TITLE : 全  滅 〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年八月十日刊 (C) Satoko Takenaka 2001  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 トルブン隘路口 蜂の巣陣地 連隊長の交代 ニントウコン 青つり星 赤つり星 白 昼 攻 撃 死 守 命 令 戦 場 往 来 潜 入 部 隊 最 後 の 日 あ と が き 文庫版のためのあとがき 章名をクリックするとその文章が表示されます。 全  滅 インパール作戦──戦車支隊の最期 トルブン隘路口 1  それまで勇将として畏敬されていた将軍が、暴将とか狂将といった評価に急変した。ビルマ方面の日本軍を指揮した、第十五軍司令官・牟田口廉也《むだぐちれんや》中将である。  昭和十九年三月、多くの反対を押し切って、牟田口軍司令官がインパール作戦を強行した時は、一部では、まだ期待をもたれていた。何にしても、大東亜戦争(当時の日本側の呼称)の開戦の当初、マレー半島を急進し、シンガポール島を攻略した勇将である。  しかし、今度は、ビルマからインドへ、国境山脈を越えて急進し、三週間で英軍の基地インパールを攻略するという作戦なので、多くの困難が予想されていた。  果して四月の下旬までに、第十五軍の三個師団は、それぞれに損害が多く、攻撃が挫折した。三週間の予定で、食糧を三週間分しか持って行かないから、まず食糧が不足してきた。また、急進撃をするため軽装備にしたので、武器、弾薬がたりなくなった。  インパールを目ざして、三方面から進んだ第三十一師団、第十五師団、第三十三師団はいずれも悪戦苦闘となり、早くも過半の兵力を失う惨状となった。  このころ、第一線には、牟田口軍司令官についての噂がひろがった。それは、作戦開始後、三週間を過ぎても、牟田口中将は軍司令部の所在地メイミョウから動かないでいるというのである。今度のような重大な作戦の場合、軍司令官は前線指揮に適した場所に、戦闘司令所を進めるべきである。  だが、軍司令部が動かないのは、メイミョウがシャン州の高原地帯にある、ビルマ第一の避暑地であるからだ。そこには日本風の料理屋があり、内地からきた芸者、仲居がいる。その一つは軍司令部の将校専用であり、軍司令官、各参謀、幹部将校は、それぞれに専属の芸者をもっている。彼らは毎夜、料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋につれて行く。  前線では、連合軍の激しい攻撃にさらされ、将兵が傷つき、倒れ、あるいは飢えと病いに苦しんでいる時である。牟田口軍司令官に対して憤激したのは、第一線部隊だけではなかった。第十五軍の上級司令部である、ビルマ方面軍司令部でも、牟田口軍司令官に前線に出るように督促した。  シンガポール攻略の勇将には、たえがたい不名誉である。だが、牟田口軍司令官は動かず、督促は再三に及んだ。そして、ついにメイミョウを出ることになったが、急進急追しなかった。そればかりでない、シャン高原をおりて、イラワジ河を渡ると、中間基地のシュウェボでとまってしまった。  そこには、料理屋が新しくできていて、軍司令部と前後して芸者、仲居がメイミョウから出てきた。  方面軍司令部は、さらに督促を重ねた。その結果、牟田口軍司令官は幕僚と共に、チンドウィン河を西に越えて、インダンジーに戦闘司令所を置いた。昭和十九年四月二十日である。通称名を弓《ゆみ》と呼ぶ、第三十三師団がインパール作戦を開始した三月八日から数えて四十四日目であった。牟田口軍司令官の計画による予定の三週間は、遙かに過ぎていた。  すでに戦力を半減した三個師団のうち、通称名を烈《れつ》と呼ぶ第三十一師団は、インパールの北コヒマで膠着《こうちやく》して動けず、通称名祭《まつり》の第十五師団は、師団司令部が襲撃されて、再三、逃げて移動していた。  弓第三十三師団はインパール盆地の西側の山地に進出したが、ビシェンプール一帯の強大な防御陣地に阻まれていた。  こうした状況に対し、牟田口軍司令官は憤激し、四月二十九日の天長節(天皇誕生日)を期して、インパール攻略を命令した。  その天長節も過ぎて、各戦線はますます困難を加えた。その上、五月になると、インド、ビルマは雨季に入り、連日の降雨となる。ことにインパールのあるマニプール州、その西のアッサム州は豪雨地帯で、年間雨量は世界一である。  牟田口軍司令官はあせり立って、あくまでもインパール攻略の決意を変えず、第三十三師団のビシェンプール方面に攻撃の重点を形成しようとした。そのため、方面軍から増強された各種の部隊のことごとくを、第三十三師団に配属することにした。  さらに、軍戦闘司令所を弓の第一線に進め、牟田口軍司令官もそこにいて督戦に当ることにした。  そればかりでなく、弓の師団長、柳田元三中将を更迭《こうてつ》することにし、その処置をとった。柳田師団長は、この作戦の当初から失敗を予測し、中止することを進言して、牟田口軍司令官と対立していた。  五月十一日、牟田口軍司令官は参謀長・久野村桃代《くのむらももよ》中将を伴い、護衛兵をつれて、二十名あまりが自動車に分乗して、インダンジーを出発、弓師団方面に向った。  五月十二日、一行はインパール南道上の部落チュラチャンプールに到着した。そこには弓の輜重兵《しちようへい》第三十三連隊の本部があった。  連隊長・松木熊吉中佐は牟田口軍司令官に状況を報告したあと、軍需品について増強を要請したところ、激しくどなりつけられた。 「第三十三師団は、軍の補給が遅れているから前進出来んというのか。インパールに突入すれば、食糧なんかどうにでもなる。前進の遅れた責任を軍に転嫁するのはもっての外だ。弓がぐずぐずしておるので、じっとしておられんから出て来たんだ」  牟田口中将は顔を赤くして怒った。 「補給を急ぐなら、夜ばかりやらんで日中にやれ。俺だって日中堂々走って来たが、攻撃されなかった。師団輜重は意気地がない。今日から日中もやらせろ」  松木連隊長は、連合軍の飛行機の襲来の激しいなかで、自動車輸送ができないことを説明しても、どなりつけられるだけだった。  何をいっても受付けようとしない牟田口中将の態度は、狂人のようにも見えた。連隊副官の逸見《へんみ》文彦中尉は、このような男が軍司令官かと怒りながら、松木連隊長を気の毒に思って、近づいて、用件らしいことをいって連れだしてきた。  牟田口中将の言動に許しがたいものを感じた将校がほかにもいた。それについて、逸見副官は後年の手記に、次のように記した。 《軍司令官がチュラチャンプールに突然姿を現わされた時のことである。一将校が痛憤した。  ──こんな軍司令官に指揮されていては、いくさに勝てない。いっそ牟田口を殺して、自分も自決する。  将校は、手榴弾《てりゆうだん》を持って、軍司令官の幕舎に飛び込もうとした》  牟田口暗殺未遂の話は、これだけではない。インパール作戦が無残な敗北に終り、悲惨な状況となったなかで、牟田口の暴愚を怒って暗殺を計画した話は幾つかある。それらは確証を欠くので、真実を見きわめがたい。しかし、逸見副官の手記にあることは事実といえよう。手記は、次のように結んでいる。 《このような将校さえあったのであるが、本人も帰還しておられるし、十分後悔もしておられると思うので、本文には記さなかった》  第二次世界大戦中の屈指の惨戦、インパール作戦は、このような軍司令官によって強行された。 2  トラックは暗夜の山道を走りつづけた。かどをまがると、斜め下のやみのなかを、明るい光の輪が点々とつづいてくるのが見えた。後続車の前照灯の光である。運転台の小山幸一中尉は、その数をかぞえた。 「みんな、ついてきています」  大隊長の瀬古三郎大尉はうなずいて、 「この調子なら、朝までに印緬《いんめん》(インド=ビルマ)国境を越えられるな」 「いよいよインドの土を踏むのですな」  大隊副官の小山中尉が答えた。  前照灯の光のなかを白い霧が流れた。それが次第に濃くなって行った。かなり高い山脈であるらしく、寒冷の気が肌にしみた。小山副官は運転兵に注意した。 「気をつけろ。谷は深いからな」  霧がなくなると、林のなかを走っていた。深い、長い密林の道であった。前方に赤いガラス玉のようなものが光った。 「なんだ、あれは」  光は道を横切って動いた。前照灯の光のなかから、大きな動物のうしろ半身が消え去った。瞬間であったが、黄色の長い毛なみと、黒いしまと、ふとい尾が目に残った。 「虎じゃないですか」 「山猫だろう」 「まともに出あったら、一コロにやられますね」 「うん、大きかったな」 「えらいとこへきましたわ」 「よわねをはくな。貴様、出発の時は調子のいいことをいってたぞ。インパールへ、インパールへ、アラカン越えて我は行くなり、とかいって」 「いやあ、いまだって愉快ですよ。よくぞ、男に生まれけり、といったとこですよ」  小山副官は童顔に笑いを浮かべた。 「しかし、大移動だったな」 「インパールへ行け、といわれて出発したのが端午の節句ですから、十日間で六百キロ以上走りました」 「ビルマの東から西へ、ジグザグに横断したんだからな」  瀬古大隊は第十五師団の歩兵第六十七連隊の第一大隊であった。昭和十九年三月、インパール作戦が開始された当時は、瀬古大隊はこの作戦に参加していなかった。瀬古大隊はビルマの東部、シーポー地区の防衛司令官の指揮下におかれて、警備にあたっていた。シーポー地区は中華民国(当時)雲南省との国境に近く、中国軍が侵入しようとしていた。  瀬古大隊は歩兵第六十七連隊から分離されていたし、第六十七連隊もまた、直属の第十五師団から分割されていた。この連隊はインパール作戦のはじまる前には、タイ駐屯軍《ちゆうとんぐん》の指揮下にはいり、タイ国からビルマへの道路構築に使われていた。  インパール作戦がはじまることになって、連隊主力は師団を追及中、降下した英軍空挺部隊の攻撃にふりむけられた。  昭和十九年三月八日。インパール作戦が開始されたが、第十五師団に復帰するはずの第六十七連隊の主力は到着しなかった。第十五師団の司令部では、第六十七連隊がどうしているのか、まして、その下の各大隊がどうなっているのかということは、わからないでいた。  牟田口軍司令官は、インパール作戦に自分の全生命をうちこむほどに熱意を傾けていた。そのために、弓第三十三師団と同様に、祭第十五師団に対しても、当初の作戦行動が敏速に捗《はかど》らないことを不満に思った。そして、それを師団の怠慢と考えた。こうした軍司令官の悪感情は、のちに第十五師団長山内正文中将を、インパール作戦間に更迭させる一因となった。  ともあれ、第六十七連隊は、作戦開始以前から分属分散されていた。その第一大隊である瀬古大隊には、はじめから、不運の影がつきまとっていた。  牟田口軍司令官の構想では、三週間で攻略を終えるはずであった。そのため、将兵が各自に携行する糧食は二十日分とした。不足の分は、英軍の糧食を奪って補うことになっていた。その反面では、戦勝祝いの酒や菓子を、作戦開始の時に、すでに用意させた。牟田口軍司令官の胸中には、必勝の信念があった。  だが、天長節になっても、インパールは陥落しなかった。牟田口軍司令官はあせって、攻撃重点を弓の正面に変えて、ここに増強されてくる部隊を集めた。  シーポー地区にあった瀬古大隊が、急にインパールに前進を命ぜられたのは、こうした情勢への応急策のためであった。瀬古大隊は昭和十九年五月五日、シーポーを出発した。この大隊の編成は、次のようになっていた。 大隊本部    大隊長 瀬古三郎大尉 第一中隊    中隊長 長戸義郎中尉 第二中隊    中隊長 金子秀雄中尉 第三中隊(欠) 中隊長 秋葉清治大尉 第四中隊    中隊長 荒木盛道中尉 第一機関銃中隊 中隊長 白井勝弥中尉(一個小隊欠) 第一歩兵砲小隊 小隊長 橋本 実少尉  このうち第一中隊の一部は、ビルマ領内に降下した英軍の空挺部隊を攻撃中であり、第三中隊は第五十五師団に転用されていた。また、第四中隊は中国との国境付近に展開していた。このため、インパール進撃の緊急命令が出た時、瀬古大隊長が直接握っていた兵力は、大隊本部、第一中隊の一部、第二中隊、機関銃中隊、歩兵砲小隊であった。  瀬古大隊長は第四中隊に至急集結、追及することを命じ、手もとの兵力をもって出発した。  瀬古大隊長は前進の途中、チンドウィン河を越えてから、本部付の安西勝《あんざいまさる》中尉をつれてインダンジーに先行した。そこには、第十五軍の戦闘司令所があり、軍の作戦参謀平井中佐から指示を与えられることになっていた。  瀬古大隊長がインダンジーに到着した時には、軍の戦闘司令所は移動したあとであった。牟田口軍司令官、参謀長久野村中将、高級参謀木下秀明大佐、平井文作戦参謀など、第十五軍の首脳部をあげて、第三十三師団の司令部に前進したということであった。瀬古大隊長は、戦況が緊迫しているのを感じた。  戦闘司令所が移動したあとの密林のなかの幕舎には、参謀がひとりだけ、連絡のために残っていた。半そで、半ズボンにビルマのサンダルをはいた、すこし、だらしのない姿でおうようにかまえていた。防衛参謀の橋本洋《はしもとひろし》中佐であった。 「やあ、ご苦労、ご苦労。前線の状況は押しつ押されつだが、わしが参加した時のシンガポール陥落直前の状況と全く同じだ。あと、ひと押しでインパールも陥落というところだ」  橋本参謀は瀬古大隊長に自信にみちた言葉をはき、軍の戦闘司令所に急行して、軍の直轄部隊となるように指示を与えた。 「ただし、途中、三十三マイル付近の道路上に、二、三十名のグルカ兵が出てきたようだから、それを軽く蹴ちらして行くんだな。落下傘でおりたらしい」  インドのグルカ族の兵は、英印軍のなかで一番勇猛であることは、すでに知れわたっていた。それがインパールを起点とする南道の三十三マイル付近に出てきたというのだ。それは、その方面に進出した日本軍の弓第三十三師団の戦線のうしろにあらわれたことになる。しかし、数がすくないから、たいしたことはないと橋本参謀は楽観していた。  また、大隊が第十五軍の直轄部隊になるということも、瀬古大尉らの気持を明るくした。第一大隊はインパールに向って進撃を命ぜられたが、どの戦線に行くことになるのかはわかっていなかった。本来、第一大隊は第十五師団、祭兵団の一部隊であるが、今度の行く先は、祭の戦線であるとは限らなかった。どこかの危急となった戦線に応急の増援として使われることが、当然予想された。このような場合は、他の兵団に配属されることになるので、兵たちはきらっていた。配属部隊は食事や宿営などでも、よそ者扱いで、待遇のわるいことが多かった。そればかりでなく、危険危急の任務を押しつけられるのが、軍隊の常識になっていた。指揮官は、本来の部下部隊をかばおうとして、配属された他部隊を犠牲にしがちであった。  ところが、軍の直轄下にはいることは、厚遇され、活用されるように考えられた。ことに今度の場合、第十五軍の直轄となれば、インパール陥落の時には、軍司令部とともに入城する光栄を与えられることが予想された。  瀬古大尉と安西中尉はインダンジーからインパール南道に出て、後続してくる本隊を待ちうけた。その間に、瀬古大尉は当番兵に髪の毛をそらせた。瀬古大尉は林のなかにあぐらをかいて、目をつむっていた。三十六歳だというのに、前頭部ははげあがっていた。そのために、当番兵がそりあげるのに、手間はかからなかった。  安西中尉は道路の方を警戒していた。そのうち、ふと瀬古大尉を見て、妙に感じた。頭をつるつるにそりあげた瀬古大尉は、まだ、あぐらのまま、瞑目《めいもく》していた。それは禅僧が座禅をしているように見えた。安西中尉は、瀬古大尉が死を覚悟しているように感じた。  やがて、大隊の先頭の一団が前進してきた。大隊副官の小山中尉の引率する大隊本部と、本部直轄の第一中隊の第一小隊であった。第二中隊は一日行程おくれ、第四中隊はさらにおくれるということであった。それは、これらの部隊を同時に輸送するだけのトラックの数量がなかったからである。  インダンジーで橋本参謀から、急速に前進せよ、と命ぜられていたので、瀬古大尉は、先頭梯団《ていだん》をひきいて、すぐに出発した。  ビルマとインドの国境には、東西百キロメートル幅にわたって、いくえにも山脈がかさなりあっていた。そこには、パトカイ、ナガ、チンなどの山脈があり、また、三千メートル以上の高峰もあった。これらを総称してアラカン山系と呼んでいた。インパールに通じる南道は、その山腹をたどり、尾根を越えて行った。  瀬古大隊を乗せた自動車隊のトラックは故障が多く、山道に難行し、休止、停滞をくり返した。  やがて、道はくだりが多くなり、チッカという小部落を通った。しばらく行くと、道路標識の数字は、七十二マイルを示した。インパールに通じているおもな道路には、マイルの数字を刻んだ道標がつづいていた。チッカ付近の南道の数字はインパールを起点としていた。道標の数字がすくなくなることは、それだけインパールに近づくことを示していた。  七十二マイル道標の近くの路傍に、石の標識が立っていた。それには英文で、ビルマとインドの国境線であることが記されていた。 「いよいよインドにはいったぞ」  将兵は押えがたい興奮と感慨にかられた。昭和十九年五月十七日の午後であった。  瀬古大隊をのせた七輛のトラックは、さらに前進をつづけた。四十マイル道標を過ぎると、瀬古大隊長はトラックをとめて、小休止を命じた。そして、安西中尉をつれて、地形偵察に出た。  人ひとりいないような山中であった。しかし、地ひびきに似た音が遠く聞こえていた。砲撃の音に違いなかった。それを聞くと、いよいよ戦場だという緊張感が全身にみなぎった。  突然、激しい爆音がまきおこった。瀬古大隊長と安西中尉は道路わきの木のかげに飛びこんだ。鋭い銃弾の音があたりを走った。英軍の戦闘機が頭の上をかすめるようにして過ぎた。ふたりは、しばらく木かげに身をひそめていた。英軍機は襲ってこなかった。  ふたりが大隊のいるところに帰りかけると、道路わきに将校が立っていた。八字ひげとあごひげが顔の外にのびていた。八字ひげは縄をよじったかのようにふとく、そのさきを両耳にからませているのが奇怪に見えた。からだが大きいので、余計に異様な感じだった。将校は大木を背にして、軍刀を地面につき立て、肩をいからして、ふたりをにらんだ。少将の襟章《えりしよう》が金色に光っていた。瀬古大隊長と安西中尉は、あわてて、固くなって敬礼した。 「よいよい。ご苦労じゃ」  将軍はうなずいて、歩いて行ったが、何か、まのわるいのを、とりつくろうようなぎごちなさがあった。当番兵も副官もいない、全くの単身であったのは、今の空襲でかくれていた、と直感された。瀬古大尉は急に、その将軍を追って走りながら呼びかけた。 「校長閣下」  ひげの将軍は立ちどまり、瀬古大尉と手を握りあうのを、安西中尉は意外に思いながら見ていた。まもなく、瀬古大尉はもどってきて事情を説明した。 「あれは田中閣下だ。満州事変当時、馬占山《ばせんざん》討伐で勇名をはせたかただ」 「どうして閣下などを知っているのですか」 「おれが豊橋の陸軍教導学校にいた当時の校長だったのさ」  瀬古大尉は下士官から将校になり、一度、予備役に編入されたが、特別志願をして軍隊の勤務をつづけていた。それだけに成績はよかった。 「どうして少将閣下が、こんなところにいるんですか」 「弓の師団長心得になられて、赴任の途中だそうだ」 「弓の師団長は柳田閣下がおられるじゃないですか」 「急に更迭になったらしいな」 「この作戦の最中にですか」  瀬古大尉も安西中尉も、作戦最中に師団長を更迭するということに、何か異常なものがあるのを感じた。  第三十三師団長、柳田元三中将に対し、東京の参謀本部付に転任の命令が出たのは、五月十二日であった。柳田中将は、はじめからインパール作戦を無謀として反対していた。作戦が始まってからも、牟田口軍司令官に対し、進撃を中止すべきだという意見具申をした。  牟田口軍司令官は怒って、柳田師団長を全く遠ざけてしまった。さらに、作戦が予定通り進捗《しんちよく》しないのは、柳田師団長の臆病と戦意のないためであるとして、解職の手続きをとった。その結果、作戦間の師団長の更迭という類例のない事態となった。  牟田口軍司令官は、この困難になった戦況には、柳田中将のような優等生型の臆病者の代りに、猪突猛進の豪傑が必要であると考えた。その適任者として選んだのが田中信男少将であった。  当時、田中少将は独立混成第二十九旅団長としてタイ国にあった。少将であるから、旅団長にはなれるが、師団長にはなれなかった。牟田口軍司令官は、なんとしても、インパール戦線に猛将田中をほしかった。そのために、田中少将に対し、第三十三師団長心得の名目を与える処置がとられた。この命令の発せられたのは、柳田中将の免職の翌十日であった。  こうした処遇をうけた田中少将は感激した。牟田口軍司令官がそこまで期待をかけてくれるならば、それに必ずむくいるところがなければならないと決意した。満州事変では敵将馬占山をとり逃がしたが、今度はインパールに一番乗りをしなければならぬ、と覚悟をした。  田中少将は師団長心得の命令に勇躍して、即日出発した。途中から、第十五軍の高級参謀木下大佐の車に同乗して、ビルマ=インドの国境を越えた。木下参謀は牟田口軍司令官に従って、戦闘司令所を移動させる途中であった。  瀬古大尉が田中少将に出会ったのは、この途中のことであった。  瀬古大隊が乗せてきた自動車隊のトラックは故障の修理に手間どり、出発できなかった。その間に、田中少将は木下高級参謀らと先に前進して行った。  その日、五月十七日の薄暮、田中少将は南道三十八マイル付近に到着した。そこには弓第三十三師団の輜重兵連隊の本部があった。新任の師団長を迎えた輜重兵第三十三連隊長の松木熊吉中佐は、意外な報告をした。それは、そこから約八キロメートルの前方に英印軍が進出し、南道を封鎖してしまったというのだ。その場所は、山あいの谷になっているので、付近の部落の名をとって、トルブン隘路《あいろ》口と呼んだ。  弓師団の前線に糧食を緊急輸送するために、兵器勤務隊の中村小隊が十二輛のトラックで、そこを強行突破することになった。隘路口の南三十四マイル道標の近くに道路を横断して川が流れている。橋の上にはドラムかんが高くつみあげてあった。明らかな妨害であった。先頭車の兵がおりて、ドラムかんを取り除きにかかった。突然、東方の山のなかから重機関銃の音がひびいた。ドラムかんは爆発し、激しい火煙があがった。兵は打ち倒され、全員が死傷した。隘路口の突破は困難なものとなった。  松木連隊長は急を聞いてかけつけ、敵情を視察し、三十六マイルの東方高地に斥候を派遣した。その時は、出没している英印軍の数は百名以下と見られた。 3  トルブン隘路口に英印軍が進出したことは、単に弓兵団の補給路を危くするばかりではなかった。同時に、進出したばかりの第十五軍の戦闘司令所も脅威をうけ、新しい作戦計画に影響がおよぶことでもあった。それは、第十五軍の戦闘司令所が移動してきた地点が、トルブン隘路口の西北方の山中であったからだ。  天長節の祝賀式をインパールで挙行しようとする牟田口軍司令官の夢は破れた。五月となり、インパールに向った各師団は、惨敗し、糧食も弾薬も補給が困難になっていた。  飢えも恐しかったが、それ以上に恐るべきものが近づいていた。雨季は五月から九月の終りまでつづくのだ。  天長節をすぎてから、インダンジーの戦闘司令所では牟田口軍司令官の怒号が一層激しくなった。狂気のような軍司令官の激越な怒声は、徒《いたず》らに幕僚、将兵を恐怖させるばかりだった。  戦況の困難を気づかって、ビルマ方面軍司令官河辺正三《かわべまさかず》中将は、参謀長中英太郎《なかえいたろう》中将をインダンジーに派遣した。河辺方面軍司令官はパレル道に重点をおき、ここよりインパールに突進すべきだ、と考えていた。中参謀長は、そのことを牟田口軍司令官に伝えるつもりであった。  作戦開始の当時、牟田口軍司令官が最も重要視していたのは、烈第三十一師団であった。この兵団はインパールの北方約百キロメートルのコヒマに進出した。牟田口軍司令官は、さらにこの兵団を、インドに深く進撃させようと考えていた。インド征服は、牟田口軍司令官の壮大な夢想であった。  烈のコヒマ戦線が困難になると、牟田口軍司令官は祭第十五師団に望みをかけた。祭兵団は東方からインパールに迫り、十キロメートルの地点にまで進出していた。だが、その戦線も混乱し潰滅《かいめつ》しようとしていた。  牟田口軍司令官はその次の攻勢の重点を、河辺方面軍司令官の考えと同じように、パレル道を進撃している山本募《つのる》少将の指揮する山本支隊に移すことにした。  五月十日。牟田口軍司令官の新計画により、山本支隊は夜襲を強行したが、失敗に終った。  翌十一日。牟田口軍司令官は、さらに攻勢重点を変更した。今度はインパールの西南に迫っている第三十三師団によって、活路を開こうとした。このために、数個の部隊の集中を計り、弓の正面に急速に転進することを命じた。さらに、牟田口軍司令官と軍参謀長久野村中将はモローに先発した。牟田口軍司令官は雨季前の最後の機会をつかもうとしていたのだ。しかもまた、異常な執念といえるものがあった。軍参謀長まで同行させたのは、久野村中将が茶坊主のような存在でもあったからである。  河辺方面軍司令官は方針を無視されたのを不満に思い、再考を促した。ところが返電により、中方面軍参謀長が同意したことがわかった。河辺方面軍司令官はその優柔不断を怒り、かさねて重点変更の中止を命じた。だが牟田口軍司令官は従わなかった。牟田口軍司令官はあせりたち、狂奔《きようほん》していた。  軍司令部の移動には、多くの重要な処置が必要である。それを誤れば、軍の指揮が混乱する。しかも第十五軍司令部は、約四百キロの遠距離を移動するのだ。陸軍の戦術の教程では、攻勢重点の変更は容易にすべきではないと教えていた。その理由は、攻勢重点の変更は表面だけの計画に終り、実際の兵力、火力の重点配備を変更することは困難か、不可能であるからだ。いわば、馬を河中に乗りかえる危険、というよりも、愚行をあえてするものであった。  牟田口軍司令官は、みずから、この戦術の基本を無視した。そればかりでなく、自分の命令一下、それがただちに実現すると信じていた。久野村参謀長以下の第十五軍の参謀たちは、ひとりとして、その困難を説明し、無謀をいましめる者はなかった。  移動する途中の牟田口軍司令官の行動には、奇妙なものがあった。牟田口軍司令官は連合軍の飛行機の襲撃を、ひどく恐れていた。移動の途中は、時どき小休止をした。その場所に、全く空から見えないように、大きな木の下を選ぶのは、一般の対空警戒と変りはなかった。だが、そのような場合でも、牟田口軍司令官は、まっさきに衛兵司令の叢 《くさむら》良成《よしなり》軍曹を呼んで命じた。 「叢、ここへ壕を掘れ」  壕を掘るのは、叢軍曹にきまっていた。衛兵中隊長と衛兵は、軍司令官を遠まきにして警戒していた。牟田口軍司令官は、いつも、叢軍曹に同じことをつけ加えていった。 「叢、わしの壕だけでよいぞ」  ビルマとインドの土はかたかった。叢軍曹は手を痛くして掘った。だが、小休止だから、時間は短かった。たいていは、いくらも掘れないうちに出発になった。そのたびに、叢軍曹は腹のなかでつぶやいた。 「なにも、小休止の時になんか、壕を掘らせることはないやないか」  牟田口軍司令官が叢軍曹だけに、この仕事を命じるのは、飛行機に対して臆病なことを、ほかの兵に知られたくないからだ。叢軍曹は、そんなふうに感じた。  牟田口軍司令官は、それほど飛行機を恐れていた。しかし、インパール作戦開始にあたって、協力部隊である第五飛行師団の支援を拒絶していた。それは航空作戦についての知識を欠いていたのと、歩兵だけでやれるという頑迷な考えのためであった。  軍司令官に劣らず飛行機を恐れたのは、作戦参謀の平井中佐であった。当時は連合軍の飛行機がさかんに飛ぶので、行動は夜間に限られていた。平井参謀は夜間の行進中でも、自分の乗っている自動車を、ひんぱんにとめさせては、運転兵に、飛行機の爆音が聞こえるかどうかを確かめさせた。対空警戒は必要であるにしても、平井参謀は、ほとんど二百メートルおきに自動車を停止させた。このため、平井参謀の車は、いつもおくれた。  牟田口軍司令官は、インパール西南方の山中の小部落モローに移った。そこに弓第三十三師団の司令部があった。牟田口軍司令官が到着した時、司令部には、まだ柳田師団長がいた。その時には、解任の発令がされていなかった。  牟田口軍司令官は柳田師団長に会おうとしなかった。戦況の報告は、師団参謀長の田中鉄次郎大佐から聞いた。そのあとも、田中参謀長と会談し、柳田師団長を全く無視していた。柳田師団長にとっては、たえがたい屈辱であった。 4  田中信男少将はトルブン隘路口の敵を攻撃することを考えた。師団長心得としての最初の戦闘である。気持は勇躍していたが、単身赴任の途中で、部下をつれていなかった。松木連隊は輜重兵ばかりだから、戦闘には未熟だった。小銃隊を編成するとしても、五十名ぐらいしかいないということだった。 「この付近には、部隊はいないのか」 「部隊はいませんが、師団の副官が遊兵を集めています。師団長閣下が到着されるというので、お迎えに参ったところでした」  南道を往来する単独の兵がすくなくなかった。負傷してさがる兵がいた。連絡や補給のために往復する兵がいた。原隊を追及する兵がいた。そして、そのころには、戦場から逃げだしたり、部隊から離れてかくれている兵が多かった。  師団の次級副官の青砥《あおと》惣少佐は、後方のシンゲルに急行して遊兵をかりだしていた。そこには糧食の集積所があるので遊兵が集りやすかった。また、ほかの副官は、チュラチャンプール付近の道路上で、新師団長を待ちうけながら、遊兵をとらえていた。いずれにしても、すぐに攻撃に使える兵力はなかった。すでに、五月十七日の夜になっていた。田中少将は攻撃をあきらめて、対策を協議した。第十五軍の木下高級参謀、高橋後方参謀が席にいた。大本営から派遣されてきた徳永八郎参謀もいた。松木連隊長の報告で、次の諸部隊がトルブンに向って前進、または追及していることが明らかになった。  (1)弓の第二百十四連隊の田中第三大隊、約二百名は、フォートホワイト警備の任務をとかれて、原隊復帰のため北進中である。現在の位置はわからないが、十七日中にはトルブンに到着の予定であった。  (2)第十五師団の第六十七連隊の第一大隊、瀬古大隊約百五十名は十八日夕刻に到着する。  (3)兵《つわもの》第五十四師団の第百五十四連隊第二大隊は二十日に到着の予定。兵力は約百五十名。  (4)戦車第十四連隊の先頭の中隊が二十日ごろ、連隊主力が三十日までに進出してくる。  祭とか兵《つわもの》などの他の師団の部隊が出てくるというのも、牟田口軍司令官が攻勢重点を、この方面に移動させたことにともなう処置であった。  戦車連隊がくるということは、田中少将を大いに喜ばした。戦車連隊は、それまでパレル方面の山本支隊に配属されていたのが、やはり重点移動で弓に転属になったのだ。しかし、戦車を待つまでもなく、ひと押しでかたづくと見ていた。田中少将は目前の敵を着任の血祭りにあげ、インパールの攻略をいそごうと、はやり立っていた。そのため、部隊が到着するごとに、即座に攻撃に向わせることにした。これは拙速主義であるとしても、この状況下では有効だという自信があった。  田中少将は、ことに、直属ともいうべき弓の田中第三大隊に期待をかけた。今夜のうちに到着するというから、明日にも撃破できるように考えた。  木下、高橋両参謀も、この、兵力の逐次投入による攻撃の方針を強く支持していた。  戦闘の指揮は、松木輜重兵連隊長がとることになった。中佐の連隊長であり、所在の部隊のなかの最上級者であるから、指揮官になるのは当然であった。だが、戦闘の指揮官としては、適任とはいえなかった。  松木連隊長には、はじめての異常な体験であった。それは松木中佐が、第一線の戦闘部隊ではなく、輜重兵の連隊長である、というだけではなかった。中尉になってから、東京帝国大学の員外学生になったり、商工省にはいって国産自動車の開発を担当したりして、軍隊を離れていた。もともと工学者で、年齢は四十三になっていた。  中佐になってから、自分で志願して輜重兵連隊長になった。戦場を知らないと、軍人仲間で軽く扱われるからであった。しかし、いざ連隊長になると、戦術を知らないために、兵棋《へいき》演習の時など、物笑いになる発言をすることが多かった。  インパール作戦がはじまると、弓第三十三師団の補給を担当して、三十八マイル地点のチュラチャンプール部落付近に連隊本部をおいた。後方からトラックで運んできた糧食、弾薬は、ここで積みかえて、第一線に送っていた。たまたま、三十三マイル付近に英印軍が出てきたことから、急にこの戦闘の指揮官にされた。  田中少将は松木連隊長に対し、隘路口の敵を撃退し、弓の補給路を確保することを、きびしい口調で命じた。松木連隊長は緊張のあまり、顔色を蒼白にしていた。  このようにして、一応の計画はきまった。だが、異常な陣容には違いなかった。田中少将は赴任の途中であり、第十五軍の参謀らは前進途中である。軍と師団の首脳者が集ったのに、戦うべき兵はいないのだ。このなかで戦闘指揮をとることになった松木連隊長の不安は、かくしきれないものがあった。  翌五月十八日。  異様なひげをはやした将官がきたといううわさは、すぐに兵隊の間にひろまった。そのひげは、五月人形の鍾馗《しようき》を思わせた。そのために、田中少将は兵隊から“鍾馗”と呼ばれるようになった。  夜が明けても、弓の第三大隊は到着しなかった。第三大隊は予定より遅れているだけでなく、所在の連絡もなかった。それは大隊長の田中稔《みのる》少佐が故意に戦場到着を遅らせているためであった。夜になって行軍すべき時がきても、大休止を命じたまま、動かなかった。大隊長は大休止の時でも、馬の上で眠った。それは、馬を疲れさせ、乗りつぶすためにしていることであった。そのほかにも、変った行為が多かった。異常な性癖の大隊長であった。  田中少将はうす暗いうちに、敵情の視察に出た。随行の松木連隊長に勇ましげに、 「わしも随分たくさんのいくさをしたが、部隊長単独の不期遭遇戦を演じるのは初めてじゃ」  と、高笑いした。明らかに、きおいたっていた。  少将の一団は三十六マイル道標まで行き、そこから東側の高地に登った。北方の隘路口近くの斜面には、英印軍の陣地が見えた。四、五百の兵がいるらしかった。その時、遙か東方の平地に砂煙が立ちのぼり、軍隊の移動して行くのが見えた。木下高級参謀が双眼鏡で見ていた。 「かなりの敵が移動しております。敵は逐次この方面に兵力を増強しているようです」  田中少将は、これ以上、英印軍がトルブンに出てきたら、厄介なことになるから、攻撃をいそがねばならない、と考えた。  その時、砲声がひびいてきた。北のインパールの方向であった。英印軍が攻撃をはじめたのだ。砲弾が、いつ飛んでくるかも知れなかった。田中少将らがいそいで山をおりると、師団の作戦主任参謀の堀場庫三中佐が迎えにきていた。 「師団の主力方面の戦況は楽観を許しません。一刻も早くご着任を願います。軍司令官閣下も戦闘司令所でお待ちになっておられます。ビシェンプールの総攻撃も明日から始まります」  英軍機の襲撃する白昼をさけて、田中少将は夕方に出発することになった。木下、堀場両参謀は同行し、高橋後方参謀が残って、松木輜重兵連隊長を補佐して、作戦指導をすることになった。  夕方になって、田中少将らが出発しようとした時、突然、英軍の戦闘機が来襲した。専属副官が田中少将を壕に退避させようとした時には、その姿は見えなくなっていた。だれよりもすばやく、一番遠くに逃げて身をかくしたのは、田中少将であった。 「鍾馗さんの逃げ足の早いこと」  豪傑らしい顔つきに似合わない動作が、兵隊の間では、絶好のうわさになった。  高橋後方参謀は南道わきに出て、通過する部隊や兵をまとめて攻撃に出していた。  高橋参謀は、この時には、実際に、少数の敵が落下傘で隘路口付近におりた、という報告を信じていた。兵力は恐れるにたりなかったが、その地点に大きな問題があった。いま英印軍の出没しているさきの、山あいのせまい所をぬけると、インパールの盆地に出る、いわば関門である。そこを英印軍に奪われると、第三十三師団への補給路をたたれることになる。  それでなくても、第一線部隊の糧食はなく、弾薬はとぼしくなっている。補給を担当する後方参謀の高橋少佐としては、ことに、ゆるがせにできない事態であった。 蜂の巣陣地 1  密林のなかで昼間をすごした瀬古大隊は、五月十八日の夕方近くなって出発した。前進するに従って、遠く聞こえていた地ひびきに似た音は、はっきりと銃砲声とわかるようになった。そのまま前進をつづけて行くと、かなり近いところで銃砲声がひびいた。太鼓を連打するような激しさだった。 「いよいよ、きたな」  全員が緊張して、四方に警戒の目をくばった。突然、トラックがとまった。自動車隊の梯団長が停止を命じたのだ。自動車隊はここまでしか行かないことになっている、といって、前進しようとしなかった。  瀬古大隊長は全員を下車させ、小休止を命じた。戦闘するのもま近いと見て、各自にその用意をさせた。本部付の安西中尉は家族の写真や手紙、覚え書きをした通信紙などを破って火をつけた。これで、死んだあとに恥をさらすことがないと思った。しかし、何か、むなしいものを感じた。それは、たこの糸のきれた時のようだ、と考えた。  大隊は出発した。砲声は次第に近くなり、頭の上をぶきみな音をたてて銃弾が飛び散るようになった。先行する本部直轄の小隊が、急に停止し、 「指揮官、前へ」  と、順送りに伝言がきた。すぐに瀬古大隊長が走りだし、小山副官と安西中尉がそのあとにつづいた。もう夕暮れになっていた。三十八マイル道標の前を走りすぎた時、突然、大声で呼びとめられた。道の左側のくぼ地に、片ひざをついた将校がいた。青黒くやせた顔に、目だけが光っていた。つめ襟の軍服の胸に参謀懸章がかかっていた。瀬古大隊長ら三名は、くぼ地に飛びこんだ。参謀が膝をついているので、瀬古大隊長は両膝を地につけて、上半身を正しくして敬礼した。 「歩兵第六十七連隊第一大隊長瀬古大尉、軍直轄を命ぜられて、ただ今到着しました」  参謀は、もどかし気に、 「おれは軍の後方参謀の高橋少佐だ。今から命令を伝える」  と、せわしく叫んだ。瀬古大隊長は、そのままの形で、さらに姿勢を正した。 「命令。瀬古大隊は前方道路上を占領せる敵に対し、直ちに側背より攻撃すべし」  瀬古大隊長は早急さに当惑しながら答えた。 「お言葉でありますが、現在到着しているのは本部と一小隊だけで、百四十名ぐらいであります。大隊全部の到着を待って、攻撃したいのでありますが」 「全部が到着するのは、いつだ」 「第二中隊が明日、第四中隊が明後日到着します」  高橋参謀はどなりつけた。 「いかん。そんな悠長なことをいっておれる状況ではない。ここで本道をふさがれたら、弓の補給路を切られるのだ。すぐ出発だ。たかが十五、六名のグルカ兵だ。早くやれば、かたづく。後続部隊はおれが押えて前に出してやる」  激しい気迫だった。高橋参謀が必死になっているのが、瀬古大隊長に感じられた。瀬古大隊長は決意して、命令を復唱した。高橋参謀はあせり立ち、三人を追い立てた。 「すぐ行け。早く行け」  前進してきたばかりの瀬古大隊長には、地形も英印軍の所在も、方角さえもわからなかった。 「敵情を偵察して、一応の準備をして攻撃したいのですが」  高橋後方参謀は受けつけなかった。 「敵情も地形もない。相手は二日前に降下した空挺隊だ。兵力も装備も知れている。ぐずぐずしていたら、かえっていかん。突っこめば、かたがつく」  夕やみの空にはピュン! ピュン! と弾が飛んだ。 「しかし、陣地の状況がわからなくては、確実な攻撃ができません」  瀬古大隊長は、相手が上級の参謀であったが、自分の意見を強く主張した。 「陣地など大きなものはない。早く行け。貴様、こんな場合の歩兵の戦闘を知らんのか」  激しくどなりつけられて、瀬古大隊長はそれ以上、意見をいうのを断念した。  大隊副官の小山中尉は、あとになって悲憤した。 「いま、瀬古大隊は大きな戦力ですよ。大部隊ですよ。一個連隊といっても、われわれの半分しか員数がなくなっている部隊もある。それから見たら、まとめてインパール突入に使うべきですよ。その前に使うにしても、こま切れに使ったら、なんにもなりませんよ」  瀬古大隊長は集合を命じた。現在員は約百四十名であった。その内訳は、大隊本部三十名、第一中隊の二個小隊六十名、第二中隊の吉川小隊三十名、第四中隊の南小隊二十名であった。  将兵は戦闘にそなえて、糧食などをいれた背負い袋を、その場に残した。そして、米二日分と乾パン一日分を身につけた。当時の兵は、日清、日露戦争以来の背嚢《はいのう》をやめて、背負い袋を使っていた。瀬古大隊の兵がインパール攻撃に出発した時、弾薬と二十日分の糧食を背負い袋にいれた。その重さは実に三十六キログラムあった。  瀬古大隊は出発した。南小隊を先頭に、吉川小隊、大隊本部、第一中隊の順で、縦隊となった。突撃単位でない大隊本部員と、直轄小隊をもって攻撃するには、敵の最も弱点とする所を選ばねばならなかった。そのために、三十八マイル地点から、すぐに南道西側の斜面にあがった。草のしげった、林のなかであった。やみのなかを、手さぐりで、切り開きながら進んだ。将兵の背中につけた、小さな白い布や紙が、かすかな目じるしとなった。前進ははかどらなかった。  斜面の上に出ると、木がなかった。眼下のやみのなかに、線香花火のように光が走り飛んでいた。赤い火線が長く流れるのは曳光弾であった。その光の走りだすところに、英印軍の陣地がある。曳光弾は絶えまなく、限りなく流れていた。そのおびただしい数量に、はじめはおどろいていた将兵は、次第に恐しさを感じた。瀬古大隊長は、地形も敵情もわからなかったが、その発火点を目標にしようと考えていた。  将兵の気持がたかぶり、緊張しているのが、たがいに感じられた。からだをふるわせているのは初年兵ばかりではなかった。  東方のやみのなかに、わずかに濃く、こぶ山が二つ見えた。その頂上のあたりにもチカチカと銃火がきらめいた。高橋後方参謀が、そこに英印軍の砲兵陣地があると教えたところであった。瀬古大隊長は小山中尉、安西中尉、川端少尉、吉川少尉、南少尉らの将校を集めて協議した。二つの山は、吉川小隊と南小隊が、それぞれ攻撃することになった。瀬古大隊長は本部と第一中隊主力をもって、インパール南道東側の英印軍陣地を攻撃する計画だった。  瀬古大隊長は腕をくんで、やみの底にきらめく、花火のような光を見つめた。その位置は、かなり左に寄って見えた。本部付の安西中尉は、作戦主任の格であったから、意見をのべた。 「ここまで出たのですから、もう少しまわりこんで、敵の側背でなく、完全に背面をついた方が成功するのではないですか」 「よし」  瀬古大隊長は決心して、山道を進んだ。やがて、攻撃の目標の位置を見さだめると、第一中隊長代理の川端少尉とともに先頭に立って、斜面を南道に向っておりて行った。号令はかけなかった。行動を隠密にするために手で合図をした。手には白木綿《しろもめん》の手袋をつけていた。  斜面をおりたところに道路があった。幅五メートルのインパール南道である。大隊は二隊にわかれた。瀬古大隊長のひきいる大隊本部と第一中隊の主力は、道路の両端を一列縦隊になって、さらに左の方に進んだ。また、第二中隊の吉川小隊と、第四中隊の南小隊は、道路を横断して東方の山に向った。あたり一面は丈の高い葦原《あしはら》であった。兵たちの踏みわけて行く音が、風のように聞こえた。  夜のやみのなかには、銃弾がしきりに流れ飛んだ。だが、どれも瀬古大隊の動きをとらえ、目標にしている弾ではなかった。まだ英印軍は気がついていなかった。  瀬古大隊長以下は足音をしのばせて、曳光弾の発火点を目ざして近づいて行った。突然、カランカランとあきかんの音がひびき、兵がころがった。警戒のために張りめぐらした鳴子《なるこ》の針金にひっかかったのだ。しまった、と思った時には、前方、左右から機関銃を撃ちだしてきた。その音は意外に近かった。 「突っこめ」  第一中隊長代理の川端少尉の突撃の叫び声が聞こえた。何かわからない叫び声やうなり声がそこここにおこった。それよりも激しい乱射のひびきが、ごうごうと渦をまいた。  大隊本部の将兵は、一斉に地面に伏せて顔を土のなかに埋めるようにした。大隊は激しい火線に包囲されてしまった。突撃を敢行しようとした第一中隊の二個小隊のあたりからは、苦痛のうめきと、瀕死《ひんし》の絶叫が、すさまじく聞こえた。  英印軍の射撃は、ますます激しくなり、四方から集中してきた。大隊の全員は身動きもできなかった。だが、そのまま伏せていても、猛射をあびて、かたはしから殺されるだけであった。瀬古大隊長は叫んだ。 「このぐらいの弾でへばりついて、前進できんでどうするか。前へ出ろ。前へ」  だが、兵は動かなかった。その間にも、弾にあたって絶叫し、転倒する者が続出した。弾は低く飛んだ。だれも頭をあげられなかった。まして、立ち上るどころではない。それを前進させるには、瀬古大隊長自身が立ち上らねばならない。瀬古大隊長は大声をあげた。 「大隊長は今から突撃する。つづけ!」  瀬古大隊長は軍刀をかざして立ち上った。小山副官が激しい叫び声をあげた。 「突っこめ。突っこめ。早く出ろ。この臆病者。突っこめ!」  小山副官は全身からほとばしるような喊声《かんせい》をあげて走りだした。何人かの兵が飛びだした。たちまち激しい絶叫と苦痛のうなり声がおこった。立ち上った者は、すべて撃ち倒された。 2  南小隊は南のこぶ山に、吉川小隊は北の頂上に向った。山にかかると、すべりおちそうな急斜面であった。吉川小隊の第一分隊長の田中安雄軍曹は手さぐりで上って行った。銃弾の飛ぶ音が急に激しくなった。田中軍曹はその場に倒れこんだ。斜面を上ってきたのと、恐しさのために、呼吸が荒く、鼓動が激しくなっていた。田中軍曹は耳をすました。人の動く気配はなかった。すぐ近くを進んでいた西井軍曹を呼んだが、返事がなかった。小隊長の吉川少尉もいなかった。田中軍曹は自分ひとりになっているのを感じた。まばらな林をぬけて、草地の斜面に出ていた。  ふもとの方では、銃声がつづいていた。銃声というよりは、波音のような激しさだった。瀬古大隊本部と第一中隊が攻撃に向ったあたりである。英印軍陣地に衝突したに違いなかった。  こうした英印軍の布陣を見ると、相当の大部隊が本格的な攻撃に出てきたとしか思われなかった。それなのに、第十五軍の橋本防衛参謀や高橋後方参謀は“二十か三十の空挺隊”といった。 「参謀やといばりくさって、頭がどうかしてるんやないか」  田中軍曹は腹が立ってきた。兵隊がひとりもついてこないのも、くやしかった。恐怖のあまり、途中で動けなくなったり、もぐってしまう兵隊がすくなくなかった。田中軍曹は敵陣に近いことを忘れて叫んだ。 「早く上ってこい。田中分隊長はここだ」  突然、すぐ目の前に赤い光がきらめき、激しい音がした。かすかに、穴の輪廓が見えた。掩蓋壕《えんがいごう》の銃眼である。田中軍曹は鉄かぶとを土にくいこませた。銃声はやんだ。 「分隊長殿」  かけ上ってくる足音がした。 「気をつけろ。銃眼があるぞ」  走りこんできたのは猪坂《いのさか》、黒田の両兵長だった。さすが古年次兵だと思いながら、田中軍曹は命じた。 「手榴弾用意」  銃眼まで五メートルと離れていないように見えた。今度撃ってきたら、手榴弾を投げようと待っていた。その目の前に、大きな黒い影がおどりあがった。 「わあ、やられた」  猪坂兵長がひっくり返った。黒い影が斜面のやみを走りくだると、もうひとり飛びだしてきた。田中軍曹は立ち上って夢中で銃剣を突きだした。黒い影は声をあげて倒れた。 「まだ、いるかもわからん」  黒田兵長が手榴弾を壕に投げた。強烈な爆発がおこった。 「猪坂、大丈夫か」 「ああ、おどろいた。てっきり手榴弾や、思ったら、敵の兵隊がぶつかったんや」  田中軍曹は敵兵を刺殺して、気が立っていた。分隊長が英印軍陣地に達しているのに小隊長が出てこないでどうすると思った。田中軍曹は大声をあげた。 「小隊長、前へ」  こんなことを下士官がいうのは逆だ、と思ったが、がまんがならなかった。 「将校は何をしているか。卑怯《ひきよう》未練なことをすると、ぶった斬ってやるぞ」  ぐずぐずしてはおれん、早う二線、三線の陣地をつぶさにゃいかん、と、田中軍曹はあせっていた。 「田中、どうした」  小隊長の吉川両左衛門少尉が飛びだしてきた。兵もバラバラと走ってきた。 「ぐずぐずしていたら、全滅です。早う陣地をつぶさんと夜が明けますわ」  吉川小隊長は興奮してふるえていた。見習士官から少尉になったばかりで、戦場の経験もなかった。年も二十一だった。すぐに兵を指揮する判断ができなかった。田中軍曹はもどかしくなった。この小隊長ではだめだと思った。自分が小隊を握って、引っぱって行こうと決心した。 「みんな、ついてこい」  田中軍曹、猪坂兵長、黒田兵長がさきに立った。機関銃の発射音が激しくなった。大砲の音が雷のようにとどろいていた。曳光弾の火線が流星のように乱れ飛んだ。田中軍曹らは逆上したようになって、斜面を走り上った。前方のやみが薄赤くなっていた。田中軍曹はそのやみに異常なものを見てとった。 「伏せ」  田中軍曹は斜面に伏せて、顔をあげた。空がわずかに明るくなった。黒々とひろがっているのが、こぶ山の頂きだった。その斜面の一帯に、無数に置きならべた細長い木箱のようなものが、かすかに赤く見えた。猪坂兵長も見つけていた。 「分隊長殿、大変ですよ」 「えらいこっちゃなあ」  それが銃眼であった。掩蓋壕が無数にできているのだ。銃眼は死角のないように組み合わされ、四方八方に向いているに違いない。そこに突入すれば、たちまち銃弾に貫かれる。こうした英印軍の陣地の威力は、すでに日本軍の将兵の間に知れわたっており、蜂の巣陣地と呼ばれていた。  このような陣地構築は、日本軍の常用手段とする白兵突撃とか、夜襲の斬込みを防ぐために研究考案されたものであった。 「これはあかん。全滅するだけや」  まもなく五月十九日の朝が明けようとしていた。田中軍曹は吉川小隊長に相談しようともしなかった。すぐに兵隊をまとめて、山腹の林のなかにおりた。田中軍曹は、やり場のない怒りにかられていた。 「参謀のあほんだらめ。蜂の巣陣地だけでも、千人はおるわ」  同じような陣地が、もう一つのこぶ山の頂きにもでき上っているに違いない、と思うと、そこに向った南小隊のことが気づかわれた。瀬古大隊長のひきいた本部と第一中隊の方面も、前夜の銃声の激しさを思うと、不安になった。 3  瀬古大隊の攻撃が失敗に終った朝、後続の第二梯団の歩兵砲小隊が、三十八マイル道標付近に到達した。銃砲声は近くに聞こえ、英軍の飛行機が飛来した。全員はトラックをおり、積んできた歩兵砲をおろした。戦闘準備を終って、朝の食事をしようとした時、どなりつける声がした。 「そこにいるのは、どこの兵か。将校はいるか」  高橋参謀がインパール南道上に立っていた。小隊長の橋本実少尉が走って行き、敬礼をした。 「瀬古大隊の歩兵砲小隊長橋本少尉です」 「貴様らの大隊長は昨夜突入して、激戦をつづけておる。めしなどくっておって、申しわけがたつか。すぐ行け」  参謀が狂気のようにどなりちらしている様子が、戦況の緊迫を感じさせた。兵たちはあわてて飯盒《はんごう》をかたづけた。 「それ行け」  歩兵砲小隊には、戦場経験をつんだ元気者が多かった。指揮班を先頭に、戦砲隊の第一分隊、第二分隊が砲を引張って南道を突進した。  三十六マイル道標をすぎて、なお、ひた走りに急いでいる前方の道路上に、砲弾が激しく爆発した。つづいて、二弾、三弾と打ちこまれた。戦砲隊は道路わきに退避した。英印軍は日本軍の砲兵隊の突進を見ていて、砲撃してきたのだ。道路上に正確に弾着したのは、距離を測定しておいたからだ。砲撃してきたのは、前夜、瀬古大隊の二個小隊が攻撃に向ったこぶ山の砲兵陣地だ。  小隊の指揮班は高橋参謀に従って、三十四マイル道標付近まで進んだ。道路東側の山かげに五、六名の兵が警戒していた。そこが第一線であった。高橋参謀が気ぜわしく声をかけた。 「どうだ、異状はないか」 「異状ありません」  若い伍長が答えた。松木中佐の輜重兵連隊の下士官であった。  いま歩兵砲小隊が走ってきた方向に、迫撃砲弾が撃ちこまれた。まもなく、観測班の森本正勝軍曹以下五名が駆けつけてきた。途中で迫撃砲でねらい撃ちにされたのを、くぐり抜けてきたという。このような状態は、トルブン隘路口付近が、英軍によって押えられたことを示していた。  指揮班の井市治軍曹、中村治季軍曹らは、山の稜線の上に出て、敵情の監視警戒にあたった。