[#表紙(表紙.jpg)] 偶人館の殺人 高橋克彦 目 次  プロローグ  一 猫真似声に油断すな  二 人|噛《か》み馬にも合い口  三 悪人には友多し  四 いずくの烏もみな黒し  五 狂を学ばば狂なり  六 化け物に面  七 子は母の醜きを嫌わず  エピローグ [#改ページ]   プロローグ  その屋敷は偶人《ぐうじん》館と呼ばれていた。  もちろん、門柱にその呼び名が掲げられていたり、偶人という苗字《みようじ》の家族が住んでいたわけでもない。ただ、ずいぶん昔からその名が用いられていて、土地の人々も、また、そこに暮らす人間までもが違和感も持たずに口にしていたというだけのことだった。けれど、そんな奇妙な通称が不自然には思えないほど、屋敷はいかにも似つかわしい雰囲気を漂わせていた。人里離れた山間《やまあい》の奥まった高台に建てられ、周囲十キロ四方には鄙《ひな》びた民家が八、九軒という寂しい環境にありながら、偶人館はひときわ巨大に、そして華麗な外観を誇っている。ところどころ崩れかけているとはいえ、黒|瓦《がわら》を貼りつけた分厚いなまこ塀[#「なまこ塀」に傍点]で取り囲まれた館《やかた》は小さな城にも見えた。  なまこ塀の存在からすると、たいていが本陣のような純日本式の館を思い浮かべようが、永い歳月の間に、建物は増改築の積み重ねで、もはやどこの国の特徴も兼ね備え、反対にどこの国の建物ともかけ離れていた。常に堅く閉ざされている黒塗りの長屋《ながや》門を潜《くぐ》ると、真正面に唐破風《からはふ》屋根を持つ厳粛な玄関がある。だが、その玄関の右隣りにはステンドグラスを用いた嵌《は》め殺しの窓の連なるアールヌーボー様式の瀟洒《しようしや》な応接室。左側には玄関屋根の庇《ひさし》よりも前に突き出た六角形の近代的な遊戯室が増設されているという具合だ。試みに平面図を描いてみるなら、誰しもが、建物のあまりの複雑さと調和のなさに呆《あき》れてしまうであろう。廊下や階段は無秩序に入り乱れ、はじめての客は自分がどこにいるのか位置を見失ってしまう。  それでも館には奇妙なバランスが保たれていた。代々、この館の主人が受け継いだ美意識の賜物であろう。  見せる者などいないはずなのに、偶人館の中央には七、八階の高さにも相当する時計塔さえ聳《そび》えていた。あるいは偶人という名の由来は、この時計塔に求められたものなのかもしれない。中間と、最頂部に設けられた丸時計の真下に迫《せ》り出す瓦屋根が、黄昏《たそがれ》でシルエットだけになると、あたかも巨大な人形が館を見下ろす形で立ちすくんでいるような光景に見えるのである。  人形のことを古くは偶人と言った。この館ではすなわち時計が顔だ。その真下の屋根は空に大きく広げた両腕で、中間のそれは、風に膨らんだスカートか、それとも埴輪《はにわ》の腰布か。  時計の真っ白な盤面は、時に禍々《まがまが》しい夕焼けの血の色を映し、また、時には凍りつく月の蒼《あお》さを捕え、幽鬼のように麓《ふもと》を見据えていた。  いったいいつの頃に、この偶人館がここに建てられたものなのか、誰も知らない。九十を越す、土地の古老ですら、生まれた時から偶人館はあったと断言する。はるか明治の昔から、丸時計は悠久の時を刻み続けてきたのだ。  自分たちの地主でもないのに、館の主人は代々、土地の人々から畏敬《いけい》の目で見られてきた。なにを基盤に生計を立てているかも不明であったが、偶人館は彼らの想像を超える規模の建物だった。それだけで充分尊敬に値した。近郷一番の地主の屋敷ですら偶人館に較べれば馬小屋程度の貧しさでしかない。  開け放した偶人館の窓からは、時折、風に乗って幻妙な調べが麓に伝わってきたと言う。人々は仕事の手を休め、その音色に耳を傾けた。昭和の初めになってようやく、その音色がクラシックのレコードなのだと人々にも理解できたが、それ以前に、この土地には蓄音器はおろか、ラヂヲ[#「ラヂヲ」に傍点]すら普及していなかった。そもそも電気が引かれていなかったのである。なのに偶人館には夜毎|煌々《こうこう》と眩《まぶ》しい明りが点《とも》されていた。深夜ともなれば、その明りを供給する発電機の喘《あえ》ぎと唸《うな》りの音が、静けさを破るように聞こえてくることもあった。  明治、大正の中頃まで偶人館には多くの訪問客があったと聞く。当時の田舎では珍しい洋装の男女たちで、それも人々に畏敬の念を強まらせる原因となった。  燕尾《えんび》服を着る人間は学者かお役人という先入観が人々にあった時代だ。その客たちが長屋門の前で馬車から降り、主人に深々と頭を下げているのを覗き見すれば、雲の上の人間なのだと納得するのも当たり前だろう。いつしか「お館さま」と呼ぶようになり、月に一、二度、村の路上で顔を合わせれば、被《かぶ》り物を脱いで平身低頭する習わしともなった。  かと言って、偶人館の人間が人々と親しく口を利くことはなかった。むしろ土地の人間とのつき合いを拒否しているらしく、十人以上も雇っている下働きの男女も、皆、遠い国の出自の者だった。  それゆえにこそ、偶人館は時代が昭和の戦後と変わっても、人々にとっては相変わらず謎の館であり続け、畏敬の対象としての地位を保っていたのである。  だが、偶人館は、外からの想像とは異なって、激しい凋落《ちようらく》の道を歩んでいた。  戦前には十六名を数えた下働きも、今ではわずかに四名に減り、閉ざされたままの部屋の数のほうが、使われている部屋よりもはるかに多くなった。ビリヤードやポーカーに興じる歓声の絶えなかった遊戯室のソファも、埃避《ほこりよ》けの白布で寒々と覆われている。時計塔の一階部分にあり、かつては五十人を収容し、何代か前の主人の演奏するパイプオルガンに客が聞き惚《ほ》れたという音楽堂にも錆《さ》びた鍵《かぎ》が掛けられたままだった。  昔ながらに機能を果たしている部屋と言えば、喫茶室を兼用する玄関脇の応接室と、主人の書斎、それに隣接した広大な図書室ぐらいのものだろうか。だが、もちろん主人の居間、寝室、食堂、客室の類《たぐい》は揃っている。栄華を誇っていた頃に較べればはるかに荒れ果て、寂れたとは言うものの、まだまだ常人の暮らし向きではない。  そんな偶人館に——その日は珍しく幾十人かの来客があった。  嵐の前触れと言うか、生暖かい風が庭の樹木をみしみしと揺るがせ、雪洞《ぼんぼり》にも似た蜜柑《みかん》色の月が漆黒の空にただ一つ浮かぶ、心の苛立《いらだ》つ秋の深更のことだった。  客たちは遅い食事を終えると、執事の案内に従い、階段を上がり生暖かい大気の澱《よど》む外に出た。六角形の遊戯室の屋上は蔦《つた》模様に刻まれた手摺《てすり》で囲まれた露台《バルコニー》になっていて、その中央のテーブルにビールやカクテルの用意がなされていたのである。  青白い照明灯が手摺の縁に何基も立てられ、露台は真昼のような輝きに満ちていた。露台からは庭ばかりか麓の村までもが一望できる。もっとも、ネオンに彩られた都会の賑《にぎ》やかな夜景と違い、この露台からは暗い闇しか見えない。趣向が変わり、はじめは喜んでいた客たちも、しばらくすると景色には興味を失ったような顔で、隣り同士と会話をはじめた。景色はともかく、生暖かい風を肌に覚えながら飲むビールはいかにも心地好かった。女たちもカクテルを手に、上気させた頬で男の会話に加わる。 「蚊や羽虫がよってきませんこと」  不思議な顔で女の一人が言った。 「この露台を照らす明りはただの照明じゃない。主人が考えた虫寄せのようだよ。誘蛾灯の強力なやつらしい。その効果を確かめるために、今夜はわざと外のパーティにしたとか」 「するとわれわれは実験台てとこか」  笑いが広がった。 「本当……あんなに虫が集まって」  客たちは明りを見上げた。それぞれの明りには無数の羽虫が群がっていた。虫ばかりか、まともに見つめていれば人さえも吸い込まれていきそうな怪しい青さだった。 「偶人館には、はじめてですか?」  誰かが訊《き》くと、たいていが首を振った。 「これをご縁に懇意に願いたい」 「それは、こちらこそ。お互い、東京に暮らしながら、機会がありませんで」  何人かが乾杯をした。 「それにしても……ここは、どこなんでしょう。相当な山の中ですのね」 「車で一時間なのだから△△県には違いない。目隠しなどと、最初は戸惑ったものだが、こういう遊びもなかなか楽しいもんじゃありませんか。子供の頃に戻った気分だ」  客たちは主人から指定された駅に、時間厳守で集まり、手配されたオースチン二台に同乗して偶人館にやって来たのだった。目隠しのことは誘いがあった時に皆が聞かされていたので動揺もなかったが、建物の異様《いよう》さには多くの者が呻《うめ》きを洩《も》らした。 「私は……時々目隠しを外しましたよ」  一人の男が得意そうに笑うと、何人かがニヤニヤと頷《うなず》いた。 「けれど、二重窓の中にカーテンが仕組まれてあって、外が覗けない。わざわざ、ああいう車を注文して作らせたんですな。運転席にも仕切りの曇りガラスが嵌め込んであった。前も横もまるで見えないという具合だ」 「目隠しは主人の洒落《しやれ》ですよ。それが分かったからわれわれの車では皆が目隠しを外して呑気《のんき》に話を交わして来た」  どっと笑いが起きた。 「しかし……大した屋敷じゃありませんか。われわれが案内された部屋以外に、使っていない部屋が三倍以上もあるそうだ。大名の寮にでも建てられたものでしょうかな」 「それほど昔ではないでしょう。門が一番古そうだった。せいぜい江戸の末ですよ。時計塔もその頃からのものらしいし」  建築に詳しそうな客が断定した。 「世の中は広いものだ。こんな田舎にこれほどの豪邸が存在するなどとは」 「でも……ここに暮らせと言われたらお断わりしますわ」  その妻らしき女が首を横に振った。 「違いない。この村には楽しみがなさ過ぎる。隠居にはまだまだ早い歳さ」  ふたたび笑いが湧き上がった。  その時、露台に一組の男女が登場した。  露台に遊ぶ女たちも一様に着飾っていたが、胸元が浅いV字に広げられた紫色のドレスに身を包み、柔らかな笑みを浮かべて現われた女性の艶《あで》やかさと美しさには誰一人かなわなかった。年齢はよく分からない。三十歳と言われても頷ける貫禄《かんろく》だ。けれど体つきは眩しいほど若い。細い首筋から痩《や》せた肩の線のしなやかさに、円く盛り上がった胸の膨らみ。青白い明りに照り映えて霞《かすみ》のかかったような白い肌。少女と大人の境目にある脆《もろ》い魅力を漂わせている。  男たちは挨拶《あいさつ》を交わしながら、それとなく、あらわな胸に視線を注いだ。 「ご主人じゃなくてよ」  連れの男を眺めて女たちは囁《ささや》いた。夕食の時に挨拶した男ではない。 「あら……主人はおりませんの?」  露台を見回して夫人は首を傾げた。 「てっきり、こちらだとばかり」 「いずれいらっしゃるでしょう。ささ、どうぞ……と言っても私の酒ではないが」  客がカクテルグラスを捧《ささ》げた。 「こちら、皆さまにご紹介はまだでしたわね。主人の永年のお友だちです。たまたま今夜は屋敷に遊びにいらしていて」  夫人が客に紹介すると男は頭を下げた。見たところ主人よりも年長に思えた。三十四、五というところだろうか。客たちよりもだいぶ年下だが、落ち着きが感じられる。日本人にしてはよく似合ったタキシードのせいかもしれない。女たちは密《ひそ》かに溜《た》め息を吐いた。 「たった今も皆で話しておりましたがね」  グラスを捧げた男が言った。 「この田舎では楽しみが少ないでしょう」 「少しも……主人と一緒ですから」 「やあ……これは失礼を申しました」  野暮《やぼ》なことを訊《き》いたと男は謝って、 「おまえも今の言葉を肝に銘じておきなさいよ。ちょいと退屈すると、やれ芝居だ、やれ軽井沢《かるいざわ》だと騒ぎ出す」 「あなたはいつも家におりませんもの」  男の妻は負けずに応酬した。 「それに、ご夫妻は結婚したばかり……来年の春にはお子さまだって……。たとえ離れ小島に流されても退屈なんて感じやしないわ」  女たちが全員頷いた。 「主人はどこ?」  夫人はカクテルを拵《こしら》えている年配の男に近寄ると訊《たず》ねた。 「存じません。少し前にはお庭でお姿を」 「庭? どっちの」 「裏庭ではありません。この真下で」  夫人は手摺に身を乗り出して覗いた。真っ暗でなにも見えない。露台の照明が明る過ぎて、暗闇に目が馴《な》れないのだ。 「庭になんの用があるのかしら?」 「ぼくが捜してこよう」  心配そうな顔をしている夫人に、タキシードの男が請け合った。 「あいつはきまぐれだからな。あなたはお客の相手をしていればいいよ。なに、酔いでも醒《さ》ましているに違いない」  男は優しく夫人の肩に触れると露台から姿を消した。夫人は笑顔を取り繕って客たちの輪の中に戻った。今夜は大事な客なのだと何度も言い聞かされている。 「あら……綺麗《きれい》」  一人の客が空を見上げて叫んだ。 「時計の周りにいろんな明りが」  夫人も誘われて顔を空に向けた。  丸い時計の縁に赤、青、黄の小さな明りが、燦《きら》めいていた。十年以上も前に付けた飾り照明だが、ここ数年は使われたことがない。 「秒刻みの数だけあるのねぇ」  感心したように女たちが眺めている。 「どうしました?」  全員が見上げているところにタキシードの男が帰って来た。 「時計の縁の豆電球が。きっと主人が明りのスイッチを入れたんですわ」  夫人は男に言った。 「なるほど……やっぱりそうか」 「と言いますと?」 「音楽堂の扉が開いていた。中を覗いて呼んでみたが返事がない。それをあなたに教えようと戻って来たんです」  タキシードの男も並んで見上げた。 「ようこそ偶人館に」  空から声が聞こえた。客たちにざわめきが広がった。たしかに空からの声だ。 「あの人よ」  夫人は側にいる男の袖《そで》を掴《つか》んだ。  目を暗闇に凝らすと、丸時計の真下に迫《せ》り出した屋根の上に黒い人影が見えた。夫人の瞳《ひとみ》が恐怖に凍りついた。 「なにをする気だ!」  タキシードの男が空に叫んだ。 「別に自殺するつもりじゃないよ」  屋根の上から返事があった。 「遠来の皆さんに偶人館主人による素敵なショーをご覧にいれる」 「バカな真似はよせ! 下りてこい」 「心配はご無用。これから空中の散歩をしてみせる。上手くできたらご喝采《かつさい》」  人影はフラフラと端に歩いた。女たちは悲鳴を上げて目を瞑《つぶ》った。 「無茶はよせ! 今そこに行く」 「来る必要はない。散歩には適当な夜さ。さあ、ショーのはじまりだ」  人影は躊躇《ちゆうちよ》なく屋根から足を出した。夫人はウッと悲鳴を呑《の》み込んだ。  ところが……人影は宙に浮いていた。  誰もが唖然《あぜん》として闇を見つめた。  笑い声が闇の中から響いた。 「ほら、このとおり」  人影は両足を交互に動かした。 「どういう仕掛けだ?」  タキシードの男の問いに人影は笑った。 「仕掛けなどない。わが家に伝わる飛行術をお目にかけているだけだよ」  得意そうな声で人影は前進した。しっかりした足取りで空を歩む。人影はふたたび空中で停止して両手を前に揃えると丁寧にお辞儀をしてみせた。客に笑いが起きた。 「もういいだろう。分かったよ」 「今度は宙返りでもしてみせようか」  この余裕では、どうやら心配もなさそうだ。安堵《あんど》しながらも動転の醒めやらぬ目で見上げる人々の視界から人影がフッと消えた。露台の照明の範囲から外れたのだ。客たちは慌てて手摺に駆け寄って空を捜した。闇に溶け込むかのように黒い人影が蠢《うごめ》いている。 「ああっ!」  突然、空から絶叫が発せられた。  激しい水音が、ほとんど同時にした。 「池だ! 池に落ちたぞ」  タキシードの男は大声で喚《わめ》いた。全員の視線が庭に移動する。  だが、指し示す池の辺りは暗くてなにも見えない。客たちはおろおろと顔を見合わせた。ドスン、とどこかで鈍い物音がした。客の何人かが上の闇を見やった。 「なにしてる。早く懐中電灯を持って来い。ぼくは池にまわる。それと……彼女を頼む」  間髪を入れずタキシードの男は、震えて今にも失神しそうな夫人の肩を支えながら全員に怒鳴り散らした。 「駄目だ! 真ん中らしい」  執事が懐中電灯を手にして池に急ぐと、先に辺りを捜していた男が首を振った。 「池の深さはどのくらいだ。入ろうとしたが、だいぶ深いみたいで諦めた」  男のズボンは膝《ひざ》まで濡《ぬ》れている。 「中心ですと人の背丈ほどは」 「個人の庭の池がそんなに深いとはな」 「小さなボートがあります」 「すぐに用意できるかい」 「はい。向こうの岸に」  二人は駆けてボートに飛び乗った。  間もなくボートが池の中央に辿《たど》り着いた。懐中電灯の明りが暗い水面を探る。その様子を露台から客たちが息を殺して眺めていた。 「照明をこちらに向けてくれないか!」  ボートの上から男が叫んだ。弾《はじ》かれたように客の何人かが照明の向きを変えた。庭の池がぼんやりと闇に浮かんだ。 「あ……あそこ」  女の客が目敏《めざと》くそれを見つけた。ボートから、七、八メートル離れた水面に黒い丸太のようなものが浮かんでいる。ボートの二人も気がついてオールを漕《こ》いだ。  やはり、人間だった。  水に頭を沈めたまま動かない。二人は必死で腕を取ってボートに引き上げようと試みた。だが、水をたっぷりと含んだ体は鉛みたいに重い。無理と分かると、タキシードの男はいきなり池に飛び込んだ。深さは胸ぐらいある。男は顔を確認した。間違いなかった。 「バカ野郎が!」  男は死体を激しく揺さぶった。  水面が騒いでボートが左右に揺れる。 「この、大バカ野郎が! 彼女一人を残してどうするつもりなんだよ」  露台では夫人が気を失った。  蜜柑《みかん》色の月がゆっくりと雲に隠れた。色とりどりの豆電球を点滅させながら、丸時計は今宵《こよい》も静かに時を刻んでいた。偶人館の歴史を閉じる、最後の主人の死にすら無関心のような機械音をさせて……。 [#改ページ]   一 猫真似声に油断すな      1  池上佐和子《いけがみさわこ》は少し憤慨していた。いや、憤慨に少しという形容はおかしい。だいぶ頭に来ていた。自分は相手から言われたとおりの時間にチャイムを押したのに、部屋には誰の気配もないばかりか、留守にするという伝言もなかった。一週間や十日も前の約束ならともかく、昨日の今日である。最初は、ちょっとした用件でもできたのかと気にもかけず、マンションの一階にある、この喫茶店で時間を潰《つぶ》していたのだが、十分、二十分、三十分と間を置いて電話をしても、いっこうに繋《つな》がらない。もうかれこれ一時間が過ぎている。 〈ったく、アタマに来ちゃうわね〉  レジ側の雑誌も四冊を読み終えた。コーヒーもこれで三杯目。近くなら、もう一度出直すことも考えられたが、ここは日野市の高幡不動《たかはたふどう》。新宿から京王《けいおう》線の特急で四十分。神保《じんぼう》町の事務所まで戻るには遠すぎる。約束どおりの時間に訪ねたといっても、実際は遅れまいとして二十分も早めにマンションを捜し当てていたのである。それを加えれば、なんと一時間半も待たされている勘定だ。 〈エラぶっちゃってるんじゃないの〉  そういう人種が結構いることを佐和子は知っていた。忙しいフリをして見せたり、約束が重なったと言い訳しながら、ワザと時間に遅れてくる鼻持ちならない連中だ。滅多に仕事がないのを見透かされまいとして精一杯の虚勢を張る。現実を知られればギャラを叩《たた》かれるとでも思っているのかもしれない。もっとも……これから会うはずの矢的遥《やまとはるか》は、そうした見栄を張る必要のない人間だ。デザイナーとして、国際的な評価を得ている。イギリス人の父親と日本人の母親との間に生まれた混血で、受ける仕事も日本、アメリカ、ヨーロッパと広範囲に及んでいる。自分の所属しているような弱小のプランニング・オフィスに対して飾って見せる理由はない。嫌な仕事だったら、電話で断われば済む。もっと大きな仕事でスケジュールが埋まっているはずの相手なのだ。やはり急な用件なのだろう。 〈だからといって……〉  こんなに待たせていいという法はないではないか。相手は、これで仕事がキャンセルになっても構わないと踏んでいるのだろうが、それを簡単に許すような佐和子さんじゃないんだからね。佐和子はセーラムを吸殻で盛り上がった灰皿にギュッと押しつけると立ち上がった。会社に電話して、もし連絡が入っていなければ、とことんまでドアの前で待ってやる。たとえ夜中になろうとだ。仕事の約束がそんなに甘いものじゃないってことを思い知らせてやらないと。  だが、やはり連絡はなかった。 「こうなりゃ、何日だって一階の�ポーチ�という喫茶店で待ってると伝えて。もし矢的遥氏から今日中に伝言があったらの場合だけど」  電話ボックスが四方を分厚いガラスで囲まれているのを幸い、佐和子は腹立ち紛れの大きな声で同僚へ頼んだ。 「矢的さんとお待ち合わせですか?」  たまたま電話の側でカップや灰皿を片付けていた女の子が不審そうな顔で質《ただ》した。佐和子はペロッと舌を出した。 「矢的さんでしたら、ずうっと前から」  女の子は視線を奥のテーブルに注いだ。佐和子の斜め後ろの席だ。ええっ、と佐和子は絶句した。そんなバカな。あそこにいる男なら自分よりも前から座っていた。二人のやりとりを見ていたらしく、顔が合うと男は、やあ、と屈託のない笑顔で片手を上げた。 〈そんなことってないよ〉  佐和子の頬が熱くなった。なんだか腰の辺りの力も抜けていく。それでも佐和子は慌ててぴょこんと頭を下げた。 「たぶん、そうじゃないかなと思っていたけど……やっぱり推理は当たった」  バッグを抱えて目の前に移動した佐和子に、男は妙なアクセントの日本語で言った。 「だったら、どうして声をかけてくださらなかったんですか?」 「男から女性に声をかけてはいけない」  はあ、と佐和子は相手の目を見つめた。 「男女七歳にして席をおなじゅうせず」  ぽかんと佐和子は口を開けた。 「そう母から教えられたけど……今の場合は声をかけても大丈夫だったのかな」  佐和子は吹き出した。これが七十過ぎた年寄りから聞かされる言葉だったら違和感もないが、矢的遥は自分と大差ない歳である。年鑑の経歴によれば、たしか三十歳。自分よりたった四つ上の男なのだ。 〈この顔でハーフ?〉  それも見逃した原因だろう。  矢的遥は典型的な日本人の顔だった。バタ臭い部分など顔のどこを探しても見当たらない。くっきりした一重瞼《ひとえまぶた》。あれ、そんな言い方があったかしら。佐和子は一瞬悩んだけれど、それ以外に表現しようのないほど、矢的遥の目は綺麗《きれい》な一重だ。それに真一文字に近い眉《まゆ》。額も狭いし、髪も漆みたいに真っ黒だ。清潔そうな唇からは、歳に似合わない糸切り歯が覗いている。 「申し訳ありませんでした」  佐和子は謝りながら、割り切れない思いを感じていた。自宅と約束したはずなのに、勝手に喫茶店で待っているほうがおかしい。なのにこの男はそれが当たり前の顔だ。 「牛に乗って牛をたずねる、ってやつでしょう。ぼくは結構面白かった」  またまた変なことを言い出した。 「そういうふうに言わないの?」  怪訝《けげん》な顔をしている佐和子に矢的は訊《たず》ねた。 「なんですか?」 「なんですかって訊《き》かれると困るな。日本人なら誰でも知っているんじゃないかなぁ。牛の背中に乗っているのに、自分はそいつに気がつかず、まわりにいる人たちに牛はどこにいるのかと質問しているというシチュエイション。すぐ側にいるぼくを君が必死で捜している様子が、ちょうどそっくりに思えたんだけど……この用法は違う?」 「ああ……ことわざ、ですか」  佐和子の言葉に矢的は微笑んだ。 「それは、はじめて聞きましたけど」  なるほど、先ほどの情況はまさにそのとおりだったと佐和子は感心した。 「母が大事にしていた日本の本の中に、ことわざだけを集めた辞典があってね……ぼくはそれで日本語を勉強した。ことわざには日本人の心がたくさん詰め込まれている。普通の辞典だと言葉を覚えるだけにすぎないが、ことわざなら、同時に文化も学べるだろ」 「うーん……でしょうね」  きっとそうには違いないのだが……。 「ポピュラーな例で言うと、郷《ごう》に入ったら郷に従え、という言葉がある」  佐和子も自信を持って頷《うなず》いた。 「これは日本独特の処世術だと思うんだ」 「処世術だなんてよく知ってますね」 「ことわざの解説部分にしょっちゅう出てくるよ。意味を理解しようと頑張ったお陰で、他の言葉も覚えてしまった。普通の辞典なら、意味も簡単な言葉で説明している代わりに、あまり語彙《ごい》が増えない」  佐和子にもそれは理解できた。 「郷に入ったら郷に従え……とても素晴らしい言葉じゃないか。ヨーロッパやアメリカの人間は、どんな相手と出会っても自分を主張するばかりだ。それで成功することもあるだろうが、相手の事情を最初に考えてあげる余裕があれば、結果としてこちらにも好意が跳《は》ね返ってくる。ま、少し拡大解釈してるけど」  矢的は人懐っこい笑顔を見せながら、 「ところで……今日はどうしてこんなことになったんだろうね。場所を指定したのは君のはずなのに、君はぼくを店の中に捜そうともしなかった。だから最初はぼくと無関係の人だとばかり……」 「私が場所を指定したんですか?」  そんなわけはない。マンションを訪ねるのもはじめてなのに。佐和子は否定した。 「言ったよ。三時にポーチと」 「まさかぁ、このお店の名前さえ知らなかったんですよ。入ったのも偶然ですし」  佐和子の強い口調に矢的は首を捻《ひね》った。 「ご自宅の方に伺うと言いました」 「変だな。ぼくは間違いなくポーチと聞いた。いつも人と会うのはここと決めてあるから、あるいは先入観だったかもしれないなぁ」  矢的は自信を失ったようだった。 「あっ」  佐和子には思い当たることがあった。 「私……おうちの方に伺うと」  一瞬の間があって、二人は吹き出した。矢的はおうちをポーチと聞き違えたのだ。 「こんなことってあるんですね」 「いや、ぼくも悪い。画廊の名倉《なぐら》さんの名前を出されたものだから、君もてっきりポーチをよく知っているもんだと」  佐和子の知り合いの名倉とは、たいていこの店で会っていると言う。 「知った道に迷うってやつだ。まさに、しっぺたとほっぺたの違いだな」 「しっぺた?」 「お尻《しり》。言葉は似ていても、ほっぺたではまるで意味が違う。おうちとポーチさ」  少し頭が痛くなってきた。矢的とつき合うためには、脇にことわざ辞典を用意しておく必要がありそうだ。だが、そう思いながらも佐和子は、目の前の矢的に急速に魅《ひ》かれていった。国際的に認められているというのに、それをちっとも感じさせない気安さがある。 〈この人、独身だったわ〉  こら、なにを考えてる。会って五分も経っていないってのに、なんてはしたない女なんだろう。物欲しそうな目をしてちゃ嫌われるだけなんだから。佐和子は自分を叱った。 「もうコーヒーも飲み飽きたろ。ぼくもティーを四杯もお替わりした。君さえ構わなければ部屋の方に……美味《おい》しい日本茶がある」  佐和子に異存はない。 「そうそう」  伝票を抓《つま》み上げながら矢的は言った。 「独り暮らしの男の部屋に、女性がたった一人で訪ねて来るなんてありえないと思ったのが、勘違いを誘った原因の一つだよ」  言われて佐和子の耳たぶが火照った。      2  矢的の部屋は整然としていた。仕事柄、佐和子は大勢のデザイナーと知り合いだが、こんなにきちんとした仕事場ははじめてだ。それともここは自宅だけで、仕事の場所は別に借りてあるのだろうか。通された十六畳の板間の部屋には渋い応接セットを除くと、黒漆の巨大な長持《ながも》ちと、細かな飾り金具のついた船|箪笥《だんす》以外になにも見当たらない。壁に飾られているのも二枚の花鳥を描いた浮世絵だけ。図柄から察すると広重《ひろしげ》のようだ。染みがあったりするから、きっと本物に違いない。 「梅が香を桜の花に匂わせて柳の枝に咲かせたい……と言うだろ。欲しいものはたくさんあるけれど、欲を持てばキリがないから買わない。だから殺風景。はじめてのお客は決まって、引っ越しの最中かと訊く」  笑いながら矢的は船箪笥の一番下の引出しを引いた。清潔そうな和紙が敷かれていて、その上に藍《あい》地の蕎麦猪口《そばちよこ》が幾つも並べられていた。それぞれ大きさと模様が異なる。 「どれでも君の好きな茶碗《ちやわん》を選んで。それにお茶を淹《い》れるから」 「テレビやオーディオもないんですか」  佐和子は矢的の側にしゃがんで選びながら訊いた。猪口の隣りには急須《きゆうす》が三個。いずれも見事な彫りが施されている朱泥だった。 「隣りの寝室に置いてある。体を休めている時にしか用がない機械だから。そっちは誰も通さない部屋なので散らかっている」 「女の人も?」  思わず口にして佐和子は慌てた。どうして今日はヘマばかりしでかすんだろう。しかし、矢的は自然に頷いた。 「ごめんなさい……これにします」  胸の動悸《どうき》を鎮めるようにして佐和子は平凡な矢羽根模様を選ぶと手渡した。 「ホントに美味しい」  甘くてほろ苦い味だった。抹茶でもないのに、なぜこんな味になるのか分からない。 「縁がもっと薄い茶碗だと、もう少し美味しく感じるはずなんだ。でも、なぜかぼくはこの蕎麦猪口が好きでね。徹底できないとこがぼくの欠点だな。いつも反省はしてる」 「お仕事はどこで?」 「頭の中で……なんて言うと恰好《かつこう》よすぎるね。小さな仕事なら�ポーチ�とか寝室においてある机の上でさ。本当の仕事場はロンドンの実家にある。日本に来たのは吸収するためだから、面倒な仕事はいっさい引き受けていない」 「でも……もう二年近くも日本にいらっしゃるんですよね」 「年に三カ月は帰っている……君、煙草を喫うんだったな」  思い出したように矢的は灰皿を持って来た。佐和子は恐縮した。矢的は喫わない。 「遠慮はいらない。どうぞ」 「いいんです。さっきは気が立っていたので」 「見る見る山になったぜ。二口くらい喫って押し潰《つぶ》すなんて勿体《もつたい》ないと思った」  矢的は佐和子をからかうと、 「ぼくの名前は本名なんだよ」  唐突に意外なことを口にした。 「だって……お父さまはイギリスの」 「ゲイル・ハーカー。母の名はミチエ。ぼくはヤマト・ハーカー。父が大の日本|贔屓《びいき》だったんでヤマトと名づけられた。矢的遥って漢字は、日本に暮らすことに決めた時に考えた。音がほとんど一緒だから混乱しない」 「ヤマト・ハーカー……」 「外国人の名前でも、日本じゃあんまり聞かない苗字《みようじ》のはずだ。でも、結構これで有名人がいる。君だって知っているんじゃないかな」 「ハーカーさん?」  パーカーなら万年筆で有名だけど。 「ジョナサン・ハーカーとミナ・ハーカーって知らない?」  少し考えて佐和子は首を横に振った。 「吸血鬼ドラキュラに狙われて、戦い続けた主人公夫婦。そう言うと分かるだろ」  佐和子は何度も頷いた。 「その家系なんですか?」 「いや……あれは小説のことだし」  矢的は激しく噎《む》せ込んだ。 「白状するとね……」  やがて矢的は笑って言った。 「ぼくの名前を持ち出したら、君もきちんと名乗ってくれるんじゃないかと……日本ではいつも真っ先に名刺を貰《もら》うんで、君の名前を昨日はうっかり聞き流した」 「ごめんなさい!」  佐和子は椅子から立ち上がった。出会いが出会いだったので忘れていたのだ。佐和子はバッグから名刺を取り出すと渡した。 「|T《タ》・|A《ツ》・|P《プ》・|S《ス》の池上です」  正式にはトーキョー・アド・プランニング・サービス。サービスは会社の仕事内容とは少し違うのだが、同名の映画があることから、社長が無理にSをこじつけた。TAPよりは覚えてもらいやすいというだけの理由だ。この業界は知名度が優先する。 「じゃあ、ずいぶん新しい会社だ。その映画ならぼくも見た」  佐和子の説明に矢的は頷いた。  佐和子はクスクスと肩を揺すらせた。 「どうしたの?」 「すぐにおっしゃってくれればと思って」 「それはほら……猿は食わねど高楊子《たかようじ》ってね。忘れたとは言いにくい」 「武士は、でしょ」 「本当は猿なんだよ。武士のほうは後になって取り替えられたもんなんだ」  変な外人……佐和子は目を丸くした。      3  お茶を飲み終えると矢的は佐和子を外の居酒屋に誘った。二人きりで部屋にいることをしきりに気にかけているようだった。 〈こういう男も少なくなったわ〉  今は初対面であろうと、やたらと女を部屋に引き止めたがる男ばかりだ。  矢的に案内された店は駅前の雑居ビルの二階にあった。達磨《だるま》名物・豆腐ステーキと張り紙がされてある。まだ時間が早いと見えて、暖簾《のれん》を潜った店内には客が一人もいない。カウンターだけの店だ。鰻《うなぎ》の寝床のように長い店に達磨という店名も愉快だ。肩までの髪をひっつめて、達磨模様の鉢巻きをした若い女性がカウンターの中にたった一人。化粧もしていないのにキリッとした相当の美形だ。女は矢的を認めて、ハイ、と威勢のいい声を上げた。自分よりも少し若い。佐和子は軽く身構え、矢的に続いて頭を下げた。 「アブさん、どうしてたのよ。三日も来ねえ、なんてアニキが心配してたわ」  カウンターに陣取った矢的に彼女は手早くお絞りを渡しながら、佐和子に目を動かした。 「こちら、はじめてですよね」  矢的が彼女に紹介した。彼女も良美《よしみ》と名乗って笑顔を作った。 「アブさんて……ずいぶんお酒が強いみたいな渾名《あだな》だわ」  佐和子の言葉に良美はアハハと笑った。 「違うの、違うの。漫画とは大違い」 「…………」 「ホントの虻《あぶ》。蠅に似ているヤツ」  佐和子は矢的の顔を見つめた。 「どうして?」 「まだアブさんなんていいほうよ。こっちなんかクソなんだもん」  良美の言い方に矢的は苦笑した。 「ウチに来るようになって二、三カ月したら……突然アブさんが言い出したの。アニキや私のこと気にいったから、これからは虻と糞《くそ》のつき合いしようって」 「虻と糞?」 「仲のいい友だちって意味らしいわ……信じられる? あたしゃ、思わずのけぞっちゃった。たしかに虻と糞は仲のいい関係だろうけど」  佐和子は笑い転げた。 「そういうふうに日本人が普段遣ってるもんだと疑ってないのよ。呆《あき》れたもんじゃない。以来、ウチじゃアブさんで通ってるわ。まさかお客にクソとは言えないから、アニキも私もそっちに甘んじているわけ」  笑い過ぎて目に涙が溜まった。 「かなり有名なことわざなんだよ」  矢的は憮然《ぶぜん》とした顔で熱燗《あつかん》を頼んだ。肝腎《かんじん》の日本人が知らないことに不満があるらしい。 「アニキに電話しようか。今日は火曜でヒマだろうからってズルしてんの」  良美は返事も聞かずに電話に向かった。  良美を交えた三人で乾杯して、間もなく店に駆けつけて来た良美の兄の雄二《ゆうじ》とも乾杯。雄二も気のいい男だった。一時間もしないうちに佐和子は酔った。勧められて四合以上は飲んでいる。こんなに飲んだのは生まれてはじめてだ。解放されて心の弾む酔いだった。目の前にはアッと言う間に平らげた豆腐料理の皿や椀《わん》が並べられている。名物だけあってカリッと表面を焼き上げて、たっぷりのおかか[#「おかか」に傍点]を載せたステーキが絶品だ。 「今度はどういう仕事すんの?」  雄二は佐和子と矢的に酒を注いだ。 「それを聞くために来たんだ」  矢的はニヤニヤ笑って佐和子を見た。 「この人は仕事を忘れたらしい」 「なんだい、話はこれからか」  雄二は呆れた。 「ウチの仕事は安いです。でも面白い。ぜえったいにおもひろいんれすからね」  呂律《ろれつ》のまわらない声に自分でも不安を覚えながら佐和子は断言した。 「気にいったな、おいら。アブさん、やってやんなよ。この人もクソの仲間だ」 「クソはやめなさい。クソは」  途端に眩暈《めまい》が襲って来た。      4 「熱いコーヒー淹《い》れてるよ」  フラフラと佐和子がソファから半身を起こすと、台所から声がかかった。佐和子は慌てて時計を見た。十一時。冗談じゃない。達磨に行ったのが五時半だったから、六時間近くが過ぎている。佐和子は青ざめた。 「あの……私、どうしてここに?」 「ぼくの車で送って行くよ。桜上水《さくらじようすい》なら大して遠くない」 「私、教えました?」 「駅から歩いて五分のアパートだろ。さっき店で地図を描《か》いてもらった」  そう言えば、そんな記憶もある。 「矢的さんも飲んだでしょ」 「醒《さ》めちまったさ。心配ない」  頭がガンガンする。まだお酒が残っているのだ。佐和子はこめかみを揉《も》んだ。 「ぼくのせいだ。あんまり君が気楽に飲むんで、強い人だと勘違いして」 「ご迷惑をおかけしました」  穴があったら入りたい気分だ。今日は目茶苦茶なことばかり起きる。 「吐きたければトイレは後ろ」 「大丈夫です。もう平気」  佐和子は生唾《なまつば》を何度も飲み込んだ。矢的が大きなカップに湯気の立つコーヒーを運んで来てくれた。温かい笑顔だった。 「こんなつもりじゃなかったのに」  佐和子は泣きたくなった。 「アブさん、いる?」  チャイムと同時に良美が顔を覗かせた。ドアには鍵《かぎ》がかかっていなかった。 「ごめんね。店に小部屋でもあったら、そっちで休んでもらえたのにさ」  良美は佐和子の顔を見て安心した。 「アブさんは紳士だから」  おどけた口調で上がり込む。 「へえ。意外と小綺麗《こぎれい》な部屋じゃない」 「店のほうはいいのかい」 「私は十一時でハネ。自由時間てわけ」 「それなら運転助手を頼もうか。東京は脇道に入ると迷路のようだから」 「いいんです。電車がまだありますし」 「構わないわよ。どうせ夜中の二時、三時までは眠れないんだもの。じゃあ行く?」  良美は気軽に返事をした。 「なんだか嘘みたいな気分」  矢的の運転するルノー|5《サンク》が国立府中《くにたちふちゆう》のインターから中央高速に乗り入れると、佐和子は溜《た》め息を吐いた。小さな車体の割合にスピードが出る。矢的はどんどん車を追い越した。 「私って、なんのために来たのかしら」  一時間以上も擦れ違いをして、矢的のことわざに驚かされて、男のように飲み、酔って初対面の人間たちに部屋まで送られている。これじゃあ、醜態だらけよ。 「今夜は他に約束がなかったのかい」  バックミラーで矢的と目が合った。 「ええ。会社に戻る予定でしたけど」 「ちゃんと予定を聞いてから誘えばよかったな。こっちの責任だ」 「責任だなんて……とても楽しかった」 「ぼくにできる仕事なら引き受ける」 「ホントですか!」  佐和子は耳を疑った。 「猫真似声に油断すな、ってね。女の子の誘いには警戒するほうだけど……今度ばかりはそうもいかないさ。それに君は結構男っぽい人だし。達磨兄妹のお墨付きもある」 「ありがとうございます」 「礼はまだ早いよ。君の気にいるような仕事がぼくにできるか……そっちが問題だ」  佐和子は浮き浮きしてきた。酔いがどこかに消し飛んでいく。 「半年後に、東京を皮切りに全国五カ所のデパートで大規模なからくり[#「からくり」に傍点]展が開催されるんです。その宣伝ポスターとカタログの製作をウチの会社が手掛けることになって」 「からくり?」 「高山のからくり山車《だし》も一台借りて来る計画だとか」 「からくりって……なんだい?」  矢的は困った顔で佐和子に質《ただ》した。 「人形が一人で歩いたり逆立ちしたりするものですけど……ご存じじゃ?」 「ひょっとして自動人形《オートマタ》のこと?」 「ええ、そうです」 「驚いたな。日本にそういうものがあるなんて、はじめて聞いたよ」  矢的は口笛を吹いた。 「良美は知っていたかい?」 「高山のお祭り程度はね。有名だもの」 「ふうん。これだから日本は面白い」 「とっても精巧な仕組みなんです」 「いつ頃からあったわけ?」 「さあ……詳しくは知りませんけど、最低でも二百年は経っていると思います」 「本物は簡単に見られる?」 「今はちょっと……高山まで行けばなんとか見せてもらえると思うけど」 「高山って、遠いのか?」 「岐阜県。少し不便なとこです。日帰りだったらきついんじゃないかな」 「ヒマを見つけて、いつか行こう。まったく面白い仕事が飛び込んで来たな。つまり……ぼくの仕事はポスターデザインとカタログのレイアウトってことだね」 「はい。お願いできたら」 「なんでぼくにそれを?」 「社長に強く推薦した人がいて」  その返事に矢的は笑った。 「君の推薦じゃないってとこが、ますます気にいった。褒むるは謗《そし》る下地、と言うように、面と向かってぼくを褒めてくれる人間はあんまり信用しないことにしている。そういう人は舌の根が乾かぬうちに、別の場所で悪口を言うタイプに違いない」 「今度アブさんがことわざを口にしたら、罰金を取ることにしない? 急に年寄りになったみたいで、あたしゃ厭《いや》なんだ」  良美がうんざりした声で言った。 「とりあえずは資料が欲しいな」  とりあわずに矢的は口にした。 「当分は旅行は無理だけど、できるだけ写真が見たい。それと……オートマタに詳しい人でも近いところにいたら話が聞きたい」 「でしたら心当たりがあります」 「ぼくはたいてい部屋にいる。いつでも連絡をくれれば行けると思うよ」  これで決まった。  佐和子は胸に弾みを感じた。  けれど、これが事件の始まりだった。 [#改ページ]   二 人|噛《か》み馬にも合い口      1  三日後の昼過ぎ。  池上佐和子は時計を気にしながら約束の店を捜し歩いていた。吉祥寺《きちじようじ》駅前の井《い》ノ頭《のかしら》通りの裏側と矢的遥から聞かされて、簡単に見つけられるだろうとタカをくくっていたのに、なかなか発見できないのだ。考えてみればサンロードは馴染《なじ》みでも、井ノ頭通りを歩いたことはほとんどない。 〈公園までは行かないって言ってたわ〉  脇道をグルグル歩いていたら井ノ頭公園の縁に辿《たど》り着いた。これでかれこれ二十分は無駄にしている。早めに来たので、まだ五分の遅れでしかないが、時間に厳しい矢的のことだからとっくに店にいるだろう。佐和子は苛立《いらだ》ちを抑えてふたたび本通りに戻った。 〈待ち合わせには相性の悪い相手だわね〉  初対面の時の苦々しい記憶が甦《よみがえ》った。 「ごめんなさい」  ようやく店を捜し当ててドアを押すと、目の前のカウンターに矢的の笑顔があった。見つけられないのも道理である。この店は看板を掲げていない。磨《す》りガラスに小さくローマ字で店名を書いているだけだ。何度もこの前を通り過ぎながら、床屋かなにかと勘違いして名前を確かめもしなかった。それに外観も喫茶店っぽくない。磨りガラスのドアを除けば、普通の住宅としか思えなかった。 「変なお店を知ってるんですね」  カウンターに並んで佐和子は見渡した。壁いっぱいにさまざまな仮面が飾られている。たいていが東南アジアや南米のものだと佐和子は判断した。民族的な力強さに溢《あふ》れているけれど、けばけばしい色彩で少し落ち着かない。なにも家具らしきもののない矢的のシンプルな部屋とは大違いだ。何百の顔に睨《にら》まれているような不安すら覚えた。 「今、奥から出て来るけど……田島《たじま》って経営者が友人なんだ。本業は野生動物専門のカメラマン。好きで仮面を蒐集《しゆうしゆう》しているうちに、飾る部屋がなくなった。それでこんな店を開いたってわけ。本人はともかく……悪趣味だからやめろと注意はしているがね、�道楽息子に妹の意見�てやつで、さっぱり効き目がない。まあ、彼の場合は親が十人揃って意見をしても効果は期待できないな。自宅だから経費もかからないと言うが、一日に十人前後の客じゃ、続けるだけ損をするってものさ」  矢的は笑ってカウンターの上の鈴を振った。 「客のいない時間のほうが多いもんで、全部の席の上にこれが置いてある。さっきまでは二人で話をしていたんだが、注文したラーメンが届いて、奥の部屋で食べている。奥さんは新宿に買い物だそうだ」  おう、と声がして髭面《ひげづら》の男が顔を見せた。恰幅《かつぷく》のいい体にミッキーマウスのエプロンが妙に似合っている。年齢は三十二、三。 「悪い、客を放り投げて」  田島は佐和子に白い歯を見せた。 「お、噂どおりの美人だな」  男の言葉にかえって矢的が慌てた。 〈やったね〉  佐和子は軽くすました顔で挨拶《あいさつ》した。矢的遥はそのように私を説明しているわけだ。だったら脈もありそうじゃないの。 「こいつ、ハーフになんか見えんでしょう。ロンドンのパブで知り合ったんだけど、最初はあんまり英語が上手いんで驚いた。おまけに日本語もこのとおりだし。わけの分からんことわざさえ挟まなきゃ完全に日本人で通用する。こういうのがジェームズ・ボンドの役をやりゃ完璧《かんぺき》だろうね。ボンドが日本人に変装した映画見たことあります? 青い目をしてモンペに菅笠被《すげがさかぶ》ったって、外国人だと誰にも見抜かれるわな。おまけに、コンバンハ、オタッシャデスカ、なんて通りすがりの村人にいちいち声をかけるんだもの。あんな間抜けなスパイはどこにもいねえぜ」  佐和子は吹き出した。達磨《だるま》の兄妹といい、矢的の周囲にはおかしな人間がいる。 「コーヒーでいいそうだ」  矢的が代わりに注文した。 「どうせ帰りにまた寄るんだろ。その頃には女房も戻ってる。旨《うま》そうなチーズでも揃えて待ってるよ。今夜は貸し切りだ。よかったら、その大学の先生も連れて来たら?」 「ぼくは寄るけど……池上君の予定は知らない。勝手に行動を決めちゃ迷惑だ」  矢的は苦笑して言った。 「酒に十の徳あり……」  矢的の株を奪って、田島は得意そうに、 「居酒屋の壁に貼ってあった文句だが、なかなかいいだろ。酒に誘われたら天下一の幸せ者だと考えなくちゃ」 「酒極まって乱となる……という言葉もあるよ。特に田島にはその傾向が強い」 「私、今夜は別に予定がないんです」  佐和子が頷《うなず》くと田島は張り切った。  二人はコーヒーを飲み終えると、店を出て神楽英良《かぐらえいりよう》の勤務している大学に向かった。田島の店から歩いて十五分の距離にある。 「いろんな友だちがいるんですね」  並んで歩けば背丈がだいたい一緒だ。やはりハーフにしては低い身長である。 「高幡不動のマンションを捜してくれたのは彼なんだ。君から大学の場所を電話で聞かされて、田島のとこと近いと分かった時は驚いた。日本も案外狭い」 「ユニークな人ばかり」 「日本人て、なぜ外国語を頻繁に使うんだろう。ハーフもユニークもそうだ」 「日本語よりも意味が伝わりやすいというのもあるんじゃないかしら。ユニークと言ったほうが優しい感じもするし。変だとか、個性的とか言うと皮肉にも取られかねません」 「つまりは曖昧《あいまい》さを狙ってるのかい。本音は変だと思っているのに、褒め言葉のように相手には伝わる。この前もどこかでシビアーさが足りないと叱られていた男を見たけど、あんなのは日本語で言うほうがいい。第一、ユニークって言葉に、変だ、という意味はない。日本人が拡大解釈してるだけだよ」 「ふうん……そうなんですか」  今後は、あんまり外国語を口にしちゃまずそうだわ、と佐和子はインプットした。 「モノの名称なら仕方ないとして……日本には適切な言葉がいくらでもあるんだからさ」      2  工学部の本館は大学構内の一番奥まった場所にあった。さすがに武蔵野《むさしの》だけあって、都心の大学に較べればキャンパスの広さに余裕がある。二人は初夏の風にさわさわと小枝を揺すらせている桜並木をだいぶ歩いた。 「ああ、神楽先生より伺ってました」  教務課で研究室を訊《たず》ねるとすぐに頷いた。 「ロビーで少しお待ちください。今連絡しますから。助手がお迎えに上がると……」 「場所さえ教えていただければ」 「結構複雑でしてね。そのほうが早いです」  教務の男はダイアルをまわした。  三、四分もしないうちにロビー前のエレベーターから若い女性が姿を見せた。同性を厳しい目で採点するクセのある佐和子でさえ、見惚《みほ》れるような美人だった。綺麗《きれい》な形の額を見せた漆黒の髪が肩まで膨らんでいる。憂いを含んだ眼差《まなざ》しに、聡明《そうめい》な輝きまで感じとれる。かと言ってひ弱でもない。背筋をすっと伸ばした姿勢には気丈さもうかがえた。 「TAPSの池上さんですね。神楽の研究室にいる多野百合亜《おおのゆりあ》と言います」 「ゆりあ……素敵な名前」  挨拶も忘れて佐和子は百合亜を見つめた。