高橋克彦 前世の記憶 目 次  前世の記憶  針の記憶  傷の記憶  熱い記憶  匂いの記憶  知らない記憶  凍った記憶  昨日の記憶  前世の記憶     1  あらゆることに気力を失いつつあるのは、自分でもはっきりと分かっていた。明日こそは、と思って布団につくのだが、結局、頭の重さと気怠《けだる》さに負けて、十時近くまで布団から抜け出ることができない。私が顔を出さずとも業務に差支えが出るような会社ではない。それを私自身が承知しているので、つい甘えてしまう。むしろ専務や社員たちは、形ばかりの副社長など、出てこられる方が迷惑だと思っているに違いない。それがますます起きる気力を喪失させる。実際、大した仕事が待っているわけではなかった。すべては義兄《あに》の専務が決めている。私はその報告を受けて書類に判を押すだけだ。分かったフリをして書類に目を通しているが、本当はその半分も意味が分からない契約がほとんどだ。一年前まで、この私の役目は母が受け持っていた。その母が心臓を悪くして長期入院を余儀無くされてから、理事だった私の副社長への昇格が慌《あわ》ただしく決められ、今に至っている。母の希望で、いずれは社長の椅子を継ぐことになっているのだが、高級婦人下着の製造と販売など、私の性に合う仕事ではなかった。入院中の母の望みなので従ってはいるものの、やがては義兄に社長の座を譲り、どこかのんびりとした田舎町で好きな本でも読んで暮らしたいと思っている。それが、二十八歳の独身男の言うセリフかと青柳にはいつも呆れられているが、嘘偽りのない本音だった。興味のない仕事に一生縛られて生きるのかと思えばゾッとする。  いつもの頭痛に耐えながら布団から抜けだしリビングに行くと七つ違いの姉の君子がコーヒーを沸かしていた。母に似て勝ち気な性格である。義兄を気に入っていたら、母は躊躇《ちゆうちよ》なく姉を後継者に選んでいただろう。 「またなの?」  姉はたばこの煙を私に吹きかけた。 「あんた、なに考えてるのよ」 「今日はなんで?」 「母さんに頼まれて、ちょっと細々したものを取りに……俊哉《しゆじん》がこぼしていたわよ」 「なんて?」  私は苦笑した。こぼしているはずがない。むしろ社員の気持が私から離れていくのを喜んでいるように思える。 「代理店の認定式には出るんでしょうね」 「ああ。出るさ」 「俊哉《としや》が頑張っているからいいようなものの、こんな調子じゃ示しがつかないわ」 「頭痛の原因が分からないんだ。青柳はストレスのせいだと言っている」 「あんたにストレスがあるわきゃないわ」  姉は馬鹿にしたように笑った。 「青柳君なんかに任せないで大学病院にでも代えたら? 母さんの見舞いに行ったついでに診察して貰えばいいじゃない」 「青柳は名医だって評判だぜ」 「医者になったばかりで?」 「今は若い医者の方が信頼できる。ストレスは現代病だからな。新しい分野なんだ」 「なんでもないと言われるのが厭《いや》なんでしょ。休む口実がなくなって」 「一生休みたいよ。なんなら母さんに話して義兄さんの昇格を頼んでもいい」 「私は弟のあんたに頑張って貰いたいと思っているだけ。それも分からないわけ?」  姉は乱暴にたばこを揉み消した。 「大丈夫だとは思うけど……母さんになにかあったら、私とあんただけなのよ。あんたが仕事を嫌いなのは分かってる。でも、潰《つぶ》すわけにはいかないでしょ。母さんがせっかく一人でここまで大きくした会社なのに」 「だから、母さん一人の会社で充分じゃないか。俺だったらなんとかなる」 「なにができるってのよ!」  姉はテーブルを叩きつけた。 「母さんの苦労をちっとも分かっていやしないじゃないの。くだらない本だけ読んで。あんたにどんな仕事が勤まると思って? ウチの代理店の数も知らないでしょ。あんたなんか、まともに勤めていたら二十万の給料も貰えやしない。少しは母さんに感謝しなさい」 「嫌いな仕事だから適当にやってるだけだ」  売り言葉に買い言葉となった。 「パンティ売りなんて、男の仕事じゃない」 「それで十五億の年商を上げている会社なのよ。あんたはその会社の責任者。それ以上文句を言うつもりなら母さんに言って私が預からせて貰うわ。それでいいの?」 「いいさ。せいせいする」  姉の平手が頬に飛んできた。 「ったく、情けない人ね。あんた、父さんにそっくり。自分のことだけなんだから」 「親子だ。似るのは当たり前だろ」 「冗談じゃないわよ。あんな父さんなんか」  姉は突然涙を零《こぼ》した。 「父さんのために母さんと私がどんな辛い思いをして生きてきたか……あんたなんかに分かってたまるもんですか!」 「………」 「母さんが居なかった三年間、伯母さんの家に預けられた時のことを忘れたの? それを思い出したら、今みたいな呑気なことは言えないはずだわ。そうでしょ!」 「忘れたよ。そんな大昔のことなんか」  憶えてはいたが、私はわざと言った。 「一緒に病院へ来なさいよ。だったら母さんの前で会社を辞めると言って!」  姉はますますヒステリックになった。 「辞めて、あんたの好きな文学ってのを思う存分やればいい。ただ、この家も出て貰う。援助なんかをアテにしないでよ」 「姉さんになんの権利があるんだ! ここは俺の家だぞ」 「母さんの家だわ! あんたのじゃない」  私は、呆れて姉の顔を眺めた。     2 「いい歳して姉弟喧嘩か」  青柳はニヤニヤした。昼休みを見計らって私は青柳の兄と彼とで経営する医院に来ていた。青柳は階下の喫茶店に私を誘った。青柳たちはビルの二階を借りて内科と小児科を開業している。青柳は高校時代からの仲間だ。 「この頭痛さえ取れれば、も少し仕事にも打ち込めると思うんだが……姉貴は完全に怠け病だと信じ込んでいる」  私はこめかみを強く押した。我慢できないほどではないのが逆に災いしている。軽い二日酔いが続いていると言えば多少は理解して貰えるだろうか。 「頭痛ってやつは自己申告だからな。怪我なら見ただけで分かるけど……やるだけのことはやったぜ。歯だって治療したじゃないか」  私は頷《うなず》いた。歯の噛み合わせが悪くて頭痛の原因となることがある。青柳に教えられて完全に治療した。それでも効果がない。 「半年以上も頭痛が治らないってのは、俺も聞いたことがない。脳波にも異常がないし、やっぱりストレスとしか思えないよ。自己暗示も関係あるはずだ。痛いんじゃないかと思い込んでいるから痛みを感じる。他人なら感じない痛みかもしれない」 「気のせいだとでも?」 「痛み止めの薬は効いてるかい?」 「少しはね。だからこうしていられる」 「一週間前にやった薬は?」 「ああ。そろそろ新しいのを貰わないと」 「あれって──」  青柳は悪戯《いたずら》っぽい笑いを見せて、 「ただのビタミン剤だぜ」  白状した。 「悪いとは思ったが兄貴の勧めもあって試させて貰った。それで痛みが軽減したって言うなら、やっぱり俺の想像していた通りだ。頭痛は心に原因している。病気なんかじゃない」 「いや。ちょっと軽くなっただけで、痛みがなくなったわけじゃない」 「にしても、ビタミン剤で頭痛が軽くなるはずがないだろ。絶対に自己暗示だ。仕事をしたくないって気持が頭痛を起こしている」 「それじゃ、姉貴とおんなじ結論だ」 「中途半端にしてるから良くならん。いっそ一ヵ月くらい休んで旅行でもしたらどうだ。それでも頭痛が続くようなら根本から考えなおさなきゃいかんけどね」 「姉貴の言う通りだ。やっぱり頼りにならん医者って気がしてきた」 「それなら催眠療法を試してみる気は?」 「よせよ。気持が悪い」 「別にそんな大袈裟なことじゃない。ストレスは多かれ少なかれ、だれにでもある。治療と思うから厭な感じがするだけで、精神安定の方法だと考えりゃいいさ。ヨガや座禅だって、結局はストレスの解放を目的としている。気が進まんのなら、座禅でもいいよ」 「できるのか?」 「俺には無理だが、専門家を紹介する。なんの心配も要らん。行って話をするだけさ。アメリカなんかじゃ普通だぞ。むしろ知識人の証明とばかりに、ストレスを訴えて精神治療を求める患者が増大してるらしい」 「ストレスってのは、そんなに酷《ひど》いのか」 「心の病気には肉体的な痛みが伴わない。それで本能的な防御システムが働く。別の部所に信号を送って危険を知らせる。まあ、教科書で習った程度で、本当にそうなのか俺には分からんけどね。実際に自律神経失調症の患者にはさまざまな症状が出る。頭痛で済んでるなら軽い方だ」 「完全に決め付けてるな」 「脳波に異常がない患者に病名をつけられんよ。やりたくない仕事が必ず関係してる。頭痛がはじまったのは副社長になってからだろ」  私は認めた。 「原因がはっきりすると頭痛も消える。その原因を突き止めてくれるのが精神療法だ。治療を隠したいってんなら、偽名でも構わない」 「治るんなら別に隠す気もない」 「明後日は大学の附属病院に行く用事がある。よければ一緒に行かないか。騙されたと思って何回か通ってみるんだな」  気乗りのする話ではなかったが、青柳が真剣に私の体を案じてくれているのは確かだった。私は青柳と時間を打ち合わせた。不安のせいか頭痛は少しだけ強まった。     3  青柳の卒業した医大は隣りの市にある。私の母もそこの附属病院に入院している。私は青柳の運転する車に乗せられて大学病院を訪ねた。青柳はいきなり私を医局の方に案内した。最初は私を紹介するだけで、次からは受付けを通してくれと言う。  紹介された医者は牧野と言って、四十近い温厚そうな顔立ちの男だった。大学で精神科の講師をしている。青柳にはテニス部の大先輩に当たるらしい。青柳は手短に私の症状を説明すると、他の用事を済ませに部屋を出て行った。私もこれが終われば母の見舞いに行き、また後で青柳と合流する約束だ。 「ストレスなんでしょうね」  私は牧野に聞かれる前に口にした。相手が精神科の医者だと思うと不安が先走る。自分から認める方が安心だと思った。 「ゆっくり聞いてからじゃないと」  牧野は苦笑した。 「ま、頭痛が昇任と時期を同一にするなら、たぶんそうだとは思うが……一応、この紙に詳しく記入してもらえますか。私がいちいち訊ねてもおなじだが、時間の節約になる。精神療法の基本は、どれだけ患者さんのことを知っているかが大事でね。時間がかかるでしょうから、別の場所でゆっくり書いてきてください。そうだな……私はこれからちょっと診察がある。一時間後にまたこの部屋まで。あなたの都合はどうです?」 「いいです。ちょうど母の見舞いもあるので」  私はホッとしながら席を立った。  私は病院の喫茶室に下りた。病院は広い敷地内にある。市内に出れば時間が足りなくなる。コーヒーを啜《すす》りながら私は渡された用紙に目を通した。細かな質問が並んだ紙が六枚も綴じられていた。自分についての質問ばかりなので書けないというものではないが、裏を考えると厭な感じのする問いもある。身内に精神障害の者は居るか、とか、家族に虐待された経験はあるか、という類いのものだ。こんな質問にまともに答えたところで私の頭痛の治療に役立つとは思えない。私は次第に憂鬱になった。今日は青柳の手前我慢するしかないが、やはり催眠療法など止めようと思った。二度とこなければいい。  覚悟を決めると私はペンを握った。なるべく当たり障りのない答を連ねる。両親に関しての質問で私のペン先は鈍った。  父親は死亡に丸をつける。  すると、それについてのさまざまな質問が続く。死亡の原因、死亡年齢、親子関係の濃度、父親という言葉から受けるイメージ、類似点と相違点、夫婦関係の善し悪し……なぜこんなことまで、と不快に思えるほど質問は微細に及んでいた。私はなるべく無視して無味乾燥な文を重ねていったが、だんだんと不安に襲われた。若くして死んだ父親に対して、これでは逆に妙な態度と誤解されそうな気がする。そこを追及されれば、本当のことを告白しなければならない。すると牧野は必ず親父に今度の原因があると即断してしまうだろう。親父は今度の頭痛と無関係なのだ。第一、私には親父の記憶がほとんどない。  私は溜め息を吐《つ》いた末に、死亡の原因を書き込む欄に戻った。事故死とだけ私は記入していた。そこに私は括弧《かつこ》を付け足して、母親による、と書き添えた。  自分でもおかしな説明だと分かる。  牧野も当然訊いてくるに違いない。 〈おふくろが殺したんです〉  あっさりと言うのがいいのだろうか。それとも苦渋に満ちた顔で応ずるべきか……。  私はこんな場所にきたのを後悔しはじめた。それを言えばせっかく母親が隠し続けてきた罪を白日の下に晒《さら》す結果となる。いかにも手にかけたのは母親だが、たった三年の実刑で済んだように、あれは母親に責任がないことなのだ。裁判官は情状酌量の余地があるとして母親に同情的だったと聞いている。  出所した母親は今の町に移り住み、下着の訪問販売をして私と姉を育てた。それが現在の会社に繋がっている。もちろん親しい何人かは母親の辛い過去を承知しているはずだが、町の人の大半はそれを知らない。母親が築いた成功を壊す結果になるのを私は恐れた。  私は余計な説明を線で消した。  私はそれを言う権利など一つもない。  しかし、消した部分はさらに目立った。 〈まいったな〉  新しい用紙を貰う方がいいかもしれない。とりあえずこの用紙は下書きにしよう。そう考えたら気が楽になった。心を落ち着かせて次の質問に目を移す。死亡年齢のところでまた心が騒いだ。三十と覚えている。ずいぶん若くして死んだのだとあらためて思った。来月で私も二十九になる。父親の死亡年齢などこれまで意識したことはなかったけれど、あと一年もすればその年齢を追い越す計算だ。来年以降からは、自分より歳下の父親をイメージしていくのだろうか。 〈青柳は案外鋭いところを見ていたのかもな〉  ひょっとしたら本当に頭痛の原因は心にあるのかも知れない。結婚を考えたことがないのにしても、根は父親の若い死亡年齢と無関係ではなさそうだ。遺《のこ》された子供の辛さは自分自身が経験している。万が一私がおなじように早く死ねば、子供が可哀相だ。それで結婚を恐れてきたような気がする。  私は記入を中断してコーヒーを飲んだ。  病室を訪ねると母は姉が届けたらしい帳簿に目を通している最中だった。 「心臓に悪いよ。母さんが入院してから、ずっと成績が落ち込んでいる」 「早かったじゃないの」  母は帳簿を閉じて私に窓際の椅子を勧めた。 「夕方だと聞いていたのに。元気そうね」 「母さんこそ。これならすぐに復帰できるんじゃないか? そうして貰いたいね」  髪は真っ白になったが、顔には以前のような艶が戻りつつあった。もっとも、まだ五十八歳なのだ。本来なら白髪になる年齢ではない。同世代の婦人と比較すると、だいぶ老けて見える。苦労と病いのせいだろう。 「頭痛の方はどうだい? 最初っからこっちの病院に通えばよかったのに」 「どうやら精神病みたいだな」  私が言うと母は怪訝《けげん》な顔をした。 「親父の遺伝じゃないのかな」 「なに言ってるのよ」  母は顔色を変えた。 「アル中だったんだろ。医者に診て貰わなかったからはっきりしてないだけで、その可能性はあるさ。今ではアルコール依存症も立派な精神病の一種だ。ストレスが酒に頼らせる」 「だって、おまえはお酒をそんなに飲めないじゃないの」 「親父の場合は酒だったと言ってるんだ。もしかしたら親父も頭痛に悩まされていたかも」 「おまえはあの人にちっとも似ていないわよ。顔も背丈も全然違う」 「心までは分からないだろ。親子なんだ」 「あの人は信じちゃいなかった」 「なにを?」 「別の男の子供に違いないって……まったく、自分が外で遊んでいるからって……酷い父親だったわ。私があの人より歳が上だったから、どこかで信用していなかったのね」 「俺が親父の子供じゃないって?」 「あの人の子供よ。なに言ってるの」  母は憮然として私を睨《にら》みつけた。 「はじめは可愛がっていたんだけどね……そのうちおまえが全然似てないと騒ぎ出して。養子にやるとまで言ったんだよ」 「それは姉貴にも聞いたことがある」 「今のおまえを見たら、もっと言ったに違いないね。文学なんて無縁の人だったから」 「もう止そう。お互い厭な気になるだけだ」  私は母を制した。父親の話は我が家ではタブーになっている。慣れていない。不愉快な膿《うみ》を押し出す結果になる。 「催眠療法ってのを受けてみないかと青柳に勧められている。それで担当の医者にさっき会ってきたんだけど……やたらと面倒なことになりそうなんだ」 「入院しなくちゃならないの?」 「いや、そういう意味じゃない。問診が普通の病気と違って丁寧って言うか……とにかく根掘り葉掘りでね。親父のこととかもきちんと説明しなきゃいけないみたいだ」 「………」 「俺はなんにも知らない。訊かれても答えようがないけどな。ま、最初だけだろうけど」 「おまえさえ平気なら構わないじゃないの」  母は努めて平静を装って言った。 「別に隠しているつもりではないし。調べればすぐに分かることだものね」 「医者は患者の秘密を守る。そっちの心配なら無用だ。問題は俺に答えるほどの記憶がないってことさ。だから困ってる」  私は母を安心させた。 「結局、断わることになるだろう。青柳に言われたんで来ただけだ。頭痛だって我慢できないほどじゃない」 「そんなに続いているのかい?」 「平気だよ。そのうち治る」  笑顔を繕《つくろ》ったものの、頭痛はさらに顕著になっていた。  親父の話をしたせいだろうか。 「母親の見舞いに行ったら、つい話し込んでしまいまして……それに用紙を汚してしまいました。今度来るときにきちんと記入してきますので別の用紙をいただけませんか?」 「汚いのは一向に……とりあえず書き込んだところだけでよろしいですから」  牧野は笑顔で私に催促した。 「その……ちょっと説明不足の点があったり」 「それは直接説明して貰いましょう。なに、これは簡単な手掛かりに過ぎないのでね」  そこまで言われると拒めない。私は仕方なく用紙を牧野に手渡した。牧野は受け取るとしばらくそれに目を通した。私は父親の項目に目を注ぐ牧野を不安な思いで見守った。事故死と死亡年齢三十とだけ書いた他は、すべて空白にしている。やはり牧野は怪訝そうな視線を私に向けた。 「三歳の頃のことなので……」  私は口ごもった。 「書きたくても、ほとんど記憶になくて」 「なるほど。三歳ならそうでしょう」  牧野はあっさりとパスして先に進んだ。  どっと冷や汗が流れた。 「だいたいのことは分かりました」  やがて用紙を脇に置いて牧野は口にした。 「あなたの場合、あまりにも幼かったので私にも断定はできかねますが、やはり、お父さんのことをだいぶ気にしているようだ。頭痛が心に関係しているのなら、その可能性が高いと思われます。三十歳で亡くなられていますね。あなたも直ぐにその年齢に達する。父親の死亡年齢を無意識に自分の壁としているケースは非常に多い。あるいはそれが原因となっているかも知れません」 「仕事のストレスではないと?」 「もちろん、それも加わっているでしょう」 「………」 「事故死となっていますが?」  きた、と思った。私は押し黙った。 「三十を過ぎれば……」  牧野は続けた。 「自然に頭痛が治まるかも知れない。それとも、治療を試みてみますか」 「どうなんですかね。この頭痛が治ると言うなら喜んで治療を受けますけど」 「心に原因があった場合、たいていは治ります。けれど保証はできません。それに、あなたの信頼がなければ……決して危険を伴うものではないので、その点は安心してください」  牧野は私を温かな目で見詰めた。  信用に値する笑顔だった。  私は頷いた。三十までにはあと一年以上も間がある。頭痛がこのまま続いては耐えられそうにない。私は覚悟を決めた。     4  牧野の治療が開始されて半月が過ぎた。  もっと顕著な効果が表われると思っていたが、二、三度の治療では無理らしかった。牧野も焦らずに外堀を埋めるようなやり方をしている。信頼が大事だと牧野は言ったが、いかにもそうに違いない。やはり一度目と二度目は私に警戒心があったようで催眠術も本当にかかったかどうか自信がない。必死で牧野を満足させるような回答をしていたような気がする。それが催眠術なのだと牧野は言う。しかし、私にはそうと思えなかった。あまりにもこちらの意識がはっきりとし過ぎていた。頑張っている牧野に悪いと思って、それ相応の返事をしていただけだ。が、三度目は明らかに違っていた。途中から牧野の存在が気にならなくなったのである。一瞬だが、瞑《つむ》っていたはずの私の瞼の裏に青空が広がった。あの空の色は確かに憶えている。大学に合格した日に仰ぎ見た眩《まぶ》しい空の色だった。牧野の声が聞こえて目を開けると、牧野は一番綺麗な青空を見たはずだね、と言った。私は大きく頷いた。牧野に促されて、私はその日のことを語った。思いがけないほど鮮明に記憶が甦《よみがえ》った。あの日の朝に付き添いの姉がこっそりとホテルを出て行く姿も思い出した。あとで聞いたら近くの神社に願掛けをしに行ったと言う。発表は十二時からで、姉と二人で時間を持て余し、大学近くの遊園地で観覧車に乗った。そこで早目の昼食を摂り、時期外れのフラッペも食べた。なんで二月の末にフラッペがあったのか分からない。頭の芯が痛くなって私は途中で止めたが、姉は縁起が悪いと言って残りを片付けた。受験番号は二九四三。掲示板には私も含めて前後四人の番号が連続していた。延々と話し続ける私に牧野は笑って頷いていた。あれは紛れもなく催眠術の効果によるものだと私も納得できた。でなければ十年も前の受験番号などすらすらと言えるはずがない。  今日こそは進展がある。  私も確信していた。牧野の腕に疑いはなかった。牧野もまた自信を深めている。三度の経験のおかげでもはや不安もない。それどころか楽しみさえ感じはじめていた。あれほどまでに記憶が甦るなど想像もしていないことだった。  私は少し早目に診察室に着いた。看護婦に案内されて、いつもの長椅子に横たわる。看護婦は頭の部分を上げて楽な姿勢にしてくれた。六畳ほどの小さな部屋だ。窓には厚いカーテンが吊され、エアコンも適度である。音も静かなので、うっかりすると眠り込んでしまいそうになるほど気持のいい空間だ。こんな寝室にすればさぞかし安眠できるに違いない。明りもすべて間接照明となっている。  看護婦がイアホンをつけるように指示して扉を閉めた。牧野が直接隣りの部屋に入ったのだろう。今までは必ず最初に顔を見せていたが、もうその必要がないと判断したのか。 「聞こえますね」  牧野の声がイアホンから聞こえた。私は壁の鏡に向かって頷いた。マジックミラーになっていて、牧野はその向こうに居る。 「今日は前回の続きをしましょう。前回のことであなたから不安がなくなったはずです。あなたは、あなたが経験したことを頭の中に再生するだけなんです。厭な思い出の場合は無視しても結構です。なるべく楽しいことだけを考えながら進めるのが大切ですよ。前回は十年前まで遡《さかのぼ》りましたね。今日はその速度を上げて十歳前後のところまで辿《たど》ってみましょうか。一番簡単なやり方は、記憶に残りやすい日を選んでステップする方法です。たとえば前回のように合格発表の日とか……そうすればだんだんとその周辺の記憶も甦ってくるはずです。分かりますね。大丈夫です。私がそのつどヒントを与えますから、あなたはそれについて意識を集中してください」  牧野の指導を受けているうちに私はうとうとしはじめた。心が解放されていく。 「もう慣れてきたと思いますが、まず深呼吸から行ないましょう。大きく腹を膨らませるくらい空気を吸って、今度はゆっくりと腹の中の空気を全部吐き出すようなつもりで息を吐く。そうです。それを十五回繰り返してください。吐き出すときは数を十まで数えるのも忘れないように。それで呼吸のリズムを整えます。数を心の中で唱えるたびに体が軽くなってきますね。二回三回と呼吸を重ねるごとにあなたから雑念が失われていきます」  牧野の言葉に合わせて私は深い呼吸を繰り返した。長椅子に寝ている感覚が次第に薄れていく。暗い空間に自分の脳だけが浮かんでいるような気分になってきた。イアホンを通じて私には牧野の囁《ささや》きしか聞こえない。 「やがて正面に白い光が見えはじめます。注意深く探してみてください。見えたらそのままの姿勢で首を動かすように……」  私は目を凝《こ》らして……瞑っているのに、目を凝らすとは妙な表現だが、感覚は確かにそうなのだ。目を瞑ったから闇ができたのではなく、闇を見ているという感じだ。瞼が拵《こしら》えた闇ではない。もっと深い暗黒だ。  遥か彼方から白い光がゆっくりと接近してきた。あれが記憶の窓だ。私はゆっくりと首を動かした。前回よりも早い。 「眩しいですね。眩しいでしょう。まるで真昼のような明るさに感じられます」  私は無意識に腕で光を遮《さえぎ》ろうとした。が、腕の感覚はなかった。 「光の熱で暑いくらいに感じませんか?」  私は大きく首を振った。夏の陽射しだ。 「じりじりと灼《や》けつくような暑さですね。どこからかセミの声が聞こえてきましたよ」  じーんじーんとセミの声が喧《やかま》しく聞こえはじめた。川のせせらぎの音もする。 「この景色をあなたはいつか見ているはずです。返事はできますね。思い出したら私に教えてください。いつの景色でしょう」 「………」  私は光の中に一歩踏み出した。緑の山がいきなり目の前に広がった。私の足は透明な水に膝まで浸っていた。小魚が足元をきらきらさせて擦り抜けて行く。私は後ろを振り返った。姉と姉の仲良しの友美さんがバーベキューをするための小枝を抱えて川原に戻ってきた。二人とも二十二歳。どっちも少年の私には眩しいほどの美しさに思える。ショートパンツからすらりと伸びた友美さんの白い脚には二ヵ所ほど藪蚊に食われた跡があった。 「高校一年の夏休み……です」  私は友美さんの明るい笑顔に魅せられながら答えた。友美さんは何度も私の家に泊まりにきていた。浴室の窓は庭に面していて、そのたびに私はこっそり友美さんの裸を濡れた曇りガラス越しに覗《のぞ》き見した。中学に進級したばかりの頃である。いつだったかは、浴室の窓が半開きになっていた。友美さんは窓に背中を向けて立ったまま体を洗っていた。くびれた腰に背中からの泡が伝う。シャワーの音で私の気配は消されているはずだった。私は大胆にも窓の側《そば》まで接近しマスターベーションを行なった。思い出して私の胸は高鳴った。今考えると、なぜ冬が間近い季節に友美さんが窓を開けていたのか分らない。友美さんは私が覗き見していたのを承知していたのではないだろうか。友美さんの腰のところには二つの黒子《ほくろ》があった。それがありありと目に浮かぶ。友美さんは結婚を目前に控えて自殺した。心中だった。相手はおなじ会社の上司だったと聞いている。私は姉からそれを教えられて泣いた。私にとって友美さんはいつも心をもやもやとさせる存在だった。姉には一生隠し通すつもりでいるが、私は友美さんと寝たことがあった。仕事があったからと言って突然友美さんが東京のアパートに訪ねてきたのだ。大学に入ったばかりで東京の地理にも詳しくない私を逆に友美さんが案内してくれた。映画を観て部屋に戻ると、友美さんは買ってきたケーキを食べながら「妊娠してるのよ」と笑った。結婚が決まったという話は知っていた。「三ヵ月なの」友美さんは急に悲しそうな顔をして、膝を崩した。短いスカートの奥が見えた。「妊娠って、辛いことばっかりだけど」友美さんは続けた。「これ以上妊娠の心配がないから、だれとでも浮気ができちゃうわよね。なにをしても安心だもの」溜め息を吐いて友美さんはその場に仰向けになった。私は友美さんを襲った。待っていたように友美さんは私の首に腕をまわすと、泣きじゃくった。「ずうっと好きだった」と私は告白した。友美さんは頷きながら「だから、どうしても会いたかったの」と言った。友美さんが心中したと聞かされたのは、それから半月も経たないときだった。きっと妊娠していたという子供は上司の子供だったに違いない。私だけがそれを知っている。  その友美さんの笑顔が目の前にある。まだそういう人生が待っているとは知らない笑顔だ。友美さんは川原でバーベキュー用の肉と野菜とを刻みはじめた。汗で絡み付く長い髪を手の甲で掻《か》き上げながら金井夕子の「パステル・ラブ」を口ずさんでいる。なんだかやり切れない。私は泣いた。友美さんと姉と私の三人の姿が小さく消えていった。 「なにも心配はありませんよ」  牧野の声が私を落ち着かせた。 「きっと懐かしい人と会ったんでしょう。もっともっと多くの人と出会います。また窓の方に向かってください。これから見ることは、私があなたを目覚めさせても、はっきりと記憶しています。夢のように忘れることはありません。自信を持って大丈夫ですよ。不安に襲われたら、いつでも私を呼んでください。私はずうっとあなたの側にいますからね」  私は頷いた。 「次に見えるのは遠足のはずです。耳を澄ませてください。たくさんの友達の声が聞こえてきませんか? 聞こえますね」  白い光の中から賑やかな笑い声が広がってきた。懐かしい。 「小学校の遠足でしょう。あなたのリュックサックにはお菓子とお母さんの拵えてくれた弁当が入っています。美味しそうですね」  私も首を振った。バナナも二本入っている。母が買ってくれたものだ。バナナの甘い匂いが背中の方から漂ってきた。私はリュックのベルトに親指をかけて背中に固定させながら仲間たちの側に駆け寄った。仲間たちはすでに校庭の門の前に集まっていた。バスがエンジンをふかしている。今にも雨が降ってきそうな曇り空だが、目的地の山王海《さんのうかい》ダムまではバスだから心配はない。もし降った場合、昼食はバスの中で取り、予定を変更して新山《にいやま》のテレビ中継所の見学に向うことになっている。それだと天候に左右されない。「遅刻だぞ」と純市が私の帽子を奪った。修子がクスクス笑って私を見ている。純市は修子の視線を感じて張り切った。仲間の皆が修子に憧れている。「これは代官所が預かった」横から向井田《むかいだ》がその帽子を取った。向井田は自分の帽子の上に重ねると両手を広げた。「関所手形がないときはバナナ一本」皆が笑った。向井田の名前をひっくり返すと、「だいかむ」となる。それに向井田が気付いて、自分のことを「代官《だいかん》」所と言うようになった。その名にふさわしい大きな体をしている。私は向井田に突進した。向井田は楽々と私を受け止めるとズボンのベルトを握って振り回した。修子も笑って眺めている。小原が私の加勢に駆け寄った。帽子が飛んだ。私は帽子を追いかけた。バスの下に落ちた。潜ろうとする私を古川先生が慌てて呼び止めた。私の大好きな先生だった。綺麗な顔をしている。本が好きになったのは古川先生のお陰だ。バスはUターンしようとしていた。私の帽子はタイヤの下敷きとなった。笑いが瞬時に収まった。古川先生が呼び止めてくれなければ私も轢《ひ》かれていたに違いない。「明彦君に謝りなさい!」古川先生は向井田と純市の腕を取った。「帽子を取って明彦君に返しなさい」なおも言われて純市が泥まみれになった私の帽子を拾った。買って貰ったばかりのジャイアンツの野球帽だった。だから純市がわざと取り上げたのだ。私は涙を必死で堪《こら》えた。修子が見ている。泣くわけにはいかなかった。純市は私に帽子を突き付けた。純市もまた戸惑った顔をしている。こんな騒ぎになるとは思わなかったのだろう。「豆っこに言い付ける気だろ」純市は私に耳打ちした。「言うもんか」私は帽子を毟《むし》り取った。  帽子を受け取った瞬間、私は寒気を感じた。私は純市の顔を真っ直ぐ見据えた。  確かに知っている。だが……  それは、私の記憶ではなかった。  私は悲鳴を堪えた。体が強張っていく。脂汗が噴き出た。どうなっているのか私には見当もつかなかった。第一、私の名前は明彦などではない。私は純市を無理に遠ざけた。 「どうしました?」  牧野の不安な声が耳に響いた。 「怖いんです。なんだか怖い」  私はそれだけを繰り返した。  牧野に問われるまま、私はたった今見たことを詳細に告げた。牧野は私の一言ひとことに相槌を打ちながらメモしている。名前をいくつか挙げると牧野は興味を示した。 「藤山修子、斎藤純市、向井田克則、小原健、古川美樹子……思い出せるのはそれだけですか。他にだれか?」 「いや……思い出しているんじゃありません。皆、知らない連中なんです。私の小学校の同級生とは違う。なのに名前が浮かんできて」 「中学とか高校の仲間と混同していることはありませんか」 「まったく……知らない顔でした。でも……妙なんです。確かに見たこともあるような」 「どこへの遠足と言いました?」 「山王海ダム」 「それはどこに?」 「さあ……それも分からない。けど、ちょっと変わったダムです。コンクリートでできてるんじゃなく、芝が植えられている」 「それは……見ましたか?」 「いいえ。でも分かるんです……いったい、どういうことなんですかね」  自分でも不思議だった。が、緑に覆われた土盛りのダムがはっきりと頭に浮かぶのも事実なのである。 「ダムなら調べることができます。次にあなたがこられるまでに調べておきましょう」  牧野は真剣な顔をして言った。 「なんで無関係なものがあんなに明瞭に見えたのですかね? 薄気味悪い」 「何歳頃のことだと感じました?」 「小学校三年のことだと思います。私が桜城《さくらぎ》小学校に転校したのは二年の秋だったので」 「桜城小学校?」  牧野は顔を上げた。  私もあんぐりと口を開けた。覚えのない学校の名前だった。私の卒業したのは隣りの町の平沢《ひらさわ》小学校である。 「変になったんでしょうか?」  私は恐ろしくなった。自分でも知らないことが次々に出てくる。 「小学校の正式名称が言えませんか?」 「盛岡市立桜城小学校」  条件反射のように私は口にした。  牧野もさすがに唖然として、 「と言うと……岩手県の盛岡市かな」  私も大きく頷いた。 「岩手県に暮らしていたことは?」 「ないですよ。富山《ここ》と岩手では相当に離れている。絶対にありません」 「他にどんなことを? いつ頃のことだろう」 「だから、小学校三年です」 「あなたはね。訊いたのは年代です」 「十歳前後でしょうから……今から十八年前でしょうか」 「いや……なんと言えばいいのか」  牧野は額の汗を拭いた。牧野も苛立《いらだ》っていた。牧野は大きく深呼吸すると、 「そちらの記憶も十八年前でしたか?」 「そちらの記憶……」 「たとえばバナナの話が出ましたね。あなたの子供時代にはバナナなんて珍しい食べ物じゃなくなっているはずでしょう。話を聞いていて妙な感じがしました。土盛りのダムというのもあまり聞かない。もしかすると十八年よりもずうっと古い話かも知れない」 「もっと子供の頃の記憶だと?」 「そういう意味でもないんですが……もう少し慎重に考えてみましょう。今日はこれで充分です。あとは私が調べてみます」  牧野は自分一人頷いて話を中断した。 「まさか……前世だなんて考えてるわけじゃ」  私は気付いて苦笑した。 「あなたもそう感じましたか?」  逆に質問されて私はゾッとした。     5  それから一週間が過ぎた。  私はまた病院に出掛けた。牧野からはなんの連絡もなかった。会うなり厭なことを言われるのではないかと気が重かった。が、看護婦のいつもの対応に接しているうちに不安は少しずつ薄れていった。 「どうです、頭痛の方は」  牧野が笑顔を見せて姿を現わした。私は長椅子から半身を起こして挨拶した。牧野は対面する形で椅子に腰を下ろした。手にはカルテの他に地図や写真を持っていた。 「治療の前に見て貰いたいものがあります」 「なにか分かったんですか?」 「もう一度確認しますが、あなたは本当に盛岡市とは無縁なんですね?」 「ええ。一度も行ったことは」 「桜城小学校は今も盛岡市にあります。それと……山王海ダムというのも」  牧野は地図を私の前に展《ひろ》げた。 「盛岡市に接近した紫波《しわ》郡というところにありました。それと、この側には新山中継所も。ほら、この山です。ゴルフ場の近くに中継所と書いてあるでしょう」  牧野の指先を辿って私も頷いた。 「正直言って……信じられませんでしたね。山王海ダムは簡単に調べがつきましたが、新山中継所というのが見付かるとは思わなかった。ここは観光地でもないし、たとえあなたが盛岡に旅行に出掛けていたとしても、咄嗟《とつさ》に口にできる場所ではないはずです」 「行っていませんよ」  私はムキになって反論した。 「これらの写真についてはどうです?」  牧野は私を無視して何葉かの写真を渡した。見知らぬ男たちが写っているスナップだった。 「これは……裁判所の石割桜だな」  不意に口に出た。男たちは巨大な岩を背にして立っている。岩の中心からは桜の太い幹が出ていた。 「ここはどこだろう?」  赤い煉瓦の建物が写っていた。こちらには人影がない。 「そうか。銀行だ」  私は思い出した。次を手にする。西洋風の古い建物の屋根から白っぽい塔が空に伸びている。消防団の火の見|櫓《やぐら》だ。懐かしさに胸が詰まった。紺屋町の火の見櫓である。その右隣りには古本屋があったはずだが、この写真には看板がない。 「完璧だな」  牧野は私がなにか言うごとにメモを覗いた。 「なにがです?」 「石割桜、岩手銀行、紺屋町の消防団……全部が盛岡市内にあるものですよ。同僚が学会で盛岡に出掛けたときの写真を借りてきたんです。ことごとく当たっています」 「全部が盛岡の風景……」 「石割桜は有名でしょうが、火の見櫓のある町名まで当てられるわけがない」  牧野は興奮を隠さなかった。 「あなたは前回、自分から前世ではないかとおっしゃいましたね。前世というものに関心を持ったことでも?」 「いや……特にということは……オカルトは嫌いな方じゃありませんが」 「直感にはたいてい根拠があるんですよ。ある程度の情報がないと直感も生まれない。私はあなたから先に前世という言い方をしたので驚いた。普通の人はそういうことを真っ先に排除してしまう。もしかしたら本当じゃないかと私も確信を得ました。あなたが私に嘘をつく理由などない。そうでしょう?」 「嘘だなんて。こっちの方がわけを知りたい」 「私にはあなたが最初の症例ですが、こういう報告はいくつもあります。催眠療法の過程の中で前世らしきものを思い出すケースがね」 「先生は前世を信じていると?」 「少なくとも有り得ないことではないと考えていました。私の指導のなにかが引き金になったんでしょう。