高杉 良 勇気凜々 目 次  第 一 章 �喧嘩《けんか》太郎�  第 二 章 放送局一の営業マン  第 三 章 辞表提出  第 四 章 モノ売りへの転身  第 五 章 初出荷  第 六 章 社長兼トラック運転手……  第 七 章 �待てば海路の日和《ひより》有り�  第 八 章 ヨーカ堂と共に  第 九 章 去る者は追わず  第 十 章 幹部社員の参加  第十一章 夫婦仲よく  第十二章 バブル期の蹉跌《さてつ》  第十三章 創立二十周年  第一章 �喧嘩《けんか》太郎�     1 「なんで武見太郎なんかに会わなければいけないんだ。しかもスタジオじゃなく、俺《おれ》があいつに呼びつけられる法はないだろう」  岡本太郎はハイヤーのリアシートにふてくされたようにふんぞり返って、しゃがれ声でまくしたてた。 「先生、この期《ご》に及んでそれはないですよ。先生が快諾してくださったから武見太郎さんもOKしてくれたんです。超多忙の中で一時間も時間を取ってくれたのは、インタビュアーが天下の岡本太郎だからこそじゃないですか」  武田光司は、笑顔を消さずに、懸命に岡本太郎をなだめた。  ハイヤーは南青山の岡本邸を出たばかりで、銀座方面へ向かっていた。  昭和四十一年(一九六六年)初秋の某日午前十時ごろのことだ。銀座の教文館ビルにある�武見太郎診療所�で、十時半に武見太郎とインタビューする手筈《てはず》になっていた。  昭和十三年一月生まれの武田は、このとき二十八歳。身長は一メートル七十センチ。濃い眉《まゆ》の下の切れ長の眼に、きかん気な感じをのぞかせている。肌が浅黒く、苦み走った顔だ。  世界的な洋画家の岡本太郎は五十五歳。武田とは親子ほど違う年齢差だが、いまはヤンチャ坊主のように駄々をこねている岡本のほうが子供に見える。 「こんなつまらん番組、いったい誰《だれ》が企画したんだ」  武田は返事に手間取った。  文華放送が毎週月曜日から金曜日の朝七時から八時までの一時間、ニュースをちりばめた�キャスター�をスタートさせたのは、今春である。  岡本の言う「つまらん番組」が�キャスター�そのものを指しているのか、武見太郎とのインタビューなのか、武田は咄嗟《とつさ》に判断できなかったのだ。 �キャスター�は岡本太郎、秦《はた》豊、大島渚、寺山修司、石丸寛の五人の著名人を生放送でレギュラー出演させるところに新味がうかがわれ、聴取率も高く、文華放送の看板番組のひとつになっていた。  武田の担当は岡本と石丸で、岡本の出番は月曜日だが、武見太郎の都合で録音することになったのである。�キャスター�の企画に武田は参加していなかった。報道部長の小柳章三が中心になって企画した番組で、岡本をレギュラーに起用することを放送局の上層部に進言したのも、岡本を口説き落としたのも小柳であった。  報道部でうだつの上がらない武田を制作部に出向させ、岡本の担当を命じたのも小柳だ。  岡本太郎に武見太郎をインタビューさせることを思いたったのは、武田である。�喧嘩《けんか》太郎�の異名で名高い武見太郎は、日本医師会会長として医療界に君臨していた。  一方、岡本も個性の強さでは武見に一歩もひけを取らない。二人の太郎の組み合わせは、話題性といい意外性といい申し分ない、と武田は思った。 「あんなやつと会うのは厭《いや》だ」  案の定、岡本は首をタテに振らなかった。  しかし、「医師会なり、医療制度の在《あ》り方について、先生のご意見を率直にぶつけてみたらいかがでしょう。案外話が弾《はず》むんじゃありませんか」と、熱心に誘ってくる武田の押しの強さに、岡本は「わかった。気はすすまないが、会ってみるか」と折れてくれた。  同じ太郎の名前に親近感を覚えたのか、あるいは岡本太郎ってどんな男か会ってみるのも悪くない、と考えたのか、武見のほうはあっさり承諾した。ただし「朝七時の生放送は困る。銀座の武見診療所に×日午前十時半に来てもらいたい」との条件付きである。  果たせるかな岡本はヘソを曲げた。 「冗談じゃない。なんで俺がのこのこ出向いて行かなきゃならんのだ」  眼を三角にして、怒り心頭に発する岡本をなだめるのに、武田がどれほど苦労したかは察して余りある。 「武見太郎さんは先生より七歳も先輩ですし、日本医師会会長としてのプライドもおありなんだろうと思うのです。これしか時間が取れないということですので、先生に譲歩していただくしかありません」 「俺だってヒマじゃないぞ。だいたい安い出演料で、こんな苦労させられたんじゃ間尺に合わんよ」  月四回で十万円の出演料だから、放送局としては張り込んでいるつもりだが、岡本側からすれば、はしたガネかもしれない。 「出演料については申し訳ありませんとしか言いようがありませんが、先生は出演料などは二の次で、使命感で�キャスター�に出てくださってるんじゃないんですか」  天下の岡本太郎に、若造がこんな口がきけるのは、武田が岡本に愛《う》いやつと思われていた証左であろう。  武田は、岡本担当を命じられたとき、へつらったり、おもねったりせずに、自然体で接しよう、と心に決めた。言いたいことは言わせてもらう、それで嫌われたらそれまでだ、とひらき直った、と見るべきかもしれない。  名うての�自説の人��自己主張の人�で自己のライフスタイルに固執する人だとしても、恐ろしい人、変わった人、わがままな人ではない——。岡本太郎は素直で、純真な心情の持ち主だと武田は判断した。  真摯《しんし》に、真剣に岡本に接し、間違いは間違いと伝え、岡本が�キャスター�で素晴らしい意見を主張したり、感動を与えてくれたら、岡本と一緒に仕事ができる幸福感や歓びをきちんと伝えよう、そう武田はわが胸に言いきかせながら、何か月間か岡本と身近に接した結果、岡本も武田を受けとめてくれるようになった。 「口の減らない野郎だなぁ。しゃあない、おまえの顔を立ててやろう」 「ありがとうございます。恩に着ます」  そんなやりとりがあって、当日の朝を迎えたが、岡本の仏頂面《ぶつちようづら》といったらなかった。 「おはようございます」  通常は早朝五時半に迎えに行くが、きょうは九時半だから、四時間も遅い。  リビングのソファで武田を迎えた岡本はすでにスーツ姿で外出の仕度はできていたが、返事もしなければ、にこりともしなかった。 「先生、きょうはご機嫌ななめですねぇ」 「そうなのよ。ゆうべから、ずっとこの調子なんです」  秘書の平川玲子がにこやかに口を挟むと、岡本はジロッとした眼を玲子にくれて「うるさいな」と浴びせかけた。玲子の年齢は三十二、三歳と思える。小柄でチャーミングな女性だ。  平川は負けずに言い返した。 「先生、いい加減に機嫌を直さないと、武田さんがお気の毒ですよ」  岡本は返事をしなかった。 「武田さん、粗茶ですがどうぞ」 「いただきます」  武田は、岡本の前に腰をおろして、ゆっくりと緑茶をすすった。  録音中に、岡本にだんまりを決め込まれたらどうしようもないな、と武田は危惧《きぐ》した。それはなかったが、結果は最悪で、とんでもなくひどいことになった。     2  岡本と武田を乗せたハイヤーが武見診療所に着いたのは午前十時二十五分だが、広い応接室で二人は十分ほど待たされた。  録音機をセットしながら武田が言った。 「診療所の雰囲気じゃありませんねぇ」 「銀座の真ん中にこんな立派な診療所を構えて、さぞ金持ちの患者からふんだくってることだろう。ヤブ医者のやりそうなことだ」  部屋の中を見回しながら、岡本がつづけた。 「絵もたくさんあるが、碌《ろく》なものはないな」 「先生、言葉を慎んでください。武見太郎さんは名医として聞こえてますし、日本医師会の会長なんですから」 「名医、笑わせるな……」  岡本がなおもなにか言おうとしたとき、ノックの音が聞こえ、武見太郎があらわれた。  武田は直立不動の姿勢をとったが、岡本はソファから腰を上げなかった。 「武見です」  武田は最敬礼してから、名刺を差し出した。 「文華放送の武田と申します」 「うん」  武見は鷹揚《おうよう》にうなずいて、名刺を無造作に背広のポケットにねじ込んだ。武田は武見から名刺を貰《もら》えなかった。  武見太郎は肩幅が広く恰幅《かつぷく》はいいが、上背は百六十五、六センチぐらいだろうか。もっと大柄な偉丈夫を想像していたが。 「武見先生、本日はお忙しいところをお時間をいただきまして大変ありがとうございます。岡本太郎さんをご紹介させていただきます」  岡本は鋭い眼で武見を見上げた。  ソファにどすんと腰を落とした武見が、睨《にら》み返す。  むろん名刺の交換もない。早くも二人は火花を散らしている。  武田は息苦しくなって、固唾《かたず》を呑《の》み、こころもちネクタイをゆるめた。膝《ひざ》がしらのふるえも止まらない。 「岡本先生、口火を切っていただけますか」  武田の声がうわずった。 「日本医師会の会長として、あんたがやってることは開業医の利益擁護だけじゃないですか。弱きを挫《くじ》き、強きを助けるのがあんたの流儀ですな」  のっけから、強烈なストレートパンチを浴びて、武見は顔色を変えた。 「なんだと。無礼じゃないか。なんの根拠があって……」 「�赤色官僚�だの、�アイヒマン�だのと厚生大臣や厚生官僚を罵倒《ばとう》して、喧嘩太郎なんて言われていい気になってるが、なんのことはない自民党との政治交渉で医療費を値上げしてきただけじゃないですか」 「わたしは官僚統制と闘ってきたに過ぎない。開業医を強者と見るのは間違っておる。だいたい、いい気になってるという言いぐさがあるか! ふざけるな! 無礼者!」  武見は甲走《かんばし》った声を張り上げ、ドンとこぶしでセンターテーブルを叩《たた》いた。 「いい気になってるから、いい気になってると言ってなにが悪いんだ。五年前の保険医総辞退のこけ威《おど》しは、いったいなんだ……」  武田は度を失って、おろおろするばかりだったが、岡本がけっこう調べているのに舌を巻いた。  開業医の保険医総辞退のカードこそ切らなかったが、そのカードをちらつかせて、武見は医療費紛争の政治決着を取りつけた。昭和三十六年三月のことだ。  岡本は嵩《かさ》にかかって攻め立てた。 「あんたのやってることは開業医を太らせるだけで、医は算術以外のなにものでもない。あんた、医師会の会長を一日も早く辞めなさい。そのほうが国民は幸せだよ。医師会は最悪の圧力団体だ」 「ヘタくそな絵しか描けないやつがなにをぬかすか。おまえなんかと話してもしょうがない。帰ってくれ」 「こんなやつに会わせるおまえが悪いんだ」  岡本に矛先を向けられて、武田はうろたえたが、なにか言い返そうと思いながら、言葉が出てこなかった。  緑茶が運ばれてきたが、岡本は飲まなかった。喉《のど》が渇いているはずなのに。武田も喉がカラカラだったが、岡本の手前、湯呑みに手を伸ばすわけにはいかない。  武見だけが緑茶をがぶっと飲んで、音をたてて湯呑みを茶托《ちやたく》に戻した。  帰りの車の中で岡本がむすっとした顔で言った。 「�キャスター�始まって以来のくだらんインタビューだったな。こんな不愉快な番組はボツにしたほうがいいぞ」 「来週月曜日に穴があいてしまいますから、ボツにはできないと思います」 「勝手にしろ」 「ええ。どう扱うか、部長とも相談しますが、録音時間が短いので、月曜日の朝、先生にご足労願う必要があるかもしれません」 「人使いの荒い放送局だ」  岡本の口吻《くちぶり》から察して、往路よりだいぶ機嫌がよかった。 「腹|減《へ》ったろう。ちょっと寄ってけよ」 「ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせていただきます」  武田は、武見太郎とのインタビューの件で一言あって然《しか》るべきだと考えていたので、遠慮しなかった。平川玲子の前なら、言いやすいという計算もある。  岡本邸のリビングで、武田はソファから立って、岡本に一礼してから、眦《まなじり》を決して言った。 「きょうの先生の態度は感心しません。先生はあくまでインタビュアーなんです。武見太郎さんに対して礼を失していると思います。まるで喧嘩を売りに行ったようなものではありませんか。�喧嘩太郎�は、武見さんじゃなくて、先生のほうだと思います。あのような先生は、わたしは嫌いです」  さすがに声が少しふるえた。  ここで出入り禁止を申し渡されたら、どうしようもない。岡本に降板されたら辞表ものだ。生意気な小僧と思われても仕方がない。  しかし、武田はどうしても黙っていられなかった。 「そうだな」  岡本はにやっと笑って、つづけた。 「ちょっとやり過ぎたかもしれん。俺としては言いたいことを言って、多少|溜飲《りゆういん》を下げた気もしてるんだが、あいつ、だいぶ怒ってたものなぁ。きみの言うとおりだ。反省するよ」  武田はなんだか胸が熱くなった。岡本太郎ほどの男が、嘴《くちばし》の黄色い若造に頭を下げてくれたのである。  翌週月曜日の�キャスター�の反響は小さくなかった。 �岡本太郎はよくぞ言ってくれた�という聴取者の意見のほうが圧倒的に多かった。権力者の武見太郎をここまで罵倒した人は、後にも先にも岡本太郎ひとりだけだろう。  もっとも�二人とも大人気《おとなげ》ない。どっちもどっち�という投書も何通か寄せられた。 「いちどおまえを慰労してやろう」  岡本が武田を銀座のフランス料理店に誘ってくれたのは、反響の結果に気をよくしたせいかもしれない。  そのとき岡本は残った料理をウエイターに命じて土産に包ませた。 「烏《からす》の餌《えさ》にするんだ」  岡本はきまり悪そうに言った。  岡本邸の庭に烏が鎖でつながれて飼われていることは武田も承知していたが、ステーキをついばむのだろうか。 「先生、どうして烏が好きなんですか」 「烏は人間に馴《な》れないのがいいんだ」 「ステーキは食べないんじゃないですかねぇ。ほんとは夜食にするんでしょう」 「余計なことを言うな」  岡本は笑いながら返した。  フランス料理店の帰りに、高級クラブの�眉�に立ち寄った。 「おまえの将来のためにいい人を紹介してやろうか」 �眉�に居合わせた建築家の丹下健三と東京電力の某副社長を岡本から紹介されて、武田は面くらった。  丹下も某副社長も、名刺をくれた。 「こいつは文華放送のヒヨッコだが、なかなか見どころがあるんだ」  武田が岡本に褒《ほ》められたのはこのときだけだ。  岡本は丹下より二年先輩だが、昭和三十一年に丹下の設計になる旧東京都庁舎に岡本が陶板壁画を制作してから、二人は近い関係になった。  この陶板壁画はフランスの雑誌『今日の建築』の国際建築絵画大賞を受賞して、美術界の話題をさらった。岡本が大阪万博会場に�太陽の塔�を設計するのは、四年後、昭和四十五年のことだ。 �キャスター�は一年で終了したが、週一度朝五時半から打ち合わせを含めて三時間の拘束に、岡本は悲鳴をあげていたので、「やっと安眠できるな」と、うれしそうに武田に言ったものだ。  番組終了後、岡本は伊豆|修善寺《いずしゆぜんじ》の旅館�落合楼�に一泊旅行で、武田たちを招待してくれた。 「俺は先に寝るぞ。寝酒にやってくれ」 �ジョニ黒�を一本、食卓に置いて岡本は寝室に引き取ったが、豪快なようでいてさりげない気遣いをする岡本に武田はしびれた。     3  昭和四十二年三月、報道部に戻された武田は、怏々《おうおう》として楽しまない日々を送ることになる。  制作部では生き生きと仕事をし、ひと月のうち帰宅するのは四、五日で、休日も返上して資料集めやら、取材、関係者との連絡など�キャスター�にのめり込んだが、報道部では、落第生だった。  昭和三十七年三月に早稲田大学第一政治経済学部政治学科を卒業した武田は、新聞記者を志望していたが、朝日、毎日、読売など一般紙の入社試験をことごとく失敗し、すべり止めに受けた文華放送に合格し、放送記者になった。  武田は、父親金司の勤務先の関係で幼年時代渡満し、満州からの引揚者だったため、小学校入学が一年遅れた。  弁護士を目指して中央大学法学部法律学科で一年学ぶが、新聞記者志望に変わり、早大に入学し直したため、年齢的には二年遅れの就職となった。  電波ジャーナリスト、放送記者として仕事に没頭できなかったのは、新聞記者に対する負い目によるのではないか、と自分では分析していた。  取材先で新聞記者と鉢合わせしただけで、逃げ出したくなるほどコンプレックスに陥っていたのである。  入社二年目の昭和三十八年(一九六三年)十一月二十二日、三十五代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディが遊説先のテキサス州ダラスで暗殺されたその日、武田は夜勤明けで在宅していた。就眠中に家人に起こされたが、さほど職業意識を呼びさまされることはなかった。  それでも多少は気になって、午後、四谷《よつや》の放送局に顔を出すと、一階の報道部はごったがえしていた。  武田は自分の居場所がないような気まずい思いで、ぼんやりしていた。  三階の制作部から一階の報道部へ戻って、ケネディ暗殺事件の日のことを想起し、気合いを入れてかからなければダメだ、と思いながらも、「�社長�が戻ってきたな」と同僚から揶揄《やゆ》されて、気持ちが滅入った。  入社直後、武田に�社長�の渾名《あだな》をつけたのは、デスクの松木弘である。松木は早稲田の先輩だが口うるさい人だった。 「文華放送には社長が二人いる。そのひとりは武田だ。武田は�天平�の御曹司《おんぞうし》で跡とり息子だ。ゆくゆくは社長になるんだから�社長�だよな」  松木が冗談ともなく言ったそのひとことで二十五人ほどいる報道部の同僚から�社長�と呼ばれるようになってしまった。  武田は入社一年足らずで結婚したが、千葉県市川に中古ながら庭付きの二階家を両親に買ってもらうなど恵まれた生活をしていた。  武田の両親は葛飾《かつしか》区新小岩で料理店�天平�を経営していた。�天平�は敷地九十三坪、建坪百二十坪、板前六人、仲居十四人の規模で、周辺の中小経営者が接待に利用し、個人客も付いて、大いに繁盛していたから、長男の武田がその気なら、跡を継ぐことは可能だった。  中古の家を自慢した覚えはないが、武田は松木から皮肉まじりに言われたことがある。 「おまえ、いちど俺の家へ遊びに来いよ。俺の家の家具にはすべて歴史が刻まれている。この応接セットはいつのボーナスで、この食卓はいつのボーナスで買ったという具合にな」  松木は誤字やマナーにも厳しかった。ひっきりなしに鳴る電話を呼び出し音三回以内で取らなかったら、灰皿が飛んでくる。それも、「はい、こちら文華放送報道部です」と、丁寧に応対しなければならない。報道部の灰皿がアルミ製なのはそのためだったのだろうか。  同じデスクでも柘植《つげ》二郎は陰険だった。とくに武田に対する当たりがいやらしく、一度こんなことがあった。  文化勲章の取材を終え、帰社して原稿をまとめ、柘植に提出すると、いきなり投げ返してきた。 「書き出しがなってないぞ。皇居の取材なんだから�大内山松の緑……�に直せ」 「そんな堅苦しい表現は勘弁してください」 「デスクをなんと心得るか。おまえ、仕事はできないくせに、家では一人前にやることはやってるのか」 「どういう意味ですか」  武田は気色《けしき》ばんだ。 「そんなこともわからんのか」  柘植は暗い顔をにやつかせている。  夫婦の営みを言っていることぐらいわからぬはずはないが、品性下劣としか言いようがない柘植のもの言いに、武田は本気で肚《はら》が立った。しかも同僚の前で恥をかかされたのだ。  一発ぶんなぐって、辞表を叩きつけられるものならそうしたかった。  しかし、仕事が半人前なのは事実なのだから、ここは抑えなければならない。  爾来《じらい》、武田のほうから柘植と口をきいたことは一度もなかった。  文華放送の社屋は国鉄四谷駅を下車して、新宿通りの若葉町一丁目の信号を左折したところにあったが、出社時に柘植が前方を歩いているのを認めると、武田はわざわざ反対側をゆっくり歩いたり、遠回りして出社したものだ。  また、柘植と顔を合わせなければならないかと思うと、憂鬱《ゆううつ》でならなかった。 �天平�で若旦那《わかだんな》になってやろうか、と武田は本気で考えた。  ところが報道部復帰後、ひと月も経たないうちに、朗報がもたらされた。  昭和四十二年三月中旬のことだが、外出先の小柳から電話がかかってきたのである。 「今晩あいてるか」 「はい。七時以降でしたら、大丈夫です」 「じゃあ、七時過ぎに�まつしげ�で待ってるよ」  小柳の明るい声を聞いて、武田は久しぶりに気分が晴れた。 「部長から呼び出されたのでお先に失礼します」  武田は誰とはなしに大声で言って、六時三十分に席を立った。  小柳は報道部長で、文華放送の実力者だから、さしもの柘植も武田に用を言いつけるなどの意地悪はできない。  文華放送が本放送を開始したのは昭和二十七年三月なので、開局後十五年経ったことになる。開局後ほどなく郵政省にテレビジョン放送局の免許を申請した。  文華放送と日本放送を母体にフジテレビが開局したのは昭和三十四年三月である。  その三年前、昭和三十一年三月に、文華放送は財団法人から株式会社(資本金三億円)に改組、澁澤《しぶさわ》敬三会長、水野|成夫《しげお》社長の強力な経営陣だったが、澁澤は七年後の昭和三十八年十月に鬼籍入りし、以後会長は空席のままになっていた。  ビールを乾杯したあとで、小柳が訊《き》いた。 「報道に戻ってどんなふうだ」 「居心地が悪くて……。�喧嘩太郎�が懐かしいですよ。もっと�キャスター�を続けてもらいたかったのに、どうして一年で打ち切りになっちゃったんですか」 「すべり出しはよかったんだが、朝七時〜八時の忙しい時間帯はニュースオンリーのほうがいいのかねぇ」 「聴取率は多少落ちましたけど、なんとかテコ入れできなかったんでしょうか」 「コストに見合わないんだからしょうがないだろう。よく一年も続いたと思ってもらいたいな。だいたい死んだ子の齢《とし》を数えても始まらんよ。もう終わったんだ」  小柳は身長百六十五センチ、体重七十五キロ。躰《からだ》つきはずんぐり型で、眼に迫力がある。 「そんなに報道部は厭《いや》か。柘植とは相変わらずなんだな」 「顔を見るのも厭です。胸が悪くなりますよ」 「おまえの上司なんだから、少しは立ててやったらどうなんだ」 「あんなやつにゴマを擂《す》らなきゃならないんなら、会社を辞めたほうがましです。本気でそんなことも考えないでもないんですけど」 「おまえはなんせ�社長�で、苦労知らずのボンボンだからなぁ」 「とんでもない。子供のころ食うや食わずの経験もしてます。命からがら満州から引き揚げてきたんですよ」 「終戦直後の苦労なら俺も人後に落ちない……。要するにおまえは報道部から逃げ出したいわけだな。報道部で大成すると思ってたんだが、俺の目矩《めがね》違いだったわけか」  つぶやくように言って、小柳は二つのグラスにビール瓶を傾けた。 「部長、今夜はわたしの慰労会ですか」  武田にまっすぐ眼を向けられて、小柳はにやっと相好をくずした。 「きのう副社長に呼ばれて、営業部長をやってもらえないか、と言われたんだ。ノーと言えないこともないらしいが、俺はOKしたよ。前任者のことは知ってるな」 「ええ。ノイローゼで休みがちとか」 「うん。そこでだ、武田を営業へ連れて行こうかと考えたんだが、おまえはひと一倍プライドが高いからなぁ」 「ぜひ連れてってください。わたしはあの岡本太郎さんと仲良くなれたくらいですから、むしろ営業向きだと思います」  武田はこんどは表情をひきしめた。 「岡本太郎さんに可愛《かわい》がられた点は大いに多とするが、営業は楽な仕事じゃないぞ。放送記者は、新聞記者ほどじゃないが、それでも肩で風切って歩ける面はある。おまえは頭《ず》が高いから、務まるかどうか心配しないでもないんだ」  武田は手酌でビールをたて続けに三杯乾した。 「部長は誤解してますよ。両親は客商売ですから、子供のころからお客さまにきちっと対応できるように訓練されてます。わたしは両親に躾《しつけ》だけは厳しく鍛えられてますから、頭が高いなんて言われる覚えはないんですけど」 「好き嫌いがはっきりし過ぎてるのも、気にならんでもない」 「嫌いな人はたったひとりですよ」 「いいだろう。じゃあ、営業へ来い。根回しは俺の責任でやる。しかし、営業でしくじったら報道に帰れるなんて思うんじゃないぞ。世の中そんなに甘くない」 「よくわかりました。文華放送一の営業マンに必ずなってご覧にいれます。部長の顔を潰《つぶ》すようなことは決して致しません」 「大きく出たな。武田が営業で花を咲かせてくれることを俺は心から願っている。期待してるぞ」 「死んだ気で頑張ります」 「よし、おまえと俺で、文華放送の営業部門を強化しようじゃないか。固めの乾杯だ」  小柳は手を打って、仲居を呼び、酒の用意を命じた。  飲むほどに酔うほどに二人とも饒舌《じようぜつ》になった。 「小柳さんに声をかけてもらえなかったら、文華放送を辞めてたと思います」 「さっきもそんなことを言ってたなぁ。だが武田に料理屋の社長が務まるとは思えんがねぇ」 「どうしてですか。わたしはこう見えても計数には明るいほうですから、帳場ぐらい見れると思いますけど」 「おまえ、考えが浅いぞ。旅館とか料理屋は女将《おかみ》でもってるんだ。早い話、�天平�はどうだ」 「おっしゃるとおり、女将の母でもってることはたしかです」 「だろう。おまえのカミさんに女将が務まると思うか」  武田は考える顔になった。痛いところを突かれた、という思いもある。  妻の和子は、妹詔子の家庭教師だった。学習院大学の仏文科出の才媛である。武田よりひとつ齢下だが、大学卒業は一年早い。岳父は開業医である。  たしかに気位が高く、エリート意識の強い和子に、下町の料理屋で女将が務まるとは思えなかった。  第二章 放送局一の営業マン     1  午後十一時過ぎの遅い国鉄総武線下り電車が新小岩駅に着いたとき、武田光司は、実母セキの顔を眼に浮かべ、思わず途中下車しそうになった。通勤の途中駅である新小岩駅を電車が発着するたびに、武田は母に思いを馳《は》せるが、今夜は妙に母が懐かしくてならなかった。  そう言えば、この三か月ほどセキの顔を見ていなかった。  きりっとした着物姿で、料亭�天平�を取り仕切るセキの勇姿は、子供のころからずっと見てきたが、武田にとって最も頼もしい存在であり、そしていちばん恐い人でもあった。昭和四十二年三月現在、セキは五十二歳だったが、若いころからひたぶるに働いてきた。  武田の実父、金司の職業は警察官で、昭和十五年に単身渡満し、特務機関の仕事に就いた。その二年後、セキは金司の後を追い、四歳の長男光司と一歳の次男勇司を連れて満州へ渡った。  渡満後ほどなくセキは三江《さんこう》省|佳木斯《チヤムス》市の市場で、�天平�という屋号の惣菜店《そうざいてん》を出店した。初めのうちはセキひとりで頑張っていたが、数か月で数人の満州人を使うまでになった。惣菜店は大いに繁盛したのである。  煮上がった惣菜をガラスケースに並べ終えて、店を開けると、幾筋もの長蛇の列から異様な歓声が沸き起こる。幼い武田が身ぶるいするほど壮観であった。  直径四十センチほどの大皿が幾皿もあり、何種類もの山盛りされた惣菜がものの二、三時間で売り切れてしまう。 「いらっしゃいませ」 「ありがとうございます」  セキの張りのある大きな声が、いまも武田の耳に残っているし、甲斐甲斐しく動き回るセキの姿が眼底に焼きついていた。  街の近くを松花江《しようかこう》という大河が流れているが、冬は氷結し、トラックが走行できるほど氷が厚く、恰好《かつこう》なスケートリンクになる。  川幅は、広いところは千メートルを超える。  春になると、氷がミシミシと音を立てて割れ始める。無気味なきしみ音が激しくなり、いつしかゴーという轟音《ごうおん》に変わり、家ほどもある氷塊がぶつかり合い、重なり合って一斉に流れ出す。壮大といおうか、雄大というべきか、氷塊の流れを眺めるために、家族で松花江へピクニックに行ったときの光景が眼に浮かぶ。そのとき着ていた豹《ひよう》の毛皮のオーバーが、武田はうれしくてならなかった。子供心にも、ウチは裕福でお金持ちなんだ、と思ったものだ。  武田家の幸せな日々は、長くは続かなかった。  昭和二十年八月十五日——。敗戦は満州を終《つい》のすみか、と考えていた多くの日本人の運命を変えたのである。悲嘆にくれているいとまはなかった。  金司は在留日本人の帰還を支援するため、ひとり佳木斯に残ったが、すぐにソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された。  敗戦直前の昭和二十年四月五日に長女の悦子を出産したセキは、乳呑《ちの》み子《ご》を胸にくくりつけ、大きなリュックサックを背負い、両手に手提げ袋をぶらさげ、光司、勇司をおだてたり、叱《しか》りつけたりしながら、うしろ髪を引かれる思いで日本へ向かった。  新京で引揚船を待つため一年以上も滞留させられたが、子供を守って気丈にふるまうセキは、わが母ながら見事としかいいようがないと、いま武田は思う。  セキは、信じられないほどの古着を抱えて、行商して歩いた。  七歳の武田も、母の言いつけを守って、妹をおんぶして塩あんのおはぎやキャラメルを道端に置いた机の抽斗《ひきだし》に並べ、露店商をやってのけた。四歳の勇司は留守番役である。  行商が首尾よく運んだ日は、セキは決まって、中華料理店に武田を連れて行ってくれた。  暮れなずむ雑踏の中にセキの姿を認めると、武田は商売道具の抽斗を放っぽり出して駆け寄り、「きょうは儲《もう》かった?」と訊《き》いたものだ。 「うん。儲かったよ。肉まんを食べようね。おはぎは売れた?」 「十七個売れた。残りは三個だよ」 「そう。よく頑張ったねぇ。残りはあしたのおやつにしなさい」  セキは武田の頭を撫《な》でてから、悦子を背中からおろして、抱きかかえた。  小パオズと呼ばれていた小さな肉まんをふうふう言いながら食べるうれしさといったらない。  悦子が何時間ぶりかで母乳を飲んでいるのを見ながら、武田は肉まんをむさぼった。  勇司の分は土産に包んでもらう。  新京では狭い借家住まいだったが、セキは帰宅して、子供たちを寝かしつけると、おはぎづくりに取りかかる。  しかし、新京で勇司が栄養失調による罹病《りびよう》で死去するという不幸に見舞われた。  医者に見放された勇司に、セキが涙ながらに訊いた。 「なにか食べたいものはないの。なんでも言ってごらん。お母ちゃんがつくってあげる」 「いり卵をのせた白いご飯が食べたい」  勇司の声は消え入りそうなほどか細かった。 「わかったわ。つくってあげる」  セキはなけなしのカネをはたいて三合ほどの白米と卵を買ってきて、勇司の願いをかなえたが、いり卵めしを食べる力は勇司に残されていなかった。それを眺めただけで勇司は満足そうにかすかに微笑《ほほえ》んで、逝ってしまった。 「もうしばらく食べずに供えておいてあげようよ」  泣きながらセキが注意したが、勇司の死顔を見ながら、武田はいり卵めしをかき込んでいた。あのときは飢餓に瀕《ひん》し、弟を悼《いた》む気持ちが希薄だった、と武田はいまごろになって自分のあさましさに肚《はら》が立つ。  勇司が夭折《ようせつ》した直前、深夜突然数人のソ連兵に襲われたことがあった。  悦子が泣き叫んだお陰で、兵隊たちはなにもせずに立ち去った。別れ際に父が母に伝えた言葉をそのとき武田は思い出した。 「戦争には敗れたが、日本人としての誇りを失ってはならんぞ。はずかしめを受けたときは死んでくれ」  ソ連兵が引き揚げたあとで、セキが蒼白《そうはく》な顔でふるえ声をしぼり出した。 「どうしようもないときは、みんなで死にましょう」  武田たちがコロ島から引揚船に乗って舞鶴港へ帰国したのは昭和二十一年九月下旬である。  セキは親戚《しんせつ》から借金して、葛飾《かつしか》区|青戸《あおと》町で五坪の物置を購入し、揚げもの屋を開いた。�天平�の復活である。  長さ一メートル、高さ、幅各三十センチの木枠のショーケースに並べた天ぷらとコロッケは飛ぶように売れた。ほかの店より質を落とさずに大きめにしたことが客に受けたのだ。  武田もじゃがいもの皮剥《かわむ》きを手伝わされた。ゆでたてでなければ皮はきれいに剥けない。掌《て》や指を真っ赤にしながら、せっせとじゃがいもの皮を剥いた。  金司が帰国したのは昭和二十二年の暮れのことだが、以来、金司はセキを助けて�天平�をもり立てた。  昭和二十五年の冬、隣家の手焼|煎餅屋《せんべいや》からの貰い火で、�天平�は全焼した。火災保険の保険金と借金で、新小岩駅の近くに土地を購入し、料亭�天平�の開業に漕《こ》ぎ着けたのが火事のお陰だとすれば、焼け太りといえなくもない。働き者のセキを神は見捨てなかった、というほうが当たっている。  夕方四時になると、着物姿のセキが神棚に手を合わせたあと、帯の前をポン、ポンと叩いてから、帳場を出て店に向かう。その姿は、颯爽《さつそう》たるもので、わが母ながら、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするほど魅力があった。  小学校、中学校時代の武田に、セキは口ぐせのように言った。 「おまえが不良になったら、おまえを殺してお母さんも死にます。これだけは忘れずに、生きてちょうだい」  真剣に真面目に生きる姿をずっと見せ続けられてきたセキの言葉だけに、迫力があり、武田はいつも正座せずにはいられなかった。セキはいまでも暮れも正月もなしに働き詰めに働いている。  二十九歳にもなって、無性に母の顔を見たい、肉声に接したい、と思うのはいかなる心理によるのだろうか、と電車に揺られながら武田は酔った頭で考えていた。     2  小柳章三から営業部への移籍について打診を受けた夜、武田は市川の自宅で妻の和子に訊《き》いた。 「きみ、�天平�の女将《おかみ》になる気はあるの」 「冗談じゃないわ。あなたには二人も妹がいるのよ。どちらかが継げばいいじゃないの」 「二人ともまったくその気はないらしいよ」 「だからって、わたしがやるいわれはないでしょ。考えてもみてよ。わたしは二人の子供の母なのよ。育児だけでノイローゼになりそうだわ」  長男の光太郎は昭和三十九年十一月生まれで二歳、二男の憲二郎は昭和四十一年一月生まれで一歳。 「夜中に飲んだくれて帰ってくるだけの父親はまったく当てにできないわよねぇ」  ヤブ蛇だった。 「あれだけはやってる�天平�を一代で潰《つぶ》すのは切ないけど、しょうがないかなぁ」 「潰す必要はないでしょ。いずれ居抜きで売ればいいのよ」 「僕の母は、満州でも、満州から引き揚げてきてからも、�天平�を切り盛りしながら、僕たち子供を育ててくれた。母はまだ元気だから、四、五年は続くと思うよ。子供たちの手がかからなくなったら、きみが�天平�を継いで継げないことはないと思うけどねぇ」 「あなたのお母さんは人間離れしてるわ。わたしにお母さんの真似は絶対にできないわよ。わたしが�天平�を継ぐなんてあり得ないから、二度と変な話しないでね」  ぴしゃりとやられて、武田は口をつぐんだ。  このとき、武田は文華放送で定年まで働くことになるのだろうか、となんとなしに思ったものだ。  営業部に移籍するということは後がない、背水の陣で臨まなければならないと考えなければいけないのだろうか——。  昭和四十二年四月一日付で、武田は営業部員になった。  柘植《つげ》二郎デスクの暗い顔を見ないで済むだけでも救われる。  部下の面倒みがよい小柳が部長なので、心丈夫でもあった。ひとりで営業へ行かされるのと違って、気持ちに余裕がもてた。  新しいポストに配属されると、三か月間は先輩社員に付いて、手取り足取りコーチを受けるのが文華放送の慣習であった。  武田のコーチ役は、課長代理の常岡守で、営業マンにしてはがつがつしたところがまるでなく、ルーズととられかねないほどおおらかだった。  スポンサーや広告代理店にも必ず常岡が同行する。  三週間後、武田は常岡に率直に申し出た。 「いろいろ教えていただいてありがとうございました」 「礼を言われる憶《おぼ》えはないぞ。まだ三週間しか経ってないじゃないか」 「充分教えていただきました。もう常岡さんから学ぶものはないと思います。あしたからひとり立ちさせてください」  聞きようによっては、コーチ役として相応《ふさわ》しからぬ、とも取れる。選手のほうがコーチを解任するなんて冗談じゃないぞ、と常岡がヘソを曲げないとも限らないが、常岡は狭量ではなかった。 「そうだな。慣例に従う必要もないか。武田ならひとり歩きできるかもなぁ」 「ありがとうございます」 「わかった。いいだろう。部長には俺から話しておくよ。だいたい三か月も二人でつながって歩くのは効率が悪いよなぁ」  たった三週間でひとり立ちした営業マンは後にも先にも武田だけだ。  もっとも、武田は営業マンとして立ってゆける自信があったわけではない。なんとかなるだろう程度の浅い考えで、営業マン宣言をしたに過ぎなかった。  武田が初めてひとりで訪問したスポンサーは、池袋に本店のある日本香堂だった。線香メーカーだが、常岡に連れて行かれたスポンサーの中で、日本香堂の吉野宣伝部長の印象が実によかったからだ。  ところが吉野はあいにく外出中であった。  ちょうど昼食時だったので、武田はラーメン店の暖簾《のれん》をくぐった。  店のカウンターの隅で、子供を背負った女性が四歳ぐらいの男の子とひとつの丼《どんぶり》でラーメンを食べ合っている姿が武田の眼に入った。  どこへ行く当てもない営業マンの武田にも、この女性と同じような構成の家庭がある。家族三人が武田を頼りに生きているのに、俺はあてどなく、ラーメン店に入って、ラーメンをすすっている。  不安とわびしさで、武田は胸がいっぱいになった。しかし、次の瞬間ふつふつと身内から湧《わ》き出づるものがあった。文華放送一の営業マンになってみせる。俺を拾ってくれた小柳部長に恩返ししなければ男がすたる——。  武田はラーメンを食べ終えたあと、気のついたことを手帳に書き取った。  一、一日にできる限り多くのスポンサー、広告代理店を訪問すること。  一、小さな代理店も大切に扱い、よく話を聞いて、社内で意見を通すように努力すること。  一、一度獲得したスポンサーは相手の立場に立って、誠心誠意おつきあいし、継続を第一に考えること。  一、大スポンサー、中スポンサー、小スポンサーのバランスを考えて、売上を維持すること。  一、メディアの人間という、ともすれば持ちかねない変なエリート意識を捨てて、これと見込んだ人とは、率直に友達づきあいをすること。  一、なにごとにつけ、できませんと言わないこと。そのためには社内の各部に私的なネットワークを作っておくこと。     3  武田の営業部初の大仕事は、大手自動車メーカーの日産自動車を攻略したことだ。  日産自動車は、かつては文華放送の大口クライアントであったが、いまは取引停止になっていた。  文華放送が日産自動車に対して全国ネットのナイター中継のスポンサーになってもらいたいと呼びかけたとき、日産自動車は呼応してくれた。ところが、文華放送はキー局としてのネット作りに失敗し、日産自動車の決定を反故《ほご》にしたため、出入り禁止の通告を受けてしまったのだ。 「日産自動車にアタックしてみようと思ってるんですけど」  武田は何人かの先輩社員に相談した。 「ムダだろう」 「やめたほうがいいな」 「塩を撒《ま》かれるのが落ちだよ」  誰ひとりとりあってくれず、中には「おまえ正気か」と、武田の顔面に突き出した掌をちらちらさせる者まで出る始末だった。  ここまで莫迦《ばか》にされたら引き下がれない。  武田は日産自動車の宣伝部に一週間に四度も五度も顔を出し、一年近く通《かよ》い続けた。  日産自動車の担当者は「しつこいなぁ」「文華放送さんとは縁がないよ」と、相手にしてくれなかったが、断っても断っても笑顔で「また来ました」とやってくる武田のねばり強さに根負けして、話に乗ってくれるようになった。  日産自動車宣伝部のラジオ広告関係の担当課長は龍野という男だったが、たまたま別件で忙しくて二週間ほど顔を出さない武田を心配し、電話をかけてきてくれたことがあった。 「元気にしてるの。とくに用があるわけじゃないけど」 「はい。元気にしてます」 「それならけっこう」 「課長直々に電話をいただいて、感謝感激です」 「毎日のように顔を出してた人が急に来なくなると変な感じでねぇ。ちょっと気になっただけだよ」 「ありがとうございます。さっそくあしたお伺いしてよろしいでしょうか」 「どうぞ。夜あいてるから個人的に一杯やろうか」 「はい。喜んで」 「じゃあ、六時過ぎにいらっしゃい」  いま現在は取引はないが、日産自動車はかつての大口クライアントである。課長から「一杯やろう」と誘われたのだから、武田は天にも昇る心地だった。  烏森《からすもり》の飲み屋のカウンターで、武田の肩を叩《たた》きながら龍野が言った。 「われわれが付けたきみのニックネームを教えてやろうか」 「…………」 「ワセダの種馬と、マムシの武田の二つあるんだ」 「ワセダの種馬は光栄に思いますけれど、マムシの武田はひどいんじゃないでしょうか」 「そうだな。マムシなんて言われて、タダってことはないよねぇ。山本と話してくれ。嫌われても嫌われても、しつこく通ってくる武田君の努力を多として、おつきあいさせてもらおうと思ってるんだ」  武田は夢を見ているのではないかと怪しんだ。日産自動車との復縁は夢のまた夢で、到底不可能だと半ば諦《あきら》めていた矢先に、龍野のほうから声をかけてくれたのである。  頬《ほお》をつねりながら、武田はうわずった声を押し出した。 「課長、ほんとうにお取引いただけるんでしょうか」 「そのつもりだけど」  武田は胸がキューンとなった。 「ありがとうございます」  武田は直立不動の姿勢を保ってから、龍野に向かって最敬礼した。 「そんな。いいから座って」  龍野はほかの客たちの手前もきまりが悪くて、怒ったような声で言った。  広告代理店も加えて、何度か折衝した結果、主要都市をネットしたドライバー向けの番組が制作されることに決まった。  デモテープ(番組の見本テープ)を作成するに際して、武田は私的に構築した社内のネットワークをフルに動員した。  アナウンサー、CM制作、技術、音楽選曲などの各部署には必ず優秀な人材がひとりや二人は存在する。武田は自分の眼でこれはと思える人材をピックアップして、常日ごろからコミュニケーションを深めておいた。自分だけでひそかに�武田組�と命名し、ひと声かければチームが形成できる態勢を整えていたのである。  交際費はゼロに等しかったので、セキに無心し、出世払いですでに数十万円都合してもらった。返済する当てはないから、初めから踏み倒す心算《つもり》だ。セキも息子の仕事をバックアップしていると思えば、気が楽だ。もとより返ってくるとは考えていなかった。  デモテープの段階でスポンサーの日産自動車から修正の要求はまったくなかった。  音楽と情報を組み合わせ、パーソナリティを根回し役に登場させたこの番組は大好評で、�武田株�は急上昇した。  それ以上に、難攻不落と考えられていた日産自動車との関係を修復した功績が、局の上層部から高く評価されたのである。  昭和四十三年三月下旬の某日、武田に社内電話で斎藤常務から呼び出しがかかった。  斎藤は営業部門を担当している。  常務室のソファで、斎藤がにこやかに言った。 「日産自動車との取引再開は近来にない快挙だ。ほんとうによくやってくれた」 「ねばった甲斐がありました。そのお陰で日産自動車の皆さんから�マムシの武田�なんて言われて腐ってますけど」 「きみ、それは褒め言葉だよ。名誉なことじゃないか。ところで、きみに担当常務として感謝の気持ちを表したいが、なにか希望はあるかね」  武田は五秒ほど思案して、小さく膝《ひざ》を打った。 「あります。�キンコンカン�でご馳走《ちそう》してください。常務はお忙しいでしょうから、仲間たちで行かせていただければけっこうです」 「いいだろう。お安いご用だ」 �キンコンカン�は銀座の高級クラブである。女優志望の粒よりの美形ホステスを多数|揃《そろ》えていた。ホステスは超ミニのセクシーな服装でかしずいてくれる。武田は放送記者時代に一度だけ行ったことがあったが、ふかふかの白い絨毯《じゆうたん》と、ピアノの伴奏で唄ったホステスが印象的だった。劇団に所属しているホステスもいる。  武田は、�武田組�の総勢八人で、�キンコンカン�に繰り出し、高級ウイスキーをふるまった。  若い技術部の社員が心配そうに訊いた。 「武田さん、こんな高級クラブに出入りしてるんですか」 「今夜は特別だよ。じゃんじゃんやって」 「スポンサーは誰ですか」 「斎藤常務が胸を叩いたんだから心配するなって」 「それなら安心ですね」  ホステスたちも数人加わって、ボトルを二本もあけたのだから、豪勢というか、豪快というか、周囲の客が呆《あき》れるほどの飲みっぷりである。  三週間後に、斎藤から武田に電話がかかった。 「常務室にすぐ来てくれ」 「こんどはどんなご用件ですか」 「来ればわかる」  電話はガチャンと切れた。 「常務、なにか」  デスクの前に立った武田を無言で見上げる斎藤の顔がひきつっていた。  斎藤は机上の紙片をつかんで武田に手渡した。 �キンコンカン�の請求書だった。 「これはなんだ」 「ああ、あのときの請求書ですね」  間延びした武田のもの言いに、斎藤の声がいっそう尖《とが》った。 「おい、金額を見てみろよ」  請求額は三十二万円であった。オイルショック前の三十二万円は半端な額ではない。  新橋、赤坂の一流料亭でもひとり四万円は取らなかったろう。  武田も内心|唸《うな》ったが、ここはひらき直るしか手がない。 「日ごろお世話になっている各部の精鋭を慰労したんです。みんな喜んでました。文華放送の常務なら、この程度の金額は落とせるんじゃないですか。一生に一度あるかないかのことですし……」 「わかった。もういい」  斎藤は苦り切った顔で手を払った。     4  この事件の直後、営業部のヒラ社員の武田にもわずかとはいえ交際費が割り当てられるようになった。  営業部の交際費は古参社員が仲間うちの飲食費に充《あ》ててしまい、取引先とのコミュニケーションで使用されることは少なかった。武田はセキから交際費を引き出していたが、いつまでも親の臑《すね》をかじっているわけにもゆかないので、営業部長の小柳に交際費について進言した。 「先輩たちが仲間の飲み食いだけで部の交際費を使ってしまう慣習は見直すべきなんじゃないでしょうか。交際費とは本来、お得意先との飲食代などに費消されるべきです。営業マンひとりひとりに枠を設けて、分配するのが筋だと思います」 「もっともな意見だな。だが、武田には当分回らないんじゃないのか」  武田はぴんときた。�三十二万円�が小柳の耳に聞こえていないはずがない。 「でも、あれは日産自動車の……」 「冗談冗談」  小柳はおっかぶせるように言って、にやっと相好をくずした。 「おまえの意見を容《い》れよう。成績によって多少の差をつけるのがいいだろうな。武田はいまや若手のエース格だから、色をつけるとするか」 「どうも」 「そうそう�天平�にたかってるわけにもいかんだろう」  小柳は、武田が母親から毎月大金を引き出していることも先刻承知だった。  ゴルフをやらない武田に「営業マンはゴルフぐらいやったほうがなにかと都合がいいだろう。箱根の仙石原で部内コンペがあるから、この機会におまえもやったらどうだ」と、ゴルフを勧めてくれたのも小柳である。  武田は、セキが常連客にゴルフを誘われたときに買った女性用のフルセット・クラブのことを思い出した。赤いキャディバッグが眼に浮かんだのだ。  セキは結局ゴルフに興じる時間がなくて、一度もクラブを手にしたことがなかった。 「わかりました。断腸の思いでゴルフをやることにします。クラブは女性用でも大丈夫ですかねぇ」 「なんだっていいよ」  武田はゴルフ好きの先輩から「せめて五番アイアンだけは打てるようにしておけ。五番アイアンが使えればなんとかなるから」と教えられて、自宅の近所にある打ちっ放しの練習場で五番アイアンを振り回した。  静止しているボールを打つなど朝飯前だと思っていたが、初めは力《りき》むせいか、カラ振りの連続だった。三日間練習場に通ってなんとかカラ振りしないで打てるようになったが、手の皮が剥け、痛くてどうしようもなかった。  武田は絆創膏《ばんそうこう》を貼《は》って、コースに出た。赤いキャディバッグとスポルディングのフルセットの女性用高級クラブを、仲間たちにずいぶんと冷やかされた。  力まかせに振り回す五番アイアンが空を切ることはなかったが、ボールに当たらず、芝と土を削り飛ばしたり、バンカーで何回も打ってカウント不能に陥ったりした。スコアはパートナーが数えてくれた。 「コースが可哀想《かわいそう》だ」 「クラブが泣くな」 「武田はインドアに何度行ったんだ」  パートナーにからかわれたり、冷やかされたりして、武田がハーフラウンドで叩いたスコアは97。文華放送の最多記録として語り草になった。むろんメーカー(びり)である。  表彰式で武田は、有田社長に名前を呼ばれた。 「武田君の賞品はこれだよ。レコードが二枚入ってる」 「なんのレコードですか」 「道徳教育講座に関するレコードだよ。言うなれば、ゴルフに限らずもっと研鑽《けんさん》を積みなさいってことだ。きみはまだコースに出る資格はない。練習に励みたまえ」  したり顔で言われて、武田はカチンときた。  ビールをがぶ飲みしている勢いも手伝って、武田はどうにも自制できなかった。 「社長! 社長はたしかにゴルフが上手かもしれませんけど、誰のお陰で上手になったんですか。われわれが汗水たらして働いてるからでしょう」  有田はむっとした顔をそむけ、ことさらに武田を無視して、ブービー賞を取った者の名前を呼んだ。まだなにか言いたそうな武田の袖《そで》を引っ張ったのは小柳だった。  翌朝、小柳のお説教が待っていた。 「きのうは見得を切ったつもりらしいが、いただけないな。