TITLE : 日本の鶯 講談社電子文庫 日本の鶯 堀口大學聞書き 関 容子 著  序  特にそれまで、僕のファン、愛読者、研究家というでもなく、たまたま丸谷才一氏と僕の対談の席に、一記者として同席したというだけの、言わば偶然とも言えるゆかりの、関容子さんから、連載の『聞書き』記事を始めたいとの申入れを受けた時、これは無理ではないかという気がした。  その由を告げると、実は近代文学館通いを重ねて、自分なりに一応の堀口大學像は出来上っているが、この上とも勉強を続けて行くつもりだとあって、なかなかの自信と執念ぶり、その熱意に動かされて始めたのが、年余に及んで連載十五回、月々一回の僕のいわゆるこの『聞書き』お白洲は、重荷だった。  何がさほどに重荷だったか? それは、回を重ねる度に鋭どさを増す、秋官の問いかけのきびしさだった。そのきびしさをいかにかわすか、さながらそれは、法廷に於ける、検事と被告のやりとりだった。  知っている筈の自分の事を聞かれるままに、答えるだけでも仲々の重荷なのに、月々のプランを立て、持ちこんで聞き出した事がらを、整理して、三十枚の原稿に仕立てる仕事は、大変だったと思うが、関容子さんは、一度も音(ね)をあげずにやり抜いた。お偉らかったと思う。  十五回目のお白洲の終った翌日、五十四年七月十八日の日記に、僕は次の腰折れ一首をしるしている。 『聞書き』の千秋楽といふことかとうとうたらりたらりとうとう  ほっとした気持ちでしょうか?  関容子さん、長い間、お世話さまでした。 五十五年一月二十四日、葉山森戸川のほとりにて 虹の屋主人  大學老詩生しるす   目 次  序 第一章 現役の詩人 第二章 陶印譚 第三章 若き二十(はたち)の頃なれや 第四章 詩人と酒 第五章 山中湖にて 第六章 ジャン・コクトーのこと 第七章 マリー 第八章 ギヨーム・アポリネールのこと 第九章 子供のときから作文が得意 第十章 盗む 第十一章 春の夜の夢 第十二章 第一書房主人 第十三章 ある銅版画家の思い出 第十四章 女たち 第十五章 ズズのことなど  あとがき  文庫版あとがき  解説 日本の鶯——堀口大學聞書き 第一章 現役の詩人 しわとしみよしや鏡はこぼつともこぼてぬおのれいかにとやする ——鏡は砕いてしまうことはできても、自分の老いた姿は変えられない、という哀れな歌です。この頃では、恋人の乳房がなくても、歌が書けるということね。年を取ると、仕方がないから思いつくんでしょう。自分の老醜なんかを歌のタネにして……。まったく、いかにとやする、ですね。  先日の夕刊のインタビュー欄をご覧になったでしょう。たくさん写真を撮っていったのよ、あの日は。その中から、何もわざわざあんな大口あけて笑っているのを選ばなくてもよさそうなものだ、とも思ったけれど、今年五歳になる孫の女の子がね、これはとてもいい写真だって言うんだ。右の頬にあるこの三つの黒子が、そっくりそのまま写っているからって。  ほら、上に一つ、下に二つ、小さく固まった黒子が三つあるでしょう。昔はこんな、渡辺家の紋どころみたいなものはなかったのに、年を取ると肌にいろんなものができてくるものなのだね。  堀口大學先生は、今年(昭和五十三年)八十六歳におなりになる。先生がいつも稿の終りに「葉山森戸川のほとりにて」とお書きになるそのお宅の、二階の明るい和室のお居間の正面に、ご機嫌よくゆったりと座していらっしゃる。先生を取り囲むものは、恩師与謝野寛と晶子、厳父九萬一(くまいち)氏の書、古いさまざまな写真、そして友人三好達治から贈られた月光菩薩の仏頭など。先生の多くの思い出を、折りにふれて呼び起すよすがの数々とお見受けする。  これは、今から半世紀以上も前、二十代の若さでお出しになった歌集『パンの笛』冒頭の、 千年も古りしわれかと疑はる多くも持てる思ひ出のため  という歌の心境が、その当時とは多少のニュアンスのズレを持つとしても、それがそのまま当てはまるような情景に思われる。しかし机上には、まだまだ思い出のみに生きていらっしゃるお年ではなく、十分現役であることを証明するように、最近寄稿なさった雑誌の掲載誌が二、三積み重ねられていた。 ——「海」二月号に、本邦初訳と銘打ったデスノス詩集、お読みになりましたか。  その解説のところに一つの誤植があるのよ。「収容所から収容所へと引廻され、虐待の盥(たらい)廻しの責苦に堪えた揚句のはて、衰弱しきった矢先き、チェコスロヴァキアのテレジーヌ収容所でナチスにおかされ、一九四五年死亡……」とあるでしょう。  この「ナチス」は「チブス」の間違いなんだ。「ナチスにおかされ」という言い方は、ちょっとしないよね。おかされじゃ、婦女暴行みたいだもの。でもやたらに収容所という字が出て来たんで、きっとナチスだと思ってしまったんでしょうね。  誤植で思い出すのは、晶子(与謝野)先生のお歌の誤植で、ひどいのがありましたよ。 蛇の子に胎を裂かるる蛇の母そを冷たくも時の見つむる  という出産の感想のお歌を、何を勘違いしたのかねえ、「蛇の子に股を裂かるる……」と当時の雑誌(「文章世界」博文館)に出てしまったんですよ。  これじゃさぞ晶子先生、お悲しかったろうね。本当にお気の毒だと思いますよ。確かに出産は股を裂かれるには違いないんだが、そう言ってしまっては身もふたもないでしょう。これに比べればナチスとチブスの間違いなんか何でもない方だね。まあ、誰の目にもはっきり間違いとわかる誤植ならまだいいが、それなりに意味が通じてしまって、それがとんでもないことになる誤植は、まったく罪だねえ。校正おそるべし……か。 〈君は古来の文人がすべてさうであつたやうにすぐれた座談家である。奇言警句百出して咳唾自ら珠を成すの趣は君の詩文に彷彿し……〉 佐藤春夫「序に代ふる書翰」   右は大學先生の随筆集『詩と詩人』の序に、親友の佐藤春夫が寄せたものだが、奇言警句百出のお癖も尚、現役である。  つい先程も「しわとしみよしや……」のあとが聞きとれず、私が「よしや?」と聞き返すと「信子」とお答えになったばかりだった。  そんな時は、柔らかな茶がかった和服に手編みらしい芥子色の毛糸の袖なし姿の大學先生の、高いお鼻と大きなお耳がとりわけ印象的な静かなお顔が、少しほころぶ。 ——元日に、この近くの海を散歩していて、珍しく発句を作ってね。 初富士や相模の海はむらさきに  というの。これをある愛読者からの賀状の返事に書いたのかな。そうしたら早速電話があってね。 「あの紫は、晶子先生の紫ですね」  なんて想像しているわけよね。 「まあ、それと幾らか関係あるかもしらんがそうでもないんだよ。本当によく晴れた冬の朝の相模の海は、紫色に見えるんだ。でも君がそう思うなら、それでもいいが……」  と答えておきましたよ。  しかし、晶子先生というお方は、色のお白い豊満なお方でね。いつもお好きで濃い紫の半衿をのぞかせておいでになって、またそれがとてもよくお似合いになった。  だから人にそう思われても仕方がないんだが、あの句は別にどうってことはないんだよ。  机上からご自身の巻頭言のある月刊「太陽」の与謝野晶子特集号をお引き寄せになり、つば広の帽子に衿ぐりの広くあいた黒の洋服姿の晶子の表紙写真をお示しになって、 「ねえ、お綺麗(きれい)だねえ!」  とほとんどため息まじり、別段異論をさしはさむ気はないけれど、その余地をまったく与えないように、同意を強要なさる。 紫のゆかりの色の衣(きぬ)かつぎ眠りておはす乙女のやうに これは、昭和十七年、晶子の死を悼(いた)んでの大學先生の挽歌十首の内の一首。 この君は微笑むときも涙しぬ青春の日の豊かなるため  これは大正八年、大學先生最初の歌集『パンの笛』に寄せられた晶子の「序にかへて」の短歌二首の内の一首。 「……大學は昨日与謝野の家へ暇乞に来た。書斎で二時間ほど先生夫婦と話して帰りがけに、自身がこの春持つて来たダリヤが大きくなつて樺(かば)色や、桃色や、緋や、白の花をたくさんつけてゐるのを廻り縁を曲りながら、悲しい目つきをして眺めた。晶子はふとその時から新橋まで送つて行かなければならない気がした」  これは晶子唯一の小説『明るみへ』の一節。文学作品の上に限っても、お二人にたとえばこんなお心の交流の軌跡が歴然と見える。  また、今もって大學先生が「晶子先生」と言われる際の、一瞬のためらいの後、思い切ってお口になさるとでも言った風な、思いつめた「ア」の発音と、聞きようでは「アッコ」ともとれるような甘さを秘めた呼び方が聞く者の耳をくすぐる。  これは、電話をして来たファンのように「紫」を解釈するのも、ほんのり幸せなことなのかも知れない。 ——僕が、まず短歌というものに魅かれたそもそものきっかけは、十七歳の時でしたね。長岡中学を卒業して、長岡の家をたたんで、祖母と妹と三人で上京して、上野の桜木町に住んでいた時です。  母は僕が三つの時に亡くなっているし、父は、外交官でしたから多く外地におりましたのでね。  その頃、たまたま雑誌「スバル」(新詩社刊)の八月号を本屋で買って、何かの用で一度長岡へ帰る夜汽車の中でそれを読んでいたのですが、そこに吉井勇さんの「夏のおもひで」(百首)が載っていて、これに非常に魅かれました。この時、明星派の短歌というものをはじめて知ったのです。 夏の帯いさごの上に長々と解きてかこちぬ身さへ細ると 君がため瀟湘湖南の乙女らはわれと遊ばずなりにけるかな 伊豆も見ゆ伊豆の山火(やまび)もまれに見ゆ伊豆はも恋し吾妹子のごと  ね、実にいい歌でしょう?  それで僕は早速、その年(明治四十二年)の九月に、寛先生ご夫妻の率いる新詩社へ入社しました。 ………… どの一首も これまでに一度も 見たことも 聞いたこともない 新しいしらべの短歌でした 爛熟しきつた明星ロマンチシズムの 極致の作品百首でした 少年僕が初めて知つた詩歌の桃源境でした 陶酔の 恍惚の 耽美の別天地でした 死ぬまでに せめて一首 こんな歌が作りたいなと思いました 僕の詩歌の一生を決定した これがその瞬間でした 永久に変ることのない 執念の始りでした あの時から六十余年 今日まで宿酔は続いています 楽しい僕の詩歌の宿酔! 「勇短歌との出会い」   と、僕はその時の感激を詩にしています。  はじめの内はただ詠草を郵送して、添削して頂いていたんですが、十二月の終りにお返し下さった詠草の端に、「牛込からは遠くもないし、一度あそびに来てごらんなさい」とあったのね。しかも寛先生じきじきのお筆で。  もう天にも昇る思いでお訪ねして、その時はじめて晶子先生にもお目にかかりました。 〈新詩社はその頃、神田駿河台東紅梅町の、ニコライ堂の崖下にありました。往来をはさんだ片側が見上げるばかりの高い石垣、片側が家並みになつてゐるのですが、新詩社の二階の窓に立つてみても、そのいかめしい石組の絶壁の中ほどにしか目は及ばないほどでした。午前中はすぐ鼻の先の石垣に反射する陽光が二階ふた間に一ぱいにさしこんで何か落着かない気持でしたが、ここが新詩社の応接室にも、講堂にも使はれてゐました。寛、晶子両先生のご紹介で、私が春夫君と初めて相見たのも、このお二階でした。〉 「わが半生の記」(「新潮」昭和二十八年)  ——新詩社では、晶子先生は女のお弟子の詠草しかご覧にならない。寛先生は両方共ご覧になったようだけれどね。  詠草をお送りすると、寛先生が歌の上に丸一つとか丸二つ、丸三つまであって、つけて下さる。何にもつかないのもありますがね。なかなか丸三つは頂けないんで、それを頂いた時は、鬼の首でも取ったように嬉しいわけね。  ところがこれに笑い話があるのよ。ずうっと後になって、中原綾子さんの詠草を綴じたのを見せて貰ったことがあるの。何と驚いたね。四つ丸も五つ丸もあるんだ。何しろ綾子さんが入門なすった時は、いい門弟が入ったというんで、両先生のお喜びは大変なものだったらしいからね。  しかし僕は知らなかったなあ。五つ丸があるなんてことはずうっとね。もっとも弟子同士見せっこもしないけどね。  だから、晶子先生が僕の歌を直接直して下さることはあまりなかったけれども、 美しき古代ギリシャの夜を見よと裸体(はだか)のひとは長椅子による  という歌。これに寛先生は丸三つ下さって「スバル」の新詩社詠草の欄に載った。これをご覧になった晶子先生が、 「古代ギリシャはものものしすぎる」  とおっしゃって、何と直して下さったかねえ。そう、「クレオパトラ」と直して下さった。もっとも『パンの笛』には「古代ギリシャ」のまま載っているけれど。  新詩社に佐藤君や僕が入った時は、新詩社の連袂脱退事件があったばかりの時だからね。先生方としてはおさびしい時期でした。そんな事情もあってかとても大事にして下さったし、僕らもずいぶん甘えさせて頂きました。  大學先生の新詩社入社は明治四十二年九月だが、その年の一月、社中の俊秀をすぐった北原白秋、吉井勇、長田兄弟(秀雄、幹彦)、太田正雄、秋庭俊彦などが、袂を連ねて去る事件があった。  その折の与謝野寛の心境は、次の歌に察せられる。 わが雛はみな鳥となり飛び去りぬうつろの籠のさびしきかなや ——新詩社ではその頃、月に一回くらいの割りで、一夜百首の会というのがあったのね。一晩中に百首の短歌を結字でつくる。出来上ったら仮眠をとってもいいというわけだね。  一枚の紙の上の方に、たとえば、原、稿、用、紙というように、一字ずつ題が並んでいる。その字を入れて一首ずつつくってゆくんだが、なかなか出来るもんじゃないのよ。  僕は身体が弱かったので、一度だけしか参加しなかったけれど、それでも皆と一緒に夜更しなんか出来なかったので、途中でいったん家へ帰ってね。帰ってもつくってればいいんだが、やっぱり疲れて寝てしまうでしょう。また明け方に起き出して駆けつけてつくりはしたが、やっと三十首ほどしか出来なかったね。  それが晶子先生となると、ご自宅にいらっしゃるわけでしょう。女中さんなんか置いていらっしゃらないし、その夜の食事はお弁当を取り寄せて、それを皆に運ぶだけにしたところで、お茶を入れて下さったり、いろいろお手数がかかる。小さいお子さんも多いから、その内泣き出したり、おねしょをするのもあるしね。それでいて百首は、もう誰よりも早くつくっておしまいになる。それが皆、いいお歌なんだね。 「奥さん、大丈夫なんですか。そんなことなすってて」  と誰かが気にして言うと、 「ハイ」  とそれはもう鈴虫が鳴くような細くておきれいな声でお答えになって、さっさと書いておしまいになるんだ。 星月夜晶子の家のあつまりを夜更けてかへる家路おもほゆ  その頃を歌った僕の歌です。  とにかく晶子先生というお方はすごいお方だねえ。自分で歌をつくってみないとなかなかその偉さはわからないものだけど……。眼が違うのよ。僕らとは。  月に二回ぐらいは旅に出て歌をおつくりになったかな。その時はお家の雑事から解放されていらっしゃるから、のびのびとお歌づくりに専念していらっしゃったね。  僕も四、五回お伴したかしら。はじめて随行を許されたのは、入社した翌年の十月で、塩原へ行きました。先生ご夫妻と佐藤と僕と先輩門人たち(藤岡長和・田村黄昏・江南文三・平出修・伊上凡骨)で、皆一緒に汽車に乗ったり、馬車に乗ったりして、同じ景色を見て来た筈なのに、いざ連座の歌会となると晶子先生のお歌はどこか違うんだ。いつの間にか僕らには見えないものを見ていらしたのね。  秀れた芸術家というものは、凡人が十年見ていながらつかめないでいるものを、一見しただけで看破して、それを作品に料理して示すものなのだろうね。  たとえば、僕は少年時代を越後で過したので、朝に晩に、弥彦山の姿を眺めて暮したものでした。そこへ晶子先生がご旅行なさるときいたから、あの山を何とお詠みになるかと楽しみにしていたら、 はてもなき蒲原の野に紫のかはほりのごとある弥彦かな  とお歌いになった。僕は思わずウーンと呻ったね。  まさに「紫の蝙蝠」というイマージュね。大きな広々とした水田の果ての向うに、夕暮れ時には弥彦の山が紫色の羽根を広げた大蝙蝠のように見える。まったくその通りなんだ。僕はあれを見て育ったのに、どうしてそれがそう見えなかったのかと思ってね。  見ること、つかまえること、そして表わすこと。これがお早いんだ。天才だね、やはり……。  それでご一生に五万首もつくっていらっしゃって、それがどれも皆珠玉の作で、同型歌とか、類型歌とか、自己模倣歌というのが殆どないのね。  その内の一つでもいいから頂きたいような……剽窃(ひようせつ)したいようなね。 〈想像力と情熱とに乏しい他の歌人が智巧をもつてゆるゆる工夫し作為したものと違ひ、彼女の感情と技巧とが光と熱のごとく、同時に激発するので、読む者に力強い感銘を与へるのです。彼女ほど実感を歌つた歌人は稀であり、それが常語より遠く抜け出でて詩の領域に入るのでした。〉 与謝野晶子「和泉式部新考」   右の文中「彼女」とあるのは、無論和泉式部のことであるが、式部の天才を語ることによって、これは晶子自身の天才の秘密を解き明しているかもしれない。 ——さて、新詩社で知り合った佐藤と僕は二人して一高(第一高等学校)を受験しましたが、これが二人共失敗でね(明治四十三年七月)。  そしたら寛先生が、二人を永井荷風先生に推薦して下さったので、九月から慶応義塾大学の文学部予科に入学出来ました。当時は今と違ってのんびりしたものでしたね。二学期から補欠として入ったので、それで同級生が三人になったの。つまりそれまで文学部予科の学生は一人しかいなかったんだ。これが生方克三と言って、大変な秀才でしたよ。  その頃また、新詩社には国文学のお講義があって、毎日曜日の朝の九時から昼一時頃までかな。晶子先生が『源氏物語』、寛先生が『万葉集』と『和泉式部歌集』を講義なさる。それを四、五人で聴講します。咫尺(しせき)してね。晶子先生のお声はとても細いから、いくらそばで伺っても聞きもらしそうなの。だからもう咳一つしないで伺いました。  聴講生は大貫(岡本)かの子、三ケ島葭子、原田琴子、それに水上滝太郎と佐藤と僕。もっとも佐藤は夜ふかしが好きで朝寝坊だったからよく休みましたけどね。  この間の事情を深く追って解明する対談の一節を左に引用する。 丸谷 ところで和泉式部なんか読むとはっきりしますが、和歌というのはたいへんエロチックなことをうたうのが本筋だと思うんですよ。さらに言えば、日本の文学の伝統をずっと見てみると、エロチックなことへの関心が非常に大きい。  つまり花とか紅葉とかを詠んでも、それがすぐエロチックなことに引っくり返る。そういう精神構造で行ってると思うんです。  それを堀口さんは鉄幹・晶子で教わった。さらにそのころ、同時にフランスの詩をお読みになっていた。鉄幹・晶子の講義が、フランスの詩を理解するのに非常に役立ったんじゃないかと思いますね。ですから堀口さんは、たいへん自信に満ちた態度で、フランスの現代詩をエロチックなものとしてどんどんお訳しになった。 堀口 なるほどね。意識的には特にそう考えていませんでしたが、意識下にそういう流れがあったのかもしれません。今のあなたの説明で、そうなのかと思いました。 丸谷 私はどうもフランスのエロチックな詩を、いきなりぶつかってわかるということが不思議だったんですよ。鉄幹・晶子で教わった日本の古典の素地があるから、だからあれだけの理解の深さがあるわけだなと思いました。 堀口 過去の私の鍵を、今日あなたがはじめてあけて下すった(笑)。   丸谷才一文芸閑談対談(「かっぱまがじん」昭和五十二年)  ——佐藤も僕も、新詩社でしばらくは短歌をつくっていたんだが、いくらつくってみても晶子先生の大天才という天井に頭をぶつけるだけで、その足元にも及ばない、という感じが深まるだけだったんだね。  文学運動として、一つの流派が大きくなるためには、たくさんの後来者の参加が必要です。だが晶子先生の天才が円熟してきて、神品ともいうにふさわしいようなお作がお口を衝(つ)いて次々に出るようになった頃から、一人去り、二人去りして、やがては連袂して去るようなことにもなってしまった。つまり晶子先生の天才に気づかずに、安閑として止どまっていられるような聡明でない者はいなかった、というわけだね。  それに、それぞれ豊富な才能の持主でもあった。で、口語短歌とか、詩とかの分野に新しい領土を求めたわけなんでしょう。そして皆、それぞれの道で堂々一家を成していますからね。  しかし、僕と佐藤に再びこの轍を踏ませてはいけないと心配なさってか、ある日寛先生が二人にこうおっしゃったんです。 「君たちはまだ若いんだし、短歌という定型だけでは、これからの君たちの思想なり感情なりを表現するのに不足なもの、窮屈なものと感じる時が必ず来ると思う。だから、短歌とあわせて、詩の勉強もしておくべきだな」  短歌の紐でつないでおいては、だんだん息苦しくなって居心地が悪くなってくるといけないとお思いになったんでしょうね。  寛先生ご自身、晶子先生の大才の前にやはりお苦しい時があったかもしれない。僕は寛先生の最高のお歌は決して晶子先生のものにひけはとらないと思っていますけどね。 〈……寛の乏しき歌は学びて後に纔かに之を得たるも君は然らず。君の著想の富贍(ふせん)と、君の表現の自由と、併せて君の幽妙不可思議なる叡智より電撃的の神速を以て突発し来る。同じく栖(す)むこと卅余年、常に共に筆を執る寛は、常に親しく観て、君の才の天上のものなるに驚歎し、寛の才の如きは地上一隅のものなるを思はざるはなし。〉 『与謝野寛短歌全集』序文   夫人へのこの率直な讃辞の中に男としての苦しみを読みとることは出来ないだろうか。 ——不思議なのは、お二人にあれだけ多くのお子さんがおありになって、どうして筆を持つ方がいらっしゃらないのかということ。  ご容貌は、ご次男の秀さんが晶子先生に一番似ていらっしゃいますよ。色がお白くてね。秀夫人の道子さんを、晶子先生はとてもお気に入りでした。おきれいな方だったから。  晶子先生はきれいな人しかお好きにならなかったからね。何でもきれいなもの、目新しいもの、品のいいものがお好きなんだ。だからお子さん方をお叱りになるのも、 「お品が悪いですよ。お下品ですよ」  というのが多かったようですね。 もの思ひいづれわが身の若ければいづれわが身の美しければ 美しき少年なれば思ふこと夢の多きもとがめ給ふな  こうしたお歌のある大學先生の若き日の美少年ぶりがしのばれる。 ——その道子さんが、随筆に書いていらしたのかな。晶子先生は死ぬ時のことをとても怖がっていらっしゃって、あなたは力が強そうだから、私が死ぬ時はギュッと押えていてね、とおっしゃったというのを。  本当に晶子先生は、死ぬことを小娘みたいに怖がっていらっしゃったようですよ。あんなにお利口なお方だのに、そういう悟りは全然なかったね。  だからまたいつまでもみずみずしかったんでしょうがね。錆(さ)びないんだね。感覚が……。 〈慢性小児病といふのださうだ。白痴とは別ものだが、患者の精神と肉体の双方が、いつまでも成熟し切らないのが、この病気の特徴だといふ。他にこれといつて目立つほどの異状はないが「時間」に置去られるのか、肉体の持続性が強く、おそくまで老衰現象の現はれない場合が多く、精神も小児のままいつまでも頑是ないのだといふ。老後も童顔で、頭髪なぞも、ふさふさしているさうだ。芸術家、特に画家と詩人に、しばしばこの慢性病の顕著な例が見られるといふ。以上は四十年ほど前、あるあちらの雑誌の「医学時評」欄で読んだ記事のあらましだ。文中《旺盛な老人》といふ意味を、vieillard vert(グリーン老人)と言つてゐたのを憶えてゐる。〉  右の文は大學先生のエッセイ「念慈歌」の一節だが、与謝野晶子を「小娘みたいに」とお譬(たと)えになる先生ご自身もまた、頭髪はお年の割りにふさふさとして、お耳で話し相手に不自由をおかけになることもない(従って、小声を第一条件とする恋の会話にも、まだ十分現役の資格を備え持っていらっしゃるわけ)。  そして夜毎の晩酌のお酒には、ご贔屓(ひいき)の銘柄をわざわざトラック便でお取り寄せになる程の、生活に対する「若さ」がおありだ。 「さあ、今日の探訪はこれぐらいにしてお菓子をお上り」  グリーン老人は、お机の上にかねてご用意の朱塗りの木の小皿二枚を、中央にお直しになる。そして閉じた扇の形の箸入れを静かに開いて塗り箸をお取りになり、金沢の干菓子を取り分けて下さった。  お菓子は、桜の花や、水の流れや、うず巻や、短冊の形など、色とりどり大小さまざまのもので、二枚のお皿に三つずつ美しく盛られていく。  そのお手元をあまりにじっと見つめている私の眼差しにお気づきになってか、詩人はほとんど童女におっしゃるように、 「さあ、これでお互い、損得なかろ?」  と笑って小皿を押して下さる。  私の、ただ単純な食いしん坊の性質とか、目の前の素敵なことに無闇に感動するという、これはごくありふれた幼児性と、こちらはずっと高級な詩人の慢性小児病とが、この時ばかりは歩み寄ってきて、リンと音をたてた気がした。 第二章 陶印譚 ——「昨夜、晶子先生とここでご一緒だったよ」と突然佐藤(春夫)が言い出したことがあってね。あまりのことに息を飲んで「何?」ときき返しましたよ。  私たち家族は、家内の実家に近い高田市(新潟県)に疎開していて、しばらくそこに住まっていたのですが、終戦後三年目の夏に、佐藤夫妻が泊りに来てくれました。その帰る日の朝に、いきなりそんなことを言い出したのですものね。  晶子先生は、もうとうに亡くなっておいでなのだし、「ああ、夢で……」とはわかりましたが、佐藤はそれを簡単に「夢を見た」と言ってすませたくないのだろうと思ってね。  与謝野寛、晶子夫妻の率いる新詩社に、二人殆(ほとん)ど同時に入門して以来、佐藤春夫はご生涯の最も良き友のお一人であった。大學先生が二人の間の友情についてお語りになる時、なんだか急に若々しく見える。 ああ友よ佐藤春夫よかかる時恋人よりも恋しきも汝(なれ) 秋の風憂ふるものの身に痛し恋人よりも友のなつかし  大學先生のおっしゃるところの「晶子先生の幽霊の出る物語」は「改造文芸」(昭和二十四年一月)に載った佐藤春夫の「永く相おもふ」に詳しいが、ここでは大學先生のお言葉を交えながら、その概略をたどって行く。 ——寛先生がお亡くなりになったのが昭和十年の春(三月二十六日)で、その時佐藤は門弟の代表として弔詞を読み上げたのよ。それがいい文章でね。 「噫一代の詩魂いま春はあけぼの紫の雲のまにまに天に帰り給へり。もとこれ天のものにしあれば、み姿とどめんにすべなきぞ憾みなる。とこしなへに朽ちせぬおん歌の巻一つ二つのみならで、天地(あめつち)のあひだに留めおかれ、事として物として歌ひ残し給はざるはあらねば、なかなかにそぞろなるおんいのちに触れたてまつるたつきともなるこそ、いとせめて慰めはあれ。さあれ、うつそみの人なる我等いまののち、すずしき月影におん姿を、雪の中の梅にみこころざした、春風におん言の葉をしのびたてまつるばかりともなりにけるはや。——昭和きのと亥の春三月二十八日、わざならで残されたるおん弟子のうち、はるを謹みて白(まお)す」  僕は僕で『涙の念珠』五十首を先生の墓前に捧げましたけれどね。   おんなきがらにぬかづきて 四首 今日よりは草葉のかげにみそなはす御まなざしと瞼(まぶた)をおがむ 口もとの御微笑なほ大學よよくも来しよとのたまふと似る 合掌す師よみそなはせおん前に末の御(み)弟子の愚のひとり ふたたびは開き給はぬおん目ぞと思ひ難きも惜しまるるため  それで晶子先生が、佐藤へ弔詞へのお礼のお手紙と、寛先生のおかたみとして貴重な陶印二顆をお送りになった。佐藤は文具の類がとても好きで、特に印を好んでいましたね。お父上が和歌山県のお医者さんで風流な趣味人でしたからご自分でも刻を楽しんだりなさったらしく、その蒐集を受け継いで、佐藤はたくさんの印を持っていました。僕もそういう趣味を多少持っているけれどね。 〈その手紙によると恵まれた印二顆のうち「ゆめみるひと」の方は鴎外先生のお作にかかり主人(といふのは故先生)が鴎外先生から頂いて久しく珍重してゐた品で今一顆の「永く相思ふ」の方は主人が鴎外先生のひそみに倣つたものかいつぞや自ら手なぐさみに試み造つたものであるが、その文によつてあなたと奥様(荊妻のこと)とのお間柄のお睦しかれといふわたくし(晶子夫人)の祈念をこめてこの機会にあなたにお送りしました。御受納下さらば幸といふ意味であつた。……わたくしどもの風変りな結婚を特に憐れむ心も籠められたのであらう。……それぞれにお手作りの世にも貴重な、我々にとつては百城にも代ふべき天下の至宝を頂くのは甚だ喜ばしく文豪、大詩人の衣鉢を伝へ得たかのやうな面目とも思ふにつけて、早く品品が見たさに、既にそれと気づいて家人がほどきかかつてゐる小包のあく間ももどかしく、それを奪ひ取つて気短かにしかし慎重にあけて見ると、なかから出て来たのは紙にくるんだのを更に茶に色褪せた鬱金木綿の小片と綿とにくるまつて、正しく印二顆であつた。〉 佐藤春夫「永く相おもふ」  ——ところがそれが陶印二顆ではなかったのね。片方は確かに陶印で佐藤は「狛犬風の」と言っているが、唐獅子かもしれない。とにかくそういうつまみのある赤土の陶印で青い釉薬がごく薄くかかっているもの。文字は平仮名で「ゆめみるひと」とあって、これは鋭くてのびやかな強い線が、かねて見覚えの鴎外先生の書風なのだが、もう一つの方は乳白色の石印で、文言もどう見ても「永く相おもふ」ではないというわけね。漢字で「長相思」でもなく、万葉仮名でもないという。それで物のわかりそうな人に見せると「座久落華多」ではなかろうかということになったそうだ。  落華の文字は「春夫」の名にふさわしいし刻も見事なので、遊印としても適当とは思いながら、折角寛先生のお手作りのものと思って楽しみにしていたのでがっかりしたらしい。こうなると佐藤は「ゆめみるひと」を手にした喜びより、「永く相おもふ」のない失望の方が大きいというのだから、困ったことになったのよ。  佐藤が書いているが、自分の「物」に対する執着の強さを、われながら忌々(いまいま)しいとして、買い物の際も二つほしいものがあると、二つ買うか、両方諦めるかだというの。なまじ一つだけ手に入れると、ほかの一つを思い出して未練がましい執着に悩まされるというのね。だがこの我儘(わがまま)は、ひとさまからの贈り物に対しては通用しないものだと、自分に言いきかせて我慢しようとしている。  晶子先生というお方は、よく道に迷ったりはなさったそうだが、日頃、迂闊(うかつ)なところをお見せになる方ではないから、これは寛先生のお亡くなりになったあとのお悲しみのためにぼんやりして、お間違いになったのかしらとか、晶子先生にそのことを伺ったら無作法、非常識になるかしらとか、このことに長々ととらわれてずいぶん悩んだらしいのね。あとできいて気の毒なくらいでしたよ。 〈……奥様御幸福さうにお見えになりしこと何よりもうれしきことにおもはれ候。故人の字の長く相思ふといふことばをそこへもおしておきて頂きたくおもひ候ひしもお二人を祈るこころにて候ひき。…… 十六日夜 晶子    佐藤様 御もとに  ……末段の「長く相思ふ」の文字や事の記憶違ひなどから推定して(この手紙は)やはり先生の亡くなられた一九三五年の秋では無く、その翌年か翌翌年の秋らしく考へられる。  ……時に緩急のあるかういふ病床生活の三四年の後に、たしか三度目かの発作に倒れて、一九四二年の春、先生に後(おく)れる事七年でこの不滅の人も肉体は六十四歳で地に帰つた。  ……かくてわたくしは彼の貴重な二顆の陶印の一つに就ては終に聞く機会を永久に失つたのであつた。思へば、前に掲げたあの手紙の後あたりが最もいい唯一の機会であつたのであらう。〉 「永く相おもふ」  ——その頃佐藤が、与謝野先生ご夫妻や、ご両親などを追慕した随筆文集『慵斎雑記』というのを出して、僕にも寄贈してくれたのだが、その本には晶子先生のシベリヤからのお便りとか、鴎外先生の「ゆめみるひと」の印影が掲げてあったわけね。  それを読んで僕が佐藤に手紙を書いたの。僕の手元に寛先生の遺品として晶子先生お手ずから頂いた一つの陶印がある。寛先生御自作のように伺っているが、高著によって、鴎外先生の印影をつくづく拝見して比べると、大きさ、字体共によく似ていて、そちらは白字、こちらは朱文であることを考えると、この二顆はもともと一対の作で、これも鴎外先生の作ではなかろうか。僕が晶子先生のお言葉を聞き違えたのかもしれないので、一応鑑定を煩わしたい、とその印影を同封して送ったのね。  するとすぐ返事が来て、寛先生のお作なることゆめゆめ疑ひ給ふな。実はそれもこちらへ来る筈のやうに晶子先生のお手紙にはあつたのだが、別のものと取り変つていたのを心残りにしていたが、それが外ならぬ君の手にあつたのはめでたい、とあったの。 〈何にせよ奇である。わたくしは堀口の手紙を手筐のなかへ納め、筐は再び疎開荷物に加へて後も「永く相おもふ」の印影をいつまでも目底に思ひ浮べつつ、それが堀口のところにあつたのを最初は甚だ意外に奇ともしてゐたが刻刻にさながら暗中に物が見えはじめた如く一切は鮮明になつて、不思議どころか、それが当然に在る可きところに在つたやうな気がして来た。  ……堀口大學はわたくしとは同庚(どうかう)、同門の友人である。同じ十八歳の春、彼は越後の、わたくしは紀州の、それぞれの田舎の中学校を出て北の方からと南の方からとほぼ同じ頃に東京に出て来たのがその年の夏のはじめごろ、偶然に与謝野先生お宅の新詩社短歌会の席上ではじめて顔を合した。  ……妙にてれ合つてゐるふたりの田舎文学少年に交際の糸口を見つけてくださつた、この夫妻の大詩人の祝福があつたためであらう。わたくしと堀口とはうまが合つてその後三十年今にいたるまで交をつづけてゐる。この交際の永続は専ら堀口の寛厚仁恕の賜である。〉 「永く相おもふ」  〈……佐藤春夫よ、僕は思ひ出す。明治四十三年の春、駿河台紅梅町二番地、ニコライ堂の崖下にあつた与謝野先生のお宅で、君と初めて相見た日を。二人を引き合せて下さつた寛先生は、「——君等は志望も同じだし、年も同じだしするのだから、一緒に仲よく交はるがよい。」とおつしやつた。晶子先生は、黙つて傍に在つて、これを聞いて、あの特徴のあるおんおとがひを、深く襟に埋づめるやうにしておいでになつた。  あの十九の年の春の日から、四十年近く、僕等の友情は、今日に続いてゐるのである。〉 堀口大學『詩と詩人』あとがき  ——佐藤が言うには、晶子先生は二つの同じような陶印を見ていらっしゃるうちに、二十数年前の二人の少年を思い出されたのだろうというわけね。はじめは二つとも揃えて二人のうちの一人に与えようとお思いになったのを、次には二人に一つずつ与えようとお思いつきになったのだろうと言うの。  晶子先生が佐藤へのお手紙をお書きになったあと、偶然伺った僕へそのうちの一つを下さるお気になったのは、一つの即興的な美しい心の動きではなかったろうかと推理しているのね。それをまたわざわざ断らなくても、あの二人の間でなら、話し合いで適当に取り計らうだろうとお考えになったのかもしれない。  それでいよいよ「幽霊」の話になるのだが、僕の疎開先の高田へ佐藤夫妻が泊りに来てくれてね。 〈……翌朝、わたくしが堀口の書斎に煙草を吸ひに行くと、机に向つてゐた彼はわたくしの姿を見ると机のひき出しをあけて何やら捜し出したと思つたら、一つの陶印をさし出して、 「さあ、これです」  と、一言、見れば刻こそは違ふが「ゆめみるひと」と全く同じ形の青釉赤土の陶印の「永く相おもふ」であつた。或は寛先生が鴎外先生と同じ機会に同じ場所で同様の素材を利用して同じく作らせたものかと思ふ。正に好個の一対としばらく見入つてから、それを堀口に返さうとすると、堀口は押し返して、 「それはもう君のものだ!」  とわたくしにそれを譲らうとするのであつた。 「だつて」  とわたくしが云はうとするのを遮つて、 「僕のところにはまだ外に記念品はいただいてあるのだから」  と彼はどこまでもわたくしの肚を見透してゐる。わたくしは自分の執念に対して友のこの恬淡な態度をまたしても自ら恥ぢた。これでこそ真に良寛の書を愛好する資格のある人の態度であらう。  ……わたくしたちの友情を祝福した晶子夫人が、更にかういふ方法でわたくしたちの友情を完うさせてこの印の文言をわたくしたちの間にしつかり捺して置かせようといふのではあるまいか、わたくしは晶子夫人がわれわれをかへり見て微笑しかけるかのやうな気がした。  ……かうしてこの至宝はわたくしには二重三重の意味深い品となつた。〉 「永く相おもふ」  ——そして、佐藤が明日は帰るという日の夜中、酒を過したせいで手洗いに起きたらしいのよ。 用をすませて廊下に出たとたん、 「おなかを悪くなさいましたの」  と声をかけられて、それが確かに知り人の声だなと思いながら、あっと思って見るとやはり晶子先生で、廊下の片隅に少しうなだれて立っていらっしゃるんだって。  発光体のようにぼんやりと白く光りながらね。そしてお歌を、 われひとり穢土に遊びぬなかなかに浄土にまさる思ひ出のため  と、二度くり返して嫋々とおよみあげになったそうですよ。あのききおぼえのあるかぼそいお声でね。 「西方の浄土から諸方の浄土へは誰も遊行しますが穢土へ来る人はめつたにありません。わたしはやはり変り者ですよ。赤倉からのバスもあのひどい汽車の人ごみもずつと一緒でした。あなた方がお久しぶりでどんなお話をなさるか。きつとわたくしどもの噂もあるでせう。それがうかがひたくて——今どきわたくしどもを思ひ出してくださる方もだんだんなくなりますものね。けふはこちらでお世話になりました。……」  と晶子先生のご口調で佐藤が書いています。  翌朝、早く書斎に来た佐藤からこの話をきいた際、僕はこう返事したらしい。佐藤によるとね。 「ね佐藤、支那のアンソロジーには、物(もの)の化(け)や幽霊などの詠んだといふ絶句などをよく見かけるやうだが『……浄土にまさる思ひ出のため』は晶子先生の霊の歌かそれとも藤春先生夢中の詠かは判明しないが新詩社アンソロジーにあつて然るべき一首ではないか」  ここ迄お話しになると大學先生は深々とため息をおつきになる。  そして、その二つの陶印は今はどこに……という私の問いかけを皆までおききにならず、 「ほら、ここに」と、机上にあった小さな桐の箱をお引き寄せになり、私にお示しになった。ふたを払って「鬱金(うこん)木綿の小片」に包まれた二個の陶印を、ゆっくりとお取り出しになる。 「こんな立派な箱まで造らせたのだねえ。よほど嬉しかったとみえて。事情をご存知の奥様が、佐藤が亡くなった後、改めてかたみとして下さったの」  箱の裏側に、丁寧な筆運びで、 「ゆめみるひと 森鴎外先生作 永く相おもふ 与謝野寛先生作 寛先生遺品 晶子先生所贈 春夫宝蔵」  とある。 「さあ、押してみようかね。紙ならいいのがたくさんあるの。あなたのうしろのそこから紙を出して。そう、上から三番目の箱でしょう。一、二、三で引き出して。ほら、見なくてもわかるの。眼光、紙背に徹す、でね。ハハハ、意味は違うが」  とご機嫌よく、また朱肉はその「由来記」に、 「北京瑠璃廠(ルリチヤン)街栄宝斎秘蔵の名品朱肉」  とある、今はもう中国でも手に入らないという飛び切りの逸品、というのをお取り出しになり、 「今日はこれを使って押してみようね。大事にして滅多に使わないのだが……」  とおっしゃりながら、印を押す手に満身のお力をおこめになる。真っ白な和紙の上には、名品の朱肉の色あざやかな「ゆめみるひと」と「永く相おもふ」の印影が万感をこめて二つ並んだ。 ——佐藤と寛先生との出会いはね、寛先生が生田長江さんと石井柏亭さんとお三人で明治四十二年の夏に大阪から紀州を講演旅行なさったことがあるの。その時、新宮へもいらしたのね。  先生方はお酒がお好きだから食事の時の酒に酔って、どうも演壇に立つのが遅れたらしい。そこで前座をつとめたのが十七歳の佐藤で、「偽らざる告白」というのを話したんだね。これが新宮中学でとがめられて無期停学になってしまうのだけれどね。  佐藤の家は古いお医者さんの家柄だが(春夫の父で九代目)お祖父様は鏡村と号して漢詩をお作りになったし、お父様は鏡水といって子規に私淑して俳句を作ったりなさるという風流人で、まあ文学的な血筋と言えますね。  それで新宮での講演会の時、佐藤のお父様が寛先生や生田先生とお近づきになったので、その後春夫君が上京するに当って紹介状を持たしておよこしになったわけでしょう。  その年の十一月に中学に同盟休校事件(学生ストライキですね)が起ったりして、佐藤はその首謀者扱いされたりしたのが、上京することになった原因らしい。 「金次郎」“HARAKIRI(は ら き り)”を説く教師らに詛はるるこそ嬉しかりけれ(明治四十三年二月「スバル」の新詩社同人欄)などという元気のいい歌を作って得意がっていたらしいからまあ仕方がないね。  佐藤は上京して来て、団子坂あたりに下宿していました。 〈……偶々団子坂上の観潮楼の門と面したあたりに、崖に沿うて建てられた二階屋の……低い階段を二つおりた最も奥まつた最も下の部屋であつた。  ……長江先生に学校の保証人をお願に来た父も自分の下宿で二三泊したことがあつた。父は便所の窓に相対した観潮楼の高窓がいつ行つて見ても終夜煌煌(くわうくわう)と電灯がともつてゐるのを見つけて、何人(なんぴと)の部屋だらうかと云ふから、時折、軍服すがたの鴎外先生をあの窓から見かけるといふと、父はさてこそ老先生は今だに終夜勉強してござるかと日頃の尊敬を新にした序に文学をやる以上は鴎外漁史や漱石居士の塁を摩(ま)するだけの志でなければならない。それには何よりも学識が大切と例によつて例の如き訓戒(くんかい)に及んだ。〉 佐藤春夫「天下泰平三人学生」  ——僕と寛先生との出会いはこうよ。  僕が父の親友の彫刻家、武石弘三郎という人のお宅に下宿していたことがあったの。牛込甲良(こうら)町というところでね。この人が鴎外先生の胸像を制作したことがあって、その像を遊びに来た佐藤が見ているのだから、いろいろと因縁は深いのねえ。  さて、寛先生のところへは佐藤と違って僕は父の紹介ではなく、吉井勇さんの歌に魅かれて新詩社に入ったことはもう話したね。それでこの牛込から僕がはじめてお伺いした時、いきなり先生がおたずねになったの。 「君、故郷はどこかね」 「はい、新潟県の長岡です」  と申し上げると、 「あ、そうか。すると長岡には堀口という姓はたくさんあるんだね」  とおっしゃるから、 「いえ、家中(かちゆう)で堀口は私共だけです」  とお答えすると、先生はキッとなさって、 「そんなことはない」  と、おっしゃるので、僕もキッとなってね、 「いいえ、間違いありません。町家にもないようですが、家中では殊に私共だけです」 「そうか。それじゃ君、堀口九萬一という男を知っているか」 「ハイ、存じております」 「それ見給え、ほかにもあるじゃないか」 「ハイ、私の父でございます」  と言うと、ハッとなさって、 「ハーア、そうかあ。九萬一さんが幼児とおっしゃったのは、君のことだったのか。そうかそうか」  とおっしゃってね。それからは話の糸口がほぐれて、特別に目をおかけ下さるようになりましたよ。  大學先生は、寛先生とのここの件りをお話しになるのがとてもお好きだ。  こう書くのは失礼と思うが、私はこのお話を、いろいろな人と同席もしたが前後四回伺った。その時のご気分で多少の長短や間のとり方に違いはあるが、とりわけ「ハイ、私の父でございます」とおっしゃる前の、一瞬いたずらっぽい表情をなさる時がとてもいいし、「ハーア、そうかあ」のあとは必ず居合せた者一同声を立てて笑うことになる。語り芸の絶品に似て、何回伺っても楽しい。こう書いたことで、私にはもう話して下さらなくなってしまうかも知れないのが惜しいほどだ。 ——何しろ寛先生と父とは、京城でお親しくしていたからね。先生は明治二十八年の四月に鮎貝(あゆがい)房之進という人が韓国政府学部省の乙未(いつび)義塾の総長になって赴任した時、招かれて渡韓していらっしゃる。分校の桎洞学堂の主任ということでね。二十二歳。お若かったね。  父はその時三十歳で、領事官補として京城にいました。父はフランス語ができるから、ゾラの小説などを読んであげたり、官舎は広いからというので、一時ご一緒に住んだりしてずい分気が合っていたようですよ。  その年の十月に、「王妃事件」というのが起って父もその嫌疑を蒙ったのだが、外交官には治外法権が適用されて、ひとまず日本へ送り帰された。当時は広島の獄舎ですよ。寛先生はすぐそのあとの船で追いかけていらっしゃって、それはもう行き届いたお世話をして下さったらしい。 「王妃事件」については、大學先生はご説明をお避けになる。佐藤春夫の一文だけをここに引いておく。 〈……李太王の妃閔氏(びんし)の親露排日(はいにち)の奸策(かんさく)を悪(にく)んだ日本副領事、堀口九萬一(くまいち)(詩人大學の父)が率先王宮に入つて、池畔の小亭に身を潜めていた閔妃を引きずり出したのを暴民が斬つた事件が起つた。〉 『晶子曼陀羅』  ——だけど、不思議ねえ。こうしてあなたが来て、僕にこういうことを思い出させると、それを虫が知っているのかねえ。今日、あなたにこの話をしようと思っていたら、午前中にこんな手紙が来たのよ。本当にこれ、今日来たのよ。嘘みたいねえ。福井県の滝波霑石(てんせき)という方で、こんな巻紙に達筆の文だから、歌人ででもあるのかね。 「……誠に唐突ながら、私ことかねがね晶子先生の歌に親しみ、尊敬致しおる者でございます。前々より寛先生の書簡を蔵しております。此度先生ご懐旧の御情いかばかりやと存じお送り申し上げます」  そして、寛先生のお手紙の文面は、 「九萬一殿のこと(ね、いきなりこうなのよ)既に新聞紙上にてご承知と存じ候。此の度のこと、いつに無実の災禍、何共お気の毒と存じ候へども、万事は友人の間柄、小生において相引受け申し候間、決して決してご心配なきやう、皆々様に願ひ奉り上げ候。尚御用有之候ば、小生へ御状相成りたく候。萬、取敢ず申し上げ候也。十一月一日、堀口大學殿」——として、追伸があるの。 「小生は京城より同行の友人に有之候。万事九萬一君よりご依託相成り居り候」  ね、不思議な因縁だよねえ。だがこれは僕が知っている寛先生の字とはまるで違うの。それだけお若いということでしょうね。僕はその時三つだった。三つということをご存知で僕にお手紙下さっているの。だから「御侍史」としてあるね。  その後、僕が十八歳になって新詩社でお目にかかった時は、こんなお手紙をお書きになったことも、父から「幼児」のことをお聞きになったことも、大學という名も忘れていらしたんでしょうね。それであんな問答になったのだろうと思うよ。しかし堀口姓と長岡という地名の関連には深い印象がおありだったので、おたずねになったのでしょうね。 「世界的な学識と趣味を持つて、高雅にして細緻なる内生の愉楽を知る人」  と大學先生のはじめての歌集『パンの笛』の序文で、与謝野寛をして言わしめたほどの父君、九萬一氏は、また佐藤春夫と年齢を越えたよき友でもあったらしい。 〈……わたくしは二十の頃からこの翁に息子並みに愛されて来てゐる。さうして友人の厳君といふよりは、寧ろ師事する年長の友人とも欣慕した翁であつた。〉 「永く相おもふ」   そして、佐藤夫妻が高田に遊んだ時、先生ご一家と妙高山の東麓に当る関川の里にお出掛けになった。ご長男の廣胖(こうはん)さんはまだ幼くて、大學先生の手を取ってやたらに引っぱり回す。 〈……(堀口は)わたくしを顧みて笑ひつつ、 「佐藤、おい、決死隊だよ」  と太陽の直射する急坂を夏草を踏みわけ繁みのなかにどこへだか下りて行く父子の後姿を見送りながら、わたくしはたわいもない空想をした。自分がもし自分の父母ほどに今二十年も長生したならば、自分が堀口のお父さんと交つたやうにこの幼童が更にわたくしの友人となり、わたくしはその年少の友に今日の思出をともに語りながら云ふであらう—— 「わたしは君のお父さんとも君のおぢいさんとも友達で君と今話すやうに話して遊んだものだよ」と。〉 「永く相おもふ」  ——その佐藤君も昭和三十九年(五月六日)には、突然亡くなってしまった。ラジオ(朝日放送)に「思い出」と題する話を自宅で録音中、「私の幸福は……」と言いかけて、心筋梗塞の発作を起して亡くなったそうですね。その一ヵ月程前に、もう一人の友三好達治君が亡くなっているが、こちらも心臓の病気でね。 「詩は心臓で書くもの、詩人は心臓が疲れるらしい」とは、僕が二詩人の死を悼んで書いた文の中にありますよ。  そして、更に、その年の三月(十九日)には、長男が山(八方尾根)で亡くなってしまった。 二十一歳の若さで、まだ慶応の学生でした。三月、四月、五月と、悲しいことばかり続いていましたね、あの年は……本当に。  「享年二十一」 君 若くしてなさけを解し こよなき人と命を絶つ 恍惚なんぞすぎん 羨望す 黄半公子!  「妻よ」 妻よ 子の上はもうお泣きでない 短い命の持ち時間 それにもよさはあったかも たしかにあの子は 僕らの至福は知らずじまいさ その代り 僕らの悲歎も知らずにすんだよ ——黄半公子とは廣胖のことです。父(九萬一氏)が四書五経の中の「大學」篇から、「心廣體胖」という語句に因んで名づけてくれたものです。心は広く、体はゆたかにやすらかに、という願いをこめた名でしたのにね。  しかし僕はこの世でどんな悲しいことがあっても、歌や詩に作ってさえしまえばそれですむような因果な詩人の性(さが)がありますが、家内はそうはいかないから、可哀そうですよ。いつまでたっても忘れられないようです。 わが上の寿永三年いくそ度へも来て安き今日の心ぞ  これ迄に何度か体験なさった「寿永三年」(平家滅亡の前年)の中で、この年(先生七十二歳)ほど先生にお辛い寿永三年はなかったのではないだろうか。  令息のご命日である毎月十九日には、必ずご一家で、お墓参りをなさるという。その便のために、お家から近い鎌倉霊園を墓所にお定めになった。  ところで……と、私は今日の取材のおさらいのために、質問を一つした。  佐藤先生が、「晶子夫人がわたくしどもの風変りな結婚を特に隣れむ心も籠められ」とあるのは、千代夫人(前谷崎潤一郎夫人)のことでしょうか。 「そう。その前の方は、小田中民子さんと言って……」  と説明をお始めになるので、私はいつも下準備の勉強ができていますか、と確かめてからでないとお会い下さらない先生に、知識の程を示そうと、ああ、学校の先生だった方ですか? と割り込んでしまった。  