高杉 良 金融腐蝕列島(下) 目 次 (下)  第 十 章 広域暴力団  第十一章 手打ち式  第十二章 大蔵省銀行局長  第十三章 ワルとの再婚  第十四章 内部告発  第十五章 疑心暗鬼  第十六章 権力者の黄昏  第十七章 再生へのシナリオ [#改ページ]  第十章 広域暴力団     1  広域暴力団、関州連合の協銀に対する攻撃の火ぶたが切られたのは十月に入ってからだ。  協産ファイナンスによる共鳴興産グループ各社の第三者破産申請がその契機になった。  当初のターゲットは竹中と秋山である。二人が第三者破産申請の仕掛人と見られても仕方がなかった。  わけても、プロジェクト推進部で協産ファイナンス案件を担当し、しかも調査で指揮をとった竹中に対する厭《いや》がらせは、凄《すさ》まじかった。 「おまはん、子供が二人いてるそうやなあ。気いつけえや」 「べっぴんのお母ちゃん、大事にせなあかんよ」 「てめえ、殺されたいのか!」  まず厭がらせ電話から始まった。留守番電話にしておくと、テープがボリュームをいっぱいにした音楽で埋められてしまう。  犬猫の死骸《しがい》が庭に投げ込まれるに及んで、義父と義母がノイローゼになり、子供たちも怯《おび》えて、登校拒否を言い出す始末だ。  近所一帯の塀や電柱にビラを貼《は》り出された。   協立銀行本店副部長 竹中治夫の大罪!   自己の栄達、出世のために手段を選ばず   取引先を切り捨てる極悪非道の輩《やから》!   血も涙もない冷血漢!   竹中に鉄槌《てつつい》を! 竹中に死を!  ビラに気づいた竹中は、知恵子と両親も動員して剥《は》がして歩いたが、翌朝も翌々朝も翌々々朝もビラの貼り紙は続いた。午前一時、二時の遅い時間に夜陰に乗じてやられるのだから、手の打ちようがなかった。 「いつまでこんなことが続くの。あなた、なんとかしてよ」  貼り紙を剥《は》がしながら、知恵子は泣き出し、義母の達子も、竹中を非難した。 「家族まで巻き込むなんて、どうかしてますよ。治夫さん、そんなに人に恨まれるようなことをしてるんですか。ご近所に恥ずかしくて、外に出られないじゃないの」 「相手はヤクザなんです。ただの逆恨みですよ」 「きみも大変だねぇ」  義父の神沢孝一は同情的だったが、皮肉も言った。 「しかし銀行も悪いよ。銀行は恨みを買うようなことをしてるからねぇ」  いたちごっこはいつ果てるともなく続き、竹中たちはいつしか根負けして、ビラ剥がしを諦《あきら》めてしまった。  敵はついに街宣車まで繰り出してきた。十月十三日の昼下がりのことだ。 「上北沢三丁目の皆さんにお知らせしまーす。協立銀行本店副部長の竹中治夫は不正を働いてまーす! 竹中をこの町から追放しましょう!」 「協立銀行におカネを預けてはいけませーん! 竹中治夫のような悪い人たちに、おカネを取られてしまいまーす!」  拡声器でがなられ、軍歌をがんがんやられたら、閑静な住宅街だけにたまったものではない。  竹中は知恵子の電話でそのことを知らされた。会議中にメモを入れられたのだ。 「あなた聞こえるでしょ。ぐるぐるこの辺を回って、これで三度目よ」 「バスみたいな大型車なのか」 「いいえ。中型車っていうの、ジープみたいな四角い車。だけどもの凄い騒音だから、ご近所の人たちが皆さん外に出て、見物してるわ。さぞや苦情が大変だと思う。ほんと、なんとかならないの」 「一一〇番して、警察に来てもらってくれ」  受話器に、知恵子のヒステリックな声と、街宣車のがなり声がびんびん響く。 「あなた、すぐ帰ってきてちょうだい!」 「そうもいかんよ」 「わたしたち気が変になりそうよ」 「子供たちは学校だろう」 「母と二人で、近所の皆さんにどう話したらいいの」 「あさっての土曜日に僕から説明させてもらう。厭がらせは、そう長くは続かないと思うけど」 「なにを暢気《のんき》なこと言ってるのよ! 変な電話以来、二週間も続いてるじゃないの」 「いま会議中なんだ。会議が終わったら電話するから」 「もしもし……」  竹中はなおも呼びかける知恵子を振り切って、受話器を戻した。     2  十月十四日の夜、残業で竹中が帰宅したのは十時近かった。六時ごろ、行員食堂でパスタを食べたが、茶漬けぐらいは食べたかったし、一杯飲みたい気もしていた。しかし、竹中家はそれどころではなかった。  近所の鮨屋《すしや》から出前を取って、夕食を済ませたらしい。一人前用の鮨桶《おけ》が五つ、上がり框《がまち》に置いてあった。しかも食べ残しもある。たまには出前の鮨や鰻《うなぎ》で夕食を済ますことはあるにしても、知恵子は必ず器を洗う。食べっ放しはついぞなかったことだ。  知恵子の精神状態が普通ではないことが、汚れた鮨桶にあらわれていた。鮨桶が五つということは両親も一緒だったのだろう。  子供たちは二階の自室に引き上げて、リビングには知恵子が一人でぼんやりしていた。  テレビはつけっ放しだが、見ている様子ではなかった。  リビングも散らかっている。絨毯《じゆうたん》なので目立たないが、埃《ほこり》っぽかった。 「ただいま」  これで三度目だが、知恵子は返事をしなかった。  竹中はテレビを消した。 「おい、なにをぼんやりしてるんだ。しっかりしろよ」 「ああ、あなた。帰ったのね」 「爺《じい》さん、婆さんがなにか言ってきたのか」 「いままで相談してたのよ。このままじゃ、みんな心身症になっちゃうわ。ご近所の人たちにも押しかけられて、気が狂いそうよ」  知恵子は両手で頭を抱えて、うずくまった。  竹中は水を一杯飲んでネクタイを外しながら、ソファに並びかけた。 「こんなことになろうとは予測がつかなかった。家族や近所の皆さんに迷惑をかけて申し訳ないとは思うが、相手は狂気の集団だからねぇ。手の打ちようがないんだ。永井部長とも話したんだが、ヤクザや右翼の厭《いや》がらせは、じっと堪えるしかなさそうなんだ。ヤクザの攻撃を受けてるのはウチだけじゃない。協銀のOBで協産ファイナンスの社長をやってる秋山さんも、同じような目に遭ってる。�渉外班�の意見も聞いたが、いい知恵が浮かばない。ほとほと参ったよ」 「参ったで済むの。こんなひどい目に遭って、じっと堪えろなんて冗談じゃないわ。ご近所の人の中には、竹中さんにこの町から出て行ってもらいたいって、はっきり言う人もいるのよ。あなた、ほんとに悪いことしてないの。この辺の人はみんなあなたを犯罪者と見ているわ。わたしだって、なにかあると思うわよ。そうなんでしょ。なにかあるんなら、わたしぐらいにはちゃんと話しなさいよ」  知恵子は突然、竹中の背中を両手の掌で叩《たた》き始めた。 「ふざけるな! おまえまでなんてことを言うんだ」  竹中は色をなし、腰を浮かして、知恵子の両手を押さえつけた。 「落ち着けよ。いくらでも話してやる。いまの僕の仕事はなあ……」  竹中はムダだとは思ったが、�プロジェクト推進部�における自分の立場と、協産ファイナンスにかかわった経緯をかいつまんで話した。 「あなた一人をこんなひどい目に遭わせて、銀行がなんにもしてくれないっていうのはおかしいと思う。こんなことがいつまで続くのか知らないけど、父も母も、ここから引っ越したいって言ってたわ。あしたからさっそくマンション探しを始めるそうよ。生まれ育ったこの町から出て行きたいなんて、よくよくのことでしょ。わたしもこの町が好きだけど、ご近所の手前もあるから出て行かざるを得ないような気がしてるわ。それにこのままでは、子供たちが可哀相《かわいそう》でしょ。いずれ学校にも知られて、いじめられるかもしれない。そんなことにならないうちに、引っ越さなければ……」  知恵子と両親が、そこまで思い詰めているとは——。竹中はショックのあまり、言葉が出なかった。  翌日、午後二時過ぎに街宣車が上北沢三丁目にあらわれた。 「協立銀行のワル! 竹中治夫よ! いるんなら出てこい! 出てこられるはずがないか!」  竹中宅前で大型ジープの黒い街宣車は停止し、挑発してきた。  神沢夫妻はマンション探しで留守だったが、竹中と知恵子は在宅していた。 「あなた、どうするの」 「どんなやつか顔だけでも見ておこう。裁判で証言することもあり得るからな」 「やめたほうがいいわ。暴力でもふるわれたらどうするの」 「それならそれで、こっちが有利になるよ。まさか白昼、人殺しまではやらんだろう」  竹中は度胸を据えたが、声がふるえていた。  竹中はセーターにジーンズ姿でサンダルをつっかけて外へ出た。そして街宣車の運転席に近づいた。  街宣車の横腹に�大日本友愛国粋会�とある。関州連合会系の右翼団体だ。  運転手も助手席の男も、迷彩色のユニホームを着ていた。運転手のほうが若そうで二十代後半か三十そこそこ。助手席の男は三十代半ばという齢恰好《としかつこう》だ。  両人ともパンチパーマでサングラスをかけていた。  竹中が周囲に眼を遣ると、十人ほどが視界に入った。家の前に立って、こわごわ街宣車の様子を窺《うかが》っていた。  竹中は彼らに目礼して、運転席の窓をこぶしで軽く叩いた。 「わたしが竹中ですが……」  二人は呆気《あつけ》に取られて、顔を見合わせたが、すぐに街宣車から降りてきた。 「協立銀行のワルだけあって、いい度胸してるじゃねえか。てめえ、ふざけやがって! 共鳴興産を潰《つぶ》そうっていう魂胆らしいが、そんなことしてみろ、命がいくつあっても足りないからな。おまえだけじゃねえぞ。てめえの一家は皆殺しだ!」  助手席の男が喚《わめ》いた。 「荒又社長に頼まれて、こんな莫迦《ばか》なことをしてるんですか」 「竹中いいか、協立銀行が共鳴興産から手を引くまで、俺たちはおまえを攻撃する。おまえと秋山が仕組んだことはわかってるんだ」 「言いたいことがあったら、出るところへ出て言いなさい。こんな卑怯《ひきよう》、卑劣な手段にしか訴えられないんですか。共鳴興産の顧問弁護士は、すでに話し合いのテーブルに着こうとしてるんですよ。帰って荒又社長にお聞きになったらどうですか」  運転手がやにわに、街宣車からマイクを引っ張り出した。 「上北沢三丁目の皆さんに告ぐ! 協立銀行のワル! 竹中治夫は悪業の限りを尽くし、会社乗っ取り、会社潰し、そして不正融資とやりたい放題をやっている。われわれは竹中が反省し、会社潰しから手を引かない限り、街宣活動を続けるであろう。以上!」  街宣車は竹中宅の周囲を三周して帰ったが、よくもこう�ないことないこと�を並べたてられると思えるほど、竹中攻撃を執拗《しつよう》に繰り返した。 「竹中治夫は協立銀行本店副部長の地位を利用して、暴力団と手を組み、不良債権の取り立て、不正融資、リベートの取得等々、協立銀行腐敗の元凶となっている。上北沢三丁目の邸宅も汚職による穢《きたな》いカネで建てた物件である。腐りきった竹中は天誅《てんちゆう》を加えられなければならない……」  竹中は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、飲みながら、街宣車のアナウンスを聞いていた。 「僕も偉くなったもんだよなあ。�協立銀行腐敗の元凶�ねぇ。�暴力団と手を組み�も、おかしいじゃない。暴力団と手を組んでるのはあいつらなのに」 「あなた、よくそんな他人事《ひとごと》みたいに言ってられるわねぇ。被害に遭ってるのはあなたであり、わたしなのよ」 「今度、街宣車がやってきたら、テープに録《と》っておこうか。なにかの記念ぐらいにはなるだろう」 「わたしもあしたからマンション探しを始めるわ。テニスクラブから遠くなるのは厭《いや》だから、浜田山あたりがいいかしら。父と母も浜田山か久我山に手ごろなマンションがないかって話してたわ」 「僕はここで頑張るぞ。暴力団に屈してたまるかっていうんだ」 「そういうわけにはいかないでしょ。こんなケチがついた家、処分したほうがいいわ。そうしなければマンションが買えないんだもの仕方がないわ」 「そう慌てるなよ。ちょっと考えてることもあるんだ」  竹中は、児玉由紀夫の魁偉《かいい》な顔を眼に浮かべていた。     3  翌々日、十月十七日月曜日の朝一番で、竹中に斎藤頭取から呼び出しがかかった。頭取付の女性秘書が電話をかけてきたのである。 「お手すきでしたら、頭取がお目にかかりたいそうです」 「承知しました。すぐ伺います」  頭取から呼ばれたのは入行以来初めてのことだ。竹中は緊張した。  女性秘書に頭取執務室に通された。 「おはようございます。プロジェクト推進部の竹中です。なにか……」 「おはよう。ま、座りたまえ」 「失礼します」  斎藤は読んでいた新聞をたたんで、センターテーブルに放り投げた。 「きみの奥さん、元気のいい人だねぇ」 「はあっ?」 「きのうの午後三時ごろだったかな、拙宅に見えてねぇ」 「…………」 「知ってるんだろう」 「いいえ」 「そう。奥さんだけの判断で見えたのか」 「家内が頭取のお宅にお邪魔したんでしょうか」 「そうだよ」 「申し訳ありません。勝手なことをしまして。マンションを探しに行くと言って出かけたのですが、まさか頭取のお宅をお訪ねするなんて……」 「奥さんにしてみれば、やむにやまれぬ気持ちだったんだろう。それに大昔、一度会ったことがあるんだねぇ」 「…………」 「きみらの結婚式で、わたしは主賓でスピーチをやらされたんだ。たしか渋谷支店長のときだったと憶《おぼ》えてるが」 「はい」  竹中は動顛《どうてん》してすぐには思い出せなかったが、言われてみれば、そのとおりだった。  それにしても、知恵子は唐突というか非常識というか、亭主にこんな恥をかかせて、なにを考えてるのか、と竹中ははらわたが煮えくり返った。 「主人がこんなひどい目に遭うことがわかってて、いまのポストに就けたのか、って責められたが、わたしとしても、どうにも答えようがなかった。奥さんの気持ちはわかるが、直ちにポストを替えてもらいたいと言われても、はいそうしますとも言えんし、正直困ったよ」 「よく注意しておきます。ご迷惑をおかけし、お詫《わ》びのしようもありません」 「しかし、何度も言うが、奥さんの気持ちはよくわかる。街宣車まで繰り出されて、がんがんやられたら、頭にくるだろうし、誰かを恨まずにもいられまい。それで頭取のわたしにクレームをつけてきたっていうわけだね」 「身のほど知らずにもほどがあります。世間知らずでほんとうに莫迦《ばか》な女です。二度と、こんなことは致させませんので、どうかおゆるしください」 「きみがあくまでも引っ越しに反対するようなら、離婚するまでだとも言ってたが、それは穏やかではない。わたしは、この際引っ越しを考えたほうがいいような気もするが……」 「彼らは暴力団です。引っ越し先を突きとめるのは簡単でしょう。引っ越し先に街宣車を繰り出してくると思います。ですから、辛抱するしかないと思ってます」 「なにか手はないのかねぇ。奥さんの思い詰めた顔がいまでも眼にチラチラするよ。気の毒だし同情もするが、わたしにどうする当てがあるわけでもないしねぇ」  斎藤は心底同情しているような口ぶりだった。知恵子の訪問先が鈴木会長でなくてよかった、と竹中は思う。鈴木だったら、佐藤秘書室長を通じて、不快感を示してくるところだろう。  それだけでは済むまい。考課で罰点がつくことは間違いないところだ。 「奥さんがみえたことは、この場限りにしよう。相当参ってるようだから、優しくしてあげなさい。家内も心配してたよ」 「恐れ入ります」 「奥さんによろしく言ってくれ。美味《おい》しい和菓子をいただいてねぇ。こんなことで離婚騒動に発展しないことを願ってるよ」  協立銀行では、離婚は相当な減点になる。  斎藤はそのことを暗に匂《にお》わせたのかもしれなかった。  竹中は帰宅して、知恵子に静かに言った。 「きのう頭取のお宅に行ったんだってねぇ」 「ええ。行ったわよ」 「亭主の僕に内緒でか」 「話せば反対するに決まってるでしょ」 「中小企業とか町工場なら、きみが取った行動も考えられなくはないが、行員が一万七千人もいる銀行では、一行員の女房が頭取に直訴するなんてことはあり得ないことなんだ。恥をかくのは亭主の僕だってこと、まったく考えなかったのか」 「そんなことわかってるわよ。だけど、頭取に話せば、ポストを替えてもらえる可能性はゼロではないと思ったの」 「ゼロだよ」 「でも、斎藤頭取はちゃんとわたしの話を聞いてくれたわ。しかも、なにか手はないか考えてみましょう、とも言ってくれたわ。わたしは頭取にお目にかかって、わが家の窮状を聞いていただいてよかったと思ってる。結婚式に出席してもらったことを思い出して、矢も盾もたまらずお邪魔したくなったんだけど、いくらか胸がスーッとしたわ」 「とにかく二度とこういう恥はかかせないでもらいたいな。今度、僕に無断でこんな真似をしたら承知しない。それこそ離婚でもなんでもしてやるよ」  竹中は笑いながら冗談めかして言ったが、知恵子は逆上した。 「それはわたしの言うセリフよ。さっき母と話したんだけど、久我山に二世帯住宅のマンションがあるそうだけど、そこに引っ越すことに決めたからね。あなたそれが厭《いや》なら、わたしのほうから別れてあげる」 「なにを飛躍したこと言ってるんだ。ご両親にも僕から話す。だいいち、この家がそう簡単に売れるとは思えないよ」  竹中は、児玉由紀夫の力を借りようと決心した。  児玉が動いて、関州連合の攻撃が止まらなかったら、そのときは引っ越しを考えざるを得ないかもしれないが。     4  十月二十二日土曜日の午後一時に、竹中は吉祥寺の児玉邸を訪問した。電話をかけたら、「マージャンのメンバーを探してたんだ。ちょうどよかった」と児玉はうれしそうに言った。 「マージャンのお相手はさせていただきますが、先生にお話ししたいことがあります」 「それなら一時に来たらいい。カミさんの友達は二時に来るそうだ」  竹中は外出するときに、知恵子に目的を話した。 「いつか児玉先生のことを話したと思うが、あの人のパワーはわれわれの想像の及ばざるほど大きい。ダメモトで当たってみようと思うんだ」 「わたしも一緒に行っていいかしら」  竹中は思案顔で食卓に頬杖《ほおづえ》を突いた。 「いいだろう。マージャンが始まるまで、一緒にいたらいいよ」  知恵子は外出の仕度にかかった。いそいそする知恵子を見るのは久しぶりのことだ。  不眠を訴え、テニスクラブにも行かず、家でボーッとしていることが多く、家事がおろそかになるほど、心身共に傷ついていた知恵子が、いくらか生気を取り戻した感じだった。  竹中から知恵子を紹介されて児玉は面食らった様子をみせた。 「竹中の家内です。いつもいつも主人が大変お世話になっております。どうぞ今後ともよろしくお願い致します」 「こちらこそ竹中君にお世話になってます。よろしく」  児玉夫人が緑茶を淹《い》れて、応接室にあらわれた。 「ようこそ、お出でくださいました。児玉の家内です」 「竹中の家内でございます。主人がいつも……」 「挨拶《あいさつ》はもういいだろう。なんか話があるとか言ってたが」 「はい。大変難しい話で恐縮ですが、関州連合に街宣車で自宅を攻撃されて、ほとほと参ってます……」  竹中の話は微に入り細を穿《うが》っていたが、決してくだくだしくはなかった。 「きみと秋山が荒又なんていうチンピラに絡まれてるのか。それはわしの出番だ。関州連合の会長には貸しこそあれ借りはない。ちょっと待ってなさい。すぐ電話で連絡を取ってみよう」  児玉が応接室から退出した。戻ってくるまで二十分近くも要した。 「きみと秋山に対する街宣車の攻撃はきょうで終わるだろう。会長が約束したんだから間違いない。わたしの顔を潰《つぶ》すような真似ができるはずがないからな」 「ありがとうございます。ご恩は忘れません」 「なんとお礼を申し上げたらよろしいか」  知恵子は声を詰まらせた。 「万一、荒又が矛を収めなかったら、次の手を考えよう。だが、その心配はないだろう」  いったん退出した児玉夫人がふたたび顔を出した。 「あなた、電話がかかってますよ」  夫人はコードレス電話を持ってきた。  児玉のごつい左手がコードレス電話を握った。 「児玉です。おう、並木君、さきほどは失礼しました……。ふうーん、ふうーん。なるほど、なるほど。荒又本人が並木君に頭を下げたことになるわけですな……。それで安心しました。さっそくに、ありがとう存じます。竹中君はわしの弟分なんですわ。ほんとあなたに一点借りができましたかな……。いやいやいや……。どうもどうも……」  児玉の豪傑笑いが室内に響きわたった。  電話が切れたあとで、児玉が言った。 「わしが一点借りができたと言ったら、並木会長はやっと借りを一点返したと言いおったよ。竹中君、荒又と直接会って係争にせず、できる限り納得ずくで債権回収するようにしたらいいんじゃないか。これはわしの老婆心と思ってもらいたい」 「よくわかります。さっそく来週、荒又社長と接触したいと思います」  難交渉を控えて、浮かれてばかりもいられないが、ともかく暴力団の厭がらせだけはピリオドが打たれた。竹中と知恵子がどれほど安堵《あんど》したかは、街宣車で攻撃された者しかわかるまい。     5  指定広域暴力団、関州連合会長の並木喜太郎が、共鳴興産社長の荒又と、協産ファイナンス前副社長の石水を都内某所の豪邸に呼びつけたのは、十月二十三日日曜の夜だ。  並木は五十七歳だが、銀髪を七三に分け、風貌《ふうぼう》も柔和で一見紳士然としている。一メートル七十八センチの長身で、堂々たる押し出しだ。口をきかなければ、どこから見てもヤクザの親分とは思えない。  荒又も石水も、貫禄《かんろく》充分な並木とは比ぶべくもない。おどおどして、いじけてみえる。 「おまえたち、なにをやってるんだ。協立銀行の若造を相手にしてたらしいが、相手を間違えとるとは思わんのか」 「若造いいましても本店の副部長で、協産と共鳴をひっかき回した張本人です。懲らしめる意味はあると思いまして……」 「阿呆《あほう》!」  一喝されて、石水は縮み上がった。 「少しはここを使わんか」  並木は右手の人差し指で自分の頭をトントンと叩《たた》いた。 「若造を懲らしめてなにか出てくるのか。やるんなら会長か頭取だろう。共鳴興産を破産させるにしろ、協立銀行からまだ絞らないかん。児玉がなんと言おうと、黙って引き下がる手はないとわしは思う。秋山いったかなあ。協産ファイナンスの社長」 「はい」 「はい」  二人が同時に返事をした。 「秋山を取り込む手を考えろや。女を使ったらいちころだろう」 「美子はどうなってるの」  荒又に顔を覗《のぞ》き込まれて、石水は頬《ほお》を火照《ほて》らせた。 「別にどうってことないですよ」 「それなら因果を含めたらいいな。美子は誰とでも寝る女子《おなご》や。使わん手はないと思うが」 「荒又、美子ってどういう女なんだ」 「船川美子といいますが、共鳴で、営業担当の常務させてます。頭も悪うないし、ここもここもええんですわ」  荒又はやにさがって、頬を撫《な》でた右手で下腹部を押さえた。 「おまえらアナ兄弟か」 「ま、そんなところです。会長も試してみますか」 「荒又、調子に乗るんじゃない」  並木がきっとしたときは、凄《すご》みのあるヤクザの眼になる。 「協立の実力者は鈴木か、それとも斎藤なのか」  石水が答えた。 「鈴木です。超ワンマンと聞いてますが。斎藤は頭取になったばっかりですから、まだ存在感も求心力もありません」 「それなら鈴木を叩け。叩き甲斐《がい》があるだろうや」 「おっしゃるとおりです」  荒又が石水に眼を流して、つづけた。 「鈴木は南麻布の頭取公邸を会長公邸に変えて居座ってます。端から戦車かましてやりますわ」 「戦車はやめたらええ。あの辺はフランスやドイツの大使館があるところだから、サツがうるさい。戦車をやるんなら本店ビルだが、それは最終段階だろう。鈴木をどう攻めるかはおまえたちにまかせる。ちっとは知恵を出せや」  並木邸を辞去した荒又と石水は、荒又の専用車で千葉に引き上げた。若い者がハンドルを握っている。  協産ファイナンスを馘首《かくしゆ》された石水は、共鳴興産の顧問格で、荒又の相談相手になっていた。  週の半分は千葉の共鳴興産本社ビルに顔を出していた。 「美子をどうやって、秋山に近づけるかねぇ」 「それ、冗談じゃなかったんですか」 「おまえ、あの女にほんま惚《ほ》れてるんか」 「ほんまいうことはありませんけど」 「遊びだろうや。わしもときどき遊んどるよ。そういう女や。至急秋山に紹介したらええな」 「もうとうに紹介してますよ。仕事で二、三度会ってます」 「それなら好都合や、男を誑《たら》し込むのはあの女の天性やろう。放っといても大丈夫や。おまえ、あの女に本気なったらあかんよ。わしとおまえと秋山と三人で回してればええのや。いや、あの女のことだから、もっと若いのを銜《くわ》え込んでるかもなあ。美子を池袋のソープからスカウトしてきたわしの目の高さは相当なもんやろう」  荒又は関西の出身なので関西弁で話すことが多い。 「秋山を味方につけるために、美子とやってるところをカセットテープに録音しとけや」 「それも美子にやらせるんですか。ちょっと残酷と思いますけど」 「そうやなあ。おまえがホテルにチェックインして、キイを美子に渡したらええやろう。カセットをどこに仕掛けるかはおまえが自分で考えろや」 「秋山が乗ってこなかったらどうしますか」 「秋山はホモと違うやろう。キンタマつけとるんなら、百パーセント美子の誘いに乗るわ。わしかて、おまえかてそうやったのとちゃうか」 「…………」 「おまえ、気乗りせんようやが、会長の命令やで」  荒又は眼を光らせた。 「ええな。秋山と美子がでけたあとで、秋山がどう出るか問題や。出方によっては、おまえが、美人局《つつもたせ》いうことで芝居したらええのや」 「とにかくやってみます」 「頼りないから、わしが美子に話すわ。あの女は仕事と割り切って、気張るのと違うか」 「わたしが話しますよ」 「いや、わしが話したる。おまえはホテルのチェックインとカセットの係に徹したらええ」  船川美子はいとも簡単に秋山をホテルに誘い出した。十月二十四日月曜日の夕方、協産ファイナンスに電話をかけたのである。 「秋山社長に折り入ってご相談したいことがあります。今週中にお時間をいただけませんでしょうか。できたら、食事をしながらお話を聞いていただきたいのですが」 「いいですよ。二十六日の水曜日はどうですか」 「けっこうです。それでは七時にホテルオークラ本館のロビーでお待ち申し上げます」  石水と美子は連れ立って上京した。ホテルオークラのツインルームを予約してある。  二人は午後一時にホテルにチェックインした。  客室に入るなり、石水は美子を引き寄せて長い抱擁をした。二人で衣服を剥《は》がし合ってベッドに倒れ込んだ。  石水は一時間半ほどの間に、二度到達した。美子が秋山と……そう思うだけで高まり興奮した。  二人でシャワーを浴びながら、石水が言った。 「美子を秋山なんかに抱かせるのは気がすすまんわ。ジェラシーで、気が変になりそうだよ」 「わたしもそうよ。でも並木会長の言いつけだもの、仕方がないじゃないの」 「きみは誰とでも本気になれる不思議な女だよなあ」 「秋山とやってるときは、あんたとやってると思えばいいのよ」 「社長のときはどうなんだ」 「そんな話したの。厭《いや》な人ねぇ」 「俺からしたんじゃない。社長が話したんだ」 「あんたとこうなってから、一度もしてないわよ」 「…………」  嘘《うそ》こけ、と言いたかったが、石水はこらえた。美子に嫌われるのが恐かったのである。まだ利用価値はある。  性的欲求が嵩《こう》じたときにいつでも満たしてくれる女は、そうそういるものではない。 「ベッドメーキングを頼むわ。いくらなんでもこれじゃねぇ」  美子はバスタオルで髪を拭《ふ》きながら乱れたベッドに顎《あご》をしゃくった。ちょっとしゃくれ気味の頤《おとがい》にも色気がただよっている。 「昼寝してたでいいんじゃないのか」 「そんなのなんだか変よ。フロントに電話をかければ済むことじゃないの」 「恥ずかしくないのか。真っ昼間から……」 「男と女がホテルにしけ込んで、やることは一つしかないでしょ。恥ずかしがることじゃないわよ」  美子がドライヤーで肩までかかる髪を乾かしている間に、石水はカセットテープをベッドの枕元《まくらもと》に仕掛けた。タイムスイッチが九時に入るようにセットした。二時間半収録できる。そして、美子がベッドルームに戻ってきたときに、石水は怒ったような顔で言った。 「廊下側のベッドは使うなよ。こっちは俺の専用だからな。奥のほうを使ってくれ」 「いいわよ」 「おまえに鶯《うぐいす》の谷渡りやらせるのも切ないなあ」 「まだそんなこと言ってるの。もっとドライになりなさいよ」 「秋山がホテルに宿泊する可能性はないと思うが」 「そうねぇ。でもわからないわよ。秋山があんたみたいに助平だったら、泊まるって言うかも」 「発狂しそうや。おまえ、平気でそういうこと言うかねぇ」 「わたしは仕事だって割り切ってるもの」 「秋山が泊まることを期待してるみたいじゃねぇか」 「妬《や》かない妬かない」 「夜十一時過ぎに電話入れるからな」 「いいわよ。秋山が帰ったら、来てちょうだい。どうせわたしは泊まるんだから。一人でツインルームに泊まるなんて、それこそ切ないわよ」     6  秋山は約束の待ち合わせ時間より十五分も早く、ホテルオークラのロビーにあらわれた。  美子が七時五分前にロビーに行くと、秋山はドアのほうばかり気にしていて美子に気づかなかった。 「秋山社長!」  名前を呼ばれて、秋山が背後を振り返った。 「やあ、どうも。いつみえたんですか」 「早く着いてしまいましたので、ショッピングアーケードを見てました」 「わたしも十五分前に来ちゃったんです」 「申し訳ございません。十分もお待たせしちゃったんですのねぇ」 「美人にお会いできると思うと朝から気もそぞろでねぇ」 「ご冗談ばっかり。�桃花林�をリザーブしておきました。よろしかったでしょうか」 「いいですねぇ」 「個室は取れませんでしたけど」  中華料理の何品かをオーダーし、ビールを一杯飲んでから、秋山が切り出した。 「荒又社長にこっぴどくいじめられて、家内は実家に帰ってしまいましたよ。何度電話をかけても出てこないし、いったい共鳴興産はどうなっちゃったんですか。街宣車だけでも勘弁してもらえませんかねぇ。マンション中から苦情が来て、わたしも蒸発したい心境です」 「荒又よりもっと上のほうになにか考えがあって、ご迷惑をおかけしているんだと思います。荒又はことを荒だてず、もっと穏便にと思っているはずです。わたくしも、秋山社長と協銀の竹中副部長がそんなことになってるとお聞きして、胸を痛めておりました。それで荒又にも強く申しました。荒又はなんとか止めさせると申してましたから、多分、もう街宣車はないと思いますけれど」 「それが事実ならうれしいのですが。先週の土曜日まで、五、六回やられてますからねぇ」 「協産ファイナンスさんのご方針は変わりませんか。裁判所に第三者破産申請をされましたが」 「協産ファイナンスは協立銀行の管理下におかれてます。すべて協立銀行の方針で、わたしも裁かれてる側ですよ」  秋山は眉間《みけん》のたてじわを深く刻んで、洗うような仕種《しぐさ》で顔を両手でこすった。髭《ひげ》が濃いのだろう。殺《そ》げた頬《ほお》がざらついていた。  美子は健啖《けんたん》ぶりを発揮したが、秋山は食がすすまなかった。 「どうぞめしあがってください」  秋山は冷菜に箸《はし》をつけずにビールばかり飲んでいた。ビールから老酒になった。秋山はアルコールを飲むピッチは速いが、せっかくの中華料理を申し訳程度に箸をつけただけで料理がだいぶ余った。  八時近くになって、店内は満席でざわついてきた。 「中華料理はお嫌いですか」 「いや、けっこう食べてますよ」 「わたくしは食欲|旺盛《おうせい》ですけど、秋山社長はほとんどめしあがってませんよ」 「そんなことはありません」  秋山が鱶《ふか》ひれの姿煮を食べ始めた。 「混んできましたねぇ。お話がよく聞こえないので、場所を変えませんこと」 「そうしましょう」 「場所はおまかせいただいてよろしいですか」 「ええ」  秋山が時計に眼を落とすと、八時四十分過ぎだった。  美子はエレベーターホールへ向かってずんずん歩いた。秋山はバーへでも行くのだろうと後に続いたが、客室に導かれてどぎまぎした。 「ここがいちばん静かですし、人眼を気にすることもありませんでしょ。ここなら安心です」  美子は嫣然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。  秋山は胸が高鳴り、視線をさまよわせた。美子を見返せなかった。  ベッドはきれいにメーキングされ、カバーが掛けてある。  美子は冷蔵庫の中からミニチュアのウイスキーボトルを二本と、ミネラルウォーターを取り出し、二つのグラスに水割りをこしらえた。  水割りをすすりながら、美子が言った。 「わたくし共鳴興産が、あんな怖い会社なんて夢にも思っていませんでした。営業担当常務なんて肩書だけは大層なものですけれど、こけおどしで荒又の指示に従って動くだけなんです」  秋山はがぶっと水割りを喉《のど》に流し込んだ。 「でも、石水君に言わせると、船川さんは遣《や》り手のビジネスウーマンっていうことになってますよ。俺《おれ》にはとても歯が立たないなんて言ってましたけど」  秋山はいくらか落ち着いたが、語尾がふるえた。 「怖い会社だとわかったのは、秋山社長と竹中副部長に対するやり方を知ってからなんです。それまでは普通の会社だと思ってました」 「普通の会社ですか」 「土地の買い方が荒っぽいとか、ビジネスホテルとかラブホテルとかパチンコ店とか、業務の拡大を急ぎすぎるとは思ってましたけど、協産ファイナンスさんもむしろ荒又の積極拡大路線を評価してくださっていましたので、わたくしも安心しきっていました。その上、天下の協立銀行さんがバックアップしてくださるっていうんですから、なおさらです」 「わたしもそうですが、協銀の被害者意識は相当なものですよ。旧大産ファイナンスと共鳴興産の関係を協銀が把握していたら、出資も融資増もなかったと思います。わたしが協産ファイナンスの社長になってからも相当期間、事実を隠蔽《いんぺい》してた大津会長と石水副社長には、恨み骨髄に徹してますよ」 「協立銀行さんは共鳴興産の生殺与奪の権を握っていらっしゃいます。共鳴興産を生かしていただくわけにはいかないのでしょうか」 「第三者破産申請の撤回はあり得ません。協銀の中には、荒又社長と石水君を刑事告訴すべきとする強硬論もあるくらいですから」  秋山がふたたび水割りウイスキーをごくっと一気に飲み乾し、グラスが空になった。  美子が新しいミニチュアボトルをあけて、秋山の二杯目をこしらえた。 「秋山さんも強硬論に賛成なさったんですか」 「�詫《わ》び状�で協銀の上層部に睨《にら》まれてるわたしは被告みたいなもので、発言権はゼロですけど、立件は難しいようにも思われますから、これ以上波風を立てるのはいかがなものかと反対しました」 「わたくし共鳴興産を辞めようと思ってます。くたびれました」 「それはお互いさまですよ」 「秋山社長にはなにかと相談に乗っていただきたいわ。厚かましいお願いですけれど」  美子に婀娜《あだ》っぽい眼で見上げられて、秋山が視線を外して言った。 「お役に立てるとよろしいんですけど、何度も言いますが、わたしも戦犯ですから」 「戦犯なんてそんな。秋山社長は協産ファイナンスのために精いっぱいおやりになってますよ。例の�詫び状�も、わたくしはあれはあれでよかったのではないかと思ってます」 「船川さんに、そんなふうにおっしゃっていただけるとは思ってませんでした」 「わたくし、秋山社長が大好きです。秋山社長なら、なにをされてもかまいません」 「…………」 「ですからこうして個室をお取りしたんです。女のわたくしのほうから言い出すのは勇気がいります。お酒をたくさんいただいたので……」  美子はソファを離れ、秋山の膝《ひざ》の上に横座りになり、両腕を秋山の首に巻きつけて、唇を求めてきた。  秋山は夢心地で、美子の唇を吸った。  二人がベッドでもつれあうまで、さして時間はかからなかった。  美子の喘《あえ》ぎ声にそそられて、秋山は一気に昇り詰めた。     7  秋山がシャワーで汗を流して、名残り惜しそうにホテルオークラの客室を去ったのは十一時前だった。  十一時きっかりに石水から美子に電話がかかった。 「秋山はどうした」 「いま帰ったとこよ。あんたいまどこにいるの」 「池袋で昔の部下と飲んでるとこだ。すぐタクシーを飛ばしてそっちへ行くからな」 「うん。待ってる」  石水は偽名で協産ファイナンスに電話をかけ、営業部長の増渕功を東池袋の割烹《かつぽう》店に呼び出して、酒を飲んで時間を潰《つぶ》した。 「協産ファイナンスはどういうことになってるんだ」 「わたしらは連日連夜、債権回収のために足を棒のようにして走り回されてるだけで、協銀がなにを考えてるかさっぱりわかりません。いつ潰れてもおかしくないのと違いますか。副社長はいいときにお辞めになってうらやましいですよ」 「俺は協産をクビになった男だが、秋山たちを見返してやろうと思ってる。いまは充電中で、まだ確たる見通しはないが、増渕がその気なら引っ張ってやるぞ」 「お気持ちだけはいただいておきます。わたしは田舎へ帰って、親父の仕事手伝おうと思ってます」 「増渕は鹿児島だったよなあ」 「親父は市内で建築会社を経営してます。もう七十ですから」 「おまえ一級建築士だったっけか」 「一級持ってたら、協産ファイナンスにはいませんよ。二級です」  増渕は四十五歳である。石水が関州連合の準構成員だと知ったのは、わりあい最近のことだ。石水に従《つ》いていく気などさらさらなかった。 「協銀は協産ファイナンスを潰さんような気がするがなあ。債権回収だけでも十年はかかるぞ」 「しかしスリム化しなければなりません。わたしが残れる可能性はゼロですよ」 「会長、元気にしとるか」 「元気なんてあるわけないでしょう。協立の若いやつらに毎日責め立てられて、気の毒を絵に画いたようです。石水さんを恨んでるのと違いますか」 「俺を恨むのは筋違いだろう。公開寸前のところまで漕《こ》ぎつけられたのは、俺が頑張ったからだ」 「そうでしょうか。共鳴興産さえなければ、店頭公開できたかもしれませんからねぇ」 「おい、ふざけるんじゃねえ。共鳴がこけたのはバブル崩壊のあおりだ。不動産会社で安泰なんて一社もないぞ。あったら言ってみろ」  ヤクザはこれだからかなわない。カッとなったら、なにをしでかすかわかったものではない。 「たしかにそうですねぇ。総量規制がなければ、こんなことにはならなかったでしょう。悪いのは政府ってことになりますか」  増渕の口調が迎合的になっている。  石水は二軒目のカラオケバーまで増渕を連れ回したが、十一時過ぎに増渕と別れて、タクシーでホテルオークラに向かった。  道路がすいていたので三十分足らずでホテルに到着した。  ノックをすると、すぐにドアが開いた。 「秋山をうまく誑《たら》し込めたか」 「それ焼《や》き餅《もち》なの」 「いや、そうじゃねえ。ビジネスがうまくいったかどうか訊《き》いてるんだ」 「それなら、そう言いなさいよ」  石水は、美子を張り倒したくなったが、抑えに抑えた。その気持ちを抑制できる自分が、われながら不思議だった。 「秋山から、これからも情報を取れると思うわ」 「ということは、おまえは秋山とやりまくるってことじゃねえか」 「あっちのほうはあんたの十分の一。淡泊すぎて味もそっけもないわ。あんたが焼き餅やくような男じゃないわよ。一分もかからないんだもの」 「それじゃ、もう一度抱いてやろうか」 「好きにして」 「裸になれよ」 「シャワーしなさいよ」 「ああ」  石水はスーツを脱ぎネクタイを外し、すっ裸になってバスルームに入った。  美子はベッドを替えて、浴衣姿で寝そべっていた。  十分ほどで、石水がベッドの美子に突進してきた。  美子は下着をつけていなかった。 「三回目よねぇ。まったくタフなんだから」 「一時間してやるよ。それなら秋山の六十倍ってわけだ」 「まだ秋山にこだわってるの」 「俺をクビにしたあの野郎に、いい思いをさせたくないのは人情ってものだろうぜ」 「そうかなあ。ビジネスだってまだ割り切れないの」 「おまえは不思議な女だよなあ。四度もして、どうしてこんなに濡《ぬ》れるんだ」  石水も口ほどにもなく一時間は持たなかった。しかし、三十分はたっぷり美子の躰《からだ》を堪能した。  事後、二人はシャワーを浴びて、浴衣姿でビールを飲んだ。 「秋山はどんな話をしたんだ」 「あの人も針の筵《むしろ》ってとこらしいわ。貧乏|籤《くじ》引かされて、協銀から責められて大変みたいよ。協銀に、荒又社長とあんたを刑事告訴しろっていう強硬論があるみたい」 「秋山もその一人か」 「立件するのは難しいから、ヘタに波風立てないほうがいいっていう意見のようなことを話してたわ」 「ふうーん。やれるものならやってみろ。協銀に、関州連合と全面戦争をしかける度胸なんてあるはずねえよ」 「関州連合と全面戦争っていうことになるのかしら。荒又社長と石水前副社長を特別背任で告訴する可能性はあるんじゃないかなあ」 「おまえ、俺を威《おど》すのか」 「あんたも刑事被告人にはなりたくないわよねぇ」 「当たり前だろ。大津の兄貴がどう出るかも心配だが、どっちにしても秋山を手なずけて、こっちにつかせねえと、やばいなあ」 「そうよ。焼き餅やいてるひまはないわよ」 「ひとこと多いぞ」  美子がトイレに入ってる間に、石水はカセットテープを取り出して、背広のポケットに入れておいた茶封筒をひろげて、しまった。  すぐに再生して聴きたかったが、そうもいかない。     8  秋山と美子の会話と濡れ場を録音したカセットテープを、石水は二度聴いた。  初めは、成増《なります》の自宅の寝室に寝ころがって家人に気づかれないようにイヤホーンで聴いた。  テープレコーダーのボリュームを最大にすると、秋山と美子の話し声も、不鮮明ながら聴き取れた。  濡れ場は、ボリュームを落とさなければ、美子の喘《あえ》ぎ声が大きすぎる。なるほど一分ちょっとで、秋山が到達してしまったことがわかる。果てた瞬間うめき声を発するのは、すべての男に共通しているのだろうか。 「すごーくよかったわ」  秋山が果てたあとで、美子が心にもないことを言っている。  二度目は十月二十八日金曜日の夕方、共鳴興産の社長室で荒又と二人で聴いた。  聴き終わって、荒又がにやにやしながら言った。 「迫力不足やなあ。石水ならどうや」 「ピストルと大砲の差はありますよ」 「三本ほどダビングしとけや。いずれ協銀のやつらに聴かせてやらなあ」 「その前に秋山をここへ呼び出して、テープ聴かせてやりましょうよ。協産ファイナンスの動きを細大|洩《も》らさず報告させるためにも、そのほうがいいんじゃないですか」 「秋山にジタバタされてもかなわんがな。協産の情報は、美子にまかせとけばええのや。それより、鈴木をどう攻めるか考えたんか」 「戦車はダメということですから……。まずビラからやりますか」 「並木会長が電話でおもろいことを言うてきた。鈴木は娘を溺愛《できあい》しとるらしいのや。銀座で画廊経営しとる言うてたな」  荒又はソファから腰をあげ、デスクの上からメモを手にして、ふたたびソファに戻ってきた。 「銀座にある�ギャラリー・みやび�が鈴木の娘、三原雅枝が経営しとる画廊や。鈴木が住んでる南麻布の会長公邸と�ギャラリー・みやび�を攻めたらええと会長は言うてた。三原雅枝は上用賀のマンションに住んどる。マンションもターゲットにしたらええ。ビラの文句はおまえ考えろや」  この段階で、三原雅枝と川口正義の関係も、雅枝が別居して恵比寿《えびす》のマンションに住んでいることも、関州連合側はつかんでいなかったことになる。  石水はじっくり時間をかけて、鈴木と三原雅枝に対する攻撃ビラの文面を考えた。  �協立銀行腐敗の元凶 鈴木会長の実態!� [#ここから1字下げ]  この希代の悪党、鈴木一郎は協立銀行を私物化して悪業の限りを尽くしている。  莫大《ばくだい》な不良債権を作りながら反省せずに、責任を支店長などの部下に押しつけ、不良債権の回収に躍起になっている。  会長になっても南麻布の頭取公邸に居座り続け、田園調布の自邸を他人に賃貸して稼ぐしたたかさ。愛娘の三原雅枝が経営する銀座の画廊�ギャラリー・みやび�も、雅枝が住む上用賀の高級マンションも不正を働いて、手に入れた物件である。  速やかに代表取締役会長職の辞任を要求すると共に、協立銀行腐敗の実態を世間に知らしめ、徹底的に糾弾することをわれわれはここに通告する。 立銀行を正常化する会   �告白!�  私は協立銀行腐敗の元凶、鈴木一郎の長女、三原雅枝です。父・鈴木一郎(協立銀行会長)は銀行を私物化し、不正の限りを尽くしています。このマンションも、銀座のギャラリーも父が不正をして得た汚いお金で買ってもらいました。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]世田谷区上用賀××コート   [#地付き]三原雅枝    共鳴興産の社員たちは二枚のビラを一千枚ずつ印刷して、南麻布一帯と上用賀一帯の電柱や塀に貼《は》り付け、さらに協立銀行の幹部行員宅にも郵送した。  会長公邸には、ピストル一丁と実弾五発を宅配便で送りつけた。  十一月一日火曜日の正午を過ぎたころ、宅配便を開いたのは鈴木の妻竹子だが、竹子は腰を抜かし、ぶるぶるふるえ上がった。  異変に気づいたハウスキーパーが、協立銀行本店の秘書室に電話をかけた。  秘書室から連絡を受けた総務部�渉外班�の野田と永田が公邸へ駆けつけ、ピストルと実弾は最寄りの警察署に届けられた。  永田から行内電話で竹中に電話がかかってきたのは、その日午後六時過ぎだ。 「竹中さんにお訊《き》きしたいことがあるんですけど。よろしければいますぐお邪魔したいのですが」 「どうぞ。お待ちしてます」  プロジェクト推進部の応接室で、竹中は永田を迎えた。 「大日本友愛国粋会から街宣車をかまされて、弱ったという話を先日してましたけど、その後どんな様子ですか」 「お陰さまで、二十二日の土曜日でしたか、それ以来ありません。実は児玉先生になんとかならないかってお願いしたんです。凄《すご》いパワーですよねぇ。関州連合の並木会長に電話一本で、秋山社長宅もわたしの家も街宣が止まったんですから」 「鈴木会長とお嬢さんの三原雅枝さんが何者かに攻撃されてます。われわれ�渉外班�に心当たりはないんですけど、竹中さん、どう思われますか」  永田は二枚のビラをセンターテーブルにひろげた。 「これならわが家にも郵送されてきましたよ。わが家の付近一帯にこんなようなビラを貼られて往生しましたが、会長もひどい目に遭ってますねぇ」 「ええ。お嬢さんもビラの被害に遭ってます。それと、きょうの午後一時前に、会長公邸に、ピストル一丁と実弾五発が宅配便で送られてきました。差し出し人は偽名でしょう。このビラに書いてある�協立銀行を正常化する会�と同一人物ないし同一グループかどうかもわかりませんが、多分無関係っていうことはないと思います」 「わたしの場合は、明らかに共鳴興産がらみでバックの関州連合の仕業でした。わたしと協産ファイナンスの秋山社長がターゲットにされましたが、まさかそれと同じ筋ってことはないでしょう。鈴木会長はなんと言ってるんですか。つまり心当たりがあるのかどうか……」 「まったくない、と秘書室長に言ったそうですけど」 「ただの厭《いや》がらせとは考えられませんよねぇ。必ず目的があると思うんです。ですから�協立銀行を正常化する会�の正体がわかるのは時間の問題ですよ」  このとき、竹中は川口正義の顔を眼に浮かべていた。川口ならやりかねない。カネのためには手段を選ばない男だ。  しかし、川口の一件は極秘事項である。 「竹中さんと秋山さんへの攻撃を止めて、会長に方向転換したとは考えられませんかねぇ」 「わたしはないと思います。なぜならそれでは児玉先生のメンツは丸潰《まるつぶ》れですから。先生は、並木喜太郎には貸しこそあれ借りはない、って大見得切ってました。それを信じるしかないと思いますけどねぇ」 「このビラが一過性ならいいんですけど、長期に及ぶようですと、必ずブラックが嗅《か》ぎつけて書き始めると思うんです。それが厭らしいんですよ」 「一過性であることを祈らずにはいられませんが、鈴木会長が個人的に恨みを買うなにかがあったとは考えられませんか。わたしはなにかあるような気がしてなりません」 「都銀のトップで恨みを買っていない人はいないでしょう。不良債権やら変額保険やらいろいろありますもの。でも、ここまでくると、異常事態です。プロジェクト推進部に協産ファイナンス以外にも、怖い目に遭ってる案件はあるんですか」 「山ほどありますよ。街宣車までは目下のところわたしだけですけど、�渉外班�以上かもしれませんよ。この部は修羅場です」 「なにかあったら連絡してください。お邪魔しました」 「お役に立てなくてどうも」  竹中が永田を廊下まで見送って、席に戻ってほどなく、協産ファイナンスの秋山から電話がかかった。 「噂《うわさ》をすればねぇ……」  竹中はつぶやいて、受話器を右手から左手に持ち替えた。 「鈴木会長とお嬢さんを攻撃するビラ、竹中君にも送られてきただろう」 「ええ。いま、その話で、�渉外班�の人と話してたところです。秋山さんの名前も出ましたよ」 「え! どういうこと」 「街宣が止まった話をしたんです」 「ああ、そのこと」  秋山がぎくりとしたことを竹中は気づかなかった。秋山の頭の中を船川美子の顔がよぎったのだ。 「きみに電話したのは、荒又と石水を刑事告訴する件だが、本部の方針はどうなったの」 「告訴することになると思います。わたしは断固やるべきだという意見です」 「立件できるかねぇ。わたしは難しいと思うが」 「警察に突き出したいとかおっしゃってませんでしたか」 「感情論としてはそのとおりだが、いかに債権を回収するかに重きを置くとすれば、あんまり得策ではないんじゃないかな」 「荒又と石水が巨額のカネをポケットに入れた可能性はかなり高いと思います。これはもう警察にまかせるしか手がありませんよ。大津会長にも肚《はら》をくくってもらう必要がありますから、秋山社長からよく話してください」 「共鳴興産と関州連合が黙っているはずがない。ここは慎重な態度が望まれると思うがねぇ。街宣車みたいな目に遭うのはもう懲り懲りだよ。きみだってそうだろう」 「暴力に屈したら、法治国家の名が泣きますよ。刑事罰で処置し、荒又や石水を破産処理に追い込むしかないと思います」 「顧問弁護士の意見はどうなの」 「積極的です。最終的にはトップの決断ですが、会長も頭取も告訴すべきという意見になると思いますけど」 「会長への攻撃がエスカレートしなければいいがねぇ」 「秋山社長は、共鳴興産と関州連合の仕業と考えてるわけですね」 「確証はないけど、そんな気がしないでもない。われわれのような小物を街宣車で攻撃しても効果のないことを敵は気づいたんじゃないかねぇ。わたしが関州連合の親分なら、協銀のトップをターゲットにするけどなあ」 「わたしは、別のグループと思いますけどねぇ」  竹中はまたしても、川口の顔を眼に浮かべていた。     9  十一月四日金曜日の夕刻、秋山に石水から電話がかかった。 「至急社長にお会いしたいんですが」 「ご用向きはなんですか」 「船川美子のことですよ。二人で勝手なことをしてるようですなあ。なんなら、これから協産ファイナンスにお訪ねさせてもらいましょうか」 「そ、それは困る。場所を指定してください。わ、わたしが出向きます」  秋山は周章|狼狽《ろうばい》して口ごもった。  美子とすでに二度密会していた。そのことを石水がキャッチしたとしか思えない。 「それじゃあ一時間後に、銀座の日航ホテルの二階のティールームに来てください」  石水は事務的に言って電話を切った。  秋山は身内のふるえを制しかねた。協産ファイナンスは思いきったリストラによって人員を三分の一に削減、フロアのスペースもオフィスビルの七、八階から七階の半分、すなわち四分の一に縮小されたため、社長室も取り払われてしまった。秋山のデスクは大部屋の片隅に追いやられた。  喉《のど》も渇くし、ふるえも止まらない。  秋山は、社長付の女子社員を手招きした。 「気分が悪いので、ちょっと早いが帰らせてもらうよ」  蒼《あお》ざめた秋山の顔を見て、女子社員が心配そうに言った。 「お顔の色が悪いようですが、会長のお車をお使いになったらいかがでしょうか」 「いいよ。風邪をひいたのかねぇ」  役員の専用車も会長用一台に減らされ、秋山は電車で通勤していた。  約束の五時半より二十分も早く、秋山は日航ホテルのティールームに着いてしまった。  美子と連絡を取りたかったが、こっちから電話をかけるのはまずい。諦《あきら》めざるを得ないと秋山は思った。  貧乏ゆすりをしながら秋山は石水を待った。  石水がティールームにあらわれたのは六時十分前だ。秋山は四十分も待っていたことになる。 「どうも、大社長をお待たせして申し訳ない」  石水は秋山の向かい側に腰をおろした。二人ともスーツ姿である。 「協産ファイナンスはわたしと荒又社長を刑事告訴する方針らしいが、相当リスキーなんじゃないですか。協立銀行さんとしても天下に恥を晒《さら》すことになりますよねぇ。だいいち、われわれは悪事を働いた覚えはありません。土地価格についての判断ミスが、当時の協産ファイナンス、つまりわたしにも会長にもあったわけだし、共鳴興産にもあったっていうことで、どこもかしこも、見通しを誤ったわけでしょう。警察が告訴を取り上げるとも思えないし、取り上げても立件できんでしょう。共鳴とことを構えれば債権の回収が遅れるだけのことで、得はないと思いますけどねぇ」 「わたしも第三者破産申請までで、それ以上は気がすすみません。ところで、船川さんのことを電話でおっしゃってたが……」  秋山は伏眼がちに言って、ふるえる手でティーカップをソーサーに戻した。食器がカタカタ鳴った。 「これを聴いてもらおうと思ったんですわ」  小型のテープレコーダーをテーブルに置き、再生のボタンを押してから、石水は「どうぞ」とイヤホーンを秋山に手渡した。  秋山は怪訝《けげん》そうにイヤホーンを左耳に差し込んだ。  テープはベッドシーンの個所にセットしてあり、秋山の顔が赤く染まった。  聴き終わって、イヤホーンを外したときは顔色が紙のように白くなっていた。秋山は恥辱と恐怖で、しばらく口がきけなかった。 「このテープを秋山社長にお聴きいただくことを船川に話して、了解を取ってます。船川も刑事告訴については相当気にしてますからねぇ」 「…………」 「船川美子は、わたしの女です。秋山社長が知らなかったとは思えませんけど」 「知ってるわけがない。知ってたら彼女の誘いに乗るはずがないでしょう」  秋山の胸に怒りがこみあげてきた。 「あなたがたは、わたしを陥れたわけですね。なんて卑劣な人たちなんだ」 「わたしもわが身が可愛《かわい》いからねぇ。美子もわたしの危機を救うために恥を忍んで、躰を投げ出してくれたんですわ。このテープを協立銀行さんの関係者に聴いてもらうことも考えてます。こうなったら伸《の》るか反るか、いくらでも恥をかく覚悟はできてます」 「わたしにどうしろとおっしゃるんですか」 「刑事告訴を止めさせてください」 「船川さんにも申し上げたが、わたしもあなたがたと同様、裁かれる側で、クビを洗って待つ身ですよ。わたしになにができるっていうんですか。あなたがたは、むごい、あこぎでありすぎます。わたしを協産ファイナンスに引っ張り込んで、さんざんな目に遭わせておきながら、街宣車で攻撃し、あげくの果てに美人局《つつもたせ》まで……。どうしてわたしだけがこんな怖ろしい思いをしなければいけないんですか」  秋山はハンカチで眼に滲《にじ》んだ涙を拭《ふ》いてから、洟《はな》をかんだ。 「秋山社長もわたしも、大津会長も、みんな運が悪いとしか言いようがないのと違いますか。