実だった。  冷たい風が長山たちを襲う。 「冗談じゃねえぞ。オレは信じねえよ」  山が怖い。伸《の》しかかるように切り立った南アルプスの山々が…… 「こんなとこに人間がたった一日でも暮らせるもんか。気が狂っちまわあ」  長山の言葉に亜里沙も同意した。世界の果てにでもいるような気分がする。壮絶な山々は亜里沙に死の世界を連想させた。 「何年暮らしたと言った?」  長山は亜里沙に質した。 「さあ……十年くらいじゃなかった?」 「偉いな……偉ぇ男だ。この狭さならきっと側近だって何人も置かれねえだろうさ。メシ炊きの婆さんが一人いた程度じゃねえのか。南朝なんてのは結局そんなもんだったんだ。たとえ歴史に名前が残ったって、こんな人生でなんになる? ここに暮らしてた宗良の辛さが教科書なんぞで分かるものかよ」  珍しく感傷的になっている。長山はうろうろと広場の中を歩き回った。  亜里沙もぼんやりと続いた。  祠もすっかり朽ち果てている。首の落ちた瀬戸物の稲荷《いなり》像が飾られていた。 〈真言立川流は稲荷神社とも関係が深いってトーマが言ってたわ〉  亜里沙は思い出した。呪術には密教のダキニの法が主として用いられたと言う。ダキニ天はインドから持ち込まれた邪神である。これを信仰することは危険でもあるが、悪の力が強力なだけに、上手く使いこなせれば計り知れない権力を手にすることができる。本体は狐に乗った女性像であるので稲荷信仰と混同視されるようになった。それを思うと真言立川流を信奉していた後醍醐天皇の皇子の御所跡に稲荷の祠があっても不思議ではない。 〈いつ頃に建てられたものだろう〉  亜里沙は祠に近づいた。どこかに創建年代でも墨書されていないかと思ったのだ。表面には見当たらない。 〈あら……〉  小さな扉が最近になって開けられた形跡があった。幕の前の稲荷像の位置が大きくずれている。亜里沙は首を傾げながら扉をゆっくりと開けた。白い紙が中に置かれていた。 「なに、これ」  亜里沙は紙を手に取った。  吐き気と寒気の両方が亜里沙を襲った。  白い紙の真ん中には不気味な髑髏の模様が描かれ、その上には生と死という二つの文字が並べられて書かれてあった。 「どうした!」  亜里沙の悲鳴を聞きつけて長山と石川が祠に駆け寄った。 「これを見て! あの連中の仕業《しわざ》よ」  長山は紙をひったくった。 「私たちがここにくるのを知っていたんだわ。だから先回りしてこんな威《おど》かしを」 「バカな! 見張られていたわきゃない」 「だったらなんでこの紙がここに? トーマの想像が当たってたのよ。連中はやっぱり立川流だわ。髑髏本尊としか考えられないじゃない。生か死かって……二元論でしょ」  亜里沙の推測に長山は絶句した。 「暴走族がこれほど手のこんだ脅迫をすると思う? まだ信じられないっての」 「信じられんよ!」  長山はわめいた。 「この時代に立川流なんぞ、たわごとだ」  しかし、紙を握る長山の指はブルブルと震えていた。      5 「御所跡の祠に髑髏のマーク!」  それを聞いた塔馬の目が光った。 「髑髏とは? なんの話です」  気配を察して山影が電話の側までにじり寄ってきた。受話器に耳をそばだてる。興奮気味の長山の声がキンキンと響いていた。 「長野の大川原にまで連中の手がまわっていたらしい。また威かしがあったと……」  送話口を押さえて塔馬が山影に説明した。 「容易ならざる事態ですな」 「それで……今は大丈夫かい?」  塔馬は電話の向こうの長山に訊ねた。 「なんとかな。そのままタクシーをふっ飛ばして飯田市の宿に入ったが……リサなんぞは今にも泣きだしそうなツラぁしてやがる。まったく頭にくる連中だぜ。陰湿な手段ばかり次々と考えやがって。くるなら正面からくりゃあいいんだ。おまえさん、どう思う? 真言立川流ならヤバいことになりそうだ」 「相手ははっきり名乗ってるのか?」  塔馬は改めて確認した。 「そこまでは言ってねえけど……悔しいがそう見るのが当たっているようだ。暴走族ならバカの一つ覚えで、なんとか参上ってスプレーで落書きする程度だろうよ。あいつらは違う。もっと高級で嫌味な連中だ」 「チョーサクたちが長野に向かうことを事前に知り得た人間は?」 「またそれか? 今回は得意の推理もあまり発揮できんようだな。そんな人間は一人もいない。断言するよ。オレたちゃ昨日の夜に長野行きを決めたんだ。オレたちのだれ一人として行き先を口外しちゃいねえ。強《し》いて挙げれば、おまえさんだけさ。吉野の宿の電話でも盗聴されていたとなりゃ別だが、そいつも有り得ん。スパイ映画でもあるまいし」 「………」 「見張られていたんだ。隠岐を出てからずうっとな。だから薄気味悪い」 「それが本当だとしたら、相当の人数が必要だ。連中は常に先回りをしている。少なく見積もっても七、八人を用意しとかないと。尾行と先回りでは雲泥の差がある。特にチョーサクの行動には一貫性もない。その場の思いつきで動いている人間だからな」 「タクシーの無線でも傍受されたのかね。じゃねえとオレたちが御所跡に向かうことなんて予測は不可能なはずなんだが」 「でもない」 「そうかね?」 「長野の大川原に向かったとさえ分かれば、目的が宗良親王にあることは直ぐに想像がつく。どこを外しても御所跡にだけはいつか必ず行くはずだと見当もつくさ。そこにあらかじめ脅迫状を潜ませておけばチョーサクたちに発見される可能性は高い。そこは稲荷の祠以外になにもなかったんだろ? 扉をこれ見よがしに半開きにしとけば目にもつきやすい」 「なるほど。ってことはオレたちのタクシーを尾行したわけじゃねえってことか。それなら話も分かる。連中はオレたちが大川原に到着するずうっと前にあの紙を祠の中に……」  言いかけた長山が口を噤《つぐ》んだ。 「けど、そいつはもっと大変そうだぞ。オレたちよりも先に御所跡に行くってのはほとんど絶望的だ」  長山は一日の行動を詳しく思い浮かべた。だれにも長野行きを伝えていないのだから、尾行者は自分たちの行動を基に行き先を予測しなければならない。吉野からは近鉄特急で名古屋に出た。名古屋に向かった程度で目的地が長野の大川原だとは絶対だれにも想像ができないだろう。そこから新幹線に乗り換えて東京に戻るという予測の方が自然だ。  とするなら尾行者も特急に乗って名古屋まで同行する必要がある。その時点で吉野から長野に車で向かうことなど有り得ない。  尾行者に自分たちの目的地が長野だと知れたとしたら、それは名古屋で飯田市方面行きの高速バスに乗った時だ。しかし、それとて不確実な推測でしかなかったはずだ。バスの発車時刻が迫っていたので自分たちは切符を求めずに飛び乗ったのである。どこで下車するかは尾行者にも分からなかったと思う。薄々は長野の大川原と見当がついても、やはりバスに同乗する他はない。つまり飯田市まではまったくおなじ方法でやってきたという理屈になる。その後、自分たちは電車で伊那大島に向かった。先回りをするつもりならこの時しかない。尾行者は飯田市からタクシーを使って御所跡に走る。それなら確かに二、三十分は先行できたかも知れない。  いやいや、それもどうかな。  長山は首を振った。飯田線への待ち合わせ時間はほとんどなかった。だからこそ自分たちは躊躇《ためら》わず電車にしたのだ。もし三十分以上も間があれば、自分たちもタクシーを利用する。夕闇が迫っていてこちらも焦っていたのである。とすれば尾行者が先回りできたとしても、せいぜい十分ぐらいのものだろう。下手をすれば御所跡で鉢合わせの危険もある。真昼の有名な観光地ならともかく、薄暗い山奥の御所跡で出会えば不審を抱かれよう。ましてや御所跡までは狭い一本道で逃れる場所も簡単には捜せない。自分が尾行者なら、そんな愚かな真似はしない。脅迫状は諦めて別の機会を狙う。  長山はそれを塔馬に伝えた。 「けれど脅迫状は現実にあった」  塔馬はあっさりと口にした。 「尾行者なんていなかったんじゃないのか」 「なんだと?」 「脅迫状を祠に忍ばせていた連中はチョーサクたちがやってくる何時間も前に御所跡にでかけて準備を整えていたのさ。そう考えるのが一番自然な解釈に思えるね」 「まさか! どうしたら尾行もせずにオレたちの行動を予測できるってんだ」 「長野行きを仕掛けた人間なら簡単だろう」 「仕掛けた人間? そんなヤツはいねえよ」 「じゃあ、なんで長野に行くつもりになった? 神の啓示を受けたわけじゃあるまい」 「オレたちの判断さ。殺された中野が乾坤通宝の発見者じゃねえかって推理してな。だれにも長野に行けと命令された覚えは……」 「………」 「おまえさん、なにを考えてる?」  長山は不安な口調になった。 「もう少しなんだ。もうちょっとで全部のカラクリが見えてくる。ただ……それが事実だとしても、理由がまるで分からない。こんな奇妙な事件は生まれてはじめてだ」 「分からんね。どこが奇妙だって?」  長山は首を捻った。乾坤通宝を巡ってのトラブルが生んだ殺人である。ミステリーにもならないほどのありふれた事件だ。脅迫者にしても、ねちねちと威かすだけのだらしない連中である。自分が巻き込まれているからやむをえず対応しているが、大した謎もない。 「明日は派手に動いてみてくれ」  塔馬は意外なことを言った。 「きっとなにも起きないはずだ。もしチョーサクたちが襲われるようなら事件をはじめから考え直してみる必要がある」 「なにを言ってる。人のことだと思って軽く言わんでくれ。殺されてからおまえさんに考え直されても浮かばれやしねえ」  長山の言葉に塔馬はクスクス笑った。 「そもそも真言立川流なら危険だと言ったのはトーマの方じゃねえかよ」 「それも……撤回する」 「呆れた野郎だぜ。こっちが違うと言ってたときはそうだと言い張って、確証が出てきた途端に撤回とはな……どうなってるんだ」 「東京にはいつ戻る?」 「知らんよ。生きていれば明後日辺りだ」 「だったらその時までに解決編を考えておこう。きっと無事に戻れるさ」  替わって、という声がして亜里沙が出た。長山とのやりとりを聞いていたようだ。 「トーマ……冗談じゃないのよ。連中は本気だと思うわ」  亜里沙の声には怯《おび》えが感じられた。 「隠岐と吉野や東北の後醍醐天皇絡みの町村が姉妹都市になる構想があるって前に聞いたな。確か夏に若者たちが隠岐に集まって相談したとか」 「ええ……と言っても若者たちだけのアイデアらしいけど。それがなにか?」  亜里沙は唐突な質問に戸惑った。 「そいつに長野の大川原からもだれかが参加したものか確認してみてくれないか?」 「したはずよ。隠岐の宿の女将《おかみ》さんから長野の若者もきたと説明されたもの。長野で後醍醐天皇絡みの場所と言えば大川原しか」 「想像じゃなく確認するんだ。