どうしてこんな娘《こ》が工学部の研究室なんて堅いところに勤めているのかしら。いくらでも似合いの仕事がありそうなのに。 「義父《ちち》は教授会が少し長引いていて……学部長に任命されて間がないので抜けられないんです。でも三十分もすれば戻りますから」 「じゃあ、先生のお嬢さん」 「育ててくれた親ですけど……生まれてすぐだったので本当の親子のつもりですわ」  なるほど、それで苗字《みようじ》が違うのだと佐和子は納得した。そもそも神楽英良とは似ても似つかない顔立ちだ。神楽の顔はテレビや本で何度も見ている。人の好さそうな狸顔。 「あ——こちら、矢的遥さんです。今度のカタログやポスターのデザインをお願いして」  こんなの日本語に変換できっこないよ。百合亜に紹介しながら佐和子は苦笑した。 「矢的さんて……あのイギリスの?」 「ご存じですか」 「だって凄《すご》く有名ですもの」 「そうなんですって」  佐和子は矢的の顔を盗み見た。矢的は珍しく頬を赤くした。 「あの子生んだる親見たい、って気分だな。映画スター並の美しさだ」  百合亜に複雑な通路を導かれつつ、矢的は並んで歩く佐和子に囁《ささや》いた。  神楽の研究室には二階でいったんエレベーターを降りて、渡り廊下で別館に入り、また五階までのエレベーターに乗り換える。慣れれば簡単そうだが、はじめての時は戸惑うに違いない。五階には通路を挟んでたくさんの研究室が連なっていた。出入りしている教授や学生の雰囲気が、やはり文学部などとはかなり異なっていた。白衣に機械油の染みが目立つ。学問の場所という印象が薄い。 「本当は本館の学部長室に移るようにと大学から勧められたんですけど、義父はこちらが研究には使いやすいからと断わって。論文に取り掛かっている最中なので部屋が散らかっています。驚かないでくださいね」  笑って百合亜はドアを開いた。  言葉そのままに雑然としていた。壁の片面には天井までの本棚が設けられ、文献やファイルでびっしり埋められている。反対側の壁面は全体が仕切りの飾り棚。得体の知れない模型や計測機械が納められていた。真正面の机の上は半分が資料の山で隠され、その先の出窓の部分にまで本が平積みされている。中央のソファの置かれている場所だけが息抜きできる空間だ。テーブルには悩ましげな肌合いをさせた三本の百合が花開いている。 「名前が名前でしょう? 大好きになるか、大嫌いになるか、どっちかみたいですね」  匂いを吸い込んだ佐和子に百合亜は笑って、 「コーヒーでよろしいですか?」 「できれば日本茶を……たった今近くの店で飲んできたばかりで」  矢的の返事に佐和子も同調した。 「でしたら茶運び人形に命じましょう」  百合亜は楽しげな顔で応じた。 「茶運び人形って……あのからくりの?」 「ええ。どこかでご覧になりました?」 「いいえ、本物はまだ一度も」  百合亜は頷くと仕切り棚に近寄り、ひと抱えの細長い木箱を持ち出して来た。 「からくりはそのままですけど、古い人形じゃないんです。何年か前に復元模型が売り出されて……今も売っているのかしら」  百合亜は木箱の蓋《ふた》に手を掛けた。開けると中には四十センチほどの大きさの人形が笑顔を浮かべていた。お城の茶坊主の服装をして、髪をおかっぱにした可愛らしい子供の人形だ。ふうん、と矢的も身を乗り出して眺めた。 「外から見ると普通の人形と一緒だな。茶運び人形と言うからには、側でお茶でも淹《い》れてくれるわけかい?」 「そこまでは無理です」  百合亜は口許を緩ませて、 「お客様にお茶を運ぶだけ……お客が人形から茶碗《ちやわん》を受け取ると、お辞儀をし、また茶碗をもらって主人のところまで戻ります」 「本当に?」  矢的は疑わしい目つきで百合亜を見た。 「なんだかワクワクするな」  百合亜が急須《きゆうす》から茶碗に茶を注ぐ手元をじっと見つめて矢的は口にした。百合亜の脇の床には捩子《ねじ》を巻かれた人形が、茶托《ちやたく》を持って小さな手を差し伸べ待機している。 「目の前まで近づいたら茶碗だけをご自分で受け取ってください。茶碗が載っている限り、いつまでも歩き続けます」  百合亜は人形の進行方向を矢的に定めると、茶碗を静かに茶托の上に置いた。その重みで人形の手が下がった。微《かす》かな音が着物の中でした。ゼンマイのストッパーが外れた音だ。と同時に人形はゆっくりと前進をはじめた。白い足袋《たび》が交互に動く。想像よりも滑らかな動きだ。足が動いているように見えるが、実際は別の車が回って人形を進めている。足は飾りに過ぎない。 「可愛い……」  佐和子は思わず声を上げた。生命のない機械のはずなのに、髪を揺らし、必死で歩いている様子がなんとも健気《けなげ》に感じられる。  やがて人形は矢的の膝元《ひざもと》まで近づいた。ゆっくりとした動作なので、客は慌てずに茶碗を受け取ることができそうだ。どうぞ、と百合亜が促した。矢的はそっと茶碗を取った。人形の手がピンと上がる。人形は立ち止まった。見ていると、静かに頭を下げた。いかにも挨拶《あいさつ》をしているみたいに見える。矢的は笑って人形に頷いた。人形はそのまま矢的が茶を飲み干すまで、その場で待っている。 「お茶は後でいただこう」  矢的は茶碗をふたたび人形の手に返した。束の間の静止の後、人形はそろりそろりと右に旋回をはじめた。百合亜と向き合う位置に戻ると、真っ直ぐ歩き出す。矢的と佐和子は同時に溜《た》め息を吐いた。 「これはいつ頃に考案されたんだろう」 「寛政《かんせい》八年に出版された『機巧図彙《からくりずい》』という本に、この人形の設計図が掲載されています。ですから、それよりも前に作られたのは間違いありません。寛政八年と言えば……」 「分かるよ。寛政年間は一八〇〇年頃だ」  矢的が言うと佐和子は目を丸くした。 「だって、写楽《しやらく》が活躍していた時代だろ」  百合亜は感心した目をして頷いた。 「君が考えている以上に、外国じゃ写楽は有名なんだぜ。君にしてもラファエロが生きていた年代はすぐに分かるはずだ。そんなにビックリされることじゃないさ」  佐和子は曖昧《あいまい》に頷いた。ラファエロってルネッサンス時代とまでは自信を持って言えるけど、あれって何年頃だったかしら。 「寛政八年は一七九六年です」  手近な本で調べて百合亜が付け加えた。 「だいたい二百年前ってわけだ。凄いな」 「でも、実際にはその百二十年も前から存在していたようです。井原西鶴《いはらさいかく》の句と自註に、明らかに茶運び人形と思われる説明があって」  百合亜はその文献を捜して二人に見せた。  ——茶をはこぶ人形の車のはたらきて——  江戸|播磨《はりま》、大坂の竹田《たけだ》、唐土《もろこし》人の知恵をつもりて、ゼンマイの車細工にして、茶台をもたせて、おもうかたへさし向えしに、眼口のうごき、足取のはたらき、手をのべて腰をかがむ、さながら人間のごとし。  井原西鶴『独吟《どくぎん》百韻』(一六七四年刊) 「完全に茶運び人形のことだ」  矢的は唸《うな》った。 「どうしてこれほどのものが世界に紹介されなかったんだろう」 「そうですね。鋼のゼンマイがまだ作られていない時代に、日本人は鯨《くじら》の髭《ひげ》を利用してゼンマイの代わりにしたんです。充分に世界に通じるアイデアだったと思います」 「へえ。鯨の髭か。ますます驚いた」  矢的は床に静止したままの人形をテーブルの上に置いて着物の裾《すそ》を捲《まく》った。外観の優しさからは想像もできないくらい機械的な印象だった。木製の踏み台のような箱の中にたくさんの歯車が収まっている。一見した程度では、仕掛けの見当もつかない。 「からくりって、どういう意味?」  矢的は百合亜に質《ただ》した。 「語源ですか……よく分かりません。絡めて繰り出す、という言葉が縮められたものじゃないかとは言われていますけど」  茶運び人形のように歯車とゼンマイで動く人形の場合は、絡めて繰り出す、という感じを受けないが、日本のからくり人形は大多数が糸で遠隔操作するものだ。代表的なものに高山のからくり山車《だし》がある。舞台に上がっている人形の胴体の中に無数の糸を繋《つな》ぎ、それを裏側で人間が引いたり伸ばしたりする。その動作によって人形が逆立ちしたり太鼓を叩《たた》いたりするわけだ。 「でも、その他に糸あやつりという言葉もありますし……語源的にはどうでしょうか」 「カラ、って中国の唐とは無関係?」  佐和子が口を挟んだ。 「それは関係ないと思います。技術は日本のほうがはるかに進んでいました」 「でも……高山のからくり山車なんか見ると中国的な人形が多いみたいだけど……唐子《からこ》人形って有名なものもあるでしょ。てっきり中国から渡って来た技術だとばかり」 「日本的な人形を拵《こしら》えるよりも、中国的な顔にしたほうが、不思議さを強調できたんだと思います。それだけの理由じゃないかしら」 「他にどんなからくり人形があるの?」  矢的は面白さに引き摺《ず》り込まれた。 「段がえりとか、三番叟《さんばそう》、品玉《しなだま》……」 「品玉?」 「手品をして見せる人形です。目の前に小さな玉が置いてあって、それに人形が箱を被《かぶ》せます。次に箱を持ち上げると、玉が消えているという仕掛けなんです」 「それも歯車やゼンマイで?」 「はい。糸あやつりに較べれば単純な動作の繰り返しに過ぎませんけど、私はからくりを機械と認識しているので、どうしてもそちらのほうに興味を覚えてしまって。ですから高山のからくり山車にはそれほど……」 「おなじからくりでも、ロボットに近いもののほうが好きだと言うわけだ」 「義父《ちち》の専門は人間工学ですので」  それで矢的も納得した。 「お父さまはずいぶん古くから、からくりにご興味を持たれたみたいですね」  何冊かの著書に佐和子は目を通している。 「もう三十年以上にはなります。文献では確認できても、からくり人形がほとんど残されていなくて研究成果は年数のわりに進展しませんが……見世物用として作られるものが大半なので、普通の人形のように保存されるケースが稀《まれ》なんです。空を飛ぶ鶴が作られたという伝承も残っていますけど、ちょっと信じられない話みたいでしょう?」 「糸で吊るして、鶴の飛ぶ形を再現したんじゃなく?」  矢的は唖然《あぜん》として聞き返した。 「弁吉《べんきち》の手から離れて空に飛んだとありますから、きっと糸とは違います。弁吉という人はゼンマイ仕掛けを得意とした人間ですし」 「弁吉とは誰のことです」  矢的にはまるで知識がない。 「大野《おおの》弁吉……金沢のからくり師ですよね」  佐和子が言うと百合亜は頷《うなず》いた。 「からくり儀《ぎ》右衛門《えもん》と並ぶ天才です」 「その人の名前も初耳だ」  矢的は苦笑した。 「こんな状態でポスターなんか描けるかな」 「大丈夫。小説を書いてくれと頼んでいるわけじゃありません。デザインですもの」 「イメージがなくてポスターはできないよ」 「まだ時間はたっぷり。四カ月はあります」 「そうだな。今後とも百合亜さんにはお世話になろう。知らないことが多過ぎる」 「私でよければいつでも」  百合亜は矢的の言葉に喜んだ。 「ところで……池上さんは新宿の妙香寺《みようこうじ》をご存じですか?」 「妙香寺? いいえ」 「そこに大野弁吉のアイデアを基にして作られたと言われる自動噴水器があります。九谷《くたに》焼きの陶器で珍しいものです。人形とは別ですが面白い仕掛けになっています」 「それは簡単に見せていただけます?」 「いつでも。よろしかったら今夜は?」 「…………」 「変わった住職さんで、本堂を開放して劇場を持っていない劇団やミュージシャンに使わせているんです。今夜、そこで兄のグループのコンサートが……」 「君のお兄さんは音楽をやっているんだ」 「ええ。ロックですけど……アンドロイドというグループ」 「アンドロイド! 信じられない」  佐和子は歓声を上げた。テレビなどには滅多に出ないが有名なロックバンドだ。たしかリードボーカルをやっている男の名は……。 「多野|露麻夫《ろまお》……彼がお兄さん!」 「双子の兄です。あんまり似てないでしょ」  百合亜は微笑した。 「行きましょうよ。せっかくですもの」  佐和子は急に乗り気になった。 「でも、田島さんに悪いかしら」 「ちっとも。そんな面白そうな場所になら、あいつのほうがついてくる」      3  午後五時。矢的と佐和子と田島の三人は新宿に向かう電車に並んで腰を下ろしていた。神楽英良に会い、もう少し詳しくからくり人形について教わると、百合亜と妙香寺での待ち合わせを決めて田島の店に戻ったのだ。田島は矢的の言葉どおり、店を妻に任せて新宿に同行すると名乗り出た。  夕方に新宿に向かう中央線は空《す》いている。 「まったく……矢的んとこにゃ、妙な連中ばかりが集まる仕掛けになってんだな」  田島は自分のことは棚上げして面白がった。 「今度は絶世の美女とロック・ミュージシャンの双子ときた。なんだかミステリーにでも登場しそうなパターンじゃないの」 「ミステリー、お好きですか?」 「ほとんど中毒。日に一冊は読まないと眠れない。その意味じゃいい時代だよ。なにかで目にしたけど、ミステリーは国産の数だけでも年間に四百冊以上が出版されてるらしい。毎日違う本を読んでも追いつかないわけだ」 「凄《すご》い数」 「と言っても、オレが読むのはたいてい文庫本……いくら映画よりも本が安いからって、ハードカバーの新刊ばかりじゃ女房に叱られる。趣味は仮面だけでたくさんだってさ」 「矢的さんはどう?」 「だめだめ」  田島が軽く手を振った。 「原書のほうが読みやすい人間だもの……国産のミステリーを読むわきゃない。それに、現実の謎のほうが矢的にゃ面白いみたいだ」 「現実の謎?」 「なんだ、知らないで矢的と一緒の仕事してたわけ? 探偵としてかなり有名だぜ」 「え?」  佐和子はぽかんとした。 「大袈裟《おおげさ》だよ。ちっとも有名じゃない」 「ご謙遜《けんそん》だね。本当に有名だ。彼の親父さんはスコットランド・ヤードに顔が利く。その繋《つな》がりで矢的はいくつかの難事件に関わって見事に解決した。ヤマト・ハーカーって言うと、向こうじゃデザイナーとしてより、そっちで名が知れてる」 「クルーゾーとおんなじさ。見当違いのことをしているうちに、時機が来て自然に解決する。それが重なっただけだ」  矢的ははにかんだ。 「じゃあ、さっきのジェームズ・ボンドの話だって、冗談じゃなかったんですか」 「ま……秘密|諜報員《ちようほういん》とはちょっと違うけど」  田島は噎《む》せ込んだ。 「しかし……案外そうだったりして。これだけ日本語が上手けりゃMI6が目をつけてもおかしかぁない。世界大戦の時だったら確実に召集がかかっていたはずだ」 「難事件て……殺人事件も?」  佐和子が訊《き》くと矢的は頷いた。 「日本ではどうなんです?」  矢的はすぐに首を横に振った。 「警察に知り合いもないし……そもそも日本の警察は部外者を嫌うだろ? それに魅力的な事件もないな。お金や浮気がからんだ単純なものばかりだ」 「死体って怖くありません?」 「別に……慣れていたから」 「死体に?」 「ぼくの親父はヤードで死体を検視する医者なんだ。親父の書棚にはそんな写真がごろごろしてた。母親は気持ち悪がって書斎にほとんど足を入れなかったけど……その関係で家に事件の担当者が訪ねて来ることも多かったしね。自然に深入りすることが……」 「お父さまが医者なのに、別の道を?」 「それは日本だけの常識だ。医者と言ってもそんなにお金にはならない。ぼくも長者番付に医者ばかりが並んでいるのを見て最初は驚いた。日本は保険制度が行き渡っているから病院に抵抗がないんだろうな。あっちじゃ滅多なことでもないと病院に行かない。患者が少なければ、収入だって……ね」 「…………」 「だいたい日本人て人種は薬や医者に頼り過ぎるよ。テレビを見てると薬とか健康食品の宣伝で一杯だ。あれだけは分からない」  それは言えてる。現に佐和子のバッグの中にも、消化薬やら目薬、痛み止めが常に入れられてある。 「新橋第壱画廊の名倉さんなんて、健康のためだとか言って、食事の後に七、八種類の薬を飲む。消化剤とビタミン剤って説明されたけど、薬だけでお腹が一杯になりそうだ」  佐和子は笑って頷いた。名倉には仕事の関係で時々酒をご馳走《ちそう》になるが、酒宴の直前に必ず肝臓強化剤を何粒か飲む。あそこまでして酒を飲む必要はないのに、と思っていた。 「運命《さだめ》につける薬なし、ってね。いい言葉じゃないか。そういう潔さが昔の日本人にはあったんだ。若葉は目の薬、というやつもある。そんな薬なら大歓迎だけど」 「珍しく分かりやすいことわざだな。なかなか奥深いとこをついてる」  田島は何度も頷いた。 「ロンドンでも矢的さんはことわざを?」  佐和子は田島に訊《たず》ねた。 「せんだん[#「せんだん」に傍点]は双葉より芳しと言いまして……会うたびに聞かされた。なんだかテストを受けているようで怖かったよ。日本人の自信を失っちゃったもんね。特に、田島君は蚊死なず[#「蚊死なず」に傍点]の顔だって言われた時ゃ絶望した」 「蚊死なず? 分からないわ」 「だれにも分かりゃしないさ。この、あばた面のことだそうだ。説明されてガクっと来たよ。それで髭《ひげ》を伸ばしはじめたんだ」 「どうして蚊死なずが、あばたなの?」 「蚊が顔に止まって、ひっぱたいても、あばた面だと、凹《くぼ》んだ部分に蚊が逃れるんで殺せねえんだと」  佐和子は爆笑した。 「ま、たとえ蚊死なずの顔であろうとだよ、そいつを面と向かって言うヤツはあんまりいない。そこが矢的の愛嬌《あいきよう》かもしれんわな」 「虻《あぶ》と糞《くそ》は知ってますか?」 「達磨の雄ちゃんと良美だろ。連中も悲惨な渾名《あだな》を頂戴《ちようだい》したもんだ。しかし、達磨の兄妹を知ってるのは嬉《うれ》しいな。そう言えばずいぶん達磨に行ってない。今夜は矢的んとこに泊めてくれないか。飲みに行こう」 「コンサートを終えてからだと遅くなる。だったら達磨に連絡を入れておかないと」 「あそこはたしか二時までだ。心配ないさ」  きっと目茶苦茶な飲み会になるんだわ、と佐和子は田島の横顔を見つめた。いつの間にか電車は中野を通過していた。 〈それにしても……〉  矢的遥って、どういう男なんだろう。殺人事件をいくつも解決したなんて、只者《ただもの》じゃないわよ。シャーロック・ホームズとはイメージがちょっと違うけど……だったら、私の心なんかも見透かされているわけ?      4  妙香寺は新宿|御苑《ぎよえん》の入り口と厚生年金会館を線で結んだ中間辺りにある。新宿と言っても、まだ静かさの残っている一帯だ。  駅から結構な距離だが、時間に余裕があったので三人でぶらぶらと歩いて向かった。  寺に近づくとグルーピーのような女の子がたくさん目につきはじめた。アンドロイドのファンに違いない。 「大層な人気じゃねえか」  名前しか知らなかった田島は唸《うな》った。 「露麻夫って、カリスマ的な人気ですよ」 「そいつは本名かい。気味の悪い名だ」 「ロミオとジュリエットさ」  矢的がこともなげに言った。 「両親が悲劇的な恋をしたか、あるいは二人は私生児かもしれない。生まれてすぐに神楽先生の家に引き取られたと言うんだから」 「露麻夫と百合亜……ロミオとジュリエット。いかにも、そんなふうに聞こえる」  田島と佐和子は首を振った。 「ますますミステリーの世界だ。おまけにからくり人形まで登場してる。金田一耕助《きんだいちこうすけ》ならこの辺りで、ぼ、ぼくには連続殺人の予感がしますよ、なんて言うシーンだろうな」 「金田一耕助って?」 「その程度の常識もない男が、なんで虻と糞を知ってるのかね。さしずめ日本のファイロ・ヴァンスさ。子供でも知ってるぞ」 「今度読んでみよう」 「そうそう、矢的にぴったりのミステリーだ。俳句とか童謡をトリックに使っている」 「あら……受付に百合亜さんが」  山門を潜ると真正面の本堂の階段の手前にテーブルが出されていて、そこに百合亜を含む三人の女性が並んでいた。研究室の服装とは異なって、胸元の深い華やかな襟のブラウスに着替えている。本堂は堂々としたコンクリートの建物だ。重そうな扉を閉じてしまえばロックの音も心配なさそうだった。 「山門の前で待っているつもりでしたけど、こちらの手が足りなくなって」  百合亜は佐和子に三枚の大きなチケットを渡した。裏に曲目やメンバーの紹介がある。 「開演にはまだ時間があります。最初に自動噴水を眺めさせてもらいましょうか。住職にはもう了解を取ってありますから」  百合亜は後を任せると田島に頭を下げた。 「何歳って言ったっけ」  どぎまぎして挨拶《あいさつ》を終えた田島は、百合亜について石畳を歩きながら矢的に囁《ささや》いた。 「二十五歳。露麻夫さんと双子なら」  佐和子が応じた。自分よりも一つ下だ。 「美人てのは貫禄《かんろく》だな。この人よりもずっと年上に見えるぜ」  田島は佐和子を顎《あご》で示した。 「私は歳を教えた記憶がありません」 「あ……いや、矢的に聞いたんだ」  田島は慌てて、 「ま、女は愛嬌とも言うし」  酷《ひど》い。昼には美人だと言ったくせに。でも、当然よね。百合亜の美貌《びぼう》と勝負しても結果は見えている。こういう場合は逆に控え目にしているほうが好感を持たれるはずよ。 「おひさしぶり」  庫裏《くり》に案内されると、そこには美しい先客がいて、百合亜に笑顔を見せた。  佐和子は思わず息を呑《の》み込んだ。女優の浮田美洋《うきたみひろ》である。有名女子大出身の肉体派女優として学生の間で特に人気が高い。田島もすぐに分かったと見えて緊張している。だが、百合亜は美洋を無視するように無言で軽く会釈した。美洋は頬を小さく痙攣《けいれん》させて、 「そちらの方たちは? ご紹介して」 「義父《ちち》の仕事で知り合った皆さん。デザイナーの矢的遥さんはご存じ?」  矢的は気軽に頭を下げた。けれど美洋にはピンとこなかったらしい。それでも艶然《えんぜん》とした微笑を送り返して来た。田島が名乗り、佐和子もお辞儀をした。美洋は喫いかけのタバコを手にしたまま軽く頷《うなず》いた。 〈白鳥麗子《しらとりれいこ》みたいに自信たっぷり〉  ホーホホホ、という笑い声まで聞こえて来そうだ。もっとも、少女マンガの主人公だから、こんな比喩《ひゆ》は男どもには通じない。 「もうそろそろ開演の時間ですわ」  百合亜は邪魔だという口調で言った。 「あなたの好きな希里子《きりこ》ちゃんも来てるわ。せっかくですもの、後で食事でもしない? 露麻夫君も一緒よ。兄妹が顔を合わせるのは何カ月ぶりかじゃなくて? よろしかったら皆さんもお誘いしてちょうだい」  美洋は灰皿にタバコを押し潰《つぶ》すと立ち上がった。百合亜と視線が交差する。美洋も他を圧する美しさだが、百合亜に較べると佐和子には滅びに向かっている崩れた美に思えた。 「どういうお知り合いなの?」  美洋が部屋から消えると佐和子は質《ただ》した。 「兄の……つき合っている女の子のお父さまが……彼女を。そういう関係です」  百合亜は不潔そうに口にした。つまりガールフレンドの父親が美洋のパトロンということらしい。美洋ほどの女優のパトロンとなれば、相当なお金持ちと思える。希里子という子が露麻夫の彼女ってことね。 「今までのつまらない一生は、今夜のための伏線みたいな感じだね。まさか浮田美洋とこんなところで会えるたぁ思わなかった。新宿まで無理してついて来た甲斐《かい》があったぜ」  田島は単純に喜んでいる。 「そんなに有名な人かい?」 「だよ。デビュー当時は加賀《かが》まりこの再来って騒がれた。おれ、ファンだったんだ」  矢的は興味のない顔で頷いた。 「人生がいっぺんに花開いた気分だ」 「自動噴水はどこに?」  矢的は田島を無視して百合亜に向き合った。 「住職が持って来てくれます」  それは不思議なものだった。全体は鼓を立てた形に似ている。噴水と聞いて巨大なものを想像していたが、茶運び人形とおなじ程度の大きさだ。上部には広い盆が載っていて、中央に小さな鯉が空に口を開けていた。九谷焼きなので色彩が艶《あで》やかだ。盆の底、鯉の側にはストローくらいの穴が見える。 「外から眺めても仕掛けは見抜けませんよ。私も原理を知っておるだけで、実際に中を見たことがない。よくこんなものを昔の人間が拵《こしら》えたもんだと感心しますわ」  五十近い住職は自慢気に噴水を撫《な》でた。 「どれ……ちょっと試してみましょう」  住職は薬罐《やかん》の水を盆に静かに注いだ。小さな穴に水が吸い込まれていく。 「この中は真ん中で上と下の二槽の空間に仕切られておりましてな。穴から吸い込まれた水は管を通って下の槽にまず入る。全部が水で満たされたら、今度はこれを逆さまにひっくり返す。すると別の管を通って上の槽に水が移動する。そして、こうして元に戻す。上に移動した水は逆流せずに、そのままです。けれど、下の槽は空だ。まあ、空と言っても実際には空気が満たされておるわけだね。問題はこれからですよ」  住職はふたたび盆に水を注いだ。また穴から水が吸い込まれる。  しばらく眺めていると、鯉の口から七、八センチの高さに水が噴き出てきた。はじめて見る三人に歓声が上がった。 「盆から注がれた水が下の槽に溜《た》まりはじめると、しだいに中の空気を圧迫する。逃げ場を失った空気は管を通って上の槽に移る。だが上も水で一杯だ。しかし、空気にはもはや移動する場所がない。空気圧に圧《お》されて、上の水が鯉に繋《つな》がる管を通って外に噴き出る……と、つまりはそういう仕組みになっておる。噴き出た水は、たまたま穴から下に吸い込まれ、空気が完全に上の槽を満たすまで延々とこの動作が続けられると言うわけだ。だいたい一時間は噴水が見られるな」 「一時間もこの状態が!」  矢的は呆《あき》れて噴水に掌《て》を触れた。思いがけぬほど水に圧力がかかっている。 「そうそう。これは眺めて楽しむ他に、そうやって手水鉢《ちようずばち》としても使われたらしい。なにしろ自動的に水を噴出させておるんだから清潔な感じがしただろうね」 「これが百年以上も前に」  おなじ意味の言葉を矢的と佐和子がほとんど同時に口にした。どっと笑いが起きた。 「二人はよほど相性がいいと見える」  田島がニヤニヤして言った。 「こんなのは、なんて言うんだい? お得意のことわざは浮かんで来ないか」 「人|噛《か》み馬にも合い口」  咄嗟《とつさ》の応答に住職だけが苦笑した。 「どういう意味なの?」  佐和子はきょとんとして訊《き》いた。 「乱暴で人を噛み殺すようなじゃじゃ馬にも、世の中には一人くらい気の合う相手がいるはずだ、という意味だよ」 「酷《ひど》い。じゃじゃ馬って私?」  住職の説明に佐和子は憤慨した。 「ま、それも愛情表現の一つだろうな。糞《くそ》や蚊死なずに較べりゃ立派なもんだ」  田島は佐和子の肩をぽんと叩《たた》いた。 [#改ページ]   三 悪人には友多し      1  コンサートが終了すると佐和子たちは車で赤坂《あかさか》に向かい、会員制のクラブの席に腰を落ち着けた。たとえ深夜でも、この店ではフランス料理のコースが食べられると言う。佐和子は溜め息を洩《も》らしつつシックなインテリアを子細に見渡した。個室なので自分たち以外の客はいない。世の中にはちゃんとこういう贅沢《ぜいたく》を享受している人間もいるのだ。壁面に飾られたルノアールの小品だっておそらく本物なんだろう。こんなとこでフルコースを注文したら最低、半月はアパートでお茶漬けの生活に甘んじなければならない。 「失礼だけど、ご心配なさらないでね。ここは希里子ちゃんのお父さまが関係しているお店ですから。誘ったのは私。ご遠慮なくなんでも注文してちょうだい。お酒もワインばかりじゃなく、どんなものでも揃っています。時間が中途半端だったので、お食事を済ませていない人も多いんじゃない?」  美洋が誇らし気な顔で言った。この場にいるのは美洋、百合亜、希里子、矢的、田島そして佐和子の六人。露麻夫とアンドロイドのギタリスト酒巻健吾《さかまきけんご》の二人は会場の撤収を少し手伝ってから来る予定だ。 〈どういう人間関係かしら?〉  佐和子は興味を持って美洋、百合亜、希里子の三人にそれとなく視線を動かした。たしか妙香寺では希里子と百合亜は仲がいいと美洋が口にしていたはずなのに、コンサートの会場ばかりか席に着いてからもあんまり口を利かない。それにしても……よくこれほどの美人が集まったものだわ。佐和子は感心した。美洋と百合亜を前にしているとさすがに生彩を欠くけれど、希里子とて百人に一人という可愛い顔立ちだ。現役の女子大生と説明されたが、細い指には洒落《しやれ》たエメラルドを嵌《は》め、バッグも本物のシャネル。それでいて、嫌味な感じを受けないのは、もともとのお嬢さま育ちのせいかもしれない。 「お父さまも後で来られるそうよ」  美洋が希里子に言うと、希里子は一瞬|厭《いや》な顔をした。しかし、笑顔で頷《うなず》く。普通の家庭の娘なら、父親の二号さんなんて口も利きたくないはずなのに、やっぱり金持ちは鷹揚《おうよう》なもんだわ。佐和子は妙なところに納得した。  ウエイターが注文を訊きに来ると、美洋はふたたび皆に訊《たず》ねた。 「スコッチをダブルで……後はお任せします」  メニューも見ずに田島は答えた。佐和子も頷く。矢的はそれにアボガドサラダを加えた。 「私には軽いワインを選んでください」  百合亜がウエイターに頼んだ。私もそうします、と佐和子はスコッチを取り消した。 「女性は皆それでいいわね。じゃあ、オードブルは私が適当に選ぶわよ」  美洋は次々に料理を選んだ。  料理と酒は文句のないほど美味《おい》しいのだが肝腎《かんじん》の話が弾まない。 「希里子さんのお父さまって、どういうお仕事?」  佐和子は話の糸口を捜した。 「カシマってご存じじゃない? 銀座とか新宿にたくさんビルがあるけど」  美洋が間を置かずに返事をした。 「あのカシマですか」  佐和子は大きく頷いた。不動産会社として東京では名が広まっている。最近では映画制作にも手を伸ばして、なにかと話題の多い会社だ。そう言えば、その映画に浮田美洋が主演するとか聞いていたわ。だんだん佐和子にも事情が見えて来た。あれ……テレビかなにかで、その映画に多野露麻夫が出演するとかいうのも見た覚えが……。 「そうなの。クランクインはまだだけど」  美洋は嬉《うれ》しそうに首を振った。  裏側を知らないうちは、面白いキャスティングだと思っていたが、こうして人間関係が分かってみると、安易な配役だ。自分の愛人と、娘の恋人を使っているだけに過ぎない。佐和子はちょっと不潔な気がした。 「ベッドシーンもあるのよ。希里子ちゃんには申し訳ないけど……映画ですものね」  希里子は必死に耐えていた。 「お父さまのアイデアなの。我慢して」 「気にしていません」  希里子はワインを一気に呑《の》み干した。 「よう、おまたせ」  そこに露麻夫と酒巻健吾が現われた。露麻夫は躊躇《ためら》いもなしに美洋と希里子の間に座る。ステージ衣装に較べればもちろん派手さは劣るものの、このままで通りを歩けば振り向かれそうな黄色いジャケット。しかもランニングの肌着一枚に羽織っている。うっすらとアイシャドーを入れた顔にピアスが光る。彫りの深いエキゾティックな造作なので、違和感のないのが恐ろしい。男の化粧なんて、見るも悍《おぞ》ましいと思っていた佐和子だった。 〈なんて綺麗《きれい》な男なんだろ〉  うっとりと佐和子は見つめた。露麻夫は席に初対面の人間たちがいても、あまり気にしない様子でバーボンを瓶ごと頼んだ。垂れた前髪を鬱陶《うつとう》しそうに顎《あご》を振って直すと、首に巻いた細い三連の金のネックレスが小さな音を立てた。ゾクッとする仕種《しぐさ》だ。 「へえ、ハーフになんて思えないな」  百合亜が矢的を紹介すると露麻夫は握手を求めた。名前こそ知らなくても、矢的が世界的に注目されているデザイナーだと百合亜に聞かされて露麻夫は喜んだ。 「じゃあ、映画のポスターも矢的さんに頼んだらどう。これもなにかの縁だぜ」  露麻夫は美洋に向かって言った。娘と恋人だと言うのに、実権は美洋にあるのか? 「そうね。あの人も後で来るから、相談してみましょう。百合亜さんの紹介なら無条件で承知すると思うわ」 「矢的さんに失礼です」  百合亜は美洋を睨《にら》みつけた。 「矢的さんが承諾してくれるかも分からないのに……二人とは価値観が違うのよ」 「悪い仕事じゃないと思うがな。希里ちゃんの親父ならギャラはどんと弾むし」 「お金で仕事をする人じゃないの」  そう言って百合亜は矢的に謝った。 「矢的さんて……あのジャケットカヴァーをデザインした人じゃないんですか?」  やりとりを耳にしていた酒巻がイギリスのミュージシャンの名を挙げて問い質《ただ》した。 「そう。あれで知名度が上がった」  マネージャーみたいな口調で田島が応じた。 「ええっ! あの人かよ」  露麻夫がのけぞった。荒涼とした海原に白い雪が降り注ぎ、その水平線の彼方《かなた》に天馬が飛び去って行くというジャケットは、当時、ずいぶん評判になった。スーパーリアリズムの描法で、とても人間が筆で描いたものとは思えなかったからである。 「とんでもない人と知り合ったもんだ。だったらアンドロイドのカヴァーをやってもらえないかなぁ。そっちのほうが重要だぜ。だろ」  露麻夫の言葉に酒巻も頷いた。 「それができたら最高だもの」 「こいつはズボラな人間でね。最近はあんまし面倒な仕事を遠ざけてる」  田島が代弁した。 「ハサミでちょこっと切り抜いて、糊《のり》でペタペタやるコラージュが大半だ。まだ三十だってのに、すっかり怠け癖がついちまった」  田島の言い方に矢的は笑った。 「日本に居ても、日本の仕事は滅多に引き受けませんものね」  佐和子は皆に説明した。その人が、私と一緒の仕事をしてるんですよ、と本当は言い添えたかったのだが。 「さっきの話はナシにしますよ。矢的さんならカシマの映画なんてくだらないと思うに決まってる。実際、くだらん作品でね。出演するオレが言うんだから確かだ」 「あんまり悪い評判を吹聴《ふいちよう》してもらいたくないものだね」  いつの間にかドアの側に仕立てのいいスーツを着こなした年配の男が立っていた。希里子の父、加島大治《かしまだいじ》だった。加島はにこにこしながら露麻夫の背中を軽く叩《たた》き、美洋の左隣りに腰掛けた。とても六十歳とは思えない若さだった。髪は黒と銀のメッシュ。体もスポーツで鍛えているのか、がっしりとしている。 〈こりゃ、オールスターキャストだわ〉  渋い二枚目。昔は相当に遊んだ男だと佐和子は直感した。プラチナのパテックフィリップが腕に似合う男なんてはじめて見た。スーツにしても百万はするに違いない。見方によっては露麻夫すら霞《かす》んでしまう。  二度とお目にかかれないようなエリートたちの集まりだ。      2 「ほほう……からくり展の仕事をね。それは面白そうな企画だな」  百合亜が加島に初対面の矢的や佐和子を手短に紹介すると、加島は軽い頷きを見せ、注がれたばかりのバーボンに口をつけた。若い恰好《かつこう》をしていても衰えは隠せないのか、グラスを持つ手が細かく震えている。 〈いや……動揺じゃないのか〉  矢的はじっと加島を見つめた。やはり目も落ち着きを失っている。笑って次の言葉を捜そうとしているのだが、咄嗟《とつさ》に別の話題が浮かんで来ない。そんな印象を矢的は受けた。 「なにか?」  加島は矢的の視線に気づいた。 「お若いので感心していました」 「ですよね。憧《あこが》れちゃいそう」  隣りで佐和子も相槌《あいづち》を打った。屈託のない佐和子のせいで加島は安堵《あんど》したのかしだいに手首の震えも鎮まっていった。 「今日は百合亜さんのご案内で、大野弁吉の設計した自動噴水を見て来たんです」  佐和子が言うと、また顔が強張《こわば》った。 「大野弁吉の噴水か……なるほど」  加島はしきりに汗を拭《ふ》く。 「加島さんもからくりにご興味を?」  佐和子に加島は曖昧《あいまい》な顔で頷いた。 「興味なんてもんじゃない。どうやら情報量が足りないみたいだな」  露麻夫が苦笑を浮かべて話に加わった。 「都内のカシマビルの入り口のほとんどに、からくり時計が設置されてるのを知らない?」  言われて佐和子は大きく首を縦に振った。特に銀座のビルのものは有名だ。十五分ごとに時計の両脇の扉が開き、悪魔や小人たちが現われて半円を描きながら扉に消える。その上、一時間の時報ごとに、時計の上部からするするとブランコが下りて来て、それに腰掛けている白雪姫がギターを演奏しながら唄《うた》を歌う。その演奏に合わせて悪魔も躍り出す。アメリカ製のからくり時計だそうだが、子供たちに人気が高い。もちろん佐和子も何度か見ている。 「あんなのは子供|騙《だま》しさ……自宅には、もっと凄《すご》いのがたくさんあるぜ」 「本当ですか!」  佐和子は思いがけない僥倖《ぎようこう》に唖然《あぜん》とした。カタログ製作を依頼されてから、これまでずいぶんたくさんの資料に目を通しているが、加島大治がからくりのコレクターだなんて初耳だった。信じられない気持ちで百合亜を眺めると、百合亜も笑って認めた。 「まあ……数こそ多いが……たいていは外国のものでね。百合亜君には不満らしい」  加島はなんでもない口調で言った。 「よろしければ拝見させていただけませんか」 「出品は断わるよ。それを承知なら」 「もちろん……見せてもらえるだけで」  やった、という顔で佐和子ははしゃいだ。 「私も一度見てみたいものだわ」  美洋が口を挟んだ。 「でも、ご自宅ではあなたが困るかしら。奥様にもご迷惑でしょうし」  美洋は加島を試すような言い方をした。希里子が不愉快そうな視線を美洋に浴びせた。 「皆が一緒なら構わないんじゃないの」  露麻夫が無責任に言う。 「離れて暮らしているだけで、希里ちゃんのおふくろさんに言わせりゃ、実態は妻妾《さいしよう》同居と似たようなもんなんだから。いまさら嫉妬《しつと》するとも思えないけど……美洋さんも案外古風な人なんだな。旦那《だんな》を寝取っておいて、そういう配慮は世間に通用しないぜ」 「よさんか」  加島は声を荒げた。 「場をわきまえてくれんと」  加島は矢的や佐和子を気にしながら、 「しかし、そのとおりだ。いまさら嫉妬もなかろう。あれは利口な女だ。今度の映画の件もある。この辺りではっきりさせておくほうがいいかもしれん。それができれば楽になる」 「そんなのお父さまの身勝手よ」  希里子は拳《こぶし》を握り締めた。 「それじゃお母さまが可哀相」 「だったら、なんで希里ちゃんは美洋さんとこうしてつき合ってるんだ。おふくろさんが陰で泣いてたって自分とは無関係ってわけか。希里ちゃんの同情なんてのは言葉だけだろ。それに、父親の弱みを握ってりゃ、いくらでも小遣いをせびれて便利だものな」 「酷《ひど》い……」  露麻夫の言葉に希里子は肩を怒らせた。 「それも利口な考え方の一つだ。オレはけっして嫌いじゃないがね。そもそも肉体なんてのも、どうでもいいことだ。第一、君の親父さんは普通のサラリーマンの何千倍も金を持ってる。五十人の女がいたって不思議じゃない。倫理観なんてのも人の立場によって違うのが当り前だ。こういう親父さんに家庭を守れと言っても無理な注文ってものだな。たとえデブで厭《いや》なじじいでも、こんなに金を持っていれば女が寄って来る。ところが、因果なことに渋い二枚目ときた。おふくろさんだって、そいつは充分承知してるに違いない。希里ちゃんが思うほど悩んでやしないって」 「…………」 「金をうんと貯め込んでも金庫は感謝してくれない。けど、女に与えれば、相手はそれだけのことをしてくれる。このお二人は互いに納得ずくで大人のつき合いをしてるだけだ。心配するほど深刻な仲じゃないさ」 「ご挨拶《あいさつ》だわね。私は本気よ」  美洋はそれでもくすくす笑った。 「もういい」  さすがに加島は不愉快な様子で、 「あれは私が招待する客につべこべと口をさし挟むような女ではない。それで決まりだ。近いうちにあなたには連絡を差し上げよう。ご期待に添うものかどうかは分からんが」  佐和子に言って話を締めくくった。佐和子は気まずい目をして矢的や田島の顔を見た。百合亜だけは冷たい笑顔を浮かべている。 「ワインが空いたみたい」  美洋が呟《つぶや》くと、部屋の片隅で待機していたウエイターが頷《うなず》いて瓶を片付けた。佐和子の後ろに立っていたので、まさかずうっとこの部屋にいたとは思わなかった。 〈他人に聞かれても平気なわけ?〉  きっとこの人たちは、ウエイターなんて人間の数に入れていないんだわ。佐和子は少し厭な感じを抱いた。 「私には例のやつを持って来てくれ」  加島がウエイターに声をかけた。 「まだ半分は残っていたはずだ」 「君たちも飲《や》らんか」  ウエイターが人数分のブランデーグラスを席に運んで来たからでもないだろうが、加島は矢的や佐和子にも勧めた。立派な陶器の瓶に入っている。 「フランソワ一世とはね」  矢的は瓶を一瞥《いちべつ》して軽い驚きを見せた。 「酒屋で買っても三十万はする。そんなのをキープしてるんだから……金持ちは違うと言いたいとこだけど、無駄の最たるものさ」  露麻夫は鼻で笑ってグラスを差し出した。 「三十万! ホントですか」  佐和子は眩暈《めまい》を覚えた。 「私も実際は味が分かっているとは言えんね。ちょいと薬臭い。接待相手が喜ぶので、わざわざ取り寄せて店に預けているが……家ではもっぱらレミーを飲んでいる。皆の口に合うかどうか……話のタネにはなるよ」  加島はウエイターに命じてそれぞれのグラスに注がせた。 「私は……」  百合亜は小さく首を振って断わった。 「もう飲み過ぎたみたい」 「遠慮する必要はない。残したらオレが片付けてやる。そのまま注いでくれ」  露麻夫がウエイターを促した。  全員に行き渡ると露麻夫は立ち上がった。 「せっかくだから乾杯の音頭でもとりますよ。映画の成功を祈って……と言うより、やっぱり今夜は矢的遥氏との出会いのほうがオレには大事だね。今後ともよろしく」  音頭をとると言いながら、露麻夫は乾杯の掛け声も忘れてグラスを飲み干した。その瞬間、露麻夫は眉《まゆ》をしかめた。 「どうした?」  グラスを掲げたまま加島が訊《たず》ねた。 「こんな味でしたっけ? なんだか吐き気がする。腐ってるんじゃないの」  まさか、と言って加島がブランデーを少量口に含んだ。うっ、とすぐに吐き出す。 「おかしくなってる」  加島の言葉にウエイターが瓶の匂いを嗅《か》いだ。不安そうな顔で加島の目を見る。飲んだことがないので悪くなっているかどうかも判断がつかないようだった。矢的は自分のグラスに鼻を入れた。薬品の匂いが感じられた。 「水をたくさん飲むんだ。もし自分で吐けるんなら、トイレですぐに」  矢的が水差しを露麻夫に渡した。真剣な口調に露麻夫はかえって慌てた。言われるままに水差しの水を半分ほど一気に飲むと、青ざめた顔で部屋から走り出た。 「大丈夫なの!」  叫びながら百合亜も席を蹴《け》って続いた。 「いったいどうしたのよ?」  美洋と希里子が怯《おび》えている。 「ブランデーになにか混入されています」  矢的はじろっと二人を見つめると、 「近くに病院はあるかい?」  立ちすくんでいるウエイターに質《ただ》した。 「それと、すぐにタクシーを呼んでください。あの様子だったら危険もないと思うが……念のために胃の洗浄をしておいたほうが。この瓶は店で保管してもらいたい。場合によっては警察が調べにやって来る」 「警察!?」  加島は、冗談じゃないと遮った。 「毒だとでも言うのかね」 「ブランデーが変質することは滅多にありませんよ」 「しかし……警察は困る」  加島はうろたえた。 「私への単なるいやがらせかもしれん。たとえ毒だとしても、死ぬほどのものとは……」 「そんな心当たりでも?」  矢的は激しい視線で見据えた。 「…………」 「いずれにしろ病院で考えましょう。本物の毒か、そうでないか。あなたの言うように、いやがらせの可能性もあるなら、ただの下剤や尿ということだって」 「きっとそうよ。いくらなんでも毒だなんて」  美洋の表情に落ち着きが戻った。 「心配したとおりになりやがったな」  田島が佐和子に耳打ちした。 「矢的のまわりにゃ必ず事件が巻き起こる」  佐和子は何度も頷いた。      3  それから三時間後。  針が夜中の二時をとっくに回っているというのに、佐和子は高幡不動の駅前ビルにある居酒屋のカウンターに、矢的や田島と仲良く肩を並べていた。もちろん馴染《なじ》みの「達磨《だるま》」。あまりにもいろんなことが重なって、あのまま一人暮らしのアパートに戻る気持ちにはなれなかった。興奮がまだ冷めやらない。赤坂の店でご馳走《ちそう》になったワインだけでも普段の倍以上は飲んでいる計算なのに、頭はすっきりと冴《さ》え渡っている。一時間近くもタクシーに乗って来たせいかもしれない。  店主の雄二に、田島と二人で今夜の出来事を詳しく説明していると、雄二の妹の良美が張り切って姿を現わした。今夜の彼女の勤めは十二時までで、自宅に帰っていたところを兄にふたたび呼び出されたのだ。 「よ、おひさしぶりぃ」  良美は両腕を思いきり広げて、田島と掌《てのひら》をパチンと合わせた。相変わらず元気だ。 「もう布団に入っていたんだって?」  田島はにこにこと良美の顔を見上げた。もともと薄化粧しかしない良美だから、寝床からそのまま来たと聞かされても変化はない。 「なんだか今日は店がヒマで疲れ果てちゃってね。でも、蚊死なずの田島ちゃんが来たとなりゃ別。だって二カ月ぶりじゃない?」  蚊死なずと聞いて佐和子は笑った。あばた面のことだと昼に本人から聞いていなければ、どんな意味だか分からなかったに違いない。 「糞《くそ》どもも元気そうで安心したよ」  田島はすかさず応酬した。 「今度は佐和子さんが渾名《あだな》を頂戴《ちようだい》したとさ」  雄二が面白そうに良美に伝えた。 「へえ、どんな?」 「人|噛《か》み馬。われわれよりはだいぶいい」  田島が代わりに口にした。良美は意味を聞き返した。じゃじゃ馬と教えられて、 「じゃあ、池上佐和子じゃなく、人噛み佐和子ってわけだ」  恰好《かつこう》いいじゃない、と羨《うらや》んだ。 「渾名のつもりで言ったんじゃないがな」  黙って酒を飲んでいた矢的は閉口した。 「皆が勝手に決めてるだけだ」 「アブさん、なんだか今夜は暗くない?」  事情を知らない良美は首を傾げた。 「凄《すご》い! 多野露麻夫と飲んだの」  良美は聞くなり悔しがった。 「そういう時はちゃんと声をかけてよ。こんな店なんか放り投げて参加するから」 「良美ちゃんもあいつのファンなのか」  田島は意外だという顔をした。 「特にファンでもないけど……せっかくだもの。勿体《もつたい》ないじゃないの」 「勿体ないというのはいいな。いかにも」  田島は爆笑した。 「最初はオレも浮田美洋と飲めると思って感動した。そのミーハーな気持ちは分かる」 「今は感動も消えたようだ」  矢的は田島のコップに酒を注ぎながら、 「遠きは花の香、近くは糞の香、とも言う。なんでも遠くから眺めているのが一番だよ」  ようやく得意のことわざを持ち出した。 「また糞かい。やだね」 「そんなに酷《ひど》かったわけ?」  雄二は目を丸くして三人に訊ねた。 「ま、考えようだわな。女優なんて商売はあんなもんかもしれんし……色っぽいことはたしかだったけど、まだ良美ちゃんのほうが可愛い」 「やっと認識を新たにしたか」  良美がエヘンと胸を張った。 「心がだ。美貌《びぼう》は勝負にならん」  一緒に笑いながらも佐和子は頷《うなず》いた。結局、美洋だけは病院に同行しなかったのである。トイレで吐いて来た露麻夫の様子を見て、心配なさそうだと判断したのだろうが、美洋の言葉の端々には、スキャンダルを回避しようとしているのが見え見えだった。加島や露麻夫は映画の制作者と主演俳優同士なのだから、たとえ発覚しても簡単に言い繕うことが可能なのに、そこが脛《すね》に傷持つ身の悲しさだ。噂さえも恐れている。命に関わるならともかく、と言い訳のように口にして、さっさとタクシーで姿を消した。 「ホントに毒じゃなかったの?」  良美は疑わしい目をして矢的と向き合った。 「それは……なんとも言えない」  矢的は言葉を濁した。処置が早かったせいで、露麻夫は病院へ到着した頃にはだいぶ回復していた。本物の毒ならば、こちらが黙っていても医者に見抜かれるはずだと加島に釘《くぎ》を刺され、矢的はその疑惑を口にできなかった。加島の言い分にも一理あった。けれど、実際はそれほど厳密なものではない。