あれから何度となくテープを聞き直したんですが……分からない」 「弁当だと思います」  私の中にもくすぶっていた問題だった。 「なにかのときに弁当を作ってくれたのは常に姉でした。母は仕事でいつも朝が早かった。なのに先生は母親の弁当を思い出せと……」 「それで別のお母さんのことを」  牧野はなるほどと頷きながら、 「どうです。もう一度試みてみませんか」  私に協力を求めた。 「あなたにとってプラスになることかどうか、私には分からない。あくまでもあなたの意思に従いたいと思いますが……前世というものが本当に存在するのか興味があります。それに……退行催眠の効果についても」 「前世となると……あれは、私が生まれる前の記憶だったんでしょうか」 「恐らくね」 「それにしては違和感がなかった。ジャイアンツの帽子を被《かぶ》っていたんです」 「私も被っていました」  牧野は笑った。 「あなたと私は一回り以上も歳が違います。あなたが生まれたとき、私は中学生かな。ジャイアンツの野球帽はちゃんとありましたよ。ちっとも不思議ではないでしょう」 「だけど、前世というからには、死んで生まれ変わっているわけですよね」 「そうです」 「としたら、前の私は何歳で死んでいるんですか? テレビ中継所の存在を考えると、そんなに古い時代であるはずがない。どんなに遡っても三十五、六年前くらいだと思います。そのときに私が小学校三年だとしたら……」 「二十八年前にはあなたが生まれている。確かに早死にしたとしか思えませんね。計算すれば二十歳まで生きていないことに」  牧野は冷静だった。 「それも症例に符合します」  牧野は私の目を見詰めて言った。 「前世があったと訴える人々の調査報告を読んだことがありますが、たいていの前世は不幸なものでした。きっとその悔しさが前世の記憶を留めさせる原因になっていると思います。怨念が残るなどと言ったら可哀相ですが」 「怨念……」 「無念さですよ。言い換えます」  牧野は笑顔を拵えた。 「満足……と言っていいかは問題があるでしょうが、一応、平穏な前世を送った人は、新しい肉体に生まれ変わっても、不安や苦悩に苛《さいな》まれることが少ない。ところが、前世で自殺したり、不幸な体験をした場合、精神の目覚めとともにその記憶が甦ります。それをだれかに必死に訴えたくなる。だから親も気がつく。そういうことじゃないかと外国の研究者たちは見ているようですね。前世の記憶を訴えた子供の平均年齢は三歳以内です。これは寿命のことじゃなく、訴えた時期の平均年齢です。言葉を話せるようになって直ぐにそれを主張しているということになる」 「………」 「あなたの場合、催眠療法の過程の中でそれが出てきたんですから、早死にと言っても怨念なんかとは無縁でしょう。偶然に前世の記憶に触れたに過ぎませんからね」 「となれば……だれにも前世があると?」 「あるとしたなら、なぜ皆がそれを忘れるのか……それに注目した医者たちが居ます」  牧野は足を組み替えて続けた。 「前世を訴える子供たちは、もちろん全世界に広がっていますが、どういうわけかインドとか東南アジア、そして中国に多い。いわゆる多産系と言われる民族ですね。彼らはそこに着目した。ひょっとしたら出産時になにか関係があるのではと考えたんです。その上、長男とか長女にはほとんど症例が見られない。前世の記憶を持つ子供はたいていが安産だったと証明されています。医者たちは出産の研究をはじめた。そしてオキシトシンというホルモンの存在に気がつきました」 「オキシトシン?」 「母体に陣痛を促すホルモンです。このホルモンの作用によって子宮の筋肉が活発となり、胎児を外に押し出す。安産でも難産でもオキシトシンは分泌されます。が、量が異なる。難産だと当然に量は増大し、安産の場合は少なくなる。医者たちはこのオキシトシンを用いて動物実験を試みてみました。すると予想以上の効果が認められたんです。すべての動物に記憶障害が表われました。このホルモンを与えると、それまでの記憶を完全に失うんですね。と言って脳に損傷を及ぼすわけじゃない。単純に忘れるんですよ。訓練を施した盲導犬の場合、それまでに覚えた命令を綺麗さっぱり忘れてしまう。しかし、また訓練を行なえば、元のように理解する。オキシトシンは、言わば黒板拭きとおなじ役割をするんです。消されただけだから脳の機能にはなに一つ問題がない。新たな記憶を与えられればきちんと記憶する。もう分かりますね。この実験とおなじことが母体で行なわれているんです。胎児はすべてがオキシトシンの洗礼を受けているんです。難産だと通常の何倍も濃いオキシトシンが含まれた羊水に浸っていることになります。反対に安産ならあっさりとオキシトシンの関所を通過する。前世の記憶が完全に消されずに生まれる理屈でしょう」 「そういう研究が実際に?」 「前世があると考えない限り説明ができない症例が多いんですよ。だが、本人の証言だけでは判定が下せない。しかも、ほとんどの証言者が十歳未満の子供ですからね。どういうわけか十歳を過ぎる頃になると前世の記憶が薄れていくようだ。日常の記憶が増大していくせいかも知れない。前世は日常の暮らしと無縁です。我々が夢を忘れるのと一緒だ。起きた直後は鮮明に夢の内容を覚えているのに、布団から出たり、顔を洗っているうちに忘れてしまう。日常が夢を追いやるんです」  確かにその通りだと私も思った。 「無理にとは言いませんが……どうです」  牧野はまた私に訊ねた。  私はすべてを牧野に任せることにした。  牧野はふたたび遠足のところからはじめた。経験していたせいなのか、思いがけないほど簡単に私の意識はそこに帰った。 「前の日のことを思い出してください。お母さんの顔が目に浮かんできますね」  牧野の囁きと同時に母の笑顔が戻った。  温かいものが私の胸を満たした。間違いない。私の母だった。私は広い台所のひんやりとした床にぺたりと尻をつき、母がリュックに詰め込むおやつを眺めている。「これも入れてあげて」後ろから祖母の声がした。祖母はチューブ入りのチョコレートを母に手渡した。母は礼を言ってリュックにしまった。私は幸福を覚えた。「明彦は忠司に似て病弱なんだから、うんと栄養を摂らせないと」祖母は私の頭を撫でた。「退院はまだなの?」私は父の退院の日を母に質《ただ》した。「あと二ヵ月はかかるんですって。我慢できるでしょ」「死んだりなんかしないよね」私は祖母にも訊ねた。父は学校に勤めていた。それが一年前に胸を悪くしてサナトリウムで療養することになった。母は私を連れて父の実家に暮らしはじめた。盛岡の方がサナトリウムに近い。父の実家は盛岡でも有数の資産家だった。市内にいくつもの貸家を持っている。本当は学校に勤めなくてもよかったのに、父は祖父の仕事を引き継ぐことを嫌って国語の教師の道を選んだのである。学生時代から詩を書くのが好きで、母ともそういうサークルで知り合った。田舎に暮らしていた頃には詩を書く仲間が大勢我が家に出入りしていた。私は父も母も大好きだった。母は毎晩私に本を読んで聞かせてくれた。その中には古川先生から借りた本も混じっている。「来月はお祖父さんが永いお出掛けだから、男はこの家に明彦一人よ」祖母は父の病気について返事をする代わりにそれを言った。「忠司とお祖父さんが戻るまで頑張って貰わないと」「平気だ」私が胸を張って応ずると母も微笑んで「ほら、これ」とエプロンの下から新しい野球帽を取り出した。ジャイアンツのマークがついている。私の胸は躍った。これを被ったら修子も見直してくれるだろう。私は母から受け取ると応接間に走った。大きな暖炉のある部屋だ。そこに鏡が架かっている。私は帽子の鍔《つば》の位置を斜めにしたりして格好のいい角度を探した。母と祖母もやってきた。そこに玄関の戸の開けられる音がした。豆っこの声がした。私は母よりも先に玄関に走った。「やあ、恰好いいね」豆っこは私の帽子を褒《ほ》めた。豆っこは母にバナナの包みを渡した。母は礼を言って小遣いを与えた。「そんなに上げることはないのよ」祖母が母を叱った。「豆っこの面倒はちゃんと見ているんですから」祖母の声に豆っこの伸ばしていた腕が引っ込んだ。「でも、わざわざ隣りの町内の市場まで頼んだんです」母も困った顔をしていた。「豆っこが可哀相だよ」私も母を応援した。祖母は私を睨んだ。「可哀相とはなんです。豆っこはちゃんと一人で生活しているのよ。明彦にそれができるの? 子供が大人のことを可哀相だなんて……豆っこに謝りなさい」祖母の言葉が私には理解できなかった。きっと豆っこだって理解できなかっただろう。豆っこはぺこりと頭を下げると玄関から立ち去った。 〈お祖母さんは立派な人だったんだね〉  その光景を見ながら私は思った。と同時に母の優しさも分かった。私は幸福な家庭に暮らしていたのだ。 「いつのことか分かりませんか?」  牧野の声が聞こえた。  私はあちこちに目を動かした。応接間にカレンダーが架けられている。 「一九五五年となっています」  私は牧野にそれを伝えた。     6  冬枯れの午後、私は盛岡駅に降り立った。  本社は富山でも、代理店の認定式は東京で行なわれる。そのついでに私は新幹線に乗った。どうしても確かめずにはいられない記憶が甦ったからだった。二度の退行催眠を切っ掛けとして、牧野の手助けを借りなくてもさまざまな前世の記憶が断片的に甦ってくるようになったのである。今では自分に前世があったことを疑ってはいない。それほどまでに記憶は鮮明だった。それだけに恐怖がつのる。できるなら嘘だと思いたい。それには現実と対峙《たいじ》するしかなかった。私は盛岡まで足を延ばしたことをだれにも内緒にしていた。  だが──  予約していたホテルの名を告げ、タクシーが走りだすと間もなく、私は憶えている風景と巡り合った。駅から中心街に繋がる橋だった。橋から富士山に似た大きな山が見える。岩手山という名と一緒に南部片富士という別名まで思い出して私は酷い後悔に襲われた。やはり間違いはなかったのだ。私は紛れもなくこの町で暮らしていた。こうして自分の目で確かめられたからには、これ以上の詮索など無用だと思った。これが明治とか江戸の前世であったなら、私は躊躇なく駅に引き返すよう頼んでいたに違いない。けれど一九五五年は近過ぎる。そのとき私は十歳だった。すると生まれは一九四五年。たった四十七年前のことでしかない。友達はもちろんのこと、家族や親戚がこの町に生きて暮らしている可能性は充分にあった。その誘惑に勝てる人間が居るだろうか? 「ちょっと停めてくれ」  橋を渡って直ぐ私は声を張り上げた。桜城小学校という門柱を発見したのだ。こんなに駅に近い場所にあるとは考えもしなかった。断片的な記憶のせいである。私は窓から小学校を眺めた。まるで違っている。木造の校舎だったのに鉄筋の建物になっていた。それでも学校を囲む道路の位置関係に変化はない。  私はそこでタクシーを降りた。私の足は自然に校庭へと向けられた。子供たちがサッカーに興じている。私は正面の校舎を見上げた。この校舎の裏側には渡り廊下で繋げられた図書館があったはずだが、今はどうなっているのだろう。校舎が新しいために懐かしさは込み上げてこないが、近付くたびに記憶がはっきりとしてきた。私の教室は、二階の左の端から三つ目だった。そちらの非常階段を降りると、目の前には土俵があった。相撲が盛んな時代だった。私はおっとりとした栃錦のファンで、がむしゃらな若乃花はなんだか好きになれなかった。 「ちょっとお訊ねしたいんですが」  事務室の窓口から私は中を覗いた。 「昔の卒業生の名前と住所が分かりますか」  私の胸は急に騒ぎはじめた。  私はまたタクシーに乗っていた。  自分でも思いがけない展開になっている。  憶えている同級生のだれかを探して訪ねるつもりでいたのだが、あの古川先生がまだ元気で盛岡に暮らしていると教えられたのだ。それも不思議ではない。あの当時古川先生は二十三、四。私とせいぜい一回りしか違わない年齢だったのだ。昨年中学校を退職して、現在は自宅で茶の教授をしていると言う。電話を入れると、古川先生は戸惑いながらも面会を承諾してくれた。 〈どうやって切り出せばいいのか〉  タクシーの中で私も困惑していた。  信じてくれるとは思えない。としたら、他人のフリをするしかなさそうだ。  先生の自宅は黒石野という住宅地の中にあった。あまり聞き覚えのない地名だ。私が生きていた頃にはまだ拓けていなかったのかも知れない。家もたいていが新しかった。  チャイムを押しながら私はどきどきした。  初老の婦人がドアを開けた。若い顔を思い出したばかりの私には、それが古川先生なのだと納得するのに多少の時間を要した。 「電話をくださった方?」  古川先生も首を傾《かし》げていた。 「古い話のことだから、もっと年輩の方だと」 「調べているんです」 「あの事件のことをですの?」  私は頷いた。古川先生は中に招いた。 「早速ですが」  椅子を勧められると私は質した。 「田島明彦はどんな子供でした?」 「調べているとおっしゃいましたけど、いまさらなにを調べているのかしら」 「………」 「四十年近くも昔のことですわ。それをお聞きしないうちは私も……」 「本当に実在したかどうかの確認です」 「ますます分かりませんわね」 「犯人らしき人物が現われました」  私が言うと古川先生は絶句した。 「本人はそう言っているのですが……なにしろ相当に古い事件なもので……私たちにはそういう事件があったかどうかも分からないのです。富山と岩手では場所も離れ過ぎていますし。それで私がこうして調べにきました。小学校を訪ねましたが、卒業生の中に田島明彦の名は見当たりませんでした」 「それは当然です。あの子が殺されたのは三年生のときでしたから」  分かってはいたものの、古川先生の口からそれを聞かされると、やはり寒気がした。 「犯人って、どういう人なんです?」  涙を堪えながら古川先生は訊いた。 「それは……まだ確定していないので。名前を申し上げるわけにはいきません」 「絶対に犯人です。でなければあの子の名前を憶えているはずが……これであの子も浮かばれます。本当に嬉しい」  古川先生の涙に私も胸が詰まった。 「事件についてご存じのことを詳しく教えていただけるとありがたいのですが」 「少し時間を……手間は取らせません」  古川先生は腰を上げて部屋を出た。だれかに電話している声がした。犯人という言葉が聞こえたから、私の来訪を伝えているのだろう。やがて古川先生は戻った。 「直ぐ近くに明彦君とおなじクラスだった子が住んでいて……来てくれるそうです」 「今ここにですか」 「ああいう事件が絆《きずな》を深めるんでしょうね。明彦君の居たクラスの仲間たちは今でもずっと連絡を取り合っていて。一年に一度はクラス会をしていますのよ」  だれが来るのか……この時間なら女性に違いないと思った。 「そうそう。アルバムでも探してきます」  古川先生も落ち着かない様子だった。 「こちら矢川久美子さん」  私も頭を下げた。昔はなかなかの美人だったと想像されるが、まるで思い出せない。旧姓を言ってくれれば分かるかも知れないが、無関係な人間に旧姓を口にするはずはなかった。私は思い付いて学校でコピーさせて貰った名簿を取り出した。久美子という名を探す。あった。矢川という姓の次に旧姓も記入されている。杉江……杉江久美子。なんだメガネじゃないか。メガネならちゃんと覚えている。私の直ぐ後ろの席に居た子だった。女という意識をせずに付き合っていた子だ。メガネをしていないので思い出せなかっただけだ。コンタクトにでも替えているのか。私は久美子を見詰めた。いかにも面影はある。大柄な背丈だったはずなのに、今はそれほどでもない。 「皆で三十三回忌をしたわよね。あれはいつのことだったかしら」 「五年前です」 「三十三回忌……田島明彦の?」 「親戚がほとんど居ないので私たちが勝手に。と言っても皆で集まってお墓に花を供えに行っただけのことですけど」  私には言うべき言葉がなかった。たった数年しか関わっていない自分のことを仲間は今でも忘れないでいてくれる。 「犯人は岩手の人ですか?」  久美子は私に訊ねた。 「行きずりの犯行だと言われていたのに」 「田島明彦と母親の聡子、そして明彦の祖母のマツエの三人が殺されたんですね」  私は二人に確認を取った。 「ええ、明彦君のお父さまは入院中で、確かお祖父さまもお留守のことだったと思います」  古川先生が答えた。  奇妙な思いに襲われたのはそのときだった。私はなぜ犯人が捕まっていないと確信を持っていたのだろうか? だれかに後ろから首筋を切られ、死んだのは覚えている。母と祖母が殺されているのもこの目で見ている。だが、それ以降のことはなに一つ知らない。なのに私には事件が未解決だと分かっていた。だから古川先生に犯人が自白したなどと嘘をつくことができた。もし犯人が逮捕されていたら古川先生は私を信用しなかったに違いない。確率が二分の一と言っても、そういう大事件なら解決されていると考えるのが普通ではないのか? それとも、あまりにも生々しい記憶に接して、昨日や今日の事件のように私が勘違いしていたのか……それが偶然吉と出た。いやいや、と私は否定した。殺された記憶を取り戻したのは五日も前のことなのだ。充分に考える時間はあった。歳月の隔たりも認識している。なぜかは分からないが、私はあの事件が未解決であると知っていたのである。 〈盛岡まで来て確認したかったのは、自分の死よりも、そっちの方だったのか〉  私は目の前の二人以上に困惑していた。 「警察はどこまで調べていますの?」  久美子は身を乗り出した。私を富山の警察の人間と信じ切っている。 「まだなにも……はじめたばかりです」 「ガラスを割られて侵入されたということでした。明彦君はその部屋の中で……明彦君に発見されたので泥棒が強盗になったと」  ガラスを割られていた? そんなことは知らない。あの夜は静かだった。トイレに立ったまま母が帰らないので不安になった私は声を上げながら部屋を探し歩いた。そうしたら布団の中で殺されている祖母を発見し、続いて玄関先に倒れている母を見付けた。私は怖くなって応接間に逃げた。玄関の向こうに犯人が居るような気がしたのだ。だが、反対だった。そのとき犯人は応接間に潜んでいたのである。ソファの陰に隠れていた私は不意に背中から抱えられ、口を塞がれた。私は身動きできなくなった。正面に窓が見えた。そのとき窓ガラスに犯人の黒い影が映った。ガラスは割れていなかったのだ。 〈犯人は侵入経路を偽装したんだ〉  犯人は別のところから入ったのをごまかそうとしたのだ。よくあることだ。 〈が……〉  それならどこから入ったのだろう。祖母は戸締まりにうるさい人だった。祖父の居ない夜に鍵を掛け忘れていたなど有り得ない。犯人は必ずどこかを破って侵入したはずだ。その痕跡は絶対に残る。不思議な感じがした。それなのに犯人はどうして別の侵入経路を拵えなければならなかったのか? 余計な労力としか言い様がない。犯人にはそれを隠さなければならない必然性があったのだ。たとえば合鍵を預かっている人間であったとか、頻繁に出入りしていて、祖母や母に侵入の際の物音を聞かれる心配の少ない場所を知っていたとかの類いだ。犯人が内部に詳しい者だという根拠はもう一つあった。あのとき、家は真っ暗だった。なのに祖母と母はあっさりと殺されている。よほど間取りを熟知していなければむずかしい犯行に思える。 「強盗はお金と貴金属だけを奪ったそうです。警察もそれで手慣れた者の犯行だと」  久美子は懸命に説明した。 「田島明彦の父親の消息を聞いていませんか」  私は古川先生に質した。 「あの事件の後、何年もしないうちに亡くなられました。やはりショックでしたのね」  嗚咽《おえつ》が洩れそうになって私は口を押さえた。 「あんなに可哀相な家族は……今でも明彦君の夢を見ますわ。可愛い子でした」  古川先生が言うと久美子も頷いて、 「斎藤君というクラスメイトが田島君の形見を大事に残しているんです」  私は久美子を見た。斎藤とは純市のことだ。 「汚した野球帽をクリーニングしている間にあの事件が起こって……それをお祖父さんに頼んで形見に貰ったんです。いつもクラス会があるたびに斎藤君が持ってくるの」  私は泣いた。どうしても抑え切れなかった。私は前世を思い出したことを神に感謝した。でなければ仲間の優しさをいつまでも知らずにいただろう。私の肩は激しく震えた。古川先生と久美子も泣いた。 〈ぼくが明彦なんだよ。ぼくなんだ〉  二人にそう叫びたかった。 〈ぼくは皆の中に生き続けていたんだね〉  私はこのことを知るために生まれ変わってきたような気がした。 「もし……クラス会が開かれるようなときは、ご連絡いただけませんでしょうか」  久美子は怪訝な顔をしながらも頷いた。 「そのときに事件の経過を仲間の皆さんにご報告したいと思います」  もう充分だった。これでいい。  私は母が死んだ年齢も思い出していた。まだ二十八歳の若さだった。牧野は三十歳で亡くなったこちらの父親の年齢が壁になっていると言ったが、それよりも私は前世の母の年齢に縛られていたのかも知れない。     7  富山に戻って三日目。母の容態が急変した。母は危篤状態に陥って意識もない。一週間前から風邪気味だった。それが遠因らしかった。姉と義兄は今後の段取りをつけるのに慌ただしく動いている。そうなれば私は喪主となるが、もともと姉にはアテにされていない。頭痛がこのところ治まっているのだけが幸いだった。病院には姉が付き添い、私は自宅に待機していた。電話も頻繁にかかってくる。  医者から聞いた限りでは無理のようだ。  千に一つの僥倖《ぎようこう》に期待するしかない。  私は母の部屋のドアを押した。  古いアルバムの詰められた箱を探して居間に持ち帰った。葬式の写真の用意などではなかった。元気な頃の母の顔を見たくなっただけである。こういうことを姉に知られれば不吉だと叱られるに決まっている。だが、私にも心の準備が必要だった。前世を知って以来というもの、なぜかこちらの母に対しての思いが稀薄になっている。これでは母に申し訳ないと思いつつも、どうにもならない。若くして殺された母を想像すると思慕の念がつのった。しかし、今はそれを振り切らなければならない。それには確固たる母の思い出を必要とした。中学の辺りから母は母であることを止め、父の役割を務めてきた。私にとっての母は姉の方だったのだ。  私は古いアルバムをゆっくりと眺めはじめた。ほとんど見たことのない写真ばかりだった。父親と思われる写真が何枚か貼られていた。思われる、とは妙な言い方に違いない。けれどそれが実感だった。母は意図的に父の写真を私に見せないようにしてきた。父に責任があったとは言え、自分が手にかけた男である。母の辛い気持も理解できる。十歳まで父と暮らした姉には明瞭な父の記憶が残されている。私の場合は三歳だった。写真も見せて貰えない状況では父の顔を見分けることができなくて当たり前だろう。死んだ父親を懐かしく思ったこともない。物心ついたときから私には母と姉しか居なかった。存在しない者を慕うわけがない。それでも、父親らしい男の写真を見付けて私は動揺していた。視線がつい父親の方に戻ってしまう。  背も低く、ずんぐりとした父親はいつも暗い顔をして写されていた。若さも見られない。色褪せた写真ということではなかった。隣りの母には明るさが感じられた。どこか私に似ているだろうか? 自分の顔を重ねてイメージしてみた。少しも似ていない。父親も私を他の男の子供だと疑っていたそうだ。今も生きていたらどんな親父になっていたのか。私は写真を明りにかざして目を近付けた。父親の顔が大きくなった。  頭が割れそうに痛んだ。私はアルバムを取り落とした。吐き気がする。実際に私は吐き散らした。寒気が取れない。なんで突然こうなったのか……私の頭の中には父親の顔ばかりが浮かんでいた。  思わず目を暝った。  闇に白い窓がぽっかりと開いていた。私は目を凝らした。またなにかの記憶なのか? いつもは躊躇なく覗けるくせに、今度ばかりは警戒心が生まれた。見てはいけない記憶のような気がする。なのに私の体は白い窓に接近していた。明るい光が目の前にある。  私が小さな布団に寝ていた。何歳ぐらいだろう。見当がつかないほど幼い。部屋にも見覚えがなかった。なのに私には寝ているのが自分だとはっきり認識できている。  そこに仕事から戻った父親が笑顔で入ってきた。写真で見たような暗さはなかった。部屋にはだれも居ない。父親は私にベロベロと舌を出した。私は笑った。父親はネクタイを緩めると私を抱き上げた。私は喜んだ。だが、その喜びを伝える方法がない。私はまだ口が利《き》けないのだ。 「大きくなったらジャイアンツの試合を見せに連れてってやるぞ」  父親は私の顔を真っ直ぐ見詰めて言った。  私も父親の顔を真っ直ぐ見詰めた。  一瞬の沈黙があった。私の顔を見て父親は軽い恐れを覚えたらしかった。今だ。今なら話せそうな気がする。私は口を開いた。 「おまえ……豆っこだろう」  父親はワッと私を放り投げた。 「暖炉から入ったんだ。煙突掃除は豆っこの仕事だった」  父親は青ざめた。わなわなと震えている。 「ぼくと母さんを殺したね」  父親は悲鳴を上げた。そのまま私を残して部屋を飛び出た。私は小さな腕を動かした。入れ代わりに母と姉がやって来た。 「なにをしたのよ!」  母は玄関に向かって叫んだ。父親は庭越しに私をもう一度見詰めた。私は笑った。  父親は転げるように姿を消した。  気がつくと私は床に転がっていた。  そのままの姿勢で天井の明りを眺める。涙が後から後から湧いてきた。  そういうことだったのだ。  私は別の記憶も思い出していた。口を塞がれたときに感じた煤《すす》の匂いだ。私には豆っこが犯人だと分かっていた。だから復讐を果たすために豆っこの子供として生まれ変わったのだ。豆っこは私が田島明彦だと知った。だが、それをだれにも言うわけにはいかない。母は私になにも教えてくれなかったが、姉の言葉によると、べろべろに酔って帰った父親は私の首を絞めて殺そうとしたらしい。母と姉は驚いて止めに入った。それでも父親は止めようとしなかった。酔っ払いの力は強い。母は台所に走るとすりこぎを持って来た。打ち所が悪くて父親は死んでしまった。それが真相である。  復讐を果たした私は明彦であることを忘れるように努めた。そして本当に忘れた。  そういうことなのだ。  私は胸に繰り返した。  電話が鳴った。  しつこい電話だ。  もしかすると母が亡くなったという連絡かも知れない。それを承知していながら私には電話を取ることができなかった。  明彦は復讐を果たした。  だが、それで母と姉はどうなったのか。  二人を不幸に追いやったのは私なのである。その責任をどう取るべきなのか……それが分からない状態で姉の声を聞くことはできない。母が死んでしまったら、もう謝ることもできないのだ。  電話はいつまでも鳴り続けた。  針 の 記 憶     1 「耳の記憶って言えばいいのかね……」  ひさしぶりに会った神崎は言葉を探しつつ中天に視線を動かした後、やがてターキーの水割りに腕を伸ばして嘗《な》めるよう口に含んで切り出した。 「とにかく感動もんだったよ。次から次へと忘れていた光景が頭の中に浮かんできたんだ。それも昨日のことのようにはっきりと。あれは、忘れていたんじゃなくて、脳のどこかにしまわれていたんだ。思い出すって感じとは違う。なんだか感激しちゃってな……タクシーの中でぼろぼろ泣いちまった。恥ずかしながら、とても人には言えねえ思い出がありましてね。今じゃこうして想像するだけでこそばゆくなる」 「そんな柄でもないだろう」  人には言えないと口にしながら、その実、訊ねられるのを待っている。察して私が促すと神崎は照れた笑いを見せて続けた。 「児島美代子って憶えてないか?」  私は首を傾《かし》げた。 「おまえの中学でも有名だったはずだぞ」 「中学の頃の話かい」  私は苦笑いした。いまさらそんな古い話をしはじめるとは思わなかった。神崎と私は高校の同級生で中学は別である。 「白百合中学の生徒だった。美人の誉《ほま》れが高かった。あの頃の盛岡の中学生ならたいてい彼女を知ってると思ってたがね」 「知らんよ。初耳だ」 「おまえ、高校時代は生真面目だったもんな」  神崎は口許に笑いを見せてたばこをくわえた。私も神崎のラークを抜き取って火をつけた。これで三日の禁煙も無駄となった。 「やめてるんじゃなかったんだっけ」 「酒が入ると喫いたくなる。条件反射だ」 「その児島美代子と付き合ってたんだよ」  神崎は得意そうに言って話を戻した。 「小学校でクラスが一緒だった。まぁ、付き合ってたというほどの関係じゃない。道で擦れ違うと挨拶を交わす程度さ。それでも結構仲間から羨ましがられてね。囃《はや》されているうちにこっちもその気になった。何度かクラス会を計画しては彼女に連絡を取った。帰り道を待ち伏せしたり……純情なもんだぜ」 「結局はフラれたんだろ」  上手くいっていたら高校時代の仲間である私が知らないわけがない。 「あんまり彼女がなびかなかったんで窮余《きゆうよ》の一策を講じた。それが禍《わざわ》いとなった」 「………」 「彼女の家は大慈寺の近所でな。学校の行き帰りには必ず大慈寺の前を通る。あそこらは人通りも少ないし、待ち伏せには恰好のところさ。白壁がずっと続いていて見晴らしも利《き》く。あの日もそうして待っていた。真っ赤な夕陽が壁を桃色に染めていて、そりゃあ綺麗だったぜ。今日こそ交際を申し込もうと、こっちの胸はどきどきもんだ。けど、こねえんだよ。一時間は山門の石段に腰掛けていた。ついに俺も諦めて、またにしようと壁伝いに自転車を押していたら道に釘が落ちてたんだな」  私はたばこをふかして頷《うなず》いた。 「魔が差すってのはあのことだ。ふらふらと釘を拾った俺は……大慈寺の白壁に美代子と俺の名前を並べたでっかい相合い傘を刻んでいたってわけさ」  私は呆れて神崎を見詰めた。 「中学三年だぞ。バカなことをしちまったと青ざめたが、そこに運悪く坊主が出てきた。俺は自転車で逃げた。名前だけだから幸いに突き止められはしなかったが、あの寺の白壁って市の文化財に等しいもんじゃねえかよ。怖くて二度と近寄れやしねえ。俺の仕業ってことを美代子だけは察したらしい。何日か経ってから迷惑だって泣かれて初恋は終わり」  他の客の相手をしながら聞き耳を立てていた店の女の子がクスクス笑った。 「まったく、呆れたもんだよな。自分でもバカみてえだと思うんだが……やっぱりあの影響さ。いしだあゆみを恨みたくなる」 「なんだそれ?」 「『サチオ君』って唄がちょうど流行《はや》ってた。知ってるだろ?」  私は曖昧《あいまい》に頷いた。少し記憶にある。 「当時の俺は弘田三枝子一辺倒で、いしだあゆみなんて大したファンじゃなかったが、あの唄だけは妙に好きだった」 「どんな唄だっけ?」 「ふるさとの思い出、それはサチオ君……」  神崎が口ずさんだメロディは確かに聞き覚えがある。センチメンタルな唄だ。 「好きだった幼|馴染《なじ》みの男の子が死んで、そいつを懐かしむって曲。クライマックスに相合い傘がでてくる。傘を真ん中にサチオとヨシコ、それから間もなくサチオは死んだ」 「そうそう、思い出した」  神崎の唄に私は頷いた。 「しょっちゅう歌ってたんだ。真っ白な壁を見てるうちに、俺もその気になったのさ。お恥ずかしい次第ですよ。若気の至り」  神崎は水割りを一気にあおった。 「本当は忘れていたってわけじゃないが、どんな状況だったかまでは記憶になかった。それが先日東京でタクシーに乗っていて……皇居の濠端を走っていたら、いきなりそいつがラジオから流れてきたんだ。あの唄を聞いたのは何十年ぶりだろう。外はやっぱり夕焼けだった。思わず目を瞑《つむ》ったら、大慈寺の桃色の壁とか錆びた釘の色とか、いろんなものがどうっと甦ってきた。美代子の右目の下にあった黒子《ほくろ》まではっきり思い出したんだぜ。信じられねえよ。名前を刻んだときに崩れた壁の手応えさえあった。それで泣いちまった。美代子ってさ……二年前に自殺したんだ」  私は少したじろいだ。 「くだらねえ男と一緒になってな。サラ金から六百万も借りてクラブの女に貢いでいたらしい。亭主が死ねばいいのに、美代子の方が首を吊っちまいやがった。去年の同窓会で聞かされた。それも関係していたのかもしれん。とにかく、参ったよ。それ以来、美代子の顔が頭から離れなくなった」 「唄の記憶か……いや、針の記憶かな」 「レコード針か。いいな、それ」  神崎は手帳を取り出して書きとめた。 「耳の記憶より感じがでてる。こっちを使わせて貰おう。唄で思い出す記憶となりゃ、たいていがレコードの時代だ。CDじゃない」 「番組にするのか?」  神崎は盛岡の放送局に勤めている。 「ちょいとコツを掴んだんだ」 「コツ?」 「なんで『サチオ君』だけにあんな鮮明な記憶が付き纏《まと》っているのかと気になってね。局に戻ってからいしだあゆみのレコードを聞いてみた。けど、全然違うんだよな。他の曲には思い出がまるでない。次に弘田三枝子をかけてみた。さすがに思い出は甦ったが『サチオ君』ほどじゃなかった。どんどんエスカレートして、あの頃の再現をしていたら西郷輝彦の『西銀座五番街』と三田明の『恋のアメリアッチ』にぶつかった。イントロを聞いただけで体が震えたぜ。まるで洪水みたいにあの頃の記憶がどうっと押し寄せてきた」 「変な唄ばっかりだ」  私は戸惑いを覚えた。よく知らない。 「聞けば必ず思い出すよ。どっちもあの当時大ヒットした曲だ。おまえさんは歌謡曲を毛嫌いしていた口だろ。だから曲名を知らないだけでメロディは頭に残っているはずだぜ」 「ファンだったのか?」  意外な気がした。神崎の集めていたレコードはブリティッシュロックが中心だった。 「ファンじゃなかったところに針の記憶の秘密が隠されている」  神崎は、したり顔をして、 「好きな曲は何度も聞き返す。いまだって俺はストーンズやキンクスを聞いている。けど、それじゃ駄目なんだな。若い頃の記憶と二十五、六や三十のときの記憶が全部ごちゃまぜになっているのさ。たとえば佐良直美の『世界は二人のために』だ。あれは歌詞がめでたいんで結婚式で頻繁に歌った。おまえさんだってどこかで歌っているに違いない。しかし、だれの結婚式のときか思い出せるか? 歌った回数が多いんでごっちゃになってるんだ。おなじ状況を繰り返すと記憶が曖昧となる」 「なるほど」 「その当時、さしたるファンじゃなくてレコードも買っていない。だが嫌いでも否応なしに耳に入ってきた唄。しかも……ここが一番重要な点だが、それきり忘れられてほとんど電波に乗らない曲。それがポイント」 「………」 「いしだあゆみの『サチオ君』は俺にとってまさにその典型だったのさ。レコードを買わなかったからそれきり聞き返しちゃいない。しかし、歌詞を諳《そら》んじられるほど大ヒットした。けれどなぜか今は電波にまったく乗らない。いしだあゆみっていうと、どうしても『ブルーライト・ヨコハマ』か『砂漠のような東京で』が先行しちまう。よほどの特番でもない限り『サチオ君』はかからんよ。西郷輝彦もそうさ。『星のフラメンコ』『星娘』『君だけを』と続いて、せいぜい『涙をありがとう』だな。『西銀座五番街』を流す余裕はどの局にもない。あれほど大ヒットしたにも拘《かか》わらずだ。三田明にだって言える。リスナーのリクエストの筆頭は『美しい十代』。次に『若い翼』『カリブの花』ってとこで『恋のアメリアッチ』が放送される確率は低い。だからこそその曲に記憶が凝縮されてるんだよ。何十年ぶりかに聞く、しかも良く知っている曲には必ず鮮明な記憶が付き纏っているはずだ。俺はその真理に到達した。俺なんか『西銀座五番街』を聞きながら、あの当時の村定《むらさだ》楽器の暗い店内を如実に思い出したぜ。あのレコードがかかっているときに不良仲間の山下が店の親父の目を盗んでベンチャーズと舟木一夫のLPを万引きした。俺はジャッキー・デシャノンのLPをレジに持って行って親父さんの目をごまかしたんだ。店のカウンターにゃ|英 亜里《はなぶさあり》のポスターが貼られていた。こんな記憶、信じられるかよ。自分でも驚いた。万引きの手助けをしたなんて、とっくの昔に忘れていたんだから」 「面白そうな話だな」  私もつい引き込まれていた。 「超一流の人気歌手で、その五、六番目にランクされるヒット曲。これが狙い目だ。橋幸夫なら『あの娘と僕』、舟木一夫だと『高原のお嬢さん』辺りだろう。今度テープを作ってやるから聞いてみな。記憶のラッシュに戸惑うかも知れん」 「しかし……良く知っている」 「当たり前だ。俺は音楽で飯を食ってる」  神崎はにやにやして、 「ヒットしそうな企画だろ。昔はあんなに流行ったのに、懐かしの歌声にも登場しない曲を選んでどんどん流す。リスナーに青春時代が甦る。目下、そういう曲をリストアップ中だ。俺たちの時代だけなら簡単だけど、ラジオを熱心に聞いてくれている世代は五十代より上が多い。それで資料片手に局のレコードを漁《あさ》ってる。こいつが案外と厄介でね」 「そうかな……おなじことだろう」 「曲の見極めがむずかしい。たとえば渡辺はま子にしたってだぜ。当時を知らない俺にはなんでも一緒に聞こえる。俺でも知っている『支那の夜』とか『|桑  港《サンフランシスコ》のチャイナタウン』『忘れちゃいやよ』は脱落だ。俺たちの世代だって耳にたこができるほど聞いている。と言って『雨のオランダ坂』や『広東ブルース』あるいは『いとしあの星』となるとお手上げだぜ。手当たり次第にかけりゃいいのかも知れんが、こっちは渡辺はま子の特番を作るつもりはない。これという一発を持ってきたい。そういう面倒が高峰三枝子や二葉あき子、淡谷のり子、岡晴夫、ディック・ミネと目白押しだ。七十代のじいさんばあさんをアシスタントにしたらいいかと本気で悩んでる」  いかにも、と私は苦労を認めた。私にすればどうでもいい問題に思えるが、作る側にしたら当然の悩みに違いない。 「売り上げ枚数で五、六番目を決めるならたやすいが、これって感性の問題だぜ。同時代に生きた人間じゃねえと選曲がむずかしい。時代の匂いって言うかね。それが欲しい」 「チリリリリンリン……って唄を知らないか」  私は不意に思い出した。なぜかそのメロディだけが頭に浮かんできたのである。 「なんだよ、それ」 「だから……チリリリリンリン」  その一節しか口にでてこない。 「唄か?」  さすがの神崎も首を傾げた。 「いつ頃のもんだ?」 「それも知らない。けどSP盤だと思う。だれかがハンドルを回してる記憶がある」 「SP盤とは懐かしい。