殺された中野の同僚にでも訊ねれば分かるかも知れない」 「訊ねてどうするの。事件と関係が?」 「中野真一が青森にくる前に隠岐にでかけたのは警察でも突き止めている。チョーサクは単純に乾坤通宝捜しだと決め付けているようだが、あるいはその集まりへの参加が目的だったとも考えられるだろ」 「………」  亜里沙はぼんやりとその意味を考えた。 「その違いがそれほど重要?」 「だとしたら隠岐の若い連中は中野と顔馴染みだったことになる。中野は乾坤通宝に関して論文を書きたがっていたほどの専門家だった。その集まりの中でその話題が彼の口からでてもおかしくはない」 「それは……そうね」 「なのに隠岐の若い連中は中野の存在に対して一言も触れなかった。得体の知れない大原という男の話ばかりだ。もし、顔馴染みだったら、もちろん中野が青森で殺されたことも耳にしていたに違いないさ。中野はただの観光で隠岐にきた男じゃない。姉妹都市計画の推進者として訪ねてきた人間なんだよ。言わば連中の仲間じゃないか」  亜里沙も頷いた。 「チョーサクが島の若い連中に乾坤通宝の話を持ち出した時に、一人ぐらいは中野のことを口にしてもいいとは思わないか? たとえその場に無縁な話だとしてもだ」 「だから……やっぱり中野は姉妹都市計画と関係なく隠岐にきていたんじゃない?」  塔馬の言う通り、もし島の連中が中野と仲間として付き合っていたら、事件のことを口にしなかったのは不自然だ。かと言って、島の連中が無意味な嘘をつく必要もない。中野の存在を知らなかったと考えるのが……  しかし、亜里沙は堀川礼子の不可解な反応を突然に思い出した。彼女の運転で島を案内されていた時に、なんの拍子からか石川の故郷の話となり、彼が青森の黒石市出身だと答えたら、礼子は明らかに動揺した。  あれはなにに対する動揺だったのか? 「いたずらにあれこれ考えたって意味がない。調べれば分かることだよ」  無言でいる亜里沙に塔馬は重ねた。 「仲間だったら、どうなるわけ?」  亜里沙の心臓は高鳴った。 「結果が出てから皆で推理しよう。今はそれしか言えない」 「ヒントぐらいは教えてよ」 「無理だ。こっちだってそれ以上の考えなんかない。ただし、中野真一の隠岐行きの理由にしても場合によっては事件の様相がガラッと変わる。そういう点を我々はずいぶん見落としているんじゃないかと思っただけさ」  塔馬は釈然としない様子の亜里沙にそう言い添えると電話を切った。      6  大酒呑みで警察仲間からスポンジと仇名《あだな》される笹川順吉が塔馬の部屋に到着したのは九時過ぎだった。小柄できびきびした男だ。応答する声も少年のように甲《かん》高い。およそ酒呑みとは縁遠い元気さに思えた。だが、挨拶を兼ねた雑談を交わしているうちにコップ酒を四杯もすうっと喉に流し込んだ。わずか二十分前後の間にである。それでも今はケロッとした顔で山影の話に相槌《あいづち》を打っている。 〈手榴弾のような人だな〉  なんだかそんな印象を受けた。丸顔に太い眉と歳にそぐわない可愛らしい二重|瞼《まぶた》。子供の頃はさぞかし手に負えないガキ大将だったに違いない。年齢は塔馬とおなじ。 「お互い独身時代に、こいつのアパートに泊まり込みで遊びに行ったことがありまして」  山影が言うと笹川はギャハハと笑った。 「たまたま正月で飲み屋が開いていなかった。二日ほどごろごろと部屋で飲み続けていたらとうとう酒が一滴もなくなった。買いたくても金がない。そしたら……なんでだか知りませんが、こいつの部屋の押し入れの中に養命酒が三本あった」 「虚弱体質だったんで心配したおふくろが纏《まと》めて送ってくれたもんです」 「これだって酒には違いなかろうとこいつが言い出して……その日のうちに全部を」 「三本ともですか」 「前代未聞の二日酔いでした。甘ったるい唾《つば》が二、三日も口の中に溜まって気持が悪いったらありゃしない。便所に行っても薬臭い便が。それでまた吐き気が戻ってくる」  山影は思い出してか唾を呑んだ。 「一度に飲んでも大丈夫なものかな?」 「まあ、死なないというぐらいですかね。その他にいいことはなに一つない。下痢は一週間も続くし、頭が何日もボウッとするわで散々な目に遭った。それ以来、私はあれを飲んだことがありません」 「そりゃあ、山影さんのように頑丈な人だったら、もともと飲む必要もないでしょう」  塔馬の言葉に笹川はニヤニヤした。 「なのにこいつは平気なんです。信じられますか? 山影哲夫、これまでの酒人生で完敗を喫したのはこのスポンジ男ただ一人ですよ」  山影は笹川のグラスに酒を注いだ。 「怪物の上となれば……酒仙ですか」 「そりゃいい。スポンジよりもずっと感じがでている。おまえさん今夜から酒仙だぞ」  山影は喜んで笹川と乾杯した。 「死因は、なんだって?」  山影が聞き咎《とが》めた。テーブルの上には笹川の持ち込んだ中野真一の解剖所見や聴取報告書のコピーが展《ひろ》げられている。 「黒石署では撲殺と聞いたが」 「確かに顔面や体全体に殴打の痕跡はあった。が、直接の死因は頭蓋後部の打撲にある。損傷の具合から見ても人為的なものではない。恐らく橋から転げ落ちて川原の石にでも頭を打ったものと……落ちた原因が殴打にあるのも明白なんで撲殺としてもおかしくはない」 「しかし……それだと過失致死とか過剰防衛の可能性だって有り得るじゃないか。なんで簡単に流しの犯行と睨んだ?」 「明らかに犯人は中野の死体を現場から移動させて橋の下に隠している。過剰防衛だったら届けるか、そのまま逃げる。それに、死体からは財布が抜き取られていた。もしポケットに宿泊先を示すマッチが残されていなければ身許の確認も大幅に遅れていただろう。殺された中野は地元の人間でもない。怨恨の線はちょっと考えられなかった。黒石署ならずとも流しの線を真っ先に考慮に入れるさ」  笹川の説明に塔馬も頷いた。ミステリーでもあるまいし、そういう情況の死体が発見されただけで背後に潜む陰謀までを連想する人間は滅多にいない。ましてや中野真一はただの教員である。資産何十億を継承する人間でもなければ、スターとも違う。 「顔を燃やしたとか、バラバラに切断して海に流したとかいう犯罪なら別だが……平凡な死体だ。死体には差がないと言っても、やはりどこかが違う。緊張の問題かな」 「怨恨の線は一度も?」  山影が顔をしかめながら質した。 「いや、担当刑事が一応は長野まで足を運んでいる。収穫はなかったらしい。中野は真面目な教員で評判もいい。殺される理由など一つも見つけられなかったと報告にはある」 「予断はないと言い切れるか? 担当者は最初から怨恨の線が薄いと見ていたんじゃ」  山影の詰問に笹川は苦笑しながら、 「なんとも言えないよ。こっちは担当外だ。あるいはそうかも知れないし、徹底的な聞き込みをした結果かも知れん。それは山さんだって承知のはずだ。報告が信用できないのなら捜査の進捗《しんちよく》も有り得んでしょうが」 「それはもちろん承知だがね……もう少しやりようがなかったものかと思ってな」 「どういう点が気に食わないとでも」 「まず黒石署では重大な見落としをしていた。それを我々が知ったのは偶然かも知れんが、やはりその原因は捜査を流しの犯行と決め付けていた点にある。別の観点から追っていればあるいは違う展開があったとも……」 「見落とし! それはどういうことだ」  担当外と言ってもおなじ青森で起きた殺人事件である。笹川の顔色が変わった。 「こいつに聞かせてやって構いませんね?」  山影は塔馬に同意を求めると、 「中野はホテルの部屋から二度ばかり黒石市役所に電話をかけている」 「………」  笹川は困惑しながらも頷いた。 「おまえさんの持ってきたコピーにもその記録があるはずだ。時間を調べてみるんだな」  笹川は慌てて書類を探した。ホテルの電話記録は直ぐに見つかった。黒石署の調べによって確認された相手方の名前や住所が脇に書かれてあった。十二本の通話の中で半分は中野の実家だ。残りのうちの二本は黒石駅。一本は勤務先の小学校。一本は中野が暮らしているアパートに設置されている公衆電話。そして最後が市役所への二本。 「これがどうかしたのか?」  特に不審は感じられない。笹川は顔を上げて山影を見詰めた。 「後の方は問題がない。おかしいのは最初のヤツだ。これは日付から見ても中野が黒石に到着して直ぐのものと睨んでいい。三時半となっている。チェックインして部屋に入り、そのままダイアルをまわしたんだ」 「それがなぜ不思議だと?」 「その日は土曜日だ。暦を見てみろ」  ウッと笹川は唸った。 「市役所は半ドンのはずだ。通常業務は終了している。それはだれにも分かる」 「けど、電話は通じる。残業している人間だってたくさんいるだろう」 「だから、そこだよ。中野は観光案内程度の用件で市役所に電話したんじゃないんだ。残業しているだれかに連絡を取ったとしか思われんだろうが。ヤツにはそれほど親しい人間が黒石にいたってことだ」 「そんな話は一度も聞いていない」 「その相手が黙っているのさ。黒石署じゃ、観光客が市役所に電話するのは当然のことと見做《みな》して裏も取らなかったようだが、中野は一度ならず二度も電話をかけているんだ。もちっと頭のまわる人間が一人ぐらいいても良かったとは思わんか。流しという予断が邪魔をしたんだ。そうとしか考えられん」 「その様子では相手の見当も?」 「観光課にいる近藤という男だ。もっとも、これはただの推測に過ぎん。その男の運転する車に中野が乗っているのを目撃した娘がいる。この娘だって内緒にしていたわけじゃないぞ。進んで証言するのは避けていたみたいだが、黒石署の連中になにも聞かれなかったから教える必要がないと思っただけでな」  笹川は嘆息した。 「地元ではあれほど騒がれた殺人事件だ。よしんば近藤が殺人に無関係でも、そういう仲なら警察に連絡を取ってくるのが当たり前だ。そいつをしてないってことは……」 「うーむ……流しという予断か」  笹川は腕を組んだ。やがて諦めたように首を振るとグラスを手にして一気にあおった。 「参ったよ。それなら山さんに文句を言われても仕方がない。直ぐにでも黒石署に連絡を入れる。明日は近藤を調べさせよう」 「そいつは少し待って欲しい」  山影は立ち上がろうとする笹川の肩に腕を伸ばして押し止《とど》めた。 「管轄外は承知で頼む。近藤に関しては明日一杯時間をくれ」 「山さんたちが接触するとでも?」  笹川は二人を交互に眺めた。 「逃げるような相手でもなかろう。心配ならおまえさんも一緒で構わん」  少し考えて笹川は頷いた。  それから三十分後。  塔馬は温《ぬる》めの湯に一人|浸《つ》かっていた。山影と笹川はまだ酒を飲んでいる。