TITLE : 立原正秋    立原正秋   高井 有一 著 目 次  序章 生れ在所  一章 〈犀《さい》〉の時代  二章 年譜の虚実  三章 終戦まで  四章 日本人米本正秋  五章 文学的出発  六章 時分の花  七章 東ヶ谷山房  八章 交遊抄  九章 或る女人の物語  十章 八月の風  終章 息づく死者 立原正秋 序章 生れ在所  大韓民国慶尚北道安東郡西後面台庄洞。  これが立原正秋の生れ在所である。安東《アンドン》市から西へ約十粁《キロ》隔った純農村で、米、胡麻《ごま》、唐辛子、それに豆類を主に産する。緩やかな起伏のある土地に農家が散在して、高度経済成長期以前の日本の農村を思い出させる景色を、今もそのままに遺している。立原正秋は一九二六年一月六日、この村に生れた。父は金敬文《キム・キヨンムン》、母は権音伝《クオン・ウムチヨン》である。彼が親から与えられた名は金胤奎《キム・イユンキユウ》であった。  立原正秋の死後六年を経た一九八六年五月三日、私は彼の足跡を尋ねて村を訪れた。小川に架かる橋の袂《たもと》で車を降り、なだらかな坂道を上って行くと、土壁に瓦屋根の農家があった。金敬文の長兄金琴石《キム・クムソク》の孫に当る金杰鎬《キム・コルホ》さんの住居である。前庭に牛が繋《つな》がれ、二十羽に近い放し飼いの鶏が餌を漁っていた。私は温突《オンドル》部屋に招き入れられ、分厚い族譜を前にして、立原正秋にまつわる人々の話を聞いた。この家の氏族発祥の地を示す〈本貫〉は義城金《ウイソンキム》である。慶尚北道中央部の義城を先祖の地とする金氏の一族という事になる。二時間余りの対坐の間、村の遠く近くで、牛の啼《な》く声が絶えなかった。  金敬文は、村に近い天燈山鳳停寺《ボンジヨンサ》という由緒《ゆいしよ》の古い禅宗の寺の僧であった、とされている。仏心が厚く、村の信者の尊敬を集めていたと言われるが、まだ四十代の杰鎬さんは、当然ながら自分が生れる前に死んだ従祖父の、寺の役職そのほか具体的な事柄に通じてはいなかった。金敬文が僧であったかどうかについて、疑問を持つ人もある。韓国の禅僧は妻帯を禁じられている筈だからである。在俗のまま、事務長のような形で寺の運営に参画していた可能性も排除出来ないが、詳細は判らない。杰鎬さんと話している途中から、近所に住む一族のやや年嵩《としかさ》の人が席に加わったので、私は、金敬文の逸話の一つや二つは聞けないかと期待したが、果せなかった。金敬文が死んだのは、一九三一年七月二十二日、息子の胤奎が五歳のときである。病死だったのは確実だが、その病名は知られていない。  家の前の道を更に上って、松の生えた丘の高みに、土饅頭《どまんじゆう》が二つ並んでいる。金家の墓所であるが、金敬文がその下に眠っているわけではない。彼は火葬にされ、骨は鳳停寺の裏山に埋められた。そこにも墓標は無いそうであった。  金敬文が死んだ翌《あく》る年の春、権音伝は、胤奎とその弟の奎《ワンキユウ》を連れて安東市へ去り、故郷の村との繋がりは絶えてしまった。一九四四年、横須賀商業学校を卒業して間もない立原正秋は十二年ぶりに村を訪れ、鳳停寺にも参詣した。だが、当時の彼を記憶に留めている人は、現在の村にはいない。  立原正秋の生れた家が、金杰鎬さんの家と隣合って遺っている。同じく農家だが、規模はずっと小さい。今住んでいる人は、立原正秋とは関わりがない。杰鎬さんに案内されて訪ねてみると、家人は畑へでも出たのか、無人であった。木の扉を開け放した土間に、食器が転がっているのが見えた。私は、庭に置いてあった耕耘機《こううんき》の傍に立って、長い年月の間手入れをしていないらしいその家を眺めた。しかし、薄暗い土間を出入りする幼い立原正秋の姿を想像する事は難しかった。  死病となった食道癌《がん》の手術後、国立がんセンターで療養していた立原正秋は、見舞の客に向って、村の小川の澄んだ水で真桑瓜《まくわうり》を冷やして食べるのが旨《うま》かった、もう一度昔に還って川魚獲りをしたい、としきりに故郷を懐しがって語ったという。そのとき彼の想いに泛んでいたのは、私がそのほとりに車を待たせておいた小川であろう。もはや美しく澄み切ってはいないが、豊かな水が堰《せき》を流れ落ちて音を立てていた。そこまで杰鎬さんに送ってもらって、私たちは別れた。立原正秋があと十年生きていたら、きっと村へ帰って来たに違いない、と別れ際に私は言った。立原氏の御子息から手紙でも頂けると嬉しい、と杰鎬さんは言った。  安東郡には、立原正秋にゆかりの家がもう一軒ある。臨東面〓川洞。安東市から金杰鎬家のある台庄洞とは反対に、東へ約十粁離れた洛東江の支流沿いの村である。そこに権玉淑《クオン・オクスク》、金鎮鎬《キム・ジンホ》の母子が住んでいる。二人はそれぞれ立原正秋の義姉と甥に当るのだが、その血縁関係はやや複雑である。金敬文は一九二三年、権音伝と結婚する直前、愛人との間に男の子を儲《もう》けた。奎泰《キユウテ》と名付けられたその子は、金敬文夫妻の長男として戸籍に記載されたものの、敬文の死後、音伝が安東市居住を経て日本へ向った際には、同行しなかった。ずっと韓国に住み続けて、男五人、女二人の子を生《な》し、一九七二年に肺を病んで死んだ。権玉淑はその人の妻であり、金鎮鎬は三男で五番目の子である。  洛東江では大規模なダム工事が進んで、陽に照らされて乾いた河原をトラックが往き来していた。ダムが完成すれば、〓川洞一帯は水底に沈むのである。支流と平行して谷間に入り込む道を辿《たど》って行くと、右手の小高い山の中腹で、道路の建設工事が行われているのが見えた。やがてはそこが湖岸道路となるのであろう。  面事務所で調べた番地だけを頼りに訪ね当てた家は、やはり農家のようであった。土の白い庭を囲んで、正面が土壁の住居、右手に物置と便所、左手に小部屋と牛小舎《うしごや》が隣合う棟があった。牛小舎には仔牛が寝そべっていた。初めは声をかけても返事がなかった。三度目くらいにようやく物置の中で人の動く気配がし、板戸を押し明けて朱色の丸首セーターを着た青年が現れた。細縁の眼鏡をかけたその顔を見て、私ははっとした。あまりにも立原正秋に似ていたからである。血の繋がりは疑いようがなかった。その人が金鎮鎬さんであった。  牛小舎の隣の温突部屋が、鎮鎬さんの居室であるらしかった。床に座蒲団《ざぶとん》を置き、英語の辞書が披《ひら》いてあった。私たちは縁先に腰掛けて話をした。鎮鎬さんは二十七歳、大学を卒業して二年間の兵役に従事したあと、今は新しい仕事を捜しているそうであった。立原正秋がどんな人かはまったく知らないが、むかし日本へ渡った二人の叔父があるとは親から聞いていた、と鎮鎬さんは言った。通訳を介しての会話であったが、胤奎、奎、と二つの名は、私の耳にもはっきりと聞き取れた。  彼の父親の金奎泰は、どうして義母や異腹の弟たちと共に日本へ行かなかったのだろうか。それについての鎮鎬さんの答は、私には意外であった。金敬文は豊かな暮しをしていたが、その死後、権音伝が全財産を持って日本へ向った、奎泰も一緒にと誘われたが、途中で殺されると思って行かなかった、というのである。殺されるとは穏やかでない。まさか生命の危険を予測させる状況が実際にあったとは信じ難いが、日ごろから生さぬ仲の子として疎《うと》まれていたという想いが、そんな言葉として息子に伝えられたのでもあろうか。また、立原正秋がその中で育った金敬文の「豊かな暮し」とは、どのようなものだったろう。私は権玉淑さんにも会って確かめたかったが、母はダム工事に働きに出ていて遅くなるまで帰らない、と言われて諦《あきら》めなくてはならなかった。  次の日、私は天燈山鳳停寺を訪ねた。西暦六七二年に創建の古刹《こさつ》である。伽藍《がらん》は急峻な石段を登った山の中腹にあり、麓に立って振り仰ぐと、山門が置物のように小さく見えた。能舞台の鏡板に描かれたように形の整った松が、石段に枝を差し延べていて、その緑が濃かった。山門の向うに立ちはだかるようにして鼓堂があった。粗削りの太い丸太を組上げて造った二層の吹抜けの建物である。がらんとした上層に大太鼓が置かれていた。その下をくぐり抜けると、国宝の極楽殿を中心に、大雄殿、無量海会などの額を掲げた伽藍が見えて来る。境内には連翹《れんぎよう》が咲き、一九七二年に解体修理を終えたという極楽殿の外壁の黄色が鮮やかであった。堂の内外に僧の姿が見え隠れしていたが、彼等は私のほかにもちらほらといる観光客に、眼を呉れようともしなかった。  寺域は三方を山に囲まれ、南だけが拓《ひら》いている。その西の外れに極く小ぶりの門があり、そこから坂道が台庄洞のある方角へ向って下っている。立原正秋は、三歳のころからしばしば父に連れられて鳳停寺へ上った、と文章に書き、人にも語った。そうだとしたら、幼い彼の足がこの土を踏んだのか、或いは父に背負われて来た日もあったか、と私は、ずっと先の方で緑の木立の中へ消えている急な坂道を眺め下して思った。  庫裡《くり》の厨房《ちゆうぼう》で女たちが働いていた。雲水が季節の物を用いて作る一汁一菜の精進食がいかに秀れていたかは、立原正秋が熱をこめて語った事の一つだが、年を経て僧堂の生活も変化したのかも知れない。庫裡の裏口には、味噌《みそ》を仕込み、キムチを漬《つ》ける甕《かめ》が裏返しにして積み重ねてあった。ざらついた褐色《かつしよく》の甕の肌に、明るい陽が染み入っていた。  厨房の前を通り過ぎて小さな門を出ると、道は下りになり、下り切ると水の流れが絶えて灌木《かんぼく》の繁った窪みに、天燈橋というコンクリート造りの橋が架っている。吹き抜ける風が冷たかった。橋を渡ると道は再び上りとなり、やがて古い僧堂の庭に出る。雰囲気が伽藍の周辺とはまるで変った。一抱えもある木材をふんだんに使った堅牢《けんろう》な建物だが、長年にわたって補修をしていないらしく、大屋根は波打って瓦がずり落ちそうであった。雨漏りがするのか、水色のビニール・シートを被せてある部分もあった。  大勢の人が雑居をする生活の臭《にお》いがした。柱と柱の間に針金を渡して、洗濯物が乾してあった。回廊に火が赤あかと熾《おこ》った焜炉《こんろ》が置かれて、飯を炊く釜が湯気を吹き上げていた。その傍に作業服のようなものを着た老人が立って、飯の炊き上るのを見るともなく見ていた。この人も僧なのだろうか。一体ここではどんな生活が営まれているのだろう。私は通訳に頼んで老人に声をかけてもらったが、彼は聞えないのか、振り向こうともしなかった。小うるさい奴だ、と思ったのかも知れない。  堂の奥の暗がりから、七十歳を超えているとおぼしい尼僧《にそう》が、バケツを提げて出て来た。達者な足取りで庭の外の畑へ向うのを、私は後から蹤《つ》いて行ってみた。尼僧は畑の真中に埋め込んだ水槽から水を汲み上げ、その重さにやや身体《からだ》をかしげて、また足早に引返して行った。水槽の中をのぞくと、半ばくらいまで溜《た》まった水が、薄白く濁っていた。天水を溜めて、雑用水に使っているのらしかった。  作家になってからの立原正秋は、韓国を旅する機会があったにも拘《かか》わらず、生れ在所に足を踏み入れていない。 一章 〈犀《さい》〉の時代  一九六四年七月中旬の晴れて暑い日の午後、当時共同通信社文化部の記者をしていた私は、逗子に本多秋五氏を訪ねた。依頼してあった原稿を取りに伺ったのだったと思う。玄関先で私の顔を見るなり本多氏は、 「やあ、あんたは何か芥川賞の情報を持っておらんかね」  と言った。本多さんが芥川賞なんかに関心を示すのは珍しいな、と半ば訝《いぶか》りながら私が応接間へ入ると、太めの黒縁の眼鏡をかけ、肌の色が際立って白い人が、椅子に姿勢正しく腰掛けて、真直ぐに此方を見ていた。その視線に気が付いた瞬間、私は、あ、この人は立原正秋だ、と思った。  ちょうどその頃、戦後十九年間続いた雑誌〈近代文学〉が、八月刊行の第一八五号限りで終刊する後を承《う》けて、それまで山室静、埴谷雄高の両氏を囲んで〈近代文学若手の会〉を作っていた人たちの間で、新しく同人雑誌を出す計画が進んでいた。自分たちの雑誌を持とう、と真先に提唱したのは立原正秋であったという。まだ一篇の小説も活字にしていなかった私は、むろん若手の会の一員ではなかったが、旧知の久保田正文氏の紹介によって、新雑誌の同人に加えてもらう事になっていたのである。  私が最初に他の同人と顔を合せたのは、本多邸訪問よりほんの少し前、七月十日に新宿区河田町の東京都職員集会所で開かれた会合だったが、立原正秋は生憎《あいにく》出席していなかった。この日、雑誌の名を〈犀〉とする事が投票によって決った。提案者は佐江衆一である。たまたまダリの犀のモティーフによる作品を観《み》て、「角を矯《た》めることなく、既成の世界に突進する」イメージが新雑誌にふさわしいと思った、と後年彼は書いている。  一通りの打合せが終ったあと、立原正秋が〈新潮〉五月号に発表した「薪能」が、佐江衆一の「素晴しい空」と並んで、芥川賞の候補に挙げられている事が話題となった。私は黙って皆の喋《しやべ》るのを聞きながら、立原正秋はどんな人かと、しきりに気になった。「薪能」は俗物の夫に慊《あきた》りない若い人妻が、能面打ちの男と心中する話である。二人は没落した旧家の血をひく従姉弟《いとこ》同士で、十代のころに祖父に連れられて奈良興福寺の薪能を観た記憶を共有している。女は夫に馴染《なじ》めず、自分の身の置き処がないと感じるとき、「暗い夜を彩る薪能の篝火《かがりび》」を思い泛べる習慣がある。儀式の終りとともに消えて行く火は、二人の宿命の象徴のようにも映る。むかし祖父が舞った能楽堂で睡眠薬を嚥《の》み、従弟と手を握り合って死に赴く女の眼に、「ひときわ澄んだ大鼓の音とともに、九天の高みから薪能の篝火がこちらに近づいてくる」のが見える。この小説を読んで私は、立原正秋がこういうものを書くのか、といささか戸惑った。ユダを主人公にした「血の畑」や、湘南海岸の現代風俗をあしらったしゃれた短篇小説の作者としての印象が強かったせいだろう。「こんな悲しみを知り、こんな愛を知ってしまった二人は、それ自体の充実したはげしさによって滅びるべきかもしれない」というような文体と考えの筋道とに、素直に蹤いて行けなかったためでもあろう。  つまり私は、立原正秋という人のイメージを把《つか》みかねていたのだが、それにも拘わらず、本多邸で顔を合せたとたんに、なぜこの人だと思ってしまったのか判らない。しかし、そう思ったときの感覚は、今でも新鮮に憶えている。 「お目に掛りたいと思っていました」  と私は挨拶をし、立原正秋は上体を正しく折り曲げて礼を返した。それから私は何を喋ったのだろう。その期の芥川賞は、柴田翔氏の「されどわれらが日々—」が殆ど絶対の本命と目されていたが、そうした下馬評を紹介したのだったろうか。新聞記者が押掛けて大変だろう、と本多氏が言い、 「まったくあれは煩《うるさ》いですなあ」  と立原正秋が言った。  およそ一時間も経ってから、二人で連れ立って本多邸を辞去した時分には、まだ陽が高かった。立原正秋は白いピケ帽を被り、白いシャツに黒のズボンの出立《いでた》ちで、下駄履きではなかったかと思う。黒いナップサックに似た袋を肩に掛けて、背筋を伸ばし、やや顎《あご》を上げるような恰好で大股に歩いた。私たちは電車に乗って鎌倉まで行き、私が誘って駅近くの喫茶店へ入った。そこで私は改めて自己紹介をし、小説を書いている事が取材相手に知れると具合が悪いので筆名を使っている、本多さんにも打明けてはいない、などと話した。立原正秋は、本多さんのところへは今日みたいに時どき遊びに行くのだ、と言った。  喫茶店を出て私は別れるつもりだったが、立原正秋は、 「ちょっとぼくの家へ寄っていらっしゃいませんか」  と誘って呉れた。歓んで私は応じた。駅前からバスに乗る前に、立原正秋は附近の洗濯屋へ立寄った。黒い袋の中身は洗濯物であったらしい。  その日私が訪ねたのは、鎌倉市笛田《ふえだ》一○○四番地の家である。のちに立原正秋が家を建てる梶原山《かじわらやま》の麓のあたりで、畑の中に同じ造りの家が数軒並んでいた。居室は二た間きりの貸家普請《ぶしん》であったが、整理が行き届いて、綺麗に住みこなされている様子が、玄関を入ると直ぐに判った。私は彼の仕事机の前に座蒲団を勧められた。私より少し早い時期にこの家へ招かれた小川国夫氏は、机の上に梔子《くちなし》色の絹糸で綴じた「薪能」の原稿があったのを見ている。  互いに初対面のぎごちなさがほぐれぬまま話すうちに、ようやく暗くなって来た。立原正秋は電気スタンドの灯《ひ》を点《つ》け、 「この辺は虫が多いんだが、網戸は嫌いでねえ」  と言った。裏山からの風が吹き通る部屋は涼しかった。  あちこちへ飛んだ会話のなかで、私が取り分けよく憶えているのは、立原正秋が、われわれは新しい雑誌を足場にして、みんなで文壇へ出て行くのだ、と言った事である。 「小説は自分のために書くので、文壇に野心はない、なんて言う人がいるが、あれは嘘です。誰でも本心は文壇へ出たいんだ」  こうまともに断定されて、私はたじろぐ思いをした。本音は確かにそうであっても、それを口に出すだけの自信は持合せず、曖昧に頷いてみせるしかなかった。  その日からさして間を置かずに、私は再び笛田を訪ねた。〈犀〉に載せてもらう原稿を持参したのであった。〈犀〉は四人の編集委員に別格として立原正秋を加えた五人が、提出された同人の原稿を廻し読みして、掲載の可否を決める仕組みになっていた。私の小説は「暮色」という題で、百二十枚あった。立原正秋は冒頭の数枚をはぐってみて、 「ずいぶん長いね」  と言い、そっと机の上に置いた。その大事な物を扱うような手付きが、今も眼に遺っている。用件はそれだけで終り、あとは勧められるままに酒になった。十六年に及ぶ彼との付合いの間に、どれだけ酒の御馳走に与《あずか》ったか判らないが、その最初であった。 「魚にしようかと思ったけど、あなたは若いからハンバーグにしました」  と彼は言った。後年彼が作り上げたイメージからすると、ハンバーグはそぐわないようだが、当時はそれが自然であった。むろん出来合いのハンバーグではない。彼が私の訪問を待ち受けて呉れていた気持が察しられて嬉しかった。  私たちは先《ま》ず雑誌の話をした。彼は、同人雑誌はだらだら続けたって仕様がない、季刊を厳守して、十号を出し終えたら止める覚悟でやるべきだ、と力説した。 「それだけ時間があっても、ものにならない奴は駄目です」  今度は私も、前のようにまごつかないで賛成した。何事にも留保を付けない彼の考え方は、慣れて来ると極めて解り易《やす》かった。  時間が経つにつれて、主に私が訊き、彼が答える形になった。私は、彼が早稲田大学を中退した事、学生結婚をしたのでもう大きい息子と娘がいる事、いくら貧乏をしても月給取りになるつもりはない事、現代の小説家では川端康成と大岡昇平を尊敬している事などを聞き出した。新聞記者がインタヴュウをしているみたいで、彼は内心閉口したかも知れない。  話の途中で、私の杯《さかずき》を持つ手が留守になると、立原正秋は、 「どうした、しなさいよ」  と急《せ》き立てるように言って、銚子の口を差し向けた。酒や料理を勧めるときに、「しなさい」とか「しませんか」と言うのは、私にとって懐しい彼の言葉癖の一つである。そうやっていい加減酔の廻ったころ、彼は黙って席を立ったが、しばらくして野菜の揚物を持って現れた。 「裏の畑で採ったのを揚げたんだ」  と彼は、手ずから私の皿に取分けて呉れた。青紫蘇《あおじそ》の葉が香ばしく揚っていた。小川国夫氏には、野菜類は近くの畑から失敬するのだと言ったそうだが、このときはどうだったろう。小川氏も私も、“鉢の木”のもてなしを受けたのかと思う。 「薪能」が芥川賞の候補に挙げられはしたものの、彼は、文芸雑誌から注文が来る状態にはまだ遠かった。編集部に原稿を持込んでも、没にされる場合が多かったようである。一九五六年に「セールスマン・津田順一」を〈近代文学〉に発表して以後、本多秋五氏の推挽《すいばん》もあって、〈群像〉や〈文学界〉に書く機会を与えられ、新進作家の一人と目されていながら、そんな処遇を受けるのは不思議のようだが、経済の高度成長に随伴して出版ジャーナリズムが膨脹する以前の、編集者が新人を見る眼の厳しさは、現在とはまるで比較にならなかった。静岡県藤枝市に住む小川氏に宛《あ》てた手紙に、「ぼくの方、どうもこんども〈文学界〉のはボツになったらしいです。短篇を四つもいちどにボツにされてみると、虚《むな》しい思いがわいてきます」と彼は書いている。「〈文藝〉の野郎共の態度はまったく不愉快です」と、さすがに肚《はら》に据えかねた口吻を示してもいる。  私が訪ねて話し込んでいる最中に、編集者から電話が掛って、彼が長い間喋ったあげくに、 「そんなら、原稿は早く返して下さい」  と、きつい調子で言うのが聞えて来た事もあった。  そんな風に努力が酬いられない事を、彼は私に隠さなかった。没になった経緯を打明けて、 「ぼくの力が足りなかったんだと思っています」  と、居住いを正すように言ったのが忘れられない。  実は「薪能」も、〈新潮〉編集部への持込み原稿なのであった。その年の二月、立原正秋は新潮社を訪ね、住所と姓名を誌《しる》した封筒に入れた原稿を受付に置いて、編集部員に面会を求めるでもなく立ち去った。新潮社に面識がある人はいなかったのである。それまで馴染みのある編集部では没が続いたため、新しい舞台を得たい気持が強かったのかも知れない。  普通なら、持込み原稿を直ぐさま掲載する事は先ず有り得ない。しかしこのときは特殊な事情があった。四月七日発売の五月号の小説が一篇足りなくて、頁《ページ》が空いていたのである。編集部はあれこれと調整に苦心をした末に、「薪能」を取上げる事にした。運が好かったと言うしかないが、ただの埋合せに使われたのではなかった。能楽堂を舞台にしての心中という反時代的な事件を描く文章の華やぎと、エンタテイメントにも通じる小説造りの巧みさが、採用の決め手となったのである。  掲載を決めた〈新潮〉編集部は、早速封筒に書いてあった住所宛てに、連絡されたし、と電報を打ったが、いくら待っても返答がなかった。立原正秋がやっと現れたのは、校了間際の三月末であった。待呆けを食わされていた編集部の坂本忠雄氏は、どうしてこんなに遅くなったのか、と詰《なじ》った。しかし立原正秋は、ここしばらく家を空けていて、昨日初めて電報を見たのだ、と動じる風がなかったという。恐らく東京の愛人の家に泊りきりでいたのであろう。この人は並みの新人ではないと直感した、と坂本氏は言っている。  作品も人柄も新人離れしていると認められたわけだが、他ならぬその事が、芥川賞を逸する主な原因ともなった。第五十一回の芥川賞は、下馬評通り「されどわれらが日々—」が入選し、「薪能」は“次点”に終った。審査員の選評をみると、「尖鋭《せんえい》なきらめくような表現があちこちにあって、この作者の才能は充分に示されている」(石川達三)と評価される半面、「すでに職業作家を思わせるうまさだ。非のうちどころのないほどのうまさが、かえって新人のみずみずしさから遠ざけているうらみがある」(高見順)、「あんな仰々しい、大時代な心中はウソが目立って、かなわない。あれは昌子がいとこの俊太郎に、心中をもちかけて、ことわられるほうが説得力があったろう」(舟橋聖一)というような意見が大勢を占めて、結局は斥《しりぞ》けられた事が判る。  これ等の選評を、立原正秋がどう受止めたかは知らない。芥川賞の発表後間もなく私が会ったときには、彼は縁が肩までかかる大きな麦藁《むぎわら》帽子を被っていた。これは知人から芥川賞の前祝いに贈られたものだが、 「落選帽になっちゃったな」  と彼は、上を向いて哄笑《こうしよう》した。 〈犀〉の創刊準備が進行するなかで、私は彼としばしば顔を合せたが、しばらくはどうしても他人行儀が付纏《つきまと》った。私は人の懐へたやすく飛込んで行けるたちではなかったし、彼も何となく遠慮がちで、ぞんざいな言葉は使わなかった。私が文芸担当の記者だったせいもあったろうか。そうした互いの気兼ねが消えて、一気に親しさを増したのは、〈犀〉の原稿の採否を巡って、私にとっては忘れられない小事件が起ったからであった。  私が提出した小説「暮色」は、編集委員の間で廻し読みをされ、ほぼ一箇月後に私の手許《てもと》へ戻って来た。最後の頁に一人一人の批評が書き連ねてあったが、読んでみると四人の委員全員が掲載に否定的なのであった。私は腹を立ててたちまちそれを破いてしまったので、詳しい内容は憶えていないが、「好感は持てるが採らない」とか、「弱い」という文字があったのは確実である。ひとり立原正秋だけが違った。彼の評は、編集委員たちとは別に、原稿の表紙にぎっしりと書き付けてあった。これも現物は失われていて記憶によるしかないが、「ぼくはこの作品を採ります。地味ではあるが作者の眼は確かです」と認めた上で、それにしても百二十枚は長過ぎるから三分の二以下に縮めなくてはいけない、「暮色」という題は古くさいから取替えるように、と指示が付いていた。  八月末に銀座の教文館ビルで開かれた同人会で、私は立原正秋に励まされ、原稿を持ち帰って早速書き直しにかかった。三分の二に縮めるのは到底不可能のような気がしたが、いざ手をつけてみると意外に筆が捗《はかど》って、一週間余りで八十枚の、それまでとはまるで相貌の異る作品が仕上った。題は「夏の日の影」と替えて鎌倉へ送ると、折返し返事が来た。一応満足の行く出来栄えだ、まだ冗漫なところがあるが、今の君の力倆《りきりよう》ではこれ以上は無理だろう、と書いてあった。  これだけの経緯があって、私の小説は〈犀〉第二号に載った。若しこのとき立原正秋が、編集委員の判断を覆《くつがえ》す形で掲載にまで持って行って呉れなかったら、私は不満を抱えたまま〈犀〉を脱《ぬ》けていたであろう。そうすれば代りの発表場所がおいそれと見付かる筈はなく、新聞記者の仕事に興味がないわけではなかったのだから、私が小説を書く意志を持ち続けられたかどうか疑わしい。また彼が、三分の二以下に縮めろ、と乱暴とも思える忠告をして呉れなかったら、私は短篇小説の骨法を把むのにまだまだ時間を要して、次に書いた「北の河」で芥川賞を受賞する好運に恵まれる事はなかったに違いない。そうした意味で私は、実に多くを立原正秋に負っているのだが、むろんその頃はそれに気付かず、ただ年長の知己を得た歓びと心弾みとだけを感じていた。  しかし、立原正秋の判断が常に的確であったと言ったなら、異論を唱える向きが出て来るだろう。例えば加賀乙彦とはどうも呼吸が合わなかったらしい。雑誌の題を決める会合で、加賀乙彦が〈エクリール〉という案を出したら、立原正秋は、こんなのを思い付くようでは文学精神がなっていない、とけなしつけた。彼の外国語に対する反感があまりに激しいのを知って、加賀乙彦は、同じく文学をやろうとしていながら、自分とは別種の人間がいるものだ、と強い印象を受けたという。加賀乙彦の最初の長篇「フランドルの冬」も、外国の地名を表題にし、外国人を書いているという理由で、立原正秋は認めなかった。読んだのか、と訊いたら、読むもんか、と即座に応じたそうだから徹底している。  なぜ彼がそこまで外国を毛嫌いしたのか、私も不審である。外国と外国文学について、彼が無関心だったのではない。それどころか、ヘミングウェイの短篇集は、最期の日まで彼がベッドの傍らに置いた愛読書であったし、三十代半ばのころには、小川国夫氏を相手に、ムージルやダレルをしきりに論じている。そして何よりも、ルナンの「イエス伝」に基いて書いた「血の畑」がある。一九六○年に〈近代文学〉に載ったこの中篇の主人公ユダは、メシヤを信ぜず、「もし虚無のむこうになにかがあるとしたら、それは美の永遠だけだろう、そこでは虐殺《ぎやくさつ》さえが美しいものとなるにちがいない」と考える男と性格づけられている。彼はイエスを裏切ったあと、胸の内でイエスにこう呼びかける。「あなたが明証そのものであり王国を預言した人であり、わたしは、あなたのそうしたものの前で自分を見失いかけていた。わたしは自分をとり戻したかった。自分自身の選択と行為とを通じて自分を創《つく》りたかった」。私には理解の届かぬ部分が残る小説だが、「昭和二十八年から数年間、テスタメントに親しんだ」という作者の、聖書への関心の深さは疑えない。  そのような彼がどうして、偏狭な外国嫌いを標榜するようになったのか。彼は何事によらず説明をするのが嫌いだったから、推測するしかないが、「薪能」以来鮮明になった彼の日本中世への志向と関わりがある事は確実である。死ぬ二年前の一九七八年に発表した随筆に、彼は、一九五六年から六三年までの間は「まだ自分の手法をつかんでいなかった。いずれは日本の伝統に還《かえ》ると判っていながら、きっかけがつかめていなかった」「〈薪能〉を発表して自分の道をはっきりきめた」と書いた。また一九七一年の文章には「創造の出発点はどこに求めるべきか、私は、これを、日本の中世文学の歴史的実現いがいにはありえないと考えている。若年のころ、外国文学を乱読してきて、それなりの得るところはあったが、私にとっては風土が帰趨《きすう》すべき場所であった」と、かなり調子の高い一節がある。  いずれも往時を顧みて書いたものだから、事柄の整理がつき過ぎている傾きはあるにしても、彼が「薪能」を自らの一時期を劃《かく》する作品だと信じ、自負を抱いていた事は判る。それにすべてについて白か黒かの結着をつけなくては納まらない性来の断定癖が加わって、外国を書いた小説は反吐《へど》が出る、というような頭ごなしの発言となったのだったろう。しかし識り合って間もない私たちは、彼の内心の動きを察しようがなかった。 〈犀〉が創刊されて一年半余りが経った一九六六年の六月、三浦半島にあるケープ・シャトオという国民宿舎まがいの宿屋で、一泊の同人会をやった事があった。明け方まで酒を飲み、議論を交わしたのだったが、夜が更《ふ》けてからは立原正秋と白川正芳の言い合いとなった。武井昭夫と高橋和巳を対立的に捉えて、立原正秋が武井昭夫の、白川正芳が高橋和巳の肩を持ってぶつかり合ったのであった。寝る時機を失した数人が、自然に二人を囲む形で、激した言葉の遣取《やりと》りを聞いていた。岡松和夫は「白川が小説や評論のような作品から正当に対象を測定しようとしているのに対して、立原が人間に対する愛着から語っているということを感じた」そうだが、私は、議論の中身をまるで憶えていない。憶えているのは、立原正秋が言葉の切れ目毎に、ばかやろ、ばかやろ、と叫んだ声だけである。その有様には、腰を低く構えて挑《いど》みかかる若手を、上突張りで突き返すような趣きがあった。そんな調子の議論が午前四時過ぎ、海の方角の空が明るむまで続いた。雲を割って眩《まぶ》しく陽が射して来るのを見ると、立原正秋を先頭にテラスに出て、朝日に向って乾杯の真似事をしたのだから、みんな若かったものだ、と苦笑するほかはない。二、三時間まどろんだあとの朝食の席で、白川正芳は「立原さんて、どうも論理的じゃないんだなあ」と嘆息した。立原正秋が好んだのは“真剣勝負”であって、互いの言い分に上辺《うわべ》だけでも耳を傾けるような“話し合い”ではないのであった。  彼の性格は、〈犀〉の運営にも反映しないではいなかった。編集の実務は、会計役を引受けた石井仁を初め、神津拓夫、岡松和夫、佐江衆一、白川正芳らが協力して堅実に進めたが、彼はその上に立って采配《さいはい》を振らなくては気が済まなかった。「彼は几帳面な人で、何かあるとすぐに電話がかかってきた。〈どういうつもりだ〉と何度も大きな声を出された。私はそのたびに岡松和夫や石井仁に電話で相談しなければならなかった」と白川正芳が述懐する通りであった。  立原正秋が〈犀〉第二号に書いた「《犀》創刊雑録」を読み返すと、二十六年を経た今日でも、口を開く前に一瞬言葉を閊《つか》えさせて、急き込むように喋る彼の声が聞えて来るような気がする。〈犀〉には紀要から大衆小説まである、と或る人から批判されたが、大勢が金を出し合って作る同人雑誌はそうなるのも已《や》むを得ないのだ、と弁明した上で、彼は遠慮会釈なく、利己的な人間に批判を浴びせ、正論を主張している。  同人のなかで若い者達が、書評新聞の同人雑誌評論者にとりいって雑誌を持ちあげてもらおうとした動きがあり、すでに手遅れの事実もあったが、以後は慎んでもらいたい。以後これに類した動きがあれば容赦なく斬る。よい作品は向うがとりあげてくれるし、とりあげてくれなくとも誰かが記憶にとどめておいてくれる、という事を銘記しておいてもらいたい。身内の恥をさらしたことになったが、これに類した身内の者の欠点は労らないつもりである。無性格な雑誌を続けて行く以上、また数人の長老達から援助を受けている以上、私はこの考えを貫いて行く。ワンマンだという非難があがったにしろ、問題ではない。       * 《犀》は女性同人の加入を認めなかった。彼女達は四人あつまると二派にわかれ徒党を組んで一方を非難し、また自作が載らないと編集委員をうらむ、という不思議な習性を発揮するからである。こんど二人の女性同人の加入を認めたが、もしこの二人に見習ってくれるなら、今後も加入を歓迎する。       *  すでに一流文芸誌に作品を発表したことのある若い人が、現在一流誌に二作提出してあるが、もしボツになったら、それをもって同人に加入したい、と言ってきた。ボツにならなかったらどうするか、と私は訊いた。そのときはいまさら《犀》になど入る必要はない、とその青年は答えた。私は鄭重《ていちよう》にことわって帰ってもらった。利己主義と合理主義をはきちがえないでもらいたい。移り身の素早い人間を《犀》が迎えると思ったら間違いだ。       *  暮の二十九日、私は、逗子に本多秋五氏を訪ね、二人で逗子、鎌倉の街を歩いた。氏は志賀直哉氏について語った。氏の一語にはいつも含蓄がある。氏はかつて私の作品をほめたことがなかったし、私も氏の文学観には同意できない個所がある。しかし氏は私が最も尊敬する人物のなかの一人である。  矢鱈《やたら》と身内の者をほめあげる風潮のさかんな現今、このようなつきあいがあってもいいのではないかと思う。これは、私が学んだなかで一番大切なことである。  この文章から判るように、彼は真当《まつとう》過ぎるほどの潔癖性であったが、同時にその種の人に有り勝ちな早嚥込みのあげくの独断癖も多分に持合せていたから、揉《も》め事がしばしば起った。癇《かん》に触る事があると、彼は待った無しで編集委員の誰かに電話をかける。それが騒動の発端になるのである。電話があったときたまたま不在だったために、奥さんが代りに呶鳴られたなんて話も伝わって来た。酒の肴《さかな》には恰好の話題だろうが、当事者にしてみれば、笑い事では済まなかったに違いない。尤も、同人会では誰も表立って彼に楯突《たてつ》きはしなかった。蹤《つ》いて行けない者は、黙って別れて行った。  私は創刊号が出る直前に、共同通信社の大阪支社へ転勤となったが、〈犀〉の合評会への出席は欠かさなかった。ちょうど私が転居した月に東海道新幹線が開通したので、東京へは気軽に往復出来たのである。立原正秋が、合評会へ出る前に家へ寄ってもらいたい、と葉書を寄越したのは、一九六六年の一月下旬、第五号が出て間もない頃であった。彼は前の年の九月に、笛田から腰越《こしごえ》の海岸に近い借家に移っていた。  何事かと思って私が訪ねると、彼は改まった顔付で、宛名書きのない白い封筒を書斎の卓の上に置いて、 「ぼくは今日の会、欠席するから、こいつを石井に渡して呉れないか」  と言った。事情がまるで嚥込めない私は、怪訝《けげん》な顔をしたに違いない。その様子を見て彼は、焦《じ》れったそうに封筒の中身を取出して読み上げた。それは数人の同人を「下衆《げす》」と極め付け、そんな連中とは到底一緒にやって行けないから、〈犀〉は解散して出直すべきだ、と主張したものであった。私は愕いた。少し前の彼からの手紙に、「犀にもいろいろとあらそいがあり」云々とあったところから、いざこざがあるのは察していたものの、まさか解散に及ぶほどの事態だとは思ってもみなかった。 「誤解もあるでしょうから、みんなで話す機会を作ったらどうですか」  私はそう言ってみたが、彼はそんな生ぬるい提案に耳を藉《か》しはしなかった。私は仕方なく、子供の使い同然に、その手紙を合評会の開かれる築地の旅館〈鶴よし〉に持って行って、石井仁に渡した。石井仁は一読してすこぶる困惑した表情を見せ、 「すべて立原さんの独断ですからね」  と呟いた。  手紙を渡してしまえば私は用済みであったが、受取った側は手を拱《こまね》いてはいられなかっただろう。せっかく五号まで苦労してやって来たものを、一気に叩き潰せというに等しい要求に、反感が噴き上ったとしても不思議ではない。このときの騒動は長引いた。調整役を任された岡松和夫は、思いあぐねた末に本多秋五氏を訪ねて相談を持ちかけたという。その結果、本多氏が立原正秋に、初めの約束通り十号までは協力してやったらどうか、と忠告して呉れて、やっと鳧《けり》が付いたのであった。「立原の好悪の烈しさを否定できぬところに同人誌の真剣さもある。和気あいあい、必ずしも同人誌の道ならずということかも知れぬ。しかし、わずらわしい」というのが、一ばんの貧乏籤を引かされた岡松和夫の控え目な感想である。  私自身は、大阪にいたおかげで、殆ど傍観者の立場に留まっていられたのだが、このときの立原正秋の振舞には、尋常でないものを感じた。彼は「下衆」として数人の名を挙げたが、そのうち本当に嫌っていたのは、一人か二人に過ぎなかった筈である。彼等と喧嘩をするのなら解る。だが、彼等を排除するためにどうして自分が手塩にかけた雑誌を潰さなくてはならないのか。しかも肝腎の彼等を貶《おとし》める理由は、私の聞いた限り、些細な事なのであった。独りよがりで怒りっぽい人なんだ、と苦笑しつつ納得するには、彼は執拗であり過ぎた。彼を衝動的な行動に駆り立てる暗い力の存在があると感じられたが、その実体は推測すら覚束なかった。  或る集団に彼が加わると、その性急さと、他人と折合う事を潔《いさぎよ》しとしないような言動にかき廻されて、集団は活気を帯びる半面、必ず摩擦が生じる。ところが不思議なもので、そうした場合には、彼を宥《なだ》めたり諫《いさ》めたりして、周囲との調和を図る人間がきっと出て来るのであった。その辺の機微を、後藤明生の文章が伝えている。 「犀」のときも、「早稲田文学」(立原編集長時代)のときも、立原流が引き起こすたいていの問題を、ほとんどの場合、内部のものは笑って済ませて来た。また、外部に向ってそれを話すときは、あらかじめ相手も笑えるような方法でサービスして来たつもりである。実際それは、あるときは「道化師」のごとき役割でさえあったと思うが、それが内部を内部として維持し、同時に外部との関係をも維持する方法だったのである。そして、内部の誰かがその役割を引受けなければ、「犀」も「早稲田文学」も、現在、外部の人々に記憶されているようなものとは、まるで違った形のものにならなかったとはいえないと思うのである。 「道化師」という表現が当っているかどうかはともかく、確かに私たちは、立原正秋のやる事なす事を、面白おかしく戯画化して喋る傾きがあった。そうやって彼の発散する毒気を中和させようとしたのだとも言える。むろん、周囲の者を放っておけないような気持にさせた彼の、裏表のない性格の魅力も認めなくてはなるまい。  私が大阪に住んだ期間は、〈犀〉の創刊から予定の十号を出して終刊するまでの三年間と重なり合っている。立原正秋は実に筆まめに手紙を呉れた。「きみの作品には光沢があります。光沢がなくては純文学にならないのですが、それを更に磨いてもらいたいというのがぼくの希望です」「地味だと言われても気にしないで、自分のペースを守って仕事を続けてください」と、勢のある躍るような字で書いてあった。そうした手紙を私は棄てる気になれず、紙袋に入れて保存してあったのだが、引越しの際にどこかへ紛れ込んで、失ってしまったのが悔やまれる。 〈犀〉四号に載せた「北の河」にも、私は彼の指示に従って手を加えている。初稿に対する彼の批評は、「まとまってはいるが、これでは弱いようです」というものであった。そして原稿用紙の欄外のあちこちに、薄い鉛筆書きで「このあたりは半分に縮められる」「これは小説の文章ではない。硬い文章なのはいいが、造型がなければ小説にならない」「いま一工夫。硬すぎる」といった風に、主として文章上の注意が書付けてあった。そのすべてを素直に納得したわけではなかったが、私は、彼に挑むような気持で、全体を二度書き直した。 「お前さんの字は細かくて読み辛い。おかげで眼鏡の度が進んだよ」  と、この小説が芥川賞に選ばれたあと、彼は私に言った。私は咄嗟にうまく返事が出来なかった。  大阪から上京の折には、必ず一と晩、腰越に泊めてもらった。私が仕事の都合でどうしても午前中に大阪に戻らねばならず、まだ暗みが庭に遺っている時刻に起きて、朝食を御馳走になった事があった。八丁味噌を使った濃《こく》のある味噌汁と、麦の交った飯を食べているところへ、朝刊が届けられた。その日はたまたま文芸雑誌の発売日で、二面に広告が並んでいた。柴田翔氏の「贈る言葉」の扱いが、白抜きで目立って大きかった。立原正秋は箸を休めてそれを眺め、 「柴田翔が書いてる」  と呟いた。芥川賞を争った柴田氏の仕事ぶりに、無関心ではいられなかったのであろう。  腰越の家で一ばん鮮やかに思い出されるのは、書斎兼客間として彼が使っていた部屋の出窓の下の地袋である。高さが五、六十糎《センチ》あるその中には、書き溜めた小説の原稿が堆《うずたか》く積み上げてあった。酒の合間に彼はその戸を明けて私に見せ、 「もう直き、これがみんな金になるんだ」  と、少しわざとらしく声を挙げて笑った。そんなにうまく行くものかな、と私は秘かに首を傾《かし》げた。五千枚以上はありそうだったが、雑誌へ持ち込んで没になった作品も相当にあるのを知っていたから、全部が金に変るとは到底信じられなかった。しかし、日ならずして結果は彼が豪語した通りになった。  こんな逸話がある。文芸雑誌の編集者が、掲載に適当でないと判断した原稿を返しに行った。編集者にとっても作家にとっても、これは気不味《きまず》く気の重い場面である筈だが、立原正秋は不満を色に出さず、受取った原稿をぽんと地袋に抛《ほう》り込んで、次の号の締切までにあと幾日ありますか、と訊ねた。一週間ある、と編集者が答えると、じゃあそれまでにもう一篇、罐詰になって仕上げるから見て下さい、と言った。そして翌日から自腹を切って山の上ホテルにこもり、約束の一週間で百枚近い小説を書き上げたのであった。よほどの意地と自信がなくては出来る芸当ではなく、その編集者は、この人は既にプロだ、と感じ入ったという。因《ちな》みに立原正秋は、“プロの小説家”と評されるのが好きであった。  一九六六年に「白い罌粟《けし》」により直木賞を受賞して、プロとして世間に認知されたわけだが、彼が作家として立って行けると自信を深めたのは、その前年に書いた「剣《つるぎ》ヶ崎《さき》」で力倆を評価されて以来ではなかったか、と私は思う。 「剣ヶ崎」について、江藤淳氏の文芸時評は次のようなものであった。  立原正秋氏の「剣ヶ崎」(新潮)は、異色の力作である。氏はここで日韓混血児の問題を描いている、といえばいかにも今日的な問題小説らしくきこえるが、この小説が読む者の心をうつのは、図式化しようと思えばいくらでも図式化され得る「問題」を、自分の心の課題として語る作者のうめき声のようなものが、行間からあふれ出ているからである。  主人公次郎の父李慶孝は、日韓併合後の国策によって朝鮮貴族と日本女性とのあいだに生れた子であり、親の方針で士官学校に学んだが、日華事変の直後、陸軍大尉として勤務していた朝鮮大邱《たいきゆう》の連隊から突如行方不明になった。小説は、その後二十五年間杳《よう》として消息を絶っていたこの父が、韓国の要人として渡米する途中日本に立寄る、という便りを次郎の許によこすところからはじまる。  父が姿を消した当時十一歳の小学生だった次郎は、今では妻帯して鎌倉にある母方の祖父の家に同居し、母方の姓を名乗って大学の国文科の講師をしている。小説の筋は次郎の回想として展開され、次郎と父との再会、それにつづく次郎の自己解放の自覚をのべて終る。この過程は、当然異常な事件にみちている。しかし、それを描くことによって作者のいおうとしていることは、身内に流れる四分の一の韓国人の血にもかかわらず、自分はそれを超えたもの、つまり国文学徒として選んだ日本文化の側につくほかはないという主人公の自己発見が、どれほどの孤独な苦闘の果てに得られたものか、ということである。  剣ヶ崎は、父の出奔後、次郎の一家が憲兵の監視下にひっそりと暮した三浦半島南端の漁村である。母は数年後に再婚し、京大で物理学を学んでいた兄の太郎は、胸を病んで転地して来た従姉の志津子とひそかに愛しあうようになるが、敗戦の翌日、太郎のなかにある朝鮮の血の故に、この結びつきを憎悪していた志津子の兄の右翼青年によって竹ヤリで刺殺される。志津子はその夜剣ヶ崎の断崖から海に身を投げて死ぬ。  一方、次郎の叔父で海軍士官となっていた李慶明は、朝鮮人であることを選んで脱走した兄とは逆に、敗れた日本海軍に殉じて自尽する。だが、このような惨劇を経て生きて来た次郎は、狂人になって死んだ太郎にあいに帰って来た従兄の右翼青年に対して、 《あの満開の桜の樹の下で花ぐもりの空を見あげ、太郎はいるか、と言って泣いた憲吉は、やはり太郎の肉親であり次郎の肉親であった。憲吉が太郎を刺殺したのは、憲吉のなかにある日本人の血であったが、狂気のなかで鎌倉に太郎を求めてきたのも、憲吉のなかにある日本人の血であった》  といえるような心境になっている。  これを「赦《ゆる》し」というべきかどうかを私は知らない。が、ここで確実なことは「私は韓国人で、おまえは日本人だ。血が繋っているとはいえ、この立場は守らねばならない」という再会した父の言葉を率直にうけいれられるようになった主人公が、混血児というコンプレックスからばかりではなく、「父」に対する「子」の役割からも自己解放し得ているということである。  日韓会談は難航しているが、いつかは解決するであろう。しかし、いくら政治的解決がついたところで解決されようのない問題というものがあり、それに立原氏は正面から取組もうとしている。それはまたイデオロギーが決して裁き得ぬ問題である。そういう重い荷物を背負いこんだ人間がどんな複雑な生きかたをしなければならぬかを、少なくともこの作者は知っている。それが、この小説を、やや硬い文章と、やや通俗的な筋はこびにもかかわらず、説得力のある重い作品にしているのである。  情理を尽したこの評に接して、立原正秋は歓び、終生江藤氏を徳とした。単に賞められたからばかりではない。作者の面影を映した主人公次郎の「孤独な苦闘の果てに得られた自己発見」に着目し、作者自身が強いられた「複雑な生きかた」まで見透して論じられた事が、彼を知己を得たという気持にさせたに違いなかった。 「剣ヶ崎」を彼に書かせたのは、〈新潮〉編集部の菅原國隆氏であった。立原正秋が朝鮮の血を承《う》けていると聞き知った菅原氏は、鎌倉駅前の珈琲《コーヒー》店に彼を呼び出し、是非とも自らの〈血〉を主題にした小説を書くように、と迫った。そのとき立原正秋はかなりの衝撃を受けたらしく、昂奮して蒼ざめ、受答えの言葉つきまで変ったという。  立原正秋がそれまでに〈血〉に触れた小説を書こうと試みなかったわけではない。日時がはっきりしないが、一九五○年代の終り近いころ、彼は百枚近い小説を、本多秋五氏のもとへ持込んだ。〈近代文学〉に載せてもらう心づもりだったのであろう。本多氏によると、朝鮮人の血の入っている男を主人公にして、トランプのカードを切り混ぜるように、断片を切り混ぜて構成した小説であった。普通の意味でなら佳作と言っていいほどの出来栄えであったが、日韓混血という重大な事実を初めて読者に知らせるのだから、誰にも文句を言わせない決定的な作品でなくてはならない、と判断して、書き直すように勧めた。本多氏はその題名を失念したそうだが、私は、一九五八年一月二十六日付で本多氏に宛てた手紙に出て来る「海に死す」がそれではないかと思う。  先日は失礼申しあげました。ずいぶん久しい以前から書きたいと考えていた作品が、やっと書けそうな気がしましたので、そのことを本多さんにお知らせしたくなったのです。「海に死す」という題をかりにつけておきました。例えば、あることの本質を知らずに「慣れ」で生活している者達とちがい、そのことの本質を知りつくした上で、なおそれに耐えて生きて行く人達がいたとしたら、それだけでその人達はたいへん強靭《きようじん》だと思います。太陽があることは知っていても、その太陽を見ることのできない者がいて、しかし外に太陽があることを知っているだけで存在したいと願って生きている人、ぼくはこの作品でそれを書きたいのです。ぼくにはまだ宗教はわかりませんが人間のかなしみを救うのは結局は宗教以外にはないのではないかと考えています。  すでに最初の二十七枚ほどを書きあげましたが(めずらしく去年の十月からいままでかかりました)これは自分でもたいへん気に入っています。  極寒の折柄、おからだに充分御留意ください。奥様によろしくお伝えください。  心にあるものを訴えずにいられないという気配が溢れていて、言辞は謙遜である。その事が新しい領域へ踏込もうとする筆者の覚悟を感じさせる。「あることの本質」とは、江藤淳氏の言う「重い荷物を背負いこんだ人間」の「複雑な生きかた」に通じるとの解釈も可能だろう。 「剣ヶ崎」の執筆は捗った。菅原氏と鎌倉で会ったのは、一九六四年の暮であったが、翌六五年の二月半ばには、早くも百三十枚の作品が完成した。構想の期間まで含めて、僅か二箇月しかかかっていない。主題の重さを考えれば、めざましく早い仕上りと言っていい。加えて彼は校正刷の点検すらしなかった。いつかは書かなくてはならない主題が、作者の内心で熟し切っていた様子が窺《うかが》われる。  石見《いわみ》家の混血の兄弟、太郎と次郎は共に作者の分身であり、太郎は情念を、次郎は生活者としての一面を分け持っているようにも見える。戦争が終った翌日、太郎は狂信者の従兄の竹槍に刺されて死ぬ。 「馬鹿めが! とうとう竹槍を使いおった。気の毒な奴、許してやるよ。死ぬのが少し早すぎたようだが、こうなってしまっては、俺の、二十年の、短い生涯も、ずいぶんと、永いものになった。俺は、倍の四十年は、生きてきた気がする。次郎、おぼえておけ。あいの子が信じられるのは、美だけだ。混血は、ひとつの罪だよ。誰も、彼をそこから救いだせない、罪だよ。母さんに、よろしく」  太郎は微笑をうかべたまま息を引きとった。咽喉から噴きだした血が庭土を染め、真上から太陽が降りそそぎ、真夏の潮風が吹きぬけて行った。  小説の頂点とも言えるこの場面については、あまりにも芝居がかっている、として発表当時から批判する声が高かった。〈群像〉の創作合評での安部公房氏の指摘は容赦がない。「なにぶん、頸動脈を竹槍で切られているわけでしょう。そうしたら、とてもじゃないけれど、こんな台詞《せりふ》を言っているひまはない。即死ですよ。そこで、獣のように見苦しく死んでいったって、いいじゃないですか。つまりこういう嘘で、太郎というものを英雄化しなければならぬほど、全体の根拠が薄弱なんだよ。何かこの作者は、問題を誤解しているな」。  実は私も、最初に一読したとき、それに似た感想を持った。立原正秋の人柄に対する親しみが深まっていただけに、彼がモティーフの薄弱を胡麻化《ごまか》そうとして、芝居がかった場面を仕立て上げたのだとは考えたくなかったが、まるで用意した文章を読み上げるような死に際の長台詞が、作品全体の真実性を損っていると感じた。「身悶えして蚯蚓《みみず》みたいに死んで行った方が共感を呼ぶのに。大体この太郎っていうのは立派すぎるんだ」と私は、〈犀〉の仲間の一人に言った憶えがある。相手も「うん、あそこは良くない」と即座に頷いた。しかし、あの場面が絵空事の印象を与えるのに気付かない立原正秋ではなかっただろう。彼の力倆からすれば、リアリズムに忠実に従いつつ、感動的な死を描くのは、さして難事ではなかった筈である。なぜそうしなかったのか。 「あいの子が信じられるのは、美だけだ」と太郎は繰返して言うのだが、この言葉も解り難い。日本にも朝鮮にも社会の一員として融け込めず、「宙ぶらりん」の状態に曝《さら》されている混血の人間にとって、国家を超え、歴史を超えて存在する美の世界以外に安んじられる場所はないのだ、と一応の解釈は出来るものの、肝腎の「美」の実体が、小説のなかに示されているわけではない。日本と朝鮮の血の葛藤《かつとう》に疲れて虚しさを感じるとき、「一行の詩が、一枚の画が、俺を支えてくれた。ピアノの鍵を叩《たた》く。音がする。音は瞬時に消え去る。しかしその音は、ちょうど釘を打ちこむようなかたちで俺の内面に入りこんできた。そんな世界がいちばん素直に信じられたわけだ」と太郎は打明けるが、これはあまりに一般的な芸術の慰藉《いしや》の説明でしかなく、作者はまだ美についての凝縮したイメージを把握し切っていないようにも受取れる。人間は果して「美だけ」を信じて生きられるものか、と反問されたら、作者に答える用意があるだろうか、と疑問も湧《わ》いた。  要するに私は、「剣ヶ崎」の野心をこめた作品に特有の量感に圧倒されながらも、あちこちに引掛るものがあって、感銘を受けるには到らなかったと言うしかない。  自己の分身をきらびやかな言葉で飾って英雄的に死なせ、「信じられるのは、美だけだ」と断言するのが、立原正秋が強いられた抜差しのならない生き方の反映である事を、私はまだ知らなかった。次郎の成し遂げた「自己解放」が、作者立原正秋の切実な願望に他ならない事にも、気付いてはいなかった。 二章 年譜の虚実 〈新潮〉の坂本さんと一緒に松茸を食べに来ないか、と立原正秋から誘いの電話があった。彼が藤沢市鵠沼《くげぬま》海岸に転居して間もなくだから、一九六九年の十月初めであったと思う。私たちは歓んで出掛けた。足許がぐんと深く沈み込むくらい柔かな砂地に建った家であった。彼はその前年に鎌倉市梶原山の分譲地を購《もと》め、新居を建てる計画を進めていたが、設計図がようやく仕上ったころ、家主と喧嘩をして腰越の家を飛び出し、鵠沼に仮住居をしていたのである。まだ電話も引かれていなくて、彼の机の上の小さな籠《かご》に、公衆電話をかけるのに必要な十円玉が山盛りになっていた。  松茸を存分に賞味したあと、何のきっかけがあったのか忘れたが、その年の五月に講談社から出た現代長編文学全集の第四十九巻「立原正秋集」が取り出された。仮住居で整理が行き届かぬまま、その本が手近にあったのかも知れない。巻末に自筆の略年譜が付いていた。私は真先にそれに眼を通した。通り一遍の形ではなく、半ばエッセイ風に綴った異色の年譜であった。  昭和二年一月六日朝鮮慶尚北道大邱市の母の生家永野家で出生。戸籍上の届け出は大正十五年一月六日。父は金井慶文、母は音子。父母ともに日韓混血で父は李朝末期の貴族李家より出《い》で金井家に養子にやられ、はじめ軍人、のち禅僧になった。三月、大邱の北東にある安東市郊外の父の寺鳳仙寺に母と帰る。家は寺の麓にあり、父は週に一度のわりで山からおりてきた。昭和六年春より寺にのぼり、老師から漢文の素読を受ける。本院より東の方にある山に僧堂があり、老師はそこに棲《す》んでいた。週のうち三日は家に戻らず老師の部屋で泊まり、雲水達と生活をともにした。屈折したその後の生のさなかで、この僧堂の記憶はもっとも鮮明である。この年の冬、父没す。昭和七年春早々、安東市内に移る。はじめて市のはずれを流れている洛東江を見る。昭和八年四月安東小学校入学。混血だという級友の嘲罵《ちようば》にたえられず半歳《とし》にして安東普通学校に転学。普通学校は朝鮮人の子弟のための小学校であった。この年より終戦まで寺および亡父の養家から学資の援助あり。昭和十年春、母、弟の正徳《まさのり》をつれて神戸市の野村家に再婚して去るにさいし、大邱市の北にある亀尾町で亀尾医院を開業していた母の実弟永野哲雄のもとにあずけらる。昭和十二年冬、叔父、済州島立病院に赴任するにさいし、神奈川県横須賀市の母の姉の婚家大下家に引きとられ、横須賀市立衣笠《きぬがさ》尋常高等小学校に転学。この小学校の一級下に、現在の妻である米本光代《よねもとみつよ》がいた。昭和十四年春、神奈川県立横須賀中学校の入試を受けて合格せしも、三月末、四歳年上の少年の嘲罵を受けて短刀で相手の胸を刺して重傷をおわせ入学をとり消さる。六月、横須賀市立商業学校に編入を認めらる。この年より剣を習う。剣の師は木村七段。木村師は、おまえは有段者になるとあとが面倒だ、と言って有段試合に出場させなかったが、昭和十七年春、三段の人二人と三本勝負をし、六本全部勝った。この年の夏、九州帝国大学医学部友田外科にいる叔父の永野哲雄の招きで福岡に行き、箱崎町の家で、叔父から、この冬に京城に越して開業するが、文学をやるのはどこでもよい、京城帝大にこないか、とさそわれる。それまで日本近代文学を殆ど読んでいたが、鴎外と康成、三重吉に惹かれていた。昭和十八年春、四修で京城帝国大学予科の入試を受けて合格、京城市の叔父の家に寄寓し、安東の鳳仙寺を訪ねる。六月、肋膜炎と肺浸潤をわずらい、鎌倉に移転していた母の再婚先の野村家に寄寓。この年、小林秀雄と川端康成をもっとも多く読む。かつ、進学の志うすれる。昭和十九年春、東京の大学に進学するようにとの周囲のすすめで、いやいやながら願書を出し、慶応と早稲田を受験し、両方合格す。