先生は一瞬、戸惑ったお顔をなさったが、すぐ私の誤解の原因がおわかりになると、おかしそうにお目を細めて、 「教坊の人と書いてあったので、女学校の先生か何かと思ったのね。ハハハ、そうか。教職の人じゃないの。教坊とは、芸者置き屋さんのことよ。つまり水商売の出ということを、あからさまに言わないでそう書いてあるの。でも、いいこと、いいことよ。これは学校の国文科でもあまり教えないことかもしれないね。あなたも今日これで一つお利口になりました」  とご満悦で、更に詩人は興にお乗りになると、 「この意味がわかりますか」  と、お手元の紙を引き寄せて「奥津城(おくつき)」と書いてお示しになる。  はい、お墓のこと、最後に行きつくところということでしょうか。 「これは国文科で習ったのかな。僕の娘はかっこよがって仏文などへ行ったものだから、昨日の墓参であちこちの墓に何々家奥津城と書いてあるのを見て、パパ奥津城ってなあに? なんてきいていました。でも、それも昨日一つ利口になったからいいのでね。僕は朝に道を知れば夕に死すとも可なり、だね、と言いました」  私は「教坊」の失敗のあとなので奥津城を懸命に考えたまででとか、お嬢様は先生に甘えて……などの御座なりな言葉はすぐに浮んだが、申し上げるのも騒々しそうなので、ただ、黙って先生の静かなお顔を眺めていた。 第三章 若き二十(はたち)の頃なれや ——最近、太宰治が不遇時代に、川端康成に宛てて「なにとぞ私に芥川賞を」という手紙を出したのが発見されたとかで、展覧会まで開いて大変のようだけれど、そのことについては佐藤(春夫)がずっと以前(昭和十一年)に書いていますね。雑誌「改造」に発表した当時は、「芥川賞——憤怒こそ愛の極点」というのだが、後にこれを改題して「或る文学青年像」としたのかな。  それによると佐藤が、ある日無闇(むやみ)に腹を立てている。文学青年という奴は、どうしてこうも不愉快な代物ばかり揃っているんだろう、不勉強で生意気で人の気心を知らない、ひとりよがりで人を人とも思わぬ、そのくせ自信のまるでない、要するに誠実も知恵もない虚栄心の強い女のくさったみたいな……なんてね。  佐藤は語彙の豊富な男だから、黙って聞いていれば、いくらでもこの種の形容詞が飛び出して来て止まらなくなってしまう。そこで僕が横合いから口をはさんだらしいのね。 〈「それでいいのだよ。文学といふものは、一たいがさういふものなのさ。そのままだまつて十年か二十年見てゐてやると、その不愉快千万な代物が、それぞれ相応に愉快な、見どころのある奴に変つてくるのだ。それが文学といふものの道だね。有難いことさ。たとへば我々にしたところが十年か十五年前を回顧して見ると、お互立派に不愉快な文学青年であつたらしいからね」  あとは笑つた。それはもう十年位以前のことであつたらう。  ……あの風采も心持も寛雅な友人が自分の不平を慰めようと言つた一言と、その会話の二人の間の丸テーブルの白い布の上に落ちてゐたまぶしい光線と、それから目をそらして見上げた軒の新緑と、友の寛雅な一言のために自分の心も和いで、一緒に笑つた事と。〉 佐藤春夫「或る文学青年像」  ——太宰は作家の山岸外史に連れられて、佐藤の家に出入りするようになったらしいのね。佐藤は「門弟三千人」と豪語していたほど、人の面倒見のいい男だったから、太宰が神経症に悩んでいると、医者だった弟さんの秋雄君を紹介してあげたりして、そこでも大分手こずらせてしまったらしい。  芥川賞の選考委員だった佐藤が、第一回芥川賞候補として、太宰の「道化の華」を推挙して、それは果さなかったのだけれど、その後は「第二回の芥川賞は私に下さいますやう伏して懇願申し上げます。……御恩は忘却しませぬ。」といった風な手紙や訪問を度々受けたそうです。  佐藤は、人間が人間からまるで神に祈願するように懇願されるのは苦しくて不快だし、それに何と言われても芥川賞は自分の小使銭ではない、と言っていた。もっともな話だね。  ある時、太宰が、「狂言の神」という作品を、「文藝春秋」で載せてくれないと言って、佐藤の家へ来て泣くので、……本当に泣いたそうですよ。佐藤が気の毒に思って「東陽」という雑誌にとりもってやった。すると「……待テバ海路ノ日和。千羽鶴。簑着タ亀……」などといかにも太宰らしい手紙で喜んで来たのに、一度手渡した原稿を太宰が、「東陽」から取り戻してしまうのね。それでは頼みこんだ佐藤が「東陽」の編集者に対して不義理になるから、「ハナシアルスグコイ」と電報を打った。するとその返電も太宰らしい。「ハイスグマイリマスシカッテハナラヌ」というんだって。  それでもすぐには来なくてまた手紙でね。「(われ等不変の敬愛、信ぜよ。)先生。十月八日に山岸同道お伺申し上げます。立派に申しひらき致します。疑雲一掃の堂々の確信ございます。不一」と言ってきた。  だが結局来なかったようですね。しかしそういうことよりも、佐藤はてれ屋だから、不変の敬愛とか、命かけての誠実とか、大恩人などと呼ばれるのが嫌いだったのでしょう。事実、こうした交際は小うるさくて好ましくない。悪く相手になっていると心中させられかねない。古人が思い当ることを言っている……として、「君子交淡若水 小人交甘若醴」というのを挙げています。  醴(れい)とは甘酒、糖酒のことね。つまり小人の交りはベタベタと甘いばかりだと言っているのよ。  その佐藤春夫も、後年(昭和二十三年)太宰治が玉川上水に投身した時、こんなにも情のこもった詩と歌とを書いた。  だが大學先生も昔、不愉快な文学青年ぶりへの憤りをなだめたその時から、春夫にこうしたやさしさと深い思いやりのあることは、とうにご承知おきのことであったろう。  「太宰治よ」   その失踪の第一報を見つつ歌へる 凡人でも子は叱るなと 人なみにかなしき事を 書き遺(のこ)しいづ地去(い)にけん ゆく水のたぎるがなかに 女(め)とともにいかにかあらん わが友よ 太宰治よ 名はありて文成(ふみな)りがてに 食うべても酒うまからず 女(め)はあれどうらさびしけば すべなさに緊縛(けばく)はのがれ うべしこそ死ぬべかりける いち早く霊饐(す)えし わが友を 人勿(な)叱りそ    反歌二首  その死の確実なりし日書きそへたる 名を得むともだえなげきし若き日の君をそぞろに思ふわりなさ いくたびか恋に死なむとせし人の本意遂(ほいと)げにきとわが思はなくに 「文芸行動」5号 昭和二十三年七月  ——僕らが「立派に不愉快な文学青年」だった頃……というのもなつかしいことだね。  僕も佐藤も一高を落ちた話は前にちょっとしたことがあるでしょう。  当時の一高は、今の東大の隣りにあってね、本郷の金助町、本郷座が近くにありましたよ。  僕の生れたのも本郷の森川町一番地で、父が大学生(帝大法学部)だったのと、東大赤門の前で生れたという歴史的と地理的の二重の条件によって「大學」と名づけられたの。子供の頃はこの名を友達によくからかわれたものだけれども、成人して、特に筆を持つようになってからは、いい名をつけてくれたものだと感謝しています。もっとも、近頃では「貴大学の入学願書を……」なんて問い合わせの葉書が舞い込んだりして、「堀口大學」という学校が葉山にあるのだと思っている若い人もいるらしいけどね。このことは戸板(康二)さんが『ちょっといい話』の中で書いていらっしゃるが。  先日僕のいろいろな印をお見せしたが、その中に「夜郎自大」というのがあったでしょう。あれは、「大學なぞと自ら大きくかまえて、野卑な男でございます」という言い訳ですね。  「某氏の一生」 赤門の前に生れて 赤門の鬼に責められ 不敏ゆえ永く学んで 蒲柳ゆえ長生きしました ——さて、一高入試は朝の九時からで、一日目は佐藤も僕も出たのだが、二日目は佐藤が出て来ない。きっとまた寝坊して棄権したか、具合でも悪かったのかと思って彼の下宿を訪ねてみたんですよ。 〈雷は全くやみ、おそい朝飯をやつとすました頃に、友人の来訪だと取次がれて出て見ると、案の定、堀口が試験の帰りに立ち寄つてくれたのであつた。  自身病弱な彼は僕が病気でもあらうかと心配したといふ。 「いや、雷がこはかつたからね」 「雷がこはい? あんな愉快なものが。僕は大好きさ。いい気持なものぢやないか。天地が震駭(しんがい)するなんて!」 と、病弱なこの美少年は見かけによらない壮語をした。 「試験はどうした?」 「いづれ入る気づかひはないね」 超然としてまたたのもしい事を云ふ。〉 佐藤春夫「天下泰平三人学生」  ——僕はちゃんと答案出しても入れなかったわけで、佐藤は試験を中絶して落ちたわけね。どっちが立派かねえ? ……そりゃあ、佐藤の方が立派だね。無限の可能性を宿しているものね。  もっとも僕はその時分、上野の桜木町に祖母(千代)と妹(花枝)と女中のお竹と四人で暮していた。受験準備のために中央大学の予備校へ通っていたのだが、当時の入試は七月でね。祖母はその年(明治四十二年)の七月二十七日に六十四歳で亡くなっているから、病人のことが心配で、それで運が悪かったのかもしれないね。と、まあそういうことにしておこう。あの頃はよく谷中の墓地を逍遥して歌を詠んだものでしたよ。  祖母に亡くなられて、僕はまだ十七だし困っていると、丁度そこへ僕が、おじさん、おじさんと呼んで甘えていた武石弘三郎という人が九年ぶりでベルギー留学から帰ってきたので、この人の家に厄介になることになった。彫刻家でね、ずっと後に佐藤が観潮楼を記念する講演におもむいた時、鴎外先生の彫像を見て、はてこれはどこかで見たことがあるな、と思ったら、昔、僕の寄宿先に遊びに来て、そこで見たのだと思い当ったと言っていましたよ。  この弘三郎おじさんの兄さんの武石貞松先生と、僕の父とは故郷の長岡の「誠意塾」という漢学塾で一緒でね。どちらもよく出来たそうだから、肝胆相照らして、義兄弟の契りを結んで、一生この友情も変りませんでしたよ。だから弘三郎さんは義理の叔父ということになるね。武石家は新潟の中の島村長呂の庄屋で大地主だった。弘三郎叔父さんは、美術学校を出ると、奥さんと娘をおいて独りで九年間もベルギーへ勉強に行ってしまったのね。あの頃はそんな生活もあったわけよ。  それで奥さんと久し振りに世帯を持ったのが、牛込の甲良町。僕はそこからはじめて与謝野先生のお宅(新詩社)へも向ったことになるね。  そうしている内に巣鴨町上駒込に、立派なアトリエ付きの家を新築してそちらへ移り、僕はそこから慶応へ通ったわけです。今の駒込駅のすぐ近くで、そばには木戸(孝允)さんの茶畑というのがまだ昔のままに残っていましたよ。  当時、上野の池端仲町に「十三夜」という名の櫛屋があってね、これは九+四で十三屋の洒落でしょうかね、その櫛屋が不忍(しのばずの)池(いけ)のほとりにあったわけだが、その上に櫛型の夕月がかかっていたりする風情がえらく気に入って、しばらくは「十三日月(とみかづき)」を自分の雅号にしたものでした。その頃の歌は「スバル」によく出たものです。 天一の手品の如しこの黒き幕のなかより出でて来給へ ゆれ易く治りがたきCOSMOS(コ ス モ ス)の花の姿にわが心似る 君恋ふる面うつくしき若者の一人ぞ欲しき我の仇に 広き野を大き蜥蜴に追はれきておのが屍につまづきしかな あな笑止わがあづからね約束を道徳と呼び守らんとする 荒鷲よわれを持ち去り高きより大煙突のなかに投ぜよ 「スバル」明治四十二年十二月号  ——その頃、佐藤も熱心に短歌を作っていたわけでね。ある日、新詩社の歌会に、 流れ木のふちにまつはる水泡(うたかた)の消ゆるを見つつものを思へる  というのを出詠したのね。すると寛(与謝野)先生が、「誰だね、こんな西行法師のような歌を詠んだのは」とおっしゃった。佐藤は負けん気だから、ちょっといやな顔をして、名乗りをあげた、すると、晶子先生はさすがにさといお方だから、「悪くないではありませんか」とお慰めになっていらっしゃいましたよ。  僕もいつかお話しした——美しき古代ギリシャの夜を見よと裸体(はだか)のひとは長椅子による—— という歌ね、晶子先生が折角「古代ギリシャ」を「クレオパトラ」と直して下さったのに、元のまま自分の歌集(『パンの笛』)に載せたりしました。  だからこれは二人ともに佐藤の言う「生意気で人の気心を知らない、ひとりよがりでそのくせ自信のない、立派に不愉快な代物」だった頃の話、になりますかね。  大學先生は、ふと遠い目をなさって、黙しておしまいになる。 二階の居間に端然と坐っておいでのいつものお席からは、正面の廊下を隔てたガラスの引戸越しに、先生が唐風に「南山」と称していらっしゃる小高い真名瀬(しんなせ)山が見渡せる。夕暮れともなると、その頂き近くにある禅寺(豪総寺)の梵鐘の音がいっそうの風情を添える。 「庭の泰山木に今、花が咲いているでしょう。あの木はおかしいのよ。新芽が出るのと、古い葉を落すのと、花を咲かせるのと、みないっぺんにこの六月にやってしまうのね。それであとの十一ヵ月は泰然としているんだ。それで泰山木というのかね」  先生はその思いつきをとても面白そうに笑っておっしゃる。泰山木はそのこんもりと落ち着きのいい枝ぶりの枝に、白牡丹のような白い大輪の花を、一杯に咲かせていた。 「僕は暮しのために、三百六十日はせっせと翻訳をして、あとの残りの五日で詩を作るって言っていますよ」  先生が以前こうおっしゃったことが思い浮ぶ。 ——翌年一高を受けてまた落ちたのでもう諦めて、佐藤と二人、寛先生が永井荷風先生宛に推薦状を書いて下さって、慶応の文学部予科へ、二学期から補欠入学させて頂いたわけでした。  その年(明治四十三年)の三田の塾は、森鴎外、上田敏両先生を顧問に、荷風先生を主任に迎え、文学部を大いに刷新したところでね。それでも同級生はたったの三人、四月から入学していた、生方克三……というのは、佐藤によると「水滸伝流に言うと、銀盆の如き」顔で、つまり色白の丸顔の男で、弁のよく立つ才子でしたよ。  この男が無類の酒好きで、酔うとどうしようもない不覚ぶりなので、我々は「メチャ克」と呼んでいたものでした。よくサボッてね。僕もしょっちゅう風邪(か ぜ)ばかり引いて、あまり学校へ出て行かない。佐藤は相変らず宵っぱりの朝寝坊だし……もっともこれは夜いろいろ小説の筋なぞを考え出すと、妄想夢想が後から後から湧き出して眠れなくなる、で暁方トロッとすると、もう起き難いということだったのでしょうがね。  だから三人が学校で顔を合わせるということはまず滅多(めつた)にありませんでした。怠け比べをしていたようなものでね。それでも二人がいっぺんに休むと、教授は一対一では、講義もなさり難そうなので、学生三人で協定して、休んでもよい優先権の順番制を作製したりしたものでしたよ。  たまに三人が勢揃いするとこれが大変だ。早速合議して、各人の持ち合せを睨み合せてから出動します。何しろ財政面は「原始共産主義」でしたからね。  大抵は、三田から芝公園を振り出しに、新橋に出て、駅の待合室でちょっと休憩したりする。それから銀座へ出て、カフェ・パウリスタに立ち寄ります。芥川(龍之介)の作品にもよく出てくるコーヒーのお店。今でもありますね。  その日のふところ具合で、コーヒー一杯でねばることもあれば、焼リンゴとかドーナツを注文することもある。ドーナツをつまみ上げて、 「毎日こんなことばかりしていて、末はどうなつことやら」  なんて悪い洒落を言うのは、佐藤か生方だね。だが僕にしても、苦心の詩を見せると、佐藤が、 「甘ァい、甘ァい!」  とからかうものだから、 「砂糖(佐藤)! 甘いのも味だぞ」  なんかとちゃんと言い返していましたよ。  それから日本橋へ出て丸善に立ち寄り、三越の貴賓室へ行くと接待のお茶とビスケットがある。僕の叔母がそこの接待係をしていたので、それでよく入りこみました。  三越の食堂にはお菊さんという美女がいてね、我々はマドモアゼル・クリザンテームと呼んでいた。これが佐藤のマドンナ的存在で、彼の表現だと「容姿楚々とおとがい細りてボッチチェリーの画面から抜け出したような茶汲み女」ということでした。  そして更に上野から浅草へと行く途中にはおしるこくらい食べましたかね。  佐藤春夫の「天下泰平三人学生」によれば、五十銭一枚あると、慶応への往復の電車賃九銭、煙草一個十銭、昼飯十五銭、コーヒー五銭で、十銭の余裕が焼リンゴやドーナツやおしるこになるという。上野の山で鶯のささ鳴きを聴いたこと、日暮里の無縁墓地で行き倒れの埋葬を見物したこと、浅草公園で女相撲に見とれている内に、春夫が大金をすられたこと(春夫の父君の買物のために持って出た九十円の内、半分は大學先生に預けて無事だった由)など、詳細に述べられている。  また、新築の帝国劇場を見学するというので小山内(薫)教授の引率で出掛けたり、晩秋の午後、永井教授の同行で、文科の学生十名あまりで、大川を一銭蒸気で千住大橋まで遡ったりもした。或いはこれは荷風が「秋の別れ」を書くために、「芦の枯葉のそよぐのや、夕もやの間に下流の街の灯が点々と輝き出して、川に映つて流れる風景を見に行く必要」があったのかもしれないという。  馬場孤蝶教授が、教室からの話の残りを歩道に語り続けながら、学生達が「オイスター」と呼んでいた私娼街の蠣殻町の方へと誘い出したこともあったとか。  また、後に春夫が大學先生へ「敬愛のしるしとわれらが友情の思ひ出とのために」として献じたエッセイ集『青春期の自画像』の中には、「その頃の事を歌ひすてたやくざな歌」だとして、次のような詩がある。 ヴヰッカスホールの玄関に 咲きまつはつた凌霄花 感傷的でよかつたが 今も枯れずに残れりや ………… 若き二十(はたち)の頃なれや 三年がほどはかよひしも 酒 歌 煙草 また女 外(ほか)に学びしこともなし 孤蝶 秋骨 はた薫 荷風が顔を見ることが やがて我等をはげまして よき教ともなりしのみ ………… ——その頃の三田の文学部は、史学科と文学科で、その本科と予科とを合わせても学生の数は二十人にも足りなかったようですね。学生に自由勝手にふるまわせてくれる極楽のようなところで、だから学生は皆、極楽トンボでしたよ。  予科生でも変りズボンが許されていたし、本科になると背広で登校する学生もいた。蛮カラな早稲田に比べて、慶応ボーイのハイカラでおしゃれな伝統は、(だいたい、蛮カラという言葉はハイカラに対して出来た言葉でね)この時分からのものです。  何しろ主任教授の永井先生が、フランスから帰朝なすったばかりで、当時の青年の憧憬の的でしたし、先生も五月(明治四十三年)に「三田文学」を創刊なさり、自ら主宰となって張り切っていらっしゃった。森鴎外・上田敏・荷風先生達の創作と並んで、水上滝太郎・久保田万太郎・松本泰とか他にも久米秀治・増田廉吉・五百歌左二郎・小沢愛圀・井川滋なぞという一騎当千の花々しい学生達の作品も陸続と掲載されて、まことに壮観でした。だからどんな怠け者の学生も、希望に燃えて勉強しないわけにはいきませんでしたね。  学生の作品で、「三田文学」への一番乗りは水上滝太郎の「山の手の子」でした。これは雑誌が出るとすぐに文壇的批評に取り上げられて一躍、水上を新進の花形にしてしまいました。もっとも彼はその年の三月に、理財科を卒業していて、学生ではなかった筈ですけれどね、でもつめ襟の制服姿で出て来ては、文学部のめぼしい講義を熱心に聴いていました。年は僕より四つか五つ年長でね、それでも新詩社以来の顔見知りでしたから、会えばあたたかい言葉をかけてくれたりしたものです。 〈彼(荷風)はここ(「三田文学」)に慶応出身の多くの新進作家を紹介しまた養成した。水上滝太郎、久保田万太郎、井川滋、松本泰、佐藤春夫、堀口大學の新進有能の作家詩人評論家はここに生い立ったのである。森鴎外をいただく「スバル」、高浜虚子の主宰する「ホトトギス」、夏目漱石の主幹する「東京朝日新聞」文芸欄と共に、「三田文学」は反自然主義の有力な陣営となった。そしてこの年四月「三田文学」に一月早く発足した「白樺」が「朝日文芸欄」と共に理想主義的傾向が濃厚だったのに対し、「三田文学」は「スバル」と共に耽美享楽の志向を代表するものだったのである。〉 吉田精一『永井荷風』  ——慶応の先輩のことを想うと、ことになつかしいのが松本泰君と増田廉吉君の二人ですね。二人とも確か九州の人でスポーツマンですが、松本さんはテニスの選手で、極めて都会的な典雅なタイプ、増田さんはボート部の選手でこちらは粗野を自慢のあらくれタイプでした。 洛陽の酒徒にまじりしわが友の眉の太さをおもふ秋風  という佐藤の歌があるくらい、増田さんは男性的風貌でしたね。  この二人が何故か僕にそれぞれの優勝メダルをくれたものでしたよ。僕の懐中時計の鎖の端に結びつけてくれてね。それで、教室とか路上とかで二人に出会うでしょう。すると、 「つけてるか」 「ちゃんと持ってるか」  ってね。僕のふところを厳しく検査して、何かの拍子に持ってないことがあると、たちまち不機嫌になるんだ。一つは銀、一つは銅で、どちらもどっしりと重い立派なメダルでしたよ。  こういうのをほのかな「男道」の情緒とでもいうのかね。しかし僕にもその二人にも別段それ以上の趣味はなかったから、たったそれだけのことで、清らかな友愛と言えるでしょうね。  一方、佐藤とはその頃殆ど毎日のように会っていてね、別々に暮すのは夜遅く別れてから、翌日の午前中にまた落ち会うまで、つまり眠る時間だけで、起きている時はお互い黐(もち)と鳥みたいにくっついていたものです。  会えば必ず、佐藤が前の晩に考えた小説の筋を僕に話して聞かせてくれてね。それは楽しいものでした。実に幻想的で華麗な物語でしたよ。  ですから実際に『田園の憂鬱』や『西班牙犬の家』の筆を執るまでの間、佐藤には四、五年の「語る小説家」だった時代があったわけですね。  僕はその「幸福な聴き手」の権利を一年ばかりで棄てて海外に去ってしまいましたが、さて、誰がその後を継いだのだろうかね。  大學先生は、今、目前に幸福な聴き手が一人、存在することにも頓着なさらず、ただ、目を輝かせて春夫の才をお讃えになる。一のものを十に役立たせてしまう春夫の才を、先生は「利用の才」とお名づけになった。これは聡明さとも違う、もっと天来的な芸術的な境にある才で、神の支配遊ばす領域であるという。  愛読の書の一行、半句から、宇宙のように広大な想像の世界をのぞき見ることが出来た春夫は、読んだ一行の句、出会った一女性の眼差しから、堂々たる大小説の構図を得たものだという。  いわく、魂が散歩する話、砲兵工廠の近くで見かけた女性から浮んだプロット、帰りがけの電車で逢った紫の布呂敷包みを抱いた乙女をヒントに得た構想。  大學先生が「佐藤、それは面白い、今度はぜひそれを書け!」と叫ぶと、「ああ書こう、今夜から始めるよ」と答え、次の日は、「そっちの方が面白い。佐藤、それを書け!」となって、「よし、書こう!」となる。世に処女作として通用している『西班牙犬の家』は彼の頭の中に構成された実に一千一番目の物語だったかもしれない、というわけだ。  それにしても、今私の前にいらっしゃる大學先生は、相変らずの渋い和服姿だが、ゆったりした襟元にのぞいた銀鎖と黒い玉とをつないで出来た、まるでジーンズ姿の若者の胸を飾るかのようなネックレス。「秘密は心の宝玉、若さの涙……」というご自身の詩を想わせるような、老詩人の襟元にのぞくネックレスを見て、佐藤春夫なら果してどんな物語を夢想するのだろう。  「秘密」 秘密は心の宝玉、 若さの涙。 恋をめぐる衛星、 夜のかくし児。 秘密は恋人の懐剣、 虚偽の女王の唇。 ロマンチックのパン種、 幸福の酩酊。 ——父は、僕が文学をやることを喜ばなかったから、慶応の文科に入ったことは内証だったのよ。それが半年ぐらいしたらバレちゃってね、その頃父はメキシコの公使館で任に在ったから、自分で直接子に訓戒するわけにはいかない、止むなく知人や親戚の者を通して言ってくるの。文科なんかやめさせて何度でもいいから一高の試験を受けさせるようにってね。一高から帝大法学部、外交官という自身の道を僕にも歩かせたかったんでしょうね。  でもいっこうに言うことを聞かないでいると、それじゃわしが説諭すると言うけど、外国から来られる筈がないと思って安心していたら、外務省を通じてパスポートが届いてね。大阪商船から船の切符も一緒に届いた。メキシコで一、二年フランス語をみっちり勉強した上で、ベルギーへ留学させてやるから来い、というのが呼び寄せの名目でした。  早速、佐藤に相談すると、平気な顔で、 「行ってご覧よ、行って来いよ」  と言うので、僕は行く気になったのだけど、本当は行かせたくなかったのでしょう。こんな送別の詩を餞(はなむ)けにくれましたから。  「友の海外にゆくを送りて」 君白耳義にゆくと云ふ、 美しき少年なれば、 美しきかの国なれば、 海こえてゆくつばくらめ かにかくに胸はをどらん。 されどまたゆかざるもよし、 予が常の詭弁と云ふな、 予はしばし日本に住まん、 よきこの国の民ならぬ 旅人のLOTIの眼もて 東方のをかしき国を 芸術を知らざるを嗤ふべく 哀れなるJAPONに住まん 否、しばし呪はれし島にとどまる。 かくて幾年の後君を追ふとき 「行く」とより「帰る」とこそ云ふべけれ。 ——佐藤がこれを自分の常の詭弁(きべん)と言うなと言っているのは、 悲しきを「悲し」と言はずわが性(さが)の「うれしからず」とわれに言はせぬ  という彼の歌でもわかる通り、そういう言い方をよくしたものなのでね。「されどまたゆかざるもよし」が本心だったのでしょう。佐藤のやり切れない別離の憤りにも似た悲しみが切々と感じられて、その後今でもこの詩は何度でも切ない思いで読むのが僕の慣わしになっています。  当時の僕たち、文学志望の若者は、皆心さびしくて、まるで傷ついたけもののように切なく生きていたのよ。理想の高さに比べて、あまりに自分の力量が小さいということに絶望しながらね。  それをわずかに慰めたのが友情である筈だったのに……まして佐藤はあまり誰とでもしっくり行くという存在ではなかったし。批評精神が旺盛すぎて、愚者に勝利の色を見ては憤るという性癖がありましたからね。  そんな佐藤を残して、僕一人遠くへいってしまったことを思うと、今でも自責の念にかられますよ。 〈なまけ放題で、一向進級もしないのを怪しまれ、南米にゐた父から呼び招かれ、堀口は外地に行く事になつた。  取り残される自分を思ふと新詩社生れの雙生児とさへ云はれる僕には我慢のならないさびしさをおぼえた。  …………  三羽烏の一羽はかうして遠く光のなかに飛び去り、また一羽はつづいて羽づくろひすると見る間に飛び立つて行つてしまつた。〉 佐藤春夫「天下泰平三人学生」   佐藤春夫によると、三羽烏の内のメチャ克こと生方克三氏は戯曲「夜の宿」(「どん底」)のセリフもどきで「おい、おめえと一しょじゃどうもうだつがあがらねえから、転校するよ、紫の朱を奪うて奴よ」と、「自分の顔の色が酒のせいで赤いことも忘れたよう」なことを言って、新設の上智大学へ移って行く。二人の友をたて続けに失った春夫は、長い風邪をひいて五十日間も寝込み、その後、三十年程たってからの検査で、当時結核菌に侵されていたという痕跡が見つけられた由。  そして黐から離れた鳥のような大學先生もまた、最初の寄港地ホノルルで上陸見物中に喀血し、日本人病院に十日ほど入院していらっしゃる。 ——本当にいいコンビというのか、僕たちはシャム双生児みたいなものでしたね。風貌は決して似ていなかったけれど。佐藤は、骨っぽい、烏天狗みたいに尖った鋭い感じのする人だったでしょう。だがそれがのちには中高の苦味(にがみ)の利いた立派な顔になったわけだけどね。 何にがき草の汁などなめにけん春夫の顔はかなしかりけり  遠慮なく、こんな歌を、詠んだりして、お互い隙を見つけては甘えっこをしていましたね。僕も幼少の頃から大そうな甘ったれ屋で、折さえあれば何にでも誰にでも甘えたがりましたし、佐藤がいろいろ不平を言ってきたり、腹を立てたのを真っ直ぐ僕に言うのも、形を変えた甘えなのでしょうね。すると僕がちゃんとなだめることを佐藤は知っている。  たとえば、終戦後、僕が新潟の高田市に疎開中、彼は手紙の中にこんな歌を書いて来たの。 戦は敗れけるかな山里に糧も焚木もなくて冬来る  これに対する僕の返歌は、 思ふこと言うて科(とが)なき世となりぬ糧ともしくもなどか嘆かん  太宰の「文学青年」ぶりに腹を立てていたのを僕がなだめた頃と、お互いの役どころがちっとも変らないのね。  それにしても、何故死んだかねえ、佐藤は……。   佐藤春夫に捧げる挽歌、五月八日未明、枕上 忽焉と詩の天馬ぞ神去りつ何を悲しみ何を怒るか 死顔といふにはあらずわが友は生けるがままに目を閉ぢてゐぬ 愛弟の秋雄の君の待つ方(かた)へ亡ぶる日なき次元の方へ 行きて待てシャム兄弟の片われはしばしこの世の業(ごふ)はたし行く また会ふ日あらば必ずまづ告げん友に逝かるる友の嘆きを  大學先生は、友の死についてお語りになる時、もういつの間にか涙ぐんでいらっしゃる。私は私で、人が人を、こんなにも長い間、思い続け、愛し慕い続けて、尚涸(か)れることのない水々しい「涙」を持ち得ることの生き証人を目の前にして、深く心を動かしている。 かなしかり老ゆれば心枯れはてて涙すくなくなきときく時  大學先生が二十代の昔『パンの笛』集中で老後を予測してお嘆きになった悲しみは、杞憂であったと言える。 「佐藤の戒名を知っているでしょう。  凌霄院殿記誉紀精春日大居士というの。いい戒名だね。きっとお寺が考えてつけた戒名じゃないでしょう。凌霄花とはのうぜんかずらのことよ。佐藤が一番好きだった花。これも思えば、三田の想い出につながったのね。『ヴヰッカスホールの玄関に』咲いていた花なんだから。佐藤の家にもあった。僕の家の庭のも七月には咲きますからね」  泰然と動かない泰山木の隣り、檜に似た翌檜(あすなろう)を台に、今は緑で見えないが蔓がよじのぼっているという凌霄花のオレンジ色の花が、もうすぐ風にそよぐのだろう。 第四章 詩人と酒 ——今、玄関に酒の荷が届いていて、通り難かったでしょう。  あれは静岡の島田市から取り寄せている「若竹」という酒でね、僕が自分でお金を出して飲むのはあれだけ。まあ下さるものは何の銘柄でも飲みますけれどね。  あの酒を飲み出したキッカケは、島田に帯祭りというのがあって、それが戦後復活した時に僕を招(よ)んでくれたのよ。それが縁ね。  この祭り、四年に一度しか行われないの。その四年の間に島田の町へ嫁いできた花嫁さん達の、婚礼の時の金襴の帯を、奴姿(やつこすがた)のたくましい男達が、腰のあたりに一本ずつぶらさげて、練り歩くという祭りでね。尻切半纏(しりきりばんてん)を着た奴が、右手に日傘をかざし、左右の腰に大ぶりの太刀をたばさんで、それに派手な女帯をひっかけてぶらぶら歩く行列は、不思議に色っぽいものでしたよ。  招んでくれたのは、二、三代続いているあの地の造り酒屋さんでね、僕が酒好きだというので、朝っぱらから酒、酒と持って来てくれるのだがそれを僕がちっとも飲まない。  なぜ飲まないかと言うから、はじめの間は、僕は朝酒は飲まんから、とかなんとか言っていたが、あんまりうるさくきくのでね、では正直に言いましょうか、まずいからです、とはっきり言ってしまったの。  どうしてまずいんでしょうときくので、まあ僕は酒屋じゃないから知らないけれども、まず酒は米でしょう、昔から酒の才取(さいとり)は、大口の註文取りに回る時、サンプルとして、出来た酒を持ち歩くのではなく、酒米を持って歩いたというが、お宅ではどこの米を使っておいでか、ときくと、さア……と言う。  で、そんなこっちゃだめですよ、と知ったかぶって、ぶったわけだね。米を肥後米にしてみたら、とかね。  翌年、送ってきたのを飲んでみたら、これがうまかった。米を吟味しただけで、こうも違うものか、と思うくらいでね。水は親代々の水で、いいのがあったらしいのよ。それで、そのまま品評会に出品したら、いきなり賞を取っちゃって、やがて東京でも売られるようになったし、おかげで僕は、そこの酒の神様みたいになってしまったというわけだ。それ以来、トラック便で二十本ずつ取り寄せては、大いに愛飲していますよ。  大學先生の葉山のお宅の玄関脇に、焼き目を入れた吉野杉の厚板が、塀の一部に使われている。静岡のその造り酒屋から不用になった四十石入りの造り桶の分厚い板を送って貰って、この雅趣に富む塀が出来たという。  昔からの木製の桶は合せ目に酒の粕がたまり、寒中、杜氏(とうじ)が裸になって中に入って洗うのだが、この作業がなかなか大変な仕事なので、だんだんとホーロー製の四角いタンクに替えられ、木製の造り桶はお払い箱になるのだという。  日頃、天井板や障子の腰板などに、木目(もくめ)を楽しんでいらっしゃる大學先生の風流を知っている造り酒屋のご主人が、この板もお酒と一緒に送ってくれたのだそうだ。 ——大桶の板には、何しろ百年もの酒の香りがしみ込んでいますからね。今はもう薄れましたが、雨上りの日などには、それが二階の書斎にまでプーンと馥郁(ふくいく)たる酒の香りを漂わせるので、六時に決めてある晩酌の時間が、待ち遠しかったものですよ。  ホーローのタンクで酒を造るなんて、ちょっと味気ないように思えるかもしれないが、僕はいっこう構いません。時々樽酒を貰ったりするが、以前は家の中が寒かったからよかったけれど、今は家じゅう暖房が利いているので、どんどん木の香がしみこんで、匂いばかりが強くなってしまう。だから頂くと僕はすぐ栓を抜いてびんに移し替えてしまうの。  先生は、「新しいこと」を殆(ほとん)ど抵抗なく受け容れられる若々しい柔軟性をお持ちだと言える。  仮名遣いが、今の新仮名遣いに改められた時、あるお弟子が、こんな表記法では詩が書けないと訴えると、僕は格別困りはしない、時世には従った方がいい、と至極あっさりしていらっしゃったという話をきいたので、そのことを先生に伺ってみた。 「僕の詩は音だから、だから構わないというのでね、目で見たり読んだりするには確かに旧仮名のほうが美しい。詩には、目の要素もあるにはあるが、やはり耳できくものだから、それで韻を踏んだり、くり返しがあったりするわけね。だから表記法にはこだわらなくていい、と言ったわけよ」  見た目に美しく情緒的な吉野杉の樽を、清潔で便利という合理的なホーロー製のタンクに替えることには、特にこだわりをお持ちにならないようだ。 「雨が上るとお酒の匂いがしたなんて、酒神バッカスのお家のようで、先生にふさわしい」  と申し上げると、うなずいてハハハと静かにお笑いになる。  「詩生晩酌」 空から落ちる運の矢を待つ 毎晩ゆっくり酒を酌む 膳の上には一二品 好みの小鉢とさかずきと まわりに細君 子らの顔 何よりの これがさかなさ 口にも合うが 気にもいる ——バッカスは僕より吉井さんの方でしたよ。酔った吉井さんの後ろ姿を見かけるのは、たいてい銀座でしたね。大柄な人で、少し猫背でね、銀座裏をぬかるみでも飛ぶようにヒョイヒョイと歩いて行く。 酔(ゑ)ひたるは吉井勇にあらざるやうしろ姿のバッカスに似る  この歌は、銀座でのスケッチです。  僕が新詩社に入った時は、もう吉井さんは出てしまっていたが、本当にけんかをして出たわけじゃないから、時々出入りはしておいででしたよ。  それでなくても僕があの方の歌を好きなことを知っていらしたから、堀口君、堀口君とよく目をかけて下さった。声の太い人でね。  銀座で出会うと、おお堀口君ってお声がかかってそれから一晩中ついて歩くことになる。二、三軒バーを回って洋酒を飲むと、今度は新宿へ行って日本酒になる。それから神楽坂の待合に上り込む、というコースでしたね。待合へ行くと、「もう堀口君、帰ってもいいよ」ということなんでしょう。ゴロリと横になって寝ておしまいになるの。すると僕は一人で帰るわけだ。僕が長い海外生活からやっと日本へ帰っていた頃の話だから、僕が三十四、五(大正末期)にはなっていて、吉井さんは四十くらいだったでしょうかね。 酒びたり二十四時(とき)を酔狂(すゐきやう)に送らむとしてあやまちしかな 酒肆(さかみせ)に今日もわれゆく VERLAINE(  ヴエルレエヌ )あはれはれとて人ぞはやせる うらわかき都びとのみ知ると云ふ銀座通りの朝のかなしみ 吉井勇『酒(さか)ほがひ』  ——吉井さんが豪快な酒の飲み手だったのに対して、萩原朔太郎君は痛飲するタイプの酒飲みでしたね。はじめの内は歌なんか歌って陽気だが、だんだんわけがわからなくなる。  僕がはじめて萩原君の名を知ったのは、二度目の外遊(スペイン)から三年ぶりに日本へ帰っていた時のこと。大正七年頃ですね。そう、僕の最初の訳詩集『昨日の花』を籾山書店から出版した当時でしたから。  神保町の本屋で萩原君の『月に吠える』を求めて帰りました。海外生活中に書きためた詩を集めて出版(『月光とピエロ』)するつもりでしたからその装釘の参考になるかという軽い気持でね。  家へ帰って一読してびっくりしました。実に自由な言葉遣いと、病的とさえ言えそうな青ざめた鋭い感覚に。  だが前橋にいた萩原君とは会う折もなく、そのまま今度はブラジルへ行ったまま五年間も帰りませんでしたが、僕が『月光とピエロ』を贈ったのがはじまりで、南米と前橋の間で文通がなされるようになってね。室生犀星と一緒に主宰していた詩の雑誌「感情」も、毎号寄贈してくれました。  だから実際の交遊が始まったのは、大分あとになるけれど、僕がようやく日本に落ち着くことになって、小石川の茗荷谷に一戸をかまえたのが、昭和七年。僕は四十歳になっていました。病弱だったので結婚は四十過ぎです。  その茗荷谷の家へ萩原君が、妹さんの周子さんのご主人の佐藤惣之助君と二人で遊びに来てくれた事があってね。その時の恰好が、今思い出してみても可笑(お か)しいのよ。どこかの会合の帰りででもあったのかね、二人とも一つ紋の黒い羽織を(それが何だか妙に大ぶりでね)着こんで、白い房のたっぷりした羽織の紐を大仰(おおぎよう)にさ、ほら、トランプのクローバーみたいな大きな結びようをして、床の間を背に、二人並んでかしこまって坐って、挨拶なすってね。  酒が回るとどんどん普段の調子になっていって、家人の三味線に合わせて、都々逸か何かを歌ったのかな。そりゃ、幾分調子っぱずれではあったけれど、あの人にあんな粋な芸があろうとは思わなかったので驚きましたね。 〈……父は長唄や、端唄(はうた)や、新内(しんない)などを好きだった。  次の居間から流れてくるレコードに合わせて、あまりじょうずでない唄いかただったが、お酒の時は、たいてい端唄を熱心に覚えようとして、レコードと一緒に唄った。そしてその声は、時として大きくなったかと思うと、また消え入るようで、酔った顔で唄うその声にいつも、私は父の孤独を思った。〉 萩原葉子『父・萩原朔太郎』  ——萩原君自身も、この時の唄のことを面白おかしく随筆に書いていますがね。何でもその晩、お帰りになってからご老母にそのことを話すと、「お前の唄に合せて弾いたというそのお方は、よほど三味線の名人に違いない」とおっしゃったって。皮肉だが洒落てるね。  萩原君は、外(そと)の飲み屋で会うと、お宅で母上の前におとなしくしている時と違って実に元気で、詩を談じ、恋愛を論じて、その気焔たるやすさまじい。だが、彼年来の口ぐせに、酔うと僕をつかまえては「外交官のドラ息子」というのがあったの。新しい客が入ってくると、その度に「こいつは堀口大學という、外交官のドラ息子でね……」とやるので、僕もずいぶん閉口したものです。  最後に会ったのも新橋の腰掛けで、萩原君と僕の他に、僕の弟子筋になる岩佐(東一郎)、城(左門)両君が一緒でしたがね、また例の「ドラ息子」が始まったので、僕は黙って逃げるように出て来てしまった。  だから彼には、別れの挨拶をしないまま亡くなってしまわれたので、ずいぶんいつまでも、新橋あたりをぶらつけばまた会えそうな気がしていたものでしたよ。  その後、大分経ってから、朔太郎自身が「医者のドラ息子」と呼ばれ続けていたことを大學先生がお知りになり、ああ、ドラ息子云々は、決してからかいの言葉ではなく、親近感をこめた呼びかけであったのかと、胸のうずく思いをなさったという。  何かにつけて「長生きのおかげで……」とおっしゃる先生に、これも長生きのおかげ、誤解が解けてようございましたねと、私は先回りした。 「しかし萩原君の詩は、いつ迄も若い人の心を引きつけるねえ。不思議なくらいに」  とおっしゃるので、でも私は、ああした青白い感性の詩も好きだけど、先生の、例えば「食人競技」という詩、一九九六年のオリンピックに食人競技が行われるという……、あれが大正の頃に書かれたなんて、とてもSF的なブラックユーモアを感じさせる詩でしょ、今読むと、実に現代的な狂気崇拝みたいな新しさがあって、ちょっと猥褻だし、面白いなと思いました、と申し上げると、先生はしばらくお考えになり、 「そうね」  と、思い切って譲歩なさるといった感じに、短く同意なさった。そして、 「僕の詩は、古くなって新しさがわかる、というものでね」  とおっしゃってから、 「ああ、この言葉、いい言葉を発明したね。本日のイベントだ」  と自画自讃なさるので、たとえば「二〇〇一年宇宙の旅」(というSF映画)がリバイバルされていかに当時としては進んでいたかが再認識されたように……と、これは先生のおっしゃる意を理解したとお伝えするための譬えとしては、相手を間違えている感じで適当でないかな? と、続ける言葉を飲みこんでいると、 「その機械(と、私の取材用テープレコーダーをお指しになり)、録音した言葉を文字に直してくれる機械というのはまだないの?」  とおたずねになる。  世の中、まだそんなに新しくなってなくて……と困りながらお答えすると、とても可笑しそうに声を上げてお笑いになる。  八十余歳の老詩人は、ちゃんと現代に生きておいでになり、誰とも楽しくお話しになる。  「食人競技」 今年(千九百九十六年)オリンピック競技で 食人競技の世界選手権は 南亜選出のアンパナニ氏の手に落ちた 一人の白人の女を捕へてから 皆(みんな)食つて仕舞ふまでのタイムが 六十九分九十六秒 従来のレコードは 九十六分六十九秒なのだが アンパナニ選手はその日 何所から食ひ初めたか? 黒坊(くろんぼう)の同選手は競技後に 血まみれの真赤な口で 記者に語つて曰く 「——オペラのソプラノ歌ひだつたので 悲鳴が心よく響いて 大きに愉快だつた 但し毛のかたい女で 歯にからまつて困つたが…… 肉と皮はやはらかだつた」と 多勢の見物の女たちが狂気して アンパナニ選手を取りかこんで 血まみれな接吻を求めてゐた 彼女等は斯うして この大選手に食はれる幸運を持たなかつたことの 悲しみを慰めようとしてゐるのだ ——三好達治君は、泣き上戸でね。しかしいい酒飲みでしたよ。僕のところへ来るとまず飲んで、泣いて、寝て、起きて、朝湯に入るとまた酒でね。階段の上り口のところで、家内の部屋に「かみさん、酒だ」なんて声をかけると、ドンドンと階段を上って来ます。  すると朝から酒盛りが始まってね、酔えば必ず詩の話になる。詩の話しかしませんでしたね、あの人は。 「朔太郎が、朔太郎が」と言って、(彼は朔太郎を師と仰いでいましたからね)涙声になってきて、感極まって声も出なくなると、僕の手をギューギュー両手で握りしめて泣くの。  それが力があって痛くてね、それに涙で僕の手がビショビショになる。でも僕は迷惑なぞと思いませんでしたよ。僕も三好と同じぐらい泣き虫ですからね。僕らの魂は、フランスで言うLes Ames Soeurs(姉妹なす魂)のたぐいで、同じくらいの泣き虫魂がここに入っているのでしょうよ。  夜になると、食事の時と寝る前にまた酒で、酔って泣く前に、いつも紙と硯を持って来させて何か書くと言います。それが不思議なことに、いつも同じ詩でね。たくさんたまっていたのに、お人がみえるとお見せしては、差し上げてしまって、今はほら、あなたの横の壁の掛け物一つになってしまいました。  半紙大程の紙にすっきりとした筆跡で書かれたその掛け軸には、いかにも酒を愛した三好達治への大學先生の友愛のしるしのように、艶のいい瓢箪(ひようたん)のふくべが一つ、添えられていた。  いつも同じものだったというその詩は、先生の解説によると「非常に淋しい春先の志賀高原あたりの詩」であろうという。ゆっくりと、友に名残りを惜しむ挨拶でもなさるように、朗唱して下さった。 山なみ遠(とほ)に春はきて こぶしの花は天上に 雲はかなたにかへれども かへるべしらに越ゆる路 「山なみとほに」  ——僕が三好君を知ったのは、昭和五年に第一書房で「今日の詩人叢書」十冊を出したのだが、その選定にあたった僕が、三好君の『測量船』をいの一番に推奨したことを有難がってくれてね、「大學さん、大學さん」と大事にしてくれました。(因みに、「今日の詩人叢書」は、(1)堀口大學訳ポールヴァレリー詩論『文学』 (2)三好達治詩集『測量船』 (3)岩佐東一郎詩集『航空術』 (4)城左門詩集『近世無頼』 (5)田中冬二詩集『海の見える石段』 (6)青柳瑞穂詩集『睡眠』 (7)竹中郁詩集『象牙海岸』 (8)菱山修三詩集『懸崖』 (9)三浦逸雄イタリア訳詩集『南風港市』 (10)中山省三郎ロシア訳詩集『森林帯』である)  で、佐藤春夫の姉さんのお嬢さん(智恵子)と結婚したのが昭和九年で、三好君は三十四歳でした。詩人は病弱か貧乏だから、皆晩婚です。媒酌は岸田国士さんでしたね。神田の中華料理屋の二階で披露宴が行われたのだが、その時、辰野隆さんや河盛好蔵さんとテーブルがご一緒だったらしい。  というのは、河盛さんがそう書いて(「憂国の詩人・三好達治」)いらっしゃるからね。  きっと酒好きの連中ばかりのテーブルだったので、すぐ徳利がからになったのでしょう。河盛さんが徳利に手を出そうとすると、僕が手をふって、 「からですよ、空気ばかりですよ」  と言ったと書いていらっしゃる。この「空気ばかり」という表現がいかにも僕らしいというのね。あの頃は実によく飲んでいたものです。  三好達治の年譜によると、昭和十九年五月妻智恵子と協議離婚の上、萩原アイ(朔太郎の妹)と結婚とある。  そうしたことが原因の一つになっているかどうかは大學先生もご存知ではないらしいが、後年、佐藤春夫とは不和になって、生前和解を斡旋しようとした人はあったらしいけれど、むしろ三好達治が頑として応じなかったという。 〈喧嘩を始めたころ、三好が佐藤邸の門の前で、「佐藤春夫の馬鹿野郎!」と怒鳴って、すたすたと自分の家に帰ると、こんどは佐藤が飛び出して、横町の三好君の家の前に行って、「三好達治の馬鹿野郎!」と怒鳴り返して、すたすたと引き返したものだそうである。  …………  三好を通じて佐藤から本を借りていた佐藤正彰氏のところへ速達で、その本をすぐ返してほしいという。  すぐ速達で送り返すと、折り返してその本が速達で送られてきて、「更(あらた)めて僕が君に貸す」という手紙がついていた。 「全く詩人の喧嘩は面白いね」と佐藤君は笑っていた。〉 河盛好蔵「憂国の詩人・三好達治」  ——あの二人、喧嘩させたままにしておきたくなかったね。もっとも心ではお互いとうに許し合っていて、尊敬し合っていたようだから、形の上だけのことだけれどね。  ああ、僕の家の階下の茶の間の鴨居にかかっている雉子(き じ)の絵ね、あれ佐藤の作品だっていつか話したでしょ。佐藤は文筆でいこうか、絵筆を持とうかと一時迷ったくらい絵をよくしてね。自画像やあの雉子の絵は二科展に出品して好評だったものなのよ。  あの絵を僕の所へ運んでくれたのが三好君でね。昭和七、八年頃だったかな。僕は江戸川アパートにいて、佐藤や三好は関口町だったから、三人が割り合いくっついて暮していたわけです。  ある時、僕が佐藤の家の応接室の隅に無造作に立てかけてある雉子の絵を見て、ねだったんだね。すると、どうせ君は読みはしないんだろうから、と僕の『日本古典全集』五十巻と交換しようと言うの。これ、与謝野先生へのお義理から予約しただけで、まったく佐藤の言う通り、死物に等しかったから、喜んで約束した。  すると、四、五日して三好君が使者に立って雉子の絵を持って来てくれました。  改めて眺めると雄の雉子だから色彩豊かだし、それが鋭いけづめのある黒い両脚で虚空をつかみながら悶絶の形をしているのだから、大胆な構図がいかにも佐藤らしい。  三好君は、絵を包んで来た風呂敷に、古典全集五十巻を包んで、相当重いから書生にお供させようというのに、いや近い所だからと、さっさと行ってしまってね。  今は絵だけがここに残って、あの二人はとうに居ない。しかも同じ年(昭和三十九年)ひと月違いで亡くなるとはねえ。  「三好達治」 詩に酔う 三好達治は詩に酔うた 詩に淫す 三好達治がこれだった 詩に痩せる 三好達治は詩に痩せた 詩に賭ける 三好達治は詩に賭けた 詩に老いる 三好達治は詩に老いた 詩に貧す 三好達治もこれだった 詩に死す 三好達治は詩に死んだ 六十余年 無残ひと筋 ——「詩に貧す」は誰もご同様でね。詩人は食べられないものなのよ。  斎藤緑雨が「筆は一本、箸は二本、衆寡(しゆうか)敵せず」と名言を吐いているけれども、まったくです。  あのなげしの所にかかっているあれ、何かおわかりか。屏風押えというものよ。  僕には昔、身分不相応の宝物が一つあってね、良寛の屏風一双半でした。半双が六面で、一双半は十八面。「喬林蕭疎寒鴉集」に始まる、それは美事な書でしたよ。  戦後、お客が招べるようになると、この二階のふた間をぶち抜きにして、調度品は皆片づけて、良寛の屏風をこう一杯に広げて、それはぜいたくな気分の酒宴を催したものです。  屏風押えをなげしにさして、それで屏風を倒れないようにして、全部を広げて見るの。間仕切りにするという実用性もあるけれどね。  しかし必要があって、一双と半双、二度に分けて売りました。で今は屏風押えだけが空しく残っているというわけだ。  あれを見て、そぞろしのび泣きしてる……というわけじゃあない。われわれがいい物を持っても駄目なものなのね。無理して持っても持ち切れずに放してしまう。もっとも、僕みたいな貧書生ばかりじゃなくて、安宅産業のコレクションさえ路頭に迷うんだから、大學さんの良寛の屏風がここからヒラヒラと飛び出して行ったって不思議はないわね。  「屏風を叱る」 浮世の冬のすきま風 防いでくれるが屏風じゃないか 夏帽なみに舞立って 税務署入りとはむごいじゃないか やい 屏風 ——さあ、その屏風を売った頃のことで面白い話があるのよ。  