キリがなさそうに見えたので塔馬は座を逃れてきた。  広い風呂には塔馬しかいない。酒のせいか十一時前だというのに瞼が重い。このまま眠り込んでしまいそうな快感に襲われる。どのくらい飲んだのだろう。二人のペースに誘われて七、八合は飲《や》ったような気がする。それでも山影の半分以下だ。 〈隠岐に行ってみる他にないかな〉  塔馬は朦朧《もうろう》とする頭で考えた。  すべての発端は隠岐にある。  幸いに近藤があらゆる謎に答えてくれればいいが、もし当てが外れたら別のアプローチをしなければならない。 〈それにしても……〉  事件の筋道はだいぶ見えてきたつもりだが、犯人たちがなぜこんな奇妙な行動を取ったのかと考えると頭が痛くなる。常識を越えた犯行としか思えないのだ。 〈やはり……隠岐だ〉  東京に戻ったら隠岐に行こう、と塔馬は決心を固めた。 [#改ページ]  五 幕 迷路を解き明かす塔馬の新たな困惑のこと      1  翌日の昼前。  長山たちの乗ったタクシーは大鹿村の中心部にある村役場に到着した。綺麗に晴れ上がった秋の空に鳶《とんび》が二羽ゆっくりと旋回している。柿の実がもう色付きはじめている。 「昨日もこんな天気だったら御所平の印象も違ったものになっていたわよ」  眩《まぶ》しい空を見上げながら亜里沙が言った。 「穏やかで風光明媚な場所だと思ったんじゃない? 昨日なんて地獄に感じたもの」  闇の気配が忍び込んでくる寂しさに重ねて、崖下からは荒涼たる風が吹きつけてきた。今みたいにぽかぽかとした陽射しの中で眺めれば、正反対の感想を抱いたに違いない。それに、あの髑髏《どくろ》の脅迫状だって……バカバカしく見えて大笑いしたかも知れないわ。亜里沙は苦笑した。この天気の下ではなにもかもがクリアーで爽やかに感じる。自分がこうして殺人事件の謎を追い掛けて長野県の南アルプスの麓《ふもと》の村にきていることさえ信じられない気分だった。休暇を貰ってのんびりと旅行を楽しんでいるような錯覚におちいる。 「なにを浮き浮きしてやがる?」  坂道を登りながら長山が振り向いた。 「こんな日はハイキングでもしたいわね」 「大した女だよ、まったく。昨夜は泣きそうな顔してやがったくせに」 「青空に殺人は似合わない……違う? チョーサクだってそういうミステリーを書いたことないでしょ。殺人には嵐とか暗闇がつきものって感じがするなぁ」  並んでいた石川も笑った。 「トーマの言う通りよ。今日はなにも起きない。のんびりやりましょ」 「おまえさんの気分の問題で勝手に筋を拵《こしら》えられたんじゃかなわねえな。小説とは違う。現実だぞ。逆にこういう日は罪の意識も薄くて殺しも楽々とできるかも知れん。オレならこんな日を狙う」 「あんたってホントにイヤなヤツね」  亜里沙はバッグを振って長山の尻を叩いた。それでもその目は笑っている。  誌名を告げて、長山のことも紹介したら、亜里沙たちは役場の応接室に丁重に案内された。しばらく待っていると村の教育委員会の男が顔を見せた。かなりの年配である。 「名刺を持っていないもので」  長山が相手から受け取りながら謝った。 「作家先生には必要がありませんからね。書かれている本が名刺でしょうし」  長山は柄にもなく照れた。亜里沙が気を利かせて名刺代わりにと長山の文庫本を男に謹呈したからだ。隠岐の宿でも吉野でも、亜里沙は何冊かを謹呈している。彼女に言わせると、同行しているのが無名に近い推理作家と思われるより、ちゃんと大手の会社から本を出版している作家と見られる方が取材の便宜を図って貰えるという計算らしいが、自社の刊行物でもないのに、こうして用意してくれたのは、やはり仲間同士だからとしか言い様がない。けれど、そのお陰で確かに都合のいいことがこれまで何度もあった。現に目の前の男も僅《わず》かの間に打ち解けた。 「ほう……もう御所平に行かれましたか」  亜里沙から宗良親王と大鹿村との関わりを取材にきたと聞かされて、真っ先に御所平のことを口にした男は感心した顔で頷きながら、 「となると……香坂高宗《こうさかたかむね》を祀《まつ》った神社とか城跡ぐらいしかありませんねぇ」 「どなたか地元で宗良親王を調べている方でもいらっしゃいませんか?」  亜里沙はわざと質《ただ》した。 「熱心な人間はおったんですが……」  相手は躊躇《ちゆうちよ》した。 「もうこの村にはいないと?」 「亡くなってしまいましてね。旅行中に追剥《おいは》ぎに出会ったとでもいいますか……」  追剥ぎとは古めかしい表現だ。 「中野君という教員でしたが……彼が生きておったらさぞかし張り切ったと思います」  男は中野が青森で殺されたことを細かに伝えた。亜里沙たちは初耳という顔で聞き入った。だが、自分たちがこれまで知り得た以上の情報はほとんどないに等しかった。 「彼が書き残した文章なんかは?」  やがて長山が訊《たず》ねた。 「短いものなら村の広報にいくつか発表しています。お持ちしましょうか?」  返事も聞かずに男は立ち上がった。 「写真も見たいもんだな」  男が姿を消すと長山は二人に囁《ささや》いた。 「写真って、中野真一の?」 「これだけ追い掛けているってのに、オレたちゃ中野がどんな顔をしてるのかも知らん。顔が分かったところで意味もなかろうが、せめてどういう男の事件をオレたちが追及してるのかを知りたいとは思わんか」  言われた二人も首を振った。 「学校の同僚でも訪ねたら写真くらい持っているかもな。卒業式とか入学式の写真はきっとあるはずだ。教員だって必ず写ってる」 「そうね。どっちみち中野の隠岐行きの理由をだれかに確かめないといけないし」 「役場の人間は知らないでしょうか?」  石川が割って入った。 「個人的な理由ならもちろん知らないだろうし、たとえ姉妹都市構想の件だとしても、あれは若い連中だけの考えだ。役場が関係してるとは思えない。曖昧《あいまい》な返事を聞くよりは親しかった人間を捜し当てる方が確実だ。オレたちゃ中野の殺しをはじめて聞かされたことになってる。なのに隠岐の一件を質問すりゃ妙に思われるだろうよ。焦ることはねぇ。この村には中野の知り合いがいくらもいる」  長山の説明に石川は頷いた。  そこに男が広報のコピーを携えて戻ってきた。長山は受け取るとザッと目を通した。大鹿村、つまり昔の大川原における香坂高宗と宗良親王の交流をメインに、村に残されている史跡を紹介しながら綴《つづ》った読み物だった。全部で八回も連載されているが、観光客に対してと言うより、村の子供たちを対象に書かれた文章らしく平易で簡単な内容だ。一回分はせいぜい四百字の原稿用紙で三枚。これではあまり役立ちそうにない。 〈青森の大川原!〉  捲《めく》っていた長山の目にその文字が飛び込んできた。亜里沙も気づいて覗く。 「ご存知じゃないでしょう」  男が笑顔を見せた。 「青森にもこの村とおなじ地名があります。足利との戦いに敗れた香坂高宗の一族がここを脱出して青森まで逃れたんですよ。我々も何年か前まではまったく知らなかったんですが、向こうの村から問い合わせがきましてね。向こうではなんと後醍醐天皇の魂を慰める祭りまで続けていたとか……びっくりしました。そうそう、さっき話した中野君はその祭りを見物に出掛けてあんな目に遭った」 「向こうの村から問い合わせが? すると交流は頻繁にあるんですか」  亜里沙が身を乗り出した。 「ま、頻繁ってほどじゃ。なにしろ長野と青森では離れておりますので……向こうの代表団が香坂高宗の墓参に一度訪ねてきた程度で、他は広報の交換ぐらいでしょうか。中野君だったら個人的な手紙のやりとりをしていたかも知れません。酷《ひど》く熱心な男でした」 「なんでそんなに熱中したんですかね」  長山はそ知らぬフリで訊《き》いた。 「さあ……そいつは聞いたことがない。なんでしたら中野君の仲間をご紹介しますか。彼らは宗良親王にそれほど詳しくはありませんが、おなじ郷土史研究のグループです。連中ならきっと私よりも正確な話を」  長山と亜里沙は顔を見合わせた。  男に連絡を取って貰うと三人はふたたびタクシーに乗って旧《もと》の小学校を訪ねた。村の中央を縦断する小渋川沿いにその建物はあった。昭和初期の古い木造校舎で、現在は仮の郷土史料館として利用されている。タクシーが校庭に停まるとエンジンの音を聞きつけて窓から老人が顔を見せた。柔らかな笑顔だ。 「あの人じゃないんでしょ?」 「だな。若い人間だと言ってた」  頭を下げながら長山は亜里沙に呟《つぶや》く。 「こちらからどうぞ」  老人は校庭に直接通じるドアを中から開いて三人を手招いた。履物も用意してある。 「あいにくと太田は留守にしておって……ここを預かっておる中村でございます」  老人は丁寧に挨拶しながら先導した。  薄暗い廊下だった。郷土史料館と言っても公開はしていないのだと老人は説明した。 「太田さんて方は直ぐお戻りに?」  亜里沙は老人に質した。自分たちの関心は中野の問題だけだ。のほほんと郷土史料の見学に時間を費やしている余裕はない。 「中野君のことでお訊ねがあるとか? 例会はいつもここでやっておったし、太田がおらんでもたいがいのことは……」  亜里沙は安心した。  通された部屋は広かった。教員室をそのまま事務室として使っているらしい。片隅に古い応接セットが置かれてあった。テーブルの上には人数分の茶碗が伏せられている。役場から連絡を受けて老人が用意したものだ。 「この広い建物にお一人なんですか」  ポットを運んできた老人を手伝いながら亜里沙は口にした。他にだれの姿も見えない。 「史料を管理しとるだけですからの。昔はここで教師をしとったんで寂しくもない」  老人はにこにこと口許を緩ませた。 「御所平にはもうまわられたとか。なんにもないとこで失望したんじゃないのかね」 「本当にあそこに宗良親王が?」  長山は熱い茶を飲みながら訊いた。 「そう昔から伝えられております。冬場は村の中心にある香坂高宗の城に暮らしておったのかも知れませんがな。北朝の軍勢がいつ襲ってこんとも限らん。不便だとか寂しいとも言ってはおられんでしょうが」 「香坂高宗の一族が遠く離れた青森の片田舎に落ちのびたのには理由があるんですかね」 「それは……まだなんとも。そもそも青森に大川原という所縁《ゆかり》の地があると分かったのも、つい先頃のことですしな。中野君の調べによると、大川原のある黒石市は当時、南朝方に同情的だった南部氏の領地で、その上、東北には諏訪神社が二百近くもあった。それがどうも関係あるらしいと教えられましたがのぅ」 「諏訪神社が二百近くも」 「ご承知のごとく信濃は古くから諏訪氏の領土です。宗良親王もはじめは諏訪一族の力を頼って信濃にやってこられた。