[#表紙(表紙.jpg)] 幕末風塵録 綱淵謙錠 目 次  第1話 黒船ショック  第2話 榎本武揚と樺太  第3話 吉田松陰とテレパシー  第4話 海を渡ったサムライたち  第5話 水垢離をとる勝小吉  第6話 大奥は砂糖天国  第7話 舟を漕ぐ遊女  第8話 護持院ヶ原の仇討  第9話 家茂びいき  第10話 将軍の気くばり  第11話 〈天誅〉のゆくえ  第12話 生麦の鮮血  第13話 写真術事始  第14話 ナポレオンと留学生  第15話 オランダ離れ  第16話 仏人〈白山伯〉  第17話 攘夷派と国際派  第18話 パリのおまわりさん  第19話 慶喜裏切る  第20話 真犯人を追う  第21話 文藝春秋界隈  第22話 時は流れる  第23話 戊辰の江戸  第24話 トコトンヤレ節由来  第25話 黒 い 爪 痕  第26話 馬を駆る女  第27話 目撃者は語る  第28話 〈妖怪〉の実像  第29話 勇者の末裔  第30話 下北の会津藩士  第31話 死 出 の 旅  第32話 刀 痕 記  第33話 門外不出の裏ばなし  第34話 慶喜揺れる  第35話 海舟疑われる  第36話 死 の 正 夢  第37話 二十年後の再会  第38話 獄中の地雷火  第39話 慶喜へのこだわり  第40話 百年の怨念を超えて  あ と が き [#改ページ] 第1話 黒船ショック     1  まず当時の落首から、——     阿部《ヽヽ》川も黄名粉《きなこ》をやめて味噌をつけ         たつた四杯《ヽヽ》で胸につかへた     古《いにし》への蒙古の時と阿部《ヽヽ》こべに         ちつとも吹かぬ|伊勢の神《ヽヽヽヽ》風     阿部《ヽヽ》川も遠藤《ヽヽ》豆も味がない         上喜撰《ヽヽヽ》には合はぬお茶菓子 〈阿部川〉や〈伊勢の神風〉は老中首座阿部伊勢守正弘(備後福山藩主)を、〈遠藤豆〉は若年寄遠藤|但馬《たじま》守|胤統《たねのり》(近江三上藩主)を暗示し、〈四杯〉と〈上喜撰(上質茶の銘柄)〉はペリー艦隊の四隻の蒸汽船を意味する。つまり、これらは嘉永六年(一八五三)六月三日、黒船が浦賀に来航したときの幕閣のあわてぶりを諷刺した狂歌である。  幕閣だけではない。旗本御家人連中においても、関ヶ原や大坂の陣に御先祖さまの使用した御家伝来の武具|甲冑《かつちゆう》は、天下泰平の二百五十年間に頻発した火事で焼失したり、永年の〈手許不如意《てもとふによい》〉のために質屋の質草に化けたりで、毎年正月の具足開きに鏡餅とともに床の間に飾る鎧櫃《よろいびつ》の中は、いつのまにか埃《ほこり》と蜘蛛《くも》の巣のほかには何も見当らなかった。  そこへ黒船騒ぎである。     具足より利息にこまるはだか武士         臑当《すねあて》よりもお手当を待つ  と、顔を蒼ざめさせてあちこちから借金したり、公儀からお手当をもらってなんとか具足をそろえるありさま。これにたいしてにわかに活気づいたのは具足師・馬具屋・刀研ぎ・質屋といった連中である。思わぬ儲《もう》けがころがりこんだので、     よく来たなアメリカ様とそつと云ひ  と、不謹慎な北叟笑《ほくそえ》みもついこぼれるというものである。  さて、その黒船と接触した海の様子はどうかというと、『横浜開港側面史』(明42、横浜貿易新報社)に、この嘉永六年に十五歳だった平野政七という人の「嘉永六年の富津《ふつつ》」という回顧談が載っている。  富津というのは、いうまでもなく現在の千葉県富津市である。ちょうど対岸の三浦半島観音崎と、江戸湾の入口を扼《やく》する位置にある。当時、富津は会津藩が沿岸警備の任にあたっていた。その富津へペリー艦隊が入って来たのである。 〈会津様は大きなボートの様な船に弾丸除《たまよけ》の土俵を積んで、其の間に大砲四門を並べて港の入口を固めて居ました中を、米艦二艘が各一艘づゝの帆前船《ほまえせん》を引《ひい》て這入《はいつ》て来ました〉  というわけである。  陸には台場が十数カ所もあり、大砲には弾丸がこめてあって、いざというときには打ち出すばかりになっていた。そして海上には三百艘ほどの伝馬船を漕ぎ出して、黒船に備えた。  その伝馬船の船頭たちには、三度の飯が炊出《たきだ》しとして幕府から出され、朝、法螺貝《ほらがい》が鳴ると各自が飯の容れ物と、汁や沢庵の容れ物を持って兵粮場《ひようろうば》へ行く。そして飯や味噌汁をもらって船へ帰って食べるのである。しかも昼と晩の食事のときは、一人につき竹柄杓《たけびしやく》に一杯ずつの酒もくれた。また八ツ刻《どき》(午後二時)になると、兵粮場の大釜で煎じた琵琶葉湯《びわようとう》が一同にふるまわれた(『広辞苑』によれば〈琵琶葉湯〉というのは、ビワの葉に肉桂や甘茶などを細く切ってまぜ合わせたものの煎汁、とあり、暑気払いや痢病を防ぐ効能がある、という)。  政七少年はその船頭の一人だったわけだが、〈御手当は誠によかつたが、第一|怖《こわ》いのと飯の悪味《まずい》のには閉口した〉と述懐している。  肉体そのものは楽だったが、いまに戦いがはじまれば〈異人に捕虜《とりこ》にされて生血《いきち》を絞られて染物に使はれると云ふ事でしたから心配でした〉といっている。  やがて久里浜に応接所ができ、フィルモア大統領からの国書を浦賀奉行戸田伊豆守|氏栄《うじひで》に手交したのち、ペリー艦隊は観音崎を通過して江戸湾内に侵入、金沢沖に仮泊し、さらに江戸まで七海里の地点まで接近した。  国書授受とともに交渉は一段落したと安心していた幕府側は大あわてにあわて、急遽内海警備の諸藩に出兵を命じ、夜に入ってからは老中・若年寄・三奉行以下火事装束に身を固めて登城し、営中|鼎《かなえ》の沸くがごとく、浦賀・江戸間は飛脚の往来が入り乱れた。まして江戸市民の騒ぎは大変なものであった。  いっぽう、狼狽した浦賀奉行所では、伝馬船五艘に命じてアメリカ艦隊の跡を追わせた。その一艘に政七少年が乗っていた。  ところが、大急ぎで出て来たので、こちらには食べ物の準備が何もない。全員腹を減らして困っていると、米艦から水兵どもが手招きして、食べ物をくれた。茹《ゆ》でたまごであった。そこでたまごを割ってみると、みな生茹《なまゆ》でである。半熟ということを知らない船頭たちは、これを全部海に捨ててしまった。するとたまご焼きをくれた。これも中に牛や豚が入っているので食べられない。パンをもらえば、それには臭い鬢付油《びんづけあぶら》のようなものがついていて鼻持ちならない。そのうちに牛の焼肉もくれたが、これも受け取るとすぐに海に捨てた。  全員、眼がとび出るほど腹が減っているが、だれ一人、それらのご馳走を食べようという者がいない。そのとき、米艦から茄子《なす》のしなびたのや、大根・人参のしっぽを海に捨てるのが見えた。船頭たちは「あれだ!」と叫んで船を寄せ、海面にプカプカ浮んでいるそれらを拾って、塩をつけて食べた。それで当座の飢えをしのぐことができた。  翌朝、また軍艦で手招きするので、伝馬船を近づけてみると「軍艦に上がれ」という。そこで恐る恐る上がってみると、食堂らしいところに連れて行かれて、「これはどうだ、それはどうだ」と、いろいろな食べ物を見せられたが、船頭たちはみな首を振るばかり。最後に政七少年が「これ」と指をさしたのが、あとで考えるとビスケットだった。すると水兵たちはそれを新聞紙にたくさん包んで、持たせてくれた。  そのうちに水兵の一人が、ギヤマンの茶碗(ガラスのコップ)に赤黒い水を持って来たので、船頭たち全員は真ッ蒼になった。これは人間の生血に相違ない、と思ったのである。西洋人は人間の生血で染物をするとは聞いていたが、それを飲みもするのかと、早々にそこを逃げ出して、伝馬船にもどった。すると、その朝もまた生茹でのたまごをくれた。船頭たちはもはや空腹に耐え切れず、それを割って、中の〈半流動《どろどろ》して居る処を捨て、周囲《まわり》の熟した処〉だけを食べた。 〈私共は何でも異人は此様(こん)な物を呉れて日本人を殺す積りだらうと思つて居ました、夫《そ》れが今に成つて見ると人間の生血だと思つたのは葡萄酒《ぶどうしゆ》で、悪い香《におい》だと思つて、胸を悪るくしたのはバタで、今では甘《うま》く之《これ》を飲み食ひするといふのは、時勢が変れば人も変るもので御座います〉  というのが、晩年(この回顧談のときは七十一歳)の政七少年の感想である。     2  六月十二日午前、四隻のアメリカ艦隊は来年の再航を約して江戸湾を出て行った。     アメリカが早く帰つてよかつたね       また来るまではすこしおあひだ  その〈すこしおあひだ〉のあいだに、幕府はアメリカの国書を翻訳して、広く全国の大名に頒《わか》ち、幕府の役人、諸藩士ないし一般庶民でもよろしいから、何かよい考えがあったら忌憚《きたん》なく意見を建言せよ、と布告した。きわめて民主的《ヽヽヽ》なお触れであった。そこで諸大名や幕臣たちから続々と意見書が上呈され、大名だけでも約二百五十通、幕臣らの答申約四百五十通、計七百近い建白書が集まったといわれる。  自身番の前に掲示されたお触れをみて、江戸の町民も大沸きに沸いた。八代吉宗の時代に評定所の前に目安箱を置いて、庶民の要求や不満などを投書させたことはあるが、公方さまが御政治向きのことをわれわれにまで相談なさるなんていままで聞いたことがないというので、評判になった。「このたびの建白がご採用になり、戦さに勝ったとなれば、大名にお取立てになるそうな」といったうわさまで流れて、騒ぎを一層大きくした。大名や武士たちの意見は「なるべく穏便に」というのがそのほとんどを占めたが、江戸ッ子にそんな穏便主義などといった意気地なしはいない。みな強硬な主戦論ばかり。それが町奉行所の掛り与力の机の上に山をなしたという。  深川吉永町の中村屋源八という者を総代として材木問屋が差し出した建白書は、美濃紙百枚に細々としたためられた長文のものだったというが、その内容は、江戸湾の入口の水底に丸太杭を打ち込み、水柵《みずさく》を二重にも三重にも設けて、柵のうちには石を詰め込み、水柵の内通りには筏《いかだ》を組んで、その中に味方の船が通る船道《ふなみち》と水門をあけて置き、いざ賊船が来たというときには水門を締め切って、賊船の通航を不可能にする、万一、賊船が無理に入ろうとすれば、船の底が水柵に衝突して穴があき、船は沈んでしまう、という仕掛である。そして、この案ご採用のあかつきには、当然、その水柵にわれらが材木問屋の木材を使用してほしい、というわけだ。  また、新吉原の遊女屋の主人藤吉なる者は、夜中に賊船の下の海底にモグリを使って鉄の棒を建てておけば、干潮のさいに吃水《きつすい》が下がり、船底に穴があいて沈んでしまう、沈まなくとも近くの浜に揚げて修理するだろうから、これが成功したならば、特別の褒美として、吉原の繁昌のために今後|廓《くるわ》の四方門の通用と、山谷堀《さんやぼり》の船宿経営を免許していただきたい、というチャッカリぶり。 ——いずれをとっても奇策珍案、すべて当人たちは大まじめの神算鬼謀から出たものであった。 [#改ページ] 第2話 榎本武揚と樺太     1  わたくしは樺太《からふと》の西海岸(日本海側)に生まれ、中学生時代の五年間を汽車通学で過ごしたが、当時、中学生・女学生の汽車通学区間は真岡《まおか》という中・女学校のある町を中心に、南北それぞれ約四〇キロまでで、南は本斗、北は野田という町が終点であった。わたくしは北のほうの、野田から真岡寄り一つめの駅で、登富津《とうふつ》という小さな駅から通学していたが、わたくしの村とちょうど対称の地点に当る南のほうの駅は、本斗から一つめが遠節《とおぶし》で、二つめが阿幸《おこう》という駅であった。  この阿幸という集落の岡の上に、たしか日持《にちじ》上人の銅像が建てられていたと記憶する。  手許にある『樺太の鉄道旅行案内』(昭3・9、樺太庁鉄道事務所)という五十年前のガイド・ブックによると、当時「阿幸|荷客扱所《ヽヽヽヽ》」といわれた停車場の付近に、〈日持上人遺跡〉のあることが報告されている。それによると、扱所から北方二丁(約二〇〇メートル)の丘陵の中腹に「南無妙法蓮華経」と題目を刻んだ(と思われる)、幅二尺五寸、厚さ一尺、高さ一丈(約三メートル)に余る大きな石があるという。もっとも〈七字の題目はすでに磨滅して字体存在せず。かつ石は中央より二つに破壊して、わづかにその半身を見らるるにすぎない〉とある。したがって『樺太沿革史』(昭5・8、樺太庁)では〈碑面読ムニ由無《よしな》〉いので〈遺蹟トシテ確認サレ居ラズ。只《た》ダ日持ノ遺趾《いし》ガ西比利亜《シベリア》ニ存スルノ事実ヨリ関聯的ニ推断シテ、日持西比利亜渡航ノ経路ハ、北海道ヨリ樺太ニ渡リ、其レヨリ黒竜江ヲ溯《さかのぼ》リテ、大陸ニ足跡ヲ印《いん》シタルモノト思ハルヽマデノコトナリ〉としている。  