わたしも、刑事告訴されるなんて夢にも考えてませんでしたよ」 「協銀の鈴木会長が攻撃を受けてますが、それにも石水さんは関与してるんですね」 「ご想像におまかせします」  石水はにたっと笑って、煙草を咥《くわ》えた。のべつまくなしに吸うほうではないが、必ずポケットに入れている。  紫煙を吐き出して、石水が言った。 「秋山社長のお手並み拝見ですなあ。社長は美人局と言ったが、こっちも必死なんです。美子はいい女でしょうが。あんたも二度もいい思いをしたんだから、その償いはしてもらわないとねぇ」  嫉妬《しつと》がまじって、石水は阿修羅の形相になった。 「できるだけのことはしますが、わたしの手に負えないと思います。そのときはどうぞ好きなようにしてください。協立銀行の関係者がそのテープを聴いたとしても、わたしだと思う人は少ないかもしれませんよ」  秋山はシラを切る手はあるかもしれないとふと思って、口にしたまでだが、石水は吸い差しの煙草を灰皿に力まかせにねじりつけた。 「てめえ! そんな口きいていいのか。俺を子供の使いとでも思ってるのか!」  石水のドスの利いた声で、四囲がシーンとなった。店内はほぼ満席に近い。こっちに視線が集まってくる。  秋山が辛うじて掠《かす》れ声を押し出した。 「場所柄をわきまえてください。あなたは仮にも協産ファイナンスの副社長だった人ですよ」 「ま、いいだろう。こっちにはカードはいくらでもあるんだ。こんなテープはたいしたことはないが、黙ってたら男がすたるからなあ。美子に申し開きできねえよ」 「いずれにしても、来週早々に、協立銀行の関係者とよく話してみます。わたしとしてもことを荒だてたくないので、刑事告訴を回避するために微力を尽くします」 「そう願いたいな。それから金輪際、美子には近づかないでもらいたい」 「もちろんです。わたしのほうからアプローチしたわけではありません」 「てめえ、ひとこと多いな」  石水のヤクザ口調は改まらなかった。  十一月七日月曜日の朝九時過ぎに、竹中は永井から部長室に呼ばれた。 「いま協産の秋山さんから電話があってねぇ。どうしてもきょう中にわたしと会いたいっていうんだ。二時にここへ来るそうだが、きみも同席してくれないか」 「わたしはかまいませんが、秋山さんのほうはよろしいんですか」 「うん。竹中に同席させたいと言ったら、けっこうです、と言ってたよ」 「承知しました」  竹中はソファから浮かしかけた腰をおろした。 「実は先日、秋山社長からわたしに電話がありました。荒又と石水の刑事告訴について慎重論というか反対論を述べてましたけど、そのことでしょうか」 「ふうーん。そんなこと言ってきたのか。秋山さんはどうして弱気なのかなあ」 「わたし同様、街宣車で攻撃された口ですからねぇ。あんな思いは二度としたくない、もう懲り懲りだと話してました」 「それにしては、逆に竹中は強気だよねぇ」 「荒又と石水はゆるせませんよ。それと街宣はもう仕掛けられないでしょう。関州連合の会長に逆らうわけにはいかないと思うんです。二人を刑事告訴することによって、プロジェクト推進部のモラルアップにつながるような気もしてるんですけど」 「うん。常務会は賛否両論あるが、鈴木会長はまだ態度を留保してるよ。もう少し考えさせてくれ、と言ってたなあ」 「ピストルや実弾を送りつけられて、腰が引けなければいいんですけど」 「ピストルよりも、お嬢さんが巻き込まれたことのほうがショックだったようだ」 「わかります。わが家も、家内は半狂乱でしたから」 「きみはよく頑張ったよ。それと児玉さんのことを思い出したのもよかったね」 「ええ。児玉先生との出会いがなかったら、まだ街宣が続いてたかもしれません。離婚、一家離散と悲惨なことになってたでしょうねぇ。いまだからこそ、他人事《ひとごと》みたいに話せますが、ほんとうに悪い夢を見てるような感じでした」 「察して余りある……。秋山さんの用件がそういうことだとして、どう対応したらいいのかねぇ」 「強硬論でよろしいんじゃないでしょうか」 「会長のことはカウントしなくていいのかなあ」 「とりあえずはよろしいと思います。共鳴興産—関州連合とは別の筋かもしれませんし、�粛々と法的措置を講じる�これがプロジェクト推進部の基本方針なんですから」 「わかった。そういうことでいいだろう」  秋山は二時五分前にやってきた。  精彩を欠いている、としか言いようがない。  秋山に続いて、竹中も部長室へ入った。  部長付の女子行員が緑茶を運んできた。 「お忙しいところを無理をお願いして申し訳ありません」  入行年次は先輩だが、秋山は丁寧に挨拶《あいさつ》した。 「とんでもない。忙しいのはお互いさまですよ」  三人ともほとんど同時に湯呑《ゆの》みに手を伸ばした。  秋山が緑茶をひとすすりして、話を切り出した。 「先週の金曜日に石水がわたしに会いにきました。妙なテープを聴かされたんですよ……」  秋山はまったく身に覚えがない、で通そうと肚《はら》を決めていた。  永井も竹中もそれをつゆほども疑わなかった。 「石水がヤクザだとは聞いてましたが、そんなことまでやるとはねぇ。狙《ねら》いはなんですか」  永井に訊《き》かれて、秋山は湯呑みをセンターテーブルの茶托《ちやたく》に戻した。 「もちろん、刑事告訴を止めさせるための恫喝《どうかつ》ですよ。わたしはニセテープに動揺したわけではありませんが、実際問題として立件することは難しいと思うんです。先だっても竹中君に電話で話したが、やはりというべきか案の定というべきか、鈴木会長に対する攻撃は、共鳴興産と関州連合の延長線上にあることは間違いないと思いますよ」  竹中の表情がこわばった。 「その根拠はなんですか。わたしには到底信じられませんが」 「鈴木会長攻撃に関与してるのか、と石水に訊いたんだ。�ご想像におまかせします�と彼は言った。その口ぶりから察して、わたしは確信したんだが……」  秋山は、竹中から永井に視線を移した。 「これも竹中君に言いましたが、竹中君やわたしのような小物を攻撃してもたいして効果がないことに連中は気づいたんですよ。いわば方向転換で、第三者破産申請以来、協立銀行をとことん叩《たた》こうというのが連中の方針なんです」 「お言葉を返すようですが、児玉由紀夫さんと関州連合の並木会長が電話で話し合った結果、矛《ほこ》を収めることで合意したんですよ。その点はどう解釈したらいいんでしょうか」  竹中に見据えられて、秋山が伏眼がちに言った。 「竹中君とわたしに対する攻撃を止めることで合意が成立したっていうことなんじゃないんですか。誤解を恐れずに言えば、児玉さんの電話で、連中は小物を相手にしても埒《らち》が明かないことに気づいたのかもしれませんよ」 「ふうーん。それは考えられますねぇ」  永井は、秋山の意見に与《くみ》したが、竹中は納得できなかった。 「わたしは秋山社長のご意見に疑問符をつけます。�渉外班�にもそうした見方がありました。しかし、全面否定する根拠はありませんので、至急ウラを取りたいと思います」 「ウラを取るって」  竹中が永井に答えた。 「児玉先生にお尋ねするしかないと思いますが。万一、そういうことでしたら、児玉先生にもう一度ご出馬をお願いします」 「児玉さんに調停をお願いすることについては、わたしも賛成ですが、その前提条件として、刑事告訴を見送ることをわがほうから持ち出す必要があるんじゃないですか」  秋山に同調を求められたが、竹中は曖昧《あいまい》にうなずいただけだった。     10  児玉由紀夫の返事は「並木は心当たりがない、と言ってる」というものであった。竹中は、秋山が引き取ったあとで直ちに児玉事務所に電話をかけた。児玉は並木に確認したうえで、二十分後に折り返し電話をくれたのである。  むろん並木が児玉に虚偽の報告をしたことは明白だ。  それどころか関州連合は協立銀行への攻撃をいっそうエスカレートさせ、街宣車が本店ビルの周囲に出没し始めた。  大型車二台に小型車一台。竹中、秋山を攻撃した�大日本友愛国粋会�ではなかった。 �平成維新誠心会�なる関西系の右翼だが、スポンサーは関州連合—共鳴興産と思える。 「協立銀行は悪い銀行でーす。協立銀行におカネを預けたら、おカネを取られてしまいまーす。おい! そこのガードマン、へらへら笑ってるんじゃねぇ。しっかり仕事せんか!」 「鈴木一郎会長は、銀行を私物化し、私腹を肥やしてまーす。直ちに辞職しなさーい!」  街宣車は隊列を組んで本店ビルの周囲を二周三周して引き上げるが、十一月九日から三日間続き、翌週も連日ゲリラ的に出没した。  銀行側に打つ手はなかった。傍観、静観、無視、黙殺するほかはなく、初めのうちこそ神経をピリピリさせて仕事が手につかなかった行員たちも、慣れてくると「右翼の街宣車がまた来てるねぇ」「目当てはなんだろう」「総会シーズンでもないのになあ」などと私語する程度で、さして気にならなくなった。  しかし、上層部はそうはいかない。とくに鈴木の苛立《いらだ》ちは尋常ならざるものがあった。 「街宣車を三台も繰り出す経費は大変なものだと聞いた覚えがあるが、誰がカネを出しているのかもわからんのか! 総務はなにをやってるんだ!」  佐藤秘書室長に当たり散らし、十一月二十二日火曜日の常務会でも鈴木は総務担当常務の岸見剛を怒鳴りつけた。 「きみ、こんなことがいつまで続くのかね。わたしが辞めるまで続くとでも言うのか!」 「�渉外班�が中国民報の織部社長と接触したところ、関西系の暴力団であることは確認できました。�渉外班�は、共鳴興産と関州連合の厭《いや》がらせと見てます。とくに、当行が荒又と石水を刑事告訴することに対する反発を強めているのではないかと」 「刑事告訴すると誰が決めたんだ。わたしは意味がないと思ってるが」 「刑事告訴は見送りましょう。わたしも気乗りしません」  斎藤頭取の意見に反対する者はいなかった。  常務会で刑事告訴は否決されたことになる。 「岸見君、いま直ちに本件を協産ファイナンスの秋山君に伝え、共鳴興産に連絡するようにしたまえ。これで街宣が止まれば�渉外班�の見方が正しかったことになる」  常務会の議長は斎藤頭取である。斎藤の指示で、岸見は大会議室から、協産ファイナンスの秋山に電話をかけた。  鈴木が、電話を終わって席に戻った岸見に訊《き》いた。 「中国民報の織部は、協産ファイナンスの大口債務者だが、織部は広域暴力団の準構成員と聞いてる。そんなのと接触して大丈夫なのか。不用意なんじゃないのかね」 「�渉外班�と申しましても顧問の警察OBに接触してもらいました。織部は�平成維新誠心会�の街宣を中止させるために仲介したいと申し出たそうですが、その点は断りました。かえって高くつくと判断したようです」 「それならいいが」  プロジェクト推進部の案件が必ずといっていいほどあるため、永井は常務会に説明要員として出席するケースが多い。  発言を求められたわけではなかったので、自重せざるを得なかったが、簡単に刑事告訴を見送っていいのか懐疑的だった。  常務会の結果を聞いたときの竹中のしかめっ面が見えるようだった。  刑事告訴見送りの効果はてきめんで、二十四日以降、街宣車は協立銀行本店ビルにあらわれなくなった。  秋山と�渉外班�の見方が的中したことが裏付けられたことになる。  しかし、鈴木と三原雅枝に対するビラの怪文書による攻撃は断続的に行なわれた。     11  十二月一日木曜日の午後四時ごろ、�グループ21 �の玉置健三郎が協産ファイナンスに秋山を訪ねてきた。  玉置は大物総会屋で聞こえている。  広域暴力団をバックに、勢力を誇示していた。若い手下二人を従えて、いきなりオフィスに踏み込んできて、「秋山社長はどこにおるの」と、ドアに近い女子社員に訊いた。  玉置の声が大きかったので、窓際の秋山が起立して、玉置のほうに眼を投げ、二人の眼が合った。玉置の顔は写真誌やテレビで知られている。年齢は五十五歳。  玉置はぴんときたらしく、一直線に秋山のほうへ突き進んで来た。 「�グループ21 �の玉置や。秋山さんでしょ」 「ええ。なにか」 「ちょっと話したいことがあるんです」  秋山は逃げ出すわけにもいかず、女性秘書に応接室へ案内するよう指示した。  緑茶が運ばれたのを見届けてから、秋山は応接室に入った。 「初めまして。協産ファイナンスの秋山です」  秋山は名刺を出さずに挨拶《あいさつ》して、ソファに腰をおろした。  玉置はソファに座ったまま、ぎょろっとした眼で秋山を見上げた。  若い者二人は起立して、秋山に挨拶を返した。 「共鳴興産と揉《も》めてるそうだが、仲に入ってあげようかねぇ。関州連合の並木君と話をつけられるのは、わししかおらんですよ」 「ありがとうございます。しかし、先生をわずらわすまでもなく、共鳴興産とは係争にならずに、処理が進んでおりますので、どうかご放念ください」 「協立銀行に対する街宣が止まったぐらいで安心するのは早いのと違うかな。街宣を止めたのはこのわしだよ」  玉置は右手の人差し指を自分の大きな鼻に向けてにたりと笑った。 「共鳴の荒又が刑事告訴を免れたから、とりあえず街宣は止めてやったが、なんなら、あすにでも再開してもいいが」  秋山の声がうわずった。顔もひきつっている。 「先生ご冗談を」 「共鳴の不良債権の�飛ばし�にしても、協産ファイナンスは性質《たち》が悪すぎる。筆誅《ひつちゆう》を加えないかんと思ってたところだ」 「�飛ばし�は撤回しました」 「あんたが出した詫《わ》び状はわしも読んだが、バンカーとしてあるまじき行為だ」  玉置が若い者に顎《あご》をしゃくった。  その一人が黒い鞄《かばん》から、カセットテープを取り出して、センターテーブルに置いた。  秋山のハッとした顔に玉置がジロッとした眼をくれた。 「このテープが出回らんうちに、どんな名目でもいいから二、三億円都合しなさい。鈴木会長への攻撃もストップすると約束する」 「協産ファイナンスは、協立銀行の管理下にあります。わたしの裁量で資金の捻出《ねんしゆつ》は不可能ですよ。それにこのテープはなんですか」 「石水が言ってたとおりだな。あくまでとぼけるつもりかね」  凄《すご》みのある声だった。 「協産が共鳴から担保に取った市ヶ谷のコーサンビルの処分をわしにまかせてもらおうか。それと嬬恋《つまごい》の土地を担保に宮田が五十億ほど協産から借りとるが、宮田はわしの親友なんだ。この売却仲介もやらせてもらうぞ。ノーと言われたら、ただでは済まないからな。わしは暴力団の百人や二百人、いつでも集められる」 「いずれも、協立銀行が処理を進めておりまして、協産ファイナンスの手を離れております」 「協立のプロジェクト推進部だな。担当は誰だ」 「竹中副部長です」 「竹中……。聞いたことのある名前だが、総務におった竹中か」 「ええ」 「わしは会ってないが、おまえら竹中に会ってなかったか」 「会ってます」  黒鞄を膝《ひざ》に乗せている男が答えた。二人とも、ダークスーツで、一見サラリーマン風だ。 「竹中と至急連絡を取って、五日の月曜日中に二つの件で然るべき返事をもらいたい。ゼロ回答はあり得んぞ。返事によっては街宣を再開する。その程度じゃ済まんだろう。テープの件もあることだしな」  玉置は低い声で言って、ソファから腰をあげた。  秋山から電話で連絡を受けた竹中の返事は「いくら大物総会屋の玉置だって、無視するしかないでしょう」とにべもなかった。 「本店への街宣を再開すると凄まれたよ。放っておいていいんだろうか。通常の仲介として、扱うわけにはいかんかねぇ」 「いきませんよ。市ヶ谷のコーサンビルは物件洗浄も八割方完了してます。嬬恋の別荘地は、宮田個人が破産宣告済みで、玉置が介入する余地はまったくありません」  物件洗浄とは、賃貸契約の解約、テナント明け渡しなどのロンダリングを示す業界用語である。  十二月五日の深夜、竹中の自宅に電話がかかった。 「夜遅く悪いねぇ。�グループ21 �の水戸だよ」 「ああ、水戸先生。ご無沙汰《ぶさた》してます」 「玉置からの言伝《ことづて》だが、コーサンビルと嬬恋の件、なんとかならんのか。あんたが強硬だって、協産の秋山がこぼしてたけど、ゼロ回答はないだろう。コーサンビルはすでに�グループ21 �で管理させてもらってる」 「どういう意味ですか」 「見ればわかるさ。嬬恋は二十億円で�グループ21 �で買い戻したいんだが、どうかね」 「あの別荘地はいまでも三十億円の価値があります。十億円もふんだくろうなんて、ひどいですよ。�グループ21 �の名前が泣きませんか。玉置先生にお伝えください。先生が介入する余地はありません」 「あとで後悔しなければいいが」  電話が切れた。 �グループ21 �と関州連合は近い関係とは見られていなかったが、協立銀行攻撃で玉置と並木は連携したのだろうか。  十二月六日の朝、出勤前に竹中は市ヶ谷のコーサンビルへ立ち寄った。 �21ビルディング�の看板がかかっていたのに、度肝を抜かれた。看板は縦一メートル、横五メートルほどの横長で、屋上から吊《つ》るされてあった。  それだけではない。  地上九階、地下二階のビルの所々に人の気配がする。  物件洗浄は終了していないので、入居者の出入りに支障をきたす恐れもある。  竹中は勇を鼓して、ビルの中に入った。  一階フロアに机と椅子《いす》、それにソファまで置かれていた。眼つきの悪い男が七人たむろしていた。いずれもスーツ姿だが、パンチパーマが四人、スキンヘッドが三人。パンチパーマの一人が携帯電話で竹中の来訪をどこかに連絡している。  竹中は、黙って引き返した。怖気《おぞけ》をふるったわけではなかった。彼らと話しても詮《せん》ないことだ。  玉置の命令に従っているだけだろう。問題は玉置対策だが、いずれにしても竹中一人で対応できるわけがない。  竹中は、三十分ほど遅刻した。  火曜日なので十時から常務会が始まる。それまでに永井に報告しておく必要があった。  永井は部員三人と打ち合わせ中だったが、竹中は強引に入室した。 「部長、五分ほどお時間をいただけませんでしょうか。火急的なことです」 「いいよ。さしつかえなければ話してもらおうか」 「席を外しましょうか」  副部長の一人が言ったが、竹中は手で制して、空いているソファに腰をおろし、コーサンビルで目撃した事実を話した。 「不法占拠を放置していいはずがないと思いますが、悪名高い玉置健三郎だけに、どうしたものか悩むところです」 「街宣も玉置が仕切ってるとか言ってたなあ」 「玉置自身が協産の秋山社長にそう言ったそうです」 「竹中の意見は」 「立ち退き料を要求してくると思いますが、ノーです。警察に通報するしかないと思いますが」 「例によって強硬論だね。常務会に報告するが、鈴木会長がなんと言うかねぇ。やっと街宣が止まったと思ったら、今度は玉置かあ。協産ファイナンスは祟《たた》るねぇ」  永井が時計を見たので、竹中はソファから立った。 「失礼しました」 「一時に終わるから、席におってくれ」 「はい」  竹中は自席に戻って、しばらく放心していた。 �竹中班�の債務者対策、債権回収状況は、プロジェクト推進班の中で、際立って進捗《しんちよく》していた。もっとも、竹中自身が担当したキャッツアイは先送りし、共鳴興産の処理もこれからだが、部下が担当している案件は大きなトラブルに見舞われることもなく、比較的順調に処理が進んでいた。  竹中は二時間ほど部下の相談に乗り、指示を出して、�渉外班�の永田に電話をかけた。 「ちょっとお耳に入れておきたいことがあるんですが、昼食でもどうですか」 「いいですよ」 「じゃあ、行員食堂で十分前に」 「承知しました」  竹中はチャーハン、永田は日替わり定食を食べながら、食堂の隅で二人はひそひそ話をつづけた。 「本店への街宣が共鳴興産がらみと読んだのはさすがですねぇ」 「わたしは、いまの竹中さんの話にはちょっと首をかしげたくなります。玉置が街宣を仕切っているっていうのは腑《ふ》に落ちません。カネになると思って遅ればせながら駆けつけた口なんじゃないでしょうか。玉置と石水が近いことは事実です。だから石水が玉置に泣きを入れた可能性はあると思います。玉置は石水を通じて共鳴興産の件を知ったんじゃないでしょうか。街宣は関州連合だと思いますけどねぇ」 「客観的に見て、おっしゃるとおりかもしれません。刑事告訴を見送った途端、街宣が止まりましたからねぇ。それに、玉置は街宣を再開するぞと威《おど》してきましたが、きょう現在はまだありません。ビルの不法占拠に出てきたのにはびっくりしましたけど。永田さんなら、どう対応しますか」 「警察に排除してもらうしかないでしょうねぇ。ただ、イタチごっこになると思います。二、三日拘置されるだけでしょうし、�グループ21 �の動員力は、総会屋ではケタ違いに大きいですから」 「首魁《しゆかい》の玉置を逮捕してもらうしかないですか」 「わたし個人は賛成ですけど、�渉外班�全体の立場に立つと、臆病《おくびよう》になります。仕返しが怖いですから。�グループ21 �は資金力もあるので、十人や二十人株付けしようと思えばできます。そうなると総会でひとあばれできますよねぇ」 「なるほど。だったら、イタチごっこをしばらく続けて、不法占拠と恐喝でつかまえたらどうでしょうか」 「玉置はしつこいから、必ず次の総会で大あばれするでしょうねぇ」 「また、警察につかまえてもらったらいいじゃないですか。いま、玉置が要求してきてるのは十億円出せっていう話です。冗談じゃないですよ。被害届を出すのは協産ファイナンスですから、�渉外班�はそうナーバスにならなくてもいいでしょう」 「そうは言ってもねぇ」  永田はさかんに小首をかしげた。  常務会は�グループ21 �の挑発に対して、結論を出せなかった。  警察に不法占拠の排除を訴えることもしないまま越年し、新しい年を迎えた。 [#改ページ]  第十一章 手打ち式     1 「おめでとうございます。ご無沙汰《ぶさた》ばかりして申し訳ありません」 「債権回収も楽じゃなかろう。せっかくの正月休みに呼び出すのも気が引けるが、メンツが一人足りなくてなあ。カミさんがぜひきみに声をかけてみてくれってきかんのだ」 「よろこんで入れていただきます。先生にご挨拶《あいさつ》したいと思ってたんですが、逆に遠慮してたんです」 「悪いなあ。気を遣ってもらって」 「とんでもない。何時にお伺いしたらよろしいのですか」 「いますぐ来てもらえればありがたい」  いったん受話器を遠ざけてから、竹中は「承知しました。ではのちほど」と、児玉に返事をして電話を切った。  平成七年一月三日の午後一時を過ぎたところだ。  知恵子はテニスクラブに行き、子供たちは渋谷へ買い物に出かけて、竹中は留守番に回されたが、児玉からマージャンを誘われたとあっては断れない。  竹中はメモを残して、十分後に家を出た。  髭《ひげ》は当たっていたので、スーツに着替えるだけだった。曇り空で寒かったのでオーバーを着込んだ。  マージャンはどうでもいいが、児玉と久しぶりに話すのも悪くない——。  マージャンは児玉夫人の一人勝ちに終わった。  竹中の負けは一万八千円。 「竹中さんにお年玉を差し上げようと思ってたのに、逆になっちゃったわねぇ。お食事のあとでチャンスをあげましょうか」 「いやあ、堪能しました。これ以上やっても傷が深くなるだけです」 「わしも、もういい。レートが低くて力が入らんわ」  児玉は七千円のマイナス。児玉夫人の友達は一万一千円の負けだ。 「水割りの用意をしてくれ。竹中君と内緒話があるんだ」  夕食後、児玉のほうから応接室へ誘ってくれた。 「共鳴興産とはその後どうなってる」 「そのことで先生にご相談したいと思ってたんです……」  竹中は率直に話した。�渉外班�と秋山の見方が的中したと思えることや、�グループ21 �の主宰者、玉置が登場してきたことなどを包み隠さず、洗いざらいぶちまけた。 「並木も玉置もゆるせんな。どう落とし前つけてやろうか」  児玉はグラスを呷《あお》って、虚空を睨《にら》んだ。 「並木会長に牙《きば》を剥《む》かれますと、協銀としては非常に辛いことになります。共鳴興産から関州連合に巨額な資金が流出してることは紛れもない事実です。だからこそ、荒又と石水の刑事告訴を並木会長は恐れたんだと思うんです。矛《ほこ》を収めても罰は当たらないと思いますが」 「そうだな。並木をあんまり刺激するのもよくないか。あいつは欲が深いから、案外、協銀からまだ搾《しぼ》り取れると考えてるかもしれん。それで鈴木君と娘を攻撃してるんだろう。しかし、これについては責任をもって止めさせる。落ちぶれたとはいっても、児玉由紀夫もそのくらいはやらんと、男がすたるわなあ。一度、並木と差しで会うとしよう」 「くれぐれもご無理をなさらないでください」 「なに、一杯やるだけのことだ」 「玉置氏については、どう考えたらよろしいでしょうか」 「きみの意見に賛成だ。タイミングをみて、ふんづかまえたらいい。あいつが警察につかまれば、企業の総務部は拍手喝采《かつさい》だろう。人助けだよ」 「しかし、その結果、玉置氏の恨みを買うのは協銀です」 「玉置になにができるってんだ。玉置もそろそろ店じまいしてもいいんじゃないのか。秋山に因果を含めて、ぜひそうしたらいいな。警察も手ぐすねひいて待ってるだろう」 「協銀のトップが決断できますかどうか」 「わしが鈴木君にけしかけてやろうか。なんならいますぐ自宅に電話をかけてやってもいいぞ」 「ちょっと考えさせてください。鈴木は気が小さいほうですから、先生の電話に飛び上がりますよ」 「そうかもしれんなあ」 「雅枝さんと川口の関係が並木会長の耳に入ることを恐れているのですが、大丈夫でしょうか」 「それとなく訊《き》いてみよう。どっちにしても並木とは一両日中に連絡を取る。その結果は必ずきみに話すよ」 「どうも」  竹中は低頭した。一万八千円の負けには替えられない成果が得られた、と竹中は思った。     2  一月九日月曜日の朝九時に、竹中のデスクで電話が鳴った。 「はい。竹中です」 「児玉だが、先日は失礼した」 「こちらこそ。いろいろありがとうございました」 「昼に事務所へ来られんか」 「伺えます」 「蕎麦《そば》でも食おうか。正午に待ってるよ」 「ありがとうございます」  並木と会ったに相違ない——。竹中は緊張した。  街宣車は来ないが、鈴木と雅枝への攻撃は執拗《しつよう》に続けられている、と先週、竹中は永田から聞いていた。  この日、東京地方はコートなしで外出できるほどのポカポカ陽気だった。最高気温は十六・一度。三月下旬並みの暖かさだ。  新丸ビルの児玉事務所で天ざる蕎麦を食べながら、児玉が言った。 「並木はわしに頭を下げたぞ。そんなことじゃ済まされない。鈴木君の前で謝れって言ったら、そうさせてほしいという返事だった。鈴木君のためにも、協銀のためにも手打ちをしたほうがいいと思ったから、わしが一席設けることにしたからな。鈴木君に伝えてくれ」 「鈴木が、関州連合の会長と聞いて尻込《しりご》みしなければいいのですが」 「否《いや》も応もない。そんなケツの穴の小さいことでどうするんだ。わしにここまでやらせておいて」  耳を覆いたくなる迫力のある胴間声を竹中は久しぶりに聞いた。 「申し訳ありません」 「きみが心配するのもわからんではないが、一回こっきりのことだ。心配することはないよ」 「はい」 「鈴木の娘と川口のことは、並木にわかっとらんようだ。仮にわかったところで、どうってこともないが」 「それを聞いて安心しました。どうってことはありますよ」 「どうして」 「関州連合は広域暴力団です。どこへどう伝わるか予測できませんし、なんのためにわれわれが頑張ってきたのかわからなくなります」  残りの蕎麦をすすり上げて、児玉が箸《はし》を置いた。 「そりゃそうだな。口封じでわしも一本せしめたんだったなあ。それにひきかえ、竹中は立派だよ。百万円ぽっちの小遣いを拒否したからなあ」 「汗顔の至りです」  竹中はハンカチを出して、ひたいの汗を拭《ふ》いた。暖房が利きすぎて、暑いくらいだ。  二人ともワイシャツ姿だった。 「それから玉置のことだが、まったく並木とは無関係だ。ただ、きのう並木が家に電話をかけてきて、こんなことを言ってたぞ。協産ファイナンスに石水っていう男がおったそうだが、この男が玉置に知恵をつけたらしい。並木が石水と玉置から直接確認したわけではないが、共鳴興産の社長をやってる荒又から聞いたと話していた。多分、事実だろう。並木も、玉置は懲らしめないかんいう意見だった。石水は秋山に対して美人局《つつもたせ》みたいな真似をしたらしいなあ。ベッドシーンを収録したテープが出回ってるようだ。秋山を籠絡《ろうらく》するために女を使ったのは並木の発想らしいが、美人局までやるとは思わなかった、と並木は話していた」 「関州連合の会長ともあろう人がそんな細かいことまで指図するものなのでしょうか。テープの話は秋山から聞いてます。ニセテープだと……。わたしはニセテープ説を信じますが」 「本物らしいな。秋山がニセテープだととぼけてることで頭にきた石水は、玉置にそのテープを渡したようだ。頭の悪いあいつらのやりそうなことだな。美人局のテープは本物だと並木は断言してた。だとしたら、秋山に負い目はある。秋山に玉置を告発する動機づけというか、重しにはなるかもしれん。小心者の秋山は断れんだろう」 「…………」 「鈴木君の都合のいい日を二、三教えてほしい。一月下旬か二月上旬なら、わしのほうはなんとか合わせられるし、並木は問題ないと思う。早めに返事をたのむ。場所は向島が目立たなくていいだろう」 「はい。一両日中にご返事を差し上げるようにします」  鈴木が四の五の言うようだと、話がややっこしくなる。ここは�柳沢吉保�の出番だと竹中は思った。     3  竹中は児玉事務所から自席に戻らず企画部次長の杉本に会った。  杉本は在席していた。 「大至急、秘書室長にお目にかかりたいんだ。用件は……」  竹中は杉本を廊下に呼び出して、立ち話で児玉、並木、鈴木の三者会談を児玉が提案してきたことを伝えた。 「いわば手打ち式で、会長が並木に会うのは一回こっきりだから、心配するなって児玉先生は言っていた。児玉先生の好意を無にするわけにはいかないと思うが。それに鈴木会長と雅枝さんへの攻撃も中止することを並木は確約してるんだ。杉本から秘書室長を口説いてもらいたい」 「ちょっと待て。おまえから話してもらったほうが早いだろう」  杉本はいったん席に戻り、電話で佐藤の都合を聞いて、背広を抱えてふたたび竹中の前へやってきた。 「すぐ来てくれって。あんまり時間はないらしいが」  秘書室の応接室で、竹中は最前杉本に話したことを繰り返した。  話し終えて、緑茶をひと口飲んで竹中がつづけた。 「児玉先生は一両日中に返事をほしいと言ってました」 「児玉氏が協銀および鈴木会長のことを心配してくださってることはよくわかるが、暴力団の親分に会長を会わせなければいけませんかねぇ」 「鈴木会長はビラや怪文書の攻撃に参ってると思うのです。とくに三原雅枝さんに対する攻撃には胸を痛めているんじゃないでしょうか。これを止めさせることができるんですよ。手打ちの儀式に出るぐらいはよろしいんじゃないでしょうか。断ったときのリアクションは予想できませんが、感情的になられたら、ぶちこわしです。児玉先生まで敵に回してしまいかねませんよ」 「会長の耳に入れて、会長自身に判断してもらいましょう」 「秘書室長に進言していただくのがよろしいと思いますが」 「わたくしは気がすすまない。関州連合に借りをつくるような結果をまねくんじゃないか心配です」 「それは違うと思います。関州連合の並木会長は非を認めて、児玉先生と鈴木会長に頭を下げると折れてきたんです。そこまで段取りしてくれた児玉先生の努力を多とすべきです」 「とにかく話してみましょう。竹中さんは席にいてください。三十分後に電話で連絡します」  竹中は、児玉が収拾に動いてくれた経緯を永井に話してから、じりじりする思いで佐藤の連絡を待った。  四十分後に佐藤が直接電話をかけてきた。 「鈴木会長は児玉氏にも竹中さんにも大変感謝してましたよ。しかし、わたくしが考えたとおり気がすすまないようです。児玉氏にお気持ちだけいただいておくということで、竹中さんから話してもらいましょう。会長がくれぐれもよろしく申していたと伝えてください。なんなら鈴木会長は体調をくずしている、という理由をつけてもいいと思います」  竹中は落胆した。 「児玉先生にその旨お伝えしますが、先生は気分を害されるでしょうねぇ」 「児玉氏と会長が会食するのは問題ないでしょうが、暴力団の親分が一緒というのはまずいですよ。万一、マスコミにでも嗅《か》ぎつけられたら銀行の信用に傷がつき、大変なことになります」 「わかりました。結果は杉本君に伝えたらよろしいですか」 「いや、わたくしに直接電話をかけてください。なんなら、わたくしの所へ来てもらいましょうか」  竹中は重たい気分で児玉事務所に電話をかけた。 「協立銀行の竹中ですが、先ほどは失礼しました。児玉先生はいらっしゃいますか」 「外出中です。三時に戻る予定です。そのあと来客が続きますが、五時ちょっと前でしたらおつなぎできると思います」 「電話より、お訪ねしてお話ししたいと思いますが……」 「十五分ぐらいしかありませんが、よろしいですか」 「けっこうです。それでは五時十分前にお邪魔させていただきます。ありがとうございました」  竹中は部長室のドアが開いていたので、受話器を置きながら永井に報告しておこうと思って、デスクを離れた。 「ちょっとよろしいですか」 「どうなった」 「鈴木会長は逃げました」 「ふうーん。そんな気がしないでもなかったが、話がこじれるかもねぇ」 「わたしも心配です。児玉先生の顔を潰《つぶ》すというか好意を無にすることになるわけですから。鈴木会長は病気で寝込んでるっていうことにしますけれど、児玉先生が病気の事実関係を調べようとすれば簡単に底が割れてしまいます。そのときの反動が恐ろしいですよ」 「手打ち式はちょっとオーバーな気がしないでもない。案外、児玉さんがあっさり引き下がってくれないとも限らんだろう。いまから心配してもしょうがないよ。ま、頑張ってくれ」  竹中は五時十分前に、児玉事務所へ出向いた。一日に二度訪問したのは初めてだ。  竹中の話を聞いて、児玉は激昂《げつこう》した。 「なんだと! なにが体調をくずしただ! 這《は》ってでも出てくるのが、鈴木の立場じゃないのか!」  胴間声が竹中の頭上で炸裂《さくれつ》した。 「わしは昔鈴木には世話にもなったが、面倒もみてきたつもりだ。言ってみりゃあ持ちつ持たれつの関係だ。体調をくずしたというのは口実だろう。要するに並木に会うのが怖いっていうことなんじゃないのか」 「お嬢さんのことやらなにやらで鈴木が心を痛め、体調がすぐれないのは事実だと思います。鈴木は先生に大変感謝しております。わざわざ並木会長に頭を下げていただくのは気が引けるといいますか、申し訳ないような気持ちなんじゃないでしょうか。先生にそこまでやっていただくのは畏《おそ》れ多いと思っているかもしれません」  竹中は声をふるわせて、懸命に弁解した。 「鈴木のケツの穴が小さいっていうだけの話だ。しかし、わしの体面はどうなるんだ。並木もわし以上に感情的になるかもしれんぞ。とにかくわしは鈴木に対して相当含んだからな。この点は鈴木にはっきり伝えてくれ。今後、並木がどうしようが、わしには一切関係ない。竹中、おまえも出入り禁止だ。わしは出かけなければならん。帰ってもらおうか」  取りつく島もなかった。  結果は最悪である。  竹中は眦《まなじり》を決して佐藤に会った。そして、児玉が激怒したことを伝えた。 「そんなに怒ってましたか。どうしたものかねぇ。竹中さんの意見は?」 「少し時間を置いて、会長が手打ち式をお受けするしかないと思います。それ以外に児玉先生の怒りを解く方法はありません。秘書室長は、マスコミのことを心配されましたが、取り越し苦労のようにも思えますが。目立たない所がよかろうと言われて、児玉先生は向島を指定したのです」  佐藤は苦りきった顔で、しばらく口をつぐんでいた。 「失礼しました」  竹中はソファから起《た》ち上がった。 「ちょっと待ってください」  佐藤に押しとどめられて、竹中はソファに腰を落とした。  それでも、佐藤はまだ沈黙している。  たまりかねて、竹中が口をひらいた。 「いずれにしましても、わたしは本件から手を引かせていただきます。児玉先生に出入り禁止を宣せられましたので、修復せずに放っておくか、三者会談を受け入れるか、選択肢は二つです。もし後者を採るとしても、わたしにはいまや出番はありません、後者を採ることを切望しますが、そのときは山田副頭取ぐらいが児玉事務所に出向きませんと、児玉先生は納得しないんじゃないでしょうか」 「なんと言われても鈴木会長は出せません。会長もその気はないし、わたくしも同様です。竹中さんは、二つしか選択肢はないと言いましたが、果たしてそうでしょうか。いま、山田副頭取の名前が出ましたが、たとえばの話、山田副頭取にお願いする手はありませんかねぇ。山田副頭取は、児玉氏とは面識もあるようですし……」 「失礼ながら会長を出せないという理由がよくわかりません。会長は出せないが、副頭取なら出せるんですか」 「会長に傷がつくようなことは万々一にもあってはならない。協銀の象徴であり、協銀の中興の祖を死守するのがわれわれの使命です。そんなこともわからないんですか」  佐藤が厭《いや》な眼で竹中をとらえた。  竹中は眼を逸《そ》らさなかった。  いまをときめく�柳沢吉保�にここまで言える自分がわれながら不思議だった。 「だいたい手打ちとか、暴力団の幹部に会長を会わせようとする発想はナンセンスですよ」 「おっしゃるとおりかもしれません。しかし銀行が暴力団の介在をゆるし、暴力団に侵食されているのは現実です。児玉先生の力に依存せざるを得ないのも現実なんです。外部勢力に頼らないで関州連合に対決できるんなら、初めからそうすべきだったと思いますが、そうはできなかったんじゃないでしょうか。川口正義なるわけのわからない人物にまで屈服してしまいました。残念ながらそれが協立銀行の現実なんです」  佐藤がふたたび厭な眼をくれた。 「失礼しました」  竹中は低頭して、ソファから腰をあげ、ドアの前でもう一度頭を下げて秘書室長室から退出した。  時刻は午後六時四十分過ぎだが、プロジェクト推進部ではほとんどの部員がデスクワークをしたり、打ち合わせをしていた。  永井もまだ在席していた。 「部長が副部長のことを気にしてるみたいですよ。さっきから何回も部屋から出てきて、副部長席を見てました」 「ふうーん。なんだろう」 �竹中班�首席課長の中林に耳打ちされて、竹中は部長室へ向かった。  この問題は部下に話していなかった。中林に限らず、竹中の行動は不可解と思われても仕方がない。しかし、ひろげたくない話なので、とぼけるほかなかった。  永井がノックの音を聞いて、書類から眼をあげ、竹中に手でソファをすすめた。 「おう、ご苦労さん」 「どうも」 「その顔だと児玉氏はご機嫌斜めっていうことだな」  竹中の仏頂面が少しゆるんだ。 「出入り禁止ですって。怒髪天を衝《つ》くっていう感じでした」 「そんなに怒ってたか」 「ええ。秘書室長にも報告してきました」 「佐藤君の意見は?」 「鈴木会長は絶対に出せない。山田副頭取ではどうか、と」 「なるほど。山田副頭取ねぇ」 「わたしが、こじれた児玉先生との関係を修復するためには、山田副頭取ぐらいを児玉事務所に出向かせなければダメだって言ったんです。それで、秘書室長は鈴木会長の代打に山田副頭取はどうかって言い出したんです。わたしは反対しました。関係修復には三者会談だか、手打ち式だかを受け入れる以外にないんです。体調が思わしくないことになってる鈴木会長が、若干時間を置いて出ていくしかないんです。山田副頭取はお使いに過ぎませんよ。そのぐらいしないと、収拾できないと思いますけど」 「竹中はそこまで佐藤に言ったのか」 「ええ。ほとんどこれに近いことを……。ずいぶん厭な顔をされましたよ」 「そうだろうなあ」 「鈴木会長、鈴木会長って、どうして神様みたいに言うんでしょうか。鈴木会長を神格化して、どんな得があるのかって訊《き》きたいくらいです。いわばもう過去の人で、現役を卒業した人だと思うんですけどねぇ」 「まだ卒業はしてないだろう。協銀のトップであることは間違いないよ」  永井は腕組みして、眉間《みけん》にしわを寄せた。 「とにかくわたしは降ります。いや、降板させられたんです」 「リアクションがどう出るかねぇ。どっちにしても、このまま放ったらかしておくわけにはいかんぞ」 「部長も、鈴木会長を出すことには反対ですか」 「いや。だけど、佐藤が会長を出せないと言い張ってるんだから、できない相談だ。しかも会長自身も逃げてる。この話を元へ戻すことはあり得ない。だが、竹中も言うように山田副頭取ではバランスが取れないこともたしかだ……。そうなると、斎藤頭取しかないっていうことにならないか。頭取なら、会長の名代として充分務まるんじゃないかねぇ」 「頭取はOKするでしょうか」 「すると思う。わたしが頭取に直接話してもいいが、竹中から佐藤に自分の提案として伝え、佐藤から頭取に話したらいいと思う。そんなところでとりあえずやってみたらどうかな。児玉さんとの調停役は竹中しかおらん。それが前提だぞ」 「わかりました。話してみます。秘書室長には会いたくないので、杉本を間に入れます」 「それはやめとけ。わたしは竹中に佐藤との関係を修復してもらいたいと思ってる。親心っていうか、一石二鳥の狙《ねら》いもあるんだ」  竹中は胸が熱くなった。永井がここまで考えていてくれるとは……。 「ご心配をおかけして申し訳ありません。でも、秘書室長に嫌われるぐらいなんてことはありませんよ」 「しかし、無理に敵に回すこともなかろう。また、佐藤も、この問題では竹中を使うしかないと思ってるはずだから、きみのアプローチを歓迎するんじゃないかねぇ」 「児玉先生には出入り禁止と言われてますが」 「それは言葉の弾みだよ。児玉さんは、必ず頭取の名代をOKする。あの人は竹中に当たったことをいまごろ後悔してるよ」  竹中は席に戻って、秘書室に電話をかけた。  佐藤は退行していた。竹中が時計をみると七時を回っていた。     4  この夜、遅い時間に竹中は寝入り端《ばな》を電話で起こされた。相手は杉本だ。 「おまえ、佐藤秘書室長に食ってかかったらしいなあ」  杉本はかなり聞こしめして、呂律《ろれつ》も不確かだった。 「俺《おれ》を差し置いて佐藤さんに直接会ったりするから、そういうことになるんだよ」 「用件はなんなんだ。早く言えよ」  竹中は突っかかるように言った。杉本の得手勝手はいつものことだが、竹中は向かっ腹だった。  午前零時を少し過ぎた時刻に電話がかかれば、誰しもドキッとする。瞬間的に竹中は関州連合の厭《いや》がらせかと思った。それが杉本だったのでホッとしたが、それは一瞬のことで、逆に腹立たしさが倍加した。 「山田副頭取が会長の代役をOKしたそうだ。その線で、児玉と話をつけろってよ」  杉本の口のきき方も竹中の勘にさわった。 「できない相談だな。杉本が児玉先生に話をしたらいいだろう。俺は出入り禁止を申し渡されたので、動けない。だいたいそのシナリオでは話がこじれるだけだと秘書室長に言ってある。それから、きみの頭越しに秘書室長と話をしてると思ってるようだが、言いがかりも甚だしいぞ。秘書室長から直接電話がかかってきたんだし、結果は直接報告しろとも言われた。俺はわざわざ杉本に話すと言ったのに、その必要はないとも言ってたよ。じゃあな」  竹中は電話を切った。  十秒後に杉本はふたたび電話をかけてきた。 「まだ、話が終わってないじゃねえか。児玉に会うのはおまえだからな。文句があったら、直接秘書室長に言ってくれ。あしたの朝、八時半から九時まで席にいるそうだ」  杉本はほとんど喧嘩《けんか》腰だった。 「わかった。きみも同席してくれ。そのほうが気が楽だ」 「八時半から会議があるからダメだ」 「だったら、あとで言いがかりみたいなことを言わないでくれよな。じゃあ、おやすみ」  竹中はコードレスのプッシュホンを乱暴に置いた。 「杉本さんだったのね。こんな時間になんなの」  ベッドに横たわったまま発した知恵子の声にも不快感が出ていた。 「起こしちゃって悪かった。ちょっと混み入った問題があってねぇ」  竹中はスタンドを消して横になったが、眠りに就くまでに時間を要した。  佐藤が山田副頭取に話すとは思わなかった。いっそうややこしいことになる。  斎藤頭取を持ち出していいものかどうか悩むところだ。児玉に山田副頭取をぶつけて様子をみるか。それとも、斎藤頭取案を佐藤に呑《の》ませて、山田副頭取に降りてもらうか。 �柳沢吉保�なら、この程度の芸当は朝めし前だろう。  なぜ、佐藤は斎藤頭取に思いを致してくれなかったのか。永井のほうが一枚上手ではないか。  思考が停止した。ベッドの中で竹中は苦笑を洩《も》らし、頭を振った。本件から降りたはずなのに、すでにその気になっている——。  翌朝、竹中は八時二十分に出勤した。永井も八時半までに出勤する。佐藤に会う前に、永井の意見を聞こうと考えたのだ。  竹中の話を聞き終えた永井が質問した。 「児玉さんとの調停ができるのは竹中しかおらんことは、きのう話したが、竹中は山田副頭取でいいと思ってるのか」 「きのうも話しましたが、山田副頭取では軽いと思います」 「わたしもそう思う。山田副頭取の名前を出すのはリスキーだ。初めから斎藤頭取で通したほうが無難だろう。佐藤は、鈴木会長以外はみんな一緒だよ。頭取も副頭取もない。あっさり呑むと思う。山田副頭取に対して申し訳ない、顔を潰《つぶ》したなんて考える男じゃないから、安心しろ」 「その線でやってみます」  竹中は部長室から自席に戻って、秘書室に電話をかけた。時刻は八時三十五分だ。 「プロジェクト推進部の竹中ですが、秘書室長に、いまからお訪ねしてよろしいかどうか都合を聞いてください」 「少々お待ちください」  二十秒ほどで同じ女性秘書が電話に出てきた。 「お待たせしました。すぐおいでくださいとのことです」 「どうも」  佐藤は気持ちが悪いほどにこやかに竹中を迎えた。 「おはようございます。きのうは失礼しました。杉本さんから聞いていただいたと思うが、そういうことでひとつお願いします」 「山田副頭取には申し訳ないのですが、バランスが取れないと思います」 「鈴木会長はダメですよ」  佐藤は笑顔を消さなかったが、眼は笑っていなかった。 「差し出がましいのですが、会長の名代ということでしたら、斎藤頭取にお願いするのが筋ではないでしょうか」  佐藤は意表を衝《つ》かれて、しばしきょとんとした顔を見せたが、湯呑《ゆの》みをつかみ、思案顔で緑茶をすすった。 「なるほど、頭取ですか。気がつきませんでした」 「それでよろしければ、わたしも児玉先生にぶつかる気持ちになれますが」 「頭取に話してみましょう。常務会の前に話しますから、竹中さんは席にいてください」 「はい。失礼しました」  竹中は、せっかく女性秘書が淹《い》れてくれた緑茶を飲まずに、秘書室長室から退出した。  九時二十分過ぎに、竹中の席の電話が鳴った。  女性秘書が竹中の所在を確認してから、佐藤の声に替わった。 「頭取は承諾してくれましたよ。ついでに、日程も押さえておきました……」  佐藤は一月下旬と二月上旬で斎藤があいている夜を二日ずつ四日告げて、話をつづけた。 「至急、児玉氏と接触してください。会長も気にしています。山田副頭取から斎藤頭取に変更したことを会長に話しましたら、よろこんでましたよ。児玉氏の様子がわかり次第、わたしに直接教えてください」 「承知しました」  常務会まで、まだ三十分ほど時間がある。  永井も気にしているに相違ないので、竹中はふたたび部長室へ足を運んだ。 「部長の読み筋どおりでした。斎藤頭取も承諾してくださいました。ただ山田副頭取の立場はありませんねぇ」 「そんなことはない。むしろホッとしてるよ。頭取は厭《いや》な役回りをよく受けてくれたなあ。わたしは強気なことを言ってたが、実は心配してたんだ。山田君でいいじゃないか、と頭取に言われたら、佐藤も困ったろう。佐藤がパワーを見せつけたのか、頭取が太っ腹なのか、どっちかねぇ」 「もちろん、後者ですよ。頭取はこだわりがなくてさらっとした人ですよ。立派な方だと思います」 「同感だ。まだ会長に遠慮されてるが、一期二年やれば自信もついてくる。いつまでも鈴木会長の言いなりになってる人じゃないと思うよ」 「実は……」  竹中は、右翼の凄《すさ》まじい街宣攻撃で、心身症のようになった知恵子が斎藤頭取邸を訪問したことを永井に打ち明けた。 「そんなことがあったの。驚いたねぇ。きみの妻君もけっこうやるじゃないか」 「けっこうやるなんてもんじゃないですよ。莫迦《ばか》っていうか、跳ね上がりっていうか……。でも、わたしが言いたかったのは、斎藤頭取は厭な顔をしないで、同情してくれたことです。わたしも頭取に呼ばれて、話を聞いてびっくり仰天ですよ。もちろん、家内はわたしに無断で、頭取邸にお邪魔したんですが、頭取はわたしにも同情してくれました。奥さんの気持ちもよくわかるとおっしゃってくれて。家内が訪問先を鈴木会長にしてたら、えらいことになったと思います」 「なるほどなるほど。竹中は会長と頭取の違いを言いたいわけだな」 「ええ。わたしが頭取だったら断りますよ」 「児玉氏も、頭取なら機嫌を直してくれると思うが、こればかりは蓋《ふた》をあけてみないとわからんねぇ。竹中も忙しいのに大変だが、ここは腕の見せ所だと思って、ひと踏ん張りしてもらおうか。児玉さんへのアプローチは早ければ早いほどいい。できたら、きょう中にも会えるといいが」  永井が時計を見ながらソファから腰をあげた。     5  児玉の凄《すさ》まじい形相を眼に浮かべただけで背筋がぞっとするが、時間を置けば置くほど収拾は難しくなる、と竹中は思った。きょう中に片づけてしまいたい。なんとしても児玉と接触しなければならないが、どういう方法がベストなのかを竹中は懸命に思案した。  竹中はふと児玉夫人の顔を眼に浮かべた。  これだ! と頭にひらめくものがあった。  竹中が児玉家に電話をかけたのは、夜七時過ぎだ。 「協立銀行の竹中です」 「あら、竹中さん。お正月はありがとうございました」 「こちらこそお世話になりました。さっそくで恐縮ですが、先生は今夜のお帰りは……」 「会食があるとか言ってましたから十時ごろだと思いますけど、なにか」 「至急お目にかかってお話ししたいことがあります。遅い時間に申し訳ありませんが、十時ごろお邪魔させていただいてよろしいでしょうか」 「どうぞどうぞ。なんでしたら、夕食をご一緒にどうですか」 「お気を遣っていただいて恐縮です。先約がありますので、十時ごろお邪魔させていただきます。ありがとうございました」 「はい。お待ちしてます」  この様子では児玉が夫人にこの件で話していることはない。話を聞いていたら、夫人はもっとよそよそしい態度を取るはずだ。なぜなら出入り禁止とまで言われているのだから。  竹中は九時まで残業して、吉祥寺の児玉邸に向かった。  九時四十五分に児玉邸へ着き、ミルクティーを飲みながら、夫人と雑談しているところへ児玉がご帰館した。  竹中は小便をちびりそうになるほど緊張していた。 「こんばんは。こんな時間に厚かましくお邪魔して、恐縮です」 「この人はどこの人だっけ」  児玉が真顔で言って、夫人を呆《あき》れさせた。 「あなた、なんですか」 「こんな人わしは知らんぞ」 「冗談ばっかり。あなた、なにをめしあがるの」 「濃い茶をたのむ」  夫人がリビングからキッチンルームへ行ってる間に、竹中は絨毯《じゆうたん》にひざまずいて土下座した。 「先生、昨日は大変申し訳ありませんでした。来られた義理ではないのですが、鈴木と斎藤からどうしてもお詫《わ》びするように言われまして……」 「どこのどなたか知らんが、こっちへ来たまえ」  二人はリビングから応接室へ移動した。暖房を入れたのは児玉である。 「竹中、立ってないで座れや」 「失礼します」 「まったく失礼なやつだ。出入り禁止を事務所だけと勝手に解釈したわけだな」 「申し訳ありません」  夫人が緑茶を淹《い》れ替えて、湯呑《ゆの》みを三つ運んできたが、ただならぬ二人の様子を察したのか、すぐに退出した。 「用件を言いたまえ」 「先生に叱《しか》られるかもしれませんが、先生と並木会長と鈴木の会食の件、鈴木も大変気にしております。先生は這《は》ってでも出るべきとおっしゃられましたが、とりあえず斎藤頭取を名代にしまして、ぜひともお願いしたいということでございます。ご不満は重々承知致しておりますが、何卒、意のあるところをお汲《く》み取りいただきたいと存じます」 「斎藤君は承知したのか」 「はい。もちろんです。よろこんでお受けしたいと申しております。児玉先生に一度ぜひご挨拶《あいさつ》させていただきたいと……。ずいぶん、ご無沙汰《ぶさた》しておりますので、この機会に拝眉《はいび》の機会をお与えいただきたいと申してました」 「鈴木は気が小さいねぇ。関州連合の会長と聞いて、怖気《おぞけ》をふるってるんだろうが、わしがついてるんだし、並木なんてたいしたやつじゃないのになあ。それに子分をぞろぞろ引き連れてくるようなみっともない真似はするな、とも言ってある」 「鈴木は体調がかんばしくないのは事実なんです。心身症みたいなものだと思いますが」 「ま、そういうことにしておこう。竹中に免じて、斎藤の名代を受けるとするか」 「ありがとうございます。ご恩は忘れません」 「竹中に出入り禁止を申し渡したのは大人気なかったと反省してるよ。おまえは立派だ。こうして家にまで押しかけてくるのも銀行のためを思えばこそだろう。わしも今夜竹中の顔を見て悪い気はしておらん。たとえ協銀とどうなれ、竹中とは友達づきあいをしたいと思ってたが、わしが電話をかけるわけにもいかんので、カミさんに電話をかけさせようか考えながら帰ってきたら、おまえがおったので、正直うれしかったよ」 「…………」  竹中は胸がいっぱいで言葉が出てこなかった。 「それで、日時と場所はどうしようか」 「斎藤の夜の日程を聞いております。一月下旬でしたら二十七日金曜日と三十一日火曜日があいてます。二月上旬ですと……」 「一月二十七日にしよう。善は急げだ。時間は六時でいいかな」 「はい」 「場所は向島の�なみむら�にしよう」 「幹事はわたくしどもにやらせていただけませんでしょうか」 「わしにまかせてくれ。そういうことで、並木にも話してある。余計なことを考えるな」 「どうも」 「案内状は出さないが、一応並木の都合も聞いて、あすにでもきみに連絡する」 「ありがとうございました」  竹中は起立して最敬礼した。  十一日水曜日の朝、竹中は自席から佐藤秘書役に電話をかけようと思って、受話器に手を伸ばしかけたとき、永井が部屋から出てきて、こっちを見ているのに気づいた。  永井が児玉の様子を知りたがっているのは当然である。  永井が竹中の席に近づいてきた。 「首尾は」 「上々です。OKしてくれました」 「それはよかった」  永井は軽く右手を挙げて、回れ右をした。  竹中は受話器を持って、プッシュホンを押した。  女性秘書から佐藤に替わった。 「昨夜、児玉先生とお会いしました」 「昨夜、そんなに早く……。児玉氏はなんと言ってました」 「けっこうです、との返事でした」 「そうですか。よかったですねぇ」 「一月二十七日金曜日の午後六時に向島の�なみむら�で、ということです。幹事は当方にやらせてくださいと申し上げたのですが、趣旨が違うと叱《しか》られました。案内状は出さないが、そういうことでよろしくお願いする、と児玉先生は言ってました」 「ご苦労さまでした。会長も安心するでしょう」  佐藤との電話が切れた直後に、杉本から電話がかかった。 「竹中です」 「杉本だけど、例の件どうなった」 「いま佐藤秘書室長に電話で報告しといたよ。秘書室長の指示で直接電話するように言われたんだ。それだけ気持ちが急《せ》いてたんだろう」 「で、どういうことになったんだ」 「頭取が出ることになった。児玉先生も快諾してくれてねぇ」 「そうか。いつだ」 「一月二十七日。どういうことになるのか結果が愉《たの》しみだよ。