花札を一枚舞わせ、表なら早稲田、裏なら慶応、ときめ、表が出たので早稲田に行く。専門部法科であった。学業とは名ばかりで入学して間もなく工場に勤労動員。この年、東京帝国大学、京都帝国大学、第三高等学校に在学していた親戚の朝鮮人、強制的に学徒兵にされ出陣するのを見送る。彼等はのちに一人として還ってこなかった。昭和二十年、日本と朝鮮が滅亡することを切にねがう。八月、終戦。昭和二十一年春、早稲田大学文学部国文科の聴講科の試験を受ける。口頭試問官の岡一男教授から「もったいないねえ。いくらいい成績でも、これでは学士号がとれないよ。来年、専門部を卒業して入ってこいよ」と言われたが、小説を書くのに学士号など要るものか、と決め入学する。この年、世阿弥に没頭す。昭和二十三年夏、米本光代とのあいだに長男潮《うしお》出生。同時に米本家にこわれ同家に入籍、あわてて婚姻届と子の出生届をだす。以後学校に出ず。妻と子を妻の生家にあずけたまま各地を放浪。妻の亡父は脩二で軍人、母はよね。昭和二十六年秋、鎌倉大町に居を構える。以後数年間無頼な生活が続く。昭和二十八年春、長女幹《みき》出生、昭和三十一年八、九月号〈近代文学〉に「セールスマン・津田順一」を発表、——  年譜はまだ続くが、処女作の発表以後は、作品の題名と発表誌紙名を列記するだけになって行く。  私は、冒頭の「父母ともに日韓混血」という記載に、強い印象を受けた。これは立原正秋が小説以外の場所で、「混血」の事実を公けにした最初であろう。やっぱりそうだったのか、と思った。「剣ヶ崎」によって彼と朝鮮との関わりを大凡《おおよそ》察してはいたが、彼が進んで話すのでない限り、それに触れるのには憚りがあったのである。私は黙って、本を坂本氏に回した。 「この中からずいぶん小説の材料が採れますね」  と坂本氏が編集者らしい事を言った。立原正秋は、 「うん」  と頷いたが、それ以上は何も言わなかった。  立原正秋が死ぬまで、私は、この年譜の記述が多少の修飾があるにしても大筋では事実だと信じていた。しかし、実際はそうではなかった。彼の両親は混血ではなく、共に純粋な朝鮮人であった。李朝末期の貴族李氏と血の繋がりはない。正しい生年月日は、年譜では戸籍上の届け日とされた大正十五年一月六日である。そのほか多くの点で、この自筆年譜は事実と相違している。いくつかの固有名詞の一部が故意に変えられてもいる。立原正秋がこうありたかったと願う自身の姿を描き出した一篇の小説だと言った方が、むしろ適当かも知れない。  一九七四年に新潮社から、全十二巻の「立原正秋選集」が刊行された。その挿込み付録に十一回に亘って「立原正秋論」を連載した白川正芳は、最終巻に載せる年譜を作成してほしいとの編集部の依頼を引受けなかった。立原論を書き進めるうちに、その出生、生立ちに複雑で判らない点が多いのに気が付き、年譜を作るなら「立原さんに幼少期をあらかた書いてもらえないだろうか。そうすれば、それを元にして私が作成する」と申し出たところ、立原正秋が拒否したからである。なぜ拒否するのか、その理由は明かされなかった。  白川正芳に代って、新しい年譜の作成を担当したのは、早稲田大学教授の武田勝彦氏であった。立原正秋自身が、武田氏の自宅へ出向いて頼んだのである。武田氏は比較文学が専攻だが、作品の英訳の橋渡しをするなどして、立原正秋との親交を深めていた。同じ鎌倉市内に住んで、互いに下駄履きで訪ね合うような地縁もあった。  武田氏も自筆年譜には創作の色合いが濃いと判断し、先《ま》ず立原正秋が幼年期に僧堂生活を送ったとされる寺の名を確定するところから、新年譜の作成を始めた。自筆年譜では〈鳳仙寺〉となっているが、武田氏が韓国の友人に照会した結果、安東市近郊にそうした名の寺は無く、正しくは〈鳳停寺〉ではないかとの返答がもたらされたからである。武田氏がその経緯を明かして問い詰めると、立原正秋は意外なほど簡単に「創作だ」と認めたという。  武田氏は両親の出自についても訊ねた。李家から金井家へ養子にやられた父の母方の姓は何であったか、母の実家の永野家が日韓混血であるとすると母の母方は韓国人であろうが、その姓は何か、というような事である。それに対して、立原正秋は明確に答えるのを避けた。「六歳で父の自裁に会い、十歳で母と訣《わか》れたから、祖父母の姓まではっきりとは覚えていないと、少し吃音《きつおん》になりながら答えた。私は正秋に戸籍謄本、小学校、商業学校の卒業証明書、成績証明書などを入手して欲しいと申し出た。正秋の答えは曖昧で、必要な書類を入手出来そうには思えなかった」と武田氏は、〈新潮〉一九八五年九月号に発表した「立原正秋の二つの私」に書いている。  このような抵抗に遭って「立原正秋選集」付録の年譜は、さきの自筆年譜と較べてさして変り栄えのしないものに終ってしまった。自ら作成を依頼しておきながら、立原正秋が示した態度は奇怪と言うしかない。出自に関するこだわりが、どれだけ強く彼の心を縛っていたかを感じさせる。  しかしその半面、立原正秋は、それ以後も独自に彼の閲歴の調査を続ける武田氏を、身辺から遠ざけようとはしなかった。そればかりではなく、文庫本や文学全集に年譜を付けなくてはならない場合には、作成者に例外なく武田氏を指名した。その度に二人の間に、或る事実を認めよ、認めない、の押し問答が繰返された。例えば父の姓名について、「これは正秋自身の姓とかかわり合うことでもあるので、相談する度に私も正秋も神経をすりへらした」と、「立原正秋の二つの私」にある。 正秋が小学校、商業学校低学年の頃に、金井ではなく、金と呼ばれていた事実を教えてくれたのは、正秋の友人であった。父の名は慶文と記載するのではなく、敬文と書くのが正しいといったのは正秋自身であった。しかし、金敬文(キム・キョンムン)を活字化することに正秋は反対した。最後に「武田が敬文が正しいと思うなら、括弧に入れておけ」といって、なんとか許してくれた。  姓を金井のままにしておくか、金(キム)にするかは名の記載より大きな問題であった。正秋は「父は李朝末期の貴族李家より出で金井家に養子にやられ」と公表していたからである。敬文の記載は許してくれたが、どのような形であっても、金と記載することに真向うから反対した。  横須賀商業時代の後半から早大専門部に在学中のころへかけて、彼が〈金井正秋《かないまさあき》〉と名乗っていたのは確かだが、それは一九四○年以降、日本政府が朝鮮人に強要した〈創氏改名〉によるもので、父が金井家へ養子に入った結果ではない。因《ちな》みに彼の姓が金から金井に変ったのは、一九四○年五月二十四日である。そういう事実を否定して、彼は〈混血〉の虚構を守ろうとしたわけだが、最後までそれを貫き通す事は出来なかった。  立原正秋が朝鮮人としての自分の名〈金胤奎〉を認めたのは、「立原正秋の二つの私」によれば、彼の死の前年、一九七九年九月六日であった。そのときの情景はいささか劇的である。 帝国ホテル五○六号室で英訳「剣ヶ崎」の最終のゲラを前にして、正秋と赤字の照合や意見の交換をした。英文の序文の執筆を出版社からも正秋からも依頼されていたので、私は思い切って自分の意見を卒直に述べた。既に一年前にも、生活年譜作成に関して、正確な客観性のある資料を要求し、正秋もアメリカの私の研究室に若干の調査結果を送って来たこともあるので、どうしてもこの辺で不透明な事柄に関しては決着をつけねばならないと思っていたからである。  海外の伝記文学のあり方、作家の書簡や日記の公表の方法なども実例をあげて説明した。また、英文で書かれる最初の作家紹介に誤謬があると、後々までも尾を曳くので余計な混乱は避けたいともいった。正秋は反論もせず黙って聞いていたが、四百字詰の原稿用紙に、  金胤奎(キム・ユンギュウ)  と大きな字で、はっきりと書いた。  この氏名こそ、正秋が誕生した時に両親から与えられ、正式に戸籍に記載されたものであった。私たちは正式な氏名を間に挿んでしばらくは沈黙したまま対座していた。  ペン先の太い万年筆を用いて、筆圧強く書かれた〈金胤奎〉の文字が見えて来るようである。  それから八箇月後、東京女子医大病院で食道癌の手術を受けた立原正秋は、父金敬文の生涯について、詳しく知りたいと洩らすようになった。「立原正秋選集」付録の年譜には、彼自身の主張に基き、「李朝末期の貴族の出」で、「大邱の歩兵聯隊の軍人だったが、正秋出生のころは、軍籍を辞し、安東市郊外の天燈山鳳停寺の禅僧」となっていて、正秋が六歳の一九三二年一月に「自裁」したと誌されている父である。かねてからこの父に寄せる立原正秋の想いは深かった。  自伝的小説で代表作ともされる「冬のかたみに」に現れる父は、〓居円俊《かんきよえんしゆん》と呼ばれ、西暦六四六年に創建された大刹〈無量寺〉の宗務長を勤める傍ら、寺域内にある仏教叢林《そうりん》という専門学校で、雲水たちに朝鮮仏教史や「碧巌録《へきがんろく》」を講じる混血の学僧である。日本人の友人を多く持ち、「青磁の水注子《みずさし》に酒をいれ、白磁の染付の壺に花を一輪投げこんで」愉しむような人柄であった。家族には一定の距離を置いて接している。幼い息子が貴重な壺を石に落して割ってしまっても叱りはせず、その破片を「拾いあつめてよく眺めておけ」と言うのである。生活ぶりは厳しく、雲水たちに畏怖《いふ》されていたが、時に「ひどくだるそう」な姿を見せる事があった。  父がなぜ青酸加里を嚥んで自殺しなければならなかったか、理由はさだかでない。女に関わる悩みがあったようだが、それも暗示的に語られているに過ぎない。父の死後十二年経って無量寺を再訪した主人公の国東《くにさき》重行は、むかし世話になった僧から父の臨終の偈《げ》を見せられる。その中に「少《わか》きより文武を学ぶも空花《くうげ》に似たり」の句があるのを知ったとき、彼は初めて父を「解釈なしに」理解する。「錯綜《さくそう》した家系は私に無常感だけを植えつけていた。父も同じことだったのだろう」と彼は考える。こうして父と子の一体化が完成する。  三章に分けて発表された「冬のかたみに」の完結は一九七五年である。その時点で〈貴族の血を引きながら、切実な無常感に捉われて自裁した禅僧〉として父の像が完璧に作り上げられた筈である。それなのに、病んで遺された時間が尠《すくな》いのを自覚するようになってから、更に詳しく知りたがったのは、自ら構築した美しい虚構を超えた真実に迫りたい、と彼が願ったからだろうか。  金敬文の履歴の調査は、武田氏を通じて国文学研究家の越次倶子さんに托《たく》された。亡父が陸軍士官学校の教官だった関係で、韓国人を含む旧陸軍軍人に知人の多い越次さんは、その人脈を辿《たど》って、立原正秋の生命と競走するように、約二箇月間密度の濃い調査をした。その結果明らかになったのは、金敬文が軍隊に在籍した形跡は無く、その死も自裁ではなくて、鳳停寺の修築工事に心労を重ねたあげくの病死だという事実であった。かつて金敬文と同時期に鳳停寺で修行した老僧の、金敬文の病床を度たび見舞ったが、身体が非常に浮腫《むく》んでいた、との証言も得られた。この越次さんの報告が届けられたとき、立原正秋は末期癌の激痛に苦しんで、それに直接眼を通せなかったが、意識ははっきりしていて、内容を家族から伝えられると、解った、というように頷いたという。  このように出自をめぐる晩年の彼の言動を追ってみると、一見激しく揺れ動いているようでありながら、その底に一貫した願望が潜んでいる事が読み取れる。一たん築き上げた虚構を打ち壊して、その束縛から自由になり、在りのままに生きたいという願望。若しそれがないのだったら、武田氏のような研究者を近付けず、年譜は自分で好きなように書き下《おろ》せば済んだのである。少しずつ事実に迫って行く武田氏の作業を、彼は不安や反撥とともに、期待を持って見守っていたのではなかったろうか。  単行本「剣ヶ崎」の後記に「雑誌に発表する段になり、菅原氏が、この作品を発表後の作者にたいする偏見を心配してくれたのも、いまとなっては忘れがたい」と彼は書いた。それから〈金胤奎〉を認めるまで、十四年が過ぎている。偏見の根深さを思い知らされる場面にも多く出遭っただろう。朝鮮人に対する理不尽な差別意識から、文壇関係者も決して自由ではない。何かにつけて派手な彼の言動が話題になるとき、「何しろあの人はコーリアンだからねえ」と薄笑いを泛べる人を、私は一度ならず見ているし、「おい立原、お前、朝鮮なんだってなあ」と大勢の人がいる中で、先輩の作家から面と向って浴びせかけられ、顔色を変えて退席する彼を目撃した編集者もいる。出自に関する虚構は、その種の嘲罵に対抗するためにも必要だったかと思われるが、作家として世に知られるにつれて、それが却って重荷になる場合が増えて来たとしても、不思議ではない。  立原正秋がもう少し生きて、あからさまな事実を受け容れるだけの心の余裕を持てたならば、彼の文学は変り、もっと自在な境地を獲得出来た可能性がある。私が彼の早世を最も惜しむのは、そんな風に考えるときである。  自分は臨済の寺に生を享《う》けた、と彼はしばしば矜《ほこ》らしげに書き、かつ語った。父に連れられて鳳停寺へ上り、僧堂の生活を体験した幼年期は、輪廓鮮やかなイメージとして、彼の内部に定着していた趣きがある。「冬のかたみに」の国東重行が、初めて無量寺の老師無用松渓に出会ったのは、数え年で六歳の春である。老師は重行に梵海禅文《ぼんかいぜんもん》の名を与え、「わたしの子や」と優しく呼んで、論語の講義を授ける。重行が示された公案に三十日かけて答を出したときには、「文や俊なり」と称賛を惜しまなかった。僧堂には雲水頭の虚白堂清眼がいる。この人は武人のような禅僧である。卑劣なもの、醜いものに対して容赦をしなかったが、その半面、重行に向って、自裁した父をどうやって超えるかがこれからのお前の問題点だ、と諭すような心遣いをする人でもあった。長じてからの重行は、「老師からは寛容を、父からは美を、虚白堂清眼からは倫理を学んだ」と考えるようになる。 「冬のかたみに」の僧堂生活の叙述が、作者の体験そのままを写したものでない事は、作中の無量寺が、鳳停寺ではなく、それよりも遥かに規模の大きい慶尚南道の通度寺を模して設定されているところからも瞭《あきら》かだと言っていい。霊鷲山通度寺は、曹渓宗第十五教区の本山で、韓国三大寺刹の一つに数えられ、慶尚南道から北道にかけて散在する九十の末寺を管掌する大寺である。山内には極楽庵、四溟庵、毘盧庵など十四の庵《いおり》があり、約六百人の僧侶が修行している。一九八六年に私が訪れた日は、生憎と雨が激しかったが、寺域の中を流れる渓流のほとりに立って、向う側に連なる山を眺め上げると、深く繁った木々の緑のなかに、点々と庵の黒い瓦屋根がのぞいていた。これだけの寺ならば、重行の父〓居円俊が雲水たちに仏教史を講じた〈仏教叢林〉のような学校があったとしても、不自然ではない。鳳停寺ではそれは有り得なかったと思われる。作者は、国東重行の幼時を見事なものと印象づけるために、通度寺の結構を必要としたのに違いない。  鳳停寺の日常は、通度寺に較べればずっとささやかだったであろう。しかし私は、「冬のかたみに」に溢れている言葉の想いの深い切実な響きに照らして、立原正秋の僧堂体験の重みを疑う気にはなれない。小説では美化されているとしても、鳳停寺にあって無用松渓や、虚白堂清眼に当る禅僧との、精神的出会いがあったと信じたい。  金敬文の死の翌年、一九三二年の春に、権音伝は子供たちを連れて、安東市に移った。その間の詳しい事情は不明だが、安東は彼女の実家に近く、子供に教育を受けさせるにも便がよかったのであろう。男性の介在も考えられる。この年、音伝は女児を産んでいるからである。生れた子供の父親は、のちに彼女が再婚する相手ではなかった。「冬のかたみに」を読むと、父が理想化して描かれているのと対照に、母は、「なまぐさい女」「面倒な女」と、繰返して貶められているのが眼に付く。これは、父の死後さして日が経たぬうちに別の男の子を生した母を許せなかった作者の感情の反映と解釈されよう。  安東市では丸三年間暮したが、母親一人の働きに頼る一家の生活は苦しかった。一九三五年の三月、音伝は奎とその異父妹の二人を連れ、横須賀市内にある姉の嫁《とつ》ぎ先の大中家を頼って日本へ渡る事になった。胤奎は、安東市の南、京釜線沿線の亀尾《クミ》町で医院を開業する母の実弟権泰晟《クオン・テソン》、通名永野哲秀に預けられ、後に残された。子供をすべて同行するだけのゆとりは、音伝にはなかったのである。異母兄の奎泰も、同じように誰かに托されたが、その辺の消息は判らない。  権泰晟は有能な外科医であった。身だしなみが良く、物資の乏しい戦時中でも一流品を身に着けていたというところは、後年の立原正秋を思わせないでもない。早くから左翼思想に共感を持っていて、朝鮮動乱のときに北朝鮮へ赴いた。その後も、音伝の生存中はたまに文通があり、一九七○年ごろには開城病院長となって、背広に勲章を付けた写真が送られて来た事もあったが、現在は音信が絶えている。若し今も存命ならば、八十三、四歳の筈である。  亀尾町で過した二年八箇月の間に、胤奎は孤独をしたたかに味わった。独身の叔父の家に団欒はなかった。仕事に忙しい男の眼が、小学生の甥の身の周りにまで行き届かないのは当然でもあったろう。朝鮮人の子弟が通う普通学校では、友達も多くは出来なかった。それでも叔父と一緒に暮した最初の一年はまだよかった。胤奎が四年生になった年の四月、権泰晟は済州島の病院へ赴任する事になり、胤奎は、使用人も暇を取ってがらんとした医院に、たった一人で取残された。 「冬のかたみに」には、亀尾時代の体験が濃厚に投影されている。叔父が済州島へ去ったあと、重行は三度の食事を元の使用人の家まで出掛けて行って食べなくてはならなくなったが、貧しい小作農のその家で出される麦ばかりの飯や、辛いだけで味のない漬物が、どうしても咽喉を通らない。仕方なく晩飯だけはパンを買って来て、アルコールランプで焼いた卵と一緒に食べるようにしたものの、充分な栄養が摂れず、彼は人に心配されるほど痩《や》せてしまう。やがて冬が来るが、医院のスティームは故障して動かず、炭火を熾《おこ》すのも面倒な夜は、火の気のない部屋のベッドで、毛布にくるまって寝なければならなかった。こんな無理が祟《たた》って、彼は年末に風邪を引き、三十八度を超す熱を出す。看取って呉れる人は無く、アスピリンを嚥《の》んで寝ているしかない。 所在ない思いにひたっていたとき、遠くで汽笛が鳴り、列車が走る音がきこえてきた。やがてその音が消えて行き、しばらくして階下の待合室から時計が鳴った。数えたら十一だった。にわかに空腹を感じた。寝巻の上に外套を着て階下におりて行ったが、けっきょくパンも食べず、卵も焼かず、アスピリンをのんであがってきた。それからまた睡《ねむ》ってしまった。  昼間は窓越しに空を眺めているばかりの日々を過して、やっと起き上れたのは、一月も末になってからであった。「なんと孤独だったことだろう。あの風も凍るような冬をどうやってすごしてきたのか、いまから考えると不思議である」「心細くなってきたが、どうしようもなかった」「生きているのをつらいと思ったことがなんどかあった」というような、他の作品に見られない率直な表現には、作者自身の疼《うず》くような感情の動きが見て取れよう。この小説を書き上げた後の立原正秋が、あのときは酷い目に遭った、と武田勝彦氏に向って述懐した事からも、受けた傷の深さが察しられる。  それとは一見矛盾するようだが、「このとしの冬が私にはいちばんなつかしい」とも、「冬のかたみに」には書かれている。その一節は「この風も凍るような冬は私だけの世界になっていた。のちに母に再会したとき、私になんの感動もなかったのは、私がこの冬を経験してきたからであった。母は再会をよろこんで泣いたが、涙は迷惑だった」と続き、最後は「肉親の絆《きずな》の感情はこの冬を通りこしたとき私の裡《うち》ではっきり断たれていた」という断言に到達する。亀尾の冬を潜り抜ける事によって、自分は今日の自分になれた、と言いたかったのだろう。  私たちとの付合いのなかで、立原正秋は、気に入らない人間を「斬《き》る」とよく口にした。その判断はしばしば性急に過ぎて、私たちを閉口させ、揉め事の種ともなった。私自身、二度絶交を言い渡された憶えがある。人を敵と味方の二つに截然《せつぜん》と分け、敵は斬り捨てずに措《お》かない彼の性格の奥底に、母親と叔父によって重ねて裏切られた亀尾の冬の体験が息づいていた事は疑えない。「こんな生きかたが、後年どれほど他人から誤解されたことだろう」と、往時を顧みる調子で「冬のかたみに」に書き込まれている。  尤も、苦しんだのは胤奎だけではなかった。子供二人を伴って日本へ渡った音伝の生活も逼迫《ひつぱく》していた。彼女は身を寄せた姉との仲がうまく行かず、伝《つて》を頼って京都へ、更には大阪へ移って行かなくてはならなかった。その間の消息は、幼いころから母を扶《たす》けて働いた奎、現在は横須賀市久里浜で金融業金井商事を経営する金井正徳氏の証言から知る事が出来る。  私が金井家を訪ねたのは、一九八九年の三月下旬であった。広いタイル敷の玄関に入ると、香の香りが漂っていた。ああ、立原家と同じだ、と私は思った。立原正秋が一九七○年に新築した鎌倉市梶原山の家で、訪客はいつも香の香りに迎えられたものであった。「玄関に香を〓《た》きこめるのは、来客のためではなく、私自身のためである。外から帰ってきて玄関に香が〓きこめていないと私は機嫌がわるい。幼年時代と少年時代のある季節を私は香のなかで暮してきたので、この習慣からぬけがたい」と彼は随筆に書いている。同じ習慣が二歳違いの実弟の家にもあるのが、私は印象深かった。  この家は兄より一年遅れて自分の設計で建てた、と金井氏は言った。母家《おもや》と境を接して、母親が晩年の日々を過した二階建の別棟がある。庇《ひさし》が深く、渋い褐色の羽目板が落着きを感じさせて、年寄にふさわしげな住居であった。その縁の前に、枯山水《かれさんすい》の庭が築かれている。塀の向うの小高く姿の良い山を借景とし、各地から取り寄せた石を組合せて作った庭である。庭には一家言のある“兄貴”は、「田舎風だ」と例によってけなしたものの、柘榴《ざくろ》と百日紅《さるすべり》と松とを弟への贈り物とした。そのうち松は土に合わずに枯れたが、柘榴と百日紅は根付いた。花が咲く季節には、華やいだ景色となるのであろう。三百坪の敷地は相当のゆとりがあり、その端をかすめて京浜急行の高架線路が通り過ぎている。 「生活の臭《にお》いのしない所がいいでしょう」  と金井氏は、私を信州の民家に倣《なら》って設計したという白壁の離れ家へ案内した。これも立原家と同じく細い縁の畳を敷いた十四畳の部屋に長火鉢を置いて、炭火が埋《い》けてあった。上り口に近い壁には、立原正秋が論語の一節を誌した色紙が飾られている。「顔淵喟然歎曰 仰之弥高 鑽之弥堅 瞻之在前 忽焉在後」。晩年の立原正秋は薄墨を好み、常識的な字配りなど無視した奔放な字を書いたが、これは若書きらしく濃い墨を用い、字体は楷書《かいしよ》に近い。国東重行が僧堂で老師から論語を習う情景が思い出された。  時間をかけて金井氏の話を聴くうちに、外は暮れ果て、私が背にして坐った床の間に架けた能の小面《こおもて》が、窓硝子《ガラス》にくっきりと白く宙に浮くように映った。金井氏は風貌も語り口も、立原正秋とはまるで違うのだが、それでもなお私は、立原正秋と対坐《たいざ》しているような錯覚に時おり捉われた。  大阪へ移った音伝は、メリヤス工場で働いた。しかしその時分の工員の賃金は驚くべく安かったから、金井氏は小学校へ上る前から、硝子工場の使い走りをして金を稼がなくてはならなかった。こうしたいわばどん底の時代は、音伝が横須賀へ戻って、四歳年下の王命允《ワン・ミヨンユン》、通名を野村辰三という人と結婚するまで続いた。鉄屑回収業を営む野村辰三は、さして働きのある人ではなかったが、ともかく家庭を持って、音伝はほっと一と息吐《つ》けたに違いない。一九三七年の暮、権泰晟は九州帝大医学部第二外科の研究員となって来日したが、そのとき胤奎が一緒に来られたのは、受け容れる場として野村家が出来たからであった。胤奎もやっと最も辛い時期を脱け出せたと言っていい。  日本へ来た当初、兄は母に反抗していた、と金井氏は言った。亀尾に一人置去りにされた恨みがそれだけ深かったのであろう。小説の主人公ほど見事に母を斬り捨てられなかったとしても、それはむしろ自然である。  新しい父親が商売に不向きな人だったために、どん底の時期こそ過ぎたものの、一家はなかなか貧困と縁が切れなかった。生活苦に怯《ひる》まずに立向ったのは母親であった。音伝は、或る時は屋台を引き、或る時は小さな乾物屋を出して働いた。戦時中に物資が乏しくなると、闇商売に手を染めるのにも躊躇はしなかった。 「おふくろの生き方はすごかった。おふくろが一家の柱でした」  小学生の金井氏も、進んで新聞配達などをして母親を扶けた。ところが遅れてやって来た“兄貴”は、そんな事は厭《いや》だ、と言って一切何もやらなかった。その時代の子供は、継を当てた洋服を着るのは平気だったが、彼はそれすら厭がった。 「兄貴は見栄《みえ》っぱりでしたね。毅然としていたとも言えるが」  と金井氏は苦笑する。母親への反感が、彼を頑《かたく》なにさせていたかも知れない。  野村家は、現在の横須賀線衣笠駅の北側、法塔の十字路と呼ばれるあたりにあった。むかしは横須賀中央の深田台にある猿海山龍本寺と衣笠の金谷山大明寺とを結ぶ参道の一部で、姿のいい松並木があったという。今は小規模な商店が軒を並べるだけの、裏町染みた雰囲気に変ってしまったが、〈南無妙法蓮華経〉と刻んだ人の背より高く堂々とした石塔が、車が切れ目なく往来する狭い旧道のほとりに遺っている。天明元(一七八一)年、日蓮上人の五百年忌を記念して、地元の有志が建立したものである。その前に花や果物の供物《くもつ》が絶えない。  日華事変が起る少し前から、横須賀への人の流入は激しくなった。海軍工廠《こうしよう》、航空廠を中核とする軍事工場の拡張、久里浜海岸の要塞建設、不入斗《いりやまず》の陸軍重砲連隊の増強が相次いで行われ、それ等に伴う周辺の道路整備や、横須賀止りだった国鉄横須賀線の衣笠を経て久里浜までの延伸工事のために、人手はいくらあっても足りなかった。  もともと地場産業が無く、土着の人が尠い町である。六万二千噸《トン》の航空母艦信濃《しなの》を初め、多数の精鋭艦艇を建造した海軍工廠は、周囲を刑務所のような高いコンクリート塀で囲まれ、その内側に軍都横須賀の“顔”と言われた巨大なガントリークレーンが聳《そび》え立っていた。毎日、午前八時の始業少し前になると、町のあちこちから、自転車に乗った工員たちが湧くように出て来て、工廠の門へ吸い込まれて行った。  徴用令によって各地から集められた工員や土木作業員のなかには、大勢の朝鮮人がいた。彼等は新開地の衣笠近辺に集って住んだから、町角には祝儀《しゆうぎ》、不祝儀の寄合がある度に、短い絹の上着と黒く長いスカートを身に纏《まと》い、底の浅い白いゴム製の靴を履いて歩く朝鮮人たちの姿が目立った。石の上に洗濯物を拡げて桑の木で叩く朝鮮人の主婦を、子供たちが珍しそうに取巻く光景も見られた。このような環境に助けられて、音伝の闇商売は順調に行ったのだったろう。  一九三八年一月、金胤奎は、横須賀市立衣笠尋常高等小学校の尋常科五年に転入学した。このとき彼は野村震太郎《しんたろう》と名乗っていた。友だちはみんな“震ちゃん”と呼んだ。母親が再婚しても、子供たちは野村家の籍には入らなかったのだから、本名が変ったわけではない。朝鮮人児童が小学校入学の際に提出する書類には、本名と日本式の通名を併記するのが、当時は普通だったようである。例えば、日本で生れ育った在日朝鮮人作家の高史明《コ・サミヨン》氏は、入学式の前の晩、日本語の不自由な父親に代って三歳年長の兄に通名を付けてもらった経験を持っている。金井正徳氏も母の姉の婚家の姓を取って、大中勇《いさむ》と名乗らされた。朝鮮民族に固有の姓を廃し、日本式の名に改めさせる事を定めた〈創氏改名令〉の施行は、一九四○年二月であるが、それ以前から朝鮮人の名は、日本政府の“内鮮一体化”政策によって奪われつつあった実情が窺える。  この小学校の一級下に、のちに立原夫人となる米本光代さんがいた。光代さんは「立原正秋全集」の月報に連載した文章に加筆して角川書店から刊行した「追想—夫・立原正秋」のなかで、彼を初めて見かけたときの印象をこう誌している。  小学校四年生の時のことでした。  校庭の片隅に、二本の大きな楠が高く聳え立っていたのをよく覚えています。私は楠という名も知らぬまま、勝手にポプラの木と呼んでいました。もちろん、少女のひとり言で、お友達にも洩らしたことはありません。  そのポプラの幹に、背の高い、色白の男の子が寄りかかっているのを、しばしば見るようになったのです。その光景だけが、今も鮮やかに私の記憶に残っているのが不思議です。  紺色のサージの学生服をきちんと着こなしている端正な姿が、私に夢を見させるような世界に引き込んだのかもしれません。その頃の横須賀市立衣笠尋常高等小学校は、田舎の小学校でした。男の子はみんなまっくろな顔をしていました。ポプラ少年のような色白の子は一人もいませんでした。その上、普通の子供たちは黒の小倉《こくら》の洋服を着ていたので、色合いも生地も違った学生服を着たすらっとした見知らぬ上級生は、まるで別の世界から抜け出して来たような気がしたのです。  これは美化された記憶とは違うだろう。のちに進んだ商業学校でも、大学でも、立原正秋が直ぐ眼に付くほどのいい身装《みなり》をしていたと証言する人は多いのである。彼自身は、日本へ来る際になにがしかの金を持って来たと言っていたし、音伝が一度朝鮮へ戻って、所有していた田畑を処分した事実もあったようだが、いずれもその金額が大きかったとは思えない。豊かでない家計を遣繰《やりく》りして、いいものを着せてやったところに、反抗しがちな息子に対する母親の心配りが感じられる。  小学校から商業学校まで、変らずに彼と近しかったのは、現在は株式会社ニットー冷熱製作所取締役の永井清氏である。永井氏の眼には、野村震太郎は行儀のよい温和《おとな》しい少年と映った。新しい学校に容易に馴染めないせいもあったに違いない。彼は日本語に不自由はなかったが、かなりきつい訛《なまり》があった。その時代の朝鮮人差別は露骨なものである。言葉の調子や住んでいる場所から朝鮮人だと判るとたちまち、「あいつは朝鮮だぞ、変な事をするから気を付けろ」と蔭口《かげぐち》が飛ぶ。「お前、バビブベボって言ってみろ」と嘲けられる。子供たちに必ずしも悪意があるのではない。朝鮮人にはそんな風にするのが当り前だという意識が、社会全体に瀰漫《びまん》していた。野村震太郎が格別にひどい目に遭ったわけではなくとも、周りの視線を絶えず肌に刺さるように感じていたであろう。  そうした環境にあって、建具を作る町工場の息子の永井氏は、唯一の気を許せる友達であった。二人で連れ立って、よくあちこちへ遊びに出掛けた。衣笠の町を囲む山の一つに弁当持ちで登る日があり、自転車で一時間もかけて、久里浜の先の識合いを訪ねる事もあった。衣笠から久里浜へ通じる舗装道路は、まだ開通していない。田圃《たんぼ》が拡がり、農家が点在する田園風景のなかを、全速で自転車を漕《こ》いで行くのである。  永井氏の家には職業柄、手製の玩具を作るのに役立つ木片や工具がふんだんにあった。建具職人の父親の血を引いて、手先が器用な永井氏は、いろいろな玩具を巧みに作り上げた。無器用な野村震太郎は、いつもそれを傍で見ていた。作った舟を持って川の堰《せき》へ行き、進水式の真似事をやるときにも、彼は温和しく蹤いて来た。二人の遊びに別の友達が加わる事はなかった。朝鮮人の子と遊んではいけない、と禁じる家庭が多かったせいだったかも知れない、と永井氏は考えている。  法塔の十字路に近い野村家では、母親が息子の友達を歓んで迎えた。朝鮮の人たちは、客と一緒に食卓を囲まないと、本当に親しんだ気になれないと言われるが、野村家の母親もその一人で、時分時《じぶんどき》になればごく自然によその子にも飯を食べさせた。干鱈《ひだら》の煮物やキムチが御馳走であった。たくさんの干鱈が、縁側の隅に井桁《いげた》に組んで積み上げてあった。日本のとは少し形の違う細身の鱈で、身欠鰊《みがきにしん》と同じように固く干し上げられ、五匹に一匹は口の端に釣針が付いていた。朝鮮から取り寄せたものであろう。母親は、訪ねて来る同胞たちに、それを分けてやるようであった。時どきは永井氏ももらった。「水に漬けておいて、身をほぐして食べると美味《おい》しいよ」と、母親はたどたどしさの残る日本語で教えて呉れた。  父親とは滅多に顔を合せる機会がなかったが、その身装から推して、身体を使って働いている人なのだろう、と永井氏は思った。両親が共に優しかったおかげで、野村家は居心地がよく、自分の家もこんな風だったらいいと羨ましくなるほどだったが、家が六畳と四畳半の二間しかなくて、二人きりで自由に遊べないのは物足りなかった。震ちゃんのお父さんがもっとお金を稼いで、広い家へ引越せるようだといいのにな、と子供心に思ったりした。  震太郎が誘って、近所の朝鮮人の家へ遊びに行く時もあった。朝鮮の人たちは故郷での習慣を守って、縁の下に埋めた甕《かめ》にキムチを漬け、濁酒を仕込む。濁酒は発酵する途中で、子供にも飲める甘酒となる。今ごろはどこの家の甘酒が旨くなっているかを、震太郎は実によく知っていた。故郷を離れた朝鮮人が、日本社会のなかで、親密な共同体を形造っていた様子が窺われる。震太郎が朝鮮の地図を拡げて、ぼくはこの辺で生れたんだ、と慶尚北道を指してみせたのを、永井氏は憶えている。それでも、朝鮮の田舎の事や、向うでどんな暮しをしていたかなどは訊かなかった。小学生の子供にとって、過去は関心の外にあった。  金井正徳氏は日本に帰化せず、現在も韓国籍である。侮蔑された朝鮮人のイメージを変えるために、自分たちは努力しなくてはならない、と氏は私に言った。 「一世の人たちは、食えないので日本へ来て、掘立小屋に住んで屑屋や土方をするしかなかった。われわれは二世です。いい住居を確保し、立派に暮しているところを世間に見せてやりたい。そうしなければ信用が身に付かないですからね。同胞の若い者に向っても、先ず世間に信用されるようになれと、私は指導しているんです」  日本社会で韓国人として生きて行くのに、今はまったく不自由はない、と金井氏は断言した。大学を中退して商売に手を染め、朝鮮動乱による特需景気で儲《もう》けたのを手始めに、浮沈を経験しながら独力で生きて来た人の自信であろう。民族にこだわる事はないと思う、とも言った。金井夫人は日本人である。  在日韓国人の家庭が抱える悩みの一つに、民族について子供にどう教えるかという問題がある。金井家では、韓国の血を引いている事実を、子供に早くから認識させる方法を選んだ。こんな会話が、まだ小さい子供と父親の間で交わされた。 「巨人軍の王選手はすごいなあ。あの人は何人だか、お前知ってるか」  とさり気なく父親が訊く。 「日本人」  と子供は当然のように答える。 「そうじゃない。あの人は日本と中国のハーフだ。じゃあ、張本はどうだ」 「日本人」 「違う、韓国人だ」  そのあと一呼吸おいて、父親は訊く。 「お前は?」 「日本人」 「いや、お前は日本と韓国のハーフだ」  思いがけない事実を知らされて、子供がどれほどの衝撃を受けたかは測り難いが、父親は、日韓混血である事に自信を持て、と言いたかったのだろう。  立原正秋は、弟の職業が気に入らなかった。金融業を昔流の高利貸と見做《みな》す偏見が根強くあったらしい。 「私は真当な生き方をしているのに、兄貴は金融業なんか止《や》めろ、止めろ、とうるさかったですよ」  と金井氏は言った。 「創る人間、書く人間にのみ価値を認めて、商人は金に汚いから厭だと言うんです。それにいつまでも久里浜にいないで、鎌倉でなければせめて逗子まで出て来い、とも言われたものです。とにかく自分の考えを強制するんだ」  兄の苦境時代には、生活の援助をした金井氏にしてみれば、心外だったであろう。むろん兄の強要には従わない。互いに気性の激しい二つ違いの兄弟は、しばしば喧嘩をした。「お前、このごろ何をやってるんだ」「生きるためにいろいろさ」「汚く金儲けするくらいなら死んじまった方がいいぞ」という類《たぐい》の遣取りが、何度となくあった。兄は口で言うばかりでなく、「お前みたいにくだらなく儲けた奴の金は俺が使ってやる」と罵倒した手紙を送り付けたりもした。原稿用紙に書きなぐった分厚い手紙だったが、弟は腹立ちまぎれに直ちに破り棄てた。  晩年に近くなっての事だが、金井氏が兄の息子を連れて京都へ行ったとき、行きつけの板前料理の店を紹介して呉れたのはいいが、「お前の商売は言うなよ」との条件付きであった。ところが料理屋のような所では、話題のきっかけに客の商売を訊きたがる。金井氏は仕方なく「商事会社にいる」と答えた。金井商事の社長だから、それなら嘘を吐いた事にはならない。  これなどはまあ笑い話で済まされるが、立原正秋はどうして、弟の生き方にそこまでしつこくこだわったのだろう。金融業が彼の美意識にそぐわなかったのは、偏見であるとしても理解出来ないではない。しかし果してそれだけの理由だろうか。血を分けた弟が韓国籍であるのが、彼には迷惑だったのではないか、と私は思う。彼は日本人の女性と結婚し、その実家の籍に入って日本人となり、年譜の上では〈混血〉の虚構を作り出して、その虚構を生きようと試みた。つまり、過去を断ち切ろうと力を尽した。その過程で、過去と密接する弟の存在が、目障りになったのは当然の成行きだったかも知れない。久里浜を離れてせめて逗子まで来い、と求めたのは、むかしの“金兄弟”を知る人たちのいる土地から遠ざかれ、との呼びかけとも受取れる。彼自身が移って行った鎌倉は、朝鮮人の居住者が尠い町である。 「兄は民族問題ではジレンマに陥っていたと思います」  長い間話をしたあとで、結論づけるように金井氏は言った。 「ジレンマを抱えた内心を、作品の中で徐々に出して行ったのですね。その最初のものが『剣ヶ崎』なんじゃないか。立派な小説ではあるけれど、まだ途中の段階で充分じゃない。その後も少しずつ隠蔽《いんぺい》していた事を書いているので、生き方が元へ戻って来たんだなあ、と感じてました。もう少し生きられたら、内心を完全に出し切れたんじゃないでしょうかね」  生前は喧嘩もしたし、互いに腹を立てて疎遠に過した時期もあったけれども、苦しい中で努力を重ねて、後世に遺るものを書いた“兄貴”をやはり自慢に思っている、という金井氏の感想を、私は素直に納得した。そうでなければ金井氏は玄関に香を〓《た》かないだろう。  永井清氏がこう言っている。 「野村君は日本語に慣れないせいもあってか、日本の家庭とか、風習とか、いろいろ朝鮮と違うものを、かなり強く意識していたようです。後になってから彼の小説を読み、テレビドラマ化されたものを観ると、茶道、能、友禅染、西陣織といった具合に、日本の伝統的なものが実に沢山出て来ますね。早くから自分と異質な世界を意識していたのが、形となって現れたのじゃないかな。ずいぶん悩みも多かったと思います」 「冬のかたみに」は、主人公国東重行が日本へ来て結婚し、一子を儲けて、彼等「小さな存在」を守ってやるために生きなくてはならない、と決意する場面で終っている。雑誌初出分には、末尾に「このとしから約十年、私は無頼な生活をしながら古典の世界に沈潜して行った」という一行があった。それが単行本にする際に削除されたのは、作者の体験が生なましく出過ぎて、私小説と読まれるのを嫌ったのであろう。  中世を主とする日本の古典への沈潜は、彼が完璧な日本人として自らを作り上げるために、経なければならない過程であった。むろん一足跳びに古典の世界へ踏み込めたわけではない。彼は大方の文学好きな少年がそうするように、先ず明治以後の文学に親しむところから始めた。その性向は、小学校を卒《お》えて、横須賀商業学校へ進むころから、周りの人々の眼にも瞭《あきら》かになって行く。 三章 終戦まで  一九三九年の春、横須賀商業学校へ入学した永井清少年は、一緒に受験して合格した仲好しの“野村君”が、金胤奎《きんいんけい》という名に変ったのを知って驚いた。 「どうしたんだ、お前、難しい名前になったな。野村の方がいいじゃないか」  と思ったままを言うと、名前の変った幼な友達は、 「いや、いろいろあってね」  と口を濁して答えなかった。商業学校は戸籍の記載通りの名を名乗らせる方針を採っていたのであろう。  横須賀商業学校は、一九二九年に創立され、戦争末期の一九四四年以降、横須賀市に移管されたが、それまでは財団法人の経営する私立校であった。衣笠からやや久里浜寄りの公郷町の畑の中にあった校舎は約四百六十坪、在校生の数は八百人程度だったから、さして大きな学校ではない。金胤奎と同期生で、現在は市内で印刷会社を経営する東大路光雄氏によると、入学当初の校舎は平屋建で、廊下は根太が弛《ゆる》んで元気よく歩くと軋《きし》みを立て、講堂は屋根裏の梁が剥出しでバラックに等しかった。二年生のときに二階が増築されて、ようやく学校らしくなったという。 「昭和十四年春、神奈川県立横須賀中学校の入試を受けて合格せしも、三月末、四歳年上の少年の嘲罵を受けて短刀で相手の胸を刺して重傷をおわせ入学をとり消さる。六月、横須賀市立商業学校に編入を認めらる」と、立原正秋の自筆年譜には書かれているが、そうした事実はなかった。彼の入学が他の生徒と同じくその年の四月であった事は、武田勝彦氏が学校保管の公簿に当って確かめている。この虚構を、単に経歴を飾るためのものと極め付けるわけには行かない。背景に彼の屈折した感情があった。  明治末期以来の歴史を持つ県立横須賀中学校は、神奈川県下でも指折りの名門校であった。学力の水準は高く、軍港都市横須賀に住む海軍士官の子弟は、こぞって“横中”を目指した。生徒に海軍風の編上げ式脚絆《きやはん》を着用させ、配属将校のなかに海軍士官が加わっていた。町にも横中の生徒には一目置く風があった。それに対して“賀商”は、主に下町の商店街の息子たちが通う学校で、入学試験は易しく、卒業後に上の学校へ進む生徒は尠かった。学業成績に自信があり、そろそろ文学への関心が頭を擡《もた》げ始めていた金胤奎が、横中を志望したのは当然だったと言える。  しかし名門校は、入学試験の成績さえよければ誰でも受け容れるわけではなかった。片親の子はいけない、水商売の家の子は好ましくない、というように、家庭環境までが銓衡《せんこう》の基準となるのであった。朝鮮人の子弟の場合も門前払いが予想された。そのために彼は小学校の担任教師の指導に従って、商業学校を受験するしかなかったのである。  嘲罵を受けたから刺した、という虚構には、出自のために前途を遮られた憤りが強く滲んでいる。加えて彼は名門好きでもあった。その傾向は、年譜の一九四四年の項に「この年、東京帝国大学、京都帝国大学、第三高等学校に在学していた親戚の朝鮮人、強制的に学徒兵にされ出陣するのを見送る」と、あまり必要のなさそうな国立学校の名を、わざわざ列記しているところにも現れている。憧れが大きかっただけに、その反動も激しくなる道理だろう。  それでも入学式の日に顔を合せた少年二人は、互いに、よかったなあ、と歓び合った。中等学校へ進める者は、全体の二割程度しかいなかった時代である。彼等も選ばれた少数の少年なのに違いはなかった。横須賀商業の制服は、紺サージの地に金釦《きんボタン》の付いた詰襟《つめえり》の服であり、制帽の縁には白線が一本縫い込まれていた。学校創立のころ、普通の中学の小倉の服が一着七円五十銭だったのに、賀商の紺サージは倍額の十五円もしたという。この高価な制服を、生徒たちは何よりも自慢にした。  金胤奎がともかくも上級学校への進学を果せたのは、偏《ひと》えに母親の教育熱心のおかげであった。苦しい生活を重ねて来た音伝は、俗な言い方をするなら、身体に元手をかける必要を知り抜いていた。 「私は学校が嫌いでね」  と金井正徳氏が私に言った。 「本当は小学校を出て直ぐに働きたかったんだ。でも、母がどうしてもと言うんで、兄貴と同じ商業へ行ったんです。入って一年で、煙草を喫《す》って停学処分を喰らうような生徒だったけども」  終戦直後に金井氏が商業学校を卒《お》えたときにも、母親は大学受験を勧めて止まなかった。その熱心さに逆らえず、金井氏は法政の専門部を経て、明治大学政経学部へ入学したものの、折からの朝鮮動乱による特需景気に沸く世相に刺戟され、凝《じつ》としていられずに中途退学をして、母親ゆずりの商売の才を活《い》かすようになる。 「勉強しなくてはいけないよ、と義母《はは》はよく言ってました」  と立原光代さんも言った。 「几帳面な人で、物の道理にきびしく、頑固でした。立原に似ているんです。台所の布巾《ふきん》なんか毎日煮沸しますしね、洗濯物は石鹸水で煮るから真白になります。怖いところのある人でしたけど、でも、呶鳴り付けられた事はありません。とにかく働き者でした。母親の影響は、立原にはずいぶんあったと思いますね」  商業学校生が矜《ほこ》りとした制服は、戦争の形勢が悪化するにつれて、紺サージの入手難からだんだんに減って、一九四二年ころには、いわゆる国防色の服を着た生徒がほぼ半数を占めていた。しかも教練のない日は下駄履きが普通となり、登下校の途中で雨が降り出した日には、生徒たちが朴歯《ほおば》の下駄を脱ぎ、一斉に跣《はだし》で駈け出す光景が見られた。しかし彼は卒業まで、一と目で上質のものと判る紺サージを身に着け、ずっと革靴で通した。横須賀の町が軍需景気に潤《うるお》って、暮し向きがやや上向いたという事情はあったにしても、母親の手厚い心遣いが感じられる。  一九四○年、二年生のとき彼の名は、金胤奎《きんいんけい》から金井正秋《かないまさあき》に変った。〈創氏改名令〉によるものである。この政令によると、改名は任意となっていたが、実際は改名しない者を“不逞《ふてい》鮮人”と断定し、警察が生活を監視するような形で強制された。その結果、日本の敗戦までの五年余りの間に、朝鮮人の約八割が日本式の通名を名乗るようになったと言われる。  商業学校の同級に、もう一人朝鮮人の生徒がいた。現在は静岡市で不動産会社を経営し、金剛松次郎の通名を持つ金松坤《キム・ソンコン》氏である。金氏は、互いに家を訪ね合っては一緒に飯を食い、夜遅くまで女の子の話をするくらい親密だった金井正秋について、興味ある逸話を記憶している。 「自分の先祖は出雲の山中鹿之助だと言うんです。山中鹿之助の何代目かの子孫が朝鮮へ渡り、また何代か経って生れたのが自分だとね。自分の民族を否定はしないが、もとは日本から渡って行った者の後裔《こうえい》だというイメージを周りに与えたかったんでしょう。今にして思うと、小説家の素質があったんですね」  主家尼子《あまこ》家の再興に力を尽し、われに七難八苦を与え給《たま》え、と天に祈った山中鹿之助の忠誠の物語は、その頃の小学校の国語教科書に載っていた。子供らしい空想と言ってしまえばそれまでだが、彼が早くから、自分は本来は日本人なのだという気持を抱いていた事は、注目するに足りる。  小学生のうちは小さくて目立たない生徒だった彼は、商業学校へ入ると間もなく、ぐんと背丈が伸びた。永井清氏が憶えている低学年のころの金井正秋は“正義派”である。同級生が意地悪くいじめられているのを眼にすると、それが別に親しい友達でなくても、真先に助けに飛び出して行く。今風に言うなら番長格の少年にも臆《おく》せずに立向って、容赦なく突き飛ばしたりもした。機先を制するのが巧みだから、体力に勝る相手も気を呑まれてしまう。その気性の激しさに皆が一目置き、信頼するようにもなった。  金松坤氏が受けた印象は、それとはやや異り、“青白くひ弱な美少年”であった。彼は晩年までずっと、脂肪も筋肉も付かない体質だったから、骨格の固まらない少年期には、殊更《ことさら》ひ弱に見えたかも知れない。戦時中の商業学校では週に二度、必ず教練があった。夏は富士の裾野で合宿訓練が行われる。南京《ナンキン》虫と虱《しらみ》の巣窟《そうくつ》のような陸軍の廠舎《しようしや》に数日泊るのである。夜間行軍が最も辛かった。夜の八時に出発して、徹夜で歩き続けるうちに、半ば眠りながら前の者の背中の影が動くのを追って、機械的に足を動かすだけになる。前の者が靴紐を直そうとして止れば、自分も止ってたちまち眠り込んでしまう。引率の教官に小突かれて、仕方なくまた歩き出す。金井正秋は息を切らせ、足取りが覚束なくなるのが早かった。 「落伍しかかると、私が彼の銃を担いでやって、引張って歩いたものです。あの時代に模範とされた質実剛健な生徒とは、まるで違っていました」  と金松坤氏は言う。意地っ張りでは誰にも退けを取らない金井正秋も、同胞の友人だけには、安んじて弱味を曝していたのだろうか。  後年の直話によると、彼が剣を習いに道場へ通い始めたのは、商業学校へ入って直ぐの時分である。彼は私たち気の置けない仲間を相手に、時には俺は剣道三段だと言い、時には五段だと言って煙に巻いた。自筆年譜には師の方針で段位は受けなかったが「三段の人二人と三本勝負をし、六本全部勝った」と誌されている。「日本刀を構えた三人のやくざと木刀でわたりあって三人を半身不随にしてしまった」と書いた随筆もある。私は一度だけ、彼が素振りをしているのを見た。腰越の家に泊めてもらった翌《あく》る朝、やっ、やあっ、と庭で掛声がするので起きて行ってみると、立木に向って彼が木刀を振っているのであった。彼は私に気が付くと、おう、と笑顔を見せ、それきり素振りを止めてしまった。むろん彼の腕前の程など、私に判定のしようは無い。  私が話を聞いた横須賀商業の同期生のなかに、金井正秋の剣を印象に留めている人はいなかった。「彼は正科では柔道をやってたんじゃなかったかなあ」と首をかしげる人もあった。「剣については大分フィクションがあるのじゃないか」という金井正徳氏の推測は事実なのかも知れない。  商業学校には露骨な朝鮮人差別はなかった、とむかしの在校生は口を揃《そろ》えているが、それでも現在早稲田大学教授の上坂信男氏のように、やい朝鮮人、と揶揄《やゆ》されて、むきになって相手にかかって行く金井正秋を見かけた人もいる。屈辱感を噛《か》みしめながら、我慢をし通した場合も尠くなかったであろう。  自筆年譜に書き込まれた上級生刺傷事件は、一九七三年に発表された小説「猷修館《ゆうしゆうかん》往還」では、国東重行という「冬のかたみに」と同じ名を持つ主人公の、中学校在学中の出来事とされている。国東は道場で剣を学んでいて、若い海軍将校に三本勝負を挑《いど》んで勝つほどの技倆を持つ混血の少年である。彼は自分を“あいの子”と侮辱した上級生の古谷を、学校の裏の雑木林に呼び出す。古谷は三人の仲間を連れてやって来る。国東は物も言わずに相手の胸を刺す。 国東は抜身を握ったまま、古谷のスェーターの右腋《わき》が赤く染まって行くのを視《み》た。殺意が消え、頭のなかが空っぽになっていた。 「気味がわるい奴だな」  と誰かが言っているのがきこえた。三人の学生は傷ついた仲間を抱えて雑木林をおりて行った。国東は朽葉の上に倒れるようにすわりこんだ。短刀に血はついていなかったが、先から十センチほどがくもっていた。殺意は消えていたのに、やはり前後が見えなかった。ただ、勝目のない闘いをしている、といった思いだけがあった。  立原正秋が描く主人公は、作者自身がかくありたいという願望の体現者である事が多い。彼の意識は常に明晰《めいせき》であり、行動は直線的である。国東重行もその一人と言っていい。彼は作者に代って、〈下衆〉な人間に懲罰を加える。彼には味方がいない。味方を求めるのでもない。そして「勝目」がなくとも闘わなくてはならないという美意識を、作者と共有している。  しかし、三年に進級するころから、金井正秋は変った。腕力に訴えなくなった。眼を瞠《みは》るようなめざましい変りようだった、と永井清氏は言う。臆病な友達に言いがかりをつけて脅しにかかる生徒の前に立ちはだかり、「おい、こいつを殴るのなら、その前に俺を殴れ」と叫ぶ光景も見られた。一度は腹を立てた相手に本当に殴られたが、それでも手を出さなかった。教師に逆らい、悪さを止めない生徒を窘《たしな》める事も時にはあった。彼の裡《うち》に何かの自覚が芽生えていたのは確実だが、こうした態度は、必ずしも級友たちに好まれるものではない。小面憎《こづらにく》く思われる傾きもあって、親しく付合う友人は極く限られていた。永井氏とも、この時期を境にして、少しずつ疎遠になって行く。  彼の変身を促したものとして、一人の教師の存在が見逃せない。国語漢文担当の依田正徳教諭。東洋大学出身のこの人は、横須賀商業の教師のなかの異色であった。京浜急行の大津駅近くにあった依田教諭の家の書斎は四畳半だったが、その壁の二方の全部と、もう一方の半分は、天井まで古典から近代に至る文芸書で埋め尽されていた。そこに引籠《ひきこも》って何時間も本を読むのが、教諭の唯一の愉しみであったという。戦後間もなく「日本文学作品概説」と題した入門書や、徒然草の参考書を書いているから、学力は確かだったのであろう。授業はきびしかった。雨天体操場に一学年三学級の全員を集めて、源氏物語須磨《すま》の巻の朗読のレコードを聞かせた事がある。生徒の耳には珍妙な節を付けた朗読だったので、みんなが笑った。そのときの先生の怒った怖い顔を、上坂信男氏は忘れていない。依田教諭は、無知な生徒の笑声によって、愛する古典が冒涜《ぼうとく》されたと感じたのかも知れなかった。  金井正秋が上坂氏と共に、依田教諭の自宅へ頻繁に出入りするようになったのは、二年に進級してからであった。夕食後に、一時間近くかかる道のりを歩いて行くのである。依田教諭は歓んで二人を書斎に招き入れ、聞かれるままに文学の話をした。金井正秋は、小遣の殆どを本を買うのに当てるほどの勢いで、日本の近代小説を読み始めていた。特に川端康成については、自身の出生と生い立ちの関わりから、その作品に「孤児の目を視た」と後年回想している。終生変らなかった川端康成への尊敬と愛着の念が、既に萌《きざ》していた事が判る。  彼は、熱心に読んだばかりの本の感想を語り、先生がそれについてどう考えるかを聞きたがった。先生に向って、内心にあるものを一所懸命に訴えるように、上坂氏の眼には映った。彼はしばしば吃《ども》った。日常の会話に支障はなくとも、筋道を立てて物を言わなくてはならない場合は吃って、甚しいときには言葉が出なくなるのであった。吃音の原因は特定しようがないが、短い期間に日本語を習得しなければならなかった境遇の影響は無視出来ないだろう。朝鮮にいた時分、彼の家庭で用いられた言葉は、当然ながら朝鮮語であった。普通学校の授業は日本語で行われたが、生徒は朝鮮人の子供ばかりだから、教室の外では、朝鮮語で喋るのが普通だったろう。日本へ渡る以前の彼が日本語を話す機会は、そう多くはなかったのである。横須賀の野村家でも、親同士は朝鮮語で会話をした。野村家を初めて訪れた女学生の米本光代さんは、「障子の向うで聞き馴《な》れぬ外国の言葉で話し合っていた家族の声が夜のしじまに響いて」いたのを聞いている。  こうした環境に置かれた少年が、僅か二年足らずの間に、中等学校の入学試験に合格するに足りる学力を身に着け、更には文学作品を読みこなせるまでになるには、どれだけの努力が必要だったか、私には想像すら出来ない。彼自身は、その種の事について一行も書き遺していないばかりか、立原夫人によれば、家族にも明かさなかった。 「自分が小さい頃ああだった、こうだったとは、あの人は私に喋りませんでした。喋らなかったのは、育つ段階で苦しい事が多かったからじゃないかと思うんです。あの人がいつどんな勉強をしたのかは判りません。学校の勉強のほかに、着る物とか食べる物とか、日常のもろもろについても、日本の伝統や習慣を、純粋な日本人の私よりもよく識っていました。書物で学んだのかしら。不思議な人でしたね」  依田先生は金井の答案には読まずに百点を付ける、という風評が、やがて学校のなかに拡まった。誇張されて伝わったのかも知れないが、依田教諭の信頼は、生徒の眼につくほど際立って篤《あつ》かったのであろう。金井正秋は日本へ来て初めての知己を得たと言える。また依田教諭の側にも、文学に関心のない一般の商業学校生相手では満たされない意欲を、素質の豊かな教え子に注げる歓びがあったであろう。  金井正秋の勉強部屋は、依田先生と同じ四畳半であった。六畳と四畳半しかない家の一間を、彼一人で占領したのだから、破格に優遇されていたと言わなくてはならない。彼はその部屋に、幅二米《メートル》、高さ一米五十糎《センチ》ほどの本棚を、建具屋に作らせて据えた。依田教諭と親しむようになってから、本の数はめざましく増えた。  漱石全集、藤村全集、森鴎外や武者小路実篤の作品、古典では「源氏物語」と「徒然草」、それに「路傍の石」や「次郎物語」のような少年小説、たくさんの岩波文庫。これ等が彼を訪ねた友人たちが本棚に見かけた本である。永井清氏は、自分の部屋とのあまりの違いに、幼な友達が近付き難くなったように感じて、 「どうしてこんなものを読むんだい」  と訊いた。しかし、金井正秋は笑いに紛らせて答えなかった。  空襲の危険が迫った一九四四年の秋、米本光代さんは、本の一部をあなたの家に預ってもらえないか、と金井正秋に頼まれた。それより先、光代さんと“ポプラ少年”との間には、小さな、しかし印象深い出来事があった。