となると昭和三十四、五年頃までの唄だな」 「そんな頃までSP盤があったのか?」 「あったんだ。ビニール盤LPの輸入は確か昭和二十六年だと思ったが、鳴らす機械が高くて普及しなかった。ソフトよりハードの問題だな。それでSP盤は永く生き延びた。特に童謡は昭和四十年近くまでSP盤が普通だったはずだ。買うのはもっぱら学校とか幼稚園で、しかもSP盤のストックが多いから機械を切り替えるわけにいかなかったんだろう。それでレコード会社も作り続けた」 「そうか……童謡かも知れない」  心浮き浮きして聞いた記憶も甦った。 「チリリリリンリン、か。童謡っぽいな」  神崎も首を振った。 「局に保存してないかな」 「もう一度聞いてみたいのか」  神崎は笑って水割りを飲み干すと、 「SP盤は処分したけど、童謡なら探せるだろう。チリリリリンリンしか分からないんじゃ厄介だが、俺の腕を見せてやるよ。それより、おまえが童謡を探してると聞いたら局の女の子たちが喜んで手伝うに決まってる」 「まさか」 「そうさ。なんてったっておまえさんは今じゃ日本を代表するカメラマンの一人だもの。局の喫茶室にゃ写真集が何冊か置いてある」 「神崎が無理やり置かせたんだろ」 「仲間なんだ。俺も鼻が高い」  神崎は空のグラスを掲げて笑顔を見せた。     2  その神崎から泊まっているホテルに連絡が入ったのは翌日の夕方だった。日中、私はそのホテルで講演をしていた。夜には懇親会がある。その合間に電話が通じたのである。 「あっさりと見付かったよ」  神崎は真っ先に口にした。 「童謡なんかじゃない。朝からずっと局のレコード室に籠って探したが収穫なしさ。古い唄なら古い人間に聞くが一番と悟って、たまたま仕事できていた料理学校の先生に訊ねたら一発だ。七十六のばあさんなんで古いことならたいてい知ってる」 「それで?」 「轟《とどろき》夕起子は知ってるよな。あの太った女優」 「ああ」 「彼女の唄だそうだ。『お使いは自転車に乗って』という曲だとさ。昭和十八年に大ヒットした。戦意高揚の唄ばっかりの時代に、そんな陽気な唄は珍しかったらしい。若い連中がよく口ずさんでいたとか。チリリリリンリンだけで分かったんだから、あの先生も歌っていたに違いない。懐かしそうにしていた」 「レコードはあったか?」 「あった。聞いてみたら結構いい曲だ。これは番組にも使える。流せばウケるぜ。戦後の『リンゴの唄』は有名だけど、戦時中にこういう唄が流行したとは知らなかった」 「なんでそんな唄を俺が聞いていたのかな」 「そりゃ、家にレコードがあったからだろう。テンポがいいんで子供にも分かる」  こともなげに神崎は言った。 「カセットプレイヤーを持ってきてると言ったな。録音したやつを若い者に届けさせる。今夜は代理店の人間と約束がある」  神崎はそれだけ言って電話を切った。  懇親会を終えてフロントに立ち寄るとテープが届いていた。私は部屋に戻った。それが私にとっての新たな幕開きになるなど、もちろん少しの予感もなかった。私の記憶にあったのはチリリリリンリンというわずかの断片に過ぎない。テレビを見るか眠るしかないホテルの部屋でなければ、直ぐにテープを聞く気にもなれなかったはずである。  私は冷蔵庫からビールを取り出してカセットにテープを押し込んだ。  曲がはじまった瞬間、私の体は震えた。  イントロだけでなにかが目覚めた。 〈これだ。これだよ〉  寒気はそのまま続いた。  ありありと陽射しに輝く廊下が目に浮かぶ。とてつもなく広くて長い廊下だ。左手の庭には海ほどに大きな池があり、その奥には白い土蔵が三つ並んでいる。ここは本家の庭だ。私は廊下をどこまでも歩く。突き当たりを右に曲がるとさらに部屋が連なっている。どれだけ広いか見当のつかない家だ。私は次々に障子を開けて、がらんとした部屋に失望した。あの楽しそうな音楽はどこで鳴らしているのだろう。本家に預けられて五日が過ぎていた。あの音楽は最初の日から聞こえていた。弾んだ笑い声もする。本家には人の出入りが多い。泊まり客が常にある。夜はいつも宴会のように賑やかだ。けれど子供の私には関係がない。無理に布団に寝かせられた。そうするとどこからかあの唄が流れてくるのだ。たぶん泊まり客のだれかが蓄音機を鳴らしているのだ。 〈お使いは自転車で、気軽にゆきましょう。並木道、そよ風、明るい青空〉  五日のうちに何度となく耳にして、いつの間にか口ずさむことができるまでになった。 〈あの町、この道、チリリリリンリン〉  なんだか心まで軽くなる。  いつもは布団に潜ったのを見透かすように聞こえてくるのに、今日は応接間で本を読んでいると聞こえてきたのである。私は応接間を飛び出て音のする方角を探し歩いていた。 〈そよ風が頬ぺたを、そっと撫でてゆくよ。お日様もあの空で、笑って見ています〉  耳を澄まさなければ気付かぬほどの微かな音なのだが、私はメロディに合わせて歌っていた。私は廊下に立ち止まっては見当をつけた。間違いない。この近くのはずだ。  重い板戸を引き開けると中は真っ暗だった。納戸である。食器棚や箪笥《たんす》がずらりと並んでいる。ちょっぴり怖さを感じた。それに、こんなところでレコードを聞く人間など居るわけがない。戸を閉めようとした私の耳に陽気な唄が響いた。 〈あの町、この道、チリリリリンリン〉  やっぱりこの部屋から聞こえる。  音に魅かれて私は納戸に足を踏み入れた。床はひんやりして心地好い。陽気な曲調と暗さに目が馴れたせいで怯えは霧散した。私はそろそろと奥を目指した。 〈お使いは自転車に乗って颯爽と、籠を小脇にちょっと抱えて、チリリリリンリン〉  私も頭の中で合唱していた。この納戸の奥の部屋にだれかが居てレコードをかけている。部屋から洩れた明りが、一本の線となって闇に輝いている。あそこにドアがあるのだ。箪笥や棚に何度かぶつかりながら私はようやく辿《たど》り着いた。 〈?〉  幼い私でも、その奇妙さに気付いた。ドアは確かにあるのだが、半分を塞ぐように衣装箪笥が置かれていたのである。相変わらず唄が聞こえていなければ逃げていたはずだ。  ちょうど私の目の高さに鍵穴があった。その小さな鍵穴から洩れる光がゆらゆらと蠢《うごめ》いている。私は息を殺して中を覗《のぞ》いた。 〈あ……〉  春のように温かで華やかな世界がドアの向こうに展《ひろ》がっていた。円い縁取りの中に明るい色彩が息づいている。無数の花をプリントした壁紙であると気付くまで私はうっとりと覗き続けていた。その花畑を背景にして美しいお姉さんと凜々《りり》しいお兄さんが抱き合っていた。一度も見たことのない二人だ。胸がどきどきしてきた。こうして盗み見しているのが知れたら叱られる。足は戻ろうとするのだが、目が鍵穴から離れない。  二人は抱き合ったまま踊っていた。お姉さんとお兄さんの顔が交互に私と真向かう。お姉さんの顔は白く輝いていた。子供の私でさえ圧倒される美しさだ。短くて黒い髪がくるくると回転するたびに広がる。ぴったりと包む細いスカートから伸びた脚はデパートのマネキンのように綺麗だった。お姉さんは踊りながら明るい笑い声をたてた。お兄さんがお姉さんの痩せた肩に顔を埋める。 「だれ?」  お姉さんが私を見詰めて動きを止めた。お兄さんも顔を上げて振り向く。私はがたがたと震えた。逃げようとしたが体が動かない。 「だれなの?」  お姉さんがもう一度訊ねた。と同時にお兄さんは素早くドアに近付いて開け放した。  私は呆然と立ち尽くした。  眩《まぶ》しい光の洪水だった。  部屋中が明るい花で埋められている。窓がないので昼でも天井のシャンデリアが灯《とも》されていた。床にも極彩色の花が咲いている。分厚い花柄の絨毯《じゆうたん》が敷かれているのだ。 「君は?」  お兄さんはドアの外に潜んでいたのが幼い私と知って微笑みを浮かべた。白い夏の洋服がとても似合っていた。 「慎一。ここはお祖父さんの家なの」  私は緊張しながら応じた。 「ああ、慎ちゃん」  お姉さんは私のことを知っていた。私は嬉しくなった。私は照れた。 「どうしたの、こんなとこで」 「あれ」  私は大きな寝台の脇に置かれている蓄音機を指差した。喇叭《ラツパ》の内側に花の模様が描かれている蓄音機だ。その喇叭の下で黒いレコードが回転している。曲は終わってチクンチクンという音だけが繰り返されていた。 「聞こえたの?」  お姉さんはにこやかに笑って私の頭を撫でた。私は大きく頷いた。 「退屈だからこうして音楽だけを聞いているのよ。正志《まさし》さんと毎日」 「どうして皆と遊ばないの?」  お姉さんに質《ただ》すと二人はころころ笑った。 「隠れんぼしてるの。慎ちゃんもするでしょ」  うん、と私も納得した。 「一緒に聞く?」  お姉さんはレコードの針を戻した。  軽快なリズムが流れる。お姉さんは腕を後ろに組むと頭を軽く揺らしながら曲に合わせて小さな声で歌いはじめた。 〈お使いは自転車で、気軽にゆきましょう。並木道、そよ風、明るい青空。お使いは自転車に乗って颯爽と、あの町、この道、チリリリリンリン〉  私もお姉さんと一緒に歌った。お姉さんは私の手を取ってくるくる回った。すごく楽しそうな顔だ。私にもその喜びが伝わる。 〈そよ風が頬ぺたを、そっと撫でてゆくよ。お日様もあの空で、笑って見ています。お使いは自転車に乗って颯爽と、籠を小脇にちょっと抱えて、チリリリンリン〉  私は笑いころげた。お姉さんが私の両手を握って回転する。私の体は宙に浮いた。ふわふわと空を飛ぶ。私はきゃっきゃっと騒いだ。 「いくぞぅ!」  お姉さんは私の手を放した。ぶうんと部屋の中を飛ぶ。目の前にお兄さんが居た。私はお兄さんの腕の中に抱きかかえられた。心臓の高鳴りが止まない。本当に私は空を飛んだのだ。お兄さんは笑いながら私を寝台に放った。ふかふかの寝台だった。ここにも春の甘い匂いがする。無性に嬉しかった。 「いいな、この部屋」  私は薄い布団を体に巻き付けて転がった。 「また遊びにきていい?」  寝台の脇のテーブルにはキャンディが一杯載せられたガラスの皿もある。お姉さんは私の隣りに座って私のポケットにキャンディを詰めてくれた。 「内緒よ。隠れんぼなんだから」 「うん」 「お祖父さんには特にね。約束を守れたらまた遊びにきていいわ」 「ほんと!」 「慎ちゃんは甥《おい》っ子だもの。いつでも」 「お兄さんもいい?」  私はおずおずとお兄さんに訊ねた。 「ぼくにだって慎一君は甥っ子さ」  お兄さんは私を高く抱き上げて、 「飛行機をしよう」  高く低く振り回した。ぶうん、ぶうん、私はプロペラの音をさせて両腕を広げた。     3  私はビールを片手に泣いていた。涙が溢《あふ》れて止まらない。極彩色の思い出は私を幸福にしていた。悲しい涙ではない。忘れていたお姉さんの顔を思い出したのが嬉しかった。あの後、私は家に戻るまでの何日かをお姉さんたちと遊んで過ごした。と言ってもそれぞれ三十分程度のものだったが、幼い頃の本家の思い出はそれに尽きる。お姉さんたちは私を本心から可愛がってくれた。子供心に二人が親ならいいとさえ感じた。その当時は分からなかったが、両親は離婚の危機を迎えていたのである。父親が若い女と東京へ駆け落ちしたのだ。それで母親が居所を探って談判にでかけていたときのことだった。私はそんな事情で本家に預けられていたらしい。なにしろ四歳のことなのでほとんど忘れてしまっている。だが不安と寂しさはあったはずだ。だからお姉さんたちの明るさに魅かれたのであろう。幸いに女と別れて父親が戻ってきた。両親に連れられて帰った町には友達が居る。何日もしないうちに私はお姉さんたちを忘れた。両親の優しさもそれに加わっている。  だが──  あのときの自分を救ってくれたのは、間違いなくお姉さんたちだった。そんな大事な人たちを忘れてしまっていたなんて……情けなかった。自分一人の力で大人になったような気がしていたのだ。 〈早苗叔母ちゃんだろうか〉  私は母親の直ぐ下の叔母を思い浮かべた。 〈それとも朋子叔母ちゃんかな〉  二人とも違うような気がする。あの当時、お姉さんが何歳だったか知らないが、きっと二十歳前後だろう。すると私との年齢差は十六、七、母の妹で一番歳下の朋子叔母でさえ私と二十二も離れている。第一、二人にはお姉さんの面影が認められない。どちらとも昔から丸顔で小太りの体型である。 〈若くして死んだ叔母が居たんだろうか〉  やがてその考えに至った。それが自然のような気がする。お兄さんの名前は正志と言った。叔母たちの旦那の名前とは違う。あれほど愛し合い、しかも本家に同居していた二人が別れるとはどうしても考えられない。  親戚は多い方で、これまで何十回となく葬式の知らせを受け取っていた。あの中にお姉さんも含まれていたかと思うと辛くなった。  私は時計を見た。まだ十一時。宵っ張りの母ならきっと起きている。  五、六度ベルを鳴らしただけで母が電話にでた。やはりテレビを見ていたと言う。 「母さんにさ、若くして死んだ妹があったんだろ。突然思い出したんだ」 「なによ、いきなり」  母は酔っているのかと質した。 「それとも、あれは朋子叔母ちゃんだったのか? 正志さんという人と本家に暮らしていた。昔、凄く可愛がって貰ったんだ。なんだか懐かしくて。思い出したら眠れなくなった」 「いつの話をしてるのよ」 「だから、ちっちゃいときに本家へ預けられたときの話さ。俺を甥っ子として扱ってたから、いずれ叔母ちゃんなのは確かだ」 「だったら朋子でしょ。死んだ妹は居ないわ」 「正志さんて人は知らない?」 「そんな名前は……」  と言いつつ母は絶句した。母もなにか思い出した様子だった。しばらく沈黙が続いた。 「正志さんて……石田正志さんのこと?」 「名字の方は知らない。けど、その人だろう。朋子叔母ちゃんの彼氏?」 「だれにそんな昔の話を聞いたの?」 「聞いたんじゃない。会ったんだ」 「なに、バカなことを言ってるのよ」  母は取り合わなかった。 「いまさら隠さなくてもいいだろう。やっぱり朋子叔母ちゃんだったんだ」  記憶なんてたかが知れている。私は朋子叔母の円い顔を頭に描いて軽い失望を覚えた。あの叔母にもあんなに輝いていた時代があったというわけだ。 「朋子じゃないわ。美雪姉さんの好きな人だったの」 「美雪姉さん?」  はじめて耳にする名前だった。 「私たちの一番上の姉さん。十九で死んだのよ。その姉さんの好きな人が正志さん」 「じゃ、違う。母さんよりずっと歳下だったもの。凄く綺麗な人だったぜ」 「だれだろう?」  母も困惑しているらしかった。 「本家の納戸の奥の部屋に二人で住んで居たんだ。なんだか隠れるようにしてね」 「納戸の奥の部屋!」  母は悲鳴に近い声を発した。 「なんだよ。びっくりした」 「あんた、なに言ってるのよ。どうしてあんたがあの部屋のこと知ってるの?」  母の声は明らかに震えていた。 「あそこは、ずっと開かずの間にしてたのに」  ざわざわと腕に鳥肌が立った。 「あの部屋で姉さんが死んだのよ」 「いつ?」 「……昭和十八年の冬だったわ」  受話器を落としそうになった。あの唄はまさにその当時の唄だったのである。     4  十数年ぶりかで私は本家を訪れた。盛岡からタクシーで二時間近くもかかる山奥の村だ。祖父も母の兄も亡くなって、今は従兄が本家を継いで林業を営んでいる。  私は門を潜ると屋敷を眺め渡した。子供の頃の印象より小さく感じられるが、それでも建坪は七百坪もある豪壮な家だ。明治の頃からほとんど間取りが変わっていないと聞く。  広い玄関に従兄の立っているのが見えた。私より八歳も年長だ。 「よく来てくれたな」  従兄はがっしりと私の手を握った。 「電話でも話したろ。どうも気になって」 「ガキの頃の話じゃ当てにならん。夢でも見たんじゃないのか。仏間に美雪伯母さんの写真が飾ってある。きっとそれを眺めて夢を見たのさ。昭和十八年なら俺が生まれた年だ。あんたが会うわきゃない」 「夢じゃないよ。開かずの間で遊んだ」 「開かずの間か」  従兄は苦笑した。 「確かにそのままにしてるが、納戸の奥なんて不便だから使ってないだけだよ。人が死んだ部屋で少し不気味なのはあるけど、それを言うなら祖父さんや親父が死んだ部屋はどうなる。この家は明治から続いている。五、六十人が死んでるはずだぞ」  薄気味悪いことはなに一つない、と言って従兄は私を案内した。最初に連れて行かれたのは仏間だった。欄間《らんま》に多くの写真が飾られてある。私は、圧倒された。 「あの右から二人目が美雪伯母さん」  従兄は私に指差した。  がたがたと膝が震えた。紛れもなくお姉さんだったのだ。お姉さんは白いドレスに大きな帽子を被《かぶ》って笑っていた。 「モガってやつさ。いや、戦時中じゃそんな風に言わないか。とにかくモダンな人だったらしい。まぁ、あの時代にこんな恰好をしてたんだから大変な人だったんだろうな。おまけに東京から徴兵逃れの恋人を引き連れて戻った。相手は相当なインテリで日本が負けると信じていたらしいが、発覚すりゃ銃殺ものだ。さすがの祖父さんも困り果てて二人を納戸の奥に隠した。戦争さえ終わればなんとでもなる。こんな山奥だ。軍部の目も届かん。半年はなんとか保ったが、終戦がいつになるかだれも予測できん。窓もなくて陽の当たらない部屋にそれだけ居りゃだれだって気が変になる。死にたくなるのも分かる」  従兄は哀れみの目を写真に注いで、 「ずいぶん仲のいい二人だったそうだが、とうとう隠遁生活に嫌気が差して服毒自殺した。ベッドに並んで眠ってたとさ。石田正志って人の骨は戦後になってから家族に返した」 「生きてたんだよ。ずうっとあの部屋で」  私は涙を零《こぼ》しながら言った。 「寝物語にばあやにでも聞かされたんだろう。仏間の写真を見て訊ねたんじゃないのか」 「絶対に違う。俺は可愛がって貰った」 「開かずの間を見てみるか」  首を横に小さく振りながら従兄は誘った。私は不安を抱きながらあとに続いた。  長い廊下が通じている。私の足取りは早まった。見慣れた納戸の前に立つ。私はがらりと戸を開けた。あの当時と変わらない。正面に開かずの間のドアが見えた。納戸に電気が灯されているせいだ。 〈あの町、この道、チリリリリンリン〉  お姉さんの歌声が耳に甦る。  私は息を大きく吐きだしてドアのノブに手をかけた。ドアは軋《きし》んだ音を立てて開いた。  黴《かび》と埃の匂いが私を襲った。  美しい花柄だったはずの絨毯が埃で灰色になっている。模様がほとんど見えない。壁紙も同様だった。破れ落ちて煤《すす》けた壁が剥き出しとなっていた。寝台は置かれていたが布団は取り払われている。無残な荒れようだ。  私の力はいっぺんに抜けた。  それでも記憶にある部屋であるのは間違いない。私はここでお姉さんと遊んだのだ。たとえそれが幽霊であったとしても構わなかった。私の寂しい心を救ってくれた人たちである。寂しく死んでいった二人は、寂しく泣いている私を哀れと思ってくれたのだろう。 〈お姉さん、お兄さん……〉  とめどなく涙が溢れた。  涙に霞《かす》んだ私の目は寝台脇に置かれたままの蓄音機を捕らえた。  不思議だった。  それだけが古びていない。  私は蓄音機に駆け寄った。  それにはレコードが載せられていた。  レコード盤にも埃が積もっていない。思わず私は辺りを見回した。信じられないことだった。床には分厚い埃が堆積している。  蓄音機に手を触れると、電力が余っていたのかレコード盤がゆっくり回りはじめた。 〈今も聞いているんだね〉  私の目から涙が滴《したた》った。  微かに流れてきたのは、あの懐かしいメロディだった。  傷 の 記 憶     1 〈こんなちっぽけな町だったのか……〉  ほぼ四十年ぶりに訪れた町の燻《くすぶ》った屋根の連なりを眺めて最初に思ったのはそれだった。もともと五歳までしか暮らしていないのだから記憶はゼロに等しい。それでももっと大きくて賑やかな町だったとどこかで思い込んでいたのである。駅前からの下り坂の両側に立ち並ぶ商店はほとんどが木造の二階家で、新しそうなビルは見当たらない。第一、土曜の夕方だと言うのに商店街には人影が数えるほどしかなかった。まるでゴーストタウンだ。 「のんびりしたとこだな」  田村の言葉に佐伯も笑顔で頷《うなず》いた。この町をはじめて訪れた二人には寂《さび》れた町並みも田舎ののどかな風景と映る。 「タクシーが待ってない駅なんてのも珍しい」  田村は私を振り向いてからかった。電車の中の話とだいぶ違うと、その目は言っていた。 「昔は賑わっていたんだよ」  とりあえず喫茶店でも見付けて、そこでタクシーを呼ぶしかない。私は二人を促して先に進んだ。冷房もろくに効かない旧式の車輛だった上に車内販売もなかった。喉が張り付くように渇いている。 「喫茶店なんてのがあるのかね?」  田村は遥か遠くまで見渡せる商店街に目を動かして危ぶんだ。ラーメン屋とか和菓子、洋品店といった店舗は見えるが、確かにコーヒーと書いた看板は見付けられない。 「町の中心と駅が離れているんだ。高速道路ができたせいで駅前が廃《すた》れた。この商店街は鉄道が開通してからのものさ」  二人に説明しながら私もそれで納得できた。だからことさら寂れた印象を覚えるのである。私がこの町に暮らしていた四十年前は、この商店街が誕生して十年前後のものだったに違いない。その頃は新築に近い商店がずらりと軒を並べ、町の中心の古い町並みよりもずっと賑やかに感じられたはずである。だが、高速道路を人々が利用するようになると駅前商店街は見捨てられていく。そして今は築後五十年以上の安普請の店だけが残されている。受ける印象が天と地ほどに違って当たり前であろう。逆に私の記憶の方が正しかったということになる。 「適当な店でタクシーを頼むのが正解だ」 「温泉までは三十分もかかる。やっぱり少し休んでからにしよう。なにもない宿だ。つまみやウイスキーを仕入れていかないと」  私の言葉に二人も同意した。  私たちは酒屋を見つけて買い物を済ませたついでに喫茶店を教えて貰った。田村が案じた通り喫茶店はだいぶ駅から離れていた。 「やれやれ」  店の椅子に腰を落ち着かせて冷たい水を喉に流し込むと田村は苦笑いした。 「森口が戻らなかったわけだ。戻ってもこの町じゃろくな仕事にありつけん」 「まあな」  私も認めた。農家や商店の長男以外の働き口は限られている。町役場ぐらいのものだ。 「森口の実家は近いのか?」  田村が訊ねた。 「町の真ん中と聞いている。なんなら先に挨拶していこうか?」 「いや、明日でいい」  佐伯は首を横に振った。 「行けば必ず引き止められる。俺たちは森口の法事にきたんであって親戚と酒盛りをするためにきたんじゃない。昌美さんでも居ると言うなら別だが……気疲れするだけだ」  田村と私は頷いた。森口の親や兄弟とは二年前の葬式の席で顔を合わせているが、その場限りの付き合いでしかない。我々にとって森口の家族は妻の昌美だけである。が、その昌美は去年、正式に森口の家の籍を抜いて、もはや他人となっている。二人には子供ができず、まだ三十四という若さだったので将来を考えて森口の親の方から申し入れたのだ。 「彼女も招《よ》ばれているんじゃないのか?」  田村が言った。 「電話をしてみたらどうだ」 「そしてどうする」  佐伯は舌打ちした。 「居たとしても温泉に遊びにこいとは言えんだろう。それに前日から近くの温泉に俺たちが居ると伝われば森口の家にも余計な気を遣わせることになる。せめて宿代くらいはもたせてくれと言い出しかねん」 「なるほど」  珍しく素直に田村は引き下がった。 「森口には悪いが、法事ついでの温泉旅行だ。今夜はゆっくり三人で酒でも飲もう」 「吉田もそれで構わんのだな?」  田村は私を向いて質《ただ》した。 「この町には親しい連中が居るんだろ」 「居ないよ」 「森口とは同級生同士じゃねえか。それなら他にもたくさん地元に」 「同級生ってのは高校のときの話だ。森口の故郷のこの町に俺も五歳まで住んだことがあったんで親しくなった。もちろん近所に遊び友達は大勢居たけど、今は名前も顔も憶えちゃいない」 「一人も?」 「会って名乗られれば思い出すかも知れん。もっとも、いまさら会ったところでなにも話すことなんかないさ。隠れんぼや鬼ごっこの話でもするか? そんな程度の友達だ」 「いかにも。五歳じゃしょうがねえな」 「吉田の親父さんて、確か××製薬だったな」  佐伯が思い出したように口にした。 「ああ。それでこの町の支店に赴任していた。俺が生まれる前から五歳までだから親父は六、七年居たはずだ」 「こんな町に支店があったって?」  田村は信じられない顔をした。 「結構大きな県立病院がある。××製薬は東北を基盤にしていてね。県立病院がある町にはたいてい支店を持っていた。支店と言ったって営業マンを一人置いているだけのケースが多い。駐在所みたいなもんだろう」  二人は笑って了解した。  私たちは死んだ森口も含めておなじ大学のサークル仲間である。今は何年かに一度の付き合いでしかないが、会えばこうして直ぐに昔の関係となって打ち解ける。 「しかし森口は惜しかった。ニューヨークから戻れば、どこかの支局長のポストは確実だったらしい。結局はストレスかね」  田村は医者である佐伯に質した。 「今はだれでもストレスで片付けたがる」  佐伯はにやにやして、 「医者も楽になったよ。患者にストレスだと言うとたいていが納得する。昔の葛根湯医者とおんなじさ」 「なんだそりゃ?」 「風邪でも腹痛でも葛根湯を処方すりゃ医者らしく見えた時代があった。それと一緒。ストレスと診断すれば一応の恰好がつく」 「しかし、森口の場合はストレスだろう」 「まあね。高血圧の原因にはなる。こういう時代の海外特派員ならストレスも当たり前だ」 「あいつ、英語でも訛《なま》ってたんじゃないの」  田村は自分で言って笑った。 「最初の頃はあいつの言ってることがよく聞き取れなくて参ったよ。英語もきっとおなじに違いない。それで血圧も高くなる」  悪気があっての言葉ではないと承知していても、おなじ県の出身である私にすれば心地好い話ではなかった。大手の広告代理店に就職して以来、田村は少し横柄になった気がする。それともそれは小さな大学で薄給に甘んじている私のひがみなのだろうか。 「町の記憶はどうなんだ?」  察して佐伯が話を逸《そ》らした。 「この様子だとそんなに変わっちゃいないように感じるがね。子供の時分と似たような町並みだろう。あんまり憶えてないのか?」 「駅前にはしょっちゅう遊びにきていたはずなんだが……銀行の娘と仲が良くてね。それで毎日のように行き来した記憶がある」 「銀行なんてあったか?」  たった今通ったばかりの商店街を頭に浮かべるようにして田村は首を傾《かし》げた。 「なかった」  私も認めた。意識的に探したのである。 「恐らく駅前から撤退したんだろう」 「銀行の娘ってのは、いったいなんだ?」 「たぶん支店長の娘だったんじゃないか。子供だったから銀行の持ち主だと思ってた」  それに今にして思えば都会からの転勤族に過ぎなかっただけであろう。この町には不釣合なハイカラな洋服を着ている娘だった。それで大金持ちと思い込んでいたのだ。その意味で言うなら醤油問屋の娘の方がずっと金持ちだったかも知れない。だが子供の自分にはそれが分からなかった。 〈ふうん……〉  案外と記憶が残っていることに自分でも驚いた。醤油問屋の娘のことなど、この何十年かの間一度として思い出した覚えがない。やはりおなじ町に居るのが関係しているに違いない。この分なら町を丹念に歩けばもっといろいろな記憶と遭遇しそうな気がする。 「醤油問屋なら今だってありそうだ」  私が話すと田村は面白がって、 「せっかくだ。電話帳ででも調べて連絡してみろよ。もう二度とこれない町だぞ」 「俺たちゃ四十五だ。相手もばあさんになってる。そんな女を紹介して欲しいか?」 「だな。止した方がいい」  田村は苦笑してアイスコーヒーを飲み干した。女となると目の色が変わる性格だけは大学時代のままだ。私は溜め息を吐《つ》いた。     2  美しい渓谷を見下ろしながらの露天風呂しか楽しみのなさそうな温泉宿であった。私たちは宿に到着すると日が暮れる前に慌《あわ》てて風呂へ向かった。 「ひえぇ……極楽、極楽」  だれも居ない湯にざんぶりと飛び込んだ田村は歓声を上げた。絶景である。 「きた甲斐があったぜ。湯も温《ぬる》めでちょうどいい。これなら昼寝もできる」  渓谷の涼しい風を肩から上に受けながら田村は岩に頭を乗せて体を浮かせた。 「それ、胆石のやつか」  上から佐伯が眺めて田村に訊ねた。田村の腹には二十センチほどの縦の傷跡があった。 「おう、十年も経つのに消えやしない」 「だいぶ大きいな。若い医者だったろ」 「膵臓《すいぞう》も怪しまれて確認されたんだ。それで大きく切ったらしい。大丈夫だったけど」 「それなら分かる。てっきり失敗だと思った。普通はその半分で済む」  佐伯は笑って田村の隣りに身を沈めた。私も二人と肩を並べた。 「この盲腸はどうかね」  田村は立ち上がって佐伯に見せた。 「これも相当に大きい」 「腹膜炎の可能性があってな」 「おまえ、そんなのばっかりだな」  佐伯は爆笑した。 「限界まで我慢しちゃうんだよ。それで取り返しのつかんことになる。もっとも、女じゃあるまいし五センチの傷が倍になったところで大差はねえけどな。裸で女を口説くわけじゃなし。ベッドに入れば関係なくなる」 「その肘《ひじ》の傷は小学生の辺りか?」  佐伯は目敏《めざと》く田村の肘にある傷を見付けた。 「自転車で転んで裂いた。十針以上縫ったよ。そんな古傷だとよく分かったな」 「医者だぜ。傷の治り具合とか縫い方でおよその見当がつく。骨にひびが入っただろ」 「当たり。さすが専門家だけある」  じゃあ、これはと田村は頭を見せた。髪を掻《か》き分け頭頂部を示す。鉤《かぎ》型の傷がはっきりと見えた。佐伯は指で傷を触って、 「これも七、八歳の頃のものだろう。スチールの机の角とか屋根の庇《ひさし》にぶつけたか……」 「そんなことまで分かるもんなのか!」  田村は唖然とした。 「鉤型に裂ける傷は釘なんかでもできるが、頭だとただじゃ済まない。単純に角張ったものにぶつかってできた傷と見当をつけた。咄嗟《とつさ》に思い付くのは机の角。机の下に潜って遊んでいるうちにぶつけたんじゃないのか」 「トラックの荷台の角だ。鬼ごっこの最中に停車していたトラックの下に隠れた。見付けられたんで頭を上げたらゴン。物凄い血が出たぞ。死ぬかと思った」 「だろうな。血が目に入るとそう感じる」 「しかし、大したもんだよ。まさか当てるとは思わなかった。医者を見直したね。だったら死体を検分しても大体の想像がつくわけだ」 「手術の仕様はきっちり定められている。どこをどのように切ったかでなんの手術だったか分かる。でなきゃ医者は勤まらん」 「吉田もなんか傷がないか?」  田村は私の体を点検した。 「手術なんてしてないからな」  私も腕や腹を触って探してみた。田村とは違って盲腸さえ切っていない。あるとすれば鉛筆を削っているときに切った指の傷とか些細《ささい》なものばかりである。 「その、肩のやつは?」  言われて私も頷いた。左肩の後ろにあるので鏡でも使わないと自分には見えない。それでうっかりと忘れていた。 「分かるかい?」  私は佐伯に背中を向けて見せた。  佐伯は傷に沿って指を這《は》わせると肩甲骨の辺りを強く押した。私はゾクッと寒気を感じた。肩甲骨の一部が割れた傷なのである。痛みはないが、反対に感触も鈍くなっている。神経がとぎれていると聞かされてきた。 「大怪我だな。心臓の裏側だぞ。下手すりゃ死んでたかも知れない」  佐伯は首を傾げた。 「いつ頃の傷だ?」  田村もまじまじと傷を眺めた。 「よほど幼い頃のものだろう」 「ターザンごっこでもしてて落ちたか」  田村が口にした。 「違うな。ぶつかってできた傷じゃない。刺されたんだ。槍みたいなものでな。けど……傷が流れている。ちょっと見当がつかん」 「槍で刺されたって?」  田村は笑った。私も苦笑いした。 「褒《ほ》めたら直ぐにこれだ。時代劇じゃあるまいし」 「槍みたいなものと言ったんだ」 「木登りのときに墜落して杭が刺さったとか」  田村は私に質した。 「二人とも降参か?」  私は肩を湯に沈めて二人と向き合った。 「半分は正解。釘が刺さって裂けた。転んだ拍子に釘の突き出ていた板の上に落ちたそうだ。子供だったんで傷がこんなに大きくなった。俺にはまったく記憶にないけどね」 「釘じゃない。そいつはちがうよ」  佐伯は否定した。 「釘じゃこんなに傷口が広がらん。万一そうだとしてもギザギザの傷のはずだ。それにこれほどの怪我が記憶にないってことは三、四歳までの事故だろ。釘の引っ掻き傷であれば絶対に小さくなっている」  佐伯はまた肩甲骨を探って、 「不自然にくっついてる。砕けたか割れた痕跡だ。釘だったらそのまま骨に突き立って、肉を上に引き裂くわけがないじゃないか」 「そう言えばそうだ。幅が二センチ近くもある。釘とは思えん」  田村も佐伯に同調した。 「親父が側に居たんだよ。骨が割れたんで治療がしやすいように大きく切開したのさ」  そう教えられている。 「メスの傷は釘よりもっと細い。そもそも切開の痕跡はむしろ下に伸びている方だ。聞き違いか、なんかの勘違いだろう」  佐伯は頑として譲らなかった。 「確かめたくても親父は死んじまった」 「ずっとそう信じてたんだな」 「当たり前だろ。こっちは憶えてない」  疑ったことは一度もなかった。物心ついたときには、すでに傷があったのである。私でなくたって、だれもが教えられた通り鵜呑《うの》みにするだろう。 「医者に見せたのは俺がはじめてか」 「痛くもないのに、なんでその必要がある」 「そりゃそうだ」  佐伯は笑って、 「なんにしろ釘じゃない。よく無事だったもんだよ。運がいい男かもな」 「しかし……釘だと親父は言ったがね」  私は戸惑っていた。聞き違いなどでは絶対になかった。子供の頃はまだ傷も生々しく、私は友人たちに自慢して見せていた。その度に親父に事故の状況を繰り返し聞いたものだ。佐伯の見立てが確かなら親父は私に嘘をついていたことになる。 〈なんでだ?〉  考えても分からなかった。 「記憶にない傷って言えば、俺もある」  田村は左足をバレリーナのように上げて、 「今じゃ薄れてしまったが、膝の辺りにでっかい火傷の痕が……ほら、ここんとこ」  私と佐伯は覗《のぞ》いた。よく分からない。 「俺が赤ん坊のとき、沸騰した湯を被《かぶ》せられたのさ。姉貴が薬缶《やかん》をひっくり返した」 「なんか……満身|創痍《そうい》だな」  佐伯は呆れた顔で言った。 「四十五にもなりゃ傷の五つや六つはだれにもあるぜ。うちの猫なんざ耳が半分千切れてる。人は服で隠してるから目立たん。自分が承知の怪我なら我慢もできるが、この火傷には腹が立った。ことあるごとに姉貴に食ってかかった。柔肌《やわはだ》を戻せって」 「赤ん坊の怪我は多いんだ」  佐伯は続けた。 「親が少しでも目を離すと危ないことをする。この前も小指をなくした赤ん坊が居る」 「そりゃ悲惨だ。小指じゃ場所が悪い」 「子供がまさか指を入れてるとは思わずに母親がタンスを閉めた。潰《つぶ》れていたんで切り落とすしか方法がなかった。女の子だぞ。一生辛い思いをするだろう。母親は後で娘になんと詫びたらいいかと泣いてたよ。今はどうせ赤ん坊だから、なにも分からん」  そう言って佐伯は、そうかと頷いた。 「吉田のやつもそうじゃないのか?」 「そうって?」 「ただの事故じゃなくって親父さんとかおふくろさんが誤ってやったってことさ。正直に告白すれば吉田に恨まれる。それで単なる事故ってことにしたのとは違うかね」 「俺は恨まんよ」 「した方はそう思わない。たかが火傷ぐらいで姉貴を苛《いじ》め続ける弟だって居る」  田村はアハハと笑った。 「誤って肩の骨を割るくらいの怪我を?」  私にはとても信じられなかった。 「帰ったらおふくろさんにそれとなく聞いてみるんだな。佐伯の推理の方が当たってるような気がする。吉田家の秘密ってわけだ」 「おふくろは知らない……と思う」 「なんで?」 「本当のおふくろも死んだ。今のおふくろは親父の再婚相手。と言ったって俺が五つの頃からだから実の母親と変わりがない」 「へえ、てっきり本当の親子だとばかり」  何度も遊びにきている二人は目を丸くした。 「なら勝利君と由美子さんは腹違いの?」 「だよ。俺にすれば一緒だけどな」 「どうりで兄貴に似ない美人だと思ってた」  田村は納得したように頷いた。その顔に私は湯を思い切りひっかけてやった。     3  激しいサイレンの音で目が覚めた。いや、正確に言うなら佐伯に起こされたのである。そこにサイレンの音が重なっていたのだ。 「どうした?」 「ひどいうなされようだったぞ」 「俺が?」 「さっきからだ。それで俺たちが起こされた。何度揺さぶったっておまえの方は起きん」 「この音は?」  首筋にびっしりと汗が噴き出ていた。サイレンの音を聞くとますます心臓が高鳴る。 「キャンプファイヤーをやってた連中らしい。田村は帳場に聞きに行った。ボヤだろう」 「そうか……」  私は布団の上に胡座《あぐら》をかいて気を鎮めた。 「夢でも見たのか?」 「憶えてない……突然起こされたんでびっくりしただけさ」  たばこに火をつけながら思い出そうとしたが無駄だった。サイレンの音が苛々《いらいら》させる。 「それこそストレスじゃないのかね。あんなに暴れるってのも珍しい。まるで悪霊でも憑《つ》いたかと思った。田村なんかビデオカメラを持ってくりゃよかったと」 「そんなに暴れたって?」 「酒のせいかも知れん。疲れが溜まってるんだよ。今度ウチの病院にこい。人間ドックに入ったこともないんだろ。大事にしないと」 「体はなんともない。不思議だな」  そこに田村が戻ってきた。 「ランプの火がテントに燃え移ったんだとさ。林にまで火が広がって大変らしい。この窓からも見えるんじゃねえか?」  田村はカーテンを押し開いた。私と佐伯も窓に近付いて夜空を眺めた。 「あれだ。空が赤くなってる」  田村が示した。山の裏手の空がわずかにだが赤く染められている。それを見た途端、私は猛烈な吐き気に襲われた。我慢ができない。私は窓の手摺りから身を乗り出して吐いた。暗い庭に汚物が飛び散った。 「大丈夫か?」  吐き終えて布団に横たわった私に佐伯は心配そうな顔で質した。 「熱もあるみたいだな。食中毒かも」 「窓を閉めてくれ」  私は田村に頼んだ。 「サイレンの音が気になる。また吐きそうだ。音が聞こえないようにしてくれ」 「どうなってる?」  