医者は目の前の患者を見て対応する。熱もなく元気だと判断すれば、毒の可能性など最初から無視してかかる。こちらから言わない限り、ただの食中毒程度だとしか思わない。そして、結果はそのとおりとなった。第一、当の露麻夫ですら半信半疑だったのだ。苦しめば、毒物が入っていたと医者に主張したはずだが、すぐに吐き出したおかげで実感がない。変な味がしたとしか言えなかったのである。 「ブランデーを調べりゃはっきりする」  雄二はこともなげに言った。 「ところが……加島氏は医者がただの食中毒だろうと診断を下した途端、こっそりと店に連絡を入れて酒を処分させた」 「なんで!」  良美は驚いた。 「さあ……それは加島氏本人に訊かないと」 「面倒を恐れたのさ、矢的やオレたちが後で騒いでも、肝腎《かんじん》の酒がなきゃどうにもならない。きっとオレたちがテレビなんぞに情報を流すとでも考えたんじゃねえか。安く踏まれたもんだぜ。こっちは真剣に心配したのに」  田島は自分で言って憤慨した。 「そんな理由なら安心だけどな」  矢的はコップをトンとカウンターに置いた。 「他になにが考えられる?」  田島の目が光った。 「毒だとしたら思い当たる人物でもいたんじゃないかい。フランソワ一世となれば、店だって大事に扱う。他人が簡単に触れられるとは思えない。となると、人数が限られて来る。家族を除けば、せいぜい浮田美洋ぐらいのものだろうな。会社の名前でキープしているボトルだったら彼も騒いだだろうが……身内の可能性があるなら蓋《ふた》もしたくなる」 「確かに……あれは特別の酒みたいだった」 「高いって、どれくらいするの?」  良美が興味を持って田島に質《ただ》した。 「小売りで三十万だとさ。あの店で飲めば四十万は取られる」 「ひえぇ……うちの店のボトル代全部足しても四十万にゃいかないわ。うちにゃそういう景気のいいお客がいないもんね」 「店が違う。去年の祭りのポスターなんか剥《は》がしちまえ。さっきから目障りだと思ってた」  あっちはルノアールだぞ、と言い添えた。 「奥さんだとでも思ったんでしょうか?」  背中にうすら寒いものを感じながら、佐和子は矢的に確かめた。 「あるいはね。今夜の様子を眺めた限りでは、浮田美洋や娘の希里子の線は薄い。と言って、もちろん断定はできない。今日知り合ったばかりで、データがなさすぎる。ひょっとしてボトルに近付ける人間がまだ他に居るかもしれないし……そもそも毒とも決まっていないんだから、これ以上の推理も無駄さ」 「いや、希里子も分からんぞ。母親に同情して、懲らしめのためにやったってことも」 「それなら恋人の露麻夫君が飲もうとした時に止めようとするんじゃないか?」 「死なないと知っていりゃ平気だ。露麻夫が美洋と怪しいってのも当然承知のはずだ。部外者のオレたちでさえ、たった半日で感づいたんだぜ。それに、美洋にだって加島を狙う別の理由があるかもしれんよ」  さすがに田島はミステリー好きだけあって裏の裏まで考える。 「毒入りブランデーは序幕だよ。ただの勘だが、どうやら本物の事件に発展しそうだ」 「加島って人が殺されるとでも?」  良美は田島の勘を信じなかった。 「彼はなにに怯《おび》えていたのかな……」 「怯えていた?」  矢的の呟《つぶや》きを佐和子は聞き逃さなかった。 「われわれがからくりの展覧会に関わっていると分かった時さ。指が震えていた」 「考えすぎだろう。オレは見てないぜ」 「間違いないよ。それに……大野弁吉の自動噴水のことを口にした時だって」 「そうですね。少しおかしかった」  佐和子も思い出した。 「こんなことがあったんだから、あるいは約束を忘れてしまっているかもしれないが……加島氏から君にからくりの件で誘いがあったら、ぼくにも必ず連絡してくれ。まさか田島の言葉どおりになるとは思えないけど、もう少し観察してみる価値がありそうな人間だ」 「露麻夫だってそうさ」  田島は手酌でコップを満たすと、 「若いくせに、妙に冷めた男だ。希里子とつき合ってるのも、損得ずくだろう。天下のカシマをバックにできりゃ、なんでもできる」  ぐっと一息にあおった。 「でも……憎めないって感じも」  佐和子はそう受け止めていた。 「文句のないのは百合亜一人。ちょっときついのが難点だけど……あれほどの美人なら家財道具を売り飛ばしてもいい」  田島は百合亜の顔を思い浮かべた。 「加島氏も興味を持ってるみたいだね」  内心では佐和子もそれを感じていた。さすがに矢的の観察はそつがない。 「これから先、なにが起きてもおかしかぁない環境だぜ。おたくも気をつけなよ。加島は女に関しちゃ相当に手が早そうだ」 「私?」  佐和子は笑い転げた。 「あれだけの美人に囲まれている人が?」  ありえない。 「関心があるからこそ、自宅にまで誘ったのさ。男の気持ちならお見通しだ。矢的が頼んだって簡単に見せてくれるわきゃあない」  田島の言いぐさに矢的は噎《む》せた。 「賭けてもいい。その気がありゃ別だけど、ただコレクションが見たいだけなら、誘われても一人で行かないこった。別荘の方に置いてあるとか言って、からくりの代わりに鞭《むち》とか蝋燭《ろうそく》を用意してるかもしれねえぞ」  全員が笑った。 「お笑いになりますがね……」  田島は結構真剣な顔をして、 「加島ぐらいになりゃ、一晩だけの相手に百万だって払えるんだぜ。たった一夜のことで何カ月分の稼ぎになると思えば、たいていの女は転びバテレンになりますよ。そいつは加島自身も知ってるさ。だから危険だ。おたくの性格なんか最初から無視してかかる。たとえ騒がれても札束を見せれば靡《なび》くと信じ込んでいるんだから」 「百万ぽっちじゃ、おじんと寝ないわよ」  良美は断固と首を振った。 「それは田島ちゃんの偏見じゃないの」 「歴史が証明してるって。おたくらは金を積まれた経験がねえから愛情優先だなどと信じていられる。じゃあ訊《き》くが……モテなくて悩んだ金持ちの話を耳にしたことがあるか? つい最近だって八十歳近い南米の大金持ちが、ミスなんとかっていう十九歳の娘と結婚したって記事を見たぞ。まともな常識を持ってる人間なら、そんな歳で十九の娘を口説こうなんて思わんぜ。金に靡くと経験で分かってるからそういうことができる。百万で不足なら五百万を積もう。それで拒めるか? たった数時間の辛抱でそれが良美の手に入る」  田島の口調はしだいに熱を帯びた。 「ちょっと、よしてよ。僻《ひが》んでるみたい」 「僻んでますよ。アフリカで厭《いや》と言うほどその現実を見せつけられたからね。日本人のオレから見ても、ちょいと可愛いと思える子が、皆、金持ちの何番目かの夫人なんだぜ。東南アジアだって似たようなもんだ。日本だけが違うなんてことはありえない。文化国家だなんて偉そうに言うけど、貧乏なカメラマンよりゃ、親の金で遊んでるおぼっちゃんのほうが女にモテる。ふざけなさんなと言いたいね」  田島の目は完全に座っていた。 「三十万のブランデーがショックだったのさ」  矢的は苦笑した。 「それと……浮田美洋を所有している男への反発かな」 「当たり前ですよ。そうしておまえさんも笑っているが、あっと言う間にこの佐和子君をヤツに盗られたらどうする? オレは矢的のためを思って彼女に忠告してるんだぜ」  田島のセリフに、矢的ばかりか佐和子も良美も慌てた。 「矢的はいい男だ。背も低いし、顔も二枚目とは言えねえけどさ……」 「飲みすぎだぞ」  矢的は呆《あき》れて佐和子に謝った。 「飲んではいませんよ。永年のつき合いで分かる。ちょいとおまえさんはこの人|噛《か》み馬が気にいってる。しかし……お前さんは女に好きって言えねえ性質《たち》なんだよな」  田島は矢的の腕を払ってつけ加えると、 「そいつは良美もだ。矢的が好きなら、さっさと白状しちまえばいいんだ。それとも……オレのほうが好きか? あはは、冗談だ」  少しの間に田島は酔っていた。 「困ったもんだね」  やがて矢的はカウンターに俯《うつぶ》せになった田島を見下ろして溜《た》め息を吐いた。 「要するに……田島は良美ちゃんが好きだってことだけを伝えたかったんだよ」 「二カ月ぶりに来た男が、よく言うわ」  良美は温かな笑顔で田島の頭をこづいた。 「だけど……」  佐和子は内心の喜びと動揺を押し殺して矢的に向かった。 「本当にこれからも大丈夫なのかしら?」 「加島氏かい? 救急車で担ぎ込まれて来る患者よりも、自分で歩いて来た患者のほうに重病人が多いとも聞くからね。彼自身がただのいやがらせだと判断したところで、なんの根拠にもならないさ。田島の言ったように、一度あることは、二度あるかもしれない。仕事や私生活でも敵の多そうな人物だ。生きているからこそ目立たないだけで、亡くなれば一挙に膿《うみ》の噴き出るタイプじゃないかな」 「…………」 「悪人には友多し……その典型だよ。他に、危ないところに銭がある、ということわざもある。どんなに加島氏が善人ぶっていても、まともな商売をしてたんじゃ、あれほど財産は簡単に作れない。彼の周りには得体の知れない連中がゴロゴロしてるはずだ。そういう手合いを見慣れているんで、毒の可能性があっても、あんまり心配しなかったんじゃないか? 普通の生活をしてる人間なら、真っ先に酒の分析を頼むと思うけど……」 「そうですよね」 「アブさんのお手並み拝見というとこだ。これまでは田島ちゃんからロンドンでの活躍ぶりを聞かされるだけだったからな」  雄二は頼もしそうな顔で矢的を見つめた。 [#改ページ]   四 いずくの烏もみな黒し      1  五日も経たないうちに佐和子から矢的に呼び出しがかかった。昼に加島の秘書から会社に連絡が入って、今日の夕方以降なら都合がいいと伝えて来たと言う。しかも、矢的を必ず同行してくれとの希望らしかった。仕方なく他の人間と会う約束を断わって矢的は渋谷《しぶや》に向かった。待ち合わせはハチ公前。矢的はよく行く喫茶店を望んだのだが、佐和子が渋った。待ち合わせで何度か行き違いをしているので懲りたようだ。  あんな場所で待たされるのは恰好《かつこう》が悪いと思っていたが、駅から出ると、すぐに佐和子の姿が目に入って矢的は安堵《あんど》した。 「ごめんなさい。勝手ばかりで」  佐和子が駆け寄って来て謝った。 「今日じゃないと当分無理だと言うんだもの」  佐和子の口調には遠慮が取れている。 「なんでも自分の都合が優先なんだろ。もっとも、こっちは見せてもらう側だから文句が言える立場じゃないな。君こそ仕事は?」 「きつかったけど、延ばしてもらいました」 「歩いて行けると言ったね?」 「ええ、松濤《しようとう》ってとこ。道玄坂《どうげんざか》の少し先」 「マンション?」 「五百坪の豪邸ですって」  矢的は苦笑した。渋谷駅から歩いて行ける場所で五百坪とは……気の遠くなるような評価額に違いない。それに較べたらフランソワ一世だとて水のようなものだ。 「それと……これは加島氏のデータ」  佐和子が紙袋を手渡した。できるだけ加島の情報が欲しいと電話で頼んでおいたのだ。 「面白いことでも見つかった?」  矢的は歩きながら訊《たず》ねた。 「カシマの設立は二十年前でした。浮き沈みの激しい不動産業界の中では古いほうに入るらしいんですけど……それ以前に加島氏がどんな仕事をしていたかはっきりしないんです。親の遺産があったわけでもなさそう。矢的さんが睨《にら》んだように、ずいぶん危ない橋も渡って来た感じ」 「結婚したのはいつ?」 「え?」 「希里子君は確か二十歳ぐらいだろ。会社の設立時期とほとんど一緒だ。親の遺産じゃないとしたら、奥さんが財産家ってことも」  佐和子は頷《うなず》きながら、 「でも、違うと思います。希里子さんは養女なんですって。これは週刊誌に書いてありましたけど……結婚したての夫婦が養女をもらうなんて考えられないでしょ」  加島の結婚は最低でも二十五、六年前のはずだと佐和子は伝えた。もし妻が財産家の娘なら、週刊誌も見逃さない。 「また養女か。百合亜君と一緒だな」 「神楽英良先生と加島大治はかなり昔からの知り合いのようです」  百合亜の話が出て佐和子はつけ足した。神楽英良は百合亜と露麻夫の育ての親だ。大学で人間工学を教えていて、からくりに関しての権威でもある。その研究室を訪ねて、百合亜を知り、そして加島にも巡り合った。 「すると希里子と露麻夫のつき合いも偶然じゃないってことか」 「そうでしょうね」 「不思議じゃないか」 「なにが?」 「神楽先生はどうして加島のからくりコレクションを世間に紹介しないんだ。昔からの知り合いだったらそれが当たり前だろ。それとも……紹介に値しない酷《ひど》い代物かな」  佐和子も首を捻《ひね》った。 「映画を制作しようという人間だ。加島が謙虚な性格とも思えない。理由は見当もつかないけど、加島には世間に公表できない事情でもあるんじゃないのかい」 「からくりのコレクションですよ」  佐和子はさすがに笑った。金の延べ棒とでも言うならマルサを恐れるかもしれないが、からくりでは税務署にも価値が分からない。 「だよね。考えすぎだな」  矢的も素直に撤回した。      2  加島の屋敷はすぐに分かった。地図で見当をつけた路地を曲がった途端に、秘書から聞かされていた屋根の風見鶏《かざみどり》が目に入って来たのだ。ただし、佐和子の想像とは異なって、かなり古そうな西洋建築だった。加島が東京出身とは耳にしていないから、旧華族の家でも買い取ったものに違いない。今の時代感覚だとビルのような鉄筋の家を新築するよりも、このほうがはるかに金持ちという印象を受ける。 「庭も手入れが行き届いているな。こういう屋敷を維持するのは大変なんだぜ」  矢的は石畳を踏みながら感心して言った。 「この世の富をすべて手に入れたって感じだね。車庫にはロールスロイスときた」  チャイムを押すと若い娘が顔を出した。 「皆様、おそろいですから」 「皆様?」  佐和子の問いには答えず娘は案内した。  長い廊下を突き当たると、部屋の中からピアノの音と大勢の笑い声が聞こえた。佐和子と矢的は顔を見合わせた。 「あら、遅かったわね」  扉を開けるなり美洋と視線が合った。その隣りのソファには神楽英良がいる。希里子はピアノの指を休めて二人に笑顔を見せた。その側には露麻夫。美洋とテーブルを挟んで百合亜が腰掛け、その脇には初対面の老婦人もいた。百合亜が養母《はは》の由乃《よしの》だと紹介した。小柄で優しそうな目をした人だ。大学教授夫人だけあって、ただの挨拶《あいさつ》にも教養が認められた。 「どうなってるんですか?」  佐和子は戸惑いを隠さずに訊ねた。 「この前はオレのことで矢的さんにずいぶん面倒をかけたでしょ。そのお礼も兼ねてパーティを開くことにしたそうですよ。電話で聞いてなかったんですか」  露麻夫が矢的に親しみのこもった口調で説明した。 「きっと驚かそうと思ったんじゃないの」 「加島さんは?」 「まだ収蔵室の方……普段は鍵《かぎ》を掛けているそうだけど、今夜は見物客があるんで空気の入れ替えついでに整理するとか言って」 「凄《すご》い埃《ほこり》で父も呆《あき》れていました」  希里子も少し整理を手伝ったようだ。 「私たちもさっき見て来たが——」  神楽が割って入ると、 「それなりに面白いもんではあるよ」  佐和子に請け合った。 「先生は前から加島氏のコレクションを?」  矢的の質問に神楽は頷いた。 「でも、著書には一言も触れていらっしゃらないようですが」 「ま……いろいろと事情があってね。本人が困ると言うものを図版にすることは……」 「それに……ほとんどが複製なんです」  百合亜が補足した。 「由来の不明な複製よりは、海外の博物館に保存されている本物の写真のほうが大事ですし」 「なるほど。それはそうだろうな」  だったら納得できる。複製を集めた研究書では学問的な価値が低い。からくりの構造が分かるという意味では面白いのだろうが……それだけのことだ。 「とは言うがね……」  逆に神楽は百合亜に向かって言った。 「問題はいつの時代の複製かということだ。あれはだいぶ古いと睨んでおる」  百合亜がそれに応じようとした時、 「待たせたね」  加島が部屋の扉を開けた。  それに続いて登場した夫人の華やかな笑顔に、矢的と佐和子は圧倒された。 「家内のめぐみだ。二人に会うのを楽しみにしていてね。よろしく頼むよ」  夫人はにこやかに二人を見つめた。 〈なんで?〉  佐和子には信じられなかった。目の前の夫人に較べたら浮田美洋だって霞《かす》んでしまう。ただのはすっぱな女じゃないの。こんな女性と一緒に暮らしながら、美洋に魅力を覚える加島の気持ちが分からない。もちろん、年齢は美洋よりもだいぶ上だが、受ける豊かさが格段に違う。加島にはそれが見抜けないのだろうか? 佐和子はうっとりと見惚《みほ》れた。 「美洋さんも退屈じゃなくて?」  めぐみが佐和子の肩越しに声をかけた。 「せっかくいらしていただいたのに、主人がさっぱりお相手できなくてごめんなさいね」  美洋は強張《こわば》った笑顔で応じた。  パーティをはじめる前に、と二人は収蔵室に誘われた。たいていは二人の来るまでに整理を手伝いながら見ているので、同行したのは百合亜一人だった。加島のコレクションに批判的な彼女は、加島がいい加減なことを吹き込むのではと心配したのかもしれない。 「ご迷惑じゃなかったんですか?」  午後いっぱいを整理に費やしたと聞いて佐和子は恐縮していた。 「なあに……たまにはこうして点検しておかないと動かなくなってしまう。機械だからね。ちょうどいい時機だった」  加島は大きな扉を開いた。もとは遊戯室に用いていたという広い洋間に、大小さまざまなガラスケースが置かれていた。本格的な展示室である。博物館と異なる部分は、スリッパが沈みそうな厚い絨毯《じゆうたん》の感触だけだ。それでも、つんとした埃の臭いは気になった。 〈凄い……〉  室内をざっと見渡して佐和子は驚嘆した。複製と聞いて、ちゃちなものを連想していたが、どれもこれも重みがある。神楽の口にしたように、複製といえども時代が感じられた。 「あれは……もしかして」  佐和子の視線は真正面の巨大なケースに釘《くぎ》づけとなった。艶《あで》やかなドレスを纏《まと》った女性の人形がオルガンを前に腰を下ろしている。人形はほぼ子供くらいの大きさだった。 「知っているかね?」  加島は満足そうに佐和子を眺めた。 「ジャケ・ドロスのミュージシャンみたい」  佐和子は興奮してケースに近寄った。  ジャケ・ドロスは十八世紀後半に、からくり製作者として名声を馳《は》せたスイス生まれの時計職人である。仕事柄、ゼンマイ仕掛けを得意とし、筆写人形や演奏人形という、からくり史上に特筆される数々の名作を残した。もちろん、彼以前にもからくりの製作者は大勢いたのだが、ジャケ・ドロスの人気が高まったのにはそれなりの理由があった。それまでのからくりは、主として機械的な部分を表面に押し出していたのに対し、彼は、機械の部分をはっきりとは見せず、可愛らしい人形の内部に収めてしまったのだ。科学を魔術にすり替えたとも言えるだろう。もっと簡単に説明するなら、時計の構造や蒸気機関だ。もともとはこれらとて立派なからくりである。現実に蒸気機関そのものの仕組みを、舞台で見世物として公開したという記録も残っている。けれど、それはすぐに飽きられた。人間の力ではなく蒸気の働きでピストンが動いたりするのを見て、観客も最初は驚いただろうが、原理が分かってしまえば、なんだということになる。たとえ自分には理解できなくても、それが当たり前だと思ってしまう。ところが蒸気機関を内蔵させ、池に浮かべた小船をいつまでも動かして見せたり、もっと初歩的に膨張熱を利用して風船を膨らませたり縮ませたりすると、観客は不思議がる。理屈が説明されないから、あれこれと想像するのだ。ジャケ・ドロスもそれに気がついて、複雑な仕掛けを優しい人形に包み込んだ。観客は人形の愛らしい仕種《しぐさ》に微笑み、奏でる音楽に熱狂した。どれほど大掛かりで高度な演奏をする自動オルガンがあったとしても、観客はやはりジャケ・ドロスのからくり人形のほうを愛しただろう。常に人間は科学よりも魔術に心を魅《ひ》かれる。実際にジャケ・ドロスは魔術師であるとの噂も広まっていた。スペイン王の招きによって、マドリッドでいくつかのからくり人形を製作した時には、そのあまりの見事な出来栄えに教会から魔法使いであるとの中傷を受け、異端裁判にかけられた。幸いに仕掛けを公開したので赦免されたが、危うく死刑寸前にまで追い込まれたのである。どれほど精巧な人形だったか、このエピソードだけで充分に分かってもらえるに違いない。  そのジャケ・ドロスの演奏人形が、たとえ複製であろうと、佐和子の目の前にある。 「ちゃんと動くんですか?」  佐和子は期待に震えながら振り返った。 「四つのネジ穴がオルガンの脇にある。自分で巻いてみればいい。ネジはその上に」  加島はガラス戸を開けて佐和子を促した。  ネジを手にして佐和子はふと違和感を覚えた。ガラス越しに、しかもオルガンのほうにばかり気持ちが動いていたので人形をじっくりと観察しないでいたが、近くで眺めると人形は妙に日本的な顔立ちをしていた。 〈生地も和服の柄じゃない!〉  すると、複製と言ってもこれは日本で拵《こしら》えられたものなのだろうか。だったら、古そうに見えても、だいぶ年代は新しそうだ。佐和子は少し失望した。 「どうしたね?」  加島に急《せ》かされて、佐和子は四つの捩子《ねじ》を脇に記された数字の順に巻いた。金属のゼンマイとは違う手応《てごた》えがあった。もっと軽い。最後の捩子を巻き終えると、捩子は強い力に押されて反転をはじめた。と同時に他の三つのゼンマイも動き出す。同調してゼンマイが緩むようにストッパーがかけられていたのだ。佐和子は人形から離れて注目した。コツコツと歯車の噛み合う音もする。胸が弾んだ。  人形の指が小さく左右に振れた。右手の親指がオルガンのキイを押す。シャランと軽やかな音がした。続いて左手が……なんだか妙な旋律で、とても音楽とは言えないようなものだが、間違いなく人形が演奏している。 「目が動いたわ!」  人形の首が佐和子の方に向いて笑った。そればかりではない。胸が膨らんで、まるで呼吸している感じだ。まさしくジャケ・ドロスの演奏人形である。オルガンの中に風を送り出す仕掛けが組み込まれていて、そこから人形の胸にまで管が繋《つな》がっている。その風が胸を上下させ、あたかも呼吸をしているかのように思わせるのだ。  緩慢な指|捌《さば》きではあったが、人形は無事に演奏を終えると、両手を膝《ひざ》に置き、丁寧にお辞儀をした。不気味なほどリアリティがある。 「ふうむ」  矢的は唸《うな》った。 「曲はともかく、複雑な動きだな。同時に三つくらいの動作をする。信じられないよ」 「一つ一つのゼンマイは単純な動きしかできないんだがね……組み合わせでそう見える」  それでも加島は得意そうな顔をした。 「曲のほうは直せないんでしょうか」  佐和子は残念がって質《ただ》した。 「もともとこういう音なんです」  百合亜が笑って説明した。 「拵えた人はきっと音楽を理解していなかったんですわ。構造は設計図を見て復元できても、肝腎《かんじん》の演奏シリンダーのカムの位置を決めることができなかったんです。だからこんな目茶苦茶な曲になって」  矢的と佐和子は頷《うなず》いた。 「綺麗《きれい》な演奏をしてこそのからくりだとは思いませんか? 高いお金を出して手に入れた加島のおじさんを前にして悪いけど……これは形だけのコピーだとしか言えません」  加島は鷹揚《おうよう》に笑いを上げた。 「これ……日本製のようですね」  佐和子は百合亜に訊《き》いた。 「なんだかゼンマイも金属とは……」 「ええ。セミクジラの髭《ひげ》。歯車も木製」 「だったら、相当に古いんじゃ?」 「材料が古来の日本のものだと言うだけで、製作年代も古いとは限りません。その気になれば今でも入手できるんですもの」  百合亜は学者の顔になった。 「寸法どおりの歯車を作るつもりなら、金属よりも木製のほうがずっと簡単でしょう?」 「それなら、いつ頃に作られたと?」  今度は矢的が質問した。だが百合亜はそれにはっきりした返事ができなかった。昭和の初め頃だろうと曖昧《あいまい》に答えただけだった。 「ジャケ・ドロスに興味があるなら、あっちも動かしてみたいんじゃないのかな」  加島が佐和子に顎《あご》で示した。 「…………!」  離れたケースの中に、演奏人形と並んで評判を呼んだ筆写人形が飾られていた。 「複製だが、コレクションの中では一番気にいっている。外国の子供が日本語を書くので百合亜君には笑われたが」 「じゃあ、あれも日本製ですの」 「演奏人形を拵えたのとおなじ人物だろうね。先ほど新しいインクを壺《つぼ》に入れておいたから、ネジを巻きさえすれば大丈夫だ」  言われて佐和子はガラス戸を開けた。学習机が肘《ひじ》に取りつけられた椅子に、可愛らしい少年が腰掛けてペンを握っている。机の上には紙も何枚か用意されていた。 〈どんな字を書くのかしら〉  捩子を巻きながら佐和子はわくわくした。  本物の筆写人形は、たしか自分の名前と年齢を書いたんじゃなかったかな?  捩子を差し込んだまま手を離すと、少年の首が少し動いた。右手が静かに持ち上がり、横に移動してインク壺の真上で停止した。慎重にペン先を壺に浸す。インク壺を見つめていた顔が、次に紙を見据えた。壺からペンが上げられて紙の左端まで動いて止まる。  そろそろとペン先が下がり、紙に触れた。  佐和子は固唾《かたず》を呑《の》んで見守った。  動作だけを眺めていると、ほんとうの子供が人形の殻を被《かぶ》っているのではと疑いたくもなってくる。それほど人間的な動きだった。  人形は最初の文字を記した。メカニズムが同一なので横書きだ。 「た・ろ・き・ち……太郎吉って、名前ね」  順に読み上げて佐和子は感動した。 「い・つ・つ……五歳なの」  いつの間にか佐和子は目の前の人形に話しかけていた。  だが、文字はそれきりだった。短い文章を書き終えると、人形は満足した顔でペンを持ち上げ、ふたたび待機の姿勢に戻った。 「なんだか泣けてきちゃった」  振り向いて佐和子は矢的に言った。 「こういう人形を拵える人って、気持ちが優しいんでしょうね」  矢的も笑顔で頷いた。 「この紙、記念にもらっていいですか」  佐和子は加島に断わって、紙を取った。 「あら……なにか書いてある」  たった今人形が書いたばかりの下に、文字の記された紙が敷かれていた。  どれ、と言って手にした加島の顔が、見る見る青ざめた。紙を握った指が震えている。 「どうしました?」  矢的は背後から紙を覗いた。  思わずギョッとした。  べんきちはゆるさないぞ  平仮名ばかりで、そう書かれていた。  加島は矢的に気づくと慌てて紙をポケットに押し込んだ。 「バカな! だれがこんな悪戯《いたずら》を」 「今度も悪戯だと?」  矢的は真っ直ぐ加島の目を見据えた。 「なにが書かれていたんです?」  佐和子と百合亜が同時に訊いた。 「くだらんたわごとだ!」  加島は二人を睨《にら》みつけると、ポケットから乱暴に紙を取り出して百合亜へ渡した。 「こんなものに意味があるとでも?」 「べんきちはゆるさない?」  素早く目を通した百合亜も首を傾げた。 「まさか……君の仕業じゃあるまいな」 「私が? なぜ」  百合亜は明らかな戸惑いを浮かべた。 「いや……違うようだ」  加島は脂汗を拭《ぬぐ》った。 「だったら見当もつかん。いったいどいつがこんな手の込んだ脅迫を……」 「脅迫?」  矢的はわざと聞き返した。口を滑らせたと悟って加島は絶句した。 〈べんきちとは……むろん、大野弁吉のことに決まっている。しかし……許さないとは、なんのことだ?〉  矢的の頭はフル回転しはじめた。      3 「筆写人形に脅迫文が?」  百合亜から聞かされて神楽は目を丸くした。露麻夫と美洋が顔を見合わせる。 「ただの悪戯だよ。脅迫状は大袈裟《おおげさ》だ」  加島は鼻で笑うと紙を差し出した。 「べんきちは……ゆるさないぞ」  神楽が文字を読み上げた。ぽかんとした顔をして露麻夫たちは神楽を見つめた。やがて露麻夫がからからと笑った。 「時代錯誤の典型だな。ゆるさないぞ、ときたか。どうせやるなら、ゆるさぬぞ、としたほうが日本語的には感じが出るんじゃないの」 「こんな時に冗談はよしなさい」  義父の神楽がきつい目で露麻夫を睨んだ。 「だって、どうせ冗談だろ」  露麻夫は苦笑した。美洋も、加島の養女の希里子も頷く。 「どうしてそんなものが……」  神楽の妻、由乃は体を震わせた。 「悪戯に決まっておるがね……」  加島が全員を順に眺めて口にした。 「問題はだれがやったかということだ」 「だれ? って言うと、この中にいるとでも」  露麻夫は不審な目をした。 「もちろん。あの収蔵室にはずうっと鍵《かぎ》が掛かっていたんだ。昼に私が掃除をはじめて、からくり人形の点検をするまでは、まったく異状がなかった。それは確かだ。筆写人形の紙もインクも今日取り替えた。ここにいるだれかがやったとしか思えん」 「だけど……部屋にはずっとお父様が」  希里子が反論した。 「その間、片時も離れずに部屋にいたわけではない。電話に出たこともあれば、別の人形を調べていたことだって……紙を挟み込む程度なら、いくらでも機会があったはずだ。部屋の扉ばかりかケースのガラスも明け放しになっていたんだからね」 「オレじゃないですよ」  真っ先に露麻夫は否定した。 「第一、部屋に行った覚えも……」 「行ったわよ」  美洋が意地悪そうに脇腹をつついた。 「あれは美洋さんを案内して……ドアの側まで行っただけじゃないか」 「だったかしら?」 「そりゃ、少しは中に入ったけど」 「つまり、皆が部屋に入ったわけだ」  加島は苛立《いらだ》ちの混じった声で続けた。 「なんの魂胆か知らんが……お陰でせっかくのパーティがぶち壊しだ。こんな不愉快な気分では酒を飲む気にもなれん」 「少し落ち着きになったら?」  ソファに腰掛けていた加島の妻のめぐみが笑った。 「あなたには、その意味がお分かりに?」 「意味?」 「なにを許さないんですの?」  めぐみに問われて加島は絶句した。 「思い当たることでもございますの?」 「い、いや……なにも」 「でしたら大騒ぎなさらなくても……せっかくはじめてのお客様もお見えじゃありませんか。つまらない詮索《せんさく》はよしにしましょう」 「しかし……」 「私にはなんの話かまるで分かりません。あなたが、どうして怒られるかも」  めぐみはぴしゃりと言った。 「それとも、許されないようなことを、たくさんしていらっしゃるのかしら」 「ばかな……」  加島は言葉に詰まった。が、すぐに立ち直りを見せて、 「言われてみればそのとおりだな。大人気なく騒ぎすぎたようだ。皆も忘れてくれ」  特に矢的や佐和子に向かって笑った。 「パーティの用意ができていますわ」  立ち上がるとめぐみは皆を食堂に誘った。矢的と佐和子は溜め息混じりに互いの表情を見やった。 「今度もうやむやになりそうだ」  皆から少し遅れて続いていた矢的は、肩を並べている佐和子に囁《ささや》いた。 「たしかに悪戯としか思えないような文面だったけど……毒薬騒ぎの直後なんだよ。ちょっと普通じゃ考えられない」 「なんで、弁吉なのかなぁ?」  佐和子の関心はそこに集中していた。この家には大野弁吉と因縁の深いからくり人形がたくさんコレクションされている。その意味では弁吉の名前も一般の人間に較べてうんと馴染《なじ》みのものに違いないが……と言ってその文字を脅迫文に見たとして、極度の恐怖を感じたりするものだろうか。たとえば自分のアパートの郵便受けに……だれでもいい。そう、ケネディでもいいわ。佐和子は想像した。ケネディはゆるさないぞ、とでも配された切り貼りの脅迫状が入っていたとしたら、恐怖よりも、逆に笑い転げてしまいそうだ。もちろん、ケネディと弁吉では、リアリティに格段の相違があるけれど……。 〈ん?〉  佐和子は胸の中で否定した。弁吉が日本人だというだけで、時代的にはケネディのほうがはるかに新しい。どう考えても弁吉の名前に怯《おび》えるのは不自然だ。沖田総司《おきたそうじ》は許さないぞ、と書かれてあるのと一緒じゃないの。それに慌てふためく人間なんかが存在するはずはない。  佐和子はその考えを一刻も早く矢的に伝えたいと思った。しかし、この場では無理だ。少し前には露麻夫や美洋がいる。諦めて佐和子はなおも考えを推し進めた。  もしかすると、加島の周辺に�弁吉�という名前の人間が本当にいたり、あるいは、そういう渾名《あだな》で呼ばれる者がいる可能性があるのでは? 〈結構、私にも探偵の素質がありそう〉  それ以外に紙を手にした時の加島の驚きは説明できないように思えた。佐和子は自分の推理に興奮を覚えた。      4 「口果報とはこのことだね」  広い食堂のテーブル一杯に並べられたオードブルを見渡して矢的は呆《あき》れた。キャビアがガラスの小鉢に山盛りされている。 「ずいぶんと古い物言いをお知りですこと」  佐和子の隣りに腰を下ろした由乃が頬を綻《ほころ》ばせた。神楽も頷《うなず》く。 「口がほうって……ああ、果報ね」  佐和子はやっと意味を理解した。 「今では私たちでも使わなくなりましたのに」 「矢的さんはことわざの権威なんです」  佐和子が説明した。 「国語の辞典代わりにことわざ辞典を」 「なるほど……それもアイデアだ。普通の辞典よりは楽しみながら言葉を覚えられる」  神楽は感心して何度も首を振った。 「なんだい、口果報って?」  露麻夫が向かいの席から質《ただ》した。 「美味《おい》しいものに恵まれていることですよ」  由乃がたしなめるような口調で言った。 「なんにも知らないんですものね」 「口果報か……なかなか洒落《しやれ》てる」 「子ゆえの闇……というのはご存じ?」  由乃は露麻夫を無視して矢的に訊《たず》ねた。 「そういうお母様にはとても見えません……」  矢的は笑って由乃を見つめて続けた。 「きちんとした分別をお持ちの方のようにお見受けしますが……」  矢的に言われて、由乃は慌てたように目を伏せた。 「今夜はとっておきのワインにした」  加島が貯蔵室からキャスターに載せて四、五本のワインを運んで来た。矢的はラベルに目をやった。それぞれが銘柄も違えば年代も異なるので、料理に合うかどうか保証はできかねるが、出来のいいワインとして名高いものばかりだった。 「私には味なんて分かりませんよ」  神楽もラベルを眺めて口許を緩ませた。 「実を言うと私もだ。たいていが業者からの貰《もら》い物でして。こういう時でもないと飲む勇気が出てこない。わずかグラス五、六杯で二十万円もする。こんな物を貰ってもありがたいとは思わんね。猫に小判のようなものさ」  それでも加島は得意気に笑った。 「じゃあ、なにを貰えば嬉《うれ》しいんです?」  露麻夫が続けた。 「やっぱり金の延べ棒かな」 「どうかね……飲めない酒よりはマシだが、嬉しいのとはちょっと違うだろう。この世の中には金で買えないものが結構ある。もし、そういうものを貰えれば……」 「たとえば?」  美洋が興味を抱いた。 「いきなり言われても思いつかんな」 「女や名誉も金次第って言うし」  露麻夫は意地悪く笑って、 「加島のおじさんに手に入らないものって言ったら、若さくらいのもんじゃないの」  加島は露骨に厭《いや》な顔をした。 〈またはじまった……〉  佐和子は苦笑した。美洋を巡って露麻夫と加島には対抗意識があるようだ。佐和子はそっとめぐみと希里子を盗み見た。めぐみは鷹揚《おうよう》に構えているが、希里子には激しい動揺が窺えた。その隣りの百合亜は軽蔑《けいべつ》した視線を加島に注いでいる。 「よかったら栓はぼくが抜きましょう」  瓶を握ったままの加島に矢的が言った。  加島は、いや、と首を振った。 「弁吉のことですが——」  せっかく和やかなムードに移行しつつある場を矢的が壊した。加島はぎょっとした目で矢的を見つめた。だが、矢的の目は神楽に向いている。 「なにかね?」 「研究室で少しはうかがいましたけど、もっと詳しく説明していただけませんか」 「この場ではどうかな。さっきの件もあるし」  神楽は躊躇《ためら》いを見せた。 「どんなことが知りたい?」  逆に加島が身を乗り出した。 「さっきの件とは無関係です。まさか百年も前の人間とは繋《つな》がりがありませんよ」  矢的の言葉に、加島は安堵《あんど》の色を浮かべた。 「名前こそ知れ渡っておらんが……弁吉こそ日本の生んだ最大の天才ですよ」  神楽もホッとした顔で口にした。 「平賀源内《ひらがげんない》よりもですか?」  佐和子が質した。子供の頃にテレビで平賀源内を主人公にした『天下御免』を見て以来、佐和子は彼を日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとして認識している。 「源内もたしかに才能に恵まれた人物であったでしょうが……彼の場合は文才と商才に長《た》けていた。実際の発明はさほどのものじゃない。源内|櫛《ぐし》だとか金唐革《きんからかわ》とか源内焼きだとか……彼の名を高めた製品は、言わばアイデア商品であって、発明とは次元が異なる。エレキテルやテルモメートルを作ったと言うがあれは西洋科学の模倣にすぎない。細かく彼の仕事を分析してみると、意外なほど独創性に乏しいのが分かるはずだ。名前のほうが大幅に先行している。悪口に聞こえるかもしれないが、科学のブローカーだったと見るのが正しい評価だろうね。もちろん、原理が分からなければエレキテルは拵《こしら》えられない。その意味では賞賛に値する頭脳には違いはないが」 「そう言われると、そのとおりです」  源内のオリジナルはたしかに少ない。 「それに較べたら弁吉の才能は本物だ。たった一枚の銀板写真を見て、カメラを拵えたという話を聞いておらんかね?」  佐和子と矢的は首を横に振った。 「テルモメートル、つまり寒暖計なんかとはわけが違う。理屈を理解できたとしても、技術の裏づけがないとカメラは作れない」 「いつ頃のことです?」 「天保《てんぽう》十三、四年と言うから……今から百五十年くらい前になりますかな」  矢的は唖然《あぜん》とした。 「そうですよ。驚かれるのも無理はない。カメラを発明したのはフランスのダゲールという人物だが……あれは一八四〇年あたりでしょう。日本では天保十年頃に該当する。それから三、四年も経たないうちに弁吉はカメラを拵えたことになる」 「まさか、それが残されているとでも?」  矢的は疑わしい目で質問した。 「暗函《あんばこ》だけは残っているが……残念ながら製作年代は記入されていない」 「…………」 「しかし、弁吉が撮影した写真もちゃんと保存されている。ウタという弁吉の奥さんを撮ったものだ。写真の存在は古くから知られておったんだが、戦後まで、その時期が特定できなかった。ところがウタさんの年齢から逆算してみると、どうしても天保年間に撮影したものとしか思えなくなった。いくらなんでもダゲールより古くはなかろうと言うので、天保の末だろうと見解が落ち着いている」 「先生はいかがなんです?」  矢的は神楽の口調を見抜いて言った。 「もしかしたら、もっと古いと?」 「弁吉のパトロンだった銭屋五兵衛《ぜにやごへえ》についてなにか耳にしたことは?」 「いいえ……」 「当時の日本を代表する金持ちだ。金沢に本拠を構え、日本はおろか海外にまで交易の輪を広げた海運業者でな……その後ろ楯《だて》があったればこそ、弁吉の才能が開花したと言っても過言ではない」 「…………」 「その銭屋五兵衛と弁吉が並んでいる写真も残されておるんだよ。銭屋五兵衛は嘉永《かえい》五年、つまり一八五二年に死んでおるから、それ以降の撮影ではありえない」 「当然でしょうね」 「では、いつ撮ったものか……機会があれば君にも見てもらいたいものだが……私にはどう眺めても五兵衛は六十代前半としか思えないのだ。これは私ばかりじゃなく、研究室に出入りする学生も皆、口を揃えて同意した。そもそも、あの当時の日本人は実際の年齢よりも老けて見えるのが普通なんだよ。六十代前半にしか見えんということは、もっと若い時の写真なのかもしれないんだ」 「銭屋五兵衛は何歳で死んだのです?」 「ちょうど八十。この意味が分かるだろう」 「一八五二年に亡くなったと言われましたね……その彼が六十代前半となると……一八三二年前後ですか」  矢的はざっと計算して、 「ダゲールより七、八年も早い!」 「そうなんだ。弁吉が銭屋五兵衛を頼って金沢を訪ねて来たのは天保二年だったと伝えられているから、年代的にも矛盾しない。天保二年は一八三一年に当たる」 「あっさりと凄《すご》いことを口にする」  矢的は笑って小さく首を振りながら、 「君は知ってた?」  佐和子に訊ねた。 「ダゲールの前にカメラを拵えた日本人がいたなんて……まったく想像もできなかったよ」 「本当なら歴史が変わりますね」  佐和子の頬は紅潮していた。 「証拠はなにもない。ただし弁吉ほどの才能ならば、けっしてありえないことではない。銭屋五兵衛に望遠鏡を製作して進呈したという話も残されておるし……もっとカメラに近いものなら、幻燈器を操って夜空に巨大な文字を浮かび上がらせたという言い伝えもある」 「幻燈器?」 「スライド・プロジェクター」  佐和子に説明されて矢的は驚嘆した。 「そんなに昔からプロジェクターが?」 「別に驚くには値せんさ」  神楽はニヤニヤした。 「ヨーロッパではルネサンスの時代に、すでにカメラ・オブスクラと呼ばれて実用化されておった。もっとも、その当時のものは今の器械とは違って、相当大仕掛けだったが」  十七世紀の発明家アタナシウス・キルヒャーの考案によるカメラ・オブスクラの仕組みと、全体を描いた図版が残されている。それを見ると、いかにも原理的には幻燈器と似ているけれど、大きさがまるで違う。装置は四角い小屋ぐらいのもので、人間が何人も中に入れるほどの巨大さだ。四角い小屋は二重箱の構造になっていて、外の壁には小さなレンズを嵌《は》め込んだ穴がある。一方、内側の壁は白い布をピンと張ったスクリーンだ。観客は内側の壁で囲まれた中心に立ち、外壁のレンズを通して、内壁のスクリーンに投射された外景を楽しむことができる。ただし、さかさまの影像ではあるが。  よく考えると器械の中のフィルムを外のスクリーンに投影する幻燈器よりは、むしろカメラの構造に近い。白い布を印画紙に替えれば、カメラそのものである。だが、発明家たちはこの原理から、まず幻燈器を考案した。透明なフィルムに絵を描き、背後から強い光を与え、それをレンズに通してやればスクリーンにおなじ絵を再現できる。 「そんな装置を作ってどうしてたんです?」  佐和子は首を傾げた。神楽の説明によれば、その器械は単にさかさまの景色を布に映し出すだけのものでしかないらしい。 「楽しみは理由にならんかね」  神楽は微笑んだ。 「カメラ・オブスクラはピンホール・カメラとおなじものだ。君たちにもきっと経験があるはずだと思うがな。雨戸の小さな節穴《ふしあな》から光が差し込んで、壁や襖《ふすま》に倒立した景色が映っているのを眺めた経験が」  佐和子は頷《うなず》いた。 「楽しくはなかったかい? 私などはその壁に画用紙を画鋲《がびよう》で止めて、さかさまの絵をそっくり写しとったりしたものだ。原理などどうでもいい。ただ、さかさまの世界にすっかり魅《み》せられてね……もっとも、私のしたことは別に独創でもない。当時の画家たちはこの装置を実際にその目的で購入した。これを用いればとくに遠近法に気を配るまでもなく、現実の風景とまったくおなじものを簡単に写しとることが可能だ。ルネサンスの画家たちの風景が異常に緻密《ちみつ》なのは、ひょっとしてこの装置のせいじゃないかとも考えている」  矢的は思わず唸《うな》った。 「それはともかくとして……」  神楽は続けた。 「カメラ・オブスクラから幻燈器が考案されて、十八世紀末には日本にも伝来した。写し絵と呼ばれて、見世物の中心に位置しておる」 「ああ、写し絵」  佐和子は大きく首を振った。  それならば、からくりの系列として資料を読んでいる。舞台正面に高さ一メートル、幅四メートルの和紙を張ったスクリーンを据え、それに五、六台の幻燈器を使って種板《たねいた》と呼ばれる絵を交互に投射する。絵は少しずつ動きを変えて描いてあるから、観客にはそれが動いているように見えるのである。写し絵のもっとも人気が高かったのは幕末。  なるほど、弁吉の活躍期と重なる。 「弁吉の話はこうだ」  神楽は矢的と佐和子に説明した。  弁吉が加賀《かが》にやって来て間もない天保二年頃のある日、弁吉はパトロンである銭屋五兵衛に呼ばれて相談を受けた。銭屋に対抗する加賀の分限者|木屋藤《きやとう》右衛門《えもん》の宴席に招待されているが、なんぞ面白い知恵はないか、という相談事である。弁吉は少し考えて、夜空に文字を浮かばせようと請け合った。しかも、仕掛けのむずかしい海の上にだ。その噂を聞きつけて近郷近在から続々と見物客が集まった。浜辺では夕暮れ前より人々が空を見上げている。いよいよ空が暗くなると、弁吉が登場した。前口上《まえこうじよう》を述べて弁吉は姿を消した。その途端に人々の頭上に眩《まばゆ》い光が現われた。光は時に白く、時に蒼《あお》く頭上を巡り、あれよあれよと見物客が騒いでいるうち忽然《こつぜん》として空に巨大な文字が描かれた。「英雄《えいゆう》不遭時《ときにあわず》」。どれほどの英雄であろうと、時代が求めていなければ不遇な一生を終えることもある、という故事である。それは弁吉の心の反映だったかもしれない。文字はしばらく輝いて、そして忽然と消え去った。 「講釈師の話なので、果たしてどれほど信用のおける逸話なのかは分からないがね」 「まさにプロジェクターとしか思えないですね。きっと雲に文字を映したんでしょう」 「雲に文字を!」  黙って聞き役に回っていた美洋が声を上げた。加島や百合亜は耳に馴染《なじ》んだ話らしく、笑って頷いている。 「もし、この話がいくばくかの真実を含んだものであるならば……弁吉は幻燈器の構造にも熟知していたと想像できる。じゃろ」  神楽は矢的に同意を求めながら、 「幻燈器はカメラ・オブスクラから発展したもの。しかも望遠鏡を拵えたという話を重ねると、弁吉はレンズの作用にも詳しい人間だったと言えないかね?」  矢的にも神楽の言いたいことが分かった。 「たしかに弁吉がカメラを独自に発明しても不思議ではありませんね。カメラ・オブスクラのスクリーンを印画紙に替えるだけです」 「弁吉は火薬の製造法や蒸気機関などにも明るかった男だ。水素ガスを利用して気球を飛ばしたという逸話も残されている。けっしてからくりが本業の人間ではないよ。からくりはむしろ暇潰《ひまつぶ》しに近いものだと思っておる」 「本物の科学者だったというわけですか」 「銭屋五兵衛が逮捕されずにおれば……と言うよりも、加賀藩が明治新政府の中心にあれば、弁吉の名前はずっと違ったものになっておったはずだ。銭五の没落と加賀藩のそれとが重なって、歴史から弁吉の名が消えた」 「銭屋五兵衛が逮捕された?」  矢的は聞き咎《とが》めた。 「もう充分じゃないかね」  加島が矢的の質問を遮った。 「君らには初耳だろうが……私らは耳にタコができるほど聞かされている話だ」  神楽がそれを聞いて笑いながら、 「もし興味があるなら、また研究室の方にでも遊びに来たまえ。銭屋五兵衛というのも、なかなかに面白い人物だよ。フィリピンやアメリカにまで渡航したという伝説がある。密貿易で財を成したと噂されているので歴史家の評価は芳しくないがね。私はそうは思わん」  また蒸し返しそうな調子に加島は苦笑した。 「それ以上、あなただけがお話を独占していては皆様のご機嫌を損じそうですよ」  由乃に言われて神楽は話を取り止めた。      5 「いずくの烏もみな黒し……か」  加島の家を辞去するなり、矢的は佐和子に聞こえるように呟《つぶや》いた。他の皆はまだ残っている。時間は十時。まだ早い。 「どういう意味?」 「疑わしい人間ばかりということさ」  佐和子も頷いた。パーティの後半こそは何事もなく笑いで埋められたものの、百合亜は終始冷たい視線で加島や美洋を眺めていたし、希里子は怒りを堪《こら》えていた。美洋とて絶えずめぐみに加島との関係を誇示したがっていた。よく加島が場を捌《さば》いていたものだとさえ思う。 「加島と神楽先生の仲だって怪しいものだな。先生の奥さんの態度で分かる。結局、まともに話を交わしたのは一度だって……」  なかったような気がする。 