例によって三好君が、あの時は仏文学の草野貞之さんと一緒に来ていて、泊り込んで飲み続けていたわけね。二人は階下にいた。  僕は二階のこの部屋で、商人と屏風を譲れ、譲りたくない、の談合です。その人がその時はまたいくら断わってもなかなか引き揚げてくれない。  三好君達は、酒の相手を商人に占拠されていては酒もうまくないし、あの名作を持ち去られるのも面白くない、と思ったのでしょう。座敷箒(ざしきぼうき)を逆さに持って、そこに紙を貼りつけてプラカードを作ってね、ねじり鉢巻に裾をはしょってエッサエッサとデモンストレーションをかけてくるの。  そのプラカードには「大學を我らの手に——全学連」と書いてあった。これには大笑いだったね。もちろん僕はすぐ商人から解放されて、再び三好君の手に戻りましたよ。  喧嘩のままだった佐藤春夫と三好達治は、それぞれに大學先生を訪ねては、別段何のわだかまりもなかったという。 「あなたのそのいつも坐る場所ね、そこに佐藤も三好も坐ったのよ」  大學先生は、子供の頃信濃川でよく泳いで中耳炎になり、どうもそれが原因らしくて左耳を聾(ろう)されたそうだ。その代り、右耳は常人より余程聴覚が発達してしまった由。訪れた客は、必ず先生の右側に位置するようになるが、これは床の間の関係で耳のご不自由の故ではない。 「庭の凌霄花が、咲いたでしょう。佐藤はよく、ここの家の凌霄花は色がいい、とほめてくれましたよ。その廊下の手すりに寄ってはじっと下の庭を眺めていました。特別にこれが色がいいとは思わないけれど、それ以上、佐藤はあまり説明しない男だからね」  葉山の澄明な空気の中で、私にも特にこの花のオレンジ色は鮮やかに見えた。 ——僕の友人で、酒の強くないのは佐藤一人でしたね。此の間も、鎌倉の里見(〓)先生がお思い出しになって、佐藤はよく君のところで飲めない酒を飲んではひっくり返ったりしたねえ、となつかしんでいらっしゃった。  でも、若い時は結構僕につきあって、飲んでは酔っていたのね。『パンの笛』に「友」と題して、こんな僕の歌がありますもの。 さびしかり酔(ゑ)ひて歌へどかたはらに酔ひて泣くべく春夫あらねば 末の世やわが徒日ごとに非なるかな克三(かつざ)は酔(ゑ)はず春夫歌はず 四這ひになりて草食むけだものの真似も痛まし汝(なれ)のする時(春夫に)  四つ這いになって馬の真似をしたのは、二人で玉川上水の方を散歩していた時、突然やったのね。僕はびっくりしてねえ。しかし遠く海外にいると、こんな些細なことがしきりと思い出されるの。恋人を思う相聞のように、あの頃(明治の末)は佐藤を恋うる歌ばかり作っていました。相聞と言っても、佐藤は返歌なぞよこしませんでしたがね。 霜曇る師走の街の寒空に佐藤春夫の自画像の見ゆ 冬の日の林に入ればわが友の佐藤春夫の死顔の見ゆ 思ふことかなし言ふことみなさびし佐藤春夫は早く死ぬらん 秋の風佐藤春夫の横顔のいよよさびしくなりまさるらん 秋の風そぞろ日本を思はしむ克三(かつざ)や如何に春夫や如何に 秋の風佐藤春夫が恋人を刺さん手だてを思ふ夕ぐれ 秋の風憂ふるものの身に痛し恋人よりも友のなつかし  私は佐藤春夫に返歌がない筈はないと思った。大學先生に歌を贈られて、泉の如く湧き出る詩魂を春夫が抑え切れる筈がない。  すると、木下美代子著『佐藤春夫の短歌』の中に、春夫の「白耳義なる堀口大學におくる消息」と題した一連の短歌が紹介されているのを知った。  早速、大學先生にお知らせした。   白耳義なる堀口大學におくる消息 大學に消息もせでわが歎くわがことをのみただにわが歎く 悲しくも汝がすむ国はいにしへの筑紫のごとくはるかなるかな 夜となりし銀座どほりの甃石(しきいし)にわれ立ちなげくわがことをのみ ここかしこさまよふ落葉うらぶれてわれは銀座の裏通(うらどほり)ゆく なげきつつCaf獅ノ入れば物憂げに左二郎克三(かつざ)むかひけらずや 汝が友の酒をたうべて泣くことの秋はさすがにおほかりしかな 悲しみのきはまりくれば四つ這ひに草食むまねをしてはなぐさむ 悲しみの吾(あ)にきはまればたましひも影も売らんと思ひ立つはや 吾(あ)を措きて吾をなげくものはあらじとぞ思はるる日の多(さは)なりしかな 生きんとて髭(ひげ)し剃りなば赤根さす昼の剃刀うら若み夜とならぬまに置きね遠くに ふるさとの夏より秋にかはるころ恋に死なんとわれのおもひき 恋ぬればわれもするごと寝ねがてに汝(なれ)はおさとをおもへるものか はろばろと兄(いろせ)をなげき夕さればおさとは黄なる灯をともすなり  私はノートに写したこれらの歌を、夕暮れの迫る大學先生のお居間で、一首一首ゆっくりと読み上げた。  これも長生きをなさったせいで、実に六十数年ぶりにお接しになる友の返歌である。雑誌に発表すればそれで事足れりとして、特に海外の友へ送ることをしなかったのはいかにも佐藤春夫らしい。  先生は、一つ一つ「ああ、いいね」「ああ、いい歌だ」と味わいながら時折お目をつぶって聞いて下さった。 「四つ這いも相変らずやっていたとみえる」「ひどい字余りだね、髭の歌は。春夫は天衣無縫、直情径行というのか、歌がひどく傾いていてもいっこうに気にかけないんだね。それでよく僕の歌を、言葉のくり返しが多い、と言っていたが、僕はそれで歌のバランスをとっているのよ」  と解説をなさる。 「おさと」の歌になると、急に解説がなくなったので、おさとさんて、どんな方です? と伺ってみた。 「ああ、カフェ・ライオンのウェイトレスね。そんな人もいましたっけ」  と心持ち頬をお染めになったように見えた。  どういう感じの人でしたか? 竹久夢二の絵みたいな? と追及すると、 「いや、恥ずかしい……」  とお逃げになる。  だって、半世紀以上も前のことでしょ、と迫ると、 「だから、恥ずかしいのよ」  と躱(かわ)しても、私はまだじっとご返事を待っている。すると、 「あの凌霄花みたいな花かんざしのよく似合うような人。さあ、これで許して、お帰りなさい」  とおっしゃるので、内心、ずるい、ずるいと思いながらも、そろそろお楽しみの晩酌の時間も迫る頃なので、今日のところはそこ迄、とすることにした。 第五章 山中湖にて 正面を探して置けと言い置いて天人去りし富士の山かな ——狂歌ですよ。これ。できたての狂歌。  ここ(山中湖畔のホテル)へ来てもう大分になります。以前は河口湖に別荘とも呼べないような小さい家を借りていましたが、折角(せつかく)避暑に出掛けても、男はいいが家事に追われる者達が可哀そうでね。このところずっと夏はホテル住いです。  僕は富士山が大好きでね。毎年の夏ひと月ばかりを、朝夕間近に眺め暮しても、決して見飽きるということがないもの。また、どこから見ても美しい山でしょ。で、どこから見ても正面なのね。そこでこの狂歌となったわけ。  だが富士山の変らぬ姿にひきかえて、去年の自分と今年の自分との開きに、今更ながら驚かされますよ。去年の僕と、今年の僕が同一人物でないような形で、対決するの。はっきりわかるのよ。わが身の変化が。  たとえば坂道とか階段の昇り降り一つにしてもね。十一ヵ月の空白があるから、去年の自分というのが記憶に残っているからね。  だから今の僕の一日なんていうのは、もう大変なものだ。いや、大切とか貴重とかいう意味じゃなくて、ほんとに大変なの。落潮急なりということよ。  山中湖を見おろす小高い丘のホテルに滞在していらっしゃる大學先生をお訪ねした。  そのお許しを得るための私の電話に、「この暑いのに日帰りで来るなんて、死んでしまいますよ。いいの。あなたも酔狂だねえ」とおっしゃった先生は、今度はフロントからの電話に、「え、来たの? 本当に? ……って言っても、来たんだねえ」と、あきれたようにおっしゃって、それでもじきにロビーに降りて来て下さった。  富士はさておき、先生のお姿のどこが正面かを探すためには、暑いなどと言っていられない。  おかげで、和服姿以外の先生をはじめて見た。白い開衿シャツにグレーのズボン。衿元には相変らず黒い珠を銀鎖で連ねたネックレスがのぞく。  先生、お洋服もお持ちだったのね、と冗談が言える程に、この山にもう大分近づいて眺めている、と思った。 ——僕の若い友人というか、慶応のぐんと後輩というか、そういう青年が今、アメリカにいて、失恋に泣いているらしいので、僕は慰めの歌を八首書いて送りました。そしたらその内の三首が気に入ったらしい。合格したんだね、正幸(まさゆき)君(彼の名よ)のおめがねに。  昔、マッカーサー占領治下に、日本から持って行かれたおびただしい雑誌や書物がメリーランド大学の図書館に未整理のまま眠っていたのを、慶応の司書科を出た彼が招かれて整理に行っていたの。そこで時々僕の旧稿が雑誌に載っているのを見つけて、コピーして送ってくれたりしてね。それも珍しい物かどうか、ちゃんと見わけて。有難い人なのよ。  メリーランドの仕事が終ってやれ日本へ帰れるかと思ったら、今度はシカゴ大学に引っ張られて……可哀そうに故国を思うことしきりでしょうに、そこでまた失恋が重なるとはね。メリーランドの彼女はそんな辛い思いをさせなかったらしくて、よく二人で釣りをしたとかお酒をのんでギターを弾いたとか、楽しい便りを寄越していたものでしたが、シカゴ乙女の方はどうやら薄情らしいのよ。  彼は詩も音楽も好きで、僕の「ハンモック」という詩を英訳したり、作曲したり、自分でギターの伴奏をして、テープに吹き込んで、日本のお母さんに送ったらね、お母さんがそのテープに声を合わせて歌ったのをまた吹き込んで送り返して下さったという、素敵な話もあるの。  「ハンモック」 蜘蛛が張つたハンモックに 蝶が乗つてゆれる…… 金の円光につつまれて 死んで行くあの蝶のやうに 私もお前の恋のハンモックに乗つて ゆれながら死んで行き度いものだ ゆれながら ——ね。それからシカゴにも寿司屋さんがあるらしい。亀八とかいう。この頃はどこにも何でもあるんだね。さあ、ここ迄が彼の失恋を慰める僕の歌の前置きの説明。それで、 たらちねの母のみ声と声重ね心重ねて歌う「ハンモック」 ミシガンの大湖に鮭を釣るというシカゴ乙女の恋に泣くという 亀八のすもじのわさび目にききて落つる涙と人は見るらん  この三首が好きだと言ってきた。  僕はもう一首の——「亀八のすもじの小鰭(こはだ)(シカゴに小鰭があるかどうかわからないけれど、どうしてもここに小鰭が必要なの)舌に乗せかの肌慕う正幸あわれ」これもいいと思うけど、これは好きだって言って来なかったね、ハハどういうわけか。  すもじのわさびで涙するというお歌から、思い浮かぶ先生の幼少の頃のエピソードがある。  大學少年は、当然、感じ易い男の子だった。越後の長い冬、祖母に抱かれて炬燵(こたつ)にあたりながら、知り合いの老女のする世間ばなしにそれとなく耳を傾け、ものの哀れに胸をしめつけられると、それを忍び切れずに声をあげて泣きじゃくったという。  そんな時は必ず「歯が痛い」と泣く。  祖母もそれをよく知って、話し相手に「大坊の歯がまた痛くなりそうだから、こんな話はもうよしましょう」と言ってくれたという。  今でも、ありのままを人に知られることを、深いわけもなく厭われるようなところをお見受けするが、これは「三つ子の魂」であったわけで、とすると先生の真実の姿を見ようとする私の念願は、実に前途多難だ。 ——僕は早熟な少年だったらしいのね。初恋は小学校の一年の時の唱歌(その頃は音楽じゃなく唱歌と言ったのよ)の先生。春日先生という手足の小さい可愛らしい美人でね。もちろんお声がいい。  僕はこの先生が好きで好きで、好きと言っても子供らしいあこがれなんかじゃなくて、本当に形而下に慕ってましたね。つまり、はっきりと彼女の肉体を恋したということ。普通、少年は無邪気なもので肉の悶えなどある筈がないと思っているかもしれないが、世間の人は自分の少年時代を忘れているのかね。それとも僕が特別なのだろうか。  「性(さが)」 世之介は九歳(ここのつ)とかや わが性(さが)よ、うたてかりけり! 七歳(ななつ)はや哀れを知りて 形而下にひと恋ひけらし ——この詩は誇張でも何でもなくて、真実です。ひと恋ひけらしとは、はっきり春日先生を思って書いたものです。でもこの恋は、あっさり失恋に終ってね。  ある日、唱歌の時間に、僕が呼ばれて先生の弾くオルガンに合わせて歌ったの。何の歌だったかね。丁度その時習っていた小学唱歌ですよね。僕は自分の上手なのが認められて、クラスの皆の前でお手本として歌わされるのだと思ってね、それより先生も僕を愛して下さっているのだと思ってね、七歳の子が。  それは得意満面、胸を張って、天にも昇る気持で、あらん限りの声を振りしぼって歌ったものです。すると、生徒達がどうやらクスクス笑っている。その笑い声がだんだん大きくなってくるのね。先生がつとオルガンから離れて僕に「もう、やめてよろしい」と合図なさったの。  きっと皆が騒いだのをお叱りになるのだろうと思っているとあにはからんやで、 「皆さんも気がついたでしょう。今の堀口の歌は調子が外れていました。オルガンとは別な節で歌っていました。あんなのはいけません」  ですってさ。僕は物凄い幻滅を味わってね。九天の高きから九地の底へ落ちこむ思いというのはあれですね。僕は唖然(あぜん)として美しい春日先生の顔を眺めましたよ。  このことから僕は二つのことを学んだようです。その第一は自分が音痴だということ。これはずっと後に、何事にも一流好きの父が、メキシコに外交官として在住当時、僕にピアノを習わせようというので彼の国の文部大臣に依頼して、国立音楽学校の主任教授をさし向けて貰ったのはいいが、生徒の僕がいつ迄たっても上達しないので、お互いにあきれてしまって、よしてしまったという話。これで立派に「音痴の証明」が成り立ちます。だから僕は小学一年生以来、ずっと、人前で歌うということがなくなりました。  もう一つ学んだことは、自分の気持次第で天女も夜叉に見えるということ。またその反対もあり得るということだけどね。  春日先生は間もなく軍人上りの大男、中学の体操の先生と結婚して退職なさったので、恋の恨みも消えましたが、僕が豊満な美人より、薄手で華奢(きやしや)で手足のこぢんまりした女性をいいとする、女性に対するあの好みは、その時以来培われたものかもしれないね。  「好愛」    旺盛なその肉体をへめぐり究め……    巨大な膝の斜面によじ登り……    野末かけ長々と寝ころんだ    その巨女(ひ と)の乳房のかげに    山裾の平和な村にいるような気持になって    のんびりと眠ること 『悪の華』  ボードレールの巨女趣味は 僕にはないね 手も足も小さいがよい 乳房なら蕾の青蓮(せいれん) 透きとおるアラバスター…… 柳腰 ひきちぎれそう  しめり気は多いほどよい  大學先生が小柄な女性をお好みになるということの、もう一つの大きな要因は、先生が三歳の折、二十三歳の若さでお亡くなりになった母君が、やはり小柄な美しい方だったことにもよるかと思われる。  そして一方、子供の頃の失恋から二つの教訓をお学びになった態度が、先生独特の「教訓」を添える詩法にまで尾を引いているかと思うと何やらほほえましい気がする。たとえば、  「蝉」    ラ・フォンテーヌのは寓話    さてこれはわたくしの愚話 蝉がゐた 夏ぢゆう歌ひくらした 秋が来た 困つた 困つた!   (教訓) それでよかつた  「霊媒」    たぐひなき心と触れであらけなき      わが肌を恋ふ痴れ者にして    『陰陽集』  痴れ者は 痴れ者ながら 知つてゐた 肌は心の 霊媒だとね たぐひない そのみ心に及ばうと 白玉の人のみ肌に手をかけた 痴れ者め! 三声ほど 手が 指が てのひらが み心のみ声を聞いた  教訓 したたかに 叱り置かうぞ 痴れ者め!  というように……。尚、「霊媒」に添えた、たぐひなき云々の『陰陽集』などという歌集は、もちろん先生の創作である。 ——とにかく、海外に一人で長くいるのはよくありません。先程の話のシカゴにいるあの青年も、誰かに孤独やアンニュイや郷愁を訴えかけたかったのでしょう。そこへ失恋の痛手が加わったのではね、死なれでもしたらいけないと思って、僕は歌を贈ったのよ。  たらちねの母のみ声と声重ね心重ねて歌う「ハンモック」……ね、こんな歌贈られたんじゃ、死ねないよねえ。  僕が、三十にもならない頃、ブラジルに五年間いましたが、病身だったし、自分の感情過剰にはずいぶん悩まされたものでしたよ。  ブラジルの首府リオ・デ・ジャネイロは、いかにも海の都という感じで、海が街の中心部にまで入り込んで来ているから、毎日外出の度に一度や二度は海を間近に見る。それで自然に海の詩が多くなりました。  「海の風景」 空の石盤に 鴎がABCを書く 海は灰色の牧場(まきば)です 白波は綿羊の群(むれ)であらう 船が散歩する 煙草を吸ひながら 船が散歩する 口笛を吹きながら  これはコパカバナの海岸で曇り日の空と海を写生したものです。自分を「カメラ」にしてしまって、感情を用いないで詩を書こうとしたものでしょうね。  「要」 海が扇子をひろげる ああ 私は要(かなめ)だ 遠い白帆はさびしい 私に似て ありありと独(ひとり)ぽつちだ  この詩はコパカバナの海岸から岬一つを回ったレメの海岸で作ったものです。  もうこの時は自分をカメラの非情に置こうとはしないで、孤独と流離の思いに身をひたり切らせています。海の広さに比べて、人間は身の微小さに驚くのですが、また、この海の無窮の広がりも、己れあっての存在。この広大な海の扇子も、自分という要があっての存在だと、小さな自分をいとおしむ気持になっているのね。  同じ日本人でも、長く外国で暮している人達は日本に住んでいる人と比べて、まるで別の人種かと思われる程、「殉情的」になるものなの。  何かにつけて、わびしいこと、はかないこと、つらいことが多いので、知らない間に感じやすくなって、涙もろくなって、詩人になるのでしょうね。人間はジャガイモ以上に「土地の産物」だということよ。 「少し風が涼し過ぎるね」  大學先生は気軽に立って、大きい重いガラスの扉をお一人で閉めていらっしゃった。  ホテルのロビーのざわめきを避け、天井の高い広々とした回廊風のテラスで、ベンチのように簡単な椅子に並んで腰をおろし、芝生の庭を見渡しながら今、私はお話を伺っている。  小型の洋犬を抱いた母娘連れが、何やら楽しげに笑いながら、さっき庭から入って来て、重い扉を閉めずに行ってしまい、しばらくは涼風が心地よかったが、それもだんだんと肌寒い程になった。  葉山のお宅においでの時は、殿様のように正座なさっていて、「あなた、お使い立てして恐縮ですが……」を一、二回はおっしゃるのに、やはり人間は環境の産物であるのだろうか、今日は男性としてのエスコートぶりがとてもスマートだ。 ——僕自身の海外での恋愛を話せ、と言われてもね、僕の思い出は、ところどころ水銀の剥(は)げ落ちている鏡みたいなものなの。剥げた穴のまわりは昨日のことのようにはっきり見えるのだけれども、そのくせ穴の部分はいくら見つめていても何にも見えてこない。  その穴の底には何があるかって? 虚無でしょうね。虚無でいっぱいのその穴は、どうやら死後の世界に続いているらしいのよ。  思い出の鏡の上にあるたくさんの穴は、僕の過去の中で、もう既に死んでしまっている部分の過去らしいのね。それがどうも、やがて来る僕の本当の死後の世界と、遠い所で結ばれて、つながっているような気がします……。  あなた、歯が痛いの? ね、だから人の鏡の穴なんかのぞきたがるものじゃないのよ。  じゃ、海外での最初の恋と言えるかどうか、そんな話でもしましょうかね。  いつか話したように、慶応にいても、何を学んでいるものやらいっこうにわけがわからないので、父の任地のメキシコへ僕が呼ばれて行く途中のことです。横浜から香港丸という船で行くのだけれど、ホノルルに船が一昼夜碇泊するのね。船客はその間に上陸して外泊したり見物したりするわけだが、僕はそこで病気をして次の便船が来るまでの二ヵ月間をここにとどまることになってしまったの。  横浜から出帆して七日目、ホノルルへ入港するというので、船客たちは、小一時間も前から船べりに立って、ハワイの島山の近づくのを、今やおそしと心を踊らせながら待っていました。僕も久々で踏む大地を楽しみにその瞬間を待っていました。その時です、何やら熱いかたまりが、胸の奥から咽もとへこみ上げて来たので、吐き出すと、それは青い海面を真っ赤に染めてひろがる血液でした。最初の体験だけにショックでしたね。  そのまま船に居残って寝込んでしまうかと思わぬでもなかったのですが、どうやら一度だけでおさまったので、無事ホノルルへ上陸して、今の名所ワイキキの椰子の林の真ん中にぽつんと一軒だけあった「望月」という割烹旅館に落着きました。  連れの人たちは、小休止のあと、見物に出掛けましたが、僕はひとり静かに休んでいたの。しかし園内の浜辺近くにある日本式の大きな風呂場を見ると、どうしても入りたくなってね、で、入ったのがいけなくてまた血を吐いてしまったが、今度は大袈裟でね。そのまま入院ということになってしまったのよ。  当時(明治四十四年)ハワイ全島には、邦人が十万人も居たそうで、日本語の新聞が、三種類も発行されていたという。  十九歳の青年が初旅の途中、病んで、同行の知人たちとも別れ、一人病いを養っている、とだけでも十分同情をひく筈なのに、純情あふれる病中吟が邦字新聞に発表されると、少年詩人に対する同情はいやが上にも上昇したということだ。  三十首程あった歌は大抵鏡の穴になってしまったそうだが、先生のご記憶にある次の二首は当時を鮮明に映している。 病室のかがみつめたくわれを見る運命めきしひややかさもて 天井に君を描けば天井の君も泣くなり白き病室 ——その頃、ホノルルの日本人病院はアメリカ式で、病人の下宿屋みたいなもの、今で言うクリニックですね。そこへ医師も看護婦も外部から頼んで、来て頂くの。  総領事館の手配もあって僕は幸せなことに、毛利ドクターと山田看護婦という、一流の方々に来て頂けたせいもあったが、思いのほか早く回復し、山田さんと街を散歩したり、遠くダイヤモンド・ヘッド下の水族館を見物したり、それは楽しい毎日を遊び暮していました。文学好きの若い人たちが集まって、僕のために一夕の宴を張ってくれたりね、孤独の病人という特権をフルに活かして甘えていたものですよ。 かにかくに日本ならぬが面白しちまたのちりも犬の義眼も  という歌も覚えていますが、義眼の犬などというのをはじめて見ました。ベルギー・グリフォンという種類の茶色の小犬で、顔一面にモジャモジャ毛の生えた老犬でした。その後ヨーロッパでは義足をつけていて、階段の昇り降りに、カッカッと音を立てるフォックステリアとか、お尻の始末が悪いというので、パンツをはかされて室内を歩いている鸚鵡とか、いろいろ珍獣奇鳥にも出会いましたが、あの犬の義眼は初めて見ただけにびっくりしましたね。  さて、肝心の話に入るけれど、僕は十日程で退院すると、最初に着いた望月旅館へ戻ったわけね。そこにおきんちゃんという十七になる横浜生れの美しい娘がいたの。何でも旅館の経営者の老人夫婦には子供がなくて、年頃の娘を貰ってきては、手許で二、三年可愛がって育て、その上でお嫁入りさせるのが二人の楽しみらしかったが、それでこのおきんちゃんは三代目の養女だということでしたよ。  おきんちゃんはよく私の部屋に遊びに来て、お給仕をしてくれるのだが、晩の食事が終ってもなかなか帰ろうとしないんだ。キャンディを食べながら、東京や横浜の話を聞きたがるの。帳場から呼びに来ても、じきにまた戻ってきては「今夜はみんなが忙しいので、誰も遊んでくれる人がないからここで遊ばせて下さいね」と言うのよ。  そこで僕達はよく吉井勇の「水荘記」を愛読したものですよ。地の文をおきんちゃんが読んで、短歌のところへ来ると僕が朗唱するの。新詩社の運座の席で聞き覚えた、与謝野寛先生の節回しを真似てね。そして水荘の恋人達と一緒に、僕達も喜んだり悲しんだりしていたものです。  大學先生はホノルル第一夜に喀血なさった広々としたここのお風呂がお気に入りで、退院後の退屈しのぎによく昼間も入浴なさったという。望月旅館の庭のはては海の汀につながっていて、ホノルルの港がはるか右手に見え、出船入船が絶えず往き来していたそうだ。その奥に見えるのがエワの岬で、日本へ行く船は、この岬を回って出る。あの先に日本があると思うと、切ない郷愁の思いが痛く胸に迫った、とおっしゃる。  その時の旅愁の詩があるが、先生の詩集には収録されていない。 赤い入日の浜へ出て エワの岬をながむれば 日本行きの船であろ 白いペンタの照りかへし 日本行きの船であろ ——そうこうしているうちに、いよいよあと二、三日でメキシコ行きの船が出るということになってね。お別れというので、毛利ドクターが、僕とおきんちゃんと山田看護婦をご自分のヌワヌの山荘へ、招いて下さったの。手打ちのお蕎麦をご馳走して下さるというのでね。  ドクターから差し回された車に僕とおきんちゃんが並んで坐る。おきんちゃんは今日は、およばれだとあって、髪は桃割れの結い立てだし、格別に着飾っていたので、とても美しくてね。あの頃の自動車は、客席がたっぷりしていて向い合って腰かけられるので、前に坐った山田さんが、並んだ僕達を眺めて、「まるでお雛(ひな)さまのようだ」と目を細めてほめてくれました。  見送りのおきんちゃんの養父母も、とても嬉しそうに何の彼のと僕達をはやし立てたものです。  ドクターの山荘で、ご馳走になり、レコードを聴いたり、ほろ酔いのドクターの英語の歌を聴いたりしているうちに、むし暑い晩で、遠くの方から雷鳴が聞こえ出したのね。  大分夜も更(ふ)けているので帰り仕度をして、自動車が山を下り出すと間もなく大粒の雨がポツリと幌に当って、それからは篠つく雨です。途中で山田さんが降りてしまって、それからは、ますます雨が盛んになるし、街灯は消えてしまうしで、真っ暗な道をヘッドライトを頼りに車は進むのだが、窓の外に時々すさまじい稲妻が走ってね。雷の音はすごいし、雨音も物凄い。  そのうちにまるでこの世の終りのようなけたたましさで天が裂けると、僕達の行く手に立っている大きな立木に雷が落ちたの。  と、おきんちゃんが、「ああっ!」と悲鳴をあげて僕に抱きついてきたのね。眼を閉じて、ただわなわなとふるえているんだ。  本当に気絶しているのかなと思って、僕がそうっと耳朶(じだ)に唇を当ててみたけど、気がつかない。今度はそうっとおでこにキッスしてみた。それでもまだ気がつかない。そこで最後に彼女の唇に唇を押し当てた、というわけです。するとおきんちゃんは、僕の腕の中で、まるで夢から覚めるようにすっと両眼を見開いたものでしたよ。  そのお嬢さんは、先生がお好きだから黙って気絶していたのね、きっと。女は嫌いな男と車に乗っていたら物凄く緊張しているから、雷ぐらいで気絶したりはしませんもの。それにしても天の配剤でしょうか、山田さんが先に降りて、雷が落ちるという二重のチャンスが重なるなんてね。  私は黙ってお話を聞くのが恥ずかしくて、てれて、それで却って興奮して、つまらない解説を加えたり、感想を述べたり、分析してみたりして話し続けた。一通りそれがおさまると、私は気を取り直し、で、それからどうなりましたの? と、居ずまいを直した。 ——車がワイキキへさしかかった頃には、雨はやんで、おきんちゃんもすっかり正気になっていて、しきりに髪や衿元を気にしていましたよ。宿へ帰ると、養母が、「おきん、こわかったろう?」と声を掛けましたけど、「ええ、びっくりしたわ」と答えただけで、気絶のことは口にしませんでした。  翌日、僕は街の宝石店へ行って、真珠入りのブローチを、大きなのと小さいのと二つ買ってきてね、出帆の日に波止場でおきんちゃんと山田さんに贈りました。ちゃんと大小の区別をつけたところが、若さゆえの正直なところだねえ。もっとも、山田さんの方は職業だからね、おきんちゃんと同じというわけにはいかない。  ハンカチをふりながらの涙の別れでした。ワイキキの宿にはこのあと一年半程してメキシコからの帰りに寄ってみたけれど、もう彼女も、養父母も居ませんでしたね。おきんちゃんは、ハワイのどこか田舎の方へ嫁入りしたということでしたよ。  大學先生の青春の一頁を、雷の閃光きらめく一瞬間だけ、私は今日垣間見た気がした。  先生、この次は核心に迫るお話をね、と、お願いすると、 「そんなのは十回目。いや十三回目の取材だ。うまく言い逃れたな。とにかく僕は長く生きて来ていて、百戦練磨のつわものですからね」  と、逃れたおつもりである。 「買ってあげないで言うのもへんだが、東京への土産はこのホテルから下りた所にある甲州名物デラウェアがいい。そのかわり帰りの車をおごりましょうね」  ホテルの玄関まで見送って下さる大學先生は、私のお届けしたお菓子の缶を小脇にかかえていらっしゃる。いつもの和服と違って、白いシャツ姿でリボンのついたお菓子の包みを手に見送って下さる今日の先生は、天人の天下りのよう。いかにも避暑地でくつろいでいる詩人という感じなので、車に乗る直前私はつい握手の手を差し延べてしまった。先生はびっくりなすって、それでも急いで包みを右脇から左脇に移し、はにかんだように手を延べて下さる。  直立したまま、むしろ茫然という風情で会釈をなさる先生は、ホノルルで海を眺めていらした少年の頃と少しもお変りになっていないような気がした。 第六章 ジャン・コクトーのこと ——この間話した、小学校一年生の時、唱歌の先生に失恋した話ね。あれはいつも僕の音痴のことを語るのに恰好(かつこう)の枕になる話なのだが、またそれに後日譚があるのよ。  僕は体操も実に不得手なの。力がないからね。中学校に入ると兵式体操というのをやらされる。鉄棒とか、平行棒とか、木馬跳び、なんていうのをね。  木馬というのは、こうこちらから駆けて行って、馬のお尻をポンと叩いて、ヒョイとまたがる。上手になれば向う側へ飛び降りるのだけれど、中学一、二年ではまだまたがるだけでいいの。それが僕には出来ないのね。飛んで行って、お尻をポンのところで終りなんだ。  それから鉄棒。一番初歩ので、よく女の子でも身軽にやっているじゃないの。両手でぶら下って、その間へ片足を入れて、ぐっと上体を出してグルリと回る。僕にはそれも出来なくてね、つかまってぶら下りはするけれど、腕に力がないからぐっと上れずに、ぶら下っているだけ……。だから「塩じゃけ」っていうあだ名でしたよ。僕の生れは新潟県ですから、北海道は近いし、その頃は信濃川から鮭がとれたので、どこの家でも塩鮭の一本ぐらいぶら下げていたのでね、鉄棒からブラーンとぶら下った僕が、それによく似ていたんでしょうよ。長岡ではこれを「塩びき」と言うのだけれどね。だから、僕はその兵式体操のある日は、前の晩から苦痛で仕方がなかった。また、その兵式体操の先生というのが、軍人上りの屋井先生と言って、ほら、僕の初恋の春日先生のご亭主だったの。因縁ですねえ。しかも唱歌と、体操と、最も不得手な課目ばかり受け持たれてしまって、このご夫婦の前じゃ立つ瀬がありませんでしたよ。  大學先生の、現在のスラリとした長身からは想像し難いが、中学までは五十人のクラスで小さい方から三、四番だったそうだ。だが多感ですぐに泣き出す非力の少年像の方は想像に難くない。  また、長岡中学には、親戚の男の子が剣道部に在籍していて、先生は誘われるままに一度顔をお出しになったが、部に備えつけの何百人もの男の汗の匂いのしみ込んだ面をつけたところで、もうムッとして気分が悪くなり、あえなく「アウト」におなりになった。  先生の鼻の粘膜は、異常と言える程敏感で、あれだけ口腹の愉しみを大切になさる方なのに、いかに美味と聞かされていても臭い珍味を賞味なさらない。くさや、鮒ずしの類いはもとより、ロックフォール、カマンベールチーズもだめと聞く。  何故だめなのでしょうね、と、お座なりの相の手を入れたつもりが、 「若い時、あんまりいい匂いを多く間近に嗅ぎ過ぎたせいでしょうよ」  と、にんまりなさるので、私は、思いがけない大きな手応えに虚を突かれた形になった。 ——唱歌も体操もだめと言いましたが、実は絵もだめでね。何でもみんなだめなんだね、僕は。  詩人には絵のうまい人が多くて、佐藤(春夫)も西脇(順三郎)も、ある時期は画家になろうかと思ったくらいのものでしょう。  ボードレールやヴェルレーヌやジャン・コクトーも皆絵が上手だったし、逆に画家のマリー・ローランサンは詩もよくした人です。  「もとこれ画人」 昔から 詩人はみんな絵が上手 ボードレール ヴェルレーヌ コクトー 春夫 順三郎 僕ひとりだけ絵がかけぬ ために時々考える 大學は もとこれ画人なのかしらと 画人なら 詩は未熟 絵が下手くらいはあたりまえ!  こんな詩を作って開き直ったりしてね。  でも、絵がかけなくてよかった点もあるのよ。僕には昔からのたくさんの著書がありましょう。これが今、本を好きな人達にとても珍重されているの。コレクターというのは、中身を読むということより、本そのものを愛している人達でね。佐藤君なんかは、グラフィックの才能があるものだから、装釘にまでいろいろ口出しするので好みは統一されるけれど、狭くもなるわけね。ところが僕は美術の自信がまるでないから装釘は本屋さんに任せっきりなので、本のヴァリエーションが自然と多くなったわけでね。これもやはり不幸中の幸いということなのかもしれない。  そう言う僕自身も、本をたくさん買い集めたものでしたよ。パリのガリマールという本屋とは、詩集ならどんな高価な限定本でもかまわないというような予約をして取り寄せていたから、それは大切にしてくれてね。これも親の威で、日本公使館を通しての注文だからかもしれないが、いいお得意さんだったわけなんでしょう。限定本は、いつも三二四番が僕と決っていました。「メルキュール・ド・フランス」という月二回発行の文学の総合誌も予約購読していましたしね。  この雑誌は、もう一方に一七一四年から一八二五年の長期にわたってフランスで発行され、当時の文明世界各国に読者を持った十八世紀最大の文学雑誌があったのですが、同名ながらそれとはまったく別ものです。こちらは一八九〇年に、アルフレッド・ヴァレットを主筆として創刊され、最初は月一回、一九〇五年以降は月二回の発行を続けていましたが、一九六五年、惜しくも休刊に入りました。  ルナール、グールモン、ラフォルグ、メーテルリンク、ブロア、アンリ・ド・レニエなぞ、サンボリストの多数が執筆していてね、文学以外にも、批評欄、雑報欄に多くのぺージをさいて、更に外国文学まで広く紹介し、演劇、美術、音楽にも及ぶという、有能な雑誌でしたよ。  それにしても、親父はよく黙って買ってくれてたと思いますよ。膨大な本代を文句も言わずにね。たった一度だけ、「こんなに本を買って、全部読めるのか?」と訊ねられたことがありました。「いえ、読むのは十冊の内、一冊ぐらいでしょう」と答えると、「それじゃ無駄じゃないか」と言うので、「いや、本というものは、出た時に買っておかないと、あとで欲しいと思っても、高くなっていたり、見つからなかったりしていて買えませんから」と言うと、「ああ、そうか」って。それっきり何も訊(き)こうとしませんでしたね。  病気ばかりしていて、早死にしそうな息子だから何でもしたい放題にさせたのでしょう。それに親父が見初めた時はまだ十一歳の少女だったという恋女房の腹から生れた息子のことだもの、可愛かったのでしょうね。  二十三歳で夭折なさった大學先生の母君は十一歳の少女の日、越後の夏のきらめくような日射しの縁側で、無心に手毬を玩んでいたという。後に大學先生が父君の日記から抄録された年譜には、 〈明治十六年(一八八三)十八歳 三月、和南津小学校教員を辞し長岡の母の許へ帰り、英学を修むるため長岡中学校へ入る。五月一日、新潟師範学校に入り教授法を伝習す。六月九日帰岡。七月八日、岡の町校訓導となり赴任。途中、新潟師範寄宿舎にて同室なりし長老江坂氏の家に滞留二十日に及ぶ。同家の長女政(まさ)(十一歳)を見初め、乞うて婚約す。〉  とある。  母君は十八歳になると堀口家にお嫁入りしていらっしゃるが、「僕のお祖母さんの話ではね、その時まだ母には月のものがなかったそうですよ。幼な妻だね。まあ昔の人は遅かったそうですが、母は特別病弱な人でしたからね」と先生は声をおひそめになった。  本の話に戻るが、私がこの仕事のためにどうしても手に入れたいと願っていた豪華限定本の『堀口大學全詩集』を——先生ご秘蔵の貴重な、おそらく最後の一冊と思われるご本を、「引用にご不自由でしょうから」と下さったことがあった。  奥付を見ると、限定千二百部の内の四番とあり、その感激をある人に話すと、「限定本の内、四番とか十三番という買い手の避けたがる番号の本は著者が持つもので、著者はこれを当分死にそうもない、元気のよい者に贈る」のだということで、また改めて感慨を深めたものであった。  もっとも先生の母君のように、美人薄命の相ではないと見られたわけで、あまり手放しに喜んでいるのもどうかと思うけれど。 ——本の装釘に凝ることでは、珍しい話があるの。  人間の皮を鞣(なめ)して書物の装釘に使った例が欧米にはあるのよ。いつ頃からの話かね。現存するものでは、十八世紀のものが最も古いらしい。しかし薄気味の悪い道楽ですね。僕がいくら本を好きと言っても、そんな趣味はありませんよ。  人間の皮というのは、牛の皮より丈夫だそうで、鞣し方も牛皮と同じ。何ヵ月かエーテルに漬けておいて、鞣すのだそうです。  昔から、そうした本を所有しているのは、医者に多かったと言います。そうでしょう。職業上、彼等には「材料」が手に入り易いものね。  フランスの芥川賞みたいになっている「ゴンクール賞」のゴンクール兄弟(二人共同で制作したフランスの自然主義の小説家で、十九世紀の人。ゾラへの影響は大きい)には、当時の文壇や世相を詳細に記した有名な『ゴンクールの日記』がありますが、その中に、 〈近頃、クラマール解剖学教室の医員が数名免職になったが、その理由は、彼等医員が、フォブール・サン・トノレに住む春本の装釘を専門にしている或る製本師のために、女の死体の乳房の皮を剥いで売った事実が発覚したからである。〉  という件(くだ)りがあるのね。彼等兄弟は珍奇な装釘の書物を愛して、しきりに蒐集していたそうだし、日本の浮世絵も集めていて、『歌麿』とか『日本美術』とか『北斎』という研究書を発表している程の人達だからね、この日記のような事件は、二人にとって相当重要な意味を持つ出来事だったのでしょう。  奇を好むコレクター達に喜ばれるのは、やはり有名人の皮とか美人の皮で、そうでなければ乳房の皮とか刺青(いれずみ)のある皮だと珍重されるようです。  ルネ・キーファーという有名なパリの製本師は、心臓を貫いた矢の図柄の下に「死ぬまでここに」という文句を刺青した人間の皮を手に入れ、フィリップの『ビュビュ・ド・モンパルナス』の装釘に用いたそうですし、メルシェ・ド・コンピエーニュの『乳房の讃』の装釘に、乳首を中心にした女の乳房の皮を用いたということですよ。こうなるとあまり適材適所に過ぎて、悪趣味ですね。  また、ジェームス・アレンという英国犯罪史上有名な悪人がいるのだけれど、彼は獄中で事こまかな回想録を書き上げ、もしこの書物が出版されるなら、そのうちの一冊を自分の皮で装釘してほしいと遺言して絞首台に上ったそうです。この願いは叶えられて、ボストンのアラネアム図書館に、その本は珍蔵されているということですよ。  もう一つ、こちらはちょっとなまめかしい話になるけれど、フランスの有名な天文学者のカミーユ・フランマリオンが、ある夜会の席で美しいサン・タンジ伯爵夫人に紹介された。夫人はその時二十八歳、深い教養と理解力を持った人だったそうです。彼女はこの大天文学者に向って、「実在の世界と仮想の世界との神秘」なぞという難かしいことを質問したんだそうですよ。あのね、一般に女が、男の話に熱中して耳を傾けるということは、とても危険なことなのよ。魂をすっかり奪い取られることがありますからね。あなたも今、こうして非常な危険の中に身を置いているわけだ。ハハハ、これは冗談。  さて、二人はこの会話が緒となってねんごろな友人になった。その年の夏には、ジュラにある伯爵夫人の山荘に招かれて、フランマリオンは数週間も過しています。  だがご多分にもれず美人は薄命で、この夫人も胸をわずらっていたわけね。彼はしばらくして、彼女の医者からこんな手紙を受取ることになったの。 〈先生、かつてあなたを奇しくも愛したことのある一人の死んだ女の遺志を成就するために、私はこの手紙を差上げます。かの女は、その死の翌日に、私があなたに宛てて、かの女の所謂、かつての「離別(わかれ)の夜」に、あのように賞玩なすった、かの女の双肩の皮をお送りすることを、その死に当って私に誓わせたのでした。かの女の希望は、あなたがこの皮を用いて、かの女の死後最初に出版されるご著書の第一冊に装釘なさって、永くご保存下さるようにとのことです。云々。 ドクトル・V〉   フランマリオンはどうしたらよいかと迷ったらしいけれど、結局それを皮師のもとにやって、数ヵ月後立派に鞣し上って返された皮を、『天と地』という最新の著書の装釘にあてたそうです。本の小口(こぐち)は紅いろに染めて、金色の星を散らし、ジュラ山中の夏の夜空の想い出のよすがとしました。美事な地肌の夫人の肩の皮の上には、本の題名のほかに、特に「ある死んだ女の形見」と金文字で打たせたのだそうですよ。 「それにしても……」  と、大學先生は極上の甘い玉露で喉をお湿しになってから、 「その本の小口を夏の夜空のブルーの色に染めずに特に紅色にしたというのはどういうわけだろうかね」  と、向きを少しだけお変えになる。  夫人の燃えるような情熱の色? 夫人の肩を飾った夜会服の色? ——とすぐに二つの連想が浮んだが、別段先生が私に答をお求めになっているとも思われなかったので、私は目の前の湯のみの暖かな白い地肌と、部厚で少しいびつな形とをただ眺めていたが、やがて、先日頂いた先生の全詩集の扉の装画はコクトーですね、と話題を転じた。 ——そう、コクトーも絵がうまくて、しかも描くのが好きな人でしたね。  そして描くのが実に早い早い。本にサインを頼むと、表紙を開けてすぐにデッサンをしてくれるの。紙をひろげるといきなり筆が走っているので、考えもしなければ腹案もないように見えるのだが、それでもきちんと紙面におさまるのね。僕の本はパリから取り寄せた別刷りの初版本ばかりだから、「あ、失敗した」なんて言われたら本の値打ちがなくなるのでハラハラしながら見ているけれど、それがない。まるで手先きから流れ出るインクが紙の上を勝手に走り回っているようにしか見えないのよ。 「僕はデッサンを書くのであって、描くのではない」とも言ってたし、「デッサンは僕の心臓の言葉だ」とも言っていました。  コクトーが日本に来たのは、昭和十一年で、「パリ・ソワール」という新聞の編集長に挑んだ賭旅行の途次でね、彼はジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』の主人公に、少年時代から憧れていて、その足跡をたどる旅を飛行機を使わずにやってのけるというわけだったの。だから荷物にもわざと自分の名を書かずに、フィレアス・フォッグと書いていたし、お伴の若い男性秘書キル君の鞄にはパス・バルトゥと、その主人公達の名を使っていました。  船で神戸に着いて、京都から横浜、東京と前後十日間の滞日でしたが、東京での五日間は僕がつききりで案内役になってね。それは僕が彼の詩や評論をたくさん訳して、それを幾冊かの単行本にもしていたのだから、当然のことでしょう。  横浜へ着いたと聞くとすぐに迎えに行って、買物がしたいというので街へ出たら、ハンカチを買いにある店に入ったの。すると若い女店員が彼の訳詩集(『コクトオ詩抄』堀口大學訳、一九二九年、第一書房刊)を読んでいたのね。詩集にはコクトーの写真も入ってたし、新聞は彼の来日を報じていたから、すぐにコクトーと解って、その女の子がサインを求めたのよ。そうしたら彼が喜んでねえ。 「フランスで僕の詩集を読む人達は特殊なインテリ階級だ。女店員が僕の詩集を読むなんて! 洋品店の女店員の膝の上に、僕の詩集を開花させたとは、ホリグチ、君は魔法使いだ」  と言っていました。パリより日本で僕はよく知られている、とも言って感激していましたね。あの頃僕もよく、堀口は売れもしないコクトーなんかを面白がって次ぎ次ぎに訳しているが、フランスへ行ってみると、コクトーなんて笑いのタネだと、よく言われていたものなのよ。まあ彼は前衛的な芝居をやったりして評判を悪くしていたしね。しかし僕は「あとでご覧なさい」と思って、平気でしたよ。  大學先生もコクトーも一つには時世に早過ぎたための不遇をかこつ日々が長く、だがそれだけに両者はよくお互いを理解し合ったのかもしれない。周囲の無理解を嘆きつつ自嘲なさる先生の詩を読むのはこの上なく辛いことだ。  「私の詩の中に」 私の詩(うた)の中に真実がないといふので 人たちは私の詩を好まない 私の詩は私の夢なのだが そして夢ばつかりが私の真実なのだが 私の真実が彼等の真実と異るといふので 人たちは私の詩の中に真実を見ることを欲しない 然し仕方もないことだ 然しそれにしても私は思はない 私の詩の中から 私の真実を追出して 彼等の真実を入れようとは 人たちは私の詩を好まない 然し仕方もないことだ  「私の詩」 軽くて重い    ——何でせう? 短く長い    ——無理でせう! わたしが尋ねる わたしの詩  「孤松」 異をたてて 堀大なぞと名乗るので ひよんな難儀もする次第 人なみに 帝大とでも名乗つたら 鼻のたかしでゐられるに  「詩人」又 天のおとし子 地の詩人 梯子の端の 梯子乗り 天に棄てられ 地に追はれ 三界火宅の 身の置き場 背亀(せがめ)や遠見(とほみ) 谷のぞき 逆さ大の字 火の車 なか空高い 乞食芸! ——コクトーの詩が理解されないのは、彼の好むのは簡素(サンプリンテ)と秩序(オルドル)だのに、世間の人は簡素を貧弱(ポーヴルテ)と間違えるからでしょうね。 「芸術における単純性とは、そう単純なものじゃない」  とコクトーは言っています。彼の簡素とは複雑を昇華したクリスタルのような簡素だし、彼の秩序とは無秩序を蒸溜してはじめて得られた秩序なのね。  例えばギリシャ古典劇を現代化した散文劇の『アンチゴーネ』(一九二二年)の中に、 「いいお天気だ。日没までにアンチゴーネは死んでいるだろう」  という一句がある。この簡素と秩序がコクトーの美学なのです。彼の単純さは、見ようによっては複雑の一つのスタイルとも見られます。単純なスタイルは複雑なものよりエレガントなのです。  僕の言う「言葉は浅く 意(こころ)は深く」(「わが詩法」)にも、一脈通じるところですね。  コクトーは、自分に関してフランスでの批評にろくなものがないが、何によらず正当に批評されるにはある程度の時間の経過を必要とするので、現代人が現代人を批評するのは不可能に近い、だから一切批評は読まない、と言っていました。  それを聞いて、僕も気持が大分楽になりましたよ。僕より三つ程兄さんになるのかな、コクトーは。  彼は、無理解な連中にいろいろ説明するのは、たとえば片足は二階に置いて片足は階下に置いて歩くのと同じ苦痛だ、とも言っていましたね。殉教者のような面ざしで。  「十字架上のジャン・コクトオ」 彼のエニシアルは キリストのそれと同じだと ジャン・コクトオは知つてゐる J・C 然し彼とキリストと同じなのは どうやらそのエニシアルだけではないらしい 彼も亦キリストのやうに 上手に手品を使ふ キリストの手品を 是非とも 奇蹟だとお呼びになりたい御仁(ごじん)が コクトオの手品を 奇蹟とお呼びになることにも 彼は決して反対はしない筈です キリストのやうに ジャン・コクトオも寛大です 彼も亦キリストのやうに 生きて十字架に上る者です 世評の十字架に 盗賊たちと並んで 天使ウルトビイズが 天国からおりて来て その上にPOESIEと 金文字を記(しる)します コクトオはこの六字を キリストのINRIの四字とまちがへる すると彼の胸の 心臓の上のかすり疵(きず)から 血が流れ出る 阿片中毒の白い血が 毒の白血(しろち)は 香水のやうに 十字架のまはりに したたり落ちる そしてそのあたり一面に ばらの花が咲き ポエジイが育つ ああ 夜明である 雄鶏がサテイの作曲で 新しいあかつきの時をつくる それをききながら コクトオは 十字架の上で 蒼ざめてやせおとろへる そしていよいよに キリストに似た骨つぽい 長面(ながづら)になつて来る 小鳥が頭のまはりを 円光の形(かたち)の輪を描いて とびまはる 曲馬団から抜け出した 桃色の踊り子が 爪さきで駈けて来て 瀕死の詩人に 大股(おほまた)びらきをして見せる コクトオは黄いろく笑ふ 彼はふと 自分が今年 三十六歳なのに気がついて あわてて 十字架から下(お)りて来る 「——キリストは三十三歳でした とんだ失礼いたしました」 ——コクトーの来日する三年前(昭和八年)に日本ペン倶楽部が設立されて、僕は副会長(会長は島崎藤村)をしていました。で、コクトーが東京へ着いた最初の日は、ペン倶楽部でお座敷天ぷらをご馳走し、翌日はペン倶楽部と文芸家協会との合同招待で歌舞伎座を見物ということになりました。  丁度、名優六代目菊五郎の「鏡獅子」が上演されていてね、彼はまず開幕寸前の場内のあの水を打ったような静粛な空気をずいぶん羨ましがっていました。まるで宗教の儀式が始まるような、神輿の渡御でも待つような、息づまるような厳粛な空気だ、とね。  パリで自作を上演して、自分も俳優として登場したりして、毎度観客の無理解に悩まされていたから、余計羨ましかったのでしょう。日本の作者と俳優は幸福だと言っていました。  白い獅子頭(がしら)を振って勢い盛んに踊り狂う菊五郎の姿を、 「あの大きな毛筆で、あの舞踊の無言の歌詞を書いているように僕には思われる」  と、感動していましたね。 「長いけれども、長さの全然感じられないこの踊りは、自分の旅行に値した。この踊り一つだけを見るために、パリから東京へ来たとしても自分は満足したと思う」  楽屋へ六代目を訪ねて、こんな風にも言っていました。