仮にも社長に対して、あんな態度はよくないぞ」 「ウチの社長はたいして能力もないくせに尊大で、つねづねけしからんと思ってたんです。ごく当然のことを言ったまでだと思いますけど。若い連中からは、よくぞ言ってくれたって拍手|喝采《かつさい》でしたよ。僕も溜飲《りゆういん》が下がりました」 「もの怖《お》じしないで、誰にでも直言する武田はある意味では立派だが、それも程度問題で、ものには限度がある。限度を超えていたと俺は思う。自重してもらいたいな」 「社長に謝れとでもおっしゃるんですか。死んでも厭《いや》ですよ」 「俺からとりなしておく。顔を合わせたら横を向かずに、挨拶《あいさつ》ぐらいしろよ」  小柳は苦笑しいしい言って、武田の背中をどやしつけた。     5  営業部で武田は頭角をあらわした。報道部時代は萎縮《いしゆく》していて力量を発揮できなかったが、営業マンになってから別人のように伸び伸びと仕事をするようになった。  同業他社の営業マンからさえ一目置かれる存在になるほど、武田の名前はラジオ放送業界で轟《とどろ》くまでになった。  昭和四十三年五月に文華放送の新館が落成したが、同六日の落成式の夜、武田がスポンサーを接待して帰社すると、営業部で若い部員が数人で茶碗《ちやわん》酒を飲んでいた。  そのうちのひとりがマヨネーズのチューブ容器の蓋《ふた》を外し、やにわに天井に向かってマヨネーズをふりかけた。  真新しい天井に大きな�つ�の字ができた。 「ちょっとやり過ぎなんじゃないか」 「そうだな。拭《ふ》き取ったほうがいいぞ」  そんな声が聞こえた。武田は椅子《いす》を机の上に乗せて、雑巾《ぞうきん》でマヨネーズを拭き取ったが、油が天井のパネルに染みて�つ�の字は消えなかった。  翌朝、出社すると吉岡総務部長が�つ�の字の下に腕組みして、険しい顔で立っていた。天井を見上げた吉岡の眼が降りてきて武田をとらえた。武田は強く見返した。 「武田、犯人はおまえだな」 「そうです」  武田は咄嗟《とつさ》に仲間を庇《かば》おうと決心した。誰よりも仕事をしているという自負がそうさせたとも言える。 「酔っ払ってたのでよく覚えてませんが、わざとやったわけじゃないですよ。マヨネーズを誰かと取り合って、はずみで天井にかかっちゃったんです」 「はずみねぇ」 「天井を修繕する必要がありますかねぇ。このくらい、いつでも稼いできますから勘弁してください」  吉岡はひと睨《にら》みしただけで、部屋から出て行った。  局内を肩で風切って闊歩《かつぽ》している、と見られて当然だが、武田が制作部の先輩社員とつかみあいの喧嘩《けんか》をしたのもこのころのことだ。  青山に�菜の花�というスナックがあり、文華放送の社員でにぎわっていた。  低料金なので、仲間うちで酒を飲み、飲み足りないと�菜の花�へ行く。終着駅みたいなもので、遅い時間の�菜の花�は、いつも文華放送の社員で混んでいた。  五月下旬の某夜、武田は報道部の同期入社の仲間と�菜の花�へ顔を出した。  制作部の課長クラスの社員が二人、カウンターで水割りウイスキーを飲んでいた。二人とも社長、専務の取り巻きで茶坊主として知られている。下に強く、上に弱い厭なタイプだ。  しかも、短髪でふちなし眼鏡の男は、�菜の花�の美人ママに言い寄っていると、もっぱらの噂《うわさ》である。  武田は、けさ開いた営業会議での小柳局長とのやりとりを思い出して、むらむらとくるものを制しかねた。 「聴取率が低下傾向にあり、この結果、スポットCMや番組の放送料金が下がり、営業は苦戦を強《し》いられている。諸君の奮起をお願いしたい」 「制作部がきちんとした企画にもとづいて、ちゃんとした番組をつくってくれないから、こういうことになるんです。われわれが奮起する前に制作部が奮起すべきなんじゃないですか」  四月一日付で営業局長に昇格していた小柳に武田は噛《か》みついたのだ。そのときの小柳の切なそうな顔を眼に浮かべ、武田は友人の制止を振り切って、制作部の課長に食ってかかった。 「聴取率も満足に稼げないプロデューサーが酒飲んで、女とちゃらちゃらですか。もっとましな番組つくったらどうですか」 「なんだと! 誰に向かってものを言ってるんだ」 「こと仕事となったら、先輩も後輩もないでしょ。碌《ろく》な番組もつくれない人に先輩|面《づら》されたくないですねぇ」 「この野郎!」  短髪が、いきなり殴りかかってきた。  武田は、一発目はよけて体当たりを食らわしたが、二人がかりで組み敷かれ、したたかに殴られた。  武田が営業部時代にしでかした武勇伝で最たるものは、営業部の旅行会で、社長と専務に絡んだことだろう。  武田はつねづね社長と専務に含むものがあった。  社内旅行の費用は半分を個人が負担し、残り半分は局と広告代理店間で領収書を交換して捻出《ねんしゆつ》するのが慣習だった。しかし、社長は当該旅館から会社|宛《あ》ての領収書をもらい、社長交際費として落としているという。  この話を同僚から聞いて、社長ともあろう者がなんとケチくさい真似をするのだろうか、と肚《はら》に据えかねていたのである。  上座に社長と専務が並んで座っていた。この専務も、一部のゴマ擂《す》り幹部社員としょっちゅう銀座を飲み歩き、交際費をふんだんに費消し、心ある者の顰蹙《ひんしゆく》を買っていた。  旅行会で一杯きこしめして調子に乗った専務が取り巻き連中の昇格人事を匂《にお》わせている。横で専務の話を社長がにやにやしながら聞いていた。  なんとも肚立たしい光景である。  武田は宴が進み座が乱れてきたのをいいことに、社長と専務の間に割って入り、後頭部に白髪が残る社長のハゲ頭を掌《て》で軽く叩いた。 「こんなくだらない人事をやるから文華放送はダメなんですよ」  社長は呆気《あつけ》に取られて、しばらく口をきけなかったが、すぐに浴衣《ゆかた》の襟《えり》をかき合わせ、たるんだ頬《ほお》をぶるぶるふるわせて言った。 「おまえ、いまなにをやってるか、わかってるのか」 「ええ、わかってます。こんな酒席で人事問題を話す専務に愛想が尽きますし、それを黙認している社長にも頭にきますよ」  武田は言いざま席を立って、上座近くの別の空《あ》いている席に座り込んだ。  浴衣姿だが靴下を穿《は》いていた武田は、片方を脱いで、丸めた靴下を専務の食膳《しよくぜん》めがけて、放り投げた。狙《ねら》ったとおり、刺身皿の上に靴下が落下した。 「ストライク!」  武田は大声を放った。  苦虫を噛みつぶした顔で専務は手洗いに立った。  そこまでやっても営業成績ナンバーワンの武田は、クビにならなかった。武田をクビにすれば局全体の営業が落ち込むのだから、会社はクビにできないといったほうが当たっている。  逆に社長も専務も、武田の顔色をうかがう体《てい》たらくだ。  若葉会なる労使協議会で、武田は営業部を代表して組合側の委員をやらされていた。 「少ない少ない」 「もうひと声!」  武田は賞与や賃上げ交渉で、ヤジを飛ばす役目を担わされた。声が大きいのと、営業マンとしての力量が買われてのことだが、労使協議会終了後、社長は決まって武田に声をかけてきた。 「おまえは別格だよ。賞与も別格、賃上げも特別だ。だから若葉会でつまらんヤジを飛ばすんじゃない」 「ヤミ取引はいけませんよ。若葉会は若葉会です」 「可愛げのないやつだ」 「どうも」  武田は、みんなが気にしているので、わざと大声で話すが、社長のほうはささやき声である。  専務にいたっては、なんとか武田を取り込もうと考えて、正月休みや五月の連休に遊びにくるように何度か誘ってきたが、武田はその都度、「なんでせっかくの休日に人の家に行かなければいけないんですか。自宅でゆっくりするのがいちばんです」と、同じ返事を繰り返した。三度誘って三度とも断られた専務は武田の籠絡《ろうらく》を諦めた。     6  ある大手広告代理店の幹部は、連日顔を出す武田に「専用デスクを用意しましょう」と本気とも冗談ともつかずに言ってくれたが、武田の活躍ぶりは一頭地を抜いていた。  昭和四十四年の初夏のころ、営業会議で、小柳の後任の塚本営業部長が「真夏の海岸でBGMを流し、曲と曲との合間にCMと、海をきれいにしましょうという主旨のコメントを挿入したらどうだろうか」と発案した。 「武田の意見を聞かせてくれ」 「反対です。そんなくだらん番組にスポンサーが付くとは思えませんもの」 「反対なら、代案を出せよ。営業予算の不足を補うために短期決戦で、なにかやらないとどうにもならんのだ。武田、きょうの会議で具体的な提案を頼む」 「代案は、二、三日のうちに考えます」 「ダメだ。きょう中に出してくれ」  塚本はむきになっていた。  武田はふくれっ面を横に向けていた。営業部には課長が何人もいるのだから、課長たちの意見を聞いてもらいたい、と武田は思った。 「代案が出ないようなので、これで決めさせてもらう。十二口を限度にあしたからスポンサー集めにかかってくれ」  気乗りのしない武田は、塚本と眼が合わないようにしていたが、「おい! 武田!」と名前を呼ばれた。 「なんですか」 「おまえには五口頼む。期待してるぞ」 「冗談でしょ。営業マンは全社で三十人もいるんです。わたしの出番はないですよ」 「いや、おまえならやれる。当てにしてるからな」 「それなら一週間会社に出てきませんよ。いいですか」 「けっこうだ。一週間で五口集められたら、褒美をやろう」  武田は一週間でスポンサーと広告代理店を三十数か所回った。身銭を切って銀座の千疋屋《せんびきや》で高価な果物を買って、有力スポンサーの宣伝部長や課長を夜討ち朝駆けしたことも一再ならずあった。  営業会議は毎週月曜日の朝十時から始まるが、翌週の会議までに五口集めてきた武田に小柳局長も塚本部長も舌を巻いた。 「よくやった。さすがだな。褒美はなにが欲しいんだ」 「部長、ネクタイを一本ください。輸入品のとびきりいいのをお願いします。ただし自腹を切ってくださいよ」 「ひとこと多いのは死ぬまで治らんだろうなぁ」  そんなことを言いながらも、塚本は上機嫌だった。  あるとき、美空ひばりの歌番組を、小規模な広告代理店経由で新興の化粧品メーカーをスポンサーに起用して放送することになった。  放送局が代理店を通すのは、番組制作費や放送料を補償させる狙いがあるからだ。提供スポンサーが支払い不能に陥ったときに代理店がスポンサーに代わって代金を支払う。いわば保険である。  この番組は文華放送がキー局となるネットワーク方式だった。ところが化粧品メーカーが倒産し、あげくの果てに肝心の広告代理店も潰《つぶ》れてしまった。めったにない最悪のケースである。  営業担当者の武田は窮地に陥った。営業会議で経過説明したあとで、武田は深々と頭を下げた。 「キー局の文華放送としてはネット局に放送料金を支払わざるを得ません。わたしの見通しが甘かったのです。明らかに判断ミスです。申し訳ありませんでした」  営業会議後、中川という直接の上司にあたる課長が勝ち誇った顔で言った。 「この際、社長、専務、常務にも謝ってくるべきだな。態度のでかい武田に対していろいろ言う人もいるから、上のほうに恭順の意を表しておくほうがいいと思うよ」  武田は中川とソリが合うほうではなかった。  中川は専務の取り巻きのひとりでもある。  同席していた小柳も塚本も仏頂面でうなずいている。  武田はカッと頭に血液が逆流した。 「わたしがスポンサー、広告代理店に引っ掛かったのは、営業マンになって初めてです。今回のミスを相殺《そうさい》して余りある利益を局にもたらしてきたはずです。いままで貢献した分について、いちいち褒められたことがありますか。上層部に頭を下げに行けとおっしゃるが、そんなつもりはさらさらありません。断固お断りします」  眦《まなじり》を決して、武田は言い放った。 「武田、局長や部長の立場も考えたらどうなんだ」 「課長にそんなことを言われる憶えはありませんよ」  武田は依怙地《いこじ》になっていた。  小柳がぽつっと言った。 「俺の監督不行届きもある。俺が謝ってくるよ」  武田は小柳には済まないと思ったが、引っ込みがつかなくなっていた。  営業期の移行時に編成替えが行なわれるのが通例だが、昭和四十五年度は現体制を継続することになった。だが、武田は承知しなかった。塚本に直訴したのである。 「中川課長とはとかく意思の疎通を欠きがちです。村田課長の下へ移していただけませんか」 「中川のほうは武田を評価して、従来どおりでやりたいと言ってる。ま、我慢してくれや」 「厭です」  武田はポイントゲッターなので、武田の異動が中川にとってマイナスに働く。それがわかっているから、中川は武田を放さないのだ。 「部下が上司を選ぶなんて前代未聞だ。いくらなんでもまずいんじゃないか」 「そのほうが局のためになるんですから、ぜひそうしてください」 「局長と相談してみるよ」  結局、武田の主張は容れられることになった。  第三章 辞表提出     1  武田が会社を辞めたいと思ったのは、昭和四十五年末のことだ。  営業マンになってそろそろ丸四年になろうとしている。文華放送一の営業マンを自他共にゆるしていた武田が突然、何故《なぜ》——。営業でいくら成績を上げたとしても、所詮《しよせん》電波ジャーナリズムは底が浅い。このままうすっぺらな人生を積み重ねていていいのか。一度しかない人生に悔いは残らないのか。そんな疑念にとらわれたのである。  武田の転職、独立志向は募る一方で、いつしか動かないものになっていた。  某夜、武田は妻の和子に思いの丈を話した。  和子は顔色を変えて武田を非難した。 「なにを血迷ったことを言ってるのよ。莫迦莫迦《ばかばか》しい。会社を辞めてあなたになにができるっていうの」 「それはこれから考えるんだ。やりたいことはいろいろある。僕になにができるか、なんていう言いぐさはないと思うがねぇ」 「文華放送あってのあなたなのよ、文華放送で役員になるぐらいの気概を持ってもらいたいわ」 「言いたいことを言い、やりたいことをやってる僕が上に行けるわけがないな。上司の顔色をうかがい、上司にゴマを擂《す》ってまで会社で偉くなりたいとは思わないよ。電波ジャーナリズムなんて所詮浅薄で、ステージとして小さ過ぎる」 「笑わせないでよ。あなたに電波ジャーナリズムが浅薄なんて言える資格があるのかしらねぇ」  もともと、和子には亭主を見下すようなところがあったが、いまはその小賢《こざか》しさが、どうにも我慢できず、武田は激し上がった。 「なんだと! おまえは亭主をどこまで莫迦にすれば気が済むんだ!」 「大きな声出さないでよ。子供たちが起きちゃうじゃない」  和子はきっとした顔で言い返した。  長男の光太郎は六歳、次男の憲二郎は四歳になっていた。 「とにかく僕は会社を辞める。おまえの指図《さしず》は受けない」 「文華放送で定年まで働いてヒラ社員で終わったっていいじゃないの。文華放送で一所懸命働くことがあなたの使命なんだし、わたしに対する義務だと思うわ」 「おまえに対する義務? どういう意味だ」 「だって、わたしは文華放送の社員である武田光司と結婚したのよ。しかも、男の子を二人も産んで、武田家の血筋も守ったわ。わたしは母親の役目を立派に果たしてる。あなたも父親の役目を果たしなさい」 「文華放送を辞めたって父親の役目は果たせるさ。文華放送の社員じゃなければ結婚しなかったと言わんばかりだが、それが事実なら僕はおまえと結婚したことを後悔するよ」  こんな激しいやりとりが毎晩のように続いた。  和子が反対すればするほど武田の退職希望はよけい堅固になる。     2  武田は取引先との忘年会の二次会などで、銀座六丁目の�由多加�に流れることが多くなっていた。  十坪ほどの小さなクラブだが、ママの山本香榮子が美形を鼻にかけない気分のいい女だったからだ。着物がよく似合うしっとりと静かな感じで、笑顔がきれいだ。 �由多加�は四年前に開業したが、三年ほど前に営業部の先輩に連れて行かれてから、武田はこの店を取引先の接待でしばしば利用するようになった。  料金がリーズナブルなことも気に入っていた。  武田に�由多加�を紹介した先輩は常岡である。常岡は人柄は申し分ないが酒にだらしのないところがあった。どこでもツケを溜《た》めるが香榮子だけは厭《いや》な顔をしなかった。  銀座に限らず、飲食店で勘定払いの悪い客を「金太郎さん」という。金太郎はまさかりを担いでいる。まさかりに引っかけて、またかり。またまた払わずに借りてゆく客を揶揄《やゆ》して金太郎と称していた。 �由多加�の前に初めて立ったとき、武田は常岡の耳もとに口を寄せた。 「先輩、この店は金太郎さんじゃないでしょうね」 「うむ」  常岡はどっちつかずな返事をしたが、金太郎だと顔に書いてある。 「じゃあよしましょう。厭な顔をされるのはかなわんですから」 「ここは大丈夫なんだ」  常岡は小声で返して、にこっと笑い、ドアを押していた。 「ママ、武田はまだヒヨッコだが、必ずウチのエースになるやつだからよろしく頼むよ。料亭を経営している母親が付いてるから、勘定の心配もないしな」  常岡は香榮子に武田を紹介するとき、真顔でそんなふうに言ったが、早い時間で店内にほかに客がいなかったのをいいことに、武田は冗談めかして言ったものだ。 「誰かさんみたいに、僕は金太郎さんにはなりませんから心配いりません」 「こいつ、言わせておけば……」 「でも、耳が痛いでしょ」  香榮子がカウンターの中から常岡に加勢した。 「常岡さんは金太郎さんとはちょっと違います。ボーナスでちゃんと清算してくれますから」 「しかし、ツケを溜めるのはいかがなものですかねぇ。飲み食いは分相応であるべきで、実力に見合わない飲み方はよくないですよ」 「母親の臑《すね》かじりが生意気言ってやがる。おまえだって、実力に見合った飲み方してないじゃないか」 「ただし、僕の場合は会社のためだし、出世払いで母には返済するつもりですから、先輩と一緒にされてたまりますか」 「屁理屈《へりくつ》こねやがって。武田なんか連れてくるんじゃなかった。酒が不味《まず》くなる」  常岡は顔をしかめた。  武田が二度目に�由多加�に顔を出したときは、スポンサー会社の担当課長と係長を接待するためだったが、このころはまだセキに無心していた時代である。  トイレから戻った武田に香榮子がおしぼりを手渡しながら、さりげなく言った。 「常岡さんも言ってましたけど、武田さんはいい営業マンになると思うわ。いまは交際費も少ないでしょうから大変ねぇ。このお店を利用してくださるときは、ママ用のボトルを使ってください。ボトルを入れる分がかからないから、ずいぶん違うと思うわ。大営業マンになったら、自分のボトルを入れてくださいね」  武田は一年ほどママボトルの世話になった。�由多加�で武田光司の名札付きのボトルになって久しいが、武田に対する香榮子の信頼は絶大だった。  武田が連れてくる一流会社のスポンサーが、�由多加�を贔屓《ひいき》にして、競うように�由多加�を使ってくれるようになるからだ。  どんな一流会社のスポンサーでも、人間として卑しい人物とは酒席を共にしないのが武田の主義である。�由多加�に連れてくる客はいずれもそれなりに品格のある人物ばかりで、酒の上で誤りを犯すような人はひとりもいなかった。  忘年会のこの夜、�由多加�に長居した武田たちは、気分が乗って�由多加�をクローズしてから、香榮子と若いホステスをひとり誘い、総勢五人で六本木へ繰り出した。  六本木には午前三時ごろまで営業しているクラブやパブがいくらでもあった。  ひと騒ぎして、いざ支払いという段階で、武田は自分の財布がほとんど空《から》に近いことを知って、蒼《あお》くなった。  香榮子がそれと察して、そっと財布ごと武田に手渡した。 「あした、いや今夜必ずお返しします」 「いいのよ、気にしないで。わたしのおごり。あなたにはお世話になってますから、ほんのお返しのつもりよ」 「悪いなぁ」  レジで支払いを終わって、財布を返そうとする武田を香榮子が手で押し戻した。 「帰りのタクシー代は大丈夫ですか」 「チケットがあります」 「じゃあ、送っていただける」 「ええ。通り道ですから」  武田は、タクシーのチケットを課長と係長に渡し、方向が同じなので若いホステスを係長に同乗させた。  香榮子の住まいは代々木八幡《よよぎはちまん》のマンションだった。  タクシーの中で、武田が訊《き》いた。 「ママは六本木でご主人とサパークラブを経営してたって先輩から聞いた憶えがあるんですけど、�由多加�のチーフはご主人じゃないでしょ」 「ええ。だって沖野君は二十三歳よ。わたしは昭和十五年二月八日生まれですから、もう三十路《みそじ》を過ぎたおばあさん」 「おばあさんってことはないでしょう。ママより二つ上の僕は、おじいさんってことになっちゃうもの。お世辞じゃなく、もうちょっと若いと思ってました」 「武田さんに身の上話をするのは初めてかしら」 「それどころか二人だけで話したこともありませんよ」 「いま亭主のことを訊かれたから、話しますけど、二年前に別れました。正式に離婚していまは独《ひと》りです。もちろん恋人もいません。お店が忙しくて、それどころではなかったわ」 「お子さんは?」 「いません。前の主人に好きな女ができたとき、あっさり別れられたのは、子供がいなかったこともあるかもしれないわ」  たんたんと身の上話をする香榮子の気取りのなさに、武田は親近感を憶えた。  タクシーがマンションの前に着いた。  武田はチケットに料金、日時などを記入して、香榮子につづいて降車した。胸の中でせめぎあうものがあったが、咄嗟《とつさ》に決心したのである。 「喉《のど》が渇いたので、お茶を一杯ご馳走《ちそう》してください」 「けっこうよ。わたしも、あなたともっと話がしたかったの」 「以心伝心ですか。僕はママとこのまま別れてしまったら、一生悔いが残るような気がしたんです」 「うれしいわ」  十五坪ほどのマンションは、女のひとり住まいのせいか、清潔だった。  暖房をつけ、室内が温まってから、二人は相互にコートを脱ぐのを手伝った。  信じ難いことに、武田は三十二のこの齢《とし》まで、和子以外に女を抱いたことがなかった。  香榮子と二人だけになったとき、武田はずっと膝《ひざ》がしらががくがくするほどふるえていた。  抱擁し、口づけすると、嘘《うそ》のようにふるえが止まった。  着痩《きや》せするほうらしく、裸体になってベッドに横たわった香榮子の胸は量感があり、武田の掌《て》に余った。  むつみ合っているとき、香榮子は眼を固く閉じ、歯をくいしばっていたが、こらえ切れずに、あえぎ声を洩《も》らした。  房事のあとで、香榮子は涙ぐんだ。 「男は一度でこりごり。�由多加�を開店したとき二度と男の人を好きになるまいって心に誓ったのに、ダメだったわ。でも、わたしは後悔してません」 「僕は後悔どころか夢心地です。ママのような美しい女性を男が放っておくはずがないと思ってたし、高根の花っていうか、こんなことは夢のまた夢だと思ってた。まだ信じられないよ」 「そうねぇ。わたしも、あなたとどうしてこんなことになったのか、よくわからないわ。でも、あなたに初めてお会いしたとき、うまく言えないけれど、普通のお客さんとはどこか違う感じがしたの。ときめくものがあったのかなぁ。こうなるって予感したわけじゃないけど、あなたの第一印象は素晴らしかったわ」 「ファースト・インプレッションの素晴らしさは、僕のほうがずっと強く感じたと思うけどねぇ」  言いざま、武田は香榮子にむしゃぶりついていった。     3  深夜の帰宅はしばしばあるが、朝帰りは営業部へ移ってから初めてだった。  険しい顔で、和子がきんきん声を張り上げる。 「電話ぐらいかけられないはずがないでしょ。ちゃんと説明しなさいよ」 「仕事」 「なんの仕事」 「きみに話してもしょうがないだろう」 「あなた、ほんとに会社辞めるつもりなの」 「ああ」 「そんなのゆるせないわ」 「ゆるすもゆるさないもないよ。僕が決めることで、きみに指図される憶えはないね。ひと眠りしたら出社する。今夜も遅いからな」  武田は和子を振り切って、寝室に入り、スーツを脱いで、ワイシャツのまま布団《ふとん》にもぐり込んだ。  今夜も香榮子のマンションに行くぞ、と武田は心に決めていた。  二時間ほどまどろんで、下着を替え、顔を当たり、歯を研《みが》いて、食事を摂《と》らずに家を出た。  和子がぎゃあぎゃあ喚《わめ》いていたが、耳に入らなかった。武田は香榮子のことばかり考えていたのである。  三日間つづけて、武田は深夜、香榮子のマンションを訪問した。  こんな見事な女が存在したこと自体不思議でならないほど、香榮子は武田を魅《ひ》きつけてやまなかった。身も心も、とろけてしまいそうだ。  三日目の夜、ベッドの中で武田が言った。 「今夜泊めてもらっていいかなぁ」 「…………」 「家に帰りたくないんだ。ここんとこ女房と喧嘩《けんか》ばっかりしてる。顔も見たくないよ」 「わたしとこうなったことと関係あるの」 「夫婦喧嘩は、きみとこうなる前からつづいてる。僕は会社を辞めて独立したいんだが、女房は反対なんだよ」 「そりゃあそうでしょ。奥さんの立場に立てば反対して当然ですよ」 「電波ジャーナリズムの営業マンで終わりたくないんだ。僕は独立して、会社をつくりたい。この気持ちは、たとえきみに反対されても変わらないと思うよ」 「わたしは反対できる立場でもないし、口出ししようとも思わないわ。ただ、このマンションに泊まることには反対よ。本音を言えばお家《うち》に帰したくないわ。でも、そんなわがままを言ってはいけないと思うの。あなたと月に一度か二度会えれば、それで充分満足です。あなたの家庭を壊すなんてこと、わたしにはできないわ」  香榮子をふたたび抱きしめながら、武田は香榮子に耽溺《たんでき》していきそうな予感を増幅させていた。     4 �由多加�のママ山本香榮子と男女関係が生じるようになって、武田光司は生き甲斐がひとつ増えたような気がした。  武田にとって仕事こそ生き甲斐の最たるものだったが、香榮子の存在はそれ以上かもしれない。少なくともそれ以下ではない、と思うほど香榮子にのめり込んでいった。  家庭も生き甲斐のひとつのはずだが、和子との仲が家庭内離婚も同然になってしまったいま、家庭はわずらわしいだけで、安息の場所ではあり得なかった。しかし子供たちだけは、やはり生き甲斐でなかろうはずがない。  男の身勝手と言われてしまえばそれまでだが、光太郎と憲二郎を引き取って、香榮子と暮らす手だてはないものか、などと飛躍したことを考えている自分の愚かさに武田は気づいていなかった。  昭和四十六年三月下旬の某日深夜、武田は代々木八幡の香榮子のマンションに立ち寄った。  部屋は暗く、香榮子はまだ帰宅していなかった。ままあることだ。スペアのキイでドアを開け、室内灯を点けて、コート姿のままソファに腰をおろしたとき、武田はドキッとした。  センターテーブルの�武田光司様�と宛名《あてな》のある白い封書が眼に入ったのだ。  武田はふるえる手で封を千切った。 [#ここから2字下げ]  あなたがこのマンションの一室にいらっしゃるようになってから、三か月ほどになります。夢を見ているとしか思えないほど幸せでした。そして、いまは毎日あなたにお逢《あ》いできたら、どれほどたのしいか、どれほど幸せかなどと欲張ったことを考え始めています。  そのおぞましさにわれながら、切なくてつらくて、いたたまれない気持ちになります。  私は、以前、あなたに申し上げたことがあります。あなたの家庭を壊すなんてできません、と。このままでは、あなたは家庭を壊してしまいかねません。それは、ゆるされないことです。  どうか、私のことは忘れてください。お互いに夢を見ていたと思うことがベストの選択なのだといまごろやっとわかりました。  あなたはとっくに気が付いていらっしゃったと思います。夢から覚めるのが恐ろしい、このまま夢を見つづけたいと思わぬでもありませんが、私は勇気を出して夢から覚めることにしました。一過性でも、充分幸せだったのですから。  今日からあなたを忘れるための旅に出ます。�由多加�は、当分の間沖野君にお願いすることにしました。実家(名古屋)の母が病気のため、という理由を考えましたが、必ずしも嘘ではないのです。この機会に母を見舞い、親孝行のまねごとをしてくるつもりです。 必ずや、あなたとは�由多加�のママと普通のお客さまの関係に戻れる日がくると信じています。  あなたが、光太郎君と憲二郎君のよきお父様になられることを心よりお祈り申し上げます。                  山本香榮子  武田光司様 [#ここで字下げ終わり]  武田は手紙をコートのポケットにねじ込んで、リビングルームの棚にある電話機の前に立った。 �由多加�は閉店したのだろう。呼び出し音を十回聞いて、武田は受話器を戻した。  時計を見ると午前零時を過ぎていた。 「冗談じゃねぇや。莫迦《ばか》言っちゃいけない。ただのママと客に戻れるわけがないよ」  武田はひとりごちた。  武田は五日間、�由多加�に通い続けた。そのうち三日は、ひとりだった。  夜、ひとりで銀座通いするなど下の下だ。それを信条としてきたが、武田は初めて破った。むろんひとりのときはポケットマネーだが、やはりうしろめたさは伴う。居心地の悪さといったらない。 「ママ、連絡はないの」 「ありました。お母さんの具合がよくないらしいんです。まだ一週間ぐらいは帰れないんじゃないですか」  沖野を含めて、店の使用人に二人の関係をさとられてはならない、という点で武田と香榮子の意見は一致していた。細心の気遣いをしてきたが、ときとして武田は誰かに話してしまいたい誘惑に駆られる。  根掘り葉掘り訊くわけにもいかないが、武田は沖野に、水割りをすすりながら冗談めかして訊いた。 「ママの実家の電話知ってる? ママに会いたい一心で毎晩�由多加�に来てるんだぜ。声ぐらい聞かせてもらっても、罰は当たらんだろう」 「教えてもらってないんです。一方的にママのほうから電話をかけてくるだけなんですよ。こんど聞いておきます」 「お母さん入院してるのかねぇ」 「さぁ。それもちょっと」  沖野は、気のない返事をした。若い身空で店をまかされ、緊張感で、それどころではないのだろう。一枚看板のママが不在でも�由多加�はけっこう連夜、にぎわっていた。  武田は、マンションにもほとんど連日見張りに行った。昼間、仕事の合い間に出かけることもあるし、�由多加�の帰りに寄ることもある。  しかし、一週間経っても香榮子が帰宅した形跡はなかった。     5  武田が思い余って、営業局長の小柳に相談したのは四月に入ってすぐだ。 「女房と別れようと思うんです」 「出し抜けに、なにを言い出すんだ」  武田は、香榮子とのことを包み隠さず小柳に打ち明けた。  もちろん小柳も�由多加�を利用していたので、香榮子とは面識がある。 「ふうーん。�由多加�のママとそんなことになってたのか。朴念仁の武田がねぇ。おまえは愛妻家で女房ひと筋だと思ってたんだが……」  小柳は深い吐息を何度ついたかわからない。 「三月《みつき》前までは、浮気したことは一度もありませんでした。香榮子とは浮気なんかじゃなくて本気ですけど」 「しかし、いくら本気でも和子さんと別れるなんていう料簡はよくないな。和子さんによっぽどの落度でもあればともかく、言ってみりゃあ良妻賢母型の女性だろうに」 「当たらずと雖《いえど》も遠からずです。和子は冷たい女だし、わたしを莫迦にしきってます。だからこそ香榮子の優しさに魅かれたんです」 「言わせておけばぬけぬけと……。たしかにいい女だと俺も思う。だが、こういう言い方はどうかと思うが、しょせん水商売の女じゃないか。大人のつきあい、で終わるのがまっとうだと思うがねぇ」  武田はきっとした顔で言い返した。 「水商売の女、という言い方は引っかかります。わたしの母も水商売の女です。いくら小柳局長でも聞き捨てなりません」 「悪かった、謝るよ。しかし、いまの武田は、なんにも見えなくなってるんだ。反対すればするほど、火に油を注ぐようなものだ。そんなことは百も承知で言ってるんだが、向こうから一過性と言ってきたなんて、おまえはついてるよ。香榮子ママが性悪《しようわる》な女なら、おまえから慰謝料をふんだくるところだ。おまえはゆすり甲斐のある男だからなぁ」 「そんなことは夢にも考えられませんよ。香榮子は黙って身を引くと言ってるんです。そういう心の優しい女なんです。だから惚《ほ》れたんです」 「男女関係は当事者能力で解決するしかないが、俺が武田なら、女房にバレないように大人のつきあいをつづけるけどなぁ。こんな旨《うま》い話はめったにあるもんじゃない。おまえは果報者だよ。あやかりたいくらいのもんだ」 「そういうのは厭です。和子を取るか、香榮子を取るか、どっちかです。香榮子を取るしかないんです」 「おまえの一存で決められる問題じゃないだろうや。早い話、和子さんが離婚に同意すると思うか」 「わかりません。人一倍自尊心の強い女ですから、わたしに好きな女ができたと知れば、ゆるせない、別れるって言い出すような気もするんですけど」 「きわめて楽観的かつ希望的観測で、そんな甘いもんじゃないと思うがねぇ」  武田が小柳に香榮子のことを話した当日の夜、香榮子は九日ぶりにマンションに帰ってきた。  室内が明るい。武田は三階まで一気に駆け上がった。  施錠されていた。スペア・キイで開けるとチェーンは外されていて、なんなく入室できた。  香榮子はスーツ姿でぼんやりソファに座っていた。  武田はものも言わず香榮子を押し倒した。香榮子は抵抗しなかった。  頬擦《ほおず》りをしているとき、少し塩辛かったのは香榮子が泣いていたからだ。香榮子はとめどなく涙を流し続けた。  躰《からだ》がひとつに融け込むまで、二人は無言だった。  事後、武田が言った。 「僕を捨てたらゆるさんからな」 「あなたが毎晩、お店に来てくださってることは沖野君から聞いてました。わたし、どうしていいかわからなくて……」  香榮子はふたたび嗚咽《おえつ》の声を洩《も》らし始めた。 「これでいいんだ。きみは僕の生き甲斐なんだから」 「ほんとうにこれでいいのかしら」 「いいさ。いいんだよ。僕は会社に辞表を出す。踏ん切りをつけるためにも、そうすることがいいと思うんだ」  武田がシャワーを浴びて、バスローブ姿でリビングに戻ると、香榮子は水割りウイスキーの用意をして待っていた。  バスローブに限らず、いつの間にか武田用の歯ブラシや茶碗が増えていた。 「水割りを飲む前に、半紙と硯《すずり》を出してくれないか。気が変わらないうちに辞表を書いちゃおうと思って」 「はい」  食卓に向かって、武田は辞表を書いた。     退職願   営業局営業部   武田光司   一身上の都合により   退職致したく、お願い   申し上げます。    文華放送殿   昭和四十六年四月六日  その夜、武田は久しぶりに香榮子のマンションに泊まった。そして、朝出社後、直ちに小柳営業局長に面会を求めた。役員用の応接室で二人は対峙《たいじ》した。 「お願いがあります」 「なんだ、朝っぱらから女の話なんて聞きたくないぞ」 「違います。これを受理してください」  小柳は顔色を変えた。 「なんだと。辞表? ふざけるな。こんなもの受理できん。だいたい、きのうこんな話は出なかったじゃないか」 「ずっと前から考えてました。どうか受理してください」 「ちょっと訊くが……」  小柳はセンターテーブルの白い封書を顎《あご》でしゃくって、つづけた。 「これと女性問題と連動してるのか」 「はい。してます」 「それじゃあ、なおさら受け取れんな。おまえ、バーのマスターにでもなるつもりなのか」 「まさか。髪結いの亭主じゃあるまいし、いくらなんでもそれはないですよ」 「いいか。よく聞け。きのうも言ったが、武田は熱病に罹《かか》って、正常な判断ができなくなってるんだ。おまえは文華放送営業局営業部のエースと言われていい気になってるが、局から離れてなにができるというんだ。思い上がるにもほどがあるぞ。これはなかったことにする。頭を冷やして、よく考えろ!」  小柳は声を励まして浴びせかけ、つとソファから腰を上げた。 「局長、お待ちください」 「うるさい!」  とてつもなく大きな音をたててドアが閉まった。     6  外泊する頻度が増え、帰宅が減っていくのは、当然の帰結である。  香榮子の存在が和子の知るところとなり、武田と和子は言葉を交わさなくなった。武田が週に二、三度帰宅するのは、子供たちが心配だったからだ。光太郎も憲二郎もいじけずに明るく育ち、たまに帰ってくる父親に甘えるから不思議だった。  もっと不思議なことは、五月下旬の日曜日に散歩に出て、そのまま香榮子のマンションに子供たちを連れて行ったとき、香榮子になついたことだ。  香榮子が昼食に子供たちの喜びそうな玉子焼きやハンバーグ、フルーツサラダなどをこしらえて歓待した成果かもしれない。二週つづけて、香榮子のマンションに子供たちを連れ出した。自宅にいるときより楽しそうに遊んでいる子供たちを眺めながら、武田が小声で言った。 「ここに来たことは母親に内緒にしようって言ったら、二人とも約束を守ってねぇ。遊園地に行ったことにしてるんだけど、この子たちを見てると、このまま四人で暮らせるんじゃないかなんて思えてくるよ」 「そうなれたら、うれしいけれど、お母さんが許さないでしょうねぇ」 「和子は口うるさいし、すぐ逆上するから、子供も恐がって、母親より僕に甘えるんだ」 「和子さんから、光太郎君や憲二郎君を取り上げてしまったら、あまりにも残酷だわ。わたしが和子さんの立場に立ってたら発狂してしまうかもしれない」  事実、和子は半狂乱になった。  子供たちを問い詰めて、香榮子のマンションに行ったことを聞き出したのである。 「女の家に子供を連れて行くなんて正気の沙汰《さた》ではないわ。こんどそんなことをしたら、ただじゃすまないわよ。なにをするかわからないからね」  髪振り乱して絶叫する和子の凄惨《せいさん》な顔を見て、武田は背筋がぞっとなった。  六月上旬の深夜、帰宅していた武田に、香榮子から電話がかかってきたことがある。 「こんな遅い時間にごめんなさい。前の主人がいまお店に来てるの。どうしてもあなたに会いたいってきかないのよ。本当に大切にされてるんなら来てくれるはずだって。それで悪いとは思ったんですけど電話をかけました。もし奥さんが出たら、黙って切ろうと思ってたんです」 「わかった。すぐ行くよ」  武田はワイシャツにネクタイを着け、背広を抱えて家を出た。  和子は起きてこなかった。  夜中の一時に近いが、大通りへ出ると東京方面へ帰るタクシーの空車が拾えた。 �由多加�まで三十分もかからなかった。  ノックと同時にドアを開けて、武田は無言で、奥のボックスにいる二人の男と向かい合った。  香榮子は緑茶を淹《い》れて、引き下がり、武田たちに背を向けて、とまり木に腰かけた。 「武田です。わたしになにか……」 「玉木です。この人は、友達の本山です」  本山と言われた男は、睨みつけるような強い視線を武田にくれながら無言で小さく頭を下げた。武田も強く見返しながら会釈した。  二人ともスーツ姿でヤクザっぽくはなかった。 「電話一本で駆けつけてきたのだから、武田さんは誠意のある人だとお見受けしました。わたしは、香榮子はあんたに騙《だま》されてると思ってました。こんなにいい女はいません。別の女に手を出して孕《はら》ませてなかったら、わたしは香榮子と別れたりしませんよ。莫迦《ばか》なことをしたって、いまでも後悔してます。罪滅ぼしに、この店もマンションも、香榮子にくれてやりましたが、あんたに横取りされたような気がして、無性に肚立《はらだ》たしくてねぇ」  アルコールの勢いもあるのだろうが、玉木は饒舌《じようぜつ》だった。 「いまさら亭主風を吹かせるわけにもいかないし、理不尽なことはわかってますが、香榮子には幸せになってもらいたいんですよ。武田さんは悪い人じゃないと思うから言わせてもらいますが、三つのことを約束してください」  武田は、緑茶をがぶっと飲んで、身構えた。 「ひとつは、毎年|大晦日《おおみそか》には紅白歌合戦を一緒に見てやってください。二つめは、結婚してやってください。いつまでも日陰者にしておくのはあんまり可哀想だ。三つめは、子供をつくってください。以上です」 「わかりました。必死に努力します。二つめが難問ですが、遠からず家裁に持ち込むつもりです」 「あんたの誠意を信じてますよ。わたしは二度と香榮子の前にあらわれたりしませんから安心してください。おい、帰ろうか」  玉木は、本山を促して�由多加�を出て行った。 「あなた、ごめんなさい。そろそろ閉めようかと思ってたところへ、あの人がふらっとお店に入ってきたの。びっくりして、心臓が止まるかと思ったわ。別れて以来、音沙汰《おとさた》がなかったんですもの。あなたに会うまで帰らない、電話しろって、駄々っ子みたいに言われて……」 「どうして僕の話が出たの?」 「沖野君たちも帰って、わたしひとりだったでしょ。根掘り葉掘り訊《き》かれて、めんどくさくなって……。それと、まだ空家ならいい男を紹介してやるなんて言われて、カッとなってしまったせいもあるのよ。本山さんをわたしに紹介するとき、こいつは独身で、離婚歴もないとか言ってたわ。板前仲間らしいけど、いいやつだってやたら持ち上げてたところを見ると、見合いの真似ごとを考えてたのかしら。でもそんなの変よねぇ。別れた女房を友達と見合いさせるなんて、あり得ないわ」 「そうでもないよ。あり得ると思う。きみに対して未練たっぷりみたいだったじゃないか。どうせなら、いいやつと一緒になってもらいたいと思ってもおかしくないよ。あの人は、きっと好人物なんだろうねぇ。話を聞いててそう思った」 「性格は悪くないと思うけど、女性にはルーズなの。それでわたしは別れたのよ」  二人はタクシーでマンションへ行き、武田はずるずると居つづけることになる。     7  武田は六月二十八日付で二度目の辞表を小柳に提出した。 「熟慮した結果です。こんどはどうしても受理していただかなければ困ります」 「おまえ文華放送を辞めてどうするんだ。なにをやろうってんだ。ちゃんとしたプランがあるんなら話してみろ」 「自分で事業をやりたいと思ってますが、さしあたりは友人が仕事を手伝ってくれとうるさく言ってきてますので、そうするつもりです」 「どんな事業をやろうって考えてるんだ。具体案はあるのか。それと友人の仕事ってどんな仕事なんだ」 「独立して事業を起こすのがわたしの夢です。しかし、まだ具体案はありません。いつの日かお話しできる日がくると思います。友人の会社は�サンポール�です」 「いつの日かねぇ。まるで説得力がないな。�サンポール�って、トイレ用洗剤のサンポールか」  サンポール株式会社は文華放送のスポンサーで、武田が開拓した。 「はい。�サンポール�が�サンポール物産�を設立することになりました。営業の責任者になってくれと頼まれてます」 「もう二か月考えたらいいな。それと夏のボーナスはもらったらどうだ」 「せめてボーナスを返上しないことには、辞めにくいですよ」 「おまえらしくもない。とにかく二か月時間をくれないか。それでおまえの気持ちが変わらなかったら、諦《あきら》めるとしよう」  二度目の辞表も空振りに終わった。  翌六月二十九日、武田は身の回りのものをボストンバッグに詰めて別居を決行した。  子供たちには「お母さんとうまくいかないので香榮子おばさんの所へ行く。会社とマンションの電話番号を教えておくから、なにかあったらいつでも電話をかけてくれな。日曜日に遊びに来てもらいたいが、お母さんがゆるさんだろう」と正直に話した。 「僕も連れてって」 「僕も」  光太郎と憲二郎は泣きべそをかいた。  この日、武田は会社を休んだ。和子は買物に出かけて留守だった。 「泣くな。男の子じゃないか。おまえたちはお父さんをわがままだと思ってるだろうが、大きくなったら、お父さんの気持ちがわかってくれると思う」  うしろ髪を引かれるとはこのことだが、香榮子の魅力には勝てなかった。  光太郎は小学一年生、憲二郎は幼稚園年少組でいたいけという年齢ではないが、玄関の敷居を跨《また》いだとき、武田は不覚にも涙がこぼれた。  武田は七月の給料もボーナスも全額、和子に送金した。  香榮子がそうしろと言ってきかなかったのである。     8  武田に対し最初に独立をけしかけたのは、斎藤博治という中小企業の社長である。年齢は五十そこそこと思えた。 �天平�贔屓《ひいき》客のひとりで、子供のころから武田を可愛がってくれた。  昭和四十五年初春のことだが、�天平�の帳場の長火鉢の前で斎藤が言った。 「光司君、きみは営業マンとしてえらい張り切って仕事をしているようだが、そろそろそのエネルギーを自分と自分の仲間に使ったらどうかねぇ。考えてみる価値はあると思うが」  帳場に居合わせたセキが斎藤の背中をぶった。 「社長、困りますよ。変なこと言わないでください。この子はお調子ものだから、すぐその気になっちゃうじゃありませんか」 「光司君を中学生のころから見てるが、サラリーマンにしておくには勿体《もつたい》ない男だ。話をしてわかるんだよ。営業センスが抜群にいい」  このときは笑って聞き流したが、いつしか独立を志向するようになり、香榮子とわりない仲になってから、それが加速した。  中堅広告代理店�読広《よみこう》�の企画部員だった葛巻成介がトイレ洗剤メーカーの�サンポール�にスカウトされたとき、武田は相談に乗ったことがある。その葛巻から、こんどは武田がスカウトされる番だった。葛巻は武田と同世代である。  銀座七丁目の小料理屋の小部屋で、ビールを飲みながら、葛巻は唐突に切り出した。昭和四十六年五月下旬のことだ。 「�サンポール�は脱トイレ用品路線を展開しようと考えてます。別会社方式でこの企画を推進したいのですが、武田さん、営業担当常務で新事業を手伝ってくださいよ」 「きみがサンポールの社長からスカウトされて相談を受けたとき、僕は賛成したよねぇ。それは、僕にも独立心があったからだと思うんだ。僕が文華放送を辞めるときは、自分で事業を起こすよ。だから、この話はなかったことにしてくれないか」 「武田さんからそんな話を聞いた憶えがありますよ。でも、いますぐなにか事業を起こす計画があるわけではないんでしょ」 「うん」 「だったら、とりあえずということでどうですか。あなたが独立するまでの間でけっこうです」 「そんな中途半端なことは気がすすまんねぇ」 「そこをなんとか。社長からも、武田さんを首に縄を付けてでも連れてこいって言われてるんです」 「一週間ほど考えさせてよ。お役に立てるかどうかわからないけど、真剣に考えるから」 「真剣に前向きに考えてください」     9  八月三十日に武田は三度目の辞表を小柳に提出した。 「やっぱりダメか。おまえは一度言い出すと後へは引かないからなぁ。おまえは文華放送を軽く見てたようだが、放送ジャーナリズムとしての使命感をもって入社したんじゃなかったのか。文華放送は風通しのいい会社だし、住み心地も悪くないと思うんだが。十倍、二十倍の難関を突破して入社したエリートなのに、十年足らずで辞めるなんて、気が知れない。俺《おれ》にはどうしても武田の気持ちが理解できないよ。ゆくゆくは文華放送の幹部になれる男が、こんなかたちでリタイアしちゃうなんて」  小柳はひとしきりぼやいた。 「申し訳ありません。おっしゃるとおり文華放送はいい会社です。わたしみたいな碌《ろく》でもない男を育ててくれたんですから。しかし、区切りをつけたいんです。おゆるしください」 「三度目の正直というから、もう止めない。暴走車を止めることはできないってことかな。八月三十一日付で辞表を受理する。人事にも話しておくから、あとで経理で退職金を受け取るように」  小柳は事務的な口調で言って、ソファから腰を上げた。  九年五か月勤務した文華放送の退職金は四十八万三千円。年金脱退一時金は二十九万六千七百円、合計七十七万九千七百円。武田はこんなに多額の退職金を支給されるとは思わなかった。  武田が転職に際して友人、知人に出した挨拶状《あいさつじよう》は、次のような内容であった。 [#ここから2字下げ]  店頭に秋の味覚が数多く並びはじめた今日この頃いかがお過ごしですか。私事で恐縮ですが、私この八月三十一日付で九年と五か月住み馴《な》れた文華放送を退職いたしました。  QR時代、報道部、営業部を通じてお世話になった皆様に心からお礼申し上げます。特に営業部時代は「マムシの武田」なぞと我儘《わがまま》いっぱいの商売をやらせて頂き、この四年五か月は感謝の気持ちでいっぱいです。私の再就職先は、サンポールKKがつくってくれたサンポール物産KKといいます。親会社は、例の「トイレの洗剤サンポール」のCMでご存知の会社です。サンポール物産KKは、現在資本金五百万円、社員|僅《わず》か五人の小企業で、私はその営業の責任者として威張っています。物産の目的は、「自分の納得しうる商品で利益のためにSWINGする」ことです。そのSWINGのための情報収集機関として、広友社という広告エージェントにも私は関係しています。私が、九月一日物産に出社したとき持っていったものは、QR時代いただいたおよそ二千五百枚の名刺と三十三歳の体力です。どうか今後とも、この我儘者の「第二の青春」をご支援下さい。皆様のご健康とご活躍をお祈り致します。 [#ここで字下げ終わり]  挨拶状に対する返事が多数寄せられたが、一通の葉書に武田は感激し、目頭をうるませた。 [#ここから2字下げ]  新天地を求めて縦横の活躍に入った由、大賀の至り、君は社長たることに宿命を背負った男だ。もっと大成すると信じている。頭がよくてユーモアがあって、根性が据わっており、適当にズルく、適当に押しが強く、しかも根本に誠意がある。存分にやってくれ。始めはわが為に、やがて社会公共の為に。武田光司は男でござる。 [#ここで字下げ終わり]  差し出し人は文華放送常務取締役の菅原宏一である。菅原は講談社出身で�キング�の元編集長であった。武田は一度か二度会食しただけだが、かくも心のこもった葉書をくれるとは……。この葉書を心の支えにしよう、と武田は思った。事実、苦しいときに額に入れて壁に掲げたこの葉書を読んで、勇気づけられたことが何度もあった。  