悪いことにはならないと思うよ」 「わかった」  言いざま杉本は電話を切った。     6  平成七年(一九九五年)一月十七日午前五時四十六分ごろ、兵庫県南部でマグニチュード七・二の直下型大地震が発生した。神戸市とその周辺都市、淡路島の街並みは一瞬にして瓦礫《がれき》と化した。後日、政府はこの大地震を阪神・淡路大震災と命名したが、協立銀行も、神戸周辺に店舗網を広範囲に展開しているため、被害は甚大であった。  ビル、建屋が倒壊した支店や厚生施設も少なくなかった。  当日夕刻開いた緊急常務会で、山田副頭取を本部長とする災害対策本部の設置と、常務および取締役部長クラス十五人による災害対策委員会の設置が決まった。  火曜日だったので、通常の常務会を含めて、常務会が一日に二度開催されたことになる。協立銀行始まって以来の椿事《ちんじ》である。  本店および東京周辺の支店から支援チームが十班編成されたのは三日後の一月二十日で、プロジェクト推進部からも若手の課長クラスが五名参加した。  支援チームは一班十五人〜二十人で編成され、人選は人事部、総務部を中心に行なわれたが、支援活動初期の段階で最も困難をきわめたのは、被災者の安否の確認である。  協立銀行関係の被災者は約百五十人だが、安否の確認に一週間要した。  死亡者は行員二人、家族五人、計七人。重傷者は行員一人、家族二人、軽傷者は行員十六人、家族二十一人であった。  支援チームは、五日間交代制とし、延べ百七十人が神戸周辺に送り込まれたが、宿泊施設の確保に対策本部は難渋した。  大阪周辺の体育館なども支援チームの宿舎として利用されたが、厳冬期だけに、被災者並みの労苦を強いられることになる。 �竹中班�で支援チームに参加した奥村昇は五日間の活動を終えて、二十四日の夜東京に戻り、二十五日に出勤した。  奥村は同志社大学の出身で、往年のラガーでもあった。体力もあり、土地勘もあるということで、対策委員会から目をつけられたが、奥村自身も支援チームへの参加を望んでいた。  その奥村がげっそり、げんなりした顔で、体重が七キロ減った、と竹中にこぼした。  竹中は奥村を昼食に誘ったのである。 「きみは太り気味だったから、ダイエットしないで減量できて、よかったじゃないの」 「そうでも思わないと、やりきれませんよ。まさか物見遊山気分で支援チームに参加した人はいないと思いますけど、現場は殺気立ってますから、のろのろしてるっていうか、気働きがしないっていうか、使いものにならない人もいるんですよねぇ。カメラなんかぶら下げて、やたら写真を撮りまくってた若いのがいましたけど、邪魔者扱いされて、東京へ帰ってくれって怒鳴られてました」 「奥村はどこに泊まったの」 「枚方《ひらかた》の体育館です。寝袋を用意してったんですけど、寒いのなんの。それと、神戸までの往復時間が長くて、それだけでけっこう体力が消耗しましたねぇ。本部は安全面を考えたんでしょうけど、長田支店まで鉄道とバスを乗り継いで往復十時間近くかかるんです。朝五時に出発して、到着するのは十時ですからねぇ。ロビーで案内係をやらされました。長田支店は倒壊を免れて無事でしたので、倒壊した三宮《さんのみや》店など四店の仮設店が入ってましたから、ゴチャゴチャしちゃって、大混乱です。応援団も多すぎたような気がします。ロビーで案内係やってても、手形交換所がいつ再開されるのか、カードや通帳を喪失した人の預金の払い戻し方法の説明がないので、お客様に対応のしようがないんです。的確な指示、命令系統のマニュアルがあればいいのにと思いました。救援物資についてもひと工夫もふた工夫もほしいところですよねぇ。同じカップ麺《めん》ばかり大量に送り込まれても、どうしようもないですよ。本部に紙コップの支給を要求したら、箱単位になるから各店で調達しろなんて、つれない返事なんです。調達できないからお願いしてるのに……」 「きみたちの体験したことが、新しい防災マニュアルに生かされるんだよ。貴重な体験をしたとは思わなかったか」 「それは思いました。こんなこともありました。現地の支店の行員はいずれも大きなダメージを受けているので、出勤が思うにまかせませんから鍵《かぎ》当番が出勤できなくて開店が遅れたりするんです。シャッターも金庫も開くんですけど、行員の絶対数が不足して、開店できないケースもあったみたいです。支店長、副支店長がいないから店が開けられないとか、異常状況の中ではいろんなトラブルに見舞われます。小さいことですけど、支店長と副支店長が同じ場所の社宅住まいっていうのもよくないですねぇ」 「テレビで見てても長田町の火災は凄《すご》いと思ったけど……」 「阿鼻叫喚の地獄図さながらとしか言いようがない凄惨《せいさん》さです。昨夜、家に帰ってきて、夢を見ました。ワイフに、少しうなされてたみたいだと言われましたが、支援チームのわたしがそうなんですから、家が倒壊したり焼け出された被災者はどうなっちゃうんでしょうか」 「心身共に傷ついた被災者が立ち直るまでに相当な時間を要するんだろうねぇ」  協立銀行の神戸市周辺の各支店が受けた被害は金額にして約四十一億円であることが後日判明した。  ただでさえ放漫経営で再建が困難視されていた地元の銀行は、この大震災で追いうちをかけられ、倒産が決定的になった、と噂《うわさ》されたのも、大震災直後のことだ。  竹中は、阪神・淡路大震災で、手打ち式の延期もあり得ると思っていたが、予定どおり実施された。  斎藤頭取は一月二十五日に現地を視察、慰問し、二十六日に帰京したので、二十七日の手打ち式に支障は生じなかった。児玉のほうから延期の話があればともかく、協銀側からは言いにくい状況になっていたとも言える。     7  二十七日の夜十時を過ぎたころ、竹中宅に電話がかかってきた。知恵子が受話器を取った。 「もしもし……。児玉ですが、奥さんですか」 「はい。竹中の家内です。先生にはいつもいつも主人が大変お世話になってます」 「竹中君、帰ってるの」 「はい。ただいま替わります」  竹中は歯を研いていたが、途中で児玉ではないかと思い、嗽《うがい》して待っていた。 「竹中です」 「わしの電話を待ってたんだろう」 「おっしゃるとおりです。九時前に帰宅してずっと時計ばかり気にしてました」 「いま車の中だが、結論から言うと、手打ち式は非常にうまくいった。並木はわしと斎藤君の前で土下座したからな。斎藤君の態度も堂々としてて立派だったよ。ずいぶん会ってないが、ひと回り、いやふた回り人間が大きくなったねぇ。並木を先生と呼んで立ててたし、お目にかかれて光栄だとも言っていた。心にもないとわかってはいても、そういうことが大事なんだよ。鈴木君をはじめ、協立銀行に対する攻撃は、自分の考えが浅かった、判断ミスだと並木はきわめて低姿勢でねぇ。わしの顔を潰《つぶ》したことは腹を切ってお詫《わ》びしなければならないところだとも言ってたなあ。鈴木君も、いまごろ斎藤君から話を聞いて安心したことだろう。それと地震の話も身につまされたよ。発生八日後に現地入りした頭取も見上げたもんだよ」 「ありがとうございます。斎藤に伝えます。すべて先生のお陰です。電話の前で頭を下げっ放しですよ」 「わしもホッとしたよ。正月にきみから話を聞かなかったら、ずっと大恥をかきっぱなしで、もの笑いのタネにされるところだった」 「いいえ、とんでもない」 「それからなあ、玉置をやっつけることで斎藤君と合意したからな。二月に入ったら、すぐ告発すると言っていた。鈴木君の意向を聞かなくてそんなに張りきっていいのか、と訊《き》いたら、頭取として約束すると言いきったぞ。どうかおまかせください、と胸を叩《たた》いたんだから、斎藤君もやるんじゃないかな。鈴木君が猛反対すればともかく、鈴木君は今夜の件で斎藤君に大きな借りをつくってしまった。反対できた義理じゃなかろう」  竹中は時折受話器を耳から遠ざけながら、児玉の話を聞いた。 「武士の情けで、テープの話は出さなかったが、来週秋山に因果を含めることになると思うし、秋山も反対せんだろう。それとなくきみから秋山に根回ししておいたらいいな」 「はい。そうします」 「わしも今夜は男を上げたようないい気分だよ。肝心なことを言い忘れたが、今夜これから向島の馴染《なじ》みとちょっとデートすることになってるんだ。泊まったりせんが、相当遅くなるから、マージャンにつきあったことで口裏合わせてくれな。きみはカミさんの信頼絶大だからなあ」 「かしこまりました。お安いご用です」  児玉との電話が終わったあとで、竹中は、永井、佐藤、杉本の順に電話をかけようと思いたった。  プッシュホンを押しながら、広報マンの昔に戻ったような気がしていた。  鈴木も斎藤も、永井や佐藤に話をするのは来週の月曜日だろう。ならば一刻も早く知らせてあげるのが親切というものだ。  反応は三人三様で、永井は「よかったねぇ。それもこれも竹中が頑張ったお陰だよ。会長がよろこぶだろう」と、竹中に花を持たせてくれた。  佐藤は「ご丁寧にありがとう」と短く礼を言った。  杉本は「竹中も気が利くようになったなあ」と、ひとこと多かった。 「おまえもやっと佐藤ファミリーの一員らしくなったな。鍛えてやった甲斐《かい》があったよ」  一月三十日月曜日の午後五時に、頭取付の女性秘書から永井に電話がかかった。 「頭取がお呼びです。竹中副部長とご一緒にいらしてください」 「はい」  永井が背広を着ながら部長室から出てきた。  竹中は在席していた。部下の報告を聞いていたが、「頭取に呼ばれたよ。きみも一緒のほうがいいらしい」と永井に言われて椅子《いす》にかけてある背広を取り、「あとで聞く」と言い置いて、席を立った。 「どうぞ」  斎藤は笑顔で二人を迎え、ソファをすすめた。 「失礼します」  竹中は一礼して永井に並んで座った。 「ヤクザの親分と会食するのは気色のいいものではないが、想像してたよりは穏やかな人だったよ。児玉さんがいろいろ気を遣ってくれてねぇ。見かけによらず気配りをする人で、驚いたよ。並木会長は、児玉さんを『先生』『先生』と立てていた。児玉さんは『並木君』とクンづけだった。わたしのことは頭取と呼んでくれたが、関州連合の大親分が児玉さんとわたしに土下座したのにはほんとびっくりした。指を詰めるぐらいでは済まない、腹を切ってお詫びしなければならないところだ、なんて大時代というか物騒なことを言ってたっけ。児玉に免じてゆるしてやってくれ、とか児玉さんもだいぶ芝居がかってたが、これで協銀に対する攻撃はなくなるだろう」  永井が斎藤に訊《き》いた。 「並木会長は子分をぞろぞろ従えてあらわれたんですか」 「別室に控えていたのかねぇ。わたしは六時十分前に�なみむら�に着いたが、すでに二人とも来ていた。だから並木会長が一人で来たのかどうかよくわからないが、ああいう人は一人では行動せんのじゃないかねぇ。帰りも、わたしがいちばん先だった。児玉さんが取り仕切ってたが、並木会長は最後に�なみむら�を出たんじゃないかな。というのは、わたしの次に児玉さんの車が続いてたが、並木会長のものとおぼしき専用車は見当たらなかったよ」 「詫びを入れる立場上も控えめにしてたんですかねぇ」 「児玉先生は並木会長に子分をぞろぞろ連れてくるようなみっともない真似はするな、とクギをさしてあるようなことを言ってましたが。ですから、せいぜい二、三人っていうところじゃないでしょうか」  斎藤が竹中のほうへ首をねじって、二度うなずいた。 「なるほど、そんなことまで言えるほど児玉さんの立場は優位にあるんだねぇ。ところで、きみたちに来てもらったのは、玉置健三郎の件もあるんだ。協産ファイナンス名で告発するのがいいと思う。大津会長と秋山社長の連名で警視庁に告発するよう秋山に話してほしい。この件については鈴木会長も反対しなかった」 「消極的賛成ですか」  永井の質問に、斎藤はにやにやした。 「ま、そんなところだ。大物総会屋の逮捕ともなればマスコミも騒ぐだろうから、広報と�渉外班�にも話しておく。きみたちが対応する必要はない」  頭取室を出るとき、斎藤がドアの前で声をかけた。 「竹中君、よくやったな。児玉さんも、きみのことを褒めちぎってたよ。それから奥さんによろしく伝えてください」 「恐れ入ります。言い忘れてましたが、児玉先生から自宅に電話があり、頭取のことを大人物だと言ってました。震災八日後に現地入りしたことも、びっくりされたようです」 「そう」  斎藤は相好をくずした。  頭取室のドアがしまったとき、永井が竹中の背中をぽんと叩《たた》いた。 「今夜、久しぶりに一杯やろう。ことがらの性質上、頭取表彰っていうわけにはいかんが、充分その価値はあるよ」 「秋山さんを口説くのは容易じゃないでしょうねぇ」 「そんなことはない。頭取命令のひとことで済むよ。秋山さんも、協銀復職はあり得ないが、どこかへ就職の世話をしてもらわなければならないんだ。それに彼が玉置の告発者になったとしても、玉置が向かってくるのは協銀だよ。それも頭取が肚《はら》をくくってるんだから問題はない」  エレベーターホールの前でも、エレベーターの中でも、竹中は秋山にまつわるテープのことを永井の耳に入れるべきかどうか迷ったが、結局話さなかった。  翌日の午後三時に、永井は秋山を本店に呼び出して、玉置告発に関する協銀の方針を伝えた。  秋山は反対しなかった。     8 �グループ21 �の玉置健三郎ら三人が警視庁に恐喝未遂の疑いで逮捕されたのは二月十三日朝八時過ぎだ。テレビも新聞もこの事件を大きく採り上げた。  ある全国紙は同日の夕刊で�住専融資先に債権放棄迫る��恐喝未遂の総会屋逮捕�の見出しで、次のように書いた。 [#ここから1字下げ]  警視庁捜査四課は十三日、不良債権回収のため担保不動産の競売を申し立てたノンバンクに債権の一部を放棄させようと脅迫を繰り返していたとして、総会屋、玉置健三郎容疑者(55)ら三人を恐喝未遂容疑で逮捕した。脅されたノンバンクは住宅金融専門会社(住専)などから多額の融資を受け、経営が悪化している協立銀行系ノンバンクの協産ファイナンス。  調べによると、玉置健三郎容疑者らは、ノンバンクの融資先の地主が借入金を返済できなくなり、担保に取っていた群馬県嬬恋村の土地が競売にかけられたことを知り、債権の一部をノンバンクに放棄させようと計画。九四年十二月から一月にかけて、同社社長らに対し「全部法律でやるならやってみろ。暴力団百人連れて妨害する」などと、約五十億円の債権のうち三十億円を放棄させようとした疑い。  また、同容疑者らはノンバンクが所有している新宿区内のビルに知人の会社を入居させて占拠していたが、ノンバンクが明け渡し訴訟を起こしたことを知り、立ち退き料名目で現金約三千万円を脅し取ろうとした疑いも持たれている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  第十二章 大蔵省銀行局長     1  七月十八日水曜日午後二時過ぎに常務会から部長室に戻った永井が、竹中たち副部長を招集した。  七人の副部長のうち出張中の岡崎を除く六人が部長室に集められた。飯島、八木、下川、高山、本田そして竹中。  年次でみると昭和四十七年入行組は飯島、八木の二人、四十八年組は下川、高山、本田の三人、四十九年組は竹中と岡崎の二人。 「住専問題がいよいよ抜き差しならなくなってきた。企画部の杉本の話では、|MOF《モフ》が近く住専各社に対して立ち入り検査を始める方針らしい。共住金の社長はMOFのOBから協銀のOBに替わってるし、協銀が母体行のトップでもあるから、協銀の立場は厳しい。会長も頭取も住専問題を最大の経営課題として全行的に対応しなければならないと考え、頭取自ら住専対策委員会の委員長になって、指揮を執るということだ。プロジェクト推進部が事務局になるので、わたしが事務局長として頭取を補佐することになった。きみたちが超多忙なことは承知しているが、全員が住専対策委員会のメンバーになったつもりで、わたしをバックアップしてほしい。とくに八木と竹中には、企画部などとの連絡を含めて時間を割いてもらうことになりそうなので、よろしくお願いする」  八木が眼鏡の奥で、せわしなくまばたきしながら質問した。 「竹中とわたしがとくに、ということはなにか理由があるんでしょうか」 「プロジェクト推進部七班の中で比較的債権回収作業が進んでいることと、二人とも杉本と近いからな。わたしの一存で決めさせてもらった」  八木は理屈っぽく、ひとこと多いほうだ。 「竹中は杉本と同期で親しいようですけど、わたしは、杉本なんかと近くないですよ」 「八木は杉本とウマが合うほうじゃなかったか。大学も同じじゃないの」 「あいつは法科で、わたしは経済です。部長、できたら勘弁していただけませんか。杉本と一緒に仕事をするのはどうも……」 「八木さん、それはないですよ。わたしも杉本は苦手です」  竹中が真顔で口を挟むと、永井が冗談めかして言った。 「これは業務命令だ」  永井が表情をひきしめて一同を見回した。 「なにか意見があるかな……。なければ解散。ご苦労だった。八木と竹中はちょっと残ってくれ」  四人の副部長が部長室から出て行った。  永井が八木と竹中にこもごも眼を遣った。 「住専各社へのMOFのチェックは厳しいものになるだろう。とくに紹介案件は一件一件シラミ潰《つぶ》しにやられると思う。母体行のどこが住専に案件を持ち込んだか、住専の融資先とその母体行との関係はどうなっているか、当該案件によって母体行はどんな利益を享受したか、案件の決裁は何時《いつ》、どのように行なわれたか等々、共住金に限らずいずこの住専も戦々恐々としているに違いない。ある銀行は紹介案件の不良債権を別のノンバンクへの�飛ばし�までやっているという情報もある。いずれにしてもMOFは母体行責任を追及してくるだろう。ロスの負担の押しつけあいがこれから始まるわけだが、正直なところわたしは住専対策委員会は無意味というか、期待されても困るし、なにもできないんじゃないかと思ってるんだ。さっきは恰好《かつこう》をつけてあんな言い方をしたが、そうナーバスになることはないよ。住専問題はわれわれがどんなに頑張っても、どうしようもない。言ってみれば政治問題なんだ」  竹中は、永井の投げやりな口吻《こうふん》に反発を覚えないでもなかった。 「会長が莫迦《ばか》に貸し手責任論に固執してるんで、頭取も遅ればせながらそれじゃ住専対策委員会をつくろうって提案したんだろう」 「会長の主張は正論だと思いますけど。融資にリスクが伴うのは当然です。融資先が破綻《はたん》したら、貸し手は貸出残高に応じて損失を負担すべきでしょう」  永井が八木を見返した。 「だが、現実問題としてそれで農林系統がハイわかりましたなんて応じるわけがない。都銀と農林系統の政治力の彼我の差は比較にならんだろう。政治家は与党も野党も農林族ばっかりと考えていいくらいだ。貸し手責任論は、政治力に弾き飛ばされちゃうだろうな」 「MOFは都銀に味方してくれないんでしょうか」  竹中の質問に、永井がわずかに首をかしげた。 「味方したくてもできないんじゃないかな。住専問題は、MOFも銀行も受け身にならざるを得ない。貸し手責任論をいくら言い立てても、ムダなんじゃないかねぇ。大蔵省銀行局のスタンスは、母体行責任論に重心をかけざるを得ないだろう。それと、前銀行局長と前農水省経済局長の覚書というか密約というか、あれを切り札にされる可能性もある……。ま、対策委員会をつくった以上、いろいろポーズを取らなければしょうがないが、きみらはいまの仕事に全力で取り組んでくれ。住専問題でそんなに負担をかけることにはならんだろう」  このとき竹中は、新聞で何度か見た西岡大蔵省銀行局長の端整な顔を眼に浮かべていた。  住専問題は銀行局にとっても最大の課題である。西岡は先送りせずに果敢に住専問題に取り組むと明言していた。先輩たちの尻《しり》ぬぐいを一手に引き受ける、とは容易ならざることだ。悲壮的でさえある。  大蔵省は、母体行責任論に重心をかけざるを得ない、と永井は言ったが、西岡なら凄《すご》い妙案を考えてくれるのではないか——。  竹中は西岡のリーダーシップに期待してもよいのではないか、と思わぬでもなかった。  大蔵省は八月十六日から、住専各社への立ち入り検査を開始した。  協銀から共和住宅金融に出向している担当者からチェックの厳しさが竹中にも伝わってきたが、MOFが母体行責任論を中心に住専問題のスキームづくりに乗り出したことは疑う余地がなかった。     2  九月十六日付の『週刊D』に次のようなコラムが掲載された。『週刊D』は『週刊T』と並ぶ一流経済誌だ。竹中は当然二誌を購読していた。  �利用しあった歴史——なぜ農林系統が五兆五〇〇〇億円も貸し込んだか� [#ここから1字下げ]  日本に住専が設立されたのは一九七一年、日本住宅金融が最初で、七九年の協同住宅ローンで八社となった。当時の住宅ローン金利は政策的意味合いがあり、一般の金利が上がっても抑制されることがあった。かつ事務手続きが煩雑で、銀行本体としては消極的で、高い金利がとれるように別会社化したのだった。  だが、八五年頃、コンピュータの発達で事務負担が軽くなり、大企業向け貸出しが減少したこともあって、母体行は個人ローン市場に積極的に乗り出す。  そのため、住専の住宅ローンの融資シェアは長期低落傾向に入る。バブル生成の頃だ。住宅ローンに代わって不動産業など事業者向け貸付けが好対照に伸び始める。早くも八六年度では後者の融資比率が上回った。ここが、農林系統が、「設立母体が子会社のシェアを食い、経営を悪化させる原因をつくった」と批判する根拠だ。  農林系統は当初から母体行保証を受け、融資していた。だが、母体行は、金融機関の保証債務が多すぎるとの大蔵省通達に従って、七九年から八四年にかけて保証を解除、すべて債権の譲渡担保契約に切り替えていった。銀行側は、「この保証解除をもって農林系統に貸し手責任が発生した」と主張する。ある母体行によれば、当時農林系統に対し「リスクを負ってもらうことになる。それでもいいか」と確認したところ、「それでもいい」と積極的に応じたのだという。  信連については当初は「員外貸付規制」があって取引はなかった。だが、八〇年一〇月に大蔵省と農林省が、住専は員外貸付けできる金融機関と認めたため、信連の融資が始まった。八二年から八三年にかけて信連の住専に対する貸出しは急速に拡大する。  さらに、九〇年三月以降の不動産業等への融資を規制する総量規制が実施されてから、拍車がかかる。母体行を含めた銀行が残高を維持ないしは落としていく一方で、農林系統は融資を急増させる。  九〇年の住専の住宅ローン貸付けは二兆八〇〇〇億円余り。対して、事業者向け貸出しは一〇兆円を上回っている。この時点で、すでに住専は「住宅金融専門」ではなかった。不動産業向け専門ノンバンクに堕《お》ちていた。それなのに、農林系統は九〇年の二兆九〇二七億円から九三年には五兆五九七七億円までも融資を急膨張させる。農林系統は、「住専融資は一貫して大蔵省・母体行への信用貸しだ。当時、両者から肩代わり依頼もあった。親銀行が子会社の面倒をみるのを放棄するなら、金融秩序の崩壊だ」と主張する。  銀行側は、「運用難に悩む農林系統が渡りに船と乗ったのだ。融資には必ずリスクが発生する。自らの審査能力の欠如を棚に上げた責任回避だ」と反論する。  住専の経営は極度に悪化。大蔵省は九三年二月、両者の溝を埋めないまま、強引にかたちだけの再建計画を策定、農水省と覚書を交わし、問題を先送りした。 [#ここで字下げ終わり]  �住専の役割は終わった。清算に融資シェアは常道�   ——全国地方銀行協会・玉木隆会長インタビュー [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] Q 住専の役割は終わったのか。 玉木 系統さんを含め、お腹《なか》の底のところでは同じ認識だと思うが、昭和四〇年代は住専に存在意義があった。ところがバブル崩壊後、金融機関は個人マーケットに傾斜している。住宅金融公庫からも大きなカネが出て、住宅融資の半分以上が公庫になっている。 そんななかで、民間からカネを借りてスプレッドを乗せて貸すことには無理がある。早晩、あの業態は成り立たないと考えるべきだ。民間金融機関が住宅ローンを抑えればいいじゃないか、というのは川の流れを逆にするようなものだ。 Q 農林系統は母体行が全責任を負うべきとの主張を変えていないが。 玉木 母体行というのは出資金融機関のことだ。メインバンクと混同されているのではないか。地銀生保の場合、現実には地銀も生保もメインバンクと思っていなかったんだから、メインバンク機能を果たすべきだったといまさら議論されても困る。ただし、非常勤役員を出していたのは事実だから、やや責任を重くすべきというのはあるかもしれない。 数字を言うと怒られるかもしれないけど、五兆五〇〇〇億円の借入れで、四・五%の金利だから年間二〇〇〇億円以上の金利を、住専各社は農林系統に支払ってきた。平成五年度の大蔵省の金融年鑑を見ると、人件費、物件費を含めた県信連の平均調達コストは四・四%で、平成六年度以降、金利はぐっと下がっている。相当利幅は大きかったと思う。それは母体行の金利がゼロというところから出てきている。仮に清算ということになれば出資金もゼロになる。 Q 農林系統の住専への貸出しが急増するのは、不動産業などへの総量規制が行なわれてからだが。 玉木 住専の住宅ローンはほとんど横ばいで、農林系統が五兆五〇〇〇億円まで膨らんだ過程では、それは不動産(事業)融資に向かった。おれたちは知らなかったと言われても、実態はわれわれも知らなかった。 Q それでは、どう処理すればいいのか。 玉木 処理は短期間にできないことはわかっているが、大枠は早くつくらないと。日本の金融システム不安の象徴になっているのだから。一三兆円という総融資額は大きいが、ある程度時間をかければ、少なくとも民間金融機関は自力でクリアできる。 Q 特別清算には債権者の四分の三の同意がいる。農林系統が賛成しないとできないが。 玉木 原則は自助努力、法的清算を言うつもりはない。そこには妥協の余地、歩み寄る余地がある。(住専)七社は個別に処理の仕方が違うと思う。いずれにせよ、再建の場合には株主責任、出資割合を加味するということはあるが、整理する場合にはありえない。母体行責任ではなく、しいて言えば修正貸出し責任程度にとどめるべきだ。 Q 大阪の地銀三行のやり方(修正母体行方式)は参考になるか。 玉木 (母体行の全額放棄は)一つのやり方だと思う。ただし、融資シェアに応じての負担が常道で、それに出資責任を加味するというのであれば納得できるのではないか。系統さんの言うように「全額お前たちの責任にしろ」と言われると、整理する会社に倍以上のニューマネーを出さなくてはいけない。(母体行が)株主代表訴訟に耐えられますかね。 Q 大蔵省はどこか一社で口火を切りたいと考えているようだ。 玉木 住専の借入金は、農林系統が相当の融資シェアを占めている。だから農林系統の負担割合をどうするか、ということを一律に決めていただかないと、個別にはできない。金融制度調査会なり、官の入った公的な場で、ルールづくりをしてほしい。それと、一括償却、分割償却のチョイスができるよう税法上の手当てをしてほしい。 Q 処理の仕方によれば行き詰まる金融機関が出てくる。公的資金の導入は。 玉木 従来どおりのやり方で、当局の判断でやっていただく。導入の場合には、金融機関は消える。経営責任も負うのは当然だ。 [#ここで字下げ終わり]  �母体行は親会社責任を果たせ。農林系統に元本ロスなしが筋�   ——農林中央金庫・斎藤満夫常務理事インタビュー [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] Q 現在の農林系統の立場は。 斎藤 第一次、二次再建計画はまだ生きている。再建計画に則った金利を払ってもらっているし、優先弁済もある。母体行からも住専からも、見直しの申し出は一切ない。 Q だが、議論は清算、損失の分担に進んでいる。 斎藤 今は大蔵省が各住専に立入り検査をして、内容把握に努めている段階だ。清算を前提に、われわれの貸し手責任や公的資金の導入を声高に言われるのは心外だ。仮に再建計画がうまくいかないのなら、まず母体行の責任で再建なり処理なりを考えるのが筋だ。いきなりわれわれにツケを回すのはおかしい。住専は母体行の信用でつくられた子会社だ。経営陣も出して、経営も一体になってやってきたではないか。メインバンクでもある。親が子の面倒をみるのは当然ではないか。住専は住宅政策の一環として生まれた。住宅資金ニーズは、まだある。その点からの見直しの方法もあるはずだ。歴史的意義はないなどと言うのは無責任だ。 Q 母体行に住専が子会社という意識は薄い。特に上場住専は。 斎藤 それはおかしい。大蔵省に届け出た銀行の関連会社ではないか。繰り返すが、自分たちが設立して経営してきたのだ。上場会社も経緯は同じだ。経営がおかしくなったら、借金だけは別問題だと言うのか。事業会社の子会社ノンバンクは、親会社の責任で処理している。それを要求しているのは、貸し手の銀行ではないか。銀行は系列のファイナンス会社やリース会社を子会社として、債権放棄などの全面支援をしている。住専でも同じ責任がある。また、イトセン処理にはメインバンクの住之江がすべてを肩代わった。信用はそうやって守られるものだ。 Q 立ちゆかなくなった民間企業は破産し、債権者は平等に負担を分担するのがルール、住専も同じだと、民間側は主張しているが。 斎藤 親子の関係を棚に上げて、形式的平等を言うのはおかしい。そもそも、金融機関は貸し先に対して、全力を挙げて債権を回収し、借金を返済しろと言う。住専でも同じことだ。債権回収の努力をせず、借金返済をしないのなら、今後貸し先に何も言えなくなるのではないか。 Q 農林系統は、母体行が住宅ローンを手がけ、住専のシェアを奪ったのが経営悪化の原因と主張している。だが、農林系統の融資が急増した時点ではすでに住専は不動産融資に傾いていた。そこで、融資に応じるべきではなかったのではないか。 斎藤 そうかもしれない。だが、われわれに提出された書類には、個人の住宅ローン融資の原資と書かれていた。それを信じた。しかも、三業種規制が始まっており、母体行からも融資要請があったのだ。 Q 運用難に苦しむ農林系統が、渡りに船で貸し込んだのではないか。 斎藤 儲《もう》ければいいと思ったのがすべてではない。一貫して住宅ローンという意義ある貸出しと考えてきた。 Q 覚書の存在は農林系統に有利か。 斎藤 役所間のことは知らない。だが当時、母体行が責任を持って再建を進める、それには大蔵省も責任を持つと説明され、農林系統全体で重く受け止めているのは事実だ。 Q 農林系統に元本ロスは発生させないとの約束がされたということか。 斎藤 それを含んで受け止めた。 Q 責任のなすりあいという批判が高まっているが。 斎藤 忸怩《じくじ》たるものがある。まず、責任の所在を明らかにしようと言っているのだ。母体行が責任を持って考え、手に余るなら、貸し手として協力する余地はある。なのに、住専=農林系統問題とされ、公的資金を農林系統に入れればいいというのは理屈に合わない。母体行に体力がないなら、母体行に公的資金を入れるべきだ。筋から言って、農林系統に元本ロスは発生せず公的資金は必要ない。 Q 民間は、修正母体行方式が許容する限界と言っているが。 斎藤 修正母体も貸し手責任論の一環だ。母体はここまでと考えるのがおかしいと申し上げている。 [#ここで字下げ終わり]   �孤立する邦銀「外貨ショート」の危機感募る� [#ここから1字下げ]  邦銀は、海外業務に必要なドル資金を国際市場で調達している。資金の出し手の外銀は、相手の信用に応じて与信枠と金利を設定するが、巨額の不良資産による体力の低下、相次ぐ破綻《はたん》に不安を募らせ、邦銀を閉め出し始めている。  ある欧州系は、信用枠を一一行にまで絞り込んだ。一部都銀、長信銀、信託銀行の大半まで外されていることになる。別の外銀は、「本店がもっと減らせと言ってくるのを押しとどめている」と言う。すでに、ロンドンでの邦銀への貸出しレートは都銀で通常より一六分の三は高い。  大手銀行までが最悪の事態を想定して準備を始めた。「ドルの貸出しを全面的に止められた場合、何日もつか、いかなる手を打てばいいのか、試算はしている」(上位都銀常務)  例えば、経営危機が大きく報道され、海外に跳ね返り、その銀行に対してすべての外銀が一斉に与信枠を閉じたらどうなるか。資金ショートで倒産である。  その銀行は倒産回避に、円とドルのスワップを外銀に申し込む。だが、時差があって不可能な場合もある。すぐさま、手持ちの米国債を売却する。それでもうまくいかないときは、預け金のある日銀に駆け込み、ドルの借り出しを行なう。日銀はここにきて、邦銀の全海外支店への緊急貸出しの体制を整えた。いざとなれば各国中央銀行からの支援も仰ぐ。  そうして、「どの銀行でも三日もてば、その間に当局は経営支援体制を組むだろうから、混乱は収まる」(上位都銀役員)  ただし、当の銀行の信用は失墜し、再び海外事業には復帰できなくなる。  だが——。ドル資金ショートの報道が流れ、取付けが起こる。そして経営不安がささやかれる他の銀行にも波及する。そうなれば、クラッシュだ。海外にも波及する。信用不安が連鎖し、一斉に米国債が売却されマーケットが総崩れになることこそ、米国は恐れている。また、邦銀と米銀の間には資金、デリバティブ取引も網の目のように張りめぐらされていて、わが身にも危機が跳ね返る。だから、米国は日本に警告を送っている。  危機に段階を設定すれば、今は第一段階である。すでに信用が低下し、与信枠を絞られた銀行は、海外事業やデリバティブ取引を縮小し始めている。同時に、もしもの場合を想定して、翌日ものから三カ月、さらには一年ものへの長めの調達に移行している。むろん、長期の調達ほど金利が高い。ここでも、じりじりと収益、体力格差が拡大する。  外銀は、住専処理を最大の不良債権問題として注視している。大手格付け機関のムーディーズが、農林中金の債券格付けを優良としながら、財務格付けを最低の一つ前のEE++としたのは、住専問題を重く見たからだ。 「海外の最後の判断基準は、大蔵省の明確な金融システム再建の意思の有無」(長信銀常務)  住専処理はいまだ関係者が激しく対立し、解決の方向は一向に見えない。大蔵省の捌《さば》きいかんで、日本の金融システムは一段と深い危機に落ち込みかねない。 [#ここで字下げ終わり] 『週刊D』を読みながら、竹中は何度吐息を洩《も》らしたかわからない。  これほどもつれにもつれ、こじれにこじれている問題をほぐすことができるのだろうか。  先送りしたくなって当然、逃げ出したくなっても仕方がない難問だが、西岡局長は年内処理を目指して、動き出している。     3  都銀下位行のヤマト銀行ニューヨーク支店の不祥事が発覚したのは九月二十六日のことだ。  同支店の行員が帳簿外で米国債投資を十一年間も続けて失敗し、それを糊塗《こと》するため有価証券を無断で売買し、合計十一億ドル(約一千百億円)の巨額損失を被った、と同行が発表したのである。  不正の手口は、取引確認書を隠し、残高証明書を偽造するというもので、犯行に及んだ元行員の告白によって事件が表面化したが、自白しなかったら、犯行はまだ続けられていたことになる。なんと銀行は十一年間も、元行員の不正を放置していたのである。 �ヤマト銀行事件�はさまざまな波紋を投じ、住専問題にも少なからぬ影響を及ぼした。  大蔵省銀行局長の西岡正久と同局銀行課長の木村俊夫(昭和四十七年入省)が、ヤマト銀行頭取の藤山明から、事件の報告を受けたのは八月八日の夜である。  衝撃的な報告をしたあとで、藤山は苦渋に満ちた表情で言った。 「三万枚の資料を解明するのに二カ月は要すると思います。それまでオープンにするのを待ちたいと思うのですが」 「だとしたら銀行局長のわたしに話すべき筋あいではないんじゃないですか。都銀の海外支店が為替の失敗で大きな損失を出したケースは過去にもあるが、自己責任で処理してきました。当事者能力で解決したということです。当該国の当局への報告もきちっと行なって、その上でMOFに報告してます。われわれは裏から米国当局に通報するわけにはいかないので、聞かなかったことにするしかないと思いますが」 「そういうことでお願いします」  藤山と西岡の間に、こんなやりとりがあったという。  住専問題を抱え、経営|破綻《はたん》が予想される地方銀行や信用組合の問題、さらには株式市場や為替市場への悪影響も考えられる——この時点でヤマト銀行事件の表面化は避けたい、と西岡が思ったとしても無理からぬことだ。  それにしても、まずいタイミングで大きな事件を起こしてくれたものだ。ヤマトは海外で一人歩きできる銀行ではない。  西岡の胸のうちはこんなところだったろう。  大蔵省がヤマト銀行事件をFRB(米連邦準備制度理事会)など米当局に通報したのは九月十八日である。  しかも、ヤマト銀行ニューヨーク支店は「大蔵省には八月八日に報告してある」と手の内を明かしてしまった。  FRBの首脳が日本の大手銀行首脳に「MOFは六週間も事件の通報を遅らせた。ヤマト銀行事件の隠蔽《いんぺい》工作にMOFも加担した」と語ったが、西岡はこの事件で窮地に陥った。  米国の司法、金融当局のヤマト銀行事件に対する対応は水際だっていた。  FBI(米連邦捜査局)は、ヤマト銀行ニューヨーク支店の元行員を逮捕し、FRBとニューヨーク州銀行監督局はヤマト銀行に米国債取引業務の停止を命令、さらに支店の閉鎖など米国における業務の全面停止をも命令したのだ。 �全国杉の子会連合会(全国信用金庫連合会)�の総会が岐阜市内の会館で開催されたのは十月十四日だが、同総会に招かれた西岡は、総会終了後、郷土芸能の舞踊を鑑賞していて、なぜか涙がこぼれて仕方がなかった。  西岡にとってヤマト銀行事件は忘れることのできない痛恨事である。ずっと頭にこびりついて離れなかった。  アメリカの対処の仕方は、西岡をして�ハル・ノート�を想起させた。  太平洋戦争直前の昭和十六年(一九四一年)十一月における日米交渉で、時の米国務長官C・ハルは、日本の中国およびインドシナからの全面撤退、中華民国国民政府以外の政権は認めない——とする内容の提案を日本側に突きつけた。  これが�ハル・ノート�だが、いわば日本軍部が呑《の》めない最後通告である。�ハル・ノート�は日本が開戦に追い込まれた契機となった。  アメリカの金融事情なりルールを認識していないヤマト銀行が起こした事件は、極刑に値するのだろうか。  日本企業が海外で起こした事件、事故は、日本政府が守ってやらなければならない。それが原則であり基本だが、行政としての制約や規制に拘束されてヤマト銀行を守ってやれなかった。  そればかりか、この事件は住専問題の処理をも難しくするに相違ない。そんな予感もある。  西岡は踊り手のあざやかな舞を見ていて、涙が止まらなかった。  三日後の十七日午後二時半から大蔵大臣の諮問機関である金融制度調査会の第八回金融システム安定化委員会が、大蔵省第二特別会議室で開催された。  席上、西岡はヤマト銀行事件について、あらまし次のように発言している。 「ヤマト銀行の事は痛恨のきわみであります。少しずつ信頼を得てきたと思っていた矢先に、米国当局への通報の問題もあって、世の中の信頼を傷つけてしまったかもしれません。米国の当局の考え方では、報告を受けた段階で米国の金融当局、捜査当局に通報すべきであったということであり、今回、米国ではそのような考え方をするということが再確認されました。日本では従来から、こういう場合には、まず当事者に対して根拠を確認するのが通例であり、ヤマト銀行から報告を受けた段階では、われわれとしては充分根拠を認めるだけの情報量があるとはいえないと判断しました。日本では銀行の従業員は五十万人に及ぶなかで、すべて初めから行政による検査で解明するのは無理であって、当事者が実態を解明するのを待って行政が対応するという考え方です。今回このような日本の考え方と米国の考え方には違いがあることがはっきりしましたが、今後、米国で仕事をする以上は米国の考え方に従わざるを得ないと思います」 「日本の当局から米国の当局に通報する義務はあるんですか」  出席した委員の質問に対して、西岡は次のように答えた。 「義務はありません。ただし、バーゼルの銀行監督者間会議のレポートでは、監督者は相互に通報する努力を行なう必要があるとされています。努力目標としてはそういうことがありますが、どの段階で通報すべきかにつきましては決まりはないので、難しい問題です。日本の金融機関がアメリカで仕事をすることは不可欠なのですから、そのことを踏まえて対応を考える必要があると思います」  元大蔵省銀行局長の土山委員が、西岡への支援を込めて発言した。 「ヤマト銀行ニューヨーク支店の事件については第一義的には現地当局が監督すべき立場にあったのではありませんか。現法については、これまで大蔵省が検査したことはないし、金融機関も子会社のことについてまで大蔵省に報告する義務はないと考えますが、どうでしょうか」 「子会社についてまず現地当局ということはおっしゃるとおりですが、知り得た情報をどうすべきであったかの問題でした」  土山にこう答えたあと、会議の終了間際に西岡はふたたびヤマト銀行について触れた。 「ここで申し上げておきたいことがあります。旧東都協和・安信の二信組問題で世の中の理解を得るには時間を要し、不良債権問題の処理に時間がかかることになってしまったとの反省に立って、四月以降、不良債権問題の早期処理に取り組んできました……」  西岡は感きわまったように言葉に詰まり、肩をふるわせている。このとき、西岡はふと�杉の子会�の郷土芸能の光景を眼に浮かべてしまったのだ。胸に熱いものがこみあげ、出席者の顔が滲《にじ》んで見え始めた。  会場は水を打ったように静まり返った。  銀行局長がうつむいて絶句してしまったのだ。  西岡は深呼吸して懸命に態勢を立て直した。 「漸《ようや》くそれが軌道に乗ってきたと思えるようになってきましたところに、今回の大変残念な事件が起こってしまったのは、まことに痛恨事であります。ここでもう一度気を引き締めて取り組んでまいりたいと思います」  声がくぐもり、不鮮明だったのは仕方がない。  出席委員の中に、西岡が取り乱したと思った者や、心身症ではないか、と怪しんだ者もいた。最後の発言は、繰り返しでもあったから、必要なかったのではないか、と思った後輩もいる。 �杉の子会�の光景を眼に浮かべなかったら、西岡は四十人近くが出席している大会議で落涙し絶句することはなかった。このときの西岡の心象風景が第三者に理解できるはずはない。  各全国紙が一斉に�ヤマト銀行、住銀と合併へ��住銀、ヤマト銀を救済合併へ�などと一面トップで大々的に報じたのは十一月四日付朝刊である。  両行の頭取が記者会見で�合併�を否定しなかったこともあるが、取り付けなどの信用不安を恐れた大蔵省銀行局の幹部が積極的に�合併�をリークしたからだ。  その後も�合併委員会設置��合併比率��合併期日�など新聞報道はエスカレートしていくが、正確に裏付けを取って書かれた記事はなかった。  両行の�合併�はいつしか立ち消え、大騒ぎした各全国紙は、書き放しで、幻の�合併�に終わった。というより、�合併�など初めからなかったのである。 『週刊D』の金融担当記者、湯原洋昇は十一月四日の時点で、住之江銀行の辰巳会長は大阪の自宅で「今はヤマトさんは米国のことで頭がいっぱいで、合併なんか持ち出せる状況じゃないでしょう」と明確に否定していた。ヤマトの藤山前頭取も同様に否定した、と後日、同誌に書いている。正確にウラを取っていたことになる。  ヤマト銀行事件は、ジャパン・プレミアムの拡大という邦銀にとって屈辱的なダメージをもたらす結果をまねいた。  邦銀は海外市場で外銀からドル資金を調達し、企業への貸し付けや有価証券を購入してサヤを稼ぐが、その調達金利が外銀同士の取引基準金利よりも上昇を始めた。すなわちジャパン・プレミアムである。  ピーク時には都銀の上位行で〇・五パーセント、都銀下位行や信託銀行は〇・八パーセントも、欧米銀行の調達金利を上回った。  ジャパン・プレミアムは邦銀から外銀への利益移転を伴うが、十一月半ばになって鎮静化に向かい、ジャパン・プレミアムは〇・二五パーセントまで縮小した。     4  十二月十一日発売の米誌『N・W』の最新号は、日本の不良債権問題を採り上げ、バブル期に不動産業者や株式投資家の看板を掲げて銀行や信用組合から巨額の借り入れをした暴力団に対する取り立てが行なわれず、回収が進まないことが日本の景気回復を遅らせていると分析した。 �日本の景気低迷「やくざ」が原因�の見出しで、N新聞がこう報じたが、『N・W』日本版は十二月二十日号でこれを詳報した。  竹中は貪《むさぼ》るようにこの記事を読んだ。 [#ここから1字下げ]  一九八〇年代の「バブル時代」に暴力団は、銀行から信用組合にいたるまで巨額の資金を借り入れ、不動産や株への投機を行った。そして、バブルがはじけた。日本の金融機関がかかえる不良債権は総額一〇〇兆円ともいわれるが、その少なからぬ部分が暴力団がらみとみられている。  日本が景気後退に突入して五年になるが、いまだに銀行は暴力団に債務の返済を迫れずにいる。畑中のような目にあわされるのが怖いからだ。  元警察官僚の宮脇|磊介《らいすけ》は、現在の景気の冷え込みを「ヤクザ・リセッション」と名づけている。デフレや規制の悪影響をくどくどと論じるエコノミストを尻目《しりめ》に、宮脇はきわめて簡単な言葉でこの不況を説明する。すなわち、やくざに対する恐怖心である。 「不良債権処理が遅々として進まない本当の理由は、そのかなりの部分が暴力団がらみだからだ」と、宮脇は指摘する。「このままでは暴力団による金融支配が進み、日本経済のマフィア化を招来することになる」  そればかりか、融資を回収できなければ体力の弱い銀行や信用組合は倒産し、不景気がさらに長引くことにもなりかねない。  ここにきてエコノミストや銀行家、さらには大蔵省でさえ問題を認識しはじめ、それを指摘するようになった。 「この問題を放置しておくことは、日本の民主主義の否定につながる」と、フジ総研の高山勝研究主幹は言う。  帝国データバンクの中林貴和は、「どの時点で暴力団がからんだかは定かではないが、五〇%以上になんらかの形で関係していると思う」と語る。また暴力団に近い筋の話では、「不良債権で回収不能の分の八〇〜九〇%には暴力団の影がちらついている」という。  大蔵省は最近、民間金融機関の破綻《はたん》処理のため、アメリカの前例を参考に「日本版RTC(整理信託公社)」を設立すると発表した。政府は、このRTCに元警察官のスタッフを加えるもようだ。  この暴力団問題は「因果応報とみることができる」と、コーネル大学の人類学者で日本を研究しているシオドア・ベスターは言う。 「日本の社会はやくざに力を借りているので、やくざに目をつぶってきたのだ」  日本のやくざは、いわば裏取引の便利屋だ。政治家は裏金工作にやくざを使っている(不正融資にからむ背任容疑で逮捕された山口敏夫元労相も、暴力団が関係する金融業者から融資を受けていたと一部で報じられている)。  バブル時代、企業や不動産業者はやくざを「地上げ屋」に使った。銀行ですら、倒産した融資先の所有品の差し押さえにやくざを送ることがあった。  九二年の暴力団新法のおかげで、やくざの数は八万人ほどに減ったとされる。だがその一方で、やくざが表社会のビジネスに進出しているのも事実だ。 「日本の社会には、個人的なもめごとは法的手段に訴えず、内々に解決するという慣習が根づいている」と、ハワイ大学のパトリシア・スタインホフは指摘する。「その結果が今の状態だ」  日本では相手を訴える代わりに、微妙な圧力をかけて「話をつける」ことが少なくない。日本の銀行は今、そうした慣習の弊害に苦しめられているのである。  このジレンマから抜け出すのは、きわめて困難だ。社会の調和を壊すことを恐れて、誰も現状に異を唱えようとしないからだ。 「言いたくはないが、この問題には外圧が必要だ」と、ある元政府高官は言う。「外国のプレスに書いてもらったほうが、かえって解決につながるかもしれない」  宮脇も日本のマスコミの弱腰ぶりを槍玉《やりだま》にあげている。だがマスコミの姿勢も、驚くには及ばないのかもしれない。新聞記者や雑誌編集者が暴力団関係者に襲われる事件も現実に起きているのだ。  昨年秋に「日本の代表的な経済紙」が特別取材班を組んで連載した不良債権問題の特集記事について、宮脇はこう語る。「驚いたことには、暴力団との関係はまったく書かれていなかった。この問題に関しては、マスメディアが怖がり、機能していない。取材をし、事実を伝えるのがメディアの使命ではないのか」  十二月三日付のA新聞に掲載された、大阪の不動産会社末野興産に関する記事もそうだった。末野興産は多額の債務をかかえているとみられるが、記事の中で同社の副社長は、厳しい取り立ては受けていないと語っている。  だが、末野興産のこの一件に詳しい筋は、こう指摘する——「A新聞は、末野興産がこれまで暴力団とのつながりを取りざたされてきた会社であることはまったく触れていない」  大蔵省は、少なくとも不良債権の一部を公的資金で穴埋めしたい意向だ。だが、それには国民の強い反発がある。しかも、税金を使って暴力団の債務を帳消しすることにもなるのだ。  ある暴力団の消息筋は、RTCに元警察官を加えても手遅れだと言う。「これが大蔵省と暴力団のボクシングの試合だったら、暴力団が勝つだろう」  そして、この人物は笑いながらこう付け加えた。「借金の取り立ては、やくざの得意とするところ。いっそのこと、彼らを雇ったほうがうまくいくのでは」 [#ここで字下げ終わり]     5  十六日の土曜日も十七日の日曜日も、竹中は出勤した。住専問題の大蔵省処理方針が最終局面を迎えていたからだ。  一次ロス六兆四千億円のうち三兆五千億円を母体行が全額放棄する、との大蔵省案に他の母体行が受け入れを表明していく中で、協立銀行は最後まで抵抗した。鈴木会長が貸し手責任論に固執したためだ。  鈴木を説得したのは佐藤である。大蔵省側も協銀内における佐藤の力量を掌握していたので、担当課長が直接、佐藤に協力を求めてきた。 「協銀があくまでノーと言い張ると、スキーム全体が崩壊してしまいます。銀行悪玉論に口実を与え、銀行バッシングが凄《すご》いことになりますよ。協銀は孤立してよろしいんですか。鈴木会長をなんとしても説得してください」  当局からここまで言われたら、乃公《だいこう》出でずんばの気持ちにならなければおかしい。  佐藤は、鈴木と数時間話し込んで、とうとう債権の全額放棄を呑《の》ませた。  佐藤のパワーは大蔵省幹部をうならせた。佐藤の得意や思うべしである。  大蔵省銀行局案は、第一次ロス六兆四千億円を母体行三兆五千億円、一般行一兆七千億円、農林系統一兆二千億円に割り振り、財政資金の投入はカウントしていなかった。  西岡は、自民党農林族や農水省経済局長の筒井秀孝との連日連夜にわたるタフネゴシエーションの結果、大蔵省案で決着がつくと自信を示していたが、十四日になって事態は一変した。  農林中金の首脳が、自民党農林族に農林系統の負担額一兆二千億円は呑めない、五千三百億円が限度と強力にアピールするなど巻き返しに出たのである。  凄《すさ》まじいまでの農林族の大応援団を背景に、筒井は十四日深夜、大蔵省銀行局長室に電話をかけ、西岡との電話会談を延々と続けることになる。西岡も簡単には引かなかったが、筒井の迫力のほうが優っていた。  農林族という巨大な政治権力に屈服せざるを得ない屈辱感を、西岡は思い知らされたと言える。  十六、十七の両日、西岡は母体行の頭取を個別に銀行局長室に呼んで、三兆五千億円の債権全額放棄以上の負担の受け入れを迫った。  協立銀行も斎藤が十七日の午後、西岡から高圧的な態度で負担増を迫られた。 「貸し手責任論を撤回することにわれわれがどれだけエネルギーを投じたか考えてください。鈴木はもちろんのこと、わたしも全額放棄以上の負担増はあり得ないとはっきり申し上げておきます。株主代表訴訟に耐えられるぎりぎりの線が全額放棄なんです」  西岡と斎藤の押し問答は続いたが、協銀に限らず、西岡が母体行から有額回答を引き出すことは不可能だった。  斎藤に呼びつけられていた永井が頭取執務室からプロジェクト推進部に戻ってきたのは十七日の午後六時過ぎだった。  直ちに八木と竹中が部長室に入った。 「頭取はカンカンに怒ってたよ。温厚な人が大蔵省の銀行局長はゆるせないって、顔を真っ赤にして怒ってるんだから、よくよくのことだ」 「やっぱり負担増ですか」  竹中の質問に永井はうなずいた。  前日の土曜日に、銀行局長室に呼びつけられた頭取もいたので、他行の住専問題担当者から、竹中は電話でその内容を聞いていたのだ。  杉本の後任のMOF担の辻洋一からも情報は入っていた。辻は昭和五十一年に入行したので竹中や杉本より二年後輩だが、東大法科出身にしては、杉本と対照的にエリート意識を表に出さない男だった。 「頭取は、�会長にはとても話せない。話したら、寝た子を起こして、全額放棄の白紙撤回を言い出しかねないよ�なんて言ってたが、まったくそのとおりだろう」  八木が永井に訊《き》いた。 「農林系統の一兆二千億円の負担額が五千三百億円に減額したプロセスを大蔵省は解明してるんでしょうか」 「できないだろう。西岡銀行局長は、系統がどの程度負担するか予断をゆるさない、と言葉を濁してたらしい。以前にも話したと思うが、農林族のパワーの前には大蔵も銀行も歯が立たないってことだよ」 「しかし、債権の全額放棄でも相当なことですのにロス負担の上積みを要求してくる大蔵省銀行局は、銀行業界を敵に回すようなものでしょう。あの西岡さんが……。信じられませんよ」  八木が竹中のほうへ首をねじった。 「竹中、あの西岡さんってどういう意味?」 「西岡さんが前任ポスト時代にまとめたレポートを熟読|玩味《がんみ》しましたが、経済史に残るような素晴らしい内容です。『資産価格変動のメカニズムとその経済効果』です。それと、大蔵省詰めの新聞記者に大学の後輩がいるので、最近話したんですけど、新聞記者の評判もまあまあなんじゃないですか。西岡さんは清貧の人っていうか、下町の旧《ふる》いマンション住まいで、奥さんも小学校のクラスメートとか、宴会嫌いとか、例のサイドビジネスで辞職した島中なんかに比べれば、雲泥の差です。つまり清廉にして潔白っていうことですが、農林族の横車にいともあっさり屈して、母体行に無茶苦茶なことを言ってくるのは、どうしても理解できません」 「竹中の気持ちもわかるが、誰が銀行局長やっても、こんなもんだとわたしは思うな。むしろ頑張ったほうだろう。西岡氏はヤマト銀行事件がなかったら事務次官になってたんじゃないかねぇ」 「部長、買い被りもいいところですよ。農林族なり農水省との根回しに失敗したんだと思いますけど」  竹中は、さかんに小首をかしげた。 「いや、さにあらずだ。農協の集票能力をバックにした農林中金の政治力は都銀が束になってもかなわない。おそらく十九日の閣議で財政資金の投入が決まるんじゃないかねぇ。それも農林系統救済のため、とは絶対に言わんでね」  永井の予言は的中し、政府は十二月十九日の閣議で六千八百五十億円の財政資金の投入を決定した。  説明役で閣議に臨んだ西岡はこの何日間か不眠不休で住専問題に当たっていたため、立っているのがやっと、といえるほど衰弱していた。  橋本通産相に「おまえ大丈夫か」と声をかけられた西岡は、「はい、大丈夫です」と蚊の啼《な》くような声で答えた。  そして年明けの�住専国会�で政府も自民党など与党も徹頭徹尾�農林隠し�を押し通すことになる。 『週刊D』が十六、十七の両日の大蔵省銀行局長と母体行トップとのやりとりを、独自の取材に基づいて巧みに再構成しているので、以下に引いておく。