それで新聞社の写真班のために、二人は握手のポーズをとることになったのですが、六代目は、次の舞台の「十六夜(いざよい)清心」の恋塚求女の扮装が出来上っていて、手はもう真っ白に塗られていたので、この塗り上げた手をしっかり握ったのでは、また塗り直さなければならないと思ったからでしょう。彼は軽く六代目の手に自分の手を寄せただけでした。  すると、このコクトーのデリケートな心づかいに気がついたのでしょうね。六代目は驚きと感謝の気持を眼に表わして、微笑をコクトーの眼の中ににっこり流しこんだのです。コクトーもこれに応えて心地よげに笑ってみせました。  芸術家の心をよく芸術家が知る、とでもいうのかね、カメラのフラッシュの中でのほんの一瞬の微妙な心の通い合いを、僕はしみじみとした気持で眺めたものでしたよ。  のちに彼は、この「鏡獅子」からイマージュを得て、有名な『美女と野獣』という映画をつくったわけですから、本当にこれ一つだけ見て帰っても大きな収穫だったでしょうね。  次の日は国技館へ行って大相撲見物です。あの頃は年二十二日間しか本場所はありません。その上、彼は双葉山・綾昇という名勝負を見て行ったのですから、実にいい時に日本へ立ち寄ったものですね。自分でも運がいい、運がいいと連発していました。  彼は詩人である自分には、常に天慮(プロヴイダンス)があると信じていて、(彼の言う詩人という言葉は、普通僕らが考えているよりずっと高い意味、神に近い存在を指しているらしいのよ)例えば今度の旅行中にも天慮は到るところにあった、と言うの。誤って着いたローマではかつて市民も見なかった程の美しい月夜だったし、船がアテネに着いた時、空がよく晴れて海上からアクロポリスが見事に眺められたって。日頃は決して眺められない景色がね。  それからチャップリンとコクトーをこれ迄何度も引合せようとした人達がいて果さなかったのを、今度の旅行の竜田丸の船上で偶然に邂逅できた、ともいうことでした。チャップリンが同船しているのを知ったコクトーが会見を申し込むと、チャップリンはまさかと思って、いたずらかどうか船客名簿を調べさせ、本物と知ると寝ていたのをはね起きて、部屋着のままコクトーの船室へ飛び込んで来て、コクトーの首に抱きついたそうです。 「それは打合う二つの波のように美しかった!」  というのが、傍で見ていたキル君の感想ですね。  それで……コクトーの賭け旅行の結果は、八十日間にわずか十八分を残して、列車でパリに到着して勝ったのだそうですよ。  その帰りの荷の中には、滞日中に僕がはいている白足袋を見て、「白くて清潔でいい」と羨ましそうだったので、銀座の「めうがや」へ行って足の型を取らせ、出発の日に間に合せたみやげも、入っていた筈です。  その後しばらくの間はパリへ行く知人があると、彼に白足袋をことづけていたものでしたよ。  大學先生のコクトーの想い出を伺って帰ってから、数日が経った。  私は所用があって先生にお電話した際にこんなことをつけ加えた。先生、人のお話を熱心に伺ったり、本を読んだりするということは素晴しいことなんですね、人間、自分の経験というのはたかだか何十年間の内でしか得られない僅かな量でしょ、それが人のお話を伺ったことと、自分の体験とがふれ合った時には、物凄く感激の量が増幅されて……。先生には私が何を言いたいのかおわかりになる筈もなく、じっと聞いていらっしゃる。  あのね、私の家に犬がいて、此の間雨の日に庭に出たら、その犬が笑いかけてくるので、ついいつもみたいに「お手!」と言ってしまってから、「あ、ドロドロの手をまともに貰ったら汚ないな」と思ったら、犬が手を私の手に添えるだけにしたんです。私、すっかり嬉しくなって「お前はコクトーみたいな犬だわ」って、犬をギューギュー抱いてしまった。  先生にやっと私が何を騒がしく言っているのかが通じ、すぐに静かなお声が返ってきた。 「その犬を、ジャンと改名なさいね」  私の犬は柴犬で、中秋の名月の日に我が家へ来たので、月介(ムンすけ)と名づけてあるが、そう言えばマルセル・アシャールに『お月様のジャン』という芝居があったっけ、とまた余計なことを思いながら、後ろ足に白足袋をはいたような狐のようなその犬を、もう一度庭へ眺めに出た。 第七章 マリー ——僕は唱歌も駄目、絵も駄目っていう話をしたけれど、僕の油絵の手ほどきをしてくれたのは実はマリー・ローランサンだと言ったら、きっとあなた、びっくりなさるでしょう。  僕の父は、鶏を断つに牛刀をもって当るような大袈裟なことの好きな人で、いつも口癖に「剣道は榊原憲吉、柔道は嘉納治五郎、馬術はチャリネ、いずれも直門だ」というのが一生の自慢でした。習いごとには、何よりもよき師を選ぶことが第一、という考え方だったのね。  だがローランサンに手ほどきして貰った割りには、僕はいっこうに絵筆の手が上らなくて、この点では父の信念を裏付けることはできませんでしたけれどね。  しかし、考えてみると、僕はマリーにずいぶんお世話になっているの。絵を習ったこと、詩人アポリネールの存在を教わったこと、そして散歩のお相手をさせて貰ったこと……などなど。  僕がマリーと最初に出会ったのは、一九一五年。僕は二十三歳で、父の任地だったスペインの首府マドリードの日本公使館にあって、詩を書いたり、翻訳をしたり(丁度『月下の一群』の頃よ)、社交やスポーツを楽しんでいました。  マリーは僕より七つ程年上でね。結婚一年目だったけれど、ご主人がドイツ国籍の人なので、第一次世界大戦中のパリにはいられなくて、つまりマリーは故国フランスを追われて、やむなく亡命してきていたというわけです。  僕はある日、ティーパーティーの席上で、ペニャ君という若いスペインの画家と知りあい、彼は僕が詩を書くときくと、ローランサンは特に詩人に愛される画家だから、あなたもきっと好きになるに違いない、と言うの。  そうでしょうね。とにかくマリーに最初に現われた彼女の芸術の憧憬者たち、というのが錚々たるメンバーなのよ。画家のブラックとピカソ、詩人では、アンドレ・サルモンとアポリネールという飛び切りの素晴しさなのですから。  昔から「大きな才能を発見するのは、いつも大きな才能である」と決まっているのね。  さて、ペニャ君は、よほどマリーと親しかったとみえて、彼女のアパートのアトリエの鍵を預っていて、さっそく絵を見せてくれました。パーティーの席から、ドア一つ隔てた隣りの部屋が、もうマリーのアトリエでね。  マントルピースの上に、若い女の半身像ばかりが三枚ありましたが、どれも皆不思議な感じがしたな。目を大きく見開いて憑かれたように何かに見入っているんだ。夢の世界を形態化したというのか、詩の思いをカンバスに定着させたというのか、色も線も形も、ただ美しく、しっとりと、生きて、歌っているのよ。憂鬱であると同時に華麗で、見る者の詩魂をギュッとしめつけずにはおかない……極めて女性的な、独特の芸術境というのか、絵画というよりむしろ詩歌の部類に入るような気がしてね。つまり「造型美」よりも「抒情美」の境地というのは、ずっと詩歌の世界に近いものなのでね。  大學先生に、電話でこの日の取材を申し込んだ時、丁度ご晩酌中らしくご機嫌のよいお声で「今度はどのへんを攻めるの?」とのおたずねだった。  私は、この初夏に、東京で開かれたローランサンの展覧会に出かけて心を動かされ、その感銘がずっと去らなかったので、彼女とかなりのご親交があったときく先生から、詳細なお話を承わりたいと申し上げた。  お約束の日に伺うと、お机の上には、多くの蔵書の中から、ローランサンの『小動物詩集』や、『女鹿たち』などが、出されてあり、先生はゆっくりと楽しそうに頁を繰りながら、子供の絵本を読んで下さるようにして説明をなさるのだった。 「ね、この『女鹿たち』は、ロシアン・バレーの舞台装置の絵ですよ。ニジンスキーの奥さんなんかが出演しているのね。この白いカーテンがパーッと風に吹かれている絵。最近、僕が訳したデスノスの詩にこんな情景があったでしょう。そう、『夜陰に乗じて』だね。夜陰に乗じ、君の影の中に滑り込む……で始まるあの詩。妙な具合に風が灯火(あかり)をゆさぶってカーテンがはためいて、——窓の姿は君ではなかった。初めっから僕は知ってた。なんて強がってる詩ね」  ふと、見上げると、先生のお坐りになっている場所の周囲を取り巻く「本物」だらけの美術品に混って、私が前回お土産に持参したローランサンの一枚二百円の複製画が、きちんと額に納められて掲げられてあった。 ——マリーの絵を見て、二、三日後に、ペニャ君から電話があって、明日の四時にアトリエを訪ねるようにと言われました。こんな美しい絵を描く人に、是非(ぜひ)一度会いたいからと、ペニャ君に頼んでおいたのでね。  僕は一人で、木造の階段をコツコツと音をさせて上って行って、画室のベルを押すと、静かにドアが開いて、水晶のように透明な顔をした(と、僕にはそう見えたんだ)若々しい婦人が姿を見せました。  アトリエの中には石炭ストーブが燃えて(一月でしたからね)暖かく、僕らはお互いに自己紹介して手を握り合いました。夫君のワッシェン氏は、先に宿へ帰ったとかで——これは、その時ドイツと日本とは敵対関係にあったので、二人の対面を避けた、マリーの心遣いだったのでしょうね。  夫君も画家でしたから、二つの画架にそれぞれ描きかけのカンバスが乗っているのですが、どうして同じモデルを使ってこうも違う絵ができるのかと、実に不思議でした。  夫君の方は、赤地に黒のふち取りのある襞(ひだ)を重ねたスカート姿のジプシー娘が、ギターを膝に、歌っている絵ですが、色彩がまったく強烈なのね。ところがマリーの絵は、グレーのバックの前に、ピンクの薄物をゆるやかに着た娘が、額に憂愁をたたえて麦藁ばりの椅子に寄っている。  マリーは強い近視だったので、物がこんなに見えるのだと自分で言っていましたが、実は目のいいワッシェン氏より、かえって美の本質が見えたのでしょうね。  その日、僕はマリーを逗留中のセヴィリアホテルまで送りました。これが最初の二人の散歩でした。僕も絵を描きたくなったと言うと、「いつでもおいでなさいな」と言われてね、さっそく翌日から、アトリエに通い始めましたよ。若い時はせっかちなものでね。  絵の手ほどきと言っても、ケント紙の裏表の見分け方やフュザン(柳の木の木炭)の削り方、油絵具の溶かし方を習ったくらいのものでね。恥かしいから一緒に描くことはなかったし、「作品」も見せませんでした。今思うと、林の絵ばっかり描いていたね。緑の絵筆で、こう横に山形の連続を描いていけば林になるので。ハハハ、そんな幼稚な絵でしたよ。  ただ、マリーが、自分のパレットだと言って、紙片に書いてくれた油絵具の色は、彼女の絵の純粋で清楚な印象を説きあかす、重要な鍵を貰ったように思いますね。  それは、コバルト青、群青、茜紅、エメラルド緑、象牙黒、銀白、鉛白の七色だけで、この七色のうちに青が二種、白が二種含まれていますから、色の種類は四つだけという単純さです。これがきっとコクトーの言う単純こそエレガンスの極みといった美の境地に通じるのでしょうね。  マリー・ローランサンをひと目見た詩人で、彼女に対する頌歌を作らぬ者は稀と言われる程、マリーに捧げられた詩は多い。  たとえばジャン・コクトーは、 野獣派(フオーヴ)と立体派(キユビスト)の間で 小さな牝鹿よ あなたは罠にかかった  と歌っている。ほかの二、三の例を挙げてみる(いずれも堀口大學訳)。  「マリー・ローランサン」 笑ふとき マリー ローランサン 黄金(き ん)の輪がうかぶ かの女の美しい 瞳の中に  ——ジャン・モレアス    「マリー・ローランサン」 籠の中の小鳥 これが墓の中でのあなたの微笑です 木の葉が踊つてゐる 氷雨が降るだらう この夕べ立ち去る前に 私は木々に花の咲くのを見るだらう 牝鹿が一匹しづかに近よつて来るだらう 雲の色は桃色と青だ  ——フィリップ・スーポー    「鳩」 白鳩よ、キリストを生んだ 愛よ、聖霊よ、 僕も君同様に、 ひとりのマリーを恋してゐる 彼女と夫婦にしておくれ。  ——ギヨーム・アポリネール   ——アポリネールの存在を、はじめてマリーの口から聞いた時は、よほどそのことが印象深かったとみえて、僕は彼女の口調そのままに日記に記しています。女というものは、惚れた男のことを口にする時が、一番雄弁で、熱っぽくて、目がキラキラして、可愛らしいものですからね。それで聞く者の心を深くとらえるのでしょうよ。マリーは僕にこう言ったようです。 「——あなたは詩をお作りになるんですってね。私は詩と詩人が大好きです。私は画家よりも詩人に多くの友人を持っています。……若い詩人のギヨーム・アポリネールをご存知でしょう? 面白いものを書くでしょう?  あれは私の親友ですよ、今ではね。以前は親友以上だったのです。彼と私は婚約の仲だったのですから、それも一年以上も。それなのに、よくお互に知り合ってみると、夫婦にはなれない二人だと私が感じたので止したのです。そしてその後、私はワッシェンと結婚したのでした。アポリネールはそれを非常に残念に思っています。けれども仕方がありません。私とて同じように残念に思っているのです。しかし夫婦にはなれない二人の性格だと私は思うのです。……」  僕の日記では、マリーに関することはそう多くありませんが、ここに一人、詳細な日記をつけていた面白い人物がいてね。クレオトーという人物。  雑誌「メルキュール・ド・フランス」の出版元で働くお目付役兼編集人なんだが、これが一筋縄じゃいかないしたたかな爺さんなのよ、好色でね。  しかしアポリネールの出世作と言われる「シャンソン・ド・マル・エーメ」(「ふられ男の唄」)は、この権威ある雑誌に載せられたことで、陽の目を見て、世人に認められたわけだから、やはり目の利く人だったのね。  彼は『文学日記』と『生活日記』と両方にこまごまと記すのだが、後になって出版されることなど意に介していなかったらしく、それは正直にズケズケと書いているので面白いし、フランス文壇の裏面史的に見ても、風俗史的に見ても、大変貴重な資料ですよ。  これによると、ローランサンの結婚は、一九一四年四月三十日ですね。木曜日だということもわかってしまう。相手は若くて好男子でお金持ちのドイツ人画家だとある。  しかしその前年の日記を見るとね、七月九日にはアポリネールはレオトーを夕食に招いていて、アポリネールが迎えに来て一緒に彼の家へ出向いてみると、ローランサンがいて、台所で女房気取りで何かゴトゴトやっていたそうです。楽しそうにテーブルセットしたりしてね。きっとその頃はまだ、二人は同棲していたんでしょうよ。何しろ一九一三年の夏には、二人連れ立って、ヴィッシーへ避暑旅行にも出掛けた仲だしね。  大學先生の傍らに、高々と積み上げられた十九冊にのぼる『レオトー日記』は、古いフランスの本特有の未装釘の本で、小口も切り揃えられていないし、表紙もあまり厚手でない白い紙のままである。本来はこれを求めた人の趣味に応じて、行きつけの製本師に思い思いの装釘を依頼するのだそうだ。 「あなたが、今度マリーの話を聞きたいというので、あなたにばかり勉強して来なさいと言うのではと思って、この日記を少し調べ出したの。そしたら面白くてやめられなくなってね。僕はレオトーは『恋愛』という箴言集を訳しただけ。日記の方はまだ誰も訳していない。誰か訳すといいけどね。僕はもう疲れてしまって駄目だ」  先生は、お好きな翻訳をなさっていればつい先年までお疲れ知らずだったとおっしゃる。 「ああ、大抵の人はこの辺で疲れてしまって挫折するのだろう」とお思いになる程、翻訳に関してはそのタフぶりに自信があったとおっしゃる。 「だが、この前誰か書いてたね、落潮急なりって……あ、あなたが書いてたんだ、僕が言ったと。ほら、こういう風に急に駄目なんだなあ、本当ですよ」  しかし、次々とお出しになる新作の詩や、旧訳に手をお加えになった詩集や、恩師旧友の著作への解説文などを見る者には、決して看板通りのお言葉とは受け取れないけれど。 ——脇道へそれるが、レオトーという人はいろいろな動物とばかり暮していて、生涯独身でね、それで大変な色好みなんだ。他人の奥さんを「天災(フレオー)」などと呼んで、何十年もつき合っていたというのだから豪傑だね。毎晩夕方になるとその家へ出掛けて行くんだって。そしてご亭主と三人で食事をする。面白いのね。ご亭主のことは「老ぼれ(ル・ヴユー)」なんて日記に書いてるくらいだから、結構内心で馬鹿にしていたわけね。食事がすむと、その親父さんはやおら立ち上って別室に行き、一人でピアノを弾き始める……とありますよ。  ひどいものだねえ、何十年もの間、その老ぼれは気づいていたものなのかどうかねえ。ま、この『生活日記』の方は、こんな色恋のことばっかり書いてあるんだ。  さて、『文学日記』によると、マリーは一九二〇年の四月六日に、久し振りに戦後のドイツからパリへ戻ってきて、レオトーを訪ねています。第一次大戦の終った翌年になりますね。もうその時はマリーはドイツ人の夫君とは離婚していて、三十六歳になっている。以前より却ってふっくらしてとても女らしくなった、と書いてあります。  女は離婚すると、概して美人になるが不思議だね。僕がはじめに、出会った時は、優美な女狐のような、とがった感じのする印象でしたけれど……。僕のそういう詩があるでしょう。  またその年の四月二十九日付では、ローランサンが再びパリを追放されたという噂が立ったが、驚いて調べてみると嘘だった、うっかりニュースは信じられない、とありますよ。  「マリー・ローランサンの扇」 女狐(めぎつね)の転身 マリー・ローランサン 灰色がお前の空だ 紅(べに)と紫がお前の虹だ おお消えゆく虹よ 幻の美しさ 珊瑚の櫛は紅く 少女(をとめ)は犬の顔をして 犬の首輪をして 青いうす絹に裸形を包んで 女の顔をした白馬(しろうま)にまたがつて 雲の中をとびまはる 小鳥のやうに 犬もいつしよに 仔熊のやうな犬もいつしよに 女のやさしい顔をして 雲の花ばたけを ああ とびまはる 月のやうに ——マリーは、戦争で、生れた土地のパリを追われるようにしてスペインに行って、やがて休戦条約が結ばれると、夫君の祖国ドイツへ移り、ライン地方で二年程生活していたのね。  しかしマリーのいない間のフランスの若い詩人たちの悲嘆はよそ目にも哀れなものだったそうで、まるで彼らの女神をドイツに人質にでもとられているような騒ぎだったらしいのよ。  そこで一九二二年には詩人たちが『マリー・ローランサンの扇』という詩集をつくって、彼女に献じています。「扇」というのは人をさし招いたり、呼び戻したりするためにも使うものでしょう。そこで皆して、大きな扇をつくって、彼女を讃えたり、帰ってくれと訴えたりして呼び戻そうとしたものですね。そしたら本当に帰ってきたというわけね。大した威力ですよ、詩の力は。  詩集に名を連ねた面々は、ロジェ・アラール、アンドレ・ブルトン、フランシス・カルコ、モーリス・シュヴリエ、フェルナン・フルレ、ジョルジュ・ガボリー、マツクス・ジャコブ、ヴァレリー・ラルボー、アンドレ・サルモンたち、皆若い詩人ばかりですが、もう亡くなっていたルイ・コデやジャン・ペルランの詩も加わっていましたね。  僕はその限定本の二番を持っています。ガリマールから出た小型の本ですけれどね。  え? アポリネールは「扇」の中に入っていません。彼は、マリーと結婚できなかったので、赤毛のジャクリーヌという女性を奥さんにして、それからじきに勃発した欧州大戦に志願兵として出陣し、頭に受けた弾片の傷が元で一九一八年には亡くなっています。この年はスペイン風邪が世界的に流行した年でね。傷ついた彼はすぐに感染して、ひとたまりもなく死んでしまったのだろうね。彼はポーランド系の血の混ったイタリー人だから、特に戦争に行く必要はなかったのに、フランスを熱愛するあまりか、恋人と結婚できなかった傷心のあまりか、志願して出征、あの通り立派な体格の大男だったから、砲兵になって、馬に乗って、大砲を引き回していたそうです。あの通り、と言っても僕はアポリネールと会ったことはないのですが、マリーや、ピカソも描いている彼の肖像を見ると、下ぶくれの大きな顔をした偉丈夫だったようですね。  マリーは僕に「砲兵アポリネール」と題した絵を見せてくれました。大きなカルトンに描いたもので、アポリネールが、脚の無い白馬に、黒い服を着てまたがって、大砲の横に立っている絵でしたね。 「彼が砲兵だなんて、おかしいでしょう。また会うことができたら、この絵を贈って、からかってやろうと思ってね」  と笑っていましたが、マリーも決してアポリネールを忘れていなかったのでしょうね。  アポリネールという人の性格が、何故マリーと合わなかったのか……いろいろはみ出したところの多い人でね、それについては今度お話ししましょう。  ただ、彼の代表作とも言える「ミラボオ橋」も、マリーとのことを考え合せながら読むとまたいっそう味わいが深いでしょうね。 ミラボオ橋の下をセエヌ河が流れ    われ等の恋が流れる   わたしは思ひ出す 悩みのあとには楽(たのし)みが来ると    日が暮れて鐘が鳴る    月日は流れわたしは残る 手と手をつなぎ顔と顔を向け合(あは)う    かうしてゐると   われ等の腕の橋の下を 疲れた無窮の時が流れる    日が暮れて鐘が鳴る    月日は流れわたしは残る 流れる水のやうに恋もまた死んで逝く    恋もまた死んで逝く  生命(いのち)ばかりが長く 希望ばかりが大きい    日も暮れて鐘が鳴る    月日は流れわたしは残る 日が去り月が行き    過ぎた時も   昔の恋も、ふたたびは帰らない ミラボオ橋の下をセエヌ河が流れる    日が暮れて鐘が鳴る    月日は流れわたしは残る  ——ギヨーム・アポリネール   ——僕は、一九二二年、実に七年ぶりに、パリの彼女を訪ねました。  ホセ・マリヤ・ド・エレディヤ街十二番地にある立派なアパルトマンで、マドリッドで以前訪ねた木造の階段とは違い、大理石に絨毯(じゆうたん)を敷いた階段でした。彼女の部屋は五階の右側で、白塗りに金色のふち取りをした扉に、小さな名刺が出してあって、「マリー・ローランサン」とあります。僕はその名の響きのなつかしさに涙ぐむ程でしたよ。  ノックをすると、マリーはまたいつかの時のように、自分で扉を開けにきてくれました。この時は女中さんを置く程になっていたのですが、僕の訪ねた日は日曜で、つまりその時分「女中とエレベーターは日曜の午後は動かない」と言われていましたからね。だから僕は五階までの階段を歩いて登ったわけよ。  なるほど、マリーはふっくらして女らしくなって、色っぽくなって、年増らしい落ち着きが出て……やっぱり年が口をきくのだな、としみじみ感じ入ったものです。  彼女の部屋のインテリアは、家具も壁もカーテンも、すべてピンクとグレーが主調になっていて、丁度彼女の絵の世界に来たようなのね、十八世紀の令嬢の部屋の感じ、とでもいうのかね。  寝室は二つ、ピンクの部屋と水色の部屋、その日の気分次第でどっちに寝るか決めると言っていましたけれど、優雅なものですね。  マリーがお茶とお菓子を持って出てきたので、僕がすぐお菓子の方を眺めたことに彼女は気づいてこう言うの。 「この家にはビスケットのほかにお菓子がありませんの。女のお客様がみんな肥ることを怖れていらっしゃるから。私、肥ったでしょう? あなたは相変らず細いわね」  マリーの部屋には、男も女も不思議に肥った人ばかりが来たそうで、画家のラボールールなぞは、まんまるに肥っていて、戸口を入る時は身体をはすかいにしてようやく入れたそうですよ。 それがここでお茶を飲んだりお菓子を食べたりすると、見ているうちにめきめき肥って、帰りには戸口をこわさなきゃ出られなくなるのではないかと心配でたまらない、と言うのね。  僕は、まさか、風船(バロン)じゃあるまいし、と本気で取り合わないでいると、マリーはやっきになって反論するの。一度戸口をこわした経験が本当にあると言って。いや、彼女の家じゃないけど、ラボールールが昔住んでいたアパルトマン。今では追い出されて、代りにポール・モーランが住んでいる部屋だって。そう言えば僕はモーランの『夜ひらく』を訳していたので、何度か訪ねていると言うと、ではその時彼の寝室の戸口がこわれていたのに気づいたでしょう? ときかれるのだが、どうもそこまでは観察して来ませんでしたね。  とにかくそのパンティエヴル街十九番地のあの部屋で寝起きしていたラボールールが、ある朝起きてみると、一夜のうちに肥ってしまって外へ出られなくなってね、大騒ぎになって、家主さん立ち合いのもとに、人夫を呼んで戸口をこわしてやっと出られたそうですが、それが原因で追い出されたそうです。  次に入ったモーランはそこがとても気に入っているので、また肥って追い出されないために、とても用心しているそうで、そこで、彼も訪ねてくるマリーの家には、お菓子はビスケットしかない……とまあこうなるわけよ。長い理由だね。  大學先生は、ローランサンの『女鹿たち』を開いて、著者の写真のところに目を落すと、「綺麗な人でしょう」と、おっしゃる。  私が彼女の展覧会で見た「自画像」より、写真の方がずっと美しい。自画像を美化しないで、謙虚に描くなんて女性には珍しいですね、と申し上げると、黙って微笑なさる。  写真のマリーは夢みるような瞳の女性で、前髪を少女のように額に切り下げて、両耳の上でふくらませた毛の房が耳をかくしている。『スター・ウォーズ』のレーア姫のヘア・スタイルみたい、と言おうとしたが、きっと今どきの映画などご存知ないと思ってやめてしまったけれど、案外先生は今の世情にも明るい方なので、申し上げてみればよかったと後で思った。  日本の画家では、東郷青児がローランサンから強い影響を受けているのではないでしょうか、と伺ってみる。 「そうかもしれませんね。彼の絵も、ある時期には生命力があったけれど、後にあまりにもアーティフィシャルになってしまったようですね。マリーの絵は、いくら美しくても、いくらインリアルでも、ちゃんと生きているでしょう」  と、固い信奉ぶりをお示しになる。 「あなた、よかったら僕のお菓子もおあがりなさい。僕は晩酌がまずくなるから、なるべく午後の間食はしないの」  先生のお宅の戸口は、どこも広々としていたな、と思い、私は安心して二つめのフルーツケーキを頂いた。 ——マリーは、僕に家の中を案内してくれてね。その一歩一歩が僕には歓びでした。  オランダ土産に貰ったという、古風な極彩色の絵を描いた貝がらだの、アンピール様式の金ぴかの花瓶にさした色あせた青い駝鳥の羽だの、陶製の動物たちだの、いろんなものが置いてある。  古風なのやモダーンなのや、不統一の家具が並んでいて、それでいてお互いにいい調和がとれている。さすがに画家の住居(すまい)だね。  マリーは、今ではよくそういう人もいるけれど、実に多面的な才女で、しかもそれがどれもズバ抜けている人でね。絵は本業だが、舞台装置は手がけるし、詩はつくるし、服飾デザインもする。一時ヨーロッパを風靡した東洋趣味に対抗して、純フランス風な、ローランサン風なモードを考案した事もありました。それからまた彼女の図案になる壁紙は、パリのグルールの店へ行けば買えましたよ。僕は一枚も持ち帰らず惜しいことをしたな。  とにかくそういう女性の住居だから、どの部屋も非常に趣味がいい。そしてどの部屋にも、一枚ずつ彼女の絵がかかっていてね。どの絵の女も、歓楽のあとのように悲しい顔をしたピンクとグレーの女です。そして女たちの眼は、美しい喪失のあとを追うかのようにまばたきもしないのよ。どの絵にも何故か鳩が飛んでいて、やさしい眼ざしの馬や犬もいる。そして青いリボンが一筋、風にひらめいていたりもする。  だが、彼女の家はおかしいことに、客室は三つ、寝室は二つもあるのに、食堂というものがないの。マリーはこう言っていました。 「私はもう何年も食事らしい食事をしたことがないのです。食事や、食事の時間に縛られるのがいやですから。決った時間に食事をしなくてはならないような習慣を持っていては、人間はいつまでも自由になれませんわ」  きっとドイツ人のご主人は、決った時間に食事をしないと気がすまなかったのでしょうね。その自由欲しさに、マリーは一人になったのかもしれない。それにしても人間の幸福なんて、実に重荷なものだし、自由を一つ得るために他の不自由を忍ばなくてはならないとは、どういうことなのだろうかね。  「鎮静剤」 退屈な女より もつと哀れなのは かなしい女です。 かなしい女より もつと哀れなのは 不幸な女です。 不幸な女より もつと哀れなのは 病気の女です。 病気の女より もつと哀れなのは 捨てられた女です。 捨てられた女より もつと哀れなのは よるべない女です。 よるべない女より もつと哀れなのは 追はれた女です。 追はれた女より もつと哀れなのは 死んだ女です。 死んだ女より もつと哀れなのは 忘れられた女です。  ——マリー・ローランサン   彼女のこの詩によれば一番哀れな女とは、忘れられた女ということになる。  しかしマリーは決して一番哀れな女には属していない。今、こんなにも熱く語られるほど、大學先生の脳裏には鮮明に記憶されているのだから。  私が、彼女に「日本の鶯」という詩があるけれど、これは大學先生のことを歌ったものでしょうか、と伺うと、 「さあ、そうとも限らないよ」  とおっしゃるので、でも終りの二行はどうしても先生のことを歌ったとしか考えられません、と私は言った。 「そうかな、いや、そうかもしれないね。実は、七年ぶりで彼女を訪ねた時ね、小さな紙片に書いたのを僕は渡されたのです」  大切にしまいこんだ宝物を、本当はご自慢なのに、惜しそうに後ろ手にかくしてからそっと見せてくれる時の少年のようなはにかんだ微笑が、先生のお顔を横切って行った。  「日本の鶯」 彼は御飯を食べる 彼は歌を歌ふ 彼は鳥です 彼は勝手な気まぐれから わざとさびしい歌を歌ふ ——マリー・ローランサン    私はこの詩に接した時、いつも先生の座右に掛けてある恩師与謝野寛の、直筆の短冊の歌が、自然と思い浮かんできた。 大學よわかきさかりに逸早く秋のこころを知ることなかれ寛 第八章 ギヨーム・アポリネールのこと ——マリー・ローランサンには、よく散歩のお供をさせて貰ったものです。  僕がマドリードにいた頃、ですからマリーはまだ離婚前で、ドイツ人画家ワッシェン氏の夫人だったわけね。彼女は古物をあさるのが好きで、場末の古道具屋とか、泥棒市場(いちば)とかにそれは度々足を運んだものでね。  マリーがそこで手に取ったり、買ったりするのは決って女性がかつて身につけた品に限られていて、鼈甲の櫛だとか、流行遅れの装身具が主でしたよ。指輪、ペンダント、ブローチ、ブレスレット、それから手鏡やハンドバッグ。女の人はこういうものがとても好きだね。「喉(のど)から手が出る程」という表現じゃ何かお化けみたいだけど「小鬢(こびん)の毛が抜ける程欲しい」というたとえ方もあるのよ。え、知らない? 僕が古いせいかな、それとも新潟地方特有の言葉なのかな。とにかく僕や家内には、物に対する執着は今ではまったく失くなりましたが、娘はまだ若いせいで見る物を何でもほしがりますね。あなたもそうでしょう?  マリーは何故か女闘牛士の古衣裳をとてもほしがっていて、どこの店へ入っても忘れずにたずねていました。「絵を描くためですか?」と僕がきくと、「いいえ、着てみたいのです」って。あの頃は丁度、女闘牛士という職業が途絶えていたけれど、それが最近、若くて綺麗な女闘牛士が一人いるそうですね。マリーに見せたかったと思いますよ。そして彼女がもし闘牛の絵を描いたら、さぞかし可愛らしい絵だろうと思いますよ。  マリーという女性は、実に女らしい女というのか、一般に女にも男っぽい面が多少はあるものらしいけれど、彼女にはまったくそれが感じられませんでしたね。だから男性の荒々しさにはとても堪えられないのではないか。それで、彼女の絵のモチーフはほとんどが女性だし、女の古い持ち物を愛したりもする。やがて離婚もしてしまった。まして癖の強い男性の見本みたいなアポリネールと結ばれていたりしたら、マリーはズタズタになってしまったかもしれませんからね。  病弱で、それ故にやさしく繊細なお若い頃の大學先生を、マリー・ローランサンが好んで散歩のお相手に選んだ理由は、想像に難くない。  アトリエで、彼女は創作に疲れると、訪ねて来てじっとおとなしく待っている大學青年を散歩に誘う。「早くなさいよ」と彼女はじれったそうに言うが、その時とうに先生は外套を着て、手袋をはめて、帽子とステッキを手にして、玄関先で彼女の仕度を待っていらっしゃったのだという。  また、マリーの洋服には、小さな(先生の表現だと「しじみ貝ほどの」)ポケットがたくさんついていて、そこにいろいろと物を入れてはよく物を失くし、するとそれは不幸せそうに嘆息したという。しかし先生は決して、「もっと大きなポケットをつけたらいいでしょう」とはおっしゃらない。「大きなポケット」はマリーへの冒涜であり、また、もしそう言えば彼女のご機嫌を損じて、三日程は会ってくれないことをちゃんとご存知だったからだそうだ。  女なら誰しもそんなデリケートな心くばりのある年下の騎士(ナイト)に守られて散歩してみたい、という願望があると思うが、まずそのためにはマリーのような女王(クイーン)の魅力を十分に備えていなければならないのだろう。  ところで、先日、私はある中学校の学園祭に行き、書道部の展示室で、大學先生の「夕ぐれ」と「峠」という詩を清書した作品を見かけたので、その子に何故堀口詩を選んだのかをたずねると、「読んでいると悲しくなるから……」という答えだった。短いが本質をついた答えだと思い、名前をきいておいて大學先生のサインを頂いて上げようと思ったのに、肝心のそのメモを失くしてしまって……と申し上げた。  先生は、勝手にその子を「少年」と決め「あなたも多情多恨だねえ。苦労なことだ」と、お笑いになった。 ——マリーと同棲までしていたアポリネールも、散歩の好きな人だったといいますが、彼はマリーと違って、誰とでも散歩したそうです。散歩の時、彼はしきりに詩人らしいことを言ったものだそうですよ。  彼にも、やはり人をひきつける魅力があって、話し方に妙に説得力のある人らしかったのね。聞く者は喜んで、むしろすすんで彼の説に従ったそうです。アポリネールを客観的に批判することは困難で、人々は彼を愛するか、憎むか以外のすべを知らなかったようです。  というのも、彼の微笑は有名で、一度でもそれを見た人は生涯忘れられない、という程の魅力ある微笑の故だったかも知れませんね。その素敵な微笑を向けられたら、感情で憎むか愛するかしかなくて、とても批評するような理性の段階には及べないのでしょうよ。  何しろ、神秘で、嘲けるようでいてしかもやさしくて、残酷でありながら柔らかく、痛々しいようだが楽しそうでもある……という不思議な微笑だったそうですから、彼の性格同様、極めて不得要領なのね。  彼にはフランス詩壇の先達的なセンスが自然と備わっていたようで、誰かが「アポリネールは伝染病だった」と言っているのは実に名言です。彼の行動は、しばしばでたらめだったけれど、そのでたらめを中心にして、フランスの芸術界がいっせいに急回転して行くのね。こんな魔術の使い手のような人がまたといただろうか、と思いますよ。  彼が詩を一つ発表すると、たちまちその影響下の多くの詩が生れて、方向が決定づけられる。フィリップ・スーポーのごときは、彼の詩集『アルコール』(一九一三年)が、フランス詩の方向を決定したとまで言っています。僕はこの詩集が、世界の近代詩が現代詩へと移る関門だった、とさえ言えると思いますね。アポリネールも自分でそれを意識していて、「僕は自分の詩を種子(た ね)のように蒔く」と誇らかに揚言していますよ。だから彼が死ぬまでは、フランスの前衛文学には激烈な伝染性があったものなのです。彼がいなくなると、皆バラバラになって孤立性を増して来てね。  伝染性のない前衛文学なんて、何とかを入れないコーヒーよりもっとひどい、むしろ手のない泥棒みたいなもので、その存在理由さえ持ち得ないものですからね。  大學先生のフランス近代詩への愛好は、父君の手引きで、最初はシュリ・プリュドム、アルフレッド・ド・ミュッセ、ルコント・ド・リールらのパルナシアン(高踏派=唯美主義的で実証主義の影響を受け、感情を抑えて客観的な形象を端正な詩型で表わす)の諸家に向けられた。  続いてサンボリスム(象徴主義=高踏派や自然主義の客観描写に対し、主観的情緒を象徴によって表現する)に対する傾倒が始まり、その最初がグールモンであったという。 「知性と感性と二つとも卓抜な」グールモンによって与えられた「あの時の知的有頂天は、僕の一生を通じての精神上最大の事件」だった、と先生はお書きになっている。  やがて、ダダイスム(伝統的審美観に極端な反抗を試み芸術の限界を意識的に破壊しようとする)、シュルレアリスムなど、前衛派の先駆アポリネールを知って、ようやく当代詩に近づき、原作者の同時代人として賞味する幸せを得たとおっしゃる。  佐藤春夫は、大學先生訳のフランス近代詩の詞華集(アンソロジー)『月下の一群』に寄せて、「我々のいはゆる近代は……グウルモンはそれの夜明けで、アポリネエルは多分起床で……さうして昨日は多分サマンの夕焼とレニヱの三日月とで暮れたのだらう」と、当時傑出した指摘をなしている。 『月下の一群』(一九二五年)は、六十六人のフランス詩人による三百四十篇からなる大詞華集だが、これは誰からの求めに応じたものでもなく、まったく大學先生の感性に響いたお好きな詩を日本語に移しかえる「快楽」の結果、自然と生れ出たものだという。 「だって、好きなものには手を触れてみたいと思うでしょう。自分のものにしたいと思うでしょう。美しい詩は美しい恋人のようなもの。愛する人の肌にそっと触れる時のような、身も世もあらぬ情念をこめて、愛する詩章に手を触れるのです。それがこれらの訳詩なのです」  という先生のご説明は、あまりに適切鮮明に解り過ぎて、「理解」の域を越え、ああ! と声をあげたい程なのを、私は抑えねばならない。 ——アポリネールという人は、生れの曖昧な人でね。母親はポーランドの陸軍大将の娘なんだが、ローマ法王庁で働いていたことがあって、その時の大僧正の落し子が彼だという伝説があるの。しかし誰かがこのことの真否を彼に質したら、グラスの白ブドー酒を飲み干しただけで話をそらしてしまったそうです。  彼は母親の話になると「何しろ気の荒い人で困るのでね」というのをいつものオチにしていたようですね。母親はアポリネールとその弟と、二人の息子を女手一つで育てたのだから、大変だったと思うけれど、かなり放埒(ほうらつ)な生活をしていた人らしくて、ベルギーの観光地、スタブロあたりのアトリエを根じろに暮していて、ちょっと口には出せないような商売をしていたらしいのよ。シーズンが終る頃、子供と三人堂々と帰るわけにはいかないとみえて、二人を先に帰して、あとから自分が逃げ帰ったのをパリまで追跡された、なんていう話を書いている人もいるくらいでね。  だからどうしてもアポリネールには胡散(うさん)臭いところが出て来てしまうのか、例のレオトーが日記の中で、彼を非常に好きだけれど、どこか一風変っていて、風貌にも気質にも山師的なところのある男だと書いています。どこかはみ出している部分があるというのか、自分では制御できないところがあるのでしょうね。  そこが天才者と呼ばれるような人たちの、とかく世間から誤解されやすいところなのでしょうよ。普通の人間から見ると、いやらしさに見えてしまうようなことがあるのね。  そのためかどうか、アポリネールはルーヴル美術館からダ・ヴィンチの「モナリザ」を盗んだ、という嫌疑で、パリのラ・サンテ刑務所に投ぜられたこともあるの。  一九一一年のことだから、彼が三十一歳の時です。幾日経っても犯人があがらないものだから、官憲はあせってね、アポリネールの身辺を洗うと、交友に不良の徒は多いし、近作のコントにルーヴルから小さな彫像を盗み出す話を書いている。その上、以前美術館のだらしなさを証明してみせると言って、実際にルーヴルから、自分の秘書役みたいにしていた落ちぶれ男爵のドルムザンに彫像を盗ませて、これを返却する前に大通りの大新聞社のショーウィンドウに展示したりして面白がったことがある。これじゃ疑われても仕方がないようなものだが、いきなり逮捕されて、未決監へぶちこまれたというのだから、乱暴な話だね。  この時ばかりは日頃の放胆さもどこへやらで、すっかりふるえ上ったらしく、気の毒な程にしょげこんで悲鳴をあげたということです。詩集『アルコール』の中の「獄中歌」と題する一群の詩は彼のこの時の正直な悲鳴ですね。   I 監房(かんぼう)へ入(はい)る前に わたしは裸体(はだか)にむかれた すると悲しい声が吠え出した ギィヨオム 貴様は何のざまだ と 墓穴から這出(はひだ)して来たラザアルのやうな姿で わたしはあべこべに入(はい)るのだ あばよ しばよ 陽気な友よ 昔よ 女よ さよならよ   IV 青白い赤裸(はだか)の四壁(しへき)の中で    わたしは何と退屈だ 一匹の蝿が紙の上の不揃の    わたしの手蹟をつたつて小股(こまた)に歩む わたしの苦悩を御存知の神さまよ    わたしは一体どうなるのでございませう 実はこの難儀もあなたが下さつたのだ    涙も流れぬわたしの目と青ざめたわたしの顔と 鎖でしばられたわたしの椅子の響と この監獄の中で動いてゐる沢山の可哀相(かはいさう)な心臓と    わたしにまだつきまとつてゐるいろ恋とを 御あはれみ下さい ことにわたしのこの弱い理性と    忽ちにそれを負(まか)してしまふこの自棄(や け)とを 神さま 特別に御あはれみ下さい ——結局、犯人はルーヴルへ仕事に通っていたイタリー生れのペンキ屋だったことがわかって、アポリネールはひと月余りもの囚人生活から釈放されました。  彼は一躍世間的に有名になって、凱旋の勇士のようにパリの市中を得々と闊歩したそうですが、やはり彼はこの事件で大きな損をしたようですね。世間というものは、スキャンダルには喝采するけれど、スキャンダルによって有名になった人間には、永久に心を許さないものなのでね。  アポリネールを無実の罪におとしいれたこの「モナリザ」を通じて親友佐藤春夫の面影をおなつかしみになる詩が大學先生にあることは浅からぬ三者の因縁を思わせる。 「不思議な微笑」のアポリネールが、「謎の微笑」のモナリザにより、受難した因縁をも思い合わせて。  「モナリザ」 春夫君 今度はモナリザが来るそうだ 含み笑いのモナリザが 先に来たミロのヴィナスは君と見た 人ごみをさけて 閉館後 特別に見せてもらった ゆっくり見られて有難かった 元気な君と肩ならべ ゆっくり見せてもらった 上野の西洋美術館 五月一日 濃むらさき はげしい雨の宵だった 君 急逝の五日まえ あれからちょうど十年目 今度はモナリザが来るそうだ 一緒に見たいが 君はもう 白玉楼中に住む人だ 上野の山へは戻れまい 誰と見に行けというんだ ——アポリネールは、サン・ジェルマン大通りと、サン・ギヨーム街の角のところにあるアパートのてっぺんに住んでいて、それは信じられないくらい小さな部屋だったそうです。  長い廊下を利用してそこを書斎と食堂に使っていて、あらゆる壁面にはピカソやキリコ、ローランサンやドランなどの絵が、かけてあったといいますよ。  彼にはいたずら好きのところがあるから、来訪者があぶなっかしい足どりで狭い階段を上って来てようやく入口のベルを押すと、中側から扉を開ける前に「やあ、○○君、今日は!」と言って、アポリネールが出てくるんだって。皆驚いたそうですが、何のことはない、戸口の脇の壁に小さな穴があけてあって、のぞいていたのよ。だからいやな奴が来ると、居留守を使って開けないのね。これを見破ったある「いやな奴」が、ある日その穴にコルクの栓を差し込んでおいてからベルを押して、とうとう彼にドアを開けさせた、と自慢していたそうだけれどね。  彼は美食家で、大食漢だったので、いろいろな仕事に手を出して働いたそうです。つまりおいしいものをうんとこさと食べなくてはならなかったからですって。僕も子供の時分は祖母の厳しいしつけで粗食に堪えていたのだが、父と外国暮しを長くしてからは美食の癖をつけられて、盛大にぜいたくに食べるために働くには、翻訳ではいささか大変でしたね。  しかしアポリネールがつめこむのは、胃袋だけではなく頭脳の方にも該博な知識がいっぱいつめられていて、いつどうやって勉強したものかと思われる程だったそうです。本業の文学や美術批評のほかに、ローマ史や春本に関する研究書のあることはよく知られています。  しかし彼は、友人のアンドレ・ビーリーに「……世間でうるさく言う僕の博識というのは、ともすると、僕の無知の一つの外見かも知れない」と書き送っていますが、ある意味で、一つの真実をついた言葉でしょうね。知識の量が多すぎて、つい物の本質を見落すことがあるのかも知れない。  それで恋仲だったマリー・ローランサンがドイツ人と結婚してしまうと、自分もすぐどうでもいいような結婚をしてしまうし、おまけに召集されたのでもないのに砲兵隊に志願して、その理由を地口で言ったりしています。 あまりに芸術(アール)を愛したので僕は今では砲兵(アルチリユール)だ  というわけね。けれども、前線の塹壕(ざんごう)生活中戦さの閑を盗み謄写版で刷って銃後の知友へ贈ったという二十五部限定の小詩集中の一篇、そして後に詩集『カリグラム』に納められた「交代」という詩を見ても、やはりマリーを忘れかねていることがわかって、胸が痛くなりますね。  「交代」 一人の女が泣いていた   エ! オ! ア! 兵隊が通っていた   エ! オ! ア! 閘門番(こうもんばん)が釣りしていた   エ! オ! ア! 塹壕(ざんごう)が白くなっていた   エ! オ! ア! 砲弾が屁(へ)をたれていた   エ! オ! ア! マッチに火がつかなかった そうして僕の内に すべてがひどく変ってた 僕の恋を例外に すべてがひどく変ってた エ! オ! ア! ——アポリネールには、肩章の星の数や、軍服の袖口の金筋の数を欲しがる俗っぽい、馬鹿らしい一面があってね。昇進を急いだらしく、砲兵隊から歩兵隊に転じたそうです。  ある日、彼が塹壕の中で、雑誌「メルキュール・ド・フランス」を読んでいたら、砲弾の破片が彼の鉄兜を貫いたのですって。その時彼は「やられた」とは思わなくて、また雑誌を読み続けようとすると、その時はじめて、ひろげられたページの上に、糸のように細い赤い血が一筋流れ落ちて来たのだそうですよ。  因縁話めくけれどね、昔、誰かが彼を現わして造った木彫の像があって、その頭部に傷がついていたのと同じところに、弾が当っていたんですって。  傷は一度は治ったようですが、右半身が不自由なので危険な脳の手術を受けたそうです。それで右側の不随意症は治ったといいますが、同時に何か重大な物も失くしてしまったらしいのね。 生き生きと輝いていた彼の才気はどこかへ消えてしまったらしい。 「僕も画家だ!」と言い出して、この時油絵を一枚だけ描いているけれど、その絵は馬上の伍長の頭に砲弾が命中して、漫画のように星が飛び出している絵なの。大切な星が、彼の頭蓋から飛び出してしまった図とは、何とも象徴的な悲しい絵だね。  そして一九一八年、この年は第一次世界大戦の休戦条約が結ばれるのだが、同時にスペイン風邪が大流行した年でもあって、彼は大手術の疵あとがまだ完全でない予後の状態にあったので、感染するとひとたまりもなく亡くなってしまいました。三十八歳の若さでね。彼は生前、 さっさと行こうぜ 愚図愚図せずに さっさと行こうぜ  と歌ったことがあるけれど、それにしてもあまりにさっさと行き過ぎたんじゃないのかね。  大學先生のアポリネールに対する愛惜の念は非常に深いものであるらしい。  その表われとして、一九二五年に先生の訳で第一書房から出された彼の『動物詩集』を、半世紀以上を経た今年、すべての訳詩に手を加えて、改めて求龍堂から出版なさっている。  原本は、一九一一年、パリのド・ブランシュ社から刊行されたもので、ラウル・デュフィーの木版挿し絵入り、百二十部限定の豪華本である。しかし前に日本で出された時は、三分の二縮刷のパリの人魚書房版を元にしていた。これを今回、初版原寸大に改めたので、挿し絵の迫力がまるで違う——と、先生はご満悦である。  訳詩の、目を見張るばかりの格段の「違い」については、各誌の書評欄を賑わしたが、ここには「週刊朝日」から引用する。 〈そこで堀口は訳し直す。かつて、「僕は持ちたい 家のなかに/理解のある細君と/本の あいだを歩きまわる猫と/それなしにはどの季節にも/生きて行けない友だちと」と訳された「猫」は、 わが家(や)に在って欲しいもの 解ってくれる細君と 散らばる書冊のあいだを縫って 踏まずに歩く猫一匹、 命(いのち)の次に大切な 四五人ほどの友人たち。  ということになる。流暢にして豊満、訳詩の芸の限りを尽くしたもので、みずから称して言う「大學老詩生」は相変わらずじつに若々しい。……〉  お年をお召しになると、進歩が止ったり、退歩したりして、昔はこんなにもみずみずしい言葉遣いだったのに、今はすっかり涸(か)れて……ということになりがちなのに、先生はそれが反対なのですね、と申し上げると、先生は、 「この頃になって、やっと日本語がわかったようですね」  とおっしゃる。これは謙遜のお言葉のようにも聞こえるが、この奥には非常に深い並々ならぬ自負の念が秘められているようで、頼もしく感じられた。 ——さあ、アポリネールはついにマリーを「解ってくれる細君」としてわが家におくことは生涯できなかったのね。  それで僕なぞが度々彼女の散歩のお相手をつとめられたのかも知れないのよ。  マドリードの冬は夜が早くてね。午後三時頃にはもう暗くなり始めて、彼女のカンバスの上の鉛白と銀白の見分けがつかなくなるの。するとマリーは、香水の瓶からほんの少しのテレピン油を銀のフィンガー・ボールに落して、紅筆の先ほどにしか色のついていない絵筆の穂先を洗う。それを小さな絹のハンカチで拭って、シュミネ(壁ストーブ)の上のセーブルの花瓶の中に逆さにして立てるのね。どの筆もみんな細くて長いから、それらはまるで矢車草の花束のように見える。  マリーは絵を描いても決して手は汚しません。きれいな外出着を着て、ルイ十五世様式の金色の椅子にかけて、白い絨毯の上に黒繻子の靴の先をお行儀よく並べてカンバスに向っています。