光代さんはそれを一九四二年の暮の事だったと記憶している。女学校の帰り道、光代さんが一人でバスに乗っていると、買ったばかりらしい二、三冊の本と、薄い緑色の紙で包んだ食パンを持った金井正秋が途中から乗り込んで来た。そのころ光代さんは、弟の和昭さんが商業学校へ入学して、金井正秋の弟の正徳さんと同級になり、しばしば野村家へ遊びに行っていたため、弟を仲立ちに正秋とも顔見知りになっていた。光代さんの「追想」では、この時期の正秋を“少年”と呼んでいる。  バスは税務署前を過ぎ、乗客も次第にまばらになりましたが、私は視線が合うことを避けるように、かたくなにうつむいていました。  不入斗《いりやまず》橋にさしかかる頃だったでしょうか、少年は、たしか「これ」とだけ短くいって、私のカバンの上にパンの包みをのせたのです。いただいていいものかどうかも戸惑いましたが、それよりも恥しさが先に立って、口の中がすっかり乾き切ってしまい、言葉を出そうにも、言葉にならず、身内が熱くほてって来たことだけを覚えています。  既に主食の配給は乏しくなりかけていましたので、二斤《きん》の食パンは貴重品でした。それでも緑色の包紙からパンの両端がはみ出しているのをカバンの上にのせているのですから、恥しさで上目づかいに周囲を見まわすのが精一杯でした。少年が佐野町の停留場で下車する時に、ようやくのことで視線を交えてお礼の気持だけは伝えましたが、それ以上のことはできませんでした。  衣笠操車場の終点に着くまで、食パンとにらめっこをしていましたが、少年が貴重な食料をなぜくれたのかが、どうしてもわかりませんでした。バスの終点から私の小矢部の家までの二十分ほどの道のりを、カバンをさげ、食パンを大切にかかえて、少年のことを考え考え歩きました。  やがて光代さんは弟たちに倣って、パンを呉れた少年を“兄さん”と呼ぶようになる。  金井正秋が本を預ってもらおうと思い立ったのは、米本家のある小矢部が軍港要塞地帯から離れていて、予想される空襲や艦砲射撃に対して安全だと考えたからだろうが、同時に、光代さんに近付きたい想いが強くあったのに違いない。光代さんの父は獣医だったが、光代さんが小学校三年生のときに死に、そののちは母が助産婦をして子供を育てていた。家は充分に広かったので、母は、子供たちが親しんでいる商業学校生の、いささか突飛な申し出を断らなかった。  秋の晴れた日に、手拭を腰にぶら下げた金井正秋は、弟と和昭さんにリヤカーを引くのを手伝わせて、書棚三つ分もの本を米本家の六畳間へ運び込んだ。本の整理には光代さんも動員された。  本の整理をしながら、はじめてはっきりと口をきいたことが、今でも走馬灯のように浮かび上ります。口数の少ない兄さんは、「これは、あの棚の三番目に」とか、「あの全集はこの棚の上から順番に入れて下さい」と簡単に命令するだけでした。私はただ言われるままに「はい、はい」といって本を並べていました。この「はい、はい」で兄さんと一生を送ることになろうとは夢にも思いませんでした。  本を預った縁で、光代さんには“兄さん”がぐんと身近になった。金井正秋は初めのうち、預けた本が必要になると、これこれの本を届けて下さい、と誌したメモを、和昭さんに托《たく》して寄越した。それを受けて光代さんは書棚から本を探し出し、一いち紙に包んで弟に渡してやる。そんな遣取《やりと》りがしばらく続いたが、やがて和昭さんが勤労動員のために持運び役が勤まらなくなると、金井正秋は自分でやって来るようになった。光代さんがお茶を淹《い》れて、少しばかり話をする。「兄さんの前に坐っていると気恥しいようでいて、嬉しさがこみあげて来たことを覚えています。十七、八の少女ならだれでも経験する淡い恋心であったかと思います」と「追想」に書かれている。  恋心は、金井正秋の方がより激しかっただろう。彼は米本家へ戻す本の頁《ページ》の間に、光代さんに宛てた短い手紙を挿み込んだ。その手紙に托された心情の密度が、だんだんに濃くなって行く。「山のあなたの空遠く」と、カール・ブッセの詩が誌されていた事もあった。光代さんが本を携えて野村家を訪ね、銀色の鉄の箸を使って食べる朝鮮式の夕食を一緒にするようになるまで、さして月日はかからなかった。時間が少し先へ飛んで、金井正秋が早稲田大学の専門部法科に入った終戦の年の事だが、光代さんの眼に映った彼の勉強部屋は、一人前の大人の書斎のようであった。その時分、光代さんは、横須賀市内の小学校の教員をしていた。  兄さんの部屋は四畳半でした。座り机があって、いつ立ち寄ってもその上には原稿用紙が置いてありました。その頃から兄さんは詩を作ったり、小説らしいものを書いていました。部屋の壁にはヴィーナス誕生の複製画がはってあるので目の遣り場に困りました。戦中の娘のことでしたから、女性の裸身像に驚いてしまったのです。半紙に墨で書いた詩なども画鋲《がびよう》でとめてあったことを憶えています。  机の上には古風な木の長い電気スタンドが置いてありました。その頃、スタンドは学生にとってぜいたく品でしたから、非常に羨しく思いました。学校の帰りが遅くなった時などは、つい心細くなって、衣笠駅よりまっすぐに兄さんの家に向いました。窓辺にスタンドの灯が見えると、玄関に足が向いてしまったのでした。今になってみますと、自分でも恥しくなるくらい夢中になっていたことに気が付きます。壁には本棚が四本並んでいて、私の家に疎開した本と同じくらいの冊数がぎっしりとつまっていました。茶の縞柄《しまがら》のかわいらしい瀬戸の火鉢が部屋の片隅にありました。兄さんはこの火鉢が大変気に入っていたのです。  これが依田教諭の書斎を範として、金井正秋が築き上げた砦であった。まだ十代の少年が、小遣を投じて蒐《あつ》めた蔵書の数の夥《おびただ》しさだけからでも、彼の向上心が並外れて熾烈《しれつ》であった事が認められる。  一九四三年十二月二十日、金井正秋は横須賀商業学校を卒業した。戦時特例による三箇月の繰上げ卒業であった。自筆年譜に「昭和十八年春、四修で京城帝国大学予科の入試を受けて合格」とあるのは事実ではない。その時期に彼はまだ商業学校に在学中である。他の生徒とは違っていたのだという意識が、「四修」の文字を年譜に書き付けさせたのかも知れない。「剣ヶ崎」の石見太郎は、中学時代受験勉強をしないで、放課後の講堂でピアノばかり弾いていながら、四修で三高に合格する。恵まれた境遇にあったならば、自分もそうした形で生きられたのだという無念が、ずっと尾を曳いて遺った気配がある。  繰上げ卒業をした生徒のうち、進学を希望する者に対しては、翌年三月の受験期までの間、補習授業が行われた。上坂信男氏はそれに出席して、依田教諭から、君は国語の先生になれ、と勧められ、早稲田の高等師範部の受験を決める。しかし上坂氏は、補習の教室に金井正秋の姿を見ていない。自筆年譜のこの年の項は、京城帝大予科の試験に合格し、京城市内の叔父の家に寄寓《きぐう》して通学を始めたものの、六月に肋膜炎と肺浸潤を患《わずら》って内地へ戻って来た、という風に物語が作られているのだが、その最後に「進学の志うすれる」とある。病気が影響したのだろうか。彼が四四年の春には大学を受験しなかった事を考え合せると、何か隠された事情があったようでもあるが、詳細は判らない。胸の治療に病院へ通うほかは、もっぱら本を読み、時には丹沢登山を試みたりして、米本光代さんには、「兄さんだけは悠々としているように」見えた。  京城帝大へ入学はしなかったが、四四年の三月から六月にかけて、金井正秋が朝鮮へ赴いたのは事実である。一九三二年に安東市で生れた異父妹の戸籍の問題を処理するために行ったのだと、光代さんは記憶している。鳳停寺へも足を延ばし、子供のころに可愛《かわい》がられた僧たちに再会した可能性もあるが、その時そこで見られた光景を、今に伝えられる人は誰もいない。  光代さんは、一時は“兄さん”がもう日本へ帰って来ないのではないかと心配したが、自宅の六畳間にある“兄さん”の本を眺めているうちに、気持が落着いて来た。こんなにたくさんある文学の本、哲学の本は、どれも日本語で書かれたものばかりだ、これだけの本を“兄さん”は目的もなく買い入れたのではないだろう、日本で生きて行く意志があるからこそ買ったのではないか、この本を棄てて朝鮮へ行ったきりになってしまう事はあり得ない。そう思った。そしてその予想の通り、“兄さん”は帰って来て、出掛ける前と変らない暮しに戻った。  しかし、外見は悠々としていても、彼がただ屈託なく日々をやり過していたわけではなかった。初めて奈良を訪ねたのは、やはりこの年である。  みゆきふる秋篠《あきしの》の里にそのかみもなやみをいだきてこの道を行きし  晩年に近く、一九七八年に書いた随筆「私のなかの大和路」にこの歌が出て来る。秋篠寺を起点として南へ向い、唐招提寺を経て薬師寺に至る道が、彼は好きであった。私との雑談の間に彼が思い出を語る事は滅多になかったが、この道についてだけは、「あの辺はちっとも昔と変っていないんだ」と前置きして、若い時分から繰返し歩いた話をした。たとい大和路がこれから先変っても、彼の抱くイメージは変らず堅固に生き続けるのだろう、と私は思ったものだ。 「はじめて大和路をあるいたのは昭和十九年であった。入口がみつからず、ただ無闇矢鱈《むやみやたら》に歩いた」「たいがいの人は和辻哲郎や堀辰雄の書いたものから大和路に入るが、私は別の面から大和路に入っていった。これは〈冬のかたみに〉に書いた通りである」とも、同じ随筆には書かれている。 「冬のかたみに」の第三章「建覚寺山門前」は、一九四八年を現在とする物語であるが、主人公国東重行の回想の形で、一九四四年の奈良行きが語られる。 そのとしの秋、奈良の寺を歩きながら、無量寺に還るべきか、それとも、すでに棲みついてしまった日本の古典の世界にとどまるべきかで私は岐路に立ったのであった。  この一節には、同じ年の春の作者自身の朝鮮再訪が影を落していると見ていい。 十九年の秋、奈良を歩いていたとき、死はじつにかんたんだ、という思いに捉われたことがあった。どうすれば人間が死ねるかをすでに知ってしまった少年時代を通ってきた者にとり、この思いは格別のものではなかった。荒れた唐招提寺の人影のない境内で、秋の陽の光が拡散しているなかを、ときおり落葉が音もなく舞いおりていた昼すぎだった。私がそのとき死について思いめぐらしたのは、戦争という時代のせいではなかった。私はこの戦争で日本が滅び朝鮮が滅ぶのを冀《こいねが》いながらも、一方では戦争の外側を歩いてきていた。世相がつらいのではなく、よるべのない境遇がつらいのでもなかった。少年時代のあの冬の季節、ひとり病んで、生きているのをつらいと思ったことがなんどかあったが、そのつらさはまだ私の裡《うち》でつづいていた。それは、つきつめて行くと、この世に生を享けた者のつらさだったのだろうか。奈良に行ったのは何を求めてでだったろう。  奈良に求めたものが何であったかは解明されないが、重行の眼には、唐招提寺の諸堂のかたちが、無量寺の薬師殿や講堂と重なって見えて来る。寺院建築や仏像に美を見出すだけの余裕はまだ無い。彼が無意識に惹《ひ》かれていたのは、無量寺に通じる風土であったろうか。朝鮮はなつかしい故郷なのである。しかし、その故郷との距《へだ》たりが日に日に大きくなりつつある現実も、成長期の五年間を日本で暮した彼は認めないわけには行かなかっただろう。「この世に生を享けた者のつらさ」は、こうした喪失感から生れたのかと思われる。彼は既に古典を通じて、〈無常〉という言葉に巡り会っていただろうか。  この時期を回想して詠んだ歌が、もう一首ある。 馬酔木《あしび》さく奈良公園にたたずむもなみだながせし二十歳《はたち》のなつかしき  彼の小説には、こんな場面は先《ま》ず現れない。作者の影を負った主人公たちは、時には「絶望にちかい感情」に陥りながらも、その内面を人に曝しはしない。立原正秋は、回想の抒情的気分を短歌に托する事によって、辛うじて自分を解放出来たように見える。奈良は知る人のいない土地だからこそ、安んじて涙を流せたのかも知れなかった。学校へ通わず、春に朝鮮へ行き、秋には奈良を訪ねた一九四四年という年は、長く忘れられず彼の記憶に刻まれていたのだと想像される。  春のある夕暮、兄さんは早稲田大学の角帽をかぶってやってきました。その時の嬉しそうな顔は、あの暗い生活の中でまったく異質なよろこびをたたえていたので、今もなおはっきりと私の記憶に浮かび上ってまいります。  早稲田大学の学籍簿によると、金井正秋の専門部法科への入学は、一九四五年四月九日となっている。「東京の大学に進学するようにとの周囲のすすめで、いやいやながら願書を出し、慶応と早稲田を受験し、両方合格す。花札を一枚舞わせ、表なら早稲田、裏なら慶応、ときめ、表が出たので早稲田に行く。専門部法科であった」。自筆年譜のこの記述にもはやこだわる必要はないだろう。  ただ文学書に親しむだけでなく、将来は作家として立つ志が動き始めていたに違いない彼が、どうして法科を志望したのか。武田勝彦氏は年譜作成の過程で何度かその点を訊《ただ》したが、「親戚の者に勧められたからだ」と、あまり明確でない答しか返って来なかったという。親戚の者ではなく両親が、卒業後に就職の道が拓けている法科を望んだのかも知れない。商業学校へ進まなければならなかった時と併せて、彼は二度も希望する前途を鎖《とざ》された事になる。しかしそれでも、彼は早稲田へ入れたのが嬉しかった。  早稲田の角帽をかぶって片田舎の衣笠駅周辺を闊歩《かつぽ》する兄さんの姿は、娘たちの印象に残りました。太い黒ぶちの眼鏡をかけ、口を真一文字に結んで、いつも颯爽と歩いていました。兄さんは、意識して背筋をまっすぐに伸ばし、決して脇見をしないで、急ぎ足で街を通り抜けます。私が友だちと一緒にいる時などは、素知らぬ顔をして、肩で風を切ってあっという間に遠ざかってしまったものでした。 「意識して背筋をまっすぐに伸ばし」というあたりに、終生変らなかった彼の歩き振りが彷彿《ほうふつ》とする。私が初めて会った日も、彼はこういう姿で、私を引き連れるようにして歩いたのであった。同じく早稲田へ入学した金松坤氏は、絣《かすり》の着物に袴を着け、朴歯《ほおば》の下駄を履いて角帽を被った彼を、「なかなかダンディで、典型的な文学青年に見えた」と評している。  彼は不思議なほど早稲田に愛着があった。〈犀〉の初めのころの同人会で、何かの拍子に彼が私を指し、「彼はぼくの大学の後輩でもあるし」と言ったので、私は実に意外な気がした。彼は中途退学をしたくらいだから、私同様に母校意識とは縁がないものと、勝手に思い込んでいたのである。 “母校早稲田”の想いが深かった事を示す逸話は、まだほかにもある。死の前年の一九七九年十二月、彼は政治経済学部の求めに応じて課外講演を引受け、小野講堂の演壇に立った。演題は「一作家の周辺」である。私は後になってその録音を聴いたのだが、文学に格別の関心がない学生を前にして、彼の語り口は謹直を極めた。「本日は招待を頂きまして洵《まこと》に有難う御座います」と冒頭に一揖《いちゆう》し、「本学でかつて学んだ事のある者として、本学の先生にまつわる話を二つ申上げたいと思います」と、恩顧を受けた先生の思い出話に入って行った。谷崎精二教授と一緒に銭湯に入った話など、精一杯のユーモアを籠《こ》めたものだったが、学生はあまり笑わなかった。  第七次〈早稲田文学〉の編集長を、直木賞受賞から二年後の、忙しいさなかに引受けたのも、母校の事業に肩入れする気持が強かったのであろう。「早稲田出身者と三田出身者の原稿がそろい、同水準である場合、私は三田出身者の作品を採ります。内部の者には外部の人達より数倍のきびしさを要求します」と、「第七次《早稲田文学》復刊の辞」で彼は宣言し、実行した。そうする事が早稲田のためになるのだと、本気で信じていただろう。  彼の身辺にはいつも早稲田大学の徽章《きしよう》が置かれてあった、と私は、読売新聞の中田浩二記者から聞いて知った。その徽章は、彼の歿後七年目に鎌倉文学館で催された立原正秋展に、肉筆原稿や遺愛の硯《すずり》と並んで出品され、参観者の眼を惹いた。衣笠の町を颯爽と胸を張って歩いたときの角帽に付いていた徽章だろうか。  せっかく早稲田に入学したものの、授業はろくに行われず、勤労動員令によって、日本鋼管の鶴見工場へ通う日が続いた。五月二十四日の空襲で、大学は諸施設の三分の一、延九千坪が被害を受けた。演劇博物館は焼夷弾《しよういだん》に屋根を撃ち抜かれ、理工学部校舎は礎石だけを残して跡形もなくなった。 「昭和二十年、日本と朝鮮が滅亡することを切にねがう」と自筆年譜にある。この言葉を彼はあちこちに繰返して書き付けている。「猷修館往還」にあり、「冬のかたみに」にあり、「夏の光」にもある。随筆にもしばしば出て来る。表現が明確である割に、その真意は見極め難い。戦火が迫るのを感じつつ工場で働きながら、彼の裡に蠢《うごめ》いていたものは何だろう。  一九六九年に発表の「川端康成氏覚え書」は、「私は、この一文を草するにあたり、たかぞらに火の臭《にお》いが満ちていた、あの大戦末期の日々を想いかえした」と書き出される。終戦の年の二月、彼は横須賀市追浜《おつぱま》国民学校の講堂で、予備徴兵検査を受けた。その日は遺髪と遺爪《いそう》を入れた奉公袋を持参するよう役場から通達があったが、彼は持って行かなかった。わざとそうしたのではなく、忘れたのでもなかった。 くる日もくる日も火の臭いが満ちていたたかぞらを見あげ、私は日本の滅亡をかたく信じていたが、それより以前、私は孤児としての自分の滅亡を視《み》ていた。日本が滅び朝鮮が滅ぶのを、私はあのたたかいの日々に、どれだけ冀願《きがん》したことか。滅亡する国にあっておのれの滅亡を視てしまった者にとり、遺髪をいれた奉公袋がどんな意味を持っていたのか。 「自分の滅亡」とは何を意味するのだろう。そう書きながら彼は、「風も凍る」ようだったという「亀尾の冬」の寒さを身体に蘇《よみがえ》らせていただろうか。私にはよく解らない。ともかく彼の論はここから出発して「年少のころ、すでに自身の地獄を垣間《かいま》みていた」川端康成の世界の検証に赴く。そして結びは次のようである。  私は、たかぞらに火の臭いが満ちていた戦争末期、あれほど日本と朝鮮の滅亡をねがいながら、たたかいが終ったとき、生きようと思った。川端氏が震災の焼跡を見歩いたように、私は瓦礫《がれき》の街を歩きながら生きようと思った。氏の動じない姿が私の支えであった。  滅亡を願った人間が、生きようとする意志を持つまでの間に何があったか、内心の経緯は一切説明されない。  それから九年が過ぎて、一九七八年の「移ろわぬものと三十年」には、同じ事がやや異った表現で書かれている。この随筆は、秋の初めに裏山に咲く吾亦紅《われもこう》を探しに行くところから始まる。  大戦末期、私は、硝煙の匂《にお》う高空を見あげ、日本が滅び朝鮮が滅ぶことを切にねがった。それ以外に信じられるものがなかった。私の戦後はそこから出発している。したがって、今日まで余生を生きてきた、という思いがつよい。初期の作品〈剣ヶ崎〉も〈薪能〉もこの滅亡意識からうまれた。余生を生きてきた、といっても、よいかげんな生きかたをしてきたわけではない。生きるのにも切だった。自我が相手を食うような烈《はげ》しい生きかたをしてきた若い頃もあったが、だいたいは吾亦紅におのれを没入させる歳月であった。硝煙が匂っていた頃は、日本と朝鮮にたいして反対感情が両立した葛藤《かつとう》があり、それ故に二つの国の滅亡を切にねがったが、戦後はそんなアンビバレントな葛藤は消え、吾亦紅だけが見えるようになった。  ここでも「したがって」、「それ故に」と続く論理の筋道は明瞭でないが、自分を拘束し、差別の根源ともなった〈国家〉から解放されたいという願望が根強くあった事は読み取れよう。「硝煙の匂う高空」と繰返して言うとき、彼のイメージにあったのは、東京のほか、動員先の鶴見で見た横浜空襲の火の色だろうか。彼が住んだ横須賀市は、空襲の被害は極めて尠かった。終戦の年の二月半ばの三日間、艦載機による波状攻撃を受け、数人の死者を出したのが目立つ程度である。戦争の全期間を通してみても、死者は十七人、家屋の全焼二戸、全壊七十戸に過ぎない。米軍が占領後に利用するために、軍港施設を無傷で残したのだ、との噂が戦後に囁《ささや》かれた。  戦後は余生だとは、戦時中に死地に臨んだ人がしばしば口にする言葉だが、金井正秋の場合は、際立って苛烈な体験があったのではなかった。「兄さんの家ではどういうことか、食料に困っている様子はありませんでした」「当時としてはめったに口にすることのできない白米を御馳走になったことが今でも忘れられません」と「追想」にある。光代さんと一緒にいるときには、「妻をめとらば才たけて……」「命短し恋せよ乙女……」と、旧制高校生が好んで歌うような青春の歌を、音程はいささか狂っているけれどもよく徹《とお》る声で歌って聞かせたという。時代に関らない落着いた明け暮れがあったのである。  そうした人間にとって、戦後が「余生」とはふさわしくない。むしろ「新生」と言った方がいいように、私は思う。  戦争末期の時代を反映した小説に、一九七○年発表の長篇「夏の光」がある。主人公の吉野宋純は日朝混血の青年であり、彼の異父弟の信二は純粋の日本人である。この二人は仲が好い。殊に信二は、兄に対して憧憬《しようけい》に近い感情を抱いていて、兄を“朝鮮”と罵る相手を決して許せない。宋純が「二つの血の流れ」のせいで「事物を平均化して眺めているような目」を先天的に持つ青年なのと対照に、信二は激情家である。日本が敗れて朝鮮が独立したときはどうする、との信二の問に、そうだな、朝鮮へ行こうか、と宋純は答えた。彼はからかい半分に言ったのだが、弟はそうは取らなかった。敗戦が兄との別れを意味するのならば、日本が敗れるのを見ずに死にたい、とまで彼は思い詰める。この事が終戦後の悲劇の伏線となる。  宋純が召集を受けて横須賀重砲連隊に入隊したのは、一九四四年の五月初めであった。信二は兄より半年早く応召して、三浦半島の岩堂山にある東京湾要塞砲兵連隊の本部にいた。兄弟の間には往《い》き来《き》があり、兄が弟に向って、不入斗練兵場の奥の朝鮮人集落を訪ねて「水をのんできた」と告げ、「俺は……朝鮮人だ」と宣言するような事も起る。  一九四五年に入って間もなく、宋純は鎌倉山の榴弾砲《りゆうだんほう》陣地へ配置換えとなる。そこには兵舎は無く、兵隊は附近の民家に分宿して砲台へ通うのであった。宋純がもう一人の兵と共に割当てられたのは、雑木林の中にある植村という家であった。彼はその家の一人娘の紀子と関係を持ち、ついには子種を宿してしまう。真夜中の雑木林で、横浜が燃える火を眺めながら、二人は言葉を交す。自分の蒔《ま》いた蕎麦《そば》の花が咲く頃に戦争は終るだろうか、と女が問いかけ、その頃にはすべてがおしまいになる、と男は答える。宋純の〈滅亡意識〉が、そんな形で描かれている。  変化に乏しい日々を送り迎えするうちに、戦争は終った。しかし、宋純には東京へ戻る意志がない。彼は、自分の還る場所は植村家しかなさそうだ、という心境になりかけている。信二も東京へ帰れない。長者ヶ崎砲台の砲の解体作業の監督を命じられたからである。彼は葉山にある吉野家の別荘に寝泊りして現場へ通わなくてはならなかった。  宋純の旧友の橋川俊輔が植村家を訪ねて来たのは、八月の末であった。静岡高校教授のこの人物は、以後兄弟の悲劇の立会人となる。宋純は橋川を連れて、不入斗へ粕取《かすとり》焼酎と密殺の豚を買いに行く。朝鮮人集落から目を逸らすことが出来ないのは、「俺が朝鮮人だからだ」と彼は言う。時どき鎌倉山へやって来る信二の眼には、そうした兄がつまらぬ人間になってしまったように映る。兄は日本人なのに、自分のなかの日本人の血を抹殺《まつさつ》しようとしているのだ、と彼は考える。敗戦によってすべてを失ったと感じている彼は、兄が朝鮮人となって離れて行くのが、到底耐えられなかった。  終戦から一と月近くが経った或る日、橋川と一緒に葉山の別荘へ来た宋純を、信二は詰問《きつもん》した。「兄さんは、日本人なのか、朝鮮人なのか」。しかし宋純は皮肉ばかり飛ばしてまともに答えない。橋川が手洗に立った間に、拳銃の音が轟いた。 「きみは、なんてことをしたんだ!」  橋川は信二を見て目を剥《む》いた。信二が拳銃をおとした。 「橋川……いいよ、しようがない……やつだ……」  宋純はやっとこれだけ言うと、ひいッと虚空《こくう》で鳴っている風のような声をだし、目を閉じた。  このあと信二は、かつて兄に不法な制裁を加えた中尉の家へ赴いて彼を刺殺し、再び葉山へ戻って来て、兄の亡骸《なきがら》の前で拳銃自殺を遂げる。  物語は、宋純の遺児の植村石和《いしかず》という青年が、成人してから橋川俊輔を初め父を知る人びとを訪ねて、思い出を訊く形で進行する。この方法は「剣ヶ崎」に似ている。混血の主人公が血にまみれて殺される結末も、「剣ヶ崎」に似ている。日本人と朝鮮人の血の相剋《そうこく》を主題としている点で、「剣ヶ崎」と「夏の光」は姉妹篇と呼んでもいい。だが、その主題の扱い方については、二つの作品の間にかなり明瞭な差がある。 「剣ヶ崎」の太郎と次郎は、共に混血の兄弟であった。彼等は宿命を共有している。生き遺った弟は「兄さんは、信じられるのは美だけだ、と言いながらも、心の奥では、やはり、人間を信じていたのだと思います」と言い切る事が可能であった。「夏の光」の弟は純血の日本人である。彼は混血の兄に自らの立場を明らかにするように迫り、対決する。愛憎の葛藤に悩んだ末、兄を殺し、更には兄を侮辱した上官を殺す彼の意識と行動は、必ずしも説得力を持って描かれてはいない。作者の操る人形めいた印象を免れ難いのだが、彼の存在は、兄宋純の隠された内面を照らし出すために欠かせない。  宋純の内面は揺れている。 彼は、橋川に、俺は朝鮮に行くかもしれない、とは言ったが、具体的な考えまでにはいたっていなかった。そうした意志は戦争中からあったが、しかし、いつも戻って行くのは、不入斗の聯隊《れんたい》で考えた、あの恥知らずな徴兵読本を書いた日本人といっしょに敗戦をむかえられるだろうか、反対に、恥知らずな一部の人間がいたにしても、朝鮮に渡って独立朝鮮の中に融けこめるだろうか、俺はそのとき、自分がうまれ育ったこの風土ときっぱり縁を切ることが出来るだろうか、という場所だった。揺れが大きすぎた。それは戦争が終る前には予想もしなかった大きな揺れだった。  戦争中には弟に向って、「日本人の血が入っていたにせよ、俺は日本人ではない」と言ってのけた宋純が、戦後は弟の再三の詰問を真面目に取合わず、韜晦《とうかい》ばかりするようになる。時には恫喝《どうかつ》する。答える意志がないと言うより、内心の揺れのために正確に答える言葉が見出せないのだ、と解釈すべきかも知れない。  兄弟の最後の対決の場面は、傍観者に過ぎない橋川の視点から描かれている。「このさい、兄さんの場所をはっきり知っておきたい」と信二が迫る。そのとき橋川は立上って便所へ行く。そして彼が拳銃の音を聞いて急いで戻ってみると、すべては終っている。拳銃が発射されるまでには、兄弟の生涯のなかで最も緊張した時間があった筈だが、その情景は描かれない。なぜ作者は、どたん場で橋川を便所へ立たせなければならなかったのか。  宋純に銃を向けたのは、「剣ヶ崎」の憲吉のような、朝鮮人に敵意を持つ狂信者ではない。兄を愛して已《や》まない弟である。兄の答を俟《ま》たずに射ち殺すとは考えられない。弟の短兵急な詰問に対して、兄の何等かの返答があり、それが弟を激昂させて引金を引かせたのでなくては、筋が通らない。宋純の最後の言葉は何だったか。作者はそれを探しあぐねた末に、視点人物の橋川を現場から去らせるという便法を用いなくては、物語の幕を閉じられなかったのではないか。  ここで私は、「剣ヶ崎」の太郎の死に際の名台詞を思い出す。「あいの子が信じられるのは、美だけだ。混血は、ひとつの罪だよ」。この言葉が人を納得させられるかどうかは別として、太郎には迷いがなかった。それに対して「揺れ」の甚しい宋純には、弟の殺意をかき立てるほどの衝迫力のある言葉は吐けない道理である。吉野宋純が朝鮮に寄せる心情は、石見太郎のそれよりも作者自身に近い。宋純の「揺れ」は、作者が体験したものでもあっただろう。それだけに作者は、一方的に割切って宋純という人間を造型し得なかった。宋純に自分を托そうとして托し切れなかったとも言える。出自へのこだわりが、作者の手を縛っている気がしてならない。宋純に率直に自己を反映させるのでなく、日朝貴族の混血の子とし、「事物を平均化して眺める目」を持つ青年と性格づけた事が、あるがままの表現を妨げる結果を生んだのであろう。 「剣ヶ崎」の好評に引換え、「夏の光」は殆ど評判にならなかった。肌理《きめ》が粗い印象は拭えないし、宋純と紀子の関係や、戦後の信二の行動には、通俗な芝居仕立てだと貶《けな》されても仕方のない面がある。立原正秋には珍しく、戦時中の朝鮮人団体の活動に触れた記述もあるが、それ等は多く資料の祖述の域を出ていない。「朝鮮人が人夫として日本に連れてこられ、炭鉱やダム建設に使役されている。これらは一種の奴隷狩りですよ」と宋純が、“内鮮一体”を理想とする朝鮮人学生に向って言い放つ場面があって、この方向にずっと筆が伸びていれば、異色の作品が仕上ったろうと思わせるが、そんな期待をするのは私の無いものねだりかも知れない。  失敗作との評価は免れないにしても、私は、作者が正面から〈朝鮮〉に挑《いど》もうと試みたこの小説を忘れ難い。失敗作ゆえに、果されなかった可能性が却って明らかに見えて来る。立原正秋はこれ以後、この種の小説をとうとう書かずに終った。 四章 日本人米本正秋  ポツダム宣言受諾を告げる天皇の放送を、金井正秋は鎌倉若宮大路の茶碗屋の店先で聴いた。工場を休んで鎌倉文士が経営する貸本屋鎌倉文庫へ行き、本を借りた帰りであった。敗戦をあれほど切に願った「日本の滅亡」と彼が受け止めたかどうか、内心を明かした文章は遺されていない。  米本家に預けてあった本は、九月に入ってから、再び彼の書斎へ戻された。「空っぽになった六畳の部屋に入ると、淋しさがこみあげて来ました」と光代さんは言う。その気持を見透したように、“兄さん”は頻繁に足を運び、やがて光代さんは彼の靴音を聞き分けられるようになった。顔を合せても取止めもない話をするしかなかったが、彼が「来年は文科へ移る」と言った一言は、はっきりと光代さんの記憶に遺った。戦時下に小林秀雄の「實朝」に出逢い、また川端康成の作品を読み直して、「この二人の文学者に、自分なりの奇妙な共通因数を見出した」と後年の立原正秋は書いている。「奇妙な」とは、言い現し難い共感の表現でもあろうか。そうした体験が、戦争が終って大学の講義が再開されたとき、文科へ移って文学に専心するように、彼を促したのだったろう。  その年の四月に撮った写真が遺っている。たっぷりとした髪をオールバックにし、額の広いのが目立って、眉目《びもく》秀麗というのにふさわしい風貌である。細い銀縁の眼鏡の向うの眼が、やや斜めに上方を見据えている。学生服の衿章《えりしよう》には〈文〉の文字が見え、「文学部入学の春 1946—4」と余白に書き付けたところに、望みを果した彼の晴れがましさが感じ取れる。  ただし、彼は正規の文学部学生になれたのではなかった。聴講生であった。学部へ入るには専門部を卒業しなくてはならないが、それまでのあと二年間を彼は待てなかった。以後彼は、専門部の授業は抛擲《ほうてき》して、もっぱら文学部の講義に出席するようになる。  終戦直後の大学は、いわゆる陸士帰り、海兵帰りの学生も多く、雑然とした活気があった。その中で、専門部法科という変ったところから来た金井正秋は目立った。国文科の同級生だった早稲田大学教授の興津要氏は、初めて見かけたときの彼の身装《みなり》の良さを印象に留めている。 「良家のお坊ちゃんみたいな感じだったんです。あの頃珍しい紺サージの衿の高い学生服を着ていましてね。それに茶色の大きな革鞄、これもいい物を持ってました。靴も軍隊帰りの長靴《ちようか》が目に付く中で、ちゃんとした茶色の短靴を履いてるんです。もう物を書いていたかどうか知らないが、普通じゃ手に入らない上質の原稿用紙を一杯持ってました。ぼくとは趣味が違ったから、親しく芸術の話はしませんでしたけどね。その頃の彼は、横須賀育ちのせいか、それでよう、あのよう、といった“ようよう言葉”だったんです。後に彼が書いたものからは、およそ想像もつかないでしょう」  学期初めに開かれた同級会で、全員が自己紹介をした折り、金井正秋は、将来は作家として立つ、と明言したという。彼がよく出席したのは、服部嘉香教授の国語学と、岡一男教授の平安朝文学の講義であった。服部教授は雑誌〈詩世紀〉を主宰する詩人であり、授業中にしばしば脱線して、近代の詩歌《しいか》を論じた。岡教授は、当時の早稲田で古典を専攻する唯一の教授であった。訓詁《くんこ》注釈でなく、自分の言葉でする講義は、学生に人気があった。この二人によって、金井正秋は文学への飢えを満たされたのだったが、取り分け岡教授への敬愛は、作家になってからも続いた。「興津に頼まれて早稲田へ講演に行ったら、岡先生に声をかけられてね、びっくりして顔が真赤になっちゃったよ」と、彼が嬉しそうに話したのを、興津氏の話を聞きながら、私は思い出した。  しかし彼の国文科の学生としての日々は、一年と少ししか続かなかった。興津氏は、一九四七年の秋以降、金井正秋の姿を学内で見かけていない。彼は熱望して入った国文科に幻滅を感じたのだろうか。そうだったかも知れない。岡教授のような人は例外として、講義内容は充実しているとは言い難かった。高田馬場駅前の闇市で学生が、古本を買おうか、ふかし藷《いも》にした方がいいか、と思案しなければならなかった時代である。地方から上京している学生の食糧難に配慮して、春と夏の休暇は長かったし、秋には食糧休暇というのまであって、学生同士が親密になれる雰囲気にも乏しかった。  短い国文科在籍の記念とも言えるのは、谷崎精二教授が主宰する文芸研究会が行なった短篇小説募集に応じて、一等入選を果した事であろう。小説の題名は「麦秋」であった。文学部の事務所前に「入選 金井正秋」の掲示が貼り出され、賞金五十円を獲得した。地方出身の女子学生が都会の大学生に恋をするが、相手の振舞に蹤《つ》いて行けずに挫折し、郷里へ帰って小学校教師になるという筋立のものであったらしい。抒情的な作柄が想像されて、今遺っていれば面白いのだが、その原稿は研究会の機関誌に載せるとの約束が実現しないうちに紛失してしまった。あれは幻の処女作になった、と立原正秋は後のちまで残念がっていたそうだが、入選によって、彼が将来への一つの手応《てごた》えを覚えたのは確かだろう。  光代さんとの仲は深まっていた。二人が神田の写真館で写真を撮ったり、早慶戦や芝居を一緒に観に行くような過程を経たのち、結婚したい、と光代さんの母親に申し出たのは、一九四七年であった。その季節がいつであったか、光代さんは憶えていない。  光代さんの母は、いいとも悪いとも返事をしなかった。学生の分際で収入も無く、先行き出世する見込みも立たず、しかも朝鮮籍の青年に長女をやりたくないのは、その時代の母親の心情として当然ではあっても、言い出したら退かない娘の気性を知り抜いているだけに、敢《あ》えて逆らわなかったのであろう。光代さんが使っていた六畳間を二人の部屋と決めて、“兄さん”はそこから大学へ出掛け、夕方には自分の家で食事を済ませてから帰って来るような、変則の結婚生活が始められた。  米本家の親戚や、光代さんの友人たちは、挙《こぞ》ってこの結婚に反対であった。 「みんなから、すごい娘だと言われました。むかしの常識では考えられない子だったんですね。強骨《きようこつ》光代なんて諢名《あだな》を付けられたくらい」  と今、光代さんは述懐する。 「立原が死んだあとに、女学校のときの友達に遊びに来てもらったんですが、あの頃あなたがあんな人と一緒にならなくてもいいのにってみんなで言ってたのよ、と言われました。それは初めて聞きました。あたし一人が知らずにいたんですね。朝鮮人への差別や蔑視《べつし》はもちろんありました。縁を切ると言って寄越した親戚もあったと、あたしの母が死ぬ直前に打ち明けました。母はあたしたちを庇って呉れたんだと思います。母も強い人でしたから。あの時代からここまで来るのは、本当に大変でした」  金井正秋の母親も、食べて行ける当てがないのに、と結婚に賛成しなかった。周りの誰からも祝福されない門出だったが、「若い二人がただ一緒にいたいという強さ」だけで行動した、と「追想」には書かれている。  長男の出生は、一九四八年七月九日であった。そのとき二人は、婚姻届を出生届と共に提出した。この婚姻手続の遅れには、国籍の問題が係《かか》わっていただろう。日本降伏後の在日朝鮮人の法的地位については、占領軍と日本政府の方針にかなりの変動があったが、一九四七年五月施行の外国人登録令では、朝鮮人は「当分の間、これを外国人とみなす」として、居住する市町村への登録と、登録証の常時携帯が義務づけられ、違反した場合は、強制国外退去処分さえ覚悟しなくてはならなくなった。金井正秋は初めての子の出産を控えて、妻子とともに在日朝鮮人として生きて行くか、それとも日本に帰化するかの選択を迫られた筈である。 「追想」に、花嫁だけの披露宴の話が出て来る。光代さんが身籠って間もなく、今後の付合いもあるから、との母親の心遣いで、近所の人たち十数人を自宅へ招き、ささやかな結婚披露宴を催す事になった。物資の乏しい中を、母親は苦労して尾頭付きに赤飯、するめや酒を用意して呉れた。ところが“兄さん”はその日、約束の正午にやって来なかった。光代さんも母親も困り果て、客に言い訳をして待ってもらったが、それでも姿を見せない。いつまでも引き延ばすわけには行かず、花婿《はなむこ》抜きのまま宴は始まり、終った。光代さんは申訳なさから、顔も挙げられずに席に坐っていた。“兄さん”は夜遅くなってやっと現れたが、光代さんからせっかくの披露宴が不本意な形で終ったと聞いても、そうか、と言ったきりであった。  私はこの挿話を軽く読み過せなかった。披露宴をすっぽかせば母娘《おやこ》がどれだけ恥しい思いをするか、察しられない彼ではなかっただろう。それにも拘らず米本家に足が向わなかったのは、彼の内心に、今後どう生きて行くかについての不安が蟠《わだかま》っていて、近所の人たちに祝ってもらう気になれなかったのだと思う。二十一歳の青年は、踏み込んで行かなくてはならない将来の前で怯えたのかも知れない。“兄さん”が「心の奥では葛藤していたのだということは、何となく解りました」と光代さんも書いている。  その葛藤について彼自身は書き遺していないが、最終的に彼が選んだのは、米本家の籍に入って日本人となる道であった。朝鮮人男性が日本人女性の籍に入って日本国籍を取得するのは、正式の帰化手続からは外れているが、朝鮮が占領軍の軍政下にあった当時は、そうした便法が通用したのである。一九四八年七月三十一日、婚姻届は受理されて、日本人米本正秋が誕生した。因《ちな》みに大韓民国はその年の八月十五日、朝鮮民主主義人民共和国は九月九日の建国である。  米本正秋は長男を潮《うしお》と名付け、「言祝《ことほ》ぎの日」と題する詩を作った。  巨大な複眼のやうな空から  途方もない面積をしめ  ひかりが拡散してふつてきた日  ああ 言祝ぎの日だ  妻よ これは男の子だ  途方もなくうれしい日だ  息子よ  おまへがうまれた日は  五月なかば  椎《しひ》の嫩葉《わかば》に光が砕け それは  見ゆるかぎりの世界を  微粒子のやうに充たし  丘では馬が嘶《いなな》いてゐた  なんと広い世界だらう  なんと光の多い日だらう  なんと美しい日だらう  巨大な複眼のやうな空から  途方もない面積をしめ  ひかりが拡散してふるなかを  妻よ おまへは息子をうんだ  この広大無辺の面積のなかでは  小さな粒子でしかない  おまへらが  私には  なんとやさしい存在だらう  最後の行のあとに、「昭和二十三年夏」と書付けてある。息子の誕生は七月九日であって、「五月なかば」ではない。しかし新しい生命の讃歌を歌うためには、椎の嫩葉の緑を照らす明るい初夏の光が、どうしても必要だったのだろう。作者はこの若書きの詩によほどの愛着があったらしく、詩集「光と風」に収めたほか、小説「冬の旅」に主人公の少年が生れたとき、その父親が作った詩として用い、「冬のかたみに」では、長男が生れた日の夜、主人公が昼間の出産を思い返しながら綴った詩の形で再び用いている。自分の血を承け継ぐ息子を得た歓びが、ずっと後年に尾を曳くほど深かった事が知れる。それと同時に私は、作者の〈新生〉の感慨が、重ねて歌い込まれていると考えたくなる。  米本正秋の戦後の日々は、「冬のかたみに」の第三章「建覚寺山門前」にその様子が窺える。一九七五年に発表されたこの小説は、作者の実生活と作品との関りを探る上で、いくつもの興味深い問題を含んでいる。単行本「冬のかたみに」の跋《ばつ》に、作者はこう誌した。  この作品〈冬のかたみに〉の構想の発端は昭和二十八年頃で、「群像」に〈他人の自由〉を書いた三十三年にいちど書きはじめてやめ、さらに「新潮」に〈薪能〉を書いた三十九年にもういちど書きだしてやはりやめてしまっていた。そしてさらに十年の月日を俟《ま》って書きはじめられたのである。そのわけは、私が如何に臨済の寺に生を享《う》け、幼少年時代を僧堂で鍛えられ、数数の禅の語録に接し、打坐《たざ》して実践してきたとはいえ、また、かりに無門の関が千あると仮定してそのひとつをやっと透得して独歩してきたとはいえ、自分を客観化するのは容易ではなかったからである。いまひとつは、禅の語録は身についていたが、これを知識としてではなしに血肉として生かせられるか、という自信を深めるまでに時間がかかったためである。もし十年前に書かれていたら私小説になっていたかもしれない。 「冬のかたみに」の作柄が私小説と異るとは、誰もが認めるだろう。立原正秋はかねがね、私小説はいくら傑作でも感想文に過ぎない、と貶していたが、確かに自分の過去を感傷を交えてめんめんと語る私小説の語り口は、ここにはない。大方の私小説の主人公、即ち作者が、自らを弱者の立場に置いて、読者の同情まじりの共感を呼ぼうと努めるのとはうらはらに、禅寺で養育される「冬のかたみに」の主人公国東重行の覚《さと》りの早さは殆ど神童に近く、その行動の潔《いさぎよ》さは、時に酷薄に近い印象さえ伴う。彼は幼少のころから英雄なのである。作者の言う「自分の客観化」は、そうした人物の造型に欠かせなかったのであろう。加えて臨済禅についての記述には、「後年私が調べたところでは」という注記が何箇所かに見られるように、作者が体験を通じて身につけたものに頼るばかりでなく、歴史書、研究書の類を大いに参看した形跡があって、着手までに費した年月が無駄ではなかったと感じさせる。  しかし、同じ跋のなかの次の一節には、首をかしげずにはいられない。  第三章は、第二章を仕上げた四十九年の九月に書きだし十二月にはほぼ完成していたが、作品の一部を空白にしておき、主人公の母の他界を俟ってその部分を埋めた。したがって主人公の母の他界がおくれたら当然第三章の発表もおくれていた。  紙の上でしか生きる事も死ぬ事も出来ない筈の「主人公の母」の「他界を俟つ」とは何であろう。ここでは主人公と作者とが混同されている。或いは故意に同一視されている。作中の「母」がかなり苛酷な扱いを受けている事と、その理由については前に触れた。しかし、作者が実生活でも生涯母を怨《うら》み、「なまぐさい女」だと疎外し続けたわけではなかった。作者の母権音伝、通名野村音子さんは一九七五年三月一日に七十一歳で歿《な》くなったが、そのとき立原正秋は哭《な》いたという。音子さんが息子と共通する気性の激しさを持つ半面で、息子夫婦の生活にまで気を配る優しい母親でもあった事は、光代さんや金井正徳氏の証言に明らかである。  五十歳に近くなった国東重行は、死に瀕《ひん》した母の枕辺を訪れ、短い言葉を交わす。「死が見えているのか」と息子は訊き、「見える」という母の答を得て安堵する。母は過去を悔いて涙を流す。 「泣くのはいけませんね。きちんと死ねますね」 「やはり死ぬんですか?」  母はこのときはじめて怯えた目をみせた。 「あなたはかつては禅僧の妻だった。いまあなたはそこに還っています。きびしさを堅持していた当時に戻ったのです。そうでしょう」 「戻れたのでしょうか」  母はなにかほっとした目をみせた。 「そうです、戻れたのです。ですからご自分の死がみえるのです。まもなく〓居円俊のもとに行けるのです。これは私が保証しましょう」  私はつよい言葉で引導をわたした。  世の常の母子の会話ではない。子が遥かな高みに立って、母を見下している。死んだ夫のもとへ行けると「私が保証」するとはどういう事か。作者が空白にしておき、「母の他界を俟って」書き加えたのはこの部分であろう。母が息を引取ったあと、重行は般若心経を読み、遺体の足に足袋と草鞋《わらじ》を履かせてやって焼場へ送る。  実際にこのような情景が展開されたかどうかは、さして重要ではない。私が関心を持つのは、作者が母の死を体験しなければ、この一節を書けなかった事実である。「主人公は母には執着していないが、父にはながいこと鎮魂の思いを抱きつづけてきている。この不均衡は、主人公が、死を予知した母に引導をわたし、亡骸に足袋と草鞋を履かせて心経を読みあの世に送ったことで是正される」と跋にはある。この「主人公」を、「作者」と読み替えてもいい。少年のころに憎しみを持ち、成人したのちは、貧しかった一時期を除いて離れて暮した母に対する「不均衡」な想いが、その死を仕来《しきた》りに従って平穏に送る事によって「是正」されるまで、彼は書けなかった。単に母子死別の場面を描くだけならば、物語作者として、読者を思うままに操る腕を持つ彼にはたやすかったろう。それが自伝的な「冬のかたみに」に限って書けなかったのである。この小説と作者の精神との、抜差しならない関係が知れる。  野村音子さんは、横須賀市大矢部の清雲寺にある〈金井家之墓〉に葬られた。一九八九年の十二月初め、私はそこを訪ねた。東京を発《た》つのが遅かったので、着いたのは午後三時に近かった。墓地に繁る竹籔の梢を透して傾きかけた冬の陽が差入り、「昭和四十七年二月三日建之 立原正秋 金井正徳」と誌した黒御影《くろみかげ》の墓石の周りを明るませていた。芳香院徳室初心大姉の戒名が、彼女よりも十五年先立って死んだ連合いの覚道命允信士と並んで刻まれている。盂蘭盆《うらぼん》の追善供養に金井正徳氏が立てた卒塔婆《そとうば》がまだ新しかった。墓前に掌を合せる習慣のない私は、その傍に佇んでしばらくの時を過した。 「冬のかたみに」が自伝的作品であるための困難は、全体の構成からも察しられる。第一章「幼年時代」は、一九三一年主人公が数え年六歳の早春に始まる約一年半、第二章「少年時代」はそれを承けて一九三三年秋から、二年八箇月後に主人公が日本へ渡るまでを描いている。そこまではいい。ところが第三章「建覚寺山門前」の舞台は、ずっと飛んで一九四八年春の日本なのである。その間十年余の空白がある。それは並みの十年間ではない。自伝小説と銘打たれていれば、作者が「剣ヶ崎」の石見兄弟に托し、「猷修館往還」の国東重行に托し、「夏の光」の吉野宋純に托して、なお托し切れないものが遺った〈血〉の主題に、より直截《ちよくせつ》に切込んでほしい、と読者が望むのは自然だろう。私自身も「少年時代」のあとには「青年時代」が書かれるものと予期していたから、「建覚寺山門前」を読んだときには、はぐらかされたような気がした。最も書き甲斐《がい》があると思える時期を、どうして彼は通り過してしまったのだろう。その理由についての言及は、跋にはない。構想のなかに初めから「青年時代」がなかったとは考え難いのだが、発表誌〈新潮〉の編集者にも、彼は何一つ語っていない。  母に引取られて日本へ来て、戦争をくぐり抜け、やがて伴侶《はんりよ》を得るまでの十年間の体験は、その時代が三十年近くの過去になってもまだ、小説に仕立てるには生なまし過ぎたのだろうか。彼は過去にこだわりが深過ぎて、自ら創り上げた人物を、想像のなかで存分に活かし切れなかった気配がある。この時代を敢えて書こうとすれば私小説になるよりほかはなく、そうする事は告白嫌いの彼の性格が許さなかったのだ、と私は思う。  主人公国東重行の出自は、作者立原正秋のそれとは著しく異る。重行の父方の祖父は、広大な領地を持ち、日韓併合時には日本人と組んでその富を守るのに成功した貴族であり、父は京都の大学で印度哲学を学び、由緒ある大寺の宗務長にまでなった学僧である。父の異父兄は道知事を勤めている。また母方の祖父は、父方の祖父と姻戚《いんせき》関係にあり、日本と朝鮮を頻繁に往き来して、手広く商売をやっている人である。重行は名家の出と言わなくてはならない。父が日朝混血であったため、“合の子”の運命は免れられないが、それでも普通学校で“猪足《チヨツパリ》”と彼を嘲った朝鮮人の子を階段から突き落して怪我をさせたとき、悪かったと謝ったのは、頭に繃帯を巻いた相手の方であった。重行の祖父の権勢がそうさせたのである。重行は、町の市場に集う朝鮮人たちの貧しさを見て、「胸に迫ってくるもの」を覚えるような感性を身に着けている。自分を一般の朝鮮人よりも高い位地に置いているのである。  このような設定は、重行が鎖された世界に生きているうちは、有効に作用した。重行はたった一人取り残された叔父の家で高熱を出しながら、自分が敬愛する禅僧たちには病気になった事を告げず、ただ「春やすみに僧堂にのぼる」とだけ書き送る。「こんな生きかたが、後年どれほど他人から誤解されたことだろう。私が、泣言ばかりならべる人間を唾棄《だき》するようになったのは、いたしかたのないことであった」と彼が言うとき、作者好みの、血の矜《ほこ》りに支えられた「勁《つよ》い」人間が確かに見えて来る。  しかし、重行が成長して社会に直接に触れる年代にさしかかると、それだけでは済まされなくなる。気性の激しい混血の青年が“皇民”として課される兵役の義務をどう受け止めたか、日本の敗戦、朝鮮の独立回復という事態に遭って、彼が何を考え、どう身を処したかが、当然明《あ》からめられなくてはならない。敗戦直後に命を断たれた石見太郎や吉野宋純とは違って、国東重行は生きて行くからである。更には、父方の祖父が所有した「広大な領地」の戦後の行方や、母方の祖父の商売の盛衰も、無視するわけには行くまい。朝鮮における生活基盤の有る無しは、重行の朝鮮に戻るか、日本に残るかの選択に影響を与えるだろうからである。「混血の貴族の子」という設定に沿って物語を進めるなら、必然的にそうなって、〈自伝〉と〈小説〉との間の亀裂が深まるのを免れない。  自伝的事実に虚構を織込むのは、もともと極めて難しい。悪くすれば、事実を隠蔽、或いは美化する目的で虚構を作り上げるような陥穽《かんせい》に嵌《はま》り兼ねない。立原正秋はそれを承知の上で、苦難の多かった自身の精神の足跡を隈取り鮮やかに描くのには、虚構が必須だと考えたのかも知れないが、主人公の出自と境遇をあまりに大きく変えてしまったために、伴侶を得て自覚的に日本人になる道を選び取った一青年の内面の劇には、筆が及び難くなったのではなかったろうか。当初は三千枚の長篇になる予定だったこの作品が、構想を練り直し、一たん書き上げたものを削りに削って「四百枚たらずの作品になったのに作者はしごく満足している」と、跋には書かれている。「作品は削れば削るほど良くなるんだ」とは、彼が初対面のころの私に口を酸《す》くして言った事であり、彼の美学だったには違いないが、「冬のかたみに」に限っては、削って仕上げた結果に、彼自身が「しごく満足」したかどうか、私は疑問を持つ。十年間の空白を埋める作品の完成を、やがて果さなくてはならぬ課題として彼が意識していたと考える方が、むしろ自然ではないか。彼は死の直前に、「あと三つ書きたいものがある」と洩《も》らしたそうだが、そのなかに空白の十年を主題にした作品があったかどうか。あったと信じたい気に私はなっている。  日本人として生きようと決心した前後の光景は、「建覚寺山門前」にも断片的な形では出て来る。重行は終戦前年の秋に「無量寺に還るべきか、それとも、すでに棲《す》みついてしまった日本の古典の世界にとどまるべきか」で岐路に立ち、「戦争が終ったとき後の道をえらんだ」ものの、「迷いはまだつづいて」いる。彼が建覚寺に参禅するのは「自分にけりをつけ」るためである。子供が生れる一と月ばかり前、彼は朝鮮の学校で同級生だった秦《しん》光輝を自宅へ招《よ》ぶ。祖国の農業の近代化に尽すために近く帰国をする秦は、「日本人としてやって行くつもりかい」と重行に問いかける。「このままで行けば、そういうことになるな。無量寺には戻れそうもない」と重行は答える。二人は昼過ぎから夜の八時まで語り合うのだが、その内容は明かされない。  終戦当時日本に在留した朝鮮人は、二百三十六万五千二百六十三人であったとする内務省警保局の調査資料がある。朴慶植著「解放後在日朝鮮人運動史」によると、一九四五年八月十五日の〈光復〉を迎えたのち、祖国へ帰ろうとする人びとは、山口県の下関と仙崎、福岡県博多の各港へ殺到した。旅館は人で溢れ、倉庫や急造のバラック、馬小舎までを宿舎に当ててもまだ足りず、幾日も野宿する人もあって、多数の病人や死者が出たというから、すさまじい混雑ぶりが察しられる。人が集っても、肝腎の帰還船がいつ出航するか、まるで見当がつかなかった。日本政府が責任ある対策を立てるのを怠ったせいである。仕方なく日本人から漁船を買って玄界灘へ漕ぎ出し、颱風《たいふう》に遭ったり機雷に触れたりして、命を落した人も尠くなかった。これほどの困難を乗切って自力で帰国した朝鮮人は、一九四六年四月末で六十万人に達した。日本政府は一九四五年十一月、占領軍司令部の指示に従って遅ればせながら計画輸送を始め、これによって四六年十月までに、八十万人の朝鮮人が故国へ帰って行った。  在日朝鮮人の民族的権利を主張する運動も、八月十五日直後から各地で活溌となった。一九四五年十月十五日に、現在の在日本朝鮮人総連合会の前身に当る在日本朝鮮人連盟が、一月遅れて十一月十六日には、在日本大韓民国居留民団につながる朝鮮建国促進青年同盟が、それぞれ発足している。左右二派に別れてしばしば抗争もあった。その渦のなかには、建国青年同盟の一員として、米本正秋と横須賀商業時代に親しかった金松坤氏もいたのである。  秦光輝が帰国の意志を固めた背景には、これだけの社会の動きがあった。若い日の作者自身もそれに無関心ではいられなかった筈だが、「建覚寺山門前」の作品世界に、社会情勢の反映は無い。国東重行は政治嫌いである。秦光輝と同じく故国へ帰るもう一人の朝鮮人学生権寧変も、ちらと姿を見せただけで消えて行く。すべては重行の心の裡で始末されて、外部からは窺い知れない。  重行に「けりをつけ」させたのは、坐禅ではなく、長男の誕生であった。一貫二百匁《め》もある大きな赤ん坊が生れるのを境に、作品の色調は変る。明るくなる。そこから僅か二十頁弱の間に、「妻と子のために生きなくてはならない」という言葉が四回も繰返される。梅雨に入るころ、生後一箇月経った子供を抱いて実家から戻った妻を迎えた彼は、「なかから噴きあがってくる歓び」に促されて、雨の中を御馳走の鶏をつぶしてもらいに出掛ける。「すべてがいずれは無常に帰するにしても、幼いいのちと、そのいのちをつくった女のために、私は生きなければならなかった」。 〈新生〉の歓びが素直に、切なく歌い上げられている。実生活での作者は、光代さんの言葉を藉《か》りれば、「どんな場合にも、家族を絶対に忘れない人」であった。 「あの人は家族が生き甲斐だったと言ったら、可笑しいでしょうか。家族にへばりついているみたいでした。寂しい人でした。家族以外に心を打明ける相手がいなかったんでしょう。だからこそあたしに怒ったり、悪態ついたりしたんですね。あたしに“当る”なんていうものじゃありません。なんでこの人はこんな風にしなくちゃならないのかと思ったくらいです。気に入らないとお膳《ぜん》を引繰り返したりするのは年中でした。でも、激情が去ったあとは、本当に素直になって優しいんです。ちゃんと解っていて自分を抑えられないんですね。可哀相な人だと思いました」  寂しい人、可哀相な人、と世間に流布《るふ》した勁い男のイメージにおよそそぐわない実態を、夫人の口から知らされるのは意外であったが、長い間肉親の愛情に恵まれず、父の記憶以外に愛情を注ぐ対象を持てなかった彼は、従順な伴侶を得て、それまでの渇きを一どきに癒《いや》すように、甘えと我儘の限りを尽したのかも知れない。やる事のすべてが単純で、直截で、迂路《うろ》を経て目的を達するだけの我慢が、彼には出来なかった。料理に箸をつけてみて、美味しいものがあると、これは旨いからお前が食べろ、と夫人の皿に移してやるような心遣いをする半面で、身勝手な独占欲は並外れて強かった。近所へ買物に出掛けても、戻る時間が予定より十分も遅れれば、機嫌が斜めになるだけでは納まらず、悪くすれば平手打ちを食わされるのだから、夫人はいつも脇目もふらず、小走りに町を歩かなくてはならなかった。結婚生活三十二年の間に、最晩年の入院生活の期間を除いて、夫人が一人で東京へ出た事は、たった二度しかなかったというのだから、尋常ではない。それでも夫人は耐えた。 