稜線の向う側は、三百メートルばかりの草原の低地をへだてて、台地と向い合っていた。その上に英印軍の陣地があった。台地の横にまわりこむ道が見えていた。インパール南道である。  高橋参謀が斜面をのぼってきた。水をあびたように汗を流し、いきを荒くしていた。 「敵情はどうか」 「今のところ、異状を認めません」  その時、監視していた兵が叫んだ。 「前の方から、だれかやってきます」 「敵じゃないか」 「わかりません」  井軍曹が監視兵の位置に走った。 「どこだ」 「すぐ前です」  井軍曹はおどろいた。低地の草原には多数の兵が見えがくれに寄せてくる。前方の台地の斜面からも、続々と駆けおりてくる。英印軍である。井軍曹は叫んだ。 「小銃を持った者は全部稜線にあがれ」  高橋参謀にも報告した。 「敵兵約五、六十名、前の低地を前進中」  中村軍曹は軽機関銃を持って、道路の左側の予定陣地に走った。井軍曹は重要な観測器材を後方にさげ、手榴弾を急送するように命じた。残ったのは十名にたりなかった。稜線を突破されたら、ひとたまりもない。しかも敵は、どこからあがってくるか知れなかった。井軍曹がいきをころして、敵情を見ようとした時、バラバラと手榴弾が飛んできて爆発した。それを合図のように軽機、重機を急射してきた。 「敵が接近したら、手榴弾を投げろ」 「姿が見えたら撃て」  井軍曹は立木にかくれて、つづけざまに命令しながら、敵情をうかがっていた。英兵の姿が全く見えないのが、ぶきみに思われた。また、近くで手榴弾が爆発して、破片が飛んできた。敵はま近にいた。 「手榴弾を投げろ」  井軍曹は叫びながら、自分でも、つづけざまに投げつけた。近くにいた松木部隊の輜重兵が右腕をうたれた。井軍曹はその兵を斜面のかげにおろし、その小銃を持ってきた。爆発が近くにおこり、若い伍長が倒れた。胸を貫通されて、みるみる血にそまった。うしろの方で高橋参謀がしきりに叫んでいる。 「大丈夫か」 「大丈夫。中村軍曹に軽機を撃てといってください」  稜線からのぞくと、下の道路に英兵がいるのが見えた。井軍曹が小銃で撃つと姿が消えた。近くで“ワアワア”と、ときの声があがった。英兵が突入してくるのだ。井軍曹らは手榴弾を投げつくしていた。銃剣で迎え撃つほかなかった。  この時、左手の方からタンタンタンと軽機の音がひびいた。中村軍曹が撃ちだしたのだ。英印軍の銃声は一斉にやんだ。井軍曹は、よし、今だと思った。 「小銃手は前の低地を撃て」  それから、必死に撃ちつづけた。英兵はそのまま引揚げたらしく、攻撃はやんだ。井軍曹は負傷した伍長のシャツをぬがせた。急所ははずれていた。三角巾《さんかくきん》で応急手当をして後送させた。中村軍曹は頭に負傷した。短時間の戦闘だが、英印軍の火力には恐るべきもののあることを、井軍曹は身をもって痛感した。  高橋参謀は、この機会に、前方の台地に進出することを命じた。井軍曹は厄介なことになったと思ったが、軽機を持ち、藤原喜一軍曹と松木部隊の小銃兵三名をつれて草原を越えて行った。高橋参謀は、そのうしろからついて行った。前方の斜面を上りきると、あたりには、からだがかくれるほど、雑草や灌木が茂っていた。見とおしはきかなかった。  いつのまにか井軍曹らは、瀬古大隊を離れて、高橋参謀の指揮をうけて、個人戦闘をする形になっていた。井軍曹は軽機関銃を腰だめにかまえ、草をおしわけて五、六十メートルも行くと“チェッ”という声とも音ともわからない響きがした。 「伏せろ」  井軍曹は叫ぶより早く倒れこんだ。ザザザッと激しい音が背中の上を飛んだ。無数の鉄板をたたき合せるように銃声がつづいた。英印軍陣地は四、五十メートルの至近の距離である。草や木の枝が銃弾の流れになぎ倒されて、伏せている兵たちの上にふりかかった。 「やられた」  松木連隊からきた輜重兵が叫んだ。井軍曹は気をとりなおして、軽機をめくら撃ちに連射して、それをひきずって五メートルほど、這《は》いさがった。その目の前で、手榴弾がつづけざまに爆発し、爆風がからだをたたいた。身動きもできない。井軍曹は心配になって大声で呼んだ。 「藤原軍曹」  弾倉を持って、すぐ近くにいたはずの藤原軍曹の返事はなかった。その代りに、 「井軍曹、大丈夫か」  と、高橋参謀が声をかけた。敵陣のまん前まで高橋参謀が出てきたのは、敵情を直接に見きわめるつもりだったのだ。 「大丈夫」  と、答えた声が目標になって、右の方から銃弾が飛んできて、軽機をはね倒した。井軍曹は左のてのひらに激痛を感じた。見ると、無数の木片がつきささっていた。軽機の床尾をうち砕かれたのだ。  物音がした。頭をあげると、英兵の姿が見えた。とっさに井軍曹は立ち上って軽機をかまえて引き金をひいた。バラバラと、そこここから逃げ去るのが見えた。それを追い撃ちしているうちに、残弾がなくなった。予備弾倉を持った藤原軍曹は、どうなったかわからない。井軍曹は手榴弾を握りしめ、安全栓を抜いて叫んだ。 「参謀殿、軽機の残弾なし」  地に伏せて、様子をうかがっていた。応答はなかった。井軍曹は不安になった。自分が、ただひとりになっているのがわかったからだ。  しばらくして、軽迫撃砲を乱射する音がひびいた。それに追われるようにして歩兵砲小隊長の橋本少尉、大熊貞利曹長、森本軍曹、寺田兵長らがかけつけた。救援にきたのだ。高橋参謀の声がした。 「井軍曹、弾丸を持ってきたぞ」  井軍曹がころがるようにして行くと、高橋参謀が両手に弾丸をかかえていた。それを受取って弾倉につめながら、井軍曹は気がついた。高橋参謀の上着には、参謀懸章も少佐の襟章もなくなっていた。自分で取りはずして、土のなかに埋めたというのだ。南道に待ちかまえて、通過する将兵を攻撃に投入していた高橋参謀は、自分自身も死を覚悟していた。  時刻は午後二時をすぎていた。この朝、歩兵砲小隊が戦場にかけつけてから、すでに七時間あまり戦闘がつづいていた。この時、高橋参謀には、前夜、英印軍陣地に向った瀬古大隊長以下がどうなったかは、わかっていなかった。しかし、昨夜の攻撃隊が全員戦死したとは考えなかった。生存者がいても、どこかにもぐっていて出てこない、と見ていた。  高橋参謀が現在握っているのは、歩兵砲小隊の四十数名と、輜重兵の約五十名である。どちらも歩兵の戦闘には慣れていないから、英印軍陣地を強襲することは困難である。今となっては、日の暮れるのと、瀬古大隊の後続隊その他の部隊の到着を待つほかはなかった。  高橋参謀は疲れきったからだを引きずるようにして、三十五マイル付近にもどった。そこは輜重兵連隊本部が前進してきて、戦闘指揮所になっていた。  そこへ瀬古大隊の安西中尉が報告にきた。それによれば、瀬古大隊の昨夜の攻撃は失敗し、瀬古大隊長、小山副官、川端第一中隊長代理以下、ほとんどが戦死、ゆくえ不明となったという。その時までに、安西中尉が掌握した部下は十六名であり、それを引きつれて、もどってきた。  高橋参謀は声を荒くして、どなりつけた。 「大隊長を戦死させて、いままで貴様はどこにいたのか。かくれておったのだろう。十六名も部下をつれて、何しにここへきたか。それだけの兵隊がいたら、なぜ攻撃に行かないのか。すぐに攻撃に出発しろ。みだりにもどってくると承知せんぞ」  安西中尉は昨夜の激戦場から、ようやく脱出し、生き残った十六名を収容してきたのだ。瀬古大隊長以下多数が戦死しても、後続隊がくるはずである。それと合流して、大隊の建てなおしをしようとした。ところが、生きて帰ってきたのが、ふつごうであるとしかりとばされた。安西中尉と十六名の兵は、昨夜の戦闘に疲れはて、しかも、何もたべていなかった。戦う気力はなかった。安西中尉は十六名の兵をつれて引返し、林のなかにはいりこんで寝てしまった。  安西中尉らが去って、しばらくして、瀬古大隊の第二中隊が三十五マイル地点に到着した。十九日の午後六時ごろであった。中隊長金子秀雄中尉は松木連隊長に到着の申告をすると、すぐに攻撃の命令を与えられた。  金子中隊長は隊員を集合させ、攻撃の計画を説明した。 「三十三マイル付近の敵を両側背と正面よりU字型に攻撃、三十マイル地点に進出の予定。薄暮戦の効果を利して、一挙に攻撃前進をする。装具は監視兵一名を残して現在地におき、明朝、弓師団のトラックを利用して前線に輸送する」  全員は一列縦隊になり、インパール南道から百メートルぐらい離れて前進した。  午後六時三十分。金子中隊長と指揮班の上村隆雄《かみむらたかお》軍曹らは、第一線の状況を偵察するために、歩兵砲小隊の陣地にあがった。  歩兵砲小隊の橋本小隊長以下、井軍曹、森本軍曹、斎藤、松川、川端各上等兵の六名は斜面にしがみついたままだった。敵前五、六十メートルの距離であった。英印軍が出てこないので、現状を保つことができた。夕やみのなかに、英印軍の迫撃砲弾が激しく撃ちこまれた。その砲煙のなかから金子中尉らが姿をあらわすと、井軍曹がかけつけてきた。 「隊長殿、ご苦労さまでした」 「やあ、ご苦労、ご苦労。大隊砲が第一線で戦闘中と聞いて、駆けどおしできたよ」 「ありがたくありました。一時はどうなるかと思いました」  第二中隊は到着したが、第四中隊はまだ二、三日おくれるだろうということであった。しかし、井軍曹は大部隊がきたように喜んで、状況を報告した。それは、英印軍の第一線には精強なグルカ兵が出ていること、火力の激烈さは予想外であること、その兵力は推定五百をくだらないこと、英印軍の側防陣地と高地にある監視所などについてであった。  金子中尉はうなずいて聞いていた。その顔はひどくやつれていた。荒いいきをはいて苦しそうだった。四キロ近くを走りつづけたためばかりではない、疲労のかげが見えていた。  そこへ高橋参謀が姿を見せた。井軍曹は朝からこの参謀に追いまわされたから、また、いやなやつがきたと、腹のなかで舌うちをした。 「隊長、隊長、なぜ攻撃しないか」  高橋参謀はせわしげに叫んだ。金子中隊長がかけよった。 「ただ今、攻撃準備中です」 「準備も何もいらん。敵は小部隊だ。すぐ追い散らせ」  井軍曹は参謀と中隊長の顔を見くらべた。なんという無謀な命令だ、とどなりつけたかった。参謀ならば、敵を知って作戦を指導するのが当然ではないか、と腹をたてた。兵力を逐次投入したために、これまでの戦闘は失敗した、と一本気の井軍曹は腹にすえかねていた。  金子中尉はふりしぼった声で答えた。 「はい、やります」  決意がその顔にあらわれていた。  井軍曹は、金子中隊が時間の余裕も与えられないで、不利な戦闘に出るのを助けたかった。 「歩兵砲小隊が後方におります。協力することがあればいってください」 「この地形では砲も撃てんだろう。擲弾筒《てきだんとう》でやる。弾薬の補充をたのむ。一キロほど後方の道路わきにおいてある」  金子中尉らが出発してから、しばらくして、擲弾筒と軽機が激しく撃ちだした。すこしして、かすれたような喊声があがった。第二中隊が突撃したのだ。  井軍曹らは成功を祈った。 4  第二中隊の上村軍曹は目をさました。寒さが全身にしみこんでいた。銃を握っていた手がしびれて、感じがなくなっていた。草のなかだった。ひどく、のどがかわいていた。草の葉の露を口のなかにしたたらせた。上村軍曹は昨夜のことを思いだした。  第二中隊は高地に出ると、銃砲弾の奔流のために、一歩も半歩も動けなくなってしまった。上村軍曹は土に顔をうずめるようにしながら、これでは実弾射撃の標的ではないかと思った。この火力の激しさを知っていながら、あの参謀はわれわれを攻撃にだしたとすれば、全くの無謀非道だと思った。そのまま前進できないで、攻撃は終った。  朝になっていた。草の露にぬれた手を見ると、爪の間に泥がつまっていた。昨夜は夢中で指で土を掘って、すこしでも深く顔をうずめようとした。それを思うと、寒気を感じた。  上村軍曹は各小隊のいる所に行って、人員を調べた。血にまみれて、動かなくなっている者がいた。そこここに、うめき声がしていた。衛生兵の手当をうけながら、苦痛の叫びをあげている者もいた。服はやぶれ、くつはなくなっていた。傷口は赤黒く露出したままになっていた。 「水をくれ、水をくれ」  うわごとのようにいいつづけている兵がいた。 「痛いよう。痛いよう」  と、泣き叫んでいる兵もいた。上村軍曹は鉛筆を持った手がふるえ、足ががくがくしてきた。  上村軍曹は金子中隊長に報告した。 「第一小隊、戦死、小隊長以下十一名。負傷十九名。第二小隊、戦死、小隊長以下十五名。負傷十二名。指揮班、戦死二名、負傷二名。戦闘参加人員百十四名」  戦死傷を合せると六十一名だから、半数以上を戦列から失うことになった。青黒い金子中尉の顔から血の気が引き、かすかにふるえているのがわかった。  息を引きとる者があった。上村軍曹は死体の運ばれて行くのを見送りながら、悲憤の思いにかられていた。幼いころから、忠孝一本、尽忠報国と教えられてきたのは、きょうのこの時のためであろうか、と思った。このような死にかたを、名誉の戦死、家門の誉れと喜ぶ親があるとしたら、それは本当の人間だろうか。はたして、心からそう思っているのだろうか、と痛感した。  生き残りの全員が集合を命ぜられた。泥や血にまみれた兵たちが、中隊長をかこんだ。金子中尉は長い間、顔を伏せていたが、やがて口をひらいた。 「小官の指揮の未熟から、多数の戦死傷者をだしたことは申しわけない。ところがいま命令が出て、今夜また攻撃をすることになった。昨夜の状況から見て、現在の少数兵力では到底むりだと思い、増援をたのんだが、余力はないとのことだ。高橋参謀殿は『最後の一兵に至るまで、攻撃を続行せよ。一時も早く活路を開け』との厳命だ。歩兵砲二門、それに第一機関銃中隊の応援があるが、状況は非常に困難である」  金子中尉の声は悲痛にふるえていた。隊員は身動きもしないで聞いていた。 「今夜この死地に再びお前たちを追いやることは、実に断腸の思いがする。自分は今日まで決してよい中隊長ではなかった。わがままで、むりばかりいってきた、悪い中隊長であった。なんとか喜んでもらえる日もあろうかと念じてきたが、それもかなえられず、誠にすまぬと思っている。許してくれ。ここでわびる」  金子中尉は深く頭をさげた。隊員のなかに、すすり泣く声がした。 「最後に皆にたのむ。皆の命を、この中隊長にくれ。おれも必ずここで死ぬ。いっしょに死んでくれ。たのむ」  そのあとの声は涙に消された。金子中尉は顔をおおって、むせび泣きをつづけた。  金子中尉の悲壮な決意を知って、六十余名の隊員たちは、今夜の戦闘で死ぬ覚悟をかためた。  高橋参謀もこのころは、後続部隊を待つ以外に策はなかった。高橋参謀が木かげにはいって、からだを休めようとすると、当番兵の小川晃《あきら》上等兵がわきにきて立っていた。向うへ行って休めといっても立ち去ろうとしないで、 「参謀殿、からだを大事にしてください。軽はずみなことをせんでください」  と、誠意をあらわしていった。高橋参謀が階級章と参謀懸章をはずしていたので、自決をするのではないかと、当番兵は気づかっていた。  この時、蘇生の思いをさせるような報告がきた。歩兵第百五十四連隊の第二大隊が到着したというのだ。大隊長は岩崎勝治大尉である。  第百五十四連隊は岡山市で編成され、昭和十八年九月、ビルマに進駐した。それ以来、連合軍の上陸作戦に備えて、南部ビルマのベンガル湾沿岸の警備にあたっていた。  昭和十九年五月、インパール作戦が困難になって、岩崎大隊と、野砲兵第五十四連隊第二中隊とが、第十五軍の牟田口軍司令官の直轄となって、インパール戦線に急進を命ぜられた。岩崎大隊は二つの梯団にわかれて出発した。途中、アラカン山系にはいってから輸送が混乱した。第一梯団は道に迷っておくれ、第二梯団がさきに出てきた。  二十日の朝、岩崎大隊長は松木輜重兵連隊長に到着の申告をすると、即座に命令された。 「トルブン隘路口の敵を撃破して、すみやかにニントウコンに前進すべし」  ニントウコンは南道二十一マイルの小部落で、日本軍の工兵隊のいる最前方拠点であった。岩崎大隊長は、現在到着しているのは大隊本部と第七中隊の百五十名であるから、主力の到着を待って攻撃することを願った。第五、第六の二個中隊の約百名は、まもなく到着するはずだった。  だが、松木連隊長は許さないで、すぐに出発を命じた。すべて、瀬古大隊の場合と同じであった。瀬古大隊よりも悪かったのは、すでに日が高くなってから、出発を命ぜられたことである。岩崎大隊の百五十名は、南道にそって散開隊形で進んだ。たちまち英軍の戦闘機に襲われて、銃撃をうけた。このような危険のあることを、松木連隊長は無視していた。岩崎大隊長も、いそがせられるままに、無謀な突進をした。  再び前進を始めると、また英軍機に攻撃された。そのたびに死傷者をだし、隊形は乱れた。大隊は密林に退避し、動けないでいる時間が長かった。  前方から、日本兵が引きあげてくるのに行きあった。血にまみれていた。戦友同士がささえあって歩いてくるのもいた。  尖兵小隊長の武本清通少尉が声をかけた。 「どんな状況か」 「敵はごっつう撃ってくるさかい、気ィつけなさいよ」  瀬古大隊の兵であった。岩崎大隊の将兵は戦闘の激しさを知った。  岩崎大隊のかくれている林の方向に、大型の飛行機が低空ではいってきた。英軍機である。武本少尉は、爆撃されるのかと思って警戒した。大型機からは無数の落下傘が投下された。それが南道の東側におちて行った。武本少尉は、弾薬糧食などの空中補給だと気がついた。英軍の実力の恐しさを、はっきりと知った。  その日の夕方、高橋参謀は追及途中の兵や、脱落の遊兵を集めた。それを待たせておいて、敵情を見に行った。帰ってくると、集めた兵はいなかった。残らず逃げ去ってしまったのだ。だが高橋参謀も、さがしに行く気力はなかった。落胆して腰をおろした時、南道を走るエンジンと鉄の車輪の音がひびいた。 「戦車だ」  そのエンジンの音は飛行機に似た、特徴のある英軍のM3型中戦車である。それが日本軍の後方、三十八マイル方面から走ってくるのだ。高橋参謀は耳を疑ぐる思いで、当番の小川上等兵を偵察に走らせた。英軍の戦車が本当にうしろから出てきたら、トルブン隘路口の日本軍は、ひとたまりもなく、つぶされる。高橋参謀が不安に思っていると、小川上等兵がもどってきた。同行者がいた。戦車隊の服装をした将校が高橋参謀に申告した。 「戦車第十四連隊第二中隊長、中村達夫大尉、ただ今到着しました」 「貴様か、M3を走らせてきたのは」 「捕獲した戦車であります。速力がはやいので乗ってきました」 「連隊は全部きたのか」 「自分の戦車だけであります」 「何をぐずぐずしておるか。本隊はいつくるんだ」  高橋参謀は激しく、しかりつけた。戦車連隊が移動を命ぜられて、十日をすぎても出てこないので、高橋参謀は不満だった。 「貴様らに戦意がないから出てこんのだ」  中村大尉は、その言葉を不当な屈辱だと考えた。戦車連隊はパレル道から五百五十キロメートルの移動をすることになった。戦車はトラックほどの速力もでない。行軍は夜間に限られた上に、一時間運行すれば二十分休まなければならなかった。エンジンも操行装置も過熱するからだ。また、山岳地帯の道は、予想以上に悪かった。途中では、この山地の最高峰といわれるケネディピーク三千二百三十一メートルの山頂を越えた。戦車には困難な行軍であった。  それでも、戦車連隊長の上田信夫中佐は、前進をいそいでいた。そのために、中村大尉にM3戦車で単独先行させた。戦車連隊の持っている九七式『チハ』中戦車は、速度や機能がM3に劣るので、同行させることはできなかった。  牟田口軍司令官は簡単に攻勢重点を変えたが、そのために、それを実行する部隊は、不可能なことまで要求された。  高橋参謀はひどく疲れきった様子であった。隘路口の戦闘をひとりで指導し奔走して、休むひまもなかった。高橋参謀は川岸の穴にすわり、中村大尉にもすわらせた。 「貴様らの連隊長は代るぞ」 「連隊長殿も覚悟しておられたようです」 「部下が満足ないくさをせんからだ」  戦車第十四連隊については、さまざまな悪評のあることを、中村大尉は耳にしていた。しかし、それは故意に作りあげられた悪評だと信じていた。 「連隊長の頭がおかしいのは、本当か」  上田中佐の挙動がおかしくなったのは、インパール作戦がはじまってからだった。  それまでの上田中佐は、広東《カントン》攻略の時の戦車戦で武勲をあげ、金鵄《きんし》勲章を授けられた勇敢な軍人とされていた。  インパール作戦開始後の三日目、三月十日、戦車連隊はウィトウ部落に近づいた。そこには英軍の防御陣地があった。攻撃準備をしていると、上田連隊長が妙なことをしていた。隊長車に上ったりおりたりして、同じことをくり返していた。何かにおびえているようだった。  まもなく戦車隊は前進したが、英軍の激しい砲撃をうけて、退却した。その時、上田連隊長は隊長車から飛びだし、ピストルをふりまわし、あたりかまわず乱射して逃げまわった。それを副官などが危い思いをして、つれてきて休ませた。その時には、土気色の顔になって、目はうつろに開き、わけのわからないことをいっていた。精神錯乱の状態であった。  軍医の江木茂元大尉、池田久男大尉らが手当をして、平静にもどったが、それからの言動がおかしくなった。何よりも、飛行機には異常な恐怖を示した。一日中、壕にかくれて、外に出ないようにしていた。その間には、当番兵に乾パンを持ってこさせ、たえず、たべていた。インパール作戦では、将校も糧食の分量が二十日分ときめられていたから、当番兵は困った。  また、軍服の胸に、多くの勲章の略綬《りやくじゆ》を飾るようになったのは、精神錯乱をおこした、その夜からであった。汗と泥にまみれた戦闘服の胸に、略綬が幾段にもならんでいるのは異様であった。  その後は夜になると、将校をかわるがわる呼び寄せた。将校たちは緊急な用件かと思って行くと、戦車の対空偽装を夜明けまでに完全にせよ、とか、手榴弾は一発ずつ持たせよ、といった、わかりきったことを指示した。時には軍医を呼んで股間をひろげ、治療を求めた。夜を、ひとりでいるには、さびしさにたえられなかったのだ。だが将校たちは憤慨し、近づかなくなった。  こんどの作戦では、戦車連隊はパレル方面からインパールに進撃する予定であったが、上田連隊長が臆病なため、戦車が動かないといわれた。これが上田連隊長の更迭される理由になった。しかし、中村大尉をはじめ連隊の将校たちは、これはすべて、この方面の指揮官、山本募《つのる》少将が戦車用兵を知らず、しかも卑劣なごま化しの報告をしたためだと悲憤していた。  ともあれ、待望の戦車連隊が、さまざまな内紛の重荷をつんで、頭をだしてきた。  この夜、岩崎大隊と金子中隊は英印軍陣地を攻撃した。出発の時刻になって、岩崎大隊長、武本尖兵小隊長のまわりに集った兵は、十六名しかいなかった。谷口中隊長以下の主力はどこかへ行ってしまっていた。岩崎大隊長は、ひどくあせり立っていた。  慎重な武本少尉は危険なものを感じた。 「隘路口の状況がわかりませんから、偵察をさせてください」 「そのひまはない。早くやれ。早く」  武本少尉は自分の小隊の兵をつれて、英印軍陣地に突入した。途中で兵は傷つき、あるいは進まなくなって、鉄条網を突破したのは三人だけであった。そのなかの松井軍曹は負傷した。やむなく武本少尉がせおって脱出した。南道に出て、まもなく、岩崎大隊長が二名の下士官と歩いてくるのに出会った。その方向は、攻撃とは全く関係がなく、敵もいなかった。戦闘をした様子はなかった。武本少尉は大隊長の行動に不審を感じた。結局、突入したのは武本小隊だけで、大隊長はどこかへ行っていたのだと思った。  終始、統制のとれない、支離滅裂な戦闘であった。  金子中隊の夜襲も失敗に終った。英印軍は予期していて、迫撃砲と自動小銃を激しく撃ちかけて、金子中隊の進入を困難にした。午後八時ごろ、金子中隊は英印軍陣地のある高地にあがった。そのまま動けなくなり、弾薬を撃ちつくした。将兵は英印軍の火線の激流の下で、恐怖におののきながら、ばらばらになってさがった。  五月二十一日の朝。六十名の金子中隊は四十名になって、高地の下のくぼ地にはいっていた。その大部分は傷ついていた。  指揮班の上村軍曹は右腕に貫通銃創をうけた。それを止血したまま、連絡に歩きまわっていたが、午後になって、しびれてきた。上村軍曹がくぼ地で休んでいると、金子中隊長が声をかけた。 「負傷者をつれて野戦病院にさがれ」  上村軍曹は、さがれることはうれしかった。しかし、自分よりも中隊長の方が弱っていると思い、ことわった。 「これくらいの傷でさがれません」  金子中隊長は怒ったような顔をして、 「歩ける者は、みんなつれて行け」  と、強くいった。上村軍曹は、金子中隊長の気持が、単なる温情でないことを感じた。兵たちの多くは、すでに戦意を失っていた。あまりにも貧弱な装備をもって英印軍陣地を攻撃する結末は、明らかに見えていた。しかし、兵である限り、命令のままに、一言の文句も反抗も許されないで、敵陣の前に行くほかはなかった。  金子中隊長は、それを命令するにしのびなかった。だが、高橋参謀から強要され、面罵《めんば》されれば、指揮官として、命令に従い、命令を伝えるほかはなかった。その苦しい気持が、あの出発前の訓辞の時、むせび泣きとなってあふれた。それと同じ気持が、歩ける程度の負傷兵までさげさせようとした。上村軍曹はそれを思い、心のなかにあついものを感じた。  二十一日の午後。金子中隊長は高地の下のくぼ地に横たわっていた。二晩つづいた激戦と、マラリア熱のために、疲労しきっていた。夕方になって、高橋参謀に呼ばれた。  高橋参謀は、自分の定位置としている、いつもの川の岸のくぼ地にいた。戦車連隊の中村中隊長と敵状視察に三十三マイル付近の山を歩いて、帰ってきたところだった。高橋参謀の顔はやせて、目がいよいよ鋭くなっていた。この日、戦車連隊と金子中隊の後続部隊が到着した。高橋参謀は、この機会に全力をあげて攻撃をすることを考え、その計画を金子中尉に伝えた。  高橋参謀としては、どのような犠牲を払っても、弓の補給路を確保しようと決意していた。そのためには兵力の逐次投入という、手あたり次第に薪《まき》を火中にほうりこむに似た戦法もやむを得ないと考えていた。  高橋参謀の計画に従って、松木連隊長は強襲を続行させた。そのために、二十二日には岩崎大隊長が負傷した。百五十名いた岩崎大隊の第一梯団は、五十名が生き残っているだけになった。  翌二十三日。松木連隊長はこの生き残り部隊に攻撃を命じた。しかも、午後の明るい時刻に出発させようとした。大隊長代理となった第七中隊長谷口富男中尉は、その無謀におどろいて、後続の第二梯団の到着まで待つことを嘆願した。だが、松木連隊長は許さなかった。この時は、高橋参謀が同席していた。ふたりは口々に激しい言葉をあびせた。 「岡山の兵隊は命が惜しいのか。このくらいの敵が恐しいのか。貴様は卑怯者だぞ。岡山百五十四連隊の名誉にかけてやれ。戦車もいっしょに出してやる。重砲も支援させる」  谷口中尉は予備役から再志願して将校になったほどだから、まじめで正義感の強い青年だった。涙を流しながら集合地に帰ってきた。死ぬ気になっていた。  谷口中尉の一隊が蜂の巣陣地に突入した。谷口中尉以下三十名あまりは、英印軍陣地の鉄条網の付近で倒れた。くるはずの戦車はこなかった。また、重砲は、その付近にはなかった。  岡山の兵隊たちは、こうした高橋参謀や松木連隊長のやり方を、非情、無謀として、歯がみして怒った。 5  牟田口軍司令官のために、師団長の職を解任された柳田元三中将は、モローの師団司令部を去った。この作戦を無謀と非難する者は、親補職の師団長であろうと、牟田口軍司令官のために不忠の国賊として追われた。南道三十八マイルまでは危険でもあったので、専属副官であった杉本中尉と、通信隊の無線小隊長相沢隆和少尉が同行した。  雨が降っていた。雨季の雨が次第に強くなるころであった。モローの谷を出て、山の尾根にかかった時、柳田中将は足をとめた。目の下には、雨に煙るインパール盆地があった。そのなかに大きくログタ湖がひろがっていた。その岸にそって、インパール南道が走っている。その中心となるビシェンプールとその周辺では、師団の主力部隊、作間《さくま》連隊と笹原連隊が激戦をつづけ、大きな損害をだしている。  柳田師団長はビシェンプールの方向に向って姿勢を正した。雨雲の低く飛ぶ盆地の山々には、砲声がひびき渡っていた。柳田中将は頭をたれて、しばらく黙祷《もくとう》した。  黙祷を終ってから、柳田中将は聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。 「将兵をむだに殺して、自分ひとりが帰って、申しわけないことだ」  柳田中将は深い感慨にとらわれながら、静かに山をくだった。  五月二十四日。岩崎大隊の生き残りで、三十三マイル付近にとどまっていたのは、歩兵が九名、大隊本部が十数名にすぎなかった。瀬古大隊も、ほぼ同じ程度の人員がいると見られたが、確実につかめてはいなかった。  この日、戦車連隊の中戦車が新たに四輛到着した。松木連隊長、高橋参謀は、これに力を得て、薄暮に攻撃をすることにした。岩崎、瀬古の生き残りの指揮官は、また、主力の到着を待ってくれるようにたのみ、押し問答までして退けられた。生き残りの兵らは、もう死んだほうがよい、といった自暴自棄の気持になっていた。  夕方、岩崎大隊は集合し、出発しようとしていた。この時、おりよく、主力の第五、第六中隊、機関銃中隊、歩兵砲小隊など、約二百名が到着した。第六中隊長安木松雄中尉は、大隊の惨状を聞くと、悲憤しながらも、生き残りを励ました。 「逢うてよかったなあ。えらいことをしたなあ。もう心配すんな。おれがやったる」  いくさには自信のある男だった。兵隊は岩崎大尉を信頼しなかったが、安木中尉には一番の信望を寄せていた。  この主力部隊の到着の時にも、高橋参謀はそれまでと同じような態度を示した。大隊副官有元秀夫中尉が、連絡のために戦闘指揮所にかけつけた。大きな林のなかを、兵に案内されて行くと、木の間に、座敷につるように、蚊帳《かや》をつってあった。そのなかに人影が動いていた。有元中尉が敬礼して氏名階級を名のると、いきなり大声が飛んだ。 「貴様ら、何をもたもたしているか。早く前線へ出ろ。貴様らがぐずぐずしているから、岩崎大隊は全滅したぞ」  高橋参謀であった。有元中尉はあっけにとられた。敵情を説明するでもなければ、地形や友軍の状況を教えようともしないのだ。到着したばかりの部隊としては、行動のしようもなかった。  有元中尉は腹をたてた。追及がおくれたには違いないが、アラカン山系のけわしい山道を、食事もろくにとらずに急いできた。その労をねぎらうぐらいのことをいってもよいではないか、と思った。ところが、参謀自身は、戦場だというのに、蚊帳のなかにはいっていて、いきなり、どなりつけるのだ。  有元中尉は反論したかったが、こらえた。下級者が意見がましいことをいうことはできないのが、軍隊の規律である。有元中尉はいわれるままに、すぐ出発することにした。その前に、有元中尉は兵隊に食事をさせることにした。前夜来、食事をしていなかった。  兵隊は飯盒でめしをたきはじめた。雨のなかなので、火はもえにくかった。炊事に手間どっていると、突然、大声でどなられた。 「何をしているか。ばかもん。そんなところで煙をだしたら、飛行機の目標になる」  声のぬしは、ずかずかとはいってきて、手にした木の枝で、炊事の火をたたきまわった。有元中尉はあわてて、あやまろうとして見ると、それは高橋参謀であった。 「貴様ら、まだこんなところにいたのか。前線に出るのが恐しいのか。めしをくわなければ、いくさができんのか。早く行け。めしなど、くうな」  兵はあわてて火を消して整列した。  瀬古大隊の生き残りは、少しでも眠りたかった。そしてまた、後続の第四中隊と第一機関銃中隊の到着を待ちたかった。だが、松木連隊長は許さなかった。  瀬古大隊が前進の準備をしていると、第一機関銃中隊が到着した。白井勝弥中尉を長とする約六十名であった。重機関銃を四銃持っていた。敗残の部隊にとっては、心強い戦力であった。  すぐに隊長会議が開かれた。金子中尉はそのまま大隊長代理をつづけ、機関銃中隊の加藤義之中尉が歩兵の小隊長となった。瀬古大隊は各隊を合せると、約百五十名になっていた。  後続部隊が到着したので、薄暮攻撃を中止し、翌朝、払暁攻撃をすることになった。トルブン隘路口の戦闘が始まって以来、はじめて、各部隊の主力を結集して攻撃する態勢となった。  五月二十五日午前二時。戦車連隊の戦車は、三十八マイル付近の出発位置に集った。第二中隊長の中村大尉がM3中戦車に乗り、四輛の『チハ』中戦車を指揮して突進することになった。  戦車隊の前方には、岩崎大隊の第五、第六中隊と、工兵隊が出た。南道上には戦車地雷が多数敷設されていたので、工兵隊が排除して行くのである。  戦車隊の先頭は、中村大尉のM3戦車が進んだ。中村大尉は天蓋《てんがい》をあけて、上半身をだしていた。道は隘路口に近づいた。その付近に英印軍がいるはずであった。 「いそげ、いそげ」  中村大尉は全身がふるえた。敵に接近すると、いつもそうであった。操縦手の松尾源一伍長の肩を蹴りつづけた。それが戦車隊の命令や合図のしかたであった。戦車の内外は音がやかましくて、声がとおらないためであった。  松尾伍長は、急がせられて、操縦を誤った。M3戦車は橋にさしかかっていた。そこから六メートル下の川床に落ちこんだ。中村大尉は右手首を骨折し、松尾伍長は全身に打撲傷をうけた。  だが、英印軍は攻撃してこなかった。遠くで二、三度、機関銃の音がひびいただけであった。夜が明けてから、英印軍陣地には一兵も残っていないことが明らかになった。英印軍は前夜のうちに、姿をかくしてしまった。潮のひくような行動であった。  その日、日本軍は隘路口一帯の戦場掃除《そうじ》をおこなった。瀬古大隊の生き残りは、三十三マイル付近の南道の東側を清掃した。そこは瀬古大隊の本部と一中隊が突入した所であった。  こぶ山陣地の攻撃に行った田中軍曹も、この清掃に加わっていた。田中軍曹の所属した吉川小隊で、生き残ったのは三名であった。草むらを分けて行くと、激しい死臭が渦まいていた。顔色を変えて、逃げだす兵もいた。死体の数は次第に多くなった。二、三人がかさなっているのもあった。顔の見わけがつかないほど崩れているのは、四、五日前の戦死者であった。たるのように、ふくれあがっている死体もあった。その、どれにも、うじがうごめいていた。  瀬古大隊長の死体は、その服装から判別することができた。腹部からねじれて、前のめりになっていた。それから十メートル離れて、小山副官が倒れていた。その付近には兵たちの死体がかさなり合っていた。その五十メートルさきには鉄条網がはってあり、その内側に掩蓋銃座が無数にならんでいた。巨大な蜂の巣陣地であった。  田中軍曹はあの夜の山腹に見た蜂の巣陣地を思いだした。それと同じものが、今、目の前にある。あの、すさまじい銃弾のあらしのなかに立ち上った瀬古大隊長の気持は、どうであったか、と考えた。兵たちは銃弾の激しさと恐しさのために、這って進むこともできないでいた。  瀬古大隊長は、責任感と勇気をもってしたことだろうか。それとも、異常な戦場心理にかられて、死を急いだのか。  田中軍曹は別の考え方をした。瀬古大隊長は、英印軍の大規模な陣地を見て、わずか五十名たらずの兵と小銃と手榴弾では、どうすることもできないのを知ったはずだ。しかし、死ぬほかはなかった。それは、高橋参謀が突入を強要し、ののしり、しかりつけたからだ。  田中軍曹は腹を立てながら、瀬古大隊長の死体を掩蓋壕のなかにいれて、土をかぶせた。  岩崎大隊の生き残りも、戦友の傷つき腐敗した死体をかたづけていた。瀬古大隊の戦闘した場所から、さらに一マイル北の地点であった。そのあたりは、道の左右に高地の斜面が迫っていた。そこが三十二マイル道標の隘路口であった。斜面は蜂の巣陣地でうずめられていた。谷口中隊長以下、かさなりあい、枕をならべて倒れていた。この中隊では、兵が一名だけ、腕をぶらぶらにさせて帰ってきただけであった。  武本少尉は自分の突入した鉄条網の内側に部下をさがしに行った。主陣地の中央のあたりに倒れている死体があった。赤田上等兵であった。破甲爆雷を胸に抱えこんでいた。銃弾の激流をおかして、どうして、このように奥深いところまで飛びこんできたのか、と武本少尉は思った。赤田上等兵は破甲爆雷といっしょに掩蓋銃座に飛びこむつもりで、ラグビーの球のように、抱えていたに違いなかった。  しかし、それらの死体も、すでに、うじがうごめき、正視できないほど、死臭をわきたたせていた。武本少尉は壕をのぞいて歩いた。どこにもたくさんの弾薬箱があった。それは使用された弾丸のおびただしい量を示していた。武本少尉は、ふと気がついた。英印軍の陣地内は、どこも、きれいにかたづいていた。死体はなかった。  武本少尉は、英印軍の撤退が日本軍の攻撃をうけたための敗走ではない、と感じた。計画し準備したことであった。そうとすれば、英印軍はどこか次の戦場に移動したことになる、と思った。  それにしても、撤退にあたって、整然とかたづけて去った英印軍の行為が、こころ憎かった。日本軍ならば、汚物も何も足のふみ場のないままであった。英印軍陣地には、それもなかった。  武本少尉は、勝敗の差は戦力だけでないのを感じた。  次田勝男軍曹が木をきってきて、墓標をたてた。武本少尉は、その前に立つと、涙がこみあげてきた。松木連隊長や高橋参謀は、このような英印軍陣地を知っていたはずだ、と思った。それを教えずに、ただ、日露戦争以来の白兵突撃を強行させた。  武本少尉の教えられた戦術には、兵力の逐次投入は、遭遇戦にはよくても、陣地に対しては、すべきでないとしてあった。松木連隊長も高橋参謀も、この程度の戦術を知らないはずはなかった。知っていて、この理論を無視したために、二つの大隊を全滅させてしまった。  そうとしたら、この無分別な戦闘は、田中少将の判断の誤りが大きな原因となったともいえる。田中少将は英印軍の移動するのを見て“指揮官単独の遭遇戦”と勇み立った。田中少将は終始、遭遇戦の考えを変えなかった。しかし実は、英印軍は陣地をかまえていた。日本軍は、いわば、蟻地獄《ありじごく》のわなに落ちこんだにひとしかった。逐次投入策は、みずからをそこへ追い立てる結果となった。  ともあれ、隘路口が開けたので、瀬古大隊、岩崎大隊、戦車連隊の各隊は前進した。目標はインパール盆地の中央、ニントウコン部落である。  隘路口をすぎれば、インパール盆地である。すりばちの底にひとしい所だった。その中央を走るインパール南道に、英印軍は砲撃の照準を定めていることが予想された。英軍の飛行機は絶えず上空を飛びまわっている。低地にはいるものが敗れるのは、戦術の原則である。瀬古大隊、岩崎大隊、そして戦車連隊は、まさに死地にはいったにひとしかった。  トルブン隘路口の英印軍が撤退した日の夜のことである。戦闘指揮所の天幕のなかで、荒々しく、もみあう音と、叫び立てる声が聞こえた。逸見副官は“連隊長が何かやったな”と直感して、走って行った。ろうそくの光のなかで、松木連隊長が長い軍刀をふりまわしていた。当番兵の作並上等兵が、うしろから抱えこんで叫んでいた。 「やめてください。刀を離してください」  松木連隊長は身長が一メートル七十七、体重が八十キログラムもある大男であった。作並上等兵はふりまわされていた。逸見副官は飛びこんで、軍刀をもぎとった。 「おちついてください。早まってはいけません」  当番兵が手を離すと、松木連隊長はその場にすわりこんで、むせび泣いた。逸見副官は当番兵に軍刀をかくさせた。  松木連隊長は戦闘指揮をするようになってから、興奮していた。また、連日、英印軍の激しい銃砲撃をあびて、恐怖心をつのらせていた。ようやく英印軍が撤退したというので、松木連隊長は、戦場掃除を命じた。そして自分でも、隘路口の戦場に行った。そこには、丘の斜面一帯に死体が散乱していた。自分が命令して死地に追いやった日本兵の死体である。その数は三百名以上に達した。それを見てから、松木連隊長の思考は乱れてしまったのだ。  それから後も、松木連隊長の目はおびえたように、定まらなくなった。当番兵がかくした軍刀やピストルをさがしまわった。それが見つからないと、将校のものを持ちだした。そして再三、自決を図った。責任感のためではなく、正常な意識を失っていた。  錯乱をおこして三日目に、その頭の毛はまっ白に変っていた。  松木連隊長の錯乱は、その後、しばらくつづいた。軍人の非情に徹しきれなかった学者の神経は、戦争の悲惨残酷の実相にたえることができなかったのだ。 連隊長の交代 1  瀬古大隊はトルブン隘路口を通過した。雨もよいのやみのなかである。風が荒々しく吹き過ぎた。そのたびに死臭がただよってきた。戦場掃除をしたあとであるが、まだ多くの死体が、見つけられないで、残されているのだ。  先頭には歩兵の第一分隊が進んだ。分隊長の田中軍曹以下十名である。そのあとに安井軍曹の第二分隊七名がつづいた。田中軍曹は悲痛な興奮にかられていた。一週間にわたった苦戦で、瀬古大隊の生き残りの歩兵は、将校二名と、田中軍曹らの下士官と兵が十七名になってしまった。田中軍曹には、無益に兵を殺したと思われてならなかった。  大隊長の瀬古大尉の戦死も惜しまれた。大隊が三十八マイルに到着したのは、トルブンの戦闘の最初の時期である。後続の中隊のくることもわかっていた。それなのに、高橋参謀が一刻の猶予《ゆうよ》も与えないで、戦闘に追いたてたのは、あまりにも、兵の生命を粗末にして、かえりみない戦術であった。  そのために瀬古大隊長は、小隊長のような戦闘をさせられて死んだ。瀬古大隊長は兵隊あがりの将校で、中国大陸で戦闘の経験をかさねていた。しかし、トルブンの夜襲の時には、死にいそぎをする気持になっていた。それは、瀬古大隊長が生一本の性格なので、高橋参謀の非情なやり方に反発したためと思われた。  田中軍曹は、こぶ山の蜂の巣陣地に撃退されてから、林のなかにひそんで、次の朝を迎えた。やがて、あたりは激しい銃砲声に包まれた。友軍が攻撃していると思われたが、英印軍の銃砲声は激しくなるばかりだった。この激戦場に、小倉一等兵とふたりだけが取り残されていた。吉川小隊長以下は、さきに山から逃げ去ってしまったのだ。田中軍曹は心細くもあったし、恐しくもあった。銃も剣も持っていなかった。 「小倉、どうしようか。ふたりで死のうか」 「分隊長、何をいいますか。こんなとこで死ねますか。死ぬのだったら、敵に見つかってからでいいです」 「どうして死ぬのや」 「手榴弾を腹にあてて、発火させたらいいです」  小倉一等兵は北海道の漁夫だった。“さすがに胆《きも》がふといわ”と田中軍曹は感心した。ふたりは、夜になるまで、葦原にかくれていた。  その次の日になって、田中軍曹と小倉一等兵は、安西中尉と落ち合うことができた。安西中尉は高橋参謀にしかりつけられて、攻撃に行くところだということだった。生き残りが十数名、そのあたりに集って死んだようになって寝ていた。安西中尉は田中軍曹を加えて、英印軍陣地へと向った。だが、むだなことはわかっていた。兵たちもおびえて、気力を失っていた。安西中尉と田中軍曹は、攻撃をやめて兵をつれて引き返し、林のなかにひそんでいた。  恐怖と絶望が、田中軍曹の頭のなかにしみついていた。トルブンを出発する時、情報として、前方のモイラン部落の付近に二、三十の敵がいるらしい、ということを聞かされた。田中軍曹は、もう、それを信じなかった。恐らく、トルブン隘路口と同じように、蜂の巣陣地をかまえていると思われた。ただ、白井中尉の機関銃中隊が到着し、うしろにつづいているのが心強く思われた。  隘路口を出ると、やみのなかでも、視界が開けた。道は平らになり、両側は田があるらしかった。山は平地のはしに遠く見えた。いよいよインパール盆地にはいった。その道の五十キロメートルさきに、目ざすインパールがある。  急に風が吹きつのり、雨が降りだした。それが、たちまち豪雨となった。前を行く兵の姿も見えなくなった。道は川の流れに変り、歩くのも困難になった。将兵は外被(雨よけ)をつけたが、雨はしみ通って、肌の上を流れた。  田中軍曹はインドの雨のすさまじさにおどろいた。これが雨季の前ぶれに違いないと思った。このような雨が、九月の終りまで、毎日降りつづくようになる。そのなかで、どのように戦い、どのように生活するのか。その恐しさが、今、はっきりとわかってきた。  滝のような豪雨の音のなかに、銃声がまじって聞こえてきた。一番さきに進んだ第百五十四連隊の岩崎大隊が英印軍と衝突したらしかった。銃砲声は次第に激しくなった。  空が明るくなると、雨はやんだ。五月二十六日の朝である。モイラン方面には英軍の戦闘機が来襲して、銃爆撃をくり返した。岩崎大隊は前進をさえぎられたままであった。戦車の車輪の音がひびきだした。戦車第十四連隊の四輛の戦車が前進して行った。戦車は九七式『チハ』中戦車改であった。  南道の両側を、散開して走って行く部隊があった。岩崎大隊の機関銃第三小隊であった。弾薬箱と、分解した二銃の重機関銃を、それぞれに兵がかついでいた。モイラン部落手前の第五中隊の陣地に急追を命じられたが、英軍機の来襲で、前進を妨げられていた。  モイラン部落は南道二十七マイル付近から東方にはいった所にあった。『チハ』中戦車は機関銃小隊を追い抜いて急進し、モイランの三叉路に達した。突然、先頭の戦車が爆音と同時に、火煙に包まれた。戦車地雷に爆破されたのだ。後続の二輛は停止した。その時、激しい砲撃が戦車に集中した。後続の一輛はたちまち燃え上り、一輛は後退した。  機関銃小隊は、戦車の燃える煙を前方に見て、第五中隊の陣地がその付近にあると判断して、突進をつづけた。このころ、空には急速に黒雲がひろがり、ごうごうと音を立てて雨が流れ落ちた。みるみるうちに南道も両側の田も、一面の水の流れと、霧のようなしぶきにおおいかくされた。機関銃小隊は、そのなかを進んで行くと、ま近に雷鳴のような音がおこった。英印軍の機関銃、迫撃砲が一斉射撃をはじめたのだ。小隊の数名が水のなかに転倒した。小隊長近藤曹長は全員を道路わきに集め、運んできた重機関銃を組み立てさせた。  英印軍の銃砲撃は激しくつづいた。豪雨のなかであったが、銃砲弾は的確に近藤小隊をとらえていた。英印軍は照準をして待ちかまえていたのだ。小隊は重機を組み立てるまもなかった。兵は片はしから撃ち倒され、重機は二銃とも破壊された。この二銃が、岩崎大隊の重機の全部であった。  絶叫しつづけていた近藤曹長も、頭部を撃ち抜かれて死んだ。数分のうちに、機関銃小隊の全員が撃ち倒された。  英印軍がその地点に待ちかまえていたのは、そこに、それまで、岩崎大隊の第五中隊がいたからだ。陸軍士官学校第五十五期の田ノ上四郎中尉の指揮する第五中隊は、その付近まで進出して攻撃していたが、英印軍の逆襲にあって後退した。田ノ上中隊を救援するはずの機関銃小隊は、そのあとに到着したから、求めてわなにかかったに等しかった。  瀬古大隊の田中軍曹の第一分隊と、安井軍曹の第二分隊は、豪雨が降りだしたころには、モイラン部落の南に出ていた。この二個分隊を合せて指揮することになった小隊長の加藤中尉は、前夜、追及してきて、そのまま戦場に出たため、興奮していた。大声をあげて、分隊の兵を、むやみといそがせた。  瀬古大隊の大隊長代理の金子中尉は、歩兵小隊よりおくれて走っていた。副官となった安西中尉と、白井中尉のひきいる機関銃中隊がいっしょに走っていた。みんな、ずぶぬれの重い服であった。足をとられて、水のなかにころがる者が続出した。  金子中尉の一隊が走っていると、道の前方に人が立っていた。金子中尉らが近づくと、すらりと日本刀を引きぬいて叫んだ。将校であった。 「早く行け。何をしておるか」  金子中尉が報告に近よろうとすると、将校は刀をふりまわした。 「早く行け。ぐずぐずしておると、ぶったぎるぞ」  将校は狂暴な表情で、今にも斬りつけそうに刀をふりつづけた。胸には参謀懸章がさがり、大佐の階級章をつけていた。金子中尉らはおどろいて逃げるように走った。  歩兵砲小隊は、重い砲や砲弾を持っているので、それより、さらにおくれて走っていた。橋本小隊長が先頭に立ち、井軍曹が大声で励ましながら走った。しばらくすると、前方から連絡の兵がきて、金子大隊長代理の命令を伝えた。それは、部落の南端を砲撃せよというのだった。  戦砲隊分隊長の井軍曹は射撃準備を命じた。橋本小隊長と観測班は高地に上った。歩兵砲の支援射撃のあとで歩兵小隊が部落に突入するのだ。 「装薬二号。一千」  歩兵砲が射撃をはじめた。第八弾が突入の合図であった。それを待って、加藤小隊長は安井分隊をひきいて部落の左端に、田中分隊は右端に突入した。田中軍曹が飛びこむと、一面の竹やぶであった。どっちへ行ってよいか、迷っていると、激しい銃声が近くに聞こえた。田中軍曹は、安井分隊が撃たれたと思って、いっそう、あせり立った。銃声と反対の方に走って行くと、竹やぶから抜けでた。田中軍曹は思わず声をあげて足をとめた。ゴルフ場のような、よく手入れをした、広い草原が目の前にひらけていた。よく見ると、白い大きな布がところどころに捨てられていた。落下傘であった。落下傘は前線陣地に食糧弾薬を投下するために使うものであった。田中軍曹は、その場所は英軍の飛行場だと思った。  田中軍曹はトルブンで蜂の巣陣地を見つけた時と同じようにおどろいた。英印軍の作戦の方法は、想像もおよばないほど大規模であるのがわかった。  田中軍曹は、ふと気がついた。少しさきの竹やぶのきわに、英印軍の天幕が見えていた。なかには英兵がいるらしかった。そこまで二百メートルほどの距離であった。そばにいた山崎健二郎兵長が声を殺していった。 「分隊長殿、撃たしてください」  山崎兵長は射撃がうまかった。 「よっしゃ、うったれ。ひとりものがすなよ」  山崎兵長は軽機をまともに撃ちこんだ。天幕のなかに動揺がおこり、英兵、インド兵が十数名即死した。  歩兵砲の井軍曹は、支援射撃を終えると、機敏に分隊を前進させた。兵らは水のあふれた田のなかを砲をひいて走った。砲弾の飛ぶ音がして、近くに水煙があがった。ねらわれたのだ。 「あぶない。低地におりろ」  井軍曹がさきに立って、低地におりると、水かさをました川が流れていた。谷裏康三伍長、岡本忍兵長らが、砲を渡すために、急流のなかに飛びこんだ。  戦砲分隊は突進して、部落の竹やぶのかげにはいった。英印軍は、まだ、ま近にいた。銃声は四方にひびき、銃弾が竹の幹にあたって激しい音をたてて、はね飛んだ。井軍曹は、すこし早くきすぎた、と思った。やぶの向うを機関銃中隊の兵がかけぬけて行く。 「おーい、敵はどこにいるんだ」 「この辺から、左右一面にいます」  井軍曹は、えらいことになった、と思った。すぐに指揮班に連絡をだすと、中村軍曹が軽機をもってかけつけた。戦砲分隊は自衛の戦力はすくない。分隊員は拳銃や手榴弾を用意した。  その時、五、六人の一団が近くにきた。 「そこにいるのは、どこの兵か」  先頭の将校が声をかけた。 「瀬古大隊の歩兵砲です」 「何をしているか。将校はおらんか」  井軍曹はおどろいて、相手の階級章を見ると、中佐らしかった。年季のはいった井軍曹は、これはいかん、早く逃げるに限る、と思った。 「おります。すぐ呼んできます」  橋本小隊長がいそいで、かけつけた。中佐の前に立つよりさきに、どなりつけられた。 「何をしておるか。早く敵を掃討しろ」 「歩兵砲小隊には攻撃武器がありません」 「何をいうか。手榴弾があるだろう。すぐやれ」 「はい」 「早くやれ、敵は目の前にいるんだ。見ているやつがあるか」  中佐は激しく、しかり飛ばした。五十がらみの、ふけた顔をしていた。ふうさいのあがらないのに、語気だけは異常にけわしかった。中佐は、そのまま立ち去った。随行した兵に、井軍曹はきいてみた。 「あれはだれだ」 「戦車連隊長の上田中佐殿です」  井軍曹はあきれて、がっかりした。いかに戦車の連隊長でも、歩兵砲の戦砲隊に銃剣のないことや、手榴弾もいくらも持っていないことはわかっているだろう、と思った。戦場にきたので、血迷っている、としか思えなかった。  戦砲分隊は砲撃もできないので、そのまま待機していた。歩兵がしきりに走りまわっていた。戦闘はやまなかった。井軍曹らは、ずぶぬれの服の、悪寒《おかん》のするような冷たさにたえていた。  血にまみれた負傷者がさがってきた。戦況をきいてみると、歯が立たないで、はね返されている状況だった。早くも加藤小隊長と、安井分隊の全員七名は戦死した。田中分隊は七名になってしまった。  午後になって、戦砲分隊に命令がきた。 「歩兵砲は部落を砲撃し得る地点に撤退せよ」  戦車連隊長に手榴弾攻撃を命ぜられたり、撤退の命令がきたり、なんぎなことだ、と井軍曹は思った。  瀬古大隊は死傷者が続出して、バラバラになって後退した。  金子中尉のまわりには、機関銃中隊の白井中尉、歩兵砲小隊の橋本少尉、井軍曹、中村軍曹、そのほか二、三名がいた。南道をはずれた、くぼ地のなかであった。みんな、激闘のために疲労しきっていた。それぞれにうずくまっていた。白井中尉は負傷して、血をにじませていた。金子中尉はくるしそうな呼吸をしていた。