第四章 モノ売りへの転身     1  武田光司の再就職先のサンポール物産のオフィスは、神田錦町《かんだにしきちよう》の小さなビルの二階にあった。名刺の肩書は常務取締役。  文華放送局時代の約十年はヒラ社員だったから、何階級特進かわからないが、それは肩書上だけのことだ。  社員はたったの五人。むしろ、気持ちのうえでは切ないくらいにみじめであった。  退職して、文華放送の良さが身に沁《し》みて理解できた。  放送局の社員は、報道部門、営業部門を問わずマイホーム主義とは縁遠い性格の人がほとんどで、小市民的な生き方を排していたように思える。それは、ある種の気取りであり、気負いだったかもしれない。  子供っぽい大人とでもいうのか、ちょっとくずれた雰囲気の仕事人、不良っぽい遊び人、さりげないお洒落《しやれ》に身を包んだ人、ユーモア溢《あふ》れた人、照れ屋の実力者。  それぞれが独特の雰囲気を漂わせて、世間の動きや時間の流れに束縛されることなく仕事をしていた。 �よく学び、よく遊ぶ�  こんな美意識が共通項だったような気がする。それを�粋《いき》�と考えていたふしがあり、�粋�な振る舞いをバックボーンにしていたともとれる。理屈をつけて酒を飲み、ときとして女出入りも絡んでくる。不良青年を亭主にもった女房族は、さぞや気苦労が絶えなかったことだろう。  いまさらながら武田は自身も含めて、世間とは異質の世界に棲《す》んでいたことに、しみじみとした懐かしさと苦《にが》さが伴って�よき時代�を回想していた。  妻の和子を思い遣る気持ちさえ生じている自分に気づいて、武田はうろたえた。しかし、後戻りはあり得ない。  男の身勝手、得手勝手……。他人《ひと》がどう思おうと、なんと言われようと、香榮子以外の選択肢はなかった。香榮子の優しさだけが、心の支えであった。  文華放送の退職と、妻子との別離はむろん無縁ではない。気持ちの整理をつけるためにも、辞めざるを得なかった。  武田は、昭和四十六年六月二十九日に和子と別居し、代々木八幡の香榮子のマンションに転がり込んだが、七月も八月も二十五日には、市川の家に給料を届けに顔を出した。子供の顔が見たかったからにほかならない。  ひと月にたった一度の父との語らいに、光太郎も憲二郎も、喜びを隠さなかった。  罪滅ぼしに、大量の玩具を抱えてやってくる父親を子供たちが歓迎しないはずがなかった。  武田にまつわりつく子供たちの姿に、和子はいっそう逆上する。帰るときはいつも凄惨《せいさん》だった。 「あんたと結婚したわたしが莫迦《ばか》だった」「あんたには、無教養な水商売の女が相応《ふさわ》しいのよ。お母さんの血筋だから、しょうがないけど」「子供の歓心をおもちゃで買うなんて、最低。あんたに子供と会う資格はないわ」  武田はひたすら耐えた。セキを貶《おとし》める言葉だけはゆるせなかったが、それにも言い返すことはしなかった。  武田と和子の別居をいちばん悲しんだのは母のセキである。 「おまえの顔は二度と見たくない」  武田の打ち明け話に、セキは顔をひきつらせて浴びせかけたものだ。 「和子さんはわたしと違って教養もあるし、おまえには過ぎた女房ですよ」  その和子は、おふくろを無教養な水商売女と侮辱したのだ——。武田は胸の中で和子の言葉をつぶやくにとどめた。口の端《は》にのぼらせてはならない。その程度の自制心はある。 「親の顔に泥を塗って、おまえはそれでいいと思ってるの。光太郎と憲二郎が不憫《ふびん》とは……」  セキは涙ぐみ、声を詰まらせた。  このころ、父親の金司は体力が衰え、病気がちで臥《ふ》せっていることが多かった。それだけに�天平�を独りで切り盛りし、気が張っていたセキにとって、息子の仕打ちはショックであり、我慢ならなかったのだろう。 「和子がこれほど性悪な女とは思わなかった。気位ばかり高くって、医者の父親を鼻にかけ亭主を踏みつけにする傲慢《ごうまん》さは、ゆるし難いよ」 「おまえがなんと言おうと、おまえの身勝手をゆるすわけにはいかないよ」 「一度、香榮子と会ってくれないかなぁ。会ってくれれば俺の気持ちがわかってもらえると思うよ」 「なにをたわけたことを。そんな女に誰が会うもんか」 「香榮子は、いまでも俺に市川の家へ帰るように言ってるが、和子との関係修復は考えられない。子供たちも母親より香榮子になついてるくらい心の優しい女なんだ。だから俺は香榮子に惚《ほ》れたんだよ」 「親に向かって、なんてことを……。わたしは和子さんに会わせる顔がないよ。おまえとは、金輪際会わないからね」  セキは塩を撒《ま》きかねない勢いである。武田は這々《ほうほう》の体《てい》で退散した。  親不孝したとは思うが、武田は香榮子と別れる気は微塵《みじん》もなかった。香榮子は俺に幸福をもたらしてくれたのだ。それにしてもセキの気持ちをほぐすのは楽ではない。なんとしてもセキにはわかってもらわなければならない、と武田は思った。  玩具や茶碗や皿をテラスに叩きつける音、ヒステリックな和子の喚《わめ》き声、子供たちの泣き声を背中で聞きながら、武田はそっと市川の家を出る。  修羅場はもう懲《こ》り懲《ご》りと思うが、子供会いたさの気持ちが勝《まさ》って、武田は八月末に文華放送を退職してからも、給料日に市川の家へ何度か給料を運んだ。  しかし、給料運びは長くは続かなかった。和子の陰鬱《いんうつ》な顔を見るのと、うらみつらみの言葉とに耐えられなくなり、いつしか銀行振り込みに変わっていたからである。     2  親会社、サンポールの脱トイレタリー路線、経営の多角化を託されて、武田はスカウトされたが、なにをすればいいのか、どんな事業に取り組むべきなのか、皆目見当がつかないままに、無為に日を過ごしているとき、サンポールに出入りしていた扶桑《ふそう》産業社長の富岡幸夫が耳よりな話を武田に持ち込んできた。富岡とは文華放送時代から面識があった。  扶桑産業は横浜桜木町の雑居ビルに本社を置く、電動カートの販売・修理を主要業務としている中小企業だった。富岡は武田よりひと回りほど年長である。  武田が文華放送を辞してひと月ほどした九月末の夕刻、富岡はサンポール物産にぶらっとやってきた。 「どうですか。青年実業家になった感想は?」 「からかわないでくださいよ。すべてはこれからです」  青年実業家と言われたのには理由《わけ》がある。サンポール物産の払込資本金五百万円のうち二〇パーセントの百万円を、武田は求めて出資した。つまり武田はサンポール物産の創業に参加したことになる。  百万円は、退職金と年金脱退一時金の七十七万円余を充《あ》て、香榮子に不足分を補充してもらった。八〇パーセントの四百万円はサンポール社長の松野望が出資、松野が社長を兼務していたが、事実上、武田がサンポール物産を取り仕切らなければならなかった。  武田の部下第一号は、サンポール電算室から移籍してきた赤津博徳である。赤津は二十代の後半だが、前向きな性格で人柄のいい好青年だった。  武田と赤津の二人で、富岡の応対をした。応接室などはなく、武田のデスクの前に三点セットが据えてあり、長椅子《ながいす》に富岡が座り、デスクを背に武田と赤津が並んで向かい合った。  富岡が背広を脱いで、緑茶をすすりながら唐突に切り出した。 「台湾に、自転車を製造している知人がいるんですけど、アメリカのシアーズ・ローバックにけっこう売ってるらしいんです。日本のマーケットには一台も売っていないはずだから、自転車の輸入、販売に興味がおありなら紹介してあげますよ」  武田は赤津と顔を見合わせてから、富岡をまっすぐとらえた。 「願ってもないことです。富岡社長だから正直に話しますけど、具体的な事業計画もなしに会社を作って、さあなにか考えろって言われても、右から左へプランが出るはずはないですよ。しょうがないから、広告代理店の下請けみたいなことから始めようかと思ってたんですけど、文華放送の残滓《ざんし》を払拭《ふつしよく》し切れないでいる身としてはプライドがゆるさないって言うか……」 「よくわかりますよ。葛巻さんに言わせれば文華放送で十年にひとり出るか出ないかの逸材っていうことですからねぇ」 「あいつ、そんなこと言ってましたか。冗談ですよ。おちょくってるんです」 「そんな感じじゃなかったですよ。本気で、武田さんの力量に惚れ込んでるんじゃないですか。だからこそスカウトしたわけでしょう」  葛巻が武田に一目も二目も置いていることはたしかだが、�十年にひとりの逸材�はいくらなんでも気恥ずかしい。穴があったら入りたいくらいだ。  葛巻こそ営業企画、新商品企画のセンスは抜群で、大橋巨泉を起用したトイレ洗剤のサンポールのCM企画で大ヒットを飛ばした。松野に能力を評価されたからこそ、中堅広告代理店の�読広�から、サンポールに部長待遇で転職したのである。 「葛巻にスカウトされた憶《おぼ》えはないですよ。こんなことを言うと松野社長に叱《しか》られますが、サンポール物産に長居する気はありません」  必ずしも武田は見栄を張っているつもりはなかった。百万円の出資を、自ら松野に持ちかけたのも、プライドの然《しか》らしめるところで、使われる立場だけじゃないことを鮮明にしておきたかったのである。  三十三かそこらの若造が肩肘《かたひじ》張って、と思われかねないが、起業家を志向していたからこそ、文華放送を辞めたのだ。初めに香榮子ありきだったかもしれないが、サラリーマンで終わるつもりはさらさらなかった。�十年にひとり�は思い過ごしだとしても、約五年間の文華放送営業局勤務で、俺以上の営業マンは存在しなかったと自他共に認めてさしつかえない——。  富岡が怪訝《けげん》な顔をし、赤津も小首をかしげたので、武田は冗談ともつかずに言い足した。 「サンポール物産が親会社を凌駕《りようが》するような会社に成長すれば、話は別ですよねぇ。そのときは社長にしてもらいます」 「まだプランゼロの割りには大きく出ましたねぇ」 「ごもっとも。ま、いまは夢を見てる段階です。だからこそ大きなことも言えるんですよ」  武田に誘われて、富岡も赤津も声をたてて笑いころげた。  笑い声がやんだところで、武田は居ずまいを正した。 「台湾の自転車メーカーはなんという会社なんですか」 「台湾穂高股※有限公司です。本社は台北、工場は台南にあります。朱向榮董事長、つまり会長ですが、なかなかの人物ですよ。創業会長です。中国の人は、仕事をやる前に人物鑑定をしますから、一度台湾に一緒に行きましょうか」 「朱会長の目矩《めがね》にかなわなかったら、台湾旅行がムダになるわけですねぇ」 「ご心配なく。武田さんなら必ず気に入られるでしょう。レターを出して、あなたの人となりを詳しく知らせておきますよ」  武田は妻子との別居も、香榮子との同棲《どうせい》もサンポールの関係者に話していなかった。このことを承知しているのは、文華放送営業局長の小柳ひとりだ。  仕事と私生活とは、別居の動機づけがどうであれ、無関係であるべきだ。そう思いながらも、やはり顔が赧《あか》らむ。 「よろしくお願いします。念を押すまでもありませんが、台湾旅行の経費は一切当方に持たせていただきます」  武田が膝《ひざ》に手を突いて低頭すると、赤津もそれにならった。 「常務、この話はきっとうまくいくような気がします。物産へ移籍して、やっと明るい気持ちになれました」  赤津が初めて口を開いた。 「うん」 「わたしも、悪くない話だと思いますよ」  富岡は自信たっぷりに言って、長椅子から腰を上げた。     3  台湾訪問は、武田にとって初めての海外旅行であった。パスポート取得などの渡航手続きを終え、台北に向けて羽田を発ったのは、十月中旬のことだ。  朱向榮董事長を始め、台湾穂高の幹部は、富岡と武田をあたたかく歓迎してくれた。総務担当の洪総経理、営業・製造担当の呉経理、財務・経理担当の簡経理の三人は、さしずめ役員ということになるが、朱を含めた四人とも、日本語が話せる世代であった。  そのせいか武田は親近感を憶え、異国に来ているという気がしなかった。  四人は、どんな質問にも答えてくれたし、工場見学もすべてオープンで、「心ゆくまでご覧ください」という態度だった。相互信頼関係を醸成するまでに、さして時間を要しなかった。 「生産設備は自前の技術によるものなのですか」  工場見学中の武田の質問に、朱は首を左右に振った。 「いいえ。山口自転車をご存じですか」 「はい。かつて日本で自転車の大手メーカーでしたが、いまは倒産して存在しないと思います」 「山口自転車の中古の生産設備を譲り受けてそれをベースに工場を建設したのです。ただわれわれなりに相当工夫改良しました」 「山口自転車の設備が台湾で……」  武田はなにがしかの感慨を憶えずにいられなかった。 「武田さんは自転車に乗れますか」 「もちろんです。しかし、部品の名称や機能についてはなんにも知りません。実用車、子供車、スポーツ車の区別くらいはつきますが。ですから、貴社の生産設備がどの程度のレベルにあるのか見当がつきません。高いのか低いのか……」  呉が一歩進み出て、きっとした顔で答えた。 「シアーズに輸出しているという実績は、当工場がいかに高いレベルにあるかを示しています。シアーズが要求してくるすべてを満たしているのですから」 「なるほど。失礼なことをお訊きしました」  武田はたじたじとなった。  朱が微笑を浮かべ、武田の肩を叩いた。 「�ハイライザー�というシアーズ向けに生産している完成車をご覧いただくとおわかりいただけると思います。日本円ですとFOB(運賃抜き)で六千円ぐらいでしょうか。サンプルとして差し上げますから、お持ち帰りください」 �ハイライザー�は、アメリカの子供車だが、武田の眼にはそうは映らなかった。  バナナ型のサドルといい、背もたれのステーといい、二〇インチの後輪の位置といい、カマキリどころではないハンドルの盛り上がりといい、驚くほどファッショナブルに見えた。  このとき武田は�ハイライザー�が子供車とは夢にも思わなかったので、日本の若者にファッションサイクルとして受けるに相違ないと確信した。  酎家《チユウチヤ》と称される酒席でもてなしを受けたが、ビジネスの話に夢中で、女性にまったく関心を示さない武田は、いっそう朱たちの信頼を得た。というより無粋者、変人と思われたかもしれない。  日本の男性で台湾に来訪して、�旅の恥はかき捨て�的な行動パターンを取らない武田のような男は例外中の例外だったのだろうか。  帰りのフライトで富岡がにやにやしながら言った。 「武田さんは女性には興味がないみたいだねぇ」 「…………」 「酎家の個室で、円卓を囲んでいるときに、チャイナドレスのホステスが入れ替わり立ち替わり、きみの両隣に集まってきたことぐらいは覚えてる?」 「そう言えばそんな気もしますけど」 「中にはふるいつきたくなるような美人もいたんだけどねぇ。さかんにきみに媚《こび》を売ってたが、きみは見向きもしなかった。お気に入りのホステスをあてがおうと、ボーイは必死になってホステスを交代させてたが、とうとう商談成立しなかった。まさかインポテンツってことはないんでしょ」 「もちろん。カミさんに聞いてくださいよ。カミさんが良すぎるから、ほかの女は眼に入らないんです」  カミさんが、香榮子であることは言うまでもないが、富岡は、むきになっている武田に噴き出した。 「富岡さんは商談成立したんですか」 「ノーコメント」 「ということは肯定したっていうことですね」 「ボーイの顔も立てないとね。彼らは、その実入《みい》りで暮らしてるような面があるからねぇ」 「食事のあとでホテルにホステスを呼び出したわけですか」  質問に答えずに、富岡が訊いた。 「こんど、台湾に行ったときはどうする?」 「カミさんを連れて行きます」  武田は真顔で言って、富岡を呆《あき》れさせた。     4 �ハイライザー�との格闘が始まった。  葛巻がいたく興味を示し、夜になるとサンポール物産に顔を出して武田と二人で�ハイライザー�をいじくり回した。 「サドルの調節機能を付ける必要がありますねぇ」 �ハイライザー�の点検中に、葛巻が言った。 「背もたれのステーに三センチごとに三つの穴をあけましょう。サドル調節レバーを付ければ、サドルの高さが調節できます」 「葛巻がメカに強いとは知らなかったなぁ」 「武田さんは、メカに強いんじゃなかったんですか」 「からっきしダメだ」 「それで、自転車の輸入、販売をやるんですか」 「富岡さんの入れ知恵なんだ」 「それは聞いてますけど、自転車に興味があったから、やろうと決めたんじゃないんですか」 「直感的に売れると思ったからだよ。セールスのほうは俺にまかせてくれ。組み立て、改良のほうは葛巻にまかせるよ」 「そうはいきませんよ。わたしはサンポール物産の社員じゃないんです。しかし、お手伝いはさせてもらいます」  葛巻が背広を脱ぎ、ネクタイを外してワイシャツの袖《そで》まくりをしたので、武田もそうせざるを得ない。  狭いオフィスの一隅で、手を油まみれにして、二人は�ハイライザー�の改良に取り組んだ。  武田は葛巻の助手に過ぎない。葛巻の指示に従って、うろうろ、ちょろちょろ動き回るだけだ。  翌日の夜も葛巻はあらわれた。 「サドルをステーに固定するネジは蝶《ちよう》ネジにしたほうがいいと思うんです。道具を使わなくてもいいわけでしょ」 「そんなこといつ考えたんだ」 「朝、歯を研《みが》いてるときにふと思いついたんです」 「寝ても覚めても�ハイライザー�か。おまえには頭が下がるよ」 「他人事《ひとごと》みたいに言わないでくださいよ。サンポール物産が生きるか死ぬかの瀬戸際じゃないですか。武田さんをスカウトしたわたしの立場もあります。�ハイライザー�が失敗したら、後はないと思ってください」  葛巻は脱いだ背広をソファに放り投げて、怒ったような顔で言った。  葛巻は鬼気迫るような気魄を漲《みなぎ》らせて�ハイライザー�の改良に取り組んだ。 「あした自転車屋で蝶ネジを買ってきてください。それからスポークを二本。ネジの大きさはメモにしてあります」  自転車をいじってるときの葛巻の手つきは、自転車店の親父《おやじ》顔負けの器用さである。武田はただただ感心するばかりだ。 「俺は英文の組立説明書の翻訳にかかりたいが、いいかなぁ」 「そんなのは昼間やってくださいよ。とにかく自転車を仕上げることが先決でしょ」 「うん」  武田は気のない返事をした。業腹《ごうはら》だが、いまは葛巻の助手に徹するしかなかった。  翌日、武田は葛巻の指示どおり自転車店に出向いた。 「こういうネジは扱ってますか」  メモを示しながら自転車店の親父に訊くと、 「ないねぇ。こんなネジが自転車屋にあるわけないだろう」と、つれない返事である。 「スポークというのはありますか」 「あるよ」 「それを二本ください」  スーツ姿の武田を親父は胡散臭《うさんくさ》そうに見上げた。 「ネジはどこに売ってますかねぇ」 「ネジ屋に決まってるだろうが……」  それでも親父はネジ屋の所在を教えてくれた。  部品を調達したあとは、組立説明書の翻訳である。  創業期なので、雑事に追われている赤津を�ハイライザー�で使うわけにはいかなかった。したがって、�ハイライザー�関係はもっぱら武田の役目である。  台湾穂高の�ハイライザー�は七分組みの輸出仕様だった。前輪、ハンドル、ブレーキ関係、ペダルなどが外されて、カートンに入っている。  セミノックダウンの�Do it yourself�方式で、和文の組立説明書を付けて売ろう、と武田は考えていた。これからのホビーライフにマッチする。運賃もこれならさほどかからない。  マーケティング・リサーチもしないで、武田は�ハイライザー�は飛ぶように売れるに相違ない、と思い込んでいた。  文華放送時代のセールスパワーがあれば、いとたやすいことだ——。  早速、台湾穂高に�ハイライザー�一千台を発注した。  輸入経費も含めて六百三十万円の資金をサンポールに用意させた。  満足すべき�ハイライザー�の改良車が仕上がるまでに一週間ほど要した。     5  仕上がった二台の�ハイライザー�を前に、葛巻が販売方法についてレクチュアを始めようとしたのは十月下旬の某夜十時を過ぎたころだ。 「葛巻、腹も減ったし、その話はあしたにしようや」  葛巻はむっとした顔で言い返した。 「ちょっと言わしてもらいますけど、自転車の仕事は武田さん、あんたの仕事なんじゃないんですか。わたしの仕事じゃないんですよ。だのにこうして組み立て、改良の仕事を手伝い、販売の方向性なり方法論について、グッドアイデアを話そうとしているのに、そんなことでいいんですか」 「わかったわかった。拝聴させてもらおうか」  武田は、葛巻の意気込みに圧倒された。  二人はソファで向かい合った。 「われわれが販売する自転車は、従来の街の自転車店で取り扱ってもらう必要はありません。自転車店は、狭い、汚い、愛想が悪い。そうは思いませんか」 「言われてみると、そんな感じもあったなぁ。子供のころ、慣れ親しんだ近所の自転車屋の親父の顔を思い出したが、決して不親切とは思わなかったけど、無愛想だった。ゴマ塩の無精髭《ぶしようひげ》を生やして、機械|油《あぶら》の臭いがする狭くて汚い店が眼に浮かぶよ。今は多少はきれいになったが、店の横や裏に積み上げられた錆《さ》びた自転車の山は、まるで死骸《しがい》のように見えた記憶がある。中古の自転車を買ったことがあるけど、自分が買いたいものより、親父さんが売りたいものを買わされたような気がするよ」 「われわれの自転車は、いま台頭しつつあるスーパーマーケットで販売しましょう。売場も広いので品揃《しなぞろ》えがしやすい、清潔で店員の教育もゆき届いてます。自転車店の場合、既存のメーカーにはかなわないので、納入価格を値切られるおそれもありますからねぇ」 「お説ごもっとも。もともと葛巻は商品企画のプロだったんだよな」 「スーパーを出身別にとらえると、食料店出と衣料店出に分別《ぶんべつ》されます。自転車は豆腐一丁売って一円の儲《もう》けっていう金銭感覚ではダメです。したがって衣料店出のスーパーに販売網を構築すべきだということになるわけです」 「うんうん、そういうことだな。スーパーはチェーン経営で、商談は本部で行なわれるから自転車店を一軒一軒回って売り込むより効率的だよねぇ」 「そのとおりです」 「スーパーは将来、発展すると思うが、そういう会社と取引できれば、貸倒れが発生する危険もないわけだ。ウチのような小さな会社が取引先の与信調査をすることは不可能だから、初めからファーストクラスのスーパーをターゲットにすべきと思うが、どうかねぇ」 「おっしゃるとおりです。長崎屋、十字屋、イトーヨーカ堂の三社と取引できたら、この事業は成功すると思います。三社の次は生協ルートと百貨店ルートを開拓することです。武田さん、できますか」 「できるさ。�十年にひとり�の俺を甘く見ないでくれ」  武田は破顔したが、すぐに表情をひきしめた。 「俺は�十年にひとり�なんて思い上がっちゃいない。葛巻がそう言ってるらしいじゃないか」 「信じて疑いません。文華放送の営業マンで武田さんほど輝いてた人はいませんよ」 「葛巻のおだてに乗るとするか。さっそく、あしたから営業活動に入るぞ」  時計を見ると、午前零時に近かった。  二人は空腹を忘れて、話し込んでいたことになる。 「高山さんが丸井の青井忠雄副社長にお会いしたらどうかって、名刺に紹介状を書いてくれたが、丸井が�ハイライザー�を扱ってくれる可能性はあるだろうか」 「あるかもしれませんが、ま、そこまで欲張る必要はないでしょう」  高山とは、東京ブラウス株式会社専務取締役の高山輝男のことだ。東京ブラウスは当時ブラウスのトップメーカーで、文華放送のクライアントであった。武田が飛び込みで開発し、知遇を得たひとりである。  文華放送退職後、真っ先に挨拶に出向いたほどだから、高山がいかに武田のよき理解者であったか察しがつく。 「電波売りからモノ売りに転身することになりました。長々お世話になり、ありがとうございました」  武田が明るい顔で挨拶すると、高山はかすかに眉《まゆ》をひそめた。 「上司とぶつかったの」 「いいえ。円満退職です。上司とぶつかったわけでもありませんし、同僚と喧嘩《けんか》したわけでもありません」  武田が小柳から二度慰留されたことを話すと、高山はひとうなずきして、名刺に�青井副社長様 武田君を御紹介致します。御話をきいていただければ幸いです。 高山�と書いて、武田に手渡した。 「丸井の青井副社長を紹介しましょう。ぜひこの人にモノの売り方、モノの考え方を教えてもらいなさい。必ずきみのためになるから」 「ありがとうございます。青井さんは早稲田の先輩でもありますから、一度お目にかかりたいと思ってました」  青井忠雄は、実父の忠治が昭和十六年に創立した月賦百貨店の丸井に昭和三十年に入社したが、社長の子息と社員に知られるのが厭《いや》で、当初は中野忠雄の変名を用いた。  昭和三十五年に副社長になるや、�駅のそば��愛情はつらつ�などのヒットCMを連打、割賦販売をクレジットと言い換え、顧客を信頼し、集金を店頭持参払いにするなど画期的な試みを成功させ、売上を大きく伸ばした。  昭和四十年には東証一部上場を果たしている。 「青井忠雄さんは遠からず社長になると思うが、数多《あまた》の二代目とは器の大きさがまったく違う。ご本人は一代半と謙遜《けんそん》してるけど、会社を変革した中興の祖と言っても褒め過ぎにはならないと思うよ」  ちなみに、青井忠雄が三十九歳の若さで丸井の社長に就任するのは翌昭和四十七年である。  高山の名刺は使用されず、記念品として武田の手元に残ったが、文華放送時代に培った人脈が�ハイライザー�の輸入、販売でも大いに役立った。  第五章 初出荷     1  まるで熱病に罹《かか》ったように、武田光司は台湾からの輸入自転車�ハイライザー�のセールスに打ち込んだ。  葛巻の熱意に触発されたのか、逆に武田の熱意が葛巻のヤル気を引き出したのか、二人で突っ走った。転ばないほうが不思議である。葛巻は、サンポール物産の親会社サンポールの社員だが、いまやどっちが本業なのか区別がつかないほど、�ハイライザー�にのめり込んで、武田も、葛巻を直属の部下のように扱っていた。  昭和四十六年当時、二人とも乗用車を所有していたが、それを下取りに出して、スバルの白いライトバンを二台購入した。むろん�ハイライザー�のセールスに使うためだ。  ライトバンは会社の仕事に必要不可欠なもので、本来会社が購入すべき筋合いのものである。自家用車を下取りに出すいわれはないのに、二人ともそんなことは考えもしなかった。 「�ハイライザー�の見本車を積むのはライトバンのほうがいいな」 「そうですね。僕はコロナをスバルのライトバンに取り替えます」 「俺《おれ》もそうする。ブルーバードを下取りに出そう」  武田と葛巻はそんなやりとりをしたが、明けても暮れても頭の中は�ハイライザー�でいっぱいだったから、そのことに疑問符をつけることなど思いもよらなかった。  武田はライトバンに�ハイライザー�の完成見本車を載せて、早朝から深夜までセールスに東奔西走した。  イトーヨーカ堂、長崎屋、十字屋、ダイエー、西友などのスーパーにセールスをかけることは、当初の方針どおりである。そして、小田急、京王、三越、高島屋などの百貨店も。  武田が小田急百貨店の地下駐車場にライトバンで乗りつけ、仕入担当の増岡と相沢を強引に駐車場に連れ出したのは、十一月上旬のことだ。  二人は三十前の平社員である。武田は文華放送時代のコネを利用して、宣伝部の担当者から紹介してもらったのだが、二人とも駐車場まで連れ出されるとは聞いていなかったので、ちょっと厭《いや》な顔をした。 「忙しくて、そんなひまはないんですけど」 「仕様書だけ見せてもらいましょう」  増岡と相沢はにべもなかった。  しかし、この程度で引き下がる武田ではない。 「とにかく、騙《だま》されたと思ってサンプルの実物を見てください。見ていただいたら、なるほどこれなら売れる、と必ず思われるはずです。きっとびっくりされますよ。こんなファッショナブルな凄《すご》い自転車があるなんてわたしも信じられないくらいなんです。眼の保養になると思って見てください。お願いします」  武田は、二人の手を引っ張るように、エレベーターホールに連れ出した。 「まったく仕事の邪魔をされて迷惑千万ですよ」 「図々しい人ですねぇ」  増岡と相沢はぶつぶつ言いながらも、地下駐車場へ来てくれた。  武田は�ハイライザー�を見てもらえればもうこっちのものだ、と思っていた。  ライトバンから�ハイライザー�を取り出して、武田はここを先途と、まくしたてた。 「世界一の百貨店、アメリカのシアーズ・ローバックで大量に売られてます。いや、シアーズで売ってるものよりずっとグレードアップされてます……」  武田は、葛巻の童顔を眼に浮かべながら話をつづけた。 「わが社のエンジニアが何日間もかけて、改良したんです。この背もたれのステーをご覧ください。サドルの高さの調節がスムーズにできるようになってます。�ハイライザー�は台湾から輸入しますが、これからは輸入車の時代だと思います。どうです。このファッショナブルなこと。お洒落なお客様の支持が得られること請け合いです。日本向けに三万台の生産枠を確保してますから、供給に支障をきたす心配はありません。修理部品は日本製で大丈夫です。小田急さんで、なんとか……」  相沢と顔を見合わせながら、増岡が武田の話をさえぎった。 「眼の保養になったとまでは思いませんけど、武田さんの熱意だけはよくわかりました。きょうのところは、このぐらいで勘弁してください」 「よろしくお願いします。また来ます」 「こっちから連絡させてもらいますよ。いきなり来られても、なんですから」 「ご苦労さまでした」  相沢はもう武田に背中を向けていた。     2  イトーヨーカ堂は、初めから手ごたえがあった。小田急百貨店では貰《もら》えなかった名刺を貰えたのである。  最初の訪問で名刺が交換できれば大成功と思わなければならない。このことは、文華放送の営業マン時代の経験則である。  武田は、サンポールの営業部門からイトーヨーカ堂商品部仕入係の青木典の名前を聞き出して、飛び込みで青木を訪ねた。  イトーヨーカ堂の本社は、麻布《あざぶ》十番にあった。三階建てのビルの二階が目指す商品部だ。  名刺を交換したあとで青木が言った。 「自転車の担当は清水です。清水を紹介しましょう」  清水勉はデスクワークを中断されて、少し不愉快そうだったが、名刺も出してくれたし、言葉遣いも丁寧だった。年齢は三十前後で、整った面立ちだ。 「一応その�ハイライザー�を見せていただきましょうか」 「完成車のサンプルはクルマの中ですが、ここへ運んでよろしいでしょうか」 「いや、下へ行きましょう」  ライトバンは路上駐車場に止めてあった。�ハイライザー�を挟んで、二人は立ち話をつづけた。 「たしかにファッショナブルな自転車ですねぇ。これは男性用ですが、女性用もあるんですか」 「はい。あります。シアーズ・ローバックで男性用も女性用もよく売れてると聞いてます。先日、台湾の自転車工場を視察してきましたが、素晴らしい工場でした。�ハイライザー�の日本のマーケットにつきましては、わたくしどもサンポール物産が独占契約を結べる手筈《てはず》になってます」 「そうですか。ただ……」  清水は言いにくそうにつづけた。 「お取引は簡単にはできないと思います」 「よく存じてます。昭和二十一年にイトーヨーカ堂さんが一号店を千住《せんじゆ》に出店されたときの営業方針として�責任ある商品をより安く�を標榜《ひようぼう》なさいました。わたくしも、まったく同感です。厳しくチェックしていただきたいと存じます」 「お断りすることもあり得ると思いますよ」  清水は初めて笑顔を見せた。  武田は二日ごとに清水に電話をかけた。清水は居留守も使わなかったし、うるさそうな感じも出さなかった。電話攻勢のうえに武田は一週間に一度、ご機嫌伺いに顔を出すようにした。  二回目に清水を訪問したとき、武田は応接室に通され、�第三ルート�なる言葉を教えられた。 「スーパーストア向けの自転車の販売ルートはまだ確立されてません。非自転車店向けの販売ルートを自転車業界では�第三ルート�と称しているようです」 「第三ルートですか。つまり蔑称《べつしよう》なんでしょうねぇ」 「おっしゃるとおりです。部品メーカー、完成車メーカー、問屋間の取引が第一ルートで、第二ルートは問屋から自転車店への販路を指します。第三ルートは、いわば裏街道的な見方がされてるんじゃないでしょうか」 「第三ルートなんて夢にも思いませんでした。しかも裏街道なんてショックです。わたくしどもは、イトーヨーカ堂さんのようなスーパーマーケットで自転車を売っていただくことが、消費者のニーズに最も適している、と考えたんですけど」  いかにも口惜しそうに下唇を噛《か》んでいる武田に、清水が微笑《ほほえ》みかけた。 「第三ルートが将来の販路として展望されていることは紛れもない事実です。しかし、いま現在は、第三ルートに手を染めて、既成の秩序を乱すのはいかがなものか、平穏な市場に波風を立てなくてもよいのではないか、とする保守的な考え方が自転車業界に根強く存在しているんです」 「そんなイロハも知らずに、わたくしどもは自転車業界に参入しようとしているわけなんですねぇ」 「第三ルートの幕開けというか黎明期《れいめいき》に、自転車の輸入、販売に乗り出すのは、勇気を要しますが、時代を先取りすることにもなるわけですから、ご立派ですよ」  武田は皮肉を言われてるような気がした。だが、台湾穂高に発注してしまったいま、もう後戻りはできない。  武田は挑むようにぐいと顎《あご》を突き出した。 「マーケティング・リサーチもせずに、ヤマ勘で�ハイライザー�は売れると確信して、イトーヨーカ堂さんをお訪ねしたのですが、イトーヨーカ堂さんは既成の秩序にこだわっていらっしゃるのでしょうか」 「そうは言いません。リスクを惧《おそ》れてたら、ビジネスはできないでしょう」 「お取引いただけますでしょうか」  武田はまっすぐ清水を見返した。  清水のほうが視線を外した。 「もう少し、お時間をください」  三度目の訪問で、武田は清水から商品部長の和多田武を紹介された。昭和四十六年十一月二十六日午前十時ごろのことだ。和多田は会議中に中座して名刺を交わし挨拶だけして引き取った。  和多田の退出後、清水がこともなげに言った。 「きょうは注文書を切りましょう」 「はっ? どういうことでしょうか」  武田は聞き違いだと思った。  わずか一か月足らずでイトーヨーカ堂が、取引に応じてくれるはずがない——。 「武田さんの熱意と�ハイライザー�に対するあなたの眼を信じて、サンポール物産さんとお取引させていただきます」  生唾《なまつば》を呑《の》み込んで、武田は口ごもりながら掠《かす》れ声を押し出した。 「あ、ありがとうございます。ご、ご恩は忘れません」  熱いものが喉《のど》もとにこみ上げてくる。 サンポール物産殿  発 行  昭和四十六年十一月二十六日  納品日  昭和四十六年十二月三日  品 名  ハイライザー自転車二〇インチ  原 価  ボーイ一〇、六四〇円、レディ一〇、六九〇円  売 価  一四、八〇〇円  納入先  二二店(川口) 二三店(平)各一〇台、計四〇台       上記品、カゴ、チェーンロック、ベル付き 完成車納品予定一部ハンドルのみ、再ロックの要あり  横書きの外注伝票(注文書)を武田は鞄《かばん》にしまって、ライトバンを品川《しながわ》の配送センターへ向けて走らせた。  交差点の信号待ちをするたびに、鞄から注文書を取り出して、眺めてはひとり悦に入った。同じ動作を何度くり返したことだろう。  うれしくてうれしくてならなかった。文華放送時代に日産自動車との取引再開を果たしたときも、ほとんど夢心地だったが、あのときよりもっともっと歓びは深いような気がする。身内がぞくぞくするほど武田は興奮していた。  信号が青になった。注文書を鞄にしまって、アクセルを踏む。信号が赤になり、ブレーキを踏んだとき、注文書がなくなってしまったような恐怖感にとらわれて、ふたたび鞄をあける。あった。 「夢ではない。心配するなって」  武田は大声でひとりごちて、声をたてて笑った。誰かに見られていたら、気がふれたと思われかねないところだ。     3  配送センターといえば聞こえはいいが、借り倉庫である。それもたった五十坪の。  葛巻が知人のつてで見つけてきたのだ。日本トラック株式会社の品川倉庫(港区港南四丁目)である。  交渉は武田が当たった。  東京支店長の遠藤光一、事務部長の阿部和夫、課長の日吉弘が交渉相手だった。 「倉庫は百坪あるようですが、半分の五十坪だけお借りするわけにはいきませんでしょうか」 「半分で足りるんですか」  遠藤がいぶかしそうに首をかしげた。 「これが無理難題であることはよく存じてますが、会社が発足して間もないため、資金が足りないんです」  見栄も外聞もなかった。親会社のサンポールから経費の節減を厳しく要求されていたのである。  頭を掻《か》きながら武田が話をつづけた。 「恥ずかしい話ですが、自家用車をライトバンに取り替えて会社に提供しているような始末です。創業期なので、みんな必死にやってます」 「仕切りがあるわけではないから、残りの五十坪をほかの会社に貸すわけにもいきませんねぇ」  阿部が遠藤の顔をうかがった。 「うん。しかし、お断りするわけにもいかんだろう」  日吉が口を挟んだ。 「貸してあげましょうよ。どうせ空いてるんですから」 「若い常務さんが一所懸命やってるようですから、わたしも日吉君の意見に賛成です」 「わかった。OKだ」  遠藤が断を下した。  台湾穂高から一千台の�ハイライザー�が入荷したのは三日前のことだ。  当初、武田と葛巻は�ハイライザー�をカートン入りのセミノックダウン方式をキャッチフレーズに販売することで意見が一致していた。しかし、イトーヨーカ堂などユーザーとの商談を通して、�完成車納品�に対するニーズが強いことがわかり、計画の変更を迫られたのである。  五台や十台ならメカに強く指先の器用な葛巻ひとりに任せられる。だが年間三万台は売ってみせようというのが、武田のもくろみであった。  葛巻ひとりで不可能ではないかもしれないが、彼はサンポール物産の立ち上がりだからこそ力を貸してくれているのだ。一年間拘束することなどできない相談である。  だいいち、映画�モダンタイムス�のチャップリンみたいに頭が変になってしまうだろう。  武田は四十台の注文書で気持ちが舞い上がったが、この組み立てだけでも大変なことに気づいていなかった。  ライトバンが借り倉庫に着く前に、武田は公衆電話から代々木八幡にあるマンションの香榮子を呼び出した。 「イトーヨーカ堂さんから四十台の注文を貰ったぞ」 「まぁ。凄いじゃない。あなた、おめでとう」  香榮子の声もうわずっていた。 「サンポール物産に電話をかけて葛巻と赤津に倉庫へ来るように伝えてくれないか」 「わかったわ。わたしもすぐ行きます。少しはお手伝いできるでしょ」 「そうしてもらうとありがたい。じゃあ頼むぞ」  午後二時ごろまでに、四人が倉庫に集まった。  葛巻と赤津に、香榮子を「女房だ」と紹介したのは、つい最近のことである。葛巻は銀座の�由多加�へ連れて行ったことがあるので、こみ入った事情を話した。 「そうですか。武田さん、やるじゃないですか。無器用な人だと思ってたんですけど」 「無器用だから、後へは引けないんだ。俺の女房は香榮子しかいない。そのつもりで頼む」 「とりあえず、おめでとうと言わせてもらいます」 「ありがとう」  そんなやりとりをしただけで、葛巻は香榮子を「奥さん」と呼んでくれた。  香榮子は、銀座のクラブママ然としていなかった。水商売臭のない不思議な女で「奥さん」で充分通った。     4  葛巻が上気した顔で武田の手を握り締めた。 「やりましたねぇ。こんなに早くイトーヨーカ堂が乗ってくれるなんて、夢にも思わなかった。これで弾《はず》みがつきますよ」 「俺も夢を見てるような、ふわふわした感じで、足が地に着かないんだ。イトーヨーカ堂さんのほうには足を向けて寝られないよ」 「とにかく四十台の組み立てを急ぎましょう。納期はいつですか」 「十二月三日だ」 「二十六、二十七、二十八……」  葛巻は指を折って数え、「八日しかないのか」とつぶやいた。  倉庫に積み上げた一千台の�ハイライザー�から四十台分の段ボール箱を抜き出して箱を開け、七分組みの�ハイライザー�を倉庫の土間や倉庫前のスペースで組み立てる作業が始まった。半分のスペースをはみ出すのは仕方がない。日吉たちはそれを黙認してくれた。  倉庫には電話が一本敷かれていた。机ひとつと椅子一脚は日本トラックで貸してもらえた。  葛巻がサンポール本社に電話を入れ、三人の部下の名前をあげて、応援を頼んだ。  ところが組立工具が二組しかないことに気づいて、葛巻自身がライトバンで買いに行った。 「バスケットが要《い》りますねぇ。白いのがいいでしょう。御徒町《おかちまち》の自転車部品問屋にありますから、金具とカゴの脚も一緒に四十個買わなければ。ライトはサンデンから直接買えると思います」  葛巻は、頼もしいほど気働きのする男だった。 「おまえはさしずめ工場長ってとこだな」 「言っときますけど、わたしが手を貸すのは四十台限りですからね。あんまり当てにしないでください」  葛巻は、冷やかした武田を睨《にら》みつけた。 「そう言うな。この借りは必ず返すから、当分工場長やってくれよ」  武田に拝まれて、葛巻は機嫌を直したが、�工場長�にも手に負えない難問が発生した。  なんと一千台のハイライザーのタイヤのすべてに�BENNY�のマークが入っているではないか。 �BENNY�は丸紅自転車の商標である。シアーズ・ローバック向けの�ハイライザー�は総合商社の丸紅が輸出していたことが、ほどなくわかった。 �BENNY�をイトーヨーカ堂が受け入れるはずがない。  サンポール物産の注文を台湾穂高が丸紅と勘違いした結果のミスである。  地団駄踏む思いで、武田が電話機に飛びつき台湾穂高に国際電話をかけた。 「呉経理を至急お願いします。東京のサンポール物産の武田です」  営業・製造担当の呉が電話に出てくるまでの三十秒ほどがどれほど長く感じられたことか。 「もしもし呉です。武田さん、お元気ですか」  悠長な呉の声に、武田はいっそう苛立《いらだ》った。 「元気ですよ。そんなことより、�BENNY�のタイヤはなんですか」 「はっ?」 「タイヤに�BENNY�のマークが入ってるんですよ」 「日本では丸紅さんが売るのと違いますか」 「当たり前でしょ。ウチは丸紅とは関係ありません。こんな自転車が売れるわけないじゃないですか」 「当方の落ち度です。さっそく、タイヤを送ります」 「大至急お願いします」  しかし、海上輸送で、十二月三日の納期に間に合うわけがない。ここでしくじったら、イトーヨーカ堂との相互信頼関係が損なわれてしまう。大ピンチだ。  武田は顔から血の気が引いていくのを自分でも意識した。  赤津も香榮子も、葛巻の部下たちも、おろおろするばかりで、倉庫の中はシーンと静まり返った。  葛巻が武田の肩を叩いた。 「人事を尽くして天命を待つ……。武田さんは放送記者で鳴らしたこともあるんでしょ。�ハイライザー�は旧山口自転車の設備を使って製造されてるんだから、�ハイライザー�用のタイヤが日本で造られていた可能性だってないわけじゃないと思いますけど。ここは取材してみる手なんじゃないんですか」 「そうか。俺にも取材能力はあったんだ。よし調べてみよう」  武田の明るい声にみんな元気を取り戻した。  一時間ほど手当たり次第に電話をかけまくって、岡本理研ゴムに�ハイライザー�用のタイヤがストックされてる事実に突き当たった。  翌日、朝一番で、武田は現金を都合して、文京区本郷の岡本理研ゴム本社へ向けて、ライトバンを走らせた。  即金なので思ったより割安でタイヤを調達できた。  群馬県太田市の工場までタイヤを引き取りに行ったのも武田である。  倉庫係の鹿野がライトバンの助手席にまで束になったタイヤを押し込んでくれた。全部で二百本。百台分である。  タイヤ特有の臭気にむせかえりながら、武田はアクセルを目いっぱい踏み続けた。  午後三時から葛巻の指揮でタイヤ取り替え作業が再開された。  葛巻以外は組み立てさえも碌々《ろくろく》できないのに、まずチューブを傷《いた》めないようにタイヤレバーで、タイヤを外さなければならない。  そして、岡本理研ゴムのタイヤを嵌《は》め替える。単純な作業だが、チューブを傷つけないために、丁寧に慎重に取り扱わなければならないので、時間はいくらあっても足りなかった。  武田も葛巻も赤津も、そして香榮子までが店を休んで黙々とタイヤ取り替えの作業に励んだ。  見かねた日本トラックの日吉たちまでが手伝ってくれた。  トラックターミナルは二十四時間勤務態勢がとられている。気がつくと仮眠をとっていた運転手までが一人、二人、三人と、作業の中に加わっていた。武田は日吉たちに何度頭を下げたかわからない。 「仕事が終わったら、俺たちが使ってる風呂《ふろ》に入って帰れや」  人のよさそうな中年の運転手に声をかけられたとき、武田は目頭が熱くなった。  夜十時を過ぎたころ、四十台分のタイヤ取り替え作業が終了した。  ところが、十一月二十八日からの組み立て作業はもっと難航した。クレームを付け出したらきりがないほど、ひどかった。  ハンドルバーを固定するためにネジを締めても、バーが固定しない。グリップを握って体重をかけると簡単に動いてしまう。  チェーンとギヤーの音鳴り。ギヤーを前へ回転する場合は許容範囲だが、逆回転するとチェーンが外れてしまう。ギヤー板が波打っているせいである。  フリーホイールの動きも滑らかではない。あとでわかったことだが、ベアリングの質以前の問題として個数の不足が発見された。  フレームの傷も認められた。  さらに始末におえないのは、溶接の不良である。  前輪のキャリパーブレーキのアーチをはね上げるバネの焼き入れが甘いため、キャリパーの動きが悪い。ブレーキのインナーワイヤーがブレーキを掛けると伸びてしまうので、終始、調節しなければならなかった。  あたかも素人《しろうと》集団を愚弄《ぐろう》するかのように、次から次へと難問が襲いかかってくる。 「ひどいもんだ。こんな程度で、ほんとうにシアーズ・ローバック向けに量産してるんだろうか。われわれは台湾穂高にだまされてるんじゃないでしょうね」  葛巻が疲労の滲《にじ》んだ顔を武田に向けて訴えかけたが、深い絶望と遣《や》り場のない怒りにさいなまれているのは武田のほうだった。  武田が台湾穂高に国際電話をかけたのは、一度や二度ではなかった。電話料金の嵩《かさ》み方もひどいことになった。  台湾穂高の反応は暖簾《のれん》に腕押しどころではなかった。  たとえばブレーキの問題にしてもこんなふうなのだ。 「前ブレーキがダメでも後が生きてれば自転車は止まります。問題ないですよ」  ふざけるな! と怒鳴りたいところだが、武田は懸命に抑えた。  習慣の違い、考え方の差で済まされる問題ではない。武田は怒りで涙がこぼれた。  それでも納入日前日の深夜に、�ハイライザー�四十台の組み立てが完了した。新車二十台を犠牲にして。     5  時計の針が午前零時を回り、十二月三日を迎えた。  トラックターミナルの周囲は静かだが、ターミナルの構内全体を数基のライトが照らし出し、時折、遠距離トラックの発着が見受けられた。  自転車倉庫の前だけが騒然としていた。  顔や手を真っ黒にした武田や葛巻たちの吐く息が白い。だが、気が張っているので寒さはまったく感じなかった。日本トラックの運転手たちも十人ほど集まっている。  イトーヨーカ堂|平《たいら》店と川口店に、ロングボディ二トン車で�ハイライザー�を配送する手筈だが、自転車をどう積み込むか、誰にもわからなかったのだ。  自転車を積んだり降ろしたり、タテに並べたり横に倒したり、いろいろやってみたが、傷をつけずに運ぶ手段が見出せない。  積載効率などには考えも及ばなかった。 「七分組み自転車が入ってたパッキングケースの段ボールをこわして、パッキングにしたらどうだろうか」  武田が知恵を絞り出すまでに小一時間も要した。 「なんでもっと早く気づいてくれないんですか」 「葛巻が考えることだろうや」 「喧嘩はあとにしなさい。とにかく急いで」  日吉が笑いながら割って入った。  ロングボディの二トン車に、平積みだと十台しか積めなかった。 「四トンを持ってこいや」  日吉が運転手に言いつける。二トン車が片づけられ、四トン車が倉庫前に横づけされた。 �ハイライザー�は不定型商品の極めつけである。ハンドルが高々とせり上がったペダル付きの自転車をトラックにどう積み込むのか運転手たちも興味|津々《しんしん》とみえ、深夜の見物人は二十人ほどに増えていた。 「傷つけたら大変だから、仮眠所のマットレスを使ったらどうだろうか」  誰かが言い出し、日吉の指示で、たちまち二十一枚のマットレスが運び込まれてきた。  二十台の自転車と同じ位の塊だ。  マットレスを横にして、荷台の運転席側に立てかける。自転車を一台積む。マットレス、自転車、マットレス、自転車……。  中身が自転車の巨大なサンドイッチが、たちまち四トン車を一杯にした。シートをかけて、やっと発車オーライだ。  武田から伝票を手渡された若い運転手が、帽子を脱いで頭を下げた。 「行ってきます」 「よろしくお願いします」  武田は心をこめて、最敬礼した。  排気音を残して平店へ向かったトラックに対して、武田がふたたび深々と頭を下げた。葛巻も赤津も、葛巻の部下たちも武田にならって一斉にお辞儀した。  川口店向けの荷積みは同じ要領なので、すぐに終わった。 「日吉さん、ありがとうございました。皆さん、ほんとうにありがとうございました」 「ありがとうございました」  葛巻たちも武田につづいて挨拶した。  日吉が武田の手を取って言った。 「あんたたちみたいに一所懸命やる人たちは必ずうまくいくからね。頑張ってください」 「ありがとうございます」  武田は声を詰まらせて、日吉の手を固く握り返した。  