窓を閉めると田村が呆れて私に質した。 「ただごとじゃねえぞ」 「悪い。こうしてると治まるだろう」  私は胸を開けて深呼吸を繰り返した。耳障りなサイレンの音さえなければいいのに。 「なんの夢だったんだ?」  田村はおなじ質問をした。 「とうちゃん、とうちゃん、って」 「とうちゃん?」 「言ってたよ。なあ」  それに佐伯も頷いた。  私には見当もつかなかった。夢を見た記憶さえもない。 「しょっちゅうってわけじゃなかろうな」  私も落ち着かなくなった。こんなことははじめてだと思うのだが、この頃は家内と寝室を別にしているので断言はできない。 「若い女の子なんかとモーテルに行ってこれじゃ恰好がつかねえぞ」  田村はにやにやとしてからかった。     4  森口の法事は滞りなく終わった。  法事には森口の妻だった昌美も招かれていた。ひさしぶりに会った昌美はずいぶん若くなったように感じられた。もともと三十四歳だから私たちよりは十一も若い。 「これから直ぐに東京へ?」  門まで見送りにでた昌美は訊ねた。 「よかったらご一緒させてください」 「今日は泊まるんじゃないの?」 「もう三十分もすればでられます」 「じゃあどこかで待っていよう。どうせ電車の到着には間があるんだ」  田村は気軽に応じると昨日の喫茶店を昌美に教えた。この町には何度かきているらしく昌美には直ぐに通じた。私たちは森口の家で用意してくれたタクシーに乗り込んだ。 「籍を抜いたからには俺たちとおなじか。気兼ねがあるんだろうな」  佐伯は昌美が小さくなると呟いた。 「俺たちの顔を見てホッとしてたぜ。だから昨日誘えばよかったんだ。喜んできたさ」  田村は残念そうに言った。親友の年若い妻ということで皆が可愛がっていたのだ。 「にしても、でっけえ家だ。庭にゃ太い松が二十本も植えてある。金持ちだったんだ」 「東京に較べれば土地はただみたいなものだ」  私は田村に余計なことを口にしないように目配せした。タクシーの運転手から伝わる。田村も察して頷いた。  昨日とおなじ店でアイスコーヒーを飲んでいると、やがて明るい色の服に着替えた昌美が現われた。確かに若さを取り戻している。 「わざわざありがとうございました」  昌美はあらためて私たちに頭を下げた。 「昨日は温泉で退屈していてね。昌美さんを誘うべきだったと皆で話してたとこだ」 「私、昨夜は盛岡に泊まっていたんです」  盛岡とこの町は二時間も離れている。が、そこに泊まっていれば昼の法事には間に合う。 「そうか。俺たちもそうすりゃよかった。年寄りになった証拠だぜ。なにも前日から律儀にここに居る必要はなかったんだ」  田村の言葉に私たちも苦笑した。盛岡なら遊びに不自由はしない。 「前に会ったのはいつだったっけ」  佐伯は昌美に質した。 「あのときだ。籍を抜くことになったんで俺たちが慰めの会を開いた」  田村が口を挟んだ。 「そんなに経つのか。元気?」 「実家ですから気楽にやっています」  屈託のない笑いを浮かべて昌美は応じた。 「再婚の予定は?」  田村はずけっと訊いた。 「付き合っている人はいますけど……」  申し訳なさそうに昌美は視線を伏せた。 「俺たちに遠慮は無用だよ。籍を抜いたのは森口の家の方なんだし。まだ若い」  佐伯が言うと昌美は笑顔に戻して、 「戸籍って変なものですね。俊夫さんが亡くなっても籍がそのままのときは気持なんて少しも動かなかったのに……」 「………」 「抜かれた途端に俊夫さんが離れて行くんです」 「なるほど、そういうこともあるか」  田村は大きく頷いた。 「吉田さんも本当のお母さんのことはほとんど聞かされていないんでしょう?」  私たちは思わず顔を見合わせた。 「森口から聞いていたのか」  直ぐに私も得心がいった。森口には話してある。昌美が知っていて不思議ではない。 「本当なんですか? 俊夫さんは吉田さんがなに一つ知らないだけだと言ってましたけど……なんだか私には信じられなかったんです」 「なにを知らないって?」 「この町がお母さんの故郷ということは?」  私はあんぐりと口を開けた。 「お母さんの妹さんが今もこの町に」 「全然聞いてない」  私は青ざめていたに違いない。 「再婚すればおなじように俊夫さんがだれとも無縁の人になってしまいます。だから……」 「ちょっと待ってくれ。今の話は本当なんだね。この町に俺の叔母が居るってことも」 「ええ。俊夫さんが知っていました」 「なんで森口は教えてくれなかったんだ」  私は髪を掻きむしった。 「家族の仲がいいんで余計なお世話だと思ったのさ。いまさら叔母さんと会っても意味がないと森口は考えたんだろう」  佐伯は私の背中を軽く叩いた。 「しかし、おまえも冷たい野郎だな。おふくろさんのことをなにも知らないなんて」  田村は舌打ちした。 「新しいおふくろに、母さんのことは口にするなと親父に言われていた。母さんが死んだのは俺が三歳のときだ。顔さえも記憶にない。親父が一人で育ててくれたんだ」  私は不覚にも涙を零《こぼ》した。  冷たかったわけではない。物心ついた頃には、もう母親が居なかったのである。肩の傷と一緒だ。それが当たり前となっていた。だから新しい母親ができたときには嬉しかった。親父が念を押さずとも生みの母親のことは口にしなかったに違いない。したくても、口にする思い出がなに一つなかったのだから。  が──  田村の言う通りだと思った。墓参りするくらいの気持はあっても良かったはずだ。自分では本当の親子のつもりでいたが、やはり今のおふくろにどこか遠慮していたのだ。それでわざと生みの母親を頭から追いやって生きてきた。もともと稀薄な縁だったゆえに忘れることも簡単だったのである。 「叔母さんの名前とか住所は?」 「分かります。俊夫さんの通っていた幼稚園の先生だったとか」  昌美はあっさりと応じた。  私は皆を駅で見送った。  この機会を逃せば二度と会えないかも知れない。母親の墓参りもしたかった。  私は昌美が調べてくれた電話の番号を回した。ずうっと幼稚園に勤務していたらしいが、今は退職して茶と花の教室を開いていると言う。独身で通した人のようだ。  三回もベルが鳴り終わらないうちに相手がでた。私の声は詰まった。なにから話したらいいのか分からない。 「もしもし? 戸田ですけれど」 「………」 「もしもし? どなたさまですか」 「あの……邦彦です。吉田邦彦ですが」  やっと言えた。だが今度は相手の声が止まった。理解できないでいるのだ。 「信子の息子の邦彦です」 「くーちゃん! 本当にくーちゃん」  叔母は電話口で泣き出した。 「今、この町に居るんです。これからお訪ねして構わないでしょうか」  私も泣きたいのを堪《こら》えて言った。くーちゃん、という呼ばれ方には甘酸っぱい記憶があった。私の胸は騒ぎはじめた。     5  駅前の店で花と菓子を買ってタクシーに乗った。十分も走らないうちにタクシーは叔母の家に着いた。大きくはないが清潔そうな一軒家だった。外を眺めていたらしく窓のカーテンが揺れた。タクシーを下りると同時に玄関のドアが開いた。私は叔母と向き合った。 〈ねえちゃん?〉  その笑顔には見覚えがあった。すっかり歳を取っているが、温かさには変わりがない。 「ねえちゃん……ねえちゃんなの?」  私は思わず声にした。 「そうよ。憶えてた?」  叔母は私に取り縋《すが》った。 「俺……ずっと会いたかった」  信じられなかった。今の今まで私はねえちゃんが叔母とは思わずにいたのだ。新しい母がくるまで私の面倒を見てくれていた人であった。後で想像して私はねえちゃんを近所から頼んだお手伝いだと決め付けていた。 「ごめん」  私は叔母に頭を下げた。 「俺、なにもかも忘れていたんだ」 「いいのよ。元気でさえいてくれれば」  叔母は泣き顔のまま私に頷いた。 「五つだったものね。忘れるのも無理ないわ。私も良次さんが再婚してからは出入りを遠慮してくれと……くーちゃんは私に懐《なつ》いていたから良次さんも心配だったのね。新しいお母さんに馴染《なじ》まないんじゃないかと。それに再婚と同時に転勤だったでしょ。仙台に移ったらそれきりになっちゃった」  叔母は熱い茶をいれながら笑った。叔母の口調が私の垣根をどんどん取り外して行く。 「母さんの写真はありますか?」 「あるわよ、もちろん」 「見たことがない」 「どうして?」  叔母は私を見詰めた。 「なんとなく親父には言い出しにくくて。親父の遺品を探したけど母さんの写真だけは見当たらなかった」 「そう……焼き捨てたんだわ」  叔母は辛そうに何度も首を振った。 「今はどんな仕事を?」  叔母は振り切るように話を変えた。 「東京の大学で経済学を教えている」 「立派になったのね。姉さんが喜ぶ」 「母さんがこの町の生まれということも知らなかった。ひどい息子だ」 「良次さんの会社に姉は現地採用で入社していたのよ。付き合って半年で結婚」  叔母は写真を探しに立ち上がった。 「肩の傷のことだけど」  私は叔母の背中に声をかけた。叔母はぎくりと足を止めて振り向いた。 「どんな事故だったんだろう。釘で引き裂いたと親父に教えられていたのに、医者の友達が絶対に違うと言い張ってさ」 「………」 「俺はまったく憶えていない」 「私も……よくは知らないの。呼ばれたときには布団が血だらけで」 「すると、やっぱり外の事故じゃないんだ」 「病院に運ぶのが先決だったわ。助からないんじゃないかと思った。姉に聞いても要領を得なかったし……でも」 「でも?」 「あの頃二人はよく喧嘩をしていたから……私も若かったので、それ以上聞けば悪い気がしたのね。夫婦喧嘩が原因だったと思う」 「そのとばっちりを受けたわけだ」 「夜中ですもの。それ以外には考えられない」  佐伯の想像が当たったことになる。それで親父は嘘をついていたのだ。 「なんでそんなに頻繁に喧嘩を?」 「姉のことを良次さんは疑っていたみたい」 「浮気?」  私の言葉に叔母は仕方なく頷いた。 「でも勘違いよ。姉はそう言っていた。私もそう思う。姉はそんな器用な人じゃなかった。むしろ浮気癖があったのは良次さん。自分がそうなので姉のことも疑ったのね。何度も姉は顔を腫《は》らして家に戻ってきたわ」 「分かります」  私は認めた。今のおふくろとの間でもおなじことが繰り返された。ちょっと家を留守にしただけで親父はおふくろの行動を疑った。叩かれている姿を何度も見たものだ。 「くーちゃんのことだって、自分の子供じゃないと……こんなに似ているのに」  辛い話だった。親父はまったくと言っていいほど私の母の話をしなかったので薄々は察していたが、まさかそこまでとは…… 「釣りは相変わらずだったの?」 「釣りって?」 「良次さん。ヒマさえあれば釣りばかり。近所の川はもちろん、わざわざ秋田や千葉の海にまで釣り仲間とでかけて……自分で家を留守にしながら姉さんを疑うなんて身勝手よ」  叔母は暗い目で言った。 「親父が釣り好きだったなんて、信じられないな。家には釣竿一本もなかった」  私は首を傾げた。 「じゃあ姉のことで反省したんだわ。よく止められたものね」 「そんなに上手かったんですか」 「そりゃあ、もう」  なぜ親父は釣りを止めたのだろうか。なんとなく気に懸かった。 「姉さんのお墓はどうする?」 「そのつもりで花を」 「それなら先に行きましょう。直ぐに日が暮れてしまうわ。写真は帰ってからでいいわね。今夜は泊まってくれるんでしょ」 「迷惑じゃなかったら」 「当たり前よ。大事な甥っ子じゃないの」  叔母ははしゃいで外出の支度にかかった。     6  墓は町を見下ろす小高い丘にあった。戸田家と刻まれている古い墓石に吉田信子という名のまま埋葬されている。享年《きようねん》は二十五。本当に若い。二十二で私を生んだ計算になる。  私は母の墓に手を合わせて、この歳になるまでこられなかった詫びをした。残念なのは目を瞑《つむ》っても母の顔がイメージできないことだ。 「姉さん、きっと泣いているわ」  叔母が私に続いて線香を立てた。 「しかし……どうして母がこの墓に?」 「親たちの希望もあったと思うけど、良次さんもその方がいいと言ってくれて。良次さんの家の墓は遠いでしょう。良次さんはまだ当分この町の支店から動かされない様子だったし……身近な場所に埋めたかったのよ」  なるほど、と私も納得した。 「でも、それでくーちゃんとは縁が切れたのね。良次さんの家のお墓に入ってさえいれば、こうして拝んで貰えたのに。あのときはくーちゃんのことより、見知らぬ土地の墓に姉さんを埋めるのは可哀相だと皆が思ったの」 「皆さんは元気なんですか」  と言っても母の実家の家族構成も知らない。 「父は亡くなったけど母は元気一杯。兄の家族と一緒に暮らしている。後で連絡するわ。くーちゃんがきたと知ったら皆が駆け付ける」 「申し訳……ありません」  突然涙が目に溢《あふ》れた。血の繋がった人々がこの町に大勢暮らしていたのである。そして……私のことを案じてくれていたのだ。  私はもう一度拝んで墓を背にした。坂道から町が一望できる。町は燃えるような夕焼けに包まれていた。私の足はすくんだ。  なぜなのか私はこの夕焼けが苦手なのだ。  人は夕焼けを美しいと言うが、私には禍々《まがまが》しいものに感じられる。また昨夜の吐き気が戻りそうになった。私は必死で夕焼けから目を逸らして町並みを眺めた。が、町並みの屋根も真っ赤に燃えている。深呼吸を繰り返す私の視野に大きな建物が入った。  遠目ではあるが、木造の正面玄関にバルコニーが迫《せ》り出しているのが見えた。玄関前にはこんもりとした植え込みがあって、太い松が二本、建物の屋根よりも高く伸びている。 「あれは……県立病院だよね」 「憶えてた?」 「正面玄関は昔のままだ」 「歴史のある病院だから残った部分はそのままに保存しているの」  いかにもちぐはぐな印象だった。玄関を中心にして左右に伸びた二階家は昭和の初期にでも作られたような古さなのに、その後ろにある三階建てのビルは真新しい。その二つの建物を渡り廊下が繋いでいる。 「今は後ろの建物の一階が診察センターになっていて、二階と三階が入院室」 「入院室……」  私の目はビルの方に移った。白いビルは夕焼けを映して、まるで火事のようだった。空が一面に燃えている。雲の流れが噴き上がる煙に感じられた。私の心臓は高鳴りをはじめた。怖い。膝が細かく震える。私は何度も唾を呑み込んだ。どうしたんだろう。 「くーちゃん!」  その場にしゃがみ込んだ私に叔母は声を上げた。私は体を丸めた。脂汗が額にびっしりと噴き出た。私は袖で汗を拭った。見上げた叔母の顔も夕焼けに染まって赤くなっている。私は悲鳴を発した。死んだ母の顔に見えたのだ。母もこうして死んでいった。 「どうしたのよ!」  叔母は私の肩を乱暴に揺さぶった。 「母さんは病気で死んだんじゃないよね?」  私は叔母に確かめた。 「母さんは、なんで死んだんだ?」 「くーちゃん、知らなかったの?」  叔母はゾッとしたように私を見詰めた。 「結核なんかじゃなかったんだろ」 「………」 「この空が怖いんだ。母さんが見てる」 「良次さんは本当に結核だと教えたの?」  叔母は言って後じさりした。 「どうして? どうしてそんな嘘を!」 「母さんはどこで死んだんだよ」 「あの病院に決まってるじゃない。姉さんは火事に遭《あ》って死んだのよ!」  私は病院に目をやった。  激しい炎が病院全体を包んでいた。  逃げ惑う患者の声が耳に響き渡る。入院室の窓にまで炎が回っている。私は泣き続けた。怖い。熱い。体が動かない。ばちばちばちと天井から火花が落ちてくる。  床に横たわっている母さんの顔は真っ赤だ。  不安が私を襲った。窓ガラスが熱のために割れる。廊下を看護婦が患者を背負って走る。その上に炎の固まりが落ちた。絶叫がいつまでも続く。二度三度と爆発音が聞こえた。炎が部屋を明るくした。  父さん、父さんと私は呼び続けた。そこに父さんが現われた。父さんは私を抱き上げると窓から外へ飛び出した。私は父さんにしがみつきながら暗い夜空を明るく照らしている炎を見詰めた。消防車のサイレンがようやく近付いてきた。父さんは私を安全な場所まで運ぶと、また炎を目指して走って行く。  父さん、父さん、置いて行かないで……  私はぼんやりと病院を眺めていた。  一瞬のうちにその記憶が甦ったのである。  病院はなにごともなく夕日を浴びていた。 「思い出したよ……母さんが死んだときのことを……大火事だったね」 「三十六人が亡くなったわ。焼け残ったのは正面玄関のある建物ばかり。入院病棟は全焼。ほとんどは患者さんと付き添いだったけど、何人かの看護婦さんと、お医者さんまで」 「火事の原因は?」 「炊事室のガスが洩れていて……ガスボンベが爆発したので火が早く回ったとか」 「なんの病気で母さんは入院してたの?」 「姉さんじゃない。くーちゃんが怪我をしたので毎日付き添っていたのよ」  私は言葉を失った。ただの古傷だと思っていたのに、その背後には私の人生を変えたものが隠されていたのだ。この怪我さえなければ母が火事に遭遇することはなかったはずである。つまりは私が母を殺したに等しい。 〈それで親父は嘘をつき通したんだ〉  怪我をきちんと説明すれば母の死んだ火事まで話が広がる。私が苦しむと知って、わざと別の話を拵《こしら》えたのに違いない。 「火事のことを何度も夢に見ていたようだ」  私は叔母に言った。記憶としては完全に失われていたが、脳の奥底に刻まれていたのである。夕焼けが嫌いだったのも、無意識に火事を連想したからに他ならない。 「くーちゃんは運が良かったのよ。炊事室とは目と鼻の部屋だった。姉さんが守ったのね」  叔母は優しく私の背中を撫でた。     7  古ぼけたアルバムを届けてくれたのは伯父の長男夫婦だった。私とは一つ違いで従兄に当たる。私の存在は昔から聞かされていたらしい。はじめての出会いだと言うのに私たちは即座に打ち解けた。明日は伯父の家を訪ねて祖母に会うことになっている。いっぺんに親戚が増える戸惑いはなかった。叔母も従兄夫婦も心の優しい人間たちである。これまでの私の環境とはまるで違っている。  私は従兄の冗談に付き合いながらアルバムを捲《めく》っていた。叔母のところには母の写真がそれほど残されていなかったのだ。それで祖母の持っているアルバムを見せて貰うことにしたのだ。このアルバムには母が子供の頃の写真まで収められている。 「なかなかの美人だよな。もともとこの町は美人が多いけどね。これなら親父さんが心配するのも分かる。男が放っちゃおかない」  酒の進んでいる従兄も覗いて言った。今は古いタイプに属するだろうが、確かに愛らしい顔立ちだった。何枚も続けて見ているうちに母の輪郭が次第に明瞭となる。エプロン姿で私を抱いている写真があった。このときの私は母の温もりをしっかりと受け止めていたのだろう。母の笑顔が眩《まぶ》しい。いつも母は笑っている。県立病院の植え込みを囲む石に腰掛けて若い男と肩を並べている写真が目に入った。男は医者のようだった。首に聴診器をぶら下げている。母はつんとすましていた。 「この先生は?」  私が示すと叔母が横から眺めた。叔母は少し慌てた。どうやら想像した通りらしい。 「この人と噂が立ったんだ」  先回りして言うと叔母は頷いた。 「でも、結婚前の付き合いしかなかった」 「じゃあこの人の子供だと疑われたわけ?」  私は苦笑して男の顔を見た。全然私とは似ていない。親父の早とちりだ。 「不思議な縁よね。あの火事でこの先生も死んじゃったわ。たまたま当直だったの」 「それならあの世で夫婦になってるかもな」  従兄の冗談を叔母は笑わなかった。  なにか厭なものを覚えて私はその話を切り上げた。アルバムを無言で捲る。  親父と母の結婚写真がでてきた。親父は得意そうに胸を張っている。そこから先はまた赤ん坊の私と母が中心となる。母の髪を乱暴に引っ張っている私の写真もあった。私は悲しくなった。こんなにたくさんの写真が残っているのに、私にはなに一つ記憶がない。せめて母が五歳の頃まで生きていてくれたら忘れるなんてあり得なかったはずだ。 〈ほう……〉  親父の釣り好きを示す写真が現われた。額に入れた大きな獲物の魚拓を抱えて親父が満面に笑みを浮かべている。周りに肩を並べているのは釣り仲間であろう。母も窮屈そうな顔をして親父の隣りに座っている。 〈ん?……〉  額を支えている親父の右手には短い棒のようなものが握られていた。太鼓のバチにも見えるが、棒の先には黒い鉤が突き出ている。  目を近付けて確かめているうち、肩の傷にじわじわと痛みを感じはじめた。と言うよりも痒《かゆ》みに近い。私は肩を動かした。肩の違和感はなかなか取れない。 「どうかしたか?」  従兄は怪訝《けげん》な顔で質した。 「これ……なんだろう?」 「ああ……魚を海から揚げる鉤よ」  叔母が代わりに言った。 「漁師から貰ったとかで良次さんが自慢してたわ。この鉤で刺して引き揚げるの」  ズキズキと激しい痛みが肩を襲った。  この鉤を振り上げる親父の姿が脳裏にはっきりと浮かんだ。私は思わず肩を縮めた。親父は酔っている。卓袱台《ちやぶだい》を蹴飛ばして母と私に迫った。母は私を抱いて逃げた。怒声を浴びせながら親父は鉤を思い切り振り回した。電球が割れた。真っ暗になった。私は怯えて泣き叫んだ。その声を頼りに親父は突進してきた。親父は暗闇の中で母の腕を掴まえた。母はその腕を払って寝室に飛び込んだ。親父がなおも追ってくる。私は母の肩越しに正面から親父の顔を見ていた。親父は狂っていた。躊躇《ちゆうちよ》なく鉤が振り下ろされた。鉤は母の頭を狙ったものだった。母は体を屈めた。鉤が唸りを上げて私の肩を貫いた。鉤は骨を砕き、肉を切り裂いた。夥《おびただ》しい血が飛び散った。  私は両手で顔を覆った。  信じたくない。信じたくない。 「なにがあったんだ!」  従兄は私の豹変《ひようへん》に怯えていた。 「親父は……俺まで殺そうとしたんだ」 「………」 「けど……それならどうして病院では俺を助けた? あんなに俺を憎んでいたくせに」  私は皆の居るのも忘れて泣いた。 「病院で良次さんが助けた?」 「だよ。親父が俺を外に連れ出してくれた」 「まさか。あの夜、良次さんは居なかった」 「本当なんだ。ちゃんと憶えてる」 「良次さんは秋田に夜釣りに行っていたのよ。戻ったのは次の日の朝だった。くーちゃんの勘違いよ。別の人に助けられたの」 「だれに?」 「それは……分からない。でもそうなのよ。あなたはまだ怪我で歩けなかったんですもの」 「違う! 父さんだった。母さんと話をしていた。そこに……そこに白い服の人がきて」  ざわざわと背筋を寒気が伝った。  ありありとあの夜のことが目に浮かんだ。  私の顔は恐怖に満たされていたに違いない。  親父はこの日のくるのを待っていたのだ。母が付き添いと知っているからには必ずあの医者がくると予測していたのだ。  そしてその通りとなった。親父は先に殺した母の死体を片隅に隠して医者を待ち構えた。なにも知らずに医者が現われた。親父は背後から首に釣糸を巻き付けて力を弱めてから、ゆっくりと殺した。次に炊事室に忍び込んでガスの栓を開けた。充満した頃を見計らって親父は釣糸の先の擬似餌に火をつけ、竿を操って炊事室の近くまで飛ばしたのである。  激しい爆発が起きた。  親父は私を置き去りにしたまま外へ逃れた。  後は前に思い出した通りだ。  親父が戻って私を助けた理由は分からない。さすがに不憫《ふびん》だと思ったのだろうか。  そもそも、すべては親父の妄想ではなかったか。  母と医者が話しているのを私は何度も病室で見ている。二人はそういう関係ではなかったように思われる。今にして思えば、若い医者に顎で命じられる薬のセールスマンという立場が、妄想をさらに膨らませたのに違いない。  それ以来、親父が釣りをしなくなったのも当然であろう。釣竿を振るたびに火事の記憶がまざまざと甦る。  親父は殺人者であった。  私は底知れない穴に落ちた気分だった。  目を瞑ると、暗い廊下で親父が竿を操っている姿が見える。親父は満足そうな笑いを浮かべていた。あの顔にだけは似たくない。  私は思いとどまることにした。  たかが不倫ではないか。  妻の好きにさせるしかない。  離婚に応じてやれば済むことだ。  恥と感じるのは少しの間に過ぎない。  殺せば私も親父とおなじ顔になる。  この町にきたのは偶然でないような気がした。母が私に殺意を思いとどまらせるために仕組んだことではないのだろうか。  母の笑顔が私を温かくする。  肩の痛みはいつしか消えていた。  熱 い 記 憶     1  本当に小さな家だった。外から眺めた感じでは六畳間が二つに三畳の台所があるという程度だろう。平屋の青いトタン屋根にはあちこち錆《さび》が浮いている。相当に古い。建てて二十年は経っているに違いない。玄関ドアの化粧板は四隅が捲《めく》れ上がって、風雨のためか艶も失われている。玄関の前に可愛い鉢植えが並べられていなければ、だれだって廃屋と見誤るに違いない。私は土手の上から見下ろして溜め息を吐《つ》いた。このまま帰ってしまう方がいいのではないか? しかし、ここまで来ながら引き返すわけにはいかない。何ヵ月もかけてようやく辿り着いた場所だった。なにが待ち構えていようと、ここを乗り越えなければ、いつまでも心にしこりが残る。  留守のようだった。  それに勇気づけられて私は土手の斜面を下りた。おなじ作りの家が六棟ほど並んでいる。市営の住宅と聞いて来たが、そのうち半分は空き家になっていた。当然だろう。町の中心から離れている上にこれだけ老朽化が進んでいれば新たな入り手は居ないはずだ。  私は家の前に立った。遠目にはさほどでもなかったけれど壁のペンキの剥落も酷《ひど》い。板のあちこちが腐っている。暮らしぶりを頭に描いて涙が零《こぼ》れそうになった。こんな生活に私は耐えられるだろうか? 若い頃ならともかく、五十になった私では無理だ。  私は裏手に回った。トマトと胡瓜の植えられている猫の額ほどの畑があった。やはり想像は当たっていた。狭い二間だけの家だ。丈の詰まったカーテンの下から部屋の中を覗くことができる。私は窓に近付いて腰を屈めた。小綺麗な暮らしぶりだった。と言うより大きな家具がほとんどないのである。それでさっぱりとした印象を受けるだけだ。小型のテレビの前には時代遅れのデコラ張りの円テーブルが置かれている。部屋の隅にはこれも古臭いファンシーケースが見られた。茶色に日焼けした畳は波打っていた。床が傾《かし》いでいるのだろう。私は隣りの部屋を覗いた。こちらは寝室らしかった。安物のタンスと鏡台が並んでいる。鏡台の脇の薄汚れた壁にはカレンダーを切り取ったと思われる絵が貼られている。私は窓ガラスに額を押し付けて絵柄を確かめた。心臓がざわざわと騒いだ。フラ・アンジェリコの『受胎告知』に間違いなかった。マリアの許に天使が舞い降りて来てキリストの受胎を伝えている場面を描いた作品である。マリアは心静かに受け入れているが、その顔には深い喜びが秘められている。私の好きな作品であった。ボッティチェリやラファエロの描く女性たちの完璧な美しさに較べれば確かに硬質で素朴な印象を受ける。けれど画面を一杯に満たしている幸福感に私は魅せられていた。趣味で私は地元のアマチュア劇団を支援しているが、いつかこの『受胎告知』をモチーフとした芝居を書きたいとさえ思っているほどなのである。その絵がここに飾られているのは偶然ではない。やはり私はこの家に住む女と深く関わっていたのだろう。確信できたと同時に悲しかった。私はなに一つ記憶していないのだ。今日この町に来てみるまでは、この町の存在すら私の記憶から欠落していたのである。  私はあらためて部屋を覗き見た。あまりにも貧しい暮らしだ。切抜きの『受胎告知』が反対に輝いて見える。紙切れに印刷した絵よりも豊かなものはどこにも見当たらない。いったいどんな女なのだろう? いや、だいたいは想像がつく。私の経営する病院にもそういう女が何人か入院している。夫と死に別れて子供もなく一人暮らしの女たちだ。生活保護を受けながら掃除婦などのパートをしてその日その日を凌いでいるうちに体を壊して運ばれて来る。極端に痩せているか、不健康にむくんでいるかのどちらかで例外はない。美しい未亡人なら男たちが放って置かない。  会うべきではないかも知れない。  私は窓から離れた。  そんな女と会って昔のことを思い出したところで無意味ではないか。  だが──  切抜きの『受胎告知』が私を必死に引き止めていた。なぜ『受胎告知』がこの家に飾られているのか。その答だけは知りたい。  私はこの町のことを思い出すきっかけとなったあの日の朝を脳裏に浮かべていた。     2  私は一瞬にして奈落へ落ち込んで行った。暗い闇の中をどこまでも落ちる。もがいても無駄だった。深い井戸なのかも知れない。頭上には丸い空が見えた。それがどんどん遠ざかって行く。悲鳴を発して助けを求めた。周りから白くて細い腕が何十本となく差し出された。私はその一本に掴まった。が、落ちる勢いは止まらない。腕はゴムのように伸びた。私は絶叫した。このままでは底に叩きつけられる。助かるわけがない。どん! と激しい衝撃が襲った。心臓が止まりそうだった。  私は、目覚めた。  片足がベッドから外れて固い床を叩いていた。私は慌《あわ》てて半身を起こした。まだ動悸は鎮まらない。たかだか二十センチの高さでしかないのに……これでベッドから転げ落ちていたらどんな夢になっていたのだろう。 「どうしたのよ」  隣りのベッドに寝ている由香里がうるさそうに目を開けて訊ねた。まだ六時前だった。 「だれかがフライパンで殴った」  私は頭頂部を指で探りながら応じた。 「なに、それ」 「思い切り殴られた。それでびっくりしてベッドから落ちた」  いきなり目覚めたせいで夢の展開を上手く伝えることができない。もっとも、由香里にはどうせ興味のないことだろう。 「変な女と付き合っているんじゃないの。家にまで持ち込まないでちょうだい」  そう言って由香里は背中を向けた。 「喫茶店で働いたことは……ないよな」  私はなにかの間違いと知りながら質《ただ》した。 「エデンって店だが」 「なに言ってるのよ」  由香里は苛立った声で振り向いた。 「夢を見たんだ。俺とおまえがそこで働いている夢だ。どの顔にも見覚えがあった」 「喫茶店なんかでアルバイトしたことはありません。そんなに貧しくないわよ」  由香里はふんと鼻で嘲笑った。そうだろうと私も頷《うなず》いた。どう考えても有り得ない。由香里の実家は町でも有数の資産家で、広い屋敷には三人のお手伝いまで居る。私にしてもそうだった。三代続く医者の家系で生活に困ったことは一度もない。ただの夢に違いないのだが……それにしてもあまりにもリアルだった。それで気になったのである。若い頃としたなら、もう三十年も前のことだ。ひょっとして気紛れから友人の家の仕事でも手伝ったことがあったのではないかと思ったのだ。 「岡崎を知ってるだろ。岡崎亮二」 「知らないわ、そんな人」 「高校の同級生だ。知ってるはずだがな」 「その人がどうかして?」 「岡崎も一緒だった……そうか、知らないか」  私は呆れている由香里に頷くと布団に潜った。目を瞑《つむ》って夢を思い浮かべる。幸福感がじわじわと甦って来た。そういう青春を送りたかったという私の願望が夢となって現われたのかも知れない。由香里は若く溌剌《はつらつ》として働いていた。水色のエプロンがよく似合っている。エデンはマンモス喫茶でウェイトレスが十五人も居る。中でも由香里が断然に輝いていた。客たちの視線が由香里に注がれている。それを横目にしつつ私は厨房でコーヒーやナポリタンを拵《こしら》えている。得意の反面、客たちの由香里への無遠慮な視線に腹が立つ。岡崎は私の心を察して笑顔を見せた。今日は三人が揃っての早番だから『バーバレラ』でも見て軽く飲んで帰らないか、と岡崎は誘った。そう言えばあれに出ているジェーン・フォンダって彼女にそっくりだな、と付け足した。ようやく気が付いたか、と私は思った。  私は食卓に原稿用紙を展《ひろ》げて小説を書いている。これも私が果たせなかった夢だ。あんなに望んでいたのに、今は小説さえ滅多に読まなくなった。私は夢を反芻《はんすう》した。空腹に耐えながら書き進めていると由香里が戻ってきた。由香里は稲荷と海苔巻の折詰を提げて振った。帰る途中で寿司屋に寄って作って貰ったのだ。私はさっそくお茶をいれた。由香里が買ったミッキーマウスの夫婦湯呑だ。どんな調子? 由香里は原稿を覗いていた。ちょうどそこは由香里と私とのセックスを描写した部分だった。実際よりだいぶ大胆に表現してある。ばーか、と由香里は私に抱きついて来た。私たちは乱暴に互いの服を剥ぎ取った。由香里の乳房を吸う。乳首をきつく噛んだ。  どくんどくんと珍しく勃起を覚えた。  私は背を向けて寝ている由香里に目を動かした。そんな熱い青春が本当にあればよかった、と寂しい思いにとらわれた。由香里を知ったのは私が二十七のときだった。由香里も二十四。当時としては決して若い出会いではない。半分は見合いに近いものだった。由香里を愛したことに嘘はない。それでも互いに大人という意識があった。むさぼるように体を求め合ったのは何度かの海外旅行のときだけだった。見知らぬ国に居るという興奮と心細さがそうさせたに過ぎない。  冷たく拒んでいるような由香里の背中を見ていたら勃起が治まった。  私は布団の中で身を縮めて夢を思った、こうすればなぜか夢がありありと思い出される。  私は駅ビルの地下にある書店で雑誌を手にしていた。勇気を振り絞ってようやく決心したのである。目次を捲るのさえ怖い。新人賞の三次選考の結果がやはり掲載されていた。震える指で探した。見開きに多数の作品名と応募者の名前が連なっている。応募総数は四百二十とあった。掲載されているのは一次選考を通過した百四十編。その中で太字になっているのが二次選考に残った六十編だと説明されている。さらに三次選考へ進んだ二十三編には頭に丸印がつけられている。息をゆっくり吐いて気持を整えると誌面をざっと目でなぞった。あった、と思ったが二次止まりの結果だった。太字だが丸印が見当たらない。慌てて私は雑誌を閉じた。かあっと体が熱くなった。心臓の高鳴りが激しさを増す。複雑な思いだった。見間違いとも考えられる。私はもう一度その頁を開いた。紛れもない事実と分かって私の膝はかたかた震えはじめた。どう受け止めていいのか分からない。はじめての応募である。二次まで通過したと素直に喜べばいいのか、三次に残れなかったことを恥とすべきか。私の目は私の名前に釘付けとなっている。由香里になんと言い訳したらいいか、次に私はそれで悩んだ。しかし、いつまでも内緒にしてはいられない。由香里はいい結果を信じているのだ。いずれ問い詰められるに違いない。私は雑誌を購入して通りに出た。この新人賞のむずかしさは教えてある。文学と無縁な由香里なら四百二十のうちの六十に残ったことを素直に喜んでくれるかも知れない。第一、何番目で三次に進めなかったのか、これでは分からない。もしかしたら二十四番目で落ちた可能性もあるのだ。だとすれば凄いことではないか。次回の新人賞の締切りは間近に迫っている。箸にも棒にもかからないものではないことがこれで証明された。頑張れば必ず道が見えて来る。いい方にだけ私は考えた。由香里だってきっと分かってくれる。エデンに顔を出して真っ先に伝えようかと思ったが私の足はパチンコ店に向いた。今日は雑誌の発売日と知っていたので由香里には頭痛がすると言って店を休んだのだ。アパートに戻って来てから謝る方がいい。由香里は絶対に許してくれる。由香里も私のために一生を捨てたのだ。二人で力を合わせていくしかない。  そのときだった──  フライパンのようなもので顔をがつんとやられたのは。私は思い出して苦笑した。  入試の夢を何度となく見るようなものだ、と私は得心した。私は一度として新人賞に応募した経験がない。応募原稿を書いたことはあるけれど、いつも土壇場で恐怖に襲われて投稿を断念した。もし簡単に落選すれば小説への自信を失う。それが怖かったのだ。同人雑誌で仲間たちから常に褒《ほ》められていたのが禍いとなっていた。心底からの賛辞だったら自惚《うぬぼ》れて新人賞にも応募しただろう。だが、私はどこかで疑っていた。同人雑誌を発行する経費の半分を私が負担していたせいだった。もちろん親に頼んで小遣いを貰っていたのだ。私が脱ければ同人雑誌の発行はむずかしくなる。それで仲間たちは私の作品に対して褒め言葉を連ねていたのではなかったか? それを承知の上で、それでも同人雑誌を続けたのは、私自身が自分の才能を信じていたために他ならない。信じていなければ、そもそも同人雑誌など作らない。私の自信は危うい均衡の上に立っていた。力を証明するのに新人賞への応募が一番である。それで書きはじめるのだが、いざとなると躊躇が生じる。落ちたと知れば追従《ついしよう》を言っていた仲間たちは嘲笑《あざわら》うに違いない。そうなればもう一緒に雑誌を作ることができなくなる。私にとって大事なものを失う結果となるのだ。  それが心の根深いところに後悔として残っている。試したかった気持と無能を突き付けられたくなかった気持がないまぜとなって心に渦巻いている。だから新人賞に応募した夢など見るのである。  どうして思い切って応募できなかったのかと私は自らを責めていた。なぜ失敗を恐れずに自分の好きな道を選べなかったのだろう。医者が詰まらない道だとは言わないが、私は詰まらない大人になっている。考えることの多くは税金のこととかクラブをやらせている女のことばかりだ。アマチュア劇団の支援をしているのもただの暇潰しに過ぎない。由香里はその劇団員の一人と私との仲を疑っているらしいが、弁解も面倒なので放置している。由香里に知られていない女関係は別に珍しくもない。好きな女にクラブを任せていることを聞き付けた女たちが自分から近付いて来るのだ。私も馬鹿だが女たちもおなじだ。  私は死んでいる。惰性で生きているに過ぎない。不意に悟って涙が溢《あふ》れた。私は天井を見上げながら泣き続けた。  どこから私はこんな人間になってしまったのだろう。私は本当に死んでいるのだ。     3  夢は直ぐに忘れてしまうものなのに、その夢ばかりはいつまでも鮮明に私の中に刻まれていた。しっかりと一度反芻したせいに違いない。もはや記憶に近いものにまでなりつつある。仕事の合間や眠りに就《つ》く前に私は必ずあの夢を考えるようになった。夢の中に暮らす私と由香里はいつもなにかに立ち向かっている。薄暗い電球の下で私は必死に鉛筆を走らせている。