しかし、戦況が次第に危うくなったので諏訪氏は臣下の香坂高宗に命じて宗良親王を山の奥に匿《かくま》われた。いかに宗良親王とて、最初からあの御所平に身を潜められていたわけではない」 「なるほど……だろうな」 「中野君の意見では香坂高宗が没した後に、残党狩りを恐れた宗良親王の側近たちが諏訪氏の縁故を頼って東北に向かったと……たとえ敵国の中でも諏訪神社だけは安心して頼れたはずじゃ。そうして少しずつ前進すればやがて青森に辿《たど》り着く。南部氏は南朝方の雄である北畠親房と特に親密じゃった。そこに逃げ込んでしまえば一安心じゃろう」 「つまりは……逃避行の末に偶然に辿り着いた場所じゃないってわけですか」 「中野君はそう見ておった」  長山は深く頷いた。後醍醐天皇を祀る祭りを執り行なったとするなら大川原に逃げ込んだのは五人や十人という数ではない。最低でも五、六十人が打ち揃って入村したに違いない。それだけの規模の移動となれば最初から目的地が定められていたと見るのが自然だ。 〈皆がバラバラに逃げたんなら乾坤通宝は持ち出せないが……打ち揃っての脱出なら〉  むしろ軍資金は必要不可欠なものだ。乾坤通宝は青森にある。長山は確信を抱いた。 〈中野も恐らく……〉  そう結論をだしたことだろう。 「ところで?」  老人は思い出したように言った。 「中野君のなにが知りたいのかな」 「乾坤通宝についてなにかお聞きじゃありませんか?」  思い切って長山は口にした。 「あるいは大原という男のことでも」 「大原? それはどういう人かね」 「東京の人間で乾坤通宝に関して調べている男です。確かにここにもきたことがあると思うんですが……記憶にないですか?」 「私は知らんな。中野君の口から一度として耳にしたことがない。乾坤通宝については何度か彼の説を聞いておるが」 「どんな風にですか?」 「年寄りには夢物語にしか聞こえん話じゃったよ。宗良親王が財宝を大川原に持ち込んだとか力説してのぅ。赴任してきたばかりの頃は御所平の発掘を村にけしかけておった。だが、青森の大川原の存在を知ってからは、途端にそちらだと言い出した。皆が中野君の熱心さは認めておったが、乾坤通宝に関してはだれも相手にせんかったようだ」 「隠岐に彼が行ったこともご存知でしょう」  長山が言うと老人は目を丸くした。 「あんた方は中野君の知り合いかね?」 「いや。何日か前に隠岐に行きました。そこで彼のことを小耳に挟んだんですよ」 「ほう……世の中は狭いもんじゃな」 「その時も乾坤通宝捜しが目的ですか?」 「いやいや、あれは集まりがあって」 「集まりと言いますと?」  長山や亜里沙の目が鋭くなった。 「太田も一緒に行ったんじゃ。太田がおればもっと詳しい話が聞けると思うが……」 「………」 「発案者がだれかは知らんがの、後醍醐サミットが隠岐で開かれるっちゅう話を中野君が持ち込んできおった。若い連中だけの考えらしく、正式な会議でもないんで村の協力は得られんようじゃったが、太田が行きたいと言うので休暇は取らせた。二人とも自費で参加したはずじゃよ。そう言えば……あの会議の報告をまだちゃんと聞いとらんね。なんでも後醍醐天皇に関わりの深い場所が連合して地域起こしをするとかいう話だと思ったが」 「その土地はどことどこでした?」  亜里沙は塔馬の想像が当たっていたことに興奮しながら重ねた。 「それなら印刷したものがあったと思った。確か太田が持ち帰りましたのでな」  老人は席を立つと少し離れた机の上を捜した。書類が雑然と積み重ねられている。 「ありました……ありました」  老人は間もなく薄い書類を抜き出した。手書きのコピーが三、四枚|綴《と》じられたものだ。 「ええと……ああ、結構参加してますな。東は青森の大川原から、南は九州の熊本ですか。人数はさほどのものじゃないが」 「見せていただけます?」  老人は頷くと亜里沙に手渡した。  一枚目には二日間に亙《わた》る日程表が記されてあった。が、問題は参加者リストだ。亜里沙は震える指で捲《めく》った。三枚目にサミットに出席した全員の名前が掲げられている。 〈……!〉  中野の隠岐行きの目的が後醍醐サミットと耳にして、ある程度予期はしていた亜里沙だったが、さすがにその名簿に堀川礼子の名前を見つけた時は心臓が止まりそうになった。気持を落ち着かせて点検したら、その他にも見慣れた名前があった。ほとんどが隠岐のスナックで顔を合わせた若者たちである。もちろん、長山の大ファンだと言うスナックの経営者の名も見られた。しかもサミットの進行役としてだ。亜里沙は慌てて日程表に目を戻した。それによると中野真一は二日目の午後に宗良親王に関するミニ講演を行なっている。キャンプファイアーを中心とした交流会も二日目の夕方からだ。当然の話題として中野は隠岐の若者たちに、宗良親王が長野に持ち込んだ乾坤通宝についての仮説を説明したのではないか? 亜里沙は背中に寒気を感じた。なぜ礼子たちは中野の存在を一言も口にしなかったのだろう。殺されたことを知らなかったとは言わせない。サミットの名簿には黒石市役所の観光課に勤務している男の名前も記載されている。その男なら絶対に中野の事件を知っていたはずだ。そこから連絡を受けて中野の事件を彼らが知る確率はほぼ百パーセントに近いと亜里沙には思えた。事件が何年も前のことならともかく、自分たちが隠岐を訪れたのは中野が殺されてから二ヵ月も経《た》っていない。まだまだ記憶に新しい事件だ。いや、そればかりか中野自身が隠岐を訪ねて一ヵ月も過ぎないうちに、後醍醐天皇と縁のある青森の大川原で殺害されたのである。殺された人間とは顔馴染みで、殺された土地も知っている。普通の人間なら強い衝撃を受ける。少しの切っ掛けでも、中野についてあれこれと話し出すのではないか? たとえば……石川の故郷が黒石と分かった時とか、長山が乾坤通宝の話を持ち出した時にだ。なのに彼らは一切口を噤《つぐ》んだ。まるで申し合わせでもしていたように……彼らの屈託のない笑顔を頭に思い浮かべて亜里沙は怯えた。 〈どうして! どうしてなの〉  いくらなんでも彼らが中野殺しの犯人とは思えない。だからこそ嘘が怖い。  長山を見詰めると彼も頷いた。 「こいつには気がついたか?」  長山がそっと耳打ちして名簿の一点を指し示した。その名前を眺めて亜里沙はギクッとした。そこには吉野で一緒に飲んだ観光課の高橋の名が記載されていたのである。 「どうやらトーマの想像が当たったらしい」  長山は老人の視線を気にしてそれだけを言った。亜里沙には長山の言いたいことが直ぐに分かった。自分たちはこの高橋という男に操られて長野を目指したのである。高橋ならこの村に先回りできたはずだ。髑髏のマークもきっと……亜里沙の考えを察して長山は頷いた。亜里沙の肩はガタガタと震えた。 「なんなのよ、これ!」  亜里沙には耐えられなかった。血相を変えて立ち上がった亜里沙に老人は唖然《あぜん》とした。 「おい、待て」  部屋を飛び出した亜里沙に長山が叫んだ。亜里沙は暗い廊下を駆けた。人が信じられない。いったいなんのために皆が…… 「バカ野郎。落ち着きやがれ」  追いついた長山が亜里沙の肩を掴《つか》んだ。 「私、東京に帰る。もうイヤなの」  亜里沙の目から涙が溢れた。 「こんなのってあり? だれを信じたらいいのよ。皆が嘘をついてたなんて」  長山が亜里沙の肩を強く抱いた。 「落ち着け。落ち着くんだ」  長山が背中を優しくさすった。 「オレとトーマは嘘つきじゃねえ。オレたちゃずうっと仲間じゃねえか。安心しな」  亜里沙の嗚咽《おえつ》が少しずつ鎮まった。 「確かに奇妙な事件だぜ。トーマの睨んだ通りだ。こいつは根本から考え直さんと」  そうは言ったものの長山にはまるで見当もつかなかった。      2  その頃。塔馬と山影は黒石市役所の観光課を訪れていた。塔馬の名刺はそのままだが、山影の身分は伏せてある。 「あの、私が近藤ですけど」  昼食から戻った近藤は来客と聞かされて怪訝《けげん》そうな表情で塔馬に頭を下げた。丸顔の若者だ。目が落ち着かないのは塔馬や山影の顔に見覚えがないせいで、性格的なものではなさそうだ。訛《なまり》が少ないところを見れば、東京辺りの大学でも卒業したのだろう。スポーツでもしているのか体格はいい。どこから見ても健康的で人に好かれそうな印象だった。  塔馬は近藤にも名刺を差し出した。  こういう場合、大学関係の肩書きは絶大な信用を与える。 「こちらは山影さん。歴史雑誌の編集者です。今度、後醍醐天皇の特集を組む企画があって一緒に取材にきたんですよ」 「ああ……そうですか」  近藤はようやく安堵の色を見せた。 「でも……なぜ私の名前を?」 「中野君から教えられて」  途端に近藤はギョッとした。 「彼も後醍醐天皇に熱心な人間だった。この山影さんの雑誌に書く予定になっていた。聞いてませんでしたか」  塔馬の言葉に近藤は曖昧な目をしながら首を捻った。だが、これで近藤が中野とただの付き合いではなかったことがはっきりした。無関係であれば別の反応がある。 「打ち合わせで彼と何度か話をして長野と青森を結ぶ二つの大川原のことを聞いた。面白いと思っていたのに、彼があんなことになって……先日実家に問い合わせて知りました」  塔馬が呟くと近藤は慌ててまわりを見渡した。なるほど、ここではまずいのかも知れない。近藤は中野との関係をだれにも内密にしていた男だ。塔馬は咄嗟《とつさ》に判断した。 「あなたにも書いていただきたいんです。少し時間を貰えませんか。外でお茶でも」 「あ……そうですね。私もその方が」  ホッとした顔で近藤は頷いた。  三人は市役所|側《そば》の喫茶店に落ち着いた。 「中野君は私のことをなんと?」  近藤はウェイトレスが遠ざかると自分から口にした。 「青森の大川原に関しては近藤さんが調べているはずだと。その時は中野君に書いて貰う約束になっていたので別に詳しい話もしませんでしたけど……今度はこちらに山影さんから原稿依頼がきた。長野の大川原はなんとか資料も集められますがね。青森の大川原となればさっぱり分からない。それで取材を思い立ったわけです。しかし肝腎《かんじん》の火流しは見たこともない。そうしたら山影さんがあなたのことを思い出して」 「そういう事情でしたか」  近藤は警戒心を完全に緩めた。 「書くのは苦手ですが協力はいくらでも。それが仕事ですんで。宜《よろ》しければこれからでも大川原にご案内いたしましょうか。まだ現地には行かれてないんでしょう?」 「そうして貰えるとありがたいですな」  山影は頭を下げながら、 「中野さんとは前からのお知り合いで?」  念を押した。 「二年程前ですか。手紙のやりとりを。実際に会ったのは今年の七月が最初です」 「ほう。