三日の早朝、武田は川口店へ、赤津は平店へ品川駅から国鉄電車で直行した。  川口店にはすでにトラックが到着していた。  二階の玩具売場のエスカレーター側に自転車売場のスペースが五坪ほど用意されていたのをこの眼で確認したとき、武田はこの八日間の苦労が報いられたような晴れ晴れした気持ちになった。 �ボーイ��レディ�の二種類の�ハイライザー�をエレベーターで運んで、色別に並べているとき、店長の久保が顔を出して、ねぎらいの言葉をかけてくれた。 「ご苦労さまです」 「サンポール物産の武田です。よろしくお願いします。一所懸命やらせていただきます」  自分でもびっくりするような大きな声だった。 「元気でけっこうですねぇ」  久保の笑顔は武田の印象に強く残った。  第六章 社長兼トラック運転手……     1 「ちょっと話したいことがあるんですが……」  いつもと違う硬い声で葛巻が武田に電話をかけてきたのは、昭和四十六年十二月三日にイトーヨーカ堂へ�ハイライザー�を納入した直後である。十二月上旬某日夕刻のことだ。 「混み入ったことなので電話じゃなんですから、帝国ホテルのロビーで会いましょうか。いま六時ですから、七時でどうでしょう」 「ふうーん。そんな深刻なことなのか」 「ええ、まあ。じゃあ七時に」  電話が切れたあと、武田は思案顔で腕組みした。一千台の�ハイライザー�をなんとしても売り捌《さば》かなければならない。  箸《はし》にも棒にもかからない不良品が百台はあると考えられるので、実際には九百台前後だが、一千台分を台湾穂高に前払いしている関係で、どっちみち赤字は覚悟しなければならないところだ。  しかし、赤字幅を縮小するためにもセールスに全力投球しなければ……。武田の頭の中は�ハイライザー�のセールスのことで一杯だった。  さいわいイトーヨーカ堂への納入が呼び水になって、ほかのスーパーやデパートも取引に応じる気配なので、売り切る自信はあるが、それにしても親会社のサンポールは少なからぬ損害を被《こうむ》ることになる。葛巻の話が良い話でないことだけは、電話の様子でも察しがついた。だが、どの程度悪い話なのかわからないので、武田はいらいらしながら何度も腕時計に眼を落とした。 「常務、葛巻さんの電話はなんでした?」  赤津が恐る恐る話しかけてきた。  葛巻の電話を取ったのは赤津である。 「電話で話せるようなことじゃないそうだ。葛巻と七時に帝国ホテルのロビーで落ち合うことにしたが、松野社長がなにか言ってきたのかねえ」 「わたしも同席したほうがよろしいでしょうか」 「いや。その必要はない。葛巻の話の内容はあした伝える。きみは帰っていいよ」 「わかりました。それじゃあお先に失礼させていただきます」  赤津の退社後、ほどなく武田も神田錦町の事務所を出た。せっかちな武田は二十分前に帝国ホテルのロビーに着いた。  葛巻は七時五分前にあらわれた。  ラウンジでコーヒーを飲みながら、葛巻が切り出した。 「結論から言いますが、サンポール物産を解散させたいというのが松野社長の方針です」  武田はショックで、口に運びかけたコーヒーカップを落としそうになった。カップをソーサーに戻すとき手がふるえ、コーヒーがこぼれ、カップがカタカタ音を立てた。 「�ハイライザー�は、言ってみればテスト販売の段階で、すべてはこれからだと思うけどねえ。テストランの失敗もゆるさないっていうほど松野社長は狭量なのか」  武田の声もふるえていた。 「そういうことじゃないんですよ。先見の明のなさを社長は自ら恥じてましたが、要するに脱トイレタリー路線が間違ってたということなんです。プロクター&ギャンブルが日本に上陸してくることに危機感をもってるんです。本業のトイレタリーをおろそかにしたら、サンポールは融けて消えてしまう。この際、本業に力を入れるためにも、サンポール物産は解散したほうが得策だと考えたわけです」  武田はコップを握り締めて、一気に水を喉に流し込んだ。身内のふるえがまだ止まらなかった。 「社長は、サンポール物産は俺にまかせてくれたんじゃないのか。本業をおろそかにしてるなんてことはないだろうや」 「しかし、サンポール物産が存在する限り無関心ではいられないでしょう。テストランの失敗がまったく応《こた》えていないとも思えないけど、社長は本業専一でいきたいんですよ。とにかくオーナー社長が結論を出したんですから、さからえません。従うしかないと思います」  武田は葛巻を強く見返した。 「俺も、わずかとはいえ出資している。結論を出す前に嘘《うそ》でも俺の意見を聞くのが筋と思うがねぇ」 「その点は、おっしゃるとおりです。わたしからもお詫《わ》びします……」  葛巻は膝に手を突いて、低頭した。 「おまえに頭を下げられたくらいでは俺の気持ちは収まらんよ。とにかく社長と話してみる」  葛巻が切なそうに顔をしかめた。 「武田さんのスカウトを松野社長に進言したのはこのわたしです。昨夜、社長と五時間ほど話したんですが、武田さんが社長と会っても答えは変わらないと思うんです。お互い気まずい思いをするだけでしょう。ここは堪《こら》えていただけませんか」 「葛巻の言ってることはまったく理不尽だよ。株主として、俺にも発言する権利はあるんじゃないのか」 「それもおっしゃるとおりです。ただねぇ、社長の気持ちもわかるんですよ。わたしは武田さんの気持ちを代弁したつもりですけど、社長は武田さんに申し訳ない気持ちでいっぱいです。ですからお詫びのしるしに出資金の百万円は全額お返しすると言ってました。社長の意のあるところを汲《く》んでやってください。サンポール物産の解散は長時間話して出した結論です。わたしも、それで了解しました。了解せざるを得なかったというべきかもしれませんけど」  二分ほどむっとした顔で口をつぐんでいた武田が口を開いた。 「釈然としないが、押し返すことはできんのだろうなぁ。ただ、�ハイライザー�を売らなければならない。問題は戦後処理だ」 「実は、松野の意を受けて、きょう扶桑産業の富岡社長と話をつけました。出過ぎていることについては謝りますが、台湾穂高の話を持ち込んできた富岡さんにも責任の一端はあるわけだから、富岡さんにふっても問題はないと思うんです」 「話をつけたってどうつけたんだ」  武田は声を荒らげた。  視線がこっちに集まってくるのを意識して、葛巻は上半身を武田のほうへ寄せて声をひそめた。 「武田さんと赤津に扶桑産業へ移籍してもらうということです」 「お、おまえ、俺の了解も得ずに、よ、よくもそんな……」  武田は怒り心頭に発して口ごもった。 「申し訳ありません。もちろん、武田さんの了解が得られればの話です。しかし、松野とわたしがない知恵をしぼってひねり出しただけのことはあるんじゃないでしょうか。これ以上の名案はないような気がするんですけどねぇ」  葛巻の落ち着き払ったもの言いに、武田はいっそう苛立《いらだ》った。 「断る。冗談じゃねぇよ。俺をなんだと思ってるんだ」 「だから出過ぎたって初めから謝ってるじゃないですか。富岡さんと話してください。結果は変わらないと思いますけど」 「ちょこざいな。俺の知らない所で、そんな話にまで進行してたとは、呆れてものも言えんよ」 「そんなに怒らないでくださいよ。発案者は松野社長なんですから」 「でも、おまえも賛成したんだろ」 「ええ。だって、武田さんをスカウトした責任を痛感してる立場としては、松野社長の相談にも乗らなければならないし、善後策を真剣に考えなければならんわけですから、しょうがないじゃないですか」 「なにがしょうがないだ。それはそうと、サンポール物産がなくなっちゃったら、葛巻はどうなるんだ。おまえはサンポールの社員なんだか、サンポール物産の社員なんだかわからない、へんてこな身分だものなあ」 「ご心配なく、わたしは広友社をまかされることになりました。というよりサンポールから居抜きで広友社を買い取ることにしたんです。ほとんど只《ただ》同然だから、わたしの負担は知れてますよ」  広友社は小さな広告代理店で、赤坂二丁目の雑居ビルにオフィスがある。  武田は皮肉たっぷりに言い放った。 「なるほど。葛巻は要領がいいよ。どさくさに紛れて広告エージェンシーの社長に収まったってわけか」  葛巻がきっとした顔で、武田を見返した。 「そんな厭味《いやみ》を言われる憶えはないんですけどねぇ。だいたい、武田さんは広友社の役員でもあるんですよ」 「俺は並び大名に過ぎんよ」 「冗談よしてください。わたしが�ハイライザー�の工場長などとおだてられて身を粉にして働いたことを忘れたわけじゃないでしょ。せいぜい武田さんには、そのお返しをしてもらわなくちゃ」  翌日、武田は松野にも、富岡にも面会したが、やはり結果は変わらなかった。 「武田君、きみの顔を見るのが辛《つら》くてねぇ。ほんと、ただただ不明を恥じ入るばかりだよ」  松野から最敬礼されて、それでおしまいだった。  富岡に至っては、「扶桑産業でひと花咲かせてもらいましょうか」と、涼しい顔で言ってのけた。     2  武田と赤津の扶桑産業勤務期間は六か月余りに過ぎなかった。  昭和四十七年七月十七日付で、ホダカ物産が設立されたからだ。潜在的に独立志向が強かったが、武田の営業力で販売先が次々に開拓されていくのに伴って増加される運転資金を個人で調達するよう富岡に要求されたことが新会社設立の動機づけになった。  資本金は三百五十万円。武田が六十万円、香榮子が九十万円出資し、葛巻を含めた六人の友人たちが三十万円ずつ、そして赤津が二十万円出資した。  二十坪ほどしかない広友社のオフィスの一角に、武田と赤津の机と椅子を二つずつ置かせてもらい、電話機一台のなんとも見すぼらしい事務所だった。つまり、武田は社長だが、社員は赤津ひとりということになる。  電話番も、葛巻に頼み込んで広友社事務員の大森美津子にまかせた。 「おんぶにだっこだが、しばらく厄介かけるからな」 「どうぞどうぞ。遠慮しないで、いつまででも使ってください」 「そう見くびるなよ。こんな狭くて汚いところに長居できるか」  武田は葛巻を呼びすてにし、葛巻はサンづけで、大家より店子《たなこ》のほうが威張っている不思議な関係に、広友社の社員は首をかしげた。しかし、慣れてくると、それが当たり前になってしまう。 �ハイライザー�は扶桑産業時代にほとんど捌《さば》けたが、台湾穂高との取引は一回、千台の発注で終わった。  しかも、百台ぐらいと思っていた不良品が三百台も出る始末で、さんざんな目にあった。  訪日した朱向榮董事長がこのことを確認して、武田に損害賠償を請求してけっこうだ、と申し出てきた。  台湾穂高は日本の銀行に隠し預金を保有しているらしい。  だが、武田はそれを辞退した。 「台湾穂高とのご縁が、僕の気持ちを自転車に向かわせ、痛い目にあったのに自転車へのこだわりをずっと持ち続けている。これからも、自転車とのつきあいが切れることはないでしょう。ペナルティを要求する気にはなれません。お気持ちだけいただいておきます」  武田は鷹揚《おうよう》なところを見せ、そんなふうに朱向榮に話したが、かくべつ無理をしているとは思わなかった。  社名をホダカ物産にしたことにも、そんな武田の思いが出ている。 �ハイライザー�が縁で、友達づきあいをするようになった長崎屋のバイヤー、榎並恵介が自転車メーカーを紹介してくれるなどなにかと相談に乗ってくれた。  武田がかつて文華放送の記者だったことに関心を持ったことと、同世代の誼《よし》みもあって榎並は実に親切だった。 「ジャーナリストから自転車の卸し業に転じるとは、武田さんもずいぶん変わった人ですねぇ。でも�ハイライザー�はいけません。見てくれはいいけど、台湾製の自転車が日本で通用するはずはないですよ」 「でも、アメリカのシアーズ・ローバックで量販されてるんですけどねぇ」 「アメリカ人はきっと大まかなんでしょう。日本人の感性にはとてもじゃないけど馴染《なじ》まないと思います。安かろう、悪かろうじゃダメなんです」  武田は反論できなかった。台湾製自転車の品質の悪さは致命的だった。  車体の溶接が不完全なので、乗車中にパイプが抜けてしまう事故が頻発した。  サドルの上げ下げがスムーズにいかない。  シートポストというサドルの下のパイプを車体のパイプに突っ込んでボルトを締め、上下調節をするが、車体のパイプの内側に溶接したときのハンダのかす(バリ)が残って付着しているため、シートポストが入らない等々、数え上げたらきりがないほど欠陥だらけだった。クレームの続出に武田たちは泣かされていたのである。 「武田さんは今後も自転車の卸し業を続けるつもりですか」 「そう願ってます。後へは引けません。国内にわたしのような者と取引してくれる自転車メーカーはあるでしょうか」 「完成車メーカーは自転車店に気兼ねしてるので、無理だと思いますが、問屋型のメーカーなら、取引に応じてくれるような気がしますけど」 「問屋型メーカーといいますと……」  榎並は呆れ顔を斜めに倒した。  そんなことも知らないのか、と言いたいらしい。 「完成車メーカーはフレームは自家製です。フレームも外注してるのが問屋型メーカーです」 「榎並さんがご存じの問屋型メーカーを紹介していただけませんか」 「そうねぇ……」  榎並は五秒ほど考えてから、膝を打った。 「堺《さかい》の藤原自転車なら乗ってくれるかもしれない。ちょっと待ってください。電話を入れてみましょう」  仕切りだけの簡易応接室から退出した榎並は五分ほどで戻ってきた。 「OKです。藤原自転車の本社工場の所在地と電話をメモしてきました。社長に直接、連絡してください。武田さんはナイスガイだって褒め千切っておきましたよ」 「ありがとうございます」  榎並はよほど高く武田を売り込んでくれたのだろう。藤原自転車との取引は呆気《あつけ》ないほどあっさり決まった。  創業期のホダカ物産は口座らしい口座もなかったので、スーパーなどから売り子付きの委託販売を強《し》いられるという屈辱的な扱いを受けなければならなかった。  前夜、自転車を積み込んだトラックの運転手も武田がやらなければならない。社長兼セールスマン兼運転手兼組み立て作業員である。  ときには便所掃除もやる雑用係にもなった。  武田がトラック運転手のときは、助手席に香榮子が座らされた。  スーパーなどの店頭で、武田と香榮子と二人で自転車を下ろし、香榮子を売り子に付けるのだ。  店の責任者に挨拶して、武田は次の店にトラックを走らせる。そこに、赤津が待機している。  赤津も売り子をやらざるを得なかったのだ。  香榮子は夕方五時になると、その日の売上を納品書に記して提出する。 「どうもありがとうございました。残りの自転車は後で会社の者が引き取りに参ります」  香榮子は店の者に言い置いて、代々木八幡のマンションに帰る。  入浴し、武田の夜の食事をつくり、自分もそそくさと食事を摂って、化粧をし、手早く着物を着る。自転車の売り子から、銀座のママへの化身は、手際よく見事なものだ。  食卓のメモ用紙に、武田への伝言を書く。 『冷蔵庫にブリの切身が入っています。かるくお醤油《しようゆ》につけてありますから、ちょっと焼けばいいでしょう。お味噌汁《みそしる》の具、きょう話していたシジミがなくてごめんなさい。あしたは必ず魚屋さんに行ってきます。今夜はお店が終わったあとで、新しく入った女の子と少し話をしますから、帰宅は一時ごろになります。先におやすみください。 香榮子』  食事を摂りながら、武田はもう一度メモを読んだ。 『好物のブリおいしかった。元気|溌剌《はつらつ》、勇気|凜々《りんりん》です。おやすみなさい。 光司』  セールスに忙殺され、倉庫へ戻る時間が遅くなって、自転車の積み込み作業が夜十一時近くになることがある。そんなとき、武田は�由多加�に電話をかける。 「いま積み込み作業が終わったところだ。いつもの場所で待ってるから」  武田は数寄屋橋公園の近くにトラックを止めて、香榮子を待った。  午後十一時四十五分前後になると、着物の裾《すそ》を風にめくり上げられながら、香榮子が小走りにトラックに近づいてくる。  武田は助手席のドアをあけて、香榮子を引っ張り上げた。  香榮子は身ぶるいして、手をこすった。 「おおおっ寒い」 「今夜は冷え込みが厳しいなぁ」  香榮子のほっぺたが、しもやけのように赤く染まっているのを見て、武田はたまらなくいとおしくなった。  香榮子が出がけに用意した食事を食べ終え、入浴して床に着くと、二時を回っている。  あくびまじりに武田が言った。 「あした群馬のほうへ行かなきゃなんないんだけど、きみ一緒に行ってもらえるか」 「いいわよ。家を何時に出るの」 「七時には出ないと」 「そう。じゃあ六時に起きないとねぇ」  香榮子は目覚まし時計を仕掛けて布団《ふとん》の中にもぐり込んだ。二人とも疲労|困憊《こんぱい》だったので、あっという間に眠りに就いた。  トラックの運転中に、居眠りが出そうになる武田を助手席から揺さぶり続けるのも、香榮子の役目だ。 「あなた、どうぞ」 「なんだ、それ」 「コーヒーよ。ブラックで濃いめに淹《い》れてあるから、眠けざましになるでしょ」  香榮子は、魔法瓶のコーヒーをプラスチック製の容器に移して、武田に手渡した。  武田はスピードを落として、熱いコーヒーをすすった。 「こいつはありがたいな。眠けも取れるし、躰《からだ》もあたたまってくる」  目的地に着くまでに、武田は何度もコーヒーを飲んだ。  二段積みのトラックの最上段から武田がハンドルのグリップを握って思いきり腕を伸ばして、下の香榮子に自転車を渡す。香榮子は下りパイプと縦パイプをつかんで、自転車を地べたに下ろす。六十回同じ動作を繰り返すのだから、上から渡すほうも下で受けるほうも、握力の感覚がなくなり、足腰が痛くなるほどきつい作業である。  昼間はトラックの荷下ろし作業、夜はクラブのママ、そして休日は帳簿付けと、日夜を分かたずこき使われても、香榮子は弱音を吐いたことは一度としてなかった。  むろん武田も休日返上でセールスに励んだ。赤津もずいぶん頑張ったし、葛巻も大森美津子も厭な顔をせずに手伝ってくれたが、ホダカ物産の創業一期目の決算は、約二百万円の赤字に終わった。  台湾製自転車の処分費が嵩《かさ》んだことが響いたのである。  武田の給料はゼロ。赤津の給料は�由多加�から引き出した。武田と香榮子の生活費も、市川の家族への送金も、すべて出処は�由多加�である。  二十五日に送金をうっかり忘れようものなら、きんきんした声で和子がマンションに電話をかけてくる。 「おカネはどうなってるの」 「必ずきょう送金するよ。光太郎と憲二郎元気にしてるか。そこにいるんなら替わってくれないか」 「家族の生活費を忘れるような薄情者に子供と話す資格なんてないわ」 「仕事が忙しくて、つい忘れただけじゃないか。一日遅れたくらいで、ぎゃあぎゃあ喚《わめ》くなよ」  ガチャンと電話が切れた。 「ふざけやがって!」  武田は電話機に受話器を叩きつけた。  香榮子がおろおろ声で言った。 「わたしがうっかりしてたのよ。市川への送金は、わたしがやるようにします。あなたは忙し過ぎるのよ」 「忙しいのはお互いさまだよ。いや、きみのほうがよっぽど忙しいんじゃないのか」 「でも、わたしがします」  香榮子は、これに懲《こ》りてカレンダーに印を付けた。送金に神経質過ぎると思えるほど気を遣うようになったのである。  のみならず、武田名で子供たちにセーターやシャツを贈るなど細々《こまごま》とした心遣いをみせた。     3  トラック助手やら、売り子の仕事が増え、�由多加�のママが重荷になって、いつしか�由多加�はマネージャーまかせになりがちになっていた。  ママ不在のクラブから客足が遠のくのは仕方がない。  香榮子が身籠《みごも》ったことを、武田は天の配剤と考えた。  昭和四十八年秋ごろ、武田は�由多加�を手放そうと心に決めた。 「妊娠五か月で、そろそろ隠し切れないんじゃないかねぇ」  武田は遅い夜食のあとで、やんわりと切り出した。 「まだ大丈夫よ。お店で誰にも気づかれてないわ」 「�由多加�は香榮子が手塩にかけて育てた店だから、僕には発言権はないけど、そろそろ潮時だと思うんだ」 「そうかなぁ。つわりのひどいときに手を抜いたし、ホダカが忙しくなって、サボることが多くなったから、ここのところ売上が落ちてるけど、�由多加�をたたんでしまって、わたしたちやっていけるかしら」 「創業期の難局を乗り切れたのも、市川の子供たちを飢え死にさせずに済んだのも�由多加�つまり香榮子のお陰だ。しかし、ホダカの見通しがついたいまは�由多加�の役割は終わったと考えていいんじゃないのか。きみは働き過ぎた。生まれてくる子供のためにも、もうちょっと楽をしてもいいと思うよ。�由多加�はいい店だから居抜きで売れると思う。勿体《もつたい》ないと思わないでもないけど、いつまでも僕を髪結いの亭主にしておかないでもらいたいな」 「わかったわ。あなたにおまかせします」 �由多加�の買い値は五百七十五万円だったが、売り値は九百四十万円だった。銀座の平山不動産が即金で買い上げてくれたのである。  代々木八幡のマンションも七百五十万円で処分して、千葉県の原木中山《ばらきなかやま》に六十坪の土地を購入した。坪当たり三十万円なので、一千八百万円だ。  上ものは実母セキの保証で、新小岩の関口工務店が請け負ってくれた。 「雨露がしのげれば充分です。おカネがないので、思いきり安普請でお願いします」  武田は冗談半分に言ったが、実際、出来上がった店舗兼用住宅は、断熱材も使われていないため、夏は暑く冬は寒くて、住み心地の悪さといったらなかった。  香榮子とのことを打ち明けたとき、顔色を変えて「おまえの顔は二度と見たくない」と、きつい言葉を投げつけたセキは、武田から香榮子を一方的に引き合わされた。初めのうちはけんもほろろの態度を変えなかったが、何度か会ううちに香榮子の人柄に理解を示し、勘気を解いていた。 「ちりめんじゃこを食べなくちゃダメよ。それと牛乳もたくさん飲むのよ」  セキは香榮子の妊娠を複雑な気持ちで聞いたが喜びのほうが強く、「女の子だといいねぇ」などと言って、香榮子を安心させた。 「原木中山だと、市川に近くなったけど、光太郎と憲二郎にたまには会ってるの」 「はい。日曜日にときどき。お母さんに叱《しか》られるから、友達の家に遊びに行ったと話してるようです。帰るときは、時間を変えて別々にしてます。お子たちに気を遣わせて、ほんとうに申し訳なくて」 「和子はきついからねえ。かしこい人だけど。あんたみたいにもうちょっと優しいといいんだけど。可愛げがないよ。憲二郎が小学生になったとき、もの入りだろうと思って、少しまとまったお金を送ったんだけど、うんでもすんでもない。ハガキ一枚ぐらい寄こしてもバチは当たらないと思うんだけど。坊主憎けりゃ袈裟《けさ》までもって言うけど、光司の母親のわたしも憎いのかねぇ」  セキは香榮子の気を引いているというよりも、つい本音を出してしまったように見受けられた。  武田のいない所で、香榮子はセキと対話ができるまでになっていたのである。     4  妊娠八か月目に入ったある日、荷下ろしの作業中に、香榮子がうめき声を発して、うずくまった。 「どうしたんだ。おい、しっかりしろ」  武田はトラックから降りて、香榮子の背中をさすったが、香榮子は下腹部の激痛に脂汗を流し、「お腹の調子がおかしいの」とふりしぼるように声を押し出した。  武田は、スバルのライトバンに香榮子を乗せて、お茶の水の浜田病院に走らせた。  緊急入院した日の夜、香榮子は出産した。  消え入るようなか細い泣き声を二度聞いたが、早生児はすぐに息を引き取った。女児であった。  ひと晩、香榮子は涙にくれた。 「これでおしまいってことはない。こんど産まれてくる子はきっと元気だと思うよ」 「もう産めないかもしれないわ」  香榮子の不安は的中し、以後、身籠ることはなかった。  女児は先年他界した祖父、金司と同じ墓に埋葬された。  前後するが、退院の日に、武田は香榮子の機嫌をとって、シバ犬を買い与えた。  香榮子はつねづね犬を飼いたいと言っていた。罪滅ぼしにそれを叶《かな》えてやったのである。  香榮子は心身ともに立ち直りが早く、退院した翌日から働き始めた。仕事に身を入れることによって、死んだ子供のことを忘れたかったのかもしれない。  ホダカ物産は原木中山の事務所の一画にショールームと称して、自転車を置き、一部直売を行なっていたが、ショールームはもっぱら香榮子が担当した。  問屋が自転車を直売することはいかがなものか、と誰しも思うところだ。  だからこそ表向きはショールームで通したのだが、付近一帯の人たちのニーズが強かったので、武田は店頭販売に踏み切らざるを得なかったのである。  香榮子は、いつしかパンクなど自転車修理を手がけるまでになっていた。 「自転車店の店員になれるなぁ」 「なれるじゃなくて、もうなってますよ。きょうなんか五台もパンク修理をやらされたわ」  セールスから戻った武田は、手を油だらけにしている香榮子とそんなやりとりをしたこともある。  第七章 �待てば海路の日和《ひより》有り�     1  ホダカ物産は、昭和四十八年二月、埼玉県川口市に自転車の組立工場兼配送センターを設置、そして四十九年三月には組立工場を分離し、配送センターを拡張した。  売上高は四十八年、四十九年ともに前年比三倍増が続いた。イトーヨーカ堂を主力に、長崎屋、十字屋などとの取引を本格化させた武田のセールス・パワーもさることながら、仕入先の藤原自転車の支援に負うところも少なくなかった。  藤原自転車は堺《さかい》に本社工場を有する中堅自転車メーカーである。堺は、鉄砲|鍛冶《かじ》の技術が連綿と受け継がれた工場街として知られている。鉄砲の筒の焼き入れ、加工の技術が鉄砲製造の衰退後は刃物と自転車製造に分化して、地場産業としてこの地に根づいた。  藤原自転車の社長、藤原敬三は、京都大学経済学部出身の二代目経営者で、年齢は武田より、六、七歳年長と思えた。  読書家で、話し好きの藤原は、対手《あいて》の顔色を読むことに長《た》けている関西商人臭はまったくなかった。昭和四十七年の春ごろ、武田は長崎屋仕入担当の榎並から藤原を紹介されたが、初対面のときの場面を折りに触れて思い出す。  台湾製自転車の輸入販売で痛い目にあい、先行きの見通しが立たない苦境にあったときだけに、藤原との出会いは武田にとって、�地獄に仏�は大袈裟としても、拝みたくなるほどありがたかった。 「榎並さんが武田さんのことを若いのに立派な経営者だと褒《ほ》めてましたが、ジャーナリストから自転車業界へ転身したそうですけど、その動機はなんですか。この業界で生まれて、この業界で育つのが、自転車業界の常識ですから、えらい人がいてると感心したり、驚いたりです」  藤原は言いにくそうに伏眼がちにつづけた。 「文華放送いうたら、大阪人のわたしでも知っている名門の放送局です。しかも、武田さんは文華放送で大変活躍したそうじゃないですか。どうして文華放送を辞めて、この業界にお入りになったのか不思議です」  なにか不始末でもやらかしたのではないのか、と言いたげな藤原の顔である。 「わたしは電波ジャーナリズムの将来性に懐疑的でした。新聞記者になりたかったんですが、全部不合格で、新聞記者に対するコンプレックスが強くて、文華放送でも放送記者としては落第生だったんです。営業に移って多少は芽が出ましたけれど、十年経ったら自分でなにか仕事をしたいとつねづね考えておりました」 「文華放送の営業マンで、武田さんの右に出る人はいてなかったそうですねぇ。放送局が武田さんを慰留しないという法はないと思いますが」 「二度慰留され、三度目に辞表を受理されました。わたしを可愛がってくれた小柳という営業局長にずいぶん嘆かれましたが、わたしの固い決意を最後は理解してもらえたんだと思います。そう言えば退職の挨拶状に対する励ましやら冷やかしやらの返事をたくさんもらいましたが、菅原さんという常務からいただいた葉書を額に入れて壁に掲げてあります。苦しいときの心の支えになるからです。きょうも、家を出るときに読んできましたが、なにかこう勇気が湧《わ》いてくるような心のこもった文面なんです」 「どういう内容なんですか。さしつかえなければ……」 「はい。�新天地を求めて縦横の活躍に入った由、大賀の至り、君は社長たることに宿命を背負った男だ。もっと大成すると信じている。頭がよくてユーモアがあって、根性が据わっており、適当にズルく、適当に押しが強く、しかも根本に誠意がある。存分にやってくれ。始めはわが為に、やがて社会公共の為に。武田光司は男でござる�……」  さすがの武田も気恥ずかしくて、声が小さかった。  武田がはにかんだような笑顔を浮かべて言った。 「�頭がよくて�はお世辞が過ぎます。菅原さんは�頭は悪いが�と書きたかったんだと思います」 「なるほど。苦しいときの心の支えねぇ。よくわかります。ところで自転車とはどういうご縁ですか」 「自転車とのつきあいは偶然なんです……」  武田はかいつまんで、台湾穂高との取引から今日に至る経緯を打ち明けてから、ひたと藤原の眼をとらえた。 「わたしは自分の得手、不得手、自分の適、不適の見極めの道具として自転車と、とことんつきあう決心です。自転車とのつきあいは運命と思うしかありません」 「そうですか。ようわかりました」  藤原は笑顔を見せたが、すぐに表情をひきしめた。 「武田さんは第三ルートという言葉をご存じですか」 「はい。存じております。卸からスーパーなどの量販店へ売る販路を軽蔑《けいべつ》をこめて第三ルートと称しているようですが、これからはこの第三ルートが急速に伸びていくんじゃないでしょうか。わたしはそう確信してます」 「おっしゃるとおりかもしれません。ただ、実力のある大企業でしたら、多少指弾されても押し切れるでしょうけど、ウチのような中堅メーカーにとっては、ホダカ物産との業務提携はきわめてリスキイです。釈迦《しやか》に説法とは思いますが、自転車は大雑把《おおざつぱ》に言うと三十六の部品で成り立ってます。一部品、一部品の寄せ集めで完成車メーカーが存在しているわけです。ウチの会社は完成車メーカーの地位をなんとか確保できるところまできましたが、ホダカ物産さんに製品を供給することは、業界の秩序破壊者と見做《みな》されて、部品の供給をストップされかねません。しかし、第三ルートには関心があります。アメリカのシアーズ・ローバックやKマートなどの実績から見ましても、専門店と量販店は、商品グレードによって棲《す》み分けが可能でしょう。それ以上に、わたしも武田さんが大成すると信じたいと思います。これは一案ですが、藤原自転車が直接、ホダカ物産さんにお取引するのではなく、別の会社を通して、つまりワンクッション置くかたちでお取引するということも考えられるんじゃないでしょうか。姑息《こそく》というか、なんやすっきりしませんけど、とりあえず、そんなやり方でどうでしょうか」 「ありがとうございます。断られてもともとですのに、ご理解を賜り、こんなうれしいことはありません」  こうして、ホダカ物産と藤原自転車の取引が始まった。     2  麻布十番のイトーヨーカ堂本部へ、武田は週に一度か二度顔を出していた。ホダカ物産最大の取引先だから、それも当然である。  昭和四十七、四十八年ごろのイトーヨーカ堂営業部門は衣料品、食料品、住居関連の三事業部制が採られ、自転車の取り扱いは住居関連事業部のハードライン部であった。  昭和四十八年四月にハードライン部の部長に森田茂文が就任した。身長百八十センチ以上の偉丈夫で、髪を短く刈り上げた眼光の鋭い男だった。年齢は四十三歳。躰全体からあり余るエネルギーを発散し、部長席に座っているだけで威風あたりを払うほどの威圧感があった。  中央大学野球部のエースとして鳴らしたと武田は誰かに聞いた憶《おぼ》えがある。スーパーバック会社の営業マンとしてイトーヨーカ堂に出入りしていた森田は、伊藤雅俊社長の目矩《めがね》にかない、イトーヨーカ堂にスカウトされたという。  武田は森田と名刺を交わし、挨拶したが、話をしたのはそのとき一度だけで、ハードライン部長は雲の上の人に近い存在だった。  自転車の仕入担当が清水から片岡良雄に交代していたので、もっぱら片岡が武田の相手をしてくれた。  その年の六月ころのことだ。  本部を訪問した武田に奥のほうから森田が眼を投げてきた。しかも、森田は手招きしている。  武田は背後を振り返った。誰もいなかった。  森田が、今度は右手の人差し指を突き出して、「あなたあなた、あなたですよ」と呼んでいる。  武田は身の竦《すく》む思いで、森田の前に立った。 「おはようございます。部長、わたしになにか」 「まあ座ってください」  森田は、デスクの横の椅子を手で示した。 「ホダカ物産は武田さんが創業したの」 「はい。昨年の七月に会社をつくりました」 「そう。文華放送のトップセールスマンって聞いたけど、なんで自転車の問屋を始めたの」  最後の「の」のトーンがちょっと上がるのが特徴だ。見かけによらず、声は優しかった。武田は近寄り難いと思っていた森田に、初めて親近感を覚えた。  藤原自転車の藤原社長に訊《き》かれたばかりである。文華放送からの転身は、やはり不可解に映るらしい。 「紹介してくださる人がいて、台湾製の自転車を取り扱ったのですが、品質が悪くてダメでした。日本の自転車に切り換えまして、量販ルート専門で出直したばかりです。わたしはまだ素人《しろうと》ですけれど、量販ルートはこれからの自転車の流通ルートとして必ず成長すると思います。さしたる経験もなしに生意気と思われるかもしれませんが、そう確信してます。精いっぱい頑張りたいと思います」  話しているうちに、熱が入り、武田は上半身をデスクに乗り出していた。 「よくわかりました。これからハードライン部はカー用品、スポーツ用品、自転車の三部門を伸ばしていこうと考えてます。カー用品は日丸産業さんが主力、スポーツ用品はリージェントさん、自転車はホダカ物産さんがメインです。自分は必ずこの三部門を伸ばしますから、武田さん、随《つ》いてきてください」  武田は胸がドキドキした。  日丸産業は、トヨタ自販の創業者で、販売の神様と謳《うた》われた神谷正太郎のハウスカンパニーで、カー用品業界の名門企業である。年商三百億円は下るまい。  また、リージェントは阪神タイガースの名投手、村山実が創業したスポーツ用具会社である。  神谷正太郎といい村山実といい、いわゆる名士である。それにひきかえわがホダカ物産は、吹けば飛ぶような零細企業で、武田は社長とは名ばかりのセールスマンに過ぎない。 「森田部長はホダカ物産を育ててくださるとおっしゃるんですか」 「あなたは見どころがある。きっと大成するんじゃないかな。イトーヨーカ堂の厳しい要求を満たしてもらえるでしょう」 「その点は自信があります」  武田は大きく出た。藤原自転車の裏付けがなければ、こうは言えない。藤原自転車と業務提携した矢先に、イトーヨーカ堂の責任者から眼をかけられたのである。ツイている、と武田は胸をふるわせながらそう思った。 「頑張ってください」 「ありがとうございます。頑張ります」  武田は最敬礼して、森田のデスクを離れて、片岡の席に移動した。  片岡も野球選手だった。法政二高時代に遊撃手として甲子園の土を踏んでいる。年齢は武田より二歳下である。ちょっとお洒落《しやれ》で気のいい男だ。 「片岡さん、いま森田部長からえらいことを言われました」 「三社を重点的に三部門の柱にするということでしょう」 「そうなんです。日丸産業とリージェントはわかりますけど、ホダカ物産を入れていただく理由がわかりません。こんなことでいいんでしょうか」 「いいんじゃないですか。森田さんはやると言ったらやる人です。振り落とされないようにお互い頑張りましょうよ」  片岡も、武田の実力とヤル気を評価してくれていたのである。     3  イトーヨーカ堂がホダカ物産の自転車を全面的に取り扱うようになって、ホダカ物産の売上高は急カーブを描いて上昇した。  スーパーなどの大型店は大きな前カゴの付いた自転車を量販することによって、来客に便利な足を提供することにもなるのだから、いわば一石二鳥である。  藤原自転車がホダカ物産の実績を評価し、ほどなく、直取引にしたいと提案してきた。のみならず、藤原は、思いがけない電話をかけてきて、武田を喜ばせた。 「運転資金のやりくりがきついのと違いますか」 「おっしゃるとおりです。わずか三百五十万円の資本金ですから。あり体《てい》を申しますと、毎日が綱渡りの連続です」 「運転資金を現物の形でお出ししましょう。三千万円までということで、どうですか」  武田は、生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ。藤原の声が神の声に聞こえた。  受話器を持つ掌《て》が汗ばんでいる。武田は受話器を左手に持ち替えて、掠《かす》れ声を押し出した。 「願ってもないことですが、わたしどもにとりましてあんまり話がうま過ぎるような気がしますが」 「どうしてですか。自転車を売っていただくわけですから、ウチの会社にも充分メリットはあります。武田さんを信用して、与信枠をひろげるというだけのことですよ」  藤原はこともなげに言った。 「お受けしてよろしいんですか」 「もちろんです」 「ほんとうにそれでよろしければ、ファーストクラスの販売ルートを思い切って開拓できます」 「その意気でお願いします」  話は決まった。  武田は藤原の好意に報いるためには、あるいは藤原を裏切らないためには支払いをきちっとすることだと考えた。 「二段の抽斗《ひきだし》の付いた銭箱を探してくれないか」 「いまのケースではいけないの」  香榮子は怪訝《けげん》な顔で反問した。 「うん。藤原自転車の専用ケースがいるんだ。売上入金があったら、上の抽斗に仕入分を入れるんだ。下の抽斗は儲け分を入れる。仕入分が一定額になったら、支払い日に関係なく藤原自転車に送金しよう。藤原さんとの相互信頼関係を損なわないためにも、こうするのがいちばんだと思うんだ」 「わかったわ」  香榮子は、さっそく二段の抽斗のついたケースを買い求めてきた。  昭和四十九年七月下旬の某日、武田は藤原自転車本社工場に藤原を訪問した。 「暑いときに堺までわざわざお越しいただいて、なにごとですか」 「藤原社長に折り入ってお願いしたいことがありまして……」  武田は会釈して、すすめられるままに応接室のソファに腰をおろした。 「お陰さまで社業もすこぶる順調です。社員も相当増えました。これも藤原自転車さんのバックアップがあったからこそです。しかしながら、仕入先が藤原自転車さん一社だけでは、社の発展にも限りがあります。お得意先の売場の品揃《しなぞろ》えも求められております。大恩ある藤原社長には申し訳ないと思いますが、この際、仕入先を複数にしたいと存じまして、了承方をお願いに参上した次第です。増え続ける社員を食べさせていくためにも、お得意先のニーズに応えるためにも、三社ないし四社の仕入態勢にしたいと考えているのですが、いかがでしょうか」  藤原は思案顔で頬《ほお》をさすった。  武田はこわばった顔で言った。 「藤原社長の了承がいただけなければ、この話はなかったことにします」 「武田さん、なにをおっしゃいますか。わたしはものごとの道理はわきまえているつもりです。複数仕入による品揃えは当然じゃないですか。時代の要請に応えるのは経営者の務めですよ。電話一本で済む話なのに、わざわざお運びいただいて恐縮です。お申し入れの件、承知しました」  藤原はにこやかに話している。厭味《いやみ》のひとつも言いたいところだろうに……。  武田は藤原の度量の大きさに感服した。     4  昭和四十九年夏から、ホダカ物産は町田市のダイワサイクルとの取引を開始した。  ダイワサイクル株式会社は宮田工業の下請けで、フレームが主力だった。ホダカ物産は、藤原自転車以外に堺筋からの仕入れが二社増えていたが、関東のメーカーとの取引は初めてである。  室伸之社長のほうから武田にアプローチしてきたのだ。宮田工業の下請けに甘んじていることを潔《いさぎよ》しとしない室は、脱宮田工業を経営の基本方針とし、完成車メーカーとして一本立ちすることを狙《ねら》っていた。  しかし、脱フレーム、脱宮田工業を旗幟鮮明《きしせんめい》にすることによって、宮田工業を中心とする完成車メーカーとの取引が先細りになるのは当然の帰結である。  ダイワサイクルはフレームの販売不振と完成車のための部品在庫の増加などによって経営難に陥った。  ダイワサイクルの良質な完成車について、藤原自転車などの問屋型自転車の原価を下まわる価格を提示されて、ホダカ物産は次第にダイワサイクルへのシフトを強めてゆく。  昭和四十九年秋のそんなある日、武田と香榮子は室夫妻に誘われて、成田山新勝寺に参詣したことがあった。  室夫妻の成田詣では年に三度も四度もあるらしいが、武田と香榮子は初めてだった。  旧本堂|脇《わき》に易者がずらりと店びらきしていたが、その中によく当たる易者がいるという。 「武田さん、観《み》てもらいましょうよ」 「当たるも八卦《はつけ》、当たらぬも八卦でしょう。遊び心で、観てもらいましょうか」  武田は、室にすすめられるままに中年の易者の前に立った。  姓名、年齢を訊かれ、易者は天眼鏡で武田の顔をまじまじと凝視した。武田は睨みつけるように易者を見返す。次は手相だ。  易者は咳払《せきばら》いをひとつして、おごそかにのたまった。 「二つのことを申し上げる。ひとつは、あなたの卦は�待てば海路の日和《ひより》有り�と出ました。ものごとに対して根気よくやれば万事うまくいきます。もうひとつは、あなたの運勢にはいつも目上の人か、社会的に地位のある人か、ともかくあなたを引き上げよう、引き上げようとしてくれる人が必ず周囲にいます。結構な運の持ち主ですね」  武田は、遊び半分とはいえ、易者のご託宣に悪い気はしなかった。それどころかなにやら壮快な気分だ。  室のほうの卦は「八方ふさがり」とさんざんだった。  帰宅してから、武田が香榮子に明るい顔で言った。 「大学時代は飯島衛教授と松枝夫人にお世話になった。文華放送に入社してからはやんちゃ坊主の俺を小柳さんがあたたかく育ててくれた。きみに何度も話してるけど、小柳さんがいなかったら、僕はもっと早く文華放送を飛び出していて、きみとの縁もなかったかもしれない。文華放送時代、岡本太郎画伯に可愛《かわい》がられた話もしたよねぇ。それと最近では藤原社長と森田部長……。あの易者、相当いい線いってるぜ」 「ほんとう。あなたは、いつも引き上げてくれる先輩が必ず周囲にいるのよねぇ。あなたを見ていると人と人の出会いの素晴らしさを感じるわ」  香榮子のしみじみとしたもの言いに、武田はいっそう気持ちが和《なご》んだ。     5  ホダカ物産の売上高は昭和五十二年度約二十億円、五十三年度約三十億円、五十四年度約三十八億円、五十五年度約四十三億円と順調に推移した。  この間、昭和五十二年五月には川口東本郷配送センター(土地二百十二坪、建屋百六十九坪)を買収し、組立工場を整備、また同年十二月には川口工場に自転車組立自動ライン二基を設置するなど設備投資を意欲的に進めた。  武田が藤原自転車倒産の悲報に接したのは昭和五十五年、十月三十一日の夕刻のことだ。  武田は翌朝、新幹線の一番で大阪・天下茶屋の藤原宅に急行した。  憔悴《しようすい》し切った藤原の表情には、武田の顔を見て、ホッとした思いが出ている。 「武田さんに合わせる顔がありません。不幸中の幸い言うんでしょうか、ウチの会社の倒産にホダカ物産さんを巻き込まずに済んだのはなによりでした。あのときわたしが欲をかいて、武田さんの申し出を蹴《け》っていたら、大変な迷惑をかけてました。品揃えなら藤原一社でできると言いたいのを堪《こら》えたんです」  藤原は自嘲《じちよう》気味に話をつなげた。 「武田さんは先見の明があります。藤原自転車に危《あやう》いものを感じてたのと違いますか」 「とんでもない。複数購買を切り出すのは、ほんとうに辛かったんです。誰《だれ》のお陰で今日があるのか、生意気言うなと一喝されても仕方がないと思ってましたから」 「わたしは経営者失格です。そのへんの二代目と変わるところがありませんよ」 「お尋ねしにくいのですが、倒産の原因はどういうことですか」 「ジャパンフレームというフレーム製造会社に手形保証してたんです。あの会社があれほどひどい乱脈経営をしているとは夢にも思いませんでした。連鎖倒産というやつです。融資手形の関係で二社のやりくりが大変でした。やっと解放されて、なんや知らんが、サバサバした心境です。われながら不思議ですが」  武田は言葉を失った。いまの藤原に慰める言葉はない。 「女房の故郷《さと》が東京なので、残務整理が終わったら東京へ行こうかと女房と話してます。堺の人たちに迷惑をかけましたので、大阪にはおれません」 「上京されたら必ず連絡してください。いままでお世話になった万分の一でもお返しできれば、うれしいのですが」 「おおきに。ホダカ物産さんと藤原自転車の関係は、まったくイーブンでしたから、お世話した憶えはありませんけど、お世辞でもそんなふうに言うていただいて胸がいっぱいです」 「お世辞だなんて、そんな……。名刺に自宅の住所と電話を書いておきます。千葉県の原木中山というところですが、会社と自宅は同じ場所にあります。どちらでもけっこうです。上京する前に必ず電話をかけてください。お待ちしてます」     6  年が明けた昭和五十六年三月中旬の某日、藤原から武田に電話がかかった。  挨拶《あいさつ》のあとで武田が急《せ》き込むような調子で訊いた。 「いまどちらですか」 「平和島にいてます。手頃《てごろ》なマンションがありましたので、一週間前に引っ越してきました。会社を整理し、天下茶屋の家も処分して東京の外れに中古のマンションを買うカネが手もとに残りました」  武田は少しがっかりした。というより水くさいというところだろうか。マンションの購入にしても相談に乗れたかもしれない。 「それでお仕事のほうは……」 「わたしのようなロートルを雇ってくれるところはありませんよ」 「いかがでしょう。当社に来ていただくことは考えられませんか。わたしは藤原さんに教えていただくことがたくさんあると思ってます」  返事はなかった。藤原は気を悪くしたのだろうか。 「もしもし……」  武田が呼びかけると、藤原のくぐもった声が返ってきた。 「思いもよらないことで、びっくりしてます。でも、武田さん、本気ですか。無理をしてるのと違いますか」 「無理なんかしてません。ホダカ物産は藤原さんを必要としてるんです。家内も大賛成です」  武田が声高に返すと、藤原は「奥さんまで……」と言って、ふたたび絶句した。  藤原は四月一日付でホダカ物産に入社した。  武田は経営企画室長の肩書を与え、藤原を遇した。  藤原は従業員就業規則、退職金規程、定年制度など総務関係の整備に力を尽くし、期待を裏切ることはなかったが、丸二年経った昭和五十八年三月、突然、辞表を提出し、武田を驚かせた。 「ずいぶん唐突ですね。なにか不満でもありますか」 「いいえ。よくしていただいて感謝してます。大学時代の友人から仕事を手伝って欲しいと頼まれまして。経理を見てくれということですが、上場も考えているようなので、肩入れしてやろうと思います。勝手をして申し訳ありませんが、どうか受理してください」 「そうですか。熟慮されたうえのことなら仕方がないと思います」  武田は敢えて慰留しなかった。  役員たちが、藤原に反発していることを薄々感じていた。藤原は歯に衣《きぬ》着せず言いたいことは言うほうだが、時として役員たちの勘にさわることもあったのだろう。 「会社を壊した人物がエラそうなことを言っている」 「社長の威光を笠《かさ》に着て、図に乗っている」  そんなふうに見られかねない面が藤原にあったかもしれない。  藤原にホダカ物産の水が合わなかったと思うしかない、と武田は諦《あきら》めた。  ところが藤原は、昭和五十九年の賀状に「世間知らずの自分に嫌気がさしています」と書いてきた。  武田は胸がざわついて仕方がなかった。それで藤原宅に電話をかけた。 「おめでとうございます。元旦早々どうかと思ったのですが、どうにも気になったものですから。新しい会社はどうですか」 「それが入社前の話と、入社後の話が余りにも違い過ぎるので、友人と喧嘩《けんか》して半年ほどで辞めました。お恥ずかしい限りですが、浪々の身です」 「それならまた当社に戻ってください。役員たちにはわたしからよく話します」 「わたしのほうが大人気《おとなげ》なかったのです。しかし、また武田社長のお世話になるのは気が引けます。いくらなんでも厚かましいですよ」 「多少きまりが悪いことはわかりますが、ちょっとの辛抱ですよ」  武田の強い慫慂《しようよう》で、藤原はホダカ物産に再入社した。  藤原は人が変わったように静かで、発言を控えることが多かった。針の筵《むしろ》ほどではないにしても、出戻りの居心地がよかろうはずはない。  藤原が立案し決定した五十五歳定年制に則《のつと》って、藤原は定年第一号で退職した。  復職後わずか一年半ほどで藤原は定年を迎えたのだ。  役員に引き上げるのは、社内情勢上、無理がある。  嘱託という手がある——。武田がそれとなく藤原の胸中を打診したところ、「お気持ちだけいただいておきます」と、藤原は固辞した。 「出たり入ったり、わたしのようなはんちくな者が、二度も勤めさせていただいただけでも大満足です。それに定年制はわたしがつくったようなものです。これ以上わがままを言うつもりはありません」  退職後、藤原は友人の経営する人材斡旋会社に再就職した、と葉書で知らせてきた。 「好きな読書の時間も多く、のんびりやっています」と書いてあるのを読んで、武田はいくらかホッとした。  第八章 ヨーカ堂と共に     1  ホダカ物産にとってイトーヨーカ堂は最大の取引先で、同社だけで売上高のシェアが八五パーセントを占めたこともあるほどだが、イトーヨーカ堂との間に一触即発の緊張関係が生じたことが一再ならずあった。  昭和四十九年春、イトーヨーカ堂は神奈川県藤沢駅前に四十七番目の店をオープンした。  