由香里は夜を徹して医院から頼まれた保険請求の点数計算をしていた。夜明けを待って私たちは朝の町を散歩する。清々しい空気だ。私は由香里に思い付いたばかりのストーリーを話す。由香里はいちいちそれに頷く。長い髪が風にそよぐ。幸福だ。貧しいけれど二人なら気にもならない。私たちは未来を信じていた。  不思議なのはその夢がどんどん広がっていくことだった。  まるで思い出すように由香里との暮らしが頭に浮かんで来る。しかも時間が経つほどに鮮明さが増していく。考え続けているせいばかりとは思えなくなって来た。なんだか本当にあの暮らしが私にあったような気がしてならない。と同時に有り得ないことも分かっている。由香里に保険請求の点数計算などできるはずがなかった。  なのにその疑念が増大したのは五年ごとに開かれるクラス会の席上だった。欠席するつもりでいたのだが、もしかしたら岡崎の消息が掴めるのではないかと気付いて私は出掛けた。夢の中には岡崎がしばしば登場する。それも奇妙なことの一つだった。高校の同級生には違いないが、さほど当時は親しい関係でもなかったのである。 「死んだんじゃないのか」  何人かがおなじ返事をした。だが、いつ、と訊くと要領を得ない。岡崎の家族は二十年も前にこの町から引っ越してしまったらしい。それで岡崎も仲間と疎遠になってしまったのだ。死んだとは限らない。 「いや、葬式に出たよ」  耳にして一人が口を挟んだ。 「と言っても岡崎を見たわけじゃないけど」  どういう意味だ、と私は質した。 「あいつ行方不明だったんだよ。そのまま何年か過ぎると法律的には死亡と見做《みな》される。それで葬式をしたんじゃなかったかな」  なるほど、と皆は納得した。 「家族の話じゃ東北のどこかに暮らしていたそうだが、それきり姿を消したとか」 「なんで東北なんかに行ったんだ?」  静岡とはだいぶ離れている。 「転勤だと聞いた。あいつコーヒー豆の輸入代理店に就職したんだ。それで各地を転々として喫茶店の開業なんかの世話をしていたらしい。世話ったって二十歳そこそこだから下働きみたいなもんだったろうけど」  私の両腕には鳥肌が立っていた。 「東北のどこか覚えてないか?」 「さあ……青森か岩手のどっちかだな。北の果てだと思った記憶がある」  岩手と聞いて思わず悲鳴を上げそうになった。そこは私にとって不可解の極みとも言うべき場所であった。私は体の震えを皆に見透かされまいと必死で堪《こら》えた。 〈夢ではない……夢とは違う〉  絶対に岡崎のことは偶然ではないはずだ。私は岩手のどこかで岡崎に会っているのだ。  だが、そうなると由香里のことが分からなくなる。私が由香里と出会ったのは間違いなくその後のことである。頭がきりきりと痛んだ。こうなっては調べずにはいられない。  しかし、どんな方法があるのか見当もつかなかった。     4  東京での学会に参加したのは、それからおよそ半月後のことだった。延べ三日間の日程のうち私は間の一日をさぼって国会図書館に足を運んだ。ここには古い雑誌もたいてい保存されていると知っていたからだ。貸し出しカウンターで問い合わせると、いとも簡単に相手は頷いた。その雑誌なら創刊号から完全に揃っていると言う。私は自分が二十一歳だったときの年を逆算して、その年の三月号から八月号までを見せて貰うことにした。あの暮らしが事実としたなら、証拠がその雑誌のどれかに必ず残されているはずである。私は逸《はや》る思いで雑誌を受け取って閲覧室に急いだ。雑誌の表紙はどれも懐かしかった。といってそれでは証拠にもならない。私は三月号から目次を探した。見当たらない。四月号にもなかった。五月号を手にしたとき指が震えた。おなじ本を万感の思いで手にした、と指や目がちゃんと知っている。心を落ち着かせて目次を展いた。新人賞の三次選考の結果を伝える頁が目次の端に記載されていた。予測はしていたものの額に汗が噴き出た。  私は深く息を吐いて該当頁を捲った。  応募総数四百二十編、と大きく記されていた。もう間違いなかった。私は丹念に私の名前を探した。心臓が破れそうなほど苦しい。 〈あった……〉  ついに私は見付けた。 『熱いよ、亜津子』というタイトルの下に私が若い頃用いていたペンネームが印刷されている。その下にかっこで括《くく》られた居住地が示されている。盛岡市、となっていた。  たった一行を見ただけで私の中に封じ込められていた記憶が噴流となって甦った。  そうだ。私は盛岡に暮らしていたのだ。あの愛していた亜津子と一緒に。  私は椅子から立ち上がった。  頭を掻《か》きむしった。なぜあんなに大事な暮らしを私は忘れてしまっていたのか。気が狂いそうだった。私は亜津子をそのまま盛岡に置き去りにしてしまったと言うのか?  待て待て、そうとは断言できない。  亜津子というのは小説のタイトルに用いただけに過ぎないかも知れなかった。熱いという言葉に重ねて女の名前を亜津子にしたとも考えられる。現に私は亜津子という女の顔を思い出せないでいる。そもそも、そんなに愛していた相手なら置き去りにするなど有り得ない。私はまた記憶に自信を失った。 〈どうすればいいんだ?〉  私は自分に問い質した。 〈盛岡に行くしかない〉  直ぐに答が見付かった。私が新人賞に応募した土地が盛岡であることだけはまぎれもない事実なのだ。岡崎ともそれで繋がる。夢が夢でないとすればエデンという喫茶店も探せるに違いない。私は雑誌を戻して図書館のロビーから病院に連絡を入れた。由香里はアートフラワーの仲間を誘って京都旅行に出ている。私は帰りが少し遅れるかも知れないと事務長に伝えた。行き先はわざと教えなかった。     5  そうして私は盛岡までやって来た。  新幹線の中での不安は駅前に立つなり消え去った。建物に見覚えはないけれど、町の雰囲気は残されている。それが私の記憶と確かに重なっているのだ。駅前からは広い道が市内に向かって伸びている。直ぐ先にはアーチ型の大きな橋が架かっていた。そこを渡れば放射線状に何本かの道に広がることも私には分かった。疑いはなかった。私は家出して岩手の三陸海岸で発見されるまでの八ヵ月をこの町で暮らしていたに違いない。私にはこの駅前に立つまで、その間の記憶が完全に失われていたのである。なぜ静岡から遠く隔たった三陸海岸に私が居たのかもこれまで不明であった。海に溺れたせいで記憶を失ったらしいことだけは理解できたものの、それ以上となるとどうしても思い出せなかったのだ。そのくせ家出する前のことは憶えている。それで父親が岩手まで迎えに来てくれた。以来、私の家でその八ヵ月間のことはタブーとなった。思い出そうとすれば頭が痛くなるし、両親もあえて聞き出そうとはしなかった。両親は私が真面目に医学部の受験に取り組みはじめたことで満足していた。私はその時点で三浪していた。家出の原因もそこにあった。親や祖父母の期待を無視できずに医大への進学を目指していただけの私にとって医学部の競争率の高さはきつかった。このまま永久に入学できないのではないかという不安にしょっちゅう襲われていた。それなら勉強をすればいいのだが、小説を書く楽しみを捨てることができなかった。そんなときに帰郷していた岡崎とばったり出会った。  そうだ。そうなのだ。  岡崎は盛岡の大きな喫茶店に出向して経営の指導をしている、と得意そうに話した。岩手の盛岡はとてつもなく遠い町に思えた。そこまで逃れれば新しい人生に踏み込むことができる。岡崎の紹介があればそこの店に勤めることもできるだろう。家出のことはだいぶ前から考えていた。問題は勤め先だった。家出した人間を気軽に雇ってくれるところは少ない。せいぜいパチンコ店かキャバレーだ。それを思って逡巡していたのである。岡崎は私の相談に頷いて、いつでも来いと言ってくれた。私はそれで決心を固めた。やはり岡崎が深く関わっていたのである。 〈エデンは町の真ん中にあった〉  私はタクシーを使わずに歩いた。その方が記憶も甦るに違いない。橋を渡った私の足は自然に大通りに向けられていた。やがて私はエデンを探し当てた。建物はそのままだった。だが、今は営業していなかった。一階が別の店舗になっていて二階と三階は閉鎖されている。位置と道路に面したステンドグラスでエデンだと分かったのだ。ここに来て私は途方に暮れた。これでは行き止まりだ。  私は周辺を見渡した。少し離れた場所に小さなラーメン屋がある。店の名を眺めて胸がぎゅっと締め付けられた。覚えている名だった。何度も通った記憶がある。私は駆け足で店を目指した。のれんを潜ると私と同世代の店主が笑顔で迎えてくれた。 「あれ……お客さん、どこかでお会いしたことがないですか?」  カウンターに腰掛けた私の顔を店主はまじまじと見詰めた。私の方にも見覚えがあった。 「若い頃によくこの店にやって来た。その頃、エデンで働いていてね」  私は店を見回した。まったく違う内装だが狭さとカウンターの位置は変わらない。 「ちょっと待ってよ……エデンっていうと、もしかして岡さんと一緒だった道也さん?」  店主は私のペンネームを口にした。盛岡で私はその名前を用いていたことを思い出した。  私が頷くと店主は呆れた顔をした。 「俺だよ、俺。頭すっかり禿げちまったけど」  店主は懐かしそうに手を差し出した。この店の息子だった。カーマニアで、よく彼の車に乗って遊びに出掛けたものだった。 「驚いたな。悪いけど死んだと思ってた」 「………」 「それなら岡さんも元気ってこと?」 「さあ……知らない。むしろこっちが聞きたい。それで盛岡まで探しに来たんだ」 「だって……一緒に行方不明になったんだぜ」 「俺と岡崎が?」 「そう聞かされたよ。三陸海岸でボート漕いでて高波にさらわれたってさ」 「そうなのか」 「そうなのかってことはないだろうに」  店主は陽気な笑い声を上げた。私は記憶を失ったらしいと正直に告げた。店主は笑いを引っ込めて真面目な顔で何度も頷いた。 「すると……亜津子ちゃんともそれきりか」  店主の言葉に私は青ざめた。 「まさか亜津子ちゃんのことまで忘れたなんて言うなよ。それじゃ可哀相過ぎる」 「亜津子という人の消息を?」 「マジかい? 信じられねえな」  店主は嘆息した。私も同様だった。 「顔も思い出せない。申し訳ない」 「俺に謝られたって困るよ。もっとも、エデンが潰《つぶ》れて十五年にもなる。そのときまで亜津子ちゃん働いていたけど……今はどうしてるかな。仙北町の市営住宅に暮らしてたはずだが、もう引っ越してるかも知れん」  私は詳しい場所を問い質した。     6 〈帰るしかない〉  私は土手から立ち上がった。ここに来て一時間が過ぎていた。こうして座っているうちに私は新たな記憶を頭の奥深くから引き出していた。岡崎についてのことだった。岡崎は高波にさらわれて行方不明になったのではないのだ。私が……殺したのである。  理由までははっきり思い出せないが、それは確かだった。私は岡崎の隙を見透かしてボートのオールで頭をかち割った。その死骸を海に捨てて私も飛び込んだ。海岸からさほど離れていなかったのに私は泳ぎつけなかった。そして溺れたのだ。  もう亜津子という女に会う必要はなかった。  これ以上、なにも思い出したくない。重荷となるばかりである。  立ち去ろうとした私の目があの家に引き寄せられた。明りが点《とも》されていた。裏口から戻ったのだろう。窓の中には淡い人影が認められた。私はふらふらと土手を降りた。  あの家には亜津子が待っている。  影をじっと見詰めているうちに亜津子の顔がはっきりと浮かんで来た。瞳のクリッとした少年のような女の子だった。亜津子は私の父の病院に勤めていたのである。亜津子に私は恋をした。しかし、浪人生ではどうにもならない。それに両親が亜津子との仲を許してくれるはずがなかった。家出ではない。私は亜津子と駆け落ちしたのだ。  亜津子、許してくれ。  君の人生を狂わせたのは私の方だ。それなのに私は君のことを疑っていた。  新人賞の発表の雑誌を手にしてパチンコ店に入ろうとした私は岡崎と亜津子の姿を道の反対側に見付けた。私はなにか不審を覚えて二人の後を追った。二人は肩を寄せ合うようにして産婦人科の中に消えた。私の疑いは確実なものとなった。やはり亜津子は岡崎とできていたのだ。私は逆上して雑誌を破り捨てた。こんなに頑張っているのに。こんなに貧しい暮らしに耐えているのに。こんなに亜津子のことを思っているのに。私の怒りは、親切ごかしに私たちのアパートに出入りする岡崎に向けられた。あいつさえ私の前に現われなければ、盛岡に来ることもなかったのだ。  でも、それは私の妄想だったんだね。  死ぬ前に岡崎は私に言った。  病院に行ったのは私の子供を中絶するためだったことを。君は私の負担にならないように必死だったのだ。それで岡崎に打ち明けて病院への同行を頼んだのだ。岡崎も君のことが好きだった。だから私の怒りを直ぐ察して、あれは誤解なのだと言い張った。だが私はオールを振り下ろす腕を止めなかった。なぜなのか私には分からない。いや、分かる。私には自分が我慢できなかったのだ。自分の才能を疑い、君の愛情を疑い、岡崎の真意を疑い、絶望していた。もう後戻りができないほど私の心は醜くなっていた。私自身を葬ってしまいたかったのかも知れない。そんなときでさえ私は一人で行けなかった。岡崎は私の道連れなのだ。あれで私も死んでしまえば問題はなかった。盛岡に戻って君を殺そうとしたことが逆に禍いとなった。私は記憶を失って生き延びてしまったのだ。  亜津子、君を捨てたのではない。  それだけは分かって欲しい。  私の一生のうちで本当に愛したのは亜津子一人なのだ。本当だよ。  私は泣きながら亜津子の待つ家に向かった。  私は薄暗い玄関に入った。奥の部屋に亜津子が待っていた。なぜ私の来ることを亜津子が知っているのか分からなかった。私は亜津子を真っ直ぐ見詰めた。  亜津子は昔のままだった。  私をしっかりと見据えて微笑んだ。子供のような笑顔が甦る。亜津子の足元には私の原稿が散らばっていた。新人賞に応募したものであった。『熱いよ、亜津子』のタイトルが輝いて見えた。私は一枚を拾って眺めた。 「お帰りなさい」  亜津子は私に白い腕を差し出した。  私はきつく亜津子を抱き締めた。 「別の世界であなたの赤ちゃんが待っているわ。私もだから寂しくはないの」  亜津子は私の頭を優しく撫でた。 「俺も直ぐに行くよ。こうして亜津子をやっと探し当てたんだ」  私は亜津子に約束した。  その瞬間、私は草むらの中に立っていた。  私の足元には色褪せた『受胎告知』の切抜きがあった。私はそれを拾い上げた。亜津子がずうっと大事にしていたものである。  私は幸福な気持に満たされていた。  私にも熱い時代があったのだ。それが分かればもう悔いはない。亜津子との暮らしがまた待っている。  匂いの記憶     1  森田の小父さんが亡くなったという知らせをくれたのは中学時代の仲間の一人の坂本だった。森田|芳竹《ほうちく》と画号を言われたせいで、最初はピンとこなかった。それがあの森田の小父さんのことだと分かって頷《うなず》いたものの、次に襲ってきたのは、まだ元気でいたのかという戸惑いだった。いったい何歳になるのだろう? 私の思いを察したように坂本は八十四歳だったと付け足した。  であろう。私が森田の小父さんの家に出入りしていたのは五、六歳の頃だ。もう四十年も昔の話になる。その当時、小父さんは結婚適齢期を迎えた娘さんと二人暮らしだった。四十をいくつか過ぎていたはずである。 「もしもし」  私が無言でいると坂本が続けた。 「葬式は四日後だ。東京の新聞には載らないと思って電話したんだが……それほどの関わりじゃなかったみたいだな」 「子供の頃に遊びに行ってただけで、それきり一度も会っていない」 「なんだ。先生の勝手な思い込みか」  坂本は失望した口調になった。 「思い込みって?」 「ときどき先生があんたの名前を口にしていたんだ。可愛がってた教え子だって」 「………」 「妙だと思ってたよ。俺は先生と十年近い付き合いだったが、つい最近までそんな話を聞いたことがなかった。先生、近頃ボケが進んでたからな。けど、俺があんたと同級生だったと教えたら、やたらと懐かしそうにしてさ。あんたのおふくろさんのこととか、住んでた家のことを詳しく話すんで信じた。それで知らせた方がいいだろうと思ったんだがね」 「いや、嘘じゃない。まあ……弟子には違いない。幼稚園の頃本当に絵を習っていた」 「幼稚園?」 「今思うと、情操教育のつもりだったんだろう。おふくろの命令で毎日のように通わされていた。全然モノにはならなかったけど」 「先生からなにを習ったんだ?」  坂本は不思議がった。 「幸福を招《よ》ぶ朱竹画《しゆちくが》さ」 「朱竹画って……マジかよ」  坂本は声を上げて笑った。正月などに床の間に飾る縁起物の絵である。朱一色だけを用いて竹を描くものだ。 「そんなのを幼稚園の子供が?」 「森田の小父さんは名人だったんだ」 「それは知ってるけど……あんたのおふくろさんも相当な変わり者だぜ。ガキに朱竹画を勉強させてどうする気だったのかね」 「別に……たまたま森田の小父さんがそういう人なんで習わせただけだ。あれが英語の先生なら英会話だったに違いない」 「モノになっていりゃ、ひょっとして今頃朱竹画の画伯ってことになってたのか?」  坂本は笑いながら重ねた。 「役者とは大違いだな」 「似たようなものだろう。テレビなんて絵に描いた餅みたいなもんさ」  私は苦笑しつつ応じた。この世界で二十年以上も生きていると、ただの仕事に過ぎない。 「とにかく、分かった。あんたから花輪でも貰えば俺も恰好がつくと思ったが、その程度の知り合いじゃ申し訳ない」 「森田の小父さんと十年来の付き合いってのはどういうことだい?」 「先生は県の芸術文化協会の名誉顧問をずうっと務めていた。地盤をそんなに当てにできない県議にとっちゃ大事な人なんだよ。協会の推薦を受ければ選挙が楽になる。それでなにかとお宅に押し掛けていた。住んでる町内も近い。その関係で葬儀委員長を買ってでた。お世話になった先生だからな」 「じゃあ、町に戻って来てたんだ」 「先生はずっとこっちだ」  それを聞いて私の心が動いた。もう何年も生まれ故郷に戻っていない。 「日取りはいつだって?」 「四日後。火葬は明日の昼」 「葬式は無理だが、火葬になら行ける」 「来るって……明日だぞ。冗談だろ」  坂本はびっくりしたように訊き返した。 「仕事の方は明後日の夜に間に合えばいい。これもなにかの縁だろう。行くよ。ひさしぶりに皆の顔も見たいし……」 「だったらホテルはこっちで手配する。時間が分かったら駅までだれかを迎えにやる」  坂本は急に張り切った。 「皆が驚くぞ。あんたが顔をだしてくれりゃ最高だ。やっぱり電話をしてみるもんだな」 「家族は? 確か娘さんが居たはずだけど」 「だいぶ前に亡くなったと聞いている。孫の洋平君てのが喪主だ」  その返事にあらためて四十年の歳月を覚えた。第一、小父さんの顔さえほとんど思い出せない。火葬に参列したところで無意味だという気持にとらわれたが、坂本のはしゃいだ声を聞いているといまさらの取り消しはできなくなった。それに役者の悲しい性《さが》もある。これまで冠婚葬祭はなるべく外さないようにしてやってきた。さほど関わりのない人間の葬式にどれだけ顔をだしたことか。それに較べれば遥かに身近な相手と言える。 〈故郷か……〉  坂本の電話を切ると私はしばし感慨にふけった。中学二年のときに東京へ移ったので十四歳までしか暮らしていない町だが、私にとって一番大事な場所である。転校した東京の連中とはあまり馴染《なじ》めなかった。東北生まれということで、どこか馬鹿にされているのを敏感に感じたせいだ。いじめというほどではなかったが、いつも仲間外れにされていた。役者になってテレビに顔をだすようになると、途端に仲間ぶって連絡してくるやつらも居たが、こちらも若かったこともあって冷たくあしらった。反対に故郷の仲間には頻繁に連絡を取った。私の所属していた劇団はときどき地方公演で東北にも回る。そのときに切符の販売や宣伝で世話になることが多かったのである。仲間の皆が私を温かく迎えてくれた。今では劇団から離れてフリーの立場なので故郷に出掛ける機会はぐんと減ったが、私は誇りを持って東北の生まれだと言い続けている。 〈それにしても……〉  なぜ森田の小父さんとふっつり付き合いが途切れてしまったのだろう。そもそも森田の小父さんがどういう関係の人だったかも、よく分からない。親戚だとずうっと思っていたが、そうではなかったようだ。詳しいことをなに一つ訊かないうちに母親も死んでしまった。この何十年、思い出しもしない存在だったのだから、どうでもいいことだけれど、自分に置き換えると不思議な気がする。家族ぐるみであんなに親しく付き合っていた人と、年賀状のやり取りすらなくなるなんて……子供には分からない行き違いでもあったとしか思えない。目を堅く瞑《つむ》って思いを集中させると、朧気《おぼろげ》ながら小父さんのイメージが浮かんできた。髪を長く後ろに垂らした、まるで易者のような小父さんだった。日本画家として生計を立てていた人なので、ごく自然な髪型だったのだろうが、子供心にはなんだか怖かった。それに、ずいぶん叱られた。その印象が重なっているのかも知れない。目を盗んで好きなマンガの主人公を描いたり畳に墨を零《こぼ》したりすると物差しで尻を思い切り叩かれた。優しく庇《かば》ってくれる娘さんが居なかったなら、毎日のように通いはしなかっただろう。実際、行きたくないと何度も母親に訴えた。幼稚園の子供が日本画を学んでも面白いわけがなかろう。母親は行儀作法も教えて貰っているのだと言って、私の訴えをいつも退けた。小父さんが仕事の都合で町から引っ越すと聞かされたときは、寂しさと安堵の両方があった。よくは記憶していないのだが、さすがに一年近くも通ったせいなのか、父親のように頼りにしていた部分もある。 〈父親のように?〉  自分で思って戸惑いを感じた。すると……親父の蒸発と小父さんの引っ越しと、どっちが先なのだろう。親父の話は我が家のタブーとなっていたので、そこも曖昧《あいまい》となっている。微かな記憶では小学校一年の夏だったような気もするのだが、はっきり断定できない。母親は私が小学校四年のときに義父と再婚した。その義父との記憶が複雑に絡み合っているために混乱が生じている。しかし、やはり森田の小父さんの引っ越しは親父の蒸発後と見るのが正しそうだ。親父が居なくなった寂しさから森田の小父さんを頼りにするようになったのではなかろうか。 〈小父さんは親父の知り合いだったのかな〉  どうもそんな気がしてきた。それなら引っ越し後に付き合いが途切れた理由も分かる。母親は義父に遠慮したのではないか? 蒸発してしまった親父の知り合いと付き合う義理はない。私は一人頷いた。     2  駅のホームには荒川が迎えにきてくれていた。荒川は市内にレストランをいくつか開いている。私とは特に仲がいい。 「寒いだろ。雪は降らなくなったが、寒さはそんなに変わらない」 「この匂いだ」  私は冷たい空気を思い切り吸った。 「これを嗅ぐと田舎に戻った気になる」 「匂い? そうかね」 「澄んだ冷たい風の匂いだ。東京じゃ絶対に感じない」 「冷たい風の匂いか……なるほど」  荒川も私のように鼻を膨らませて笑った。 「春には花の匂いがするし、夏には草の匂いがする。東京に居ると忘れているんだが、この町に着いた途端にその匂いを思い出す。日本で一番匂いのいい町じゃないかな」  最初に会ったのが荒川だったせいで私は饒舌《じようぜつ》になっていた。私は荒川に誘われるまま駅ビルに隣接したホテルの喫茶店に入った。まだ火葬には一時間以上も間がある。あんな場所に早く着いても持て余すだけだ。 「三年ぶりぐらいかね」  コーヒーとサンドイッチを注文すると荒川はジタンを取り出して火をつけた。きつい煙が漂う。私も箱から抜いて一服した。朝が早かったので寝不足だ。喉に刺激が強過ぎる。三口ばかり喫って灰皿に揉み消した。 「いつもこいつか?」 「たばこはジタン。車は古いタイプのシトロエン。フランス料理の店のオーナーともなるといろいろ気を遣う」  荒川はくすくす笑った。 「森田の小父さんのことは?」 「もちろん知ってるさ」  私の問いに荒川は神妙な顔付きに戻して、 「芸術文化協会の会合でときどきウチの店を使って貰っていた。先生は必ず顔を見せていた。あの歳で丈夫な人だったよ」 「いつから町に暮らしていた?」 「先生かい? 二十年にはなるだろう」 「だったらなんで今まで会わなかったのかな」  私は首を捻った。十年くらい前まで私は公演で毎年のようにこの町を訪れていた。無縁な立場ならともかく、芸術文化協会に属していたとしたら機会があったはずである。 「そうだよな。芸名だと言ったって、慎一の記事は新聞の文化欄にしょっちゅう載ってる。先生が知らなかったとは思えんが……坂本の話じゃ、口にしだしたのはつい最近のことらしい。あの先生もプライドが高い人だったようだから、慎一の方から挨拶に来るまで知らんフリをしてたんじゃないのか」  仲間たちは私を本名で呼ぶ。 「挨拶しようにも、俺は森田の小父さんがここに居るなんて知らなかった。画号なんてすっかり忘れていた。もしそうだとしたら悪いことをしたな」 「気にするこたぁない。幼稚園の頃の付き合いだってんだろ? 憶えてなくて当たり前だ。それでむくれる方が悪い」 「どんな人だった?」  私は逆に荒川に質《ただ》した。 「芸術文化協会の会長を務めていた頃は頑固で口喧《くちやかま》しいじいさんって印象だったけどね。後任に譲ったら柔らかくなった。文化財の保護委員だとか史談会にも関わっていて結構忙しかったと思うよ。俺はなんとなく苦手で挨拶を交わす程度の付き合いでしかない」 「長い髪の人だったという印象があるけど」 「そうそう。白髪の剣豪って感じさ。子連れ狼にでてきた柳生烈堂だっけか?」  適確な表現だった。明瞭に森田の小父さんの顔が頭に浮かんだ。 「しかし……慎一がまさか朱竹画の名人とは思わなかった。坂本に聞かされて笑ったぜ。今でも描けるのか?」 「まさか。試したこともない」 「子供の頃に馴染んだやつは体が憶えているもんだ。その気になりゃできるんじゃねえか」 「嫌いで仕方なかった。おふくろに命じられて通っていたに過ぎない」 「けど、確かに慎一は絵が上手かったよな。よくスターの似顔絵なんか描いていたろ」  荒川は思い出したように言った。 「自信があったのはペン画だけ。色をつける段になると途端に駄目になる。美術の成績なんかも大したことはない。マンガの真似の延長だよ。親馬鹿の典型だな。子供の頃に賞を貰ったんで画家になれると思ったんだろう。それで小父さんのとこに通わされたのかも」 「ほう。やっぱり」 「幼稚園の頃だぞ。どうせいい加減な絵に決まっている」 「どんな賞だ?」 「全国の図画コンクールで金賞を貰ったらしい。おかしな話だけど、まったく記憶にない。ただ、それを言われ続けたんで俺も絵の才能があるんじゃないかと信じていた。あるいは朱竹画が俺の才能を潰《つぶ》したのかも知れん」 「有り得る」  荒川は爆笑して、 「いずれにしろ全国で一位ってのは大したもんだ。一芸に秀でるやつはなんでもできるってのの見本だぜ。その絵を是非とも拝見したいね。今度探して見よう」 「探すと言ったって無理だ」 「いや、きっと簡単に見付けられる」  荒川は言い切った。 「こんな小さな町の子供が全国一になれば、相当な話題になったに違いない。新聞に記事と写真が掲載されたんじゃないのか?」  ああ、と私も頷いた。それに気付かなかったのが不思議なくらいである。 「絵柄が慎一の記憶にないとしたら、そいつは記念に幼稚園が保管した可能性もある。幼稚園の名前を覚えているか?」  私は少し考えて場所だけを教えた。 「そこなら今もあるよ。園長のことも知ってる。上手くすりゃ今日中にだって」 「見付けられるかな?」  私も興味を覚えた。なに一つ記憶していないものの、その絵の存在が私の少年時代の大きな支えになっていたのは事実だった。 「見付かれば特ダネもんだ。今夜の宴会に記者が駆け付けてくるに違いない。ま、それでなくたって火葬場で姿を発見されて取り巻かれるぜ。先生の火葬にはマスコミの連中が大勢顔を見せる」 「そうか……急に面倒になった」  私は溜め息を吐《つ》いた。それも仕事の一環なのでインタビューには馴れているが、今日ばかりは完全な私用である。周囲を気にせずに仲間とゆっくり飲みたい気分だった。 「あの……失礼ですけど」  小柄なウェイトレスが席に近付いてきた。 「お店にサインをお頼みしていいでしょうか」  私は笑顔を作って頷いた。  色紙にサインをしていると周囲の客の視線が私に集中した。にこにことして見ていた荒川はコーヒー代くらいはサービスしろよ、とウェイトレスに囁《ささや》いた。彼女は、店長からそのように言われています、と応じて頷いた。こういうときが一番照れる。 「森田の小父さんはどこに住んでたんだ」  書きながら私は荒川に訊ねた。照れ隠しに過ぎない。 「本町だ。第一勧銀の近く」 「ひょっとして裏手に土蔵がある家か」 「ああ。物凄く古い家だ」 「じゃあ、元の家じゃないか」  それも意外な話である。すると引っ越しのときに売り払わずにそのままだれかに貸していたのだろうか。しかし、あの家に人が住んでいたという記憶は私にない。いつも雨戸は閉ざされたままだった。母親は確か売って遠くに引っ越したと話していたような……本当にすべてが曖昧な記憶なのだと私は実感した。 「憶えているのかい?」 「何度となく土蔵に閉じ込められた。不肖の弟子でね。しょっちゅう叱られてばかりさ。あの土蔵の黴《かび》臭い匂いが今も残っている」  色紙を返しながら私は続けた。 「面白い土蔵だったんだ。娘さんが子供の頃に読んだ絵本とか玩具がしまわれていて、ちっとも怖くなかった。そこに入れられると絵の勉強をしなくて済む。だからわざとマンガなんかを描いて土蔵に閉じ込められるように仕組んだ。怖がっているフリをしてな」 「その頃から役者の素質があったか」 「あの土蔵はあのままだろうか」  私は胸が詰まった。本当に黴の匂いが甦ってくる。土蔵の窓から眺めた綺麗な夕焼けがまざまざと脳裏に浮かんだ。土蔵にはまだまだ面白いものがたくさんあった。絵の手本にするための材料だったのだろう。仮面とか人形などが壁に飾られていた。クレヨンがぎっしりと詰められている箱を見付けて胸を躍らせたこともある。まるで宝石箱を発見した気分だった。 「懐かしいな……そうと知ってたら小父さんが生きているうちに訪ねたかった」  土蔵と耳にしただけでこんなに多くの記憶が甦ってくる。小父さんと当時のあれこれを話し合えば、大好きだった親父のこともきっと鮮明に思い出せたに違いない。 〈親父か……〉  また胸が痛くなる。私にとって親父は古ぼけた小さな写真の中に住む幻の存在でしかない。大好きだったという思いだけはあるのだが、はっきりとした記憶はほとんどない。母親の再婚のせいで、繰り返し親父の話ができなかったためだ。母親も蒸発した親父を恨んでいたのか、私に早く忘れるよう仕向けた。幸い義父が優しい人間だったので私もさほど寂しさを感じずに過ごせた。それも親父の記憶を払拭《ふつしよく》させる大きな要因となった。しかし、実の親父には違いない。母親も義父も亡くなると私は親父のことを考える時間が多くなった。そのたびに辛くなる。親父に関して萩島良太郎という名前ぐらいしか知らない子供が私の他に居るものだろうか? 親父の実家とも早い時期に縁が切れてしまった。もちろん探すつもりになれば実家を突き止められるはずだが、それは母親や義父を裏切る行為のような気がして、できないでいる。その意味では森田の小父さんが恰好の手掛かりだったのだ。そうすれば自然な形で親父の情報を得られたに違いない。それが残念だった。 「そろそろ時間だ」  荒川は時計を眺めて私を促した。     3  火葬場から戻った私はホテルのベッドに横になった。あれほど大勢の参列者があっては遺族とまともな話もできない。飾られている写真の顔には確かに面影が認められたものの、八十過ぎての写真では感慨も薄い。それに記者らしい連中の視線も気になった。その場にぐずぐずしていると声をかけられて詰まらない質問に応じなくてはならない。それで喪主の挨拶が終わるとそそくさと焼香を済ませて荒川と早めに抜け出た。時間があったら明日にでもお宅へお邪魔したいと坂本を通じて伝えてある。義理は充分に果たしたはずだ。あとは夕方の飲み会を待つばかりだった。  緊張が緩んだせいか猛烈な眠気に襲われた。  私を眩《まばゆ》い光が包んでいる。  心が浮き浮きとする温かい光だ。私は思わずにこにことなった。これは夢である。何度となく見ているものだから夢だということが自分にも意識できるのだ。嬉しさが込み上げてきた。この夢はいつも私を至福に誘う。親父の存在が感じられる夢なのだ。親父のことをひさしぶりに考えたので、それが夢となって生じたのかも知れない。  私は地面を見詰めた。  草花までが金色に輝いている。  それに、いつものこの匂い!  なんと心の鎮まる匂いだろう。こんな匂いはどこでも嗅いだことがない。食べ物や草花の匂いとは違う。私は今日こそ突き止めてやろうと思った。夢の中ではなぜか納得したつもりになるのだが、目覚めるとまったく思い出せない匂いなのだ。そのつど苛立ちに包まれる。トラックやバスの排気ガスの匂いとか、カーバイドの匂い、あるいはセメダインの匂い、はたまた駄菓子屋で売っていた細いガラス管に注入されていたゼリーの匂い、それとも野球グローブの手入れ用の脂の匂いなどなど、思い出せる限りの匂いを頭に浮かべてみても、どれとも一致しない。それでもこの匂いが幸福感を強めているのだけは確かだ。せっかく夢と承知しているのである。この匂いに包まれているうちに突き止めれば悩む必要がなくなる。私は深く息を吸い込んだ。恍惚《こうこつ》となる。試したことはないけれど麻薬の匂いではないだろうか? いやいや、麻薬にはほとんど匂いがないと聞いた覚えがある。だから鼻の利く犬を捜査に用いるのだ。これほど歴然としたものならだれにでも分かる。他に考えられるのは化学薬品だ。学校の化学実験室には不思議な匂いがいくつも交じり合って漂っていた。あの中のどれかだとすれば私に見当がつかないのも当たり前だ。私の日常では絶対に嗅ぐことのできない匂いが無数に存在するはずである。しかし……奇妙に身近な匂いのような気がしてならない。甘くて、酸っぱくて、生臭くて、脂臭くて、要するにそれらが微妙に溶け合ったものなのだ。そう羅列すると、そんなに香《かぐわ》しい匂いとは思えなくなるけれど……確かに素晴らしい香りとは言えないのかも知れない。たばこのヤニのようなものだろうか。たばこ嫌いの人間にとって壁に染み込んだヤニの匂いほど吐き気を催すものはないと言う。しかしたばこ好きの人間はさほど気にならない。どころか禁煙の最中だったりするとそれがたまらない恍惚に感じられるのだ。馴染んだ匂いは他人にとって悪臭でも自分には香しいものになる場合がある。今までこの匂いを突き止められなかったのは、無意識に好きな匂いばかりを思い出していたせいではなかったのだろうか?  そこまでは思い付いても、結局はおなじだった。私の嫌いな匂いなら恍惚となるわけがないので、くさやとか堆肥のものではないと最初からはっきりしている。私は無駄な考えを捨てて夢を堪能することにした。なんの匂いかは分からないが、とにかく胸を幸福に満たしてくれる匂いなのだ。それでいい。  私は包んでいる光を掻《か》き分けるようにして前へ進んだ。手探りで進むと急に視界が明るく開ける。それも何度となく経験している。  ここだ、ここだ。  どこまでも澄んだ青空。遥か彼方に連なる青い山々。対岸の土手を埋める色とりどりの草花。鮮やかな原色の光景。  浅瀬が広くて、ゆったりと流れる川。金色に染められた茅葺《かやぶ》きの屋根。河畔に設けられた巨大な水車の数々。陽気な声を発しながら土手を駆ける少年少女たちの群れ。浸している足の周りをのんびりと泳ぎ回る魚たち。後ろから聞こえる母の優しい笑い。真ん中で崩れた橋の上に立って戸惑いを浮かべているらしい親父の大きな背中。じりじりと額から滴《したた》り落ちる小気味良い汗。半分ほど沈んだ小舟の舳先《へさき》には青蛙の子供が二匹じっと座って滑らかな川面を見詰めている。浅瀬を選び、自転車を押して渡っているアイスキャンデー売りの男の姿も目につく。なにもかも美しく、そして生き生きとしている。  私も早くこの川を渡って土手で遊ぶ少年たちの仲間に加わりたい。土手の緩やかな傾斜を利用して空中転回の練習を繰り返しているお兄さんも見える。少年たちの何人かがその見物に回っている。音もなくクルクルと空に舞う様子がいかにも楽しげだ。見事な着地を決めるたびに少年たちが手を叩く。上手いわねえ、と母が私の肩に手を添えて褒《ほ》める。母もまたびっしょりと腕に汗をかいている。母さんは他のだれよりも綺麗だ。私は得意になって母を見上げた。汗で濡れた髪が頬に張り付いていて若々しい。瞳も青空を映してきらきらしている。義父は真面目で本当にいい人だったが、母をこういう顔にはできなかった。母は親父のことが一番好きだったんだ。それがよく分かる。  ああ、この瞬間がいつまでも続いてくれたらどんなにか嬉しいだろう。  いつの間にか親父は青空高く浮かんでいた。私を手招いている。私も手を大きく振って川の中心へと進む。ふわふわと体が浮き上がる。また眩しい光が出現した。上も下も、右も左も見渡す限りの黄金世界だ。その真ん中にぽっかりと穴が開いて青空が覗いている。天に空けられた円窓だ。親父はその窓の中に居る。待ってよ、ぼくもそこに行く。親父とだったらどこに行っても怖くない。笑顔一杯の親父が私に両腕を広げた。天の窓からあの恍惚を誘う匂いが、まるでシャワーみたいに降り注ぐ。そうなのだ。これは親父の匂いである。匂いに包まれた私は親父の懐ろに抱かれている気持ちとなった。体が窓に向って急上昇する。あの窓の奥にはいったいなにがあるのだろう? 下界を見下ろすと母が川のほとりに立って心配そうな顔をしていた。伸ばした母の腕が蛇のようになって私を追いかける。私は体を捩《ねじ》って笑った。そんなに心配だったら母さんも一緒にくればいいのに。だが、母の腕がついに私をとらえた。温かな腕だ。私はくるくると母の腕に巻き取られた。親父はにっこりと微笑んで頷いた。私をあやしているつもりなのか、親父は次々に仮面を被《かぶ》った。狐の面。猿の面。おじいさんの面。