「利害関係だけで結びついているのかしら」 「かもしれない。楽は下にある、ってことわざどおりだよ」 「楽は下にある……」 「金持ちや身分の高い人間は、いろんなものに縛りつけられて、心の底からのびのびできないってことさ。その点、ぼくらは楽だ。その気になれば明日にでも旅に行けるし、裸で部屋に寝転んでもいられる」 「ホント。一番の贅沢《ぜいたく》かも」  やがて二人は道玄坂の賑《にぎ》やかな通りに出た。まだまだこの街は宵の口だ。 「ま、それでも収穫はあった。早速、明日は図書館にでも出掛けて銭屋五兵衛のことを調べてみよう。日本にも不思議な人間がたくさんいるもんだね。まさか世界で最初のカメラの考案者が日本人かもしれない、なんて……」 「それより、脅迫状の弁吉のことですけど」  佐和子は例の思いつきを伝えた。 「だからぼくも訊《き》いてみた」  矢的はすぐに頷いた。 「けれど、弁吉という名前の男が現在、現実に存在するとは思えないな。渾名《あだな》にしてもさ」 「だったら、どうして怯《おび》えたのかしら?」 「なにか秘密があるんだろう。江戸のからくり師、大野弁吉に絡んだ秘密がね」 「そうとは思えないけどなぁ」 「加島はわざと話を中断させたよ」  それは佐和子も感じていたことだった。 「しかも、銭屋五兵衛のところでだ」 「それで調べるつもりに?」 「もちろんだ。好奇心はもともと強いほうだが、暇潰しに図書館に行くほど、暇じゃない」 「でも、図書館で謎が解けるでしょうか」 「やってみないと分からない。日本人の悪いクセだよ。公共性の高い場所には秘密もなにもないと先入観を抱いている。いつも謎を解く鍵《かぎ》は仏像の中に隠された暗号文なんかにあると勘違いしてるんじゃないか?」  佐和子は声を上げて笑った。 「君は銭屋五兵衛の逮捕された理由を知っているのかい?」 「弁吉の資料のついでに読んだ程度です。たしか、干拓に関係した公害問題だったと」 「ほら、結局はその程度だ。もっと詳しい情報を手に入れてみるまでは、なんにも言えない。ひょっとすると秘密を解く鍵だって」 「ですね」  佐和子は素直に認めた。 「公害問題か……」  矢的の関心はすでに移っていた。 「江戸時代に公害だなんて……そいつもやたらと興味をそそられる話だ」 「もしかして——」  それと関係があるのかも。佐和子は言った。 「だけど加島の会社は土地の売買だろ。公害とは直接関係ないさ」 「でも建築会社とも繋《つな》がりがあるでしょうし。どこかで被害に遭っている人間がいて、その告発の意味だとしたら」 「じゃあ,なんで弁吉なんだい?」  佐和子は詰まった。 「弁吉は銭屋五兵衛を告発したってわけじゃないんだろう?」  佐和子は諦めて頷《うなず》いた。 「そもそも、公害なんかを心配して告発するような人間は、今日のメンバーにいやしないぜ。あんな手間をかけてまでさ」 「本当に……なにを許さないのかしら?」 「加島に一番近いめぐみさんにさえ分からないんだ。今の時点でぼくらに分かるわけは」 「…………」 「はっきりとした事件が起きてみないと」 「起きるでしょうか?」 「きっとね。あれは悪戯《いたずら》とは違う。だから調べを急がないと手遅れになる」  矢的は真剣な口調で言った。 「君には廊下とんびの役割をしてもらわなければならないかもしれない」 「廊下とんび?」 「なんだ……それも通じないの。君と話していると、外国人のようだな」  矢的は呆《あき》れた顔で説明した。 「用もないのに、あちらこちらと顔を出して油を売って歩く人間さ。なるべく加島の周辺から離れないでいてほしい。事件が起きたらすぐに対応ができるようにさ」  人噛み馬から、今度はとんびに昇格ってわけだ。いいえ、これは降格に近いみたい。それでも佐和子は首を縦に振った。 [#改ページ]   五 狂を学ばば狂なり      1  溜《た》まっていた仕事を慌ただしく片づけて、夕闇の迫った神保町を、矢的と約束した喫茶店目指して足速に歩いていると、背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。耳慣れたクラクションの音もする。佐和子は振り向いて捜した。 「あら、田島さん」  矢的の運転する青いルノー5の助手席の窓を下ろして、田島が髭面《ひげづら》を出していた。 「な、やっぱりそうだったろ」  佐和子が車に乗り込むと田島は言った。 「お宅の後ろ姿を見かけて、あんなに恰好《かつこう》よくないって矢的が言ったんだぜ」 「ひどい」 「誤解だ。そんなスーツは着ないと……いつもスポーティなジャケットとパンツだもの」  矢的は困った顔でつけ加えた。 「私だってたまには女っぽい服も。堅苦しいスーツは好きじゃないけど。今日は昼にクライアントのレセプションに出席しなければならなかったので……似合わないかなぁ」 「似合う、似合う。歳よりもぐっと貫禄《かんろく》が」 「それって——誉《ほ》め言葉?」  佐和子は田島を軽く睨《にら》んだ。たった一度しか会っていないのに、田島とは何年も前からの知り合いのように感じる。やはり矢的の大親友という気持ちが佐和子にあるせいなのか。 「でも、どうして田島さんが?」  さっきもらった矢的の電話ではなにも聞かされなかった。 「ずうっと図書館につき合っていたんだ。もっとも昨夜《ゆうべ》、矢的んとこに連絡を入れたら、なんだか面白そうな展開になってたんでね。図書館で銭屋五兵衛の資料を漁《あさ》るってんで合流することに決めた。どうせ仕事もヒマだし……ところで達磨《だるま》の雄ちゃんに謝らないとな」  田島は神妙な顔つきになった。この前、皆で飲んだ時、田島はすっかり酔い潰《つぶ》れてしまって、達磨の店主の雄二に、矢的のマンションまで背負われて運ばれたのだ。 「後で矢的に聞かされて冷や汗を掻《か》いたよ。どうもとんでもないことを言ったみたいだ」 「まるで覚えてないんですか?」 「いや……だいたいは覚えてる。けど、忘れたフリをしてるほうが安全だろうな」  アハハと佐和子は笑った。 「それで今夜も達磨に行くことに決めた。もし、君も暇ならどうかと思って……」  矢的が誘った理由を口にする。 「私も、もう達磨の常連ですね」  この十日ほどの間に、今夜で三度目だ。 「オレがけしかけたんだぜ」  田島が得意そうに佐和子を振り向いた。 「今まではお宅の用事でばかりだろ、こっちから誘ったら君が来るかどうかってさ」 「もちろん喜んで」  佐和子はすぐに頷《うなず》いた。 「それを信じない間抜けがいるんだよ」 「そうじゃない」  慌てたように矢的が補足した。 「他の約束が入ってたら迷惑だろうと……こちらの都合を押しつけるわけにはいかない」 「そういう態度がいつも悪い。そこで簡単に引き下がったら、それこそ、ついでに誘ったとしか相手にゃ思われんだろうが。せっかく決心したなら、敵の予定なんか無視して、とことんぶち当たらんとな。とにかく達磨に直行だ」  二人のやりとりに佐和子は苦笑した。 「情けないヤツだと思うだろ? こいつは自分がモテるわきゃないと信じ込んでるから、女の子にこれまで好きだと言ったことがない。だから恥を忍んで私が仲介の労を取っているわけですよ。今度を逃がすと後がないもの」 「ばかな話はやめてくれ」 「おれの仲人《なこうど》じゃ不服かね」 「そんな情況じゃない」  矢的は溜め息を吐いた。 「なにか分かったんですか?」  佐和子は話題を変えた。 「銭屋五兵衛の資産は、分かっているだけでも三百万両を軽く超えていたそうだ。その他に隠し財産となれば見当もつかない」 「三百万両!」 「今の価値に換算すると四千五百億」 「凄《すご》い!」  佐和子は絶句した。 「銭屋五兵衛が逮捕されると同時に、加賀藩は彼の財産を凍結した。最後には大半を没収したらしいんだが……その時点で銭屋が他の商人に貸しつけていた金額だけでも二十七万両だったとあった。そればかりじゃない。当時の加賀藩は財政的に困窮した状態にあって、銭屋五兵衛をはじめとする豪商から御用金を何度となく調達していてね。銭屋の納めた分をざっと計算してみたら、なんと三十万両。それも藩への貸しつけ金と見做《みな》せば、合計で八百億円以上の貸し金となる。とてつもない金持ちだったというわけさ。又五郎《またごろう》って弟が分家する時に、八万両を分け与えて営業資金にさせたという話もある。一両が今の十四、五万として……百億だ。それらを考え合わせても銭五の資産は一兆円を下らないはずだ」 「なんだか眩暈《めまい》がしそう」 「問題はその財産がどこに消えたか、さ」 「だって……加賀藩が没収したと」 「だから、それは表向きの資産にすぎない。銭屋五兵衛の経営する海運会社は日本全国に支店を三十近くも持っていた。逮捕されたと言っても、財産没収の沙汰《さた》が下りるまでには相当の余裕があったし、他の藩の領地内にある支店に対しては、加賀藩といえどもおいそれとは手が出せなかったと思う。その情況で銭屋一門が金を隠そうとしなかったと考えるほうが不自然だ。実際に事件が解決して銭屋の再興が許された時に、銭屋五兵衛の末裔《まつえい》は、あっという間に力を盛り返した。隠し財産があったとしか思えないだろ」 「だったら、問題はなさそう」 「でもない。末裔たちが隠し持っていたのは、あくまでも身近にあった金だろう。庭に埋めた小判を掘り返したり、親戚《しんせき》の金庫に預けておいたものに違いない。銭屋五兵衛が生前に隠匿していた金の行方は、たとえ身内と言っても分からなかったんじゃないか?」 「どうしてですか?」 「肝腎《かんじん》の銭屋五兵衛が牢屋《ろうや》で病死してしまったからさ。隠し財産というのは、そういう性質のものだよ。親戚中に知れ渡っている場所なら、そもそも隠し財産とは言わない」 「でも……家族くらいは」 「銭五の二代目を継いだ長男の喜太郎《きたろう》という人物は、怠け癖のある気弱な性質だったらしい。だから銭五はゆっくり隠居もできず、七十を超えても銭屋の実権を掌握していた。その彼がもっとも信頼を寄せていた息子は要蔵《ようぞう》という三男だった。要蔵になら、あるいは万一のことを想定して、隠し財産の存在を教えていたかもしれないが……彼もまた河北潟《かほくがた》の公害問題の責任者として捕われ、磔《はりつけ》となった。家族との面会も許されなかったんだから、もちろん銭屋五兵衛から場所を聞かされていたとしても、だれにも伝えられない」 「長男の喜太郎はどうなったんです?」 「彼も逮捕されたんだが、何年か経ってから河北潟の埋め立てには関係していなかったと分かって放免された」 「いくら怠け癖のあった人間だと言っても長男なんでしょ。聞かされてないのかしら」 「最初はぼくもそう考えていたよ。しかし」  矢的は言葉を切った。 「資料をよく読んでいくうちに、喜太郎の人生こそが鍵を握っていると気がついた」 「…………」 「罪を許されて七年後にもなってから喜太郎は自殺した」 「どうして!」 「再三願っても銭屋の再興が認められなかったのが、自殺の理由だと説明されている」  佐和子は曖昧《あいまい》に頷いた。 「むろん、そういう理由で死ぬことも充分に考えられる。けど……もし彼が父親から隠し財産のありかを聞かされていたら、死まで思いつめるだろうか。もともと怠け癖のあった人間なんだ。それでも銭屋五兵衛が生きていた時は、親の目が光っていたから多くの従業員の先頭に立って頑張らなければならない。だが、もう口うるさい父親もいない。金が腐るほどある。最低でも、三、四千億は隠されていたはずだ。藩の目が心配だと言うならその金を持って、京都なり大坂なりに逃げてしまえばいい。一億や二億程度の金なら、それも一時の栄華にすぎないと諦めるかもしれないが、ケタが違う。そういう金を手にしている人間が、自ら死を決意するとは思えない」 「四千億ですか……」 「それで死ぬのは、よほどの人生の達観者だ。喜太郎は違うよ。遊び好きの凡庸な人間だったと書かれている」 「やっぱり……自殺はありえませんね」  佐和子は納得した。 「喜太郎は、父親の五兵衛から隠し財産の所在を聞かされていなかった、という推理が成り立つ。おそらく牢屋から出ると、彼は必死で父親の遺産を捜しまわったんだろうな。そいつがどうしても発見できずに自殺を決意したってことも……喜太郎でさえ見つけられなかったものを、他の親戚が手に入れられたわけがない。では銭屋五兵衛に隠し財産なんてなかったのか? それも違う。銭屋五兵衛の分家だった親戚ですら、再興が許されると、それぞれの隠し財産を基に、みるみる復興したんだよ。本家である銭屋に隠し財産がなかったなんて、とうてい考えられないことじゃないか」 「理屈はそのとおりなんだがな」  田島はニヤニヤした。 「四千億だなんて、そんな夢みたいな話が転がってるもんかね。ちょいと眉唾《まゆつば》だ」 「今もどこかに眠っているんでしょうか」 「矢的はそう信じてる。けどまあ、宝の隠し場所をしるした地図もないことだし……おれたちには関係のないお話さ」 「もし、それを手に入れた人間がこの世にいるとしたら?」  矢的は真面目な口調で佐和子に言った。 「…………」 「きっと、弁吉は許さないよ」  ええっ、と佐和子は声を上げた。 「弁吉は銭屋五兵衛のブレーンだったんだ。要蔵以外に信用していた唯一の人物だったとも言える。弁吉ならあるいは隠し財産のありかを知っていた可能性だって」 「すると……加島大治が銭屋五兵衛の隠し財産を入手したとでも?」 「経歴の知れない加島が、どうして二十年前に突然大会社を設立できたのかと、君自身が不思議がっていたんじゃなかったかい」 「でも……まさか銭屋五兵衛の財宝だなんて」  おとぎ話もいいところだ。 「ま、試しに可能性の一つを言ってみただけさ。ぼくも半分以上は信じてやしない。それなら奥さんのめぐみさんだって承知のはずだ。弁吉は許さないぞ、という脅迫状を見たら、彼女にもすぐ思い当たる。あんなにのんびりとしていられるわけがない」 「でしょう? 驚いたわ」 「だけど……銭五の隠し財産は間違いなく存在する。この日本のどこかにね」  矢的は前方から目を離さずに呟《つぶや》いた。      2 「そもそも銭屋五兵衛という人物はね」  矢的は面倒臭い顔をして杯を持った。  達磨のカウンターに腰を下ろしている。 「本当になにも知らないのかい?」  参ったという目でカウンターの中で豆腐ステーキを焼いている良美を眺める。 「そりゃあ、名前ぐらいは知ってるけどぉ」  その口調では名前も怪しいものだ。 「けどアブさんだって図書館で調べたんでしょ。似たようなもんだわ」 「君は日本人じゃないか」  矢的に言われて良美はペロッと舌を出した。 「江戸時代に活躍した金沢の豪商だ。抜け荷買いって知ってるだろ。密輸で大|儲《もう》けした悪いヤツさ。資産一兆円」  田島が大胆なくくりかたをした。  それでも良美は、ふうんと頷《うなず》いた。 「こいつにはこの程度でいいんだ」  田島は、ほら見ろ、と笑った。 「悪いヤツというのは誤解だよ」 「金持ちは悪いヤツに決まってる。とくに若い女どもにはそういう教育をしとかんとな」  相変わらず田島には反省がない。この前の件で恐縮していたのは最初の五分だけだ。酒が入ると、途端に毒舌が口をついて出る。 「密貿易にしても加賀藩に奨励されたふしがある。どちらかと言えば持ちつ持たれつの関係だったんだ」 「へえ……どういうことだ?」 「車の中でも説明したように、加賀藩の財政はパンク寸前だった。原因は銭屋五兵衛が活躍する時代よりもだいぶ前に遡《さかのぼ》るんだけど、わずか九年の間に、藩主が続けて四人も亡くなったことがあってね……葬儀や藩主交替の儀式のために莫大《ばくだい》な負債が生じた。おまけに百万石の格式が邪魔をして、幕府や諸大名とのつき合いも馬鹿にはならない。立て直しもできないうちに、今度は金沢市内を全焼させた大火災や飢饉《ききん》が重なった。加賀藩は必死で対応策を練り、藩士の給料の削減や、借金のある者はそれを返さなくてもいいという法令を出したりして切り抜けようとした。それでも苦境からは脱出できない。苦しまぎれに、ねずみ講のようなものまで藩が主体となって行なったらしい。そこに銭屋五兵衛という海運業者が登場してきたのさ。藩は、もちろん銭屋五兵衛をはじめとする豪商たちに借金もしていたんだが、藩としては彼らに返せるアテがない。そこで見返りというわけでもないだろうが、銭屋五兵衛に対して御用船の認可を与えた。こうなると、銭屋の船に怖いものはない。いくら財政危機に瀕《ひん》している加賀藩だと言っても、対外的には百万石の大大名。その加賀藩の旗印を掲げている船に対しては、たとえどこの国でも迂闊《うかつ》に手が出せない。銭屋五兵衛は加賀藩の力を背景に日本国内はおろか、次第に足を延ばし、フィリピンや樺太《カラフト》、ハワイの方とまで交易をはじめた。もちろん、この事実を加賀藩が知らなかったはずはない。実際に、銭屋五兵衛が亡くなってから、樺太より加賀藩に連絡が入り、毎年、米を運んで来た船はどうなったのかとの問い合わせがあった。それについて加賀藩は、銭屋五兵衛が死亡したので、今後の貿易はむずかしいと返事をしたということだ。密貿易を藩が黙認していたというはっきりとした証拠だな」  全員が頷いた。 「加賀藩は銭屋に危険な橋を渡らせて、上納金を受け取っていたのさ。ところが、その事実が幕府に発覚しそうになった。なんとか揉《も》み消そうにも、藩自体が密貿易に荷担していたんだから面倒だ。下手をすれば藩が潰《つぶ》される。そこで、たまたま銭屋五兵衛と息子の要蔵が意欲を燃やして推し進めていた河北潟の干拓工事に目をつけた。漁場を埋め立てられるというので、漁師の間からも盛んに反対の火の手が上がっている。けれど、もともとは藩も後押しをしていた工事なので文句のつけどころがない。そこに、偶然というか公害問題が勃発《ぼつぱつ》した。河北潟に魚の死体がいくつも浮き上がり、それを食べた漁師たちが何人か死んでしまった。漁師たちの反対運動に腹を立てた銭屋五兵衛が、河北潟に毒を投げ入れたとの噂がすぐに飛び交った。藩が調査を開始すると、毒の証拠は発見できなかったが、その代わりに、埋め立ての土砂を固める目的で、大量の石灰が銭屋の手によって投入されていた事実が発覚した。今の時代なら、それが毒とは無関係だと証明されるだろうが、藩はそれを重大事と見做《みな》し、さっそく、工事責任者の要蔵や銭屋五兵衛を逮捕した。無実を訴え続けていた銭屋五兵衛は、八十歳の高齢だったせいもあり、判決も待たずに牢死《ろうし》した。息子の要蔵は磔、一門の大半は永牢……つまり終身刑を言い渡されて、事件は決着した」 「密貿易はどうなった?」  田島が訊《たず》ねた。 「調書のどこを読んでも、それに関する疑惑は一言も触れられていない。あれだけ噂になっていた密貿易がだよ。もし、藩が無関係であったなら、当然追及していた問題だったんじゃないかな。あの調書を眺めただけでも、銭屋五兵衛の冤罪《えんざい》は明らかだ。藩は幕府の詮議《せんぎ》を恐れるあまりに、銭屋五兵衛たちを抹殺した。それに……銭屋の財産を没収できれば一挙両得となる。ひょっとしたら毒を飲ませた魚を河北潟に浮かべたのは、当の加賀藩だったという可能性だってある。なにしろタイミングがよすぎるよ」 「それが本当なら……ひでえ話だぜ」  田島は唇を震わせた。 「神楽先生が言っていたね」  矢的は佐和子に向かって言った。 「弁吉の本業はからくりじゃないと」 「ええ」 「弁吉が銭屋五兵衛を頼って金沢にやって来たのは、銭屋が本格的に海運業に手を染めはじめた頃なんだ。それまでは味噌《みそ》とか古着などを手広く扱っていた卸問屋にすぎない」 「でしたら、弁吉が手伝って?」 「国内を小さな船で回る程度だったら大した心配もなかったかもしれないが……フィリピンやハワイとなれば相当な技術が要求される。羅針盤だって必要だろうし、大型船の設計も普通の船大工じゃ無理だよ。弁吉はおそらく技術顧問として招かれたんじゃないかい。けれど、ことが密貿易に絡んでいたから、銭屋も弁吉もそれを秘密にした。こいつはけっして的外れな想像じゃないと思う」 「それで、弁吉は銭屋のブレーンだと」 「そうだ。共に秘密を守り合う仲間なんだから。家族に話せないことも弁吉には口にしていたに違いない」 「弁吉は逮捕されなかったのか?」  田島が不審気に質《ただ》した。 「それほどの仲なら逮捕されたって」 「河北潟の一件で責めている以上、弁吉には手が出せない。弁吉は銭屋の親戚《しんせき》でもなければ従業員でもなかったんだ。それに、弁吉を捕えれば藩にとっても藪蛇《やぶへび》になる。どうしても密貿易にまで話が発展するからね」 「なあるほど、話が見えてきた。となると弁吉だけが秘密を握っていた人物ってことか」 「弁吉なら全国の支店も掌握していただろう。それに、あの時点で自由に動き回れたのは弁吉だけなんだ。もし、万一のことを銭屋が考えていて、そいつを弁吉に託していたとしたら……銭屋五兵衛も馬鹿じゃない」 「だな。馬鹿なら金は儲けられん」  田島の口調に真剣さが加わった。 「詳しく聞いてみると、まんざら眉唾でもなさそうな感じだな。消えた四千億の行方は弁吉が知ってる、か」 「からくりどころの話じゃないみたい」  良美は興奮した目で続けた。 「四千億のためなら人を十人でも殺してやるわよ。ううん、この体だってあげちゃう」  冗談でもなく口にした。 「それを心配してるんだ」  矢的の目が曇った。 「良美ちゃんのことじゃなく、加島の命をね」  佐和子も不安に襲われた。      3  その週の日曜日の早朝。  矢的のルノー5は新宿西口広場に停車していた。助手席には田島が乗っている。ルノー5のすぐ後ろには達磨の雄二の運転する白いアコードが並んでいる。中には良美の元気な顔が見える。金沢までのロングドライブなので張り切っているのだ。 「こりゃあ寝過ごしたんだ」  約束の時間を十五分過ぎているのに、いっこうに姿を現わさない佐和子に、田島は苛立《いらだ》って車の中で足踏みしながら、 「途中でアパートに寄って拾ってくりゃ確実だったのに。まったく気の利かんヤツだ」 「朝の六時に訪ねるなんて失礼だ。もし顔も洗っていなければ彼女に悪い」 「今どきの女の子は寝姿を見られたって平気さ。混浴にだってキャーキャー笑いながら入ってくる時代だぞ。おまえさんが考えてるほど日本の女は慎み深くはねえよ。迎えに行くと言えば喜んで頷《うなず》いたはずだ」 「まだ十五分しか遅れていない」  矢的はのんびりと青空を眺めた。 〈今から出発すれば到着は午後遅くかな〉  東京から金沢までのドライブなど、矢的にとってはこれまでに経験のない長距離だ。直線にしておよそ五百キロはある。新宿から中央自動車道を利用して松本まで行き、そこから糸魚川《いといがわ》に沿って日本海に出て、今度は海岸線と並んでいる北陸自動車道を辿《たど》って金沢だ。どんなに飛ばしても七、八時間はかかる。一人旅なら躊躇《ちゆうちよ》なく飛行機にするのだが、五人で行くのなら、それも楽しい。 「それにしても達磨の兄妹もタフだな。昨夜一時過ぎまで店を開けていたんだろ。よく金沢まで行く気になったもんだ」 「誘ったのは田島じゃないか」  矢的は笑った。  今の金にして四千億を超すと想像される銭屋五兵衛の隠し財産の秘密を握る大野弁吉の調査に行こうと言い出したのは田島である。弁吉の住居は金沢にあった。全員が酒に酔っていて盛り上がっていたせいもあるが、話はとんとん拍子に纏《まと》まり、どうせなら車にしようと決まった。人数が多いので、金沢に行っても動くには二台のタクシーを使わなければならない。それなら最初から車のほうが楽だ。 「良美って、車の運転ができたっけ?」  田島は後ろの車を振り返った。 「雄ちゃん一人で金沢まではきついぜ」 「海に出たら交替すると言ってたよ。スピードを出し過ぎると雄ちゃんが心配してた」  昨夜打ち合わせに店を訪ねた矢的は言った。 「オレはあっちへ移ろうかね」  窓から手を振る良美に笑顔を見せながら田島は気を利かせた。 「彼女が来てからじゃ、妙に思われるだろ」 「いいよ。余計な心配だ」 「心配じゃない。親切だ」  田島は自分で頷くとドアを開けた。 「金沢まではだいぶ時間がある。今度こそ口説き落とすんだな。あの廊下とんび[#「廊下とんび」に傍点]は絶対に気があるよ。旅行の本当の目的はそれだぜ。銭屋の財宝なんて夢物語より、もっと現実的な宝探しに目を移すんだ。彼女はめっけもんだ。おまえさんとはいいコンビさ」  矢的の制止も無視してバッグを抱えた。その瞬間に駆け寄って来る佐和子が見えた。  かなり慌てている。 「大変なことが!」  息を荒くさせて佐和子は叫んだ。 「希里子さんが死んだわ」      4  話は昨夜に遡《さかのぼ》る。  ポルシェのハンドルを握った希里子は深夜の東北自動車道を仙台《せんだい》に向けてひた走っていた。スピードメーターは制限速度をはるかに超えている。普段の希里子なら安全運転を心掛けるのだが、今夜は違っていた。先行車のほとんど見当たらない深夜の広い道と、一刻も早く仙台に着きたいという思いが重なっていたのだ。希里子はますますアクセルを強く踏み込んだ。養父である加島への怒りもそれに含まれている。露麻夫が自分にとってどんな大事な存在であるか、知らないわけがないはずなのに、あばずれの美洋をあてがうような真似をして……これまでは我慢してきたが、今度ばかりは許せない。なぜ映画のスチール撮影が仙台で行なわれることを自分にだけ内緒にしていたのか。ましてや露麻夫と美洋がおなじホテルに二日も宿泊することを……それを想像して希里子の胸は激しく痛んだ。露麻夫が美洋に魅せられているのはとっくに承知だ。それを美洋も知っている。二人とも機会があればと狙っているのだ。希里子には養父の気持ちが分からなかった。それに気づかぬ養父とも思えない。もしかしたら養父は美洋と別れる口実に露麻夫を利用しようとしているのではないか? いや、あるいは映画が当たるように、主演の二人のスキャンダルをわざと演出しているのかもしれない。その両方だってありうる。たしかに養父は美洋に参っているようだが、金のためになら女の一人や二人、平気で犠牲にする人間だ。それは養女の自分とて例外ではない。別れるとなれば美洋が莫大《ばくだい》な慰謝料を請求してくるのは明らかだ。それを避けるためになら、娘の幸福などどうでもいいのだ。そうに決まっている。私に仙台行きを秘密にしていたのは、邪魔されるのを恐れたせいに違いない。 〈ふざけないで!〉  私は養父や養母の玩具《おもちや》じゃない。露麻夫をこの世で一番愛しているのだ。  希里子は時計を見た。  一時。  あと一時間で仙台に着く。ホテルの名は養母から聞き出した。真っ直ぐ露麻夫の部屋を訪ねて、もし美洋が居たら……殺してやる。ずうっと耐えてきたのだ。あのあばずれの癇《かん》に触る下品な笑いや、自信を持って突き出す軽薄な胸の大きさにだ。  希里子は暗闇の中にバッグを探した。  滅多に吸わないがタバコが入っている。今もチューインガムを探していたのに、堅いケントの函《はこ》が指先に触れて希里子はそちらのほうを手に取った。  慣れない手つきでタバコを取り、口にくわえた。シガレットライターを押す。  火をつけて深く喫い込むと、少しは気分が落ち着いた。これまで美味《おい》しいなどと一度も思ったことがない。だが、今は違った。  ふわっと眩暈《めまい》がした。 〈バカにしないでよ〉  不意に山口百恵《やまぐちももえ》の唄《うた》の一節が頭に浮かんだ。自分の車も真っ赤なポルシェ。希里子は苦笑した。ひょっとしたら、なんでもないことなのかもしれない。美洋は養父のベッドに居て、露麻夫はただ淋《さび》しく眠っているのかも……。  希里子は右手で灰皿を探った。  なかなか見つからない。  タバコの灰がスカートに落ちそうだ。  希里子は室内灯をつけた。  難なく発見して灰皿を引き出す。  途端に——  中から蛇が襲いかかってきた。  希里子は悲鳴を上げた。  思わず両手で顔を覆う。  肘《ひじ》がハンドルに触れて小さくブレた。  だが、百八十キロを超しているポルシェは急角度で左に折れ曲がった。  コンクリートのガードが希里子の前にいきなり迫って来た。  希里子の絶叫が続いた。      5 「希里子さんが死んだ!」  矢的は絶句した。  佐和子のただならない気配を察して、雄二や良美も車を降りて来た。 「どういうことなんだよ」  田島は溜《た》め息を吐いた。 「朝のニュースで見たの。東北自動車道で五台以上の玉突き事故があったそうなんです。その原因が希里子さんの運転していた車だったと……目撃者の話によると、突然ガードレールに激突したんですって」 「車に乗っていたのは希里子さんだけ?」  矢的は確認した。 「ええ」 「場所はどの辺りなんだ?」 「福島を少し過ぎた地点らしいですけど。加島大治や露麻夫さんが、仙台で映画のスチール撮影をしているとニュースでは言っていたから……そこに行く途中だったみたい」 「時間は?」 「一時。まだ六時間しか過ぎていないわ」  うーん、と矢的は腕を組んだ。 「どうする?」  田島が運転席を覗いて言った。 「金沢行きは中止だな」  だろうね、と田島も頷いた。 「仙台に行こう」  矢的の言葉に全員が目を丸くした。 「行ってどうする?」 「現場検証もあるだろうから、加島たちは明日まで東京には戻れないはずだ。だったら今夜は確実に仙台にいる。行けば会えるよ」 「そりゃあ、そうだけど……会ってどうなる。香典でも持って行くのかい」 「単なる事故じゃないかもしれない。それを早いうちに確かめておきたいんだ。仙台の事件なら、あとで調べるのが面倒だ」  矢的は真剣だった。 「どうする?」  田島は雄二や良美に質《ただ》した。 「もち、行くわよ」  良美はすぐに頷いて、 「浮田美洋や多野露麻夫が居るんでしょ」  目をきらきらさせた。 「呆《あき》れた女だね。そういう意味かい」  だが、田島もそれで覚悟を決めた。 「ただの事故じゃないなら可哀相」  佐和子は急に希里子に対する悲しみを覚えた。さっきまでは少しでも早く皆に知らせないと、という気持ちばかりが逸《はや》って、悲しむ余裕すらなかったのだ。 「矢的の推理に水を差すようだが」  田島はさっさとルノー5の後部座席に乗り込むと、佐和子に助手席を勧めながら、 「事故に決まってるさ。ブレーキに仕掛けでもしたっていうんなら、とても福島まで保《も》つわきゃない。時限爆弾なんかだったら、警察にもすぐに分かる。ニュースで必ず言うはずだぜ。それ以外の方法となりゃ、ちょいと思いつかん。まあ、無駄足だと覚悟するんだな」  言って、背後を振り向くと、雄二の車に先導しろと合図を送った。矢的の運転の腕は確かだが、道は雄二のほうが詳しい。雄二は頷いてアコードを発進させた。 「車種はなんだって?」  こちらの車も動き出すと田島は訊《たず》ねた。 「さあ……スポーツカーとしか」 「どうせフェラーリとかポルシェだろう」 「赤いポルシェがガレージにあった」  矢的は思い出した。先日加島の家を訪ねた際に見かけたのだ。使用人が清掃でもしていたらしく、車のドアが半開きになっていた。シートまでが赤いレザーだったので、女性が使っているのだなと思った記憶がある。 「彼女は何歳だっけ?」 「大学生なんだから二十歳前後かな」  佐和子の代わりに矢的が答えた。 「その歳でポルシェか。まったく地道に働くのが厭《いや》んなっちまう。こちとら百万の車を買うのにも悩んでるってのに。今日は指に赤いルビーをしてるからポルシェにするわ、なんて感覚じゃねえのか。あの連中と知り合えたおかげで、こっちの貧しさが引き立つ」  田島の冗談に二人は笑わなかった。 「長者に二代なし、と言うけど……これで加島大治にも財産を継ぐ子供がなくなった」 「もし、これが殺人だとしたら」  念のため田島は矢的に訊《き》いた。 「犯人はだれだと思う?」 「…………」 「まず露麻夫は外せるよな。彼女を殺したら、結婚して莫大な財産を相続する権利を失う。加島大治もありえない。いかに血の繋《つな》がりがない娘だと言っても、まさか殺しはしないだろう。残りは浮田美洋と百合亜ってことになるが……こいつもむずかしいんじゃないか。いくら浮田美洋が露麻夫を狙っているにしても、殺してまでとは思えない。美洋の美貌《びぼう》に嫉妬《しつと》して希里子が殺すというなら別だが」  佐和子も田島の推理に頷《うなず》いた。 「百合亜には動機がなさすぎる」 「われわれの知る限りではね」  矢的は釘《くぎ》を刺した。 「百合亜を疑っているのか?」 「今のところ、あらゆる人間に関してデータが足りない。ポルシェを希里子君しか使っていなかったとはっきりすれば、ある程度犯人像を絞り込むこともできる。しかし、キーを希里子君だけが持っていたとはまだ断言できないんだ。母親のめぐみさんだって運転できたかもしれないし、あるいは加島が使うケースもありうる。どういう仕掛けかは分からないが、前もってセットできたものなら、犯人の狙いがだれにあったかも不明になる。無差別殺人が目的ならば、希里子君に対してだけの動機のあるなしを考えても仕方がないさ」 「無差別殺人……まさか」  田島は笑って首を横に振った。 「最初のブランデー事件はそうだったよ。だれが飲んでも不思議じゃなかった。筆写人形に仕組まれた脅迫文だって、対象が不明だった。常識的に見て加島大治宛てだろうとわれわれが勝手に解釈したにすぎない。もしかしたら加島の家族全部を狙っていたとも考えられる」 「なるほど……たしかにそのとおりだ」 「特定の人物を狙おうとすれば、仕掛けは面倒になる。相手の行動を完全に把握しなければ不可能だ。でも、その家族のだれでもいいのなら話は簡単だ。毒入りの罐《かん》ジュースを冷蔵庫に置いてくればいい。この場合は車だから、もう少し手がこんでいるとは思うけど」 「だれでも構わんとなりゃ……狙いは財産てことでもなさそうだな」 「正直言って、ただの事故であってほしいと思うよ。こちらの心配どおりに殺人と決まれば、事件はこれだけで済まないはずだ。まだまだ殺されそうな人間が、二人も残っている」 「仙台に着くまでは余計なことを考えずにいようぜ。行けば分かる。ここであれこれと議論しても埒《らち》があかん。矢的の想像にも一理ありそうだが、やっぱり無差別殺人なんてのは、飛躍しすぎた推理だ。オレは事故に賭ける」 「私も」  佐和子は田島の意見に賛同した。      6  途中で昼食と電話連絡のためにドライブインに立ち寄ったが、その割に仙台には早く到着した。まだ昼の二時少し過ぎ。 「東急ホテルは街の真ん中だ」  ドライブインで買った仙台市街図を眺めて田島は道を指示した。高速道路を下りてからは、矢的の車が雄二たちを先導している。 「考えてみりゃオレたちも相当なもんだぜ。闇雲に仙台を目指して、肝腎《かんじん》の加島たちがどこに泊まっているかさえ気にしなかったんだから。途中で佐和子君が気づいて、東京の加島の家に連絡を取らなけりゃ、どうなっていたかね。ホテルを探し歩いていたに違いない」 「でもないさ。警察に行けばすぐに分かる」 「ああ……そうか。だったら、なんでさっき言わなかったんだ。意地悪な男だ」  田島は呆れた顔で言った。 「もし電話で分かるなら、そのほうが早い。おかげでお手伝いの人が、われわれの行くことを加島に連絡してくれることにもなった。佐和子君の対応には感謝している」 「そいつを先に言えばいいのに。どうもおまえさんは人の心が分からんらしい」  田島の言葉に佐和子は笑いながら、 「矢的さんは仙台ははじめて?」 「車ではね。新幹線に乗ってみたくて終着の盛岡《もりおか》まで旅行したことがある。その帰りに仙台にも立ち寄った。時間がなかったんで松島を見物に行った程度だ」 「外国人は京都に行っても、なかなか東北まで足を延ばさないからな。松島はどうだった? じつを言うとオレはまだ見てない」 「松島を見ずして……ああ、違った。あれは日光だ。結構と言うなかれ」  田島と佐和子は爆笑した。 「事故と決まったら、早々に退散して松島見物にでも行こうじゃないか。無関係のオレたちがいつまでも纏《まと》わりついてちゃ加島だって迷惑ってもんだ。死んだ希里子君には悪いが、陰気な場所にあんまり居たくない」 「でも……奇妙な因縁ですね」  佐和子はしみじみと口にした。 「たった半月前までは、だれとも知り合いじゃなかったのに」 「そいつが人生ってもんさ。つき合いの永さばかりがバロメーターじゃない。たった一日で結婚を決めちまう男女だっている。初対面の相手が目の前で死ぬ場合だってないとは言えないぜ。こういうのはなんて言うんだ? 遠くの親戚《しんせき》より近くの他人、だっけか」 「ことわざは正しいけど、用法がまるで違う」  矢的はクスクス笑って、 「それを言うなら合縁奇縁《あいえんきえん》、かな」  そうか、そうかと田島は頷いた。 「まったく矢的には恐れ入るね。言われりゃそのとおりだと思い出すんだが……合縁奇縁なんて、咄嗟《とつさ》に出てくる言葉じゃねえよ」 「合縁奇縁……」  まさに今の情況を言い当てた言葉だと佐和子は思った。宝探しに殺人。こんなことが普通のつき合いであるはずがない。 「だいぶマスコミも注目してるようだ」  東急ホテルに近づくと二台の中継車が目についた。カメラを担いだ人間も見える。ホテルの前には若い女性たちも集まっていた。多野露麻夫や浮田美洋がこのホテルに宿泊していると知って駆けつけたファンなのだろう。 「連絡を取っといてよかったな。この様子なら門前払いをくったかもしれねえ」  田島の言葉に二人は頷いた。 「駐車場は別のとこにあるみたいだ。二人はここで降りて先に行っててくれ」  矢的はホテルの側に車を停めた。 「どうせ加島たちはまだ警察から戻っていないと思う。そこの喫茶室で落ち合おう」  矢的は入り口の右手に見える喫茶室を二人に示した。ガラス張りのカフェテラスだ。  田島が頷いて後ろの車に合図すると、良美も分かったらしく車から降りた。 「良美のヤツ、ニコニコしてやがる」  田島は大袈裟《おおげさ》に肩をすくめた。  ホテル裏の駐車場は満杯だった。管理人から第二駐車場を教えられて、矢的と雄二が約束の喫茶室に辿《たど》り着いたのは十分過ぎだった。広い喫茶室の一番奥に佐和子たちが陣取っていた。しかも意外な人物たちと一緒に。 「わざわざ先生たちも」  矢的は神楽英良と妻の由乃に挨拶《あいさつ》した。息子の露麻夫に関わることなので、と神楽は言ったが、別に希里子の事故は露麻夫の責任でもない。二人とも昔|気質《かたぎ》の人間なのだ。 「彼女から部屋に電話が入って驚きました。まさかあなた方まで仙台に来られるとは」  神楽は親しげに矢的の手を握った。由乃の顔は心なしか青ざめている。事故の衝撃がまだ去っていないようだ。 「加島さんたちは病院ですって」  佐和子が矢的に説明した。解剖が執り行なわれるらしい。 「すると、露麻夫君や美洋さんも?」 「美洋さんは部屋で休んでいる。朝が早かったんで相当くたびれているみたいですな」  皮肉っぽい口調で神楽は言った。 「もっとも、病院にはめぐみさんもおるから、加島君が来るなとでも言ったんでしょう」 「解剖と言うと……なにか不審な点でも」  矢的は神楽の目を覗いた。 「私らには分かりません。ただ車の中から妙なものが見つかったとか」 「妙なもの?」 「びっくり函《ばこ》によくつかわれるバネ製の蛇の玩具《おもちや》です。灰皿が開けられていたと言うので、どうやらその中に仕組まれていたようだ。他愛のない玩具だが、それが事故の原因らしい」  矢的と佐和子は顔を見合わせた。 「警察では希里子ちゃんがどこかのドライブインで休憩している間に、悪戯《いたずら》されたのではないかと疑っているようだが……外国製のスポーツカーに乗っていると、そういう悪戯が頻繁にあるそうですな。嫉妬でしょうが」 「先生は……信じていらっしゃらない」  矢的は神楽の口調で見抜いた。 「露麻夫から耳にしました。加島君はまったく心当たりがないと証言したそうだが、蛇の首に例の脅迫文がまた結ばれていて——」  矢的は絶句した。 「警察が押収したので文章は知らない。娘が殺されたというのに、加島君はまだ自分の体面だけを考えている。戻って来たら問い詰めてやるつもりです。私には信じられんことだ」 「脅迫文か……」  田島は深い溜《た》め息を吐いた。 「いよいよ無差別殺人の線が濃厚だな」 「無差別殺人?」  神楽は不審《いぶかし》げな目で田島を見つめた。 「ポルシェが希里子さんの専用の車じゃなかったらの話ですけど」  事情を知らない神楽は戸惑った目をした。が、少し考えた後に、 「専用ではないでしょう。むしろあの車は加島君が休日などによく使っていた。希里子ちゃんはもっと小さな白い車に」  矢的たちは互いに頷《うなず》き合った。神楽までが知っていることを思えば、たいていの人間がそう考えていたはずだ。 「じゃあ、彼女は巻き込まれて……」  佐和子を嗚咽《おえつ》が襲った。 「どういうことなんです?」  神楽は矢的と向き合った。  矢的が自分の推測を伝えると、由乃はぼろぼろと涙を零《こぼ》した。 「あんまりですわ。隠したからには加島さんだってそれを薄々と感じているに違いありませんよ。いくら自分の本当の子供じゃないからと言って……育てれば一緒です。仇《あだ》を取ろうとするのが当たり前なのに、警察に知られるのを恐れているなんて。それじゃ希里子ちゃんが浮かばれないじゃありませんか。犯人もまさか希里子ちゃんを殺そうなどと……」 「でしょう。灰皿に仕組んだところを見れば、おそらく加島さんの命が目的だったと思われます。と言うより、ただの脅かしのつもりだったかもしれませんね。スピードの出せない都内で蛇の玩具が飛び出ても、さほどの事故にはならないはずです。加島さんは物怖《ものお》じするタイプとも思えないし。相手が不幸にも希里子さんで、しかも高速道路だったから大事故に繋《つな》がった。犯人のほうも逆に驚いているんじゃないですか」 「…………」 「ブランデーの毒にしても、露麻夫君が吐き出してすぐに治まった程度のものだった。致死量が入っていたとは思えない。犯人はただ加島さんを怯《おび》えさせる目的で犯行を繰り返していた可能性があります」  全員が頷いた。 「けれど、もう後戻りはできない。たとえ犯人にそのつもりはなくても、希里子さんが死んでしまった今となっては……自首するか、反対に坂を転げるか、二つにひとつの道しか残されていないんです。しかし、事故に遭って死んだのが加島さんというならともかく、肝腎の加島さんが無事とあっては……自首は期待できません。むしろ今度の失敗で躊躇《ためら》いない手段を選んでくることも充分に」  矢的の言葉に神楽と由乃は怯えた。 「狂を学ばば狂なり、ということわざをご存じですか。狂人とおなじ振舞いをすれば、たとえ正常でも狂人扱いをされて当たり前だ、という意味ですが……今度の事件の犯人はまさにそれです。どんなに自分には殺意がなかったと主張しても、脅迫文を書いたり、ブランデーに少量の毒を仕込んだ瞬間から、犯人は殺人者の道を歩いていたんですよ。今さらの言い訳は通用しない。犯人だってそれは承知のはずです。だから危険だ。今後は一直線に加島さんの命を狙って来るでしょうね」 「狂を学ばば狂なり……恐ろしい言葉」  由乃は小さく肩を震わせた。 「だが……狙う理由はなにかね?」  神楽は首を捻《ひね》った。 「まさか弁吉が関係しておるとも思えんが」 「今度の脅迫文になにが書かれてあったかが問題です。前と同様に無意味な脅迫文なら加島さんも警察に話したんじゃありませんか。いくら警察だって、事故に百年以上も前の人間が絡んでいるとは思わないはずです。加島さんが正直に伝えても笑われるだけだ。もっと具体的な文章だったので、加島さんは脅迫を否定した。ぼくはそう思いますが」 「いかにも」  神楽は大きく首を振った。 「けど、それを素直に教えてくれる加島さんでもなさそうだ。警察に行って確かめる他にないだろうね。押収した証拠品なら頼めば見せてくれるかもしれない」 「簡単には見せてくれねえぜ」  田島は否定した。 「自分が希里子君にあげた玩具じゃないか、と言って警察を訪ねれば見せてくれるさ。しかも相手が美しいお嬢さんならね」 「ってことは、あたしの出番かな」  良美が笑顔で名乗り出た。 「まあ、良美君でもいいか」 「そういう言い方はないでしょ」 「いや、良美君のほうがいいな。君と希里子君とは関係がないから、後の面倒がない」  矢的も思い直した。 「関係がなきゃ警察も信用しないだろうよ」  田島は矛盾を指摘した。 「こちらにしたら大事件だが、警察にすれば悪戯による事故程度の認識でしかない。あまり深く考えずに対処するはずだ。それで駄目なら別の方法を検討しよう」  矢的は良美を促して席を立った。 「加島さんたちが病院から戻って来る前に突き止めておきたい。どこの警察が事件を担当しているか知りませんか?」  神楽に質すと、曖昧《あいまい》な顔をした。 「いいです。こちらで調べますから」  矢的は頷くと佐和子と田島にこの喫茶室から動かないようにと指示を与えて立ち去った。 「私たちも一緒のほうがよかったんじゃ」  佐和子はそわそわして言った。 「大勢なら警察も変に思う。心配ないって」  田島は請け合った。 [#改ページ]   六 化け物に面      1  およそ一時間後に矢的と良美は戻った。喫茶室には退屈そうな顔をして佐和子や田島がいた。 「神楽夫妻は部屋で待機している。おまえさんが帰って来たら連絡をくれと」 「やったわよ」  良美が得意そうな顔で席に着いた。 「案外ちょろいもんだった。アブさんが希里子さんと知り合いだって最初に言ったら簡単に信じてくれて。あたしがアブさんを通じてあげたプレゼントの玩具《おもちや》じゃないかと説明したら一発よ。面倒なことも訊かれなかったわ」 「ま、矢的が希里子君と知り合いだってのは嘘じゃねえからな」 「一人で起こした事故だから警察も軽く扱っていた。殺人ならこうはいかないよ」  矢的はアイスティーを注文した。 「今はいいだろうが、その玩具が事故の原因と決まったら、また喚問されないとも……」  雄二が良美の身を案じて言った。 「あたしがプレゼントしたのは一カ月も前なの。しかもピエロが飛び出すびっくり函《ばこ》。逆に担当の人から、関係ないので安心しなさいって慰められて来ちゃった。美人は得だわ」  良美はペロッと赤い舌を出した。田島は苦笑した。それで雄二も安堵《あんど》する。 「で、脅迫文にはなんと?」  田島と佐和子が身を乗り出した。  矢的は手帳を取り出してそれを読み上げた。   ぐうじんかんをわすれるな 「なんだ、そりゃ?」  まったく意味が分からない。田島ばかりか佐和子も失望した。 「多少の事情を知っているわれわれでさえ、なんのことか見当もつかない。警察では脅迫文とも見做《みな》していないようだった。最初から蛇の玩具に結ばれていたものじゃないかと。だから加島も知らないフリで押し通したんだろう」 「弁吉となにか関係でもあるのかしら」  佐和子は首を捻《ひね》りながら言った。 「忘れるな、と言うからには、この前の�ゆるさないぞ�と、対をなしている感じだけど……ぐうじんかん[#「」に傍点]って、なんでしょう」 「あんぽんたんの親戚《しんせき》かなんかじゃねえの」  田島は投げ捨てるように口にした。 「もっと具体的な内容だったら——」  矢的は田島を無視して続けた。 「加島に突きつけてやろうと思っていたんだが、今の段階ではむずかしいな。適当にごまかされてしまうのがオチだ。ぐうじんかん、ってのがなにか見当がつくまで、われわれの隠し玉にしておいたほうが利口じゃないかい」 「加島にも意味が分からなかったんじゃ?」 「それはないさ。だったらこの前の脅迫文のことも警察に伝えたはずだ。意味が分かったからこそ、心当たりがないと否定した」 「神楽先生はどうかね。加島とはだいぶ古いつき合いだ。あるいはひょっとして」 「そいつも少し様子を見てからの話にしよう」  矢的は慎重になった。 「これまでは悪戯《いたずら》とすれすれの脅迫だったが、希里子さんが死んだ今となれば、こちらも迂闊《うかつ》な対応はできない。まさか神楽先生が犯人とも思えないけど、万が一ってこともある」 「神楽先生が?」  佐和子は信じられないという顔をした。 「だから万が一だよ。神楽先生ばかりじゃなく、他のだれにも気を許せない。毒を仕込んだり脅迫文を書く程度なら女子供にもできる」 「推理もへちまもあったもんじゃねえな。結局は全員を警戒しろってことか」  田島は苦笑して、 「だったら加島だけが安全な人間てわけだ」  その皮肉に矢的は大真面目な顔で頷《うなず》いた。 「露麻夫さんは毒を飲まされた当人よ」  佐和子は主張した。 