病人のように衰弱していた。  雨が降ったりやんだりした一日が、暮れかけていた。  突然、くぼ地に踏みこんできた者がいた。井軍曹は、おどろいた。先頭にはいってきた将校の顔に見おぼえがあった。昼間、トルブン部落の竹やぶで、どなりちらした戦車連隊長の上田中佐である。ひどくいきごんで、近くの者を手ではねのけて、 「貴様らはなんだ。何をしておるか」  金子中尉が立ち上って姿勢を正した。 「瀬古大隊の大隊長代理金子中尉です」  上田中佐は雨外被のはしをはねのけて、右手をつき出した。拳銃を握っていた。それを金子中尉の胸に押しつけた。そこにいた全員が立ち上った。上田中佐は、けわしい声で叫んだ。 「貴様は、なぜ撤退したか。戦場離脱だ。不忠者だ。軍命によって処断する」  金子中尉は即座に答えができなかった。退却はしたが、戦場を逃亡するつもりはなかった。 「すぐ攻撃に行け。それとも命が惜しいのか。そんな臆病者は殺してやる」  上田中佐は狂気のように叫びながら、拳銃をぐいぐいと押しつけた。  井軍曹は中村軍曹に目くばせをした。中村軍曹はすこし離れて、自分の拳銃に弾をこめた。それを軍服の物入れ(ポケット)に押しこんで、銃把《じゆうは》を握って、金子中尉の横にかけよった。大熊曹長、井軍曹、森本軍曹らは上田中佐に近づいて、とりかこんだ。 「大隊本部がこんな所にかくれているからあのくらいの陣地をぬけんのだ。卑怯者」  上田中佐は、今にも拳銃の引き金を引くような勢いであった。  下士官たちは、一日の激闘のあとで、気が立っていた。トルブンの隘路口の戦闘で、多くの犠牲者をだしたこと、瀬古大隊長をまっさきに出して、殺してしまったことを怒っていた。それなのに今また、戦車連隊長が戦場離脱とののしり、攻撃に追い立てようとしている。このわずかな兵力に何をさせようというのか。なによりも、戦場離脱の汚名を許すことはできなかった。この乱戦のなかなら、連隊長を射殺してもわからない、と下士官たちは腹をすえた。  拳銃をつきつけられた金子中尉は、全身をふるわせていた。この日は朝、大佐参謀に軍刀でおどされ、今また拳銃をつきつけられた。ふるえているのは、恐れのためではなかった。その目から涙があふれ、ひげののびた、やつれたほおを流れ落ちた。トルブンの斜面に立って、部下にわびた時と同じ涙であった。激戦のあとで気持も高ぶっていた。  中村軍曹が金子中尉をおしのけた。大熊曹長らの険悪な視線が、上田中佐に集った。白井中尉が、わってはいった。 「金子隊長殿、もう一度、行きましょう」  上田中佐は危険を感じたらしく、そそくさと去った。  拳銃を握っていた中村軍曹が、くやし泣きに泣いた。  瀬古大隊は、すぐに攻撃に出発した。雨もよいの、暗い夜になっていた。目ざすモイラン部落の方向には、曳光弾が螢火《ほたるび》のように流れていた。 2  戦車連隊の兵が中村大尉に知らせにきた。 「大佐のかたが、戦車連隊の将校はいないかと、さがしておられますが」  中村大尉が出て行くと、南道ぞいの林のなかの大きな広葉樹の根に腰をおろしている将校がいた。中村大尉はその前に立って上半身をかたむけて敬礼した。右手を首からつっているので、挙手の礼ができなかった。戦車が川におちた時に骨折した手首が、まだ痛んでいた。  大佐は、ふきげんな表情であった。五十三、四と見える、ふけた顔であった。 「戦車連隊はどこにおるのか」 「上田連隊長殿が指揮して、モイラン北方二マイルの部落付近に出ています」  大佐は中村大尉のつるした腕を見ながら、 「貴官は、なぜ、ここにおるのか」  と、なじるようにいった。戦車連隊長が第一線に出ているのに、大尉が後方にいるのを怪しんでいる口ぶりであった。 「はい、中村は連隊長殿から、現在地において、後続の戦車を握って前進せよ、と命令されたので、ここにおります」  トルブンの南、三十五マイル道標のある付近であった。 「そこらでうろうろしているのは、どこの兵だ」  大佐は、兵たちが第一線を勝手にさがってきて、かくれているのではないか、と疑っているらしかった。 「ここには連隊の段列がきております」  戦車連隊の弾丸、燃料、糧食を運ぶ材料廠《しよう》(補給隊)のことを、段列と呼んでいた。大佐は立ち上った。まだ、ふきげんな顔をしていた。 「おれが今度、戦車第十四連隊の連隊長を命ぜられた井瀬《いのせ》大佐だ。今から師団司令部に行くから、貴官もいっしょにこい」  井瀬清助大佐はつめえりの軍服を着て、茶色の皮のきゃはんをつけ、同じ色のあみあげぐつをはいていた。どれも新しかった。このような服装から見て、戦場の経験のない人だろう、と中村大尉は判断した。  井瀬大佐と中村大尉は、隘路口の西方の山道を上った。 「方面軍では、戦車連隊は評判が悪いぞ」  井瀬大佐はビルマ方面軍司令部にいたので、そうしたうわさを聞いているらしかった。 「戦車は逃げ帰って、ろくないくさをせん、と山本閣下は怒って報告をされた」  井瀬大佐はずけずけといった。そのような部隊に着任するのは不名誉だ、といった気持があらわれていた。戦車連隊は、ここへくる前は山本支隊に配属になっていた。支隊長は弓第三十三師団の歩兵団長山本募《つのる》少将であった。戦車連隊では、山本支隊長に大きな不満を持っていた。山本支隊長が戦車用法を知らず、戦車を犠牲にしていることに怒り立っていた。上田連隊長は、 「山本の前で腹を切ってやる」  と、憤激したこともあった。それなのに、山本支隊長の方で、戦車連隊に不利な報告をしていることがわかった。中村大尉は、少将ともあろう人の意外な卑劣さに、やりきれない思いがした。  山本少将の部隊は、インパール作戦のはじめには、弓の歩兵第二百十三連隊、野戦重砲兵第三および第十八の両連隊、それに戦車第十四連隊を加えて、弓の右突進隊となっていた。作戦開始後、まもなく、祭第十五師団の歩兵第六十連隊の第一大隊その他を指揮下にいれて、山本支隊として、第十五軍の直轄部隊となった。山本支隊はインパールの東南にのびているパレル=タム道を進んでいた。  インパール作戦の開始にあたって、戦車連隊をどの方面に使うかが、問題となった。第十五軍には、戦車は一個連隊しかなかったから、有効に使わなければならなかった。インパール攻略には、弓、烈、祭の三個師団が三方面から進撃するが、いずれもアラカン山系の大きな山岳地帯を越えなければならない。戦車には困難の多い山道である。ことに、インパールの北、コヒマに向う烈の方面には、戦車の通れる道がなかった。結局、戦車の使えるのは、インパールの東南パレル=タム道か、またはインパール盆地を南に抜ける南道ということになった。  これよりさき、英軍はビルマを奪回しようとして、大がかりな反攻作戦の準備をしていた。そのために、まっさきにインドからビルマへ軍用道路を作った。その一つであるパレル=タム道は、インパールからインド=ビルマの国境のナガ山系を越えて、ビルマ領のチンドウィン河畔のシッタンに通じていた。その距離は百キロメートルを越えた。途中、テンノパール付近には、高さ千五百メートル以上の山が集っていて、山系中の最高所となっている。パレルはその西方にあって、英軍の飛行場があり、前進基地となっていた。  パレル=タム道は最初から自動車の通行できるように作った。これは、戦後にはバス道路として使われるほど大きかった。工事の進行が予定より遅れると、第二十インド師団長は免職になった。英軍はそれほど、その完成に力をつくした。  英軍が反攻の第一歩として、道路建設から始めたのは、英国人らしい手堅いやりかたであった。だが、英軍の道路が通じたことが、日本軍の牟田口軍司令官にインド進攻の野望をかき立たせ、インパール作戦を計画させることになった。それまで、牟田口軍司令官はインド=ビルマの国境の天嶮《てんけん》は、大部隊が越えることはできないとあきらめていた。だが、そこに英軍の道路があることを知ると、牟田口軍司令官はインドに進攻できると考えるようになった。昭和十七年二月、第十八師団長としてマレー半島を進撃、英領シンガポールを攻略した牟田口中将は、新たにインドの首都デリー進撃の夢をえがきはじめていた。  パレル=タム道は山中の曲折起伏の多い嶮難の所でも、幅五メートル、パレル飛行場付近では二十メートルの広さがあった。こうしたことから、戦車連隊はパレル道に使うことになり、山本少将の指揮下に配属された。  弓師団としては、戦車の使い方に、もう一つの苦心があった。それは企図の秘匿ということであった。戦車は目につきやすいし、戦車が行動していることがわかると、日本軍の企図を察知されることになる。戦車は国境の山を越えて、インパールの平地に出るまでは使わないし、また山の中では使えないという考えであった。インパールの平地におりてから、戦車をさきに出して、かきまわさせる計画であった。これについては、作戦開始前の弓師団の兵棋演習の時に、各部隊長の考えを一致させていた。  また弓師団では、作戦開始前の二月二十五日の師団作戦命令のなかでも、とくに次のように書き加えたほどであった。 《企図秘匿ノタメ戦車連隊ノ「チンドウィン」河西方ヘノ進出ハ三月一日以降トシソノ昼間行動ヲ禁止ス》  昭和十九年三月八日、弓師団のインパール作戦が開始された。山本少将の右突進隊は、チンドウィン河西方のカバウ河谷のヤザジョウを出発して北進した。三月十一日、ウィトウに進出したが、そこは英印軍に先に占領されていた。その部隊は第二十インド師団の一部であった。  ウィトウは、山本部隊の出発したヤザジョウから約六十キロメートル、弓師団司令部のあるインダンジーから、約九十キロメートルの距離である。英印軍は、意外に近い所に進出していた。  山本少将は翌十二日に攻撃することにして計画をきめた。その要旨は次のようであった。  一、戦車第十四連隊長は独立速射砲第一大隊、歩兵第二百十三連隊の第七、八中隊、山砲第三十三連隊の第一中隊を合せ指揮し、ウィトウ付近の敵を攻撃。  山本少将は最初の戦闘から戦車を使うことを計画した。山本少将は師団の作戦命令を無視し、企図の秘匿という重要事をかえりみなかった。これは山本少将が、弓の師団長柳田元三中将と陸軍士官学校二十六期の同期生の間がらのため、気安く考えたものと見られた。しかし、それよりも、直属の部隊の温存を計り、そのために配属のよそ者部隊である戦車連隊を使う意図とも見られた。  翌十二日。山本少将の部隊はウィトウを攻撃しなかった。攻撃の準備がととのわないため、ということであった。その最大の理由は、戦車が到着していなかったことである。カバウ河谷は密林、湿地、草原などが交錯していた。おりからビルマは乾季の終りに近く、長い間、雨が降っていなかった。河谷の草は枯れ、樹木の葉は落ち、熱風が渦まいていた。戦車の鉄甲は燃えるほどに熱をおびていた。道のない所を夜間、潜行しなければならない戦車の前進は困難を極めた。  三月十三日。山本少将は上田戦車連隊長に十四日の払暁攻撃を命じ、前進をいそがせた。戦車連隊は夜になるのを待って、二隊に分かれて進んだ。道路の西側を中村大尉の第二中隊、上田連隊長、北之園徹至中尉の第一中隊と、歩兵部隊が進んだ。道路の東側には第四中隊田中隊、第三中隊織尾隊が進んだ。  明るい満月の夜であった。戦車隊は深い林のなかを押し分けて進んだ。月の光の縞《しま》のなかを、戦車の音におどろいて、むささびが飛んだ。先頭を行く第二中隊は、操縦手を除いて、戦車の乗員は戦車をおりて歩いた。戦車をくぼ地や湿地におとさないために、地形を偵察し、誘導した。ところどころの木の枝に、白い布が月光に浮かび上っていた。昼の間に斥候が偵察した道しるべである。時どき、兵がつまずいたのは、象の大きな足跡であった。  密林のなかは、夜になっても熱気がこもっていた。先頭には中村大尉、指揮班長高島麗三少尉、第一小隊長山口弘中尉、第二小隊長布重登《ぬのしげのぼる》少尉、第三小隊長難波寿邦《としくに》少尉、第四小隊長権田久造少尉、中隊段列長野口久治准尉以下百二十名が水をかぶったように汗にまみれて進んだ。  午前一時。密林を出ると、川の流れにさえぎられた。戦車を渡渉させる地点をさがすのに時間がかかった。ようやく戦車が渡りはじめた。突然、すさまじい叫び声がおこった。戦車の渡渉を誘導していた一等兵が、右足を戦車にひかれた。中戦車の重さは十五・八トンある。獣《けもの》のようなうなり声をあげた一等兵の大腿部は、骨までくだけてしまっていた。インパール作戦における戦車連隊の最初の犠牲者であった。  戦車の前進は難渋した。いくらも進まないうちに月は落ち、夜があけた。払暁攻撃は実施できなかった。攻撃は、その日の薄暮に延期された。このことを第一中隊に知らせるために連隊本部の中尉が徒歩で連絡に行った。戦車間の無線は、敵に察知されるのを防ぐため使わなかった。中尉はウィトウ南方の渡渉付近で殺された。顔がめちゃめちゃにくだかれていた。第二の犠牲者であった。  薄暮となり、戦車隊が前進してウィトウの部落に近づくと、激しい砲撃をあびた。先頭を進んだ第二中隊の戦車は前進できなくなった。第三小隊長の難波少尉が重傷をおった。友軍の歩兵が、うしろから撃った対戦車砲弾が、第三小隊長車の砲塔に命中したのだ。  激しく砲弾と光の飛びかうなかで、上田連隊長は狂人のように叫びつづけた。 「前進。突っこめ! 突っこめ! 歩兵は前進せよ! 戦車の戦果を無にするな」  だが、戦車も歩兵も前に出られなかった。戦車のまわりで、歩兵はばたばたと撃ち倒され、死の叫びをあげた。この間に、第一中隊が出てきて、英印軍陣地に迫ったが、すぐに後退してきた。砲撃が激しい上に、一面に鉄条網をめぐらし、戦車地雷がおいてあるとの報告であった。  その時は、十六夜《いざよい》の月の出の時刻になっていた。ビルマの、まぶしいほどの月が出れば、戦車は標的にされるだけである。中村大尉は第二中隊の戦車を後退させた。  ウィトウの攻略には、なお予想外の苦戦がつづき、完全に占領したのは、それから五日後の三月十九日であった。  戦車連隊としては、失敗の攻撃であった。だが、上田連隊長はインパール作戦開始後の最初の戦闘に出ることは考えていなかった。それを突然、山本少将に命ぜられ、道のない密林を急進することになった。ウィトウ攻撃を最初から計画していれば、まだしも失敗はまぬかれたろうと、中村大尉ら幹部将校は無念に思った。  ウィトウの戦闘は、のちに山本支隊ばかりでなく、インパール作戦の全体に大きな影響をおよぼした。それは、この戦闘によって、日本軍の企図や兵力を明らかにしてしまったからである。  また、ウィトウの攻撃が難航している時、戦車連隊は不運な事故をおこした。本部付のひげのたくましい中尉が徒歩連絡に出て、また敵に襲われた。場所は、前の連絡者の場合と同じく、川の渡渉点であった。英印軍の兵が監視をつづけているらしかった。ひげの中尉は殺され、腰につけた図嚢《ずのう》を奪われた。そのなかには、日本軍のインパール作戦計画を示す要図がはいっていた。それには部隊の配置が記してあった。また、部隊の通称名と固有名が記入されていた。この軍事極秘の資料が英印軍の手に渡ってしまった。  英印軍は、このようなことから、山本支隊がパレル=タム道に進出することを知った。英印軍はいそいで、パレルの東方のテンノパールに防御陣地を構築した。そこは千五百メートル以上の峰つづきである。パレル道は、その峰をまいて通る一本道である。そこをねらい撃ちにできるように、幾層にも、砲兵陣地を設けた。これが、ついに山本支隊のインパールへの前進をはばみ、多くの歩兵部隊を潰滅させ、戦車連隊にも大きな痛手を与えることになった。  山本少将に対して、不信を抱くのは、戦車連隊の将兵だけではなかった。弓師団の司令部でも、山本少将の戦況報告は“作文”として見るようになっていた。その一例は、ウィトウ攻略後、北上してモレーに向った時、“モレーの堅陣を攻撃”と報告してきた。ところがモレーの村は平地にあり、堅陣のあるはずがなかった。また、山本支隊が進出占領と報告した地点で、祭第十五師団の部隊が苦戦をつづけていた、というようなことが再三あった。  戦車連隊長上田中佐は山本少将に不満を持つようになった。上田中佐は戦車隊のはえぬきだから、戦車用兵に自信を持っていた。それだけに、山本少将の指揮を無能として、信服しなかった。こうしたことから、ふたりの感情は対立し、これが上田中佐の解職される原因になった。  そして今、中村大尉は後任連隊長の井瀬大佐を迎えた。その話によれば、山本少将は、戦車連隊は臆病だと報告したということだ。またしても、山本少将の“作文”の報告である。それを新任の井瀬大佐が信じていると思うと、中村大尉はやり場のない怒りにかられた。  細い山道を三時間余り歩いて行くと、足もとに広い平地が開けた。インパール盆地である。井瀬大佐は足をとめて、双眼鏡をとって目にあてた。  盆地は一面の湿地のように見えた。豪雨がつづいて、ログタ湖は水かさをまし、広くなっていた。そのなかを通っている道が、長い堤のように見えた。それが、インパールにつづいている南道であった。ところどころに森のしげみが、島のように水面に浮かび、道の堤で結ばれていた。その森の一つ一つが、部落のある所であった。  インパール盆地は海抜七百五十メートルの所にあり、広さは東西三十五キロメートル、南北七十キロメートルで、日本の濃尾平野の広さにひとしかった。地図で見ると、盆地の中央にログタ湖の名があったが、湖の形は記されていなかった。そのかわり、盆地のほぼ全域が湿地帯の記号でうめられていた。そして《雨季には常に氾濫する》と注がつけてあった。つまり、雨季には、インパール盆地全体が湖沼地帯になるのだ。それが今、目の前に現実となってあらわれていた。  中村大尉はおどろいた。よもや、広いインパール盆地が沼沢地と変り、水びたしになっていようとは思いがけなかった。戦車の戦場としては、多くの困難を予想しなければならなかった。井瀬大佐は双眼鏡を離して、北の方を見つめていた。 「インパールは見えないかな」 「はい。ここからは見えません」 「戦車は本道以外を行動できるか」 「これからは困難になると思います」 「インパールには早く行かんといかんな」  井瀬大佐はむずかしい顔になって、山道をのぼって行った。弓師団の司令部のあるモローは、起伏の多い山のなかにあった。井瀬大佐は歩きながら、ひとりでつぶやいた。 「司令部は指揮に便、連絡に便なる所ときまっているはずなのに、この坂道や谷底では不便きわまる」  中村大尉は歩きながら戦場の地形を眺めた。盆地をへだてた向い側には、山また山がかさなり、厚い雨雲とふれ合っていた。その、東方のま向いのあたりがパレル、テンノパールの山々と思われた。戦車連隊には、にがい思い出の残った戦場であり、山本支隊が今なお悪戦苦闘している所である。中村大尉の目に残っているのは、速射砲に撃たれて谷におち、赤さびたままになっている九七式中戦車であった。  山本支隊は三月下旬、テンノパール近くに迫って、第二十インド師団と衝突した。四月八日にはテンノパール陣地の攻撃を開始した。歩兵第二百十三連隊の第三大隊が主力となって攻撃をつづけたが、成功しなかった。英印軍の砲撃、飛行機の爆撃は激しく、密林におおわれた山は畑のように変った。連日、激戦がつづき、第三大隊の八百名は八十名あまりが生き残るだけとなった。  牟田口軍司令官は四月二十九日の天長節までにインパールを攻略することを厳命し、山本少将もそれを念願としていた。第三大隊がつぶされると、山本少将は戦車によって、テンノパールの陣地を突破しようと考えた。山本少将は上田連隊長を呼び寄せた。半ば白くなったカイゼルひげをはやした、背の低い山本少将は、第一線の戦場からは相当に離れた、後方の谷のなかにいた。山本少将を信頼できなくなっていた上田連隊長は、腹を立てた。歩兵が苦戦している時に、指揮官がこんな後方にいてよいものか、と思った。うしろから、やれやれと命令だけだしている指揮官では、いよいよ信服できなくなった。  戦車連隊は四月二十日の薄暮に、テンノパール陣地を攻撃することを命じられた。各車長以上の下士官、将校が連隊長のもとに集って、攻撃の方法を打合せた。だれもが、この攻撃が困難であることを、痛感していた。戦車が進むことのできる場所は、山腹の斜面を削って作った一本道しかない。道は、下が深い谷になっているか、左右から山にはさまれていた。千五百メートルの高所を、道はS字型に蛇行し、曲折をくり返した。英印軍の砲兵陣地は道を見おろす所にあった。そのような陣地が、幾層にも縦深となってテンノパールからパレルにつづいていた。  戦車は一列になって前進するほかはなかった。戦車の行動範囲は、道路上に限られている。その先頭と最後尾の戦車を撃たれたら、その中間の全車は動きがとれなくなり、ねらい撃ちになるのは明らかであった。  山本少将は、また、高所にある砲兵陣地も、戦車砲で砲撃できる、と考えていた。そればかりではなかった。上田連隊長が、英軍機が飛びまわっているなかへ戦車を出せば、犠牲にするだけであると反論すると、山本少将はしかりつけた。中戦車の四十七ミリ主砲をもって、飛行機を撃墜せよ、というのだ。戦車砲の仰角は二十四度であり、射撃は大体、水平面にしか有効でない。恐るべき無知狂信であった。  また、天長節までにインパール突入をしようとして、戦車を使うならば、それは、自己の野望のために、むだな犠牲を払わせることだ。戦車連隊としては承服できないことであった。  この時の山本支隊の作戦命令には、 『戦車連隊は火力と機動力を十分に発揮し、テンノパールの敵陣地を突破すべし』  という字句があった。上田連隊長は怒り、ののしった。 「こんなことができると思って書くのは、山本支隊長に戦車の知識がないからだ。これじゃ、命令の権威も威厳もあったものではない」  だが、支隊命令が出たからには、戦車連隊は行かなければならなかった。突進の隊形がきまった。先頭の尖兵中隊は、中村大尉の指揮する第二中隊であり、最先頭は第二小隊長布重中尉の戦車である。第二中隊のあとに、上田連隊長、北之園大尉の第一中隊、織尾中尉の第三中隊、田中中尉の第四中隊がつづくことになった。  四月二十日の薄暮。戦車は、それぞれ、山のくぼ地や岩かげ、木の下などの、かくれていた場所を出て、道路上に集合した。中村大尉はテンノパールの山頂の方をふり仰いだ。空には半弦の月がうすくかかっていた。中村大尉は、ついに、この難関突破の方策を得られなかった。かたわらで、布重中尉が悲痛の色をあらわにしていった。 「こんな地形で、どうやって攻撃していいか、わからんですよ。とにかく、私が先頭に立って、撃ち抜かれるよりほかはないです」  自暴自棄のひびきもあった。上田連隊長が励ました。 「布重、おれもいっしょだ」  中村大尉は、いよいよ布重中尉を殺すのかと思うと、重苦しい気持になった。布重中尉は陸軍士官学校五十六期で、中村大尉の三期後輩であった。 「布重、戦車連隊の名誉のために、不可能とわかっていても、全力をあげて戦おう」  第三小隊長の高島少尉が、たまりかねたように叫んだ。 「中隊長殿。難波中尉殿が負傷され、山口中尉殿が戦死されました。きょう倒れる順番は私です。私を先頭に出してください」  高島少尉は広島高等師範学校を出て教師となり、幹部候補生から将校になった。中村大尉は、高島少尉のいさぎよい闘志に心をうたれた。だが、先頭車を変更しなかった。  戦車連隊は出発した。山道は暗くなっていた。布重中尉は戦車に乗らないで、ひとり、先に立って歩いて行った。夜間の戦車の前進には、地形がわからないため、尖兵小隊長が歩いて進み、戦車は百メートルほどおくれて進むことになっていた。  中村中隊長以下、各車長は、戦車の砲塔から頭を出して進んでいた。後方には連隊長車がつづき、さらに各中隊の戦車が白煙をあげて坂道をのぼって行った。  道は、しばらく西に向っていた。左下は深い谷になっていた。斜面の上の方には、英印軍の陣地があると見られたが、攻撃してはこなかった。道は蛇行しながら、大きく山の裏側にまがっていた。そのまがり角が、最も危険を予想されていた。そこでは、戦車が暴露してしまうからだ。すでに夜になった山中には、十二輛の戦車の発する轟音がひびきわたっている。英印軍が気がつかないでいるはずはなかった。  突然、山頂の一帯に花火のように火光がひらめき、道のまがり角と思われる方角に激しい爆発音が集中した。英印軍の速射砲が一斉射撃をはじめたのだ。弾着の範囲は、またたくまにひろがり、中村大尉車の周囲も硝煙《しようえん》と土けむりに包まれた。中村大尉は咄嗟《とつさ》に攻撃を考えたが、砲塔をまわしても、撃てる所ではなかった。前進も危険であった。戦車をとめて、ただ敵の砲撃のやむのを待つほかはなかった。戦車が動揺するほど激しい爆発が、つづけざまにおこった。  砲撃は二十分ぐらいたつと、おさまった。やみのなかに声がした。兵が走ってきた。 「中隊長殿。布重中尉殿がやられました」 「どこをやられたか」 「足です。歩かれません」  布重中尉が道のまがり角に出た時、速射砲の弾幕に包まれて、右大腿部に重傷をうけた。 「布重車は動くのか」 「戦車は道路からおとされました」 「布重中尉はほかの戦車に乗せて、すぐにつれてこい。ほかの負傷者もさげろ」  兵は、もどって行った。まもなく、中戦車のエンジンの音がひびいた。その音を目標に、英印軍は再び砲撃すると思われた。中村大尉は祈る思いだった。戦車がさがってきた。山の上に、太鼓を連打するような音がおこった。英印軍は今度は、迫撃砲弾を撃ちこんできた。  戦車が近づいてきた。中村大尉は走って行って飛び移った。布重中尉は戦車のなかに横たわっていた。あたりには、おびただしく血が流れている。 「布重、大丈夫か」 「はいっ、大丈夫です。道のわきに速射砲数門があります。発射光を見ました」  激しい苦痛をこらえながら報告した。 「よし、わかったぞ。がんばれ」 「残念です。前進はできません」  中村大尉は布重中尉を早くさげてやりたかった。だが、兵にかつがせるのは、迫撃砲弾の落下している時だから、あぶなかった。といって、戦車に乗せてさげるのは、連隊の士気にかかわることであった。だが、早く手当をしなければ、布重中尉の生命を失わせるかも知れなかった。 「布重、貴様はこの戦車でさがれ」 「大丈夫です。さがりません」  上田連隊長が走ってきた。 「中村、どうした。だれか、やられたのか」  布重中尉が戦車のなかから叫んだ。 「連隊長殿、申しわけありません」  声だけは大きかった。重傷をかくして、この場をさがるまいと努力しているようだ。中村大尉は戦車からおりた。迫撃砲弾は、まだ、さかんに落下してきた。上田連隊長は呼吸を荒くして、様子をうかがっていた。副官の東雪男《ひがしゆきお》中尉も走ってきた。予想されたとおりの状況になったことを、めいめいが感じていた。上田連隊長は決断した。 「中村、これ以上は前進できまい。集結地に後退しよう」  戦車と同時に、歩兵も出たはずであったが、状況は何もわからなかった。付近には戦車しかいなかった。朝になれば、今度は英軍機が攻撃してくることは明らかであった。  こうして戦車は、もとの集結位置にもどった。朝になって、上田連隊長は山本少将に呼ばれて支隊本部に行った。山本少将は上田連隊長を激しくしかりつけた。昨夜の戦車連隊の行動は、戦わずして退却したもので、上田連隊長が臆病のためにしたことだ、というのであった。  上田連隊長は反論した。戦車が集結位置にもどるのは退却ではない、というのだ。戦車は攻撃を終えれば、もとの集結位置にもどるのが原則である。昨夜の状況で前進攻撃をすれば、多くの戦車を犠牲にするだけだから、集結位置にさがって、次の機会を待つことにしたまでである。  だが、山本少将は聞きいれなかった。あくまで、昨夜の攻撃の失敗は、上田連隊長が臆病で戦車を退却させたからだ、と非難した。  上田連隊長から、このことを聞いた中村大尉、北之園大尉、材料廠長の小田信次大尉らは悲憤した。北之園大尉は鹿児島の出身で、連隊の中心人物でもあった。中村大尉と陸軍士官学校の同期でもあり、闘志がさかんであった。 「連隊長殿、もう一度行きましょう」  中村大尉が、それに応じた。 「われわれが行けば、臆病だとか退却したなどとはいわないでしょう。昨夜の進出地点に戦車をならべてくれば、支隊長は何もいえんでしょう。中村はすぐ出発します」  北之園大尉、中村大尉が出発の準備をしていると、英印軍の砲撃がはじまった。山道一帯には迫撃砲弾がふりそそぎ、戦車の前進は不可能となった。  この日以後、戦車連隊は安全地帯に退避して兵力の温存を計った。上田連隊長は、テンノパールの山嶮で戦車を犠牲にすることを避け、平地におりて、インパール一番乗りをしようと考えていた。上田連隊長はウィトウの戦闘の時、錯乱状態となり、その後も異常な行動がつづいた。だが、テンノパール攻撃にかかってからは、大体、正常にかえっていた。  北之園大尉は、このころ、弓師団の後方参謀三浦祐造少佐に手紙を書いて、戦車連隊の苦境を訴えた。その要旨は次のようなことであった。 《戦車はインパール平地で使うべきであって、テンノパールの山頂の隘路で一列縦隊にして使うことは、士官学校では習わなかった。テンノパールの陣地を戦車をもって攻撃することは、やってもむだであるが、命令だから行かなければならない。山本支隊長は、このような命令をだす前に、テンノパールの敵情地形を知ることに努めてもらいたい。これまで、支隊司令部からは、ただのひとりも、前線にきて偵察をしたものがない。支隊司令部は遠く後方にあり、前線の状況を全く知らない。山本支隊長自身が、まず、一度でも前線にきて、敵陣の状況を見るべきではなかろうか。山本支隊長がテンノパールで押えられて、インパールに出るのをあせって、戦車連隊に強襲をさせるのは、その苦しい心境はわかるとしても、他を無視した利己主義である》  戦車連隊がテンノパール攻撃を中止したことが、上田連隊長の解職の直接の原因となった。  山本少将は、また、歩兵第二百十三連隊の第三大隊長伊藤少佐を解職した。四月二十八日の攻撃に、伊藤少佐は山本支隊の攻撃命令を実行しなかった。伊藤大隊には、攻撃を実行するだけの兵力がなくなっていた。だが、これが解職の原因となった。伊藤少佐は歩兵第二百十三連隊の連隊長代理となっていた。山本少将は、戦車連隊長と歩兵の連隊長代理に、テンノパールの敗戦の責任を押しつけたと見られた。  上田中佐にビルマ方面軍司令部付の転任の命令が出たのは、五月八日であった。翌九日には北之園大尉が偵察に出て迫撃砲の弾幕のなかで重傷をおって、後送された。ガス壊疸《えそ》の悪化に苦しみながらも、苦痛を訴える声をあげなかったが、最後に「白人を殲滅《せんめつ》せよ」と絶叫して死んだ。  五月十一日、戦車連隊は山本支隊を離れて、弓師団に配属されることになった。そしてインパールの南方ビシェンプールの総攻撃に急行することを命じられた。  テンノパールとビシェンプールとは、インパール盆地の東と西の、ほとんど同一線上にあった。だが、テンノパールからビシェンプールに行くにはアラカン山系の山岳地帯を南に迂回しなければならない。それは、ローマ字のU字型に道を進むことになり、約六百キロメートルの距離となった。これは、戦車としては非常な難行軍であった。  牟田口軍司令官が攻勢重点を変更したために、戦車連隊はこの転進をすることになった。だが、中村大尉らは喜んだ。山本少将の下で、希望のない山岳戦闘をするよりは、インパール平地に突進することに、戦車の活躍が期待されたからであった。  戦車連隊はテンノパールからタム、ウィトウ、カバウ河谷の道をもどって、カレミョーからインパール南道に出た。上田連隊長の作った転進計画では、四十輛の戦車を全速で移動させることになっていた。だが、実際には、師団の要求した日時におくれることになった。山岳地帯は急斜面の上り下りが多く、戦車は難行し、故障が続出した。また、行動は夜間に限られていたし、一時間ごとに二十分の休止を必要とした。この休止は、エンジン、操行装置の加熱を防ぎ、ゴム輪の熱をさまし、点検をするためであった。戦車の隊列はのび、ばらばらになって前進をつづけた。なかには故意に前進しない者もいた。  その上、トルブン隘路口を英印軍にふさがれ、さらに前進がおくれた。結局、戦車連隊はビシェンプールの総攻撃に、まに合わなかった。牟田口軍司令官はこの攻撃に期待をかけ、そのために戦車連隊、瀬古大隊、岩崎大隊を急進させた。これらの部隊は南道からビシェンプールに迫り、弓師団の主力部隊と呼応し、はさみ撃ちにする計画であった。  ビシェンプール総攻撃は十日つづいて、弓師団の主力部隊の惨敗に終った。弓師団は、このために戦力の大部分を失った。戦車連隊がインパール盆地に出てきたのは、そのあとであった。中村大尉は、あと味のわるいものを感じた。この失敗は、戦車連隊の責任なのか、それとも弓師団の要求が過酷なためであったのかを考えた。帰する所は、牟田口軍司令官の攻勢重点の移動が、実情を全く無視していたことにあった。  中村大尉は、目の下にインパール盆地を眺めて見ると、それまでの努力を裏切られたように感じた。このような所に戦車連隊を転進させたのは、全くの図上作戦であるのがわかった。そのためにテンノパールの山岳地帯よりも、さらに困難で危険な戦場に追い出されることになった。  それに加えて、新任の井瀬大佐は、戦車連隊に不信と不満を持っているらしいのが、中村大尉の気にかかった。そのような連隊長の下で、この困難な地帯で、どんな戦闘をすることになるのか。中村大尉は先任中隊長としての自分の責任を重いものに感じた。  井瀬大佐は上田連隊長に会って、連隊の事務引きつぎをした。中村大尉と師団司令部に行った翌日、五月二十八日であった。  上田中佐は二十四マイル道標付近のプバロウ部落の粗末な家のなかにいた。井瀬大佐は、家の前にくると案内してきた中村大尉に、 「だれもくるな」  と、命じた。  雨もよいの空の下には、砲声が遠く近くひびき合っていた。しばらくして、中村大尉は上田中佐に呼ばれた。家のなかにはいると、新旧ふたりの連隊長は弾薬箱に腰かけていた。上田中佐は、 「中村、長い間、せわになったな」  と、静かにいった。開きえりの上着から、じかたびまで、泥にまみれていた。 「今から井瀬連隊長殿の指揮に従って、戦車連隊の名誉を全うしてもらいたい」  井瀬連隊長は、簡単に自分の経歴を語った。それによれば、ビルマ方面軍司令部の軍政監部の民政課長をしていて、ビルマ人の国防軍の育成にあたっていたという。従って、連隊長要員ではないし、戦車については、全く経験がないということであった。また、戦闘に参加するのも、今度がはじめてであるといった。 「戦車は現在、何車きておるのか」 「六車です」 「ここにくるのは、全部で何車か」 「どれだけ出てくるか、今のところわかりませんが、あと十車はくるでしょう」  井瀬連隊長は余りに少数なのに、おどろいていた。戦車連隊の編成では、原則としては百輛以上をもつことになっていた。それが今や、実数としては、一個中隊分の十四輛をわずかに上まわるにすぎない。  机上の作戦や報告では、戦車一個連隊出動などと勇ましく書かれているが、実情は全く違っていた。日本軍全体の戦車隊が、すでに全滅の状態になっている時である。 「織尾なんていうやつがいるからな。今度も、松本小隊がきているなら、中隊長の織尾も当然こられるはずだ。あいつはだめだ」  上田中佐がにがにがしくいった。  井瀬連隊長は連隊内の将校のことを聞いたあとで、中村大尉を本部付に命じた。これは連隊長を補佐する参謀格にすることであった。上田中佐は反対した。 「中村は今までどおり中隊長にして、インパール突入の時に働かせるべきです」  井瀬連隊長は考えを変えなかった。 「おれは馬偏《うまへん》(騎兵の意味)で戦車のことはわからないから、作戦は中村に、後方は小田大尉にやってもらう」  新旧連隊長は引きつぎを終った。上田中佐は別れのあいさつをした。 「敵に制空権を奪われているので、これからは、戦車の行動は大いに困難となりましょう。くれぐれも自重してください」  飛行機を恐れて、かくれてばかりいた上田中佐ではあったが、最後の言葉は真剣であった。 「がんばります。なにしろ、乾坤一擲《けんこんいつてき》ですからな」  井瀬連隊長はむずかしくいった。戦場にきて、緊張しているようであった。  上田中佐は、とくに別れを惜しむという気持もなく、立ち去った。中村大尉は見送ったあとで、これで、いよいよ、この気ごころの知れない井瀬連隊長と死ぬのか、と思った。 ニントウコン 1  戦車連隊長井瀬大佐は、弓の師団長心得の田中少将に着任の申告に行った時、新しい命令をうけた。それは、現在、インパール盆地に出ている諸部隊を合せて、井瀬支隊を編成すべし、というのであった。このため、戦車第十四連隊のほかに、祭第十五師団の瀬古大隊、兵《つわもの》第五十四師団の岩崎大隊、兵《つわもの》の野砲第一中隊、独立工兵第四連隊、師団通信隊の一個分隊が井瀬大佐の指揮下にはいって、井瀬支隊となった。配属部隊をよせ集めた混成部隊であった。  このなかで、一番大きな兵力をもっていたのは岩崎大隊であった。後続の第二梯団が追及してきたので、二百名を越える兵力となった。重機関銃二銃をモイランの戦闘で失ってしまったが、追及してきた機関銃中隊の一小隊が重機一銃を持ってきた。火砲は歩兵砲一門、擲弾筒《てきだんとう》五筒があった。大隊長の岩崎勝治大尉がトルブン隘路口で負傷して後退したあと、第六中隊長の安木松雄大尉が代って指揮をとっていた。  瀬古大隊は、歩兵が十名、歩兵砲、機関銃中隊を合せて約百名なので、後続の第四中隊の出てくるのが待たれていた。  また、新たに井瀬支隊に加えられた工兵連隊というのは、実際には、まだ、手もとにきてはいなかった。この部隊は、インパール作戦のはじめに、すでに盆地中央のポッサンバン部落に進出した。その後、英印軍に撃退されて、ポッサンバンの南の部落ニントウコンに移っていた。そのまま一カ月近く敵中に孤立して、生き残っているのは五、六十名ぐらいで、糧食弾薬はなくなっているということであった。  英印軍の相当の兵力がモイランから後退をする途中、ニントウコンを通過したはずである。そこに孤立していた工兵第四連隊は、腹背に敵をうけることになるので、安否が気づかわれた。  五月三十日午前十時。岩崎大隊は南ニントウコンの英印軍を攻撃した。南部落は湿地帯のなかの、低い台地の上にあった。大きな竹やぶと、高い立木がしげっていた。第五中隊の直原治《じきはらおさむ》兵長が部落のなかを走りぬけると、南道西側の川岸のかげから、二、三名の兵が飛びだしてきた。直原兵長はおどろいた。“グルカ兵だ!”と思って、とっさに銃をかまえた。相手は手をふって、何か叫んだ。日本語だった。グルカ兵が日本語を使うのか、と迷った時、 「ありがとう。よくきてくれた。これで助かりました」  と、口ぐちに叫んだ。直原兵長をかこんで、ひとりの兵は抱きついて、声をあげて泣きだした。 「自分らは独立工兵隊二中隊です。もう一カ月も包囲されて、弾薬はないし、食う物もなくなって、自決を覚悟していました」  工兵たちは、涙を流した。ひげも髪も、ぼうぼうとのび、服は破れて泥にまみれていた。 「よく無事でいられたな。敵はどこにいるんだ」 「今しがたまで、この辺にもたくさんいました」  直原兵長は持っていた食糧を与えて、一キロメートル先の北ニントウコンに向った。  大隊長代理の安木大尉と、大隊副官の有元秀夫中尉は前方を進んだ。安木大尉は小さなからだに似合わず、大胆な行動をした。安木大尉と大隊本部の兵は、敵兵とまざり合いながら、北ニントウコンの川の岸まで進出した。  対岸は小高い斜面になっていた。南道はその間を通っていた。そのあたり一帯に鉄条網を張りめぐらしてあった。鉄条網の内側には、斜面に作った掩蓋壕《えんがいごう》(上に防御物をかぶせた塹壕)の銃眼が、かさなり合って見えた。その数はかぞえきれなかった。明らかに強大な陣地であった。  ニントウコン川の岸のこちら側にも、まだグルカ兵が出没していた。また、その近くには工兵隊の生き残りの将兵が壕を掘ってはいっていた。敵と味方がいりまじっていた。時どき撃ち合いになった。それが次第に激しくなった。岩崎大隊の第五中隊と、第七中隊とが射撃をつづけた。しばらくして、両方の中隊は、たがいに撃ち合っていたことがわかった。兵は狂気のようになって同士討ちをしていたのだ。  このことがあってから、とくに警戒するようになった。第五中隊の第一小隊第一分隊長、長呂《ながろ》軍曹は南道上に身を伏せて、近くに動いた人影に向って叫んだ。 「そこにいるのはだれだ。敵か味方か」  相手の返事の代りに、鋭い音がひびいた。長呂軍曹は、からだを一回転させて、突っぷした。銃弾が頭部をつらぬいたのだ。グルカ兵のなかには、あざやかな腕を持った狙撃兵がいた。  安木大隊長代理は攻撃の準備にかかった。岩崎大隊はビルマにきてから、戦闘をしたのは、今度が初めてであった。沿岸防備の時、討伐に出たことがあったが、戦闘とはいえないものであった。それだけに兵力がそこなわれていなかった。無傷の健兵部隊であるから、ニントウコンを抜いて、インパールに突進できるという希望を持っていた。  安木大尉の伝令兵の加藤高治一等兵は、この時も“戦えば必ず勝つ”という自信をもっていた。ことにトルブン以後、モイラン、プバロウ、チュニンゲルと、英印軍を撃破してきたから、ここでも一挙に勝てると考えていた。これは加藤一等兵だけでなく、多くの将兵の考えであった。  午後三時。第五中隊が攻撃準備を完了した。目標はニントウコン川の北方の敵陣地である。左より金尾圭介少尉の指揮する第二小隊、右より船津節中尉の指揮する第一小隊が突入し、野崎勝臣少尉の第三小隊が掩護射撃をすることになった。片山良一少尉の第六中隊は右側から掩護にあたる予定であった。  この日は雨が降らなかった。空は明るく、夕やみになるのがおそかった。薄暮にまぎれて突入しようとするのには、好ましくない空模様であった。突然、第六中隊が軽機関銃を撃ちだした。同時に第五中隊の突入を守るために、煙幕をたいた。その煙が吹きだしたが、ひろがるのがおそかった。インパール盆地の底は無風状態であった。その煙の色がまた、白く浮き立って見えた。 “まだ早い。まだ明るすぎる”と、有元副官は感じた。  その時、第一小隊長の船津中尉は軍刀を抜いた。切先《きつさき》の三分の一がなくなって、短くなっていた。モイランの戦闘の時、船津中尉は斬込みに行って軍刀を折って帰ってきた。白兵戦の激しさを示すものであった。船津中尉は鉄かぶとをあみだにかぶり、さやをひきずりながら、 「おーい、刀が折れたぞ」  と、笑っていた。この時、船津中尉の小隊は野砲三門を捕獲してきた。  その、折れた軍刀が、ニントウコン川の北岸に、はっきりと見えた。有元副官は“しまった”と、危く口走るところだった。突撃をするには、三十分以上、早すぎると思った。しかしその時には、船津中尉は気合いのはいった叫び声をあげていた。 「突っ込め!」  その時まで静まり返っていた英印軍陣地は、急に激しく撃ってきた。大地が振動するかのように、すさまじい音がまきおこった。立ち上ったのは船津中尉ひとりであった。はね飛ばされたように倒れた。小隊の全員三十名も倒された。思いがけない悲惨な失敗であった。  安木大尉は判断があまかったのを、まざまざと痛感した。英印軍陣地は意外に強大であった。トルブン以来の“連戦連勝”を喜んだのも、ゆだんを作ったと反省した。だが、この不運な戦闘のために一個小隊を失ったことは、大隊には、とりかえしのつかない損害となった。  しかし、岩崎大隊の進出によって、孤立無援の工兵隊を救出することができた。工兵隊は、このころ全員戦死の危機寸前にあった。独立工兵第四連隊の将兵は、四月に前進した時には、二百四十名であった。岩崎大隊が突入した日には、生き残っていたのは七十六名であった。この兵力が新たに井瀬支隊に加わることになった。 2  岩崎大隊が北ニントウコンにはいった時には、弓師団のビシェンプールの総攻撃は失敗に終っていた。牟田口軍司令官が戦闘司令所を進めて激しく督励した攻撃重点は、むなしくついえた。  同じころ。──  弓の師団通信隊の無線小隊長、相沢少尉は、三十八マイルの輜重連隊に行って、塩と乾電池を受取った。相沢少尉は、師団長を解任された柳田中将を護衛して行って、トルブンで別れたあとであった。相沢少尉が品物を駄馬につんで帰ろうとすると、師団の次級副官の青砥少佐が、荷物をつみかえさせた。師団の重要品を運ぶのだという。  師団の戦闘司令所に向って山道を歩いている時に、青砥副官が、 「この荷物は“鍾馗さん”あての私物だ。なかは何かな」  と、馬をとめて、あけてみた。なかには英国製のウイスキー、ココア、紅茶などがはいっていた。マンダレーの若葉という料理屋から田中少将に送った慰問品であった。若い相沢少尉は不快に思って皮肉にいった。 「なるほど、師団の重要品ですな」  相沢少尉と部下の兵が駄馬をひいて師団の戦闘司令所に近づくと、将校が道に立ちふさがって、わめき声をあげた。 「貴様は何部隊だ」  相沢少尉は相手が参謀懸章をつった大佐なので、固くなって敬礼した。 「何をしているか、貴様は」  大佐参謀は、相沢少尉の返事も耳にはいらないらしく、にらみつけた。いまにも、なぐりつけそうであった。相沢少尉は、相手が酒を飲んでいて、ひどく酔っているのに気がついた。上着のボタンをはずして、だらしのない格好をしていた。 「貴様らがモタモタしておるから、インパールはおちんのだ。ばかやろう。おれは十五軍の木下参謀だ」  相沢少尉はおどろいた。木下秀明大佐は第十五軍司令部の高級参謀で、優秀な人材だということであった。牟田口軍司令官も一目おいたといわれていた。そうした評判とは全く違った姿であった。相沢少尉は、木下高級参謀は上級将校と下級者には別々の姿を見せる人か、と思った。  師団に帰って、下士官に話をきくと、いろいろのことがわかった。モイランの戦闘で、金子中尉のひきいる瀬古大隊に、軍刀を抜いてふりまわしたのは、木下高級参謀であった。  木下高級参謀には逸話がすくなくなかった。第十五軍司令部のあるビルマ、シャン州のメイミョウには、清明荘という料亭があった。大阪の飛田遊廓の遊女屋の経営者が、畳、ふすまなどの建具、調度品、食器まで、日本から軍用品として運んで作った店であった。仲居や芸者もきていた。清明荘は第十五軍司令部の専属の料亭であり、牟田口軍司令官や各幕僚(参謀)は、それぞれに芸者を独占していた。  清明荘では、毎夜、幕僚の主催する宴会がにぎやかに開かれていた。ビルマの山の中であったが、まぐろのさしみと、日本の清酒がならんだ。内地では清酒は全く見られなくなっていた時である。宴会は、連絡、申告、会議などのために司令部にくる将校の接待ということであった。だが、宴会がはじまると、まもなく、主人側の幕僚と芸者が姿を消してしまい、客だけが残されて味けない思いをしていることが多かった。  ことに軍参謀長の久野村中将は、清明荘にいることが多かった。そのため、兵隊の間では久野村参謀長のことを、淫猥《いんわい》なあだ名で呼んでいたほどであった。  木下高級参謀は久野村参謀長とさわぎをおこした。それは久野村参謀長の専属にしている芸者に、木下高級参謀が手をだしたことが原因であった。久野村参謀長は、いつも芸者の部屋に直接はいって行くので、その現場を見つけた。久野村参謀長は怒って、木下高級参謀を外に引張りだした。そして、わざわざ護衛兵の立哨《りつしよう》している所までつれてきて、木下高級参謀の横っつらを左右から二度なぐりつけた。兵隊のいる前で、中将が大佐をなぐったのだから、この事件は、たちまち評判になった。  幕僚のこのような行動は、司令部の空気に反映した。インパール作戦の間でも、司令部の将校の多くは、夕方五時になると、仕事をやめて帰ってしまった。  こうしたなかで、牟田口軍司令官は、 「一瀉《いつしや》千里の勢いで、インドを席捲《せつけん》し、デリーまで行くのだ」  と、豪語していた。  木下高級参謀が酒に酔って、若い相沢少尉にからんだのは、第十五軍の戦闘司令所がサドを引揚げる時であった。ビシェンプール総攻撃が失敗に終ると、牟田口軍司令官は弓師団に絶望して、新たに烈と祭の両師団を合せて攻勢重点を作ろうと考えた。そのため、サドをひき払って、一応、もとのインダンジーに移動することになった。  牟田口軍司令官の考えは、目まぐるしいばかりに変った。だが、軍の攻勢重点は、それほどたやすく変えてはならないはずのものであった。それなのに、転々と移動をくり返すのは、牟田口軍司令官がインパール作戦をたてなおすために、あがき、あせり立っているからだ。それというのも、自分の名誉欲とか権勢欲にとらわれて、それを貫き通そうとして、こだわっているためであった。確信や方策があってのことではなかった。それを示す事実がある。牟田口軍司令官がパレル道の山本支隊から弓師団に攻勢重点を移動しようとした時、奇妙な電報のやりとりがおこなわれた。  ビルマ方面軍司令官、河辺正三中将は、あくまで山本支隊をもって、パレルを突破すべきだと考えて、方面軍参謀長中《なか》中将をインダンジーに派遣して説得させた。五月五日である。  ところが、牟田口軍司令官は弓師団に重点変更をきめると、戦闘司令所をその方面に移すことにした。河辺方面軍司令官は、これを不満とし、十一日、再考を促す旨の電報を送った。  十二日。河辺方面軍司令官に中参謀長から《第十五軍の部署変更は小官の同意したもの》と、重点変更を承認した電報がきた。説得に行った中参謀長が、逆に説得されてしまった。それほど牟田口軍司令官は熱意もあり、強引に、中参謀長を圧倒し去った。ところが十三日、モローに進出した牟田口軍司令官は、次の電報を河辺方面軍司令官に発した。 《モロー進出後における第三十三師団方面の戦況にもかんがみ、兵力転用を中止し、ご意図の通りパレル方面から攻撃の進展を期す》  牟田口軍司令官は弓師団司令部に移ってくると、すぐに、パレル攻撃の方がよかった、といいだした。一軍の軍司令官の言動とは思えない無定見であった。  牟田口軍司令官の考え方が混乱しているのを見て、河辺方面軍司令官は事態を気づかった。  十五日。牟田口軍司令官は次の機密電報を河辺方面軍司令官に送った。 《さらに決心を変更し、第三十三師団方面に重点指向を決定す》  こうして、ようやく方針がきまった。はじめから、牟田口軍司令官には何の確信も成案もなかった。それなのにインダンジーからアラカン山系をこえて、約四百キロメートルの山道をつっぱしって行った。  途中のティディムで、作戦参謀平井中佐は命令を起案した。それには《主攻撃方面を変更して弓の正面に移し、戦果の拡張を企図す》としてあった。しかし、作戦についての具体案は何も示してなかった。いわば空文であった。牟田口軍司令官と同様に、幕僚にも成案はなかった。  だが、このために、戦車第十四連隊、瀬古大隊、岩崎大隊などの部隊が、この方面に急速の移動を命ぜられた。それが井瀬支隊となり、南道を戦闘しながら北進した。  六月三日。井瀬大佐は戦車連隊の先頭部隊の中戦車六輛とともに、南ニントウコンにはいった。そして、マニプール人の土壁の民家を選んで支隊本部とした。  その前日、六月二日の夜。牟田口軍司令官はサドの戦闘司令所を撤収して、インダンジーに向って去った。またも、攻勢重点を祭師団の方面に移すことになったのだが、今度は井瀬支隊の各隊を移動させようとはしなかった。  通信隊の下士官は相沢少尉に語った。 「木下高級参謀が酔っぱらうほど飲んだのは、インパール入城の祝賀用の酒でした」  そうとすれば、木下高級参謀は、この作戦に勝利のないことを知っているに違いなかった。  牟田口軍司令官の命令で移動した井瀬支隊は、勝利の希望のない戦場に、おきざりにされてしまった。 青つり星 赤つり星 1  岩崎大隊の安木大尉は心に大きな打撃をうけた。有元副官の目にも、安木大尉が気落ちしているのが、はっきりと感じられた。それほど、北ニントウコンの敗北が気持にこたえていた。安木大尉は特別志願の将校で、日華事変以来、戦場を往来してきた。それまで、負けいくさを経験したことがなかった。中国の戦場では、戦えば勝つという信念を持っていた。今度のインパール作戦でも、モイランで初めて戦闘して以来、ニントウコンまでは追い上げてきた。  安木大尉は有元副官をつれて、敵情を見に行った。北ニントウコン攻撃に失敗した翌日の薄暮であった。安木大尉はニントウコン川の岸から英印軍陣地を眺めていたが、 「船津はかわいそうだな」  と、つぶやいた。安木大尉は船津中尉を信頼していた。船津中尉は、じみな性格だったが、剣道が強かった。結婚三カ月で、ビルマに出てきた。ひげは濃いが、こどものような顔をしていた。 「この状況では、死体の収容はできませんね。船津の小隊は、みんな、あの辺に倒れているのでしょうが」  有元副官は薄暗い対岸を見つめた。前日の状況が、まだ目に残っていた。船津中尉の第一小隊と、金尾少尉の第二小隊が、両側にわかれて突入することになっていた。船津小隊は、全員戦死したが、いっしょに突入するはずの金尾少尉は出なかった。金尾小隊は、そのまま動かないでいて、戦闘を中止してしまった。船津小隊といっしょに飛びこんだとしても、勝てるものではなかった。 