般若《はんにや》の面。天狗の面。そうして次第に小さくなって行く。私は母に抱かれながら笑って眺め続けた。  耳元の電話のベルの音で飛び起きた。  慌《あわ》てて受話器を探す。室内はもう闇に溶け込んでいた。三時間は眠ったらしい。  まだ幸福感に酔いしれてぼんやりとする。 「少し早いがロビーに下りてこないか?」  荒川からのものだった。 「お土産がある」 「絵を見付けたのか?」 「一位に選ばれただけはあるな。いい絵だ。なんかこうほのぼのとする」 「喫茶室で待っていてくれ」  言って電話を切った。もう少しだけ親父や母の思い出に浸っていたい。夢をしっかり頭に刻み付けたかった。     4  セーターに着替えて喫茶室に下りて行くと、荒川は高齢の婦人と話し込んでいた。婦人が先に私を認めて穏やかな笑いを見せた。 「佐々木さん。幼稚園の理事長さんだ」  荒川が婦人を紹介した。 「園長のお母さまに当たる。見覚えは?」  さあ、と私は曖昧に応じた。 「慎一が通っていたときに先生をなさっていたそうだ。絵のこともはっきり憶えていてくれたけど、その子供がまさかおたくだったとは思わなかったとさ。それでお連れした」 「お会いできて嬉しいですわ」  婦人は私に懐かしそうな顔で言った。 「よく残っていたものですね」  目の前に腰掛けて私も頭を下げた。 「二枚もあった」 「二枚?」  私は荒川を見詰めた。 「全国一ってのは幼稚園にとっての名誉だ。それでもう一枚上手なやつを選んで保存したらしい。おなじ包みにしまわれていた」 「本当にお上手でしたよ。絵の勉強をしている子供は違うと皆で驚いていたものです」 「あの……もしかしてウサギ先生?」  私の言葉に婦人は顔を輝かせて頷いた。 「そうだったんですね」  私も笑顔になった。ダンスの時間になるとぴょんぴょん飛び跳ねるので皆がウサギ先生と呼んでいた。小柄な体つきは変わらない。 「来てよかった。憶えていてくれたなんて」  ウサギ先生は涙ぐんだ。 「こっちの方こそ。会いたかったんです」 「凄い記憶力だな」  荒川は目を丸くした。 「変な記憶があるんだ。幼稚園でのことはあまり思い出せないのに……なんでか知らないがウサギ先生がしょっちゅう家に遊びに来ていたような……でも、家なんて妙だろ。なにかの勘違いだろうかと、それで先生のことが気になっていた。理事長さんと聞かされて先生の消息を訊ねようと思ったばかりだ。そしたらどこか似ているみたいな気がして」  それにウサギ先生は大きく首を振った。 「すると……やっぱり私の家に?」 「家庭の事情が複雑だったので、仕事が終わると毎日お家の方にお邪魔していたの」 「………」 「一ヵ月くらいだったかしらね。ようやく元気になったので一安心」 「じゃあ、病気かなにかで幼稚園をずっと休んでいたんですか?」  それについては記憶がまるでない。 「死ぬか生きるかの状態が何日か続いて」  あまりの意外さに困惑した。いくら幼かったとは言え、そんな記憶を失うなんて信じられない。一ヵ月も床に伏せっていたら必ずなにか印象に残る。 「怖さと熱のためになにもかも忘れたとお医者さんがおっしゃっていたわ。それでよく憶えていないんでしょう。私がお見舞いに伺っていたのは退院してからのことですよ。訪ねるといつも一人で絵を描いていて……」 「どういう意味です。私が怖さでなにを忘れたと言うんです?」 「お母さまからはなにも?」  ウサギ先生は不審の目を私に注ぎつつ、 「お父さまが……家を出てしまわれて間もなく、あなたも行方不明になってしまったの。お父さまが戻って連れ出したに違いないと皆は疑っていたけれど、そうしたら三日後に森田さんの家の土蔵の中から見付かって……」 「小父さんの土蔵に閉じ込められた!」  私は絶句した。 「まさかそんな場所に居るなんて思わなかったものだから町中を探し回って大騒ぎ」 「なんで私が小父さんの土蔵に?」 「森田さんのお話だと、いつの間にかあなたの姿が見えなくなったので、てっきり家に戻ったと早合点して戸締まりを済ませて旅行に出掛けてしまったということでした。もう一日帰りが遅くなっていたら死んでいたはずですよ。運がいい子だと皆がとてもよろこんで」  それなら有り得る話だ、と私も頷いた。土蔵に忍び込んで遊んでいるうちに鍵をかけられてしまったのだろう。あの土蔵ならどんなに泣き叫んでも外に声が届かない。 「土蔵に三日も閉じ込められりゃ、確かに怖さで頭が変になっちまう。それに腹が空いて幻覚も見る。記憶を失って不思議はない」  荒川は信じられないという顔をした。 「親父が蒸発したのは私が幼稚園の頃だったんですか」  私は溜め息を吐いた。 「あなたのお母さまにとって森田さんは親代わりのような方なので文句を口にできなかったのでしょうけど……うっかりすれば死なせるところだったから辛かったと思うわ。よく我慢しているものだと感心していました」 「小父さんが母の親代わり?」 「娘時代に森田さんの家のお手伝いさんをなさっていたと伺いましたよ」  なんだか、厭な気がした。私はゆっくりとコーヒーを啜《すす》った。お手伝いだったという経歴を隠したかった母の気持も頷けるが、それを他人から聞かされるのは辛い。 「見るか?」  荒川は察したらしく話を変えた。  私は頷きながら内心で苦笑していた。母はやはり小父さんの無責任さを許せなかったのだろう。それで引っ越ししたのを機会に付き合わなくなったのである。  荒川は空いている隣りの椅子の上で包みを解くと慎重な手付きで画用紙を取り出した。 「こっちが全国一になったやつだ」  コーヒーカップを脇に片付けて荒川はテーブルにそれを載せた。  目にした瞬間、私の笑いは強張った。  それは……  私が何度となく夢に見る、あの懐かしい光景だったのである。  手にした指が大きく震えた。  子供の筆になるものだから、もちろん稚拙である。しかし、その景色を夢で見慣れている私にすれば完璧だった。川に足を浸している私。傍らに立って汗を拭っている白いブラウス姿の母。土手の緑。どこまでも青い空。太陽に輝く川面。水車の水|飛沫《しぶき》。浅瀬を渡るアイスキャンデー売り。空中転回をしている少年。半分沈んだ舟。跳び回っている子供たち。途中で崩れ落ちた木の橋。その上に佇《たたず》んで戸惑いを隠せない親父の背中。すべてが明るい夏の輝きに包まれて息づいている。 〈これは……〉  夢ではなく現実だったと言うことか? 私は本当にこの景色を見たのだろうか? 頭がきりきりと痛くなった。この場所に繋がる場面がなに一つ思い出せない。 「どうした?」 「夢にときどき見る。怖くなってきた」 「怖い? なんでだ」 「分からん。今まで、こんな場所が実在するなんて一度も考えたことがなかった……記憶にあったから夢に見たんだろうか?」 「親父さんかおふくろさんの田舎だろ?」 「違う……と思う。おふくろの田舎は知っている。親父はこの町の生まれのはずだし」 「ここは××村よ。水車で有名な」  ウサギ先生の言葉に荒川も頷いた。 「××村って?」 「海岸沿いにある村だ。映画の舞台に選ばれて近頃は観光客も訪れるようになったが、なんにもない田舎さ。車で二時間もかかる」 「なんでそんな村に俺が?」 「知らんよ。そっちの問題だろうに」  荒川は肩を揺すって笑った。 「あの時のことはよく憶えているわ。せっかく全国一に選ばれたのにお父さまが授賞式に居なかったので、あなた、とっても寂しそうにして……お母さまは仕事の都合でと関係者の人たちに謝っていらしたけど、私たちは本当のことを聞かされていたので、あなたが可哀相だった」  ウサギ先生はしんみりと口にした。 「もう、蒸発していたんですね?」 「その十日ほど前辺りだったかしら……コンクールを主催していた新聞社から金賞の連絡をいただいて、私がお家の方に知らせに伺ったの。お父さまはとても喜んでいらしてね。授賞式の少し前に額装された絵が幼稚園の方に届いて、それもわざわざ見にこられたんですよ。よほど嬉しかったんでしょう。まさかその翌日に家を出てしまわれるなんて……事情は分かりませんけれど、きっとそれだけは見ておきたかったんでしょうね」 「この絵を見た翌日に親父が蒸発を?」  私は唖然となった。心臓がどきどきする。私はもう一度画面に目を凝らした。  そして……恐ろしい事実に直面した。  夢の中で親父と思い続け、一度として疑いもしなかった男は……森田の小父さんであった。  間違いない。  顔は見えないが特徴である長い髪が肩の辺りまで垂れ下がっている。車で何時間もかかるような田舎へ母は私を連れて森田の小父さんと一緒に旅行に出掛けたのである。あまりに母が楽しそうにしているものだから、私もうっかりと絵に描いてしまったのだろう。それを目《ま》の当たりにして親父は母の不倫を知ったのではないだろうか。親父は電気工事会社の技術者だったと聞いている。永い出張も多かったに違いない。その留守をいいことに母が森田の小父さんと不倫旅行をしていたことは充分に有り得る。ひょっとすれば母と小父さんの関係はお手伝いをしていた頃からのものだったのかも知れない。親父は私の絵ですべてを察して家を飛び出たのだ。でなければ、いくらなんでも息子の晴れの日に出席しないわけがない。私の想像はどんどんエスカレートして行く。私を絵の勉強に通わせたのだって二人の逢瀬の時間を作るためではなかったか? 私は自分から進んで土蔵に入ったような気がしているが、もともとは些細ないたずらを理由に閉じ込められたのである。そのとき、たいてい母が森田の小父さんと一緒だったような記憶がある。私を土蔵に追いやって二人はなにをしていたのか? 親父を私が好きだったのは、通いの勉強を嫌がる私の味方に回ってくれたからだ。無料で教えてくれる先生の好意を無にはできないと母は断固として拒み、それでいつも諍《いさか》いが絶えなかった。親父も薄々と気付いていたのだろう。そこに私が描いた証拠の絵が出現して、絶望したというのが真相のような気がする。正直に言うと、母が小父さんの家のお手伝いだったと聞かされた瞬間に厭な感じを覚えたのは、底辺にそういう疑いがよぎったからだった。小父さんのことを無理に思い出から遠ざけていたのは、私もまた子供心になにか不快なものを感じ取っていたせいであろうか。  とんでもない火葬に参列したものだ。  親父にとっての歴然たる敵である。  複雑な思いで私は絵をテーブルに戻した。  母の不倫旅行の思い出を、子供時代の唯一の美しい光景として脳裏にしまい込んでいた自分が情けない。心から楽しそうな母の顔が私の勘違いに繋がっていたのである。荒川とウサギ先生が目の前に居なかったら絵を破り捨てて泣いていただろう。 「こっちはどうだ? 記憶にあるかい」  もう一枚の絵を荒川は上に重ねた。  悲鳴を堪《こら》えるのがやっとだった。  なんでこんな絵を私が? 「これは……いつ描いたものなんです?」  私はウサギ先生に恐る恐る質した。 「退院してお家で休んでいたときのもの。綺麗な絵だったので私がいただいてきたのよ」 「綺麗って言うより、凄いよな。子供がなんでこんな絵を描けるんだ? まるで宗教画だぜ。それともシュールって言えばいいのか」  荒川はしきりに感心していた。  画面は黄金の光で埋め尽くされている。その光の中に私と天狗の面を被った親父がのんびりと昼寝をしている。私の寝顔は大の字に広げた親父の腕に頭を乗せていかにも幸福そうだ。私たちの周囲には人形や猿の面などがいくつも転がっている。画面の上部には円窓が覗かれ、そこだけに青空が見える。窓の中にも親父が居た。  これも……夢の世界とおなじではないか。  私は必死で吐き気と戦っていた。あの匂いが不意に甦ってきたからだ。夢の中では恍惚を誘う匂いだったが、こうして現実の中で思い出すと、とても耐えられない匂いであった。  私は水を一気に飲み干して吐き気を抑えた。冷や汗が額に噴き出る。寒気がはじまった。 「どうした?」 「悪いが……どうも調子がよくない」  私は立ち上がるとトイレに急いだ。我慢できそうになかった。思い出した匂いがずうっと離れない。トイレに駆け込むなり吐瀉《としや》した。  涙が後から後から零れた。  私は屈みながら便座を叩き続けた。  すべての真相が明らかとなったのだ。  あの絵が真実を物語っている。  画面は黄金に満たされて、いかにも抽象的に見えるが、あれは現実を描いたものなのである。あのときの記憶がまざまざと甦ってくる。私は……見たのだ。  遠くに行ってしまったと思っていた親父が森田の小父さんの土蔵の中に隠れていたのを、である。  親父は土蔵の二階の古い箪笥《たんす》の裏に隠れて眠っていた。  私は喜んで母屋の方に走り、母と小父さんに知らせた。二人はびっくりして私に尾《つ》いてきた。本当だと分かると母は親父の額に手を当てて、病気だからここで眠っているのよ、と言った。そして……お昼寝から目が覚めるまで側に居てあげなさい、とも。私は張り切って頷いた。土蔵の鍵が閉められたのはそれから間もなくのことだった。けれど怖くはなかった。親父が側に居る。母も土蔵の外に居る。私は箪笥の裏の隙間に潜り込むと冷たい親父の腕を枕にして、いつまでも横顔を眺めていた。親父が戻ったという嬉しさで一杯だった。親父の体からは、それまでに嗅いだことのない甘酸っぱい匂いが漂っていた。土蔵には電気がつくから夜も怖くない。退屈になった私は猿の面や天狗の面を持ち出して親父に被せて遊んだ。親父は眠り続けていたけれど楽しかった。こんなに一緒に居ることは滅多にない。  なんとなく怖くなりはじめたのは翌日だった。母がきてくれないのである。小さな窓から覗いても母屋に人の気配はなかった。だが、怖さより空腹がきつい。動き回っているとかえって辛くなる。私は親父の隣りに潜り込んでひたすら眠ることが多くなった。匂いはさらにきつくなっていた。でも、親父の匂いだと思うと我慢できた。むしろこの匂いが親父の存在をはっきり教えてくれて寂しさを吹き飛ばす。  喉の渇きと空腹の限界がやってきて、体さえ動かせなくなったのは三日目の昼頃だった。声も出せないほど弱っていた。  眩しい光に包まれたのはそのときだ。  隣りに眠っているはずの親父が、いつの間にか起き出して私の手を握っていた。親父は手を離して天井に浮かんだ。その天井がゆっくりと二つに開いた。空には綺麗な青空が広がっている。親父は笑顔を見せながら青空に向かって泳いで行く。途中で私を振り向いた。私の体も浮き上がった。温かな黄金の輝きに包まれて、ひどく幸せな思いがした。空腹も喉の渇きも感じない。早く親父の側に行きたい。親父が両手を広げて待っている。  がくん、と引き止められたのは、その瞬間だった。母が泣き顔で私の足を掴んでいる。それを見ていた親父は大きく頷くと、見る見る小さくなった。空に吸い込まれて行く。  私の目の前には母の顔があった。 〈臨死体験だったのか……〉  恐怖と高熱で土蔵での出来事をすべて忘れた私だったが、あの光に包まれた恍惚だけは鮮明に記憶されていたのだ。それで無意識にあの絵を描いたのである。  私は泣き続けた。嗚咽《おえつ》が止まらない。  親父は蒸発したのではない。土蔵の中で殺されていたのだ。犯人は森田の小父さんに違いない。不倫の証拠を掴んだ親父は、あの夜、森田の小父さんのところへ怒鳴り込んだのだ。どんな展開だったかは知らないが、反対に殺されてしまったのだろう。とりあえず小父さんは親父の死体を土蔵の二階に隠し、母と相談して蒸発に見せ掛けたのである。その死体を私に発見されてしまったので二人は私まで土蔵に閉じ込めて殺そうとした。そして私の行方不明を触れ歩き、土蔵の中で衰弱死しても不思議ではないように小父さんは旅行に出た。なのに……私が助かったのは……母に残されていたわずかの親心であろう。共犯者だったゆえに母は小父さんに責任を追及できなかったのだ。すべてに辻褄が合う。  小父さんは事件の発覚を恐れて町から引っ越した。母もまた小父さんを忘れようと努力した。好きでもない義父と一緒になり、やがてはこの町から脱出したのである。母が親父の話をしたがらなかったのも当たり前だ。小父さんとておなじだ。私の存在を承知していても会うわけにはいかなかった。会えばなにが起きるか分からない。私との繋がりを隠し続けていたのに、ボケ症状の進行がすべてを崩した。親父を殺したことさえも忘れてしまっていたのではないか?  私はどうすればいいのだ!  母も小父さんも死んでいる。  事実が分かったとて、なにもできない。  またあの匂いが甦る。  あれは親父の死体が腐って行く匂いなのだ、と私はようやく理解した。  最も恐ろしく、それでも私にとっては世界で一番に大事な匂いである。  知らない記憶     1  おなじことを何度も繰り返すのよ、と書斎へコーヒーを運んできた美代子は困った顔で言った。美代子の母親のことだ。ちょっとボケがはじまっているらしい。八十近くなのだから無理もない。私は曖昧《あいまい》に頷《うなず》きながらワープロに入力したばかりのエッセイの読み返しをしていた。馴れている美代子は私の背中にしばらく母親の長電話についての愚痴を並べた。真剣に聞く気がしないのは、本当に美代子が案じているのではないと分かっているからだ。美代子は夕方に一時間前後も遠く離れた実家の母親と長電話をしたことの言い訳をしているだけなのである。美代子の長話が終わるのを待っていたように二社から仕事の電話が立て続けに入ったので気になったのだろう。美代子が思うほど私は腹を立てていなかった。むしろ長電話のお陰で私への電話が繋がらなくてありがたかったとさえ感じていたほどだ。仕事の真っ最中の電話ほど鬱陶《うつとう》しいものはない。中断されれば途端に気が抜けてしまう。特に短いエッセイはそうだ。三、四枚のものなら一時間程度で纏《まと》められるのに、間に電話などが挟まると集中力を失って無駄に四、五時間を費やすことがしばしばだ。なにしろ多いときは午後だけで七、八本の電話がかかってくることがある。たいてい仕事絡みの内容なので簡単には済まされない。電話の応対だけでへとへとになって結局はその日の仕事を諦めてしまうことだってある。今日のような場合の美代子の長電話は大歓迎だった。  エッセイを読み返した私はプリントボタンを押した。お邪魔したみたいね、と美代子は言って書斎から出て行った。ファクシミリで送稿し終えたら話を聞くつもりになっていたのに、こういう行き違いもしょっちゅうある。仕事にケリをつけないと気持が落ち着かない性格だ。切り替えが下手だから電話程度で集中力を乱されてしまうのである。かと言ってコーヒーカップ片手に美代子を追い掛け、愚痴の聞き手をつとめる気にはならなかった。私は書いたばかりの原稿を送って、ゆっくりコーヒーを楽しんだ。  次に取り掛からなければならない仕事にはまだ一日程度の余裕がある。今夜はのんびりと好きな映画でも見ようと思った。私は隣りの書庫の明りをつけてレーザーディスクを並べてある棚を物色した。不規則な日常なので滅多に映画館には行けない。途中から映画を見るのは嫌いなのでどうしても開始時間に縛られる。それでビデオやレーザーディスクを蒐《あつ》めるようになった。真夜中に仕事が終わることも多いので重宝している。そんな時間から飲みには行けない。映画が恰好の気分転換となる。ばかりか新たな刺激も受ける。私の書く小説はSFがほとんどだ。日常生活とは掛け離れた話が多い。となると毎日の暮らしがあまり小説の参考とはならない。SFやホラー映画で描かれる世界が私の小説の中での日常なのである。歴史小説を書く作家が史料を読むような姿勢で、私は映画と向き合っている。しっかり数えたことはないがレーザーディスクだけで、八百枚以上はあるはずだ。  視力が衰えたせいで小さなタイトルが読み取りにくい。何枚か引き出して確かめる。最近見たものはさすがにストーリーや面白かった場面を克明に記憶しているが、五、六年前に見たきりのやつはほとんど思い出せない。ただ、詰まらなかったとか、意外な掘り出し物だったという記憶ばかりが残されている。必死でストーリーを思い浮かべても甦ってはこない。それにも馴れてしまったので、近頃はあまり気にせずにしているけれど、もしかしたらこれがボケのはじまりなのだろうか。美代子の母親を笑ってはいられない。つい先日にも背筋がひやっとする経験をした。若い頃に熱中して見続けた「タイムトンネル」の全話の完全コレクションが発売されたのだ。予告を眺めて私は狂喜した。そのアメリカのテレビドラマほどに影響を与えられたものはない。その日になにがあっても私はテレビの前に座っていた。アメリカが開発したタイムトンネルの実験中に二人の若い科学者が時間に閉じ込められてしまい、過去の大事件に遭遇しながら歴史を彷徨《さまよ》うという設定には胸が高鳴った。私がSFを書くようになったのもそのドラマを見たせいだと断言できる。機会があるたびにそのことを力説してきた。だから早々と予約をして発売を心待ちにしていたのだ。そしていよいよ発売された。仕事を放り投げてレーザーディスクをプレイヤーにセットした。愕然としたのはそれからおよそ三時間後のことである。一話から四話まで続けて見たのに、いずれも私の記憶にないものばかりだった。登場人物の顔やタイムトンネルの装置ははっきりと脳裏に刻まれている。けれどストーリーの展開は生まれてはじめて見るものとおなじ印象なのだ。もしかしたら最初の方は見逃していたのかも知れない。慌《あわ》てて解説書に目を通した。全部のストーリーが細かく紹介されている。読み進めているうちに冷や汗が流れはじめた。どれ一つとして覚えている話がないのである。こんな馬鹿なことが有り得るだろうか。あの番組の興奮が忘れ難くて私はタイムマシン物を多く手掛けてきた。なのに全部を見事に忘れている。いくら三十年近くも前の番組だとしても信じられない。だとしたら私の興奮や懐かしさはなにによっていたのか? 記憶の曖昧さと怖さをこのときほど突き付けられたことはなかった。人によっては、たかがテレビ番組だと笑うかも知れないが、テレビを見る行為だとて立派な自分の体験なのである。自分の一生を決めたと言ってもいい番組は、学校で指針を与えてくれた恩師と同じ重さのはずだ。それに気が付いて私は今も尊敬し続けている恩師の顔を思い浮かべた。優しい顔と口調が直ぐにイメージされた。しかし……結果は「タイムトンネル」とさほど変わりがない。中学、高校と六年間も教えて貰った先生なのに、記憶している出来事は二つ三つしかなかった。ただユーモアがあって博識だったという印象が鮮烈に刻まれているだけだ。それが記憶だと思う人もいるだろう。けれど、どんなユーモアだったか、なにに対して博識だったか、私には具体的な記憶がなに一つ残っていないのだ。それはやはり記憶とは言えないのではないか? たいていの人間が初恋の相手に時を隔てて再会して大いなる失望を覚えるのは、たぶん相手が変わったのではなく、なにを愛していたかをこちらが忘れてしまったせいではないだろうか。相手の些細な仕草や言葉で人は熱中することがある。だが、離れて何年も過ぎると、愛していたという記憶しか残らなくなる。それで再会すれば、どの部分を愛していたか忘れているので戸惑うのだ。  それにしても……酷《ひど》すぎる。  記憶とはなんなのだろう。それを支えに生きているのに、核となっている部分でさえ大雑把な印象でしかないなど悲しすぎる。  面白かった、悲しかった、残酷だった、駄作だった、画面が綺麗だった、北欧の寒村の話だった……その程度の記憶しか残されていない作品の多さになんだか気持が落ち込んで、私は書庫から書斎へと戻った。  記憶の不思議さなどと自分には言い聞かせているが、これが本当にボケのはじまりの可能性もある、と感じたのである。もしかして一年前に「タイムトンネル」を眺めたら、大部分のストーリーを記憶していたのかも知れないのだ。私にも断言はできない。  机の上にメモ類や資料をコピーしたものが未整理のまま重ねられている。領収書が食《は》み出ていた。行きつけの飲み屋のもので日付は二十日前になっていた。何気なしに手にしたものの、だれと一緒に飲んだのか思い出せなかった。四名様となっている。編集者に違いないはずだが、いくら考えても頭に浮かんでこない。この店には月に四、五回行く。だから記憶がごっちゃになっているのだろう。けれども二十日前のことなのだ。昨日の夜の食事のおかずはなんだったか? 冗談のつもりで考えたら、それも咄嗟《とつさ》に出てこない。一瞬ざわっとした。しばらくして寿司の出前を頼んだことを思い出した。美代子がデパートに買い物に出掛けて夕食を拵《こしら》える時間がなかったのである。少しはホッとしたものの、不安は治まらない。ボケの症状はなかなか本人には意識できない。だからこそボケと言う。私はまだ五十になったばかりだ。それで安心していたが、この調子では危ない。そう言えば近頃テレビのタレントを眺めていて名前を思い出せないケースがめっきり増えてきた。お笑い番組などに興味はないから名前を忘れたところで支障がない。しかし、この前などコマーシャルでちらっと眺めた西田敏行の名を二時間近くも思い出せなかった。あいうえお順に阿部とか安藤、会田、青山と思い付く姓を並べて、ようやく西田に辿《たど》り着いたのだ。若い頃から彼の主演するドラマを何本も見ていたので思い出せない苛立ちがつのった。  徴候は確かにある。  そのうちに自分の書いた作品まで忘れてしまうのではないだろうか、と考えて、思わず溜め息が洩れた。それでは私の人生がすべて無意味なものとなってしまう。そうなったときには、その悲しみとか寂しさまで意識できない自分になっているからいいのだろうが、今それを想像すると自分が哀れに感じられる。  気が付いたからにはなんとか予防線を張らなければいけない。滅多に外出せず、家に籠って小説ばかりを書いているからどんどん記憶が薄れて行くのだ。おなじ日常の繰り返しでは日々の記憶が埋没して当たり前である。旅行や芝居見物がいい。日常から離れた楽しい思い出はずうっと頭に残る。それをたくさん重ねれば進行を防げるような気がする。老人のボケ症状のはじまりは脳細胞の衰えによるものではなく、おなじ日常の繰り返しが一番の原因ではないかと思い付いた。  今夜と明日を頑張って約束の短篇を仕上げてしまえば四日は休みが取れる。ひさしぶりに故郷へ遊びに行こうと思った。両親はとっくに亡くなっているけれど兄は家業の材木問屋を引き継いで元気に暮らしている。  私は階下に下りると夕食の支度をしている美代子にそれを伝えた。 「おまえも実家へ遊びに帰ったらどうだ」  私たちには子供が居ないので気楽に動ける。 「兄貴のとこに行っても余計な気を遣うだけだろうさ。おふくろさんの様子を見てくればいい。会いたいからしょっちゅう電話をくれるんだ」  突然の話に戸惑っていた美代子だったが、やはり母親のことが気になっていたらしく微笑みを浮かべて私の勧めに従った。     2 「沖山がどうしてるか知らないか?」  三日後の夜、私は故郷の町のミニクラブで高校時代の同級生二人と飲んでいた。カラオケのない静かな店だ。時田と岡本の馴染《なじ》みの店だと言う。こういう顔触れで飲むというのも本当は不思議なことだ。確かに二人は私の同級生に違いないのだが、高校時代はさほど親しい方ではなかった。同級生であった繋がりから、ここ十五年仲間付き合いをしているのに過ぎない。時田は新聞社に勤めていて、岡本は大きな料亭の経営者だ。故郷に戻ってくるたびになにかと会う機会が多く、それですっかり打ち解けるようになった。もっと仲のよかった連中はたいてい故郷を離れている。だから二人と高校時代の話をすると互いの記憶が少ないので逆に混乱することも多かった。 「沖山? 同じクラスのやつか」  案の定、時田は首を傾《かし》げた。まったく記憶にない存在のようだ。 「退学になったやつだよ。嫌な男さ」  岡本は吐き捨てるように言った。 「ああ、あの女たらしのことか」  時田もそう聞かされて頷いた。 「沖山って、あんたと親しかったのか?」  岡本は信じられない顔をして私を見詰めた。 「退学になるまでおなじ下宿に居た」  私は少しムッとしながら応じた。沖山は女たらしなどではない。半年間、一緒の下宿に隣り合わせに住んでいて承知している。 「下宿って……なんでそんな必要があるんだ」  時田は怪訝《けげん》そうな顔をした。私の実家は町の中心にあるのだから、確かにその必要はない。だが、私の仲間たちならちゃんとそれを憶えている。いかに時田と岡本が私とは無縁だったかを如実に示していた。 「親父が県議会に立候補した。家が選挙事務所代わりになって落ち着かなかった。それで学校の近くに少しの間下宿することになった」  二人はなるほどと頷いた。それが親父にとって初当選の年で、以来七十で亡くなるまでの二十五年間を県会議員として過ごしたのだ。暴れん坊議員で鳴らし、町の名物男だった。  私もそれを自慢に感じている。今は兄がその地盤を受けて議員を務めている。 「あいつと一緒の下宿とは災難だったな。バーの女を連れ込んで遊んでるって評判だった」  岡本の言葉に時田も頷いた。高校生のくせに? と店の若い子が露骨に嫌な顔をした。 「ひでえもんさ。ウチの学校は丸刈りが決まりだった。そんな頭じゃバーに行けない。それで野郎は頭の脇んところに一直線の細い剃り込みを入れた。暗がりだとそれが分け目に見えて長髪とごまかせる」  まさか、と若い子は吹き出した。 「直ぐバレるよ。そんなことも気が付かねえ間抜けだったってこと」  岡本は甲高く笑った。 「あれは……俺がやったんだ」  私が言うと岡本はぎょっとした。時田は理由を質《ただ》した。が、言うつもりにはなれなかった。この二人に沖山のことを伝えても分かってくれないだろう。にしても……岡本が沖山の髪のことを憶えていたのは意外だった。一直線に抜いた髪がおなじ長さに伸びるには一ヵ月もかかった。それで印象に残っていたに違いない。私は内心で溜め息を吐《つ》いた。岡本が得々として話した剃り込みの理由とて沖山が自ら広めた嘘である。私が一番よく知っている。あれは優子さんの両親を納得させるためのものだった。沖山は三年のときの同級生であるが、留年をしているので私より一つ歳上だった。沖山がずうっと付き合いを続けていた優子さんは彼と同じ歳で、そのときはすでに高校を卒業して銀行に勤めていた。沖山も優子さんも田舎から私の町にやってきていた。だから優子さんの両親は沖山の存在を知らない。そこに優子さんの見合い話が持ち上がった。優子さんはまだ十八である。今から思うとさほど真剣な話でもなかったような気がするが、愛し合っていた二人には深刻な問題だったはずだ。優子さんは正直に沖山との交際を告白するしかないと決めた。と言って留年している高校生ではむずかしい。学生服姿の沖山の写真を見せればかえって仲を引き裂かれてしまう。背広を着て社会人だと偽っても坊主頭では不審を抱かれよう。思い余って沖山は遠目には長髪に見えるように頭に白い線を入れてくれと私に頼んできたのだ。躊躇の末に私は引き受けた。毛抜きで一本一本引き抜くときの沖山の苦痛の顔が今でも鮮明に思い出される。それが真相なのだ。沖山は私が兄から借り出した背広を着て写真を写し、優子さんに手渡した。苦労した割りにその写真は失敗だった。まるでピエロと一緒である。優子さんはそれでも泣きながら大事にそれを受け取った。そんな事情を皆に知らせるわけにはいかない。沖山はバーに出入りするために剃り込みを入れたと吹聴して回った。だが、どう見たって世間の目をごまかせるようなものではなかった。学校側も馬鹿な男だと笑って沖山をそのままにした。 〈優しいやつだったよ……〉  何十年かぶりに沖山の髪の一件を思い出して私は不覚にも涙を零《こぼ》しそうになった。優しい子供じゃないか。教師たちだって、きっと沖山がそんなワルじゃないと承知していたからこそ髪のことも笑って許してくれたのだ。  沖山が留年した事情については私もよく知らない。三年の後半に欠席を繰り返したせいで出席日数が足りなくなったと聞かされているだけだ。いつも元気な男だったから病気が原因ではないと思う。沖山は絶対にそれを教えてくれなかった。もしかするといじめだったかも知れない。一つ上の学年は荒れていた。退学者を一度に五人も出したほどである。その渦中に巻き込まれていた可能性がありそうだ。それで欠席が多くなったのではないだろうか。その連中が卒業してしまったので沖山は解放されたのであろう。しかし、留年生は特別視される。不良という噂も確かに広まっていた。沖山が笑顔を見せるのは私を含め文芸部の数人の仲間に対してだけで、他の者たちには自ら壁を拵えていた。岡本や時田が沖山の名を聞いて眉をしかめる理由も分かる。ほとんどの者が沖山を遠巻きにして侮蔑《ぶべつ》の目を注いでいた。それを知って沖山はわざと不良らしさを強調した。町で女を引っ掛けたと嘘をつき、これ見よがしにコンドームを教室で膨らませて飛ばした。私にはなぜ沖山がそんな態度を取るのか、その当時は理解できなかった。沖山は歳下の者たちの侮蔑に耐えられなかったのだ、と今では分かる。と言って真面目に振る舞えば負け犬と見做《みな》されかねない。圧倒してしまうことが沖山の選んだ方法であったに違いない。  沖山と私が親しくなったのは三年のはじめだった。校内誌の編集作業をしている部屋にふらりと沖山が現われてたばこを喫ったのである。私は苦笑して見守った。文学を志す者がその程度のことで動転しては見苦しい。沖山ほどではなかったけれど私もまた装っていた。沖山はその部屋が気に入ったらしく、それからしばしば顔を見せるようになった。親しくなるにつれて沖山はその部屋で絶対にたばこを喫わなくなった。我々に迷惑をかけたくないという配慮からだ。私は沖山に興味を抱いた。沖山も私の小説を読んでくれていた。そうして下宿をおなじくするまでの付き合いに発展していったのだ。あの当時、私の書く小説を面白いと褒《ほ》めてくれたのは沖山一人だった。それも大いに関係している。 「沖山の消息なら警察に居る後藤に訊け」  岡本は気乗りのしない様子で教えた。 「警察?」 「あっちとこっちを行ったり来たりさ。もしかすると今はあっちかも知れん」  岡本は両腕を合わせて手錠の真似をした。 「この町に戻っていたのか」  意外だった。退学になったきり田舎に引っ込んだとばかり思っていた。 「いまさら会っても仕方なかろう。確かストリップかなんかの興行をやっていたはずだ」  岡本の言葉に私は唸った。 「なんでそんなに沖山が気になる?」  時田が見抜いて私に質した。 「生前に親父の世話になった礼だと言って年配の女性が三百万もの金を届けて来た。親父が死んで半年くらい経ってからだ。兄貴は親父が囲っていた女じゃないかと勘繰って俺に教えてくれなかった。昨夜はじめて聞かされたよ。兄貴も気にして調べたらしい。そしたら、どうも沖山の奥さんだったようだと」 「まさか」  岡本は笑った。 「人の金は取っても、返す野郎じゃねえぞ。第一、あんたの親父さんが沖山なんぞ世話するわけがなかろうに。ひでえ勘違いだ」 「返す返さないはともかく……俺も親父が世話をしたなんて信じられない。だったら沖山は俺に必ず連絡をしてきたはずだ。高校以来あいつとは一度も会っていない。しかし……兄貴はほぼ間違いないと見ている。だから直接会って話を聞きたいと思ったんだ」  後藤に訊くしかないと考えて私は沖山のことを切り上げた。後藤も高校の仲間である。     3  後藤から教えられた焼き鳥屋の前に私は立っていた。まだ開店には早い時間だ。それでも店の中には人の気配があった。薄汚れて小さな店だった。後藤の話では一年前に沖山が居抜きで買い取ったものらしい。繁華街から外れた場末の店なので大した金ではなかったのだろう。私は店舗の二階に目をやった。割れた曇りガラスの何枚かにテープの補修が見える。カーテンもただの白布を吊り下げているだけだ。沖山の暮らしぶりが分かる。訪ねるべきか迷いが生じた。どう見ても三百万もの金を返せる生活ではない。やはり勘違いとしか思えない。ここに私が現われればどうなるか。後藤も止めたほうがいいと忠告した。沖山には暴力と詐欺で五つの前科がついていた。昔馴染みをいいことに金をたかられるのがオチだと後藤は危ぶんでいた。きっとそうなるのだろう、と私も感じた。それでも……私は信じたかった。あの記憶の中にある沖山をだ。単に面白い男だった、とか、温かなやつだったという大雑把な記憶ではない。他の仲間のだれよりも沖山との付き合いがはっきりと思い出される。もしここで踵《きびす》を返せば私は自ら記憶を葬り去ることになるのだ。そして、なに一つ記憶の残されていない連中とばかり付き合っていかなければならない。  いきなり店のガラス戸が中から開けられた。私は思わず目を逸《そ》らして隣りの不動産屋のウインドーを覗いた。心臓がどきどきする。沖山の女房と思われる女が妙な顔をして私を見詰めている。 「あの……」  女がおずおずと私に声をかけた。 「もしかして正之さんと違います?」  本名を呼ばれて私は慌てて女の顔を眺めた。女はぱっと顔を輝かせた。 「私です。優子です」  女は何度も私に頭を下げた。 「じゃあ……沖山の奥さんて、優子さんのことだったんだ」  胸が詰まった。泣きたい思いだった。 「それなら、あの人のこと訪ねて来てくれたんですか!」  優子はぽろぽろと涙を零した。道にしゃがみ込む。小柄だった優子の記憶がだんだんと、確実に甦って来た。 「おとうさん、正之さんが来てくれたわよ」  思い出したように優子は立ち上がると店の中に声を張り上げた。ぱたぱたと団扇《うちわ》を使っていた音が途切れた。優子は私の腕を引いて店の中へと誘った。敷居に躓《つまず》きそうになりながら狭い店内に入った。カウンターを挟んで沖山のびっくりしている顔と向き合った。たちまちそれが笑顔に変わる。昔とちっとも変わらない人懐っこい笑顔だった。  私は沖山に腕を差し出した。  沖山は団扇をカウンターに置いて私の手を握った。沖山の手は震えていた。 「この辺りらしいと噂を聞いて来たんだ。まだ暖簾《のれん》が出ていなかったんで待っていた。けど優子さんが俺の顔を覚えてくれているなんて思わなかったから驚いたよ」 「だって全部の本を買っているもの」  優子は嬉しそうに私の隣りに座った。沖山はにこにことして私たちを見ていた。 「だったらどうして連絡してくれなかったんだ。優子さんと一緒になっているならなおさらだ。会いたいといつも思ってたのに」 「ごめんなさい」  優子が謝った。 「自分が恥ずかしかったらしくて、亡くなったお父さまに何度もお世話になりながら、私にはそれを言ってはくれなかったんです。