「立原との生活は忍の一字でしたね、我慢に尽きますね。我慢をしなくてはあの人とは住めないです。あたしだって人間ですから、いらいらして表へ出たいと思った事もありました。でも、出てみても虚しいんです。やっぱりどこかあの人に魅かれていたのでしょうか。正直な人なんです。生活していて刺戟がありました。朝起きて来て、あ、今日はお前さん、とっても綺麗だよ、なんて言うんです。そんな言葉が素直に出て、可笑しくも厭らしくもないのは、媚びているんじゃないからでしょう。そういう風だから、一緒にいられたのかなあと思います」  話がここまで来れば、他人がしたりげな解釈を挿し挟む余地は無く、類稀《たぐいま》れな夫婦の関係だったと感嘆するしかない。興津要氏は、立原正秋が死ぬ一年前の秋、夫人と一緒に銀座の洋品店でシャツを選んでいるのを見かけて、琴瑟《きんしつ》相和したいい夫婦になったな、と感じたという。  長男の潮さんを「俺はきびしく躾けた」と、立原正秋は私たちに自慢をした。潮さん自身も父の死後、「二十歳を過ぎるまでは手をあげられてましたよ」と言っていた。しかしそれも夫人によれば「表面はきびしいようでも芯《しん》のところでは甘かったです。それでいて気に入らない事があると、お前が甘いからだ、とあたしのせいにする」という事になる。男の子はきびしく育てる、という建て前をなかなか貫けないのを、夫人に見抜かれていたわけだろう。  潮さんは、父親に瓜二つの風貌である。若い時分には特によく似ていた。あれは鵠沼海岸に仮住居をしていたときだったか、約束の時間に遅れた私が、薄暗がりの道を急いで歩いていると、直ぐ向うの角から立原正秋が現れた。咄嗟《とつさ》に私は、せっかちの彼が待ち兼ねて迎えに出て来たのかと思って、「すみません、遅くなって」と大きな声を挙げた。すると相手は、何だか間の悪そうな様子で立止った。近づいてみると、それは潮さんなのであった。家に入って早速その話をすると、立原正秋は「兄弟と間違えられるのはしょっちゅうだよ」と、心から嬉しそうに口を明いて笑った。彼がこんなにも無邪気に父親の顔を曝すのか、と私は実に意外であった。  潮さんより五年遅れて生れた長女幹さんに対する溺愛ぶりは、小説家仲間や編集者の間で、しばしば面白ずくの話の種となった。娘をグリーン車で通学させているとか、娘の学校からの帰りが遅過ぎる、と教員室へ文句をつけに乗込んだとか、娘に吼えかかった犬を木刀で殴り殺したとか、真偽のさだかでない噂が飛び交った。弁慶の泣きどころを捜し出して快哉を叫ぶのは、立原流に言えば〈下衆〉かも知れないが、大抵の人間が持ち合せている趣味でもある。  しかし、この種のゴシップを根拠に、簡単に〈溺愛〉と片付けてしまうのでは、幹さんは心外であろう。父親の死後五年が経った一九八五年に、幹さんは「父からの、形のあるものもないものも、私にはひとつひとつが、大切すぎるほど大切なものになっている」という想いを籠めて、回想記「風のように光のように」を出版した。調子高く張り詰めた文章で書かれたこの本からは、ただ一節を引くだけで、これもまた類稀れな父娘《おやこ》の在りようが知れる。二十歳に近い娘を、父親はまだ「ねんね」と呼ぶのである。  生前父は、私が花をどんなにたくさん求めても、決して怒らなかった。五十本でも百本でも水仙を買ってきたり、鉄線花が店先に見えれば、買わずにいられず、お店にあるありったけの鉄線花を買い、抱えて家にもどったこともあった。  父は言った。  ——ねんねがこの家にいるうちは、こういうことをしてもいい。でも他家《そと》の人になったら、これはしてはいけないよ。  ——わかっているわ。一本の花も百本の花も違わないこと、私知っているわ。  ——それならば、花はいくら買ってもいい。  そして、そのたくさん買ってきた花を、父と私とで、白磁の大壺やら、小さい壺にまで活け、「立原流ね」と言って、ふたりでひどく満足するのが、いつもだった。  ——どこかのサイケ流とは違うわね。  そう言って、家のいたるところに置かれた花が生きるのを見た。 「サイケ流」とはサイケデリックのもじりであり、父娘が共に気に入らない人工的な活け方をする流派を諷《ふう》している。ここでは娘が、父の作品中の一人物になり切っているように見えないだろうか。  立原正秋の再起がおぼつかないと伝えられたころ、私は新潮社の坂本忠雄氏と一緒に、国立がんセンターの病室を訪ねた。僅か二十五分の対面に過ぎなかったが、その間幹さんは部屋の隅の椅子に腰掛け、瞳を凝らして私たちをみつめていた。病む父を守らなければならない、と思い定めた人の眼であった。私たちが別れを告げると、幹さんはほっとした表情を露わにして立上った。私たちが邪魔な闖入者《ちんにゆうしや》と目されたとしても不思議ではなく、私はそれを不当だとは思わない。  立原正秋が、世の小心な亭主のような形で家族に忠実であったわけではない。妻子を置去りにして女の所へ往ったきりになってしまっていた期間は長かったし、身辺に別の女の影が見え隠れした時期もあった。それでも、家族を全く忘れ果てる事は、彼には出来なかった。初期の小説「嫉妬」の主人公は、一銭の稼ぎもなく、海岸町に住む妻子と東京の愛人との間を気ままに往復している男だが、愛人の家にいて夕方になると、必ずそれまで鳴っていたラジオを消す。その時間に流れる子供番組が堪えられないのである。嫉妬に駆られた女が、あなたの大切な子供を毀《こわ》してやる、と口走ったとき、男はいつになく真剣に、それだけはよしてくれ、と止める。そして少しずつ女から遠ざかる。横暴な男が身の内に抱く疚《やま》しさと寂しさが滲み出たような一節である。  立原正秋は家長として常に支配的に振舞ったが、その実は家族によって生かされていたとも言える。「この広大無辺の面積のなかでは/小さな粒子でしかない/おまへらが/私には/なんとやさしい存在だらう」と、若書きの詩を、それから二十七年後の「建覚寺山門前」に取込むために書き写しながら、彼は「やさしい存在」の重みを、改めて思い返したに違いない。  長男誕生の翌々年の秋、米本正秋一家は鎌倉市大町二一二四番地へ引越した。鎌倉駅から歩いて十五分の所にある家の、二階の二間を借りたのである。かつての軍都横須賀から古都鎌倉へ。この移転は彼の志向を暗示しているようでもある。「無頼な生き方をしながら古典に沈潜する日々」が始まった。 五章 文学的出発  丹羽文雄氏が主宰する雑誌〈文学者〉の一九五一年十月号に、立原正秋の短篇「晩夏 或は別れの曲」が載った。彼の作品が活字になった最初である。内容は湘南の海岸を背景にした青年と人妻の悲劇に終る恋物語であった。彼はその前後、早稲田につながる縁で〈文学者〉の会員となっていた。 〈立原正秋〉の筆名を初めて用いたのもこの時であった。筆名の由来ははっきりとしない。いつだったか私が訊いてみたら、親戚にそういう名の家があったんだ、というような答が返って来たが、何だか気乗りのしない口振りであった。光代夫人に確かめたところでは、立原を名乗る親戚はない。詮索されるのが煩わしくて、咄嗟にそんな返事をしたのであろう。  小説を発表するようになってからの彼は、〈立原〉を単に筆名としてだけではなく、実名同様に使った。私にも思い出がある。私たちが識合った直後は、彼の家にまだ電話が無く、近所の家へかけて呼出してもらわなくてはならなかった。最初に電話をしたとき、私は気を利かしたつもりで、「米本さんのお宅をお願いします」と言ったら相手に通じず、「立原さん」と言い直してやっと用が足りた。あとでその話をすると、「米本じゃ解りませんよ。ぼくは立原です」と当然のように彼は言った。後になって知った事だが、彼は〈立原〉を本姓とする意志をかなり早くから持っていて、それに必要な手続を調べてみたが、あまりに煩雑なのに腹を立てて一たんは諦めてしまった。長年の希望の実現は、彼の死の二箇月前まで待たなくてはならなかった。 「晩夏 或は別れの曲」は、人物の性格づけに彼の特色が早くも現れてはいるが、後年彼自身が言ったように「甘い作品」で、誌面の扱いも小さく、まったく注目されなかった。実質的な彼の処女作は、それから五年後の一九五六年、〈近代文学〉の八月号と九月号に分載された「セールスマン・津田順一」である。本多秋五氏のこの年五月七日の日記に、「立原君という平野を知っている鎌倉の人がきて、原稿をおいて行った」とあるという。戦後間もなく藤沢市の自宅を訪ねて近付きを得た平野謙氏の指示で、まだ面識のない本多氏のもとへ原稿を持込んだのだったろう。五月に預けた作品が八月号に載ったのはすこぶる順調な経過で、〈近代文学〉同人が作者の力倆を異議なく認めた事を示している。  この小説は、病院や町の薬局に薬品を売込むセールスマンの話である。主人公の津田順一は、有名な私立大学の歴史学科を出ている。いつも莨《たばこ》を横っちょにくわえて、誰の前でも横柄な態度を崩さず、時どき妙な笑いを泛べる癖がある。彼は勤める問屋が社長の無能のおかげで左前になったのにつけ込み、十七、八万円もの金を着服して平然としている。「他人の金を踏み倒すのが良いか悪いかは別として、ぼくは生きて行かねばならない。どだい他人を踏み台にせんで、生きて行けるかね……」というのが、彼の人生観である。最後に彼は、無断で倉庫から薬品を持ち出して売捌《うりさば》き、とうとう社長を破滅させる。  しかし、絶対の強者として振舞う半面で、津田は内心に寂しさを抱えている。彼はしばしば汚い露地の中にある豚の耳を売る店へ酒を飲みに出掛けるのだが、「まだ明るいうちから酔いを求め豚の耳をかじっていると、津田はいつもさびしくなった。しかし、彼はうらぶれ果てた雰囲気に浸ることで安定感を求めた」と書かれた一節がある。彼には養わなくてはならぬ女房と二人の子供がいるのである。寂しさは、前途に光の見えない生活から滲み出すものだろう。彼には生きる歓びがない。孤独がもたらす鬱屈した感情が、過度の攻撃性となって現れているようでもある。それは若しかすると、〈無頼〉の時代の作者の息苦しい精神生活の、直接の反映かも知れなかった。  一九五四年の四月から九月にかけて、立原正秋は藤沢市の薬品会社にセールスマンとして勤めた。「セールスマン・津田順一」はその体験を土台としたものだが、僅か半年で辞めてしまったのは、思うような収入が得られなかったからだろうか。  薬品ばかりでなく、ほかの物のセールスも彼は手がけた。本多秋五氏の夫人は、黄色い表紙の「新スタンダード英和辞典」を大事に持っている。その辞書には奥付が無い。大修館書店のセールスマンをしていた立原正秋が、これは売り物にならないから、お子さんにあげて下さい、と言って置いて行ったのを、夫人は今も重宝に使っているのである。大修館のセールスはしばらく続けたらしい。早稲田の同級生の弟が教師をしている高校へ、辞書のカタログを持って現れた事もあった。  本多夫人と初めて顔を合せたときも、化粧品を売りに行ったのであった。 「秋五の留守にお見えになったんです。化粧品を持って」  と本多夫人は私に言った。 「でも、そのころ家は貧乏のどん底の時代で、私は化粧品を買うなんて考えてもいなかったので、お断りしましたけど」  立原正秋がどんな顔をして、客の前に化粧品の見本を拡げたか、私にはとても想像がつかない。セールスマンは客の歓心を買うために、時には膝を屈し、愛想の一つも言わなくてはなるまい。私は彼が卑屈になったとは決して思わないが、津田順一のように周囲を睥睨《へいげい》して生きたとも思えない。  鎌倉へ移ってから「セールスマン・津田順一」を発表するまでの五年余り、彼の生活は荒れていた。束縛される事、命令される事の何より嫌いな彼は、会社勤めにまったく向いていなかったし、仮に望んだとしても、簡単に職が見付かる時代ではなかった。手取り早く金を稼ぐために、彼が先ず始めたのは闇屋であった。洋服生地やカメラ、万年筆、アメリカ製の煙草などを扱って、かなりいい儲けがあった。ドル買いまでもやったという。しかし、物資が潤沢に出廻り、流通秩序が回復して来れば、もう零細な闇屋商売は成り立たない。朝鮮動乱の特需によって景気が立直った時分から、彼は家にいて本を読み、発表の当てのない原稿を書く時間が長くなった。そして生活費が底をつくと外へ出て行き、なにがしかの金を持ち帰った。その金の出所がどこなのか、光代さんは知らなかった。 〈犀〉をやっていた頃、立原正秋は「俺はむかし麻雀で食っていたんだ」と盛んに吹聴《ふいちよう》した。「まともな勝負をしたんじゃ儲かるわけがない。いんちき麻雀だよ」。どこかの有閑夫人をいためつけて、財布が空になるまで絞り上げ、それでも足りない分は「身体で払わせた」なんて、悪漢小説もどきの話もあった。そんなときの彼の表情はいかにも、どうだ、お前たちには真似が出来ないだろう、というような稚気にあふれていたので、誰もがこれは法螺《ほら》話だと承知の上で、面白がって聞いていた。  彼が麻雀をやったのは事実である。のめり込んだ時期もあったかも知れないが、いんちきを仕掛けて金を捲《ま》き上げるほどの腕前からは遥かに遠かった。金井正徳氏によれば「兄貴の麻雀なんか、下手くそで見ていられなかった」のである。性格を剥き出しにした強気一点張りの麻雀で、金井氏が背後から助言をしても諾《き》かずに、負けが込んだものらしい。  弟に金を用立ててもらう事も重なった。しかもその金を生活費に当てるのでは必ずしもなかった。金を借りたその足でバアへ入り、弟には内緒にしとけよ、と言いながら高い酒を飲む。おまけに残った金で珈琲や上等の肉を買い込み、結局家へ入れる金は殆どなくなってしまう。「あれには腹が立った。兄貴は異端者なんだと思った」と金井氏が今更ながら言うのも、無理からぬところだろう。  鎌倉小町に住む日本刺繍家の秋山光男氏は、駅前の飲み屋街でたまたま識合った十歳も年下の立原正秋が、書画骨董や織物、料理などについての知識が豊富なのに愕いた。秋山氏自身も同じような趣味を持っていたから話が合い、やがて自宅へ誘って飲むようになった。立原正秋の暮しが苦しいのは直ぐに判った。牛乳の拡張員をやっているので牛乳を取って呉れないか、闇の砂糖が手に入ったから買わないか、といった風に何度も持ちかけられたからである。頼みには応じたものの、綱渡りの生活の危かしさを見兼ねた秋山氏は、或るとき夜通し酒を飲み、もっと売れるものを書いて、奥さんに楽をさせてやったらどうか、と忠告した。立原正秋はむきになって反撥した。俺は大衆小説を書いたら明日にでも日本一になれる、しかしそこを我慢して純文学の大家になるつもりでやっているんだ、というのであった。そして翌る日、俺の目指す純文学はこういうものだ、と分厚い原稿を持って来た。文学に興味のない秋山氏は、こんな難しいものは読めないから、と二、三日預っただけで返却したが、立原正秋が文学に賭ける意地の強さには感嘆した、と回想している。  一九五二年の九月、横須賀の野村家の人たちが、金井正徳氏に連れられて、鎌倉市小町四七一番地へ移って来た。「小町の家には、木の門があり、門から玄関までは十五、六段ほどの広い石階段で、かなりの距離がありました。この石段の両側には、みごとな躑躅《つつじ》が植えられ、季節になると、傍を通っただけで花の香りがしました。庭には、芝生が敷きつめられ、松、梅、椿、南天、山吹などの多くの木があり、貸家ながら広い庭でした」と「追想」にあるこの家は、朝鮮特需で多額の金を手にした金井氏が借りたものであった。立原一家はその二階の八畳と六畳の二間に同居をした。そして翌る年の四月十九日、長女幹さんが生れた。「竹から生れたかぐや姫のごとく美しくなれ」という若い父親らしい願いをこめて、笙子《しようこ》と命名するつもりだったが、笙の字が人名漢字にないため市役所で受付けられず、たまたま市役所の近くにあった幹の太い老樹を眼にしたのが印象深く、幹と名付けたという。  そのころ鎌倉に若い作家や画家の集る〈日《ひ》の会〉があった。鎌倉市役所観光課に勤める池田克己氏が肝煎《きもい》りをして作った会で、市から若干の補助金を得て、時どき会合を開いていた。立原正秋もそれに参加して、親しく付合う友人が何人か出来た。アメリカ文学専攻の高田邦男、俳優の松下達夫、画家小池巌、小説家小田仁二郎らの名が挙げられる。  この人たちは、小町の家へよく訪ねて来た。顔を合せれば芸術論を闘わすのが、当時の芸術家志望の青年たちの習いであった。酒が入れば、議論はしばしば留《と》め処《ど》がなくなる。果てしない二階の騒がしさに、金井正徳氏が癇癪を起して、静かにしろ、と呶鳴った事もあったそうだから、よほど意気が上っていたのだろう。夜更けになって、泊り込んだ男の高鼾が階下まで聞えて来たりした。  長女が生れ、語り合う仲間も出来て、小町の生活は経済的には不安定ながら、一応の落着きを得たように見えた。ところが、住んでまだ一年も経たない一九五三年の六月、立原正秋はまったく唐突に、吉祥寺へ引越すのだと宣言し、家族をせき立てた。一たん言い出したら、彼は絶対に後へ退《ひ》かない。光代さんはわけを訊く暇も与えられず、鎌倉から東京を横切って武蔵野まで、彼に蹤いて行かなくてはならなかった。  この突然の移転の、本当の理由は明らかでない。彼自身は、藤沢の飲み屋で刺身包丁と匕首《あいくち》を握った二人のやくざと果し合いをやって、木刀で一人の肩胛骨《けんこうこつ》を割り、もう一人の肋骨《ろつこつ》を数本折ってしまったばかりに、やくざ仲間からつけ狙われ、妻子に危険が及ぶのを案じて武蔵野まで落ちて行ったのだ、と威勢のいい話を周りの者に聞かせていたようだが、これはいんちき麻雀の件と同じく、作り話の可能性が強い。一緒に暮していた光代さんが、そんな喧嘩のあった気配を感じていないからである。また彼は、十箇月を武蔵野に住んだのち、再び小町の家へ戻って、藤沢の薬問屋のセールスマンとなるのだが、これも藤沢のやくざに狙われている人間としては、不自然な行動と思える。光代さんは、収入の一定しない彼が、稼ぎ手の弟に負い目を覚えて、一緒の家に住み難《にく》くなったのではないか、と推測している。金井正徳氏の話と併せて考えても、恐らくそうであろう。年齢に二つしか差がなく、互いに気性が激しい上に、価値観がまるで違う兄弟だから、売り言葉に買い言葉の険しい諍いがあったとしても、不思議ではない。  一九五○年代の吉祥寺は、住宅が少しずつ増えてはいたものの、駅附近の町並みを出外れれば、麦畑が平らに拡がり、春先の風の吹く季節には、畑から舞い上った赤土が空を覆って、辺りを昏《くら》くするような土地であった。私は長く吉祥寺の学校へ通っていたので、その風景をよく知っている。  一家が落着いたのは、武蔵野市吉祥寺一九六○番地、現在の東急百貨店の南側の道を少し西へ入った所にある藁葺《わらぶき》屋根の農家であった。私の記憶によれば、その時分のその附近では、藁葺屋根は滅多に見られなかった。周囲の家がすべて建替った中に、老朽した農家が一軒だけ取り残されていたのではなかったろうか。その一軒に三世帯もが雑居して、土間と炊事場を共同で使うのだから、生後二箇月の乳呑児《ちのみご》を抱えた一家の暮しの辛さ、煩わしさはおよそ想像がつく。  悪い事に、住みついて十日も経つと梅雨に入った。手入れの行届かない藁屋根は雨漏りが甚しく、バケツや洗面器、それに鍋まで持ち出して雨を受けても、まだ足りなかった。子供の健康を考えれば、そんな家に長く腰を据えるわけには行かず、二十日ばかり住んだだけで、一家は更に辺鄙《へんぴ》な三鷹市関前のアパートへ越した。「赤土ばかりの原っぱの中のアパートを見た時は、体じゅうの力がぬけてしまいました」と光代さんは書いている。  小町の家を出るときには、いくらかの金を持っていたが、真夏を迎えるころにはそれも費《つか》い果して、生活は窮乏した。ろくな物が食べられなかったせいで、光代さんは眼に異常を来たした。昼の明るいうちは眩しくて、眼を明けていられなくなったのである。幹さんが、母乳を飲んでいる間は罹《かか》らないと言われる百日咳に罹ったのも、やはり栄養不良が原因だったろう。  そうした「破戒」執筆中の島崎藤村一家と似たような状態に陥っても、立原正秋は職を探さず、読書と原稿書きに明け暮れていた。苦境を脱するには、小説家として認められるしかない、と思い定めていたのかも知れない。早稲田の文学部事務所に勤める井上孝氏に連れられて、近くの西久保に住む丹羽文雄氏を訪問したのはこの頃だが、丹羽邸に出入りする文学青年たちと肌が合わず、丹羽氏との間に親密な関係が生じるには至らなかった。  秋に入って、光代さんは娘を連れて横須賀の実家へ行き、一晩だけ泊った。心して愚痴はこぼさなかったが、母親は敏感に困っているのを察したらしく、数日後には、子供のための綿入れそのほか、細ごまとした物を持って、はるばる三鷹を訪ねて来た。それからしばらくすると、今度は鎌倉の両親が一斗の米を担《かつ》いでやって来た。音子さんは子供たちの様子をみて、これではあんまり可哀相だから、上の子を小町へ連れて帰る、と言い出した。立原正秋も敢えて反対はしなかった。彼は前以て両親に窮状を打明けていたのかも知れない。別れ際に音子さんは、「あなたたちも早くここを片付けて、小町へ引揚げておいで」と、光代さんにそっと囁いた。こんな一幕もあって、翌年の三月には、一家は再び小町の家へ戻った。  親や弟に助けられるのは、施しを受けるのとは違うが、意地の強い立原正秋にとっては、やはり屈辱であったに違いない。小町に戻って直ぐ、セールスマンとなったのは、武蔵野の十箇月間に収入のない惨めさが骨身に染みたからだろう。  薬のセールスマンは半年で辞めたが、そのあと彼は鎌倉市大町の町内会の夜警員となった。夜八時過ぎに弁当を持って詰所へ出掛け、毎晩決った道を、尖端に鋼の輪を巻き付けた鉄棒をついて巡回する仕事である。その経験を背景にした小説「夜の仲間」には、「片手で電灯を照らし、片手で一貫二百匁の鉄棒を調子をとってならしながら歩くのは、はじめのうちは重労働であった。鉄棒の先で足の甲やくるぶしを勢いよく突いたり、鉄棒の輪に親ゆびと人指ゆびとのあいだの皮をまきこまれて裂いたりした」とある。しかしこの仕事は意外に彼の性に合って、足かけ三年間も続いた。他人に頭を下げる必要がないのが気楽だったし、昼の時間を原稿書くのに使えるのが好都合でもあった。世の中を上手に渡って行けない者が集ったような夜警員仲間との付合いも、別世界を覗き見る興味があったらしい。尤も「夜の仲間」を収めた初期作品集のあとがきには、「私が夜警員をやったのは昭和三十年頃でした。学校時代の仲間はすでに一家を構え、芝生つきの家に棲み、私はそれらの家の前を鉄棒を鳴らして深夜の街を歩いた記憶があります。私にとっては愉快な季節でしたが、学友には不愉快な季節だったらしいので、このことを誌しておきます」と、屈折した心情を窺わせる一節がある。彼は三十歳に近づいていた。  このような苦闘の中からようやく生み出されたのが、「セールスマン・津田順一」なのであった。本多秋五氏はのちに「この時期の作者は、無名であったのはもちろん、私がその片鱗《へんりん》を窺いえたところから推すと、生活的にも破綻だらけで、ただわずかに気性の烈しさだけによって八方からの抵抗をおしわけてすすむといった状態であったらしく、それは作品の性質にもあらわれていると思う」と評した。作者の人柄と文学の骨格をよく見透した人の言という印象を受ける。  この作品が世に出た事に鼓舞されたのか、立原正秋は一九五六年の十二月、高田邦男氏ら十人の仲間とかたらって、同人雑誌〈近代〉を創刊した。六十頁で定価六十円の薄い雑誌である。題号の〈近代〉は、〈近代文学〉を念頭に置き、それと同じような自分たちの場を作る意図を示しているだろう。彼は編集の一切を取り仕切り、「イエスとユダについて」を発表した。このエッセイは翌年二月号の〈文学界〉同人雑誌評で久保田正文氏が取上げ、「渋滞のない思考と、奔放なレトリックと、説得力のあるパラドックスできわだったエッセイである」と賞揚した。 バイブルを詩的に冒涜することによってのみ到達しうるヴァリエーションともいうべき現代的な快感をしばらくぶりにたのしむことができた。芥川龍之介のことは、たぶん作者も充分意識しているらしいふしぶしがみえるが、「ユダの裏切を除いたイエスの存在は認めない」とする立原の論理はよく通っていて、「西方の人」の思考の影響を、衰弱としてではなしに反映しうる可能性を示している。 「バイブルを詩的に冒涜」という評言に、立原正秋は我が意を得たと秘かに頷いただろうか。イエスを「一流の文化人であると同時にジャーナリストであった」とする観念を芥川龍之介から承継《うけつ》ぎながら、ユダを「後世にも類例のないすぐれた合理主義者」と解釈して、「如何なる既成の価値にも支えられず、また進むべき道を明示するものもいない、外部からの助言に頼らずに自己の運命をきりひらいて行かねばならなくなった場合、その人間はイエスからユダになり得るし、ユダからイエスになり得ることはないだろうか。つまり善と悪とが密接な関係をもつようになるのだ」と問いかけたあたりに、世間から異端者と目される生活を送り、孤立無援の中で聖書を読んで来た彼の面目があろう。 〈近代〉の創刊号を出して間もなく、彼は夜警員を辞めた。発表した作品に手応えがあったため、仕事に没頭する時間がもっと欲しくなったのである。もう少しで世に出られる、と意気込んで筆を運ぶ姿が想像される。立原正秋は姿勢がよかった。背筋を直線に伸ばし、首だけをやや俯《うつむ》けて机に向った。その原稿には、書込みや抹消は極めて尠かった。  後年の彼は、「私が作家としての動かぬ場をつくったとき」という風な言い廻しを好んで用いたが、それを最初に意識したのはこの時期であったろう。しかし、私生活は平穏とは程遠かった。経済的不安定に加えて、後のちまで尾を曳く女性との関係が生じて来るのである。  一九五七年の夏の頃から、彼は時どき家を空けるようになった。光代さんは当然不審を覚えたが、面と向って問い訊《ただ》す事は出来なかった。もともと彼の行き先や帰宅時間は訊かない習慣であったし、あらゆる反対を押切って一緒になった人を疑いたくない、との想いも強かった。だが、一年と経たぬうちに、彼の外泊はますます頻繁になり、夜更けに娘が寝静まるのを見定めてから黙って出て行き、一週間も帰って来ない事が重なった。一九五八年の秋、小説「他人の自由」が本多秋五氏の推輓《すいばん》により〈群像〉に掲載されると決ったときに、彼の居場所が把めず、夫人が編集長から叱責されたという笑えない逸話がある。「他人の自由」は、女の家で書き上げて、編集部へ持参したのであった。  相手の女性は銀座のバアに出ていた。バーテンのほかにアルバイトの女子学生を一人使っているだけの小さなバアである。経営者は別にいて、彼女はいわゆる雇われマダムであった。中原淳一の絵のように細い身体つきで、影の薄い感じの人、というのがのちに顔を合せた光代さんの印象である。小説「愛する人達」のなかで、彼女をモデルにした人物に、作者は〈瀬戸泰子《せとやすこ》〉の名を与えている。理由があって私もこの人の実名は誌さない。〈瀬戸泰子〉で通す事にする。  立原正秋から直接話を聴いた武田勝彦氏によると、二人が初めて深い仲になったのは、「十一月にしては珍しく冷え込みの烈しい夜」であった。男に求められた女は、それを待っていたように男の手を取り、日比谷から都電に乗って、早稲田の大学裏にある自分の下宿へ連れて行く。人目に立つのを惧《おそ》れて、男は窓から入り込んだ。その日から男は、自宅と女の部屋を往き来して日を過すようになった。二人が世田ヶ谷の弦巻《つるまき》に家を借りて同棲するまでに時間はかからなかった。  二人が棲む家を男の妻が捜し当てて訪ねる場面が「愛する人達」にある。窓に背中をよせかけた男の上半身が見え、こんな声が妻の耳を搏《う》つ。 「ヤッちゃん、このパンはすこし固いな。どこのパン屋だね」  女は、あなたが幾日も帰って来ないからパンだって固くなる、と応じるのだが、この在りふれた遣取りが、二人の営む日常の雰囲気をよく伝えている。  かなり遅れて事実を知ってからも、光代さんは夫に接する態度を意識して変えなかった。彼が戻って来ればにこやかに迎え、夜更けに出て行くときは、路地を遠ざかる靴音を黙って聞いていた。そしてただ一つの事だけを要求した。戻った夫を直ぐには家へ上げず、玄関で洋服はむろん下着に至るまで、一切を脱がせるのである。夫は文句も言わずに服を脱いだ。ワイシャツや下着が綺麗に洗濯されているのを見て、光代さんは〈瀬戸泰子〉が家事をきちんとこなす女だと察したが、夫に向って、どんな女かとは決して訊ねなかった。現在の光代さんが「立原より私の方が強かった」と言うのは、こうした所を指すのであろう。  しかし、過度の心理的緊張は身体を傷《いた》めつけずにはおかない。一九五九年の夏が終るころ、光代さんは心臓に異常を感じた。外出先で不意に息が苦しくなり、立っていられなくなったのである。医師の診断は、心臓神経症であった。この年は、四月に幹さんが幼稚園へ通い始め、それから一箇月と経たぬうちに、義父の野村辰三さんが脳出血で倒れている。それ等にまつわるさまざまな心労も、病気の一因であったろう。  それより前に立原正秋は、弦巻の家の住所と呼出しの電話番号、それに地図まで書いて光代さんに渡し、「バスを降りて肉屋で聞けばわかる」とわざわざ付加えたという。何を考えてそんな事をしたのだろう。光代さんは「立原が私に訪ねて来いという意思表示をしたのではないか」、女と手を切りたくて切れず、「妻の私が乗り込んで行くことで、何かきっかけをつかもうとしていたのではないか」と書いている。私はその善意の推測を否定する根拠を持たないが、果してそうだったか、と首をかしげずにはいられない。女の家の所在を進んで明かすという常識外れのやり方の中に、既成事実を有無を言わせず妻に認めさせようとする意志が籠められていなかったか、どうか。私がそう疑いたくなるのは、「愛する人達」の主人公壬生《みぶ》七郎の、非情と言うよりは酷薄に近い性格に影響され過ぎたせいだろうか。  心臓神経症の診断を受けた日、不安に駆られた光代さんは、弦巻の家へ電話をかけて事情を訴えた。立原正秋はさすがにその夜は帰って来たが、光代さんの病状が差迫ったものではないのを知ると、これくらいの事で電話なんかかけるな、と怒り出した。彼流の甘えだったかも知れないが、光代さんは、二人の生活をこのままにしておいてはいけない、と強く思った。その事がやがて、弦巻の家へ乗り込む決心へつながって行く。 「愛する人達」の妻は、夫の愛人の家を二度訪ねている。初めは二人が朝食を食べているところへ現れて、夫を連れ帰る。二度目は二人が抱き合っている寝込みを襲って、蒲団を引き剥がし、「どろぼう!」と叫ぶのである。しかし実際にあったのは、そんな野次馬が嬉しがりそうな立廻りではなかった。光代さんの「追想」が弦巻へ行った日の一部始終を、緊張感のある筆つきで伝えている。十月の或る日の早朝、まだ薄暗いうちに光代さんは東京へ向った。十時前に弦巻に着き、教えられた通りに肉屋で道を訊いて、傍に大きな老木のある屋根の低い家の前に立つ。文中に〈A子さん〉とあるのが、〈瀬戸泰子〉の事である。  私は気持を鎮めて、「ごめん下さい」といいました。少しして、家の中で人の気配がして、立原が玄関から顔を見せました。立原が困っているのは百も承知でしたから、私は何も言わず立っていました。後になってから、立原がおもしろおかしく、二人が寝ている布団を私が剥がしたなどと作り話にして話していたようです。「入れ」と言われましたので、立話も出来ないと思い、中へ入りました。ガスストーブがついていて、机の上には辞書か本かが載っていました。原稿用紙もあったように思います。部屋の中はきれいに片付いていました。立原は座布団をすすめてくれましたが、私は座らずに畳の上に座りました。結局、二人でこうして座っても口に出す言葉もありません。立原にしてみれば、住所を私に渡したとはいえ、本当に来るとは思っていなかったのか、それともいずれはと予測していたのか、測り知れません。いずれにしても、朝早く、こうして訪ねてきたことが、立原は半分は驚きの気持でいたことは充分わかりました。  私と立原とA子さんと三人三様複雑な心境だったと思います。私は家に一度戻って下さいと言うので、精一杯でした。A子さんとは面と向かって会いませんでしたが、多分台所に入っていたのではないかと思います。ただちらっと見た記憶では、細いすらっとした人で、影の薄い人だという印象をうけました。立原と対座していたのは、五分ぐらいだったと思います。「すぐ行くから、バス停で待っていろ」と言いましたので、私は黙って外へ出ました。  バス停へ、立原が来るのかどうかわかりませんでしたが、三台だけバスを待ってみようと思いました。一台目の渋谷行のバスが行き、二台目のバスが来ました。立原が本当に帰る気があれば後からでも戻る筈だと思いました。  鎌倉と同じくらい静かな街でしたので、バスが行ってしまうと、静まり返り、これ以上待つのはやめようと思った矢先、立原が路地から現われました。二人とも鎌倉へつくまで、ほとんど口もききませんでした。私としては、子供が大きくなるにつれ、父親不在のままでは、精神的に何か影響を与えると思い、何としても家に帰ってもらいたい一心でしたので、一応自分のした行動に納得していました。  立原夫妻はその頃、鎌倉郊外の打越馬場ヶ谷二二○二番地の家に住んでいた。畑や田圃が拡がる中に、人家がまばらに散っているような土地である。長男は学校へ通う都合から小町の母の家に預けて、親娘三人の暮しであった。弦巻の事件のあと、光代さんの心臓発作は納まり、立原正秋は以前よりなお小説に打込む時間が長くなったが、〈瀬戸泰子〉との仲がまったく切れたわけではなかった。散歩に行くと家を出たまま、姿を消してしまったりした。外泊は十日に一度、更には月に一度とだんだん間遠になりながらも、二人の関係はまだ五年近く、「薪能」を発表するあたりまで続くのである。その間には打越から移った扇《おうぎ》ヶ谷《やつ》の家へ〈瀬戸泰子〉が訪ねて来た事もあった。男の足が遠退く不安に居たたまれなくなったのだろうが、光代さんは、子供がいるから、と言って家へ上げなかった。立原正秋は女を連れて外へ出て行ったが、小一時間経って一人で戻って来た。 〈瀬戸泰子〉との事件について、立原正秋は一九六八年に行なった吉行淳之介氏との対談で、珍しく素直に内心を打明けている。主な発言を拾うと以下のようになる。「結局、ひっぱる力は子どもですね。子どもがいなかったら、どうなっていたかわからない」「おやじはもううちに帰ってこないんだという、あきらめの感情みたいなものを、子どもたちに植えつけてしまったらしいんですね。ぼくがうちへ行って、出るときに子どもが『こんどいつ帰ってくるのか』といわないで、『もう帰るの。じゃこんどいつ来てくれるか』という。これは非常に響きましたね」。このころ、長男は小学校五年生である。「それでぼくは、これは帰らなきゃいかんということを考えた。決心してから帰るまでに、非常に歳月がかかったんですけど」。〈瀬戸泰子〉を諦めさせて手を切るのは、容易ではなかった。「完全にぼくがうちへ帰ったとわかったときに、もう片っ方のほうのいやがらせがまたすごかった。これにはほんとうに苦しみました」。家族に対しては当然ながら自責の念がある。尤も不思議な事に「女房」という言葉は一度も出て来ない。対象はもっぱら子供である。「ぼくは、いま思い返してみて、ひどいことをやったなと思う。ぼくがうちを出るときに、子どもが親の顔を見ない。じいっと下を見ている。その気持ちをわかっていながら、『そのうちまた来るよ』と軽い言葉をかけて出てくるんだけど、気持ちは軽くない。おれはいかん、これはうちへ帰らなくちゃいかん、と思いながら、やっぱり道はどんどん先へ行っちゃう。この自分の残酷さは、年がたたんとわからない。その年には、自分が残酷だとわかっていても、とにかく向こうにひとつ引力があるわけです。年月がたってみると、どうしておれはあのとき、あんな残酷なことができたんだろうという感じがする。それで自分をせめさいなむんだけど……どうもダメですね」。 「あなたには、家長という感じがあるんじゃないかな」と吉行氏に訊かれて、「ありますね」と立原正秋は応じている。ただしそれには留保があって、「ぼく自身は家長失格だと考えているんですよ。ところがうちではそう考えていなかった。やはりあれは家長だというふうにしみ込んでいた。それでぼくは家長に帰れたんだという気がする」と言う。取りようによっては、いい気なものだと謗《そし》られかねない発言だが、光代さんの強さに裏付けられた忍耐のおかげで、家庭の崩壊が辛うじて食い止められたのだと、彼も認めずにいられなかったのだろう。 「セールスマン・津田順一」から「薪能」までに八年の隔たりがある。その間に立原正秋は、「他人の自由」、「八月の午後と四つの短篇」、「血の畑」、「愛する人達」そのほか二十篇の小説を発表した。一九六○年までの発表誌は主として〈近代文学〉だが、その後は文芸雑誌が多くなる。平野謙氏は毎日新聞の文芸時評で、「愛する人達」を「この作には人間そのものの、あるいは性愛そのもののデモーニッシュな一面が、たしかに出ている」「現代ほど色男を描くのに困難な時期もないが、作者はその困難にかなりよくたえている。ここにこの作者の誠実がある」と評し、「海と三つの短篇」が「短篇技術においても、あなどりがたい手腕を示している」事と合せて、「かなり複雑な興味ある資質たることはたしかである」と結論づけている。文芸雑誌の編集者たちの評価も、おおむねそれと等しかったに違いない。  八年間に世に出た二十篇を通読すると、キリスト教に関わる主題が、さまざまに形を変えて現れているのに気が付く。 〈近代〉第二号の雑記欄に立原正秋は、聖書を繰返し読んだ上での疑問点のいくつかを誌し、それでも自分が聖書を手放さないのは、「特徴のはっきりした一人の人間の歴史」を探り、「その人の人格にふれるのが目的」だからだと書いている。 カトリックの神父はしば〓〓、イエズスの勝手な解釈は許されないというが、しかしモーリヤックがいうように、その心理的肖像の作製を企てることはめい〓〓に許された仕事であると思う。そしてぼくは生涯のうちにイエス伝を一篇書きあげたい。  イエス伝を書く計画は中途で抛棄されたとおぼしいが、彼が真摯《しんし》に聖書に向き合った事は疑いようがない。  立原正秋の信仰に対する姿勢が最も鮮明に読み取れる小説は、一九六二年発表の「四月の雨」である。主人公の矢方一郎は二十三歳の学生だが、まったく大学には出ていない。彼は「これまであまりにも多くのものを愛してきて、そのために幾度か苦しみを嘗《な》めてきた」青年である。彼が十五歳のときに、母親は教会の神父と密通した。軽はずみな母親を彼は決して許さない。「教会は彼にとって神聖な場所だった。その教会の神父がなにをしたか。それで少年は頼るものを失った」のであった。その神父はやがて他の教会へ移り、後任として尊敬出来る人柄の神父が着任したが、それでも彼は「信仰を知るまでには至らなかった」。新しい神父と四年間付合ったのち、彼は教会に別れを告げる。そのとき彼の心は「乾燥しきって」いた。  彼には真剣に愛した女があった。しかしその女は「互いを知りつくしてしまった以上、いっしょになったって幸福になれっこないじゃないの」と称して、「莫大《ばくだい》な親の遺産をついだほかは才能のない男」に嫁いで行く。彼の期待に反して、女は愛のない結婚生活に順応して飽きる気配がない。彼の心が乾燥し、罅《ひび》割れたのは、この女のせいであった。「どの女よりも深い痕をのこして去った彼女が何者であったか、もし信仰の永遠というのがあるとしたら、女にたいする彼の感情はそれに似ていた」という一行がある。彼は一人で冬枯の町を歩き、或る邸の庭にそびえる裸木に親近感を抱いたりする。神父の存在を「無限遠方から届く光のように感じた」一時期はあったものの、「いつも自分を伴侶に歩いてきたことに変りはない」と考えもする。この自己認識の型は、「冬のかたみに」の主人公と瓜二つである。  女は、結婚して一年と少しが経ったころ、急性白血病に冒される。それを知った日、矢方一郎は女の住む邸の周辺を歩き廻り、そのあと教会へ行く。 彼は聖堂の白い建物をみあげ、それから階段をのぼった。彼はかつてなかった素直な気持でその前に膝を折り、緋佐子《ひさこ》のために祈った。それは信仰以前の素朴な感情だった。血球が殖《ふ》える病気で彼女が死ぬ、彼はこれを考えまいと努めた。他の男と生涯をすごすにしても、やはり生きていて欲しい女であった。彼が他人のために祈ったのはこれで二度目であった。そして自分のために祈ったことがいちどもなかったのも改めて思いかえされた。  彼がそのために祈ったもう一人の他人は、母の密通の相手の神父である。彼はそうやって神父を許し、許す事によってその神父と教会を「別箇に」考えられるようになったのであった。自分だけを伴侶にして歩いて来た人間に信仰が芽生えるわけはない、と自分自身に言い聞かせながら、矢方一郎はやはり神を求めている。彼の強いられた孤独が、自分を超えて大きなものに身を委ねたいという心の動きを生んだのだろうか。  立原光代さんはこの時代を、「昔は志を持つということが普通のことだったように思います。ただ、文学という特殊な世界でしたので、人よりはるかに波風があったのだと思います」と回想している。また金井正徳氏は、「兄貴は無頼にはなり切れなかった」と断定した。さすがに一歩距離を置いて、時には兄に批判的であった弟の眼が、見るべきものを見て取っている。 「四月の雨」の翌年の「美しい村」を最後に、キリスト教はほぼ完全に立原正秋の作品から消える。そして替って、「薪能」に見たような、能と禅とに集約される日本の伝統に執着する姿勢が際立って来るのである。むろんその転換が一夜で機械的に行われる筈はなく、中世日本文学への関心を早くから持ち、勉学を怠らなかった事は、〈近代〉創刊号に世阿彌や鴨長明を論じた文章があるのからも瞭かだが、作品で見る限り、キリスト教から日本の中世への主題の交替は、廻り舞台を廻したように印象づけられる。一遍に景色が変るさまは異様でさえある。  立原正秋は、朝鮮で亀尾の叔父の家に預けられていたころ、その叔父に連れられて、毎日曜日の弥撒《ミサ》に出掛けていたと書いているが、普通学校の同級生で今は日本に住む金厚植《キム・フウシク》氏によると、当時の亀尾に教会はなかった。幼少年期のキリスト教体験については、推測の手がかりがない。成人してから教会へ通った形跡もない。ひたすら聖書を読み、イエスを「すぐれた人間革命家」と考えて、知の方角からキリスト教に近づこうと試みたが、謙譲な信仰にまでは行き着けなかったのか。「ぼくはいま、自分の内部をうまく言いあらわせませんが、いままで自分を育ててくれた凡てのものと、いちど別れたい、と考えているだけです」と、矢方一郎は尊敬する神父に向って言う。言葉にすればそう現わすしかない転機が、立原正秋にもあったのかも知れない。  作家としての道をはっきりと定めたのは、「薪能」を発表して以来だ、と世に出てからの彼は繰返して言った。それ以前には、周囲から小説家としてやって行けると認められても、自分の裡《うち》にはまだ低迷するものがあった、とも言っている。日本中世の死生観と美意識にもとづいて書いた作品が、自分本来のものである、と主張したかったのであろう。「花伝書を小説作法として転化して読んだ」事を初め、中世について彼はたくさんの文章を書いたが、キリスト教体験に触れたものは、随筆集を披いてみても一向に見当らない。キリスト教に接近した時期を、模索の時期と自ら位置づけていた様子が歴然としている。或いは何か断念を経験したのだろうか。外国の地名を小説の標題にするのが気に入らない、とけなしつけて、「フランドルの冬」の作者の加賀乙彦を唖然とさせた彼の外国嫌い、殊にヨーロッパ嫌いは、その断念と関わりがありはしないかと考えたくなる。  文芸雑誌に登場する機会が増えるにつれて、同世代の作家たちとの付合いの範囲が少しずつ拡がり始めた。分けても小川国夫氏との関係は、小川氏が後年「時には身を切るほどに冷たい地下水が、私たちの間を行き来した」と顧みている通り、注目されていい。一九五八年の二月ごろ、立原正秋が本多秋五氏を介して同人雑誌〈青銅時代〉を知り、そこに載っていた小川氏の小説「アポロンの島」に感服して、わざわざ電話をかけて讃辞を述べたのが交友のきっかけであった。ただし間もなく小川氏が郷里の静岡県藤枝市に転居したために、二人の初対面はずっと遅れて、一九六一年十月に開かれた〈文藝の会〉の席上となる。この会は河出書房の坂本一亀氏が、一九五七年以降休刊していた雑誌〈文藝〉を復刊するのに先立ち、若手作家に呼びかけて作ったもので、丸谷才一、辻邦生、黒井千次、後藤明生、清水徹、田畑麦彦、三輪秀彦といった人たちが加わっていた。これだけの顔ぶれが揃えば、賑やかな議論になるのは当然だが、その中で立原正秋は際立って舌鋒《ぜつぽう》が鋭かった。感じた事をいきなり警句風にぶつける彼の鑑定家のような物言いに、小川氏は好感を持ったという。  その会を終えて藤枝へ帰った小川氏を追うように、立原正秋から手紙が来た。それを第一信として、その後の六年間に、二人の間には百八十通もの手紙の遣取りがあった。立原正秋は「速射砲の弾丸のように」続けさまに手紙を寄越し、その量は小川氏の返信の三倍に達したそうだから、初めて語るに足る文学上の友人を得た彼の昂揚ぶりが窺える。それ等の手紙は、立原正秋の死後「冬の二人」と題して一本に纏められたが、小川氏が書いたその本の後記によっても、二人の間柄は格別のものであったのが判る。  立原正秋は激しい気性の人であった。しかし、一方私がなまぬるい人間だったせいか、衝突するようなことも絶えてなく、穏かで楽しい交友を続けることができた。私としては、立原という速い流れに便乗して、自分一人ではかなわない経験を積むことができた。ありがたいことの第一は、彼が私を親友として選んだことだ。彼は好悪の感情が極めて強く、人選びのむつかしい性質なのだから、なぜパッとしない私に対していきなり親近感を抱いたのか、私にはその幸運の理由が未だにはっきりしない思いだ。多少誇張していうなら、彼は私に襲いかかってきたような具合であった。そして、私を自分のペースに嵌めなければやまない勢いを示した。勿論、エゴを押しつけるというのではなく、自分の信じる天国へ私もともなって行こうというわけで、善意の限りを尽くしてくれた。  この文章を読んで、私は、感傷に近いほどの感慨をそそられた。私に対しても、立原正秋は、「自分の信じる天国」へ連れて行こうとして「襲いかかってきた」のに違いなかった。無名に近くはあっても、早くから自らの世界を築きかけていた小川氏は、文壇へ出るべく努力すべきだという立原流の短兵急な勧めを、大試合場に出るばかりが剣士ではない、と躱《かわ》してひたすら〈青銅時代〉に拠り、いわゆる商業誌への売込みは一切しなかったが、自分が何を書きたいのかさえ把めていなかった私は、彼が差し延べて呉れた手に安んじて縋り、すべてを彼に言われるままにした。しかし「その幸運の理由が未だにはっきりしない思い」なのは、私も同じである。  一つ不思議に思える事がある。私が小川氏を静岡に訪ねて直接聞いたのだが、立原正秋とは「聖書の話はしなかった」というのである。小川氏は旧制静岡高校在学中にカトリック教会に近づき、やがて受洗している。聖書との直接の出会いを「偏執的に」求め、後には、あなたの聖書主義はカトリック的ではない、と司祭から注意されたような人である。そのような相手とどうして、聖書を語らなかったのだろう。若い作家同士の付合いの常として、二人の間には頻繁に文学論の応酬があった。立原正秋は随筆のなかで「喧嘩をした」と表現しているが、それほど真剣にやり合ったのだろう。議論の対象となったのは、ヘミングウェイを筆頭に、ムージル、ダレル、ブロッホ、ミラーといった欧米の作家であった。それ等の名から推して、私は、例えば立原正秋が藤枝を訪ねて三日間滞在し、毎日明け方まで文学談義に耽ったときには、話は当然聖書に及んだものと想像したのだが、実際は必ずしもそうではなかったらしい。なぜだろう。立原正秋の関心が、キリスト教から日本の中世へ移りかけていたせいもあったろうが、それに加えて彼は、自分より格段にカトリック体験の深い友人の前で、聖書に触れるのを避けたのではないか。文学への志を同じくしているだけに緊張感を孕《はら》んだ友人の間では、それは有り得る事である。まして立原正秋は小川氏流に言うなら、「表を張る」性格の人であった。  小川氏が当時を回想して書いた「兄貴格」に興味深い挿話がある。二人で逗子に本多秋五氏を訪ねた折り、ムージルの「トンカ」が話題になった。これは貧しく素朴な娘トンカが、処女懐胎とも受取れる形で子を孕んだ話を書いた小説である。本多氏はそのような設定が気に入らないから作品を評価出来ないと言い、立原正秋は、処女懐胎はあり得る、とはなはだロマンティックな意見を述べた。それに対して小川氏は、トンカはどこかの男の種を宿しただけなのに、彼女の純情な恋人が処女懐胎だと思い込んでいるに過ぎない、恋人は明らかに狂っているわけだが、この種の狂いが前提となって「ヨーロッパにおける愛とは何か」という問いかけが始まる、と主張した。二十代後半のゴッホが売春婦に恋し、その女が生んだ他人の子をも愛した事を念頭におきつつ、そうした無私の愛の現れは、遠く聖書の処女懐胎と一脈通じているので、赤ん坊をひとしく神の賜物と見る思想がキリスト教国には流れているのではないか、と「いささか熱弁をふるった」という。  やがて時間が経って本多邸を辞去し、本多氏に送られてバスの停留所へ向う道で、今度は立原正秋が白隠和尚について話し出した。白隠もまた、或る娘が宿した他人の子供を自分の子として承認した、こうした場合、娘の難儀を救った義侠心ばかりが注目されがちだが、白隠ほどの哲学者の思想の中には、この子は俺に授ったものだと自然に言えるだけの素地が充分にあったのではないか、というのがその趣旨であった。  立原正秋が小川氏の「熱弁」に動かされた事は疑えない。そしてその論旨を、自分がよく識る世界に引き付けて、自分の言葉で語ってみたくなったのだろう。友人によって啓発されるとはこういう事か、と新鮮な印象を受ける。私は、立原正秋が自分の立つ拠りどころとして日本の中世を選んだについては、〈親友・小川国夫〉の影響が無視出来ない気がする。証拠のない推測ではあるが、当てずっぽうではないつもりである。  立原正秋の最初の藤枝訪問は、一九六二年の二月二十五日であった。その日神楽坂で開かれた〈文藝の会〉のあと、連れ立って藤枝へ向ったのである。小川氏が私に話して呉れたそれから三日間の一部始終は、二人の交友の実態を実によく現している。  この時も立原正秋は、黒地に白い縞模様のりゅうとした背広を着て、手土産に二段重ねの大きな箱を携えていた。上段は鎌倉名物の鳩サブレー、下段は何と原稿用紙であった。とにかく相当の金持に見えた。「うちのかみさんは金持が好きだから大いに款待《かんたい》した」というのは小川さんの冗談だろうが、女性の眼を惹く紳士ぶりであったに違いない。ところが金井正徳氏の話では、その背広は金井氏が注文して仕立てさせたが、どうも寸法が合わないので兄貴にやったものだそうだから可笑しい。相変らず手許は不如意だったのである。  彼は朝が早い。夜中に蜿蜒《えんえん》と議論をして明け方に眠っても、二、三時間もするともう起きてしまう。起きれば一人で凝《じつ》としていられない。「起きろ」とまだ寝ている小川さんを蹴飛ばした。私にも似たような経験があるから、その光景が眼に泛ぶ。私は彼と十回くらい旅行を一緒にしたが、朝は決って叩き起された。ほかの部屋に寝ている連中まで、乱暴に戸を叩いて廻るので、なんであいつはあんなに騒ぐんだ、と本気で怒り出した人があった。寝坊の小川さんも、しぶしぶ床から這い出さないわけには行かなかっただろう。  夕方になると、料理の仕方を教えてやるから材料を買いに行こう、と言い出した。八百屋と魚屋を廻り、これとこれを買え、と彼が指図をする。金は小川さんが払うのである。尤もあまり高い物は買わない。鶏のガラ、牛のばら肉、葱、ピーマン、韮の類である。それ等を強火で炒《いた》めて、朝鮮風の味付けをした。これはなかなか旨かった。  藤枝の旧東海道に面して、安川楼という歴史の古い料理屋がある。小川さんは父君の名で付けが利いたので、立原正秋をそこへ連れて行き、夜中まで飲んだ。店には文学趣味のある才気煥発《かんぱつ》な娘がいて、二人がする文学の話に盛んに口を挿んだ。立原正秋はこの娘に好意を持ったらしい。安川楼を切り上げたのち、国道一号線沿いにある長距離タクシーの運転手相手に珈琲を飲ませる店へ行く事になった。娘も蹤いて来た。途中、草ぼうぼうの土手道を通らなくてはならない。まさに酔歩蹣跚《まんさん》として歩いていた立原正秋が、不意に娘の手を引いて、草むらの中へ入り込んだ。何をしているのかと小川さんが訝る間もなく彼は出て来て、「あの子、いいおっぱいしてるぞ。触ってみろ」とそそのかした。それに従わなかったばかりに、小川さんは“聖人”と揶揄《やゆ》される羽目になる。  四粁《キロ》の道のりをバスに乗って、焼津へ出掛けた日もあった。その日は晴れて、海が蒼かった。小川さんは漁港の町の飾らない風情が好きだから案内したのだが、立原正秋には気に入らなかった。「なんて雑駁な町だ」「雑駁なところがいいんじゃないの」「駄目だ、こんな所は」といった応酬があった。海風に吹き曝された松の形や、竪縞を浮き出させた岩山、沖の彼方まで視界の展けた海の景色を、小川さんはギリシアに似ていると言ってみたが、立原正秋は「そんな莫迦《ばか》な事があるか」とにべもなかった。焼津はむかし小泉八雲が愛して別荘を構えた所である。八雲はギリシア生れだから、生れた土地を懐かしんで家を借りたのだ、と説明しても無駄であった。遠洋漁業の船が舷を接して碇泊《ていはく》する港町は、所詮彼の美意識に叶わなかったのであろう。  それでも懲りずに小川さんは、家の近所の散歩にも彼を連れ出した。小川さんは田圃の中、丘の上、池のほとりを、半日でも歩き続けて平気な人だが、立原正秋はそうではない。無目的に歩いていると、たちまち退屈してしまう。酒屋でも見付けようものなら、「おい、あそこで一杯やって行こう」と寄りたがった。両側に田圃が拡がる街道に、飲み屋があった。彼にせかされて入って飲んでいるうちに、そこの主人は満洲からの引揚者なのが判った。「満洲は冬になれば、生きている草なんて一本もありません」と主人が言った。「この辺は、御覧なさい、今でもずいぶん緑が交ってるでしょ。こんなの冬じゃありません」。確かに戸口から外を見ると、草の中にたくさんの緑が見えた。「まったくだ、日本の冬なんか冬じゃない」と立原正秋が応じた。朝鮮の冬を思い出したのだったろう。それをきっかけに打ち融けて話が弾んだ。「私は満洲へ行くとき、腕力に自信がないと危険だと思って剣道をやった」と主人が言うと、立原正秋は身を乗り出して、剣道何段なのか、段位はどこで取ったか、満洲へ渡ったのはいつか、と立続けに質問を浴びせた。小説の材料にしたい気持が露わに出ていた。この人はいつも小説が頭から離れないんだな、漫然と景色を見て歩くのには向かない人なんだ、とその熱心な様子を見て小川さんは思った。そして彼の振舞を納得する気持になったという。  立原・小川の交友が最も濃密だったのは、この一九六二年から六五年へかけての三年間であった。六四年に〈犀〉の創刊が具体化したとき、立原正秋は、小川氏にも是非加わってほしいと誘った。しかし小川氏は、七年も拠りどころとした〈青銅時代〉を大事にしたい、との理由でそれを固辞した。小川氏の〈青銅時代〉への愛着はなみなみではなく、立原正秋に宛てた手紙では、「命の等価物」とまで言っている。〈青銅時代〉のその頃の同人は十二人で、小川氏のほかはすべて大学に籍を置く外国文学研究者であった。立原正秋は小川氏に勧められて中途から加入したが、同人会の雰囲気に融け込むには至らなかったらしい。〈犀〉創刊を機に、彼は〈青銅時代〉を脱けた。以後はそれぞれが別の砦にこもる形になったのである。立原正秋が流行作家になってからは、二人の道は大きくかけ離れて行くのだが、その兆候が既にここに現れているとも言える。尤もそれで友情に罅《ひび》が入ったわけではむろんなかった。 〈犀〉の創刊号が出て間もなく、大森駅附近の店で私が小川さんに紹介された日の帰り道だったか、立原正秋はこんな風に私に言った。 「小川は親父の経営する会社から只で月給もらってるものだから、生活の苦労がなくて、好き勝手な小説を書いてさえいればいいんだ。羨しい限りだよ。小川の文学を本当に解っているのは、島尾敏雄さん一人じゃないかな。島尾さんに似て、小川の奴も実に頑固だ。俺が発破《はつぱ》をかけたくらいじゃ、あいつは動きやしない。おかしな男だよ」  わざと突き放したように言う口調のなかに心底から友人を珍重する響きがあった。 六章 時分の花 「剣ヶ崎」の好評は、立原正秋好みの言葉を使えば、“時分の花”の咲く季節をようやく彼にもたらした。この作品が彼にとって二度目の芥川賞候補に挙げられた直後、彼は、例の縁が肩まで垂れる麦藁帽を被って、牛込の新潮社へやって来た。取締役の斎藤十一氏に呼ばれたのである。当時新潮社はたまたま社屋を改築中で、彼はバラック建の仮社屋の応接間へ通された。斎藤氏の用件は、〈週刊新潮〉に連載小説を書いてみないか、という事であった。この日の会見は、彼にとってよほど印象深かったらしく、それから六年後に書いた随筆「一編集者との出逢い」に、斎藤氏との緊張した遣取りを誌している。 私は、駈けだしたばかりだからいますこし純文学を書きたい、と返事をした。