航空宇宙軍史    惑星CB‐8越冬隊 [#地から2字上げ]谷甲州 [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ]      1  状況は絶望的だった。なすべきことは何もなかった。パルバティは、窓の外で荒れ狂う地吹雪《ブリザード》を見ながら深くため息をついた。——悪いことが重なりすぎていた。彼自身の責任に違いないのだが、それは。  測地衛星がこの惑星の極地帯を、くまなく撮影した空中写真からの地図を持ち、加えてすでに一五〇日もの長期にわたって野外作業をつづけて来て、この惑星の極地に関しては何も恐れる物はないという自信が彼にはあった。だから、基地から外に出て行動する場合には必ず複数のスノー・クルーザーでチームを組むという原則も、彼は大して気にとめはしなかった。  パルバティは、たかをくくっていた。彼の担当するA‐3平原の自動測地ポイントに故障が認められることを知った時、彼は一〇〇キロと離れていないフィールドで、仲間と共に一連の測地作業を行なっていたところだった。正式には、ひとまず基地に帰投したのちにスノー・クルーザーに、燃料・装備をあらたに積み込んで、外業計画《フィールド・プラン》を作成し、ふたたび出て来るのが規則だった。彼はそれをしなかった。  測地ポイントの故障発見と同時に、彼はクルージングチームを離れ、単独で故障地点に向かった。すでに秋分を過ぎ、この惑星の第一五五日目になっていた。作業を終えて、大至急に基地にかえらなくてはならない。すでに高緯度のこの地帯では、一日の日照時間は一〇時間半ほどしかない。一日二八時間のうち六〇パーセント以上が夜なのだ。その太陽も、地平線からわずかに顔を出すだけで、行動できる時間は限られていた。秋分点をまだ二日しか過ぎておらず、しかもこれから一日ごとに日照時間は急速に短くなり、いったん基地に引き返せば、冬が終わるまで野外作業に出ることは不可能だ。すでに極点付近にある越冬基地は、一日中太陽が姿を見せない極夜になっている。  冬ごもり前の最後の野外作業であるこの旅行は秋分までに終了しているはずだった。今は一日も無駄にできない。七二度という高緯度のこの付近では秋分を過ぎた今、一日ごとに三時間は日照時間が短くなる。そして数日のうちには、ここも一日中太陽の見えない極夜になるのだ。  だから、三〇〇キロも離れた基地にまず帰投して、再びチームを組んで来るということ自体不可能だったし、目と鼻の先の地点に向かうためには、いかにも馬鹿げていた。彼にとって、そんな規則は、基地から一歩も外に出ることなしに越冬観測隊の指揮をとっている、官僚チームが勝手にこしらえたものであり、重要なことではなかった。ふだんなら、その考えは当たっていた。それが第一の失敗だった。  彼は考えていた。日没までの三時間余りで測地ポイントに到着し、夜の間に故障の原因をとりのぞいて翌日には前進基地で仲間と合流できるはずだと。そうすれば、あとは前進基地に待機している輸送機で夜間飛行し、越冬基地にもどって冬ごもりの態勢にはいる。今は一日も無駄にしたくはなかった。前進基地での合流を約束して、チームと別れた時には、何の不安もなかったし、彼のスノー・クルーザーはどこにも異常はなかった。  乗員二名、積載荷物五〇〇キロという小型ながら、水素燃料ターボエンジン四基を積み、高低差二メートルの乱氷帯を突破する性能を持ち、移動氷原や開水面をものともせず、平らで安定した氷原や海面なら、時速一〇〇キロを越す高速で巡航できる彼のクルーザーは、無補給で一五〇〇キロの航続距離を持っていた。そのクルーザーと、熟練した彼の腕があれば、何も恐れるものはないはずだった。  しかし、出発して一時間とせぬうちに四基あるエンジンの内、一基の出力が低下し始め、やがて完全に停止した。その時も彼は別に気にもとめなかった。ホバークラフト・タイプのそのスノー・クルーザーは、四基のエンジンが、浮上系、推進系の両方に等価配列されていた。エンジンの二基が故障しても浮上走行は可能だし、水平の氷原なら着床ソリを使用しながら、どの任意の一基のエンジンを使ってでも滑走走行はできる。一抹の不安は感じたものの、彼はそのまま目的地に向かった。頑丈一点張りの設計で、エンジンの信頼性にかけては折り紙つきのスノー・クルーザーのエンジンが同時に二基も故障することなど、あり得ないことだったし、知りつくしている地帯という安心感が彼のためらいを打ち消した。  第二のトラブルは、A‐3平原に入ってから発生した。冬に向かって平原のそのあたりには、隆起氷丘が多く発生していた。冬のおとずれを告げる地吹雪《ブリザード》は、そのあたりにさしかかるころになって、次第に激しさを増していた。閉ざされた視界の中に、黒くうかび上がる露岩をわずかなランドマークとして、クルーザーを走らせている時に、またひとつのエンジンの出力が急に低下した。バランスを失いかけて、あやうく態勢をたてなおした時、隆起氷丘の風下にできた吹きだまりに、もろに車体が突っ込んだ。彼は座席から前方に放り出され、ダッシュボードでしたたか胸を打った。  打撲はたいしたことはなかった。車体も大きな損傷はなかったようだった。しかし、車体の半分は吹きだまりの軟雪の中に、かしいだ鼻先を突っ込んで埋まっていた。エンジンをフル回転させてみたが、ただいたずらに粉雪を舞い散らすだけで、車体は浮上しなかった。四基のエンジンが稼働するなら、どうということもないトラブルだったのだが、全力を出し切るエンジンは半分しかなかった。もしも、クルージングチームを組んでいたなら、他のクルーザーに牽引させて脱出するか、あるいは不調のクルーザーを放棄することもできただろう。しかし、彼に残された方法は二つしかなかった。エンジンをなんとか修理するか、さもなくば車外に出てシャベルをふるって雪を排除するかだ。日没まで、一時間しかなかった。彼は狭い車内の床板をひらけて、エンジンルームを見ようとした。  彼の手がふるえた。はじめて事態の深刻さに気づいて顔から血の気が引いた。吹きだまりに突っ込んだ時のショックでハッチがゆがみ、いくら押しても叩いてもハッチは開かなかった。  彼は重い足どりで車外に出た。エンジンはアイドリングにしておいた。作業服のヒーターを最強にしても、寒気が手や足先から彼をしめつけた。日没前の零下三〇度近い寒さはそれほど剣呑な代物ではない。殺人的なのは時速数十キロの猛烈な風だった。氷丘の風下から体を突き出しただけで烈風が彼を突き刺し、体温をうばった。風は実質零下六〇度近くにまで温度を感じさせる。彼は寒気に耐えるために、腰まで没する雪の中で風車のようにシャベルをふりまわした。かきわけるべき雪の量は絶望的に多かった。体を動かすのを止めると、どっと寒気が押し寄せた。地吹雪は止まることなく吹きつづけていた。  それが彼のおかした二番目の失敗だった。一向にはかどらぬ作業に、時間の感覚が失せていた。気がついた時には、あたりはうすぐらくなっていた。時計を見た彼は、愕然とした。すでに日没後一時間をすぎ、わずかに光をはね返す雪原の白さに眩惑されて、二時間もそうやっていたことに気がつかずにいたのだ。彼は疲れた体をのばし、周囲をあらためて見なおした。のばした時に、背中と腰に張りついていた雪が、バリバリと音をたてた。そして、彼は自分のしていることが全く無駄だったことに気がついた。掘り起こした雪の溝は、あらたに吹きだまりを作り、二時間かけて排除した積雪が再び丘を越えてくる飛雪で埋められるまでに五分とかからなかった。地吹雪がおさまるまで待つしかなかった。外に出た時以上に重い足どりで彼はクルーザーのコクピットにはいった。ハッチを開けるのが、またひと苦労だった。アイドリング状態にしておいたエンジンの熱が、車体の周囲の雪を粉雪から湿雪にかえ、立ちのぼる湿気がハッチの外板に、びっしりと氷を発達させていた。シャベルで氷をたたき割って、ようやく車内に転がり込んだ時には、彼の帽子からはみ出した髪にも、びっしりと氷がついていた。  事態は最悪だった。この惑星では、長距離のワイアレス通信は使えない。スノー・クルーザーに装備してある通信機では、せいぜい三〇キロが有効距離だ。前進基地までは、三〇〇キロはある。徒歩で行くには遠すぎる距離だ。彼の着ている作業服のヒーターの電源は、クルーザーから離れては三日しかもたない。徒歩では前進基地にたどりつくまでに、まちがいなく死ぬ。それでは、別動のチーム本隊が前進基地にあらわれない彼のために、救援に来るのを待つか。明日の日没後に仲間が異常を知ったとして、それからただちに救助に来るとすれば、ここに到着するのは明後日になる。  ——しかし、発見できるだろうか。明後日には、太陽は地平線の上に、わずかな時間姿を見せるだけで、再び地平線上から昇るのは冬至を過ぎて次の春のことだ。いや、それよりも、彼のためにわざわざ危険をおかして捜索に来るだろうか。下手をすると、測地班の全滅にさえつながるのだ。仲間はいずれも気のいい連中だ。しかし、それだからこそかえって彼は来てほしくなかった。  ——しかし、と彼は考えるのをやめた。いくら考えてもなるようにしかならない。それよりも当面の問題は熱だ。エンジンをこのままかけっ放しにしておくわけにはいかない。この周辺の氷厚は未観測だが、数メートルでも、数千メートルでも同じことだった。エンジンから発生する熱がゆっくりと氷を融かし、数日のうちにクルーザーは氷原の下に没するだろう。コクピットは水びたしになるか、氷づめになるか、どっちにしても結果的にたいした違いはない。といって、エンジンを切ったままにしておくこともできなかった。彼は唇をかんだ。バッテリーが弱っているのだ。もちろん、一日や二日放置しておいても再始動は可能だ。エンジンは零下一〇〇度であっても始動は可能なのだが、それにはバッテリーの電圧が充分なければならない。余熱《プレヒート》がなければエンジンは凍りついたままだ。この寒さでは、それだけの電圧をバッテリーが保ちつづけるのは、せいぜい三日だろう。電圧が下がると、作業服のヒーターも作動しない。それを防ぐためには、定期的にエンジンを始動させて充電してやらなければならないが、そんなことをやっていて何日もつのか。  髪についていた氷が、しずくとなって落ちた。長い時間が過ぎていた。彼はエンジンを切った。燈火も最小限を残して消した。静寂がやって来た。吹きすさぶ風の咆哮が窓を通してひびく。早くも寒気が足もとから忍び寄って来た。闇と静寂の中で、車内の温度が少しずつ確実に下がっていくのがわかった。すぐに吐く息が白くなり、冷えた空気が肺を刺した。時間はゆっくりと過ぎてゆく。彼のぬれた髪が再び凍り始め、首すじに巻いたスカーフについた露は、すぐに霜にかわって、首を動かすたびにチリチリと痛んだ。吐く息がやがてまつ毛を凍りつかせ、まばたきするたびにくっつき合い、無理に眼を開けると千切れて抜けた。  その時、びっしりと霜をつけた窓ガラスを通して何かが動くのが見えた。パルバティは耳をすませた。何かの機械音が聞こえたような気がした。そして、彼ははっきりと見た。夜の闇の中、凍丘の向こうをライトが見えかくれしながらこちらに向かって走ってくるのを。窓をあけ放してそれを確認するや、彼は照明弾を打ち上げた。上空ではじけた照明弾が闇を切りさき、あたりを皓々と照らし出した。——美しかった。いくぶん勢いのおとろえた地吹雪が、霧のように凍丘を飛び越え、白く咆哮する風の切れ間から、幾重にもかさなる凍丘が生き物のようにその表情を刻々と変えていた。風に流される照明弾の白い光が、連なる凍丘の陰影を急速に変化させ、その凍丘は影を長く地表面にのばしていった。わずかに照らされた凍丘の側面で飛雪が渦をまき、なおも視界を閉ざそうとするように時おり彼に向かって打ちよせた。そして、照明弾の流されてゆくのにともなって、白い光の世界も去った。再びあたりを支配した闇の中に、もうひとつの生き物が確実に彼の方に向かっていた。  彼は、いぶかしげに、舞いあがる雪に見えかくれするヘッドライトを凝視した。それはあきらかに彼のチームのものではなかった。この惑星上には、彼らの他に観測隊はいないはずだった。観測隊どころか、いかなる動植物もこの惑星には存在が認められてはいなかった。それでは一体、何ものか。  ヘッドライトは、そんな彼にはおかまいなしにぐんぐんと近づき、やがて彼のスノー・クルーザーの脇に停まった。彼は眼をみはった。おそろしく旧式の雪上車だった。いや、雪上車というほど居住性の高さはない。むきだしの車体の上にまたがって運転していたひとりの男が、車体からおり立った。それは、せいぜい二人が乗れるだけのスノー・バイクだった。しかも、ホバークラフト・タイプではなく、キャタピラ駆動、スキーステアリング・タイプの年代物で、運転していた男の服装も奇妙な物に見えた。それは、パルバティの着る極地作業服のように、ヒーター内蔵の軽快な物ではなく、まるでその男が熊のようにずんぐりと太って見えた。服の表面も処理が悪いらしく、びっしりと氷をはりつかせていたが、どういう素材の物なのか、男が二、三度体をふるうと、氷は簡単におちた。  パルバティは窓をはね上げた。出入ハッチは再びつもった雪で開かなかったのだ。どっと寒気が侵入した。凍える手でヒーターの効力をあげたパルバティに、男は明瞭な汎銀河語で言った。 「どうした。故障《トラブル》か」  青白い車内燈に照らされたその顔は、白と黒とにわかれていた。顔の下半分をおおった無精髭は真白く雪がこびりつき、残りは黒く雪焼けしていた。その黒い顔の中で、眼だけが少年のように人なつっこく笑っていた。いやに暖かい眼だった。おどろきはしたものの、パルバティも少しこわばった笑顔を返して言った。 「ああ……そんな所だ。君は……」  その男の名を聞こうとしたパルバティは、口をつぐんだ。男は、ライトの明かりで照らしながら、スノー・クルーザーの周囲を歩きはじめた。仕方なく、パルバティもライトを持って車外に出た。そうやって見ると、意外に大柄な男だった。服装のせいだけではなく、体格もパルバティよりひとまわり大きく見えた。重そうな靴で深い足あとを周囲につけながら、男は車体の外側をじっくりと検分していた。その背後から、パルバティは声をかけた。 「私の名はパルバティだ」 「ギュンターでいい。そう呼んでくれ」  ギュンターと名乗った男は、顔をあげもせずにそう言った。それから靴先で車体にこびりついた氷を、かるくけとばしながら言った。 「トラブル発生からどれだけ時間がたった?」 「四時間になる」  パルバティは、少し不安を感じながら答えた。一体彼が何者なのか、なんにしても正体がしれないことだけは確かだった。ギュンターは、そんなパルバティにかまわずに陽気な声でかさねて聞いた。 「エンジンは?」 「一基がストップした。もう一基は出力五〇パーセント低下だ」 「なるほどな」ギュンターは、あらためて車体をみまわして言った。 「八一二五タイプ・スノー・クルーザー。名作だ。ただし、ひどい欠陥がある」  またひとしきり飛雪が彼等の体を打った。パルバティは思わずよろめいて無防備な顔を両手でおおったが、ギュンターはたいして気にもとめずに言った。 「わかるか? 水素燃料四軸独立等配列ターボエンジン群は、たしかに信頼性が高くて機動性もすぐれているが、極地用としては不向きなんだ。しかもホバークラフト・タイプときている。だから噴射熱が多すぎて、見ろ、吹きだまりの吹雪が、カチカチの氷になっちまってる。これじゃ掘り出すのにたいした苦労だぜ。  もっとも、こいつがえらい熱を噴出してもがいていたから一〇〇キロも先の俺の赤外線逆探にまでひっかかったんだがな。それに、キャタピラ・タイプと違って、エンジントラブルの時に強引に押しかけでエンジンを始動させることもできない。牽引力もお話にならんほど弱い。ホバークラフトの利点も、これだけ欠点をならべたらかたなしだな。  それから、余熱《プレヒート》が電気系で、主エンジンと別系統になっている。こいつも感心せんな。ここじゃ何よりも、シンプルが一番なんだ。ところで、と」  ギュンターはパルバティの方をふり返った。 「俺は、このタイプのエンジンのメカには弱い。引っぱり出すにしても俺のスノー・バイクだけじゃ力が足りん。とにかく俺の基地に帰って出なおすとするか」 「俺の基地だって?」おどろいて聞き返すパルバティに、ギュンターは破顔して言った。 「そうか、名前しか名乗っていなかったな。俺は、ムルック極地研究所のものだ。見てのとおり、俺は地球人だ。君は……汎銀河人のようだが」  おずおずとパルバティも名乗った。 「汎銀河資源開発公社、CB‐8越冬観測隊、測地班のパルバティという。私は……明日の日没までに前進基地に到着しなければならないんだ。ここから三〇〇キロはあるが」 「不可能だ」にべもなくギュンターは言った。 「俺の基地まで四〇〇キロ、夜道をすっ飛ばして往復しても丸一日以上かかる。あきらめろ」 「そうはいかん」パルバティは言った。 「明日の日没までに仲間と合流しないと、私は極点にある越冬基地に帰れなくなるんだ。そのスノー・バイクで前進基地まで送ってくれるわけにはいかないだろうか」 「そんなことをしたら俺の方が迷子になる。このバイクはそんなに行動半径はひろくないんだ。命が助かっただけでもめっけものだと思え。お前の基地にもどれなければ、俺達の基地で越冬しろ」 「駄目なんだ」パルバティは、言いたくもない事情を説明した。  基地を管理している越冬隊長と、他の官僚グループは、彼ら測地班に対し、非協力としか言いようのない態度をとりつづけていた。この惑星で初めての越冬観測を無事故で終わらせることだけに汲々としていた。といって、測地班のように積極的に野外に出ることもせず、基地の中から規則ばかりを彼らに強要していた。もし、パルバティが仲間と基地に帰ることがなければ、春に入ってからの作業は新たな規則で、いちじるしく制限されるに違いない。下手をすると、測地観測、基準点設置をふくむ野外《フィールド》の作業を時限禁止するということにもなりかねない。官僚グループには、観測の成果よりも、無事に越冬を終えることだけが重要なことだった。そして、もしパルバティが越冬後に基地に生還しても、そこに待つのは賞賛ではなく——測地班の仲間は別にしても——査問であり、責任のなすりあいでしかないだろう。  地吹雪はおさまりつつあった。風がわずかに雪をはこんで二人の髪をゆらしている。 「馬鹿げた話だ」ぼそりとギュンターは言った。「俺達の隊長とはえらい違いだよ。とにかく……そういうことなら、できるだけのことはしてやろう。ここから一〇〇キロほどのところに俺達の休息所《ピット》がある。もし、そこに奴がいれば、なんとか夜明けまでにこいつを引っぱり出せるんだがな。だめなら、あきらめるか、その時にまた考えることにしよう」  ギュンターは、氷の中に半分埋没したスノー・クルーザーからパルバティのために露営具や食料を引っぱり出すのを手伝いながら言った。 「で、CB‐8というのは、この惑星ムルックの汎銀河名か。汎銀河人の資源開発公社が、この氷と雪の惑星に何の資源を探すと言うんだ?」  パルバティは、ギュンターの問いに口をつぐんでいた。まだ完全に彼を信頼していたわけではなかった。特に、汎銀河人に敵意を持ち、宇宙の中に散らばりながらも、いまも汎銀河世界に加わることを拒否しているという地球人であるとみずから名乗ったギュンターなら、なおさらのことだった。パルバティの沈黙の意味を理解したギュンターは、陽気に笑って言った。 「言いたくないならいいさ。もっとも、だいたいの見当はついているがな。さて、行こうぜ。一〇〇キロほどのドライブだ」  ギュンターは、そう言って景気よくエンジンをふかした。後部座席にまたがったパルバティを確認するや、一気にスノー・バイクは飛び出した。  おそろしく寒い旅だった。勢いがおとろえたとはいえ、地吹雪はなおも飛雪を舞い上げ、時にはスノー・バイクを横転させる勢いで氷片をたたきつけた。ギュンターの操縦は的確だった。荒れ狂う烈風の中を、たくみにバランスをとりながら隆起氷丘を迂回し、波うつ|雪  紋《ドリフティング・スノー》を乗り越えていった。しかし、操縦のたしかさに感心していられたのは最初の五分ほどだけだった。縦横に吹き抜ける風は、容赦なくパルバティから体温をうばった。極地服のヒーターを最大にしても、熱量の不足する手や足の先から、そして顔面までが次第に氷のように冷たくなっていった。彼の極地服は、このような、むき出しのまま乗車するバイク用には作られていなかった。パルバティは、恐怖にとらわれた。凍傷にやられるかもしれない。靴の中でゆっくりと足を、そして手を動かしながら体温をあげようと苦労した。顔面だけはそれができなかった。たえまなくたたきつける氷片が次第に顔を凍らせ、鼻の上まで引き上げたスカーフが吐く息の露でじっとりと湿り、外側から氷にかわっていった。氷づけのスノー・クルーザーの中で死んだ方がはるかにましだ——そうパルバティは考えていた。      2  惑星CB‐8は奇妙な軌道を持っていた。離心率〇・六九という長楕円軌道で、しかも惑星の自転軸は、公転面にほぼ一致するまで傾いている。自転周期は二八標準時間。公転周期はこの惑星での三四〇恒星日にあたる。パルバティ等が越冬観測を行なう前に、幾度かの予備調査を行なった汎銀河資源開発公社の惑星物理学調査班は、この惑星の現在の軌道について次のように報告していた。はるかな大昔には真円に近い軌道をめぐっていたこの惑星が、なんらかの外部力を受けて公転軌道の偏心を引き起こし、自転軸の横転をもたらしたものである、と。そして、現在の軌道から計算された真円軌道は、Gタイプの母恒星よりの平均距離はほぼ一億五九〇〇万キロであり、自転軸が公転面に対し直角に近いとすれば、これは生物の発生条件をすべてそなえていた。  もし、そのような軌道をめぐっていたのなら、一年を通じて一日、二八時間か、あるいはそれに近い時間で昼と夜がくり返され、そして自転軸のわずかな傾きは四季のおとずれをもたらし、生物の発生どころか文明の存在さえ充分に期待できた。もっとも、生物がかつて存在していた痕跡は全く発見されておらず、存在していたにせよ軌道がゆがんだ、“大変革”の年には絶滅しただろう、と報告はつづけていた。何にせよ、生物や文明の痕跡をさぐるのは、汎銀河資源開発公社の任務ではない。  彼らの越冬基地は、この惑星の“夏極”にあった。公転軌道の母恒星に対する最遠日点を一恒星年の第一日とすると、第二二日目に惑星自転軸が公転面に投影する直線上に母恒星が入る。すなわち、夏極側の地軸の先に太陽が入り、この惑星の夏半球側は夏至をむかえる。そして、最遠日点で二億七千万キロだった母恒星との距離は次第に小さくなり、第一七一日には近日点を通過し、五千万キロにまで接近する。そして、近日点から丸一日後に冬至をむかえる。冬極が母恒星に相対するのである。  惑星上の地形は、夏極をとりまく夏大陸をはじめとする三つの大陸と、二つの亜大陸、いくつかの島嶼群からなりたっていた。大陸のほとんどは夏極側に集まり、冬半球は海洋が多くを占めていた。  夏大陸は、夏とは名ばかりで雪と氷におおわれていた。一年の大半をしめる夏の季節に、ほとんど空にある太陽は夏至の時でさえ、地表面に弱い光と熱をもたらすにすぎず、それさえもほとんどは大陸を厚くおおった氷床と海氷原によって反射され、大地に吸収されることはなかった。  今、夏半球には四〇日近い極夜の季節がおとずれようとしていた。大陸周辺に夏の間から発達していた海洋氷は、極夜にかけて次第に厚さと支配域を増し、大陸のはるか沖合にまで氷の触手をのばしていた。そして、惑星の裏側の冬極周辺では、夏極が夏至の時に太陽からうける熱量の実に三〇倍近い熱を受けて、海をわきあがらせる極夏の季節になっている。  この惑星には、母恒星の他にもう一つの“太陽”があった。対地高度一万六千キロの真円極軌道を持ち、八時間四二分の周期でこの惑星のまわりを周回する人工太陽、|H P《ホットポイント》がそれだった。HPは三〇キロ直径のパラボラ面を持ち、パラボラ面の焦点と、展張支点の二ヵ所に機関部があった。展張されたパラボラ面は、恒星風圧力による姿勢制御で常に母恒星方向を向き、支点の機関部がほぼこのHPの重心となって同時に展張ワイアの伸縮による制御を行なっていた。いわばこのHPは、母恒星に向かって無限に落下する、又は恒星風によって舞いあがる巨大なパラシュートの形をしていた。無論、HPの公転の中心はこの惑星ではあるけれども、惑星が母恒星に対し近日点を通過する時には無視できない軌道のずれが恒星風によってもたらされる。その軌道のずれは、HPが遠日点付近にある数日間に修正される。その間のみHPは操業を停止する。HPは現在、通年操業をしているが、本来の役割は実は夏半球が極夜をむかえる四〇日たらずのことなのだ。  HPは、恒星エネルギーを利用する発電衛星だった。パラボラ面焦点に設置された熱発電施設は、最大時で六〇億キロワットの出力がある。もっともそれはこの惑星が近日点を通過する限られた時間にすぎないが、そしてHPの現在の役割は、年間を通じて恒星発電を行ない、越冬基地に軌道から電力を供給することだった。HPは軌道をめぐりながら惑星の影に入る時を除いて発電をおこない、地上の越冬基地に送電する。つまり、彼らの越冬のためのエネルギーは、非常用を除いてすべてHPによってまかなわれていた。そして、基地内の工場で、スノー・クルーザーや輸送機用の燃料である水素を電気エネルギーで製造していた。  しかし、このHPは、越冬基地のエネルギー源としてのみ建設されたのではない。数次にわたる越冬観測ののちに実行される、この惑星CB‐8の改造プロジェクトの主エネルギー源として建設されたのだ。実際のプロジェクト施工の時には、HPは全部で二〇基ほどが軌道上に並べられるはずだった。そして、この惑星の、第一五三日から第一九一日にかけての夏半球の冬に、この発電衛星は極夜をむかえた半球の各大陸に、人工太陽として今まで決して融けることのなかった大陸氷床に光と熱とをもたらし、氷の半球を緑の沃野にかえるのだ。夏大陸だけでも一四五〇万平方キロある面積を平均厚一五〇〇メートルでおおう二千万立方キロの大陸氷床の、ほとんどを融かすには、いかに大規模な人工太陽群をならべたところで、二〇年は必要だった。そのためのエネルギーは、惑星の裏側に無尽蔵にあると言っても、だ。  そして、大陸氷床のほとんどを融かし終われば、人工太陽群は現在の一基を残し、すべて解体されて次のプロジェクトを待つ惑星へと送られる。  大陸氷床と、海氷原がなくなり、恒星からの輻射熱を宇宙空間にのがすことなく、大地が熱を吸収することができるようになると、プロジェクトは第二段階に入る。気候制御だ。冬半球の余剰熱を暖海流に蓄積し、弱い日照しかない夏半球の夏の気温を上げるのだ。そして極夜には、現在のHPが軌道上から長波長の光で大地を照らすのだ。こうして、今は厚く氷におおわれている夏半球の三つの大陸は再び雪を降らすことなく、緑の沃野として数千万平方キロの可生産面積を汎銀河連合にもたらす。つまり、資源開発公社が開発する資源というのは、この惑星そのものなのだ。  実は、この第二段階の気候制御だけで、大陸氷床と海氷原を融かしてしまうことも可能だが、時間的に数千年のオーダーになることは間違いなかった。それを、人工太陽群をならべることで、二〇年という工期におさめるのだ。当然、プロジェクト自体はかなりな荒療治になる。特に、平均厚一五〇〇メートルもある大陸氷床が、そっくりなくなったと仮定すれば、大規模な地殻変動がおこるのは、充分予想できた。つまり、氷床というおもし[#「おもし」に傍点]を失った大陸が隆起を開始するのだ。  したがって、このようなプロジェクトを行なうにあたっては、その惑星にごく原始的な植物類や細菌類をのぞいて、高等生命が存在しないことが絶対の条件になっていた。その点ではCB‐8は問題はないと言えた。この惑星の軌道の変化が数万年前の出来事だとすると、生物はすべてその時点に絶滅してしまっただろうし、わずか数万年の間にいかなる高等生命の発生もあり得なかった。  ともかく、夏半球は冬をむかえつつある。パルバティ等の第一次越冬隊が観測を終えて引きあげるまで、あと二〇〇日近くをこの惑星ですごさなければならなかった。輸送艦がこの惑星に来て彼等を収容するまでは、この惑星だけが存在する世界だった。      3  スノー・バイクが大きくエンジンをふかし、そして停車した。パルバティは、ずり落ちるようにしてバイクからおりた。体中が氷のようで、膝が曲がったきりのびなかった。思わずついた手が氷にふれて、彼は短い悲鳴をあげた。体中はしんの方から冷えているのに、妙に皮膚だけが熱かった。それは、彼の作業服のヒーターのせいだったが、顔もひきつったような感じがしていた。ギュンターに助けられて、ようやく不自然な恰好で彼は歩き出した。ギュンターは、少しも気にせず大きな声で言った。 「お前さん、ついてるぜ。奴もこの休息所《ピット》にきている」  ギュンターのさした先に、一台の雪上車があった。スノー・バイクではなく、重車両タイプだったが、これも博物館から引っぱり出して来たような旧式であることに違いはなかった。パルバティのスノー・クルーザーのようなスマートさはなく、オレンジ色のペンキははげかけて、黒ずんだ車体の無骨な鼻先をぬっと闇の中に突き出していた。目の前には、黒い影がそびえていた。内陸地帯には見られない、大規模な露岩が重い質感をもって林立している。してみると、ここはかなり海岸線に近い地帯ということになる。  ギュンターは、ライトで足もとを照らしながら先に立って黒い露岩に近づき、ぽっかりと雪面にひいたトンネルに入った。下り坂になった狭いトンネルだったが、風よけのためか二度ほど直角に曲がった時に、あかりが見えた。ギュンターは、ライトを消して上着の中へ押し込んだ。  パルバティは、息をのんだ。その氷の部屋はかがやいていた。ドーム状にけずられた、その部屋の内壁をなす氷は、多くの層にわかれ、それぞれの薄い層がきらめいて見えた。その光は、パルバティが歩いて位置をかえるたびに光沢をかえ、まるで部屋全体がシャンデリアのように見えた。この狭い雪洞内の、床から天井までだけで、おそらく数十年分に相当する積雪層が自重によって圧縮され、密度や含有物の異なる氷となり、それらのわずか数ミリずつの層がそれぞれおもいおもいの色彩の光を反射しているのだった。しかし、パルバティのおどろきは、そのきらめく氷の美しさにではなく、そしてその部屋をまばゆいばかりの光の部屋にかえている光源が、たった一本のローソクだということでもなく、正面の壁に露出した岩壁にきざまれた浮彫《レリーフ》に向けられていた。  そのレリーフは、ひとつの生き物を象《かたど》っていた。それは彼の見たことのない生き物だった。しいていえば、鳥類に近い。翼を大きくひろげ、大空をはばたくさまが、動きをともなって感じられた。そして、その生物の顔は、形容のしがたいものだった。一言で言えばやさしさ、としか言いあらわせない。一切の邪心を消した柔和な顔立ちをしていた。パルバティが一歩をふみ出した時、そのレリーフの中で翼が動き、顔に光のさざ波が走った。パルバティは、さらに近よってみた。露岩に彫られたレリーフの上に、厚い氷がはりつき、ほとんど透明なそれが、彼の位置をかえるたびにきらめいて、あたかもそれが生きているかのように見えるのだった。氷に手をのばしかけたパルバティは、短い制止の声にびくりとして手をひっこめた。ふり返った彼の眼の前に、一人の男が座っていた。立てた片ひざの上に腕を置き、じっと彼の方を見ていた。 「氷をはがすな。岩がむきだしになると、そこから冷気が入りこんでくる。……それに、せっかくの芸術品が台なしだ」  手っとりばやくマットを敷いて座り込んだギュンターが、パルバティにもそれをすすめた。男はカトウと名乗った。ギュンターのような髭のない四角い顔で、体もギュンターのように大きくはない。しかし、頑丈そうな体をしていた。  自分も名乗ろうと口をひらきかけたパルバティは、突然指先に鋭い痛みを感じてうめき声をもらした。手だけではなく、足の指先も、万力で締めつけられるような、刃物で切りつけられたような言いようのない痛みだった。体を二つ折りにし、床にころがってうめくうちに、さらに痛みはました。 「二人とも、バイクか?」のんびりした声で、カトウがギュンターにたずねた。 「ああ」ギュンターも、それだけ答えた。それから、視線をパルバティの方に向けて言った。 「辛抱しな。二〇分ほどでうそみたいに痛みは消えるから」  パルバティの指先に、今猛烈ないきおいで血液が流れ、凍りついていた組織を融かしているのだった。痛むくらいなら、凍傷の心配はまずないな、そう言いながらギュンターはコンロに火をつけ、食事の用意をはじめた。  たしかに暖かさのもどった指先から痛みは消えた。しかし、体全体をおおった寒気は一向に去らなかった。ヒーターを最強にして、皮膚がやけつくほどなのに、少しも暖かくはならないのだ。ふるえているパルバティの鼻先に、ぬっと湯気のたつ器がつき出された。 「いくら汎銀河人と言っても、食い物が違うってわけじゃないんだろう?」  そう言ってギュンターのさし出した器には、緑色の液体が甘いかおりを立てていた。量はそれほど多くない。器といっても、小型コッヘルをかねた金属製のカップだった。すすってみると、かすかに甘味があり、冷えた体にはありがたかった。 「ヒーター付の作業服というのも、考えものだな」  パルバティと同じように、音をたててスープをすすっていたギュンターは言った。これも何やら得体のしれない飲物を入れたカップを、両手でつつむようにして飲んでいたカトウも同意して言った。 「まったくだ。君がこの部屋に入って来てから、部屋の温度が一気にあがって氷が融けだしてきた。ほら、君の尻の下に水たまりができてるくらいだ。それなのに、さっきから君は地震みたいにがたぴしふるえているじゃないか」  そう言うカトウも、ギュンターと同じく着ぶくれしていた。ただこちらの方は、いくらか服はうすいようだった。パルバティの視線を受けたカトウは言った。 「これか? これは基地建設資材の断熱材を流用して作ったんだ。仕立てに少し難があるが、軽いし、動きやすくてしかも暖かいことはこの上なしときている」ギュンターが、その言葉を受けて言った。 「ここではシンプルが一番だと言ったろ。たしかに、君達のシステムは信頼性も高いし、機能的にできている。だが、トラブルには弱いんだ。要するに、ヒーターじゃ人間の体を内部からあたためることはできないし、もしも故障ということを考えると、おそろしくて着る気にはならないな。……保温の基本は、体温をのがさないことだよ。体温というやつは故障知らずだ。生きてる限りは」  そう言ってギュンターは、かさばった、それでいて軽そうな上着を脱いで、防湿用の袋にしまった。 「問題は調節がきかんことだな。部屋の中でも着ていたいが、それをやると今度は外に出られなくなる」  パルバティは、スープの最後の一滴までのみほしてからたずねた。 「ところで……この、緑色の草のような物は何だ」 「緑色の草だ」カトウがボソリと言った。 「露岩地帯を一日歩きまわれば、両手でかかえきれないほどとれる。知らなかったか?」  知らないも何も、パルバティは野外作業用のレーションしか食ったことがなかったし、食糧の現地採集など考えたこともなかった。しかし、それよりも、植物がこの惑星に存在していたことが、彼にはおどろきだった。彼はそのことを言った。ギュンターは、別に何でもないように答えた。 「植物だけじゃない。動物もいる」  パルバティは、耳をうたぐった。冗談でも言っているのかといぶかしげな表情をするパルバティに、ギュンターは壁のレリーフを指さした。パルバティは、ギュンターの言葉の意味を理解して笑った。 「なるほど、これなら動物と言ってもさしつかえない。芸術の名に値する。ところで作者はどちらかな?」  二人の地球人は妙な顔をしてお互いに顔を見合わせていたが、いきなり吹き出した。ギュンターが笑いながら言った。 「我々にそんな器用なことができるわけはないだろう。こいつは、ざっと五万年は昔に作られたものだ。もちろん我々のものではない。こいつは、この惑星にさかえた文明の遺跡だ。この露岩にそって雪を掘り下げていけば、すごい大遺跡がほとんど損傷されないまま発掘できるはずだ。残念ながら、我々にはその力がない。偶然に掘りあてたこのレリーフだけが俺達の発掘した唯一の遺跡だ」 「滅び去った生物か……」パルバティは、あらためてその鳥のように翼を大きくひろげた生き物のレリーフを見た。しかし、ギュンターはそれを否定した。 「滅んでなんかいない。俺はこの眼でこいつを見た。……二回な。一回は未確認だが」ギュンターは、熱い眼でレリーフを見つめていた。 「俺も見た」カトウがそれだけ言った。パルバティの手からカップが落ちた。 「信じられない……」  軌道をそらせ、自転軸を狂わせるほどの大異変を生きのび、白い地獄と化したこの惑星で数万年にもわたって生き続けて来たということなど、とても信じられなかった。 「信じないのは勝手だ。だが、我々はこの惑星で五年にわたって観察をつづけて来た。そして、たしかにいる、という確証をつかむことができた。もちろん、今は文明というものを持たない、そして、最盛期に比べれば数も激減してはいるが、あれはまちがいなくこいつの子孫だ。いや、文明というより……」  ギュンターは絶句した。それから、パルバティの方を向いて息をついて言った。 「……とにかく、今年までで、ようやく客観的に存在を証明できる写真や他の証拠もそろったし、不完全だが、習性の一部も知ることができた。次の夏には、我々の隊長が資料を持って汎銀河世界に発表することになるだろう」  おどろくべき事実だった。もし、この惑星に土着の高等生命がいるとすれば、彼等の惑星開発プロジェクトは無条件に中止になる。何者も、惑星現住生物の、生活環境を犯すことはできない、とした汎銀河主義によって。まして、惑星の根本的な改造を行なうプロジェクトなど、容認されるはずがなかった。 「君達は一体、何者だ」  ようやくレリーフから視線をはずして、パルバティは二人の方を見た。少しの沈黙のあと、ギュンターが言った。 「この惑星への植民を考えている。しかし、誓って言うが、この惑星プロジェクトのことを知る何年も前から計画して来たことだ。そう、俺達地球人には帰るべき故郷がない。汎銀河人に母星を追放され、どれほどの時がすぎたのか、いまでは正確なことを知る者もいない。そして、地球がどこにあるのかさえ、我々は知らない。ただ、いまの地球は汎銀河人によって管理され、我々は周辺の宙域にさえ近よれないと聞いた。本当のところは誰も知らないが。しかし、我々には故郷が必要だ。たとえ極寒の地であっても、我々はそこを故郷として住むことができる。能力の劣った地球人として汎銀河人と共に生活するよりは。この鳥は、我々——この宙域に植民のために集結しつつある同胞にとって、幸福の鳥と言っていいだろう。ここはまだ氷だけの世界だが、やがて我々はこの地に我々の世界を作るのだ。この鳥と共存して、な」  ギュンターの眼は熱く燃えていた。カトウがカップを置いて言った。 「寝るとしようぜ。明日は未明からいそがしくなるんだろう」  それを合図に、彼等は露営具をひろげた。パルバティの体温はもとにもどりつつあった。 「君達の越冬地は極点だと言わなかったか」  すでに仕度を終えたギュンターが、スリーピングバッグから首をつき出してぼそぼそと聞いた。 「気をつけろよ。俺達は行ったことがないが、何年か前に仲間の一人が単独で越冬観測のために出て行ったことがある。帰って来なかったが……」パルバティは、その言葉を聞きながら眠りに落ちていった。  極夜をひかえた高緯度帯では、太陽は夜になっても地下線の下にわずかに沈み込むだけだ。そして、つかの間の昼に地平線の上をはうようにめぐり、そして没する。夜明け前の薄明は長い。彼らは未明に雪洞から出発した。  すぐに三人が乗りこんだ雪上車のライトが不要なほど明かるくなった。雪原の白さが、激しくまたたく星の光をうけて暗い空の下でうかびあがり、その星も黄道光のかがやきにおされて次第に数をへらしていった。しかし、擱座したスノー・クルーザーの所に来た時でも、本当の夜明けまでにはまだ一時間余りあった。クルーザーの引っぱり出しには、かなり手間どった。  エンジンをフル回転させるクルーザーは、すでに堅氷と化した積雪をはね上げる力さえ、残っていなかった。それでも、カトウが雪上車の排気マフラーにパイプを連結し、クルーザーの周囲の氷に吹きつけ、他の者が鉄棒をふるう内に、ようやく下部のエアバンパーが力を持ち始めた。あとは、雪上車と、クルーザーをワイアで連結して強引に引っぱり出しにかかった。相当に無茶なやり方で、ただもう雪上車の馬鹿力にパルバティはあきれるばかりだった。牽引しながらゆさぶりをかけ、そのつどゆるんだ氷を鉄棒をふるってたたき割り、小一時間もあきずにくり返したころ、いきなりスノー・クルーザーは飛び出すようにして氷から抜け出し、引っぱっていた雪上車に追突しかけて急に制動することもできずにそのわきをすり抜け、ワイアを張り切ってようやく止まった。逆にワイアで引っぱられた形になった雪上車だったが、わずかに尻をふっただけでキャタピラはびくともせずに雪面をかんでいた。 「尻ぐせの悪い車だな」ギュンターは、雪上車のキャリアーに鉄棒を押し込みながら言った。 「みろよ。あの尻もちのあとを」  ギュンターの指さす先には、スノー・クルーザーのはまり込んだ跡が、ものの見事な穴となって残っていた。パルバティにしてみれば、自分のクルーザーがいかにもたよりなく、そして彼らの雪上車が旧式な割にはずいぶんたくましく見えた。  二人の地球人は、自動測地ポイントまで同行した。地吹雪はおさまったものの、あいかわらず二基だけしかフル回転できないエンジンのスノー・クルーザーでは危険きわまりない道のりだった。無人の測地ポイントに着いたころ、空の端が明るくなり始めた。この秋で最後になるはずの夜明けは、もうすぐだった。そこから、前進基地までは、広い雪原で、さえぎる物は何もなかった。そこまで同行した雪上車は、大きく雪原に弧を描いて転回し、フォーンを高く鳴らしてもときた道をひき返して行った。パルバティは、スノー・クルーザーを着床させ、屋根の上によじ登った。  今、夜明けは確実に近づきつつあった。それでも風は弱まることなく、わずかに青い色彩をまじえた黒い空に、なおもいくつかの星がまたたいていた。わずかな日照時間のうちに、黒い空も、星も、変わることはないだろう。世界の半分は白かった。その、白一色の大地を分割するかのように一条の軌跡が残っている。風に雪が舞い、すでにその軌跡さえ消しかけているその中を、雪上車が遠ざかって行った。  その時、唐突に太陽が姿を見せた。みるみる世界は変貌した。白い大地が明るさを増し、世界の下半部が光りはじめた。パルバティは、まぶしさに眼をしばたたかせた。星を配した空は、それでも色あせることなく、宇宙空間からつき通したような黒い色を守っている。そして、はるか彼方では速度を増した雪上車が長い、実に長い影を白い大地にのばしていた。ゆらめく影が、パルバティに別れを告げているように見えた。彼は、首のスカーフをはずし、頭上にかざした。直立した腕の先で、スカーフは風を受けて水平に激しくはためいた。二度と会えないのではないか、パルバティはそんな気がして、いつまでも立ちつくしていた。      4  前進基地で仲間と合流してからも、輸送機で極点基地に向かう時も、パルバティは沈黙しつづけていた。彼の、奇妙ともいえる体験を口にするのは、はばかられた。何よりも、プロジェクトのすべてを無効にしてしまう事実なのだ。たしかな証拠のないことを言って、官僚グループや、プロジェクト・チームとの、いらぬトラブルを起こす気にもならないし、どっちみち放っておいても次の夏には彼等の口から発表されることなのだ。  輸送機の中でも黙りきっているパルバティを、となりのシートにいた測地班の仲間が、ひじでつついた。我にかえった彼が、仲間の指さす窓の外を見ると、そこには黒い大地の中から浮かびあがった光の列があった。夏極の極点近くにひろがる越冬基地の氷上滑走路だった。輸送機は、その光の列に向かってゆっくりと高度を下げつつあった。高度を下げるにつれて、光の列の片側に不規則にひろがるまばらな基地の灯は、のっぺりしたひろがりから、立体感を持った街にかわっていった。  三ヵ所の前進基地と、その数十倍の無人測地ポイント、無人気象観測所の中心となる極点基地には、すでに五〇名の観測隊員全員が集結を終えているはずだった。総員五〇名だけなのだ。それだけの人数で、全観測を行なうために、彼らは高度な無人観測機群にたよっていた。たとえば、パルバティの属する測地班は三人一組のチームが三組あり、夏から秋までのおもな仕事は、夏大陸およびその周辺に自動測地ポイントを設置することだった。  無人の測地ポイントが自動的に行なえる作業は一つしかない。測距である。彼らの高度に機械化された自動測地観測機も、満足できる精度で測角を行なうことができるまでには、開発が進んでいなかった。そのかわりに、露岩帯に設けられた各種の三角点と、軌道上の測地衛星からなる三角網の、レーザー測距によって座標位置を決定する方法がとられていた。古くは測角を主体とした三角測量を行なっていたのに比べれば、ちょうど方法が逆転したのである。さらに、得られたデータはレーザー通信によってリレーされ、三ヵ所の前進基地のひとつを経由し、ケーブル通信によって今度は極点基地に集積される。このデータ通信網では、極点基地に集積された全データを、三ヵ所の前進基地のどこからでも引き出すことができた。つまり、前進基地は、アウトプットの能力から言えば極点基地と同等なのである。  測地班の作業は、ほぼ半分が終わったところだった。春以後は、衛星写真をもとにした地図作製に力を入れる予定になっていた。すでに一〇〇万分の一の写真図は作製ずみだったが、次段階として大縮尺(二〇万分の一)の地形図作製に入るのだ。