すると殺される少し前に」  山影の目が鋭く光った。 「乾坤通宝のことは聞いてましたか?」  山影の厳しい視線にも気づかず近藤は逆に塔馬へ質問した。塔馬は息を呑み込んだ。 「それもぜひ書いてください。中野君の持論でしたからね。面白い話ですよ」  塔馬と山影は互いの顔を見やった。 「あいつはどういう男なんです?」  駐車場から車を持ってくると言い残して店をでた近藤の後ろ姿を眺めながら山影は溜め息を吐《つ》いた。 「直感に過ぎませんが……ヤツは中野殺しと無縁ですよ。それとも狂っておるのか」  塔馬も苦笑した。 「いくら我々が関係のない人間だとしても、まさか乾坤通宝のことを自分から口にするなんて……常識じゃ考えられません。犯人ならひた隠しにしたい話じゃありませんか」 「だったら、なぜ中野との繋がりを隠していたのか……二年も前から文通していた男が殺されたというのに。まったく頭が痛いな」 「同感です。これでフリダシに戻った」  山影は暗い目で煙草をくわえた。 「殺しよりも乾坤通宝の方が大事だということだな。つまりはそういう意味か」  塔馬はじっと考え続けた。  大川原に向かう車中でも近藤は終始上機嫌に思えた。塔馬はじっくりと観察した。 「山影さんの雑誌で財宝捜しツアーってのを企画してくれませんか。乾坤通宝を発見できたら遊んで暮らせます。市も協力を惜しみません。結構話題になると思いますがね」  山影はうんざりした顔で笑った。 「中野君も実際に捜したのかい?」  塔馬は冗談のように口にした。 「………」  近藤は言い淀んだ。 「そんなに確実な話なら、まず自分が捜してみるのが自然じゃないかな。自分で論文だけ書いて、責任を持たない研究者が大勢いる。そういう人間ではなかったんだろ」 「………」 「他人に捜させるってのはアンフェアだぜ。君たちの狙いはそれじゃないのか」 「だって……夢のような話でしょうが」  近藤はバックミラーで塔馬を睨んだ。 「夢は一人で見るものだ。他人に夢を見させるのはペーパー商法と変わりがない」  塔馬の口調はきつかった。  近藤は急に無口になった。山影はそんな二人の顔を交互に見詰めた。      3  塔馬と山影を乗せた車は、二人が朝まで投宿していた板留《いたどめ》温泉郷の手前で左折し、右に中野川を見ながら深い山道をどこまでも辿《たど》った。近藤は塔馬の態度に不審を抱いたのか、無言でステアリングを握っている。だいぶ前から二人がただの編集者と研究家ではないと睨んでいるようだ。山影は落ち着かない様子で前方の道に注意を払っていた。今の状態では近藤に命を預けたも同然である。乾坤通宝の件を近藤が自分から口にした点を考えると、中野殺しの真犯人とは思いにくいが、万が一ということもある。もし、近藤が勝手に進退窮まったと解釈して谷に向けてステアリングを切ればどうなるか……山道に入ったばかりで、まだ谷底までは五、六メートルの高さしかないけれど、これからはどんどん谷の深さが増して行きそうだ。  山影はしきりに背後を確かめた。  ドジさえ踏んでいなければ笹川が尾行しているはずだ。黒石市役所までは笹川の運転で行ったのである。が、背後の見通しの利く場所から眺めても笹川の気配はない。 〈あの間抜けが〉  山影は拳《こぶし》を握り締めた。それとも大川原には一本道と安心して距離を計っているのか? 〈落ちてからじゃ間に合わんぞ〉  覗いたバックミラーの中で近藤の視線と合った。近藤は慌てて目を逸《そ》らした。どうやら塔馬を観察していたと見える。 「大川原の人々が後醍醐天皇を奉じているとしたら、真言立川流はどうなんだい?」  またまた近藤を刺激するような塔馬の言い方に、山影は苦虫を噛み潰した。 「どうって言われましてもねぇ」  近藤は憮然《ぶぜん》とした口調で応じた。 「質問の意味が良く分かりませんよ」 「はっきりした質問だと思うけど」  塔馬はクスクス笑った。 「答えにくいのは、君が質問を拡大解釈しているせいじゃないのかい。大川原の問題じゃなく、君自身に聞かれたとでも勘違いして」 「オレはあんなもんとは無縁だ」 「ということは真言立川流に関しても、ある程度の知識があるって意味だな」 「まあね……後醍醐天皇を調べれば自然にぶつかる問題でしょうが」 「だったら、なぜ大川原の宗教に関心を持たない? いくらこっちの大川原に信濃の大川原から逃れてきたという古文書が残されていたって、紙に書いた文書なんぞはいくらでも捏造《ねつぞう》ができる。これまでに無数の経験があるよ。君たち若い連中は読めない文字や古風な言い回しの古文書を目にすると無条件で信用してしまう場合があるみたいだが、文献というものも結局は情況証拠の一つに過ぎない。脇を固める作業が必要だ。もしオレが君の立場なら真っ先に宗教を検索するな。問題の火流しだって、立派な宗教行事なんだから」 「………」 「大川原にもし真言立川流の痕跡でも見つかれば情況証拠が重なることになる」 「人を納得させる必要なんてありません。信濃の人間がこっちにきたのは間違いないんですから。オレたちゃ信じてる」 「信じる……か。自分たちだけのことなら、もちろんそれで構わない。だが、多くの人を説得するのはむずかしいぜ。ましてや、その程度のこじつけで日本中から宝捜しに押しかけるなんてのは有り得ないと思うがね」  近藤は鼻を鳴らして会話を中断した。  車は山に向かっているはずなのに、右手の谷の深さが次第に浅くなって行く。どうやら高原地帯らしい。山影は安堵した。カーブを曲がると前方に小さな村落が見えた。大川原である。両側を山に囲まれた鰻の寝床のような村落だ。民家はせいぜい三、四十軒。山のわずかな緩斜面に田畑が作られている。 「自給自足もむずかしそうな土地ですね」  山影は塔馬に言った。 「昔から家は三十軒。それ以上、一軒でも分家を増やしてはいけないという掟《おきて》があったとか。もちろん新参者はいっさい認めない」  近藤がそればかりは説明した。 「現在《いま》は違うんだろう?」  塔馬は遠くに広がる箱庭のような景色を眺めながら質《ただ》した。 「掟のせいではないでしょうが、次男以下はほとんどが働き口を求めて村をでます。新参者に関しては……説明も不必要でしょう。こんな不便なところに移り住もうなんて酔狂はいませんからね。期せずして掟が守られ続けているといったところですかね」 「この猫の額みたいな土地じゃ、長男以外に譲りようがない。厳しい環境だ」  山影は近藤の言葉に頷いた。 「火流しの行事の他に見るものは?」 「なんにも……信濃との繋がりを述べている由来書を保存している家がある程度ですよ」 「いつ頃に書かれたものだと?」 「本物は相当古い時代らしいですが……明治辺りに写し直したもんです。確かにその意味じゃ信憑《しんぴよう》性が薄くなりますがね……だけど、この村の人間がそんな偽物の文書を拵えて、なんの得があるって言うんです。青森の片田舎から出てきた文書なんてバカにしているんでしょうが、それこそ都会の人間の思い上がりだ。後醍醐天皇は明治になるまで朝敵扱いされていた人間ですよ。その天皇を祀《まつ》っている火流しの由来を書いた文書を隠し続けたのは当たり前のことだとオレは思いますがね」 「別にバカにしちゃいないさ」  塔馬は苦笑した。 「むしろ君以上に信用している」 「………」 「だからこそ裏の取れる話だと言っているんだ。由来書なんてのは発端に過ぎない。本気で皆が取り組めば必ず確かな証拠がでる。なのに君や中野君は途中で諦めた。宝捜しに目を奪われたというのでもなさそうだ。それなら世間に乾坤通宝のことを流布させようとするわけもない。すべてが中途半端なんだよ」 「大川原が宗良親王を庇護した信濃の落武者たちの作った村だと解明されて……それでどうなると言うんです? たった一行、歴史の教科書に掲載される程度のことじゃありませんか。いや、それもどうですかね。後醍醐天皇自身の問題ならともかく、その皇子を守っていた武士たちの問題だ。恐らく、なんの影響も与えられない。第一、あなたはここの大川原の存在をいつ頃知りました?」 「つい最近さ」 「火流しが後醍醐天皇絡みの祭りだってことは戦前から伝わっている。なのに後醍醐天皇の研究書に青森の大川原が一言でも触れられたケースはない。どうせ裏を取ったところで結果は一緒だ。無視されるに決まっている」  近藤は村全体を見下ろす高台に車を停めて先に降りた。塔馬たちも続いた。 「皆にとっちゃ、どうでもいい問題なんですよ。信濃からだれが逃げようと……こんな山の奥で敵に怯えて暮らした人間の苦労なんて、どうでもいいことなんだ。興味もないから、明治の史料なんて簡単に捏造ができるとバカにする。そういう連中は一ヵ月でも、この村に住んでみればいいんだ。村の連中がどんなに一所懸命に生きてきたか、あんたら都会の人間にゃ分かりっこない。嘘をつける器用さなんてどこにもありゃしないですよ」 「君はここの出身か?」  塔馬は近藤の横顔を静かに見詰めた。 「おふくろの実家があります」  近藤は村を眺めながら呟いた。 「中野君が死んでいた橋はあれかい?」  村の中央に小さな橋が見える。その下を浅い川が流れている。 「もちろん君もその日は一緒だったんだな」  塔馬はいきなり核心に触れた。 「あんた方はだれです?」 「流山朔の知り合いさ」  途端に近藤は青ざめた。 「やはりな……チョーサクを知っていると見える。すると……カメラマンの石川君はどうだい。君とは年頃も似ているんじゃないか。会ったことはないが黒石出身で三十前と聞いたぜ。黒石は小さな町だ。チョーサクよりは遥かに知り合いの可能性が高い」 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」  山影は慌てた。筋道が見えない。 「すると石川という男もこの事件に?」      4  それよりも少し前。長野、大川原。 「なんだとぅ! どういうこった」  香坂高宗の墓に向かう坂道の途中で長山は声を荒げて石川を睨んだ。 「なんでそいつを直ぐに言わねえんだ」  剣幕に石川は冷や汗を掻《か》きながら、 「ただの偶然かも知れないと……」 「嘘つけ。偶然だったら、コピーを見た瞬間に口にしてるはずだ。理由《わけ》を言え」  石川はたじたじとなった。 「言おうと思ったんですよ。でも亜里沙さんがいきなり部屋を飛び出したんで……隠岐の連中や吉野の観光課の男までがあの名簿にあってショックを受けているようだったし、その上にまたそんなことを言えばと」 「………」  長山は石川の目の奥を覗き込んだ。おどおどしているが、真っ直ぐに見返す。 「一応は信じて良さそうだ。ここでおまえさんにまで嘘を重ねられたんじゃ泣けてくる」 「嘘なんかつきません」  石川は長山と亜里沙に訴えた。 