日持上人は、いうまでもなく、祖師日蓮上人の高弟六人の一人である。わが国の大智高僧で海外に渡航し、仏典を研究してその成果を持ち帰った人ははなはだ多いが、わが仏教を遠く海外に布教しようと企てた人はきわめて少ない。その少ない宗教家のうちの、しかもいまから六百八十年以上もむかしに、北海道・樺太から黒竜江をさかのぼり、シベリアに布教し、さらに満州・朝鮮にまで巡錫《じゆんしやく》したと伝えられる高僧が、日持上人である。  上人は駿河国(静岡県)の出身で、はじめ比叡山に学んだが、のち日蓮上人の弟子となり、日持という名をもらう。文永七年(一二七〇)、数え二十一歳のときである。  翌文永八年、日蓮の佐渡に流されるや、日持もこれに従い、のち身延山に奉仕し、その文章力で知られ、弟子第六位となる。「日持法華問答書」は日蓮が「わたしといえども一宇を加えることができない。後人これを読めば、大きな利益《りやく》が必ずある。わたしのことばを編集することがあったら、この本もその中に入れよ」と絶讃した。  日持は常に「日本国内の弘法教化《ぐほうきようけ》には日昭・日朗といった偉い兄弟子たちがおられるので心配はない。だからわたしは海外に出て法華経の妙法を布教しようと思う。たとえ海中で台風に遭い、大魚の腹中に葬られるとも、願うところだ」と説いていたが、永仁二年(一二九四)十月、日蓮の十三回忌を終えると、翌永仁三年一月一日、「この日をわたしの命日とせよ」と弟子たちに言って、異域弘法《いいきぐほう》の途に上った。四十六歳であった。  その後、津軽に入って弘前にかかり、路傍の大石に題目を書き、それを日本の名残りとして〈松前ヨリ靺鞨《まつかつ》ニ渡リテ、行衛《ゆくえ》知ラレズ成給《なりたま》ヒケル〉と古書にあるが、靺鞨を現在のシベリア沿海州と考えると、そこに到る途中、樺太の西海岸を経由したものと思われる。 『樺太沿革史』によると、シベリア方面ではまず黒竜江の河口のプロンケ岬で、表面に御題目を記し、裏面に〈ヒモチ〉と刻した一碑が発見されたとか、さらに中国や朝鮮にも法華社、法華村、法華寺などがあるといい、それを日持上人と関係ありと推断している。  宮崎雷八著『樺太史物語』(昭19・3、桜華社)では、北海道から樺太西海岸の白主《しらぬし》に渡った日持上人は、阿幸に足を留めて前述した題目碑を遺《のこ》し、さらに北上。韃靼《だつたん》(間宮)海峡を越えて黒竜江に達し、ついに元《げん》の国に到って仁宗皇帝に謁して妙法を説き、皇帝から国師の礼遇を受け、さらに蒙古の地に入ったのが七十歳のとき。上人はなおもインドに赴こうとして、ついにコスコル湖畔に殉教して異域の土と化した。七十六歳。この地にある上人の墓には、韃靼文字で「東方僧日持の墓」と記してある、という。  右の記述がどの程度史実としての客観性をもっているのかわたくしにはわからないが、一人の僧侶が六百八十年もむかしに、わたくしの生まれ故郷の海浜を単身北上して行ったありさまを脳裏に思い描くことは、何といっても感動的である。もっとも昭和五十二年(一九七七)八月、樺太墓参団に参加して阿幸を訪れた旧樺太島民の手記を最近読む機会があったが、その人はバスを停めてもらって日持上人の碑を捜したのに、ついに見当らなかった、と報告している。ロシア人の来島するはるか以前にそんな日本の高僧がいたとあっては、樺太の歴史から日本人の足跡を消そうと努めている現在のソ連にとっては都合が悪いので、撤去破壊したものであろうか。     2  帝政ロシアがシベリアやアラスカを席巻し、千島や樺太にロシア人が出没するようになってから、日本は急速に北方からの危機感を意識するようになった。そのため天明五年(一七八五)、田沼|意次《おきつぐ》の命令で幕府から派遣された最初の蝦夷地《えぞち》巡見使のうち、カラフトに渡った庵原《いおはら》弥六・大石逸平をはじめとして、享和元年(一八○一)の中村小市郎・高橋次太夫、文化五年(一八○八)の間宮林蔵・松田伝十郎その他、幕末までに多くの偉大なカラフト探検家を輩出したが、その中に後年、樺太千島交換条約の交渉に当たった榎本|武揚《たけあき》の名を(小さくながらでも)挙げることができるのは、ちょっと心|嬉《うれ》しいことである。  榎本武揚がまだ若かったころに蝦夷地から北蝦夷(カラフト)まで行ったことがあるらしいとは以前から言われていたところであるが、それをほぼ決定的なものにまで検証したのは井黒弥太郎氏の『榎本武揚伝』(昭43・6、みやま書房)である。  嘉永六年(一八五三)六月、アメリカのペリーが来航し、同七月、ロシアのプゥチャーチンが来航した。その翌安政元年(一八五四)三月、幕府は目付堀|利煕《としひろ》と勘定吟味役村垣|範正《のりまさ》を巡見使として蝦夷地に派遣し、かつて五十年ほど前にロシアの南下に対応して行なったと同じように、蝦夷地をふたたび幕府の直轄地として松前藩から上知させるかどうかの下調べを命じた。そのとき、たまたまプゥチャーチンからの申入れで、カラフトで日露国境の劃定を行いたいといってきたので、幕府は急遽、堀・村垣の二人をカラフトにまで足を伸ばさせたのである。ところが約束の時期にプゥチャーチンはカラフトに来航せず、堀・村垣の一行は一カ月間カラフトを調査して帰ってきた。そのときの堀利煕の組下に榎本武揚がいた、というのである。  当時、武揚はまだ数え十九歳で、釜次郎を名乗っていた。ところが残念なことに、当時の公式の名簿には〈榎本釜次郎〉の名はどこにも見当らないのである。おそらく、堀の私的な従者として伴われたのであろう。そして釜次郎を堀に随伴させたのは、釜次郎の父の榎本円兵衛の才覚ではなかったか、とわたくしは考えている。  榎本円兵衛は備後《びんご》国(岡山県)の郷士箱田円右衛門の次男で、はじめ箱田良助と名乗り、十五、六歳のころから伊能忠敬の内弟子となって天文学・測量術を学んだ人間である。そして忠敬に随って日本各地の測量に従事し、地図の製作にたずさわり、文政元年(一八一八)四月、忠敬が死んだころには、すぐれた数学者・測地家として世に知られていた。  箱田良助が榎本家という、家康以来の御家人《ごけにん》の家の株を千両で買い、そこの娘と結婚して榎本円兵衛|武規《たけのり》と名乗ったのは、忠敬の死んだ年の七月である。そして文政六年(一八二三)十二月には、幕府天文方に出仕を命ぜられ、暦局で高橋景保の下で働いた。  円兵衛が伊能忠敬に学んだ文化年間は、文化四年(一八○七)のロシア軍艦の択捉《エトロフ》島|焚掠《ふんりやく》事件を頂点として、ロシアにたいする危機感の最高潮に盛り上がった時代であり、おそらく円兵衛は同門の先輩である間宮林蔵のカラフト探検の話も、師匠の口を通じて耳にしていたであろう。また文政十一年(一八二八)に高橋景保が引き起した〈シーボルト事件〉も、もとはといえば景保自身のカラフト地図完成の夢に原因していることであり、円兵衛はこのことも身近に見聞していたはずだ。  このような履歴から、わたくしは榎本円兵衛という人を、一つには幕臣意識に燃え、もう一つには北方への危機感に燃えた技術人として、像をつくり上げてみる。そしてこの人間像は子供の釜次郎にそのまま受け継がれた。嘉永六年の黒船来航に触発された釜次郎は、それまで通っていた昌平|黌《こう》での勉学を廃し、堀利煕に従ってカラフトにまで赴き、箱館に帰ってみると、たまたまプゥチャーチンの乗艦ディアナ号が入港してきたのに刺戟されて長崎の海軍伝習所に入り、やがてオランダに留学し、幕府艦隊の旗艦開陽丸艦長として幕末を迎え、箱館五稜郭に立て籠って新政府軍に最後の抵抗を試みることになる。明治元年(一八六八)八月十九日、榎本が幕府艦隊を率いて北に向ったのは、蝦夷地に土地勘《とちかん》があったからである。  榎本武揚に樺太紀行の感慨を詠んだ〈靺鞨《まつかつ》の山青一髪《やませいいつぱつ》〉に始まる漢詩がある。その最後は〈扶桑《ふそう》は南望《なんぼう》す三千里。頭上驚き見る北斗の高きを〉と結ばれている。わたくしはこの詩を口ずさむたびに、榎本武揚の北方に託した限りない夢を思い描くのであるが、同時にその背景に、北海のほとりにたたずんで水平線のかなたに衆生済度の慈眼をそそぐ日持上人の姿を想い見るのである。 [#改ページ] 第3話 吉田松陰とテレパシー     1  二月初旬(昭和60年)、ある民間放送のテレビ番組で、「霊現象の真相に迫る」と題して、一人の女性霊能者を通じて三島由紀夫が霊界からメッセージを送って来るという心霊現象を、精神科の専門医や超心理学者、小説家や評論家などが立ち会って分析し、その真偽を探る実験を見た。  たまたま用事が起き、全部見たいという関心の昂《たか》ぶりも湧かないまま、途中でスイッチを切ったのであるが、わたくしの関心を冷《さ》めさせた理由の一つは、その霊媒が三島の名前を〈三島由|起《△》夫〉と書いたことである。  もちろん、わたくしに心霊現象について云々《うんぬん》するだけの専門的知識はないが、少なくとも霊界からの三島由紀夫の通信だというテレビ放映の触込みからすれば、三島の霊がその霊媒に乗り移った憑依《ひようい》状態中に書く本人の名前なのであるから、これだけは正確であってほしかった。たしかに〈三島由|紀《○》夫〉と書いた紙片も映っていたが、テレビがクローズアップで見せた名前が〈三島由起夫〉となっていたことは事実である。  これは番組担当ディレクターがその霊能者の失格であることを無言で訴えるための、故意の接写だったのであろうか。それなら何も予告篇までつくって、〈TV初挑戦! 徹底実証取材〉とか〈知識人総動員〉といった謳《うた》い文句で、仰々しく宣伝する必要はなかったであろうに、というのがわたくしの率直な感想である。それともディレクター自身、この誤記に気づいていなかったのであろうか。  自分の名前を誤記される不愉快さはだれも同じだろうが、かつて編集者時代に三島さんの作品の校正をしたことのあるわたくしとしては、この〈三島由起夫〉という名前がおそらく三島さんのいちばん癇《かん》にさわる誤植だったにちがいないと想像している。これは〈芥川龍之|助《△》〉や〈森|欧《△》外〉などと同じように、よく眼につく誤植の事例であり、われわれ編集者はつねにそれを警戒したものである。  元来、わたくしは心霊現象というものに強い関心があり、人間の超能力やオカルト的な現象をテーマにした歴史小説も何篇か書いたこともあって、そういう現象を「信じるか?」と真剣に問いつめられたなら、しばらく考えたのちに、「信じます」と小さな声で答えるであろうほどには関心を抱いている人間である。しかし、このときのテレビの内容は、子供のころから耳にしている〈いたこ〉とか〈口寄《くちよせ》〉の神がかりの実態については大変よく教えてもらったが、霊界の存在とか霊界との交信といったことについては、やはり不信感を拭いきれなかった。  現在のわたくしはせいぜい虫の知らせとかテレパシーというものを信じる程度の|〈超自然論者《スーパーナチユラリスト》〉のようである。なぜなら、わたくしは「あれがテレパシーというものかな」と思われる、現在もなお説明のできない、不思議な現象を体験したことがあるからである。  昭和二十年(一九四五)八月十五日、〈敗戦〉を北海道旭川師団の幹部候補上等兵として迎えたわたくしが、進駐して来たアメリカ軍に旭川師団のすべてを明け渡す〈残務整理〉という任務から解放されて、ようやく復員の許可を得て旭川を離れたのは、九月中旬であった。  しかし、わたくしには帰るべき当てがなかった。故郷の樺太はソ連軍の不法占領下にあった。そこでその年の一月まで高校生活(旧制)を送っていた新潟を唯一の目当てとして汽車に乗った。  第三国人のひしめく連絡船で津軽海峡を渡り、青森から汽車に乗ったとき、ふと、秋田で途中下車してみようと考えた。秋田には、戦時中、わたくしの妹が樺太から勉強に出て来て下宿していた黒木さんという家があり、わたくしも高校時代一、二度泊めてもらったことがあった。そこを訪ねようというのだ。  わたくしが何の前触れもなしに黒木家を訪れたときは、深夜となっていた。ところが、起き出てきた黒木家の奥さんは少しも意外そうな様子がなく、「お待ちしてましたよ」という。わたくしは怪訝《けげん》な思いで座敷に案内され、とにかく温かい夜食で人心地をとりもどすことができた。すると奥さんが、「じつは今朝、綱淵さんのお父さんが訪ねて見えたんですよ」  と語った。「えッ?」と驚くわたくしに、奥さんは笑顔で次のように説明した。—— 「今朝、明け方に、わたしの夢にお父さんが現れ、玄関先で『近く、うちのケンがお邪魔すると思いますが、よろしくお願いします』と、何度も何度も丁寧に頭を下げて帰って行ったんです。