まるでそれ自体がマリーの絵でしたよ。  散歩に出る時、戸外は寒いのに彼女のマフは手毬のように小さいし、ピュトアの襟巻はまるで毛皮のネックレスみたいに細いのよ。そして彼女の帽子には、色あざやかな熱帯の鳥の羽根がゆれていました。 「アポリネールが、あたしに三年の間に書いて贈ってくれた小さなたくさんの詩を返してくれと言うんです。けれど、あたしはそれがいやなの。コピーだけでも欲しいというんですけど、あたしはそれさえいやなんです。あれはあたしだけのものだから。今では作者のアポリネールのものではないんです」  歩きながら、マリーはくり返しまるで僕がそれらの詩を取り返そうとでもするかのようにそれを拒み続けていましたね。  だってアポリネールのポエジー・リーブル(秘めごと歌)と呼ばれるなまめかしい一連の詩は実に物凄いですからね。ちょっと僕でさえ恥かしくて訳せないようなものだものね。だから恋人のマリーに捧げた詩なぞは、相当きわどいことが歌ってあって、それでマリーは他人に見られるのがいやだったのだと僕は思いますよ。 「また今度、詩集が出るの。『消えがての虹』というのよ。『月かげの虹』『沖に立つ虹』『東天の虹』と続いたから、今回は消えがて……。だからやがて出す遺稿集は『虹消えず』としようと思っているの。今日はまだ見本の一冊しかないから、お見せするだけ。じきにお送りしますよ」  とお見せ下さった『消えがての虹』のページを繰っていくと、最近のお作ばかりというのに、先生が「恥かしい」とおっしゃるアポリネールの一連の詩とは、この上果してどんなに凄いのだろうと思えるようななまめかしい数行が、パッと目の中に飛び込んできて、私の頬に朱を散らさせた。  「おまつり」 花びらに唇あてる 蜜房に蜜はあふれる 鼻までが仲間入りする おまつりは奥へひろがる  「上と下」 下の唇 下唇(したくちびる) 同じほど ぬれてはいても 同じでない 助詞の一字で 上と下 ——やはり、マドリードにいた頃の、ある冬の日に、マリーのアトリエで熱い紅茶をご馳走になったあと、彼女のお供で街へ出ました。ブエン・レチーロ公園の外側の歩道づたいに歩いて、セントラルホテルの近くへ来かかると、急に大粒の雨が落ちて来てね。 「お茶はもうすませたし、プラドへ入ってみましょうか」とマリーが言うの。美術館ですね。僕はよく一人でここへ通っては、いかめしい鉄門をくぐって、石の階段をのぼって館内に入り、入り口に近い第一室の左手の最初の壁面に掛けてある、あの有名なゴヤのマハに逢いに行っていたものなのです。  ご存知でしょう? ながながと長椅子にくつろいで、全裸と着衣の生き身を横たえたゴヤの二人のマハの絵。マハとは伊達女という意味で、このモデルはセビリアの女性だそうですよ。南方系で、情熱的な面ざしですね。  この絵の最初の持ち主は、二枚の絵を重ねて飾っておいて、お客に着衣の方のマハを先に見せると、それを上に掲げて裸体のマハを見せたということですよ。  僕はいつもこの二人のマハの前に立つと、着衣のマハの手前、恥かしくて全裸のマハには瞳の焦点を合わせられないの。何度行っても同じあせりの繰り返しでね。それほど、あの絵は生きていたし、「おんな」そのものだったということね。  僕のはそんなよこしま心を秘めた見学なので、いつも一人で行っていたのに、その日はマリーが一緒に行こうというわけよ。  マハの前に二人で並んで立っていると、やがてマリーは僕の困惑を見抜いたらしく、 「何を思っておいでなの? ジュノンム」 とたずねるの。ジュノンムとはヤングマンといった意味よ。僕は口ごもりながら、 「女に生れ変って、まともに裸体のマハが見たいものだと思っていました」  と答えると、マリーは、 「あら、そうでしたの。あたしはまた、その反対に、一度だけでいいから、男の目で、この裸体のマハが見たかったわ」  って、そう言っていましたね。  私は今日、この男の目と女の目のお話を伺うずっと前に、先生とこれに似たような会話を交わしたことのあったのを想い出した。  それはヴェルレーヌやランボーやコクトーなどの芸術家の世界によくある同性愛の話の出た折に、 「僕は、ホモとかお稚児さんという言葉を聞いただけでもいやな気がするね。ところが女性同士の同性愛だと、聞いても僕の反応が違うのよ。それ程ムシズが走らない。むしろ、僕が女だったら、男なんかより女を愛するんじゃないかなと思う程、それ程女は綺麗だものねえ」  とおっしゃったので、それは先生が、今、男でいらっしゃるからでしょ、私は今、女だから、女を綺麗と思う以上に、男を魅力的だと思います、女に生れて幸せなのは、女に比べて男には惚れるべきものがいっぱいあるということで……と懸命に申し上げると、先生は静かに、 「まあね、僕は今、男だものね。僕の歌集『男ごころ』の中にあるでしょう。 いちにんの女といへば千万の神ほとけより尊きものを  とね。これ真実の気持ですよ。女の人というのは、ただそこにいてくれるだけでいいの。男にとってはそれでもう十分、千万の神ほとけより尊く有難い存在なのよ」  とおっしゃって、おそらくはもう、アポリネールよりも素敵と思える美しい微笑を下さったので、私はその日言葉を失くした。 第九章 子供のときから作文が得意 ——三つの雑誌の新年号のために、詩を三つ、つくりました。どれも巻頭の詩です。  気安く引受ける割合に、それぞれの舞台に合わせ、読者層を考慮した作品を提供するのが編集者によろこばれて、来年もまた来年もと、続くことになっているようです。  先日、どうしても短冊を書く必要ができてね、短冊には丁度俳句がおさまるでしょう。それで俳句も二つつくりました。こちらはつくったと言っても、あるものを利用したのだけれど。  一つは「富士山高く つつましく」という僕の短い詩に、「初凪や」と季語の初句をつけただけ。 初凪や富士山高くつつましく  となりました。これはうまくいくわと思ってもう一つ。これは「立って眠る」という詩の一節を取るわけよ。  「立って眠る」 夜の黒衣の沈黙に 包まれて 守られて 富士は眠るか 立ったまま 中空高く 立ったまま 月もない 星もない 闇一色の空のもと 何を夢みて  という詩から、 五月闇富士は眠るか立ったまま  としたの。どうだろう。ずるいかしら。自分の詩を利用したのだからよかろうかね。  出来はどう? はじめのはのどかだし、あとのは宇宙の幽久に通じるみたいでなかなかいいじゃないの。だが、自分でいくらほめてみても、僕は俳句は素人だからよくわからないけどね。  それにしても、僕は富士山がよくよく好きなのね。富士山の詩ばかり抜いてみたら、相当の数になったので、今度、僕の米寿を記念して、詩集『富士山』という限定本が出ました。関野準一郎さんの挿画でね。  今話した三つの新年号のための詩のうちの一つがまた富士の詩で「お富士さん」というの。もう一つは「泰山木」。この二つはそれぞれの雑誌社からとても喜ばれました。 もう一つは「拈香(ねんこう)序列」というのだが、これは受け取った方で困ってるんじゃない? どういう意味だろうなんてね。  拈香とは、香りを拈(ひね)る、ということなんだが……禅宗でよく喧伝する話に、「拈華微笑(ねんげみしよう)」というのがあるでしょう。それをまたひねったんだね。  拈華微笑の方は、心から心に伝える、つまり以心伝心ということよ。ある日、霊鷲山(りようじゆせん)という所で説法をしていらっしゃったお釈迦様が、咲いていた花を拈って聴衆を見ると、利発な一人の者が、その心を悟ってニッコリ笑ったと言いますね。その者の名は、摩訶迦葉(まかかしよう)というそうだが……さあ、僕の言う拈香とはおわかりか?  「拈香序列」 ワイキキの「浜」むすめ メキシコのバレリーナ ベルギーのオペラの踊子 アルプス山腹の見習いナース スペインの女流画家 アメリカの女流塑像家 ブラジルのプリマドナ ルーマニアの公爵夫人 帰命頂礼 南無女菩薩霊位  大學先生は、米寿をお迎えになってますますお元気に、なお生き生きとした毎日であるようにお見受けする。  最近の詩集『消えがての虹』も、題名ばかりはうら淋しいが、「虹の屋主人、大學老詩生」と称して書いておいでのあとがきには、 〈……久しく米塩の資としてはげんできた翻訳の仕事に、年々三百六十五日のうち、三百六十日をふり向け、残る五日ばかりを詩作に充てて来た半世紀不変のプログラムを、十年ほど前、思うところがあって、米塩の食をあきらめ、かすみを食(くら)って生きるが運命(さだめ)の、詩生の本然に立ちかえり、年々三百六十五日のうち、三百六十日を詩作に充て、残る五日を翻訳の業にふり向けるという、どんでん返しを実行に移したその結果が、以前には見られなかった、詩の量産をもたらしたという次第です。……〉  とあるように、近頃は翻訳やその他の雑事にあまりわずらわされることなく、ひたすらよい詩の断章、よい言葉の一片が飛来するのをじっと待っていらっしゃる。 「雲をつかむような思いでも、じっと念じていると、いつか凍って形になる」とおっしゃるのだが、かすみならぬお酒を召しながら、いっしんに詩作に専念される近頃の先生は、詩仙李白の姿を髣髴(ほうふつ)させる。  わかりました。香りを拈るって、お若い時、あまりに間近にありすぎたため、匂いの強いチーズなどを敬遠なさりたくなったといつか先生がおっしゃった……思い出の女性達の序列ですね。ワイキキの浜むすめと、スペインの女流画家のお話はもう詳しく伺いましたが、まだこんなにもいらっしゃるとは、と笑うと、先生は「なに、まだまだ」というお顔で、何もおっしゃらない。 ——僕は今年数え年八十八歳の米寿、八十七年のほとんどを文学の道で生きてきたわけですが、こうなったキッカケは何だったろうかと、先日つくづく考えてみました。  もちろん、吉井勇さんの短歌「夏のおもひで」百首に出会ったのが、僕の詩歌の一生を決定的にしたのですが、もう少し前に何か遠因がありそうな気がしてね。  僕は小さい時から歌の、それも文句の方に心をひかれたようでしたよ。三歳くらいの時は、東京の麹町の元園町にいて、英国大使館の横、お向いは大山大将のお邸でしたが、よく太鼓をたたきながら飴屋が来たものでした。 かえるの目玉にお灸すえて それでも飛ぶなら飛んでみな オッペケペ、オッペケペ。  というの。僕は飴屋のくれる小さな紙の国旗を振りながら、節に合わせて踊ったものよ。その頃はまだ父も母も祖母も一緒でとても楽しかった短い時期です。  その翌年になると、もう僕は父の郷里の長岡へ移っていて、間もなく母が死に、父は京城へ行っていたから、祖母と妹と三人暮しでした。長岡は昔から盆踊りの盛んな土地でね、これは「長岡甚句」の文句だろうか、 お山の千本桜、花は千咲くなる実は一つ。 お前だか、左近の土手で背中ぼんこにして豆の草刈りゃる。  という二つが何だか好きでした。何か大人の秘密の匂いがするようでね。祖母に、「子供がそんな歌を歌うものじゃありません」と叱られると、秘密の意味がはっきりしてきたようで、余計好きになったものでしたよ。  しかし僕を本当の文学好きにしたのは、小学校での僕の作品に、「おだて教育」を施してくれた星野恒二先生だと思いますね。この先生が僕を上手におだてて下すったんだ。恰幅のいい、元気な方で、とても熱心な先生でね、のちに見こまれて高野先生という校長の養子におなりになったくらいだから、優秀な方だったわけよ。  僕たちは、枡目の入った和紙を綴じた作文帖というのを二冊ずつ持たされていて、先生が見て下さるのが間に合わなくても、もう一方のに書いて出す。交互に使って行くわけね。机の中にはみんな硯を持っていて、毛筆で書くのよ。  僕の作品は返して頂くたびに、星野先生の飛び切りの評語が、草稿の右肩に朱書してあってね。たとえば、 「よろしよろし 大いによろし 甲の甲」 「この文は同級中第二と劣らぬよき出来なり」  とかいったものでした。ね、これじゃあ嬉しくなって、また励むわけねえ。  大學先生は、たった今学校から帰ったばかりの子供のように、とても嬉しそうになさりながら、その評語を紙に書いて見せて下さった。  その頃の小学生は筆記に毛筆を用いたのですかと伺うと、筆記などはなさらなかった由。では算術の計算は、とおたずねする。それには鉛筆を使った、とおっしゃるので、鉛筆があったのですか? と驚くと、 「ありましたよ。そんなに大昔の人間ではないのよ」  とお笑いになりながらも、 「しかし、僕も呼び鈴と電話までは学校で習ったから解るのだが、ラジオやテレビとなるとまったく解りませんね」  と、「昔」を程よく説明して下さった。  すると、作文はずっと文語体で? と伺う。 ——ええ、今でもよく覚えていますよ。二年生の時に書いた「大阪」と題する作文の書き出しはね。 「大阪は摂津の国にありて、わが国第二の大都会なり」  という調子なの。 「淀川は市の中央を流れ……」だとか、商業の伝統や工業の発達を述べたりして、まるで地理の読本みたいな内容だけど、あの頃の作文は知識を叙せばよかったのね。だが読本の引き写しなんかじゃない、という証拠には、この作文が今で言う全国コンクールに出品されて、日本中の師範学校を巡回したのだからね。  僕が三年生になった時、その作文が新潟師範学校に展示されるから見に来いという通知をもらった。それで長岡から二時間も汽車にゆられて見に行きましたよ。叔父さんが連れて行ってくれてね。叔父は父の妹のご亭主で、小学校の先生だったし、新潟師範の出身だったし、丁度適任だったわけよ。  だから僕は作文の時間が少しも苦にならなかったけれど、友達はみんな苦手らしくて、 「大ちゃんはどうしてそんなに早く書けるの?」  と不思議そうにたずねるの。 「どこからでも書いてごらんよ、どこからでも書くんだよ」  と僕は得意でしたね。  しかしこれも一つには親父のせいだったかもしれませんよ。父はいつも外国にいたし、ある意味で厳しい人だったから、必ず月に一、二回は僕に手紙を書かせるの。それ書かないと怒るのね。怒るといっても手紙でだけど、しばらく手紙が来ないが怠けているのかって。たまにしか顔を見せない父だから、あまり親しみも持てないし、どうしても千篇一律の手紙になるのだが、当時十銭もの切手を貼って海外へ出すのだからと、できるだけ長く書く。書くことを苦にしない訓練はこれでついたのね。  するとある時、父が「近頃のお前の手紙はよくなった」とほめて来ました。これはきっと、僕が星野先生のおだてに乗り出した頃だったのでしょう。  父は一種の「教育パパ」だったのね。小学生の僕に、手習いと英語を習うように命じて来た。学校からさっさと家へ帰れる友達が羨ましかったものですよ。  英語は坂之上教会の若い牧師さんで米山先生という方に習うのだが、僕はいやでいやでね、レッスンのあと玄関まで来ると、 「ヤソ、ミソ、ナメソ、クソ!」  なんて大声で叫びながら往来へ飛び出して、次の日また平気で伺うのだから、子供だねえ。  おかげで、小学校を卒業する頃には、だいぶ英語の力がつきましたが、そのかわり中学での授業に身を入れない癖がついてしまって、入った時と出た時の英語の学力が同じなのよ。  中学に入ると僕はすっかり生意気になってしまって、先生にあまりいい目で見られなかったな。小説を屏風みたいに、前へ飾って読んでいてつかまったりしてね。成績も五十人中二十番くらいかな。  のちに『破船』でそのいきさつを書いた久米正雄と、漱石のお嬢さんの筆子さんを争って勝った松岡譲は同級だったけれど、彼も成績は僕とくっついてましたよ。成績順に席が決められていて、出来るやつは後ろだから、僕ら真ん中へんで丁度よかったけれど。  先生がその頃、机の前の屏風になさった本とは、正岡子規の率いるホトトギス系の写生文が主で、坂本四方太(しほうだ)の名を特によく覚えていらっしゃるという。小説では小杉天外の『魔風恋風』、幸田露伴の『天うつ浪』などもお読みになったが、その頃から既に、詩に近い形の文により多くひかれたものだとおっしゃる。 「藤村の美文、好きだったなあ、  ……秋今日立ちぬ芙蓉咲き法師蝉鳴く。赫赫(かつかく)として日熱すれど、秋気既に天地に入りぬ。……なんて」  目を閉じて朗々と名調子を聞かせて下さる先生に、思わず目をみはると、 「あのね、子供の頃の記憶は脳の中の古皮質というところに入ってて、これは金庫みたいに閉じてしまってるんだって。成人してからの記憶はここに入らないからすぐ忘れるが、古皮質で憶えたものは、前頭葉がぼけない限り、そこへ取り出してきて、いつでも使えるの。前頭葉をきたえるためには、絶えず頭を使っているのがよくて、僕のように詩や文章を考えたり、こうしてあなたに昔を思い出させられたりするのも、まあいいらしいね」  と、医学的解説をお加えになり、 「先日、コクトーの『何ひとつ終りはしない』という題の詩を訳していて、その一行に、"Le b液on se brise dans l'eau"とあるのを、——水中に立つ棒は折れ——と訳すまでには、長い時間を要してね。ある日、ハッとわかった。空気中と水中の屈折率は違うという、あれは中学で習った物理学ですよね」  と、前頭葉及び古皮質のますますの健在ぶりをお示しになってから、 「しかし口語にせよ、文語にせよ、文学の楽しさはやはり文章の張りにあると思うのですけれど、近頃のものはどうも……」  と少しお淋しそうにちょっぴり現代文学批判をなさった。 ——僕は鶯が好きでね。ここ(葉山)でも近くの山から下りて来るのか、毎年十二月に入るともう、チッチッという笹鳴きの声が聞こえますが、これが遅くとも二月までには高音を張ってアリアを歌い始めますよ。  僕のベッドの枕に近いところに、お隣りの珊瑚樹の生垣があって、毎朝そこが鶯の第一声らしいのだが、葉山の人は朝が遅いから、これは僕のための優雅な目ざましという気がして仕方ない。王侯貴族になったようなぜいたくな気分ですよ。  そこで、いつかの話に出たローランサンの「日本の鶯」ね。気になったので訳し直しました。  「日本の鶯」 この鶯 餌(えさ)はお米です 歌好きは生れつきです でもやはり小鳥です わがままな気紛れから わざとさびしく歌います  ——マリー・ローランサン    昔の訳はこうだったね。 「彼は御飯を食べる/彼は歌を歌ふ/彼は鳥です/彼は勝手な気まぐれから/わざとさびしい歌を歌ふ」  どう? 昔は、字句にしがみついて、 「この鶯 餌はお米……」と、上下を引っくり返すことを考えつかなかったのね。「彼は御飯を食べる……」なんて、そのまま訳していたわけだからね。  私は、一つの同じ詩を訳したはずの日本語が、使い方でこうもすっかり印象を一変してしまうものかということをつぶさに見て、息をのんだ。 「この鶯」と目を向け、顔を寄せ、「でもやはり小鳥ね」とほほえむ年上の女性の余裕のある愛情が、行間からにじんで来る。上品でエレガントだが、少しあだっぽい(と思える)彼女の声さえ感じられるようだ。  先生は、どうしてそんなに日進月歩なさるのです、どうして? と、おかしな質問をする。 「さあ、進歩かどうかは、百年の後に誰かが決めてくれる。でも変化していることは確かね。しかし僕はよく言うでしょう。変化は進歩だって。そう僕は信じています。  それにしても、日本語とはいくら究めても究め切れない、奥行きの深い言葉ねえ」  「日本語」 人麿や赤人たちの 昔から 磨きあげ 練り上げて来た この言葉 風にはさやぎ 思いには ほのおとなって 燃え立つよ 貴くも あな有難の この言葉 ——日本語のよさを最大に生かせるのは、やはり短歌じゃないでしょうかね。  主格を省いて、それではっきり意味を伝えられる言語というのは、僕の知る限りでは日本語だけです。これが日本語の一番の特徴でしょうね。それを上手に使うと、三十一文字の中に人が三人いてもちゃんと表現できるわけですから……だから磨くには楽しい言葉ですよ。  とにかく歌はいい。嫉妬とかいや味とか皮肉を言うにしても、そのままでは実に味気ないが、和歌にして出されると、情感がこもってホロリとさせられる。また物を贈るにしても、礼を述べるにしても、和歌が添えられていると、有難味が一段と深まるような気がするし、第一、心が通い合うでしょう。  たとえばこんな歌がありますよ。 古草紙心は既に真っ黒けかくもせんなし濡るるばかりぞ  というのをつくった人がいたけれど……いい歌だねえ。古草紙とはお習字用の手習い草紙のことよ。一枚の紙の上に字を何度も重ね書きして、もう真っ黒けだというの、つまり初々しさはないということでしょう。だからこの上いくら書いても黒く濡れて光るばかりだ、というのね。濡るるばかりぞ、とは少しエロチックだけどいい歌ね。いや、僕の歌じゃないですよ。女の人の歌で……年増盛りの……僕にこの歌をぶつけて来た人がいたの。ある歌会で。まあ、それ以上はノー・コメントだ。 「歌は三十一音という短いなかで何でも言えるし、それがまた言えるのが日本語ですよ。日本人はやはり歌つくらなくちゃ。こんな恰好のいい形式があるのだから」  と話が本筋へ戻されるのを、私はさえぎるように質問する。 「その歌で、その方は先生をうらんでいるのですか?」 「いや、その反対。心なんかほしがるなってこと。心なんかどうでもいいじゃないですかと言っているのよ」 「まあ、私はいやだわ。女がそう言えるなんて不思議です。男は言えると思うけど」 「だから海千山千なのよ」 「私は心がなくちゃいや。絶対」  と、日本語にも詩歌にも関係のないことで私が力説するのを、静かにお許しになりながら、 「ああ、お若いんだね。いいことよ。本当に。その心を失い給うな」  と、大學先生は特に最後を歌うように、ゆっくりとおっしゃった。 ——贈答の歌の例では、そうそう、こんなのがありましたよ。  与謝野寛先生は、五月(昭和十年)に亡くなられたでしょう。それで翌年の一周忌のご命日に、僕は多磨墓地へお詣りに一人で行きました。  寛先生の訳詩集に『リラの花』というのがあったし、パリにいらしてリラの花をご覧になって来ておられるし、丁度五月はリラの花盛りだしね、それでお墓にリラの花束をおそなえしようと思って、前々から小石川の大曲のところの大きな花屋に頼んでおいたの。そこは横浜種苗株式会社のライセンスを持っていたらしくて、パリから輸入したリラの立派な花束ができた。それにこういう歌を添えてお供えしてきました。 幻に巴里の匂ひかぎませと多磨のみ墓にリラ奉る  すると、早速、晶子先生がお礼状にご返歌を添えて下さいました。 幻の巴里のリラの匂ひより嬉しかりけむ君が足音  というの。どうです? 僕が負けてるねえ。「幻に……」を「幻の……」と、ちゃんと受けて下すって、幻と巴里とリラと、同じ材料を使ってこうも違うかねえと思いましたよ。「嬉しかりけむ君が足音」に、何とも言えない情がこめられていますよね。  しかしまあ、歌の優劣は別として、この贈答の心の通い合いは、これで永く残ることになるでしょう。歌はいいものです。  近頃よく大學先生は、私に歌をつくってみたら、とおすすめになる。せっかくたびたび訪ねてくるのだから、つくってくれば見てあげよう、とおっしゃって下さる。  先生のことだから、やさしく上手におだてて下さるだろうと思うが、こわくてつくれない。大學先生には大きな才能が埋蔵されていたから、おだても功を奏したけれど、それがなければ笛吹けど踊らずということになるでしょう、先生と違うのだもの、と申し上げると、 「お土砂(どしや)、お土砂」  と、お笑いになり、ついでに、お土砂の意味を知っているか、と「問題」が出た。はい、歌舞伎の「八百屋お七」で見ました。お土砂をかけると、皆ぐにゃぐにゃになるのですね。つまりお世辞を言うってことですか? とお答えする。 「不思議なことを知ってるのね。密教の方ではお土砂を硬ばった死体の上にかけると、真言の効力で柔らかくなるといいますね。お墓にかければ罪根を除くとか。そこから出た言葉でしょう。  有難いことは、僕にはその折々、上手にお土砂をかけて下さる先生がたくさんいらしたということね。与謝野先生ご夫妻、永井荷風先生、父や、親友の佐藤(春夫)、みんなそうでしたよ」 ——晶子先生は歌ではよくおだてて下すったけど、ちょっと他のことで叱られたことが二度あるんだ。僕の失敗談だね。  一度はね、よく憶えている。僕が三十五歳くらいだったから、昭和のはじめ頃の秋、寛、晶子両先生のお供で、碓氷峠へ紅葉見物に行ったの。先生方のお弟子の一人だった尾崎咢堂先生が莫哀荘という名のご別荘をお持ちでね。そこへ泊めていただいたというわけ。  その頃、峠へ行く旧道に、藤の蔓の釣り橋があったのよ。僕ははしゃいで、一番先に渡ってしまってから、下を見ると物凄い急流でそれは怖いんですよ。僕は何を思ったのか、急に端の方に立ってユラユラゆすってしまってね。ふと目を上げると、橋の真ん中で晶子先生が立ち往生していらして、それは恐い顔して僕を睨んでいらっしゃるじゃないの。申し訳ないことをしたと思って、止めようとしても、なかなか止まるものじゃないのよ。後悔してみてもダメ。止まらないんだ。三十五にもなって、若気の至りでもなかろうにね。晶子先生は、一生あの怖ろしさを憶えておいでだったろうと思いますよ。  もう一つの失敗は、寛先生がお亡くなりになってからだから、昭和十年代ですよ。  故人を偲ぶよすがにと思って、寛先生の父宛のお手紙を持って行ったの。よせばよかったのよ。  明治二十九年に、父が中国の沙(しや)市という所へ着任して、そこへの旅の途中、上海で中国の大政治家李鴻章に会い、父としては大いに天下国家を論じ合うつもりだったのに、向うからは「両親に手紙を書いているかい? 身体を大切にしなさるがよい」と、まるで子供扱いされたという話、これは佐藤君が父からの聞書きを見事な小説に仕立てていますね。  さて、それは置いて、その寛先生のお手紙には、「父が去ったあとの前任地京城の女性達の様子」というのが報告してあったのよ。つまり父はいい男だったし、男らしくて快活だったからなかなか女性にはもてたらしい。中でも特別になじみの深かった妓が、操が固くてお客を誰も寄せつけなくなったのだって。  ところが寛先生は、父のお弟子のような、弟分みたいな存在ということで、父のことをよく知っておいでなので、なつかしかったのね。その妓がしばしば会っているうちついになびいた、というお手紙なの。つまり父のおかげだという感謝とおのろけのご報告だね。  寛先生がお亡くなりになって大分時を経ているし、晶子先生とお知り合いになるずっと前の話だからいいかと思ってお見せしたら、それが、さあそうじゃなかったんだ。やきもちに時効はなかったのね。見る見るうちにお顔の色が変ってきて、まさに一天にわかにかき曇り……というたとえの通りなの。これはまずいことになったと僕は這う這うの体で引き揚げてしまったけれどね。  あとになって、晶子先生の、『白桜集』を見ていたら、その時のことがなんと歌になっているのよ。 亡き人の若き日の文(ふみ)人見せぬ多少は恋に関はれる文  というの。ね、いいお歌でしょう。「人見せぬ」の人とは僕のことよ。亡き人は寛先生。三十一文宇の中に、寛先生と晶子先生と僕と、ちゃんと三人入っているのだからすごいよね。  もっとも僕はそそっかしい男の役回りであまり恰好よく歌われていないけれど……。余計なものをお見せして、あの世でご夫妻がお会いになった時に、寛先生、うらみ言を言われてお困りなすったのじゃないかねえ。申し訳ないことをしたと思っています。 「おだては一種の教育法ですね。人に自信を与えてやると、ぐんと伸びるものです。  詩を学びたいという後進の人に、僕はよくこの手を使って成功しましたが、無反省に思い上る性質の者には失敗しました。むやみに傲慢になってしまってね。  つまり、おだてとモッコに上手に乗ってくれないものは駄目だということ」  と、結論が出てから、笑った目をなさって、 「あなた、モッコご存知?」  と例によってまた「問題」が出た。はい、囚人の乗る籠でしょう? と答えると、さも面白そうに首をお振りになる。 「あ、あれは唐丸籠の方で、モツコは土を運んだりする網のような……」 「そう、そう」 「でも唐丸龍の方が余計に乗りたくないですね、何故モッコには乗るななんて言うのか」 「だって汚ないじゃない。そしてどこへ運ばれて捨てられるかわからないじゃないの。そうでしょう?」  と解説して下さった。  私は、帰りの横須賀線の電車の中で、短歌の修業をこれから始めても、とても先生のおだてのモッコに乗り切れないだろうな、と考えていた。  それに今日また、モッコと唐丸籠を勘違いしたりして。いつかは「教坊」を「教職」と間違えたし。  そう言えばこの聞書きでの、総ての点であまりに大きさの異なる大學先生と私の、妙な取り合せのおかしさを、ある人にからかわれたことがあった。  そのことを先生にお伝えして、今日の失敗の言い訳にし、併せて私に歌の才の無いことをわかって頂こうと、私は次のような歌を思いついた。 聞書きを面白やとて人告げぬ「語る大學聞く幼稚園」 第十章 盗 む ——雑誌のグラビアの欄をパラパラめくって見ていたら、面白い写真を見つけましたよ。「書斎拝見」と言ったようなページでね。ほら、この写真の額と、僕の後ろに掲げてある荷風(永井)先生の扁額と見比べてご覧なさい。同文だし、字配りも同じだし……もし、僕のこの額が盗まれてでもいて、この写真を見たら、あ、この方は盗品をお求めなすったかと、思ってしまうかもしれない。それ程よく似ていますわね。荷風先生は、きっとこの王次回の詩がとてもお好きだったのね。それでお頼まれになると、これをよくお書きになったのでしょう。 百年莫惜千回酔 一盞能消万古愁 「百年惜(お)しむなかれ千回の酔 一盞(いつさん)能(よ)く消す万古の愁」と読みますかね。壬申仲夏 荷風散人書とあります。壬申は年表で調べてみると昭和七年。その夏の盛り。為、岡崎栄女史とありますが、僕は岡崎さんからこれを譲り受けたのです。  岡崎栄さんは、昔、築地の三十間堀にあった「をかざき」という大きな待合のお嬢さんで、栄さんが四十代くらいの時独立して、銀座に一杯飲み屋を出したのね。それで荷風先生に何か書いて下さい、とお願いしたのでしょう。  先生は一盞能く消す万古の愁と、誠に酒亭にふさわしいお酒礼讃の詩を書いておあげになったわけよ。百、千、一と、数字をうまく使ってある詩ですね。僕はこの額の下の席によく陣取って、チビリチビリと飲んだものでしたよ。  銀座の「をかざき」で、荷風先生のお姿をお見かけしたことは一度もありませんでした。先生とお栄さんのつながりは、この額の日付から三十年近くも以前、先生が新帰朝者でいらした頃の、明治四十年頃、お栄さんのお母さんが経営する方の築地の「をかざき」が先生のご贔屓(ひいき)だったことによるものでしょうね。  銀座の「をかざき」へはよく、その頃、自由劇場運動に熱中していた二代目市川左団次、それから籾山書店の主人の庭後(ていご)さんなぞが顔を見せました。庭後というのは俳号で、本名は仁三郎というの。籾山の籾の字を二つに分けて、米刃堂とも称していました。この人は築地の回船問屋の何代目かで、米相場もしたりする大きな商家の一族ですよ。角帯をキリッとしめた、下町風の、それは粋な人でした。荷風先生のご紹介で、僕も最初の歌集『パンの笛』や、最初の詩集『月光とピエロ』、訳詩集の『昨日の花』や『失はれた宝玉』などを籾山書店に発売を依頼していますけれどね。そういう風流な人が版元だから、装釘に凝ったものが多くて、蝶の図案を使った綺麗な本、後の人が「胡蝶本」と名づけた一連の本なんか、今、とても値打ちが出ていますよ。僕は残念ながら、一冊も持っていませんが。  余談になるけれど、籾山書店の一番番頭が長谷川春草という、これも俳人で、この人は三十間堀にかかっていた出雲橋のたもとに、「はせがわ」という飲み屋を出していて、ここは「文藝春秋」の人達のたまり場みたいになっていましたね。今日では堀も埋め立てられてその飲み屋もないし、春草さんも早く亡くなってしまいましたが。  それで、岡崎栄さんの飲み屋の方の話に戻るけれど、深窓の佳人というのは困ったもので、乗り物に乗れないのよ、酔うと言ってね。銀座あたりの買い物なら近いからいいようなものだが、日本橋の三越へも歩いて買い出しに行っていたようでしたね。  そこは小さな玩具みたいなテーブルが五つくらいと、腰掛けが十ほどしかないような小さい店で、料理と言ったっても、冬は湯豆腐、夏は胡瓜もみくらいしか出来ないんだ。それも女主人が悠長で、注文すると「ハイ湯豆腐ですか」って、さすがにお豆腐買いには出なかったけれど、ゆっくりゆっくりおかかをかき始めるのね。それで何だかコチャコチャして小一時間かかるのよ、出てくるまでに。気の短い人には行けない店だったね。  そのかわりお酒のうまさは銀座一で、何んでも築地の佃政親分の特別の口ききがあるとかで菊正(宗)の有楽町の店から特別な樽が届くらしかった。本当においしかったですよ。  栄さんには贔屓も多かったらしいけれど、店には荷風先生のこの額と、大阪の俳人青木月斗さんの短冊一枚と、佃政名入りの小ぶりの「大入」の額を掛けただけで、その三つ以外は一切ご無用でしたね。そう、そう、もう一つ、入口の小村雪岱さんの紅梅を散らした紺のれんがどきっとするほどの艶やかさでした。  今日大學先生をお訪ねする途中、葉山の町の花屋で見かけた淡いピンクの菊の色がとても綺麗だったので、十本程求め、お持ちした。先生は、いつもお坐りになる場所の後ろを振り向いて、戸棚から鉄製の大ぶりの花器をお取り出しになり、すぐにお茶を運んで来たお手伝いさんに水指しを持ってくるようにとお言いつけになって、私に花をいけさせて下さった。  先生のご丹精になったカトレアが脇机の上に大輪の花を一輪誇らかにつけており、その下のつつましやかな菊の花々は、プリマドンナを引き立てる群舞(コロス)のような役を果すことになった。  先生は後ろを振り向いたついでに、お立ちになり、学校の先生のように指し示しながら鴨居の扁額の説明をして下さる。  先程、花鋏が見あたらないとおっしゃったので、私は菊の茎を手で折りながら、で、その岡崎栄さんという方は、美人でしたの? などと、最も気になる点を質問する。 ——そうね、一応綺麗な人と言えるでしょうね。それこそ磨き上げたという感じで、中の芯コばかりになってしまったような人、というのか。え? 芯コって、セロリのさ、回りの太い茎をどんどん取っていくと、中に黄色い小さい十センチ程のばかりが残るでしょう。あれが芯コ。僕はそれに塩つけて齧るのが好きなんだ、酒の肴に。なかなかおつなものですよ、香りはいいし。  栄さんは、磨きに磨いてそういう芯コばかりになったようなか弱い人でね。戦争で、銀座にも爆弾が落ちるようになると、店をしまって千葉県の市川のあたりに疎開して、店はそれっきりだったですね。終戦後、お金の必要があったらしく、この額を他の人の手には渡したくないから、僕に買って下さいというので、それで荷風先生の栄さん宛のお手紙なども一緒に僕が譲り受けたわけよ。栄さんはそれから養老院みたいなところへ入ったそうだけど、ある日仲間のためにお茶菓子を買いに出て、京成電車の踏切りを渡る時に、轢かれて亡くなったそうです。嫌いな乗り物に轢かれてねえ。踏切りは、やかましいくらい鐘が鳴るだろうに、何か別のことでも考えてたんでしょうかね。そういうおっとりし過ぎた人だったのよ。  荷風先生の栄さんへのお手紙、どれか読んでみましょうか。 「昨日は折角御尋被下候処 あいにく外出致居り失礼致候段 何とも申訳も御座無候 猶又結構なる頂戴物致候だん 誠に難有存候 本年冬は瓦斯ストーブもなく 炬燵に炭団の火のはかなさも老後の身には却て俳味を催させ申候 町々も宵の中より暗闇にて 子の刻ともなれば人影絶候有様 明治時代の世に立返候様な心地致しなかなか趣き有之候 幸に風邪引き不申 無事消光罷有候間 御安心被下度候 籾山様御風邪の由ちらと伝聞致候 乱筆一寸御返事のみ 匆々不一荷風生拝」  大學先生の読んで下さった荷風の手紙は、薄い和紙の便箋に、流麗な筆使いの達筆で書かれており、ところどころ先生にすら判読が難かしくて、朗読の方は流れるようにはいかない。封筒は特に女性宛用に細身のものを手ずからこしらえたものらしく、四銭切手の上に麻布(局)、(昭和)十四年十二月十一日の消印がある。 「戦争が近くてだんだん物資が失くなりかけた頃のお手紙でしょうよ。それにしても宵のうちから暗闇で明治の世に立ち返ったような心地……とはね」  先生は、荷風がいかに昔の人かを少しお笑いになる。  手紙の束の中から、大學先生宛のものや、訳詩集『昨日の花』への序文の原稿なども取り出して見せて下さりながら、 「この原稿箋の赤い罫線は、荷風先生のお手摺りですよ。小ぶりの版木を持っていらしてね。先生は歌舞伎座の作者部屋に入っておいでの時があった程だから、その時こういうご修業をなすったのでしょうね」  と解説して下さった。  海外の大學先生宛のアドレスの英字も、細い毛筆で美しく書かれている。 「その赤黒いインクは、くちなしの実をすり潰した汁でつくったものですって。そういうところにまで風流をお楽しみになるのだね」  私は、このお話から先生の詩のお弟子である平田文也氏に以前、伺った話を思い浮べた。  戦後、物資のない時期に、大學先生の下さったお手紙のインクの色は洒落たセピア色で、氏はフランス製の高級なインクででもあるのかしらと思ったそうだが、これは柿の渋を煮つめたお手製のものだったということだ。 ——荷風先生の僕へのお手紙は、大抵外国から本を送って差し上げたことへのお礼とかご挨拶ばっかりよ。実に律義な方だったということですよね。  これは、『パリュウド』(アンドレ・ジッド)のぜいたく本をお送りした時のお礼状かな。 「……去年暮より雨少く 本月は晴天のみにて 焼跡の塵埃煙の如く 以後滅多に散策も出来ざる次第 余震今以て日に一、二回は有之候……」  大正十三年、関東大震災の翌年に、ルーマニアへ下さっているのね。先生は、必ずお手紙の中でくらしの描写をおっしゃるね。また、 「……義塾並に三田文学と関係を絶ち、少し心静かに勉強致度存居候 又々人にすすめられ 籾山書店より『文明』といふ小雑誌発行致すことと相成申候 四月より第一号売り出し申候……」  というのもありますね。差出人の名が、「永井壮吉」とご本名のもあるでしょう。荷風ではどうしても慶応義塾時代からの師弟の関係を思わせるので、ご自分を友達のような同格の線まで下げて下すっているわけよ。こまやかでしたよ、お心づかいが。  先生のお父様は、来菁閣主人永井禾原(かげん)と号して(来青とも号す)、牛込の方に立派なお屋敷を構えていらっしゃって、お庭が広かったので、そこへ小ちゃな四帖半くらいのお家をお造りになって荷風先生が住んでいらっしゃった。そこから裏の通りへも出られるのだが、お父様と町名と番地が違っても同じ地続きという程広い敷地だったそうです。その頃は、舞踊家の藤蔭静枝さんと、そうした侘住居を楽しんでいらっしゃってね。  藤蔭さんの前は、本郷の材木屋のお嬢さんと結婚していらっしゃったけれど、僕らが伺ってお見受けしても、お粋(すい)な先生にはずいぶん不似合いだなあと思えるような、生活も趣味もごく普通の方だったようですね。どうしてそういうご結婚をなすったのか、僕らにはまったくわかりませんでした。  晩年は淋しくお一人でお亡くなりになったけれど、先生は一生を戯作者としての面目を貫かれたのだと思っています。誰にも邪魔されたくない、肉親なんかうるさい、というお気持だったのでしょうね。しかしそこまで非情になるのもなかなか大変なことですよ。一緒に泣くよりも、突き放す方が、余計に辛いことだからねえ。  永井荷風の手紙の封書には、宛名の横下に、さまざまな添え書きがあった。 「親展」や、それに類する「御直披」。へりくだって使う「机下」「足下」「御侍史」。 「この貴酬というのは、貴方に酬いる、つまりご返事ということ。平安というのは、久々の便りで何か悪い知らせじゃないか、と思わせないために、何ごともない手紙だから安心してお開け下さい、ということよ。床しいお心遣いだね」  また、住所と永井荷風の名を刻んだ印影には、蓮の葉が風にたわんだ図案が見られた。 「先生は味な方ね。荷風だから蓮に風だなんて」  と、しきりに感心して眺めていらっしゃるので、荷は蓮という意味ですか? とおたずねすると、 「そうよ。でも調べようか。もし違ってたら大學の名に恥じる」  とお笑いになり、漢和辞典を取りにいらっしゃって、 「そう、荷は蓮です。ふーん、荷は苛いという字にも通じるそうですよ。あんまりお幸せな名ではなかったようだねえ」  と、眉をおひそめになる。 ——荷風先生は、金阜(きんぷ)山人という号もお持ちでね。名古屋の士族のご出身でしたから。僕は越後の士族の出で、先生に何かと可愛がって頂けたのは、僕の士族としての礼儀と、先生の折り目正しさをお好みになるところと通じるものがあったからだと思いますよ。先生から袖ないお扱いを受けたという恨みを持っている人もたまにあったようですが、それは礼儀の違いだろうと思うの。その人達をお気の毒だと思いますね。  何しろ僕は先生にたて続けに三冊も僕の本の序文をお願いしたのに、いつも快く引き受けて下すって「堀口君、もういい加減によし給え」なんて一度もおっしゃられたことがなかった。  そうしてきちんと弟子の僕に対してもご挨拶のお手紙を下さるし……。  それで、先生のお手紙はまとめて袋に入れて保存するつもりでいたら、父が「よし、書いてやろう」って、この袋の上に「永井荷風先生来翰」という文字を書いてくれた。ね、その場が見えるようじゃない? 「よしっ、書いてやろう」なんてさ。僕は、昨日のことのようにおぼえていますよ。  元気のいい字でしょう? 角ばってきつい字だね。僕はこんな立派な字はとても書けない。父は僕にたくさん書を残してくれていますが、滅多に掛けません。「萬歳萬歳萬々歳」なんていうのを見ていると、何だか親父に叱られているようで、意気が上らなくなるんだ。自作の漢詩や好きな詩を書いてくれたのはまだいいけれどね。  荷風先生のお手紙にも、しじゅう「末筆ながら尊大人によろしく御伝声下され度お願い申上候」なんて出てくる程、父は僕の先生方や友人に大切にされていました。  僕がまだ父の家に部屋住みしていた頃、僕の書斎と廊下一つ隔ててパパの書斎があってね、僕のところへ遊びに来た友達が、廊下でパパと顔が合ったり、またはパパの部屋のドアが開いてて、手洗いに立った時に顔が見えて挨拶したりすると、入りこんだまま僕のこと放ったらかして出て来ないのよ。 「何だい、失礼な。君は僕のとこへ来たのか、パパのとこへ来たのか」  って聞くとね、 「いや、申し訳ないけど、パパの方が一枚上だよ、話が楽しいよ」  って言われましたものね。  それで父は聞き上手でもあったのよ。僕もたまにそばに一緒にいて、お客が帰ったあと、 「パパ、さっき、ああそう、ああそうって、感心して聞いていらしたけど、あれは僕のいる前で以前にも一度お聞きになった話ですよ」  と言うとね、 「あ、お前も気がついてたか。僕も気づいていたけど、そう言っては話の腰を折るから、初めてみたいな顔して聞くんだよ」  って言うの。僕は若いし、バカバカしいと思うから、 「ずるいや、いけないよ」  と言うと、 「ずるいかな、だが外交官とはそういうものだよ。腰を折ると気を悪くしてその先、話が進まないから、何かを引き出すためにはそうしなくちゃ。そこから国の大事な秘密も引き出すんだからね」  って。父は僕と違ってにこやかでね、 「大學、お前は損なたちだなあ、もう少し愛想よく出来ないか? ムッツリして、苦虫かみつぶしたような顔をして。それじゃ損だよ」  とよく言われました。本当に父はいつもニコニコしていましたね。健康だったからでしょうよ。だけどいいじゃないの。だから僕は一人でコツコツ仕事する文学の道を選んだのだから。ねえ、外交官じゃないんだもの。そうでしょう?  大學先生の父君、九萬一氏は、長城と号して漢詩をおたしなみになり、半斉の別号で、狂歌、狂俳をも楽しまれたと聞く。  常に、「外交官は胃腸が丈夫でないとつとまらない」をモットーとし、半斉とは、もっと食べたいのを半分で済ませている、の意だという。また、もう一つの別号に、全田月というのがあり、これは「全身これ胆」の語をもじった「全身これ胃」の文字遊びなのだそうだ。 「あなたなぞもきっと、九萬一パパが生きていたら、僕を放り出してそっちへばかり行っていたかも知れないね。取材の神様みたいな人だったから、勉強にもなったでしょうし」  と、おっしゃって、亡き父君と人気を競うように、 「あなたが見たがっていた風流豆本の会の『街に見た蝶』を、書庫から出して来よう。少し親切にしないとね」  とお笑いになり、階下へ降りていらっしゃった。 「ああ、書庫は火の気がないから、寒かった。老骨冷え易く、学成り難しだね。この学成り難しという言葉は便利ですよ。何にでもくっつけるとサマになりますから」  と冗談をおっしゃりながら、女の掌にもすっかりかくれる程の小さな本の扉に「旧著新呈」と記して下さった。 ——今朝、僕はラジオで越後は吹雪で荒れてるって話聞いたのよ。まだベッドの中にいた時だけどね。それで思い出したことがあるの。  父が十七、八歳の頃のことかな。父は小学校の訓導を辞めて——とにかく父は十三歳で訓導になっているんだからね、十歳の頃、町方から看板の字を書いて貰いに来たというのが祖母の自慢話だったくらいでね——東京へ行ってもっと勉強をしたいと言い出したんだって。このままで行けば、せいぜい地方の郡長止りだから、もっと上の学校へ行かせて下さいって。  すると月々三円の月給を貰っていたのを、今度は逆に二円の仕送りをしなくちゃならなくなるんだ、お千代さんは。僕の祖母よ。  このお千代さんの主人の堀口良治右衛門という人は、(つまり僕の祖父だね)二十六歳の若さで戊辰の役で戦死しているから、どうも祖父という実感がない。だがこの人の胃が特別製だったらしく、長岡藩代表で出陣する大食比べには、只の一度も敗れたことがなかったんだって。最高のレコードは、信濃川対岸の与板藩との対戦の時で、一升の米を炊いたお粥と、塩鮭一匹の早食いだというから凄いね。父も僕も、この祖父から丈夫な胃腸を受け継いだので、特に僕なぞは胸の病いをしながら長生きできたのはひとえにそのおかげだと思っていますけれどね。  で、お千代さんは、若くして後家さんになって、一人で父とその妹を育てなくちゃならない。やっと息子が三円の月給を取ってくるようになって少し楽になったと思ったら、また東京へ出て勉強したいから、二円ずつ送って下さいと言う。それでも一言もいやだとは言わずに、すぐ承知をしたそうです。  しかし二円じゃまだまだお金が足りなくて、司法省の貸費生試験を受けることになった。  その試験の課目の中に『資治通鑑(しじつがん)』というのがあってね、これはまあ中国の政治経済の本ですよね、周の威烈王から五代の終りまでの歴代の君臣の事跡を書いたもので、膨大な巻数がある。もちろん全部漢文で書いてあるのよ。  そういう本だから、長岡あたりにはどこにもないんだって。しかし栖吉(すよし)というところのお寺にあるということを聞いて、何の伝手(つて)もないのに借りに行こうというわけね、青二才の十七の小僧っ子が。母親にそう言うと、 「ああ、いいことだ。行っておいで。よくお願いして。試験を受けるのに是非必要なのだからと言ってお頼みしたら貸して下さるかもしれない」  って。丁度その日は、朝から吹雪になってね。越後あたりで吹雪と言ったらそれは大変なのよ。何しろ人がそれで死ぬんだから。歩いてて、目も口もふさがれて息が出来ないくらい吹きつけられて「吹雪倒れ」という言葉がちゃんとあるくらいなのよ。「行き倒れ」とか「首っつり」という言葉があるように、「吹雪倒れ」という言葉がちゃんとある。  その中をパパは「行って参ります」って出掛けたの。二里くらいあるのかな、東山の裾のそのお寺までは。途中まで行ったんだけど、いかにも吹雪がひどくてどうしても先へ進めない。それで引き返してきたんだね。  帰って来てみると、長岡あたりじゃ吹雪がひどいと皆、昼間でも戸障子閉めちゃうの。ね、お祖母さんも戸を立てて、中で針仕事でもしてたんだろうね。  しばらくすると、ドンドンドンって雨戸を叩く者がいる。 「誰だ?」 「九萬です」 「早いじゃないか、貸して下すったか?」 「いいえ、あんまり吹雪がひどいものですから、途中で引き返して来ました」  そしたら、少しばかり開けた雨戸を、倅の鼻先でピシッと閉めてね、 「そんな意気地のない子は、ワシの子じゃない、よその子じゃろう」  って言ったんだって。父はそこでなるほどど思ってね、そのくらいの気迫がなかったら、そんな貴重な資料を見ず知らずの者に貸して下さるはずがない、長岡一の「誠意塾」にもないような大事な本をね。  そうか、と思って死ぬ覚悟で行ったそうです。行って、お寺へ着いて案内を乞うと、どこから来たのかって。長岡からですと言うと、そうか、まあ、とにかく上れ、火のそばへと言って、囲炉裏のところであたたかいものを飲ませてくれてから、わけをきかれた。 「偉いやつだ。よくこの吹雪の中を来た」  と言うので、 「いえ、実は一度私は引き返しました。そしたら母が……」  って、今の話をしたのね。 「それは偉いお母さんだ。では今日は五冊貸してあげよう。読み終って返したらまた五冊貸しましょう。私はあなたを信用してでなく、そのお母さんを信用して、借用証なぞ書かせないでお貸ししましょう」  って、言われたそうですよ。  大學先生のお話は、亡き父君の話、特に会話の件(くだ)りになると、抜群の才能が発揮され、迫真の話芸となる。 「誰だ?」「九萬です」のあたりの、母子の情愛をじっと抑えた落着いたお声は、厳しい北国の寒さを、暖房のきいた部屋の空気の中に、ピーンと張りめぐらせる。  それで、九萬一パパは見事司法省法学校(官費)の入試に合格、後に東京(帝国)大学の法学部を卒業なさる。  そして、祖母君のお千代さんは、月々二円の仕送りを稼ぎ出すために、毎晩糸をつむぎ通しで、柱に寄っては仮眠をとるだけ、息子の卒業まで帯を解いて満足に眠った夜はなかったという。  大學先生のお家の玄関の壁には、今もその記念の糸繰り車が、大切そうに掛けられている。 「祖母は、やっと父が出世してくれたと思ったら、今度は僕らの母に早死にされて、また僕と妹を育てることになった。余程、苦労の種のつきない人だったのね。  ただ、僕を育てた時は、父の時のようにきつくはしませんでした。気も弱くなってたのだろうけど、期待も少なかったんでしょう。