すると彼は、あなたは両方使いわけられる人なのにためらうのはおかしい、とまるでわが事のように平然と宣《のたも》うた。使いわけられなかったら困る、と私は応じた。そうですか、自信がないんですか、もっとも、私は、あなたが使いわけられなかったら……。あとは言わず彼はパイプをふかしながらわらっていた。潰されて通俗作家になった者がいるのだろう、しかし潰される奴が馬鹿だ、と私は直観的に思った。一日考えさせて下さい。なにを考えるのですか、私はなにもここで小説の構想を練れと言っているのではありませんよ。私は考えこんでしまった。使いわける自信はまったくなかった。断わるのは簡単だった。ところが、持ちまえの性格が頭を擡《もた》げてきて、潰せるものなら潰してみろ、と目前の意地の悪い編集長と文壇ジャーナリズムに対して居直る感情になり、やってみましょう、と答えてしまった。そして十一月から連載をはじめた。  いささか大袈裟に言うなら、これが流行作家立原正秋誕生の瞬間であった。会見に同席した〈新潮〉の編集者は、斎藤氏が「これで駄目になるのなら、君は駄目だ」と言い放ったのを記憶している。  斎藤氏は、「薪能」以来、立原正秋の才能に嘱目して来た。一九六五年の一年だけで、「光と風」「剣ヶ崎」「情炎」「薔薇屋敷」といずれも百枚前後の作品が立て続けに〈新潮〉に載ったのは、斎藤氏が、立原には間を置かずに書かせろ、と編集部を督促したからであった。物語の組立てが巧みで、エロティシズムがあるところが、小説読みの玄人としての斎藤氏の眼識に適《かな》ったのらしい。平野謙氏は「この作者はストーリイ・テラアとして、一組みの男女を心中させてみたり、殺してみたり、ケガでインポテにしてみたりして、一作ごとに工夫をこらした力作を発表してきた」とその頃の立原正秋を評したが、そのような一種の荒行をこなす手腕が、週刊誌小説の書き手として適格だと判定されたのだったろう。  この小説が「鎌倉夫人」である。連載が始まったのは、私が〈犀〉四号に書いた「北の河」が〈文学界〉に転載されたのと、ちょうど同じ時期であった。大阪にいた私のところへは、自分は週刊誌に書く事にしたから賞とは縁がなくなったが、君は芥川賞をめざして頑張れ、と手紙が来た。これも失くしてしまったが、大事に取っておけばよかった、と悔いの遺る一通である。  連載の第一回を読んで、私は、立原さんも苦労しているなあ、と微笑ましいような気分になった。秋の夕暮時の雑踏をきわめる鎌倉駅前の繁華街を、若い女が鎖につないだ雄獅子の子を曳いて歩いているのである。通行人の眼が、一斉に彼女に注がれる。女が鞭を振り上げ、獅子の耳もとで激しく鳴らすと、獅子は「百獣の王にふさわしい声」をあげて吼える。この獅子には、権五郎景政と後三年の役に活躍した荒武者に因んだ名が付けられている。  新聞や週刊誌の連載小説は、早い回で読者を把んでしまわない限り失敗する、と鉄則のように言われるが、それを充分過ぎるくらい意識して、読者の意表を衝《つ》くのに腐心した痕跡は歴然としていよう。斎藤十一氏は、読者に受けない連載を容赦なく切り棄てるのでも有名な人であり、立原正秋はむろんその評判を聞き知っていた。厳しい監視の眼に見据えられて、彼が、これは伸《の》るか反るかの仕事だ、と切羽詰った心境になったとしても無理はない。  東京オリンピック後の高度経済成長の波に乗って、出版界が大量生産、大量販売の方向へ舵を切った時代であった。〈小説新潮〉を初めとするいわゆる中間小説雑誌が、娯楽色を濃くして部数を伸ばし、それに追随する新しい雑誌の創刊もあって、月に五百枚、千枚を書く小説家はさほど珍しくなくなった。野坂昭如や五木寛之が頭角を現す一方で、例えば川上宗薫のように、純文学を志していながら、編集者の誘導によって、ポルノの類に転じた人も尠くなかった。立原正秋は彼等を、「潰されて通俗作家になった馬鹿」と見下していただろうか。純文学の修業を積んだ作家は、文章の基礎が出来ているから応用が利いて便利だ、というような辣腕《らつわん》の編集者の声が聞えて来たりした。  そんな風潮の中にあって、純文学と中間小説を書き分ける難しさを、立原正秋は心得ていた。「一編集者との出逢い」によれば、彼は「鎌倉夫人」の連載を始めると同時に「若年の頃よんだ日本の古典を再び繙《ひもと》いた」という。「古典をかたわらにおくことで使いわけの接点を見出そうとしたのである」。この言葉はどうも解り難いが、彼が精神の平衡を取る必要に迫られたのは確かだろう。名が挙がるにつれて、周囲からの風当りはきつくなった。あなたは週刊誌なんかに書いて駄目になった、と面と向って皮肉った編集者があったそうだが、純文学信仰がまだ遺っていた当時の文壇の雰囲気からすれば、必ずしも非常識な発言ではなかった。  立原正秋自身にも、純文学信仰はあった。人よりも濃厚にあったと言ってもいい。私との会話でも、極めて真当に純文学という言葉を使ったし、吉田知子さんに中間小説雑誌の新人賞に応募しようと思うがどうだろうか、と相談されたときには、駄目だ、と制止している。ジャーナリズムの新人の育て方と潰し方は紙一重だから、今は自重すべきだ、というのが彼の判断であった。自分はその紙一重の境を切り抜けてみせる、と彼は考えていただろうか。 「鎌倉夫人」の女主人公は、男に唆《そその》かされて、若い義母と通じた自分の夫を、義母ともども二頭の獅子に食い殺させようと決心する。  千鶴子は、脚をひらきながら、広行の目を見あげた。彼のまなざしは硬かった。  やがて千鶴子は、なま身の歓《よろこ》びに乱れて行きながら、殺してみせるわ! とうわごとのように呟《つぶや》いた。  このとき千鶴子の裡では、清盛と権五郎の二頭の獅子に、良吉と房子を殺させてしまおう、と明晰な意志が芽ばえていた。広行と躯《からだ》を交しあうときのあの花やかさを得るのと引きかえに二人の人間を殺してしまおう、そんな冷徹な意志がうまれはじめたのである。  これが文体の一見本である。人間の心にいつもある筈の、細かなこだわりは敢えて無視して、一刀両断に斬り棄てるような文章は、しばしば粗笨《そほん》だ、通俗的だとして、彼の小説が貶価《へんか》される原因となったが、その半面、一種の爽快感をもたらす効果も認めなくてはならない。埃っぽい生活から一刻離れて、お話を娯しみたい読者を惹きつけやすい文体とも言える。獅子による殺人は、まさか実行出来まいという読者の予測に反して、「冷徹」に完遂される。獅子は二人を噛み殺したばかりでなく、その肉を貪り食う。 「立原さんは何事にも黒《こく》白《びやく》をはっきりさせたがりますね」  と、「薪能」や「剣ヶ崎」の英訳を手がけたスティーヴン・コール氏が、私に言った。 「普通の日本人とは違います。立原さんの思考法や文体は、英文脈に馴染みやすいのです」  彼の小説が大衆の人気を得るのに、その直線的な思考法と文体が大いに寄与した事は間違いない。文体については、朝鮮人として育ち、日本語を後から習得した経歴と関係があるだろうか。  一九六六年の七月、彼は第五十五回直木賞を受賞した。対象となった作品は「白い罌粟」であった。これは法律の知識を武器に高利貸から借りた金を踏み倒して暮している男が、小心な高校教師を破滅させる話である。選評を読むと、海音寺潮五郎が「新しい性格の創造がある」と賞揚し、松本清張が「近来にないストーリーテラーだ」と将来に期待している。以前からあったストーリーテラーだとの評価が、受賞によって定着した観がある。尤も彼はそれを歓ばなかった。  受賞を祝って〈犀〉同人が集り会を開いたとき、挨拶に立った彼は、 「ぼくは、本当はこの賞を断ったんだ」  と真先に言って、みんなを驚かせた。  彼が賞を主宰する日本文学振興会宛てに、候補から外してほしい、と手紙を送った事は、私も関係者から聞いていた。同時に候補となった作家の名を挙げて、あんな人物と同列に扱われたくない、というのが理由であった。既に芥川賞で二回、直木賞で一回、有力候補と目されながら落されたこだわりが、そう言わせたのであろう。あくまで拒否する意志を固めていたのではなかった。その証拠に、彼は慰留されるとたちまち申し出を撤回したという。  受賞式の当日の彼は、明らかに昂奮し、固くなっていた。挨拶では跡切れ勝ちに話し、途中で「どうも挨拶になりません」と二度繰返した。一とところに集ってそれを聞いていた〈犀〉の同人のうちの一人が、「立原さん、こちこちだなあ」と呟いた。  それほど歓んでいながら、彼は前記の「一編集者との出逢い」にさえ、「私は、いやだという直木賞を、もらってくれなくては困る、というかたちでもらわされた」と書くくらい、“頼まれた受賞”に固執した。子供っぽく突張っているみたいだが、これには「鎌倉夫人」を引受けて以来の、書き分けの問題が絡《から》んでいる。  新聞に受賞の感想を求められて書いた「純文学と大衆文学」は、彼が作家としての態度を明らかにした点で興味がある。純文学と大衆文学の区別は確かにある、との前提に立って、彼はこう誌した。  ところで、なぜ純文学と大衆文学に使いわけて書くのか、と私に質問する人がいる。彼は続けて、いったい使いわける必要があるのか、そして事実そんなことが出来るのか、と質問する。  私はそれにたいし次のように答えたい。一人の作家にとり、彼が是非書かなければならないのっぴきならない作品は、そうたくさんあるわけではない。そして一方、その作家は、読者の要求に応じて、かなりの作品を量産しなければならないこともあり得る、と。しかし誤解のないように一言つけ加えるならば、のっぴきならないで生んだ作品が純文学で、量産した作品が大衆文学である、などのごとき安易な断定は禁物である。私の言わんとしていることは明瞭であろう。  私は、自分が作家である以上、年に数本、自分も気に入り、批評家からもほめられる作品をぼそぼそと発表する、そのような態度はとりたくない。ある程度の量産に耐えぬけるのが現代作家のあり方だと思う。私のこんな言い方はかなり誤解を受けそうだが、作家にとって誤解などというのは瑣末《さまつ》なことである。作家が量産できるのは、その作家の裡に幻影が宿っているからである。想像力という表現はどうもぴったりしない。幻影といった方が適切な気がする。  要は、その作家が、自分の幻影を支えることが出来るかどうか、ということである。支えられなかったら、年に一握りの私小説を書く感想家に堕落するしかないだろう。私小説というのは、純文学でもないし大衆文学でもない。それは感想文である。  受賞後にはこのほかにも、「私は或る程度量産するつもりである」とか、「今月中に小説だけで四百枚書かなくてはならない」と、“量産”を宣言するような文章が目立った。地袋一杯に積み上げた原稿が支えになっていたのであろう。そうやって自分を煽り立てた形跡もあるのだが、彼に好意的でない人の眼には、得意満面でいるように映ったかも知れない。  ここで私は、私自身の事を思い出さずにはいられない。私は芥川賞を受賞したあと、新聞記者の質問を受けて、「量産出来るわけはないから、自分なりに急がずに書いて行きます。勤めを辞める気はありません」と答えた憶えがある。共同通信社は外部への執筆が自由に認められていたから、居心地がよかったのである。年に三本か四本、自分の納得の行く作品が生み出せればいい、と私は漠然と考えていた。立原正秋の言う「現代作家のあり方」から、およそ遠い位置にいた事になる。  立原正秋は初めのうちこそ何も言わなかったが、だんだん私の消極的な行き方が歯痒《はがゆ》くなり、しまいには腹が立って来たらしい。私が上京して腰越を訪ねる度に、早く勤めから足を洗え、とせき立てるようになった。 「いったい何のために賞をもらったんだ」  と彼は、半ば笑いながら私を睨み付けた。仕様のねえ奴だ、と言いたいとき、彼はよくそんな表情をした。無名のうちに大衆小説に手を出したら、純文学の編集者にそっぽを向かれるが、賞をもらってしまえばその心配はないのだから、婦人雑誌にでも何でも進んで書けばいい、俺が紹介してやる、と言うのであった。 「若いうちに仕事の場所を拡げておかないと、先細りになるばかりだぞ。判り切った話じゃないか」  と、じれったそうに迫られても、私はただ、大衆受けのするものを書く自信はないから、と及び腰の返事しか出来なかった。その弁解がましいところが、ますます彼の気に入らなかったのだろう。医業の傍ら小説を書いて、〈日曜小説家〉を自称する藤枝静男氏の話が出た。「僕は、活計のために書く必要はないのだから、真面目な小説だけを書く。書く義務があると思う」という藤枝氏の発言に、私は共鳴していたのだが、その点でも立原正秋は容赦がなかった。 「藤枝さんは金持だから、悠々と構えていたっていいさ。だけど君は金無いじゃないか。小説で稼ぐ事を真剣に考えなくちゃいけないんだ」  どうして彼がここまでむきになったか、思い返してみても不思議である。念願の職業作家として文壇に乗り出した彼には、自ずから身内に溢れる昂揚した気分があり、その一端が私に注ぎかけられたのだろうか。  次に私が上京したとき、初対面の婦人雑誌の編集者がホテルに訪ねて来た。 「立原先生の御紹介で伺いました」  とその人は鄭重《ていちよう》に言って、私に連載小説を書くようにと持ちかけた。私は面喰った。まさか彼が本当に婦人雑誌に私を推薦するとは思ってもみなかったのである。些少《さしよう》で申訳ないが、と言いつつ編集者が示した原稿料の額は破格のものだったが、私は事情を話して断るしかなかった。腑《ふ》に落ちないような表情で編集者が帰って行ったあと、私は立原正秋に詫びの手紙を出した。返事は来なかった。しばらくして、「立原さんが、あいつはなんであんなにおどおどしてるんだって嘆いてましたよ。立原さんのために女向きの小説を書いたらどうです」とからかいづらに言った編集者があった。  時日は少し飛んで、私が東京へ戻ってからだから一九六八年ごろの事になるが、私は麹町の鰻屋、丹波屋で彼に会った。昼間なのに直ぐ酒になったが、いつの間にか、私が記者を辞める、辞めないの話になった。細かな遣取りは忘れたが、私が例によって逃げ腰であったのは間違いない。鰻重を食べ終えたところで、彼はふと胸を反らすようにして私をみつめ、こう言った。 「向う一年間、俺が君に月づき五万円ずつやるよ。年に六十万だ。それだけあればどうにか共同を辞められるだろう。どうだ」  この唐突な申し出に何と答えたか、私は自分の言葉が思い出せない。口ごもったあげくに絶句するしかなかったような気がする。月五万円は、当時なら一人がかつかつに暮して行けるだけの金であった。立原正秋は、その辺も考量した上で、金額を口にしたのだったろう。しかし仮に私が一本立ちしたとしても、彼にとって得になる事は一つもないのである。今と違って文壇は狭く、消息通と称する連中が無責任に振り撒くゴシップの伝わり方は早かったから、彼が私を子分にしたがっていると見た人もあったようだが、それこそ下衆の勘繰りでしかない。彼は確かに周りの人間に命令を下すのが好きだったが、人を懐に抱え込む親分気質とは縁遠かった。その事は、彼の生涯の人間関係を一瞥しただけで判る筈である。私としては、彼が地味な小説しか書けないでいる私の前途が心許なくて、広い道を拓いて呉れようとしたのだと思うしかない。その過分な好意に私は応えられなかった。むろん私なりの言い分はあったが、それはどうでもいい。時分時を過ぎてがらんとした鰻屋で味わった感謝と羞恥《しゆうち》の入り交った感情は、今でも私の身体のどこかに遺っている。  それ以後立原正秋は、私の進退について口にしなくなった。私が共同通信社に辞表を出したのは、ずっと遅れて一九七五年であった。彼は「やっと辞めたか」と歓び、〈犀〉の旧同人を箱根に招集して、一泊の宴を開いて呉れた。 「直木賞を頂いてからは、一日のお休みもありませんでした」  と彼の死後立原光代さんは言ったが、分けても腰越の四年間は、最も盛んに仕事をした時代であった。小説のほかに随筆や旅行記の注文も絶え間なくあって、ほんの数時間眠る以外は机に向う日が続いた。仕事量に比例するように酒量も増えて、立原はいつも一升瓶を傍に置いて飲みながら書く、と噂の種になったのはこの頃である。彼自身も面白がって、相当に誇張した話を書き飛ばした。「私の酒はお茶と同じだから、日本酒に換算して四升か五升までなら常と渝《かわ》らない。五升を越したらすこし酔ってくる」などというのはその一つである。  原稿を書く速度は、中間小説なら一時間に四百字詰原稿用紙二枚、純文学は一枚だと、彼は私に言った。そうだとすれば、筆が速い方ではない。いくら書溜めがあっても、まったく手を入れないでは編集者に渡せないから、執筆に追われるのは当然なのでもあった。しかし彼は、人前では忙しそうな素振りを見せなかった。  何かのパーティで、たまたま若手の小説家が数人、一つ卓を囲む形になった。ジャーナリズムに認められてからせいぜい一、二年しか経っていない者ばかりだったから、話が銘々の忙しさを誇示し、競い合う方へ流れたのは、已《や》むを得ない成行きであった。あちこちの出版社の“罐詰”でホテルを転々とし、もう二た月も家に帰っていない、と称する男がいた。彼は大袈裟な身振りを交えてさんざん喋ったあげく、隣にいた立原正秋に向って、 「立原さんも、家になんかとてもいられないんじゃないですか」  と話しかけた。 「いや、ぼくは罐詰になんかならない」  立原正秋は打って返すように言った。 「そんな事をしたら、文体が駄目になるから」  相手は鼻白んで黙ってしまった。立原正秋にしてみれば、有卦《うけ》に入って書きまくる通俗作家と一緒にされてたまるか、という意地があったのだろう。  彼は晩年の数年は、帝国ホテルを常宿のように使って仕事をしたが、締切りに迫られてのホテルごもりはやらなかった。原稿料をもらうのだから、出版社が経費を持つ罐詰は不当利得だ、と公言もしていた。  直木賞受賞から丸二年経った一九六八年五月十五日から翌年四月十九日まで、読売新聞夕刊に連載した小説「冬の旅」によって、立原正秋は流行作家の地歩を固めた。世間に名を知られてまだ日の浅い彼の起用を決めたのは、読売新聞文化部長の平山信義氏であった。平山氏は、その前年に彼が〈文学界〉と〈新潮〉に分載した連作「美しい城」に注目した。一九四○年代初めの感化院を舞台にした作品だが、社会が豊かになるにつれてようやく顕在化して来た少年非行の問題を、道徳的に裁く立場からではなく、少年たちの心情を汲んで書いているのが新鮮で、この題材は「新聞小説としていけるんじゃないか」と感じたという。石坂洋次郎、丹羽文雄、獅子文六、井上靖ら手だれの小説家が順繰りに執筆する朝刊連載小説に対して、夕刊では新しい才能を発掘する狙いもあった。読売からの交渉を受けた立原正秋は、初め「いや、私は新聞小説は書けません」と言ったが、表情には「来たな」という感じで動くものがあったのを、その場に立会った文化部の記者は見ている。潮が満ちて、舟を漕《こ》ぎ出す時機が来た、と思ったかも知れない。連載開始前の準備の時間は半年しかなかった。 「冬の旅」の主人公宇野行助は十六歳である。彼は父親を早く喪《うしな》い、再婚した母に連れられて宇野家へ来た。新しい家庭には、先妻の子の修一郎がいた。この二歳年長の義理の兄は出来が悪い。私立大学に裏口入学したものの、ベンツを乗り廻して遊び呆けている。春先の或る日、学校から帰って来た行助は、奥の部屋で母が叫び声をあげるのを聞く。  兄の修一郎が母の上にのしかかっていたのである。澄江は髪をふり乱し両腕を修一郎の胸に突きあげて抵抗しており、着物をまくられた下半身があらわだった。あり得ない光景であった。行助は見てはならぬものを見た、という思いと、修一郎にたいしての怒りが噴きあげてきた。修一郎がなにをしようとしているのかを瞬時のうちにさとった行助は、いきなり修一郎の頭をうしろから殴りつけ、首に腕をまわして引きずりおろした。 「野郎ッ!」  修一郎は行助の腕を振り放すと台所に駈けて行き、右手に出刃庖丁をにぎってきた。 「ちくしょうッ、母子で俺を馬鹿にしやがったな!」  酒のにおいがした。  幕明き早々のこうした描写は、恋愛小説、風俗小説を読み慣れた新聞の読者には刺戟が強過ぎたようである。こんな小説は社会に害毒を流す、と非難の投書が、新聞社にも作者のもとにも頻々と送り付けられた。初めて知る“不良少年”の行動に愕いて、わが家の平和を脅かされるように感じた人も多かったかも知れない。中には連載を取止めなければ、読売の不買運動を起す、と警告したものまであった。  立原正秋はこの反響が意外であり、平手打ちを食ったような気持になったらしい。新聞社に迷惑をかけるようなら連載を中止してもいい、と本気で考え、担当記者を通じて、その旨を文化部長に申し出た。平山氏は、剛毅と評判の立原正秋がそんな弱気を示すのを不審に思ったそうだが、立原正秋が野放図に振舞うようでいながら、自分に好意を持って呉れる人に迷惑をかけてはいけない、と気遣いを怠らなかったのを私は知っている。その意味で彼は小心であった。非難の投書は一時的なものに決っているから、気にしないでほしい、との平山氏の説得が効いて、連載は続けられた。その騒ぎの最中に書いた部分に、非行少年を扱った新聞小説に腹を立てて作者に抗議の電話をかけ、反対にやり込められる母親が本筋と関係なく出て来て、立原正秋が読者の反撥に神経質になっていた事が窺える。しかし回が進み、行助という人間の輪郭が明らかになるにつれて、平山氏の予測通り、投書は非難から激励へ変って行った。  行助は兄に全治三週間の重傷を負わせた罪で中等少年院送りとなる。修一郎の負傷は、庖丁を奪おうとして行助と揉み合ううちに両足を滑らせ、自分の腿に刃を突き立ててしまったせいだから、事情を詳細に述べれば罪に問われる事はないのに、行助は、自分を憎んでいる義弟に刺された、という兄の虚偽の供述を否定しない。この心理は、母が凌辱《りようじよく》されそうになった事実を義理の父に知られたくなかったからだ、と説明される。  行助は「勁《つよ》い」少年である。この「勁い」は立原正秋が最も好んで用いた言葉であって、単に「強い」のと異り、果断、勇壮、率直、非情、潔癖、意志堅固などの、彼が“男の美学”と信じたものが含まれている。行助は自分が罪を着る代りに、兄を「生涯劣等感のなかでしか生きられない男にしてやろう」と考える。これも「勁さ」の現れの一つである。  少年院での行助は、周りの少年たちに「学術優秀、品行方正」と一目置かれる存在となり、院長にも自制心の強い性格を認められて、僅か九箇月で退院する。だが、物語はむろんそこで終りはしない。行助が家へ戻ってから二年五箇月後に第二の事件が起きる。  初めの事件の真相にうすうす気付いた父親は、修一郎に自分の経営する会社の跡目を継がせない決心をし、修一郎を祖父母の家へ逐《お》いやってしまう。父に敵意を募らせた修一郎は、雨の夜に父の家に忍び込み、殺そうとして父を刺す。父の呼ぶ声に起された行助は、兄に背後から組み付いて倒し、床に落ちたナイフを拾って兄の胸に突き立てた。前のときとは違って、彼はすべて自分の意志で行動した。「殺したいところだが助けてやる。以後俺の前に現われるな、下衆《げす》野郎!」と彼は低い声で言う。やがて裁判が開かれるが、行助は「自分のやったことは自分で処理したい」と言って弁護士を拒否し、一人で法廷に立つ。  少年院へ送られる少年に対して世間の人が抱くイメージは、粗暴、怠惰、無思慮、無気力といったものであろう。ところが「冬の旅」の読者は、その常識を覆され、実社会では先ず見られないほど見事な少年に出会う。「冬の旅」が読者の関心を惹き付けた理由の大きな部分は、主人公の性格の意外性にあったかと思える。こんな立派な子がどうして罪を犯し、辛い目に遭わなくてはならないのか、と思ったとき、読者は既に物語の中に取り込まれているのである。  行助の見事さは、筋の進みにつれてますます際立って来る。裁判の結果、特別少年院に収容された彼は、すべては自分一人で処理しなければならない、と考えて父母の面会を拒絶する。どうしても会いたい、と電話をかけて寄越した母をさえ「いいですか、来てはいけないというのは、私の内面の問題なんです」と突き放して電話を切ってしまう。「私の内面の問題」とは、彼が繰返して口にする言葉だが、それはどういうものなのか、実体は窺い知れない。宇野行助は立原正秋と同じように、理を分けて説明するのが苦手らしい。  院内の技能訓練に建築を選んだ行助は、建築家として一本立ちをする将来を夢み、その傍ら詩作に慰めを見出す。早世した彼の実の父は、高校で物理を教えながら詩を書いた人なのであった。「僕は、冬は冬の野菜をたべ、夏は夏の野菜をたべる生きかたをしたいのです。それ以上のことは望んでいません」と行助は母に向って言う。しかし彼がそののち、望む生活を営む手がかりを得られたかどうかは判らない。小説は、退院を目前に控えた行助が、破傷風に冒されて高熱を発し、夢と現《うつつ》の間を往復するところで終るからである。行助の命は助からないようにも見えるが、私は、「あの子を死なせちゃいかん」と彼を愛する院長が叫ぶ声に、作者が自ら創り出した人物の前途への希望を托している気がする。  安坂宏一という少年の存在が、隠し味のように働いて、主人公が立派過ぎる作品の陰翳《いんえい》の乏しさを救っている。安坂宏一、通称安は、行助と同じ日に中等少年院に収容された。十八歳の彼は、二つ年上の愛人と暮す金に困って、勤める中華料理屋の金を盗んだのであった。行助は、意志は弱いが素朴で正直そうな安に好意を持つ。安も頭のいい行助を何かと頼りにして、二人の間に珍しい友情が生れる。安の夢は、少年院を出たら自分を待っていて呉れる愛人と結婚して、小さなラーメン屋を開く事である。「もし店を開いたら、宇野に最初のラーメンをたべてもらうか」と彼は感情をこめて言う。  その夢は実現した。行助より遅れて少年院を出てから、二年間働いて金を溜め、不足の分は行助の父親から借りて、五人の客が入れば満員になるささやかな店が出せたのである。その店では少年院仲間の“同窓会”も開かれる。しかし幸福は長く続かなかった。行助が二度目に少年院に入ったあと、「宇野に熱いラーメンを食わせてやりてえな」と言い暮していた安は、ようやく順調に利益が上るようになり、行助の父に借りた金を返しに行ったその帰り道に、トラックに轢《ひ》かれて死んでしまう。知らせを受けた行助は、「死なねばならない理由がないのに、なぜあいつが死なねばならなかったのか……」と考え、「涙のかわりに虚しさが心の裡にひろが」るのを感じる。  この少年像は、世の中から疎《うと》まれ、指弾されている“非行少年”たちに対する作者の偏愛の産物と言っていい。立原正秋自身に、少年院へ送られた過去があったのではない。だが「冬の旅」を書き出す少し前に〈文藝春秋〉で行なった野坂昭如氏との対談「われら少年院の卒業生」では、中学三年のときに「貴様の親父は朝鮮人だな」と自分を侮辱した体操教師を刺して、七箇月間感化院へ入れられた、と事実のように喋っている。「少年院に入るような少年というのは、根は気持がやさしいんだ」「あったかすぎて、自分が先にこわれちゃう。そういうタイプの人間が多いですね」と彼は言う。感化院で彼等と一緒に暮した事もないくせに、と言ってしまっては身も蓋《ふた》もない。彼には真剣にそう信じたがる理由があった。感化院を出たのちどうしたか、と野坂氏に訊かれて、彼はこう答える。  ぼくは、社会へもどったら、オレが刺した相手と対等になろうと考えていた。ところが出てみると、相手は向う側だ。社会対ぼくなんです。感化院の中で考えたことが、社会では通用しない。  これは、内部で燃焼させるよりしかたがない。つまりおのれに勝って、そこに自分自身を見出すよりほかない。これは苦しい経験でね。つまり、周囲の眼を問題にせず、完全に内側へ眼を向けて消化していこうとした。それがなかったら、いま、小説家でなかったでしょう。むこうの視線に反応し、反撥する、ということを続けていたら、いまごろ刑務所に入っていますよ。自分が強ければ、相手の眼を突き伏せていける。弱ければ負けます。それをどうやって克服していくか。  感化院体験は架空であっても、この発言には真摯《しんし》なものがある。「社会対ぼく」という関係の苛酷さを、彼は、朝鮮人として生れ、日本に帰化して生きて行く過程で、度重ねて味わされたに違いない。「剣ヶ崎」の石見次郎は、自分に朝鮮の血が混っていると人に打明けると、「相手の態度が目に見えない速度で変って行き、よそよそしくなっていくのです」と韓国人の父親に訴えている。少年院の経験者も、その事実を知られると同時に、相手が俄かに態度を変える場面に、繰返し出遭うだろう。その痛みの消え難さを骨身に染みて覚えていたために、立原正秋は、少年院の少年たちを“仲間”として、敢えて美しく描かなければならなかった。「周囲の眼を問題にせず、完全に内側へ眼を向け」る生き方は、宇野行助の「私の内面の問題」に固執し、容易に心を開かない姿勢と照応していよう。安に触れた件《くだ》りは、日ごろの立原正秋があからさまにしたがらない優しさに溢れた部分である。読者もそれに敏感に反応して、連載中には健気な安の生き方に共鳴する投書が多かったという。  単行本「冬の旅」は、新潮社から上下二冊に分けて刊行され、ベストセラーとなった。一九六九年に初版を出し、十年後の七九年に絶版となるまでの間に、上巻は四十万七千部、下巻は三十九万六千部を売り尽した。文庫版は一九七三年からの十七年間に八十三万二千部が出て、なお版を重ねている。「私はある婦人から、『冬の旅』によってはじめてこういう小説家がいるのを知った、ときかされた」と立原正秋は、連載途中に読売新聞に載せた随筆に書いた。直木賞受賞に続いての成功で、「世に出た」との感慨が深かったであろう。これ以後、彼は、自分には百万人の読者がいる、と真顔で言うようになる。  初めての新聞小説と並行して、立原正秋はもう一つ忙しい仕事を引受けた。第七次〈早稲田文学〉の編集長である。〈早稲田文学〉は、丹羽文雄、石川達三、火野葦平の責任編集による第六次が、一九五九年に八冊を出しただけの短命に終ったのち、刊行が跡絶えていたが、一九六七年の秋ごろから早稲田の学内で、新庄嘉章教授を中心に復刊の計画が具体化して来たのである。当時は遠藤周作編集長の〈三田文学〉が、斬新な誌面を作って注目を集めていた。それに刺戟された一面もあったであろう。新庄教授は、〈早稲田文学〉の復刊は「長い間の夢」であり、「それは、教師生活に埋没していた私の、文学へのノスタルジーだったかも分らない」と回想記に誌している。  初め編集長に指名されたのは三浦哲郎氏だったが、氏は編集の経験がないのを理由に辞退し、代りに立原正秋の名を挙げた。彼ならば〈犀〉の編集を通して統率力は証明済みだし、また早稲田は先輩が大勢いて人間関係が難しいので、鼻柱の強い人の方が適していると考えたからであった。「冬の旅」の連載が始まって間もない頃、三浦氏は新庄教授の同意を得て、腰越に立原正秋を訪ねた。編集長になってほしい、と切り出すと、立原正秋は快諾したという。  その話を聞いて、私ははなはだ意外であった。「自然主義の亜流で泥臭い早稲田派の文学」と「早稲田派の文学老年どもの家族主義」は、彼がかねがね罵倒して已《や》まないものだったからである。彼の秘かな早稲田への愛着を、私は知る由もなかった。  彼が私に編集委員をやれと言って来たのは、復刊発表の記者会見が行われる一週間くらい前だったと思う。私は断った。まだ勤めを続けていたし、何よりも大学を母胎として文芸雑誌を出す事に、意義があるとは思えなかったのである。しかし立原正秋は例によって、一たん言い出したら後へ退かなかった。「お前さんがどうしても厭だって言うんなら、俺は共同通信の前で坐り込みをやる」とまで言われて、私はとうとう引受ける羽目になってしまった。  半年足らずの準備期間を経て、第七次〈早稲田文学〉は一九六九年二月号から発足した。その「復刊の辞」は、〈犀〉のときと同じく立原正秋の署名入りであった。  待望久しい第七次《早稲田文学》の復刊第一号をお届けします。私の識るかぎり、このような言挙げは無署名が慣わしのようであります。過ぐる年、私はある文学誌を創刊したとき、創刊の辞を署名で誌しましたが、この《早稲田文学》復刊の辞もまた署名で誌さねばなりません。まことに腹だたしい限りですが、ことおしなべて無性格な世に聊《いささ》かなりとも鮮明な文学誌をおくろうとするためには、編集長の署名による言挙げがのぞましい、という後藤明生、高井有一、三浦哲郎の発言により、このような風変りな復刊の辞を誌す次第です。だいたい、この復刊の辞は、前記三人の共同製作文を発表するはずだったのですが、彼等は当代の文殊《もんじゆ》で、三人寄っているうちに無性格な文を製作してしまい、竟《つい》に言挙げを編集長におしつけて逃亡してしまいました。それに、編集部のなかでも、秋山駿は胆石症、後藤は胃病、高井と三浦はともに糖が出て血圧がたかい、などと言っていますが、私より若い彼等が持病を大切に抱え歩いていることも、私には許せない気がします。  編集部の内情暴露から始める復刊の辞は、まさに「風変り」であるが、実態は彼が言う通りだったのだから、私は苦笑するしかない。私たちが拵《こしら》えた「無性格な文」を手渡した翌日、「何だ、あれは」と、電話で呶鳴られたのを思い出す。このあと復刊の辞は、「早稲田出身者の特性である義理人情の世界が文学には通用しないこと」を明言し、「どれほど高い志を抱いても、それが高すぎるということはありません」と、新人に期待をかけている。 「黴《かび》のはえた老文学青年」の原稿が、大学関係者や先輩作家を通じて持込まれる事を、彼は警戒した。長年文学修業に打込みながら、志を得られないでいる人々に誌面を提供するのも非営利的な雑誌の使命の一つだ、という意見も編集部内にはあったのだが、彼は、それをやったら雑誌の鮮度が覿面《てきめん》に落ちる、と言って聞き入れなかった。  編集会議などというまどろこしいものは開かず、原稿の取捨選択は彼が独断で行なった。私たちが手分けをして集めた原稿のすべてに彼が眼を通して、採否を決めるので、小川国夫氏のいわゆる鑑定家としての面目は、存分に発揮されたと言っていい。編集委員の原稿でも、気に入らなければ容赦なく没にした。没にされた編集委員は編集部から離れて行ったが、彼は意に介する素振りすら見せなかった。  型破りの復刊の辞は話題を呼び、私にも、今度の〈早稲田文学〉は活気があって面白そうだね、と声をかけて呉れる人が多かった。しかし雑誌の発行は、編集部だけの力でやって行けるものではなく、資金の手当を初め、運営の全般にわたって編集部の後楯《うしろだて》となる機関が欠かせない。当初の計画では、早稲田出身者が理事に名を連ねる早稲田文学会がその役割を受持つ事になっていた。ところが実際の仕事にかかってみると、この会が円滑に機能しなかったために、私たち編集部は、しばしば煩わしく不愉快な思いをさせられた。  早稲田文学会の会長は、尾崎一雄氏に依頼するという暗黙の諒解があり、立原正秋はかなり早い時期に、理事の一人の暉峻康隆教授と同道して下曾我《しもそが》の尾崎氏を訪ねて内諾を得ていた。それがのちの理事会で横槍が入って、白紙に戻されてしまったのである。あれこれと議論の末、会長は空席とし、理事長に石川達三氏が就任したのだが、その間の細かいいきさつを私は知らないし、今さら詮索する気も起らない。世にも下らない揉め事のおかげで、立原正秋は新庄教授ともども、尾崎氏に詫び状を書かなくてはならなかった。  編集室については、理事の一人から、自分が経営する新宿のマンションの一室を提供しよう、と申し出があった。新宿ならば地の利に申し分はなく、私たちは歓んだが、結果は糠《ぬか》よろこびに終った。下検分に出掛けてみると、その部屋には持主の荷物がぎっしりと詰め込まれていて、自由に使える部分は、机一つをやっと置ける程度で、とても仕事をこなせる環境ではなかった。仕方なく私は、編集実務を担当する鈴木佐代子さんと一緒に、町の不動産屋を探し歩き、ようやく四谷三栄町のアパートに決めた。坂の途中の路地に面した木造モルタル塗り二階建の階下の一室である。六畳二間の広さしかなく、奥の部屋の硝子戸を明けると、雑草の生えた僅かばかりの空地があり、その向うは波型プラスティックの塀で隣のアパートとの境が区切られているのが、何だか侘《わ》びしかった。五木寛之は「なめくじ横丁みたいだ」と評したが、私が与えられた予算の範囲内では、それ以上の所は借りられなかったのである。  紀伊國屋書店の一室に編集部を構える〈三田文学〉と較べて、あんまりみすぼらしいので、「補給も確保しないで戦争しろなんて、インパール作戦並みじゃないか」と私は毒づいた。不思議な事に、私がその種の文句を言うと、立原正秋は「まあ、そう怒るな」と宥《なだ》める側に廻るのであった。外部の筆者に払う原稿料が安過ぎるから値上げをしろと要求したときには、「腹が立つんなら、俺を殴れ」と言った。〈早稲田文学〉を成功させなければいけないという使命感が、それだけ強かったと思うしかない。  復刊第一号は、予算の都合もあるからなるべく簡素なものにしよう、と新庄教授が手綱を締めたにも拘わらず、部厚く派手な一冊となった。その校了日に、立原正秋のはしゃぎようは尋常ではなかった、と鈴木佐代子さんがその著「立原正秋 風姿伝」に伝えている。「見本刷りの表紙が出てくると、ゲラ刷りをその表紙で覆い、雑誌の体裁を整え、立原さんはそれを棚に飾った。それから数歩退《さが》り眺めて、悦に入った。はては、柏手を打って拝む始末」というのである。校了に立会わなかったのか、私はこの情景の憶えがない。  編集室に働く鈴木さんや古賀克子さん、手伝いの学生たちに対しても、彼は遠慮会釈がなかった。少しでも不行届きがあると、直ちに呶鳴りつけた。或る日私が編集室へ行ってみると、葬式の祭壇に飾る遺影みたいに、黒いリボンをかけた葉書が壁に貼り付けてあった。目次に誤植があったのに憤慨した彼が寄越した葉書であった。そんな役に立たない眼玉はさっさとくり抜いてしまえ、眼医者を知らないなら浜松の藤枝さんを紹介してやる、と例の大きな字が躍っているのを見て私はふき出し、居合せた連中と一としきり、彼の気の短かさを笑い話の種にした。鈴木さんや学生たちにしても、何かある度に呶鳴られているうちには、それを上手に躱す術が身に着いて来る道理である。逆にそうした術を身に着けない限り、彼とはうまくやって行けなかった、とも言える。  尤も彼は、呶鳴っているばかりではなく、彼一流の気配りもあった。鈴木さんには、頭ごなしに呶鳴りつけて一方的に電話を切ったあと、必ずしばらくしてから「さっきは無茶を言ったな」と和解の電話をかけて来たそうだし、週に一度か二度、編集室に顔を出すときには、大船駅で売っている鰺《あじ》の押鮨そのほか、学生への差入れを欠かさなかった。学生たちも彼になついて、骨惜しみをせずに働いた。新庄教授は、三栄町の路地を歩いて行くと、編集室から学生の談笑が聞えて来るのが楽しかった、と回想している。  ともかく〈立原編集長〉は、傍で見ていて、こんな調子でいつまで続くか、と心配になるくらい熱っぽかった。実績もめざましかった。短期間に新人を商業文芸誌に送り込む事と、小説家ほど発表の機会に恵まれない批評家に一冊の本になるだけの連載をさせる事、という二つの目標は、在任一年間でほぼ達成された。吉田知子、松原一枝、斎藤雅子、佐宗鈴夫、秋元藍といった人たちが他の場所で仕事が出来るようになったし、秋山駿の「歩行と貝殻」、進藤純孝の「志賀直哉論」、兵藤正之助の「野間宏論」が完成した。彼自身もこの成果には満足していたと思う。  しかし、月刊誌の編集と執筆活動の両立は至難の業である。夏を迎える時分には、彼の苛立ちが募って来た。新人の生原稿を読むのに時間を取られて、金になる連載小説を断らなくてはならず、「収入が半減した」と彼は言った。熱を入れてのめり込むにつれて、せっかちで他人任せに出来ない性格が剥出《むきだ》しになる。他の編集委員が自分のように働けないのは仕方がない、と理屈では解っていても、歯痒さに耐え切れず、あいつ等が愚図で怠け者のおかげで、俺が全部引被《ひつかぶ》らなくちゃならない、と声を大きくして非難する事が重なった。この種の言動は、周囲に伝わるともなく伝わって雰囲気に影響する。後藤明生と私は、立原正秋が先頭に立てばきっとこんな具合になるだろう、と予《あらかじ》め見当をつけていたから、別に驚きはしなかったが、編集委員のなかにはとても蹤いて行けず、編集室から足の遠退いた人もあった。  立原正秋の怒りは、動きが鈍くて、打つ手が後手に廻りがちな理事会にも向けられた。今でも私たちの語り草になっているものに、“クーラー事件”がある。  十月号の後記に、神社のお祭りの掲示板みたいに、寄附をした人の名が並んだ。  この後記でしばしばふれた冷蔵庫は六月に入り、クーラーは七月にはいりました。クーラーの寄附金は左記の如《ごと》くです。  五木寛之殿  五万円  野坂昭如殿  五万円  石川達三殿  弐万円  新庄嘉章殿  弐万円  暉峻康隆殿  弐万円  私がこの五人を脅迫してクーラーを寄附させた、という噂が拡がっていますが、そうした事実は殆どありません。五木と野坂が自発的に五万円送ってくれたとき、軽井沢滞在の老人達に、若い者にばかり金を出させてみっともないとは思いませんか、と便りを書き送ったことはありますが。いずれにしても五人の方には厚くお礼を申しあげます。  脅迫の事実は「殆どありません」というのは「老人達」への皮肉のつもりだろう。彼が編集室に入れるクーラーの寄附を求めたのは、四月上旬発売の五月号の後記が最初だったが、反響はまったく無かった。誰もが自分には関係のない事だと思って読み流したのだろう。業《ごう》を煮やした彼は、「早稲田出身者にはけちな人しかいないのでしょうか」と七月号の後記で追討ちをかける一方、発行人の新庄教授に宛てて、何度も手きびしい督促の手紙を出した。彼の手紙は例外なく速達で、朝届いた分に返事を書く暇《いとま》もないうちに、夕方になると次のが届いた日もあったそうだから、その苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》ぶりが知られよう。八月二日付の手紙には、「新庄長老と石川長老で十一万円負担して下さい。一万や二万のケチな金なら要りません」と激越な字句が、便箋代りの原稿用紙に躍っている。これを追いかけて、同じ趣旨の事を念を押す電報が来た。新庄教授は金を吝《おし》んだのではなく、当時たまたま他に出費の必要があって、機敏な措置が取れなかったまでなのだが、会長選任の紛糾や、編集室設営の不手際で、理事会は頼むに足りないと感じた立原正秋は、気長に待つ気にはなれなかったのだろう。新庄教授にすれば、こうまで難詰《なんきつ》されるのは心外であったに違いないが、雑誌を出し続けるためにそれを抑え、自身より二十歳以上も若い立原正秋に陳謝の手紙を書くのを厭《いと》わなかった。若しこのとき新庄教授が立原正秋の無礼を咎めて反撥したら、事態は更にこじれて、雑誌の空中分解につながりかねなかった、と私は思っている。  曲折の末に、十月号の後記のような形で騒ぎが収まったのちも、立原正秋の裡には釈然としないものが残ったらしい。八月七日付でこんな手紙を新庄教授に送った。  要件だけを申しあげます。  大隈会館で創刊パーティがあった日、理事会が持たれ、その時私は、編集長に金の工面までさせるのはよくないことだから、そういう風な「早稲田文学会」にしないでほしいと述べたことがあります。こんどのクーラーの件についても私が動かなければ金が集まらないというのではなんのための理事会かと詰問したいところです。とにかく私はこれ以上自分の仕事と生活を「早稲田文学」のために犠牲にしたくない。  十月号の校了は八月二十二日前後です。それがすんだら私は「早稲田文学会」からいっさい手をひかせてもらいます。石川理事長は「あとが続くよう責任をとっておいてくれ」と言うかも知れませんが、責任は理事長以下の中軸でとって欲しいと思います。自分の仕事は完全に半分以下、その上毎月金が消える、こんな編集長を誰がつとめられると思いますか。現実に私は税金が払えない情況です。申しあげなくても新庄先生には私の立場おわかりいただけると思います。  立原正秋が日頃にもましての早口で「俺はこれ以上編集長をやってるわけに行かねえからな、あとは高井、きみがやれよ」と電話をかけて寄越したのは、ちょうどこの前後であったろうか。私に、はい、と返事の出来る筈がない。私はひたすら彼を宥めるしか芸がなかったが、そんな応対は、ますます彼の苛立ちを高めたようであった。「とにかく俺はもう責任持てねえんだ」と叩き付けるように言って、電話を切ってしまった。  それにしても、十月号限りで投げ出すのは無責任の謗《そし》りを免れない。彼もそれには気付いたのか、新庄教授の慰留に応じて、年末発行の翌年一月号までは責任を持つという形で、ようやく事の結着が付いたのであった。  ここではっきりしておかなくてはならないが、立原正秋は、仮にも先生と呼ぶ人に、これでは酷過ぎるではないか、と言いたくなるような手紙を連発はしたものの、決して新庄教授を憎んだのでも、莫迦《ばか》にしていたのでもなかった。学生時代からの文学への愛着をずっと持ち続け、酬いられる事の殆どない新人のための雑誌の発行に力を傾ける新庄教授に、彼は共感と敬意を抱いていた。編集長を辞めて五年後の随筆「裏方について」に彼は、新庄教授が、誰にも言わずに私財を投じて雑誌の赤字を補填《ほてん》した事に触れたあとで、「いまとなってみると、先生のこの夢を十全にかなえさせてあげるべきだった、と憾《うら》みがのこる。編集長としてもうすこしとどまるべきだった、と後悔もある」と書き、「先生について、あれは正直で馬鹿な男だ、という噂をきく。新庄先生、馬鹿な先生に馬鹿な弟子がいることをもって了とされよ」と結んだ。  もともと立原正秋の憤懣《ふんまん》の真の対象は、新庄教授ではなく、要職に就いていながら責任を取らず、金も捗《はか》ばかしく出さない別の「長老」であった。しかしその人物に直接文句は言えないので、身近な新庄教授に当った傾きがある。「先生」に甘えていたとも言える。  二代目の編集長に就任したのは、有馬頼義氏であった。有馬氏とは旧知の間柄だった私は、そのまま編集委員に留まったが、それが間違いだったと気が付くのに、時間はかからなかった。また揉め事が起って来たのである。  有馬氏はかつて〈風景〉編集長として腕を振った経験があった。それだけに気負いがあったのか、立原編集長は独裁で編集会議も開かなかったため、編集委員の間に不満があった、と書いた文章を〈文学界〉に発表した。だから自分はその反対に、皆の協力を求めて編集をやるつもりだ、という風に話が続くのだが、この文章には、私の眼から見て事実誤認というより捏造《ねつぞう》に近い部分が含まれていた。その上、有馬氏は立原正秋が依頼をして連載途中の作品を、すべて打切る、と独断で筆者に通告した。これは暴挙と言うほかなく、立原正秋が怒らなかったらどうかしている。「おい、一体どういう事なんだ」と、私に詰問の電話をかけて来た。事情を知らなかった私が愕いて有馬氏に連絡すると、此方は此方で「いつまでも前の編集長が取った原稿に拘束されるようじゃ困る」と不機嫌そのもので、取付く島がなかった。  数日経って、立原正秋から後藤明生と私に呼出しがかかった。気が重かったが仕方なく鵠沼海岸の仮住居を訪ねると、彼の机に書き上げた原稿が置いてあった。「東京新聞に送るつもりだ」と前置きして、彼はそれを読み上げた。私はいま先輩作家から謂《い》われのない非難を浴びている、として自分の立場を明らかにする解嘲《かいちよう》の文であった。有馬氏を攻撃する舌鋒《ぜつぽう》は、当然ながら鋭かった。読み終えて彼は、何か言う事があるか、といった顔付きで私たちを見た。しばらく気まずい沈黙があったあと、「それを出すのは止めて下さい」と私は言った。新聞紙上で反撃されれば、気位の高い有馬氏は激昂して、新旧編集長の非難合戦になり兼ねない。〈早稲田文学〉の恥を世間に曝すようなものだし、何よりもいざこざはもう沢山だ、と私は思った。そして、事を収めるために二人のどちらかに我慢してもらわなくてはならないのならば、私には、より親しい立原正秋に頼むしかなかったのである。それに対して彼は、むろん承知をしなかった。連載の件は、私が有馬氏を説いて復活させるようにする、と約束しても、うんと言わなかった。有馬氏と私が以前から付合いがあるのを彼は知っていたから、同じ穴の狢《むじな》だと思ったかも知れない。その後の遣取りを、私は全く憶えていない。普段のように酒を御馳走になったのだろうが、それすら記憶にない。  中三日くらい置いて、立原正秋から葉書が来た。それには、有馬氏への反駁文を取止めた、と誌したあとに続けて、「お前さんとは袂《たもと》を分つことにした」と書いてあった。私はその葉書をゆっくりと引裂いた。仕方がないな、と思いながら、やはり気が滅入った。  絶交状は以前にも受取った事があった。そのときは編集室の鈴木佐代子さんから、「立原さんからの絶交状を預っていますよ」と電話で知らされた。鈴木さんの本によると、私はそれを聞いて「へえっ、といって愉快げに笑った」そうだが、絶交の理由は忘れてしまった。どのみち些細な事に立原正秋が癇癪を起したに過ぎなかったろう。ちょうどその頃、彼は新しく本を出したが、「立原さんは後藤と高井とは絶交したんだ、なんて息巻きながら、せっせと献呈本に署名してたから、もう直き届きますよ」と、可笑しそうに伝えて呉れた編集者があった。要するに双方とも遊び半分だったので、間もなく私たちの仲は旧に復した。しかし今度は前のようには行くまい、と私は覚悟しなければならなかった。  せめて彼との約束を果すために、私は、連載打切りを撤回するよう有馬氏に求めた。それが容れられなければ、強談判《こわだんぱん》も辞さないつもりだったが、有馬氏は前と打って変って、「ああ、そんならいいですよ」とあっさりしたものであった。大名華族の御曹司の有馬氏を、私たちは蔭で“殿様”と呼んでいたが、こんな風に豹変《ひようへん》して動じないところも、殿様気質《かたぎ》の現れと解すべきだろうか。五木寛之に案内されて大勢で金沢へ旅行したとき、有馬氏は城の石垣を見上げて、「こういう所で兵隊使って戦争してえな」と言った。殿様にしてみれば、配下の編集委員などは、顎《あご》で使われていればいいだけの雑兵でしかなかったのかも知れない。  立原正秋との絶交は、秋になって彼が、松茸を食いに来い、と声をかけて呉れたのをきっかけに解消した。傍眼には馴れ合いのように見えたとしても不思議ではないが、私には彼に赦されたという負い目が遺った。  有馬編集長時代までを含め、私が編集委員を勤めた三年余りは、右往左往しているうちに、たちまち過ぎてしまったような気がする。残念な事だが芳《かんば》しい思い出は多くはない。立原正秋は「裏方について」のなかで、「第七次『早稲田文学』については、人間関係と金銭関係で不愉快な経験が多く、そこをくぐりぬけてきて虚しい思いに」なった、と書かなければならなかったが、その虚しさは私も共有している。 七章 東ヶ谷山房 〈早稲田文学〉編集長を辞めた一九七○年の七月、立原正秋の好みと自己主張を存分に生かした家が、鎌倉郊外梶原《かじわら》山分譲地の一ばんの高みに建った。彼は附近の古い地名から採って東《ひがし》ヶ谷《やつ》山房と名付けたが、黒い瓦葺の大屋根が遠くからも聳《そび》え立って見える家は、侘《わ》びた庵の趣とはむしろ対極にある。その内部を事細かに紹介した文章を、彼は雑誌に発表した。  下が五十坪、二階が十八坪、合計六十八坪だが、山頂で風が強いので、寺のような大屋根にし、二階は屋根の中にすっぽり入りこんでいる。したがって家全体の感じが直線的である。  合理的な家ではない。いたるところに無駄な空間をつくった。八畳の玄関を無駄だといえばそれまでだが、この無駄が私には大切だった。玄関を入ると向うに中庭が見える。これも無駄な空間である。無駄こそは最大の贅沢というのは、私の子供の頃からの生活の信条であり、これは動かせない。  八畳の書斎、八畳の寝室、そして客間の和室は、それぞれ洋間、廊下より二十五センチ高くなっている。和室が洋間より高い位置にあるのは、使ってみてきわめて具合がよい。座敷が板の間より高いほうがよいのは、これは感覚の問題だが、この感覚は風土と切りはなせない。洋間から戸をあけて廊下を歩いてくると、九センチ高い廊下があり、その左に書庫、右に寝室、突きあたりに書斎があるが、書斎と寝室は、九センチ高い廊下よりさらに十六センチ高くなっている。この高低が、日に何回かそこを歩くあるじの感情に変化をもたらしてくれる。  立原邸にはスリッパがなかった。あんな無粋な履物はこの家に似合わない、と主《あるじ》は考えたのだろうか。糠袋《ぬかぶくろ》で磨き上げた檜の廊下を靴下履きで歩くのは、どうも滑りそうで危かしかった。客は先ず、庭に向って大きく戸口を開いた十六畳の洋間へ通される。その中央に置いたソファと肘掛け椅子は、黒い柔かな革張りで、買物に付合った鈴木佐代子さんによれば、小さな家なら一軒建つくらい高価なものであった。客のないときには、その上に陽除けの覆いがかけてあった。私はそこで何度となく夫人の手料理を御馳走になり、泊めてもらう夜は、隣合う「二十五センチ高い和室」に眠った。そして翌る朝起きて行くと、主は決ってきちんと身づくろいをし、ソファに坐って新聞や郵便物に眼を通しながら、寝坊の私を待ち受けていた。  作庭にも彼は工夫を凝らした。大学の農学部を出た若い庭師に指示して、丹沢山から運んだ雑木を主体とした庭を、一年がかりで作り上げた。楢《なら》、榛《はん》の木、槐《えんじゆ》、えごの木、山桜、楓《かえで》、山椒《さんしよう》、山萩《やまはぎ》、沙羅《さら》、三つ葉躑躅《つつじ》などが植えられた。作庭の常識を破って、「樹木がそなえている恣意《しい》的なかたちをそのまま生かしても庭になるはずだと私は考えた」と彼は言う。雑木の配置が終ると、更に梅、柿、杏子《あんず》、柘榴《ざくろ》、くろがねもち、白木蓮《はくもくれん》、満天星《どうだん》、辛夷《こぶし》そのほかを植え、苔《こけ》のついた富士石の大きいのを数箇埋めた。生垣は寒椿と山茶《さざん》花《か》である。軒下には白っぽい伊勢ごろ石を敷きつめ、それに沿って庭との間に、くすんだ伊勢五色石を詰めた幅一米《メートル》、深さ十五糎《センチ》の流れを拵《こしら》えた。これは雨水を流すためである。こうして「われながらなかなかの庭になった」と感服するほどの庭が出来上った。 「まいにち庭を眺めて小説を書くのをなりわいにしている以上、庭は私の発想の一部分であらねばならない」と彼は、庭に金をかけた理由を述べているが、それは表向きの建前ではなかった。随筆集「旅のなか」の中扉の絵を描いた和田喜美子さんが調べたところでは、彼の作品に現れる植物の種類は、梶原山に居を定めて二年が経《た》った一九七二年を境に、ぐんと増える。一九六九年の「去年《こぞ》の梅」が三十種、七○年の「紬《つむぎ》の里」は三十六種だったのに、七二年の「きぬた」が六十三種、七三年の「残りの雪」も同じく六十三種と、ほぼ倍増しているのである。彼は何かがきっかけとなって「発想が動き出した」という表現をよく用いたが、作品に出る植物の増加は、自然をそのまま取り込んだ庭を眺めているうちに、発想が動き出す場合が多くなった事を示していよう。  新しい家の門前には、主の筆で書いた立札が立てられた。  遠路をお越し下されまことに恐縮ですが仕事の性質上予め約束をした以外の方にはお会い出来ません 悪しからずそこからお引取り下さい 正秋      いわゆる愛読者、ファンと称する人たちが、時間を構わず押しかけるのを防ぐためのものだったろうが、私は、彼が城を築いて立て籠ったのに似た印象を受けた。前の腰越の家は、砂地にあって松の木に囲まれ、海風が吹き通った。友人や編集者が気軽に訪れ、彼も夏の暑い日は開衿《かいきん》シャツ、冬にはスエターを着た書生のような恰好でみんなに応対した。それに較べて梶原山の天辺《てつぺん》の家は、外界からしっかりと区切られ、主はいつも選《え》りすぐった和服を身に纏っている。それだけのイメージの差が生じたような気がした。私は相変らず遠慮をせずに出入りしていたが、気分の上では環境の変化の影響を受けなかったとは言えない。旧〈犀〉の同人で東ヶ谷山房を訪れた者は、ほんの一握りでしかなかった。時代が変っていた。  理想をほぼ実現した家に住んで、主は満悦であったに違いないが、そこでの生活を支える家人の苦労は並大抵ではなかった。檜の廊下や雨戸の戸袋を糠袋で磨かなければならない、という一事だけでも、それを察するのに充分だろう。私は梶原山をどれだけ訪ねたか判らないが、僅かでも家の中が乱れていると感じた事は一度もなかった。手伝いの女の子を募集しても、長くは居付かなかったらしいから、すべては夫人と幹さんの労力に頼っていたわけである。  掃除に加えて食事の世話がある。 「一日が二十四時間では足りませんでした。もう十二時間ほしいと思ったくらい、毎日が忙しかったんです」  と光代夫人は言った。 「とにかく手間のかかる人でした。朝起きると、先ず食べる事から一日が始まります。少しでも胡麻化《ごまか》しがあると、たちまち機嫌が悪くなるので、手抜きをするなんてとんでもない。普通の人なら気が付かないところまで判ってしまうんです。どこでそんな事覚えて来たのか聞きたいくらいでした。腹の立つ事もありました。私の妹が言うんです。