アリアリと見えたんですよ」  もちろん、父は樺太にいた。しかも、黒木家を訪れたことは一度もない。それがなぜ奥さんの夢枕に立ったのであろうか。  それからの三カ月間、黒木家はほんとうによくわたくしの面倒をみてくれた。そして、わたくしの感謝の気持が強まるだけ、父がわたくしの来訪を予告した不思議さも増大した。その不思議さはいまも説明できずにいる。     2  先日、明治四十一年(一九〇八)十月発行「日本及日本人」臨時増刊『吉田松陰号』に掲載された「松陰先生の令妹を訪ふ」というインタビュー記事を読んでいたら、わたくしの父が黒木家の奥さんの夢枕に立ったと似た話が出て来たのでビックリした。  吉田松陰の父は長州藩士|杉百合之助《すぎゆりのすけ》常道、母は滝といい、松陰はその次男で名は矩方《のりかた》。通称は初め虎之助といったが、父の弟吉田大助の養子となって大次郎を名乗り、のち寅次郎と改めた。  松陰には兄の杉梅太郎のほかに、弟一人と妹四人がいたが、ここでインタビューを受けているのは一番上の妹の干代(姻戚児玉初之進の妻となり、のち芳子と改む)である。このインタビューのとき(明治41年9月)は数え七十七歳(大正13年、93歳で死去)。インタビューアーは松宮|丹畝《たんぽ》(春一郎)という。  まず、松宮探訪記者の説明から聞くことにしよう。—— 〈俗間に云ふ「夢の告げ」「虫の知らせ」が霊界に於ける感応なるや否やは、論議の余地を存する問題なり。仮りに「夢の告げ」「虫の知らせ」が事実と一致することあるも、是は偶然の一致にして、其一致なるものには、聯関の理由も事情も存せず、何等かの理由あるかに思惟《しい》するは「心の迷《まよい》」に過ぎずと断言して憚《はば》からざる者多しと雖《いえど》も、是に反し、説を立つる者も尠《すくな》からず。此説によれば、今日の科学の進歩は未だ充分に之《これ》を説明するの域《いき》に達せざるも、「夢の告げ」「虫の知らせ」には深《ふ》かき道理を包み、必らずや聯関の事情を存すべしと。余は今斯《いまかか》る問題に就き、仔細《しさい》の研究に入るを避くべしと雖《いえども》、松陰一家にも「霊界の感応」に関する物語あり。刀自《とじ》は次の如く語れり〉  というわけで、千代刀自の談話を載せている。その大略を現代の話しことばに書き改めてみると、—— 「兄の寅次郎が〈親思ふこゝろにまさる親ごゝろけふの音づれ何ときくらん〉と歌い、永《なが》の訣《わか》れを告げたあの日(松陰の処刑は安政六年十月二十七日〔洋暦・一八五九年十一月二十一日〕。ただし右の歌を作り、父百合之助・叔父玉木文之進・家兄梅太郎三人連名宛に「永訣《えいけつ》の書《しよ》」を書いたのは十月二十日である。—綱淵)に、いつのまにか今年も近くなりましたね。思い返すと、五十年の昔、わたしの実家はたいへん悲惨な目に遭いました。寅次郎は遠く江戸に送られ、それだけでも悲しいことなのに、長兄の梅太郎と末子《すえこ》の敏三郎が枕を並べて病床にあり、父と母はその看護で疲れ果てておりました。しかし、さいわい二人の病勢が少し緩んだ日があり、父も母も病床の傍でついウトウトとまどろみかけて、ハッと眼を覚ましました。  そのとき母は父にこう語りました。 『いま、妙な夢を見ましたわ。寅次郎がとてもよい顔色で、むかし九州の旅から帰ったときよりも、元気のよい姿で帰って来たのです。あら嬉しや、珍しやと、声をかけようとしたところが、忽然《こつぜん》と寅次郎の影は消え、醒めてみると夢でしたわ』と。  すると父は、次のように答えたのです。 『わしも夢から醒めたところだ。わしはどういうわけか知らんが、自分の首を斬り落されたのだが、それがとても心地がよかったのだよ。首を斬られるとはこんなにも愉快なものかと、感心したところさ』  というのです。  それから二十日ほどして、江戸から便りがあり、兄の死を伝えて参りました。そして両親があの日の夢を思い出し、指折り数えてみますと、日も時刻もピタリと重なるのでした。  母は申しました。『寅次郎が萩の野山獄から江戸に護送される前日、忘れもしませぬ五月二十四日、一日の許しを得て実家へ帰って来ました。わたしは風呂場で寅次郎の湯を使う姿を見ながら、もう一度、江戸から帰って機嫌のよい顔を見せておくれ、というと、寅次郎は、母上、いと易きことです、必ず健康な姿で帰って參ります、と答えてくれました。その誓いを果すために、わたしの夢に健康な顔を見せたのでしょう』とのことでした。  父もあの日の夢を解釈して、『わしが首を斬られながら心地よく感じたのは、寅次郎が刑場の露と消えたとき、なんら心にかかる煩《わずら》いがなかったからだろう』とのことでした」  松陰の首を刎《は》ねたのは、名人といわれた七代目浅右衛門山田|吉利《よしとし》である。その吉利が松陰の最期を「さすがに立派な往生であった」と敬服し、〈親思ふ云々〉の辞世を常に口ずさんでいた事実は、吉利の三男|吉亮《よしふさ》が証言している(明41・7・6「報知新聞」夕刊)。 [#改ページ] 第4話 海を渡ったサムライたち     1  わたくしは、芸能界についてはきわめて不案内な人間であるが、戦後、「ヤットン節」とか「東京ワルツ」といったヒット・ソングをたくさん作曲したレイモンド服部という作曲家をご存じの方は多いと思われる。  最近わたくしはそのレイモンド服部氏が服部逸郎という本名で出版した『77人の侍アメリカへ行く』(昭49・2、講談社文庫)という本を読んで、服部氏が万延元年に日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカへ渡った日本使節団の副使村垣淡路守範正の曾孫にあたる人であることを知って驚いた。服部氏は一九〇七(明治四十)年に横浜に生まれ、一九七三(昭和四十八)年に亡くなっておられる。  この服部氏の本には「万延元年遣米使節の記録」という副題がついている。つまりこの本は、服部氏が自分の曾祖父の業績をもう一度現代の日本人に知ってもらいたいために書かれたものなのである。  服部氏の曾祖父村垣淡路守については、第2話「榎本武揚と樺太」の中でちょっと触れたことがある。嘉永六年(一八五三)七月、ロシア使節プゥチャーチンが来航し、翌年(安政元年)六月、カラフトで日露国境の劃定を行いたいという提案をして帰国したとき、幕府からカラフトに派遣されたのが目付堀|利煕《としひろ》と勘定吟味役村垣範正の二人であった。  安政五年から六年にかけて井伊直弼の強行した〈安政の大獄〉の進展にともなって、当時、幕臣の最も開明的人材が集められたといわれる〈外務官僚〉——たとえば川路|聖謨《としあきら》、岩瀬|忠震《ただなり》・永井|尚志《なおゆき》・井上清直など——のほとんどが左遷閉居を命ぜられたとき、いわば第二期外務官僚のホープとして井伊直弼によって登用されたのが村垣淡路守範正であった。安政五年(一八五八)十月、村垣は岩瀬忠震の罷免されたあとの外国奉行に任命されている。  はじめ日米通商条約の批准書交換はアメリカのワシントンで行うことを提案し、「その使節としてはわたしと水野|忠徳《ただのり》が行く」といってハリスを喜ばしたのは岩瀬忠震であった。それが万延元年(一八六〇)一月に実際に派遣されたのは、正使|新見豊前守正興《しんみぶぜんのかみまさおき》、副使村垣淡路守範正、監察小栗|豊後守忠順《ぶんごのかみただまさ》の三人であった。  徳川幕府の鎖国以後、漂流民は別として、日本人が正式に海を渡って外国を訪れたのはこれが最初である。このときの遣米使節団の一行は、使節以下全員七十七名。それにこの使節団の護衛艦という名目で咸臨丸《かんりんまる》も太平洋(当時は「太平海」といった)を渡った。その咸臨丸に乗り組んでいた日本人は提督《アドミラル》木村摂津守|喜毅《よしたけ》・艦長《キヤプテン》勝麟太郎以下、全員九十六名であった。合計百七十三名の日本人がこのときアメリカを見聞したわけである。したがって多数の見聞記が書き遺されている。そしてそれらの見聞記は、その後現在までの百二十年間に日本人によって書かれた、文字通り汗牛充棟もただならぬ西洋見聞記の先蹤《せんしよう》をなすものであった。     2  むずかしい議論はやめよう。ここでは、これらのはじめて外国をながめた人々の観察や驚きのいくつかを、村垣淡路守の『遣米使日記』を中心に拾ってみることにしよう。外国を観察する眼そのものに、かえって〈幕末に生きる〉日本人の生活なり思想が描き出されているかもしれないからである。  米艦ポーハタン号に乗った村垣たち日本使節団が最初に足跡を印した外国の地は、サンドウィッチ諸島(現ハワイ諸島)のオアフ島ホノルル港である(咸臨丸はハワイに寄らずに、サンフランシスコへ直航した)。  ポーハタン号の提督はタットナル、艦長はピアソンといった。ホノルルに着いたとき、タットナルは上陸をすすめたが、村垣たちは〈和親にもあらぬ国なれば〉とお堅いことをいって、上陸を断わっている。しかし、ここはアメリカとも親しいところで、宿屋も準備してあるといわれると、長いあいだ船酔で半病人みたいになっていた者たちであるから、陸をみては我慢ができるものではない。〈すすめにまかせて〉全員上陸した。そして初めて泊ることになったフランス人経営のホテルの内部を観察して、〈我国の仏寺の如し〉といっているのも面白い。  村垣はこの旅行のあいだ、たくさんの和歌を作っている。その上手下手は別として、わたくしの好感をもった歌の一つに、次のようなのがある——     鳥か鳴く東《あずま》もをなしほの/\と         ほのるゝ島のはるの曙《あけぼの》  わが国の和歌史上、ホノルルを歌った最初の歌ではあるまいか。  狂歌もある。ハワイ国王カメハメハ四世の招待で国王夫妻に会ったとき、国王は金モールの綬《じゆ》を掛け、王妃が薄ものを纒《まと》って両肩をあらわにしているのを見て、——     御亭主はたすき掛《がけ》なりおくさんは         大はたぬきて珍客に逢ふ  大肌脱ぎで珍客をもてなしてくれたエンマ王妃を、村垣は〈生けるあみた仏〉のようだと、その美しさを讃えている。  正使新見豊前守の従者として随行したなかに、仙台藩の玉虫左太夫|誼茂《やすしげ》がいる(玉虫はのちに戊辰《ぼしん》の敗戦で切腹)。  その玉虫がホノルルを散歩しているとき、ピアノの音に足をとめていると、家の中から十四、五の少女が出て来て家に案内した。入ってみると、母親らしい四十歳ほどの女性と、十二、三歳の男の子三人がいて歓待してくれたが、そのうちに母親が世界地図を出して、日本はここで、ワシントンはここだなどと、指で教えてくれた。玉虫がいちばんびっくりしたのは〈女トイヘドモ文字ヲ読ム〉(「航米日録」)という事実だった。  またある日、一軒の商店から招く人がいるので入ってみると、|あばた《ヽヽヽ》のあるお婆さんがいて、玉虫を見て涙を流し、手をとって椅子に掛けさせ、顔をやさしく撫《な》でてくれた。〈是定メテ同病ヲ相憐《あわ》レミタルコトナラン〉。玉虫もまた|あばた面《ヽヽヽづら》だったのである。  サンフランシスコでは市長の招待で歓迎パーティーが盛大に行われた。早々にポーハタン号に帰った村垣たちは、「およそ懇親をあらわした礼とみると真実もうかがわれるが、悪口をいわしてもらうなら、江戸の市店《いちみせ》などに鳶《とび》人足などというやからが酒盛りをしているのがこんな光景だろう」と言いあって笑った。  いよいよワシントンのホワイトハウスでブキャナン大統領に謁見した。使節団の一行は、狩衣《かりぎぬ》・布衣《ほい》(無紋の狩衣)・素袍《すおう》・麻裃《あさがみしも》と、それぞれ柳営の服制にのっとった正装をして赴いたのに、〈大統領は七十有余の老翁、白髪穏和にして威権もあ〉るが、〈商人も同じく、黒羅紗《くろラシヤ》の筒袖《つつそで》、股引《ももひき》、何の錺《かざり》もなく、太刀もな〉いのには驚いた。これが他国の君主の使節を遇する礼儀か。 〈合衆国は宇内《うだい》一二の大国なれとも、大統領は惣督にて、四年目毎に国中の入札《いれふだ》にて定《さだめ》けるよしなれば、国君にはあらざれど、御国書も(将軍家から)遣されければ国王の礼を用《もちい》けるか、上下の別もなく、礼義は絶てなき事なれは、狩衣|着《ちやく》せしも無益の事と思はれる〉  と、いささか軽く取り扱われたような気がして不満だった。  これと同種の感想は村垣の「日記」の随処にあらわれる。それはアメリカを〈礼《いや》なき胡国《ここく》〉と視る村垣の固定観念から発せられたものである。儒教文化とアメリカ文明の摩擦点といってよいであろう。  たとえば、大統領に謁見した翌日の午後九時から、「夜は外出しないことにしている」とことわるのをむりやり引き出された村垣たちは、国務長官ルウィス・カス邸での舞踏会に連れて行かれる。