父の場合は、何としても偉くなって貰わなくちゃならなかったから。  でも何かにつけて僕に言うんだ。お身しゃん(と僕のことをそう呼ぶの)は九萬一とは違う。九萬一はこんなじゃなかったってね」 ——先程、荷風先生の書とそっくりの扁額のグラビアを見て驚いた話をしたけれど、またそれに似たことがあってね。  荷風先生に序文をお願いした僕の訳詩集とすっかり同じ題名の、あれは随筆集かな。新聞の広告欄に出ていたの。昔も昔、六十年も昔の僕の本の題名『昨日の花』なのに、それが現代にも通用するかと思うととても嬉しくてね。だっていいと思うからこそその方がおつけになったのでしょう。きっとご存知なく、偶然同じ名をお選びになったのでしょうが、たとえば知ってお取りになったとしても、いいと思うから、惚れられたから持っていかれたと思えば、ちっとも腹が立たない。だって好きになれば、人の奥さんだって盗るじゃないの。そうでしょう。  だから、僕の本の名も、その人のものになったのだなと思って、喜んでいるの。嬉しいから、広告を切り抜いて日記に貼りつけてある。え? また持ってくるの? 今日は何回立ったり坐ったりしたろう。あなた、僕の体操の先生みたいな人だね。運動になっていいけれど、もうこれっ切りですよ。今度から、あなたが来る時は椅子にしようかね。  文句をおっしゃりながらも、元気にお立ちになる先生の後ろ姿を見ながら、私は先生が「盗用」などとは決しておっしゃらずに「とても嬉しい」とお喜びになり、「いいと思ったら、よその女房にも手を出す」とおっしゃる、ものごとをいかにも柔軟に、艶っぽく解釈なさることに驚き、充実した人生を生きる長生きの秘訣をそこに見たような気がした。  先生が戻っていらっしゃるまでの短い間に、ふと何年か前の凍(い)てつくようなある冬の夜の一情景を思い出したので、先生にそのことをお話しした。  京都の路地裏の飲み屋の襖に面白いいたずら書きがあるから見せてあげようって、いやも応も聞かず足早に案内してくれた人がいましてね、行ってみると、墨黒々とこんな歌が書いてありました。 人妻をうばはむ程の力ある強き男のあらば盗られむ……ですって。  先生はフーンとおっしゃって、 「……盗られむというのだから、女の人の歌だね。何だか力ずくで持っていかれるようじゃないの」  と、あまり感心なさるご様子もない。  力あるって、魅力のことでしょ。と弁護に及ぼうとしたが、その前にもっともっと素敵な大學先生の、こんな詩のあったことが一瞬早く思い浮んだ。  「女菩薩への感謝」 みさお命(いのち)と知りながら みさおを捨ててくれた女(ひと) ひとりふたりと数えるが 数えきれない指の数 危うきに遊ぶ命のたわむれに 命を賭けた歳月よ 世界を股(また)の西ひがし ——こんなことがありましたよ。その時は面識のなかったある女流画家から、ご自分の絵の写真を送ってきて、個展を開くから不躾けながら詩を頂けないかと言うの。僕はその絵を見てイマージュさえ湧けば、不躾けも何もこだわらない方だから、書くことにしました。  その絵から、容易に出てくる言葉がありましたからね。女性の裸身をとてもリアリスティックに描いている絵なの。詩をあげたらその方が喜んで、一番大きい絵を僕に下さったので、僕はこの壁に掛けておいたのだが、僕の娘が、孫達の教育上感心しないからパパはずして下さいって。母親って偉いものだね。僕はそんなこと少しも考えなかった。  その詩とは、こうなのよ。  「杉原玲子の君に」   罪の美しく   悪の慕わしく あなたの絵から抜け出して レスボスの島に住む心やさしい乙女たち ばら色のもや閉ざす夢の宮居の天使たち   罪の美しく   悪の慕わしく 闇の中 自分たちしか見分けない あやしく淫らな君たちの目 月光に濡れて香(か)に立つ 四肢五体   罪の美しく   悪の慕わしく 消えいる風情 堪えがてに 喘えぎ息づくほとの辺(へ)や 白い虹 胸乳(むなぢ)は青い灯をともす……   罪の美しく   悪の慕わしく  大學先生は、白い角封筒の中から、その絵の複製写真を出して見せて下さった。  ハッとして、喘ぎ息づくほとの辺(へ)や……とはもしかしてhairとの懸け言葉? という疑問が起ったが、さすがにお伺いは出来なかった。かわりに、罪の美しく 悪の慕わしくとは、何と魅惑的な言葉でしょう、女の人で罪の匂いのする人というのはとても魅力的と思うけれど、罪がそのまま匂う人と、見ただけでは匂わない人があるでしょう? と、まったく幼稚な質問になった。 「そうね。罪の種類にもよるでしょう。どんな事をしてもまったく汚れた感じのしない人がいる。私は汚しても決して汚れないんだ、と断言していた人がいたけれど……。ちゃんとした教養もあり、社会的な立場もある人でね。僕はむしろ、その人の場合、有難いことだと思いましたよ」  と、非常に具体的なイメージを持ってお答えになった。私が次のお言葉をじっと待っていると、先生は真っ白な封筒の上に、 「秘めてこそ罪」  と、黒々とお書きになる。  先生、秘めるべきことは、生涯秘め通すものなのですか? と伺うと、 「そう思うね。だって、明したらつまらないことだ。人間の犯す罪なんて、知れていますよ。ね、そうでしょう?」  と、澄んだ目で静かにお笑いかけになった。 第十一章 春の夜の夢 ——春になったし、先日、父の書の話をして、この部屋に一つも掛けてないのもどうかと思って、掛け軸を出しておきました。 山城の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり  これは万葉集巻九の舎人皇子のお歌ですが、大ぶりでいいお歌でしょう。この書は、東京文京区の小日向に今もある石碑の碑文からの拓本です。墨の色が薄く上品で、なかなか格調高く仕上っていますね。いつか俳人の石原八束さんにお会いした時に、(あの方は小日向に住んでいらっしゃるからね)父の書いた「鷺坂」の碑はまだありますか? とおたずねしたら、ええ、ありますよって。そしてしばらくしたら、ご親切に拓本を取って、立派に表装までして送って下さったわけよ。  この碑には由来があるの。大正十四年、父は長い海外での外交官生活を一応終えて小石川に新居を構えたのね。父はその時六十歳、僕は三十代でしたが、病身だったのでまだ当分はひとり身で、部屋住みの気軽な身分でした。  父は、その小日向水道町、俗称久世山の町会長にまつりあげられていてね、そこには音羽の通りから登る急な坂道があって、(何しろ鳩山さんの「音羽御殿」と呼ばれるお邸のあるところは音羽山というくらいの小高くなった場所で、そのつい近くだからね)その坂にまだ名がついていなかった。  そこで父は、何かいい名をつけたいがと、僕に相談なすったので、この歌を思いついてそう言うと、父は膝を打って「よかろう。久世の鷺坂とはお誂えだね」とすぐ賛成で、早速町会に諮(はか)って命名。この石碑が建ったというわけです。碑の表側には「鷺坂」と大書してあって、側面二面に万葉仮名のと普通の表記法のと二通りの父の書が彫り込まれています。  こうして眺めてみると、いかつい漢字ばかりじゃない、やさしい仮名文字もなかなかいいようですね。  大學先生は、十九歳の折、父君の任地メキシコへ渡り、本腰を入れてフランス語を勉強。後、ベルギー・スペインにも同行なさったが、二十五歳(大正六年)で単身ご帰国。外交官試験をお受けになったという。  相変らず胸のご病気のため、気候の温暖な東海道の興津を一時起臥の場所と定め、法律、経済、外交史、経済史などの勉強にお励みになったそうだ。同年九月、第一次の論文選考、第二次の筆記試験にはパスしたものの、口述試験の前日に再び喀血なさって、出頭が不可能となった。 「僕は経済学をフランス語の本で勉強していったからね。向うにはいい本があったのよ。それでよく頭に入るのね。で、あとで聞くと経済学の成績は一番だったそうで、試験官が期待して待っていたが、欠席してしまった。父は残念がってまた来年頑張れと言うけどね。父の幼な友達に東大教授で明治天皇の侍医をなすっていた入沢達吉という先生がいらっしゃって、父の命令でこの先生に診ていただいたら、こんな身体で外交官になったら、命ぜられるままに暑い所や寒い所に赴任させられて、無理したらいっぺんに死んでしまうよ、と言われ、それで親父も諦めたんだね。聞けば筆を持つそうじゃないの、好きにやらしておけよ、とも言ってくれて父もようやくその気になってくれましたよ」 詩人(うたびと)を長男にもつわざはひを父の嘆けば秋の風吹く 悄然と父嘆ずらく「たそがれを愛づるに過ぐる長男を持つ」  と、大學先生の心のお痛みは長く続くが、この鷺坂命名のお話は、詩人であるご長男をむしろ誇らしく、頼りになさる父君の深いご理解が伺われ、それを語る先生の幸せなお気持が、聞く者を楽しくさせる。  最近張り替えられたのか、半透明のように見える美しい障子紙の白さが映って、今日の大學先生のお顔はとりわけ晴々となさっている。 ——父は久世山にいた頃、近くの雑司ケ谷の墓地だの、目白台だのをよく散歩したの。  途中で喉が乾いたり、顔が見たくなったりすると、佐藤春夫君の家に飛び込んで、水一杯くれって言ってみたりもしていたようですね。  その頃は、父の少し先輩に当るけど同郷のよしみで友達づきあいをしていた会津八一さんも雑司ケ谷へんに住んでいらしてね。ある時、それがおかしいんだ。散歩から帰った父が、息を切らして、 「大學、今日は驚いた。ひどい目に会った」  と言うのでね、どうしました、ってきくと、散歩のついでに会津君の家の前通ったから、久し振りに顔見たくなって、 「頼む」  っておとずれたら、 「オーッ」  と、出て来た。 「するとね、あの大男が何と真っ裸なんだよ」  って。家の親父は、やはり東洋豪傑風なところもあるにはあるけれど、西洋暮しが長いでしょう。裸で人前に出るなんてこと思いもよらない。たとえパンツ一つででも。それが会津さん、生れたまんまのお姿なんだってさ。 「アハハハ、驚いたよ。あいつには。目のやりどころがなくて、這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で逃げて来た」  って言ってました。ねえ、おかしいでしょ。へんな住人がいたのね、あの辺には。豪放磊落な方だから、案内を乞う声聞いたら男の声だし、書生も置いていらっしゃらないし、暑かったし、それで裸でおいでのことも忘れちゃってね。そういう瞬間があるんじゃない? あの方には。そうでなかったら、あんな綺麗な歌書けませんよ。それに物にこだわらないあんなご立派な字も書けなかったでしょうしね。  その裸のお話から思いついたようではあるが、私はこの日、かねがね大學先生のご贔屓のお店の美味について伺っていたので、お昼に鎌倉で電車を降り、寄り道をしてきたことをお話しした。 「裸」とはたまたま案内された席の上の壁に掛けられていた大學先生の色紙の、 月光の中より生れ来し人か玲瓏として輝きにけり  というお歌のこと。  先生、あのお歌はつまり女人の裸身の美しさへの讃美でしょう? と伺うと、 「そう、あなたも当大學へ通ううちに大分この道を勉強しましたね」  と大負けに負けてほめて下さる。先生の、女性の裸身への讃歌は数多くあるが、ここにその内の二つを引く。  「ヴェニュス生誕」 神話の中のヴェニュスは 貝の中から生れでる 今宵わたしのヴェニュスは 帯と紐と…… なな筋の虹をふんで  「月夜」 ランプを消せば 月かげが流れこんで 書斎が 寝室に変る 青い月光の水が流れて ああ 寝室は水族館だ 裸のかの女は人魚である。 ああ かの女の遊泳 ——僕の裸なんかは玲瓏として輝くなんてものじゃありませんよ。背中にコテで焼かれた傷跡があるのですから。  二十一歳(大正二年)の正月、僕は父とメキシコにいて、前年の暮れから風邪を引いてはいたのだけれど、ようやく熱が落ち着いたので、お医者さんの鈴木先生が起きてみてもいいとおっしゃった。だが公使館の庭の日向で、妹と追羽根をしたり、父と散歩に出たりしたのがいけなくて、また悪寒と発熱でどっと寝込んでしまいました。  今度のはただの風邪じゃなく、肺炎になっていてね、メキシコ市は先年のオリンピックでもマラソンの選手が苦労したという程の高地だから(海抜七千三百尺というのだからね)ここで肺炎になると大抵治らない。特に土地に慣れない外国人はなおのことなんだそうだ。  鈴木先生(国手と呼んでいましたね)もお手あげだとおっしゃって、土地の名医、リセアガ先生という方を、父が探して来たの。もうよぼよぼのご老人でしたよ。  この方が、荒療治でね。命の親なんだが。だって、アルコール・ランプで真っ赤に焼いたコテを(ほら、影絵で狐をうつす時の親指と人指指でつくる目玉くらいの大きさのコテだけどね)いきなり背中へ押し当ててジュージュー焼くのだから。西洋流のお灸みたいな原理なのかしらね。そのまあ熱いの痛いのって、お話にはなりませんよ。石川五右衛門の方がいっそひと思いでよかったろうと思える程です。  しかし僕は死にかかってぐったりしてたから、耐えられたのね。この時の背中の肉の焼ける匂いが隣室まで漂ったそうですが、ビフテキを焼くようないい匂いだったと言いますよ。美人の香骨って言うじゃないの。自慢じゃないが僕の肉も、焼けて少しもいやな匂いはしなかったらしい。それから「カロメル」という薬を、二十四時間内に四十八服飲まされました。三十分おきね。あとできくと、これもひどいじゃないの。馬用の解熱剤なんだって。父はあらかじめリセアガ老医から、この薬で命は助かっても、目が見えなくなるか、歯が全部抜けるかすることもあり得るから、その点覚悟して置くようにと言われたそうですが、これも最後の手段で仕方がなかったのだそうです。それで当分、目がかすんだり、歯がすっかり浮いたりはしたけれど、それもおさまって、おかげで命拾いをしました。  馬の薬で治った話をすると思い出すのが、僕の「驪人(りじん)」という雅号の来歴でね。驪とは黒馬のこと。だがカロメルで治ったからつけたんじゃないのよ。もっと古い話。  僕が、七、八歳で、長岡にいた頃、祖母は一人で僕と妹を育てるのだから、宗教にでも頼らなくては心が支え切れなかったのでしょう。それで家にはさまざまな宗教家が出入りしていました。ある夏のこと、白衣を着た、草鞋ばきの行者が、玄関先に腰かけていて、そこへ外から帰って来た僕の顔をじっと見つめてこう言うの。 「このお子さんのご人相は珍しい。前世は黒馬じゃった。それもつい二十年ほど前。伊勢の国に生れ、ある秋、初穂を積んで大神宮へ詣でた功徳により、このお子さんに生れ変られた」  ってね。祖母はこの話をすっかり信じ込んでしまったけれど、僕は大人は馬鹿だなあなんて、内心秘かに笑っていました。しかしこの話は子供心に深い印象を残したんだね。時々ふと思い出すし、特に道で馬に出会うと思い出す。  だんだん年を取ると、何だか自分でもそれを信じるようになってきて、前世黒馬だった時の記憶や感覚が、今も残っているような気さえして来たから不思議じゃないの、ねぇ。  今年(昭和五十四年)の、大學先生の米寿をお祝いする会は、先生のお誕生日の前日の一月七日に、各界の知人二百数十名の参加を得て、帝国ホテルで開かれた。華やかに、賑々しいその大広間は、富士山を愛する先生のお祝いにふさわしくその名も富士の間であった。  私は動物の中で、馬の目程に涼しく、崇高と言えるまでに澄んだ目を知らないが、日頃、先生が少しの濁りもないお目で、やさしくじっとご覧になるのを何か「馬のような……」と感じることがあった。  そして米寿のお祝いの日、広い会場で、スポットライトの中を、満場の拍手をあびて静々と入場なさる黒の紋服姿の長身の先生を見た時、その堂々たる威厳と気品から、人間の外形を超越した、まさに凜々しい黒馬の姿が連想され、私はひとときある不思議な気分を味わうこととなった。  「驪人」 かつてこのおのれ 伊勢の国の驪(くろうま)であつたが 一秋(ひとあき)供物の米を積んで 大神宮へ参つた 銀の鈴はちやらちやら はい 止(し)い 動々 新藁の馬靴(まぐつ)に 街道の埃を踏んで 露ひかる野山の間に立つた 光栄の朝日の中にいなないた ああ 幸福なその日の思ひ出が 人間となつた今宵 田芹のサラダを食うてゐると ああ 心頭に来往する ——お祖母さんという人はいろいろ不思議な話をする人でね。僕が生れたのは、一月八日(明治二十五年)の明け方、東京の本郷森川町でですが、お祖母さんはその時、田舎(長岡)にいました。それなのに、その同時刻に、郵便屋さんが「郵便!」と、一声叫んで表玄関から大きな大黒様を投げ込んで行った夢を見たんですって。この夢のおかげで、祖母にとって僕は大黒様の申し子ということになり、祖母に大切に育てられたのですから、有難いことですがね。  それから、僕の父に関しても面白い伝説めいた話をつくり上げて(お祖母さんは本当だと言うけれど僕は信じない)いましたよ。  父は生れて来てしばらく経っても、どうしても左の手を固く握ったまま開けないんだって。片輪じゃないかって心配して、檀家寺へ連れて行って、和尚さんにお経読んで貰ったら、開いたと言うのね。  そうしたら、何と、父の掌に文字が書いてあったって。え? 「天下一」と書いてあったと言うの。いえ、僕は信じないけどね。  しかしとにかく、祖母は「異常なもの」を子供に持ち、孫に持ったと思い込んで謹んだ気持でいたのね。そうでも考えなかったら、女一人、生きていられなかったのでしょう。やはり一種の「夢みる人」だったんでしょうよ、祖母は。  特に父の天才を固く信じていましたから、夜の夜中も眠らずに糸くりをして学費を稼ぎ出してね。まわりから、お千代さんは気違いじゃと言われていたそうです。  この祖母の父が、平岡齢七と言って、非常に学問好きの人で、父が三歳の時から論語の素読を教えたと言います。  まあ、父は、祖父が戊辰の役で戦死しなかったら、長岡あたりの左官屋さんにでもなっていたかも知れない、本当に。だって、ご維新で、武士の子弟で大工や左官に転じた者はいくらもいましたもの。  僕も、母が若死にして、父がベルギーの女性と再婚することがなかったら、翻訳で暮しを立てたりする事はなかったと思いますね。母は死んで、僕のフランス語になってくれたって、僕がよく言うでしょう。人間、何か一つ欠けたものがないと、なかなか発奮することがないのかもしれませんね。  大學先生の祖母君の伝説づくりの創作的才能と、「夢みる人」の想像力とは、先生に脈々と受け継がれていらっしゃるように思う。  私が大學先生と初めてお目にかかったのは、先生とある作家との対談の席(私は対談原稿の構成者として同席)であった。当日、対談者の持参なさった百科事典程に部厚い『堀口大學全詩集』をご覧になった先生が、「あとでその書物は、枕にでもお使いになるおつもりか……」とニンマリお笑いになり、「枕」という言葉からすぐに連想なさって、 「晶子先生のお歌に、 春曙抄に伊勢をかさねし春の夜の枕はやがて崩れけるかな  というのがありますが、大変になまめかしい……」  と、本題にお移りになるタイミングのよさは実にスマートで、私に鮮烈な第一印象を刻んだ。  そのずっと後、ある時先生が、 「鉄幹先生には僕が慶応の学生時代、新詩社へ出向いて和泉式部歌集のお講義を受けましたが、あの頃は誰も和泉式部なんかに注目していなかったのに、同時代の大勢の歌人の中から、特に和泉式部をお選びになった批評眼は大したものだね。僕は、最初、何でこれをお取り上げになるのかと思ったくらいだもの。結局、恋歌がお好きだったからでしょうね。あのご一家は恋愛至上主義だから……。  それで、僕らと一緒にお講義を聞いた岡本かの子、三ケ島葭子、原田琴子なんか、風の便りにきくと皆愛情を大切にする生活になった。きっとあのお講義で啓発されたんだね」  とおっしゃったことがあった。私は、学生達に、和泉式部の恋歌をリアルに講義なさったわけですか? たとえば、 枕だに知らねば言はじ見しままに君かたるなよ春の夜の夢  なんていう歌も? と伺うと、 「そりゃそうよ。そのまま講義しなくちゃ意味がないでしょう。その歌を講義なすったかどうかは忘れましたが、実に視覚的なエロティックな歌ですね。枕というものは見たことを人に話すといわれているのね。その枕さえ見ないことは言わないのだから、君語るなよ春の夜の夢、とぼかしてあるが、見しままにとは式部が男に何を見られてしまったことか、想像できるでしょう? 枕は上の方にあるから、下の方まで見てないというわけだ」  と、新詩社風のお講義を、私に少し味わわせて下さったこともあった。 ——もう少し、祖母の話をしましょうか。長岡藩というのは、三河の時代からの徳川の譜代ですからね。ご維新の時なんか、藩士のモラルとされている「常在戦場」、「鼻ヲ欠イテモ義理欠クナ」に従って、天下の趨勢に逆らい、徳川に味方したのね。大樹の倒れることはわかっているのに、そちらに加担して義のために滅びた。その結果祖母は二十三歳で未亡人になり、僕の父は三歳、その妹のおたつさんは一歳で父親と死別することになったのね。  その頃河井継之助という家老がいて、祖母は僕らに話す時、彼を「継さ」と呼んでいた。 「継さが若過ぎてなあ、あんな戦争にしてしまって」とよく言っていました。  長岡戦争になる前日、継之助が祖母達の家の前を通って登城する時、祖母はきいたんだそうです。 「継さ、今度のことはどうなるね?」  って。すると、 「戦争にはさせません」  と言って通ったそうだけど、翌日になったら、もう鉄砲の玉が飛んで来たそうですよ。  小さい藩だから、家中と言えば五百軒くらいだし、僕の家はそんなに格式が上じゃないけれど、三百年も一緒に来たんだから、家老とも親しく口をきけたのだそうです。  だが世襲制だから、徳川の世が続いていれば、父がいくら偉くても上に上ることはできなかったですね。  僕の母の家は、村上藩の江坂と言って、これは堀口家よりも格が上でした。代々ご祐筆の家柄で、これは殿様に代って歌をつくったり、手紙のやりとりをする時の文書係、言わば文芸課長だね。  僕の母の母、つまり母方の祖母はお蝶さんと言って、歌を詠んだそうです。僕の父は漢詩つくったし、もし遺伝ということがあれば、僕はこの両方から詩人の魂を受け継いでいるのかも知れないね。  母は僕に肺病を残してくれた。江坂家というのは肺病の系図なんだね。だがお蝶さんはよそから嫁いで来た人だから丈夫で長生きしました。母が亡くなると、父方の祖母のお千代さんとは、あまり仲良くできなかったそうです。歌つくるなんて生意気だって、お千代さんの方が嫌ったらしいね。気の強い人だったから。 「しかし、父は偉かったのね。『天下一』の伝説の主だけある。日本で外交官を国家試験で採用し出した、その第一回の合格者三人のうちの一人だからね。それ迄は、誰かの子弟だとか、人の推せんで採っていたらしい。  それにしても、中国というのは、理想国家だねぇ。長い間、役人の試験というのは詩を作る試験だったのよ、科挙と言ってね。登竜門の試験よね」  そうおっしゃりながら、お机の上の紙に「科挙」とお書きになり、 「あれ? 科だっけ? 華だっけ?」  とお迷いになるので、私は科の方に賭けます、と申し上げると、 「先にいい方取っちゃずるいや。でもすぐ調べようね。ここを放っておけないのは学問好きの平岡の血なんだ」  と、辞書を二冊持っておいでになる。 「やはり科だね。こっちの厚い方の辞書には華とも書くと出てないかしら。頼んます! ハハハ、やはり出てないね。すると僕の負け? だまされたみたいだけどなあ」  私は、容赦なく勝を主張し、先生のお歌を何か筆で書いて頂きたいとお願いした。 「筆を持つには、お酒が入らないと手が震えるのでね。しばらくお待ちなさい」  かねて「ここには何でもある」とおっしゃっている先生のお席の後ろの戸棚から、カップ入りの日本酒をお取り出しになり、 「ちょっと酒盛りをしよう」  と、私にも蕎麦(そ ば)猪口(ちよこ)に半分程、お酒を注いで下さった。 ——母の思い出というのは、とにかく僕が三歳の時亡くなってしまったのだから、はっきり覚えていることは三つしかない。  一つは、東京麹町の元園町の英国大使館の近くに住んでいた頃。僕は女中のお竹とよく九段まで歩いて遊びに行っていたのだが、これが僕にとっては大遠足だったらしいのね。  その頃、父の韓国赴任が定まった直後のある日、僕は九段からへとへとに疲れて帰ると、いきなり父をつかまえて、 「お父さん、朝鮮は九段より遠いかね」  ときいたんだって。まるで『婦系図』のお蔦みたいだね、これは余談だが。  さて、僕が元園町にいたのだから二歳の夏の夜ですね。蚊帳(かや)の中で母が起き上った気配に僕が目をさまして、泣き出しそうにしたのかも知れない。すると母が駆け寄って来て、僕の好物の西瓜(すいか)をくれると、目でニッコリして蚊帳を出て行った。それだけの話。しかしはっきりと母の表情や身のこなしまで今も覚えています。  もう一つは、僕が三歳の夏。父はもう韓国へ赴任していて、僕達は長岡へ移っていました。  母が病みついた最初の頃ですね。僕が外で遊び疲れて家へ走り込んでみると、青い蚊帳の中に、母がぽつねんと坐っているの。蒲団の上にじっとね。僕はそれを見て何故かハッとしました。母が死ぬような気がしてね。  最後の思い出は、その年の九月。母の入院先の病室の窓際でね、有名な長岡の花火の日で、母は気分がよかったのか、病床を窓近くに寄せて、僕の頭を撫でてくれているの。部屋の明りは消してあって、打ち上げ花火が夜空にパッと開くたびに、母の病み疲れた顔の輪郭がくっきり浮び出るのね。それが何だか幽明の境をさ迷っているようで、子供心にもひどくはかなく物悲しい母の面影でしたよ。  これはあとできいたことですが、その晩母は、夜更けまで窓辺を離れようとせず、看とりの人たちを困らせたといいますが、やはり翌朝どっとぶり返して、それからひと月程で亡くなってしまいました。母は、窓辺で一人僕の頭を撫でながら何を思っていたのかと思うと、とてもたまらない気持がしますね。  大學先生の父君が長城と号し、漢詩の達人であることは既に何度か書いた。  数多いお作の中から、大學先生は九十九首を選びそれに和訓を添え、『長城詩抄』として一冊にまとめておいでになる。  その中の一首。 病妻嘔血帰泉日 潦倒南冠繋獄時 隻涙滂沱禁不得 何人為我哺孤児 長わずらいの愛妻は 血を吐く病(やまい)で死にました 折りも折りとてつかまって 囚人帽まで着せられて 広島の刑務所ぐらしよ 今の僕無理ないよ とまらぬ涙 何んで泣かずにいられるものか 親なしになった二人(ふたり)の幼児(おさなご)は 誰がどうして育てて行くか  そして原註に「妻政子明治二十八年十月十四日死ス」とあり、訓者註に「二人の幼児、ひとりは大學、数え歳四、ひとりは花枝、数え歳二」とある。  尚、広島の刑務所暮しとは、やはり前に述べた韓国での王妃事件による嫌疑の為である。 ——僕の詩を、いろいろな方が論じて下さるのを見ると、この頃の詩は身上を歌ったものが多いと言われてるのね。子宮回帰願望だとか。……確かに、最近の詩でいいと言われるのは母を慕う詩が多い。「母の声」とか「温胎の時間」とかね。  若い頃は、「こうもありたい」という願望や、「こうもあろうか」という想像で、エロスの詩を書いたものですが、今では慈母を念う「念慈歌」に、いいものが多いそうです。  先日も、ある雑誌に求められて母を荼毘(だび)に付した時のことを思い出していたら、ありありとその場の風景が甦ってきて、それを文章に表わそうとすると、その場で一篇の詩になりました。  一人の男の一生にとって、母の存在とは、やはり実に大きなものなんだねぇ……と、つくづく思いますよ。  「母の声」    母は三つの僕を残して世を去つた    若く美しい母だつたさうです 母よ 僕は尋ねる 耳の奥に残るあなたの声を あなたが世に在られた最後の日 幼い僕を呼ばれたであらうその最後の声を 三半規管よ 耳の奥に住む巻貝よ 母のいまはの その声を返せ  「温胎の時間」 母よ その貴い時間は 本当に在ったのですよ! あなたの心臓と 僕のそれと ふたつの心臓が 呼び交わし 鼓動し合った その貴い時間は 母よ 母よ そのカダンス その協和音 そのリズム 母よ 母よ ついにかえらぬか 八十年前の あの温胎の時間は 母よ  「母を焼く」 僕はこれまでに自分の手で 四人の肉親を焼いている……。 最初が生みの母、二十三歳 血を喀(は)く病(やまい)で死んだあと 焼く僕は、生れて三歳……。 長岡も東の町はずれ 東神田のその先の 川崎村の土手(どて)下の まわりを畑に囲まれた 焼場とは名ばかりの 何もない場所 其所だけが石と土とが焦げていた 黒々と……。 遠く東の山裾は 栖吉(すよし)の村のその先(さき)の 浦瀬の山のそこここに 妙に気になる石油掘りの 櫓(やぐら)の姿が見えていた 十人ほどの野辺送り……。 十月も早なかば過ぎ 北の越路はもう冬の 冷たい風が吹いていた……。 おろされた白木(しらき)のお棺(かん) その上に山と積まれた藁(わら)と薪(まき) 中には素肌の母者(ははじや)がいると 僕は知ってた……。 焼かれる母者は経(きよう)帷子(かたびら) 焼く僕は黒の紋服……。 火つけの役目は喪主の僕 楓(かえで)の手先の付け木(ぎ)の火を 山積みの藁に移そうとするのだが 何度も風に吹き消され 困ったことを覚えてる 昨日(きのう)みたいにはっきりと……。 八十数年前のこと……。  大學先生は、先程のお酒が、丁度よい加減に回ってきましたとおっしゃりながら、墨をおすりになり、箱から上質の和紙をお取り出しになって、先程お話に出た「——玲瓏として輝きにけり」のお歌を書いて下さった。 「あなたも彼の前でこの歌のようにしてさしあげると、お喜びになりますよ」などと、少しお戯れになる。  そして、「では最も新しいのを……」とおっしゃって、まず「わがルーツ(或は黄金受胎)」と題をお記しになり、 春の夜の枕に解けしみだれ髪母者十九のその春の夜の  とお書きになった。 「僕は一月生れだからね。それで春の夜の……なの。わかる? でも綺麓でしょ。ちっともいやじゃないでしょ。母に失礼なことはないよね」  と、少しお案じにもなる。  私は、今日、先生の中に流れるご先祖の詩人の血のお話を伺ったのだが、それと並行して、或いはもっと歴然と、この「春の夜の夢」の近作のお歌の中に、和泉式部から与謝野晶子へと流れ、やがて大學先生へと熱く注ぎ込まれる、詩歌のルーツの源流をありありと見た気がした。 第十二章 第一書房主人 ——また、僕の部屋に何ぞ異変はなきかと見回しておいでだね。三日月さまみたいに、あなたは月に、一度だけお顔をお出しになるだけなんだから、まあ、多少の変化はあるでしょうよ。  あ、あの写真の額ね。あれは父の書を集めて写真に撮ったものです。今度、新潟県で、県出身の名筆の写真集を作るらしいのね。それであちこちの人が所蔵している父の書を借り受けて、写真にしたものを一枚、僕にも下さったというわけです。  長岡中学で同級だった松岡(譲)君なんかのもきっとその名筆の一人に入っているでしょうね。僕の家の玄関にかかっているあの表札の字、角ばって律義な字ね、あれ、松岡君が書いてくれたものですよ。長い歳月を経て、墨色がもう消えかかっているから、消えがて……僕の詩集の『消えがての虹』(二字)じゃないが、消えがての四字(堀口大學の四字)っていうところかな。ハハハ。  僕のもの? 僕のはダメよ。字はダメなんだ。いや、本当に。  親父の書は、相変らず義理固い字だねえ。「村情山趣」——村に情あり山に趣きありというのかな。父は一見固いようではあるが、とりわけ情を解する人でもあったからね。 「感応道交」——感に応じて道に交わる、つまり、心を合わせて同じ道を行きましょう、という意味だろうね。 「学如不及業於精勤」——学は及ばざるが如しだが、業に於ては精勤、というのか、まあこれは、学問はあまり出来てないようだけど、あいつ仕事はよくやるよ、という意味でしょう。 「含英咀華」——さあ、これが問題ですよ。見当をつけてご覧なさい。英は花だという位は解るが、さてそれ以上は僕の漢学の力では無理ですね。  大學先生の二階のお部屋から見渡せる小高い真名瀬山は、四月も半ばを過ぎると、遅咲きの山桜も散りかかり、それを待ってでもいたかのようにいっせいに攻勢をかけてくる新緑との取り合せで、少し荒々しい趣きを見せていた。  さあ、「含英咀華」ですか? 先生のお父様は外交官でいらしたから、イギリスの知恵をふまえて中国の心で咀嚼なさいってことですかしら。いつか先生は、二十世紀頭初のフランスのダンディズムというのは、イギリスに対するあこがれなんだ、フランスから脱出するために、結果的にはイギリスの真似をすることにもなる、とおっしゃったことがありましたね、と申し上げるのを、さもおかしそうにして聞いていらっしゃる。  あ、また、「幼稚園」をしましたか? と伺うと、いやいや「大學」も及ばない新解釈だね、とお笑いになりながら、 「つぼみを含んで華を咀む、ということじゃないかね。でも正確を期するためには辞書を引こうね」  と、席をお立ちになる。  華を咀む——と言えば、ピランデルロの戯曲に『花をくわえた男』というのがあって、いつか芥川比呂志さんにお目にかかった時、その話題が出ると、 「花をくわえた……じゃ、男カルメンみたいだね。あの花というのは癌のことなんだから僕が訳すなら『唇のすみれ』とでもするけどね」  とおっしゃっていたことを想い出し、辞書のページを繰っておいでの大學先生にそうお話しした。 「そうね。題名の訳というのにはとても気を遣いますよ。ラディゲの作で『肉体の悪魔』という訳のもの、僕はあれを、『魔に憑かれて』と訳しています……。  ああ、英は華なり、とあるね。英にはめばえという意味はあるが、つぼみという意味はないようだ。つまり花を口中に含んで、花を咀(くら)うが如くに、文章の妙所を捉えて、我が胸中に蔵め蓄えるということですかね」 ——越後で、名筆と言えば、やはり良寛和尚の右に出る者はいないでしょう。歌集に『蓮の露』などがありますが、書でよく知られた人ですね。この人の出身地は出雲崎——漁師町です。良寛の家は代々の庄屋さんだが、同じ出雲崎出身の長谷川巳之吉君は、漁師の倅だ。そう、第一書房の長谷川君、今日はあの人の話をしましょう。  長谷川君と僕との関わりは、『月下の一群』の頃からです。大正十二年に、まるで大震災に出会うために帰って来たようなものだったけれど、僕は久々に日本へ帰りました。その時ちょっと長谷川君に会いましたが、漁師の息子というのに、何て色白で、すっきりしたいい男だろうというのが第一印象でした。その上立ち居振舞いが、何とも言えず上品で、貴族的とさえ言えるのね。高貴な殿上びとのご落胤だといってもうなずけそうな人品骨柄なの。  その帰国の時、『月下の一群』の稿を、ある大手の出版社に出版依頼をして僕はルーマニアへ発ったのですが、一年半程して再び帰国してみると、原稿はそのままで、いつ上梓されるかのめどもついていない。で、僕はそれを取り戻して、新しい訳稿を加えたり、配列をやりかえたりしていました。  その時たまたま訪ねて来た長谷川君が、その大部な原稿をひと目見るなり、是非出版したいと言ってくれたわけよ。その話があってから三月もしない快速ぶりで出版されました(大正十四年九月)。  長谷川君は、美術にも造詣の深い人で、どちらかと言うと、渋好みじゃなく派手で綺麗なものが好きでしたね。だから、金唐草模様の表紙に、金箔押しの背革という、佐藤(春夫)君の言うところの「美しい堂々たる、この未曾有な書物」は、長谷川君自身が装釘したものです。ノート用の上質フールス紙大判七百五十ページの本文に、十六葉の別刷挿絵の詩人たちの肖像入りという豪華本ですから、定価も当時としてはずいぶん高い四円八十銭でした。しかしまたそれがよく売れて初版千二百部は数ヵ月で品切れになってしまいましたよ。  私は、最近出た『異邦の薫り』(福永武彦著)の巻頭のカラー写真で、明治、大正から昭和初期にかけての十数冊の訳詩集がズラリと勢揃いしたのを見、その中にひときわ目立つグレーの革表紙の紺地の背に、燦然たる金箔の唐草模様を見た時は、さながら女学生が宝塚歌劇のフィナーレに、ごひいきのスターを見出した時のようなときめきを覚えた。 『月下の一群』とは実にいい題名ですね。はじめは『見本帖』となさるおつもりだったとか……と申し上げると、 「そう、あの詞華集の目的は全く見本帖ということなんだが、それではあまりに安っぽくなるからね」  とおっしゃるので、『月下の一群』という題は長谷川さんじゃなく、先生がお考えになったのでしょう? と伺うと、 「それはそうよ」  と意気込んでお答えになる。 「昔から僕は本の題名には苦労するからね。『月下の一群』のイメージは、ヴェルレーヌの詩の中で、月の光の照る中で輪踊りをしている情景があって、そこから来たのね。この詩のひとたばが、月下の一群だという……。それに僕は身体が弱かったから、太陽よりも月にあこがれを持っていたしね。月の方が相手になりやすいし、話しかけやすい。太陽じゃ強すぎてきつすぎてダメだった。  だから僕には『月光とピエロ』とか、『月夜の園』という詩集もあるし、月を歌ったものが多いでしょう」  そして『月下の一群』が、いかに現代的で素敵な題名かのご自慢話として、つい二、三年前季刊雑誌(見せて頂いたその創刊号には、編集・唐十郎とある)の題名に乞われたことをお話し下さった。  さて、『月下の一群』の出た年の四月から三年間、大學先生は、恩師である与謝野ご夫妻に請われて、駿河台にある文化学院大学部で、フランス近代詩の講座を担当していらっしゃる。  私は、女優で演出家の長岡輝子さんが、当時、先生の講義をお受けになり、『月下の一群』も、その折お求めになったと、過日伺ったことがあった。 「まだ和服の方が断然多い世の中だったけど、大學先生のお洋服姿はとてもモダンで、とりわけズボンの裾からちょっと見える羅沙とか革でできている甲当てというのかしら、それが粋で素敵でしたよ」  という長岡さんの観察を先生にお伝えすると、 「ああ、 spads(スパツズ)のことね。よく覚えていらっしゃるものだねえ。あれは日本じゃあまりしてる人はいませんでしたが、足もとがきりりと締まって恰好のいいものですよ」  となつかしそうになさるので、先生、女学生にずいぶんあこがれられたでしょう? と伺っても、 「さあね、まあ女学生なんかに騒がれたってつまらないし、第一仕方がないことよ」  と、取り合って下さらない。 ——長谷川君は、佐渡ケ島の見える出雲崎に生れて、長じると与板というところの銀行へ小僧にやらされたの。学校も中学を出た程度だからまあ小僧だよね。与板というのは、信濃川の西の岸にあって、東の岸が僕の故郷の長岡。何しろ大きな川だからね。  ところが長谷川君は、上の学校へ行ってなくてもどことなく上品ですることなすことが理に叶ってる。心柄なんだろうね。それに色白でいい男だ。あの地方の有名な素封家だった頭取のお嬢さんに惚れられて(多分、そうだと思うのよ)東京へ駆け落ちしてしまった。  それで夫婦で住み込んだのが、関屋祐之介という人の経営する神田にあったこれも銀行でね。ここでもたちまち関屋さんに認められて、目をかけられたそうですよ。しかし何年か勤めているうちに、どうしても学問がしたくなったんでしょうね。これも関屋さんの采配だと思うんだが、灯台守になって勉強した。勉強するには灯台に限るというんでね。何も本郷ばかりが東大じゃないのよ。この灯台というのは九州と四国の間にある離れ小島で、建物は灯台一つしかないんだそうだ。仕事と言えば朝夕の潮の高さや温度や風速を計って記録するだけ。それで食べ物とか必要な物は、内地から月に一度連絡船が来て、置いて行く。まるで流人のような生活だね。もちろん奥さんは東京に残して一人で行っていたのよ。だから勉強もはかどるわけでね。その後生れたお子さん達の名は、上が文三、その下が哲三、末のお嬢さんは宗子。彼の考えでは、文学と哲学と宗教、これが人間知能の三つの華だというんでしょうね。  それで、灯台から帰って来てから、好きな学問文学の世界に生きようというので、出版業を始めたの。出版業というのは、資本が少なくても始められる商売の一つらしいね。ロマン主義と理想主義で物質を克服するようなことのできる商売だから。まあ、いい原稿を見分ける眼力と、作家と肝胆相照らせる人柄がないといけないが。その点、長谷川君はうってつけの人物で、人に好かれたし、現在の環境から絶えずいい方へいい方へと向かおうとするでしょう。すると誰かが必ず手を差しのべてくれるんだな。秀れた「徳人」でした。昔の、名僧知識と言われる人達も、こうした魅力のある人達じゃなかったかと思いますよ。  先生のお宅へは近所から年配のお手伝いさんが三人、毎日交替で通ってくる。「あの人はお茶のいれ方はもう一つだが、言葉遣いがとても綺麗だ」と先生に評されているその内の一人が来て、大阪のデパートからタケノコが届いたかどうかのお電話ですと告げる。 「届いてますよ、とっくに食べちゃった」  とお答えになって、ばあやさんが部屋を去ると、 「タケノコ一本の追跡調査とは大そうなことねえ。だけど、あれ庭に植えてもう大きくなってるから取りにいらっしゃい、と言った方が面白かったかしら」  と、ご推敲になる。 「古い話だが、鉄幹先生がお亡くなりになった時のお形見に、晶子先生が僕に下さったのは、先生が旅に持って歩いていらした歌の手帳と、お家で運座の時に和紙にお書きになった草稿が二枚でした。  佐藤春夫君はいつか話した陶印を二顆頂いたのね。佐藤君は歌を書いても詩を書いても、もう一つ丹念に推敲するんだが、僕はそれをいっこうにしないの。両先生のお茶飲み話にでも、堀口君にも困ったものねえ、あれ、書きっ放しで……なんていうのが出ていたんでしょうね。それで晶子先生が、そのお形見を僕に選んで下さったんだと思うの。  つまり鉄幹先生の草稿はね、はじめにお書きになった字など、一つも見つからなくなってしまう程、直しに直していらっしゃるのね。これご覧なさい、あなたの先生ですらこうですよ、というみ教えと共に下さったんだね。  それをそのまま机の引出しなんかにしまっておいてはいけないと思って、目下表装に出してあるのよ。絶えずそこへ掛けて眺めて教訓にしようと思って、軸に仕立てて貰っているの」 ——長谷川君の人格が高潔だったことは、あの悪名高い日本軍憲兵にさえ、その公平な人柄を見込まれた、ということでわかるでしょう。  第一書房が大きくなって、立派な業績が評判になってきた頃、世の中はだんだんおかしなことになって、軍部がはびこり出すと、出版業界も窮屈になってきたのね。昭和十八、九年の頃かな。企業統制ということが行われたんだ。  これは米屋さんなら米屋さん五軒を二軒にするとかそういうことね。つまり紙がなくなってきても、出版業をつぶすわけにいかないから、何軒かが一緒になれ、というわけよ。これを実行するのは、業界の内情に詳しくて、私利私欲のない、公平で心の正しい人、というわけね。  で、出版界で企業統制の采配を振らせられたのが、長谷川巳之吉。憲兵隊に、「お前やれ」と言われたら、いやとは言えないご時世でしょう。いやなんて言えないのよ、軍は神さま、何事でも。あの時代はね。  し終えた時に、長谷川君は僕に電話をよこしてね。 「先生……いや先生なんて言わないんだ。僕とは同年輩だし。そうだ、巳之吉だから彼巳年だね。僕は辰年だから、一つ年下くらいのものだったんだ。で、堀口さん、今度、私はこういうことを致しました。それで、あなたには申し訳ないけれど、私は出版業をやめます」  って。僕が驚くとね、 「だって、ほかの同業者をそんなにしておいて、どうして私がべんべんと続けられますか」  って言うの。やっぱり越後の人だねえ、「鼻を欠いても義理欠くな」の口よ。  僕もその気質はわかるから、じゃあ、将来倅さんにでも継がせたら、と言ったんだが、 「いえ、二人共に、固くそれは禁じております。何の商売をしてもいいが、出版、書籍に関することには手を出すな、と申しつけました」  って。それで本当にピタリと廃業してしまった。息子さん二人は慶応義塾を出て、二人共頭はいいし、二十四、五歳になっていたから適任だったんだがね。  しかし、それも固く禁じてしまったから、さあ、僕は困ったねえ、困ったよ。木から落ちた猿、というか、陸に上った河童、というか、そんなものでしたよ。  だって、出版社と言えば二十年近く、脇目もふらずに第一書房一本槍でやって来たでしょう。ほかの出版社に頼まれてもみんな断わって。  籾山書店には、僕の自費出版の本の発売を依頼しただけで、一冊も出して貰ったことはありません。僕のものに惚れ込んで来て、出させて下さいと言ったのは、長谷川君だ。いきなり来て、そう言ったものね。  それからは、僕の書いたものは、いいの悪いの選ばずに、何でも引き受けてくれた。だから僕のあの翻訳の仕事が出来たんでね。それが営業本位の出版社を相手にしていたんじゃ、とても出来なかったね。売れそうもなくったって、いいものだと思えば、日本の文学の明日のために役立つと思えば、やっぱり訳したいもの。僕にこれが出来たのは長谷川第一書房のおかげでしたよ。  今どきそういう出版社なんてないね。いや、後にも先にもないでしょう。とにかく、若くて名もない僕だし、それに学閥もない一匹狼だったから、ほかからよくは言われない。目障りだしね。とにかくまだフランス本国でさえ認められていないような新人達の作品を、自分でいいと思えばどしどし日本に紹介するわけだから。パリへ二、三年間留学して帰って来た連中なんかが、物知り顔に言うわけよ。あんなのは、パリじゃ誰も読んでない、たとえばコクトーなんか、あれは笑いものだ、なんてね。いいじゃないのねえ。僕は、僕の眼鏡で選んで、いいと思うから訳すんだからさ。  だけど、そういう僕も大変でしたよ。一生懸命訳しても、そうは売れないからね。せいぜい初版が一千部とかそのくらいでしょう。一ヵ月に一冊くらいの割合で訳さないと、とても食べて行けない。ねじり鉢巻で、夜の目も寝ずに、本業の詩を考えることも忘れて頑張りましたね。  大學先生が最近、雑誌「海」に発表なさった「かすみ網」という作品。  先生がこの頃よく口になさる、米塩の食を諦めて、かすみを食べて生きる詩人本来の宿命に立ち返り、年の内三百六十日を詩作に充てていることを、詩にお託しになったものである。  「かすみ網」 小さな才の かすみ網 張って待つ 息を殺して じっと待つ 夜明け方 枕の上に張って 待つ 詩を捉(つか)まえる かすみ網 今朝の獲物は ツグミかシギか 鵬程万里のコンドルか 息を殺して じっと待つ 「鵬程万里のコンドルか」というところがいいですね、じっと息を殺しているこの緊迫感の中で、ここだけがのびのびと大きくて、と申し上げると、 「そう、そこがこの詩のおヘソでしょうね。鵬はひとたび羽ばたくと、万里行くというスケールなんだ」  と解説して下さる。私は、詩の中に、鵬程万里とか漢文の語句が一つ入るととても引き立つものなんですね、と言い、すぐに脱線して、先日、桃や杏の花盛りの里を、雑誌のグラビアの仕事で團伊玖磨さんとご一緒した時、團さんが、「清明のいい季節なのに雨が降って、気が滅入るので、牛をひく少年に酒家はどこにあるの? とたずねたら、牧童遥かに指さす杏花村という詩がありますね」(杜牧の作と言われる七言絶句で、「清明 ノ 時節雨紛々 路上 ノ 行人欲 スレ 断(タ) タンレ  魂 ヲ  借問 ス 酒家 ハ 何 レノ 処 ニカ 有 ル  牧童遥 ニ 指 ス 杏花村」)と綺麗な詩をご披露なさったので、私もいつか(大學)先生から教わったばかりの「山重水複疑無路 柳暗花明又一村」というので応じさせて頂きました。ただし、そう全部スラスラと恰好よく言えたわけではなく、私が何かに行き詰まって、また少し先が見えたと申しますと、大學先生が、そういうのを「柳暗花明又一村」と言って、もう山は深く川は複雑に流れて路を見失ったかと思っていると、柳は青く、美しい花の咲いた村が見えて来た、という詩を教わったことがある、という風にお話し出来ました、おかげ様で、と申し上げた。 「ああ、父が晩年まで愛唱していた陸放翁の詩ですね。それはよかった。教わったことをすぐ生かせるのが利用の大才というものでね。僕と春夫君の若い頃なんか、今日聞いたことを明日は書いていましたよ。すぐに使っちゃって、貯金なんかなかったね」  とお笑いになった。 ——僕は戦時中、早手廻しに昭和十六年から、東海道の興津へ疎開していたんだが、長谷川君は新しい本が出ようが出まいが、月々三百円ずつ送ってくれてました。これで助かってね。毎月まあ、何やかや書いたものは第一書房へ送ってはいたけれど、彼にしてみれば、日本の文化に対する奨励金みたいなつもりで出してくれていたのかもしれませんよ。  第一書房の発足当時は高輪南町が所在で、普通の二階建ての仕舞(しもた)屋(や)なんだ。或る時僕が何か用があって訪ねたのよ。そしたら二階の座敷へ通されたんだが、部屋はガランとしていて何もないの。階下から座布団を一枚持って来て、敷かせてくれたけど、本当に何もない。無一物なんだね。そんな暮しの中から、あの豪華な『月下の一群』を出版したのだから、驚かされるのよね。  だが、その時よくよく見たら、濡れ縁に壺が一つ出してあるの。夏のことで、開け放してあるから、そこから風が入ってくるので匂いでわかったんだが、それはラッキョー壺だったのね。酢漬けのラッキョーがそこに出してあったの。あれは一日の内に何度か温度を変化させると、早くおいしくなるらしいんだね。それで出してあったんだが、それが部屋の唯一の調度、家財なのよ。あれを想い出すね。  しかし約束を守る男で、キチンキチンと原稿料や印税を払うから、内情は苦しいわけね。丈夫な男だったのに、ある時風邪をひいてね、それがなかなか治らない。後で聞くと、昔の男がよく二重回しというのを着ていたでしょう。トンビとか言う……。それを質に入れちゃって、一冬出せずに、つまり外套なしで飛び回っていたので、風邪をこじらせてね、気管支を余程ひどく傷めたらしく、生涯咳で苦労していましたねえ。  そんな可哀そうな長谷川君だが、ちょっといい話もあってね。ある時、(まだ戦争たけなわにならない、いいご時勢の頃よ)帝国劇場で、プリマドンナの関屋敏子のリサイタルがあるから一緒に行こうと言うの。長谷川君がね。何故突然そんなことを言い出すのかな、と思って僕は行ったんだが、彼は華やかな舞台の脚光や、満場の拍手の音に万感が迫って黙っているのが苦しくなったんでしょうね。 