「まずいことになりやがったな」  長山は溜め息を吐《つ》いた。 「トーマは知っているのかしら?」  亜里沙は不安そうに二人に言った。 「ただの偶然じゃねえよ。絶対だ。ちくしょう。そいつがもっと早く分かってりゃ、こんな面倒にゃならなかったぜ」 「やっぱりそうなんでしょうか?」  逆に石川が長山に問い質した。 「ったり前《めえ》だ。隠岐の後醍醐サミットに参加したメンバーの中に、お宅の幼馴染みがいるなんて偶然は地球がひっくり返ったって有り得んよ。黒石の観光課にいる近藤って言ったな? そいつがきっと今度の黒幕だぜ。お宅からオレたちの予定を聞きつけて罠《わな》を仕掛けてきやがったのさ。それで全部の謎が解ける」 「だって……ぼくはなにも言っていませんよ。ここ一、二年は会ってもいないし」  石川は必死に否定した。 「旅にでる前に火流しの一件で親父さんに電話したと言ったろ。親父さんは近藤と親しいんじゃねえのかい?」 「ええ、家も近所ですし……ヤツとは郷土史研究会で一緒のはずですから」 「だったら決まりだ。親父さんはお宅が取材で隠岐に行くのを知っていた。一方、近藤は後醍醐サミットで隠岐に行っている。二人が顔を合わせれば、自然にその話が親父さんの口からでる。その想像に間違いはねえ」  石川はそれを聞いて肩を落とした。 「近藤はむろん隠岐の連中とも親しい。近藤から指示を授かって堀川礼子がフェリーで待ち受けていたという寸法だろうな」 「なんの目的で?」  亜里沙は怯えの目で問い返した。 「それに……中野真一殺しはどうなるの」 「知るか! そんなことよりトーマが危ねえぞ。タコが一緒だから少しは安心だが。もし、うっかり観光課でも訪ねて、それとは知らず近藤本人にオレたちのことや中野殺しを確認でもすりゃ……中野殺しもヤツの仕業《しわざ》だとしたら命を狙われる」  長山は口唇を噛んだ。 「なんとか連絡する方法は?」  亜里沙は焦った。 「どっかで電話しよう。ひょっとしたら黒石の警察が行動を把握してるかも知れん。タコが同行してるんだ。その可能性はある」  三人は踵《きびす》を返して坂道を駆け下りた。  それから三十分後。  長山たちは村の中心にある食堂の電話の前でじりじりして連絡を待っていた。やはり塔馬と山影は昨日警察署を訪ねていた。長山は近藤の名前は伏せて、とにかく山影に連絡したいと頼み込んだ。事情を詳しく説明できればもっといいのだが、確証もないのに迂闊《うかつ》に近藤の名前を口にして、もし殺人と無関係と分かれば迷惑を掛ける。 「捜し出してくれるかしら?」  亜里沙は時計を眺めた。  その時、電話が鳴った。食堂の主人が取る。受け答えで青森からと分かった。長山は弾けるように受話器をもぎ取った。 「もしもし……流山ですが」 「こちら、青森県警の笹川と申します」  長山は首を捻った。 「昨晩は山さんや塔馬さんと一緒でした」 「ああ、そりゃあ良かった」 「皆さんのことは伺っております」 「それで、トーマは今どこに?」 「大川原に向かっております。私も途中なのですが、黒石署から県警本部を通じての連絡を貰いまして」 「じゃあ、直ぐにヤツと連絡が?」 「いや、それはむずかしいと思います」 「なにか面倒なことでも?」 「二人は中野殺しに関連していると思われる人物と行動をともにしておりますのでね」  長山はさすがに絶句した。 「なにか大事な連絡でしょうか」 「その人物ってのは……近藤ですか?」  今度は笹川が唸り声を上げた。 「どうしてそれをご存知なんです?」 「それはこっちも知りたい。なんでトーマに近藤のことが分かったのか」  それでも長山はホッとした。その様子では塔馬も危険を承知の上の行動に違いない。  長山と笹川はそれからしばらく互いの情報を交換しあった。長山の応じる声に亜里沙は次第に落ち着きを取り戻した。 「とにかく、我々はこのまま東京に戻ります。夜には部屋にいる。結果がどうあれ、必ず電話をくれるように伝えてください」  長山は電話を切りながら、 「トーマって野郎も大したヤツだぜ。オレたちよりも先に近藤をマークしていやがった。ったく、どんな頭の構造をしてやがるんだ。この分じゃ事件のカラクリもとっくに見抜いているんじゃねえか」  肩をすくめて亜里沙のとなりに座った。 「トーマにゃ、しきりに隠岐行きを事前に知ってたヤツはと質問されたが……もしかするとお宅を最初から疑っていたかもな」  長山は石川の腹をこづいた。 「オレなんざ、一度も考えなかった。いかにも正直者ってツラだ。そいつに騙《だま》された」 「よしてください。別に騙してなんか」  石川は口を尖《とが》らせた。 「冗談だよ。お宅の責任じゃねえのは重々承知だ。けど、も少し悪党ヅラなら、あるいは疑ったかも知れねえ。推理なんてのは、所詮、そういうもんだ。ミステリーの世界なら、一番怪しくねえヤツとか、身近な人間を真っ先にマークするんだが、現実となりゃそうもいかねえ。まさか、あの堀川礼子が嘘をついてるとは想像もしなかったぜ。あんなに可愛い顔して、真面目な保母さんがな。オレぁすっかり自信を失っちまった」  亜里沙と石川も同意した。 「トーマはだれの顔も見てねえから単純に疑問だけを追及できる。つまりはそれの差だ」 「でも……本当に中野殺しの真犯人は近藤ってわけ? 大原殺しの方はどうなったの? それに、あの髑髏の連中は?」  亜里沙の頭に次々と疑問が浮かんだ。 「理由は知らんが、髑髏の連中だって嘘と睨むのが正解だろうな。とすりゃ大原殺しも嘘と見るのが自然だ。今度の一件で、たった一つ確実なのは中野真一が殺されたという事実だけさ」 「どうしても納得できないわ。嘘をつく理由があったにしろ、それは中野殺しの発覚に繋がるんじゃない? 隠岐の若い連中は中野殺しとは無関係かも知れないけど、近藤は違うわ。彼が真犯人だとしたら、そんな危ない橋を渡るかしら。せっかく警察が流しの犯行と見ている事件なのに、藪蛇《やぶへび》じゃないの」 「なぜ中野殺しの発覚に繋がる?」  長山は亜里沙を見据えた。 「髑髏の連中はたった一言でも中野殺しのことを口にしたか? 大原殺しの一件だけじゃねえか。繋げたのはオレたちの勝手な想像だ。近藤だってそう考えただろうよ。まさか青森にまで飛び火するとは思わずに仕掛けたのさ。ヤツの方にゃ警察が流しと処理したので安心があったかも知れんしな」 「話としては分かるけど」 「けど? まだ不服かね」 「殺人者って……私たちが想像する以上に不安を持つんじゃない? 嘘がバレたと言って笑って済ませられる問題とは違うわ。下手をすれば極刑よ。普通の人間なら隠岐と青森を繋げるはずはないと考えるだろうけど、その万が一の可能性まで心配するんじゃないかしら。私ならそう思うな」 「でしょうね。近藤はバカじゃないです」  石川も首を振った。 「ってことは……どうなる? オレの推理がまるっきり外れているとでも」  長山も少し自信がグラついた。 「もう一度史料館にでかけてみるか。そろそろ太田という男が戻っているかも知れない。ヤツは隠岐のサミットで近藤と会っている。その時の様子でも訊ねてみれば、あるいは」  長山は立ち上がってダイアルをまわした。  館長の中村が直ぐに出た。 「いやいや、太田は戻りませんよ」 「飯田市の方にでも?」  長山は失望した。 「話しませんでしたかね。太田はずうっと留守にしとるんですわ。休暇を取りまして」 「休暇? いつ頃からです」 「もう一週間にはなりますな。どうせ館もさほど忙しいわけじゃないんで……九州の古墳を眺めてくるとか言っておったが」 「一週間も休暇を?」  とすれば自分たちが隠岐に向かう前日辺りからという計算になる。一瞬、寒気がした。 「太田はずうっといないそうだ」  電話を切って長山は二人に言った。 「太田さんて、史料館のかね?」  青森の警察から電話を受け取ったことで神経を尖らせていた店の主人が割って入った。 「村にいるはずだがなぁ。昨日会ったよ」 「どこでです!」 「山の方から戻ってきた。息子の仲間なんで車の中から互いに挨拶を交わした」 「山と言うと、御所平のある?」  亜里沙の質問に主人は頷いた。 「人間《ひと》違いじゃありませんね」 「いっつも顔見てるからね。ホラ、あの人だ。県の朝野球大会で入賞した時の写真がそこに。カップを持ってるのが息子で、そのとなりでバットを担いでるのが……」  主人はテレビの上に懸けられている大きな記念写真を指し示した。長山は近づいた。 「……!」  眩暈《めまい》が長山を襲った。  バットを肩にして笑っていたのは、隠岐の宿の風呂で長山に声をかけた、あの髑髏の刺青をした若者だったのである。 「見て! この人の腕」  亜里沙が震えた声で一人を示した。肩を組んで笑っている腕に模様が見える。 「小さいけど、髑髏の刺青よ」  なるほど、そのように思えた。 「ああ……それかね」  主人がニヤニヤ笑った。 「チームはデビル・スターズっちゅう、おかしな名前でな。ほれ、体に貼りつけて上から擦《こす》ると刺青みたいになるシールがあるだろ。大事な試合の時にゃ全員がそれを……相手チームを威《おど》かすにゃもってこいとか言って」 「くそっ! まんまと嵌《は》められた」  長山は頬を痙攣《けいれん》させた。 「暴走族でも立川流でもなかったってわけか。ガキの遊びに引っ掛けられたぜ」 「太田さんがなにかしたのかね?」  主人は急に不安を覚えたらしい。 「ヤツの家はどこです?」  長山は激しい口調になった。 「とっつかまえて白状さしてやる」  普通の若者と知ってか、長山は強気だった。主人の表情が途端に強張《こわば》った。      5 「取り引きをしないか?」  塔馬は近藤の目を覗いて言った。 「困りますよ、塔馬さん」  山影が塔馬の袖を乱暴に引いた。 「私がいながら、そこまで許すわけには。こっちの立場も理解してください」 「やっぱり警察の人間なんだな」  近藤はじろっと二人を睨んだ。 「取り引きをする必要なんてどこにもない。オレは事件にゃ無関係なんだから」 「中野殺しに関しては……むずかしいかも知れないが、隠岐や吉野での恐喝罪は成立するんじゃないか? 君が直接タッチしていなくとも、流山朔の行動をマークするように指示を与えたのは君だろ。どうせ大した罪にもならんだろうが、流山は君を確実に告発できる。卑怯《ひきよう》な言い方になるけど、流山朔じゃ相手が悪いよ。彼は法律以外の方法で君に報復が可能な男だ。テレビにも取り上げられるだろうし、雑誌にもヤツは書く。君はお終《しま》いだ」 「………」 「隠岐の連中も同罪に問われる」 「それだけは勘弁してくれ! 彼らには罪がない。オレが唆《そそのか》したことなんだ。連中はなにも知らずに……」  懇願の目で近藤は取りすがると、 「もし……取り引きに応じたら?」  