そこで何百人もの男女が〈ミシユッキ(ミュージック?)〉に合わせて〈こま鼠の廻るか如く、何の風情手品もなく幾組もまはり、女のすそには風をふくみ、いよ/\ひろかりてめくる〉ダンスなるものを見て、あきれてホテルに帰ってきた。そして、〈凡《およそ》礼なき国とはいへと、外国の使節を宰相の招請せしには、不礼ととかむれは限なし。礼もなく義もなく、唯《ただ》親の一字を表すると見て免《ゆ》るし置《おき》ぬ〉というのも、同じ根から出た感想である。  大統領招待の晩餐会があった。その席上、ホステス役のハリエット・レーンという大統領の姪《めい》が村垣に「将軍の侍女は何人ぐらいいるのか」とか「どんな着物を着ているのか」といった質問をするので、〈程よくあしらひ置〉いた。すると〈女は御国と米利堅《メリケン》とはいつれか勝《まさ》れるや〉というので、〈米利堅の方色白くしてよし〉と答えると、女同士で喜びあっていた。それをみて村垣は〈愚直の性質なるべし〉と日記に書き込んでいる。  しかし、村垣の感想がつねにこのように批判的だったわけではない。ワシントンにある海軍造船所《ネービーヤード》を見学したとき、大砲を作り鉄槌を動かすのに〈蒸気仕掛にて種々の細工をするさま、目を驚かしたる奇工、筆にも言葉にも尽しかたし。(中略)此機関は我国にも用ひなは、国益は言《いう》はかりなしと思はれける〉と、心から感嘆ているのである。  村垣家の言い伝えによると、ペリー来航のとき、アメリカ人にご馳走するのに、日本人は自分たちには筍《たけのこ》の煮たのを出し、アメリカ人には竹を鋸で引いたのを煮て出したという。日本人の歯のよさを誇示するためだった。  服部逸郎氏は、村垣淡路守が渡米前には異人を犬猫同様に思っていたことを、帰朝後、大きく悔んでいたという話で、『77人の侍アメリカへ行く』を終っている。 [#改ページ] 第5話 水垢離をとる勝小吉     1  戦後、わが国の子供の教育問題は母親と子供のあいだの問題として、常にジャーナリズムのテーマとなってきた。そこには父親の入る余地がきわめて少なかったし、また一般的にいえば、父親自身そこに入る余裕を持たなかったか、意識的にそこから締め出されることを希望していたか、とにかく父親の影はうすかった、といってよいだろう。  わたくし自身、二人の男の子の父親として、学校参観といった形で子供の教育の現場に立ち会ったことは数えるほどしかなかったし、家庭内での意識的な教育行動といったものも、全面的に家内まかせであったことは、事実として認めざるをえないのが現実である。  敗戦という厳しい現実に直面して、日本の男性はそれまでの生きる自信を喪失し、また、過度といってよいほどの自己批判の姿勢を要求されて、子供の教育に|うしろめたさ《ヽヽヽヽヽヽ》みたいなものを抱くようになったし、さらに敗戦後のドサクサと高度成長期の馬車馬的労働環境にかまけて、子供の教育から逃避的だったことは確かである。  同時に、日本の女性が婦人解放という新しく獲得した女権確立の立場から、いままで男性の行なってきた教育の総点検を試み、子供の教育を父親から母親の手に、といった考え方から、男性に子供の教育にタッチすることを禁止する雰囲気がなかったとはいえないのも現実であったろう。  その成果は大きかった。わたくしは戦後三十年間の、母親を主役とした子供の教育は、わが国の教育史上でも特筆すべき大きなプラスをもたらしたと信じている。それは素直に評価すべきである。  しかし、経済も一つの安定期に際会し、男性の生活もむかしにくらべて一応の余裕を持ちうるような社会環境を迎えたとき、母親を主役とした子供の教育にもやはりある限界ないしマイナス部分のあることも、次第に自覚されるようになってきた。そして、それにつれて父親の存在が、当然のことながら、再評価されようとしている。  わたくしは最近、旧制高等学校時代の二、三年後輩にあたる友人が、自分の息子さんの教育に苦労した話を聞いて感動した。  その友人は銀行員であるが、銀行内での地位も安定したころ、息さんは高校生で、いつのまにか反抗期を迎えていた。学校でいつも事件を起こし、そのためその友人や奥さんが学校から呼出しを受けることが多くなってきた。  はじめのころは奥さんがいろいろと訓戒や忠告を与えたが、息子さんは全然受け付けず、ときには母親を撲《なぐ》りつけることもあった。  友人はことここに到って、自分がいままで息子さんとゆっくり話合いをしたことが一度もない事実に気づいて愕然《がくぜん》とした。そこで意を決して息子さんとの話合いを持ったが、だんだん双方が興奮し、ついには取っ組み合いの喧嘩《けんか》となった。たがいに怒りと憎しみをさらけ出しての格闘であった。  それが何度か繰り返されたという。  奥さんは傍で「やめて」「やめて」と泣きながら、二人が疲れ切って自然とやめるの待つしかなかった。翌朝になると、奥さんがゆうべの喧嘩の跡の、障子の破れをふさいだり、サイドボードのガラスの破片を拾ったりしているのを眺めながら、友人は出勤し、息子さんは登校した。 「ほんとうに地獄のような毎日でした」  と友人が述懐したとき、わたくしは思わず、 「それで、現在はどうなのですか」  と、せっかちに質問せざるをえなかった。 「ええ、おかげさまで」と、友人はにっこりした。息子さんは現在は親元を離れて大学生活をしているが、高校時代の非行生活からは完全に立ち直り、「おやじがもっと早くぼくを撲ってくれたらよかったんだよ」と、明るい笑顔を取りもどしているという。  わたくしはほっとするとともに、友人の勇気ある行為に感動した。わたくしにはとてもそこまで子供にたいして裸になれる勇気があるとは思えなかったからである。  これはもっと最近の新聞紙上でのニュースであるが、ある大学の医学部助教授(四八)が、息子さん(一三)といっしょに北海道の大雪山系を縦走中に遭難し、父子ともに遺体となって発見された記事があったことは周知のところである。これはほんとうに胸の痛むニュースであるが、登山歴二十年以上というベテランの先生が何を教えようと、息子さんを伴なって夏山に挑んだのか。それを思うと、なんとなくこちらの胸に伝わってくるものがあるような気がして感動にゆすられるのは、わたくしも父親の一人だからであろうか。  このニュースから二、三日して、またわたくしたちは、こんどはきわめて明るい父親のニュースを新聞紙上で読むことができた。両|大腿部《だいたいぶ》切断という一級重度身障者の父親(四〇)が、「息子たちに父親のガンバリを見せておきたい」と思い立ち、静岡県熱海市の初島から網代《あじろ》港まで七キロの海を完泳したという朗報である。  ふだんはくるま椅子の生活をしている人が両腕だけに頼ってこれだけの距離を、しかも海で泳ぎ切ったということは壮挙というしかないが、これを見た子供さんたちが「お父さん、スゴイ」と、父親にあらためて畏敬の念を抱いたことは、さらにわれわれ父親族を喜ばしてくれた。  このようにして、少しずつ手さぐりの状態ながら、子供の教育における母親と父親の役割分担がはっきりしてくるのは、たいへん望ましいことだ。このような父親の話を見聞きしていると、これからの日本の子供教育も捨てたものではないという気になるのは、わたくしだけではないであろう。     2  このような現代の父親像をながめてくると、つい連想は幕末のある人物に飛ぶ。勝左衛門太郎|惟寅《これとら》である。号は夢酔《むすい》、通称|小吉《こきち》。禄高四十一石余の、幕臣としてはきわめて微禄な御家人にすぎない。  この人は海舟勝麟太郎の父親であるという以外に、社会的にはたいした役割を演じた人間ではないが、『夢酔独言』という自伝的著作を遺したことで、そのきわめてユニークな生きざまを後世に知られるようになった。わたくしは徳川幕府二百六十五年間に幕臣の書いた著述から最も好きなものを選べといわれれば、大久保彦左衛門|忠教《ただたか》の『三河物語』と、この勝小吉の『夢酔独言』の二冊にとどめをさす。  一方は幕府草創期に譜代の臣として家康に仕え、戦国武士の誇りに生きた生きざまが吐露され、もう一方には幕末という停滞社会で貧乏に沈淪《ちんりん》し、時代への不満から「あばれ者」としてアウトロー的姿勢に生きながらも、自己を偽らずに生きる男らしさが活写され、ともに一抹のすがすがしさを漂わせているところに、両者の魅力がある。  その『夢酔独言』によると、文政十二年(一八二九)、小吉の長男麟太郎が西ノ丸に召し出され、将軍|家斉《いえなり》(十一代)孫の初之丞(十二代家慶の五男慶昌)のお付きとなった。これは勝家のような小普請組《こぶしんぐみ》(無役)の貧乏御家人にとっては、天から降って来た幸運というしかなかった。小吉が麟太郎の将来に大きな期待を抱いたのは当然である。小吉二十八歳、麟太郎七歳のときであった。  ところがそれから二年たった天保二年(一八三一)、麟太郎九つの年、宿下りで城から家に帰っていたとき、〈本のけいこに三つ目向ふの多羅尾七郎三郎が用人の所へやつたが、或日けいこにゆく道にて、病犬《やみいぬ》に出合《であつ》てきん玉をくわれ〉るという事件が起きた。  その知らせに驚いた小吉は、麟太郎が担ぎ込まれた家に飛んで行った。麟太郎は蒲団を積んでそれに寄りかかっていたので、前をまくって見ると、ふくろが破れて玉が外に出ている。そこで居合わせた成田という外科医に「命は助かるか」と尋ねると、「むつかしい」という。至急、駕籠《かご》で自宅へ麟太郎を連れ帰り、篠田という外科医に来てもらって傷口を縫わしたが、医者が顫《ふる》えているので、小吉は刀を抜いて枕元にグサと突き立て、「しっかりしろ」と怒鳴ると、麟太郎も泣き声を立てず、医者もようやく気を引き緊めて傷口を縫い終った。 「工合はどうだ」と尋ねると、医者が「命は今晩にも受け合いかねる」と答えたので、家じゅうの者が泣いた。そこで小吉は「バカをいうな」と医者をたたき出し、その晩から水をかぶり、金毘羅《こんぴら》さまに毎晩はだか参りをして祈った。 『夢酔独言』を下敷きにして書かれた故子母沢寛さんの名作『父子鷹』では、能勢の妙見堂で水垢離《みずごり》をとったとされている。当時の切絵図によると、そのころ勝家が住んでいた本所入江町の旗本岡野孫一郎の敷地の近くには金毘羅さまは見当らない。そのすぐ近くの中之郷横川町にあった能勢という旗本屋敷内の妙見堂は、開運|厄除《やくよけ》の霊験あらたかというので、江戸中に知られていた。その妙見堂で「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えて一心不乱に祈る小吉の姿は感動的である。  そして小吉は水垢離で冷えたからだで毎晩麟太郎を抱いて寝てその熱を取り、「こんど岡野様へ来た剣術つかいは、子供を犬に食われて気が違った」とまでうわさされたが、七十日かかってようやく全快させることができた。  後年、勝海舟が多くの暗殺者や狙撃者に襲われながらも泰然自若として国事に奔走できた心構えには、父親小吉に抱かれて生死の境を抜け出た、九歳のときの体験も、大きく作用していたかもしれない。 [#改ページ] 第6話 大奥は砂糖天国     1  十一代将軍|家斉《いえなり》の文化・文政時代というのは、江戸文化の爛熟期といわれるが、このころになると食べ物も著しく発達して、〈食通〉といわれる人間も出て来るようになった。  画家の酒井|抱一《ほういつ》は姫路城主酒井|忠以《たださね》の弟で、風流人として有名だが、あるとき浅草|山谷《さんや》の八百善《やおぜん》に行き初鰹《はつがつお》の刺身が出たので箸をつけると、急に箸を置いて料理番を呼びにやらせた。板前が出て「何か御用で」と尋ねた。抱一は「この刺身は磨《と》ぎたての包丁で作ったのじゃないか」と聞いた。そこで板前が「へえ、さようで。切れ味が大事と思いまして」と答えたところ、抱一は眉をひそめ、「砥石《といし》の匂いが魚について食べられないのだ」と小言をいったという。こんなうるさい人間にかかっては、板前もたまったものではあるまい。しかし、当時の江戸人の味覚の鋭さは、この逸話からも推測できよう。  このころになると、食通は「一に味、二には初物《はつもの》、三に珍物《ちんもつ》」といって、材料の取り合わせ、盛り方、器物の配合にまでうるさく批評するようになっていた。  これもあるとき、通人仲間が酒も飲みあきたので、「八百善へ行って極上《ごくじよう》の茶を煎じさせ、香《こう》の物であっさり茶漬を食べようか」と、打ち連れて八百善へ行って注文した。  