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 局長 日本の信用をかけて結論を出さなくてはならない。答案ができないではすまされない。また、どんな答案でも、できなければ点数がつけられない。来週早々に最終決断を迫られる。皆さんの考えを具体的に聞きたい。(農林)系統は、すべての責任は母体行にある、系統がロス負担すること自体がおかしいとの主張から一歩も出ていない。(系統の)回答がどうなるか予断を許さない。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ]  一次ロス六兆四〇〇〇億円のうちの銀行負担は、母体行三兆五〇〇〇億円、一般行一兆七〇〇〇億円。系統の負担は今はまったくわからない。  二次ロス一兆二〇〇〇億円は、受け皿機関への母体行の出資、低利融資で一〇〜一五年で処理していく。系統が低利融資で貢献するというマスコミの論調があるが、現時点ではほとんど期待できないと思う。  非常に重大な判断であることを前提に、月曜(一八日)の午前中までに感触を答えてほしい。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 銀行 驚いている。結局は母体行が受け皿機関へ収益支援で、一兆二〇〇〇億円を負担するということか。 局長 そうだ。母体行は一次ロスでの債権全額放棄に加えて、プラスアルファの負担をしてもらう。 銀行 それは大変にむずかしい。債権を全額放棄した時点で、母体行は残りの債権やロスからいっさい関係なくなる、と申し上げてきた。 局長 全額放棄で母体行は責任を果たしたという金融界の考えは理解できるが、世の中の大多数はそうは考えていない。ましてや、政治の世界では少数派だ。世の中と金融界の考えにはズレがある。 銀行 われわれには株主代表訴訟のリスクがある。原点は貸し手責任論で、どう考えても債権全額放棄が限度だ。受け皿機関への融資は困難だ。 局長 債権全額放棄が限界というだけが、株主代表訴訟との関係で唯一絶対の基準ではないはずだ。 銀行 世間の常識も、融資額内が損失負担の限界となっていると思う。われわれの見解は世の中の理解を得られると思う。 局長 これまでに系列ノンバンクに対して、全責任を負ったことがあると思うが、株主代表訴訟の問題はなかったのか。 銀行 住専は一般のノンバンクで、直系ノンバンクとは違うというのがわれわれ、法律家を含めた考えだ。 局長 すべて同じとは言っていない。だが、同じ要素もある。それを含んで考えられないのかと言っている。 銀行 やはり貸出し額を超える負担はむりだ。わかっていただきたい。 局長 金融界の考えは非常に甘い。マスコミでは、金融界の憂慮すべき事例があまりに多く取り上げられている。国民の多くはそれを目にしている。住専問題は国会審議で相当な時間を費やすことになる。責任追及、実態解明に関心は集中する。そこで何が出てくるか。金融界には相当なダメージになるだろう。 [#ここから3字下げ]  多くの国民には、低金利で銀行は史上最高の利益を上げているのに、不良債権処理に使うだけで、支払う税金も少ない、給料も非常に高い、という不満がある。金融界は非常に不利な状況にある。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 銀行 これも何度も申し上げているが、これでは海外の理解が得られない。われわれは今、海外から非常に厳しい目で見られている。与党ガイドラインにも、処理策は国際的に説明がつくもの、とあるはずだ。 局長 そもそも、一三兆円の資産のうち七兆円以上も傷んでいること自体を、合理的に説明などできない。常識に合わない存在を、国際的な常識で解決することなどできない。今の課題は住専を解決し、日本の金融界を早く世界の常識で測れるようにすることだ。 銀行 解決が急がれなければならないことはわかっている。協力もしたい。だが、株主代表訴訟の問題は非常に重い。行内にも他の母体行にも納得を得られるのはむずかしい。修正母体行以上の負担はできそうにない。 局長 それで決着をつけるのは非常にむずかしい。法的整理に向けて、準備を進めているらしいが、よほど慎重に考えるべきだ。どういう結果になるか、考えたほうがいい。妥協を図る以外に、現実の決着方法はない。 銀行 しかし、これではわれわれが一方的な負担を強いられる。おっしゃることに銀行として機関決定ができるかどうか、非常にむずかしい。債権放棄だけでも悲観的な見方がある。これは役員たちに強制できる問題ではない。世の中でも、そこは理解されているのではないか。 局長 甘いと思う。新聞は金融界の主張に好意的だが、それを強く意識しないほうがいい。私の経験からいって、マスコミは非常にバランス感覚を重要視する。浮気なものだ。今は政治が不合理な動きをしているから、カウンターパンチとして報道している。結果として、金融界の主張に近くなっている。しかし、今後がらっと変わる可能性がある。 銀行 一体、系統の負担額はどういう理屈でいくらになるのか。 局長 それには答えられない。考えないでいただきたい。系統は皆さんの常識とは別の世界だ。最後まで損失負担をまったくしないと主張し続けるとは思わないが、同じ次元で責任を分担するつもりはないという考え方で最後までいくだろう。 銀行 しかし、今のままでは応じることはむずかしい。現状のままなら、法的整理を検討しなければならない事態もありうる。 局長 系統はそうとう厳しい経営状態にある。法的整理に出れば、系統は損失負担でおそらく壊滅状態になる。そうなれば、激しい政治的・社会的混乱が起こるだろう。法的整理を主張する人は、楽観的すぎる。客観的な状況判断ができていない。 銀行 系統の混乱は避けられたとしても、金融界が危なくなってしまう。株主代表訴訟で負ければ、多くの銀行の役員たちが資産を差し出さざるをえなくなり、金融界が混乱、深刻な状況に陥ってしまう。 局長 法的整理は不可能に近い。妥協を図るしかない。貸出し全額放棄が妥協の限界とは思わない。 銀行 何度も申し上げるように、貸出し限度を超える負担はむりだ。 局長 系統の世界は常識では考えられないような世界なのだ。住専の根本的な問題は、貸すべきではない人が貸し、借りるべきではない人が借りてしまった、ということに尽きる。 [#ここで字下げ終わり]     6  A新聞の平成八年(一九九六年)一月三十日付朝刊に、�資金導入、無傷であり得ぬ金融機関�の見出しで、加藤紘一自民党幹事長の寄稿文が掲載された。  銀行界は、この�加藤論文�に少なからぬ衝撃を受けた。  銀行バッシングが始まった、と取ったものがほとんどだったろう。むろん竹中もその一人である。 [#ここから1字下げ]  住専問題は、例えて言うと日本の安定した金融システムという巨大なダムにあいた穴。その穴が広がり、急いでふさがなければダム自体が決壊し、下流の一般預金者に被害が及ぶ状態になっていた。取り返しがつかない事態にならぬよう、ダムに穴をあけた責任追及よりも先に大至急穴をふさがねばならなかった。その結果、株価は二万円台を回復し、ルービン米財務長官や主要七カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)からも評価され、政府・与党の決断は正しかったと証明されている。  責任問題はこれからである。だれが悪いのか、実力不足の設計ミスなのか、手抜き工事のためか、責任の所在が明確になれば、責任を取らせるべきであるが、判断に必要なのは情報開示である。借りた金を返さない不動産業者らが悪いのははっきりしている。中には今でも豪邸に住み、高級車に乗っている者すらいる。住専七社の貸出先実名リスト公開については与党も野党もないが、与党三党は政府側に実名リストの公開を厳しく要求している。悪質なケースは、母体行のあっせんの有無も含めて実態を解明していく。住専処理機構が住専の資産を引き継ぎ、不良債権の処理と強力な回収の方針を決めたのは正しい判断である。住専や母体行の債権回収能力は失われているからである。銀行支店長射殺事件のような事件が起きた中で、住専処理機構が、検察、警察、国税のメンバーを加え、実態の解明と債権の回収を強力に進めることは、責任の所在を明確にし、不良債権に係る損失見込み額を減少させて実際に使われる公的資金を少なくさせる有効な手段である。  公的資金六千八百五十億円導入の背景であるが、系統金融機関の資金負担能力に限界があったことが大きい。公的資金を使う以上、系統金融機関が無傷のままではあり得ない。その際、単協と預金者(農家ほか)には損害を与えないよう最善を尽くさなければならない。経営が破たんする信用農協連合会(信連)は機能を停止する運命にあるだろう。最終的には農中と単協の二段階制に再編されるべきであろう。  一方、母体行には「大きな負担を強いられている」という被害者意識が目につく。本当にそうだろうか。住専の設立経緯とその後の運用をみると、母体行は一次的な責任は強く負うべきであり、いくつかの問題処理に関する覚書をみると、母体行には後ろめたさがあったのではないかと思われる。  母体行と一般行は、我々が景気対策のために推進した低金利政策の上に乗って業務純益を伸ばし、それを貸し倒れ引当金のほかに債権償却特別勘定を活用し、無税償却処理している。一九九〇年に六%だった公定歩合が九一年七月以降徐々に引き下げられ、昨年九月には史上最低の〇・五%になった。銀行にとっては預金利息の支払いがそれだけ少なくてすむ。銀行預金の残高が約五百兆円なので、銀行全体で約二十五兆円の補助金を預金者から受けているに等しい。さらに、都市銀行・長期信用銀行・信託銀行二十一行の九四年度の業務純益は二兆七千六百七十九億円であるが、法人税・住民税はきわめてわずかで、二兆円を超す無税償却が行われたことは確実である。約一兆円の広義の援助との見方もある。また昨年度は九月期の業務純益が約二兆五千億円あることから、通年では五兆円を超し、無税償却の対象となる金額は少なく見ても三兆円近いと思われる。債権償却特別勘定の措置は、実質的な公的資金の導入であり、国税庁と大蔵省銀行局に実態を明らかにさせたい。全国銀行協会連合会会長は「公的資金導入を頼んだ覚えはない」と言うが、不誠実のきわみである。その一方で、信託銀行では休職者が八十万円もの月給をもらっていたし、銀行支店長の年収は今でも二千万円以上、役員は三千万円を軽く超えるともいわれている。「銀行に勤めている隣人の年収が気になる」という声は当然である。銀行の給与体系の公表を強く要求する。  護送船団・銀行業界の実態を明らかにしなければ、国民は六千八百五十億円の公的資金が使われることに納得できないだろう。ここまで事態を放置してきた大蔵省の責任も大きい。また、金融行政を聖域とし、大蔵省だけに任せてきた我々政治家の責任も大きい。真摯《しんし》に反省する。  今国会でどこまで本質に踏み込めるか、我々の能力が問われている。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](かとう・こういち 自民党幹事長)  二月中旬に衆院予算委員会で、住専母体行頭取、元大蔵官僚、住専社長、不動産会社社長、農林中金理事長らが参考人招致されることが日程にのぼっていたが、メンバーの中に協銀の斎藤頭取も加わっていただけに、竹中たちは緊張した。  株主総会対策さながらの部厚い想定問答集をつくり、リハーサルも周到に行なわれた。  斎藤が参考人招致された当日、永井、八木、竹中の三人はプロジェクト推進部長室でテレビの国会中継にかじりついた。斎藤は与野党議員の厳しい質問に堂々と落ち着いて答弁し、立ち往生するような失態は演じなかった。  斎藤は貸し手責任論にも言及したし、債権の全額放棄以上の負担は、株主代表訴訟に耐えられないことを力説してやまなかった。 「心配したが、及第点をあげられるな。いや見事だった」  永井がホッとした面持ちで述懐したが、質問者の勉強不足、迫力不足に救われた面があったかもしれない。 「農林中金理事長に対する与野党議員の質問は、おざなりというか、遠慮気味っていうか、農林中金の強大なパワーを見せつけられましたねぇ」 「六千八百五十億円の税金投入は、傷んでいる農協を擁護するため、と大蔵大臣なり農林大臣が言明してさえくれれば、説得力もあるし、国民も納得したと思うんですけど」  八木と竹中が口惜しそうに言ったが、総じてマスコミの論調も銀行に矛先を向け、農協批判は少なかった。 「農協の専門紙に成り下がった」としか思えない一般紙も見受けられたほどだが、�加藤論文�が銀行バッシングの前兆だったことをマスコミ自ら示してくれたと言えよう。  一月十一日付で発足した橋本連立政権に大蔵大臣として入閣した社会党の久保亘が、二月二十日、閣議後の定例記者会見で「母体金融機関は銀行経営者として責任を取るべきだ」と発言して、物議をかもした。  さらに同月二十八日には大川大蔵省事務次官が久保蔵相の意を体して銀行トップたちを大蔵省に呼びつけて、辞任を勧告するに及んで、各行の頭取は強く反発し、大蔵省と銀行の緊張関係はいっそう高まることになる。  蔵相、次官の発言に反発した財界最長老の山中素平産銀特別顧問が三月二日付のA新聞朝刊紙上で噛《か》みついた。 [#ここから1字下げ]  政治家や役人が、民間銀行に「責任を感じているのなら頭取が辞めろ」と言わんばかりの指示をする、いったい日本はいつからこんなにおかしくなったのか——。金融界の長老の山中素平氏が嘆いている。「バブル」に踊り、ずさんな融資をしてきた銀行は責められて当然だが、経営者の出処進退は自らが決めるものなどと一日、住専処理をめぐって強まる一方の母体行批判に反発した。  山中氏は「年寄りの遺言だ」と前置きしたうえで、「住専に限らず、銀行が無節操な融資をしたことは実に恥ずかしい。皆さん以上にその責任を問いたい。いま頭取の座についている諸君は、バブル融資に直接かかわる立場でなかったひとが多いが、先輩たちの所業とはいえ、責任をとるのが経営者の務めだ」と、銀行経営者の責任を認めた。  しかし、大蔵省などから頭ごなしに「引責辞任」を求められるのは、がまんならない、といった様子。「トップ人事は銀行ごとに、後継者の育ち具合や経営状況を見ながら、タイミングを計っている。そんなことは大蔵省も分かっているはずだ。それなのに『いますぐ辞めろ』といわんばかりなのは、銀行に住専の損失をもっと負担させたい、ということなのだろう。銀行経営者の責任を追及して、国民の批判をかわそうということかもしれないが、責任は押し付け合うのではなく、それぞれが果たすべきものだ」と御意見番ぶりを発揮。 「バブルは、土地政策でなく金融や税で地価を抑えようとした行政に誤りがあった。政治家は、住専問題がどうしてここまで大きくなったかをしっかり調査し、対策と教訓を考えることが仕事だ。国民が処理負担のやりかたに疑問をもっている以上、それにきちんと答えなければならない」と力を込めた。 [#ここで字下げ終わり]  三月に入ると、野党の新進党が住専への税金投入削除を求めて、衆院予算委員会室前に座り込み、ピケ戦術に出たため、国会は平成八年度予算案および�特定住宅金融専門会社の債権債務の処理の促進等に関する特別措置法案�の審議がストップし、紛糾した。  大蔵省は、住専処理法案と併行して、金融機関の破綻《はたん》に適切に対処することを目的とした、いわゆる金融三法の今国会成立を期して準備を進めていただけに、空転国会に苛立《いらだ》ちを募らせた。     7  三月十二日の夜七時を過ぎたころ、MOF担の辻がぶらっとプロジェクト推進部のフロアにあらわれた。辻は竹中を認めると右手をあげてから、ずんずん近づいてきた。 「ちょっといいですか」 「どうぞ。部長室があいてるから……」  竹中は辻を部長室へ連れて行った。  永井は会食で、六時に退行した。 「こんなものが手に入ったのでコピーしてきました」  辻が、ワープロで打ち出された数枚のプリントをセンターテーブルに置いた。 「あした地銀協の会合で西岡銀行局長がスピーチすることになってますが、その内容です。このとおり話すかどうかわかりませんけど、けっこうおもしろいですよ。関心がおありなら、あとで読んでください」 「ありがとう。関心は大ありだ。それにしても辻も隅に置けないなあ。まだ新米と思ってたが、いっぱしのMOF担なんだ。杉本の上前をはねるとは凄《すご》いよ」 「杉本さんと一緒にしないでくださいよ。あの人よりはましなんじゃないですか。少なくともMOFの評判はわたしのほうが上だと思いますけど」 「MOF担っていう人種はどうしてみんなこうも自信家なんだろう」 「冗談ですよ。杉本さんは自信家っていうより、独善が過ぎるというか自己中心主義なんです。MOFで杉本さんを悪く言う人がけっこう多いのにはびっくりしました。当然ご本人はご存じないようですけど。お陰でわたしは株が上がって気が楽ですよ」 「MOF担とMOFとは緊張関係にないの」 「ぜんぜん。上のほうはナーバスになってるようですけど、われわれはどうってことはありませんよ」 「毎日MOF通いしてるわけか」 「ええ。ただし夜のつきあいは彼らのほうが自粛してるので、われわれも暇です。だからこうして竹中さんにも会えるんですよ」 「それはどうも」  竹中は苦笑しいしいつづけた。 「�ノーパンシャブシャブ�へも行けないわけだな」 「�ノーパンシャブシャブ�なんて、どうして知ってるんですか」 「杉本のお伴で一度だけ行ったことがあるんだ」 「わたしは一度もありません。一度ぐらいとは思ってたんですが、�ノーパンシャブシャブ�はMOFにとって鬼門みたいですよ。若手のホープがのめり込んで、海外留学させられたそうじゃないですか。それと、島中問題で大蔵官僚の地盤沈下もひどいことになってますからねぇ」 「篠原事務次官の辞任も、島中問題の責任を取らされたってことなのかなあ」 「動機づけの大きな要因になったと思います」  篠原恭一大蔵省事務次官が突然辞任を表明したのは平成七年十二月二十九日のことだ。正式辞任は平成八年一月五日付だが、在任七カ月は戦後最短記録である。 「大蔵省詰めの新聞記者によると、篠原さんにとって島中氏は最も信頼していた部下だったらしいんです。島中氏に裏切られたことがいちばんこたえたんじゃないでしょうか」  島中佳雄は昭和四十一年入省組のエース格で、次官候補の一人だった。過剰接待漬けと副業の数々が発覚し、平成七年七月二十八日付で財政金融研究所長を最後に辞職に追い込まれた。 「モラルの低下に歯止めをかけたい、という狙《ねら》いが篠原氏の胸のうちにあったことはたしかだろうねぇ。�ドン助�とは対照的な潔さだよ」 「西岡銀行局長が、ある新聞記者に宴席はいやいや出るくらいでちょうどいい、官僚が宴会好きになってはいけないって話したそうですけど、島中氏は連夜掛け持ちでこなしてたっていわれてますからねぇ」 「大蔵省の権力が強大すぎることに問題はないんだろうか」 「あると思います。これも新聞記者からの又聞きですが、対立軸がないことに問題があるっていうのが西岡局長の考え方みたいですよ。戦前は内務省が強大なパワーを持ってたし、戦後も経済安定本部の流れを汲《く》む経済企画庁が非大蔵省の中心的存在でパワーもあった。通産省が人材も出して、経企庁をバックアップして、大蔵省の対立軸として機能し大蔵省の独走を阻止していた時代がありましたよね。ところが経企庁にナショナリズムが台頭し、通産省から人材を受け入れなくなったために、次第に政策調整力も衰えていったわけです」 「西岡局長は、ヤマト銀行事件の対応の悪さなどの不手際もあったけど、なんだかんだ言っても逸材なんだねぇ。永井部長は、あの事件がなかったら間違いなく次官になっていたとか言ってたけど」 「わたしもそんな気がしないでもありません……」  辻がセンターテーブルのプリントを指差した。 「そこにも住専問題に相当紙幅を割いてますけど、十年引きずってきた負の遺産を清算するってことは大変なことです。西岡さんじゃなければできなかったかもしれませんよ」 「きみも西岡ファンなんだねぇ。俺《おれ》は、農林族、農水省の圧力にもう少し頑張ってくれるかと期待してたんだけど」 「ぎりぎりまで、最後の最後まで抵抗したんです。五千三百億円の負担でさえ不満な農林関係者がいるっていいますからねぇ。誰もやりたくない幕引き役を進んでやっただけでも立派ですよ」 「しかし、協銀の頭取も含めて上のほうは、西岡さんに対して反感のほうが強いと思うが」 「去年暮れの高飛車な態度に、銀行局長としていかがなものかっていう感じはあるでしょうけれど、十二月十九日の閣議を控えて、税金を投入するかどうか瀬戸際まで追い詰められてたので、立場上、母体行に強く当たらざるを得なかったんだと思います。ものは言いよう、という面はあったかもしれませんが、聞くところによると不眠不休で躰《からだ》がフラフラしてたそうだから、ま、ゆるせますよ」 「西岡局長に優しすぎる気がするなあ。喧嘩腰《けんかごし》で、心身症などと陰口を叩《たた》かれたくらい高圧的だったっていうからねぇ。ところで久保亘《たん》と次官の辞任要求は世間向けのパフォーマンスなのかゼスチャーなのか知らないが、西岡局長はどう見てるのかねぇ」 「証券不祥事のときは、現在進行形の中での辞任要求だから、誰もノーとは言えなかったが、住専はいわば過去の話で、攻めるほうも攻められるほうも、先輩が残した負の遺産の後始末ですからねぇ。西岡局長は、蔵相も次官もやりすぎと思ってたんじゃないでしょうか」 「それは違うだろう。十二月十六、十七日の延長線上にあると思うけど。焚《た》きつけたほうなんじゃないのか」 「それはないですよ」  断定的な辻の言い方に、竹中は首をひねった。 「新聞の農協隠しはひどいよねぇ。住専は七社じゃなく、八社あるのに農林中金系の住専を紙面で採り上げないのはおかしいよ。俺の推測では総延滞貸付金も四千億はあると思うが、大蔵省が立ち入り調査結果を農林中金が母体行の住専に限って公表しないのも、まったく不自然だよ。その点を新聞はなぜ検証しないのかねぇ」 「不良債権が少ないからでしょ」  辻は拍子抜けするほど淡泊だった。     8  竹中は辻が引き取ったあとで、自席に戻ってプリントを読んだ。 [#ここから1字下げ]  本日ご報告申しあげるべき事柄はいくつかあるが、とりわけ皆様方にご心配をおかけしている住専問題に絞って、ご説明申しあげる。  今、玉木会長よりご紹介があったが、最近の銀行局の業務は誠に多忙、多端を極めている。今、専ら住専問題に世の中の関心が集まっているが、私どもは、住専問題の重要性を否定するものではないが、二十一世紀を睨《にら》んだ日本の金融という視点から見るならば、より大きな課題は、提案を予定している三法案にあるのではないかと考えている。  すなわち、「金融機関等の経営健全性確保のための関係法律の整備に関する法律案」、これは銀行法等の改正を一括して行うものである。  第二に、「金融機関の更生手続きの特例等に関する法律案」、これは破綻《はたん》金融機関の処理手続きを円滑にするための会社更生法や破産法の特例を定めるものである。  さらに、「預金保険法の一部を改正する法律案」、これは、特別保険料の徴収であるとか、あるいはペイオフコストを超える時限的な、当面五年間の時限的措置を決めるための預金保険法の改正である。 (最近の住専問題を巡る国会の状況)  さて、その住専問題を巡る最近の国会の状況であるが、住専問題の処理については昨年十二月十九日の閣議決定に基づき、平成八年度予算案及び「特定住宅金融専門会社の債権債務の処理の促進等に関する特別措置法案」が既に国会に提出されている。  ここまで、予算委員会等の場において議論が重ねられてきており、大蔵省としても、累次にわたり衆議院に対し例年にないような膨大な資料を提出するなど、最大限の審議への協力を行って参ったつもりである。  しかし残念ながら、現段階では、国会においては、既に報道等でご承知のとおり、審議が執り行われない状況が続いているわけである。このような問題については、国会の中での議論であり、大蔵省として国会の運営について申しあげる立場にはないが、法案を提出した、あるいは予算を提出した当事者として、住専問題の処理策の一刻も早い実施を期待しつつ、事態の進展を注視しているところである。一日も早く、この状況が前へ進むように心より願っているところである。  それにつけても、このような状況をご覧になって、皆様方、年度末を控え、大変にご心配をいただき、事務の処理上、基本方針を定める上で、大変にご負担をお掛けしているということは、私ども重々承知をしている。何とか私どもとしても、この状況について、皆様方へのご迷惑のかけ方が少しでも軽くならないかという工夫をしようとしているところである。政治状況というものとの関連で、どうしても制約があるということはご理解をいただきたい。 (住専問題に関する追加措置について)  さて、そういう中で、去る三月四日に、与党三党においては、「住専問題に関する新たな措置について」と題する追加策を合意、決定されたところである。  この与党合意は、住専問題の処理について国民の理解をいただくため、与党関係者の間で熱心な議論を重ね、とりまとめられたものと承知をしている。  この中において、住専問題の処理に関し、国民の間で様々な議論が行われていることを踏まえ、金融機関に対し、今後七年程度の間に、全体として一兆五千億円規模の経営合理化・効率化を行うよう要請がなされているところである。  民間金融機関の経営合理化・効率化のための努力というものはあくまでも当然のことながら、それぞれの経営のご判断に基づいて、決定され執り行われるべきものであるが、各金融機関におかれては、現在の諸情勢、今般の与党のご要請も踏まえて、言うまでもない、言われるまでもないことではあるが、全力を挙げて経営の合理化・効率化に取り組まれるよう期待を申しあげているところである。 (住専向け債権の放棄に係る税務上の取扱いについて)  さて、こういう中で具体的な皆様方の課題ということになると、住専処理に係るいわゆる債権放棄の問題、とりわけ債権放棄について無税償却が認められるのかどうかという問題についてご関心があるかと思う。一般に、金融機関に限らず法人が債権放棄等を行った場合に生ずる損失は、企業会計上損金として処理されており、債権放棄することに相当な理由があれば、法人税法上も寄付金に該当しないということで損金の額に算入されるというのが従来からの取扱いである。現在策定されている住専処理スキームは、十二月十九日の閣議決定に基づき策定されたものである。その策定経緯を考慮すれば、このスキームに基づいて今後当事者間の合意の下に関係金融機関が債権放棄を行うのであれば、税務上損金の額に算入される性格のものと考えられる。  おそらく皆様方のご心配は、「さはさりながら、当初我々が想定していたようなスケジュールにしたがって法律の審議や予算の審議が進んでいないようにも思うが、そういう法律や予算が成立していない状況でも無税償却が認められるのであろうか、そこの取扱いがどうなるのであろうか」という気持ちをお持ちの方もおられると思う。この点については、閣議決定により示された処理スキームの下で、各住専の処理について関係者の合意に基づいて債権放棄が行われることを前提とするならば、それによる損失が損金の額に算入される性格のものであることに変わりはないのではないかと考えているところである。  そういう中でも、「さはさりながら、そういうことはないとは思うけれども、債権放棄した後で万が一スキームが成り立たなくなった場合は、それでは無税償却というのはどうなるのだ」というようなお尋ねを受けることがある。私どもとしては、住専の処理の仕方について、今ご提案申しあげているような方策以外に思いつかない。百点満点というような点数はなかなか付けていただけないかもしれないが、今の諸般の情勢を踏まえるとこれ以外選択の道はないのではないかという考え方に立っているので、「成り立たなかったら」という仮定のご質問にはなかなかお答えし難い。閣議決定により示された住専の処理スキームの下で、関係者の合意に基づいて債権放棄が行われるのであれば、その債権放棄による損失は税法上も損金の額に算入される性格のものであり、債権放棄後の事情変更によってそのような税法上の取扱いの性格が遡《さかのぼ》って変わることはないのではなかろうかと私どもは考えている。  いずれにしても、この住専の処理については、具体的には昨年の六月以降約半年にわたり色々な問題点、ご議論があったことは承知しつつ、また何らかの答えを出したとしても、お立場によってこの問題の評価が相当な幅を持ったものになろうことは予想していたが、実際にこの提案をした後の国民の間でのこの問題に対するご意見には誠に厳しいものがある。予想したことではあるが、非常に難しいものであるな、ということを痛感している。 (住専問題を巡る議論の背景)  多少話が横道に逸《そ》れるが、この数日間国会の審議から解放され、一日中国会で座っているという状況になかったため、この住専問題を振り返ってみて、ふと三十五年前のことを思い浮かべた。三十五年前、私は大学一年生で六〇年安保の時代であった。脱線するが、私が防衛担当の主計官をしていた頃、加藤紘一氏が防衛庁長官でおり、「三十年近く前、防衛担当主計官も防衛庁長官も防衛庁の前でデモをしたことがありましたね」というような話をしたことがある。  冗談はさておき、三十五年前の六〇年安保の頃、当時は学生であったため、安保条約の改定についてそれほど深い認識を持っていたわけではなく、新聞報道を通じてその問題を理解していた程度だが、後から考えてみると、安保条約の改定というのは、占領下にあって日米が不平等な状況で結んだ不平等条約を百点満点ではないが一歩でも二歩でも平等な条約に改定しなければいけないという考え方の下で、岸総理大臣、藤山外務大臣が大変な尽力をされたということであろうかと、そう理解される。  しかしながら、当時、六〇年安保闘争に必ずしも左翼の人だけでなく、学生は少し違った立場にあったかもしれないが、恐らく当時アンケート調査をしておれば、九〇%に近い人達が「安保反対」という気持ちを心のどこかに持っていたのではないか。学生の中で投票させれば、恐らく九割以上の人達が、理由は別にして安保反対という考え方を持っていたように思う。それは、今申しあげた安保条約の平等化という非常に合理的な考え方とは別に、当時、アメリカの占領下にあったり、アメリカの非常に強い影響下にあった日本が何か自立ができそうだという自信を一方で持ち始めた頃の出来事であったように思う。他方において、政治や当時の必ずしも順調でない経済情勢に対する不満もあって、それが安保条約の改定という格好の攻撃の素材、不満の捌《は》け口を見出し、いろいろな思いを込めて、「安保反対、岸を倒せ」という動き、必ずしも安保条約の本質とか岸総理の考え方と直接結びつかない国民運動になってしまった。それが当時は当時として共感を呼んでいたような気がする。  さて、今回の住専問題は、安保条約の改定のような政治問題とは異なり、合理的に冷静に説明すれば必ずご理解をいただける、日本経済あるいは一人一人の預金者の立場からして、これ以上にベターな解決方法があるか、あればそれを取り入れることはやぶさかではないという気持ちは強く持っているが、私は、この政策自体の合理的で冷静な説明とは別に、何か六〇年安保の時と同じような、今の状況に対する国民の人達の色々な思いが、「住専に対する税金投入反対」というスローガンに込められているのかな、ということを痛感する。  当時の「安保反対、岸を倒せ」に相当するスローガンは、「母体行責任、大蔵省解体」ということではないかという気がする。私は、皆様の方がもっと強く感じていることと思うが、冷静な判断、冷静な議論の中で得られる結論以上に、母体行の責任が新聞、雑誌、テレビ等で採り上げられることに大変な不満があると思うし、我々も言いたいことは沢山ある。しかし、どうもこの問題は、十三兆円の債権債務関係、六千二百七十億円の損失見込みの問題に限らず、過去十年にわたるバブルの発生および崩壊の過程における金融機関の行動、あるいは戦後の金融行政のあり方に対する国民の色々な思いが、この住専問題というたまたま今提起された問題に込められているのではないかと痛感している。  私、立場上大臣の答弁を直接聴く機会が多いが、予算委員会における大臣の答弁を聴いていて、皆様方には非常に耳障りな言葉かもしれないが、「三兆五千億円の債権の全額放棄でこの問題が済むわけではないことを是非ご理解をいただきたい」と言っている背景にある気持ちは、住専問題というのは住専問題に止まらない、住専問題という形は採っているが、住専問題を議論する人達の思いの背景には金融行政、金融機関の行動あるいは政治の問題に対する思いが込められているということを我々として認識しなければいけないであろうな、という趣旨で答弁をしているのではないかと、勝手に解釈している次第である。  いずれにしても、この問題の先行きが必ずしも明確に見えてこない中で、さはさりながら年度末が間近に迫ってきており、皆様方の最高の経営判断というものが難しく、我々に対しても色々な問題提起が投げかけられていることを痛感しているところであり、力及ばず皆様方に大変にご迷惑をかけているが、今後とも一層の努力をして参りたいと存じているので、是非皆様方のご理解をよろしくお願い申しあげる次第である。 [#ここで字下げ終わり]     9  四月に入って、与党三党と野党の新進党は水面下で折衝を重ねた結果、十日の国会対策委員長会談で、突如、六千八百五十億円の住専予算は「執行のための制度を整備した上で処置する」との趣旨を予算書の総則に盛り込むことなどで合意した。この結果、平成八年度予算案は十一日に衆院予算委員会で採決され、同日中に本会議を通過、税金投入の枠組みを変えずに予算案が成立する運びとなった。  このことは、十一日付の朝刊一面トップで全国紙がこぞって報じた。  国会が正常化し、住専処理法と金融三法の審議も進み、六月までに成立、七月には住専処理法に基づいて住専七社の資産を引き継いだ住宅金融債権管理機構株式会社(資本金二千億円)が設立された。  同機構が引き継ぐ六兆七千八百億円の債権には一兆二千億円の二次損失見込みが含まれ、半分は国が負担し、半分は民間金融機関が預金保険機構に新設する住専勘定内の金融安定化|醵出《きよしゆつ》基金の運用益で捻出《ねんしゆつ》することになった。  西岡銀行局長は、七月二十六日付で辞職した。  久保蔵相は、西岡から辞意を洩《も》らされたとき、「それでいいんですか」と慰留したが、西岡は「けじめ、区切りをつけたいと思います」と、応じなかった。出処進退はあざやかだった。 [#改ページ]  第十三章 ワルとの再婚     1 「川口がまた融資を頼んできたよ。昨夜、雅枝と二人でウチへやってきた。十億円ほどなんとかならないか、って言うんだ」  鈴木が佐藤を会長執務室に呼んで、こともなげに切り出したのは、平成八年七月十五日月曜日の午前九時過ぎのことだ。 「結婚式場の経営がうまくいっていないんでしょうか」 「そんなことはないと思うが、川口もバブルの清算が済んでおらんようだ。もちろんわたしはいい顔しなかったが、娘に泣きつかれると、むげに突き放せなくてなあ。川口は結婚式場を売却すれば借金は清算できると言ってたが、雅枝は強く反対してた」 「川口さんには協銀リースから十五億円融資してますが、結婚式場を売却すれば、十五億円の返済も可能ということなんでしょうか」 「そこまでは聞いてない。ただ川口も雅枝も協議離婚できる見通しが出てきたらしいんだ。多少の慰藉料《いしやりよう》は払わなしょうがないんだろうが、いつまでも別居生活でもないから、二人が一緒になれるに越したことはない」  佐藤の顔が暗く歪《ゆが》んだ。  三原、川口両夫婦の離婚が成立し、雅枝と川口の再婚に道が開かれることは果たしてよろこんでいいのかどうか。むしろ事態は悪化していると解釈するのが当たっているように思える。  佐藤は考えがまとまらないままに質問した。 「お子さまたちはどうなるんですか」 「それが孫たちは雅枝が引き取ることになりそうな雲行きなんだ。母親に反発してたが、父親が再婚すると聞いて、それなら母親のほうがましだと気持ちを変えたようだ。雅枝も子供たちに何度か会って説得したらしい。川口にも会わせたようだが、川口は子供たちに優しくしてくれるから、すぐになつくだろうって雅枝は話してた」  鈴木は上機嫌だった。 「川口氏のお子さんはどうなんですか」 「もう大学生だからな。下宿してるらしいし、川口のほうはまったく問題ないはずだ」  佐藤は、川口がきわめて危険な人物であることを鈴木に伝えるべきかどうか悩んだ。  目を瞑《つぶ》って融資話を呑《の》んで呑めないことはないが、いつまでもずるずるべったりに川口を甘やかしてよかろうはずがない。佐藤は話すべきときがきたと判断した。 「実は、川口氏について会長のお耳に入れていないことがございます。わたくしの判断でそうしたまでですが……」  佐藤は、横浜支店が川口と取引関係にあったこと、融資要請に応じなかった支店長と副支店長が川口サイドから厭《いや》がらせを受けたこと、立花満子に対する虎ノ門支店の不正融資を嗅《か》ぎつけて夏川美智雄を使ってゆさぶりをかけてきたため、児玉由紀夫に抑え込んでもらったこと——などをたんたんと話した。  鈴木は仏頂面で佐藤の長い話を聞いていたが、三億円を児玉の口座に振り込み、うち一億円は川口に渡っている、と聞いたときは咳《せき》払いのような大きな嘆息を洩《も》らした。 「川口が一億円を受け取った証拠はあるのか」 「はい。詫《わ》び状のような念書も児玉氏経由でわたくしの手元に参っております。それと、いまプロジェクト推進部にいる竹中から、かくかくしかじかの理由により川口氏に融資すべきではない、という報告書も手元にあります。自宅に保存してありますので、なんでしたら、あしたご覧に入れますが」 「そんなもの、いまごろ見たところでなにになるんだ。きみはわたしに無断で処理したわけだな」 「おおせのとおりです。ご叱責《しつせき》は甘んじてお受けします。会長に累が及ばないことだけを考えました」 「恩着せがましく言うが、相談してもらったほうがよかったな。このタイミングでわたしに打ち明けた根拠はなんだ」 「お嬢さまと川口氏の再婚はリスキーではないかと考えました」 「再婚したらリスキーで、同棲《どうせい》ならリスクはないなんていう理屈があるのかね」  鈴木は露骨に厭な顔をして、話をつづけた。 「だいたい、川口が立花満子の一件をどこで聞いたか知らんが、その段階でわたしが話を聞いてれば、雅枝と川口との仲を切るチャンスだったかもしれないのに、惜しいことをしたなあ。佐藤にしては考えられないイージーミスだぞ」  むすっとした顔で、うつむいていた佐藤がぐいと顎《あご》を突き出した。 「お言葉ですが、判断ミスだったとは思いません。夏川は週刊誌か写真誌でオープンにする、とまで言ってきました」 「写真誌ってどういうことだ」 「立花さんと会長のツーショットの写真を持ってるそうです。なにもなければ、写真誌に写真が出るくらいは我慢できますが、マスコミにはほじくられたくない事情もございます。児玉氏に抑えていただけたことは幸運だったと思いますが」  鈴木がつぶやくように言った。 「児玉には関州連合でも口をきいてもらった。借りをつくったなあ」 「いいえ。一億円の対価に見合うんじゃないでしょうか」 「つまり、きみの判断は間違ってないって言いたいわけか」 「恐れ入ります」 「しかし、川口はそんなにワルなのか。わたしは半信半疑なんだが」 「…………」 「それに川口がワルだとしても、雅枝との仲を引き裂くことができるかどうか。娘は、いまの話を絶対に信じんぞ。わたしやきみが恨まれるだけだ。ところで十億円の融資、きみどう思う」 「会長のお考え次第です」 「住専で何千億円も溝《どぶ》に捨てたことを考えれば安いものかもなあ」  鈴木は取り入る口調で言って、すくい上げるように佐藤をとらえた。 「問題はどこで歯止めをかけるかです。また、十億円は言い値みたいなものでしょうから、値切ることがあってもいいと存じますが、その点、会長のお考えはいかがでしょうか」 「そうかもしれん。きみの言うとおり川口はふっかけてるんだろう。もう少し川口と腹のさぐり合いをやってみるかねぇ」  鈴木は腕組みして、天井を仰いだ。 「それと歯止めねぇ。仮にもわたしの義理の息子になるんなら、川口もそうそう無茶苦茶を言わんだろう。わたしの体面も考えてもらわんと……」 「お嬢さまの再婚、お認めになるおつもりですか」 「雅枝も川口も、後へは引けないのと違うか。わたしが反対しても、どうなるものでもない。雅枝は孫をだしにして、家内を味方につけてしまった。家内はすっかりその気になってるよ」  佐藤は不吉な予感がしてならなかった。 「お嬢さまと川口氏が正式に結婚するということになりますと、マスコミに嗅ぎつけられる可能性は高いと思います。お嬢さまが�ギャラリー・みやび�の経営者であることはかなり知られてます。いわば著名人ですから」 「そう言えば昔、週刊誌に書かれたことがあったねぇ。でも好意的な記事だったと記憶してるが」 「はい。しかし、離婚、再婚となりますと」 「二人とも再婚同士で齢《とし》も齢だから、披露宴なんて考えておらん。だいたい、四十過ぎの娘に、マスコミが興味を持つわけがない。佐藤も心配性だねぇ」  鈴木は声をたてて笑った。  しかし、佐藤の不吉な予感は募る一方だった。  翌日、常務会の前に佐藤は鈴木に呼ばれた。 「川口の融資の件だがねぇ、ひと晩考えてみたが、わたしは知らなかったことにしたほうが都合がいいんじゃないかね。きのうは、佐藤にいろいろ言ったが、きみの判断は間違ってない。わたしは勘違いしてたようだ。きのうのことは謝るよ」 「恐縮です」 「すべてきみにまかせる。ただし、雅枝と川口の再婚に反対されても困るけどな」  鈴木は冗談ともつかずに言って、からからと笑った。  知らなかったことにしたほうが都合がいい、と悟ったに過ぎない。照れ隠しに笑ったのだろう、と佐藤は思った。 「きみは川口に会ったことはあったっけか」 「いいえ」 「一度会ってくれないか」  佐藤は当惑顔で、返事をしなかった。 「気がすすまんようだなあ」 「わたくしがお会いしてよろしいものかどうか迷うところです。きのうも申しましたが、歯止めといいますか線の引き方が難しくなるような気がしないでもありません。ひと晩考えさせていただきます」 「うん。ひと晩でもふた晩でも考えたらいいよ。わたしとしては、将来の頭取候補には川口と会っておいてもらいたい気がしてるんだが、きみにも考えがあるだろう」 「あす中にご返事をさせていただきます」 「うん。よろしくな」  鈴木と佐藤は同時にソファから腰をあげ、役員会議室に向かった。     2  常務会終了後、佐藤は企画部次長の杉本を自室に呼んだ。川口に会うほうがベターなのかどうか迷っていたので、杉本の意見を聞こうと考えたのである。 「秘書室長は川口なんかと会わないほうがいいと思います。会長はなにを考えて、そんなことを言ったんでしょうか」 「融資についてはどう思いますか」 「いくらなんでも度が過ぎると思いますけど、会長がその気になってるようですとゼロ回答は難しいでしょうねぇ」  杉本は間髪を入れずに答えた。 「竹中しかいないんじゃないでしょうか」 「竹中さんですかあ」  佐藤は眉根《まゆね》を寄せた。思案顔で頬《ほお》をさすっている。 「竹中さんのレポートのことを会長に話しちゃいましたからねぇ。竹中さんが川口氏に厳しい態度を示したことは会長も承知しています。会長が気にすると思いますよ」 「しかし、帰するところ竹中は秘書室長の指示に従いました。本件は、われわれ三人限りにすることでずっときたわけです。ひろげないほうがよろしいと思いますが」 「竹中さんが総務部に所属してるんならともかく、プロジェクト推進部で忙しくしてるのに、ちょっと使いにくいでしょう」 「多少時間を割くくらい大丈夫ですよ。わたしが話します。それとも秘書室長に竹中以外に対案がおありですか」 「横浜支店長が大島さんに替わったので、大島さんならすべて呑《の》み込んでくれると思いますが」  大島正雄は六月二十九日付の人事異動で人事部付部長から横浜支店長に栄転した。昭和四十五年入行組なので、佐藤の二年後輩だ。  一橋大学商学部の出身だが、佐藤とは近い。来年は役員になるだろう。 「そう言えば、横浜支店が川口とことを構えたとき副支店長だった岡崎も、竹中と同じプロジェクト推進部に替わってますから、横浜支店にまかせる手はあるかもしれませんねぇ」 「�雅志会館�ではまずいから、川口氏にペーパーカンパニーをつくらせればいいでしょう」 「しかし、竹中とどっちがよろしいんでしょうか。悩むところですよ」  今度は杉本が考える顔で腕を組んだ。  佐藤が中腰になって杉本の肩を叩《たた》いた。 「あしたの朝、会長にわたくしの考えを伝えなければならないが、両案出しましょう。会長に決めてもらうのがいいでしょう」  三日続けて、佐藤は会長執務室のソファで鈴木と向かい合ったことになる。  佐藤の話を聞き終えて、鈴木は仏頂面で一分以上口をきかなかった。 「きみにまかせるよ。わたしはきみが川口に会ってもらうのがいっとういいと思ってたんだがねぇ」 「わたくしが逃げているとお取りになられたとしたら心外です。川口氏には協立銀行として一定の距離は置くべきではないかと考えたのです。協立銀行を打ち出の小槌《こづち》か金蔓《かねづる》みたいに思われても困りますから、ここはきちっと対応致したいと考えました。ただしゼロ回答はできないと思いますので、融資の条件につきましては、最終的にはわたくしが判断させていただきます」 「わかった。よしなにやってくれ」  鈴木が緑茶をひとすすりして話題を変えた。 「月末までに田園調布に引っ越すことにしたので、然るべく手配を頼む。南麻布の公邸一帯にわたしを中傷するビラをべたべた貼《は》られて往生したこともあった。家内はすぐにも引っ越したいって言い張ったが、ビラに屈して逃げ出すようなぶざまな真似はしたくなかったので、わたしは公邸に頑張っていた。田園調布の自邸を賃貸して、公邸に居座ってるなんて冗談じゃないぞ。田園調布の家は家内の弟に只《ただ》で貸してある。空家にしておくわけにもいかんから、管理してもらってるようなものだが、義弟一家が成城のマンションに引っ越すことになったので、公邸は明け渡すことにした。公邸のほうが都合がいいし、引っ越しが面倒だから、住んでたまでだよ」 「よく存じております」 「しかも、斎藤に南麻布に引っ越すかって訊《き》いたら、そのつもりはないっていう返事だった」  事実関係は少し違う。  関州連合のビラなど一連の厭《いや》がらせを受けた時点で、鈴木は斎藤と話をしたのである。二人のやりとりはこんなふうだった。 「きみ、南麻布の公邸に住む気はあるのか」 「いいえ。どうぞ会長がお使いになってください」 「ビラを貼られたり撒《ま》かれたりして、往生しとるんだ」 「お気になさることはありませんよ。仮に会長が公邸を引き払われても、わたしは公邸に引っ越す気にはなれません。会長がどうしてもお出になるとおっしゃるんでしたら、ゲストハウスにでもするのがよろしいと思います」  佐藤が湯呑《ゆの》みをセンターテーブルに戻して言った。 「関州連合とは手打ちしたんですから、会長が公邸をお使いになるほうが、銀行としても都合がいいと思いますが。会長は外国からの来客も大変多ございます」 「そう思って使ってたが、家内がどうしても引っ越すといってきかんのだ。別々に暮らすわけにもいかんしなあ」  会長公邸がゲストハウスに改装されたのは十月末である。     3  佐藤は会長執務室から自室に戻って、杉本に川口の一件を竹中に話すよう電話で指示した。  杉本が竹中を企画部の応接室に呼びつけたのは、その日の午後三時過ぎだ。 「川口がまたあらわれたぞ。竹中の出番だな」 「冗談よせよ。そんな立場でもないし、暇もない」 「おまえが忙しいことはわかってるが、佐藤秘書室長と話したんだけど、川口問題はわれわれ三人で対応するしかないんだ」 「川口はなんと言ってきたの」 「会長に十億円の融資を要請してきた。三原雅枝さんと近く正式に結婚することになったらしい」 「会長もだらしがないなあ。仮に川口が会長の義理の息子になることが事実だとしても、川口にはすでに十六億円も融資してる。それも確実にコゲつくことがわかってるカネだ。会長は例の念書を見てないのかねぇ」 「見せてない。おまえのレポートと同様に、秘書室長が握り潰《つぶ》してしまった」 「秘書室長の気が知れないよ」 「秘書室長には秘書室長の考えがあるんだよ。会長は知らないほうがいいんだ。俺もその考えは間違ってないと思うけど」 「川口がこれ以上協銀に融資を要求してくるなんて、身のほど知らずにもほどがあるよ。ノーのひとことで済む話だろう。俺《おれ》たちプロジェクト推進部が十億円の債権を回収するのにどれだけエネルギーを費やすか、杉本にはわからんだろうが、みんな命がけで頑張ってるんだ。川口みたいなヤクザに十六億円もふんだくられたことを考えると、ほんと世をはかなみたくなるよ。こんな理不尽なことをゆるしていいはずはない、と俺は思う。会長が協銀の中興の祖で、多大な功績を残した人だとしても、川口に対する姿勢なり、お嬢さんに対する態度を見ていると、とてもじゃないが、評価できないね」  竹中はつとソファから起《た》ち上がった。 「いずれにしてもお断りする。来客があるからこれで失礼するよ」 「あと三分で済む。座れよ」  杉本の命令口調に、竹中はむっとした顔で、どすんとソファに腰を落とした。 「秘書室長は会長に、竹中に対応させると話してしまった。秘書室長から相談を受けたとき、竹中以外に考えられないと俺は答えた。俺の顔を立ててくれよ」 「迷惑千万だな。はっきり言って、俺の進言どおりに佐藤さんが対応してくれてれば、川口にツケ入られることはなかったと思う。それと、これもはっきり言わせてもらうけど、仮に杉本の顔を立てて、俺が川口に会ったとしても、融資には応じられません、のひとことで終わりだよ。俺以外の誰が川口に会ったとしても、それで押し通すべきだと思う。秘書室長にぜひ俺の意見を伝えてくれ。じゃあ」  竹中は、言いざま起ち上がり、けたたましく応接室から出て行った。  杉本はしばらく応接室で放心していたが、気を取り直して、秘書室へ行った。  佐藤は在席していた。 「竹中はダメです。川口に会ったとしても融資に応じられないって断る、と言ってました。だとすると、会長の意にそまないわけですから、竹中は使えないと思います。プロジェクト推進部が十億円回収するためにどれほど苦労してるかわからないとか、逆ネジをくらいました」 「初めから第二案でいくべきだったんですかねぇ。杉本さんは自信たっぷりでしたから」  佐藤に皮肉っぽく言われて、杉本はしょげかえった。 「申し訳ありません。わたしの判断ミスです。竹中があんなに強情とは思いませんでした」 「竹中さんの言ってることは正論ですよ。一度その正論を川口氏にぶつけてもらいましょう。その上で対策を考えます。竹中さんにこの問題から降りてもらうためにも、そのほうがいいでしょう」  杉本に怪訝《けげん》そうな顔を向けられて、佐藤は薄く笑った。 「川口氏の腹をさぐるためにも、とりあえず竹中さんにぶつかってもらうのがいいと思います。また、竹中さんが本件から手を引くとしても、正論が通ったと勘違いしてもらったほうが、彼のためになるんじゃないですか。プロジェクト推進部が十億円回収するためにどれほど苦労してるかを汲《く》んであげることにもなるんじゃないかと思いますよ」 「はい。秘書室長の言わんとしていることはわかりますが、竹中にそこまで気を遣う必要がありますかねぇ」 「あると思います」  眼鏡の奥で佐藤の眼が鋭い光を放った。  七時を過ぎたころ、杉本がプロジェクト推進部にあらわれた。  住専問題に関する企画部との打ち合わせは、必ず企画部に永井や竹中たちが出向いていたので、杉本がこのフロアに顔を出したのは初めてだ。  杉本はまっしぐらに、竹中の席へ突き進んできた。 「まだ終わらんのか」 「うん。あと一時間ぐらいかかりそうだ」 「久しぶりにめしでも食おうかと思ったんだけど」 「社員食堂でラーメン食べてきたばかりだ」 「そうか。それで席を外してたのか」  杉本が電話をかけてきたことを竹中は聞いていなかった。  竹中が退行していないことを確かめただけで、名前も言わずに杉本は電話を切ったのだろう。 「十分ほど時間をもらえないか」 「いいよ」  竹中は簡易応接室で、杉本と対峙《たいじ》した。 「秘書室長とも話したんだけど、川口に会ってもらいたいんだ。正論で通していいからな。ただ、川口がなにを考えてるのかぐらいは訊《き》いてもらいたいけどね」 「俺のほうから川口に電話をかけるのか」 「もちろんだ。�雅志会館�の電話は知ってるよな」 「うん」 「これは恵比寿《えびす》の三原雅枝さんのマンションの電話番号だ。川口は夜はここにいることが多いらしい」  杉本は紙片を竹中に手渡した。 「今夜にでも電話をかけて、アポを取ってもらえるとありがたい」 「わかった。川口の顔なんか二度と見たくないと思ってたし、その機会もないと思ってたが、これが最後だな。結果は杉本に連絡するよ」 「うん。よろしく頼むよ」  杉本にしては低姿勢だった。ここで竹中に断られたら、佐藤に合わせる顔がないとすればそれも当然である。竹中を企画部に呼びつけずに、自らプロジェクト推進部に足を運んできたこと自体、いつもの杉本には考えられない。竹中の返事を聞いて、さぞやホッとしたことだろう。  竹中は杉本を突き放すことを考えぬでもなかったが、川口がどんな顔をするのかこの眼で確かめたい気もしていたのである。  帰宅したのは十時前だが、シャワーを浴びたあとで竹中は三原雅枝のマンションに電話をかけた。 「もしもし」 「はい。三原ですが」 「夜分恐縮ですが、協立銀行の竹中です。川口さんはいらっしゃいますか」 「ああ、竹中さん。その節はどうも。川口に替わります」 「もしもし、川口ですが」 「竹中です。こんばんは。川口さんにお目にかかりたいのですが、あさっての金曜日はいかがでしょうか」 「けっこうです。何時にどこへお訪ねすればよろしいでしょうか」 「帝国ホテル一階ロビーの談話室で午前十一時半でよろしいでしょうか」 「わかりました」 「それではあさって十九日の十一時半にお待ちしてます」     4  竹中は十一時二十五分に帝国ホテルの談話室へ顔を出した。眼で川口を探すと、向かって右手の奥のほうで、竹中を見かけた川口が起立した。  竹中は目礼を返して、川口に近づいて行った。 「お呼びたてしましてどうも」 「いいえ。お忙しいのに恐縮です」  川口はアメリカンを飲んでいた。残り少ないところをみると、早めにホテルへ着いたらしい。  竹中はウエイトレスにアイスコーヒーをオーダーしてからにこやかに切り出した。 「ちょうど三年前の七月十九日にここで川口さんにお目にかかったことを思い出しました。あなたはアメリカンをめしあがっていらした。わたしはアイスコーヒーを飲みました。もちろん偶然ですけれど、不思議な気がします」 「そうでしたねぇ。わたくしも、アメリカンを飲みながら、いまそんなことを考えてたところです」 「三原雅枝さんと男女関係はない、とあのとき川口さんはおっしゃいました。家庭を壊すつもりもない、ともおっしゃった。わたしは川口さんに手玉に取られてるような感じがしたものです。覚えてますか」 「もちろん覚えてますよ」 「三原雅枝さんとご結婚されるとお聞きしましたが」 「はい。そういうことになりそうです。三年前、竹中さんに申し上げたことは事実です。しかし、その後事情が変わりました。人の気持ちほど当てにならないものはありません。うつろいやすいとでも言いましょうか。