藤沢に出店を先行していたダイエーとの間に熾烈《しれつ》な�藤沢戦争�を展開したのである。  卵、豆腐、味の素、カルピス、砂糖などの食料品が三十分刻みで値下げされたほどだから推して知るべしだ。敵より一円でも安く、というわけだ。  五千万円の売上高のコストが六千万円と噂《うわさ》された。  開店協賛メーカーの納入価格をもってしても二割の赤字である。通常の納入価格で計算したら、相当な出血になっていたに相違ない。両者が面目をかけて、消費者の味方はウチだと主張して、ぶつかりあい、激突し、一歩も引かなかったのだから、まさに�藤沢戦争�である。  自転車も開店の目玉商品のひとつになっていた。このため、通常価格よりかなり安価で納入させられることを覚悟し、武田は藤原自転車に事情を話して、完成車を五百台仕入れた。  当時、イトーヨーカ堂の自転車担当バイヤーは清水で、片岡はサブであったが、清水はいくら待っても、ホダカ物産に発注してこなかった。  ホダカ物産のライバルである同業他社に、清水が発注していたことをイトーヨーカ堂藤沢店の開店当日に武田は思い知らされることになる。  武田は、吉田康宏という若手の社員を伴って藤沢店へ販売応援で駆けつけた。  他社の自転車を販売するために手伝わされる身の切なさ、やりきれなさ、といったらない。  藤沢店に限らず、開店時に販売応援で人を出すのは、イトーヨーカ堂出入り業者の責務であった。 「いらっしゃいませ」  武田はいつもどおり明るくふるまい、大声を張り上げて、来客と応対した。顔で笑って心で哭《な》いていたのである。  用意された自転車はたちまち売り切れ、他社の社員が追加発注をニコニコ顔で受けているのを尻目《しりめ》に、武田はほんとうに泣きたくなった。創業間もない苦しい時代に仕入れた五百台の資金回収のことを考えただけでも、気が変になりそうだ。  数時間後納入された自転車の追加分は、半製品で、売り物にならなかった。  ハンドル、カゴ、ライトが組み立てられていないばかりか、ブレーキも未調整だった。  当該業者の担当員は蒼白《そうはく》な顔面に冷や汗をしたたらせながら、完成車にするための作業に懸命に取り組んでいるが、焦りが焦りを生んで、手のほうがスムーズに動かなかった。  見かねて吉田が手を貸した。つられて武田も組み立て作業に参加した。吉田らしい、という思いと、いまいましいという思いが交錯したが、武田は吉田の優しさに与《くみ》した。  しかし、苛立《いらだ》った客が自転車売場にあふれ、収拾がつかない状態に陥った。 「どうしたんだ! この騒ぎは! ヨーカ堂は完成している自転車をバイイングしてるんじゃないのか!」  見回りにやってきた森田部長の怒声に、清水も片岡もおろおろうろたえるばかりだ。  納入業者の担当員はその場を逃げ出したくなったことだろう。  武田は、「ウチに五百台の完成車があります」と、言い出したいのを必死に堪《こら》えた。  清水に対して、意趣返しをするチャンスでもある。だが、清水の面目は丸潰《まるつぶ》れで、責任問題に発展しかねない。 「清水、なんとかしろ! 問題点の究明はあとだ」  森田は言い置いて立ち去ったが、「なんとかしろ」と言われても、清水に打つ手はなかった。 「完成車で納入してもらえないの」 「申し訳ありません。在庫がないんです」  清水と担当員の話を聞いてから、武田は清水の肩を叩《たた》いた。 「清水さん、ちょっと」  清水はおびえたような眼で武田を見上げた。 「ホダカ物産は、清水さんから当然発注があると思ってましたから、五百台の完成車を仕入れました。どうか、ホダカの自転車を買ってください。お願いします」 「ありがとう。すべて納入してください。武田さんの言い値でけっこうです」 「そんな。足もとを見るような真似はできません。特別納入価格でけっこうです。在庫にならなくて助かりますよ」 「助かるのはわたしのほうですよ。恩に着ます」  武田は、イトーヨーカ堂に、あるいは清水に対して貸しを作ったかたちで、五百台の自転車を処分することができた。     2  この年九月に、武田は八千台もの大量仕入れを実行した。イトーヨーカ堂の新規出店は続いていたし、一件落着後、ホダカ物産を自転車仕入れのメーンに位置づけてくれたので、なんとでもなる、と考えたのだ。大量仕入れは仕入れコストが割安になるので、利益も少なくない。  ところが十月に入って、土曜、日曜が三週連続大雨に見舞われた。このころの自転車売場は店内にもあったが、ほとんどは店頭である。店の外だから、人通りの多い場所とも言えた。  閉店後の夜間は店内に自転車を仕舞うか、外に放置したままシートをかぶせておく。雨の日もシートをかぶせるが、雨中にシートを外すことはできないので、売れ行きが激減するのもやむを得ない。  イトーヨーカ堂は、ホダカ物産と取引を開始して以来、�月末締め切り、翌月二十日現金振り込み�の支払い条件を遵守してくれていたので、二十五日の社員給与や支払い手形の決済ができる仕組みになっていた。  十月は四週目の土、日も雨に祟《たた》られた。  危機感を募らせた武田は四週目から取引先の銀行回りを始めた。  しかし、銀行の窓口から色よい返事がなかった。担保がないのだから仕方がない。  ただ、某都銀の支店長から思いがけないサジェスションが得られた。 「武田さん、担保主義は銀行の論理ですから、どうしようもありませんが、一部上場会社の正式な注文書があれば担保の替わりになりますよ。そういうことが可能なら、お考えになったらいかがでしょう」 「ありがとうございます。なんとかなると思いますので、さっそくトライしてみます」  武田はイトーヨーカ堂の本部に森田を訪ねた。この日も降雨だった。  思い詰めたような深刻な顔の武田に、森田は、怪訝《けげん》そうに訊いた。 「社長、どうしたの。そんな浮かぬ顔をして」 「この長雨で売り上げが伸びないので、十一月の資金繰りに四苦八苦してます。不渡りを出したらおしまいですが、そうならないとも限りません」 「そらぁ深刻ですねぇ」 「それで森田部長にお知恵をお借りしたいと思いまして」 「そういう問題だと、僕には荷が勝ち過ぎるなぁ。なんせ進め進めの営業一筋で、こみ入ったソロバン勘定のほうはからっきしダメだからねぇ」 「実はさる銀行の支店長が、ヨーカ堂さんの正式な注文書があれば資金を出すと約束してくれました。お願いします」  武田は土下座まではしなかったが、森田のデスクに頭がぶつかるほど低くお辞儀をした。  数秒ほど経って、武田が顔を上げると、森田はにこっと笑いかけた。 「わかりました。いまだに自分で注文書を切ったことがないので、片岡に話しておきます。ほかならぬ武田さんの頼みとあらば、片岡もノーとは言わんでしょう」  二日後、片岡から電話がかかった。 「十一月中に厚木の配送センターから五千台の注文書を出します。部長も初めてだって言ってましたが、わたしもこんなことは初めての経験ですよ」 「ありがとうございます。これで危機を脱却できます。森田部長にくれぐれもよろしくお伝えください」  武田の声は弾《はず》んでいた。心も浮き立つ。人間なんて現金なものだ。この一週間ほど浮き足だって、社員にも不機嫌な態度を見せていた武田が、明るい表情を取り戻し、滞留在庫の処分を冷静に進めるようになっていた。  長崎屋、十字屋……。納入先はイトーヨーカ堂一社ではない。  武田は猛烈なセールスに取り組み始め、次々に売り込み先を確保していった。  十一月に入って、ヨーカ堂本部に顔を出すと、森田に手招きされた。 「厚木の配送センターにまだ納入されていないみたいだけど、どうなってるの」  武田は咄嗟《とつさ》の返事に窮した。いくらなんでも他社に売れました、とは言えない。 「一所懸命やってます」  訳のわからない台詞《せりふ》を吐いて、武田は退散した。  もっとも、納期は遅れたが、当然のことながら五千台の自転車は厚木配送センターに納入された。     3  昭和五十一年九月に小田急百貨店が町田店をオープンしたとき、ホダカ物産は開店の目玉品として一六インチの子供用自転車を百台納入した。  当時、百貨店はメーカー物の自転車を定価の一〇パーセントないし五パーセント引きで販売することが常識だった。  小田急百貨店の新宿店はこうした枠を超えて、催事場に約一千台もの自転車をいろんなメーカーから仕入れて、年一回�サイクルフェア�と銘打ち、大々的なディスカウントセールスを実施して、デパート界の耳目を集めていた。  その延長線上で都心を離れた町田で�サイクルフェア�を実施したのだから、反響は小さくなかった。  いまでこそ業態の垣根は崩れ、定価を無視した玩具の乱売などに象徴される�オールディスカウントストア化�は珍しくもないが、昭和五十一年当時はまだ百貨店とスーパーの棲み分けが画然としていた時代である。  小田急沿線の町田、相模原《さがみはら》、相武台をはじめ、大和《やまと》、橋本、希望ケ丘などにイトーヨーカ堂は次々に大型店を出店、いわば同社の支配地域である神奈川エリアに小田急百貨店が楔《くさび》を打ち込むかたちで町田店を開設したことになる。  ホダカ物産が納入した子供用自転車は、チラシで大きく扱われた目玉商品だったので、イトーヨーカ堂関係者の眼に留まらぬはずがなかった。  イトーヨーカ堂は、町田店、相模原店をリニューアルして、小田急の町田店を迎え撃つ態勢を整えるなど相当神経質になっていた。  悪いことに住まいが相模原だった森田が、新聞に折り込まれたくだんのチラシを手にしたからたまらない。  武田は、川口の配送センターに詰めていることが多かったが、プレハブ小屋の事務所の電話が鳴ったのは九月三日金曜日の朝八時を過ぎたころだ。  電話に出たのは武田だった。 「社長! すぐ本部に来てくれ」  それだけで、ガチャンと電話が切れた。  武田は胸騒ぎを覚えた。いつもの丁寧な口調ではなかった。  当時、イトーヨーカ堂の本部は、麻布十番から千代田区の三番町に移転していた。  武田は取るものも取りあえず、三番町に向かった。道すがら、あれこれ考えたが森田の不機嫌の理由が思い当たらなかった。 「おはようございます」  武田は明るい顔で、広いフロアの中央窓際にある森田のデスクに近づいた。  森田は無言でデスクの前の応接セットを険のある眼で示した。 「失礼します」  武田はソファに腰をおろした。  森田は武田の前にどかっと巨体を落とすなり、浴びせかけた。 「社長、いったいどういうつもりだ!」 「なんでしょうか」 「これだよ」  森田はしわくちゃのチラシを放り投げた。 「小田急町田の目玉に、子供車が入ってるじゃないの」 「えっ」  武田は絶句した。  森田が胴間声でたたみかけた。 「ただちに全部引き上げてもらおうか。用件はそれだけだ!」  言いざま、森田はソファを起《た》ち、部屋から出て行った。  片岡がこっちを見ている。視線がぶつかった。  こっちへ来い、と片岡の眼が言っている。武田は打ちひしがれた気分で、ソファから片岡のデスクへ移動した。 「社長、なんてことをしてくれたんですか。おたくがヨーカ堂の顔を平手で叩くというか神経を逆撫《さかな》でするっていうか、まさかこんなひどい仕打ちをするなんて、夢にも思いませんでしたよ」  武田はショックで、言葉が出てこなかった。 「わたしも朝っぱらから部長にカミナリ落とされて、参りました。�おまえ知らなかったのか�って、怒鳴られっぱなしですよ。わたしの身にもなってください。とにかく自転車は引き上げてもらいましょう。それ以外に部長の怒りを鎮める手はないと思います」  片岡から突き放すように言われて、武田はすごすごとイトーヨーカ堂を後にした。  帰りの電車の中で、武田は不覚にも落涙した。  年商十六億円の会社も、三十人余の社員の命運もこれで尽きた。多角化路線、一社集中打破の路線が挫折《ざせつ》したのである。イトーヨーカ堂から取引停止を通告されたら、ホダカ物産は倒産あるのみだ。  自殺したい心境だった。  川口配送センターでは、きょうも社員たちが汗水流して奮闘していた。自分の判断ミスで、彼らを路頭に迷わせる結果をまねいてしまったのだ。  森田の容赦のない果断ぶりは、足掛け四年になるつきあいで身に沁《し》みてわかっていた。小田急町田店から子供用自転車を引き上げない限り、どういう結果をもたらすか、はっきりしている。  しかし、一度納入した商品を引き上げることなどできない相談だ。  武田がプレハブ事務所で眠れぬ夜を過ごした翌朝九時前に、片岡が突然やってきた。 「おはようございます。こんなに早くどうしたんですか」  腫《は》れぼったい眼を左手でこすりながら、武田は右手で片岡にソファをすすめた。 「森田がちょっと様子を見てこいと……。ところで昨日の森田の提案はどうでしょうか」 「きのうからずっと考えてるんですが……」 「とにかく、午後一時に本部へ来てくれませんか。森田がもう一度話したいと言ってます」 「承知しました」  片岡は、茶も飲まずに帰った。  ゼロ回答で臨まなければならない武田は、森田の顔を見るのが辛かった。 「わたしの判断が誤ってました。申し訳ありません。わずか百台なら許されると甘く考えていたわたしが莫迦《ばか》でした。圧倒的にパワーのあるイトーヨーカ堂さんにとって、小田急町田店は敵ではないと思ってましたし、百貨店の将来にわたしは悲観的でした。ですから、取るに足らないことだと勘違いしていたのです」 「新宿店なら文句は言えない。しかし、町田店となると、そうはいかん。上のほうも相当ナーバスになってるしねえ。台数の問題ではないんだ。道義にもとると、わたしは思うが」 「おっしゃるとおりです。ヨーカ堂さんのお陰でこれまでになれ、また今日までやってこれたことを忘れたことはありません。感謝してます。ヨーカ堂さんのその時代、その時代の経営に遅れないように随《つ》いていくことが当社の基本方針です。当社にとってヨーカ堂さんとのお取引は単なる売り買いではありません。流通に関する情報について勉強する場であり、わたしは�ヨーカ堂流通大学�の生徒だと思ってました。ヨーカ堂さんのほうへ足を向けて寝られないと、いつも思ってました……」  武田の声は悲しみを帯びていっそう低くくぐもった。 「それなのに、油断があり、思い上がりがわたしにあったのです。業態が違う一店舗なら許されるだろうと、甘く考えてしまったわけです。いまは申し訳ない気持ちでいっぱいです。ただ、小田急さんから自転車を引き上げることはできません。わたしはどうすればいいのかわからないのです」  武田はうつむき加減に、低い声でつづけた。 「イトーヨーカ堂さんにご迷惑をかけたわたしはどのような罰でも受ける覚悟です。身から出た錆《さび》です」  森田はなにも言わずに煙草をくゆらせていたが、吸い差しの煙草を灰皿にこすりつけて、つとソファから起《た》った。 「社長、やけに神妙じゃないの」  いつの間にか同席していた片岡が言った。  武田がいまにも泣き出しそうな顔を片岡に向けたが、言葉は出てこなかった。 「社長に知恵をつけましょうか。森田にこう言えば許してもらえるような気がするんですけど。つまりひとつは、小田急町田店への追加納入はしないこと、二つめは今後、新しい取引先と取引するときは必ず事前に情報交換すること」 「ほんとうに、それでお許しいただけるんですか」 「騙《だま》されたと思って話してごらんなさいよ。多分、わたしの勘は間違ってないと思いますけど」  十分ほどして戻った森田に、武田が切り出した。 「わかった。そういうことで頼みます」  森田が仏頂面で返した。 「ありがとうございます」  武田はうなじを垂れて、いつまでも顔を上げられなかった。  あとで片岡が明かしてくれたが、片岡に「武田さんにこう言わせろ……」と振りつけたのは、森田だったのである。  このとき以来、ホダカ物産はGMS(ゼネラル・マーチャンダイジング・ストア)と称されるイトーヨーカ堂と同じ業態のダイエー、西友、ジャスコ、ニチイなどへの売り込みは自粛した。すなわち、イトーヨーカ堂のライバル企業との取引は一切しなかったことになる。  このことは、森田の肩入れに対する感謝の表白であり、イトーヨーカ堂に対する当然のスタンスとも言えるが、拡大多角化路線が挫折することはなかった。  GMS以外のHC(ホームセンター)店、DIY(ドゥー・イット・ユアーセルフ)店やSM(スーパーマーケット)、DS(ディスカウントストア)などへの業態には、イトーヨーカ堂の事前了承を取りつけて、積極的に売り込みを図った。     4  イトーヨーカ堂の快進撃はすさまじいばかりで、昭和四十八年七店、四十九年六店、五十年八店、五十一年八店と出店が続き、五十二年には十店と二|桁《けた》に及んだ。  森田、片岡との相互信頼関係を深めていた武田の率いるホダカ物産の業績も、イトーヨーカ堂の急成長に比例して伸長した。  武田は自転車売場のレイアウトにひと工夫もふた工夫も凝らして、あたかもイトーヨーカ堂の社員になったつもりで新提案を出し続けた。  たとえば主婦向けの自転車を売場の左右に配し、売場の正面には子供車を並べ、子供車の後方に山型の陳列什器《ちんれつじゆうき》を入れてスポーツ車を置く。立体感のある売場にするため壁面に吊《つ》り金具で高級スポーツ車や折りたたみ車を陳列した。  また、顧客に最善のサービスを提供することを常に心がけた。壊れたベル、ライト、豆電球、ブレーキワイヤー、キイなどの補修用部品や、ポンプ、パンク修理セットなどの自転車用品類をビニール袋に詰めてフック陳列することも片岡に提案し、受け容れられた。  袋詰めとヘッダーを合わせてホッチキスで止める作業を香榮子と夜を徹して続けたこともある。  武田は新店の売場づくりのときには、自転車を満載したトラックを自ら運転して出向いたものだ。  店の裏か横にある納品口で自転車を下ろして、検品場所に並べ終えると、検品係に声をかける。 「お願いしまーす」  張りのある地声の大きさに、検品係は表情をひきしめて、納入伝票記載の自転車や用品の種類、傷の有無をチェックする。 「結構です」  受領済印が伝票に押された。緊張感が心地よくほぐれて、快感に変わる瞬間だ。  売場担当者が新人で、マネージャーも自転車販売の経験がない、といった場合に意見の対立することもあった。  あるとき、こんなことが起きた。  やっと自転車売場をつくり終わった直後、他の催事担当者が武田のもとへやってきた。 「自転車売場はここじゃ困ります。向こうへ移してください」 「承知しました」  武田は不承不承従ったが、小一時間も経ったとき、マネージャーが飛んで来て、顔色を変えて言い立てた。 「勝手なことをされちゃ、困ります。自転車は目玉商品なんです。元の場所へ戻してください。それから、レイアウトも変えたほうがいいですね」  武田は、頭がくらくらするほどカッとなった。 「一体どなたが最終責任者なんですか。あっちにしろ、こっちにしろとはどういうことですか!」 「あんたは私の指示に従えばいいんです」 「それじゃあ、先ほどの指示は、どなたの責任か教えてください。きちっと整理したうえで指示を出されたらいかがでしょう」 「出入り業者は、言われたとおりにしなさい」  高飛車なもの言いに、武田はいっそう胸の中が泡立った。 「わたしは出入り業者ではありません」 「なにを言ってるんですか。あなたはホダカさんじゃないんですか」 「そうです。ホダカ物産の武田です」 「だったら出入り業者でしょうが」  若いマネージャーも顔色を変えている。 「違います。ヨーカ堂の人間です」 「なにを言ってるんですか。いまホダカ物産の武田だと言ったじゃないですか」 「ホダカですが、ヨーカ堂の人間でもあるんです!」 「なんですって! 変なことを言わないでください。あなた、わたしをからかってるんですか」 「ヨーカ堂の人間のつもりでやってます。失礼ですが、あなたは入社して何年になりますか」 「なにを言うんですか! そんなこと、あなたに関係ないでしょう」 「何年ですか。教えてください」  武田の強い口調に気圧《けお》されて、マネージャーは低い声で返した。 「四年ですよ」 「わたしは入社六年です」 「莫迦なことを言わないでください。ホダカの人間がなんで入社六年なんですか!」 「ヨーカ堂さんに出入りして六年になります。さっきも言いましたが、ヨーカ堂の社員の気持ちでやってます」 「ふざけないでください! とにかくわたしの指示に従うように」  怒り心頭に発したマネージャーは投げつけるように言い置いて、足早にその場を去った。  その日の夕方、片岡から武田に電話がかかった。 「社長、マネージャーとぶつかったんですって。ヨーカ堂入社六年って言ったそうですねえ。�業者を甘やかしては困る�って、店長から森田に電話がありましたよ。森田があしたの朝、来てくださいって言ってます」 「わかりました。あすの朝九時に伺います」  武田は少しく後悔していた。「入社六年」は言わずもがなであった。  あくる日、武田がイトーヨーカ堂の本部に出向くと、くだんのマネージャーを同席させて森田が待っていた。  にやにやしながら森田が言った。 「社長、どうしたの」 「自転車売場を変えろと言われまして、そのとおりにしました。ところが、マネージャーさんに元へ戻せと言われたんです。わたしとしては、精いっぱいやって、レイアウトを工夫したつもりなんですが、それも変えろと言われまして、カッとなり、売り言葉に買い言葉で、入社六年などと口走ってしまいました。明らかに行き過ぎがあったと反省してます。部長にまでご心配おかけし申し訳ありませんでした」  武田は森田とマネージャーに向かって深々と頭を下げた。 「聞いてのとおりだ。一所懸命さゆえの行き過ぎだし、ヨーカ堂にも落ち度これありなんだから、本件はこれでおしまい。わたしに免じて水に流してほしい」 「わかりました。わたしにも至らない点があったと思います」  マネージャーは、武田にも会釈した。 「恐縮です」  武田は、森田の公平な態度に感謝した。     5  イトーヨーカ堂の住居関連事業部担当役員の田村節男が川口のプレハブ事務所に武田を訪ねてきたのは�売場変更事件�があった直後のことだ。 「どうでしょう。ヨーカ堂がホダカ物産さんに出資する方向で考えてもらえませんか」  思いも寄らない打診である。 「身に余る光栄です。こんなありがたいご提案をいただくとは夢にも思いませんでした。ヨーカ堂さんに出資していただくことが、どれほどメリットがあるかもよく存じています。信用力がつきますから、銀行との取引関係も改善されると思います」  武田は緑茶を飲んで間を取った。 「わたしも部下も苦しい労働の毎日ですが、こうした苦労の中からなにかが得られるのではないかと考えてます。目にかけていただいてこんなうれしいことはありませんが、安易な道を選ばず、苦労はありますけれどもう少し自由に仕事をしたいと思うんです」 「ヨーカ堂がマジョリティを取って、ホダカさんを子会社にするなんて大それたことを考えているわけではありませんよ。パーセンテージについては、よくよく意見を交換して、決めればいいと思いますが」 「ありがとうございます。わたしの思い上がりかもしれませんが、いまのままのかたちでもう少し頑張ってみたいと存じます」 「わかりました。武田さんなら、ホダカ物産をきっと立派に経営されるでしょう。もし、気が変わったら、いつでも言ってください。多分そういうことはないと思いますが、わたしの提案を頭の隅に置いといてください」 「恐れ入ります。田村さんにお褒めいただいて勇気が湧《わ》いてきました。これからも一所懸命頑張ります」  田村は厭《いや》な顔も見せなかったし、出資を強要することもなかった。力関係で押しまくられたら、断ることは困難だったろう。  イトーヨーカ堂の傘下に入って、下請けに徹するのも、ひとつの生き方ではあるかもしれない。もし、従業員に賛否を問うたら、�寄らば大樹の陰�を選択したいとする考え方に与《くみ》する者のほうが多かったかもしれない。  しかし、武田は自主独立路線に固執した。  たとえそれが苦難の道であろうとも。     6  話は前後するが、快進撃を続けていたイトーヨーカ堂にとって五十四店目の出店になる厚木店が開店したのは昭和五十年の秋のことだ。  厚木店の自転車売場は屋上にあった。  武田は開店の準備に忙殺された。  値札が見やすいようになっているか、売場は整然としているか、持ち帰り客の売場から出口までの運び出し方は万全か、お届けの伝票の枚数は充分か、来客が伝票を書くための机と椅子、ボールペンなどの過不足はないか等々、武田はチェックを怠らなかった。  チラシに�よいものがこんな値段で�と印刷された商品には、午前十時の開店時に来客が殺到する。人の波が押し寄せ、群れがどーっと突進してくる。 「この自転車くださーい!」 「これちょうだい!」 「これ買うわ!」  自転車のハンドルを握り締めた来客が金切り声を発する。  昭和五十年代半ばまで、自転車は開店の目玉商品、人気商品だった。スーパーなど量販店の売上上昇が日本の自転車市場に変革をもたらしたのである。  自転車は街の自転車専門店で購買するもの、という長年の慣習が音を立てて崩れ、量販ルートが主流に成長していく過程を、その光景を武田は自分の眼で、しかととらえていたことになる。  当然のことながら、納入された全自転車のすべての部品が完璧《かんぺき》に調整されていなければならない。  ブレーキは作動するか、ハンドルの固定は大丈夫か、チェーンの張り具合はどうか、ランプは発電し点灯するか——。スーパーで買う自転車も専門店並みの品質(機能、部品とも)が維持されていたからこそ、量販ルートが確立したと言える。  問屋を通さず、余分な宣伝費をかけないが故に�安いが悪い�ではなく�安くて良い�のである。良品廉価でなければ流通革命は起こり得ない。  調整済みの自転車を再点検し、ペダルをしっかり取り付けてから、持ち帰り客に自転車を手渡す。  あらかじめペダルを取り付けておくと、ペダルが他の自転車にぶつかって、チェーンケースやフレームの塗装を傷つけるので、どんなに多忙でも、顧客の前で取り付ける必要があった。  自転車売場の喧騒《けんそう》の中で来客とこんなやりとりをすることもままあった。 「もっと空気を入れてよ」 「振動が躰《からだ》に強く伝わりますから、この程度の空気圧が適当ですが」 「タイヤは固いほうがいいから」 「わかりました」  客の言いなりになるのは仕方がない。  一台でも多く売りたい一心で、客との応対はなるべく早く切り上げたいところでもある。もっとも、武田は地声が大きく、説明の仕方にも説得力があったので、大抵の客は武田に従ってくれた。  さすがは文華放送一の営業マンを自任していただけのことはある。客あしらいのうまさは、料亭を経営する母親の血筋かもしれない。  気持ちがいいほど武田の接客態度はきびきびしていた。当然、武田に人気が集まる。  日曜日は販売応援の要請がイトーヨーカ堂から業者にくるのが常識だった。わけても大型店は武田を指名する。つまり武田は日曜日を返上して、自転車を売りまくっていたことになる。  新規開店の販売応援は、戦場さながらの熱気が漲《みなぎ》っているので、一段と力が入った。 「自転車、いかがですかあ! 二年の品質保証付きでーす! 盗難保険も無料でーす! アフターサービスも週一回、巡回で実施しまーす! 安心してお買い求めくださーい!」  声を張り上げてPRする。顔から汗がしたたり落ちる。  お届けの来客を伝票の記入机へ案内し、ワイシャツのポケットに差し込んだボールペンを手渡して、地図を書いてもらう。ふたたび別の来客に応対する。そして自転車の点検。背広を脱ぎ腕まくりしたワイシャツ姿で、屋上のコンクリートの上に膝《ひざ》を突いて点検作業に精を出す。息つくひまもなかった。  頭上で声がした。 「なかなか売れてますね」 「お陰さまで。ありがとうございます」  顔を上げるのももどかしいので、武田は点検作業を続けた。  十何秒か経って、なにげなく顔を上げると、大柄な男が立っていた。温容が微笑《ほほえ》んでいる。  伊藤社長だと知って、武田はあわてて直立不動の姿勢をとった。伊藤は、イトーヨーカ堂の社員にとって神様に近い人だ。出入り業者も然《しか》りである。武田は膝頭ががくがくふるえた。 「失礼しました。申し訳ありません」  武田は大きな声で非礼を詫びて、最敬礼した。 「いやいや」  伊藤が右手を振りながらにこやかに言った。 「どうぞ仕事を続けて。頑張ってください」 「はい。頑張ります」  武田は最敬礼を繰り返して、点検作業に戻った。  時間にしたら、一分足らずのことだったが、伊藤の笑顔は武田の眼底に焼きつけられた。  伊藤は大正十三年(一九二四年)生まれなので、このとき五十一歳、武田より十四歳年長ということになる。  伊藤の礼儀作法、躾《しつけ》の厳しさは知る人ぞ知るだ。接客態度の悪い業者との取引を中止させたほどだから推して知るべしである。  伊藤が厚木店の自転車売場を去ったあとで、点検作業中の武田の手がちょっと止まったのは、伊藤の眼に自分の接客態度がどう映ったか気になったからだ。しかし、あの笑顔なら合格に相違ない、と武田は思った。  伊藤は�MR�と称するマーケティング・リサーチに出かけることがよくあった。必ず幹部社員を同乗させる。  専用車が渋滞に巻き込まれ、ノロノロ運転になったときに道路際の自転車専門店でちょっと気の利いた店があると、幹部社員を降車させて、観察してくるよう命じることがある。最前列に並べられている自転車の車種、カラー、値段などを報告させるのだ。そんな噂を武田は耳にしていた。  天下のイトーヨーカ堂の創業社長が、何万点もある取り扱い商品の中で自転車に関心を寄せていることに、武田は胸が熱くなるほど感激したが、反面、そら恐ろしいほどの緊張感を覚えたこともたしかである。それだけに厚木店開店時の伊藤のひとことと笑顔に、どれほど勇気づけられたかわからない。  その夜、武田は帰宅するなり、香榮子をつかまえ興奮気味に話したものだ。 「きょう伊藤社長から声をかけていただいたよ。僕の声は大きいから、伊藤社長の眼に止まったみたいなんだ。持ち帰りのお客さまにお渡しする自転車の点検作業中に、『頑張ってください』って言われたんだけど、胸がドキドキしちゃったよ。初めに『なかなか売れてますね』って言われたときは、お客さまかと思ったから『お陰さまで』って返事だけして顔を上げなかったんだけど……」 「えっ! そんな。失礼じゃないの」  香榮子はオクターブ高い声を発して、表情を曇らせた。 「心配するなって。にこにこしてたし、『頑張ってください』って、言ってもらえたんだから。勇気|凜々《りんりん》、元気百倍だよ」  武田は握り締めた両手でガッツポーズをして見せた。 「ネクタイは着けてたんでしょうね」  詰問調で香榮子に訊《き》かれ、武田はガキ大将みたいにふくれっ面をした。 「当たり前だろう。暑いから背広は脱いでたし、腕まくりしてたけど」 「でも、なんだか心配だわ」 「きみも苦労性だなぁ。僕の接客態度は百点満点だと自負してるよ」 「社員の躾に厳しいかたなんでしょう。服装、言葉遣い、歩き方まで厳しいかたに、ワイシャツを腕まくりしてたなんて、よくないと思うけど」 「たしかに伊藤社長はスーツ姿だったけど、むこうは視察で、こっちは販売応援で点検作業に夢中だったんだから、許してもらえるんじゃないのかねぇ」 「伊藤社長はお客さまに接するとき、ご自分の言葉遣いも丁寧なんでしょう」 「もちろん。お客さまは大切だから、みんなそうだけど、あの人はとくに丁寧だよ。両手を前に組んで、大きな躰《からだ》をちょっとまるめて、微笑を絶やさない。僕は週に一度は必ずヨーカ堂の本部に顔を出してるから、たまにエレベーターホールの前でお会いしたり、エレベーターで乗り合わせることがあるけど、『いつもお世話になっています』と挨拶すると、必ず『頑張りなさい』と言ってくれる。僕がどこの誰だかわかっていないと思うけどね」 「優しさと厳しさのバランスが取れてるおかたとは思うけど、でも、やっぱり心配だわ」  香榮子の心配は取り越し苦労に終わった。その後のホダカ物産とイトーヨーカ堂の取引関係がそのことを雄弁に物語っている。     7  イトーヨーカ堂本部の大会議室で開催される新年の賀詞交歓会で、業者は年に一度だけ拝顔の栄に浴することができる。  伊藤の前に長い行列ができるのは当然だ。 「新年おめでとうございます」  業者の挨拶に対して「いつもお世話さまです」「これからもよろしく」「どうもどうも。お元気ですか」「ありがとうございます」などの言葉が伊藤の口を突いて出てくる。  厚木店で接した翌年の賀詞交歓会で、武田に順番が回ってきた。 「おめでとうございます」  武田は深々と頭を下げた。  伊藤は表情をがらっと変え、恐いくらいひきしめた。そして、まっすぐ武田をとらえた。  武田は背筋がぞくっとした。 「ブリヂストンや宮田やナショナル自転車の勉強をきちっとやりなさい」  伊藤の厳しい表情と強い口調に武田は返事が一拍遅れた。 「はい」  次の瞬間、元の優しい表情を取り戻した伊藤は、別の業者の挨拶を受けていた。  武田は急いで隅のほうへ移動した。ハンカチでひたいに滲《にじ》んだ汗をぬぐいながら、厚木店での出会いを伊藤が覚えていてくれたことに思いを致して、胸がふるえるほど感動した。  伊藤社長は、若造の俺に眼をかけてくれている——。武田はその夜、うれしくてうれしくて、なかなか寝つかれなかった。武田が何度目かの寝返りを打ったとき、香榮子の声が聞こえた。 「あなた、よかったわねぇ」 「きみ、まだ起きてたのか」 「うれしくて眠れないの」  武田の思いは、香榮子にも感染していたのである。 「起きて、熱燗《あつかん》で寝酒をやり直そうか」 「いいわよ。もう一度乾杯しましょう」  武田と香榮子はベッドから抜け出した。 「乾杯!」 「乾杯!」  二人は杯を触れ合わせた。熱燗なので一気に乾すわけにいかなかったが。  ちびちびやりながら武田が言った。 「さっきベッドの中で考えたんだが、ヨーカ堂さんの株を買おうと思うんだ。会社の持株会方式で、どんなことがあっても、毎月一定額をヨーカ堂さんの株購入資金に充当するようにしたいなぁ」 「わたしも賛成よ。ヨーカ堂さんあってのホダカ物産ですからねぇ」 「うん。じゃあ決まりだ。大株主のきみと僕の意見が一致したんだから問題ないね」 「いくらぐらい買うつもりなの」 「毎月五十万円ヨーカ堂さんに投資しようか」 「そんなに。大丈夫かしら」 「たとえ苦しいときがあっても、それを継続するんだ。それがヨーカ堂さんへの僕の思い入れでもあるけど、資産として残るわけだからねぇ」 「ええ、わかったわ。あなたにまかせます」 「深夜、酒を飲みながらこんな話をしてる俺たちはどうかしてるのかねぇ」 「そんなことないと思う。だって今夜は記念すべき日なんですもの」  昭和五十一年当時、イトーヨーカ堂の株価は一株(額面五十円)二千円前後で、スーパートップのダイエーの株価(一千二百円前後)を大きくリードしていた。売上高こそダイエーのほうが圧倒的に大きかったが、収益率はヨーカ堂が断トツだった。  ちなみに昭和五十年度決算で、イトーヨーカ堂の売上高は一千九百八十六億九千六百万円、経常利益六十一億六千百万円、利益三十億三千百万円、利益率一九五パーセント、一株益九十八円、配当三〇パーセント。  一方、ダイエーは売上高三千三百二十三億四千六百万円、経常利益四十七億五千九百万円、利益二十七億四千二百万円、利益率一二六パーセント、一株益三十二円、配当三〇パーセントであった。  資本金および借入金を比較すると、資本金はイトーヨーカ堂四十六億五千三百万円、ダイエー六十六億二千百万円、借入金はイトーヨーカ堂四百七億七千三百万円、ダイエー二千四百三億九千二百万円となっている。  武田はイトーヨーカ堂の持株会�ヨーク共進会�に加盟した。  経営的に好、不調の波があるのはどんな企業でも例外たり得ないが、武田は歯をくいしばって、毎月イトーヨーカ堂の株を買い続けた。  富士銀行|本八幡《もとやわた》支店の担当者から忠告されたこともある。 「ホダカ物産さんは銀行から借り入れしてヨーカ堂の株を購入してますが、いかがなものでしょうか。少し抑えられたらどうでしょう」 「ご忠告はご忠告としてありがたく承っておきます。しかし、ヨーカ堂さんの株を買い続けるのは、わたしの心の歴史があるからとしか言いようがありません。富士銀行さんにご迷惑をかけることは決してないと思います」 「心の歴史ですか。わかったようなわからないようなお話ですねぇ」 「ヨーカ堂さんの株を持つことによって、同じ船に乗ってる覚悟をわたしなりに確認できるからです。誰になんと言われようと、続けさせてもらいます」  少しむきになっている武田に、担当者はたじたじとなり、二度とそのことを口にしなかった。  銀行借り入れで株を購入したのはごく一時期のことでもあった。  たしかにプラス、マイナス、足し算、引き算で考えれば、無理をしてヨーカ堂株を購入することは銀行マンの眼に奇異に映ったに相違ないし、�この人なにを考えてるんだろう�と思われても仕方がない。しかし、毎月欠かさず継続することに、武田は意義を見出していた。  伊藤社長の忘れ得ぬ好意なり、森田の強力なバックアップに対し、武田はヨーカ堂株を黙って購入し続けることによって、多少なりとも恩返ししたいと考えたこともたしかであった。  厚木店オープンのときと、賀詞交歓会で伊藤に示された好意なり、森田に危機を救ってもらった事実は、心の中に染み入り、胸に刻み込まれたが、他人に説明してもわかってもらえないだろうと武田は思う。     8  昭和五十六年二月に、ホダカ物産は東京中小企業投資育成株式会社から投資を受けることになった。その経緯はこうだ。  昭和五十二年八月に、ホダカ物産はマルキン自転車株式会社の完成車在庫、部品、商標権および工業所有権の一切を九千万円で取得し、どちらかというと自転車問屋色の強い従来の業態から、これを機にブランド力のある�問屋型メーカー�に脱皮した。  同年十二月、川口工場に自転車組立自動ライン二基を設置し、月産一万台の量産態勢を敷いた。好不調の波はあるにせよ、ホダカ物産の経営はおしなべて順調に推移していた。経営の一切合切をひとりで取り仕切っている武田は、ときとして言いようのない不安感に襲われることがあった。  創業当初は苦労もしたが、骨身を惜しまず、そして日夜を分かたずひたむきに突っ走って、気がついたら年間売上高約四十億円、社員百十八人の中小企業に成長していた。  調子がよすぎる。こんなことが長続きするはずはない。  放送ジャーナリズムという異業種出身で、世間の常識からずれている虚業の世界から、実業の世界へ迷い込んで、ビジネス、就中《なかんずく》経営の世界でいつまでも無事に済むとは思えない——。  箱根や熱海で一泊二日の社員総会を行なうのは、この時代、中小企業の年中行事だった。  夕刻、大広間に浴衣姿の社員が勢揃《せいぞろ》いしたときは壮観である。 「社長、百十余人の背後に家族がいるんですよねぇ」  役員の誰かがしみじみとした口調で語りかけたひとことも、プレッシャーになっていたかもしれない。  取引銀行のひとつである太陽神戸銀行本八幡支店の担当者が、東京中小企業投資育成株式会社の出資話を持ち込んできたのは、昭和五十五年秋ごろである。 「ここまで会社が大きくなったら、組織の強化という面もお考えになったほうがいいと思います」 「偶然というか、暗合《あんごう》っていうか、わたしもちょっと心配になってきたんです。あなたも、気味が悪いと思ってるんじゃないですか」 「気味悪いなんて、そんな……」 「そう顔に書いてありますよ。それで、具体的になにかご提案をいただけるんですか」 「通産省の肝煎《きもい》りで、半官半民で設立された組織があるんです。東京中小企業投資育成株式会社というんですが、社長は中小企業庁長官を最後に通産省を退官した高橋淑郎さんというかたです。石橋|湛山《たんざん》が昭和二十一年十二月に総理になったときの秘書官と聞いてますが……」  武田はわずかに首をかしげながら質問した。 「どんなメリットがあるんですか」 「資本の充実、企業指導等でメリットが得られます。この組織の投資を受けること自体、中小企業には大変な勲章になるんです。とかく不透明になりがちな中小企業の経営が、厳重な調査、審査を経て、投資が決定されるんですから、投資の成就イコール信用面の向上につながるわけです」  武田は、したり顔で説明する銀行員の顔を凝視した。 「わたしは本来的に全員参加の経営が道理だと思ってますから、経営の透明性については自信があります。その点でご意見があるようでしたら承りますが」 「その点はよく存じてますが、投資育成会社の投資を受けることが信用面で測り知れないメリットをもたらすんですよ」  銀行員は少し早口になって、つづけた。 「資本金の多寡《たか》に関係なく決算時における公認会計士の審査、監査が義務づけられます。公認会計士の監査報告を公正かつ公平と認知されるとすれば、透明性は一段と増すと思うんです。客観的に企業判断するうえで資料の適正さの基準になるわけです」 「おっしゃることはわかりました。つまり、太陽神戸銀行さんも融資しやすくなるというわけですね」 「まあ、そういう面もないではありません」  銀行員のもって回った言い方はひっかかるが、武田はぐっと胸を張った。 「望むところです。お願いしましょうか」  武田は、たったひとりでホダカ物産の経営を仕切っていることに、なんとはなしに不安を感じていたので、気味悪さを解消してくれる相手として、投資育成会社は恰好《かつこう》な存在だと思った。  無事、審査が終了、合格したが、いざ投資が実行される段になったときの武田の申し出は、投資育成会社の担当者を驚かせた。 「当社の株を高く買っていただく必要はまったくございません。相談相手、ことがらの是非の議論を株主の立場で率直に進言していただきたいのです。将来性を云々《うんぬん》して購入株価に盛り込むご配慮もご無用に願います」  数次にわたる折衝の結果、曲折を経て投資育成会社は五百円株を額面で六万株(三千万円)購入、対ホダカ物産出資比率は三〇パーセントになった。この時点でホダカ物産は八万株(四千万円)の新株を発行、発行済株式総数は二十万株となった。  武田は投資が実行されたあとで高橋に面会を求めた。投資育成会社は兜町《かぶとちよう》の製粉会館四階にあった。  高橋は元高級官僚にありがちな尊大さは微塵《みじん》もなく、もの腰のやわらかい人だった。  小柄で穏やかな風貌《ふうぼう》である。ゴマ塩の豊富な頭髪を七三にきちっと分けていた。  社長室で名刺を交換し、投資実行の礼を述べてから、武田は単刀直入に言った。 「わたしは自転車商売に十年間全力で取り組んで参りました。自転車へはこれからもこだわり続けますけれど、自転車だけが自分の仕事とは考えたくない、と思うようになりました。社員のためにこれからも一所懸命仕事をしたいと思いますが、その中から自転車以外にも自分に相応《ふさわ》しい仕事を探し求めていきたいと願ってます。はねあがり気味のわたしの考えに異論を感じられたら、どうか率直に指摘していただきたいと思います。それが投資していただいた目的でもあるのです」 「ご立派な見識をお持ちですね。年に四度か五度お目にかかって、意見を交換することにしましょう。武田さんとは気が合いそうですねぇ。あなたは四十三歳でしたか」 「はい。一月二十七日で満四十三になりました」 「わたしはあなたより二十年も先に生まれてますが、友達づきあいができそうですね」 「ありがとうございます。大社長にそんなふうに言っていただいて感謝感激です」  武田は高橋と年平均四度会って、ときには酒を酌みかわしながら語り合う仲になった。高橋は、アルコールにはめっぽう強かった。  昭和五十八年一月に、武田はアメリカへの進出を決断するが、そのときも高橋の意見を聞いている。  高橋は、ひとしきり武田の話に耳を傾けてくれた。  にやにやしながら高橋が言った。 「社長はもう決めてきたんでしょ」 「ええ、まぁ」  高橋は賛成も反対もしなかったが、話を聞いてもらっただけで、武田は気持ちが落ち着いた。  この年、高橋|宛《あて》の賀状に「やるっきゃないと思います」と、武田は書いた。  明治記念館で行なわれた賀詞交歓会で、武田は投資育成会社の投資を受けている他社の社長と並んで、挨拶の順番を待った。武田の番になったとき、高橋はぐっと躰を寄せて、ささやいた。 「やるっきゃない!」  武田は胸に熱いものがこみあげてきた。  一年前、イトーヨーカ堂の賀詞交歓会で、武田は伊藤から「先日、高橋さんにお目にかかったのでよろしくお願いしておきましたよ」と小声で言われた。  五秒ほど武田は「高橋、高橋」と頭の中で何人かの顔を必死に思い浮かべているうちに「あっ」と声を洩《も》らしそうになった。投資育成会社の高橋淑郎社長に相違ない。 「それはほんとうにありがとうございます。これからも一所懸命頑張ります」 「…………」  伊藤は次の人の挨拶を受けながら、優しい眼で会釈を送ってくれた。  何百社、いや一千社はある出入り業者の中で、ホダカ物産の武田を覚えてもらえただけでも光栄至極なのに、伊藤社長が高橋社長に口添えまでしてくれたとは。  高橋が、伊藤を武田の後見人と思ったとしても不思議ではない。  この夜も武田は興奮気味で、寝つきが悪かった。香榮子と感激を共有したことは言うまでもあるまい。  昭和五十八年一月下旬、ホダカ物産は米国の販売拠点としてニュージャージー州にMARUKIN USA INCを設立したが、対米自転車輸出は半年前から開始、対欧州輸出は二年も前に始めている。     9  昭和五十九年(一九八四年)三月、イトーヨーカ堂の創業社長、伊藤雅俊が著したエッセイ集『商いの心くばり』が講談社から上梓《じようし》され、ベストセラーになった。  武田は『商いの心くばり』を二度、三度再読した。何度読んでも胸を打ち、勇気づけられる。そして教えられることが多かった。武田はホダカの社員に同書の読書を義務づけた。 『商いの心くばり』は昭和六十二年三月に講談社文庫に収録されたが、武田は文庫本でも読んだ。鮮度がいささかも失われていない——。いまさらながら伊藤の偉大さを再認識させられた。  以下に同書の中から、胸に染み入るエッセイの何例かを引く。  商いは飽きずに [#ここから2字下げ]  私は商売が好きです。  なにごとでも、長くやっていると、自然に好きになるものですが、その中でも、私はとくに 商売が好きです。  一説によると、「商い」の語源は、「秋、行なう」だということです。昔、秋になると、収穫されたお米を中心に、各地の市で物々交換が行なわれていました。その「秋、行なう」が転訛《てんか》して、「商う」になったというわけです。  しかし、私の実感としては、「商い」は「飽《あ》きない」、つまり、飽きずにやることのような気がします。  好きだから、飽きずにやる。飽きずにやっていれば、商売のコツも少しずつわかってきて、自信もついてきます。  あらゆる修業もそうだと思いますが、商売も、きわめ尽くすということはありません。一段、深いところへ進んだと思っても、さらにその先が待ちかまえています。そこまでたどり着いた喜びとささやかな自信とによって、あらためて挑戦する気持がわいてきます。 [#ここで字下げ終わり]  忘れられない大恩人の言葉 [#ここから2字下げ]  イトーヨーカドー(正式社名はイトーヨーカ堂)は、小さな洋品店からはじまりました。  戦前、叔父の吉川敏雄が東京・浅草で四軒の羊華堂を経営していました。昭和十五年にそのうちの一軒を兄の伊藤|譲《ゆずる》がまかされましたが、戦災で焼失してしまいました。  戦後の昭和二十一年、私の母と譲は北千住で羊華堂を再開、そのときは戸板一枚の店でしたが、私はそれまでつとめていた三菱鉱業を退社して、それを手伝うことになりました。  それから十年、力をあわせて、やっと軌道に乗せ、これからというときに、昭和三十一年、譲が急死してしまったのです。  伊藤譲が亡くなってからは、私が社長となって新たにヨーカ堂を設立し、再出発することになりましたが、十五年間は、苦労の連続でした。私の我慢が足りないばっかりに、それまで先代が営々と築き上げてきたものを、ぶちこわしてしまうこともありました。  そんなとき、何十倍もの努力であと始末をしてくださったのが、神奈川県平塚市の百貨店・梅屋前社長の関口|寛快《ひろよし》さん(昭和五十六年四月死去)でした。イトーヨーカドーの今日があるのは、関口さんという大恩人のおかげだともいえます。  関口さんの次の言葉を、私は忘れることはできません。 「重荷をおろそう、おろそうとするけれど、おろしたらどうなる? 全部だめになってしまうではないか。そのまま背負っていくという考え方が一番大事なのだ」  お客さまがきてくださらない店でじっと我慢しているのは、確かに苦痛です。より楽なほうを選んでしまいがちです。しかし、そこで楽なほうを選んでしまったら、またゼロからやりなおさなければなりません。ゼロどころか、マイナスになって、ゼロに戻すことさえむずかしくなることもあります。  たとえば、ひまだからといって店をからっぽにしているとき、お客さまがいらっしゃったら、そのお客さまはどう思うでしょうか。「二度とこんな店にくるものか」と思うのではないでしょうか。  そう思われたら、ゼロどころか、マイナスなのです。そのお客さまを再び店にきていただけるようにしようと思ったら、大変な努力が必要です。  苦しいからといって、いったん重荷をおろしてしまうと、とりかえしのつかないことにもなりかねません。 [#ここで字下げ終わり]   「人間は好みに滅ぶ」 [#ここから2字下げ]  しかし、一つのことに徹するといっても、視野を狭くするということではありません。  あるとき、関口寛快さんは、「人間は好みに滅びるのです」とおっしゃいました。  女好きの人は女で失敗するし、お金にばかり執着する人は、お金で滅び、商売好きな人は、商売に気をつけなければならないということだと思います。  これは、私が商売好きだったことに対する忠告でもありました。  このことがよくわかったのは、私が四十二、三歳になってからでした。  私は商売が好きなあまりに、つい視野が狭くなって、「森を見て山を見ず」になってしまうようなところがあります。  