「もっと敵情を調べなければいけなかった。おれが軽率だった」  安木大尉は自責の思いにたえないらしく、涙をぬぐっていた。英印軍の大きな陣地を見ると、小兵力では攻撃の道がないことがわかった。安木大尉はニントウコン川の南岸に、陣地をたてなおすことにした。  次の日。岩崎大隊に、井瀬支隊長の新しい命令が伝えられた。それは《岩崎大隊は北ニントウコンを確保すべし》というのだ。それまでの岩崎大隊は《ニントウコンに進出すべし》と命令されていた。確保の命令が出たので、これからは、どんな苦難にたえても、この陣地を守り通さねばならなかった。  北ニントウコンも、このあたりの部落と同じように、台地の上にあった。そのなかをニントウコン川が、西から東のログタ湖に流れていた。この川が英印軍と日本軍の境界となっていた。川の北側は英印軍の蜂の巣陣地であったが、南側は荒れた廃墟のようになっていた。竹やぶのなかに土民の家が残っていた。  雨は時どき、容赦《ようしや》なく降りかかった。将兵は壕を掘って、そのなかにしゃがんでいた。雨は壕に流れこみ、水ぶろにつかっているようになった。雨の晴れまに服をかわかすと、びっしりとシラミがたかっていた。たちまちのうちに下痢患者、発熱患者が続出した。  雨が降っていても、やんでいても、昼でも夜でも、頭の上を速射砲や野砲の弾丸が、ぶきみな音をたてて飛んだ。  雨がやむと、みんなが服をぬいでかわかし、その間にシラミをつぶした。雨の降らない時は英軍の戦闘機が飛びこんできて、それこそシラミつぶしに射撃して行った。かわかしていた一枚の上着に、機関砲弾が五発も命中していたことがあった。  岩崎大隊の陣地まで、戦車連隊の中戦車が偵察に出てきた。夜のうちに出てきて、昼は竹やぶのなかにひそんでいた。だが、すぐに英軍機が襲ってきて砲撃して破壊した。  瀬古大隊の金子秀雄中尉はニントウコンにきてから、さらに衰弱が目立ってきた。マラリアの発熱に加えて、アメーバ赤痢に苦しめられていた。大隊長代理としての心労も大きかった。  インパール盆地に出てから、モイラン部落の雨中の戦闘で、瀬古大隊の歩兵は第一分隊、第二分隊の生き残り、九名だけになってしまった。あとは機関銃中隊と歩兵砲小隊を合せて、六十余名である。瀬古大隊の生き残りたちは、ひたすら、第四中隊の追及してくるのを待っていた。  六月二日の夜が明けた時、南道に多数の早駆けのくつの音が聞こえ、英印軍の銃声がひびいた。北ニントウコンにあった瀬古大隊本部の将兵は、歓声をあげて飛びだした。南道の両側を、それぞれ一列縦隊でくる部隊があった。先頭にいるのが、第四中隊長荒木盛道中尉であった。  金子中尉は南道まで出迎えに出ていた。荒木中尉の到着の申告が終ると、金子中尉は固い握手をした。 「よくきてくれた。待っていたぞ」  荒木中尉には、やせ衰えた金子中尉が別人のように見えた。金子中尉は、すぐさま、トルブン隘路口以来の戦闘について語った。瀬古大隊長をはじめとして、大隊のほとんど全部をトルブンで失った経過を語った。それは高橋参謀が兵力の到着するごとに逐次投入したことや、英印軍が強力な蜂の巣陣地を作っていたことなどであった。瀬古大隊の二百余名は焼け石に水をかけるように、むなしく犠牲となった。 「それなのに、くり返し攻撃を命じられて、部下を殺してしまった。あの時はくやしかった」  金子中尉は語りながら、涙を流した。  話をしている間に、顔や手にバラバラとふれるほど、小虫がむらがってきて飛びまわった。服の下にまで飛びこんできて、皮膚を鋭く刺した。鼻や口にも飛びこんだ。 「えらい蚊《か》だな」 「この盆地のなかは、とくにひどい。大きな湿地帯だからな」 「これでは、みんなマラリアにやられるな」  荒木中尉は恐しいものを感じた。  この時、到着したのは、中隊指揮班、見谷博人《みたにひろと》少尉の第二小隊、合せて四十七名であった。軽機関銃三、擲弾筒三を携行していた。  金子中尉は第四中隊に対し、すぐに戦闘配備につき、第二中隊と交代することを命じた。荒木中尉以下全員は休むことなく、北ニントウコンの部落のはしに出た。その付近にいた第二中隊は、前夜来、寝ていないということで、すぐに南にさがった。  荒木中尉は背負い袋を背中につけ、日本刀を腰にさして、元気よく歩きまわった。古武士といった風格があった。幹部候補生五期の同期生は小隊長であるのに、荒木中尉は中隊長になっていた。勇敢なところがあった。  その次の日には、第四中隊の第一小隊の中西一雄少尉以下三十六名が到着した。これで八十三名の歩兵が増加した。第四中隊は北ニントウコンの、南道の東側に不眠不休で陣地を作った。そこからニントウコン川までは二百メートルの距離であった。  六月三日。弓第三十三師団の作戦参謀、堀場庫三中佐から井瀬支隊に師団命令が伝えられた。 《井瀬支隊はすみやかにニントウコン付近の敵を撃破して、ビシェンプールに突進すべし》  井瀬大佐は騎兵の出身であった。当時、騎兵連隊は機械化部隊に改編されていた。日露戦争から日華事変まで活躍した騎兵も、新しい戦闘には役だたなくなったためであった。しかし井瀬大佐は純粋の騎兵であった。それが今、戦車と歩兵を一度に合せて指揮する立場におかれた。第二中隊長の中村大尉を本部にいれたのも、中村大尉が歩兵の戦闘をも経験しているためであった。  井瀬大佐は攻撃命令の起案を中村大尉に命じた。中村大尉は次の命令を作った。 井支作命 第三号 井瀬支隊命令 六月四日         於南ニントウコン       一、敵はニントウコン川北岸に堅固なる陣地を構築して、わが前進を阻止しあり。弓兵団主力は西方山地方面よりビシェンプールを攻撃中なり。   二、井瀬支隊は一部をもってポッサンバンを左側背より攻撃せしめ、主力は本道正面よりニントウコン北岸の敵を攻撃せんとす。攻撃の時期は六月六日夜間なるもその時期は別命す。   三、瀬古大隊はすみやかに全兵力をニントウコンに集結せしめ、北ニントウコンの攻撃を準備すべし。   四、岩崎大隊はポッサンバンに至る進路を偵察するとともに、ポッサンバン攻撃を準備すべし。   五、戦車隊は織尾大尉の追及せる戦車をあわせ指揮して、瀬古大隊の戦闘に協力し本道上を北ニントウコンに進出する準備をすべし。   六、工兵隊は戦車隊に協力して、北ニントウコン川の戦車の渡河を容易にする作業に任ずべし。   七、予はしばらく現在地にあり、六月六日以降、瀬古大隊の後方を前進する予定。 井瀬支隊長 井瀬大佐   下達法 各隊長を集め口達。  六月五日。井瀬支隊の各部隊の指揮官が支隊本部に集合した。中村大尉が明日の攻撃命令を伝え、作戦の打合せをした。  岩崎大隊は《ポッサンバンに至る進路の偵察》を命じられたので、将校斥候として、近藤曹長以下三名を偵察に出した。近藤曹長らは帰ってきて、報告した。それによれば、ポッサンバン陣地には鉄条網はとりつけてないということだった。安木大隊長代理、有元副官などは、それを聞いて安心をし、北ニントウコンの失敗の恥をそそぐつもりになっていた。  その夜、戦車連隊の中村達夫大尉は、長い間、高地に立っていた。インパール盆地の底にはひときわ濃いやみがよどんでいた。そのあたりに、明日攻撃をする英印軍の陣地があると思われた。  自動車の前照灯の光が、いくつもやみのなかを流れた。そこにインパール南道が走っているのだ。日本軍が目ざすインパールは、約三十三キロメートルの北にある。インパールの町の灯は見えなかった。その方面に、線香花火のように、光が明滅していた。英印軍の砲兵陣地が砲撃をしているのだ。遠くの山上に赤、青、黄など、さまざまの色の火線がいり乱れ、飛びちがうのが見えた。砲撃の音が、雷のように遠近《おちこち》にひびき合っていた。  中村大尉がニントウコンの支隊本部に帰ると、井瀬大佐はふきげんな顔をしていた。 「貴様、どこへ行っておったのか」 「はい。敵陣の配備状況を見に行っていました」  井瀬連隊長の目は、ろうそくの光のなかで、疑いぶかそうに動いた。 「この、くらやみでは何も見えまい」  中村大尉は、まだ、井瀬大佐の気ごころがわからなかった。井瀬大佐が連隊長に着任してから、一週間にすぎなかった。初対面の時から、井瀬大佐は中村大尉の行動を、疑いの目で見た。悪く疑ってみるのが、この人の性格らしかった。その上、率直にぶつかってこないのが、中村大尉には気色《きしよく》のわるいことであった。  それも、普通の場合なら、気にするほどのことではなかった。しかし、この、どたん場で、生死をともにする相手が、妙に気をまわして自分を見ているのは、やりきれなかった。部下のすることを疑う前に“ご苦労”のひとことぐらいをいったら、どうだ、と中村大尉は腹を立てた。  井瀬連隊長は別のことをいいだした。 「山本大尉は今度の攻撃には、まにあわんのだろう」  山本堅固大尉は連隊の先任将校で、本部付になっていた。テンノパールから戦死者の遺骨を宰領して、ビルマ中部のメイミョウに行った。その間に、戦車連隊はインパール盆地のニントウコンに出てしまったから、山本大尉の追及もおくれていた。 「山本大尉がまだ出てこんというのはどういうわけだ。遺骨をおいてくるのに、そんなに手間がかかるのか。第一、遺骨宰領に本部の先任が行くことがあるか。下士官をだせばいいのだ」  井瀬大佐は戦車連隊の将校に不信感を持っていた。 「メイミョウの病院には、この連隊の将校で陸士出の奴が、なおっても、出ないでいるそうだな」  井瀬連隊長は、いろいろの悪評をきいているようであった。 「中村、貴様、よっぽど、しっかりせんといかんぞ」  中村大尉は井瀬連隊長がこだわっているのを不快に思った。また、井瀬連隊長に戦場の経験のないことも、不安に思われた。ことに今度の攻撃は、戦車連隊と岩崎大隊、瀬古大隊の歩兵部隊の協同の戦闘である。戦車連隊からは三輛の軽戦車をだして、瀬古大隊の攻撃に協力することになっていた。戦車にとって困難な問題は、ニントウコン川を渡ることであった。戦車を渡すために、工兵隊が橋をかけることになっていた。だが、蜂の巣陣地の目の前で、架橋作業をすることは不可能に近かった。また、戦車の重量にたえる架橋材料もなかった。工兵がこれをどのように解決するか、不安でもあった。このような状況にあっては、井瀬大佐がどうであっても、連隊の先任将校として補佐しなければならない、と、中村大尉は決意した。そして、前面の敵を撃破して、インパールに突進しよう、と、希望を持ちつづけていた。  六日正午すぎ、瀬古大隊本部では、金子大隊長代理が攻撃計画をたてるために、各隊長を集めた。第一機関銃中隊長白井中尉、歩兵砲小隊長橋本少尉、荒木第四中隊長、大隊本部付仁興昇雄《にこしひでお》中尉などが、部落の木立の下に集った。 「副官はどうした」  白井中尉が顔ぶれを見まわした。だれも答えなかった。白井中尉は遠慮のない声でいった。 「あの副官は戦闘がはじまるというと、いなくなるのはどういうわけだ」 「相手にするな。命の惜しいやつは、いない方がいい」  金子中尉はいらだたしそうにいった。荒木中尉の目には、金子中尉が一層やつれて見えた。今夜の攻撃に出られるかどうか、案じられた。  若い隊長たちが協議して、攻撃の方針がきまった。  (1) 第一線正面の敵陣地は、無数のトーチカの十字砲火により完全に掩護されており、正面よりの攻撃は不利である。従って南道西側に迂回し、敵陣地の右翼より突入するを可とす。  (2) 第四中隊を第一線とし、爾余《じよ》を予備隊とする。  (3) 機関銃中隊は薄暮より行動を開始し、第一線陣地の第四中隊と部署を交代したる後、時折、射撃をもって陽動をおこない、第四中隊の攻撃を掩護し、爾後、大隊の進出に逐次追及す。  (4) 仁興中尉は軽戦車を誘導し、南道上を北進、とくに敵トーチカを求めて、これを砲撃し、大隊の攻撃を掩護す。  この計画は戦術教科書の通りであり、整然としていた。百名あまりの小部隊の計画とは思えないほどであった。打合せのあと、荒木中尉と仁興中尉は、盆地西側の山に上った。敵陣や地形を偵察するためであった。山のなかには、野戦重砲兵第十八連隊第二大隊の陣地があった。野重連隊長真山勝大佐は、ふたりの中尉を激励した。ふたりは観測所に行って、砲隊鏡を借りて、北ニントウコンを観測した。砲隊鏡で見た英印軍陣地は、恐しい様相をあらわしていた。わずかな起伏のある台地の表面が、網をかぶせたように見えた。その網の目の一つ一つが、掩蓋壕の銃眼であるのが、砲隊鏡で、はっきりと見えた。網の線は、さまざまにいり乱れていた。それは銃口を、死角のないように組み合せ、夜間標定をして十字砲火をあびせるためだとわかった。  荒木中尉と仁興中尉は帰る途中、山道に腰をおろして休んだ。仁興中尉は鉄かぶとをぬいで、なかに納めた小さな油紙の包みをひらいた。金色の菊の紋章のついたたばこが二本はいっていた。 「恩賜のたばこだ」  荒木中尉は頭をさげて、うやうやしくいただいた。仁興中尉は笑った。 「早う吸うておかんとあかん。えらいこっちゃ」 「さすがに砲隊鏡だな。肉眼で見るのとはえらい違いやないか。師団長は知っておるのかいな。参謀に一度、砲隊鏡をのぞかせてやりたいわ」  荒木中尉も、攻撃の目算はなかった。たとえ無謀とわかっていても、いさぎよく死ななければならないと思っていた。荒木中尉は覚悟をきめた。荒木中尉は大江山で知られた京都府大江町、仁興中尉は奈良県丹波市町(現在の天理市)の出身であった。昭和十五年七月、中国の南京《ナンキン》にある幹部候補生教育隊に入隊して以来、同期の親友だった。 「いよいよ、いっしょに死ぬ時がきたぞ」  荒木中尉は仁興中尉の肩をたたいた。 2  六月六日二十二時。岩崎大隊はニントウコン川の南岸を西の方にまわって、ポッサンバンに向った。これは北ニントウコンの側背を攻撃して、インパールから孤立させるためであった。突入成功の時は青、失敗の時は赤のつり星弾をうちあげることになっていた。合言葉は“鎧《よろい》”“兜《かぶと》”であった。  この攻撃に参加した岩崎大隊の人員は約百二十名であった。その編成は次のようになっていた。 大隊本部。大隊長代理安木大尉以下約十名。 第五中隊。中隊長代理金尾少尉以下約三十名。軽機二。擲弾筒二。 第六中隊。中隊長代理片山少尉以下約三十名。軽機二。擲弾筒三。 第七中隊。中隊長代理大谷太郎曹長以下約十名。軽機一。擲弾筒一。 第二機関銃中隊。  上山中尉以下三十名。重機二。 第二歩兵砲小隊。  野々上軍曹以下十名。歩兵砲一。  歩兵砲小隊は小隊長の井上栄少尉がかくれて出てこないので、野々上軍曹が指揮していた。  瀬古大隊の第四中隊は、諸準備を終って攻撃開始の時を待った。重苦しく緊張した気配だった。全員が白の包帯の小片を背負い袋につけて、夜間の目じるしにした。中隊長荒木中尉は白のたすきを十字にむすんでいた。零時に二十分前、荒木中尉は全員を整列させた。荒木中尉は全員を東の方角に向けて、“捧《ささ》げ銃《つつ》”をして皇居を遙拝した。そのあとで訓示をする荒木中尉の声が、低く、やみのなかに流れた。 「必勝の信念をもって、今日に備えて鍛えた全戦力を、遺憾なく発揮せよ、たとえ途中において傷つき倒れるとも、なお四つんばいになり、最後の血の一滴をふりしぼり、ひとりでも多く突入せよ。われわれの目標は、目前のニントウコンでなく、インパールにあることを忘れるな」  荒木中尉は指揮班の先頭に立って、前進を命じた。中西小隊、見谷小隊の順に四列縦隊の隊形で進んだ。しっとりとぬれた夜風が、異常な緊迫感に紅潮したほおにつめたくふれた。隊列は南ニントウコンから西の山側に進み、ニントウコン川を渡った。そこから向きを東に変えた。  この夜の攻撃に参加した瀬古大隊の人員は約百七十八名であった。 大隊本部。   大隊長代理金子中尉以下十名。 第四中隊。   中隊長荒木中尉以下八十三名。 混成小隊。   小隊長津原准尉、分隊長田中軍曹以下十名。 第一機関銃中隊。中隊長白井中尉以下約五十名。重機四。 第一歩兵砲小隊。小隊長橋本少尉以下約二十五名。歩兵砲一。  普通は歩兵一個大隊の人員は、充実した所で八百名。すくない所で五百名であった。また歩兵の一個小隊は、完全乙編成で、五十四名となっていた。これらの数字から見ると、岩崎大隊、瀬古大隊は、名称は大隊でも、実数は二個小隊程度の兵力にすぎなくなっていた。これは、この両大隊に限らない。インパール作戦当時は各戦線で戦闘中の師団、連隊などは、実質は、この両大隊と同じような比率で減少していた。  六月六日の攻撃に参加することになった軽戦車は、戦車第十四連隊の第四中隊の所属であった。戦車連隊は第一から第三中隊までが中戦車、第四中隊が軽戦車を持っていた。六月上旬、ニントウコンに到着していた戦車は、中戦車六、軽戦車四であった。このうち一、二輛が、すでに爆撃で破壊されていた。  六月七日午前零時。九五式軽戦車三輛は、南道上を走ってニントウコン川の岸に達した。川は水かさをましていた。独立工兵第四連隊の工兵は、前日来、上流で木をきって多くのそだを作り、川に流した。南道の橋は破壊されていた。それを利用して、そだをせきとめて、川を埋めて仮橋にした。軽戦車一輛は、その上を渡って対岸に達した。だが後続車は渡れなかった。  この夜の攻撃には、このほか、野砲兵第五十四連隊第一中隊が支援射撃をすることになっていた。井瀬支隊に配属されたこの砲兵隊は、改造三八野砲二門を持っていた。中隊長は星子《ほしこ》友宏大尉であった。  瀬古大隊の田中軍曹は八名の兵をひきいて、北ニントウコン部落を出発して英印軍陣地に向った。任務は、荒木中尉の第四中隊の攻撃を支援することであった。  田中軍曹の分隊は、モイランの戦闘のあと、途中で落伍《らくご》した兵四名が追いついてきて、九名となった。第四中隊がニントウコンに到着してからも、中隊が違うために、田中分隊は別個の行動をとっていた。  この日の夕方、田中分隊が夜襲の準備をしていると、金子大隊長代理の指示が伝えられた。それは、各自が携行している食糧を、満腹するまで食ってよい、というのであった。すでに食糧は欠乏し、一日に、にぎりめし一個が与えられるだけになっていた。満腹するまでとは、その全部を食ってもよいということで、今夜が最後の意味である。 「いよいよ、くいおさめか」  田中軍曹は、金子大隊長代理が死ぬつもりでいるように思った。トルブン隘路口以来むだに兵隊を殺すことを強要されてきた金子中尉の気持としては、当然と思われた。  田中軍曹も、トルブンで二度までも英印軍陣地に攻撃に向っているので、その恐しさを痛切に知っていた。いま荒木中隊の八十三名が突入しても、蜂の巣陣地を突破できるとは思えなかった。日華事変以来、幾たびか経験した戦場であったが、この夜ばかりは助からないと思った。  出発の時刻が近づいた時、金子中尉の命令で、田中分隊は津原准尉の指揮をうけることになった。津原准尉は荒木中隊といっしょにニントウコンに到着したばかりであった。この大隊本部の古参准尉を指揮につけたのは、田中分隊の支援攻撃を強力にするためにした処置であった。  田中軍曹は先頭に立って、ログタ湖の方に向って進んだ。一面の草原であった。田中軍曹は、くらやみのなかに、けもののようなものが集って、寝ているのを見た。それが、いきなり起きあがってきた。銃をうつひまもなく、乱闘になった。英印軍の兵であった。田中軍曹は田中留次郎上等兵に「軽機をうて」と叫んだが、返事がなかった。相手は倍以上の人数がいた。銃床をふりまわしても勝ちめがなかった。田中軍曹は「さがれ、さがれ」と、分隊員といっしょに逃げた。  分隊をまとめてみると、三名たりなくなっていた。ひとりは軽機の田中留次郎上等兵であった。他のふたりは津原准尉とその伝令であった。  くらやみのなかを軽機をたよりにしてさがすと、英印軍の兵士の死体にまじって、田中上等兵の死体が見つかった。しかし津原准尉と伝令兵は見あたらなかった。攻撃隊長を命ぜられた津原准尉は、伝令をつれて逃げてしまった、と判断された。  田中上等兵の死体には草をかぶせた。  田中分隊は東にまわったので、英印軍陣地の手薄な所にはいりこんだらしかった。有線電話で連絡する英語が、やみに響いていた。  田中安雄軍曹の手記によれば、── 《私はすぐに百メートルほど引き返し、荒木中隊を掩護する決心を固め、私以下八名は首まで水につかってニントウコン川を渡り、敵の第一線陣地の突破に成功しました。そこの地形は上り勾配《こうばい》になっていて、その上一帯が第二線陣地らしく、猛烈に射撃してくるので動くことができません。第二線陣地までは約七十メートルと判断しました。斜め左、五十メートルさきの稜線からも撃ってきました。そこには大きなトーチカがあって、その火力の激しさは想像もおよびません。  時計を見ると、十二時二十分前です。すでに一時間たったのです。荒木中隊の攻撃は十二時。それにまにあわないと、私の任務を果せません。私は意を決し、第二線に突撃する決心をしました。しかし、その前に何か処置をしなければいけないと思い、山崎兵長の軽機を川の南岸の小高い所にさげました。山崎兵長の軽機の射撃を待って突入することを、全員に伝えました。左稜線上のトーチカは激しく撃ちつづけています。これを覆滅しないことには進めません。私がひとりごとのようにそれをいうと、城崎瑛城一等兵がいいました。 「自分がやっつけます」 「よし、たのむぞ」  城崎一等兵は福井県出身でした。私は、トーチカの銃眼に手榴弾を投げこむ方法を、くわしく教えました。城崎一等兵は匍匐《ほふく》前進をつづけ、トーチカにたどりつき、手榴弾を銃眼に投げこみましたが、そこにかぶさるようにして倒れました。私はこの目で確認しました。  山崎兵長は猛烈に撃っています。もう、その時は十二時をすぎて、荒木隊が攻撃を開始したのか、照明弾の光が昼のように輝き、南道の方は銃砲声で震動しています。戦車砲の音がしたので、敵味方の戦車が動きだしたと思いました。私は分隊員に、「今だ。突っ込め!」と叫んで、真一文字に突入しました。この時ほど、どのようなものでも恐れない自分の気持が、今でも感じとられます。しかし、この突撃の前の焦慮と複雑な気持は、死刑囚以外にはわからないように思います。  突撃をおこすと同時に、分隊の全員は倒されました。第二線陣地まで、あと二、三十メートルという所で、全滅となりました。私は左肺貫通銃創、右肩貫通銃創、左手首貫通銃創の三弾を受け、失神状態となりました。分隊員八名のうち四名戦死、三名重傷、一名(山崎兵長)軽傷という、申しわけない結果でした。  私のそばに倒れていた奥村三二兵長は、 「分隊長殿、奥村は頭をやられました」  と叫び、うわごとのように「おかあさん」と呼んでいました。まもなく「万歳」と叫んだのが最期でした。奥村兵長は軍隊にはいる前に窃盗罪をおかしたので、要注意者として入隊時より特別な指導をすることを、中隊長から申し渡されていました。しかし、いつも勇敢で、その最期はりっぱでした》  瀬古大隊の第四中隊の荒木中尉は時おり前進をやめて、敵陣の状況をうかがった。  やがて前方に小高い影が浮きあがっているのを見つけた。それがインパール南道であった。そこから第四中隊の八十三名は、雑草のなかを、銃をにぎり、腹ばいとなって前進した。  南道のきわで、荒木中尉は小さな声で「着剣」の命令を伝えた。ここまで日本軍が接近しているのに、英印軍陣地に音もしないのが、かえって不安に思われた。  中隊は南道を越えると、指揮班を中央に右に中西小隊、左に見谷小隊が横に展開した。ところどころに木の株があった。陣地を作るために木をきり払ったと思われた。夜空のなかに、黒いものが見えた。動いていた。英印軍の歩哨《ほしよう》が警戒しているのだ。五、六十メートルの距離である。  荒木中尉は軍刀を握りしめ、そばにいた指揮班長の宮城庫吉准尉に合図をした。宮城准尉は手榴弾のせんをぬいて、やみのなかに投げこんだ。赤い光がひらめいて、荒木中隊の将兵の姿を照らした。爆発の音が響いた。荒木中尉は立ち上って叫んだ。 「突っ込め! 突っ込め!」  荒木中尉は走りだした。重い音が入り乱れて響き合い、激しい叫び声があがった。すぐに、その前方に異様な混乱がおきた。「ワーッ」という喊声は、悲鳴やおどろきの叫びに変った。「しまった」と絶叫する者もいた。荒木中尉もくらやみのなかにおちこみ、からだをたたきつけられた。必死になって起きあがって、叫んだ。 「早くはい上れ、やられるぞ」  英印軍陣地の前に掘った防御のおとし穴だと気がついた。将兵は夢中ではい上った。上ったところに鉄条網がはりめぐらしてあった。荒木中尉は軍刀をふるって斬った。そこここで、鉄条網に斬りつけている音が響く。ここを機関銃で掃射されたら、ひとたまりもない。  手榴弾が四方に爆発した。英印軍が鉄条網の向う側から投げつけている。 「やられた!」 「中西伍長負傷」  叫び声にまじって、すさまじいうなり声が聞こえた。  荒木中尉は夢中で鉄条網を斬り払うと、そのなかに飛びこんで叫んだ。 「指揮班、突っ込め」  あたりが明るくなった。夜空には、照明弾が打ち上げられ、大きな電灯のように、まぶしい光をふりそそいだ。日本兵の姿があざやかに浮かび上った。英印軍陣地のトーチカから、火の流れが走った。激しい銃声と、爆発音と、叫び声が響き合った。  荒木中尉は走りながら、うしろの方で倒れる兵隊の叫び声を聞いた。 「天皇陛下、ばんざーい」  壕を飛びだして英印軍の兵が走った。それを目がけて、指揮班の兵が手榴弾を投げつけた。荒木中尉は、その場に伏した。 「宮城准尉、負傷」 「見谷小隊長、負傷」  死傷者が続出している。激しい物音のなかで、叫び声が聞こえた。 「友軍戦車だ! どこを撃てばよいか。右か。左か」  本部付の仁興昇雄中尉の声だ。戦車が突撃の支援にきたのだ。仁興中尉がそれを誘導しているのだ。荒木中尉は、しめたと思った。 「左側のトーチカを撃て。トーチカの火をねらえ」  ダダン! ダダン!  特徴のある戦車砲の発射の音が響いた。あの戦車がはいってきてくれたら、と荒木中尉は思った。荒木中尉らは、まだ英印軍陣地の第一線を破ったにすぎないのだ。  戦車の砲撃がつづいている時、南道の方向にごうごうとした響きがおこった。戦車の前進する音である。 「いよいよ、戦車が突入するか」  だが、その戦車の音は、日本軍の戦車とは違っていた。突然、今までにない強烈な砲撃の音がおこった。  ダダダーン! ダダダーン! と、なだれのような音がつづいた。 「敵の戦車が出てきた」  荒木中尉は顔色が変る思いがした。  日本軍の戦車は、全速で逃げ去って行った。それを見ていた第四中隊の兵らは、ふがいなさに歯がみをし、戦車ががんばってくれたら、とくやしがった。  荒木中尉が近くにきている中隊の兵を確かめると、指揮班の石川明軍曹ほか十名がいるだけだった。ほかの兵は、前進できないでいるらしかった。  夜が明けてきた。朝もやのなかから、しきりに呼ぶ声がした。 「荒木中尉、おれの所までもどれ」  大隊長代理の金子秀雄中尉の声である。百メートルばかり後方であった。  荒木中尉は、あの衰弱した金子中尉が無事でいると思うと、うれしかった。  英印軍陣地からは、機関銃が射撃をつづけていた。その弾の下を、荒木中尉は這いながらもどった。金子中尉は、草のなかに横たわりながら、ぜいぜいと息をきらしていた。そのわきに機関銃中隊長の白井中尉がいた。頭と胸に包帯をしていた。ふたりは口々に問いかけた。 「どうするか。大丈夫か」  荒木中尉は気が強かったし、まだ、戦闘の興奮がつづいていた。即座に答えた。 「攻撃を続行します」  金子中尉はげっそりやつれた顔で、 「よし、やってくれ。いま機関銃をここまで前進させて支援する。がんばってくれ」  と、苦しそうにいった。何かの感情を訴えるような目の光だった。  荒木中尉は、再び英印軍陣地内にもぐりこんで、指揮班の兵のいる壕に飛びこんだ。その時、後方から叫び声が聞こえた。 「大隊長代理、戦死」  いま別れたばかりの金子中尉が、と、おどろいていると、別の声が聞こえた。 「大隊の指揮は白井中尉がとる」  瀬古大隊は困難な状況におちいったことが明らかになった。  瀬古大隊が北ニントウコンの英印軍陣地に突入した時、岩崎大隊は、それよりさらに北方三キロメートルのポッサンバン部落の英印軍陣地に接近していた。  大隊長代理の安木大尉と副官の有元中尉は先頭に立って歩いていた。安木大尉はいくさなれがしていたし、この前の失敗をくり返すまいと決意していた。有元中尉は、すこし不安を感じていた。それは将校斥候がポッサンバンに鉄条網がないと報告したことだ。有元中尉には、英印軍のいる所に鉄条網がないことは考えられなかった。あの将校斥候はポッサンバンまで行っているのだろうか、と疑いをかけても見た。  将校斥候というのに下士官の近藤曹長を使ったのは、将校の多くが戦死傷して、たりなくなってしまったからだ。近藤曹長の報告の通りだったら、今夜の攻撃は、まず成功するだろう、と思った。しかし、鉄条網があったら苦戦におちいることも予想しなければならなかった。  雨が降っては、やんだ。平地の上に、黒い森かげが見えるのは、部落のある所だった。その森かげの、一番大きいのがポッサンバンの目じるしだった。各中隊は四列縦隊の戦闘隊形で前進した。部落の周囲は湿地で葦がしげっていた。その上、泥が深く、足をとられて難渋した。  すこし前から、犬がほえていた。インドも、ビルマと同じように野犬が多かった。それが部落に集っていて、集団を作っては歩きまわった。一匹がほえだすと、いっしょにほえたてた。すると、遠くの方でもほえだすので、次第にやかましくなっていた。その声が不安な感じを与えた。  くらやみではあったが、前進をさえぎるものがあるのがわかった。近よってみると鉄条網であった。それが厳重にはりめぐらされていた。  有元中尉は胸中で、しまったと思った。この夜襲は失敗だ、と感じた。といって、ここまできて引返せば、むだな犠牲をだすだけである。あの将校斥候の不審な報告を確かめなかったことが後悔された。近藤曹長らは偵察もしないで、いい加減な報告をしたのだ。それが今、大変な事態になろうとしている。有元中尉は声をひそめて叫んだ。 「工兵、前へ」  この夜の攻撃のために、工兵連隊の兵を二名つれてきていた。この二名は田口工兵連隊の生き残りであった。工兵には鉄線鋏《てつせんきよう》を用意させてあった。 「工兵、前へ」  有元中尉は兵たちに口伝えに呼ばせた。だが、工兵はでてこなかった。戦場の恐しさが身にしみていて、途中で隊列を離れてしまったのだ。  もはや、猶予してはいられなかった。安木大尉は軍刀をもって鉄条網に斬りかかった。有元中尉もそれにならった。隠密行動は破れた。ピシピシと金属をたたく音がひびくと、ほとんど同時に銃弾が飛んできた。正確な照準であった。鉄条網は五段に有刺鉄線をめぐらし、一メートル六十ぐらいの高さがあった。突破口をあけるのが、もどかしかった。機関銃弾が近くを飛んだ。ようやく鉄線を斬り払った。安木大尉と有元中尉はその場に伏せた。安木大尉は呼吸を荒くしながら、やみのなかをうかがっていたが、強くいった。 「行くぞ、有元」  安木大尉は大隊長代理として、先頭に立って飛びこむつもりだ。安木大尉が先頭に立てば、兵もあとについて飛びこむに違いなかった。安木大尉が倒れたら、五十名を握って戦ってくれという気持が、その短い言葉に感じられた。  安木大尉は立ち上って、激しく叫んだ。 「突っ込め!」  有元中尉も立ち上って叫ぼうとして、足をとられてひっくり返った。その頭の上で赤い光がひらめき、手榴弾の爆発がおこった。安木大尉が倒れた。急に、あたりが明るくなった。英印軍は照明弾を空に打ちあげたのだ。白昼にひとしい明るさのなかで、有元中尉がうしろを見ると、どの兵も、顔を地面に埋めるようにしていた。有元中尉はすぐ近くにいた加藤上等兵に命じた。 「上山《うえやま》中尉に大隊の指揮をとれと伝えてこい」  安木大尉は、自分の死後の指揮を、第二機関銃中隊長の上山一良中尉がとるように、あらかじめ、きめておいた。加藤上等兵が匍匐して出て行くと、有元中尉は倒れていた安木大尉のからだを鉄条網の外に引張りだした。安木大尉は苦しそうな声をあげた。  このころには山岡軍曹、若原軍曹などが手榴弾を投げつけながら、陣地のなかへ走りこんだ。日華事変以来の古つわものだった。だが、それがふたりの最後の姿となった。  直原兵長は伏せたままだった。頭の上に銃弾の飛ぶ音を聞くと、動けなかった。ほかの兵も動かなかった。大隊本部の岡部留一軍曹が大声をあげた。 「五中隊はみんな腰ぬけだなあ。おれについてこい」  岡部軍曹は立ち上って突進し、掩蓋壕に手榴弾を投げこんだ。  この夜の攻撃の主力は、第六中隊の歩兵四十名であった。第六中隊長代理となった片山良一少尉は、そのうちの二十名をひきいて、台地を右にまわって行った。しばらくして、その方向に大きな火のかたまりが吹き上げ、夜空がまっかになった。片山少尉の一隊は地雷にかかった、と思われた。だが、その音は地雷でなく、英印軍の機関銃座の一斉射撃であった。それほど機関銃の多いことを、日本軍は予想もしなかった。片山隊はこの時、一名を残して、全員が戦死した。その一名は負傷していて捕虜になった。  安木大尉に代った上山中尉も、すぐに重傷を負って倒れた。そのあとは有元中尉が指揮をとった。死傷者は続出していた。大隊は前進することができなくなった。  擲弾筒手の岡兵長は二発の信号弾を預けられていた。有元中尉は、その時機がきたと見て、 「赤をあげろ」  と、命じた。この時には、英印軍のあげた照明弾は消えていた。岡兵長は弾体の夜光塗料を目あてに、一発を選んで打ち上げた。夜空に、目にしみるような青い光が輝き、静かにただよった。有元中尉はおどろいた。突入は失敗したのに、成功の青の信号弾をあげてしまった。 「赤をあげろ。赤をあげろ」  岡兵長はあわてて、残った信号弾を打ちあげた。だが、これは不発だった。  井瀬支隊の本部では、井瀬大佐がおちつかない表情で、銃砲声が変化するたびに、 「あれはなんだ」  と、中村大尉に質問した。 「友軍は苦戦であっても、敵が撃っている間は大丈夫です」  見張りの兵が報告した。 「青つり星があがりました」  本部の将兵は声をあげて喜んだ。 「やった。やった」  中村大尉は瀬古大隊の戦況を心配していた。すぐ近くの北ニントウコンなのに、連絡は全くなかった。この夜の攻撃には、井瀬支隊の全部隊が参加していた。このため“第一回の総攻撃”と呼ぶ者が多かった。それだけに、瀬古大隊の攻撃をも成功させたかった。  夜があけても、銃砲声は激しいままにつづいた。時どき、支隊本部の近くで砲弾が爆発した。 「こうしてはおれん。本部を前にだそう」  井瀬大佐は前線に出ようといいだした。だが、この状況で、本部が前に出てもどうにもならなかった。中村大尉は状況のわかるまで待つようにいったが、井瀬大佐は承知しなかった。  午前九時、井瀬支隊本部は五百メートル前進することになった。本部は電話線をのばしながら、北ニントウコンの南縁近くに出た。井瀬大佐も、じかたびの足で歩いて行った。本部はニントウコン川に近い木立の下に壕を作って、はいった。川をへだてて、英印軍陣地のある所まで、百メートルもなかった。 「友軍戦車はどうした」  中村大尉は、その付近の歩兵にきいた。 「この前方で、はね飛ばされています」  前方では、特徴のある戦車と戦車砲の激しい音が響いていた。英軍のM3戦車がでてきていることがわかった。数輛いるらしかった。中村大尉は薄ら寒い思いがした。M3戦車にでてこられては、井瀬連隊のどの戦車も太刀うちできなかった。 3  午前十時。第一線の瀬古大隊から井瀬支隊本部に電話がはいった。 「瀬古大隊は敵陣地をいったん占領しましたが、敵の反撃にあい、川の線までさがりました」  瀬古大隊は、すでに目の前の川の岸までさがってきているという報告であった。 「行って見てきます」  中村大尉は飛び出して行った。川を渡った瀬古大隊の兵が岸に這いあがり、湿地を這うようにして逃げてきていた。ほとんどが負傷して、血みどろになっていた。中村大尉を見ると、口ぐちに叫んだ。 「瀬古大隊全滅」  銃砲声は絶えまなく響いていた。中村大尉は、北方のポッサンバンの状況をうかがった。岩崎大隊も同じ状況に違いないと思われた。中村大尉は自分のたてた作戦計画が、いま目の前でやぶれているのを見た。とりかえしのつかない思いだった。  本部にもどって報告すると、井瀬大佐はいきり立った。 「今から自分が突撃する。騎兵の本領を発揮する時だ。敵を撃退するのだ」  井瀬大佐は軍刀をつかんで、顔色を変えていた。中村大尉はおどろいた。この戦況で、井瀬大佐が“騎兵の本領を発揮して”飛び出して行っても、敵を撃退できるものではなかった。  前任者の上田連隊長は精神異常となったが、今度の連隊長も厄介だと思った。中村大尉は井瀬大佐をなだめた。 「戦車連隊長は戦列を掌握の上、戦車とともに突入すべきです。単独で突入するのは自滅するばかりです」  ちょうど、そこに瀬古大隊から報告にきたという准尉がいた。前夜、田中分隊の指揮をとることになっていた津原准尉である。田中分隊をおきざりにして、支隊本部に報告と称して、はいりこんでかくれていた。軍隊で十年以上も過ごした古い兵隊のわるぢえであった。  井瀬大佐は興奮していて、津原准尉に向って、 「歩兵が全滅したというのに、戦車連隊が出ないでいては申しわけない。これも井瀬の指揮の至らないためだ。おわびする」  と、頭をさげた。津原准尉はこずるく、 「何をいわれます。今は連隊長殿の突撃される時ではありません」  と、とりつくろった。中村大尉はとり乱した井瀬大佐の扱いに困って、 「自分が行って状況を見て、指導します」  と、再び外に出た。  砲弾の落下爆発が激しくなっていた。中村大尉はモイランで戦車を転覆させた時に骨折した右手首が、まだ、なおっていなかった。銃砲弾の下を、右手をつったまま走ると、からだの平衡がとりにくかった。いくたびも、泥田のような湿地のなかでころがった。近くで砲弾が爆発し、泥と水を大きく吹きあげた。  川岸にくると、たくさんの兵が倒れていた。負傷兵は川を越えて岸にはいあがると、力がつきたのだ。向う岸の斜面には、たくさんの兵がへばりついていた。  十メートルほどの川幅であった。中村大尉が向う岸にあがると、将校が軍刀をふりまわして、伏せている兵をしかりつけていた。 「このくらいの逆襲がなんだ。おれについてこい。立てんのか、臆病者。いまから突撃するぞ」  将校は軍刀を頭上にふりかぶった。 「突っ込め」  激しく叫びながら、将校は飛び出した。  中村大尉はそれが瀬古大隊の仁興中尉だ、とわかった時、銃弾の飛ぶ音が鋭くひびいた。仁興中尉は横に一回転して倒れた。それでも立とうとしていた。 「仁興中尉、大丈夫か」 「仁興は死んでもここからさがりません」 「早くさがれ」 「さがりません」 「仁興中尉の奮闘は中村が見とどけたぞ。井瀬連隊長の代りに命令する。さがれ」  近くに倒れていた兵が、這い上ろうとする仁興中尉をひきずりおろした。中村大尉は、 「伏せておれ。いま動くと、やられるぞ。すきを見て支隊本部に集ってこい」  と命じて、ニントウコン川に飛びこんで渡った。M3戦車が川を越えて攻撃してくるのを恐れ、早く本部に報告して、対策をたてるつもりだった。  戦車連隊の本部をおいた付近にも、銃砲弾が落下して、危険な状態になっていた。井瀬大佐は退避しようともしないで、地面の上に、あぐらをかいてすわっていた。銃弾が近くの木の幹にあたって音をたてた。中村大尉はその無謀さにおどろいた。 「連隊長殿、ここにおられては危険です。ほかに移ってください」 「何をいうか。弾がこわくて戦場の指揮ができるか」  井瀬大佐は、弾丸の下で平然とした態度を示すことを、指揮官の心がけとしているようであった。  ヒュル ヒュル ヒュルという音をひいて、迫撃砲弾がつづけざまに落ちてきた。戦車連隊の相沢曹長が、はね飛ばされた。足に重傷をうけた。石原軍曹が倒れて、大きなうなり声をあげたが、すぐに死んだ。 「連隊長殿、こんな所に本部をおくから、部下がやられるのです。自分のいう所についてきてください」  井瀬大佐が戦場は初めてにしても、いい加減にしてくれ、といいたかった。中村大尉が先に走って行くと、井瀬大佐はあとからついてきた。  ひとりが立ったまま、はいれる程度の壕が、たくさんできていた。昨夜、歩兵が攻撃準備に掘ったものである。そのなかの大きな壕を見つけて、中村大尉は井瀬大佐といっしょにはいった。  本部の下士官兵も、その付近の壕にはいった。通信線が回復すると、すぐに第三十三師団司令部から電話がかかってきた。中村大尉が出ると、相手は作戦主任参謀の堀場中佐であった。 「状況はどうか」 「瀬古大隊の兵がさがってきています。全滅の状況にあると思われます」 「岩崎大隊はどうするのか」 「岩崎大隊とは連絡がとれなくて、困っているところです」 「困っているとはなんだ。今後どうするかときいているのだ」  中村大尉は堀場参謀の横柄さを不快に思った。堀場参謀のいる山の上の戦闘司令所からは、ポッサンバンの戦況はよく見えるはずだった。その状況を、さきに教えるべきではないかと思った。それをいうと、 「岩崎大隊は敵陣のなかに孤立している」 「瀬古大隊も死傷続出していますから、一応戦線を整理します。岩崎もさげます」 「ポッサンバンを放棄するのか」  井瀬大佐はだまって聞いていたが、 「中村、井瀬は戦車隊を指揮し、岩崎大隊の救援に行く、といえ」  と、強くいい放った。中村大尉がその通りに伝えると、堀場参謀は、 「よし」  と、電話を切った。  突然、激しい爆発の音が響いた。 「空襲!」  中村大尉は井瀬大佐とかさなり合って壕の底に身を伏せた。そして、この状況では、井瀬大佐のいうように、戦車を救援に出せるものではない、と思った。  ポッサンバンは低い台地になっていた。台地の上に部落があり、そのあたり一帯が英印軍の陣地になっていた。ここには迫撃砲がならんでいて、日本軍を砲撃した。  台地の端のがけの下に、わずかに横穴を掘って、岩崎大隊の負傷者が横たわっていた。苦痛のうめき声が地をはうように聞こえていた。なかには、意識のうすれた兵や、息のたえた者もいた。元気な兵は十四、五名にすぎなかった。  夜が明けてから、有元中尉は当番兵とふたりで、軽戦車の残体のなかにかくれていた。四月に独立工兵連隊とともに、ここまで前進した弓第三十三師団の軽戦車が、弾の穴だらけになって、赤さびていた。その穴から、英印軍の状況がよく見えた。軽戦車のすぐ下の台地の端には、生き残りがひそんでいたから、指揮連絡にはつごうがよかった。  陣地には鉄条網が厳重にめぐらしてあった。直線状の鉄条網が外側にあった。そこが第一線であった。七、八十メートルほど奥の方には螺旋形《らせんけい》の鉄条網を、数段にならべてあった。そこが第二線であった。前夜は第一線を破って突入しただけだった。第二線に取りついたとしても、突破することはできないと思われた。  鉄条網の柱に、小さな円筒形の金属がとりつけてあった。マイクロフォンであった。英軍は、集音マイクを使って、日本軍の接近するのを、早くから知って待っていたのだ。  陣地のなかは、きれいにかたづけてあった。死体も、武器も、置き捨ててはなかった。日本兵の死体も始末したらしかった。  インパール盆地の上空には、砲弾と飛行機の爆音がたえまなく響いた。すぐ近くにインパール南道が、長い堤のように見えていた。そこを英軍の自動車が往来していた。おびただしい数であった。ポッサンバン、ニントウコンの最前線陣地に、爆薬糧食の補給をしているのだ。  このような巨大な英印軍陣地に対して、日本軍は銃剣を持ち、軍刀をふるって、五十名たらずで飛びこんだ。それでも、大和《やまと》魂 《だましい》があり、軍人精神があるから、やれると信じていた。有元中尉は、やりきれないほど腹立たしい思いにかられた。  台地の上には、英印軍の将兵が姿をあらわしていた。上半身を裸にして、洗面道具を手にしている者が多かった。話をしたり、笑ったりしていた。口笛を吹いている兵もいた。昨夜の戦闘のけはいも見えなくて、演習の部隊が夜営した時のようであった。  英印軍の兵のなかにはグルカ族がたくさんいた。その勇猛さは日本軍にも恐れられていた。今、明るい光のなかで、目の前に見るグルカ兵は、日本兵と余り変らない、背のひくい、東洋人の顔だちをしていた。何よりの特徴は、頭のてっぺんに、ひとにぎりの髪を残して、まわりをそっていることであった。グルカ兵は、死んでも神様がその髪をつかんで生き返らせるという信仰をもっていた。このために、グルカ兵は死を恐れずに突撃した。  そのほかも、大部分がインド人の兵であった。頭にはターバンを大きくまいていた。ほりの深い、あごひげの見事な、りっぱな顔だちであった。幾つかの種族があるらしく見えた。  やがて、そこここにわかれて食事がはじまった。分量も種類も多い食事であった。豊かで、にぎやかな食事の物音に加えて、においまでただよってきた。有元中尉ら日本軍は、すでに数日来、一日ににぎり飯一個がもらえるか、どうかという状態で、飢えているにひとしかった。昨夜の戦闘さえも、よくやれたと思うほどであった。  しかし、有元中尉は、飢えも忘れ、息をこらし、ただ、おどろくばかりであった。それは、目の前にいる英印軍の数の多いことであった。ところどころにいる白人兵をまじえて、目に見えるだけでも三千名以上と判断された。  昨夜、これらの英印軍が陣地によって待ちかまえるなかに突撃した、と思うと、寒気のする思いだった。今になってみると、昨夜の井瀬支隊の攻撃は無謀とも、なんとも、いいようがなかった。弓の戦闘司令所は西側の山の上にあるから、北ニントウコンやポッサンバンの、英印軍陣地の状況や兵力のおよそはわかるはずである。それなのに、このような攻撃をさせた。作戦参謀の堀場中佐はどういうつもりか、と有元中尉は腹を立てた。  台地の下からは、負傷者の苦痛を訴える声が聞こえた。それが英印軍の集音マイクにはいれば、全員が殺されるか、捕虜になるほかなかった。どうしたら元気な十数名が負傷者をつれてニントウコンに帰れるだろうか。有元中尉はそれを思い、ひたすら早く日が暮れるのを願った。  英軍は日本軍を撃退すると、追い討ちをかけてきた。北と南と、二つのニントウコン部落の上空に英軍の戦闘機が飛来し、旋回をはじめた。幾つもの編隊にわかれていた。  英軍の戦闘機はつぎつぎに機体をひるがえし、急降下爆撃をした。部落の台地は火と泥の爆煙に包まれ、地震のように揺れ動いた。将兵は壕のなかにいながら、強い爆風でからだをたたきつけられた。部落の家は吹き飛ばされ、幾人かの日本兵を下敷きにして殺した。中戦車の一輛は直撃弾をあびて燃えあがった。  午後になって、堀場参謀から電話がかかった。中村大尉が出ると、いきなりどなりつけられた。 「何をぐずぐずしているか。岩崎を見殺しにするのか」  堀場参謀が、この急場に同じことをくり返し詰問してくるのが不可解だった。 「空襲があって、出られません」 「そんなことで井瀬支隊の任務がはたせるか。やるのか、やらないのか」  中村大尉は思い切って答えた。 「現在の状況としては処置なしです」 「処置なしとはなんだ。ばかもん。岩崎を見殺しにしていいのか。連隊長の決心はどうか」 「連隊長殿は手兵をひきいて、ポッサンバンに増援に行く決心です」 「兵力は」 「連隊長以下約二十名です」 「そんな兵力で救援できると思うのか」 「それなら岩崎を撤退させて、瀬古大隊の正面に全力をそそぎます」 「岩崎大隊の戦果を拡張しろ。そっちに全力をそそげ」  電話は切れた。中村大尉は、堀場参謀のいうことは支離滅裂だと思った。だまって聞いていた井瀬大佐がけわしく叫んだ。 「よし、今夜、もう一度攻撃をする」  中村大尉は井瀬大佐の真意を疑った。戦車を出したからといって、行ける状況ではなかった。また、岩崎大隊の生き残りを救出しても、現在のニントウコンの第一線の戦況が好転するのでもなかった。そのなかへ、戦車連隊長自身が飛びだして行こうというのは、どういうつもりか、と中村大尉は思った。 「戦車も、現在の数ではたりません。追及してくる戦車が集ってから、歩兵といっしょに北ニントウコンの正面を攻撃するのがよいと思います」  井瀬大佐は不快そうな顔をして、だまってしまった。中村大尉は自分の父親ほど年の違う上官に、いうべきことではないと思った。  中村大尉は攻撃計画を作ることを命ぜられた。だが、計画のたてようがなかった。歩兵で使えるのは、岩崎大隊の第七中隊の十名たらずにすぎない。これは荷物監視のためにニントウコンに残置してあった。このほかに、北ニントウコンから敗退してきた瀬古大隊の生き残りの十数名がいるだけである。これは前夜来の苦闘で負傷もし、疲れきってもいた。  戦車連隊の中戦車の五輛が動ける状態にあった。しかし、中戦車はニントウコン川を渡って北進することは困難であった。橋はなかったし、川を渡ったにしても、英印軍陣地の速射砲か、英軍のM3戦車の攻撃にあって、ひとたまりもなく炎上するからだ。  これが瀬古大隊、岩崎大隊、および戦車第十四連隊を集めた井瀬支隊という、名称だけは大部隊の実数であった。  堀場参謀が強く攻撃を促すのも、奇怪であった。瀬古大隊、岩崎大隊が前夜からの攻撃で、半数以下になっているのを知っているはずだ。まして作戦参謀であれば、このわずかの歩兵と戦車をだしても、どうにもならないのはわかっていることだ。中村大尉は、堀場参謀に山からおりて第一線の実情を見てくれ、といいたかった。参謀は、まだ、ひとりもきたことがないのだ。  銃砲声がたえまなく響きつづけた一日が暮れかかった。各隊の指揮官が支隊本部に集合を命ぜられた。瀬古大隊の前線からは白井中尉、上野少尉、水巻曹長が集ってきた。白井中尉は、金子中尉が戦死したあと、瀬古大隊の大隊長代理となった。銃弾のかすめた胸に包帯をまいていた。ほかのふたりも血にまみれていた。  歩兵砲小隊からは、小隊長の橋本少尉と指揮班長の大熊曹長が泥によごれた姿を見せた。この人々に井瀬支隊の新しい命令が伝えられた。 《明六月八日未明、在ニントウコンの各隊は、全員玉砕を期して当面の敵陣を突破しすみやかにビシェンプールに進出せよ》  命令を聞いて、歩兵砲小隊の井軍曹は、いよいよ最後の時がきたと思った。トルブン隘路口で一週間にわたって、英印軍の蜂の巣陣地と戦って以来、兵力のないために苦しい戦闘をつづけてきた。それでも一度も絶望したことはなかった。だが、今夜、『歩兵砲小隊は砲を残し、全員が小銃隊となる』と聞いて、暗い気持になった。岡本忍兵長が井軍曹にいった。 「なぜ砲をうたせないのか。全弾をうちつくして玉砕するなら本望です」 「本部で小隊長殿がそのことをいったが、連隊長殿はきかないのだ。本道上の進撃がおくれているのは、瀬古大隊の責任ぐらいに考えているんじゃないか」 「それにしても、砲も弾薬もあるのに残念ですよ」 「もう、それをいうな。あすは瀬古大隊のために目にもの見せてやろうじゃないか」  井軍曹は分隊員の顔を見まわした。岡本兵長以下八名がいた。トルブン隘路口を出る時に十二名だった分隊だ。あすは、ひとりもいなくなるだろう、と思った。 「あすは早いぞ。すこしでも寝ておこう」  井軍曹は壕にはいった。なかには雨水がたまっていた。すぐに眠ることはできなかった。故郷の奈良の当麻村の山河や、肉親の人々の姿が目に浮かんだ。 〈あすこそ最後のご奉公の時だ。まっさきに突進して、日本軍の真価を見せてやる〉  すぐに別の考えが、それを打ち消した。 〈こんなところで玉砕するのは残念だ〉  日華事変以来、戦場ぐらしになれていたのに、はじめて味わう悲痛な思いだった。急に涙があふれ出て、ほおを流れおちた。  岩崎大隊は、ポッサンバンの英印軍陣地のなかにかくれつづけた。  生き残りの将兵は、がけ下の横穴に集っていた。負傷者は、あり合せの巻脚絆《まききやはん》や服の切れはしで傷口をしばっていた。その不潔さが傷を悪化させた。だれもが、うつろな目をしていた。安木大尉が負傷したあと、大隊長代理となった上山中尉は、青ざめて横たわっていた。左肩のつけ根に貫通銃創をうけて、上着の半分は血で黒くなっていた。  不安とあせりの一日が暮れた。何もたべず、一滴の水も飲めなかった。英印軍陣地では、にぎやかな夕食がはじまった。有元中尉は好機と見て、井瀬支隊本部に伝令を送った。それは前夜の青つり星は誤りであることや、岩崎大隊への今後の指示について、連絡をとるためであった。伝令に選んだのは、大隊本部の岡部軍曹であった。大胆で機敏な男だった。  夜がふけた。負傷者の苦しみ、うめく声が激しくなった。手当はできないし、空腹のまま、時間がたつばかりである。負傷者の苦痛が加わるのは当然であった。  二十四時をすぎた。有元中尉の近くの草むらでごそごそ人のけはいがした。 「鎧」  有元中尉が、“鎧”“兜”の合言葉をかけて、身がまえた。やみのなかから、押えた声が聞こえた。 「おーい、岡部軍曹だ」  伝令が無事にもどってきて、井瀬支隊長の命令を伝えた。それは《岩崎大隊はよくやった。すぐに、もとの陣地にもどれ》というのであった。  有元中尉は口伝えに撤退の命令を伝えさせた。だが、その時には、その近くの兵は、ひとりもいなくなっていた。岡部軍曹が報告する声を聞いた時に、早くも逃げ去ってしまったのだ。  