わたくし自身、まさかこんなことになろうとは、夢にも思いませんでした。人生の不可思議さをしみじみと感じずにはいられません」  川口は微笑を浮かべて、のたまった。  竹中は鳥肌立つ思いで、運ばれてきたばかりのアイスコーヒーをストローですすり上げた。  そして、いくらか乱暴にグラスをセンターテーブルに戻した。 「協立リースから川口さんにご融資して三年経過しましたが、返済の見通しはいかがでしょうか」  竹中は事務的な口調になっていた。  川口は厭《いや》な眼で竹中を見上げただけで、返事をしなかった。 「わたしは二年前に総務部からプロジェクト推進部に移りました。仕事の内容は債権の回収です。暴力団に絡まれることも多くて、きつい仕事です。もちろん、協立リースが川口さんにご融資した十五億円の回収をわたしどもが担当することはありませんけど」 「…………」 「十億円の融資を協銀にお求めとお聞きしてますが、上のほうから川口さんの窓口をやるように命じられまして……」 「融資に応じていただけるんでしょうか」 「事業の内容によると思います。失礼ですが�雅志会館�の経営は順調ですか」 「ええ。お陰さまで順調です。おおよそのことは鈴木会長にお話ししてありますが、バブルの清算がまだ済んでおりません。ですから事業内容といわれましても、返事に窮する次第です。そのへんのことはご賢察いただけませんでしょうか」 「バブルの清算をするためにご融資することはきわめて困難です」 「十億円はともかく五億円ならなんとかお願いできますでしょうか」 「バブルの反省から、審査が厳格になってます。それと、児玉先生を通じて、川口さんから念書をいただいてます。今後、協立銀行に融資を求めることはない、という一項もあったと覚えてますが、わたしどもは、あの念書を重く受けとめております。ですからわたしも今回の件を聞いたときはわが耳を疑いました。ご融資の件はなかったことにしていただきたい、と申し上げるために、きょうこうして川口さんにお会いした次第です」  川口がふたたび厭な眼で竹中を見た。 「鈴木会長はこのことを承知されてるんですか」 「どういう意味でしょうか」 「雅枝から前向きに考える旨会長が話してると聞いたものですから」 「なにかの間違いだと思います。なんでしたら確認しますが、わたしの一存で、なかったことにしていただきたい、と申し上げてるわけではありません」  竹中は、協銀に融資を頼めた義理か、と言いたいのを抑えて、もって回った言い方をしている自分に腹が立った。  しかし、鈴木会長が雅枝に言質《げんち》を与えていることはあり得る。  しかも佐藤までがふたたび川口への不正融資をフォローしようとしているふしもある。それなら俺を使う手はないはずだ。「正論で通していい」と杉本は言ったが、杉本個人の意見とは考えにくい。  佐藤が会長に抗《あらが》うつもりで俺を使ったとすれば、さすが�柳沢吉保�と見直したくなるが、期待していいのかどうか。これまで会長に対してきた佐藤の行動を見る限り、懐疑的にならざるを得ないが、それなら俺を使う意味がない——。竹中の思考は、行ったり来たりしていた。  午後一時過ぎに竹中は杉本に電話をかけた。  周囲に人がいなかったので都合がよかった。 「川口に会ったよ」 「企画部に来られないか」 「たいした話じゃないから、電話でいいだろう。周りの人はいないので聞かれる心配はないし」 「そうか。じゃあ話してくれ」 「三原雅枝さんと結婚することは事実らしい。すでに同棲《どうせい》してることでもあるし、好転だか悪化だか知らないけど、事情が変わったんだろう。三年前、俺に会ったときは男女関係はない、なんて白々しいことを言ってたが」 「おまえ、正論で押し通したのか」 「もちろん、例の念書のことも話したよ。バブルの清算で汲々《きゆうきゆう》としてるんだろう。五億円ならなんとかしてもらえるか、と言ってたが、俺は聞かなかったことにしたい、と言ってやった。川口が協銀に融資を依頼してくること自体、あり得ないことだものねぇ」 「うん。俺もそう思うけど」 「ただ、会長が前向きに考えると雅枝さんに話してるような口ぶりだったな。秘書室長なら会長を抑えられると思うが」 「ま、これでおまえの役目は終わったよ。もう川口の問題で竹中に出てもらうことはないだろう」 「そう願いたいねぇ。いくら会長でもごり押ししてくることはないだろうねぇ」 「そう思う。秘書室長は多分、そう決意してるんじゃないか。いささか出し遅れの証文めいた感はあるが、竹中のレポートや念書のことも会長に話したらしいからな」 「なるほど」  竹中は、自分を使った狙《ねら》いがわかったような気がして、「�柳沢吉保�けっこうやるじゃないの」とひとりごちていた。 [#改ページ]  第十四章 内部告発     1  竹中は八月十九日の月曜日から五日間夏休みを取った。土、日を入れると九日間のバケーションとなる。  義父母も誘って、六人で六泊七日の北海道旅行を愉《たの》しんだ。  日程づくりが、けっこう愉しい。  竹中が義父母の気を引いてみた。 「ゴルフはどうしますか」 「ぜひやりたいねぇ。北海道なら涼しくていいだろう」 「わたしも賛成」 「じゃあ、二日ゴルフをしましょう。知恵子は子供と観光に回ってもらうから、二日だけ二班で別行動っていうことになるからね」 「わたしもゴルフをしたいなあ。いまからレッスンを取って間に合わないの」 「ダメダメ。あなたがコースに出るのは十年早いわよ」 「お母さん、十年ってことはないでしょ。来年は必ずコースに出られるようになってますからね」  知恵子は母親にからかわれて、少しむきになった。 「治夫君、クラブはコースで借りればいいだろう」 「キャディバッグを宅配便でコースに送ってもいいんじゃないですか」 「わたしはゴルフシューズだけでいいと思うが」 「二日プレーするんなら、せっかくだから自分のクラブのほうがいいでしょ。宅配便っていう便利なものがあるんですから」  結局、キャディバッグについては義母の意見に従うことになった。  日程表を作成し、JTBに勤務している大学時代のクラスメートに頼んで、航空チケット、レンタカー、宿泊場所の手配などすべての準備が完了するまで五日ほど要した。  八月十七日の土曜日に早起きして、電車とモノレールを乗り継いで羽田空港へ竹中家と神沢家の六人が向かったのは五時半である。空港でコーヒーとサンドイッチを食べて、七時五十五分発のJAS機に乗り込んだ。  女満別《めまんべつ》空港に九時三十五分到着の予定である。  六人なのでワンボックスカーをレンタルし、北海道初日は、網走、サロマ湖などを回り、宿泊は網走友愛荘。  二日目は知床《しれとこ》、摩周湖、屈斜路《くつしやろ》湖を観光し、屈斜路プリンスホテルに泊まった。  三日目は子供たちの希望で、帯広のビュッケブルグ城シュロスホテルに宿泊し、四日目と五日目はゴルフ組と観光組に分かれた。神沢夫婦と竹中の三人はゴルフ一日目十勝川カントリークラブでラウンドした。竹中はオフィシャルハンディはないが、ハーフ45前後では回る自信はあった。  ここ二、三年、お互いに忙しくて義父とラウンドしていなかったが、義父と義母は月二、三度は義父がメンバーの埼玉の名門コースでラウンドしているという。 「僕はオフィシャル17だが、治夫君とスクラッチでやるか。ハーフ千円のナッソウだ」 「いや、17はヘビーです。ハーフ二つずつ四つハンディをいただきます」 「弱気だねぇ。プライドが高いきみのことだから、逆に年寄にハンディをあげると言うと思ったが」 「もう舌戦ですか。義父《おとう》さんには口でまかされますよ。義母《おかあ》さんとはどうしましょうか」 「この人はテニスにのめり込んでるから、ダメだよ」  暑からず寒からず、風も微風で、天候にはケチのつけようがなかった。  竹中はアウト48、イン47、義父は44、46、義母は58、56。  ナッソウは、アウトで竹中二ポイント負けインで三ポイント勝ちで、トータルで一ポイント、千円竹中が勝った。  新|富良野《ふらの》プリンスホテルに二泊し、五日目のゴルフはホテルに隣接したコースでプレーした。  ゴルフのスコアは、竹中がアウト51、イン47、義父は42と44、義母は57と51。 「スコアはいただけないが、内容は悪くなかったよ。きみのドライバーとセカンドのロングアイアンは、距離も出るし、見事だ。アプローチとパッティングの差が出たというところだな」  ナッソウで、ストレート勝ちして竹中から三千円巻きあげた義父はすっかりご機嫌だった。 「親孝行できてよかったですよ。手を抜いたとまでは言いませんけど」 「ハンディを四つもあげて、ストレート勝ちとはねぇ。正直なところ、80台は久しぶりなんだ。パートナーに恵まれたね」 「腕を研いて、次回はスクラッチで挑戦します」  富良野料理の店�くまげら�で名物のチーズ豆腐、玉葱酒粕漬《たまねぎさけかすづけ》、牛刺身丼などを食べながら、神沢は得意満面でゴルフの自慢談義をふたたび繰り返した。 「父は半世紀近くもゴルフやってるんですもの。あなたはかなうわけないわ」 「いや、きょうは完敗だけど、きのうは僕が勝ったんだよ。もちろんグロスでは五ポイント負けたけど。かないっこないってことはないよ。相当頑張って、四、五年かかるかもしれないが、お義父さんに追いつけると思ってるんだけどねぇ」 「そうですよ。なんてったって若いんですもの。ただお爺《じい》ちゃんは、治夫さんがドライバーで飛ばしても、決して力まない精神力の勁《つよ》さはたいしたものだわね」 「婆さんに褒められたのは初めてだな」  六日目も快晴で、ドライブ日和だった。さわやかな朝、富良野から美瑛《びえい》の丘陵地を小樽に向かう車の中から眺望する大雪山連峰の景観は、眼に痛いほどきれいだった。 「あなた、景色をご覧なさいよ。わたしが運転するわ。きのう十勝岳の中腹までドライブして、景色を堪能したから」  知恵子が珍しく優しさを見せた。 「白樺《しらかば》と落葉松《からまつ》の林を抜けると畑がひろがってて、じゃがいもの白や紫の花がきれいだったねぇ。畑の色の変化がおもしろかったわ」 「うん。畑が広くて整然としてたのに驚いたよ。十勝岳もよかったねぇ」  竹中は助手席で、十勝岳を望みながら、恵と孝治の話を聞いていた。  恵は白百合女子大英文科一年生、孝治は暁星高校二年生。この三年のうちに恵は母親より、孝治は父親より身長が伸び、二人ともませた顔になった。  満ちたりた気分である。久しぶりに幸福感に浸れたような気がしていた。  網走のカニづくしは子供たちによろこばれたが、小樽の海岸沿いにあるイタリアンレストラン�トレノ�の海の幸の料理にも舌つづみを打った。     2  竹中たちが千歳空港から最終便で帰宅した二十三日の夜までに、留守番電話が家族四人で二十七本入っていた。その中に竹中にとって気になるのが三本あった。  一本はプロジェクト推進部副部長の岡崎政彦である。  二十三日夜七時四十分で最後の留守電だった。 「今夜夏休みの旅行からお帰りになると聞いてますが、お疲れのようでしたら、あすでもけっこうですから自宅に電話をください。一日家におります……」  もちろん自宅の電話番号も入っていた。  もう二本は『週刊潮流』記者の吉田修平だ。  八月二十日の午後四時四十分と二十二日午前十一時七分。  竹中は胸騒ぎを覚えた。 �竹中班�の部下からではなく、なぜ岡崎が電話をかけてきたのだろうか。仕事がらみではないと察せられる。  岡崎と吉田に、共通点を見出そうとすれば川口にぶつかる。考えすぎとは思うが。時刻は十時二十分。竹中はまず部下の中林信三に電話をかけた。 「いま旅行から帰ってきたところだが、なにか連絡あるかしら」 「とくにありませんよ」 「岡崎から留守電が入ってたけど、なんだろうねぇ」 「そう言えば、副部長になにか用があるみたいでした。夏休みで北海道を旅行してると話したら、ホテルに電話するのは悪いかなあ、なんて言ってましたけど。ちょっと急いでるみたいだったので、かまわないんじゃないですか、と答えて、日程表を渡しました。ホテルに電話をかけなかったところをみると、遠慮したんでしょうねぇ」 「そう。ありがとう」  竹中は続いて岡崎に電話をかけた。 「どうも。お騒がせして申し訳ない。ホテルに電話しようかどうかずいぶん迷ったんだ。気分を悪くしてせっかくの家族旅行をぶちこわしてもなんだと思って、自粛したが、例の�雅志会館�の川口のことなんだけど、横浜支店で俺の下で課長していた山岸が妙な電話をかけてきたんで、竹中ならなにか知ってるんじゃないかと思ってねぇ」 「妙な電話って」 「横浜支店が、エムアンドケイコーポレーションなるペーパーカンパニーに十億円融資したんだそうだ。うち五億円は定期預金にしたそうだから、融資額は実質五億円っていうことになるが、代表者名は川口雅枝になってるんだって。川口の女房だと思うけど、住所は�雅志会館�とは違うが、山岸はぴんときて、�雅志会館�の川口じゃないかって支店長に訊《き》いたら、支店長は顔色を変えて否定したらしいよ」 「山岸はなんでぴんときたのかねぇ」 「審査の仕方が信じられないほど杜撰《ずさん》だったっていうんだ。ほとんど無審査同然だったらしいよ」 「横浜支店の支店長は大島さんに替わったばっかりだよねぇ」 「�佐藤人事�って言われてるけど」 「�雅志会館�の川口に間違いないと思うが、あの男に五億円も融資するなんて信じられんよ」 「竹中は総務部時代にかかわったことがあるよねぇ」 「うん」 「もしかしたら事実関係を知ってるかと思ってたんだ」 「山岸は、横浜支店は長いの」 「四年近くになるかなあ。とにかく、前の支店長と俺が厭《いや》がらせを受けたときにはいたよ。高卒だけど仕事はできるし、正義感の強い男だ」 「ふうーん」  竹中は、岡崎の質問に答えていない自分を意識していた。話してしまいたい誘惑にかられていたが、やはり抑えなければならない。 「川口にかかわったのは三年も前だからねぇ。ただどうせわかることだから言うけど、川口雅枝は二度目の女房だよ。雅枝の旧姓は三原雅枝で、鈴木会長のお嬢さんだ。このことはひろめないのが武士の情けだと思うから、山岸には話さんほうがいいかもな」 「それは驚きだねえ。銀座でギャラリーを経営してるっていう人だろう」 「そうだ。川口と恋愛関係に陥って、二人とも離婚して、再婚したんだろうねぇ」 「ワンマン会長の娘なら、�トップ貸し�みたいな融資も考えられるよ。しかし、このことはタブーになるな」 「そうかもしれない」  バブル時代にトップクラスの判断で無担保融資が頻繁に行なわれたことがある。協立銀行ではそれを�トップ貸し�と称していた。 「おそらく佐藤秘書室長あたりが取り仕切ったんだろうが、俺たちには血尿の出るような取り立てをやらせておきながら、よくやるよなあ」 「うん。まったく不愉快だよ」  竹中は考えることは同じだと思いながら、話をつづけた。 「山岸なる正義派に伝わると、ただでは済まないかもねぇ。会長のお嬢さんのことは伏せてもらったほうがいいね」 「俺もそう思う。本音を言えば俺だって黙ってられない心境だけど、サラリーマンの悲しさで、そうもいかんのだよなあ。佐藤秘書室長が絡んでるとなればなおさら、あとが怖いもの」 「うん。銀行でこの話をするのはよそう」  竹中が電話を切って、吉田に電話すべきかどうか迷っていると、恵と孝治が竹中の長電話を非難した。 「パパ、いい加減にしてよ」 「僕だって今夜中に電話しなくちゃならないところがけっこうあるんだ」 「そうか。悪かった」  竹中は吉田に電話するのを諦《あきら》めざるを得なくなった。  恵と孝治がかわるがわる二時間も電話をかけっ放しだったからだ。     3  あくる日の土曜日午前十時半に吉田から竹中に電話がかかった。 「やっとつながりましたねぇ。昨夜も遅い時間に何度もかけたんですけど、話し中でした。受話器が外れてるのかと思ったくらいです」 「ごめんなさい。娘と息子に占領されちゃって。わたしも吉田さんに電話したいと思ってたんですけど。留守中にお電話いただきましたが、夏休みで出かけてたものですから」 「大至急、竹中さんにお目にかかりたいんですが、わたしには会いたくないですか」 「いいえ。そんなふうに絡んだ言い方をするなんて吉田さんらしくないですねぇ」 「川口と鈴木会長の娘さんの一件ですけど、よろしいんですか」  竹中は言葉に詰まった。  吉田がたたみかけてきた。 「三年前のことを思い出してください。わたしに会うのは気が重いと思いますけど」 「そんなことはありません。吉田さんなら、いつでもよろこんでお会いしますよ」 「じゃあお言葉に甘えて。きょうでもよろしいですか」 「ええ。どこで何時にしましょうか」 「それでは午後二時に京王プラザのロビーでどうでしょう」 「けっこうです」  受話器を握り締めている竹中の掌が汗ばんでいた。  ブランチを摂《と》っているときも、シャワーを浴びているときも、吉田とどう対応すべきかを竹中は必死に考えた。吉田がどこまで事実に接近しているか、川口と雅枝の結婚だけなら、わざわざ俺に電話をかけてくるまでもない。三年前の不正融資までつかんでいるとは考えにくいが、ヘタな言い逃れはできない、と竹中は思った。 「三年前のことを思い出してください」と吉田は言ったが、なにかを察知しているからこそ、厭《いや》みな言い方になったのだろう。  竹中は二時十分前に京王プラザに着いた。  吉田は五分前にあらわれた。二人ともスーツ姿である。  ティールームで、竹中はアイスティー、吉田はレモンスカッシュをオーダーして、小さなテーブルを挟んで向かい合った。 「三年ほど前、竹中さんに一杯食わされたことになるんですかねぇ」 「そんなことはないと思いますけど」 「否定の仕方が弱いですよ。竹中さんはやっぱり心に疚《やま》しいことがあるんじゃないですか」  吉田はいたずらっぽく竹中に顔を寄せて、凝視した。  竹中は苦笑しながら眼を逸《そ》らした。 「吉田さんと睨《にら》めっこしてもしょうがないですよ」 「いまから質問することに、正直に答えてくれれば、三年前のことは忘れてあげます。ノーコメントはダメですよ」 「…………」 「三年前、川口と旧姓三原雅枝に男女関係が生じたんじゃないですか」 「そう思います」 「つまり、竹中さんはあのときその事実をわたしに隠してたことになりますよねぇ。川口をフォローしてれば、把握できたのに、わたしもあっさり竹中さんに言いくるめられてしまったわけです」 「あの時点で『週刊潮流』にスクープされてたら、わたしは確実にクビになってたと思います」 「融資の件はどうなんですか。協立銀行虎ノ門支店に政府の高官の紹介で川口が融資を求めてきたと竹中さんは言いました。事実ですか。もし事実なら高官の名前を特定してください」  竹中はゆっくりアイスティーをすすって時間を稼いだ。  進退きわまれりとはこのことだろう。脇《わき》の下を冷や汗が流れた。 「川口が虎ノ門支店に融資を求めてきたと言ったのは嘘《うそ》でした。川口と雅枝さんの男女関係が生じたらしいことをわれわれはキャッチしたのですが、川口が暴力団の準構成員ではないか、とわれわれは疑ってました。もしそれが事実なら、雅枝さんも川口との関係を清算するのではないか、とわれわれは考えたのです。総務部には警察のOBがおりますから彼らに調査してもらうことは可能ですが、極秘に調べたいということで、わたしの一存で吉田さんに調査をお願いしたのです。吉田さんに調査をお願いしたことはわたし以外に誰も知ってません」 「融資の話はどうなんですか」 「実は横浜支店にありました。しかし、支店長の判断で断ったと聞いてます」 「どうもそのようですねぇ」  吉田はわずかに頬《ほお》をゆるめた。  竹中が大きな吐息をついて言った。 「『週刊潮流』で書くんですか」 「もちろん書きます」 「勘弁してもらえませんかねぇ」 「まさか本気でそんなたわごとを言ってるわけじゃないんでしょ」 「本気です。三年前とは状況は劇的に変わりましたけど、鈴木が可哀相《かわいそう》な気がします」 「たしかに劇的に変わりましたよねぇ。川口と雅枝は結婚したんですから。もう一つお尋ねしますが、エムアンドケイコーポレーションなるペーパーカンパニーに協銀横浜支店が十億円融資したことはご存じでしたか」 「いいえ」  竹中の返事が一拍遅れたのは、ショックが大きかったからだ。  吉田がそこまで取材しているとは驚きである。 「うち五億円は定期預金で担保に取ってるようなものですから、実質五億円です」 「信じられません。川口については、三年前にドロップしてるんですよ」 「広報に取材したんですが、結婚を除いて全面否定されました」 「そうでしょう。わたしもそんな莫迦《ばか》なことをするとは思えません」 「ところが、融資実行日、つまりエムアンドケイコーポレーションの口座に振り込まれた日時まで特定した文書が当編集部に郵送されてきたんです。エムアンドケイコーポレーションの代表取締役は川口雅枝、つまり鈴木協銀会長の長女です。エムアンドケイコーポレーションの存在自体、広報は否定してますけど」 「怪文書ですか」 「いや、内部告発ですよ。三年前の貸しを返してもらえませんか」 「…………」 「なんとかウラを取りたいんです。協力してくださいよ。会長の娘婿なら五億円の不正融資ぐらいやると思うんです。内部告発書は多分事実でしょうね」 「広報が否定したっていうことは当然内部調査をしたと思いますけどねぇ」 「『週刊潮流』さんが書いたら名誉|毀損《きそん》で告訴するなんて、協銀の広報は莫迦に高姿勢でしたけど、ろくろく調査もしてないんじゃないかなあ」 「ゴシップ記事として、結婚ぐらいにとどめてくださいよ。お願いします。川口氏がヤクザでもなく、前科もないことは吉田さんもご存じですよねぇ。われわれはあのときどれほどホッとしたかわかりません。二人ともバツイチですが、普通の庶民ですよ」 「さあ、それはどうですかねぇ。川口は相当な食わせ者だと思いますけど」 「以前、横浜支店で副支店長だった男が同期にいますから、一応聞いてはみますが、お役には立てないと思います。わたしも広報の全面否定を信じたい口ですからねぇ。ほんとうに書くんですか。天下の『週刊潮流』さんに書かれたらダメージは大きいですよ。ほんと参ったなあ」 「竹中さんが嘘《うそ》を言ったら、三年前のことも書くつもりでしたが、どうやら正直なんで、そのことは不問に付してあげます。内部告発書に書かれてることと、竹中さんが話したことは一致してますから。三年前に融資を断ったこととか」  竹中はどれほど安堵《あんど》したかわからない。吉田に対して手を合わせたいくらいだ。  しかし、『週刊潮流』がどんな斬《き》り方をするのかわからないが、書かれることは間違いないらしい。大変なことになった——。竹中はいまから胸がドキドキしていた。  竹中が横浜支店の山岸の名前を思い出したのは、吉田と別れて、京王線新宿駅で普通電車に乗車したときだ。なぜ吉田と話しているときに思い出さなかったのか不思議だった。  竹中は山岸の顔を知らなかったが、岡崎によれば正義派だという。内部告発書の発信源は多分山岸だろう。  川口に対する不正融資をゆるせない気持ちはわかるが、そこまでやるとは蛮勇というか、見上げた根性と言うべきか——。  だが、心の隅で山岸に喝采《かつさい》を送りたい思いもしていた。俺には到底真似ができないことを山岸はしでかしたのだ。  内部告発書のことを岡崎が知ったら、どんな気持ちになるだろうか。  それにしても山岸が相当なリスクを冒したことはたしかである。犯人視される可能性は大いにあるのだから。     4  竹中が帰宅したのは夕刻五時過ぎだ。 「たったいま杉本さんから電話があったわよ。銀行にいるらしいわ。折り返しここへ電話をくださいって」  知恵子に手渡されたメモに秘書室長室の直通電話が書いてあった。 「もしもし、竹中ですが」 「ああ、杉本だけど、おまえすぐ本店へ来てくれ」 「なにごとが始まったんだ」 「竹中、そんな呑気《のんき》なこと言ってていいのか。すぐ来てくれ。じゃあな」  竹中は、シャワーを浴びて下着を取り替えたかったが、我慢してふたたび外出した。  通用口で行員証を守衛に示し、ノートにもサインをさせられた。竹中がエレベーターで二十一階の秘書室長室のドアをノックしたのは六時五分前だった。  佐藤と杉本、それに取締役広報部長の高村昭、同副部長の依田秀三の四人がひたいを寄せ合っていた。入行は高村が昭和四十三年、依田は五十年。  竹中を見上げる四人の眼は険しかった。 「座ってください」 「失礼します」  佐藤がやっと声をかけてくれたので、竹中は空いている高村の隣に腰をおろした。  長|椅子《いす》の佐藤、杉本の正面に位置する。  依田は竹中の右手にいた。  雰囲気が硬くてよそよそしいのは、『週刊潮流』の件だと察しがつくだけに仕方がないにしても、とくに佐藤の暗い顔は気になった。  杉本が鋭く竹中を見据えた。 「『週刊潮流』にリークしたのは竹中の仕業《しわざ》なのか」  冗談にしては言葉が尖《とが》っている。 「やぶからぼうになんてこと言うんだ」  竹中が笑いながら言い返すと、杉本は居丈高に、掌でセンターテーブルをドンと叩《たた》いた。 「ネタはあがってるんだ。白状しちゃえよ」 「杉本、どうやら本気でわたしを疑ってるみたいだねぇ。ネタがあがってるって、どういうことだ。聞き捨てならんが」 「それはこっちの言うセリフだ」 「だから、それはなにかと訊《き》いてるんだ」  竹中は声を荒らげた。 「おまえ、きょう『週刊潮流』の記者に会ったんだろう」  竹中はアッと声をあげそうになった。  杉本は知恵子から聞いたに相違ない。口止めしておかなかった迂闊《うかつ》さを棚にあげて、竹中は知恵子の口の軽さに歯噛《はが》みしたくなった。 「ネタがあがってるという意味が、わたしが『週刊潮流』の吉田記者に会ったことを指してるとすれば、下種《げす》の勘繰りとしか言いようがないなあ……。皆さんも聞いてください。説明のつくことですから」  竹中は居ずまいを正した。 「夏休みの家族旅行から帰宅したのは昨夜の十時過ぎです。留守電の中に吉田記者からの電話が二本入ってました。彼とは、広報部時代から面識があります。きょう午前十時過ぎに電話がかかり、至急会いたいというので二時に京王プラザホテルで会い、二時間半ほど話しました。用件は、川口正義と旧姓三原雅枝が結婚したことと、エムアンドケイコーポレーションに協立銀行横浜支店が十億円融資、なんでも五億円は定期預金で担保にしてるので実質五億円とか言ってましたが、その二点について承知しているか、と訊かれたので、結婚はあり得ると思うが、融資は信じられないと答えました。横浜支店の行員とおぼしき者から内部告発書が『週刊潮流』の編集部に郵送されてきたと吉田記者は話してました。広報に結婚を除いて全面否定されたと言うのでわたしもそれを聞いて安心した、と答えました。内部告発書には三年前に横浜支店が川口から融資を求められたときに断ったことも書いてあったそうですけど、今回の融資の振り込み日時まで記されている、これは事実に相違ないと思うがウラを取りたいので、なんとか協力してもらえないか、という虫のいい話なので、もちろん断りました。あらましそんなところです」  三年前、竹中自身が関与した点については脱落しているが、立場上やむを得ない。岡崎と山岸のこともカットした。これは武士の情けだ。 「横浜支店がエムアンドケイコーポレーションに融資したなんて話は聞いてないし、なんのことかさっぱりわからないわたしが、なんで『週刊潮流』にリークできるんですか。杉本、説明してくれよ」  杉本は当惑顔をあらぬほうに向けていたが、うそぶくように言った。 「微妙なときに『週刊潮流』の記者なんかに会えば、疑われてもしょうがないんじゃないのかね。しかも、おまえはそのことを自発的に言わずに隠してたわけだ」 「隠す必要なんかないし、そのつもりなら女房に口止めしてるよ。ネタはあがってるとか、わたしがリークしたなんて、いい加減なことを言う杉本をゆるすわけにはいかん。まず、その点についてきみはわたしに謝罪すべきなんじゃないのかね」 「たしかに杉本さんの態度はよくありません。竹中さんに謝りなさい」  佐藤も竹中を疑っていた口なのだろう。バツが悪そうな言い方だった。 「悪かった」  杉本はおざなりに竹中に向かって頭を下げた。 「吉田記者は来週号で書くと言ってましたが、ボツにしてもらう方法はないんでしょうか」  高村が竹中のほうへ首をねじった。 「それでわれわれは集まって、どうしたものかって相談してるんだよ」 「横浜支店の融資が事実無根なら、『週刊潮流』と闘えると思いますけど。川口氏と雅枝さんの結婚は事実なんですか」  竹中の質問に佐藤が答えた。 「入籍したことは事実です」 「それでは書かれたって、どうということはないと思いますけど」 「だけど怪文書を記事にされると、イメージダウンは大きいからねぇ。さっき宮本先生に電話をかけて相談したんだが、怪文書を週刊誌に掲載されただけでは名誉|毀損《きそん》で訴えられないっていう意見だった」  高村のいう宮本先生とは、協立銀行顧問弁護士の一人である宮本健吾のことだ。 「川口サイドに融資されていないことが事実なら、『週刊潮流』の編集長に広報担当専務なり副頭取が面会して、掲載の差し止めをお願いしてみたらどうなんでしょうか」  竹中は話しながら注意深く佐藤と杉本を観察したが、二人ともどこか落ち着きがなく、視線をさまよわせている。  エムアンドケイコーポレーションなるペーパーカンパニーに五億円融資されたことは紛れもない事実なのだ。 「『週刊潮流』はアンタッチャブルっていうか、そんなことをしても火に油を注ぐだけでしょう」  佐藤は否定的だった。  しかし、高村は竹中の意見に与《くみ》した。 「ダメモトでもやってみたらどうだろうか」 「そうですねぇ。わたしも吉田記者には今回の件で会ってますから、頼んでみましょうか」  依田も高村に同調した。 「ムダでしょう。秘書室長がおっしゃったように、トーンアップされて逆効果になるのが関の山なんじゃないですか」 「杉本君、われわれはなんのためにこうして集まってるのかね。なんとしても事実に反する融資の件だけは、『週刊潮流』に書かれることを阻止したいからじゃないのか。人事を尽くすべきだよ」  杉本は高村の強い口調に気圧《けお》されて言い返せず、佐藤に眼を遣《や》ったが、佐藤も口をつぐんでいた。 「一両日中にも山田副頭取と吉井専務に相談します。秘書室長、そういうことでどうでしょうか」  佐藤は高村の視線を受け止めず、横を向いたまま小さくうなずいた。  会議が終わり、高村と依田が退出したあとで佐藤が竹中を呼び止めた。 「竹中さん、ちょっと残ってください」 「わたしは帰っていいですか」 「杉本さんも一緒に聞いてください」  佐藤はいったん退出して、五分ほどで戻ってきた。なんとトレーの上に湯呑《ゆの》みが三つ載っている。 「ジャーにお湯が入ってることを思い出したんです。喉《のど》が渇きませんか」 「カラカラです」 「恐れ入ります」  杉本も竹中も起立して、低頭した。 「竹中さんは気づいてると思いますが、横浜支店の融資は事実なんですよ。会長のごり押しを押し返せなかった不明を恥じてます。杉本さん同様、わたくしも初めは竹中さんを疑いましたが、五億円の定期預金とか、融資実行日までは、あなたは知っているはずがない。広報も内部告発の内容をそこまで詳しくはつかんでなかったんです。竹中さん、さすがですよ」 「わたしがリークしたと思われてたんですか。ショックです」 「申し訳ありません」 「竹中、悪く思わないでくれ。しかも『週刊潮流』の記者に会ってるって奥さんから聞けば、そう思い込まないほうがおかしいだろう」  竹中は熱い緑茶をひと口飲んで、深呼吸をした。 「お二人に疑われてたなんて夢にも思いませんでした。わたしが川口氏と会って、ピリオドが打たれたと信じていたので、吉田記者の話にショックを受けましたが、こっちのショックのほうも相当大きいですよ」 「内部告発まではカウントできなかったなあ。秘書室長から話を聞いたとき、びっくりして飛び上がりましたよ」 「さて、問題は対応策をどうするかです。融資の事実を認めて、不正融資ではないことを強調する手かな、とわたくしはいま茶を淹《い》れながら考えたんですけど」  竹中が吐息を洩《も》らした。 「そうしますと、広報の立場はありませんねぇ。全面否定してるんですよ。広報を納得させることがまず大変です」 「それは秘書室長におまかせしとけばいいんじゃないの。告発書が事実だとバレたときの反動のほうが怖いよ。それと『週刊潮流』に追随するメディアが出てくると、困るよねぇ」 「死んだ子の齢《とし》を数えるのは愚かですが、三年前、川口氏と雅枝さんのことで、われわれはナーバスになりすぎましたねぇ。こんな結果、つまり川口氏と雅枝さんが結婚するようなことになるんでしたら、あのとき突き放して、融資をしなければ……」 「その話はよしましょう」  佐藤が右手を激しく振った。 「広報部長とは今夜中に連絡を取りますから、竹中さんも吉田記者となるべく早く接触してください」 「それでいいんでしょうか。広報は『週刊潮流』に対して、告訴も辞さないとまで言ってるんですよ。そこまで高姿勢で対応してて、引っ込みがつくんでしょうか」 「広報の対応を誤らせたのはわたくしの判断ミスです。その点は潔く広報部長に謝ります。そういうことでお願いします」  佐藤が竹中にわずかに頭を下げたとき、電話が鳴った。  杉本がソファから腰をあげて、デスクに近づき受話器を取った。 「もしもし……」 「鈴木だが、佐藤はおるのか」 「はい。ただいま替わります」  杉本が受話器を押さえて、こっちを見た。 「秘書室長、鈴木会長からです」  佐藤は首をかしげながらソファを離れ、杉本から受話器を受け取った。 「はい佐藤ですが」 「『週刊潮流』の記者が川口と雅枝のことでわたしの話が聞きたいと言って家に来たが、どういうことなんだ。カミさんにわたしは留守だと言わせて、帰ってもらったが、またやってくるだろう」 「そのことで広報部長と話してたところなんですが、実は困ったことになりまして」 「雅枝が川口と結婚したことがバレたっていうことだな。それは覚悟してたことだが、そんなことが週刊誌の記事になるのかね。プライバシーの侵害じゃないか」 「それだけじゃないんです。五億円の融資もつかまれてます」 「なんだって! 誰がリークしたんだ」 「わかりません。怪文書まがいのものが『週刊潮流』に郵送されたそうです。内容は正確です。犯人は横浜支店の行員と考えられますが、ノーコメントで押し通すわけにも参らないと思うのです」 「ヤクザの次は週刊誌か。わたしはどこまで貶《おとし》められなければならんのだ。広報でなんとか抑えられないのかね」 「広報に事実無根で押しきらせようとも考えましたが、ちょっと無理があると思います。融資については会長はご存じなかったで通しますが、融資の事実関係については認めざるを得ないんじゃないでしょうか。横浜支店の判断で融資が実行された、本部は関与していないが、審査も厳格に行なわれ、不正融資ではない、とコメントすることでよろしいと思いますが」 「いや、記事にされるのはかなわんな。ストップをかける方向で対応してくれ」  佐藤がいったん耳から遠ざけてから、受話器を置いた。  鈴木は怒り心頭に発し、受話器を叩《たた》きつけたに違いない。  佐藤は、むすっとした顔でソファに戻ってきた。 「『週刊潮流』の記者が会長邸にあらわれたそうです。会長は居留守を使って会わなかったようですけど」  竹中が表情をひきしめて訊《き》いた。 「吉田記者ですか」 「記者の名前は話してませんでした」 「吉田記者の可能性もあると思いますが、特集扱いですと、最低二人でチームを組みますから、別の記者かもしれませんね。わたしが吉田記者に会うのはかまいませんが、広報として、軌道修正するわけですから、できるだけ丁寧に対応する必要があると思います。だとすれば、広報部長が吉田記者に会うほうがいいんじゃないでしょうか」 「そうねぇ」  佐藤は眉間《みけん》にしわを刻んで、しばらく考えていたが、腕と脚をほどいて、竹中をとらえた。 「広報部長と相談してみます。会長はストップをかけろっていともあっさりおっしゃるが、もはやそれは困難でしょう。今夜中に竹中さんに連絡しますが、自宅にいますか」 「ええ」 「それじゃあ、あとで。ご苦労さまでした。杉本さんも、ご苦労さま」  本店ビルを出たとき、杉本が言った。 「話が妙な方向へ逸《そ》れてきたなあ。タクシーで帰ろうか」 「いや、新宿で買い物するから電車で帰るよ」  竹中は、誰がおまえなんかと言いたいのを抑えて、杉本に背中を向けていた。容疑者に対する刑事みたいなえらそうな態度を取った杉本をゆるせなかったのだ。     5  帰宅して、シャワーを浴びたあとで、ビールを飲みながら、竹中が知恵子を詰《なじ》った。 「きみ、僕が『週刊潮流』の記者に会ったことを杉本に話したらしいが、不用意だぞ」 「だったら、なんでそう言ってくれないの。わたしが怒られるいわれはないと思うけど」 「余計なことを話すんじゃない。きみはおしゃべりが過ぎる。お陰で僕は痛くない腹をさぐられてひどい目に遭ったよ」 「これからはいちいち指示してよ。八つ当たりされて不愉快だわ」  知恵子に言い返されて、竹中はビールが不味《まず》くなった。  夜九時前に、竹中に佐藤から電話がかかった。 「広報部長に盛大に叱《しか》られましたよ。しかし最終的には了解してくれました。広報部長も『週刊潮流』は抑えられないという判断です。まず竹中さんが吉田記者に会ってください。そのあとで広報部長がお目にかかるということでどうでしょうか」 「わたしが吉田記者に会って、どう話せばいいのですか」 「ですから、エムアンドケイコーポレーションに対する融資は事実で、融資は厳正に行なわれた。広報には本部が関与していなかったため事実関係の把握が遅れていたこと、融資の目的は、絵画ビジネスでいいでしょう。川口夫妻は絵画ビジネス関係でいまニューヨークに出張中なので、連絡が取れない……。そんなところでどうですか」 「ニューヨーク出張は事実ですか」 「もちろん事実です。三日後に帰国の予定でしたが、ヨーロッパに回るので、十日ほど遅れるとのことです。いまホテルに投宿中の雅枝さんと電話で話し、おおよそのことは話しておきました。会長にも電話しましたが、その後、『週刊潮流』の記者はあらわれていないようです」 「『週刊潮流』が鈴木会長に取材したいと申し入れてきたら、どうしますか。わたしは逃げずに受けたほうがよろしいと思いますが」 「それは広報部長の判断にまかせましょう。わたしは、会長が出ることには懐疑的にならざるを得ません」 「わかりました」  竹中は電話を切ってすぐに吉田の自宅に電話をかけたが、留守番電話になっていたので、「竹中ですが、お話ししたいことがありますので折り返し電話をいただければと思います」と入れておいた。  吉田から電話がかかったのは午前零時近かったが、竹中はリビングでテレビを見ていた。 「いま帰宅したところなんです。あしたにしようかとも思ったんですが、土曜日だから起きてるかなと……」 「もちろん起きてましたよ。だからすぐに出たでしょ」 「ええ」 「吉田さんとお会いして帰宅したら、広報部長から電話がかかり、すぐ銀行に来てくれです。『週刊潮流』さんが動き出すと大変な騒ぎになるんですよねぇ」  電話で呼びつけたのは杉本だが、この際話をわかりやすくするためには多少の脚色は仕方がない。 「広報部長と副部長、それに秘書室長がわたしを待ってました。驚いたのは、わたしが『週刊潮流』にリークしたと、彼らが思っていたことです。女房がわたしの留守中に、吉田さんと会うために外出したと話したことがその根拠なんです。莫迦《ばか》莫迦しいやら、腹立たしいやら。そんなことはともかく、用件を言います。広報部が『週刊潮流』の取材を受けた段階では、事実関係を把握しきれていなかったようです。つまり、告発書に書かれてることは事実なんですよ。広報はやっとその確認ができて、あわてふためいてるっていうわけです」 「依田さんとおっしゃる広報の副部長さんがえらい剣幕で否定したのは、二日前ですよ。わたしが依田さんに電話でお尋ねしたのは三日前です。きちっと調査して確認したうえで返事をすると言われたので、二十二日の午後三時に協銀で依田さんにお会いしたんです。『週刊潮流』ともあろう一流誌が、怪文書を記事にするとはなにごとか、と終始高姿勢で、さっきも話しましたけど、あげくの果てに名誉|毀損《きそん》で告訴するですからねぇ。一流銀行の協銀さんの広報体制はどうなっちゃってるんですか」 「本部の融資部門と審査部門に否定されれば自信を持ちますよ。わたしが依田の立場でも告訴ぐらいのことは言ったと思います」 「さあ、竹中さんはずるいからもう少し上手に対応するんじゃないですか。依田さんは直情径行っていうんですか、多血質で広報タイプじゃないと思いましたけど」 「恐れ入ります。しかし、依田は被害者ですよ。それが事実だとわかって、いちばん怒り心頭に発したのは依田です。当然ですよ。吉田さんに合わせる顔がありませんもの」 「横浜支店はどうして本部に融資の件を報告しなかったんでしょうか」 「鈴木の立場をおもんぱかったんじゃないんですか」 「つまり不正融資っていうことになるわけですね」 「それは違うと思います。信じてもらえないかもしれませんが、鈴木は本件についてノータッチで、きょう初めて事実を知らされて、相当頭にきてました」 「わたしは田園調布の鈴木邸に行きました。奥さんらしき人が出てきて、留守だと追い返されましたけど、多分居留守でしょう。恵比寿のマンションにも行ってきました。こっちはほんとうに留守でした。�雅志会館�に電話をかけて訊《き》いたところ川口夫妻はアメリカに出張中だそうですね」 「ええ。そのようです。やっぱり鈴木邸に夜討ちをかけたのは吉田さんだったんですか。それで、当方は事実を認めたわけですが、担当の副頭取に頭を下げに行かせても『週刊潮流』さんは記事にしますかねぇ」 「当たり前でしょ。ムダなことはおやめになったほうがいいと思います」 「広報部長が吉田さんにお詫《わ》びしたいと言ってますが、会っていただけますか」 「考えさせてください」 「そんなつれないことをおっしゃらずに会ってやってくださいよ。記事の公正を期するためにも広報のコメントがあったほうがよろしいような気もしますけど」 「ご配慮、いやご教示は感謝します。しかし談話をいただきたいのは鈴木会長です」 「鈴木を出すのは可哀相《かわいそう》です。横浜支店が融資に際して、鈴木をカウントするというか、勝手に鈴木の気持ちを忖度《そんたく》したことはあったかもしれませんけど、鈴木はほんとうに知らなかったと思いますよ」  われながら空々しい、と竹中は思った。  果たして、吉田は峻烈《しゆんれつ》だった。 「それを信じろっていうほうが無理ですよ。竹中さんの発言とも思えません」 「手厳しいですねぇ。締め切りはいつですか」 「月曜日です。あした鈴木会長邸にもう一度お訪ねするつもりですけど」 「ご勘弁願えませんか」 「ま、シラを切らずに事実を認めたのは賢明だと思いますよ。わたしを含めて編集部の心証は違ってくると思いますが、一応、広報部長さんのお宅の電話番号を教えていただきましょうか」 「はい。少々お待ちください」  竹中は行員名簿を繰って、高村昭の氏名を見つけ出すまでに二分ほど要した。 「お待たせしました。住所と電話番号を申し上げます……」  吉田との長電話が終わったのは零時三十五分過ぎだから、四十分も話していたことになる。  八月二十五日日曜日の昼前に高村から竹中に電話がかかった。 「『週刊潮流』の吉田記者からいま電話がかかってきたよ」 「はい。それでどういうことになりました」 「あした十時に銀行に来てくれるそうだ。会長に会わせろって強硬だったが、ご容赦いただきたいで通した。秘書室長とも電話で話したが、会長を出すことだけは絶対に阻止してくれの一点張りだった。しかし、広報の立場はないよねぇ。依田なんて可哀相に、悔しくて昨夜は眠れなかったって、さっき電話をかけてきたよ。だけど会長が知らなかったっていうのはほんとのところどうなの」 「秘書室長はそう言い張ってましたけど、わたしも眉《まゆ》にツバを塗りたくなります」 「そうだよなあ。だけど、それで通すしかないんだろうな」 「もちろんです」 「きのう俺たちが帰った直後に会長から電話があったそうじゃないの」 「ええ。秘書室長はカミナリを落とされてた様子でしたけど、『週刊潮流』に書かれたらどういうことになるんですか。それもデカデカと派手にやられそうな気配ですよねぇ。参りましたねぇ」 「電話の様子ではマイルドな感じがしたけど、吉田記者ってどんな人」 「年齢は三十三、四ですかねぇ。若いけど相当な出来物《できぶつ》です。童顔でソフトな感じはしますが、けっこう手厳しい記者です」 「きみにも同席してもらおうか」 「ご冗談を」 「冗談なんてことはないよ。少しは広報の身になってくれてもいいんじゃないのか」 「わたしも広報にいましたから、お気持ちはよくわかりますが」 「ほんと考えといてよ」  高村との電話が終わったあとで、竹中はあることに思いをめぐらして、少し心配になってきた。厭《いや》なサラリーマン根性を吉田に見せるのは切ないが、思いついてしまった以上ここは仕方がない。  竹中は吉田の自宅に電話をかけた。  吉田が直接電話に出た。 「竹中です。昨夜はどうも」 「こちらこそ失礼しました」 「高村にお会いいただけるそうで、ありがとうございました。いま、高村から電話があったんです。すでにかなりプレッシャーを感じてるみたいでしたよ。わたしに同席してくれなんて言い出すくらいですから。お手やわらかにお願いします」 「鈴木会長は逃げの一手ですねぇ。逃げも隠れもしないほうが記事の内容はトーンダウンするんですけどねぇ」 「そのことは高村に言ってくれました?」 「ええ。でも、ガードは固いみたいです」 「小心翼々としてて、あなたに莫迦にされることを百も承知で申し上げるのですが、三年前にわたしが吉田さんにアプローチして、いろいろお願いしたり、いろいろあったことはどうかご内分に願います。わたしの一存で行動したことなんです」 「そんなこと言われなくてもわかってますよ。わたしが竹中さんを貶《おとし》めるようなことをすると思いますか」 「ありがとうございます」 「そんなくだらないことを考える暇があったら、鈴木会長を誌面に出すことを考えてくださいよ」 「どうも致りませんで。会長のことはダメモトで秘書室長に話してみます」 「そんなにご心配なら同席したらどうですか」  言わずもがなだった、と竹中は激しく後悔した。     6  八月二十八日に発売された『週刊潮流』は第一特集で�協立銀行で不祥事発覚!!��横浜支店が不正融資の疑い��融資先代表は鈴木会長の長女�などと報じた。  新聞広告でも、全五段の三分の一の大きなスペースが割かれていた。 [#ここから1字下げ]  都銀大手の協立銀行でなにやらキナ臭い不祥事が発生したようなのである。ことの発端は本誌編集部に郵送されてきたワープロによる匿名の投書。「協銀横浜支店が『エムアンドケイコーポレーション』なるペーパーカンパニーに十億円の不正融資を実行した」という内容だが、編集部が取材を進めていく過程で意外な事実がわかった。  融資先の代表取締役川口雅枝さん(四十一歳)は協銀会長鈴木一郎氏(六十九歳)の長女。そして雅枝さんの夫、川口正義氏(五十一歳)は横浜にある結婚式場�雅志会館�の経営者。川口夫妻は八月二日付で婚姻届を渋谷区役所に提出したばかりだが、共に再婚。ユニークなカップルはビジネスを兼ねてアメリカに新婚旅行中だ。鈴木会長は「融資の事実は知らなかった」と協銀広報部を通してコメントしたが、四年近く前、横浜支店は川口氏の融資依頼を担保不足などの理由で断った経緯があるという。投書の「不正融資」に俄然《がぜん》リアリティが生じてくる。住専問題などを通じて銀行の経営姿勢が厳しく指弾されたのはつい昨日のことだ。こんな「不正融資」が罷《まか》り通る大銀行に対する庶民の不信感はいっこうに解消されないどころか逆に募る一方ではないのか。 [#ここで字下げ終わり]  ゴチックの前文もセンセーショナルだが、本文はもっと激しく協銀を叩《たた》いていた。 [#ここから1字下げ]  川口雅枝(旧姓三原)さんが、銀座で「ギャラリー・みやび」を経営していることは知る人ぞ知るだ。  雅枝さんと川口氏との出会いは三年ほど前だが、二人の共通の知人であるAさん(四十四歳)は、「川口氏も絵画ビジネスに精通している。絵画ビジネスが二人の仲を取り持ったのではないか。そしていつしか恋愛関係に発展したのだろう」と解説する。  協銀広報部によると、「エムアンドケイコーポレーション」は払込資本金一千万円で、川口正義氏が出資、絵画ビジネスを事業目的に設立されたが、営業活動はこれからという。  いわば海の物とも山の物ともわからないペーパーカンパニーに十億円もの巨額出資が八月五日付で実行されたのである。  ここで「投書」に触れよう。 「川口氏が横浜市内で経営する結婚式場�雅志会館�は二重、三重に根抵当権が設定されているので担保能力はゼロ。しかも三年前に横浜支店は川口氏との取引関係を解消した。融資を断られた川口氏サイドが当時の支店長や副支店長に夜中の無言電話などの厭《いや》がらせをした事実もある。ペーパーカンパニーの代表者は川口雅枝さんで、川口氏は表面に出ていないが、事実上の責任者が川口氏であることは疑いを容れない。  不思議なことは、横浜支店は融資に当たって審査らしい審査をした事実がないことだ。鈴木会長の圧力があったとしか思えないが、ワンマン会長の銀行私物化は目に余る。 こんな不正、愚行が許されているのだから、真面目《まじめ》に働いている大多数の行員は浮かばれない。  十億円の融資額のうち五億円は定期預金で担保になっているので、実質五億円の融資だが、これが不良債権化する可能性はきわめて高い。鈴木会長の経営責任が問われて然るべきではないだろうか」(以下略)  協銀広報部は、本誌編集部に当初「投書に書かれているような融資の事実はない」と否定したが、二日後に、「事実を認める」と訂正してきた。 「本部は関与しておらず、横浜支店の判断でエムアンドケイコーポレーションへの融資が実行された。支店のことなので把握しきれなかったため手違いが生じた」と高村昭取締役広報部長は前置きしたうえで、「審査は厳正に行なわれたと聞いている。�雅志会館�の川口社長は横浜支店にとって、かつては優良なお取引先だった。お取引関係が復活したということもできるし、下火だった絵画ビジネスはこれから上向くことが期待されるので、有望な新しいお取引先とも言える。不正融資では断じてない」と言いきる。  鈴木会長が「融資の事実を知らなかった」というのはいかにも不自然と思えるが、鈴木会長のコメントについては「横浜支店からも確認を取っている=高村氏=」という。 「投書」との乖離《かいり》が大きいが、どっちを取るかの判断は読者の皆さんにまかせるとして、「李下《りか》の冠」、「瓜田《かでん》の履《くつ》」の譬《たとえ》を協銀トップに進呈しておこう。 [#ここで字下げ終わり]  記事は著名評論家の談話でしめくくっていた。 [#ここから1字下げ] 「会長が知らなかったことが万一事実だとしても世間では通用しない。非常識ということになる。大阪の中堅不動産会社ナガサカに都銀大手のコスモ銀行がバブル期に頭取の判断で五億円融資したことがあった。融資後ナガサカは大阪地裁に和議申請し、事実上倒産した。ナガサカへの融資はある経済誌のオーナーに頭取が無理強いされて、�トップ貸し�のような形で実行されたが、�総量規制�によってナガサカの倒産が予想されていたとする見方もある。頭取の特別背任と言えなくもない。今度の一件も銀行トップの無責任体質を露呈した犯罪的行為と思われても仕方があるまい」 [#ここで字下げ終わり]     7  協立銀行の本店も全国の支店も、八月二十八日は騒然となった。 『週刊潮流』を読まなかった協銀マンは一人もいなかったかもしれない。  プロジェクト推進部では、岡崎が朝の�班長会�で質問攻めにあった。 「怪文書の犯人は誰なの。岡崎なら特定できるだろう」 「Aさんっていうのは、もしかして岡崎のことじゃないの」  その質問を訊《き》いたとき、竹中はドキッとした。  川口夫妻の共通の知人が協銀に存在するとすれば竹中しかいない。年齢もぴったりだ。もっとも協銀以外ならいくらでもいるだろうが。 「特定できっこないですよ。横浜支店の誰かとは思いますけど」  岡崎はかわしたが、賢明である。  山岸であることは察しがついているはずだが、犯人探しは陰に籠《こも》るだけで、プラスにはならない。  岡崎は、会議終了後さりげなく竹中に近づいてきた。 「山岸の名前は忘れてくれな」 「もちろんだ」 「山岸から朝自宅に電話があってねぇ。新聞広告を見て、してやったりの気持ちになったと言ってたよ」 「しかし、山岸は支店長ともやりあった事実もあるから、消去法でいけばどうしたって山岸が残るだろう」 「俺もそれは心配だ。ところが山岸は犯人扱いされてもかまわない、なんなら名乗り出てもいい、なんて言い出すから、絶対にやめろ、知らぬ存ぜぬで通せって言っておいた」 「それでいい。怪しいと思われたとしても証拠はないしねぇ。山岸のやったことは協銀マンとしてはゆるせないが、鈴木—佐藤ラインの権力構造に一石を投じることになれば、それはそれで評価できるよ」 「取り仕切った佐藤秘書室長は、いまどういう心境だろう。横浜支店長は割りを食って気の毒だよなあ」 「そうでもないだろう。秘書室長に大きな貸しをつくったと思えば気が楽だよ。貸しは必ず返してもらえるんじゃないのか」  竹中が自席に着くと、デスクの上にメモが置いてあった。  会議中の電話は原則として取りつがないことになっているが、児玉由紀夫だけはメモを入れてもらいたいと竹中は思った。  メモはほかに�渉外班�の永田、企画部の杉本、広報部の依田。  竹中は、まず児玉事務所に電話をかけた。  時計は十時を回ったところだから事務所にいると思ったのだ。 「十一時まで自宅にいらっしゃいます」  女性事務員に言われて、児玉邸にかけ直すと、すぐに児玉が出てきた。 「竹中です。お電話いただきまして、失礼しました」 「忙しいのに悪いなあ。『週刊潮流』読んだよ。鈴木はよくないぞ。川口は、あれで終止符が打たれたはずなのに、なんてことをしたんだ。『知らなかった』もけしからんな。鈴木もヤキが回ったのかねぇ。『知らなかった』はアクセントをつけたのと一緒だよ」 「まったく同感です。まだまだ尾を引きそうなんで憂鬱《ゆううつ》ですよ」 「川口は鈴木の娘をとうとう手に入れたのか。しかし、『週刊潮流』に書かれて、もう協銀をしゃぶることはできんだろう。誰のリークか知らないが、バンカーにも度胸のいいのがおるんだねぇ」 「先生がわたしをお疑いでしたら見当外れです。わたしは、先月十九日に川口氏に会いましたが、きっぱり融資はできない、と断ったんです。そのあとで横浜支店を使って、あんなことをやるなんて夢にも思いませんでした」 「わしは竹中も一枚|噛《か》んでると思ってたが」 「ありません。そんな度胸はないですよ」 「いや、きみは正義派だからねぇ」 「とんでもない」 「邪魔したな。近くまた会おう」 「ありがとうございます」  児玉との電話はあっさり切れたが、次にかけた依田は高村に替わってからが長電話になった。 「新聞記者、雑誌記者からの問い合わせ電話がもの凄《すご》くて、会議室に避難してます」 「そうだろうねぇ。わたしにも会議中に何本か電話がかかってきたもの。でもマスコミには丁寧に対応したほうがいいと思うよ」 「部長に横浜支店長から強烈なクレームの電話がありました。いま部長に替わります」 「高村だけど、いったいどうなってるんだ」 「なんのことですか」 「秘書室長は横浜支店長に当然、言い含めてると思ったら、なんにも聞いてないって言うんだ。きみはどう聞いてた」 「土曜日の夜、秘書室長から自宅に電話がかかり、広報部長が了解してくれました、と……」 「それだけか」 「広報は本部が関与していなかったから事実関係の把握が遅れた、そう吉田記者に伝えてくれと言われました。