小さな企業から何十年もやってきたあとなので、急には脱皮できないということもありました。  しかし、会社の規模も変わり、社会の状況も変わりますから、いつまでも同じ方法だけでやっていたのでは、とり残されてしまいます。  一つのことを我慢してつづけるということは、同じやり方をずっとつづけていればいいということではありません。これでは進歩がありません。  一つのことに徹する姿勢をつらぬいていけば、状況状況に対応した方法がわかってくるということなのです。  関口さんがおっしゃられた言葉の意味は、社会やお客さまのことを考えずに自分勝手なことをしていたら、必ず破綻《はたん》がくるということだと思います。  そして、裏を返せば、気を抜いて休んでいてはいけないということにもなります。 [#ここで字下げ終わり]    母のうしろ姿に教えられたこと [#ここから2字下げ]  私の母(伊藤ゆき)は、昭和五十七年一月十八日に亡くなりました。母は朝、隣の家の前まで掃除をするような性格でした。  東京の須田町に生まれ、乾物問屋の家に育ちました。当時は、田町に野菜市場があった時代です。  しかし、母の祖父が早く亡くなったために家業が傾き、母はその再興に執念を燃やしたようです。暮れにはずっと夜あかしし、年があければ、元旦から店をあけて商売をするといった日々でした。  苦労しているときは、家族の中にも不満が鬱積《うつせき》します。夫婦げんかをして、母が涙を流している光景も、何回か目にしました。  しかし、店に出て、お客さまに接しているときには、なにごともなかったかのように、いかにも平和な家庭の主婦のような笑顔を忘れませんでした。  その母のうしろ姿に、私は子供ながらに、商売人にとってお客さまがいかに大事かを教えられました。  しつけというと、言葉でやかましくいわなければならないものだと思いがちです。しかし、私は、行動のうしろ姿がしつけだと思います。  隣のお店の前まで掃除をし、どんなときでも、お客さまには笑顔で接するという行動のうしろ姿から学ぶのが、ほんとうのしつけではないでしょうか。  昔の人は、うしろ姿からいろいろなことを読み取ったものです。いまの若い人の中には、それができない人が多いような気がします。 [#ここで字下げ終わり]    恩のあるお取引先も切ることがある [#ここから2字下げ]  お客さまの立場に立つとは、どういうことでしょうか。  イトーヨーカドーが創業当時、大金を貸してくださったご恩のある方がおります。ネクタイ屋さんなのですが、息子さんの代になってから品質が悪くなったので、お取引を中止しました。たとえご恩を受けた会社でも、そこの品物がお客さまのためにならないものなら、お取引しないという考え方で、私は仕事をしてきました。  自分の好ききらいや感情で仕事をするのではなく、あくまでもお客さまの立場に立つことを第一に考えなければならないと思います。  イトーヨーカドーの仕事は、お客さまのお役に立っているかどうか——これが、私どもの商売の原点でなければならないはずです。 [#ここで字下げ終わり]    お取引先への四つの心くばり  私は、お取引先に対して、つねに次の四つを心がけています。 [#ここから2字下げ]  一、イトーヨーカドーは、お客さまと同時に、お取引先あってこそ成り立っている。  イトーヨーカドーは、自分の力だけで存在しているのではない、お取引先のおかげなのだということを、忘れたことはありません。  会社が大きかろうと小さかろうと、お取引先とイトーヨーカドーは対等であると考えています。  二、お取引先との約束は必ず守る。  イトーヨーカドーの基本姿勢は、約束を守るところにあります。イトーヨーカドーは、小さいときから、お取引先との約束は必ず守ってきました。支払いについても、お取引先に待っていただいたことは、創業以来、一度もありません。  かつて、千葉の扇屋(現在は扇屋ジャスコ)の安田会長さんの葬儀に参列したとき、扇屋さんのお取引先の方が述べられた弔辞の中で、非常に感銘を受けたことがありました。それは、扇屋さんは絶対に返品をせず、支払いはその前日に扇屋さんのほうからお取引先へお届けしたという事実です。イトーヨーカドーも、この扇屋さんからたくさんのことを学ばせていただきました。  お取引先との約束は、口頭であろうと文書であろうと、必ず守ってこそ、信頼関係が生まれます。信頼こそ、商売の基本だと考えています。  三、お取引先の接待は受けない。  私は、銀行さんというものは、こちらから接待するものとばかり思っていましたが、逆に接待を受ける立場になりました。会社が大きくなったからだと思います。しかし、私は銀行さんに、「こういうことはしないでほしい」と申し入れました。  人間は弱いものです。接待を受けると、つい情実がはたらいて、そこに腐敗の温床ができてしまいがちです。腐敗した会社は成り立ちません。  会社がつぶれるのは、外からの圧力ばかりではありません。多くの場合、中からくさっていって、つぶれるものです。  四、返品を出さないようにする。  返品率は下がっているという話を聞きました。率は下がっているかもしれませんが、絶対額は増えています。  私どもでわずかな返品額と考えても、小さなお取引先だったら、生きるか死ぬかの問題になるのです。  こちらのせいで、お取引先に損害を与えてしまうということは、絶対に避けなければならないと思います。  以上、四つの心くばりは、会社の基礎となるべき考え方だと思います。つまり、会社の姿勢です。大事なのは信用であって、これは会社が大きかろうが小さかろうが、同じです。  世界一のビッグストア、|A&P《エーアンドピー》が信用不安におちいったことがあります。それは、アメリカでも大型店は不勉強だからだと思います。いいかえれば、思い上がりがあったからではないでしょうか。  イトーヨーカドーの売り上げは、社員の努力によって、小売業第二位、利益は第一位となりました。そうすると、まわりからチヤホヤされます。しかし、そういうときが一番こわいのです。地味であることが大事なのです。  業績の向上は大変に喜ばしいことですが、それによっておごることだけは、あってはならないと思います。おごりと信用とは、相反することだからです。  最大の会社になるよりも、最良の会社になりたいというのが、私の願いです。 [#ここで字下げ終わり]    リーダーに必要なのは人間性 [#ここから2字下げ]  幹部たる者には、四つの条件があると思います。  一、決定する。  二、決定したことに責任をもつ。  三、約束を守る。  四、視野を広くものごとを見る。  この四つに共通するものは、相手の立場に立って考えることができる人間性です。  なにかを仕入れるとき、これはメーカーさんの一人一人が一所懸命につくったものだということがわかること、それを返品したらお取引先はどうなるかがわかることが、相手の立場に立って考えることができる人間性です。  そういう人間性がないと、「おれが売ってやっているんだ」と、思い上がってしまいます。  アメリカのSEC(証券取引所)に「一五パーセントの原則」という言葉があります。  たとえば、A社の仕入れている商品が、B問屋の全あつかい高の一五パーセントを超えた場合(実際にそういう例があります)、B問屋のA社に対する独立性はなくなってしまいます。A社の人がなにをいっても、B問屋はただ相手に合わせるだけになります。こうなると、B問屋は本当のことをいわなくなります。というより、いえなくなってしまうのです。  イトーヨーカドーがここまで大きくなったいまこそ、さらに相手の立場を考え、思いやりをもつということが大事になると考えています。 [#ここで字下げ終わり]    チョンマゲ社員はいないか [#ここから2字下げ]  江戸時代から明治時代へ変わって、男が頭へのせていたチョンマゲが、断髪令によって廃止されました。  しかし、中には頑固にチョンマゲをやめない人もいました。チョンマゲが日本からほぼ完全になくなったのは、明治も後半になってからだそうです。頑固といえば一徹《いつてつ》もののようで聞こえはよいのですが、じつは、時代の変化についていけない頭の古い人ともいえましょう。  いつの時代にも、どこにも、頑固で、時代の変化についていけない人がいるのではないでしょうか。昭和も六十年近くなって、なお頭に幻のチョンマゲをのせた人が……。  変化する部分のほうが大きく、固定した部分のほうが小さいのが現代の状況です。  にもかかわらず、五年も十年も前の商品を相変わらずあつかっている人がいます。もちろん、変わらないでいい商品もありますが。  あれほど頑強《がんきよう》に形をくずさなかったフォルクスワーゲンの�甲虫《かぶとむし》�も、いまでは骨董品《こつとうひん》あつかいされる時代なのです。  五年前、十年前と同じ商品をあつかっている人がいたら、自分の頭に手を当てて、チョンマゲがのっていないかどうか確かめてみてください。なぜ売れないのか、視野を広くして、世の中を見なおしてほしいものです。  売れないのが当たり前と私がいう意味は、売れなくてもいいということではありません。 [#ここで字下げ終わり]    妻に意見をきいてみる [#ここから2字下げ]  アクセサリー売場の人が、自分の売場だけ見ていてもだめです。肉売場の人が、肉売場だけ見ていても、社会の変化に対応できません。お客さまの生活の変化を広く見ていかないと、立ち遅れてしまいます。  食品の場合、とくに提供方法の変化に注目する必要があります。アメリカの学者の研究によると、今後、インホーム・ショッピング(家庭にいたまま電話や双方向ケーブルテレビなどで注文する買物)が大きく伸びるようです。カタログ販売も伸びてきます。  現に日本でも、食品のカタログ販売が出てきました。惣菜を一つ一つパックしてご家庭へお届けするという提供方法で、何万食も売れています。  そこで、この会社のカタログをすぐに求めてみるような姿勢が必要です。異業種だから関係ないと片づけていては、変化に対応できません。  たとえば、妻に自分の会社の商品を見てもらって、「ほしいものはなにもないわ」などといわれたら、これは大変なことです。 [#ここで字下げ終わり]    土くささを忘れてはいけない [#ここから2字下げ]  私は、資本金が三十億になった昭和五十年に、つぎのようなことを考えました。  まず第一に、会社が大きくなったあとでも、土くささを忘れてはいけないということです。  土くささというのは、お客さまの一人一人を大切にする精神のことです。頭でっかちになって、英語をならべて経営論をぶつことよりも、まずお客さまの身になって商売を考えることです。  しかし、一方では、会社が大きくなってくると、絨緞《じゆうたん》の上で外交をすることも必要になってきます。九九パーセントの社員が非常に地味な仕事をしている半面、他方では絨緞の上で商談をしなければならない問題も、だんだんに増えてきます。  たとえば、店舗開発などの場合には、いろいろな問題で政治とのかかわりが出てくるようです。銀行さんへ行きましても、常務さんクラスとお会いするようになります。  そうなると、言葉づかいにしても、教養というものが必要になってきます。服装についても同じことがいえると思います。なにもぜいたくな服装をしろとは申しません。しかし、きちんとした服装をしておかないと、先方さんに悪い印象を与えてしまいます。  いたずらに摩擦を生じさせずに、商談をスムーズに進めるためには、こういったことも必要になります。  しかし、心まで着飾ることは禁物だと思います。 [#ここで字下げ終わり]    お客さまからのクレームは大切な財産 [#ここから2字下げ]  世の中には、よい情報と悪い情報があるものです。私たちは、とかくよい情報ばかりを取り上げて、悪い情報を無視しようとしがちですが、この傾向には問題があるように思います。 「ボロをまとった情報にこそ価値がある」とおっしゃったのは小林|宏治《こうじ》さん(NEC会長)でした。  とても人前に出せないような悪い情報でも、これを無視しては、正しい判断ができなくなってしまうのではないでしょうか。  どこの会社でも、悪い情報というものは、上にあげないようです。しかし、それは改善のための重要な材料のはずです。大切なのはその悪材料にどう対処するかだと思います。  たとえば、お客さまからのクレームは、悪い点を指摘されたのですから、悪い情報といえます。これを直接受けた人が上層部に報告せずに握りつぶしてしまったら、せっかくの改善のチャンスを逸することになります。  むしろ、お客さまからのクレームは大事な財産であると考えたいものです。  具体的な例でいえば、ある食品に問題が発生して、クレームがつけられたとします。そのとき、いい逃れをするのではなく、その食品を自分の子供が食べてしまったらどうするかという気持で、対処すべきだと思います。  これが誠実な態度であり、商売にたずさわるものとしての当然の態度ではないでしょうか。  そう考えたら、とても無視することなどできないはずです。 [#ここで字下げ終わり]    イエスマンとズケズケマン [#ここから2字下げ]  会社には、イエスマンとズケズケマンがいます。  イエスマンは、いわれたことはなんでも「ハイ、ハイ」と、いわれたとおりにし、文句をいいません。  それに対して、ズケズケマンは、議論好きで、自分が納得しないうちは、相手が誰であろうとも、ズケズケと自己を主張します。  一般的に、イエスマンは人から好かれ、ズケズケマンは嫌われやすいようです。  しかし、イエスマンは真相をつかんでも、上の顔色をうかがって、本当の報告をしないことがあります。一方、ズケズケマンは、真相をズバリと伝えてきます。  会社のためには、どちらがいいでしょうか。私は、ズケズケマンは会社の大切な財産だと思っています。  たとえ不愉快なことでも、それが真実であれば、ありのままに伝えるべきだと思います。粉飾《ふんしよく》は、その場はごまかせても、いつかはメッキがはがれます。それよりも、早いうちに真実の情報を受けて、それにすばやく対処するほうが、会社のためになります。 [#ここで字下げ終わり]     10  佐高信が著した『逃げない経営者たち』(講談社文庫)の中で、「商いは心くばりで決まる——伊藤雅俊」を採り上げているので、以下に引いておく。 [#ここから2字下げ]  伊藤は、世話になったある人から「好みによって滅ぶ」という言葉を教えられた。そして、「伊藤さんは商売好きだから、気をつけなさい」と言われたのだが、利益率抜群のイトーヨーカ堂のトップは物腰あくまでやわらかに、ていねいすぎるほどの口調で「商いの心くばり」を語る。言うまでもなく『商いの心くばり』(講談社文庫)はベストセラーとなった伊藤の著書のタイトルである。  ——伊藤さんは、ヨーカ堂躍進の基《もと》ともいうべき業務改革委員会には、ほとんど出られないそうですね。 〈ええ、あれは現場から出る非常に地味な細かいことを話し合っているんです。結局、現場が一番大切で、野菜の値づけにしても、これまでは全部セントラリゼーション(中央集権化)でやっていたけれども、ディセントラリゼーション(分権化)で、現場で決めていく。これは言葉でいうと簡単ですが、値づけのためには市場の状況を知る必要があって、仕入れのほうの市場の状況と、ご近所との競合の状況を見ながら決めなければならないわけですね。それを、ただ、お勤め人の意識でやろうとする人と、自分でやろうという考え方の人とは違ってくる。  たとえば、市場の情報というのは何時に来るのか。朝、納品の時に来てないと値づけができなくて困るんですが、お恥ずかしい話ですけど、その伝票が午後に来たりする。それを朝に来るように直すにはファックスを使うとか、いろいろあるわけで、みんな上からトップダウンでやるのではなくて、現場の人が実際にやったことをどう評価するかという問題なんですね。  私どもの会社は、わりあいとディセントラリゼーションでやってきたんですが、会社が急に大きくなる時はセントラリゼーションでやらざるをえない。そうすると、それに頼ってしまうわけです。言われたとおり、本部で値づけしたものをそのまま売っていれば楽ですからね。そういうことを一つ一つ意識改革させようということです。  たとえば、ワイシャツの発注でもS、M、Lがあったとしたら、うっかりすると、同じように発注してしまうわけですね。ところが、大きいほうは少ないし、真ん中のほうが多い。色も何種類もありますが、簡単に十枚、十枚、十枚と注文しがちです。しかし、その時の洋服の着方によって、白がたくさん売れたり、ちょっと寒いと、違う色が売れたりする。  それから、私どもの会社は、一番北は釧路《くしろ》にあり、一番南は加古川《かこがわ》にあるんですが、その温度差は二十度もあるんですね。それを全部、いままではセントラリゼーションでやっていた。  しかし、今度はPOS(販売時点情報管理システム)が入ってデータがわかってきたから、それぞれの店で考えてやっていけと言っているわけです〉 [#ここで字下げ終わり]  伊藤の話は抽象論ではなく、具体論である。それだけに説得力があり、イメージが広がる。「あまり話したくない」という戦争体験のことを聞いた時もそうだった。 [#ここから2字下げ]  ——伊藤さんの年代では、一、二割の男子が戦争に行って亡くなったということですが、そうした体験が商いのほうに影を落としていることはありませんか。 〈私は内地にいましたから、それほど怖い思いをしませんでしたし、学校でしごかれたといっても、そんなに大変なことじゃなかった。あれは、いわば戦国時代のようなものですから、そのなかで生き残れたのは運がよかったということかと思います。  しかし、ちょうど二十歳の時に、それまでの価値観が全部こわれ、既存のものがなくなったということはいいことだったんじゃないでしょうか。  私の年代の人は、電気をやたらにつけるんですよ。聞いてごらんなさい。みんなそうですよ。 それで、奥さんたちが消してまわる。娘や息子が家に来ると、明るすぎるって言います。戦時中の薄暗い灯火管制を経験し、そうしたいやな思いをして、戦後、街中の電気がパァーッとついた時の印象が強いんですね。案外、そんなものが人間の原体験なんじゃないですか〉  ——そうした窮乏体験を経て、いまはモノがあふれかえっているような状況ですね。 〈キャベツが飛行機で運ばれてくる時代ですよ。マグロが飛行機で来たりね。しかし、そういう贅沢って本当なのかなって思うんですよ。生活の質という問題で、そんな高いものを食べている日本人の生活の質が本当に高いのか〉  ——生活の質に関連して言うと、この間、オーストラリアに行ったんですが、向こうは一年間に四週間ぐらいまとめて休みをとるわけですね。それで、日本人はほとんど休みをとれないことを説明しても、どうしてもわかってもらえなかった。 〈アメリカの人は個人主義だから、自分が洋服着たかったら洋服着るし、着たくなかったら着ない。他人に嫉妬しないでしょう。ところが、日本人は中流意識で、みんな同じようなことを志向するから、かえって貧乏になっちゃうんじゃないでしょうか。  自分は自分でやっていればいいわけですよ。しかし、物差しが一つしかない。それがアメリカ人やヨーロッパ人には怖いんじゃないですか。そうじゃないと生きていけないというような感じがある。民主主義じゃなくて、お上《かみ》主義ですね。  今日、ロータリークラブに行きましたら、お隣にアメリカへ行っていた人で、ちょうど戦争が始まった時に収容所へ入れられた人がすわったんです。今度そうした日本人に国が謝罪して二万ドル払ったでしょう。その人は日本だったら、大統領のような人が謝ったりはしないでしょうって言ってたけども、そうでしょうね〉  ——伊藤さんは「一隅を照らす」という言葉が好きなようですが、そうしようと思っても、いろんな形で、飛沫《しぶき》がとんできますね。 〈そうですね。それは本当に困ります。日本で一番、政治の問題が遅れている。それは高度成長時代の生産中心の影響なんじゃないでしょうか。生産と流通と消費というのは円のようにグルッと回っていなければダメなんです。ところが、川上と川下とか、生産を上とする考え方になっている。しかし、極端なことを言うと、消費があって生産があるんですよ〉 [#ここで字下げ終わり]  また、伊藤は巨額の私財を投じて、平成六年三月十五日に「財団法人・伊藤謝恩育英財団」を設立した。 『文藝春秋』平成六年九月号に「�謝恩�の意味」と題するエッセイを寄稿しているが、このエッセイからも伊藤雅俊の巨《おお》きな人物像が浮かび上がってくる。だからこそ鈴木敏文(イトーヨーカ堂社長、セブン—イレブン・ジャパン会長)などの人材が伊藤の下《もと》で育つのだろう。 [#ここから2字下げ]  私は、イトーヨーカ堂社長から相談役に退いたことをきっかけに、この度、「伊藤謝恩育英財団」を設立した。この財団は、日本だけでなく全世界を対象にして、学業に打ち込みたいと思っていても、家庭の事情など、恵まれない若者のために奨学金を給与することを目的としたものだが、この財団に�謝恩�という名前をつけたため、各界の方々からこの由来について尋ねられることとなった。  私は、これまで私の商売を支えてくださった諸先輩方や友人たちにたいする御礼のつもりでつけたのである。私が今日あるのは、そうした方々のお蔭であり、今後は些少ながらも出来る限り�謝恩�をしていきたいと思っている。ここでささやかに私とイトーヨーカ堂の半生を振り返ることによって謝恩の意味をご理解いただけたら幸いである。  振り返ってみるとイトーヨーカ堂がここまで成長できたのは、創成期に苦労を共にした母と兄のお蔭である。  私の母伊藤ゆきは明治二十五年六月、万世橋の袂の乾物問屋の長女として生まれた。明治四十三年に結婚して兄の譲を生んだが、その時の夫は病死し、私の父と結婚した。  父は結婚して佃煮屋を始めたが、所詮素人商売で失敗。母は昔とった杵柄で乾物屋を開き、兄は進学を諦め浅草で「羊華堂洋品店」を経営していた叔父のもとに働きに出た。  兄は真面目な働きが評価され、叔父の羊華堂の暖簾わけを許され、浅草で一軒をまかされた。しかし父は、母がいくら寝る間を惜しんで働いてもまったく協力しない。それどころか女癖が悪くいつも母は苦労していた。結局昭和十五年、母は父と離婚し、私たちは兄のところへ転がり込んだのだった。  母が離婚したとき私はまだ学生だった。私は兄と同じように進学を諦め仕事をしようと思ったが、兄は私に進学することを勧め、私は横浜市立経済専門学校(現横浜市立大学)を無事卒業することができた。しかし卒業と同時に陸軍へ入隊、昭和二十年に東京へ戻った時には、羊華堂は空襲ですべてなくなっていたのである。  しかし私たち三人は零からのスタートを誓った。北千住のそば屋「たぬきや」さんの店先に二坪の場所を借りて洋品店「羊華堂」を再開したのである。母のモットーは「よい品を出来るだけ安く」、それが現在のイトーヨーカ堂の実質的な始まりとなった。 ありがたいことに羊華堂にはたくさんのお客さまがつき、店の拡張のため二年間に三度引っ越した。そして三度目の引っ越しの時に転機が訪れた。  私たちは当時の金で二十七万円の借金をして百三十坪の店を借り、表通りに進出したのである。この時おカネを貸してくださったのが取引先のネクタイ問屋の渋井賢太郎さんだった。渋井さんは担保も何もないのに、私たちの誠意だけを担保として貸してくださったのである。後に私の仲人まで引き受けて下さったが、渋井さんのご恩は忘れようにも忘れられない。  母や兄の寸暇を惜しんだ働きが功を奏し、羊華堂は昭和三十一年には一億を売上げるまでとなった。ところがその矢先に兄が死んだのだ。私を励まし続けた兄の死で、私はすっかりめげてしまった。その時私を力づけてくれたのが取引先で知り合った平塚・梅屋百貨店の関口寛快社長さんだった。「今、おまえが投げ出したら従業員やお母さんはどうすればいいんだ」の一言で、私は立ち直るきっかけを与えられたのである。  この二人の大恩人のお蔭で、何度か苦境はあったものの、それからの商売は順調だった。昭和三十三年、イトーヨーカ堂設立と同時に千住店の売場面積を二百六十五坪に拡張し、社員七十名の衣料スーパーに変身させた。  昭和三十六年には欧米のスーパーを視察し、チェーンストア化を模索、その年の秋には二号店を出し、五年間で十店舗に拡張した。昭和五十年代は、コンビニエンスストアの時代を先取りし「セブン‐イレブン」を、またコーヒーショップスタイルのレストラン「デニーズ」を成功させた。イトーヨーカ堂グループは昨年度の売上四兆四千億、税前利益二千億を数える大集団になったのである。こうして振り返ってみると、何度も言うようだが、私の成功はつくづく周囲の方々のお蔭だと思う。母と兄がいなかったら途中でくじけただろうし、叔父が洋品屋をやっていなかったら、この商売をやろうとは思いつかなかった。渋井さんがおカネを貸してくださらなかったら、単なる町の洋品屋で終わっただろうし、関口さんがいなければ、私は途中で投げ出してしまったかもしれない。  それだけではない。創業期の昭和三十年代から四十年代、担保もないのに「貸し倒れになったら、俺、クビになっちゃうよな」と言いながら貸してくれた銀行の支店長さんとは、いまでも親しくお付き合いしている。その他数限りない方々の真心によって今の私はある。  努力することの大切さを私に教えてくれた母は、昭和五十七年、八十九歳で大往生を遂げた。相談役として一昨年、グループの経営を後進に譲った私は、これまで私がいろいろな方に受けた恩のほんのわずかに過ぎないかもしれないが、苦労をしていても温かさを忘れない若者のために返したいと思ったのである。 [#ここで字下げ終わり]  第九章 去る者は追わず     1  赤津博徳が川口の配送センターに武田光司を訪ねてきたのは、昭和五十二年の晩秋のことだ。  赤津は武田が文華放送を辞職し、サンポール物産に入社したときの部下第一号である。  サンポール物産は親会社サンポールの創業社長が経営路線を転換したことによって解散を余儀なくされ、武田のサンポール物産在籍期間はわずか数か月に過ぎなかった。紆余《うよ》曲折を経て武田は昭和四十七年七月にホダカ物産を設立した。  赤津はサンポールからの出向社員だったので、サンポールに復職することは可能だったが、武田と行動を共にしてくれた。台湾製の自転車の失敗に懲《こ》りず、自転車に執念をたぎらせるエネルギッシュで性格の明るい武田に魅《ひ》かれたのかもしれない。  ホダカ物産の創業期に赤津をどれほど酷使したかは、武田がいちばんよく知っていた。  芝浦工大で学んだ赤津はエンジニアの端くれだが、武田の営業助手から自転車の組み立て、出荷、配達となんでもこなした。  イトーヨーカ堂との取引が本格化し、売上が倍々ゲームで急伸長し、出荷しても出荷しても足りない時代に、赤津は愚痴ひとつこぼさずに、こま鼠《ねずみ》のように動き回り、走り回った。  ホダカ物産の本社事務所が赤坂にある広友社の一隅を借りていた時代に、赤津は電話番をしてくれた大森美津子と恋愛し、結婚した。  川口配送センターで赤津と武田がこんなやりとりをしたのは、昭和五十年春ごろのことだ。 「あしたの日曜日は休ませてください」 「休日! 取れるものなら取ってみろ、取れる状態か!」  朝六時、七時から、夜十時、十一時まで働き詰めに働かされて、休日返上はない、と赤津は思う。  勝手に休んでしまえばそれまでだが、ひとのよい赤津はそれができなかった。休めば、武田の負担増になることがわかっていたからだ。  社員も三十人ほどに増え、パートの女性も何人かいたが、この時代、赤津は武田の右腕的存在だった。  仕事量が膨大なるが故に、武田は苛立《いらだ》つ。 「おまえ、なにやってんだ!」  怒られ役も赤津である。怒られる理由がわからないことも一再ならずあった。  ときには尻《しり》をしたたかにひっぱたかれた。  デートの時間が迫って、赤津が時計を気にし出すと、武田が先回りして厭味《いやみ》たっぷりに言う。 「まだ仕事は終わってないぞ。こう忙しいとデートどころじゃないよなあ」  赤津は何度美津子とのデートをすっぽかしたかわからない。 �狂気の時代��狂気の人間集団�とでもいうか、会社の創業期にはいずこも似たような人間ドラマがあり、人間模様があやなされたのではなかったろうか。  資本と人材の原始的蓄積はこんな過程で形成されていったというべきかもしれない。  もっとも、武田は赤津に当たったり、怒鳴ったあとで、罪滅ぼしに取引先の接待に同席させることがあった。  赤津は苦み走った渋い二枚目で、頭髪をスポーツ刈りにしていた。それを武田は�法界坊《ほうかいぼう》�とからかう。  赤津の頭を撫《な》でながら武田が言った。 「�法界坊�、デートをすっぽかされたくらいで、ふくれっ面《つら》するような女性だったら、おまえのほうが振ってやれ」 「社長、無茶苦茶言わないでくださいよ」 「美津子さんは気だてのいい娘だから、その点は、ま、心配ないか」  武田は銀座のバーのホステスにもけっこう気を遣《つか》った。  美形を鼻にかけて、気働きもせず、ただ座っているだけのホステスに「一杯どう」と水割りウイスキーをすすめたとき、「ジュースでもいただこうかしら」ときた。 「きみ、生意気言うんじゃないよ。水割りでも飲んでればいいものを、ジュースでもとはなんだ。きみのような無能なホステスにご馳走《ちそう》するために、ウチの社員が補修用の自転車の鍵《かぎ》を五十コ、飲まず食わずでも出荷しなくちゃならんのだ。きみと飲むのは断る! ママ、ホステスを替えてくれ」  武田は接待客の前であれ、言い放つ。  赤津は武田がトイレに立ったすきに接待客を懸命にとりなしたものだ。 「社長は気が立ってるんです。社員が無能で社長に負担がかかってるものですから。お気を悪くなさらないでください」 「武田さんらしくていいよ。わたしも胸がスーッとした。どっちが客なんだかわかんないああいうホステスには、あれでいいんだ」 �狂気の時代�に、武田と共に生きた赤津が突然、辞表を提出したのは、昭和五十年十月下旬のことだ。夜、仕事が一段落したあと、川口配送センターの事務室でデスクの上に白い封書が置かれた。 「なんだこれ! 辞表なんて冗談じゃないぞ!」  武田は頭に血がのぼった。 「赤津は俺《おれ》を恨んでるのか」 「とんでもない。社長に鍛えていただいたからこそ、今日のわたしがあるんです。事前に相談しなかった点はお詫《わ》びしますが、断れるものなら断りたいと思ったものですから……」 「ホ、ホダカを辞めて、ど、どこへ行くんだ」  武田は逆上して口ごもった。 「父が叔父と消火器販売、消火設備を扱っている東亜防災株式会社の共同経営者ということは以前話したと思いますが」 「うん」 「叔父が社長ですから、兄の父が弟の下で働いてるといったほうが事実に近いのですが、親父が躰《からだ》を悪くして身を引きたいって言い出したんです。父の代わりにわたしを東亜防災に入社させて、後継者として育てたい、というわけなんです。父も、わたしの入社を強く望んでます。父と叔父の二人がかりで攻められて、断り切れなくなりました」 「ふうーん」  武田は唸《うな》り声を発し、腕組みしてしばらく天井を睨《にら》んでいたが、赤津に降りてきた眼に優しさが宿っていた。 「赤津の意思は固いんだろうねぇ。そういう事情じゃあ慰留してもムダかなぁ」 「申し訳ありません」 「うん」  武田の眼に涙が滲《にじ》んだ。  文華放送局を辞めたときに辞表をめぐって小柳とやりあった場面を眼に浮かべていたのである。 「おまえは性格がよすぎる点が心配だ。大学の学費を稼ぐために夏休みにビアガーデンでアルバイトをした話を思い出したが……」  後は声にならなかった。  赤津はアルバイト仲間の女性たちとの打ち上げ会で、せっかく稼いだアルバイト料を全部はたいてしまったのである。  品川《しながわ》の倉庫で台湾製の粗悪な自転車と格闘していたときに、香榮子が差し入れたおむすびを食べながら赤津がそんな話をしたのだ。  赤津に大盤ぶるまいをさせた女性たちが広友社の事務所に彼を訪ねてきたことがあった。  女性たちが引き取ったあとで、武田がのたまった。 「どれもこれもブスばっかりじゃないか。おまえは生まれながらに審美眼が欠如しているし、カネの使い方もわかっていないおっちょこちょいだなぁ。大森さんぐらいの美人ならご馳走したくなるのもわかるけど」  赤津と美津子が相思相愛の仲になるのは、その直後だ。  武田は気持ちの整理をつけて、右手の甲で眼をこすった。 「辞表受理するよ。去る者は追わないのが俺の流儀だ。いま赤津に辞められたらどれほど俺が困るか、おまえがいちばんよく知ってるはずだ。でも、俺は弱音は吐かんからな。ちょっと来てくれ」  武田は赤津を倉庫に連れ出した。  ペダルを外した自転車の完成車が並んでいる。 「借入金が二億八千万円もあるから、退職金は出せないぞ」 「よく存じてます。給料の遅配が一度もなかっただけでもめっけものだと思ってますよ」 「この野郎。言わせておけば……」  武田は�法界坊�を軽くぶった。 「自転車を退職金替わりに持ってってくれ。何台でもいいぞ」 「一台でたくさんです」  赤津が自転車に近づいて、なんとはなしにベルをリンリンと鳴らした。いい音色のリンリンが倉庫内にこだました。それは武田の胸にも響いた。 「リンリンか……。勇気|凜々《りんりん》、勇気百倍だ。赤津に去られると知って、俺はもりもり元気が出てきたぞ。虚勢を張ってるわけじゃないからな」  武田の大きな地声もこだました。 「申し訳ありません」  こんどは赤津のほうが肩を小刻みにふるわせた。  武田が赤津の背中をどやしつけた。 「なにか困ったことがあったら相談に来てくれよな。ホダカに帰りたくなったら、いつでも帰って来い」     2  冗談ともつかずに武田が言った。 「消火器なら間に合ってるぞ。ずいぶん買わされたからなぁ」 「もう消火器を押し売りすることはありませんから、ご安心ください」 「…………」 「東亜防災、八月に辞めました」 「なんだって。ホダカに戻ってきてくれるのか」 「違いますよ。この二年間で身につけた防災設備の電気工事関連技術を生かして、会社をつくりたいんです。地元の日立市に事務所を置きます」 「東亜防災よく辞められたなぁ」 「叔父としっくりいかなかったんです。わたしを後継者として育てたいなんて言うのはリップサービスで、叔父は体《てい》よく父を追い出したのかもしれません」 「会社をつくってやっていけるのか」 「ええ。株式会社第一エンジニアリングを十二月に設立しますが、社長に役員になってもらいたいと思いまして」 「開業費はどのくらいかかるんだ」 「四、五百万円でしょうか。五百万円の元手がありますから、資金的には大丈夫です」 「百万円出資させてもらおう。退職金を払ってやれなかったから、せめてもの償いをさせてもらうよ」 「ありがたくお受けします。資本金は六百万円にします」  赤津は社長兼技術者兼工事人兼……で、武田が呆《あき》れるほどよく働いた。  武田は、拡張を続けるホダカの施設のうち電気工事のすべてを第一エンジニアリングに発注するなど、赤津への支援を惜しまなかった。  しかし、赤津の人柄のよさが禍《わざわい》して経営状態ははかばかしくなかった。  現金払いの契約が手形に変更されることがしばしばで、資産形成のない第一エンジニアリングは、その都度手形を割らなければ立ちゆかない。  赤津は切羽詰まると武田に電話をかけてくる。 「社長、急で悪いんですが、手形を割っていただけませんか」 「ダメだ。並び大名とはいえ、役員の俺に会社の現状報告もしないで、そんなことを頼めた義理か」 「その点は重々お詫びします。そんなつれないことを言わないで、助けてくださいよ」 「たまに電話をかけてくれば、手形を割れか。おまえはキメの細かさに欠けるし、詰めも甘い。そんなことで会社が経営できるのか」 「とにかくお願いします。社長しか頼れるところがありません」  赤津は武田が折れることを見抜いていた。 「しょうがないやつだ。おまえが担保だ。手形割引といえども借用証を書いてこい」  手形割引は何度あったことか。  平成五年十一月に第一エンジニアリングは村元建設の倒産で三千万円の焦げ付きが発生した。平成六年一月一日付の手形が不渡りになったのだ。  赤津が平成五年十月に地元の日立市に自宅を新築した矢先の事件である。  武田は、働きづめに働いて報《むく》いられない赤津が哀れでならなかった。 「死んでしまいたいくらいです」  赤津は、ほんとうに自殺しかねないほど打ちひしがれていた。  まだ四十五歳の赤津の頭髪が薄くなっている。 「なにやってんだ!」と、武田に怒鳴られた往時の面影《おもかげ》はなかった。  三千万円の手形割引も、ホダカ物産の枠で行なわれていたので、赤津が武田のところへ駆けつけるのは当然であった。 「日立の自宅は土地は母の名義ですが、家屋はわたしの名義です。住宅金融公庫と第一勧業銀行の担保になってますから、処分しようがありません。一千万円は保証協会から出してもらえますが」 「三千万円の手形はホダカが融資するから、即刻買い戻せ。保証協会の一千万円は、一勧経由でホダカに返済しろ。残額の二千万円は長期割賦で返せ。無理をしないで月額いくら返せるんだ」 「二十五万か三十万でしたら」 「じゃあ二十五万でいい。おまえはついてないよなぁ」 「社長にはご迷惑ばかりかけて」 「会社だけは潰《つぶ》してはならん。歯をくいしばって頑張るんだ。美津子さん元気か」 「ええ」 「あの人には広友社の居候時代に無報酬で電話番をやってもらったし、おまえとのデートをよく邪魔して、借りがあるよなぁ。大事にしてくれよな」  武田の温情に赤津ははらはら涙を流した。     3  武田にとって、赤津の退職以上にショックだったのは、吉田康宏の退職である。  昭和五十七年の初冬のことだ。  吉田は武田が最も目をかけていた若手のホープだった。だからこそイトーヨーカ堂を担当させたのである。  武田は「ヤス」と呼び、香榮子は「ヤッちゃん」と呼んで吉田を可愛がった。  吉田は原木中山《ばらきなかやま》の家にもよく遊びにきた。  その吉田が唐突に、会社を辞めたいと言ってきたのだ。 「いったいどうしたっていうんだ。俺のどこが気に入らないんだ」 「…………」 「ヤス、黙ってないで理由ぐらい言ってくれよ。俺に到らない点があるんなら反省もしよう。去る者は追わない。しかし、辞める動機なり、理由ぐらい言ってもバチは当たらんだろうや」  吉田はとうとう一言も発しなかった。二十五日の給料日に辞表を提出し、そのまま退社してしまったのだから、徹底している。周到に準備していたと見え、机もロッカーも片づいていた。  吉田が辞表を提出した日、武田はホダカ物産を創業して以来、初めて早退した。  落胆がそれだけ大きかったのである。  武田は、昭和五十七年十月に原木中山から越谷《こしがや》に転居したが、転居して間もない十一月二十五日は生涯忘れ得ぬ日になった。  帰宅するなり、武田は酒をがぶ飲みして、布団《ふとん》をかぶってふて寝した。 「あなた、どうしたの。躰の調子でも悪いんですか」 「うるせぇ。おまえに関係ない」 「子供みたいになんですか」 「莫迦莫迦《ばかばか》しくって仕事なんかやってられねぇよ」 「だから、どうしたのか訊《き》いてるんじゃないの」 「ふざけんな!」  布団を剥《は》がされて、武田は香榮子を睨みつけた。 「わたしに当たるのは勝手だけど、理由《わけ》を言いなさい」  香榮子も負けずに睨み返した。  内心一本取られた、と武田は思った。これでは吉田と変わるところがない。 「ヤスが会社を辞めたんだ」 「えっ! ヤッちゃんが」 「ああ。なんで辞めたのか、さっぱりわからないんだ」 「あなたがショックを受けるのはよくわかるわ。わたしもショックだわ」 「俺がなにか悪いことしたか。俺はそこらの中小企業経営者みたいに公私混同してないぞ。ベンツなどの高級車を社用車にして乗り回すぐらいはゆるせるが、女房や子供の分までやれアウディだのジャガーだのと会社のカネで買ってる手合いもいる。俺はそんなやつに、だったら社員にもベンツを買って乗せてやれよって皮肉を言ってやるんだ。高級外車に乗ってると人品も高級になる訳でもなかろうがって言ってやるが、蛙《かえる》のツラにションベンだ。そのうち銀座の高級クラブで高級な酒をこれ見よがしに飲むようになる。そして最後は女を高級マンションに囲う。すべて社費だ。この三つのパターンをやってるやつに限って、カマドの灰まで俺の物と思ってるから始末が悪い。そのくせ�事業は人なり�なんて調子のいいことを言ってやがる……」  武田は布団にあぐらをかいて、滔々《とうとう》とまくしたてた。 「俺は�企業経営は集団的な人間教育の場�と考えている。『日清紡六十年史』の櫻田武さんの序文を経営のバックボーンのひとつとしてきたつもりだ……」 『日清紡六十年史』は昭和四十四年十一月に刊行された。武田は櫻田の序文に深い感銘を受けた。その中で当時取締役会長の櫻田は次のように書いている。 [#ここから2字下げ]  人間集団の運営を「教育の場」として考え、且つ社内の学校を始めとする教育機関に於て之を勇敢に実践した。  唯我々は史書に於ても、又一生の間にも、国の興亡、企業の生滅を数多く見て来た。其の間に於て言える事は、社是に言う至誠一貫の精神で結ばれた人間集団で、質実剛健の気風を持つものにして亡びたものは極めて少ない。国に於ても企業に於ても家に於ても又然り。 [#ここで字下げ終わり] 「なるが故に教育の場である会社において公平、公正、公開の原則を貫いてきたつもりだし、道理の経営を標榜《ひようぼう》して会社の清浄さを保持しようと努力してきたつもりだ。間違っても二人の息子をホダカに入社させようなんてことはしないからな……」 「そのぐらいはゆるせるんじゃないかしら」 「ダメだ。いま現在も親類縁者を排しているが、教育の場である会社を穢《けが》したくないからだ。社員のために俺は懸命に働いてきたつもりだが、ヤスの野郎、そんな俺を、そういうホダカを見捨てるっていうのか。俺は仕事をするのが阿呆《あほ》らしくなってきた。理由はこれでわかったろう。寝るぞ!」  武田はふたたびふて寝を始めた。  翌朝、七時過ぎに香榮子が枕元《まくらもと》に座っていた。 「あなた、起きなさい! ヤッちゃんだけが社員じゃないでしょ。ヤッちゃん以外の社員が百三十人もいるのよ。きょうもみんな頑張ってくれてるのに、ふて寝なんかしてて悪いとは思わないの。ほかの社員は可愛くないんですか」  武田がガバッと、はね起きた。 「そうだな。社員はヤスだけじゃない」 「あなたがヤッちゃんを可愛がり過ぎることをほかの社員がどんな思いでみてたかしら」 「うん。みんなに合わせる顔がない。公平でなかったかもしれないなぁ。社員に申し訳ないことをした」  武田の声がくぐもり、熱いものが胸もとにこみあげてきた。 「俺が悪かった」 「ご飯を食べて会社に行きなさい。あなたは仕事をすれば気持ちが晴れる人なのよ」  香榮子に叱《しか》られ、励まされて、武田は気持ちを立て直すことができた。     4  夜遅く帰宅した武田が、しみじみとした口調で香榮子に言った。 「夕方、社員に集まってもらって、頭を下げたぞ。いつも怒鳴りまくってばかりいる俺が吉田康宏の退職を報告し、吉田を重用し過ぎ、甘やかしたことを反省して、頭を下げたんだから、みんなきょとんとしてたよ」 「よかったわ。それでこそ、お父さんよ。ヤッちゃんが辞めたくらいでうじうじしてるなんて、あなたらしくないわ」 「俺はホダカの創業以来、ずっと香榮子に助けられてきた。最初は髪結《かみゆ》いの亭主だったし、きみに市川の子供たちの面倒までみてもらった。そして、きょうは一発ぶんなぐられて、目が覚めたような気持ちだよ。ほんと蘇生《そせい》したような思いだ」 「蘇生はオーバーよ」 「いや、そんな感じだ」 「それじゃ、蘇生したお祝いに乾杯しましょう」  二人は風呂上がりにビールで乾杯した。 「旨《うま》い。今夜のビールは格別だよ。ヤスごときでなんでホダカを投げ出しちゃおうなんて思ったのか不思議だよ」 「ヤッちゃんは仕事ができるし、性格もいいから、きっと大成することを期待してたんでしょ。夢を託し過ぎたのかしら」 「そうかもしれない。ヤスにはそれが重荷だったのかねぇ。ほかの社員のジェラシーも買ってたかもなあ」 「そういうことってあるかもしれないわね」 「心しなければな」 「あなた、いつだったかホダカには出戻り社員が何人かいるって自慢してたけど、その人たちの居心地はどうなのかしら」  武田は五人の顔をひとりひとり思い浮かべて、大きくうなずいた。 「俺は創業以来、自分の会社の労働条件、つまり休日数、拘束時間、職場の環境、賃金、賞与などについて、自信を持てたことがない。社員寮や厚生施設などの福利厚生面でも然りだ。小企業から中企業になったが、なんとか自信が持てるように努力はしているけど、大企業にはかないっこない。日本の大企業の労働条件や福利厚生が国際経済の中でやり過ぎかどうかは措《お》くとして、上には上があることは紛《まぎ》れもない事実だ。会社という米櫃《こめびつ》を守りながら、それを種モミまで食ってしまわないように分配のサジ加減を間違えないように注意してきた……」  武田はグラスを乾し香榮子の酌を受けて、話をつづけた。 「社員に充分に報いてきていない、報いてやれない負い目から、ヤスのように辞められても仕方がないという思いが残るんだろうねぇ。その代わりといっちゃあなんだけど、復職したいと言ってくる元社員を受け容《い》れることにしてるんだ」 「誰でも……」 「そうはいかないよ。一定の条件を満たしていればの話だ」 「一定の条件って?」 「三つある。ひとつは辞めて競争相手の会社に就職し、かつての仲間に迷惑をかけていないこと、二つは辞めてきた会社の悪口を言わないこと。多少は仕方がないけど、一宿一飯の恩義はあると思うんだ。三は辞めたあと苦労して人間が大きくなった者だよ」 「けっこう厳しいのねぇ」 「そうでもないだろう」 「人間が大きくなったなんてわかるものかしらねぇ」 「そのぐらい見抜けなくちゃあ、社長はやってられないよ」  武田はビールを飲んで、ぐっと胸を張った。     5  武田が文華放送の営業マン時代に知り得て以来、盟友関係にある葛巻成介との間で、修復不能かと思える大喧嘩《おおげんか》を一度だけした事実がある。  葛巻は広告代理店、広友社の社長だが、トップ・マネージメントの能力を発揮しているとは言えなかった。  企画力は抜群だが、部下に厳しく命令したり、自分の方針を日常の業務で徹底させることが不得手なのだ。  ホダカ物産と広友社は相互に株式を持ち合い、武田は広友社の、葛巻はホダカ物産の非常勤役員だが、武田は広友社がいつ倒産してもおかしくない、と思っていた。  葛巻は昭和三十七年に慶応義塾大学文学部を卒業している。スリムで頭髪を七三に分け、ダンディの印象を与えるが、それにしてはスーツなどに頓着《とんちやく》するほうではなく、いつもツルシを着ていた。  手先が器用なことは台湾製自転車の組み立てで実証済みだが、企画書を書いているときがいちばん気持ちが充実している——。葛巻はそんな男だった。味覚にも関心がない。  一方、武田は食いしんぼうで味にうるさいほうだ。太り肉《じし》と痩身《そうしん》、食通と味覚オンチ、営業マンと企画マン、早大と慶大、およそ正反対の二人だが、若いころからウマが合うから不思議だった。  広友社のクライアントにオフィス・コーヒー・サービス(OCS)を手がけている株式会社ダイオーがあった。  ダイオーの創業社長は、葛巻の読広時代の同僚である小久保真一だ。アメリカから小久保が持ち込んだOCSを日本で定着させるために、葛巻は企画力を発揮したが、小久保と意見の衝突があって、葛巻はダイオーから離れざるを得なくなった。  その直後にダイオーに内紛が出来《しゆつたい》し、労働組合が誕生、組合幹部から支援を求められた葛巻が「どうしたものか」と、武田に電話で相談してきた。昭和六十年二月上旬のことだ。  当時、ホダカ物産は年商約六十億円に業容を拡大していた。 「葛巻と一緒に組合の連中の話を聞いてやろう」 「それはありがたい。武田さんの都合のいい日時を二、三あげてください。それに合わせるようにします」  武田は日程表を見ながら、返事をした。そしてつけ加えた。 「場所は赤坂の広友社がいいだろう」 「川口へ出向きますよ」 「俺が出向く。心配しなくていい」  こうして、二月中旬の某日、広友社の応接室にダイオーの組合幹部九人と武田、葛巻の十一人が集まり、ひたいを寄せることになる。  組合幹部の話を聞きながら、武田はふと昭和三十五年(一九六〇年)六月十五日の夜のことを思い出していた。  大学二年生のとき、社会思想研究会の仲間と安保闘争で国会構内抗議集会に参加するため、国会へ突入したのだ。 「安保粉砕!」「岸を倒せ!」と叫びながら武田たちはいつの間にか先頭グループの一団の中にいた。  正面から重装備の機動隊の屈強な隊員が警棒を振り上げて襲いかかってくる。  警棒で殴られ、追い立てられるが、後方から突入してくる仲間に押し上げられ、人間が塊となって波のように盛り上がり、うねりながら落下して砕け散った。武田のわずか十メートルほどの至近距離で樺《かんば》美智子さんが無残にも踏み潰《つぶ》され、圧死した。  二十万人もの民衆が国会議事堂を連日包囲し、さながら革命前夜を想起させた安保闘争に、俺はどんな思いで、どんな顔で参加したのだろうか。  民衆の最前列で国会議事堂突入を敢行し、機動隊と向かい合ったとき、死を覚悟したろうか。  安保闘争への参加は若気《わかげ》の至りだったのか。いや切迫したなにかがあった。     6  ダイオーの組合幹部たちを前にして、ふと安保闘争に参加した若かりし時代に思いを馳《は》せたが、武田はすぐに現実に戻った。  組合幹部たちの話は、労働組合運動レベルの話などではなかった。  なんのことはない。経理を公正に公開し、会社が利益を出しているときは社員にもそれなりの配分をして欲しい、といった程度の話ではないか。 �道理の経営�を旨としてホダカ物産を経営してきた武田にしてみれば、彼らの主張は至極|尤《もつと》もで、異論などあろうはずがなかった。 「OCSのビジネスを自分たちでやったらどうですか。会社を設立するために力になりますよ」  武田の提案を、組合幹部たちはにわかには信じられなかったようだ。九人のうち女性が六人、男性は三人。  このビジネスは訪問販売が主力なので、女性向きの仕事なのだ。  彼女ら、彼らはこんなふうに急展開するとは思わなかったのだろう。 「武田さん、ほんとにいいんですか」  葛巻に念を押されて、武田はにこやかにうなずいた。 「もちろん。葛巻だってそのつもりだったんだろう」 「まあ、それはそうだけど」  二人のやりとりを聞いて、九人はやっと夢ではなく、現実なのだとさとったとみえる。 「ありがとうございます」 「夢のようです」  顔を見合わせて握手している者もいた。  武田がその場で新会社の設立を確約してくれるとは夢想だにしていなかったのだ。 「事業のコンセプトは、�FOSS�なんてどうでしょうか」  葛巻の発言は、組合幹部たちをいっそう驚かせた。 「�Future Office Service System�の頭文字を合わせたんですが……」 「フューチャー オフィス サービス システム。|FOSS《フオス》か、いいじゃないか。葛巻がそこまで考えてたとはねぇ。わたしがこの話に乗らないはずはないと読んでたわけだな」 「永いつきあいですから、武田さんがなにを考えてるかくらいわからないでどうしますか」  葛巻が真顔で言い、武田も表情をひきしめてうなずき返した。  ダイオーの九人はもはや大船に乗った気持ちである。胸がわくわくしてくる。 「オフィスのハイテク化の中で疲労する人々へ、心のこもった一杯のコーヒーを手軽にさしあげる。これも時代のハイテク化の中で不可欠なハイタッチな仕事ですよ」 「なるほど。未来のオフィスへハイタッチのためのサービスをシステムとして提供する——。これがFOSSのコンセプトだな。コーヒーに限らず浄水器、空気清浄器などのリースサービスや、ランチサービスも考えていいんじゃないのか」  こうして昭和六十年四月、武田たちはFOSS事業に乗り出し、株式会社マルキンジャパンが発足した。  資本金三千万円は全額ホダカ物産が出資した。FOSS事業は順調なスタートを切った。     7  一方、広友社は厳しい経営を強《し》いられていた。  昭和五十九年六月に資本金を三千六百万円に倍額増資し、武田がその五〇パーセントを出資、葛巻と並んで代表取締役に就任した。武田は週に一日、赤坂の広友社に詰めて、経費や営業活動のチェックをするようにした。  FOSS事業がスタートして二年ほど経ったころ、ある投資案件をめぐって武田と葛巻がぶつかった。つかみ合いにはならなかったが、社員たちがハラハラするほどの大喧嘩である。  経営路線をめぐる対立だが、二人とも一歩も引かない。 「夫婦喧嘩みたいなものだから、どっちにも味方してはならん。後で和解したときに変な立場になりかねないぞ」  武田は広友社の古参社員に釘《くぎ》をさすことを忘れなかった。  葛巻は武田のほうから折れてくると踏んでいたが、武田はこの機会に葛巻の経営者としての考え方を再教育するチャンスと思っていたから、譲歩するつもりは毛頭なかったので、しばらく広友社に顔を出さなかった。  葛巻はじれて古参社員に当たり散らす。 「きみたちはなんで武田さんをここへ呼んでこんのだ。わたしたちが喧嘩状態になってるのはきみたちにとってメリットなのか。それともおもしろいのか」  武田に広友社への出社を促す電話をかけてきた古参社員を、武田は怒鳴りつけた。 「余計なこと言うな! 俺に用があるんなら葛巻に電話をかけさせろ!」  結局、葛巻が折れ、「あの投資は資金の見通しがついてからやります」と撤回してきた。  葛巻のあれもやりたい、これもやりたいを武田は片っぱしから拒否した。  見通しが甘い計画に乗れるわけがない。  昭和六十二年五月の連休明けに葛巻からホダカ物産本社の武田に電話がかかった。 「関西の不動産業者で、岡田忠雄さんという六十歳の人がいるんですけど、広友社に不動産部を設けたらどうか、と進言してくれてます。不動産事業で広友社の赤字などすぐ消してくれるそうですよ」  広友社の累積損失は一億円以上になっていた。  葛巻の電話に、武田はカッとなった。  俺が広友社の経営に過剰介入していると取っている葛巻は俺を追い出す魂胆なのだ——。 「葛巻以外の広友社の役員の所在場所とFAXを教えてくれ」 「どういうことですか」 「いいから、早くしろ」  葛巻を含めて役員三人の居場所とFAXを聞き出して、武田は電話を切った。  代表取締役辞任届をFAXで送信し、返信を求めた。  葛巻たちは武田の辞任を承認する旨、返信してきた。  その夜、武田はFAXを香榮子に見せながら言った。 「葛巻の野郎、嘘《うそ》でも慰留するのがあいつの立場だと思うけどなぁ。妙な策を弄《ろう》さないで辞めてくれのひとことで済むものを……」 「あなたが煙たくってしょうがなかったんでしょ」 「しかし、葛巻は経営者失格だ。企画マンとしてのセンスは抜群だが、経営センスはゼロだ。岡田っていう人に庇《ひさし》を貸して母屋を取られるようなことにならなければいいんだがねぇ」 「株は全部引き上げちゃうの」 「そうだなぁ。その点はちょっと考えてみるか」  日を置かずに武田は広友社で、葛巻と岡田に面会した。 「わたしが所有している一千八百万円分の株式のうち一千万円分を岡田さんに譲渡します。八百万円分はとりあえず残しておきましょうか」 「けっこうですが、全株お譲りいただけるものと思ってたのですが」 「とりあえず、そういうことでお願いします」  岡田は不満そうだったが、一千万円分に葛巻から譲渡を受けた百万円分を上積みして、一千百万円分の株式を取得し、広友社の代表取締役会長に就任した。  葛巻の持ち分は一千万円だ。武田の八百万円を合わせれば一千八百万円で、五〇パーセントになる。さらに古参社員の持株を上乗せすればマジョリティを取れるので、岡田の言いなりにならなくて済む。そう武田は計算したのである。  岡田が席を外したすきに武田が葛巻に言った。 「広友社と俺との実質的なつきあいはこれで終わったわけだな」 「そんな冷たいこと言わないでくださいよ。マルキンジャパンはわたしと東芝で共同開発したコーヒー抽出器ブリューワーを使ってくれてるじゃないですか。それにマルキン自転車の文華放送のCMは広友社の扱いです。取引関係は継続してるんですから」 「おまえ、俺が八百万円分残した意味わかってるのか」 「…………」 「おまえに対する友情の証《あかし》だよ。喧嘩もしたが、俺と自転車を結びつけてくれた葛巻は、俺にとって恩人でもあるからな。岡田氏は、ヤマ師的なところがある。気をつけたほうがいいぞ」  葛巻は胸を去来するものがあるのか、面《おもて》を上げなかった。  岡田はその後、再三再四、八百万円分の株の譲渡を要請してきたが、武田はのらりくらりかわして、応じなかった。  バブル経済が弾《はじ》け、広友社が購入した伊豆熱川《いずあたがわ》高原の別荘用地が大幅に下落し、不動産事業が行き詰まった。  岡田が広友社の資金を別の会社に流用していたことも発覚し、裁判|沙汰《ざた》になった。  平成六年二月、広友社は倒産、友情の証の八百万円の株式を武田は償却せざるを得なくなった。  葛巻は武田宅で土下座した。 「経営者失格です。武田さんに合わせる顔がありません」 「赤津といい、葛巻といい、なんにも悪いことをしてないやつに限って、こういう結果になってしまうんだよなぁ。いまだから話すが、岡田氏は八百万円分の株を譲渡しろって、しつこく言ってきた。広友社のオーナー会長になりたかったんだろう。あいつの言うことを聞いてやればよかったよ。どっちみち葛巻のことだから、岡田氏に振り回されっぱなしだったんだろう。葛巻がしたたかな不動産屋にかなうわけがないもの」 「一言もありません」 「志保子さんはどうしてる」 「とりあえず甲府の実家に帰しました」  志保子は葛巻の妻で、亭主同士は喧嘩していても、香榮子は志保子とは友達づきあいを続けていた。 「広友社のOCS部門の機械関係等の資産は、在庫を含めて全部マルキンジャパンで買い取るようにしよう。それを債権者の返済資金に充当すれば、葛巻は円満にリタイアできるんじゃないのか」 「なにからなにまで。わたしの尻《しり》ぬぐいを武田さんにやってもらうなんて……」  葛巻は涙声になっていた。 「葛巻をマルキンジャパンの顧問として迎えよう。給与は五十万円。何度も言うが、おまえは俺の恩人だ。このくらいは当然の行為だろう」  その後、葛巻は山梨に敷地百坪ほどの自宅を購入し、趣味の菜園を楽しんでいる。季節の野菜や果物が武田の自宅に届くようになった。  第十章 幹部社員の参加     1  イトーヨーカ堂でカー用品、自転車、スポーツ用品のバイヤーだった片岡良雄がホダカ物産に入社したのは昭和五十六年五月である。  武田は、片岡とは昭和四十八年以来のつきあいだ。昭和十五年生まれで法政二高時代に遊撃手として甲子園の土を踏んだ経験があり、法政大学を卒業した片岡は、ニューエンパイヤーモーター株式会社で外車のセールスを十年やってから昭和四十八年四月にイトーヨーカ堂に転職した。  スポーツ用品とカー用品の知識はすでに備えていたことになるが、自転車については苦手意識が強かった。自転車にこだわり、自転車に打ち込む武田の姿勢を片岡が評価したのは、苦手意識を補完したいと考えたからかもしれない。 「社長、セカンドバイヤーの気持ちでヨーカ堂の自転車を扱ってください。はっきり言えば社長にお任せしたいんです」  出会って早々に片岡から言われたこのひとことは、武田を感動させた。  この男を粗末に扱ってはならない、利用してはならない、彼の信頼に人間として応えなければならない。  武田は、心の深いところで片岡と結びついた一瞬だったような思いにとらわれたものだ。  片岡は同じ野球選手だった上司の森田に目をかけられていたが、サラリーマン社会における階段の上り方、迫力の差が二人の間に距離を生じさせたのか、昭和五十四年にイトーヨーカ堂を退職した。  苦労知らずでお坊ちゃん的なところが多分にある片岡は、悠揚迫らず、がつがつしてなくてよい、と見える半面、甘い、頼りない、腰が入っていない、と見えるときがある。  武田にしてそうなのだから、森田のスピード、気魄《きはく》についてゆけなくなったとも考えられる。  ただ、両者の間に埋め難い溝や怨念《おんねん》めいたものがなかったことは、武田にとってありがたかった。そうでなければ、片岡のスカウトは困難だったろう。  片岡はイトーヨーカ堂を辞めてキンカ堂へ転職したが、キンカ堂にも出入りしていた武田は折りにふれて片岡と話す機会をつくった。  片岡は閉塞感《へいそくかん》のようなものにとらわれていて元気がなかった。 「二月から東京中小企業投資育成会社の出資を受け入れ、経営のアドバイスをしてもらうことにしました。ホダカ物産も百人からの社員を抱えて、僕の超ワンマン経営から脱却する時代にさしかかったような気がするんです。営業部門で僕の片腕になってもらえるとありがたいんですけど」 「本気ですか。僕はヨーカ堂の落ちこぼれですよ」 「ヨーカ堂より仕事はきついと思いますが、体力には自信があるでしょう」 「それだけが取り柄ですよ」 「ヨーカ堂さんは、いつの時代でもホダカ物産にとって大切なクライアントですが、ヨーカ堂さんに依存し過ぎるのは危険だと思うんです。ホダカの営業ネットワークを富士山の裾野《すその》のように広大な姿にしたいと思ってるんですけど」 「たしかに、ヨーカ堂だけが屹立《きつりつ》してる山よりも、有望なお得意さんが集まって山容を形成してるほうが安定感がありますかねぇ」 「あなたとわたしが力を合わせれば、それも夢ではないかもしれない。この業界の営業マンとして、わたしは一番を自任してます。片岡さんは二番になれる実力を秘めてるんじゃないですか」 「ありがとうございます。お役に立てるかどうかわかりませんが、ナンバーツーを目指してホダカさんで頑張ります」  片岡は眼を輝かせて、ホダカ物産への入社を快諾した。  武田は、富士山の美しい裾野を写した写真を額に入れて、片岡にプレゼントした。 「入社祝いです」 「これはなによりのお祝いです。家のリビングに飾ります。この富士山の写真を眺めれば、元気がもりもり出てくるような気がします」 「そう。元気もりもり、勇気|凜々《りんりん》ですよ」  イトーヨーカ堂の出店意欲は相変わらず旺盛《おうせい》で、取引業者に対する支払いも、月末締め切り、翌月二十日現金払いが遵守されていた。  ホダカ物産にとってこれほど申し分のないありがたいクライアントはないが、売上高の六〇パーセント以上をイトーヨーカ堂で占めていることに、武田は常々危機感をもっていた。  片岡は、第二営業部長として、イトーヨーカ堂以外の販売ルートの開拓に力を発揮した。  武田は社長兼第一営業部長で、イトーヨーカ堂を担当した。  片岡はちょっとした新聞記事などからヒントを得たりすると、武田に相談にくる。 「こんな記事が出てますが、さっそくアプローチしてみたいと思うんですが」 「ああ。その記事なら俺も読んだ。おもしろいんじゃないか」  攻めに関する片岡の勘は実に冴《さ》えていた。  しかも不思議に武田の思惑と一致するのだ。  そんな片岡も弱気の虫にとりつかれることがあった。  新規に開拓した取引先への商品供給に関して社内でどう目配りすべきか、次第に増える部下の管理をどうするか——。攻撃しているときは颯爽《さつそう》たるものだが、派生的な問題についての目配りで落ち度が出てくる。 「なにやってんだ!」  武田は片岡を叱りつける。注意されれば、片岡は素直に対策を立て、手を打つが、デスクワークや部下の管理に気を奪われるあまり、攻撃がおろそかになった。  武田が片岡の長所を伸ばしたほうが得策だと気づくまでに、けっこう時間を要した。 「欠点を直そうとしてもなかなか直るものではないなぁ。こんな努力をするよりも、長所を大きく伸ばして、欠点の比率を相対的に引き下げたほうがずっといいよ。本田宗一郎さんも�得手《えて》に帆あげて�と言っている」 「同感よ。片岡さんを机の前に座らせておくのは勿体《もつたい》ないわ」  香榮子も、片岡の営業能力を買っていた。  片岡がホダカ物産の自転車売上増にどれほど寄与したか測り知れない。  もちろんフライングもあった。  片岡が、開拓した取引先に不渡り手形をつかまされた事件が出来《しゆつたい》したのである。  片岡がホダカ物産に入社して数年後、冬の寒い日のことだ。  神奈川県平塚に本社のあるダイクマを訪問していた武田が東京駅の八番線ホームに降りたとき、片岡がホームでしょんぼり佇《たたず》んでいた。片岡はダイクマに電話して武田が何時の湘南《しようなん》電車に乗車したか見当をつけたとみえる。  風が冷たく、片岡はコートの襟《えり》を立てていた。 「おまえ、こんなところでなにやってんだ」 「社長をお待ちしてました」 「会社で待ってればいいだろうに」 「会社で話す勇気がなかったんです。申し訳ありません」  片岡がふるえる手で白い封書を武田に差し出した。 「辞表! どういうことだ」 「不渡り手形をつかまされました。なんとかならないかと思って、掛け合ってみたんですがダメでした。わたしの判断ミスです」 「どのくらいやられたんだ」 「全部で七枚、二千八百万円です」  武田の顔色が変わった。片岡は顔面|蒼白《そうはく》だ。  武田はどう対処すべきか思案したが、瞬時のうちに結論を出した。 「仕事のミスは仕事で返してくれ」  武田は辞表を封書ごと力まかせに二つに引き裂いた。 「申し訳ありません」  片岡は涙ぐんで、掠《かす》れた声をしぼり出した。 「おい! 元気を出せ。寒くてかなわない。そのへんで一杯やるか」  足底からしびれるような寒さが這《は》い上がってくる。 「これしきのことで、なけなしの幹部社員を失ってたまるか」  武田に背中をどやしつけられて、片岡は肩をふるわせ嗚咽《おえつ》の声を洩《も》らした。     2  片岡が入社した五年前に、上北|光※《てるに》をスカウトしたときのことも忘れられない。  昭和五十一年十一月のことだ。  上北は、ダイワサイクルの幹部社員だった。ダイワサイクルは宮田工業の下請け脱却に失敗して倒産した。  武田は重要な取引先にはホダカ物産の最高責任者として満遍なく目配りしていたが、これはという人材に出会うと必ず食事に誘う。  武田は気のおけない性格で、過剰と思えるほど自分をさらけ出す。武田ほど自分を飾らない男も珍しい。したがって相手に警戒されることもない。  常に等身大の自分を露出しているのだから、警戒感を持たれるわけがないのだ。  上北を上野のおでん屋で口説《くど》いたときもそうだった。  文華放送時代の失敗談や、台湾製自転車で苦労したこと、そして香榮子のことまで打ち明けたあとで、やっとホダカ物産の経営が軌道に乗りそうな矢先に赤津に辞められてショックを受けたことを他人事《ひとごと》みたいにたんたんと話した。そして本題に入った。 「上北さん、ホダカで一緒に仕事をしませんか。苦楽を共にしようじゃないですか」 「恐れ入ります。わたしのような若造に目をかけていただいて、感激です」 「きみは三十三歳でしたねぇ。僕だってまだ三十八の若造ですよ。でもホダカ物産を立派な会社にする自信はあります」 「社長なら、おやりになるでしょう」 「赤津に去られてちょうど一年になりますが、きょう初めて上北さんと親しくお目にかかったのに、なんだか初めてっていう気がしないんですよねぇ」 「わたしもそんな気がしてます。初対面ではないにしても、奥さんのことまで……。こんなに胸襟《きようきん》を開いて話をしてくださるんですから、ぐっと親近感が増します」 「女房は僕のいちばんの自慢なんです。いまだにホダカでパートやってますよ。一度会ってやってくださいよ。香榮子との出会いがなかったら、今日の僕はありません」 「姉が吉祥寺《きちじようじ》で経営している蕎麦屋《そばや》で働いてますが、私の後任が見つかるかどうか。姉に無理強いしたので、すぐには辞められません」  しかし、二度目に会ったとき、上北はホダカ物産に入社することを決めていた。 「一般社員は雇用とか採用でいいと思いますが、幹部社員の場合には、わたしは参加という言葉を使います。文字どおり経営に参加していただくわけですから。中小企業の社長さんは人材が集まらないって嘆いてますけど、僕に言わせれば、人材はいくらでもいるのに参加したくない原因をそのままにしておいて集まらないもなにもないですよ。人材は会社の在《あ》り方、経営理念、それに基づく社風に評価の基準なり物差しをあてて参加するんです。女房が経理を見て、息子を後継者に、なんていう状況のままにして人材、人材と騒ぐ経営者が多過ぎますよ」  アルコールが入って武田は饒舌《じようぜつ》だった。  上北がはにかんだような顔をして言った。 「ぜひ奥さんにお目にかからせてください。これがわたしの意思表示です」 「ありがとう」  上北は、武田が見込んだだけあって、仕事熱心で行き届いた男だった。いつしか営業部門以外はすべて取り仕切れるまでに成長する。  武田は社員を叱るとき、口加減、手加減をしない。 「なにやってんだ!」  怒声と同時に手も出るが、上北だけはその被害を一度も受けていなかった。  自転車のチューブが社内のあっちこっちに巻きつけてある。 「いざっていうときは、これでやるぞ」  武田も初めは冗談のつもりだったが、怒り心頭に発するとブレーキが効《き》かなくなり、冗談が本気になってしまうのだ。  自転車の出荷などでモタモタしてる社員に武田の怒声が飛ぶ。 「なにやってんだ!」  そのときの声の調子で「来るな」と思うやいなや大抵の者は逃げ出すが、要領の悪い社員はチューブで尻をしたたかに叩かれる羽目になる。  自転車のマーク貼《は》りや値札付けの作業にしばしば駆り出されていた香榮子が、チューブで叩かれた社員を目撃して、武田に食ってかかった。 「あなた! なにをやってるの! みんな仕事で疲れてるのよ。もっと優しくできないの。あなただけで仕事ができるわけでもないでしょ」  武田は香榮子に弱い。それに、言ってることも正論だ。  肩をすくめて、照れ笑いを浮かべるしかなかった。  武田のいないところで、香榮子は被害者に詫びた。 「××さん、ごめんなさいね。ほんとに困ったひと。今度こんなことがあったら、わたしが赦《ゆる》しませんから、堪忍してね」  こんな会社辞めよう、と思った社員は大勢いるが、香榮子のひとことで思いとどまる。  後年、上北が「奥さんがいなかったら、ホダカを辞めた社員はたくさんいたでしょうねぇ」と述懐している。     3  香榮子の存在感を示すエピソードは枚挙にいとまがないが、わけても昭和五十七年から十年ほど続いた新年会の獅子奮迅《ししふんじん》の活躍ぶりは、語り草になっている。  武田は文華放送時代、営業担当専務から正月の三箇日《さんがにち》に遊びにくるように誘われたことがあったが、せっかくの正月休みになんでわざわざ出かけなければならないのか、と考えて断った記憶がある。  昭和五十六年の正月休みに実母のセキを囲む新年会で、妹の悦子がこんなことを言った。 「ウチの亭主がお正月に会社の社長さんの家に呼ばれるようになったわ」 「そんなことが自慢になるのか。べつに名誉なことでもなかろうが」  武田は思ったことを口にしたまでだが、悦子は不思議そうに首をかしげた。 「誰《だれ》でもというわけじゃないのよ。大変名誉なことじゃないの」  その年の仕事始めに、武田は会社の何人かの社員に訊《き》いてみた。 「正月休みに俺の家に遊びに来いって言われたら、どうする」 「喜んで伺います」 「誘われたら、みんな喜ぶんじゃないでしょうか」 「そうかねぇ。俺は昔、上の人に誘われたとき迷惑な話だと思ったが」 「迷惑ってことはないでしょう。逆はあり得ます。来客がわずらわしいと思うことはあると思いますけど」  迎合的な発言とも思えなかったので、帰宅して香榮子に相談した。 「わたしは大歓迎よ」 「しかし正月三箇日はよそう。俺自身は若いころ、上司に遊びに来いと誘われたことを迷惑と考えた。正月の第二土曜日はどうかな。おせち料理に飽きた社員に、香榮子自慢の手料理をご馳走してやるか。それも課長以上なんてしないで来たい社員は、家族を含めて、全部呼んでやろうや」 「いいわよ」  原木中山時代は、主力拠点が川口市だったせいで、三十人ほどが集まったが、昭和五十八年の越谷の新年会から凄《すご》いことになった。  準備の都合もあるので、暮れも押し詰まると武田はそれとなくリサーチする。 「仕事を離れたときの社長の顔は全然違いますからねぇ。社長の笑顔は、ま、二の次としても、奥さんの手料理は素晴らしいですねぇ。前宣伝が行き届いてますから、百人は覚悟しないといけないんじゃないでしょうか」 「百人ねぇ」  武田は考え込んでしまった。百人はなんぼなんでも多過ぎる。  いっぺんに押しかけてくるわけではないし、出たり入ったりだから、収容スペースはなんとかなるが、香榮子ひとりで対応するのは不可能だ。 「おい、百人は来るってさ。きみひとりじゃ無理だな。断ろうか」 「大丈夫よ。百人ぐらいなんとでもなるわ」  香榮子は動じなかった。  新小岩でセキが経営していた�天平�が廃業して久しいが、小皿、中皿、大皿、小鉢などの食器類は武田家に運び込まれてある。  香榮子は四日から準備にかかった。  一月第二金曜日の夜、すぐ出せるもの、ちょっと手を加えるもの、当日作るものの三種類の料理のメニューを武田が墨で巻き紙に書いていく。  鼻歌が出るほど武田はいそいそしていた。 �懐かしいお袋の味 じぶ煮��北海道直送 タコぶつ��三つ星レストラン直伝 サーモンのマリネ�等々。なんと全部で十五種類に及んだ。  長いメニューを長押《なげし》に張りめぐらし、大皿を載せて陳列するテーブルを窓際にセットして、取り皿や小鉢をその周りに並べる。  バイキング方式だ。  十人用の座卓を四卓と六十枚の座布団も�天平�から貰《もら》ったものだ。書斎、居間、廊下などを合わせると、三十五、六畳の広さになる。  トイレは、室内を女性専用にし、工事現場などで見かけるプラスチック製の簡易トイレを二台購入して、男性用に庭の暗がりにセットした。子供たちに配る千円札を一枚入れたお年玉袋も何十枚か用意した。 「準備万端整ったわね」 「うん、用意おさおさ怠りなしだ。しかし、俺は疲れたよ。きみ、よく平気でいられるねぇ」 「だって、本番はこれからじゃないの」  あくる日午前十一時から夜十時まで、約百五十人の社員とその家族が武田家に入れ替わり立ち替わりやってきた。香榮子は裏方の料理人に徹し普段着にエプロン姿だが、来客は着飾っている。  お年玉の袋に「会社」と書いてあったせいで、「おじちゃんの名前、会社っていうの」と訊く子供がいた。 「会社っていうのはきみのお父さんが働いている会社のことだよ。だから、このお年玉は、お父さんにもらったのと同じことなんだ」  食器洗いを手伝ってくれる女房たちにも武田はお年玉を手渡した。  料理を取りに行ってる間に席が占領されていて、無理やり割り込まなければならなかったり、立食ということもままあった。あちこちで話が弾み、唄も出る。壮大にして壮観な新年会であった。 「ホダカ物産が誕生して、ちょうど十年になるんですねぇ。わたしは入社八年ですけど」  上北が武田に話しかけてきた。 「いま、ふと社内旅行のことを思い出しました。とくに往路のバス旅行が愉《たの》しかったですよ。動く�クラブ�で、社長にこしらえていただいたカクテルの美味《おい》しさは忘れられません」 「�クラブホダカ�だったなぁ。俺と女房と二人でバーテンダー兼ホスト、ホステスをやったんだ」 「バスの運転手席の後方に�クラブホダカ�と大書した板状のプレートと、つまみのメニューまでかけてありました」 「�おい! バーテン、スロージンフィズをつくってくれ�なんて、すっかり客の気分のおまえたちに俺は顎《あご》で使われたんだよなぁ」 「でも社長はうれしそうでしたよ。シェーカーを振る社長の姿が眼に浮かびます。バーテンダーぶりが板についてて、颯爽《さつそう》たるものでしたよ」  片岡が話に割り込んだ。 「社員のほとんどは�なにやってんだ!�って社長に叱られてばかりいましたから、日ごろのうっぷんを晴らそうと、このときとばかり、あれをつくれ、これをつくれって、社員が社長をこきつかったんですよ。みんな笑いころげて、あんな愉しいバス旅行はありませんでしたよ。奥さんが、きょうほどではありませんけど、おつまみをたくさん用意してくださって……」 「社員旅行ができるのは、社員数が百人ぐらいまでだねぇ。百五十人近くになってくると、難しいよ。中小企業の社長はイベントメーカーじゃなければいかんのだ。社員の会社に対するロイヤリティと興味、関心を持続させる努力が常に求められるわけだから。ハワイ旅行も、ほんとうはもっと続けたかったがねぇ」 「�三年汗してハワイへ行こう!!�ですか」  上北が遠くを見る眼でつづけた。 「しかし、六年続きましたからねぇ」 「上北はハワイへ行ったんだろう」 「ええ」 �トリスを飲んでハワイへ行こう�のコマーシャルにあやかったわけではないが、三年間真面目に働いた社員を慰労するためにハワイ旅行をプレゼントする�リフレッシュ制度�を武田が提案したのは、昭和五十二年秋のことだ。ハワイ旅行で骨休めして、リフレッシュして新たな気分でまた頑張ってもらいたい、という願いを込めて、武田は大盤ぶるまいをしたのである。  ところが、ハワイ旅行から帰国した翌日、辞表を出して辞めた社員があらわれたのである。  しかも、小田というその社員は不惑を過ぎて幹部候補として眼をかけていただけに、武田のショックは小さくなかった。  武田は小田をゆるせないと思った。初めから会社を辞めるつもりなら、ハワイ旅行は辞退して然るべきではないのか、と武田ならずとも思うところだ。ハイティーンや二十代の若い社員ならいざ知らず、分別をわきまえているはずの小田の心ない仕打ちに、武田は憤慨した。 �リフレッシュ制度�の恩恵をこれから受けようと順番を楽しみに待っている社員の気持ちを思うと、胸が痛んだが、武田は制度の中止を決断した。武田はどうにもブレーキが効かなくなるほど落ち込み、深く心を傷つけられた。 �三年汗してハワイへ行こう!!�を思い出して、武田はほろ苦さが伴う複雑な気持ちになった。 「中小企業の社長はイベントメーカーじゃなければいかんのだ……」と武田は言ったが、書斎の机の抽斗《ひきだし》に百円硬貨を入れっぱなしにした名刺大の大入袋がたくさん仕舞ってあった。大入袋はホダカ物産成長の記録であり、記念であった。売上予算を達成すると全社員に大入袋を配った。�週間受注新記録��一日最多出荷記録��創立記念�等々、武田は�記録��記念�の口実を捻《ひね》り出しては、社員を鼓舞し、景気づけるために大入袋を配り続けた。 「袋を破って費《つか》ってしまえばただの百円玉だが、封のままとっておけば戦いの記念だ。貨幣価値を取るか精神価値を取るかだが、俺は後者を取る」と言って、溜《た》めた大入袋である。ひとつひとつに思い出、思い入れがあった。     4  知人の紹介で、武田が西島茂に会ったのは昭和五十七年初めのことだ。  西島は五十そこそこで、英会話が達者な男だった。自転車輸出の経験が豊富という触れ込みである。  西島と面識ができて二度目に会食したとき、「社長、わたしはハラキリの経験者なんです。ちょっと見てください」と、やにわにワイシャツをたくしあげ、縫合の傷あとをはっきりとどめている腹部を見せたことがあった。 「なんの手術ですか」 「医者の誤診なんです。胃ガンの宣告を受けたので、それなら手術してくれって頼んだんです。腹を開けたら、ガン細胞なんてかけらもなかったんです。ひどい目にあいました」  まだ気心も知れていないのに、とぼけているのか、シャイなあまり突飛な行動に出てしまうのかわからなかったが、変わった人だなぁ、と武田は思った。  三度目に西島と会ったとき、武田が訊いた。 「対米自転車輸出の可能性について、西島さんはどう考えてますか」 「アメリカのマーケットは、ご存じのとおり二極分化してます。量販ルートと専門店ルートですが、量販店ルートは台湾車に価格競争でかないません。BMXという子供車や低価格のスポーツ車は量販ルートですから、日本車の進出の余地はありませんが、高級スポーツ車なら専門店ルートでまだまだいけるんじゃないでしょうか」 「西島さん、ホダカにいらっしゃいませんか。海外担当で、対米輸出を立案してみてください」 「ありがたくお受けします」  国内では成熟だ、いや衰退だ、とみられていた自転車業界の中にあって着実に業容を伸ばしてきたことの自負が武田の気持ちを米国輸出に向かわせた、ということができる。  アメリカの自転車市場は、ブリヂストン、宮田工業、丸石自転車、日米富士自転車などが専門店ルートで、台湾産のスポーツ車と熾烈《しれつ》なシェア競争を展開していた。対ドルレートが二百六十円の時代である。  大半のメーカーが赤字輸出だった中で、日米富士は�Fuji Cycle�で培《つちか》ってきたブランドに支えられて健闘していた。  同自転車市場は年間一千万台〜一千三百万台、日本市場は六百万台〜七百万台なので、ほぼ二倍の広大なマーケットである。  日本車は苦戦している。台湾とのコスト競争に敗れ、撤退は不可避だ、とする弱気論が台頭しつつあるなかで、武田は「俺流のやり方でアメリカ市場を開拓すれば活路は開ける」と、あえてチャレンジしたのだ。  西島が立案した対アメリカ自転車輸出計画は次のようなものであった。  ㈰現地法人をニュージャージーに置く。  ㈪日本のメーカーはロサンゼルスなどカリフォルニア、つまり西海岸から東へ市場を拡げていくのが常道だが、当社は東から西への逆を採る。  ㈫アメリカの自転車市場に精通しているコミッションセールスを雇い、自転車専門店で販売活動を行なう。  ㈬中級スポーツ車(FOB百ドル)を主力車種として、よくて安いメイド・イン・ジャパンをアピールする。  ㈭問屋は通さず、有力小売店への直販とする。  この計画に基づいて、昭和五十八年一月、ニュージャージーにMARUKIN USA INCが資本金十万ドルで設立された。  ベンソンなる米国人名を持つ韓国系の男をコミッションセールスに、どんな自転車なら売れるのかを具申する製品化アドバイザーに米国人のパルミターをMARUKIN USA INCは雇用した。両人とも年齢は四十歳である。 �NOBUSHI(野武士)��KAMIKAZE(神風)��MARUKIN�のネーミングのスポーツ車をアメリカ市場に投入することになった。  MARUKIN USA INCの社長(COO)に渡辺正、取締役は山中文夫、経理・総務担当降旗浩明の三人を武田は日本から送り込んだ。会長(CEO)はむろん武田である。西島には遊軍で幅広い活動を求めた。  現地法人が設立されてほどなく、山中や降旗の要請で武田は訪米した。  ケネディ空港に新車のGMワゴン車で、山中たちが出迎えてくれた。  ハイウェイは片側だけで五車線ないし六車線だ。 「日本では三車線、どうかすると二車線の高速道路を見慣れてるせいか、やけに広く感じるなぁ。アメリカの活力、底力を見せつけられた思いだよ。日本がこんなでかい国と戦争したなんて信じられん。俺たちはアメリカを相手に自転車でチャレンジするんだ」  武田は気分が高揚し、「よし、売るぞ! きみたち売りまくってくれよ!」と叫ぶように言った。  韓国人の金と、金の仲間が経営する自転車店を何軒か訪問し、滞米初日の夜は、金の自宅で歓迎会を催してもらった。  武田はたどたどしい英語で「皆さんのお役に立ち、そしてMARUKIN USA INCの発展を願わずにはいられない」と挨拶《あいさつ》した。  しかし、滞米中に武田は早くも不安感が募った。  社員やバイヤーが自転車店に集金に出掛けると、小切手ですぐに支払ってくれる。アメリカ人は鷹揚《おうよう》というか気前がいい。  倉庫兼用のオフィスで降旗たちの話を聞いて、武田が言った。 「子供のころ、進駐軍の兵隊さんにガムやチョコレートを貰ったことがあるが、彼らは恩着せがましくないし、実に明るい態度で接してくれるんだ。ヤンキー気質とでもいうのかねぇ」  ところがである。小切手を銀行に回したところ、「落ちません」と連絡してきたのだ。  社員が自転車店に電話をしてかけあう。 「おカネが口座にないではすまないでしょう」 「ないものはないんだから、どうにもなりません」  英語のやりとりだが、おおよそのことは武田にも理解できる。 「電話じゃ埒《らち》があかんだろう。車で行ってきたほうがいいんじゃないのか。直接顔を合わせて、話してこいよ」  二時間ほどして帰社した社員が武田に報告した。 「ないものはないって、平気な顔で言うんです。二か月先の小切手を渡されました」 「小切手にしろ手形にしろ、不渡りを出したら銀行は取引停止するんじゃないのか。日本なら即倒産だぞ」 「アメリカはどうもそうじゃないらしいんです」  円高も響いた。二百六十円が二百十五円に上昇していたのだ。 「世界に冠たるメイド・イン・ジャパンだから台湾車製より多少割高なのは当然ではないか。台湾車との品質の違いを強調して、頑張って売ってくれ」  武田は社員を懸命に叱咤《しつた》激励したが、この論法は通用しなかった。  新車が発売されると、それを口実に旧車の大幅な値引きを要求してくる。新車と旧車の機能の差はほとんどないに等しいのに、自転車店の言いなりにならざるを得ない。過剰在庫になりがちな、こちら側の弱みを突いてくるのだ。  日本と異なり少ロットでの配送は、広い国土だけに運賃が予想以上に嵩《かさ》んだ。  活力に欠け、会社の危機的状況に対して、これといった提案を出せない現地法人の責任者を更迭《こうてつ》することも考えたが、中小企業の悲しさで、右から左へ代替する者が存在しない。  言い出したらきりがないほど不満で不満で仕方がないベンソンを我慢して雇用し続けてきたが、そのベンソンが売掛金を横領する事件を起こした、という報告を国際電話で降旗から受けたとき、武田は対米輸出事業に嫌気が差した。  さらに名門ルートとされていたセントルイスの小売りチェーン、テラノートが売掛金を何度請求してもぬらりくらりと言い訳して、支払いに応じない事件に遭遇した。  武田は何度か訪米し、テラノート社長とも面識があった。  テラノート社長は地元ロータリークラブの名士である。  銀色に輝く西部開拓時代の前進と勇気を象徴する巨大なゲートは、セントルイスの名所として名高い。ゲートの下で武田はテラノートと記念撮影をしたり、ミシシッピー川に浮かぶ水車付きの大きな川船のレストランで食事を馳走《ちそう》になったこともある。テラノートは成人した息子二人にもサイクルチェーン店を一店ずつ与えて経営を任せていた。  かれらは家族をあげて武田を歓迎し、MARUKIN USA INCをもり立てようとしてくれていた。少なくとも武田の眼にはそう映ったし、そう信じて疑わなかった。  テラノートのようなアメリカのジェントルマンたちに、より価格競争力のある高品質の自転車を供給しなければならない、と武田はわが胸に言いきかせたものだ。  そのテラノートが三千台分の自転車代金を支払わない——。なんたることだ! 武田はテラノートの裏切り行為に歯噛《はが》みして悔しがった。  MARUKIN USA INCがアメリカ市場の開拓につまずき、撤退する方向で検討しているという噂《うわさ》を耳にして、テラノートはそれなら支払いを延ばしに延ばして、あわよくば踏み倒そうと計算したのだ。  昭和六十一年三月、武田はMARUKIN USA INCの清算を決断した。三年以上もよくぞ持ちこたえた、と思わなければいけないのだろうか。  撤退の決断ほど経営者にとって辛《つら》いことはない。もっと早くそうしていれば、ロスは少なく済んだはずなのだ。先送りによって深手を負うことになった——。  三月上旬の某日、ケネディ空港に到着した武田は、降旗の運転するGM車でオフィスへ向かった。  MARUKIN USA INC設立直後の高揚していたときと、打ちひしがれ、悲しみで胸をふさがれているいまの気持ちは、まさに天と地の違いである。その落差はあまりにも大きかった。  重苦しい沈黙が続いたあとで、降旗が前方に瞳を凝らし、ハンドルを握りしめた姿勢で言った。 「社長、申し訳ありません。われわれの力不足でこんな結果になってしまい、お詫びのしようがありません」 「おまえたちの責任じゃない。俺の判断ミスだよ。アメリカの市場に対する知識の不足、経験の乏しさからくる打つ手の貧困さ、俺の経営判断が甘かったことがすべてだ」  武田は山中、降旗と善後策を協議した結果、次のように指示した。 「三か月の間に集金できる売掛金は集金し、半端な在庫は、親切にしてくれ、協力的でもあった金さんの経営するOKバイクと韓国人グループに言い値で買ってもらったらいいな。俺はニューヨークへ回って会計事務所にMARUKIN USA INCの清算手続きを依頼して帰国する」  帰国便のJAL機の中で、武田は中島みゆきの�別れた男への恋歌�を何度も聴いた。  アメリカ大陸への自転車の拡販は夢と消えた。俺の片想いだった——。武田はフライト中、悔し涙にくれていた。  昭和六十一年六月、MARUKIN USA INCは清算された。損失額は三億円にのぼった。  第十一章 夫婦仲よく     1 「そろそろ、家裁に離婚の調停を申し立てようと思ってるんだ」  武田が香榮子にこう切り出したのは昭和六十二年十月ごろである。 「無理しなくてもいいのよ。わたしはいまのままで充分。波風を立てることもないわ。形式なんかどうでもいいんじゃないかしら」 「そうはいかないよ。もっと早くしなければいけなかったが、子供たちの意見を聞いたら、僕を支持すると言ってくれた。光太郎に自分が大学を卒業するまで待ってくれと言われたので、わかったと約束した。僕は子供との約束を忠実に守ったまでだ」 「和子さんは感情的になると思うの。なんだか心配だわ」 「だからこそ家裁という第三者に客観的な判断を求めるんだよ。僕に憎しみしか持たない和子も元へ戻れるとは思ってない。とにかく弁護士と相談してみるよ」  十月中旬に武田は尾崎正吉弁護士を通じて�離婚調停の申立書�を千葉家庭裁判所に提出した。 �申立の実情�について、武田は次のように書いた。  1、申立人は、早稲田大学在学中の昭和三十五年ごろ、学習院大学仏文科在学中の相手方が、妹の家庭教師として通っていたことから、相手方と知り合い、相手方の家庭環境に対する憧憬や自説を主張して譲らない弁舌さわやかさに魅入られて、いつしか結婚の相手として選択した。  2、申立人が早稲田大学を卒業して文華放送に入社した年である昭和三十七年十二月二十六日相手方と結婚式を挙げ、同日婚姻の届出をした。  3、申立人と相手方との結婚生活は、生まれ育った環境の違いから生活感、価値観を異にし、口論反目が絶えなかったが、昭和三十九年十一月四日に長男光太郎が、昭和四十一年一月二十三日には次男憲二郎が出生した。  4、昭和四十一年四月、申立人は文華放送の報道部から営業部に配置換えとなったが、営業にもともと向いていたと見え、営業成績が上がり、会社内外で評判になったことから自信を深め、自主独立することを考えるに至った。  5、かくして昭和四十五年に至り申立人が文華放送を辞し、独立したい旨を相手方に告げるや「私は文華放送に勤める武田光司と結婚したのです」と頭から反対され、従前からあった違和感を決定的なものにした。  6、営業には接待が付きものだったから、会社で認められた接待費の範囲内で客を接待するのに、件外山本香榮子(以下件外人という)の経営する銀座のクラブ�由多加�を利用したものであるが、営業成績の向上に伴い利用回数も増え、文華放送という会社の裏付けもあって、同クラブの信用のある常連客となった。  7、ギクシャクした夫婦関係の下に複雑な感情にあった申立人は、情の細やかさを示す件外人に好意を抱くに至り、昭和四十五年九月、件外人と一夜男女関係を持ったことが機縁となって、件外人宅に泊まるようになり、昭和四十六年六月には、ついに相手方と別居するに至り、件外人が資金と労力を惜しまない旨を約したので同年八月文華放送を退職した。  8、前記別居以来、申立人と相手方に夫婦関係も無く、夫婦関係は戸籍上のみで形がい化するに至った。  9、もとより夫婦関係が形がい化するに至ったのは申立人の件外人との同棲、相手方との別居に起因するものであったから、父として夫としての扶養義務を尽くすべく下記のとおり生活費を送金することを怠らなかった。   昭和四十七年当時 月額九万円から十一万円   昭和四十九年当時 月額十二万円から十五万円   昭和五十三年当時 月額十七万円から二十万円   昭和六十年以来 月額二十万円  10、申立人は相手方に対し、申立人の所有の土地、建物(相手方が現に居住する土地六十坪)を慰藉料に代えて、所有権を譲渡する所存である。  11、よって調停により、円満に離婚すべく本申立に及ぶ次第である。  昭和六十二年十二月から千葉家裁で開始された調停で、女性調停委員は別居中の武田の誠意ある態度や、離婚に当たっての提案も多として、武田の申立に理解を示してくれた。このことが逆に和子を苛立《いらだ》たせ、感情的にし、調停は失敗、武田はやむなく千葉地方裁判所に武田和子を相手取って離婚請求事件として提起した。  つまり、被告(武田和子)と原告(武田光司)とは離婚する、との判決を千葉地裁に求めたのである。  数次に及ぶ準備書面のやりとりを経て、被告側弁護士水垣幸子も武田から事情を聴取し、事実関係の調査が進むにつれて、原告に同情を寄せるようになる。  昭和六十三年三月二十八日午前十一時、千葉地裁の村田長生裁判官によって「離婚を認める」との判決が下され、裁判官勧告で和解が成立、㈰市川の武田光司名義の土地、家を和子に与える、㈪ホダカ物産の株式六千株(一株五百円)を与える、㈫毎月二十万円を武田が六十歳まで送金する、など金額に換算して二億円が和子に与えられることになった。  翌三月二十九日火曜日、武田は越谷市役所に香榮子との婚姻届を提出した。  この日はあいにくの降雨で、気温も低く肌寒かったが、武田は気持ちが浮き立ち、気分は晴れやかであった。 「これで俺たちは法律的にも夫婦になれた。香榮子にしてやれなかったのは、子供をつくれなかったことだけだが、こればっかりはどうしようもない」 「子供は光太郎君と憲二郎君がいるし、二人とも立派に成長して、よく遊びに来てくれるじゃないの。会社の若い社員は、わたしたちの子供たちみたいなものですよ」  香榮子の表情も晴々としていた。  光太郎は丸三証券に、憲二郎は東京電力に勤務し、二人とも経済的に自立していた。     2  武田が、�夫婦仲よく�と題するエッセイを社内報に寄せたのは、法的にクリアして間もないころだ。 [#ここから2字下げ]  山中湖で漁を営む老夫婦のルポをテレビで見た。八十歳と七十七歳。女房の大鰻の手料理が健康の秘訣で、五年前まで閨で睦んでいたと話すお爺さんの傍らで、お婆さんがちょっぴり恥ずかしそうな表情をみせたのが、なんとも微笑《ほほえ》ましい光景だった。二人揃って、相手に先立たれたら、その一日後に後を追いたいと自然に語って、われ等夫婦を感激させた。仲よきは美しく、気分のまことによいものである。      ◇  社員の結婚記念日に毎年、手紙を送っている。必ず、冒頭に繰り返し書くのは「家庭の基本は、夫婦間の愛情で、子供にかまけて、この初心を忘れないように」ということだ。父や母である前に、夫として妻を愛し、妻として夫を愛する、この愛情のあり方が育児でないがしろにされてはならない。この油断が家庭そのものを崩壊させ、仕事への姿勢を荒廃させ、嫌な雰囲気は子供の素直な成長を不可能なものにしてしまう。守るべきものの無い人間の集団に生きる力などある筈がない。落ちていくばかりだ。  私は夫婦愛の基本は、相手の欠点を直すことでなく、長所を伸ばし合って欠点の比率を低くすること、目立たないようにすることだと思っている。その方法は、互いに「褒めて、育てよ」だ。      ◇  私達夫婦は大の犬好きだ。超大型犬、大型犬、小型犬の三匹否三人と家の中で生活している。私が帰宅すると三人が我先にと玄関へ突進してくる。勢い余って、土間へドスン。照れた表情で尻尾を振る姿が可愛らしく、心の緊張がみるみる消えてゆく。「今日、先生がみえて、皆に予防注射をしていったの。三万円もするのよ」そんなにするのかと非難がましい言葉が口から出かかる。「高価な注射をしてやれるのも、お父さんが頑張ってくれているからね」と三人の頭を妻がなでる。私は心にもなく、「よかったね」      ◇  仕事に前向きに取り組んでいると向こう傷が絶えない。ある男に惚れ込み、好きなように仕事をやらせ大失敗をした時だ。賄賂はとる、女性に節操がなく女子社員には手を付ける、不良在庫の山は残す。自己嫌悪に陥り、家で愚痴らない私が「今度ばかりは弱ったよ」とつい口に出す。すかさず妻が「私はなんの心配もしてないわ。お父さんはこれまで、いつも乗り切ってきたじゃない」     ◇  女房自慢の惚気話になってしまったが、最後にひと言。私は万が一、妻に先立たれたら「一日後れ」どころか、ただちに「殉死する」と公言している。 [#ここで字下げ終わり]  社内報を読んだ香榮子の恥ずかしがりようと言ったらなかった。 「顔から火が出るわ。恥ずかしくって、もう会社に行けないじゃないの。�ただちに殉死する�なんて、あなたどうかしてるわよ」 「それほど香榮子に惚れてるってことだ。恥ずかしがるおまえのほうがおかしいよ。女房|冥利《みようり》に尽きるだろうに」 「人さまに公言することじゃないわ。心の奥深くに秘めておくことでしょう」 「そうかなぁ。自慢していいことだと思うけどねぇ」  香榮子と話していて、武田は、平成四年五月二十七日午前五時二十五分ごろ�太郎�が息を引き取った日のことをふと思い出していた。 �太郎�は大型の秋田犬で、十一歳七か月生存した。香榮子は�太郎�の容体が悪化してから、ずっとつきっきりで世話をした。�太郎�は切なそうに啼《な》いたり、苦しげにウンウン唸《うな》ったが、香榮子に躰《からだ》をさすられたり、声をかけられると静かになった。  十一年前、知人の家に六か月の成犬になっていた�太郎�を貰いうけに行ったとき、車に乗るのを嫌がる太郎を香榮子は十キロも連れて歩いた。 「大型犬の寿命は七〜八年と言われてるのに十二年近くも生きたんだ。香榮子にめぐりあえた�太郎�は幸せだったねぇ。おまえはほんとうによく世話をしたもの」  武田はいつまでも肩をふるわせて涙にくれる香榮子の背中を優しく撫《な》でた。  第十二章 バブル期の蹉跌《さてつ》     1  ホダカ物産株式会社は平成元年(一九八九年)二月にホダカ株式会社に社名変更した。  前年九月に第一回無担保社債を二億八千八百万円=十八万株(五百円額面で一株千六百円)発行。資本の充実、強化と併行して、本社を川口から越谷《こしがや》流通団地へ移すことになった。  地上三階、総面積千二百坪の本社屋が完成したのは平成元年六月だ。従来の流通センターを加えると三千坪の拠点となる。  武田は三階の一画に六坪の社長室を作った。社長室など柄ではない、と武田は照れたが、古参社員の意見を容《い》れたのだ。  ベランダに面した南向きの小さな部屋だが、武田が社長室に閉じ籠《こ》もっていることはほとんどなかった。  それでも、時たま社長室でデスクワークをしていると、社員たちが物珍しそうに観察にやってくる。 「ベランダ付きですか。狭い割りにはけっこう豪勢じゃないですか」 「そうだ。いざっていうとき、責任を取っていつでも飛び降りられるようにな。碌《ろく》でもない社員が担いでる御輿《みこし》のてっぺんの鳳凰《ほうおう》ぐらいじゃ、このぐらいの覚悟が必要なんだ。おまえたち、俺《おれ》を殺さんように頼むぜ」  武田はまぜっかえした。  机と椅子《いす》は中古のスチール製だった。 