そして、自動測地ポイントは、この惑星の改造プロジェクトの終了までデータを送り、大地のひずみを計測することになるはずだった。      5  基地に集結してからの一週間は、機器の整備と調整で終わった。あとは、長い退屈な冬ごもりの生活しか残ってはいなかった。測地ポイントから刻々送られるデータは、どれも単調な数字の羅列にすぎず、それをプログラムずみのデータバンクに直送すれば、データは自動処理されて集積されていく。パルバティには、退屈な日々だった。  そんなある日、パルバティがライブラリーでマイクロリーダーを使っている時に、一人の気象観測班の技師が彼に声をかけた。 「調べものか?」  レムという名のその技師も、冬ごもりの今は時間をもてあましているようだった。彼は、パルバティの読んでいたマイクロレコードのタイトルを見て、少しおどろいたように言った。 「“地球《テラ》、その文明”か。妙な物に興味を持っているんだな、君は」 「ちょっとね」  てれかくしにそう言って、リーダーをオフにし、パルバティは彼に向きなおった。レムもシートに腰をおろした。白く、やわらかい照明のあふれるライブラリーには、彼らの他に人影はなかった。パルバティは、レムと共同の野外作業を行なったことがあり、無人気象観測所を併設した測地ポイントも多かったので、以前から親しい仲ではあった。パルバティは、A‐3平原の事故のことは誰にも話してはいなかったが、彼になら話せるような気がした。ただ、いきなりそのことをきり出す気にはなれなかった。レムも、パルバティと同じ、地球種族の血をひく汎銀河人だった。レムは言った。 「君のルーツでもしらべるつもりかい?」 「そんな大げさなことじゃないがね。ただ、このライブラリーの地球関係のものをあらかた調べてみたが、どうも釈然としない部分が残るんだよ。今でも、汎銀河人となるための、遺伝子変換をすることをこばむ純粋地球人がかなりの数、この宇宙に散らばっていると聞いたのだが、このレコードはそんなことに全然ふれていない。また、そもそも原地球人とはどんな人種だったのか、そして最盛期には五〇〇億をこえた人口と、強力な軍事力を持ってこの宇宙のかなりの部分を制したという地球人が、どのようにして消滅といっていいほど衰退したのか」 「やめといた方がいい」冷たくレムは彼の言葉をさえぎって言った。レムはつづけた。 「俺にも地球人の血がまじっている。のろわれた血だ。地球という言葉で連想するのは、憎悪、殺戮、悪をなすための組織力、そして同族への盲目的忠誠。排他主義。これらはすべて汎銀河主義に対立するものだ。……彼等は過去の遺物だよ。滅ぶべくして滅んだ種族だ」  少しの間、気まずい沈黙がおとずれた。レムは、つとめて陽気な声で沈黙を破った。 「それより、君に話があるんだ」顔をあげたパルバティに、レムはかさねて言った。 「どうせ、今はどっちも時間をもてあましている状態だ。君さえよければ共同研究をやりたいんだ」 「ほう、どんな?」  パルバティは、少し興味をそそられてそう聞いた。二人とも、汎銀河資源開発公社と、この惑星での一年の契約で越冬観測に参加しているが、与えられた任務の他に個人の研究も認められていたし、事実、このような越冬観測の間に作製した論文で学位を取る研究者も多くいた。根っからの技術屋であるパルバティは、そのような研究には大して興味はなかったが、他にすることもなかったし、何より気象畑の彼と、測量が専門の自分との共同研究ということに興味をそそられたのだ。そんな彼の様子を見てとったレムは、膝をのり出して言った。 「そんなにむつかしいことじゃない。しかし、地の利をいかしたすばらしい成果が期待できる。テーマは、特異軌道を持つ惑星の、潮汐力が気象に及ぼす影響だ」 「つまり、この種の惑星の気象の変動を、力学的に分析するという試みだね」  レムは、我が意を得たというように、大きくうなずいた。 「そうだ。この惑星では、潮汐力の影響が近日点において相当大きいし、反対に日照の影響は非常に単純だ。特に極地では、日没と、日の出が年に一回ずつしかなく、母恒星から受ける熱量は、時間的にきわめて単調な変化をする」  言うまでもなく、一年のはじまる第一日に夏極に立つと、太陽は頭上に近く、ほとんど静止している。その時点でわずかに天頂を周回していた太陽は、次第に天頂に近づき、第二二日の夏至には天頂で完全に静止する。そして、秋に向かって、天球をめぐるゆるやかな螺旋運動をしながら高度を下げ、それにつれて視直径を増大させてゆく。高度を下げた太陽はついに秋分点で地平線と同じ高度にまで下がり、地平線をぐるりとひとまわりして地平線下に没する。そして、短いが厳しい冬をむかえるのだ。レムは、それにつけ加えて言った。 「それに、この夏半球をおおっている氷だ。大陸氷床も、海氷原も同じ反射率を持っている。これはきわめて理想的なモデルだ。問題なのは、地形の影響と、遠心力、コリオリの力だが、この惑星が全くののっぺらぼうなら、研究する価値もないがね」 「しかし……この冬の間には無人観測のデータしか得られないんじゃないか。風向や風速、気温、気圧くらいのデータでは、マクロな状況はつかみにくいのではないか」 「君にたのみたいのはそこだよ。衛星写真の判読を君にまかせたいんだ。今年の冬には、地吹雪の走向や風速、雲の発生、地表面の温度が連続的に変化していくさまを、衛星写真から判読し、さらに長期にわたって、海水位の変化を測定して私の方にわたしてもらいたい」  パルバティは妙な顔をした。たしかに、衛星写真の判読は彼の仕事だが、冬の間にそのような写真撮影は行なわれる予定がなかったはずだ。第一、そのような高度な判読を必要とする衛星写真を長い夜のつづく冬にとれるわけがない。パルバティがそのことを言うと、レムは意外そうな顔をした。 「知らなかったのか。第一七一日からHPは余剰のエネルギーを地上照射にふり向けるそうだ。君は……ずっと基地の外に出ていたので知らされてなかったのだな。越冬態勢はそのままで、惑星開発プロジェクトの融氷計画の予備実験を今年から始めてしまう予定だ。プロジェクト・プランナーが点数かせぎのために予定をくり上げて実績を上げるつもりなんだろう。我々には関係のないことだが。  あの越冬隊長も、こんな危険をともなわない計画には、簡単に許可を出すからな」  パルバティは彼の言葉を聞いていなかった。心の中にひっかかる物があったのだ。話を終わって去ったレムの後姿を、しばらくぼんやりとながめていたが、急におもいたってマイクロリーダーを、レコード読み取りから、情報バンク直結に切りかえた。彼は、ただちに必要な情報をオンラインされた中央バンクからひき出し、計算を開始した。結果は、彼の不安を増すものだった。パルバティは少しの間、アウトプットされた印字紙をながめていたが、やがて意を決してそれをつかんでライブラリーをとび出した。  その時にはまだ彼は、自分のやろうとしていることがどんな結果を招くのか、考えてはいなかった。ただ、自分の命を救ってくれた地球人達に及ぼす危険を見すごすことだけは、絶対にできなかった。  自分で自分が興奮しているのがわかった。基地内の回廊を足音高く通り過ぎていくと、何人かの隊員がおどろいたように道をよけた。そうやって急ぐうちに、わずかに残っていたためらいも消えた。規則破りをして野外作業を単独でやったことがプロジェクト・プランナーに知れたって、どうということはない。そんな気になっていた。  プランナーの部屋につくなり、パルバティはノックもせずにドアをひらいた。基地内の他の部屋と同じく、居住室と研究室を兼ねたその部屋の奥のデスクに、プランナーは向かっていた。  デスクから顔をあげたプランナーは、いきなりとび込んで来たパルバティを、眉をしかめて見た。 「何だね、君は、官姓名を名乗りたまえ」  学者馬鹿め! パルバティは、怒鳴りかけようとするのをあやうくこらえた。五〇人そこそこの越冬隊の中で、官姓名を名乗れもないものだ。しかし、彼はつとめて冷静を保ちながら答えた。 「測地班、パルバティ技官です。第一七一日からのプロジェクトについて……」 「私は今、非常に忙しい。意見具申なら所定の手続きをふみたまえ」パルバティの言葉をさえぎって、プランナーが言った。そして、再びデスクの上に目をおとした。 「それでは間にあわないのです」パルバティの声がわずかに上ずっていた。不機嫌な様子で顔をあげたプランナーに、パルバティはまくしたてた。 「計画によると、この計画の前半、第一七一日から第一九一日に最初の曙光が極点基地にさすまでの期間は、HPの余剰エネルギーのすべてを長波長の光にかえて夏大陸を照らし、第一九一日——春分以後の昼の時間六〇日間は、熱の吸収効率をあげるために極点付近の露岩地帯に集中して熱を照射する、とあります。そして後半の六〇日間の狭範囲照射では、融水の排水路として極点付近から、最も近いバインター氷海まで、五〇〇キロにわたるトレンチを照射によって開削する、となっています」 「パルバティ技官、私は君の初等講義を聞く時間的な余裕はない。そのような話を聞かされずとも、私自身が計画したことを私が知らぬわけがない」  パルバティは、ついに大声をあげて、プランナーのデスクを、どん、と叩いた。 「重要なことは、ここからです。第一七一日から八〇日間余りにわたる照射の、累積熱量は3.0×10^16キロカロリーになります。効率を0.5としても夏大陸の氷のうち2×10^11トンが水になることになる。これだけの融水が大洋に流出すれば、低緯度極地帯——緯度七〇度付近の沿岸部では相当の気象変化が予想され、沿岸にかなりの物理的影響が出るでしょう」  プランナーは、怒りを顔にあらわし、押し殺した声で言った。 「今すぐここから出て行くか、さもなければ人を呼ぶぞ。それくらいは予測ずみであり、我々の設備にも大きな損害が出ないことはわかっている。君は一体、何を言いたいんだ」  しかし、パルバティはやめなかった。 「夏大陸の春海洋寄り、ブリザード前進基地近くの沿岸島嶼のひとつに、一〇人以上の地球人達が越冬しています。もし、そのような気象変化がおこれば、彼らの基地は重大な影響を受けます」プランナーの顔に、わずかな表情の変化を読みとったパルバティは、たたみかけて言った。 「さらに、彼らの内の何人かに私は会ったが、それによれば、彼らはこの惑星の原住生物、それも高等生命を目撃したと言っていた。いいですか、このプロジェクトは中止されるべきなのです」  しかし、プランナーが言ったのは、意外な言葉だった。 「予備調査では、この惑星に原住生物は存在しないとの報告がなされている。しかも、君が目撃したのではない伝聞は、この惑星に不法に住みついている地球人達のものだ。だからこのことは、我々の関知すべきことではない。……君の予測した数値は熱効率を大きくとりすぎているようだ。実際は気象変化も、それほど破壊的ではないだろう。もちろん、そのような事態にやがて地球人も気づき、必要とあらば退避するだろう」  パルバティは、一瞬あっけにとられて呆然とした。気象の変化を正確に予測するのは誰にもできない。むしろ、最悪の場合を予想して結論を出すのが正当な方法だ。プランナーの言葉は、地球人の生命など存在しないものとして言ったものだった。パルバティは、押さえていた怒りがこみあげて来るのを感じながら言った。 「あなたは全く事態を理解していない。気象の変動を見こしての基地の移動など、簡単にできるわけではない。全員が凍死してしまうだろう。あなたは殺人者だ」  プランナーは、怒気をふくんだパルバティの言葉を無視し、インターカムに手をのばして言った。 「越冬隊長か。人数をそろえてすぐ来てくれ。反乱の意志を持って、私を脅迫しようとしている隊員がいる」そして、パルバティに向かって冷徹に言った。 「猿を殺しても殺人罪にはなるまい」  パルバティの喉からうなり声がもれ出た。デスクの上に体を乗り出すなり、プランナーの細い首をわしづかみにし、一気にしめあげたその時、ドアが勢いよく開いて数人の屈強な男が乱入した。獣のようにうなり声をあげるパルバティは、力づくで引きはがされ、回廊をひきずられていった。 「優秀な技官らしいのに残念なことだ」プランナーは、残った越冬隊長にやっとそう言った。      6  パルバティにとっては退屈な日々であることにかわりはなかった。身分保留のまま、自室内待機を命ぜられていたが、要するに軟禁である。越冬が終わって引きあげ便で送り返されてお払い箱になるのだろうが、それまではただ平穏な日がつづくはずだ。軟禁とは言っても、自室にそなえられたデータバンクからのアウトプット端末兼計算機は自由に使えたし、不明な点があればインターカムで他の隊員とも話はできた。通話に秘密は保たれないということは最初に言いわたされていたが、いくらヒマでも彼の会話を一日中盗聴するような物好きもいないだろう。越冬中はとにかく五〇人だけなのだ。  パルバティは仲間に差し入れてもらった材料と格闘していた。ヒーターを使わない防寒服を作ろうというのだ。手製でやるにはかなり無理が多かった。最低限満たすべき条件はいくつもあった。断熱効果の高いもので、発汗や降雪、雨によって湿っても気化熱をうばわないもの。防水性と通気性をかねそなえているもの。撥水性があり、ぬれによる重量増加の少ないもの。また、ぬれても乾きの早いもの。軽く、不要の時にはコンパクトに小さくおさまること。素材だけでもこれだけの条件があった。これらのうちのどの一つが欠けても意味がないのだ。しかも仕立てるには、動きやすさや堅牢さも要求される。  パルバティは、ありあまる時間で基地内にあった各種作業服や特殊服のひとつずつをチェックしていった。それでもなお満足できずに、基地建設用の断熱材や、防炎シートまでためしてみた。さほど広くもない彼の部屋は、すぐに足の踏み場もないほど混乱した。それがようやく最初の試作品完成にまでこぎつけたのは、冬至をすぎようとしているころだった。  唐突に彼の部屋のドアが開け放たれ、レムが顔を出したのはちょうどそのころ、第一七二日になるころだった。妙な顔でいるパルバティにはおかまいなしに、レムは勢いこんで言った。 「君も来てくれないか。どうも様子が変なんだ」  それだけ言って、レムは怪訝そうな顔のパルバティを置いたまま、回廊を先に立って歩いて行った。ただならぬ彼の気配に、パルバティも部屋をとび出してあとに従った。  基地内は、しんとしていた。ほとんど人のいない回廊を進んで、中央情報室に着いた時、そこだけが異様な雰囲気につつまれていた。そこには基地内の全員が集まっていた。一方の壁面を独占している大規模情報表示面には、刻々と変化する数字や図が走っていた。数人は、データバンクに直結された演算機で何かを計算していた。誰もがパルバティがはいって来たことに気づきもしなかった。  一体、何が起こっているのかさっぱり見当がつかぬまま、パルバティは近くの人間に状況を問い正そうとした。だが、そこにいる誰もが一様に蒼白な顔で、何かに耐えているように無言でいた。  何かがおかしい……その場の空気が重苦しいといった単純なことではなく、本当に何かがいつもとは違っていた。その場の息詰まるような雰囲気に押されて、胸が苦しくなってくるのだ。そして足が鉛のように重かった。長い間、自室にとじこもっていたために、わずかに回廊を歩いただけなのに、それが負担になったのかとも考えたが、それにしては変だった。どうしたというのだ。この息苦しさは。比喩的な意味ではなく、本当に胸が苦しく、動悸がするのだ。それだけではなく、軽い頭痛までした。  その答を得ようと室内の情報表示面に眼を走らせた時、ようやくその原因がわかった。気圧が異様に低いのだ。平常値の八五パーセントにまで落ち込んでいる。パルバティは、すぐそばにいたドクターに聞いた。しかし、その答は要領を得ないものだった。わかったのは、わずか一日前から基地をとりまく大気圧が減少し始めたということだけだった。パルバティは情報表示面をさぐり、情報を得ようとした。この極点基地だけでなく、他の無人観測所も、前進基地のデータも、すべてゆっくりとだが確実な気圧の減少を示していた。さらに注意して見ていると、高緯度にある基地の方が、低緯度にある観測所よりも、いくぶん気圧の変化が大きいようだった。ドクターは、困惑したように言った。 「現在程度の気圧の減少なら、人体にさほどの影響はない。今は、息ぎれや動悸、頭痛があるが、一時的なもので、体が気圧の変化を受け入れれば回復する。血液中の酸素供給能力が、次第に増大するはずだ。しかし、正常に行動し得るのは、現在の気圧がほぼ限界だ。もともとこの極点基地は、標高三〇〇〇メートルの高地にあって、海面上での標準気圧の七〇パーセントしか酸素分圧がないのだ。我々一般的な人間が常駐できる上限といっていいだろう。現在は、その希薄な大気のさらに八五パーセントしかないのだから、標準大気圧の六〇パーセント以下ということになる。標準状態に換算すれば、海面上四千数百メートルの高地に等しい。  ……この気圧の中でも我々は数日、あるいはうまく順応できた者なら半永久的にさえ、生活することができる。激しい運動さえしなければ、越冬終了まで持ちこたえることも可能だ。しかし、このままじりじりと気圧が下がりつづければ危険だ。酸素不足による障害が、もっと顕著な形で出る可能性がある」  室内のあちこちで数人ずつかたまったグループが声高に議論していた。少しでも状況を知ろうと、パルバティはその中に顔をつっ込んだが、どれもが的を得ない空論だった。開発プロジェクト・チームのメンバーが、プランナーに指揮されて、与えられたデータをもとにこの全惑星規模の現象を説明するモデルを作ろうとしているのだが、成功した試みはなかった。それ以外の手のあいた者は、設営隊員や、輸送機のパイロットまでがてんでに意見を言い合っていたが、人々を納得させるようなものはなかった。パルバティは、手近の個人用情報端末の前に陣どり、今までにわかっている情報に目を通した。  彼はまず、昨年の無人越冬観測のデータを引き出した。極点基地が現在ある場所の観測所では——第一七一日から、二四〇日までの間、スケール・アウトしている。海面高度での標準気圧より、マイナス三〇パーセントを中心にして上下一〇パーセントずつの幅を持ったスケールが設定されていた。スケール・アウトは、現在の状況と同様に、減圧側に出ている。冬期に、このような内陸地帯にそんな長期的な低気圧が居座ることなど、考えられないことだった。誰も、このことを不審に思わなかったのだろうか。そう思ったパルバティは、次の二つのデータを引き出した時に、その理由を理解した。昨年に、すでに設置されていた、緯度八二度、八六度の二ヵ所の内陸高緯度地帯にある観測所は、冬至以後に暴風のため機器の一部が破損。気圧データなし。その当時の卓越した風向を、コリオリ修正した純粋気流方向は、極から低緯度に向かっている。ということは、極点付近に優勢な高気圧が居座っていたことになる。常識で考えれば、極点観測所も高気圧におおわれているはずであって、低圧側にスケール・アウトというのは、機器の故障によるものである、という結論に達しただろう。  今年の観測が始まってからは、データは充分にそろっていた。パルバティは予想される現象に従って、それらを引き出していった。下層大気の動きは、ここ一両日の間、極より低緯度地帯へ吹き出しが強まっている。それ以前は……むしろ平穏だ。高層大気は、現在は流れがとらえにくいが、極から吹き出しているには違いない。ただ、データが少なく、以前の動きにそれほど目立ったものは見当たらなかった。もしや、と思ってパルバティは成層圏から上も捜査してみたが、これは無駄に終わった。とにかくデータがなさすぎる。結局、得る所は何もなかった。  しばらくの間、彼は考えながら壁面を見ていた。低気圧の中心から、高気圧方向への季節風の吹き出し……  ふと気づいて彼はあたらしい情報を引き出した。夏大陸の、海岸地帯六ヵ所にある検潮観測のデータを引き出し、時間的変化を加えて、個人用情報端末にディスプレイさせてみたが、その時になって妙なことに気づいた。秋分点から冬至にかけて、いや、それ以前からも全く潮汐効果のあとが見えないのだ。パルバティは、理論的に導き出される潮高差を計算してみた。秋分点——この惑星の赤道方向に太陽がある場合と、冬至点——地軸方向にある場合とでは、かなり大ざっぱな計算だが、五メートル近い海水位の変化があるはずだった。そしてそれは、単に静的に潮位をとらえたのみであって、半年もの周期で干満をくり返すこの惑星の海洋では、海流や季節風の影響をうけて、時にはそれに倍する潮高差が観測されていても不思議はないはずなのだ。しかし、検潮観測所のデータには、全然それがあらわれていなかった。  不審におもって、冬至をすぎて現在までの丸一日の変化をひき出して見た。ディスプレイに乾いた文字がうかんだ。  スケール・アウト。  たしか……昨年の無人通年観測の時にも、二ヵ所の検潮所がもうけられていたはずだ。パルバティは、いくぶんふるえる手で、昨年のデータを引き出そうとした。  その時、室内がどよめいた。顔をあげたパルバティの眼に、壁面の大規模情報表示面一杯に投影された軌道上からの夏大陸写真が飛び込んで来た。  最初、それから異常をみつけることはむつかしかった。極軌道をとる測地衛星から送られた最新の写真は、あくまで生のデータにすぎず、広角で撮影された画面の、軌道直下の地帯は垂直にとらえられていたが、両端の部分は地平線が写しこまれ、偏歪していた。地平線に近い部分は、HPの光もとどかず、わずかに黄昏が地の面をおおっていた。ただちに、写真にあらわれた大地に経緯線が引かれ、マニュアルのまま強引な修正がほどこされた。映像は極中心の正投影図法に組みかえられた。それは、かなり不完全な地図で、画面中央部分が鮮明だが、周辺はぼやけていた。しかし、パルバティの眼は、その画面からたしかに異常を感じとっていた。  はじめ、その異常がどこにあるのか気づかずに、画面の中をくまなく見つめていたが、やがて彼の視線は一点に集中した。海岸線が妙だ。画面を操作していた測地班長と、プロジェクト・プランナーが何事か言葉をかわしていたが、やがて画面上の一点がクローズアップされ、陰影の少ない白い大地が画面一杯にひろがった。間髪を入れずに経緯線を手がかりに、海岸線——と言っても氷原と大陸氷床の境だが——が、黒い線で合成され、スケールと共に画面に重ね合わされた。海岸線から外側、数キロから数十キロまでの間に、一目でそれとわかる乱氷帯がひろがっていた。  パルバティは、測地班長のそばに近寄った。測地班は、全員がその付近に集まっていた。彼が近寄って来たのを見て、プランナーが何か言おうとしたが、班長の声がそれより早く、パルバティに言った。 「あの乱氷群をどう見る?」  パルバティは、じっと画面を見つめて言った。 「陰影のつき方に偏向がある……これに関連して、ひとつ気にかかるのは、各地の検潮観測所のデータが、現在までに全部スケール・アウトしていることです」 「俺もそいつを考えていた所だ。あの乱氷群は、単なる海氷原に発生した物でないとするならば……」 「すぐにわかります」  そう言って、パルバティは、投影装置を操作した。投影は、壁面の大スクリーンから、個人用の情報表示に切りかえられた。彼らがのぞきこむ中で、画面ににじみがひろがり、ぼやけた。パルバティは、個人用の投影機を実体視にセットしてそちらの方を見ていた。衛星軌道上の異なる二点から投影された、乱氷帯の写真が二枚同時に大画面に投影されていたのだが、パルバティのあやつる実体鏡では、両眼で見ることによって地表面が立体的にうかびあがるのだ。  パルバティは、ため息をついた。彼は無言のまま測地班長と交代した。その場にいた人間が次々に実体鏡をのぞきこんだ。あきらかに、乱氷帯には傾斜が認められた。つまり、海岸線が後退し、とり残された海氷の一部が海底に着床し、あるいは大規模な潮流が発生して氷原を動かし、広大な乱氷帯を作ったのだ。  つまり——この大陸全体が隆起し始めていることになる。今まで気圧が低下していたと考えていた極地方は、かなり有力な高気圧でおおわれていることになる。同じ絶対気圧を持つ気団でも、海面補正の加え方によっては、低気圧とも高気圧ともなるのだ。そう考えればたしかにつじつまは合うが、誰もがあまりに突拍子もない結論を前にして信じられないといった顔でいた。ツラギ——と言う名の測地班長が言った。「昨年の無人観測時の記録を調べてみろ」彼の言葉に、班員の一人が端末を操作した。昨年の、二ヵ所の検潮所記録は、いずれも同じ値を示していた。  冬至までの記録は目立つ変化はなし。冬至以後、第二七〇日前後までいずれもスケール・アウト。 「冗談じゃない。この惑星は毎年、大陸の隆起と沈下をくり返しているっていうのか。馬鹿げた話だ」 「その馬鹿げた大陸の上で、半年の間、生活して来たんだぞ」ツラギ班長がそう答えた。 「ふざけた話だ。なんでいまごろになって急に海が退いたり、気圧が下がったりするんだ。そんな大規模な隆起が起こっているのに、地震計はぴくりとも動いちゃいない」  ツラギはそうつづけた。誰も何も言わなかった。そこへ、越冬隊長が割り込んで言った。 「なぜ昨年のデータを回収した時点で、異常に気づかなかったんだ」  いらいらした声で隊長は言った。ツラギは、その声に冷ややかに答えた。 「自由海水面の検潮じゃないんだ。検潮観測所自体が、一年中氷にとざされた場所にあるんだから、低温による装置の故障か、あるいは融氷能力の低下か、バッテリーの電圧低下か、せいぜい思いつくのはそれくらいだ。これだけのデータで気圧の低下を予想できれば、そいつは天才ですな」 「とにかく……これは失態だ。越冬終了後に測地班の査問を行なう」  それを聞いて、そこにいた測地班の全員が鋭い視線を、隊長に向けた。ツラギは、無愛想な声で言った。 「それを言うなら、我々もわずか一年の予備観測で有人越冬観測に入った隊長の責任を公けにしますよ。とにかく、今は責任のなすり合いをしている時じゃない。大切なのは、我々がこの冬を乗り切れるかどうかだ」  顔を真赤にして、何か言おうとした隊長を無視してツラギは、班員に次々に命令を下した。もうその時には、班員の誰も隊長を見向きもしなかった。  一年間の無人越冬観測は、予察的な性格の強いものだった。それは必ずしも越冬隊長の怠慢を責めるべきものではないし、測地班の責任云々というものでもない。通常の惑星開発であれば、一年またはそれ以上の無人越冬観測、そしてそれに数倍する有人短期間接観測で人間が越年できる確証をつかめば、越冬は問題なく行なわれた。もちろん、CB‐8のように夏期の短い期間のみしか着陸ができないという特殊な惑星は少ないし、異常な気象変動がおこるという前例は皆無だった。CB‐8における無人越冬観測では、気象条件——人間が適切な施設のもとに一年間をすごせるかどうかを主眼においた観測が行なわれていた。  越冬に関して、もっとも問題とされたのは、この惑星の特異軌道にともなう気象条件の悪さだった。このことは、越冬観測以前に充分に予測され、また事実、無人観測の時にも冬至以後にかなり広い範囲で季節風の吹き出しが認められていた。これにより、越冬——冬ごもりの基地の選定条件として、冬期の強い季節風と、それにともなう悪天から越冬隊員を保護できる地点があった。無人観測時のデータでは、極点付近はこの冬の間であっても、比較的おだやかな天候がつづくことを示していた。それは、気象学的にも充分予想できる結果だった。そしてこのことに対する安心が、減圧側にスケール・アウトしていた昨年の気圧観測記録を、機器の故障としてかたづけてしまうという、あまりに初歩的なミスを作り出したのだ。  夏半球の離着陸可能時期は短い。前年の夏に設置した無人観測基地の情報を集計して、越冬観測に適した基地を探すうちに、越冬体制にはいってしまったのだ。気象班の担当である極点観測所の気圧計のスケール・アウトと、測地班担当の検潮記録を結びつけて不審に思う者もないままに。  そして、そういった前提のもとに、越冬観測のスケジュールが組まれ、そして実行されていた。野外での行動は秋分までで打ち切られ、夜明けまでの間は極点の越冬基地に全員が集結して冬ごもりの体勢にはいったのだった。そこなら、冬の暴風雪からも安全だった。  データの分析をつづけていた班員が、当惑した顔でツラギの顔を見た。無言のうちに緊張が全員に伝わり、かわるがわるその班員の操作する情報端末をのぞきこむ眼が異様にゆれた。 「どういう……ことだ。これは」  引き出されたデータは、彼らの予想とは正反対のものだった。冬至点をすぎてからの、各観測点のデータでは、この夏大陸は隆起などしていなかった。むしろ、わずかずつ沈下していた。  それらのデータとは、各自動測地ポイントと、測地衛星を結ぶ測地網からひき出された地点高度だった。この惑星開発プロジェクトの施工にあたって、最終的には夏大陸のほぼ全域を一五〇〇メートルの平均厚でおおう大陸氷床のほとんどを融かして海洋に放出する計画だった。そのような大質量が大陸の上から消えれば、大陸自体の隆起は当然起こり得る。その時の状況を観測するために、大陸各地の露岩地帯に設けられた自動測地ポイントだったが、それは予想外の結果をしらせていた。すぐに冬至以前の、今年次の観測が始まって以来のデータが次々に引き出された。それらも、いずれも予想外のものだった。  各地の標高は、大陸の隆起が予想されたために水準原点は使えなかった。極点基地内にある水準原点は、それまでの検潮結果から、標高二八〇〇メートルの仮値をおき、引きつづきおこなわれる観測にしたがって修正されることになっていた。ところが、その水準原点自身が大陸ごと隆起しているのだ。標高をあらわす方法として、この惑星をまわる測地衛星の観測による、惑星中心から夏極地表面までの距離が算出された。その結果は、ますます彼らを混乱させた。  それによると、恒星年第二二日、夏半球夏至の時点で、六五二〇・六キロあった惑星中心から地表面までの距離が、日を追うに従って次第に増大し、第一五三日の秋分点で六五二七・二キロにまで達し、冬至点では六五二八・八キロになっていた。これが冬至をすぎると、わずかずつ減少している。そして、これら三つの値から惑星の極半径、六五一七・八キロをマイナスすれば、それぞれ二・八キロ、九・四キロ、一一・〇キロとなる。つまり夏至の時点で二八〇〇メートルだった極点での標高が、半年の間に次第に隆起し、冬至には、実に一万一〇〇〇メートルにまで上昇していたことになる。しかし、それでは一体どうして今ごろになって気圧の減少が始まったのか。むしろ、冬至をすぎて大陸は沈下を始めているというのに。 「こいつは……ひょっとすると……」データをにらみつけていたツラギがうなった。 「ひとつだけ、可能性があることはありますが……突飛すぎる。いくらなんでも」  ツラギの考えを受けてそう答えたパルバティも、自信なさそうだった。他の班員達も、当惑してたがいに顔を見合わせていたが、パルバティの操作し始めた情報表示のアウトプットを見て、一斉におどろきの声をあげた。  極点重力場観測所による|基準等重力《ジ オ イ ド》面の位置——極水準原点より鉛直下二八〇〇メートルと仮定。  第二二日 夏至 二八〇〇メートル・仮定  第一五三日 秋分 二八〇〇メートル  第一七二日 冬至 二〇〇〇メートル  と言うことは、それぞれの時点での極半径は、六五一七・八キロ、六五二四・四キロ、六五二六・八キロということになる。大陸が隆起していたのではないのだ。この惑星自身が季節と共に変形しているのだ!  誰もが冷たくデータを示す情報表示から、この惑星のメカニズムを理解していた。冬至をすぎてから、それまで極方向にゆるやかな速度でふくらんできていた|基準等重力《ジ オ イ ド》面が、急激に沈下し始めていた。それにつれて地表面も極点を中心に沈下を始めたのが、ジオイドの急速な変形についてゆけず、時間差が生じた所へ、流動性の高い大気と海水が赤道方向に流れ出したのだ。 「この惑星内部の弾性は異常に高いんだ……この俺達の乗っている大地が、実はチーズのようにやわらかい代物だったというわけか……。標準サイズのこの惑星の、たかだか一〇キロそこそこがひずんだにすぎないが」 「その、一〇キロそこそこが命とりにもなりかねん」  ツラギのその言葉で全員が押し黙った。彼はつづけた。 「問題はこれからだ。|基準等重力《ジ オ イ ド》面と、地表面の変形をこの先、半年にわたってできるかぎり予測しなけりゃならん。すべてはそれからだ」  個人用の情報端末と演算機では、それをするには容量が完全に不足していた。パルバティは、壁面一杯にひろがった大規模情報表示面を見た。そこでは何かのシュミレーションが行なわれていた。プロジェクト・プランナーが、開発チームの科学者達とともにそれを行なっている。 「何をやっとるんだ奴ら」  誰かがそう言った。ツラギが、プランナーの所に近づいて何事か言葉をかわしていた。けわしい顔のプランナーが、次第に怒気をふくんだ表情になり、やがて大声でどなり合うのが聞こえた。そして周囲の視線を気にもとめず、ツラギは強引に大規模情報表示面をブラック・アウトさせた。  憤然としているプランナーを無視して、パルバティ達の所にもどって来たツラギは、矢つぎ早に班員に指示を下した。たちまち大規模情報表示面には、この惑星の断面形状を示す円と、緯度線を示す放射線とが入り組んだ幾何学模様がうかびあがった。 「話にならん」ツラギは、情報端末のキイをたたきながら言った。 「越冬隊長も馬鹿だが、あのプランナーもどうしようもない阿呆だ。この期になって、HPによる融氷計画の洗いなおしを始めている。それも、中央情報バンクの使用優先順位の、首位でだ。今はそんなことよりも、俺達が生き残れるかどうかが問題だというのに」  大規模情報表示面には、惑星形状の図と共に、いくつかの派生情報があらわれていた。その中のひとつを目ざとく見つけたパルバティが言った。 「なんだ……あれは」  そこには基準楕円体の極半径が示されていた。冬至の時点で極半径六五二三・一キロ。赤道半径六五三一・八キロ。扁平率〇・〇〇一三三プラスマイナス〇・〇〇〇五七。 「このプラスマイナスというのは一体何だ」  手のあいた者の視線が一斉にそちらを向いた。やがて表示された情報の中から、その答を見つけた者が、それを指さして言った。 「さっきのジオイドの、冬至における極半径は六五二六・八キロになっている。つまり、ジオイドが、基準楕円体に比べて、プラスマイナス〇・〇〇〇五七——ということは、三・七キロ近いずれが生じているんだ」 「無茶苦茶だ。この惑星の重力場は」 「考えられん……一体どういうことだ」  そんな声が彼らの中からもれた。  一般に、この型の惑星では、形状を測定し、地表上の各点の位置関係をあらわすのに、基準楕円体という概念を用いる。そして、そのもとになるのが|基準等重力《ジ オ イ ド》面と呼ばれるものだ。これは、海を持つ惑星であれば、地表に溝を掘って陸地内部まで自由海面の延長としての|基準等重力《ジ オ イ ド》面を設定し、海のない場合は適当な等ポテンシャル面でこれに代用する。しかし、ジオイドは測地座標を設定するには不向きなので、これに最も近い回転楕円体を基準として測地の基本とするのが普通だった。基準等重力面と基準楕円体とは地殻にある、山塊や海溝のような質量のばらつきによって、数十メートルのずれが生じることもあるが、CB‐8の現在の状況のように、三キロ以上のずれが生じることなど、前代未聞のことだった。言いかえれば、基準楕円体という概念自体が無意味なものになっているのだ。  大規模情報表示面にあらわれた円は、この惑星の基準子午線を通る断面形状を示していた。各測地ステーションの存在する緯度点が光点として示され、測定された惑星中心から地表までの距離が同時に投影された。続いて、基準等重力面からの距離も、デジタルな生の情報のまま示されていた。そして、それらの時間的変化を示す数値が重ね合わされた。ツラギの指示がすばやく飛んだ。 「観測開始から、時間を追ってアナログ表示にしろ。ジオイドの形だけ、デフォルメを一〇〇倍にしてだ。……ちょっと待った。断面子午線をもう一つ。九〇度——二七〇度面も放り込め」  断面図は二つにふやされ、その二つの円が、生き物のように波うった。観測開始のころ、ほぼ回転楕円体に近かったのが、次第に両極方向に突出した形にひずんで、ある一時点——冬至——をすぎてから急速にそれはもとの形にもどりかけ、そして消えた。表示が現在に追いついたのだ。 「これだけから惑星の内部質量分布を求められるか。わかってるな、裏レジスターには無限分割した演算をぶち込むんだ。それから、各地の鉛直線方向を分析して質量の分布を探すんだ」 「正確には、ちょっと。……今次の観測では、惑星の内部構造調査までははいっていませんから、近似解しか出ないでしょうが」  パルバティが、空白になったスクリーンを見たままそう言った。 「かまわん、ないよりましだ。それができたら今後の予想もつく」  再び、表示面に円があらわれた。今度は、デフォルメはなく、かわって惑星内部の質量密度を示す輝点がちらばった。スタートの時点で、それは典型的な複二重構造を示していた。うすい、地殻の内側に、第一の内部層があり、その内側には核が見えた。その層のそれぞれはまた、密度の違ういくつかの層にわかれている。予備段階で、考えうるかぎりの外部力——主恒星、他の惑星の重力——はマイナスされた。それらは大きな影響を与えるものではなかったが。  時間的にその輝点の群は、わずかずつゆれ動き、意志を持った生き物のように変形を始めた。惑星中心を対称点として分布していた質量が、次第にバランスを失い、奇妙な動きを始めたのだ。彼らの見守る中で、その表示は終わった。 「……あれは、一次解だ。もう少し、つじつまのあう二次解が出るはずだ……」  パルバティがそう言いながら、キイを操作した。演算を行ないながら表示はめまぐるしくかがやいて、判読不可能になった。やがてそれが静まり、二次解が表示された。誰かが、ため息をついた。解は一一通りあり、その動きを特徴的に示す記号が、それぞれに加えて示された。もし、三次解を求めるならば、それのさらに数倍する解が導き出されるだろう。 「結果はどれでも同じだ……」表示をすばやく見まわしたツラギがそう結論を出した。 「解を統合するんだ。こいつから導かれる質量分布の動きから、今後のジオイドと地表面の未来位置を演算しろ。少しの誤差はかまわん。できた分から気象班に、ハンドオーバーだ」  そして、ツラギは椅子にどすん、と腰をおろしてつけ加えた。 「俺達の仕事はここまでだ。あとは気象班の仕事だ」  それから彼は大声で気象班長の名を呼び、ハンドオーバーを伝えた。大規模表示面を見ていた気象班長が、げっそりした顔でそれに同意した。 「一体、この中で……」ツラギは、足で床を、どん、とけった。「何がおこっているんだ」  間の抜けた沈黙のあと、一人がそれに答えて言った。 「惑星の構造理論に大幅に書き加えるべき何か、でしょうね。この惑星の軌道偏心や自転軸の傾きの原因もそこにあるかもしれない。惑星物理学者の領域になるが」  さきほどあらわれた一次解の表示を、頭の中で反芻していたパルバティが、あることに気づいて言った。 「あの質量分布の乱れは……この惑星内部になんらかの大質量点が運動していると、考えられないことはないが……」数人が、パルバティの方をふり返った。 「大質量だって?」 「あるいは……この惑星は内部に衛星を持っているのかもしれない……例えば、ブラックホールの」  全員が一斉に声をあげた。 「ブラックホールだって?」 「冗談じゃない。そんな物がこの惑星の中にあったら、この惑星は今ごろ食いつぶされている」 「私は、重力場の異常を言いたいだけだよ」  いささか自信なさそうに、パルバティは、そうつけ加えた。 「何か他に、もっとうまく説明できるものがあれば、私はそれを信じるがね」 「俺達は技術屋だ。学者じゃない」ふてくされたような声で、椅子にふんぞり返っていたツラギが言った。 「問題は、夏まで俺達が生きのびられるかどうかだ」 「もし、あれが、今年だけの特異現象でなかったら、夏までには元にもどるでしょうが」 「それまで、鼻をつまんで息をつめてるか?」  誰もがその言葉で沈黙した。そんな彼らと対照的に、気象班のグループが大車輪でデータと格闘しているのを、パルバティはぼんやりとながめていた。      7  気圧は、じりじりと下がりつづけていた。異常が発見されてから丸一日後には、外気圧はさらに標準の七〇パーセント近くまでに落ち込み、なおもゆるやかに下がりつづけていた。もともとが、標高三〇〇〇メートル近い高所にあった極点基地では、すでに外に出て長時間作業することはむつかしくなっていた。そんな状況の中を、下がりつづける気圧と競争するかのように、基地の中をあわただしく設営班のグループが行きかった。二台の大型コンプレッサーが狭い回廊に据えられ、基地の外壁の通気孔から絶え間なく空気を基地内に送りつづけ始めていた。基地内部の暖房システムは、すべて閉鎖系統に応急の改修がなされ、本棟から離れた別棟や倉庫群は、連絡回廊ごと放棄された。ただでさえ狭くなった、基地本棟の回廊に、放棄された別棟から移動して来た隊員が、スリーピングバッグをひろげ、わずかな空間にまで越冬食糧や、工事資材が積み上げられていた。さらに、部屋のひとつひとつ、回廊のすみずみに至るまで、設営班の手によって空気もれがチェックされ、発見された所は、念入りにモルタルボンドで封鎖されていった。しかし、空気はゆっくりともれ出していった。  暖気を逃がさぬために設けられていた、前室付の二重のドアが、宇宙船のエアロックのように改装され、設営班が厳重な装備で、外部からの補強改修のために出て行った。厳重な装備といっても、呼吸の補助となるものは何もない。二機ある輸送機の酸素ボンベと、基地内の医療室にあった酸素吸入器は、非常用としてしか使用を許されていなかった。一度か二度の緊急事態《エマージェンシー》が発生すれば、使い切ってしまうほどの量しかないのだ。  パルバティ達、手のあいた測地班員も、改修作業にかり出され、設営班と共に凍てつく外気の中に出て行った。外は、ふるような星空だった。希薄になった大気の中で輝きを増し、またたきもしない星が全天に散らばり、世界の上半をおおっていた。風はほとんど無かった。ただ、星だけが彼らをつつんでいた。そして、彼らは三〇分としない内に、耐えがたい寒気と希薄な大気にうちのめされ、一様に蒼白な顔で基地の中へ帰って来るのだった。  そんな中で、リーダー会議はひらかれた。越冬隊長、副隊長の他に、測地、気象、設営、輸送整備の各班長と、プロジェクト・プランナーをはじめとする、開発チームの主だった者達で構成されるその会議は、会議と言うより、あらかじめ決定された結論を一方的に伝える場でしかなかった。何よりも、越冬隊員の過半数を占める測地、気象、設営及び輸送整備の四班の代表が、それぞれの班長一名ずつなのに対し、プロジェクト・チーム側からは一〇人もの学者達が出席していることが、この会議の性格を物語っていた。  すでにその時までに、根本的な原因はわからないものの、状況の予測はできていた。この時点、冬至を丸三日すぎた第一七五日現在で、大気圧は平常値の七〇パーセント近くにまで落ち込んでいた。高度三〇〇〇メートルにある基地の七〇パーセントなのだ。実質的には、標準気圧の五〇パーセントになる。ジオイドの沈下と、扁平率の異常は、冬至の日を境に平常にもどりつつあったが、今、極地から低緯度帯に向けて、猛烈ないきおいで季節風《モンスーン》が吹き出していた。気象班の行なった、シミュレートによれば、その季節風《モンスーン》が均衡するのは、ある程度の予測のずれが見込まれるものの、一〇日後の第一八五日とされた。その時点で、気圧は五〇パーセントにまで落ち込むが、その日を境にして極方向への風の吹き出しが始まる。しかし、気圧が正常にもどるまでには、その逆より長い時間がかかる。気圧は第一九一日でも六五パーセント、第二一〇日で八〇パーセントにしか達せず、完全に正常になるのは、第二七〇日をすぎてから——それが実は彼らが、この惑星を観測して、“正常な気圧”と定義したにすぎない日のことなのだが——になると予想された。  会議を終えて引きあげて来たツラギは、ぶすりとして、待ちうけていた測地班員達に言った。 「奴らは俺達を切り捨てるつもりだ」  げっそりした様子で、会議の様子を語るツラギから、その内容を知るにつれ、その場にいた全員が、一様におどろきと怒りの入りまじった表情をうかべた。  会議のあらかじめ用意された、ただひとつの結論とは、測地、気象両班のほとんど全員と、設営班の半数、及び輸送機一機分のパイロット・チーム、合計二〇人に、低緯度帯にあるブリザード前進基地への転進を命じたものだった。  それは死を命じられたのに等しかった。生活空間をぎりぎりに切りつめて密閉した基地は、二台の大型コンプレッサーと、エンジン始動用の暖気送風機までも動員して平常な気圧を保っていた。そして、気圧が最も低下する第一八〇日には、そのすべてをフル回転させてもせいぜい正常値の八〇パーセントしか基地内を保てない。ただし——低温による基地外壁のゆがみひとつ発生しても、その値は大きく低下するはずだ。もはや、その時には基地外からの補修作業は不可能になっているのだ。もし、コンプレッサーや、送風機のどれかひとつがトラブルをおこせば、たちまち気圧は低下し、深刻な事態におちいる。一度もれ出してしまった空気を補充して、気圧を元にもどすまでに数日は必要と計算された。そのような極限状態は、少なくとも一五日間は続く。コンプレッサーが故障しないという保障はどこにもなかった。かといって、これ以上、生活空間をきりつめるわけにもいかなかった。もれ出していく空気と、酸素供給量は、ほぼ均衡状態にある。会議の前に、ひそかに用意された結論とは、基地の人員を減らすことによって酸素消費量を切りつめ、生活の空間をさらに切りつめてコンプレッサーの故障にそなえるということだった。転進を予定された緯度七〇度近い前進基地は、気圧低下もそれほど激しくなく、ストックされた食料は、二〇人が二〇日間持ちこたえられるものだった。