すると八百善では「しばらくお待ちください」といって、半日も待たせたうえ、ようやく膳が出て、かくやの香の物と煎茶の土瓶を持って来た(『広辞苑』——〈かくや〔覚弥〕(江戸時代初、岩下覚弥の始めたものといい、また、高野山で隔夜堂を守る老僧のために始めたものともいう)種々の香の物の古漬を塩出しして細かく刻んで醤油をさしたもの。隔夜〉)。香の物は春には珍しい瓜や茄子《なす》の粕漬を切り交ぜにしたものであった。  さて、食事を終って勘定をきくと、「金一両二分」という。いまの金に換算すると、七万五千円ぐらいに相当するであろう。さすがの遊び人たちもびっくりした。そこで「いくら珍しい香の物とはいえ、これではあまりにも高価すぎないか」と文句をいうと、八百善の主人が答えていうには、「はい、香の物の代金はともかく、茶のお代が高価になるのでございます。茶はいくら極上の茶でも、土瓶一つに半斤(三〇〇グラム)とは入りません。ただ、茶に合う水がこの近辺にないものですから、玉川へ水を汲みに人を走らせ、早飛脚で水を取り寄せたので、その運賃が高くついたわけでございます」とのことであった。いかにも当時の世の中が贅沢《ぜいたく》を喜ぶ風潮になっていたことがしのばれる。  こうして江戸料理も次第に一つの形式をとりはじめるのであるが、天保(文政の次の年号)以前には、口取肴《くちとりざかな》を硯蓋《すずりぶた》にたくさんきれいに積み重ねて台にのせ、鯛は作り身でも焼物でも尾頭《おかしら》つきで大皿に入れ、|つま《ヽヽ》物をあしらって飾りつけして座敷へ持ち出し、客の前で取り分けをしたという。  それが天保頃から会席料理というのがはやり出し、客人の数に応じて肴、煮物と、別々に皿へ配合よく付け合わせて出すようになったので料理人は調理に一層凝ることになり、味覚だけではなく、目の調理にまで発達した。  天保十二年(一八四一)閏《うるう》正月三十日、大御所家斉が死んだ。そして同年五月から、老中首座水野忠邦の〈天保の改革〉が始り、奢侈《しやし》禁止令が公布されると、贅沢な菓子や料理類も禁制の対象となり、料理茶屋・水茶屋なども商売替えを命ぜられる世の中となった。その結果、町人の贅沢は表面は質素にみせ、人の目に立たぬところで贅沢をする、という風に変って来た。  これは勝海舟の話だが、ある男の紹介で、さる大名の御用達《ごようたし》を勤めている町人に招かれてその寮に行ってみると、酒の肴に蒲鉾《かまぼこ》が一切れと青菜のひたし物、それに吸物の三品が出ただけで、帰りがけに饅頭《まんじゆう》三つを土産《みやげ》に持たされた、というのである。いささかムッとした海舟が帰宅してからその饅頭を仏壇に供えておいたら、子供がいつのまにか食べてしまって、海舟の口には一つも入らなかった。四、五日して、紹介した男がやって来て、その饅頭を作るには、小豆《あずき》は幾升というなかから粒の揃《そろ》ったのばかりを選《よ》ってアンにつくり、砂糖もオランダのカピタンでもなかなか手に入らない棒砂糖を用いて、それに水も津川か玉川上水から汲んで来て枯らしたものだ。それだけではない、一枚の蒲鉾も鴨を三十羽もひねり、一羽から背肉だけを少しずつ選り取って蒲鉾にしたものだし、青菜とても同様、茎の同じに揃ったものを十籠二十籠の中から選って煮ひたしにしたもの。金と労力が目に見えぬところにかかっているのをご存じ無しに召し上がるとは情無い、とこぼしたので、さすがの海舟も「面目ない」といって残念がった、というわけだ。これは海舟の直話《じきわ》として遺っている。  実際に贅沢のできる力のある者を一篇の禁令で「贅沢は敵だ」と抑えても、そう簡単にはやめるものではないことを、この話はよく教えている。忠邦の厳しすぎる奢侈禁止令は都市商人の抵抗を呼び、ついに二年後には失脚につながった。     2  世の中泰平だと、必ずといってよいくらいに顔を出すのが大酒大食会である。豊泉益三著『近代世態風俗誌』(昭26・1、三越宣伝部内・同誌刊行会)によると、文化十二年(一八一五)十月二十一日に、江戸千住一丁目に住む中屋六右衛門という人の還暦祝いに、当時江戸で有名な酒豪を招待して酒飲み競《くら》べをやったという。その記録——   伊勢屋言慶 六十二歳 三升五合飲む。   大坂屋長兵衛 四十歳 四升余飲む。   市 兵 衛 万寿無量杯一升五合入にて三杯飲む。   松   勘 九合入の江之島杯、五合入のいつく島杯、七合入の鎌倉杯、二升五合入の万寿無量杯、二升五合の緑毛亀、三升入の丹頂鶴などことごとく飲む。   佐 兵 衛 七升五合飲む。   大野屋茂兵衛 小盞数杯後に万寿無量杯にて飲む。   蔵前 正太 三升飲む。   石屋市兵衛 万寿無量杯にて飲む。   大門 長次 水一升、醤油一升、酢一升、酒一升を三味線にて拍子とらせて口鼓を打ちつつ飲む。   茂   三 緑毛亀杯二升五合飲む。   鮒屋与兵衛 小盞にてあまた飲みたる上に緑毛亀杯をかたむく。   天満屋五郎左衛門 三、匹升ばかり飲む。   お い く これは酌取女、江之島杯、鎌倉杯などにて終日飲む。   お ぶ ん これも酌取女、前と同じくのむ。   天満屋みよ 天満屋五郎兵衛の妻なり、万寿無量杯をかたむけて酔たる色なし。   菊屋おすみ 緑毛亀坏にて飲む。   お た つ 鎌倉杯などあまた飲む。  男女に差別がないのが嬉しい。しかも女性はプロ・アマともにしたたかに飲んでいる。  江戸の女も結構|やっていた《ヽヽヽヽヽ》わけだ。  いっぽう、甘党はどうか。宮川次郎著『随筆砂糖』(昭11・7、台湾糖業研究会)によると、文化十四年(一八一七)三月二十日、両国柳橋の万八楼で大酒大食会が開かれ、酒組・菓子組・飯組・鰻組・蕎麦組の五つに分れ、そのうち菓子組の優等者は次のごとくだったという。     神田・丸屋勘右衛門 五十六歳 饅頭五十・羊羹七棹・薄皮餅三十・茶十九杯     八丁堀・伊予屋清兵衛 六十五歳 饅頭三十・鶯餅八十・松風煎餅三十枚・沢庵|丸《まる》の儘《まま》五本     麹町・住野屋彦四郎 二十八歳 米《よね》饅頭五十・鹿の子餅百・茶五杯     千住・百姓武八 三十七歳 饅頭三十・小落雁二升程・羊羹三棹・茶十七杯     丸山片町・安達屋新八 四十五歳 今坂餅三十・煎餅二百枚・梅干一壺・茶十七杯  いやはや、天下泰平である。老年組も結構頑張っているではないか。  天保八年四月、家斉は十二代家慶に将軍職をゆずり、大御所となったが、その当時の大奥における嘉祥の祝儀にさいして要した菓子の記録が、やはり『近代世態風俗誌』に載っている。その〈御座敷|盛《もり》千六百十二膳〉の内訳の主なるものを見ると、〈大饅頭百九十六膳・此数五百八十〉〈大鶉《おおうずら》焼二百八十膳・此数千四百十〉〈黄黒|金鈍《きんとん》二百八膳・此数三千百二十〉〈黄白寄水二百八膳・此数六千二百四十〉〈羊羹百九十四膳・此数九百七十切〉等々、その名も意味もよくわからぬものもあるが、とにかくおびただしい菓子が大奥女中たちによって食べられていたことが推測される。当時の江戸城内の栄耀栄華の一斑といってよいだろう。  昭和三十三年から三十五年にかけて東京・芝の増上寺で徳川将軍墓の改葬が行われたが、その発掘調査報告書によると、家斉の正室広大院の遺体(没年七十一歳)の残存歯十二本のうちに虫歯が三本あった事実、十二代家慶の側室殊妙院の遺体(老年)の残存歯二十三本のうちに虫歯が七本、十四代|家茂《いえもち》の正室和宮(静寛院宮)の虫歯が七本(生前脱落四本)、いや、十四代家茂その人の歯が、三十二本のうち三十一本まで虫歯だった(生前脱落一本)という驚くべき事実も、こういう大奥の〈砂糖天国〉から生まれて来たのだろう。  前掲『随筆砂糖』に、幕末、天下の副将軍水戸の殿様の臣下でさえ、砂糖はときどき拝領するくらいの貴重品だった、という故老の話が紹介されている。拝領といってもまことにホンの少々で、それを壺に入れて貯え、しまいには砂糖が融けて蜜のようになったのを箸の先につけては舐《な》め合ったほどだ、というのである。  砂糖の消費状況が都市と田舎、上流社会と庶民層とでは劃然と差異があり、いうならば砂糖は当時のステータス・シンボルのような地位にあったことが知られる。現在の日本人が、男性は糖尿病を、女性は肥満を警戒して、砂糖と戦っている状況を思えば、文字通り今昔・隔世の感に堪えない。 [#改ページ] 第7話 舟を漕ぐ遊女     1  たとえば、太平洋で四百八十四日間という記録的な漂流を経験した督乗丸《とくじようまる》(船長小栗重吉)という尾張の弁財船《べざいせん》が、その漂流の前に出航した港は、伊豆半島西海岸の子浦《こうら》であった。同船は尾張藩の江戸廻米その他を無事に江戸へ送り届け、その帰りに子浦を出たのち、遠州灘《えんしゆうなだ》で暴風雨に遭って漂流した。文化十年(一八一三)十一月四日というから、十一代将軍|家斉《いえなり》の時代である。  古来、遠州灘は海の難所として知られ、それを乗り切るには、伊豆の下田ないし子浦に船《ふな》がかりして〈風待ち〉をし、朝早く出航して一気に遠州灘を帆走し、夕刻に志摩(三重県)の鳥羽《とば》に入港するのが、江戸時代の船乗りの常識とされていたようだ。  また、たとえば十四代将軍|家茂《いえもち》は、〈公武一和〉のために、前後三回、江戸から京都へ上《のぼ》らねばならなかったが、その第二回目のときは、軍艦奉行|並《なみ》の勝麟太郎(海舟)の指揮する軍艦|翔鶴丸《しようかくまる》で、海路、大坂へ向った。  文久三年(一八六三)十二月二十九日、同艦は下田へ入港し、将軍は海善寺に宿泊。そこで文久四年の新春を迎えたが、元旦早々西風が強く、「海舟日記」によると、〈海上西北の風強く、港内なを動揺す〉という状態で、側近のあいだから、「これだから海路は危ないといったのだ。いまからでも遅くない、陸行に変更すべきだ」という声が挙がった。  翌二日、翔鶴丸は時化《しけ》を突いて出航したが、西風がなお強いため、子浦へ避難した。すると翔鶴丸を運転している乗組員の面々が子浦滞泊を憤り、ただちに出帆することを要求してきた。海舟は「この風は朝に凪《な》いで、午後に起こっている。まだ出帆は無理だから、もう二、三日は出帆を見合わせよう」と説いたが納得せず、ついに将軍にまで進言する者が出て、家茂から出帆の沙汰が下った。そこで海舟は家茂に会い、「出帆はいたしますが、もし風が強くなったらこの子浦に引き返して、ここに船がかりをします。陸行は決して致しません」と言上して、出帆した。〈果して風強し。直《ただち》に折れて子浦へ入《いる》〉。家茂は上陸して、その夜は西林寺に一泊。  翌三日も滞泊した。こんどは〈御陸行之説|蜂起《ほうき》〉。それがまた家茂の耳に遅した。すると、家茂は次のように答えた。—— 「いまさら陸行すべからず。かつ、海上のことは軍艦奉行がいる。予もまたその者の意に任せる。他の者は一切異議を申し立ててはならぬぞ」  ピシッとした一言だった。〈此御一言にて、衆議|悉《ことごと》く止《や》む。小臣|悌泣《ていきゆう》して、上意の忝《かたじけな》きに感激す〉と、海舟は感涙に咽《むせ》んでいる。  さらにまた、たとえば慶応三年(一八六七)十二月二十五日——といえば、江戸で幕府が庄内藩に命じ薩摩屋敷の焼討ちをした日である。このとき薩邸を逃れ出た相楽総三《さがらそうぞう》ら浪士隊の一部は、品川沖に碇泊していた薩艦|翔鳳丸《しようほうまる》に小舟で乗りつけ、これを収容した翔鳳丸はただちに発航して、羽田沖でこれを追って来た幕艦回天丸と砲戦を開いた。  しかし、大きな被害を蒙《こうむ》った翔鳳丸は、折から訪れた夕闇に紛れて遁走し、これを追跡した回天丸は下田まで南下して、下田役人とともに近傍の浦々を偵察したがついに発見できず、無念の歯咬《はが》みをして江戸に引き揚げた。  じつはこのとき、翔鳳丸は子浦に逃げ込んでいたのである。長谷川伸の名作『相楽総三とその同志』は、このときの〈江戸湾の海戦〉につき報告したのち、—— 〈子浦港は三方を山に囲まれ、対岸を妻良《めら》といい、小さいながら名港で、下田から西へ陸行四里のところにある〉  と、子浦について説明している。  ちなみに、翔鳳丸はこののち破損部を修理し、翌二十六日早朝子浦を出帆したが、遠州灘で荒天に見舞われ、スクリューに錨綱《いかりづな》を巻き込んで進退を失い、二昼夜の漂流。二十八日にようやく風も静まり、スクリューの錨綱も解くことができたので、二十九日夕刻、紀州熊野浦|九木湊《くきみなと》に寄港し、翌慶応四年(一八六八)一月二日に兵庫に入港した。  ところが、そこで開陽丸(艦長榎本武揚)を信号本艦(旗艦)とした幕府海軍に抑留されそうになり、一月四日早朝、同じ薩摩藩の春日丸、平運丸とともに兵庫港を脱出。平運丸は瀬戸内海に進路をとり、春日丸と翔鳳丸は紀淡海峡を通過して、鹿児島へ帰航しようとしたが、阿波の伊島沖で、春日丸と、これを追って来た開陽丸とのあいだに海戦が行われた。