負傷者が負傷者をささえて、ニントウコンに向った。有元中尉は、三宅速水軍曹ほか二名の兵を上山中尉につけて、自分もいっしょに歩いた。三宅軍曹は日本刀をふるって奮戦し、負傷していたが、ひるまずに上山中尉を介抱していた。  やみのなかに、黒いかたまりが濃く見えた。部落を包んでいる林である。上山中尉は、そこに行けといって、きかなかった。有元中尉がなだめた。 「ニントウコンまでの間には、三つ部落があった。ニントウコンは、もっと南だ」 「何をいうか。あそこまでがニントウコンだ」  上山中尉は負傷のために、意識が乱れはじめていた。三宅軍曹がそれにかまわずに歩きつづけると、上山中尉はふりきってあばれた。 「貴様らは好きなところへ行け。おれはニントウコンに行くんだ」  と、今にものめりそうにして歩いて行った。三宅軍曹とふたりの兵は、なだめたりすかしたりしながらついて行ったが、すぐ、やみに消えた。有元中尉は、三宅軍曹にまかせることにして、ニントウコンに向った。前後に兵の影は見えなかった。  南ニントウコンの支隊本部では、中村大尉が井瀬大佐に意見をのべていた。 「岩崎大隊をポッサンバンからさげたら、攻撃に出る目的はなくなります。もともと岩崎大隊にこだわっている師団の考えがおかしいのです」  銃をみがくスピンドル油をともした光がわずかにふたりを照らしていた。 「師団はずるいと思います。井瀬支隊が一マイルでも二マイルでもインパールに近づけば、師団がそれだけ前進したことにして、十五軍に報告したいのです。だから、せっかくポッサンバンまで行ったのを撤収するのはおしいという腹なんです」  中村大尉は師団の堀場参謀の支離滅裂な要求を、そのように読みとった。 「連隊長殿、この南道上には、師団の直属の部隊は一兵もおらんのですよ。井瀬支隊といえば、ていさいはよいが、配属部隊の寄せ集めです。師団の直属部隊は全部山岳地帯にあがっています。こんな泥沼みたいなところに、戦車をだしても、どうにもならないことは、堀場参謀は知っていますよ。戦車出身の参謀ですから。戦車はインパール突入の時以外は、もう、役に立ちません。それでも戦車をだしておけば、泥にうまって動けなくなっても、師団としては『戦車連隊は本道上をインパールに向い突進中なり』と、軍に報告ができます。結局、配属部隊を犠牲にして、功名手柄だけは自分のものにするやり方です」  井瀬大佐はながい間、無言でいた。やがて、しぶしぶといった。 「中村のいうとおりかも知れん。攻撃を中止しよう」  歩兵砲の分隊長、井軍曹は橋本小隊長から攻撃中止の緊急命令をきくと、分隊に飛んで帰った。くらやみのなかで、弾痕の穴におちてころんでも苦にならなかった。分隊員は不安そうに待っていたが、中止ときくと、躍り上って喜んだ。そのあとは、だれひとり眠るものがなかった。絶対であり、しかも単なる犠牲にすぎない死から解放された喜びは、それほど大きかった。  この攻撃による戦死傷者の数は、岩崎大隊約百名、井瀬大隊約六十名であった。 白 昼 攻 撃 1  六月六日、七日にわたる井瀬支隊の攻撃は失敗に終った。  八日。南ニントウコンは、英軍の爆撃をうけた。つづいて、激しい砲撃をあびた。約二百五十メートル平方ほどの部落の台地は震動し、火煙と泥しぶきにおおわれた。英印軍は敗残の井瀬支隊をたたきつぶそうとして、追い討ちに出たようであった。  田中安雄軍曹は、その響きをからだに感じていた。そこはニントウコンの南五キロメートルの、プバロウ部落の一軒家であった。そこに瀬古大隊の仮包帯所が設けられていた。  田中軍曹とならんで、土間に寝ていた丸田明兵長が、苦しそうな息でつぶやいた。 「ここまで響くんやから、ごついわ。残った連中、大丈夫やろか」  田中軍曹は答える気力もなかった。負傷の痛みと空腹のために、意識が薄れて、全身が落ちこんで行くようであった。時どき、恐しいものに襲われた。いつのまにか、田中軍曹は英印軍陣地のなかに引きもどされていた。目のさき五十メートルの所に大きな銃眼があって、火をふいているかのように機関銃を射撃していた。  その恐しさに叫び声をあげようとして、仮包帯所に横たわっている自分に気がついたりした。  田中軍曹は、分隊員の丸田兵長、田中伝一等兵に助けられてさがった。丸田兵長は胸部に盲管銃創をうけていた。田中一等兵は口を右から左に貫通されて、おもな歯がくだけ、すさまじい顔になっていた。  田中軍曹は倒れていた場所から、ニントウコン川の南岸まで、三百メートルの距離をさがるのにも必死であった。泥田のような湿地帯をわたる三人を目標にして、銃砲弾が追ってきた。北ニントウコンの味方の陣地にたどりつくと、衛生兵の奥山安太郎兵長が飛びだしてきて、民家のなかに収容して手当をした。 「もう、包帯もないんやで」  奥山兵長は十分な手当ができないのをわびた。だが、田中軍曹はその好意をうれしいと思った。奥山兵長とは、昭和十四年十二月に奈良の歩兵第三十八連隊に入営して以来いっしょだった。同年兵だから、補給がなくて乏しい衛生材料のなかから、包帯をだしてくれるのだ、と感謝した。  銃砲声は絶えまなく、ごうごうと響いていたが、突然、激しい音をたてて、砲弾が落ちてきた。強烈な爆発音と熱風にたたかれて、かやぶきと土壁の家は崩れた。多くの負傷者は、その下にうずめられた。しばらくして、田中軍曹らは奥山兵長に助けだされた。 「ここは危険だから、仮包帯所にさがってくれ」  奥山兵長はうながした。ニントウコンの南二十四マイル道標付近の一軒家に、宮地剛軍医の救護隊がきているというのだ。田中軍曹らは、出血と苦痛と激労のために、立って歩くのも困難であった。 「つらいだろうが、歩いて行ってくれ」  奥山兵長は気の毒そうに励ました。  田中軍曹は丸田兵長と田中一等兵に、交互に支えられながら歩いた。一歩一歩が苦しかった。十メートルと歩きつづけることはできなくて、うずくまった。  道の途中には、たくさんの日本兵が倒れていた。血と泥にまみれて、死体のように見えた。三人が通りかかると、うごめき、何か声をかけるのが、ただのうめき声に聞こえた。  飛行機が時どき襲ってきた。飛行機がこない時は、豪雨が降りかかった。  田中軍曹らは五キロの道を歩いて、仮包帯所にたどりつくのに、二日間かかった。その苦しさにたえたのも、仮包帯所に行けば助かるという気持があったからだ。  だが、たのみにしてきた宮地軍医に手当をしてもらえなかった。軍医も疲労のため目が見えなくなって倒れていた。その上救護隊にも食糧がなかった。救護隊員は、そこにきてから、米粒を口にしたことがないというのだった。 「ここでは何もできない。すぐに移動治療班に行ってくれ」  その場所は南道の四十九マイル道標付近だという。仮包帯所から、さらに四十キロの南である。五キロの道を歩くのに二日もかかった田中軍曹らには、そこに行きつくまで、からだが持つかどうか、わからなかった。連絡の自動車もなかった。  田中軍曹らは歩きだす力もなく、一軒家の前でうずくまっていた。そして、ニントウコンに残してきた山崎兵長以下三名はまだ無事でいるだろうか、と思った。第一線の田中分隊員は、三名だけとなってしまった。山崎兵長が、戦死した奥村兵長の死体を川に流してくれたろうか、と気にかかった。田中軍曹は奥村兵長を哀れに思い、埋めてやれないので、山崎兵長にたのんできた。  同じ道を荒木中尉、仁興中尉、安西中尉などもさがっていた。荒木中尉は右の目を失っていた。負傷者は激しい苦痛にたえて歩いていた。歩かなければ死ぬほかはなかった。第四中隊第一小隊の四分隊長伊藤信男伍長は、のどと足に大きな傷をうけていた。足は裂けて、すでにガス壊疸《えそ》をおこして黒くふくれていた。歩くことができないのを、戦友が背負った。背負われた時の苦痛はさらに激しかった。死ぬ以上の苦しみだった。のちに移動治療班で手当を受けた時に、全身に手榴弾の鉄片が二十二個くいこんでいたことがわかった。  六月六日、七日にわたる攻撃の失敗で、井瀬支隊の戦力は、ほとんど失われてしまった。瀬古大隊の生き残りは、歩兵、機関銃、歩兵砲などの全部を合せて、三十八名となった。ポッサンバンから退去してきた岩崎大隊は三十名たらずになっていた。  戦車連隊の方は、軽戦車一輛を戦闘で失い、中戦車一輛を爆撃で破壊された。だが、南ニントウコンには中戦車五輛、軽戦車三輛、人員は連隊本部、戦列兵など六十名近くいた。  六月十日。弓第三十三師団から戦車連隊本部に電話がかかった。井瀬連隊長が呼ばれて電話に出ると、激しい怒声が聞こえた。師団長心得の田中少将であった。 「井瀬支隊は何をしておるか。弓兵団ただ一つの戦車連隊でありながら、ニントウコンで十日も動けないとは何ごとか。支隊の攻撃が失敗したのは、戦車を温存することばかり考えているからだ。すぐに戦車を全部だして、ビシェンプールに突進せい」  井瀬大佐はきまじめであったから、固くなって、姿勢を正しくして聞いていた。田中少将の、耳にかけるほど長くした口ひげが、怒りにふるえているのが、目に浮かぶようであった。  田中少将は牟田口軍司令官に激励されて、勇躍してインパールの第一線に着任した。だが、師団の実情は田中少将の予想以上に悪かった。師団の軍医部長の報告によると、第一線部隊の損害は五割以上ということだった。五月中旬末に、戦死者は兵千三百名、将校八十六名、戦傷病二千二百名となった。現職の歩兵大隊長は一名だけで、ほかの大隊長はすべて代理であった。一個中隊の総数が、わずか十名となったところもある。将兵の体力は極度におちていた。露営地周辺の用便所は水便、血便ばかりである。強行軍と激戦と豪雨のために、将校の服は破れ、くつ底はぬけて、つるや布をまく者が多かった。何よりの困難は、糧食と弾薬がなくなったことであった。  だが田中少将は、インパールを目前にして、突進の決意を一層、固くしていた。それは、牟田口軍司令官から新たに激励の電報をうけたためである。  六月六日。井瀬支隊が英印軍陣地を攻撃した日、牟田口軍司令官は、ビルマ方面軍司令官河辺正三中将と会談した。河辺方面軍司令官は前線を視察して、戦況の困難を見ていた。インパールの北方に進んだ烈第三十一師団長佐藤幸徳中将は、牟田口中将の無謀と無責任を怒って、すでに師団をひきいて抗命撤退をしている時であった。  河辺方面軍司令官は、是が非でもインパールを手中に収めねばやまない考えを全軍に布告した直後であった。激励のために、インダンジーの第十五軍司令部に到着した時には、牟田口軍司令官は、まだ、弓師団方面のサドにいた。  インダンジーには、木下高級参謀がさきに帰っていたので、河辺方面軍司令官に戦況を報告した。サドでは、木下高級参謀はインパール入城祝いの酒を飲んで乱酔した。その胸中では、インパール作戦に絶望していた、と見られた。だが、河辺方面軍司令官に報告した時には、結論として『インパール攻略の信条の必成』を誓った、という。また、その方策として、堅陣攻撃の要領に関する軍の教令を作成中であるとして、その要領なるものを説明した。  河辺方面軍司令官は、そうした第十五軍の作戦指導と戦術上の処理を是認し、方面軍としても協力する決意であることを示した。木下高級参謀のインパール作戦についての信条は、河辺方面軍司令官に認められた。  牟田口軍司令官は三日夜サドから帰り、五日、河辺方面軍司令官と会談した。この時、牟田口軍司令官は祭第十五師団長の山内正文中将の解職を要請した。河辺方面軍司令官は、時期としてはまずいが、やむを得ない、と同意した。これで、弓の柳田中将についで、二人目の師団長解職がおこなわれることになった。だが、牟田口軍司令官は、この時すでに三人目の烈の佐藤師団長の解職を考えていた。  牟田口軍司令官は、さらに、兵力増加を申しいれた。河辺方面軍司令官は、それに努力することを約束した。こうして、ふたりの軍司令官の間には、たがいにインパール作戦をやりぬく決意が確認された。  だが、戦後に発表された牟田口軍司令官の回想録には《この時、私は『もはや作戦断念の時機である』と、のどまで出かかったが、どうしても将軍に吐露することはできなかった》と書いている。また、河辺方面軍司令官も戦後に《ラングーンの司令部に帰った予の頭には、第一線での悲壮な牟田口中将の報告の裏に隠顕した、ある種の印象がこびりつき》と書いている。  両将とも、この時なお、自己の体面にのみこだわり、本心を吐露する勇気も明知もなかった。  六日夜、河辺中将はインダンジーの第十五軍の司令部を去るにあたって、いならぶ牟田口軍司令官と幕僚を前にして、八字ひげに威厳を見せながら、あいさつした。 「予はこの作戦の前途に十分の確信と安心をもって帰還することを喜ぶものである」  これに勇気を得た牟田口中将は、七日、弓、烈、祭の三兵団に、作戦遂行の電文を発した。  弓の田中少将は、電文に勇奮して全軍を督励した。そして井瀬支隊に対しては、第二回の攻撃命令を伝えた。それによれば、戦車連隊の戦車が渡河して、歩兵といっしょに英印軍陣地に突撃するという計画であった。  井瀬大佐は顔色を青くして、中村大尉に、たずねた。 「可動戦車は何車あるのか」 「中戦車が五車使えます」 「織尾の中隊をいれてか」 「織尾大尉の二車はきていません」 「なぜ、ここにおらんのだ。早く呼べ」  井瀬大佐はけわしくどなった。第三中隊長の織尾大尉は、ニントウコンに出るように、再三命じられたが出てこなかった。  織尾大尉は、戦闘の時には出ないでいたり、回避していることが多かった。今度も、先任中隊長として、当然、連隊本部にいなければならないのに、五キロメートルも後方の中隊の段列で生活していた。中隊長の権威で兵隊をおどかしては、第一線におくる糧食を勝手にくっている、とうわさをたてられていた。なぜ、後方にいるのか、といわれると、大きなことをいった。 「戦車が六車や七車しかいないような現在では、おれのような中隊長はもったいないんだ。おれのとこの淀川中尉ぐらいが中隊長でちょうどいい。おれはな、戦車がもっと追及してきて、数が多くなったら、中隊長として指揮をとってやる」  織尾大尉がきらわれ者であるのを、井瀬大佐も知っていた。中村大尉は、井瀬大佐が戦車連隊の将校に不信感を持ちつづけているのは、やむを得ないと思っていた。  当番兵がきて、将校が申告にきたことを伝えた。若い見習士官がはいってきて、戦車連隊を追及して到着したことを、声を大きくして申告した。兵庫県赤穂郡上郡《かみごおり》町出身の河本正義見習士官であった。河本見習士官は第三中隊の砲手で、ウィトウ、タム、モレーの戦闘に参加、テンノパール攻撃中にマラリアのために発熱して歩けなくなり、耳も聴こえなくなったので、後方にさがっていた。  所属部隊を追及するのは当然のことであるが、このころは、追及の途中でもぐってしまったり、勝手にさがったりしてしまう将兵が多くなっていた。そうした時期に、織尾大尉の部下であった若い見習士官が追及してきたので、井瀬大佐はそれまでの不快な色を喜びに変えた。 「よくきた。ご苦労。貴様はいいとこへきた。大いに働いてくれ」  それから中村大尉に向って命じた。 「井瀬支隊の総攻撃をやる。戦車を全部出動さす。井瀬が戦車を温存しているなどといわせんように、目にもの見せてやれ」 2  攻撃の前日、六月十一日。弓師団の作戦参謀堀場中佐が、南ニントウコンの井瀬支隊本部にきた。林のなかに設けた天幕の下に腰をおろすと、 「準備はできたか」  と、ふきげんそうにいった。堀場参謀は曹長を一名つれただけで、サドにある師団の戦闘司令所から、山をおりてきた。堀場参謀が井瀬支隊の作戦指導にニントウコンにきたのは、この日が最初であった。しかし戦車第十四連隊にきたのは、これが二度目であった。  インパール作戦のはじまる前に、戦車連隊は中部ビルマの、シュウェボに近いチバ部落に前進していた。その時、堀場参謀が作戦の打合せにきた。  その時の連隊長の上田中佐は、連隊の将校の全員を招集した。上田中佐は軍服の胸に、とくに金鵄勲章をつけて、堀場参謀の横に立った。連隊の将校は、その前に整列し、堀場参謀の前に進み出て敬礼し、階級氏名を名のった。  このような儀式は、伺候式と呼ばれ、新任の部隊長が最初の巡視にきた時におこなうことであった。それを師団の参謀に対してするのは、異例にすぎていた。  まして、上田連隊長と堀場参謀は同じ中佐の階級であった。それなのに、上田中佐は、将官を迎えるかのように、うやうやしく侍立していた。そうまでして、師団参謀の意を迎えようとしたのは、陸軍士官学校出でない上田中佐の卑屈のためであった。しかし、そうさせるほど、参謀の一部には、権力を思いのままにしている者がすくなくなかった。  上田中佐が、戦車連隊の将兵から信望を失ったのは、この時のことが、大きな原因となった。さらにまた、将兵から軽侮されるようになったのは、インパール作戦がはじまってから、ウィトウの戦闘で逃げだして、精神錯乱をおこしたためであった。  井瀬大佐は、堀場参謀を迎えても、さすがに、あわてた行動をしなかった。むしろ堀場参謀が今になってきたことに、不満をもっていた。なぜ、支隊の第一回の攻撃の前にこなかったのか。井瀬大佐は、その不満を中村大尉と語り合ったことがあった。  井瀬支隊の全力をあげた、六月六日、七日の攻撃は、堀場参謀の計画と指導によるものだった。中村大尉の考えでは、北ニントウコンを攻撃すると同時に、その、すぐ北のアワンクノーの英印軍陣地を、側面から攻撃する方が確実であった。  だが、堀場参謀は承知しないで、アワンクノーより、さらに三つ先の部落のポッサンバンの英印軍陣地を攻撃させた。中村大尉は、堀場参謀の計画は“大隊”という名目だけを見ていて、実情を無視している、と思った。一個大隊の八百名の定数がないまでも、その半数でもあれば、堀場参謀の計画は可能とも思われた。しかし、大隊と称しても、百名にもたりない兵力では見込みがないというと、激しくどなられた。 「わが軍が銃剣をもって突っ込めば、敵はひとたまりもなく逃げだす。インパールの前線は、どこでも少数で戦っている。きさまは戦車隊の突撃精神を忘れたのか」  中村大尉は、なぜ堀場参謀が無理にポッサンバンを攻撃させるのか、と考えた。堀場参謀にとっては、ポッサンバンをとることよりも、そこまで進出したということが必要なのだ、と思った。北ニントウコンは、インパールから二十一マイル道標の付近であり、ポッサンバンは十九マイル道標に近い。ポッサンバンを攻撃することは、二マイルだけ、インパールに接近したことになる。  牟田口軍司令官は連日、激しい字句をならべた電文を発して、弓師団を督戦していた。師団がそれにこたえるには、すこしでも、インパールに接近しなければならなかった。そのためには、ごま化しの戦況をつくりあげておくことが必要なのだ。しかし、このような意図は、堀場参謀よりも、田中参謀長の臨機のたくらみと見られた。  岩崎大隊がポッサンバンに突入することになったのは、このためであった。突入して、生き残りが三十名たらずになっても、それは配属部隊の損害にすぎない。師団としては、《十九マイル地点に進出せり》と牟田口軍司令官に報告できたのだ。  そして今、第二回攻撃を督励するために、堀場参謀が山からおりてきたのも、井瀬支隊を少しでも“前進”させようとするためだ、と中村大尉は考えた。  師団通信隊の無線小隊長相沢少尉は、中村大尉の判断とは、かなり違った事情を知っていた。弓師団と牟田口軍司令官の間に取りかわされた電報などから、その内情がわかっていた。  河辺方面軍司令官に激励されて、勇気を新たにした牟田口軍司令官は、弓、烈、祭の三師団に対し、六月十日を期し一斉に総攻撃をすることを命じた。だが、どの師団もそれをやれるような状態ではなかったので、軍命令を黙殺してしまった。こうした傾向は、すでに五月中旬ごろに始まっていて、軍命令は実情を知らないものとして、まともに受け取らないようになっていた。軍命令だというと、師団の幕僚が読まないこともあった。  六月十日の総攻撃を実行しないというので、牟田口軍司令官は怒った。そして弓師団に対して、くり返し、総攻撃を命じてきた。弓の司令部では、井瀬支隊をだすことにした。その兵力が僅かしかないことも、また戦車が動ける状況でないことも、師団ではよく知っていた。こうした兵力で攻撃に出るとしたら、必ずしも夜襲でなくてもよい。白昼に出しても、たいした変りはない。それならば白昼攻撃にした方が、大きな戦闘をしたような印象を与えることもできる。こんなことから、白昼になるのを計算にいれて、戦車の出撃を計画した。  相沢少尉は、こうしたいきさつを知ると、また腹立たしく思うのだ。それは、この計画に、なんの成算もないからだ。それなのに、この攻撃をしようというのは、配属部隊を使って、軍命令に対してごま化しをおこなうからだ。軍隊が上の命令をごま化すようになったら終りである。こうした腐敗が、すでにはじまっていた。そのなかで死んで行く者は、全くの犠牲者だ、と相沢少尉は悲憤していた。  井瀬支隊の各隊長は本部に集って、第二回攻撃の打合せをした。  堀場参謀の示した攻撃計画によれば、攻撃開始時刻は午前五時であった。十五榴弾砲、野砲、歩兵砲、速射砲、擲弾筒など、一切の火力をあげて、午前五時に砲撃を開始して、十分間、射撃をつづける。その直後に歩兵の第一線が渡河する。工兵隊はニントウコン川に橋をかけて、戦車を渡す。十五榴と野砲は射程をのばして、敵の反撃を阻止する。戦車は第一線とともに突進する。  このような計画だけを聞けば、戦術教科書で教えるとおりであり、整然としている。だが、敗残の井瀬支隊にとっては、この計画は絵にかいた餅《もち》にもひとしかった。  中村大尉は、最も恐れていることを、堀場参謀に訴えた。 「砲撃につづいて戦車が前進する時には夜が明けています。明るいなかを、戦車が出て行けば、標的になって、撃たれに行くだけです。それよりは開始を十二時間おくらせて、薄暮攻撃にしていただきたいのです。歩兵としても、同じだと思います」  堀場参謀はふきげんそうにいった。 「モイランを攻撃したのは夜明けだったろう。モイランを一日でおとした時には、早朝から戦車も出た。払暁攻撃が、だめとはいえんよ」  中村大尉は外見はおとなしかったが、負けん気が強かった。 「参謀殿のお言葉でありますが、現在ここにいる中戦車は六車です。あとの戦車は、いつ出てくるか、わからんのです。この際、一車でも大事にしておかんといかんのです」 「わかってる。貴様、なまいきだぞ。貴様に戦車戦闘を教えたのはだれだ。いってみろ」 「はい。堀場参謀殿であります」  中村大尉は、くやしさをこらえながら答えた。中村大尉が千葉戦車学校の将校学生の時に、堀場中佐は教官であった。しかしニントウコンにきてからの堀場参謀は、戦車の用法を無視しているとしか思えなかった。堀場参謀だけでなく、師団長も参謀長も、戦車について、用法も特質もわきまえているとは思えなかった。  岩崎大隊の大隊長代理の有元中尉は、歩兵の立場から反対した。岩崎大隊の生き残り五十名たらずの兵力では、歯が立たないのは明らかであった。有元中尉は、六月六日の攻撃に、ポッサンバンで英印軍陣地のなかにいて、彼我の戦力の違いを見せつけられてきた。  ポッサンバンの戦闘のあとでは、二十名以下になった岩崎大隊の一般中隊であったが、その後、負傷者の復帰や、後方から追及してきた者があって、ようやく三十名ほどになったところである。  瀬古大隊の大隊長代理となった機関銃中隊長の白井勝弥中尉も、有元中尉と同じ意見をのべた。瀬古大隊は、兵力は一層すくなく、一般中隊が二十名たらず、機関銃中隊もその程度、歩兵砲が十名であった。野砲中隊長星子大尉も反対した。堀場参謀は野砲をニントウコンに前進させ、対戦車戦闘に使えと要求した。星子大尉は野砲が前に出ると、友軍の歩兵を撃つことになるし、対戦車戦闘をするには砲を暴露するから、撃たれるだけである、と反対した。堀場参謀は、あくまでも自説をかえず、星子大尉を“不忠者”とののしった。一本気な星子大尉は砲を前進させ、さし違えようと決意した。それにしても、やぶれかぶれの策に思えた。  堀場参謀は、さらに全員に向って反論した。 「お前たちは師団の全般の状況を知らんから、腰ぬけなことをいうのだ」  堀場参謀は弓第三十三師団の戦力を説明した。師団の直属部隊である第二百十四、作間《さくま》連隊と、第二百十五、笹原連隊とは、いま、ニントウコンの西側の山岳地帯をインパールに向っている。作間連隊は十日にわたってビシェンプールを攻撃して、ついに撃退された。そのため連隊の第一大隊は、三百八十名が十七名となり、第二大隊の五百四十名は三十七名となった。  このほかに、第三大隊が約二百名いるのは、田中大隊長が臆病で、戦闘を恐れて、故意に遅れて戦場に到着したためである。  笹原連隊にしても同様であった。すでに一カ月前に、大隊長ふたりが戦死した。五月十九日に戦死した第二大隊長中谷謙一少佐がひきいて行った兵力は、大隊の全員で五十八名であった。末木少佐の第三大隊は、それ以下の兵力であった。第一大隊はすでに前進の途中で、大隊長入江増彦中佐以下を失い、五十名たらずとなっている。それでもなお、この両連隊は三角山を中心とする英印軍陣地を攻撃している。  また田中少将は、第一戦に飛びだして直接指揮をとっている。これは『統率とは勝つことなり』という日ごろの信条を実行しているためでもある。しかし、最近の日記には、 《あと一週間、わが命、ながらえたしと、東天にいのる》  と書いている。これは誠心誠意をつくして勝とうとしている言葉である。  堀場参謀は、このように説明してから、中村大尉らをしかりつけた。 「師団の主力がこのような状態で、なおインパールに突進しようとしている。それなのに、お前らはなんだ。瀬古大隊は祭兵団の臆病部隊だから、よわねをはくのは当然かも知れん。岩崎大隊までが泣きごとをいうのでは兵《つわもの》兵団のつらよごしだぞ。戦車をもっている井瀬支隊は、弓兵団中の最大最強の部隊だ。すみやかに北ニントウコンを突破して、ビシェンプールを攻撃しろ」  中村大尉らはおどろいた。第三十三師団の戦力が、これほどにすくないとは思わなかった。それにしても、かつて戦車教官であった人が、戦車を犠牲にすることだけを考えていると思うと、中村大尉は、堀場参謀を、冷酷な男だと激しく憎んだ。  戦車連隊はむずかしい事態に直面した。今度の攻撃に戦車をだすのは、第一回の時とは違って困難なことが多かった。第一回の時、英印軍の方からどんな戦車が出てきたのかは、わからなかった。それでも、強力な戦車砲弾の飛ぶ音が聞こえた。  戦車連隊で恐れているのは、M4ゼネラル・シャーマン中戦車の出てくることである。独立工兵第四連隊がニントウコン、ポッサンバンに進出した時には、M4中戦車が来襲し、それを擱坐《かくざ》させたこともある。その後、井瀬支隊がニントウコンに進出してからは、この強力な戦車は姿を見せない。ほかの戦線に移動したのかも知れなかった。しかしM4中戦車が、むらがって出現すれば、ニントウコンの日本軍陣地は、ひとたまりもなく蹂躙《じゆうりん》されてしまう。M4中戦車の装備は七十五ミリ戦車砲、重機関銃四、装甲は前面で八十五ミリ、自重三十二トンといわれていた。これに対し、戦車連隊の九七式『チハ』中戦車は四十七ミリ戦車砲、重機二、装甲は前面で二十五ミリ、自重十四・八トンである。撃ち合いでは勝負にならなかった。  今度の攻撃では、M4中戦車が出てこなくても、夜が明ければ、インパールの飛行場から戦闘機が飛び出してくるのは明らかであった。英軍戦闘機の持つ四十ミリ機関砲弾は、すでにニントウコンで『チハ』車の装甲を貫通して破壊している。  そのなかへ、戦車連隊のだれが指揮して、だれが行けばよいのか。本部で井瀬大佐、中村大尉、材料廠長の小田大尉らが協議した。第三中隊の第一小隊長、松本敬市郎少尉も加わっていた。  今度の攻撃には、中戦車を出さなければならなかった。中戦車を持っているのは、第一、第二、第三の各中隊であった。このうち第一中隊は戦車がなくなっていた。また第二中隊は、中隊長であった中村大尉が本部に出たので、第一小隊長の高島少尉が中隊長代理になっている。だが第三中隊は、中隊長小隊長が健在だし、戦車も多くきている。  戦車の中隊は、中隊長を中心として戦闘をするように訓練されていた。ところが、中隊長の織尾大尉は問題が多いので、信頼して戦闘をまかせることはできない。それならば、小隊長に指揮をさせるか。さもなければ、まとめて集成中隊とするか、ということになる。  材料廠長の小田大尉は、織尾大尉のことを気づかっていた。ふたりは陸軍士官学校五十四期の同期生であった。小田大尉も織尾大尉の悪評は知っていた。井瀬大佐に呼びつけられて、ニントウコンに出てきてからも、特に離れた場所にかくれて、部下をも寄せつけないでいた。部下が出入すると、飛行機に見つかって、爆撃されるからということであった。  ニントウコンの陣地では、糧食が乏しくなった。織尾大尉は当番兵の糧食をとりあげてくった。当番兵は一日に、握り飯一個をもらうか、もらえないような状態だった。それをとりあげられると、くう物がなかった。当番兵がその苦境を訴えると、織尾大尉は、丸い目を一層大きくして、 「将校に物をくわせん当番があるか」  と、なぐりつけてまで、とりあげた。  インパール作戦がはじまった当初、戦車連隊がウィトウで英軍のM3戦車隊と戦闘した時、まっさきに逃げだしたのが、織尾大尉の中隊長車であった。  当時の連隊長上田中佐が怒って、織尾大尉を謹慎処分にした。織尾大尉は、それをよいことにして後方にさがってしまった。  戦車連隊がテンノパールの山道で戦闘した時には、織尾大尉は足を負傷して、つえをついて歩いていた。背が低いので、軍刀をひきずるようにしていた。ところが、突然、砲撃をうけると、つえを投げ捨てて、壕に走りこんだ。そのあとで、兵に命じた。 「つえがないと歩けんから、つえをさがして持ってこい」  織尾大尉の走ったのを見ている兵は大いに腹をたてた。このようなことから、織尾大尉はきらわれ者になっていた。  井瀬大佐が、ことに許せないと思うのは織尾大尉が陸軍士官学校の五十四期生であり、戦車連隊の幹部将校であることだ。  このような織尾大尉だから、今度のような危険の多い戦闘に、真剣に行動するかどうかは、信用ができなかった。中村大尉は松本少尉に第三中隊を指揮させてもよいと思い、それを井瀬大佐に計った。ところが、松本少尉が辞退した。 「自分は死ぬ覚悟でいますから、戦闘には出ますが、中隊を指揮するだけの自信はありません。それよりは小田大尉殿にお願いします」  小田大尉は中尉当時、第二中隊の第二小隊長として、マレー半島の快速進撃をしたことがあった。その時、中村大尉は同じく中尉で第一小隊長であった。小田大尉は戦闘経験も十分だから、中隊の指揮をまかせるには適任であった。中村大尉もそのつもりになった。 「よし。松本少尉、織尾大尉を呼んできてくれ。話をしてみよう」  小田大尉がさえぎった。 「小田が行ってきます。織尾には織尾の考えがあって、やっていることもありましょう。小田がよく話をして、織尾にやらせるようにします。それでも、どうしてもだめな場合は、小田が中隊長になります」  小田大尉は本部の壕を出て行った。  井瀬支隊と戦車連隊の本部は、はじめは北ニントウコンの南のはずれにあった。そこが危険になって、南ニントウコンに移った。南ニントウコンは不規則にひろがった台地の上にあった。南北の長径は約三百メートル、東西の長径は約二百五十メートルであった。本部はその東北部の竹やぶのなかにあった。第三中隊は南ニントウコンの南のはずれにあった。そこに行くのに、距離は短いが、昼間は英印軍に見つかると狙撃されるし、飛行機に銃撃されることもあった。小田大尉は、その危険地帯をぬけて、第三中隊本部に行った。こまめな人であったし、また、織尾大尉の気持を聞いてやろうとする、同級生の友情からでもあった。  織尾大尉は木の下で寝ていた。 「マラリアの熱が出てなあ。三十八度以上ある」  小田大尉が織尾大尉の額《ひたい》にさわると、かなり熱かった。小田大尉は状況を話して、明日の攻撃に出て、先任中隊長としての責任を果すように説得した。 「それとも、出られないというのなら、おれが代って中隊長になって出る」 「いや、おれが出る」  織尾大尉が承知したので、小田大尉は本部に帰って報告した。本部では、織尾大尉のほか、出撃できる三輛をえらび、戦車の攻撃計画をきめた。しかし、何よりの障害が予想されていた。それは、ニントウコン川に戦車を渡せるほどの橋をかけられる見込みがないことであった。 3  重砲が六発を撃ち終ると、それを合図に歩兵と戦車が前進することになっていた。昭和十九年六月十二日、井瀬支隊の第二回の攻撃の朝である。  岩崎大隊の大隊長代理、有元中尉は北ニントウコンに近い竹やぶのなかにいた。近くには、部下の歩兵がそれぞれに壕のなかで待機していた。機関銃中隊は少し離れた所にいた。  有元中尉は、夜明け前に起きて、ながい間、用便のためにしゃがんでいた。インパール盆地にきてから、下痢が激しくなった。アメーバ赤痢であった。雨季にはいって、雨が多くなってから、前線の将兵のほとんどが下痢とマラリアの発熱に苦しめられていた。食糧が欠乏して、野草をたべたり、泥水を飲んだりするためであった。昼の間は、雨水のたまった壕のなかにひそんでいなければならなかった。砲爆撃が長くつづくと、壕のなかで用をたすほかはなかった。兵隊は部落のなかの流れを使って汚物の処理をした。炊事は、敵の目をさけるために、夜の間しかできないので、その流れの水を使った。  有元中尉は、攻撃の途中で、腹痛や下痢をおこして、見苦しいことになってはならないと思った。きょうこそは英印軍のインパールの前衛陣地、北ニントウコンに突入して、二十五歳の生涯を終るのだ、と思った。  歩兵は約七十名いた。そのうちの二十名は泥にまみれ、服は裂けていた。ポッサンバン攻撃の生き残りの兵であった。他の五十名は、それほどよごれてはいなかった。追及した第六中隊の残りであった。中隊長代理には小林武男曹長がなっていた。  第二分隊長の牧野正夫伍長は、壕から頭をだして、あたりの状況を見た。第六中隊は南道の西側におり、敵陣地まで約百メートルと見えた。ビルマにきて以来、最初の戦闘である。牧野伍長は顔色の変るほど、緊張していた。霧のような雨が、ほおをつめたくぬらしていた。  午前五時。野戦重砲第十八連隊が第一弾を放った。つづいて、野砲の星子中隊が撃ちだした。瀬古大隊の井軍曹の指揮する一門の歩兵砲も、三百五十メートルの射程距離で砲撃を開始した。北ニントウコンの台地にある、英印軍陣地の斜面には、電気溶接の火花のように、砲弾が爆発した。  支援射撃の十分間は、たちまちにして過ぎた。南ニントウコンの木立の間にごうごうとエンジンの音がわきあがった。木のしげみのなかから、鉄のかたまりが走りだした。九七式中戦車である。部落のやわらかな土は、戦車の十五トンの重量におされてくぼみ、車体は動揺した。  砲塔に半身をあらわして、車長が進行方向を見ていた。先頭の小隊長車の車長は内山茂登少尉であった。材料廠の将校で、戦闘に参加するのはこの日が最初であった。前夜の打合せで、小隊長として先頭を行くときまった時、内山少尉は死を覚悟した。先頭は必ず撃たれるからであった。  第二車、第三車が走って行った。井瀬大佐と堀場参謀は、南道の近くに立って、戦車を見送っていた。中村大尉も見ていたが、前進するはずの第一車が出ないことに気がついた。第三中隊長の織尾大尉の戦車である。材料廠長の小田大尉も、それに気がついていた。前日、織尾大尉を説得に行っただけに、いうべき言葉がなかった。 「しまった。また、織尾のやつ!」  中村大尉は河本見習士官を呼んだ。ニントウコンに追及してきたばかりの河本見習士官は、きびきびとした動作で、走ってきた。 「織尾大尉の戦車が出ないぞ。早く出ろ、といってこい」  河本見習士官は身がるに走って行った。  中村大尉は、織尾大尉などはいない方がよいとさえ思っていた。織尾大尉の部下の小隊長の、松本少尉も、 「あんな中隊長はいらん。おったら戦闘のじゃまになる」  と、憤慨したほどであった。  今度の攻撃でも、中村大尉が計画を伝える時、とくに、説明した。 「この地帯に戦車が動けば、どこで陥没するかわからん。しかし、動けるだけ動け。行ける所まで行け。戦車は、このような湿地帯では使えないし、また、使ってはならないことを、師団に見せてやるのだ。戦車を知らん師団長や参謀には、それ以外にわからせる方法はない」  この程度の行動なら、織尾大尉も出て行くだろう、と中村大尉は考えた。また、この機会に、織尾大尉が最善をつくして戦闘行動に出たら、卑怯者の汚名を返上することもできるのだ。それなのに、織尾大尉の戦車は動くけはいがないのだ。 「これが陸軍士官学校の五十四期か」  中村大尉は飛んで行って、なぐり倒したいほど、怒りにかられた。  河本見習士官が走って、もどってきた。 「織尾大尉殿の戦車は、泥にうまって動けないので、足場を補修して、いそいで出るといっております」  中村大尉は、はき捨てるようにいった。 「臆病者は、どこまでも、だめだな」 『チハ』中戦車三輛は、南道を北進した。低速にしてエンジンとキャタピラの音を弱くしていた。それでも一キロメートルと離れていない英印軍陣地には、明らかに聞こえているはずだ。先頭車の砲塔には、天蓋《てんがい》をあけて車長の内山少尉が上半身をあらわしていた。操縦手は二中隊の富田照男軍曹だった。  内山少尉はニントウコン川の岸に出れば英軍の対戦車砲に撃たれる、と覚悟をきめていた。南部落を出ると、南道は、湿地帯の上に、堤のように、ただひと筋につづいていた。先頭車としては、それを行くよりほかに道はなかった。  第二車は、二十メートルほどおくれて、つづいていた。車長は三輪操慶少尉、操縦手は広渡軍曹であった。  第三車の操縦手、日比野正美軍曹は日華事変以来、戦車戦闘を経験してきた。太平洋戦争になってからは、マレー作戦の時にゴム林の一本道を突進して、戦闘した。だが、いま目の前の状況は、その時と条件が違っているのを見ぬいていた。川岸に頭をだせば、撃たれるだけだ。  車長の松本曹長は、材料廠から移ってきて、古参というだけで車長になった。戦車の戦闘は経験がなかった。それだけに興奮していた。口ひげをたくわえた、威勢のよい下士官だから、しきりに操縦席の日比野軍曹の背中を、くつで蹴りつけた。これは“進め”ということだった。戦車内では、車長は指揮台に立ち、操縦手はその前方に腰かけている。車長の足は操縦手の背中にあたる位置である。  瀬古大隊の陣地の後方に、戦車を三輛いれられるぐらいのくぼ地があった。南道の東側二十メートルほどの所である。そこが戦車の出発位置になっていた。  内山車、三輪車、松本車は、一度、そこに集った。すぐに内山車が動きだした。川までは二百メートルもなかった。敵陣は目の前である。  松本曹長は、しきりに日比野軍曹を蹴ったが、日比野軍曹は直進してはならないと考えていた。  日本軍の各種の火砲が一斉に撃ちだしたので、英印軍陣地からも砲撃してきた。  工兵は土手に伏せていた。工兵は、それぞれに石油かんをかかえていた。なかには黄色火薬をつめてあった。英軍戦車を爆破するために作ったものであった。  岩崎大隊の歩兵は戦車攻撃用として、九九式破甲爆雷、火炎放射器などを僅かずつ持っていた。また、ニントウコンにきてから、『ちび』と呼ぶ毒ガス弾が配給された。ガラスびんに青酸をつめたもので、英軍戦車の展望口に投げこんで、乗組員を殺そうとするものであった。だが、兵には戦意がなくなっていた。ことにポッサンバンの生き残りは、七日の夜襲以来、気力も体力も失っていた。前進を命ぜられても、動こうとしなかった。  有元中尉が前進の機を覘《うかが》っていると、戦車の音が響いた。 「友軍戦車が出てきたぞ」  有元中尉は兵を励まそうとして叫んだ。頭上の空気を切り裂いて、黄色いような、また、赤くも見える光の玉が、火線をひいて、鋭い音をたてて飛んだ。それが先頭の『チハ』車に命中すると、瞬間に火のかたまりに変った。戦車の鉄甲は、見る見るうちに、赤黒い炎に包まれて燃えた。バズーカ砲弾であった。  第二車は撃つひまもなく、そのまま土手の下に沈みかけた。その砲塔に火の玉が飛び散った。砲塔はかくれた。  有元中尉は、戦車の乗員は脱出する余裕はなかった、と思った。戦車がこの状態では、歩兵は突撃しても、むだに死ぬばかりだった。有元中尉は兵とともに動かないでいた。  銃砲弾は激しく飛んだ。英印軍陣地からは重迫撃砲、速射砲、野砲を連射しつづけた。ニントウコン一帯の空気も大地も、煮え立つ湯のようにわき返った。  車長の松本曹長は日比野軍曹の背中を蹴りつづけて『前進』を命じた。日比野軍曹は戦車連隊では古参の操縦手だから、松本曹長が車長でも、腹のなかでは相手にしていなかった。 「前に出たら、やられるがな」  戦車をどこへ向けようかと考えた時、先頭の内山少尉の小隊長車が火をふいた。つづいて、三輪少尉の第二車が砲塔を吹き飛ばされて動かなくなった。日比野軍曹は操縦桿を左に傾けた。南道の西側に茂っている竹やぶのなかに逃げこむつもりだった。  日比野軍曹はアクセルを踏んで速度をあげた。戦車は大きく傾き、南道をそれて湿地帯にはいった。戦車は水しぶきをあげて、しばらく進んだ。竹やぶまでは、まだ距離があった。戦車は急に傾いて、進まなくなった。湿地のなかに陥没してしまった。  松本曹長につづいて、日比野軍曹が車外に飛びだして調べた。戦車は、かなり深く埋まって、前進も後退もできなかった。  三輪車の操縦手広渡軍曹は一たん外に出たが、また、なかにはいった。そして拳銃で自決した。戦車と運命をともにしたのだ。  まもなく、北の方に飛行機の爆音が響いた。インパールの飛行場を出発した英軍の戦闘機スピットファイヤ六機が、ニントウコンの上空に達した。 「あぶない。逃げろ」  松本曹長、日比野軍曹、重田上等兵らは戦車を離れて夢中で竹やぶに走った。スピットファイヤは次々に翼をひるがえして、急降下して爆弾をたたきつけた。松本曹長車は爆煙に包まれて四散した。もはや、英軍のなすがままであった。  飛行機が飛び去ると、英軍の戦車が数輛、対岸に出てきた。M3戦車である。  有元中尉は土にしがみつきながら、堀場参謀の言葉を思い浮かべた。堀場参謀はいった。 「今度はわが軍の持っている総ての火砲を支援させる。戦車も出す。敵は火力をたのみにしているだけだ。歩兵、戦車が一体となって飛びこめば、こっちのものだ。それには白昼の攻撃の方が効果がある」  いま、堀場参謀の計画の通り、井瀬大佐の指揮する歩兵と戦車が攻撃に出た。戦況は堀場参謀の計画通りに展開した。だが、その状況は二十分ぐらいしかつづかなかった。白昼攻撃が失敗に終ろうとしているのは、目に見えていた。  このころ、南ニントウコンの林のなかで、星子中隊の野砲が射撃をはじめた。姿をあらわした英軍の先頭戦車の横腹に火花が散った。M3戦車は道路わきに傾いた。  すぐさま、英印軍の砲撃が野砲陣地に集中した。その爆煙が消えたあとには、野砲はなかった。砲の残体とともに、小隊長、砲側砲手らが散乱して死んでいた。 4  井瀬大佐と堀場参謀は、南ニントウコンの北のはずれにいた。激しい砲撃を身辺にあびて、井瀬大佐は、この日の白昼攻撃が全く失敗に終ったのを知った。  黒煙が二カ所からたかだかとあがって、波のように流れる低い雨雲に達していた。『チハ』中戦車の炎上する煙であった。  井瀬大佐の顔はけわしく、動作はおちつかなかった。急に河本見習士官を呼んだ。 「見習士官、手榴弾を持ってこい」  河本見習士官は、それが異常な命令とも思わず、支隊本部に走った。この戦場に、意気ごんで追及してきた河本見習士官は、大佐のような上級者の命令をうけることを誇りにしていた。  河本見習士官が弾薬箱を二つ、かついで帰ってくると、井瀬大佐は待ちかねて、 「将校も兵隊も、ひとり二個ずつ配れ」  と、命じた。河本見習士官が走りだそうとすると、井瀬大佐はさらに命じた。 「将校には軍刀の油を拭え、といえ」  河本見習士官は、井瀬大佐が斬込みの覚悟をしたと感じた。河本見習士官が弾薬箱をかつごうとしていると、井瀬大佐は急に走りだした。中村大尉もいそいで、そのあとにつづいた。堀場参謀も歩きだしたが、脚気のために早く歩けなかった。  井瀬大佐は小高い所にかけあがると、軍刀を抜き放って、大声で叫んだ。 「井瀬支隊は今から英印軍陣地に斬込みをやるぞ。全員はわれにつづけ。井瀬支隊は名誉の玉砕をするのだ」  中村大尉はおどろいて立ちふさがった。 「連隊長殿、待ってください」 「ぐずぐずするな。貴様、わしをとめるのか。命令にそむくつもりか」  井瀬大佐は中村大尉を突き飛ばした。目が異様に光っていた。中村大尉は危険なものを感じた。抜き放った軍刀をふりまわされたらあぶないと思った。堀場参謀がかけよってきて抱きとめた。 「連隊長殿、斬込みだけは思いとどまってください。戦車連隊の作戦状況は堀場が十分知っています。閣下によく伝えますから、とにかく、斬込みはやめてください」 「とめるな。このままでいられるか。連隊長は騎兵の本領を発揮して斬込みをやるのだ」  井瀬大佐は陸軍士官学校二十七期の騎兵出身であった。戦車第十四連隊長になったものの、戦車用兵の実地は知らなかった。戦車に乗ったことのない井瀬大佐は騎兵らしく、突撃して死のうと考えたのだ。井瀬大佐は狂気のようになって、身をもがいてあばれた。  堀場参謀は振り飛ばされて、よろめいて倒れた。すぐ起きなおって、井瀬大佐の腰のあたりにしがみついた。ずるずると引きずられながら、必死に叫んだ。 「連隊長殿、やめてください。連隊長殿が突撃するには早すぎます」  中村大尉と堀場参謀は、井瀬大佐を押し倒すようにして、土手の下に引きいれた。  英印軍の砲撃は、ますます激しくなった。南ニントウコンは、片端から、砲弾のために掘り返された。井瀬支隊本部のまわりでも、負傷した者の叫び声や苦痛の声がそこここに聞こえた。大地は地震のように動揺し、耳が痛くなるほどの爆発音が響きつづけた。この時、一時間に一千発の砲弾が集中した。その上、戦闘機爆撃機二十数機が来襲して爆撃した。  盆地西側の山の上で、師団長心得の田中少将はぼう然として、これを眺めていた。田中少将は《付近の風景は一変し、爆撃の物凄さのために山形改まり、硝煙土砂を巻き上げて天日も暗くなるのを感じた》という。ただし、空には雨雲が厚くとざし、太陽のありかさえわからなかった。  井瀬大佐は壕のなかに押しこまれ、放心したようにすわりこんでいた。  この間にも、北ニントウコンの英印軍陣地には、上半身を裸にしたインド兵やグルカ兵が歩きまわっていた。雨のやみまにぬれた上着をかわかしているらしかった。その情景は、日本軍の戦車も歩兵も、無力にもニントウコン川を渡ることができなかったことを、明らかにしていた。  岩崎大隊は砲爆撃のために死傷続出し、歩兵十六名、機関銃中隊二十二名が生き残るだけで、もはや戦闘することはできなかった。第六中隊の新来の五十名は、五、六名になってしまった。到着したばかりで何もわからず、下士官の指揮で、歩兵操典に教えられた通りに、前に飛び出して全滅した。同じ大隊なら、もっと血のかよった指揮ができなかったかと、牧野伍長は嘆いた。  岩崎大隊の大隊長代理有元中尉は、死体と死体の間に身をひそめていた。砲声のあいまに、有元中尉は奇妙な音を聞いた。クックックッという、ぶきみな音であった。何かの生き物が笑っているような声であった。それが、インパール盆地にいる虫だと気づいたが、ぞっとするほど不気味に感じた。死臭のただようなかで聞くと、死者の声のように思われた。  突然、歌う声が聞こえた。今しがたまで苦痛の叫びをあげ、死体のように横たわっていた鳥山《とりやま》兵長であった。    さようならよのひと言は、    男なりゃこそ強くいう  腹部を撃たれて、苦しさのあまり、頭が異常になってきたのだ。  北ニントウコンの激しい砲爆撃のために、井瀬支隊と弓師団の司令部を結ぶ電話線が寸断された。ニントウコンの南三キロメートルの小部落には、師団の通信隊の分隊が出ていた。隊長の相沢少尉は破壊された電話線を補修するために、部下の兵二名をつれてニントウコンに向った。  しばらく降りやんでいた雨は、また激しく降りかかった。相沢少尉らは食糧がなくて、雑草をゆでてたべたのが、その日のただ一度の食事であった。雨にうたれ、湿地のなかを歩いて行くと、足がふらついて苦しかった。  南道に出ると、強い雨のしぶきが、霧のように立ちこめていた。北の方に人影が見えてきた。  相沢少尉は兵に命じ、すばやく南道から低地に飛びおりた。敵か、と思った。胸の鼓動が早くなった。人影はふたりであり、こちらに歩いてくるのが、ただ黒く、かすんで見えた。相沢少尉らの武器といえば、ふたりの兵が三八式歩兵銃を持っているだけであった。それを、いつでも撃てるように南道に向け、水づかりになって呼吸をこらした。  黒い人影は近づいてきた。雨しぶきが激しくて、敵味方がわからなかった。相沢少尉は大声で誰何《すいか》した。 「だれか」  人影はぎくりとしたらしく立ち止り、ひとりがこたえた。 「弓の堀場参謀殿だ」  相沢少尉は、ほっとしながら、南道上にかけ上って敬礼し、職務氏名を名乗ると、 「どこへ行くのか」 「井瀬支隊本部に行き、電話線の補修をします」 「本部へ行ったら、井瀬大佐殿に伝言をしてくれ。攻撃は失敗し、堀場参謀は用がないから師団司令部に帰った、といえ」  堀場参謀は横柄にいい捨てて、曹長をつれて、南道を遠ざかって行った。相沢少尉には、ふたりが足早にいそいでいるように見えた。  相沢少尉は不審なものを感じた。派遣参謀が帰ったことを伝言させるのは、井瀬支隊長に無断で引揚げたに違いない。また、攻撃が失敗に終ったにしても、まだ戦闘のつづいている状況のなかで、派遣参謀が帰ってしまうのも納得がいかなかった。  相沢少尉は南ニントウコンにきておどろいた。東西二百五十メートル、南北三百メートルほどの、せまい台地状の部落には、砲弾の爆発した大きな穴がいたるところにあった。そのあたりは、ふきあげた土がぬかるみ、田をすきかえしたようになっていた。ニントウコンの情景は、一日にして、全く違った場所のように変っていた。それほど、この朝の砲爆撃は激しかったのだ。  部落の中央の竹やぶも、砲弾のために葉を吹き飛ばされて、幹だけになっていた。そのなかに、粗末な小屋があった。砲爆撃に追われて、井瀬支隊本部はそこにはいっていた。  井瀬大佐はやつれて、疲れた顔をしていた。二週間前に、モイラン付近で着任した時の、すこしも汚れのない新しい軍服は泥にまみれていた。雨のために、肌寒くなっていたので、クレバの将校マントを肩にかけていた。しかし、ほかの将校の服は、それと比較にならないほど、ボロボロに破れ、泥や血に汚れ、悪臭をはなち、シラミがいっぱいたかっていた。  相沢少尉が、堀場参謀の伝言を伝えると、井瀬大佐は顔色を変えた。 「なに、堀場が帰ってしまったと。だまって帰るとは、なんという無礼だ。あいつ、砲爆撃が激しくなったので、こわくなって帰ったのだろう。卑怯なやつだ」  いつもは温厚な井瀬大佐が、口をきわめて、ののしった。  中村大尉は怒るよりも、もっと痛烈な感情にかりたてられた。それは、弓師団が井瀬支隊に参謀を派遣するならば、ニントウコンの最初の戦闘の時に出すべきであったということだ。それを、井瀬支隊が戦力を喪失した時になり、しかも白昼攻撃を強行させるために派遣した。これは、井瀬支隊が配属部隊なので、師団では冷遇し、攻撃が失敗すれば、見捨ててしまうやり方なのだ。どこの部隊にもある、軍隊の利己主義であった。それを思った時、中村大尉は、井瀬支隊のおかれた立場をはっきり感じた。井瀬支隊は、弓師団にとっては、おとり部隊なのだ。そして最後には、インパール盆地に残置すべき犠牲部隊にすぎないのだ。  中村大尉は、昨夜の堀場参謀のことを思いだした。白昼攻撃の打合せの時、堀場参謀は紙巻たばこを吸っていた。  第一線部隊には、たばこは全くない時だから、将兵は紙巻の“白い”たばこに飢えきっていた。指揮官たちは秘蔵した、かびのはえた“白い”たばこを、突撃の前に兵に分け与えたりした。  中村大尉もたばこに飢えていたから、堀場参謀の“白い”たばこにたえられない思いだった。派遣参謀としてきたのなら、一本ずつでも分けるのが普通だった。それなのに堀場参謀は全く無関心に、ひとりでふかしつづけた。  中村大尉は、兵のまいてくれた雑草のたばこを、わざと吸ってみせた。それでも堀場参謀は気がつかない顔だった。中村大尉は吸い残しでもいいから、ほしかった。ところが、堀場参謀は吸い残しのたばこを、惜しげもなく泥水のなかに捨てては、また、新しいたばこに火をつけた。  中村大尉は堀場参謀を、兵隊の気持を知らない人だと思った。そして、その冷たさに、激しい憎しみを感じた。  堀場参謀は盆地の西側の山のなかの、弓師団の司令部に帰った。自分の幕舎にもどると、当番兵の岩根上等兵を呼んだ。  堀場参謀は自分だけの食糧として、かん詰を持っていた。それを袋にいれて、自分でしまいこんでいた。一般の将兵は食糧がなくて、草の葉まであさっていたが、師団の参謀など高級将校には、かん詰が配給されていた。