横浜支店長には含んでもらうとは言ってませんでしたけど、そんなの当然の話でしょう」 「ところが、横浜支店長はなんにも聞いてないって言うんだ。俺も頭がこんがらかって、なにがなんだかわけがわからんよ」 「秘書室長に確認されましたか」 「二度電話をかけたが、打ち合わせ中らしい。多分会長につかまってるんだろう」 「秘書室長は忙しすぎて、失念したとしか思えませんが、肝心なところに手を打つのを忘れたとは驚きです。そういうことはきちっとやる人ですのにねぇ」 「いくら忙しいからといったってそんなポカがゆるされるのかねぇ。横浜支店長も俺も、立つ瀬がないわな」 「お察しします。わたしも秘書室長に、横浜支店長への根回しについて念を押しておくべきでした」 「それは俺も同じだけど、子供じゃあるまいし念を押さなければならないことじゃないよなあ」 「しかし、横浜支店長が『週刊潮流』と接触した事実はないんでしょ」 「月曜日の朝、一度だけ電話があったらしいが、広報を通すように女性秘書に言わせたようだ。自宅にでも電話されてたら、どうなってたかねぇ」 「不幸中の幸いでしたね。秘書室長は、広報部長にひどく叱《しか》られたって話してましたけど、横浜支店長もそうですが、失礼ながら大きな貸しを秘書室長につくったと思うしかないんじゃないですか」 「秘書室長、そんなふうに言ってたの」 「ええ。まあ」  竹中は思わせぶったが、佐藤を庇《かば》う必要があるのだろうか、という疑念のほうが強かった。 「ふうーん」  満更でもない、と言えば大袈裟《おおげさ》だが、いくらか高村の口調がトーンダウンした。  それにしても、佐藤ともあろう人が、なにを考えているのだろう。結局あの人は上しかそれも鈴木会長しか見ていないのだろうか、そんな思いが竹中の胸中をよぎった。 「大きな借りができたって考えてくれる人ならいいんだけど、横浜支店長なんか、俺たちの存在なんて頭の隅にもないんじゃないかって僻《ひが》んでたぞ」 「そんなことはないと思いますけど」 「広報部長になって、こんなひどい事件に遭ったのは初めてだよ。頭取も相当、気にしてた。きのうの常務会で、会長がこの問題に触れなかったのも、不思議っていうか不可解だよねぇ」 「そう思います」  火曜日の常務会後の昼食会でも『週刊潮流』の件が話題にならなかったことを竹中は永井から聞いていた。 「広報に照会が殺到してるので統一見解を出さなければならないが、竹中になにか意見はないか」 「部長が『週刊潮流』にコメントした以上のことはないと思いますけど。会長が知らなかった、はそれでよかったのかどうか疑問ですが、いまさらシナリオの変更はあり得ません」 「新聞記者たちがいちばんうるさく言ってくるのもその点だよ。もちろん、あれで押し通すしかないが、頭取はさかんに首をかしげてた。事件そのものを知ったのも、われわれと同じ先週の土曜日だからねぇ」  そこまでは言及しなかったが、高村が斎藤頭取に電話で報告したのだろう。 「竹中にはこれからも協力してもらうからな」 「部長、それはご容赦ください。プロジェクト推進部も多忙をきわめてますので」 「いや、竹中にはわれわれを助ける義務があるよ」 「そんな、冗談じゃないですよ」 「『週刊潮流』に出てきた�Aさん�は竹中なんじゃないのか」 「まさか。吉田記者にあんなコメントをした覚えはありません」  そう言い返しながらも、疑われても仕方がない、と竹中は思った。 �渉外班�の永田も、総会屋やブラックジャーナリズムの問い合わせで、きりきり舞いさせられていた。  竹中が電話をかけたとき話し中で、二十分も経ってから折り返し電話をかけてきた点にも、そのへんは汲《く》みとれる。 「『週刊潮流』の記事は事実なんですってねぇ。竹中さんがつかまらないので、広報の人に確認しました」  俺に電話してくる前に、なぜ広報にサウンドしないのか、と言いたいのを竹中はこらえた。  永田はわずか一年とはいえ戦友だった。俺に親近感をもっているだけのことだ——。 「残念ながら、そういうことです」 「鈴木会長のお嬢さんが川口正義と結婚したとは驚きました」 「川口を知ってるんですか」 「ええ。名前ぐらいは。ブラックではけっこう知られてますよ。あんな筋のよくない人とねぇ。総会前に『週刊潮流』に書かれてたら、こんな程度の騒ぎじゃ済まなかったと思いますよ」 「その感じはよくわかります」 「ブラックは会長攻撃をしてくるかもしれません。われわれは精いっぱいガードしますが、とても抑えきれないと思います。�渉外班�の電話は鳴りっ放しで、そのすべてが『週刊潮流』の記事についての問い合わせですからねぇ」 「察して余りありますよ」 「会長もご難続きですねぇ」 「ほんと。溜《た》め息が出ますよ」 「じゃあ、また」  電話がかかったらしい。 「どうも」  竹中は受話器を置いて、杉本にかけるべきかどうか一瞬迷った。こっちからかけなければ、杉本のことだからしつこくかけてくるに相違ない。 「竹中ですが」 「ああ、俺だ。えらいことになったなあ」 「広報部長からなにか言ってこなかった」 「いや。なにも」 「横浜支店長が怒ってるんだって」 「どうして」 「秘書室長からなんにも聞かされてなかったらしいよ。まさか、杉本が忘れたなんてことはないよねぇ」 「ふざけるなよ。しかし、それはまずかったなあ」 「きみの電話はその件だと思ったんだが」 「違う。�Aさん�って竹中のことなんだろう」 「きみまでなんだ。冗談じゃないぞ」 「きみまでってことは、ほかのやつも言ってるってわけだな」 「ああ。広報部長に言われたが、曲解もいいところだ」 「仮に竹中だとしても、あんなのどうってことないよ」 「三年前はそうじゃなかった。俺は�渉外班�にぶち込まれて、特命やらされたんだからねぇ。隔世の感があるよ。そんなことより、秘書室長に、横浜支店長の件、きみから伝えといてくれよ」 「勘弁してくれ。さっきちらっと会ったけど、顔がひきつってたよ。話しかけることもできないほど近寄り難い雰囲気だった」 「そういうときこそ、慰めてあげるのが腹心なんじゃないのか」 「しかし、この問題に関する限り、佐藤さんの打つ手は裏目に出てるよなあ」 「たとえば」 「川口と雅枝さんが結婚したことをもっと重大に考えるべきだった。そうすれば融資はあり得なかったろう」 「いまさらそれはないだろう。俺が川口に正論をぶつけたときが勝負どころだった。いまのセリフをあのとき言ってれば、俺も杉本を見直してたけど。それとあとはなに?」 「横浜支店の融資は事実無根で通すべきだったんじゃないのか」 「その判断もおかしいねぇ。内部告発書を入手した段階で勝負はついていた。『週刊潮流』は必ず書いたと思うよ」 「やけに絡むじゃねえか」 「きみがそっぽなことを言うからだよ」 「川口がこんなに祟《たた》るとはなあ」 「それも、最初のボタンの掛け違いに問題があった。ぴしゃりと撥《は》ねつける手はあったんだ」 「おまえは先見の明を誇ってるっていうわけか」 「いや。とにかく横浜支店長の件は早めに秘書室長の耳に入れといてもらいたいねぇ。それができるのは杉本しかいないからな」 「内部告発の犯人を探し出して絞め殺してやりてえよ」 「気持ちはわかるが、あんまり意味はないと思うよ。窮鼠《きゆうそ》猫を噛《か》むっていうこともあるからねぇ」 「プロジェクト推進部にいる岡崎はどうだ。あいつなら、あり得ると思うが」 「あり得ない。杉本は俺のことも疑ったが、融資実行日まで特定してることを思い出してもらいたいな」 「しかし、かつての部下と岡崎が結託してたらどうなる」 「岡崎に限ってそんな莫迦《ばか》なことはしない。プロジェクト推進部、わけても�岡崎班�の忙しさは大変なんだ。そんな暇があるわけないし、怪文書みたいな卑劣な手段に訴えるのは、モノマニアっていうか病気なんじゃないかねぇ。犯人探しみたいなことをやったら、横浜支店はガタガタになっちゃうよ。嵐《あらし》が通り過ぎるのを待つしかないんだ」 「通り過ぎるのかねぇ。もっともっと吹きまくるんじゃないのか」  声量を落とし、妙に深刻な言い方に、さすがの杉本も相当こたえているようだ、と竹中は思った。     8  横浜支店営業課長の山岸真一が支店長室に呼び出されたのは、二十八日の午後四時過ぎである。 「座りたまえ」  大島の声がふるえている。顔色もひどく悪かった。 「『週刊潮流』は読んだんだろう」 「ええ。もちろん読みました。支店長にエムアンドケイコーポレーションは川口正義関係ではないのですか、とお尋ねしたとき言下に否定されましたが、『週刊潮流』の記事が事実だとすれば、支店長はわたしに嘘《うそ》を言ったことになるんですねぇ」 「そんなことはどうでもいい」  大島はメタルフレームの眼鏡を外して、窪《くぼ》んだ眼を左手の甲でこすりながら、話をつづけた。 「『週刊潮流』に投書したのは山岸なのか。本部から、調査するように言ってきたんでね」  山岸はあやうく「ええ」と答えそうになった。岡崎の顔が眼に浮かばなかったら抑えが利かなかったろう。 「いいえ。わたしではありません」 「それでは訊《き》くが、きみではないとして思い当たる者はいないのか」  山岸は思案顔をしたが、思い当たる人物は自分以外にいないのだから、誰の顔も思い浮かばなかった。 「いません」  大島は貧乏ゆすりをしながらいらいらした声で言った。 「四年近く前の一件を承知してる者は山岸以外にいないんじゃないのか」 「そんなことはないと思います。当時の支店長と担当の副支店長が川口サイドから厭《いや》がらせを受けた話は、支店内でかなり伝わってましたから」 「具体的に名前をあげたまえ」 「そんな必要があるんでしょうか」 「山岸以外に考えられない、とわたしに進言してきた人がいる。もし、きみが犯人じゃないというんなら、反証してもらわないとねぇ」 「どなたがわたしを犯人と特定したんですか」 「きみに伝える必要はない」 「わたしが犯人だという証拠を出してください。わたしは警察官でもありませんので、犯人を特定できません。つまり反証できないということです」 「よく考えてあすまでに返事をしてもらおうか」  大島は右手で追い払うような仕種《しぐさ》をして、出て行くよう指示した。  大島に犯人探しを命じたのは佐藤である。  横浜支店に佐藤から電話がかかったのは午後三時だが、驚いたことに、佐藤の口から最後まで詫《わ》びの言葉は発せられなかった。 「『週刊潮流』に投書した行員の心当たりはありますか」 「いいえ」 「非常に悪質な内容です。看過できないと思いますが、あなたの意見はどうですか」 「横浜支店は本部の指示に従っただけですが、なぜか独断でエムアンドケイコーポレーションに融資したように書かれて大変ショックを受けてます。本部から漏洩《ろうえい》したということはないんでしょうか」  大島は遠回しに佐藤を非難したつもりだが、佐藤は、一顧だにしなかった。 「そんなことはあり得ないでしょう。融資の実行日まではわたくしだって知りませんでした。大島さん、この一件は責任問題に発展しないとも限りませんよ。全力で犯人を探すことがあなたの責務です」 「責任問題と申しますと……」 「当然、横浜支店長は管理責任を問われるんじゃないですか」  大島ははらわたが煮えくり返り、躰《からだ》中の血液がたぎった。 「本部に責任はないんでしょうか」 「融資の事実を知らなかった会長に責任はないでしょう。形式上、横浜支店の判断で融資が実行されたわけです」 「支店長のわたしに指示した方に責任はないんでしょうか」 「ないとはいいません。道義的責任はあるでしょうが、それ以上の責任は取りようがないと思いますよ」 「投書した者を特定できたとしても、その者を処分することはできるんでしょうか」 「もちろんします。これだけの騒ぎを起こして、協立銀行と会長の名誉を著しく傷つけたんですから」 「『週刊潮流』誌上で不正融資ではない、と広報部長が明言してます。それでも処分しなければいけませんかねぇ」 「そう思います。犯人が特定できるにせよ特定できないにせよ、形式的に大島さんには責任を取ってもらわざるを得ないと思うんです。いわば緊急避難です。ちょっと脇《わき》に退いていただくことになると思いますが、決して悪いようにはしません。その点はわたくしを信じてください」 「具体的にはどういうことになるんでしょうか」 「協立リースの常務ということでどうでしょう。むろん出向です」  大島は息を呑《の》んだ。もうそこまで話が進んでいるとは。佐藤は人事部長とも話をつけている。当然、人事担当副頭取、頭取との根回しも終えているに違いない。  横浜支店長に赴任してわずか二カ月で、子会社に飛ばされるわが身の不運を呪《のろ》わずにはいられなかった。  大島は沸騰していた血液が一気に凍りつき、顔が蒼《あお》ざめ、ぞくぞく寒けがしてきた。  横浜支店長の辞令を受けて、佐藤取締役秘書室長に挨拶《あいさつ》に行ったとき、「来年は役員ですよ」と耳打ちされたが、あれは夢だったのか幻だったのか。 「わかりました」  大島はしゃがれ声を押し出し、ふるえる手で受話器を置いた。 「緊急避難」だとも「悪いようにはしない」とも佐藤は言ったが、鈴木会長の怒りを鎮めるために、俺を子会社へ放逐するのであれば、片道キップで協立リースに行かされると考えなければならない。佐藤の言葉はリップサービス、おためごかしに過ぎない。  なぜなら人事権者は鈴木であり、佐藤ではないからだ。鈴木が人事権者である限り、俺が役員で協立銀行に戻れる確率はゼロに等しい——。  この大島の解釈は当たっていた。  八月二十八日の朝、通常より三十分早い八時半に出勤した鈴木は、会長執務室に入るなり、女性秘書に佐藤を呼ぶように命じた。佐藤はいつもなら八時五十分までに出勤するが、虫が知らせたというべきか、八時二十分には自室で待機していた。 「きょうのスケジュールはすべてキャンセルしてくれないか」  佐藤の顔を見るなり鈴木は険しい顔で命じた。 「『週刊潮流』は止められなかったのかね。それとも止める努力はしなかったということか」 「そんなことはありませんが、広報部長は精いっぱい対応したと思いますが」 「なにが精いっぱいだ。不正融資だの、犯罪行為だのと書かれたわたしの名誉はどうなるんだ。協立銀行がメディアにこれだけ叩《たた》かれたことはかつてないことだ。横浜支店からどうして融資の件が洩《も》れたのか至急調べて報告してくれ」  鈴木はたるんだ頬《ほお》をぶるぶるふるわせながら、浴びせかけた。 「だいたい、きみの判断がなってない。横浜支店を使ったことも気にくわんし、竹中といったか、川口に会わせることもなかった。きみが川口に会ってれば、こんなことにならなかったんじゃないのかね」 「たしかに会長のおっしゃるとおり結果は最悪です。わたくしも責任を痛感してますが、今回は川口氏への融資そのものに無理があったようにも思われます。横浜支店を使う以外の手はわたくしには思いつきませんでした。内部告発までは予測できません」  明らかに会長批判である。  鈴木の表情がいっそう険悪になった。 「それならなぜ初めからノーと言わんのだ」 「会長が川口氏に融資することを確約したとお聞きしましたので、その方向で対応せざるを得なかったのです。しかし、三年前の件は隠蔽《いんぺい》しきれると思います。今回の件もこれ以上マスコミでエスカレートしないよう全力を尽くします。今回の件はどうかご放念ください」 「これだけ恥をかかされたら、簡単には忘れられんよ。広報部長と横浜支店長には責任を取ってもらおうか」 「横浜支店長は就任二カ月です。広報部長は最前も申し上げましたが、精いっぱい対応していると思いますが」 「『週刊潮流』を抑えきれずになにが精いっぱいだ。わたしは承服できんな」 「しかし、ここでバタバタしますと、マスコミに乗じられます」 「横浜支店長だけでも更迭《こうてつ》しろ」  鈴木が唐突に話題を変えた。 「来週の常務会で、わたしはなにか言ったほうがいいと思うか」 「その必要はまったくないと存じます。なんでしたら雑談で、きわめて遺憾《いかん》だ、ぐらいのところでよろしいと思いますが」 「『週刊潮流』を名誉|毀損《きそん》で告訴することはどうか」 「得策とは思えません。常務会で告訴することも考えたい、と会長から発言されたらいかがでしょうか」 「うん。川口の話だと竹中っていうやつは、無礼きわまりないそうじゃないか。この機会に竹中の処分も考えたらどうかな」  話があっちへ飛び、こっちへ飛ぶ。鈴木の精神状態は普通ではなかった。 「竹中は川口氏の問題に当初からタッチしてますので、不自然な動かし方はどうでしょうか。反発されても困りますし」 「竹中が週刊誌へのリークに関与してることはないのかね」 「ないと思います」 「ちょこざいなやつだ。本部から出したらどうか」 「永井さんの意見も聞いてみましょう。時期を見て、考えます」  鈴木は午前中、佐藤をつかまえて、とりとめもなくあれこれ話したが、激昂《げつこう》したり、愚痴ったり、心の動揺ぶりをさらけ出した。     9  二十八日の夜十時過ぎに岡崎から竹中宅に電話がかかった。  挨拶《あいさつ》のあとで岡崎が言った。 「いま、横浜支店の山岸から電話があってねぇ。夕方支店長に呼ばれて、詰問されたらしいんだ。あやうく、白状しそうになったが、俺の言ったことを思い出して、辛うじて踏みとどまったと話してたが、あしたまた呼び出されることになってるんだって。つまり、山岸は疑われてるわけだよ。竹中も言ってたが、消去法でいくと、どうしても山岸にぶつかるってことなんだよねぇ。山岸はめんどくさいから『週刊潮流』に告発したことをしゃべっちゃう、そのほうが気が楽だって言うわけよ」 「それで、きみはなんと答えたの」 「早まるんじゃないって言ったが、支店長の様子は尋常ならざるものがあるらしいよ」 「尋常ならざる……」 「うん。本部、多分佐藤秘書室長だと思うけど、犯人を探し出せって要求されたんだろうねぇ。支店長が責任を問われてるんじゃないか、と山岸は話してたが」 「きみのアドバイスは正しいと思うな。山岸は知らぬ存ぜぬで押し通すべきだよ。横浜支店長になって二カ月しかならない人を飛ばすほど、佐藤さんは莫迦《ばか》じゃないだろう。仮にも�柳沢吉保�って言われる知恵者だからねぇ」 「柳沢吉保!」  岡崎がオクターブの高い声を発したので、竹中は余計なことを言ったと後悔した。 「切れ者だっていうことだけど、会長から秘書室長に相当な圧力がかかったであろうことは想像に難くないが、いくらなんでもそれはないよ。大島さんの過剰反応なのか、山岸がナーバスになってるのか、よくわからんが、会長と秘書室長がこの程度の問題でトカゲの尻尾《しつぽ》切りみたいなことをしたら、それこそ世間でもの笑いのタネにされるよ」 「竹中はこの程度の問題って言うけど、協立銀行始まって以来最大の話題っていうか不祥事なんじゃないのか。地方の支店長やってる同期の連中から、問い合わせの電話が六本もかかってきたぜ、きみだってそうだろう」  竹中は広報部と�渉外班�に在籍していたことがあるだけに、同期に限らず先輩からも何人か電話をかけてきたが、「よくわからない」で通した。 「山岸が協立銀行を辞めるつもりになっているのかどうか知らないが、岡崎以外の誰にも話さないほうがいいと思うよ。その点はくどいほど念を押しといたらいいね」 「そうだな。もう一度電話をかけておくよ」 「前横浜支店長は、きみになにか言ってきたのか」 「いや。うんでもすんでもない」 「よく言えば泰然自若としてるってわけだ。サラリーマン根性とも言えるけど、その態度は立派じゃないか。きみは驚天動地の大事件みたいに言うけど、たいした問題じゃないよ」 「竹中は大物だからなあ」 「皮肉を言うな。じゃあな」  竹中は電話を切ったあとで考え込んでしまった。  川口問題に一貫して関与してきた俺と、そうではない岡崎の受けとめ方が異なるのは仕方がないにしても、こうも差が生じるものなのだろうか——。横浜支店は屈指の大型店舗だけに、さぞや不良債権も多いことだろう。取り立て、回収に懸命に取り組んでいる山岸が、不正融資をゆるせない、と思うのは当然なのだ。 [#改ページ]  第十五章 疑心暗鬼     1  大島横浜支店長から佐藤秘書室長に電話がかかったのは、翌八月二十九日の午後二時過ぎである。 「怪しいと思える人物は存在しますが、特定できません。本人とも二度話しましたが、否定してます。状況証拠らしきものはありますが、確証はないので、結局特定できないということになります」 「怪しい人物の名前はなんといいますか」 「山岸真一です。高卒ですが営業課長をしてます。四年ほど前の件も知ってて、今回の件で、わたしに川口への融資ではないかと訊《き》いてきました」 「わかりました。その山岸という人が否定してるなら特定するのは難しいでしょうねぇ。ご苦労さまでした」  短い電話だった。  佐藤はさっそく大島の更迭に向けて動きだした。不条理な人事であることは百も承知だが、権力者の鈴木会長には逆らえない。  佐藤は、取締役人事部長の奥野順三を秘書室長室に呼びつけた。奥野は昭和四十二年に入行した。大学も佐藤と同じ東大法学部で一年先輩だが、行内での力関係は逆転していた。 「横浜支店長の大島さんを九月十日付で動かしたいんですが……」  奥野は吐息をついて、整った顔を歪《ゆが》めてしばらく口をつぐんでいた。 「会長の強い意向です。協立リースの常務あたりでどうでしょうか。左遷ということにはならないと思いますが」 「…………」 「これだけの問題を起こして、誰も責任を取らないというわけにもいかないでしょう」 「わたしは賛成しかねます。そもそもそんな大事件なんでしょうか。まだ就任して間もない大島は不慣れゆえに、うまく立ち回れなかった点はあるでしょうが、致命的なエラーとは思えません。大島は四十五年組のエースですよ。役員にするタイミングを一年ずらすぐらいでよろしいと思いますがねぇ」 「大島さんから人事部長になにか言ってきましたか」 「いいえ。秘書室長は本人になにか話されたんですか」  奥野がわずかに小首をかしげた。  佐藤はそれを見逃さなかった。 「人事部長を差し置いて出すぎた真似をして申し訳ありません。会長が収まらないんですよ。緊急避難ということで、了解してくれると思いますが」 「…………」 「人事部長から、山田副頭取に話して、頭取の了解を取ってください。大島さんの後任は人事部長におまかせしますよ。来週の常務会で報告したいので、よろしくお願いします」  部店長クラスの人事は常務会の承認事項である。  否《いや》も応もないらしい。奥野は無力感にとらわれながら、秘書室長室から退出した。  話を聞いて山田副頭取は「会長の意向じゃあ、しょうがないじゃないの」と、まるで意に介さなかった。 「大島は大切な人材です。頭取はともかく将来の副頭取候補ですよ」 「きみの下にいたから、ウエットになってるようだが、会長の気持ちを鎮静化させることを第一義的に考えんとねぇ。大島はこれでおしまいっていうことにはならんだろう。敗者復活戦の可能性はあるんだから」 「協立リースの常務は上がりのポストです」 「協立リースで社長になることもあるんじゃないのか」 「ありません。協立リース社長は、副頭取経験者のポストです」  山田は厭《いや》な顔をした。 「そんなに言うんなら、会長に直訴したらいいよ」 「わたしは、頭取と副頭取の二人がかりなら会長を説得できると思ったんですが」  山田が時計を見ながら言った。 「代表権を持ってる者が束になっても会長にはかなわんよ。頭取にはきみから話しといてくれ。わたしはそろそろ外出しなきゃならんのだ」  要領のよさだけで副頭取になった山田なんかを当てにするほうが間違っている、と奥野は思った。  奥野は秘書室を覗《のぞ》いて、頭取付秘書役の黒木一に頭取の都合を聞くと、「どうぞ。五時に外出しますが」という返事だった。時刻は四時四十分過ぎだ。  斎藤は、奥野が話し終わると、眉《まゆ》をひそめた。 「賛成しかねるねぇ。感情的かつ恣意《しい》的でありすぎる。あした、会長と話してみよう」 「お願いします」  奥野は眼を輝かせた。一縷《いちる》の光明を見出したような気がした。 「ということは、きみも反対なんだね」 「もちろんです」 「山田の意見はどうだった」 「会長には逆らえない、ということでした」 「そうかもしれない。ムダな抵抗に終わるかもしれないが、こんなことで大島を潰《つぶ》してしまうのは勿体《もつたい》ないよ。気は重いがやるだけやってみよう」 「せめて一年、大島に横浜支店長をやらせてください。必ず発奮して、横浜支店の成績を上げてくれると思います」 「うん」  翌日、朝一番で斎藤は鈴木に会った。 『週刊潮流』が協立銀行の不祥事をスクープした前々日も前日も、二人は顔を合わせていなかった。斎藤はこの問題から入らなければならないというのは憂鬱《ゆううつ》だったが、避けては通れない。 「週刊誌が変なことを書いてましたが、あんまり気になさらないでください」 「きみは気楽でいいよ。ヤクザには威《おど》されるは、週刊誌には叩《たた》かれるはで、わたし一人が悪者扱いで標的にされてるんだから参るよ」 「お察ししますが、会長だからこそ微動だにしないでいられるんです。ヤクザの攻撃にも耐えられた会長の強靱《きようじん》な精神力には頭が下がります」 「皮肉か」 「とんでもない」  斎藤は本題に入った。 「きのう人事部長が、横浜支店長の大島を動かしたいと言ってきましたが、もう少し様子をみさせていただけませんか。大島に挽回《ばんかい》のチャンスを与えてやりたいんです。せめて一年は支店長をやらせたいと思います」  鈴木はむっとした顔をして腕組みした。 「責任の所在はどうなるんだ。わたしは横浜支店長だけじゃなく広報部長にも責任を取ってもらいたいと思ってるんだ。広報の対応はなってないじゃないか」 「高村はいま懸命に、マスコミ工作をやってるところです。なんとか拡散しないで済みそうだと言ってましたよ」 「それならなんで『週刊潮流』を抑えられなかったんだ」 「怪文書を入手していた『週刊潮流』にはいずれにしても書かれたと思います。当方の言い分を書いてもらっただけでも、めっけものです」 「見解の相違だな。週刊誌の一つも抑えられないで、なにが広報部長だ。ま、広報部長は佐藤も庇《かば》い立てしてるから、この際眼を瞑《つぶ》るが、大島はダメだ」  斎藤は女性秘書が運んできた緑茶をゆっくり飲んで、気持ちを鎮めた。 「会長らしくありませんねぇ。これしきのことに動じる会長ではないと思いますが。会長はわが協立銀行の一枚看板なんですよ。じっとしていただけませんか。ここはわたしにおまかせ願います」 「一枚看板の名誉を傷つけられて、きみらそれでいいと思ってるのかね」  一枚看板は言葉の綾《あや》で、リップサービスのつもりもある。しかし、鈴木はそれを自任していた。 「ついでに言うが、竹中が怪文書に加担してるように思えてならんのだ。竹中の処分も佐藤に言ってあるから、きみもそのつもりでおってくれ」 「なんですって?」  斎藤は眼を剥《む》いた。 「竹中が会長のために身を挺《てい》して頑張ったことは会長もご存じと思いますが」 「きみは考えが浅いな。竹中は油断できんぞ」 「それは……。あんまり竹中が可哀相《かわいそう》ですよ。会長同様、ヤクザに自宅へ街宣までやられた男ですよ。児玉先生にも命がけでぶつかってくれました」 「わたしは勘がいいほうだと自負してるんだ。竹中がわたしに弓を引こうとしてることは、そのうち炙《あぶ》り出されてくるだろう。だが、きみがそこまで言うなら、ちょっと様子を見てもいいがね」 「竹中はまだ副部長です。会長が気になさる立場にはありませんよ」 「…………」 「大島のことはどうしても、いけませんか」 「不問にしては示しがつかんだろうや」 「大島も大会長が相手にされるような立場でもないと思いますが」 「わたしがここまで言ってるんだぞ。きみも自分の立場を考えたらどうなんだ」 「会長にここまで言われたことは忘れません。しかし、わたしの意見をお聞き届けていただけないことは非常に残念です」 「常務会の議長はきみだ。来週の常務会で横浜支店長の件はきみから報告したまえ」  斎藤は泡立つ胸中を抑え、一礼してソファから起《た》ち上がった。  裸の王様に限りなく近づいている、と胸の中でつぶやきながら、斎藤は会長執務室を出た。     2  鈴木と斎藤が対峙《たいじ》していた同時刻、竹中はプロジェクト推進部長室で、永井と話していた。竹中は外出先から戻ったところを永井に手招きされたのだ。 「一時間ほど前、佐藤君から呼びつけられてねぇ。竹中には黙っててくれと言われたが、きみとわたしの仲でそうもいかないから、すべてを話すよ。会長はどうもきみが煙たいらしいんだ」 「どういうことですか。親父と息子ほど年齢差のあるわたしが煙たがられるなんて、理解に苦しみますよ」 「これは佐藤君の解釈だが、あながち的外れとも思えんのだ。きみは、会長の弱みというか恥部を知りすぎてるからねぇ」 「それを言われるのは秘書室長だと思いますけど」 「あの二人は一心同体だろう」 「それで秘書室長はなんと」 「竹中を営業店なり海外に出すことは考えられないか、と言ってた。わたしの意見を聞きたいとね。善意に解釈すれば、竹中を傷つけたくないから、ちょっと本部から離したほうがいいんじゃないかっていうわけだ。佐藤君は曲者《くせもの》だが、人を見る眼はあると思う。きみの力量を評価するにやぶさかではない、と頻《しき》りに強調もした。会長は『週刊潮流』に叩《たた》かれて、動揺してるんだろうねぇ。疑心暗鬼にもなってるようだ」 「わたしの存在が目障りだったというわけですね」 「そのようだな。『週刊潮流』に投書した者とつるんでるんじゃないか、と疑ってるんだろう」  竹中は下唇を噛《か》んだ。しかし、心情的には山岸に加担しているし、岡崎を通じて「シラを切れ」と知恵もつけた。投書に与《くみ》したことはないが、つるんでいると見られてもやむを得ない面がないとは言えない。 「わたしが横浜支店の誰とつるんでるっていうんですか」 「大島君は、山岸という営業課長が犯人じゃないかと疑ってるようだよ」 「山岸なんて会ったこともないし、名前も知りませんよ」  前者は事実だが、後者は正確には「知らなかった」である。しかし、いちいち説明しているいとまはない。 「もっとも、『週刊潮流』の吉田記者と会ったために、わたしがリークしたと秘書室長にも杉本にも疑われましたけど、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》もいいところですよ」 「その点は、佐藤君から聞いたよ。彼が竹中を疑ってることはあり得ないから安心しろ。さっきは善意に解釈すれば、と言ったが、ほんとうに佐藤君は竹中のことを心配してるように、わたしの眼には映った。会長の精神状態がおかしくなってるから、竹中に害が及ばないように逃がしたほうがいいんじゃないかっていうわけだよ」 「部長の意見をお聞かせください」 「いまプロジェクト推進室から竹中を外すことはできないって、とりあえず撥《は》ねつけておいたが、竹中にとってどっちがいいのか悩むところだよなあ。わたしは、きみの意見を尊重したいと思うんだ。なんだか突き放してるみたいだが、竹中がプロジェクト推進部で頑張りたいって言うんならそれもよし、営業店で支店長をやりたいって言うことなら、それもいい。ニューヨークでもロンドンでも、海外に出たいと希望するんなら、それもいい。竹中はいろんな意味で功労者なんだから、あだやおろそかな扱いはしないよ。人事もわかってくれると思うし、佐藤君も竹中をバックアップするって言ってるんだからねぇ」  竹中は膝《ひざ》に手を突いて低頭した。 「そんなふうにおっしゃっていただいて身に余る光栄です。会長に睨《にら》まれたら、どこへ飛ばされても文句は言えないところなんでしょうが、わたしのような若造の存在を気にするなんて、会長はどうかしてるんじゃないでしょうか。頭が狂ってるとしか思えません」 「錯乱してることはたしかだろう。ここだけの話、今度の一件で横浜支店長が飛ばされるっていうんだからねぇ」 「ええっ! 大島支店長が!」  竹中は絶句した。 「来週の常務会に報告するそうだから、いずれわかることだが、内緒だぞ」 「もちろんです。でも信じられません。大島さんは会長の犠牲者ですよ。元をただせば、会長が蒔《ま》いた種じゃないですか」 「会長には逆らえないが、あの佐藤君がもてあまし気味だっていうんだから驚くよ」 「大島さんはどこへ飛ばされるんですか」 「協立リースの常務らしい。佐藤君は緊急避難だと言ってたが、上がりのポストっていう感じがするねぇ」 「緊急避難ならもう少し配慮があって然るべきですよ」 「この銀行は鈴木—佐藤ラインで動かされてるが、大島君のことを聞くに及んで、わたしも危機感を覚えたよ」  いつになく深刻な永井の面持ちに接して、竹中も言葉を失った。  二十秒ほど沈黙が続いた。  竹中が思い出したように言った。 「わたしの身の振り方につきましては二、三日猶予をいただけませんか」 「二、三日と言わず、一週間でも二週間でも考えたらいい。わたしも考えてみるよ」 「ありがとうございます」  竹中は席に戻った。部下たちの報告を聞いたが、平静をよそおったものの、ほとんどうわの空で頭に入らなかった。  この夜、竹中は知恵子と話した。 「いまのポストが丸二年経ったので、そろそろ異動の話が出そうな気配だけど、海外勤務はどう思う」 「えっ、そんなことになりそうなの」 「決まったわけじゃないが、あり得るよ。ニューヨークかロンドンっていうところかねぇ」 「杉本さんみたいなエリートが行くところなんじゃないの」  知恵子は眼を輝かせた。  杉本の名前を聞いて、竹中は顔をしかめた。 「あいつには海外志向なんてないよ。本部の枢要部内にいなければ気が済まないんだ」 「わたしも一緒に行けるんでしょ」 「もちろん。だけど子供のことを考えると、単身赴任ってことになるんじゃないのか」 「大学生と高校生よ。父も母もいるから安心だわ」 「ふうーん。きみが一緒に行く気になるとは思わなかった」 「わたしは聖心の英文科よ。英会話はあなたよりずっとできると思うけど」 「僕の通訳をやってくれるっていうわけか。きみのカンバーセーションの能力はとっくに錆《さび》ついてるよ。こればっかりは使ってなければダメなんだ」 「ちょっとやれば大丈夫よ」 「どうなるかわからんが、海外勤務になったときにきみが一緒に行く気でいることはわかったが、子供たちを爺《じい》さん婆さんに預けるのはいかがなものかねぇ。難しい年ごろだしなあ」 「子供たちはとっくに親離れして自立してるわよ」 「そうかねぇ。まだ海外と決まったわけじゃないからな。国内の営業店の支店長っていうことも考えられる。言えることは異動の可能性が高いってことだけだ」  このとき、竹中は異動を受けようと考えていたことになる。     3  斎藤は、大島のことを諦《あきら》めたわけではなかった。  九月二日月曜日の朝、佐藤を頭取執務室に呼んだのも、そのためだ。 「先週の金曜日に会長から、横浜支店長を替えたいと言われたが、大島は重大な落ち度でもあるのかね」 「ええ。独断でエムアンドケイコーポレーションなんていうわけのわからない会社に融資したのは、問題です。管理責任も問われると思いますが」 「会長はあしたの常務会で、わたしから報告するように言ってたが、いまきみが話したことをそのまま話すしかないのかねぇ」  佐藤の表情が動いた。 「そこまではどうでしょうか。惻隠《そくいん》の情ってこともありますから、少し修飾してあげてもよろしいんじゃないでしょうか」 「たとえばどんなふうにかね。わずか二カ月でポストを替えるのは相当乱暴なことだよ。それ相応の理由がなければならない」 「…………」 「わたしはせめて一年現職をやらせたらどうかと会長に進言した。それが惻隠の情というものだろう」 「会長の意見はいかがでした」 「聞いてないのか」 「ええ」 「撥ねつけられた。どうあっても強行したいっていうことだ」 「そうしますと、ちょっと変更は難しいと思いますが」 「きみは会長の覚えめでたい。念のため進言してみてくれないか」 「実はこの件でわたくしは会長に再考を促したんですが、お気持ちを変えられませんでした。誰も責任を取らないなどという法があるかと叱《しか》られました」 「そう。きみもすでに一戦まじえてるのか。諦めるしかないのかねえ。しかし、あしたというのはいかになんでも性急すぎるよ。後任のこともあるので、翌週ないし翌々週の常務会ということにしたいので、そう会長に伝えてもらいたい」 「承知しました」  佐藤が引き取ったあとで、斎藤は横浜支店に電話をかけた。  頭取が営業店などに直接、電話をかけることなど通常はあり得ない。必ず秘書が間に入るが、斎藤はあえて秘書を使わなかった。 「斎藤ですが、大島支店長はおりますか」 「失礼ですが、どちらの斎藤さまでしょうか」  電話に出た女性に訊《き》かれて、斎藤は苦笑した。 「頭取の斎藤です」 「失礼致しました」 「いや」  十秒ほどで大島が出てきた。 「お待たせして申し訳ございません。大島でございますが」  極度の緊張から、大島も声がうわずっている。 「例の融資の件できみに訊きたいことがあるんだが、あれは佐藤からの指示で融資したんだったねぇ」 「はい。いまにして思いますと、筋の悪い融資先でした。いくら佐藤さんでも断固拒否すべきでした。わたしも勇気がなかったんです。部下に非難されても仕方がないと思います」 「佐藤の圧力を押し返すのは、そんななまやさしいもんじゃないよ。きみの独断でできるわけがないとは思ったが、週刊誌にあんな書き方をされたのに、よくぞ耐えてくれたねぇ。なんとか一年横浜支店長をやってもらいたいと考えたが、形勢われに不利で押し戻すことは難しそうだ。しかし事実関係は覚えておく。悪いようにはしないつもりだ。佐藤も緊急避難と言ったと思うが、わたしもそのように心得ておくから、腐らないようにな」 「ありがとうございます。頭取に電話をいただいたことを励みとして、これからも頑張ります」 「うん。頼んだぞ」  斎藤は電話を切って、ふたたび佐藤を呼びつけるかどうか思案した。しかし、ここは堪《こら》えておこう、と斎藤は気持ちを制御した。     4  相談役の磯野健介が佐藤に電話をかけてきたのは、この日午後三時過ぎである。 「鈴木君と会いたいんだが、いまおるのか」 「はい。いらっしゃいますが」 「三十分ほど時間をくれんか」 「かしこまりました。どうぞいらっしゃってください」 「わたしの部屋にきてもらおうか」  磯野が苛立《いらだ》った声を発した。  相談役に退いたとはいえ、先輩を立てるのが礼儀ではないか、と磯野が思っても仕方がない。 「失礼しました。申し伝えます」  協立銀行には相談役が三人いる。磯野健介は前会長だが、頭取、会長経験者は慣習で相談役に就任する。元会長の花岡洋太郎と同岩本隆一。年齢はそれぞれ七十四歳、七十八歳、八十二歳。  二十三階が相談役のフロアだが、もちろん個室を与えられ、女性秘書も個別につけられている。  専用車もつく。年収は四千万円程だが、一人当たりの経費は優にその倍にはなるだろう。  佐藤から「磯野相談役が会長にお会いしたいと言ってきました。部屋でお待ちしているそうです」と言われたとき、鈴木は厭《いや》な顔をした。 「会いたかったら、勝手に来たらいいじゃないか」 「わたくしもそんな感じを持ちましたが、磯野相談役はお気にめさないようです。ま、先輩を立ててあげたらいかがでしょうか」 「うん」  鈴木が大儀そうにデスクを離れた。磯野相談役室まで、会長付の女性秘書が鈴木を案内した。鈴木は三相談役の個室の位置を憶《おぼ》えていなかったのだ。  この数年間で鈴木が相談役室に足を運んだのは、数えるほどしかなかった。  女性秘書がノックをして、ドアをあけた。 「鈴木会長がお見えになりました」 「どうぞ」  磯野が答えた。  鈴木は入室して、一瞬棒立ちになった。  なんと、三相談役が雁首《がんくび》を揃《そろ》えていたのである。  磯野が手でソファをすすめながら言った。 「お呼びたてして悪かったが、三人で会長室に押しかけるのも、仰々しいと思ってねぇ」 「お歴々がおそろいで。お三人ともご健勝でなによりです」  三人の咎《とが》めるような視線を浴びて、鈴木はぴんときた。『週刊潮流』の記事のことに決まっている。  磯野が切り出した。 「きみは忙しい人だからさっそく始めるか。川口正義なんかに融資して大丈夫なのかね。川口と娘さんが結婚したようだねぇ。プライベートなことに口出しはしたくないが、その点も心配してるんだ」 「川口をご存じなんですか」 「うん。児玉君に訊《き》いたら、とんでもない食わせ者だと話してたよ。われわれは、週刊誌に妙な記事が出たとき、きみがなにか言ってくるんじゃないかと首を長くして待ってたが、なにも言ってこんので、児玉君ならなにか知ってるかと思って電話をかけたんだ」  磯野の話を岩本が引き取った。年齢の割りに声に艶《つや》があった。 「週刊誌の記事はヨタ記事とばかり思っておったが、事実らしいねぇ。内部告発などよくよくのことだ」  花岡はもっと辛辣《しんらつ》だった。 「協立銀行始まって以来のスキャンダルだ。ヤクザが会長の娘の亭主なんて話は聞いたことがない。鈴木君、きみどうかしてるんじゃないのか」 「大先輩にご心配をかけて申し訳ありません。ただ児玉さんが磯野相談役にどう話されたか知りませんが、川口はヤクザなんぞではありません。横浜で結婚式場を経営しておりますが、慶応を出てますし、なかなかの教養人です。花岡相談役はスキャンダルとおっしゃいましたが、大変な誤解です」  磯野が語気を荒らげた。 「児玉君はヤクザと変わるところがないと言ってたな。ヤクザとつきあってることも間違いないとも言った。なんなら、この場で児玉君に電話をかけて確かめたらいい。週刊誌に書かれること自体スキャンダルだよ。こんなことは協立銀行始まって以来だ。われわれは恥ずかしくて大手を振って外を歩けんよ」 「横浜支店長が独断で融資したというのは事実なのかね」  鈴木が花岡を強く見返した。 「事実ですよ。わたしが指図したとでもおっしゃりたいのですか」 「それ以外に考えられんだろう。もっとも、これも児玉君の意見だがね」  鈴木が薄ら笑いを浮かべて磯野をとらえた。 「児玉さんはわたしに含むところがあるんですかねぇ。わたしはそんなに信用できませんか」 「うむ。児玉君は嘘《うそ》を言うような男じゃないよ。お二人に、大変なのを後継者にしちゃったなとわたしはお叱《しか》りを受けて、不明を恥じてるところだ。われわれは会長になったときに頭取にすべての権限を委譲してきた。会長は一歩引いたところで頭取をバックアップする。それが協立銀行の伝統だった。ところがきみはよき伝統をぶちこわしてしまったらしいねぇ」 「それも児玉さんの意見ですか。それとも斎藤が磯野相談役にこぼしたんですか」  花岡がいかにも嘆かわしいと言わんばかりに、首をゆっくり左右に振ってから話し始めた。 「きみはまったく反省しとらんようだが、この際、われわれ三人の意見が一致したので言わせてもらうぞ。きみは責任を取るべきだよ。相談役に退《の》いたらいいな。取締役をくっつけたかったらそれはいいが、その替わりと言っちゃあなんだが、岩本さんは相談役を降りたいということだ」 「相談役四人は多すぎるよ。八十歳で辞めればよかったと後悔してる。長居しすぎた。この機会に相談役に定年制を導入したらいいんだ」  鈴木が三人を一人一人|睨《にら》み返した。 「自分の出処進退は自分で決めます。失礼ながら、お三人とも、瑣事瑣末《さじさまつ》なことを大仰に考えすぎてます。今度の件は不正融資などではありません。横浜支店長の判断で所要の手続きを踏んで融資が実行されたに過ぎず、支店長の判断に誤りもないと思います。わたしが権限を頭取に委譲していないようなことをおっしゃるが、斎藤とは一体です。経営のことは現役におまかせいただきたい。ただし、相談役の定年制を敷くことは賛成です。忙しいのでこれで……」 「待ちたまえ」  腰を浮かした鈴木を、磯野が制した。 「岩本さんの相談役辞任も、定年制も、きみが会長を辞任することが条件だ。そこのところを間違えないでもらいたい」 「頭取を六年、会長を三年やってたんだから、とくに短いわけでもない。鈴木君、潮時だよ。きみと僕の二人が辞めるのが、いいと思うよ」  岩本に諭すように言われたが、鈴木はむきになっていた。 「お三人のご意見は承りました。よく考えてみます」 「この場で返事はもらえないのかね」  磯野は強硬に迫ったが、鈴木は横を向いて返事をしなかった。     5  相談役室から会長執務室に戻った鈴木が佐藤を呼んだ。  首まで赤く染まっている。 「爺《じい》さんたち三人に吊《つ》るし上げにあったよ。まるで査問委員会か人民裁判だ」 「『週刊潮流』の記事のことですか」 「ああ。責任を取って、取相《とりそう》になれときた。ふざけた爺《じじい》たちだ」 「本気でそんなことを」 「そうなんだろう。予備後備がしゃらくさいことを抜かすなって言うんだ」 「おっしゃるとおりです」  佐藤は顔色を変えた。鈴木あっての佐藤である。鈴木が権力者として君臨している間に盤石の体制を築いておきたい。人事面で着々と布石を打ってきた。いま鈴木に辞められたら、この十年間の苦労が水泡に帰してしまう。 「磯野なんかひどいもんだ。この場で返事をしろときた。児玉からいろいろ取材したらしいが、児玉はわたしに敵意を持ってるとしか思えんな。手打ち式を断ったことを根に持ってるのかねぇ」 「そのようなことはないと思いますが。手打ちは斎藤頭取が会長の名代を立派に務めてます」  鈴木が思案顔で言った。 「斎藤が児玉や磯野に知恵をつけてることは考えられないか」 「なにか、そんな形跡がありますか」 「磯野に、わたしが頭取に権限を委譲しておらんと言われたが」 「頭取が会長を貶《おとし》めるようなことを言ったらバチが当たりますよ。会長の目矩《めがね》にかなって引き上げられた方ですから」 「斎藤を呼んでくれ。ちょっと相談したいことがあるんだ」 「頭取は来客中ですが」 「メモを入れといてくれ。至急会いたいと」  鈴木は、磯野の草履《ぞうり》取りをして頭取に伸《の》し上がった。鈴木にとって磯野は恩人中の恩人である。その磯野を呼び捨てにしている。会長を辞めろ、とまで言われたら、頭に血がのぼるだろう、と佐藤は思った。  佐藤は頭取付の女性秘書を会長執務室に呼んで、メモを入れるよう指示して、ふたたびソファで鈴木と向かい合った。 「頭取と相談と申しますと」 「うん。そうだな。きみの意見を先に聞いておくか。岩本の爺さんが相談役を辞めるつもりになってるんだ。相談役に八十歳の定年制を敷いたらどうかというんだがね。これはいただきだと思ったんだ。三人の爺さんたちは、わたしの会長辞任と相殺したいっていう考えだが、わたしは辞めるつもりは毛頭ない。しかし、三人の相談役にはお引き取り願ってもいいんじゃないか、とふと思ったわけだ。佐藤はどう考えるかね」 「会長、名案だと思います。そもそも相談役は定款にありません。頭取、会長経験者が慣習として相談役に就きますが、死ぬまで高給を支払う必要があるのかどうか。株主代表訴訟でやられましたら敗訴する可能性が高いと思います。銀行員の高額給与が叩《たた》かれてることを考え合わせますと、相談役の定年制は当然ですし、この際一挙に三人に辞めていただくのも、ある意味では英断かもしれませんよ。いわばいまは非常時なんです。住専問題でマスコミに叩かれ、役員はボーナスを返上してます。相談役に辞職していただいても、そう不自然ではないと存じます」 「よし。きみの意見はわかった。あとは斎藤がどう出るかだな。爺さんたちにひと泡吹かせな、腹の虫が治まらんよ」  鈴木が虚空を睨《にら》んで言い放った。  斎藤が会長室にあらわれたのは五時ちょっと前だ。 「三十分ほど時間はあるかね」 「ええ。六時半に会食があります。ですから充分ありますよ」 「きみ、最近磯野相談役に会ったかい」 「そう言えばすっかりご無沙汰《ぶさた》しちゃってますねぇ。磯野相談役がなにか」 「さっき、三時ごろだったかな、佐藤に電話をかけてきて、すぐ来てくれと呼びつけられたんだ。相談役三人が雁首《がんくび》並べて、わたしを罵倒《ばとう》したうえ、会長を辞めろときた」 「冗談じゃないんですか。冗談にしては穏やかではありませんが」 「週刊誌に書かれたことで、わたしが報告に行かなかったことを根に持ったらしい。児玉からいろいろ聞いたそうだが、協立銀行始まって以来のスキャンダルなんだそうだ。責任を取って辞めろとまで言われたよ」 「ずいぶん過激ですねぇ」 「わたしの会長辞任と引き換えに、岩本相談役が辞任し、相談役に八十歳の定年制を敷いたらどうか、という点で相談役三人の意見が一致したんだとさ。しかし、わたしは辞めるつもりはさらさらない。きみだって、会長になる気はないんだろう」  斎藤は返事のしようがなかった。 「しかし、相談役三人に辞めてもらうチャンスかもしれないなあ。定款にもないし、株主代表訴訟でもやられたら敗訴なんてこともあり得るっていうじゃないか。なんの役にも立たない爺さんたちに高い捨て扶持《ぶち》を払う必要はないだろう。われわれも賞与を返上してることだしな。この際、三人とも辞めてもらおうと思うが、きみの意見はどう」 「ドラスティックすぎませんか」 「いや、理にかなってるし、時代の要請でもある。なんならわたしも代表権を返上してもいいぞ。相談役の定年制については他行でも検討してるとなにかで読んだ記憶があるが、どうせなら協立が先鞭《せんべん》をつけようじゃないか」 「相談役を辞めて、その後の肩書はどうしますか」 「なんにもやる必要はないだろう」 「いや、それでは角が立ちます。名誉顧問ぐらいの肩書は与えませんと」 「それならそれでいい。無給にして、車も部屋も取り上げたらいいな。銀行に来たかったらハイヤーを回せばいいんだ。一部屋はあけておくか」 「会長のお腹立ちはわかりますが、波風を立てることになりませんか」 「わたしが辞任する方向で考えてるってあいつらに言ってもいいぞ。嘘《うそ》も方便だ。途中で気が変わったで済むことだよ。頭取のきみが決断すれば否《いや》も応もない。それと、話は飛ぶが、横浜支店長の任期についてはきみの意見を容《い》れてもいいぞ。それこそ気が変わった。きみの意見にも一理あるよ」  鈴木は、三相談役に「支店長の判断に誤りもない……」と話したことに思いを致したのだ。責任を取らせることも辻褄《つじつま》合わせだが、留任のほうで辻褄を合わせたほうが都合がいいと思ったまでだ。 「わかりました。横浜支店長の更迭を会長が思いとどまってくださったことを感謝します。三相談役の件はわたしにおまかせください。ちょっと時間をいただきますが、それは会長の指示によるものではなく、わたしの判断ということにしたいからです。いますぐ動きますと、感情論と取られ、こじれることもあるかと思うのです」 「いいだろう。まかせるよ」 「どうも」  三相談役の首に鈴をつけるのは、厭《いや》な役回りだし、恨まれることも覚悟しなければならないが、大島を救えたことは収穫である。一、二カ月のうちに鈴木の気持ちが変化しないとも限らない。いや相談役辞任は、銀行業界に一石を投じることになるかもしれない。  斎藤はさっそく奥野人事部長を自室に呼んだ。 「朗報があるぞ。大島には留任してもらうことになった。後任はまだ決めておらんのだろう」 「はい。頭取から一、二週間後とお聞きしたものですから」 「それはよかった。後任が内定してたとしても、当人には伝わってないはずだから、なんとかなるとは思ってたが」 「しかし、会長がよく承服しましたねぇ」 「気持ちが振れるのは仕方がないだろう。心身症でもないんだろうが、それだけショックが大きかったんだよ」 「ほんとに信じてよろしいんですか」 「もちろんだ。大島に知らせてやってくれ。よろこぶだろう」 「ええ。大島の笑顔が見えるようです」  奥野はうれしそうに言って、深々と頭を下げた。 「ありがとうございました」 「きみの功績だよ。わたしは、きみの意見を会長に伝えたまでだ」 「恐れ入ります。頭取のご恩は忘れません」 「それは大島がきみに言うセリフだろう」  デスクの前からドアまでの奥野の歩き方は踊っているようだった。     6  奥野が横浜支店に電話をかけたとき、大島は外出した直後だった。  電話に出た女性行員に「ポケベルを鳴らしましょうか」と言われたが、「そこまではいいよ。夜自宅に電話する」と、遠慮した。  奥野が帰宅して大島と電話で話したのは、夜九時過ぎだった。 「部長、このたびはほんとうにありがとうございました。夢のようですよ」 「きみ、なにか聞いてるのか」 「六時過ぎでしたか、佐藤秘書室長にポケベルを鳴らされました」 「なるほど。佐藤君に先を越されたっていうことか。わたしも六時前に横浜支店に電話をかけたんだ。真っ先に朗報を知らせたかったからねぇ。佐藤君はおそらく自分が頑張ったからだぐらいのことを言ったんだろうねぇ」 「そのとおりです。でも、そうじゃないことはわかりますよ。人事部長と頭取のお陰です。秘書室長の性癖は充分承知してますから。今度の融資の件でもわたしは秘書室長に含むところがあるんです。横浜支店の判断とか独断とか『週刊潮流』に書かれましたが、そのことについて、秘書室長からエクスキューズ一つないんですよ。わたしは広報部長にどうなってるのか、とこぼしましたけど、記事に書かれることがわかっていたのなら、こういうふうにコメントするからよろしく、ぐらいの連絡がなければおかしいと思うんです。それが電話一本なかったんです。人間不信に陥りますよ」 「それでいて、抜け目なく支店長留任についてはいちはやくきみに伝えるあたり、佐藤君らしいねぇ」 「わたしは秘書室長の要請を断固拒否すべきだったんです。そうすれば週刊誌に書かれることもなかったわけですから。頭取から支店に電話をいただいたとき、同じようなことを言いましたが、愚痴を言ったところでなんにもなりませんけど」 「頭取から電話?」 「ええ。融資について佐藤から指示があったんだろう、というお尋ねでした。横浜支店の判断とか独断と書かれて気の毒なことをした、とおっしゃってくださいました。わたしのような者に気を遣《つか》っていただいて身に余る光栄です。頭取に�悪いようにしない�とおっしゃっていただけて、少し勇気が湧《わ》いてきました。しかし、まさか留任させていただけるとは、ほんとうに夢のようです」  興奮している大島はよくしゃべった。一杯入っていることも口をなめらかにしているようだ。 「頭取がきみに電話をかけたとは知らなかったよ。人の心の痛みがわかる人なんだねぇ。しかも、人事部長の意見を会長に伝えたまでだ、とわたしにも花を持たせてくれた。われわれはAクラスの頭取に恵まれたようだねぇ」 「衷心よりそう思います」  奥野も大島も、気持ちが浮き立っていた。  広報部のマスコミ工作が功を奏して『週刊潮流』以外のメディアが事件を採り上げることはなかった。  九月三日の朝、斎藤は会長執務室に足を運んだ。 「常務会で『週刊潮流』の記事のことを話題にする必要はないと思うのですが。広報が頑張ってくれたお陰で、これ以上ひろがらない見通しですから、蒸し返すこともないと思います」 「議長のきみにまかせる。質問が出たら適当に答えてくれ。横浜支店長を更迭しないんだから、たしかに話すこともないかねぇ」 「そう思います」  常務会で、不祥事について質問する者もいなかった。あらかじめ予想できたことだ。鈴木の神経を逆撫《さかな》でする質問を進んでする者などいるはずがない。  一件落着したかにみえた。 [#改ページ]  第十六章 権力者の黄昏     1  この日の夕方、竹中は永井に呼ばれた。 「人事部長から聞いて、わたしもびっくりしたが、二転三転して、横浜支店長の大島は留任に決まったらしい。頭取が会長の譲歩を引き出したんだろう。会長も一週間ほど経って、気持ちが平静になったっていうことかねぇ」 「いい話ですね。頭取はよくぞねばり抜いてくれましたよ」 「会長にうしろめたい思いがあって当然だから、頭取はアドバンテージを取っていたとも言える」 「大事件なのに常務会では話題にならなかったんですか」 「ならなかった。