二〇人の転進組は、予備の食料と共に輸送機でただちに出発し、気圧が正常の八〇パーセントにまで回復する第二一〇日に、極点基地に帰還せよ。そう会議は結論を出した。  ツラギ達はこれに猛然と反発した。まず、予想される酸素消費量は納得のいかないものだった。プロジェクト・プランナーが計算の根拠としてあげた単位時間当たりの酸素所要量は、人間が活動状態にある場合のものである。基地の管理に必要な最低限の人員を残して、余剰の人員を強制的な睡眠又は安静状態にしておけば、酸素消費量は大幅に減少するはずだ。つまり、今よりも基地の気密区画を小さくできるのである。これに対し、プランナーは答えた。プロジェクトの管理のために、チームはこの冬中も行動しなければならない。そのような不自然かつ危険な状況のまま冬を越すことによって、プロジェクトの遂行に支障をきたすことはできない。そして、プランナーは、ツラギが臆病風に吹かれて転進に同意しないなら、越冬終了後に査問もあるとほのめかした。  これを聞いて、気象、設営の両班長も色をなした。たしかにこの三つの班は、戸外での活動が主な仕事であり、この惑星の自然については充分に知っていた。そして、それだけにその恐ろしさもわかりすぎるほどわかっていた。ただでさえ、気象の条件の悪い極地の冬だ。しかも大気圧が半分に減少するという、大規模な変動が起こりつつある。その中を、施設も貧弱な前進基地へ転進するというのは、無謀としか言いようがない。いや、雪嵐の中を前進基地にまで飛行すること自体が非常な危険をともなうのだ。  これに比べて、会議の構成員の大半を占めるプロジェクト・チームも、官僚グループも、いずれも前進基地どころか、極点基地から外への小旅行さえやったことのない人間がほとんどだった。会議は紛糾した。プロジェクトを放棄してでも転進はすべきでないとする、ツラギ達の意見は、次第に大勢に押し流されていった。ただ、ツラギはどうしてもゆずれない一線として、転進のための輸送機を一機ではなく、二機にせよとつめよった。冬ごもりの期間中、閉鎖されている前進基地は、着陸施設も荒れているはずだった。その中に、二〇人の人員と食糧をペイロード一杯に満載して、いきなり着陸するのは危険が大きすぎた。ペイロードに余裕を持たせて、エンジンの負担を軽くするためにも、どうしても二機が必要だとツラギは主張した。これに対し、プランナーは、基地にある全輸送機を転進のために出すのは危険であるとつっぱねた。三人の班長も、輸送整備班長さえも、その時には怒りをかくさなかった。プランナーは輸送機の事故が発生することを承知の上で転進命令を出すのか、とプランナーを殺しかねない勢いでつめよった。  結局、時間が双方に妥協をもたらした。数時間後に地平線から姿をあらわすHPの光と、航法誘導にみちびかれて、二機の輸送機に分乗した転進組が、ブリザード前進基地に向けて飛び立つことになった。その機会をのがすと、希薄になった大気の中で、離陸もむつかしくなるのだ。      8  本来は倉庫だったその小さな部屋は、今は測地班にあてがわれた居住区になっていた。たいしてひろくもない部屋の、整理だなの間の狭い通路にスリーピングバッグがひろげられ、きゅうくつそうに彼らは膝をよせあっていた。電気だけは豊富にあるために、一〇人の測地班員がはいると暖房施設がききすぎて、その小さな部屋は暑かった。彼らはいずれも野外作業服を着ていた。どの顔も憔悴しきっていた。この数日、交代で設営班を支援して基地外の応急補修作業に出ていたのだ。中には、たった今、外から帰ったばかりで髪にはりついた氷からしずくをたらしている者もいた。彼らはいらだっていた。苛酷な戸外作業は、設営班を別にすれば測地班や気象班員だけの仕事で、プロジェクト・チームは基地から外に出ることをしなかった。そして、そうやって苦労して補修した基地を捨てて、はるか遠くの基地に転進するというのは、しかも、プロジェクト・チームが安全な極点基地に残るというのは、疲労の蓄積した彼らの神経をさかなでしたのだ。 「俺達を殺して自分らだけのうのうと生き残るつもりだ。やつら」部屋の隅にいた、ブラトナという名の測地班員が、押し殺した声でそう言った。 「死ぬと決まったわけじゃない」ツラギが妙に確信のある声でそう言った。しかし、ブラトナは、納得できないようになおもつづけた。 「ふざけた話だ。春になって地獄からはい出して来ればあたりまえ。もしも死んだら不幸な事故ですますつもりだぜ。あの馬鹿隊長は」 「俺達は、やとわれ隊員だからな」別の男が憎悪の声を引きとってそう言った。 「プロジェクト・チームの阿呆学者どものように、あのプランナーの子飼いじゃない、一越冬年だけ契約した技術屋のあつまりだ。俺達には、命があるのかどうかさえ知らないんじゃないか」 「いや、ひょっとすると、本当に前進基地へ行くことがピクニックか何かと思っているのかもしれないぞ。あの馬鹿共は。雪ってのは、実験室の中でしか見たことがなくて、冷たいきれいな物だくらいにしか考えていないんじゃないか」  それを聞いて何人かが笑った。陰湿な笑い声だった。 「フィールドに出もしない奴らに、雪のことをどう説明しろってんだ!」一人がそう言って肩をふるわせた。笑い声はやんだ。 「俺は怖いんだ。雪がだ。奴らにゃ絶対わかりっこない。俺を殺そうとして迫ってくる雪があるってことを。あいつらの知らない雪は平気で人殺しをするんだってことを」 「とにかく、このままじゃすまさん」  再びブラトナが言った。ゆっくりと集まる全員の視線を受けて、彼は伏せていた顔をあげた。異様な殺気があふれていた。 「奴らより、こっちの方が数が多い。どうでもここから出て行けというのなら、奴らを追い出そうじゃないか」  そう言いきるブラトナに集まった視線がすぐに散った。皆が無言で他の者の表情を読みとろうと、忙しく眼を周囲に走らせた。それだけで充分だった。すでにこの部屋の中にいるほとんどの人間が、同一の意志を持っているのは明らかだった。室内の空気は爆発寸前だった。わずかなはずみがつけば、ただちに彼らは行動を開始するだろう。  緊張を破って意外に静かな声が聞こえた。 「やめとこう」パルバティは、全員の刺すような視線を浴びてそっけなく言った。 「たぶん奴らも俺達がそう出ると思って待ちかまえている。越冬隊長は、この越冬期間中に、隊内の警察権を持っているし、武器も持っている。俺が思うには、奴らは俺達の反乱を一番恐れているはずだ。全員がここに踏みとどまって越冬するとなると、何かのアクシデントの時にはまっさきに反乱が起こると考えていると思う。俺達を強引に追い出そうとしているのはそのためだ。数の上ではたしかにこっちが有利だが、勝ったとしても俺達の何人かは怪我をするし、へたをすると死ぬことになるかもしれん。そんな状態でとても冬を越せるとは思えんし、どのみち反乱は失敗するだろう。俺達のいるこの部屋と、気象班、設営班の部屋は一番はなれた所にあるし、回廊には隊長の息のかかった奴がうろうろしているのを見た」  その彼の言葉で納得した者は少なかった。すでに火をつけられた彼らの憎悪は容易なことでは消えそうになく、いくつかの鋭い声が、彼に飛んだ。 「黙って死にに行くつもりか」 「あの阿呆共の尻ふきをするってのか」  それは殺気さえふくんだ怒声だったが、それでも仲間としてパルバティを同意させようという気持がふくまれていた。 「俺にまかせろ」  それまで黙っていたツラギが、椅子に深く腰をおろした姿勢のままで言った。 「聞け、俺には女房も子供もいる。この越冬が終わるのを、故郷の星で待っている」  殺気だっていた室内の空気が、妙にしらけた物になった。誰もが、ツラギが何を言おうとしているかわからないでいた。 「だから俺はどうしても生きてこの冬を乗り切りたい。だが……大事なのは越冬隊長、プロジェクト・プランナーがいずれも合法だということだ。緊急の会議もちゃんと型どおり開かれたし、そしてこのことは正式な記録として、中央メモリーにインプットされているはずだ。……俺達が奴等を力づくで基地の外に追い出してこの冬を乗り切ることはできるだろう。多少の危険はあったにしても、だ。もちろん、あの学者連中を外に放り出せば全部死ぬか、生き残っても人間として一生を送れんだろう。どうなる? 俺達は反乱、殺人の罪で越冬が終了して救出されても刑務所送りだ。無条件にな。誰も同情する奴はいない。何せ、自分達が助かりたいばかりに仲間を見殺しにしたことになるんだからな。俺の家族にも、なんらかの社会的制裁が加えられるだろう」  そこでツラギは言葉をきった。不満の声がそれでも何人かの口からもれた。 「死ぬときまったわけじゃない」ツラギは辛抱づよく続けた。「俺達は絶対に生きてこの冬を越えるんだ。そして、この越冬が終了後に、あの無能どもを告発してやる。そうなれば、状況はこっちに絶対に有利だ。どうせ一越冬年限りの契約だ。奴らに恩も義理もあるものか」  誰も口をきかなかった。ツラギが椅子から立ちあがって言った。 「急げ。二時間後に出発だ。ぐずぐずしていると、気圧が下がりすぎて輸送機も飛び立てなくなるぞ」  無言のまま誰かがスリーピングバッグや、個人装具をたたんでスタッフバッグにつめこみ始め、それを合図に全員がそれにならった。ツラギもそれを見て、ゆっくりとパッキングを始めた。      9  大地は異様な色に染まっていた。それは、パルバティがあの平原で二〇日ほど前に見た、白く輝く雪原の夜明けと同じ景色のはずだった。しかし、ただひとつ決定的に違っているのは、地平線から顔を出そうとしている、赤い“太陽”だった。熱源であると同時に、光をこの大陸にまきちらすHPは、この惑星に太古から光と熱を与えつづけた太陽とは似ても似つかなかった。注意深く見ていれば、その赤い点——HPはわずかずつ天空を移動しているのがわかるはずだった。それは、地平線から昇り始めて、わずか三時間で再び地平線下に没する。赤くはあるが、冷たい光だった。HPがこの惑星につかの間の昼をもたらす間、大地は異様な赤い色に染められていた。  はるかに低緯度方向の地平は雲が低くたれこめ、悪天候を予想させた。その雲をとおして、さらにゆがめられ、にじんだ赤い点となったHPの光に、大地も異様に変貌していた。赤い世界の中で遠近感も存在していなかった。赤一色で描かれた風景画のように、世界には現実感がなかった。  滑走路のわきでしずかにエンジンに点火した二機の輸送機も、背を丸めて荒い息を吐きながらそれに向かう男達も、赤い光と影につつまれていた。パルバティは、輸送機に乗り込む前に頭をめぐらして基地の方を見やった。何の変化もなかった。もともと、わずかな観測窓をのぞいて、窓というものをほとんど持たない基地に変化が認められるわけもなかった。パルバティは、他の者と同じに無言で機に乗り込み、シートについた。何の感慨もなしに機はエンジンをふかし、わずかに滑走しただけで離陸した。空は晴れていた。すくなくとも、この極点だけは天候は平穏なようだった。  双発の輸送機には、測地班を中心に、一〇人が乗り込んでいた。二機に分乗できたことは、たしかに安全度を高めていた。充分なペイロードに、燃料も、越冬食糧も余裕を持ってつみこまれ、希薄になった大気の中を比較的天候の安定した上空を飛ぶことができた。しかしそれでもなお、大規模な大気の流れが飛行高度にまで押しよせ、機を激しく上下にゆさぶった。そして、地表近くには、すさまじいばかりの地吹雪《ブリザード》が吹きあれているのがその高度からでもわかった。窓から見る大地は、地形がすべて凍りついた乱流におおいつくされ、のっぺりした平原を、まるでうねり、逆まく嵐のようにかえている。それでも、地形は変貌した形で認められた。平原に、島のように盛りあがった隆起氷床の風下側では烈風がうずを巻き、はるかに地平の彼方ではこの大陸の主稜をなす山脈に発生した大規模な乱雲が望見できた。そして、それらはすべて毒々しい赤にぬりこめられていた。  機内では誰もが無言のままだった。機が極点基地とブリザード前進基地を往復するのは、事実上不可能だった。HPが地表を照らすのは、九時間足らずの周期のうち、わずかに三時間半のみだった。片道飛行を終えてしまうとすでにその短い“昼”の時間はすぎて、極点基地にもどるだけの時間的余裕はない。計器のみにたよって闇の中を飛行するには、この小型の輸送機も地表の支援設備も貧弱でありすぎた。といって次の“昼”が来るころには、極点の気圧はさらに低下し、地表面でさえ輸送機の安全上昇ぎりぎりの気圧しかなくなり、そして極に向かう飛行は猛烈な極風にさからって進むことになる。誰もが片道飛行、それも着陸不可能でも引き返すことのできない飛行であることを知っていた。  緯度を下げていくにつれて、次第に眼下の嵐は高く舞いあがって来た。時には、窓の外を赤く染まった雲が風のように通りすぎた。 「コースを変更しよう……」  開け放たれた、ドアの向こうのコクピットで、パイロットとナビゲーターがそう言葉をかわし合うのが聞こえた。後部座席にいたパルバティは、ちらりと視線を隣に向けた。隣のシートのツラギも不安そうにそれを返した。本能的に彼らは危険を感じていた。  それは、絶え間のない機体の振動となって彼らをつつんで来た。わずかずつ窓の外の空間を占めはじめていた雲は、次第に密度を増して時には全く視界をつつみかくして流れ去った。そして、そのたびに機は雲の波の中で大きくバウンドし、また激しく沈みこんだ。  コクピットの中で、パイロット達が何事か早口で言葉をかわし、ナビゲーターがベルトをはずしてツラギの方に歩み寄って来た。その顔には、はっきりと困惑の色がうかんでいた。 「天測で位置を求められないか」  その言葉は、一種のショックを周囲の人間に与えた。ツラギは、ゆっくりと確認するようにたずねた。 「現在位置を見失ったというのか?」  ナビゲーターは唇をかんだ。 「ジャイロで位置はトレースしている。その上に、HPの航法誘導を重ねあわせているがどうも結果が合わないんだ。目標地物は確認できないし僚機も見失った。低気圧帯が予想以上にこちら側に発達していて、とれるかぎりのぎりぎりの迂回コースの付近にまで乱雲がひろがっているんだ。この分だと、前進基地もかなりひどい状態だろう。とにかく……早いとこ位置を確認しておきたい。ブリザード基地からは誘導電波が出ているはずだが、有効距離はせいぜい三〇キロだ。もしもコース上の誤差が大きいと、誘導電波もつかむことができなくなる」  ツラギは言葉につまって、ちらと窓の外を見てから言った。 「この雲の上に出られるか。静かにだ」 「なんとかやってみよう。できるだけ長いこと雲の上に頭をつき出そう」 「ただ……精度についてはあまり自信がないな。HPの輻射が強いから、恒星観測は無理だ。HPの直接観測しか方法はない。HPの正確な軌道要素と、正確な時計が必要だ」  ある意味で、彼らは技術者というよりは職人に近かった。本来は地上撮影用と輸送のために作られた機体の窓から、かなり無理な体勢でHPを目視観測し、おそろしく複雑な計算式を、半分は勘にたよって導き出し、小容量の計算機で機の位置を出してしまった。しかし、その位置はナビゲーターが慣性追跡した位置と一〇〇キロ近いずれがあった。 「誤差はどの程度だ」ナビゲーターは心配そうにデータを見て言った。 「誤差範囲を計算するには計算機の容量が足りんな。それより、そっちの誤差はどの程度なんだ」 「正確なことは言えない……ジャイロが重力の異常で狂っていることも考えられるし……この嵐じゃ対気速度はさっぱりあてにならん。対地高度さえ満足にわからんのだぜ」 「何だって……」  ツラギは信じられないというように、ナビゲーターの顔を見た。ナビゲーターは視線をさけるようにして言った。 「対地レーダーを機体からはずして整備中だったんだ。急なことで、とりつけることもできずに基地を追いだされたんだ」  憮然としているツラギ達をあとに残してナビゲーターはコクピットに戻った。すでに“日没”の時間が近づいていた。一〇〇キロの距離はこの輸送機の巡航速度なら一〇分そこそこで飛べる距離でしかない。しかし着陸距離を見出す段階で一〇〇キロのへだたりは、時には致命的ともなり得る。そのデータを得て、すでにナビゲーターとパイロットの間には、言葉をかわすことなく同意があった。彼らが慣性追跡《ジャイロトレース》して出した位置にまっすぐ下降する。その地点に発信筒を投下して、周辺の目標地物《ランドマーク》を確認する。それから前進基地から発信している誘導電波を見つけ、できなければ投下した発信位置から、天測によって導き出された位置まで線上飛行する。そして、それでも基地を発見できなければ……不時着しかない。  ナビゲーターがコクピットから半身を乗り出してふり向き、乗客達に合図をした。誰もが無言のままうなずき返し、シートベルトをさらにしっかりと固定した。機は、すっと高度を下げ始めた。パイロットは冷たい汗がじっとりと体をつつむのを感じながら、前方を凝視していた。赤い風が、目前で激しく舞いながら過ぎていく。もしも、雲底が予想より低く、地表までおおっていたら、気圧測定の高度計しかないこの機体は、そのまま地表に激突する。高度は、じりじりと下っていった。そして、いきなり視界がひらけた。短い声をあげて、パイロットは機を急旋回させた。体中にかかる加速度に押しつぶされまいと、パイロットの声を殺した叫びが長く尾を引いた。咄嗟にかわしたのが隆起氷床のひとつだと気付いたのは、その横腹をすり抜けて数百メートルも飛び去ってからだった。雲底は低く、彼らを押しつぶそうとするように頭上にひろがっている。機体はその天と地のわずかな空隙をぬうように、乱立する氷丘群の中をすり抜けながら飛んだ。氷丘から舞いあがる地吹雪の雪煙が激しく天に向かって突き上げ、その舌端にふれるたびに機体は轟音と共に安定を失い、あやうく浮力を保っていた。 「駄目だ、機首が目標からずれている。三三〇にふれ、左だ」  ジャイロと航空地図をにらんでいたナビゲーターが怒鳴った。両眼を見開いて前方をにらみつけ、時にはまるで独立した生き物のように四肢をコクピットの中であやつり、機を操縦していたパイロットが、まけずに大声で言った。 「振れるもんか! かわりにやって見ろ」  それでも機体は不安定な飛行のまま、次第に目標に向かって機首をめぐらしていった。ナビゲーターは、このすさまじい地表の流れから抜け出して再び雲の中へ上昇したい誘惑にとらわれながら——そんなことをしても目標を見失うだけだ——航空地図の中に氷丘群の位置を発見しようと焦った。しかし、地形はただおそろしい勢いで押し寄せ、飛び去る丘のつらなりにしかすぎなかった。目茶苦茶に機体をゆさぶりながら、第一目標点で発信筒を投下し、強引な旋回で第二目標点——天測想定位置——への進路に乗った。  ……時間がない……ナビゲーターは、鬼のような形相で操縦するパイロットを横目で見ながらそう考えていた。“日没”の時間が迫っている。HPの軌道高度からの照射では、黄昏による時間的余裕は望めない。夜の闇は急速に、確実に迫っていた。目標を基地発見から、不時着地発見へ切り換えるか。ナビゲーターが口を開こうとしたその時、受信機が鳴った。ナビゲーターは、反射的にわめいていた。 「つかまえたぞ。二五度だ」  その声を聞き終えるより先に、パイロットの体は反応していた。機体はおどりあがって目標に突っ込んだ。わずか数分の飛行で機体は基地の上空を通過した。パイロットの口から失望の声がもれた。 「馬鹿タレめ。横風だ。なんて滑走路だ」  基地のすぐわきの滑走路《エア・ストリップ》には、一目でそれとわかる、横風による|雪  紋《ドリフティング・スノー》がきざまれていた。 「あれだ」  ナビゲーターの指さす方向に空白が見えた。そこだけ空の幅が厚く、氷丘のとぎれた地形が望見できた。 「早くしろ。地吹雪をもう一回くらったら、翼結氷で浮力がなくなるぞ」 「わかってるよ!」  ほんの数分だった。氷丘群の中にわずかに開いた氷原に、機体は強引に飛び込んだ。地表軟度をさぐる余裕など全くなかった。機体が地表にふれたと同時に、猛然と振動が足もとから伝わり、かしいだ機体が地面をかむひびきが床から天井までつき抜けた。狂ったように舞いあがる雪が、すべての窓をつつみかくすうちに、急減速した機体速度を体に感じて、二人の乗員は同時に声をあげて顔を見合わせた。 「やったぞ」  二人は、ほんの一瞬歯をむき出して笑ったかに見えた。それがわずかな油断だった。充分に減速しきらぬ内に、地表からはかくされた軟雪に鼻先を突っ込んだ機体は、半回転して雪面を滑り、地ひびきをたて、破片をまきちらしながら雪面をかんで、無残にえぐられた長い傷跡を雪の上にひきずったあと、ようやく停止した。砕けた窓のかけらがそれでもなおとまらずに前方に放り出されていった。二人の乗員は一時間後に死亡した。  状況は絶望的だった。大破した機体前部にいた乗員二人をふくめて、四人が夜明けを待たずに死んだ。そして五人が重傷を負い、軽傷ですんだのは、後部にいたパルバティ、ツラギ、ブラトナしかいなかった。重傷者五人のうち、自力で歩ける者二人。そして一人は早く処置しないと危険な状態だった。  HPは、五時間一〇分の間、地平の下にかくれたあと、再び“夜明け”をむかえるはずだった。それまでの時間に生き残った者達にできることは、待つことだけだった。大破した機体前部からはたえまなく雪が吹きこみ、そればかりではなく、無傷な所のほとんどない窓からも、ほんのわずかなすき間からも雪はゆっくりと、そして確実に入り込んで、すぐに機内に充満した。吹雪のやむ気配はつゆほどもなかった。大量の出血をした重傷者は、最も悲惨だった。確実に下がっていく気温が彼らの体温を容赦なく奪い、手のほどこしようのないまま死んでいった。彼らの着ている野外作業服は、充電なしにあと数恒星日は彼らの命を保障するだろう。しかし、電圧が下がるまでに前進基地に入ることができなければ、ただ破局を前にのばすだけにしかすぎない。  着陸の時の衝撃で、慣性航法装置は完全にこわれ、貨物室に入れた食糧や露営具も、氷におしつぶされ、あるいは氷上にまきちらされていた。彼らは徒歩で基地に向かうしかなかったが、ただ窓の外にほんの一瞬だけ見えた基地の様子だけがたよりだった。風向、HPによる影、その他からブリザード前進基地はほぼ極方向に五キロ乃至一〇キロ離れているとしかわからなかった。他に選択の余地のないまま、パルバティ、ツラギ、それにブラトナの三人の歩ける者達は“夜明け”と共に徒歩で基地に向かうしかなかった。基地にさえたどりつければ、そこにはスノー・クルーザーもデポしてある。問題は、わずか三時間半の“昼”の時間に基地に入りこめるかどうかだった。吹雪の中で夜営することは、あるいは可能かもしれない。しかし、充分な道具なしにそれをすればどういうことになるか、彼らは知りすぎるほど知っていた。  三人はそれぞれわずかな携行口糧を持ち、負傷した者達の期待を一身に受けて出発した。再び赤い光が周囲に満ちはじめていた。HPが右後方から次第に右前方をよぎって、“日没”時に前方の地平線に没するように進めばいいはずだったが、厚い雲と地吹雪にさえぎられて、光源の位置もさだかではなかった。ただ、地面にきざまれた|雪  紋《ドリフティング・スノー》と、雪つぶてをたたきつける偏向した風のみが方向を知る手がかりだった。  出発して数分せぬ内に、機体は視界から消えた。雪が比較的締っていることだけが、救いだった。くるぶしまで沈む雪を踏んで、三人は一列になって進んだ。視界は悪かった。たえまなく吹きつける風が雪をまきあげ、三人を打った。極方向に向かうために、左前方からいつも風を受けるように歩かなければならなかったが、油断すると強い風に押し流されて、すぐに方向がねじまげられた。三人は大声をかけ合いながら、方向を見失うまいと行進を続けた。風は時には息をつくかのように、一瞬停止し、すぐに以前にもました激しさで吹き荒れた。いくら進んでも隆起氷床のつらなりは消えなかった。苦労してその氷丘の一つに登り、吹雪の切れ間から目標を視認しようとしたが、何度も目的を果たせぬままに重い足どりで下らなければならなかった。 「地表が……見えない」  何度目かの氷丘の上でパルバティがそう言った。ほんの一瞬、たしかに吹雪は息をした。しかし、赤い色しか見えなかった。空の色も、地表の色も、同じ赤く染まった雪の色だった。空と地表とが、とけあっていた。数十メートル先で地面が消え、赤い世界に彼らの立つ地面だけが、ぽっかりと切り取ったように浮かんでいた。 「レッド・アウトだ……」  冷たくかがやく白い世界の方がまだましだと、パルバティは思っていた。彼らをつつむ赤く、そのくせ少しも暖かみのない世界は、確実に彼らを殺そうと包囲の輪を縮めていた。すでに短い日照時間は、つきようとしていた。三人は氷丘の中腹に、待避壕《シェルター》を掘り始めた。三丁のナイフしか道具はなかったが、周辺に闇がおり、気温がさらに下がり始めて一時間とせぬ内に、どうにか三人が体を入れることのできる雪洞ができていた。三人は、雪洞にもぐり込んで|緊 急《エマージェンシー》シートで体をつつみ、体をよせ合ってうずくまった。機体を出てから四時間余りしかすぎていない。体の内側から、すっかり冷えきっていた。しかし、夜営とは言っても彼らのやり方で行程を記録してしまえば、何もすることはなかった。長すぎる“夜”を寝てすごすほど雪洞は快適ではなかった。時間は充分あった。 「俺は五四二〇複歩を歩いた」  ばっさりかぶったシートの中で、ぼそぼそとツラギが言った。  単純な測量の場合、歩測を行なうことがある。高度に機械化が進んだ彼らの測地体系では、ほとんど不要なことだったが、荒れ狂う吹雪の中でも彼は基本として知っていたそれを、自然に行なっていた。一複歩とは、左右両足を一対とした歩幅になる。ツラギは続けて言った。 「俺の一複歩は標準単位で一・五メートルちょうどになる。しかし、雪に深くもぐることもあったし、氷丘にも登ったからその七五パーセントとして、六・一キロほどだ」  パルバティは、この吹雪の中でツラギがそのような計測をしていたことが少し意外だったが、自分自身の固有の複歩幅を思い出しながら言った。 「俺の計算では、五・九キロほどだ。もっとも、出発点と目標の正確な位置がわからないんだから、いくら正確に測距をやったところで大した意味はないが」  パルバティは、それだけ言ってブラトナの方を見た。彼は荒い息の下で言った。 「約五三〇〇複歩、一・五五メートル」  彼は暗闇の中でもそれとわかるほどふるえていた。かすかなライトの光の中で、彼は右手を左脇の下にはさみこんだ不自然な恰好でうずくまっていた。 「見せてみろ」  放心したように座っているブラトナの右手を、ツラギは無理にひきはがしてライトの光をあてた。ツラギとパルバティは顔を見合わせた。 「ひどい凍傷だ……」ブラトナの右手首から先は、真白に変色していた。 「何か食わなきゃ駄目だ」  パルバティが、ブラトナの右手をマッサージしながら、そう言った。ツラギが乏しい食糧の中から、なるべく喉のとおりのよさそうな物を引っぱり出してブラトナにわたした。極点基地を出てすでに一四時間が過ぎていた。力なくそれを手にしたブラトナは、しばらく大儀そうに見つめていたが、やがてのろのろとそれを口にはこび、無理しながら咀嚼しようとした。しかし、すぐに胃の中がひっくり返りそうな声と共にそれを吐き出した。極度の疲労と、長時間の低温曝露が、いちじるしく彼の体力をすりへらしていた。 「奴の野外作業服のヒーター線源がへたってるんだ。右手袋など半分凍ってるぜ」ツラギが重い声でそう言った。ちらりとその手袋を見たパルバティは言った。 「俺のヒーター線源を奴のと取りかえよう。もっともそれで体力が回復するわけではないが」  ツラギがおどろいて聞き返した。 「お前はどうするんだ。ヒーターなしじゃ、奴より先にくたばっちまうぞ」 「いいのさ」パルバティは顔をあげもせずにそう言った。「実は、極点基地を出た時から線源はオフにしてある。ヒーターなしで、ここまでずっとやってこれたんだ」  ツラギはじっくりとパルバティの作業服を上から下まで見て言った。 「別にかわった所は見えないが……そういえば少し普通のより厚いようにも見える」 「体温だけで内部から保温効果をあげるために、普通の作業服よりはかなり厚くなっている。吹雪の中でも快適というわけにはいかないが、少なくともトラブルのおそれはない。まだ改良の余地はあるが、実用性は充分だ」  ツラギは感心したように何度もうなずいた。 「俺には、そういう物を作ろうなんて思いもつかんよ」 「いや……」パルバティは少し口ごもりながら、越冬前に会った地球人の話をした。ツラギはしきりにうなずいていた。 「俺達よりこの地獄の中を歩くのが得意な奴がいたんだな。俺達も野外作業のエキスパートには違いないが、奴らほどじゃない。俺達はまだ機械にたよる所が大きい」  待つというだけの時間はあり余るほどあった。パルバティは作業服の線源をうつしかえ、ブラトナのマッサージをつづけながら、これまで誰にも話さなかった、プランナーとのトラブルのことも話した。ツラギは黙って聞いていた。 「どうだい、奴の具合は」  ひととおりの話が終わってから、ツラギはブラトナの方をすかして見ながら聞いた。ブラトナは、眼を見開いて、ぶつぶつと何事か言っていた。 「こんな所で、死にたくない……と言っている」彼の口に耳を近づけていたパルバティが、そうツラギにおしえた。 「寝ていないから大丈夫だろう。寝させちまったら最後だ」ツラギもうなずいて言った。  しかし、彼らは大きな誤りをおかしていることに気がつかなかった。この状況では、体力が残っているうちに眠ってしまうということが最善の方法だったが、ブラトナをふくめた彼らはそのことを知らなかった。ブラトナは、いたずらに体力を消耗するばかりだった。それに気がつかないまま、ツラギは言った。 「早いとこ基地に入らなきゃこっちまでくたばってしまう……もう全員で行動することはむつかしいな……どう思う?」 「あの時、基地上空を飛び越してから不時着するまでに一分乃至一分半だったと思う」 「そんな所だろう。あの輸送機はかなり低速に落としていたから、三〇〇キロの時速として一分なら五キロ、一分半なら七・五キロ飛んだことになる。方向さえ間違っていなければ二キロ以内に基地はあるはずだ。ここは動かずに、この氷丘の上で地吹雪のとぎれる瞬間を待つしかないだろう」 「そうだな……運がよければ次の“昼”時間の内に基地に入れる」 「運がよければ……な」      10  それっきり会話はとだえた。パルバティは消息のわからない僚機のことを考えていた。滑走路《エア・ストリップ》があの状態では、彼らと同じようにどこかで不時着しているとしか考えられない。あるいは、基地を発見することさえできなかったかもしれない。そうなれば絶望だ。  不意に風向きがかわり、雪洞の中に粉雪が舞い込んだ。一番入口の近くにいたツラギが、舌打ちをしてはい出し、吹きこんだ雪をかき出した。立ちあがったツラギの占めていた空間をすきま風が通りぬけ、パルバティは思わず身ぶるいをした。服の端がすでに凍りついていた。ほんの少しでも動くのが億劫だった。  次に明るくなる三〇分前に、パルバティはこわばった体で雪洞をはい出し、氷丘を登った。風はあいかわらず砂のような雪を舞い上げ、彼は思わず体をすくめた。この風の中でじっとしている気にはとてもなれなかった。氷丘の上に立ったパルバティは、こごえる腕を無理に動かして、岩のように凍りついた雪を砕き、半身がようやくかくせる竪穴を掘った。あいかわらず世界は真赤だった。半身を外気の吹きつのる外にさらしているのは、おそろしく辛い仕事だった。  時間は無為に過ぎていった。地吹雪は間断なく吹きつのり、視界を奪った。そして体力も、それと気づかぬうちに少しずつ確実に消耗していった。彼がその位置について監視を始めて一時間がすぎるころ、赤い嵐の中からのっそりとツラギが姿をあらわした。顔を見合わせて、パルバティは首をふった。 「いいだろう。交代しよう。下で少し休んだ方がいい」  ツラギはそう言ってパルバティと場所をかわろうとした。吹雪の中に体をはい出させてパルバティは聞いた。 「彼の具合は?」  しかし、ツラギもただ首をふるだけだった。 「かなり参っている。食い物を全然うけつけないんだ」  その時、パルバティは眼を見開いた。一瞬、風が途切れ、奇跡のように世界が切り開かれた。まるで見えないナイフで断ち切られたかのように、舞いあがる雪片に空隙がひらけ、視界がその部分だけ突き抜けたのだ。見開かれたパルバティの視線を追ってふり向いたツラギも声にならないうめきをもらした。意外なほど近くに基地は見えた。ツラギはそれを見るなり、氷丘の斜面を転がるように下った。不意に開いた空隙を埋めようと、すさまじい勢いで飛雪をたたきつけ、雪の壁で閉ざされそうになる視界を眼の奥に焼きつけようとパルバティはそれを凝視しつづけていた。  大声で叫ぶツラギの声で我にかえったパルバティは、すでに数十メートルにまで低下した視界の限度一杯に立つツラギに合図を送った。ツラギは、雪原の上を合図に従って左右に動き、位置が確定するや、ナイフをふるって切り出したブロックをその場に積み上げた。方向は固定された——パルバティの立つ竪穴と、ツラギの積んだブロックの延長線上に基地はある。再び氷丘をかけ登って来たツラギは、息をきらしながら言った。 「八〇〇メートルと見た。お前は?」 「同じだ。間違っても一〇〇〇以下の距離にはある」 「基地の規模が一〇メートル平方として、視野角が……四五分前後だ。三人で行進すれば暗くなるまでに充分命中できるぞ!」興奮し切ったツラギに、パルバティも言った。 「大事なことを忘れてるよ。基地の横には幅五〇メートル長さ三〇〇メートルの滑走路がくっついているんだ。はずれっこないさ」  二人は勢い込んで氷丘をかけおりて雪洞をのぞき込んだ。  声をかけようとしたパルバティの表情が凍りついた。あわててふり返った彼の口から、声にならないつぶやきがもれた。ツラギの顔から笑いが消えた。パルバティを押しのけて雪洞に頭をつっ込んだツラギは、ふり返り何事か言おうとしたが、口が凍りつきでもしたように言葉をのみ込んだ。じっと見つめるツラギの視線をさけるようにして、パルバティは雪洞の外の雪原を見た。口をひらくのがおそろしかった。間のびした数瞬のあと、やっと言った。 「いない……奴が消えた……」  雪原の上に、かすかな足跡がほとんど消えそうになりながら、吹雪の向こうにのびていた。希望が、あっけなく消えた。 「自分で歩けるだけの力はほとんど残っていなかったはずだ……」  ツラギはぼんやりそう言った。ほんのわずかに残った足跡を追ってパルバティが数歩ふみ出した時、短いツラギの制止の声がひびいた。ツラギは足跡を指して言った。 「もう手おくれだ。見ろ。その先で足跡は、完全に消えている」事実、吹雪をまともに受けるほんの数メートル先で、足跡は完全に消えていた。パルバティは口ごもった。 「しかし……今ならまだ助かるかもしれないんだぞ」 「俺達だけじゃない。あの残骸の中で五人が待っていることを忘れるな。ここで基地に入れなかったら全員死ぬぞ」パルバティは、視線をそらした。 「俺は……このことで一生後悔などしたくない」 「ふざけるな!」  ツラギは風の音に負けない大声で言った。すでに足跡は完全に消え去っていた。ツラギは続けた。 「俺の身にもなってみろ。奴は、半分意識のないまま外にとび出したんだぞ。誰もいない雪洞から、俺に置き去りにされたと思って出て行ったんだ。俺が班長でなけりゃ俺も追っかけたい気持は同じだ。……なあ……しっかりしろよ。パルバティ。俺達まで死んだらあの阿呆共に一体誰が復讐するんだ……」 「わかったよ……班長」  数呼吸おいて、やっとパルバティはそう言った。  前方に希望があるとは言っても、それが辛い行進であることにはかわりなかった。氷丘の上の監視点からツラギの積んだブロックの延長線上に三〇複歩だけパルバティが先行し、後方から三点が一直線上にならぶようツラギがそれを確認して中間点に移動し、再び新たにパルバティが前方に積んだブロックを見通しながら次の三〇複歩を前にのばす。単純すぎる仕事だったが、何度も突風と共に押しよせる吹雪にさえぎられて作業は中断し、その度に二人は辛抱強くわずかな地表の突起物のかげにうずくまって視界が回復するのを待った。パルバティはそうしていながら何度も時計を見た。すぐに暗くなる。氷丘を時には直登し、またきわどいバランスで斜面をつっきり、腰までもぐる深雪を迂回もせずに単調な測進は続いた。パルバティの眼と腕は、すでに機械的にそれをくり返すだけだった。もう数時間前のブラトナの失踪も、機体の中に残っている五人のことも、パルバティの頭の中からは消えていた。生死の感覚も失せていた。  不意に声が聞こえた。吹雪の彼方で、ツラギが大声でわめきながら手を振っているのが見えかくれしていた。パルバティは我を忘れて駆け出した。何度も雪に足をとられて転び、すでに感覚のなくなっている手足を、鋭い氷の破片がさらに傷つけた。そして、それはそこにあった。雪の中に半分埋もれながら、基地観測棟はその武骨な姿をつき立てていた。意味のない叫びをあげてツラギが何度もパルバティの背中をどやしつけた。パルバティはくずれ落ちそうな膝で地面をふみしめながらそれを返した。周囲から光は急速にうすれていった。極点基地を出発して三度目の“日没”だった。  だが、基地は氷にとざされていた。二人の立つ雪面に、基地の入口の上部が顔をのぞかせているだけだった。パルバティは、積雪期用の入口を用意しておかなかった設計者をのろった。積もった雪は岩のように硬かった。二人はがむしゃらに手足を動かして入口の前に積もった雪をかきわけた。わずかな光を放つライトはすぐに消えた。手さぐりの中で二人は雪をかきわけ続けた。二人の背を没するほどの穴を掘り下げ、穴の底の最後の氷をたたき割ってやっと開いた入口から基地の中に転がり込んだ時には、二人とも声を出すこともできなかった。  ただ眠りたい。そんな誘惑を無理にはらいのけて二人はのろのろと体を動かした。外界と同じく、冷えきって暗い基地内で、そこだけが明るく明滅している無人観測制御卓に這い寄り、空調を最大限の暖房にすると間もなく室内の温度は急速にあがり始め、二人の体にはりついていた氷が音をたてて床に落ちた。どうしようもない疲労感が二人をとらえていた。パルバティは極点基地に現在の状況を報告しようと通信機に向かったが、たしかに呼出はしているものの応答はなかった。自動的にデータを送りつづけている無人観測機はデータ入力確認の応答を極点基地から受けていた。不審に思ったパルバティが、さらに送信しようとした時、車両格納庫の方にいたツラギの声でそれはさえぎられた。 「手伝ってくれ。格納庫の前に積もった雪をヒーターで融かさなけりゃならないんだ」 「ちょっと待ってくれ。極点を呼び出してるんだが、出ないんだ」 「放っておけ、そんなもの。何の役にも立たん」  パルバティは通信機の前を離れた。すでにスノー・クルーザーはエンジンを始動しはじめていた。再び無人となった観測室では、データを送る発信音だけが単調にひびいていた。  生存者を収容するための行程は、来る時とは比べものにならない楽なものだった。天測装置や航路慣性追跡装置まで備えたクルーザーは、闇の中の走行をわずか数分で二人が夜営した雪洞に到着した。すぐに照明弾を打ち上げ、コールを行なったが、ブラトナの姿は見えなかった。すでに失踪から三時間以上をすぎている。待避壕《シェルター》の外で彼が生きのびていることは、ほとんどあり得なかった。それでもあきらめきれずに、二人はなおも一時間近くを付近の捜索にあてたが、やがて進路を不時着地点に向けた。  五人のうち、四人が生存していた。一人は彼らが出発してからなおも数時間生きつづけたが、二度目の“日没”と共に息絶えていた。体力の消耗をさけるために、動かずにいたため、生存者は比較的元気だったが、口をきく者もない内に死者を雪を掘った穴に仮埋葬し、基地に向かった。  パイロット・チームをふくめた一二人で出発したのがわずか二〇数時間前のことだ——パルバティは快適なクルーザーのナビゲーターシートの中で、ともすれば眠りに引き込まれがちな意識の中でそう思っていた。なのに、今は半分しか生き残っていない。それに、まだ救出が全部すんだわけではない。消息を絶った二番機を捜索するという、大仕事がまだ残っているのだ。時間的にいって、二番機はこの大陸のどこかに不時着、あるいは墜落しているはずだった。  しかし、一体何ができるというのだ。満足に行動できるのは、パルバティとツラギしかいない。捜索する範囲は、あまりに広すぎた。そんなことを考えながら浅い眠りに落ちていたパルバティは、ツラギの声で我にかえった。基地がすぐ眼前にライトの中でうかびあがっていた。しかし、彼らが出発した時とは様子が違っていた。見なれない形の轍が基地の周辺にきざまれていた。それは、おそろしく旧式なキャタピラ装軌によるものだった。思わず口をひらきかけたパルバティを制してツラギが怒鳴った。 「見ろ。二番機の連中だ」  スノー・クルーザーのエンジンの音を聞きつけて基地の外にとび出して来たのは、たしかに二番機に乗り込んでいたはずのレムだった。そして、続いて出て来た人影は、キャタピラの轍以上にパルバティをおどろかせた。 「ギュンター!」  クルーザーが停止するのを待ち切れずに、パルバティは車をとびおりて彼らに駆けよった。しかし、再会を喜ぶパルバティの表情は、すぐにこわばったものになった。二人はいずれもけわしい顔でいった。 「……なんだって」おくれて下車したツラギがレムと言葉をかわすなり失望した声で言った。 「生存者は君だけだと言うのか」  クルーザーからそれぞれにおりて彼らをとりまいていた残りの者達も、その言葉を聞いて一様に動揺した。この惑星の一恒星日足らずの内に、転進組二四人のうち、七人を残して三分の二以上が死亡したというのか。 「どうしようもない事故だった。我々は基地を発見できぬまま不時着をこころみた。……ツイてなかった。着陸に失敗して、エンジンが火をふいた。燃料がえらいいきおいで吹き出して、積んでいた露営具や越冬装備に火がついた。他の者をひっぱり出す余裕なんて全然なかった。気がついた時には俺は一人で機体の燃えかすのそばで寒さにふるえていた。  ……彼らが来なかったら今ごろは俺も凍死していたろう」  レムはそれだけ言って地球人の方を見た。ギュンターはかるくうなずいて言った。 「ギュンターだ。もう一人、カトウという者がいるがたった今、我々の基地に帰った」  ツラギもあいさつを返して言った。 「かたいあいさつは抜きにしよう。君達のことは、パルバティから聞いている。俺はツラギだ。……とにかく中に入ろう。さもないと、俺達も生き残れないぜ」  ツラギは無理に笑おうとしたが、こわばった顔はそれらしく動かなかった。  基地の中は、パルバティとツラギが出発した時から、最強の状態のままにしてあった暖房のせいで、暑いほどだった。それでも中に入った者達は防寒具を離そうとはしなかった。さほどひろくもない観測室の、数少ないシートに身を寄せ合うように座った彼らの体から、しずくと氷が床に落ちた。そしてギュンターをのぞく全員の体中から湯気が上がりだしてから、ようやく何人かが防寒具を脱ぎ始めた。  そんな中でレムが口ごもりながら切り出した。 「実はもう一つ、悪いしらせがある」  その場にいた者は、一様に不安の入りまじった視線を彼に向けた。 「これ以上、状況が悪くなるとは思えんが」ツラギがふてくされたような声で聞いた。レムは淡々と言った。 「実は、君達が来る前に極点基地に連絡をとろうとした。……応答がなかった」 「俺達もとろうとしたが駄目だった。それがどうかしたのか?」いらいらした声でパルバティが聞いた。 「結論から先に言おう。極点基地は、全滅かそれに近い状態だ」レムのその言葉は、全員を沈黙させるのに充分だった。レムは息をついてつづけた。 「言うまでもないことだがここの無人気象観測体系を利用すれば、どの前進基地からでも、この惑星の全観測所のデータを知ることができる。極点基地と連絡をとろうとして応答がなかった時に、私はこのデータラインを使って極点基地内の気圧を測った。その結果は、気圧、気温とも外気と等しかった」  ギュンターとレムだけが平然としていた。他の者達は言葉を失っていた。 「コンプレッサーと空調システムが同時に故障したなんて考えられない」  少しの沈黙のあと、パルバティがやっとそう言った。彼の言うとおり、急造とはいえ複数のコンプレッサーによる気圧調整システムも、暖房機構も、故障にそなえて充分な安全対策がとってある。機械自体の信頼性の高さと共にシステム全体が突然の故障にそなえられていた。機械が一斉に故障でもしないかぎり、気圧が外部と同一になるはずがない。レムは言った。 「ただ……現在もなお観測データが異常なくオンラインされている。ということは、極点基地になんらかの大事故が発生して物理的に気圧、温度を保てなくなった、とも考えにくい」 「それじゃ、一体……」 「考えられる可能性はひとつある。HPからの電力供給量がなんらかの理由で低下して、生存に必要な気圧調整、暖房が働かなくなった、ということだろう」 「ちょっと待ってくれ。どうもそこらがよくわからないんだが、電力供給量が低下してすぐに生命の維持に必要なシステムが機能を停止するなんてことがあるのか」それまで黙っていたギュンターが聞いた。しかし、その場にいたほとんど全員は、レムの説明で事態を推測していた。  もし、突発的なトラブルが発生し、HPから送られる電力供給量が低下した時にそなえて、極点基地では自動即応体制が常時とられていた。この体制の主眼は、膨大な観測データを、エラーなく記憶保存することにあり、緊急事態においては、他のあらゆることに優先して情報バンクに集積されたデータの保存に電力がふり向けられることになっていた。そのこと自体も、また優先順位の二位に基地内の照明を、三位に拠点の暖房をおいたことも間違いではなかった。通常考えうるかぎりの緊急事態においては。  もちろん、このシステムが設計された時には、基地の生活機能を低下させてまで、観測データの保存をはかろうと考えていたわけではない。