「社長、部屋が新しいんですから、机と椅子ももう少し見栄《みば》えのする新しいのをお買いになったほうがいいんじゃないですか」  ある役員に言われたとき、武田は言い返した。 「稼ぎが悪いのに、生意気と思われるだけだろう」 「背あての部分に布テープなんて、みっともないですよ。縁起も悪いのと違いますか」 「莫迦《ばか》言っちゃいけない。会社が潰《つぶ》れたのは経営者と社員が悪いからで、机や椅子のせいじゃないぞ。ほっといてくれ!」  武田とて、倒産した会社から引き取られた中古品事務器販売店で売られていた机や椅子を好きで買ったわけではなかった。しかし、傲《おご》り高ぶってはならない、心を戒《いまし》めるためにも、中古品で我慢しよう、という武田の思いが、新しい机や椅子を拒絶したのだ。  広友社の間借りからスタートしたホダカが一万平方メートルの城を持つまでになった——。武田も感慨無量だったが、いい気になってはいけない、という自戒の思いも強かったのである。  平成元年六月期(第十七期)決算で、ホダカは初めて売上高が百億円を突破し、百三億円になった。  同年七月にはスポルディングジャパン株式会社とスポルディングブランドの自転車分野におけるライセンシー契約を締結した。スポーティ自転車の拡販が狙《ねら》いである。  中小企業の人材は、きらびやかな学歴や社歴には縁のない、脛《すね》に傷を持った者が少なくないが、ホダカでも武田に怒鳴られ続けながら懸命に修羅場をくぐっているうちに、キラッと光る人材が育ってきた。そんな連中が意地と体力、涙と汗で築き上げた百億円企業である。  そうした社員に株式を持たせ、公開後、株を売らせて銀行ローンを返済させ、多少なりとも彩《いろど》りある人生を送らせてやるのも彼らに報いる途《みち》ではないか、と武田は考え始めていた。     2  ホダカは創業期から太陽神戸銀行と取引関係にあった。  そのきっかけをつくったのは、武田の実母セキである。  セキが葛飾《かつしか》区新小岩で料亭�天平�を経営していた時代に、太陽神戸銀行新小岩支店の歴代の支店長が�天平�を贔屓《ひいき》にしてくれた。  ホダカ物産の本社が原木中山にあったころ、「総武線|本八幡《もとやわた》駅前に太陽神戸銀行さんが本八幡支店を開店するから、お取引してもらいなさい」と、セキが武田に電話をかけてきた。  セキのひとことで、ホダカ物産はさっそく同支店に口座をつくった。  同支店の六代目支店長の関谷昭三が、武田に厳しい助言をしてきたのは、昭和六十一年初めのことだ。 「MARUKIN USAは撤退したほうがよろしいんじゃないでしょうか。マルキンジャパンの運転資金が急増しているのも気になります。不動産投資も急ピッチですねぇ。会社として必要な投資であることは理解しますが、先行きに自信がありすぎるのも心配です」  MARUKIN USAは創業三年目に入っていたが、経営不振で、行き詰まりの様相を呈していた。  昭和六十一年六月期(第十四期)決算で、ホダカ物産は、創業以来初の減収減益を記録した。  昭和五十九年に越谷流通団地の土地と千葉流通センターの隣接地を取得したほか、MARUKIN USA INCの赤字|補填《ほてん》、マルキンジャパンの立ち上がり資金の投入など資金需要が急拡大し、第十一期の八億円から二十九億円へと借入金が三・六倍に膨張していた。  関谷の指摘は的確で、いちいちもっともなことだったのである。関谷を攻めにも守りにも強いタイプの男と見ていた武田は、この進言を謙虚に受けとめた。 「MARUKIN USA INCについては、わたしもどう対処するべきか悩んでましたが、支店長のひとことでやっと踏んぎりがつきました。撤退を決断します」  関谷の進言が武田から撤退の決断を引き出したと言って差しつかえない。撤退を先送りしていたら、もっと損失がふくらみ、深手を負っていたろう。 「しかし、土地の手当てとマルキンジャパンについては自信があります。一〇〇パーセントというわけにはいきませんが、もう少し時間をください。必ずやご理解いただけると思います」 「少し言いすぎたかもしれません。差し出がましいとは思ったのですが、わたしは武田さんの経営手腕を常日ごろから敬服してます。それだけにちょっと気になってたものですから。当行の貸出がどうのこうのというレベルで申し上げたわけではありません。その点は誤解なさらないでください」 「よく存じてます。ありがとうございました」  関谷は武田より四、五年先輩だが、こんな男が自分の参謀にいてくれたら、どれほどありがたいことか、とふと思ったものだ。  マルキンジャパンは、株式会社ダイオーのOCS部門のマネージャーをしていた宮内登美雄を中心に、積極的な営業展開が行なわれていた。  宮内は昭和二十三年生まれだから武田より十歳若いが、向こう意気が強く、プライドも高い。性格はまっすぐで気のいい男だった。  宮内をリーダー格に、ダイオーからマルキンジャパンに転職してきた若者たちの熱気に押されて、武田もマルキンジャパンの営業所を一挙に六か所オープンすることにゴーサインを出していた。上野、池袋、横浜、仙台、札幌、福島の各営業所で三十名の陣容だが、彼らの給与、営業車、営業所賃貸料、コーヒー、ミルク、シュガーの仕入れ代金などで、創業一年半ほどの間に投じた資金は約三億円、累積赤字は一億円を超えていた。だが、いわば先行投資であり、マルキンジャパンの前途は明るい。この点を武田は懇切丁寧に関谷にも説明した。  昭和六十二年三月に、太陽神戸銀行の関連会社、株式会社インターリースに取締役営業部長で関谷が出向することになったとき、武田は越谷の自宅に招いて、香榮子の手料理でもてなしたことがあった。  関谷は燗《かん》をした日本酒が好きで「適量はお銚子《ちようし》二本です」と言いながら、それが三本になり、四本になるが、乱れることはなかった。  武田も、関谷にペースを合わせて、盃《さかずき》を重ねた。  酔いにまかせて、武田は思いの丈《たけ》を関谷にぶつけてしまおうと何度考えたかわからない。口がむずむずしたが、思いとどまった。 「ホダカで一緒に仕事をしていただけませんか」のひとことが言えなかったのである。  都銀の幹部を相手に、ホダカごときがスカウトするなど失礼きわまりない、という思いが、ブレーキをかけるのだ。  関谷とはリース関係で縁が切れることはなかったが、関谷に対する武田の思いは募る一方だった。  一年半ほど経って、関谷と会食する機会がめぐってきた。  上野の割烹店《かつぽうてん》の小部屋で銚子を二人で四本あけたあとで、武田は居ずまいを正した。 「関谷さんに折り入ってお願いしたいことがあります。失礼は重々承知してますが、おゆるしください」 「わたしにできることでしたら、なんなりと」  関谷も武田の真剣なまなざしに気圧《けお》されたように正座した。 「わたしはホダカを財務面でも安定した会社にしたいのです。営業や、会社を経営資源の組み合わせでどの方向に伸ばしていくか、ということは得意です。しかし、成功が、松下幸之助さんのいう成功するまでやり続けることで、失敗とは成功するまでやり続けないことということでしたら、活力の元である財務、おカネのことは不得手です。折りをみて一緒に仕事をしていただけませんでしょうか」  武田はアルコールも手伝って、顔が火照《ほて》った。口に出すのも憚《はばか》られる恥ずかしいことを言ってしまったような感覚で、武田はうつむいていた。 「社長がそんなふうに言ってくださるのを、わたくしはずっと心待ちにしてました」  思いもかけない関谷の返事に、武田は目頭が熱くなった。 「わたくしが本八幡支店を去るとき、奥さんの手料理で送別会をしていただきましたが、実はあのときお誘いをいただけるのかと期待してました。ですから失望して帰ったのです。ぜひ一緒に仕事をさせてください」 「…………」 「ただ、ひとつお願いがあります。定年まで一年ほどありますので、定年後に即参加させていただく、ということでよろしいでしょうか」 「もちろんです」 「昭和六十三年十二月二十九日に満五十五歳の定年を迎えます。ですから仕事始めの昭和六十四年一月四日に出社します。ホダカの財務関連のことについて気が付いた点があれば連絡しますので、その通りに仕事の流れを作ってください」  武田も関谷も打ち解け、二人はふたたび膝《ひざ》を崩した。 「言いにくいことは初めに話してしまったほうがよろしいと思いますので、お尋ねしますが、給与について、関谷さんはいかがお考えですか」  武田の率直な質問に、関谷は微笑を浮かべた。 「銀行では定年になりますと、六〇パーセントに減額されます。その分をいただければありがたいと思いますが、わたくしは子供三人が自立してますので、給料は社長におまかせします」  こうして関谷の入社が決まった。あとは、専務の上北と片岡をどう納得させるかだ。     3  関谷を副社長でホダカに迎えたい、という武田の話に二人の専務は正面切って反対しなかったものの、明らかに異論ありげな表情をみせた。 「現在の体制でやっていけると思いますが」 「財務、経理は山崎部長がきちっとやってます」  片岡と上北は社長室のソファで顔を見合わせながら、武田に再考を求めた。 「たしかにいま現在は山崎でいいが、片岡と上北の上昇志向を見るまでもなく、ホダカはまだまだ伸びると俺は思う。片岡は営業と企画を担当してるが、財務を心配することのない営業をやりたいとは思わんのか。それをあんたにやらせてあげたいんだ。上北には購買、生産、物流を担当してもらってるが、営業の拡販をがっちり受けとめて、買う、造る、運ぶをやり通すには、財務の専門家が必要なんだ。きみたちとの出会いもそうだったが、人材は出会い、心の触れ合いによって決まる。給与が出せるから人材を採用するっていうものではないんだ。俺の考えがわかるときが必ずくる。とにかく反対するな」  武田は押し切った。もっともオーナー社長に逆らえるはずもない。  折りしも昭和六十四年、平成元年六月完成を目途に越谷センターの増築工事が進行していたので、武田は三階フロアの一隅に八坪の副社長室を造るよう指示した。 「副社長室のほうが社長室より広いなんておかしくありませんか。しかも、副社長室のほうが中庭も眺められて環境もいいし、三方が窓で明るいですよ。こっちを社長室にしたらどうでしょうか」  何人かの古参社員がそんなことを言ってきたが、武田はとりあわなかった。 「莫迦《ばか》言っちゃいけない。副社長室は金魚鉢だよ。三方が壁の俺の部屋は鍵をかけておけば居眠りだってできる」  武田はにやにやしながらうそぶいた。  入社した関谷が平成元年六月現在のホダカの含み資産を試算した。  東京・御徒町《おかちまち》にあるマルキンビル四億五千万円、千葉センター七億円、川口工場三億円、本社・流通センター二十二億五千万円、越谷寮七千万円、不動産合計三十七億七千万円、これに株式含み益七億円を加えると四十四億七千万円になる。 「へえ、四十五億円近いとは驚きましたねぇ。いつの間にかこんなに……」  武田は試算の根拠について関谷から説明を受けたとき、うれしそうに言った。  含み資産の一〇パーセントか二〇パーセントを使って新事業に挑戦してみよう、とこのとき武田は決意した。  含み益は自己増殖しこそすれ、縮小、それも種子が簿価以下になるなどとは想像だにしなかった。  武田の思考の中に、株式会社マンテンの創業者、横田辰三が著書の中で提唱している�サボテン経営�があった。マンテンは建築、金物製造卸を手がける企業だ。�サボテン経営�とは、根幹はひとつだが、サボテンの葉肉のように関連業界へ枝葉を拡げていく。本業と全く関連のない事業には手を出さない——こんな考えに基づく経営のあり方を指している。  武田は自転車を扱って、人間の成長段階に応じて、三輪車—ノーパンクタイヤ付二輪車—小径車の子供用自転車—大径車の子供用自転車—大人用自転車へと五車種買われるのを理解した。自転車の周辺に野球用具があり、サッカーなどの球技やバドミントン、テニス、ローラースケートなどのファミリースポーツ業界が近接に展開されている。  ファミリースポーツは玩具と背中合わせで、もう一段背伸びすればプロを除くアマチュアスポーツの分野に接することができる。 �サボテン経営�思考の延長線上で、ホダカは乗物玩具、ローラースケート、野球グローブなど、ファミリースポーツ部門を年商十億円程度扱ってきた。収支はトントンかせいぜい一千万円弱の利益だ。  四十五億近い含み資産に気を大きくして、なにか新事業を手がけてみたい、と考えていた平成二年二月上旬に、武田は某取引先のレジャースポーツ部長から「ヒットユニオンという大手スポーツ品メーカーの東京支店長をしていた男が、会社のスリム化で部下の整理をやらされ、責任を感じて自分も退職し、弟の会社に入社し、スポーツウエアの製造をやって急成長している。その男に会ってみないか」と声をかけられた。  ファミリースポーツ部門をなんだかんだと十年以上も続けてきたが、売り上げも伸びず、利益も出ないで、限界のようなものを感じていた武田は、その男に興味を持った。     4  その男の名前は大木明夫。年齢は四十歳。  武田は秋葉原《あきはばら》の居酒屋で大木と対面した。  身長は百五十五センチほど、体重は六十五キロ程度だろうか。ずんぐりした体型で豆タンクを思わせた。ひたいが禿げ上がって、年齢よりかなり老《ふ》けて見える。  小さな口で大きな声を出す。よくしゃべる男だった。  自信に溢《あふ》れ、話しているとき眼鏡の奥から相手をまっすぐ見る。エネルギッシュでバイタリティを感じさせた。酒も強い。  高卒ながらヒットユニオンで遣《や》り手《て》の支店長に伸《の》し上がっただけのことはある、と武田は大木を評価した。 「社長、これからは余暇の時代、|DO《ドウ》スポーツの時代、スポーツをやって汗を流す時代です。わたしはヒットユニオン時代のモノ造りの経験を生かして、この時代にチャレンジしたいんです。素材メーカーとの迅速な新しい素材情報の交換、それに基づく優秀な社内外の企画マンによる商品企画、商品開発。有名企業でセールスの第一線で実績を上げてる営業マンを多少高額の給料を払ってスカウトし、一流の専門店ルートと量販ルートへ積極果敢に売り込みを図る。スポルディングのライセンシーになればこの力はさらに加速します」  大木は上半身を乗り出して、酒をがぶがぶ飲み、料理を片っぱしからたいらげながら熱っぽく話した。  武田はもっぱら聞き役に回り、ホダカ物産創業期の自分の姿を大木に重ねて見ていた。初対面なのに十年来の知己でもあるかのような親近感を武田は憶えた。 「わたしは弟と二人で株式会社マークライフを設立しましたが、武田社長とぜひ一緒に仕事をやりたいですねぇ。必ず社長のお役に立てると思います」  ファミリースポーツ分野でウロウロし、薄口銭の自転車事業にもなんとなく不満を感じ、頑張っている社員に対して一歩踏み込んだ報い方をしてやれないことに閉塞感《へいそくかん》を覚えていた武田は、眼からウロコが落ちる思いで、大木の話に魅《ひ》き込まれていた。  よし、大木に賭《か》けてみよう、と武田は思った。  十億円を限度に新事業に注ぎ込む心づもりがすでにできていた武田にとって、大木の誘いは渡りに船だった。  レジャースポーツウエアのマーケットのサイズは自転車の比ではない。そして、まだ四十歳の大木が大成してくれれば、ホダカ・グループ全体のリーダーとして後事を託すことができないとも限らない——。武田の夢は果てしなく拡がってゆく。  初対面からひと月後の三月中旬の某日、大木は二歳下の弟、修治を伴ってホダカ本社に武田を訪ねてきた。むろんアポを取ってのことで、大木は業務提携、資本提携の提案書を呈示したいと電話連絡してきたのである。 「兄がお世話になってます。弟の大木修治です。よろしくご指導ください」  修治は丁寧に挨拶したが、兄に比べて口数も少なく、兄の動に対して弟の静、管理タイプの男だと武田は見て取った。 「わずか二年でマークライフは量販店、専門店ルート合わせて年間十億円売り上げるようになりました。在庫は一億円ほどでしょうか」  大木明夫の説明を聞いて、武田は一億円の在庫が多すぎるとも思わなかった。 「二年で十億円とはかなりのもんですねぇ。資金力をつければもっと伸びるでしょう」 「おっしゃるとおりです。提案書を読んでいただければわかりますが、量販ルート専門販社として株式会社マルキンを資本金三千万円で設立したいと思います。専門店ルートの販社は株式会社マークライフが担当し、ホダカさんに五〇パーセント出資していただきます。資本金は二千万円とします。さらに株式会社東京マークライフを資本金三千万円で設立し、企画、仕入れおよびマルキンとマークライフへの卸業務を担当させます。三社とも出資比率はマークライフとホダカの|五〇《フイフテイ》—|五〇《フイフテイ》とし、三社の代表取締役会長を武田社長にお願いし、不肖わたしが代表取締役社長をお受けしたいと思います」  武田は提案書にも眼を通したが、とくに異議をさしはさむ点はなかった。  三月二十九日に株式会社マルキン(MK)、四月二日に株式会社東京マークライフ(TML)が設立され、四月二日には株式会社マークライフ(ML)にホダカが一千万円出資し、二千万円に増資された。三社の本社は本所《ほんじよ》の賃貸ビルである。  ホダカの決算に合わせて、武田は平成二年六月に変則ながら三社の決算を大木に命じた。  TMLは売上高六億二千万円、利益二百万円、MLは売上高二十一億四千七百万円に対して六千三百万円の損失、MKは売上高二億一千百万円、三千六百万円の損失。  ちなみにMLの平成元年七月の第二期決算は売上高十億八千三百万円、利益百九十二万円であった。  わずか三か月の変則決算にしてはTMLの仕入れが多すぎる。MKもなんで三千六百万円も赤字が出るのか。MLにしても売上高が前期比で倍以上にふくらんでいるが、一転して六千三百万円の赤字。なにか変だ、と武田は首をかしげながらも、大木のバイタリティ、リーダーシップを評価こそすれ、批判する気が起こらなかった。 「三か月の計算はこんな結果になりましたが、初年度通期、つまり平成二年七月から平成三年六月の三社の売上高は四十六億五千万円、粗利十一億六千百万円、経費八億四千七百万円、経常利益三億一千四百万円と見込んでます」  大木に自信たっぷりに言い放たれて、武田は胸がふくらんだ。     5  前後するが、平成二年五月中旬の某日、御徒町《おかちまち》にあるマルキンビル五階の会議室でTML、ML、MK発足を記念し、スポーツ部門の社員や関係者を集めて披露パーティが開催された。  武田はその一週間ほど前、イトーヨーカ堂で世話になった森田に電話をかけた。  森田は、日本一のディスカウントストアといわれるダイクマの代表取締役専務になっていた。もちろん、武田と森田の交友関係はずっと続いている。 「森田さん、ホダカはスポーツウエア部門に進出することになりました。ついては、新会社の披露パーティをやりたいのですが、森田さんに出席していただくわけにはいきませんでしょうか」 「あんまり気がすすまんなぁ」 「そんなつれないことを言わずにぜひお願いしたいんです」 「武田社長に頼まれたとあっては、断るわけにもいかんかねぇ。それいつなの」  武田が日時を告げると、森田は「あいてることはあいてるけど」と気のない返事をしたあとで、改まった口調でつづけた。 「わかった、出ましょう。だけどきれいごとの挨拶《あいさつ》なんかしませんよ。わたし流に言いたいことを言わせてもらいますが、それでよければ、お受けします」 「けっこうです。よろしくお願いします」  当日の森田の挨拶は型破りだった。 「ホダカさんが今日あるのは、武田社長はじめ社員の皆さんが汗を流して苦労し、頑張ったからこそで、一朝一夕にして成ったわけではありません。武田さんたちがいかに苦労したか、いかに頑張ったかは、わたしもよく承知してます。はっきり申し上げますが、ホダカさんがスポーツウエア業界に進出することについて、わたしは賛成致しかねます。武田社長が事前に相談してくれたら、わたしは強く反対したでしょう。その理由は、この業界が、当たり外れが多く、業績が不安定なこと、そしてこの業界の連中は給料につられて渡り歩く、腰のすわったまともな人が少ないことです。お調子者ばかりと言ってもいい。しかしながらスタートを切ってしまった以上は、まあ頑張ってください、としか申し上げようがありません。どうか頑張ってください」  森田はにこりともせず、不機嫌な表情で、ときおり、大木明夫を睨《にら》みつけながら、短いスピーチを終えると、そそくさと会場から退出した。  森田は、大木明夫に含むところでもあるのだろうか、と武田は気を回した。それにしても、もうちょっと愛想があってもいい。これでは、せっかくの晴れ舞台が台なしではないか。  森田のスピーチなどに動じる様子もなく、会場のあっちこっちで声高に話し、高らかに笑っている大木を、このとき武田は頼もしく思いながら眺めていた。  四十六億円を売り上げるには、それ相応の仕入れが伴う。  大木は仕入れ関係で三菱商事、三井物産、トーメン、イトマンなどと精力的に取引話を進め、その保証をホダカに求めてきた。武田は躊躇《ちゆうちよ》なく応じた。  三菱商事や三井物産など一流商社と取引できることに満足感というか満更でもないといった思いさえあった。  しかし、武田の満足感は長くは続かなかった。  平成三年六月の第二期決算を見て愕然《がくぜん》としたのだ。  TML=売上高四十一億五千三百万円、利益三百万円、ML=売上高十六億一千九百万円、損失二億五千六百万円、MK=売上高十五億一千五百万円、利益プラスマイナスゼロ。  平成二年十二月の冬物のスポーツウエア、スキーウエアの売上予想が外れて伸び悩み、在庫が五億〜六億円に増えたこともショックだった。  第二期の決算を見て、武田は大木の楽観論、リーダーとしての力量に警戒感を抱き始めた。  武田は月に一度、本所のオフィスに顔を出すようにしていた。東武|伊勢崎《いせさき》線の越谷駅から電車で終点の浅草駅に出て、川風に吹かれながら吾妻橋《あづまばし》を渡って、アサヒビールの屋上にある金色の奇妙な彫刻を眺め、次の交差点を斜めに右折した所にTML、ML、MKの本社が入居しているビルがあった。  営業の仕事の組み立て方や、心構えを営業マンたちに話して、月次決算で気づいた問題点を大木に注意したりするのが習わしだったが、ホダカやマルキンジャパンの社員とは反応が違うことを武田は感じていた。馬の耳に念仏とでもいうか、営業マンたちから気魄《きはく》や覇気が伝わってこないのだ。眼に輝きがなかった。 「わたしが帰ったあとで、大木社長はきみたちに�会長の話は気にしなくていい�とか、�聞き流してればいい。俺の言うことを聞いてればいいんだ�なんて言ってるんじゃないのか」  武田は営業マンたちに冗談ともつかぬ口調で言ったことがあるが、このときも笑い声さえ聞こえなかった。異常な静けさである。武田の話をぼんやり聞き流しているとしか思えない。闘う営業集団ではなかった。  このとき武田は、披露パーティの森田のスピーチを思い出して、ハッと胸を衝《つ》かれた。 「この業界の連中は給料につられて渡り歩く、腰のすわったまともな人が少ない——」  こいつらはまともな人間ではないのだ。彼らの上に立つ大木兄弟からして、まともではない、と考えるべきかもしれない。  関谷副社長が「MLの資金繰りを追っていくと、ホダカの資本参加した時点の決算に架空在庫が五千万円計上されていた形跡があります」と武田に報告してきたことがあった。  大木兄弟は、いずれも四千九百十四万円の年収を取っていた。武田が大木兄弟の交際費をチェックしたところ、韓国クラブに出入りして、青年実業家気取りで豪遊していることも判明した。大木明夫は自動車電話を装備した高級車シーマを購入し、車中から部下に指示を出していることもわかった。大木兄弟にホダカが食い物にされている構図が浮かび上がる。  会社の経営が軌道に乗るまで給料を一銭も貰わないのが武田の流儀である。マルキンジャパンの場合もそうだったが、会社がらみの交際費はホダカが出していた。  ホダカが交際費を出せない創業期は、香榮子の店に負担させていた。武田は社用車を保有したことなど過去一度もなかった。  武田は、二億五千六百万円もの赤字を出してもケロッとしている大木兄弟に怒りを覚えた。  平成三年六月下旬の某日、武田は本所の事務所で大木兄弟に会って、給料の減額を言い渡した。 「七月から月額三百万円にしてもらう。赤字会社の社長や副社長なんだからそれでも多過ぎるくらいだ。ボーナスなんてとんでもない話だぞ」 「習志野《ならしの》に新しいマンションを購入したので、ローンの支払いができなくなります。給与の減額は勘弁してくださいよ」 「ふざけるな!」  武田は大木明夫を一喝した。     6  大木明夫に対する武田の不信感は、募る一方だった。  平成三年七月当時、ホダカから得ている武田の月給は二百万円だった。三百万円でも多過ぎるのに、減額は困る、と言い張る大木の気が知れない。  しかも、武田はマークライフ関係三社の会長職だが、無報酬である。 「平成三年六月期決算の赤字二億五千六百万円は冬物の処分損が多いが、三期目に処分損の在庫が持ち越されたままだ。こんな業績で四の五の言えた義理か」 「わかりましたよ。それでけっこうです」  大木の投げやりな言い方は業腹《ごうはら》だったし、これでもまだまだ言いたりなかったが、武田はぐっと肚《はら》の虫を抑えた。  平成三年の秋になって、�マリガン�なるブランド商品が企画、発注、生産の手順を経て配送センターに集荷されたが、ほとんど販売されていない事実が判明した。  危機感を強めていた武田の本所通いは週一から週二、週三へと増えていた。営業会議で大木がさかんに営業部員をしめあげているが、営業マンの表情はしらけきっていた。  厭戦《えんせん》ムードが横溢《おういつ》している、と武田は感じた。  会議後、ある営業マンが武田に訴えた。 「大木社長はわれわれ現場の声をまったく聞いてくれません。布地メーカーの提案で、その素材を使ってモノ造りをしているだけです。素材メーカーのほうに顔が向いていて、マーケット・ニーズ、マーケット・プライスに関心がないんです。勝手に素材メーカーとスポーツウエアを造って、これを売れと言われても売れるわけがないんですよ」 「なんだって!」  武田は顔から血の気が引いていくのを意識した。 「マーケットを無視したモノ造りをやれば、いくら製造してもデッドストックへ直行するだけじゃないか」 「おっしゃるとおりです」 「ありがとう。よく話してくれた」  蒼白《そうはく》だった武田の顔が真っ赤に染まった。  消費者の支持を得ている一級のバイヤーとの商談こそがモノ造りの原点である。優秀なバイヤーなら、自分の管理する全店の中からパイロット店を選び、当該店の売上動向なり、消費者と接する売り場担当者の生の声に絶えず接している。さらに、世間の売れ筋動向、消費者の意識の流れの変化も見極めているはずだ。情報武装したバイヤーとの真剣な商談に基づいて、メーカーとして企画立案し、生産する限り、造った時点で売れるはずだし、売れ残りのリスク回避も最小限に食い止められるのではないか——。川下から川上へのモノ造りの常識を無視した経営を、ホダカの社員の汗の結晶である資金を注《つ》ぎ込んで、大木はやっていたことになる。  在庫の山を前に、取引の債務保証を前に、また代表取締役としての発行手形決済の責任の重さに、武田は茫然と立ちつくした。  そんな大木を自分の後継者とまで惚れ込んだ自分の莫迦《ばか》さ加減に、武田は情けなくて仕方がなかった。 「なにやってんだ! 豆腐のカドに頭ぶつけて死んじまえ!」と、武田は胸の中で何度自分を責めたかわからない。  さらに武田の神経を逆撫《さかな》でする不祥事が頻発した。大木は、経理担当の女性と男女関係にある。ウエアの発注の折に縫製屋やボタンなどの小物を扱う業者から、バックマージンを取っている。また、デザインの企画会社に対して定期的に支払う企画料の中から、毎月リベートを取得している。こんな情報が東京マークライフやマルキンの社員から武田にもたらされてくる。調べてみると、すべて事実だった。  武田が、ホダカの関谷副社長に相談したのは、平成四年に入ってからだ。 「マークライフ系三社がひどいことになってます。大木と訣別するしかないと思うんです」 「存じてました。大木が社長にアプローチしてきた時点で粉飾決算を見抜けなかったことが大きいと思います」 「おっしゃるとおりで、わたしの不徳の致すところです」 「わたしも含み益の話を社長にしたことを反省してます。至らなかったのはわたしも同様ですよ」  関谷は、青菜に塩の武田を庇《かば》った。 「とんでもない。わたしは事業の手を広げたいと常々考えてました。大木に惚れ込み、のぼせ上がった不明を恥じるばかりです。人に惚れ込むと、見境がなくなってしまうんです」 「撤退の時期を考えましょう。含み益の残額と、マークライフから完全に手を引く、つまり手形の決済資金の追加を拒否して、倒産した時点における債務保証額、貸出金の残高を月別にわたしが計算します。そして被害がいちばん少なくて済むXデーを決めましょう」 「関谷さんに話すのが辛くて……。先送りせずにもっと早く撤退の決断をするべきでした。森田さんの厳しいスピーチが思い出されてなりません」 「社長は、大木に気づかれないように債務保証先のすべてを訪問して、ホダカが責任を持って、支払い済み手形の買い取り、発注商品の引き取り、納入済み商品代金の決済を約束することを明言してください」  さすが元バンカーだけあって、関谷は事務的な口調で、武田に言った。     7  手始めに平成四年三月に、ホダカはマークライフとの業務提携を解約した。  平成四年六月期(第三期)の三社の決算は東京マークライフは売上高三十三億四千万円、利益三百万円、累損四百万円、マークライフは売上高二十八億三千二百万円、損失六億六千万円、累損九億六千七百万円、マルキンは売上高十億六千九百万円、損失五千四百万円、累損九千万円となった。三社合計で十億六千百万円の累損である。  平成五年四月某日、東京マークライフとマークライフが倒産した。  貸し倒れ損失、債務保証損失、貸出金の替わりに在庫で返済させてその売却で発生した損失などを合わせたホダカの最終負担総額は、なんと十七億八千万円である。 「十七億八千万円ですか……」  武田は関谷の報告を聞いたとき、悔し涙にくれた。 「社長、イトーヨーカ堂さんとシマノさんの株を処分しましょう」 「…………」 「ホダカで保有しているイトーヨーカ堂さんの十三万株の平均簿価は千円ですが、時価は五千円前後です。シマノさんの十二万株は九百円の簿価に対して、時価三千円程度です。この有価証券売却益と、ホダカ本体の経常利益、そして千葉センターを処分すれば十七億八千万円を捻出《ねんしゆつ》できます」  関谷に追い打ちをかけるように言われて、武田はムカッとした。 「俺がどんな思いでイトーヨーカ堂の株を買ってきたか、あんたわかってるんですか。富士銀行の担当者から、株の購入がホダカの実力に見合ってないと注意されたことがあるが、それでも歯をくいしばって、買ってきたんだ」  武田はつい声を荒らげていた。  関谷はあくまでも沈着冷静だった。 「ちょっと考えさせてください」  武田は、大きな声を出したことの恥ずかしさもあって、仏頂面で答えた。  株式会社シマノは自転車用駆動・ブレーキ部品の総合メーカーだが、多国籍企業でもあり、年商一千五百億円規模を誇っている一部上場企業だ。  毎朝の犬の散歩は、武田夫婦にとって楽しいひとときである。「犬と散歩しているときがいちばんの幸せ」と香榮子は言って憚《はばか》らなかった。  そんな犬の散歩をしながら、武田が香榮子にこぼしたことがある。 「こんどばかりは参ったよ。俺は社員に顔向けできない。みんな汗水流して頑張ってくれてるから、ホダカは平成四年六月期に売上高百十億円、経常利益三億円ほど計上できそうだ。今期はダメな社長を助けて、もっと頑張ってくれるだろう」 「わたしはぜんぜん心配してないわ。お父さんはどんな難局もいつも乗り切ってきたじゃない」 「関谷さんが、ヨーカ堂とシマノの株を売却しろって言うんだ」 「危急存亡の秋《とき》なんだから、仕方がないんじゃないかなあ」 「おまえまでなんだ。どんな思いで株を買ってきたか、おまえだってわかってるはずだろう」  武田は気色ばんだ。 「イトーヨーカ堂さんとシマノさんに助けてもらう、と考えれば気が楽でしょう」  香榮子の美しい横顔が微笑《ほほえ》んでいる。  香榮子のひとことに、武田は勇気づけられ、そして株放出を決断し、両社との根回しに入った。両社の関係者は「武田さんが断腸の思い、と言ってくださっただけで充分です」と、理解を示してくれた。  平成五年七月上旬某日の朝会で、武田は本社・配送センターの全社員に頭を下げた。 「薄々感づいている社員もいると思いますが、新事業の失敗で巨額の損失を出してしまいました。すべて社長であるわたしの独断による失敗で、全責任はわたしにあります。給料二〇パーセントの減額と役員賞与の返上を処理が終わるまで罰として実施します。しかしながら不幸中の幸いというか、ホダカの経営をゆるがすようなことはありません。皆さんは動揺することなく日常の業務に励んでください」  ついでながら武田の給与カット、賞与返上は平成七年六月まで続いた。  ちなみにホダカの業績は順調で、平成五年六月期(第二十一期)は売上高百二十八億円、経常利益六億四千五百万円、平成六年六月期(第二十二期)は売上高百二十二億円、経常利益二億二千万円であった。 �マークライフ事件�は思い出したくもないが、その中で忘れられない感動的な挿話がひとつだけある。  平成四年六月期(第二十期)の決算報告の数字が、自転車業界に洩《も》れ始めた九月上旬のことだ。  ホダカがレジャースポーツ事業で多額の損失を出したらしい、という噂が流れた。  仕入れに支障が生じたわけでもないし、既存ルート、新規ルートの開拓も順調だった。  専門紙の取材に、ホダカ側は特別損失の具体的な内容を明らかにしなかったが、某紙がしつこく嗅《か》ぎ回っていることなど武田は夢にも思わなかった。  ある部品メーカーの社長が表敬で、武田をホダカ本社に訪ねてきたことがあった。  雑談の中で、ふと某社長が言った。 「シマノの島野尚三会長からこんな話をお聞きしました。専門紙の記者がしつこく島野会長にホダカさんのことを訊《き》いたそうです……」  島野と記者のやりとりはこんなふうだった。 「会長、ホダカがレジャースポーツ事業で大失敗して、巨額の負債を抱え込んで身動きがとれなくなっているそうですよ。武田社長から報告がありましたか」 「ないですよ。武田さんとわたしの関係ですから、なにかあれば必ず言ってくるはずです。噂がひとり歩きしてるんですかねぇ」 「いや、噂ではなく事実のようです」 「仮に事実だとしても、わたしに話がないのは武田さんが自分の力で処理できるからでしょう」 「いや、会長に話せないほどの金額だという噂です」 「それが事実なら、わたしが自分のカネを使ってでも協力して処理する」 「お二人の関係はどうなってるんですか」 「きみに説明する必要はない。帰ってくれたまえ!」  島野は執拗《しつよう》に食い下がる記者を一喝した。  むろん武田は一部始終を島野に報告していた。  武田は部品メーカー社長の話を聞いていて、胸がいっぱいになった。 「ちょっと失礼します」  武田は応接室を出て、社長室に駆け込み、五分ほど肩をふるわせ、声をあげて泣いた。  島野は武田より十年先輩である。ずいぶん永いつきあいで、武田を引き上げ、見守り、支えてくれた恩人のひとりだった。  第十三章 創立二十周年     1  ホダカは平成四年(一九九二年)一月十二日に創業二十周年を迎えた。武田が�マークライフ事件�で全社員に頭を下げて詫《わ》びた一年半ほど前になる。  この時点でホダカの社員は百二十名。三十人のパートを入れると百五十人の従業員となる。  子会社のマルキンジャパンは創業七年目に入り、コンスタントに五千万円以上の経常利益を計上できるまでに成長していた。  メンズバッグの製造、販売を主力とするマリブも利益こそ一千万円程度にすぎないが、年商五億円を売り上げていた。ホダカグループはバブル経済崩壊後も健闘していたことになる。  武田は創業二十周年の行事を景気づけ元気づけのために盛大に行ないたい、と考えた。  中小企業の経営者はイベントメーカーであらねばならない、という思いもある。いわば大小とりまぜたお祭りの演出家としての力量が問われるわけだ。  準備委員会を社内に設置し、「三つの感謝を形にしてもらいたい」と武田は指示した。  つまり、�社員に感謝する��自転車のユーザーに感謝する��社会に感謝する�だ。  最大のテーマは社会への感謝をどう表現するか、である。  武田の頭脳に閃光《せんこう》のようにひらめくものがあった。 「�駒井哲郎�がある!」  武田は狭い社長室で、思わず声高にひとりごちて、膝《ひざ》を打った。  昭和五十六年(一九八一年)の夏ごろ、武田は岩手県盛岡に大学時代の友人を訪ねた折、中津川畔の岩手銀行旧本店ロビーで、駒井哲郎版画作品展を鑑賞する機会に恵まれた。  高い天井と石の床との空間に二十点ほどの白と黒で構成された版画の小品のどれもが、清潔で真摯《しんし》でナイーブでヒューマンな印象を武田に与えずにはおかなかった。  武田は駒井哲郎とは無縁だったが、初めてめぐりあって、駒井作品にのめり込みそうな予感を憶えたほど、胸を打たれ、心のときめきを抑えかねた。  駒井哲郎は大正九年(一九二〇年)六月十四日東京生まれ、昭和十七年東京美術学校油画科卒。昭和九年慶応義塾普通部在学中、西田武雄の主宰する日本エッチング研究所で銅版画を学び、「河岸」などエッチング数点を制作。東京美術学校在学中、第四回新文展に出品。また昭和十七年〜十八年にかけて東京外国語学校フランス語専修科で学ぶ。さらに十八年には松田平田設計事務所に入所し、平田重雄から建築設計を学ぶ。昭和十九年召集を受け陸軍に入隊、二十年一月|脚気《かつけ》のため除隊、同年六月再度召集を受けるが、八月終戦で復員。昭和二十三年第十六回日本版画協会展に出品し受賞、会員となる。昭和二十五年第二十七回春陽会展に出品し、春陽会賞を受賞。翌二十六年第二十八回春陽会展に出品し会員となる。同年第一回サンパウロ・ビエンナーレ展で斎藤清とともに受賞し、話題を呼んだ。昭和二十七年「実験工房」に参加、二十八年資生堂ギャラリーで初の個展、二十九年〜三十年フランスに留学。昭和三十五年詩人の安東|次男《つぐお》と詩画集『からんどりえ』を刊行。多摩美大、東京芸大の教授を歴任。昭和五十一年舌がん肺転移により死去。享年五十六歳。銅版画に相応《ふさわ》しい詩的で緻密な表現を確立した。著書に『銅版画のマチエール』(昭和五十一年)、『駒井哲郎版画作品集』(昭和五十四年)、『駒井哲郎ブックワーク』(昭和五十七年)などがある。  以上は『朝日人物事典』によるが、武田は駒井哲郎の人となりを知るに及んで、いっそう駒井作品に傾倒してゆく。心底、駒井作品にしびれてしまったのだ。  武田は会社の資金繰りを歪《ゆが》めない程度に駒井作品の収集を続け、気がついたら九十五点に及んでいた。約五百点といわれる駒井作品の中で「束の間の幻影」「夢の推移」「食卓」「ビンとコップなど」等々の初期から晩年までの粒よりの傑作ばかりである。     2 「ホダカ創業二十周年の記念行事の一環として、埼玉県立近代美術館にそっくり寄贈したいと思うんだ」  苦難の創業期にホダカをいちばん支えてくれた香榮子に、武田は真っ先に相談した。 「一点残らず全部?」 「もちろん。見たくなったら美術館に行けばいいんだよ」 「それもそうね」 「おまえは賛成なんだな」 「ええ」  香榮子は武田よりもずっと恬淡《てんたん》としていた。 「企業三十年説に与《くみ》するつもりはないが、いずれ時代に適応できずにホダカも衰弱死するか、突然死するかもしれない。創業社長の俺は、経営に失敗し会社が潰《つぶ》れたら全財産を失う。一文無しになる。この恐怖に晒《さら》され続けてるのが創業社長なんだ。俺の『なにやってんだ!』に耐えて必死に頑張ってくれた社員のために生きた証《あかし》を社会に遺してやりたいんだよ。それと、駒井作品の美術館への寄贈は、不特定多数の社会の人々へ感謝のしるしにもなるんだ。一石二鳥の名案を、われながら褒めてやりたいくらいだ」  武田は興奮気味で、声がうわずった。 「なんだか清水の舞台から飛び降りるみたいじゃない。肩の力を抜いたらいいわ。ホダカは、まだまだ生き続けるわよ。わたしは永遠に生き続けてもらいたいわ」 「一本取られたな。本音を言えば、ちょっと惜しい気もしてるんだ」 「お父さん、気が変わらないうちに美術館に早く連絡しなさいよ」  社内に反対論はなかった。  美術館への寄贈は、創立二十周年の一年余後に実現した。  平成五年三月中旬の某日、館長の田中幸人が友人を介した武田の寄贈申し入れを受けて、越谷のホダカ本社に駆けつけてきた。  応接室で武田からリストを手渡された田中がリストから面《おもて》を上げた。 「申し訳ありませんが、リストから何点かピックアップして見せていただけますか」 「どうぞどうぞ。全作品を用意してありますから、ご覧ください」  フロアの広い机の上や、壁に立てかけて、駒井作品が披露された。  田中の顔が上気し、「素晴らしい」を何度口にしたかわからない。 「実はわたしも一点ずつ、あるいは何点かまとめて見てますが、このようにまとめて見るのは初めてなんです。やっぱり駒井作品は悪くないですねぇ」 「高い水準の作品ばかりです。これほど見事なコレクションとは思いませんでした」  田中は絶賛した。  武田は作品群の輝きに寄贈するのが惜しくなってきた。 「館長、気が変わらないうちにあすにでも引き取りにきてください」  武田は冗談ともつかずに言ったが、本音でもあった。 「受け入れにはそれなりの手続きが必要なんですよ」  日本通運の美術品専門の運搬車がホダカ本社に配車されたのは三月三十日だ。簿価は四千五百七十万円だが、美術館鑑定委員会の評価額は七千四百五十万円であった。  感激した竹内克好県教育長が、藍綬褒章受章の手続きを取りたいと連絡してきた、と社員から聞いたとき、「莫迦《ばか》言っちゃいけない」を連発し、武田は固辞した。 「新聞発表も困るぞ。俺が金持ちみたいに誤解されてもなんだからな」  武田は総務部の担当者に厳命したが、それでも三月三十一日付朝刊の毎日新聞地方版のコラム�街ひと話�に「束の間の幻影」の写真入りで書かれてしまった。 [#ここから2字下げ]  越谷市のマウンテンバイク製造、卸業「ホダカ」(武田光司社長)は30日、浦和市の県立近代美術館に、戦後日本の銅版画のパイオニアといわれる駒井哲郎氏の作品95点を寄贈した。駒井氏の作品のコレクションとしては東京都美術館に次ぐ規模になる。 昨年創業20周年を迎えたのを機に寄贈。武田社長(55)が12年前からコレクションを開始、これまで同社の従業員室などに掛けていた。代表作の「束の間の幻影」など評価額は7450万円になるという。 [#ここで字下げ終わり]     3 �ユーザーに感謝する�では、開発費三千万円を投じて一六型〜二〇型の折りたたみ自転車の開発を目指した。開発費を原価に投入しないで販売することによって、ユーザーへ多少なりとも報いられる、と武田たちは考えたのである。  折りたたみ自転車のコンセプトは折りたたみ傘のようなもの。つまり軽くて持ち運びやすく、簡単でコンパクトな自転車だ。試作品は三台できたが、武田の要望を満たすにはほど遠く、継続課題になった。�感謝�で唯一の未達成ということになる。 �社員に感謝する�はどうか。これは三つの企画にまとめられた。  ひとつは、全員が一か所に集合し豪華な食事をしよう、という提案だ。武田も賛成した。  場所は赤坂の山王飯店、日時は平成四年一月十一日土曜日午前十一時三十分から午後二時まで。 「全国の流通センターのパートさんにも参加してもらおう。全員お洒落《しやれ》してな」  これが武田のつけた条件だった。  準備委員会で上北が首をかしげた。 「物流センターや工場で働く社員で、スーツを持ってない者もいると思いますけど」 「おカネがない人には会社が貸したらいいじゃないか」  武田はそうは言ったが、さすがにスーツ代に関する貸し付けは皆無だった。  武田はパーティのためにタキシードを誂《あつら》えた。タイはワインレッド。 �創業二十周年記念パーティへの呼びかけ�と題して、武田は次のように書いた。 [#ここから2字下げ]  当社は創業二十周年を迎えました。  深夜に及ぶ残業、一人何役もの役割、出入りの多い働く仲間の顔ぶれなど、創業期を経て今日に至っています。平穏無事とは言えない日々でした。  試練は、これからもこれまで以上の残酷な顔を見せて、われわれに襲いかかってくるかもしれません。が、二十年の決して短い歳月とは言えない時間を満たしていた喜怒哀楽、これを真正面から受けとめてきた事実はゆるぎないものであり、われわれの生きる自信になっているはずです。  この自信をしばし確認しようではありませんか。 それぞれ、一番のお洒落な服装に身を固め「創業二十周年記念パーティ」に参加して、フルコースの中国料理で、自らが自らを祝おうではありませんか。 [#ここで字下げ終わり] 「奥さんにもぜひ参加していただきたいですねぇ。奥さんがいらっしゃらなかったら、辞めていた社員はいっぱいいます」  旧《ふる》い社員たちの意見を容《い》れて、武田は香榮子をパーティに出席させることにした。  二つ目は、永年勤続社員の表彰である。十年以上の勤続者が二十九名存在した。その全員をハワイ組とヨーロッパ組に分けて海外旅行をプレゼントすることになった。  パーティ当日、薄いピンク地に花柄の訪問着姿で、髪をアップにした香榮子の美しさといったらなかった。 「改めて惚れ直したよ」 「あなた、いい加減にしなさい。見えすいたお世辞ばかり言って」 「本気だよ。ほんときれいだ」 「お父さんのタキシード姿も、けっこう板に付いてるわよ」 「ひやかすなよ。馬子にも衣装って言いたいんだろう」  そんな会話を愉《たの》しみながら、武田と香榮子は早めに会場にやってきた。  二人は会場の入り口で、社員を迎えた。  馴染《なじ》まないスーツを気にしながら入ってくる者や、棒を呑《の》んだような背広姿の社員に「おい、大丈夫か」と武田がひやかし気味に声をかけると「なんとか」と照れ笑いを浮かべて入場する。その姿が武田夫婦の微笑を誘った。  全員が着席したのを見届けてから、武田は香榮子に促されて、二人で舞台に上がり、香榮子を後方に従えて、やおら会場を眺めまわした。  丸テーブルが十六。壮観な眺めだ。どの顔も晴れ晴れとしている。  武田は張りのある声で話し始めた。むろんメモなどは用意していなかった。 「皆さん、創業二十周年おめでとうございます。遅刻もしないでおめでとう……」  会場がどっと沸いた。  会議で十分遅刻すると十分、二十分の遅刻者は二十分、会議室に入れずに立たされるのがホダカの習慣だったのである。 「十五秒の瞬間芸術といわれるテレビコマーシャルのように、ここに集まった皆さんの心に染みいる文句を発見しました。二十周年に参加できたわれわれの言葉です。いいですか、よく聞いてくださいよ。�時は流れるものではない。時は積み重なるものだ�。われわれに相応《ふさわ》しい美味《うま》い酒の極《き》め言葉です。積み重ねてきたわれわれの時の二十年は基礎づくりの時代と、今日|省《かえり》みて位置づけましょう。たしかに毎日毎日の辛さを、辛さの土俵ぎわでうっちゃってきました。だが勝ち越したのです。頑張ってくれて、ほんとうにありがとうございました。これからはこの基礎の上に、�エンジョイ ヒューマンライフ�つまり人間らしい生き方を愉しむ時間、条件を築く時代の幕開けにしようではありませんか。きょうを感謝します」  盛大な喝采がいつまでもいつまでも続いた。  永年勤続者の表彰と海外旅行の目録贈呈式では、武田と香榮子が手分けしてハワイ組には首にレイをかけ、ヨーロッパ組には紙のシルクハットをかぶせた。  うれしそうな顔、顔、顔。 「辞めなくてよかったなぁ」 「うん。生きててよかった、そんな気分だよ」  そんな私語を聞いて、武田も悪い気はしなかった。  宴会が始まった。  武田と香榮子は社員への感謝のしるしを持って全テーブルを回った。感謝のしるしは純金だった。  三つ目の�社員に感謝する�だ。  発案者も武田である。  勤続一年で純金五グラム。二十年勤続者は五グラムを二十倍して百グラムということになる。  しかし、これでは単に永く勤めた者が有利になるので、途中入社でもホダカのオペレーションで有能ぶりを発揮した社員が割りを食わないように、質の評価を加味した。  武田の独断で、一点が五グラムの十点法で百二十名の社員全員を評価した。たとえば二年生でも、頑張っている者には最高の十点を与える。十グラムに五十グラムがプラスされるので、六十グラムになる計算だ。  パートさんは勤続年数だけの評価にとどめた。  武田の独断といっても、あらかじめ関谷副社長、上北、片岡両専務の三人に十点法で点数をつけさせておいた。三人の評価と武田の評価にさほどの差は生じなかった。  田中金属工業に特注で、重さ、形状の異なる純金の塊を百五十個ほど造らせた。紐《ひも》付きの白い紙袋に入れられて、個人名の書かれたシールが貼ってある。  ケースにちょっとした工夫を凝らした。五百円かけて「ホダカ二十周年記念」の金文字を記入したのだ。  武田は純金入りの紙袋をひとりひとりに手渡すとき、必ず言葉をかけた。 「ご苦労さん」 「よく生き残ったなぁ」 「これからも頼むぞ」  ごつい手、油にまみれた手、指の長いきれいな手。手にもいろんな表情がある。武田と香榮子は全員と握手した。 「ありがとうございます。よく頑張ってくれたわねぇ」  香榮子のひとことで涙ぐんだ者も少なくなかった。全員が起立して握手に応じるが、香榮子は両手で握手に応じた。  武田もひとりひとりの手を力をこめて握り返した。 平成十年三月、小社より刊行された単行本を文庫化 角川文庫『勇気凛々』平成12年3月25日初版発行