会長がなにか言い訳を言うかと思ったが、それもなかったよ」  永井がにこやかに話題を変えた。 「会長は竹中のことも忘れちゃったんじゃないかねぇ。大島でさえそうなんだから」 「わたしの存在を気にするなんて莫迦《ばか》げてますよ」 「そうだとすると、もう少しプロジェクト推進部におってもらってもいいんじゃないのか」 「状況が変わるにしろ変わらないにしろ、わたしはそのつもりでした。海外勤務もいいかな、と考えないでもなかったのですが、プロジェクト推進部でやり残した問題が山積してます。いま投げ出したら、部下たちに敵前逃亡だと非難されますよ」 「その言《げん》やよしだ。頑張ってくれ」 「それで早速ですが、協産ファイナンスの問題でそろそろ結論を出すタイミングかなと考えてるのですが。共鳴興産の荒又社長が児玉さんのお陰で矛を収めたので、共鳴興産がらみの案件は訴訟問題もすべて終決に向かってます。協産ファイナンスの債権のかなりの部分は住宅金融債権管理機構に移管されましたから、問題は協産ファイナンスを存続するか清算するかです」 「竹中の意見は」 「存続の意味は非常に乏しいと思います。特別清算しかないと思いますが」 「わたしもそう思う。特別清算となると、他の金融機関との調整が大変だな」 「はい。部長の出番が増えると思いますが、よろしくお願いします」 「うん。その前に常務会に諮《はか》って、承認を取らんとな」  ノックの音が聞こえ、花田美佐子の顔が覗《のぞ》いた。 「副部長、児玉さんからお電話ですが」 「出たらいいね。ここに回してもらうか」 「いや。部長に聞かれたくないことがあるかもしれませんので、席で取ります」  竹中は冗談っぽく言って退出し、急ぎ足で席に戻った。 「お待たせしました。竹中です」 「会議中に呼び出して悪かったなあ」 「いいえ。たいした会議でもありませんので。先生なにか」 「電話じゃなんだから、今夜そのへんで一杯やらんか」 「はい。けっこうですが、七時でよろしいでしょうか」 「いいよ。とりあえず事務所に来てもらおうか」 「承知しました」  電話を切って、竹中がなにげなく部長室に眼を遣《や》ると、永井がドアの前でこっちを見ていた。話はまだ終わっていない、ということかもしれない。竹中はふたたび部長室へ行った。 「児玉さん、なんだって」 「一杯やらんか、と誘われました。七時に事務所へ顔を出すことにしました。『週刊潮流』の記事のことは、雑誌が発売された日に電話で話しましたから、話すこともないんですけど」 「児玉さんのことだからただ食事をしようなんてことはないだろう。きっと、なにか重要な話があるんじゃないかな」 「そんな口ぶりじゃなかったですよ。マージャンの好きな先生ですから、メンツが一人足りないなんてことかもしれません」 「マージャンなら初めからそう言うだろう」 「それもそうですねぇ」  竹中は永井と仕事の話はしなかった。永井に電話がかかってきたり、相談にくる副部長が続いたからだ。  児玉と竹中は専用車で東銀座の割烹《かつぽう》�恵川�へ向かった。竹中は初めての店だ。 「ビールと冷酒と料理を適当に頼む。女の子はいいからな」  色白で細面の女将《おかみ》が出迎えたとき、児玉は人払いを命じた。  二階の小部屋でビールを飲みながら児玉が言った。 「きょうは内緒話だぞ。五時ごろだったかな、磯野相談役から電話がかかった。これで三度目だ」 「磯野相談役が先生になにかお願いしてるんでしょうか」  車の中で、児玉はずっと腕組みして眼を瞑《つぶ》っていた。ほんとうに居眠りしているのかと竹中が怪しんだほど、ひとことも言葉を発しなかった。  竹中は緊張感を募らせていたが、磯野の名前を聞いて、ドキドキした。 「きのう、鈴木君を磯野さんの部屋に呼び出し、花岡、岩本の両長老も交えた相談役三人で、辞任を促したそうだ。三人とも、鈴木君の独断専横ぶりを苦々しく思ってるようだし、週刊誌であれだけ叩《たた》かれたのに、釈明に来ない鈴木君を可愛《かわい》くないやつだと思ってるんだろうな。それじゃなくても老人は寂しがり屋になってるからねえ。ときにはご機嫌伺いに顔を出してやらんといかんのだよ」 「…………」 「協立銀行を叩いた『週刊潮流』はいつ出たんだったかな」 「先週の水曜日、八月二十八日です」 「二日後の夜、わしの自宅に磯野さんが長電話をかけてきたんだ。いろいろ訊《き》かれたからさしさわりのない程度に答えたが、川口の件ではわしもしゃべりすぎたかもしれん。あの男を近づけたことはリスキーだよなあ。近づけたどころか娘婿にしちゃったんだから、鈴木君もどうかしてるよ。鈴木君は川口にもっともっと煮え湯を飲まされることになるぞ。アクセントを付けたつもりはないが、川口はいまや企業舎弟と変わるところがない。そのあと日曜日の夜、磯野さんは二度目の電話をかけてきた。花岡さん、岩本さんと相談したが、鈴木君は辞任するのがいいと思うが、わしの意見はどうかと訊かれた。反対はしなかったが、任期途中でもあるし、相当ぎくしゃくするから慎重にとは言っておいたが、まさかほんとうに辞任を勧告するとはねぇ」 「それで先生は磯野相談役から協力を求められたのですか」 「そういうことだ。外部勢力と結託するのは感心せんから、わしは考えさせてもらうと態度を留保した」 「仮に先生のお力をお借りするとしたら、具体的にどういうことになるんでしょうか」  竹中は手酌でたて続けにグラスを乾した。  喉《のど》が渇き、脈搏《みやくはく》も速くなっていた。 「三相談役に加勢して鈴木君に引導を渡すっていうことかねぇ。一流誌に鈴木君を指弾させることも可能だ。政治家は使わんほうが無難だろう。大蔵官僚もダメだ。ま、わしがその気になれば鈴木君を引き摺《ず》り降ろすことは可能と思う。警察を使う手もある。特別背任の容疑で事情聴取でもさせたら、ひとたまりもあるまい。鈴木なんかいちころだよ。こう見えても、わしは警察には強力なコネがあるんだ。しかし、そこまでやらんでも、鈴木の追い落としは可能と思うが、竹中はどう思ってるんだ」 「三相談役の動きなり考えは、お家騒動であり、クーデターですからねえ。協立銀行のイメージをこれ以上落としたくないですよ」 「わしが動くとして……。そういうことにはならんと思うが、仮にやむなくそうなったとして、斎藤君はどう出ると思う」 「頭取は反対されると思います。まだ鈴木会長が権力者ですが、陰りが見え始めてきました。今度の事件は、その徴候とも考えられます。今夜の先生との話はすべてオフレコということだと思いますが、実は就任して二カ月しか経たない横浜支店長を鈴木は更迭しようとしました。ところがきょうになって白紙に返したんです。斎藤が押し返したんじゃないでしょうか。この事件が分水嶺になって、斎藤に権限がどんどん移っていくような気がするのです。放っておいても、鈴木のパワーは低下してゆくんじゃないんでしょうか」 「うん。わしも、斎藤君のほうが見所があるし、人物も上と思ってる。ただ三長老が結束してかかってくると、そうあなどれんのじゃないかね」  児玉が白身の刺身を三切れもいっぺんに口に放り込んだ。  くちゃくちゃやりながら児玉が話をつづけた。 「�柳沢吉保�の人気はどうなんだ。将来の頭取候補らしいが」 「それは自他共に認めてます。鈴木が佐藤を寵愛《ちようあい》してることも事実です。佐藤は、斎藤など眼中にないといわんばかりの態度を取ってますが、そんな佐藤を斎藤が買うはずはありませんから、鈴木のパワーが後退すれば佐藤だって安泰ではあり得ません。佐藤は派閥人事をやりすぎますよ」 「竹中は、佐藤が嫌いなんだな」 「キレ者とは思いますけど、人間性についてはちょっと……。佐藤以外にも協立銀行には掃いて捨てるほどの人材がいますよ。プロジェクト推進部長の永井なんか、佐藤の二年先輩ですけど、部下の面倒みはいいですし、上にも向かっていきますし、総合点は佐藤よりずっと上です。二年前取締役秘書室長で、佐藤の上にいたんですが、佐藤とは水と油ですから、うまくいかなかったと思います」  竹中はついでに、鈴木に煙たがられて、本部から追放されそうになったことを話してしまいたい欲求に駆られたが、思いとどまった。 「竹中の意見は老人どもを静かにさせるのがいいっていうことだな」 「はい。会長の進退についてわれわれは意見を言える立場ではありませんが、少なくともいまは辞任しなければならないタイミングではないと思います」 「ところが磯野さんたちは、千載一遇のチャンスと思い込んでるふしがあるからなあ。久しぶりに出番がめぐってきたと思って、張りきってるのと違うかな。鈴木君が日ごろのコミュニケーションをちゃんとやってれば、こういうことにはならんのだが、所詮《しよせん》人徳、人望がないということか」 「先生、三相談役を抑えるためにひと肩入れてください。お願いします。エモーションとエモーションの激突は避けたいと思います」 「竹中の意見はわかった。なにか動きがあったらまた連絡する。きみも、わしに相談したいことがあったら、いつでも電話をかけてくれ」 「ありがとうございます」  この夜、児玉は上北沢駅に近い甲州街道まで専用車で竹中を送ってくれた。     2  翌九月四日は竹中も永井も外出していることが多かったので顔を合わせなかったが、竹中は五日の朝、永井から「昼食時間をあけといてくれないか」と声をかけられた。  正午十分前に、永井は外出先から竹中に電話をかけてきた。 「パレスホテル一階の奥にあるレストランにいるが、すぐ出られるか」 「はい。十分以内に参ります」  永井は窓際のテーブルを確保して、ワイシャツ姿でビールを飲んでいた。 「失礼します」  竹中も背広を椅子《いす》に着せて着席した。 「なにを食べる?」 「シーフードのカレーライスをいただきます」 「スープと野菜サラダはいいか」 「スープはビールをいただきますからいりませんが、コンチネンタルサラダをいただきます。それとデザートはアイスコーヒー」 「主体性がないが、わたしも右同じだ。ビールをもう一本お願いします」  ウエイトレスにオーダーしたあとで、永井は竹中のグラスにビールの小瓶を傾けた。 「いただきます」 「残暑厳しいねぇ。三十度近くあるんじゃないかな」 「ええ。蒸し暑くないだけ楽ですけど」  グラスを乾して、永井が言った。 「おとといの児玉さんの話はどうだった」 「マージャンではありませんでしたよ」 「三相談役のことだろう」  永井はこともなげに言ったが、竹中は驚きのあまりグラスを落としそうになった。 「図星だな。それで、児玉さんは動くのか動かないのか、どっちなんだ」 「動かないでくださいってお願いしましたよ。それとも動いてもらったほうがいいんですか」 「いや、竹中の意見はわたしも正解だと思う。頭取も困惑してる。きのう頭取から話を聞いたんだ。わたしは秘書室長として、頭取に仕えたから、これでも信頼してくれてるらしいんだ。めったなやつには話せないって言ってたが、それをわたしだけに話してくれたわけだ。磯野相談役が児玉さんに相談してると聞いて、ぴんときたんだ。竹中は児玉先生の愛弟子《まなでし》みたいなもんだものなあ」 「愛弟子ってことはないですけど、あの先生、莫迦に心をゆるしてくれるんです。よろこんでいいのか悲しんでいいのかわかりませんけど」 「あれだけの大物に眼をかけられて、悲しむってことはないよ。それにしても秘書役でも、企画部長でもないプロジェクト推進部のきみとわたしが、大変な問題で相談を受けたり、かかわっているっていうのも不思議だねぇ。もちろん佐藤君はすべて把握してるだろうけど」  ビールの小瓶が運ばれてきたので、竹中が二つのグラスを満たした。 「頭取は会長辞任に絶対反対でしたか」 「どうして」 「もしかしたら、まんざらでもないと考えるんじゃないかっていう気がしたんです」 「なるほど。あたらずといえども遠からず、っていうところかねぇ。この三年間、頭取とは名ばかりで鈴木—佐藤ラインに取り仕切られてきたんだから、神ならぬ人間ならチャンス到来と考えるのは当然かもしれない。しかし、タイミングとしてベストかどうかとなれば、ノーだろう。任期途中っていうこともあるし、スキャンダルで会長が辞任するというのは、惻隠《そくいん》の情としても忍び難いだろう」 「頭取は三相談役と接触してるんでしょうか」 「それはない。三相談役もそのへんは心得てるよ。頭取を傷つけるのは得策ではないからねぇ」 「つまり頭取は会長から聞いたわけですね」 「そういうことだ。もっと凄《すご》い話があるんだよ。会長は、先手を打って三相談役を辞任に追い込みたいらしいんだ。なにも仕事をしない相談役に高給を払うのは株主代表訴訟の対象になるとか、相談役なんて定款にもないとか、いろいろ理屈も言ってたらしい。佐藤君の入れ知恵と思うが……」  ビールをひと口飲んで、永井は話をつづけた。 「おもしろいのは相談役辞任のヒントを会長に与えたのは、岩本相談役なんだよ。八十歳で辞めるべきだった、相談役に定年制があってもいい、と会長に話したんだってさ。磯野相談役は、それは会長辞任の見返りだと念を押したらしいが、感情的になってる会長は、自分は辞めるつもりはまったくないのに、相談役辞任、それも三人まとめてお引き取り願おうと考えたわけだね」  シーフード・カレーライスとコンチネンタルサラダが運ばれてきた。  竹中も興奮していたが、永井も負けてはいなかった。 「代表権を持った権力者の会長の首と最長老の相談役の萎《な》えた首が等価ってことにはならないでしょう。一対三ならつりあいが取れますが」 「会長は本気か冗談かわからんが、代表権は返上してもいいようなことを頭取に匂《にお》わせたらしい。多分ゼスチャーだろうねぇ」 「そう思います。ただ、なんだかぞくぞくするような話ではありますね。わたしは今度の事件が分水嶺になる、鈴木会長は放っといてもパワーが低下し、権力者の地位から降りるという意味のことを児玉先生に言いましたけど、甘いかもしれませんねぇ。権力は奪取するものなんじゃないですか」  十五分ほど二人は食事に集中した。  アイスコーヒーを飲みながらの話になった。 「児玉さんは、頭取のことをどう思ってるの」 「すごく買ってますよ。鈴木君よりずっと見所があると言ってました」 「手打ちに出席した者と逃げた者の評価が分かれるのは仕方がないかねぇ。頭取にきみがおととい児玉さんに会ってることを話しちゃったから、きょうきみから聞いた話は頭取の耳に入れるが、児玉さんはほかになにか話してなかったか」 「磯野相談役から三回も電話がかかってきたそうですよ。鈴木会長追放に力を貸してもらいたいっていうことのようですが、先生は外部勢力と結託するのは感心せんと言ってました。ただ、先生の力を借りるとすれば、具体的にどういうことかとお訊《き》きしたら、鈴木君に引導を渡すってことだろうと。鈴木君を引き摺《ず》り降ろすことぐらいできるとも言ってましたが、積極的にそういう気持ちをお持ちなのかどうかまではわかりません。それと川口は企業舎弟そのものだ、鈴木君はまだまだ煮え湯を飲まされるだろうとも話してました」  警察うんぬんの話は刺激的でありすぎる。竹中は意図的に話すことを自粛した。だいいち、児玉との話はオフレコが前提なのだ。 「児玉先生との話はオフレコということになってますので」 「当たり前だ。わたしのほうもオフレコの話をしてるんだよ。竹中とわたし限りに決まってるよ」 「でも頭取に話されると」 「それは仕方がないだろう。もちろん厳重に念を押しておくから、頭取から児玉さんに伝わることはあり得ない。二人が接触することも当面ないと思うが」  永井が時計に眼を落としながらつづけた。 「どうやら、わたしは頭取の元側近としてブレーン的な役割を担わなければならんらしい。竹中もわたしを介して頭取をバックアップしてもらいたいな」     3  九月十七日火曜日の朝九時に、鈴木が頭取執務室に突然やってきた。  そしてソファに座るなり、唐突に訊いた。 「相談役一斉辞任の件はどうなった」  斎藤は書類を読んでいたが、ゆっくりデスクからソファに歩いてきて、鈴木の前に腰をおろした。 「まだ話してませんが。二週間しか経ってませんし」 「そろそろ話したらどうかね。わたしは代表権を返上する。それで四の五の言うようなら、来年の総会後に会長も辞任するつもりだ、と言ってもらっていいよ。今月中に結論を出したらいいな。コスモ銀行が相談役の定年制について検討してるらしいが、先を越されたくない」 「きょうの常務会後、雑談の中でそれとなく出してみましょうか。ほかの役員がどんな反応を示すか興味があります。それを踏まえて、相談役に話しましょう」 「きみが発議したら、わたしが直ちにフォローしよう」  常務会で相談役辞任の反対論は出なかったが、「一挙に三人はいかがでしょうか。相談役が一人はいてもよろしいでしょう」と発言した者がいた。企画部、広報部を担当している専務の吉井だ。 「七十五歳定年はどうでしょうか。そうすれば磯野相談役はあと一年残存期間があるということになります」  山田副頭取が吉井を支持した。 「いまは非常時だ。一人も残す必要はないね」  鈴木会長にぴしゃりと言われて、山田副頭取は「おっしゃるとおりかもしれませんねぇ」と、発言を撤回した。 「取締役の減員もいずれ考えなければならないでしょう。相談役辞任の件は、わたしにおまかせいただくが、遠からず常務会に報告します」  斎藤がしめくくった。  斎藤は午後二時に女性秘書に磯野の都合を訊かせて、相談役室に出向いた。 「鈴木から話を聞いてくれたのかね」  磯野のほうから話を切り出した。 「はい。代表権の返上はすぐにでも実行したいということです。会長については任期途中ですから、来年の六月まではわたしも不自然と思います」 「そんなことはないよ。不祥事の責任を取るのに任期途中もくそもないだろう」 「それと申しにくいことですが、きょうの常務会で、相談役お三方の辞任を求める意見が強かったことをお伝えします。定年制うんぬん以前の問題として、お三方に名誉顧問になっていただくことでご承認をいただきたいと存じます」 「それはきみの意見なのか。それとも鈴木の意見か」 「常務会の総意とお受けとりください。すでに相談役定年制の導入および辞任の動きは他行にもございます。定款にもありませんので、株主代表訴訟にも耐えられないとする意見もあるくらいです」 「考えさせてもらうが、その前に鈴木の首を差し出せ。そっちのほうが先決だ。鈴木が会長を辞任したら、われわれも前向きに考えよう。岩本さんはすぐにでも辞めるつもりになってるので問題はないが、目下のところ花岡さんもわたしも辞める意思はない。しかし、鈴木が潔く辞任するんなら、考えんでもない。あとで両先輩の意見を聞くが、二人とも、鈴木辞任が先決問題だと言い張るだろうな」 「この問題は頭取のわたしに一任されてます。相談役の辞任は、おそらく時代の趨勢《すうせい》、要請ということになって参ると存じます。相談役辞任を先にしていただけませんでしょうか」 「両先輩に伝えるが、わたし個人は反対だ。話があべこべだよ。われわれがあくまでノーと言ったらどうする」 「頭取のわたしが決断すれば、常務会および取締役会で決定できると存じますが、できればお三方にご理解願えないか、と思うのです。取締役も減員の方向で検討せざるを得ないでしょう。三副頭取を二副頭取にするとか、専務、常務も含め役職役員の減員も果断に実行すべきと心得ております。銀行経営が大変厳しい状況にあることをご認識いただきたいと思います」 「考えておく」  磯野は険しい顔でソファから腰をあげて、斎藤に背を向けデスクのほうへ歩いて行った。  翌日の午後一時半、会議中の斎藤に磯野から電話がかかった。女性秘書がメモを入れてきたので、斎藤は中座してデスクで電話を取った。 「はい。斎藤ですが」 「磯野だが、至急会いたいんだが」 「いま会議中ですので、一時間後にお伺いします」 「そう。じゃあ待ってる」  会議には、鈴木は出席していなかった。  斎藤はきのうの結果をまだ鈴木に話していなかったので、早めに会議を切り上げて、会長執務室に足を運んだ。 「いま、磯野相談役から呼び出しがかかりました。実はきのうの午後、磯野相談役に会い相談役辞任の件を伝えたのですが、けんもほろろで、会長辞任が先だ、と強硬でした。相談役辞任問題はそのあとで考える、というのですが、わたしは相談役辞任は時代の趨勢、要請だから急ぎたい、と話しておきました」 「しぶとい爺《じい》さんだ。相談役に会長を罷免《ひめん》する権限などない。相談役を辞めさせる権限はわれわれにあるがね」 「妥協案として、吉井専務が常務会で発言した一人残留する方向でまとめたいと思いますが、どうでしょうか」 「ダメだ。三人一緒は譲れんな。これは感情論じゃないぞ。まさに時代の要請なんだ」 「磯野相談役の話を聞いてみますが、一人残留も頭の中に入れておいてください。一挙に三人は乱暴かもしれませんよ。磯野さんはまだ七十四歳とお若いし、会長の感情論と思ってますからねぇ」 「多分三人できみを待ってると思うが、不退転の決意できみは臨むべきだよ。きみに一任されてるので、これ以上は言わんが、磯野が残るんなら、わたしの代表権の返上はないと心得てもらおうか」  斎藤は曖昧《あいまい》にうなずいて、ソファから腰をあげた。鈴木は代表権の返上も会長辞任の意思もない、と斎藤は読んでいた。現に鈴木は「嘘《うそ》も方便」とも言っている。  斎藤が磯野相談役室のドアをノックしたのは午後二時二十分だが、在室していたのは磯野一人だった。秘書同士で電話連絡したとみえ、緑茶が淹《い》れてあった。 「お待たせしました」 「忙しいのに悪いねぇ。きのうきみから聞いた話は岩本、花岡両先輩に正確に伝えたが、会長辞任を再確認した。相談役定年制と辞任については会長辞任の実現後に考えさせてもらう。もし、相談役辞任を常務会で決めるようなら、われわれは記者会見して、その不当性を訴えるつもりだ。きみがそこまで強行するとは思わんがね。それと、鈴木を特別背任で告発することも考慮している。つまり、われわれ三人は結束して、鈴木の辞任を再度要求するということだ」  磯野の態度は昨日よりよっぽど戦闘的であった。 「わたしは磯野相談役が感情的になられてるような気がしてなりません。鈴木会長の進退につきましては、わたしにおまかせ願えませんか」 「まかせられんな。感情的になってるのは鈴木のほうだ。辞任を勧告された腹いせに、相談役を辞めろと言ってきたことがなによりの証左だよ」 「それは違います。会長よりむしろわたしの意向のほうが強いとお取り願います」 「斎藤君……」  磯野が斎藤をひたととらえた。 「鈴木に辞めてもらうのはきみにとっても、銀行にとってもプラスになると思うが……。きみは決断すべきだ」 「クーデターみたいなことになりませんか。マスコミの好餌《こうじ》にされて、面倒なことになります。わたしは来年の任期まで待ちたいと思います」 「鈴木がバブル期の放漫貸し出しでどれほど不良債権を膨らませたか、きみ考えたことはないのか。そのうえ人事を壟断《ろうだん》し、銀行を私物化する。鈴木が協立銀行をどれほど悪くしたかわからない。わたしは会長になって、すべて鈴木にまかせ、意見らしい意見も言わなかった。この点はわたしの責任も重大だ。きのうも両先輩に、鈴木を甘やかした責任を追及されたが、弁解の余地はない。責任を痛感している。だからこそ、今度の事件で鈴木に責任を取らせて辞任を求めることに決めたんだ」  磯野は湯呑《ゆの》みの蓋《ふた》をセンターテーブルにころがして、湯呑みを口へ運び、緑茶をごくっと飲んで話をつづけた。 「いま、鈴木を排除しておかないと、きみは苦労するぞ。いまがそのチャンスなんだ。鈴木は来年六月に辞めるなんて言ってるそうだが、当てにならんな。われわれ三人の相談役の警告を重く受けとめてもらわな困る。それと佐藤も排除したほうがいいな。あの男は危険だぞ。児玉さんによると、秘書役時代からナンバー2気取りで、�柳沢吉保�なんていわれてたらしいじゃないか。わたしは知らなかったが、けっこう銀行業界に悪名が轟《とどろ》いてるそうだねぇ。側近政治をゆるしてはならん。茶坊主が鈴木を余計悪くしている面もあるんだろう」 「佐藤のことは思い当たるふしがないでもありませんが、仕事はできます。会長の進退も含めまして、どうかわたしにおまかせ願います」 「これだけ言ってもダメか。聞きわけが悪いねぇ。それともそんなに鈴木が怖いのか」 「ボードがガタガタしますと、行員の士気に影響します。タイミングについては、どうかわたしにおまかせください」 「きょうのところはここまでにしよう。よく考えてもらいたい。きみの出方いかんによっては警察|沙汰《ざた》もあり得ることを警告しておく。われわれ三人は鈴木と刺し違えてもいいと思ってるんだ。それもこれも協立銀行のためを思えばこそだぞ」 「警察沙汰とか刺し違えるとか、どうしてそんなおどろおどろしいことを相談役はおっしゃるんでしょうか。もっと冷静になっていただきたいと思います」  斎藤は強い口調で言って、ソファから立った。  頭取執務室に戻るまでに、斎藤は磯野残留を持ち出さなかったことを思い出した。持ち出せる雰囲気ではなかったし、出しても磯野は拒否したろう。これでは八方ふさがりではないか、と斎藤は思った。     4  斎藤はとつおいつしながら考えがまとまらないままに、女性秘書に永井を呼ぶよう指示した。  外出中の永井が頭取執務室にあらわれたのは午後四時半だ。  斎藤が手でソファをすすめながら言った。 「磯野相談役が強硬なんで参ったよ。あくまで会長の辞任が先決だというわけだ。常務会が三相談役の辞任を決めたら、記者会見して不当性を訴えるとか、鈴木会長を特別背任で告発するとか、凄《すご》いことを口走る始末だ。口走るというより、三相談役で話し合ってるんだろうねぇ」 「会長の耳に入れたんですか」 「いや。ドロ仕合にはしたくないからねぇ」 「ええ。特別背任で告発は穏やかではありませんねえ。切り札に近い強い手です。このカードを切るかどうかはともかく、鈴木会長にはプレッシャーになると思います」 「きみ、三相談役の知恵と思うか」 「わたしもそれを考えました。軍師は児玉さんじゃないでしょうか」 「わたしもそんな気がしている」 「児玉さんは磯野相談役の応援団長というよりも頭取の応援団長なんですよ」 「悪女の深情けにならなければいいんだが」 「その点は心配ないと思います。ブレーキ役がいますから」 「ブレーキ役」 「ええ。竹中ですよ。竹中に対する児玉さんの信頼は半端じゃありません」 「竹中はなぜかくも児玉さんの気持ちをつかむことができたのかねぇ」 「さあ。竹中は部下の受けもいいですし、わたしも買います。変に媚《こ》びることもありませんし、実に清々《すがすが》しい男ですよ」 「うん」 「…………」 「いまずっと考えてたんだが、相談役の定年制なり辞任なりを性急に出しすぎたんじゃないか。初めに会長の感情論ありきだったことは否定できないからねえ。相談役の定年制は、経営改善策のワンオブゼムであるべきだったと思うんだが」 「リストラとかスリム化の一つという意味ですか」 「うん。会長にせっつかれて、常務会に出してしまったが、早まったな。もう少し咀嚼《そしやく》して然るべきだったよ」 「そうかもしれませんが、会長を説得できましたかねぇ」 「経営改善委員会なり、体制整備委員会なり名称はどうでもいいが、リストラ策をきちっと出して、その中で相談役の定年制を織り込めばよかったような気がする。これに会長が反対することはできんだろう」 「いや、辞任を要求されて頭に血をのぼらせた会長が、そんな迂遠《うえん》なやり方で納得するとは思えません。これはこれでしょうがなかったと思います」 「しかし、問題がここまでこじれてしまったのだから、これをほぐすとしたらリストラ策をひねり出して、その中で相談役問題を解決していくしかないと思う。順序が逆になったが仕方がない。永井に経営改善委員会を取り仕切ってもらうわけにはいかないか。近日中に企画部長に替わってもらい、常務に昇格させよう」 「無理です。プロジェクト推進部の仕事をいま放り出すわけにはいきません。これは竹中が自分のこととして言ったことですが、わたしも敵前逃亡と言われたくないですよ。常務も、企画部長も時期尚早です。経営改善委員会の委員長は吉井専務が適任と思います。それに、わたしの名前をあげたら、会長が反対しますよ」  永井はにやっと笑った。プロジェクト推進部長を委嘱されたとき、斎藤から「汚れ役で意にそまないと思うが、堪《こら》えてくれ」と、言われたことを思い出したのだ。  佐藤が鈴木に進言した�佐藤人事�であることは明瞭《めいりよう》だった。斎藤は難色を示したが、鈴木に押しきられたのである。  斎藤も二年前のことを思い出して苦笑したが、すぐに真顔になった。 「いまなら、わたしの意見を通せると思うが、無理かねぇ」 「ええ。せめてあと半年はやりませんと。半年あれば目鼻がつきます」 「それまでは待てんよ。ま、きみは裏にいてもらったほうが、都合がいいかもしれんなあ」 「そう思います。ところで、会長辞任について、頭取のお気持ちはどうなんですか。わたしは案外、磯野相談役は正鵠《せいこく》を射てるといいますか、いい線をいってるような気がするんですが」 「磯野相談役は鈴木会長と刺し違えるとまで言ったが、感情論があるとしても、そのことを使命と考えてるんだろうか」 「そんな気がします」 「しかし警察|沙汰《ざた》は絶対困るよ」 「それ以外に方法論がないとは思いませんが、磯野相談役の発言は、会長に伝えてよろしいんじゃないでしょうか。カードをちらつかせることは相当なプレッシャーになると思うんです」 「そう焚《た》きつけなさんな。永井もけっこう過激だねぇ」  斎藤は冗談ともなく言って、にやっと笑い返した。     5  二十日の朝、永井に斎藤から呼び出しがかかった。 「経営改善対策委員会を、九月二十五日付で設置することになった。来週の常務会で正式に決めるが、委員は部長、副部長クラスで構成したい。ついては、きみのところの竹中を出してもらいたいが、どうだろうか」 「竹中は出せません」 「どうして」 「鈴木会長に睨《にら》まれてることを考えてください。会長は執念深い人ですよ。頭取は竹中を潰《つぶ》したいんですか」 「委員会のメンバーにまで会長がクレームをつけるとは思えないがねぇ。ま、竹中は諦《あきら》めよう。その替わりと言っちゃあなんだが、委員長吉井、副委員長永井でいきたい。きみが忙しいことは百も承知してるが、曲げて受けてくれないか」  永井は思案顔で、女性秘書が運んできたばかりの湯呑《ゆの》みに手を伸ばした。  俺《おれ》を引っ張り出したいがために竹中をだしにしたのだろうか。 「プロジェクト推進部は、おそらくほかのどの部門よりも多忙と思います。頭取がわれわれに固執する狙《ねら》いはなんですか」 「プロジェクト推進部の成果は予想以上だ。現場の意見を経営改善対策委員会の報告に反映させることが必要と思うからだ。永井もノー、竹中もノーでは困るぞ」 「わたしがメンバーに加わることについても会長との間で相当ぎくしゃくしますよ」 「考えすぎと思うが、仮にそうなったとしても押しきる自信はある」 「先日話しましたが、わたしは裏方に回ったほうが無難と思いますが」 「少し考えが変わった。なんとか協力してもらいたいんだ」 「頭取の命令とあらば、従わざるを得ませんが、わたしが釈然としていないことを覚えててください」  永井が微笑を浮かべて訊《き》いた。 「カードはちらっとも出してないんですか」 「うん。もうちょっと様子を見たいと思ってねぇ」 「会長が経営改善対策委員会の設置を受け容《い》れるとは思いませんでした」 「もちろんいろいろ言ってたが、わたしの意見は正論だからねぇ」  九月二十四日の常務会で経営改善対策委員会の設置が決まった。委員長は吉井専務、副委員長は永井取締役で、企画部を中心に十人の委員が選任された。委員の中に杉本企画部次長が加わり、従業員組合委員長の今井耕三がオブザーバーで参画することになった。 「多少拙速でも、結論を急ぐようにしたまえ。一週間もあればまとまるだろう」  鈴木が常務会で吉井に注文をつけた。  吉井が議長席の斎藤に眼で助け舟を求めてきた。 「いくらなんでもそれはないでしょう。年内を目途《めど》に、説得力のある方策をまとめてもらいましょう。協立銀行百年の大計のために危機感をもって、取り組んでいただきたい」 「そんな悠長なことでいいのかね。なんならわたし一人で鉛筆を嘗《な》め嘗め一週間でまとめてみせようか」  鈴木から皮肉っぽく言われたとき、斎藤は「会長はスーパーマンですから」とやんわりかわして、話をつづけた。 「委員会の結論を尊重して、経営の改善を果敢に推進することをお約束します。通常の業務が忙しい中をご苦労をかけますが、吉井専務、ひとつよろしくお願いします」  しかし、簡単に引き下がる鈴木ではなかった。 「三週間後に中間報告をするようにしたらいいな」  鈴木の狙《ねら》いが、相談役辞任にあることは明白だった。  斎藤はあえて逆らわなかった。中間報告に相談役問題を織り込むことは、いっこうに差しつかえない、と思ったからだ。  鈴木の頭取時代、常務会が鈴木の独演会で終わることが多かった。会長になっても、全体の半分は鈴木が発言することがほとんどだが、斎藤がとみに力をつけてきた、と常務会のメンバーは肌で感じていた。  斎藤のいい点は、メンバーをどんどん指名して発言させることだった。  求心力が鈴木から斎藤に少しずつ移行しつつあることに危機感をもったのは佐藤であろう。 t�永井副委員長�に、佐藤は不快感を隠さず、常務会が始まる前、鈴木に言った。 「永井副委員長でよろしいんでしょうか」 「反対する理由はないだろう。吉井の強い意向ということらしい」 「頭取は永井さんをしばしば部屋に呼んでるようですが、企画部長が浮いてしまって気の毒ですよ」  取締役企画部長の山崎郁夫は佐藤の息のかかった男だ。佐藤より一年後輩で東京大学法学部の出身である。 「山崎にパワーがあれば、委員長でもよかったが、あいつは元気がないねぇ。しかし、山崎も杉本も委員会のメンバーなんだから、きみのリモコンが利くだろう」  経営改善対策委員会の設置でイニシアティブを取れなかったことにも、佐藤は内心|苛立《いらだ》っていた。     6  鈴木、佐藤の心胆を寒からしめる怪文書が協立銀行の幹部およびマスコミ関係者に郵送されたのは、九月二十六日から二十七日にかけてである。 �鈴木会長、佐藤秘書室長の協立銀行私物化を徹底糾弾する�と題する二ページの印刷物は、�協立銀行正常化対策委員会�なる架空の委員会名で配布されたが、内容はかなり正確だった。 [#ここから1字下げ]  バブル期にユニバーサルプロジェクトを掲げて、二兆円に及ぶ膨大な不良債権を残しながら、なんら責任を取らない鈴木会長。鈴木会長を巧みに操って人事を壟断《ろうだん》し、ライバルを次々と蹴落《けお》として、一昨年六月には最少年次で役員になった佐藤明夫(昭和四十三年東大卒)は、無能な実弟の佐藤敬治(昭和四十四年同志社大卒)を平成四年七月に業務本部審査部長に昇格させた。のみならず敬治より年次が上の同審査部副部長を前部長と同時に転出させる念の入れよう。驚くべきことに二年後の平成六年十月には敬治を理事に昇格させた。しかも杉並区の西成田の役員用高級住宅に入居させる特権乱用ぶり。  企画部次長、秘書役、取締役秘書室長と十二年も権力中枢を歩んだことが、佐藤明夫を鈴木会長に次ぐ実質ナンバー2に押し上げ、人事部、企画部の本部枢要ポストを東大法科卒の佐藤派で独占。 『週刊潮流』にスクープされた不正融資も、鈴木会長に忠誠を尽くす佐藤明夫が大島正雄(昭和四十五年一橋大卒)横浜支店長に命じて実行した。  佐藤は広報部、総務部をフル動員して『週刊潮流』以外のマスコミの抑え込みに成功したが、�天網|恢々《かいかい》疎にして漏らさず�、司直の手が伸びることを恐れるあまり、安眠できぬ日々が続いているとか。  次々期頭取を目指して良識派役員を次々と追放してきた佐藤も横浜支店不正融資の発覚で、ピンチを迎えているが、横浜支店長を更迭、トカゲの尻尾《しつぽ》切りで危機脱出を企《くわだ》てようとしている。  鈴木、佐藤が犯した数々の悪事が露顕する前に、両人は恥を知り、罪を悔いて即刻現職を辞任することをここに勧告する。 [#ここで字下げ終わり]  以上は怪文書の要旨だが、追放された良識派役員の実名もずらりと書き込まれており、竹中は、自宅に郵送されてきた怪文書を読みながら、八〇パーセントがたは事実だと思った。  竹中がこれを読んだのは二十六日の夜だが、十時過ぎに杉本から電話がかかった。 「怪文書読んだか」 「うん。読んだよ。一人でヤケ酒飲んでるところだ」 「いま、秘書室長と電話で話したとこだが、相当怒ってたよ。まさか竹中ってことはないよなあ」  竹中は、杉本がなにを言わんとしているのかわからず、一瞬ぼけっとした。 「おまえ、この怪文書に関与してるんじゃないだろうな」 「杉本! ふざけるな!」  竹中は思わず大きな声を出した。 「本気で俺を犯人の一味と考えてるとしたらおまえの頭は狂ってるとしか思えない。俺もおまえも、怪文書に名前は書かれてないが、同じ穴の狢《むじな》なんじゃないのか。不正融資に加担した俺がなんで、天に唾《つば》するようなことをしなくちゃならんのだ。おまえってやつはほんとに度し難いやつだよ」 「わかったわかった。そう怒るなって」 「これが怒らないでいられるか。おまえに引き摺《ず》り込まれたお陰で、俺は心ならずも不正融資にかかわったが、おまえと違って東大法科卒じゃないことが、せめてもの慰めってとこだよ」 「おまえ、犯人は誰だと思う」 「こっちが訊《き》きたいよ。佐藤さんを恨んでる人たちは山ほどいるみたいだから、犯人探しは楽じゃないね」 「じゃあ、またな。割り込み電話がかかってきた」  杉本は言いざま電話を切った。  五秒ほどでまた電話が鳴った。 「はい、竹中です」 「永井だが、電話、話し中だったねえ」 「杉本ですよ。無茶苦茶なことを言うんで、怒鳴ってやりました」 「無茶苦茶って」 「わたしを怪文書の犯人じゃないかなんて言うもんですから」 「それはあり得ない。冗談だろう」 「あいつは莫迦《ばか》だから、案外わかってないんですよ」 「いままで、頭取と長電話をしてたんだが、磯野相談役が頭取のお宅に電話をかけてきて、今月中に会長の辞任を取りつけるように迫ったそうなんだ。自発的に辞任しないようなら三相談役の連名で告発すると。それに対して、頭取は怪文書に踊らされるのはおもしろくない、と答えて、調査委員会をつくって事実関係を把握したいと提案したようだ。竹中が頭取ならどうする?」  竹中は胸が騒いだ。調査委員会ができれば、竹中は明らかに調べられる側に立たされる。しかし、川口正義に対する不正融資の経緯を明らかにすることは、むしろ身を守ることにならないだろうか。結果的に不正融資に与《くみ》したとはいえ、レポートでその不当性を訴えたことも事実だ。周章|狼狽《ろうばい》することはない。自然体で対応すればいいではないか。  竹中は瞬時に考えをまとめた。 「調査委員会に磯野相談役はどう反応されたんですか」 「手ぬるいとか悠長とか言ったようだ。あすの朝改めて磯野相談役の意見を聞くことで、今夜のところは収めたらしい」 「頭取は会長に辞めてください、とは言えないでしょうねぇ。会長が自発的に辞任してくれることがいちばん望ましいんでしょうが」 「それは期待できないな」 「そうなるといよいよ激突ですか。でも、相談役のお爺《じい》さんたちが後輩を告発するなんてことができるんでしょうか。三人とも協立銀行の頭取、会長を経験した方々ですよ。バンカーって分別臭い人種でしょう。わたしは、あくまでもカードに過ぎない、つまり切れないと思うんですけど」 「そうならいいが、老いの一徹ってこともあるからなあ」  吐息を洩《も》らしながら、竹中はふと佐藤の神経質そうな顔を眼に浮かべた。佐藤を使う手がある——。 「部長、頭取が磯野相談役に話した�調査委員会�のことを会長にも必ず伝えるように進言していただけませんか。会長にとって、相当な重圧になると思いますが。いや、会長だけではなく、佐藤秘書役も堪《こた》えるんじゃないでしょうか。わたしも堪えましたから」 「竹中の言ってることはよくわからんねえ」 「川口正義に対する融資について当初から関与しているのは佐藤、杉本、それにわたしです。わたしがひらき直ると、佐藤秘書室長は窮地に立ちます。むろん、あの人のことだから、逃げ道も用意してると思いますけど、佐藤さんが鈴木会長に殉じようとするんならいざ知らず、御身大切と考える人だとすれば、鈴木会長の首に鈴を付ける役を引き受ける可能性はあると思います。先に望みがある人なんですから。つまり、わたしが�調査委員会�で洗いざらい証言する、これをカードに使ったらどうなりますか。しかも、わたしが覚悟すれば確実に切れるカードです」 「少しわかってきた。�調査委員会�は頭取の思いつきではなく、深い読みがあるのかもしれない。だが、わたしから念を押しておこう」 「気が高ぶって今夜は眠れそうもないと思ってましたが、わたしの考えは悪くないと思います。あしたの夕刻、秘書室長に面会するつもりです。それまでに�調査委員会�が徹底してるといいのですが」 「やってみよう。わたしも興奮してて、すぐには眠れそうもないよ」     7  斎藤頭取は翌朝、九時に会長執務室で鈴木会長に会った。  昨日、永井と深夜三度目の長電話をしたので、少し睡眠不足で瞼《まぶた》が重たかった。鈴木も怪文書のお陰で一睡もできず、顔全体がむくんだように腫《は》れぼったかった。 「週刊誌への内部告発の次は怪文書か。この銀行はどうなってるのかねえ」 「そのことで、昨夜、磯野相談役が家に電話をかけてきましたよ。今月中の会長の辞任を要求する、拒否するなら三相談役連名で特別背任で告発する、と一方的に宣せられました。弁護士とも相談しているような口ぶりでした。わたしは怪文書に与することはできないが、�調査委員会�を設け、事実関係の把握に努めたいと提案したんですがねえ。このあと十時にまた磯野相談役に会いますが」 「怪文書の発信源は爺さんたちなのか」 「それは違うと思いますが……。告発の件は以前にも聞いたのですが、本気とは思わなかったので会長のお耳に入れなかったのです」 「�調査委員会�でも告発でも好きなようにやったらいいよ。しかし、その結果、何も出なかったら恥をかくのは爺さんたちだぞ」 「投げやりなことを言わないでください。告発なんて冗談じゃないですよ」 「エキセントリックになってるのは磯野だけなんだろう。岩本と花岡に磯野を抑えるようによく話してくれないか」 「ええ。三人と話します。とりあえず�調査委員会�で時間を稼ぎたいと思いますが」 「そんなものほんとにつくる気でいるのか。必要ないと思うが」 「このぐらいはやりませんと、磯野相談役の暴走を止められないと思います」  夕方六時に、竹中は佐藤に面会を求めた。 「怪文書には参りました。�調査委員会�をつくって、例の融資問題について本格的に調査をやることになったようですが……」 「誰から聞いたんですか」  この反問を竹中は待っていた。 「杉本君です」  事実だった。朝、斎藤と会ったあとで鈴木は佐藤と杉本を会長執務室に呼び出したのだ。 「�調査委員会�が陽動作戦としてつくられるかもしれないが、おまえは一切発言するなよ。横浜支店だけでお茶を濁して終わりにするからな」 「考えておくよ」 「考えるもくそもない。おまえの出番はないんだ」  杉本と電話でそんなやりとりをしたのは午後二時ごろである。 「わたしは迷いかつ悩んでますが、�調査委員会�で証言することが取るべき道なんじゃないか、という気がしてます。わたしは自分の犯した罪を認めようと思います」 「それは考えすぎですよ」 「しかし、三相談役が特別背任で告発すると言ってることは秘書室長もご存じなんでしょ。だとしたら、いずれにしてもすべて白日のもとに晒《さら》されてしまうんです」 「告発は威《おど》しでしょう」 「そうでしょうか。わたしは相談役の皆さんは本気だと思います。会長が辞任を表明しなければ、告発は止められないんじゃないでしょうか」 「それで竹中さんは、わたくしに何を言いたいんですか」 「会長に辞任を求められる方が存在するとしたら、佐藤秘書室長しかいないと思うのです」  佐藤は腕組みして、足を投げ出した低い姿勢で十秒ほど瞑目《めいもく》していたが、カッと眼を見開いた。 「�調査委員会�で証言する、というのも、わたくしに対する牽制《けんせい》ですか」 「どうお取りになってもけっこうですが、�調査委員会�などつくってもらいたくありませんし、告発も勘弁してもらいたい、というのが、わたしの本意です」 「わかりました。あしたの土曜日、会長はご在宅してますから、腹を割って話してみましょう」 「その結果は、電話で連絡していただけますか。わたしも真剣に考えなければなりません」 「いいですよ。あすの午後お宅に電話をかけます」     8  翌日の午後四時過ぎに、佐藤が竹中に電話をかけてきた。竹中は心待ちにしていたので、ずっとリビングで電話を気にしていた。  電話が鳴るたびに、胸がドキッとしたが、昼以降竹中家にかかった六本の電話は恵と孝治に対するものばかりだった。  恵は外出していたが、孝治は自室に閉じこもっていた。  三時過ぎに孝治が三十分以上も話しているのに、竹中は苛立《いらだ》って、二階へ駆け上がった。 「おい、おまえいつまでもつまらん電話をしてるんじゃないぞ。パパは重要な電話を待ってるんだ」  ドア越しに大声で話したが、「僕もけっこう重要なんだけど」と、孝治はやり返してきた。  佐藤宅に電話をかけてみようか、と思った矢先の待望の電話だったのである。 「結論から言いますと、失敗しました。ずいぶん気持ちが揺れてましたが、やれるものならやってみろっていう態度なんです。特別背任なんかしていない、立件できるはずがない、と強気に出てみたり、警察の事情聴取はかなわんなあ、と弱気になってみたり、誣告《ぶこく》罪で爺《じじい》たちを告訴してやると息巻いたり、だいぶ混乱してましたが、代表権を手放すことは約束しました。しかし、これだって、どうなるかわかりませんよ。混乱してますからねぇ。わたくしは裏切り者と怒鳴りつけられましたよ」 「仮に代表権を手放す気持ちが変わらなかったとしても、これだけで三人の相談役が矛を収めるとは思えませんねぇ」 「そうでしょうね。行き着くところまで行かないと収まりませんか。会長の話だと、磯野相談役は九月三十日に告発すると頭取に話したそうです」 「大騒動になりますが、相談役たちも会長も、行員たちを思い遣《や》ったり協立銀行の名を汚すことをどう考えてるんでしょうか」  竹中は佐藤と話し終えたあと、永井宅に電話をかけた。佐藤とのことは昨夜永井の耳に入れておいた。  竹中は、佐藤の諫言《かんげん》に鈴木が応じなかったことを伝えたあとで言った。 「児玉先生に動いてもらいましょうか」 「児玉さんに会長のお宅へ行ってもらうのか」 「それは無理でしょう。気位の高い児玉先生は、立腹しますよ。あしたの日曜日か、あさって、どこかホテルに部屋を取って二人だけで会ってもらうのがいいんじゃないでしょうか」 「うーん」 「反対ですか」 「いや。ただ児玉さんが恫喝《どうかつ》的に出たときに、会長が反発するんじゃないかと心配したんだ」 「恫喝なんかしませんよ。ふと思ったんですが、病気を理由に退任することで児玉先生に引導を渡してもらうのがいちばん穏便なやり方なんじゃないかなあと」 「いい考えかもしれない」 「さっそく児玉先生に電話をかけますが、部長は在宅ですか」 「うん。きょうもあしたもずっといる」 「あとで連絡します」  竹中は、ドキドキしながら児玉邸に電話をかけた。  児玉が直接電話に出てきた。 「協立銀行の竹中です。先生にお目にかかりたいのですが」 「鈴木のことだな」 「はい」 「怪文書は、わたしの家にも送られて来たよ。すぐ来たまえ」 「ありがとうございます」  竹中はスーツに着替えて、家を飛び出した。  竹中の話を聞いて、児玉が言った。 「往生際の悪いやつだ。よし、わたしがあした鈴木君に会おう。たしかに病気がいいな。鈴木君は糖尿の気《け》があったはずだから、糖尿が悪化したでいいじゃないか。これでも四の五の言うようだったら、わしは見限るし、磯野さんたちの好きにさせるしかない。あした、わしが鈴木の家に出向いてやる」 「先生にそこまでしていただくのは、あんまり甘えすぎます」 「呼びつければ鈴木は来るかもしれんが、わしのほうから出向くことがプレッシャーになるのと違うか」 「先生、ありがとうございます」  竹中は感きわまって、胸が熱くなった。 「電話して、アポを取るか」  児玉は夫人を応接室に呼んで、鈴木邸に電話をかけさせた。  鈴木が電話口に出たらしい。夫人からコードレスの電話機が児玉に手渡された。 「児玉ですが、ずいぶんしばらくですねえ」 「鈴木です。ほんとうにご無沙汰《ぶさた》ばかりして申し訳ありません」 「ひところは体調をくずしたとか聞いてたが、持病の糖尿はどうですか」 「その節は失礼しました。体調はあんまりよくないんですよ。気苦労も多いですしねぇ」 「さっそくですが、大至急あんたに会いたいんだが、あしたはお宅におるんですか」 「ええ」 「いろいろ心配してるんですよ。怪文書がわしの家にも舞い込んだが……」 「磯野などの爺《じい》さんたちが、わたしを陥れようとしてるんですよ。ふざけた爺さんたちです」 「あんたの言い分は会ってゆっくり聞かせてもらいましょう。午後二時ごろ伺いますから、おってください」 「児玉さんにご足労をおかけするわけにはいきませんよ。わたしが出向きます」 「それには及ばない。あんたは有名人で目立つから家にじっとしてなさい。じゃあ、あした」  むろん鈴木の声は聞こえないが、竹中は胸が割れそうなほど心悸昂進《しんきこうしん》が高じた。握り締めた両手が汗ばんでいる。 「聞いてのとおりだ。鈴木君にしてはしおらしく、むこうから出向くと言ったが、気が弱くなってる証拠だな」 「ありがとうございます」 「菅谷に電話して、明日一時に来るように言ってくれ」  児玉が夫人に電話を返した。  菅谷は児玉付の運転手である。  専用車の手配をしたあとで、夫人がにこにこしながら、児玉を見上げた。 「竹中さんにおねだりしちゃおうかしら」 「マージャンか。おまえは暇さえあればマージャンだ」 「わたしでよろしかったら、よろこんでお相手させてください」 「竹中はあしたの様子が気になるから、ちょうどいいか」 「はい」 「じゃあ六時に来てもらおうか」 「うれしいわあ」  夫人が眼を輝かせた。  竹中が井の頭線吉祥寺駅近くの公衆電話から、永井に電話をかけたのは六時二十分過ぎだ。 「もしもし」  永井の声だった。 「竹中です」 「どうだった」 「あした世紀の巨頭会談が実現しますよ」 「なんだって。どういうことになったんだ」 「児玉先生が会長に電話をかけてくださったんです。先生のほうが会長邸に出向いてくださることになりました。会長は自分が出向くとおっしゃったそうですが、先生は有名人は家にじっとしてなさいと言われ、午後二時に田園調布の会長邸に乗り込んでくださいます」  竹中は興奮して、敬語を連発した。 「首尾のほどはあした部長に連絡させていただきます」 「よくやった。竹中、でかしたぞ。あしたは長い一日になりそうだな」  永井の声も弾んでいた。     9  九月二十九日午後二時前から、鈴木と児玉の話し合いが田園調布の鈴木邸の十畳ほどある客間で行なわれた。  出向いたほうも迎えたほうもダークグレーのスーツ姿であった。 「鈴木さん、あんまり顔色がよくないですなあ」 「いろいろあって気の安まる暇もないんですよ。よく眠れないし、血糖値も上がってるし、ほんと冴《さ》えません」 「週刊誌の次は怪文書とこう立て続けに攻撃されたら、神経がもたんですよ。あんた、きのう磯野さんたちが陥れようとしてると言ってたが、怪文書まで彼らがやりますかね。磯野さんは怪文書が飛び交うなんて信じられん、天下の協立銀行も地に堕《お》ちた、世も末だと嘆いていたが、心ある人ならOBも現役も無念な気持ちでいっぱいでしょう。磯野さんはあんたを陥れようなんてこれっぽっちも考えてないと思いますよ。火だるまにならんうちに一日も早く会長を辞任してもらいたい、とは言っておったが、感情論がまったくないとはわしも思わない。しかし、純粋に銀行を思う気持ちのほうがずっと勝ってるんじゃないですか。銀行内に�調査委員会�を設けて、鈴木君の不正を糾明したらどうか、とも言ってたが、わしはそんな必要はない、と思うし、告発もしてはならんと思っている」 「児玉さんは、磯野相談役の相談相手になってるようですが、わたしはあなたが知恵をつけてると思ってましたよ」 「もちろん、わしに何度も電話をかけてくるので相談には乗ってるが、外部勢力と結託するのは感心せんと言って、逃げてきた。しかし、告発となると穏やかではない。わしの出番だと考えた次第ですよ」  児玉はごつい手で湯呑《ゆの》みをつかんで口へ運んだ。  緑茶をひと口飲んで、茶托《ちやたく》に戻した。 「鈴木さん、忌憚《きたん》なく言わせてもらうが、お家騒動にしては絶対にいかん。そのためにはあんたが退くしかないですぞ。取締役相談役でいいじゃないですか。年寄りと喧嘩《けんか》してなにになるんですか」  児玉の声は迫力があった。眼光も鋭い。鈴木は見返せず伏眼がちだった。 「磯野さんたち三人は辞任するんですか」 「もちろん辞任してもらったらいいでしょう。彼らもそのつもりだ。あんたが退任したら、彼らの辞任については、わしが責任を持ちます」 「九月三十日までにわたしが辞任しなかったら、告発の手続きを取ると言ってるようですが、本気なんですかねぇ」 「もちろん本気だ。まさに一触即発です。わしにもそう言ってきた。わしには抑えられないし、抑えるつもりもない。なぜなら、わしはあんたが辞任するのがいいと考えてるからだ。取締役も辞任して、いまのうちに退職金を貰《もら》ってしまうほうが損得で考えれば得だろうが、プライドのほうが大切なら、取相《とりそう》でいいじゃないですか」 「児玉さんほどの方が足を運んできてくれたんです。あなたの勧告は重く受けとめますよ。しかし、会長を辞めるつもりはありません」 「なんだと! わしを子供の使いとでも思っとるのか!」  児玉が胴間声を放った。魁偉《かいい》な容貌《ようぼう》が凄《すご》みを帯びている。  しかし、鈴木も負けてはいなかった。 「あなたに大きな声を出されたことは覚えておきますが、わたしがあなたに恫喝《どうかつ》されて辞めなければならないいわれはありません」 「三相談役の告発についてはどう考えるんだ」 「勝手にやったらいいですよ。そんなお家騒動みたいなことをして、恥をかくのは爺さんたちのほうです」  鈴木はひらき直った。告発は威《おど》しにすぎない、という読みもある。  腕組みして眼を瞑《つぶ》っていた児玉が、眇《すが》めた眼で鈴木をとらえた。 「都銀の現役トップでバブルの責任を取ってないのは、あんたとコスモの秋山ぐらいだ。�バブル・パージ�はなんとしてもやらないかん。子供の使いで恥をかかされたぐらいはゆるしてやるが、こうなったら、わしも後には引けん。せいぜい爺さんたちの応援団長になって、あんたを……」  右手の人差し指を鈴木の胸に突きつけて、児玉は話をつづけた。 「牢屋《ろうや》に送り込んであげよう。世のため人のためになるだろう」 「児玉さん、そんなことをおっしゃってよろしいんですか」  鈴木はこわばった笑いを顔に浮かべた。語尾がふるえている。 「なんだと! ふざけるな!」  胴間声で襖《ふすま》がびりびり振動した。 「児玉さんに一億円お渡ししてましたよねぇ。それに、いまあなたがわたしに言ってることは、明らかに犯罪的行為です。脅迫罪が成立するんじゃないんですか。オープンにする気は目下のところありませんが、念のためテープを録《と》らしてもらってます」  襖がわずかにあいていた。隣室にテープレコーダーがセットされているのだろう。人の気配もする。  だが、動じないのはさすがだった。児玉はにやっと不敵な笑いを浮かべた。 「遠慮なくオープンにしたらいいでしょう。