その結果、春日丸はその船脚の速さを利用して逃げのびたが、翔鳳丸は近くの近くの由岐浦《ゆきうら》に難を避けて浅瀬に擱座《かくざ》し、その夜、みずから火薬庫に火を放って自焚している。     2  かねて一度は行ってみたいと思っていた南伊豆の子浦を訪ねることができたのは、去年(昭和59年)の九月二十五日であった。案内をしてもらったのが下田温泉(蓮台寺)の清流荘社長田中賢一氏である。  わたくしは幕末の下田および南伊豆について調べるときには、いつも田中さんの清流荘に泊まり、田中さんの知識に頼って来た。わたくしにとって、田中さんは下田に関する〈生き字引〉である。この日も田中さんは多忙な半日を犠牲にして、われわれ夫婦を南伊豆のドライブに誘ってくださった。 「ご希望の場所はございますか」という田中さんのことばに、 「妻良と子浦に行ってみたいのですが」と、わたくしの声は思わずはずんでいた。  わたくしの書物だけの知識では、妻良と子浦の関係がよく呑み込めなかったのである。妻良湾の中に子浦という港があるような、その反対に子浦という浦曲《うらわ》の内に妻良港があるような、はなはだ曖昧《あいまい》な感じだった。ところが、田中さんに質《たず》ねると、「妻良と子浦とは全然別な港で、同じ湾内のそれぞれ反対側にある港です」という。「なるほど」と、わたくしはようやく納得した。そしてこれからその実際を見てみようということになった。  前掲の長谷川伸からの引用では、子浦は〈下田から西へ陸行四里〉とあったように、車ならそれほど遠い距離ではない。田中さんの運転する車で国道一三六号線を西に走り、下賀茂温泉や南伊豆町を過ぎ、田中さんの説明によると「むかしはこの辺は〈人跡稀れなる〉といったことばがピッタリするところでした」という山間部を通り抜けると、いつのまにかカーブのいくつもある急な坂を下降していた。その坂には、カーブを曲るたびに白い彫像が立っていた。近くにある松崎高校彫塑部の生徒たちの作品らしい。  やがて樹間《このま》越しに妻良湾が見下ろされた。手前の、遠洋航海用の大型漁船がたくさん船がかりしているほうが妻良港で、子浦港はその対岸だという。車は妻良には寄らずに、大きく迂《う》回して子浦の港へ入った。  わたくしたちは子浦の小さな埠頭から、対岸の妻良を望んだ。不思議なことに、妻良側にはあれほど漁船がたくさん碇泊していたのに、子浦には全くといってよいほど船の影は見えなかった。風向きの関係から、妻良側に風を避けているのであろうか。  わたくしはふと、〈妻良《めら》〉という地名は〈大浦《おおうら》〉ないし〈男浦《おうら》〉にたいする〈女浦《めうら》〉の転ではあるまいか、と考えた。その〈女浦〉のお腹《なか》の中に〈子浦《こうら》〉があるのは、何の不思議もない。ただ、大浦ないし男浦にあたる湾がどこなのか、南伊豆の地理に暗いわたくしに断定できないのが残念であ|る《※》。 「むかしはあの辺に遊女屋が並んで、出船入り船を眺めていたそうです」と田中さんの指差す崖の上を見上げたり、「海舟日記」にある〈西林寺〉と思われる、港のすぐ傍の寺の境内を見物したり、子浦の出身で、田中義一の政友会総裁時代に政界の惑星と呼ばれて活躍した三申《さんしん》小泉策太郎が、政界の大物たちを集めて組閣の密議を凝らしたという屋敷を望みながら、かれの立身出世物語を語るなど、時間は楽しく過ぎて行った。  子浦からの帰途立ち寄った松崎町の「伊豆の長八美術館」で、富秋園|海若子《かいじやくし》の『伊豆日記』という本を買った。著者の経歴ははっきりしないが、文化七年(一八一○)九月中旬から十月中旬にかけて伊豆旅行をしたときの日記である。文化七年といえば、本稿冒頭に触れた督乗丸漂流の三年前にあたる。  その『伊豆日記』に、海若子が子浦を訪れたときの話がある。  ある晩、酒に酔い、子浦から小舟で妻良の〈女宿《おんなやど》〉に案内された。ところがそこの女あるじも遊女も不在で、隣家に尋ねると、子浦に船がかりした大船《おおぶね》に上客が来たというので、そちらに出向いたという。仕方なくその晩は案内した者の知人の家に泊めてもらい、翌朝、濃い霧の中をまた小舟で子浦へ帰って来た。すると、途中で山おろしが吹き出し、海が荒れ出したため、生きた心地もなく船底にひれ伏し、神仏を念じていた。  ようやく子浦の岸近くになり、頭をもたげて舟の外を見ると、近くに碇泊中の大船から三人の女が小舟に乗り移ろうとしていた。手拭いで頬《ほお》からげをし、着物の裾《すそ》を引き絞って、やがて沖へ漕ぎ出て行った。少しも波風を恐れる様子はなく、高い波のうねりが来るたびに、「やッ」「やッ」と掛声を発しながら漕いで行くさまは、見惚《みと》れるほどの勇ましさ。その舟に乗っていたのが、ゆうべ訪ねて行った女あるじであり、舟を漕いでいるのはその家の遊女だった。大船のお大尽《だいじん》も名残りが惜しいのか、舳先《へさき》に立って見送っており、その顔は日焼けして真ッ黒なくせに、なんとなく物悲しげなのも滑稽《こつけい》だった、とある。  その話を読んだとき、なぜかわたくしはそれらの遊女たちに強い親近感を覚え、江戸時代の子浦や妻良の殷賑《いんしん》ぶりが実感できた。 [#2字下げ、折り返して3字下げ]※雑誌掲載のさい、無記名の方のお便りで、下田東急ホテルの眼下に見える湾を大浦湾ということをご教示いただいた。記してお礼に代えます。——綱淵 [#改ページ] 第8話 護持院ヶ原の仇討     1  八代将軍吉宗の享保《きようほう》二年(一七一七)一月二十二日、本郷丸山から出た火事が八丁堀まで延焼し、神田橋御門の外にあった護持院の荘厳な堂塔を一宇も残さず焼失させた。  護持院はそれまで湯島にあった知足院を、元禄元年(一六八八)、五代将軍綱吉が神田橋|外《そと》五万坪の地に移し、元禄九年(一六九六)、元禄山護持院の号を与えた関東新義真言宗の大本山である。寺領千五百石。住持は大僧正隆光であった。隆光は綱吉とその母桂昌院(三代家光の側室お玉の方)の帰依《きえ》を受け、綱吉の出した「生類憐みの令」は隆光の進言によるといわれる。  その護持院が焼けたあと、幕府は再建を許さず、これを大塚護国寺内に遷し、その跡地は周辺の武家地跡と合わせて永久の火除地《ひよけち》とした。これが俗に〈護持院ヶ原〉と呼ばれ、一番原から三番原まであった。  われわれは〈護持院ヶ原〉ときくと、すぐに思い浮べるのが森鴎外の歴史小説「護持院原《ごじいんがはら》の敵討」(大2・10「ホトトギス」である。じっさい、この稿を書くにあたって参照した、ある「日本地名大辞典」の『東京都』の巻においても、—— 〈天保年間頃は周囲を柵《さく》で囲み、中には茶店があり、散策場となっていた。弘化三年、森鴎外の小説にもなった護持院ヶ原の仇討があった〉  と説明されている。現行の千代田区神田錦町一丁目から三丁目にかけての一帯をいう。  もっとも、右の引用には、小さな誤りがある。つまり〈弘化三年〉とあるのが、正しくは〈天保六年〉なのである。それでは〈弘化三年〉は全くのでたらめかというとそうではなく、弘化三年にもやはり護持院ヶ原で|別な仇討《ヽヽヽヽ》があったのである。おそらくその二つを混同しての間違いであろう。  森鴎外の「護持院原の敵討」のあらすじは、天保四年(一八三三)十二月二十六日|卯《う》の刻《こく》(午前六時)過ぎ、姫路城主酒井|雅楽頭忠実《うたのかみただみつ》の江戸藩邸上屋敷の金部屋《かねべや》で、前夜から当直していた大金奉行《おおがねぶぎよう》山本三右衛門(五十五歳)が何者かに襲われ、右手首を切り落されるほどの深手に屈せずこれと闘って追いはらい、翌二十七日寅の刻(午前四時)に絶命した。犯人は表小使《おもてこづかい》の亀蔵という仲間《ちゆうげん》だった。  三右衛門の伜《せがれ》宇平と三右衛門の弟九郎右衛門、それにかつて亀蔵と一緒に酒井家の表小使をしたことがあり、亀蔵の顔を見知っている文吉という渡り仲間の三人が、三右衛門の敵《かたき》を討つべく、関東から関西、四国、九州と尋ね歩き、ついには大坂で宇平が前途に絶望して行方をくらまし、残った二人がめぐりめぐって江戸で亀蔵を捕え、三右衛門の娘で宇平の姉の|りよ《ヽヽ》を加えて、護持院ヶ原二番原で亀蔵を殺害し、仇討の本懐を遂げる。天保六年(一八三五)七月十三日、月の明るい真夜中の子《ね》の刻(午後十二時)であった。  ただ、この仇討は平出|鏗二郎《こうじろう》著『敵討』(明42)所収「江戸時代敵討事蹟表」およびその流れを引く仇討年表では、仇討の〈場所〉が〈江戸神田門外〉となっており、もう一つの弘化三年のほうが〈江戸神田護持院原〉とあるため、前例のように鴎外作品を弘化三年の敵討と誤りやすく、同じ誤りを犯している本が案外多いようだ。  もっとも、いささかくどくなるが、梅原北明著『変態仇討史』(昭2)の前付《まえづけ》に収められている幕末当時の「仇討番付」(本版刷)二点では、両方とも西方《にしかた》前頭の下から三枚目に、一方(「為御覧《ごらんのために》」)は〈天保|こじん《(ママ)》原仇討〉、もう一方(「忠孝仇討|鏡《かがみ》」)は〈天保護|持原《(ママ)》仇討〉と、護持院ヶ原になっている。  面白いのは、この梅原北明の同書前付に一緒に入っているよみうり瓦版《かわらばん》(オフセット)の〈仇討記事(その一)〉が、弘化三年のほうの護持院ヶ原の仇討ニュースなのである。  この仇討は討手が熊倉伝十郎と小松|典膳《てんぜん》、仇人《あだにん》が本庄|辰輔《たつすけ》といったが、この仇討の評判を高からしめたのは、本庄辰輔に殺されたのが当時江戸で有数の剣客といわれた井上伝兵衛だったことである。  井上伝兵衛は直心影流《じきしんかげりゆう》の遣い手で、下谷|車坂《くるまざか》に道場があった。その井上伝兵衛と島田虎之助の出会いのときの逸話がある。  豊前《ぶぜん》(大分県)中津藩士島田虎之助は九州ではもはやかれに敵する者なしというので、天保八年(一八三七)、数え二十七歳で江戸へ出て、男谷《おだに》精一郎と手合わせをした。しかし男谷の剣に不満を感じ、「江戸一といってもこんなものか」と、次に井上伝兵衛の道場を訪れ、伝兵衛と立ち合って簡単に敗れた。そこで島田が入門を願い出ると、伝兵衛は笑って、「わたしくらいの者は江戸にはたくさんいる」といって男谷精一郎を推薦した。島田が男谷との手合わせの模様を話すと、「それはあなたが未熟だからだ」と諭《さと》して紹介状を書いてくれたので、改めて男谷と立ち合ってみると、こんどは全く歯が立たず、射すくめられたように脂汗を流し、ついにはその場に平伏してしまった。  こうして島田は真の師匠にめぐりあったわけで、この逸話の主人公は幕末の剣聖といわれた男谷精一郎なのだが、井上伝兵衛も並みの剣客ではなかったことを物語っている。     2  その井上伝兵衛が、天保九年(一八三八)十二月二十三日の夜|亥《い》の刻(午後十時)、駿河台のある屋敷で行われた茶会の帰途、御成街道で闇討ちに遭った。伝兵衛は肩先と脇腹に重傷を負い、近くの自身番屋に転がりこんで、「車坂の井上だ」と名乗って息絶えた。  その晩は小雨が降っており、伝兵衛は片手に傘、片手には茶器の入った箱と提燈をさげ、茶会で出された酒に酔っていたというが、伝兵衛ほどの剣客がみすみす殺されるとは、と、当時の話題になった。それにしてもこれは伝兵衛と親しい、顔見知りの者の犯行ではないかということで、だんだん犯人を絞って行くと、門人の本庄辰輔が浮んできた。  この本庄辰輔、別名本庄茂平次という。この名を見て、「あッ」と驚く人がいるかもしれない。天保の改革の主唱者水野忠邦の三羽烏の一人で、〈まむし〉とか〈妖怪〉と呼ばれた鳥居|耀蔵《ようぞう》(甲斐守|忠耀《ただてる》)の走狗《そうく》として働き、とくに鳥居が秋帆《しゆうはん》高島四郎太夫を弾圧したとき、秋帆に関するデッチ上げ情報を提供した張本人と目されている男である。  本庄茂平次の経歴については、あまり詳しくはわからないが、手許にある佐藤昌介氏著『洋学史の研究』(昭55・11、中央公論社)の高島秋帆処罰事件関係記事に散見する茂平次の行動を拾い上げて、井上伝兵衛暗殺事件と連繋づけてみよう。ただし、佐藤氏の著書には、井上伝兵衛殺害ないし護持院ヶ原の仇討についての言及は全くない。  同書によると、茂平次は長崎|町年寄《まちどしより》福田源四郎の元使用人で、天保九年から十年当時は江戸で医業を営んでいたという。このころ目付だった鳥居耀蔵が長崎奉行に転役するといううわさがあり、それを耳にした茂平次が立身の手づるをえようと、鳥居に会って長崎の取締りに関する意見を述べた、とある。  