「屁《へ》は言い出し、って言葉を知らないかい」 「…………?」 「屁は言い出し」  矢的は繰り返した。 「最初に臭いと言い出した人間が、たいていは屁の張本人ってことさ。含蓄のある言葉だ。これは日本人だけじゃなく、世界のどこの国の人間にも共通する」 「つまり露麻夫が屁の張本人だとでも?」 「可能性はある。本当に死んだのなら別だけど……今の段階ではまだ疑惑から外せない」 「そこまで考えはじめたらキリがないな」  田島の溜《た》め息が皆に伝染した。 「直観と推理は別物だよ。はじめはあらゆる可能性を考慮に入れて、次に呈示される条件をそれに重ね合わせる。そうして絞り込んでいくんだ。それを知らない素人探偵は動機をやたらに重要視するけど、人の心ほど厄介なものはない。こちらの先入観が邪魔をする。それよりは動機を無視して、単純に可能性だけを追究するのが大事なんだ」 「おまえさんの推理じゃ、まだだれも圏外に外されないってわけだ」 「毒はだれにも仕込めたはずだ。神楽先生だってあのブランデーが加島専用のものだと知っていたからね。筆写人形の脅迫文もそうだろ。あの日、関係者のすべてが加島の家にいて、だれにも機会があった。ポルシェに仕組まれた蛇の玩具については、まだ断定ができない。希里子君の前にだれかが使っていて、その時に灰皿に不審がなかったとしたら、いつ蛇が仕掛けられたものか一応の目安がつく。それまでは推理も無意味というものさ」 「なるほど。そいつは確かだ」 「悪いが、皆は仙台見物でもしていてくれないか。こんな時に初対面の雄二さんや良美君がいれば加島も警戒するだろう。ぼくと佐和子君だけのほうがやりやすい。夜には合流できるように手筈《てはず》をつけておく」 「それはいいけど今日の泊まりはどうする」 「情況を見てからでも間に合うよ」  矢的が言うと田島は頷いて立ち上がった。      2 「きっと加島さんだわ!」  佐和子が腰を浮かせた。喫茶室からロビーが見渡せる。フラッシュの輝きや質問する女性リポーターの甲高い声が、喫茶室にまで伝わって来た。事情を知らない客たちが怪訝《けげん》そうな目をしてロビーを眺めている。 「百合亜さんも一緒」  人垣の輪から少し遅れて歩いている百合亜の姿を佐和子は認めた。 「どうしてあんなに騒ぐ必要があるんだろ」  矢的は呆《あき》れた。わずかの間に人垣が何倍にもふくらんでいる。 「露麻夫さんや美洋さんはもちろんですけど、加島さんだって有名人ですもの」 「この分じゃ挨拶《あいさつ》も無理だな。神楽先生の部屋に連絡を取って、まず百合亜さんに会おう」 「そうですね。この様子では加島さんが会ってくれるかどうか。気が立っているみたい」  盛んに怒鳴り散らしている加島の声が聞こえた。その気持ちも充分に分かる。  佐和子が連絡を取ると、神楽は喫茶室に残っているのが矢的と二人だけだと知って、自分たちの部屋に招いてくれた。 「百合亜さんや露麻夫さんも来るそうです」  佐和子は矢的を促して喫茶室を出た。  部屋は五階。  エレベーターを降りると、遠くのドアから神楽が顔を出して二人を待っていた。 「露麻夫も後から来る」  廊下を確かめながら神楽は急《せ》かせた。美洋や露麻夫の部屋は六階にあるので、記者たちの注意はすべてそちらに集中している。 「お邪魔します」  広い部屋だった。ゆったりと置かれたツインのベッドの向こうに六人掛けのソファが据えられていて、小柄な由乃がきちんとした姿勢で腰を下ろしていた。 「百合亜さんもいらしていたんですね」  勧められた席に着くと矢的は言った。 「ウチではあれが一番しっかりしているので」  神楽は笑った。由乃は茶を淹《い》れはじめた。 「警察のほうはどうだったかね?」 「なかなか……まだ良美君が残っています」  矢的は嘘をついた。 「じゃあ、やはり私が問い詰める他にないか」 「すんなりと教えてくれるでしょうか」 「期待はできんね」 「本当に脅迫文だったら、この前のものと関連があるはずです。あの日、ぼくが弁吉のことについて先生に質問したのを覚えていますか」 「もちろん」 「加島さんはそれを極端に嫌がっていました。そのことに関してはいかがです?」 「さあ……」 「そればかりじゃないんです。新宿の寺で弁吉の設計した自動噴水を見て来たと話した時にも、加島さんの顔色が変わりました。加島さんはなにか弁吉と関わりがあるのでは?」 「なにかと言うと?」 「銭屋五兵衛の遺産です」  それを言うと神楽は唖然《あぜん》とした。 「銭屋五兵衛の隠し財産を管理していたのは弁吉じゃなかったのですか」 「私にはなんのことか分からんね」  神楽は額の汗を拭《ぬぐ》った。 「加島さんは昔からの資産家ですか?」 「…………」 「ずいぶん古くからのおつき合いなんでしょう。だったらご存じのはずでは?」 「彼が銭五の財宝を発見したとでも?」 「佐和子君が調べました。今の会社を設立するまで、加島さんの経歴はほとんど分からない。意図的に加島さんが隠している。そこに今度の事件の謎があるように思えます」 「だからと言って……銭五と繋《つな》がりがあるなどと……まったく考えたこともないね」 「じゃあ、どのように?」 「彼は大学を卒業してすぐにヨーロッパに渡った人間だと聞いておる。十年以上を向こうで過ごし、日本に戻って来たのは今から三十年も前のことだ。私が知り合ったのは彼が帰国してからの話で、それ以前のことはなにも知らん。財産もヨーロッパ時代に築いたものと信じておったがな。だいいち……銭五の遺産と彼とになんの関係がある? たしか横浜の生まれで、金沢とも無縁のはずだが」 「加島さんとはどこで知り合いに?」 「彼よりも、めぐみさんとのつき合いさ」  へえ、と矢的は意外そうな顔で頷いた。神楽はたしか六十二歳。めぐみは四十代半ば。年齢から見て、てっきり神楽と加島が友人関係にあるとばかり思っていた。 「いや……それも正確じゃないな。もっと丁寧に言うなら、めぐみさんの最初の亭主と私が大学時代の仲間でね」 「…………」 「優秀な研究者だったが、三十前後で亡くなってしまった。その未亡人であるめぐみさんと加島君が一緒になったので、新たなつき合いがはじまったというわけだ」 「すると……亡くなったご主人の遺産をめぐみさんが受け継いだということは?」 「秋武《あきたけ》君は天涯孤独の身だった。相当な資産はあったようだが……それにしても遊んで暮らせるほどのものではなかったはずだ。代々受け継いだ豪邸がある程度のものでね。それも都会ならまだしも、この宮城県の片田舎にある家だ。売っても大した金にはならん。めぐみさんが相続したってタカがしれている」 「宮城県にめぐみさんの前のご主人の家が……」 「どこだったかは忘れたが、仙台から車で何時間も山に入る辺鄙《へんぴ》な場所だったよ。私と家内とで招待されて一度訪ねたことがある。その時はまだめぐみさんと一緒になる前だった」  矢的は唸《うな》った。これだから推理など意味がない。といって、この話が果たして事件の解明に繋がるかは、まるで分からないのだが。 「亡くなられたご主人は、病気かなにかで?」  佐和子が脇から訊《たず》ねると神楽は口ごもった。 「すみません。余計なことを」  佐和子は謝った。 「事故なんですの」  由乃が諦めた顔で言った。 「お客さんたちに手品を見せていた時に事故があったとか……私たちはその場におりませんでしたので詳しい事情は……」 「加島君かめぐみさんに訊けばいい」  神楽は憮然《ぶぜん》とした表情で付け足した。 「加島さんもいたわけですか」  矢的の目が光った。 「そんな場所なので、めぐみさんも忘れたいようだ。その後、偶人館《ぐうじんかん》に行ったという話は耳にしていないな」 「偶人館!」  思わず矢的と佐和子が声を荒らげた。 「どうしたね?」  神楽はギョッとした。 「その家は偶人館と言うのですね」 「ああ……それがなにか?」 「嘘をついて申し訳ありません」  矢的は神楽に深々と頭を下げた。 「意味が分かるまではと内緒にしていました」 「なんのことだろう?」 「蛇の玩具《おもちや》に結び付けられた脅迫文です」 「すると……偶人館のことでも!」 「偶人館を忘れるな……と」  さすがに神楽と由乃は恐れた。  そこにノックの音がした。  百合亜と露麻夫だった。 「今の件はまだ二人に伏せておこう」  神楽は小声で自分から言い出した。 「偶人館など、若い二人には関係のないことだ。つまらぬ心配を増やすだけだからね」  矢的は了承した。  まさか部屋の中に矢的たちがいるなどとは想像もしていなかったようで、露麻夫と百合亜は目をしばたたかせた。 「来るってのは聞いていたけど」  露麻夫は嬉《うれ》しそうに矢的の手を握って、 「なんだか感激だな。地獄に仏って気分だ」 「病院のほうはもう?」  目の前に腰掛けた百合亜に佐和子は訊いた。 「今夜は病院で仮通夜をする予定に。それでいったんホテルに戻れたんです」 「あんまりあっけなくて……まだ実感が湧かないんだ。今朝から永い夢を見てるような気がする。希里ちゃんが死ぬとはな。人間なんて簡単に消えちまうもんだぜ」  露麻夫は珍しく殊勝な言い方をした。 「加島さんも辛《つら》かっただろうな」  矢的は確かめた。 「どうだか。表面はそうだけど、本心は分かりゃしない。事故の現場に行く途中だって、親に恥を掻《か》かせた、の一点張りだった。もともと仲のいい親子じゃなかったし……これを機会に映画を下りようと思ってる」  由乃が隣りで頷《うなず》いた。 「潰《つぶ》された車が大事にしてたフェラーリでなくて助かったぐらいは思っているんじゃないの? 市場価格が一億近いヤツを持ってる。それに較べたらポルシェの新車なんか目じゃない。そういう人さ。病院でも涙一つ零《こぼ》さなかったよ。このオレでさえ包帯でグルグル巻きにされた希里ちゃんを見たら泣けて来たってのに……男の強さなんかとは違う。辛そうなのは言葉だけで、本当はせいせいしてるのかもしれないぜ。希里ちゃんはめぐみおばさんの遠縁の娘で、血の繋がりもないし」 「もうよしましょうよ」  百合亜が遮った。 「皆が辛くなるだけだわ」 「養女の縁を解消されるって話まであったんだぞ。希里ちゃんから聞いたよ」 「まさか。冗談でしょ」 「めぐみおばさんが弁護士と相談してるのを小耳に挟んだと言って泣いていた。なにかの間違いだろうと慰めたけど……」 「おじさんじゃなく、めぐみおばさんが?」 「間違いじゃなかったかもしれないな。警察や病院にも行かず、ホテルの部屋で寝込んでいる母親だもの。あれだって異常だぜ」 「じゃあ、まだ対面を済ませずに?」  佐和子は耳を疑った。 「ショックで倒れたと聞かされたけど」  露麻夫は信じていなかった。  矢的はその話を中断させてポルシェのことを訊ねた。  希里子の前に車を使ったのがだれか、確かめておきたかったのだ。 「ずうっとガレージにしまってあったそうです。と言っても、ここ十日ぐらいの間」 「十日……じゃあわれわれがお邪魔した前後だね」 「そうそう。あの前の日辺りにおじさんが遠出して……それが最後じゃないかな。たしか庭に出して車を洗っていた」 〈それ以降、だれも使っていなかったとなれば……蛇の仕掛けはあの日にもできたわけだ〉  やはり矢的の想像は当たっていた。  もちろん、その後にガレージに忍び込み、ロックされたポルシェのドアを開けて、灰皿に蛇を仕込むことも可能だが、そこまで本気なら、もっと確実な仕掛けを選ぶような気がする。犯人はどこかに蛇の玩具を隠し持っていて、それとなく場所を物色していただけなのだ。そこに、たまたま加島が乗っていたポルシェのドアが半開きの状態で置かれていた。洗っているからには、またすぐに乗るつもりだろうと普通は考える。脅かすには絶好の場所に違いない。家の中なら加島が確実に発見するとは限らない。ましてや、すでに筆写人形に別の脅迫文をセットしていた犯人としては、ポルシェこそ理想の場所だと思ったはずだ。 〈犯人はこの中にいるのか?〉  矢的は順に見渡した。  露麻夫、百合亜、神楽、由乃……そして今は上の部屋で休んでいる美洋。  この五人があの日、加島の家に遊びに来ていたすべてだ。 〈いや……妻のめぐみだって〉  疑いから外すわけにはいかない。仕掛けはいつでもやれる立場にいるが、人の大勢いるところで行なうほうが身の安全と言うものだ。 「どうしたんですの。怖い顔をして」  百合亜は真っ直ぐに矢的を見据えた。 「希里子さんの通夜に同席しては迷惑かな」  胸の裡《うち》を見透かされないように、矢的は話を逸《そ》らした。  百合亜は冷たい視線のまま頷いた。      3 「加島大治に会わないんですか?」  五階のエレベーターに乗り込むと、加島たちの部屋のある六階ではなく、下りのボタンを押した矢的に佐和子は小首を傾げながら、 「今なら気持ちも落ち着いているはずだと露麻夫さんが言っていたのに」 「会ってどうする?」 「だって……そのために仙台までやって来たんでしょう?」 「加島とは病院の仮通夜に行けば確実に会える。無理して部屋を訪ねる必要はない。こんな情況で希里子君の車から発見された脅迫文のことを問い質《ただ》したって、なんにも答えてくれるわけがないよ。時間の無駄というものだ。それよりは自分たちで情報を集めたほうが」  矢的は時計を眺めた。まだ四時。 「情報を集めるって……どうやって?」 「脅迫文にあった偶人館は、めぐみさんの前のご主人の家だ。しかもそのご主人は事故で死んでいる。さっきの神楽先生の言い方だと、事故があったのは偶人館に違いない。君は加島とめぐみさんが結婚したのは、今から二十五、六年前だと言っていたよね?」 「ええ」 「事故死なら必ずこの地方の新聞に記事が掲載されている。大きな図書館に行って、二十五、六年前の新聞を捜せばきっと見つかるはずだ。そうすれば偶人館がどこにあるかも簡単に突き止められるさ」 「そう簡単に見つけられるものかしら」 「事故の記事なら掲載面が限られている。君と手分けして当たれば大して時間も取られない。二、三年分ならせいぜい一時間もあれば」 「でも、今日は日曜です。図書館ってたいてい日曜が休館日じゃなかったかなぁ」  佐和子の言葉に矢的は舌打ちした。 「電話で問い合わせてからのほうが……」 「だったら新聞社だ。自分のとこで出している新聞だもの、きっと保存してある」 「保存はしてあるでしょうけど……図書館と違って自由に見せてはくれません」 「そうなのかい?」  矢的は失望の色を浮かべた。 「なにかコネでもあればいいんだけど」 「たとえば?」  矢的は訊《たず》ねた。 「新聞社の人と知り合いだとか」 「東京ならともかく、ここは仙台だぜ」  矢的は苦笑した。 「じゃあ美術関係で知っている人は?」 「それなら一人いる。たしか大きなデパートの美術部担当者が、東京の本店から仙台に転勤しているはずだ。本店に勤務していた頃は何度かぼくのアパートにも遊びに来た」 「デパートの人なら絶対だわ。たぶん新聞社の文化部あたりにコネがあると思います。その人を通じて閲覧を申し込めば大丈夫」 「彼がいればの話だろ」 「日曜に休むデパートはありません」  佐和子はクスクス笑った。  ロビーで連絡を取ると、その相手はすぐに電話口に出て来た。 「へえ、仙台にいらしてるんですか」  相手は矢的と分かると喜んだ。 「なにかお仕事でも?」  矢的は挨拶《あいさつ》もそこそこに用件を伝えた。二十五、六年前の新聞を読みたいと聞かされて戸惑《とまど》っていた相手も、やがて筋道を了解した。 「もちろん何人か知り合いはいますよ。展覧会のたびに世話になっています」 「紹介してもらえないかな」 「今、東急ホテルですね。それなら新聞社の玄関で待っていてください。そんなに遠くないですから、二、三十分で私も行きます」 「それじゃ申し訳ない。連絡だけしてもらえれば充分だ。あとはこっちでなんとかする」 「構いません。せっかく矢的さんが仙台に来てるってのに。今夜は泊まる予定でしょ?」  矢的の都合も確かめずに相手は、またのちほどと言って慌ただしく電話を切った。 「仙台の夜を案内してくれるってさ。こっちは通夜に行かなくちゃいけないのに」  矢的は肩をすくめた。 「でも、近親者ばかりの通夜に私たちが何時間もいたら、かえって迷惑じゃ?」 「それは分かっている。だけど、こういう日って、日本ではお酒を飲めないんだろ?」 「お肉がいけないんです。お酒とは無関係。慎みさえ保っていればね。それに、精進料理にしても家族や親戚《しんせき》の話で、身内以外は席を外れたらなにを食べても……」 「その場だけの形式ってことか」 「…………」 「日本の風習はどんどん形骸《けいがい》化していくばかりだな。洋風おせち、ってのを最初に知った時は呆《あき》れて物が言えなかった。正月の三日間ぐらいは日本料理で我慢すればいいのに。どうしてそれができないんだい? お盆に迎え火をする家も東京じゃ滅多に見掛けない」 「東京が本当の故郷じゃないもの」 「ぼくにはお盆も正月も、ただの休日にしか思えないよ。海に行くとか、温泉で家族が骨休めするとか、まわりじゃ何日も前からそんな話ばかりをしている。ゴールデンウィークとおなじ感覚でとらえているんじゃないの」 「その代わり、普段は勤勉です」 「休日が多いなんて言ってるわけじゃない。お盆や正月の意味を考えてほしいと思っているわけだよ。日本に憧《あこが》れて来たぼくとしては」  矢的は笑顔を見せると先に歩いた。  日曜とあって新聞社も閑散としていた。広いロビーに人は見当たらない。 「彼を頼りにして正解だったね」  胡散臭《うさんくさ》そうに見つめる守衛に軽く頭を下げて、二人はまた玄関前に戻った。  五分も待たないうちに相手がやって来た。車の窓を開けて矢的に陽気な顔を見せる。 「いきなり新聞記事捜しだなんて、どういう風の吹き回しですかね?」  佐和子と矢的の顔を交互に眺めながら、男はタクシーから降りて来た。がっしりと矢的の手を握る。なかなかの二枚目だと佐和子は思った。二十代後半といったところだろう。テニスでもするのか腕が浅黒く陽焼けしている。美術担当と聞いたが、珍しいタイプだ。佐和子の見知っている画廊勤めの男たちは、青白い顔をしているのがほとんどなのに。 「長谷川《はせがわ》です。よろしく」  男は佐和子の手も握った。 「矢的さんには東京時代にお世話になって」 「池上です。仕事中なのにすみません」 「達磨《だるま》の雄二さんや良美ちゃんも一緒だ」 「そりゃ懐かしい。二人とも元気ですか」 「長谷川さんも達磨には?」 「しょっちゅう……でもないかな。けど、行くたびに大騒ぎしてたんで。まだボトルがあるはずなんだけど。三年はそのまま預かってくれると良美ちゃんが約束してくれた」 「忘れてるよ。仙台に君がいるってことさえ頭にないみたいだった」 「去る者は日々にうとし、って典型だな」  長谷川の言葉に佐和子は失笑した。矢的の影響でか、やたらとことわざを口にする人間が多い。 「それより、今夜はヒマなんでしょ? 東京に負けない店に案内します。矢的さんのことを部長に話したら、ぜひ招待したいと」 「今夜はお通夜に行く予定なんだ」 「お通夜? 仙台にそんな知り合いが」 「まあね。遅い時間なら会えると思うけど」 「何時頃です」 「九時あたりかな。それまでは市立病院に」 「市立病院で通夜ですか」  長谷川は不審な表情を浮かべた。 「もっとも、通夜に出るのはぼくと佐和子君の二人だけで、達磨の兄妹はホテルにいることになるだろう。もし都合がよければ彼らを誘ってどこかで飲んでいてくれ。場所を教えてもらえば後で合流する。実を言うと今夜の宿も決めていない」 「日曜なので宿はあると思いますがね」  長谷川は頷《うなず》きながら社屋に入った。守衛に何人かの名前を告げる。幸い一人は在社していた。すぐにロビーに下りて来ると言う。  長谷川が大袈裟《おおげさ》に紹介するまでもなく、文化部の記者は矢的の名前を知っていた。古い新聞を閲覧させてほしいという申し入れにしても、あっけないほど簡単に許された。根掘り葉掘り理由を訊《き》かれるのではないか、と覚悟していた矢的は逆に拍子抜けした。長谷川は仕事が残っていると言って、夜の約束を交《か》わすとデパートに戻った。二人は記者に案内された薄暗い資料室で、マイクロフィルムの検索に取り掛かった。地方紙なので縮刷版はない。 「こりゃあ大変だな」  隣り合う形で画面を睨《にら》んでいた矢的は三十分もするとうんざりしてきた。現物なら社会面に見当をつけて何枚かを飛ばして読めるのだが、フィルムは順序に見るしかない。うっかりとスピードを速めれば、目当ての社会面をあっという間に行き過ぎる。事件の日時がはっきりしているのならともかく、今回のように二、三年分の記事を調査するとなれば面倒だ。次々に切り替わる画面も目に疲れる。 「神楽先生にもう少し詳しい日時を聞いてくるべきだったね。せめて夏とか冬ぐらいはさ。これじゃあ今夜中に終わらないかもしれない」 「まだ弱音を吐くには早いんじゃ? 私はもう四カ月分を調べました。二人で二年分ならあと一時間もあれば大丈夫」 「本当に二年ですむならな」 「矢的さんが言い出したことなのに」  佐和子に言われて矢的は画面に目を戻した。自分が調べているのは二十六年前の分だ。日本語には馴《な》れているつもりでも、やはり佐和子に較べるとペースは遅い。まだ三月のはじめ。この調子では一年に二時間はかかる。  矢的がようやく九月に差しかかった時、佐和子は一年を調査し終えた。疲労の色も見せずに矢的の画面を覗き込む。 「残念ながら外れ。手伝いましょうか。それとももう少し遡《さかのぼ》って調べてみます?」 「そうだな。念のために二十七年前のヤツを調査してくれ。そっちは夏あたりからでいい。あんまり昔だと、めぐみさんの年齢と合わなくなる。彼女はたしか四十四、五歳だろ。二十七年前と言えば……十七、八の娘だ。偶人館の主人と結婚していたって言うんだから、どんなに遡ってもそのあたりが限度だろう」 「そうよね。分かりました」 「待ってくれ、見つけた!」  頷いてフィルムの保管棚を捜す佐和子に、矢的の興奮した声がかかった。 「事故って聞いたが……見出しは殺人事件となっているよ」  慌てて佐和子も画面に見入った。      4  大きな収穫を携えて二人がホテルに戻ると、喫茶室から田島が飛び出て来た。 「どこに行ってやがったんだ。心配したぞ」  田島はそれでも安堵《あんど》の目をして言った。 「偶人館の謎を突き止めに、新聞社までね」 「偶人館の意味が分かったって!」  田島はあんぐりと口を開けた。 「今夜はこのホテルに宿を取ろう。明日は偶人館を捜しに出発だ」  ますます田島は困惑しながらも、 「宿はいいけど……通夜は無理だぜ」 「なんで?」 「さっき神楽先生が伝言して行ったよ。加島の機嫌が悪いそうだ。通夜への出席は遠慮してくれとさ。こっちはそんな話も初耳なんで、そうですかと返事をしといたがね。おまえさん、ひょっとして加島とやり合ったんじゃ」 「まだ加島とは会ってもいない」 「へえ……そいつもドジな話だ」 「それで加島たちはもう病院に?」 「ああ。ついさっきな。浮田美洋や百合亜も一緒だった。来ているとは思わなかった」 「神楽先生はずうっと通夜にいるのかな」 「いや、二、三時間で戻るって話してたぜ。おそらく居残るのは露麻夫ぐらいのもんだろ」 「それなら伝言を頼んでおけば、今夜中に神楽先生には会えるな」 「そんなに重要な用件なのか?」  田島は矢的と佐和子を見据えた。 「少しでも事情を聞けそうなのは神楽先生しかいない。それに神楽先生は偶人館を訪ねたこともある人だ。どうしても今夜中に」 「たった数時間のうちになにを調べた?」  田島は呆れた顔で矢的に質《ただ》した。 「通夜に行かないのなら時間はたっぷりとある。チェックインを済ませたらゆっくり酒でも飲みながら説明してやるよ」  そこに雄二と良美もやって来た。 「長谷川君が良美ちゃんを懐かしがっていたぞ。今夜どこかに案内してくれるそうだ」 「長谷川さんて……あの長谷川さん? そうか、そういや仙台って聞いてたわ。会ったの?」 「皆がこのホテルにいると教えておいた。仕事を終えたら来るって言ってたんだが」 「日本てのも狭いもんね。まさかここでバルタン星人に会うとは思わなかった」  佐和子は吹き出した。言われてみると、痩《や》せて浅黒い長谷川はバルタン星人に似ている。きょろきょろとした目玉もそっくりだ。 「噂をすればなんとやら」  雄二はホテル前に停止したタクシーの中に、長谷川の姿を目敏《めざと》く見つけた。 「噂をすればなんとやら、とはよく言うが、ありゃあ本当はなんてことわざだい?」  思い出したように田島は口にした。 「それとも、そういうことわざなのか?」  田島の言葉に皆が首を捻《ひね》った。 「噂をすれば影が差す」  結局、また矢的に教えられた。 「あれ、矢的さん、通夜にはまだ?」  長谷川は矢的を認めて声を上げた。 「行かないことにした」 「なんだ。それなら部長を誘うんだった。矢的さんが遅いと言うので今夜は遠慮を」 「そのほうが気楽だよ」  長谷川が案内してくれた店はなかなかのものだった。定禅寺《じようぜんじ》通りにできた新しいビルの地下一階を占めている大きな懐石《かいせき》料理店である。豪華な桃山《ももやま》造りの天井に、現代的なテーブルが奇妙にマッチしている。メニューを見ると若者たちが好みそうな品目が並んでいた。しかも手頃な値段だ。東京でこれだけの店を続けて行くには、三倍以上の値段にしなければとても無理というものだ。 「ウチも考えなくちゃいけないわね」  インテリアを眺めて良美は溜《た》め息を吐いた。 「たった四、五坪の店を桃山式の天井にしたって薄気味悪いだけだぜ。達磨はあれで充分。ものには分相応ってやつがある。壁の染み隠しに貼ってある祭りのポスターだって、古くなりゃそれなりに味わい深いもんだ」  田島は言いながらアハハと笑った。 「あの高幡不動尊のポスターがまだ?」  長谷川もよく覚えていた。 「なにしろ夏ともなりゃ、ステテコ姿の客がたむろする店だからね。店を立派にすりゃたちまち客足が遠のいて潰《つぶ》れちまう」 「いないわよ、そんなお客」 「ま、そういうイメージだよ、達磨は」 「それより、新聞社でなにを?」  それぞれが注文を終えると雄二が訊いた。 「そうそう、そっちが肝腎《かんじん》だぜ」  田島も身を乗り出した。  矢的は神楽から偶人館の名前を聞き出したことを最初に伝えると、新聞社での調査を詳しく説明した。 「すると……�偶人館を忘れるな�ってのは、二十六年前の事件を指してたのかい?」  田島が口を挟んだ。 「ますます金田一耕助じゃねえかよ」  田島はわざと頭を掻《か》きむしった。 「からくり人形だなんて耳にした時から、そんな予感がしてたんだ。ましてや露麻夫と百合亜の双子が登場するとなりゃな。おまけに今度は二十六年前の殺人事件ときたか」 「新聞の見出しは殺人事件となっていたが」  矢的は田島を無視して続けた。 「それは結局事故としてケリがついた。死んだ当人が空中遊泳なんて大手品の最中だったせいで情況が曖昧《あいまい》になったみたいだね」 「空中遊泳!」  田島たちは唖然《あぜん》として矢的を見つめた。 「目撃者が大勢いる。トリックは分からないけれど、間違いなくめぐみさんのご主人は宙に浮かんでいたそうだ。時計塔から夜空に足を踏み出して機嫌よく挨拶《あいさつ》した。その直後に墜落して真下の池に落ちたのさ」 「なんで手品なんかを?」 「東京や大阪から客を招いて、パーティを開いていたようだ。余興のつもりだったらしい」  矢的はバッグからコピーを何枚か取り出した。田島は手を伸ばして眺めた。雄二や長谷川も覗く。 「こいつは普通の記事じゃねえな」  大きな囲み記事で『そして謎が残った』という総合タイトルが冠せられている。その脇に『偶人館の空中遊泳』の小見出しがあって、第一回と書かれた下には連載三十八の文字が見えた。そのうえ、冒頭には偶人館の事件を三年前のことだと説明してあった。 「運がよかったんだ」  矢的はその連載記事に至った経緯《いきさつ》を話した。資料室で二人が見つけたのは、事件の概要を短く報じた記事にすぎなかった。それでも、殺人の疑いから事故にと警察の見解が揺れ動いたせいもあって、記事は何日間かにわたって掲載されていた。九月の中旬から十月の末までの間に、大小取り混ぜて九枚の記事を確認した矢的は、それをコピーすると文化部の記者に礼かたがた調査が終了したことを伝えた。ロビーまで見送りに来た記者は、二十五、六年前のどんな事件を調べていたのか二人に訊《たず》ねた。矢的がコピーを見せたら、この事件ならもっと詳しい文章を読んだ記憶があると言い出したのだ。しかも、文化部の資料棚に揃えてある切り抜きで。いったんフロアに戻った記者は、やがて分厚いファイルを抱えて二人の前に現われた。宮城県下に起きた迷宮入りの事件や幽霊騒ぎなどの不思議な出来事を集めたもので、その中にこの連載記事が含まれていたのである。 「その記者ってのは年寄りかい? よくこんな古い連載記事を覚えていたもんだ」 「だから運がよかったのさ。この連載は終了するとすぐ本に纏《まと》められたんだ。当時は結構評判になったらしい。五、六千部を売ってそのまま絶版になっていたんだが、二、三年前に再刊を希望する声がいくつかあって、文化部が検討を任せられた。結局はそれぞれの事件が古すぎるとの判断から再刊は見送りとなったが、その時に資料としてファイルされたものが棚に残っていたというわけだ」 「なるほど、そういう事情か。探偵にゃ運も必要だぜ。これが平日だったら図書館で短い記事を発見した程度だったかもな」  田島はしきりに頷きながら、 「で、事件の全貌《ぜんぼう》はどうなんだ?」 「亡くなった男の名前は中村《なかむら》秋武。二十六年前にちょうど三十歳だから、生きていれば五十六か。夫人だっためぐみさんとは一回りくらい違う。事件が起きたのは二人が結婚してわずか半年が過ぎたあたりだった」 「って言うと、神楽先生や加島よりもちょっと若い。たしか加島は今年で六十だろ。神楽先生はもう少し上の感じだ」 「六十二歳と聞いています」  佐和子が答えた。 「亡くなった男と神楽先生とは大学時代の仲間と言ったな。六つも歳が違ってかい」 「大学時代と言っても、きっと先輩後輩って関係じゃないか。神楽先生はずうっと研究室に残っていた。まず間違いない」 「すると中村秋武も大学で人間工学を?」 「その当時、そういう教室があったかどうかは分からないが、いずれ似たような研究さ」 「科学畑の人間が手品の余興かね」 「神楽先生の専門はからくりだよ。中村秋武がそれに関心を持っていても不思議はない」 「この記事には無職と書いてあるけど?」 「だったらしい。それは神楽先生からも耳にした。記事を書いた記者にも、中村秋武がなんで生計を立てていたか分からないみたいだ」 「大地主の息子かなんかじゃ?」 「でもないようだ。それも謎の一つだな」 「金がなきゃ結婚もできんだろう」 「それに大々的なパーティもね。株かなにかで儲けていたんじゃないか、と記者は推測しているが……それもただの推測だ」 「パーティに集まった客ってのは?」 「十五、六人だったと書いてあるけど……どんな連中かははっきりしない。この記者が記事を書くために訪ねた相手はたった二人。偶然なのかもしれないが、そのどちらも東京の玩具《おもちや》メーカーの社長だ。今も会社が存続しているかは分からない。たとえ二人が健在でも、記事にはA氏とかB氏と名前を伏せているから、突き止めるのは厄介だ」 「山奥で玩具メーカーの社長を集めたパーティか。まったく見当もつかねえな」  田島は小さく首を振った。 「この記事が書かれた時点で、加島はまだ不動産会社の経営に乗り出していない。世間的には無名の存在だ。記者にも加島がどこに暮らしているのか分からなかったようだ。それでめぐみさんが再婚したことも知らない」 「これが偶人館かい?」  コピーを捲《めく》っていた田島は写真を見つけた。写真が小さいのとコピーのせいで輪郭程度しか見分けがつかないが、広大さと禍々《まがまが》しさだけは充分に伝わってくる。写真の下には東和《とうわ》町という地名も記されていた。 「たいそう時代がかった屋敷じゃねえか」 「時計塔が人形のように見えるだろ」 「いかにも……そういや不気味な雰囲気だ」 「偶人とは人形を意味する言葉だってさ。それで古くから偶人館と呼ばれてきた」 「人形! また人形か」  田島は写真から視線を上げて、 「さっき偶人館を捜しに行こうと言ってたが、今もこんな屋敷が残っているのかね?」 「それが知りたいから行ってみたいんだ」 「東和町ってのはどのあたりかな」  田島はだれにともなく言った。 「東和町……そりゃあ仙台からだいぶ遠い」  長谷川が応じた。 「たしか登米《とよま》町の先にある町だ」 「登米町っていうと?」 「北上《きたがみ》川沿いにある古くからの城下町。今は陸の孤島化して寂れていますが、昔は北上川の水運が盛んで、商業の中心でもあったらしいです。武家屋敷とか明治時代の建物がたくさん保存されていて、最近じゃ観光客もふえている。結構有名ですよ」 「北上川の水運で栄えていた町だって!」  矢的の目が光った。 「それがどうした?」  田島は矢的の目を覗いた。 「銭屋五兵衛の船も往き来していたかもしれないな。銭五は岩手の盛岡に城を構える南部《なんぶ》藩とも頻繁に取り引きしていた。資料を読んでいたら、当時の荷物輸送は、ほとんど北上川の水運に頼っていたとあったよ。相当大きな船でもかなり内陸まで川を遡《さかのぼ》れたらしい」 「でしょう。岩手県の北上市あたりには江戸時代に利用された大きな桟橋もあるとか」  長谷川は頷《うなず》いた。 「だから……なにが言いたいんだ?」  田島は苛立《いらだ》った。 「銭屋五兵衛の隠し財産の行方だよ」 「…………」 「銭五の支店が主に東北地方に集中していたのは資料を読んでも明らかだ。特に津軽《つがる》藩と南部藩とは密接な関係にあった。それはもちろん、銭五の店を取り潰《つぶ》して財産を押収しようとした加賀藩にも周知のことだ。その場合、財産の管理を任せられていた弁吉としてはどうするか……完全に銭五の財産が加賀藩に没収と決まれば、支店に藩の手が伸びるのも確実だ。その前にどこかに財産を隠してしまわなければならない。と言って加賀に持ち込んだり、津軽や南部の領内では不安が残る。船に積んでどこかに運んだと思わせるのが一番の策だ。陸路では必ず痕跡《こんせき》を辿《たど》られてしまう。そこまでは前から想像していた」 「その行き先が登米町じゃないかと?」 「津軽はともかく、南部藩の分は北上川の途中の港に下ろした可能性が強い。はっきりした目的地もないまま、莫大《ばくだい》な財宝を積んで太平洋に出たとはちょっと考えにくい。南部藩の領内から抜け出た場所で、しかもそこに銭五の息のかかった港でもあったら、海に出る危険よりもそっちのほうを選ぶとは思わないか」 「ま……仮説としてならありうるさ」 「これまでの二通の脅迫文は、弁吉と偶人館とを直接結びつけている。そのうえ、加島大治の金の出所《でどころ》も不明だ。おまけに今度は偶人館のある東和町が、北上川の水運の中心地だった登米町の近くだと判明した。その屋敷に暮らしていた中村秋武だって金には困っていなかった。これだけ情況証拠が揃っていたら、ただの仮説とも言えないよ……それに」 「それに?」 「大野弁吉ってのは通称なんだ。大野村に住んでいたんで大野の弁吉と名乗っただけでね」 「ふうん。じゃあ本当の苗字《みようじ》は?」 「若い頃に養子に入ったりして何度か苗字が変わってるけど……大野村に暮らしていた時は中村姓を用いていた」 「中村だと!」  田島ばかりか皆が絶句した。 「つまり……中村秋武って男は、弁吉の子孫かもしれねえと睨《にら》んでいるわけか」 「正式には弁吉の家系は途絶えたことになっている。実際、弁吉も困窮の果てに明治三年に病死した。それを考えると子孫が裕福ってのも信じられない話だけど……あるいは銭屋五兵衛の血筋という可能性も。どこかに隠し子でもいて、弁吉が後見人に頼まれたと考えれば辻褄《つじつま》は合う。銭五の一族は犯罪者として牢に繋がれていたんだから、素性を隠して中村姓を名乗ってもおかしくはない」 「面白い展開になってきやがった」  田島は舌なめずりして笑った。 「四千億の遺産だなんて笑っていたが、ここまで繋《つな》がってくりゃ冗談とも思えねえな」 「四千億!」  詳しい事情を知らない長谷川は、ぽかんとして矢的と田島を見較べた。 「その隠し財産がそっくり加島に流れているとしたら、いかに贅沢《ぜいたく》しても、まだ五百億も使っちゃいまい。もしかすると偶人館にそっくり隠されている可能性だって」 「そこまでは期待してないが……偶人館が今もあるなら、この目で見てみたい。地元の人間たちは、からくり屋敷と呼んでいたそうだ。建築様式が変わっていて、いつ建てられたものかもはっきりしていない。あるいは弁吉が設計した建物かもしれないんだぜ」 「所有者はめぐみ夫人かね?」 「あるとしたら、そうだろう」 「その財産を狙って、加島が中村秋武を殺したってことも考えられる。亭主を殺して女房と一緒になれば、面倒な手続きも無用だ。あの加島だったらやりかねん」 「それですむなら楽なんだがな」 「加島さんも目撃者の一人なの」  佐和子が付け加えた。 「めぐみさんの隣りで一緒に空を見上げていたんですって。証言者がたくさんいます」 「じゃあ、あの脅迫文はなんだ?」  田島は鼻で笑った。 「罪がなけりゃ、脅迫とも無縁だし、怯《おび》えることもなかろうさ。きっとトリックがある」 「仮にそうだとして……それなら肝腎《かんじん》の脅迫者はだれなんだい?」  矢的は田島に問い質した。 「外部の人間を考慮に入れずにか?」 「入れても構わないけど、不可能だよ。見ず知らずの人間が筆写人形に脅迫文を仕掛けられるはずがない。犯人は身近にいる」 「神楽先生だな」 「どうして!」 「二十六年前の事件が発端なら、露麻夫や百合亜ばかりか浮田美洋も無関係だ。露麻夫たちはまだ生まれていやしないし、浮田美洋だって四、五歳のガキだ。彼女が中村秋武の隠し子で、親の復讐《ふくしゆう》のために加島に接近したという筋立ても考えられるがね……その場合はまさか、親の仇《かたき》と寝やしないだろう」 「…………」 「めぐみ夫人なら脅迫なんて面倒な手段を選ぶより、もっと単純なやり方をする。第一、希里子を死なせるようなドジは踏まん。自分が罠《わな》を仕掛けたポルシェに乗せるわけがない。別の車を使えと言えばいいんだから」 「それは納得できるな」  矢的も素直に認めた。 「由乃夫人には動機がなさすぎる。たとえ殺されたのが自分の亭主の友人だって、二十六年も過ぎてからその復讐をするとは思えんぜ。残りは神楽先生一人ってわけだ」 「友人の復讐ならありうると?」 「二十六年も経ってからってのがちょいと引っ掛かるが、消去法で行けばそれしかない。つい最近になって、加島の殺人に気がついたのかも……ずうっと騙《だま》されていたと分かれば、もっと頭に来るんじゃねえのか。警察に訴えたくても時効になっているんだし」 「力説してるわりには緊迫感がないな」  矢的の言葉に皆が苦笑した。 「それが当たっているなら、神楽先生は希里子君殺しの犯人ってことになる」 「悪戯《いたずら》が高じた殺しなんで、神楽先生と犯人像が結びつかないだけだ。根はそれほど悪い人間じゃなかろう。無邪気な子犬が赤ん坊に食いつくこともある。遊びの延長だと勘違いしてな。犯人がすべてドーベルマンのように獰猛《どうもう》とは限らんさ」 「田島の推理を尊重すれば……今夜、神楽先生と会うのはまずいって気がしてきた。偶人館の構造とか、亡くなった中村秋武についてもっと詳しい話を聞くつもりだったけど……先生が犯人なら、こっちの得た情報を逆に教えてしまう結果になる」 「だよ。その程度の確認のためにこっちの手の内を全部さらけ出す必要はねえぜ。神楽先生が事件の目撃者の一人ってんならまだしも、彼はその時、東京にいて事件とは直接関わりを持っていない。聞いても大した収穫が期待できんよ。むしろ当分は知らないフリをしてるほうが得策ってもんじゃねえかい。それよりは、この記事を書いた記者をなんとか見つけられんものかな。二十三年前の記事なら当人が健在かもしれん。仮に当時四十前後でも、六十代の前半だ。渦中にいた加島やめぐみ夫人が元気なんだから、生きてて不思議じゃない。あるいは記事にした以外に重要な情報を持っていることだって」 「問い合わせればすぐに分かりますよ」  長谷川は田島に請け合った。 「明朝にでも新聞社に連絡してみましょう」 「運がよけりゃ、この新聞社にまだ勤めているかも。それだと簡単なんだが」 「いや、それはないだろう」  矢的は首を横に振った。 「だったら、さっきの文化部の記者が教えてくれたはずだ。二、三年前に再刊を検討したと言ったろ。社内に書いた本人がいれば、もちろん、文化部の全員が知っている。会社を辞めて何年も経っているに違いない」 「なるほど、理屈だ」 「そんなに気になるんだったら……」  長谷川は内ポケットから手帳を取り出して、 「何人かに当たってみますよ。日曜だからたいてい自宅にいるはずだ。本のタイトルはこのままですか?」  コピーを一枚手にして立ち上がった。 「上手くいけば明日にでも会えると思います。地元の新聞社なんで、たとえ退職してもそんなに離れたところにいるとは……きっと仙台周辺に家があるんじゃないかな」  十分ほどして長谷川は戻った。 「どうやら無駄手間をかけたようだ」  浮かない顔で席に腰を下ろした長谷川を眺めて、矢的は何度も頷いた。 「いや、ちゃんと相手は突き止めたんですが」 「仙台周辺にいないってことか」 「だいぶ前に亡くなっていました」  矢的は溜《た》め息を吐いた。 「名物記者の一人だったと。報道記事よりも囲みの読み物を得意としていた人のようです。と言っても、それを教えてくれたやつは、その記者が亡くなってからの入社なので、先輩から耳にした程度らしいですけど」 「だいぶ前って言うと?」 「二十年くらい」 「じゃあ、しょうがねえな」  田島も諦めた。 「東京の支社に転勤して、間もなく自動車事故に遭ったそうです」 「事故……病気じゃないんだ」 「しかも四十前の若さでね」 「…………」 「たしか轢《ひ》き逃げで犯人も検挙されなかったとか……それが本当なら死に損だ」 「轢き逃げで犯人も不明!」  矢的の喉《のど》がゴクッと鳴った。 「おいおい、なにを考えてる」  田島はニヤニヤして、 「まさか加島が殺《や》ったとでも想像してるわけじゃあるまいな。そいつはいくらなんでも飛躍のしすぎってもんだろうぜ。東京じゃ轢き逃げなんぞ、毎日のように起きてる。偶然だよ。いや、偶然ってもんでもねえ。たまたまおまえさんがこの連載記事を発見したんで、偶然のように思えるだけだ」 「そうかな」 「決まってるさ。それじゃあこのオレが、今夜ホテルで正体不明の強盗に殺されても、加島が犯人だと言うつもりかい」 「それとこれとは違う」 「どう違う。直観だけの問題だろ」 「二十年前と言えば、加島が不動産会社を設立して派手な商売をはじめた頃だ。もし、亡くなった記者が加島とめぐみ夫人の再婚をどこかで耳にしたとしたら、やはり気にしただろう。加島の金の出所の謎も含めてね」 「…………」 「連載記事をじっくり読むと、記者は加島の居所を熱心に捜そうとした形跡がある。そういう人間がもし東京で加島の消息を知れば、たとえ連載が終わっていても訪ねて不思議はない。むしろ自然な行動だと思う」  うーん、と田島は腕を組んだ。 「オレたちゃ、だんだん泥沼に嵌《は》まっていく感じだな。そもそも加島が中村秋武を殺したってのも仮説でしかねえのに、今度は新聞記者殺しかい? 偶人館の事件が加島と無関係なら、記者を殺す必要もなくなる。おまえさんの推理は一が解決してねえのに、二の問題に取り組んでるのと一緒だぜ」 「その代わり、二が実証されれば一もまた解決するという問題でもあるさ。轢き逃げが加島によるものなら、中村秋武殺しも加島だ。どんなに巧妙に事故と見せかけていてもね」 「二十年前の轢き逃げなんて、いったいどうやって調べるつもりだ」 「それが難問だ」  さすがに矢的も苦笑した。 「とりあえずはその記者の家族とか同僚を捜し当てて、詳しい情況を聞く他に……四十前後の人間なら、きっと結婚していたはずだ」 「まてよ」  田島の目が輝いた。 「露麻夫と百合亜は養子だって言ったな。まさかその記者の実の子ってわけじゃ」  全員が爆笑した。 「それこそ考えすぎってものだよ」 「この際だ、一応、ありとあらゆる想像を働かせておかんとね……二十六年前の復讐となりゃ、犯人が限定されちまって、途端に事件がつまらなくなってきやがった。浮田美洋とか露麻夫兄妹を無理にでも復讐劇に関係づけようとしたら、殺された人間との親子関係しかあるまい」 「無理に関係づける必要はないだろう」  矢的は呆《あき》れた顔で田島を眺めた。 「神楽先生じゃ、犯人として物足らんのさ」 「自分から犯人だと言ったくせに」  良美はケタケタ笑った。 「もし矢的の推測どおり、加島が記者まで殺したほどの男なら、こいつは悪役として必要充分な条件を満たしている。それに較べて神楽先生はいかにも役不足だ。バランスが悪すぎるってもんだぜ。もっと世間を納得させるような恨みを抱いてる人間がいないもんかと思っただけでね。せっかく道具だてが揃ってきたところなんだからな」 「浮田美洋が犯人であってほしいわけ? それじゃあテレビや映画とおんなじよ」  良美はからかった。 「お客様に矢的様はいらっしゃいますか」  離れた場所から女の子の声がかかった。矢的が手を上げると、電話だと言った。 「たぶん神楽先生だ。どうする?」  フロントにこの店の名を伝えて来たのだ。 「さっき決めたろ。なんとか理由をつけて今夜は会わんほうがいい。事件を忘れて酒でも飲むってんなら別だが、お互い、そんな気分でもないだろうしな」  矢的は頷《うなず》いて立ち上がった。      5  翌日は見事な青空だった。  朝の八時前だというのに、気温はもう二十七、八度を軽く超えている。ホテルの前で待っている佐和子たちのところに、矢的の運転するルノー5と雄二のアコードが揃ってやって来た。ドアを開けると車内にはまだ熱がこもっていた。裏手の駐車場から出して来たばかりなのでクーラーは利いていない。 「本当につき合うつもりか?」  アコードに乗り込もうとする良美に、田島は念を押した。これから偶人館を捜し求めて東和町まで行けば、帰りが何時になるか分からない。店を平常どおりにオープンするためには、最低でも昼前に仙台を発たないと……。 「あったりまえでしょ。上手くいったら四千億の財宝とご対面よ。店なんて一週間でも休みにしたって構わないんだから」 「たとえ発見したって他人の金だ。どうやら所有者は加島のようだからな」 「でも、世間には内緒にしてる遺産でしょ。少しぐらいちょろまかしたって訴えられる心配はないわよ」 「恐ろしいことを考えてやがる」 「そろそろ出発しないと……長谷川君が駅で首を長くしてる」  矢的が運転席から田島を急《せ》かせた。長谷川も偶人館に興味を持ったと見えて、自分から今日の案内役を買って出たのだ。八時に彼を駅前で拾う約束になっている。 「駅で乗り換えるのも面倒だ。オレは雄ちゃんのほうの車に乗ってくよ。そうすりゃ三対三でちょうどいい」  田島は良美に続いてアコードに乗ると、 「駅までの短い距離だが、二人きりのドライブを満喫してくれ」  苦笑しながら矢的は車を発進させた。 「とうとう加島大治とは会わずじまいでしたね。まさかこんなことになるなんて」  佐和子はシートベルトを装着した。 「だけど明日まで連中は仙台にいるんだ。今夜あたりは会えるんじゃないかい」  通夜を終えたらその足で東京に戻るとばかり思っていたのに、加島は希里子を骨にして帰るつもりらしい。それは神楽からの電話で耳にした話だ。東京まで希里子の死体を運ぶ面倒は分かるが、あまりにも愛情のないやり方だ。ガードレールに激突して目茶目茶に潰《つぶ》された希里子の死に顔を他人に見せたくない、とめぐみ夫人が加島に懇願したと言う。 「神楽先生も困っているんじゃありませんか。火葬と聞いたら帰るわけにもいかないし」 「それよりも、加島がぼくたちの行動に不審を抱いているだろう。団体でぞろぞろと仙台まで駆けつけて二日も居残ればね。なにかを嗅《か》ぎ回っていると気づいているに違いない」 「…………」 「ぼくが加島の立場なら……偶人館を確認に出かける。もし現在も偶人館がそのまま残されていたらの話だけど」 「来るかしら?」 「やつだって馬鹿じゃない。