お宅は姉さんはもちろんだけど、子供たちまで一丸になって、お父さんにかかりきりじゃないの、とても真似出来ないわって」  味覚が異常に発達している、と自称し、貧乏をしていた頃でさえ、母親の作る食事が気に入らなければ、遠慮会釈なく膳《ぜん》を引繰り返した主を満足させるには、二つの条件を満たさなければならなかった。季節の物をさきがけて出す事。同じ種類の物が短い間に重ならないようにする事。簡単なようでいて、これは難事である。日々の献立にそうそう変化のつけようはない。どこの家庭でも、基本の形は数種類に決ってしまっていて、それに少しずつ手を加えて順繰りに食卓に上《のぼ》せるのだろうが、その当り前なやり方を、立原正秋は極端に嫌った。これはこの間食べたばかりじゃないか、と直ぐ叱言《こごと》になる。だから幹さんは毎日の献立を記録しておいて、似た物を出さないように神経を使った。  近所の店で間に合わない買物は、幹さんの受持であった。学校の帰りに鞄を提げたままデパートへ寄って、塩辛や干物など、父親の好きそうな物を捜すのである。そして家へ帰って玄関で「只今」と言うなり、書斎から「お前、何か旨い物を買って来たか」と声が飛んで来る。あまりの性急さに、時には「お父さん、あたしは学校へ行ってるのよ」と抗弁しながらも、総じて幹さんは、並みの娘なら三日で厭になりそうなその役目を、嬉々《きき》として勤めたようである。  しかし立原正秋は、専制的な家長として我儘放題に振舞ってばかりいたのではない。家族への気遣いも欠かさなかった。  彼の最後の年の春、精密検査のため東大医科学研究所附属病院に入院する少し前に、銀座の呉服店紬屋《つむぎや》吉平から、光代夫人に電話があった。先日、御主人が奥様向きの紬を一反お買上げになったのだが、こちらで仕立ててよろしいだろうか、との問合せであった。何も知らなかった夫人が驚いて、書斎の主人に告げると、「ふらっとあの店の前を通りかかったら、お前さんに恰度《ちようど》合いそうなのがあったので買っておいたよ。気に入らなければ返したっていいんだよ」と返事があった。夫人は「あなたが見立てたのなら間違いはないわ」と仕立てさせる事にした。くすんだ紫色の紬である。それが仕立て上って来た日、夫人は、「お父さん、これに名前を付けて下さい」と頼んだ。もともと立原家には、着物を新調する度に、その畳紙《たとう》の端に〈結城《ゆうき》〉とか〈大島〉という風にその種類と、購入した年月日を主人の筆で書き入れておく習慣があったが、名前を付けて、と頼むのは初めてであった。立原正秋はその日、身体の具合が悪そうだったが、黙って筆を執り、〈紫匂《むらさきにほ》ひ〉と書いた。それより一年前、加藤唐九郎が焼いた志野の茶碗に、彼が選んだ銘と同じである。 「君をまだ奈良へ連れて行ってなかったね。これを着て一緒に行こう」と彼は言った。「あら、お父さん、当てにしないで待ってますわ」と、夫人は笑って言ったそうである。彼の穏やかながら弾みのある声を想像するのが、私には愉しい。尤もこの約束は、半年後の彼の死によって空しくなった。 「やっぱり虫が知らせたんでしょうか、長年連れ添って呉れて有難うっていう気持で、通りがかりに見た反物を、あれに似合いそうな柄《がら》だからと、ぱっと買っちゃったんじゃないかと思います」  あとに遺された夫人は、瑞泉寺《ずいせんじ》に墓が建ってから間もなく、〈紫匂ひ〉を纏って一人で墓前に立ち、「お父さん、着させて頂きました」と報告して、独楽《こま》のようにくるくると廻ってみせた。それだけの儀式を経て、ようやく最後の贈物の紬を、普段に着られるようになったのであった。  梶原山へ移ってから、「冬のかたみに」を完成する一九七五年に至る五年間は、立原正秋が最も多彩に活動した時期であった。「夏の光」「舞いの家」「きぬた」「血と砂」「残りの雪」「夢は枯野を」「冬のかたみに」と長篇が相次いで生れ、「渚《なぎさ》通り」「曠野《あらの》」「果樹園への道」「紬の里」「幼年時代」と短篇集の刊行も重なった。随筆集は「秘すれば花」と「坂道と雲と」が編まれ、評論には「男性的人生論」と「愛をめぐる人生論」がある。新聞雑誌のコラムを執筆する機会も多くなり、一九七四年の下半期には、東京新聞の文芸時評を担当した。私たち友人へは、新刊の本が次つぎと送られて来た。その数の夥《おびただ》しさに、後藤明生が「ついでに専用の書架を送って下さいよ」と、冗談を飛ばしたのは、この時分である。立原正秋は苦笑して「馬鹿野郎」と言ったという。私は、出版社からの増刷通知の葉書の束を見せられて、流行作家とはこういうものか、と感じ入った覚えがある。  順風満帆の歩みの背景には、高度経済成長によって繁栄する社会があった。古典志向の強い彼は、戦後の社会に美的節度が失われたのを嘆き、金銭と能率万能の風潮に嫌悪を示し続けたが、一方では、高度成長の余恵を蒙《こうむ》って、金銭的にも時間的にも余裕を得た女性たちが、派手やかな作風の彼の小説の、最もよい読者となった事実は争えない。彼の作品を日光東照宮になぞらえた人があった。彼が聞いたら激怒したに違いないが、一面の真実を言い当てている、と私は思う。  鎌倉文士の稼ぎ頭は立原だ、とやっかみ交りに噂《うわさ》されるようになって、彼は生来の一流好みを存分に発揮した。東京へ出れば帝国ホテルを常宿とし、洋服はすべて壱番館で仕立てさせ、料亭は吉兆を贔屓《ひいき》にした。普段に飲む酒は三千盛《みちざかり》を岐阜の蔵元から取り寄せ、茶は大井川上流で採れる川根茶を欠かさず、電車は決ってグリーン車に乗った。いつか旧〈犀〉同人の旅行でグリーン車が取れず、満員の普通車に乗せられたときの不服そうな顔は、思い出しても可笑しい。  吉兆については逸話がある。読売新聞連載の「その年の冬」の開始前、新聞社の幹部や挿絵画家との顔合せ会の会場に、彼は吉兆を指定した。一流の料亭で一流の料理を食べて話をしなければ、一流の新聞小説は書けない、というのが彼の言い分であった。吉兆は読売でも社主か社長以外には使わない場所なのである。当日、会は六時に始まるのに、彼は四時ごろにやって来て、板場へ入り込み、今日は俺の会だからあれを出せ、これを出せと注文をつけた。そして他の人たちが揃うと、今日の料理はこれ、酒は何々に決めました、と一渡り講釈をした。吉兆に顔の利くところを見せたかったのだろう。担当の中田浩二記者は、困った事になった、と思ったが、遮るわけには行かない。ひとり立原正秋の言動ばかりがぎらついて、その日の会は話が弾まないままお開きになったという。後日、中田記者は文化部長ともども経理局長に呼び出された。吉兆から桁外《けたはず》れに高い請求書が来たのであった。中田記者は行きがかり上、連載小説は必ず評判にさせてみせます、と請け合わなくてはならなかった。「その年の冬」はその言葉の通り広く読者に迎えられたのだから、一流の料理を食べて一流の小説を書くと豪語した立原流は、成功したと言えるだろうか。彼の得意な顔が見えるようである。  しかし、“百万人の読者”を獲得して流行作家にふさわしい暮しをしながら、立原正秋の心の裡には、不遇感がわだかまっていたかと思える。文壇での文学的評価が芳しくなかったからである。〈文学界〉に連載した長篇「きぬた」が完結して間もなく、梶原山を訪ねて雑談していたら、何がきっかけになったのだったか、彼が、 「俺のこの間の小説は黙殺されたな」  と言った。その声に呻くような響きがあったので、私は咄嗟にまともな受答えが出来なかった。言われてみて気が付いたのだが、「きぬた」は文芸時評にまったく取上げられなかった。文芸雑誌の連載小説は、本領と自負する純文学を書く心組みで臨んだだけに、文壇の評判なんか気にしない、と常づね言ってはいても、黙殺はやはり応えたのであろう。  一九七二年の九月、講談社から「現代の文学」全三十九巻が刊行され始めた。戦後に登場した作家の作品を集めた小規模な文学全集であるが、そのなかに立原正秋の巻はなかった。彼を敢えて除外した編集委員たちの真意は明らかでないが、多分に通俗的なところがある物語作家の印象が濃かったのだろうか。この時は、立原さんがひどく怒っているとの噂が、編集者を通して聞えて来た。武田勝彦氏の紹介によって、アメリカの日本文学研究家数人と識り合い、英訳本も出たのを歓んで、「日本の批評家なんかより、外国の研究家の方がずっとよく解って呉れる」と洩《も》らしたのを私は聞いたが、それも不遇感の一つの現れだったろう。  彼が死んだ日の夜、葬儀の打合せの席で子息の潮さんは、「父は文壇から何一つ恩恵を受けていませんでした」と断言して、私たちを愕かせた。立原正秋が文壇に揺がない地位を占めていた事は間違いないが、純文学作家として評価されないのを不当だと感じ続けていた様子は、家族にも察しられたのであろう。  山川草木、花鳥風月をよすがとして生きて行くほかはない、としばしば口にする一方、小説家として当然ながら、彼は俗世間への関心が旺盛《おうせい》であった。気に食わない出来事が起ると、笑って済ませられなかった。「醜いものが目の前にちらつけばやはり斬りすてるよりほかない」と血が騒ぎ出す。そうした姿勢が取り分け顕著に現れたのが、「男性的人生論」である。  一九七一年六月から文藝春秋発行の〈諸君!〉に連載したこの評論には、第一章が大塩平八郎の義挙から筆を起して、現代の大企業の倫理に及んでいるのからも判るように、かなり気負った正義派的口吻が窺える。その第三章で、百二十回連載の約束で書き出した新聞小説を、その三倍に延びてもまだ終らせず、後続の筆者に迷惑をかけて顧みない老作家が、自制心のない男の標本として糾弾される。「この老作家の本は現在売れゆきがよくないそうである。ところが本人は、僕の本は何万部は売れるはずだから、と言って譲らないそうである。ある版元では、本は五千部しか刷らず、印税は二万部分を支払ったそうである」と話は続いて行く。老作家の名は文中には明らかにされていないが、舟橋聖一氏である。  更に第八章では、芥川賞直木賞の選考委員のなかに「役に立たない廃馬」がかなりいて、これから書ける若い人たちを賞から落している、と攻撃した。「大分県の宇佐神宮で、かつては皇室のものだった一頭の立派な廃馬が神馬《しんめ》として境内に飼われているのを見たが、人間もやはりこの馬のように出処進退をきれいにした方がよい」と皮肉ったのである。「廃馬」には舟橋氏が含まれている。  芥川賞直木賞を主宰する文藝春秋は、この原稿を受取って困惑し、全部を削ってもらえないか、と申し出た。立原正秋は全部の削除には応じなかったが、芥川賞を単に「文学賞」とするなどの改訂を認めた上で、〈諸君!〉の連載をその号限りで打切った。再びそのような事が起ったら、文藝春秋との間で喧嘩になるのが眼に見えていたからだ、と彼は説明している。そして舞台を〈潮〉に移して連載を再開し、そこに〈諸君!〉で削除した部分を公表した。  思いがけない非難を浴びて、舟橋聖一氏が激昂したのは無理もない。表立っての反論こそしなかったが、氏の主宰するキアラの会の会員や親しい編集者には、大分憤懣を洩らしたらしい。舟橋氏も我儘で感情の起伏が激しく、何事も我流で押し通す点では人後に落ちない人だったから、舟橋・立原の喧嘩は、恰好のゴシップの種となった。立原正秋が兄事した吉行淳之介氏は、キアラの会の会員でもあったが、二人の確執に触れて、「私としては、立原の舌鋒にもいささか行き過ぎを感じたし、舟橋さんにも言われるだけのところはあるとおもった」と書いている。公平に判定すれば、そのようになるのであろう。舟橋氏が歿《ぼつ》したとき、立原正秋は故人に呼びかける形の追悼文を発表したが、そこでも「悉皆屋康吉」を名作と評する一方で、「私はあなたが生きているときにあなたを批判したので、あなたの死後もあなたを批判する権利を保有しているわけです」として、敢えて死屍《しし》に笞打《むちう》っている。 「男性的人生論」の攻撃性は、彼の反骨の現れだと一部の人の喝采を博したが、直線的に過ぎる物言いが却って真意の伝達を妨げ、彼自身の孤立を深める結果ともなった事は否めない。私は、大刀を振り廻したような文章よりも、むしろ彼には珍しい朝鮮人に係《かかわ》る問題への言及の方に眼を惹《ひ》かれた。 金嬉老《きんきろう》事件のとき、私は、進歩的文化人から、彼を救う会に名前を貸してくれと言われたがことわった。本人が獄中で私の〈美しい城〉と〈剣ヶ崎〉を読み、是非作者に会いたい、と言ったそうだが、やはり私はことわった。私は彼の心情を理解はしたが、結果を承認できなかった。朝鮮は南北にわかれているにせよ、独立した国である。重力に適応した体位をとるのが当然ではないか、というのが私の考えであった。それに、右であれ左であれ政治のにおいのする団体、会には顔をださないのが私の信条である。  いまひとつ、韓国でスパイ活動をおこなったうたがいで韓国当局につかまり、死刑の判決を受けた徐勝、徐俊植兄弟について、徐君兄弟を救う会、というのが、徐勝君が在学していた東京教育大学を中心にしてうまれたのは、去年の秋だった。この会には政治的な色彩が感じられなかったので、私は会に名をつらねてもらった。そのとき私はつぎのような一文を会によせた。  徐君兄弟がなにをしたのか私には判りませんが、もし兄弟が南北統一の手がかりをつかむためになにかを仕出かしたのであれば、この死刑判決は無慙《むざん》にすぎます。若い生命がこのようにして断たれるのは、まことにしのびないことです。私はかつてこのような署名運動には一度も名をつらねた事がなく、ましてや資金の一部をになったこともありません。私はいわゆる進歩的文化人ではありません。花鳥風月を愛している一文士に過ぎません。わかい生命を思うと愛惜にたえません。寛大な処置を願ってやみません。  私はこの一文といっしょにきわめてすくない金を同封した。救う会の人達は自弁で歩きまわっていた。この会の人達の視線は公正であった。しかし私はこのような集まりに出て声を大にしてさけぶのが出来ないたちで、竟《つい》に会には一度も顔を出さなかったが、あの兄弟を救いたい気持はいまも渝《かわ》らない。  これに続けて「私は論理より倫理を大切にしたい」という一節がある。彼の標榜する政治嫌いは、本心からのものであったと思う。文名が揚ってからは、在日韓国人関係の団体に加わるようにとの勧誘を一度ならず受けたが、虚名を利用されたくない、と見向きもしなかったし、議員に立候補する友人から推薦者に名を藉してほしいと頼まれた場合も同じであった。〈徐君兄弟を救う会〉に名を連ねるについて、若い生命への愛惜をしきりに強調したのは、自らの立場を崩したくないための配慮に他なるまい。しかし政治犯の助命運動への協力は、動機の如何に拘らず政治的色彩を帯びてしまうものであり、彼自身それに気付いていなかったとは考えられないから、「きわめてすくない金」を醵出《きよしゆつ》した事は、彼の唯一の“政治的行動”であったと言えるかも知れない。  在日朝鮮人作家の仕事にも、注意を怠らなかった。李恢成が「またふたたびの道」で登場したとき、「これだけ古風な勁《つよ》い文体をつくり得たのは、ひとつの驚きですらある。その意味で、この作者は日本の魯迅であり朝鮮の魯迅である」と讃辞を呈した彼は、「男性的人生論」でも、李恢成の芥川賞受賞を日本文学の国際化として捉えた江藤淳氏の文芸時評を引用し、更に金達寿氏や金石範氏が芥川賞の選に洩れたのは、選考委員の「歴史感覚の欠如」のせいだと腹を立てている。 「立原さんには兄者《あにじや》的意識があった」と、李恢成は私に言った。血を同じくする彼には、立原正秋の発言の裏側にある心情が、たやすく読み取れたのだろう。立原正秋は、「またふたたびの道」を読むと直ぐに、是非会いたい、と自宅へ招き、高価な松阪牛の焼肉でもてなしたという。破格の好意の示しように、李恢成は身内を庇護《ひご》する朝鮮人気質を見出している。 「むかし、日本の特高警察が朝鮮人の政治犯を捉まえるには、その家の祭祀《チエサ》に張込めばいいって言われていたんです。朝鮮人はどこに隠れていても、先祖の祭には必ず出て来るから。そんな話が伝わっているくらい、朝鮮人は祭祀を大切にする。農民的お祭り気分があるんですね。立原さんにもそれはあったんじゃないかなあ」  立原正秋の生涯は「〈在日〉のまぎれもない一つの生態であり、その厳粛さを持つ」というのが李恢成の考え方である。私などの前ではあからさまに口にしなかったが、〈朝鮮〉と〈朝鮮人〉とは、立原正秋の念頭から離れなかったのだと思われる。  一九七三年三月三十日から、日本経済新聞に「残りの雪」の連載が始まった。「冬の旅」、「舞いの家」に次ぐ三つ目の新聞小説である。彼は生涯に五篇の新聞連載を手がけたが、「残りの雪」は、物語作者立原正秋の本領を最もよく示している。  この小説は、作者が理想とする男女の関係を語ったものと言っていい。主人公の里子は、六年前に結婚して一児を産んだが、夫が「私はだめな男です」という書置きと離婚届を遺して失踪してしまったため、北鎌倉にある実家へ戻って来ている。彼女はいつも連れ立つ男より三歩あとを歩き、叮嚀な言葉遣いを崩さない性格だが、すべてに引込み思案なのではない。実家で暮す退屈な日々の気晴しに、田園調布の骨董店へ週三回の勤めに出たのが縁で、紙業会社の社長の坂西浩平と識り合うと、むしろ自分から進んで深い仲になる。旅先の京都で初めての夜を過した翌る日、男に向って「これから、あなたに、すべてをあずけてもよいでしょうか」と訊き、「いいでしょう」との答を得た上で更に続けて言う。「わたし、自分では、わがままでないつもりです。かなりのことに辛抱できると思います。ですから、わがままは申しあげません。そのかわり、ちゃんとかまってくださいますか」。男はむろん里子の頼みを受け容れる。そのあと「里子は幸福な感情になっていた。ほぼ十全にちかい純粋感情になっていた。もう暗い衝動は消え、苦い感情もなく、前夜いらい体験してきた世界にひたすら調和を求める意識だけがあった」と作者は書く。坂西浩平を知るまで、里子は「女になっていなかった」のである。  坂西浩平は、里子を少しいびつな李朝白磁の一輪挿しの壺になぞらえる。「かたちがととのいすぎているのは、どこかに大きな欠点があるものです」と言って里子の感情をそそる。彼は趣味人である。坂西紙業は資本金八千万円の中企業であるが、社長の彼は着流しで出勤し、「塵裡《じんり》に閑を偸《ぬす》む」毎日を送っている。朝鮮の焼物を愛し、骨董の目利きである。業界の会合には殆ど顔を出さず、暇があれば骨董屋を見て廻る。金儲けに関心はない。社業で得た利益は最大限まで社員に還元し、商社が金に飽かして米を買い占めるような世の中を、末世だと嘆じている。これで同業他社との競争に勝って行けるのかと心配になるが、作者の関心はそんな所にはない。坂西浩平は美的存在なのである。加えて彼の妻は病身で、夫が他の女と関わりを持っても、相手が玄人《くろうと》である限り文句は言わない。ごく通俗的な意味まで含めて、男にとって理想的な環境が、彼のために用意されている。  坂西の性的振舞は、「やさしかったが要所々々が野蛮だった」と里子に感じさせる。「開くところは思いっきり開き、刺すところは底まで突き刺す、といった野蛮さがあった」。男女の物語を数多く書いた割に、立原正秋の性描写は尠いのだが、この作品ではそれが彩り鮮やかに繰返して現れる。  京都に次いで二人が旅した先は、箱根湯本である。紅葉に囲まれた小さな旅館で、里子は坂西に求められるままに箏《こと》を弾き、坂西は「いまさらに山へかへるなほとゝぎすこゑのかぎりは我やどになけ」と、古今集の歌を口ずさむ。宿の内湯には色付いた楓《かえで》や錦木《にしきぎ》の葉が舞い込み、その一ひらは里子の乳房の窪みに挟まれて動かなくなる。湯上りの二人は、まだ明るいのに一つの床に入る。  里子は男の言葉をききながら流れにまかせていた。貫かれているだけで二度目の山がきた。ああ、と声をたてた。川の流れと女の流れがひとつになり、どこまでも流れていった。乳房に紅葉がまつわりつき、いっしょに流れていった。これでは躯《からだ》が染まってしまう、どうしましょう……。  二度目の山を越え、流れにまかせているうちに、男が流れに合わせてきた。ああ、これでは死んでしまう、と男の背中にまわした両腕にちからをこめたとき、大きな山がやってきた。里子は腕をとき、無意識のうちに左手の指を噛《か》んでいた。明るさのなかで声がもれるのを恥じたのだろうか……坂西はいびつになった女を上からみおろし、これは紛れもない白磁だ、と響いてくるものを感じた。  里子は流れにまかせていた。近江の里坊の流れなのか、湯本の流れなのか、場所はさだかでなかったが、乳房に紅葉をまつわらせたまま、どこまでも流れて行った。夏と秋と行きかふそらのかよひぢはかたへすゞしき風やふくらん……。坂西が渋い声でうたっているのがきこえた。川の土手の上でうたっているらしかった。あなた、この流れをとめてください、と里子はさけんだが、声にはならなかった。  隠れ家に似た山間《やまあい》の宿、舞う紅葉、調べ高い箏の音、契りをうたう古歌と、道具立てを調《ととの》え尽したなかでの、性の交わりである。男女は生身の人間であるよりも、人形が演じているように見えて来る。すべては一場の絵空事であるが、その絵空事を完璧に仕立て上げて行く作者の技倆《ぎりよう》の冴えは、見事と言うほかはない。立原正秋は能の美を飽きずに語り、「秘すれば花、秘せねば花なるべからず」と説いた「風姿花伝」については、大学で講義が出来るだけの蘊蓄《うんちく》がある、と友人に自慢をするほどだったが、「残りの雪」のような作品から私が連想するのは、むしろ人形浄瑠璃の舞台である。あでやかな衣裳を着けて人形が舞い、太棹《ふとざお》の音が鳴り渡っている。  しかし、いかに美しくとも絵空事の連続では、十箇月連載の長丁場を乗り切れはしない。絵空事の美に酔いながらも、読者はどこかで現実との接点を求めているのを、作者は知っていただろう。坂西と里子の世界に対置して、里子のもとの夫、工藤保之の失踪後の日々が描かれなくてはならなかった。  工藤は「誠実だが気が弱く、自分の主張を相手の前ではっきり言えない男」である。「洗練された生活を積みかさねてきた様式のなかからうまれでてきた里子」と暮して彼は安らげず、同じ会社にいた二歳年上の戸板千枝の「大きな乳房」に惹かれて、前後の見境もなく家を棄ててしまう。新宿の裏町にスナック・バーを開き、千枝の「饐《す》えていたが懐かしいにおい」のする身体に溺れて過すうちに、彼は留め処なく崩れて行く。千枝の金を持ち出して競輪に熱を上げる。里子と会って離婚の手続をきちんとしなくてはいけないのに、立派な美しい妻と顔を合せる勇気がなくて、逃げ廻ってばかりいる。店の手伝いの女に手を出して千枝と別れたかと思うと、また縒《よ》りを戻す。  物語が結末にさしかかったあたりで、里子が工藤の居所を突き留めて訪ねて来る。極く短い対面の間に、里子はもとの夫が以前よりずっと口数が多くなり、妙に図太くなったのを知った。一方の工藤は、「妻が別人のように臈《ろう》たけた女になった」のを「まざまざと視《み》た」。彼は妻に「渇望のまなざし」を向けるが、すべては手遅れで、どうする事も出来ない。  二組の男女を対比して描いているという言い方は、この作品の場合正確ではない。作者は〈美〉を至上の価値として、醜いものを裁いている気配がある。工藤保之は作者によって情容赦なく追い詰められる。里子が四季の自然が美しい鎌倉に住み、身も心も委ねた男に連れられて、京都、近江、箱根、越後と、情感の豊かな旅を重ねるのとうらはらに、工藤は、晴れた日にも濁った弱い陽しか照らない裏町を一歩も出られない。かすかな後悔を絶えず感じながら、女の身体に埋没して毎日をやり過すばかりである。「開かれた社会というものが見えなかった」「なにひとつ処理するちからがなかった」と作者に断定されてしまった彼には、他に生きる道は鎖《とざ》されているに等しい。  真当に生きて行けない弱者の心の襞《ひだ》にも、小説家の筆は分け入って行くべきだ、との批判は当然あるだろう。しかし、勁く美しいものと弱く醜いものの間には、乗り超えられない差異があると主張して已《や》まない作者の態度が、読者を惹き付けた事も間違いないだろう。立原正秋が好んで描いた男が女を作り上げて行くような男女関係について、「あんなにうまく行く筈がない」とは、女性の読者がしばしば洩らす感想だが、それがうまく行ってしまうところに、快感を覚えるのでもあるらしい。完結後の作者の弁によると、里子と似た境遇の女たちや、里子を愛する女たちから、沢山の手紙が届いたそうである。  作品の成功とは別に、「残りの雪」はもう一つの収穫を彼にもたらした。当時の日本経済新聞社社長、圓城寺次郎氏との出会いである。圓城寺氏は新聞の紙面作製にコンピューターを初めて導入し、新聞社の情報産業化に先鞭《せんべん》をつけた業績で知られる経営者である。「残りの雪」の連載が始まった一九七三年三月は、氏が心血を注いだ全面コンピューター方式による日経産業新聞が創刊された半年後に当る。経営者として絶頂の時期にあったわけだが、立原正秋はそうした事には気付いていなかったかも知れない。彼が接したのは、もっぱら圓城寺氏の趣味人としての一面であった。  美術に造詣《ぞうけい》が深く、焼物に詳しい圓城寺氏は、「残りの雪」に朝鮮陶磁の話が出て来るのに興味を持ち、作者に会ってみて、彼が上質のコレクションを観る機会に恵まれず、優れた古美術商との面識も無いのを知った。それでは私が手引きをして差上げよう、と申し出たところから二人の交際が始まった。交際と言うよりも、思いがけない好意を歓んで、立原正秋が圓城寺氏の懐に飛び込んで行ったと言った方が適切だろうか。圓城寺氏は美術の展覧会を数多く手がけた関係から、蒐集家《しゆうしゆうか》と結付きが深かった。滅多に人を入れない安宅《あたか》コレクションの収蔵庫に一小説家を案内し、所有主の安宅英一氏に紹介する事も出来たのである。  安宅コレクションを訪ねた日は、立原正秋にとって忘れられない日となったかも知れない。収蔵庫まで同行した現〈藝術新潮〉編集長の山川みどりさんは、床に坐り込み、李朝の壺や花瓶を一つひとつ抱きかかえるようにして眺め入る立原正秋を見ている。好きだ、可愛い、という感情が、全身から溢れ出すようであったという。  圓城寺氏を囲む趣味人たちの集りに、〈ちんちろ会〉というのがあった。当時東京国立博物館企画課長だった林屋晴三氏が肝煎《きもいり》役を引受け、博報堂会長の近藤道生、陶芸家の金重素山、舞踊家の武原はん、古美術店坂本不言堂主の坂本五郎、茶人として知られる北村謹次郎、料亭吉兆の湯木貞一といった人たちが顔を合せて茶事を催す。近藤道生氏によれば「圓城寺さんのお人柄の幅の広さ、奥行の深さをそのままコレクションにした人選」にもとづく会であった。ちんちろ会とは、京都の北村氏の茶室の松永安左ヱ門命名による庵号《あんごう》、珍散蓮《ちんちりれん》に由来する。蓮には、小庵とか亭《ちん》の意味があるそうである。  この会に立原正秋が加わった。大阪の吉兆で茶事があったときの事である。吉兆主人の自慢の唐物の茶入が席に出された。十三世紀か十四世紀に作られたもので、生地《きじ》は紙のように薄い。立原正秋はそれを見ると、いきなり手を伸ばして取上げ、何で作ったかを確かめたかったのか、人差指を折り曲げて叩いてみた。みんなの注目が一斉に彼に集った。また別の日、やはり吉兆で肉料理が供されたとき、「これは甘すぎる」と、一と口食べてみて彼は叫んだ。吉兆の主人が驚いて出て来るほどの大声であった。これも席に連なった人々の眼にはなはだ奇矯《ききよう》に映った。  自己顕示欲がそんな風にさせるのだ、と言ってしまえばそれまでである。しかし私には、自分とは出自の異る人たちの中に立ち混って、精一杯に気を張っている彼の姿が見えて来てならない。 「立原さんには、文化がなかったから辛かったでしょう」  と、林屋晴三氏は私に言った。伝統が自然に根付いた環境に育っていないから、という意味であろう。手きびしく聞えるが、宇治の茶の家に生れ、十代の初めから表千家の茶を徹底して仕込まれた林屋氏のような人には、確かにそう見えるのであろう。どんなに秀れた人間でも、一代で文化を身に着けられはしない。 「文化がないものだから、何事も理屈で学んで、自分流の観点から切って行くしかなかったのですね。すべてを言葉に現して納得しないと気が済まない。自分を納得させるために文章を書いていたようなものじゃなかったでしょうか。それが彼の独自性であり、強さであったとも思いますが」  圓城寺次郎氏は、立原正秋の言動の裏にあるそうした哀しみを充分に察しながら、黙って見守っていたようである。  格式のある茶事ばかりでなく、気軽に顔を合せて焼物や食べ物の話を交す会合を重ね、仲秋名月の夜に唐招提寺で催される観月の会に招待されたりするうちに、立原正秋の圓城寺氏に対する傾倒は、日を追って深まった。会えば「御大《おんたい》」と呼びかけ、やがて「最近私は古陶磁を学ぶため日本経済新聞社社長の圓城寺次郎氏のもとに弟子いりした」と随筆に書くようになる。ちょうどそのころ送った手紙には、彼が圓城寺氏を慕う気持がおのずと滲み出ている。  世にも稀な美酒二本お届けくださり有難く御礼申上候 また大和路にての酒代として莫大なる金子《きんす》を頂戴致し恐縮に御座候 さらば連載小説成功せざれば 生きてま見ゆるかんばせ無きものと覚悟仕居《つかまつりをり》候 正秋       昭和五十一年三月吉日   圓城寺次郎師  ここに言う「連載小説」とは、一九七七年の四月から日本経済新聞に載せた「春の鐘」である。大和路を舞台として、小さな美術館の館長を勤める男と、信楽《しがらき》焼の窯元の娘との恋の物語だが、作中にちんちろ会の人々をモデルにしたと直ぐに判る一群の人物が折り折りに姿を見せる。圓城寺氏は二階堂公明といういかめしい名前で出て来る。主人公は「僕は二階堂さんからはいろいろなことを学んだよ」と恋人に言い、「ながいこと目をかけてもらい、かわいがられてきたが、これだけ気の合う年上の人もいなかった」と考える。立原正秋は、ちんちろ会の付合いから得たものを小説に生かしたかったために、主人公を美術館長に仕立てたのかも知れない。連載が終ったのち、彼は、モデル料を払うとの名目で、ちんちろ会の一同を、近江長浜の鴨料理屋へ招待したそうである。  こう書いて来て思い出した事がある。「春の鐘」の連載中だったと思うが、或る日私は、彼と銀座で晩飯を一緒にする約束がしてあった。ところが夕方近くになって、彼から電話がかかって来た。 「おい、今日は駄目だ」  私が受話器を取るなり、彼は言った。 「日経の社長に捉《つか》まっちゃったんだ。こればっかりは断れねえんだよ」  いずれ埋合せはするから、と言い訳のような事を言って、電話は慌しく切れた。心ここにあらずといった様子があんまり露骨なので、私は腹も立たなかった。当時私は、「日経の社長」について殆ど何も知らなかったが、仕事の上の関わりを超えて、親密な間柄にある事だけは察しられた。それから間もなく、彼は何かにつけて、圓城寺さんはこう言っていた、と〈師〉の意見を無条件に尊重する口吻《こうふん》を示すようになる。  一九七六年の一月号から十月号まで〈藝術新潮〉に連載した「日本の庭」は、ちんちろ会の人々から受けた刺戟に促された面があるのではないか、と私は思う。この企画を立て、取材にすべて同行した山川みどりさんによると、初めは抽象的で難かしそうな庭の美を、小説的な語り口で易しく語ってもらうつもりであった。 「ところが先生は頑張ったんです」  と山川さんは言った。 「見た事もないような漢字がたくさん出て来るので、毎回難かしいなあ、と思いながら原稿を見ていました。私が編集長だったら、先生もう少し何とかして下さい、と言ったかも知れません」  立原正秋が「頑張った」形跡は、何よりもその調子が高い文章に遺っている。例えば、武者小路千家の官休庵の露地では、雨落に埋め込んだ点前《てまえ》用の炭の美しさに着目して、そこからこんな風に考えを拡げて行く。 二列の炭は実に美しい。脆いが、しかしここには紛れもない美的発想がある。「わび」という美の概念ができたのは中世の歌論以後で、茶がこの「わび」をとりいれてからは、複雑で高い内容を持つにいたった。珠光《しゆこう》、紹鴎《じようおう》、宗易《そうえき》が歩んだ道は、宗旦《そうたん》が〈禅茶録〉で述べた道であった。また「火ヲヽコシ、湯ヲワカシ、茶ヲ喫スルマデノコト也」の道であった。不足の情態のなかで完全を求めた道であった。内に花を秘めることにより逆に心の贅沢を得る道であった。ここには精神的自足がある。そして、道具の置合せの形式的側面に「わび」あるいは禅による内面的側面を一致させたとき、侘茶《わびちや》は完成の域に達したのであろう。  彼がこの本に援用した作庭書、歌論書、茶道書、禅の語録、それに関連する古典詩文や現代の理論書、随想類は、私がざっと数えてみただけでも、五十種に近い。しかも彼は、文献の蒐集と検討に人手を藉《か》りなかった。何かお手伝いをしましょうか、と山川さんが声をかけても、 「いや、これはぼくが長い間興味を持って調べて来た事ですから」  と断ったという。 〈禅門の子〉と自称した立原正秋が庭を論じるなら、禅との関わりが主題になると予想するのが自然だろう。しかし出来上った作品は必ずしもそうではなかった。彼はむしろ逆に、龍安寺《りようあんじ》の石庭と禅の思想を直線的に結び付け、「無的な主体とか、形なき自己とかいったふうの深さというものが、あの庭の底にあるのです」と説いた久松真一氏の論を、「知的ミーハー族、女の子、禅に興味を抱いている外国人、殊にアメリカ人あたりには恰好の説明文」と揶揄して斥《しりぞ》けている。 「作庭は最初は荒《すさ》びであった」と彼は考える。それは慰み、遊び、と解釈してもいい。夢窓疎石《むそうそせき》は天龍寺の石組を作り、西芳寺《さいほうじ》の枯山水を組んだが、それは彼の禅僧生活の中の荒びであった。「中世という時代に、外では戦乱が続いているのに内ではせっせと庭をつくっていた人間がいた。その情念が私には面白いのである。ひとつの美を信じなければ出来ないことである」。こうして庭は、彼にとっての「美的体験が成立する場所」と結論づけられる。  彼はまた、禅僧の発想を受け止めて、実際に庭を作った「山水河原《かわら》者《もの》」の存在に注目する。宋画《そうが》を庭に移した頃には、たしかに禅と庭との関わりがあったが、「その後、山水河原者の出現によって枯山水は日本独自の造型芸術に変貌していった」とするのが彼の見方である。山水河原者は一介の職人であって、禅思想とは縁がない。「石型にしろ波型にしろ、これはすべて彼等の芸術衝動からうまれたもの」で、彼等の力によって「枯山水は空間芸術として確立」した。「作庭を意図し、またつくられた庭を批評する側と、実際に庭をつくった者とのあいだには距離がある。これまで枯山水と禅を結びつけた論には、この距離が測定できていない」。山水河原者についての考察が行き届いているとは言い難いが、美を解釈する手だてとして、安易に禅を利用したくないとする彼の姿勢は明らかに見える。それは「幼少年時代を臨済の寺でくらしてきた私は、禅とは解釈するものではなく、無相な自己を自覚することである、と識ってきた」という自負に照応するのだろう。 「日本の庭」を読んでいると、所どころで不意に著者の心情の吐露に行き当って驚かされる。大徳寺真珠庵を出て来て町を歩きながら、彼は奈良の仏像を見て歩いた三十年前を思い返す。「私はそのとき岐路に立たされていたが、美を信じるよりほかなかった」。堺の南宗寺の境内にある千宗易一門の塔の前に立っては、「かつて私は人生路上でさまざまな苦しみにであい、嗚咽《おえつ》しながらそれをなにものかにうったえた時期があった」と回想し、その途上での宗易との出会いが「忘れがたい」ものであった事を改めて思う。山水河原者について書けば、「私もまた山水河原者ではなかろうか」というところへ想いが行く。慈照寺を訪ねては、「政治家としては無能」であった足利義政が「美の目利き」であった事に触れて、「乱世にひたすら美を追うのは滅亡を視ていると同じことになる」と、「剣ヶ崎」以来の主題を確認する。多忙な仕事の合間を縫って、短い時間であちこちの寺や茶室を巡りながら、彼の裡に溢れて来るものがあったのであろう。  彼は取材を愉しみにしていた。旅に出る数日前になると、山川さん宛てに、今度のお弁当は何にしようか、と電話がかかる。五目鮨がいいです、と遠慮なく答えると、彼は当日、千代紙を折って作った箸袋まで添えた夫人の手作りの五目鮨を持参で、待合せの駅に現れるのであった。好みの香や茶も忘れなかった。宿に着くと先ず香を〓《た》き、茶を淹れる。香は廊下にまで流れ出て匂い、彼の所在を知らせた。  そんな風だから、随行者は旅先での食事に一ばん気を遣った。彼の好みを察して料理屋を探し、予め電話でどんなものが出来るか確かめてから出掛けるのだが、いつも結果がいいとは限らない。味が気に入らないとき、店の者の応対が面白くないときには、「みどりさん、不味いものは食わなくたっていいんだよ」と聞えよがしに言ったりした。いい食事にぶつからないと、一日の成果が上らなかったような気分に山川さんがなったというのも、無理はなかったろう。  注文がうるさい代りに、めがねに叶《かな》った店への肩入れも一と方ではなかった。洛北花背の峰定《ぶじよう》寺門前にある割烹旅館美山荘は、贔屓にした店の一つであった。山のもの川のものの自然の持味を生かした料理がいたく気に入り、重ねて足を運んだ。夫人を同伴した事があり、圓城寺氏と一緒に東京から車を飛ばした事もあった。のちには、料理人を志望した長男の潮さんを、遠い親戚の者だと称して、修業のために住み込ませるまでになった。立原正秋の息子だとはたちまち露見してしまったが、潮さんは時に鎌倉の実家との間を往復しながら、三年間水汲みからの修業を積んだそうである。  立原正秋の取材ぶりは、普通とはいささか変っていた。遠路はるばる目的の寺を訪ねても、ゆっくりと庭をぶらついたりはしない。せっかくの機会なのだから、しっかりと見て下さるといいな、と傍らで山川さんが思っていても、ほんの一廻りしただけで、「おい、行こう、帰ろう」という事になる。住職に会って話を聴くでもなく、自分の感想を述べるのでもない。カメラマンの野中昭夫氏が、これから写真を撮るのだから待って下さい、と引留める事もしばしばであった。いい物は一と眼見れば判る、というのが彼の信条であり、口癖のようにそう言ったものだが、「日本の庭」の場合は特に、語るべき事柄は頭の中で既に定まっていて、現地へ行くのはそれを確かめるためだけであったのかも知れない。 「いつも気を許さず、庭と対決するみたいでした」  と山川さんが言っている。 「庭の雰囲気に浸り込み、桃源郷の世界でぼうっとするような風情はなかったですね。決闘申込みに行ったみたい。使命感に燃えているのが判りました」  それほどせっかちな立原正秋が、例外的に寛いだ時間を過した寺があった。岐阜県多治見市の永保寺、京都西賀茂の正傳寺、宇治の黄檗山《おうばくさん》萬福寺である。一九九○年の十月上旬、私は、彼の足跡を辿って、この三つの寺を廻った。彼の心情の一端に触れられないまでも、十五年前に彼の眼を和ませた庭の景色の中に、私もまた佇《たたず》んでみたかった。  東京を発つ日は、折悪しく颱風が近畿、東海、関東を駈《か》け抜けて、天候が定まらなかった。午前十一時の名古屋は、横殴りの風に煽られた雨がプラットフォームの真中近くまでを濡らしていたが、そこから特急で三十分足らずしかかからない多治見は、どんよりと厚い雲が被さっていたものの、雨は降っていなかった。  永保寺の山門は、土岐川に沿った低い位置にある。水嵩《みずかさ》を増して濁った流れが、河原の石を噛んで下っていた。立原正秋がここを訪れたのは初冬であった。吹き抜ける川風を受けて、彼は、地勢こそ違うが「自分の育った禅寺」を思い返している。観光客がいない鎮まった境内の雰囲気が、更にその想いを深めただろう。庭は中央に弓形の橋が架《かか》った池があり、その向うの高台の崖から、幾筋もの滝が滑り落ちていた。崖の岩の間から、豊富な水が湧《わ》くのらしい。高台の天辺には、ささやかな六角堂が、ぽつんと置き棄てられたように建っている。立原正秋は「これは厭《あ》きない眺めだった」と書いたが、同じように私も眺めて厭きなかった。池のほとりを三たび巡り、木立の中の濡れた道を辿って高台に登り、また降りて来ては音を立てずに落ちる滝水に見入った。その間人影は、黒い作務衣《さむえ》を纏った僧が一人、庫裡を出て坐禅《ざぜん》道場の方へ庭を横切って行ったきりであった。立原正秋がしきりに称揚した「禅寺の閑寂」とは、こういうものなのかも知れなかった。  一時間が過ぎたころ、雨が落ち始めてたちまち激しくなり、池に小波《さざなみ》を立てた。迎えの車を呼ぶ電話をかけようとして、坐禅道場の玄関前を通りかかった私は、黒衣に草鞋《わらじ》履きの初老の僧が、式台に片膝をかける形で倒れ伏しているのを見た。薄暗い中で足袋がくっきりと白かった。一瞬私は、心臓の発作に襲われでもしたのかと思ったが、少しの間見ていても少しの身じろぎすらしないのが、却って或る意志を感じさせた。祈っているのだろうか。道場の玄関に伏して祈る慣《なら》わしが寺にあるのだろうか。私は気にかかって、電話を掛けたあともう一度玄関をのぞいてみたが、僧の姿勢はまったく変っていなかった。のちに識合いの臨済宗の寺の住職に訊いたところでは、それは新しく寺に修行に来た僧が、文殊菩薩《もんじゆぼさつ》を祀《まつ》る道場に入れて呉れるようにと伏して願う〈庭詰《にわづめ》〉の行であったらしい。  翌る日は朝からよく晴れた。京都の河原町三条から西賀茂の正傳寺へ向う車の年配の運転手は、近くまで行って道に迷った。「むかしは竹籔が鬱蒼《うつそう》として、それを目当てにして行けばよかったんやけど」と彼は言い訳した。「近ごろは家が込んでもうて、判らんようになりました」。通りがかりの郵便配達のバイクに先導してもらって、車はやっと山門に着いた。立原正秋は「畑のなかの舗装されていない田舎道を歩きながら、いま視てきた正傳寺の枯山水が、闇のなかの一点のあかりのように思いかえされた」と「日本の庭」の冒頭に書いている。道が舗装されない時分には、竹籔もまだ健在だったのであろう。「あかりといっても、無明《むみよう》の向うに浄土のあかりがみえる、といったような容《かたち》ではない。もっと乾いたあかるさであった」と彼は続ける。颱風が去ったあとの飛び切り明るい日に、その場所へ来られた偶然を私は歓んだ。  周囲を取巻く竹籔は伐り払われても、山門から本堂に至る緩やかな上り坂の参道を覆う木立は、昔のままに遺されていた。私の少し前を、若い男女が互いに腰を取り合ってゆっくりと上って行った。躑躅《つつじ》をあしらった平らな庭の白砂が、溢れ返る陽を受けて眩《まぶ》しかった。縁に坐って眺めると、低い白壁の塀で区切られた向うは、木立が刈込まれて空間が広く拓け、ずっと遠くに比叡山が望まれた。十月にしては異例に高い気温のせいか、山は夏の盛りのような靄《もや》に包まれてかすんでいた。立原正秋が賞めた「乾いたあかるさ」が、眼の前の空間に満ちている気がした。私は借景を生かした庭が好きだ。精緻《せいち》な構想に従って配置された石や木から離れて、遠景の山に眼を転じると、捉われた感覚が解き放たれるように感じる。庭を論じた立原正秋も、或いはそうではなかったろうか。若い二人連れは、額を寄せて囁き合いながら、寺の備付けのノートにしきりに感想らしいものを書き込んでいた。  宇治の萬福寺に着いたのは午後二時過ぎで、陽はまだ高かった。三門を潜って花崗岩《かこうがん》を敷いた参道の突当りに一段高く建つ天王殿に、双肌脱ぎの布袋和尚が、肥った腹を突き出して笑っている。開祖隠元の招きに応じて日本へ来た中国人の仏師、范道生が彫った像だそうだ。先年私は、中国旅行の途中に立ち寄った杭州の霊隠寺という寺で、ペンキ塗立てといった風に金ぴかに輝く巨大な布袋さまを見せられ、そのおよそ現世風な生なましさに毒気を抜かれると同時に、この寺に善男善女が大勢集る理由の一端が解ったような気がした。萬福寺の布袋さまは、霊隠寺の四半分くらいの大きさしかなくて可愛らしい。金色もぐっと渋くて生なましさに乏しいが、ゆったりとした身の構えと、口を明けた屈託のない笑顔とは共通している。私はつくづくと見入って、立原正秋が寛げたのは、若しかするとこの布袋さまの功徳ではないかと思った。どこへ行っても美意識に雁字搦《がんじがら》めにされていたのでは、息が詰まる道理である。  境内の一ばん奥、法堂の前の砂礫《されき》の庭は鎮まり返っていた。陽は変らずに明るいが、正傳寺の庭のような眩しさはない。白砂ではなく、やや褐色がかった砂礫である。四辺の回廊を観光客がちらほらと過ぎて行ったが、一木一草もなく、箒目《ほうきめ》を立てた砂礫が拡がるだけの庭に、注目して足を留める人はいなかった。 「この庭は造型からはおよそ縁遠い」と、立原正秋は書いた。  しかし私にとって、この庭には、現実には認識できない無限定の本体があった。冬の月の夜にこの庭を観じるとしよう。あるいは夏の太陽が中天から照らしている真昼でもよい。または闇夜でもよい。伽藍《がらん》と伽藍のあいだを風が吹きぬけているが、しかし金地院のような隙間だらけの庭ではない。なにもない庭だが心にしみてくる。これはなんだろう。  ここで彼は、「幼少年時代をすごした僧堂生活」を思い起す。 この庭に造型的な美を見出すことはできない。どこかに思いをとどめることもできない。風が吹きぬけている伽藍のあいだを、どこをどのように歩き去ってもかまわない。生きる責任は自分だけにある。  萬福寺の庭を、法堂の石のきざはしに腰かけて観じていると、無常が常態であることがなんとなく見えてくる。この庭にはなにもない。しかし「無」ではない。存在の欠如は感じさせない。「有」があれば、この「無」からその「有」を生じさせてくれるのではないか、そんなことを感じさせてくれる庭である。この庭が無限定な庭であることは前に述べた。風が吹きぬけている伽藍と伽藍のあいだをどこをどのように歩き去ってもかまわないというのは、たいへん怖いことである。  これは告白だろうか。尠くとも私の眼には彼が僧堂生活を送った韓国の鳳停寺と萬福寺の間に、共通するものは見出せない。二つの寺を結び付ける契機は、彼自身の内部にだけあったのだろう。その内部に立入れはしない。私はただ、石段にぽつんと一人腰掛けている立原正秋を想像して、満足すべきなのに違いなかった。人が何かに無心に見入っている姿には、迂闊《うかつ》に近寄り難いものがある。 「日本の庭」の取材に旅を重ねた十箇月の間、立原正秋はすこぶる元気であった。かなりきつい日程も苦にしなかった。初めてジーンズの上下を着たのが嬉しくて、山奥の寺の庭に転がる岩の間を、はしゃいで歩き廻ってみせたりした。料理も気に入ったものはすべて平げた。夕食後一たん眠って夜中に起き出し、それから町へ飲みに出かけるだけの体力があった。後になって思い返せば、酒が旨く飲め、食事を楽しめた最後の時期であったと言える。  ただ一度、おかしな事があった。連載の終りに近く、京都のホテルに泊ったとき、洗面所の飲用水に塩が混ぜてあって、咽喉に染みて仕様がない、と彼が怒り出した。「私は別に何とも感じませんけれど」と山川さんが言って、その場はそれきりになったが、或いは小さな炎症があって、冷たい水が染みたのかも知れなかった。  立原正秋が身体の不調を自覚したのはかなり早かった。一九六八年九月号の〈文学界〉に載せた短篇「海棠《かいどう》」には、作者自身とおぼしい主人公の胃に生じた「変な塊」の話が出て来る。それを切らずに放置すればあと五年の命しか保証しない、と医者に告げられた主人公は、五年あればやり遺した仕事の四分の一くらいは出来ると考えて、手術を避け、漢方薬で抑える方法を選ぶ。そしてそうした経過の一切を、海棠の花がしきりに散る鎌倉の光則寺の境内で、本多秋五氏をモデルにした太田圭五という人物に打明けるのである。  この事については、本多氏の追悼文にも、「胃癌だと医者に診断された、今は漢方薬で治療している、と打明けられた。困ったことになったと思い、信じたくない気持ちが強くあって、『この間の話、幻であれかし』と手紙に書いた」とあって、事実を裏付けている。しかしこの時は、小説に書かれたほど深刻な事態にならないで済んだ。光代夫人は医者にかかった事すら知らなかったという。立原正秋はもっと追い詰められるまで、家族には隠しておこうとしたのだろうか。「胃癌」は確定診断ではなく、その疑いに止まっていたのかも知れない。  一九七四年の七月から十二月まで、彼は東京新聞の文芸時評を担当した。その第一回の冒頭に、「躯《からだ》のあちこちに故障がおき、仕事をやすんで医院に検査に通っていたところだった」と書かれている。最終回の結びは「私の時評は、また躯がわるくなってきたのでこれで終わる」である。私はどこを悪くしたのかと気になって、電話をしてみた。「いやあ、大した事じゃないんだが、肝臓が少し腫《は》れてるんだ」と彼は言った。その程度なら酒飲みにはよくある症状だから、私はまるで心配しなかった。事実、その翌年の秋、「日本の庭」の取材を始めた時分には、彼はすっかり健康を取り戻していた。  それでも、そう長くは生きられない、という予感は、その頃から萌《きざ》していたのだろうか。野中昭夫氏は、一緒にする旅の途中で、彼が唐突に「俺は五十二までしか生きないよ」と言ったのを聞いている。また同じ年に小川国夫氏と〈短歌〉誌上で行なった対談「中世への接近」は、「おれは五十五で死ぬつもりでいるから」という彼の発言で終る。そのあとに(笑)と括弧付きで書いてあるから、深刻な意味合いで言われたのではなかったろうが、今となっては、彼の心の裡に蟠《わだかま》っていたものを忖度《そんたく》したくなる。 「日本の庭」の完結から、命取りとなった食道癌の発見まで、僅かに丸三年の月日しか残されていなかった。 八章 交遊抄 「晩年の彼は何かの機会に、おれはひとりぼっちだなあと、珍しく気弱な告白をすることがあった」と、加賀乙彦は「立原正秋の思い出」に書いた。私自身はそう直接には聞かなかったが、時に言葉の端ばしにそれに近い気配を感じないではなかった。「男性的人生論」に露わな攻撃的言辞や、ややもすれば一人合点に陥りがちな強い思い込みが、起きなくてもいい摩擦を起して、孤立を自ら招く傾きがあったようである。気を許した友人知己と向き合ったときの立原正秋は、実に人なつこい優しい表情を示した。彼を率直で面倒見のいい愛すべき人物として記憶している人は尠くない筈である。その半面、反りの合わない人間、意見を異にする相手と、距離を置いて即《つ》かず離れずに付合うのが、彼は不得手であった。また感情の振幅の激しさから、一時期親昵《しんじつ》した人とまさに掌を返すように冷たい関係になってしまう場合もあった。交遊の変遷を辿ってみると、彼の精神的な歩みの跡が見えて来る気がする。  彼と一緒に馬込の久保田正文氏を訪ねた日の事が思い出される。彼が「剣ヶ崎」を発表した一九六五年の秋だったと思う。途中、大森駅前の果物屋に立寄って柿を買った。十箇包んで下さい、と私が頼むのを、彼が横合いから遮った。 「おい、十箇なんて駄目だ。もう一つ買えよ」  人の家へ手土産にするのに、割切れる数ではいけない、というのであった。彼はその種の仕来《しきた》りに詳しく、かつやかましかった。  その日久保田氏は、近くの中華料理屋の座敷にわざわざ席を設けて、私たちを款待して下さった。老酒《ラオチユウ》を盛んに飲み、久保田氏を聞き役に廻して、私たちは勝手な事を喋った。〈文学界〉の同人雑誌評を長年担当して来た久保田氏が、 「小説は新人のものの方が面白い。立原君はもう新人じゃないから、これからは君の小説、ぼくは読まなくなるよ」  と言い、立原正秋が、 「いいですよ、読んで呉れなくたって。だけど迷惑でも本が出たら送りますよ」  と切り返す一幕もあった。  いい機嫌で多弁になった立原正秋は、本多、平野、埴谷といった〈近代文学〉の人たちをしきりに話題にした。「ぼくは、戦後文学なんか記録文学としてしか認めませんからね」と言いながら、その戦後文学の担い手の〈近代文学〉への親近感を素直に現していた。「平野さんはぼくの小説をけなしてばかりいるけど、あの人の言葉には温かみがありますよ」と言ったりした。  終始和やかかつ賑やかに話の弾んだこの日の情景を私がよく憶えているのは、のちに立原正秋が、〈近代文学〉の人たちとは訣別《けつべつ》すると宣言したせいかも知れない。  浜名湖会という集りがある。〈近代文学〉の後援者だった藤枝静男氏が、毎年六月に旧同人を浜名湖弁天島の宿に招き、二た晩泊りで旧交を温める会である。一九六一年に始まり、初めのころは還暦を迎えた人に記念品を贈ったりもしたらしい。そのうち旧同人がだんだん年を取って寂しくなって来たので、〈近代文学〉に縁のある若手を加える事になり、一九七四年には立原正秋が小川国夫氏とともに招《よ》ばれた。この会はほぼ全員が夜中の二時、三時まで起きていてお喋りをする。藤枝さん流に言えば「駄弁《だべ》る」のである。その話題が文学から逸れる事は先ず無い。  その席で立原正秋は、〈近代文学〉同人の関心や知識から日本の中世が欠落しているのはなぜか、と聞き質《ただ》した。埴谷雄高氏が「それはいい質問だ。本多に答えてもらえ」と言った。同席した久保田正文氏によると、詰問《きつもん》するような調子ではなかったそうだが、気負った質問が彼の言う“長老”たちの苦笑を誘った様子は察しられる。  それから二年経って立原正秋は、〈文学界〉一九七六年九月号の小特集「私の戦後文学」に寄せた「『近代文学』の人達」でこの日の事に触れた。中世の欠落に関する本多氏の答は、「戦争中、保田與重郎の存在が恐《こわ》かった、もし中世に頭をつっこんだら保田のようになるのではないか、それで中世から目を逸らせていた、ということだった」と誌し、次いで〈近代文学〉同人への批判の言葉を連ねている。尤も保田與重郎が恐かった云々については、本多氏が、あれは自分の発言とは違う、自分の保田に対する主な感情は不快、嫌悪であって恐怖ではなかった、と抗議し、立原正秋もその点は他の人の言葉が混入したのだと認めたという。他の人とは平野謙氏だと思われる。平野氏が晩年に書いた「恩賜賞受賞のこと」に、「戦後、なにかの座談会で、保田與重郎などの浪曼《ろうまん》派がコワカったという意味の発言をし、たしか高見順の賛成を得た記憶がある」との一節がある。  しかし個々の事実関係よりも、立原正秋がこの時期に、敢えて〈近代文学〉批判の文章を公けにした動機の方が、むしろ重要だろう。それを読んだ本多氏は、身体のなかのどこかが熱くなったというが、確かに彼の発言は〈近代文学〉の全否定に等しい。「『近代文学』の人達はいつになってもみんな文学青年である」と彼は先ず極めつけ、「文学を政治の優位性から解き放ち文学の自律性を確保することがこの人達の主な目的だったが、これはたしかに成功している。しかし鉄条網の外から眺めると滑稽な運動にしかみえない。政治と文学がちがうことははじめから判っているのに、あの人達はなんでいままであんな運動をしてきたのだろう」と続ける。これは時代的背景をまるで無視した論法と言うほかはない。保田與重郎嫌いは解らぬではないが感情的に過ぎる、「旗幟《きし》鮮明なのはよいが、幼児のようでは困る」と難じ、「この人達の川端康成嫌いもまた有名である」が、「そこにこの人達の限界があった」と断定する。そして結びは次のようである。 「近代文学」の人達はどうしてあんなに動脈硬化をきたしてしまったのだろう。動いているのは埴谷さんと後援者の藤枝さんだけである。本多さんは怠けていてなんにも仕事をしていない。かつての〈捨子〉のような作品を何故書かないのだろう。  成功した人間が、若い無名のころに世話をかけた相手を鬱陶しく感じ始めるのは、一般に有り得る心理だが、むろんそればかりではないだろう。一九七六年は「日本の庭」を連載した年である。「冬のかたみに」はその前年に完成している。日本の中世を拠《よ》りどころとして立とうとする意志が、立てるという自信に変ったとき、彼は〈近代文学〉が目障りになったのであろう。一方では〈ちんちろ会〉の人びととの親交が深まっている。〈近代文学〉から〈ちんちろ会〉へ、と言ってしまったのでは図式的に過ぎようが、彼の心情の傾斜は、ほぼそのようなものであったと推測される。 「立原君は流行作家になってからは、〈近代文学〉の連中には小説が解らん、と豪語したものですよ。実際にわれわれが褒《ほ》めない小説がどんどん売れたのだから、そう威張られても仕方がないけれどね」  と本多秋五氏は言った。 「道元の話を持ち出したり、能の面に凝ったり、あのあたりから大分距離が出来てしまった」 「剣ヶ崎」以後の立原正秋の小説を、本多氏は「冬のかたみに」を除いて読んでいない。「冬のかたみに」にしても、禅が本当に解っているならもっと易しい言葉で書ける筈だ、というのが本多氏の意見である。 〈近代文学〉の側にも、“流行作家立原正秋”を無縁の人間と看做《みな》す雰囲気が、かなり早い時期に生じていたのである。その事は平野謙氏の文芸時評から、立原評を拾ってみれば判る。「プロフェッショナルに毒されて、はやくもモティーフの緊迫を喪失したらしいこの作者の現状を、私は哀しむ」と書かれたのが、まだ直木賞受賞以前の一九六五年である。その三年後には、立原正秋は「一時期ヒイキ作者だったがゆえにあえて直言したい」という一行も見える。〈近代文学〉と立原正秋との別れは、双方に必然性があったのだと思うしかない。  平野謙氏が一九七八年四月に死んだとき、立原正秋は「平野さんとの距離」を〈文学界〉に発表した。