平出鏗二郎の『敵討』によると、茂平次は長崎で入牢《じゆろう》中、破獄して江戸へ出、鳥居家へ出入りしてその家来となり、甲斐守(耀蔵)を助けて権策を弄していた、とあるが、いくら〈悪《わる》〉でも、牢破りの身がはじめから目付の家へ出入りしたとは考えられないし、また茂平次が正式に耀蔵の家臣となったのは、耀蔵が江戸の南町奉行になった直後の、天保十三年(一八四二)一月である(このときから〈辰輔〉を名乗ったのかもしれない)。  こう考えると、はじめ江戸へ出て医業を営んでいた茂平次が、長崎出身であることを口実に鳥居家へ出入りするようになり、耀蔵自身が井上伝兵衛の剣の弟子だったので、茂平次も伝兵衛の道場に入門したのではあるまいか。茂平次のことだから、おべっかを使って伝兵衛に相当取り入っていたと想像される。  また平出の同書によると、茂平次が伝兵衛を殺害した理由は、〈辰輔(茂平次)あるとき貸金の取立の事について御徒士《おかち》井上七之助の養父隠居伝兵衛に頼んだ。所が伝兵衛はそれを聞き入れないで、却つて異見を加へた。辰輔それを遺恨に思つて、天保九年十二月二十三日の夜、伝兵衛を下谷御成小路で暗討《やみうち》にして殺害した〉とある。  茂平次が伝兵衛の門人であったかどうかは、この書からはわからぬが、故子母沢寛氏などは門人説をとっている。殺しの夜、門人で、しかもことば巧みな茂平次であるから、伝兵衛も心を許し、その油断を突かれたのかもしれない。ところが、翌日、茂平次は素知らぬ顔で真ッ先にかけつけ、伝兵衛の屍骸にとりついて涙を流し、そのあとの葬儀一切を取りしきったので、みな感服したという。  これでは犯人がそう簡単にわかるはずがない。結局、伝兵衛の甥《おい》の伊予松山藩士熊倉伝十郎と、伝兵衛の門人で大和十津川浪人小松典膳が茂平次を仇としてつけねらうことになるが、茂平次は南町奉行の庇護《ひご》下にあり、しかも江戸にいたり長崎にいたりしたため、二人はとても手が出せないし、所在もつかめなかった。ようやく望みがわいたのは、弘化元年(一八四四)九月、鳥居甲斐守が南町奉行を罷免《ひめん》されてからである。鳥居は弘化二年十月、讃岐《さぬき》丸亀藩にお預けとなった。茂平次のほうは翌弘化三年八月六日、ようやく吟味落着して〈中追放〉に処せられ、即日出牢して役人に護送されて来るのを、護持院ヶ原二番原で待ち受けた伝十郎と典膳が討ち取った。  じつは茂平次は〈遠島〉に処せられるはずのところ、偶然、牢屋敷付近の火事で切放《きりはな》しが行われたとき正直に帰牢したので〈中追放〉に減刑され、それがかえって運のつきだった、と平出の『散討』は報じている。 [#改ページ] 第9話 家茂びいき     1  幕末風雲の修羅場《しゆらば》をくぐりぬけて明治に生きのびたいわゆる〈志士〉のなかで、いちばん長生きした人物がだれか調べてみたことはないが、旧土佐藩士の田中|光顕《みつあき》などは、長生きのトップ・グループに入る一人ではあるまいか。  旧土佐藩士、といっても正確には土佐藩家老深尾|鼎《かなえ》の家臣で、二人半扶持という士格以下の微禄の出身であり、武市瑞山の土佐勤王党に入り、脱藩して国事に奔走、明治になって新政府に出仕し、警視総監、宮中顧問官、宮内大臣などを歴任、伯爵を賜わり、数え九十七歳の天寿を完うして昭和十四年(一九三九)に死んでいる。  この田中光顕に『維新風雲回顧録』(昭3・3、大日本雄弁会講談社)と『維新|夜語《よがたり》』(昭11・4、改造社)という、二冊の回想録がある。先日、書棚にあった両著をなんということもなく読みくらべてみた。すると、後著は前著に加筆|補綴《ほてい》したものであることがわかった。  おそらく昭和三年(一九二八)の戊辰《ぼしん》——明治元年(一八六八)から干支《えと》がちょうどひとまわりした戊辰——の年に起った〈維新ブーム〉に当てて出版された『維新風雲回顧録』の評判がよかったので、八年後に加筆改題して、別の出版社から『維新夜語』として上梓されたものであろう。もちろん、著者自身が補綴の筆を執ったとは思われない。だれか他者、たとえば編集者の手によるものであろう。したがって記述の内容は後者のほうが詳細綿密となってはいるが、回顧談のもつ|なま《ヽヽ》の迫力は前者のほうがまさっている。  この回顧談のなかで、十四代将軍徳川|家茂《いえもち》が上洛し、賀茂神社へ〈攘夷祈願〉を行うための天皇の行幸に供奉《ぐぶ》した場面がある。文久三年(一八六三)三月十一日の話である。  だいたい〈将軍上洛〉という事件《ヽヽ》は、三代家光のときから二百三十年間、絶えてなかったことである。しかも家光の上洛は朝廷にたいする幕府側の| 示 威 《デモンストレーシヨン》であった。それが今回は将軍を京都に呼び出して、攘夷の実行を天皇に誓わせようという、尊攘激派およびかれらに擁された急進派公卿たちのもくろんだ、幕府にたいする朝廷側の示威であった。  当時、京都ではいわゆる尊攘激派の〈天誅〉という名のテロが荒れ狂っていた。田中光顕もこの回顧録ではみずからを〈勤王党〉といっているが、この尊攘激派の一員である。その取締りのために会津藩主松平|容保《かたもり》は京都守護職として前年の暮に着任し、将軍後見職一橋|慶喜《よしのぶ》も将軍上洛の前駆として上洛していた。こうして将軍家茂も、その前年に皇妹和宮を正室に迎えて〈公武一和〉を表明した手前もあり、勅旨にしたがって上洛せざるをえなかった。  田中光顕によると、このときの行幸を拝もうと沿道に集った老若男女は四十万といい、いずれも涙を流して平伏した、とある。行幸には有栖川宮《ありすがわのみや》以下公卿百官が扈従《こじゆう》し、将軍家茂も馬上で諸侯をひきい、前後を警衛したてまつった。そして田中は「この事実を見せつけられた群衆には言わずして君臣の別がはっきりと分ったに違いない。いわばこの行幸は、庶民へのよい実物教育である」と述べている。つまり将軍といえども天皇の臣下だということを庶民に知らせるのが、尊攘激派の目的だったわけで、公卿の中山|忠能《ただやす》(明治天皇の外祖父)のこの日の日記にも、「大樹(将軍)乗馬、供奉(中略)、君臣之礼、頗《すこぶる》厳烈」とある。  天皇や公卿たちは車や輿《こし》に乗っているのに、将軍は馬に乗って顔を日に晒《さら》している。それが公卿たちには何ともいえず気味がよかったのである。  このとき田中は、土佐の平井|隈山《わいざん》(土佐勤王党、のち土佐で切腹)や叔父の那須信吾〈土佐藩参政吉日東洋を暗殺し、のち天誅組に参加して戦死)、薩摩の藤井良節(神官、お由羅騒動で脱藩)や田中新兵衛(人斬り新兵衛、のち姉小路卿暗殺の疑いで切腹)といっしょに天皇の車駕を拝した、という。錚々《そうそう》たる過激派ばかりである。そして長州の高杉晋作が、 「いよう、征夷大将軍!」  と、いきなり人込みのあいだから大声一番、馬上の将軍を一睨《いちげい》したのもこのときだ、という。  普通ならばお目通りもかなわぬ陪臣から、逆に気安く声をかけられたことは、当時としては驚天動地の事件《ヽヽ》であり、しかも将軍警護の者がだれもその無礼を咎《とが》めなかったので、将軍の権威はかくも失墜したという好例として、尊攘激派たちは快哉を叫び、高杉の奇傑ぶりを讃美した。     2  このとき田中光顕は数え二十一歳の青年である。そして将軍家茂はまだ十八歳にすぎない。田中は当然高杉にあこがれ、それから二年後に高杉に会ったとき、高杉に乞われて秘蔵の名刀|安芸国友安《あきのくにともやす》を譲り、その門下に入れてもらっている。長崎で撮影した、断髪、着流しで椅子にかけた高杉の写真が遺っているが、左手でぴたと腰にひきそばめているのが田中の贈ったそのときの刀だという。  しかし、ひるがえって考えてみると、このとき高杉に揶揄《やゆ》された家茂という青年が気の毒に思われてならない。家茂をただ〈将軍〉というその地位とか職能だけで考えれば、倒幕論者からみれば打倒すべき、憎しみの対象であろうが、人間家茂という視点からみれば、たった十八歳の、しかもきわめて誠実な青年だったということで、家茂に贔屓《ひいき》したい気持を抑えることができないのは、わたくしひとりだけであろうか。  いうまでもないことだが、家茂は好きで将軍になったわけではない。安政五年(一八五八)段階でわが国の直面した国家的危機感から生じた幕閣の政争の結果、井伊|直弼《なおすけ》を中心とした南紀派に擁立されて将軍職に迎えられたものである。十三歳の少年であった。  その少年が幕府の掲げる〈公武一和〉政策の必要上、皇妹和宮と結婚したのが文久二年(一八六二)、十七歳のときである。このころから家茂は政治というものに次第に目覚めてきた感じがする。  和宮を形式だけの妻とせず、心から愛することが〈公武一和〉政策にも好い結果をもたらし、ひいては将軍としての責務の一端も果せる、と、家茂はまじめに考えていた。  結婚して二カ月ほどたったころ、家茂が吹上の馬場で乗馬の練習をしているのを和宮は高台から見物し、家茂は還りにみやげとして石竹《せきちく》の花を手折って和宮にプレゼントし、その夜は大奥に泊ったとか、翌日も午後急に大奥を訪れ、和宮に金魚を贈ったとか、またあるときは、和宮が染筆した短冊をもらったお返しとして、家茂みずからべっ甲のかんざしを持参した、などという話が、和宮の付人だった宰相典侍《さいしようのすけ》・庭田|嗣子《つぐこ》の「御側日記」に見られる。  いっぽう、和宮も、はじめは家茂との結婚を嫌っていたが、じっさいに家茂と暮らすようになると、家茂の誠実な人柄に惹かれて行ったことが、いろいろな逸話から偲ばれる。  たとえば、勝海舟の話として、あるとき家茂と天璋院《てんしよういん》(十三代家定の継室)と和宮の三人で浜御殿へ行ったが、帰るときになって、踏石の上に天璋院と和宮の草履《ぞうり》が並べてあり、家茂のだけは下に置いてあったのを、天璋院が先きに降りたあと、和宮はポンと飛び降りて、自分の草履を除けて家茂のを踏石の上に揃えてお辞儀をした、という逸話がある。これは和宮のほうも家茂との結婚を積極的に意義づけようとしていた証しと考えてよいであろう。  家茂は前後三回上洛したわけだが、そのたびに和宮は江戸城内の自分の部屋に増上寺の黒本尊《くろほんぞん》の御札を勧請《かんじよう》してお百度を踏んだり、伊勢神宮や山王社、氷川社などに家茂の安泰を祈願させ、三回めのときは長州征伐(第二次)ということで、武士の守護神である摩利支天《まりしてん》の御札を勧請して、それにもお百度を踏んでいる。夫への愛情以外の何ものでもあるまい。  慶応元年(一八六五)五月、第三回の上洛をした家茂は、翌慶応二年(一八六六)七月二十日に大坂城で死ぬわけだが、これはいうならば〈陣没〉である。徳川将軍十五人のうち、このような死に方をしたのは家茂ただひとりである。それだけでも悲劇の将軍というべきである。しかもわずか二十一歳(満では二十歳と二カ月)であった。  三度めの上洛の時期は、徳川幕府瓦解劇の最高潮のシーンである。二十歳の家茂がそれで悩まぬはずはなかった。じっさい、慶応元年十月に、家茂は将軍職をやめたいと辞表を出している。その中で家茂は「自分のような幼弱不才の身では、この非常時にあたって、上は宸襟《しんきん》を安んじ奉り、下は万民を鎮撫する力がなく、胸痛強く、欝閉致しております」と述べている。〈胸痛欝閉〉とは強度のノイローゼをいうのであろう。誠実なるがゆえの、青年の悩みであった。  家茂の死後、その遺品九品が大坂から届いた。その中に〈織物一反〉がある。これは家茂の江戸進発にあたって、和宮から凱旋《がいせん》のさいのみやげとして所望された西陣織であった。家茂のこまやかな心遣いである。  なお、昭和三十三年(一九五八)、増上寺の徳川将軍墓発掘調査のさい、家茂の棺のいちばん内棺(大坂城で遺体を納めたもの)から多くの副葬品が現れたが、その中にオランダ製の華氏寒暖計とか、ロンドンのベンソン社製の金側懐中時計などがあった。わたくしはその記事を読んだとき、江戸城内では西洋嫌いの和宮に遠慮してそのような外国製品は全く手に触れなかった家茂が、和宮のもとを離れると青年の好奇心に燃えて、毎日これらのものを使って心を慰めていた姿を思い描いて、家茂青年へのどうしようもない親近感を抱いた。それが家茂の和宮にたいする唯一の|裏切り《ヽヽヽ》だったかもしれない。 [#改ページ] 第10話 将軍の気くばり     1  前回の「家茂びいき」では、十四代将軍徳川家茂は将軍なるがゆえに当時の尊攘激派の憎悪と攻撃の対象となったが、個人的にはたいへん誠実な青年で、妻の和宮にたいしても愛情のこまやかな夫だったことを述べたわけだが、じっさいのところ、あの|へそ《ヽヽ》曲がりの勝海舟でさえ、こと家茂将軍の話になると、さながら血のつながった兄が弟にたいするよう(といっても、当時の幕臣としての君臣のけじめはちゃんと守りながらの話であるが)、なんの駈引きもなく、家茂にたいする愛情と感激を素直に表明しているのである。  