怯えた口調で質した。 「流山朔のことはオレが責任を持つ。幸い、怪我人も出ていない。今度ばかりは目を瞑《つぶ》ってやろう。それでどうだ。中野殺しの真相を聞かせてくれないか」 「……分かりました」  近藤は素直に応じた。 「ただし、あれは事故だった。オレも太田君を救おうとして死体運びを手伝っただけで、そいつばかりは信じてください」 「太田? 初耳だな」  山影が詰め寄った。 「長野の大川原の人間です。中野の友人で、隠岐で知り合った。火流しの当日には太田君も黒石にやってきて合流する約束を……」  塔馬たちは顔を見合わせた。 「あの日はオレも仕事を休んで、二人を車に乗せて大川原を朝から案内していたんですよ。だけど最初から二人の様子は変だった。死んだ人間を悪く言うつもりはありませんが……中野は妙にネチネチとした皮肉を言う男で、やりとりを聞いてるこっちまで腹が立ってきた。だれが決めたわけでもないのにリーダー気取りで、オレにさえ顎で命令する。仕事があると断わっても、平気で呼び出すヤツでしたからね。正直言うと隠岐で会った時から好きなタイプじゃなかった。頭はいいんだろうけど、自分のことにしか興味を持っていない人間で。太田君はそれに較べてさっぱりとしたヤツだった。後ろの席で口喧嘩がはじまっても、いい薬だと思ってましたよ。体力はずうっと太田君の方がある。そのうち……太田君がとんでもないことを口にした。中野が青森に足を運んだ理由です。彼は乾坤通宝の偽物を拵えて、そいつを自分が発見したように見せかけるために持参していると言うんです」 「………」 「オレは、まさかと笑いました。青森の大川原に乾坤通宝が運ばれたというのは中野の持論ではありましたけどね……いくらなんでも偽物を拵えるまでとは」  塔馬は暗い目をして頷いた。 「でも、事実だったんです。太田君はシートにヤツを押さえつけて体中を探った。胸の内ポケットから確かにそれが出てきた。オレは唖然とした。今でも中野の本当の狙いがどこにあったのか分かりません。単純に持論を世間に認めさせたかっただけなのか、それとも金儲けが目的だったのか……あるいは隠岐で惚れた女性に対しての見栄だったのかも知れない。堀川君という女性ですけど……彼女は中野君の説に同調していましたからね。実際に発見すれば彼女の気持を獲得できるとでも」 「まさか……その程度のことで」  山影は呆れた顔をした。 「子供みたいな男でしたよ。だから偽物なんてのを平気で拵えることが……」 「………」 「太田君はそれに気づいて中止するようにと勧告しにきたんです。仲間うちだけで騒ぐ分には問題もないが、世間に公表されれば専門家によって直ぐにバレる。太田君は彼の将来を案じていました。なのに中野は固執した。隠岐のサミットの第一歩だと言って……乾坤通宝の発見が知れ渡れば雑誌やテレビが飛びついてくる。黒石市だって真剣に発掘調査を検討するはずだと断言した。そのためには小さな嘘も許されるじゃないかと」 「………」 「オレは山の中で車を停めて中野を外に引き摺《ず》り出した。オレの役割が分かったからなんです。中野はオレを証人に仕立て上げるつもりだったのだと気がついた。太田君は彼に、黒石の住民全部に迷惑をかける気かと怒鳴った。それは有り得ました。もし事前に知らされていなければ、乾坤通宝が本物だとオレは信じたかも知れない。市だって乾坤通宝の発見を歓迎したでしょうよ。その時に中野の怖さが分かった。こいつは人のことなんてなにも考えていない人間だと。後で偽物と発覚したら市はどうなると思うんです?」  近藤は唇を激しく震わせた。 「太田君はヤツを殴った。ヤツも反対に殴り返してきた。揉《も》み合っているうちに、中野は下の川原に転げ落ち、岩に頭を打って」  塔馬と山影は同時に頷いた。 「いまさら言い訳みたいに聞こえるでしょうが……太田君とオレは直ぐに届け出るつもりだった。なのに、だれもいない山の奥だったので魔が差したんです。と同時に不安もあった。正直に事情を話しても警察が果たして信じてくれるだろうかと……幸い、中野とオレが一緒の行動を取っていることはだれも知らない。太田君にもおなじことが言えた。最初は放置して逃げようと思いました。でも、山の奥では逆に目立ち過ぎる。むしろ大川原に運んだ方がいいのではとオレは言った。その日はあの小さな村に一万人以上もの観光客が集まる。上手い具合に見咎《みとが》められず中野の死体を隠せたなら、あるいはと……」 「バカな真似をしたもんだ」  山影は舌打ちして近藤を睨んだ。 「そんなごまかしが通用するとでも」 「怖かったんです。そのまま逮捕されて二度と家には帰れないような気がして」  近藤の目に涙が浮かんだ。 「まあいい。やってしまったことをあれこれ言っても手遅れだ。解剖所見では君の告白通りの結果が出ている。喧嘩の上の事故で、しかも君が直接手を下していないと言うなら死体遺棄だけの問題になる。太田という男の方は過失致死も加わるんで、どうなるか分からんが、いずれ殺人とは違うしな」  山影は近藤の肩を軽く叩いた。 「それにしても……なんで流山さんに妙な真似を繰り返したんだ? 愚かとしか思えん。警察を舐《な》めていたのか」 「そんな……関係づけられるなんて、これっぱかりも思っていませんでした」 「君の心の中に事故だという甘えがあったのさ。罪の意識が少なかったせいだろう」  塔馬は冷たい視線を浴びせた。 「しかし……たとえ過失とはいえ、君が加害者だったら、やはり警戒したはずだよ。太田は遠い長野にいる。自分は直接事件とは無関係だ。おまけに警察も流しの犯行と睨んでいるらしい。君には事件さえ交通事故程度の認識に薄れていたんじゃないのか」 「そう……かも知れません」  近藤はうなだれた。 「脅迫はすべて君の演出か?」  塔馬は念のために確認した。 「石川の親父から流山朔さんが隠岐に取材に出掛けると耳にして……もっとも、アイデアはオレじゃない。後醍醐サミットを隠岐で開催した時に中野が冗談混じりに口にしたことを実行しただけです。だれか利用できそうな人間がサミットに参加している村や町を訪れた場合に、皆で協力しようと約束もしていた」 「利用できそうな人間? なんのことだ。それと脅迫がどう繋がる」  山影は面食らった。 「脅迫すれば……相手は裏に真実があると考えるでしょう」  近藤は目を伏せたまま応じた。 「もしその相手が乾坤通宝のことを信じて、テレビや雑誌に書いてくれたら……一攫千金を狙う連中が後醍醐天皇絡みの土地にドッと押し寄せてこないとも限らない」 「………」  山影は曖昧に首を振った。それは、その通りかも知れないが…… 「万が一、ゴールドラッシュに火がついたら新聞もこぞって書きたてるでしょうし、テレビの取材陣もやってくる。観光客だって何十倍にも膨らみます。そんな例が日本にゃいくつもあるでしょう。テレビの大河ドラマの舞台になれば、二、三年は観光客の絶えない町になる。金に換算したら何十億もの広告費にも匹敵します。サミットに参加した仲間の中にはオレと同様に観光課に勤務している人間が何人かいた。だから、ピンときた。本当にたった一人を騙して、その説が世間に広まれば、放って置いても観光客が増えると」 「なんとも……信じられん話だな」  山影は深い溜め息を吐《つ》いた。 「やってみるだけの価値はあった。流山さんはともかく、あの雑誌は有名でした」  近藤は亜里沙の作っている雑誌の名前を口にした。 「あそこが乾坤通宝を取り上げてくれたら話題になる。オレはそう判断しました」 「………」 「オレは早速、隠岐の仲間に連絡を取り、流山さんたちのことを報告した。石川とは別行動で、フェリーを利用するのも親父さんから聞き出していたので……簡単そうだった」  フェリーは一日に何本も出ていない。だいたいの日時さえ分かればたやすい。 「髑髏の刺青の男たちは?」  塔馬は訊いた。 「太田君と隠岐の仲間たちです。隠岐に連絡を取った後、長野に電話を入れたら、太田君も作戦に参加すると言って」 「そいつも能天気な男だな」  山影には信じられない行動だった。 「いや……太田はむしろ青森の事件の発覚を心配して参加したと思いますよ」  塔馬は断言した。あの執拗な脅迫は半分本気だったのではないか? 長山に乾坤通宝の存在を信用させるだけなら、隠岐と吉野の脅迫電話くらいで充分に思えた。長山が青森の事件に興味を持ちはじめたので、太田は焦って脅迫をエスカレートさせた。そう考えるのが自然だろう。 「架空の殺人まで持ち出した理由《わけ》は?」 「相手がミステリー作家なんで、きっと引っ掛かってくると思って……細かい筋立ては隠岐の仲間に任せました。そういうのが得意なミステリーの大ファンがいたので。髑髏の刺青は太田君の考えたことです」 「性質《たち》の悪い冗談だ。オレには過失致死よりも、こっちの方が不愉快に思える」  山影は太い眉をしかめた。 「解いてみれば、ずいぶんと他愛もない犯罪だったが……」  塔馬は苦笑しながら、 「動機が村起こしにあったとは……さすがに想像もできなかった。それを聞いたらチョーサクも泡を吹いて怒り出す」 「まったくです。くだらん」 「オレたちには大事な問題だった」  近藤は反論した。 「あなたたちは現実を知らないから、くだらない動機だなんて笑っていられる。そこで暮らしている人間のことなんかどうとも思っていないんでしょう。不便だったら都会に移ればいい、ってくらいの問題としか」 「………」 「オレたちゃ、皆、故郷を愛してる。だけど、ほとんどが職もなくて故郷に残れない。仕方なく都会に行く人間の方が遥かに多いんです。もし……もし、故郷に人が集まるようになれば、共同でペンションだって経営できるし、喫茶店や本屋もやれる。タクシー会社も作れるんだ。自分の生まれ育った村や町に友達も戻ってくる。そんな希望を持つことが、くだらない理由なんですか? この村ばかりじゃない。長野の大川原も、吉野も隠岐も、皆がおなじ悩みを抱いていた。陸続きで弘前や青森に行けるオレたちは、まだいい方だ。隠岐の連中はもっと深刻でしたよ。数えるほどしか若い連中が残っていなくて、楽しみと言えばスポーツばかりだ。買いたい本を新聞広告で見つけたって、島の本屋には古い文庫本しか並んでいない。注文すると三週間は待たされる。かと言って本土に渡るには往復六時間。映画館もむろんない。せめて、今の倍も観光客がきてくれるなら、働き口も増えるし、文化施設も充実する。それを願うのが、人間として当たり前じゃありませんか?」  近藤は涙声になった。 「脅迫や嘘が悪いのは承知です。けど、そんな方法でも取らなきゃ、人がきやしない。オレたちの悩みを訴えたって、観光客が増えるわけがないんだ。