ぼくらがのんびりと松島見物してるなんて思わないさ」 「でも、偶人館については私たちがなんにも知らないと安心しているんじゃ? 希里子さんの車に仕掛けられた脅迫文だって、表向きは知らないことになっているんですもの」 「露麻夫君が一緒に見ている。露麻夫君には偶人館の意味が理解できなかったようだが、それを神楽先生に教える可能性は高い。加島ならその程度は予測する。神楽先生が口にしないだけで、脅迫文の内容は筒抜けになっていると覚悟しているはずだ。その神楽先生とぼくたちは何度も会っているんだ。しかも先生は偶人館の場所さえ知っている。頭の回る人間だったら、ぼくたちが先生に協力して偶人館の事件の謎を突き止めようとしていると早トチリするんじゃないかい」 「ああ……それはありそう」 「来てくれたら助かるよ」 「どうして?」 「仮説だらけの事件にようやく事実が重なってくる。中村秋武がただの事故死で、銭屋五兵衛の遺産とも無縁なら、加島にはぼくらの行動も怖くない。疑われているという不愉快さはあるだろうが、それだけのことだ」 「なのに……偶人館に現われたら」 「殺人者だと自分で証明するようなものさ」 「不思議な事件だわ」 「なにが?」 「たった二枚の脅迫文から、私たちは二十六年前の殺人事件や二十年前の轢《ひ》き逃げ事件の真相らしきものに到達したんですもの。なんだか信じられなくて……」 「昔の事件についちゃ、ある程度自信が持てても、肝腎《かんじん》の今の事件がさっぱりだ。脅迫者がだれなのか見当もつかない」 「やはり神楽先生ではないと?」 「友人の復讐《ふくしゆう》に二十六年は永すぎる。捜し求めていた相手とようやく巡り合ったとでもいうならともかく、先生と加島は古くからのつき合いだ。なんでいまさらって気がするよ。別の動機が発見されない限り、先生を疑う気にはなれないな」 「別の動機……」 「現在のところ、まったくお手上げ」  矢的は駅前にたたずむ長谷川を認めた。 「東和町ってところは相当に遠いですよ」  後部座席に腰を下ろした長谷川が言った。 「仙台からなら三時間近くかかるでしょう。地図を確認したら、完全な陸の孤島化してます。鉄道も走っていないし、町の八十パーセントが山林で占められているとか。ガイドブックによれば隠れキリシタンの里として有名みたいでしてね。その関係の遺跡がたくさん残されている。それだけ人里離れた山の中ってことです」 「隠れキリシタン……」 「ええ。何百人もが一度に処刑されて葬られた塚もありますよ。岩手県との県境を挟んで隣り合わせている藤沢《ふじさわ》町の大籠《おおかご》という地域が、隠れキリシタンの多く暮らしていた場所だったそうだけど……江戸時代は藤沢町も伊達藩の領内に含まれていたので、もともとは大籠も東和町の一部だったんじゃないですかね」 「何百人って……」  佐和子は長谷川を振り向いた。 「誇張じゃない。行けば分かる」 「そこの山奥に人々が逃げ込んだわけ?」 「さあ……殺されたのは村人とあったから、外部の人間とは違うんだろうな。大籠にはキリスト教が禁止されるまでは外国人の宣教師もいたと書かれていたし、きっと地元の人間でしょう。詳しいことはちょっと……」 「それはいつ頃の話だい?」 「江戸時代の初めあたりです」 「じゃあ銭屋五兵衛とは無関係か」 「そりゃそうです。それとも……銭五ってキリスト教ともなにか繋《つな》がりが?」 「むろんだ。外国と密貿易をしていた人間なら、キリスト教とも必ずどこかで関わり合いになる。あの当時の海外貿易はキリスト教の布教という名目も同時に掲げていた。それでキリスト教は全世界に広まったんだ。銭五だって外国人との商売を円滑にするためには、キリスト教を許容しないわけにはいかない。好き嫌いはともかくとして、たまには教会の手助けもしていたはずだ。そういう人間が東和町にやって来て、隠れキリシタンの人々と出会えばどうなったかと思ってね」 「どうなるんですか?」 「ただの想像さ。時代が違うんだろ」 「そいつは処刑された年代ですよ。隠れキリシタンはずうっと明治時代まで」 「そうなのか」 「だから、隠れキリシタンなんです。処刑されるまでは堂々と拝んでいたんだから、隠れとは言わないでしょう。本物のキリシタンだ」 「すると東和町には江戸時代を通じて大勢のキリスト教信者が?」 「もちろん。今だって小さな町に立派な教会がいくつか。ガイドブックにも大きく紹介されています」 「それなら好都合だ。銭五の隠れ屋敷を建設するにはもってこいの場所じゃないか。北上川の水運を利用すれば交通の便もいい。隠れキリシタンという秘密組織と手を組めば、たとえどれほどの山の中でも、人手を確保できるうえに秘密も守れる。形式だけであろうと屋敷に礼拝堂を作れば、信者たちは絶対にその場所を口外しない。言えば自分たちも捕まるんだからね。おまけに死を覚悟するほどのクリスチャンなら、金銭に目を眩《くら》ます心配もない。財宝にもさして興味を持たないだろう。彼らに襲われる危険もないから、警備の人間もわずかですむ。むしろ強盗でも現われれば、自分たちの礼拝堂を守ろうとして戦ってくれる。これほど条件の整った環境は滅多にないよ。銭五は信者のフリをしているだけで安全だ」  佐和子と長谷川は同時に頷《うなず》いた。 「偶人館が銭五の隠れ屋敷という可能性はますます濃厚になった。その屋敷が銭五の没落の前から建てられていたものなら、財産をそこに運んだということも充分にありうる」 「なんだか急に不安になってきましたよ」  長谷川は続けた。 「そんなに古い時代に建てられた屋敷だったら、東和町の観光の目玉になっていそうなもんじゃありませんか。ガイドブックには一行だって掲載されてないですよ。ってことは、建物が残っていないという意味じゃ?」 「古くても無視されている建物は無数にある」 「そうです」  佐和子も請け合った。 「文化財に指定される建物はほとんど武家屋敷とか明治の洋風建築とか、特徴のはっきりしている典型的なものなんです。ただ古いというだけでは適用しません。それに、昨日の連載記事を読むと、偶人館は複雑に増改築をしているみたい。そうなると、単に珍しい建物でしかないわ。文化財とは無縁です」 「第一、個人の所有であると主張して加島が拒否すればお終《しま》いだ。町が観光の目玉にしたくても諦める他にない。無断でガイドブックなどに写真を掲載すれば訴えられる。加島が偶人館を一般に開放するわけはないよ」  矢的に言われて長谷川は安堵《あんど》した。      6  矢的たちが東和町の手前に位置する登米町に辿《たど》り着いたのは十時半過ぎだった。最初の予定よりも大幅に時間を食っている。駐車場のある喫茶店を見つけて休憩した。 「おたくもいい加減な道案内だぜ」  田島は長谷川をからかった。 「いったい何カ所道を間違えたもんだか」  そのお陰で三十分以上は無駄にしている。 「こっちには一度も来たことがないんです」 「ここから東和町までは一本道だ。もう心配はない。せいぜい二、三十分てとこだよ」  居心地悪そうにしている長谷川を、矢的は労《ねぎら》った。後ろの車にいた田島には、必死で道路標識を捜していた長谷川の苦労が分からない。 「ねえ、お茶を飲んだら、ちょっと見物して来ていいかなぁ。面白そうな町じゃない」  良美が矢的に訊《たず》ねた。 「そのつもりで休憩した。東和町には食べる場所もそんなにないようだ。今の時間ならこの町で早めの昼食をすませたほうが……昼過ぎに向かっても時間に余裕がある」 「鰻《うなぎ》の美味《おい》しい店があるんですって」  長谷川の情報を佐和子は伝えた。 「やったね。車に揺られどおしで、そろそろお腹が文句を言いそうになってたの。パンはやっぱ、消化が早いわ」 「トーストを四枚も食べたくせにか」  色気がなさすぎると田島は笑った。 「そのうち牛のようなおばさんになるぞ」 「私、どうせ結婚願望がないもの」 「女も二十三、四まではたいていそう言うんだ。安心してると、いつの間にか相手を見つけて子供なんかを産んじまう」 「なんで田島さんが安心すんのよ」 「安心しちゃいかんかね」 「だって関係ないじゃない」 「若い独身女性ってのはだね……男の共通所有物でもあるわけですよ。結婚しちまったら、ただのおばさん。たとえゴクミだって」 「危ないな。もうオジンの境地に入ってる」  良美はあっさりと田島をかわした。  喫茶店を出ると佐和子は良美と並んで歩いた。矢的たちは少し遅れてついて来る。 「なんだか、懐かしい町って気がしない?」  人通りのほとんどない裏道である。眩《まぶ》しい太陽に照らされて歩道が白く光っていた。道の両側には崩れた土塀が続いている。  どこからか子供の泣き声がする。何人かの女性の笑いもそれに小さく被《かぶ》さって聞こえた。車の音はまったくしない。土塀の裏側に池でもあるのか、蛙がのどかに喉《のど》を鳴らしている。  角を曲がったら、子供を背中にして自転車を押している主婦と出会った。健康的で化粧っ気のない額に大粒の汗が噴き出ている。  擦れ違いざまに陽気な挨拶《あいさつ》を受けた。慌てて頭を下げながら、佐和子はタイムマシンに乗って二十年も前の自分の故郷に戻ったような幸福な気持ちに襲われた。静岡も今はすっかり近代化されて慌ただしい町になった。両親や友達がいるから、年に何度か帰るだけにすぎない。  町の真ん中なのに、茅葺《かやぶ》き屋根の廃屋があった。と言って、寂れた印象でもなかった。そのすぐ側にトタン屋根の新しい家が建てられているせいなのかもしれない。土地が広いから別の場所に家を建てただけなのだろう。古い着物を新しくしたのと一緒だ。  良美は廃屋を珍しがって庭に入り込んだ。 「隣りに人が住んでるのよ」  佐和子は道から小声で注意した。 「土地が余ってるって感じね。裏庭に広い畑があったわ。土地がないなんて騒いでるのは東京だけなんだ」  良美は羨《うらや》ましそうな顔で戻った。 「それにしても、なんでこんなに静かなんだろ。町の人全員が眠ってるって感じ。結構、窓を開け放している家が多いのに、テレビの音さえ聞こえないわよ」  爽《さわ》やかな風が頬を撫《な》でていく。 「田舎に戻りたくなっちゃった」 「良美さん、故郷《くに》はどこ?」 「北海道の余市《よいち》。アニキが店を開いてたんで札幌《さつぽろ》でのOL生活を捨てて東京に」 「ふうん。てっきり東京生まれとばかり」 「海育ちだもの、男にゃ負けないわ」  良美は元気な笑顔を見せて、 「東京って……なんだろ。つまらない町だな、なんて思いながら暮らしてるくせして、それでも余市に戻るのが怖いのよね。戻った途端に私の人生が終わるような気がしてさぁ。別に勝負のつもりで東京に出て来たんじゃないのに……戻ると負けって気がする」 「皆、そうよ。きっと」 「今度こそ帰ろうかな」  道路の真ん中にペタンと尻《しり》を落として足を舐《な》めている猫を見ながら良美は呟《つぶや》いた。猫の背中は陽を浴びてふかふかだった。      7 「こんなとこに人が住んでるのか」  どこまでも林道が続いている。長谷川と交替して矢的の車に乗り込んだ田島は、呆《あき》れた口調で前方を見つめた。舗装が跡絶《とだ》えないので道を間違えているわけではないらしいが、対向車と一度も出会わないのも不安を誘う。 「日本も広いもんだぜ。今の世の中に秘境なんてのはありえないと思っていたが、ここは充分にその資格があるよ。隠れキリシタンが暮らしていたってのも納得できる。こんな山奥なら幕府の目だって届かんさ」 「秘境ならアフリカで見慣れているんだろ」 「覚悟が違う。仙台からたった二、三時間のところにこれほどの秘境があったとはな。道路地図だけ見てると普通の町だもの」 「町の中心は賑《にぎ》やかだと思うよ。長谷川君から見せられたガイドマップには洒落《しやれ》た教会や町並みの写真があった。人口も一万人近いって言うんだから、鄙《ひな》びた村落じゃない」 「へえ、この山奥に一万人も」 「けど、われわれの目指す偶人館は本当に山の中だ。町の中心とはだいぶ離れている。岩手県との県境近くらしい。もしかしたら車も入って行けない道かもしれない」 「住所は分かってるのか?」 「大体のね。大柄沢《おおからさわ》というあたりだ。長谷川君の持ってきた道路地図には載っていない。役場を訪ねて訊《き》かなくちゃ」 「地図にもない場所か。まさに隠れ屋敷だ」 「ただし、偶人館のことをおおっぴらに訊くわけにもいかない。万が一、加島が役場に手を回していたら面倒になる」 「加島が役場に? そりゃなかろう」 「どうして? 簡単じゃないか。何食わぬ顔で役場に電話すればすむことだ。知り合いが偶人館を訪ねて行ったはずだが、どうしても連絡が取りたいので、もし役場に顔を見せたら教えてくれ、とでも伝えておけばいい」 「じゃあ、役場になんと言って訊く?」 「キリシタン関係の史跡巡りだと説明するのが無難だろう。一般的な道路地図には掲載されていなくても、地元の役場なら詳細な地図があるはずだ。それで大柄沢を捜せば必ず見つけることができる。あとはその近くまで行って、最寄りの民家にでも訊ねれば……」 「そう上手く運べばいいがね。近くにゃ一軒の民家もないかもしれんぜ。もし山の中にでも迷い込んでしまえば大事《おおごと》だ。ここは運を天に任せて役場の人間に教えてもらうのが正解じゃねえのか。第一、そんなに慎重にことを運んだところで、偶人館に留守を預かっている人間でもいりゃ、苦労も水の泡だ。そいつの口から加島にオレたちのことが伝わる」 「偶人館に人が住んでいる……」  さすがの矢的もそれは想像していなかったようだ。田島は苦笑しながら、 「四千億の遺産だぞ。そんなのを無人の館《やかた》に放っておく馬鹿はいねえさ。たとえ屋敷は厳重に封鎖してても、敷地内に管理人くらいは住まわせておくのが常識ってもんだ」 「すると……偶人館に入れないかもしれないな。うっかりしていたよ」 「けど……忍び込むって方法もある」 「…………」 「管理人ったって、せいぜい年寄りの夫婦ってとこだろう。おまえさんにその気があるなら、忍び込むのは簡単だ。相当大きな屋敷みたいだから、裏手から回れば見咎《みとが》められる危険も少ないはずだ。軽い仕事さ」 「しかし、忍び込むってのはなぁ」 「おんなじじゃねえか。もともとそのつもりで来たのと違うのかい? 管理人がいれば泥棒で、いなければ無断侵入も罪にはならんとでも? おまえさんにしちゃ甘い」 「その判断は偶人館を見てからでも間に合うんじゃありません?」  佐和子は割って入った。 「それに……あとのことを考えたら、役場の人に偶人館の場所を訊くのもまずいと思います。無断侵入が発覚したときに私たちが犯人だとすぐに分かってしまいます。詳細な地図は私と良美ちゃんとでなんとか入手を。隠れキリシタンの史跡巡りなんて、いかにも女の子が好きそうな感じでしょ。疑われることもないと思うの。地図を頼りに捜してみて、それで駄目なら、また振り出しに戻ればいいわ」 「君も忍び込むのに賛成?」  矢的は佐和子を真正面から見据えた。 「加島は人を二人も殺した可能性のある人間だわ。それを突き止める手掛かりのためなら」  矢的もそれで決心がついた。 「そうと決まれば、途中で懐中電灯とかガムテープを買わないといかんな」 「ガムテープ?」 「窓ガラスに貼っておいて壊せば、音も低くなるし、破片も飛び散らん。スパイ映画なんかを見てると、頻繁に出てくるぜ」 「こっちは探偵役のつもりだったのに、今日からは犯罪者の道をまっしぐらか」  矢的は大袈裟《おおげさ》な溜《た》め息を吐いた。 「釘《くぎ》抜きも必要だ。ガムテープを用意してても、窓に板を打ち付けられていたら意味がない。その場で買いに戻る余裕はなかろう」 「まるで経験でもある感じじゃないか」 「なんのためにミステリーを読んでると思う」 「泥棒の勉強かい」 「オレたちゃ人殺しと対決してるんだぞ」  さすがに田島もムッとした顔で、 「神様だって許してくれると思うがね」  東和町の役場は小高い丘の上にあった。  下の道路で矢的たちが待っていると、やがて佐和子と良美の二人が駆け下りて来た。 「大柄沢を見つけました」  佐和子は得意そうに地図を差し出した。 「東和町では有名な場所なんですって。こっちがなんにも聞かないうちに大柄沢の隠れ洞窟《どうくつ》は凄《すご》いところですよって教えられたわ」 「隠れ洞窟?」 「隠れキリシタンたちが山の斜面に洞窟を掘って、礼拝堂にしていたらしいの。滅多に人が足を踏み入れない場所だったために、昭和三十年頃まで発見されないでいたとか。今は車もその近くまで入って行けるそうです」 「大柄沢ってのは、そういう場所か」  矢的は納得した。村人たちまでが滅多に近寄らない山の中なら、隠れ屋敷の場所としては最適だ。しかも、隠れキリシタンの痕跡《こんせき》もあるなら、ことごとく自分の仮説と合致する。 「車で行けるってんなら、とりあえずこの洞窟に向かってみようじゃないか。この地図で見ると、大柄沢は結構広い。のんびり構えてる余裕はないぜ。下手すりゃ陽が暮れる」  田島は地図から顔を上げて言った。  役場から北上して岩手県との県境を目指すと、途中で賑やかな町並みに至る。だだっ広い田畑の中のオアシスにも似た印象を覚えた。東和町の中心地である米川《よねかわ》だ。密集する民家の甍《いらか》を突き破るように白亜の塔が聳《そび》えている。カトリック教会の鐘楼である。ロケットの形にも見える尖《とが》った頂上には十字架が誇らしげに腕を広げていた。都会ならば別に感慨も持たないが、この深い山間《やまあい》の町に、と思うとやはり感動が胸に込み上がってくる。  矢的は米川の町並みを過ぎると右折した。大柄沢の隠れ洞窟は東和町にあるけれど、そこに行くためにはいったん岩手県の藤沢《ふじさわ》町に入って山を登らなければならない。 「町を外れると、途端に山道か」  うんざりした顔で田島は口にした。  国道から左折すると道は次第に険しくなった。このあたり一帯が殉教者を何百人と出した大籠だ。  道の途中に地蔵の辻《つじ》という立て看板がある。矢的は車を停めた。 「二百人以上がこの場所で打ち首や磔《はりつけ》にされたんですって……」  佐和子は看板の説明を読んで唖然《あぜん》とした。その霊を弔うため、後世になってからこの地に地蔵が設置されたと言う。道を挟んで流れている二又《ふたまた》川は殉教者の流した血で真っ赤に染まった、という部分を目にした佐和子は時代を超えて怒りを覚えた。しかも、犠牲者の死体は土に葬ることも許されず、六十年間もそのままに放っておかれたと言うのだ。 「想像を絶する悲惨さだな」  田島はまわりを見渡した。この周辺には何軒かの民家や商店が固まっている。民家の庭には美しい草花が咲き乱れ、悲惨な歴史をうかがわせるものはどこにも見当たらない。歴史を知らなければのどかな村落だ。 「うっそー、信じられない」  後続車から降りて来た良美も絶句した。 「あそこにも立て看板が見える」  矢的は目敏《めざと》く見つけた。四、五百メートル先の道路端に小高い塚があって、石塔が周囲に配置されている。矢的は足速に歩いた。  上野《うえの》刑場、と書かれていた。ここでは九十四人の信徒たちが寛永《かんえい》十七年(一六四〇)に斬首《ざんしゆ》された。キリシタンは一族郎党皆殺しという達しがあったそうで、たとえ赤ん坊でも許されなかった。近隣の者たちは処刑があった後、何年にもわたって夜な夜な赤ん坊の泣き声に怯《おび》えたとある。もちろん幻聴なのだろうが、それだけむごたらしい処刑を目にしたからに違いない。 「なんだかオレたちゃとんでもない魔界に足を踏み入れてしまったようだ。観光気分で回るような場所じゃねえ。きっとこのあたりの山にゃ、何百人もの怨念《おんねん》が漂ってる。殉教なんてのは長崎だけかと思ってた」  田島は殊勝に塚に掌《て》を合わせた。良美や佐和子も並んで拝んだ。 「ハンパじゃねえぜ。ここの連中は」 「あら……隠れ洞窟はこっちだ」  道路を挟んで塚と反対側の斜面に、深い沢に下りて行く狭い道が延びているのを良美が発見した。その脇に隠れ洞窟という小さな案内板が立っている。 「車は無理じゃないの?」  車幅ぎりぎりの狭さだ。 「ずうっと下に民家が見える。なんとかあそこまでは行けそうだ。庭に人がいて仕事してる。あのじいさんに聞けば本当に洞窟まで車で行けるものか分かるさ」 「隠れ穴まで行きなさるんかね」  矢的が車から下りると、老人も人懐っこい目をして道に出て来た。 「車で近くまで行けると聞きましたけど」 「そりゃあ行けるが……今の時期は草の丈もあるし、藪蚊《やぶか》もおって難儀じゃぞ。一本道じゃで迷う心配はねえがの」 「簡単に見つけられますか?」 「ああ……ところどころに案内がある。ここんとこさっぱりお参りする人間もおらんで、マリヤ様も喜ばれるじゃろ」 「おじいさんも信者なんですか」  老人はにこにこと笑った。むろん、そうに違いない。隠れ洞窟に行くにはこの家の前を通らずには行かれないのだ。もしかすると、この老人の先祖が隠れ洞窟を拵《こしら》えた人間ということだって充分に考えられる。 「偶人館と呼ばれる屋敷をご存じでは?」  思い切って矢的は訊《たず》ねてみた。  途端に老人から笑いが消えた。 「あんたら……なんだね?」 「そこにも立派な礼拝堂があるとか」  矢的は咄嗟《とつさ》に、思いつきを口にした。 「だれから聞いた。そんたらことを」  それでも老人は少し警戒を緩めた。するとやはり、偶人館には礼拝堂があるとみえる。 「米川の教会は見て来たかね?」  矢的は曖昧《あいまい》に首を振った。 「じゃあ、そこで聞いて来たんじゃろ。あそこの神父はだいぶ前にお館の礼拝堂を見ておる。それが自慢ですぐ人に教えたがる」  神父に罪を被《かぶ》せて悪いと思ったが、矢的は老人に頷《うなず》いた。 「じゃが、人には見せておらんよ。持ち主はこっちにおらんで、今は東京じゃ」 「外から見るだけで構わないんです」 「外を見ても仕方がなかろう」 「どなたか屋敷にいらっしゃらないんですか。それなら、なんとか頼み込んで」 「諦めるんじゃね」  老人は何度も首を横に振った。 「この近くなんでしょう?」 「山を越えりゃすぐだが……車は行けん。米川に戻って大まわりせんとな」 「山と言うと隠れ洞窟のある?」 「頂上まで登れば時計塔の屋根が見える。狭い道はついとるがね……きつい坂道じゃぞ」  矢的は頷きながら背後に目をやった。 「諦めようぜ。隠れ洞窟だけで充分だ。行ったって見れないんじゃしょうがねえ」  田島はそう言って軽く片目を瞑《つぶ》った。  偶人館はこの山の向こうだ。  矢的は興奮を押し隠して車に戻った。      8  本当に辿《たど》り着けるのか、と矢的は不安を覚えた。教えられた隠れ穴への道順に間違いはないはずだが、あまりにも路幅が狭い。せいぜい二メートルちょっと。片方は山の急斜面で、反対側は深い沢だ。もちろんガードレールもなく、粘土質の柔らかな路肩《ろかた》が心もとない。丈の長い草が目隠しとなって沢の怖さを和らげているとはいうものの、それは気分だけの問題にすぎない。首を伸ばして谷底を覗くと、大きな岩がゴロゴロしていた。 「対向車が来たらお手上げだ」  運転する矢的と助手席の佐和子の間から、顔を突き出すようにして前方を見守っている田島が言った。車内からだとルノー5のボンネットが道より少し食《は》み出ているように見える。 「車の轍《わだち》があるところを見りゃ、どこかにUターンできる広場もあると思うんだがな。帰りはバックで、なんてのはゾッとしねえぜ。こんなんだったら、さっきのじいさんのとこに車を預けて歩きにすりゃよかった。いまさら戻るわけにもいかねえし……」  田島は背後を確認した。雄二の運転するアコードも慎重について来る。 「甘い考えだったかもな」  田島は苦笑した。 「そもそも隠れキリシタンの連中が、役人の目を逃れてこっそりと礼拝していた洞窟だ。車で簡単に行き着けるような場所であるわきゃねえ。第一、二、三十年前まで発見されなかったってのは、土地の人間さえも滅多に近づかない山奥ってことだろ」 「でも、あのおじいさんは車で大丈夫だと」  佐和子は打ち消すように口にした。 「なんの車だか。耕耘機かもしれんさ」  車はそれから十分も山路を這《は》うように進んだ。幸い路幅はそれ以上狭くならなかった。ただし深い轍のために、車の腹が何度も地面を擦《こす》る。ガリガリという不快な音が続いた。 「あそこが終点のようだ」  急な曲がり角を過ぎると、雑草の茂った小さな広場が見えた。その先には屏風《びようぶ》のような斜面があって道を塞《ふさ》いでいる。 「二台でぎりぎりだな。あの雑草の様子だと観光客が来てる感じじゃねえ。偶人館はここよりもまだ先にあるんだろ。これじゃあ隠れ屋敷も当たり前だ。人目にはつかん」 「だけど、こちらは偶人館の裏側で、本当の道はこの山の向こうに……」 「頂上を境に、向こう側にゃピザハウスとかゲームセンターが林立してるとでも? こっちと一緒だよ。おんなじ山ん中に決まってる」  田島は佐和子を笑いながら車のドアを開けた。停車した広場の土は雨を吸っているのかぬるぬると滑った。 「間違いない。隠れ穴への標識がある」  広場の端に、田島は頂上へ向かう狭い道を見つけた。頂上と言ってもこの位置からだとわずか三、四十メートルのものだ。 「もう帰れないかと思っちゃった」  良美がアコードから降りて背伸びした。緊張で体を硬くしていたのだろう。 「おっと、七つ道具を持って行かないと」  田島は車に引き返して、ビニール袋を二つ抱えて来た。中には懐中電灯とかガムテープの他に、チョコレートとかクラッカーなどの軽い食糧が詰められている。偶人館に管理人がいた場合、侵入を夜まで待つ必要があるからと田島は言っているが、実際は探偵ごっこを楽しんでいるだけだと矢的は睨《にら》んでいた。 「隠れ穴なんて、わくわくしますね」  口数の少ない雄二が珍しく興奮した口調で車から降りて来た。 「目的はそっちじゃない。偶人館だ」  田島は袋の一つを雄二に手渡した。 「もっとも、場合によっちゃ夜までの隠れ家に使えるかもしれないな」 「そんなに広い洞窟《どうくつ》なの?」 「掘って拵えた穴だってんだから、規模は知れてるけど……最低でも十人は入れるようにできてるんじゃないか。防空|壕《ごう》ぐらいかね」  田島の説明に良美も頷いた。 「それにしても……皆さんお好きだな。隠れ洞窟を目の前にしたら、やたらと張り切ってるみたいに見えるぜ」  田島の言葉に皆は顔を見合わせて笑った。 「胎内回帰願望ってやつかな。かく言うこっちも鍾乳洞《しようにゆうどう》とか古井戸にゃ目がない。撮影であちこち飛び歩くが、どんな小さな穴でも、発見すると中を確かめずにゃいられないよ。さすがに熊の穴は臭いで判断できるけど」  動物写真を専門とする田島らしい言い方だ。 「ずうっと前に、富士山の風穴にこうもりを撮《と》りにでかけたことがある」  坂道の先頭に立ちながら田島は続けた。 「あんときゃ、死ぬほど怖かった。うっかりと懐中電灯を落としてね。途端に完全な闇の中だ。左右どころか上下の感覚もない。まるで宙に浮いているような感じなんだ。目の前一センチに近づけた自分の指さえ見えないんだぜ。見えない、と言うよりも、自分の目がどうにかなったんじゃないかと思ったほどだ。目を瞑《つぶ》ったほうがかえって明るい気がした。こうもりってのは偉いと思ったね。人間はあの闇に三十分と神経が保《も》たんよ。怖くて足を一歩も前に出せないんだ。現実に恐る恐る前進したら頭を低い天井にぶつけた。どんなに目を凝らしたって天井なんかどこにも見えねえんだぜ。ライターを使えばいいと思いつくまで生きた心地がしなかった。ポオの『早過ぎた埋葬』の主人公も、きっとあれとおんなじ恐怖だったんだろうな。大袈裟《おおげさ》な話じゃない。瞬《まばた》きをしてないと、自分が果たして目を瞑ってるのか開いてるのか、忘れてしまうほどの完璧《かんぺき》な闇だった」 「幽霊よりも怖い?」  良美がおどけて言った。 「較べものにならん。ああいう場所に女と閉じこめられたら、二人とも怖さのあまりに死ぬまでセックスし合うさ。たとえ互いに厭《いや》な相手だと思っていてもな。試しにどうだい」 「どうも田島ちゃんの話には下心が見え見えって感じね」 「バカ言え。兄貴と一緒の女を口説く男がどこにいる? 比喩《ひゆ》ですよ、比喩」  慌てた様子の田島に矢的は苦笑した。家庭を守ってくれる可愛い奥さんがいるのに。 「お、あった、あった」  頂上付近に達すると、少し下った急斜面に白い案内板が立てられているのを田島は認めた。まわりには樹木が生い茂っている。この位置からだと洞窟の入り口は見えない。自分たちの立っている地面の真下に穴が掘られているのだ。田島は少年のような歓声を上げながら洞窟に向かった。 「昭和三十年頃に発見されたと言ったけど、この案内板にゃ四十八年となってるぞ」  田島は佐和子を振り向いた。 「聞き違いかしら」 「昭和四十八年って言うと、つい最近だ」  田島は案内板のすぐ目の前にある洞窟を覗き込んだ。想像していたよりははるかに小さい入り口だ。屈《かが》まないと人間は通り抜けられない。周囲に補強の枠組がなければ動物のすみかとでも見誤りそうな、ありきたりの穴である。だが、案内板の説明を信ずるなら、硬い岩盤をくり貫《ぬ》いた洞の奥行きは十メートル以上もあるという。 「この枠組も当時のもんかね?」  田島は太い柱に触った。推定では一六二〇年頃に掘られたものらしい。 「なんだか怖いわ」  田島の肩越しに中を覗いた佐和子は尻込《しりご》みした。陽射しの関係で中は真っ暗だ。入り口から四、五十センチしか見えない。それにじめじめした空気が漂っている。  田島は袋から懐中電灯を取り出して奥を照らした。じめじめした感じも当然だ。洞窟には水がいっぱいに張っていた。天井より染み出た雨水が堅い岩底のために溜《た》められたのだろう。 「こいつじゃ奥まではっきり見えん」  田島は躊躇《ちゆうちよ》なく靴と靴下を脱いだ。ズボンの裾《すそ》を膝《ひざ》までたくし上げる。 「ちょいと偵察してからだ」  田島は続いて靴を脱ごうとした矢的を制して、穴の中に入って行った。 「なーるほど。こいつは結構なもんだ」  田島の反響した声が届く。全員が中を覗く。田島のライトのお陰で奥が見渡せる。右手の岩壁には工具で削った痕跡《こんせき》がはっきりと見分けられた。じゃぶじゃぶと水を掻《か》き分けていく音がする。相当に深そうだ。 「なにか見つかりますかね」  長谷川が期待に満ちた声で呟《つぶや》いた。 「なにもないさ。史跡だもの」  矢的は笑った。 「マリア像が飾られてるぞ」  田島が叫んだ。ライトの中心に真っ白なマリア像が浮かんでいる。けれど入り口から十メートルも離れているので表情は分からない。 「やっぱり行くよ」  矢的は裾をたくし上げた。雄二と長谷川も争うように靴を脱いだ。 「狭いのは入り口だけだ。それに水だって途中までしかない。達磨《だるま》の店ぐらいの広さだよ」  田島の持つ明りを目指して矢的たちは進んだ。屈んだ姿勢で二メートルも入ると、立てるほどの空間になった。入り口付近では膝辺りまであった水位もぐんと浅くなった。 「立派なもんだろ」  矢的たちが集まると、田島は洞窟内部をゆっくりとライトで照らした。長方形に掘られた洞窟の地面には、大きな石がいくつも並べられている。椅子代わりに用いたものに違いない。突き当たりの壁は出窓の形に穿《うが》たれて、その中心に五十センチばかりのマリア像が安置されていた。大理石を刻んだもので、顔立ちは現代的だ。洞窟が発見されてから、当時をしのんで置いた像だろう。像の足下には小銭が散らばっていた。 「蝋燭《ろうそく》に火を点《つ》けようか」  田島は言いつつジッポでマリア像の両側にある燭台《しよくだい》に明りを灯《とも》した。わずか一センチほどしか蝋燭が残っていなくて、芯《しん》も湿気《しけ》っているせいか明りは頼りない。それでも洞窟に暖かさが生まれた。矢的に�蚊死なず�と命名された田島のあばた面に複雑な影ができる。 「綺麗《きれい》……」  入り口に屈んで見ていた佐和子と良美が思わず声を上げた。マリアの肌が蜜柑《みかん》色に輝いている。きっと洞窟が礼拝堂として使われていた当時も、こんな雰囲気だったはずだ。 〈ん?〉  蝋燭の炎がどちらも右上に傾いている。  矢的は穿たれた岩棚の上部を確かめた。どこにも隙間らしきものは見当たらない。 「どうした?」 「どこかに風の通り道がある」  矢的は田島からジッポを借りて捜した。棚の上部右端で炎は大きく揺れた。矢的は指で岩壁を撫《な》でた。全体に苔《こけ》むしているが、途中に凹《くぼ》みを感じた。ぐっと押すと苔が落ちた。直径五センチほどの穴があいていた。指は根元まで入る。奥が深い。 「空気穴だろう」  田島が下からライトを当てる。 「あんなに入り口が大きくて?」  穴の入り口から三十メートルもあればともかく、たった十メートルで突き当たる洞窟に空気穴など不必要だ。 「役人に追われていりゃ扉も閉める。それにアーメンのときだって声が外に洩《も》れないよう入り口を閉ざすんじゃないか? 蝋燭に火も灯しただろうしな。空気も薄くなるさ」  田島の説明に頷《うなず》きながらも、矢的はポケットから万年筆を取り出すと穴に差し込んだ。指の先は届かなかったが、万年筆は途中で止まった。探ると穴は右に曲がっている。 「空気穴なら真っ直ぐのはずだ」 「だったら、なんだい?」  雄二も長谷川も首を捻《ひね》った。 「連絡用のものじゃないかな」 「連絡用?」 「潜水艦なんかでよく使う管さ」 「ああ、伝声管のことか」 「そう。それの可能性はある」 「まさか。だったらこの岩の中に管が走ってるとでも? 大工事じゃねえか」 「でもない。この位置からなら一メートルも掘らないで地上に達する。あとは管を繋《つな》いだやつを地面に掘って埋めていけばいい。この土地のキリシタンは鉱山関係者が大半だったと案内板にもあった。としたら伝声管だって大した飛躍でもないよ。竹の節を抜いたものを繋いで並べても、立派に用が足りる」 「どこと連絡を取り合うんだ?」 「もちろん麓《ふもと》の村とさ。礼拝の間、麓の家に見張りを残しておいて、なにか異変があったらこれで連絡する。そうすると役人が現われる前に逃げられる。いくら山の奥だとしても発見される恐れはあるんだぜ」 「いかにもな」  田島たちは首を振った。 「どうやら、そいつが何百年もの永い間発見されなかった理由の一つかもしれん。命を賭けていた連中だ。その程度は考えつく」 「今もどこかに通じていますかね?」  長谷川が言った。 「竹なら途中で腐ってる。通じてた家だってとっくに取り壊されているよ」  田島は鼻で笑って、 「水も入り口辺りだけだし、ここなら隠れ家にもってこいだ。もし偶人館に人がいるようだったら、この穴で夜を待とう」 「車のほうが楽じゃない?」  良美は反対して大声を上げた。 「車はいったん帰さなきゃいかんだろ。われわれが隠れ穴に向かったのはじいさんが知っている。田舎の年寄りは詮索《せんさく》好きだ。今頃は縁側でオレたちの車が戻ってくるのを見張っているぜ。夜まで車が戻らんとなれば騒ぎ出すに決まってる。時間がかかるようならそいつを防ぐためにも車は帰さんと……」 「…………」 「正義のためにはなんでも許される、と言いたいとこだがね。無断侵入は泥棒と一緒だ。念には念を入れておく必要がある」 「だれが車を運転して帰るの?」 「そいつはあとの心配だ。運よく偶人館に管理人がいなければ時間はかからん」 「こっちは明日仕事があるんですけど」  長谷川は不安そうな顔で矢的を見た。 「その場合はぼくが一台を引き受けます。東和町からバスで帰ります。車は分かりやすいとこに駐車しときますから」 「泥棒が怖くなったか?」  田島は意地悪そうに長谷川を見やった。      9  矢的たちは、隠れ洞窟《どうくつ》を出るとそのまま山頂に足を向けた。そこに行けば偶人館の時計塔が見えると聞かされている。 「東京を歩いていても歴史の繋がりを実感することはないが、ここだと違うな。おんなじ土の上を隠れキリシタンの連中が踏みしめているんだぜ。なんだか穴の中から連中の霊魂を引っ張り出してきたような感じだ。気のせいか足が重くてかなわねえよ」  田島はニヤニヤとして良美に言った。 「バチが当たるわよ」  額の汗を拭《ぬぐ》いながら良美は口を尖《とが》らせた。 「へえ、良美はクリスチャンか」 「クリスチャンが泥棒に賛成すると思う? 違うけど、可哀相じゃないの」  この山の周辺では、五百人近いキリシタンの命が奪われているのだ。佐和子も頷いた。 「だんだん良美に嫌われていくみたいだな」  田島はさすがに殊勝な顔で先を急いだ。洞窟から上には道らしき道がない。けもの道といった程度のものだ。先頭に立つ田島が腰まである草を踏んで道を広げる。 「こんな経験は、子供のとき以来」  頬に当たる小枝を払いながら、佐和子は声を弾ませた。仲間がいるので不安はない。 「…………!」  不意に先頭の田島の足が止まった。 「あったぜ」  田島の声は微《かす》かに震えていた。 「あれが……偶人館なのね」  佐和子の目にも時計塔の尖った屋根が見えた。樹木にその下の建物は隠されているが、建物を取り囲んでいる土塀の屋根は、枝葉の隙間にところどころうかがえる。 「こっち側とはだいぶ違うじゃないか」  田島は麓を眺めた。円い盆地が広がっている。だが盆地の縁はすべて小高い山に囲まれていて、道は一本しかない。それも辛うじて車が通れるほどの狭い道だ。 「民家も七、八軒はあるぜ。これで本当に隠れ屋敷かね。アテが外れちまった」 「前にも話したはずだ。銭屋五兵衛の隠れ屋敷は江戸時代のことで、今は違う。二十六年前に事件が起きたときだって、ちゃんと警察も来ているし、新聞記者もやって来た。町役場だってこの建物の存在は知っている。自力で捜そうとしたから大変だっただけさ」 「そいつぁ承知だがね。オレはてっきり偶人館が山の中にぽつんとあるんだと信じてた。これなら昼の侵入は面倒だ。向こうにゃ畑仕事をしてるおっさんもいる」 「こんなとこに四千億の遺産が?」  良美も少しがっかりしている。 「東京のど真ん中にある日銀には、何千億もの金が蓄えられているよ。まわりに民家があったって別に不思議じゃない。二人とも宝捜しに幻想を持ちすぎているようだ」  矢的は苦笑した。 「オレの勘じゃ、管理人はあそこの家だな」  田島は偶人館に近接した家を指差した。 「他人を住み込ませるよりは、鍵《かぎ》も預けず見張りだけを頼むほうが安全だ。下手なやつに家を任せれば宝捜しをされちまう。まわりに人が住んでいないならともかく、この状態ならそのやり方が利口ってもんだぜ」 「じゃあ、裏から行けば今でも——」 「加島もバカじゃねえさ」  良美を田島は遮った。 「裏山はこのとおり無防備だ。民家の目も届かん。きっとなにか仕掛けをしてるはずだ。お陰でかえって面倒になった。裏からの侵入は諦めたほうがよさそうだ。あるいは赤外線装置を取り付けているかもしれない。裏の塀を越えると、管理人の家のベルが鳴るとか」 「そこまで厳重かなぁ」 「四千億が事実ならな」 「…………」 「最悪の事態だよ。野中の一軒屋なら警戒も少ない。管理人は屋敷の側の小さな家に寝泊まりしてる。そう睨《にら》んでたのに大誤算だ」 「なら……諦める?」 「正面から入る他にないな」  田島は決心を固めた。 「まさか正門を開けて入る泥棒もいまい。裏は警戒してても、前は油断してるはずだ。管理人が眠ったのを見届けて門を狙えば」 「どうしても本格的な泥棒に仕立て上げたいわけね」 「それが厭《いや》なら試しに裏の塀を越えてみろよ。ただし一人でな。良美が捕まってもオレたちにゃ関係ない。高みの見物をさせてもらう」  良美は押し黙った。 「もし正門にも赤外線装置があったら?」  佐和子が口にした。 「まずオレたちだけが行く。皆は二十分もしてから来りゃいい。それで安心だろ」  田島は自信たっぷりに言い切った。 「侵入は夜としても、今のうちに偶人館の全貌《ぜんぼう》を確認しておこう」  矢的が皆を促した。 「とんでもない屋敷だな」  田島は深い溜《た》め息を吐いた。その溜め息は全員に移った。  目の前に広がる屋根の複雑さだけで、ある程度の想像がつく。特に時計塔は圧巻だ。山頂からは尖った屋根しか見えないので高さの見当もつかなかったが、接近すると七、八階もの巨大さだ。時計の真下にある屋根が、まるでスカートを広げているように思える。しかも時計塔は円いドームの上に建てられていた。あるいは礼拝堂はあそこなのかもしれない。 「相当に増改築を繰り返しているね」  屋根|瓦《がわら》の色や様式がまちまちだ。矢的は偶人館の中で、もっとも古い様式の長屋《ながや》門に使用されている瓦と同じものを捜して、初期の偶人館の規模を想像した。それで見ると時計塔ははじめからあったようだ。 〈江戸時代に時計塔か……〉  銭屋五兵衛の隠れ屋敷ならけっしてありえない話でもない。江戸のからくり技術は和時計の発展がもたらしたものだ。その技術者の最高峰の位置にいた大野弁吉が銭五のブレーンだったのである。金に糸目をつけぬ気なら、時計塔を建設して当たり前だろう。銭五とて、弁吉とて、西洋の時計塔に憧《あこが》れを抱いていたはずだ。 〈そうか……〉  矢的は考えているうちに、目の前の時計塔が大型の和時計に似ていることに気がついた。 〈なんとしても屋敷の中が見たい〉  渇望が矢的の胸に渦巻いた。  建物同士を繋《つな》ぐ回廊の窓にもさまざまな意匠が施されている。 「やはり人の気配がどこにも感じられん」  田島は矢的に耳打ちした。 「夜が楽しみになってきたぜ」      10  夏とはいえ、山間《やまあい》の夜は早い。六時を過ぎると辺りは灰色から蒼《あお》の混じった色となった。雨もなく、だれ一人として山に上って来る気配がなかったので、矢的たちは隠れ洞窟に潜む必要もなかった。藪蚊《やぶか》に攻められなければ、時間|潰《つぶ》しもそれなりに退屈しない。佐和子と良美はハイキング気分で野草を摘んでいる。  そこに斜面を上がって来る足音がした。  雄二だった。  雄二は長谷川と二人で車を運転して、いったん山を降りたのだ。 「ずいぶん遅かったね」 「彼を町のバス停まで送って来ました」 「やっぱり怖《お》じ気づいたか」  田島は笑いながら雄二から紙袋を受け取った。雄二が調達してきたサンドイッチや冷たい飲み物が入っている。 「車はどこに?」 「地蔵の辻《つじ》の裏手に手頃な空地が……あそこなら道路からも見えない」 「歩きだと、ここまでどのくらい?」  佐和子が訊《き》いた。 「大した時間じゃなかった。女の足でも一時間ちょっとかな。この山路だと車もそんなにスピードを出せないし。倍は違わない」 「あのじいさんに見咎《みとが》められなかっただろ」  田島が念を押す。雄二は首を振った。 「よし、それならこいつを食って出発だ。偶人館に到着する頃にゃ、真っ暗になっている」 「田島ちゃんて、ホントに初体験?」 「なにが?」 「泥棒」 「そりゃあ……ガキの頃にガムやチョコレートを万引きしたことはありますがね……一応、まともな社会生活を営んでおりますよ」 「まるで罪の意識がないみたい」 「怖いよ。だから無理して平気を装っている」 「怪しいもんだわ。うちの店も気をつけないと。田島ちゃんが帰ったあとは点検しよう」  全員が良美の言葉に爆笑した。 「だけど……」  矢的はやがて笑いを遮った。 「偶人館に侵入するのはぼくと田島の二人だ。皆は裏山に隠れていてくれ。絶対に安心だと確信できたら君たちを呼ぶ。警察に捕まるのはぼくらだけで充分さ」 「そんなー、全員が一緒でしょ」  佐和子は目を丸くした。 「トム・ソーヤの冒険とは違う。銭五の四千億の遺産にしても、キャプテン・クックのように他人から盗んだ財宝じゃない。加島が世間に公表したくないだけのことで、正当な所有者なんだ。加島の犯罪を暴くのが目的だと主張しても、ぼくらの行為は認められないよ」 「もし加島大治が中村秋武殺しの犯人と決まったら、遺産の正当な所有者じゃないわ」 「ぼくらだってそうだろう」  矢的は佐和子をじっと見据えた。 「ただのなりゆきじゃないか」 「なりゆき、って言われると辛《つら》いけどね。ま、矢的の判断に間違いはねえ。オレたちにゃ正義でも、世間から見りゃ強盗団だぜ」 「そんなのは覚悟のうえじゃない」  なにをいまさらと良美は睨《にら》んだ。 「自分から誘っといて、そりゃないわ」 「だから、安全を見定めて呼ぶって」 「それで構わないじゃないか」  雄二が良美の肩を叩《たた》いて納得させた。 「たいてい起きてやがる」  それから一時間後。偶人館を見下ろす斜面に立って田島は舌打ちした。闇の濃い盆地に民家の白い明りがいくつも見える。 「当たり前だよ。七時を過ぎたばかりだ。こんなに早くから寝る家なんてどこにもない」 「けど、この暗さなら見つかる心配もなさそうだぜ。思い切ってやっちまおうか」  矢的も頷《うなず》いた。民家が寝静まるまで待つとなれば、ここで三、四時間も足留めを食らう。 「安全を確認したら懐中電灯を丸く振る。それまで雄ちゃんたちはこの位置で」  田島が言うと雄二は承知した。  二人は急な勾配《こうばい》を慎重に下った。民家とはだいぶ距離があるので多少の物音は気にする必要もないが、それでも田島の腰に下げているビニール袋が、繁みに触れて乾いた音をさせると、さすがに気持ちが落ち着かない。 「間近で見ると凄《すご》い塀だな。この規模だと庭だって小学校の校庭ぐらいはありそうだ」  大名屋敷のようななまこ塀が、ぐるっと偶人館を取り囲んでいる。補修を繰り返しているらしく、どこにも崩れは見えない。山側でも塀の基礎の石積みは一メートル前後ある。それに塀の高さが加わって、地面から上部までおよそ三メートルといったところか。おまけに鼠返しの庇《ひさし》が大きく迫《せ》り出しているので、梯子《はしご》でも用意してこないと塀は上れない。 「やっぱり普通《なみ》の家じゃねえぞ。この様子なら正面の石積みは四、五メートルってとこか。ちょいとした城とおんなじ堅牢《けんろう》さだ。この分だと正面の扉も簡単にゃいかねえよ。たとえ二人で体当たりしてもビクともしねえかも」 「塀の上に侵入防止の装置はありそうか?」 「なんとも言えんが、こう真四角な塀なら取り付けもたやすい。四つの角に赤外線装置を設置するだけですむ。大した経費でもない」 「だけど、管理する側が大変だろう」 「どうして? ごく普通に見る機械だぜ」 「町ならともかく、この山の中では小鳥や鳥がたくさんいる。塀にそいつらが羽を休めるたびに、管理人のベルが鳴り響くのかい?」 「そういうときにゃ赤外線装置を二つ使うんだ。間を開けて二本のビームを発射させる。片方が遮断されただけではベルが鳴らん。同時に両方が感知したときに警報が出る。小鳥や鳥程度の大きさでは二つを遮断できんよ」 「すると角に必ず機械があるわけだ」 「昼には見えなかったと言いたいんだろ」  田島は苦笑して、 「そこが加島の狙いかもしれんじゃないか。油断させといて、夜にはスルスルと赤外線装置が角から飛び出してくる。細い柱のようなもんだから、この暗さでは見えん。まさかライトで照らすわけにもいかんしな」 「どうも田島の考え過ぎって気がしてきた」 「実を言うとオレもだ」  田島は悪びれずに笑った。 「この堅牢な塀じゃ、不安もなさそうだ。こいつを越えてまで侵入しようとする泥棒なら、赤外線も大して役に立たん。加島もそう考えるかもな。ダメでもともと。低いほうの塀から試してみるかい。オレの肩の上に立てば塀の屋根に背が届く。念のために角を確かめて装置のないのが分かれば……」  矢的も同意した。 「ただし、庭は慎重に行かないと。屋根よりははるかに簡単に装置を取り付けられる。まさか光の線に足が触れた途端に、時代劇みたいに四方八方から矢が飛んでくるとは思えないがな。侮ってると危険だ」 「こっちはそれで屋根に上がれるけど、田島はどうする? 塀は三メートルもあるんだ」 「ロープも用意してある」  矢的は呆《あき》れた顔で田島を見た。 「どうしたって言い訳は通用しないな。ロープまで持っていたら真っ直ぐ留置所だ」 「この期《ご》に及んで言い訳する気はない」 「妙に頼もしく思えてきたよ」 「自慢じゃないが、アフリカの密林で一カ月を過ごした経験だってあるんだぜ。それに較べたら屁《へ》みてえなもんさ。使命感さえありゃゴキブリだって食ってみせる」  言いながら田島は矢的を促した。  何度も確かめたが装置らしいものはどこにも見当たらない。矢的は屋根に這《は》い上がった。しばらく様子を窺《うかが》ったが、管理人らしい家にも特別な変化はなかった。矢的は投げられたロープを受け取り、田島を引き上げた。 