いきなりこの人から返して来てくれとあのお金を渡されて……本当にごめんなさい。きっと正之さんがお父さまに保釈金をお願いしてくれたんでしょう。それを聞かされて泣きたい思いだった。いくら自分が惨めな暮らしをしていたって、正之さんにだけはお礼を言うべきだわ。ずっと気にしていたの」  私は唖然として沖山に目を動かした。 「ちょっと出て来る。暖簾はもう出さなくていい。今夜は休業にして正之と飲む」  沖山は私に目配せして外へ誘った。 「許してくれ。優子はなにも知らないんだ」  がらんとした喫茶店の奥に陣取ると沖山は真っ先に謝った。 「俺も知らんよ。金のことだって二日前に兄貴から耳にしたばかりだ。親父からも聞いちゃいない。どういうことなんだ?」  つい責める口調になった。親父の性格から見て、沖山の保釈金を何度も肩代わりしたのなら必ず私に言うはずだと思ったからである。兄まで知らなかったことを考えれば、解答は一つしかない。恐らく親父は沖山になにか弱みを握られて強請《ゆす》られていたのであろう。だが、そうだとすると沖山が金を返して来たことが分からなくなる。私も混乱していた。 「正之に迷惑をかけるつもりはなかった。それだけは信じてくれ。この通りだ」  沖山はテーブルに両手をついて頭を下げた。 「やっぱり親父を強請っていたのか」  沖山の態度で直ぐに分かった。それに親父なら有り得た。幸い罪には問われなかったものの贈賄の噂がいつもちらついていた。強請られても不思議はない。が、それが沖山となると話は別だ。いくら高校以来付き合いがなかったとは言え、私たちは信頼し合っていた仲間のはずではないか。その父親を強請って金をせしめるなど人のすることではない。がらがらと音を立てて懐かしい記憶が崩れて行く。悔しさに私はテーブルを叩きつけた。 「俺に迷惑をかけるつもりはなかっただなんて、よくもそんな口が利《き》けるな」 「正之には済まないと思ってる。だが、親父さんには今だって謝る気はない」  沖山はきっぱりと言った。 「あんたにそれを言う資格があるのか? 金を払ったからには、確かに親父に弱みがあったんだろうさ。けど、あんたにそれを言われたくないね。似たりよったりじゃないか」 「………」 「岡本や時田が言っていたように、あんたは最低の男だ。それがよく分かったよ」 「そういう男にしたのはだれなんだ?」  怒りを必死で鎮めながら沖山は言った。 「おまえの親父さんさ。知らんだろう」 「なんで親父が関係ある」  私は沖山に詰め寄った。 「言ってみろよ。遠慮は要らない」 「優子が妊娠してることを、あいつの両親が知ったのはおまえの親父さんのさしがねだ」 「なに言ってる?」  頭がおかしくなったのかと思った。 「そのお陰で俺は退学になった。優子も無理やり子供を堕ろされて、それ以来、子供ができない体になっちまった」 「ちょっと待てよ」  私は遮《さえぎ》った。本当におかしくなっている。 「どうして親父があんたと優子さんのことなんかに首を突っ込まなくちゃならない。自分の言ってることが分かっているのか?」 「突き止めたんだ。優子の妊娠は俺しか知らないことだった。よほど俺たちのことを調べ上げない限り分かるはずがない。後でそれに気付いて下宿のおばさんを問い詰めたら白状した。おまえの親父さんの秘書をしてた男が、俺の留守中に部屋を何度か覗きに来たとな」 「馬鹿な! いい加減にしろ」 「確かだ。そいつは優子の手紙を読んだんだ。それで優子の妊娠を知った」 「あのおばさんが他人を勝手に部屋へ上げるわけがなかろう」 「俺とおまえがいつも一緒なんで、おふくろさんがやたらと心配している上に、親父さんの選挙も近かった。妙な問題を起こさないよう俺たちの生活を把握しておきたいという理由だったそうだ。もともとあのおばさんは優子が遊びに来るのを気にしてた。下宿の規律を乱すから出てってほしいと何回も言われていた。俺に監視がつくのは渡りに舟だったろう」 「有り得ないって」  私は否定した。行動を見張っていたとしても、優子の両親にまで告げ口する必要はない。 「あの日のことを憶えているか?」  覚悟を決めたように沖山は私に質した。 「いつのことだ」 「親父さんが女と連れ込み宿から出て来たのを見た日のことさ」  私は……認めた。だれにも口にしたことはないが、忘れられない記憶だ。こそこそと肩をすぼめて歩く後ろ姿だけで私は親父だと分かった。沖山は私のショックを見抜くと、大した問題じゃないよ、と言って駆けて行った。沖山の悪戯《いたずら》心を察して私は青くなった。慌てて脇の路地に逃れた。沖山は別の道から先回りして親父の前に姿を見せた。沖山の元気な挨拶の声と親父のどぎまぎした声が重なって聞こえた。ホテルからだいぶ離れた場所なので親父も余裕を取り戻したらしく、直ぐに陽気な笑いが上がった。私もホッとした。 「あれはどっかの店のママさんだな」  沖山は鬼の首でも取って来たように私へ報告した。水商売だからただの遊びさ、と付け足した。それで私の気持も軽くなった。  しかし……それが今の話とどう繋がる? 「おまえは女の顔を見なかった」  私は頷いた。二人の背中だけである。 「あいつは兼松の妾だったんだ」 「………」  名前を言われてもピンとこない。 「おまえの親父さんと張り合って県議選に出馬を予定してた男だ。現職だったから選挙前に死なないでいたら選挙結果はどうなっていたか分からない」  あ、と私は口を開けた。それなら覚えている。親父が最も恐れていた相手だった。事務所で親父がその男の名を憎々しげに口にするのを何度となく耳にしている。親父と市職員との癒着や銀行からの不正融資の疑いなどをチラシに刷って撒き散らしているのも兼松の仕業ではないかと憤慨していた。その男が選挙前に女とのトラブルから刺されて死んだと知ったときは内心で快哉を叫んだものである。殺したのは女の若いつばめと聞いている。六十過ぎの男が二十歳前後の女を囲っていた罰だ、とそのときは同情もしなかった。 「待ってくれ」  沖山の言った意味の重大さに気付いて私の背筋が凍り付いた。 「なんであの女が兼松の妾だと分かった?」 「新聞に出たよ。はじめはあの女が若い男を唆《そそのか》して殺したんじゃないかと疑われてた。その顔を見て思い出した。十日くらい前におまえの親父さんとホテルから出て来た女だった、とな」 「親父があの男の愛人と関係してたって?」  私には言うべき言葉がなかった。 「親父さんは俺が邪魔だったんだろう」 「………」 「下手につつけば騒ぎが大きくなる。優子の妊娠が発覚して、あいつの親父が学校へ乗り込んで来たのは殺人事件の直前だった。俺は退学を命じられて田舎に戻った。おまえの親父さんが望んでいた通り俺はこの町から消えたわけだ。もう親父さんとあの女との関係を知る者は居ない」 「なんの証拠がある?」  親父が兼松の愛人と手を結んで殺人の糸を引いた、という想像はいっさい口にしないで私は沖山に食い下がった。 「高校中退の俺にどんな就職先がある? 優子も家を飛び出して来た。地獄の毎日だった。俺が優子を妊娠させたのは事実だ。退学も仕方ないと諦めていたけど、裏で優子の両親を焚き付けたのがおまえの親父さんじゃないかと知ってからは違った。それから俺はおまえの親父さんだけを憎んで暮らした。犯人は検挙されて服役している。おまえの親父さんは立派な県会議員。俺と優子はパチンコ屋の住込み暮らし。なにを言っても通じやしない。自棄《やけ》になってヤクザの構成員にまで堕ちた。一度転がればどこまでもそれが続く。よほどおまえの親父さんに恨みごとを言いに出掛けようかと思った。けど、できない。おまえを辛い目に遭わせたくなかった。それなのに、暴力沙汰で二度目の服役が決まりそうなとき、魔が差してしまった。ついおまえの親父さんに手紙を書いてしまった。優子が腎臓を悪くして病院に運ばれたのさ。あの女のことをそれとなく仄《ほの》めかしたら保釈の手続きを取ってくれた」  私は絶望に打ちひしがれていた。もはや疑いは現実のものとなった。無縁なら簡単に撥ねつけていただろう。親父はそういう男だ。 「それから二度ほど保釈金を用立ててもらった。全部を知っている俺がいつもこの町に居ると知らせたかった。それが俺にできる唯一の復讐だった。親父さんは俺の存在に怯えて生きていかなくちゃならない。金が欲しかったのとは違う。だから親父さんが亡くなって間もなく金を返すことにした。優子はなに一つ知らない。それで世話になった礼だと言って優子を納得させたんだ」 「よく返す金があったな」  私は沖山を見詰めた。 「二人で店をやる金を貯めていた。返したお陰で店を持つのが四年も延びたけどな」  沖山はしんみりと言って苦笑した。 「会いたかったよ。おまえが作家になったと知って、会いに行きたかった。おまえならきっと俺のことを分かってくれる。けど、それはできない。なんでおまえがあの親父さんの息子なのかと悲しかった。おまえが側に居てくれたら優子にだってこんな辛い毎日を過ごさせずに済んだはずだ。俺には友達がおまえしか居ないんだもの……おまえが居てくれたらきっと頑張れたと思う」  沖山は堪《こら》え切れずに男泣きした。  私も……泣いた。  私の記憶は正しかったのだ。やはり沖山は私にとって一番大事な友だったのである。  私もずうっと沖山と優子の側に居てやれなかったのが本当に悲しかった。  けれど今日からは一緒だ。  一緒なのだ、と私は自分に何度となく言い聞かせていた。  凍った記憶     1  新幹線の窓一杯に広がる岩手の空は真っ青で高かった。左手には岩手山が紫色にくっきりと全体を見せている。まるで絵ハガキでも眺めているかのようだ。大した荷物もないが私は下車の用意に取り掛かった。盛岡に近付くと、いつもながら心が浮き立つ。およそ二年ぶりの盛岡だ。五年前に父親が亡くなり、母親を東京に引き取ってから盛岡とは縁が薄れてしまった。たまに親戚の法事などで帰る町に過ぎなくなっている。高校時代まで過ごした町なので友人も多い。いつかは戻って暮らしたいという気持はあるが、東京でテレビドラマの演出に携わっていると、逆に地方では潰《つぶ》しがきかない。結局は東京を離れることができないに違いない。ずうっと局に残っていれば岩手にある系列局に異動する機会もあっただろうが、その頃は若くて故郷のことなど考えもしなかった。典子だって岩手に暮らすのはごめんだと言い張っている。  電車はホームに滑り込んだ。  ホームには二人の男女が出迎えていた。若い女性が私を認めて頭を下げた。私と同世代と見える男も笑顔を浮かべて前に進みでた。 「どうもお疲れさまです」  浦田と名乗って男はS町の観光課の名刺を差し出した。女性の方はやはり教育委員会の水堂|千聡《ちあき》だった。初対面だが彼女とは電話で何度かやり取りをしている。 「もっと年配の人だと思っていた」  まだ二十五、六にしか見えない。教育委員会という堅いイメージとも掛け離れている。短めのスカートに長い脚が目立つ。それに溌剌《はつらつ》として、好みのタイプだ。 「先生の大ファンで……アガッていたんでしょう。先生に連絡を取るときはいつも緊張でコチコチだったと同僚が笑ってましたよ」  浦田は千聡をからかって、 「どうも勉強不足でして。水堂君から教えられるまで先生が私らの町に所縁《ゆかり》のあるお方だと知りませんで……これをご縁になにとぞよろしくお願いいたします」  あっさりと白状した。私は苦笑した。 「とにかく車の方へ。待たせてあります」  浦田は言うと先に階段を下りた。  駅前に役場の黒塗りの車が待っていた。乗り込むと直ぐに発車した。車は懐かしい開運橋を渡る。ここから眺める岩手山は格別に美しい。私はそれに見惚《みほ》れていた。 「町についての思い出はいかがです?」  浦田が質《ただ》した。 「たくさんありますよ。盛岡に移ってからほとんど訪ねたことがない。それで反対に記憶が色褪せずに残っている。電車の窓から覗いたけれど東根山《あずまねさん》や新山《にいやま》も変わらない」  ともにS町のシンボルに等しい山だ。 「盛岡からのバス路線だって、今でもだいたいのバス停を言える」  私は記憶を辿って順に並べ上げた。もちろん大雑把なものだが七つ八つが口にでた。 「当たってます」  前の助手席で千聡が嬉しそうに頷いた。 「本当に暮らしておられたんですね」  浦田は驚いた顔をして、 「そこまでご存じとは思わなかった」 「転校してきたのは何年のときですか?」  千聡が振り向いて訊ねた。 「小学校四年の春から中学一年の夏まで居た。バス路線に詳しいのは盛岡の中学にバス通学をしていたせいでね。田舎道をのんびり走るバスの鈍《のろ》さを忘れるためにバス停を指折りかぞえた。それでたいがい頭に入っている」 「お父上が県立病院の副院長として赴任しておられたんですね」  浦田が言った。 「お父さまはお達者で?」 「いや、五年前に」 「そうですか。それは残念なことで」 「町まで今はどれくらいかかるんです?」  車は城跡を右に曲がって下ノ橋に達していた。ここから明治橋に向かって仙北町に入るつもりなのだろう。S町はその先だ。 「高速道路が町の直ぐ側を通っておりますから、三十分前後で到着しますが、今日は先生が昔利用していたバス路線を向かいます。五十分くらいでしょうか」 「それなら昔と変わらない」 「景色もそうですよ。特に先生が住んでおられた地域の町並みは四十年がとこ変わっておらんはずです。こんなに盛岡と近いのに、なぜか時代に取り残された感じです。私らも不思議に思っています。広い岩手県でも珍しいんじゃないかな」 「でしょうね。電話で教えられるまで、まさか小学校や映画館がそのまま残されているなんて思ってもみなかった。こっちも信じられない。暮らしていたのは十歳前後の頃だから、今から三十六年も前の話だ」  それで時間をやり繰りしてでも訪れてみたくなったのである。盛岡は新幹線が開通して以来、どんどん町並みが変わって懐かしさを覚える場所が少なくなってしまった。 「水堂君の手柄です。お忙しい先生が町に足を運んでくださるなんて……町長も喜んでおります。今夜の講演には町長も参ります」  浦田の言葉に千聡は照れた。こちらも面映《おもはゆ》い。足を運んでくださったとは大袈裟過ぎる。興味を抱いたのは私の方なのだ。最新のエッセイ集を読んだと言って千聡が私に連絡を取ってきたのは二ヵ月ほど前のことだった。その本の中には私とS町の繋がりが書かれてある。原因不明の火事で焼失して新校舎となったばかりの小学校に転校したこととか、入場者が十人に満たなければその日の興行を中止した小さな映画館のことなど、ただ懐かしい思いから連ねた文章である。千聡は現在S町の役場に勤務する者としてとても嬉しかったと感想を述べた後に、一時間ほどの講演の依頼を申し出てきたのである。東京の近くならともかく、岩手では遠過ぎる。躊躇していると、千聡は映画館や小学校が昔のままに残されている、と言った。しかも講演の会場はその小学校の、私が学んでいた教室で行ないたいと付け足した。聞かされて私は耳を疑った。てっきり取り壊されたものだと思い込んでいたのだ。日時の調整さえしてくれたら、と私は応じて講演を引き受けることにした。 「先生のご尽力で、なんとかあの小学校を記録にとどめておくことはできんもんでしょうかね」 「は?」  私は浦田を見詰めた。 「私も何度か見にいきましたが、いい校舎なんですわ。モルタルが懐かしい。あくまでも予定ですがね、二年後辺りには取り壊すことになっております。その前にあの校舎を舞台にしてテレビかなんかのドラマにでもしていただければありがたい。町の宣伝になります」  そういうことか、と私は内心で溜め息を吐《つ》いた。思い出を語るだけの気軽な講演に四十万の謝礼だ。やはり他の狙いがあったのである。もっとも、こんなことは珍しくもない。 「見てから考えさせてもらいます」  別に悪い話でもない、と私は感じた。自分が卒業した小学校なのだ。感傷だけのところに話を持ち出されたので少しの不快を覚えたに過ぎない。実現すれば恩返しにもなる。 「映画館の方はどうなってるの?」  私は千聡に質した。もしドラマ化が実現した場合、あの映画館は絶対に外せない。 「一度魚屋が買い取ってスーパーとして営業していたんですが、今は潰れて建物だけになっています。外観はその当時のままだと聞いていますが、客席やスクリーンはありません」 「スーパーに変わったんなら当然だ」 「映写室は残っているような……外から眺めた印象なので断言はできませんけど」 「明るいうちに見ておきたいな」  千聡は喜んで承知した。     2  車は真っ直ぐ町役場に向かった。S町は広い。役場のある町の中心部と私が暮らした地域は車で十五分も離れている。さすがに町の中心は大きく様変わりしていた。と言っても新しいビルや派手な電飾のパチンコ店でそうと感じるだけで、この辺りにはもともとさほどの記憶がない。子供だったせいで、ここまで足を伸ばすことは滅多になかった。母親の実家は盛岡にあった。土、日はたいがい母親に連れられて盛岡にでた。だから買い物のために町の中心部に行く必要もなかったのだ。私の知っているS町は、家のあった地域を囲むほんの小さな一画でしかない。子供の頃、この役場のある地域はS町ではない、とさえ思っていた。 「この近くにも、確か映画館があった」  役場の応接室の窓から外を見下ろして私は千聡に言った。浦田は町長を探し歩いている。 「そうらしいですね」 「三ヵ月に一度くらいは見にきたよ。その当時は不思議に思わなかったが、一つの町に二つも映画館があったわけだ。映画しか楽しみがない時代だったとはいえ、信じられない」 「エッセイにもありましたけど、映画がお好きだったんですか?」 「なんでだか知らないが、うちの方の映画館にはやたらと怪談映画がかかっていてね、週に二、三回は見に行っていたな」 「エッセイを読むと映画は日替わりだったとか。すごい贅沢《ぜいたく》ですよね」 「そこのところは適当な記憶だ。本当を言うと金、土、日の三日間興行だったかも知れない。けど日替わりは嘘じゃない。もっとも、何年も前に封切られた古い映画が大半だったから大した贅沢でもないさ」 「週に三日の上映なら欠かさずに見に行っていたということですか?」 「映画より別の目的があった」  私は苦笑いして打ち明けた。 「その映画館の中にパンや牛乳を売る小さな店が入っていて、好きだった女の子の家が経営していた。土、日の午後はその女の子がたいてい手伝っていた。彼女の顔見たさに通っていたんだよ。映画なんかそっちのけで後ろの方ばかりを見ていた。カーテンの隙間から彼女も映画を見ている。その顔がスクリーンの輝きに照らされて白く浮き上がって見えた。とても綺麗だった」 「先生は小学生だったんでしょう?」 「その子も一緒さ。同級生だった」  私が言うと千聡は目を丸くした。 「それならわざわざ映画館に行かなくても」 「学校ではほとんど口も利《き》けなかった。けれど映画館の暗がりの中だと話ができる。お釣りを貰うときに手と手が触れ合うこともある。それだけで心臓が張り裂けそうなほどどきどきした。あの子はもちろん知らないだろうが、帰りが遅くなったときは騎士の真似事までした。夜道に怪しいやつが現われたら飛び出して救うつもりでね。そうして密かに彼女の家まで後を追いかけた。今考えると、こっちの方が倍も怪しい」 「よほど好きだったんですね」  半分呆れた顔をして千聡は言った。 「小学校以来、一度も会っていない。だから余計に思い出が強烈なんだろう」 「お名前は? たぶん探せると思います」 「いや、いいよ」  私はどぎまぎして断わった。 「思い出は思い出のままにしておきたい。それに簡単じゃないはずだ。彼女の家は六年のときに店を閉じてどこかへ引っ越した。まるで夜逃げのようにしてね」  そこに浦田が戻った。町長は急な用件が入って役場を留守にしていると言う。 「どうせ講演のときにお会いできますから」  私が言うと浦田は安堵の顔で頷いた。  私は千聡の運転する車に乗った。講演にはまだ間がある。町を見歩く時間はたっぷりとあった。浦田は役場の車を出すと言ってくれたのだが、運転手つきでは堅苦しい。千聡一人の方が気楽で我が儘も言える。 「さっきの話ですけど……」  巧みにハンドルを操りながら千聡が続けた。 「やっぱり小説のようにはいかないみたいです。なんだか気落ちしちゃいました」 「なんのことだい?」 「初恋の女の子の家は、お菓子屋だと別のエッセイに書いてありました」  私は頷いた。 「私の母も先生とおなじ小学校の卒業生なんです。年齢は先生より一つ下。母の実家はお菓子屋だったので、もしかしたら初恋の相手というのは母のことじゃないかって……あの地域にお菓子屋はいくつもなかったから」 「なるほど」 「さっきの話を伺うまで、ずうっと胸がときめいていました。母の名前が先生の口からでたらどうしようかと……ちょっとがっかり」  私は笑った。 「映画館に売店をだしていたことを書いてくださっていれば勘違いもなかったのに」 「それを書けば相手がどこのだれか直ぐに知られてしまう。いくら大昔の話と言っても照れるよ。だれにも口にしたことのない秘密だったんだ。そうか、それで熱心に俺の本を」 「けど半分以上は疑っていました。あんな母を先生が好きになるなんて考えられない。どんなに子供の頃だって。男勝りの上に、ひどいおしゃべりなんです」 「君に似ていれば美人だったに違いない」  私と千聡の距離は一気に縮まっていた。 「いろんな人に聞き歩いて無駄しちゃいました。でも、わくわくした分だけ得したかな」 「いろんな人ってのは?」 「役場にも先生と同級生だった人が何人か居るんですよ。母の従兄もそうですし」 「俺のことなんか憶えていないだろう?」  盛岡に移ったせいで町とは無縁になった。 「皆、先生のこと憶えています」  当然のように言われて私は戸惑った。同級会の案内すら貰ったことがない。 「転校生は特別の存在ですもの。それに病院の副院長の息子さんとなると、もっとです」 「憶えていてくれたとはね」  なんだか嬉しかった。 「テレビのお仕事をなさっていることはだれも知らなかったみたいですけど……どこかでお医者さんになっているとばかり」 「俺は長男だからな」 「小学校の卒業生名簿でも先生の職業は医師となっていました。よく調べもしないで同級生の言葉を頼りに記入したんでしょう」 「そんなものまでひっくり返したのか」 「仕事柄、小学校とは頻繁に行き来を」 「………」 「お陰で先生の記憶違いを発見しました」 「ほう」 「先生があの小学校に転校してきたのは三年生のときです。四年じゃないんです」 「まさか」  私は苦笑いした。自分のことである。 「絶対です。何人もの同級生の人におなじことを言われました」 「そうかな……そう言われると自信を失ってきた。なにしろ四十年近くも昔の話だ」 「わざと嘘を書いたわけじゃないんですね」  千聡は気になる言い方をした。 「嘘ってのは……なんのことだ?」 「転校が何年生のときだったか忘れてもおかしくはありませんけど……三年生の春に転校してきたとしたら、先生は必ず学校の火事を知っているはずなんです」 「エッセイにも書いたように、知ってるよ。それで新校舎だった」 「新校舎が完成したのは先生が三年生のときの十一月のことです。火事があったのは、その年の五月。先生は春に転校したと書いてありますよね。それが本当なら春から十一月まで、どこでどうしていたんでしょう?」 「えーと、ちょっと待ってくれ」  私は頭を整理した。千聡の言っていることがすんなりと理解できない。 「すると……春というのが記憶違いで、俺は三年の十一月に転校してきたってことか?」 「いいえ。先生の転校が三年の春なのは確か。小学校の転入記録は燃えて残っていませんが、県立病院の異動記録が役場に保管されています。お父さまが副院長として赴任なされたのは先生が三年の春のことでした」  私は唖然となった。と同時に千聡に対して薄気味悪さを覚えた。なんだってこの娘はそんなことをしつこく調べたのだろう。 「すみません。でも気になって」  察して千聡は先回りした。 「なにが気になる?」 「子供にとってすごい大事件だったはずだと思うんです。先生の転校が三年の春なら、それから二ヵ月もしないうちに学校が燃えたことになりますよね。生徒たちは新校舎が完成するまでの半年間、いくつかの学校に分散させられて授業を受けたと聞いています。そして真新しい校舎に入った。どんなに昔のことだって、はっきりと頭に刻まれる出来事じゃないでしょうか?」  私は思わず唸りを発した。 「私の母もしっかり憶えています。何度となく聞かされました。散り散りになった子供たちを集めて青空学級もときどき行なわれたとか。それがすごく嬉しかったそうです。ですから私も先生のエッセイを読んだとき、新校舎になってからの転校だと信じて疑わなかったんです。でも、実際は違う。そうなると、先生が嘘を書いているとしか思えなくなって」  辛そうに千聡は私を見詰めた。 「ちょっと車を停めてくれ」  私は動転していた。青空学級と言われて、確かにそのような記憶が甦ったのである。だが、その記憶は一瞬にして薄れた。取り戻そうとしても映像となって戻ってこない。 「嘘なんかじゃない。本当に新校舎になってからの転校だと完全に思い込んでいた。第一、君の話だってどこまで真実なのか……同級生の記憶違いってこともあるだろうし、親父の一件にしても最初の半年くらいは単身赴任だった可能性がある。君の言う通りさ。そんな経験をしたら忘れるわけがない。俺は新校舎の完成を待って転校したんだろう」 「単身赴任だったという記憶があるんですか」  頷きながら千聡は質した。 「いや……残念だがそれもない」  私は正直に答えた。 「子供にとって父親の単身赴任も大きな出来事です。それを忘れるなんて……」  千聡は首を傾げた。 「参ったな。どんなに君に言われたって俺にはなんの説明もできないよ」  思いがけない展開だった。 「どちらが正しいか興味ありますか?」  悪戯っぽく千聡は笑った。 「確かめる方法があるのかい?」 「もしかすると写真に先生が写っているかも知れません」 「どんな写真?」 「学校が焼失して分散授業に入る前に校庭で撮影された記念写真です。学年ごとに写したものが小学校の資料庫に大事に残されています。私は見ましたけど……子供の頃の先生の顔が分からなくて確認できませんでした」 「ずいぶん熱心なんだな」  私は少したじろいだ。 「今度の講演の打ち合わせで学校に何度も行くついでがあったのと、なんだか調べるのが面白くなって……それに先生がせっかく町にこられるんですもの。たくさん懐かしい資料を集めてプレゼントしたかったんです」  千聡に他意は感じられない。私は納得した。 「その写真に俺が写っていたら、どうなるんだろうね。自分でも怖くなってきた」  火事から新校舎落成までの半年以上もの記憶が私からすっぽりと欠落していることになる。そんなことが本当に有り得るだろうか。 「きっと先生の記憶の方が正解でしょう」  千聡は反対に自信を失った顔をしていた。 「自分の通っていた学校が燃えた記憶を失うなんて、やっぱり考えられない」 「と思うがね」  言いつつ私はまた不安に襲われていた。土手の向こうの夜空に広がる真っ赤な炎が不意に甦ってきたからだ。いつの記憶かは定かではない。その炎が学校のものだという確信も私にはなかった。それでも偶然に頭に浮かんだ無縁の記憶とは、とても思えなかった。     3  映画館の前に私は立ちつくした。なにかを口にしたいのだが、その言葉を熱い思いが呑み込んでしまう。奇跡としか言い様がないほどに映画館は昔のまま目の前にある。一度スーパーに変わったのが逆に幸いとなったのだ。傷んだ壁や屋根が綺麗に修理されて建物の寿命が延びたのである。閉館して放置されたままであれば何年も前に朽ち果てていただろう。スチール写真を貼っていた飾り窓や入場券売り場も当時の姿をとどめている。入り口の上には上映中の大きなポスターを飾るスペースがあったはずだが、そこには鮮魚、仕出しと大書したトタン板の看板が掲げられている。 「変なスーパーだね」  やっと私も余裕を取り戻した。 「写真の飾り窓とか切符売り場なんてスーパーの営業の邪魔になるだけじゃないか?」 「町の人たちの希望だったと聞いています」 「大事な建物だったんだな」  胸が詰まった。この映画館にはたくさんの思い出がある。私と同様に多くの人たちにも思い出が詰まった場所だったのだ。 「中に入ることのできないのが残念だ」  入り口にはシャッターが下りていた。 「明日でしたらなんとか」 「無理しなくていいよ。どうせ中はスーパーになってしまったんだ。だだっ広い倉庫のようなもんだろう。売店もないはずだ」  外観だけでも満足できる。それに……この川沿いの景色も昔とまったく変わりがない。今は明るい午後なのでのんびりした風景に感じられるが、夜は怖い道だった。電灯のない真っ暗な土手道を歩いたことが思い出される。特に怪談映画を見た後は最悪だった。おなじ道を歩く大人を探して、その直ぐ後ろについて帰った。思えば……なぜあの頃はあんなに家族がばらばらだったんだろう。好きだったあの娘が売店の手伝いをしていたので映画館に通い詰めたというのは確かなのだが、もう一つの理由として家の冷たさがあったような気がする。父はほとんど家に居なかった。麻雀、宿直、往診のいずれかで真夜中に帰ることが多かった。私が医者の道を選ばなかったのにはそれが大きな原因となっている。楽な仕事ではないと子供心に感じたのだ。母は毎日のように不機嫌で田舎暮らしを呪っていた。学校から戻ると卓袱台《ちやぶだい》の上におやつのパンと牛乳が置いてあり、盛岡へ買い物に行きますと書いたメモが残されていることが多かった。私と弟の夕食は隣接した病院の炊事のおばさんが届けてくれるので心配はない。私を叱る者は居なかった。だから頻繁に映画館へ足を運ぶことができたのだ。映画が特に好きだったわけではない。 「どうかなさったんですか?」  いつまでも無言で静かな川面を眺めている私に千聡が声をかけてきた。 「逃げ場だったのさ。ここにくればあの娘に会える。人もたくさん居て、笑い声があった」  今にしてようやく私はそれを理解した。  映画館から小学校まで私は自分の足で歩くことにした。千聡も車をそのままにして私に従った。せいぜい十分の近さである。車は後で取りにもどればいい。 「道が分かりますか? 途中を高速道路が横切っているのでずいぶん変わっていると思いますけど」 「何年も通った道だよ。目を瞑《つむ》ったって辿り着ける自信がある。川沿いに歩いて左に曲がるだけのことだ」  千聡は笑って頷いた。  歩きたかったのには特別な理由があった。あの娘の家がこの道の途中にあるのだ。土手から少し脇に下りた場所なので車だと見逃す恐れがある。店がそのまま残されているとは思えないけれど、あった場所程度は探せるに違いない。足を急がせつつ、私は彼女の顔を頭に思い浮かべていた。が、像を結びそうになると歪んで消える。いつも紗《しや》がかかったような顔しか現われない。それは映画館の暗がりの中に浮かぶ彼女の白い顔なのだ。教室の中の彼女はまるで思い出せなくなっている。 「あ」  思わず声にして私は立ち止まった。商店らしい面影を残した廃屋を見付けたのである。彼女の暮らしていた家に間違いなかった。 「もしかして?」  千聡も私の表情で気付いたらしい。 「お店の戸が壊れています。中に入ってみましょうか?」  千聡が先になった。 「よそう」  私は千聡を制した。子供のときとおなじ動悸が私の足を止めていた。暗がりの中から何度あの娘の部屋の窓の明りを眺めたことだろう。映画館から後をつけて彼女の部屋に電気がつくまで見守っていたものだ。それでもこの店に買い物をしに入ったことは滅多にない。なぜだか知らないが彼女の母親が怖かった。女手一つで三人の子供を育てていた人である。その厳しさが子供の私にもひしひしと感じられたのかも知れない。 「無断で入るとマリちゃんに悪いよ」 「やだ、先生、ついに名前を白状した」  千聡は吹き出した。 「俺はここのお母さんに嫌われているんだ」  無意識にその言葉がでた。 「どうしてです?」  怪訝《けげん》な顔で千聡が質した。 「どうしてなんだろう……俺にも分からない」  戸惑っているのは私の方だった。     4 「俺、泣きたくなってきた」  教室に案内されて眩暈《めまい》さえ覚えた。学校の外観や玄関を入ってからの廊下の雰囲気、そして挨拶を交わしながら眺め渡した教員室のたたずまいで懐かしさはじわじわと胸に込み上げてきていたのだが、小さな教室に一歩足を踏み込んだ途端、我慢ができなくなった。 「俺はここに居たよ。ここの床の掃除もしたし、窓ガラスも拭《ふ》いた。この端っこの教室に間違いない。俺の席はこの辺りの窓際だった」  鮮やかな記憶がいきなり甦ってきた。教室の後ろの出口からコンクリートを張ったテラスにでることができる。そこではビー玉やメンコに興じた。広い出窓のところには皆で必死になって揃えたカバヤ文庫が並べられていた。私は背中をのけ反らせて椅子の脚をカタンカタン鳴らすのがクセで、しょっちゅう担任の女先生に叱られ通しだった。私は教室の中をうろうろと歩き回って出窓の柱や床の感触を確かめた。懐かしさを通り越してタイムトラベルをしている気分だ。この窓から見える職員室の様子や校庭の土の色も変わらない。 「あの節穴もあるんでしょうか?」  千聡が耳打ちした。 「先生が赤点のテストとか悪戯書きしたメモを投げ捨てたっていう節穴」  それもエッセイに書いたことである。学校の板塀に直径二センチほどの節穴があったので、家に持ち帰りたくない赤点のテストや他人に見せられないノートの切れ端などを押し込んで捨てていたのだ。 「この様子なら当時のままかもな」 「どこにあるんです?」 「講堂の脇の運動用具室。そこの裏手の板塀」 「運動用具室ならちゃんと残ってます」  千聡は歓声を上げた。 「それなら今も先生の書いたテスト用紙やメモがそのままになっているかも」 「まさか。薄い紙切れだぞ」 「紙って、意外と腐らないんですよ」  今にも確かめに行きたそうな顔で千聡は言った。なんのことか分からず案内の教諭はきょとんとして私たちのやり取りを聞いていた。  私は校長室で茶の接待を受けていた。目の前には町長の他に町の商店会長や教育委員長も顔を揃えている。今夜の講演会に先立って挨拶をする人間たちだ。千聡は置いてきた車を取りに出掛けている。 「町は変わっておらんでしょう」  商店会長が私に質した。 「学校の近くに店の廃屋がありました」  私はさり気なく口にした。皆は頷いた。 「あの店は同級生の家でした。確か六年のときにどこかへ引っ越して……懐かしかった」 「ヤマセ商店ですな」  商店会長は大きく首を振ると、 「旦那が亡くなってから奥さん一人で頑張っていたが、結局先細りになってね」  それに皆も思い出したように頷いた。 「あの奥さんも運が悪い。とうとう犯人は捕まらずじまいになった」 「犯人?」  私は商店会長を見詰めた。 「旦那は交通事故で死んだんですよ。轢《ひ》き逃げに遭《あ》ってね。気の毒なことをした」  ざわざわと寒気が私を襲った。 「あの当時のことだから警察も力足らずのとこがあったのかも知れんが……」 「警察も忙しかったんだ。火事と重なって」  町長が弁明するように言った。 「消防車が轢いたんじゃないかって噂も立った。それで警察が本腰を入れないとか」  商店会長の言葉に皆は押し黙った。 「火事というと……小学校の?」  急な吐き気と戦いながら私は訊ねた。 「そう。その騒ぎのせいで死体の発見が遅れてね。奥さんの方は旦那がてっきり消防の手助けに回ってるもんだと思ったらしい」  私は耐えられずに立ち上がった。 「すみません。ちょっとトイレに」  どうしたんだろう? 自分でも分からない。校長室を飛び出て広い廊下を歩いているうちに吐き気は次第に薄らいだ。だが、胸の大きな鼓動は鎮まらない。 〈なんとしても……〉  事実を確認しなければならない、と私は思った。すべてはそこに端を発している。  私は千聡から教えられた資料庫に足を向けた。資料庫は校舎の端にある。教室を改装したものだ。係りの者が居ると思ったが、無人だった。私は勝手に戸を開けて入った。  雑然として未整理の棚が多かったが、目的のものは直ぐに見付かった。古いアルバムが三十冊前後並べられていた。私は一冊を手にして捲《めく》った。やはり記念写真を集めたアルバムである。昭和初期に撮影したと思われる修学旅行の写真も見られた。そのアルバムを棚に戻して別のものを探した。注意して眺めるとアルバムの下には年代が記入されていた。私は昭和二十二年の生まれだから小学校の三年と言えば昭和三十一、二年だろうか。該当するアルバムを探し当てて少し指が震えた。ここにきて知るのが怖くなったのだ。けれど後戻りはできない。この中の写真に自分が写っていないことをひたすら祈りたい。写っていなければ私の転校は新校舎の落成以降と定まって、すべてのことと無縁になる。 〈なにと無縁になるんだ?〉  私は自問した。どうやら私の中には別の私が潜んでいるらしい。そっちの私は、私の記憶していないことをずいぶん憶えているようだ。勇気を振り絞って私はアルバムを開いた。  懐かしい古い校舎を背景にした卒業記念の写真が何枚か続く。懐かしい? 私は自分の反応に恐れを感じた。よくある古い木造の校舎だ。一般的な懐かしさであろう。無理に私は自分に言い聞かせた。  やがてそれに辿り着いた。  校庭の背後に校舎は見えない。その寒々とした光景の中に六、七十人の子供たちが雛壇の形となって並んでいる。六枚の写真の下にはそれぞれ学年が記されていた。迷わず私は三年生の写真を凝視した。資料庫の薄暗い明りでよく見えない。私はアルバムを手にして廊下にでた。まだ廊下には陽射しがある。  今度はなんとか顔の識別ができるようになった。仲のよかった友人の神妙な顔が浮かび上がってきた。胸騒ぎが激しくなった。私はざっと目を動かした。  どきん、とした。  心臓が破裂しそうだった。  友達に囲まれた私の顔が、そこにはっきりと写されていたのである。  腰が砕けそうになった。アルバムを取り落としそうになった。足の震えが止まらない。  私はもう一度子供の私を見詰めた。  子供の私はひどく暗い目をしていた。  千聡の話は本当のことだったのだ。  私は三年の春にこの学校へ転校してきたのである。そして火事を眺め、分散授業も受けている。それなのに……私にはそれらの記憶が一つも残されていない。  悲鳴を上げたかった。  その瞬間──私の中に凍らせて封じていたすべての記憶が一挙に溶けて溢《あふ》れでた。  