それは、あくまで一時的な措置であって、その後の事態の推移を見ながら、データをあくまで死守しつつ電力備蓄体制をつづけるか、自家発電機作動をふくむ応急処理を行なうか、さもなくば観測データの一部又は全部を放棄しても基地の生活機能に電力をふり向けるか、状況判断を行なっていくという前提に立ったものだった。しかし、今の場合にはそのデータ保存機能を解除し、自家発電機を操作する、いわばマニュアルな部分を行なうべき設営班の人間がほとんど極点基地にはいなかったのだ。当初、設営班の半数は残ることになっていたが、測地、気象班の中にも凍傷や、外作業のため転進できないほど衰弱していた者が数人いたため、設営班の人間も多くが転進組に入れられていた。そして、転進の混乱の中で、平常時における電力供給の優先度は変更されることなしに設営班員の多くは去っていった。大電力を食う与圧コンプレッサーの電力は、この緊急事態における優先度ランクの中にも組み入れられていなかった。  状況は容易に想像できた。彼らが前進基地へと出発していった直後に、コンプレッサーが停止し、次第に気圧が、そして室温が低下していったのだ。 「つまり、HPからの航法誘導が正確に作動しなかったのも、同じ原因というわけか」ツラギが息をついてたずねた。レムはうなずいて言った。 「電力が低下したのと同じ原因だろう。つまり、この惑星を変形させた重力場の異常がHPの姿勢制御を狂わせて送電が正確に行なわれなかったのだ。さっき極点から送られて来た情報では、自家発電機構が作動して、電力供給力は回復しつつあるが、完全復旧までには二〇〇時間はかかるとのことだ。しかし、与圧システムは、電力が回復しても作動することはないだろう。あのシステムは、言ってみれば付け足しのシステムで、緊急時優先ランクにも入っていないんだ。また、かりに与圧システムが作動を再開しても、充分な与圧ができるまでに相当の時間がかかるだろう。特に、現在のように外気との気圧差が大きい時には、復旧することはあり得ない」 「マリー・セレステ号だな……」  ぼそりとギュンターがそう言った。全員の視線がその地球人に向けられた。 「いや、失礼。我々の星の古い伝説を想い出したのさ。半年後に君達が越冬終了する時に船隊がこの惑星に来るだろう。君達の収容のために極点基地に着陸した人々は無人の基地を発見するのみだ。基地の機能は正常、暖房も行き届いているし、食料も充分あるのに生存者はいない。誰も気圧の低下などということは考えつかずに首をひねるばかりだ」  あまりぞっとしない話だった。皆は露骨にいやな顔をした。中の一人が抗議して言った。 「妙なことは言わんでくれ。ただでさえ神経が参ってるんだから。それじゃまるで俺達まで死んでしまうことが決まっているみたいじゃないか」 「悪かった。そういうつもりじゃなかったんだが」  それでも不服そうな全員の気配を察してレムが割って入った。 「いや、彼の言うことは実は正しい。私の言う悪いしらせというのは、実はそのことについてなんだ」  まだあるのか、パルバティはそんな顔をして聞いていた。 「結論を先に言おう。我々はただちに極点基地に向かわなければならない」 「何だと」  まさにそれは、考えうるかぎりの最悪のことだった。殺気さえ感じられるその場の雰囲気の中で、レムはデータを読むような単調さで状況を伝えた。 「私はHPの現在の姿勢をチェックしてみた。言うまでもなくHPの姿勢制御の原点は二つある。一つは母恒星方向で、衛星運動の焦点をなす、この惑星の重心方向がこれに加えて用いられ、内部の時計がこの二つを連動させて現在位置を正確に出している。恒星発電システムは、一年を通じて常時母恒星の方向に正対し、対地上送電システムはこの惑星の重心点と母恒星の時間的な相対位置から我々の極点基地の受電システムに向けられている。もちろん、送電ビームが多少ずれた場合には自動修正できるし、これらを補助、チェックするために測地ポイントからの位置関係も同様に組み込まれている」  レムはそこまで言って言葉を切った。全員が辛抱づよく聞いていた。 「ところが、この惑星中心に向けられていた第二原点の重心位置が狂い出している。そして、各測地点の相対位置にもずれが生じていることから、HP内部の調整機能が作動を始めたのだ。結論は明白だ。HPの姿勢制御システムは、測地ポイントのずれを、誤差及び地殻の変動としてとらえ、不動のものとしての第二原点——惑星重心位置をこれに優先させた。この、自動修正の範囲からはみ出した姿勢制御のずれが、極点基地に正確な送電がされなかった原因だ。送電方向がずれていたことの被害は周知のとおりだ。だが、HPの姿勢制御のずれによってひきおこされる重大な事態はもう一つある」 「地上照射か!」  誰かが叫んだ。数人はすでに事態を半ば以上のみこんで、たがいに早口で私語をささやき合った。レムは静かに続けた。 「融氷計画における地表面照射は、広範囲照射と狭範囲照射の二種類ある。広範囲のものは、冬期における夏大陸の光源となるべきもので、不特定の地域にふりまかれる。これはそれほど正確な姿勢制御が行なわれなくとも問題はないが、狭範囲のものはそうではない。極点基地近くの露岩地帯の最も有効な部分に熱照射を行なって、外縁部の融氷を行ない、あわせて露岩地帯からバインター氷海まで五〇〇キロの排水路を熱照射で開削しようというものだ。これは、春分以後六〇日間の昼の時間に行なわれることになっている。この狭範囲照射が正確さを必要とするのは、熱効率の問題もあるが、それ以上に照射のルート上に人工物、他の衛星や我々の基地自身が重なって損害を受けることがないようにするためだ。無論、そのような事態がおこらないようにするために、二重三重のチェック機構が姿勢制御システムに組み入れられている。しかし、その原点であるこの惑星の重心位置にずれが生じた。  私の現在出した計算結果は、多少とも誤差があるかもしれない。今後のデータをさらに検討する必要があるが、最も確率の高い解として、この惑星の第一九二日目に最初の狭範囲照射が極点基地を直射する。春分から丸一日後だ。春分の時点で地平線から姿を見せた母恒星の曙光に呼応して広範囲照射は中止され、余剰エネルギーは、すべて狭範囲照射にふりむけられている。そして……」  レムの静かな声がわずかに上ずった。 「それからHPの七公転後、およそ六一時間後の第一九四日に狭範囲照射の効率は最大に達し、最悪の場合は極点基地が発火、炎上する可能性もある」  もし、極点基地に火災が発生した場合、基地に備蓄されている越冬食糧の大半は失われてしまうだろう。前進基地にある分だけでは、とても夏の船隊着陸まではもたない。地上からの誘導がないまま、船隊が強行着陸したとしても、そこに発見できるのは、餓死者のみということになる。パルバティは、すがりつくような眼でギュンターの方を見た。その気配を察したギュンターが口を開いた。 「我々も、充分な食糧を保有しているわけではないのだ。妙な言い方だが、夏が来るまでに餓死者が出るとすればそれは我々の中からだろう。我々は食糧の原地採取主義を採ってすでに五年目に入った。その最大のプラントは、海を利用した低温|有機浮遊物《プランクトン》の養殖だが、下手をすると今年はそれが全滅するおそれがある。原因は……海水温度の異常な上昇だ」  それ以上言ってくれるな。パルバティは心の中でそう叫んだ。自分に直接の責任があるわけではないのに、パルバティはどうしようもない恥ずかしさとやりきれなさにおそわれた。ギュンターはその場の空気を敏感にとらえて、すぐにつけ加えた。 「つまり、水温の上昇に耐えきれるような品種の改良をおこたっていた我々の落度だ。数十年の周期でくり返される気象サイクルから、当然おこなわれているべき研究だったのだが……我々にとっても充分な教訓となるだろう」 「しかし、必ずしもその時点で基地が炎上するとは限らないのだろう」誰かが話題をもとにもどしてそうレムに聞いた。 「どちらとも言いきれない。無事にすむかもしれないし、そうでないかもしれない」 「炎上するという確率はどれほどなんだ」  いらいらした声でその男はレムに再び問い返した。レムはその男に向きなおり、静かな声で言った。 「君も技術者なら、そういう質問はしないでほしい。確率という言葉で計れるほど、ことは単純ではないのだ。私としては、今後の経緯を見守っていく、としか言いようがない」  聞いた男は、それで沈黙した。レムは、さらに続けた。 「我々に残された方法はただ一つ。できうる限りの方法を用いて極点基地に達し、HPの狭範囲照射を阻止することだ。現在、第一七五日に入っている。だから、多少の予測のずれはあるにしろ、少なくとも一七日後には極点基地に到着しなければならない」  パルバティ達は互いに顔を見合わせた。彼らの中で満足に動ける者は三人しかいない。パルバティは、不時着地点からこの前進基地に至るまでの苛酷な行進を思いうかべてぞっとした。あの時には、わずか七キロ足らずの距離を一〇時間近くついやし、一人の犠牲者を出してようやく到着した。この前進基地から極点基地までは、二〇〇〇キロはある。しかも暴風雪の中を陸上の輸送機関のみを使って移動するということは、常識では考えられない。おそるべき道程だった。ツラギがそんなパルバティの気持を代弁して言った。 「ちょっと待ってくれ、いいか、第一九二日といえば極点では正常の六五パーセントしか気圧がないのだ。それも標高三〇〇〇メートルの地点での六五パーセントだから、標準気圧のわずか四五パーセント、通常気圧で換算すれば七〇〇〇メートル近い高度の気圧しかない。つまり、酸素分圧もそれだけしかないのだ。我々の安全基準から言えば、標準の六〇パーセント以下の酸素分圧下で長時間の作業を行なう場合、呼吸補助具をつけることになっている。そんな場所へどうやって行くというのだ。呼吸補助具など一つもないぞ」  誰もがそれに同意してうなずいた。パルバティもそれに加えて言った。 「人間だけじゃない。陸上の移動手段しかない現在、スノー・クルーザーも、そんな気圧の低い所ではエンジンは動かないし、フルタンクの状態での最大航続距離は一五〇〇キロしかない。極点基地に向かってこれ以上の犠牲者を出すよりは、現在ある食糧をできるだけ食いのばし、極点基地が炎上しない方にかけて救援が来るまで持ちこたえる。その方が賢明ではないだろうか」  もっともな意見だった。しかし、レムは重々しく首を振った。 「実は、もう一つ極点基地に向かうべき理由がある。基地内に生存者がいる可能性があるのだ」  パルバティの意見に同意しかけていた全員の気持がその言葉で完全にくつがえされた。 「その可能性、及び極点基地に向かう方法については、彼の方から説明してもらうことにしよう」  レムはそれだけ言って口を閉じた。かわってギュンターがいつもとかわらぬ口調で切り出した。 「君達の安全基準では、標準の六〇パーセント以下の酸素分圧下では呼吸補助具が必要だということだが、我々の経験では三〇パーセント近くの低圧下まで行動することが可能だ」  その言葉は彼らを動揺させるのに充分だった。常識ではまず考えられないことだったし、そんな考察をした者も今までにはなかった。ギュンターはざわめきがしずまるのを待って言った。 「ただし、それは長時間の行動が可能だというわけではないし、どのような場合でも、というわけでもない。そのような低圧下では、せいぜい十数時間の行動が、しかも確実な低酸素順応トレーニングを行なって始めて可能なことなのだ。我々地球人は——もちろん君達も大差はないが、六〇パーセント程度の低圧下で常駐することさえできる。もう少し具体的に話を進めよう。我々の間ではこの程度の低圧状態をあらわすのに、標準大気圧を持つ惑星における海抜高度というスケールを用いることがある。これでいくと、気圧六〇パーセントは高度四〇〇〇メートル、そして三〇パーセントというのは高度九〇〇〇メートルに相当する。君達の極点基地のトラブルは、基地内気圧が高度四〇〇〇から短時間の内に八〇〇〇へと変化したことから来たものだ。通常ならこのような急な減圧にはとても体はもたない。ただ君達の場合は必ずしも単純にそう考えるべきでないと思う。  さきほど話にあった、六〇パーセント以下は補助具必要という基準は、標準気圧下で生活していた者を対象に示されたものだろう。たしかに、標準気圧の中で生活していた者がいきなり六〇パーセント——高度四〇〇〇——の低圧にさらされれば重大な事態を引きおこすことがある。しかし君達は標高三〇〇〇メートル——標準の七〇パーセントの酸素分圧下で長期間生活していた。このことによって、血液中の酸素運搬能力が高まり、突然おそった気圧低下の中でも生存することが可能になる。そして、さっき聞いたことだが、君達の多くは、気圧の減少が始まってしばらくの間、基地生活区画の気密強化工事のために気圧の下った外気に短時間ずつだが身をさらし、そして与圧された基地内との間を往復していたということだ。このことも、低酸素の条件下で順応を行なうよいトレーニングになっていたのだ。何度か低圧と標準気圧の間を行き来することが最も効率のいい順応方法であることは、我々の間で昔から知られていた」  パルバティは、あのプランナー達に感謝したい気持で一杯になった。基地の気密強化工事のために外部で作業したのは、測地、気象、設営及び輸送整備の班員だけだった。つまり、基地に残存した者達のうち彼の仲間だけが生存している可能性が高いのだ。しかし、ギュンターの次の言葉はわずかなパルバティの期待を一度に暗くした。 「ただ、そのようによく順応した者であっても極端な酸素分圧低下に長時間さらされると後遺症が残ることがある……軽いものであれば、眼底出血や視力低下程度ですむが、現在の状況を考えると、最低で三五パーセント——高度八〇〇〇にまで気圧が下がるとすると、脳に障害が残る可能性が強い。あるいは、それに付随した体機能障害も。極点基地への通信に応答がないことを考えあわせると、生存者があったとしてもそのような状態になっている可能性が強い。我々の経験から言うと、低圧下の曝露は、呼吸困難、頭痛、吐き気から始まって意識の酩酊状態、あるいは精神錯乱によって正常な判断が行なえなくなり、さらに長時間さらされると、脱水症、肺水腫、血栓症をひきおこして死に至る……。そして生きのびたとしても、そのような後遺症が残ることが多い」  誰かが深いため息をついた。基地に残った何人かの仲間の顔がパルバティの頭をかすめた。ギュンターは続けた。 「つまり、君達の仲間が極点基地に生存しているとしても、それは可能性がある、というだけのことだ。したがって、君達が火災発生がない方にかけてここにとどまるとしても、我々はそれに反対するものではない。ただ、君達が極点基地へ行かないと決定したとしても、我々は単独ででも極点を目ざさなければならない。ともかく、早い時間にあの人工太陽——HPの地上照射をやめさせなければ、我々は餓死する。君達が我々と行動を共にするか、否か、それは君達自身が決めることではあるが」  ギュンターは言葉を切った。少しの沈黙のあと、ツラギが言った。 「よくわかった。我々の判断を言う前に、極点基地に行く方法を説明してくれないか」  ギュンターはうなずいた。 「もっともなことだ。方法《タクティクス》を説明しよう」  そう言ってギュンターはプリンターからはき出されたばかりの夏大陸の写真図を示した。  夏大陸はゆがみ、いびつな所を無視すれば、全体として楕円のように見えた。ただし、極点はその中心からかなりはずれた所に位置している。ブリザード前進基地近くの海岸は、極点から二〇〇〇キロ近くはずれているが、反対側ではそれがずっと短く、平均して一〇〇〇キロほどしかはなれていなかった。その、海岸線が極点に近づく部分に、さらに深く大きな湾が内陸に向かって食い込んでいた。彼らはそれをバインター氷海と呼んでいた。写真地図にあらわれたバインター氷海は、一目でそれとわかる氷原になっていたが、大幅な海岸線の後退と、それにともなう沿岸部の乱氷帯は反対側の海岸ほど顕著にはあらわれていなかった。このことからバインター氷海はかなり水深のある内湾だと想像できた。その氷海の最も奥に食い込んだ地点に、彼らのバインター前進基地があり、そこから極点へは五〇〇キロほどだった。さらに氷海の最奥から、内陸に向かってそれぞれG・二一、G・二二、G・二三と名付けられた三本の氷海が入り込んでいた。  大陸自体は平常時には、二〇〇〇乃至三〇〇〇メートルの標高を持つ氷高原で、わずかに大陸外縁部や極点付近に露岩帯が散見されるのをのぞいて、あとはすべて白い永久氷原になっていた。この大陸に数万年にわたって降り積った雪が、最大では三〇〇〇メートルにもなる積雪の層となって、その巨大な自重が大陸自体を押しつぶし、地表面を海面下にまで沈めているのだ。ギュンターは、その地図を示しながら言った。 「確かに、この前進基地から、極点基地まで最短距離を進むとすれば、普通のエンジンを持った車では不可能だ。そこで、かなり距離的に遠まわりになるが、ひとまず海に出て、低緯度帯にまで下り、そこから正方向に極点のまわりを半周してこのバインター氷海と君達の呼ぶ内湾の奥深くに入り込む。このルートであれば、気圧は常時七〇パーセント以上あり、最も高緯度のバインター前進基地でも六〇パーセントは大丈夫だ。そこまでなら、燃料消費が多少増大することを別にすれば、君達のスノー・クルーザーでも、我々の雪上車でも走行は可能だ。人体にも重大な影響はないだろう。ここまでのルート上の問題は、このバインター前進基地まで一切の補給なしで陸路到達しなければならないことだ。距離は約六〇〇〇キロある」  パルバティはすばやく暗算した。スノー・クルーザーの三〇〇キロ重が入る燃料タンクをすべて満たしても航続距離は一五〇〇キロしかない。荷物積載能力一杯の五〇〇キロ分の燃料をその上に積んだとしてもそれだけで走れるのは四〇〇〇キロだろう。仮に、一台のスノー・クルーザーに食料やその他の露営具を一切積まずに燃料だけを積み込んだとしても、当面の目標であるバインター前進基地に着く二〇〇〇キロも前で燃料がつきてしまう。ギュンターは続けた。 「そして、第二の問題点は、このバインター氷海から極点までの間だ」  彼はそう言って地図のその部分を指さした。バインター氷海という巨大な湾の成因は、観測初年度の現在では不明だが、その地形からしてなんらかの原因による陥没か、あるいは巨大な隕石の衝突によるものとおもわれた。大陸に食い込んだ氷海の形は、ほぼ半円に近い形をしており、海岸線は内陸部の高原地帯から海に向かって一気に一〇〇〇メートル以上もなぎおちた絶壁になっていた。  その氷海から内陸部に向かって入り込んだくさびが三つの氷河であり、支氷河や小氷河を加えるとまるで湾自体がひびわれているかに見えた。 「この内陸高原に入るルートについては現在の時点で言うことはできない。しかし、内陸高原に上がるには、この三つの氷河のうち一つをとることになるだろう。どの氷河をルートにとるかについては現地の偵察の結果次第ということだ。内陸以後の移動の方法は、氷河入口から先は、我々のスノー・バイクを改造してターボ過給機を装備すれば走行は可能だ。人間が生活できない低圧下でもエンジンは回転する。概要はそんな所だ。これ以上の具体的な計画は今は言えない。君達が我々と行動を共にするか否か。それを聞いてからでなければこれ以上決めようがないのだ」  パルバティは沈黙したまま視線をツラギに向けた。他の者も彼らの隊長格であるツラギの方へ自然に視線を集中させていった。ツラギはゆっくりと口を開いた。 「最低限、君達は何を必要としているのか」 「君達の情報。バインター氷海の基地の備蓄装備。あとは……君達の友情」ギュンターはそう言った。ツラギはゆっくりと彼の視線をはずして他の者に向きなおって言った。 「我々は全力をつくして極点基地に向かうべきだと思うがどうか」ギュンターをのぞく全員がうなずいた。ツラギは視線をもどして言った。 「我々は行動を共にすることになるだろう。君の計画も私は支持する。ただ、君はまだ肝心なことを言っていない」  ギュンターがうなずいて彼をうながした。 「我々は君達と同一の目的を持って極点に向かうとして、その隊の構成、及び誰が隊長になるかだ」  ギュンターは半ば口を開いたまま少しの間沈黙した。それからようやく言った。 「カトウが現在、我々の基地へ連絡のために帰っている。彼は必要な装備を用意してすぐこちらにもどって来る。その時に我々の隊のラインハート隊長も来るはずだ。君達は二台のスノー・クルーザーと共に三人が参加してもらいたい」  彼らは顔を見合わせた。クルーザー二台はこの前進基地にある全部だったし、満足に歩ける者は三人しか残ってはいない。しかし、ギュンターの次の言葉はさらに彼らをおどろかせた。彼は言った。 「次にこの隊の指揮をとる者についてだが、ラインハート隊長がなるだろう。彼が我々と合流するまでは、私が指揮を代行する。ただ……我々の基地の方でも今、低温プランクトン養殖場の被害を最小限におさえるために相当忙しい状況なのだ。もし、ラインハート隊長が参加できないなら、私が全行程にわたって指揮をとることになるだろう」  部屋の中のただひとりの地球人は、少しも臆することなくそう言いきった。他の七人は、圧倒されたように沈黙していた。やがてツラギは口を開いた。 「この計画はかなり危険度の高いものだ。死者がでるかもしれない。そして、我々の誰もそのラインハート隊長に会っていない。……君達のラインハート隊長は、我々の隊長として命をあずけることのできる人物であると理解していいのだな」 「そう理解してほしい」 「指揮系統が途中でかわることになるが、混乱が生じることはないか」 「心配はない。そのことについては大丈夫だ」  ツラギは、しばらくの間、何の表情も顔に出さぬままじっとギュンターを見つめていたが、やがて息をついて言った。 「わかった。我々は君達の指揮の下に行動すると約束しよう」      11  にわかにあわただしくなった基地内で、極点基地到達のための準備が始まった。ギュンターの立てたラフスケジュールでは、中継点であるバインター前進基地に到着するのは第一八一日中と定めていた。この日から数日間、バインター氷海奥の地域では比較的平穏な天候がつづくはずだった。それは転進前に行なった気象シミュレートに、レムが加えて長期予測したものだった。そのころを境に、極から低緯度方向の季節風《モンスーン》の吹き出しがおさまり、逆方向の風が吹き出すまでの均衡状態があるはずだった。したがって、バインター氷海最奥点から氷河をさかのぼって、上部内陸高原に抜け出るには、この一時的な無風日を利用するしかない。この日をはずすと、暴風雪のまっただ中に氷河の中をすすむことになる。  そう計算で出したものの、第一八一日といえば、その日のおわりまであと丸七日もなかった。この惑星の一日が二八時間だから、あと二〇〇時間足らずしかない。HPによる照射があるのはそのうちの七〇時間ほどで、あとは全くの闇になる。しかし、その後、気圧の低い五〇〇キロ近い距離を進むことを考えれば、これはどうしても守らなければならないスケジュールだった。緯度八五度線をこえる内陸高原は、進むにつれて突出していたジオイドの影響をもろにうけた大陸が、極点に近づくにしたがって急速に気圧を下げるのだ。  ギュンターは、彼が指揮権を取ると言ってから、てきぱきと短い指示をパルバティ達に出したあと、クルーザーの性能や各基地に備蓄されている燃料等について質問する他は、ほとんど無言のまま情報端末に向かいあっていた。もっとも、他の者も各自の仕事をするのに忙しく、とても彼のことを考える余裕はなかった。レムは、アウトプットから続々と吐き出される気象情報や、測地衛星から送られてくる地上写真と格闘していたし、負傷者さえ例外ではなかった。  パルバティとツラギは、基地の二台のスノー・クルーザーの整備を終えたところだった。以前にトラブルを起こしたエンジンは、そっくりはずされてスペアとすでに交換がすんでいたが、二人は六〇〇〇キロの行程を無停止で進むためにひとつのミスも見逃すまいとチェックをくり返した。そして整備を終えて、燃料を大車輪で積み込み始めていた。ギュンターから出された指示は、時間的な余裕を全く認めない性急なものだった。指示というより、疑問をさしはさむ余地のない命令という方があたっていた。彼は、すでに温厚な友人から、機械のように正確な、時には冷酷に徹することのできるリーダーにかわっていた。しかし、その自信に満ちた言葉は、不思議にパルバティ達を納得させた。——俺はこの計画のリーダーにならなくてよかった——パルバティはそんなことさえ考えていた。  彼らの八一二五タイプ・スノー・クルーザーは、水素を燃料とした四軸独立等配列ターボエンジン群を持つホバークラフトだった。水素といっても、取りあつかいの不便な液体水素ではなく、油脂吸収処理をして、常温常圧であつかえるようにしたものだった。基地内の製造行程が複雑になることの他に、わずかな排気物が出ることと、純粋酸素を用いたエンジンよりも単位燃料当たりの走行距離が短いことが欠点だったが、利点はそれをカバーしていた。仕様はこの惑星の条件に合わせて、標準大気圧の七〇パーセント——海面上三〇〇〇メートルの高度に相当する——の気圧下でも、安定した出力を出せるようにエンジンの調整がされており、乗員二名の他に、標準装備である天測航法装置や短距離通信機を装備し、燃料満載の巡航状態で五〇〇キロ重の荷物ペイロードを有していた。特にこの型《タイプ》は不整地走行にすぐれており、高差一メートル以上の乱氷群の中でも燃料一キロ重当たり、五キロの距離を巡航できた。現在、補助タンクをふくめて最大燃料積載量は三〇〇キロ重だから、満タンにすれば一五〇〇キロを走行できることになる。しかし、このブリザード前進基地よりバインター前進基地の六〇〇〇キロにはとても及ばない。  ギュンターが二人に命じたのは、ホバークラフトの荷物ペイロード限度一杯にまで燃料を積み込むことだった。彼らは二台のクルーザーに、それぞれ二〇〇キロ入りの燃料ドラム四本ずつ、八〇〇キロもの燃料を一台当たりに積み込んだ。ペイロードを三〇〇キロもオーバーしているのだが、燃料タンクには一〇〇キロだけ入れて重量を軽減させた。それでも不整地ではかなりきわどい走行を強いられることになる。二人は慎重にバランスを考えながら積荷を配分した。寒気のしのびよる格納庫で汗だくになりながら、ようやく二台に積み込み終わった時、のっそりとギュンターが姿をあらわした。彼は一枚の衛星写真を二人に示しながら言った。 「ここの、この地点——D・一点と呼ぶことにしよう。ここに積み込んだ燃料を全部おろしてまたここまで帰って来てくれ。片道二〇〇キロあるが……六時間で往復できるか?」  そこは、大陸外縁に位置するブリザード基地から最も近い海岸だった。ルートは、幅の広い氷河の中央を下って海岸に達するもので、そこから先の行程に比べればそれほど困難な所はない。眉間にしわを寄せて、じっと写真上のルートを追っていたツラギは、やがて言った。 「問題は、ここだ。この部分はアイスフォールのように見えるが、他にルートはないのか?」 「他は時間がかかりすぎる。ここを抜けるしかない」 「可能なのか」不安そうに言うツラギに、ギュンターは答えた。 「可能だ。カトウも、このルートを通って我々の基地に向かっているはずだ」それを聞いて、ツラギは大きくうなずいて言った。 「あと二時間でHPが地平線から昇る。下りだから……予想外のアクシデントがなければ六時間ぎりぎりというところだ。それ以上かかるかもしれんが」  ギュンターは息をついて言った。「この海岸線の氷河口よりに、顕著な岩峰がある。塔のように鋭く突き立っているから、HPが昇ったあとならすぐにわかる。そこの根元に燃料は積み上げておいてくれ。それと、このメッセージを目立つ位置に固定しておいてくれ」  ギュンターはそう言って防水カプセルをツラギに手わたして言った。 「質問は?」 「ない」  ツラギとパルバティが顔を見合わせてそう言った時には、ギュンターはもう背を向けていた。  あいかわらずひどい吹雪だった。積荷を満載し、コクピットの中にまで燃料をつみこんだスノー・クルーザーの転舵は重く、ともすれば速度を落としたくなる誘惑に耐えながら、パルバティはエンジン出力を全開にしたまま雪原の中を走った。時速一〇〇キロは出ていた。この闇の中でそれは、気違いじみた速度だった。安全基準など、最初から無視してかかっていた。少しでも速度をゆるめれば、前方数十メートルを走っているツラギのクルーザーを見失いそうになった。ナビゲーターが欲しい。神経をすり減らす操縦を続けながらパルバティはそう思った。先行するツラギは、強力なライトで前方を照らしながら、たくみに地形をぬって突き進んでいる。その尾燈を目標に追尾するパルバティには、さらに重大な仕事があった。航路の確認である。一枚の衛星写真をもとに、最適航路を設定し、自動航法システムで追尾させ、先行するツラギに指示を送るのだ。とは言っても小縮尺の写真地図だけでは細かい所までルートの設定はできなかったから、実際には咄嗟の判断で航路を決めなければならない。停止して検討する余裕などまったくないのだ。これだけのわずかな距離からでも、すでにノイズが入り込んでいる短距離通信機に向かって、ツラギに指示を送るというのは、それ自体だけなら大してむつかしいことではないだろう。しかし、今のパルバティは、ツラギのクルーザーがあげる雪煙をもろにあびながらトレイルを忠実に追っていかなければならないのだ。  時おり地表の突起物にひっかかってクルーザーは大きく空中にはね上がり、鈍い音と共に雪面に着地して数回バウンドしながら突進した。そのたびにパルバティはひやりとしてエンジン音や排気音に変化はないかと耳をすました。しかし、車体もエンジンも酷使にたえていた。わずかな操縦のスキをぬってパルバティは何度も写真地図に目をやった。ルートの中で何ヵ所か気になる部分があったのだ。氷河源頭の部分は、かなり大きな傾斜をともなっている。そして、もう一つはずっと下流にあるアイスフォール帯だった。その部分は、何枚もの衛星写真を合成した写真地図でも不鮮明な部分だった。つまり、そこでは常時天候が不安定であるということになる。何度も前方に視線をうつしながら、再び写真地図に眼をもどし、周囲の地形から、なんとかその部分の地形を写真から判断しようとしたが、それは不可能に近かった。どちらにせよ、もうじき雪原はつきて、氷河源頭に達する。今さら進路はかえられない。無理にでも突っ込むしかない。迂回するような余裕はなかった。不意にツラギからの通信がひびいた。 「停止するぞ。俺とならべ」  すでにツラギのクルーザーは速度を落としつつあった。パルバティは、ツラギの横につけて徐行していった。二台のクルーザーの照射するヘッドライトが、広い範囲で前方の雪面を照らした。白く光る雪面上を霧のように舞いあげられた雪が移動していく。そして、数十メートル先で雪面は消えていた。大地が切りとられたようにすっぱりと切れ落ちていたのだ。彼らは、その大地の縁までそろそろと進み、そこでホバリングのまま停止した。  固定前照燈《ヘッドライト》をオフにして、ナビゲーターシートの左側に突出した旋回|探照燈《サーチライト》を、俯角一杯まで下げて照らすと、切れ落ちたとみえた雪面は、最初ゆるやかに、それから急な傾斜となって闇の中に下っていた。ライトの届く向こうは、全くの闇に沈んでいた。 「消せ」  短いツラギの声がひびいた。ライトを消した闇の中で、轟音と共に光芒が前方に飛んだ。照明弾は、かなり遠方まで飛んで視野をひろげたが、それでも斜面の底は見えなかった。かえって、斜面の深さをのぞかせただけだった。単に番号をつけられ、地図上でしか知ることのできなかった氷河の源頭に、彼らはいた。その位置からは、氷河のほんのわずかな片鱗しかうかがい知ることができない。しかし、闇の向こうにあるその氷河は、おそろしく巨大な物として感じられた。何よりも、彼らはそれまで氷河という物を、航空機の上からか、写真でしか見たことがなかった。それが今、ほとんどその姿を見せもしないのに、殺意すらただよわせていた。  あるいはそう感じるのは二人の勝手な言い分だろう。それは、この大陸ではいくらもある中規模の氷河のひとつにしかすぎず、また氷雪をかぶった惑星ならさしてめずらしくもないしろものだ。 「……この斜面に飛び込んだら最後、ブレーキはきくまい。アンカーを打ち込んだってぶっこわれるだけだ。……緩斜面につっこむまで、どれだけの距離がある?」  ツラギの通信機を通した声と、生の声が重なってそう言った。声が乾いていた。パルバティは、わずかなあかりの中で写真地図を見ながら言った。 「最大限三キロ。あるいはそれより短いかもしれません。……写真から見る限りでは、急斜面から緩斜面に移行する部分もスムースなようだし……」 「途中で広いクレバスがあればおわりだがな。HPが昇るまであとどれくらいだ」 「あと一時間と少し。明るくなるまで待ちますか?」 「いや……」ツラギはしばらく黙っていたが、やがて言った。「行こう」  そう言った時にはもうツラギのクルーザーはするすると前進を始めていた。パルバティも、それにならって発進させた。少しの加速がつくと、推進系をオフにしてゆっくりと斜面に車体をまかせ、浮上したままなめらかな雪面上を加速していった。すぐ横に並んで二台は下っていった。しかし、ゆるやかに進んでいたのはほんの数分だけだった。進むにつれて前方にひろがっていく視界は、まるで際限なく落ち込んで行くかのように傾斜をまし、遂に四〇度を越える急勾配になった。あらゆる物が視界の中に飛び込んでは、おそろしい勢いで流れ去った。このクルーザーの安全限界を大きく越えている。常時の観測なら、輸送機で空輸させて車体ごと飛びこえてしまうべき所なのだ。  ——最大傾斜線にそって突き進むしかない。下手に逆噴射をかけて速度を殺したり、斜めに下ったりしたら横転してしまう——すでに一〇〇キロをかるく越える速度で駆け下っているスノークルーザーの狭いコクピットの中で、冷たい汗に全身をぬらしながらパルバティはそう考えていた。平地での速度感覚ではなかった。奈落の底へ一気に逆落としに飛び込んでいくようにさえ感じるのだ。実際、前照燈がうかびあがらせる白い光の中で、雪面は果てしなく落ち込んで行くように見えた。視界は速度を上げるにつれて急速に縮小し、ただ氷河の上にきざまれた雪紋が、何条もの流れる線となって視界の中でのたうっていた。もう、ツラギのクルーザーを追う余裕は全くなくなっていた。ただしかし、ツラギも彼と同じように斜面にさからうことなく、おそろしい速度で下りつづけていることが、前方に見えかくれする光の線から想像できた。時おり、視界の中にツラギのたった今雪面につけたばかりのトレースがあらわれ、斜めに横切ってすぐに消えた。  すでに時速一五〇キロまでの速度計の針がスケール・アウトしていた。その中で何度もパルバティは走行距離を読みとろうと視界をとばした。だめだった。本能的な恐怖が、彼に一瞬たりとも前方から眼をそらすことをためらわせたのだ。と言って、氷河面はそれほど荒れていたわけではなかった。これだけ気違いじみた速度で下っているのに、車体の振動が拍子抜けするほど少ないのはそのためなのだろう。しかし、それは同時に加速度を大きくする原因になっていた。その時、だし抜けに視界のすみから黒い大きなものが出現した。激突する。そう思った瞬間に、それははるかな後方に飛び去っていた。悲鳴をあげるひまさえなかった。それが一体何だったのかと考える余裕が出て来たころ、いきなり彼はシートに深く体を押しつけられた。ほんの少しの間、その重量感はつづいた。そして、うそのようにすっと体が軽くなった。  パルバティは、思わずにやりと笑みをもらした。急斜面を抜け出して、クルーザーは今、下部緩斜面に入ったのだ。速度はゆっくりとだが、確実に落ちはじめた。時速一〇〇キロの線まで落ちるのを待って、パルバティは少しずつ逆噴射をかけた。巡航状態に速度をおとしてから、ようやく計器に目をおとす余裕ができた。最大傾斜の部分はわずか一キロにも満たないが、その前後をあわせれば、一〇キロをこす暴走だった。その時、かなり雑音のまじったツラギの声が通信機からひびいた。「遅れているぞ。俺は七〇キロで巡航している。俺に付け」パルバティは前方を見まわした。どこまでもつづく闇の中にツラギのクルーザーのライトは見えなかった。彼がそう言うとツラギが答えて言った。 「照明弾を打ちあげてやる。それを目標に接近しろ。クレバスに気をつけてな」  かなり前方に白い光の球が飛びあがった。相当の距離があった。ツラギはその勘と、充分な経験で難なくこの障害を突破したに違いない。もちろん、それを裏打ちする度胸のよさもあってだろうが。パルバティは、少し速度をあげてツラギの方に接近していった。すぐにツラギの残したトレースにぶつかり、今度はそれに乗って、まだ数百メートル前方にいるはずの彼を追った。その時になって彼は、トレースに黒い亀裂があるのに気付いた。幅数十センチから、大きいものは二メートル近い溝が、左右に雪をふき上げた平たい帯のようなトレースの中にぽっかりと口を開けていたのだ。  ヒドン・クレバス帯だ……パルバティの背すじが、ぞっと冷たくなった。その成因はきわめて単純なものだ。この大陸に何万年もの間に降り積もった雪が、やがて押しつぶされて厚い氷の層となり、地形を削りとりながら少しずつ、源頭から河口までそれこそ気の遠くなるほどの時をかけて流れ下っていく。その氷河の屈曲点では内側の氷が融け、少しずつ融け出した水が反対側にまわり込んで再び氷となる。その流れ自体は普通の川とかわらない。ただ川の流れと異なるのは、クレバスの存在だった。流れて行く氷河が地形におされて、無数の亀裂を内部深くにまできざみつける。時にはスノー・クルーザーをのみこむほど深く巨大なクレバスもある。さらに氷河上に積もった雪が、クレバスを表面から見えぬようにおおいかくしてしまうことがある。ヒドン・クレバス帯だ。上から見れば何の変哲もない雪面が、空洞を下にかくしているのだ。彼らは、ヒドン・クレバス帯のただ中を高速で走り抜けているのだ。わずかに上ずった声でパルバティはツラギを呼び出し、早口で言った。 「トレースが穴だらけだ。俺達はヒドン・クレバス帯を走っている」 「そんなでかい声を出すなよ」ツラギがめんどくさそうに言った。 「ヒドン・クレバスを踏み破ってるのは車体の振動でさっきから気づいていたよ。だが、俺達の通るべきルートはここ以外にない。両端によれば、それこそもっとズタズタに断ち切られている。この程度の雪でかくれるくらいなら、このクルーザーで充分わたることができる」  ツラギの言うことはあたっていた。パルバティは、そっと写真地図の方を見た。たしかにこの氷河の今の位置よりも、側壁側によれば荒れ方もひどくなる。パルバティは、馬鹿なことを言った自分に腹が立った。  そうは言っても、ライトの光の中でツラギの乗るクルーザーがうかびあがり、縦列走行に入った時にやはり一種の気味悪さをパルバティは感じずにはいられなかった。先行するクルーザーが捲きあげる雪煙の中で、いきなりクレバスが出現するのだ。そのたびに彼はひやりとした。  あたりがゆっくりと赤味を帯びた光に満ち出したのは、氷河も末端近くまで下ってきたころだった。極点基地を出てから四回目の夜明けだった。精神的にも肉体的にも相当ひどい状態にまで落ち込んでいるのが、自分でもわかった。何度見ても、決して好きになれそうもない赤い夜明けは、ゆっくりと、確実におとずれつつあった。雪嵐は少し小康状態を保っているようだった。氷河の中を高度を下げて行くにつれて視界も少しずつ良くなっていった。やがて二台のスノー・クルーザーは停止した。そこで氷河は、今度こそすっぱりと切れ落ちていた。末端アイスフォールだった。そこまで比較的おだやかな流れだった氷河が、ここに来て一気に高度をおとし、海面下になだれ込んでいるのだ。急激な高度差は、もはや流れを作ることができずに、巨大なブロックごとに氷河流末から崩壊しては雪崩のあとのような荒涼とした斜面を作り、場所によっては海面に直接落下していた。ブロックとは言っても小さな物でさえスノー・クルーザーほどもあり、巨大な物は数十メートルにも達する。海氷原上には、それらの落下したブロックが氷山となって浮遊していた。そして、それらの向こうにギュンターの言った尖岩が塔のようにつき立っているのが望見できた。それらはすべて赤い光の中で静止し、なおも吹きすぎてゆく地吹雪が、霧のように視界の中を移動して行った。 「左側よりにルートをとって行くしかないでしょうね」  解像度の悪い急ごしらえの写真地図に、心の中で悪態をつきながら、アイスフォール帯をみまわしてパルバティはそう言った。ツラギもそれに同意した。 「かなり入り組んでいるが、なんとかなるだろう……どっちか一人が上部から誘導した方がいいな」  パルバティはその言葉を聞きながら棒のようになった首を無理にねじって周囲を見回した。誘導に適した高地はないかと探したその時、氷河のはるか上流に彼の視線は止った。かなり反応の鈍くなった彼の眼は、最初、なぜそれに気をとられたのか少しためらったが、やがて半開きの口から声がもれ出た。 「あれは……」  ふり向くと、ツラギも窓から首をつき出してその方を凝視していた。そこから見る氷河上流部、急傾斜帯は白っぽい絶壁のように見えた。幅の広い氷河にはクレバスの亀裂は目立っては見えず、かわりに交差しながらほぼ一直線にのびる二条のトレースが見えた。彼らのたどったルートは、線で引いたように大斜面を突っ切っていた。そして、その中央部にそれはあった。本来は黒い質感を持っているのだろうが、ただ暗い赤に彩色された大岩らしき物が氷河の中央部に突き出していた。いや……他にもあった。視線をずらした先、氷河源頭部にも一つ、さらに眼をこらすとそれらよりは小さいが、いくつかの露岩が氷河の中に点在していた。 「あんな所に露岩があったのか。……中央のやつはかなりでかいな。まるで島だ」  ツラギがのんびりとそう言った。しかし、パルバティはそれこそ冷水をぶっかけられたような気分になった。一条のトレースが、まさにその露岩にふれ合うほどの近くをきわどく通過していたのだ。パルバティが全速で大斜面を下った時にすぐわきを通過した黒い影は、あれだったに違いない。——きわどい所だった。ほんの少しコースがずれていたら、あの露岩に激突し、十数キロにわたって破片をまきちらしながら跡かたもなくなっていたろう。ツラギもそのトレースに気付いたらしく、いきなり大声でパルバティに命令を下した。 「左手の側壁よりの台地に移動しろ。そこから俺を誘導してくれ。時間がないぞ」そう言うなりツラギは派手にエンジンをふかして発進させていた。  その台地は最良の場所とは言えなかった。上から見おろす位置になるアイスフォールは、つみかさなる巨大なブロックにさえぎられて死角が多く、全貌を見わたすことは不可能だった。その中で、できるかぎりいい位置を得ようと、しきりにクルーザーを前後に移動させながらテレスコープをのぞき、アイスフォールの左側壁よりの地帯にねらいをつけて乗り込んだツラギを誘導した。 「ひどい所だぜ……」通信機からのツラギの声はそう言った。「一〇メートルとまっすぐに進める所はない。しかも幅もこのクルーザー一杯だ……この先が袋小路になっていたらどうしようもない。う……」  短い声を残して彼の声はふっつりと途切れた。パルバティの位置からは、そのクルーザーの姿は見えなかった。ただ迷路のように入り組んだブロックのかげから、つけられたばかりのトレースが断片的に見えかくれした。ツラギからの通信はそれっきり何も言わなかった。パルバティは位置をずらして状況をつかもうとした。その時、ツラギの声が勢いよくひびいた。 「危い所だった。雪面が……凍りついたブロックの上に軟雪が乗ってたんだ。もう少しでクラックの底に落ちこむ所だった。まったくひどい所だ。平らな所など、どこにもないんだからな。おっと……」  それだけ言ってまた彼は沈黙し、エンジンをふかす気配と、かなり微妙な操縦をしながら悪態をついている、意味のない声にかわった。 「やっかいなことになった。どうやら方向を見うしなったようだ。そこから俺の車体が見えるかい」 「駄目だ。信号弾か何か打ちあげてくれ。今、可能な線をさぐってみる」  すぐに白い光の玉が、たかだかと上空ではじけた。パルバティは、写真地図を見くらべながらゆっくりとアイスフォールの中をテレスコープでなめて行った。彼の視線が一点に停止した。はじめ、それが何かわからなかったが、理解した時、彼はおもわず声をあげた。 「トレースだ。トレースがあるぞ!」 「トレースだと?」ツラギがいぶかしげな声で聞き返した。パルバティは、彼らの物ではない、キャタピラのほんのわずかな軌跡が、消えずにブロックの間から見えかくれしているとツラギに告げた。 「あの地球人の雪上車だ。俺達より数時間先行して出発したカトウという男のだ。これにくらいついて行けば、時間短縮できるぞ」  その、消え残ったキャラピラの軌跡は、ツラギの位置よりも意外なことに氷河の本流よりにあった。上から見るかぎりでは、そこの方が氷河は荒れているように見えたが、パルバティはすでにこの惑星で、航空機による輸送手段もなく五年にもわたって越冬調査して来た地球人の方を信用することにした。彼の指示した方向にツラギは行こうとしたが、わずか一〇〇メートルほどの距離なのに、突破するのにおそろしく時間がかかった。ブロックの間から吹き上げられる雪煙が、少しずつ前後進するのを見ながらパルバティは方向修正の指示を出した。そして、一〇〇メートルの距離をこえてトレースに達するのに、三〇分もかかってしまった。しかし、ツラギは興奮した声で言った。 「すごいぞ。今までのルートと比べれば、まるでハイウエイだ。このルートをみつけた奴は天才だ」舞いあがる雪煙は、今までとは比べものにならぬ速度で雪の中を遠ざかって行った。ツラギは続けた。 「全く見事だ。こいつは氷を知りつくしている奴の道だ。トレースを拾うのは簡単だ。この道はブロックの重なり合いの中から弱点をたくみにぬっている。