「実は、あの今歌っているのは、僕ら夫婦の娘なんです」  って、言うのよ。僕は一瞬、「えっ?」と自分の耳を疑ったんだが、よく聞いてみると、東京へ駆け落ちして来て銀行へ住みこんだあとしばらくして生れた娘を、あなた方はまだ若いんだし、子供を育てながらの共かせぎは大変でしょう、幸いわれわれには子供がないから、自分達の子として大切に育てたいが、と言って、関屋祐之介さん夫妻が貰って下すったのだ、と言うんだね。  以来、長谷川君はずっとそのことを人に漏らさずに来たんだが、その日は娘の大成功を目の前に見て、嬉しくて嬉しくて、僕に言わずにはいられなかったんだと思いますよ。  私は、今日は実に重大なことを伺ったのだ、と思った。関屋敏子というクラシックの歌手が、歌舞伎の名優十五世市村羽左衛門の姪に当る、という記事を、ずっと前に何かで読んだような気がしたが、それが何であったか記憶になく、恐縮しながら戸板康二氏に電話で伺うと、 「関屋敏子が長谷川巳之吉の娘、ということは、僕も初耳だなあ」  と驚いていらっしゃったが、すぐ、『羽左衛門伝説』(里見〓著)という書名を教えて下さった。  これによると、日本に派遣されている時、羽左衛門の父はル・ジャンドル将軍と言い、フランス人であるが開化期の日本政府に重要な役を果すと見込まれて引き留められ、日本女性池田絲と結婚する。  その長男が羽左衛門であるわけだが、これは故あって他家に養子に出され、その結果歌舞伎役者となった、という。  次に生れたのが女の子で、愛と名づけられたが間もなく夭折する。間二年おいて明治十四年に生れたのが、 〈この第二の愛が、後年、関屋祐之介に嫁して、世界五大歌手の一人と謳われた敏子を生み、今なお(昭和二十九年現在)健在の愛子さんだ。〉 『羽左衛門伝説』   ということになる。  羽左衛門の出生については、両親共日本人であるという説もあったそうだが、この書に羽左衛門の中に流れるフランス人の血についてのエピソードとして、 〈来遊したジャン・コクトーを藤田嗣治が歌舞伎座へつれていった時、何かの役で市村が登場するや、あ、「あそこにパリジャンが……」と口走った由。一種「幼心(おさなごころ)」がとらえた真実だろう。〉 『同』   という件りがあるのも、大學先生とコクトーとの因縁を思い合せて感慨深い。  そして、同書では羽左衛門の「兄市より、あいちゃんへ」とした関屋愛子宛の手紙を引用し、その中に登場する「はせがわ」の文字を著者(里見〓)が、 〈長谷川巳之吉。青年時代、祐之介の恩顧を受けし者。晩年の愛子に対して篤実だった……〉  と解説していることでも、その人柄についての大學先生の証言の正しいことがわかる。 ——まあ、長谷川君が出鱈目(でたらめ)を言うとはとても思えないし、関屋家でも養女ということはずっと口外なさらなかったろうし、籍もちゃんと実子として届けたことでしょうしね。神のみぞ知る、ということですかね。  しかし関屋ご夫妻も美男美女だったろうけれど、長谷川夫妻だって何度も言うように二人共綺麗だったから、どっちにしても敏子さんの輝かしい美貌も天分も約束されていたんだね。  で、長谷川君は出版業をやめてからは、美術の目が利いたから、そういうものの売買をしたり、人望が厚いから銅山とか石炭山の会社の役員を押しつけられたりして、晩年は何不自由なく暮していたようですよ。  若い時分はとにかくスカッとしていい男で、色が白くて髪が黒く豊かで、明るい感じの男だったね。それからやはり声がきれいでしたよ。ああいうのを本当に、「水もしたたるいい男」というんだろうねえ。  それに引き替えて、近頃の僕の水のしたたりぶりは汚ないのよ。え? そりゃ昔はいくらか実際にしたたったものだが。この間こんな歌作って笑ったの。 水たるる昔の姿偲べとや今したたるは老いの鼻水  というんだから汚ないねえ、お粗末さま。  私は、本当を言うと、憶良の「貧窮問答」のような、その貧乏を皺やしみや鼻水に置き換えたような自嘲のお歌は、先生に似合わないと思う。枯淡の境地というのも、先生にはふさわしくない。堀口大學の愛読者達はこういう詩や歌を読みたいとは望まないのではないだろうか。詩人は慢性小児病でなくちゃ。  いつか、お叱りを覚悟で、先生、お年を召しても人間、角が取れすぎない方がいいのではありませんか? と伺ったことがあった。 「いいえ、年を取ったら圭角はなくして、丸くなった方が、気らくですものね。そうでしょう?」  と先生はおっしゃるが、そうかなあ、と思う。  私は、新潟日報で見た越(こし)の春に寄せた先生の最新作「そして今」という詩(題名のモダンな響きがとてもいい)の中の一節、——そして今、四月になって、梅桜桃李(ばいおうとうり)、あとさきのけじめもなしに、時を得て、咲きかおり……。という、お年を召した詩仙が、ほんのりとお酒に頬を上気させ、花達を相手に、「よしよしみんな綺麗だよ、だがお前達はまあ本当に、あとさきのけじめもなしにこういちどきに咲いてしまってさ」とたしなめていらっしゃるような、自然さえいとおしい愛玩物と化してしまうような存在の大きさと、そこに上等なお酒の上澄みのような品のいい色香のある——先生にはこういう老い方をなさって頂きたいのです。哀れっぽかったり、おどけたりなさるのはいや、と大詩人相手に大それたことを申し出ると、 「なかなか注文が難かしいのね。ま、心がけましょう」  とお叱りもなく、 「ほう、その詩ではそこが気に入ったの? その題名もねえ、僕はあの題を思いついた時、この詩はできたも同然だと思いましたよ。いつもかすみ網張ってるおかげだね」  とにこやかにおっしゃった。  「そして今」 そして今、こころに生きる ふる里の越(こし)は北国(きたぐに)……。 北国の弥生(やよい)は四月、そして今 四月になって、梅桜桃李(ばいおうとうり) あとさきのけじめもなしに 時を得て、咲きかおり……。 そして今、遠山なみに霞(かすみ)立ち 蒲原の広野(ひろの)の果の国つ神 弥彦山、むらさき裾濃(すそご) 神(かん)さびまして鎮(しずも)れば……。 そして今、信濃川 雪解水(ゆきげみず)集めて百里 嵩まさり 西ひがし岸べをひたし 滔々(とうとう)と濁流はこぶ 逆巻いて……。 そして今、こころに生きる ふる里の越(こし)の四月は……。 第十三章 ある銅版画家の思い出 ——この前は、第一書房の長谷川巳之吉君の話をこまごまとしましたが、僕にはもう一人の大事な長谷川君がいるのよ。あの繊細で優美な銅版画で名の高い長谷川潔君。僕の初期の詩歌集の装釘や装画は、ほとんど彼によるものです。彼は僕より一つ年上、巳之吉君は一つ年下。二人にはさまれて、僕はサンドイッチの中身だね。僕の書いたものを、潔君が装釘して、巳之吉君が出版してくれていたのだから、(そう言えば、装釘者の名は扉にあって発行者の名は奥付にあるからまったくサンドイッチだ)思えば幸せなことでした。  長谷川潔君にはじめて会ったのは、大正六年のことです。僕は二十五歳だった。  一月に単身帰国して、いつか話した外交官試験準備に専念していたわけね。一人だからホテル暮しで、五月までは気候のいい興津の東海ホテル、そして上野の精養軒(その頃は泊れたのよ)六月からは、大森の望翠楼ホテルに滞在していました。  このホテルは、その後僕の大の気に入りになったのだから、ちょっと話がそれるが説明しておきましょう。現在、大森駅の近くには団地があるけれど、そこじゃなくてもう一つ上の、暗闇坂を隔てた小高い丘にあったホテルでね、甲州出の横浜在住の若尾という財閥が経営していました。横浜県庁だった建物を払い下げて貰って、大森へ建て直したというものだから、材料はオーク材をふんだんに使って素晴しいし、設計は英国人だったというので、天井は高く取ってあるし、正面の階段なんて幅一間もあって、それは堂々たるものでしたよ。そういうお金持の道楽経営みたいなホテルで、部屋数は十ぐらいしかなかったかな。  その一室に僕は住んでいて、ある時ふと見たら、このホテルの一室を会場に、版画展が開かれているの。僕は、すぐそれを見に行って……まア見るわねえ、毎日退屈しているのだから、同じホテルに変ったことがあれば。  それが長谷川潔君のはじめての個展だった。彼、大森に住んでいたから、その洒落たホテルを会場に選んだのでしょう。  入って見ると、大体、白黒の木版画が多かった出品作の中に、ひときわ目を引く着色版画があってね。「赤い月」という題で、緑の林の上にかかった赤い半月。単純な構図なんだけど、そこに余計魅きつけるものがあってね、神秘的ですらあるんだ。すぐその絵に赤札を貼って貰いました。売約の。五円でしたね。それがご縁で(つまらない洒落ね)彼との深いつき合いが始ることになりました。  大學先生は、ご自身のたくさんの本を飾った長谷川潔の、今もお手元にある木版画や銅版画を、一枚一枚なつかしそうにご覧になりながら、静かなお声で昔をお語りになる。私に出して下さったお菓子のお皿が空になると、絵をご覧になる目は放さずに、黙ってご自分のお皿をこちらに押して下さる。  近頃ではお菓子の一人占めが当り前の習わしのようになったことを、ちょっと恥かしく思って、大學の客はよく菓子食う客だでしょ、などと言い訳めいた洒落を言ってみても、何をまた他愛のない、といったお顔で、片頬でしか笑って下さらない。  ところで、先生には、この「赤い月」の版画から想を得たと思われる詩が二篇あるので、長くなるがそれを引く。  「赤き月」 狂ほしき暗緑色の 五月の夜の地平より よろよろとよろめきて 赤き月うかび出で 悩ましき恍惚の もやをもて 気味わるき緑の木の葉 うづ高く 果(はてし)なく 見るかぎり うちつづく 晩春の夜の 触手ある風景を 鬱憂の表情に匂はしむ…… よろよろとよろめきて 空中にいと低く ただよへるよひどれの いろ赤き弦月よ! 千(せん)ひと夜夜語(よよがたり)の はての夜の真夜半に あらびやの沙原(すなはら)の 西の地平に消えてより 幾億夜! おお汝(なれ)は 何処へか行きてありしぞ?  「月の招待」 沈み行くあかつきの赤いお月さまが 私の心にささやいた歌をおきき 心かなしい詩人よ 心かなしい詩人よ お前は沙漠へ来るがよい お前の為にもう秘密のない地(つち)の上に 何故(な ぜ)になほとどまらうと云ふのか? 私は私の一番うつくしい光で 夏の短夜(みじかよ)のお前の歩行を照らさう。 沙漠には道がない そこではすべてが沙の中に始まり そしてすべてが虚空(こくう)の中に果(は)てるのだ そこではお前の歩む所が道になる そしてお前の足跡は風が消して行く そこでは沙の一つぶづつは 美くしい神秘によつて匂ひづけられてゐるのだ そしてお前は私を望み乍ら 目的のない歩行の快(こころよ)い酩酊を味ふであらう。 元より歩む事は考へる事ではない それは次々に去り行く事物の連続を見ることだ それは空間に生命を感ずることだ そして明日(あ す) お前は新らしい風景の中へ行くであらう その道は果のない単調な道だ 然しお前は知るだらう 歩くことだけでお前の魂が満足することを 何故(な ぜ)ならお前は今 すでに秘密を持たぬ地の上で お前の読んだ書物の為に苦しみ お前の踏まなかつた道の為に痛んでゐるからだ。 そしてお前の足が疲れた頃に 沙漠の砂丘はお前の為に寝床をつくり 星はお前の為に千万の灯を点ずるであらう 心かなしい詩人よ 心かなしい詩人よ お前は沙漠の砂の上に来るがよい 沈み行くあかつきの赤いお月さまが 私の心にささやいた歌をおきき ——僕は「赤い月」を買うことにして、そこで長谷川君と知り合うと、ちょうどその時僕の最初の詩集『月光とピエロ』と最初の歌集『パンの笛』を自費出版するつもりでいたから、早速会って装釘を頼むと、「やりましょう」って、快く引き受けてくれました。  さて、ちょっと、今日は、あの襖の所に掛け軸を一幅、出しておいたの。さっきから目についているでしょう。いつも鉄幹先生の短冊を掛けてある場所だけれど、この話をするために必要なので出しておきました。「鉄幹先生、ご免下さい」って、ちゃんとご挨拶して、失礼して重ねさせて頂いた。  あれは達磨(だるま)の座禅図の拓本です。この絵のある碑は、中国の西安に碑林という所があって、そこにあるの。つまり古い碑をたくさん集めた、野天の博物館みたいな場所ですね。  この座禅図と、もう一幅、対になっている蘆葉達磨の図というのがあるのだけれど、そちらは今日は出さなかった。  また話がそれるけれど、達磨大師というのはインド人(南インド香至国=バラモン種の第三皇子で、般若多羅に仏法を学び、大乗禅を唱える)で、インドから中国へ渡る時に、芦の葉に乗って海を渡って来た、という言い伝えがあって、それを絵にしたものがもう一つの絵の方です。達磨の絵は、エピソードによるものが多くて、「面壁達磨」とか、「慧可(えか)断臂」とか……これは嵩山の少林寺で九年間、面壁座禅していると、自分の左の腕を切って誠を示した慧可に、禅の奥儀を授けた、という話。それから「双履達磨」。これは達磨ははじめのうち中国の梁(りよう)の武帝の尊崇を受けるのだが、後にうとまれて、毒を盛られたのを、知りながら服して、死地におもむく時、手に片方の沓を持っている、という絵ですよね。  さあ、それはさておいて、僕の家の双幅の掛け軸の拓本は、中国へ絶えず行ったり来たりしていた小越平陸(へいりく)という人が、持ってきてくれたものです。長岡近在の庄屋さんの倅さんで、父とは親しくしていたお人でね。  父は、記録魔で、何にでもすぐ覚え書を書くから、——たとえば、"Le Japon Intime"(『日本の内面』)という本の巻首に「一九三五年七月十九日南米モンテヴィデオにて堀口九萬一求之」。巻末の余白に「一九三五年七月廿五日アルゼンチン国都シティ・ホール・ホテル一○三六号室にて読了。時に余、文化使節として南米に旅行中なり、後日の思ひ出の為め記之」と言った調子でしょう。  だからこの掛け軸にも、大正六年十二月に小越氏から頂いたもので「堀口九萬一珍蔵之」と、ちゃんと書いてあったの。  僕は昔、父がいちいちそんなことを書くのを可笑しく思っていたけれど、でも何でも書いとくものねえ。そのおかげでこの軸が、実に何十年ぶりかで、僕の手許に戻ったのだし、またこれが戻ることがなければ、これからお話しする長谷川潔君が、この絵から一大インスピレーションを得る話を、僕は忘れていたものね。  さて、僕が長谷川君に出会った翌年(大正七年)の秋、父はスペインから帰って渋谷の南平台に家を持ったので、僕もそこへ移りました。  ある日、長谷川君が僕のところへ遊びに来て、しばらくして父の部屋へ挨拶に行ったんだね。すると父はこの達磨の軸を貰い立てで、嬉しいままに部屋に掛けて楽しんでいたそうです。  長谷川君はこの絵の前に坐ったきりで、それこそ達磨みたいに動かなくなってしまったというのね。僕は彼がなかなか帰って来ないから、またいつものように父が長話してるんだろうぐらいに思っていました。すると彼はろくに物も言わずに、その日はフラリと帰ってしまった。  で、晩の食事の時、父が僕にきくの。 「あの人は、絵画きさんかい?」  って。ええ、画家ですよ、と言うと、 「そうだろう。あの絵の前に根が生えたみたいに坐ってじーっと見てたよ。あれきっと、もっと見たいに違いないから、明日にでもお前持って行って貸しておあげよ。あの様子は只事じゃあないよ」  って言うのね。それで翌日またわざわざ渋谷から大森まで、この絵を持って行ったの。  家のパパが言うんだが、あんたまるで石になったみたいにしてこれ見てたそうじゃないか。お貸しするから飽きるまで見給え、って親父が言ってたから置いて行くよ、って言うと、長谷川君は非常に喜んでね。  そしてこの年の八月、僕ら一家は日本を離れて、父の新任地ブラジルへ向っていました。  長谷川君は、数年後にアメリカ経由でフランスへ渡るわけだが、借りたあの軸物を返す堀口家がなくなっていて困ったのだろうね。彼の三人のお姉様の内、伊東さんという一番上の姉さんの大きな土蔵にそれを預けて行ったらしい。  それで父も僕も、あの軸のことはすっかり忘れていたのが、二、三年前、突然伊東と名乗る女の方から電話がかかってきて、お返ししたいものがあるということなの。それが今では老婦人におなりの三人のお姉様方。揃って葉山へ訪ねてみえましたよ。少々虫が食いましたが、ってこれ返して下さった。  開いて見て僕は、へえーっ! と思いましたね。どう? この達磨の絵。黒地に白い線でくっきりときれいに抜けているでしょう。  これこそ、長谷川君が大正十三年頃、パリで大評判を取った銅版の特殊技法、mani俊e noire(マニエール・ノアール=黒の技法——黒地白抜き版画法)を思いつく、ヒントになったのだ、とその時僕ははっきりとわかりました。  僕が少年時代、吉井勇さんの歌に出会って、電気に触れたように啓発されたことがあったあれと同じように、長谷川君はこの達磨でショックを受けたのでしょう。  芸術家というのは、丁度その人が燃えようとする瞬間に、何か一つの刺激物に出会うと、パッと目を開かれることがあるのね。ほかの人が見れば何でもないような平凡なものでも、たまたまその人のそういう時期に、その人の本質に適合したものに出会った場合に、そういう大飛躍を生むことがある、というわけよ。  それにしてもこの話、父の記録癖のおかげで、こうして今、話せるのだねえ。 「在仏長谷川潔銅版画展」——つまり、作品だけが来日した展覧会が、昭和三十三年に中央公論画廊で開かれたが、そのプログラムの彼の略歴欄によると、大正十四年、パリで初の個展。翌年にはその作品がジュウ・ド・ポーム美術館へ入り、由緒あるサロン・ドウトンヌ会員に挙げられている。この時まだ長谷川潔は三十五歳の若さである。昭和五年にはパリ、デザール・デコラチーフ美術館主催の第一回国際展に出品したマニエール・ノアールの銅版画「エッフェル塔とフランスの飛行船」ほかの作品に一等賞、同十二年にはパリで開催の国際大博覧会で金賞牌。ルーブル美術館、ニューヨーク図書館などによる作品買い上げは、枚挙にいとまがない。  さらに、同プログラムには、フランスの美術評論家協会会長という肩書付きのシャルル・クンスレールの評論が、大學先生の訳で載っている。 〈……この奥儀のゆえに彼等は万物の美を巧みに捕え、蜜蜂さながらに、見る人の眼にも心にも甘やかな蜜を作り出すことが出来るのである。このような魔術者級の芸術家の一人、画家にして版画家の長谷川潔の……最大の栄誉は、久しくフランスに於て忘れられ、かえりみられなかった技法、ラ・マニエール・ノアールを、一九二四年という年に、復活させたことであらねばならない。  一六四〇年頃、ルイ・ド・シーガンによって発明されたこの《技法(マニエール)》に……多年にわたる暗中摸索の結果、ようやく再発見し……以前にはなかった柔軟性と多様性とを与え、これを豊富にし完璧なものにし……竪琴(ハープ)の弦が余韻を残すのにも似た生気に満ちた顫動を画面に与えることに成功したのである。  フランスの古い仙女物語の灰姫(サンドリオン)さながら、久しく卑しめられた貧しいものが、長谷川潔の彫刻刀(ビユラン)という名のこの魔法の杖のひと触れで、美の世界に君臨する輝かしいまでに本ものの女王様に生れ変るのである。〉 ——ね、これはパリの長谷川君が、僕のところへ送ってくれた銅版画です。小包みの消印に一九六四年とあるね。宛名の字もキチンとしていかにも几帳面でしょ。航空便書留印刷物、取扱注意とこまごま書いてある。この細心さがないと、制作時間が長くかかって、技(わざ)は煩瑣で、その上刷りの技術も極めて困難というマニエール・ノアールなんてこと、とても出来ませんよ。  彼の主題(モチーフ)は、風景とか花や果実が多いけれど、一番愛するのは何でもない雑草、普段は醜草(しこぐさ)の名でかえり見られない野の花でしょうね。それで、クンスレール氏は、灰姫(サンドリオン)の例を上げているのよ。  どうです。この「コップに挿した雑草」なんか、コップが黒いバックに透けて、いかにも涼しげなガラスの材質が手に取るようだし、この名もない花や草のやさしげな存在感はどう? 気品があって、ほのぼのとして、しかも豪奢なこの効果は、どうですか。  長谷川君が言うには、われわれは皆、生れながらにして、自分の中にラジオの受信機(レセプツウール)を持っている、というのね。しかし機械に良し悪しがあるように、各自のレセプツゥールのサンシビリテに違いがあるし、また自然の発信機(エメツウール)からの放送を、絶えず聴き取ろうと心がけていない者にはキャッチすることはできないのだ、と言っています。つまりかすみ網張っていなさい、ということね。  彼は、パリの田舎道を歩いていて、路ばたの石ころや、一疋の蝸牛や、一茎の野草や、一枚の落葉に引きつけられ、そこから自然の放送を、つまり神の言葉を聴くというか、宇宙の神秘を知ろうとするのね。  あるいは、飾棚の裸の人形、古道具屋の片隅で見たオブジェなどのいろいろな形や色や線を通して、突然彼のレセプツゥールはショックを受け、何か響きを感じるのでしょう。  そういう時、それらの話す言葉のヴェリテをできるだけ確かに聴こうとして、何時しかそういうものと一体化する。またはそれらのものが人間と同じように見えてくる。その時一切を忘れて感激の時が続く。——自分の作品はこうして生れてくるのだ、と彼は言っていました。  しかし、黒地に白抜きとは、実にいい効果を上げるものですね。白地に黒で描いたものより、線がずっと美しく出る。卑近な例だがゆかただって、白地のはいかにも娘々して平凡だけど、藍染めの白抜きの方が涼しげですっきりして粋筋好みの感じよね。 「潔君には、さっき話したお姉さん三人のほかに、病弱で夭折なさった弟さんの弘君という人がいたの。これは弘君の詩集ですが、この中の『兄の俤(おもかげ)』というの、哀れですよ。声を出して読んで頂戴」  と、先生のお取り出しになった薄手の本は、古びてはいるが臙脂色裏皮の表紙に「ROSA MYSTICA」と金文字が押してあり、三方金の立派なものであった。  扉には「奥ゆかしき〓瑰花(まいかいか)」とあり、序文は日夏耿之介である。  「兄の俤」 病みし心の慰めにと 束ね差したる白薔薇も 仏蘭西焼の白磁器に 青白く煙る夕は来ぬ 病(いたづ)く身には花葢(はながさ)に灯(あかり)来ぬ かはたれの中こそよけれ 敷布も窓も白壁も 皆 白薔薇の香に薫ず 看護婦(み と り)の在らぬ孤独(さみし)さに ふと立ちあがり白壁に 夕暮溶かす大鏡(すがたみ)に 身も溶け入らむと近よりぬ 底なく澄みし夕暮に 浮ぶわが顔 病み細み しげしげと見守るわれに ふと過ぐる 兄の俤  大學先生は、私が夕は来(き)ぬと読むのを「来(こ)ぬでしょうね」とか、夕暮溶かす大鏡(すがたみ)に、のくだりで「そこがいいね」とか、浮ぶわが顔 病み細み、では「何と哀れなことか」などとおっしゃりながらお聴きになる。 「弘君は日夏崇拝だから、妙な字使いの癖があるので、ちょっと読み難いでしょう。フーン、ミスティカを、奥ゆかしきと訳しているんだね。薔薇を〓瑰花(まいかいか)と言ったり。若いから一生懸命ですね」  ご病弱だったご自身の青春の日の孤独と、この薄命な青年詩人の夕暮れの中の寂寥とを、今ピタリと重ね合せるようにして、先生は昔を思っていらっしゃる。  私は私で、この詩集の日夏耿之介の序文の文字につまずきながら、目で追っている。 〈神奈月、その午下り、荒れまさる一村の別業に歩を逗め、日も冷やかに雲愁ふ後園の黄艸離々たる露台のかげに捨てられし、淡青玻璃の古代人形をふとしも彳みて打ち眺めたることのありき。  この集の詩人は、まことに毀たれ易き病弱の身を医薬に親しみて生きてあれども、その若き魂は寂しく思慮深く、又、悲しく慎ましやかにして、譬へば、夫の玻璃の人がたに秘められし珍貴香料のごとし。(略)  今、わが青春病弱の作者よ、君が名は涙の歌もて綴られたり。  このかすかなる涙のかげを、ああ何者の来りてよく亡みしうべきぞ。〉   一九二〇年、仲秋——の文字までをやっと読み終えたとご覧になると、先生は、 「それがゴシック・ローマン体の文章ですよ」  と、解説して下さる。  私は、耿之介の詩集『黒衣聖母』の序、 〈……本集の仮りにゴシック・ローマン詩体ともいはヾいふべき詩風は最近の私の思想感情を領してゐる傾向の結果であるが……私の思想の退嬰性と向日性と不安定と私の感情の沈鬱と奇古と反撥性とはこの表現に委曲をつくしてゐるのであるのだから私のすべてに不快感を感じる人は句文の末節にまで私を不快とし、私の都(すべ)てに好感を持つ人はかゝる末節にまで私を信愛するであらう。……〉  という箇所のあったことを思い出し、これでは、大學先生と芸術観の相違から袂を分つことになるのも、仕方のないことだ、と今更にそう思った。 ——僕が日夏君と知り合ったのは、やはり大森の望翠楼で、長谷川君を知る少し前だったと思うね。彼もやはりその頃大森に住んでいたし、あの時代は芸術にたずさわる人間というのがそう多くないから、すぐ知り合いになるしね。長谷川君も、日夏君の本にはずいぶん装釘をしているでしょう。  僕もはじめのうちは日夏君の引き立てを受けて、兄とも父とも慕っていたものでした。詩集を献じて「この書汝によりてあり」と書く程。  彼の詩集『転身の頌』刊行記念会は、大正七年一月、メエゾン・鴻の巣というところで行われたのだが、そこには白秋、龍之介、犀星、露風……とそれは賑やかな顔ぶれで、もちろん僕も潔君も出席しています。  潔君は日夏君とのつき合いの方が僕とより長くてね。西条八十や森口多里といった人達を加えて「仮面」という同人雑誌を出したりしていたから。  日夏君とのけんかの話は、僕の年譜にも出ているし、座談会でも話したことがあるから、くり返すのはよしましょう。  ただ、あの人は目の怖い人だったね。じっと見られると、とても怖かった……それを思い出します。  周知のけんかの話とは、こうである。  昭和三年三月から、先生は耿之介、西条八十と共に、詩誌「パンテオン」を刊行し、先生はその中の「エロスの領分」を主宰なさった。  すると耿之介がその部分に油紙で封をしてから雑誌を開く、ということが人づてに先生のお耳に入った。先生が事実をおただしになると、確かにそうだという。今後、そういうことは僕にじかに忠告してくれと言うと、それは言えないという。 「それじゃ、しょうがないわ。僕の思い違いだった。これで交わりを断とう。ただ交わりを断っても、君と僕との友情は世間で非常に尊ばれているものだ。めずらしいもので、美しいものとされているものだ。その手前もあるし、どうか往来で会ったら帽子を脱いで挨拶をしよう。会合の席で会ったら手を握ろう」  と、先生がおっしゃると「うん」と答えたそうだが、すぐにそのあと、雑誌掲載の時はほめてあった堀口大學論を『明治大正詩史』には大幅に書き換えて載せた。それには、 〈……その色情詩は、何等人間生活の本能的桎梏にまつはる痛烈深刻の体験に根ざさざる、遊戯的淫慾の文字上小技巧の小産物にすぎざる点に於て、共同後架の不良的楽書きにも如(し)かざる、風俗史上の興味を牽く程度の価値あるものにすぎない。……〉  とある。いかにも気難かしい耿之介らしい攻撃の仕方だが、一方、先生の一番の親友である佐藤春夫にしても、『堀口大學詩集』(角川文庫版)の解説の中で述べている先生のエロスの詩に対する意見は、いつもの絶讃調と少し趣きを異にしている。 〈……怪しむべく興味深いのは彼の詩神(ミユーズ)があまりに愛神(エロス)に酷似(こくじ)してゐることである。……しかしその本源は同一であらうとも詩と愛慾とはその形に於ては手形と金貨とほどに相違してゐる。しかし彼の詩の場合は機智と暗喩とによつて多少の変貌はあるとは云へ、紙幣と手形ほどによく似てゐるのである。僕は彼のこの種の作品を必ずしも痴漢の共同便所の楽書と同一視するほどの粗忽者(そこつもの)ではない。さうして必ずしも、その実感を除き去れとは云はない。ほのかに漂ふ実感も率直な流露も亦よろしからうが、もう少し詩に変貌してゐることが必要であり望ましくもあつた。……〉  だが、萩原朔太郎は、もう少しアングルを変えたあたたかい言い方をしている。『現代日本文学大系』(筑摩書房刊)の中の「堀口大學君の詩について」という一文では、 〈日本の詩壇の不幸は、専門の権威ある批評家がいないことである。日本では詩の作家同士が、互に他を批評し合う外、詩の評論される道がない。……自分と似ないものや、反対の主張に属するものやを、くそみそに悪く非難する。……すべて同党異伐のもので、……堀口大學は本質的の詩人である。だがその亜流者にして、彼の趣味性のみを学ぶものは危険なるかな。僕は堀口君に対して、百の詩人的愛敬を持つと共に、その亜流モダン派の流行作家に対して、同じく百の警戒を持たねばならないのである。〉  となる。つまり、大學先生のエロスの詩は、先生ご本人だけの大胆と抑制とによって、天と魔界の間の綱渡りのようにスレスレの芸術性を保持しているので、現象面だけを真似た亜流者は、最も成り立ち難い存在(犀星、朔太郎、耿之介、白秋とそれぞれその亜流者達よりも……)なのだ、ということを述べている。  いずれにしても、先生は早くこの世にお生れになりすぎたのですね、先日、「芸術選奨文部大臣賞」をお受けになった、今五十代のある作家でさえ、二十年前には、あんな不良のお兄さんを持って、と妹さん方が世間に居心地の悪そうな思いをなさっていたということを、最近その方から伺いましたもの、まして先生は、もっとずっとずっと前の時代のことですからね、と申し上げると、 「そう、早く生れすぎて、風当りがきつかったですね。しかしそしられっ放しで早く死んでいたら、僕はもっとみじめでしたよね。長生きしたおかげで、酬われることも少しはありました。  よく僕が言うでしょう。凡才も盆栽も、古くならないと値打ちが出ないって、ね」  とおっしゃる。  凡才では古くなっても、値打ちは出ないのだろうけれど、むしろこれは、パリの大通りを一番先にこうもり傘をさして歩いた男が、あちこちの窓から石をぶつけられたという、あの男の話に似てはいないだろうか。  私は、先生とお話ししながら、先生が耿之介との友情を保っておいでの頃に彼に献じた「冬」という作品と、ずっと後にこれは長谷川巳之吉に献じた「友」という詩と、二つの作品のことを思っていた。  「冬」  或は日夏の転身 これは冬である 日夏耿之介の転身である。 この転身を弔はう。 痛ましい喘息が 黄色い歌になり 苦(にが)い淡竹(はちく)の汁が 不眠の寒夜をなぐさむる この転身を弔へば わが目に浮ぶは 紺碧深き赤道真下の熱帯海 雪の死布(かけぎぬ)をきた 桃色の珊瑚礁。 これは冬である 日夏耿之介の転身である。 この転身を眺めよう。 この転身を眺むれば 難破船の傾いた甲板に群がつて 賽の目をふる幽霊たち それ丁が出る 半が出る 西の地平に紫いろの月が出る  「友」      ——M・Hに 死にさへしたら 人は忘れるものだから。 苦痛は治るものだから。 飛魚は鳥ではないのだから。 心よ、そんなにあわてるな。 小さな光でも、ああ、見たいものだ。 薬とまでは望まない、 ただのガーゼの小片(こぎれ)でよい、 傷を被うてはくれまいか? 心よ、心よ、お前は何を怖れるか、 敵(かたき)もみんなやがては友になるのだから、 怖れることなどありはしない、 そして友もみんなやがては敵になるのだから? 夜が明けて日が暮れるのだから、 日が暮れて夜が明けるのだから、 そして夜明けは親切にお前を殺す友なのだから、 友なのだから? ——ああ、長谷川潔君のその後ですか? 彼は今もパリで健在です。ジャック君という子供連れの、ミシュリーヌさんという未亡人と結婚してその後ずっと連れ添っているというのも、やさしい彼らしい話ね。  日本には一度も帰ってきませんが、僕はちょいちょいパリで会いました。でも最後に会ったのが大正十四年。だから、五十年以上会ってませんね。西条八十君と一緒にパリで会って、その時は奥さんとジャック君同道で、マルセイユまで見送ってくれたものでしたよ。  大學先生は、夕暮れの光の中に、ふと夕餉のお膳をお想いになったのか、可笑しいことをおっしゃる前の楽しげな表情をちょっとお顔に浮べて、 「望翠楼ホテルじゃ、いろんなことがありましたよ。春夫君は、僕が滞在しているとよく自分も来て泊っていましたが、あそこは朝昼晩と洋食ですからね、二人共味噌汁が飲みたくなったの。  その頃、春夫君の熱心なファンで、横浜あたりの財閥の若奥さんでK夫人というのがよく通ってきていた。一人じゃ恥かしいんで、未婚のお妹さん一人を連れてね。それである日、味噌汁が食べたいと言ったら、お味噌を持ってきてくれたので、春夫君と二人、部屋のストーブで味噌汁つくって食べたりしたものですよ」  と、おっしゃる。  いつの時代にも、文学好きで、その作品が好きなのか、その作家が好きなのかわからなくなってしまう、ちょっと私みたいな女の人がいるものなのですね、と少しくすぐったい思いで笑うと、 「そうよ。それが大事な文学の推進力になるんだから、いいことですよ」  と慰めて下さり、 「僕が、そのことで春夫君をからかった詩があるの。ご存知?」  と、おたずねになるので、ああ、味噌汁とかいう題の……と申し上げると、 「そんな下世話な題ではないのよ。たとえ、内容は味噌汁でも、詩というものは、絵の題名もそうだけれど、作品を生かすも殺すもそれ次第という微妙なものでね」  と、おたしなめになり、お示しになったその題名に、私はすっかり驚歎してしまい、先生は何て素敵なの! などと心からなる感激の声をあげ、折角静かにしていらっしゃる老先生のお部屋の空気を、少し、かき回してしまった。  「キュピドの矢」 春夫 味噌汁が出来た あの奥さんに戴いたお味噌だ おれたちが買つた茄子(な す)の実(み)だ 喉に骨がささつたら キュピドの矢だとあきらめよう 第十四章 女たち ——佐藤(春夫)君と味噌汁をつくって食べたりした大森の望翠楼ホテルね、たまたま五年ぶりでブラジルから帰朝して僕は大正十二年のあの関東大震災に、やはり佐藤君と一緒にあそこで出会っているの、因縁(いんねん)だねえ。  僕は家族と一緒にあの年の七月帰国して、短期間の日本滞在だったから家は持たずにホテル暮しでした。すると、佐藤君も僕のそばがいいというので、すぐにやって来るのだが、あの時は、のちに結婚することになった例の教坊の……小田中民子さんに熱くなっててね、民子さんというのは、新橋の芸者さんなんだが、あの日は丁度この人と一緒でした。  九月一日の昼頃、遠くでゴォーッという音が聞えたかと思うと、すぐガラガラッと来てね、ホテルの部屋のガッシリした洋服ダンスがドドドーッて、部屋の真ん中に移動して、反対側の壁にドスッとぶつかる。するとまたガァーッと戻って行って、元の壁にドンと当るんだ。  僕の部屋は一階だったから、庭へ飛び出しましたが、芝生の庭が波の背のように盛り上っては沈んで、こう、うねるわけよ。生きた心地はなかったね。  その晩は余震がひどいので、芝生に椅子持ち出して客は皆野宿しましたが、とにかく心細いってないのよ。だって父は講演旅行で東北地方へ行ってたし、母(二度目の母よ)は弟と妹を連れて麻布の獣医学校へ行っていた。その頃、僕らは狆を大事に飼っててね、それが風邪ひいたんで(本当にチンクシャの顔になりましたよ)診て貰いに行ってたわけだから。  父はあわてて帰って来たものの、川口駅あたりで汽車は動かなくなり、あとは徒歩だからずいぶん遅くなりました。ママンも弟達も歩いて帰って来ましたが、何しろ顔見るまでは心配でね。  佐藤君は余震がおさまるとすぐホテルの山を降りて民子さんを新橋まで連れて行かなくちゃならない。なにぶんお金のかかってる身体だから、抱え主のところへ早く返さなくちゃいけないのでね。  だから、僕は一人で家族を待つことになって、余計心細かったわけよ。パニック状況になると、人は常軌を逸するから、バカなデマが飛んだりして、それが余計心細さをあおったしね。だがとにかく、一同無事で会えてホッとしました。  この二度目の母に、最初に会ったのは僕が十三歳の時の春休み(明治三十八年)。たまたま帰国中の父を長岡から上京して、芝の三田綱町の家に訪ね、引き合わされました。父はその六年間に任地のベルギーで、スチナ・ジュテルンドという名のこの女性と再婚していて、僕には異母妹に当る岩子も一緒に紹介されました。岩子はもう五歳になっていましたよ(この妹が、後年優雅な横鞍式の——そう、貴婦人向きのあの横乗りの馬術を珍しがられて、三島由紀夫夫人その他にもお教えすることになります)。  僕は初めてこの母を見て、弱々しい美しさの生母に比べて、何て骨太で生き生きとした美しいひとだろうと思いましたね。今思えばまるでレンブラントの絵のような……ああいうのを典型的なフランドル(ベルギー西部)美人というのだろうね。  でも初対面の時は、お互いにまったく言葉が通じないので、ただニコニコして目を見合わせているだけでした。  大學先生は、楽しそうに、 「僕がバナナをお菓子と間違えた話、しましたっけ?」  と、おたずねになる。バナナの話とはこうだ。  この二度目の母君には初対面の、遠来の客をもてなす何日めかの晩餐のデザートに、バナナが出た。先生はその上品な色と言い、整った形と言い、ほのかな味と香りと言い、種子のないことも合せて、バナナを、すっかり上等なお菓子と思い込んでおしまいになった。  その頃はまだ、バターやチーズは横浜まで行って、入港してきた船から頒けて貰わないと手に入らなかったそうで、パンが欲しければ、粉を買って来て家庭で焼く。洋風の暮しをするには大変不便な時代だった。 「父が、また二、三日したら、横浜へフランス汽船のアルマンベークが着くので、出掛けるが、大學、何か欲しいものがあったら買って来てあげよう、と言うのね。  僕は、じゃこのお菓子を買ってきて頂戴と言うと、これはお前、お菓子じゃない、果物だよと言われて、僕はカッとなって怒ったの。田舎者と思ってあんまりバカにしないで下さい。僕でも果物とお菓子の区別くらいつきますよって。すると父はあきれ顔で僕を見ていたけれど、この愚度し難しとでも思ったんでしょうね。これは熱帯の芭蕉の木になる実で、こんな風に……と、台所から房のままのを取寄せてねんごろに説明してくれたので、僕もやっと納得したものでしたよ」  私も、前にチラリとそのお話を伺ってからは、バナナを食べるたびに、ヴァニラのアイスクリームのような、本当にケーキみたいな、と思えてきました、と申し上げると、 「ね、そうでしょう。この一件も、僕が物を裏から見る力を持っているから、ということになりはしない?」  と、四分の三世紀前の小さな屈辱の挽回に、まだお努めになるのだった。 「コクトーが、春の樹木は裏返しだって言ってますよ」  お庭の樹の新緑に目をお向けになって、突然こうおっしゃるので、どうしてなのでしょう、若葉はよく裏を見せていますけどね、と助けを求めても、 「それも一つの解釈ですね」  とだけしか答えて下さらない。 ——僕がママンと一緒に暮すようになったのは、十九歳の時(明治四十四年)、慶応を中退して、横浜から出帆し、ホノルルを経てメキシコへ着いた時からでした。  父の家庭では、日常の通用語が、フランス語なので、どうしても覚えなければ用が足りない。それで早速マドモアゼル・カマチョという老婦人について、本腰を入れたおかげでじきに話せるようになりました。何ごともそうよね。目的なしにのんびりやってることはあまり身につかないで、必要に迫られて短期間に集中して勉強するとメキメキ上達する。  父の二度目の奥さんがフランス語を常用する女性でなかったら、僕は必死で勉強しようとは思わなかったでしょうから、僕は翻訳家としての道をたどらなかったでしょうし、フランスの詩、フランス人の心を深くさぐることもなかったでしょうね。だからよく僕は言うの。僕を生んでくれた母が亡くなって、僕のフランス語になってくれたのだって。  一方では文人としての父の手引きということも大いにありましたけれど。モーパッサンの小説やパルナシアンの詩を読み始めたのもヴェルレーヌの詩を知ったのも父のおかげでした。  その頃から少しずつ訳詩を手がけ出して、シュリ・プリュドムの『きずついた花瓶』だとか、ミュッセの『フォルチュニオの歌』だとかを訳したりしましたが、今は何も残っていないようですね。 「堀口大學」の教養課程(語学)は継母が受け持ち、専門課目(仏文学)を父が受け持ったということは、実にお幸せな家庭環境であると言える。  ちなみに、大學先生のその頃のご家族内での愛称は「ニコ」である。にいさん、にいさんと弟妹達に呼ばせようとする内に、いつの間にかニコとなり、それが周囲の外国人達にはニコラスの略称のように聞えて、やがて先生の洋名ということになった。  コクトーやポール・フォールのサインにもTO NICOという文字が読み取れるが、先生をニコと呼んだ多くの外国女性がいたことは、次の詩からもわかる。  先生は、ある日、この詩を「泣いたり騒いだりする女性のための鎮魂歌」、とおっしゃったことがあったが。  「春の消息」        組詩   あめりか文 このクリスマス・カードと 去年のそれとのあひだに ワシントンでは また一年 時が流れた ニコよお前の東京では また一年 時が流れた ——マダム あなたを思ふ」と 一度もお前のペンが書かずに   るまにあ文 ニコよ 位をすてて 外国へ走つた皇太子は またこの国へ お帰りになるとの噂もあるが 歌麿の女の国へ あたしを捨てて走つたお前は 夢の中でよりほか帰つてこない 歌麿の女の国 東の東のはての国 お前がいま住む日本は 夢の国だと人は言ふが どうやらあたしもそれを信じる ニコよ ニコよ   ぶらじる文 あの海辺の砂にねころんで あたしは空の星をかぞへる 流星の一つを見るたびに 人の心は変るといふ 地震も殺さなかつた 遠いあたしのニコよ 何がお前を殺したか? 思ひ出ばかりが生々しく   ニコの返事 時のフィルムの遠くに残る 昔の恋人よ 遠い女たちよ 世界のはてしに 君等は残る 心ばかりが心に近く ルヰーズよ デデよ クレオニスよ シネマのフィルムは巻返せるが 時のフィルムは巻返せない さかさにたどれば君等は遠い かへらぬ小鳥 遠い薔薇(さうび) やさしい心 遠い心 ——父もこの二度目の母のおかげで、外交官としてどれほど助けられたか知れないのよ。  外交官の妻としての社交性、教養、優雅さ、魅力、どの点でも申し分なかったけれど、特に社交性の点では、あの頃の日本女性は引っ込んでばかりいたから、継母のようにはいかなかったでしょうね。  だからメキシコ在任時代に革命が起きた時も、大統領の家族はまっすぐ日本公使館を頼って逃げ込んで来たくらいですから。ほかにイギリスのやフランスの大公使館もあるのにね。夫人が母といかに親しかったかがわかるでしょう。  大統領のマデロは、既に陸軍を中心にした革命軍に捕えられ、その私邸は焼かれてしまったのだが、日本公使館も家族をかくまっていると焼き打ちをかけられるぞという流言が飛んで、女子供はひとまず避難させろということになり、僕らは大統領の公邸へ移りました。夜、明りを消した自動車に、身を伏せるようにして乗ってね。何しろバンバン銃弾が飛び交う音の聞えるさなかですから。  ストックホルム生れの弟の瑞典(よしのり)(これはボビーと呼ばれてましてね)は、三歳くらいでしたが、その晩大統領の立派なベッドに寝かされて、おねしょをするという珍談もあったりして、でも翌朝、何ごともなく、また公使館へ帰りましたがね。  父は革命軍の本部へ出向いて強硬に掛けあって、大統領の釈放を求めると、国外へ逃すことを約束してくれたそうですが、さて発車駅で、いつ迄待っても遂に姿を見せなかった。実はその時はすでにもう殺されていたんだろうって、あとで推測していました。  革命軍の政府が出来ると父はメキシコを去って日本へ引き揚げましたが、大正二年の八月には僕の同腹の妹、花枝を京都の秋山家へ嫁がせると、翌日匆々(そうそう)日本を出発、新任地スペインへ、ベルギーの首都ブリュッセル経由で向っていました。この時は継母の父のシャルル・リグールさんの家に家族ぐるみ、一週間ほど滞在していました。  このリグールさんという人は、裁判所の書記官で、ヴェルレーヌがランボーに乱暴した(洒落じゃないのよ)事件の裁判に立会っていて、判決文に書記として名前が載っています。ルベルチェの大著『ヴェルレーヌ伝』で僕はそのことを知りました。  あの事件は、男二人でベルギー国内を旅行していて、ランボーがもう別れて帰りたいと言い出したのをヴェルレーヌが怒ってピストルを向けたという事件ですが、弾は(ランボーの)左の手首をかすっただけなのに、それにしてはヴェルレーヌは重い刑罰を受けていますね(重禁固二ヵ年)。ベルギーという国は、大変カソリックの戒律の厳しいお国柄で、あのような同性愛を根底にした不道徳な傷害なぞに対しては厳しすぎる程の判定を下したのでしょう。  ほら、そこにヴェルレーヌの胸像がありますが、醜男でしょう。ランボーも写真で見ると何とも不思議な顔をした少年ですが、ヴェルレーヌよりうんと年下だし、若ければそれだけできれいなところもありますしね。  さて、話が横へそれたけれど、父は僕をブラブラさせておいても仕方がないというので、リグールさんの斡旋で、ベルギー国立銀行に勤めさせることにしました。外交官が駄目なら銀行家に、と思ったのでしょうね。日銀委託研究生という名義だから、無給です。でもここに三年勤めれば、日本へ帰って日銀に勤められるという内約を、父は当時の日銀総裁(水町氏)としていたらしい。きっと無理に頼みこんだのじゃない? いけないよねえ。  僕は銀行員になるつもりはさらさらないから、親の心子知らずで、毎日遅刻です。朝はリグール老人の手前もあって、ちゃんと家を出ますが、悠々と散歩しながら行くので、到着はたいてい十時半頃。ひどいものね。  すると、銀モールつき制服の大男の門番が、「ムッシュ・ホリグチ、総裁閣下はもうご到着ですよ」と言いやがるの。つまり、お前は遅いねって言ってるのよ。小意地が悪いね。向うは、無給の研究生だなんてこと知らないから、咎め立てしてるわけね。僕は堂々と胸張って、「C'est bien(セ・ビアン)(よろしい!)」なんて答えてた。あきれるね。  だが、僕の血を吐く病いは相変らずはっきりしない。その年の暮れから新年にかけて、人並みにお祭気分を味わったのがたたって、正月早々また喀血。電報に驚いてママンは任地スペインのマドリッドから駆けつけて来て、土地の専門医に相談の上スイスのダヴォスにあるドクトル・チュルバン療養所へ入院する手続をしてくれました。ここはその後、トーマス・マンの小説『魔の山』の舞台になったところです。  肺結核というのはぜいたくな病気で、僕の場合、普段は熱もないし咳も出ない、静かに暮していれば別にどうってこともないの。もう少し重症でも、いい空気と十分な栄養と休養があればいい。だから療養所と言っても、食事は豪華だし、アルプス中腹の環境はいいし、娯楽設備は整ってるし、まるで一流ホテル並みでね。来てる人たちもロシアの大地主とか、アルゼンチンやメキシコの大牧場主とかで、召使の二、三人も連れて一戸建ての立派なヴィラで何年も暮している連中もあるの。  僕は大正三年(二十二歳)の一月から五月までを、のんびりそんな優雅な病院で過させて貰いました。ところがある時、計算書を見てびっくりしてね、親父の月給を知っているので、こんなことを続けてたら、破産しちゃうと思ったね。だから僕から自発的にブリュッセルへ帰ってしまった。  しかし有難いね。あんな贅沢も、みんな継母のはからいなんだから。自分の腹を痛めた子供が二人もありながら、出来そこないの継子の療養に大金を費すなんて、出来ることじゃないよね。これが小説の筋だったら、そんな不自然な設定はおかしいと言われるところでしょうね。  大學先生の近作「拈香序列」の詩は前に引用したが、その中で先生にとっての過去の女菩薩達を並べた中に、ワイキキの「浜」むすめとあるのは旅館「望月」のおきんちゃん、スペインの女流画家は、マリー・ローランサンとボナンザの鍵のように解けたのだが、「アルプス山腹の見習いナース」という一行のあるのを、私はその日思い出したので、ちょっと伺ってみると、わずかに、 「そうねえ……」  としかおっしゃらない。とても可愛い人でしたか? と伺うと、 「みんな可愛いですよ、看護婦さんは。白衣の見習い天使なんだから」  とお言葉が少い。今日は守りがお固いのね、と笑うと、 「あの真名瀬の山の向うのことは語りませんよ。山のこっち側のことだけ……」  とへんな規則を急におこしらえになる。 「……僕は今、空の雲を眺めているんでね、看護婦さんのこと考えて黙ってるんじゃないのよ。  あ、トンビが空を飛んでいる。鴉は何か一日中餌をあさっているようだが、トンビは朝早く海岸に打ち上げられているお魚だの、怪我をしてまごまごしている蟹だのを一口食べればそれでもう一日じゅうおなかはいいとみえて、あとはああして悠々と空を飛んで歌っているんだね」  もうやめた。鴉みたいにあさるのは。  先生をもっと知りたければ、先生の詩集を百ぺんくり返し繰れば、わかるかもしれないもの。 ——ところで、ママンを僕の父が獲得する迄には、二人の強力なライバルがあったらしいのよ。一人は松方コレクションで有名な松方公爵家のご令息、松方幸次郎氏。もう一人はのちに日本財界の大立物になった郷誠之助氏。当時二人ともブラッセルへは留学に来ていられた御曹子たちで、いいご身分なんだ。それに引き替え僕の父は、その頃はまだ三等書記官でしかないし、やもめで、日本には二人の子供がいる(僕と妹の花枝)。  あの頃、欧州全土に日本熱が盛んで、ベルギーでもリグールさんやその周辺の人達にちょっとした日本ブームが起きていて、日本の浮世絵とか陶器漆器、織物を好きだったので、そんなことからこの三人はよくリグール家に出入りしていたらしい。もっともこの三人が好きだったのはそこのお嬢さんの方で、それで度々出入りしていたのだろうけど。  だが、その最も条件の悪い筈の僕の父が、スチナさんを射止めたわけだからね。そこが恋の不可思議なところね。  ずっとあとになって、ママンと僕はこんな会話をしたことがあります。 「ニコ。私は失敗したかね。いちばん貧乏な人、選んだみたいね」 「そうですよ。松方へ行ってれば公爵夫人だし、郷へ行ってれば大財閥の大奥さまですからね。