堀場参謀はたべる時には、一個ずつとりだして、岩根上等兵にあけさせていた。そして、数をかぞえておいた。堀場参謀は岩根上等兵をどなりつけた。 「かん詰が一個たりんぞ。おれのいない間に貴様がくったのだろう」  岩根上等兵は宮城県の農家の出で、愚直といえるほどの正直者だった。すでに、再三、同じ疑いをかけられているので、かん詰については神経を使い、こまかに記憶していた。堀場参謀がいつ、かん詰をあけたかを正確に申し立てた。だが、堀場参謀はきかなかった。 「おれは数をかぞえておいた。おれをごま化す気か」  堀場参謀は岩根上等兵をなぐりつけた。岩根上等兵は忠実なだけに、むきになって堀場参謀の考え違いを正した。堀場参謀はますます激して、岩根上等兵をさんざんになぐった。それでもおさまらなくて、岩根上等兵を足蹴にして倒し、くつで踏みにじった。  岩根上等兵は泥と血にまみれた。堀場参謀が去ったあとはくやし泣きに泣いた。  堀場参謀は当番兵ばかりでなく、参謀部付の兵に対しても、日ごとに暴力をふるい、それが日ましに激しくなった。司令部の将兵の間では、堀場参謀は気が狂っているのではないか、とうわさがひろまって行った。 死 守 命 令 1 《井瀬支隊は現在地を死守し、敵英印軍の南下を阻止すべし》  六月十二日の攻撃が失敗に終ったあと、弓師団司令部は井瀬大佐に新しい命令を伝えた。死守とは、全員が戦死するまで防戦をつづけることであった。  弓師団では、ニントウコンを戦術上の要点と見ていた。ニントウコンの北六キロメートルのビシェンプールには、第二十インド師団の第三十二旅団の司令部があった。これがインパールの本防御線の中心であった。弓師団の主力部隊、作間連隊と笹原連隊は、五月十九日から十日間、総攻撃をつづけて撃退された。このために弓師団の戦力のほとんどが失われてしまった。このころ、師団の死傷者は約七千名、戦病者約五千名、合計一万二千名以上に達した。これは師団の作戦参加人員の七割に相当する消耗であった。  弓師団がビシェンプールに出られなくなると、英印軍がそこから南下することが予想された。井瀬支隊が阻止しないと、英印軍は南道を突進して、かのトルブン隘路口に進出する。もし、そうなれば、インパール盆地西方の山岳地帯にはいっている弓第三十三師団の主力は、退路をたたれ、山中で自滅しなければならない。堀場参謀も、 「井瀬支隊がニントウコンにいるのは、扇のかなめにひとしい重要な位置にある」  と、激励してきた。師団が死守を命じてきたのは、表面は意気さかんであるようにも見えた。しかし実情は、井瀬支隊が攻撃に出る力のなくなったことを、認めたにすぎないことであった。  井瀬大佐は、中村大尉にニントウコン守備要領を立案させた。  中村大尉の計画では、ニントウコン川の南に、インパール南道を中にして、東に瀬古大隊、西に岩崎大隊の各生き残りをおき、五百メートルさがった南部落に戦車連隊の各中隊を配置した。  この防備陣地は南北一キロ、東西五百メートルの範囲であった。  井瀬大佐はこの計画に反対した。兵力がほとんどなくなっている現在であるのに、歩兵と戦車はばらばらで、連合守備の効力を発揮し得ない。このように指摘してから、井瀬大佐は主張した。 「満州事変当時、少数部隊が敵の重囲におちいったが、隊長を中央にして、一丸となって長期にわたって守り抜いた例がある。中村の計画では、瀬古でも岩崎でも、一カ所の陣地が崩れたら、全部の連携がたもてなくなる。それよりは、歩兵と戦車を交互に配置し、本部を中央におき、守備範囲をせばめるべきである」  しかし、中村大尉は考えを変えなかった。十余年前の満州事変の戦例は、インパールの戦場では役に立たないことを反論した。中村大尉は日向《ひゆうが》なまりのある、ゆっくりとした話し方をした。宮崎県宮崎郡清武町の出身であった。 「自分は各隊がばらばらでもよいと思います。各隊が小さく一丸となって、小さな拠点を数多く配置すれば、一点が崩れても、かえって持久をつづけることができます。支隊が一丸となっていれば、敵の航空勢力が絶対優勢だから、爆撃をうけて一挙に崩壊する危険があります。満州事変当時の敵と違って、英印軍は歩兵だけでは前進してきませんから、広く分散した方が、かえって効果があります」  井瀬大佐は不快そうに顔をそむけた。右のあごにある大きなあざが、濃く見えた。中村大尉は臆せずに反論をつづけた。 「自分としては、支隊本部の位置は、前に出すぎていると思います。支隊長を中央にするよりも、支隊本部は二十三マイル地点にさげるべきだと思います。現在の位置では、連隊長殿と中隊長と変りがありません」  井瀬大佐は激しく、しかりつけた。 「ばかをいうな。戦車連隊は騎兵から改編された部隊だ。騎兵の連隊長は、常に陣頭に立って指揮をするのだ。わしは騎兵だ。最前線におるのが当然のことだ」  中村大尉は、井瀬大佐の考え方が、満州事変当時の騎兵の用兵を出ていないと思った。中村大尉が妥協案を申し出た。 「各拠点がばらばらにならないように、中村が責任をもって指揮連絡にあたります」  井瀬大佐は、にがりきった顔で、 「よし、中村にまかせる」  と、承諾を与えた。腹の中では、不服であるのが、露骨にあらわれていた。  こうして、ニントウコン死守の態勢はきまった。しかし、中村大尉は、この危急の第一線で、支隊長と本部付将校との気持がとけあわないでいることに、たえがたい思いが残った。  中村大尉ばかりでなかった。戦車連隊の将兵のなかには、新任の井瀬大佐と話をしたことがないばかりか、顔もよく知らないものもいた。まして、歩兵となると、支隊長がどこにいるのかも知らなかった。また歩兵同士でも、瀬古大隊と岩崎大隊とは、別個の師団、連隊からきたので、同じ第一線にいて、互いに、どこの兵隊かも知らないほどであった。  こんなことでは、井瀬大佐のいうように一丸となって戦うことも、心を一つにして死ぬこともできない。これも、配属された寄り合い部隊の悲しさだ、と中村大尉は気持のこだわりが消えなかった。  その夜、中村大尉は井瀬大佐と半壊の家のなかにいた。おびただしい蚊がむらがっていた。中村大尉は敵襲を警戒して、寝ないでいた。雨が降りだしてきた。その時まで眠っていた井瀬大佐が声をかけた。 「中村、なんのために手榴弾を二つも握っているんだ」 「はい。歩兵は三、四十しかいません。敵の一部は南岸にはいりこみ、二、三百メートルさきにいます。敵がいつくるかわかりません。きたら、一つは敵に投げ、一つは連隊長殿と自分とふたり爆死するためです」 「うーん、なかなか準備がよいのう」  井瀬大佐は感じ入ったようにいった。  雨が強くなり、ふたりが腰をおろしているあたりにも流れこんできた。しばらくして、井瀬大佐がいった。 「中村、貴様は五十三期だったな」 「はい、そうです」 「わしのせがれが五十六期におってな。澄丸《すみまる》という名だった」  いままでにない静かな口調だった。中村大尉は、井瀬大佐の息子が陸軍士官学校五十六期生であるのを、はじめて知った。それをいいだした井瀬大佐の言葉の調子で、戦死したのか、と思っていると、 「病気で、陸士を途中でやめてな」  と、いいかけて、口をつぐんだ。すこしして、ひとりごとのようにいった。 「わしが朝鮮にいる時に、死んだよ」  中村大尉は、井瀬大佐の胸中にあるものにふれたように思った。そして、この人となら、いっしょに死ねるかも知れない、と思いはじめた。井瀬大佐を戦車連隊長に迎えてから、半月あまりで、はじめて、うちとけた気持になった。  ニントウコン死守の命令をうけて、中村大尉が守備計画をたてると、それを追いかけるように、また、師団命令がきた。中村大尉は電話で、堀場参謀の伝える命令を聞いて、とっさに返事もできなかった。  その命令は、岩崎大隊をニントウコンから、西方の山岳地帯のカアイモールに移動させよ、というものであった。それは、ただ移動させるのではなく、岩崎大隊を井瀬支隊の指揮からはずして、笹原連隊の指揮下に移すことであった。  笹原連隊は弓の歩兵第二百十五連隊である。インパールに向って山岳地帯を進んだが、三角山付近の英印軍陣地に阻止されて、第一線の兵力は百名にもたりなくなっていた。そのために、井瀬支隊から岩崎大隊をぬいて、笹原連隊を増強して、英印軍陣地を攻撃、突破させるという。  計画だけを聞けば、整然とした考え方である。だが、この時の岩崎大隊の歩兵は、追及者を加えて八十名にみたない。火器は、歩兵砲一、重機関銃一、軽機関銃二、擲弾筒一で、あとは三八式歩兵銃だけである。  このような部隊を、笹原連隊に転属させようというのである。笹原連隊でさえ、たたきつぶされた、強大な英印軍の蜂の巣陣地に対し、どれだけの戦闘ができようか。  ニントウコンは弓師団の扇のかなめにひとしいと、堀場参謀はいう。そのために死守を命じながら、翌日には岩崎大隊を抜き出してしまう。これは、みずから、かなめをはずすことだ。重傷者から片腕をもぎとるようなものだ。結局、配属部隊は勝手に使われ、犠牲にされるだけだ。  中村大尉は悲憤した。弓の師団長である田中少将も、“鉄ちゃん”といわれる豪傑型の参謀長田中鉄次郎大佐も、そして堀場作戦参謀も、何を考えて、このような作戦をしているのか。まさに支離滅裂というほかはなかった。岩崎大隊が去れば、残る歩兵部隊は、瀬古大隊の歩兵二十名たらずと、機関銃小隊の若干と井軍曹の歩兵砲一門である。また、かんじんの戦車が前進できないことは、十二日の攻撃で明らかであった。それは英印軍の火力が強大であるばかりではない。連日の豪雨のために、部落内は泥沼と化し、戦車の行動はますます困難になっていた。  英印軍は三千以上と見られる歩兵と、無数の火砲をそろえ、その上、一日に何回も戦闘機を飛ばして、砲爆撃を加えてくる。中村大尉は、ニントウコンの最前線陣地が、嵐のような砲爆撃の下でたたきつぶされ、泥に埋もれて消え去るのも、もう、ま近いことだ、と、覚悟した。  井瀬支隊では、岩崎大隊を抜かれたあとをうめるために、新たに『チハ』中戦車二輛をニントウコン川の南岸近くに進めた。敵前百メートルであった。  操縦手の日比野軍曹は、その戦車の下で寝ころんでいた。六月十二日の白昼攻撃で、あぶないところを助かったが、乗っていた戦車は破壊炎上してしまった。日比野軍曹は、一日数個の乾パンをたべるだけで、あとは水を飲んでいるのだから、動けないほど腹がすいていた。近くに寝ていた前方銃手の前崎一等兵が、小さな声でつぶやいた。 「めしがくいたいなあ」  日比野軍曹はぬれた服の下に、チカチカとした痛みを感じた。たくさんのシラミが動きまわって、血を吸っているとわかっていても、それを殺すのが大儀だった。いまの自分たちには、めしをくえる時よりも、死ぬ時の方がさきにくる、と思った。  まもなく、飛行機の爆音が聞こえた。空襲か、と、いち早く、みんなが壕にもぐった。近づく爆音がいつもと違うのに気がついて、頭を出した兵が叫んだ。 「おおっ、日の丸だ。友軍機だぞ」  胴体に赤い日の丸をつけた隼《はやぶさ》戦闘機であった。兵は壕の外に飛びだし、手をふり、おどりあがって喜んだ。ワア、ワアと歓声をあげた。ニントウコンにいる兵や下士官は、インパール作戦以来、というより、ビルマにきてから、友軍機を見たことがない、という。ニントウコンの状況がわるくなるにつれて『飛行機さえきてくれたら』と、何かにつけて語っていた。  隼がインパールの方に飛び去った時、ちょうど東の方に英軍の輸送機が出てきた。六機の隼は翼をひるがえして、つぎつぎに襲いかかった。輸送機はガクンと傾き、黒煙をひいて落下した。ニントウコンの兵は「万歳」を叫び、声をつまらせて、むせび泣いた。その時、インパール方面の上空に点々と、黒いかたまりが浮かんだ。高射砲弾を撃ち上げているのだ。それが見る見るうちに、灰色の幕となって空をおおいかくした。おびただしい高射砲の数である。  突然、空中に赤い焔がひらめき、燃えながら落下した。隼機が撃墜された。兵はこぶしをかためて悲嘆した。すぐに友軍機は反転して、南の方に飛び去った。翼をふるのが見えた。 「よく、きてくれた」「また、きてくれよ」  兵は思い思いに叫んだ。  この日、六月十七日。インパールを攻撃したのは、高《たか》第五飛行師団の第五十戦隊と第二百四戦隊の戦闘機であった。戦果は敵機撃墜二、味方の未帰還四であった。これが第五飛行師団のインパール正面に対する最後の攻撃となった。飛行師団の戦力も、すでに失われてしまっていた。 2  朝、奇妙な飛行機がニントウコンの上を低空で飛んだ。飛ぶというよりは、上空でとまっているように見えた。それほど速力がおそいし、プロペラもブルーン、ブルーンとまのぬけた音をひびかせた。木製らしくもあった。そんなことから、中村大尉までが、これは飛行機ではなくて、ヘリコプターだと思ったほどであった。  六月になって、この飛行機がしきりに出てくるようになった。上空をひとまわりして帰ると、英印軍の砲兵陣地から激しい一斉射撃がニントウコンを襲った。井瀬支隊の将兵はいたたまれず、部落のなかをあちこち逃げまわった。そんなことから、この木製飛行機が、砲撃を誘導する観測機であることがわかった。 「また、でてきたぞ」  井軍曹がくやしがって、岡本兵長、山崎兵長といっしょに小銃を持って出て行った。速力が遅いから、小銃で命中しそうだが、あとがこわいので、それまで手をださなかった。三人は部落の人のいない所にもぐりこんで、銃をかまえて待った。観測機はゆっくりとまわってきた。三人は小銃で一斉射撃した。観測機は急に速力をだして飛び去ったが、三人の五十メートルさきで、小さな爆発がおこった。観測機が手榴弾のようなものを投げたらしかった。  その機体は黒い色であった。それが、いかにも不吉な予告をするもののように感じられた。  岩崎大隊の大隊長代理、有元秀夫中尉はくつをぬいで横になっていた。水びたしになっていたために、足はふやけて、くつをはいていられなかった。六月十二日の白昼攻撃に、有元中尉は前進できないままに生き残った。下痢は、さらにひどくなっていた。  兵のほとんども、下痢と発熱と飢えのために弱っていた。  岩崎大隊の本部となった南ニントウコンの土壁の民家には、各隊の命令受領者が集合していた。部隊はカアイモールに移動しようとしていた。  英印軍の砲撃が始まった。観測機の予告は正確であった。本部の家も地震のようにゆれ、土壁が崩れた。しかし、将兵はおどろかなくなっていた。なれて無神経になってもいたし、また、どうにもならないという諦めに近い気持でもあった。  本部の横手には、十三名の兵が集っていた。第二機関銃中隊の、馬を扱う馭兵《ぎよへい》で後方から追及してきて、到着したばかりであった。馬は捨ててしまっていた。久しぶりに飯盒めしをたこうというので、黄色火薬を使って、木の枝を燃やしていた。最前線を知らない兵ばかりだったので、その煙が目標にされることを注意しなかった。  突然、異常な響きが空気を切り裂いた。機関銃中隊から命令受領にきていた清田正則軍曹は、あぶないと直感した。数日来、変った砲弾が打ち込まれるので、話題になっていた。それは英軍の二十四センチ榴弾砲で曳火信管を使ってあるらしく、頭上で爆発して、大きな破壊力を現わした。  清田軍曹の直感と、ほとんど同時に、大音響と火光と熱気の衝撃がおこった。清田軍曹はたたきつけられた。有元中尉は吹き飛ばされ頭から落ちた。焼けただれた鋭い弾片が無数に飛散した。  清田軍曹は家のなかから、這いだした。馭兵たちが心配だった。かけつけて見ると十三名が残らず倒れて、吹きだす血にまみれ、うごめいていた。灼熱した弾の破片が肉体に深く突きささっている者もあった。手足を吹き飛ばされた者もいた。負傷者たちが「痛いよう」「苦しい」と叫ぶ声は、聞くにたえなかった。  ただひとりの衛生兵が手当に追われているうちに、異様な変化がおこりはじめた。負傷者たちがフッフッと奇妙な音をたてて、いきをするたびに腹部が次第にふくらみはじめた。負傷者たちは完全軍装をしていたから、皮帯を固くしめていた。腹部がますますふくらむにつれて、ひょうたん型にくびれて、異様な姿になった。呼吸はいよいよ困難になり、重傷のからだをゆがめて、のたうちまわった。顔は紫色に変って行った。  じきに、負傷者たちは声もでなくなり、もがく力も弱って行った。まもなく、十三名の全部が死んだ。負傷してから十五分とたっていなかった。第一線に到着して、一時間たらずのできごとであった。清田軍曹は、死の恐しさと、生命のはかなさを、まざまざと見た。  有元中尉は両足を負傷して、カアイモールに出発できなくなった。後任としては、歩兵砲の小隊長井上栄少尉が当るのが順序であったが、モイランの夜襲以来、どこかにかくれているらしく、兵隊から疑惑をもたれていた。  有元中尉は金尾圭介少尉を後任とした。井上少尉、金尾少尉は、有元中尉より一期あとの幹部候補生第六期出身であった。  昭和十九年六月十八日の薄暮。岩崎大隊は井瀬支隊を離れ、ニントウコンを去った。カアイモールに行く山道をのぼりながら、清田軍曹はニントウコンのあたりをふり返ってみた。連日の雨でインパール盆地の大部分が、巨大な沼に変っていた。  清田軍曹は、腹をふくらませて死んで行った十三名の馭兵の姿を思いだした。やりきれない思いを塩田軍曹にぶちまけた。 「どうして弓さん(師団のこと)は、こねえに岩崎大隊を、ぼっこう(ひどく)いためつけるんじゃろうかのう。配属部隊を親の仇とでも思うとるんじゃろうかのう」 「これじゃ、なんぼう命があっても、たりやせん。配属部隊を殺しゃあ、その分だけ米が浮くと思うとるんじゃろうなあ」  最古参の大谷太郎曹長は、将校などを軽くあしらっていたから、露骨な口をきいた。 「参諜のやつ、何かというと、おきゃあま(岡山)の兵隊は命が惜しいのかと、しんけい(気ちがい)みたいな声をはりあげやがる。わしらはそんなことにおどかされて行くんじゃねえぞ。こんないくさをさせやぁがって、何が『上官の命は朕《ちん》が命と心得よ』だ。わしらは、死んだ戦友の仇を討ちぃ行くだけなんじゃ」  疲労衰弱した将兵は、山道にあえぎ、よろめき、ころびながら、のぼって行った。  その夜、ニントウコンに新しい増援部隊が到着した。岩崎大隊のいなくなったあとだけに、井瀬支隊の将兵の喜びは大きかった。  この部隊は第五十三師団の歩兵第百五十一連隊の一個中隊であった。第五十三師団は通称名を安《やす》といった。京都で編成されたので、平安にちなんでつけた名であった。安の一個連隊が弓師団に配属になり、一部が井瀬支隊にもくるというので、その到着が待たれていた。ことに甲装備の部隊で新しい兵器を持っていることで、一層、期待をかけられていた。  だが実情は、戦場到着の最初から、苦難の多い部隊であった。六月一日、連隊長橋本熊五郎大佐と軍旗が弓の司令部に到着した時には、約一個中隊をつれているだけであった。前進してくる途中、英軍の遊撃隊に攻撃され、乗ってきた自動車隊は逃げ帰ってしまった。やむなく、雨のなかを二百キロにわたって徒歩で行軍した。山道は、雨のために滝と変り、低地は深い川となって腰までつかった。普通は二時間の行程に、十時間もかかったりした。行軍の間隔はのび、落伍者が続出した。兵は疲労しきって戦意を失っていた。  落伍したり、故意に前進しなかった兵は南道の途中に停滞していた。これが、のちの撤退の時に、奇怪異常な事態をひきおこす原因ともなった。  また、安の連隊は土を掘る土工具を持たずにきた。砲爆撃の激しい第一線では、壕を掘って、そのなかにかくれていなければならなかった。その工具を持たないことが、まもなく、橋本連隊の命とりになった。こうした非常識は、実は牟田口軍司令官の前進を急がせるための命令によるものであった。  安の先頭が師団に到着してから、十八日後に、井瀬支隊に配属になる中隊が出てきた。それほど、行軍はばらばらになっていた。しかし井瀬支隊にとっては、歩兵がわずかになっている時だけに、心強い増援部隊となった。  それからまもなく、インパールの北方の戦況が急変した。  インパールの北方約百キロメートルのコヒマでは烈第三十一師団が六十四日間、英軍と激戦をつづけた。英軍としても、インパールへの補給線を確保するために、必死に攻防した。英国側の戦史によれば、インパール作戦中の最大の激戦地はコヒマであったとしている。  その六十四日の間、烈師団には一粒の米も、一発の弾丸も補給されなかった。牟田口中将の計画では、食糧弾丸は敵のものを奪って使えばよいとしていた。ことにディマプールは、英軍の補給基地だから、そこに行けば、食糧弾丸は豊富に得られるというのであった。だが現実には、烈師団の将兵は、その日の食糧もなく、飢えながら、眼前の敵と手榴弾を投げ合っていた。  第十五軍の参謀たちが、食糧を送ろうともしないで、攻撃続行の命令を伝えてくるので、佐藤師団長は激怒した。ついに、これ以上、戦闘をつづけることはできないと、烈師団をコヒマ戦線から撤退させた。昭和十九年六月一日であった。(インパール南道では、井瀬支隊本部がニントウコンに前進しようとしていた時である。)  佐藤師団長は撤退にあたり、後衛として宮崎繁三郎少将の一部隊を残した。宮崎少将は、太平洋戦争中の陸軍の将官のなかでは、有数の名将といわれた人であった。  宮崎少将はインパール作戦の時、いつも子猿を肩にのせていた。宮崎少将は子猿をチビと呼び、よくしつけ、いたずらをすると強くしかった。コヒマの激戦でチビも銃弾に指を吹き飛ばされた。それでも宮崎少将から離れようとしなかった。  宮崎少将は七百の兵をもって、インパール街道上で英印軍を阻止しては退却し、退却しては、また阻止することをくり返した。だが、その力も、ついに尽きる時がきた。  六月二十二日。コヒマ=インパール間の街道はマラムの地点で破られた。英軍の機甲部隊は戦車、装甲車、自動車など、千余台をつらねてインパールに直進した。  宮崎支隊のしんがりとなって、マラムで防戦の指揮に当った越後高田の第五十八連隊の西田将中尉は、限りなくつづく英軍の車輛を見送りながら、負けたという実感を痛切に感じた。そして、インパール作戦はこれで終りだ、と思った。  コヒマ=インパール街道のカンラトンビの付近では、祭第十五師団の歩兵第六十連隊と、歩兵第六十七連隊の第三大隊が苦戦していた。祭師団は北方からインパールに進出しようとして、阻止されてしまったのだ。この第六十連隊の位置は、マラムから五十キロメートルの南にあった。マラムを突破した英軍の機甲部隊の速度なら、半日で到着する距離である。第六十七連隊は、南のインパール方面からの英軍に圧迫され、陣地のなかまで戦車に侵入されていた。その上、今度は北から大機甲部隊が突進してくるので、腹背に敵を迎えることになった。  連隊長松村弘大佐は、第一線各大隊に《陣地を撤し、ミッション東側五七九七(フィート)高地に兵力を集結》することを命じた。  各大隊は陣内に侵入した敵をかわしながら退却し、六月二十三日の午前中に所命の地点に集結した。ところが、正午すぎ、第二大隊の第一線が砲撃をうけた。その砲弾は北の方から飛来した。マラムを突破した英軍の機甲部隊はミッションに迫ってきた。  ミッションには祭師団の第一野戦病院を開設してあったので、その施設と患者は、ひとまずミッション東側の五七九七高地に移し、さらに後送することを命じた。  野戦病院はインパール街道の西側の谷のなかにあった。そのため、担送患者はまずインパール街道上にあげ、そこから山の上に移そうとした。  街道わきにおかれた担送患者の上に、こまかい雨が降りかかっていた。独歩できる患者は野戦倉庫の米を移動させるために使われていた。衛生兵の数がすくないので、担送患者の移動には、手間どっていた。  第一線部隊は高地に集り、陣地を構築しようとしたが、個人壕を掘りかけた程度であった。すでにマラムを突破されたことが知られていたから、浮き足だったあわただしさであった。  インパール街道の北方に、遠雷のような音が次第に高まってきた。 「戦車だ」  街道の付近や、谷地にいた兵隊は、何もかも投げ捨てて、われさきに山のなかにかくれた。あとには、ただ、街道のわきに、重症患者を乗せた担架の長い列が残されていた。  まもなく、装甲車、ジープの列が現われた。英軍の先頭部隊は、コヒマ、マラムを突破して、ついにミッションに達した。  数台の装甲車とジープは、日本兵の担架の列の横でとまった。英兵がおり立って、担架を調べ始めた。高地にかくれている日本兵の目には、それがありありと見えた。  英兵は患者の階級や持ち物を調べているらしかった。そのうち、患者を選びだして引きずったり、かついだりして、ジープや装甲車に押しあげた。将校や下士官を捕虜としたのだ。  捕虜をのせた車は、さきに走り去った。あとには、まだ多くの担送患者が横たわっていた。抵抗して、なぐりつけられて動けなくなる者もいた。  やがて、英軍の車輛部隊は出発した。その間に、数名のグルカ兵が、かんを抱えて担架の列に何かをふりかけて走った。グルカ兵がジープに飛びのった時、担架の列の上に火の流れが走った。黒煙が横に長く燃えあがった。この世のものとも思われないすさまじい叫び声がおこった。  高地の上で見ていた兵は悲憤の涙を流した。だが、戦友の生きながら焼き殺されるのを、助けることもできないでいた。  ミッションを突破されて、ディマプール=コヒマ=インパール間が全通した。インパールの南方二十マイル付近に散開する弓第三十三師団の戦線に、英軍の大部隊が殺到するのは、もはや時間の問題となった。  ことにインパール南道上のニントウコンの井瀬支隊は、まともにこれを迎えることになる。そのなかでも、最も恐るべきは、英軍の強大なM4シャーマン中戦車が来襲することだ。  六月二十三日。瀬古大隊の指揮をとっていた水巻登喜蔵曹長が砲撃で戦死した。そのあとは、歩兵砲の指揮班長だった大熊曹長が代ることになった。また、歩兵砲隊の指揮は、井軍曹がとることになった。下士官が大隊の指揮をとるのは、将校が死傷して、ひとりもいなくなってしまったためである。  大熊曹長は最前線に出たので、後方にいる井軍曹が打合せに出かけた。岡本伍長をつれて、北ニントウコン部落の南の端に行きついて、 「瀬古部隊はいるか」  と呼ぶと、大熊曹長が出てきた。井軍曹は現在歩兵砲は砲弾を三十発ほど持っていると伝えた。歩兵砲隊の飢えた兵を後方に出して、二発、三発ずつ、背中にしょわせて運んだものである。射撃について打合せたあと、大熊曹長は状況を説明した。 「ちょいちょい敵さんが出てくるでね」  英印軍は、ニントウコン川の南岸に出てきて、すでに陣地を構築しているというのだ。  井軍曹は歩兵砲を指揮していたから、いつも南部落にいた。そのため、ニントウコン川が英印軍との境界であり、また攻防の最前線であると思っていた。ところが、英印軍は川を越えて侵入し、夜になると、目の前で信号弾があがり、猫のなき声のような音が聞こえるというのだ。 「斥候がきて、合図をしているらしいな」  井軍曹が第一線の陣地を見てまわり、帰りかけた時であった。こわれた家のかげから五、六名の兵が出てきた。 「友軍にしては変だな」  先方も立ちどまった。ぎょっとした動きが感じられた。視線がからみ合った。皿のように浅い鉄帽をかぶって、自動小銃をもっている。英国兵だ。井軍曹も棒立ちになったまま動けなかった。すぐに気をとりなおして、つれてきた岡本伍長の名を呼んで、壕に飛びこんだ。なかには、水がいっぱいたまっていた。それにかまわず、拳銃を引抜いて身がまえた。  その時には、道路に飛びおりる英国兵のうしろ姿が見え、すぐに消え去った。  英国兵を自分の目で見て、井軍曹は不安なものを感じた。英印軍の攻撃部隊がニントウコン川を越えるのは、もう、まもないことに思われた。  六月二十七日。田中信男少将は中将に進級した。そのため、師団長心得から、正式に第三十三師団長となった。 戦 場 往 来 1  ニントウコン一帯は、強烈で不快な悪臭に包まれていた。死体は死後二、三時間たつと、死臭を放ちはじめた。やがて、全身がふくらむと、近寄りがたい腐臭に包まれた。土のなかに埋めても、メタンガスのようににおいを吹きあげた。日がたつにつれ、戦死者の数もふえ、死体の腐敗も進み、悪臭はますます濃密になった。  人間の汚物はいたる所に排出され、雨とともにただよい流れた。井瀬支隊のほとんど全員が下痢患者であった。それだけに悪臭も激しかった。  将兵のひとりひとりも、鼻をつく悪臭を発していた。一着の軍服を着たままで、雨にうたれ、壕にかくれているから、泥と血と汗がかたまりついていた。シラミがふえるばかりだった。皮膚病や化膿《かのう》が多くなった。雨が降るようになってから、水びたしになった足の皮がむけて、ただれている者もいた。  将兵は自分自身が悪臭に包まれているから、ほかのにおいには感じがにぶくなっていた。だが、新たにこの戦場に足を踏み入れた者には、たえがたかった。六月十日に河本見習士官が支隊本部に到着した時には、悪臭にたじろいで、はき気をもよおした。河本見習士官は昭和十七年七月に幹部候補生として戦車第十四連隊に配属され、ビルマのラシオに着任して以来、死体にも死臭にも、なれてきた。だが、ニントウコンほど激しい悪臭を知らなかった。  河本見習士官は、こんなことで、たじろいではならないと、気をとりなおした。負けてはならないと心を引きしめるのは、本来の性格のためというよりは、幹候出身という軍隊のなかの立場のためであった。昭和十七年一月十日、中部第二十三部隊に入隊して陸軍二等兵となり、三月一日には一等兵、三月二十日には上等兵に進級した。これは幹部候補生を命ぜられ、将校教育を受けるための進級であった。インパール作戦がはじまって、テンノパール攻撃の間に、曹長に進級し兵科見習士官を命ぜられた。このため、それまで助教、助手であった下士官、古兵を部下にすることになった。これらの下士官、兵は、軍隊で十年近くを暮していたから、将校以上の実力者が多かった。幹候上りの見習士官では、歯が立たなかった。  しかし、将校となれば、人間の集団をまとめ、行動させ、最後には、死への突入を命じなければならない。河本見習士官は、軍隊のきびしい規律をもってしても、下士官、兵が命令に服従しないことを知った。その抵抗は意外に手ごわかった。このような部下を思うように動かすには、戦闘技術に熟練するよりも、自己をきたえ、人間として成長しなければならない、と悟った。河本見習士官は、よわねをはくまいと、心にちかった。  ニントウコンに到着して、河本見習士官がまっさきに感じたのは、これはひどすぎる、ということだった。こんなことで、いつまで戦争をつづけられることかと思った。もはや、そこには、自分の信じていた“皇軍の威信”のかけらもなくなっていた。三カ月前、整然とした服装、装備をもって、勇躍して出発した“皇軍の花形”戦車隊が、哀れな敗残部隊に変りはててしまった。将兵は、食糧の不足と、病気のために、体力は衰えていた。その上、夜昼の別のない砲撃にさらされて睡眠不足となり、正常な判断も知覚さえも衰えていた。河本見習士官は、これは生きながらの地獄の生活だ、と思った。この考えは、その後も変らなかった。  河本見習士官は中村大尉に命ぜられて、安の橋本連隊第三大隊の第十中隊に連絡に行った。この部隊はニントウコンに到着すると、すぐに弓師団に過半の兵力をとられて、一個小隊が残っているだけであった。井瀬支隊にとっては、有力部隊の増強は名ばかりに終った。それほどに分散して使うのは、弓師団の方でも兵力が底をついていたためであった。  中村大尉は安の小隊に不満を持っていた。装備がよいのに期待をかけて、この小隊をニントウコン川の南岸に近い所に出した。すでに英印軍のグルカ兵が、川を越えて出没している時である。ところが、安の小隊は壕にはいったまま、グルカ兵を攻撃しようとしなかった。中村大尉は毎日、侵入兵の討伐を命じたが、小隊は動かなかった。中村大尉は、これは小隊長の杉野少尉に積極的な意志がないからと考えて、河本見習士官に命じた。 「杉野の所に行って、積極的な攻撃をしろといってこい」  中村大尉は杉野少尉を軟弱とし、部隊はだらしないと見ているようであった。しかし河本見習士官は、この部隊も、杉野少尉も哀れだと思っていた。橋本連隊は昭和十八年十二月十三日に動員を完結したのだから、部隊としてまとまってから、戦場に出るまで半年しかたっていない。その上、いきなり豪雨と山嶮の、しかも、あわただしい惨敗の戦場に追いたてられた。若い杉野少尉では、手のくだしようもなかろうと、河本見習士官は、わが身にくらべて同情した。  河本見習士官は中村大尉に教えられて、大きな木の枝をかざしながら、北ニントウコンに近づいた。木の枝は、敵の目からかくれるための偽装であった。突然、うしろでパン、パン、パーンと砲弾の爆発する音が響いた。河本見習士官は、ぬかるみのなかに、からだを伏せた。砲弾がつづけざまに落ちた。弾着が近づいたように思われたので、からだをおこして近くのくぼ地に走りこんだ。そこへ兵隊が二名飛びこんできた。そのひとりが泣き叫んで、からだをころがした。 「痛い。痛い。痛いよう」  右腕の肉をこそぎとられて、白い骨が出ていた。二の腕は皮だけでつながっていた。  しばらく爆発がつづいて、やがて収まった。河本見習士官は兵の腕をしばった。瀬古大隊の兵であった。 「早く軍医の所に行って手当をうけろ」  兵は歯をくいしばりながら答えた。 「大丈夫です。いまさら傷の手当をする必要はないのです」  河本見習士官は、すぐに連絡に飛びだしたが、あとになって、この兵の言葉を妙に感じた。それは、いさぎよいというのではなく、全員戦死といった絶望のあらわれのように感じた。それはまた、追いつめられた者のなげやりな気持でもあった。  戦場では、毎日多くの人の命が失われ、傷病の人は後方に去った。それと入れ代って、部隊を追及する者が出てきた。六月十二日の白昼攻撃が終ってから、戦車連隊の山本堅固大尉と第四中隊長田中精中尉が到着した。井瀬大佐は山本大尉に対し、ふきげんで冷淡な態度を示した。井瀬大佐は、山本大尉が部隊に帰ることのおそいのを憤慨していた。  山本大尉は、前の連隊長上田中佐の命令で、遺骨をとどけるためにテンノパールからシャン州のメイミョウに行った。井瀬大佐は、山本大尉がもっと早くニントウコンに帰着できると考えていた。また、遺骨の宰領などは下士官でもさしつかえないことで、まして、この困難な時に、連隊本部の先任将校が行く必要はない。先任将校がそんなことをするから、連隊の士気はたるんで、満足な戦闘ができない、と井瀬大佐は不信感を持っていた。  山本大尉は昭和十六年、広東《カントン》で連隊に着任し、本部付になる前は材料廠長であった。特別志願の、おとなしい将校で、年齢は三十五、連隊長につぐ年長者であった。中村大尉に、家族の写真や手紙を見せる時の様子から、山本大尉が子どもと妻を深く愛しているのがわかった。中村大尉は、山本大尉が連隊長に冷たくあつかわれているのに同情した。この時期になって、第一線に追及する者は、たとえ事情がどうであっても、その努力は称揚すべきだ、と考えていた。中村大尉は、山本大尉を慰めた。 「おれも、前進の途中、後続車を掌握しようとしていたら、連隊長に戦場離脱者と見られて、不快な思いをした。疑い深いというか、気持がせまいところがあるんだな、連公(連隊長)は」 「まあ、いいさ」  山本大尉は夜の壕のなかで火をたいて、飯盒を温めていた。 「さあ、特製の野菜スープだ」  山本大尉は自分で、たべられる雑草や草の根をとってきて、スープを作ったといって、中村大尉にすすめた。暗やみの壕のなかで、しめった竹を燃すので、煙がいっぱいになっていた。中村大尉が一口すすると、思いがけなく、うまかった。ふたりは喜んで飲み合ったが、いっぺんに飲んでしまっては、もったいないと、半分残しておいた。  朝になってみると、飯盒のなかにあるのは真黒な水であった。とても口にできなかったが、昨夜の味が忘れられず、一口飲んだが、すぐに、はきだした。飯盒の底には泥がたまっていた。ふたりは顔を見合せて、にが笑いをした。  糧食として、その付近の部落で集めた籾《もみ》が渡ると、みんな鉄かぶとにいれて、籾つきをした。山本大尉も中村大尉も、籾をついた。籾がらはとれても、米は小さく砕けていた。井瀬大佐は籾つきを見て、眉をひそめて注意した。 「将校は籾つきなどしてはいかん。当番にやらせろ」  井瀬大佐は、将校はあくまで、将校の威厳を保っていなければならない、と考えていた。  戦場を去って行く者にも、複雑な感慨があった。江木軍医大尉には、第十五軍軍医部員に転任の命令が伝えられた。江木軍医大尉は戦車連隊にも、また、この戦闘にも、失望していた。自分も赤痢にかかって、体力も失われていた。早くさがらないと、再び機会は得られないと思った。  傷病患者は日ましにふえたが、薬品、衛生材料はなく、治療のしようがなかった。負傷者は生きる希望もなく、自暴自棄になる者がすくなくなかった。また、腹部を負傷した者の苦しみは激しく、軍医でありながら治療する勇気が出なかった。  江木軍医大尉が赴任のことを申し出ると、井瀬大佐は怒った。 「そんな勝手なことは許せん。貴官はわしらを見殺しにするか。池田軍医はプバロウにおったまま、一向に出てこん。貴官がいなくなったら、ニントウコンに軍医がおらんじゃないか」  話がもの別れとなっていたところへ、若い服部鎮男軍医中尉が追及してきた。江木軍医大尉が再び許可を求めると、今度は井瀬大佐も許した。江木軍医大尉は、すぐ出発することにして、本部の壕のなかの将校に別れのあいさつをした。井瀬大佐以下、だれもが口をきかず、だまりこんでいた。別れの哀感とは違った、沈痛の気がみなぎっていた。江木軍医大尉は、あとに残る人々がこの土地に屍《しかばね》を埋めるのかと思い、その顔を正視することができなかった。  江木軍医大尉に代った服部軍医中尉は、大阪帝国大学出身の外科医であった。また、プバロウに患者収容所を開いている池田久男軍医大尉は、岡山医科大学を出た軍医委託生で、服部軍医中尉にとっては岡山一中、第六高等学校の先輩であった。池田軍医大尉もマラリア、アメーバ赤痢にかかり、顔は青白くむくんでいた。  ニントウコンの支隊本部には、三沢衛生曹長がいた。鬼衛生曹長といわれるほど、恐れられ、けむたがられていたが、服部軍医中尉が会った時には、顔がむくみ、気力も体力も衰えていた。  服部軍医中尉の目にうつった井瀬支隊の将兵は、医学的にいう脱水状態から浮腫《ふしゆ》(むくみ)をおこし、動作は緩慢になっていた。どこにも、だれにも、軍隊らしいテキパキとした動作は見当らなかった。みな、臆病になり、日和《ひより》見《み》主義になっていた。傷病患者になると、ますます臆病になり、また、自律神経の障害が見られた。一番、臆病になり、恐怖心が強くなっていたのは井瀬大佐であった。陸士出の将校がそれに次ぎ、甲種乙種の幹部候補生出の将校、下士官はおちついていた。最もおちついて活動していたのは、中村大尉であった。やはり責任感のためと思われた。  また、将校の関心は、戦闘よりも食物に集中していると見られた。従って食物、とくに岩塩の分配は、慎重の上にもさらに慎重におこなわれた。日本人として戦場にある、という考えは皆が持っていたが、もはや、規律と統制のたもたれた軍隊の行動はなかった。ただ、小人数の敵斥候潜伏兵に対しては、やむなく襲撃をした。これは自分が殺されないためであった。要するに、各自が本能のままに、この死の世界を生き抜こうとしていただけである。服部軍医中尉は、このように観察した。  遺骨となって、ニントウコンの第一線にもどってきた下士官もいた。瀬古大隊の今野軍曹は後方にさがる途中、六十一マイル付近で英軍機の銃撃に倒れた。同じ瀬古大隊本部の今西徳治軍曹はニントウコンに向って追及してきて、このことを知った。今西軍曹は今野軍曹の指の骨をとって、遺骨として胸にさげてきた。この苦難の追及中に、戦友の遺骨を持ち帰るのは、なかなか、できないことであった。  今西軍曹はトルブン隘路口に近い三十五マイル地点にくると、意外な部隊と行き合せた。七月六日の夜であった。軍旗を先頭にした一隊が、インパール方面からきて、南道をビルマの方に向った。兵隊にきくと、作間連隊だという。弓師団の主力である第二百十四連隊がインパールの戦場を去って行ったのだ。軍旗といっしょに作間連隊長も、その隊列のなかにいたはずだ。  弓師団の主力部隊が後退するとは、どういうことか。今西軍曹は不審に思いながら、遺骨とともに、ニントウコンに追及した。井瀬支隊本部では、まだ知らなかったが、弓の主力の作間、笹原の二個連隊は、すでに山岳地帯から撤退して、ビルマ領内に向って移動していた。井瀬支隊だけがニントウコンに残されていた。 2  七月六日。緊急情報が井瀬支隊本部に伝えられた。ニントウコンの西南三キロの山すそ、ハオタ部落にある野戦重砲兵第十八連隊の観測所からの連絡であった。そこでは、すでに七月初めから、英印軍陣地の兵力が増加しているのに気づいていた。  ところが、この日、インパール方面から北ニントウコンに向って前進する戦車隊を望見した。観測兵は“二階だてのような大型だ”といった。明らかにM4シャーマン中戦車であった。英軍の戦車隊の隊形として、十二輛がならんでいた。七十五ミリの長大な戦車砲を一斉に前に突きだしていた。コヒマ=インパール道がひらかれたので、増強部隊が出てきたものと判断された。  M4中戦車がニントウコン川を越えてくれば、井瀬支隊の陣地はひとたまりもない。井瀬大佐と、中村大尉は顔を見合せた。 「いよいよ、出てきたようです」  井瀬大佐はうなずいて、 「乾坤一擲《けんこんいつてき》だ」  と、むずかしくいった。困難な時に、口ぐせのようにいう言葉だった。中村大尉は井瀬大佐が最期の決意をしているように感じた。  六日の夜になって、岩崎大隊が三角山からニントウコンにもどってきた。笹原連隊の配属をとかれて、井瀬支隊に復帰したのであった。八十名あまりで出発した大隊は、五十名あまりになっていた。指揮は機関銃中隊の清田軍曹がとっていた。  岩崎大隊が三角山に出てまもない六月二十九日、シルチア道より北に展開していた第二百十四、作間連隊は、道より南に撤退した。岩崎大隊はこれを掩護する命令をうけた。清田軍曹らは複雑な思いだった。いつかは増援部隊がくると信じながら、ニントウコンで死闘していた者にとっては、弓主力の撤退は信じられない大きな衝撃であった。  撤退の直接の動機となったのは、新鋭部隊として期待された安の橋本連隊が、ただ一回の攻撃に敗れ去ったためであった。戦闘兵力二百五十名のうち、二百五名が死傷し、三十名が残るだけとなった。この部隊は一度は攻撃に成功して、英印軍陣地を占領した。そのあと、防御工事もしないでいた所を、高地の全部があばたになるほどの激しい砲撃をうけて、つぶされてしまった。激戦場に土工具を持たずにきたという非常識と、占領後のゆだんのためであった。  弓の主力の撤退とともに、岩崎大隊はニントウコンに帰ることになった。帰りの山道をくだるのは、さらに危険であった。暗夜の、雨にぬかるんだ山道を、ことに重機をかついでおりる兵は命がけであった。すべれば命がなかった。  山をおりて、湿地帯に出た時、清田軍曹は部隊をまとめた。あとから追及してきた湯浅少尉は戦死し、大隊長代理の金尾少尉はどこかへ行ってしまった。弓の主力の撤退を見たあとであるから、それと同じ方向に、山づたいに勝手にさがったのだ、と、兵はうわさをしていた。  清田軍曹は井瀬支隊本部に行って、井瀬大佐に申告、報告をした。そのあと、中村大尉から、すぐに配備につくことを命じられた。その位置はニントウコン川の南岸に近い第一線陣地であった。  出発しようとしていると、くらやみのなかで清田軍曹を呼ぶ声がした。 「おれだ。岩崎大尉だ」  思いがけない人が、思いがけない所から出てきた。トルブン隘路口で負傷して後退した大隊長が、ニントウコンに追及してきていた。岩崎大尉は、今の報告を聞いて、部下の苦戦を知った。 「なんという無茶ないくさをさせるんだ。おれの部下をむだに殺しただけじゃないか。これが陸大出だといばっている参謀どものすることか」  岩崎大尉は声をふるわせて叫び、むせび泣いた。気性の激しい人であった。  岩崎大尉は第二大隊がインパール進攻命令をうける直前に、大隊長として着任したばかりであった。その前は鳥取の歩兵第百二十一連隊の連隊砲の中隊長であった。  このため、大隊長と大隊の将兵とは、たがいに顔も名前も知り合う期間もないうちに、トルブンで戦闘することになった。これは岩崎大尉にとっても、大隊にとっても不幸であった。その上、連隊砲出身の岩崎大尉には、大隊戦闘を指揮する能力が欠けていた。トルブンでは、高橋参謀の非情な督戦のためもあったが、岩崎大尉も、みずから逸《はや》って、さきに負傷してしまった。その時、岩崎大尉を後送しようとすると、 「おれをさげるな。前に出せ」  と、叫びつづけ、そのあとは錯乱状態になった。  その人が、ニントウコンの最前線に追及してきた。生き残りのなかには、いま初めて大隊長に接するものもいた。しかし、岩崎大尉が、最後の日の迫った第一戦に、豪雨と悪路を冒してきたことに、生き残りの兵たちは感動した。  岩崎大尉は、なお、むせび泣きながら叫んだ。 「おれが能力がないばかりに、大隊をこんなことにしてしまった。おれは階級章をはずして、お前らの前に手をついてあやまりたい」  清田軍曹らは、慰める言葉もなかった。しばらくして、気持のしずまった岩崎大尉は、バナナとセレ(ビルマの葉まきのたばこ)を持ちだしてきて、部下にみやげとして与えた。 3  七月七日朝。清田軍曹は重機関銃の位置をきめようとして、北ニントウコンの南台地の上を歩きまわった。周囲の低湿地にひろがった水は、台地のきわに迫っていた。台地は水面一メートルの高さになっていた。清田軍曹は濃い眉をあげて南の方を眺めた時に、目を疑う思いがした。ねずみ色の薄明のなか、三百メートルの水面をへだてた所に、泥のぬかるみがもりあがっていた。その上に、冬枯れの葦のようなものが、所どころに折れかぶさっていた。清田軍曹は、幾たびも見なおして、それが南ニントウコンであることを確かめた。  それは泥の廃墟としか見えなかった。人間がいるとは思えなかった。葉がおち、幹のくだけた木や竹が、まばらに立っているだけである。折れた葦と見えたのは、砲撃になぎ倒された竹やぶであった。清田軍曹が、もし昨夜、そこに立ち寄らなかったら、井瀬支隊のいることは信じられないほどであった。  岩崎大隊が山岳地帯に移動した六月十七日からの二十日間に、ニントウコンは南も北も荒廃してしまった。清田軍曹は、それを見ると、自分のいなかった二十日間に、そこに集中した砲撃のすさまじさが、まざまざと感じられた。  その南ニントウコンの東北端に、岩崎大隊の本部がおかれるはずであった。岩崎大尉と七、八名の本部の下士官、兵は、そこにいることになっていた。清田軍曹は、これはまずい、と思った。大隊長の位置が、三百メートルの水をへだてていては、指揮連絡がむずかしい。有線電話はなくなっていた。英印軍はニントウコン川を越えて出ようとしている。白兵戦を予想しなければならない時期としては、本部の位置は不適当である。また、大隊といっても、実数は三個分隊程度になっているのだから、本部がうしろにいることはなかった。  清田軍曹は昨夜の岩崎大尉を思い浮かべた。自分の指揮の至らないことを、大隊長は部下にわびた。それだけの気持がありながら、このような位置をとるのが、清田軍曹には、すこし変に感じられた。  清田軍曹は南台地の東北角の、やや高くなった所に第二機関銃中隊の陣地をおいた。中隊の全員は、清田軍曹以下五名、重機関銃は一を残すだけであった。ほかの中隊の位置もきまった。機関銃陣地の東に第七中隊の八名、西に第六中隊の塩田軍曹以下の十名、すこし離れて第七中隊の大谷曹長以下六名、さらに南道を越えたところに第五中隊の十二名がいた。これが岩崎大隊の最前線の人員であった。  機関銃中隊のすぐ前には、『チハ』中戦車が間隔をおいて、四輛ならんでいた。戦車の周囲は土でかこい、上には木の枝をかぶせてあった。一輛は竹やぶにかくしてあった。戦車は、もはや動かすことができないので、四十七ミリ戦車砲の砲撃をするだけとなった。戦車は動かない砲塁と変った。  戦車の前方には、二百五十メートルほどの湿地をへだてて、低い台地が見えていた。そこに葉のよくしげった高い大きな木があった。マンゴーの木であった。マンゴーの大きな果実は、飢えた兵が取りつくしてしまった。ニントウコン川はそのさきを流れていた。その辺から北にもりあがった、ゆるい斜面一帯に英印軍の陣地があった。  そのマンゴー台地に、安師団の一個小隊が出ていた。また、マンゴー台地の、南道の東側には、瀬古大隊の陣地があった。この台地が日本軍の最前線であった。  清田軍曹は一番左にならんだ戦車の所に行った。ひげも髪もぼうぼうにのびた、上半身裸の男がいた。安藤准尉である。清田軍曹の機関銃中隊は安藤准尉の指揮をうけることになっていた。 「いまシラミをとっておったところだ」  清田軍曹は三角山の戦闘のあらましを語り、弓の主力部隊がすでに撤退したことを話した。 「そうか。どうもおかしいと思うとった。七月になってから、山の方では一向に音がせんようになった。こりゃあ弓がいなくなったなとは思うておった。どうも厄介なことになってきたな」 「井瀬支隊も撤退になりますか」 「ニントウコンをあけたら、敵がどっと出てくるから、井瀬支隊はさげないな」 「それじゃ、ここで玉砕ということですか」 「人づかいの荒い弓さんのことだ、主力を引揚げるためには、配属部隊を置きざりにするぐらいのことはするさ」  安藤准尉はふてぶてしくいった。  戦車の下から、戦車兵が這いだしてきた。そのまま、手で這って掩体《えんたい》の外に出て行った。両足のさきを布切れで巻いていた。下痢患者特有の強い悪臭があった。 「足をやられたんですか」 「いや、みずむしで歩けんのだ。くすりなどはないし、この水たまりのなかにおるから、わるくなるばかりだ」  徳島県出身の市岡伍長だった。 「歩けんのじゃ、さげることもできませんなあ」 「本人もさがるとはいわん。もうひとり、中谷清司という軍曹が寝ておる。金沢の男だ。これは砲弾で胸と右腕をやられて、軍医さんがさがれというとるのに、さがらんとがんばっておるのだ。おれがさがったら、この戦車をだれが操縦するのか、というてのう」  清田軍曹は胸をうたれた。そして、もし撤退になったら、この動けない傷病者をどうしたらよいか、と考えた。いっしょにつれて行く方法はなかった。担架に乗せて運ぶだけの体力は残っていなかったし、それをかつぐ人数がなかった。  まもなく、英印軍の朝の定時の砲撃が始まった。  この日、師団司令部から井瀬支隊本部に電話がかかってきた。先方は参謀長の田中鉄次郎大佐であった。このころの作戦についての電話には、いつも参謀長が直接出ていた。あの、口やかましい堀場参謀のののしり声は、全く聞かれなくなった。中村大尉が不審に思ってきいてみると、病気だということであった。病名は脚気であった。しかし堀場参謀が、日ごろ、狂気のように兵隊をなぐりつけているのがわかっていたので、その病名は信用できなかった。  井瀬大佐は激しく怒った。 「この緊急の場合に、師団の作戦参謀が脚気ぐらいで倒れるとは何ごとか。第一線の将兵は、ひとり残らず病気になっている。戦車連隊の兵は、負傷しても、さがらんとがんばっている。参謀の責任を感じたら、病気などとはいっておれんはずだ」  田中参謀長は井瀬大佐に師団命令を伝えた。それは、師団の主力部隊が撤退をしていることを明らかにし、井瀬支隊の任務として《ニントウコンを死守し、師団の後方展開を掩護すべし》というのであった。後方展開というのは、撤退、退却と同じ意味であった。死守とは、その場を守って戦死する、ということである。  この命令を聞いて、中村大尉は怒った。それは、この命令に、掩護の目的や掩護完了の時期などについて、明示していないためであった。どうして、それを、支隊長であり大佐である、井瀬戦車連隊長に一任できないのか。師団では、井瀬大佐を、小隊長、中隊長などの若い将校と同じ戦術能力しかないと見ているのだろうか。  ことに、間断のない激烈な砲爆撃で、現在でさえも、師団司令部との有線電話は不通になることが多い。まして、師団司令部が後方にさがれば、支隊との連絡は不可能になると予想しなければならない。師団が井瀬大佐の独断を許さず、死守を命じたのは、実は、井瀬支隊を犠牲にして、師団主力の退却を計った、としか考えられなかった。  七月七日、午後。飛行機の爆音が聞こえた時には、早くも北ニントウコンの上空に、英軍の戦闘機が見えていた。インパール飛行場から出発した八機のスピットファイヤ機は、ニントウコンの上空を旋回すると、急降下して爆弾をたたきつけた。マンゴー台地が爆煙に包まれた。とくに南道西側の、安の小隊の陣地付近が目標にされた。  これは危険な徴候であった。それまでは、東側の瀬古大隊の陣地の方が攻撃された。しかし、どちらも飛行機の爆撃をうけることはなかった。マンゴー台地は、英印軍の陣地と川をへだてるだけなので、味方を爆撃することを恐れたためと思われた。この日、マンゴー台地を爆撃したのは、単に安の小隊を攻撃するだけでなく、英印軍の南岸進出の前ぶれと判断された。  