あの夜。  私は車庫の側の草むらに座って胸が破れそうな思いで親父の帰りを待っていた。私は見たのである。往診だと父親を呼びにきた看護婦の早苗さんが、親父の運転する車に乗り込むなり口づけをしたことを。まさか私が見ているとは知らず親父も早苗さんを抱きしめた。それで私は分かった。母がどうして機嫌が悪いのか。親父の帰りがどうしていつも遅いのか。辛かった。子供だった私は見たことを正直に親父に言おうと思った。そうすれば親父も母と仲直りしてくれるかも知れない。だからこっそりと部屋をぬけでて車庫の側で帰りを待ち構えていたのだが、それはもっと辛くて怖いことを知る切っ掛けとなった。  親父の車は右に左に揺れながら戻った。ライトが片方壊れていた。隣りに早苗さんの姿も見える。私は咄嗟《とつさ》に隠れた。早苗さんを前にして親父に話はできない。車は車庫に入った。だが親父たちはなかなかでてこなかった。私は車庫に近づいて聞き耳を立てた。車庫の中では声が反響して大きく聞こえる。 「やるしかない」  親父の怖い声が響いた。 「警察に自首すれば俺は終わりだ」  早苗さんは泣いていた。 「往診だと嘘をついていたのもバレる。このままだと明日には必ず捕まる。タイヤの跡がずっとここまで続いているんだ。今夜しかない。上手くやるから君は帰れ」 「やっぱり警察に行きましょう」 「駄目だ。君は俺の一生を台無しにする気か。俺には二人の子供もある。警察に行くぐらいなら、あの男を車に乗せて病院まで運んできた。君には迷惑をかけない。忘れてくれ」 「絶対に捕まるわ。車も壊れているし」  早苗さんは怖がっていた。 「もう遅いってのが分からないのか! タイヤの跡を消しさえすればなんとかなる。どさくさに紛れて車を木かなにかにぶつける。時間がズレていればさっきの事故と関連づけるやつはいない。自信があるんだ」  私は恐ろしくなって家に逃げ帰った。いつもの親父とはまったく違う口調だった。布団の中でぶるぶる震えていると親父が戻った。親父は真っ直ぐ私と弟の部屋に現われた。立ち聞きしたのが発覚したと思った。殺されるかも知れない。私は必死で息を殺した。親父は私と弟の頭を撫でて立ち去った。今の話を聞いたよ、と言って親父の背中にしがみつきたかった。だが、できなかった。親父が死刑になったらどうしよう、とそればかりが頭にあった。  小学校が燃えていると言われて起きたのは真夜中だった。親父は家に居なかった。入院患者の容態が気になって病院の方に行っていると母が答えた。直ぐに火事は親父の仕業だと分かった。私は着替えて外に飛び出た。やはり車庫に車はなかった。東の空が真っ赤に燃えている。私は土手に上がって確かめた。たくさんの大人たちが土手を走っていた。中に同級生の顔も見える。私は母の制止を無視して一緒に学校を目指した。昼の雨でぬかるんでいた道には無数のタイヤの跡が重なっていた。消防車や警察の車が走った跡だった。タイヤの跡を消すと言っていた親父の言葉が思い出された。私は親父を探し歩いた。やがて親父の車を見付けた。親父の車は消防車に追突していた。親父がぺこぺこと頭を下げている姿が炎を背景にしてはっきりと見えた。私はその場に立ちつくした。そして……今夜のことは一生だれにも黙っていようと思った。母にだってもちろん言えない。マリちゃんの父親が轢き逃げ犯に殺されたことは翌日学校で知った。 〈マリちゃんの父親を轢いたのは親父だったんだよな〉  私の目からは涙が溢れた。 〈だから俺はせめてマリちゃんを守ってやろうと必死だった。そっちに全部の気持を注いだんだ。映画館に通ったのだって……〉  パンや牛乳を買えば少しでも彼女の家が楽になると思ってのことだった。そのために私は母の財布から金も盗んだ。 〈でもマリちゃんのお母さんには見透かされているような気がしていた〉  それで家の方には近付けなかったのだ。 〈学校の火事のこととか分散授業なんて俺にはどうでもいい問題だった。それよりも親父の轢き逃げがいつ発覚しやしないかと、それだけに怯えて過ごしていた〉  そのストレスで熱をだして私は二ヵ月ほど盛岡の病院に入院するはめになった。それさえも、たったいま思い出した記憶であった。だから私は新校舎になってからの転校だと思い込んでいたのである。  それにしても、放火の理由が土手道に刻まれたタイヤ跡を消すためだったなんて……親父の悪知恵に体が震えた。重い消防車が何台も通れば簡単に消えてしまう。あの当時、この田舎の町に車はかぞえるほどしかなかった。そのままにすれば、ぬかるみに刻まれたタイヤの跡で間違いなく親父の犯行が明るみに出ていたはずである。小学校を燃やしたのは、事故現場の先に位置していたことと、大火災となる割りに無人に近い建物だったせいなのだろう。轢き逃げこそしていても親父は無差別殺人者とは違うのだ。 〈いや……おんなじだ〉  それで改心したのなら神も情けをかけてくれるだろうが、親父の女遊びは止まなかった。親父と母の喧嘩は絶えなかった。私が家に愛想を尽かし、地元の医大を受験せずに東京へでた理由もそこにある。私は記憶を失っていたけれど、底辺には人を轢き殺した親父がのうのうと医者を続けていることへの疑念が強く渦巻いていたに違いない。 「先生……」  不意に背後から千聡の声がした。 「どうかなさったんですか?」  千聡は私の手にあるアルバムに目を動かした。私は千聡の調べの方が正しかったとだけ答えた。千聡は無言で頷いた。 「それは?」  千聡の手には何枚かの紙が握られていた。 「あったんです。これ、先生のメモ」 「嘘だろ?」 「テスト用紙の方は紙質が悪かったらしく一枚も……でもお手柄でしょう?」  得意そうに千聡は私へ手渡した。 「節穴の場所を確かめるだけのつもりで行ってみたら羽目板の釘がボロボロになっていたんです。外して腕を入れて探ったら直ぐに」 「君は探偵になれるぞ」  私は受け取った紙に目を通した。本当に自分が書いたものなのか分からない。意味不明の文章やマンガが大半だった。最近の子供が投げ入れたという可能性が高い。だが、捲った一枚に私の目は釘付けとなった。  マリちゃんごめんね。きっと君とけっこんして幸せにするから。  下手くそな字でそう書かれていた。  私は頑張って涙を堪《こら》えた。  こんなことを本気で考えていた自分が哀れで愛《いと》しかった。親父の罪を自分一人が背負うつもりでいたのだろう。 「わ、すごいラブレター」  すかさず千聡が覗いて喜んだ。千聡にはごめんねの意味が分かっていない。 「やっぱり……君に頼もうかな」  私は紙を握り潰して言った。 「なにをです?」 「山瀬麻里子さんの居場所が知りたい」  思い出した以上は彼女を探し当てて謝るしかない、と思った。それが子供の頃の自分の気持に対する大人の私の義務である。  千聡は新たな役目を与えられて喜んでいた。  私もなにかから解放されていた。  大きな安堵が私を包み込んでいた。  昨日の記憶     1  思い出はすべて心の中にしまわれてあるはずなのに、たいていは鍵で閉ざされているので、忘れたのも一緒だ。ときとしてその鍵を開けて見たりもするが、厭な思い出にぶつかりそうになると人は慌《あわ》てて蓋《ふた》をする。だからなんとか生きていける。愛《いと》しい思い出だけを人は抽出する能力を備えているらしい。しかし、それに他人が関わりはじめると崩れはじめる。否応なしに鍵を開けなければならないこともあるのだ。  そんなことを常日頃考えていたわけではないが、三十年ぶりにあの子から電話を貰い、切った後に感じたのはそうした思いだった。  予感は確かにあった。私の心はその数日前からあの時代に引き戻されていたのである。  地方での講演や取材旅行があると私は必ずCDプレイヤーを携帯し、車中ではずっとそれを聴く習慣がついている。音楽に浸ることで神経を休めるのがもちろん第一の理由なのだが、と同時に他人から話しかけられるのを防ぐ役割も果たしてくれる。ことに地方講演などの場合、面識のない人間と一時間近くも車で同席することがままある。相手も私となにを話していけばいいのか戸惑っている。そんなとき断わってイアホンを耳にすれば、互いに余計な気を遣わずに済むというものだ。  あの日もそういう情況にあった。  車の前の席には新幹線の駅まで迎えに来てくれた役所の人間が座っていた。目的の町に着くのは四、五十分後。最初の十分ほどで夜からの講演の打ち合わせを終えてしまうと、退屈な田舎の風景をただぼんやり眺めて行くしかない。私は東京駅で買ったCDをバッグから取り出して低い音で聴きはじめた。ザ・ワイルド・ワンズのベスト盤だ。それほどファンだったわけではないけれど、中に「青空のある限り」が収録されていたので、つい手が出てしまった。これを頭から最後まで聴き終える頃には町に着く。  車は燃えるような黄昏《たそがれ》の中を走っていた。窓を透かして入る夕陽が私をセンチメンタルにしていた。耳に流れる数々の曲が妙に懐かしい。好きな曲で今でも頻繁に聴くものには滅多に心を動かされることがない。こんな曲もあったな、というくらいの方が思い出をより喚起する。好きな曲だと、それに関わる思い出が多過ぎて逆に稀薄となるのだろうか。なぜかは知らないが、夕陽に包まれた田園風景を眺めながら古い曲を聴いているうちに胸が締め付けられるような思いにとらわれはじめた。そんなところに「昨日に逢いたい」が被《かぶ》さって来たのである。   いとしい人のその声を   感じて目覚めた、夜明けには   忘れた歌をうたうように   忘れたふるさと、よみがえる   夕陽の中で愛を確かめ   二人で一つの、朝をむかえた   昨日《きのう》に逢いたい   おまえに逢いたい   いとしい人の面影に   涙が流れる、そのわけは   二人ですごした思い出が   かわいた心を、洗うから   腕に抱かれて小川を渡る   おまえの長い髪、野薔薇《のばら》は燃えた   昨日に逢いたい   おまえに逢いたい  心臓がきりきりと痛くなった。曲が終わっても甘酸っぱい感傷が続いた。私はもう一度この曲を頭出しした。私のような歳になると、昨日に逢いたいという言葉が切実なものとして感じられて来る。失われた時間がどれほど多く、美しかったことか。若さはそれだけで意味がある。あの時間は戻って来ないのだ。繰り返し再生のボタンを押して、町へ着くまでの間、私は「昨日に逢いたい」だけを聴き続けた。幸い車内は暗くなっていた。涙を拭う不様《ぶざま》さはだれにも気取られなかった。 〈昨日に逢いたい、おまえに逢いたい〉  聞こえぬ程度に口ずさみ、そのとき私の頭の中にあったのは、あの子のことだった。  あの子のことを思い出したのは、いったい何年ぶりなのだろう。今頃は子供の大学受験のことなどで頭を悩ませているかも知れない。現在のあの子に逢いたいとは思わないが、可能なら昨日のあの日に戻ってもう一度テニスをしてみたい。明るくて太陽に輝く若草の匂いのする女の子だった。一緒に食べたチョコレートパフェの味とともに、肩を並べて歩いた盛岡の裏通りのくすんだ家並みや市街地を流れる川の瀬音が溢《あふ》れるごとく甦って来た。 〈昨日に逢いたい、おまえに逢いたい〉  どこにどうして暮らしているのか?  白い運動着を微かに揺らす胸の膨らみから目を逸《そ》らすことができなかった。夜中のうちにあの子の部屋の窓の隙間に書き上げたばかりの詩を挟んだこともある。外国製の二十四色の色鉛筆が詰まった箱をプレゼントしたことを君は憶えているだろうか。私にも読めやしなかったが、ロートレアモンの『マルドロールの歌』の原書を誕生日に届けたっけ。 〈昨日に逢いたい、おまえに逢いたい〉  その切ない思いは講演を終えて東京に戻ってからもしばらく止まなかった。部屋で仕事をしている最中も何度となくこの曲を聴き、懐かしい盛岡の思い出に浸っていた。  そこに、あの子からの電話がかかって来たのである。偶然とは思わなかった。私の心はあの時代に戻っていたのだ。この世に偶然はない。いきなりの電話に私が驚かぬよう、神が心の準備をさせてくれていたのに違いない。とは言うものの、三十年ぶりに耳にしたあの子の声には最初違和感があった。あの子を認知するには少し時間を要した。 「憶えています?」  柊子《とうこ》は不安そうに質《ただ》した。柊子と分かると声の記憶までがはっきりと戻った。 「もちろん。忘れたことなんてない」  妻が買い物に出掛けているので今は家に私一人だけ。気兼ねなく返答ができる。 「どうして今頃になって?」  驚きよりも私は戸惑っていた。柊子からの連絡。多分に自惚《うぬぼ》れが含まれているのだが、こういうことはもっと前にあっていいはずだ、と私は考えていた。私は本名で小説を書いている。デビューしたての頃は、音信不通になっていた何人もの古い友人たちから連絡を貰った。となると、柊子も私が物書きになったのを知った可能性がある。いつかは逢う機会があるだろうと楽しみにしていたのに、それから十二年が経つ。まさか最近になってようやく知ったとも思えない。 「小林……雄平のことも憶えていますか」  おずおずと柊子は切り出した。  受話器を握る私の指に力が入った。 「いよいよ駄目らしいんです」  無言を承知と察して柊子は重ねた。 「駄目ってのは……死ぬという意味かい」  信じられない思いで私は訊ねた。そうとしか取れない言葉だが、私はとっくの昔に死んでしまったとばかり考えていたのである。あれから三十年が過ぎたのだ。 「よかったら見舞いに来てあげてください」 「………」  私はなに一つ言えなかった。 「ごめんなさい。今のは忘れて」  柊子は動揺したように謝った。 「雄平さんが可哀相だったから……いきなりこんなじゃ驚くのも当たり前だわ」 「待ってくれ」  電話を切ろうとする気配に私は慌てて声を上げた。混乱と恐れが私を襲っていた。 「雄平はまだ生きていたのか?」  それに柊子は涙声で応じた。 「あのままで?」  柊子は電話口で激しく泣いた。  そして私は今、柊子と雄平の待つ懐かしい盛岡に向かっている。     2  懐かしい町と言っても盛岡は私の故郷ではない。父親が中央銀行の盛岡支店長となった関係で高校二年の夏からおよそ一年を過ごしただけのことだ。たった一年になるとは思わず家族全員で東京から引っ越した。父親の部下が横領という不祥事を起こさなければ三年は暮らしたはずの町だった。  待ち合わせたグランドホテルの喫茶室の広い窓から見下ろす盛岡の町には印象にない建物ばかりが目立った。三十年では当たり前のことだが、盛岡は新幹線が開通して以来特に変貌が大きい。最近に訪れたのは確か八年前。そのときからでもだいぶ様変わりしている。タクシーで眺めた道筋にも建築中の高層マンションがやたらと目についた。思い出がなければ興味の持てない町になりつつある。  柊子は時間が分かれば駅に出迎えると言ってくれたのだけれど私の方で断わった。少しでも町の空気に馴染《なじ》んで気持を落ち着けてからと思ったのだ。が、これほど変わっていれば意味がなかったかも知れない。  約束にはまだ三十分も間があった。私はコーヒーをゆっくりと飲みながら町を眺め続けた。ホテルは丘の中腹に建っていて、喫茶室はあたかも展望台のようである。町の様子は変化していても、市の中心を流れる中津川は昔とおなじだ。あの川の側《そば》に父親の勤めていた銀行があって、社宅はそこから歩いて十分の近さにあった。私はコーヒーを注《そそ》ぎにきたボーイに銀行の位置を訊ねた。建物は新しくなったが、場所は昔のままだと言う。となると社宅のあった場所の見当もつく。辿った先はマンションの林立する一画だった。もともと古い住宅地だったから当然である。 〈雄平の家は公園の近くだった〉  そちらは今も残っているのだろうか。私の胸はまたきりきりと痛みはじめた。この三十年、両親がどんな思いで過ごしてきたかと考えると耐えられなくなる。私は急に後悔を覚えた。雄平よりも両親に逢う勇気がない。  柊子は私に逢ってからと言って、詳しい話をしてくれなかった。そのときは私も雄平のことで動転したせいか、両親のことまでは想像が及ばなかったのである。  目を瞑《つむ》っていると背後に近付いて来る気配を感じた。柊子だと直感した。 「おひさしぶりです」  そっと開いた目の前に柊子の顔があった。  面影がそのままに残されていた。私は黙って柊子を見詰めた。少しやつれた気もするが、少女のような笑顔に変わりはない。私は恥ずかしさを感じた。あの頃に較べれば二十キロも太っている。不摂生と運動不足が原因だ。 「よく俺だと分かったね」 「雑誌や本のカバーで見ています」  柊子は安心した様子で私の前に座った。 「いつ頃から?」 「小説家になって直ぐ」 「だったら連絡してくれればよかったのに」 「別の世界の人間だもの」 「じゃないよ。俺は待っていたんだ。約束通りに俺は物書きになった。なのに肝腎の君からはなにも言ってこない。知らなかったならともかく……君には喜んで貰えると思ってた」 「別の世界の人間は私たち」  柊子は小さく微笑んだ。 「私たち?」 「私、雄平と結婚しているんです」  ざわざわと寒気が背筋を走った。 「だけど……雄平は……」 「眠ったままだけど、知っていると思うわ」 「いつ結婚したんだ?」 「雄平の二十二歳の誕生日に。もう一生このままだと医者に宣言された日だった」 「なんでそれを教えてくれなかったんだ。その頃なら俺の居場所も知っていたはずだぞ」  私は眩暈《めまい》と戦っていた。東京の大学に入っていた私は何度か柊子に便りを出していたのである。だが一度も返事を貰えなかった。 「あなたに関係のないことだったから」  柊子は当たり前のように口にした。 「君の両親は? 反対しただろう」  植物人間となった男に苦労を承知で嫁に出す親は滅多にいない。しかも雄平が事故に遭《あ》ったのは十七のときで、柊子と婚約していたわけでもないのだ。 「両親には私の兄や妹たちがいるわ。でも雄平は一人っ子。雄平の両親が亡くなればだれも雄平の側にはいなくなる」 「だからと言って、どうして君なんだ。同情は理解できるが、結婚とは別問題だ」 「もう二十五年になるのよ」  柊子は笑った。確かにいまさら私がとやかく言うことではない。 「それで……雄平の両親たちは?」 「義父《ちち》は五年も前に。義母《はは》は父親の死んだことも知らずに眠り続けている雄平を見て病室で泣きじゃくった」  私は溜め息を吐《つ》いた。悲惨過ぎる。 「その義母も半年前に血圧で倒れて……今は郊外のリハビリセンターに入院を」 「すると君一人で両方の面倒を?」 「ええ。幸い店だけは順調で従業員を何人か雇ってもなんとかやっていけるから」 「雄平の家は喫茶店だったな」 「もとの家は売り払って、今はデパートの中に店が入っているんです」  柊子に暗さは感じられなかった。 「電話で聞いたことだけど」  私は質した。 「そんなに酷《ひど》い状態なのかい」 「肺に水が溜まったんです。熱がずっと下がらないの。この一週間が危ないと……」  さすがに柊子の眉が曇った。     3  それからしばらくして柊子は立ち去った。  昨夜は泊まりがけの付き添いをしたとかで、病院から直接このホテルに回ったらしい。いったん店と自宅に戻って所用を済ませた後にまた迎えに来ると言う。雄平の眠っている病院は市内から車で二、三十分離れたところにあるらしい。市内の大病院は回復の見込みのない患者を何十年も預かってはくれないのだ。  レジでサインをしてタクシーを呼んだ。柊子が迎えに来るのは二時間後。市内を少し歩いても充分に余裕がある。雄平への見舞いの花も買いたかった。  私は中津川に沿った道を走って貰い、父親の勤めていた銀行の前で降りた。ちょうどその付近で渋滞に巻き込まれ、あれこれと眺めているうちに見覚えのある建物を発見したのだ。銀行の真向かいに位置する料亭だ。周囲はほとんど新しいビルになっているのに、そこだけが歴史に取り残されている。建物を囲む黒板塀がやたらと懐かしい。おなじ町内だったので父親はよくこの料亭を接待に用いていた。私たち家族も何度かここで会食した。庭がことさら美しく、母も気に入っていたのである。当時はそれだけのこととしか思わなかったが、実は料亭からの招待だったらしい。店は銀行から多額の融資を受けていたそうだ。  私は料亭の位置を手掛かりに歩きはじめた。通りには本町や内丸という地名表示板がある。どんどん記憶が戻る。ここを毎日自転車で通っていた。外観こそ変わっていても商店の名は頭に残っている。頻繁に出入りしたカメラ店が見付かった。私は店の中に入った。真新しいビルなのでもちろん内部は異なる。ビートルズや弘田三枝子のブロマイドを複写してくれた店員をそれとなく探したが、いないようだった。もう六十過ぎの年寄りになっているだろう。いまだに店員であるはずがない。店の者が笑顔で接近してきたので私はそそくさと外に出た。 〈この辺りでよく柊子を待ち伏せした〉  柊子も学校の行き帰りにこの道を通っていた。柊子はテニス部だったので帰りは遅い。偶然を装い、声をかけてはコーヒーに誘った。中津川に架かった橋を渡ると、その先に喫茶室を併設したスケートリンクがあり、そこのソフトクリームが旨いと評判だった。確か柊子に盛岡喫茶店地図への協力を頼んだのも、あのパーラーだったような気がする。文化祭のときにそれを売ろうとしたのだ。東京ではそんなことが流行していた。が、盛岡に引っ越して間もない私は情報に疎《うと》い。特に甘味喫茶となると女の子の手助けなしにはむずかしい。理屈だけはつけていたけれど、実際は柊子と逢う機会を多くしたかったに過ぎない。結局は断わられ、地図の作製も頓挫《とんざ》した。今思うと当たり前だ。くだらないことばかりに私は時間を割《さ》いていた。柊子には私が不良と映っていたに違いない。それは柊子が雄平と結婚したことからも想像できる。私が考えていた以上に柊子は堅い女の子だったのだ。 〈だが……それならなんで〉  私の誘いに頻繁に頷いたのだろう。 〈雄平のためだったのか〉  はじめて私は気付いた。私は苦笑した。とんだ自惚れだ。いかにも柊子が誘いに乗ったときは、たいてい雄平も一緒だった。幼馴染みということで私は二人の仲のよさを当然と受けとめていたのだが、ピエロは私なのだ。単純に幼馴染みと決め込み、柊子が好きなのは私だと疑わなかった。思えば……柊子と二人切りになったのは数えるほどしかない。いつも側には雄平がいた。  しかし、雄平の方は柊子の気持を明確に知っていたかどうか。器用な男ではなかった。二人が恋仲であったなら必ず私に打ち明けて手を引くように言ったであろう。内心は惚れていたくせに黙って許していたのは、雄平もまた柊子が私を好きなのだと勘違いしていた可能性が強い。  そうとは知らず私は雄平の心を逆撫でするようなことを繰り返した。柊子へのプレゼント選びに付き合わさせたり、柊子に捧げる詩を読んで聞かせたりした。 〈最低な男だったよな〉  冷や汗が流れた。三十年前のこととは言え、自分の愚かさが恥ずかしい。東京から転校した私は盛岡を馬鹿にしていたのだ。雄平の素朴さを愛しながらも反面では笑っていた。いや、それは柊子に対してもおなじだ。高橋和巳や保田与重郎の本を贈った裏側には私の傲慢《ごうまん》が潜んでいる。柊子に似合う教養を与えてやろうと思ったのである。柊子は本好きだったが、いかにもありきたりの名作しか読んでいなかった。と言って私も保田与重郎を心底愛して読んでいただろうか。同人雑誌に論文まで書いたはずなのに、今は読み返すことさえしない。 〈最低な男だった〉  柊子への愛とて果たして本心だったのか。今では記憶も定かではないが、詩や小説を書くために必要な対象だったのではないか? いつも私はだれかに恋をしていた。柊子でなくても構わなかったのに傾斜したのは……やはり雄平の存在が大きかった。幼馴染みと言いつつも雄平が柊子に思いを寄せているのは承知していた。好きなら好きと言えばいい。そう詰め寄った私に雄平は、ただの友達なんだと言い張った。それで私も意地になって、だったら柊子は自分が貰うと宣言した。雄平は曖昧《あいまい》に笑った。それがはじまりだ。 〈どうしちまったんだ……〉  私は不安になった。こんなに細かくあの当時のことを振り返ったのははじめてだ。これまで柊子との楽しい思い出しか頭に浮かばなかったというのに。     4  私は柊子の運転する車で病院に向かった。  気が重い。過去と向き合うことがこれほど辛いとは思ってもみなかった。雄平に意識があるのならまだ救われる。 「一度も目覚めないのかい」 「ええ。あれきり」 「済まなかった。あれから親父が大阪に転勤したせいで盛岡と縁が切れた。何回か雄平の家には連絡したんだが、いつ掛けてもおなじ病状だった。そのうちだんだんと……」  雄平とはたった一年の付き合いだった。それに受験が間近に迫っていたことも重なって私は無理に雄平を忘れるようにした。 「雄平には新しい思い出がないの。夢を見ているとしたらあの頃のことだけ」 「夢は見るのか?」 「きっとね。そう信じてる」  柊子はぼろぼろと涙を流した。 「君は昔から雄平が好きだったんだな」 「どうして?」  涙を拭《ふ》いて柊子は私に目を動かした。 「ついさっき気が付いた。馬鹿な勘違いさ。それを知っていたら君に近付くような真似はしなかった。雄平だって君と俺が付き合うのを許してくれたしね」 「………」 「あいつはずっと君に惚れていたんだ。なのに意地を張りやがって……一緒になれたところで眠ったままじゃどうにもならない」  無性に腹が立った。幼かったとは言え、二人はなぜ好きだと口にできなかったのか。なんで自分のようないい加減な男に振り回されなければならなかったのか。 「雄平が私を好きなのは知っていたわ。だからあなたと付き合ったんです。そうしたら雄平がはっきり打ち明けてくれると思って」 「なるほど、そういうことか」  私は苦笑いするしかなかった。 「でなきゃ、結婚までするわけがないよな」 「事故の責任は私にあるの」  私はぎょっとして柊子を見詰めた。 「雄平はあなたが大好きだった。才能があって、他のだれよりも大人で……あなたと友達でいることが雄平の自慢だった。確かにあの頃のあなたは飛び抜けていたもの」 「………」 「あなたに憧れていた女の子は私の回りに何人もいた。詩が県の芸術祭で特選に入賞したり、ラジオにもときどき出たり。そんな高校生って特別よ。私もあなたのこと嫌いじゃなかった。でも雄平のことがもっと好きだっただけ」 「嫌なガキだったよ、昔は」 「そうよね。自惚れ屋さん」 「君には見抜かれていたってわけだな」 「雄平はあなたに負けていたの。でも悔しがってはいなかった。喜んであなたが主催するレコードコンサートの手伝いをしては入場券や同人雑誌を売り捌《さば》いていた」  そんなこともあったと私は思い出した。雄平の家は喫茶店を経営していたのでコンサート会場にはもってこいだったのだ。私は月に何度か店を貸し切りにして貰い弘田三枝子やビートルズのレコードコンサートを行なった。例のブロマイドの複写はそのときに売ったものだ。東京の仲間うちでは珍しくもない遊びだったが、盛岡では結構な話題となって、それがラジオに出演する切っ掛けとなった。お笑い種《ぐさ》だが、DJの真似ごとまでしていた。 「そのうち雄平は私があなたと付き合うことを気にしなくなった。大好きなあなたと喧嘩したくなかったのね」 「でもない。君以外の子とデートの約束なんかをすれば嫌味を言われた。君に告げ口するとしょっちゅう脅かされたものさ」 「雄平の気持がそうなら、あなたとこれ以上付き合う必要もない。それに……雄平の曖昧な態度も我慢できなかった」  柊子は辛そうに続けた。 「別れの手紙を書いたわ。雄平が鉄棒から落ちたのは、それから何日かしてのことなの」  柊子はふたたび嗚咽《おえつ》を洩らした。 「そうじゃない。全部の責任は俺にある」  柊子は私を見詰めた。 「嘘をついていたんだ。君を抱いたと」 「どうしてそんな嘘を!」 「鬱陶《うつとう》しかったんだよ。他愛もない理由だ。君と俺が二人きりで逢ったと知ると、決まって雄平は無口になった。哀れなやつだと思ったさ。それならはっきり諦めさせた方がいい。雄平の気持に気付いていないフリをして嘘を教えた。その方がやつのためになる」 「あなたは……最低だわ」  柊子は冷たい目で私を睨《にら》んだ。 「好きでもない俺と付き合ってたのは君だろ」  私もむきになって言い返した。 「俺は君が俺に惚れているとばかり」 「嘘。それも嘘よ」  言われて私は絶句した。そうかも知れない。その頃になると柊子の気持も薄々察していた。だから邪魔な雄平を蹴落とそうとしたのだ。  無言でいる私に柊子はクスクス笑った。 「今となったら、どうでもいいことね」 「………」 「子供みたいなことで言い合って」 「だな。若かったんだよ。皆が」  ホッとしながらも私には蟠《わだかま》りが残った。その渦中にまだ雄平は生き続けている。     5  こんな寂しいところに暮らしていたのか。  木造の小さな病院の古びた玄関の前に立って私は胸が締め付けられる思いだった。近くには民家さえ見当たらない。深い山の中腹にぽつんと建てられた病院だった。恐らく昔はサナトリウムとして利用されていた建物に違いない。  薄暗い玄関のフロアには薬の匂いが漂っていた。廊下の奥に陰鬱な明りが並んでいる。あれが病室なのだろう。 「構わないわ。話してあるから」  受付けにはだれの姿もない。柊子は私を促してスリッパを手渡した。 「夕飯の時間か……」  この時間に患者を訪ねて来るはずもない。それで職員も持ち場を離れているのだ。未整理のカルテが窓口に置かれてある。覗いた受付けの中は寒々としていた。 「入院患者は多いのかい」 「今は六人。看護婦さんも五十過ぎの人たちばかり。だから安心していられるの」 「ここには何年いるんだ?」 「ずっとよ」  ここに三十年とは想像ができない。きっと金の問題もあるのだろう。軋《きし》む廊下を歩きながら私はさらに心が沈んでいた。両側の病室に明りは点《とも》っているものの、人の気配はまるで感じられなかった。寝たきりの患者ではそれが当たり前だ。  昼に出直したい気持に襲われた。  このうすら寒い病棟で雄平を見なければならないなんて……悲しみよりも怖さが先立つ。顔に少しでも面影はあるのだろうか。 「このお部屋」  扉に手をかけて柊子は振り向いた。  ごくっと唾を呑み込んだ。耳を澄ませてみたが室内からはなんの音も聞こえない。 「お見舞いにきてくれたわ」  柊子は先に入った。私も柊子の背中に隠れるように従った。豆電球だけの暗い部屋だった。雄平には明りも関係がない。柊子はスイッチを入れた。 「………」  間近に雄平が眠っていた。  死体のように私には思われた。 「床擦《とこず》れがひどいから香水を使っているの」  匂いに気付く前に柊子が口にした。私も頷いた。寝たきりの患者で怖いのは床擦れだ。肉が殺《そ》がれて背中の骨が現われることさえあると聞く。一日に何度となく体を動かしてやらなければならない。どんなに気を付けていても三十年では無理もないことだ。  気を落ち着かせて枕元に立った。  不思議な感じだった。  子供を眺めている気分がする。 「あの頃のままだ……」  眠っている顔に雄平の笑顔が重なって見えた。私は堪《たま》らず涙を零《こぼ》した。いや、あの頃より二回りは小さくなっている。本当に少年のようだった。坊主頭が懐かしい。  私は雄平の口許に耳を近付けた。弱々しいが確かに呼吸をしている。揺り動かしてみたい衝動に駆られた。目と鼻の先に雄平がいる。なのに雄平はどこにもいない。  膿《うみ》の匂いも気にならなくなった。  ベッドの脇のテーブルには雄平の写真が飾られてあった。体操の県大会に出場したときのものだ。満面の笑顔で準優勝の盾を抱いている。もともと小柄で機敏だった雄平には似合ったスポーツだった。しかし、それが雄平をこんな目に遭わせる結果となった。主将に選ばれ、県大会での優勝を目標としていた雄平は、練習中に鉄棒から指を外してマットに激しく叩き付けられてしまったのである。雄平は脊髄《せきずい》を損傷した。病院に駆け付けたとき雄平の意識はすでになかった。それから三十年。死ぬよりも哀れに思える。  私は写真と今の顔を見較べた。  歳を取るということは経験が大きく作用するのかも知れない。十七のまま眠りに入った雄平は、それゆえに若さを保っている。ガリガリに痩せ細り、頬も落ち窪んではいるけれど、透明な印象が私には感じられた。それは柊子もおなじだ。柊子は雄平とともにあの時代を彷徨《さまよ》っている。 〈こいつの中にはあの頃の俺が生きてるのか〉  ひょっとすると雄平は夢の中で別の人生を歩んでいるのかも知れない。自分がこうなっていることにさえ気付かず、柊子と幸せな結婚をして子供に囲まれている人生を。その中に私は存在しているのだろうか? 私の人生には雄平がとっくに存在しなくなっていたというのに…… 「雄平!」  私は乱暴に雄平を揺すった。 「なんで俺みたいなやつのことを信じたんだよ。いつでも嘘ばっかりだったじゃないか」  取り縋《すが》って私は泣いた。 「あんなテープを本気にしやがって」  雄平が鉄棒から落ちたのはその翌日だった。徹夜のまま練習に加わったと後で仲間から耳にした。雄平は苦しんで眠れなかったのだ。 「なんの話?」  柊子が怪訝《けげん》な顔をして質した。 「まさか君が雄平にも別れの手紙を出していたとは知らなかった。てっきり俺だけがフラれたとばかり……」 「テープって、どういうこと?」 「雄平なんかに負けるわけにはいかなかった。それでテープを聞かせた。東京の遊び仲間が隠し録りしたやつだ。呻《うめ》き声しか入っていない。最初に聞いたときから君の声に似ていると思っていた。だからそれを俺たちだと……」  柊子の平手打ちが襲った。 「気付いたら冗談だと笑うつもりだったんだ。なのに雄平は少し聞いただけで俺に殴りかかった。テープレコーダーを壊された」  私は反対に雄平を捩《ねじ》伏せて家から追いやった。それが真相である。 「許してくれ。許して欲しい」  私は柊子に謝り続けた。側には雄平が変わらぬ顔をして眠っている。 「俺とさえ出逢わなければ……雄平はこんなにならなかった。勘弁してくれ」  私は柊子と雄平にとって死神に等しい存在であったとはじめて分かった。私が二人の間に無理に割り込んだのだ。思えば、別のクラスの雄平と親しくなった一番の理由は柊子の存在だった。たまたま入った映画館のロビーで私は二人を見掛けた。男の方は襟章で自分とおなじ高校と知った。女のゆったりとした笑顔に私はいっぺんで魅かれた。私は二人に近づくとビートルズのレコードコンサートのチケットを売り付けた。男は私のことを知っていた。転校生は目立つ。私は二人と一緒に映画を見た。あの偶然がなければ雄平と決して友達関係にはならなかっただろう。二人の人生を大きく狂わせたのは私だ。フラッと現われ、心を掻《か》き乱し、不幸を与えて消え去る。まさに死神そのものではないか。私と遭遇したために雄平はこうしてここにいる。柊子だって大事な一生を棒に振ったのだ。  それなのに、私ときたら雄平をとっくに死んだものと決め付け、のうのうと大酒を食らい、遊びに毛の生えた小説を書いて暮らしている。おまけに柊子が私を見直し連絡をしてくるはずだとどこかで信じていたなんて……  慙愧《ざんき》の涙が止めどなく溢れた。  ぼたぼたと落ちる涙は雄平の頬を濡らした。  その瞬間──  私はあの時代に引き戻されていた。     6  私の目の前のイスには雄平と柊子が肩を寄せ合うようにして並んでいた。二人は一冊の映画のパンフレットを熱心に見入っている。ビートルズ主演の「HELP! 4人はアイドル」。私も思い出した。だから簡単にビートルズのレコードコンサートのチケットが売れたのだ。雄平は幸せそうだった。そして柊子も。  私は飽かずに二人を眺めた。  こうして見ると似合いの二人である。雄平がなにか冗談を言ったらしく柊子は笑いを堪《こら》えた。白いうなじが眩《まぶ》しい。私は我慢ができなくなって二人の隣りのイスに腰を下ろした。 「雄平の今度の誕生日、私の家でしない?」  柊子は雄平に耳打ちした。 「いいけど。なにかいいことある?」 「友達皆に紹介したいの。うるさいのよ」 「嫌だよ。そんなの」 「だって約束しちゃった。ウチは女子校だからボーイフレンドには敏感なの。いいじゃない。私と雄平の仲なんだもの」  屈託のない話が耳に心地好かった。そういう二人だったのだ。  私の目は入り口に釘付けとなった。私がそこに立って二人を見詰めている。私は慌てて立ち上がると若かった頃の私の側に近付いた。  若い私はカバンの蓋を開けレコードコンサートのチケットを取り出そうとしていた。雄平と柊子はまだそれに気が付いていない。どうしていいか戸惑ったが、決心した。私は若い私に突進するとカバンを奪って外へ飛び出た。動転した私が私を追って来る。私はどこまでも逃げた。これで私は雄平と柊子に接触する機会を失った。  それでいい。  二人にできるただ一つの詫びであった。  私は心の底から満足していた。     7  気が付くと私は鬱蒼《うつそう》とした林の中に立っていた。なにが起きたか分からなかった。  だが現実である。  私は目の前にいたはずの雄平と柊子を探した。が、見当たらなかった。ふと足元に目を動かすと建物の礎石が並んでいた。たった今歩いた病院の間取りに似ていた。 〈別の世界の人間は私たち……〉  不意に柊子の言葉が思い出された。  あれは……そういう意味だったのだ。  私が二人に逢いたいと願ったことで実現したのだ。たぶん二人はとっくに死んでいる。  いや……違うのかも知れない。  私があの時代に戻って私との出逢いをなくしたことで、二人は別の人生を幸福に過ごしているのかも知れないのだ。  私一人だけが別の世界に放り出されてしまったのである。  それでも構わない、と私は思っていた。  前世の記憶      別册文藝春秋'92年199号  針の記憶      オール讀物'94年11月号  傷の記憶      オール讀物'94年8月号  熱い記憶      オール讀物'95年8月号  匂いの記憶      オール讀物'95年2月号  知らない記憶      オール讀物'95年5月号  凍った記憶      オール讀物'95年11月号  昨日の記憶      小説新潮'94年3月号    (「昨日に逢いたい」改題) '96年2月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十一年二月十日刊