それで恥をかくのはあんたのほうですよ。二人で牢屋に入るのも悪くないでしょう。あんたみたいな極悪非道な男は、一度くさいめしを食ったほうがいいんです。邪魔をしました。帰らせてもらいます」  児玉はがぶっと緑茶を飲んでから、音をたてて湯呑みをテーブルに戻した。  座布団から起《た》ち上がった児玉の形相を見上げた鈴木が突然正座して、低頭した。 「児玉先生、ちょっとお座りください」 「なんですか。気持ちが変わりましたかな」  立ったまま、児玉が訊《き》いた。丁寧語になっているのは、テープレコーダーの手前仕方がない。 「先生に三相談役の暴走を抑えていただくわけにはまいりませんでしょうか。いかようにも御礼はさせていただきますが」  鈴木の声がうわずっていた。  児玉が表情をひきしめて腰をおろした。 「さっき一億円がどうのこうのとおっしゃいませんでしたか……。わしは内心|忸怩《じくじ》たる思いですよ。あんた、まだわかってないんですねぇ。御礼の意味がよくわからんが、余計なことを考えないでくださらんか」 「…………」 「きょうのことは磯野さんの耳に入れておきますが、あしたの朝、二人でもう一度だけ話したらいかがですかな」  児玉にしてはやけに静かで丁寧なもの言いだった。  児玉が引き取った後で、佐藤が客間に顔を出した。 「テープレコーダーもダメだったな。きみの入れ知恵も、ここんとこ裏目に出るねぇ」  鈴木のジロッとした眼を佐藤はやわらかく見返した。 「諦《あきら》めるのはまだ早いですよ」 「当たり前だ。わたしが辞めなければならん理由などない」 「児玉氏にカネをつかませるしかないと思います。三億もつかませれば、きっと会長に味方してくださるんじゃないでしょうか」 「余計なことを考えるな、と言ってたじゃないか」 「テープレコーダーが回ってましたから、カッコをつけただけだと思います。きれいごとですよ」 「そうかもなあ。きみ、今夜児玉の家に行ってくれんか」 「竹中を使いましょう。竹中は児玉氏に可愛《かわい》がられてますから」  鈴木は眉《まゆ》をひそめたが、うなずいた。     10  佐藤が竹中宅に電話をかけたとき、竹中は留守だった。 「主人がいつもお世話になっております」 「外出先はわかりませんか」 「申し訳ありません。聞いておりませんが……」 「何時ごろお帰りになりますかねぇ」 「どなたかわかりませんが、マージャンを誘われたと話してましたから、遅くなると思います。どう致しましょうか。遅い時間でもよろしければお電話させていただきますが」 「いや、けっこうです。わたくしのほうからお電話をかけさせていただくことがあるかもしれません。竹中さんによろしくお伝えください。失礼致しました」  佐藤は舌打ちしながらコードレスの電話を切った。舌打ちしたのは鈴木も同様だ。  その夜、竹中が帰宅したのは十一時過ぎだった。  マージャンは一万三千円勝った。対児玉戦で初めての勝利である。  食事の後で、児玉と竹中は例によって密談した。 「先生から朗報が聞けなかったのはショックです。当行の会長もけっこうしぶといですねえ」 「だからこそ協銀のようなしたたかな銀行で会長になれたんだよ。院政も敷いてな」 「三相談役はほんとうに鈴木を告発しますかねぇ」 「それはない。ちょっと様子を見るように、磯野さんに電話を入れておいた。あしたの磯野—鈴木会談がヤマだな。わしほどの男を子供の使いにして恥をかかせた鈴木は絶対にゆるせん。必ずクビを取ってやるよ」 「そんなことができますでしょうか」 「さっきも話したが、わしが本気で出る所に出るつもりになれば、あいつは一巻の終わりだ」 「テープレコーダーの話はほんとうなんですか」 「当然だろう」  竹中は生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ。 「その前に、東京地検に特別背任の容疑で事情聴取させてやろう。おそらくそれで鈴木は陥落する。世界一のY新聞に事情聴取をリークして、一面か社会面のトップで書かせれば、それでおしまいだ。わしがそれを言うのは、やばいから、磯野さんから言わせることにしたよ。準備おさおさ怠りなしだ」  児玉は豪傑笑いをしてから、ロイヤルサルートの水割りを一気に呷《あお》った。  竹中は、児玉から聞いた話を逐一永井に電話で報告した後で、指示を仰いだ。 「秘書室長から留守中に電話がありましたが、いかがしましょうか」 「放っておいていいだろう」 「秘書室長から電話がかかってきたらどうしましょうか。児玉先生とマージャンやってたとも言えませんし……」 「マージャン誘われたでいいんじゃないかなあ。カンカンに怒ってた、絶対にゆるさん、て言ってたと話して、いっこうにかまわんよ」 「わかりました。あっ、割り込み電話がかかってます」 「佐藤だろう。じゃあ、あとで」  案の定、佐藤だった。 「遅い時間にご免なさい。奥さんからマージャンと聞いてたものですから」 「どうも」 「さっそくですが、あすの朝、児玉氏に会ってください。竹中さんを信頼して、はっきり言いますが、三相談役を抑えられるのは児玉氏しかいないと思うんです。お家騒動にしないためなら、三億円ぐらいは仕方がないんじゃないでしょうか。さっき電話で会長と話したんですが」  佐藤の気持ちも揺れているらしい。まだ鈴木に未練たっぷりではないか——。 「児玉先生に三億円ご融資するっていう意味ですか」 「ええ」 「それはあり得ません」 「どうしてですか」 「実はマージャンの相手は児玉先生だったんです。きょう会長と会われたそうですが、ひどく立腹されて、『鈴木の野郎、絶対にゆるさんぞ。牢屋にぶち込んでやる』とまで言ってましたから……」 「なんですって! そんなことを……」 「もっと言いますと、『一億円のはしたガネなんか叩《たた》き返してやる』とも話してました」  咄嗟《とつさ》に口をついて出た嘘《うそ》だが、この程度はゆるされるだろう。 「竹中さん向けのゼスチャーじゃないんですか」 「なんでしたら秘書室長が直接児玉先生にぶつかってみたらいかがでしょう。児玉先生が見得を切ったのだとしたら、わたしがご融資の話をもちかけるのはおかしくなりませんか。それと申しにくいのですが、これ以上不正融資にかかわりたくありません。児玉先生の話を鵜呑《うの》みにしてるわけではありませんけれど、児玉先生に対する会長の態度というか、対応は失礼千万だと思います」 「…………」 「どうかご容赦ください。失礼しました。おやすみなさい」  電話を切って、竹中は大きな伸びをした。  胸がすーっとしていた。  杉本から電話がかかってくるのではないか、と竹中は心配したが、杞憂《きゆう》に終わった。そのかわり、永井との二度目の電話が長くなった。     11  九月三十日午前十時から、磯野相談役の個室で、磯野—鈴木会談が始まった。 「相談役が外部勢力と手を結ぶとは思いもよりませんでした」  鈴木に皮肉っぽく切り出されて、磯野は顔をしかめた。 「きみはまだ悪あがきしようとしているのかね」 「筋論としても、三相談役がまず退《ひ》かれる、その後でわたしが辞任するということでいかがでしょうか。会長のわたしが任期途中で辞めると、世間を騒がせることになりますし、痛くもない腹を……」  磯野が右手を突き出して、さえぎった。 「ちょっと待ちなさい。きみの腹は充分痛いはずだ。いや、腐ってると言ってもいい。不良債権がいくらあるか知らないとは言わせないぞ。バブルの責任を取ってないのは、きみとコスモの秋山君の二人ぐらいだ」 「ですから、任期が満了したら責任を取りますよ」 「児玉さんも言ってたが、病気になればいいじゃないか。児玉さんにたしなめられたからシナリオを変えたわけじゃないが、武士の情けできみを告発することはとりあえず勘弁してやろう。だが三相談役の辞任は、きょう付でけっこうだし、記者会見もやらせてもらう。バブルなり不良債権の責任を取る、という理由でな。相談役の記者会見なぞ前代未聞だろう。さぞや大騒動になることだろう」 「…………」 「きみには、警察の事情聴取は覚悟してもらわんとねぇ。児玉さんが力を貸してくれることになった。テープレコーダーを仕掛けるような卑劣な真似はしてないから安心したまえ。協立銀行から縄付きを出すようなことにならなければいいがねえ」 「記者会見して、わたしのことを話すんですか」 「もちろんだ。きみへの当てつけだよ。会長が責任を取らないから、われわれ三人が責任を取ると話すしかないんじゃないのか。きみとの話が終わり次第、結果のいかんによっては三人で日銀の記者クラブに出向く手はずになってるんだ。やりきれないし、気がすすまんが、きみがわれわれの忠告を聞き入れないんだから、しょうがないじゃないか。わたしはきみを見そこなった。わたしに見る眼がなかったんだ」  磯野はハンカチで洟《はな》をかみ、ついでに眼尻《めじり》の涙をぬぐった。 「協立銀行始まって以来のスキャンダルになるだろう。ほんとうに忍びない。若い行員諸君にも申し訳ないが、きみが会長でおるよりはましだとわれわれ三人は考えたんだ。岩本さんは長生きしたくなかった、と嘆いてたが、わたしも断腸の思いだよ」  三分ほど沈黙が続いた後で、鈴木が投げやりに言った。 「わかりましたよ。斎藤と一緒に辞めます。斎藤にも不良債権を膨らませた責任はあると思うんです。頭取になりたがってるやつは掃いて捨てるほどいますから。会長は当分空席でいいでしょう」 「斎藤にそんな責任はない。きみはわれわれの親心がちっともわかってないじゃないか! お家騒動にしたいのか!」  磯野は語気を荒らげた。  鈴木がふくれっ面で言い返した。 「お家騒動にしようとしてるのは磯野さんのほうでしょう」 「もういい、帰ってくれ!」 「まだ話が終わってませんよ」 「岩本さんも言ってたが、きみはほんものの裸の王様になっちゃったねえ。昔、住之江銀行にもそんなのがおったが、胸に手を当てて考えてみたまえ。きみとわれわれ三人が辞める。相談役はきみ一人だけで充分だ。記者会見に病人のきみが出る必要はないだろう。岩本さんと花岡さんには待機してもらってるが、記者会見は、斎藤君と山田君でするのがいいと思う。きみは病気で辞めるでいい。不良債権の責任は全部わたしが取ってやるよ。ここまで言っても、親心がわからないようなら、残念だがお家騒動しかないぞ」  ふたたび長い沈黙が続いた。 「返事を聞かせてくれないか」  磯野に促されて、鈴木がうわずった声を押し出した。 「わかりました。相談役のお考えに従います。取相《とりそう》ではいけませんでしょうか」 「そこまでは言わんよ。よく言ってくれた。礼を言わせてもらう」  磯野が初めて笑顔を見せて、秘書を呼ぶためにセンターテーブルのブザーを押した。  中年の女性秘書が顔を出した。 「斎藤君と山田君を呼んでくれ。ついでに茶を淹《い》れ替えてもらおうか」 「かしこまりました」  会議中の斎藤と山田がおっとり刀で相談役室に駆けつけてきたのは、三分後の午前十時四十七分だった。  磯野から手でソファをすすめられて、二人とも緊張しきった顔で向かい合った。窓側が斎藤、廊下側が山田で斎藤の右手に磯野、左手に鈴木が座っている。  磯野はにこやかだが、鈴木は仏頂面だ。 「鈴木君から健康がすぐれないので代表取締役会長を辞任し、取締役相談役に退《ひ》きたい、ということで相談を受けた。一応というか形式的というか慰留したが、辞意が強いので、わたしは賛成した。同時に、われわれ相談役三人は本日九月三十日付を以《もつ》て辞任させていただく。わたしの場合はバブル、不良債権を膨らませた責任を取らせてもらうということだ。過日、斎藤君から相談役辞任を求められたが、事実はわたしを含めた三相談役が鈴木君に言い出したのが先だ……」  三人にこもごも眼を遣《や》りながら話していた磯野が鈴木をまっすぐとらえた。 「鈴木君、わたしの言ってることに間違いはないと思うが」 「ええ。まあ」  鈴木が不承不承うなずいた。 「わたしの立場でこういうことを言うのは差し出がましいとは思うが、あすの常務会後、取締役会を開いて、鈴木君の辞任を決めるのがいいと思う。相談役は定款にもないことでもあるから報告案件ということでいいが、定年制は常務会で決めておいたほうがいいんじゃないかな。七十五歳っていうところかねぇ。記者会見など大袈裟《おおげさ》なことはせんでいいだろう。プレスリリースと言ったかねぇ、記者クラブに紙を投げ込んでおけばいいんじゃないのか……。鈴木君、わたしばかりに話させんで、きみも発言してくれよ」  鈴木が緑茶をひと口飲んで、湯呑《ゆの》みを乱暴に茶托《ちやたく》に戻した。 「補足することはなんにもありませんが、ただねえ……」  鈴木は腕と脚を組んで、天井を仰いだ。 「バブルの責任はわたしにもないとは言えませんよ。このとおりぴんぴんしてるんだから、病人にしないでわたしにもバブルの責任を取らせてください。取相で残ることでもあり、いつまでも雲隠れするのは厭《いや》ですよ」  ふてくされてる面はあるにしても、磯野はこのセリフを期待していたので、すぐに鈴木の話を引き取った。 「わたしもそのほうがいいと思う。きみの潔さは、世間にアピールするだろう。斎藤君、意見はないか」 「バブルの責任はボード全体にあると思いますが……」  磯野が眉《まゆ》をひそめて、強引に口を挟んだ。 「そんなことを言い出したらきりがないぞ。わたしと鈴木君が責任を取る。それでいいじゃないか」 「はい。相談役と会長には申し訳ない気持ちでいっぱいです。そのことが言いたかったんです。それと、これだけの大きな問題ですと記者会見しないわけにはまいりません。その点につきましては、わたしと山田君におまかせ願えませんでしょうか」 「いいだろう」 「バブル・パージの先鞭《せんべん》をつけるんだから、多少の意味はあるかねぇ。プレスリリースだけっていうわけにもいかんか。斎藤君と山田君が日銀の記者クラブであした記者会見したらいいよ」  鈴木の返事は短かったが、磯野はまんざらでもないとみえ、長かった。  山田はひとことも発言しなかった。頭取のチャンスがめぐってきた、と胸算用していたかもしれない。     12  この日午後二時ごろ、デスクワークしていた竹中がトイレに立って放尿しているとき、永井が入ってきた。トイレにはほかには誰もいなかった。 「ツレションで話すことでもないが、うまくいったよ。あしたの常務会と、取締役会ですべてが決まる。はしゃぐわけにもいかんが、そのうち一席設けるからな」  人の気配がした。岡崎だった。  バンザイ! と叫びたいところだったが、竹中は永井と岡崎に目礼して、先にトイレを出た。  永井と岡崎が一緒に戻ってきた。永井が個室に入るのを見届けてから、岡崎がさりげなく竹中に近づいてきた。 「今夜あいてる?」 「うん」 「たまには一杯どう」 「いいよ。七時、いや七時半に大手町ビル地下一階の中華料理屋で会おうか」  竹中は岡崎の誘いを受けた。  大衆食堂の中華料理店で、ビールのグラスを軽くぶつけあい、ぐっと一杯やったあとで竹中が言った。 「美味《おい》しい。今夜のビールは格別|旨《うま》いよ」 「やっぱりなにかあったのか」  岡崎が竹中のコップにビール瓶を傾けながら訊《き》いた。  竹中は酌を受けたコップをテーブルに戻した。  周囲に聞き耳を立ててる客はいなかったので、声をひそめる必要はなかった。 「どうして?」 「だって、竹中がトイレに立ったあと、部長が急ぎ足で部屋から出て行ったもの」 「それで岡崎もツレションにつきあったっていうわけだな。部長は人が好いから、岡崎に勘繰られたってことか」 「それじゃ、俺は人が悪いみたいに聞こえるぞ」 「ほかにも気にしてたのがいたんだろうねぇ」 「プロジェクト推進部全員とまでは言わないけど、部長と竹中の親密さに嫉妬《しつと》してるやつは多いと思うよ」  二人とも笑顔で話している。 「気をつけてるつもりだったんだけどねぇ。岡崎とは横浜支店の一件で共通項があるから話すんだけど、今夜は祝杯をあげたい気分なんだ。あしたの常務会でS氏の辞任が決まる。おそらく三相談役も辞めると思うよ。S氏は病気を理由にするのかなあ。I氏はバブルの責任を取るって聞いてるけど」 「それは凄《すご》い!」  自分の声の大きさに気づき、岡崎は口を押さえて四囲に眼を遣《や》ったが、店内は混雑していたので、こっちを見ている眼はなかった。 「S氏から辞任を引き出したのは、I氏だよ。凄い人、立派な人としか言いようがないよねぇ」 「さしずめバブル・パージっていうことになるが、それを言うなら、S氏一人だと思うけど」 「きっとすべったの転んだの、いろいろあったんだろうな。部長が、もう一人のS氏、Sさんにするか、Sさんの参謀役やってたのはわかるよな。きみも薄々感づいてると思うが、俺は心ならずも汚れ役やらされてたから、サラリーマン根性丸出しで部長にヘッジしてた面もあるわけだよ。これ以上は口が裂けてもなんにも話さんからな。時効になったらいくらでも話すけど」 「ビッグニュースを話してくれただけで充分だよ」 「岡崎を信用してるもの。きみがこのことを今夜中に誰かに話したら、ゆるさんからな」 「当たり前だ。それこそ口が裂けても話さんよ。おまえみたいに親分がいるわけでもないしな」  岡崎はべろっと舌を出してから、旨そうにビールを飲んだ。 「俺だって親分なんていないよ。きみが部長のことを嫉妬してるとは思わんけど、何度も言うが、部長にリスクをヘッジしてただけのことだ」 「わかったわかった。�柳沢吉保�はどうなるんだろう。権力構造は相当変わるとは思うけど。前MOF担なんかあしたは首を洗う心境になることだろうぜ」 「あいつはそんな軟弱《やわ》じゃないよ。ころっと、親分を変えるんじゃないのか」 「まあなあ。変節漢は、あいつだけじゃないかもねぇ」 「とにかく、誰かと祝杯あげたかったんだ。岡崎から誘われて、うれしかったよ」  ロックの紹興酒を飲みながらの話になった。 「拍手|喝采《かつさい》の大朗報のあとで、こんな話するのは気が引けるけど、支店の傷み方はひどいことになってるぞ。山岸が言ってたけど、支店長の最大の仕事は、見かけの数字をいかによくするかにあるそうだ。俺が横浜支店にいたときもそうだったが、利息の操作で不良債権を圧縮してたけど、いまはもっとひどいことになってるらしいよ」 「不良債権ってひとつに括《くく》られてるけど、Dで回収可能なものだってあるからねぇ。現にわが部ではそれをやってるわけだよ。利息の操作なんて、人聞きのわるいことはタブーだぞ」  竹中は右手の人差し指を口に当てた。  不良債権は、L、D、Sの三段階あり、Lはロス(損失)、Dはダウツフル(不確定)、Sはスロー。スローは利払いが滞っている貸付金。DはSより質は悪いが、回収が不可能ではない。 「まあな。虎ノ門は官庁抱えてるから強いけど、どこもかしこも支店長は大変らしいぞ。みんなS氏の尻《しり》ぬぐいやらされてるわけだよなあ」 「うん。否定しないよ」  竹中は、川口と雅枝の顔を眼に浮かべた途端に紹興酒が不味《まず》くなったような気がした。 [#改ページ]  第十七章 再生へのシナリオ     1  時計が午後五時を回ったころ、竹中のデスクで電話が鳴った。 �渉外班�と異なり、在席している限り竹中自身が受話器を取る。 「はい。竹中です」 「A新聞社の田中だけど、覚えてないかなあ」 「とんでもない。大変なご活躍で……」 「竹中さんに会いたいんだけど」 「なんでしょうか。わたしなんかでよろしいんですか」  竹中は広報を通してほしい、と言いたいところだったが、そんな大物でもないし、田中編集委員には会ってみたい気もしていた。 「六時に内幸町のプレスセンターでどうかなあ。十一階に談話室があるけど」 「存じてます」 「じゃあ、あとで」  受話器を戻しながら、なにごとだろう、と竹中は首をひねった。 「一時間ほど出かけてくる。A新聞の田中編集委員が会いたいって言ってきたんだ。あんな大物記者が俺《おれ》みたいな小物に……。なんだろうねぇ」  竹中は六時二十分前に、背広を着ながら中林に言った。  中林も眼を丸くした。 「田中豊っていえば、いまやA新聞のスター記者じゃないですか。でも、あの人大嫌いです。アジテーターっていうか、エキセントリックっていうか。農協批判はほとんどやらなかったし、銀行バッシング、銀行悪玉論者の旗手を気取ってるつもりなんでしょうけど。A新聞は人材の層が厚いはずなのに、なんであんなのを看板記者として売り出したんですかねぇ。A新聞上層部の見識を疑いますよ」  中林もわかっている、と竹中は思った。 「杉本の友達なんだ。ずいぶん前に杉本と一緒に飲んだことがあるけど、尊大で厭《いや》なやつだったよ。大蔵・農水の密約をスクープしたA新聞が農協に弱いのは、ネタ元だからなんじゃないのかねぇ」 「田中記者は頭取と磯野相談役の記者会見がらみで、副部長からなにか取材したいんでしょ。あんなのに負けないで、ガンガン言い返してくださいね」 「でも、売り出し中の大編集委員とどこまで斬《き》り結べるかねぇ。なにか言えば銀行は反省がたりないって、叱《しか》られるのが落ちだろう」 「叱られるのは卒業した人たちで、われわれクラスは胸を張ってなんでも言えるんじゃないんですか」 「きみに代わってもらおうか」 「冗談でしょう。課長なんか洟《はな》もひっかけてもらえませんよ」  竹中は六時五分前にプレスセンタービルに着いたが、田中があらわれたのは六時二十分過ぎだった。 「めしを食いながら話そうか」 「いいえ。時間があんまりないんです」  遅刻を詫《わ》びないことへの反発もあったが、竹中が仕事を残してきたのは事実である。 「なんだ。そうなの。じゃあ生ビールでも飲もうか」  二人はソファで向かい合い陶器のジョッキでビールを飲みながら話をした。 「協立銀行もやるじゃないの。バブルの責任を感じなさすぎる経営者ばっかりの中で磯野さんと鈴木さんは立派だよ。さっき、杉本と電話で話したんだけど、きょうの記者会見にはいろいろ裏事情があるみたいじゃないの」  竹中はドキリとした。いくら杉本でも児玉由紀夫の存在を明かすとは思えないが。 「記者会見の仕掛人は俺と竹中だ、なんて言ってたけど、どういうことか教えてよ」 「まさか……」  鈴木会長の首に鈴を付ける役割の一端を担ったという自負が杉本にあったとしたら笑止である。 「相当な拡大解釈なんじゃないんですか。風が吹けば桶屋《おけや》が儲《もう》かるっていうところですかねぇ。いずれにしても、わたしは関係ありませんよ」 「逆なんじゃないの。あいつが竹中君の名前を出すのはよくよくのことだもの。なんせ、俺が俺がの杉本だからねぇ」  どっちもどっちだ、と言いたいところだが、そうは言えない。竹中は苦笑に紛らわせた。 「ワンマンに超のつく鈴木会長がよく取相《とりそう》になったねぇ。ちょっと体調もくずしてるらしいけど」 「ええ。そう聞いてますが」 「コスモ銀行の秋山会長に磯野さんや鈴木さんの爪《つめ》の垢《あか》でも煎《せん》じて飲めって言ってやりたいよ」 「秋山さんみたいな人はほかにもたくさんいるんじゃないですか。芙蓉《ふよう》信託銀行の高田相談役なんて、ひどいらしいですよ。六月に会長を辞めましたが、社長・会長を通じて、どれほど不良債権を膨らませたことか……大学のクラスメートが泣いてましたが、芙蓉信託銀行を傾けさせた張本人なのに数億という高額な退職金を取って、しゃあしゃあとしてるそうです。ドロボーに追銭もいいところです。高田なんていう人は、それこそ牢屋《ろうや》にぶち込んで、私財も没収すべきなんです。相談役の年収もけっこう高額ですからねぇ」  ビールを不味《まず》そうに飲んで、竹中は口についた泡を左手の甲でぬぐった。顔をしかめたのは、鈴木も高田と似たようなものだ、と思ったからだ。鈴木に結果的に加担した自分も五十歩百歩かもしれない。 「信託銀行なんて取材したことないけど、言われてみれば二十行の中で最も危い銀行の中に芙蓉信託も入ってるねぇ」 「極債銀もひどい銀行ですよ。あんな銀行にした人たちの罪は万死に値するんじゃないでしょうか。北拓銀も然りです」 「極債銀の金融債はそのうちただの紙屑《かみくず》になるな」  竹中は小首をかしげた。 「それはあり得ないと思いますけど」 「なんで」  田中は頬《ほお》を膨らませた。 「利付金融債だけで十兆円もありますけど、極債銀の金融債だけが紙屑になるなんて考えられません。みんな一蓮托生《いちれんたくしよう》です。十兆円の金融債を紙屑にしたら、日本の金融システムが破壊されてしまいますよ。当行だって何千億円という金融債を保有してます」 「ふうーん。芙蓉信託とか極債銀の従業員組合は高田みたいなのを告発しないのかなあ」 「銀行の組合は、行内官僚そのものですよ。わかってても、見ぬふりをしてます」 「もう一杯どう」 「けっこうです。そろそろ帰らないと」 「協銀の不良債権がどのくらいあるのか教えてよ。書かないから」 「一兆何千億円でしたかねぇ」 「それは表向きの数字だろ。杉本の話だときみは銀行の実態がいちばんわかるポストにいるらしいじゃないの」 「それは杉本ですよ。杉本に訊《き》いてください」 「銀行全体で軽く百兆円はあるっていわれてるけど」  竹中は、最後のひと口を飲んで、ジョッキをセンターテーブルに戻し、田中を軽く睨《にら》んだ。 「マスコミが不安感を煽《あお》るのはいかがなものでしょうか。過度なペシミズムは気になります。とくに田中さんのような高名なジャーナリストには自重してもらいたいですねぇ。釈迦《しやか》に説法とは思いますけど、不良債権の中にはロスとダウツフルがあります。ロスは回収不能ですから処理しなければならないが、ダウツフルは回収が不可能ではないんです。ダウツフルの中にも難易度の問題はありますし、結果的にロスになるものもありますが、銀行が支えることによって蘇生《そせい》する企業もあるんです。たとえばゼネコンのことが言われています。悲観的な人は……」  児玉の魁偉《かいい》な顔が一瞬竹中の頭をよぎった。 「大手五社以外に生き残れないと言います。しかし、潰《つぶ》すわけにはいかないんですよ。銀行は必死に支えてます。ノンバンクも不動産会社も然りです」 「みんなバブル期に悪さをした咎《とが》めを受けてるんだ。倒産して当然だよ」  田中がうそぶくように言った。  竹中は懸命に笑顔をつくった。 「雇用の問題はどうなるんでしょうか。ニュービジネスが急速に育ってくれば別ですけど。失業率にしても三パーセントといわれてますが、実態はもっと厳しいんじゃないでしょうか。ゼネコンを突き放すわけにはいかないのが現実です」  田中が厭《いや》な眼をくれたので、竹中は口をつぐんだ。 「銀行は反省がたりないねぇ。バブル時代にどれほど悪事を働いたか少しは考えろよ」  予想どおりのご託宣だったので、笑いたくなったが、竹中は無理に表情をひきしめた。 「おっしゃるとおりです。でも、財テクを煽ったマスコミに罪はないんでしょうか。バブルは一億総参加だったとわたしは認識してます。要は度合いの問題でしょう。それを検証するのが、田中さんたちジャーナリストの責務なんじゃないでしょうか。センセーショナリズムとアジテーションでは、日本は救えませんよ」 「きみも反省がたりない口だな」  田中はえらそうに言い放って、ソファから腰をあげた。  アジテーターがなにを言うか、そう胸の中で言い返しながら、竹中も起《た》ち上がった。  内幸町から大手町に向かうタクシーの中で竹中は田中に偉そうに対峙《たいじ》した自分を恥じていた。バブル期以降も悪さをした俺は、「反省がたりない」と罵倒《ばとう》されても、甘んじて受けなければならない立場である。反論できた義理か、と言われればそれまでなのだ。     2  十月に入って間もなく、協立銀行岩本町支店長の山越和雄の特別背任容疑が発覚した。  八王子市内の建材会社社長に依頼して開設した同店口座の預金約六億円を無断で引き出し、共犯の金融ブローカーたちと借金返済に充てていた、という事件である。  山越は高卒で四十六歳。支店長にまでなったのだから、遣《や》り手だったに違いないが、不可解な金融操作を繰り返し、株の売買や不動産の仲介まで手を出して、闇《やみ》の勢力ともつきあっていたため、警察からマークされていた。そして、十月六日、特別背任容疑で警視庁捜査二課に逮捕されたのである。  協立銀行本部は課長時代から山越の素行を怪しんでいたふしがあるが、そんな人物をなぜ支店長に昇格させたのか、訝《いぶか》る行員が少なくなかった。  プロジェクト推進部の�竹中班�でも山越事件は話題になった。 「新聞にデカデカと書かれ、テレビニュースでも大きく採り上げられて、協立銀行のバッジをつけて歩けませんよ」 「広報は支店長個人の犯罪で逃げてますけど、銀行の雇用責任、管理責任が問われても仕方がないんじゃないですか」  中林と木下から口々に言われて、竹中もうなずかざるを得なかった。  遠藤がしたり顔で言った。 「山越とは梅田駅前支店で一緒でしたが、とっぽいやつでしたよ。聞くところによると、市ヶ谷支店の取引先課長時代に、マル暴とつきあっていたという話ですけど、今年の総会直前に市ヶ谷支店時代の不祥事が夕刊紙にスクープされそうになったとき、広報部長が�事実無根�とシラを切って恫喝《どうかつ》的にモミ消したそうじゃないですか。夕刊紙に書かれてたら、広報部長は役員になれなかったと思いますけど、そのかわり今度の事件は未然に防げたかもしれませんよ。協立銀行にとって、どっちがよかったんでしょうか」 「山越を支店長にした人の罪は小さくないが、総会前に書かれたらこれまた騒ぎだよ。どっちとも言えないんじゃないかな。山越のような男は、どこのポストにいても悪さをするんだろうねぇ。そういう人物を支店長に登用するなんて、どうかしてるよ」  竹中は悲憤|慷慨《こうがい》した。  相談役三人と会長の辞任が、マスコミに大々的に採り上げられ、小さからぬ反響を呼んだ。好意的かつ前向きに報道された矢先だけに、山越事件は協立銀行にとって痛恨事であった。プラスマイナスゼロにはならない。マイナスイメージのほうが、はるかに大きいように思えた。  十月十五日火曜日の午後二時過ぎに、竹中は永井に呼ばれた。周囲の眼がちょっと気になる。 「経対委(経営改善対策委員会)の論議が本格化してきてるが、常務会のあとで頭取から口説かれて弱ったよ」 「なにを口説かれて、どう弱ったんですか」 「二十二日付で企画部長に替わってもらえないかって言うんだ。常務にするとも言われた。以前にもそんな話が出たが、竹中が言った敵前逃亡の話を思い出して、いまは無理だと断った。ところが会長が辞任し、岩本町支店の不祥事などもあって、頭取は焦っているというか責任を感じて緊張してるというか、その話を蒸し返してきたわけだ。山崎君は静かな男だから、若干かったるいと思っているのか、経対委もわたしの主導で、思いきった提言をしてもらいたいって……。それと秘書室長を替えたいとも言っていた」 「頭取のお気持ちはわかります。相談相手、ブレーンには近くにいてもらいたいと思われるのはもっともですよ。秘書室長は会長一辺倒で頭取の相談相手になってませんでしたから、いまさら使いにくいでしょう」  永井は首をかしげながら、窺《うかが》う眼で竹中を見た。 「賛成なのか」 「いいえ、�反対�です。いま秘書室長を動かすのはタイミングが最悪ですよ。報復人事と受けとられますし、相当ガタガタすると思うんです。佐藤さんの息のかかった人たちがたくさんいますから、彼らを不満分子にする手はないんじゃないですか」 「それに近いことは、わたしも頭取に進言したが、頭取はきれいごとではダメだ、という意見だ。佐藤君の排除だけは急ぎたいらしい。あとは時間をかけて、なしくずしにしていくっていうことだろう」 「佐藤排除はわたしも賛成ですけど、十月っていうのは急ぎすぎですよ。来年六月まで、我慢できないんでしょうか」 「常務会に出て、つくづく思うのは、頭取にお世辞を言う人たちがやたら増えてるっていうことだよ。求心力がついてくれば、自分流の人事をやりたいと思うのは人情として仕方がないと思うし、それが無理なくできる環境にもなっているんだろうが、竹中の意見を容れて、押し返すとするか」 「わたしの意見を無視されてもけっこうです。部長がどう判断するかの問題ですよ。しかし、報復人事ととられがちな性急さは百害あって一利なしと思いますけど」 「わかった。本題に入ろう」  永井が背筋を伸ばした。 「本題はこれからなんですか」 「そうだ。経対委になにか注文はないか」 「山ほどあります。不良債権の処理は先送りしないで思いきってやるべきです。二十一世紀に生き残れる銀行であるためにも、資産をすべて吐き出してでも経営の健全化に最大限努力していただきたいと思います。バンク・オブ・アメリカが本店ビルを売却しましたが、こうした健全化対策を内外に表明することがいま求められてるんじゃないでしょうか」 「協立銀行はそこまで落ちぶれていないと思うが、そういう決意、決断が望まれてることはおっしゃるとおりだ。ほかには」 「リストラで中高年層に厳しくなるのはやむを得ない面があると思いますけど、ボードこそ最も厳しくあるべきです」 「たとえば」 「会長、頭取、専・常務の定年制、役員数の削減は、中高年層の削減に見合ってやってもらいたいと思います」  永井がにやっと相好を崩した。 「相談役の定年七十五歳は、先日、記者会見で頭取が話したことだが、会長七十歳、頭取六十五歳は、頭取自らきょうの常務会で発議した。専・常務も考えたいっていうことだった。役員の数を四分の一減らしたいとも頭取は話していた。以心伝心っていうところかねぇ」 「どうも」  竹中の顔もほころんだ。  中高年層だけをリストラのターゲットにするなんて冗談じゃない、と竹中はつねづね思っていたが、トップがすでにそれを考えているとは、協立銀行もまんざら捨てたものでもない。 「ほかにまだあるか」 「早期退職者優遇制度はどうですか。すでに経対委で出てると思いますが」 「うん。この問題と年俸制の導入については杉本に担当させてる。性格は悪いが、あいつは仕事はできるな。機を見るに敏すぎるのは気になるが……」  久しぶりに杉本の名前を聞いて、竹中はなんだか懐かしさのような思いにとらわれていた。 「杉本は、佐藤から距離を置こうと、いじましいくらいに努力してるよ。掌を返すようでその点は気に入らんが、仮に私が企画部長を委嘱されることになっても、杉本をすぐに外そうとは思わないよ。杉本は使い甲斐《がい》がある」 「ぜひそうしてください」  竹中は、われながら意外なセリフだったが、自然に口をついて出てきたのだ。無理をしているつもりはなかった。 「ということは、部長は企画部長お受けになるんですね」 「まだわからない。竹中は敵前逃亡になると思うだろうねぇ」 「いいえ。路線は敷かれましたから、もう大丈夫ですよ」 「…………」 「で、後任はどなたですか」 「内緒だけど、相原なんかどうかと思ってるんだが」 「相原洋介さんですか。悪くないですよ。彼には虎ノ門支店で一度仕えてます」  相原のいまのポストは取締役営業本部第七部長である。 「しかし、竹中の言うとおり今月中は性急すぎるな。来年早々ということで頑張ってみるよ」 「秘書室長もぜひそうしていただきたいですねぇ」 「二人の異動はセットだから、動くときは一緒になるだろう。いろいろありがとう」 「失礼します」  竹中は十月二十二日付の異動は決定的と予想していたが、永井、佐藤、相原など一部役員担当替えは年明けの平成九年(一九九七年)一月十日付で行なわれた。     3  一月六日の大発会後、東京証券市場の株価は暴落し、十日の平均株価は昨年来最大の下げ幅となり、平成七年(一九九五年)十一月十六日以来、一年二カ月ぶりに一万八千円台を割り込んだ。  四日間で二千円以上の大幅な下落である。  この日、竹中は烏森のおでん屋の小部屋で七時過ぎに久しぶりに『週刊潮流』の吉田修平と会った。吉田から誘われたのだ。  ビールを飲みながら竹中が言った。 「『週刊潮流』さんは、岩本町支店の不祥事を書きませんでしたけど、武士の情けですか」 「特集では扱いませんでしたが、書いたことは書きましたよ。銀行のモラルの低下ぶりはひどいもんですねぇ。五億や六億の詐欺や横領では誰も驚かなくなっちゃってますよ。小野ひろ事件のニセ定期も、協立銀行のOBでしたよねぇ。定期預金証書の偽造なんていう発想が大手都銀のバンカーから出るなんて信じられませんよ」 「協立銀行のOBです。現役ではありません」 「ところで相談役と会長の辞任は、『週刊潮流』が引き金を引いたことになるんですか」 「そう思います。結果論としてはプラスになったと思いますけど、あのときは参りましたよ」  吉田がにんまり笑ってグラスを乾したので、竹中はビール瓶を持ち上げた。 「どうも」  酌を受けながら吉田が言った。 「協銀の相談役と会長の辞任は画期的なことですよ。彼らはいい時代にバンカーになって、高給をもらって、バブルで銀行を無茶苦茶にしたわけでしょう。老害経営者の辞任は当然なんです。ほんとうは高い退職金も支払うべきじゃないですよ。相談役の定年制はほかの銀行も追随するんじゃないですか。コスモ銀行の会長もひどいですねぇ」 「潰《つぶ》れかけてる�ナガサカ�に五億円融資した件ですか」 「それもありますが、合併した相手の旧銀行系の人たちをやたら悪く言いすぎますよ。あの銀行は末期的症状を呈しているといわれても仕方がないと思います。中位銀行が合併したわけですけど、合併を仕掛けた張本人が合併が失敗だったみたいなことを言うとは、どういう神経してるんでしょうか……」  吉田はグラスを呷《あお》って、つづけた。 「だったら責任を取ってさっさと辞めるべきです。しかも経済連の副会長ですよ。恥を知らない人たちが銀行界には大勢いすぎます。パージみたいなことがあってもいいじゃないですか。六十歳以上の人は辞めてもらう。多かれ少なかれバブルに与《くみ》した人たちでしょ。中高年層の閉塞《へいそく》感が払拭《ふつしよく》されて、彼らがパワーを発揮し、活性化するんじゃないですか」 「ラジカルですねぇ。体系、秩序を乱すことになるので、そう簡単にはいきませんよ。きょうはなにか……」 「株価の下落を竹中さんがどう見ているかお聞きしたかったんです」 「橋本内閣はマーケットから内閣不信任案を突きつけられたんですよ。行政改革の狙《ねら》いは歳出の削減、増税は財政の立て直しが目的であったはずなのに、平成九年度の予算案は、まったくそれを反映してません。相も変わらぬ整備新幹線や農業対策費などの無駄遣い体質に、マーケットが失望したんですよ。消費税五パーセント、特別減税廃止はデフレを誘発しますが、通常なら公定歩合引き下げ措置で相殺するところなのに、〇・五パーセントの公定歩合ではそれができない。むしろ公定歩合は上げるタイミングが問題でしょう。消費の減退による景気の低迷が予想されるんじゃないでしょうか」  竹中はビールを乾し、手酌でグラスを満たしてから話をつづけた。 「それと株式需給バランスの悪化です。株式の持ち合い解消が本格化し、企業による銀行株の売却、その見返りとして銀行による株の売却、その結果相場が低迷し、銀行の含み益が減少し、償却損が拡大します。銀行に対する信頼が低下し、さらに銀行株が売却される。この悪循環なんですよ。円安や倒産企業増加の可能性などによる海外投資家の日本株に対するセンチメントの変化、つまり�日本売り�ですが、これも株価下落の大きな要因でしょう。もう一つ付け加えるとしたら、証券業界は腐りきってます。とくにリーディングカンパニーの丸野証券はひどすぎますよ。トウキョウ・マーケットに個人株主が戻ってくるのは百年河清を俟《ま》つような気さえしてきます。暴力団との癒着をずっと引きずってるんでしょうねぇ。その点は銀行もえらそうなことは言えませんけど」  竹中の眼に、自宅に街宣車で攻撃されたときのパンチパーマの顔が浮かんでいた。  吉田がはんぺんを食べて、ビールを飲んだ。 「田舎の農道をコンクリートにしてもしょうがないのに、補正予算で公共投資となると、そんなことですよねぇ。株はもっと下がると思いますか」 「その可能性はあると思います。しかし、マスコミが冷静に対応してさえくれれば、日本は安泰です。世界的にも大銀行は潰《つぶ》れてません。潰すことのコストが大変高くつくからです。護送船団なんて言うから、ねじ曲がって聞こえますが、二十行は吸収などの再編成はあったとしても潰さずに死守すべきだと思います」 「今年中に潰れる大銀行があると思いますけど」 「…………」 「だってそうでしょう。たとえばきょうの極債銀の終値は二百六十四円です。去年十二月三十日の大納会の終値が三百五円だから、四十一円も下げたことになります。銀行株で二百円なんて死に体同然ですよ」 「おっしゃることはわかります。極債銀の前身は極東不動産銀行ですから、構造不況業種の銀行業界の中でも、最もダメージを受けてますが、極債銀が倒産したら、時間差はあるとしても長信銀三行は全滅ですよ」 「大手都銀としては長信銀の使命は終わった。死んでもらってけっこうですって言いたいんですか」  竹中が激しく首を左右に振った。 「とんでもない。利付金融債だけで十兆円も流通してるんですよ。協銀も何千億円と保有してます。極債銀が潰れたら都銀だって危いんじゃないですか。ただ極債銀の傷み方は気になります。極債銀の金融債を大蔵省資金運用部も買い支えているようですが、想像以上に悲惨なことになってて、外国の金融機関はジャンク債並みの扱いで、極債銀の金融債を買っているのが現実です。ジャンク、直訳すればガラクタですが、ハイリスク・ハイリターンのジャンク債並みに評価されてるなんて、かつては考えられなかったことですよ」 「金融債の救済で、血税を使うなんて絶対反対ですからね」  吉田はにやっと笑って、つづけた。 「極債銀を潰したらどうなるか、やってみたらいいんですよ。小野ひろ事件でずっこけた産銀にもついでに潰れてもらったらどうですか」  竹中は顔を斜めに倒して、苦笑を浮かべた。 「われわれも小野ひろ事件にまつわる東西信金の処理では、�誇りだけの阿呆《あほ》な産銀�って行内ではあざけ嗤《わら》ってましたけど、あのとき産銀にはずいぶんと助けてもらったんですよねぇ。産銀のスタンスは立派だったと思います。産銀まで潰れたら、それこそ日本は沈没してしまいますよ。金融債の救済で血税を使うんじゃないんです。大手銀行を救済するために公的資金を投入すると考えたらどうですか」 「牽強《けんきよう》付会ですよ。話をすりかえないでください」 「そうですかねぇ。ただ含み経営に終止符が打たれようとしてることはたしかです。落ちるところまで落ちて、ドン底から這《は》い上がるしかないと思います」 「協立だって安泰ではないでしょう。あのバカでかい本店ビルを信用機構の象徴のように見てましたが、錯覚だったんです。いまや不信用機構の象徴っていうか、うす穢《ぎたな》いただの建物にしか見えませんよ。日本の金融システム全体が傷んでるんです。腐ってると言ってもいい。バブルの反省がたりないんですよ」 「ある新聞記者にもバブルの反省がたりないと言われましたが、反省したからこそ、会長と相談役が辞任したんです」 「大手町、丸の内|界隈《かいわい》は家賃が高いので、三分の一以下の新川や木場などにオフィスを移してる会社が多いと聞いてますけど、日本の金融街は空洞化が始まってるんでしょうか」 「大手町、丸の内がゴーストタウン化するっていうことは、日本終末論や日本沈没論を肯定することになります。そんなことにはならないと信じたいですね。それが超悲観論であり、暴論に終わるように、われわれは歯を食いしばって頑張らなければならないんです」  竹中の口調が自らに言い聞かせるように強くなった。 「竹中さんはバブルで土地と賃金が上昇しすぎた咎《とが》めをいつまで受け続けると思いますか」 「最低三年、長ければ五年。金融と非金融の賃金格差は解消しますよ」 「公定歩合の〇・五パーセントをどう思いますか」 「それを言われると耳が痛いです」 「わたしの友達が最近銀行から借金して新しいマンションを購入しました。制度ローンとかで利息は四・二パーセントなんだそうです。ひところに比べて住宅ローンの利息が低下したことは事実ですが、公定歩合との利ザヤがありすぎますよねぇ。しかも凄《すさ》まじい資産デフレの進行で、マンションの価値は下落してます。定期預金の利息はいくらでしたっけ」  皮肉たっぷりだ。  竹中は真顔で答えた。 「定期預金の利息が低すぎることも承知してます」 「昔なら筵旗《むしろばた》の一揆《いつき》が起きてますよ。日本の国民は去勢されちゃったんですかねぇ。もっと怒っていいと思うんですけど」 「〇・五パーセントは異常です。緊急避難で、そろそろ公定歩合も引き上げられるんじゃないでしょうか」 「緊急避難にしては長期でありすぎませんか。もう一度言わせてもらいますが、銀行を倒産させないために公的資金を投入するなんて冗談じゃありませんからね。二十行の中に三月決算が乗りきれない銀行が三、四行あると思いますけど」  吉田の舌鋒《ぜつぽう》は鋭い。 「わたしも繰り返しますが、二十行の一角が崩れたら、日本は沈没しちゃいますよ。ですから、三月決算は乗りきれると思います。株価維持のためのPKOはやむを得ないんじゃないでしょうか。おカネは、人間の躰《からだ》にたとえれば血液なんです。血液が還流しなければ死んでしまいます。放漫経営で銀行を危機に直面させた経営者は処罰されて当然だし、私財の没収もあっていいと思いますが、大銀行を潰すことのコストの高さを考えると、公的資金の投入も仕方がないんじゃないでしょうか。小さな銀行や信用金庫や信用組合は事実上、倒産してる所がけっこう多いんです。マスコミが�危い銀行�って書き立てれば、普通の人は郵便局にシフトしますよねぇ。郵貯の一人勝ちです。大蔵省資金運用部は、さぞかし、頭を痛めてることでしょうよ。この点を透明にしないと、�ビッグバン�なんていわれても、ぴんときませんよ。金融のプロは海外にシフトしますけど、一般庶民は郵便局しか頼るところがない。ま、当行も含めて強い銀行にも流入してきますが、おっしゃるとおり利息をもっと引き上げる必要はあると思います」 「協立銀行は格付けでBいやCでしたっけ。平均株価が一万三千円になっても、含み損にならない……」 「ものの本にそう書かれてますねぇ」  竹中ははぐらかした。�一万三千円�は理論値にすぎない。�一万五千円��一万六千円�でも危険水域である。 「アメリカの金融機関はどうして生き返ったんですか」 「政府の打つ手が早かったからです。貯蓄組合の倒産が話題になりましたが、経営者は脱税等で厳しい処罰を受け、何千人、何万人という人々が監獄にぶち込まれてます。アメリカは脱税に厳しい国なんです。しかし、大銀行は一行も潰れてません。もちろん公的資金も投入されました。銀行が立ち直れば、国民に還流されるのは当然です。吉田さんもご存じと思いますが、一九八四年のコンチネンタルイリノイ銀行の救済策がよく引きあいに出されますけど、アメリカにはFDICなる強力な預金保険機構が存在します……」  FDICは連邦預金保険公社のことだ。一九五〇年に制定された連邦預金保険法に基づいてFDICは無資本の政府機関になった。 「FDICはコンチネンタルの不良債権四十五億ドルをコンチネンタルのシカゴ連銀に対する借り入れを肩代わりする形で三十五億ドルで買い取りました。またFDICはコンチネンタルの資本を強化するためにコンチネンタルの持株会社が新たに発行する議決権のない優先株を十億ドル購入したんです。コンチネンタルの従来の自己資本と合わせて二十一億ドルになったので、銀行の健全性の指標を示す自己資本金比率は七パーセントまで上昇しました。さらにFDICと支援銀行団はコンチネンタルが再建されるまで資金援助を続けました。その後、コンチネンタルが蘇生《そせい》し、バンク・オブ・アメリカと合併したことはご存じのとおりです。おカネは還流してるんです」 「竹中さんの博覧強記ぶりは半端じゃないですねぇ」 「吉田さんにお会いするんで大急ぎで勉強してきたんですよ。それから日銀特融っていうと、日銀が只《ただ》で湯水のごとく融資すると誤解されてますが、三十年ほど昔に日銀特融で救済された大手の証券会社は立ち直ったあとで、利息をつけて全額返済してます。釈迦《しやか》に説法みたいなことで申し訳ありませんが、金融システムそのものまで、破壊してしまおうとするようなマスコミのアジテーションは、木を見て森を見ていない、としか言いようがありませんよ」  竹中は、田中の顔を思い出して、顔を歪《ゆが》めた。こんなえらそうなことを言ってよいのだろうか、との思いもある。  竹中の話しぶりが投げやりに思えたのか、吉田が眉《まゆ》をひそめた。 「株価対策なり、日本経済再生のシナリオなりで、竹中さんの建設的な意見を聞かせてくださいよ」 「橋本首相が提唱してる日本版ビッグバンも欧米の後追いで、日本の構造改善ビジョンというにはほど遠いものです。二〇〇一年なんて悠長なことを言ってないで、銀行と証券のATM提携なんかは直ちに進めるべきです。アメリカの株式市場を支えてるのは個人の投資信託です。個人株主を増やす方策も講じるべきだし、ニュービジネスの勃興《ぼつこう》を促すための優遇措置も必要でしょう。証券市場が活性化されるといいのですが、百年河清を俟《ま》つなんて言ってるようじゃ、見通しは暗いですかねぇ」  吉田が取材ノートを出してメモを取り始めたので、竹中はくすぐったいような気持ちになった。 「たいしたことを言ってるわけでもありませんよ。思いつきですが、東南アジアを睨《にら》んで沖縄を、中国東北部、ロシアを睨んで新潟や北海道の一部を非関税化するなんていうのはどうですか。治安のいい日本は国際貿易都市として最適のはずなのに、このまま放置しておくと、すべての物資が日本を素通りしてしまうかもしれない。日本の税体系は取りやすいところから取る。一回取れば離さないといった悪《あ》しき官僚主義の見本みたいな面がありますよねぇ。サラリーマンがいちばん割りを食ってるんです。農業に甘すぎるのもいい加減にしてもらいたいですよ」  ビールから冷酒に変わった。体質的にめっぽうアルコールに強い吉田は手酌でぐいぐいやっているが、口調も論旨も乱れることはなかった。 「竹中さんはビッグバンについてはどう考えてるんですか」  竹中は冷酒をちびちびやり、ついでにこんにゃくを食べて考えをまとめる時間を稼いだ。  吉田がにやにやしながら先に言った。 「根回しの国、談合の国で、ビッグバンやっても成功する確率は少ないと思いますけど」  笑いながら竹中が言い返した。 「せめてコンセンサスの国、予定調和の国ぐらいに言ってくださいよ。ゼネコンの談合体質は認めますけど、談合の国はないでしょう」 「それでご意見はどうなんですか」 「わたしも、懐疑的です。八〇年代後半の英国のビッグバンは、サッチャーなる強力なリーダーが存在したから、そして英国だからこそ成功したような気がします。残念ながら日本はリーダー不在です。それと欧米とは文化が違いすぎますよ。都銀や長債銀と欧米の銀行との合併はあり得ません。欧米銀行への身売りはあり得ますかねぇ……」  竹中は腕組みして思案顔でつづけた。 「ただねぇ、ビッグバンは後戻りできません。いまやルビコン川を渡ってしまったんですから。規制を緩和して、金融機関が相互に乗り入れるのは大きな前進です。外資系証券会社のアナリストがビッグバンで日本の都銀は一行も生き残れないようなことをあっちこっちで言いまくってますよねぇ。たしかに日本の銀行はどこもかしこも疲弊してますけど、それほど脆弱《ぜいじやく》ではないと思うんです。アナリストの尻馬《しりうま》に乗って、日本の銀行は危いってマスコミが書きまくる。�日本売り�はマスコミにも責任があるんじゃないでしょうか」 「ある都銀の人が、産銀が生き残るためにはモルガンなどの大銀行と合併するしかないってレクチャーしてくれましたけど」  吉田は産銀に含むところがあるらしい。 「産銀はそこまで落ちぶれてないでしょう。中立銀行のメリットもあるし……。アメリカ系の銀行に勤めてる友達があり得ないって断言してました。さっきも言いましたけど、日本の大銀行は自ら再生するしかないと思います。合従《がつしよう》連衡はあって当然ですが、アナリストの言うようなことになったら、日本の産業も、いや大新聞社も、出版社だって融けて消えちゃうかもしれませんよ。過度のペシミズムは危険です」 「…………」 「もしかするとマスコミは逆なのかなあ。オプチミズムでいくら銀行バッシングをやっても、日本は沈没しない。一千二百兆円の個人資産があるから安心だ、なんて極楽とんぼをきめ込んでるんでしょうか。太平の世をむさぼってるつもりで日本の銀行を叩《たた》いてると、大津波に襲われることもあり得ますよ。最近のマスコミは金融システムまで崩壊してしまいかねないような論調ですよねぇ」  吉田がつまらなそうな顔をして、ぐい呑《の》みに冷酒を注いだ。 「戦後の飢餓を経験してないから、あんまりぴんときませんけど、ほかになにか意見があれば……」 「不良債権問題は協銀にとっても大変重たく辛い課題です。わたしは本店ビルを売り飛ばしてでも、償却を急ぐべきだと先日某役員に進言しました。それと、ヤクザ対策も日本にとって大きな課題だと思います。ついでにもう一つ思いきって言わせてもらいますが、さっき吉田さんもお友達の話として言いましたけど、資産デフレの進行について考えてもいいような気がするんです。土地価格の低落傾向に歯止めがかからないことが、好況感をもてない要因なんじゃないか。ジャーナリストを相手に銀行員がこんなことを言うのは、けっこう勇気が要ります。非国民みたいに思われかねませんが、そろそろ政府が土地を買い上げるなど地価政策を発動してもいいんじゃないか。そんなふうに思うんですが」 「そこはたしかに意見が分かれるところでしょうねぇ。国民的合意が得られるかどうか」 「ええ、難しい問題です。地価を上げすぎたことの咎《とが》めを受けてるわけですからねぇ。しかし、地価に底値感が出てこないと、土地も不動産も買い控えで動かないことはたしかでしょう」  話しながら、竹中はふと杉本のにやけ面を眼に浮かべた。「佐藤から距離を置こうと、いじましいほど努力している」と永井は話していたが、鈴木がこけ、佐藤がこけようとしているいまでも、杉本は次の次の次の頭取を目指して、なりふりかまわず、まっしぐらに突き進んでいるのだろうか。しかも、あいつのことだから俺を子分にしているつもりも変えていないに相違ない。  そんな杉本を憎めないやつ、と思っているとはわれながら不思議である。  杉本のお陰でこの三年半ほどの間、思いがけない苦い経験をさせてもらった——。竹中はまたしても奇妙な懐かしさが胸に立ちのぼってくるのを意識していた。 [#地付き](完) (この作品はフィクションです。万一、現実の事件ないし状況に類似することがあったとしても、まったくの偶然に過ぎません) 参考資料  『ドキュメント 住専崩壊』 週刊ダイヤモンド編集部 湯谷昇羊・辻広雅文 ダイヤモンド社  『迷走する銀行』 湯谷昇羊 ダイヤモンド社  『政治ジャーナリズムの罪と罰』 田勢康弘 新潮文庫  『総理執務室の空耳 黒河小太郎政治小説集』 田勢康弘 新潮文庫  『農協大破産』 土門剛 東洋経済新報社  『検証大蔵省崩壊』 岸宣仁 東洋経済新報社  『MOF担の告白』 大倉一知 あっぷる出版社  『銀行の犯罪』 有森隆 ネスコ文藝春秋  『クレジット破産』 玉木英治 講談社文庫  『お笑い大蔵省極秘情報』 テリー伊藤 飛鳥新社  『官僚たちの志と死』 佐高 信 講談社  『失言恐慌』 佐高 信 現代教養文庫  『文藝春秋』(一九九六年九月号)「総理大臣の汚名」 加賀孝英  「資産価格変動のメカニズムとその経済効果」 大蔵省財政金融研究所  『選択』(一九九三年五月号)  『金融財政事情』(一九九二年五月十八日号)  『ニューズウィーク日本版』(一九九五年十二月二十日号)  日本経済新聞(一九九二年九月二十八日付朝刊)  朝日新聞(一九九四年五月十五日付朝刊 一九九六年一月三十日付朝刊 一九九六年三月二日付朝刊) 本書は、平成九年五月、『高杉良経済小説全集』第14巻として小社より刊行された書き下ろし特別作品を文庫化したものです。