「あそこが一番安全そうだ……」  田島は屋根から見渡した。母屋と塀の間が五メートルほどしかない箇所がある。 「田島が思いつくってことは、他の泥棒も加島も考えるってことだ。ぼくが彼ならあそこを厳重にする」 「いかにもな。だったらどこから?」 「このまま塀の屋根を伝って正門まで行こう。たしかに庭は危ない。だけど、正門から玄関までの道は大丈夫だと思うんだ。じゃないと管理人が往き来するたびにベルが鳴って大変だ」 「正解だぜ。それならついでに正門の扉も開けられる。雄ちゃんはいいとして、良美や彼女にゃ塀を越えられん。それと……上手く行けば監視装置のスイッチを発見できるかもしれない。きっと正門の側にあるはずだ」 「本当に監視装置があるとすれば、だな」  矢的も頷いた。泥棒|避《よ》けの装置のスイッチを塀の外に取り付けるわけはない。といって、建物の内部にあるとも思えなかった。それなら管理人に屋敷の鍵《かぎ》を預けることになる。あの加島なら、そこまで他人を信用しないだろう。  矢的と田島はゆっくりと歩を進めた。分厚い塀のせいで屋根の幅も充分にある。  やがて二人は正門脇に辿《たど》り着いた。外側は五、六メートルの高さだが、内側は二メートルもない。飛び下りるのは簡単だった。  二人は巨大な長屋《ながや》門の裏側に立った。門の右側に小さな部屋が作られている。門番の待機している部屋だ。田島は気配を窺ってから地面に向けて懐中電灯を点《とも》した。周囲に余計な明りが洩《も》れないようにガラスをハンカチで覆っている。ちょいとしたプロだ。 「思ったとおりだ。この部屋の窓も泥棒避けに、内側から鉄格子を嵌《は》め込んである」  窓の外側は板戸なので明りが洩れる気遣いはなさそうだった。田島はホッと息を吐くと狭い部屋を点検した。配電盤がすぐに見つかった。たくさんのスイッチの上に、門燈とか庭とか発電室の文字が並んでいた。 「こいつがおそらくそうだ」  ほら見ろ、といった口調で田島は配電盤の隣りにあるスイッチをライトで示した。 「侮っていりゃ、明日は警察だったぜ」 「電源が切られている」  矢的は苦笑しながら田島に言った。 「とんだ無駄骨だったね」 「管理人がつけ忘れたってわけか。ったくドジな留守番だ。加島も嘆くだろうよ」 「これだと玄関がついてることになるな」  矢的は配電盤を眺めて首を捻《ひね》った。振り向いても、もちろん玄関に明りはない。 「電源がオンになってるだけで、屋敷の中にもスイッチがあるのさ。よく見かける」 「じゃあ、だれかが中で消したとでも?」 「…………」 「単純に電球が切れているのかな」 「脅かさんでくれ。ドキッとした。それに、前に加島でもやって来て消した可能性だってある。今日とは限らんぜ」 「ずうっと前なら、管理人がこっちの電源をオフにしてると思う」 「厭《いや》なことを思いつく野郎だな」  田島の目が不安に曇った。 「じゃあ加島が昼にでも来たと言うのか」 「もしかしたら……ね」  矢的は外に出て偶人館に目を移した。薄闇の中に、巨大な人形を彷彿《ほうふつ》とさせる時計塔が聳《そび》えていた。  白い文字盤がぼうっと宙に浮かんでいる。  突然——  文字盤のまわりに色とりどりの明りが点滅しはじめた。矢的は絶句した。いつの間にか田島も並んで空を見上げていた。 「…………!」  どこからか甘い音楽が流れてきた。 「こいつは……」  田島の声は掠《かす》れていた。  いきなり眩《まぶ》しい明りが二人を包んだ。  玄関脇のバルコニーから強烈なスポットライトが照射されたのだ。 「偶人館へようこそ」  スポットライトの側には何人かの男女がたたずんでいた。顔は影になって見えない。だが、今の声は間違いなく浮田美洋のものだった。女優らしい気取った口調でも分かる。  明りの中で矢的と田島は顔を見合わせた。  ポッと玄関に明りが点された。  小さな人影が二人に向かって来る。  加島大治に相違なかった。 「どういうつもりです?」  矢的は加島に詰め寄った。 「それはこっちの言い分じゃないかね」  加島は低い声で囁《ささや》くと、矢的の手を握った。 「娘の火葬の日に面倒はごめんだ。君たちのことは私が招待したと皆に言ってある。せっかく通夜に出席したいと申し出てくれたのに、それを断わった詫《わ》びにな」  加島は二人に囁いた。 「ついでに、難攻不落の偶人館に見咎《みとが》められず侵入ができるか、遊びで賭けをしたとも説明しておいたよ。不自然極まりない説明だが、もともと遊びの好きな連中ばかりだ。信じたのか、それとも信じているフリをしているのか分からんが、一応は納得している」  加島はバルコニーに手を振った。 「なぜぼくらのことを?」 「昼に山の向こうで老人と会ったはずだ。彼からここの管理人に連絡が入った。それで礼拝堂で君たちの話を聞いていたのさ」 「聞いていた? なにを」 「隠れ洞窟《どうくつ》と礼拝堂は管で繋《つな》がっている」  あっ、と矢的は青ざめた。迂闊《うかつ》な話である。隠れ洞窟よりも、本格的な礼拝堂を役人に発見されることのほうが隠れキリシタンの連中にとって痛手だったはずだ。隠れ洞窟は江戸の末期にはほとんど利用されていなかったらしいが、初期に作られた伝声管をそのまま用いて洞窟と偶人館とを繋げることはたやすかっただろう。ましてや設計に弁吉が絡んでいたとしたらなおさらである。 「君たちの動向が気になって、午後に連絡を入れたら、このとおりだ。よほど地元の警察に頼んで捕まえてもらおうかと思ったが……仙台にはまだ記者連中も大勢残っておる。希里子の事故に加えて、世界的なデザイナーの君までもが、私の別荘に泥棒に入ったと知ればどうなると思う? 張り切ってニュースにするさ。君たちも保身のために不愉快な憶測を警察にあれこれと口にするだろうしな。私の得になることは一つもない。君たちの行為を許すのはまことに残念だが、今夜の件は忘れよう。君たちも私に口裏を合わせることだ。だれもが遊びだと思っている。それでケリをつけようじゃないか」 「不愉快な憶測……ですか」 「糸を引いているのは神楽かね?」  矢的はそれに返事をしなかった。 「まあいい。話は分かったな」 「他にも三人が来ています」 「呼べばいい。泊まる部屋に不自由はしない」  作った笑顔で加島は言った。 「希里子さんの火葬はどうなりました」 「無事にすんだ。明日は東京に帰る。さっさと他の連中を連れて来い」  加島は憮然《ぶぜん》とした顔で呟《つぶや》くと先に戻った。 「ヤバイことになりやがった」  見送りながら田島は溜《た》め息を吐いた。 「化け物に面ってとこだ」 「化け物に面?」 「暗闇で化け物に遭遇したほどの驚きってことさ。加島が偶人館に先回りしていても不思議ではないと思っていたけど……まさか全員が一緒とはね。それに、ヤツがここに来た理由にしても、一応の筋が通っている。ぼくは信じていないが、警察には通用する理屈だな」 「なに呑気《のんき》なこと言ってる。これで百八十度立場が逆転したぜ。オレたちが不法侵入しようとしたのは、加島ばかりか管理人も承知なんだ。弱点を握られたってことじゃねえかよ」 「でも、これで堂々と偶人館に入れる」 「加島の監視つきでな」 「加島が中村秋武殺しの犯人なら、彼には一人も味方がいないよ。だからこそ妙な勘繰りをされないように、ぼくらの侵入だって遊びだと皆に言い繕った。たとえ加島が監視しても、たった一人なんだぜ。こっちは五人も数が揃ってる。泊まれば探る機会もあるはずだ」 「おまえさんも相当な度胸だな」  いかにも、と田島は首を振った。      11  おずおずと五人がドアを開けると、玄関ホールには露麻夫、百合亜、そして美洋の三人が笑顔で待っていた。初対面の良美は雑誌やレコードで馴染《なじ》みの露麻夫と美洋を眺めて照れた。 「矢的さんとはどこまでも縁がありますね」  露麻夫は屈託のない笑いで招いた。 「加島のおじさんの発案で家中真っ暗にしていたから、早く来てくれて助かった。図書室だけは明りが外に洩れないので、皆はそこに待機していたけど、オレが見張り役だったから辛《つら》い思いをしましたよ。バルコニーには藪蚊《やぶか》も多かったしね」 「だったら、われわれが塀を越えたのも?」  矢的の問いに露麻夫は微笑んだ。 「簡単に発見するのもつまらないと言って、監視装置の電源を切ったんだけど、二人ともなかなかのもんだった。まさか塀を伝って正門に降りるなんて……その気で待ち構えていなきゃ二人の勝ちだ」  屋敷の電気を消していたのは、自分たちを確実に敷地内におびき寄せる加島の罠《わな》だ。招待したと言いながら、自分たちが姿を現わさないでは加島も困る。監視装置の電源についてもおなじだ。もし屋敷から離れた場所でわれわれがそれに引っ掛かれば、常識的に逃げる。加島としては手が届くところにまで矢的たちを引きつける必要があったのだ。 〈間違いなく加島が中村殺しの犯人だ〉  矢的は確信を抱いた。  泥棒が心配なだけなら屋敷中の明りを点して、警戒装置を働かせていればいい。われわれがそれで逃げ出しても、追わなければ騒ぎにもならない。そうするつもりなら、われわれを招待したなどと、妙な嘘をつく必要もなくなる。  加島は、われわれがどこまで秘密を知っているのか気になって、逆手に出たのだ。偶人館に隠し事などないぞ、とわれわれに納得させれば今後の心配は無用だ。でないと、今夜は侵入を防げてもわれわれが何度となく試みると考えたに違いない。そうとしか思えなかった。 「そんなわけで、今夜はインスタント料理ばっかりだ。酒はたっぷりとあるようだけど」  露麻夫は矢的の気持ちも知らずに笑った。 「君たちもここははじめてなんだろ?」  薄暗い廊下を歩きながら矢的は訊《たず》ねた。 「凄《すご》い屋敷ですよ。こんな幻想的な別荘があるのに、どうして今度の映画の舞台に使わないんだって美洋さんと二人で提案した。安っぽいセットを拵《こしら》える必要もないでしょ」 「不吉な場所だから厭《いや》なのさ」  田島の言葉に、露麻夫は立ち止まった。 「不吉な場所って?」 「神楽先生からなにも?」  矢的は百合亜に質《ただ》した。彼女は首を振った。 「めぐみ夫人の前のご主人が、この屋敷で死んでいる。事故死と一応は判断されたけど……」 「けど?」 「真相は分からない。それ以来、めぐみ夫人と加島さんはこの屋敷を嫌っているらしい」 「殺された、と睨《にら》んでいるわけだ」  露麻夫の目が光った。 「神楽先生も君たちに話していないんだったら、今のことは内緒にしてくれ。希里子君の事故があったばかりなのに、二十六年前の事故を蒸し返されたら夫人も辛いさ」  露麻夫たちは素直に頷《うなず》いた。  贅《ぜい》を尽くした応接室には、神楽夫婦が居心地悪そうな顔で加島やめぐみと向き合っていた。神楽は自分の失言が原因で、こんな結果になったと考えているらしかった。招待などは嘘だろう、という視線を矢的によこした。 「せっかくだ。食事の前に希里子を拝んでやってくれんか。これもなにかの縁だ」  加島は打ち解けた笑いを浮かべて、 「今夜は礼拝堂に安置してある。すまんが皆を案内してくれ」  露麻夫に命じた。 「私も一緒に行こう」  腰を浮かせた神楽を加島は軽く睨んだ。 「どうやってここを突き止めたのかね?」  矢的と並んだ神楽は囁《ささや》いた。 「加島は、私が君たちに場所を教えたと思っておるようだが……私でさえここに一人では来れんよ。どうもびっくりすることだらけだ」 「二十六年前の新聞に、ちゃんと住所が掲載されていました」 「あの事件を調べただと?」 「それだけじゃありません。この偶人館は銭五の隠れ屋敷だと思われます。弁吉が設計し、この山に住む隠れキリシタンの連中の協力で、密《ひそ》かに作られたものだと」 「隠れキリシタン?」  神楽には初耳だったようだ。が、矢的の簡単な説明にみるみる顔色を変えた。 「ありうるな。それなら考えられる」 「礼拝堂のあるのがその証拠です」  その言葉と同時に曲がりくねった廊下も終点に達した。目の前に大きな扉がある。 「これで案内の役目は終わり。希里ちゃんの骨を見るのはもうたくさんだ」  露麻夫は扉を開けると廊下を戻った。  小さいがなかなか荘厳《そうごん》なドームだった。  けれど、どこにもマリア像はない。 「天井に絵が塗り込められておるんだよ」  神楽が全員に指差した。ドームの中央辺りの白い漆喰《しつくい》が少し剥《は》がれている。そこにマリアの背光らしき黄金の線が見られた。 「まさか隠れキリシタンの礼拝堂とは考えもしなかった。中村君の何代か前の先祖が、礼拝堂を潰《つぶ》して音楽堂に改装したという話を頭から信じておったが……思えば、建てられた当初からこの絵は漆喰で隠されていたに違いない。いかに山の中とはいえ、これほどの証拠が見つかれば言い訳もできん。信者たちは漆喰に隠されたマリアを、頭に描いて礼拝していたのだ。いかにも弁吉らしいアイデアだ。そうすれば信者も納得するし、万が一の場合、銭屋の名にも傷がつかん」 「…………」 「君の想像どおりにこの礼拝堂がキリシタン弾圧の時代に作られたとしたら、偶人館の建設年代だって最低でも明治の初期まで遡《さかのぼ》ることができる。弁吉の生きていた頃だ」  神楽は興奮した。 「そうなると上の時計塔も弁吉か!」 「内部をご覧になったことは?」 「もちろん……と言っても二十六年前だが。なんで中村君はそれを私に教えてくれなかったんだろう?」 「隠れ屋敷の秘密を守るためでしょう。弁吉の名前を出せば銭屋五兵衛に繋《つな》がります」 「加島やめぐみさんもそれを承知かね?」 「前にもお訊ねしたはずです。加島さんの莫大《ばくだい》な財産はどこから手に入れたものかと」  神楽は唸《うな》った。 「希里子さんを拝んでからにしません?」  佐和子が矢的の袖《そで》を引いた。  真正面の狭いステージの右手には、壁を覆うばかりのパイプオルガンが据えられている。演奏されなくなって久しいのか、パイプは無惨にも錆《さ》びついていた。ステージの中央に小さなテーブルが置かれ、そこに希里子の骨箱が寂しげに安置されている。二本の蝋燭《ろうそく》が淡々と燃えているのも悲しみを誘った。  矢的たちは現実に引き戻された。 「拝めと言ったって、線香もねえぜ」  それでも田島は目を瞑《つむ》って両手を合わせる。 「彼女にしたって、この偶人館にこういう形で来るなんて想像もしてなかっただろうな」  田島の言葉に佐和子は胸を衝《つ》かれた。 「時計塔に上がるにはどこから?」  矢的は希里子を拝むと神楽に訊《き》いた。 「この礼拝堂からだ。あのパイプオルガンの奥にドアがあって、塔への階段が続いている」  矢的はステージに駆け上がった。  錆びた真鍮《しんちゆう》のノブを引くと簡単に開いた。  黴《かび》の臭いが矢的の鼻を直撃した。 「今はダメよ。時間がないわ」  佐和子が引き止めた。 「鍵《かぎ》を確認しただけだよ。あとにするさ」  矢的はドアの脇にスイッチを見つけた。指で押し上げると暗い電球が内部に点された。ドームの中央に延びる階段が見える。その先に真っ直ぐ上に向かう螺旋《らせん》階段の一部分が目についた。胸の鼓動が高鳴る。 「中村さんは殺されたんですよ」  振り向いて神楽に言った。 「けっして事故じゃありません。その仕掛けは必ずこの時計塔に隠されているはずだ」  矢的の自信に満ちた口調に、神楽も頷いた。 [#改ページ]   七 子は母の醜きを嫌わず      1 「せっかく食事に招いたというのに、こうも話が弾まんのは希里子のせいかね?」  簡単な食事を終えて食堂から応接室に移動するなり、加島はいかにも不快そうな顔で矢的を睨《にら》んだ。 「君たちばかりか全員がだ。ままごと遊びみたいな言葉のやりとりには、いい加減うんざりだ。言いたいことがあるなら、はっきり口にすればよかろう。この屋敷には他にだれもおらん。私にも我慢の限度がある」  加島の目は神楽英良に注がれた。神楽は視線を外してめぐみを見やった。めぐみは不審さを表情に浮かべながらそれを受け止めた。 「おまえに余計な心配をかけたくなくて、なんとか取り繕っていたがね」  加島が妻のめぐみに言った。 「この連中は私が招待したわけではない」 「まさか!」  めぐみの代わりに露麻夫が叫んだ。 「だったらどうしてここに?」 「招待もしていないのに、連中はああして塀を乗り越えて来た。つまりは泥棒だ」 「じゃあ、だれからこの場所を?」 「お父上からさ。この屋敷のことは私と妻を除くと、君の両親しか知らん。なんのつもりでこの連中をけしかけたか、私には見当もつかんが……管理人から連絡を受けていなければ、今頃、この連中は屋敷の中をどぶ鼠のように徘徊《はいかい》していたことだろうよ」  露麻夫と百合亜の兄妹は顔を見合わせた。 「希里子の一件があって仙台には大勢のマスコミ関係者が集まっておる。もう充分だ。これ以上の騒ぎにはしたくない。それで不本意ながらこの連中を見逃すことにした。犯人が著名なデザイナーのうえに、陰で操ったのが大学教授となれば記者どもの恰好《かつこう》の餌食《えじき》だからな。第一、君たちの父上とは二十年以上もの永いつき合いだ。理由も確かめずに警察に突き出すわけにもいかん。一言謝ってくれさえしたら水に流そうと思っておった……なのに、謝るどころか、私が追及しないのをいいことに、のらりくらりとくだらん話ばかり」 「お父さま、本当なの!」  百合亜が神楽の肩を激しく揺すった。 「残念ながら見当外れもいいとこだ」  矢的は挑戦的に加島を睨んだ。 「確かに偶人館の存在は先生から耳にした。けれど先生は場所さえ忘れていた。教えたくても無理な注文ってもんでしょう」 「たわごとを言うな! それならなんで君たちがここに来れたと言うんだ」 「奥様の元のご主人の記事を捜し出しました。新聞にはちゃんと場所が説明されてある」  矢的が口にすると、めぐみは青ざめた。 「元のご主人の記事って、なによ」  美洋はあんぐりと口を開けた。 「この屋敷の正当な所有者だった人です。二十六年前に殺された」 「殺されたですって!」  美洋は絶句した。 「あれは事故でした。秋武さんはだれにも」  めぐみは強く否定した。 「あの事件に興味を持って、詳しく調べていた新聞記者がいましたね?」  矢的が質《ただ》すと、めぐみは動転した顔で頷《うなず》いた。加島も唖然《あぜん》と矢的を見つめる。 「東京でその記者とお会いしたことは?」  もっと調査を進めてから口にすべき質問だったと矢的は内心後悔しながら訊《たず》ねた。肝腎《かんじん》の加島がこの態度では勝負する他にない。 「あの人からなにかお聞きになったの?」  めぐみは慎重に矢的に応じた。 〈ってことは、その記者が事故で死んだのも知らないってわけだ〉  だが、あの人、と具体的に言うところをみれば、かなりの面識があったに違いない。 「なら加島さんはどうなんです?」 「どう、とは?」  加島の口調は急に弱まった。 「彼は東京支社に転勤になったんです」 「なんでそれが私と関係ある? 記者などと会った記憶はいっさいない」  加島の言葉にめぐみも同意した。 「おかしいわね」  黙って聞いていた神楽の妻、由乃が呟《つぶや》いた。 「記者の方って、事故の後、何年か経ってから家に来られた人じゃありませんこと? ほら、あなたの大学を最初に訪ねたとか」  由乃が言うと神楽も思い出した。 「古い話なのではっきりとは憶《おぼ》えていませんけど、私たちと会う前に加島さんの会社を訪ねたとかおっしゃって」  そうそう、と神楽も首を振った。 「知らん。無責任な作り話はせんでくれ」 「なぜそれが嘘だと!」  由乃は厳しい目をした。 「それならあの記者が嘘をついたんだ。もし本当だったら、めぐみも会っているはずじゃないかね。私だけを訪ねてどうする?」 「東京ではお目にかかっていませんわ」  めぐみも断言した。 「どうでもいいことなんじゃないの」  露麻夫は首を捻《ひね》った。 「それが今度のことと関係あるわけ?」 「記者は確かに会ったと言ったんですね」  矢的は無視して神楽と由乃に確認した。 「ちゃんと会社の場所も知っていましたわ」 「そいつがどうしたってんだ。そこまで疑うというなら、その記者をここに連れて来い」  加島は声を荒らげた。 「なんの目的で記者のことなどを持ち出して来たのか知らんが、少し度がすぎるぞ」 「その記者は亡くなっているんですよ」  矢的が口にすると、めぐみは目を丸くした。 「しかも東京へ転勤直後に交通事故でね」 「…………」 「轢《ひ》き逃げで犯人は分からずじまいだった」 「それが私の仕業だとでも言うのか!」  ついに加島は爆発した。 「いかにも思わせぶりな言い方をしおって。貴様はなんだ! 今から警察に通報したって構わんのだ。それが嫌なら、とっととこの屋敷から出て失せろ。下手に出ればいい気になりおって……なんの証拠があるんだ」  あなた、とめぐみが制した。 「だったら訊くが、その記者をどうして私が殺さなければならん。どんな得がある」  めぐみの腕を乱暴に払って加島は叫んだ。 「この加島大治を舐《な》めるんじゃない! その気になれば貴様の一人や二人どうとでも」 「あなたが秋武さん殺しの犯人だからだ」  激情に駆られて矢的の口が滑った。  めぐみの頬が一瞬、引き吊った。 「貴様! ぶち殺してやる」  いきなり加島は矢的に飛びかかった。間に露麻夫が入った。加島の拳《こぶし》が宙を泳いだ。 「じゃあ、ここで説明しろ! どうやったら私が殺せる。私はめぐみの側にいたんだぞ」 「そうです。あなたの勘違いだわ」  めぐみも矢的に訴えた。 「主人は秋武さんと大の親友でしたのよ。それに秋武さんが空にいる時、主人はずうっと私の隣りで一緒に眺めていたんです。嘘じゃありません。あれは事故でした」 「すみません。言い過ぎたようです」  矢的は素直に頭を下げた。 「首を洗って覚悟していろ。人を犯人扱いしおって。このままですむと思ったら大間違いだ。どうせ貴様だけの知恵じゃあるまい」 「それはどういう意味かね?」  神楽の目がギロッと光った。 「希里子の車に、だれがからくり[#「」に傍点]を仕掛けたかってことだ」 「…………」 「からくりには偶人館の名があった。あの時点でこの屋敷のことを知っていた人間がだれとだれだったか、考えれば自ずと答は出る」 「この私だったとでも言いたそうだな」 「私とめぐみが娘を殺そうとするはずがなかろう。残るはあんたという理屈だ」 「私がなんのためにあの娘を殺す?」  呆《あき》れた顔で神楽は加島を眺めた。 「こっちだって馬鹿じゃない。希里子の葬式の間中、ずうっと理由を考えていた」 「それで?」 「あの車は普段私が使っている。おそらくあんたの狙いは私だったんだろうな」 「なるほど。君を狙ってのからくりか」  神楽は苦笑した。 「なにがおかしい」 「希里子ちゃんならともかく、君なら殺したいと思っている人間がこの世の中にさぞかし大勢いただろうと想像してね……ただし」  神楽は一息入れると、 「残念ながら私にその度胸はないよ。君を殺して私にどんな得がある。こいつはさっきの矢的君に対してのお返しだ」 「私を殺して、首尾よく露麻夫と希里子が一緒になれば、露麻夫が私の会社を継ぐ」 「君が秋武君の財産を奪ったようにかね」  神楽は皮肉の笑いを洩《も》らした。 「人は自分の物差しでしか他人を判断できん。君がそうだったから私もそうだと決めつける」 「もう、よしてちょうだい!」  めぐみが耳を塞《ふさ》いで喚《わめ》いた。 「希里子が死んだばかりなのよ。もう嫌、耐えられないわ」 「私がなにも知らんとでも思っておるのか」  加島はめぐみを怒鳴りつけた。 「おまえが陰でなにを企んでいたかをな。希里子、希里子と殊勝そうに言うが、おまえは希里子のことより——」 「日記が残っていますわ」  加島を遮るように由乃が言った。 「きっとどこかにしまってあるはずです」 「なんの日記かね?」  神楽は妻の由乃を見据えた。 「あの記者の方がいつ家に訪ねて来たか……それを見れば私の言葉が嘘でないのも」  由乃は勝ち誇った顔で加島を眺めた。  矢的は深い溜《た》め息を吐いた。  言葉もなくやりとりを見守っていた佐和子や田島たちも思わず顔を見合わせた。      2 「まったく、とんでもねえことになったもんだぜ。出ていけと言われた時にゃ、慌てた」  美洋や百合亜が割って入ってなんとか事態は収拾したが、あのまま追い出されてしまえば、それまでの苦労が無駄になっていた。田島は通された部屋に布団を敷きながら、ぶつぶつと呟いた。佐和子と良美は襖《ふすま》を隔てた隣りの八畳間で、ここには矢的と雄二が一緒だ。雄二もさすがに疲れた顔をしている。 「まだ着替えはしてないわよね」  声をかけて良美と佐和子が襖を開けた。 「矢的にゃ失望したよ」  灰皿を引き寄せながら田島は胡座《あぐら》を掻《か》いた。 「なにが名探偵なもんか。殺しの謎も解き明かしてないってのに、あんたが犯人だときた。お陰で加島に警戒されちまっただろうが」  そうよねえ、と良美も同意する。 「オレは手を引くぞ。こんなドジな展開なんぞ、ミステリーにもなりゃしねえ。探偵ってのは怪しいと思っていても黙って犯人を泳がせておいて、最後の最後まで疑ってねえフリをするもんだぜ。直観で言い当てるんならガキにだって探偵役がつとまる」 「現実は小説みたいにはいかないさ」  泥棒の真似事をしたり、やたらと複雑な謎にしたがる田島を矢的は笑って、 「加島はアリバイがあるから自信を持っているだけだ。記者のことだって、連れて来いと豪語したのは、相手が死んでいると知っていたからだ。神楽先生の奥さんが言ったように、記者と加島が会ったのは疑いがない。心配ないよ。推理に間違いはない」 「そりゃ、こっちもそう思っているがな」 「からくりは必ず見つけ出す。まだ現場も見ていないんだ。それで解き明かせと言われても無理というものだ」 「だから気が早かったと言ってるのさ」 「日記になにが書いてあるのかしら」  佐和子は身を乗り出した。 「死んだ記者が加島の会社を訪ねた事実と、その日付が確認できれば大したもんだ」  田島は煙草の煙を吹かしながら、 「轢き逃げに遭った日は簡単に調べられる。もしそれが加島と会った日とそんなに離れていなきゃ情況証拠とおんなじだぜ」 「めぐみ夫人は記者と会っていないと言うんだから……たぶん二、三日の間だ」  矢的は自信たっぷりに重ねた。 「加島は記者を夫人に会わせたくなかった。それが最も自然な解釈だね。まさか事件の真相に記者が到達したとは思えないけど、加島としては夫人を通じて銭五の遺産についてあれこれと記者に探られるのが嫌だったのさ。当分はごまかせても、いつかは厄介な存在となる。だったら手当ては早いうちにしたほうがいい。事件を調べていた馴染《なじ》みの記者が殺された、と知れば、めぐみ夫人だって不審を抱く。そこから秋武殺しへの疑惑がふくらまないとも限らないんだから」 「先の先を読んで殺したってことか。人の命なんてなんとも思ってねえわけだ。となると……神楽夫人もやばくはないか?」 「…………」 「日記を奪い取ろうとして加島がなにかを仕掛けてこないとも……」 「記者を殺した時とは情況が違う。今は時効の成立している犯罪なんだよ」 「法律的にはな。しかし加島ほどの人間となりゃ敵も多い。たとえ牢屋《ろうや》に送ることができなくたって、そいつを利用して社会的な地位を奪おうとする連中はたくさんいるさ。もともと評判の悪い男じゃねえか。マスコミに知れれば一発でお終いだ。人間の心にゃ時効なんてのは通用しねえよ。それで刑期を終えた犯罪者がなかなか立ち直れねえんだぞ」 「そんなにバカな男だろうか?」 「だれが?」 「もちろん加島だ。もし、ここで神楽夫人の日記を狙ってなにかを仕掛ければ、真っ先に加島が疑われる。こんなに大勢の証人がいるんだ。それは当の加島も承知だろう。それに、どうせ日記には大したことが書かれていないのも充分に分かっていると思う」 「なんでだ?」 「もしその時点で記者が加島への疑惑を仄《ほの》めかしていたとしたら、その後、神楽先生たちがヤツと二十年もつき合うと思うかい? 事実なら相手は神楽先生の友人を殺した人間なんだよ。平気で交際を続けられるはずもない。逆に言うと、記者は神楽先生たちになんにも言わなかったということさ。日記に書かれているのは、せいぜい訪ねて来た日付程度のものだ。それならいくらでも言い訳できる。記者が死んだ今となっては、どちらが嘘をついたのか決めるのも不可能だろ。危険な罪を重ねるよりは、その方法を選ぶんじゃないか」 「さあて……そいつはどうかな」  田島は腕を組むと、 「常識的にはそうだろうが、問題は加島が守りの姿勢に入ってるってことさ。これだけ事件が続きゃ、だれだって神経質になる。矢的みたいに冷静な判断ができねえかもしれんぞ。降りかかる火の粉は、とりあえず払う。後先も考えずに日記を奪おうと……」 「私もそう思うな」  良美も首を振った。 「日記の話が出た時、凄《すご》い顔してたもの。加島のホントの恐ろしさを知らないから、先生の奥さんもうっかりと喋《しやべ》っちゃったんだわ」      3  真夜中に矢的と田島は布団から這《は》い出た。真っ暗な中で服を着る。雄二が目覚めた。 「二人だけで大丈夫ですか?」 「時計塔の中に入っちまえば安心だ。加島の寝ている部屋からだいぶ離れている。ちっとやそっとの物音を立てても平気」  田島は雄二に囁《ささや》いた。 「もし怪しい気配でもあったら、そっと庭に出て上に合図してくれ。時計塔のバルコニーにオレか矢的のどっちかが常にいるようにする。この部屋から礼拝堂は一本道だ。加島が駆けつけるとしたら、必ず外の廊下を通る」 「礼拝堂には庭からでも行けた」 「その場合はオレたちが見つけるよ。雄ちゃんは気にしないでいい。行って帰って、ざっと三、四十分てとこだな」 「合図しても逃げ場がないんじゃ?」 「どこかに隠れる時間ぐらいはある。まさか時計塔の内部は空の段ボール箱みたいに空洞じゃねえだろう。それで発見されたら、諦めるしかない。今度は言い訳も利かん。ひょっとしたらヤツと殺し合いになるかもな」 「…………」 「冗談だよ。ヤツは一人だ。今夜のところはむしろヤツのほうで穏便にすまそうとする。脛《すね》に傷を持っているのはヤツなんだ。せいぜい悪態をつくのが関の山だろうぜ」 「明日にでも堂々と見学を申し込むほうが安全じゃないんですかね」 「すんなりと加島が見せてくれると思うかい。ここはヤツの屋敷なんだし、断わられたらそれまでだ。明日の昼には全員が東京に戻る予定になってる。この方法しかねえさ」  田島は小さく首を振って矢的を促した。 「加島の気配を感じたら私も後から行きます」  雄二は二人を見送って静かに襖を閉めた。  廊下の窓から差し込む星明りを頼りに、二人は礼拝堂を目指して無言で進んだ。廊下は分厚い白壁のせいか、薄ら寒い。ドアに最初に辿《たど》り着いた矢的はそっとノブを確かめた。回すと、重い軋《きし》み音を立ててドアが開いた。矢的はひやひやした。人の声よりもこういう音のほうが遠くまで響く。 〈ん?〉  と同時に矢的は背後にチリリンと微《かす》かな風鈴の音色を聞いた。田島も廊下を振り返っている。けれど、だいぶ遠くの音だ。  二人はじっとその場に立ちすくんだ。人のやって来る様子はない。意を決してドアを三十センチほど押すと中に忍び込む。廊下に目を配りながら田島も入った。ドアをしっかり閉じると田島は安堵《あんど》の息を吐いた。この厚いドアなら多少の声も気にはならない。 「明りをつけても構わんだろ」  礼拝堂には窓がなかった。隠れキリシタンと関わる礼拝堂だ。外から中が覗けないように設計されている。矢的が頷《うなず》くと田島は懐中電灯をつけた。闇に馴《な》れていた目には、それだけの明りでもドキッとする眩《まぶ》しさだった。その光の先に希里子の白い骨箱が浮かんだ。田島は慌ててスイッチを一度消した。 「びっくりさせやがる。彼女の遺骨が安置されているのを忘れていた」 「あの位置だったかい?」  矢的は田島から懐中電灯を受け取って、ふたたび明りを点けた。夕方に拝んだ時はステージの中央に小テーブルが置かれてあったような気がするのに……。 「こんなに左寄りじゃなかったがなぁ」 「寝る前に加島か夫人でも来たんだろう。もう一度拝みにさ」 「それなら、われわれの部屋の側を通るはずだ」 「じゃあ、その前だ。夫人と百合亜君が皆の寝室の手配をしてくれたんだ。何度でも礼拝堂に入る機会はあったさ」 「テーブルまで動かす必要がどこにある」 「知らんよ。人の勝手だろ。オレにゃ文句を言うくせして、矢的のほうが余計なことを考えすぎるぜ。まさか彼女の霊魂がテーブルを移動させたなんて口にするなよ」  それには矢的も苦笑した。 「こうして見ると、彼女の骨箱をここに安置したのは加島の作戦かもしれんな。身内はともかく、他人なら薄気味悪がって滅多に礼拝堂に近づこうとはしない。ましてや真夜中に」 「そんな無駄話よりも時計塔だ」  矢的はステージに上がると、右手のパイプオルガンの背後にまわった。 「こっちを照らしてくれ。真っ暗なんだぞ」  痛っ、と呻《うめ》きを上げながら田島が言った。 「壇の尖《とが》った角に膝《ひざ》をぶつけちまった」 「のんびりしてるからだ。われわれは泥棒だよ」  オルガンの陰には、礼拝堂の真上に聳《そび》える時計塔へ通じるドアがある。夕方にも確かめたように、ドアには鍵《かぎ》がかかっていない。  矢的は慎重にドアを開いた。狭い踊り場に入ると、壁の左手に時計塔への階段を照らす明りのスイッチが見えた。押そうとして矢的はその指を引っ込めた。もし途中に窓でもあれば明りが外に洩《も》れる。いったん懐中電灯を消して上を覗いた。どこにも星明りは注いでいない。それでも足下だけを照らす懐中電灯だけのほうが安全に違いない。 「どういう構造になってる?」  田島は急な階段に首を傾げた。 「礼拝堂のドーム屋根の上に、石の階段が直接刻まれているんだ。雨や雪の日でも時計塔に上れるよう、石段にも屋根をつけて囲っている。日本には珍しいかもしれないが、ドイツやスペインの城にはよく見かける」 「回廊みたいなもんか」  田島も納得した。 「礼拝堂といい、この階段といい、どちらも日本の様式じゃない。きっと銭屋五兵衛がヨーロッパの図面でも手に入れて再現させた建物に違いないよ。そもそも時計塔という発想自体、彼の生きていた時代を超えている」  矢的は狭い階段を上りはじめた。 「ちらっと見えただけだが、上に通じる螺旋《らせん》の階段もどこか変わっていた」 「とても日本とは思えんな。これで地下に潜る階段ならカタコンベだぜ。まるで墓場に繋《つな》がってる感じだ」  田島の声が漆喰《しつくい》で囲まれた階段に響いた。  七、八歩上がっただけで矢的の目の前には時計塔の内部の暗がりが広がった。明りが中心に聳えている太い柱を捕えた。塔全体を支えている心柱だ。太さは一抱え以上もある。塔の中は小部屋が何層かに積み重なっていると思っていたのに、普通の二階の天井辺りの高さまで内部は吹き抜けの構造だった。二人は唖然《あぜん》としてライトに照らされた天井を見上げた。四角い煙突状の空間なので余計に高さが感じられる。 「螺旋階段ってのは、こいつかい?」  田島はゾッとした声で言った。壁から分厚い板が突き出して段々と上に続いている。手摺《てすり》も補強板もない素朴なものだ。 「プールの飛び込み板と一緒だぜ。板がどっかで腐っていたら真っ逆様だ。なんだってこんな危険な階段を拵《こしら》える?」 「修理が簡単だからさ。脆《もろ》くなればその板だけ抜き出して、別の板を差し込めばいい。これだと階段全部が崩れ落ちる心配もない。板の点検さえしっかりしていたら、普通の階段と強度に変わりはないよ」 「点検を加島が怠らなきゃな」  心細そうに田島は板を揺すった。端の方は少し揺れるが、壁際はかなり安定している。 「この辺りは腐ってても大丈夫だが……天井近くでドスンなんざぁごめんだぜ」 「ぼくが先に上がる。ライトが一つしかないから危ない。上に着いたらライトを落とす」  矢的は躊躇《ちゆうちよ》なく階段に向かった。 「ああ、どうやら危険はないようだ」  矢的が階段の表面をライトで示した。埃《ほこり》の上にいくつかの新しい足跡が見える。 「きっと加島たちのものだろう。昼にでも上ったに違いない」  田島もそれで安堵した。  壁に肩を寄せるようにして、矢的はゆっくり階段を上った。階段の横幅は一メートル近くある。だが縦は三十センチ。うっかりすると靴が板から食《は》み出る。闇なので下が見えないのが逆に楽だ。一歩一歩、体の重心を預けるたびに、ミシミシと嫌な音を立てる。壁の角に達すると、そこだけは正方形の板になる。そしてまた壁に沿って階段が続く。上りはじめて二つ目の角で一休みした。一メートル四方の板が、広場のように思えてきた。もう三分の二は上ったはずだ。ライトで下を捜すと、田島の顔が小さく見えた。実際は大した高さでもないのだろうが、それに自分の身長が加わるので結構怖い。矢的はライトを上に戻した。天井が間近にある。もう一つ角を曲がれば天井の跳ね扉に手が届きそうだ。 〈冗談じゃないぞ……〉  途中の板が一枚、抜けていた。板と板との間は三、四十センチ程度のものだから、たとえ一枚が外れていても、さほどの高さではない。だが、それはあくまでも計算上のことで、現実とは別物だ。平地なら難なく飛び越せる幅と高さだろうが、この暗がりでは不安だ。 〈とにかく行ってみるしかないな〉  ここで引き返すわけにはいかない。矢的は思い切って前進した。加島のものらしい足跡も、ずうっと上に続いている。 〈これじゃあ無理だ〉  やがてその場所に辿り着いた矢的は、嘆息を洩らした。下で見た時よりも、はるかに幅がある。飛んで板にしがみつけばいい。それは分かっていても勇気が出ない。 「どうした?」  下から田島の声が聞こえた。 「階段がなくなっている」  説明しながら矢的は先を照らした。 〈ん……〉  足跡が何事もなく続いていた。板にしがみついた痕跡《こんせき》はどこにも見られない。加島が上った後にこの板が抜け落ちたのだろうか。いやいや、それはありえない。だったら加島は戻れないはずである。思いついて矢的は自分の立っている板をライトで照らした。  他の板に比較して、ここはだいぶ足跡が乱れていた。靴とは明らかに違う痕跡もある。 〈跪《ひざまず》いたんだ〉  跪いて一段下の板を抜き取り、それを上の壁に嵌《は》め込めばいい。  矢的はしゃがんで下の段を確かめた。思ったとおりだった。大して力も込めないのに、板はあっさりと動いた。壁に埋まっている部分は二十センチほどだった。重さで板を取り落とさないようにしっかり抱え、今度は上の壁の隙間に押し込む。すっぽりと嵌まった。もしかすると、これは侵入者|避《よ》けのために、わざとこうなっているのかもしれない。矢的は階段を上がると、別の板を試してみた。板はビクともしなかった。矢的は一人頷いた。  跳ね扉を押し上げると、一回り小さな空間が上に延びていた。時計塔を人形に見立てれば、これまでが腰から下の部分に該当し、ここから天井までが胴体に当たる。やはり壁には、おなじような階段が設けられていた。下とは違って、ここは部屋としても用いられていた形跡があった。明り取りの小さな窓が壁にいくつか見える。矢的は床に立って隅々にライトを動かした。古びた蓄音器が置かれている。その隣りには壊れた揺り椅子も。何代前かの主人がここで音楽を楽しんだのだ。春ともなれば、のどかな陽射しに満たされ、さぞかしいい気分だっただろう。 「いったいどうなってるんだ?」  田島が苛立《いらだ》った声で訊《たず》ねた。 「悪いが、ここには一人ずつしか上がれない。階段がそういう仕掛けになってるんだ」  矢的は跳ね扉から囁《ささや》いた。 「これから最上階に行ってみる。てっきりこの時計塔に銭五の遺産が隠されているんじゃないかと思っていたけど、今のとこ、ただの塔みたいだな。すぐに戻るよ」 「頼むぜ。こっちは真っ暗闇の中で耐えているんだからな。暗いのは嫌いだと言ったろ」  矢的は首を振ると、また階段を上った。  今度は天井までの高さがあまりないせいか、怖さをほとんど感じなかった。さっきとおなじような場所に跳ね扉がある。手で押すと簡単に開いた。首を出して覗く。狭い空間を埋めるように機械が占領していた。巨大な歯車や捩子《ねじ》が複雑に絡み合っている。だが、どれ一つとして動いていない。時計の針を支える心棒が途中で外されていた。  しかし、時計は確かに動いていたはずだ。機械が壊れてしまったので、時計だけを現代のものに取り替えたとも考えられる。そう言えば秒針を刻む音が聞こえる。矢的は機械室に上がった。 〈壊れてる感じでもなさそうだな〉  試しに歯車の一つを回すと、それに連動してさまざまな部分が滑らかに回転した。捩子を巻く人間がいなくなったから、心棒を外して電池式の時計に替えただけなのだろうか。  矢的はバルコニーへの扉を見つけた。  ライトを消して外の様子を確認する。  星明りで見ると、蒼《あお》い庭にはだれの気配もない。  扉を開けるとひんやりとした新鮮な空気が矢的を包んだ。矢的は自分の立場も忘れて大きく伸びをしながらバルコニーに出た。  眩暈《めまい》がするほど高かった。  樹木がまるで箱庭のように思えた。  バルコニーの幅は五十センチもない。  矢的は慌てて手摺《てすり》につかまった。  礼拝堂の高さまで含めると七、八階建てのビルぐらいにはなるかもしれない。 〈本当に中村秋武は、こんなところから空に浮かんだというのか?〉  信じられなかった。下から見上げた時にも相当な高さだと思っていたが、まさかここまでとは想像もしていなかった。 〈どんな仕掛けがあるにしろ……ここから空に足を踏み出すなんて〉  常識では考えられない。  矢的はバルコニーをゆっくりとまわった。  時計の前に立ち止まる。  新聞記事によれば、秋武もここに立っていた。 〈なんだ、この把手《とつて》は?〉  時計の上の丸屋根の縁に鉄の把手が取り付けられている。 〈そうか。屋根に上がるための把手だな〉  屋根には避雷針も立てられている。何年に一度かは上がる必要もあるのだろう。 〈なんの収穫もなしか〉  矢的は諦めて庭を振り向いた。  真正面に池が見える。あれが秋武の落ちた池だ。その向こうに太い枝振りの松が生えている。あれは弁吉が暮らしていた時代にもあったはずだ。  矢的は背後の大時計を眺めた。  雄二には三、四十分で戻ると言って来たのに、もうその時間は過ぎていた。 〈田島には我慢してもらう他にないな〉  入れ代わりに田島までもがここに上がれば、どれだけ時間を食うか分からない。  疲れを覚えながら矢的は機械室から下りた。 「早く戻って来い」  矢的の気配を察して田島が低く叫んだ。 「礼拝堂にだれかの足音が聞こえた」 「いつ?」  矢的は跳ね扉から顔を出した。 「二、三分ほど前だ」 「加島なら階段を上がって来るはずだろ」 「いいから、さっさと戻れ。こちとら生きた心地がしなかった。早々に退散したほうが……」  矢的が戻ると田島は溜《た》め息を吐きながら、 「こっちの身にもなってくれ。こんなガランとした場所じゃ、隠れるとこもねえんだぜ。加島が現われたら、幽霊の真似でもして逃げ延びる他に手立てがねえじゃねえか」 「本当に足音を?」 「もちろんだ。ドアの閉まる音も聞こえたような気がする。そうか……ドアの音のほうが後だったから、やっぱり出て行ったんだ」 「入って来た物音は?」 「そいつは気がつかなかった。最初はソッと足音を忍ばせていたのと違うかい?」 「田島の空耳だと思うけどね……加島なら必ずこっちにやって来るはずだし、他のだれかなら忍んで来る必要がない。もし、われわれの物音を聞きつけて来たのなら、大声で確認する」 「空耳とは違う。絶対に足音だったよ」 「ひょっとして雄ちゃんだったかも。あんまり遅いんで見に来たんじゃないかな」 「なんでもいい。長居は無用だ」  田島は矢的の懐中電灯をもぎ取ると、礼拝堂への階段に急いだ。 「仕掛けの見当はついたか?」  階段の途中で矢的を振り向いて質《ただ》した。 「全然。空中遊泳ってのはたいていロープを使った奇術だ。その意味ではロープを張れそうな場所を見つけたが、人間を支えるにはよほど太いものを用いないと……それだったらきっとだれかに発見される。それに、あの急角度じゃ、とても途中で停止なんかできやしない。考えていたよりも難問だな」 「地道に記者殺しを追いかけるしかないか」  礼拝堂へのドアに辿《たど》り着くと、田島は耳を澄ませた。気配のないのを確かめて開ける。どこにも変わった様子は感じられない。 「こいつは勘違いだったかな」 「いや……田島の言うとおりだ」  矢的は希里子の骨箱の置かれたテーブルを顎《あご》で示した。テーブルは中央に戻っていた。 「だれかがいたのは確かだ」 「不気味な真似をしやがる。オレたちが時計塔にいると知っての威《おど》しか?」  矢的は無言でテーブルに近づいた。もしかすると骨箱に新たな脅迫状でも置かれてはいないかと思ったのだ。が、杞憂《きゆう》だった。  矢的はステージの床も点検した。 「さっき、ステージの尖《とが》った角に膝《ひざ》をぶつけたとか言わなかったかい?」 「ああ。そのテーブルの前辺りだ」 「どこが尖ってる?」  矢的がライトで縁を照らした。角が丸く作られたステージである。 「そんなわきゃねえよ。真っ暗だったが指で触って確認したんだ。先の尖った板が縁から少し食《は》み出ていたぜ」 「正確にはどの辺りだ?」  矢的に促されて田島は記憶を辿った。椅子を避けて歩いていたのだから、位置は特定できる。だが、どこにも食み出た角はない。 「嘘じゃねえぞ。確かに触ったんだ」  矢的は頷《うなず》きながら縁を細かく調べた。 「溝がついている。きっとこいつだ」  角が食み出るように矢的はその部分の床板をスライドさせた。静かに板が動いて、縁から五センチばかり端が飛び出た。 「お……まさしくこれだ」 「どうやら、箱根《はこね》細工の仕掛けだな」  矢的は言いながら唸《うな》った。 「ステージの床はモザイク模様になっている。こうして順に床板をスライドさせて行けば」 「どうなる?」 「試してみるだけさ。テーブルをさっきの場所に移動しといてくれ。きっと関係ある」  矢的は床板を動かしたことによって生じた隙間を調べた。幅五センチ、長さ二十センチの隙間だ。隣りにおなじ幅の床板がある。力を入れて隙間の方に押すと、動いた。今度はその床板が拵《こしら》えた新たな隙間に移る。おなじやり方だとタカをくくっていたが、隙間の周囲には同一サイズの床板が見当たらない。隣接しているどの床板も大きすぎた。どんなに頑張っても、これでは無理だ。矢的は隙間に指を入れると探った。手応《てごた》えがある。指をクイと引くと、床板の一部が持ち上がって隙間が広がった。この幅に合致する床板は手前のものだ。  それから後は単純だった。三度ほどスライドを繰り返すと、ガチンと床下でなにかが外れる音がして、ステージに四角な穴があいた。二人は呆然《ぼうぜん》と顔を見合わせた。  穴の底には狭い階段が下りている。 「入り口の鍵《かぎ》を開けるからくり[#「」に傍点]だったのか」 「もしかすると……ここに」 「銭五の遺産が隠されているかもしれない」  矢的も同意した。ただの遊びにこれほどの仕掛けを施すわけがない。 「時計塔は見せかけってことかい」 「どうする?」 「こうなりゃ行くっきゃねえだろ。四千億の誘惑に勝てるヤツがいたら、お目にかかりたい」  田島は躊躇《ためら》いもなく穴に飛び下りた。 「こんな棒が脇に立てかけてあるぞ」  矢的はそれを受け取った。最後にできた隙間とおなじ幅と長さの棒だ。これを嵌《は》め込めば外から鍵を掛けられる心配もないし、隙間隠しにもなる。 「とすると、さっきは加島がこの穴に?」 「だろう。縁の角が食み出ていたんだから。われわれが時計塔に上がったのを見澄まして、穴から抜け出たのさ。それで田島にはヤツの入って来る足音が聞こえなかったんだ」 「なんで逃げた? オレが加島なら、逆に時計塔に追い詰めるがな。そのほうが自然だぜ」 「なにか事情があったのかも」  矢的も穴に潜り込んだ。 「扉は塞《ふさ》いでおこうか? 中からも鍵がかかるようにできている。なかなかの仕掛けだ」  二人は興奮を鎮めながら階段を下った。どうやら礼拝堂の真下に通じているらしい。田島の睨《にら》んだとおり、時計塔は注意を引きつける目的で建設されたダミーの建物のようだ。 「ゾクゾクしてきやがった。良美がいたら、大騒ぎしてたに違えねえ」  真正面に扉が見えると田島は口笛を吹いた。 「千両箱が山積みってとこだろうな」 「さあね」 「まさか弁吉の骸骨《がいこつ》がお宝を守っているわけじゃあるまいな。