戦闘機が戦場の上空を、獲物をさがすように旋回しているうちに、英軍の砲撃が始まった。榴弾砲、重迫撃砲など、いろいろの砲の響きが、太鼓を連打するように聞こえた。砲弾が爆発すると、鋭い音をたてて竹が折れた。木の幹が高く舞いあがった。  清田軍曹は壕にかくれながら、弾着の方向を判断していた。そして砲弾のすきまを見て、外の様子を窺《うかが》った。砲撃のあとに、英印軍の歩兵の出てくるのを警戒しなければならなかった。  遠くで叫び声があがった。清田軍曹はずんぐりしたからだを機敏に動かして、竹やぶに走りこんだ。人の叫び声が聞こえたのは、マンゴー台地の方角であった。見ていると、ちらちらと人の姿が動いた。グルカ兵の服装だった。二、三人が走りまわり、銃剣をふるって地面に突っこむように見えた。安の小隊陣地が襲われていた。清田軍曹は部下を呼び、自分がまっさきに重機の位置に走った。岩本兵長が重機にとりついて連射を始めた。  英印軍の砲撃は、また激しくなった。重迫撃砲弾が南台地にふりそそいだ。それにまじって、異様な弾丸の飛行音がした。 「戦車砲だ。気をつけろ」  清田軍曹が警戒していると、マンゴー台地のマンゴーの大木の向うに、鉄の箱と長い砲身が浮き上った。 「敵の戦車が出たぞ」  戦車の砲口からは煙があがり、砲身は大きく旋回している。清田軍曹が三角山で見た、英軍のM3戦車の砲身とは違っていた。それよりも、明らかに大きかった。 「目標、敵のM4戦車」  M4に重機の弾丸が通るはずはなかったが、その付近に英印軍の歩兵が、ついて出ていることが予想された。  安の小隊陣地では、グルカ兵が走りまわっていた。日本軍の射撃を恐れている様子がなかった。  安藤准尉の指揮する『チハ』中戦車四輛も四十七ミリ戦車砲を連射していた。まもなく、マンゴー樹の向うに、もう一つの砲塔があらわれた。二門七十五ミリの戦車砲は南台地を掃射した。日本軍の火力の活発な地点をみつけたらしかった。七十五ミリ砲弾が『チハ』車の付近に集中してきた。安藤准尉の叫びつづける声が、きれぎれに聞こえた。 「重機、たのむぞ。敵の歩兵が出てきたぞ」  M4戦車の付近には、英印軍の歩兵が集っているのが見えた。 「重機、たのむぞ」  安藤准尉は叫びつづけた。  重機の弾丸は、ちょうど補給をうけたばかりのところであった。重機は、すでに熱を持ち、焼け始めていた。岩本兵長はあつさをこらえながら連射をつづけた。近くに爆発がおこり、砲弾の破片が鋭い音をたてた。本一等兵が絶叫して、うつぶした。即死していた。  鉄の砕ける音がひびいた。『チハ』車の一輛が前方部を粉砕された。  M4中戦車は連射をつづけていたが、それ以上に出てこなかった。南台地からは、よく見えなかったが、M4中戦車はニントウコン川の対岸にいるらしかった。  清田軍曹の重機は、すでに四千五百発以上を撃った。銃身は赤くやけてきた。清田軍曹は一時中止を命じた。  このころ、第六中隊を指揮していた塩田軍曹が戦死した。また、松本主計少尉も死んだ。食糧のにぎりめしを運んできて、そのまま陣地に残っていたところだった。松本主計少尉は息を引取るまぎわに、苦痛をこらえながら叫んだ。 「おかあさん」  松本主計少尉は京都の人で、母ひとり子ひとりの境遇であった。  南ニントウコンの瀬古大隊の歩兵砲の陣地では、井軍曹が応戦の準備をととのえていた。北ニントウコンの最前線で、猛射にまじって喊声があがるのが、かすかに聞こえてきた。井軍曹の位置からは、北ニントウコンの戦況は見えなかった。しかし、安の小隊陣地をグルカ兵が襲っていることは、よくわかった。  やがて、銃砲声がおさまった。井軍曹がほっとしながら、なお、砲眼から前の方を注視していると、ひとりの兵がころがるように歩兵砲陣地の方に走ってきた。 「おーい、そこは危いぞ。もっと右へよれ」  井軍曹は叫んだ。上空には英軍機が、まだ旋回をつづけ、時どき機関砲を撃ちこんできた。  走りこんできたのは少尉であった。 「やられた。全滅だ。本部はどこだ」  井軍曹は、わけがわからなかった。 「どうしたんですか、一体」 「安の第一線が全部やられた。早く報告せねばならん」  少尉の上着は破れ、肩のあたりに血が流れていた。青ざめた顔で、苦しそうな息をしていた。 「三角巾を出しなさい。手当をしましょう」  上着をぬがせると、出血のわりに傷は浅かった。 「本部はどこだ。すぐ報告せねばならん。左第一線が全滅したんだ」  少尉はひどく興奮していた。 「もう大丈夫です。すこしおちついて状況を話してください」 「全部やられたんだ。早く報告せねばならんのだ。何かたべるものはないか」  井軍曹はあきれて腹を立てた。雑草を泥水で煮て、飢えをしのいでいる時である。井軍曹は、少尉がうろたえているだけでなく、根性のないのを感じた。  少尉が本部に去ると、岡本兵長が、にがにがしげにいった。 「たべるものはないか、にはおどろきましたね。安のやつら、米を持ってきて、毎日飯盒いっぱい、くっておったそうですよ」  一個小隊が全滅したとは思えないほどの、あっけない戦闘だった。爆撃におびえた安の全員は、壕にかくれたまま出なかった。グルカ兵は手榴弾と自動小銃で攻撃し、壕の上から銃剣をふるって突き刺した。のがれたのは、少尉ひとりだった。戦場では、戦わなければ死ぬだけであった。  新鋭として弓師団に増強された安は、山岳地帯とニントウコンで、もろくもついえた。  安の陣地を奪った英印軍は、その付近に兵力を進出させた。このため、インパール南道の東側に、右第一線となっていた瀬古大隊は、敵中に突出した形となった。  また、左の第一線は、右第一線から二百メートルも南にさがって、戦車と岩崎大隊とで持つことになった。戦車は二輛破壊され、二輛が残っていた。日本軍の陣地には、大きなくさびが打ちこまれた形になった。 4  七月八日。瀬古大隊の第一中隊長、長戸義郎中尉と数名の下士官兵が追及してきた。長戸中尉はインパール作戦開始の当時、ビルマのカータ付近で、英軍の空挺隊を攻撃、敵陣地に突撃して負傷した。それが完全になおらないのに、進んで退院して、ニントウコンにかけつけてきた。  すでに瀬古大隊は将校が全員死傷し、古参下士官が倒れてしまった時である。陸軍士官学校第五十五期の現役将校がきたことは、第一線の大きな喜びとなった。  井瀬大佐は長戸中尉から到着の申告をうけたあとで、支隊本部で休むように、とすすめた。長戸中尉は、 「早く部下に会いたいから、失礼します」  と、すぐに出て行った。  この日は、M4中戦車は出てこなかった。だが、英印軍がニントウコン川の南に押しだしてくるのは、もはや時間の問題であることが明らかであった。今、インパール盆地とその周辺で、残っている日本軍部隊は、井瀬支隊だけである。英印軍は、それを知っているのだ。しかも、ニントウコンの井瀬支隊は、各隊合せて、百三十名に満たなかった。  井瀬支隊本部は南ニントウコンの西北部の竹やぶから、西南のすみに移った。英印軍が出てくる時のことを考えて、最後まで指揮をとれる場所を選んだ。こうして本部は、せまいニントウコンで、三たび移動した。そして、ついに西南端に追いつめられた形となった。  岩崎大隊の本部も移動した。岩崎大尉以下本部の数名は、大隊の第一線に行かないで、井瀬支隊本部といっしょになった。それは、岩崎大尉が七日の戦闘で、砲弾の破片で負傷したという理由からであった。支隊本部から大隊第一線までの直線距離は、約七百メートルである。岩崎大尉がどちらに動いても、大差はない距離である。しかし、士気という点からは大きな違いがあった。  すでに井上少尉はかくれ、金尾少尉は姿を消し、湯浅少尉、松本主計少尉は戦死した。残る将校は岩崎大尉だけであった。また、これまで大隊の指揮統率には、弱体の将校よりも、大谷曹長、塩田軍曹、清田軍曹らの働きが大きかった。そのうちの塩田軍曹が戦死してしまった。  このような時期だけに、岩崎大尉が支隊本部に移ったことは、第一線の下士官、兵の不満となった。すくなくとも、追及してきて部下と再会した時、「みんなの前に出て合す顔がない」と、わびた人のすることとは思えない、というのであった。  岩崎大尉が、別人のように変ったのは、七日の英印軍の攻撃のすさまじさに、恐怖してしまったのではないか、という見方もあった。  七月九日。朝から豪雨が降りつづいた。インドの雨季は、最も猛威をふるう時にきたようであった。井瀬支隊本部は、台地の外壁や、部落内の地隙《ちげき》に、横穴を掘って、はいっていた。そこでは、豪雨を直接にあびることはなかった。井瀬大佐は、クレバの将校マントをかぶって、壕にうずくまっていたが、思いだしたようにいった。 「だれかをさげよう。戦車連隊はここで玉砕するから、兵の功績だけは残してやらにゃならん」  中村大尉は井瀬大佐が戦死の覚悟をしているのを感じて、悲壮な思いにかられた。 「連隊長殿が戦死されるのに、ひとりでもさげることはできません」  二十四歳の中村大尉は、潔《いさぎよ》く死ぬことを考えていた。  同じ七月九日の豪雨にうたれて、瀬古大隊の田中安雄軍曹は、移動治療班に横たわっていた。弓の主力が撤退してきたので、移動治療班にも、あわただしい空気がみなぎっていた。  田中軍曹は六月六日の夜襲で重傷を負って、移動治療班に行くことになったが、担架も自動車もなかった。  はじめは分隊の部下の丸田兵長と田中一等兵が同行した。田中一等兵も銃弾に口を貫通され、ほとんどの歯をくだかれて、無残な顔になっていた。それでも手足に支障がなかったので、田中軍曹をささえて歩いた。  途中で、丸田兵長は米をさがしに行くといって去った。田中軍曹と田中一等兵はニントウコンから四十三キロメートルの道を歩くのに十八日かかって、四十九マイルの地点にたどりついた。  南道の左側は林におおわれた、ゆるやかな谷であった。田中一等兵は移動治療班の本部に手続きに行った。田中軍曹は道路わきに横たわって待っていた。ここまでくれば病棟に収容され、軍医の手当も受けられる。これで助かった、と思っていた。  田中一等兵はもどってきた。口のきけない田中一等兵は、その林のなかの谷が、移動治療班であることを、身ぶりで伝えた。正しくは第十六兵站《へいたん》衛生隊移動治療班というのが、実は露天の谷にすぎなかった。患者を収容する幕舎もなかった。傷病兵は、じかに地面に横たわっていた。携帯天幕を持っている者は、それをかぶって、雨を防いだ。だが、斜面を伝わって川のように流れる雨水を防ぐ方法はなかった。その携帯天幕さえも持っていない患者が多かった。  田中軍曹もそのひとりであった。仰向けに寝たきりの田中軍曹の首筋や肩から濁流が流れこみ、胸部、右肩の盲管の傷は、泥に埋もれたままになっていた。  傷病兵の足もとには、木の枝を地面に打ちこんであった。斜面に寝るので、ずりおちないためであった。頭の部分だけに、木の枝を組み合せて、草をのせ、屋根のようにして、覆いにしてあった。からだを動かせる戦友が作ってやったものらしかった。  負傷者のための包帯はなかった。手足を切断し、あるいは体内にはいった銃弾をとりだすにも、麻酔薬はなかった。傷口には、すべてウジがわいていた。ウジは肉をかむので、その痛さに負傷者はうめいた。  マラリアで高熱をだしている患者も、肉が破れ骨を露出させた負傷兵も、雨にうたれるにまかせていた。ほとんどの患者は下痢をしていた。だが多くの患者は寝たままで動けなかった。汚物は、あたりに流れるにまかせた。  いたる所に、うめき声や泣き叫ぶ声が聞こえた。それも次第に衰え、つぎつぎに、いきが絶えた。隣の患者が死んでも、どうすることもできないでいた。  死体は火葬にはできなかった。雨のなかではあるし、また、煙があがれば、飛行機の目標になった。衛生兵は数がすくなく、土を深く掘る余裕がなかった。谷底に埋められた死体は雨水にあらわれ、激しい死臭をわきあがらせた。  弓師団の撤退がはじまると、移動治療班の死の谷は、傷病兵と死体とが日に日に増加して、足の踏み場もないほどにならんだ。  移動治療班では食事は与えてはくれなかった。動けない患者が腹をすかし、衛生兵に食物を哀願した。衛生兵は答えた。 「お前らにやる米はないわい」  わずかに動ける者は、食糧の雑草をとりに行った。  山中には春菊《しゆんぎく》に似た草があった。兵たちはそれを摘みあさって食い、“牟田口草《むだぐちそう》”と名づけた。牟田口廉也中将の名をとったのである。食糧の補給を無視して、この大作戦を号令した牟田口将軍から与えられたものが、山中の野草にすぎないことへの恨みと憎しみをこめた名であった。そればかりでなく、患者のなかには苦痛のあまり「牟田口のばかやろう」と、叫ぶ者もいた。  移動治療班も撤退する、といううわさが、たちまちのうちにひろがった。また、ビルマに帰る途中の川の渡し場では、健康な兵だけを渡し、傷病患者は置き捨てにされる、といううわさも伝わった。健兵優先というのは、ビルマで再編成して、英印軍ともう一度戦うためであり、また食糧を戦闘部隊にまわすためであるという。患者らは動揺し、不安におののいた。  移動治療班で、撤退のためにトラックを出す、という話が伝わってきた。田中軍曹は、なんとかして、それに乗せてもらいたかった。むりにからだをおこしてトラックのある前に、便乗をたのみに出かけた。それに乗らない限り、生きて帰ることはできないと思った。だが、田中軍曹はことわられた。トラックには将校だけしか乗せない、というのだ。  田中軍曹は国境の難嶮を歩き、ビルマに帰りつく自信はなかった。このころから、付近の密林や谷のなかで、にぶい爆発音が続発した。絶望した患者が手榴弾で自決をするようになった。 5  インパールの東北方にまわった祭第十五師団の戦線も崩れて、退却していた。  ナガ山系の山道には、チンドウィン何の渡河点に退却する兵がつづいていた。軍服はボロボロになり、上着だけしか身につけていない者もいた。髪もひげも、のびるにまかせ、骨と皮にやせ衰え、目玉だけを大きく光らせていた。栄養失調のために、顔がむくみ、からだがふくれている者もいた。  路傍には、点々と、動けなくなった者と死んだ者が横たわっていた。その服やくつは、あとからくる者にはぎとられた。もはや、そこには“皇軍”という軍隊もなく、また人間もなかった。ただ、うごめく、ひとかたまりの肉体があるにすぎなかった。  前線部隊が退却してくる、と聞いて、牟田口軍司令官は怒った。七月五日、インパール作戦を中止する命令をだしたが、牟田口中将は、まだ諦めなかった。七月七日には烈、祭、弓の三師団に新たに命令を発して、インパール西南方のパレルを攻略させることになった。牟田口軍司令官と参謀たちは、それが実行できると考えていた。  牟田口軍司令官のインパールに対する執着心は普通ではなかった。第十五軍の司令部では、毎朝、全員を集めて、軍司令官が長々と訓辞をした。そのなかで、再三にわたって明言した。 「自分は、このインパール作戦を成功させて、陸軍大将にならない限り、断じて帰ることはしないのだ」  牟田口中将がこの作戦を強行したのは彼自身が陸軍大将になるためであったのだ。  そのころ第十五軍の戦闘司令所は、カバウ河谷のクンタンにあった。牟田口軍司令官は退却兵の状況を見るために、馬に乗って近くの街道に出た。  衛兵司令の叢軍曹は、すぐに衛兵一名をつれて、後につづいた。  街道には、ウジにまみれ、ぼろきれのようになった兵隊が歩いていた。牟田口軍司令官は馬上から叫んだ。 「どこの兵隊か。停止敬礼をやれえ」  叢軍曹はおどろいた。もともと牟田口軍司令官は敬礼儀礼にやかましかった。その身辺を護衛する衛兵たちは、毎日のように、口うるさく、しかりつけられていた。  メイミョウの軍司令部では、とくにやかましく、自動車に乗る時でも、軍司令官の動きに、ぴたりと合せなければならなかった。軍司令官が官邸の階段をおりると、車がはいる。軍司令官が玄関に立った時、一瞬の差もなく、自動車のとびらを開かなければならなかった。  乗馬で衛兵所の前を通る時も同様であった。軍司令官の乗馬が八歩手前にさしかかった時、敬礼の号令をかけることになっていた。それが一歩でも半歩でも違うと、やりなおしになった。軍司令官は馬をもどした。そのたびに、うしろに従った副官たちの乗馬の列も、逆もどりした。  叢軍曹は苦心したあげく、八歩手前の所に、石をおいて目じるしを作っておいた。すると今度は衛兵の「捧《ささ》げ銃《つつ》」が改正以前の旧式だ、と、しかられた。  牟田口軍司令官がこのようなことに口やかましかったのは、それが“軍紀厳正”のためだというのだった。  どなられた敗残兵たちは、うつろな目で見たが、なんの反応も示さなかった。  叢軍曹は腹をたてた。なんという血も涙もない男か、と思った。停止敬礼を命ずるよりもさきに、馬をおりて、いたわってやるべきではないか、と、叫びたかった。  その時、馬上の将軍は、さらに大声でどなりつけた。 「おれをだれだと思うか。おれは最高軍司令官だぞ」  牟田口軍司令官は背は低かったが、そのころも、肥って、つやつやとしていた。第十五軍の経理部長有田大佐に厳命して、この第一線でも、鶏と日本酒を必ず食事に出させていた。インパール作戦軍のなかの、ただひとりの肥った健康者であった。  汚物と悪臭にまみれた兵隊たちは、ぼう然として歩くだけだった。軍司令官は、その悪臭をさけて、まもなく馬を引返した。  その夜、叢軍曹が衛兵所にいると、軍司令官がけたたましく呼びたてた。叢軍曹はおどろいて、かけつけた。軍司令官は寝間着姿で“官邸”と呼ぶ家屋の入口に立っていた。 「叢、おれのへやの床下に、だれか、かくれている。さがしだせ」  叢軍曹と衛兵たちは、軍司令官の家の内外を、くまなくさがした。だれもいなかった。いるはずはない、と叢軍曹は思った。  その時の、恐れおののいた牟田口中将の表情が、いつまでも叢軍曹の目に残った。  そして、叢軍曹は思った。昼の停止敬礼といい、夜のさわぎといい、これが、インパール作戦の軍司令官といえるだろうか。牟田口中将は異常人物か、さもなければ錯乱をおこしているのではないか、と、叢軍曹は感じた。 潜 入 部 隊  日本軍の中戦車が二輛、北ニントウコンの最前線に向って前進して行った。昭和十九年七月十日の薄暮であった。  マンゴー台地の安師団の一個小隊が全滅して、左第一線が穴をあけられてしまった。その手当をするために、井瀬大佐は戦車連隊の第二中隊の二輛を前進させた。先頭車には中隊長代理の高島少尉が乗っていた。  英印軍は安の陣地を占拠し、そこを橋頭堡《きようとうほ》にするに違いなかった。そうなれば、そこから二百メートル東の瀬古大隊の陣地が危くなる。また、南台地の岩崎大隊も、まともに攻撃をうけることになる。この、危機に直面した両部隊を、『チハ』中戦車は支援しようとしていた。だが、それも、兵隊のいう“戦車トーチカ”(小型の砲塁)となるにすぎなかった。  突然、夕やみのなかに火花が飛び散り、中戦車に砲火が集中した。対岸の英印軍陣地では、日本軍のすこしの行動をも見のがさなかった。中戦車は夕やみにまぎれて逃げこみ、岩崎大隊の陣地の後方にはいった。  中村大尉と河本見習士官は、砲声が気になって、小高い所にあがって見た。砲声は、そのまま、おさまった。ふと気がつくと、南道の方に点々と人影が見えた。ゆっくりと動いていた。人をせおっているのもいた。 「負傷者がさがるのでしょうか」 「このごろは、みんな本部へ無断でさがるんだな」 「連絡なんかにかこつけて、さがるのもいます。さがったら、もどってこないです」 「兵や下士官のなかには、帰りたい、帰りたいの一心の者もいるだろう。よく、ここにいられると思う。普通の人間の神経では、とてもおられない所だ。そういってはわるいが、ここにいるのは、軍人という動物だな」 「河本は、泥のなかで寝ている兵隊を見て、生ける屍だと思いました。そんなにしてまで、がんばっていられるのは、忠君愛国という考えが、骨の髄までしみついているからだと思いました。そして、それは教育の力、とくに軍隊教育の成果だと思います。ただ一途に、国のためということに徹しているからです」  河本見習士官は、青年学校の教員としての信念を語った。中村大尉もうなずいた。  南道を歩いている人影は、ふらふらとよろめいているのが、それとわかった。せおわれているのは、歩けない負傷者なのだろう。せおっている方が大きくよろめき、崩れた。ふたりの姿はころげこんで、見えなくなった。弾の穴のなかにおちこんだのだ。ほかの人影は、それと全くかかわりないように、ふらふらと通りすぎて行った。  やがて、夕やみが濃くなったが、穴におちこんだ負傷者たちは、姿をあらわさなかった。 「戦車の下士官で、自分で傷をこしらえて、さがったのがいるそうだな」 「そんな話を聞きました」 「連隊長が何かいったら、知らないことにしておけ。連隊長、うるさいからな」  翌日。七月十一日の朝。  井瀬大佐と中村大尉は、上半身を裸にして、水たまりの水で、からだをふいていた。井瀬大佐は、やせ細って、服を着ている時にくらべると、ひどく見劣りがした。この戦場の労苦のためにやせたのだろうと、中村大尉は思った。  北の方でエンジンの音らしいものが聞こえた。井瀬大佐は、前のように敏感な反応を示さなかった。中村大尉も、すぐに、それがどういうことなのかを考えようとしなかった。連日連夜、砲爆撃をあびて、銃砲声におどろかなくなった。というより、感覚がにぶってしまっていた。 「敵の戦車が出たようです」  鯨井満臣《くじらいみつおみ》少尉が報告にきた。材料廠長の小田大尉が負傷してさがったので、代って本部にきている、陸士五十六期の若い少尉であった。中村大尉は、われに返ったように、事の重大さに気がついた。鯨井少尉をつれて、ぬかるみのなかへ飛びだした。  ダダーン、ダダーン、と激しい砲撃の音が、ま近に響いた。戦車砲の発射音に違いなかった。中村大尉と鯨井少尉は部落のはずれの小高い所に上った。部落の林も竹やぶも砲爆撃になぎ倒され、目をさえぎるものがなくなっていた。  薄れた朝もやのなかに、大きな戦車が二輛、浮かび上っていた。瀬古大隊の陣地のすぐ前である。長く突きだした戦車砲が火を吹いていた。まさしく、英軍のM4シャーマン中戦車であった。 「とうとう出てきたな」 「どうやって川を渡ったのでしょう」 「橋をかけたに違いない。超壕機(架橋専用の戦車)がきたかも知れんぞ」  中村大尉は、英軍が本格的な攻撃に出てきたと判断した。山岳地帯にいた弓第三十三師団の主力が撤退したのを知って、ニントウコンの井瀬支隊をつぶしにきたのだ。  M4中戦車の七十五ミリ砲は、瀬古大隊の陣地を撃ちつづけた。瀬古大隊は身動きもできないに違いなかった。もしM4車が前進すれば、陣地は蹂躙《じゆうりん》され、生き残りの将兵は板のように押しつぶされる。そこに今、何人が生きているか、わからなかった。あとから追及してきた長戸中尉は、まだ元気でがんばっているらしかった。重機関銃が撃ちだした。その音が、瀬古大隊の生きていることを告げていた。  昨夜、前進させた『チハ』中戦車は見えなかった。『チハ』車の四十七ミリ砲と、M4車との撃ち合いでは勝負にならないので、かくれているのだ。中村大尉は最期の時がきた、と思った。  だが、まもなく、M4車は砲撃をやめエンジンの音を響かせて帰って行った。 「強行偵察にきたのでしょうか」 「そうかも知れん。ゆだんできないぞ」  ふたりが本部にもどりかけると、飛行機の爆音が近づいてきた。 「きたぞ」  近くに壕があったので、飛びこむと、全身がつかるほど泥水がたまっていた。英軍の戦闘機は編隊をくんで、すでにま近にきていた。急降下の鋭い音がした。重く、にぶい地響きがした。爆弾がおちたのだ。だが、すぐには爆発しなかった。爆弾は、泥田のようにやわらかくなった土のなかに、深くもぐった。中村大尉は口のなかで、 「一、二、三、四、五、……」  と、数えた。突然、大地が割れ、吹き飛ばされそうな振動と轟音が伝わった。英軍の爆弾は、陣地などを破壊するために、短延期信管を使っていた。爆発が終ると、中村大尉は、ほーっと息をはいて、心のなかでつぶやいた。 〈あ、おれは生きていた〉  また、急降下の音。地響き。中村大尉は数を数えた。激しい爆発が終ると、また思った。 〈ああ、おれはまだ生きていた〉  振動と轟音がつづいた。空中には飛行機の爆音がいり乱れた。その間に、どこかで、だれかが死んで行く。だれもが、死の順番のなかにいた。  爆撃の目標が移動した。中村大尉は壕から半身をのぞかせた。マンゴー台地に兵が立っていた。英印軍の兵である。日本兵がつぎつぎに死に、生き埋めになるのを、見せ物のように見ている。上空には、英軍機の編隊が旋回し、翼をひるがえして急降下した。爆弾が落ちるのが見えた。岩崎大隊の陣地のあたりだった。  爆発の火煙は幕のように空中にひろがった。そのなかに大の字になった人間の姿が舞い上り、ぐるぐるまわりながら落ちて行くのが、はっきりと見えた。つづけざまに幾つもの人間の肉体が、花火の光のなかの風船人形のように浮き上った。  爆撃の間、戦車連隊の第一中隊の鳥屋部慶蔵《とやべけいぞう》曹長は田のなかで腹ばいになっていた。からだがかくれるほど泥水がたまっていた。毎日、爆撃砲撃のたびに水づかりになるので、皮膚がふやけて白くなっていた。第一中隊は将校がいなくなり、鳥屋部曹長が先任だった。戦車は破壊され、兵は七人になっていた。将校がいないために、鳥屋部曹長以下第一中隊の生き残りは、第三中隊長織尾大尉の指揮下にはいることになった。  鳥屋部曹長らは、悪評の高い中隊長をさけた。織尾大尉も壕にはいって、出てくることがなかった。小隊長のうち、松本少尉は負傷したし、淀川中尉らは後方にいて、ニントウコンに出てこなかった。結局、鳥屋部曹長が陣地の警戒にあたった。第三中隊の二輛の中戦車は、すでに半分を地中に埋めて、戦車トーチカとしてあった。  鳥屋部曹長は田の水のなかにかくれていたが、のどがかわき、腹がすいた。田の水はどろどろだが、シャツにしみた水はきれいなのに気がついた。鳥屋部曹長はシャツをすすった。  まもなく英軍機は去った。壕からはい上った中村大尉は鯨井少尉にいった。 「これじゃ火攻め水攻めだな」  ふたりが本部に帰ると、井瀬大佐が心配していた。 「無事だったか。よかった。よかった」  井瀬大佐は第一線を案じて、中村大尉、副官の東雪男中尉をつれて、陣地を見舞に行った。部落の至る所が、爆弾の爆発で新しく掘り返され、大きな穴になっていた。直径が十メートル以上、深さは八メートルもあって、爆弾の恐しい威力を示していた。水がたまって池のようになっているのもあった。火薬のにおいが地面を這っていた。  岩崎大隊の本部のあった所の近くに、兵隊が倒れていた。泥まみれだが、負傷のあとはなかった。まだ生きているらしく見えた。東副官が、それをおこそうとして、顔色を変えた。兵隊のからだはぐにゃぐにゃと動いた。骨のない軟体動物のようだった。骨も肉も、くだかれていたのだ。爆撃の時に、空高く吹き上げられ、大地にたたきつけられたのだ。  井瀬大佐は戦闘帽をぬいで、死体に最敬礼をした。その頭が、はげ上っていて、違った人のように見えた。  そのあたりには、死体や、肉体の部分が散乱していた。井瀬大佐は頭をさげては、つぶやいた。 「かわいそうに、かわいそうに」  それから三人は南ニントウコンのはずれに出た。そこから三百メートルさきに岩崎大隊の陣地があった。そこに動きまわっている兵の姿が見えた。 「よく無事でいたな」  と、いいかけて、井瀬大佐は急に声をのんだ。そこにいる兵は半裸体に長いズボンをはいていた。鉄かぶとは浅い皿型である。まぎれもないインドのグルカ族の兵である。岩崎大隊の陣地は奪われてしまったのだ。守兵は、もはや、いない。  井瀬大佐は沈痛な顔をして、部落の南端の本部に帰った。そのうち、図嚢《ずのう》から紙巻たばこをだして、近くの兵に一本ずつ配って歩いた。貴重品扱いの紙巻たばこであったし、もう、いくらも残ってはいないはずであった。それを兵にわけ与えているのを見て、中村大尉は井瀬大佐の胸中にあるものを感じた。井瀬大佐は、岩崎大隊の陣地が破れたのを見て、全員戦死を覚悟したのだ。  午後になって、また英印軍の砲撃が南ニントウコンに集中した。部落の低い台地は、片はしから掘り崩されるかのようであった。  この時、井瀬大佐は土手の上にすわっていた。激しい砲声と爆発の響きのなかで、北ニントウコンの英印軍陣地を見ていた。中村大尉や東副官が心配して、壕にはいることをすすめたが、きかなかった。井瀬大佐は前の時のように、《騎兵の突撃》をしようとはいわなかった。ただ、弾にあたって、死ぬつもりになっていた。近くに砲弾が落下するようになったので、中村大尉らが手をとるようにして、井瀬大佐を壕に押しいれた。  英印軍の砲撃は本部一帯を襲った。砲撃のあとで、兵の死体や、遺骨をとるための片腕が運ばれてきた。そのたびに、井瀬大佐は近づいて行き、深く頭をさげた。中村大尉には、大佐が泣いているように思えた。  七月十二日の朝。歩兵砲の井軍曹が目をさますと、英軍の戦闘機が激しい音をたてて、低空を飛び去った。井軍曹は砲にもたれて眠っていた。すぐに立てないほど疲れていた。こんなことで指揮がとれるか、と気持を励ましたが、動く力がなかった。自分の若い肉体の力もつきはてたように感じた。  いよいよ、きょうが最期だ、と思うと、国分文作軍曹のことが頭に浮かんだ。第一機関銃中隊・第一小隊の第二分隊長だった国分軍曹は、きのう、M4戦車の砲撃で負傷した。そのあとで手榴弾で自決した。生き残っている将兵は十数名にすぎない時だから助からないと覚悟をした、と思われた。国分軍曹は北海道網走町出身であった。  井軍曹は、しょせん、この戦場から生きては帰れない、と心をきめた。  ログタ湖からわきあがる朝もやがうすれると、ビューッ、ビューッと、鋭いうなりを残して、英印軍陣地から砲弾が飛んだ。機関銃が激しく撃ちだした。井軍曹が飛び出してみると、北ニントウコンの日本軍の陣地に、もうもうと白煙があがっていた。ピュン、ピュンと近くを小銃弾が流れた。  砲撃は一時間つづいてやんだ。突然、南道の上に、鉄の巨体が浮きあがってきた。 「戦車が出たぞ」  M4中戦車はニントウコン川を渡って、南ニントウコンの近くまできて、とまった。二輛つづいていた。戦車のうしろには、英印軍の歩兵が四、五十名ついていた。それが道路わきに出て、壕を掘り始めた。おちついた動作であった。M4車は、七十五ミリの長大な主砲を左右に動かして、すぐに射撃のできる態勢を示していた。  井軍曹の歩兵砲から、M4車までの距離は、四百メートルほどであった。命中精度の最もよい射程だ。だが、射撃することはできなかった。歩兵砲の弾ではM4車の堅牢な装甲を破壊することはできない。また一発撃てば、戦車砲に乱射される。  ニントウコンの井瀬支隊には、歩兵砲は一門しか残っていない。分隊員は、井軍曹以下七名が生き残っているだけだ。このわずかな戦力は、最も有効に使わねばならなかった。井軍曹はM4車をにらんで、歯がみをする思いだった。  M4車の戦車砲は、右第一線の瀬古大隊の陣地を連射した。陣地は泥と煙の幕に包まれた。  M4車と歩兵は一時間ほどで帰って行った。  夕方、井瀬大佐は瀬古大隊の陣地を見に出かけた。中村大尉は発熱してフラフラしながら、ついて行った。きのう、壕のなかで水づかりになったので、マラリアの熱が出たらしかった。  瀬古大隊の陣地も、形をとどめていなかった。砲弾の爆発した穴ばかりで、歩くこともできなかった。 「瀬古大隊はいるか」  やぶのなかから人影が出てきた。泥を頭からあびたような姿であった。第一中隊長の長戸義郎中尉であった。歩兵の生き残りは十二、三名で、負傷と病気をしていない者はなかった。また、全員が飢えていた。 「みんな、がんばっています」  長戸中尉の顔に、白い歯が見えた。  兵隊のひとりが、井瀬大佐に泥の手をさしだした。見ると、小さなバナナを一本持っていた。 「これをたべてください」  井瀬大佐は、しばらく無言でいた。中村大尉は胸にこみあげるものを感じた。互いに知り合う機会さえもなかった支隊長と兵であった。その気持が、いま、ふれ合っているのがわかった。死を目前にして、求めずにはいられないものがあったように思われた。  井瀬大佐は頭をさげて、受取った。  その夜。二十四時ごろ、河本見習士官が警戒にあたっていると、兵隊がかけつけてきた。 「いま敵兵らしい者が約二十名、南部落の方にはいりこみました」  南ニントウコンの北端に出ている戦車の第四中隊長、田中精中尉の出した伝令であった。河本見習士官には、友軍の兵が二十名とまとまって移動することは考えられなかった。また、暗夜ではあったが、銃を肩にぶらさげているらしく見えたという。そうした動作は、まちがいなく英軍の兵士と判断された。  中村大尉は壕のなかで寝ていた。熱が高くなり、時どき、うなっていた。近くで、井瀬大佐、東副官、山本大尉、鯨井少尉などが話し合っているのを、遠い世界のことのように聞いていた。しかし、重大な話であるとは感じていた。  協議の結果、山本大尉が巡察にでることになった。山本大尉について、五名の兵がのろのろした動作で出て行った。  実際に、二十名の英兵が部落にはいってきたならば、容易ならぬことであった。二十名の一隊は、何かの目的をもってきたに違いなかった。河本見習士官が自分の壕に帰ろうとして、外に出ると、雨もよいのやみ空に、青い火が走った。英軍の信号弾であった。  中村大尉は全身にさむけがして、がたがたとふるえた。ふるえがおさまると、汗がふきだして流れた。頭の奥に妙にはっきりした所があって、さまざまのことを思いだし、考えつづけていた。時どき、好きな軍歌『戦友の遺骨を抱いて』を歌っているつもりにもなった。 一番乗りをやるんだと りきんで死んだ戦友の 遺骨を抱いて今はいる シンガポールの街の朝  中村大尉の脳裏には、戦車連隊のことが回想されていた。戦車第十四連隊が駐屯地の広東から、仏印(フランス領インドシナ)のサイゴンに進駐したのは、昭和十六年八月であった。太平洋戦争は、まだ始まっていなかった。しかし、仏印に武力進駐したのだから、いずれ戦争になるに違いないと思われた。北進してソ連と戦うか、南進してイギリス、オランダと戦うか、連隊の若い将校は、さかんに議論した。当時中尉の中村達夫は第二中隊の先任将校で、指揮班長をしていた。第二小隊長は中尉の小田信次であった。  連隊の装備は古い装甲車から、全部、新しい九五式軽戦車にかわった。  十六年十月。訓練要綱が示された。それによって、マレー半島突進作戦の計画が明らかになり、士気は大いにふるい立った。  十六年十二月五日。連隊に出動命令がくだった。その日サイゴンを出発、急行進でタイ国の国境に向った。十二月八日。開戦となったが、タイ国には平和に進駐することになった。一戦を覚悟していた中村大尉らは、内心大いに落胆した。  昭和十七年の正月は、タイ国の首都バンコクのルンビニー公園にいた。のちにマレー半島のバクリで全滅した五反田中隊は、戦車に餅を飾って新年を祝った。  第二中隊長三浦大尉は、元日から軍紀教練と射撃予行演習を命じた。中村大尉は反対した。 「シンガポール作戦に参加すれば、全員戦死を覚悟しなければなりません。それも、もう、まもないことですから、せめて元日ぐらいは、他の中隊のように訓練を休んで、正月気分を味わわせてください」  三浦中隊長は、おだやかに答えた。 「おれもそう思うが、どうせ戦死するおれたちだからこそ、りっぱに戦って死にたい。それを思うと、元旦でも訓練を休むのが惜しいのだ」  中村大尉は中隊長に不満をもったことを恥じた。中隊の全員に、このことを伝えると、気分が一変して、熱をいれて訓練をするようになった。  新年の将校集会で第三中隊長の五反田大尉が連隊長北武樹大佐に訴えた。 「連隊長殿、タイ進入作戦には、むりにお願いをして尖兵中隊にさせていただきましたが、平和進駐なので、何もできませんでした。マレー突進作戦では、もう一ぺん尖兵中隊をやらせてください」  第一中隊長の多田大尉がわりこんだ。 「貴様、何をいうか。貴様は戦闘の経験がないから、平和進駐の尖兵中隊を譲ってやったんだ。今度は古参中隊長のおれの番だ」  ふたりは、むきになって争った。それほど若い将校は活気にあふれていた。  まもなく、戦車連隊はマレー半島のゴム林のなかの道を突進して、シンガポールに向った。  一月十九日夜半。五反田大尉の第三中隊はバクリ付近で数線の障害物に阻止され、対戦車砲の集中火をあびた。ゴム林のなかから火焔ビンを投げつけられた。九輛の軽戦車のうち、八輛が撃破され炎上した。一輛が損害をうけながら、辛うじて退却してきた。五反田大尉と第一小隊長の西枚中尉は抜刀して斬込んだ姿のまま死んでいた。戦車は全部赤く焼け、乗員の四、五名は白骨となっていた。戦車の外で抱き合って死んでいた下士官、兵が七、八名あった。  五反田大尉、西枚中尉、三宅軍医の三名の将校の死体は、穴を掘って安置してあった。英軍のしたことであった。  バクリを突破すると、すぐにバリットスロンでも激戦をした。  二月十五日。戦車連隊は近衛師団の左翼隊に協力して、シンガポール島のビダダリ陣地を奪取した。それから、まもない時刻に停戦協定となった。  この攻略戦に参加した戦車第一連隊は、全車をつらねてシンガポール市中行進をした。反日華僑《かきよう》に“皇軍威武”を示すためであった。その時、各車長は砲塔から半身をあらわしていた。その胸には、白布に包まれた戦友の遺骨を抱いていた。 男だ なんで泣くものか かんでこらえた感激も 山からおこる万歳に 思わずほおがぬれてくる  昭和十七年三月。ビルマに転戦。五月ラシオにはいった。駐留している間に、北連隊長が中村大尉に命じた。 「敵の遺棄死体がそのままになっている。あれを目につかないようにしておけ」  中村大尉は大きな墓標を作って、達筆の大石正治曹長に《支那軍戦没勇士之墓》と書かせた。  現場に行ってみると、白骨の山であった。中村大尉がつれて行った歴戦の兵も、たじろぐほどであった。事情を聞くと、七十名以上の捕虜をじゅずつなぎにして、日本刀で斬り、銃剣で刺し殺したということであった。先に進攻した第五十六師団の、歩兵部隊のしたことであった。  中村大尉は大きな墓を作って、墓標をたてて冥福を祈った。 負けずぎらいの戦友の かたみの旗をとりだして 雨によごれた寄書《よせがき》を 山の頂上に立ててやる  昭和十八年十月。第十五軍の部隊長会議から帰ってきた連隊長上田中佐は、連隊将校全員を集めて、会議の内容を伝えた。それがインパール進攻作戦計画であった。上田連隊長の説明によれば、軍がインパールを奪取したならば、戦車連隊は追撃して、インドのブラーマプトラ河畔まで行くようにしなければならぬ、というのであった。  この作戦には、インパールだけでなく、さらにブラーマプトラ河を望む壮大な夢があることが明らかになった。  材料廠長だった山本大尉は、ブラーマプトラ河までの距離を計り、戦車の燃料を計算し、その集積を始めた。この燃料は、牟田口軍司令官の第十五軍から支給された。  そして昭和十九年三月一日。戦車連隊の六十六輛の戦車はチンドウィン河を渡って、インド国境に向って進んだ。  中村大尉が熱にうかされているうちに、捜索に出た山本大尉がもどってきて報告した。 「部落内に異状ありません」  だが、不安な空気は消えなかった。  七月十三日の夜が明けた。歩兵砲の砲手、増雄兵長が歩兵砲陣地に飛びこんできた。 「班長殿、敵がいます。本道のすぐ向うです」  井軍曹はおどろいた。部落のなかの、そんな近くに敵がきているとは思えなかった。 「友軍かも知れんぞ。行ってみよう」  井軍曹は拳銃を持って、棲息壕に行くと、兵長は南道の向うを示した。 「そこです。確かに敵です」  井軍曹は分隊の全員に戦闘準備を命じ葦の間にしゃがんで、前方を窺った。しばらくは何ごともなかった。  突然、南道の向う側の、倒れた竹の上に上半身があらわれた。青い服、浅い鍋のような鉄かぶと、赤い顔がはっきり見えた。まぎれもなく白人兵であった。距離は五十メートルもなかった。井軍曹は、兵長と古川上等兵を井瀬支隊本部に伝令に走らせた。 《部落の中央、本道のすぐ西側に敵が侵入、兵力装備共に不明》  この朝も、英軍のM4車がインパール南道上に出現した。井軍曹の歩兵砲の位置から四百メートルの距離であった。M4車の七十五ミリ砲はゆっくり旋回して、日本軍を威圧した。  連日、上空を閉ざしていた濃い雨雲はうすれ、太陽の光が降りそそいだ。雨季の最盛期としては、めずらしいことであった。それなのに、英軍の飛行機も飛ばなければ砲撃もしてこなかった。これも、めずらしいことであった。  中村大尉は発熱していたので、この平穏な好天は、夢を見ているのではないか、と思った。昨夜半、部落内に英兵が潜入したことも、夢のような気がした。ただ、ぬれた服をとおして、日光の温かさが感じられるので、現実のことに思った。  井瀬支隊本部は、南ニントウコンの西南端の、用水路のような細長いくぼ地にはいっていた。井瀬大佐は、はしの所にいて、図嚢を台にして、通信紙に手紙のようなものを書いていた。  歩兵砲分隊のふたりの伝令がきたので、本部でも、潜入英兵が部落にいることを知った。中村大尉は意識がはっきりしてきて、討伐の方法を考えていると、英軍のダグラス輸送機が一機、ニントウコンの上空にきて旋回をはじめた。日本兵は、それまで、輸送機が弾薬糧食などを落下傘につけて、英印軍陣地に投下するのを、目前に見ていた。奪い取ったこともある。 「物量投下をしてくれんかなあ」  本気にいう声がした。輸送機は五十メートルほどの低空にはいり、胴体のとびらを開いて、乗組員がつぎつぎに箱を投げ落とすのが見えた。落下傘が点々と開いた。下士官兵は、「食糧だぞ。それ、とりに行け」  と、飛びだした。中村大尉は英軍機が日本軍陣地の上に投下するのは、目標を誤ったと思った。そして、いま飛びだせば、ねらい撃ちにされると感じた。 「出るな。出るな」  だが、飢えた兵たちはきかなかった。落下傘を追ってバラバラと走った。落下傘は部落のなかの空地に落ちた。  中村大尉は河本見習士官に厳命した。 「河本、撃ち殺してもいいから出すな」  河本見習士官は拳銃を抜いて叫んだ。 「出るやつは撃ち殺すぞ」  英軍機は、二、三十個を投下して飛び去った。兵たちは箱をかかえてもどってきた。中村大尉は下野邦幸《しものくにゆき》主計少尉に命じた。 「勝手に処分させないで、公平にわけろ」  下野主計少尉は神戸高等商業学校出身で食糧の補給に苦労していた。下野少尉が出ようとすると、井瀬大佐がしかりつけた。 「食ってはいかんぞ。あれには毒がはいっている。敵の謀略だ。それでなくて、わが軍の上にきて投下するはずはない」  だが、もうその時には、兵たちは箱をあけていた。かん詰はゴボウ剣でこじあけ、手当り次第に口にいれていた。肉、野菜、スープ、果物などがあった。キャプスタンやネイヴィーカットなどのたばこもあった。水のかん詰まであった。  本部の将兵は中村大尉や井瀬大佐にとめられて、拾いに行かなかった。だが、ほかの兵たちがとどけてきたので、飛びつくようにして、むさぼりはじめた。中村大尉もかん詰の肉を手づかみで食った。久しぶりに口にいれる、食物らしい食物であった。  井瀬大佐は制止することをあきらめて、目をつぶっていた。空腹なことは同じであった。中村大尉や東副官がかん詰をすすめたが、うけとろうとしないで、いった。 「敵がわれわれに糧食を恵むのは解《げ》せないことだ。だから、おれは絶対くわんぞ」  しばらくして、頑固に孤立をつづけていた井瀬大佐は飯盒のめしをたべはじめた。副食物は何もなく岩塩の粒をふりかけるだけであった。そのうち井瀬大佐は、遠慮がちに中村大尉にいった。 「すまんけど、砂糖をくれんか」  一食分をつめ合せた紙箱のなかには、粉末の即席コーヒーと砂糖があった。井瀬大佐はがまんができなくなった。それをもらうと、めしにふりかけてたべた。いかにもうまそうにして、大きくのみこんだ。  十三日の午後になると、空はますます晴れて、太陽の光は強くなった。雨季が終ったかのようであった。英印軍陣地からは、依然として、砲撃をしてこなかった。  潜入した英兵に対して、十五時に討伐を開始することになった。中村大尉は鯨井少尉に指揮をさせることにした。  そこへ第二中隊の兵がかけつけた。 「高島少尉殿が戦死されています。すぐ、そこです」  中村大尉はおどろいて、その場所に行こうとすると、井瀬大佐も出てきた。  高島少尉は、十日の薄暮、『チハ』中戦車二輛をもって出た。高島少尉は中村大尉が第二中隊長の時に、その下で小隊長をつとめていた。中村大尉が本部に移ってからは、高島少尉が中隊長代理をしていた。第二中隊の四人の小隊長のうち、山口中尉が戦死、難波中尉、布重中尉が負傷して後退したためであった。  中村大尉は、とくに親しかったので、この若い教員であった将校の死を悲しんだ。  途中で、中村大尉は妙なものを見た。砲爆撃で吹き飛ばされて、下だけ残った立木の幹に、紙がさがっていた。日本軍の電話線を切断して、そのさきに縛りつけてあった。その紙には、日本文で第十五軍のインパール作戦の失敗の状況を記し、井瀬支隊の降伏を勧告してあった。前夜、潜入した英兵のしたことと思われた。  中村大尉はすぐに破り捨てたが、重大な危機が身辺に迫っているのを感じた。  高島少尉は砲撃で掘り返されたぬかるみのなかに、うつぶせになっていた。右手に拳銃を持っていた。  前日、岩崎大隊の陣地を奪われて、高島少尉のつれて行った戦車二輛が孤立していた。高島少尉は本部に報告に行く途中であった。近くから狙撃されたらしかった。  中村大尉は泥にまみれた高島少尉のからだを抱きおこした。涙があふれてきた。  井瀬大佐はねんごろに敬礼した。中村大尉は高島少尉の遺骨や遺品はとらないでおいた。どうせ自分もすぐに死ぬのだ、と思ったからだ。  井瀬大佐と中村大尉が本部にもどると、鯨井少尉が潜入英兵の討伐に出て行った。佐藤芳徳《よしのり》軍曹と兵五名がつづいた。  歩兵砲の井軍曹も兵長をつれて、拳銃と手榴弾をもって陣地を出た。  潜入英兵は爆弾の破裂でできた、大きな穴のなかにかくれていた。井軍曹と兵長が南道上から手榴弾を投げこんだ。穴のなかではつづけざまに爆発がおこり、すさまじい苦痛の叫びがあがった。鯨井少尉、佐藤軍曹らが飛びだして行くと、穴のなかから自動小銃を撃ちかけ、数名の英兵が這い上ってきた。鯨井少尉は軍刀をふるって斬りつけた。佐藤軍曹らは銃をさかさに持って、床尾でたたき伏せた。  その間に、数名の英兵が穴を出て、草原を走ってログタ湖の方に逃げて行った。井軍曹は拳銃で撃った。道路上に英軍の軽機関銃が捨ててあった。井軍曹はす早く拾って、走り去る英兵を撃った。  穴のなかには十二名の死体があった。草原には七名が倒れていた。散乱した兵器を集めると、小型無線機一、軽迫撃砲一、軽機六、自動小銃十五、小銃三、手榴弾、小銃弾など多数あった。相当な装備であった。  掃討を終えて、鯨井少尉らが本部に帰ってきた。佐藤軍曹は肩を銃弾に撃ちぬかれて、兵にささえられていた。  河本見習士官が声をかけた。 「佐藤、ご苦労やったなあ。痛くないか」  元気者の佐藤軍曹は、青ざめた顔に笑いを浮かべて、強い東北なまりで答えた。 「大丈夫でし。ごすんぱいかけてしみませんでし」  まもなく、第三中隊の高橋浩曹長が伝令にきた。中村大尉の顔を見るなり、報告をするよりもさきに、 「中村大尉殿、ご無事でしたか」 「お前も生きていたか」  と、喜び合った。同じ部落のなかの、それも四百メートルと離れていない所にいても、互いの生死が案じられた。それほど、激烈な砲爆撃をあびて、時々刻々に生命の危険にさらされていたのである。  高橋曹長は意外な報告をした。色の黒いインド兵が一名、第三中隊の陣地の前に走ってきたという。高橋曹長はおどろいて「敵だ」と叫んだ。中隊長の織尾大尉は、寝ころんでいたが、起きようともしなかった。その間に、インド兵はログタ湖の方に逃げてしまった。 「中隊長殿にかまわずに、自分がすぐに撃てばよかったのです」  高橋曹長は腹立たしそうにいった。  第三中隊は、部落の東南端にいた。英印軍陣地からは一番離れていた。そのような所にいて、敵兵を、みすみす逃がした織尾中隊長の態度に、中村大尉は怒りを感じた。それよりも、インド兵が逃げ去ったのは重大なことだ、と気がついた。中隊長に戦意がないばかりに、井瀬支隊全部が恐るべき事態に見舞われようとしているのだ。 「高橋曹長、お前はすぐ帰れ、われわれが安全なのは、あと一時間だ。逃げた奴が敵陣地に帰りつくには、湿地帯をまわるから一時間かかる。そいつが帰りつくと、きっと手痛いお返しがくる。よく注意しろ。あんな中隊長は相手にするな」  中村大尉は戦車連隊の各中隊、瀬古大隊、岩崎大隊の命令受領者に、英軍の報復射撃を警戒するように伝えさせた。  中村大尉はぐったりとして、くぼ地のなかに横たわった。きょう一日の奇妙に思えたことが、すべてわかってきた。英印軍が砲爆撃をしてこなかったのは、潜入部隊を傷つけないためであった。  M4車が出てきたのも、その支援のためであった。潜入部隊が攻撃をうけた時に、M4車が撃たなかったのは、敵味方がいり乱れたので、同士討ちをさけるためであった。  英軍の輸送機が食糧を投下したのは、目標を誤ったのではなく、潜入部隊に補給するためであった。この一隊には、それほど重要な役目があったのだ。まして、飢えた日本兵を毒殺するためなどではなかった。  英軍はニントウコン正面に、三千以上の大軍を集めていた。井瀬支隊は、七月はじめには、百三十名たらずになっていた。それでも対陣が一カ月余にわたった。これは英軍ができるだけ将兵の死傷を避けようとするためであった。英印軍は砲爆撃によって、日本軍の抵抗力を奪ってから、進出するやり方であった。日本軍を恐れたのではなかった。  このような英軍が、一隊を潜入させたのは、いよいよ一挙に、総攻撃を開始する前ぶれに違いなかった。  潜入部隊は、逃走したインド兵をのぞいて、ほかは全部白人兵であった。これは精鋭をすぐった部隊であると思われた。また、無線機、迫撃砲など装備が優れているのも、この一隊の任務の大きいことをあらわしていた。それに加えて、空中補給や戦車の支援をするのは、長期の活動を計画していたといえる。いずれにしても、勇敢な部隊であり、大胆で、大がかりな潜入計画であった。  夕方になって、雨が激しく降りだした。ごうごうとした雨の音にまじって雷鳴のような音が響きだした。英印軍陣地の一斉砲撃であった。部落は雨と、爆発の火煙と泥しぶきの幕に包まれた。ガーン、ガーンと耳をつんざくように至近弾が爆発すると、壕は波のようにゆれた。  砲撃はさらに激しくなった。一発一発の音は聞こえず、山くずれの地鳴りのように響いた。砲撃は十五分間つづいて、やんだ。その間に一千発以上の砲弾が約二百五十メートル平方の南ニントウコンに撃ちこまれた。 最 後 の 日 1  昭和十九年七月十四日。  朝早くから、英軍の観測機が南ニントウコンの上空を旋回した。疲れはてた井瀬支隊の将兵には、その、ゆるやかな爆音が、いらだたしく感じられた。真黒な機体の色も、神経にさわった。観測機は不吉な予告を空からまき散らした。  観測機は、今、インパールの南方戦線で、ニントウコンに一カ所だけ残っている日本軍の生死を確かめにきたようにも思われた。観測機がきたからには、相当の砲撃がくることを覚悟しなければならなかった。井瀬大佐以下、支隊本部の将兵は、それぞれの壕を出て、用水溝の退避壕に移った。まもなく、弓師団司令部から電話がきた。田中鉄次郎参謀長の荒々しい声が聞こえた。 「師団の主力部隊は、おおむね予定の線にさがりつつある。そっちの戦況はどうだ」  中村大尉は怒りを押さえながら答えた。 「連隊長殿はご健在ですが、兵はいくらも残っていません。撤退はいつですか」 「それは別命する。それまで、がんばれ」 「師団は八日から撤退しているのではないですか。もう、何日何時撤退ということを明示してもいいのではありませんか」  中村大尉は相手が師団参謀長であっても、ずけずけといった。もう、どたんばにきているという気持だった。 「いや、いかん。もうすこし、がんばれ」 「それでは、戦況を見て、独断でさがってもよいですか」 「独断はまかりならん。別命する」 「どういう方法で別命しますか。無線は破壊され、有線はきれてばかりいて、連絡がとれません。どこへ伝令を出せばよいのですか」 「別命するまで待て」 「では、見殺しにするつもりですか」  井瀬大佐は、わきで聞いていて、首をふった。もういい、ほうっておけ、という顔であった。その時、電話は切れた。電話線が切断されたらしかった。  電話線は砲撃のたびに寸断された。そのたびに通信隊の兵は、故障箇所をさがしに飛びだした。砲撃の最中でも、司令部では修理を命じるので、通信隊の死傷者が続出した。中村大尉は、電話が役に立たなくなることを恐れていた。  各部隊からは命令受領者が本部にきていた。瀬古大隊の今西軍曹、岩崎大隊の直原治《じきはらおさむ》兵長、岩崎大隊の機関銃中隊の清田軍曹らであった。今の電話で、きょうも命令は出ないと見当をつけて、近くの個人壕に帰った。七月になってからは、支隊として出す命令はなくなっていた。