おっと……今、ブロックの間を一気に三メートルほど落ちた所だ。大丈夫、お前がもう一度ここを通ればもっと整地されて走りやすくなる」  当然のことながら、氷河のアイスフォールは時間の経過とともに刻々変化している。一瞬たりとも止まることはなく、たった今通過した所が大規模なブロック崩壊によって様相を一変させてしまうこともめずらしくない。カトウは一体どんな方法でここにルートをひらいたのだろうか。  間もなく、ツラギからアイスフォール帯を抜けたとの連絡が入った。パルバティはただちに発進した。最初のツラギのひらいたルートは、トレースを見ただけでもそれとわかる逡巡のあとがあった。それがカトウのルートに入ると、走行はかなり楽になった。そうは言っても、キャタピラ装軌の雪上車と、ホバークラフト・タイプのスノー・クルーザーでは、走行性能が格段に違うのが実感としてわかった。たしかにスノー・クルーザーは、平地や乱氷帯、開水面ではその真価を発揮して高速安定走行が可能ではあったが、このように狭い棚や、溝のような乱氷帯を走行し、あるいは源頭部大斜面のような長い急傾斜を下るには、向いていなかった。何よりも、横からの外力には実に弱く、クレバスに向かって外傾した狭い雪の回廊を走る時など、スタビライザーを着床させ、偏流ジェットをふかしつづけながら、きわめて不安定な走行をしいられた。悪戦苦闘しているうちに、巨大なブロック群によってかこまれた比較的平らな雪面に出た。そこはもう海面だった。周囲を見まわすと、ブロック群——つまり海面上に頭をつき出した氷山は、どれも不安定な恰好でかしいでいる。雪面とブロックとの接合点は、例外なく最近、氷が砕けたあとが見られ、とがった氷片が乱立したまま再び氷結していた。その再氷結の跡は、雪面にまで広がった所もあり、通廊全体が乱氷でおおわれていた。場所によっては、不安定な氷がスノー・クルーザーの通過する圧力で亀裂を走らせ、割れることはなかったものの、海水が勢いよく吹き出して来た。カトウが一人でここを通過した時、あまりいい気持のものではなかったろう。氷が割れでもしたら、一瞬にして何も残さぬまま黒い海面は彼をのみ込んでしまったろう。一長一短だ。パルバティは、この場所にかぎってはきわめて安全なスノー・クルーザーの中でそうつぶやいた。  氷結した海面上を進むにつれて、氷山は次第にその間隔を広げていき、そして氷原との接合点における破砕された乱氷もなくなった。完全に海面上に出たことになる。海岸線の後退は、この氷山にも影響を及ぼしていた。海岸に近い部分にあらわれた、乱氷を周囲につけた氷山は着床氷山だったのだろう。急激な海岸線の後退、つまり水深の浅度化によって浮遊していた氷山が着床し周囲の海水を砕いたのだ。付近の水深は一〇〇メートルほどだ。周囲に乱立する氷山の高さを目測しながら、パルバティはそう考えた。見たところ、新旧海岸線はそれほど大きな差はないようだった。浮遊氷山のあるあたりでは、もっと深いはずだ。そう考えながら氷山のかどをまわった所で、視界は広くひらけた。前方に奇怪な形をした尖岩がそそり立っている。D・一点だった。そして、その他はさえぎるもののない氷海がひろがっていた。すでにそこではツラギが荷をおろしているのが見えた。 「全行程の二〇〇キロ分だけは片付けたぜ」  彼の横につけてクルーザーをおりたパルバティに、ツラギはそう言った。  往路ですでに予定よりもかなりの遅れを出していたため、帰路はさらにとばさなければならなかった。アイスフォール帯につけられたトレースは、往復にわたる通過でかなりしっかりした物になった。粉雪を吹き上げ、噴出流の熱による雪原の一時融解、再結氷によって、たとえ闇の中でも走行が可能なまでになっていた。気になるのは氷河源頭部における再下降だった。空荷で、エンジンを最大にふかしても情ないほどの低速しか出せない登路の中で彼らはそう考えた。時間的に言ってこの短い“昼”の時間が過ぎ、“夜”が終わって次にHPが地平線上に登るのは九時間近いあとになる。基地に帰って、ただちにD・一点にとって返すとなると、明るくなる数時間前には源頭についてしまう計算になる。時間の無駄になるが、運を天にまかせて再び闇の中を急下降する無謀はおかせない。周囲はゆっくりと闇が支配しつつあった。内陸雪原を疾走しながら、ようやく彼らはそう結論を出した。何よりもまず休息が必要だった。極点基地を出発してすでに三〇時間がすぎ、二人とも疲労の極にまで達していた。  前進基地まであと三〇分と迫った時に、ギュンターからのコールが入った。雑音のひどい通信が、無線で行なえる最大の距離だった。 「遅かったじゃないか。予定よりおくれたんで心配したぞ」  線がつながるなりギュンターはそう言った。パルバティは、コクピットの中でひとり笑った。たしかに彼はリーダーとしての資質をそなえている。 「アイスフォールで手間どったが、再下降には問題はないようだ。ただ、源頭部は暗い中での下降は危険だ」ツラギはそう言ってルートの状況を説明した。ギュンターは、「了解した」とだけ答え、通話は切れた。  彼らが基地に帰投した時、すでに格納庫の中には次の便に積み込む燃料がずらりとならべられていた。スノー・クルーザーを停止させた二人は、そのならべられた燃料を見てげっそりとした。乱暴にハッチを押しひろげ、八つ当たりでもするような勢いで床に飛び降りた。すでに格納庫に吹き込んで硬く凍りついていた雪はすべて融かされてはいたが、暖房のない、冷えびえとした空気は彼らのわずかに露出した肌を刺し、頭の奥にまで痛みが走った。  ——とにかく、今は休息が必要だ。熱い食い物をとって、出発までの何時間かを無理にでも眠るべきだ。そう思いながら彼らは、その貴重な何時間かを食いつぶす積荷を横目でにらんで、観測室に通じるドアに向かった。彼らは、そこにギュンターとレムが立っているのを見て足をとめた。いやな予感がした。なぜなら、二人とも全身を一分のすきもなく防寒服でかためていたからだ。ギュンターが静かな声で言った。 「燃料を積み込んだらすぐに発進する。今度は私とレムも同行する。これが出発だ。もう帰っては来ない」  それは、疲れ切った二人に対する事務的な命令を伝えるものだった。 「説明してくれ……今からでは闇の中で源頭部を下降することになるが……」ツラギがそう聞いた。あきらかにその声には不満のいろが見えた。 「理由の第一は時間がないと言うことだ。この先、我々は数千キロの行程を行かなくてはならない。最初の二〇〇キロでつまずいていては、この先の未知の領域で予定通りにことをはこべるかどうか疑問だ」  彼の真意は言ったこととは少し違うはずだ。無言で、何の表情も顔に出さずにギュンターの方を向いてつっ立っているツラギを見て、パルバティはそう考えていた。士気を気にしているのだ、この地球人は。無理をしてでも計画を予定通りにすすめることによって、チームワークを高めるつもりだ。危険なカケではあるが。ギュンターは続けた。 「第二は、さっき通信を受けた時から入手可能な資料をすべてあつめ、この源頭部のクローズアップ写真図を作製したのだ。時間がなかったので、不完全な物ではあるが、この部分の走行の安全性はかなり高められると思う」  ギュンターはそう言って一枚の写真地図をツラギに示した。彼はそれを手にとり、一瞥しただけで再びギュンターに視線を向けて言った。 「了解した。君にしたがう」      12  二回目の積荷は一回目とは、やや異っていた。まず、タンクには一杯の燃料がそれぞれのスノー・クルーザーに注入された。そして、さらに四〇〇キロ重ずつの燃料が今度こそ細心の注意をはらってキャリアに固定された。当然のことのように食料はきりつめるだけきりつめた。彼らの携行口糧の中でも、最も軽量な物が小さなバッグに押し込まれた。食糧の味など最初から無視されていた。予定では、遅くとも七日後にはバインター前進基地に到着していなければならない。食糧は一〇日分だけが積み込まれた。それを食いつくすまでに前進基地に着かなければまちがいなく死ぬ。  出発は何の感慨もなかった。時間に追われ、負傷者さえかり出された出発直前のあわただしさがふっと消えた時、パルバティとギュンターの乗るスノー・クルーザーは雪煙を巻きあげて基地から飛び出し、続いてツラギ、レムの車両も基地をあとにした。出ていった者もあとに残された者もこの先やって来るのは、まぎれもない地獄だということだけは知っていた。そして、残された者達は闇の中に消えていくスノー・クルーザーを見送る余裕もなくすぐに基地の中に取ってかえし、情報端末に向かった。彼らがバインター前進基地に到着する前に、そこから極点までの写真地図を作製し、それをバインター前進基地に電送することと、HPの軌道をひきつづいて監視するという仕事が残されていたのだ。 「バインター前進基地までのルートについて説明する」  ナビゲーターシートの中で、ファイリングされたマイクロ・フォトマップや、生のままの写真地図の束を手にしたギュンターが、通信機に向かってそう言った。ツラギ達の乗るクルーザーは、すぐ後方を疾走している。ギュンターは、マイクロ・フォトの数枚をダッシュボードのリーダーに入れ、パルバティにも見えるようにしてから切り出した。とは言ってもパルバティにはそれをじっくり見る余裕などはなかったが、ギュンターは、リーダーの画面にうかびあがった地図に眼を近づけて言った。 「出発前にわたしたファイルの中で、最も縮尺の小さい五〇〇万分の一の地図を見てくれ。四枚組になっている。ラフな予定ルートは図中に記しておいた。詳細についてはD・一点で隊長達と合流した時点で言おう。今は概要だけを説明する」  ギュンターは少し操作に手まどっていたが、すぐにコツをのみ込んでリーダーの中に入力したフォトマップの縮尺をさらに小さくして四枚を合成させた。画面の中央に夏大陸がうかびあがり、それを半周する形で示されたルートが輝線となって見えた。  ブリザード前進基地を出発したルートは、まっすぐ雪原を突っ切り、氷河を下って海岸線のD・一点に達していた。そこまでは、彼らがすでに往復した道程だった。緯度七〇度ラインに近いD・一点は春海洋の最奥点に位置している。彼らは、測地上制定した子午線から、夏極を中心に一八〇度右にまわった子午線までの半球を、便宜的に春半球、一八〇度子午線から零度子午線までを秋半球と呼んでいた。そして、それぞれの半球にひろがる海洋が春海洋と、秋海洋である。二つの海洋は、形状が大きく違っていた。秋海洋は広大で、大陸の極点近くにまでバインター氷海を食い込ませているのに比べ、春海洋は、内陸海に近かった。零度子午線側に突出した半島は、亜大陸といっていいほどの面積を持っており、春海洋——内陸海の包囲の一部をなしていた。そして、春海洋の低緯度側にひろがるのが六五度島嶼群と呼ばれる群島だった。大小二千にも及ぶ島々と、夏大陸でかこまれた内陸海の一方の端にあるD・一点から、まっすぐにルートはのび、六五度島嶼群の中を複雑にぬって外洋に抜け出た所でD・二点に達していた。D・二点から先のルートは、海洋線からかなり沖合を一直線にのびて、夏大陸が一八〇度子午線の方向にのばした長大な半島の、もっともくびれた地峡部で大陸を横断してD・三点と記された点に結ばれていた。D・三点から先は同じように最短航路をとってバインター氷海奥の前進基地につながっていた。しかしそこから先はルートが記されていなかった。ギュンターは説明を始めた。 「方法《タクティクス》について説明する。D・一点を見てくれ。ここから約二〇〇〇キロのD・二点までは二台のスノー・クルーザーと、我々の雪上車とで進む。この二〇〇〇キロの行程に一〇〇時間を予定している。我々が……」ギュンターは言葉を切って時計を見た。 「我々がD・一点に着くころには彼らも雪上車で到着しているはずだ。この、D・一とD・二の間だけ、雪上車は支援《サポート》のために本隊に同行する。二台のスノー・バイクと、燃料を積み、D・二でそれらをおろしたあと、雪上車は帰ることになる。次はD・二からD・三だ。この間も約二〇〇〇キロだが、二台のスノー・クルーザーだけで海氷原を進むために、この間の所要時間は四〇時間とみている。ルートは海岸線からかなり離れるが、現在までの情報では海氷の状況もよさそうだから、無理ではないだろう。D・三に到着して、燃料の積みかえを行なったあと、クルーザーの一台は放棄する」 「放棄する、と言ったのか?」  通信機の奥からツラギのくぐもった声が聞こえた。パルバティもいぶかしげにギュンターの方を向いた。ギュンターは少し首をかしげたが、すぐに言った。 「燃料と積荷の計画を言わなければならないな。今現在、D・一点には君達がさっきはこんだ一六〇〇キロ重の燃料がデポされている。我々が到着するころには雪上車に積み込まれているはずだ。そして、我々が出発した時には、それぞれ四〇〇キロ重を積んで、タンク内には三〇〇キロ重をフルに注入した。そして、D・一までの行程で一車両につき四〇キロの燃料を消費する計算になる。つまり、D・一に着いた時点では一台に六六〇キロ、合計一三二〇キロの燃料が残っているはずだから、最初にデポした分と合わせて二九二〇キロの燃料が集積されることになるはずだ。  もちろん、スノー・クルーザーのペイロードは、これだけ全部を一度にはこべるほど大きくない。そこで、D・一からD・二までは雪上車の支援が必要になる。ただし、雪上車の走れるルートは、二台のクルーザーを駆使して偵察しなければならない。加えて、この間は地形も悪いから燃料消費も大きいと考えなくてはならない。私の出した計算では、D・一、D・二間の二〇〇〇キロの距離を、偵察その他のロスで実質三〇〇〇キロ以上を走らねばならず、これに地形による燃料消費の増大をマイナスし、余裕を見て一台七〇〇キロ重の燃料を消費すると考えたが、この点で異存はないだろうか」ギュンターはそこで言葉を切った。パルバティは黙ったままだった。 「了解した。つづけてくれ」少しの間をおいてツラギがそう返した。 「したがって、D・二点に着いた時点では、タンク内と積荷分をあわせて残燃料の総量は最大限一五二〇キロ重、気圧低下地帯ということを考慮にいれても一三二〇キロ重は確保できるだろう。実際はそれが最低限必要量なのだが。この時点で雪上車は帰し、それまで積んでいたスノー・バイク二台——燃料をふくめて一台一二〇キロ、二台で二四〇キロの重量があるが、こいつをクルーザーに積み込まなくてはならない。タンク内に各三〇〇キロの燃料を入れるとして、残り七二〇キロの燃料が残るが、これと二台のスノー・バイクを合わせても九六〇キロだから、食糧やその他を積み込む余裕は充分にある。ここで、D・二からD・三までの二〇〇〇キロの消費燃料は、一台について四〇〇キロ、余裕を見て二台九〇〇キロを見ておけば大丈夫だろう。したがって、D・三到着時には残燃料は四二〇キロということになる。  これは、D・三からバインター前進基地までの一八〇〇キロを一台が走るのには充分だが、もう一台分の燃料はなく、放棄するしかない。残燃料四二〇キロのうち、燃料タンクに三〇〇キロ入れれば残りは一二〇キロ。これにスノー・バイクの二四〇キロと、放棄したクルーザーの乗員を収容するために一四〇キロの余分を見ておけば、ちょうどペイロード一杯になる。しかし、燃料ドラムや、食糧等の重量もあるから、このようにぴったりとはいかないだろう。だからD・三点で状況を見て重量物を放棄する等の処置をとるべきだろう。何か質問があれば……」  風がごうごうと鳴っていた。間断なく吹きつける白い吹雪の中で、時にはスノー・クルーザーが静止しているかのような錯覚さえ感じさせる。パルバティはちらりと計器を盗み見た。氷河源頭までもうすぐだった。彼はさらにスロットルをふかした。狂暴な吹雪はますます猛り狂い、フロントグラスを打った。 「いくつかの質問がある」ツラギがそう切り出した。 「君達の雪上車、及びスノー・バイクの仕様を聞きたいのだが」  ギュンターはうなずいて言った。 「もっともな質問だ。……雪上車の方から始めよう。正確な数値は記憶していないが……足まわりは四条独立キャタピラ装軌だ。エンジンは、ツインヘッドスターリング六重連シリンダー。二〇〇馬力。標準大気圧仕様だから高地には弱い」 「スターリングエンジンか……」通信機の奥でツラギが言った。「あいつは故障が多いと聞いている。大丈夫か?」 「カトウは、エンジンのプロだ。彼の整備で今までほとんど故障知らずだ。燃料の消費も最低限におさえている。ところで、その燃料のことだが、加圧シリンダーに入れた純水素を燃料としている。つまり、君達のスノー・クルーザーと、燃料の互換性はない。他は……標準装備で車体重量は四・二トン。接地圧八〇グラム/平方センチ、全長六メートル。四条のキャタピラの伸縮によって、二メートルまでの超壕能力がある。車体重量をできるだけ軽くして燃料消費をおさえ、高速走行ができるように作られている。水平硬雪上での最高速度は六〇キロ/時。といっても、D・一からD・二までのルートでは、二五キロ/時で走れれば上出来だと思うがね。車体の軽量化のために牽引力が小さくなったから、重量物を積み込んで来るはずだ」 「航法装置は?」 「ない」妙な顔をしてパルバティが見たのに気づいて、ギュンターはつけ加えた。 「航路標として簡易熱源を使うことがある。設置してから二〇乃至三〇時間は周囲に熱を放射する物だが、これを航路上に設置しておけば雪上車に積んだ熱線探知機でルートを知ることができる。これは、スノー・バイクにも積み込まれている。もちろん未踏の地帯を行くのに役にはたたない。しかし、今回の旅では有効な装備になるだろう。他には、ありきたりな天測器具しかない」  熱線探知機か……今も昔も、かわりなくそれは自動追尾飛翔武器の誘導装置として使われてきた。そんなシステムを使うというのは、地球人は、やはり潜在的に好戦的な種族なのかもしれない。パルバティはそんなことを考えていた。ギュンターは、そんな彼の様子を気にもとめずに言った。 「もう一つつけ加えると、これは我々が所有する唯一の大型輸送手段だ。したがって、この作戦でこの雪上車を失うことになれば、今後の活動は大きく後退することになるだろう。最悪の場合は我々の基地は生存機能を失う」  パルバティは唇を一線にむすんだまま、じっと前方を見ていた。通信機の向こうの二人も沈黙していた。ギュンターは息をついて言った。 「次にスノー・バイクだが。キャタピラドライブ、スキーステアリング、縦列二座席だが、一人乗りの場合、八〇キロ程度なら荷をつむことができる。単軸ガスタービンエンジン、加圧水素燃料だが、カトウの手によって排気ターボ過給機を装備されている。それによって標準大気圧の四〇パーセントの条件で定格出力を出せるはずだ。二台とも、ほぼ同一の仕様だ。概要はそんな所だが、何か質問があれば……」  わずかな時間のあと、おずおずとパルバティは聞いた。 「君達の所有する輸送手段は、他にもあるのか?」 「雪上車一台、スノー・バイク二台。これでありったけ全部だ」ギュンターは素気なく言った。  パルバティはそのまま押し黙った。ギュンターは、リーダーに氷河源頭部のクローズアップ写真をセットして、一心にそれを見ていた。  静かにクルーザーは停止した。氷河源頭に近いはずだった。二台は左右にわかれた。彼らはサーチライトで雪面をさぐりながら、ゆっくりと横方向に位置をずらしていった。パルバティはちらりと時計を見た。明るくなるまで、まだ三時間はたっぷりとあった。探す物はすぐに見つかった。強烈なサーチライトの光の輪の中で、露岩のひとつが黒々とうかびあがっていた。ギュンターは、はなれていたもう一台のクルーザーを呼び、背後にぴったりとつけさせた。そうしておいて、慣性航路追跡装置のジャイロ指針を、頭上の星空の一点にすえた。雲はなかったが、あいかわらず吹き荒れる地吹雪が星空を視界から切り取り、流れて行くのを辛抱強く待って、ようやく方向を定めた。それから彼はスノー・クルーザーの発進を命じた。ただし、源頭部のだだっ広い雪原を横に百数十メートルほど移動させ、再び車首を氷河の方に向けさせた。操縦するパルバティも、ツラギも一言も口をきかず、ナビゲーターであるギュンターの指示にしたがっていた。彼は、ツラギにぴったり追尾してくるように念を押したあと、ゆっくりと発進させた。わずか十数秒の緩傾斜帯の中で速度計、時計、ジャイロをにらんでいたギュンターは、やつぎ早に方向と速度を修正させた。そして、あの闇の中の暴走が再び始まった。速度計はみるみる表示をまし、ライトの中の白い空間が視界を急激に縮小させて、そして単調だった風景が溶けた。 「加速用意」  不意にギュンターがそう言った。パルバティは、咄嗟にその言葉の意味が理解できないでいた。すでに速度は一〇〇キロを越えている。推進系はオフにしているのに、ホバリング状態のスノークルーザーは、とめどなく加速を続けている。この地球人は気でも狂ったのか。パルバティがそう思った時、再びギュンターの怒声に近い声がひびいた。 「加速用意!」 「了解……」通信機からツラギのひきつったような声がきこえた。あわててパルバティもそれにならい、スロットルに足をかけた。恐怖で声をあげそうになるのを必死で耐えながら、パルバティはギュンターの方を見た。彼は前方を見ようともせず、ナビゲーターシートの計器類をにらんでいる。  ——車首が最大傾斜線よりずれている。車体が傾斜にそって少しずつ流され、車首がふられているのをパルバティはそんな中で感じていた。 「加速」  ギュンターの声が言った。パルバティは反射的にスロットルをふかし、車体が鈍い衝撃と共に速度をますのを感じた。 「加速停止」  その声を聞くなりパルバティはスロットルから足をはなした。もう金輪際それにはふれたくない心境だった。速度計は、すぐにスケール・アウトした。突然、車体が高くはね上がった。いやに長く感じられる滞空のあと、雪面にたたきつけられ、そのまま数回バウンドして再び車体は降下をはじめていた。もう少しで突風にあおられて吹き飛ばされるところだった。ギュンターはむしろ、そのアクシデントが予想されていたように小さくうなずいて、シートに背をあずけた。彼はもう危険は脱したとでもいわんばかりに、リーダーにセットしたフォトマップを次のに取りかえていた。そして、すぐに前の時よりややゆるやかな加速でスノー・クルーザーは車首をもたげ、次第に速度をおとし始めた。 「変わろうか」  巡航速度まで車速が落ちついた時、ギュンターがそう言った。パルバティはため息と共にそれに同意し、操縦系をナビゲーターシートにうつした。アイスフォール帯に入るまでに、また交代しなければならないな、そう思う彼の意識は、しかしすぐに泥のような深い眠りに落ち込んでいった。  気がついた時には車体は着床していた。あわてて飛び起きたパルバティの目前に、武骨な形の雪上車があった。もうそこはD・一のデポ地点だった。たまらない寒気が彼の体をしめつけていた。ふり向くと、開かれたハッチからギュンターが体を乗り出して何か言っていた。そのまま車外に出たギュンターを追って、彼もこごえる体を無理に動かして、外に出た。どっと冷気が体のまわりにはりつき、眉毛がパリパリと音をたてて凍りついてむき出しの顔が激しい寒気におそわれてひりひりと痛んだ。あわててフードをかぶる彼の目の前に二人の男が突っ立っていた。あたりは暗かった。明るくなるまでには少なくとも一時間はあるだろう。白いライトにうかびあがった二人のうち一人はパルバティの知っている男だった。どちらかといえば、小柄なカトウは四角い顔をほころばせて、もう一人の男を紹介した。 「ラインハート隊長だ」  その男、ラインハート隊長は少し笑って手をさし出した。ぎごちないしぐさで握手をかわし、パルバティも名乗った。彼の背はパルバティよりもわずかに高かったが、ひきしまったしなやかな体からは生気が感じられた。静かだが確かなそれは、時として激しい闘志に変わることだろう。パルバティはそう感じていた。こいあごひげも、少年のような眼も、ギュンターとよく似ていた。  その時、彼らを呼ぶ声がした。ふり向くとツラギが彼のスノー・クルーザーから体を突き出して、内に入るように呼びかけていた。うながされるままに、全員が車内に入った。  それでなくとも燃料タンクを満載し、二人分のシートしか残されていないスノー・クルーザーに六人もの大の男が乗り込んだのだ。最初に乗り込んでいたツラギとレムだけが、身をちぢめてなんとかシートに腰を落ちつけ、カトウなどはダッシュボードに尻をおろして、片手でシートの背を押さえているといった具合だった。最後に乗り込んだパルバティは、不自然な中腰でなんとか居場所を作り、積み込まれた燃料タンクの間に足の置き場を見つけた。そんな中でギュンターが、リーダーに一枚のフォトマップをうつして言った。 「D・一からD・二までの二〇〇〇キロについて説明する。図を見てくれ」  そこに示された写真地図は、夏大陸の四半分を示していた。海岸線は複雑に入り組み、砕けたガラスの破片のような島嶼群が、その海岸線とつながり、内陸海をおおうような形で、ぶちまけたように点在していた。中のひとつは、長径一〇〇〇キロにも達する大きな島で、さらにその島自体の複雑な海岸線にも同様の島々をまとわりつかせていた。輝線であらわされたルートは、内陸海を突っ切ったあと、島嶼にかこまれた海氷原の中を、左右にぬってD・二にのびていた。ルートは時には幅数百キロにおよぶ広い氷原を通り、また時には幅一〇キロに満たない狭い海峡を海岸線にそって進んでいた。六五度島嶼群を抜けるルートは、必ずしも最短距離を通っているわけではなかった。所によっては島のひとつを迂回するのに三分の二以上の外周をまわって向こう側に達している。D・一からD・二までの直線距離は一〇〇〇キロを少しこえる程度なのに、実質行程は二〇〇〇キロにも達するのはそのためだった。島嶼群の中の海氷原は相当荒れていた。水深の浅度化と、この海域固有の海流が海氷原をかき乱し、着床氷山地帯やプレッシャーリッジ、開水面などを作っていた。迂回して進まなければならない海峡部は、例外なく氷原がずたずたにかき乱されていた。 「この間での大切な点は、雪上車を決して停止させないことだ」ギュンターがそう切り出した。 「このルートの走破時間は、鈍速の雪上車が何時間でD・二に到着できるかということにかかっている。そのためには、二台のクルーザーをフルに動かしてルートの偵察、工作を行なって雪上車を遅滞なく進める必要がある。ただ、この写真地図は」ギュンターは、リーダーを指さして言った。 「出発直前の最新のデータから作られたものだが、海氷の状態は刻々と変化しているはずだ。写真にあらわれている平らな氷原にオープン・クラックが走っているかもしれない。開水面があれば、キャタピラドライブの雪上車ではお手あげだ。そうならぬように、充分なルートの選定を行なわなければならない。ところでカトウ」 「うむ」カトウは無愛想に顔をあげた。 「通信機の方はどうだ」 「彼らの物と同調はできた。ただ有効通信距離は君が指定したほどのびなかった。状態のよい時、電信級でせいぜい三〇〇キロだろう。通話可能な線はその四分の一程度だ。それ以上出すには出力をアップする必要がある。重くなりすぎるし、整備もめんどうだ」 「上出来だ。いいかい隊長」  最後の言葉はラインハートに向けられたものだった。それまで押し黙って写真地図を見ていた隊長は、視線をあげて「行こう」とだけ言った。すぐに彼らは車両をおりて、それぞれの車にもどった。実にあっけない作戦会議だった。すでにツラギとラインハートの乗り組むスノー・クルーザーはエンジンを始動させて浮上し、カトウとレムの乗り込もうとしている雪上車は、さきほどから暖気運転に入っていた。ライトの中でうかびあがったその雪上車は、はじめて見た時よりもさらにものものしい装備でかためられていた。車両本体から短いシャフトで荷物ソリが連結されており、その上には二台のスノー・バイクや、さきほど、この地点に積みあげておいた燃料のタンクなどがワイアで固定されていた。車体後部には、いかにも大いそぎで取りつけたような不自然な恰好でウインチドラムが突き出し、さらに前部には馬鹿でかい排土板《プレード》が取りつけられていた。  ——まるで土木工事のブルドーザーだ。半ばあきれ顔でパルバティはそうつぶやいた。スノークルーザーに乗り込むなりエンジンを始動させ、すでに発進した隊長車を追う形で車両を出しながらパルバティはギュンターに言った。 「道路でも作ろうってのかい、奴は」  視線をちらりと窓の外にそらしたギュンターは笑って言った。 「あの雪上車は燃料消費を低くおさえるために、車体の軽量化に主眼をおいて作られたから、牽引力が不足なんだよ。特に今回のように大荷物の場合は」 「要するに、おもし[#「おもし」に傍点]のつもりかい」 「それもある。だが、案外役に立つかもしれないな」  発進してすぐに編隊《コンボイ》は乱氷群の中に突っ込んだ。ジオイドの急激な変化がおこってから、すでに一〇〇時間以上がすぎていた。この付近の緯度では極点ほど破壊的な影響はうけていないのだが、それでも沿岸部の乱氷はひどかった。海氷の着床によるものというよりは、大規模な退潮によるものだった。複雑な地形の中で折れ曲がり、ぶつかり合う海流が浮氷原を押し流し、せり合い、亀裂をはしらせ、開水溝《オープン・クラック》はふたたび結氷して人の背をのみ込むほどの乱氷帯を作っているのだった。盛りあがり、おりかさなる、まるで無限に続く鋸の歯のような乱氷帯の走行を、さらに困難なものにしているのは、その間に詰まった粉雪だった。平坦に見えていた雪原の上を走行しようとして粉雪の落とし穴に突っ込み、時には車体が横転しそうになる衝撃をうけながらも、速度を落とそうとはせずに彼らは突き進んだ。  写真地図によれば、平坦な氷原上のルートに出るまでに、一〇〇キロ近い距離を走破しなければならなかった。  パルバティは無言でクルーザーを走らせていた。時おり、ギュンターが方向を修正する他は、風のうなる音とエンジン音だけが闇の中にあった。先行している彼らが、乱氷群の中でも比較的走りやすい所をぬうようにして走り、そのあとについたツラギ達が噴流ジェットをふかしながらさらに後につづく雪上車のために氷原を整地して行くのだが、後続の二台よりずっと先行するはずのパルバティ達が一向に進まず、むしろ全体のペースを狂わしていた。乱氷帯に強いはずのこの八一二五タイプ・スノー・クルーザーも、規準以上の巨大なブロックの中で悪戦苦闘をしいられた。胃が裏返しになるほどのピッチングやローリングをくり返して、続々とあらわれるブロックを強引に越えても、せいぜい時速は一五キロを出ていない。後方をふり返ると、それは後続の車両も同じらしく、ヘッドライトが一瞬見えなくなり、すぐにとんでもない上方を向いては、また左右に激しくゆれながらブロックのかげに消えていった。  次第にあたりが明るくなってきた。HPは一公転ごとに思いがけない方向から姿をあらわす。前の時には海氷原の方向から昇ったHPをアイスフォール上から見たのに、今度は斜め後方、氷河ごしに見えていた。しかし、その赤い光に照らされた周囲の風景は、彼らの失望を大きくした。水平線まで見わたすかぎりの乱氷群だった。こんなことなら、いっそ吹雪で何も見えない方が気が楽だ。パルバティは激しくゆさぶられながらそう思った。とはいえ、HPの光で、ひらけた視界にたすけられて、いくらか編隊《コンボイ》の速度はあがったが、それでも二〇キロ毎時をこえることはできなかった。三〇分ごとに操縦を交代し、それからツラギ達と順番を入れかわりながら単調な移動は続いた。 「雪上車が遅れているようだな」  何度目かの交代のあと、あまりにひどいゆれで仮眠することもできずに、それでもいくらかはまどろんでいたパルバティが後方をふり返りながら言った。 「荷物ソリが、ブロックに乗り上げて横転したんだ。今、隊長達と、積荷をおろして立てなおそうとしているところだ。大丈夫、すぐに追いつくだろう。積荷も被害はない」 「すぐに追いつく、か」  パルバティは、さきほどからさっぱり変化していない乱氷群の景色を見ながら、ひとり言のようにそう言った。ふり返ると、D・一点の地上目標とした尖岩が、いまだに水平線の向こうにかくれもせずに突き立っているのが見えた。 「他のどこにもルートはないのかね」  リーダーに、フォトマップをうかびあがらせながら、別に返事を期待してもいないようにパルバティはそう聞いた。わずかな時間のうちに、すっかり操縦になれて、乱氷の中でたくみにクルーザーを走らせているギュンターが少し笑って言った。 「ここが最短距離だよ。暗くなるまでに、なんとかこの乱氷群をぬけ出せると思う。氷の状態がよければ、だが」  パルバティは、コクピットの天蓋を開いて半身を外につき出した。おそろしいほどの寒気が突風となって、たちまち彼の半身を打った。海岸線観測をして現在位置を出そうとしたのだが、たちまち彼の意識は萎えて、コクピットの中に身をかくした。どのみち、こう激しくゆれる走行車両からは不正確な精度しか出ない。かわりに、車内から観測できる簡易法をとることにした。ペリスコープ・セクスタントをルーフの上に突出させて、顕著な海岸線のランドマークを三ヵ所ほど観測し、大縮尺にセットしたリーダーのフォトマップの中でそれらの点を同定して、データを入力させた。それほど大きくない誤差で現在位置はすぐに出た。それをギュンターに示すと、彼はうなずいて風と気温の観測をするように言った。  それらの観測データを見て、ギュンターは顔をしかめて言った。 「あまりよくないな。気温が少し高い。風向も海峡方向にそっている。こんな風で、これくらいの気温の時には氷原が割れる可能性がある」  この周辺で、氷厚は三メートルほどに発達しているはずだったが、表面上は静止しているかに見える氷原も、その下では海流が渦をまき、上は風がたえまなく吹き流れている。彼らが下って来た、あの氷河以上の巨大なエネルギーを持って氷原は移動しつづけているのだ。 「しかし、出発した時に比べれば、ブロックの間隔が広くなって来たように思わないか」  パルバティがそう言った。たしかに、しゃべることさえ苦痛だった以前にくらべて、ゆれは小さくなってきている。HPは、その短い照射時間をおえて、沈もうとしていた。つかの間の斜光が、氷のブロックの群に長い影をひきずらせていた。 「ああ。しかしそれよりも、もっとめんどうなことになるかもしれん」  ギュンターが前方から視線をそらさずにそう言った。しかし、パルバティは、その言葉を深刻に受け取らず、聞きながしたまま言った。 「前にも聞いてみたいと思っていたのだが、君達のエネルギー体系は何を使っている」  パルバティ達は、HPによる恒星発電を地上に送電していたのだが、この地球人達のエネルギー源は誰も知らなかった。 「夏期は、地上恒星発電による電気、冬の間と野外の作業には水素燃料を使っている」 「発電系は光学電池か?」 「いや、熱炉による発電だ。規模は小さいが、無駄に使わなければなんとかもつ。熱炉の形式はメンテナンスが簡単で、工作目的にも使えるから、我々には便利だ」 「その電気を利用して、水素燃料を生産しているわけか」 「いや、水素は主に海洋のプランクトンからだ。有機浮遊物の農場から水素を作り出している」 「生物学的に水素を生産しているのか」  そんな可能性は、以前にパルバティも聞いたことがあったが、実用化するには手順があまりに煩雑で、条件もかぎられているので、ほとんど実際に使うということはなかった。なによりも、満足する高純度のものが得にくいという問題があった。  意外に彼らは……と、パルバティは考えていた。この地球人達は、使用している機械もシステムも、パルバティ達の物に比べると、おそろしく古く、物によっては原始的とさえ言えるしろものだったが、それらをたくみに使いこなし、不足している物は自然を知り、自然にさからわぬという方針をつらぬくことによって補なっている。現実に、彼らは五年にもわたって無補給でこの惑星で越冬を続けているというではないか。パルバティ達が充分な資材と、強固な越冬基地を持ったにもかかわらず、最初の冬でこの有様なのに、だ。  その時、突然ギュンターはスノー・クルーザーを停止させた。怪訝そうに視線を向けるパルバティをふり返ってギュンターは言った。 「音が……聞こえなかったか?」 「何の?」 「氷の……氷の鳴く音を聞いたような気がする」 「……氷の……?」  パルバティは窓の外に眼をやって耳をすました。ギュンターはエンジンを停止して車両を着床させた。それでもパルバティの耳には何の音も聞こえなかった。ただ、風の音が吹き抜けていくだけだった。周囲には何の変化も見えなかった。ギュンターは、すぐにエンジンに点火し、言った。 「操縦をかわってくれ」パルバティに操縦をまかすと彼はすぐに後続の車両を呼び出した。彼らは、五キロほどおくれてこちらに向かっていた。赤い残照が長く影をひきずっている。ギュンターは、彼にはめずらしく不安そうに周囲を見まわしながら通信機に向かって言った。 「今どこだ……ああ、そうだ。いや、早くここを抜けた方がいい。氷の鳴く音を聞いた」  通信機の向こうで、あきらかにそれとわかる動揺の声がきこえた。あたりから光が急速に失われていった。再びHPは氷原の向こうに沈み、また五時間あまりの“夜”がおとずれるのだ。その時、はっきりとパルバティの耳にも、それが聞こえた。地なりのように低く、遠いひびきが振動をともなって確かに聞こえた。金属的なかん高い音と、重い物がぶつかり合う音が重なり合って連続的にうなり、目の前の、点燈されたばかりのヘッドライトの光の輪の中の氷原が、かすかにゆれた。音は、かなり遠くからのようでもあり、スノー・クルーザーの直下からのようにも聞こえた。しかし、確実なことは遠くから聞こえていた音さえも、次第に彼らに向かって近よってきていることだった。パルバティが、ちらりと盗み見たギュンターの顔は蒼白だった。 「停止だ。全エンジン・パワー・テイク・オフのままホバリング待機」  何がなんだかわからないまま、パルバティはエンジンを最高回転にあげたまま、わずかな平地にクルーザーを停止させた。ギュンターは、通信機に向かって叫んでいた。 「始まったぞ。その場所で停まれ。カトウは……」  言いかけたギュンターの言葉がつまった。スノー・クルーザーの後部に、何かがぶつかったような鈍い衝撃が走った。パルバティは首をまわしたが、すでに暗闇の中に溶けこんでいるそのあたりには、何も見えなかった。返す動作で彼は照明弾を車外に射出した。数秒後、上空ではじけた照明弾の白い光にうかびあがった周囲の光景を見て、彼は胆をつぶした。ほんの数分前に通過したばかりの氷原には、幅三メートルものオープン・クラックが開き、黒々とした海面が浮氷をうかべて姿をあらわしていたのだ。わずか数メートルの差で、あやうくクルーザーは氷原の端にひっかかっていた。 「動かん方がいい。下手に動くと氷を刺激する」ギュンターがそう言った。  開いたばかりの海面からは、夜目にもそれとわかる水蒸気が立ちのぼり、不気味にゆれている。海面から氷面までは二メートルばかりの落差になっていた。パルバティは全身から冷汗が流れ出るのを感じた。いくらホバークラフトとはいっても、いきなり傾斜した姿勢のまま水面に落ちこんで無事にすむはずはない。着水して、運よく転覆はまぬがれたとしても、エアバンパーやエンジンに損傷をおこせば、それこそ沈没してしまう。当然、乗員は助けを求める間もなく即死してしまうだろう。オープン・クラックは、じりじりとその幅をひろげつつあった。すでに幅は五メートルを越えている。照明弾の光の届く範囲内で、それは折れ曲がりながら無残な傷口をひろげていた。  突然、新たな音が遠くでひびいた。重いそのひびきは、さきほどの音と比べものにならない速度で連続的に高まり、そして、彼らの方にまっすぐ近づいてきた。 「ここも割れるぞ!」  ギュンターがそう言った直後に、再び衝撃がおそった。わずかに残っていた照明弾の最後の光の中で、重なり合った氷原の連なりが複雑にゆれ動くのが見え、鈍いひびきと、歯のうくようなきしみがそれを追って移動した。 「つかまれ!」  叫ぶなりパルバティはスノー・クルーザーを急発進させた。方向を見定めている余裕など全然なかった。一瞬の加速でシートに押しつけられた体は、次に来た間の抜けたような浮揚感にとってかわった。ヘッドライトがむなしく空を走り、視界のはしに光を乱反射させている海面が移動していくのをパルバティはぼんやりと見ていた。いやに長く感じられた滞空のあと、シートから放り出されそうな衝撃が来た。轟音と共にクルーザーは数回氷面に激突し、フロントグラス一杯にひろがった海面が目の前に迫った。ガラスが砕ける。そう思った時には、クルーザーはもろに海面に突っ込んでいた。海水の飛沫がフロントグラスを走り、ライトが消えた。それが最後の衝撃だった。気がついた時には、海面上にホバリングし、ゆれるスノー・クルーザーの中で、二人はまじまじと顔を見合わせていた。そして、どちらからともなく笑い出した。 「見事なジャンプだったじゃないか」  ギュンターが車内燈のわずかな光の中で、この男にはめずらしく、歯を見せて笑いながら言った。パルバティは、一体どうあやつったのか、自分でもわからない操縦系から手足をはなして言った。 「まあ、な」  ヘッドライトは消えたままだったが、サーチライトは点燈した。うかびあがった周囲の光景は、氷の壁の向こうにあった。吹きあげられた海水の飛沫が、フロントグラスの上を流れおちるわずかな時間のうちに凍結し、ガラスを厚い氷の層にかえていたのだ。フロントグラスのヒーター効率をあげてその氷をとかしながら、パルバティは背筋がうそ寒くなるのを感じていた。サーチライトに照らされた氷群は、まだ動きを止めたわけではなかった。微妙にゆれ動くオープン・クラックは、なおも幅をひろげ、時おりあの不気味なひびきがまたも伝わり、あらたに走ったクラックが氷原の端を氷島にかえ、流れだした浮氷の島が氷の砕片を続々と海に落としながら流れに乗って、さらに広げられた開水面の中をただよい出していた。実に緩慢な氷島の動きは、破壊的なエネルギーを持っていた。海面に落ち込み、見るまに凍結して新たな乱氷群となった氷片が、ゆっくりとただよってくる氷島と旧氷とにはさまれて、砕片をはね上げながら盛りあがり、あっけなく海中に没した。新氷を押しつぶした氷島は、それでも動きをとめることなく、ゆっくりと回転しながら旧氷とぶつかり合い、接合点の氷原をいともたやすく砕いて盛り上がらせ、あらたな乱氷を作り出していった。  サーチライトの照らす光のなかで、その巨大な氷の動きの、わずかな片鱗を見ただけにすぎなかったが、無事に海面に着水した安心感など、どこかに消し飛んでしまった。ともかくも、上陸できそうな部分を見つけて、旧氷の上に上がってしまおうと、すでに幅二〇メートルにもひろがった開水面の中を移動していくパルバティ達の目前で、氷が砕け、そしてまたあらたに作られるという光景がくり返されていた。 「氷の上にあがらない方がいいぞ」  必死の形相で上陸地点をさがすパルバティに、ギュンターは言った。クルーザーの周辺は、ホバリングで巻きあげる水煙と、浮上気流の熱がもたらすもうもうたる水蒸気がたちこめて、視界を相当悪くしていた。解氷装置のついたサーチライトでさえ、表面が結氷して暗くなっていた。ギュンターは言った。 「今、氷の上に乗るとホバークラフトの出す熱が氷をゆるませて、このクルーザーの車重もささえられなくなる。こいつがおさまるまで逃げるんだ」  逃げるとは言っても、それは上陸するよりむつかしいことだった。まるで湖沼帯の中の迷路のように入り組んだ小路をあてもなくさまよっているような錯覚をおこさせた。とにかく、広い方へ、広い方へ車体を移動させて行った。息づき、脈動する氷海の中で時間の感覚も消えたような逃亡がつづいた。袋小路に入りこみ、あやうく閉じようとする氷にはさまれた水路を無理矢理すり抜け、四囲から再び不気味に鳴る氷のひびきにおびえながら方向も失って移動し続けた。そして、不意にパルバティが言った。 「とまっている……」  いつからそうなのか、氷の水路は動きをほとんど停止させていた。乏しい光の中ですかして見ると、開いた水面は旧氷側から氷が発達し、氷島や浮氷をがっちりとらえていた。二人は申し合わせたように大きなため息をついた。その時になって、通信機から声が呼びかけた。      13 「ツラギだ。君達のすぐ近くにいる。異常はないか」  パルバティは周囲を見回した。彼らのライトの光芒は見えなかった。自分のクルーザーのエンジン音で、彼らの気配も感じなかった。 「パルバティだ。機器に軽い損傷を受けたが、大したことはない。どこにいるんだ。信号弾をあげようか」 「それには及ばんよ、俺の目の前五〇メートルくらいの所で、水蒸気がえらい勢いで吹き上がっているし、ライトに照らされてなかなかきれいだ。サーチライトをつけて氷の中を走りまわっているのは、このあたりでは他にいないだろう」 「そっちから見た具合では氷の状態はどうだ」 「ズタズタだ。この調子だと、迂回するにも何百キロも遠まわりしないと駄目だ。オープン・クラックの幅は、いちばん狭い所でも一〇メートルはあるから、スノー・クルーザーならなんとかわたれても、雪上車は越えることができない」  ギュンターがそれを受け、周囲の氷を見ながら言った。 「割れ目が狭い所をさがそう。我々も旧氷の上にあがって渡河点がないか偵察する。もっとも、雪上車の超壕能力は二メートルまでだから望みはうすいが。で、カトウは今どこにいる」 「俺ならこっちだ。隊長車のライトと、吹きあがる水蒸気が大体一直線にならんで見える所だ。距離は二〇〇メートルほどだ」  少しノイズの異なるカトウの声が、すかさず割り込んでそう言った。その時、聞きなれないもうひとつの声が割って入った。パルバティは、その声の主を、今までほとんど聞いたことのないラインハート隊長だと認めるのに、少し時間がかかった。彼は言った。 「待ってくれ。ギュンター。海水面に新氷が張りつめるまでにどれくらいかかると思う」ギュンターは、少し考えてから答えた。 「そう……ここから見る氷の状態からして、雪上車の車重をささえるほど氷厚が発達するまで、二〇時間から三〇時間はかかりそうだ」 「わかった。