平野さんには「左翼思想の洗礼を受けた文学者」に特有の「妙な選民意識」があり、「明治以前の文学にまったく興味を示さない」のは納得出来ず、「平野さんにほめられても私には違和感があった」と書いている。「けなしていてもあの人の言葉には温かみがある」と言った十二年前をまさに裏返しにした発言だが、初めは信頼した批評家の度重なる貶価《へんか》に、激しく反撥した彼の内心が読み取れる。「私はいつまでも文学青年でいるわけにはいかなかった」というのが、「プロフェッショナルに毒されて」云々の評に対する彼の回答である。彼の眼に平野氏の存在は、自分を黙殺する文壇そのもののように映ったのかも知れない。  本多秋五氏との交遊は、平野氏の場合と違って、「海棠」を読んでも判るように、ずっと跡切れずに続いた。文学観の相違は相違として、本多氏の人格への傾倒が深かったのであろう。しかし、それも最後には破綻が来た。  きっかけは、一九七八年に本多氏と江藤淳氏との間に交された〈無条件降伏論争〉である。その年の二月の文芸時評で江藤氏は、かつて平野謙氏が「現代日本文学史」の戦後の項に、「日本が無条件降伏の結果、ポツダム宣言の規定によって、連合軍の占領下におかれることとなった」と誌した事を取上げ、日本の降伏はポツダム宣言に明示された条件を受諾した上での降伏であって無条件降伏ではない、そのような明白な事実を取違える「精神の怠惰」が現在の文学の衰退をもたらした、と論じた。  これに対して本多氏は「『無条件降伏』の意味」と題する反論を〈文藝〉九月号に発表した。「われわれが、日本は『ポツダム宣言』を受諾して『無条件降伏』したという場合、日本は『ポツダム宣言』を受諾するに際して、最小限の希望条件さえまともにとり上げてもらえず、どんな希望条件について折衝する余地もなかったという厳然たる事実をさしている」と本多氏は主張し、江藤淳の「意気揚々たる姿勢には、どこか人をハラハラさせるものがある」と書いた。江藤氏が平野氏の認識を難じ、加えて戦後文学は「破産に逢着《ほうちやく》した」と宣告を下した事に、平野氏の盟友、戦後文学の擁護者として黙っていられなかったのであろう。 「『無条件降伏』の意味」が載った雑誌が発売されてからしばらくして、立原正秋は本多氏に電話をかけた。もうああいうものを書くのは止めて隠居をしなさい、藤枝さんを御覧なさい、と彼は言ったという。本多氏が腹を立てて、藤枝は藤枝、ぼくはぼく、それは藤枝も認めている、と言って押し問答になったのは当然だったろう。それから何度も電話や手紙の遣取りが繰返されるうちに、二人の間は冷えてしまった。  どうして立原正秋は、こんな無益なお切匙《せつかい》とも思える電話をかけたのか。彼が心底からの政治嫌いであったとしても、それが本多氏の論旨をでなく、発言した事自体を非難する理由にはなるまい。この喧嘩のいきさつを本多氏が「立原正秋全集」の月報に書いたなかに、立原正秋が押し問答の途中で、金大中は金玉均と同じで売国奴《ばいこくど》だ、と言った話が出て来る。どうしてか、と訊くと、外国の力を借りて革命をやろうとしたからだ、と答えた。それならば李承晩も朴正煕も外国の力を借りているではないか、との本多氏の反問には、それとこれとは違う、と言ったきりで、違う理由は口にしなかった。彼が二十九年ぶりに韓国へ渡り、朴正煕政権下の“漢江の奇蹟”とはやされた高度経済成長期の実態を見て来たのは、それより五年前だが、その頃から彼は反体制の人たちに好意を持たなくなっていたのだろうか。「こんなことをいう男とは話ができないと思った」と本多氏は書いている。私は、彼の交遊環境の変化が考え方にも影響を与えたような気がするが、それは推測の域を出ない。  立原正秋の生前、本多氏との和解の機会は訪れなかった。しかし本多氏が月報の文章を「生きて元気な間こそ、お互いに譲れぬ『一分《いちぶん》』がある。生死の間という『虚』の前におけば、そんなものはアブクである。彼と私は古い友人である。二人の間には切っても切れぬ繋《つな》がりがある」と結んでいる事は、特に誌しておかなくてはならない。 〈近代文学〉の人たちのなかでも、藤枝静男氏との間柄はまた格別であった。私が立原正秋と識合って間もない頃もらった手紙に、藤枝さんの人となりを紹介して、「あんないい人はありません」と書いてあったのを思い出す。藤枝さんと私たち〈犀〉同人との関係は、藤枝さん自身によれば「責任なしの後見役みたいなもの」であった。年齢はかなり離れているが、藤枝さんは、自分も小説家としては駈け出しだから、と言って隔てなく接して下さったので、私たちは敬意を持ちながらも、まるで年上の仲間のように親しんだ。  立原正秋は一九六一年に藤枝さんが賞金を出す近代文学賞を受賞して以来の付合いだから、敬意も親しみも取分け深かったろう。加えて二人には焼物という共通の趣味があった。尤もその趣味の傾向は対照的で、気に入ったとなれば何百万円もする李朝白磁の壺を買い込む立原正秋に対して、藤枝さんは「一万円以上のものは滅多に買わないというケチな信条をたてている男」と自称し、「実用から生まれた素直な温かさを残している中古品」が好みなのであった。いかがわしい品物を次つぎと藤枝さんのところへ持込む“盗掘屋”の話などを、私たちは歓んで聞いたものである。  私は、立原正秋と一緒に、浜松の藤枝邸を五、六回は訪ねているが、その度に二人の焼物談義を傍聴する形となった。談義と言っても、二人とも説明嫌いの直観派であり断定派だから、話が噛み合い、もつれ合うという風にはならない。互いの話を撥《はじ》き飛ばすような応酬が面白かった。立原正秋は「そんな事言ってるようじゃ駄目ですよ」とか、「そんな筈あるわけがないじゃありませんか」とか、頭ごなしに窘《たしな》めるような言い方をよくした。そう言われると藤枝さんは、「だってさあ、君」と、苦笑まじりに応じるのが常であった。「立原君はぼくを冷やかすためにやって来るんだからな、用心せないかん」と言ったりもした。何をどんな風に用心するのかと、私は可笑しかった。  いつだったか、立原正秋とは別に浜松を訪ねたとき、一枚の写真を見せられた。立原正秋がいかにも浮き立った様子で、顎《あご》を上げ、口を明けて笑いながら道を歩いていた。藤枝さんに案内されて行った骨董屋で掘出し物を見付けた彼が、得意満面になったところを、同行の人が撮ったスナップだそうであった。 「立原君は自慢をするとこういう軽薄な顔になるんだ。戒めのために、彼に送ってやろうと思っている」  と藤枝さんは言った。どうやらその掘出し物は、藤枝さんも食指が動いたのに、彼に先を越されたのが口惜しかったらしい。写真が本当に鎌倉へ送られたかどうかは知らない。  一九七七年の二月に、藤枝夫人が歿《な》くなった。故人の意志で葬儀は行われなかったが、弔問に行った私は、本多秋五氏、講談社の中島和夫氏、立原正秋、岡松和夫と藤枝邸で顔を合せた。立原正秋は前夜のうちに駈け付けて、ホテルに一泊したようであった。雛祭の桃の花が活《い》けられた下に横たえられた遺体に掌を合せ、霊柩車ではない救急運搬車が火葬場へ向うのを見送ったあと、私たちはしばらく言葉尠なに応接間の椅子に坐っていた。火葬場へは行かなかった藤枝さんが、天井を見上げて、 「ああ、悲しいものだな」  と大きな声で言った。誰も慰めの言葉など掛けられはしなかった。身じろぎも出来ないような感覚で坐り続けていると、立原正秋が不意に、 「おい、帰ろう。帰ろう」  とせき立てた。その声で皆が眼を醒まされたように藤枝邸を出た。浜松駅へ向って歩きながら、彼は、 「藤枝さんは泣きたいんだ。泣くところを俺たちに見られるのは厭だろう」  と言った。この言葉と、立原正秋の葬儀の折り、私たちが葬儀委員長をお願いすると、 「大役だな。しかしぼくは何でもする」  と打って返すように引受けて呉れた藤枝さんの言葉とが、私の記憶のなかに響き合うように遺っている。  立原正秋は、尊敬する年長の人に〈先達《せんだつ》〉という尊称をよく使った。〈長老〉も頻繁に用いたが、これはもう少し適用範囲が広い。彼が文句なしに文学上の先達として認め、終生敬意を失わなかったのは、川端康成、大岡昇平の二人であったと思う。  まだ笛田《ふえだ》に住んでいた時分、彼は、最近小遣い稼ぎに少女小説を書いている、と言って雑誌を見せて呉れた。中学生向けの雑誌のようであった。 「川端さんも、若いころには少女小説書いてるだろ」  と彼は言った。それは私も知っていた。 「ぼくはそれを読んでみたけど、川端さん、ちっとも程度を落してないんだ、だからぼくも引受けたんだ」  彼は、少女小説でもみっともなくないものを書ける可能性があるのを、川端氏の作品から教えられて勇気づけられた、と言いたかったのであろう。  彼には二篇の川端康成論がある。その一つ一九六九年の「川端康成氏覚え書」が強調するのは、「人生無常を年少のころに知った孤児の沈痛なひびきと、美にたいするしぶとい求道者《ぐどうしや》の姿勢」である。芭蕉、實朝、西行と、「漂泊者であり求道者であった」詩人の系譜につなげて、川端氏を位置づける。その背景には自分もまた孤児であり、「姻戚の家をたらいまわしにされ」て育ち、ふるさとを持てない漂泊者だとの自己認識がある。そして、「漂泊者の心情は漂泊者にしか解らない」と言い切っている。飛躍の多い文章だが、川端氏との一体化を求める作者の想いは、確実に伝わって来る。  二番目の「川端文学のエロティシズム」は、川端氏の死の直後に発表された。自裁を知らされた夜は、「あなたはこの美しい山河を見飽きてきたというのでしょうか、ノーベル賞などというつまらない賞を受けたがために。そんなおもいがむらがりおこった」と言う。東京都知事選挙の応援に走り廻るような川端氏の「荒廃ぶり」からも眼を背けていない。その上で谷崎潤一郎と対比して、川端康成の世界の検証を試みる。「川端氏の作品を支えている軸を、私は、ほの暗さ、にあるとみているが、この軸がそのまま『きたない美しさ』につながり、それがさらにエロティシズムにつながっている。このほの暗さは、生得の残酷なほどの直視の目がうみだしたものである」というのがその一結論である。  一九七二年四月十六日の夜、川端氏の遺体が発見された逗子マリーナには、大勢の人が詰めかけたが、その中に立原正秋も混っていた。「立原さんは端の方に立って現場をみつめていたけれど、直《す》ぐにさっと帰って行きました」と、新聞記者が私に伝えて呉れた。  大岡昇平氏については、ずっと早く一九六四年に「『花影』覚え書」がある。「その一巻が私の胸をゆさぶるのは、調べに溢れた鎮魂の響きにほかならない」と始まるこの文章に彼は珍しく評論と銘打ったが、中身は徹底した「花影」讃歌である。「この作品ほど主題と造形が一致して完成された作品は見当らない」「衣裳を更えるように男を更えてきた一女給の鎮魂歌をうたいあげる。これは強靭な文学精神だけが容易にそれをなしとげることができるだろう」「作者は表現のうしろで子供のように泣いているはずである」。一篇の趣旨は、これ等の言葉に尽きている。  彼の「情炎」が載った〈新潮〉が発売された直後だから、一九六五年の六月初めだったろう。その日私は、彼に連れられて初めて新潮社に行き、編集者に紹介された。「高井の作品は、一たんぼくが眼を通した上で、編集部に読んでもらいます」と彼は言って、それでいいだろう、というように私を顧みた。私に否《いな》やはなかった。帰りに一杯やる事になり、新宿の酒場へ寄った。そこでの話が「花影」の評判になったとき、彼はこう言った。 「あれはショックだった。ぼくも一度はああいう小説書きたいと思ってたから」  編集者の誰かが、「情炎」には「花影」に通じる部分がある、と言ったような気がする。「ショック」はよほど強烈であったらしく、一時期の彼は、意識的に「花影」の文体に近付こうとした形跡がある。例えばその年の暮の〈文学界〉に出た「焼けた樹のある風景」には、「徒花《あだばな》にしても花だけはひらくはずではないか、と節子はいまも二つのサフランを視つめながら思う」といった文章があり、江藤淳氏の文芸時評で、好感の持てる作品だが「大岡昇平氏の『花影』があちこちに反映しているのが気になった。作者の自重を望みたい」と注意を促されている。またその翌年の「流鏑馬《やぶさめ》」の、女主人公が最後に剃刀で手首の動脈を切って自殺する場面では、「闇がきた」「しばらくして全く闇がきた」と、有名な「花影」の結末をそのままなぞったと言っていいくらいに採り入れた。模倣と謗られかねないやり方に、立原正秋が鈍感であったとは思えないだけに、彼の受けた「ショック」が一過性ではなかった事が知られる。  一九七六年二月五日、大岡氏の朝日賞受賞を祝う会が東京会館で開かれた。招かれた大勢の参会者のなかに、私を含む何人かの旧〈犀〉同人がいた。開会の前、私たちが固まって喋っていると、立原正秋が歩み寄って来て、 「何だ、みんな来てたのか」  と私たちの顔を見廻し、 「おかしいな」  と呟いた。思い出す度にそれこそおかしくなるが、彼は、大岡氏の会に集る人びとが、選ばれた少数だと決め込んでいたのだろう。そうあって欲しかったのであろう。〈犀〉の連中なんぞ、余計な有象無象《うぞうむぞう》だったに違いない。  立原正秋の死を聞いて、大岡氏は当時連載中だった「成城だより」に、「取り敢えず弔電を発す。一度大磯の拙宅に見えられしことあり。歯に衣《きぬ》着せぬいい方、一匹狼のきっぷが好きだった」と誌した。別の項には文学賞選考に触れて「老廃選考委員の害、故立原正秋の八年ばかり前の摘発にも拘らず、文壇全般を蔽《おお》いて改まる気配なし」との記述もある。とかく白眼視されがちだった立原正秋の“過激”な言動を、大岡氏は好意を持って見守って呉れていた事が判って、彼に何よりの供養となった。  日本の中世に関心を持つ者として立原正秋は、「中世の文学」や「無常」の著者唐木順三氏の仕事に注目していた。唐木氏が「中世を再発見して独自の世界をくりひろげた頃、若年の私は、こういう見方もあったのか、と新鮮な驚きのもとに、いらい私は愛読者として今日にいたっている」と、唐木氏の「歴史の言ひ残したこと」の書評に、わざわざ書き付けている。  私は、一九六○年の冬、「無用者の系譜」が発刊されたとき、共同通信社の記者としてインタヴュウに出向いたのが縁で、唐木氏に親しくして頂き、いつか〈先生〉と呼ぶようになっていた。共同を辞めてからも、正月と、先生が信濃境の山荘〈不期山房〉にこもる夏休みとには、酒を提げて訪問するようなお付合いが跡絶えなかった。私もむろん愛読者ではあったが、先生の仕事をよく理解していたとはとても言えない。いつか酔った先生が、「お前とこうやって喋っていると気楽でいいなあ」と言われた事があった。私と先生との間はそのようなものであった。  一九七四年の正月、元日の夜を梶原山の立原邸に泊めてもらった私は、二日の朝に唐木先生に電話をした。先生に立原正秋を紹介したい気持があったのである。先生は「立原正秋なら会ってみたいな」と機嫌が良く、「女房はあの人の愛読者だよ」と言われた。私たちは、近くに住む岡松和夫がかねがね先生の仕事を尊重しているのを思い出して彼を誘い、潮さんの運転する車で南林間の唐木家へ向った。潮さんも先生の著作を読んでいた。  唐木家に着くと、陽当りのいい縁側に面した座敷へ通され、さっそく酒となった。  私はこの碩学《せきがく》の文人を先生と呼んだが、先生はいかんとご本人が言うので、最後は、順三とよび捨てになり、唐木氏は唐木氏で、文人は雅号を持っていなければならない、かりに今日は正秋斎《せいしゆうさい》にしておこう、ということで、やいッ正秋斎、やいッ順三、といったぐあいに酒がすすんでいった。  立原正秋の訪問記の一節だが、私は、この日ほどはしゃいだ彼を見た事がない。座敷の床の間には、背の高さ二尺余りの石の観音仏が鎮座している。先生自慢の六朝仏《りくちようぶつ》である。先生がそれをわが家へ迎えた理由を説明されると、立原正秋はその前に躙《にじ》り寄って香を〓《た》き、短い経をあげた。何という経か知らないが、彼の読経を聞いたのも、その時一度限りであった。酒が進むにつれて、やい正秋斎、やい順三、の応酬になったのは彼が書いた通りだが、やがて先生が先に酩酊して来ると、彼は、 「もう飲んじゃいけません。これでお止めなさい」  と先生が差出す杯に、一滴だけ酒を注《つ》いだりした。たちまち日が暮れて、辞去したのは八時過ぎだったが、酔に腰を取られた先生は、私たちを送りに、廊下を這って玄関まで出て来られた。  それから六年後、一九八○年の二月末に、唐木先生は肺膿瘍《のうよう》の治療のため、相模原市の北里大学病院へ入院された。前年の夏に続く二度目の入院であった。三月四日に私が見舞に伺うと、先生は生憎一時間余りの検査を終えた直後で、気分が秀れない様子だったが、少しの間話をするうちに、立原正秋の「帰路」を読んだが、終りの方に出て来る小堀遠州の茶杓《ちやしやく》の話が面白かった、と言われた。書下しの小説「帰路」は、つい十日前に発売されたばかりであった。私は、重病の先生がそんなにも早く眼を通されたのに驚き、もっと詳しく感想を聞きたかったが、先生の言葉は疲れのためにくぐもって聞き取り難《にく》く、質問は諦めなくてはならなかった。  三月十四日、先生は築地の国立がんセンターへ転院し、二十六日に手術を受けられた。先生に肺膿瘍と知らされていたのは、実は肺癌であった。右肺下部の扁平《へんぺい》上皮癌。癌のうちではたちの良いものだが、気管と肝臓にそれぞれ三箇所の転移があり、術後一と月経つと元気は恢復《かいふく》するものの、それは一時の小康状態に過ぎず、長く命の保証は出来ない、と医師は言ったという。私がその事実を先生の姪の湯本いく子さんから聞いたのは、四月六日であった。そして翌る七日には、岡松和夫を通じて、立原正秋が食道癌だと知らされたのである。あの年の春から夏へかけての、ざわついて居心地が悪かった日々を、私は忘れる事が出来ない。  立原正秋は四月二十四日、東京女子医大病院で手術を受け、五月十五日には国立がんセンターへ転院した。その事を潮さんから告げられたとき、私は、 「えっ、あそこには唐木先生も入院してるんですよ」  と、電話口でつい大きな声を出してしまった。そう言えば先生の奥さんに似た人が、湯沸場でスープを温め、上品な器に入れて運んでいるのを見かけた、と潮さんは言った。それから先生が歿くなる五月二十七日までの十三日間、唐木先生と立原正秋とは、互いに知らぬまま同じがんセンター十階の病棟で過したのである。先生の死は、芳しくない病状に影響するのを惧《おそ》れて、立原正秋には伝えられなかった。しかし彼は、〈新潮〉に載った岡松和夫の追悼文を読んで気が付き、唐木さんは歿くなったのか、と家族に確かめた。そして、 「寂しくなるなあ」  と嘆息したという。  七月の末になって、私は、唐木先生夫人から思いがけない手紙を受取った。主人の遺品を整理していたところ、外箱の背に「末尾注意」と記した「帰路」が見付かったので、最後の頁を披いてみると、余白に感想が書付けてあった、立原さんはご病気と伺ったが、ご様子をみて主人の気持を伝えてほしい、と夫人は書いておられた。先生の感想は次の通りである。 昭和五十五年、三月二日。  北里大学病院の九階の病棟にて、初めて手にした「本」。立原君のこの本についての寸感を『波』からであつたか、或は他の雑誌からであつたか、求められたが、到底、書ける状態ではなく、また読む余裕もなかつた。いま病院で始めてこれを手にして感あり。恐らく果せぬことながら、いつの日か、この書に刺戟されたわが心を詳しく誌したき想ひあり。 「恐らく果せぬことながら、いつの日か」としたあたりに、却って「刺戟」を受けた先生の「心」の傾きが窺われて、私は立原正秋が羨ましかった。「帰路」の主人公は古美術商だが、大学の講師が勤まるくらいの学識のある人間に設定されている。彼は儲けるためだけの商売はしない。たかが竹の茶杓一本が二百五十万円もする茶の世界を「いやらしい」と感じている。遠州共筒茶杓は、旧知の実業家に頼まれて、不本意ながら競売会で競り落したのである。彼はまた、若いころに夢中になりかけたヨーロッパの石の文化に別れを告げ、木と水の文化を生んだ日本の「美しい風土」と一体化して生きる意志を固めつつある。そうした主人公の性格づけに、先生は関心をそそられたのだったか。 「帰路」は、彼にしては珍しく書き悩んだ末に完成した作品だが、ヨーロッパ体験を通過しての日本回帰という主題が、あまりに直線的に展開されたため、痩《や》せた小説となってしまった事は否めない。世評も概して芳しくなかった。私も雑誌に書評を依頼されたが、岡松和夫に「ちっとも賞めていないじゃないか」と言われる風のものしか書けなかった。作者が長年胸の内に温めて来た主題の重さは解っても、旅の行きずりに出会ったアメリカ人の女子学生に「源氏物語を知っているか」「道元を知っているか」と畳みかけて訊く主人公は異様であり、しばしば出て来る「ヨーロッパを対象化する」という言葉も、機械的な繰返しと感じられた。  私の書評の載った雑誌が出たのは、彼が聖路加病院へ入院し、食道癌が発見されたその日であった。私は、病んだ彼が私の評価をどう受取るかが気にかかり、見舞に行ったときに、 「あの書評は気に入らなかったでしょう」  と言ってみた。彼は、 「そんな事ないよ」  と意外に柔かく受けて呉れて、私はほっとしたが、それきりで話は続かなかった。そんないきさつがあっただけに、唐木先生の評価の内容を知りたかったという心残りが未だに私にはある。  先生の言葉を書き写した手紙を、私は面会謝絶になっていた立原正秋に宛てて送った。死の五日前には届いた筈である。直接の応答はなかったが、私は、彼が歓んで先生に感謝した、と思う事にしている。  立原正秋は、小川国夫氏一人を除いて、同世代に心を許した友人を持たなかった。僅かにそれに近いのが、先輩としては吉行淳之介氏、後輩では岡松和夫という事になるだろうか。  彼が吉行氏と最初に顔を合せたのは、一九六一年の四月末である。「愛する人達」の校正刷を見に行った〈群像〉の編集部で、編集長に紹介されたのであった。それから三年を経て、彼の第一創作集「薪能」が出てあちこちへ贈ったとき、吉行氏からは真先に感想を述べた手紙が来た。その一節に「部分的に同じ質を持っているので、それが反発しあうといけないから、距離をおいてつきあおう、といった意味のことを簡潔に書いてあった」と、彼の随筆にある。吉行氏は、彼が〈近代文学〉に載せた短篇を愛読したという。「これらの短篇には、虚無の風が吹き抜けており、余分の理屈はなく、そこがとてもよかった」と、彼の死後の一文に書いている。そのあたりが「部分的に同じ質を持っている」との判断につながるのだろう。一九六五年に舟橋聖一氏主宰の雑誌〈風景〉の編集長を引受けた吉行氏は、それまで一篇しか載せなかった小説を二篇に増やし、そのうちの一篇を「寡《すくな》い数の作品を発表しただけで沈黙している気がかりな作家」に書かせる方針を決めたが、その第一回に起用されたのが立原正秋であった。作品は「銀婚式」である。  その後吉行氏は、「剣ヶ崎」の「テーマ小説」の観のある作風に戸惑いを感じ、また能や骨董に関わりを持つ主人公が多く登場するようになると、そうしたものに関心がないため、立原正秋の作品から遠ざかった。それでも文学談義は一切抜きの、「誘い合わせて食事したり酒を飲んだことはなかったが、偶然の成行で一夜ゆっくり飲み歩いたことは、何度かある」ような淡い交際は、二十年に亘《わた》って続いた。  立原正秋が吉行氏に兄事する気持は、ずっと変らなかった。〈上野毛《かみのげ》のダンナ〉と呼んだのは、圓城寺次郎氏を〈御大《おんたい》〉と呼んだのと共通する感情からであろう。私の前でも、この間は吉行さんと銀座で飲んだ、といった類の話を好んでしたし、林屋晴三氏が、同時代で一ばん秀れた作家は誰だと思うかと訊くと、「吉行さん」と躊躇《ためら》わずに答えたという。  文学談義抜きの付合いをしながらも、彼は吉行氏の仕事に無関心ではいられなかった筈である。吉行氏は先の文章で、彼が死ぬ前年の秋、銀座で飲んでの帰りがけに、酔った彼が吉行氏の小説「夕暮まで」に触れ、「なにかどうも、すこし潤《うるお》いが足りないとおもうんですがね」と言った挿話を紹介している。互いの作品を話題にするのは、そのときが最初であった。吉行氏が黙っていると、どうしてそうなったのか、と彼は問いかけ、「いえね、ダンナが年取っちゃうと、後進として困りますからね」と付け加えた。吉行氏は「その作品は、極端に省筆して書いてみたので、『潤いが足りない』という評言は、当っていないとはいえない。その程度の感想をもっただけだった」と書いているが、立原正秋にしてみれば、いつか一度は兄事する先輩と文学談義をしてみたい気持があったのではないだろうか。私には「潤いが足りない」云々が、酔ったあげくの放言だったとは思えない。  岡松和夫が、梶原山と谷一つを隔てた丘の上のマンションに越して来たのは、一九七二年の暮であった。住居が近くなったために、それまでも親密だった間柄が一層深まり、月に二度か三度は必ず会うようになった。連れ立って近辺を散策しながら、古典を話題にする日もしばしばあったようである。「国文学に関しての知識は、私は岡松には足もとにも及びつかない。私は野放図に古典を読みあさってきたが、彼は学者の目で読んできているから、読みかたが正確である。野放図と正確がうまくとけあった仲である」と、立原正秋は認めている。  或る日、岡松和夫の望みで、二人はかつて立原正秋が住んだ鎌倉山の麓の笛田の家を見に行く。野蕗《のぶき》や芹《せり》を摘み、自然薯《じねんじよ》を掘った周りの自然は失われてしまったものの、ささやかな家はまだ遺っていた。 「美しい村」の発想を得た近くの雑木林の麓を歩きながら、私は岡松に当時の風景を語ってきかせた。この日から一週間あとに岡松に会ったとき、あの家はみておいてよかった、と言われた。これもありがたいと思った。こちらが友人だと思っていたら、いつのまにか後から足をひっぱられた、といった経験がある。「犀」の同人のなかにもいたし、他にもいた。それだけに岡松の友情はありがたかった。 〈犀〉のころの岡松和夫は、裏方に徹した形で、目立った作品を示さなかった。苦しげな表情の小説を読んだ記憶が、私にある。立原正秋は、そんな一時期の岡松和夫の国文学関係の論文にも眼を通していたらしい。「岡松氏は、別のところで、国文学の面で好い仕事をしているが、やはり小説を書いてもらいたいと思う」と、〈犀〉五号の後記で励ましている。岡松和夫自身は、「たまたま近くに住んで、ごく普通に付合っただけ」と言うが、やはり彼の古典理解に立原正秋が一目置いていた事が、濃密な交際が永続きした理由の第一だったろう。芯に頑固なものを持ちながらも常に控え目な年少の友人を伴って、和歌の話、世阿彌の話、花の話をしてあちこちを歩くのは、心の和む時間であったに違いない。  死の前年の随筆「ある日の午後」に、岡松和夫から小説の材料をもらった話が出て来る。岡松和夫が、通りかかった寿福寺の墓地の、或る小説家の墓の前で、女が手紙を焼いていた話をする。「小説になるじゃないか」と立原正秋が言う。それから「いや、僕の小説にはならんよ」「よし。ならんのならその材料をくれるか」「それはあげるよ」といった遣取りがあって、二人は数日後に寿福寺の小説家の墓を見に行くのである。こうして出来上ったのが短篇「山居記」であるが、小説家が小説家から材料をもらうのは、当り前の事ではない。当初は自分にふさわぬ気がした材料を、あとになって生かしたくなる場合が一再ならずあるのは、小説家なら誰でも身に覚えがあろう。若し私が材料を呉れと言われたら、たとい相手が恩義ある立原正秋であっても、「それはあげるよ」とは言えなかったと思う。だから私は、「ある日の午後」を読んで、二人の信頼関係が尋常でなかったのを、改めて認識させられた。 「圓城寺さんのお弟子になった事が、立原正秋に大きな影響を与えたようだね。そのおかげで本式に焼物やお茶を勉強出来たのだから」  と、岡松和夫が私に言った。立原正秋に近しかった人たちは、みんなそう感じたかも知れない。弟子入りの動機については既に触れたが、影響は趣味の範囲に留まらなかった。 「男性的人生論」に、NHK受信料不払い問題を論じた件《くだ》りがある。 NHK受信料不払同盟というのがあるそうだが、私は将来も受信料を不払いするつもりはない。NHKでないと見られない画面があるから、という理由からではない。NHKに受信料を支払うのは法できまっているからである。悪法でも法は法である。不払同盟の人達から文句が出そうだが、私は法治国家の法を守る男である。もしこれが悪法なら、私は受信料を払いながら法の改正を求める。これが道というものだろう。  さまざまに物議をかもした「男性的人生論」が、本に纏められてからしばらく経った頃だったと思うが、梶原山の応接間で受信料不払いが話題になった。私のほかに相客があったが、それが誰だったか記憶にない。悪法といえども法だから守らなくてはいけないんだ、と立原正秋が言った。そういう言い方はあまりしたくない、と私は言った。 「NHKの受信料はどうでもいいけど、もっと大きな問題になるとどうなのかな。法そのものを否定しなければならない場合だって有り得るでしょう」  私は、立原正秋と議論めいた応酬を交す事は先ずなかったのだが、この時に限って異を立てたのは、「私は法治国家の法を守る男である」というような肌触りの粗い文章が気に掛っていたせいでもあった。大袈裟過ぎるようで口には出さなかったが、私は治安維持法の事を思い泛べていた。立原正秋は一瞬黙ったが、直ぐに、 「日経の社長の圓城寺さんは、あれでいいって言って呉れたよ」  と言った。話はそれきりで先へは進まなかった。当時の彼は、圓城寺氏と識り合ってまだ日が浅かった筈だが、彼の方から進んで意見を求めたのだろうか。  立原さんは圓城寺さんに徹底して甘えていた、と林屋晴三氏は言った。 「人間、あんなに甘えられるものか、と思うほどでしたよ。圓城寺さんは用心深い人です。官僚国家であそこまでの仕事をする人ですから。ただその用心深さを立原さんとぼくには見せなかった。立原さんもそれを感じたから、自分をさらけ出せたのでしょう。それにしても、あれだけの男が子供みたいに甘えるのが不思議でしたが、『冬のかたみに』を読んで、ああそうか、と気が付きました。あの人にはファザー・コンプレックスがあったのですね」  立原正秋が年長の人に甘えるさまは、藤枝静男氏や唐木先生への接し方から推して、私にもいくらかの想像がつく。一人ではしゃぎ立てて、まさに「子供みたい」と言ってよかった。ファザー・コンプレックスというような言葉が適切かどうかは措《お》くとしても、年長者に対する彼の態度が、父を早く喪《うしな》い、母とも別れて育ち、甘えられる人を持てなかった彼の過去に根差している事は確かだろう。彼ほどの苛酷な環境ではなかったが、同じように他人の家に養われた私自身の経験に照らしても、それは疑えない。  東京女子医大病院で手術を受けた三週間後に、長期療養に専念するため国立がんセンターへの転院を斡旋《あつせん》したのも、圓城寺氏であった。この時期の圓城寺氏は、大黒柱が倒れたあとの立原家の家族の心の支えとなっていた。「圓城寺さんは、お父さんのような気持で立原さんのお世話をしておられました」とは、立原正秋の死後に、日経の社員が言った事である。  私ががんセンターの病室を訪ねたとき、圓城寺さんは原子力発電の関係者を中国へ連れて行った、と立原正秋が言い出した。何気なく思い出した風だったが、そこから話は急に飛躍して、若い科学者が原発に反対しながら対案を出せないでいるのはおかしいじゃないか、大体ソ連が攻めて来るかも知れないのに、中立などと言っていて国が守れるか、と日ごろの彼にはおよそふさわしくない方向へ話が及んで行った。このような考え方の傾斜に、どこまで圓城寺氏の影響があったかは判らない。私はただ、彼は変ったな、と思ってベッドに坐った彼を眺めていた。  圓城寺氏が〈藝術新潮〉に載せた「哀悼 立原正秋」という文章には、酒の味についてうるさかった彼よりも、一滴も飲めない自分の方が酒に関する知識では上であった、として、スコッチウィスキイの味についての失言を指摘してからは、彼はあまりウィスキイの話をしなくなった、と書かれている。圓城寺氏の直話によると、立原正秋が銘柄をまったく取り違えて品評をするのを見兼ねて、「あんたは酒の話をするのは止めなさい」と忠告したのだそうであった。“父親”らしく、直截《ちよくせつ》に窘める場面も、時にはあったのであろう。それ故に親しみがますます増したのだとも考えられる。  若し圓城寺氏の存在がなかったら、立原正秋の晩年は、ずっと寂寞《せきばく》としたものになっていたに違いない。圓城寺氏自身は私との対話のなかで、「とにかく気軽なお付合いをしました」と再三繰返した。 九章 或る女人の物語  一九八○年九月七日の読売新聞朝刊は、「先月十二日、食道ガンのため五十三歳で亡くなった作家の立原正秋さんが残した辞世の歌六首が、このほど家人によって書斎から見つけ出された。入院前夜、死を予期して書き記したもの」と、大きく紙面を割いて報じた。その日は、立原正秋の葬儀と告別式が、鎌倉東慶寺で行われる前日であった。  それから二十日ののち、私は、未知の女性の訪問を受けた。読売で“辞世”だとされた歌を、わたくしは先生の生前にもらって持っている、とその人は言った。これです、と差出された原稿用紙には、まぎれもない立原正秋の筆跡で、六首の歌が書付けてあった。  知らされて山桜散る空なれば   過ぎゆく風を視《み》るほかはなし  酒をほめ莨《たばこ》をめでし五十年   けふの訪れ別《べち》のことならず  若き日に風の裂けめを視し日より   いつかこの日のあらむと思ひき  山桜ともに眺むる道なれば   常のごとくに楽しく語りぬ  風凍る冬の真昼に帰りこし   父の亡骸《なきがら》のそのさびしさよ  など自裁か年経て思へどすべもなし   風の裂けめに父の像の視ゆ  末尾に〈昭和五十四年四月五日〉と日付が誌され、の署名があった。梵海禅文《ぼんかいぜんもん》というのが立原正秋の禅名であり、晩年の彼は好んで〈禅文〉或いは〈文〉と署名をした。それは私も知っていた。  何等かの形で、故人が歌を作った時期を明らかにしてほしい、とその人は望んでいるようであった。御希望がある事は憶えておきます、と私は答えたが、適当な機会もないままに、年月が経ってしまった。その間、その人からの連絡もなかった。  ところが私は、この稿を書くと決めてから、立原正秋に歌をもらった女性の存在が、改めて気にかかり始めた。その人との関わりのなかに、私の知らない立原正秋が隠れているような気がした。そこで松戸に住むその人に三回に亘って都心へ来てもらい、立原正秋にまつわる長い物語を聴いた。  先生の「冬の旅」を読んで、感想をしるしたお手紙をさしあげたのが、お付き合いのはじまりでした。そのころわたくしは男性不信におちいっておりました。二十歳のときに恋愛結婚をした主人が外に女をつくって蒸発してしまい、まだ小さい男の子を手もとに引きとって離婚したばかりだったのです。「冬の旅」は、主人公の母親が子を連れて、先妻の子のいる家へ嫁ぐ設定になっておりますでしょう。わたくし、自分が再婚したらどうなるだろうとかんがえながら、お手紙を書いたのをおぼえています。そうしたらあくる年のお正月、おもいがけなく先生からの年賀状が届きました。「頑張って生きてください」と書いてありました。  二度目のお手紙は「紬《つむぎ》の里」を読んだあとに出しました。わたくしは、先生のお作をただ賞めるだけでなく、主人公の気持が理解できませんというように率直に書きましたので、先生はなにか感じるものがおありだったのでしょうか、「一度お会いしましょう、お話をききたい」とお手紙をくださいました。一九七二年の一月のことでした。  その年の二月、李恢成さんが受賞なさった芥川賞の贈呈式があった日に、先生が定宿になさっていた帝国ホテルのロビイで、はじめてお会いしました。そうですね、十七年前ですから、わたくしは二十八歳、先生は四十六か七でいらしたでしょう。わたくし、そのころの先生の齢《とし》に近くなりました現在でも、四十代半ばの男の人の気持はとても理解がとどきません。あのとき先生はなにを考えていらしたのか、またわたくし自身にしても、なにを考えていたのでしょう。古い日記にはいろいろ書いてあるはずですが、十七年経ってもまだ、読みかえす勇気がないのです。  わたくしは、文学とはまるで縁のない育ちかたをいたしました。ですから、先生にむかってずいぶん莫迦《ばか》な質問をしたと思います。それでも先生はわたくしのどこが気に入ったのか、大事にしてくださいました。わたくしが「我儘ですけど、これからさき十年くらいは面倒をみてくださいますか」と申しますと、先生は「十年は躯がつづくかどうかわからないけれど、みてあげるよ」と約束してくださったのを忘れません。  夫が書置きの手紙と離婚届を遺して蒸発する状況は、「残りの雪」の発端にそのまま採り入れられている。だから彼女がモデルだと決め込んでしまうわけには行かないが、女主人公の里子は、作者にとって一際《ひときわ》愛着が深かったらしい。完結後三箇月経って書いた随筆には、梅の花が満開の季節に「北鎌倉駅前で雨にあい、蕎麦屋の軒下で雨宿りしていたら、目の前を女傘をさした三十歳ぐらいの女がよぎって行った。『里ちゃんじゃないか』と私は危く声をかけるところだった」とある。登場人物にこんな風に未練を残すのは珍しい。  私に物語を聴かせて呉れた人の面影は、「残りの雪」に続いて、妻子のある中年の男と結婚に破れた女との恋愛を描いた小説の女主人公たち、「たびびと」の稲田麻や、「帰路」の西永磯子に、より濃厚に映し出されているかも知れない。磯子は「御迷惑はおかけしませんから、いっしょに歩いてくださいますか」と男に問いかけ、男は「そういうことになりそうだな。迷惑はかけてくれていいよ」と答えている。  先生はほんとに寂しがり屋でした。東京へ出ていらした日は、ひとりで歩くのが寂しいとおっしゃって、わたくしがよくお供をいたしました。地下鉄に乗るのがお好きでした。「あんまりきょろきょろしちゃ駄目だぞ」などとわたくしを窘めながら、わずかののんびりとした時間を愉しんでおいでのようでした。  すごい電話魔でもありました。夜なかに原稿を書いているさいちゅうに、急に思い立って受話器をお取りになるのでしょうか、わたくしがやすんでしまったあとの十二時半、一時ごろにベルが鳴ることもしばしばでした。眠いのをこらえて電話に出ますと、先生は、いまこういう小説を書いたんだがどうだろう、と文章の一節を読みあげるのです。どうだと言われても、咄嗟《とつさ》のことで意見の申しあげようもありません。見当ちがいの返事をすれば、寝ながら聞いていたんだろう、と叱られますので緊張いたしました。  取材旅行にお出かけのときは、旅の予定をこちらも頭に入れておいて、電話がかかるのを心待ちにするようになります。今日はこんな歌を詠《よ》んだから控えておけ、と言われて、旅先の歌をいくつもメモしたこともありました。それらの歌は、もっと推敲《すいこう》をしてから発表なさったようです。 「少年時代」をお書きになっているときには、ホテルへ呼び出されました。先生はベッドの上にあぐらをかき、でき上った分を読んで聞かせてくださいました。ぜんぶで三十枚以上もあったでしょうか。そして終るとすぐ、「感想はどうだ」とせっかちにお尋ねになるのです。わたくし、答えようがなくて、「先生の小説は漢字からくるイメージも大切なので、朗読されただけでは何といっていいかわかりません」と申しあげたおぼえがあります。そうそう、朗読をなさる先生は、たいへんにいいお声でした。  いまは二十三歳になるうちの息子が、小学校四年か五年のころでしたでしょう、急に除夜の鐘がききたいと言いだしたのです。除夜の鐘なら鎌倉がいい、とわたくしは思いました。そこで次にお目にかかった折に、これこれしかじかだと先生に申しあげますと、先生は、「おれの縄張りのところへ子どもを連れてくるのに、何もしてやらないのは可哀《かわい》相《そう》だ」とおっしゃって、十一時に鎌倉の駅で待っているから、と言ってくださいました。いえ、わたくしは子どもを先生と会わせるつもりはなかったのです。でも先生は、わたくしの子どもを見ておきたいご様子でした。子どもを見れば、親の隠しているところまでわかってしまいますから怖かったのですが、まあいいや、と思って連れてゆきました。  まず年越し蕎麦の代りのラーメンを御馳走になり、それから駅前にある先生の行きつけのお店〈紺〉へまいりました。先生は子どもにお刺身を食べろ、食べろ、とすすめてくださるのですが、子どもはもうラーメンでお腹がいっぱいで、とても食べられませんでした。やがて十二時になり、近くの妙本寺で除夜の鐘を撞《つ》きました。先生は鐘楼の近くまで行って、じっと子どもを見ておいででした。  大《おお》晦日《みそか》の八幡様はたいへんな雑踏ですし、もともと先生は鳥居のあるところはお好きではありません。子どもも眠くなってきたのでお別れすることにしました。先生はグリーン車の切符を買ってくださって、ご自分もフォームに入り、電車が着きますと先に乗って、はやくここに坐れ、と座席の位置まで指示なさるのでした。そうする間にも子どもを観察されたものか、その次にお会いしたとき、「あの子はわるい方へは進まない。まあ安心だ」と太鼓判を捺《お》してくださいました。  先生は周りの方たちに、わたくしを編集者だと紹介なさいましたので、わたくしも人さまの前では一所けんめい編集者らしくふるまうように努めました。「今日はちゃんと編集者の顔になっていたから、この次もまた連れて行ってやるよ」と賞められたりもいたしました。でももちろん、ほんとうの関係にお気付きの方も多かったでしょう。わたくしは、先生が出席なさる会合に顔を出したりはいたしません。往復の道はご一緒ですが、会合のあいだはどこかほかの場所で待っていて、二次会にだけ呼んでいただくのです。ここまではいいが、ここから先はいけない、というけじめが自然にできて、わたくしはそれを守りましたので、先生との間が長つづきしたのではなかったかと思っております。 「たびびと」の主人公高桑は、絶えず〈自己破壊衝動〉に駆られる。それは「相手を灼《や》きつくし自分を灼きつくす」彼の気質に根差したもののようだ。彼の裡にある「頽廃《たいはい》の一面」とも関わりがあるらしい。作者は例によって筋道立った説明を一切しないが、その言葉は要所々々で頻繁に繰返される。その衝動に身を任せたなら、女が「だめになってしまう」事を、高桑は過去の経験から知っている。「俺はおまえに毒しか嚥《の》ませられないんだ」と宣言して、彼は女の帯を解く。 「帰路」の主人公大類が、しばしば味わうのは〈苦い感情〉である。かつては妹のように接した女が、自分に心を寄せて来たとき、彼は「俗にいう人生の曲りかど、その曲りかどで思いがけずにであった苦さ」を感じる。しかし女を引返させる手だては見付からない。女はとうとう「あなたといっしょなら、どこまで堕《お》ちて行ってもかまいません」と言うまでになる。女の〈熱い感情〉が、男の〈苦い感情〉と対比される。大類はまた、自分の裡に「妻子のある男のいやな面」を見ている。自動車事故の後遺症で足を引摺《ひきず》りながら家事をする妻に対して、苦痛を伴う後めたさがある。ギリシアの古い城址《じようし》に女と並んで佇む彼の眼の前を、妻の顔がよぎって行く。  旅にはよく連れて行っていただきました。京都、奈良がやはりいちばん多かったのですが、神戸や仙台へも。先生の小説に出てくるところへはほとんどまいりました。先生は、お寺をたずねても美術品を見ても、説明はいっさいなさいません。わたくしが勉強して、自分で気が付くようにしないと駄目なのです。見当ちがいのことを言っても、二度まではゆるしてくださいました。骨董屋へご一緒しますと、先生は焼物を指して、「これは何かなあ」とおっしゃいます。もちろんご自分はご存じで、わたくしをお試しになるのです。わたくしが、これこれではないかしら、と申しますと、「よくわかるなあ」と、とぼけた声をお出しになって嬉しそうでした。「そこまでわかるようになったか」と、ご褒美《ほうび》を頂戴したこともありました。  旅先でも、先生は一刻《いつとき》もじっとしていません。ホテルへ着いて、こちらは一と休みしたいと思っても、すぐに何か食べに出かけようということになります。いつも次の目的に向って頭が動いているのでしょう。どこで何を食べるかまで、旅立ちのまえにきちんと決めてきて、そのとおりに実行しないと気がすまないのです。神戸でステーキがおいしいと評判のお店へ行ったのですが、あいにくとお休みでした。そのときの先生のがっかりした顔と言ったら。可哀相なくらいでした。そういう手違いが起ると、ご機嫌が傾いてしまって、なかなか元へ戻りません。洋服屋をのぞいたりして、すこし気分が落ちついたころを見計らって、別のお店へ行きました。そんな駄々っ子みたいに世話をやかせる一面も持ち合せていらしたのです。  いつでしたか、東大寺へお供した日の先生は忘れられません。境内に立ちつくして、大仏殿の大屋根を長いあいだ、そう、五分くらいでしたでしょうか、じっと見上げて動こうとなさいませんでした。眼鏡をはずして、涙を抑えかねる様子がありありと見えました。わたくしはどう言っていいかわからず、「先生でも涙をこぼすことがあるんですね」と、わざと明るく声をおかけしたものです。先生は大仏そのものはお好きではありませんでした。その日は、大屋根の向うに秋篠寺や唐招提寺、それに韓国のお寺が見えてきて、想いが迫ったのではなかったでしょうか。先生にたしかめたわけではありませんが、そう思っております。  韓国については、いつも気にかけておいでのようでした。お躯がわるくなってきた時分のことですが、親しい編集者のかたに、韓国で育った少年時代を材料にして、短篇をいくつも書きたい、とお話しになるのを聞きました。むかしの韓国の思い出を、ぽつん、ぽつんという感じで語ってくださったりもいたしました。  先生のお酒はたのしいお酒でした。とくに旅先ではそうでした。一日に三升も飲むとの評判があったようですが、わたくしと宿に泊ったときは、お銚子二本くらいでもう酔払った、酔払った、とおっしゃって、鼻唄をおうたいになるのでした。こんなことは、先生、ほかのかたの前では決してなさらなかったのではないでしょうか。  先生は、いちど海外旅行にも連れて行くと言ってくださいました。でも、わたくしはそれはお断りするつもりでおりました。国内の旅行なら一泊か二泊で済みますが、海外ですと期間が長くなりますでしょう。わたくしの気持が退くに退けなくなってしまうのが怖かったからです。先生と一緒に暮したい、時間を気にしないで会っていたいという望みはもちろんありましたが、先生は人一倍家族を大切になさる方でしたから、そのご家族との生活を乱してはならないと、自分でかたく決めていたのです。「愛する人達」に書かれたような修羅場《しゆらば》をくぐり抜けてきたご夫妻のあいだに、わたくしなんぞが入りこむ余地はないことも、よくわかっておりました。  立原正秋の死後一年経って刊行された詩歌集「光と風」に、その人を詠んだとおぼしい歌四首が収められている。一九七八年から翌年へかけての作である。  このままにとかひなあげしみそぢをみな洛南《らくなん》の宿に春暮れんとす  あをじろく脂づきたるふともゝに歓をつくして空死せんか  知りそめてななとせの春にながいのち花にすぎたるをみなになりぬ  さつきまでとちぎりかはせしひとなれば春をいそぐ心あはれなり  その人は、二百八十四回にわたって連載された「残りの雪」を、一回残らず新聞から切抜いて、厚地の紙に貼って綴じ、紺の揉《も》み紙の表紙を付けて保存している。その末尾に立原正秋が毛筆を揮《ふる》った奥書がある。 一読者余の新聞連載小説を切りぬきかくの如き一本にす 感ずるところあり よつてここにつたなき字を誌すものなり  昭和四十九年二月四日 東ヶ谷山房主     署名の下に、〈立原〉〈正秋〉と二つの落款《らつかん》が並んで捺されている。  辞世として新聞に出た歌をわたくしがいただいたのは、先生が歿《な》くなる前の年の七月です。それまでには忘れがたいいきさつがありました。  その年の春ごろ、先生はわたくしと別れようと言い出されたのです。躯の調子がどうも思わしくなく、これ以上きみを引張ってゆくのは悪いような気がする、これから先はきみ一人で自分の人生を生きなさい、と訓《さと》すようなおっしゃりようでした。そしてあちこちと桜の咲く場所へ連れて行ってくださいました。奈良、京都、それから先生のお住居《すまい》の向い側の山の、山桜がきれいなところへも。わたくしは黙ってついて歩きました。別れるのが先生のご意志なら、それは致しかたのないことでした。この時分、先生はご家族にも内緒で漢方薬を服《の》んでいらしたようです。  ところが夏になりますと、先生は、漢方薬のおかげで躯がだいぶ回復してきたので、別れようとは言ったけれど、また続けてもよくなった、とおもしろい言い廻しでおっしゃいました。歌をくださったのはこのときです。別れるときにきみにあげるつもりで作っておいたのだから、もう要らなくなった、棄てればいいのだが、これは自分の分身にもひとしいものなのでとても棄てきれない、きみにあげる、棄てるなら棄ててもいいよ、とおっしゃって。桜の咲く道をごいっしょに歩いたときに詠んだものも含めて、六首の歌が原稿用紙にきちんと清書してありました。わたくしは、あの歌はわたくしへの精神的な贈物だったと受けとっております。最後にしるされた日付をながめていますと、先生は歿くなるまで一年ものあいだ死をみつめていらしたのだなあ、という想いがわいてきてなりません。  漢方薬で快《よ》くなったように感じられたのは、やはり一時的なものだったのでしょう。書きおろしの小説「帰路」が追いこみにかかるころには、先生にはめずらしく、疲れた、書きたくない、とおっしゃって、ほんとうに辛そうでした。  最後に外でお目にかかったのは、歿くなる年の三月三十一日、日本橋の高島屋でひらかれていた秀作美術展の会場でした。先生はすごく疲れたご様子で、お昼ごろには鎌倉へ帰って行かれました。東京駅でわたくしが切符を買ってさしあげ、鎌倉までお供しましょうか、と申しますと、いい、とおっしゃるので、階段の下からお見送りしました。その日の後ろ姿は忘れられません。あんなに弱々しい、くたくたとその場に倒れておしまいになりそうな先生は、それまでに見たことがありませんでした。あれほど他人に弱みを見せるのがおきらいだった先生が、あんなになってしまわれたのを考えますと、今でも辛い気持になります。「おれは食道癌だったよ」と電話がかかってきたのは、それから間もないころでした。食道癌で手術を受けたものの二年も保たずに死んでしまった評論家がいたが、おれはああはなりたくない、二年しか生きられないのなら手術はいやだ、五年生きられるのだったら、一年間は仕事ができなくとも恢復してから書けるだろうから、手術をしてもらう、とお気持を打ち明けられたのち、先生は、おれは覚悟をしているが、きみも覚悟をしておけ、とおっしゃいました。覚悟とは、死を迎える覚悟だったでしょうか。  その人と別れる気持を固めていたころの五月六日、立原正秋は中国旅行に発った。雑誌〈旅〉のスタッフとともに団体に加わり、香港、広州、長沙、桂林を廻ったのである。桂林の風景を見るのが目的であった。その前日、私たち旧〈犀〉の同人は、船橋市の三田浜楽園という料理屋で、久しぶりの“同窓会”を開いた。立原正秋は旅装を調えて現れ、今夜は成田泊りだから、と言って皆より一と足先に引揚げて行ったが、このつき出しは旨い、と珍しく料理を賞めて、元気であった。私ばかりでなく、参会した誰もが、彼は元気だと感じたようである。  旅先からその人に宛てて、殆ど連日のように手紙や絵葉書が届いた。桂林に着いた日の夜に投函《とうかん》した一通にはこう書かれている。  昨日は長沙博物館で馬王堆《まおたい》の女のミイラを観《み》て、発掘現場に行き、夜十時半発の急行で今朝十時に桂林に着きました。雨でしたが、午後からすこし晴れてきて、ききしにまさる絶景がホテルの窓から眺められます。いづれ写真をお目にかけますが、ホテルの前を〓江《りかう》が流れてをり、かつて多くの文人がここを訪れた理由がはつきり致しました。  昨夜、長沙を発つとき、杜甫《とほ》の詩を思ひかへしました。全部を思ひだせませんが、  正に是《こ》れ江南の好風景  落花の時節にまた君に逢《あ》はん の一節を長沙駅を出るとき思ひだしたのでした。この君といふのはもちろん文人仲間の男です。  ここは雨が多い(いまの季節)ので、もし明日晴れたら〓江を舟で下ります。ではまた。    五月十一日        そろそろ恋しくなり候へども如何ともなしがたし  〓江飯店備付けの便箋《びんせん》に、一糎《センチ》角ほどの大きな字で書き流されているのだが、追伸の部分はまた一きわ大きい。彼は自ら文人と称し、風情ある女を女人《によにん》と呼ぶのを好んだ。旅の夜更けに手紙を書きながら、これは文人と女人の交りだと思っていただろうか。  先生が歿くなったことは、日経新聞の記者の方からの電話で知りました。夕方でした。お知らせいただいても、わたくしにはどうしようもありません。先生の病室をそっとお見舞したことは何度かありましたが、六月以降はそれも絶えておりましたから。先生の死は新聞で初めて知るようになるのだろう、と覚悟はしていたのです。八月十四日の密葬にはうかがいましたが、お焼香をしただけで、早々に帰ってまいりました。  それからもう十年の余が過ぎました。先生とお付合いをしているあいだは、すべてが先生を中心に動く毎日でしたが、密度の濃い生活だと思って、それに満足しておりました。でも、男と女を見る眼がわたくしなりに深まってきた現在からふりかえると、密度が濃かったのはたしかだけれど、はたしてあれが生活と呼べるものだったのか、と複雑な気持になるのは事実です。あのときわたくしはどっちを向いて歩いていたのか、自分自身に興味がある、と申しあげたらおかしいでしょうか。  先生の死後三年くらい経って、子連れで再婚しようかと思ったこともありました。けれども思うことと現実とはちがいます。男の人とお付合いをしようとしても、どこかに違和感がつきまとうのです。先生のイメージに邪魔されるのです。そんな自分がかなしくなってしまいますが、仕方がありません。人間は一人ひとりに決められた枠《わく》があって、そこから外れようとすると、たいへんなエネルギイが要るもののようです。わたくしの人生の枠がいまのように定められているならば、それでいい、これ以上無理に動かないほうがいい、と考えたりもいたします。  わたくし、ヨガをやっております。ご近所の奥さんたちに教えてもいます。精神統一にすごくいいのです。それから躯をもっと動かすために、ゴルフも始めました。先生はゴルフぎらいということになっていましたが、まったく興味がなかったわけではありませんでした。あれはたのしいものだろうけれど、夢中になって小説を書く時間を取られてしまいそうでいけない、とちらっと洩らされたことがありました。一、二度コースに出てみたが、「おれは飛ばすんだよ」とも。先生の自慢を聞いてわたくしは、やってみたいな、と思ったものでしたが、それを遅ればせに実行しているのです。先生がご健在でしたら、気分転換にとてもいいから、とお誘いしていたかもしれません。あれは短気な人には向かないとも言いますが、先生は手がけたことには打ち込む方だから、きっと上達なさったろうとわたくしは思います。 十章 八月の風  一九八○年四月七日の午前十一時過ぎ、明方まで仕事をしてまだ眠っていた私は、電話の鳴る音に起された。不機嫌に取った受話器に、岡松和夫の声が流れて来た。 「立原正秋が、癌なんだって」  いきなりそう言われて、私がどう返事をしたか、憶えていない。咄嗟に何を感じたかさえ、まったく憶えていない。癌だという事実は、旧〈犀〉同人で耳鼻咽喉科の医師でもある石井仁が、立原正秋を診察した聖路加病院の医師と同窓だった関係から、真先に連絡を受けたのであった。  その日の夕方、岡松和夫と私は、赤坂にある石井仁の診療所を訪ねて、詳しい病状を聞いた。  食道中部の癌だ、と石井仁は言った。気管が二股《また》に分岐している部分の後ろ側に、レントゲン写真を一瞥《いちべつ》しただけで判るほどに肥大した腫瘍があり、気管を突き破っている、こうなってしまったのでは、長く保《も》って半年の命、短かければ一と月で勝負がつく可能性だってある。 「二月に医科研でどうして発見出来なかったか、不思議だよ。まったく東大の医者は駄目だ」  石井仁は激昂して、しばらく一人で喋り続けた。東大の医者云々はともかく、なぜもっと早く見付からなかったかとの疑問は、私たちにも濃厚にあった。  立原正秋の咳《せき》が激しくなり、もしや肺癌ではないかと心配して、精密検査を受けるために、東大医科学研究所附属病院に入院したのは、その年の二月十五日であった。正月以来体重が二瓩《キロ》も減っていた。しかし、二週間をかけた検査の末に下された診断は、癌ではなく肺気腫と気管支拡張症であった。それも大して重くはない、と医師は判断した。彼からもらった三月一日付の葉書が手許にある。 過日は二度にわたる見舞ありがたう存じました。昨日までの検査の結果、肺癌でないことははつきりしました。しかし肺気腫が直らないことには当分は無理はできない状態です。本日の正午退院します。山桜の頃、おでかけください。坂本氏にお会ひの節はよろしくお伝へ下さい。  これを受取って、私は素直に安心した。