攻撃力も防備力もない軍隊は、わずかに泥のなかにうごめいて、砲爆撃をあびるにまかせるだけであった。  陣地を奪われた岩崎大隊の生き残りは、支隊本部の近くにさがっていた。それぞれに身を置く場所を求めて、泥にまみれて横たわっているだけであった。岩崎大隊の前に出ていた戦車トーチカも、破壊されてしまった。  独立工兵隊は二十名たらずとなって、動けなくなっていた。  井瀬支隊に配属になった部隊のなかで、野砲中隊だけは早くさがった。野砲は、野戦重砲兵第十八連隊などとともに、七月九日に師団命令でさがった。重量のある火砲は、早くさげねばならなかった。  午後になって、雨雲が低くたれさがり、インパール盆地は夕暮れ時のようにくらくなった。盆地にひろがった鉛色の水面には、白波が走り乱れた。まもなく、大粒の雨が降りだした。  河本見習士官は本部から自分の壕に帰った。全身がだるく、苦しかった。栄養失調だと気がついていた。くぼ地の横穴式の壕にはいって行くと、なかに人がいた。河本見習士官は、その壕を副官の東中尉といっしょに使っていたが、その男は副官ではなかった。 「何をしているのか」 「すいまへん」  顔の青くむくんだ兵が、おどおどして出てきた。河本見習士官が問いつめると、 「隊長殿の命令で連絡に参りました」  と、ごま化そうとしたが、結局、敵前の恐しさにたえかねて、無断でさがってきたことを自白した。瀬古大隊の兵であった。  河本見習士官は兵を追い返して、壕にはいった。何よりさきに、たばこを吸いたかった。きのうの英軍の空中補給で、ネイヴィーカットを一箱手に入れたのが、大きなたのしみとなっていた。図嚢から出そうとしたが、なくなっていた。さては、あの兵隊がガメやがったな、と直感して、壕を飛び出した。  兵は、その近くに立っていた。どこに行くあてもない表情で、雨にうたれていた。 「たばこをだせ。おれのをとったろう」 「知りまへん」 「どうしても知らんというなら、服装検査をしようか」  その時、雷鳴のように英印軍の砲声がとどろいた。砲弾は南ニントウコンに落ちかかって、部落をかたはしから撃ちくずした。やがて、弾着は本部の近くに延びてきた。河本見習士官は壕のなかに走りこんだ。つづいて東中尉がとびこんできた。そのあとから、今の瀬古大隊の兵ももぐりこんで、東中尉の背中にしがみついた。  岩崎大隊の命令受領者、直原兵長は近くの壕に飛びこんだ。下に兵がいて、かぶさったままでいると、背中に空気のぬけるような感じがした。弾だ、と予感した。あわてて、下の兵を押しわけるようにして、壕の奥にもぐりこんだ。その時、目がくらみ、全身をたたきつけられた。そこへ熱湯のようなものが降りかかった。目をあけると、前に何もなくなっていた。壕が吹き飛ばされたのだ。直原兵長は近くの土のかたまりにしがみついた。一発きたらおしまいだ、と思った。生きたここちはなかった。大地は激しく動揺し、熱風がからだをたたいた。  本部の用水溝の周囲にも、つづけざまに砲弾が落下した。だれもが泥のなかに顔をつっこんでいた。キューン! キューン! と音をたてて、砲弾の破片が飛びかい、鋭くつきささった。「痛い!」「やられた!」の叫びや、すさまじい絶叫がそこここにおこった。  井瀬大佐は壕の一番さきの方に、中村大尉と向き合ってすわっていた。それにつづいて山本大尉、鯨井少尉、佐藤芳徳軍曹、服部軍医中尉などがかさなり合って伏せていた。 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」  と、必死に祈り立てていたのは山本大尉であった。悲鳴がつづいた。「痛い! 痛い! 痛い!」と泣き叫ぶ声が、すぐに力なく消えた。「やられた!」「やられた!」の叫びがつづいた。山本大尉の経をとなえる声は、苦しそうなうなり声に変った。激しい大地の動揺はつづき、泥しぶきがかぶさり、雨が滝のように降りそそいだ。中村大尉は手と顔に熱いものがしみこむのを感じた。なまぬるいものが流れているのがわかった。「しっかりしろ! しっかりしろ!」と、自分にいいつづけた。  井瀬大佐のからだが一回転した。井瀬大佐はからだをおこし、大きくうなりながら、手で足を押えた。皮脚絆は裂け、くつはちぎれ、足首の骨が出ていた。真赤な血があふれだし、雨に流された。井瀬大佐は両手で足を押え、苦痛にたえかねて声をあげた。中村大尉は飛びおきて、井瀬大佐の大腿部を両手で押えつけた。血はとまらずに、なおも吹きだした。井瀬大佐は、からだをよじって、血と泥のぬかるみに倒れた。 「連隊長殿」  中村大尉は必死に叫んだ。井瀬大佐は、しばらく苦痛にたえていたが、 「もういい、おれはすわる」  と、からだをおこして、用水溝のへりにもたれた。荒いいきをはきながら、クレバの将校マントを頭からかぶった。  弾丸はなお飛来し、爆発し、あたりは湯が煮えかえるように動揺していた。死のせつなの絶叫が尾をひいた。そのなかで、中村大尉は井瀬大佐の声に気がついた。絶え絶えに聞こえていた。 「我国の軍隊は世々《よよ》天皇の統率《とうそつ》し給ふ所にぞある」  井瀬大佐はマントのなかで『軍人に賜わりたる勅諭』をとなえていた。 「……朕《ちん》は汝等軍人の大元帥なるぞ。されば朕は汝等を股肱《ここう》と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてこそ、其親 《したしみ》は特《こと》に深かるべき。……」  中村大尉の目の前に爆発の光がひらめいた。中村大尉は気が遠くなって行くのを感じた。自分は今、死んで行くのだ、という意識があった。帝国軍人のつとめを果し終える時だ、と思った。中村大尉は必死に叫んだ。 「天皇陛下ばんざーい」  中村大尉の意識は暗黒のなかで、もがきつづけた。急にあたりが明るくなった。目のさきに、井瀬大佐の胴体が横たわっていた。左の肩から胸の半分が砕けていた。左の腕はもげていた。鉄かぶとは割れて、きれいにはげあがった頭が見えていた。  苦痛のうめき声は、みぞのそこここに聞こえた。雨は降りしきり、みぞの底には赤黒い水が流れた。弾着の位置は遠ざかったが、砲撃はなおつづいていた。  中村大尉は〈敵兵が逆襲してくる〉と思いこんでいた。砲撃につづいて、歩兵が突入するのは、戦術の常道である。日本軍がそうしているから英印軍もそうするに違いない。〈敵が逆襲してくるのを、だれも監視していない。自分が監視しないと大変なことになる〉中村大尉の頭のなかには、そのことだけが強くひらめいていた。そのほかの判断はなくなっていた。  中村大尉はみぞからはい上った。無我夢中であった。すぐ近くには砲弾が爆発していた。そのなかを歩きだした。ふらふらしていた。砲弾の爆発で、泥の山が波のようにかさなっていた。中村大尉は足をとられて倒れた。もがいて起きあがると、また歩きだした。〈自分が監視しなければならない〉と思いつづけた。砲弾の爆発で、前方は煙と泥しぶきでおおわれていた。時どき、破片が飛んできた。中村大尉は、それを避けるつもりで部落の西の外に出た。沼のような湿地であった。  中村大尉は別のことを考えだした。〈自分が連隊長のそばを離れて死んでいたら恥だ〉〈あとから友軍がきて、中村は連隊長殿のそばから逃げだしていた、というだろう〉中村大尉は、それが気になってきた。いそいで、もとの用水溝にもどりはじめた。爆発の衝撃は大地をゆすり、空気をふるわせた。中村大尉は今度は〈敵弾は自分を追いかけている。敵弾がねらっているのは自分だ〉と考えた。そしてまた〈死んでも、連隊長殿より前に出ていたら、恥にはならない〉と考えた。  中村大尉はフラフラと向きをかえた。胸が苦しかった。血が流れているのがわかった。中村大尉は、すこしでも楽になろうとして、鉄かぶとを捨てた。鉄かぶとなどは、どうでもよいような気になっていた。次第に痛みがひろがり、疲労が加わった。〈どうにでもなれ〉と、中村大尉は泥のなかに倒れこんだ。  中村大尉は、自分では正しい判断をし、先任将校として必要な行動をしているつもりであった。だが実際には、異常な行動をとっていた。時には、このようなことが“勇敢”“大胆”な行動と見られることでもあった。しかし、すべて戦場でおこる異常な心理状態であった。  砲撃は約一時間つづいて、おさまった。この激烈な状況のなかで、ぐっすりと眠りこんでいた者がいた。河本見習士官である。壕のなかに飛びこんで、はじめは恐怖のために全身を緊張させていた。弾着が近づくと、死を観念し、死を恐怖し、無我夢中で息をころしていた。いつか、眠ってしまった。しかし、これは、河本見習士官が疲れきっていたためでもあった。東副官にゆりおこされた時には砲撃は終っていた。壕に飛びこんできた瀬古大隊の兵はいなくなっていた。壕の外に出てみると、あたりは一層荒廃し、生きている者はひとりもいないかと思われた。  ぬかるみを走ってくる者がいた。泥にまみれ、すさまじい表情をしていた。河本見習士官は思わず「だれか」と叫ぼうとして、ようやく気がついた。血相変えた服部軍医であった。 「副官殿、だめです。連隊長殿は戦死されました」 「しまった。どこだ、場所は」 「退避壕のなかです」 「ほかには」 「壕にいた者は全部死傷しました」 「服部軍医は大丈夫か」 「自分も股をやられています」  三人は用水溝にかけつけた。みぞのなかは血にまみれた死者、負傷者が横たわり、血と泥水につかっていた。河本見習士官は、そのすさまじさに顔色を変えて立ちすくんだ。東副官は、その上を踏み越えて、なかにはいった。三人は泥と死体のなかから、井瀬大佐のからだを引きだした。負傷の損壊が大きく、復元は困難、と服部軍医は診断した。  その隣には、山本大尉が死んでいた。左股動脈に対する砲弾創、急速な動脈性出血死、という服部軍医の所見であった。 2  夕方になって雨はあがった。灰色の夕日は西のパレル山脈にかくれた。うめき苦しむ声が聞こえていた。東副官らは中村大尉も死んだものと思って死体をさがしていた。そこへ当の中村大尉がフラフラともどってきて、人々をおどろかせた。  井瀬大佐を埋葬するにさきだって、中村大尉が遺体の所持品を調べると、折りたたんだ通信紙が出てきた。田中師団長にあてた遺書であった。 《小官、戦車連隊長を拝命して日浅く、戦闘指揮拙劣にして、陛下の将兵多数を戦死傷せしめたる上、重責を果し得ざること深くおわび申し上げます。  井瀬支隊の将兵は病に倒れ、かつ傷つきながらも、善戦敢闘よく皇軍の真価を発揮したものにして、その功績は絶賛に価いするものと思います。小官以下この地において玉砕します。  師団の武運長久をお祈りします。  なお左記の者は連隊の整理員として後退を命じたことを証します》  そのあとに、副官東雪男中尉、書記佐藤善光曹長、同佐藤芳徳軍曹、戦況報告官として中村大尉の名が記してあった。  井瀬大佐は着任の時、中村大尉を見て、戦場を離脱したのではないかと疑った。そうした誤りを再びさせないための心づかいが、そこにあるように中村大尉は感じた。  中村大尉は井瀬大佐を気の毒に思った。もともと、ビルマ方面軍の軍政監部で民政を指導していた人で、連隊長要員ではなかった。前の連隊長上田中佐が急に解職になったため、井瀬大佐が最も困難な戦場に立つことになった。その名目は連隊長でも、実際には、大隊長程度の立場におかれた。そして師団の撤退の最後に残された。  服部軍医と三沢衛生上等兵は、井瀬大佐の遺体の右の二の腕を切断した。遺骨をとるためであった。そのあとで、遺体は近くの竹やぶのなかに埋めた。歩ける者は、その前に整列して、別れの最敬礼をした。  この砲撃で重傷を負った酒井碩太郎衛生上等兵は、夜になって自決した。  中村大尉は胸部に砲弾の破片がくいこんで、痛くて口がきけなかった。しかし、井瀬大佐を失ったので、支隊長および戦車連隊長代理として指揮をとることになった。  すぐに各中隊長を招集したが、出てきたのは鳥屋部曹長だけであった。織尾大尉、田中中尉は所在もわからないということであった。  中村大尉は興奮して、前日手にいれた英軍のたばこをつづけざまに吸った。せきが出て、胸の破片創にひびいて痛かった。服部軍医が注意したが、きかなかった。やけ気味になっているのが、はた目にもわかった。  この緊急の事態を師団に報告しようとしたが、電話器はめちゃめちゃになっていた。伝令として、河本見習士官を師団司令部に出すことになった。中村大尉は報告を筆記するように命じた。 《本十四日午後二時すぎ、井瀬連隊長殿壮烈なる戦死をとげられる。中村大尉は爾後連隊の指揮をとり、ニントウコンを死守す。師団の健闘を祈る》  中村大尉はニントウコン死守の命令に従うのが当然であると信じていた。しかし、東副官には、井瀬大佐の遺言に従って、功績事務担当者として、さがることを命じた。東副官は承知しなかった。全員がここで死ぬべきだ、と主張した。そういう東副官は、マラリアでフラフラしていた。  夕やみにまぎれて、河本見習士官は兵一名をつれて出て行った。部落の外の湿地にはいると、所どころ、腰まで水につかった。水のなかには、小さな蛭《ひる》が群がり、皮脚絆の間からもぐりこんで血を吸ったが、とることができなかった。  くらやみの山にかかると、道がわからなかった。早く行きつかなければ、と心はあせった。見当をつけておいた方向に、草につかまって、這いあがって行った。ようやくにして、道らしい所に出た。河本見習士官と兵は、大声をあげてさがした。 「弓の兵隊はいないか。司令部はどこか」  やみのなかに声がした。師団の連絡所の小屋があった。そこの下士官の話で、司令部はすでに後方にさがったことがわかった。  電話で司令部の将校に報告すると、「しばらく待て」と、引っこんでしまった。三十分ばかりたつと、電話がかかってきた。 「戦車連隊には、きのう、撤退命令をだしてある。すぐ撤退しろ」  河本見習士官はおどろいた。なんという無責任かと怒った。急を要することであった。河本見習士官はすぐに引返した。山の斜面を、死ぬ思いでズルズルとすべりおりた。本部に帰りついた時は、十五日午前二時をすぎていた。  中村大尉は河本見習士官が暗夜の山中を往復して、よく帰ったと喜び、報告を聞いて悲憤した。 「きのう、参謀長が電話でいってくれたら、連隊長殿以下の死傷者をださずにすんだ。師団は撤退のために、井瀬支隊を犠牲にしたのだ」  撤退となると、出発の時刻が問題であった。すぐに準備をするとしても、出発は夜明けになる。夜が明けてからは、英軍機に襲われるから行動できない。結局、十五日の昼の間は待機して、二十四時を期して撤退することになった。  七月十五日。この日も、英軍は朝から激しい砲撃をつづけた。戦死者の死体が砲弾をあびた。  きのうの負傷者の何人かは、この日になって絶命した。服部軍医の手もとには、包帯はなく、わずかに残った三角巾も使いはたした。ただ一つの薬品のヨーチンも残りすくなくなった。  井瀬大佐の遺書には、撤退の要図も記してあった。すでに、このことを予想し、準備していたのだ。中村大尉はそれに従って、撤退計画をまとめた。  正午ごろ、各隊の命令受領者が集合した。岩崎大隊長が近くにいるはずなので、連絡をとると、姿がなかった。すでに昨日のうちに無断で後方にさがってしまったのだ。岩崎大尉はニントウコンにきてから、大隊長としての命令をだすことなくして去った。岩崎大尉のほかにも、大隊本部の下士官、兵などがいなくなっていた。結局、岩崎大隊の本部がなくなってしまった。  戦車連隊の中隊長のうち、集合したのは第一中隊の鳥屋部曹長だけであった。戦車連隊でも、さきに無断でさがる者が続出していた。井瀬大佐が戦死し、本部が打撃をうけたために、各隊がくずれ立ってきたのが、目に見えてきた。  そのなかで、瀬古大隊はなお、長戸中尉と十数名の歩兵がマンゴー台地にしがみついていた。  中村大尉は撤退計画を伝えた。それによれば、モイラン三叉路までさがって集結することになっていた。しかし、この中途はんぱな時刻に、中村大尉が命令を伝えたのは、不可解なことでもあった。やはり、井瀬大佐の戦死にともなう混乱のためか、異常な心理状態になっていたためともいえる。いずれにしても、正常な感覚や判断力は失われていた。  命令受領者が壕を出たあとに、ひとりが残っていた。岩崎大隊の直原兵長であった。実戦の経験の多い、まじめな、よく勤める男であった。直原兵長は、ひとりごとをいっていた。すこし、様子が違っていた。その時、直原兵長は、自分では、もうひとりの直原兵長と話をしているつもりであった。 「おい、これで生きて帰れることになったなあ」  もうひとりの直原兵長が答えた。 「よかった。みんなも喜んでおるぞ」  中村大尉が声をかけたが、直原兵長は答えなかった。耳が聞こえなくなっているらしかった。中村大尉が肩をたたくと、直原兵長はわれに返った顔になって、外に出て行った。  直原兵長の記憶は、このころから乱れ、失われてしまった。直原兵長の記憶がよみがえるのは、撤退がはじまって、十日後のこととなった。  ひるすぎになって、英軍の砲撃がとだえた。瀬古大隊の命令受領者、今西軍曹は早く命令を伝達しなければならないと思った。雨はやんでいた。今西軍曹は敵の目をさけて、ぬかるみの上を腹ばいになって進んだ。背負い袋をつけ、モーゼル拳銃を持っていた。草のかげなどを選んで行ったが、頭をだすと、どこからかバリバリと撃たれた。せまい南ニントウコンのなかで、英印軍と日本軍はまざり合っていた。  今西軍曹は、まず歩兵砲陣地に行って、指揮をとっていた井軍曹に撤退を伝えた。歩兵砲の生き残りは、井軍曹以下七名になっていた。  今西軍曹は水びたしの草地をはって、南ニントウコンの中ほどを流れる川の岸に出た。今西軍曹が胸までつかって川を渡り、対岸から頭をだすと、激しく撃ってきた。英印軍はすぐ前方にいた。マンゴー台地の瀬古大隊と、今西軍曹の間に、英印軍がはいりこんでしまっている。今西軍曹は前進をあきらめて、支隊本部にもどった。中村大尉に報告して、日が暮れるまで待つことになった。今夜二十四時の撤退なので、時間はあると思われた。  夕方近くなって、マンゴー台地の方がさわがしくなった。M4中戦車が出てきて、瀬古大隊の陣地を乱射した。M4車はつぎつぎに現われ、四輛となった。マンゴー台地は煙に包まれた。  歩兵砲の井軍曹は、今こそ最期と覚悟をした。第一線を助けるために、歩兵砲の射撃を始めた。距離四百メートルなので、砲弾はM4車に命中した。だが相手はたじろぎもしなかった。まもなく井軍曹は持っていた砲弾の全部を撃ち尽した。  井軍曹は撤退の準備にかかった。ニントウコンの対陣四十五日、インパール攻略の夢が、むなしく消えたのを、まざまざと見る思いだった。  今西軍曹が再び歩兵砲陣地の近くまで出て見ると、重機関銃の足を肩にかついで、フラフラと歩いてくる兵隊がいた。瀬古大隊の第一機関銃中隊の上田安夫上等兵であった。激戦に疲れきっていた。上田上等兵の話で、陣地の状況がわかった。M4車が陣地内に襲来して、壕の上を蹂躙してまわった。兵は生きながら土のなかに埋められ、あるいは、おしつぶされた。戦車につづいて、グルカ兵が突入してきて、手榴弾を投げ、銃剣をふるった。瀬古大隊の大部分は死傷した。指揮官の長戸中尉も死んだらしい。生き残った者はさがりはじめたというのだ。  今西軍曹は、早く撤退命令を伝達しなかったことを後悔した。  夜になって、今西軍曹はマンゴー台地に腹ばいで近づいた。どこに英印軍がいるか、わからなかった。小声で「オイ、オーイ」と呼びながら、耳をすました。何も聞こえないのは、栄養失調のため耳がおかしくなっているのではないか、と不安になった。しばらく前進すると、話声がした。じっと聞いていると、日本語らしかった。  そこには十名ほど集っていた。瀬古大隊の下士官、兵であった。絶望し、気力を失って、第一線を放棄してさがろうとするところだった。そこにも、長戸中尉はいなかった。夕方の戦闘で戦死したと判断された。だが、その状況を直接に知っている者はなかった。いずれにしても、M4車四輛の攻撃をうけて、死に物狂いの苦闘であった。病院を飛びだして大隊を追及してきた長戸中尉は、大隊と運命をともにした。  生き残りは、そのままニントウコンの戦場を去ることになった。陣地のなかには、戦死者と負傷者が残っていた。戦死者の遺骨は収容するひまもなかった。土のなかに埋まって、まだ生きている負傷者を運びだす余力もなかった。足と腹を負傷した者は、つれて行くことができなかった。生き残りは、それぞれに陣地にもどって、動けない負傷者をさがして、手榴弾を渡した。ある負傷者は、逆に励ました。 「心配しないで、早くさがってくれ」  ある負傷者は、すがりついて、たのんだ。 「つれてってくれ。つれてってくれ」  ある者は、むせび泣きながら、自分の最期を家族に伝えるようにたのみ、住所を教えた。  このころ、日本軍の九五式軽戦車が一輛、ニントウコンを去って行った。この軽戦車は、後方の材料廠から補給のために往復していた。この夜は、車体の上に一名の戦死者を乗せていた。山本大尉であった。前の材料廠長であった山本大尉の死を悲しんで、もとの部下が自分たちの手でとむらうためであった。  岩崎大隊の清田軍曹は岡部軍曹とともに、十四、五名の生き残りを集めて、南道上に出た。動けない負傷者には、手榴弾を残してきた。  清田軍曹が撤退の命令を聞いたのも、この日の夕方のことであった。中村大尉が正午にだした命令が、その時まで伝わらないほど、支離滅裂な状態になっていた。  清田軍曹は、胸に遺骨をさげていた。三十六人の小指の骨をとったものであった。清田軍曹の任務の一つは、独立工兵隊を収容することであった。十数名となった工兵隊は、この夜、ニントウコン川の英軍のかけた橋を破壊することになっていた。追撃を妨げるためであった。もう一つの任務は、後衛尖兵長として南道をさがることだ。清田隊は、インパール盆地をさがる最後の一隊となった。  二十四時にまもない時。くらい竹やぶのなかの井瀬大佐の墓前に、本部の将兵が整列した。中村大尉、東副官、河本見習士官、服部軍医、佐藤曹長ら八名であった。東副官は首から布をかけて、なかに井瀬大佐の右腕をおさめていた。  中村大尉の号令で、八名は別れの敬礼をした。中村大尉の目から涙があふれた。  牟田口軍司令官とその幕僚は、雨季のきたインパール盆地に戦車をだして、突進できると考えていた。結局、戦車は何もできなかった。  インパール作戦開始の時、チンドウィン河を越えて進撃した戦車第十四連隊の戦車の数は、六十六輛であった。途中の戦闘に傷つき、あるいは故障して、ニントウコンの第一線に進出した戦車は、十四輛であった。それが、ついに全滅した。  陸軍省は、戦車に“鉄牛”の名を与え、兵器の花形として、さかんに宣伝した。だが、その最後は哀れで、また、無残であった。  泥に埋まった九七式『チハ』中戦車は、残して行くよりほかはなかった。英軍が使えないように、ギア、ハンドル、メーターなどを破壊した。  二十四時。エンジンの動く四輛が始動をおこした。夜のやみのなかに、ごうごうとエンジンの音が響き渡った。これは、中村大尉の撤退計画の一つであった。  中村大尉は、泥に埋もれて動けなくなった戦車に、せめて、インパールに向けて進撃の形をとらせようとした。労苦をともにした戦車への、はなむけであった。そしてまた、日本軍がなおニントウコンに健在であると、英軍に思わせるためであった。  中村大尉ら戦車連隊の生き残りの一団は、戦車にも訣別の敬礼をして、南道を横切ってログタ湖の方に向った。  清田軍曹が南道上で待っていると、工兵が戻ってきた。ニントウコン川の方向で、橋を爆破する音は聞こえなかった。しかし、清田軍曹には、工兵が爆破したか、どうかは、もはや、どうでもよいことであった。  すでに中戦車のエンジンの音は、夜空をふるわせていた。清田軍曹は自分の目の前で、英軍戦闘機の四十ミリ機関砲で穴をあけられ、破壊された四輛の戦車トーチカを思い浮かべた。そのなかで死んだ戦車兵を、心に祈る思いだった。  その時、やみのなかに、あざやかな火の光が燃えあがった。その付近にエンジンの音がひびくので、戦車の燃える火に違いなかった。戦車兵が、自分の命をかけた戦車を、そのまま残しておくに忍びなかったのではないか、と、清田軍曹は感じた。  中村大尉は立ちどまって、ふりかえった。台地からは、まだ二百メートルも離れてはいなかった。それなのに、何人かが水のなかに倒れこんだ。体力が衰えて、泥に足をとられるのだった。中村大尉も軍刀をつえについていた。みじめな気持だった。戦車連隊の誇りをもった将校が、全部の戦車を失って敗走するのだ。顔むけのできない恥辱を感じながらも、一方では悲憤していた。いずれ田中師団長に報告する時は、井瀬大佐の遺書とともに、この戦場の実相を明らかにし、この怒りをたたきつけようと思った。  河本見習士官は、多くの戦友、戦車を見捨てて去るのに、しのびがたい気持だった。しかし、一歩ずつ遠ざかるにつれて〈もしかしたら生きのびられるかも知れない〉という希望がわいてきた。だが、無事にビルマに帰りつけるかと思うと、不安にもなった。  その時、遠く、やみのかなたに、無数の火花が散るのが見えた。インパール方面の英印軍の砲兵陣地が、一斉射撃を始めた。まもなく、なだれのような音が夜空をふるわせた。南ニントウコン一帯が、大爆発をおこしたかのように激動し、轟音に包まれた。英印軍が砲撃を始めたのは、戦車のエンジンの音を聞いて、日本軍の夜襲と判断したためと思われた。  中村大尉の足もとの湿地はゆれ、水は波立った。砲撃は激しさを加え、インパール方面の発火光は花火のようにひろがった。そのあたりは黄赤色の光の帯となり、輪にひろがった。見るまに、夜のやみはあざやかに赤く染まって行った。立ちこめた砲煙のさまざまな形が浮かび上り、明るくいろどられた。それが、壮麗な夕焼空のように見えた。  部落の台地は、火光がきらめき、爆煙に包まれた。そのなかで、多くの将兵の死体が、あるいは戦車が、そして、手榴弾を握ったままの、生きている負傷兵が、みじんに粉砕されているのだ。もはや、そこには、生命ある者は全くなくなり、台地までが、砲撃のために消滅するように見えた。  中村大尉は、胸にこみあげるものがあって、思わず、むせび泣いた。こみあげるたびに、胸の傷が痛んだ。むせぶのをこらえようとすると、なお涙が流れた。  部下も立ちどまり、ふりかえっているけはいだった。そのあたりのやみのなかに、男たちのむせび泣きの声がひろがった。 3  弓第三十三師団の敗残兵とともに、井瀬支隊の生き残りは退却した。インパール南道はビルマに近づくに従って、力つきて倒れる者がおびただしくなり、白骨街道と化した。わずかな食糧を持っていたばかりに、同じ日本兵に襲われて殺された兵もいた。また、飢えた将兵に、肉を売りつける日本兵も出没した。それが人間の肉であることを、服部軍医は外科医の目で確かめた。  昭和十九年九月下旬。瀬古大隊の井軍曹はチン高地の主峰ケネディピークの山上の陣地にいた。瀬古大隊の生き残りは井瀬支隊の配属をとかれると、弓の笹原連隊に配属された。そして、英印軍の追撃を防ぎながら退却した。井軍曹も飢えて、体力が衰えていた。ある日、渡されたわずかな食糧のなかに、めずらしく落雁《らくがん》の菓子があった。その包紙には『祝インパール陥落』と印刷してあった。インパール攻略を予定して、その日に将兵に配るために、予め作っておいた祝いの菓子であった。それがわずかに、井軍曹らを飢えから救った。  十月はじめ、井軍曹は配属をとかれ、祭に復帰することになった。その時、瀬古大隊で残っていたのは、井軍曹ただひとりであった。ケネディピークに残る笹原連隊の生き残りは、防戦して、全員戦死するのが必至と見える戦況であった。  インパール作戦は七月五日に中止命令が出て、九月のはじめには、牟田口軍司令官は内地に帰った。だが敗残の将兵は、まだアラカン山系のなかをさまよい、あるいは戦っていた。  陰惨だった五カ月の雨季は終り、空はまぶしいほど青く光っていた。井軍曹の目の下には、かさなりあった山脈が、雲海の上に浮かび出ていた。幾つかの三千メートル近い峰よりも高く、積乱雲がそびえ立ち、白銀色に輝いていた。風はさわやかだが、肌に冷たくしみた。  ビルマへの道は、尾根をたどり、山腹をめぐって、雲のなかに消えていた。どこにも人の影はなかった。この山道を越えて、インパールに向った瀬古大隊の六百名は、いま、井軍曹ただひとりが帰るだけとなった。孤独という実感が、ひしひしと迫ってきた。  井軍曹は小銃を持っていなかった。身を守る武器としては、拳銃があるばかりだった。単独で歩いていると、飢えた日本兵に襲われるといううわさは、すでにひろがっていた。  このような時、井軍曹の心をささえたのは、下士官候補者の教育隊にいた当時、教育総監賞をうけた模範兵である、という誇りであった。井軍曹にとっては、インパールの敗戦は予想もしなかったことであった。心に大きな衝撃をうけたが、なお、神国日本は必ず勝つという信念はゆるがなかった。井軍曹はあくまでも、がんばりぬいて、ビルマに帰りつこうと決意していた。  笹原連隊の山上の陣地のあたりに、銃声がおこった。井軍曹は三千二百三十一メートルのケネディピークの峰をふり返りながら、ただひとり、よろめく足でビルマへの道をくだった。これがインパール作戦に参加した、祭第十五師団の歩兵第六十七連隊第一大隊の最後の姿であった。 〈了〉 あ と が き  弓師団の無線小隊長であった相沢隆和氏が戦後に書いた記録のなかに、退却中の戦車連隊の中村大尉が登場していた。それには次のように記されてあった。 《牟田口軍司令官が引揚げたころ、師団司令部はサドとモロウの中間の林のなかに移っていた。林のうしろの治療班には、傷病の将兵が充満し、泥のなかに横たわり、悪臭と死臭が立ちこめていた。通信隊の兵隊が死んだというので行ってみると、はだかになって天幕にくるまり、雨のなかで死体となっていた。衛生兵を呼んで聞くと、同じ傷病患者が死体から被服をはぎとるのだ、と説明した。  ついに師団撤退の命令が下された。雨の降る夜、師団司令部はトルブンにさがり、私の宿舎に田中師団長と参謀らがはいった。家の一部を軍用毛布で区切り、そのなかに彼らはいた。私は毛布のカーテンのわきで、彼らの話を聞いていた。彼らは「うちの子どもが虎と象とどっちが強いか尋ねてきたが、どっちだろうね、虎かな」「いや象だ」と、大声で笑った。  この宿舎の外の道路上には、傷病兵が充満し、暗い空の下で、悲痛なうめき声をあげていた。この傷病兵を後送するのに、自動車が二台しかなかった。自動車にむらがった兵隊たちは、必死になって乗ろうとしていた。  このような時、自分の愛児のことしか念頭にない師団長、参謀に、完全な作戦指揮ができるのか、と私は思った。ところが、通信隊長の吉岡少佐はカーテンの外で不動の姿勢をとって、参謀に呼ばれもしないのに返事をして、なかにはいろうとするので、私がとめた。権威に弱いというか、軍人に多い事大主義の男だ。  まもなく、師団長と幕僚は出発し、あとに傷病兵が残った。ひとりの傷病兵は、つえにすがって息をきらせながら「自動車に乗せてくれ」と懇願した。しかし、自動車は満載であり、多くの傷病兵が乗れないでいた。自動車が去ると、取残された兵たちは、ぼんやりしていた。  あくる朝、つえを持った兵隊が、廃屋の軒下に、息が絶えてころがっているのを、私は見た。  師団長たちはさがる時「明朝、師団の撤退を知って英軍は、今までにないような砲撃をあびせてくるかも知れない」といった。その予言通り、翌朝、一瞬にして北の空が紫色のせん光と百雷のような音に包まれた。砲弾は落下し、安部隊と英印軍の間に白兵戦が始まった。  この時、はだしで鮮血にまみれた戦車連隊の将校がたどりついた。師団司令部に電話で「戦車連隊全滅」と報告した。堀場参謀が「ばかやろう、今ごろ、貴様ひとり何を報告しているか」と、ののしる声が電話器から聞えた。将校は「自分に死ねというのですか」と、泣きながら応答していた。私は見かねて、電話を切ってしまった。そして、むせび泣いている将校を慰めた》  このことを衛藤達夫氏(旧姓中村、元大尉)に問合せると、次の返事がきた。 《それは私です。その時、司令部にこいと命ぜられました。私は脇腹にうけた傷の痛みで歩くのも困難で、呼吸のたびに胸が痛みました。その上、きのうまで生死をともにした井瀬連隊長を戦死させた師団の参謀のやり方を思うと、腹が立って、行く気になれませんでした。しかし、連隊長の死について、思い切り反発してやろうと考えなおして、師団司令部に行きました。  田中師団長は木箱に腰をおろしていました。堀場参謀がいました。私は田中師団長に、 「これが井瀬連隊長の遺書です」  と、さしだした時、涙があふれ、声がふるえ、あとの言葉がつづきませんでした。師団長は無言で、うなだれて遺書に見いっていました。私は、まだすすりあげて泣いていました。突然、うしろから大声でどなりつけられました。 「何をいつまでメソメソ泣くのだ」  田中参謀長でした。私は気をとりなおして戦闘経過と、井瀬大佐戦死の状況を報告しました。 「自分だけ生き残っているのは申しわけありません」  と、いいながらも、私は情ない思いでした。この参謀どもが、井瀬大佐殿に、歩兵の大隊長程度の戦闘指揮をさせ、戦車をむだにつぶしてしまったのだ、と思いました》  昭和四十年二月、元第三十三師団長田中信男氏は、陸上自衛隊富士学校で、インパール作戦について講話をした。その要旨を記した記事のなかに、次のように述べている。 《七月八日、軍命令により全軍撤退することになったが、当師団は戦傷者、患者の収容に万全を期するため、行動開始を一週間延ばし、ニントウコン部隊には収容陣地たるべき任務を与え、七月十七日から撤去することとした》  しかし、撤退の行動は、この予定より早く始まっていた。また、ニントウコンは収容陣地ではなく、さらに、撤去は“することとした”といいながら、井瀬支隊には全く知らせなかった。ことに“患者の収容に万全を期するため”といいながら、実情は前記の相沢氏の記録のような状況となった。ことに司令部付近の林のなかの治療班は悲惨であった。司令部が退却する時、野戦病院の患者のうち、歩けない者は全部、手榴弾を与えて自決させた。  田中師団長がトルブンを去ったあと、南道には傷病患者が延々としてつづいた。そのなかには、足を負傷した兵が腹ばいとなって、手で、はいながらさがっていた。相沢少尉が「敵が近くにきているぞ」と注意すると、兵は力を失い、路上に伏して、声を放って泣いた。  田中元師団長の“万全を期する”とは、何をさしていったのであろうか。  さらにまた、講演要旨には、支隊の戦闘について、次のように記してある。 《七月十五日から十七日にかけ、空陸からの砲爆撃は一層熾烈《しれつ》を極めたが、守兵(井瀬支隊)はよく防戦につとめ、命令により撤退するまで完全に任務を果たした。このため、師団の傷病兵の後送を順調にし、重砲、戦車、その他重材料は、後退の機動において、師団主力と二十キロメートルの間合いをとりつつ、余裕をもって行動をすることができた》  これは、ていさいのよい作文にすぎない。井瀬支隊が“防戦につとめ、……完全に任務を果たした”というのは、当時の軍人特有の表現である。また、重材料の退却は困難を極め、そのために多くの生命を犠牲にした。“余裕をもって行動”したといえば、いかにも規律あり整然とした軍隊の行動であるが、実情は支離滅裂であり、兵は歩行さえ困難であった。“余裕”どころか、腰をおろせば、そのまま死んだのだ。  インパール作戦後、二十一年の歳月のたった昭和四十年に、田中信男氏は、本心からこのように考えていたのだろうか。そうであっても、また、そうでなくても、このようなつごうのよい、美化された作戦談が自衛隊の学校で講演され、教育資料として印刷刊行されている。  さらに田中信男氏の講演は、井瀬大佐について、次のようにも述べている。 《彼の戦闘指揮ぶりは、時には騎兵らしい剽悍《ひようかん》さを発揮する半面、努めて戦車の温存を図ったあたり、変通きわまりなく、柔軟で弾力性があり、今からかえりみると、結果的には良かった。攻防にあの手この手の秘術をつくし、ちょうど徳川家康のような端倪《たんげい》を許さない駈引により、絶対優勢な(敵の)制空権下にあって、長期間間断ない敵の弾雨にさらされながら、本道上の要点を確保して、よく持久の目的を達したのは、この人ならではと感嘆のほかはない。誠に部下の衆望を一身に集め、将兵皆悦服して任務に励進した。私あての遺書をしたため終ると、おもむろにポケットから勅諭の写しを取りだし、かたちを改めて奉読したのち瞑目した。その従容《しようよう》たる最期をきいた時、死所ニントウコンの森に向って、私は彼に対し、着任この方あまりにも怒りすぎたことを、心から詫びたいと黙礼した》  戦争中以来、上級将校の書く記録、戦史には、このような虚飾、虚構が多かった。軍人は、すべて本心を偽り、軍部、軍隊につごうのよい表現をすることを本旨としていたようだ。  戦時中、国を誤らせた大本営発表は論外としても、軍人文法と軍隊文章に特有の表現がある。それを、そのまま戦争の事実と見たり、あるいは戦史の資料とすることは危険である。その用語や表現を翻訳して読むことが必要である。田中信男氏の講演要旨はその典型といえる。次ページの岩崎大隊の賞詞についても、同じことがいえる。  それにしても、右の井瀬大佐の最期の記述は、奇怪というほかはない。田中信男氏は中村大尉から戦闘経過の報告を聞いている。その内容は、私が本文に書いたのと同じはずである。そうとすれば、田中信男氏は事実を知りながら、右のような表現をしたことになる。  それは一体、なんのためだろうか。井瀬大佐は従容たる最期をとげ、弓師団は整然たる後退をした。このようにいえば、餓死し、のたれ死にをし、あるいは、おきざりにされて自決した将兵の霊が慰められるというのだろうか。  いずれにしても、反省のない言辞であるばかりでなく、戦争について誤った印象を与える表現といえよう。戦場の真相をかくし、戦死者を美化すれば、遺族が喜ぶと考えるのは、遺族をあざむくだけではない。それは上級将校が自分の責任をごま化すことであり、時には歴史を誤らせ、国民の将来を不幸にすることになろう。  軍隊の文章に虚飾、誇張、ごま化しの多い例を、もう一つ、あげておきたい。インパール作戦の終ったあと、田中師団長の名で、瀬古、岩崎両大隊に賞詞が与えられた。岩崎大隊の賞詞は、次のように書かれていた。なお賞詞は、部隊や個人の戦功を表彰する文書で、感状に次ぐ栄誉とされていた。 賞  詞 岩 崎 大 隊 右ハ昭和十九年五月転進ヲ命セラルルヤ長駆遠隔ノ地「アキャブ」方面ヨリ、輸送困難ナル状況下ニオイテ速カニ戦場ニ到着シ、予ノ指揮下ニ入ルヤ戦闘当初ヨリ堅陣「トルブン」隘路口ノ敵ヲ突破シ「モイラン」付近ニ之ヲ圧迫殲滅《せんめつ》シ「インパール」重点方面ノ補給路ヲ再興セリコノ間岩崎大隊長以下死傷続出スルモ益々士気旺盛ニシテ次テ「シンゲル」「プバロウ」「ニントウコン」「ポッサンバン」付近二十五キロメートルノ堅陣ヲ抜キ大ナル戦果ヲ収メ当兵団ノ戦闘ヲ著シク有利ナラシメタリ 右ハ大隊長以下団結鞏固《きようこ》、攻撃精神最モ旺盛ニシテソノ武功抜群ナリ ヨツテココニ賞詞ヲ与フ 昭和十九年十一月二十六日 弓兵団長 陸軍中将 田中信男  この賞詞の書かれた事情を別としても、岩崎大隊の戦闘の実相を思い合わせると、その違いが明らかである。しかし、このような表現をとることが、軍用文の特性であった。このことは、軍の文書を資料として読む場合に、注意しなければならない。  前出の相沢隆和氏は自家版『少尉の手記──インパール作戦と戦後』のなかに、田中師団長について、次のように記している。 《記録によると、十二月二十二日ころ、第三十三師団はようやくモニワ付近に兵力を集結した。師団長は、二十五日から各部隊の検閲を実施し、来たるべき会戦に備えて師団将兵の士気を振作した、とある。  夜間整列しての師団長査閲だったが、某少尉は懐中電灯で軍刀を照らされ、があるという理由で師団長に殴打された。  雨中、戦ってきたのだ。なにがか、と思った》  田中師団長はトルブン隘路口の戦闘のころの日記に次のように書いている。 《漸ク雨季迫ル。雨期《(ママ)》ハ我ニ幸ヒヲ齎《もたら》スベシ》  田中師団長は恐るべきインドの雨季を軽視し、軍刀がつくほど、水びたしになっていた部下の困苦に思いをいたすことがなかった。  戦記『全滅』は毎日新聞社発行のサンデー毎日に連載の場を与えられた。期間は昭和四十二年六月二十五日号から十二月二十四日号までの二十七回であった。  戦記を発表すると、いつも、当時の関係者から手紙を寄せられ、それが意外に重要な資料となることが多かった。今度も関係者の手紙は貴重な資料となった。このため、サンデー毎日の連載を終えてから、改めて調査取材をした。その新しい資料によって、サンデー毎日に発表したものから五分の四を書きなおし、原稿用紙にして百五十枚以上を追加した。結果としては、サンデー毎日に発表したものとは、かなり形の違ったものとなった。このことは、いわば、サンデー毎日には未熟な作品を発表したことになるので、毎日新聞社とサンデー毎日の読者に申しわけのないことであった。しかし、そのために、新しい資料が得られたのを感謝したい。  私にとって、大きな誤算となったのは、井瀬支隊の全般をまとめた資料のなかったことである。衛藤達夫氏は戦車連隊を主として、長大な記録を書き、また、再三、宮崎県から私を来訪して、積極的に協力をされた。それでも、支隊全般としての資料を作りだすことはできなかった。  結局、私は、戦車、岩崎、瀬古などの部隊の生き残りの人々から、直接に話を聞いた。そこから井瀬支隊の全般をまとめようとした。ところが意外なほど、各部隊の人は、自分の隊については知っていても、他部隊のことは全く知っていなかった。なかには、自分たちの大隊が独自に行動したと思い、井瀬支隊の指揮下にあることを知らないでいる例もあった。  ところが、今日なお、こうした誤りが、そのまま書き残されている。 『岡山県郷土部隊史』がその一つである。この史書は編集者は岡山県、発行者は同史刊行会、昭和四十一年発行、千余ページの大冊である。そのなかでは、戦闘経過の記述にも、不適当な表現や誤りが多かった。私は読みながら閉口し、このような不正確なものを、県の事業として刊行してよいのかという疑問をさえ感じた。  また佐久間亮三元中将のまとめた『騎兵史』という大冊のなかのニントウコン方面の戦闘の部分は、不可解なほど虚飾の多い記述であった。  ともあれ、こうした資料を一つにまとめ、組み立てて行こうとすると、それぞれが符合一致しなかった。たとえば、岩崎大隊が北ニントウコンにはいった日時である。工兵を救出した当の本人の友野治氏(直原兵長)は五月二十八日だという。私が五月三十日としたのは、救出された側の独立工兵第四連隊の吉田秀雄氏の手紙に拠った。吉田氏は敵中に孤立し、毎日、目の前で死んで行った戦友の死亡月日を基に、岩崎大隊のきた日を三十日と推定した。  また、地名の書き方には、当時の日本軍の使い方と違っていることが多い。本文のニントウコンは、日本軍はニンソウコンと呼んでいた。私は現地の呼称に近いと思われる書き方をした。  そこで何がおこり、どのようなことがあったのか。南北一キロ、東西五百メートルのニントウコンのことは、そこにいた人々の記憶もうすれ、断片だけが残るようになった。そして、最も苦労した下級者は真相を伝えず、一部の上級将校の虚構の作文が戦史として残されるかも知れない。人間の最大の不幸である戦争にして、なお、このようにあいまいな形で消え去ろうとする。  だからこそ、戦争の真実は、書きとめ、書き残されなければならない。戦争に対して無知、無神経になれば、人間はまた、あの不幸と悲惨をくり返すだろう。 文庫版のためのあとがき ──戦車支隊全滅の背景  ビルマの大河チンドウィンの東岸に、大きな木の標柱が立っていた。日本軍の重要渡河点カレワの対岸の台地である。  高さ三メートルばかり、太い木の幹の半面を削って、三文字を墨で大書してあった。  ──西望台  その左下には、筆者の名が記してあった。  ──第十八師団長 陸軍中将 牟田口廉也  それを見た時、弓第三十三師団の後方参謀・三浦祐造少佐は異様なものを感じた。弓の師団参謀のなかでは、最も献身的な働きをしていたとの定評のあった人である。  牟田口中将がこの場所に立ったとすれば、それは日本軍がビルマに進攻、占領した、昭和十七年の雨季の前である。当時、牟田口中将は菊第十八師団長であった。  台地の下にはチンドウィンの急流が渦まき、千メートル西の対岸にはカレワの村落があり、その先は、国境の山脈のかさなる彼方にインドがある。  昭和十七年五月、日本軍がビルマを占領した時には、インパールの地名は知られていなかった。しかし、ビルマの攻略が容易にかたづいたために、南方軍総司令部では、英軍を弱しと見て、東部インドへの進撃を計画した。  チンドウィンの岸に立って西方を望んだ牟田口中将の胸中にも、同じ思いがあった。三浦参謀は、西望台の三字にそれを感じた。  昭和十八年三月、牟田口中将はビルマの第十五軍司令官に昇進した。このころから、その胸中にあるインパール攻略の野望は、次第に具体化されて行った。  作戦を決行するための、大義名分もでき上った。その一つは、インド、マニプール州のインパールは、連合軍のビルマ反攻の策源地であるから、それを攻撃、覆滅するということ。  もう一つは、インドに進攻するのは、牟田口中将自身の責任であるという。この奇妙な論旨について、戦後の昭和三十九年に印刷配布したその手記のなかで、次のように記した。 《わたしは蘆溝橋事件(昭和十二年七月七日の日華事変の最初の戦闘)のきっかけを作ったが、事件は更に拡大して支那事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作ったわたしとしては、国家に対して申し訳が立つ。男子の本懐としてもまさにこのうえなきことである》  この一節の意味は、自分が日華事変をおこした責任上、インドに進攻し、攻略して、大東亜戦争を終結させなければ申し訳ないし、それがまた男子の本懐だというのである。  これも軍人独特の発想であり、インド征服を夢想する功名野心の正当化の論理であった。  その後の牟田口中将は、可能な限りの手段をつくして、インパール作戦の実現を計った。その熱意も方法も、ともに異常であった。  それほど野望に燃えたのも、根本には英軍に対する軽侮の心情があったためである。牟田口中将はしばしば繰り返して語った。 「英軍は支那軍より弱いのだ」  この独断と慢心があったから、インパール攻略のための必要期間を三週間とした。  作戦開始後も、牟田口中将は避暑地メイミョウから出ようとしないで、酒色にふけっていた。その状況を、この文庫版の冒頭の一章として加えた。  なお、この文庫版では、旧版の単行本の序章『盗まれた作戦』の全部を省略した。この章では、英軍の諜報組織Vフォースによって、日本軍の行動が察知されていたことを記した。しかし、この組織の活動は、もっと重要視して書くべきであることを思い、他日、稿を改めて書くことにした。  牟田口軍司令官が方面軍から督促されて、ようやく第一線に出てきた時には、第十五軍の三師団とも大きな打撃をうけていた。  連合軍は始めから、日本軍をインパール盆地に引き入れて、そこで押し包んで撃砕する計画であった。牟田口軍司令官はそれに思い至るはずもなかった。さらには、第十五軍の上級司令部であるビルマ方面軍司令部の、河辺正三軍司令官は、戦後に至っても、それに気がつかないでいた。  それよりも、惨敗の主因は、牟田口軍司令官の構想の暴愚、用兵の拙劣にあった。その一例が本書で取り上げた、インパール盆地の底の湿地帯の戦闘である。  戦闘行動の常識として、高地を占めることは有利であり、低地に入れば不利である。まして、沼沢と化した低地では、部隊の動きは困難になる。そのような場所に、日本軍のなけなしの戦車を投入した。  これはインパール攻撃が挫折したため、あせり立った牟田口軍司令官が、弓師団方面を強化しようとして、手当たり次第に部隊を動かしたためであった。  同じ時期に、英軍もインパールに兵力を集中していた。盆地の街道上には、大型のM4シャーマン中戦車が姿を現わした。これらはすべて、インドのカルカッタ方面から輸送機で空輸されてきた。輸送、補給の量と速度は、日本軍とは桁《けた》違いであった。  こうした危急の戦闘のさなかに、弓師団長の柳田元三中将が解任され、田中信男少将が着任した。このころの田中少将の陣中日誌には、次の記述がある。(中央公論社発行『歴史と人物』六十一年夏号所載) 六月一日  軍医部長ノ報告ニヨレバ、小生ノ着任時仍《すなわ》チ五月二十三日現在ノ当師団ノ損害 三千五百名、内戦死 千二百名(将校八六名)ナリト。爾後茲《ここ》ニ一週間ニテ将校以下ノ戦死傷相当ノ数ナレバ四千名ノ損害ニ近シ。作間聯隊末田大隊ノ戦力ヲ見ルニ、中隊三名ノトコロ、五名、八名ニテ各中隊将校皆無ナリ。其他一大隊ニテ百名ヲ出デザルモノ多シ。(中略)  参謀長ノ話ニ今度ノ小生ノ転職ニ就テ軍参謀長久野村中将ト木下高級参謀ハ手続ヲ誤リタル科《とが》ニヨリ夫々処分ヲ受ケタリト。蓋《けだ》シ未聞ノ問題ナリ。仍チ五月八日柳田中将ヲ交代セシメントテ大本営ニ軍(第十五軍)ヨリ電報セシニ、九日ニハ転補ノ内命アリ、小生ハ十日ニ受領セリ。惟《おも》フニ軍トシテハ方面軍ヤ南方総軍(南方軍)ヲ経由シテハ遅延スルノミナラズ、途中デ異論生ジ切迫セル戦機ニ投合セザルヲ憂ヒ、本筋ニアラザル非常措置ヲ講ゼシナラン。(中略)サルニテモ東条陸相一流ノ電撃的命課ト云フベシ。  この一節は、柳田師団長解任と田中少将の交代は、異例というより、むしろ異常な処置であったことをうかがわせる。  師団長の職は、明治憲法により、親補職となっている。これは天皇が自ら補任の命《めい》を下される役職である。牟田口軍司令官と陸相兼首相の東条英機大将は、師団長を解任するのに、正規の手続きをとらなかったようである。  インパール作戦間に、牟田口軍司令官は部下の三人の師団長を更迭した。その事態も異常であったが、その処置が柳田中将をはじめ、ほかの佐藤幸徳・第三十一師団長、山内正文・第十五師団長も同様であったとしたら、牟田口軍司令官のやり方は、いよいよ異常といわなければならない。  ともあれ、インパール盆地の、沼沢と化した低地で、戦車支隊が全滅した。この戦闘自体は、局地の小規模なものである。しかし、その要素としては、インパール作戦全体を、縮尺化した模型ともいえるものであった。  私は、当初はそれに関心をもって、インパール戦記の連作の一つに取り上げた。今度、文春文庫の一冊として再刊されることになり、改めて本文を読み返し、あの作戦を回想すると、思い新たなるものがあった。  沼沢地帯の殲滅戦として、歴史上よく知られているのは、タンネンベルヒの会戦である。第一次世界大戦の冒頭、一九一四年(大正三年)八月二十三日から三十一日の間、ヨーロッパ東方戦場で、ドイツ軍とロシア軍が交戦した。ロシア第二軍は東プロイセンのタンネンベルヒ付近の湖沼地帯に追い込まれて壊滅した。ロシア軍の参加兵力二十数万のうち、戦死者と行方不明者の合計は約三万、捕虜となった者九万二千名あまりであった。  インパール作戦の中止命令の出た昭和十九年七月五日、インド、ビルマは雨季の降雨の最も激しい時期となっていた。戦場は泥濘、沼沢の地となり、交通路は崩壊し、河川は氾濫《はんらん》した。  英軍は急追しなかったが、その前に、日本軍は自滅の状態にあった。  タンネンベルヒとインパールとは、規模も様相も違うが、対比して考えるべきことが少なくない。タンネンベルヒでロシア軍が最も苦しんだのは、飢餓であった。携帯食糧は尽き、現地でこれを入手しようとしても、住民は姿をかくし、残されていたのは、収穫前のからす麦や乾草であった。  牟田口軍司令官とその幕僚は、タンネンベルヒの戦史に学ぶべきであった。  もう一つ、牟田口軍司令官の学ぶべきことがあった。ロシア軍のサムソノフ軍司令官は、勝敗が明らかになった時、拳銃で自決した。その死のまぎわに、くり返して言った。「こんなみじめな負け方をして、皇帝にあわす顔もない」(「八月の砲声」バーバラ・タックマン著、山室まりあ訳、筑摩書房)  牟田口軍司令官は、敗残の日本軍将兵が、飢えと傷病に苦しみながら、雨中をさまよっている時、早々にチンドウィン河を東に渡ってビルマ平地に去った。その時、軍司令部の幕僚を同行することなく、当番兵と護衛兵をつれただけであった。  まもなく、昭和十九年八月三十日、牟田口軍司令官は参謀本部付の発令を得て、内地に帰った。そして昭和二十年一月には、将校育成の機関である予科士官学校の校長となった。  日本軍は軍紀厳正を称えたが、それは下級の兵に対してであり、上級者ほど、まぬかれて恥なく、しかも無責任であった。 昭和六十二年五月 立夏の日 高木俊朗  単行本 昭和四十八年六月文藝春秋刊 文春ウェブ文庫版 全  滅 インパール 二〇〇一年十二月二十日 第一版 著 者 高木俊朗 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Satoko Takenaka 2001 bb011208