宝捜しの嘘を信じ込ませるのに成功したら、最低でも倍は観光客がくるって……夢のようなことを皆で話し合った。皆、故郷が好きなんです」  近藤はついに嗚咽《おえつ》を洩らした。  山影は困った顔をして塔馬を見詰めた。塔馬はゆっくりと近藤に頷いた。 「さっきの言葉は取り消そう。考えようによっては、恨みや金よりもずうっと切実な動機だったかも知れないな。確かに君の言う通りだ。過疎なんて頭では理解しているつもりでも、都会に暮らしている人間には、結局、どうでもいい問題に過ぎなかったかも……特に東京生まれのオレには」  だから事件の筋道は見えても、肝腎の嘘の理由が分からなかったのだ。 〈素敵な犯罪だったじゃないか〉  塔馬の口許に微笑が浮かんだ。 「もし……太田が」  山影が思いついた。 「事件の発覚を恐れているとしたら、流山さんたちが危険じゃありませんかね。御所平に髑髏のマークを潜ませたのも太田でしょう。となると太田は流山さんたちの近くにいる。隠岐の連中と違って、太田は村起こしとは別の理由で必死のはずです」  そこに一台の車が上がってきた。笹川の姿が中に見えた。山影は手招いた。 「事件は片付いた。心配ない」  山影は真っ先にそれを言った。 「問題はこっちより長野だ」 「流山さんと連絡がついたよ」  笹川も近藤を見ながら口にした。 「太田という男のことは聞いてるか」 「太田? いや」 「そいつが中野殺しの犯人だ。と言っても過失致死だったらしいが」  笹川は目を丸くした。 「長野の大川原の駐在所に連絡しろ。応援を頼んで流山さんのガードを。話を聞いた限りでは、乱暴な相手とも思えんが……念には念を入れておいた方がいい」  山影は安堵の息を吐いた。 [#改ページ]  終 幕  その翌日の夜。  東京に戻った塔馬の研究室に長山と亜里沙が連れ立ってやってきた。塔馬から招集をかけられたのである。  半開きのドアをノックして部屋に足を踏み入れた亜里沙は、中に意外な人物を認めてその場に立ちすくんだ。後に続いた長山もポカンと口を開けて彼女を見詰めた。 「ご迷惑をおかけしました」  堀川礼子が伏し目がちに謝った。 「謝って済む問題じゃないでしょうが」  礼子の後ろに立っている男も頭を下げた。ミステリー好きのスナックのマスターだ。 「どういうことになってる?」  長山はソファに座ったままの塔馬に声をかけた。 「どうしてもチョーサクとリサに謝りたいと言うもんでね。さっき着いたばかりだ」 「なんでトーマは二人を知ってる?」 「前に電話したのさ。忘れたのか」  長山は首を捻った。 「ああ……あの時ね」  亜里沙が思い出した。吉野の宿の電話で塔馬と脅迫の件で話を交わした時のことだ。塔馬は、なぜ長山たちが隠岐から吉野に移動したことを脅迫者は簡単に突き止めたのかと気にした。自分たちは尾行されたものと信じて疑わなかったが、塔馬は確認する必要があると言い張った。情報が洩れたとすれば、隠岐の若い連中からという可能性が強かった。亜里沙が確認を約束したら、塔馬は遮って、自分がすると口にした。それで塔馬に隠岐のスナックの電話番号を教えたはずだった。  なるほど、と長山も頷いた。 「あの時点で塔馬さんには見抜かれていたんです。そうとも知らずに……」  マスターは頭を掻いた。 「なんだと? 冗談だろ」  長山は目を剥《む》いた。 「正確に言うと……疑いだよ」  塔馬は苦笑した。 「半信半疑だったんで、罠を仕掛けた」 「罠? おまえさんがか」  長山はどっかりと腰を下ろした。 「チョーサクに近づいてきた髑髏の刺青の連中の態度は、どうもワザとらしい。と言って、リサも断言したように、チョーサクたちが乾坤通宝のことや大原殺しの話を神社の中で立ち聞きしていた時は、連中にチョーサクたちの居場所は分からなかったはずだ。ひょっとして黒木御所跡の方にでも隠れられていたら芝居が全部無駄になる。しかし……どう考えても芝居臭い。いくらまわりに人がいない場所でも、人殺しのことを軽々と口にしないさ。おまけに、わざわざ乾坤通宝をポケットから取り出して見せたりしてな。一枚一千万もする品物を無造作にポケットに入れて持ち運んでいるのも不自然だ。芝居となれば、やはり連中はチョーサクたちが神社に潜んでいることを知っていたに違いない。行動が筒抜けになっていることも重ねれば、一つの答えはでた。同行している石川君が連中の手引きをしているという結論だ。だが、そうなると新たな矛盾も生まれた」 「矛盾? どんな」 「青森の大川原の殺人の話は石川君が最初に言い出したって問題さ。あっちが本物の殺人ってことは疑いもなかった。もし石川君が連中の仲間なら絶対に公言しない。関係のない事件だったら分からないが、中野殺しも後醍醐天皇絡みってのは明白だった。チョーサクは職業柄、警察とも馴染みだ。そんな人間を前にしたら、どんな大胆な犯人だってひた隠しにする。石川君への疑惑はこれで消えた」  亜里沙は何度も頷いた。 「すると面倒なことになる。いったいどうやればチョーサクたちを神社に誘導できるか。あれこれと考えていたら、その直前に若い女の子が見物にやってきて、神社の扉を開いたという話を思い出した。彼女らは扉をそのままにして御所跡に移動したと言う。それでチョーサクたちは御所跡に隠れるつもりだったのを変更して神社にしたはずだったな」  長山は不安そうに頷いた。 「彼女たちが連中の仲間なら簡単なことだよ。神社の扉を開けて御所跡に行く。もしチョーサクたちが、それでも御所跡の方にきたら、戻って連中に教えればいい。連中は御所跡まで行って芝居をはじめる。反対に彼女たちから特別な連絡がなければ、予定通りチョーサクたちは神社の中に潜んでいると分かる」 「そういうことか!」  長山はマスターを睨んだ。 「推理はできたけど……難問はそれからだった。若い女の子まで仲間となれば、あまりにも大掛かりな嘘だ。おまけにスナックに集まったという島の連中も怪しい。これ見よがしに黄金伝説に触れているサークル誌をくれたと言うんだろ。なのに否定してみたり、実はと白状したり……理由は見当もつかないが、全員が組んでの嘘じゃないかと睨んだ」 「………」 「それで彼に電話した。チョーサクたちが吉野で危険な目に遭っていると伝え、髑髏の刺青をした連中に心当たりはないかと訊ねた。彼は即座に否定したよ。だがオレの本当の狙いは彼の返事じゃなかった。真言立川流の可能性を彼に吹き込むことだった」  長山と亜里沙は呆然とした。 「真言立川流に関してもその時点では半信半疑でね。おおっぴらに刺青をした秘密結社がどこにある、とチョーサクに言われて、オレも内心ではなるほどと思っていたのさ。かと言って連中が暴走族とも思えなかった。いっそのことそいつで嘘を試してみようと考えた。彼に真言立川流と後醍醐天皇の繋がりを吹き込み、もし、いつか髑髏の刺青をした連中が真言立川流だと名乗ってきたら……オレの推理が当たっていたことになる。彼と連中は仲間だとはっきりするんだ」 「分かったよ。それで長野の御所平に真言立川流としか思えねえマークが置かれてあったと連絡した時に、心配はねえと言ったんだな。むしろ派手に動いてみろと。確かにおまえさんは真言立川流の可能性も撤回すると言いやがった。妙だとは思っていたんだ」  長山はすべてを理解した。 「目的がなんにあるのか分からないだけで、彼らに殺意がないのは明白だったからね」 「中野殺しに関してはどれだけ?」  亜里沙は礼子に質《ただ》した。 「近藤さんからは強盗に遭って中野さんが殺されたとしか聞いていませんでした……まさか太田さんと喧嘩して死んだなんて」 「覚えていないかも知れないけど……石川君が黒石の出身と分かった時に」 「ええ。本当にびっくりしたんです。近藤さんからは流山先生と名掛さんのことしか教えられていなかったので……でも中野さんについては絶対に口外しない約束だったし」 「だれとの約束?」 「近藤さんや太田さんとです」 「………」 「中野さんの存在を教えれば、乾坤通宝が偽物だと感づかれるかも知れないと……太田さんはあの乾坤通宝の偽物は、中野さんが参考のために拵えたレプリカなんだと私たちに説明しました。長野の大川原にはそのことを知っている人たちがたくさんいて、もし流山先生たちが調査すれば嘘が発覚すると……」 「いろいろと太田も苦労したと見えるな」  長山は笑った。今頃、太田は黒石署で近藤とともに事情聴取の最中だろう。 「それほど悪いヤツでもなかったぜ」  長山の言葉に亜里沙も頷いた。 「オレたちが太田の家を訪ねたら、観念して駐在所に同行した」 「悪い人ではありません」  礼子もそれを強調した。 「先生を騙した私が言うのも変ですが」 「まあ……いいさ。トーマから事情は聞いてる。別に恨んでやしねえよ。リサだって、お陰で三キロは痩せたと喜んでるぐれえだ」  亜里沙が長山の膝を抓《つね》った。 「終わり良ければすべて良し、って言うが、ホントだな。結構面白かったぜ。リサの泣き顔も久し振りに見られたし……オレたち二人の距離だって、ずいぶんと接近したんじゃねえかい」 「まあね。近寄り過ぎてアラが目立つみたい。この辺りがちょうどいい距離じゃない」  亜里沙は二人の間に掌で線を引いた。 「それより……原稿はどうするんだ?」  笑いながら塔馬は長山に訊ねた。 「原稿って……リサの雑誌か」 「もちろん書いて貰うわよ。一週間近くも取材したんだもの」 「ちょっと待て、本気か?」  長山は真面目な顔になった。 「だったら、頼みがある」  塔馬は二人に向かって言った。 「乾坤通宝のことを書いてくれ」  礼子とマスターも顔を見合わせた。 「偽物には違いなかったが……それほど荒唐無稽な話でもない。乾坤通宝はきっとどこかに隠されているはずだ。中野の仮説もまんざら捨てたもんじゃないと思う。もし史料が不足だと言うんなら……」 「言うなって」  長山は笑って遮った。 「実を言うとオレもおなじことを考えていたのさ。リサさえそれで良けりゃ」  亜里沙はもちろん頷いた。 「オレの力なんぞをアテにされても困るが」  長山は礼子と向き合った。 「多少は役に立つと思うぜ。十人ぐらいは観光客が増えるかも知れん」 「ありがとうございます」  礼子とマスターは深々と頭を下げた。 「これで島の仲間も喜びます」 「帰ったら仲間に言っといてくれ。来年オレたちがまた隠岐に行くまでには、ちゃんとオレの本を読んでおくようにってな」  礼子は顔を輝かせた。 「リサとの新婚旅行ってのも有り得るか」 「ないない、それだけはない」  亜里沙の激しい拒絶に塔馬は笑った。  研究室に笑いが溢れた。  初出誌 『週刊小説』一九八八年十一月十一日号から一九八九年二月十七日号まで掲載  単行本 一九八九年五月 実業之日本社刊 〈底 本〉文春文庫 平成七年三月十日刊