そんなのは願い下げだ」  田島は錆《さ》びたドアノブを引いた。  中を覗いて田島は呻《うめ》き声を上げた。  矢的も肩越しに中を確かめた。  無数の目玉が二人を睨んでいた。  と言っても人間のものではない。  ライトに照らされた棚や床には、無数の人形が置かれていたのだ。そのガラスの目玉がギラギラと輝いている。いや、心を鎮めて眺めると、飾られているのは人形ばかりではなかった。レンズの嵌められた幻燈器らしき大きな箱や、得体の知れない機械も棚から落ちそうなくらい積み上げられている。 「…………」  不安な目つきで田島は矢的を見つめた。 「ここは人形の墓場かよ」 「墓場なんかじゃない。宝の山だ」  真正面の棚に気づいて矢的は唸《うな》った。 「こいつが?」 「ヴォーカンソンのアヒルだぞ」  佐和子から預かっている資料に掲載されていたものだ。口に食べ物を入れると、やがて腹の中の管がそれを消化し、糞《ふん》の形にして排泄《はいせつ》したという、幻のからくり機械である。外観と簡単な構造は残されているものの、肝腎《かんじん》の設計図は失われ、再現は不可能とされている。もし完全な形で発見されれば一億でも買い取ろうとする人間が大勢いるはずだ。 「そっちの棚には鶴がある。神楽先生が教えてくれた、例の空飛ぶ鶴に違いない。ここは弁吉の拵《こしら》えたからくりを保存してある場所なんだ。もしどれも完全に動くなら……価値は見当もつかない。どんなに時代が進歩したって、まだだれ一人として自分で食べ物を消化する機械は拵えることができないんだ」  矢的は恍惚《こうこつ》とした目で見渡した。  ありとあらゆる人形がある。衣服を剥《は》いだ茶運び人形も何体か転がっていた。 〈神楽先生がこれを知ったら狂喜する〉  矢的の目が不意に止まった。  入って来たドアの側に巨大な日本人形が倒れている。だが妙に生々しい。  しばらく見つめているうちに、矢的は背筋にゾゾッと寒気を覚えた。  横顔に見覚えがある。  それは由乃の死体だった。  由乃はカッと目を見開いて、冷たい床に俯《うつぶ》せになっていた。  矢的は叫びを必死でこらえた。      4  ミステリーマニアを自称していたわりに、田島は由乃の死体と分かると顔を引き吊らせて悲鳴を発した。狭い地下室にその叫びが響き渡る。田島は逃れようとして、からくり人形の並べられている棚に背中を激しくぶつけた。ガラガラと音を立てて、人形や機械が崩れ落ちた。矢的はすぐに冷静さを取り戻すと由乃の死体を調べた。衣服のどこにも血は付着していない。首にも絞められた痕跡《こんせき》は見当たらなかった。念のために矢的は由乃の脈をとった。 「亡くなったばかりだ」  まだ体温が完全に残っていた。 「おまえ、平気か……」  田島は床に尻《しり》をついたまま呆《あき》れ返った。  矢的は由乃の半開きとなっている唇に鼻を近づけた。オレンジの香りに混じって強烈な薬物の匂いがした。点検した舌も荒れている。 「どうやら毒殺だな。この匂いは例のブランデーに混入されていたものと一緒だよ」  顔を上げて矢的は断言した。 「加島の野郎! やっぱりあいつが」  田島は大声で喚《わめ》き散らした。 「すぐに皆をここに集めるんだ」  低い声で矢的は田島に命じた。 「加島のやつを引っ張って来る」  田島は怒りをあらわにして飛び出た。 〈加島ってのは、そんなに単純な男か?〉  矢的には釈然としない思いが広がった。状況を見る限り、加島の犯行としか思えない。由乃から日記の一件を持ち出されて、切羽《せつぱ》詰まっての犯行と、だれもが考える。それに気づかぬ加島ではないはずだ。由乃を殺すつもりなら東京でも間に合う。あの新聞記者のように事故と見せかけるのも可能であろう。もちろん、真っ先に疑われるだろうが、アリバイを用意するとか、逃れる方法もあるのだ。  矢的は深い溜《た》め息を吐いて死体を眺めた。 〈ん……〉  きちんと着こなしている着物の襟から、わずかに食《は》み出て白い物が見えた。矢的は手を伸ばした。紙のナプキンだった。首を傾げながらそれを展《ひろ》げた矢的の目に、驚愕《きようがく》が浮かんだ。  ——まだまだつづくぞ——  ナプキンにはそう書かれてあった。  氷を背筋に押しつけられたような寒気が矢的を襲った。矢的はぶるっと身震いした。思わず由乃から顔を背けた。 〈狂ってるのか……〉  まだまだ殺人劇を続けるつもりだなどと。  矢的は吐き気を覚えた。口を押さえて床に屈《かが》んだ。由乃の死が急に怖くなった。  吐き気は止まない。深呼吸をすると人形の古びた衣服の埃《ほこり》がまともに喉《のど》を襲った。矢的は激しく咳込《せきこ》んだ。棚にすがる。  つつっ、と指に不愉快な痛みが走った。  指から血が滴った。  なにか刃物に触れたらしい。  お陰でわれに返った矢的は棚を調べた。 「なんだ、こいつは?」  奇妙な板を矢的は見つけた。二十センチ四方の真四角な板の真ん中に、カメラのレンズ程度の穴があけられている。その穴の中に鋭利な刃物が仕込まれていた。どうやら矢的の指はこの穴に嵌《は》まり、引き抜く瞬間に刃物に触れたようだ。  分厚い板だ。矢的は板を手にした。カタカタと中で刃物の動く音がする。上部に隙間があった。それを下にして思い切り振ったが、なにかにつかえて出て来ない。子細に表面を点検して見ると、微妙に木目が異なっていた。上下にスライドする蓋《ふた》だ。矢的はそれを上に引き抜いた。板の中は縦に細長くえぐられていた。蓋のとれた勢いで刃物が床に落ちた。ギロチンの形をしたものだった。 〈穴のまわりにも二つの小穴……か〉  小指も通らないほどの小穴が、大きな穴に並んでいる。  床から刃物を拾って、ふたたび元の位置に戻してみた。刀と鞘《さや》のように刃物は収まった。横の遊びはせいぜい五、六ミリ。 〈この突起につかえてたんだな〉  刃物のすぐ上の部分に、割箸《わりばし》程度の太さの小さな楔《くさび》が嵌められている。これだと板をさかさまにしても刃物は落ちない理屈だ。  矢的は板の真ん中にあけた穴に大根などを突っ込んで切り落としたりする手品の小道具を見たことがある。あれにもギロチンとそっくりな刃物が仕組まれていた。きっと大野弁吉が手慰みにでも拵えた手品のからくりに違いない。苦笑して棚に返そうとした矢的の目に、うっすらと文字が見えた。板の表面に筆で書かれたものだ。矢的は明りにかざした。 「飛行術……種板」  飛行術!  矢的は何度もその文字を確認した。 「こんなもので、どうやって?」  だが、ここにあるからには、あの二十六年前に、中村秋武が行なった空中遊泳と関わりがあると見做《みな》して間違いはないだろう。矢的の胸は高鳴った。 〈すると……秋武の独創じゃないな〉  秋武はこの板の使用法をだれかから教えられたか、あるいは—— 「本で読んだかだ」  矢的は思わず口にした。秋武は天涯孤独の身だったので、書物で学んだ公算が大きい。確信を抱いた矢的は地下室を見渡した。  機械に隠されるようにして、片隅に本が積み上げられているのを発見した。矢的は本の山に飛びついた。大半は弁吉が読んでいたと思われる科学関係の輸入書だった。銭屋五兵衛の力を借りれば蒐集《しゆうしゆう》もたやすい。いくら長崎で学んだ弁吉とて外国語は苦手だったはずだが、細かな図解入りの本なら充分に理解できたに違いない。専門家なら歯車や捩子《ねじ》を見るだけでなんの仕組みか想像がつく。  本の山を崩しているうちに矢的はとうとう目的のものに辿り着いた。綴《と》じた和紙に筆でしたためた記録帖である。話すことは達者な矢的でも、癖のある江戸の変体仮名までは読めない。だが、幸いなことにその多くは図版だった。からくりを具体的に絵で説明したものなのだ。すべてが弁吉の工夫かどうかは分からないが、記録帖は十八冊も数えられた。本当に空を飛んだという鶴の羽を動かす仕掛けや、茶運び人形の歯車の寸法などがこと細かに図解されている。どこから情報を入手したのか、外国のオルガン人形の設計図や蒸気機関の仕組みにまで及んでいる。 〈加島のからくりコレクションは、これだったんだ。保存のいいのを運んだだけだ〉  百合亜は、加島のコレクションを大半が昭和の初期に製作されたコピーと信じていたようだが、真相は弁吉による複製だったのだ。加島がコレクションを公開するのを嫌ったのは、きちんと調査をされれば製作年代が特定され、やがては大野弁吉に繋《つな》げられると恐れていたからに他ならない。弁吉の糸を手繰《たぐ》ると、いつかは偶人館の秘密にも達する。  飛行術という文字は読み落としたが、矢的は先ほど手にした板の図解らしきものを、何冊目かの記録帖に見い出した。 〈あった!〉  さすがに本を持つ矢的の指も震えた。  板を中心にして複雑に縄が張られている。 〈飛行術と言っても……こいつは本当に人間が飛ぶんじゃなさそうだ〉  板の左側に延びた太い縄に、中国服を着た子供が吊り下げられている。絵なので本物の子供か人形か判断のむずかしいところだが、腕がだらりとしているのを見ると、やはり人形としか思えなかった。 〈右の方の鉄の玉はなんだ?〉  板を挟んで人形と反対の位置には、重そうな鉄の玉がぶら下がっている。  矢的は次の頁を捲《めく》った。  板の仕掛けによって縄が切られ、鉄の玉が下に落ちている。それとは逆におなじ板が人形の滑落するのを押さえ、同時にその人形が滑車で上に引き上げられている場面が描かれていた。下方にはご丁寧に空を眺めている何人かの姿まで見られた。  ——必ず夜中に行なうべし、鉄玉の音に観者《かんじや》の気を集めるべし。縄は黒く塗るべし——  弁吉の注意書きも側に記されている。 「なるほど……目くらましの手品か」  矢的は咄嗟《とつさ》に見てとった。  細かな手順まで理解できたわけではないが、空に人形を長時間浮かせていれば必ずボロが出る。それを見破られないために途中で縄を切り、鉄の玉を遠くに落とす。観客がその物音に気を取られている間に、速《すみ》やかに人形を回収する。そういう仕掛けであろう。  その気持ちであらためて眺めると、観客たちのまわりには篝火《かがりび》がいくつも燃えていた。これも観客の目を闇に馴《な》れさせないために工夫されたものだ。この中にいれば、空を見上げても、よほど明るい物体でない限り識別ができない。人形を吊り下げている黒い縄や、真っ黒な鉄の玉など論外である。 〈それでバルコニーに眩《まぶ》しい照明が当てられていたってことか〉  矢的は新聞の連載記事を思い出した。当日はそこでパーティが開かれていて、バルコニーは真昼のように照らされていたとあった。中村秋武の空中遊泳を目撃した人間たちは、まさしくその明りの中にいたのである。 〈上に浮かんでいたのは人形だ〉  矢的は一人|頷《うなず》いた。 「お母さん! お母さん」  慌ただしく地下室の階段を駆け下りて来る百合亜の涙声が聞こえた。  矢的は振り向いて皆の登場を待った。      5 「貴様というやつは!」  妻の死を確認すると、神楽英良は加島に躍りかかった。胸ぐらを絞め上げて頭突きを食らわせた。加島はドアに追い詰められた。珍しく加島の顔に怯《おび》えが浮かんでいる。神楽は涙を溢《あふ》れさせながら加島に鉄拳《てつけん》を浴びせた。 「よせ……私じゃない。誤解だ」  逃げようとするドアを露麻夫が閉じた。 「じゃあ、だれだってんだよ!」  続いて露麻夫が顔面を殴った。百合亜は由乃の死体に覆い被《かぶ》さっている。 「あんたの他にだれが母さんを殺す? 母さんの日記が怖くなったんだろ。この人殺し」  加島は必死で首を横に振った。 「ふざけんな。たった今|仇《かたき》を取ってやる」  露麻夫は膝《ひざ》で加島の股間《こかん》を蹴《け》り上げた。加島は呻《うめ》いてごろごろと床に転がった。 「てめえなんぞ、生かしちゃおかねえ」  背中に乗って首を絞めつけようとした露麻夫を、田島と矢的が背後から押さえ込んだ。  夫の惨めな姿に動転してか、めぐみが両手で顔を覆った。修羅場だった。 「私じゃない……信じてくれ」  加島はすがるように皆に訴え続けた。日頃の傲慢《ごうまん》さからは想像もできない哀れさだ。加島とて、この情況では自分に分がないと認識しているのだろう。 「由乃さんは、自殺だったのよ」  甲高い声がした。  ギョッとして全員が顔を見合わせた。 「主人とは関係がないんです」  めぐみが、観念した顔で前に進んだ。 「まさか、……なんであれが自殺など!」  神楽がめぐみに詰め寄った。 「あんたは、まだこんなやつを庇《かば》う気か」 「脅迫していた人は由乃さんでした」  めぐみは、はっきりと口にした。 「でなければ死ぬ理由なんてどこにも……」 「出鱈目《でたらめ》もたいがいにしろ!」  神楽の額に青筋が立った。 「由乃さんは、希里子の骨箱の前で死んでいたんです。それがなによりの証拠です」 「骨箱の前で死んでいた!」  矢的は愕然《がくぜん》とした。 「小さないたずらが、あんなことになって。だから希里子に謝るつもりだったんだわ」 「なぜそれをあなたが?」  知っているのか、と矢的は質《ただ》した。 「眠れなくて書斎で本を読んでいると、庭を歩く足音が聞こえましたの。窓から覗いたら由乃さんでした。怖かったので声もかけられなくて……でも、あんまり帰って来ないので庭に出て見たら、礼拝堂の扉が……」 「その死体がなぜこの地下室に?」 「皆さんは主人を怪しんでいらしたわ。日記のことも重なっていますし……あの状態で由乃さんが見つかれば、必ず主人に余計な疑いがかかると判断しました。朝まで時間を引き延ばせられたら、由乃さんがいないと大騒ぎになって警察がやって来る。自殺なのは調べればすぐに分かることですわね?」  めぐみは矢的の頷《うなず》きを見て、 「警察の人も一緒なら主人も安全だろうと」  次に加島を見下ろした。 「それでこの地下室に隠したんです。ごめんなさい。朝には警察に教えるつもりでしたの」 「地下室のことは前から?」 「ええ。中村に連れて来られて」 「それなら、われわれが時計塔に上がっていたときに抜け出したのはあなたなんですね」 「地下室に由乃さんと一緒のところを発見されたら、言い逃れもできないとハラハラしていました」 「そんなの嘘だわ!」  百合亜が激しい目をして睨《にら》んだ。 「お母さんが脅迫していたなんて!」 「じゃあ、どうして真夜中に由乃さんが礼拝堂なんかに一人で来たの?」  めぐみは逆に百合亜に訊《たず》ねた。 「あなたが誘い出したんじゃ?」 「私が?」  めぐみは青ざめた。 「無理に薬を服《の》ませることだってできます」 「冷静におなりなさい!」  めぐみは百合亜を一喝した。 「昼ならともかく、真夜中なのよ。いくら私の誘いでも、この由乃さんが礼拝堂なんかに平気で来られると思って? それなら必ずあなたのお父さまにも相談するはずよ」  めぐみに言われて神楽がうろたえた。 「お父さん、どうなの?」  神楽はすぐに首を振った。 「自分の意思じゃないと来れない場所だわ」 「そうすると、妙なことがあります」  矢的はポケットから紙ナプキンを取り出して、めぐみの前に展《ひろ》げた。訝《いぶか》しい目でそれを眺めためぐみは、うっと呻きを呑《の》み込んだ。 「この脅迫状はだれが入れたんでしょう」 「絶対に私ではありません!」  めぐみは激しく否定した。 「でしょうね」  矢的はあっさりとそれを認めた。 「これだけ事件が続いて怯えていた神楽先生の奥様が、希里子君の骨箱の安置してある礼拝堂に誘い出されるには、よほどの信頼を抱いている相手じゃないと無理でしょう。その意味では神楽先生と露麻夫君、そして百合亜さんしかない。けれど、おなじ部屋にいる神楽先生から礼拝堂に来いと誘われるのも不気味な話だ。と同時に二人の子供からでも一緒です。どちらの場合でも、奥様はきっとだれかに相談したはずだと思います。もっとも、これは神楽先生の奥様が礼拝堂で亡くなったということが確かであれば、のことですが」 「…………」 「それを主張しているのはお一人です」 「嘘じゃないわ」 「分かっています」  矢的はめぐみを安心させるように笑った。 「一応の可能性を考えただけですから」  少し間を置いて矢的は、 「たとえば……先生の奥様は他人の家に泊まった場合、夜中にお手洗いに立つときに、わざわざ寝間着から着物に着替えられますか」  神楽に質問した。 「場合にもよる。もともと用心深い性質《たち》なので、寝る前に必ず手洗いには……それでも、あまり親しくない相手の家で我慢ができなくなったら、着替えて行くだろうな」 「喉《のど》が渇いて台所に行くときもそうですか」 「恥を知っておる女だった」  神楽は突然、涙をぼろぼろと零《こぼ》した。 「いったん床に入った人が、真夜中に着物を着る理由はその二つくらいしか考えられません」  矢的は視線を神楽から逸《そ》らして続けた。 「その途中を狙って殺害することは可能です。そして死体を地下室に運べばいい」 「…………」 「理屈はそうだけど、ほとんどあり得ない。喉が渇いて台所に来た奥様に、偶然居合わせたフリをして毒の入ったジュースを勧める。これは簡単でしょうが、お手洗いの場合はむずかしい。首を絞めるなりして、自由を奪ってからでないと」  矢的の言葉に皆が頷いた。 「でも、奥様の体に抵抗した形跡はなかった。残るは台所でジュースを勧める方法だが……真夏ならまだしも、今はもう秋です。狙う相手が、真夜中に喉を渇かせて台所に来ることを予測して毒入りジュースを用意する人間がいるとは、絶対に思えない。無差別殺人が目的だったら、ひょっとするとだれかが網に引っかかる確率もありますが……その場合は死体を台所に放っておくでしょう。これまでの事件で、犯人が場所にこだわった例は一度もありませんよ。今回だけ意味あり気に礼拝堂まで運ぶなんてのは、逆に不自然だ」 「もちろん、無差別殺人とは違うさ」  田島が力説した。佐和子も頷《うなず》く。 「すべてを考慮に入れると、先生の奥様はご自分の意思で礼拝堂に来たとしか思えない。おそらく、毒を服んだのもご自分から」 「だったら、その脅迫状は?」  百合亜は食い下がった。 「加島さんに疑いが向けられるよう、ご自分で用意して来たものだと思います。たとえ警察が自殺と判断しても、あの脅迫状が発見されれば加島さんも窮地に追いやられる」 「…………」 「日記のことだって、わざと口にしたような感じがしましたよ。まるで自分が加島さんに殺される動機を皆に納得させたいみたいにね」  そうだった、と佐和子も首を振った。 「母の自殺は……そうかもしれません」  だが百合亜は諦めなかった。 「じゃあ、なんの目的で母が脅迫なんて?」 「…………」 「母には加島さんを脅迫する理由がありません。別に恨みも持っていなかったのに——」  そのとき、神楽の目に翳《かげ》りが生まれたのを矢的は見逃さなかった。神楽は視線をちらちらとめぐみに動かした。めぐみは顔を背ける。 「目は心の鏡と言うけど……その答えはどうやら神楽先生がご存じのようですね」 「いけません!」  めぐみは大声で遮った。 「由乃さんは主人を恨んでいたんじゃないんです。私が目的で……理由は勘弁してちょうだい。それだけは言えないわ」  めぐみの意外な言葉に皆は顔を見合わせた。 「おかしいな……でしたら加島さんよりも、あなたに罪を被《かぶ》せる方法を選びそうなものだ」 「主人も承知のことだと由乃さんは信じていたんです。まさか私の独断だなんて……」  めぐみはまた言葉を濁した。 「脅迫状を先生の奥様が書いても不思議ではないほどの恨みを買っていたということですね。理由はどうあれ、心当たりがあると」  矢的の詰問にめぐみは大きく頷いた。 「どうも、正直すぎるんだなぁ」  矢的は苦笑して神楽に目を移した。神楽は深い溜《た》め息を吐いてめぐみの告白を認めた。 「先生までもが思い当たると言うなら、本当でしょう。疑われるのを覚悟の上で奥様の死体を隠したりした人が、その疑惑をもっと強めるような嘘をつくとは思えない。今のお話は、先生の奥様を殺す動機を持っていたのは自分だけだ、と主張しているようなものです」 「おふくろが恨む理由を聞かせてもらわなきゃ、納得がいかねえぜ」  矢的に露麻夫は首を振った。 「いいんだよ」  神楽が露麻夫の目を見つめた。 「母さんは確かにめぐみさんを殺したいほど恨んでいた。自殺に疑いないのなら、脅迫していた犯人は母さんに違いない。希里子ちゃんが事故で亡くなったと聞いたとき、母さんは相当ショックを受けていたようだった。私一人で充分だと言うのに、どうしても仙台に行って死に顔を見てやりたいと……思えば罪を償おうとしていたんだろうな。哀れな女だった。なのに私は……自分たちには引き止める権利がないなどと」  神楽は必死で涙を堪《こら》えた。 「冗談じゃねえや! おふくろがそんなに恨んでいたなら、オレにとっても仇《かたき》だ。おやじは、なんで簡単にこの人を許せるんだよ」  露麻夫はめぐみに唾《つば》を吐きかけた。 「オレは許さねえぞ。実の子でもないのに、ずうっと育ててくれた義母《かあ》さんなんだ。事情なんてどうでもいい。代わりに殺してやる」 「殺しなさい」  めぐみは涙を溜めた顔を上げた。 「それで気がすむと言うのなら……わがままは私です。由乃さんの心も知らずに……」  さあ、と言って露麻夫の腕を掴《つか》んだ。 「なんだよ! あんただけ悟りきったような顔《つら》しやがって。おふくろを馬鹿にするな」  露麻夫はおいおいと泣きじゃくった。 「脅迫状はともかくとして……」  場の静まるのを待って、矢的は棚から例の板を手にすると、めぐみと加島を睨《にら》んだ。 「それは?」  佐和子が不審な目で尋《たず》ねた。 「空中遊泳の秘密を解く仕掛けだ。想像どおり、あの夜、空に浮かんでいたのは中村秋武氏じゃなかった。からくり仕掛けの人形だったんだよ。時計塔の屋根までは相当の高さがある。眩《まぶ》しい照明に囲まれて闇に馴《な》れていない人間の目には、人形と区別がつかなかったと思う。ましてや中村氏の声を発し、手足を動かしていればね。しかも、ほんの二言、三言話を交わしただけで、目撃者の注意は池に落ちた音に注がれた。そこから水に溺《おぼ》れた中村氏の死体が発見されれば、まさか人形だったと疑いもしないだろう」 「馬鹿な……」  床に胡座《あぐら》をかいていた加島が嘲笑《あざわら》った。 「死んでいた中村が、どうやって私に応じるのかね。やつはちゃんと返事をしたぞ」 「シナリオがあれば簡単でしょう。あらかじめテープに吹き込んでおいて、やりとりの間を練習すればいい。そうすると知らない人間には、あなたと中村氏がきちんとした会話をしているように思えるはずだ」 「じゃあ、だれがテープを回す? 死んだ中村が機械のスイッチを入れたとでも?」 「中村氏の姿が見えないと皆が騒ぎはじめたときに、あなたが礼拝堂の方まで捜しに行って戻って来たと新聞には書いてありましたよ。その直後に、時計塔の文字盤の飾り照明が点《とも》された。それで皆が空を見上げたんです。ショーはそうして開始された。タイマーを利用したなら、あなたにもできる」 「そんなのは想像にすぎん」 「想像じゃない」  矢的は、冷たい目で言い放った。 「中村氏がすでに死んでいたのは明白だ。としたら空に浮かんでいたのが人形ということも……人形が声を出すはずもない。それと上手に会話を交わしたのは加島さんじゃないですか。仮に中村氏がタイマーをセットしたと仮定しても、あなたがどんなことを言うのか中村氏には想像できない。話が噛《か》み合うわけがありませんよ。あなたと中村氏が組んだ芝居じゃないとね。逆に言えば、その芝居を利用して自分のアリバイを成立させることもできた。皆が空に浮かんでいるのを中村氏と信じてくれたら、一緒にそれを見上げていたあなたも警察の嫌疑から外される。殺意を抱いていた人間にとっては、まさに願ってもない機会でしょう。殺したい相手がアリバイ作りに協力してくれるわけですからね」 「なんで私が中村を殺す?」 「銭屋五兵衛の遺産、そしてめぐみ夫人、現にあなたはその二つを手にしている」 「中村を殺しただけで、すんなり入るとでも」  加島は笑った。 「入手したあなたがそれを主張したところで、警察が納得するかどうか。二十六年前の事件は時効かもしれませんが、新聞記者殺しはまだ間に合う。空中遊泳の謎が解けた今、あなたにはアリバイがない。中村氏が殺されて、だれが一番得をしたかという単純な論理だけで、警察はあなたを追及します。動機のあるなしを云々《うんぬん》するのは、複数の容疑者が存在するときにです。あなたの場合とは違う」  さすがに加島はがっくりと肩を落とした。 「美洋さんはどうしたんだ?」  突然、露麻夫がそれに気づいた。 「なんでここにいないんだ?」  全員が互いの顔を確認し合った。  矢的、田島、佐和子、雄二、良美、露麻夫、百合亜、神楽、加島……そして、めぐみ。やはり浮田美洋一人だけが見当たらない。 「私はちゃんと声をかけました」  百合亜が不安そうな顔で呟《つぶや》いた。 「返事は?」  露麻夫が百合亜の肩を揺すぶった。 「低い声で返事があったわ……」  矢的は不吉な予感を覚えた。  母が死んだと聞いて百合亜は相当に取り乱していたはずだ。いくら寝ぼけていたとしても、美洋がその騒ぎに起きないわけがない。 「美洋さんの部屋に行ってみよう」  矢的の言葉を待つまでもなく、もう露麻夫は地下の廊下に飛び出ていた。 「私はここに残ります。お母さんをたった一人にしたらかわいそう」  百合亜は横たわっている由乃を見やった。      6  襖《ふすま》の外から声をかけたが返事はない。 「美洋、どうした!」  加島はうろたえて襖を開けた。  部屋はしんとして真っ暗だった。  加島が明かりを点《つ》けた。  佐和子と良美が同時に悲鳴を上げた。  布団から身を乗り出す形で美洋は死んでいた。寝間着の襟が大きく開いて豊満な胸の一つが見えた。広げた両手の指が爪を立てた恰好《かつこう》で硬直している。美洋の唇からは涎《よだれ》が垂れて枕を濡《ぬ》らしていた。 「ベルトで首を絞められています」  全員が顔を背けている間に、矢的は布団の側に片膝《かたひざ》を立てていた。そっと襟を合わせる。 「これは美洋さんのベルトですよね?」  矢的に促されて加島が確認した。 「夕方にしていたベルトだわ」  首を捻《ひね》っている加島に代わって佐和子が答えた。赤と黒のエナメルを稲妻の形に交互に組み合わせた細いベルトだ。 「美洋までとは……どうなってるんだ」  加島はへたへたとその場に崩れた。 「まさかあの女が行き掛けの駄賃に美洋を殺したわけじゃなかろうな」  加島は矢的をぼんやりと見つめて言った。 「そんなわけがないだろ!」  露麻夫が怒りを爆発させた。 「彼女を殺す必要がどこにある?」 「おまえが色目をつかっていたからだ」  加島は挑戦的に露麻夫を睨んだ。 「あちこちの女に手を出しおって……あの女はそいつを心配したんだよ」 「嫉妬に狂ってあんたが殺したんじゃねえのか? 美洋はあんたに飽き飽きしてたぞ」 「自分の家で殺すほど間抜けじゃない」  今度は加島がいきり立った。 「冷静になるんだ!」  矢的は声を張り上げた。 「先生の奥様が犯人じゃないのは、最初からはっきりしている」 「…………?」 「百合亜さんが、美洋さんの返事を聞いたと言ったじゃありませんか、そのときには奥様は地下室で死体になっていた」 「だが、彼女はとっくに死んでいて、別の人間が返事をしたってことも考えられるぞ」  田島が言い立てた。 「だったら、その人間はなぜ美洋さんが殺されているのを隠していたんだ?」 「…………」 「田島の推理を否定しているんじゃない。事実は田島の想像どおりさ。百合亜さんは美洋さんを殺した犯人の声を聞いたに違いない」  佐和子は矢的の言葉にゾッとした。 「犯人は美洋さんになりすましていたんだ」 「やっぱりてめえじゃねえか!」  露麻夫は加島を組み敷いた。 「私はずうっと眠っていた……それは」 「そんなの、だれが証明するよ!」  露麻夫は加島の顔を畳に押しつけた。 「いるわきゃねえよな。あの人は礼拝堂に行ってたんだぜ! あんたは一人だったんだ」 「めぐみ……私じゃないと言ってくれ」  加島は泣きそうな顔で妻を捜した。 「めぐみ……どこにいる?」  言われて皆も気がついた。  めぐみの姿がどこにもない。  まさか、という顔で皆が立ちすくむ。 「もう厭《いや》よ、こんなの!」  佐和子の張りつめていた糸が切れた。  佐和子は隣りの良美にしがみついた。 「百合亜さんが聞いたのはあの人の声だったんでしょ? そうだったのよね」  口にして佐和子は泣き喚《わめ》いた。 「そんなことより、手分けしてあの人を捜そう。逃げたんじゃないとしたら……」  残るは死の道を選ぶ他にない。矢的はその言葉を呑《の》み込んだ。      7  矢的と佐和子はふたたび礼拝堂へ、田島や雄二たちは庭、加島は邸内、そして神楽と露麻夫は屋敷のまわりを捜すことになった。 「百合亜さん、いるかい!」  矢的は地下室への階段に足を踏み入れて奥に叫んだ。百合亜の声が聞こえてホッとした。 「めぐみ夫人も一緒じゃ?」  矢的のただならない様子に、百合亜が地下室から飛び出て来た。 「どうしたんですの?」 「めぐみ夫人がどこかに消えちまった。美洋さんのほうは首を絞められて死んでいたよ」  百合亜は呆然《ぼうぜん》とした。 「じゃあ、あの人が美洋さんを?」 「聞いたのは確かに女性の声だった?」 「ええ、それは絶対に」 「それならめぐみ夫人しか該当者がいなくなる。君は夫人の声を美洋さんのものだと」  矢的が言うと百合亜は震えた。 「こうなってみると、ぼくはとんでもない勘違いをしていたかもしれないな」 「勘違いって?」  佐和子は苦渋している矢的を見据えた。 「二十六年前の事件の真相さ。てっきり加島の単独の犯行と睨《にら》んでいたが、むしろ殺人をけしかけたのは夫人のほうだったかも……」 「…………」 「加島に芝居の協力を頼んだほどの中村秋武だぜ。奥さんのめぐみさんにだって、からくりのことを打ち明けていたんじゃないか? としたら中村秋武の死体が池から発見されるわけがないと知っていたはずだ。加島にしてもそんな危険な賭をすると思うかい? せっかくアリバイを拵《こしら》えても、あれは人形だったと警察にめぐみさんが言えばお終いだ。芝居に協力していた加島が真っ先に疑われる。めぐみさんに中村秋武が話したかどうか、そいつは五分五分だけど、一歩間違えば死刑になるかもしれないって情況で、加島が思い切った行動に移るとは考えにくい。交通事故なり、火事なり、もっと楽に殺す方法がある。あの方法を選んだのは、めぐみさんが警察に言わないという確信があったからとしか——」  佐和子も百合亜も頷《うなず》いた。 「共犯でもなきゃ、絶対的な確信など持てるはずがないんだ。財産の相続権がめぐみ夫人にあった点を考慮すると、むしろ夫人が加島に持ちかけた犯行と見るのが正解じゃないか。加島が誘ったところで、夫人には何一つ得することがないんだからね。中村秋武の夫人でいても優雅な暮らしが保証されている」 「恐ろしい人」  百合亜はめぐみを恐れた。 「だったら新聞記者を殺したのも?」  佐和子が質した。 「いや、そいつは加島だろう。でなきゃ、あんなに怯《おび》えたりしないよ。加島は二十六年前の犯行には余裕を持っていたようだったけど、記者殺しに関しては慌てていた」 「お母さんはその事実を知って脅迫を?」  百合亜が思いついた。 「関係ない。中村秋武殺しがめぐみ夫人の仕業と分かっても、恨みはしないさ。おそらくそれは君と露麻夫君についてのことだと思う」 「私たち? どういう意味です」 「さっき気づいたんだ。神楽先生やめぐみ夫人の慌てた様子を眺めていてね」 「まさか!」  佐和子にも閃《ひらめ》いた。 「事件の起きたのは二十六年前。君と露麻夫君は今年で二十六になる。新聞で読んだが、めぐみ夫人は事件当時おなかに六カ月の赤ちゃんを身籠《みごも》っていたそうだよ」 「そんなの信じないわ!」  百合亜は激しく首を振った。 「加島も言っていた。めぐみ夫人が陰でなにかを企んでいる、とね。そいつを加島が口にしようとしたとき、君のお母さんが日記のことを持ち出した。まるで遮るようにだ」 「…………」 「夫人は君たち兄妹を手元に引き取ろうとしていたんじゃなかったのか? 君のお母さんがどんなに君たちを愛しているかも知らずにだ。それでお母さんが夫人を恨んだ。そう考えると、あの日の言葉の意味も分かる」 「あの日?」 「加島の家にはじめてお邪魔した日だ。神楽先生の奥様はぼくにこう言ったよ」 「…………」 「子ゆえの闇、ってね」 「子ゆえの闇……」  佐和子は繰り返した。 「子を思うあまりに、正常な心を見失うという意味だ。なんでそんなことを突然言い出したのか、見当もつかなかったが、今思うと、精いっぱいのアピールだったんだよ。どんなに可愛がって育てても、実の親に名乗りを上げられたら、子供の判断に委《ゆだ》ねる他にない。ましてや加島の家は大財閥だ。露麻夫君や君が喜んで籍を戻すと心配したに違いない」 「私たちがお母さんを見捨てるなんて!」 「君の心とお母さんの心は別だ。だからこそ、子ゆえの闇におちいった。きっと不安と愛情と憎しみがごちゃ混ぜになったんだろう。ご主人の定年を間近にして、子供を失ってしまう可能性があるんだからね。お母さんじゃなくても正常心を失うのは当たり前だな」 「お母さんは、それであんな脅迫を……」 「本当はめぐみ夫人を殺したいほど憎んでいたはずだ。だけど神楽先生や君たちがいる。脅迫なんかをしてもどうなるもんじゃないが、そのくらいしか君のお母さんには抵抗する方法がなかった。偶人館の名を出したり、弁吉を持ち出したのは、君たちを引き取ったのがこの偶人館でだったからじゃなかったのかな。親子の名乗りを絶対にしないという約束を、ここで交わしたと想像すれば不思議じゃない」 「…………」 「しかし、希里子君が死んだことで事情は変わった。脅迫の効果どころか、無関係な希里子君を結果的には死なせたことになる。お母さんは死ぬ覚悟を決めて仙台にやって来た。けれど、自殺となれば脅迫者が自分であったと認めるようなものだ。そもそも自分をこのようなところに追いつめた人間はだれか……最期の最期で、お母さんは加島が許せなくなった。子供を引き取る話に加島も関係していないわけがない。まさかめぐみ夫人の独断などとは信じなかったはずだ。自分も命を捨てる代わりに、加島やめぐみ夫人も道連れにしてやろうと……」 「もうたくさんです」  百合亜は涙を隠さずに矢的を遮った。 「君だってめぐみ夫人が本当の母親かもしれないと薄々感づいていたのと違う?」  矢的は追い討ちをかけるように言った。  諦めて百合亜は頷いた。 「いつ頃から?」 「あの人が希里子ちゃんの養子縁組を解消しようとしていると耳にしたときです。なのに兄との結婚は認めている様子でした。気のせいか希里子ちゃんより、私たち兄妹に対してのほうが優しい感じもずうっと前から……」 「それはぼくも思っていた」 「でも」  百合亜はキッと二人を見据えた。 「私にとって母は一人です。私たちのために地獄に堕《お》ちてくれた人こそ、母なんです」  佐和子も泣きながら頷いた。 「矢的! どこだ」  田島が礼拝堂に駆け込んで来た。 「あの人を見つけたぞ!」 「どこで!」 「時計塔の屋根の上だ。死ぬ気だぜ」  矢的は時計塔への階段に走った。  途中の階段が一枚抜けている。下の板を抜こうと試みたが無理だった。矢的は覚悟を決めて飛び跳ねた。腕が上の板を掴《つか》んだ。体を必死で立て直して攀登《よじのぼ》る。どこにこんな勇気が潜んでいたのか自分でも分からない。跳ね扉を開けて上の階に出た。時計塔の屋根に出るにはもう一階だ。矢的は階段を泳ぐように駆け上がった。跳ね扉の上は機械室だ。そこからバルコニーを越えて屋根に出られる。  機械室に上がった。バルコニーへの扉を押す。だが扉は開かなかった。  めぐみが外からなにかで塞《ふさ》いでいる。  機械室には狭い覗き穴しかない。  矢的は焦って扉を叩《たた》いた。 「だれ!」  めぐみの怯えた声がした。 「矢的です。ここを開けてください」 「駄目! もうお終いだわ」  絶望しためぐみの声が聞こえた。 「あの女だけは許せなかった。私がなにも言わないのをいいことに、主人ばかりか露麻夫まで誘うような真似を……由乃さんの死体を見つけたときに私は決めたんです。由乃さんは私が殺したようなものなのよ。私がどうして生きていけると思って?」 「二人はあなたの子供なんでしょう? 二人のためにそこから戻ってください」 「神楽さんがそれを話したの?」 「いいえ、ぼくの想像です」 「だったら、あの子たちには言わないで!」  めぐみは矢的に懇願した。 「私のような女が母親と知ったら……苦しむのはあの子たちだわ。お願い」 「そんなに愛していて、なぜ二人を神楽先生に預けてしまったんです。そんなの勝手だ」 「怖かったのよ……加島の子供かもしれないと思って……怖かったの」 「加島さんの子供?」 「中村の留守に、加島が無理矢理私を……」  矢的はあんぐりと口を開いた。 「中村には知られたくなかった。あんなに優しい中村を苦しめたくなかった。でも、おなかの子供はどんどん大きくなる。もし生まれた子供が加島に似ていたらと思ったら、毎日が地獄だったわ。中村を苦しめるぐらいなら私が死にたかった。でも、おなかの中で動いている子供を感じると、できなかった。そんな気持ちなんてあなたには分からないでしょ」  めぐみは泣いていた。 「中村が死ねばいいと思った」  めぐみは冷たい声で言った。 「若かったのよ。中村さえ死ねば、中村を子供のことで苦しめずにすむ。中村だっておなじ苦しみなら、それを選ぶに違いないと」 「…………」 「加島は喜んで手伝ってくれたわ」 「どっちの子供だったんです?」 「あの子たちが少しでも加島に似ていて?」 「だったら、なぜ養子なんかに」 「加島が嫌ったの。自分が手にかけた中村の子供など育てたくないと言い張って……それに、事件が収まるまでは外国で暮らそうと加島が……生まれたばかりの子供を連れて、外国に行ける情況じゃなかった。諦めてあの子たちを中村の友達だった神楽先生に。その時に中村から聞かされていた血筋……二人が大野弁吉に関わる人間であることを、由乃さんにだけは伝えたわ。いつか二人が自分の過去を知りたくなることもあるかもしれないと思って……。それで由乃さんは二人に多野の苗字を与えたの」 「だから神楽先生の奥様は脅迫に弁吉の名を……それにしても身勝手だ……」 「そんなこと、あなたに言われないでも分かっているわ。でも、私はあの子たちの母親なのよ。加島との間には子供ができなかった。私だって辛《つら》かったの。希里子と露麻夫の結婚を機会に正式な籍に直そうとして、どこがいけないの。そのほうが露麻夫のためにも……」 「籍を異動するぐらいなんでもないことだったとおっしゃるんですか? たとえ義理の母親だって、神楽先生の奥様は、その籍だけを頼りに生きてきたんだ。そのほうがどんなに辛いことか……あなたにはちっとも分かっちゃいなかったんでしょう」 「分かっていたわよ……でも、それを分かったら、永久に露麻夫と百合亜は私のもとに戻って来ない。分かっていても、分からないフリをしていたの。百合亜だって神楽の家にいるよりは立派なところに嫁《とつ》がせてやることができるわ。神楽の家も一生面倒を見てあげるつもりだった。それでなにが不足なの! 私たち四人があの子たちの親になればいい。私が望んだのは、その程度のことだったのに」  矢的は溜《た》め息を吐いた。  めぐみもまた子ゆえの闇におちいった母親の一人だ。露麻夫や百合亜が自分に優しくしてくれたから錯覚したのだ。すべてが許されると考えたに違いない。 「あなたは……失うのが怖い人なんですね」  矢的は静かな口調で続けた。 「それを別の理由にこじつけているだけですよ。中村さんを苦しめたくなかった、と言うより、離婚されて中村さんの財産を失うのが怖かったんでしょう。露麻夫君たちについても一緒だ。彼らが自立して母親を必要としなくなる前に名乗りを上げたかった。愛情を押しつけて彼らに親だと認めさせたかっただけなんだ。失うのが怖いからこそ、加島さんの浮気だって公認していたんでしょう? それもあなたの頭の中では、下手に騒ぐと二十六年前の事件が発覚するとでも考えていたんでしょうが……本当に中村さんを愛し、子供を愛していたなら、違う方法があったはずです」 「嘘よ! 私はあの子たちを死ぬほど愛しているわ。だからあの子たちのためにこうして」 「違う! あなたは警察に捕まるのが怖いだけなんだ。なぜいつまでも自分に嘘を言い聞かせるんです。神楽先生の奥様の死体を地下室に隠したのだって、口ではご主人を守るためだとおっしゃっていましたが、その底にはご自分の二十六年前に犯した罪の発覚を恐れる気持ちがあったはずですよ」 「死ぬことよりも警察が怖い、ですって」  めぐみは哄笑《こうしよう》した。 「百合亜さんは、あなたが母親であると知っています」 「どうして!」 「でも、自分の母親は神楽先生の奥様だけだと……あなたには悔しい話でしょう」 「…………」 「罪を償ってください。あなたがそこから飛び降りれば、あなたは永遠に彼女の母親ではなくなる。たとえ二人に受け入れられなくても、あなたがきちんと告白したら、財産だけは二人に譲り渡すことができます。もちろん二人がそれを受け取るかどうか、ぼくには分からない。それでも、それが母親の務めでは?」  しばらくめぐみは無言でいた。  やがて外から扉を開ける音がした。 「死ぬことよりも辛いことだと、あの子たちが分かってくれるでしょうか?」  めぐみの心は揺れ動いていた。 「子は母の醜きを嫌わず、ということわざがありますよ。今は無理でも、時間が経てば二人も必ずあなたのことを……」 「子は母の醜きを嫌わず……」  めぐみは期待に満ちた顔をさせて扉を開いた。嗚咽《おえつ》はいつまでも止まなかった。 [#改ページ]   エピローグ  それから十日後。  高幡不動の矢的のマンションに仲間が集まっていた。矢的はテーブルに小さな板切れやタコ糸を展《ひろ》げて見せた。 「こいつは?」  呼び出しを受けた田島が板を手にして、 「偶人館で見つけた板の模型みてえだな」  板の真ん中には丸い穴があり、カミソリの刃が覗いていた。 「ちょいと興味があったから仕掛けを再現してみたんだ。からくり人形はないんで、実際とはだいぶ違うと思うけど」  矢的はそう言って長いタコ糸を手にすると、中心辺りに大きな結び目を拵《こしら》えた。次にその糸の端を、吊るし輪のついた重い南部鉄器の風鈴に通した。吊るし輪は結び目のところで止まった。通した後に、適当な長さを計ってまた結び目を作る。風鈴とおなじ要領で矢的は例の板を糸に通した。板は二番目の結び目で先に進まなくなる。それを確認して、板のすぐ後ろにまた結び目を。板は前にも後ろにも動けなくなった。そうしておいてから糸の端と端とをしっかりと結ぶ。大きな輪の中に風鈴がぶら下がり、板も固定されている。 「今度は別の仕掛けだ」  矢的は板の蓋《ふた》を外した。  糸を通した穴と並んでいる小さな穴に、矢的は裏側から細い糸を通した。その糸を刃物の上に突き出ている爪楊枝《つまようじ》で拵えられたくさびに軽く引っ掛け、刃物を囲む形にしてから別の小さな穴に通して裏側に糸を抜き出した。 「なんでこんなカミソリを?」  田島が気がついた。カミソリの上部に幅と等しく割箸《わりばし》が取り付けられている。 「こうしないと糸が引っ掛からない」  矢的は糸を通し終えると板に蓋をし、その糸を板の背後で堅く結び、一本にして垂らした。 「こいつを人形だと考えてくれ」  そう言って、矢的はタコ糸の板の裏から少し離れた部分に小さなプラモデルを繋《つな》いだ。 「これで完成だ。舞台は用意してある」  満足そうに頷くと矢的は奥の仕事場に行き、二本の棒を持ち帰った。太い一本には二個の滑車が、別の一本には一個の滑車が括《くく》りつけられてある。矢的は一本を良美に与え、 「良美君が池の側にある松の木だ」  続いて太いほうを佐和子に持たせると、 「君は時計塔だよ」  笑いながら作業に取りかかった。  板から延びた細い糸を、最初に時計塔の下の滑車にかけて垂らす。それが終わるとタコ糸の輪を上にかけ、反対の輪の端を良美の持つ松の滑車に取りつける。糸を軽く引くと風鈴や板が軽快に動いた。 「実験は一度しかできない。ようく見ていてくれ。成功したら拍手を忘れずにね」  矢的は佐和子を立たせた。良美は座っているので糸に急な角度が生じる。 「人形はこの位置だ。バルコニーの辺りと考えてもらえばいい」  矢的が糸を引いて人形を滑車の側まで引き上げた。風鈴も引かれて上に移動する。 「田島は時計塔の機械室の役割を受け持ってくれ。この滑車は機械室のモーターが動かしているんだから。この垂れている糸だって、本当はモーターに接続されている」  よしきた、と田島は立ち上がった。 「いよいよショーのはじまりだぜ」  矢的は田島に少しだけ糸を引かせた。人形がゆっくり下に降りて来る。ストップと矢的が命じた。 「これで人形は屋根から足を踏み出したというわけだ。ぼくが垂れている糸を持っているから、それがピンと張るまでタコ糸のほうを進めてくれ」  田島は頷いて糸を手繰《たぐ》った。人形は空中を泳ぐように前進した。やがて矢的の引く糸が延び切って板を止めた。 「いったん止めて!」  矢的が田島に叫んだ。 「ここでしばらく時間がある。からくり人形の芝居の見せどころだな。加島はこの人形と会話を交わしていた。注意してほしいのは、このときの風鈴の位置だ。だいぶ下にある。ちょうど池の真上と思ってくれ。そろそろいいだろう。また糸を手繰ってくれないか」 「おまえさんの引っ張っている糸のせいで抵抗があるぞ。これでいいのか?」 「その抵抗が大事なんだ」  矢的はニヤニヤして頷いた。田島が糸を引く。と同時に矢的も自分の糸を引いた。板は前後の結び目に挟まれていて動かない。前に進もうとする田島のタコ糸と、それを阻止《そし》しようとする矢的の糸が板を中心にして引っ張り合いとなった。佐和子たちは固唾《かたず》を呑《の》んで見守った。  プツッと音がしてタコ糸が切れた。  風鈴がその場に落下する。鈍い音をさせて風鈴は床に転がった。 「そのまま糸を引っ張り続けるんだ」  矢的に言われて田島は引いた。板と人形は矢的の持つ糸の方にぶら下がっている。切れた糸は風鈴の吊るし輪を抜けて、全部が田島の手の中に戻った。それを見届けると矢的も自分の糸を引いた。スルスルと人形が滑車のところまで引き上げられた。 「驚いたわ……どういう仕掛け?」  佐和子は拍手も忘れて問い質《ただ》した。 「単純なものさ。板が一定の場所に辿《たど》り着いたところで、細い糸を引っ張る。そうすると板の中に通っている糸の輪が縮まる。輪は爪楊枝のくさびを折って、カミソリに直接引っ掛かる。輪がどんどん縮まるとカミソリが下に押しつけられてタコ糸を切り落とす」  全員が頷いた。 「風鈴は池に落ちる。その物音に皆が驚いているスキに人形が回収される。風鈴を吊るしていたタコ糸も今見たとおりだ。風鈴は池に深く沈み、代わりに中村秋武の死体が池から発見されるという段取りだ。糸を回し続けるモーターと、糸を引っ張るモーターの二つを組み合わせれば、後は自動的にやってくれる。加島がタイマーのスイッチさえ入れれば完了だ。連動したテープレコーダーに上手く話を合わせることさえできたら、必ず成功する」 「よくこんなアイデアを思いついたな」  田島は唸《うな》った。 「ぼくじゃない、弁吉さ。このとおりの仕掛けが弁吉のノートに描かれていた。まったく、恐れ入った頭脳だ。あんな人間がたくさんいたら、たとえスコットランド・ヤードだって頭を抱えるよ。完全犯罪が連続する」 「…………」 「ぼくもすっかり自信を失った。最後の最後までめぐみ夫人が犯人だなんて考えもしなかったんだ。探偵としちゃ失格さ」 「でも、めぐみ夫人を説得したのは矢的さんだわ。結局は犯罪を解決したことに」  佐和子は力説した。今はまだ深い溝が残っていても、やがては露麻夫と百合亜がめぐみを母と認める日が来ないとも限らない。 〈終わりよければすべてよし、ってことわざもあるじゃない〉  そう言いたかった佐和子だが、あんまりポピュラーすぎるような気がして止めた。 「終わりよければすべてよし、って言うぜ」  田島が得意そうに締めくくった。 「あ、ずるい」  佐和子が口を尖《とが》らせた。  矢的は微笑を浮かべて佐和子に頷いた。 本書は一九九三年七月に祥伝社文庫から出された作品を角川文庫に収録したものです。 角川文庫『偶人館の殺人』平成14年7月25日初版発行