何故、親父なんかを選んだんです?」 「だって、男っぷりがいちばんよかったものね」 「それじゃ、仕方がないでしょう」 「まァ、そうだわね」  って、笑っていました。  笑顔の綺麗な人でね、この額の写真なんか六十代だというのに、豊満で、四十そこそこにしか見えないじゃないの。  酒と薔薇の詩人、オマル・カイアム、ご存知でしょう? 『ルバイアート』の。あの人も歌ってますね。「酒は口より入り、恋は目より入る……」と。  母は一種の伯楽でもあったのでしょう。馬の良否をひと目で見分ける伯楽ね。世間的には最も条件の悪い父に、別の見どころを見つけて、それに賭けたのだからね。  父は、確かに恋の勝者であったわけだが、その有難味だけでおさまっているような人ではなかったから、相変らず艶福家で、時々日本へ帰ってくると新橋あたりでよく遊んでいましたよ。いえ、詳しく日記につけていたから僕は父の死後それを読んで知っただけですがね。  母には日本語が読めないものだから、それをいいことにして、書きたい放題書いて安心して放っておくんだね。だけど僕は読めるからね。  明治三十三年、急な用事があって、父が単身帰朝した事がありましたが、その時馴染(なじ)んだ新橋の芸者さんがベルギーへ帰る父を神戸まで追いかけて来て、貨物積込みで二、三泊する時間を利用して高野山へ行ったりしている間に、国外へ逃げられては大変と、新橋のかかえ主があわてて追いかけて来て、連れ戻すくだりなぞが事も細かに書いてあるのよ。  さすがは大學先生の父君ですね、と申し上げると、 「いいや、僕なんか、その比じゃない」  と、また逃げるご用意をお始めになる。  雑誌「海」の七月号に先生の最新作十篇が載った。  近頃かすみ網の効率がよろしいこと、と笑うと、 「どれもツグミやシギの小ものばかりよ」  とおっしゃりながらも、どの詩が好きかとおたずねになる。  「珍獣」 今から五六十年以前 その頃 西欧でも中南米でも 日本はまだ神秘に包まれた 極東の小国でした 「日本公使の息子」 それが フランス語を話し それが 詩を書くという 正にパンダ並みの珍獣でした 珍重されました ペットとして 社交界のご婦人がたに  この詩が面白いですね。でも先生はパンダなの? スペインでは、ローランサンの鶯ではありませんでしたっけ? と伺ってもどうせお答えのないのは知れている。そこでこう言ってみた。  先日、竹久夢二を特集した雑誌を見ていましたら、彼の絵にずいぶんマリー・ローランサンからの影響が強いことが論じられていました。夢二は、いいなと思う絵の切り抜きをたくさんスクラップブックに貼って置いてそれを「先生」にしていたみたいですが、ローランサンの日本の芸術家への影響というのはすごいな、と改めて思いました。夢二に比べて先生は、直接ローランサンとご親交があったのだから、とても恵まれていらっしゃいましたね、 と。 「そうね、皆、運命ですよ。父が外交官でスペイン在勤となり、丁度第一次大戦が勃発して、戦禍を避けてマリーがスペインへ来なかったら、僕達は会うことがなかったのですもの」  私は、雑誌「海」のもう一つの詩を挙げてから、次の質問に移ろうとした。  「愛のあかし」 あれ以外 愛のあかしはないものか 霊長類の人間の 男と女のなしように 身を寄せ合って さし入れる 吸い受けて 包みこむ 息はずませて 突きたてる 緩 急 徐 移し露流し合う…… 霊長類の人間の 愛のあかしはないものか あれ以外  何だか、これ悲しくっていいですね。先生のお年になっても、まだ「ないものか」という疑問の形で出てくるところが。われわれにとっては永遠の課題であるのが当り前なんだわ、と一人で納得していると、先生は、 「いえ、それはないんです。それ以外」  と、きっぱりお答えになり、私の耳にそれがとても清々しく響いた。 ——母は、だんだんいやな世の中になってくる昭和十年代の前半に亡くなったから、思えば幸せな人でしたね。  あと、一、二年の命と言われて(直腸癌でした。はっきり本人も知っててね)、若い日に外交官夫人として任に在ったあちこちの社交界で親しくなった人たちと、もう一度会いたいと言って、父と二人で各地を回ったの。華やかな時代が、なつかしかったんでしょうね。とても楽しかったらしいから。  父とその想い出をたどった旅がまた実に楽しかったらしい。行く先々で歓迎パーティを開いてくれたりしたそうです。  旅から帰るとやはり病気が進んでいて、苦痛がひどいので、脊椎骨を開いて、下半身の疼痛神経を取り除く手術を受けたりしてね。父が見つけて来た若い勇敢な外科医の手術が成功して、その後はそう苦しみませんでした。鷺坂の上の久世山の家で亡くなりましたが、あれは昭和十三年、母は六十九歳でした。亡くなる時、僕はすぐ近くの江戸川アパートから駆けつけたし、妹達も飛んで来たし、弟は当時新聞社勤務で上海にいたけれど、軍の飛行機に便乗させて貰って、あわてて帰って来ました。  それでも皆が間に合って、主人と子供達に看取られながら亡くなったのですから、まあ、母がはるばるベルギーから日本まで来てくれたことには、報いることはできたと思っていいでしょうね。  先生の随筆集の題名に『捨菜籠』というのがある。そのまえがきには、発行所弥生書房へのお気くばりからか、「思案の末が春の弥生の摘草あそびの余りもの『捨菜籠』とは題した次第」とあるが、私に、捨菜とはスチナさんのこと? という思いがかすめて通った。それで伺ってみる。 「そうよ。よくわかったのね。父が時々あの字を宛てて書いてましたから。だがこんなことは身内の者が承知していればいいことで、まえがきに堂々と書くことじゃない。身内以外にそのことを言うのはあなたがはじめて」  お墨付を頂いた気分になって、先生にとってスチナさんは永遠の女性でしょう? 心の恋人というか……とちょっと踏み込むと、 「いや。そんなものじゃないね。年が二十三も離れてるし、ただただ有難い人よ。向うも父への義理というか、カソリック的な大きな愛で僕を包んでくれたというだけでしょう」  と、これもあっさり否定なさった。  それからしばらくして、六月に先生をお訪ねした時は、来年(昭和五十五年)十月に開かれる奈良東大寺の大仏落慶供養に演奏される合唱曲の詩を依頼され、その取材の旅からお戻りになったばかりで、とても晴々とお元気そうなご様子だった。 「取材旅行というのはいやですね。まるで乞食の旅よ。何か拾い物はないかとキョロキョロするだけで。  女の人は子供を産むけど、お腹の中に確かにあるものを出すのにさえあれだけ苦しむのだもの、僕は空っぽの頭の中から何か産み出そうというんだから苦しいわけね」  とお笑いになる。 「大仏様のみ教えというのはユニークなんだね。人生には、未来も過去もない、ただ現在があるだけだと説くの。未来を頼まないのね。死ねばそれっきり、お葬式はしない。だから、末寺が殆どないんだそうですよ」  私は、前回の取材で『全詩集』に割愛されている「赤き月」などの詩を読みたかったので、先生からお借りしたオリジナル版の『水の面に書きて』の中に「現在教秘義」という詩のあったことを思い出した。  その一節に、現在が唯一の真実であり、唯一の存在である、とあって、 過去はなまけ者の幻だ 未来は馬鹿者の希望だ  と続く詩句があった。先生は今度奈良へいらっしゃる四十年も前に、とっくにそうおっしゃっておられますわ、と申し上げると、 「そうお。僕は宗教家じゃないけど、感性で、その境地に到達していたというわけね。フーン、偉いもんだね」  と自讃なさるので、私はもっとほかの詩集も割愛部分を読んでみたいのですが、と願い出た。  快くお貸し下さった数冊の大切な詩集のうち、帰りの電車の中で『月光とピエロ』をまず開いた。だが私の頁を繰る手が次の詩の箇所で、釘づけになったようにピタリと動かなくなった。もうこの「戦争で会えた二人」(マリー・ローランサンと大學先生)のことで、決して先生に「質問」などしない。そう心に誓いながら、でも何て素敵な恋愛! と私の目はただその活字の上を追い続けた。  「遠き恋人」 その年月(としつき)のことについては お前が私を愛し (桃色と白とのお前を) 私がお前に愛されたとよりほか、 私には何も思ひ出(いだ)せぬ。 それで今(いま)私は思ふよ、 この私にとつて 生(いき)ると云ふは愛することであると。 すべて都合のいい 日(ひ)と夜(よる)とがつづいて 何(ど)んなにその頃、 二人が幸福であつたであらう! お前は思ひ出さぬか? あの頃私たち二人の 心は心と溶け合ひ 唇は唇に溺れ 手は秒に千万の愛撫の花を咲かせたことを? お前はまた思ひ出(だ)さぬか? その頃私たち二人(ふたり)の云つた事を? 「神さまは二人の愛のために 戦争をお望みになつたのだ」と。 こんな風(ふう)にすべてのものが ——カイゼルの始めた戦争までが—— 二人の愛の為めに都合がよかつたのだ。 お前は思ひ出(だ)さぬか? それなのに、それなのに、 お前は今ここに居らぬ 私は叫びたく思ふよ、 『お前の目が見、 お前の手が触れたものは 今でも私の周囲にあるのに 何故(な ぜ)お前ばかりが ここにをらぬのかと……』 第十五章 ズズのことなど ——さあ、何故突然あの塔のある家のことなんか想い出したのか……明け方の夢にでも見たのかね。ま、そうしておきましょう。  僕が四十歳(昭和七年)の頃、東京小石川(現、文京区)の茗荷谷に一戸を構えましたが(と言っても借家でね)、そこに素敵な塔があった。当時小石川名物の一つだった程の高い塔で、地上五十尺はあったかな。登ると品川の海まで見渡せましたからね。  この家の持ち主というのが、何でも信州の山持ちの富豪の息子とかで、若い頃ドイツへ留学し、ビールを飲み慣れていたそうで。  ところが帰朝した日本には、その頃まだビールがなかったので、お金にあかして茗荷谷に広大な屋敷を求めて、庭内に塔のある住居を造った。そしてその地下でビールを醸造したのね。日本にビールがなければ自分で造ってまで飲もうと言うのだから、相当の酔狂人だね、その男は。  厚いコンクリートで固めた広い地下室が残っていて、のちに僕が借りた時は、そこは利用法がないので、第一書房が返本用の倉庫にしていましたよ。  とにかく庭には梅林と呼べる程、たくさんの梅の木を植えて、その梅見のための小部屋があったり、応接室には直径二メートル程の大きな円窓があって、厚いビードロガラスがはめこんであったりする。ビードロガラスというのは、光線の屈折によって、ところどころ色が変って見える大変綺麗なものでね、何しろすごい家なのよ。  さて、塔は何に使ったかというと、この人がビール道楽と同時に女道楽でね、ハハハ。  大勢女を置いて(大勢と言っても三、四人くらい。ハーレムみたいに何十人、何百人は置けはしないけれどね)、塔のてっぺんの八畳間へ、一人ずつ連れて登るんだって。結婚してないから、こんな気儘ができたのね。  塔は欅(けやき)のガッシリした柱の通った五階か六階建てでしたが、それがうまくできていて、三階くらいのところで上下が遮断されるようになっている。使用人に手押しのエレベーターのハンドルを回させて、押し上げて貰うと、あとは浮世ばなれの別天地。誰も登ってはこられない仕組。  月光のさしこむ窓からは、白い雲の風に流れるのが見えるだけ……とまことに妖美な世界が想像できるけれど、僕が借りた時には、近所から塔が高すぎて危険だという苦情が出たそうで、てっぺんの八畳間は取り払われていました。  手押しのエレベーターも一階に置かれたままになっていて、かわりに木梯子ができていました。  ああ、その家っていうのがね、例によって散歩好きの父が、ある日貸家札を見つけてきて、 「大學、お前が住むのに丁度いい家があったぞ」  って言ってくれたの。  持ち主はそんな放埒な暮しをしているうちに、身代が次第に左前になってきて、家の回りの土地を、東西南北ひときれずつ売り食いしていたのが、とうとう家の建っている所だけ残して立退く仕儀になったらしい。  それでも家賃はずいぶん高くて、月八十円でしたよ(のちに興津で家を借りた時も月八十円でしたが、こちらは時代もずっとあとだったからね)。  僕は早速、塔のてっぺんを手摺りで囲み、簀子板を敷きつめて、夏の間はよくそこで酒盛りをしたものです。青柳(瑞穂)君や、城(左門)君なぞ、若い詩人たちが、よく相手をしてくれました。  そうそう、ある時台風が荒れて、簀子板の一枚が、三尺もある手摺りを越えて舞い上り、国文学者の守随憲治さんの庭へ落ちてね。これお宅のでしょうか? って返してこられた時は、恐縮したものでしたよ。  ところで、ビールと言えば大學先生が、長らく詩と短歌との二筋の道を歩いていらっしゃったことについて、ご自分でそれをよしとなさっている最近の詩のお作がある。  「詩歌両刀」 鰻もうまいが 穴子もうまい 酒もうまいが ビールもうまい 片よることは ないと思うよ  というゆったりしたご心境だが、それでも先生の一番お好きなお酒は何なのかを伺ってみた。 「そうね、あの塔上での酒盛りは、おもに夏だったからビール、寒い時はやはり日本酒がいいですね。昭和の初めの十二、三年の間は、毎週水曜日に若い詩人たちが僕の書斎に集まったもので、まるでそこは詩塾じゃなくて、酒塾でしたよ。いつもその集りの最後は、釜揚げうどんを出してお開きにしたものでね」  と、しばらく昔を振り返っていらっしゃったが、 「しかし僕が本当に好きなのは葡萄で造った酒。神様は人間に酒の材料としては葡萄だけをお与えになったのだと思うの。だってあの馥郁たる香りはどう? おくびまでが気持よく薫るでしょう? 熟柿みたいないやな匂いはしない。だから葡萄以外の材料で造った酒は、代用品だと思って飲んでいます」  とおっしゃる。  葡萄を原料としたお酒とは、ワイン(ブルゴーニュ)、シャンパン、ブランディ(コニャック)で、それにリキュールではシャルトルーズがお好きだという。 「僕の詩にこんな戯(ざ)れごと詩があるじゃないの、ね。 シャンパンは口説(くど)き酒 シャルトルーズはお床入(とこい)り お床の(男の)中の男です その一言(いちごん)に嘘はない  ……なんて。シャンパンやシャルトルーズには惚れ薬風な効き目もあるのよ。シャルトルーズというリキュール、召上ったことおあり? 甘くて強いお酒ですよ。黄色と緑と二種類ありますが、僕は緑が好きです。にがよもぎの味がよく利いていてね。とても鼓舞される。今度、お好きな人に試してご覧」  先生は今日、フランスのペローの「青髯」のお話のような、中国の「金瓶梅」の世界のような(コンクリート造りの地下室の話はちょっとポーの小説みたいだけれど)、不思議な塔の主のことをお思い出しになったせいか、酔ってもいらっしゃらないのにお話に調子がおつきになる。  それにしても、その手摺りをめぐらした塔のてっぺんのお酒盛り。夏の夜空には、さぞ美しい天の川が仰ぎ見られたに違いない。と思うと、私には、その光景から、私の最も好きな先生の作品の一つである、次の詩の世界が容易に想像できる気がする。  「梨甫」 酔つて酔つて酔つぱらつた梨甫(リオ)の夜景です 銀河(あまのがは)は裸でねころんだ天女です ——ごめん下さい暑いから失礼いたします 美湾(びわん)のふちを馳け周(めぐ)る狂ほしい松火行列 砂糖(さたう)麺麭(ぱ ん)岩(いは)からは人魂が綱渡り 首尾よく仕遂げましたらお手拍子御喝采 ぢやぶぢやぶと海は何時までも何を洗つてゐるのか 椰子の木の交通巡査は垂直に地から生え 突当つても仲々に動かない 暗中に飛躍する黒奴(くろんぼ)美人の皓(しろ)い歯 煙草の煙と音楽でいつぱいにつまつたカバレから 赤い顔した月が蹣跚(ひよろひよろ)と海の上へ出て来る ——ああ、リオの夜景は美しかったですよ。殊にカーニバルの季節の夏の夜景は。  僕はブラジルには、大正七年(二十六歳)から、かれこれ五年、多感な時期を暮しましたから、いろいろな想い出があります。  今日は、シュゾンヌ・ジュランダンという名の娘さんの話をしましょうか。パリ娘なんだがリオで会ったの。彼女の父君、ジュランダン将軍が軍事上の使命(ミツシヨン)を受けて、フランス政府からブラジルへ派遣されていました。フランス陸軍の組織をこの国へ導入させようという目的でね。  日本でも明治初年には、フランスから軍事指導のミッションが来ていたものですよ。ところが普仏戦争でフランスが負けると、早速鞍替えしてプロシャ式一辺倒にかわりましたが。現金なものね。  で、ご両親と一緒にリオへ来ていたシュゾンヌさんは、当時十八歳。炎のように明るいブロンドの……それは可愛らしい娘さんでした。これが文学好きでね、僕のところから次々と本を借り出しては持ち出すの。フランスの小説ばかりをよ。自国の文学の道案内を、外国人の僕にやらせるのだから、妙なものさね。  僕は一年半ばかりの間に、彼女の読書のエレベーター役をつとめてね。つまり、クロード・ファレールをアンドレ・ジッドへ、シャルル・ルイ・フィリップをマルセル・プルーストへと、引き上げてやったと思っています。  え? ファレールとフィリップね。  ファレールは、以前一度日本に来ていますよ。その時の講演の記事を、僕は朝日新聞に書いています。東洋の風俗をよく描いた人で、ピエール・ロティの研究家でもありました。日本海海戦に取材した「海戦」という作もあるし、自身、海軍士官だった人で、小説はうまい人ですが、いささか通俗的なの。  フィリップという人は、フランスの片田舎の木靴工の倅で、学問はあまりない人です。ハートだけの作家なのね。作品に、プロレタリア文学のあの押しつけがましさはないが、専ら貧しい人々の生活を感傷的に描いてゆく文学なの。僕もこの人の作品を相当多く訳してはいますが、これもどちらかと言えば素人向き。  そんなわけで、僕があれ読みなさい、これ読みなさいとすすめると、素直に読んできてね、シュゾンヌは。彼女の魂を、僕の思いのままに染め上げてゆけるのが、とても楽しみでした。  それがいけなかったのかねえ、そうは思いたくないが……。  シュゾンヌが突然、病気ということで母親と一緒にパリへ帰ってしまったの。病名は何だかわからない。そうなると社交界の噂は、「彼女の心の軽はずみが、彼女のからだを重くした」なんかとうるさいのよ。そしてまことしやかに、ベルギー大使館の若い男爵の名がささやかれたりする。  おまけに(ここが肝心なの)、「みんな文学の罪ですわ。ずいぶん進んだものを読んでいたということですから……」って。それじゃまるで僕のせいみたいじゃないの。  案じていると、パリのシュゾンヌからの何度目かの手紙に「病気の私を慰めてくれるのは文学だけです。リオであなたに読書の指導をして頂いていなかったら、私は退屈に食い殺されてしまったでしょう」と、可愛いことが書いてありましたが、やがて、僕は彼女の死の知らせを受け取ることになります。  僕は今でもわかりません。僕が道案内した文学が、彼女を病気に導いたのか、病気の彼女を文学が慰めたのか……。  大學先生は、 「女はその美しさと怜悧さで、いくらでも幸福になれるが、またその優しさと善良さで、どんなにも不幸になれる」  とおっしゃって、すぐまた次の教訓にお移りになる。 「昔の賢人は、居(きよ)は心を移す、と言いましたが、僕は、衣は女を移す、と思っているの。  あなた、中国服をお召しになる時はお気をつけなさいね。ある奥方が僕にこうおっしゃっていました。わたくし、あれを着ると、いかにも動きが自由で、何とも言えないいい感触があって、ひどく淫蕩な(ね!)気分になりますって。  だから、その日もし彼女が、ほかの衣服を身につけていたら、彼女の一生を破滅に導く結果になったあの大胆な行為はしなかったはずだ、と言えるわけね」  ジッドとプルーストを読んで、中国服を着込んで、シャルトルーズを飲んだらどうなるかしら? と危ないことを思いながら、私は、はい、気をつけます、とお答えする。 「ドガが好んで描いた踊子の絵にある、襞が内側にいっぱいに詰っているあの短いスカート——tutu(チユチユ)というんだが、あれを着けた女の人の気持はどんなだろうね。  見物の男にはまるで全身が大きなイソギンチャクのように見えるけれど……。  それから先の連想はわかるでしょう?」  とお訊ねになるので、ええ、美学の中心? とお答えすると、先生はびっくりなさったように、フフとお笑いになる。 「そう。若い時分には、そんな言葉を発明して、よく詩の中で使ったものだったね」  「風景」 ああ うねり 波うち また よれる ああ 美しい やはらかい 牛乳の海に浮いた 日当りのいい三角小島 褐色(かちいろ)の羊歯(し だ)がしげつて やさしい曲線がふつくらと三(み)つに流れ 島のなかほど おお 美学の中心 こんもりした谷間の木影に 島番の一つ家(や)の尖つた屋根が見えかくれ 桃色の尖つた屋根が ああ 見えかくれ ——中国服の話をしたら、ブラジルのもう一人の女性を思い出しました。名を、ズズ・グァラナと言って、オペラのプリマドンナです。僕が帰国してしまってから、相当に名を上げたらしいのよ。  彼女にはブラジルの原住民の血が混っているらしくて、顔色もよく見ると多少濁りがある。日本人程じゃないけどね。私はれっきとしたブラジル土着のインディオの末裔で、あとから渡ってきたポルトガル人やイタリア人なんかの子孫じゃないって、それを誇りにしているひとでした。  ズズはどことなく厚手な感じのする大柄な女性でしたが、長い睫毛(まつげ)が大きな黒い眼をまるで半開きのブラインドみたいに大袈裟に被っている。唇なんかも厚くてね、丁度接吻をし過ぎた翌朝の唇みたいなのよ、いつも。  彼女、体格や身ぶり手ぶりだけじゃない、何につけても大仰な人でしてね、ある日僕が君の子供の時分からの写真が見たいと言ったら、日ならずして立派なアルバムが届いた。生後百日くらいの素裸の写真から、二十五歳のその時(僕は二十七歳でした)までの写真が五十数枚も貼り込んであるの。特別に仕立てさせた立派なアルバムでしたよ。  それから、君の最近の写真が欲しいからと言うと、あれには驚いたね、まるで看板みたいな大きなパネル。連日写真屋に詰めきりで撮らせたとみえて、朝の散歩服姿、アフタヌーン・ドレスの姿、夜会服のデコルテ着用のと、十二枚も届けてよこすのよ。どれもみなそれぞれに趣向がこらしてあるんだ。そりゃ見た時は楽しかったけど、あんなもの一枚だって日本へ持って帰れやしなかったよ。  僕が日本のキモノをプレゼントした時なんかね、二、三日したらまた看板みたいな写真が届くの。 「本当の日本のキモノを着て、マダム・バタフライを歌うズズ」なんてちゃんと註釈までついているんだ。  それから、もっと驚いたことには、ある時京都の高島屋に注文して、中国風の刺繍のついた繻子の上靴を造らせてズズに贈った。  しばらくして彼女の家へお茶に招ばれたのね。行ってみるとそれまでルイ十六世風の飾りつけだったサロンの雰囲気が、ガラリと変っていて、すっかり「支那のお部屋(サロン・シノア)」になっているの。壁絹や家具まで取り替えたんだね。僕がびっくりして部屋を見回していると、いたずらっぽい顔をしてズズが現われた。見ると中国服を着ていて、その時のセリフがいいの。 「似合うでしょう。お部屋も、着物も、わたくしも……。可愛いきれいなこの靴に!」  だってさ。言われるままに、視線を落すとね、絨氈を踏んで、僕の贈った繻子の上靴がそこにあるじゃないの。それも東洋式にいくぶん内輪に足を揃えてね。  僕のささやかなプレゼントへの喜びを、こんなに大きく表わしてくれるなんて、やっぱりズズはいい人だったね。そう、僕が月なら、彼女は太陽。僕がそう言ったからかも知れないけど、ズズはよく手紙に自分のことをミス・サンシャインと署名してよこしました。一度、病気の妹さんを見舞いに、ズズがリオから離れたことがあって、その時に僕が手紙で「遠くの姫君(プリンセス)」と呼んでからは、僕に向っては自分を「あなたの遠くの姫君(プリンセス)が……」と三人称で呼んだりしていました。僕のことは「私の日本人」と呼ぶの。また、昔彼女のハートを奪って逃げたというメキシコ人のことは、ポルトガル語で悪漢(バンジード)なんて呼んでいました。  彼女の生活の中では呼び名がとても重要な位置を占めていたらしいのね。それも、本来ある名じゃなくて、彼女が自分の趣味や主観でつけた名前が。それらの名を口にする時の彼女は、その人や物への思いで胸がいっぱいになるらしい風でしたからね。  ズズは喜びの表現もオーバーなら、泣くのも好きな人でしたよ。  彼女とはよく墓地でランデ・ヴーしたけれど、墓地と言っても陰気な場所じゃないの。日本でもこの頃流行り出した公園墓地を、もっとぜいたくな感じにした、非常に散歩や逢引きには適したところでね。イタリーのカララから運んで来たという白や黒の大理石がふんだんに使われているし、小径には糸杉が立ち並んでいる。ひざまずいて祈る天使や、うなだれて嘆く天使、矢を背負って咆えるライオン、地に落ちて羽ばたく荒鷲……と、まるで野外美術館なみの彫像群。  そんな墓地の一画に、グァラナ家累代の立派なお墓があった。彼女の父親は公証人で、裕福な家庭でしたから。お墓にはズズの母親と姉が葬られているということでした。  僕とズズはいつもそのお墓の前で待ち合わせるんです。  ズズはそこではいつも黒い衣裳に黒い帽子をまぶかにかぶるといういでたちです。お墓の前の地べたにぴったりと坐って、祈りを捧げながら僕を待っているの。  ある日、僕が何かの都合で、小一時間も遅れたことがあってね。すると彼女は墓石に倒れるようにもたれかかって、身をふるわせて泣いているじゃないの。びっくりして肩に手をかけると、嗚咽(おえつ)の声さえ聞えて、眼はすっかり泣きはらしているの。訊いてみると僕を待っているうちに、亡くなった母と姉を思い出して泣けてきたんだそうで、別段僕の遅刻から心変りを案じて泣いてたわけじゃなかった。だからすぐに晴れやかになって……ほら、赤ん坊が泣くだけ泣くと、満足そうな様子になるでしょう? あの感じでしたね、あの人。ズズにとって、泣くのも一種の悦楽(ヴオリユブテ)だったらしいのよ。  「回想」 彼女は未来のプリマドナ 僕は次代の大詩人 僕等は墓地でデイトした 猩々木が燃えてゐた スカラの舞台に合ひさうな 大きな身ぶりの女(ひと)だつた 手と唇が夢をみた 三十数年前のこと 南(なん)半球であつたこと  大學先生がこの詩をお書きになってからまた三十年近くの時が流れた。その間に、ズズはオペラの本場イタリーへ留学して帰国、立派なプリマドンナになったという。その後、ズズの産んだ娘が成長して、新婚旅行で日本を訪れた時(それも今から二十数年前になるが)、ズズは「日本の大詩人堀口大學を訪ねるように」と娘に命じたそうだが、あいにく先生は葉山にいらっしゃって、時間の関係でその娘さんにお会いになれなかった。その代り、赤坂にいらっしゃるお妹さんの岩子さんが、大學先生のご名代として彼女をおもてなしになった由。 「私の日本人」のその後の面影を、伝え聞くことが出来ず、「遠くの姫君」はさぞお嘆きでしたでしょうね、と私が申し上げると、先生はおかしそうに、 「そう、オーバーにね」  とお答えになる。  ところで私は、先程、先生のお好きなお酒を伺ったので、今度は先生のお好きな花についておたずねしてみた。 「それもだんだん好みが変るようですね。若い頃は薔薇一辺倒でしたが、今はあじさいかな。椿も好きだが。一方僕には珍しいもの、新らしいものを好む性質があるのでダリアとかサボテンなんかをまだ日本では珍しい頃育てたりしていましたよ。横浜種苗株式会社という大手から苗や球根を直接取り寄せてね」  なるほど、先生のお若い頃の詩や和歌には、薔薇を歌ったものが多い。 くつがへりたるこそなべて美しやかめの薔薇(さうび)もわがたをやめも 歓楽の杯と呼び接吻(くちづ)けん金色(こんじき)のばら白銀(しろがね)のばら 紅の薔薇(さうび)を見れば唇を白きを見れば乳房おもほゆ  と、手放しでお好きだった薔薇にも、やがて、  「なげき」 愛せらるるは薔薇(ば ら)の花。 愛することは薔薇(ば ら)の棘(とげ)。 花はあまりに散り易(やす)し。 棘(とげ)はあまりに身に痛(いた)し。  と、悲しみをご覧になるようになる。  私は、たくさんの先生の花の詩の中では、お庭で花を作っていらっしゃる先生が、じっと花を見つめておいでになるうちに、とても素敵な連想をなさる——その時の先生の様子までうかがえるようで、次の詩が好きだ。  「百合」 百合の花は昆虫の化粧室だ 蝶が出てまゐる 金粉の着物をきて リリー・スヰート・リリー 香水を扇(あふ)ぎながら リリー・ホワイト・リリー 半巾(はんけち)をふりながら  小柄なくせに大仰な身振りの貴婦人が、金ピカのドレスで、香水をプンプンさせて、ハンカチをヒラヒラさせて……出てまいる、とおっしゃるところがおかしくて、いいですね。白い蝶のたたんだ羽のゆっくりした動きのイメージがとても鮮やかだし。それにしても、先生の詩は花を歌っても、鳥を歌っても、すべて女性につながってくるのですね、とようやく今頃発見したようなことを申し上げても、先生は別段お笑いにはならない。  また、先生はサボテンもお作りになったそうだが、こんな詩もあった。  「仙人掌春秋」 春だ 春だ 春だ…… 仙人掌(さぼてん)に花が咲く すりむいた赤いちよんちよんのやうな 思ひもよらぬことのやうな 秋だ 秋だ 秋だ…… 仙人掌(さぼてん)に実がなる 缶詰のアルコール漬の 三月目(みつきめ)の胎児のやうな。 「ああ、その詩ね。赤いちょんちょんというの……あれはね、  山王さまの石段で  赤いちょんちょんすりむいた  という歌があって、亡くなった母がよく歌ってくれたのが耳に残っていたんだね。今、思い出しましたよ。つまり赤いちょんちょんというのは、僕の耳の奥に残っていたたった一つの母の声だったんだねえ」  先生は大発見をなさったようにとても感心していらっしゃる。 「瞼の母と言うけれど、僕の瞼には逆さ睫毛が生える癖があってね。二年に一度くらいの割で眼医者さんへ行って、抜いて貰うの。この間も抜いて来たばかりなので今日はさっぱりしている。それに気がかりだった詩もふた口とも片づけたしね。久々に今夜あたり、また母の詩ができるかも知れないね」 ——僕の小鳥好きは、母がまだ生きていた頃、僕が二つか三つの時から始まっていてね、庭の雀を見ては一緒に遊ぼうと僕が手を出すたび、パッと逃げられて、するとそれは哀しげな声で僕が泣いたらしいの。母が見かねて、飼いならした雀を買って来て、籠に入れて与えてくれたということです。  そんな事のためか、僕は、小鳥を飼うのが大の楽しみになって、少年時代には長岡の家の軒先や縁側に二つも三つも鳥籠を、吊したり、置き並べたりしていました。目白、山雀、四十雀、小雀(こがら)というような、日本の田舎の山なら、どこにでもいそうな鳥でしたが。  僕は小鳥を捕える名人でしたよ。「呼び鳥」という方法で獲るのだが、これは囮(おとり)を入れた籠を、山の中の木の枝にかけておく。そばに黐(もち)を塗った小枝を挿(さ)して置くの。家から小一里もある鉢伏の山の一本杉の下へよく通ったものです。山の鳥が、囮の鳴き声をたよりに、近寄って来て、まだ姿を見せずに鳴き合いを始める時なんか、もうワクワク気もそぞろ。小鳥が黐の枝にヒョイと飛び乗ると、すかさず踊り出てつかまえるという寸法なんだ。  稲田の黄ばむ頃から、野分のすさぶ頃まで、北国の短い秋の間は学校から帰ると毎日山へ行っていたものです。だが一羽も獲れない日だってある。すると、「秋の山の暮れて行くもの音」というのが実に淋しくってね、わけもなく涙があふれてくる。もしかするとあの一人ぼっちの気持が好きで、僕は山へよく出掛けていたのかも知れないね。  しかし僕の小鳥好きはずっと後まで続いて、外国へ行く度に珍しい小鳥を探しては持ち帰ったものです。  ブラジルにいた頃も、北のバヒアという所へ旅行した時、リオへ帰る船のケビンの中へ、幾つも鳥籠を持ち込んで、船長に叱られたことがありましたよ。その船路の途中に、寒気岬(カポ・フリオ)という急激に気温の下るところがあるときいたので、小鳥が心配で船室の中へ持ち込んで叱られたわけなの。  また、やはりブラジルでアマゾンの河口へ旅した時、イレオスという小さな港で船が一泊したことがありました。ココアを積み出す淋しい港です。  船の食事がまずかったので、船長にこの町一番のレストランの名を訊いて、早速一人で出掛けてみました。暑い土地柄で、そのレストランの庭に山ほど実のなったパパイヤの木が生えていたことを覚えています。  注文の料理を待つ間に、そこの亭主が出て来て何かと話しかけるわけだけど、僕を船の客と知ると「フランスから来た赤いおべべの鳥」はどうかと、すすめるわけなの。何でも町にたった一人の「鳥」とかでなかなか美人だって言うのね。僕はそっちの「鳥」は結構だが、本物の、珍しい小鳥が見たいと言うと、すぐに奥へ引っ込んで鳥籠を一つ下げて来ました。それが大柄のカナリア程の小鳥でね、色は黄色と黒。この辺の山にいるサビヤの一種だということでした。  亭主が籠をあけて呼ぶと、すぐに出て来て彼の手に止るんだ。そして口笛に合せて上手に歌うのよ。亭主が鳥好きの歌好きで、丹精して仕込んだのだそうでね。僕は何とかしてその鳥を譲り受けたいと思って、いろいろと相談を持ちかけてみたが駄目でした。  しかし僕はあの小鳥のアリアを聞かなかったら、ブラジルのあんな小さな、イレオスという港のことなぞ、名さえ忘れていたでしょうね。  大學先生は、その後日本におちついてお暮しになるようになると、たくさんの鳥を飼うために庭の隅に広い禽舎を造らせる程、鳥には夢中になったとおっしゃる。  だが、先生の詩の中では、鳥はやはり女性を、人間を歌うよすがでしかない。  「二羽のうづら」 十六歳のお嬢さん 秋は脂肪ののる季節 あなたの胸に飼はれてる 二羽のうづらも円(まる)くなる  先生は何の鳥がお好き? 姿はそれ程綺麗ではないけれど、歌が美しいというので、西欧では夜 鶯(ナイチンゲール)に詩人のイメージを見るそうですが、やはり鶯がお好きでしょう? だって先生の「ポール・フォールの不幸」という詩を見つけましたもの。 ………… けれども詩王のポール・フォールは いくら本屋が頼んでも いくら友達がすすめても いくら細君の帽子が古くなつても いくら自分のお腹(なか)がすいて来ても 記事や小説は決して書きませぬ。 黄鳥(うぐひす)が何でカナリヤの真似をしようぞ! ポール・フォールは詩人でござる。 …………  ね、鶯をカナリアより贔屓にしていらっしゃる。と少し押しつけがましくすると、 「まあ、そうね。だって鶯はカナリアよりちょっと気難かしいじゃないの。カナリアはのべつ歌うが、鶯は歌うのに時や場所をかなり選ぶじゃないの」  と、素直にお認めになる。  「老鶯囀」 たか音(ね)はる 深山(みやま)の夏の鶯よ 汝(なれ)もまた 自らを欺く者か はた 哀れ 歌を命の 鳥の身の 名のみの老か  先生、いつまでも名のみの老でいらして下さいね、とおいとまの前に申し上げると、 「なかなかそうも行かないのでね。ものごとにはすべて終りがある。だがこの聞書き白洲(しらす)も今日で終りだから、少しはのびのびして、いくらか寿命が延びるかもね」  と憎らしいことをおっしゃるので、お白洲って、そんなに取材がお辛かった? と伺うと、 「ええ、お取り調べがきつくってね。罪びとはほら、こんなにやせました」  とゆかた姿の角帯のあたりをおなでになる。  何だかそうはお見受けしないけれど。あ、先生、今日ご機嫌のいいのは、逆さ睫毛や宿願の詩がお片づきになったせいじゃなくって、もしかしたら、この聞書きが終るから? とまた遅まきの発見をすると、 「そうよ、そうよ」  と、お笑いになる。  それでも私が帰る時、庭下駄をつっかけて、ご門の所まで、見送りに出て下さって、 「今日は、玄関先きに何も咲いてないね。昨日の風で凌霄花も、いっせいに花を散らしてしまったし……。花はあなた一輪で十分、というので、庭の花達が遠慮したのかな?」  とほほ笑みかけられるお顔は見ずに、先生のように素敵な言葉を持つ人がもし恋人だったら、どんなに楽しかったでしょうに、惜しかったわ、と私は笑わずに申し上げる。すると、 「遅かった、遅かった」  と、子供をあやすような口調でゆっくりお首をお振りになる。  堀口邸のご門を出ると、前に森戸川が流れている。川に添ってほんのわずか歩くと、川が蛇行して、朱塗りの小橋のかかっているのが見える。  七夕を過ぎたばかりの夏の夕暮れの光りは白く、あたりがキラキラ輝くように見え、私は森戸橋を渡りながら、この下を流れる川はもしかしてリオの夜空の天の川? と、夢の中で考えるようなことを、ぼんやり思っていた。 あとがき 〈私は、ある雑誌の連載対談の構成者として連なった席で、偶々、特別な心の準備もなく堀口大學先生にお目にかかった。  十九世紀にお生れになった筈の先生が、髪は黒々と、お耳も遠くなく、お酒も肴もよく召し上り、チラリとおっしゃる冗談が艶っぽくしかも上品なのに驚嘆し、魅了された。  私は、その場限りのご縁になるのがいかにも惜しく、聞書きのことを申し出たが、もとよりすんなりお引き受け下さるわけもなかった。  経緯をへて、毎月の取材が許されてからは、先生が凝縮に凝縮をお重ねになった詩の傍らに、いかに多くの言葉が贅沢に切り捨てられていたかを改めて思った。  私は、先生の豊かな詞藻に酔い、夢中でそれらの言葉を拾い集めた。  私にとって、先生の美しい日本語をじかにこの耳に聞けたことが無上のご褒美であるのに、この度、更に愛読者からのご褒美を頂けるという。こんな幸せなことがあるだろうか、と思う。〉  これは私が「短歌」愛読者賞(評論エッセー部門)を頂いた時の受賞の言葉である。この文の載った雑誌「短歌」が大學先生のお手許に届いた頃、葉山から一通の速達が来て、それにはこうあった。 『聞書き』受賞——関 容子の君に 読者あっての雑誌でしょう 大事の大事は読者でしょう 読者が選ぶ「愛読者賞」 何より貴い賞でしょう ふたりで悦びあいましょう 大學老詩生    と、賞づくしで祝って下さったのだった。  ところで、私はこの聞書きを書くに当って、自分に固くいましめたことは、自慢話に類することは決して書かない、ということであった。その禁を今日に至って少し破ったような気がする。受賞のことを書いたり、大學先生から頂いたお祝いの詩を披露したりしたのだから。  そのかわり、この本の内容について何かとご助言を頂いた先生方のお名を連ねて感謝を述べることは、自慢の上塗りになるかもしれないので、やめることにする。  けれどもこの聞書きが「短歌」に連載されるきっかけを作って下さった池田弥三郎先生のお名だけは記さないわけにはゆかない。  優しいおはからいにふさわしいものが書けなかったことを恥じながら、あつく御礼を申し上げます。   昭和五十五年四月 関 容子   文庫版あとがき  あたたかくてお優しい解説を河盛好蔵先生から頂いて、本当に有難うございます。  こんなに素敵な解説を頂けたのも、角川書店がこころよくゆずって下さって、『日本の鶯』が講談社文庫に入ったからだと喜んでおります。  講談社の文庫第二部長、関山一郎さんには大変お世話になりました。関山さんは、大學先生が三田の学生のころ寄宿していらした彫刻家の武石弘三郎氏の御親戚に当たる、と伺いました。  今度のことでしばらくぶりに読み返してみて、これほど頑張って書けたのも、大學先生のおだて上手、褒め上手のおかげだったと思いました。たとえば、一章ごとにお目にかける原稿を返送して下さるときに添えてあるお手紙には、「……総じて今回の分、大人になったコマネッチの平均台、バランスよく、所々に大わざもあり、最後の着地がわけてもお見事、お手に土もつかず、些(いささか)のブレもないお仕上り、敬服致しました」(第六章のとき)なんて調子でした。  そのコマネチは先ごろ引退しましたが、やはり先生はヨーロッパの女のひとにお弱かったんでしょう。だって『日本の鶯』というこの本の題は、今はもうはっきり、恋愛関係にあった、と言ってもかまわないマリー・ローランサンが、日本のツバメちゃん、という感じで作った詩の題で、あれは恋をしているマリーだからこそ浮かんだ言いまわしなのでしょう。  今、私の手元にある『日本の鶯』の扉には、先生の伸びやかな筆跡で、こんな美しい御褒美の言葉が記されています。 綴り続けて十五章 おん水茎の濃き淡き 眉刷毛の青 紅筆の紅  そして、先生の自家用本の扉には、「聞かれ者の小唄」とお書きになったとか、あとで伺って御一緒に笑ったことがありました。  なお、「第一書房主人」の章で、プリマドンナの関屋敏子は実は私の娘……と、朋友長谷川巳之吉から打ち明けられる話について、ある日友達から、それは事実と違うという指摘を雑誌で読んだけど、と教えられました。  私はびっくりして、「でも確かにそうおっしゃったし、毎回原稿をお見せしているし」と言って、じゃ今度お目にかかったとき、もう一度伺ってみるわ、と言いかけましたけれど、それはもう、できないことなのでした。    昭和五十九年六月 関 容子   解説  河盛好蔵   本書の著者関容子さんに初めてお会いしたのは、昭和五十六年三月十五日に亡くなられた堀口大學先生のお通夜の晩であった。確か山本健吉さんが紹介して下さったように覚えている。むろん『日本の鶯』の著者としてである。しかし恥ずかしいことに、『月光とピエロ』以来の堀口先生の古い愛読者を自任しながら、その年の夏に日本エッセイストクラブ賞を受賞することになる評判のこの本のことを、私は全く知らなかったのである。  有り難いことに関さんは早速この本を送って下さったので、遅まきながら、私も愛読者の仲間に加わることができ、たくさんのことを教えられるのみならず、私自身の堀口論のなかでもしばしば引用させて頂いた。全く『日本の鶯』は堀口大學を研究し、理解するための世にも貴重なモノグラフィーであって、これだけ行き届いた聞書きをよくぞ作って置いて下さったと、私たち堀口ファンは心から感謝している。  この本は、謂(い)わば、堀口大學についてのこの上もない解説書であるから、その本に解説を書くというのは、屋上屋を架するむだなことであるが、多年堀口先生の人と作品に親炙してきた者の一人として、この本を読みながら、目からウロコの落ちる思いをしたことが少なくないので、それをアトランダムに書きしるすことによって、私の責めを果すことにしたいと思う。  丸谷才一氏が、日本文学の伝統にエロチックなことへの関心が非常に大きいことを言い、堀口さんが新詩社の同人だった時代に、鉄幹・晶子から和泉式部などの講義を聴いたことが、フランスの詩を理解するのに非常に役立ったのではないかという指摘は私も卓見であると思った。堀口さんが「過去の私の鍵を、今日あなたがはじめてあけて下すった」と答えているのは貴重な証言である。  与謝野夫妻、とくに晶子の思い出がしばしば出てくるのは大切である。堀口さんが最も影響を受け、心から推服していた詩人は晶子であったことはまちがいない。「本当に晶子先生は、死ぬことを小娘みたいに怖がっていらっしゃったようですよ。あんなにお利口なお方だのに、そういう悟りは全然なかったね」という話は面白い。  佐藤春夫との美しい友情の物語も読者を感動させるが、一のものを十に役立たせてしまう春夫の才を、堀口さんは「利用の才」と名づけ、「これは聡明さとも違う、もっと天来的な芸術的な境にある才で、神の支配遊ばす領域である」と言ってられるのはまさにその通りであろう。また、「佐藤はあまり誰とでもしっくり行くという存在ではなかったし、批判精神が旺盛すぎて、愚者に勝利の色を見ては憤るという性癖がありましたからね」という佐藤評も、この親友をよく見た言葉である。終戦後、佐藤が手紙の中に、「戦は敗れけるかな山里に糧も焚木もなくて冬来る」という歌を書いて来たのに対して、堀口さんが、「思ふこと言うて科(とが)なき世となりぬ糧ともしくもなどか嘆かん」という返歌を送っているのも興味深い。  堀口さんが新仮名遣いに抵抗を感じない理由について、「僕の詩は音だから、だから構わないというのでね、目で見たり読んだりするには確かに旧仮名の方が美しい。詩には、目の要素もあるにはあるが、やはり耳できくものだから、それで韻を踏んだり、くり返しがあったりするわけね。だから表記法にはこだわらなくていい、と言ったわけよ」と答えているのは、傾聴すべき意見であると共に、堀口さんの詩を理解するための重要な鍵でもある。「僕の詩は、古くなって新しさがわかる、というものでね」と言ったあとで、「ああ、この言葉、いい言葉を発明したね。本日のイベントだ」と自画自讃するなども面白い。  この聞書きは一ヵ月一回の割りで、それが十五回も続くという、聞く人にも、更にそれ以上答える人に努力と忍耐を要求する気の重い仕事であるが、回を重ねるに従って、両者の息が次第に合ってくるのは読者にもよく分かり、思わず話のなかに、こちらも割り込んでゆきたくなるのは、本書のこの上もない魅力になっている。  佐藤さんと、亡友三好達治君との仲違いについて、「あの二人、喧嘩させたままにしておきたくなかったね。もっとも心ではお互いとうに許し合っていて、尊敬し合っていたようだから、形の上だけのことだけれどね」と堀口さんの言ってられるのは、私を少なからず悦ばせてくれた。また堀口さんが、しばしば三好君について親愛の情をこめて話してられるのも私には嬉しかった。三好君が堀口さんの詩が好きで、よき理解者であったことを私はよく知っていたからである。  堀口さんが、自作の「正面を探して置けと言い置いて天人去りし富士の山かな」という即席の狂歌を、関さんに示したあとで、「僕は富士山が大好きでね。毎年の夏ひと月ばかりを、朝夕間近に眺め暮しても、決して見飽きるということがないもの。また、どこから見ても美しい山でしょ。で、どこから見ても正面なのね。そこでこの狂歌となったわけ」と言ってられる場面も面白い。この第五章は主客ともにくつろいでいて、大學先生の初恋の物語が出たりするのは、場所が富士山のよく見える湖畔のホテルで、ヴァカンスの季節であるせいかもしれない。私自身もこのホテルで暑を避けた思い出がある。大學先生には、ボードレールの巨女趣味がなくて、「豊満な美人より、薄手で華奢で手足のこぢんまりした女性がいいとする」という告白も貴重である。この章は、この聞書きのなかでもとりわけ心にしみるさわりの部分であろう。  ジャン・コクトー、マリー・ローランサン、ギョーム・アポリネールたちについての思い出はきわめて貴重である。これはフランス人にもぜひ読ませたい個所である。とくにローランサンの章が興味深い。「私はもう何年も食事らしい食事をしたことがないのです。食事や、食事の時間に縛られるのがいやですから。決った時間に食事をしなくてはならないような習慣を持っていては、人間はいつまでも自由になれませんわ」という言葉は、いかにもローランサンらしい。 「先生の鼻の粘膜は、異常と言える程敏感で、あれだけ口腹の愉しみを大切になさる方なのに、いかに美味と聞かされていても臭い珍味を賞味なさらない。くさや、鮒ずしの類いはもとより、ロックフォール、カマンベールチーズもだめと聞く」という記述は私には初耳で、大へん興味があった。「何故(な ぜ)だめなのでしょうね」という問いに対して、「若い時、あんまりいい匂いを多く間近に嗅ぎ過ぎたせいでしょうよ」と響の声に応じるように答えているのは大學先生のエスプリ、それも多分にサロン風のエスプリである。  サロンといえば、大學先生は、西欧の社交界の空気を本当に知っていた数少ない日本人の一人ではないかと思う。その意味から言って、先生にプルーストの翻訳がないのは残念なことである。  これらの章のなかから目にとまった言葉を列挙してみると、 「単純なスタイルは複雑なものよりエレガントなのです」 「女は離婚すると、概して美人になるのが不思議だね」 「僕は、ホモとかお稚児さんという言葉を聞いただけでもいやな気がするね。ところが女性同士の同性愛だと、聞いても僕の反応が違うのよ。それ程ムシズが走らない。むしろ、僕が女だったら、男なんかより女を愛するんじゃないかと思う程、それ程女は綺麗だものねえ」 「日本語とはいくら究めても究め切れない、奥行きの深い言葉だねえ」 「日本語のよさを最大に生かせるのは、やはり短歌じゃないでしょうかね。  主格を省いて、それではっきり意味を伝えられる言語というのは、僕の知る限りでは日本語だけです。これが日本語の一番の特徴でしょうね。それを上手に使うと、三十一文字の中に人が三人いても、ちゃんと表現できるわけですから……だから磨くには楽しい言葉ですよ」  右の日本語についての感想は第九章「子供のときから作文が得意」からの引用であるが、大學先生がいろいろ実例をあげて短歌の面白さ、日本語特有のさまざまの機能などについて講釈をされるところは、読者として羨望に堪えない部分であるが、こんな話を後から後へと先生から引き出せるまでには、関さんにどれほど大きな努力があったことかと思うと、読者として感謝しないではいられない。  最初のうちは多少ともお義理といったところがなくもなかったが、次第に大學先生もこのインターヴューを楽しみにされて、御自身でも、お話の材料を進んで用意される様子が読者にも窺われるのは、言うまでもなく関さんの手柄である。先生のお話は八方に飛んでおそらくこんなに順序だったものではなかったに違いないが、それを巧みに整理して読者を少しも退屈させず、その上、先生の作品のなかから、それぞれの個所にぴったりの詩句を選び出して、アラベスクのようにはめ込んでゆく手際はまことに鮮かである。この種の聞書きでは出色の出来栄えであるように思われる。  引用紹介したい個所はまだ沢山あるが、それは読者各位の楽しみに残して置くことにしたい。  関さんは、大學先生の女性遍歴についても聞き出したいと、いろいろ苦心されたが、それはどうやら不発に終ったらしい。しかし自らの女性遍歴を得々と語るには大學先生はあまりにもダンディである。この閑雅な大詩人から、汲めども尽きぬ豊潤な詩話を聞き出してくれた著者の労を私たちは深く多とするものである。 日本(にほん)の鶯(うぐいす) 堀口(ほりぐち)大學(だいがく)聞書(ききが)き *電子文庫パブリ版  関(せき) 容子(ようこ) 著 (C) Yoko Seki 1984 二〇〇一年一〇月十二日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。