見舞に行ったときの彼が咳も治まり、普段と変らぬように見えた事も手伝って、鎌倉の山桜はいつごろ咲くのか、と指折り数えるような気分になっていた。それだけに僅か四十日後の急変はとても信じられず、訴訟にしてもいいくらいの誤診だ、といきまく石井仁に、進んで相槌を打った。  石井仁の激昂には、もう一つ別の理由もあった。彼自身、一年前に立原正秋を診ていたのである。そのときの主訴は、咽喉の違和感であった。物を嚥み込んだあとに、なお何か閊《つか》えている感じがあったらしい。三月に初診、六月に再診。咽頭と喉頭の一部が赤いほか異常はなかった。七月にはファイバースコープを用いて食道検査を行なったが、腫瘍、狭窄《きようさく》は共に見られなかった。粘膜の細胞診の結果も〈正常〉であった。それでも石井仁は慎重を期して、慈恵医大の放射線科で造影写真を撮るよう医師に紹介状を書いた。しかし、その結果の報告がないまま、立原正秋からの連絡は絶えてしまった。家族には何も知らせて呉れるな、と固く口止めされていたので、電話で問合せるのは憚《はば》かられた。半年余りの無沙汰の末、年が変ってから現れた立原正秋は、慈恵へは行かなかった、石井さんに診てもらえればいい、と言ったそうであった。なぜ放射線検査を避けたのか、理由は判らない。  最後まで最善と信じる手段を尽せなかった口惜しさが、石井仁を苛立たせ、激語を吐かせたのだったろう。当人に癌の事実を早く告げて、残り時間は短いのだから、新聞小説なんか止めてしまって、本当に書きたいものを書けと促すべきだ、と彼は繰返して言い張った。  前年の十月十八日から、立原正秋は読売新聞朝刊に「その年の冬」を連載していた。担当の中田浩二記者は、その準備段階から、発病による連載中断、そして作者の死に至るまでの経過をノートに記録し、のちに「夏を冬にかえて—その年の立原正秋」と題して雑誌に発表した。それによると、立原正秋の身体の異常は、秋口から萌していたのが判る。京都へ取材旅行に出掛け、花背の美山荘、祇園の千花、河原町のスエヒロと、贔屓の店を廻りながら、いずれも途中で「君、助《す》けてくれ」と中田記者に皿を廻して寄越すような状態が続く。尤もホテルで一眠りしたあと、夜更けに行った中華料理屋では、餃子や韮《にら》レバいための類をよく食べたそうだから、中田記者もさほど心配はしなかったようである。  十月十八日の連載開始までの日程は慌しかった。書下しの長篇「帰路」をようやく脱稿したのが十月五日で、その日の夜、読売新聞社との顔合せの会が開かれている。京都取材はそれより先、九月十八日からの三日間だから、書下しの最終章を書きつつ、連載の準備を進めていた事になる。「帰路」は書き悩んだ小説であった。岡松和夫が見かねて、もう一度ヨーロッパへ行って来たら筆がほぐれるのではないか、と助言したというくらいだから、疲労の蓄積は甚しかっただろう。彼は気晴しの遊びが出来る人ではなかった。  予定通りに連載は始まったが、最初の一箇月は、どうも調子が思わしくなかった。原稿の仕上りが遅く、人物の名を取り違えたり、同じ文章が四行も重なって出て来るような、信じ難い手落ちが目立った。何よりもいけなかったのは、いくつもの筋を交錯させて展開する構成上の無理がたたって、物語が滑らかに進まない事であった。連載小説は初めの三十回が勝負なのに、これでは読者が逃げてしまう、と危惧《きぐ》した中田記者は、「小説が重すぎる。ヒロインを中心に主筋を追ってテンポを早めて下さい」と注文をつけた。立原正秋は反撥して、途中で打切るとまで言ったが、中田記者の必死の説得に折れて、女主人公の直子の筋一本に小説を纏める事を諒承した。この前後、彼はしきりに疲れを訴え、調子が悪い、書けない、と洩らしたという。「あんまり弱気なのにびっくりしました」と、中田記者は後日語っている。  十二月に入って小説は軌道に乗り、電話や手紙で「胸のすく爽やかさ」というような讃辞を寄せる読者の数がぐんと増えたが、それに反比例して作者の健康は衰えて行った。一九八○年の正月は、風邪を引いて熱を出し、咳も激しくて元気がなかった。二月の東大医科研入院も、肺癌が否定されただけで、症状の改善には役立たなかった。三月半ばころからは、痰《たん》が咽喉に絡《から》まって、流動物しか通らなくなった。  四月三日、中田記者は深刻な手紙を受取った。  退院してきたものの、ぐあいはよくありません。四月いっぱい自宅におり、五月から再入院ということになるやも知れません。現在、一日三枚の仕事がかなり辛いのですが、といって休むわけにはいかず、今月いっぱいの様子をみた上で、六月いっぱいか七月初旬頃に完結に持って行きたいと考えております。予定では九月初旬完結と考えていたのですが。現在体重が四十八キロになり、いろいろな意味で苦しい状況です。二十歳のとき以来、五十四キロの体重が変らなかったのに、これだけへりますとかなり苦しいのです。  聖路加病院へ入院の直前には、流動食すら受付けなくなっていた。痩せ細って、家の中を歩くのもやっとの状態であったという。  四月八日の夕方、私は、立原潮さんと打合せた上で読売新聞社を訪ね、編集局長に会って、立原正秋が長くともあと半年しか生きられないと打明け、彼が連載を中止したいと言い出したら、直ちにそのように計らってほしい、と申し入れた。すでに中田記者の報告を受けていた編集局長は、中断も已《や》むを得ないとの判断を固めていたようであった。  その夜十時を過ぎて、立原正秋から電話があった。検査のつもりで病院へ行ったのに、医者がレントゲンを見たとたんに入院となった、牛乳すら飲めなくなって点滴をやっている、体重が七瓩も減った、と手短かに言ったあと、 「まあ、そんな話は陰気くさいから止そう」  と急に口調を変えた。 「昨日家を出る前に見たら、山桜がもうちらほら咲いていたよ。こんな風じゃ、今年は花を賞めるのは無理だな。当分は病院暮しになりそうだけど、見舞になんか来なくていいぞ」 「いえ、見舞に行きます」  と、打って返すような気持で私は言った。 「そうか。仕方がねえな」  彼はやや笑いを含んだ声になり、 「じゃあ、来てもいい。だがこっちは食えないんだから、何も持って来るなよ」  と言って、病室は五二五号室、面会時間は午後三時から五時まで、と教えて呉れた。歯切れよく指示するような調子は、普段と変らなかった。  翌る日三時きっかりに病室へ行くと、読売新聞の文化部長と中田記者が来ていた。どういう形で「その年の冬」の連載を中断するかの打合せであった。私は隅の椅子に坐って、三人の遣取りを聞いた。  病気を理由に作者が責任逃れをするような印象を読者に与えたくないから、現在書いている「春の海」の章が終ったところで、〈第一部完〉として一たん打切り、夏の間は静養して、秋に第二部を始めたい、と立原正秋は言って、「第二部は百二十回くらいになります」と付け加えた。私は、彼がこんな状態になってまで、“読者への責任”にこだわり続けているのに驚いた。百万人の読者の存在が彼の支えになっていた事を、遅蒔《おそま》きながら実感させられたと言ってもいい。  立原正秋の意向の通りに話が決って、読売の二人が引揚げるのと入替りに、武田勝彦氏が現れた。武田氏はこの時期、ずっと立原正秋の身辺から離れず、家族の相談にも与《あずか》っていた。三人で雑談をするうちに、いつか食べ物の話になった。 「むかし貧乏していた頃、鎌倉の小町の踏切の近くに一杯飲み屋があってね」  と立原正秋が言い出した。 「そこの親仁《おやじ》に注文して、豚の脂身だけのカツを作らせたんだ。骰子《さいころ》くらいの大きさに切った奴でね、そいつを辛子醤油で食うと旨いんだな」  これが、彼に何度聞かされたか判らない食べ物談義の最後となった。有名料亭の料理ではなく、旬の魚や野菜でもなく、脂身だけのカツであった事が、妙に身に沁《し》みて記憶に遺っている。  やがて彼は、気分を変えたくなったのか、七階の珈琲《コーヒー》ショップへ行かないか、と私たちを誘った。彼は何も飲めないから、武田氏と私が珈琲を飲んで、跡切れがちに話を交した。病気には触れられず、ほかの話題もあらかた尽きていて、ただ別れたくないために向い合っているような雰囲気になった。武田氏はわざわざ離れたテーブルから灰皿を持って来て煙草に火を点け、どうですか、と立原正秋にも勧めた。立原正秋はそれを受取って、二た口三口喫い、あとは灰皿に躙《にじ》りつけた。見晴しのいい窓の外に、雨が落ち始めていた。  いつまでそうしていても限りが無く、私は腰を浮かして別れを告げた。そして立原正秋の耳許に口を寄せ、 「これから度たび見舞に来ますけど、会うのが億劫《おつくう》なときは断って下さい」  と言った。立原正秋は微かに頷いて、 「いや、いいよ。来て呉れればぼくも嬉しい」  と言った。それでようやくほっとして、私は帰る事が出来た。  中一日置いて十一日の正午過ぎに、立原正秋から電話がかかった。来週の月曜日に東京女子医大病院へ転院し、そこで手術を受けるという知らせであった。そうですか、と私が応じただけで、電話は切れた。  気管に穿孔《せんこう》が明いてしまってからでは、腫瘍そのものの切除は不可能だと、私は石井仁に教えられていた。彼によれば、この段階で手術をするなら、方法は二通りしかない。立原正秋の食道の異常部分は、咽喉から下約八糎の部位に、十糎ばかりの長さで拡がっているので、その部分の上下の端を閉じて気管に食道内の異物が侵入するのを防ぎ、栄養は胃に直接注入するのが一つの方法。もう一つは異常部分を迂回《うかい》する人工食道を作り、腫瘍は放射線で叩く方法。いずれにしても一時凌ぎに過ぎず、完治は有り得ない。「せめてもう一度酒を飲ませてやりたいよ」と石井仁は言ったが、そのあたりが期待出来る上限であるらしかった。本人はその事実を知らされていない。  家に落着いていられずに、私はまた聖路加の病室へ行った。立原正秋は、左鎖骨の下に長さ十五糎の針を埋め込み、そこから高カロリーの点滴を入れていた。 「昨日からこれを始めたんだ。こうすりゃ食わなくたって、何日でも生きていられるさ」  と彼は、少しおどけたように言った。ベッドの上のテーブルに、白いままの原稿用紙が拡げられていた。 「身体から薬の臭《にお》いがするようになったよ。痰まで薬臭いんだ」  歯が黄色く染まったのも、恐らく薬のせいだったろう。しかし、参っている顔付ではなかった。彼に好意的でない編集者の話が出た。直木賞をもらった直後、あなたは週刊誌なんかに書きまくってすっかり駄目になったな、と言った男への恨みはずっと消えなかったらしい。 「こっちは先に金を稼いでおいて、あとでいいものを書くつもりだったんだ。そういう志があるのも知らないで、あんな通俗作家はないなんて言いやがった。視野が狭くて、どうしようもない男なんだな」  彼と話していて、文士や編集者の悪口になるのは、少しも珍しくない。だが、その日私は、いつものように気軽く調子を合せられなかった。  私は刊行されたばかりの「帰路」を三冊、持って来ていた。そのうちの二冊は、識合いの女性から、署名をしてほしい、と頼まれたものであった。こんな所で悪いけれども、と本を差出すと、彼は「ああ、いいよ」と簡単に引受けて署名をしたあと、 「歌も書いておこうか」  と言って、万年筆を走らせた。  帰りなむ春の陽ぞ照る斑鳩《いかるが》に   白壁のその白のなつかしき  美しい日本の風土に溶解して行きたいと願う「帰路」の主人公の心情に、この歌がふさわしいと彼は考えたのだろうか。インクが乾くのを待って私は、「ついでにぼくにも書いて下さい」と言った。〈謹呈 著者〉の栞を挿んで送られて来た本を鎌倉へ持って行き、改めて署名をもらった事は、前にもあったのである。しかしこのときの彼の応対は違った。 「君のは、家へ帰ってから、ちゃんと墨で書いてやるよ」  何気ない風にそう言われて、私は絶句した。家へ帰ってから? 帰るとはどういう事だろう。一瞬そんな疑念がよぎって、私はうろたえた。 「ああ、その方がいいな。そうして下さい」  と、取り繕うのがやっとであった。自分の想いにばかりかまけて、私は、彼が恢復して仕事に戻れると確信しているのを、つい忘れていた。私は黙って、署名をしてもらった本を鞄に蔵《しま》い込んだ。 「〈文体〉には悪い事をしたな」  私の手許を見ながら、立原正秋が言った。〈文体〉は、当時私が後藤明生、坂上弘、古井由吉とともに編集していた季刊文芸誌である。その第十二号に、古典についての随想を三十枚くらい書いてほしい、と私が依頼し、彼も承諾して呉れていたのだが、二月の東大医科研への入院で御破算になったのであった。私は、 「いえ、仕方がないですから」  と紋切型の答をするしかなかった。癒《なお》ったら書いて下さい、とは言えなかった。  前年の三月に出た〈文体〉の第七号に、彼の小説「水仙」が載っている。約三十枚の短篇だが、その締切日にまだ間のある頃、編集室にいた私は、彼の電話を受けた。 「あ、俺だ。立原だ。原稿は出来たんだけどな」  と彼は言った。 「だけど、今度のはどうも出来がよくねえんだ。気に入らないかも知れんから、破いて書き直そうか」  弱音は芝居だとたちまちに判る上機嫌な声であった。後輩の小説家が編集する雑誌に原稿を渡すのに、いささかの照れがあったのかも知れない。  やがて届いた原稿を読んだ私は、直ぐに鎌倉へ電話をした。 「作品どうだった」  と、私がまだ何も切出さない先に、彼は言った。 「やっぱり、出来がよくねえだろう」 「とんでもない」  私は笑い出しそうになるのを堪《こら》えた。 「これは、プロの書いた小説ですよ」 「ああ、そりゃそうだ」  彼の声がとたんに大きくなった。私も今度は遠慮なく笑い、礼を述べて電話を切った。  プロの書いた小説だと褒めたのは、お世辞ではなかった。私は今でも「水仙」を、立原正秋の短篇のうち、秀れたものの一つに数えている。作者自身と思える語り手の友人が、肝臓癌を病んで死ぬ。その友人は国文学に造詣《ぞうけい》が深く、一たんは高校教師の職に就きながら、「知識や判断の世界が煩わしくなって」退職し、タクシー運転手となってひっそりと一生を終えたのであった。生家からは義絶されて、世間知らずの妻以外に身寄りはなかった。彼の死後、葬儀や埋葬の世話をしたのは、商業学校の同級生たちであった。彼等の口から、死んだ男の生き方への共感がこもごも語られる。作品の大半を占める彼等の会話が、いかにも旧知の男同士らしく、ぞんざいな中に哀惜を滲ませていて、まさに“プロの芸”だと私は思った。  恐らく、横須賀商業学校時代の友人にモデルがあったのだろうが、同時に主人公は作者の分身とも言える側面を併せ持っている。鎌倉市内で駐車場や喫茶店を経営する株式会社喜多川本店会長の小池政雄氏の話によると、横須賀商業の同級生と立原正秋との仲は、卒業後ずっと跡絶えていたが、彼の直木賞受賞を機に、小池氏の肝煎で復活し、彼は一年に二回くらい催される内輪の仲間だけの旅行会には、欠かさず参加したという。「水仙」をもらったとき、私はそうした事情を知らなかったが、昔からの友人との付合いのなかに、それまでの彼が明かさなかった世界が潜んでいるようだと、確かな手応えで感じたのを憶えている。  二度目の見舞から四日後の四月十五日、万全の手術を受けるために、東京女子医大病院消化器病早期がんセンターへの転院が決った。その前夜の七時半ごろ、立原正秋から電話があった。明日転院だ、と簡単に告げたあと、彼は、 「俺は今度、あの上野の医者に危うく殺されるところだったよ」  と、普段より一層急き込んで喋り始めた。 「あれだけ検査して、まともな医者なら判らない筈はないんだ。おまけに勘定を払いに行ったら、九万円も請求されたよ。薬だの注射だのって濃厚診療しやがって。だんだん腹が立って来た。いずれ文春の本誌ででも筆誅《ひつちゆう》を加えてやる。俺は味方にすれば力強いが、敵に廻したら怖い男だ。そうだろう。それは君も知ってるだろう」  あまりの剣幕に圧《お》されて、私がただ、はい、はい、と返事をしているうちに、電話は向うから切れた。耳許で鳴り響いた彼の言葉の内容を、吟味して理解するまでに、少し時間がかかった。 「上野の医者」とは、彼が数年前に加賀乙彦の紹介で識り、身内の者を診てもらっていた心臓血管系専門の内科医、T医師である。前年の七月、石井仁が勧めた慈恵医大での検査をなぜか受けなかった立原正秋は、十二月十三日に咳と発熱を訴えて、上野の診療所にT医師を訪ね、診察を受けた。T医師は結核と腫瘍の存在を疑って、二十五日に食道と気管支と心臓の検査を行なったが、異常は発見されなかった。このときは咳止めの薬が出されている。越えて一月二十一日には、再び熱が上り、咳がますますひどくなったのでレントゲン撮影の所見に異常はなかったものの、T医師は大事を取って、患者を東大医科研の専門医の手に托《たく》した。そして退院後は、肺気腫および気管支拡張症だとの医科研の診断にもとづいて、投薬と注射を続けたのであった。  これだけの経過を見ると、誤診の責を負うべきなのは、食道の検査をしなかった医科研の医師であって、T医師ではない。現に医科研で彼の主治医だった助教授は、食道癌だった事実に大変な衝撃を受けたという。加えて加賀乙彦が「立原正秋の思い出」に、同じく末期になるまで癌が見付からなかった高橋和巳の例を引きながら書いたように、早期発見が困難な癌治療の現状では、軽々しく医師を責めるわけには行かない。初めは「訴訟にしてもいいくらいの誤診だ」と極言した石井仁も、日が経つにつれて東大医科研の処置を、已むを得なかった、と納得し、食道癌の発見の難しさを力説するように変って行った。  しかし立原正秋にしてみれば、癌にも罹《かか》らず暢気に生きている連中が説くしたりげな道理なんぞ、聞きたくもなかったに違いない。加賀乙彦に向っては、東大の医者は籔《やぶ》ばかりだ、と罵倒したそうだが、彼の内部には、生命の危機に見舞われた人間の、遣り場のない憤懣《ふんまん》と悲哀とがあり、それが「上野の医者」をめがけて噴き出したのだったろう。女子医大病院の病室の扉には、「T氏にはお会いできかねますのでお引き取り下さい」と彼の筆跡で誌した紙が貼り出された。  入院当日の午後二時過ぎ、私は病室を訪ねた。六階の二六二六号室は、隅に手洗所が付いた北向きの個室であった。ちょうど看護婦が来て、手術前の調査事項を質問していた。ベッドを囲んで夫人と潮さん、それに武田勝彦氏の顔が見えた。 「信じる宗教がおありですか」  と看護婦が訊いた。立原正秋は、 「病院て、そんな事まで訊くんですか」  と愕いたらしく、一瞬胸を反らせたが、直ぐ思い返したように、 「仏教です。禅宗です」  と答えた。看護婦が小さく頷いて用紙に書き込む手の動きを、彼は真直ぐな視線で見ていた。  質問は大して手間をかけずに終り、病室にほっとした空気が流れた。夫人たちは、まだお昼を食べていなかったから、と出て行き、私一人が後に遺った。 「入院するなり血を採られたよ。すべて前の病院と同じ事をするんだな。血はなかなか出ないのに」 「こんな病気になっちゃってなあ。まあ仕方がねえや」 「どうせ切るなら、早く切ってしまいたいよ」  こんな事を彼は言った。私は黙って聞いていた。十五年前に同じ病院で同じ食道癌の手術を受けた中山義秀氏の話になった。食道を切除した跡に着けた管を咽喉のあたりに露出させて、腰越の蕎麦屋で蕎麦を食べている中山氏を、彼は見かけたという。 「今は手術も進歩して、食道の悪い所を切って、代りに胃を引張り上げるやり方だからね、中山さんみたいにはならずに済むんだ」  彼は執刀する医師を信頼し、恢復を疑っていなかった。私は彼の表情が、すっかりやさしくなってしまったのが気に掛った。  婦長らしい年配の看護婦がやって来て、病棟を一廻りしてごらんになりませんか、と勧めた。 「そうだな、案内して呉れますか」  と、立原正秋は待っていたようにベッドを降りた。私と対坐するのが、気重くなっていたのかも知れない。  廊下を歩く足捌《あしさば》きは、元気な時分と変らなかった。通りかかったナース・ステイションの前に、体重秤《ばかり》と身長計が置いてあった。彼は秤に乗ってみて、 「聖路加にいる間に、一瓩半増えたよ」  と言った。針は四十七瓩を指していた。次いで測った身長は、百七十四糎あった。 「少し縮んだかな」  彼の動きを、私は一いち確かめるようにみつめ、四十七瓩、百七十四糎、と数字を暗記した。  狭い病棟を一廻りするのに、十分もかからなかった。病室へ戻ると若い医師が来て、聖路加病院で刺したままになっている鎖骨の下の点滴用の針の具合を検《あらた》め、「これはこのまま使えますね」と言って、足早に出て行った。その仕種《しぐさ》が、ひどく慌しかった。  間もなく、食事に行った三人が戻って来た。立原正秋は、一人ひとりに何を食べたかと聞き質し、 「もう帰ってもいいぞ」  と言った。その声に促されて、私は家族よりも一足先に病室を出た。  帰りがけに私は、読売新聞の専売所へ寄ってその日の朝刊を買い、歩きながら「その年の冬」を読んだ。箱根湯本の雑木林のなかに棲《す》む大学教授の深津荒太が、彼を慕って京都の婚家を棄てて来た直子に向って、おからの炒《い》り方を講釈する。おからの話だけで、一回分のほぼ全部が費されていた。「鍋に植物油をひいておからをいれ、水分がなくなるまで杓文字《しやもじ》で炒りつけるんだ。そこへあらかじめ用意しておいた具を入れる。葱はぶつ切り、烏賊《いか》は軽く水煮して水分をとったのを賽《さい》の目に切っておき、人参も賽の目にして湯掻いておき、それをおからに入れる」と、調理法がすこぶる詳しかった。私は、鎌倉でこれと同じ物を御馳走になった事があったような気がして、記憶を探ってみたが、俄かには思い出せなかった。  この日のおからに限らず、「その年の冬」には食べ物の話が際立って多い。鰯の糠漬け、鰆《さわら》の昆布締、牛肉をブランデーで煮込んだ佃煮、青紫蘇《あおじそ》の葉を散らした握飯、黄色い韮を入れた河豚《ふぐ》鍋、蹄《ひづめ》が着いたままの豚の足、寒鰤《かんぶり》の刺身、山桃の甘露煮、といずれも手間暇をかけて素材を吟味して作ったものばかりである。「手間をかけない食物には希望がない」と深津荒太は言うが、今読み返すと、物を食べられなくなった作者の記憶のなかで、かつて玩賞《がんしよう》した美味がますます豊かになっていたような印象を受ける。見舞に訪れた中田記者に向って、「鰤のあとは鰆だなあ、薄塩の塩焼きはうまいぞ」と彼は言ったそうである。  美食を好み、伝統の美を愛して、すべてに颯爽と振舞う男と、濃い茄子紺《なすこん》の結城が似合い、物腰は淑《しと》やかでありながら、芯には梃子《てこ》でも動かない勁さを秘めた女との組合せは、立原正秋の読者には馴染みのものだろうが、「その年の冬」では、彼等二人よりも、深津の無二の親友の東ヶ谷津耿《あきらか》に注目しなくてはならない。  作者が山房を構える土地の名を与えられ、職業は小説家とされているところからも判るように、彼は作者のより直接的な分身である。物語が五分の四を過ぎてから正面に出て来る彼は病んでいる。痩せて食が細くなり、五合は飲んだ酒が一合しか飲めなくなっている。彼が深津の暮す雑木林を訪ねる一節は美しい。深津の求めで彼は筆を執り、画箋紙《がせんし》に「わが友に」と題して、謡曲「高砂」を踏まえた詩を誌す。  この閑舒《かんじよ》な雑木林に  花を咲かせしは君の徳か  三十年  われらが友垣《ともがき》かはらず  われもまた  花を讃へん  この閑舒な雑木林に  永く季節を彩《いろど》られかし  木の下蔭《したかげ》の落葉かく  なるまで命ながらへて  深津は「薄墨の字が風のように流れて」いる筆跡を眺め、友が「俺はもうだめだがおまえ達はながいきしろ」と言っているように感じる。  このあたりを作者は、聖路加病院のベッドの上で書いたのであった。私はその有様を見ていないが、中田記者の「夏を冬にかえて」はこう伝えている。  四月十一日 あと二本。書くだけが生命の灯のような毎日である。点滴しながらゲラ直しをする。ご家族も、見舞いにきた編集者たちも、こんなにしてまで原稿を書かせるのかと冷たい目を向ける。立原さんが「因果な商売だよなあ」と、その空気をなごませる。  深津が病身の東ヶ谷津と友情の濃く滲んだ会話を交し始めると、読売の編集局には、作者に異変があったのではないか、病気ではないのか、と気遣う読者からの問合せが、しきりに寄せられるようになった。 〈第一部完〉として最終回の原稿を中田記者に渡したのが、女子医大病院へ移る三日前の四月十二日で、紙面での連載は十八日まで続いた。最後の場面では、朝早く新聞を取りに庭へ出た直子が、遅咲きの水仙が二輪咲いているのを見る。 風がなくよく晴れわたった空に物音ひとつしない澄明《ちようめい》な朝だった。梅は満開だったし水仙も鮮やかだった。ふと、痴呆になったような幸福感がよぎっていった。新聞をとって胸にかかえ、まだ深津が睡《ねむ》っている家を眺め空をみあげた。このとき直子のなかを、漠然とした不安がよぎっていった。  直子の「不安」の正体が何なのか、むろん判らない。この一行は、秋に快癒《かいゆ》して着手する心づもりでいた第二部への伏線として書き付けられたものであろう。第二部は、直子の不安が現実に変って行く過程を軸として、物語が進むのかも知れなかった。  手術日は、四月二十四日に決った。二十日に私が訪ねたときには、鎖骨下のほか腕にも点滴の針が刺されていた。点滴で体重が二瓩増えた、輸血も始めている、昨夜は輸血のために高熱が出て辛かった、と彼は言った。顔に〓《やつ》れは見られなかった。  二十三日、私は神戸への旅行の帰り、東京駅に着いたその足で病室へ行った。午後六時過ぎであった。この日は点滴はしていなかった。 「医者は、手術が成功したら、と言ったよ。成功しない事もあるのかな。当分はこの病院から出られそうにねえな」 「点滴ばかりで食ってないもんだから、身体が冷えちまったよ。ほら、こうやって湯湯婆《ゆたんぽ》入れてるんだ」 「腰越から鵠沼へ越したころまで、ウィスキイは生《き》一本で飲んでたんだ。ブランデーはずっと生一本でやってる。それで咽喉が焼けたんだな」  彼の顔つきは変らずに優しかったが、やはり神経が立っているのか、しきりに眼をしばたたいた。  夕食に外へ出ていた夫人と潮さんが戻って来た。武田勝彦氏も一緒であった。彼はまた一人ひとりに食べたものを確かめた。私も神戸で何を食べたかを訊かれた。私が昼食に寄ったレストランの名を言うと、「知らねえな」と言った。  七時前、看護婦が浣腸《かんちよう》の用意をして来たので、私は席を立った。別れ際に「お大事に」と言ったきりで、明日の手術については何も触れなかった。エレヴェーターで一階に降りたところでアナウンスがあった。「面会中の方々に申上げます。面会は七時までですのでお帰り下さい」。灯が消えてがらんとした待合室に、感情のない女の声が、響き渡るように聞えた。  手術は二十四日の午前十時十分から始められ、約三時間で終った。結果は成功、とは言っても、レントゲン写真の所見から予測された通り、患部を迂回する人工食道を作って、食道と胃をつないだに過ぎなかった。三時半ごろ私が病室をのぞくと、前夜から泊り込みの夫人が一人でいた。手術のあと病人は集中治療室にいる、五時に医師から詳しい説明がある、との事であった。 「手術前は、傍《はた》から見るとどこが悪いのかと思うくらいでした。先生や看護婦さんに先廻りをしてあんまりいろいろ訊くので、先生がたはずいぶんお困りだったようです」  と、腫れた瞼を抑えて、夫人は言った。世間話をする場合ではなく、私は早々に引揚げた。夜遅く鎌倉へ電話をすると、潮さんが出て、手術は順調に捗って終る時分には意識が戻っていた、集中治療室では五分間の面会が許されて話もした、今後は気管や肺の放射線治療を行うが、肺に関連する合併症が心配だ、と言った。  二十七日の夜に電話をした。恢復はめざましく、集中治療室には一日いただけで病室へ戻れた、熱も下った、ただし話をすると腹に響くのでほんの用件しか話せない、と潮さんは言った。  五月四日夜の電話。全体としては順調だが、咽喉の直ぐ下の傷口だけが肉が盛上らず、痛みが長引いている、たまにベッドに起上ってみるがやはり辛いらしい、当人はお喋りもするが癒りの遅いのにいらいらしている。咽喉の下の傷は、その部分だけを若い医師が切開したもので、当の医師は大変恐縮してよく様子を見に来るそうであった。  五月の連休が明けると、ごく短時間の面会が可能となった。中田記者が会いに行っている。  五月七日 五分間の面会が許される。足もとのベッドに布を結びそれを引っ張って身を起こす。やつれて頬はこけ、喉もとの包帯姿が痛々しい。腹に太い管が差し込まれ宇宙食のような流動物が流し込まれている。語りかける声はかすれているが意外としっかりしている。「手術は現代の最高技術だが、切る方も野蛮、切られる方も野蛮、野蛮の極致だ」。「痰とせきとの二十四時間の戦いだ。喉に穴を開けて吸いとるようにしたが、その手術はうまくいかなかった」。  私は十一日の晩に鎌倉へ電話をした。このときは幹さんが出た。経過はまずまず良くてお腹の管は外れたが、まだ物は食べられず、お茶くらいが入るだけ、一日に三度回診があって、その度に熱が上る状態なので、見舞はしばらく控えてほしい、と言われた。  五月十五日の国立がんセンターへの転院は、潮さんからの連絡で知った。医薬関係にも幅広い人脈を持つ圓城寺次郎氏の助言によるもので、内科的療法はがんセンターの方が有効に行える、というのが転院の理由であった。後で聞いた事だが、新薬インターフェロンの使用の可否をめぐって、女子医大の主治医と家族の間に意見の齟齬《そご》があったようである。今後は一切面会謝絶にして治療に専念させたいので、「見舞はもっと先にして下さるよう、皆さんに伝えて下さい」と私は頼まれた。がんセンターの病室を訪ねた人は、圓城寺氏のほか、ほんの少数しかいない筈である。私も二週間に一度くらい鎌倉へ電話をして、容態を訊くだけであった。  アメリカの大学での講義のため、七月五日に日本を発つまで彼の身辺にいた武田勝彦氏が書いたものによると、五月二十六日から始めたコバルト療法が効いて、彼は少しずつだが室内を歩けるようになった。六月二十一日には、待ち望んだ食事を摂った。「ご飯は盃一杯ほどであったが、カキの塩から、アミの塩から、そして鮭の塩焼も少し食べた。やや不安げに、正秋が箸を動かしているのが印象に残っている」。  その日、中田記者のもとへ武田氏を通じて、七月に入ったら連載再開の打合せをしたい、との伝言が届いた。  七月二日 雨。築地のがんセンター新館十階の特別室で、久しぶりに立原さんと会う。何故か胸が熱くなる。痰とせきがすごい。発作のように繰り返す。思ったより気力があり、パジャマ姿でベッドの上に坐って、「しばらくぶりだなあ」と応対する。体重は四十七・五キロ、足がだいぶ細くなってしまったという。「吉村昭氏の連載を十一月頃まで引っ張ってくれないか。そうすれば、自分があとを継いで『その年の冬』の第二部をスタートさせられる」。  それは嬉しい話ですと廊下に出ると、武田教授が追いかけてきて、立ち話となる。  医師の話では、八月頃がヤマらしい。吐血したらおしまいで、その時期がいつくるか、医師にも予測がつかない。立原さんは第二部再開を気力の拠《よ》り所としているので、ああいったが、無理だ、次の作家を用意して下さい、ご家族のご意向でもあります——。  病院を出ると、買い物に行くご子息の潮さんといっしょになる。  歩きながらの話。おとといはうなぎを食べた、夜はテレビを見ている。そろそろ仕事をしなければともいっている、症状については、本人に嘘をつかない範囲内で話している、それにしても、毎日お金がヒラヒラ飛んでいくようだ——。  立原正秋は、国立がんセンターの処遇に満足していた。海の見える病室が気に入り、担当の若い医師が、自ら膿盆《のうぼん》や注射器を載せた器械卓子を押して回診に訪れ、いろいろと話しかけて呉れるので、実に心が休まる、と圓城寺氏に語った。朝起きると廊下に出て、眼下の魚市場の動きを見物する習慣がつき、自宅から取寄せる書籍の数が少しずつ増えて行った。  この入院中の見逃せない出来事として、米本正秋から立原正秋への、戸籍名の変更がある。入院当初、病室の戸口に〈米本正秋〉の名札が掲げられた。聖路加と女子医大では立原正秋で通っていたのだが、がんセンターは国立の医療機関だから、厳格に本名を掲げたのであろう。それを見て立原正秋が怒り出した。立原に替えさせろ、と言うのである。彼にしてみれば、文士立原として遇されたい気持が強く、また〈米本〉は夫人の籍を借りているのだという意識がいつもあったのに違いない。武田勝彦氏が宥《なだ》めても納まらず、看護婦に頼んで名札を取り外してもらうしかなかった。この事が煩雑な改姓の手続に着手する端緒となった。武田氏は書いている。  ネイム・プレートの一件があってから、私の心の片隅に、正秋が法律上も立原を姓としたがっていることがひっかかっていた。『冬の旅』を書いていた頃にも、改姓のことで法務省の役人と話し合ったことがあった。ある日、がんセンターから、銀座四丁目まで歩き、赤信号で歩道に佇んでいた。その時、三愛ビルの隣の江島屋ビルの看板が眼についた。 「弁護士、田中和、西山鈴子事務所」  田中弁護士は中学の先輩である。私はアポイントメントなしで、駈《か》け込んだ。  直ぐに事情を理解した田中弁護士の尽力により、六月十一日に横浜家庭裁判所で立原姓への変更の許可が下りた。以後は家族もすべて立原姓を名乗るようになったのである。  光代夫人は彼の改姓の意志が固いのを早くから知っていた。十年前に一度改姓の申請を検討しながら、条件があまりに厳しいために断念したあとも、住民登録や子供たちの学校関係など最小限必要な場合を除いて、すべてを立原で通し、「米本さんと呼ばれると誰かと思ってしまうくらい」立原姓に親しんで来た。公共料金や新聞代の領収証も立原宛のものが保存してあり、それが裁判所の許可を早期に得るのに役立った。「立原さんは自分の名を正式に後世に伝えたかったのでしょうね」と私が言うと、「そうだったと思いますね」と、間を置かずに夫人は答えた。  この改姓によって、彼は生涯に六つの名を持った事になる。親から与えられた金胤奎《キム・イユンキユウ》、日本へ来てほんの一時期名乗らされた野村震太郎、本名を日本読みにした金胤奎《きんいんけい》、創氏改名を強《し》いられて金井正秋、結婚し妻の籍に入って米本正秋、そして死の二箇月前に立原正秋。名前の移り行きが、そのまま生涯の転変を示している。〈立原正秋〉の戸籍名を得て、彼は、光復後の朝鮮へは還らぬと決め、生れながらの日本人以上の日本人になろうとして積み重ねて来た自分の努力が、形として定まった事への安堵《あんど》を感じたのではなかったかと、私は思う。  ちょうどこの頃、「父の生涯をもっと知りたい」という彼自身の希望に従って、金敬文の足跡の追求が、越次倶子さんによって始められている。越次さんが伝《つて》を頼って現地調査を依頼したソウル在住の旧軍人金道栄《キム・ドユン》氏から、金敬文の死は自殺ではないと誌した報告の手紙が届いたのは、七月下旬であった。越次さんはその手紙の複写を潮さん宛てに送ったという。  父について彼は、貴族出身の禅僧で宗務長の職にあり、風も凍る冬の日に自裁した、と美しいイメージを作り上げて来た。晩年に「風凍る冬の真昼に帰りこし父の亡骸のそのさびしさよ」「など自裁か年経て思へどすべもなし風の裂けめに父の像の視ゆ」と詠んだのは、そのイメージが長い年月のうちに血肉化されていた事を示している。それを打ち崩す事実を知らされて、彼が抱いた感慨の重さは測りようがない。果してイメージの束縛から脱《のが》れて、より広い場所に出られたと感じただろうか。  七月二十六日の午後二時、私は現〈新潮〉編集長の坂本忠雄氏と連れ立って、国立がんセンター十階の一○四三号室を訪ねた。梅雨が明けて、陽射しの照りつける日であった。これは見舞とは言えない。本人にも付添の家族にも迷惑になると知りつつ、彼に会いたい気持を抑え難いままに、坂本氏に連絡を取ってもらったのであった。  扉を明けるなり、ベッドの上で両脚を縮め、半ば俯伏《うつぶ》せになっている立原正秋が眼に入った。後頭部を平らに削《そ》ぎ落したような特徴のある頭が、異様に大きかった。私はそれを見て咄嗟に、ああ、これはいけない、と思った。後になって気が付いたのだが、私はそれまでに一度も、横になった彼を見た事がなかったのである。彼の家に何遍泊めてもらって寛いだ時間を過したか判らないが、彼は私のような遠慮の要らない者の前でさえ、だらしなく寝そべったりはしなかったし、旅先では誰よりも早く起きた。聖路加でも女子医大でも、彼はいつもの通り、きちんと背筋を伸ばして見舞客に応対した。しかしその日の俯伏せの姿は、精根が尽き果てて、重い頭を支えかねているように見えた。  私たちが入って行くと、彼は眼鏡をかけてゆっくりと起上った。半袖の薄いパジャマを着て、短かめに刈った髪が、お河童《かつぱ》のような感じで額にかかっていた。まったく血の気が失せて蒼白い顔は、私が馴染んだ立原正秋のものではなかった。 「奈良へ行ったらしいな」  挨拶を抜きにして、彼は言った。十日ばかり前、雑誌に紀行文を書くために、私が西の京や斑鳩を歩いたのを、岡松和夫から聞いたそうであった。斑鳩へは奈良のホテルから自転車で行った、と私が言うと、 「元気だな」  と少し笑った。 「慈光院へは行ったか」  富雄川《とみおがわ》の流れに沿った高みにあり、大和連山を借景とした庭園で有名な慈光院を、彼に教えられるまで私は知らなかった。 「いや、通り過ぎちゃったな」 「今度是非行くといいよ。俺はむかし、あそこの縁側に寝転んで、景色を眺めていたんだ」 「むかし」とは、彼が初めて大和路を歩いた十八歳の秋だろうか。その頃は美しかったろう大和平野も、今は倉庫みたいに無愛想な建物が無秩序に建って、見る影もなくなり果てている。だが私は、その事を口にはしなかった。  話しながら彼は、ひっきりなしにティシュペーパーに痰を吐き出した。三十分足らずの面会時間のうちに、ほぼ一箱のティシュペーパーを費《つか》ってしまったのではなかったろうか。  坂本氏が病状を尋ねた。一時は流動食が口から入ったが、最近はまた入らなくなった、と立原正秋は言った。体重は四十五瓩まで落ちた、放射線のせいか全身がだるく、肩に鈍痛がある。 「昨夜は熱が高くて、グロッキーになってしまって」  グロッキーなんて言葉は聞きたくない、と私は思った。その一語だけが、ずっと後まで耳に遺りそうな気がした。  空白の時間が来るのを怖れて、私は次つぎと話題を探した。旧〈犀〉同人の噂をし、圓城寺氏の仕事に関連して彼が始めた原子力発電の話に聞き入った。石原慎太郎、江藤淳と、彼が好意を持つ人の名が出たのは、何のきっかけからだったろう。 「彼等は政治好きなんだ」  と彼は言った。 「俺は政治に関係する気なんてないけど、それでも彼等の志は認めてやらなくてはいけないと思ってるよ」  錯覚かも知れないが、彼の表情がだんだん普段に戻って来たように、私は感じた。二時二十五分、あんまり長くなってはいけないから、と私たちは腰を上げた。部屋を出ようとすると、 「ほかの連中に病気の話はするなよ。今は悪いらしいけど、そのうち退院するだろうとでも言っといて呉れ」  と、立原正秋のきつい声が飛んで来た。  私たちは炎天下を歩いて、銀座七丁目のサッポロ・ビアホールへ入った。時分外れでがらんとしたホールの隅の席に坐り、会って来た病人については、きびしいな、と言い合っただけで、あとはほかの話をした。高声に喋って、荒れた飲み方をしていたかも知れない。二時間近くもジョッキの数を重ねてそこを出てからも、早い時間から明いている飲み屋を捜して、銀座裏をうろついた。二軒目の店を出たときも、夏の空はまだ充分に明るみを含んでいたが、私は真直ぐに歩けないくらいに酔払っていた。  八月に入って容態は悪化し、ベッドに仰臥《ぎようが》して眼を瞑《つむ》っている時間が長くなった。「あの頃には、自分でも再起出来ないと覚《さと》っていたでしょう」と夫人は言った。  彼はしきりに圓城寺氏に会いたがった。もう危い状態だから会ってやって下さい、と潮さんからの依頼を受けて、圓城寺氏は病室を見舞った。立原正秋は自力で起き上り、「どうなの」と問いかける圓城寺氏に、 「まあ、病気には一進一退があるから」  と答えた。彼の癌が発見されて間もない時期に、圓城寺氏は、「あなたは病気を深刻に考えているかも知らんが、病気には一進一退が付きものだから、気を落さないで養生しなくては駄目だよ」と元気づけた事があった。その言葉を立原正秋は忘れなかったのだろう。  しばらく雑談するうちに、立原正秋は突然吐血した。駈けつけた看護婦が差出す膿盆に二杯もの血が溢れた。さいわいにこの時は機敏な処置を受けて、吐血は短い時間で収まったが、周りの人たちの、もういけない、という想いは一気に深まった。  死の数日前、立原正秋は夫人を手招きして枕許へ呼び、何の前置きもなく、 「済まなかった」  と一と言だけ言った。夫人は驚いて声を呑んだが、 「そんな事ないわ」  と、強いて笑顔を作った。 「あなたと暮して来て、あたしも仕合せでした」  それを聞いて立原正秋は頷いたが、夫人は息が詰まって、あとは何も言えなかった。しかしそこで黙ってしまったのでは、彼がもう生きられないのを認める事になる。それでは彼があまりに惨めで可哀相だ、と思って夫人は無理に言葉を継いだ。 「でもね、お父さん、頑張れるだけ頑張って頂戴。駄目と言わずに、頑張れるだけ頑張って下さい。お願いします」  努力もそこまでが限度であった。せき上げる感情が言葉を跡絶えさせた。二人の間の緊張が極限まで高まったとき、「お加減いかがですか」と、若い医師が入って来た。その声が明るく聞えて、夫人は救われた。これが夫婦が交した会話の最後となった。  がんセンターに移ってから、夫人はずっと病室に泊り込み、週に一度だけ夕方家に帰って休息し、次の日の午後にはまた病室へ戻る生活を続けていた。ところが、「済まなかった」と言われたあとで帰宅した日の翌る朝は、いつものように家を出ようとして支度を調えたものの、あまりの辛さに身体が動かなくなってしまった。  二日間、夫人は病院へ行けず、家にこもって過した。立原正秋は夫人の不在に、ひどく不審と不安をそそられたらしい。お母さんはどうして来ないのか、いつ来て呉れるのか、と母に代って看取りをする潮さんを問い詰めた。三日目に潮さんは、家に電話をかけて寄越した。お父さんが気にしているから、お母さん、辛いだろうけど来て下さい、というのであった。  八月十二日の朝、夫人はやっと気を奮い立たせて家を出た。病院へ着いた時刻は正確に憶えていない。十時か十一時ごろであった。立原正秋は、そのときはまだ平静を保っていたが、正午を過ぎて苦しみ出した。大量の吐血があり、気管に血が詰まった。午後二時十五分、絶命。夫人の帰りを待ち受けたような死であった。ああこの人は、自分の死期を覚って、いつか言わなくてはいけないと考えていたあの「済まなかった」の一と言を遺したのだ、と夫人は思い当ったという。  遺骸は、その日のまだ明るいうちに、鎌倉の家に還った。幹さんが茶花を白磁《はくじ》の壺に活け、白い屏風の前に横たえられた父を飾った。  中一日置いて十四日に、密葬が自宅で行われた。天候が不順がちだったその年の夏には珍しく陽が照りつけ、強い風が梶原山の天辺を吹き抜けて、会葬の人びとのネクタイを翻し、髪を乱した。出棺に先立って、私たち友人は代る代る遺体に対面し、別れを告げた。 「いい顔をしている」  と藤枝静男氏が言った。 「彼の好きだった能面に似ているじゃないか」  死顔の美しさを、記憶に留めた人は多かった。「長い闘病生活の窶《やつ》れをあまり見せず、健康な彼がそのまま眠っているようだった」と加賀乙彦が書き、「能面のように美しく、静かで、端正なデスマスクだった」と中田浩二記者は書いた。また林屋晴三氏は、「あんな美しいデスマスクはほかに記憶がない。ああ、成仏《じようぶつ》しよった、と思いましたよ。感動しました」と語っている。  門前に横付けにされた霊柩車の傍に潮さんが立ち、 「父は今日のこの風に乗って、生れ故郷の鳳停寺へ還りました」  と挨拶した。  林に囲まれた小坪の火葬場で、遺骨が焼上るのを待つ間、私は皆から少し離れた場所にいて、細身の煙突から昇る白い煙が、光の漲《みなぎ》る空へ消えて行くのを見守っていた。誰かと顔を合せて口を利いたら、くだらぬ事を留め処なく喋り立てそうな不安があった。  本葬は九月八日、北鎌倉の東慶寺で行われた。戒名は、故人の禅名を織り込んで、凌霄院梵海《りようしよういんぼんかい》禅文居士《こじ》。岡松和夫が司式を勤め、圓城寺次郎氏と小川国夫氏、それに私の三人が、いわゆる弔辞の朗読とは形を変えて、故人について思う事を述べた。私は、指名されて立上った一瞬、何も話す事なんか無い、という激しい想いに捉《とら》われた。式場の一隅に、きちんと正座をした小林秀雄氏の姿が見えた。小林氏は、「立原君はいろいろと美味しいものを、台所へ届けて呉れたよ。会った事はなかったんだけどね」と、なつかしげに言ったそうである。  焼香の列が動き出すころ、走り雨が境内を叩いて過ぎ、その音に脅かされたように、鴉《からす》が盛んに啼《な》き立てた。会葬者のなかに、和服を着こなした女ざかりの女たちが目立って、いかにも立原正秋の葬式らしかった、と仲間うちで後のちまでの語り種《ぐさ》となった。 終章 息づく死者  立原正秋の死後一箇月足らずの間に、私は十人を越す彼の愛読者から電話をもらった。いずれも女性であった。格別の用があるわけではなく、私が彼と親しかったのを新聞や週刊誌の記事で知り、彼の話をしたくて電話をかけて来るのらしかった。私は初め戸惑ったが、やがてもっぱら聞き役に廻って、相手の裡にどんな立原像が生きているかを想像して愉しむようになった。なかには「先生からこんな葉書を頂きました」と言って読み上げる年輩の人もあった。あなたの手紙は頂戴した、作者として有難かった、というだけの簡単な文面だったが、「家宝にして取って置きます」とその人は言った。家宝とはいかにも大袈裟だが、私は笑う気になれず、読者からの手紙には努めて返事を出し、随筆でも大勢の読者を持つ歓びを書いた彼が、死後にこうした形で報いられているのだと思った。  大阪の富士正晴氏から、八月十三日投函の葉書が来た。 浄土真宗か舶来カトリックかの小説書きばかりいる中にただ一人といっていい位禅宗の小説書きがいたのにまだ若い身空(ということに今なっている)でガンにやられたこと早すぎたですな。あなた相手ぐらいしか悔みようなし。全然知り合いでもなく、文通もなかったがオシイね。  次の日、私の追悼文を読んでもう一通が来た。 読売の「立原正秋と私」よみました。混血の生き難《にく》さについては余り世間に出て行かぬわたしには想像がつきませんでした。しかし立原正秋が浄土真宗、カトリックの作家流行の日本で珍らしくも禅宗出という感じのある作家(唯一かも知れない)であることにおどろいてはいました。唯一なるものは惜しいです。  富士氏が夜更けに一人でウィスキイを飲み、酔が深まるとあちこちの友人、識合いに電話をかけて長話をするのは、関西では有名だったが、立原正秋については、それが形を変えて私への葉書になったのであろう。西行や芭蕉を論じた著書のある富士氏は、かねてから立原正秋の仕事に関心を寄せていたのかも知れなかった。  立原正秋の墓は、鎌倉の瑞泉寺《ずいせんじ》に建てられた。一つの谷戸《やと》全体を占める墓地の真中を突切って、四十段の石段を昇り詰めた高みに、人の背丈ほどある白御影石の墓標と五輪塔が並んでいる。彼の死の翌年の春、ちょうど山桜の季節に私はそこを訪ねて、しばらくの時を過した。彼からもらった最後の葉書に「山桜の頃おでかけください」とあったのを思い出し、その誘いに応じてやって来たような、感傷的な気分に動かされていた。  命日ではないのに、墓石はまだ新しい水に濡れ、花活けには黄菊が飾ってあって、墓参をする人の絶えない様子が窺われた。陽当りのいい墓前に立つと、谷戸一杯にひしひしと立つ墓の群が見渡せる。立原正秋の気性からすれば、あたりを睥睨《へいげい》している、というのがふさわしいかも知れないな、と考えて、私は一人で笑った。新緑の鮮やかな裏手の山を、数人の人が過ぎる気配がし、子供を呼ぶ女の甲高い声が聞えた。  その年の十一月は、最後の面会の日に「今度是非行くといいよ」と言った彼の勧めに従って、大和の慈光院へ行った。曇った日で風はもう冷たかったのに、西大寺駅前で借りた自転車を走らせたのは、やはりあの日「元気だな」と呆れたようだった彼の声が、耳に遺っていたからであった。  慈光院では、書院に溢れた観光客に、坊さんが声を張り上げて、寺の由来を講釈していた。私はそれに背を向けて、若い立原正秋が寝転んだという縁側に佇み、遠くに連なる山を眺めた。そして、文明に侵蝕されて俗化した現実には眼も呉れず、今も変らずに遺る仏像の美や、寺の白壁のなつかしさを歌い上げたのが、立原正秋の文学であった事を改めて思った。  一九八二年八月、三回忌を期して角川書店から「立原正秋全集」全二十四巻の刊行が始まった。監修者に井上靖、藤枝静男、山本健吉、吉田精一の四氏が顔を揃え、装丁は伊藤鑛治氏、外函《そとばこ》の題字は高山辰雄氏が書いている。立原正秋の一流好みが、遺族によって活かされた趣きがある。この全集は、刊行後十年間に各巻七千部ないし八千部を売り、総計は十五万数千部に達した。まだ増刷が続いている巻もある。物故作家の個人全集は、一巻当り二千部も捌《さば》ければ上出来というのが業界の常識のようだから、稀有《けう》の売行きと言っていい。「後世に遺るものを書く」と、まるで自分に念を押すように繰返した彼にとっては本望だろう、と私は書棚の全集を見やって思う時がある。  一九八九年の一月半ば過ぎ、私はこの稿を書くために光代夫人を梶原山に訪ねた。密葬の日以来、八年半ぶりであった。その日は朝から生温かくて雨が降り、風が吹き荒れた。主の生前と変りなく磨《みが》き抜かれた玄関の大理石の踏台が、湿気に曇っていた。  応接間に隣合って一段高くなった八畳の和室、私が泊るたびに寝かせてもらった部屋が、今は仏間である。欅造りの小体《こてい》な仏壇がしつらえられ、なかに二つの位牌があった。右に〈金敬文之霊位〉、左に〈凌霄院梵海禅文居士〉。父子二代の位牌である。「冬のかたみに」の作者は、主人公の父に〓居円俊の名を与え、その死後、「〓居円俊先生、あなたは私の父ですか」と、主人公に哀切な呼びかけをさせている。私は日ごろ霊の存在を信じていないが、この時ばかりは、死の間際まで父の面影を求め、その行実を知りたがった立原正秋の霊は、今は父の傍で初めて安んじているのだろうか、と極く自然に思った。霊前に毎日、朝は茶碗一杯のミネラルウォーター、夜は一膳《ぜん》の温かい御飯が供えられる。  仏壇の隣の床の間には、「秋篠の名をなつかしみこの道を行きし 正秋」と誌した掛軸が掛けられ、その両側に写真のパネルが飾ってあった。一枚は正座をして手にした能面に見入る横顔を写したものであり、別のより大きい一枚は、和服を着てやや反り身になった半身像である。私はそれが、葬儀の日に遺影として祭壇に飾られた写真なのに気が付いた。  寒椿が咲く生垣に囲まれた庭に、雨が降りしきった。風に揺れる辛夷《こぶし》の木の梢に、まるまると肥った鳥が二羽舞っていた。枝に止ってもまた直ぐに羽撃《はばた》きをして飛び立ち、じゃれ合うように見えた。 「鳥も番《つがい》で来ます」  と夫人が言った。 「立原が生きている間は、追いまくられてゆっくり庭を見る暇もありませんでしたけれど」  夫人は今も、月に一度か二度の墓参を欠かさない。その墓前で、しばしば異様なものを発見する事がある。 「お墓が、背広を着ちゃってたりするんですよ」  おそらく愛読者を自任する女性の仕業であろう。やり切れない、といった風に夫人は眉《まゆ》を寄せた。 「お参りに来て、寒そうで可哀相だというので着せたのでしょうね。気味が悪いから棄てましたけど。そのほかにも、お水を入れるところに椿の花が一輪浮いていたりして。お墓の周りに敷いてある石も少しずつ減って行きます。持って行ってしまうのでしょう。女の人は、立原の書いたものに酔ってしまって、見境がなくなるのかも知れませんね。そんな風にさせるくらいでなくては本当の物書きではない、と立原は言っていましたが。死なれてみると、戸惑う事もずいぶん多かったです。いろいろとあって、わたしもすっかりきつくなりました」  そのあたりから、夫人の話は立原正秋の思い出に入って行った。私は、窓の外の風雨がだんだん納まって行くのに時どき眼をやりながら、それを聴いた。話の終った夕刻には、雲に切れ目が出来て雨は上り、風もようやく勢を失って、鳥影の消えた辛夷の枝が緩やかに揺れていた。  辞去する前に、私は書斎を見せてもらった。そこでは時間が停《とま》っていた。縁のない畳を敷き、南向きの濡縁に接した部分を板張りにした八畳間のほぼ中央に、華奢《きやしや》な文机《ふづくえ》が据えられている。その上に満寿《ます》屋の原稿用紙と文鎮、万年筆や鉛筆で一杯のペン皿、和風の電気スタンド、ケースに入った拡大鏡、家人を呼ぶときに鳴らす鈴。それだけのものがきっちりと置かれて、執筆に倦《う》んだ主が、ふと立って散歩に出掛けたあとのような気配を作り出していた。座椅子に敷いた座蒲団は、主が贔屓にした滋賀県長浜の鴨料理屋から贈られた羽毛蒲団である。その傍に小さな瀬戸の手焙《てあぶ》り。煖房が行き届いてはいても、主は手先きに炭火の温もりが欲しかったのであろう。壁際の二つの本箱には、自著のすべてが納められている。そのほかに目に付く本は、「蔭涼軒《いんりようけん》日録」、「明月記」、「道元禅師全集」、それに「仏教語大辞典」を初めたくさんの辞典類。読み棄てていいような本は一冊もなかった。  座椅子の背後の壁に沿って作り付けた低い棚には、十本近いパイプを入れた深皿とパイプ煙草の包み、花瓶、飾り皿、硯箱。〈香函 正秋〉と蓋に自筆で誌した桐の箱もあった。朝の十時に起きて書斎に入ると、前夜〓いた香の余香が実によい、肩を揉んで呉れていた娘が、「あ、着物がお香くさい」と言った、と書いた随筆があったのが思い出された。  私は、柔かな羽毛蒲団に坐り、鈴を手に取って、そっと振ってみた。鈴は風が微かに鳴るのばかりが耳につく部屋のなかに、和やかな音を響かせた。むかし腰越の家でも、お喋りをしている最中に、彼は何度も鈴を振って夫人を呼びつけ、私は彼が一家の主として振舞っていると感じたものであった。 「いつかは模様替えをするようになるのでしょうけれど、まあ、もうしばらくはこのままにしておきます」  と夫人は言った。故人が息づいているような濃密な空間は壊し難いのだろう。夫人が健在のうちは、書斎はずっと今のままで遺るのではないだろうか。そんな事を考えながら、私は、見なかった八年半の間に、ぐんと家の建て込んだ梶原山を下った。  別の日、大寒に入って間もない時分だったが、私は、立原邸の裏手から雑木林に入り、北へ延びる梶原山の尾根伝いに、大船駅の方向へ降りる径《みち》を辿った。およそ十五年前の正月、立原正秋と二人で歩いた径である。当時大船に私たちの共通の知人が住んでいた。元日の夜を立原邸に泊めてもらった翌る日の昼前、その人のところへ、酒を提げて年賀に行こうじゃないか、と立原正秋が言い出したのであった。そして、車を使うのでは面白くない、山道を歩いて行って相手を驚かせよう、という事になった。自分の思い付きに歓んで、彼ははしゃいでいた。風呂敷に包んだ酒の化粧樽を木刀に括《くく》り付け、その両端を二人で持って、落語の「花見酒」みたいな恰好で、私たちは出掛けた。夫人が可笑しそうに笑って見送って呉れた。風のない長閑《のどか》な日であった。  冬の林に覆われた痩尾根の径は、今もその日と変っていなかった。厚く降り積んだ落葉が足許に快い弾力を伝え、木洩《こも》れ陽が蔓を絡みつけたままで枯れた雑木の梢を、白じらと明るませていた。着流しの裾を蹴立てるように捌いて、胸を反らせて大股に歩いた立原正秋の姿を眼の前に蘇らせながら、私は、あのときの赤い布裂れは何だったのだろうか、と訝《いぶか》った。  径に沿った木の枝の所どころに、小さな赤い布裂れが結び付けられていたのである。 「木を伐る目印にしてやがるな」  と、足取りを緩めずに、立原正秋が言った。私もそう思った。木を伐り払って、この辺にまでも家が建つか、或いは公園風の遊歩道でも造る計画があるのではないか、と思った。私たちはとんだ見当違いをしていた事になるが、それにしても、あれは何の印だったのだろう。  知人の家では款待され、居合せた客とともに賑やかに酒を飲んだ。帰路に再び尾根道にさしかかったとき、まだ日は高かった。木の細枝に結んだ赤い布裂れを見付けると、立原正秋は矢庭に、やっ、と声をかけ、木刀でそれを払った。枯れても強靭な枝は、揺れただけで折れはしなかった。やっ、やっ、と彼は続けさまに枝を搏《う》った。四度目にやっと布裂れが外れて宙を飛び、ゆらゆらと落葉の重なりの上に落ちた。 「ざまあみろ」  肚の底から愉快そうに、彼は笑った。 この作品は平成三年十一月新潮社より刊行され、 平成六年十二月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    立原正秋 発行  2001年2月2日 著者  高井 有一 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861058-X C0891 (C)Y枴chi Takai 1991, Corded in Japan