カトウ、そういうことだが、架設できるかどうか調べて見てくれ」  ギュンターは、その隊長の言葉を聞いて、低く声をあげた。通信機の向こうでカトウが了解の返事をして、雪上車を降りる気配が伝わった。パルバティは、再びゆっくりとスノー・クルーザーを移動させ、自然が作った傾斜路《ランプ》を見つけて強引に旧氷上に乗りあげた。安全地帯である奥地に、彼らが進んでいくうちに、カトウがようやく言った。 「やれそうな所を見つけた。三〇分だけ俺にくれ。なんとかやってみよう」  パルバティが乗りあげた旧氷上の、すぐ近くにツラギ達のクルーザーが浮上停止していた。それからかなり離れた向こうに雪上車のライトと周囲を動きまわる人影が見えた。隊長がつづけて言った。 「パルバティ、だったな。君のクルーザーのライトの修理はすぐに可能なのか」 「簡単だよ。スペアも一式積んでいるし、サーチライトのパーツとの互換性もあるから、すぐになおる」 「わかった。カトウはただちに架設作業を始めてくれ。クルーザー二台は後側方から雪上車を照射する。ただし、雪上車と、旧氷外縁から五〇メートル以内に近づいてはならない。エンジンは最小限アイドリング、着床ソリをおろせ。ただし、緊急時即離脱体制をくずすな。それから、レム、か。君は雪上車から降りてギュンター達のクルーザーで待機していてくれ」  すぐに闇の中をライトが動いて、車両群は所定のポジションについた。最小限アイドリングといっても、最大キャパシティまでつめこんだ燃料はまだほとんど消費しておらず、満載した積荷も無論そのままだったので、エンジンの回転数はどうしてもある程度以下にはおさえられなかった。それでもギリギリ最小限の回転で、半着床の状態のまま停止させ、パルバティは車外に出た。ルーフのハンドガード伝いに前部ボンネットの上に出て、ペンライトで故障個所をしらべた。簡単な修理だったが、この極寒の中での作業は彼をうんざりさせた。  雪上車の方から人影が近づき、暗闇の中からパルバティに声をかけた。 「追い出されちまったよ。待機だとさ」  そう言ってレムはボンネットによじ登り、パルバティを手伝いながら言った。 「無愛想な男だな。奴は」  レムが雪上車の方を向いてそう言った。パルバティがふり向くと、ライトに照らし出された雪上車の後部で、カトウが一人で牽引ソリの連結をはずしていた。 「かもしれんな。どうも彼らのことはよくわからん」そう言いながら、パルバティが手袋をしたままの作業をひととおりおえてから言った。「さて、と。手袋をはずすからたのむよ」 「よしきた」  レムはそう答えて作業服のヒーターを少しいじり、それから胸のジッパーを開けた。開けたジッパーから、すばやくしのびこんだ寒気に一瞬レムの顔がゆがんだ。パルバティは、腰のホルスターから取り出したウォームガンで、故障個所に暖エアを吹きつけてから、手袋をぬいでレムの作業服の中に放り込んだ。そのまま一呼吸で故障個所に素手をつっこみ、手早く修理を行なった。五秒、十秒と、プラスチックでできているはずのその部分が急速に冷えていくのが感じられた。十五秒までかぞえて、これ以上は無理だと思うころに、ようやく修理は完了した。大いそぎで手を引き抜こうとしたが、タイミングがずれたか、冷えきった部品が彼の皮膚に吸いついていた。無理に引き抜くと、指先にするどい痛みが走った。引き出してすぐに、待ちかまえていたレムの、開いたジッパーから最もあたたかい両脇腹あたりに両手を突っ込んだ。すぐにレムが上からおさえ、こすりあげた。あたたまるにつれて、指先の痛みは耐えがたいものになった。くいしばったパルバティの歯の間からうなり声がもれた。 「あとは私がやるよ」  レムにそううながされてパルバティは、ゆらりと立ちあがって車内に入った。指先はひきちぎられたように痛みつづけた。少しでも暖めようと、指先を口の中に突っ込んで舌先でなめまわしたが、あたたかいはずの舌さえ急激に冷えていった。指先の皮膚は、強引に引きはがした時に破れたらしく、口の中に血の味がした。蒼白な顔をしたレムが車内に入り、ライトはすぐについた。左右両翼のクルーザーのライトで照らし出された雪上車の後尾で、カトウが作業をおえたらしく、車内に入るのが見えた。 「一〇〇キロだ……」そんな光景を見ながら、低い声でレムが言った。パルバティも、ギュンターも、眉をぴくりとあげて彼の方を見た。レムは言った。 「D・一を出てからわずか一〇〇キロ足らずの距離を走っただけだ。五時間近くかけて、ようやくこのざまだ……こんな状態でバインター基地まで本当に着けるのか。いや、もしも着けたとしても、そこからさらに内陸高原にあがって極点まで予定通りに行けるとは、とても思えない……」  それは言うべきことではない。パルバティは心の中でそう言った。しかし、それを口に出してレムに言うのも恐ろしかった。  撤退。  その言葉が心の中に浮かんで消えた。  不意にエンジン音が高くひびいた。牽引ソリをはずして身軽になった雪上車が、ボンネットから垂直に突き出したマフラーから白い排気ガスを噴出させ、キャタピラで雪をかんで動き出したのだ。最初、そろそろと波うつ乱氷の中を大きくまわりながら前進して、オープン・クラックの縁まで達し、すぐにまた後退してもとの位置にもどった。  雪上車の前面の排土板《プレード》が、地ひびきをたてて雪面におろされ、さらに高まったエンジン音と共に雪上車は前進した。凍結していた乱氷が、氷層を境にはじけ、押しつぶされた氷塊がたちまち排土板《プレード》の前に白い山を作った。それでも雪上車は、あきれるほどの馬鹿力で猛然と氷の山を押し出し、オープン・クラックから海面につき落とした。それは全く、背筋の冷たくなるような無茶な作業だった。あらあらしく氷をかんで、雪上車が前後進するたびに四トンの車重をささえる氷原はたわみ、沈みこんで、オープン・クラック付近にまで達すると今にも海の中に落ちこみそうなほどゆれた。激しい氷原の動揺と、たてつづけに放り込まれる氷塊が、海面から高くしぶきをはね上げ、雪上車を追って移動するクルーザーのサーチライトの中できらきらと光った。  盛り上げられた氷塊は、一瞬たりとも分断されたブロックのままでいることはなかった。押し上げられ、山にされた氷塊はすぐに氷結をはじめ、特に海水のしぶきをまともにうける場所では、見るまに海水がブロックをコンクリートのように凍結させ、雪上車の馬鹿力をもってしてもたやすくくずれそうにない、ひとつの小氷山にかえていた。カトウは、そんなことは全く意に介さないかのように、あるいは氷原が再び新たなオープン・クラックで分断されることなどあり得ないと信じているように、無造作に氷塊の山をつきくずしていった。もし、エンジン音がしなければ、彼らは氷の悲鳴を聞いていたにちがいない。極度の低温で締めつけられていた氷原に、考えられないような乱暴な圧力が加わることによって氷原全体がきしみ、うなる音を。おそろしく乱暴な作業だった。くずれそうもないような乱氷のブロックを、ただもう力で押し切り、くずれないと見るや十数メートルも後退して全力で車体ごと乱氷に体当たりし、それでも足りずに二撃、三撃と加えると、どんなに頑丈な結氷したブロックも、くずれて海中に放り込まれた。一度などは、小氷山に排土板《プレード》を押しあてたままキャタピラを氷面で空転させて強引に押し切った。そのたびに氷原は動揺し、クルーザーに乗っている彼らにまで氷原が上下にゆれるのが感じられたほどだった。  不意にエンジン音がしずまった。すばやく雪上車を牽引ソリの位置まで後退させて、カトウが車外に出るのが見えた。周囲の数十メートル四方が、ものの見事に真平に整地されていた。その中をカトウが別に寒さを気にする様子もなく、完全に氷のブロックで埋めたてられたオープン・クラックの方に歩いていった。一言も口をきかずにそれを見ていたレムが、ようやく言った。 「彼は……それにしてもよく氷が割れなかったものだ。彼は、氷が割れないことをどうして知っていたのだ。経験だけで、あれほど自信をもてるものなのか」 「そんな自信など誰にもありはしないさ」  車外に眼をやったままで、ギュンターはそうつぶやいた。 「ただ彼は簡単な論理にしたがったまでだ。我々は予定通りに極点基地に到着しなければならない。さもなくば全員死ぬ。到達するためには、ここで遅滞なく開水面をわたらなければならない。もし作業中に氷が割れて雪上車が水没すれば、彼は死ぬことになるが、そうなれば極点に誰も到達することができずに、どのみち全員死ぬ。彼はそれにしたがった」 「しかし、極点基地に到着しなければ死ぬときまったわけじゃ……」そこまで言いかけてレムは口をつぐんだ。ギュンターが車外に向けていた視線をレムに向けたのだ。淡い明りに照らされた彼の眼は、氷よりも冷たく見えた。 「予定通りに極点基地に到達しなければ、我々は全員死ぬ。この前提によって我々は出発したのだ。君の言うことは矛盾している。今ごろそんなことを言い出すくらいなら、最初から出発などしない。我々の意志はひとつだ。そのために犠牲者が出ようと」  ギュンターの顔は、かつて見たどの時よりも自信に満ちていた。あるいは、彼は心のどこかでセムに同意していたのかもしれない。しかし、彼の精神はそれをこばみ、押しつぶしていた。パルバティは、あえて彼に聞いた。 「もし、途中でどのような状況の変化が生じても、バインター前進基地で新しいデータを得ることは別にしても、その前提は変わらないというのか?」  ギュンターは、再び視線を窓の外に向け、不機嫌そうに答えた。 「それは隊長が決めることだ。我々は目的を達成するまで最大限の努力をすればよい。我々には考える必要のないことだ」  パルバティはその時、心の底から恐ろしいと思った。この地球人達を。  それからさらに三〇分後に彼らはオープン・クラックを突破した。海に放り込まれた氷塊は、それだけの時間で雪上車を通過させるだけの強度を持った一つの氷と化していた。  再び編隊《コンボイ》を組んでのクルージングが始まった。単調な氷原はどこまで行っても変化がなかった。ただ乱氷群はD・一を出た時よりも、かなり間隔が間遠になり、乱氷にまじって平坦な氷原があらわれるようになった。そんな氷原では、クルーザーは乱氷帯で失った時間をとりもどすだけの速度をコンスタントに出すことができた。単調な行程の中で、またHPが周囲を照らしはじめ、そして沈んだ。  彼らは二つの組にわかれて進んでいた。二台のスノー・クルーザーはさえぎるもののない氷原を快速で進み、すでに三〇〇キロほど遅れた後方から荷物ソリを引いた雪上車がそれを追っていた。  編隊の最先端を走るクルーザーは、ギュンターと、パルバティが交代で操縦していたが、どちらもほとんど口をきかなかった。本当は口を開くのも億劫なほど疲れてはいたが、沈黙のままステアリングをとるのにたえかねたパルバティが最初に言った。 「最初に君達に会ったあと、私は基地のライブラリーで君達地球人のことを調べてみた」  そこまで言ってパルバティは言葉を切った。ギュンターは、聞いているのかいないのか、反応を示さずにいた。パルバティは、重ねて言った。 「しかし、私にはどうもよく理解できないでいる。一時は五〇〇億をこえ、強大な軍事力をもって宇宙を支配したという地球人が、なぜ辺境種《ローカル・スピーシズ》として没落……」  しまった、とパルバティは思った。しかし、ギュンターの方を盗み見ようとする前に、彼が静かに言った。 「没落という言葉を使ってかまわないさ。事実そうなんだから」  わずかな気まずい沈黙のあと、パルバティはようやく言った。 「ライブラリーで調べた時には、どうもそのあたりの理由というのがよく理解できなかったのだ。私の読んだ記録では、周辺の諸世界をのみこみ、武力と経済力の両面で膨脹し切った地球人とその文明は、やがて汎銀河文明にふれた時、汎銀河主義によって内部から崩壊していったとある。つまり、文明として未熟であった地球は、種族や固有文明の枠をこえた汎銀河文明に接した時、これを攻撃し、破壊しようとすることしかできなかった。しかし、地球は、宇宙に存在するすべての生命に愛を平等に与えるという汎銀河主義を征服することができなかった。一時的に、あるいは部分的に汎銀河文明を支配することができても、やがて時間とともに支配者である地球人も汎銀河人となり、そして地球種族は内部から崩壊していったと」 「その記録は嘘だ」短くギュンターは言った。別に感情をあらわすでもなく、きわめて日常的な話題のように彼は言った。 「君に聞くが、汎銀河人である君達は、我々地球人に対して、他の汎銀河種族に対してと同じように“愛”を言えるか」  パルバティは黙ったままだった。 「言えまい。では事実を言おうか。汎銀河文明など最初から存在しなかった」ギュンターは言葉を切った。  白いライトの光の中にうかびあがる氷原からは、今はもう乱氷群は消え失せ、わずかに足もとに押し寄せる|雪  紋《ドリフティング・スノー》の流れだけがクルーザーの快速を感じさせた。世界の上半をおおう暗い空は星がまたたいていた。ちりばめられた星がふちどった氷原の果てには、海岸らしい地形は見あたらず、広大な半円が視界の続くかぎりを二分していた。すでにこの周辺の海域から、嵐は去ったらしく、クルーザーのエンジンを消し、ライトも消してしまえば、ここが宇宙空間であるとさえ錯覚をおこしたかもしれない。ただ、静かな大気をこえた上空で、激しくまたたく星が、高層大気に今なお大規模な空気流があることをしらせた。 「最初から存在しなかった……」  パルバティがそう聞き返した時には、すでにクルーザーは数キロの距離をこえていた。ギュンターは、すこしの間をおいたあとそれに答えた。 「地球勢力は異世界を次々に支配下におき、君達の記録が言うように、同族への盲目的忠誠、悪をなすための組織力、か。それをもって勢力を拡大していった。しかし、膨脹をつづける地球勢力が最初に受けた抵抗というのは、決して汎銀河文明などという既成の勢力ではない。それは被支配地域の諸文明が連合した反地球抵抗組織だった。彼らは巨大な地球軍と対決するために、あえて固有文明のアイデンティティを放棄し、共通の遺伝子を持つ汎銀河人として連帯した戦線を組織した。……そして、その後の長い戦乱のあと、地球は没落し、汎銀河人が残った」  ギュンターはそこまで言ってから、少し笑ってつけ加えた。 「ただし、これは我々の間に伝わる記録だ。君達のものと同様に我々も絶対的に信じているわけではない。ただ……」  どうでもいいことだ。パルバティは、体中に澱のようにたまった疲労の中でぼんやりとそう考えていた。ギュンターは、そんな彼を気にするでもなく、淡々と話していた。 「ただ……我々——君達もふくめてだが——が現在も使っている標準単位のいくつかは、地球のそれを基準にしているという。距離の基本単位は、地球外周の長さの四千万分の一だというし、時間単位は地球の一自転日の二四分の一だと聞いた。地球が一体どの惑星のことをさすのかさえわからない今は、このことを確かめることもできないし、たとえわかったとしても太古の幼稚な測量技術でどれほど正確に計れたかも疑問だ。その程度の条件をみたす惑星ならごく普通にあるし、なぜ五千万分の一や、二十分の一でなく、そのような値になったのかという質問に対する答も私は持っていない。  あるいは……この宇宙にかつて存在した、航宙能力を持った文明は、実は地球しかなかったという話も聞いた。地球から宇宙に乗り出した人々が、苛酷な条件に順応するために遺伝子をかえてゆき、ついには、元の地球人を駆逐するまでにふえたのだとも。……かわろうか」 「ああ……そうしてくれ」  パルバティは、もう操縦していることが、耐えきれないほど、疲労がたまっていた。操縦系をナビゲーターシートのギュンターにわたすなり、彼は泥のような眠りに落ち込んでいった。      14  パルバティが激しくゆさぶられて眼がさめた時、周囲の光景はすこしもかわってはいなかった。あいかわらず視界をしめる闇の中で、ライトの及ぶ範囲だけが白くうかびあがっていた。 「どこだ……ここは」まだ背骨から腰にかけて、鈍い疲労感が残っていたが、交代する前のよどんだような意識はぬぐい去ったように回復していた。 「もうじき内陸海を抜けて、六五度島嶼群に入る」 「何だって」  パルバティは、あわてて距離計を見、時計を見た。彼はその時はじめて六時間以上、正体もなく眠りこけていたことに気がついた。知らぬ間にHPが昇り、また沈んでいたことになる。 「どうしてもっと早く起こさなかった。君だって休息が必要なはずだ」 「君は疲れきっていた。あの基地からの最初のD・一点往復をした時以来休息をとっていないのだから」  ギュンターは、それだけ言って携行口糧のパックを投げてよこした。まるで石でも食っているようにまずかった。苦労してそれをのみ下しながらパルバティはたずねた。 「他はどこにいる」 「隊長は三〇キロほど後方にいるはずだが、距離が遠すぎて連絡はとだえたままだ。カトウ達は……五〇〇キロほどおくれているはずだ」 「何か変わったことは」 「別に……少し乱氷があらわれた所があったが」 「どこだ。それは」 「グリッド……の地点だ」  パルバティは、リーダーにその場所のフォトマップをうつし出して見た。そこは、内陸海の中でも地形が入り組んでいる所だった。潮流による乱氷だとパルバティは考えた。 「古いものだったか」 「ああ……少なくとも二〇時間以内に、オープン・クラックが結氷したあとは見えなかった」  いい兆候だ……少なくともこの周辺の海域では、氷の動きは最近、あまり活発ではない。しかし、と彼は心のかたすみにひっかかる何かを感じていた。たしかに、ジオイドの急激な変化による潮流は、極付近にくらべれば、現在のこの場所で大きな影響はないかもしれない。しかし、潮流が全くなくなるはずはない。平穏すぎる。  前方の、水平線に近い位置にまたたいている星を背後にうけて、|黒い地形《シルエット》がうかびあがっていた。そのシルエットは、クルーザーの巡航にしたがって徐々に明瞭になり、やがて空の一部を切り取った山岳のように高くのしあがって来た。 「島じゃないな……」リーダーのフォトマップを見ていたパルバティがそう言った。 「かなり大規模な氷山群がこのあたりにあるはずだ。おそらく、それだろう」  いまだに、その黒い影はサーチライトのとどかぬ遠くにあった。星空をすかして、黒いスカイラインを追っていたギュンターも言った。 「着床しているな……あれは」  着床氷山だった。パルバティはせわしなくリーダーの写真地図《フォトマップ》の部分クローズアップを操作しながら前方の氷山と見比べて言った。 「潮流はこのあたりでは、内陸海から六五度島嶼群を抜けて外洋に流れ出しているはずだ。おそらく、あの氷山群は、その大きな潮流に乗って外洋に流れ出す途中の海峡で着床したのだろう。しかし……」パルバティは言葉を切った。 「しかし、何だ」  いぶかしげにギュンターはパルバティを見た。パルバティは口ごもりながら言った。 「どうも、妙だ。このフォトマップで見るかぎり、海面位置の焦点が甘い……」 「海面の標高がずれている、という意味か」 「うむ……」  パルバティは、その言葉に自信が持てないでいた。実は海面自体がゆるやかに傾斜しているような感触さえ、そのフォトマップは与えていたのだが、出発前に急造したものだから正確なものとは言いがたかった。二人の会話は、それっきりとだえた。  沈黙のまま前進するスノー・クルーザーの前方の黒い影が、次第に圧倒的な高さにのびあがって来た。あの氷河末端で見た着床氷山よりも、はるかに巨大なものに見えた。闇の中で、正確な距離感をつかめないままに、不気味な量感を持って空を区切っていた。 「どうも、妙だ……」  さきほどと同じ言葉をパルバティはもらした。反応を示さずに観測窓から前方の影を見ているギュンターにかまわず、パルバティはつづけた。 「この内陸海から、六五度島嶼群を抜けて外洋に至るルートは、年に一往復の周期的な大潮流であらわれているはずだ。少なくとも、数万年のオーダーでそれがくり返されているはずなのに、この島嶼群の海岸線には浸食作用を受けた形跡が見えない。いや、海流の通り道になるこの付近では、海底も潮流にけずられて、相当深い水深になっているはずなのに、あんな巨大な氷山が着床し得るというのは……」 「それより、あの氷山はどこから来たんだ」  前方を見たまま、ぼそりとギュンターは言った。 「このあたりの島には、あんな巨大な氷山を作り出せるほどの地形はない。……海洋性のものじゃ、もちろんない。いや……海洋性のものだとすると、相当大規模なプレッシャーが広範囲にわたって発生したことになるんだが……」  クルーザーの速度がしぼられ、そして彼らは停止した。すでにサーチライトの光芒が届く近さに氷山はあった。光の輪の中で、その一部分しか姿を見せない氷山は、それでもなお、傲然と彼らに対していた。 「もうじきHPが昇る」  パルバティがそう言った。少なくとも二〇〇キロに及ぶ奥行きを持つこの島嶼群と、その前衛か、あるいは全体にわたるものなのか、ともかくも、自由海氷面にちらばる着床氷山や浮遊氷山群を突破するのには、あの氷河末端のアイスフォール帯でのような僥倖や、勘にたよってのみルートを探すことは、不可能だった。  照明弾が打ちあげられた。白い光が、瞬間に周囲をきらめく光の世界にかえた。氷山の側壁にちりばめられた氷の結晶が、頭上にかがやく光を乱射し、風に流されながらゆるやかに落下していく照明弾の光を受けて、それは生き物のように光のパターンをかえた。わずかな氷壁の突起さえもが、誇張された光と影の表情を持ち、光のとどかぬ闇の彼方にまで氷山は重なり合っていた。 「一時間後には、遅くとも隊長と合流できるが……」 「うむ……」  ギュンターは、あいまいな返事のまま、クルーザーを移動させた。氷山の前線は、必ずしも一線にならんでいるわけではなく、時には氷原側に大きく張り出し、そしてある所では逆に海氷原が深く氷山の群に食い込んでいた。クルーザーは徐行しながら氷山群の切れ目に進入していった。迷路のような氷の回廊は、いくつかのひらけた小氷原をすぎながらも、奥に行くにしたがって次第に狭小となり、やがてひとつの屈曲点で、クルーザーが通過不可能なほど両側から氷山が押し寄せていた。彼らは停止した。  パルバティは、ゆっくりとギュンターに視線を向けた。ギュンターも、困ったというように首を振った。氷河末端のアイスフォールの時のような傾斜はないから、どこでも通過さえできれば奥へルートをのばすことができる。しかし、それだけに不気味だった。氷壁と氷原の接合点は、それほど不連続ではなく、着床時に当然おきたはずの、氷原のクラックも見当たらなかった。そう言えば、彼らが通って来た回廊も、着床氷山群の空隙にしては意外なほど表面がなめらかだった。これほど巨大な氷山が、多数浮遊してきてこの狭い海峡で押し合い、着床した氷山をさらにせり上げるほどの運動をしたのちに、海底に鎮座したにしては氷原の乱れが少なすぎる。氷山群の質量に比べれば、海氷の厚さなど薄膜にも等しいはずなのだ。それらが整地したかのように、あるいは海水面そのもののように平らなのだ。パルバティは、そのことをギュンターに問いただした。 「私は、この付近に来たのは初めてだ」ギュンターも自信がなさそうに言った。「ただ、六五度島嶼群にはムルキラの棲息地調査に来たことはあるが」 「ムルキラ?」 「あの鳥のことだ」  パルバティはすっかり忘れていた、あの雪洞の氷の壁の下に埋めこまれた先住生物のレリーフを想い出していた。それから起こった異常事態の中で、すっかりそのことを忘れてはいたが、あのレリーフの形だけは、鮮明に記憶にうかびあがった。 「とにかく……隊長が到着するまでに、この回廊の奥をもう少し探ってみよう」  二人は同意した。開かれたクルーザーのハッチから、どっと寒気が押し寄せた。たちまち睫毛が凍りつき、まばたきすることも苦労するようになった。着床したクルーザーのわきにおり立つと、寒気はさらに彼らをしめつけ、露出した眼の周辺や、衣服のうすい、わずかな隙からさえも冷気はしのびよった。周囲はしんとしていた。わずかな気流が回廊の中を奥に向かって吹き抜けていった。二人は、ハンドライトを手に歩きはじめた。屈曲点で数メートルまでにせばまっていた氷の回廊は、その奥になって再びクルーザーが通れるだけの幅を回復し、まるで果てしない迷路のように奥へのびていた。せまくなった部分の氷をくずせば、まだかなり奥までクルーザーを進めることができるかもしれない。このルートが正しければ、の話だが。  パルバティは顔をあげた。あたりの氷壁はいつの間にか淡い赤に染まっていた。HPの最初の光が、すでにこの氷山群の頭上に到達していたのだ。しかし、その光は照明弾がつかのま彼らに見せた光景とは異なり、ただ毒々しいばかりの平板なものでしかなかったが。 「氷山のひとつに登ってみるか」  不意にギュンターがそう言った。パルバティは、不安そうな顔で、頭上にのしかかるようにそびえる氷山を見上げた。この氷山に登ることなど、どう考えても不可能なことにしか見えなかった。それは氷の山ではなく、頭上にのびあがる氷の壁だった。 「他に方法はあるまい……この氷山群の全体を見わたすためには。カトウ達の雪上車が到着するまでに、一五時間乃至二〇時間ある。それまでに何とかルートを探さなければならない」  彼らは、不可能なことは存在しないかのようにものを言う。パルバティはそう感じていた。今までは幸運にめぐまれすぎていたのではないか。いつかは破滅が来るのではないか。そう思っているパルバティにギュンターは言った。 「とにかく、もどろう。隊長達と合流しなければならない」  二人はもと来た道をひき返し始めた。周囲から光が急速に増し始めていた。光を感じる方向を追って見あげると空の一画を切りとっている氷山の頂稜が赤くかがやき出していた。その時、唐突にそれは起こった。最初、かすかな遠い音としてそれはとらえられた。静かな音だった。この惑星では二人とも聞いたことのない、しかし、つかの間故郷の惑星にいるかのような錯覚を起こさせる、奇妙ななつかしさをふくんでいた。 「川……?」  音は、小川のせせらぎに似ていた。しかし、この場所には最もあり得ないはずの音だった。開水面に、見る間に張っていった氷をおもい出すまでもなく、流れる水など存在し得ないはずなのだ。まして、氷山にとりまかれているとは言え、ここは水平な海面なのだ。音は、彼らが歩いて来たクルーザーの方から、次第に近く聞こえて来た。そこは氷山にかこまれた小さな広場になっていた。彼らの立つ反対側の、氷山にはさまれた回廊の奥から次第に音はたかまりつつある。  突然、音が爆発した。それと共に、回廊の奥から奔流が噴出した。まぎれもない、海水の流れだった。パルバティの足が恐怖で凍りついた。ギュンターの力強い腕で引っぱられるまで、自分の眼を信じることもできず、逃げることも考えつかなかった。 「逃げるんだ!」  耳もとでギュンターの怒号が聞こえた。もうその時には、パルバティもかけ出していた。どこに逃げるなどと、考えてもいなかった。恐怖が彼の心臓をとらえていた。何重にも着込んだ防寒服が彼の動きを鈍らせ、何度かはあせって転倒し、そのたびにギュンターの腕で引きずりおこされた。すぐに水の流れは追いついた。靴の甲をあらった水が、すぐに水位をまして見るまに膝にまで達した。電撃を受けたようにするどい痛みが両足をおそい、走ることもできなくなった。それどころか、力をゆるめると水流に足をとられて倒れそうだった。  死ぬ。  パルバティは、立ちつくしたまま、足の間を流れる水を見てそう思った。ギュンターの声が遠くに聞こえていた。眼をあげると、ギュンターは、氷壁にわずかに突き出した、目の高さほどの棚の上によじ登りながら大声で呼んでいた。まるで泥の中を歩くようなまどろっこしさで、ようやくそこまで近づき、ギュンターに引きずり上げられた時には、ぶっ倒れる寸前にまで彼は疲労していた。心臓は、今にも破れそうなほど激しく鳴り、両足をつつむ服はすでに外側から凍り始めていた。氷棚は狭く、二人がようやく座れるほどだった。しかも、ゆるく外傾していて、油断すると眼の前の流れる水の中に落ちこみそうだった。二人は、片手で氷角をつかみ、残った手で狂ったように両足を摩擦した。ヒーターの源線はとっくになくなっていた。処置をあやまると、凍傷はまぬがれない。悪くすると、膝から下は両方とも切断ということにもなりかねない。  不意に周囲の世界が鳴動した。目の前で氷山が、緩慢な、それでいて確実な動きでゆっくりとかしぎ、歯のうくようなきしみと共に位置をずらして停まった。それと共に、水流の中の氷の接点が破れ、盛りあがった氷片から勢いよく水が噴出し、流れに加わった。 「氷山が動き出している……着床しているはずなのに……」  歯の根があわないまま、ギュンターはようやくそれだけ言った。 「HPの照射する熱が氷をゆるませたんだ。不安定な状態で静止していた氷山が……」  だが、一体、何だって今ごろ氷山が動き出すのだ。なぜこの海氷面を川のように水が流れたりするのだ。その疑問には答えられないまま、パルバティは水面を見つめていた。  一時、かなりの水量だった水の流れは、次第に量をへらしていた。水位がさがったわけではない。水流の中でまず底面が、それから水際に近い方に向かって氷が発達し始めていた。水位は逆にあがりながら、流量は減少している。さきほど噴出した氷のさけ目も、次第に水の勢いが弱まっていた。しかし、それが一時的なことにすぎないのは、二人ともよくわかっていた。HPが地平線から昇ったばかりでこの状態なのだ。照射が最大になるころには、この氷山群がどのような動きを見せるか、考えるのも恐ろしいほどだ。 「やるしかない」  水流の状態をにらみながら、ギュンターが言った。 「やるって何をだ」  その答をうすうす知ってはいたが、それを信じる気にはなれずに、情なさそうにパルバティは聞いた。 「水勢の弱まった時に、この中を走り抜けるんだ。少なくとも一人は助からなければならない。クルーザーを氷山の外に出さなければ全体の行程がつぶれる。……私が倒れてもかまわず走りつづけろ。どちらかが脱出できれば、クルーザーはたすかる」  パルバティは何も言うことができなかった。水は、脈うちながら流れていた。時おり、シャーベット状の氷が水をせきとめ、停止した水はたちまち凍りついた。 「今だ」ギュンターが叫んだ。  二人は同時に、勢いの弱くなった水の中へ飛び込んだ。もう、走ることはできなかった。転倒すれば、間違いなく即死だろう。二人の感覚の失せた足では、歩いていること自体が重労働だった。今にも回廊の屈曲部の向こうから、水が轟音と共に噴出しそうな錯覚におそわれた。水位は時には膝まで達するほどだったが、それほど深い所は少なかった。しかし、同じことだ。水の飛沫は、彼等の太腿までぬらしたのだから。  常時、水の中にある靴に、シャーベット状の氷がまつわりつき、岩のように靴に凍りついた。一度歩みを止めてしまうと、彼らの足は氷面と一体に凍りついてしまうだろう。来た道はおそろしいほど長くつづいていた。  不意に前を歩いていたギュンターがふり返り、何言か叫んだ。彼の指さした、前方の回廊を見て、パルバティは反射的に逃げ場を探した。とにかく、少しでも高い所へ登ろうとして、足場や突角を見定める余裕など全然なかった。最も近い氷の突角にしがみつき、ぶざまに数回滑り落ちた。すぐ横に登りやすい棚があったのさえ全く気づかなかった。引き返して、いち早くその棚によじのぼったギュンターが、一瞬とまどったのち、飛びおりて下からパルバティを押し上げた。不安定な形で足場の上にはいあがった時、いきなり回廊の向こうから大量の水が噴出して来た。なすすべがなかった。パルバティの眼に、水流に押し流されて行くギュンターの、ひきつった顔が一瞬の間、見え、そして水の中に見えかくれしながら、回廊の奥へ消えた。それでも、彼の絶叫だけは、しばらくの間、パルバティの耳の底に残っていた。  どこをどう歩いたのか走ったのか、記憶がなくなっていた。いつの間にか彼はスノー・クルーザーに乗って、氷山群の外にいた。赤く染めあげられて林立する氷山群を呆然とながめながら、彼の両眼から涙がとどまることなく流れつづけた。氷山群の奥からは、絶え間なく低いブロック崩壊の音が聞こえていた。彼は声をあげて泣きつづけていた。一台のスノー・クルーザーが、すぐ横に停車し、ラインハートとツラギがハッチを外から開け、肩をゆさぶられても彼は泣くのをやめなかった。彼の支離滅裂な言葉の中から、なんとか状況を理解したラインハートは、すぐに後退を命じた。 「まだ生きているかもしれないんだぞ。今ならまだ」  パルバティはそう叫びつづけていた。しかし、ラインハートはそれを無視して、ツラギにクルーザーの操縦を命じた。二台のスノー・クルーザーは、雪煙をあげて安全地帯へと後退した。  パルバティには、すべてがどうでもよくなっていた。ここ数日の間に、何人もの死に彼は立ち会っていた。しかし、ギュンターを失った衝撃は、そのいずれにもまさっていた。あるいは、絶えず緊張していた何かが、ついに支えを失って崩壊したのかもしれない。そして、それにも増してギュンターを殺したのは自分だという意識が、彼を責めたてていた。  涙が涸れてしまうと、彼は石のように黙りこくってシートの中で膝をかかえていた。隣のシートのツラギは、別に文句を言うでもなく、そんな彼を放ったままクルーザーを操縦していた。あるいは、薬をのまされていたのか、いつの間にかパルバティは深い昏睡の中に落ちていた。      15  暑かった。体を動かすたびに気持の悪い汗が体の上をはった。暑さのために頭のしんが重く、考えることさえ面倒だった。そこはひからびた岩山の裾だった。見わたすかぎりの露岩と、赤茶けた大地が地平の果てまでひろがっていた。その、地平線の近くに、かすかにかがやく銀色の線が見えた。海だろうか。あるいは湖かもしれない。あそこまで行けば奴[#「奴」に傍点]に会えるかもしれない。そう、ぼんやりとパルバティは考えていた。彼は岩の上にじっと座っていた。暑い理由は、自分でもよくわかっていた。この強烈な日ざしの中で、彼は極地防寒服をすきなく体にまとい、わずかに露出した顔を太陽に向けていたのだ。流れる汗をぬぐいもせずに、服を脱ぐことも忘れて、彼は強烈な光と熱を大地にまきちらす太陽をその体全体に感じていた。  太陽? それはまさしく太陽だった。もうずいぶん長いこと見たことのない、本物の、あの人工物の毒々しい赤ではない白くかがやく太陽だった。  ——ここもずいぶんかわってしまった——  初めて見た風景のはずなのに、彼はそこがどこだか知っていた。CB‐8か。すっかり雪も、万年氷床も融けてしまって、岩肌が露出してしまっている。初めて俺がここに来てからもうずいぶん時がすぎていった。今はまだ不毛の土地だが、そのうちに、ここも緑の沃野になる。そのうちに。それにしても、暑い。何でこんなに暑いんだ。  彼の頭の上を何かが舞った。かなり大きなものの影だった。それは、彼の目の前をかすめると、翼を大きくひろげて数メートルほど前におり立った。彼は、そいつを知っていた。  ムルキラ。  そいつの顔は、初めて会った時——一体、いつのことかさえ正確な記憶はなかったが——と同じく、やさしさに満ちていた。少なくとも、彼にはそう思えた。しかし、それと同時に彼は、冷ややかな眼で見つめられているような気がした。彼はたずねた。  ——奴を知らないか。ヒゲの、大きな男だ。名はギュンターと言う——  ムルキラの眼は、それを知らない、と語っていた。それから翼をひろげ、数度はばたいた。ムルキラの視線は、地平の彼方に向けられていた。  ——行くのか? 一体どこへ——  ムルキラの視線を追って地平の彼方に眼をやった彼は、そこにあの赤い人工太陽が昇るのを見た。そして、彼はすべてのことを一時に理解した。この惑星は、二度と緑がおおうことはあるまい。あの赤い太陽があるかぎり。ムルキラはそのことを知っているのだ。誰があれを作ったのかも。そして、ムルキラは去ろうとしている。この惑星を捨てて、はるかな世界へ、彼らの論理にしたがい、住みやすい世界へと、この鳥は渡っていくのだ。  ——待ってくれ。俺に力を貸してくれ。あのHPを消さなければならない。行かないでくれ。HPを消しさえすれば——  翼を一杯にひろげたムルキラは、予想外に大きく見えた。数度はばたいたと思うと、もうそれは空にうかび、旋回しながら次第に高度をあげて、視界から遠ざかっていった。  自分の叫ぶ声で、パルバティは我に返った。あいかわらず彼は、スノー・クルーザーの狭いコクピットの中にいた。かたわらで、ツラギがステアリングをとっていた。クルーザーの振動が、パルバティの手足の指先の疼痛を増幅させた。体は火のように熱かった。彼は、あわててバンデージにくるまれた手を見た。一見したところ、欠けている指はないようだった。 「指は全部つながっているよ」  ステアリングをとりながら、ツラギはぶすりと言った。 「曝露時間が短かったし、処置が早かったから軽い凍傷ですんだ。まず幸運だな」  ツラギの言葉は、パルバティを揶揄しているように聞こえた。それ以上、彼は話さなかった。気まずい沈黙のあと、ようやくパルバティが口をひらいた。 「今、どこだ。何時間くらい、俺はのびていた」 「グリット……だ。八時間ほども寝ていたかな」  そこは、六五度島嶼群のひとつの島の中だった。着床氷山群のある内陸海出口の海峡を迂回して、島の内陸部を通っている。しかし、距離は、事故の地点からいくらも離れてはいなかった。エンジン音がいやに軽いのを不審に思ってふり向くと、キャリアに固定されているはずの燃料のシリンダータンクがなくなっていた。 「燃料と、他の積荷はデポしておいた。今、隊長車と二台で内陸を通るルートを偵察しているところだ。しかし、時間がかかりそうだ。ここを突破するのには」  ヘッドライトにうかびあがる景色から、クルーザーはかなり大きな氷河を下っているのがわかった。口ごもっているパルバティに、ツラギはぼそぼそと言った。 「ここの島嶼群の、内陸海よりと、外洋側とで海面の水位が、かなり違っていたんだ。重力異常が起こった時、内海から外洋に向かう大きな潮流が発生した。しかし、島嶼群の間を通過する際に、氷山が狭い海峡に着床し、次々に押して来る氷山が自然のダムを作ってあんな大きな水位差を生じさせたんだ。  そして、HPの照射熱が氷のバランスをくずし、加圧状態にあった氷下水を噴出させた。非常にアンバランスな所だ……だが、十数日後の、最初の母恒星の日照の時には、逆流が起こり始めていて、爆発的な崩壊が起こるまでには至らない。一時的にポテンシャルの高い状態なのだ。毎年そんな大きなエネルギーが放出されていたら、数万年の間にこの惑星の形状のゆがみをもたらすエネルギーを食いつぶしてしまっていたろう」  想像を絶する光景だった。暗黒の極地の氷海に押し寄せる氷山群。群島に匹敵する量の氷の連山を誰も目撃する者のないまま、毎年積みあげ、そして崩壊させる海。  クルーザーが氷河の屈曲をまがった所で、前方にライトが見えた。ラインハート隊長の乗るクルーザーだった。ツラギが通信機をとりあげて、ラインハートを呼び出した。 「ツラギだ……この氷河は駄目だ。ああ、源頭部は傾斜が急で、とてもこのクルーザーでは突破不可能だ。支氷河も二つあたってみたが同じだった。彼?」ツラギは、ちらりとパルバティの方を向いた。 「今、気がついた所だ。精神的には、しっかりしたもんだ……ああ、わかった。伝える」  ツラギは通話を切って、パルバティに言った。 「あっちに乗りうつってくれ。隊長が、事故当時の様子を、くわしく知りたいそうだ」  パルバティは露骨にいやな顔をした。 「彼は冷徹な男だ。目的のためには犠牲者の出ることなど、何とも思っていない。事故のことなど聞き出して、一体どうしようというのだ」 「認識をあらためた方がいい」  ツラギは、隊長車の横にクルーザーを停止させながら言った。 「お前は一体、ギュンターと何年一緒に行動したというのだ。最初に会ったのがせいぜい二〇日ほど前で、実際に行動を共にしたのはこの四〇時間かそこらだろう。お前一人が悲しいんじゃない。お前が悲しいと思う百倍も地球人は悲しいはずだ。それを表に出さずに、お前に負担をかけまいとしている彼の気持がわからんのか。あまり、俺に恥をかかせるな。お前は、彼にギュンターの死を報告する義務がある」  呆然としているパルバティを無視してツラギは、クルーザーのハッチを開け放った。急激に下っていく温度の中で、パルバティの手指の疼痛がまたうずいた。  体を動かすのも億劫だったが、彼はのろのろとクルーザーから這い出して、隊長車にのりうつった。ラインハートは、二言三言、ルートの偵察についてツラギと言葉をかわしたあと、ハッチを閉めて発進させた。  ラインハートは、終始無言のままだった。パルバティは、できうるかぎり正確にギュンターの死の模様を彼に伝えた。パルバティを助けようとして、ギュンターが水にのみ込まれた所で、一度だけラインハートの眉が動いたが、あとはうすい唇をかんだまま、一言も口をきかなかった。  パルバティにとっては辛い沈黙だった。むしろ、ラインハートに罵倒され、怯儒をなじられた方がどれほど楽かわからなかった。不意にラインハートが口をきいた時には、だからパルバティはぎくりとした。 「私は……このあたりの島へ、ムルキラの調査に来たことがある。あの時は、ギュンターと二人だった」  その言葉の意味を理解するのに、パルバティは少しの時間が必要だった。何か突拍子もない話題のように感じられたが、しかし彼は黙ってこの無口な隊長の言葉を聞くことにした。 「夏の終わりだった。島伝いに調査をつづけてこの近く、といっても百キロ以上離れた島のひとつに、キャンプを作った。すでに一〇日以上もそこで我々はねばっていた。……私とギュンターは別行動をとって各地を踏査していたのだが、予定の時間をすぎても、キャンプに彼が帰ってこなかった。私は丸三日のあいだ一人で待った。彼はスノー・バイクで行動していたが、一日中太陽の光が照らしている季節だ。道を失うはずはない。すでに食糧もつきているはずだった。私は捜索に出るか、それともその場にとどまるべきか決めかねていた。  その時、私は見た。ムルキラの群だった。はるか数百メートルにも及ぶ上空を、群をなして、声もなく滑空していくのを見たのだ。私は夢中でカメラを持ち出し、撮りまくった。——あとで現像してみてわかったのだが、その集団よりさらに上空に別の群が写っていた。計算してみると、上空の集団は数千メートルの高空を飛んでいた可能性もあった。実は、それが私のムルキラをこの眼で見た最初のことだった。それまでは、彼らの棲息地らしい所を発見していたにすぎなかったのだが。  それからしばらくしてギュンターはキャンプにあらわれた。彼は憔悴し切っていたが、意識ははっきりとしていた。おどろいたことに、彼はムルキラと会い、話をしたと言った。ただし、彼自身も認めていたが、あるいはそれは幻覚かもしれないということだった。彼は、バイクのエンジントラブルのために露営を余儀なくされ、さらに修理をするうちに重大な過失を犯した。地図をなくしたのだ。日照をさえぎる物のない夏の雪原で、数日の間、露営をするうちに体力を消耗し、食糧もつきてしまった。その時に彼は全くの偶然から、ムルキラの棲息地に出たらしい。そして、その中の群をひきいるムルキラと、彼は言葉をまじえたという」  パルバティは、ぼんやりとギュンターのことをおもい出していた。そうして話しているラインハート隊長はギュンターとよく似ていた。スノー・クルーザーの振動に身をまかせていると、つい彼といるような錯覚におちいるのだった。ラインハートはパルバティの方を向いて言った。 「荒唐無稽と思うかね。こんな話は」 「いや……つづけて下さい」  パルバティにはその時の光景が、あたかも自分の体験したことのように理解できた。照りつける太陽、その光と熱とを反射し、熱気をはらんで温度をあげる白い雪原。雪原さえなければ、それは彼がかいま見た、あの光景と寸分違わなかった。時には、雪原は荒野よりも剣呑な熱気をふくんでいる。  ラインハートはつづけた。 「ギュンターに対し、ムルキラは言った。お前は我々の領域《テリトリー》を侵す者か、と。彼はそれを否定した。我々は安住の地を求めて、この惑星に植民しようとする者だ。決して君達の生活をおびやかすことはしない、と。そいつは、じっとギュンターの眼を見ていたという。心の深い奥底まで見通されるような深い眼だったという話だ。ギュンターは、現在位置を見失い、私と邂逅できないことを告げた。航続距離の短いスノー・バイクでは、基地まで単独行はとても無理で、死は目に見えていると。ムルキラは、彼に道をおしえた。と言うより、彼らの飛行ルートの上に、我々のキャンプがあったから、彼らの飛翔するのをたえず地平線上に見ながらギュンターは進みつづけ、ようやくキャンプに達することができたという話だ。信じるかね。この話」  パルバティはそれに答えなかった。ただ、それを肯定するような質問をした。 「彼らは、そこからどこへ行ったのだろう。そして、どこから来たのだろう。そして……」  何者なのか、と言いかけて彼は口をつぐんだ。あまりに意味のない問いのような気がした。しかし、ラインハートは、それに答えて言った。 「たしかなことは、ギュンターが彼らに出会った地点はただの給餌のための中継点でしかないということだ。私とギュンターはその後、その場所へ引き返したが、ついに発見することができなかった。それは、そのあたりではごくありふれた露岩帯だったし、ギュンターの記憶もあいまいだったから、無理のないことだったのかもしれない。あるいは、本当に彼の見たのは幻覚だった可能性もある。昏倒していたギュンターに、ムルキラが上空から意識を送ったのかもしれない。彼もその可能性は否定しなかった。  どこへ行くのか、という話だったな。その写真に写っている上空の飛行集団だが、連続して写した写真から計算してみると、彼らは時速四〇〇キロ以上で飛行していたことになる。それは、この惑星の極からもう一方の極まで、わずか五〇時間で達してしまう速度だ。ギュンターはそのことで、彼なりの主張をしていた。彼等が一種の“渡り”をする鳥群であることは間違いない。だが、二つの季節の棲息地を探し出すには、我々には資料も設備も足りなさすぎた。上空の気流も、全惑星的な気象の配置も我々は知らなかったし、惑星のジオイド変形やそれによる極地方の気圧減少など思いもよらないことだった。だから、我々は我々の知るかぎりの材料から推定するしかなかった。ギュンターは、ムルキラが高度な精神文明を持っているという考えに固執していた。それは、彼の体験から無理からぬものだろうし、あの岩のレリーフを見ると一層それは説得力がある。  つまり、太古においては彼らは二つの種族にわかれていたと彼は主張していた。一方は大地に定着し、物質的な文明を栄えさせた種族——多数派であり、もう一方は物質的なものは何物も持たず、ただ精神的な文明を発達させた種族——少数派だ。あるいは現在のムルキラは、物質文明を発達させていた種族から“神”に近い概念でとらえられていたのかもしれない。ギュンターはその傍証として、あの岩にきざまれたレリーフをあげていた。あれはとても自画像とは思えない。“神”を象《かたど》った偶像だと。つまり、数万年前に地軸が傾き、公転軌道に異変が生じるといった大変革の年に、定着していた彼らの多数派は滅亡し去り、“渡り”をする現在の彼らだけが生存し得たというのだ。我々は、彼の考えをあまりに突拍子もないものとして支持はしなかった。何と彼は、ムルキラの渡って行く土地として他の惑星をあげていたのだ。生身の体しか持たない彼らが宇宙空間を飛翔する——異なる惑星の間を季節にしたがって移動してゆく渡り鳥。  我々は彼の主張を夢物語としてしりぞけた。しかし、調査を押しすすめるにつれて、彼の主張をうらづける有力な証拠がいくつか発見されたのだ。まず、この惑星の生存可能区域とムルキラの飛翔経路。その後何度か目撃された飛行中の写真を検討すると、彼らの行く先には“ここより生活しやすい場所”というのは存在しない。この惑星上を“渡り”のフィールドと固定してしまうならば、季節によって生活の場を移動するという行動の要因が、無意味なものになってしまうのだ。  次に、この惑星のキャパシティだ。彼らの唯一の食糧である、露岩帯に自生する地衣類の発育年数は非常に長い。ムルキラの全個体数と、地衣類の発育し得る露岩帯の総面積、そして発育年数を——いずれも推定によるものだが——計算してみると、ムルキラによってこの惑星上の地衣類全部が食いつくされるまでに要する年数は、たかだか数百年、推定した数字を一杯にひろげても千年をこえることはないだろう。だから、間違いなく——それがこの惑星上にあるか否かは別にしても——この極地の向こう側には何か[#「何か」に傍点]がある。あるいは何処か[#「何処か」に傍点]と言うべきなのか。  そして、ここ数日の間に我々はこの惑星について多くの新知識を得た。極地方におけるジオイドの急速変形と、それにともなう大規模な気象の変動、これらと、ムルキラの行動に何らかの関連がありそうな気がする。とは言っても、正確な変動のメカニズムを知らないかぎりは、単なる想像にしかすぎないが」  パルバティは心の中にイメージを描いていた。漆黒の宇宙空間の中で、おそろしく長い周期をもって振動するひとつの惑星。その惑星の振動にあわせて宇宙空間に翼をひろげ、飛翔する鳥群。彼は聞いた。 「彼らは、この惑星のエネルギーを利用して“渡り”を行なっている、というわけですか」  しかし、ラインハートはかぶりをふった。 「鳥は嵐の中では行動しないものだ。その類推がムルキラにあてはまるなら、変動のエネルギーが渦をまく宇宙空間で行動するのは、嵐の中で小鳥が舞うのに等しい。しかし、エネルギーを何らかの形で利用していることは事実だろう。もっとも、彼らが惑星間の“渡り”を行なっていると仮定しての話だが、どういう形で利用しているのか、私は知らないが。……ところで、君の故郷には、一般的な意味での渡り鳥はいるかね」  突然の質問にパルバティは、どぎまぎとした。 「以前はいたはずですが……私の故郷は開発が進められていて……私の知識は、ライブラリーの中での物だけです」 「私の知識だって同じようなものさ。地球という土地自体、私は知らない。ただ、少しばかり知識あさりをした程度だが。不思議なことだが、地球の渡り鳥についてさえ研究者は充分な知識を持っていたわけではない。ある種の渡り鳥は、二万メートルもの高空を飛翔していたと報告された。……これは驚異的な高度だ。地上大気の二十分の一しかない高空——成層圏は——並の航空機では、到達不可能な高度だ。この宇宙の、いやただひとつの惑星のことさえ我々には未知のことがあるのと同様に、渡り鳥のことも未知な点が多いと言う」  スノー・クルーザーのエンジン音が微妙に変化していた。ライトに照らされた前方の雪面が次第に傾斜をゆるくしていた。ラインハートは言った。 「ながながとずいぶん話をした。妙なことを言う奴だと君は思っているかもしれないが」 「いや、そんな……」 「だが、私は君にムルキラのことを話しておきたかったのだ。我々の隊の中ではムルキラの調査にかかわっているのは全部で四人だけだ。私とギュンター、カトウ、それともう一人いたが、少し前に事故で死んだ。そして、ギュンターも死んでしまった。私は今となってみれば彼の突拍子もない主張を認めたくなっている。事実だけを観察すべき我々のとるべき態度じゃないことはわかっているがね。ただ、ここ数日のうちにおこった出来事を材料に、もう少し彼とムルキラについて議論したかった。それが残念といえば残念だが」 「私は……」  言いかけてパルバティは口をつぐんだ。一体彼に何を言えばいいのだろう。なぐさめの言葉など全く意味のないことのように思えたし、どのような心のこもった哀悼の言葉も、口から出たとたんに外交辞令以外の何物でもなくなるような気がした。ラインハートは屈託なく笑って言った。 「気を悪くしないでくれ、君達の仲間はすでに四十人以上が死んだ。いずれは我々のうちからも死ぬ者が出ることは覚悟していた。もうすんだことだ。ただ、もし私とカトウの両方が死ぬことになれば」彼の言葉をさえぎってパルバティは叫んだ。 「そんな!」 「可能性は考慮すべきだ。もしそうなれば、ギュンターの主張を知るものはいなくなる。その時には君に我々にかわってこのことを発表してほしいのだ。資料は我々の基地にある」 「それはわかりました。しかし」 「たのんだよ。さて、と」  彼らは小高く盛りあがった雪の台地の上に停止していた。この島の主稜をなす山岳を大きく迂回して、反対側の海岸に出るルートを発見したのだ。 「もうじき明るくなる。反対側に下るルートのメドがつけばさっきの場所に引き返そう」  そう言いながら彼は通信機をセットして、カトウを呼び出した。すでに三〇〇キロほどの近くにまで接近しているはずだったが、交信状態はかなり悪く、ようやく簡単な内容の交信ができた。  交信をおえた時には、すでに周囲は明るくなっていた。      16  一二時間後にカトウ達の雪上車は追いついた。六五度島嶼群をぬうルートは、あまりのびていなかった。何よりも登攀能力の劣るスノー・クルーザーでルート偵察を行なわなければならないことが、能率をきわめて低くしていた。  さらに、島の沿岸部をぬうルートは悪天候が続き、海峡部に出ると、程度の差こそあれ着床氷山群に悩まされた。これら氷山群をぬう海峡横断は、HPが地平線下に沈んだ時にのみ行なわれた。それでも、雪上車の重い車体が通過する際には海水が氷の割れ目から噴出し、時にはブロックにルートをはばまれて往生し、氷をたたき割りながら強引に突破していった。  全員が深い疲労につつまれていた。回復したパルバティや、雪上車に乗り組んでいたレムも、クルーザーによるルート偵察に加わった。夜の闇の中で、そして白く舞いあがる地吹雪の中で遠く氷山が崩壊する音が何度か聞こえた。そのたびに彼らは不安な視線を闇の奥へ送った。もちろん、何も見えなかったが、一度だけすぐ近くに轟音が聞こえ、その直後にずっと遠い所で島の波打際の氷原との接合部分が砕け、水柱が空高く舞いあがったことがあった。水中と、氷原の両方を小規模な津波が走ったのだ。  六五度島嶼群を抜けてD・二点に達したのは、予定を二〇時間すぎた第一七九日のおわろうとするころだった。D・一より一二〇時間あまりをついやしていたのだ。そこからD・三までは、沿岸部の乱氷帯をのぞけば、ほとんど障害のない氷原のはずだった。たとえ低緯度帯に広大な開水面があらわれたとしても、スノー・クルーザーには何の問題もないはずだった。彼らは、無言のまま地吹雪の中で積荷のつみかえを行なった。スノー・クルーザーのそれぞれにはタンクに燃料を満タンにし、各一台ずつのスノー・バイクと、残されたキャパシティの限度一杯まで燃料が積み込まれた。  ギュンターの欠けた穴をレムが埋めて、ただひとりカトウだけが雪上車をかって基地に帰ることになった。一度通過したとはいえ、巨大な氷山がたえず移動する海峡と、複雑な地形の島嶼群を通過し、さらに広大な氷原を越えての二〇〇〇キロの旅は、単独で行なうには遠すぎる距離だった。普通なら不可能の一言で片付けられる旅を前にして、カトウは笑いながら言った。雪上車をここに置き去りにするわけにもいかないし、二台のスノー・クルーザーだけでは、四人が限度一杯だ。そいつは、よくわかっているし、この惑星に春が来れば、このあたりはとても通過不可能だ。危険なようだが、今行くしかない。今しか。  それから、彼は雪上車に乗り込み、ハッチに手をかけながら言った。 「俺はいつもひとりだった。ひとりが一番安心できるのさ」  そして彼は視線をそらし、何事か言おうとして口ごもっていたが、やがて「それじゃ、な」とだけ言ってそのままエンジンをふかし、手をふることもなく、出発していった。実にあっけない、未練のない別れだった。そして、残された彼らもすぐに反対側へ発進していった。 「不思議な男だ」  満載した積荷のために、かなり車体は重かったが、それでも状態のよい氷原をとらえて、闇の中を快速で滑走するクルーザーの中で、パルバティはそう言った。ナビゲーターシートにいるレムは、少しの沈黙のあと、ぽつりと言った。 「あの、カトウという男か」  レムは興味なさそうに言った。パルバティはかまわずつづけた。 「一人で行くことにずいぶん自信があるようだった」 「というより、集団を組んで行くことに恐怖を感じる男だ。彼は」 「なんだって?」パルバティは怪訝そうに聞き返した。 「私も、彼とはほんの数十時間、同じ車両で行動しただけだが、彼は妙な自信を持っている。自分一人で、自分の思い通りの行動をとれさえすれば、絶対に死ぬことはあり得ないと信じている」 「つまり、自分だけは絶対に死なない、という自信か?」 「少し違うな。彼はすごく慎重で、自分でも言っていたのだが、おそろしく臆病なのだそうだ」 「臆病? 彼がか?」 「ああ、だからどんな時でも、いつも何重もの安全策を用意してある。それでもやばい、と感じると、さっさと逃げると言っていた。だから今度の作戦のように、役割を与えられて、逃げようのない責任をまかされた時には死ぬほど不安なんだと。自分ひとりの判断で逃げるわけにはいかないし、ルートも、タイムスケジュールも、あらかじめ決められていて勝手に変えることはできないから恐ろしいということだ。だから、彼の役割が終わって、引きあげる時になって、あれだけあっけらかんとしてられたわけさ。彼は、びっくりするほどたくさんの食糧や燃料をあの雪上車に積み込んでいたぜ。いざとなったら、どこかに雪洞でも掘って、冬がおわるまで一人で越冬するつもりだ」 「それを……彼は臆病だと言うわけか。しかし、本来の計画通りなら彼は君と二人で基地に帰るべきはずだった。単独なら、事故が起こった時に、どうしようもないではないか」 「そこが彼の論理の違うところだ。彼は一人で行くことになってかえって安心しているはずだ。私と二人なら、私の体力や精神力が大丈夫か、それが負担になるらしい。もし私と帰路も一緒だとして、たとえばどこかで越冬するか否かの状況になった時に、私の体力がそれに耐えられるかどうかを心配して最善の判断は下せない、というのだ。それに、一人の場合、安全に生還できる確率が五〇パーセントと仮にしよう。これが二人になると生還率は二五パーセント、三人なら一二・五パーセントに下がると主張している。つまり、同行者は事故が発生した場合に、自分の危機を救う存在ではなくて、事故発生の確率をふやすやっかいなお荷物以外の何物でもない、とそう考えている」 「大した自信じゃないか」 「自信というか……そうかもしれないが……ことによると、彼は本当におそろしく臆病な人間かもしれない。ただし、自分自身の生命を考えることを度外視した……。  かわろうか」  最後の言葉は、操縦系を、彼のシートにうつそうとして言ったものだった。 「ああ、そうしよう」  いくら休息しても消えることのない疲労が彼らをつつんでいた。パルバティはふり返り、カトウが一人、苦闘しているはずの闇の彼方を一瞥したが、すぐに深い眠りに落ちていった。  二台のクルーザーは、ほとんど障害のないまま並進してクルージングをつづけた。沿岸から離れるにつれて乱氷もずっと少なくなり、天候も回復していった。低緯度帯に入るにしたがってあらわれた広大な開水面は、むしろ行程をはかどらせた。途中、一度浮遊氷山の上に着床して、積荷の燃料を空になったタンク内にうつしかえた以外は、全くとまることなく疾走した。彼らが春海洋と秋海洋を分断する、夏大陸から長くのびた半島の地峡の春海洋側に着いたのは、D・二点から四〇時間余りを経過してからだった。タイムスケジュールの遅れは少しも縮まってはいなかった。その地峡を越えた秋海洋側がD・三点だった。彼らは上陸してからも、停止することなく地峡を横断し始めた。  横断地点は、さほどけわしい地形ではなかったが、整備なしにすでに一六〇時間を走りつづけて来たスノー・クルーザーには、かなり苦しい登攀になった。地峡の最高地点に到着する前に、氷原においてすでに不調だった一台のクルーザーがあえぎ始めた。積荷のスノー・バイクをおろして自走させたが、それでも速度が情ないほど、落ち始めた。ついに彼らはそこをD・三点に変更し、不調のクルーザーをそこに放棄して、残されたクルーザーとスノー・バイクを使って積荷を最高点にリレーした。そのために、さらに時間がおくれた。最高地点で、すべての積荷を一台のスノー・クルーザーに積み込み、彼らは狂ったように地峡をかけ下り、再び氷原をすさまじい速度で疾走し始めた。  秋海洋をクルージングし、バインター氷海に入って中央部を通過するうちに、彼らは誰もが不安に口をつぐんだ。クルーザーの速度はいまだおとろえていない。しかし、それは燃料がほとんどカラに近いためだった。もしも、クルージングの最終点であるバインター前進基地にまで到着し得なかったら、あるいは、吹雪の中で基地を発見できなかったら、結果は悲惨なものになる。残り少ない燃料を気にしながら彼らの不安はつのった。  しかし、その不安は前進基地から自動発信する誘導電波をとらえた時に、安堵のため息にかわった。彼らは六〇〇〇キロにおよぶ旅行をおえて、バインター前進基地にまでたどり着いたのだ。最後の難関である前進基地への急な登り——海岸線にあったはずの基地が、内陸部の高度一五〇〇メートルもの高地に上昇していたのだ——をあえぎながら登り、出力不足のクルーザーを二台のスノー・バイクで牽引して引きあげながら彼らは長かった六〇〇〇キロの旅を想い出していた。  だが、それまでの行程よりさらに困難な道程が、氷河をさかのぼって内陸氷床にはい上がり、希薄な大気の中をさらに極点基地にまで到達するという、最も困難な道程が残されていたのだ。  彼らには、わずかな休息も許されなかった。海岸線にあったはずの、今は氷河をさかのぼった奥深くに後退していたバインター前進基地に入り込んだのは、予定より丸一恒星日おくれた第一八二日の二七時だった。ただちにブリザード前進基地との通信回線が開局され、手のあいた者達は、この前進基地にストックされていた装備のチェックを始めた。 「ああ……たった今到着した所だ。一人犠牲者が出た。いや……地球人だ。……そうだ」  通信機に向かうツラギの声が、スノー・クルーザー格納庫の中にいるパルバティにまで聞こえてきた。その無造作な状況報告は、パルバティには非常に居心地の悪さを感じさせるものだった。  ラインハートはそんな彼にはおかまいなしに、設営資材や露営具の山を、端からひとつずつ点検していた。  バインター前進基地にストックされていた二台のスノー・クルーザーは、いずれも完璧なコンディションに整備されていた。ただし、ここから先の行程では、偵察以上の役には立ちそうになかったが。パルバティが、クルーザー各部の点検を終えて、エンジンを消した時、レムの呼ぶ声がした。全員が観測室に集まった時、レムの手には湯気の立つ食器があった。彼らは歓声をあげた。九日ぶりに会う、温かい食事だった。彼らは口もきかずに派手な音をたててむさぼり食った。 「現在、第一八三日の零時半だ」全員が食べ終わるのを見はからったラインハートが、そう切り出した。 「我々に今、最も必要なのは休息だということは、わかっている。しかし、時間的な余裕はないということも理解してもらいたい」  そう言いながら、ラインハートは数枚の写真を彼らに示した。それは、バインター氷海から内陸に向かって食い込む、三つの氷河のクローズアップ写真だった。 「ルートはこの三つのうち、どれかをとることになるが、これらはいずれもブリザード前進基地から我々が下って来た氷河のようにやさしいものではない」  あれをやさしいと言うのか。パルバティはあの全速力で強行突破した氷河のことをおもい出し・てぞっとした。 「もちろん、上部での傾斜はかなり急だから、積荷と燃料を満載したスノー・クルーザーでは登攀不可能だ。スノー・バイクであっても、荒れた氷河の中を進むのは、相当な困難が予想される。この写真で見るかぎり、源頭部では六〇度を越す傾斜の雪壁になっている可能性もある。おそらく、そうなると考えておくべきだろう」  他の者達は顔を見合わせた。ツラギが当惑したような顔で聞いた。 「そんな雪壁があらわれたら一体どうするのだ」  ラインハートは、こともなげに言った。 「スノー・バイクを分解して、上部雪原まではこびあげる」  これだ、地球人というやつは。パルバティは内心あきれながらそう考えていた。ラインハートは言った。 「さしあたって我々はこれらの氷河の偵察をする必要がある。ただ三つのうち、この基地のあるG・二二氷河は上部が悪い。ほとんどルートを得る可能性はないし、上部に抜け出た所で極点までの雪原は相当クレバスが発達している。だからこのG・二二は除外する。あとの二つの氷河を二組にわかれて偵察しよう。私とパルバティは、G・二一の氷河を、他の者はG・二三の偵察を担当してもらおう」  ラインハートは時計を見ながら言った。 「今から三時間後にHPが昇る。各氷河の上部を偵察して、一七時間後に再びここに集合しよう」  それから彼は、ツラギ・レム組に、偵察の要点を指示したあと、つけ加えた。 「ひとつだけ守ってもらいたいことがある。危険を感じたら、すぐに引き返してもらいたい。我々には人員も機材も限られている。もう一度の事故が発生すれば、この計画自体が実行不可能になるだろう」 「危険を感じられる余裕があればいいが」  ツラギがぼそりとそう言った。 「他に質問は?」誰も何も言わなかった。彼らは出発した。      17  沿岸に近づいても、春海洋の時のように乱氷帯はそれほどひどくはなかった。ひとつには、このバインター氷海の水深が相当深いこともあった。それに加えて氷海は安定しており、オープンクラックが結氷した跡も、ほとんど見かけなかった。風が強く、時おり吹きすぎる突風がクルーザーをゆすぶりはしたが、天候はそれほど荒れてはいなかった。しかし、それは単にこれから来るはずの嵐の予兆でしかなかった。安定した氷原から、上部内陸雪原までの標高差が大きく、そこに至る氷河の険阻な地形を想像させ、天候の安定は、やがて来る逆季節風の吹き出し——低緯度帯から極への季節風——による継続的な悪天を予想させた。  ラインハートとパルバティの乗るスノー・クルーザーが、G・二一氷河の河口をなすフィヨルドに入ったのは、前進基地を出発して二時間をすぎてからだった。両岸にそそり立つ黒い岩壁は、威圧的にそびえ、サーチライトの届く範囲のはるか上にまで垂壁を屹立させていた。フィヨルドは、すぐに着床氷による乱氷帯にかわった。十数日前の異変で、深い水深を持つフィヨルドの海底が海上に浮かびあがり、周囲の大陸ごと一時的な氷河として姿をあらわしていたのだ。  フィヨルドの屈曲を何度か過ぎたあと、彼らはそこに着いた。そこは、旧海岸線で、通常での氷河が海氷原に落ち込む最下流部になっていた。すでに気圧測定による高度計は、標高一五〇〇メートルを示し、そこから見る氷河上部はそれまでの旧海面下よりも荒れていた。再び満ちて来るHPの赤い光の中で見る氷河上部は、わきたつ雲と、烈風の中で見えかくれしていた。 「よくないな」氷河を見上げていたラインハートが、ぽつりとそう言った。 「上部は、もう季節風の影響を受けはじめている」  そのまましばらく彼は上を見あげていたが、やがてハッチを開いて外に出た。——決して慣れることのない寒気が、車内の温度を急速に下げ、パルバティはあわてて手袋をはめて外に出た。風は氷河の海洋側から源頭に向けて吹きあげている。地形からして、ここはバインター氷海の風の通り道になっているようだった。時おり雲の切れ間からその一部を見せる氷河源頭部は、悪絶な様相をかいま見せていた。  ラインハートは、クルーザーからスノー・バイクを引っぱり出すと、それに装具をとりつけ始めた。パルバティも、黙ってそれを手伝った。小さなスノー・バイクは、わずかばかりの装具を固定してしまうと、もう運転者一人だけが乗れる余裕しかなかった。ラインハートは、パルバティにそこで待つように言った。そして、待つ間に、風向と風速、及び気温の観測をするようにとつけ加えた。 「一二時間後、もう一度HPが昇って沈むまでには帰ってくるつもりだ」彼は、冷気に体をさらし、あいかわらず氷河上部を少し不安そうな表情で見ながら言った。 「明るいうちは、氷河上部から眼をはなさずにいて、もし雲が切れたら、少しずつでもいい、その写真を撮っておいてくれ。それから、暗いうちは、サーチライトを決して消さず、たえず私のいる方に向けておいてほしい」  パルバティは内心ほっとしていた。いずれは自分も、車両に守られてではなく、生身の体を冷気の中にさらしてこの雪の中で行動する時が来ることはわかっていたが、それがわずかばかり先にのびたことが——自分がいかに卑怯かということを感じながらも、安心せずにはいられなかった。あの、雪にまみれた不時着機から、前進基地へのおそるべき行進や、恐怖の中で逃げまどった氷の回廊のことは、いまだに生々しい記憶として彼の心にあった。派手な音をたてて、ラインハートのスノー・バイクが氷河の中に乗り入れて行き、すぐに視界から消えた。パルバティは、ひとり残された。  たまらないほど目が重かった。車両の中にもぐり込んだまま、時おり雲の切れ間から姿を見せる氷河上部を写真におさめるうちに、周囲は暗くなった。車外に突出させた気象観測機を自動にセットしてしまうと、あとはすることは何もなかった。彼は正体もなく眠りこけた。夢も見なかった。  どれくらい時間がたったのか、パルバティは眼ざめた。あいかわらず風の音がしたが、彼が眼をさます直前に、何かそれとは違う重い音を聞いたような気がしたのだ。彼は窓の外をすかして見た。闇の中を、サーチライトの光がまっすぐにのびている。いくらもいかぬうちに、その白い光は闇に呑み込まれていた。その時、ふたたび音が聞こえた。遠い、しかし重いひびきだった。はるか遠くで打ちならす大砲の一斉射撃か、あるいは雷鳴のとどろきのようにも聞こえた。その音は長く尾を引いていた。かすかな音ではあったが、どれだけ遠くはなれていても、そのひびきの持つ破壊的なエネルギーは伝わるものと思われた。  雪崩か。  彼は記憶の底から引き出したその言葉に戦慄した。言葉と共に、過去のいくつかの記録の断片がうかんだ。——あれはどこの観測隊だったか、かなり以前、ここと似た条件の惑星の山岳地帯で、越冬観測を行なった隊があった。その基地は、特に雪崩に対して何重もの安全策が講じられていた。地形的に雪崩の起こり得ない谷間の小丘陵に基地は建設されたし、周囲の樹木も地形も、少なくとも一〇〇年間のうちに雪崩が起こった形跡は全くなかった。基地自体も堅牢な構造で、もし谷間を埋めつくす雪崩が発生しても、押しつぶされることなく、内部は快適に暮らせるはずだった。  その絶対安全なはずの基地が越冬中に連絡をたった。同じ惑星で越冬していた他の隊が、春に調査におとずれた時には、その基地は基礎を置いた丘陵ごと消えていた。数百年に一度という巨大な雪崩が、かなり離れた谷に落下し、その爆風が衝撃波となって、基地を丘陵ごと吹きとばしたのだ。残骸は数キロにわたって散乱し、中の一部は一〇キロ以上も吹きとばされていたという。  それほど大規模な雪崩に遭遇することはまれだとしても、直撃をうければこのスノー・クルーザーは、ひとたまりもなく押しつぶされるだろう。たとえ、その場は持ちこたえて即死はまぬがれたとしても、結果はより悲惨になるだろう。雪の中に閉じ込められたまま、一〇日かあるいは二〇日以上も、餓死か、さもなくば凍死するまで身動きできないまま、生きていなければならないのだ。  今までどうして雪崩のことに気がつかなかったのか、むしろ不思議なくらいだった。周囲の地形は、いかにも雪崩の発生しやすい地形ではないか。ラインハートは、出発の時にはたしてこのことを知っていたのだろうか。彼は時計を見た。明るくなるまでに、まだ一時間はある。何もなすべきことはなかった。ただ待つ以外には。不安な気持でいるうちに夜が明けた。氷河上部はあいかわらず厚い雲におおわれ、吹き荒れる強い風が、赤く染まった雲を、まるで煙のようにまき上げ、生き物のようにのたくらせていた。もう、全く雲は切れ間を見せなかった。そして、時おり雪崩の音らしい遠い音が低くうなりをあげ、雲の一部が爆風で吹き上げられるのさえ、望見できた。パルバティは、じりじりしながら待った。一時間、二時間と時は容赦なく過ぎていった。無駄とはわかっていたが、何度も彼は通信機からラインハートにコールを行なった。返信はなかった。  約束の時間は過ぎた。再び周囲は光がうすれ始め、二度目の昼時間は終わろうとしていた。すでに暗くなった氷河上部には、何の動きも見えなかった。もしやスノー・バイクのヘッドライトが見えないかと、何度も眼をこらして闇の中を見つめ、それでも納得できずに、クルーザーのサーチライトを一度消し、ハッチから半身をのり出して、くまなく氷河の端から端までながめまわした。すべてが無駄だった。  死んだのか。彼は。  不安は恐怖にかわった。ラインハートも死んだとすれば、残された者達だけでこの氷河を突破して極点基地に向かうことは不可能だ。すでにHPが沈んで一時間が過ぎていた。彼は決断を下しかねていた。この場所も安全ではなかった。ただ漫然と待つことは、いたずらに危険を増大させるばかりだったし、何の対策も立てられない。彼一人とクルーザー一台では、ラインハートを捜索することさえ不可能なのだ。といって、ここを離れることもためらわれた。もし、ラインハートが生還しても、航法装置もないスノー・バイクでは、バインター前進基地まで帰れないだろう。少なくとも、下山した時には、彼は相当体力を消耗しているはずだ。  パルバティは、時計と地図を見比べながら必死で考えた。次にHPが昇るまであと四時間。G・二三氷河での偵察を行なっているツラギ達と合流してここに引き返して来るまでの所要時間は、少なくとも三時間。あと一時間だけ、ここにいよう、それでだめならツラギ達と合流すべきだ。ようやくその結論を出した時だった。奇跡のように光が見え出したのは。氷河の上を見えかくれするヘッドライトと共に、エンジン音も聞こえて来た。パルバティは叫び声をあげた。サーチライトの他に、ヘッドライトを最大光量で照らし、照明弾まで打ちあげた。ラインハートの姿が認められるまでに近づいた時、彼はたまらずハッチを開け放って車外へ飛び出した。あまりあわてて、手袋を車内に置き忘れたほどだった。  しかし、スノー・バイクからおり立った彼を見た時、パルバティは小さなおどろきの声をあげた。そこにいたのは、ギュンターだった。彼は、はじめてパルバティの前にあらわれた時のように、雪をこびりつかせた濃いヒゲの中で、ひとなつっこい眼を見せて笑った。 「どうした。手袋くらいしろよ。凍傷にやられるぞ」  そう言いながら彼は、手っとり早くスノー・バイクをクルーザーに積み込んだ。パルバティは、ようやく最初のショックから立ち直っていた。ギュンターであるはずはなく、やはり彼はラインハートだった。しかし、二人はおどろくほどよく似ていた。 「どうした。私の顔がどうかしたのか」  なおも呆然としているパルバティに気づいて、ラインハートはそうたずねた。 「いや……君はそうしていると、ギュンターにそっくりだったもので、つい」 「そのことか」ラインハートはつまらなそうに言いながらクルーザーに乗り込んだ。「似ているはずだ。彼は私の弟だから」  パルバティは電撃に打たれたように立ちつくしていた。冷気が彼の指先を万力のように締めつけるまで、乗車するのも忘れていた。 「この氷河は見込みがない」  乗り込むとすぐに発進し、氷河から下っていくクルーザーの中で、ラインハートは両手をもみながらそう言った。ヒゲや眉にこびりついた雪は、固い氷となってたれさがり、コクピットのヒーター効率をあげても、なかなか融け落ちそうになかった。体中からたまった冷気を噴出させ、体温をあげようとするように体をゆり動かし、携行口糧をほおばりながら、ラインハートは上部の状況を話した。 「氷河の半分までは登ってみたが、源頭も、側壁も、相当手ごわい。極地のエキスパート、と言うより訓練をつんだ極地クライマーが四人以上でチームを組んで、一週間はかかるだろう、上部に抜け出すまでに。ただし、天候が安定した状態ならの話だが……。何にしろ、我々にはそれだけの余裕はない。それに、必ずしもエキスパート・クライマーの集団と言うわけでもない」  少しの時間ののち、その言葉の意味することを理解して、パルバティは妙な顔をしたが、ラインハートはおかまいなしに続けた。 「上部は二つの支氷河にわかれているが、そこに至るまででさえ、クレバスが多くてかなりルートは困難だ」 「雪崩に遭わなかったか?」 「遭った」彼はなんでもない、という風に言った。「あれは呼吸と地形をつかんでおけば、特に危険なものではない」そう言ってから彼は少し考えてつけ加えた。 「私の、今までの経験ではという意味でだが。しかし、それよりも、もっとやっかいなのは、季節風の影響だ。すでに極方向への風が吹き始めている。こいつは氷河の軸線内に上昇気流を押し上げ、悪天の原因になっている。それも、時間を追って増大している」  ラインハートは風向、風速のデータを読みながら、そう言った。  三時間のクルージングで、彼らはバインター前進基地に帰着した。すでにツラギ達は帰っていた。全員の無事を喜ぶいとまもなく、ラインハートは彼らの報告を聞いた。タフな奴だ。パルバティは、半ばあきれながらこの隊長を見ていた。  彼は、眉をよせて、G・二三の上部地上写真を見ていたが、やがてその中の一枚をとり出し、長い間無言でそれを見ていたあと、ポツリと言った。 「G・二一よりはましだ。これなら二日ほどでやれるかもしれない」  ただちに二台のクルーザーに、前にも増した装具が積み込まれた。なかには直径四ミリ、全長数百メートルにもおよぶ軽量ワイアロープもあった。それは、五〇メートルずつの束が十数巻にわかれたもので、基地の設営資材だったが、ラインハートが自分達の基地から持ち込んだ道具類と共に、どう使うのかパルバティ達には全く見当がつかなかった。  G・二三氷河をさかのぼり、旧海岸線である新旧氷河の接合点に達したのは、HPがまさに沈もうとするころだった。そこから上の、HPの最後の残照にうかぶ氷河上部は、やはりその一部しかかいま見せてはいなかった。しかし、G・二一に比べていくらか幅が広く見えた。雲間からときおり姿を見せる上部は、ゆっくりと左へ曲がり、源頭は彼らの視界から消えていた。二台のクルーザーから装具とスノー・バイクをおろしたあと、ラインハートはレムに言った。 「君は帰ってバインター前進基地で待機していてくれ」  レムは、一瞬怪訝そうな顔をしたが、やがて言った。「何と言った? 私にここから引き返せと言ったのか」  彼だけではなく、ツラギも、パルバティも、理解できないというように彼らのやりとりを注目していた。 「君を戦力から欠くのは喜ばしいことではない。それは理解してほしい」  レムは、ますます納得できないというふうに言った。「説明してくれ。なぜだ」 「理由は三つある。ここから先の我々の行動は、分散しては行なえない。かと言って、四人同時に行動することは、機動性が低下し、非能率的だ。そして、氷河上部では今までに比べ、比較にならないほどの危険が予想される。危険は分散させるべきだ。もしも、前線において人員に損失が出た場合には、君に再び参加してもらうことになるだろうが」  例によって反論を許さない、ラインハートの主張だった。しかし、パルバティは彼の言うことがどんな場合にも無条件に正しいような気がしていた。 「第二の理由は、バインター前進基地において、HPの監視をひきつづいて行なう必要がある。HPの極点基地直射は避けられそうにないが、直射が起こらないという可能性がわずかでも残されている現在、これを監視する必要がある。君の判断において、極点基地に向かう必要なし、と認められた時にはそのことを我々に知らせてほしい。  第三の理由は——危険の分散ということにつながるが、もし我々が極点に到達するしないにかかわらず、三人とも死亡した場合には、君はバインター前進基地で越冬し、夏に来る船隊にこのことを報告してほしい。そして、この惑星のプロジェクトを中止させてほしいのだ。バインター前進基地なら、生存できる可能性は高い。少なくとも、負傷者ばかりで、輸送手段のないブリザード前進基地よりは。……これは我々よりも困難な仕事になるだろう。やってくれるな」  レムは少し口ごもっていた。周囲はもう暗くなり始め、彼の表情を読みとることはできなかった。やがて彼は、三人に握手を求め、それが終わるとくるりと背を向けて、スノー・クルーザーに乗り込んだ。彼もまた、一言も口をきかぬまま去っていった。  次に明るくなるまでの五時間余りの間、彼らは狭いクルーザーの中で体を折り曲げるようにして眠った。そして、周囲に光がさし始めるころ、二台のバイクに分乗して三人は出発した。しかし、スノー・バイクで走れたのは、わずか一時間余り、標高差にして旧海面から五〇〇メートルほど登っただけの所だった。現海面——極を中心とした季節風が、ほぼ均衡している状態で、しかも極に近い高緯度のこの地帯では、実質的に標準大気圧面に近かった——からの標高差は二〇〇〇メートルにも及んでいた。海洋が最も極に向かって食い込んでいるこの付近では、惑星の全緯度の中でも、最も新旧の海岸標高差が激しかった。しかし氷河源頭から極点までは、ジオイド突出の影響をうけて、それよりいちじるしい地傾斜が見られた。  つまり、氷河源頭の大陸高原縁では、標準状態で高度二二〇〇メートル、極点では二八〇〇メートルであったのが、現在はそれぞれ三七〇〇、六七〇〇と、最大時に比べて小さくなりはしたものの、極点までの五〇〇キロ足らずに二四〇〇メートルものの基準面逸脱があったのだ。だから彼らは内陸高原に上がってからは、標準の六〇パーセントから四三パーセントの低圧の中を、何の呼吸補助具もなしに行動しなければならないのだ。  彼らはスノー・バイクを置き、さらに徒歩で上部をめざした。天候は悪く、ブリザード前進基地を出発して以来、初めての降雪——地吹雪ではなく——を見た。HPの光に赤く染まった雪は烈風と共に水平に吹きつけ、彼らの体を打った。不気味に口を開くクレバスをさけながら、約二時間の登高で、ツラギが偵察の時に来た最高到達点に達した。その時にはツラギもパルバティもかなり疲労していた。絶え間なくしのびよる寒気と、希薄な大気、そして膝まで没する積雪が容赦なく体力をうばっていった。三人のうちで、ツラギが最も消耗していた。それは、彼の貧弱な防寒装備によるものだった。彼の防寒服のヒーターは、温度を保つには良かったが、風と湿度には弱かった。ひとりラインハートのみは、鋭い眼で周囲を見回していた。そこはすでに標高二四〇〇メートル、旧海岸線からの標高差でも九〇〇メートルあり、上部雪原に抜け出るまでは残り一三〇〇メートルの高度差が残されていた。  そこは氷河の本流が大きく左に屈曲した地点から、さらに一キロばかり奥に登った所だった。氷河の本流は、そこからさらに奥へとのびていたが、ラインハートの言葉ではその本流を行くルートは“可能性なし”とのことだった。傾斜の増した上部は雪崩の通り道だという。彼らはそこで本流をすて、支氷河のひとつに入った。その本流との合流部は幅が狭く、荒れていたが上部に登るにしたがって幅は広くなり、傾斜も増しているはずだった。視界が悪く、上部は見えなかった。三時間半の照射時間は、早くも終わろうとしていた。本流との合流点まで下り、側壁からつき出した大きな露岩のかげに三人が入り込んだ時、すでにあたりは暗くなっていた。  おそろしくみじめな夜だった。ひさしのように突き出した露岩は、三人が体をよせ合うには狭く、奥の氷をヒートガンとナイフでけずりとって、ようやく体をおさめることができた。吹きさらしの中で、風と共に粉雪が舞い込み、三人がばっさりと体にかぶった|緊 急《エマージェンシー》シートと、岩との隙間にまで入り込んだ雪がすぐに固く凍りついて、三〇分ごとに外に出ては雪をとりのぞかなくてはならなかった。手も足も凍りついたように冷たく、すぐに感覚が遠くなった。彼らにとって、ただひとつの救いは、夜が短いことだった。五時間余りを我慢しさえすれば、次の朝が来る。もっとも、朝が来ても三時間半で終わってしまう昼なのだが。  一睡もできないまま、辛い露営は終了した。明るくなるのを待ちかねて、彼らはこわばった手足をのばし、待避所《シェルター》からはい出した。ツラギとパルバティは、ただちにスノー・バイクの所まで下り、待避所《シェルター》までのバイク・ルートを開き始めた。荒れた氷河に、スノー・バイクが通れるだけの通廊を整備するのだ。さらに各点に熱標識を設置し、夜間でも通行が可能なまでにして、再び待避所《シェルター》まで登って来た時には、ラインハートの手によって、みちがえるように待避所《シェルター》は広くなっていた。床と壁は切りとられてひろげられ、前面には氷のブロックで壁がきずかれて風と飛雪を遮断していた。ツラギとパルバティは顔を見合わせた。居心地の良くなったのは事実だが、もう一度ここで夜をすごす気には、とてもなれなかったのだ。しかしラインハートは全員の下山を命令した。彼らはスノー・クルーザーまで下り、天国のように居心地のよい車内で眠りをむさぼった。  続く二〇時間は、資材の移送とルート工作についやされた。ツラギがスノー・バイクをかって、旧海岸線のクルーザーからキャンプ・一と名付けられた岩かげの待避所《シェルター》まで、続々と資材を運びあげ、ラインハートとパルバティは、キャンプ・一からさらに上部へのルートを開き始めていた。彼らは、キャンプ・一から、わずかに登った地点を取付点に、斜度六〇度を越し、最大では垂壁に近い雪壁に取り付いていた。赤い飛雪が風に舞う壁の中で、あるいは暗闇の中でのろのろとルートは伸ばされていった。五〇メートルのワイアを中間点と両端でラインハートが雪壁に固定し、数ピッチ遅れた下方でワイアと体を固定器《ユマール》でつないだパルバティが、スノーナイフをふるいながら氷壁と雪壁の中にステップを切ってそれにつづいていた。  トップを行くラインハートは、体重をささえるための何の安全策もなく、体にゆわえつけた五〇メートルのワイアを下方にひきずり、雪壁に打ち込むスノーアンカーを体からいくつもぶらさげて、アクロバチックな登高を続けていった。それは、ずっと下方にいるパルバティから見ても胆を冷やすものだった。ラインハートは、クライミングブーツにつけた一二ポイント・アイススパイクと、両手のスノーアックスで全体重を支えて、まるで階段でも登るように軽く登っていくのだ。体重を支えるといっても、時には青い氷の壁と化した雪壁に、アイススパイクの爪先をわずか数ミリほどけり込み、それに全幅の信頼をおいて、高度をかせいで行くのだ。もし、微妙なバランスをくずしたら、下方のパルバティを巻き込んでの墜落はまぬがれない。  しかし、彼は墜落などあり得ないかのように、右に、左にと、雪壁の中の弱点をたくみにぬってルートを伸ばしていった。パルバティは、ギュンターの物であるアイススパイクを着けてはいたものの、そして足を乗せることのできるステップに両足をかけて、さらにワイアに体を固定しているのに、恐怖は体から去ることがなかった。ラインハートは、五〇メートルのワイアをのばしきるたびに、パルバティの所まで下って彼のかついでいた新しいワイアを受けとり、再び登っていった。それを何度もくり返し、疲労が耐えきれぬものになると、キャンプ・一に下って仮眠し、再び垂直の世界へと出て行くのだった。  その間にも、ツラギはクルーザーの資材を次々にキャンプ・一まで運びあげ、それがなくなるとスノー・バイクの燃料まで持ちあげた。しかし、固定ワイアを七〇〇メートルのばした所で、手持のワイアが終わることに彼らは気付いた。雪壁を抜けて、上部雪原に出るためには、あと少なくとも三〇〇メートルはワイアが必要だった。ベタ張りにされた固定ワイアなしでは、とてもそれ以上の雪壁を越えることは不可能だった。ラインハートでさえ、ワイアの助けなしに、重い荷をかついでの登高は不可能だと言い切っていた。無論そのことは基地出発前から予想されていて、基地の高構造物の支保ワイアまではずしてここに持ち込んだのだが、それでも足りなかったのだ。無論、時間的に他のルートを探す余裕もなかったし、体力的にもそれは不可能だった。ラインハートもふくめた全員がひどく疲労していた。乾燥して冷たい風が彼らの肺も、手足も、心臓もひどくむしばんでいた。  ラインハートは、全員にスノー・クルーザーまで下ることを命じた。それ以上の行動を起こすために、何よりもまず体力が必要だったのだ。そして、クルーザーで、暖かく、そして少しばかり濃密な空気の中で休息したのちに、さらに苛酷な行動を起こさなければならなかったのだ。  次に固定ワイアを登る時には、分解した一台のスノー・バイクをふくむ全資材をワイアの最先端にまで運びあげ、そして下部の固定ワイアを撤去し、それを利用して前方にルートを開くつもりなのだ。それは、みずから退路を絶つに等しかった。そうしてしまうと、あとは何が何でも上部雪原に抜け出なければ、足をのばして休息するところもないまま、吹きさらしの雪壁の中で死ぬしかないのだ。ブリザード前進基地以来、彼らの移動基地であったスノー・クルーザーや、それよりかなり居心地は悪かったが、とにかく手足をのばし、少なくとも風と雪からは体を守れたキャンプ・一に帰ることもなく。  一〇時間をクルーザーですごしたのち、彼らは出発した。明るくなる直前に、雪壁基部に達した。ツラギと、ラインハートは、すぐに平坦な場所を選んでスノー・バイクを置き、バイクを分解する作業場を作った。ただひとつのパーツを失っても上部雪原での走行は不可能になる。平らにならした雪面にシートを置いて、周囲のブロックを半円のドームに積み上げたイグルーは、一時間で完成した。そこは、荒れる風と飛雪からは守られて、作業をするのは容易だったが、たえず降雪のために埋没する危険があった。外に出たラインハートは、ツラギがバイクを五つの部分に分解し終わるまで、除雪を中断することができなかった。  一方、パルバティは単独で固定ワイアぞいのルートを整備していった。わずか十数時間、放置しておいただけなのに、雪壁にうがたれたステップは、多くが雪で埋まっていた。時には、ワイアを氷のようになった雪の中から掘り出さなければならなかった。彼がキャンプ・一に下って来た時には、ラインハート達も作業を終えていた。上部に上げるべき資材、食糧は全部で一五〇キロあった。五つに分解されたスノー・バイクが九〇キロ、燃料が三〇キロ、露営具や食糧が三〇キロだった。冷たい食事を終えてキャンプを出てすぐに闇の中の登高になった。一人一五キロの荷を背につけての登高はつらかった。ルート長七〇〇メートルの雪壁を登り切るのに三時間をついやし、最先端に達した時は、口をきく力もないほど疲れはてていた。  不安定な斜面に、何重ものスノーアンカーや、アイスピトンで資材を固定し、重い足どりで再びキャンプ・一に下った。そんな重労働を三回もくり返した時、ほとんどの資材がワイアの最先端にデポされていた。あと一回の荷上げで、食糧と露営具をふくむ、すべての荷上げが終了する。すでに第一八六日の半ばになっていた。もう時間がいくらも残されていなかった。遅くとも、第一九一日目までに極点基地に到達しなければならない。あと丸五日——一四〇時間あまりを残すのみだった。  食糧と露営具を残して、バイク関係の資材を全部移送し終わってから、彼らは再びキャンプ・一に下った。それが最後になるかもしれない休息を彼らはそこですごし、携行口糧を詰め込もうとしたが、疲労が激しく、誰も、ほとんど食べることができずに、ただ乏しい燃料でわかしたなまぬるい湯ばかりを飲んで、死んだように眠った。  八時間後、彼らは四回目の荷上げに出発した。疲れは一向に消えてはいなかった。前の三回の荷上げよりは荷は軽かったが、どうしようもないほどの疲労がそれにもかかわらず彼らの足を重くしていた。もはや、前方を見上げる精神的な余裕は全くなかった。誰もが足もとに視線をおとし、雪の上につけられた足跡を忠実にたどりながら雪壁基部へのルートを急いだ。まるで、一歩先の足跡だけが世界のすべてでもあるかのように、単調な登高はつづけられた。  だが、パルバティは高度をあげるうちに視界のすみに何かを感じていた。その何かを追って顔をあげたパルバティは、氷河のはるか上部がほの白い光につつまれているのを見た。パルバティは声をあげた。他の二人の足をとめ、彼のさし示す方向を見上げた。それは、彼らがいやというほど見つづけてきた人工の赤い光ではなく、本物の太陽の色だった。いまだに、この惑星の地平線下に太陽はあったが、薄明がおとずれるほどに夜明けは近かった。彼らは一瞬後に雲と雪煙が視界をおおいかくすまで、ぼんやりとそれをながめていた。 「急ごう。太陽があたると、この斜面も不安定になるぞ」  ラインハートのその言葉で我に返ったパルバティは、のろのろと登高を開始した。      18  本当の夜明けは遠かった。完全にライトなしで行動できるまでには、まだ数日かかるだろう。そして、緯度八六度近いこのあたりに、再び薄明がおとずれるのは一自転日後だ。彼らの足どりは重かった。特に、ツラギのペースは最初の荷上げの時に比べると相当遅く、数歩ごとに体をずり上げては大きく息をしていた。そして、最後尾につくラインハートが、ピッチが終了するたびに最下部の固定ワイアを回収しながら登って来た。背後から追いたてられるようにして彼らは登った。  二〇時間が限界だ。それが三人の一致した意見だった。キャンプ・一を出発してから、固定ワイアを上部にのばし、上部雪原に抜け出て待避所《シェルター》を作り、そこに逃げ込むまでに許された、それが最大限の時間だった。それを越えると、いや越えなくとも腰をおろす所もない壁の中で立ち往生することになる。貧弱な彼らの装備では、この壁の中では休息も、食事をとることもできないのだ。  最初の時に比べて倍近い時間をかけて彼らはようやく最先端についた。すでに先端のワイアの両側には、何本ものアンカーやピトンが打ち込まれ、装具が雪をかぶってぶら下がっていた。かつぎ上げた最後の荷を、細心の注意をはらって壁に固定し、さらに上方にルートをのばしていった。ラインハートが回収したワイアは、四ピッチ、二〇〇メートル分だけだったので、ツラギがさらにワイアを回収するために下り、パルバティとラインハートが以前のように上方へルートをのばしていった。  最初のころに比べると、はっきりと体力は落ちていた。ステップを切るためにスノーナイフをふるうパルバティの手は、鉛のように重く、下部では数回ふるうだけでカットできたステップが、十回以上も腕をふるわなければできなかった。今にも膝がくずれそうな疲労の中で、ただ機械のように腕をふるいつづけているのに、動きのない下半身から足先は、氷のように冷たかった。しかし、上方にいるラインハートもまた動きが鈍くなっているのがわかった。鋼鉄のように強靱な肉体を持つとおもえたラインハートも、限界近くまで体力を消耗していたのだ。一体、何時間そうやっていたのか、不意にパルバティは、ラインハートの呼ぶ声をすぐ近くで聞いた。見上げると、パルバティの顔にほとんど接するばかりの近くにラインハートの靴が見えた。 「どうした。上部に抜け出たのか」  たぶん、そんなことではないだろうと思いながらも、パルバティはそう聞いた。 「いや、まだだ。ワイアは四ピッチ分全部張りめぐらしたが、あと上部までは一〇〇メートルは必要だ。それより、ツラギが心配だ。遅すぎる」  パルバティは、ぼんやりとした意識の中から聞いた。 「一体、今何時だ。彼が出てどれだけたった」 「五時間すぎている。大した荷物もないのに、少しおそすぎるのじゃないか」  パルバティは、急に不安にかられて暗い谷底を見た。ツラギのいる何の気配も感じられなかった。 「どうする。様子を見に下るか」  しかし、ラインハートは首をふって言った。 「私が見てくる。君は、残りのステップを切っておいてくれ」  そう言うなり彼はパルバティの横をすり抜けて下っていった。パルバティは呆然と闇の中に沈んでいく彼のライトを見ていた。  再び重い腕をふるっての、単調な作業を一時間もくり返したころ、肩にワイアの束をかけたラインハートが登って来た。彼は、パルバティと並ぶほどにまで登り、彼の目をじっと見つめながら言った。 「彼は死んでいた」 「死んでいた……」  その言葉の意味を理解するのに、間の抜けた沈黙がしばらく続いた。次に死ぬのは俺かもしれない。そうパルバティが無感動に思った時に、急に膝から力がぬけた。固定器《ユマール》に体重がかかるよりも一瞬早く、ラインハートの腕が彼の体重を支えていた。 「しっかりしろよ。今、のびてもらうと私がこまる」  パルバティは、ようやくのことで意識を呼びもどし、ラインハートの顔を見た。どうしようもない無力感が彼をとらえていた。何もかもが面倒くさく、どうでもよくなっていた。できることなら、彼の体をつかむラインハートの手をふりほどき、ユマールを解除して暗黒の谷底へダイビングしたい気持だった。 「君は、彼の死を無駄にするつもりか。君の命の中に、ツラギの命と、そしてギュンターの命がふくまれていることを忘れないでもらいたい」  静かなラインハートの言葉だった。パルバティは沈黙したままだった。 「あと二時間……遅くとも三時間で上部雪原にぬけられる。もう傾斜はだいぶゆるやかになった。核心部はすぎた。やれるか?」  パルバティは、ようやくうなずいた。ツラギの死の状況を聞くような余裕は全くなかった。  それからの彼はやみくもに腕をふるった。精神が集中できず、正確なステップはとても切れずに、むやみに雪面をかき砕くだけだった。それでも、わずかな傷のようなステップをスパイクの爪先でけり上げ、それに慣れてしまうと、両手でユマールと固定ワイアをにぎり、それに体重をかけて強引に登り出していった。実は、そんな登り方ができるほど、傾斜がゆるやかになっていたのだが、彼はそんなことに気づきもしなかった。すでに腕に全く力は入らなくなっていたし、そんな無茶な登り方をして、アンカーが抜けないのか考えるゆとりは全くなかった。  唐突に固定ワイアが終わっていた。彼は眼をうたがった。雪の下にワイアがかくれていないかと、何度も眼の前の雪にナイフを突き刺して探ったが、それはなかった。その時、雪面にステップがきざまれているのに彼は気がついた。雪面にそって視線をあげていった時、ほの白く見える雪の斜面に、くっきりと足跡が上方にのびているのが見えた。すでに固定ワイアはつき、そしてワイアを必要としないほど傾斜はゆるくなっていた。彼は、何度もためらったのちに、ワイアにセットしたユマールを、はずした。とたんに本能的な墜落の恐怖におそわれて、またユマールで固定した。何度も逡巡してそれをくり返したのち、体を横にして休めるという誘惑が恐怖にうちかった。彼は、おそるおそる斜面に身をのり出し、そして、両手足を使って雪面をはい上がっていった。あいかわらずひどい風だったが、すでに悪天は通りすぎたようだった。  彼の上方五〇メートルほどで視界はとぎれていた。雪の稜線は、彼が登るにしたがって上部に移動し、傾斜もそれにつれてゆるやかになっていった。何時間そうやって登っていったのか、あるいは短い時間だったのかもしれないが、いつの間にか雪面は水平近くにまで傾斜を落としていた。しかし、そうなってからも、二本の足で立って歩くことはできず、はいずるようにのろのろと進んでいった。そして、はうことも不可能になったころ、彼はラインハートに追いついた。わずかに飛雪の舞う暗い空の下で、彼は雪洞を掘り進めていた。パルバティは、ようやくそこまではいより、半身を雪洞の奥につっこんでブロックを切り出している彼を手伝った——つもりだった。雪洞などなくてもいいから、その場に眠り込んでしまいたかったが、それもできずに、雪洞の入口で体を横たえたまま、腕だけを使って彼の掘り出したブロックを斜面の下に投げ降ろした。ラインハートにしたところで、まともな雪洞を作れるほど体力が残っているわけでもないらしく、パルバティを中に入れた時には、雪洞は天井も低くてかなり窮屈だった。それでも、風の吹き込まない内部は、彼らにとっては天国だった。  二人は胎児のように身をちぢめ、それぞれに背中をくっつけ合って寝ころんだ。雪面にくっついた脇腹が、おそろしく冷たく、それよりも喉がひどく痛んだ。乾燥した冷たい強風に長時間さらされて、喉はかわきを通りこしてかなり前から痛みつづけていたし、肺もそれ以上にひどくやられているに違いない。ラインハートが、ポケットから携行口糧をよこしたが、パルバティのがさがさに荒れた唇も舌もそれをうけつけず、一滴のつばも出なかった。無理にかみくだいて呑みこむと、はげしく嘔吐した。  ——このまま眠ると死ぬな——わずかな意識の中でぼんやりと彼はそう考えていたが、体は次第に眠りの中に引き入れられていった。足もとで、ラインハートが彼のアイススパイクと靴をゆるめてくれているのをかすかに感じながら、彼は気を失っていった。  ひどい寒さで眼がさめた。暗いはずの雪洞が明るかった。めざめたパルバティの眼に最初にとび込んだのは、光を反射してきらきら光る雪の天井だった。それは彼が記憶している天井よりもずいぶん高かった。痛む体を無理に起こすと、さらにおどろくことに、着の身着のままで寝ころんでいたはずの自分が、すっぽりとスリーピングバッグの中に入り込んでいた。見まわすと、雪洞のかたすみでラインハートが、小さなコンロを眼の前において居眠りをしていた。何度か声をかけたのち、ようやく眼がさめたラインハートは、コンロにかけていたカップをパルバティの前に突き出した。彼はむさぼるようにそれを飲んだ。ただ氷を融かし、携行口糧をまぜ込んだだけの生ぬるいものだったが、彼にはこの上なくうまいものだった。ゆっくりと時間をかけて飲み込むと、わずかだが体に力がわいてくるような気がした。 「何時間、気を失っていた。俺は」  パルバティはあらためて雪洞の中を見まわした。内部は広く切り広げられ、デポから持ち込んだらしい露営具もいくつかあった。ラインハートがそれだけのことを一人でやりとげるには、かなりの時間がかかっただろう。 「五時間ほどだな……」ラインハートは再び砕いた氷を火にかけながら言った。 「もう少し休んでから荷物をかつぎ上げに出なければならない。出られるか?」ラインハートは、そう心配そうにたずねた。  出られるとも。そうパルバティは痛む体を思いながら言った。彼がやらなければ、ラインハート一人ではとてもそんな大仕事はできない。——そうだ。もう一人、もう一人いたはずだが。ツラギ、そうだ、彼は死んだと言ったのか。 「ツラギは……死んだのか」 「ああ……」ラインハートはわずかに視線を上げて言った。 「私が彼の所まで降りて行った時、彼はすでに死んでいた。回収したワイアの最下端だった。おそらく——アンカーを回収して引き抜こうとした時に足場が崩れたのだろう。ユマールは、はずれなかったが、彼の体はワイアで宙吊りになった。なんでもないような斜面だった。普通なら簡単に宙吊りから脱出できただろうが、弱っていた彼の体はそれに耐えることができず死亡した……」  あれだけ頑丈なツラギが、どれほど苛酷な作業の時でも率先して任務にあたっていた彼が。 「遺体は……」 「雪壁にステップを切って、アンカーで固定した。だが、そこに行くまでのワイアは回収してしまったから、彼は孤立しているが」 「そうか……」  暗い氷河の圏谷で今も収容されることなく壁に張りついている彼の姿が眼にうかんだ。何も言うことはできなかった。 「行こうか」  カップの中身を飲みほして、短くラインハートは言った。 「しかし、君はほとんど休んでいないじゃないか」  靴をはきかけているラインハートに、パルバティはそう聞いた。 「私は大丈夫だ。それより、我々にはもう、いくらも時間が残されていない。それに、時間が立てば立つほど壁の状態は悪くなる」  あわててスリーピングバッグからはい出て自分も足ごしらえをするパルバティに、ラインハートは逆に聞いた。 「それよりも君は大丈夫か。君に極点基地に行ってもらわないと、私ではHPの照射を停止させることができない」  妙に現実的な質問だった。パルバティは、アイススパイクのバンドを締め上げることでそれに答えた。  外に出た時、様相は一変していた。この雪洞に入った時には気づかなかったが、周囲は広大な雪の斜面で、地平線下をめぐる太陽が周囲をほの白く見せ、足跡が途切れながら落ち込んで行く斜面は、灰色の雲がうずまく氷河の中へ消えていた。視界は、以前より回復していたが、暗く沈んだ氷河の向こう側までは見わたせなかった。氷河の下から吹き上げる風が、ざらさらと粉雪を斜面に走らせていた。彼はいまだに星が残る暗い空の下を、雲の底めざして降りて行った。  デポ点からバイクの全部品をかつぎ上げるのに、二〇時間を要した。あえぐ息で頭上の空を見上げると、地平線下を移動していく太陽の存在が、たしかな実感として感じられた。長かった夜は終わろうとしており、毒々しい赤いHPの光による仮の一日ではなく、二八時間という周期を持ったこの惑星の一日が復活しようとしていたのだ。すでに夜明け前の薄明は、時間を追って地平線上を移動し、移動するにつれて時には強く地平線をかがやかせ、時には弱く夜の闇にかえらせた。その、最も暗くなる方向が極点方向であるはずだった。そして、反対側の最も明るい側から太陽の最初の曙光がさすまであと数十時間を残すのみだった。無論、自転の中心軸上にある極点では、それよりさらに遅れることになるが。ともかくも、夜明けは確実に迫りつつあった。彼らにとっては破滅となる夜明けが。  彼らはただ機械のように体を動かすことしかできなかった。思考は停止していた。何度もデポ点まで下ったのに、パルバティはツラギの遺体のある谷底を見る余裕さえなかった。  スノー・バイクの組み立てが、さらに切り広げられた雪洞の中で完成した時、パルバティは仮眠していた。起きているのか寝ているのかもわからない意識の中で、突然にスノー・バイクの爆音が彼の耳をつんざいた。見上げると雪洞内に、かたわらのバイクの吐き出す白い煙が立ち込め、広げられた入口からバイクが猛然と外に飛び出す所だった。排気煙にむせびながら外にはい出ると、轟音をあげながら振動するスノー・バイクの横で、ラインハートは整備に余念がなかった。バイクは異様な形をしていた。ヘッドライトはもちろん、シートやエグゾーストパイプ、カウリングの一部までがとりはらわれて武骨な姿をさらし、すさまじい爆音を上げていた。  不要部品の一切取りはらわれたバイクには、かつてパルバティの見たような優雅な線形《ライン》は全く消え失せ、乗員と一体になった荒けずりなたくましさに満ちていた。それはまるで、狂暴な自然にたった一匹で立ち向かおうとする獣のように見えた。獣は咆哮していた。とりのぞかれたシートのかわりに露営具を固定し、その上にラインハートはまたがっていた。彼のふかすスロットルに応じて獣はうなり、叫び、そして絶叫した。それは、パルバティが自然光の下で見た始めてのスノー・バイクの姿だった。あやすようにスロットルを操作していたラインハートは、いきなりバイクを急加速させて雪面を駆け上がった。すぐに彼の姿は斜面の向こうに消えた。  ラインハートを乗せて氷丘の彼方へ消えてからも、エンジン音は高々と聞こえていた。その音が、高まると見る間に、雪原の稜線《スカイライン》を飛び越えてバイクが出現し、|雪  紋《ドリフティング・スノー》を縦横にかみ砕きながら斜面をかけ下ってパルバティの横に急停止した。バイクから降りたったラインハートにうながされるまま、パルバティもバイクの運転席についた。彼はクラッチをオープンにしたまま、ためすようにスロットルを二、三度ふかした。小さな排気量とは思えない爆音がたてつづけに振動をともなって彼の全身に伝わった。そのまま回転数を一気に高めてクラッチを連結する。瞬間、狂暴なうなりを上げるエンジンの咆哮が高張力装軌条《ハイテンション・キャタピラ》に伝わり、わずかなエネルギー・ロスものがすことなく雪面をかんでいたキャタピラが、乗員もろとも車体を急加速で前方に押し出した。体力の弱っているパルバティは、あやうくふり落とされそうになりながら加速に体をまかせた。ラインハートほどのスムーズさはないにしろ、手足を連動させた一連の動きでハイギアにエンジンパフォーマンスを放り込み、体重の移動を利用しながらいくつかのスノーギャップをたくみにかわして斜面をかけ登った。たちまち凍りつくような風が全身をたたき、眼を開けていちれない痛烈な痛みが視界を凍らせた。すでにエンジン音は金属的な高域に達し、フードの下の両耳の奥まで鋭利な刃物のように貫いた。ようやくのことで比較的平坦な場所で転回し、ラインハートの所まで帰りついた時には、全身が凍りついたようにこわばっていた。 「カウリングを最小限にしたから、かなりこたえるかもしれない」  よろめきながらバイクを降りたパルバティに、ラインハートはそう言って再び運転席についた。彼は、後部にパルバティを乗せ、今度はゆるやかな加速で雪面を登って行った。そして、周囲を見わたせる、白い地平線までさえぎるもののない丘の上で停車させた。ラインハートはバイクから降りて空を見上げた。 「今……標準時の第一八八日、五時だ」  彼の視線は、彼らがやって来た氷河の彼方、ぼんやりと白くかがやく地平線に向けられていた。彼は、ポケットからたった一枚ここまで持って来た極大陸の地図を出して言った。 「ここは、緯度八五度五〇分。経度二四四度の地点にある。……ということは、現地時間でおおむね正午ということになる。極点までの直線距離は四七〇キロというところか。  これは測地のプロの君には、言うまでもないことだったな」  ラインハートは、手の中に持っていた時計を調整してパルバティにわたした。普通とはずいぶん形の違う時計だった。パルバティ達に標準装備されている、デジタル・タイプの全域クロノグラフではなく、円形の文字板に針のある古風な時計だった。一周二八時間に目盛がきざまれたその時計には、一本の針しかなく、その針は文字板の直下、正午(一四時)の位置を指していた。そして時計本体の外側には、相対する二本の視準線を持つ可動の外枠があって、文字板とは独立して回転するようになっていた。風は弱く、視界のひろがりつつある世界を見わたしながら、ラインハートは言った。 「極点に向かう最も適切な方法は、一日の周期で地平線の上を周回移動する、薄明の白いかがやきの、その地点における最も暗い方向へ走りつづけることだ。そして、極点では太陽の日周運動が、天頂を中心にほぼ完全な円をえがく」  パルバティは、ラインハートがよこした時計の意味が理解できた。それは時計ではなく、太陽のうごきから極方向を知る方向探知器——この惑星には存在しない磁石のかわりをなすものだった。パルバティはその時計についた二本の視準線を、今にも太陽が昇りそうに明るくかがやく地平線の方向に向けてみた。ラインハートは満足したように言った。 「そうだ。そのようにして極方向に進めば、そして距離計の助けをかりれば、十キロ内外の誤差で極点に到達できる。あとは熱源探知を使えばよい」  ラインハートは、雪の上にどっかりと腰をおろしてつけ加えた。 「私のできることはここまでだ。この先は君一人で行かなければならない」 「一人で……」パルバティはつぶやくように言った。 「このバイクに二人の人間が乗って、整備なしに五〇〇キロは無理だ。ここから極点に向かうにつれて気圧は減少し、エンジンの出力も低下する。燃料も片道分しかない」 「君は……どうするつもりだ」 「私は、下るしかない。バインター前進基地まで到達して、レムと合流するつもりだ」  パルバティは、以前よりずっと明るさを増した氷河の底を指さして叫んだ。 「もう雪壁の温度が上がり始めて、非常に危険な状態だ。いつ雪崩が発生するかもしれない所に、君の現在の体調で下るのは自殺行為だ。……それに、露営具も、固定ワイアもないし、クルーザーの所に着けたとしても、長時間放置しておいたために、始動が不可能かもしれない……」 「バイクがあるさ」ラインハートはのんびりとそう言った。 「それに、君はもっと現実的に考えなければいけない。できることなら私が行きたい。それは君にも理解できるだろう。だが、前にも言ったように、私が極点基地に入っても何もできないし、コンプレッサーを作動させて、基地内気圧を上昇させる作業など全く不可能だ。君が行くしかない。私のことは気にするな」  パルバティは、しばらくぼんやりとラインハートの顔を見ていたが、やがてゆっくりと手をさし出した。ラインハートもそれを返し、二人はしばらくの間、手を握りしめたまま視線をかわしていた。そして、手をはなすとパルバティはバイクに乗り、スロットルを全開にした。彼がふり返った時、ラインハートの姿は、斜面の下にゆっくりと消えて行こうとしていた。金属的なターボエンジンのひびきが最高に達した時、彼は猛然とバイクをダッシュさせた。なぜか意味もなく涙が流れ、流れ出した涙がほおに伝わるうちに凍りつき、ゴーグルをくもらせた。彼は、ゴーグルもスカーフもはずし、大声で叫びながらバイクを突っ走らせた。ゆっくりとした足どりで下ってゆくラインハートは、悲鳴のように長く高くつづくエンジンの絶叫にまじって、自分の名を呼ぶ声を聞いたような気がしたが、わずかにあゆみをとめただけで、ふり返りもせずにそのまま雲のわき上がる氷河の中へと下って行った。      19  パルバティは走りつづけた。背後に、あるいは前方に太陽の存在を観測し、数時間ごとに停止して方向を確認する他は、止まることなく走りつづけた。雲が地平をかくし、観測が不可能になった時だけ彼は停止して仮眠した。雪原の上に寝ることは苦痛でしかなく、停車したバイクの上で体を曲げたまま、テントをかぶって眠った。  しかし、走行距離が一〇〇キロを越えるようになると、そんな仮眠では彼の疲労をとり去ることができなくなった。標準の半分近くにまで落ち込んで、さらにじりじりと下がりつづける大気圧が、停止している時も彼の体力を奪っていったのだ。むしろ、走行中の風圧によるわずかな気圧の増加が、彼の肺をたすけた。彼は、休むこともできぬまま走りつづけることしかできなくなっていた。もう天測で方向を見定めることさえ苦痛になっていた。いったん、方向を定めてしまうと、はるかに地平線の向こうに見えるわずかな地形の特徴をとらえ、また|雪  紋《ドリフティング・スノー》の走行を読んで走りつづけた。それでも彼は、あるいは本能的に方向を見失う恐怖を感じていた。時には、同じ所を何度も回りつづけているのではないかと不安にかられ、何度も執拗に方向を測定し直した。  彼は、自分の体力が消耗しつくすのを極度におそれていたが、不思議にバイクがエンジン・トラブルを起こす予感はしなかった。エンジンは、かわらず一定の推進力を彼に供給していた。ただ、燃料は次第に減少して行き、バイクの両側面にとりつけられたシリンダーがひとつずつ減っていった。すでに、このころには、彼の意識も混濁し始め、何度かバイクから落ちて雪面に突っ込んだ。そのたびに彼ははいずりながら自動停止したバイクまでたどりついた。バイクはそんな時、いつもたのもしい音とともに再始動した。  すでに時間の感覚も消えていた。何時間も、あるいは何日も変わることのない風景の中を、地平線をめざして彼は走りつづけていた。いつの間にか食うことも忘れていた。恐ろしかったのだ。バイクを停止させることが。バイクを停止させると、彼をとりまき、包囲している白い景色が迫ってくるような気がした。彼は行けどもつきることのない白い雪原の彼方に、脱出口をもとめて走りつづけた。そして、かわりばえしない白い景色は、あいかわらず規則正しく天空をよぎるHPによって破られた。それは腹立たしいほどの正確さで彼と、周囲の世界を赤く染め、そして沈んだ。彼が再びムルキラと会ったのは、そんな時だった。  ムルキラは、始めて出会った時と同じく、やさしさに満ちた眼で彼に向き合っていた。ムルキラの背後には白くかがやく雪原がひろがり、それはこの惑星の一年でただ一度の夜明けの予兆だった。しかし、その夜明けの色とは別に、赤い光が頭上から降りそそいでいるのを彼は知っていた。彼は叫んだ。 「俺に力をくれ。俺はあいつを消さなければならない。俺に力をくれ……」  彼は深い青をたたえた星空を見ていた。体中が痛かった。そっと体を動かして、ようやく自分が雪の上に横たわっているのに気がついた。無理に体を動かすと、雪面に凍りついていた衣服がバリバリと音をたててはがれた。バイクは数十メートル先で停止していた。どうやらまた走行中のバイクから転げ落ちたらしい。一体、どれほどの時間を失神していたのか、見当もつかなかった。生きているのか死んでいるのかさえ自分ではわからぬまま起きあがったが、凍傷か骨折か、足がいうことをきかない。何度も息をついて休みながら、彼はのろのろとバイクにはいより、相当時間をかけてエンジンを始動させた。その時、彼は遠くの空の下に、動くものの影を見た。  ムルキラ。  彼は反射的にそう感じ、そちらへ向かってバイクを突進させた。そいつは空に舞いあがり、たちまち高度をあげて去った。  ……逃がすものか……  彼は必死にバイクにしがみつき、もう相当くたびれているエンジンの回転を最大にあげてそれを追った。白い地平線の上に、黒い点となってうかぶムルキラとの距離は、いくら走りつづけても全く縮まらなかった。  もう燃料もつきかけていた。六つもあった燃料のタンクはすべて空になり、後方になげ捨てられ、残された本体のタンクも、いくら残っているのか見当がつかなかった。  ただ、生存のためにはおそろしく希薄な大気にもかかわらず、全身をおおった凍傷にもかかわらず、彼の心は充実していた。はるかに前方を飛行するムルキラを追跡してゆけば、必ず基地に到達することができると信じていた。たとえあれが幻覚であっても。  唐突に、背後から赤い光がさした。一体何度目に見るHPの曙光だろう。まもなく本物の夜明けが来るというのに。HPは次第に高度を増し、彼の頭上から赤い光をまきちらしていた。彼は頭上を見上げる余裕もないままに、ののしり声をあげた。  しかし、本物の夜明けもまた、唐突におとずれた。それは彼の左前方、白く光る雪原の向こうにあらわれた。淡い青から白にうつりかわろうとしている空と、背後からの光を反射する雪原とに画された一線から、黄金がわき立つように、光が噴出するように、まぎれもない太陽の曙光が姿を見せたのだ。周囲の世界が急速に変貌した。それまでの白と黒との世界が、黄金とあざやかな青とに照らし出された生きた世界へとうつりかわり、それでも希薄な大気の中になお暗さを保ちつづける天空の中で星々はまたたき、まだ数十時間もつづく夜明けの中で次第に勢力を増す曙光に抗しつづけるのだ。  星が……見えている?  彼は思わず頭上を見上げた。HPの赤い光はうすれていた。極点基地にさしこんだ曙光がHPの広範囲照射に中止命令を出したのだ。やがてHPの全余剰エネルギーが狭範囲照射にふり向けられる。もしそのビームが基地を直射すれば——すべては手おくれになる。彼らのコントロールをはなれたHPは、極点基地を炎上させ、そしてこの惑星を破壊してなお永遠にめぐりつづけるだろう。  極点は近いはずだ。地平線の上を見えかくれしながら水平に移動し、ついに真正面に来た太陽を直視しながら彼はそう思った。  ムルキラが……静止している。  彼は眼を見張った。翼をひろげて大空の一点に滞空しているムルキラは、太陽の光を背後に受けて静止しているかに見えた。それまでは、走りつづけている彼から一定の距離をおいて前方を飛びつづけていたムルキラが、今はバイクの前進と共に次第に距離を近づけているのだ。  彼は叫んだ。真正面の太陽を直視していたため至近距離に近づくまで気がつかなかったが、ムルキラの滞空する直下の大地にひろがるのは、まちがいなく極点基地ではないか。  彼の仲間を、何人もの仲間を死に至らしめた、極点基地ではないか。  彼は絶叫した。野獣が見えない敵に向かって咆哮するように、今にも死の深淵にひきずり込まれそうなみずからの精神を強引に生き返らせようとするかのように、叫びつづけ、ゴーグルもスカーフもかなぐり捨ててわめきつづけた。  おそろしかった。今にも極点基地が彼の目前から消え失せ、バイクのエンジンが突然停止してしまうのではないかと。だが、それは幻覚ではなかった。確実に基地の構造物は彼に迫っていた。  今、基地は指呼の間にあった。見おぼえのある観測棟群が、林立するレーダー群が目前に迫り、すぐに基地の外郭施設の横を彼はすり抜けていた。彼の目前に基地本棟はあった。めざす中央制御室はその中にあるはずだった。彼はバイクの針路を真正面のゲートに向けた。体は凍りついたように動かず、クラッチやブレーキを操作すべき手足も、すでに言うことをきかなかった。それどころか、凍りついた彼の衣服がシートやレバーにはりついていた。見あげると、本棟のドアは目前だった。彼は力をふりしぼってバイクから転がり落ちた。ぶざまに数回かたい雪の上を転がった時、轟音と共にドアが吹き飛ぶのが視界のすみに見えた。実際はそれほどの高速で衝突したのではなかったのに、視力も聴力もおとろえた彼には、大爆発でもしたかのように感じられた。ようやく起きあがって見ると、ドアは見事にとばされていた。  凍りついた雪の上をころがった痛みも、ドアが破壊された音も、たしかに彼の感覚はとらえていたのだが、本当に基地に到着したということがそれでも信じられずにいた。だがそれも彼が基地の中に入った時に現実のものとなった。彼ははいずりながら基地に入った。とたんにむっとする臭気が彼をつつんだ。死臭が基地内にただよっていた。回廊を進むにつれて、いくつかの死体を彼は見た。いずれも腐乱が始まっており、基地内部の暖房——自動発電系は復活しているようだった。死体の配置は、電力供給が止まった時の状況を正確に伝えていた。コンプレッサー停止と同時に外壁に接した区画は放棄され、残された者達は内側へと避難し、ついに最も内側の区画にまで後退したが、そこも空気のもれ出すまで、少しの間生きのびていたというだけだろう。回廊に倒れていたのは、設営隊員や、あとに残った測地、気象班の者ばかりだった。彼らは、わずかな電力をコンプレッサーにふり向けようと、外に出た所をやられたのだろう。  彼はようやく最内部の区画——中央制御室のドアに達した。もうすぐ彼の仕事は全部が終了するはずだった。ドアロックを手にして、よろめきながら立ちあがった彼は、渾身の力をふりしぼってドアを引き開けた。とたんにそれまでに数倍する死臭が彼のもとへ押しよせた。内部には二〇もの死体がおり重なって倒れていた。彼ははいながら死体の山を越し、目ざすものを見つけた。  このために……たったこれだけのために我々は死を賭してここまで来たのか。わずか指一本ですむことのために。彼はもうすぐ自分が死ぬことを知っていた。一秒でも無駄にすれば仕事ができぬ内に死んでしまうような気がした。彼はHPの制御卓にふるえる手をのばした。わずか数秒で仕事は終了した。HPが、その地上照射を中止した旨がコンソルのディスプレイにうかびあがった時、彼は全身の力がどっと抜け落ちていくのを感じた。重い腕をのばして通信機を操作し、レムを呼び出した時には、まともな思考ができる状態ではなかった。ふるえる声でようやく彼は言った。 「こちらは極点基地だ。バインター前進基地、聞こえるか。ラインハートは生還したか」  わずかな沈黙のあと、勢いよくレムの声が飛び込んで来た。 「パルバティか! どうした。成功したか」 「HPの地上照射は停止……」  興奮したレムのあげる歓声が聞こえた。パルバティはかまわずしゃべりつづけた。 「……基地に生存者なし……ラインハートはそこにいるか……」  レムの声が沈んだ。「ラインハート? ここにはいないが……」  パルバティは肩を落とした。 「わかった。通信を終わる。君に、感謝する」 「待て! 切るな」  びっくりするほどの大声でレムは叫んだ。 「いいか、俺の言うことをよく聞いて言うとおりにしろ。死ぬなどということを考えるな。いいか、医療室に手つかずの酸素吸入器があるはずだ。まずそれを使え。そいつで体力を回復したら、発電機をコンプレッサーにつないで一人分の空間を作れば、気圧が上昇するまで生存できる。おい! 聞いているのか」 「……え、何だって」面倒臭そうにパルバティはそう言った。 「まず、医療室へ行って酸素吸入器をつけろ。レギュレーターは、毎分二、いや三リッターにしろ。すぐに体力は回復する」  パルバティは、制御卓に手をついて、のろのろと、立ちあがった。しかし、足もとにあった死体のひとつに足をとられて、すぐに転がった。彼は、その死体の顔を見、そして手にしっかりとにぎられているものを見た。死体は、プロジェクト・プランナーのものだった。手に銃を持って彼は死んでいた。  汚ない奴だ。  不意に彼はこの基地を破壊したい衝動にとらわれた。できることならプランナーの死体を足げにして、八つざきにしてやりたかった。彼は銃でパルバティの仲間を追い出したのだ。設営隊員達を外部に追いやって、コンプレッサーに電力を送らせようとしたのだ。そして、外に出た者は誰も帰らなかった。  背後で叫びつづけているレムの声を無視して、彼ははいずりながら回廊を進み、ようやく基地の外に出た。  冷たく、殺意を持った希薄な大気は、今はこの上なく清浄なものとして感じられた。基地をはなれた雪原の真中で、彼はあお向けに横たわって大空を見上げていた。  夜明けの光は次第に全天にひろがり、さしも消えることを拒みつづけていた星ぼしのかがやきも、今はゆっくりと色あせていった。その中でもひときわ明るく光るのは、照射を停止したHPが、太陽の光を反射しているのだろう。世界は朝を迎えようとしていた。  静止した彼の風景の中で、黒い影がよぎっていった。ムルキラは翼を一杯にひろげ、ゆるやかに上昇気流に乗っていた。  ——責任は果たした——俺達を、この惑星を見捨てないでくれ。  次第に高度を上げ、視界の中で小さくなってゆくムルキラに、彼はそう呼びかけた。そして、ゆっくりと彼の息が、鼓動が、ゆるやかになっていった。  ——俺も翼がほしい——  その眼がもう何もうつさなくなった時に、彼はそう考えていた。 [#改ページ]    解説 [#地から2字上げ]高橋良平  この頃、辛口が少なくなったと御不満のあなた……というのが酒のコマーシャルにあるけれど、最近、面白いSF、SFらしいSFが少ないな、と感じていて、コーフンするSFが読みたいと思っていたあなた。そう、今、この本を手にとってここを読んでいる(たぶん書店での立ち読みでしょうが)あなた。あなたはラッキーな方です。この期待の新人、谷甲州の処女長篇『惑星CB‐8越冬隊』こそ、そんなあなたを必ず満足させてくれるSFだからです。すぐさまレジに向かって歩きましょう。まだためらっているなら、もうひと押し。81年にこの本が奇想天外社からハードカバーで出版された時のオビの文句を引用しよう。�小松左京氏が絶賛!! 奇想天外SF新人賞作家の傑作長篇! ヒマラヤの山裾、ネパールの奥地で生活する著者が“成層圏を飛翔する渡り鳥に”発想を得て書き下ろした本格長篇SF�!![#「!!」は底本では「!!!」]  ………  ………  と、以上前口上。  谷甲州がSF界にデビューしたのは、第一回目に新井素子を世に送り出した奇想天外SF新人賞の二回目で佳作入選の「137機動旅団」であった。ハインラインの『宇宙の戦士』にも似た、異星での戦闘を描いた短篇で、一種ヴェトナム戦争を思い浮かばせるシチュエーションであったが、その特異な点は、戦闘シーンでのテクニカル・タームの正確な使い方、ハードな描写、醒めていながら悪夢のような熱気を持ったところだった。そうした作品の特質は、谷甲州が日本のSF作家では数少ない理工系の出身であるのがわかって納得がいった。  一九五一年三月三十日、兵庫県伊丹市に生まれる。SFに開眼したのは、当時小学館から出ていた“ボーイズライフ”誌で抄訳の海外SFや日本人作家の作品(光瀬龍、福島正実、筒井康隆や矢野徹『地球0年』が載っていた)を読んでからのこと。同誌に千字コントという、星新一、小松左京を審査員にしたショート・ショート募集のコーナーがあり、せっせと書いては送ったということだ。掲載には至らなかったが、これが谷甲州の創作への道の第一歩となる。と同時に、“ボーイズライフ”誌で青年海外協力隊のことを知るが、これは後で触れることにしよう。  大阪工業大学土木工学科に入学すると、三年間はワンダーフォーゲル部に入り、日本中を山歩きし、SFはもっぱら読む方にまわっていた。四年生になった時、ひょんなきっかけからSF研究会を設立し、同人誌を出し、久々にショート・ショートを書き、眉村卓の“チャチャヤング”に送り、何度もラジオで放送された。  一九七三年卒業後、建設会社に入社する。それまでの大阪の暮しを離れ、千葉県の銚子の田舎に移り、ガラリと変わった工事現場での飯場暮し。岡林信康の「山谷ブルース」ではないが、飯場の暮しが、趣味の登山(本人は山屋と呼ぶ)とともに流れ者、風来坊的性格を強め、また現場での技術屋(本人言うところの土方)の訓練が“ものの見方”を変えた。電車に乗っていて見る風景の一つ一つの建物、小さな構造物にも、それを作った人間たちの営為にまで考えがいくようになった。「仕様のない構造物でも、図面を何枚も作って予算を出して積算やって業者と契約して、土地の買収から伐採して測量して機械入れて材料搬入して鉄筋組んで……と段取りをずっと考えていかなあかんわけね」というわけだから、ハイ、宇宙船があります、などと小説にすぐに登場させることはできないという。その宇宙船を作った人間、そこで働く人間たちの給料までも考えたうえでないと、宇宙船を自分の小説には出せない……もちろん、小説の中で給料がなんぼ、と書くためではない。為念。  技術者兼現場監督の飯場暮しの中で、その技術者としての知識を生かし、風来坊的性格を満足させる青年海外協力隊の試験を受ける。青年海外協力隊というのは、外務省の外郭団体、国際事業団に所属し、国際協力のために各国に派遣された隊員が、その取得した技術で現地政府の職員と一緒になって、政府のプロジェクトを推進させる役割を果すものである。  谷甲州が協力隊に、海外に目を向けた原因は、現場の仕事にあった。高校生の頃から土方になりたいと思い、千葉県での施工と測量と設計に明け暮れる三年半は、“物を生産する”喜びと自分の土方の仕事に誇りを持っていた。大学出の青二才が、土方の符牒を覚えて土方のおっさんたちと仲間になり、休日返上しての仕事の日々であっても、充実したものだった。それが、東京に転勤になり、下町での下水工事になると、状況は一変する。地元住民は文句をいう、検査・再検査は不合格やり直しになる、下請け会社は倒産する、警察は怒ってくる……「あっちこっち謝っていた。感謝されんでもいいけど、嫌がられながら仕事をするのはほんまに嫌だね」……「あのころの自分は相当すさんでいた。ささいなことから同僚と喧嘩し、結局、救急車を呼ぶ騒ぎになったのもあのころだった」  忙しいばかりの苦情処理や役人の面子のためだけの手直し工事の日々。「やってられるか! 俺は土方が土方の仕事をやれる所に行くぞ。重箱のスミをつつきまわすような日本の工事なぞやっとれるか」と作業服に安全靴の姿のまま青年海外協力隊に願書を出した。会社の残務整理のかたわら、奇想天外SF新人賞の第一回の応募のため、時間テーマの作品九〇枚を書きあげるが、第一次予選にも通らなかった。  そして、ネパールへ。  カトマンドゥにいた時に前述の「137機動旅団」(奇想天外79年3月号掲載)を書きあげ、それが新人賞に入りSF界にデビュー。二作目の「ガネッシュとバイラブ」(同誌79年8月号)には既に地球人と汎銀河勢力との対立が描かれている。二年間のネパール任期の最後の九ヵ月をかけて書きあげた四百枚近い長篇が、この『惑星CB‐8越冬隊』である。正式任期が終了し、さらに一年延長することになり一ヵ月の休暇で帰国。奇想天外編集部に四百枚の原稿をあずけると、再びネパールへ向かう。(作品は雑誌に三回分載された後、単行本になる)今度の任地はインドとの国境近く、南にはインド平原へと続く地平線、北はカンチェンジュンガ=ヒマールの山を眺められる場所だった。そこで意識的に作りはじめた谷甲州版未来史『航空宇宙軍史一話・星空のフロンティア』(奇想天外81年4〜6月号)二百枚を書きあげる。  一九八一年三月九日、三年一ヵ月の任期を終了して帰国。が、それで日本におちつく彼ではなかった。現地で約束(契約?)していたHAJカンチェンジュンガ学術遠征隊のメンバーに加わるため、すぐまたネパールへ。カンチェンジュンガ標高測量及び周辺の氷河の測量を行う。遠征終了後はインドへ流れる。アジャンタ、デリー、パキスタン。その間友人と三人で七〇七七メートルのカシミール=ヒマラヤのクン峰を十日間で登頂・生還したり、カラコルム、カイバル峠を経て、アフガニスタン国境のゲリラの武器村として有名なダラを訪れたり……さらにボンベイから空路でタンザニアに渡り、キリマンジャロに登り、資金が底をつき残金をかき集め三等列車でエジプトを旅行しピラミッドを見あげて、ようやく日本に戻る。八一年の暮れのことだった。  以上が、ラフ・スケッチであるが、谷甲州のバックボーンになっているものだ。この見取図の中で、谷甲州が見て、触れて、感じて、考えた〈こと〉と〈もの〉が、彼のSFの出発点となっている。別に“体験主義”“経験主義”におもねるわけではなく、SFが〈世界〉に対する“ものの見方”であるならば、この海外放浪ともいえる体験が、日本で生活するだけでは味わえない“見方”とスケールの大きさを与えたのは間違いのないことだから、長々と紹介した。  バックにアジア大陸、インドから中近東にかけての“生活”がある作家に、SF界では山田正紀、視野を広くすると森詠、船戸与一といった人がいるが、共通していえるのは、皆、素晴しい冒険小説を書くことだ。谷甲州のこの長篇にもまた、ギャビン・ライアルの傑作『深夜プラス1』のように、限られた時間内に、限られた装備・資材である地点からある地点まで到達しなければならない、という冒険小説の要素が見られる。それがここでは、舞台が極寒の惑星。冬期の大陸隆起による気圧の異常低下、それにともなう人工太陽の軌道変化で、やがては越冬基地はその照射を受けて炎上してしまう。主人公たちは、その惑星の苛酷な条件のもと、前進基地から越冬基地に辿りつき、人工太陽HPの熱放射をストップさせなければならない……。ここにサスペンスと男のロマンが生まれる。  無論、SF小説である。しかも、冒頭に書いたようにSFらしいSF、つまり“ハードSF”である。一番の魅力は、惑星の気圧変化が語られていく部分にある。気圧の変化がいったい人間にどんな影響を与えて、この惑星がどうなっていくのか、これはスリリングというしかない。他にも、汎銀河人対地球人、CB‐8の異様な公転軌道とやわらかな地殻構造をなす原因、宇宙空間を翔ぶ渡り鳥ムルキラなど、興味深い設定が登場してくる。しかし、このなかでは、それらの“謎”は明かされはしない。以前、その謎が明かされずに終わることに不満をつらねた文を読んだが、なにもハードSFが、いや小説が、謎を説明するためにあるのではないことは自明のことだろう。水戸黄門的予定調和の安楽の夢にひたりたいのならともかく、現実世界でも虚構世界でも謎はそれ自体で魅力を放ち想像力をかきたてるものであり、駄々をこねるようなら小説を読まねばよいだろう。  それに、CB‐8もムルキラも汎銀河人も、今書きすすめられている谷甲州版未来史の中で、やがて明らかにされてゆくはずだ。青年海外協力隊の生活でつかんだ“地球人感覚”、西部劇の中の『ソルジャー・ブルー』を見た時の感覚、時代劇の中の『忍びの者』を見た時の感覚を“自分の未来史”に書き込みたいという谷甲州。二〇五〇年頃から始まる未来史は、「星空のフロンティア」に続き「仮装巡洋艦バシリスク」(SFM82年12月号・一五〇枚)、新鋭書下ろしSFノヴェルズの一冊として早川書房から刊行予定の『エリヌス——戒厳令——』とスタートしたばかりだが、狂言回しとしてのムルキラは既に登場している。ともあれ、日本人作家に少ない理工系出身の利点を生かしたサイエンスとメカニズムの書き込み、現場感覚リアリティーとアクション、海外体験、それら谷甲州の“哲学と志”は全てこの作品でも息づいている。満足感とこれから書かれる作品への期待感を持って、読者は最後のページを読み終えたことだろう。  尚、惜しくも受賞は逸したが、『惑星CB‐8越冬隊』は、82年度星雲賞日本長篇部門にノミネートされた。 [#改ページ] ハヤカワ文庫〈JA165〉 航空宇宙軍史 惑星CB‐8越冬隊 著者 谷甲州 発行所 株式会社 早川書房 1983年1月31日発行 2000年7月31日三刷 このテキストは、 (一般小説) [谷甲州] 航空宇宙軍史 惑星CB-8越冬隊.zip L41idCgP3B 28,767,690 d81e033a8370e9138b55f0c8ab6a1797 を元に、e.Typist v11と読んde!!ココ v13でOCRし、両テキストを比較校正して 作成しました。 画像版の放流者に感謝。 [#改ページ] ------------------------------- 102行 ぽっかりと雪面にひいたトンネルに入った。 ひいた → ひらいた ? 215行 「重要なことは、ここからです。第一七一日から八〇日間余りにわたる照射の、累積熱量は3.0×10^16キロカロリーになります。効率を0.5としても夏大陸の氷のうち2×10^11トンが水になることになる。これだけの融水が大洋に流出すれば、低緯度極地帯——緯度七〇度付近の沿岸部では相当の気象変化が予想され、沿岸にかなりの物理的影響が出るでしょう」 この部分の数式は現状の青空文庫形式では表記困難なため、変更してあります。 302行 そこでは何かのシュミレーションが行なわれていた。 編集とか文字組のミス? 他の部分では、「シミュレート」となっている。 735行  その、消え残ったキャラピラの軌跡は、 キャタピラ