旧幕臣戸川残花は明治三十一年から三十二年にかけて刊行した『幕末小史』(昭43・4、人物往来社)の中で、次のように述べている。—— 〈公(家茂を指す)の談に至れば勝|安房《あわ》が老眼に涙を浮べ、御気の毒の御方なりしと嘆息せざることなきは無理ならざる事と云ふ可し〉  と。晩年の海舟は家茂の名をきいただけで涙を催したのであろう。  じっさい、幕末忽忙の間にあって、幕閣の老臣たちにたいしては一見ほら吹きといった擬態を弄する海舟のことばを、いちばん素直に信用し、その説くところを用いようと努力してくれたのは、おそらく家茂だったであろう。家茂には海舟にたいしてなんらの偏見を抱く必要もなく、つぶらな瞳を輝かせて海舟の説く西欧近代文明の先進性に耳を傾けたであろうし、海舟もまた家茂にはなんらの屈折した表現を用いる配慮も必要とせずに、率直に当時の日本の受けたカルチャー・ショックの実態を、わかりやすく言上したにちがいない。  たとえば、文久三年(一八六三)二月、はじめて上洛した家茂が、朝廷に攘夷決行期限の決定を迫られ、四月二十日になってそれを〈五月十日〉と発表したわけだが、四月二十三日、その攘夷決行にともなう京都守護のためには大坂湾(摂海)の警備体制をみずから巡視する必要があるとし、海舟の指揮する幕艦順動丸に乗って摂海巡検を行なった。  当時、家茂は数え十八歳。海舟は家茂の案内役となり、順動丸の複雑な内部構造から、眼前に見る大坂湾の防衛プランに至るまで、詳細に説明した。そしてそのときの感激を、〈当将軍家、いまだ御若年といへども、真に英主の御風《おんふう》あり、且《かつ》御勇気|盛《さかん》なるに恐服す〉と、この日の「日記」に書き遺している。  しかも、このとき神戸村に上陸した家茂は、海舟の進言を容れて、その場で神戸海軍操練所設置の件を直命《じきめい》として許可してくれたのである。それは海舟の長いあいだの夢であった。海舟が家茂のことばに感奮興起したことは十分に想像できるが、逆に家茂もその日の海舟の描いてみせた幕府海軍の構想にすっかり興奮したことを推測させるのである。家茂は西欧文明のカルチャー・ショックに、このときはじめて目覚めたといってよいであろう。  そのショックはさらに江戸へ帰るとき、大坂から順動丸でまる三日しかかからなかったという驚きで強められた。京都までの往路は、陸行して二十二日を要したのである。家茂は青年の純粋さで、いっぺんに西欧文化へのあこがれを抱くようになり、同時に勝麟太郎という臣下に先輩にたいするような親近感を抱いたと思われるのである。  海舟の家茂にたいする心の傾斜を決定的にしたのは、同じく文久三年(一八六三)一二月の第二回上洛のときである。このときの上洛は海舟の意見で海路をとることになり翔鶴丸《しようかくまる》で出航したが、下田沖で大時化《おおしけ》に遭い、子浦《こうら》に避難した。すると側近のあいだから陸路に変更しようという意見が出たが、家茂から「海上のことは軍艦奉行に委《まか》せよ」ということばがあり、陸行説が消えた話は前に述べた(第7話参照)。家茂の海舟にたいする信頼感の表明である。  家茂はそれから二年半後の慶応二年(一八六六)七月二十日、大坂城で死んだ。数え二十一歳。現在でいえば〈成人の日〉を迎える年齢である。海舟が号哭《ごうこく》したのはいうまでもない。その記憶が晩年の海舟の老眼に涙を催さしめたのである。  それはまた戸川残花の感懐ででもあった。残花は同じく『幕末小史』の中で、孝明天皇と家茂との間柄がたいへん睦《むつま》じく、家茂が〈恭謙温良《きようけんおんりよう》〉で〈頗《すこぶ》る台徳公《たいとくこう》(二代秀忠)の御様子〉に似ていたといい、〈御参内《ごさんだい》ありても小御所《こごしよ》にて粛然と威儀正しく静座せられしと聞く〉と述べている。そして最後に、——  〈公は幕末衰亡の犠牲と為《な》らせ給ひしなりき、噫《ああ》〉  と慨嘆している。もって家茂の人柄がしのばれる。     2  家茂は弘化三年(一八四六)閏《うるう》五月二十四日、紀伊藩主大納言|斉順《なりのぶ》(十一代)の次男として、江戸赤坂の藩邸に生まれた。十一代将軍|家斉《いえなり》の孫にあたる。幼名菊千代。弘化四年四月、叔父の十二代藩主|斉彊《なりかつ》の養子となり、嘉永二年(一八四九)四月、四歳で十三代藩主となった。嘉永四年(一八五一)十月、元服して十二代将軍家慶の一字をもらって慶福《よしとみ》と名乗る。そして安政五年(一八五八)十月、十三代将軍家定の跡を継いで紀州から江戸城へ入り(数え十三歳)、家茂と名を改めたわけだが、家茂の幼少時代の逸話がほとんど知られていない。さいわい戸川残花の『幕末小史』の巻末に〈逸事逸話〉として十数篇のエピソードが伝えられているので、そのいくつかを紹介してみよう。〈其の出処は写本、伝聞、特には旧幕府雑誌等より採りしが多し。成る可く正確と信ずるを録すれど謬誤《びゆうご》なきは保せず〉と残花は断わっている。——  ○嘉永三年、五歳のとき、菊千代は江戸城の大奥を訪れ、将軍家慶に随って庭を散歩したことがある。すると、小姓衆が将軍の刀はちゃんと上に捧げ持って歩いているのに、菊千代の刀は下に携えているだけなので、いつもと違うのが不審だったらしく、しきりにふり返ってそれを眺めた。家慶がそれに気づき、「どうもあれが気になるらしいな。苦しうない、予の刀と同じく捧げ持ってやりなさい」と命じた。そこで菊千代ははじめて満足した顔付きで家慶に随って歩いたという。  ○同じ頃、庭を歩いていると、小さな虫が飛んできて菊千代を刺そうとした。菊千代がびっくりした様子だったので、供の者がその虫を捕えて指でひねりつぶし、「こんな小さな虫にそんなに驚かれまするな」というと、菊千代は急に眼を怒らせ、「その方は小さいものなら何でも恐くないと申すのか」と叱りつけたので、一同の者が肝を冷やしたという。  ○菊千代六歳の嘉永四年十月九日、江戸城で元服、従三位|左近衛権 中 将《さこんえごんのちゆうじよう》に任ぜられた。その朝、お付き老女の波江が「きょうは両御所様(家慶と家定)にお目にかかる大切な日ですから、お泣き遊ばされずに、おとなしくしていらっしゃいませよ」と注意をうながすと、「ウン」とうなずいて登城した。  ところが将軍|出御《しゆつぎよ》というお触れがあったのに、菊千代は何かに機嫌を損じて泣き入り、むずかっていた。ところがこれが上聞に達すると、将軍家慶は「なにか菊千代の好きなものを与えてなだめすかしてみよ」といい、筆頭老中の阿部伊勢守正弘からお付きの者に「何がお好きですか」とお沙汰があった。そこで「飼い鳥がお好きでございます」と答えると、やがてお座敷にあひるや小鳥などを放って菊千代を慰めた。そこでようやく菊千代の機嫌がなおり、御対顔の式も万事首尾よく終って藩邸へ帰ったのだが、迎えに出た波江の顔を見た途端、菊千代は「波江、泣いたよ」といって、ケロッとしていたという。  戸川残花の注によると、幕府時代に貴顕の楽しみとして金魚や小鳥が流行ったのは、〈大御所さま〉といわれた十一代将軍家斉のころからだという。そして、家茂も幼少の頃には池の魚とか籠の鳥などを好んだが、〈十三歳に将軍となり給ひし後は斯《か》ゝる御娯楽も捨てさせられ、文武両道に心を尽され、殆《ほと》んど苦慮焦心のみにて世を逝《さ》り給ひしは、今も故老の眼をうるましむる事なり〉と、声をつまらせている。 ○菊千代も慶福となり、だんだん成長してきたので、藩主としての見習のために、老女が付き添って表書院で家臣たちの拝謁を受けたことがある。上下の諸士数百人が並んで、一同平伏し、御礼言上をしたとき、慶福が突然「おやおや、うじゃうじゃと目高のようじゃ」といったので、武骨者ぞろいの藩士たちも退出したのち、「われらごとき年寄も、まだ乳臭い殿様に、ひとつかみに目高扱いにされてしまった。さてさて恐るべき殿様じゃ」と、幼君の眼中全く人なし、といった態度に畏敬し合ったという。 ○ある日、庭の泉水の水替えをすることになり、鯉や金魚を傍の樽桶に汲み取って水を替えている最中に、どうしたことか桶の栓が抜けて、水が滝のように噴き出したので、一同が狼狽して立ち騒ぐのを見ていた慶福は、「早く鯉で栓をしろ。一匹の鯉を殺しても、多くの魚は助かるのだ」と命じたので、一同は慶福の決断に感心した。  これも戸川残花は〈司馬温公の事跡に似たり〉と称揚し、〈彼(司馬温公)は瓶《かめ》を破りて幼童を助け、是れ(家茂)は鯉を殺して魚を助けられたり〉と述べている。 ○戸川残花の分家の戸川播磨守安清は隷書《れいしよ》の名人として知られ、家茂の習字の先生をしていた(「御相手」という)。すでに七十歳を過ぎた老人だったが、あるとき家茂の机の前に正座していて、思わずちびっと尿を洩らしてしまった。すると、家茂が机の上にあった大きな水入れを取って、安清の白髪頭にザッと水をかけ、手を打って笑った。傍にいた近習たちが「これは悪戯《いたずら》が過ぎましょうぞ」と諫《いさ》めたが、その後、事情がわかって、安清はもちろんのこと、近習たちも家茂の機智と仁慈の心に感涙したという。  将軍の御前で失礼な振舞いがあったと目付の耳に入ると、たとえ老人といえども、譴責《けんせき》は免れないところなので、家茂がわざと悪戯に水をかけた恰好にして、その罪を免れさせたわけである。これがまだ二十歳前の青年の気くばりかと思うと、わたくしの家茂びいきは一層熱を加えるというものである。 [#改ページ] 第11話 〈天誅〉のゆくえ     1  午前九時の新幹線に乗るという約束なのに、目が覚めたのが九時だった。大あわてに家をとび出して東京駅に向う。どうも朝の旅立ちは苦手である。 〈真珠の小箱〉というテレビ番組で「天誅組」の足跡をたどってほしいという。吉野方面とはいままで縁がなかったので快諾した。しかし、旅馴れないわたくしは、最初から朝寝坊をするという有様で、これからの吉野旅行も心もとなかった。  京都で近鉄に乗り換えて、〈真珠の小箱〉のスタッフ四人と大和八木駅で合流する。そこからわれわれの乗ったワン・ボックス・カーは、一路初瀬街道をひた走って、忍者の町として名高い三重県名張市へ向った。  べつに天誅組と忍者とにつながりがあるわけではない。名張市|柏原《かしわら》というところの勝手神社にある「文久三|玄歳《いどし》和州騒動」と題される絵を撮影するためである。  これは文久三(一八六三)八月、名張に滞在中の彫刻師|安本亀八《やすもとかめはち》が天誅組の挙兵(和州騒動)を目のあたりにみて、その全貌を大和を俯瞰《ふかん》した形で描いたもので、この地方の亀八の門人たちの名でこの神社境内にある観音堂に奉献されたという。その額縁に書かれた奉献の日は〈元治元|子年《ねどし》三月吉日〉となっている。つまり事件から半年後である。したがって亀八がこの絵を描いたのは、事件直後のなまなましい印象をもとにしたことがしのばれる。それがこの絵に強いリアリティーを与えるのだ。  勝手神社宮司の福井敏氏に挨拶し、まず神社に参拝したのち、その傍の観音堂に隣接した、現在公民館となっている、おそらくむかしは観音講の寄り合い場所だったと思われる小さな建物に案内された。福井さんはその建物の雨戸を開け、縁側から直接畳敷きの二間つづきの屋内にわれわれを導いた。右側の部屋には黒板が置かれ、もう一方の左側の部屋の薄暗い欄間に、その「和州騒動」の図が掲げられていた。  わたくしがはじめて〈天誅組〉ということばを知ったのは、旧制中学の高学年のころだったであろうか。もちろん戦時中のことである。手許に資料がないので正確なことは述べられないが、何かの大衆雑誌に菊池寛がたしか「天誅組|罷《まか》り通る」という歴史小説を書いていた。〈天誅組〉は〈天忠組〉となっていたかもしれない。その小説を読んでわたくしは松本奎堂・藤本鉄石、それに吉村寅太郎といった人々の名を記憶にとどめた。戦時中のことであるから、その天誅組の行動は、やがて来る明治維新の魁《さきがけ》をなす義挙として顕彰されていた、と記憶する。 〈天誅〉とは天に代って悪人を誅罰する意であるが、歴史的には文久年間以降、尊王攘夷を唱える過激派が京都や江戸を舞台として行なったテロ行為をいう。かれらは自分たちの張り紙・投げ文・放火・生晒《いきさら》し・暗殺といった残忍な脅迫行為を〈天誅〉ということばで正当化したのである。  かれらは安政の大獄で反幕分子を捕縛するのに手を貸したり、和宮降嫁に関係した公卿や公家侍・佐幕藩士・幕吏・豪商などを暗殺の対象とした。文久二年(一八六二)七月、公武合体派の関白九条|尚忠《ひさただ》家の家士島田左近が暗殺され、その首が青竹に貫かれて四条河原に晒された。それが〈天誅〉の第一陣だといわれる。  その後、同じ九条家の宇郷玄蕃頭《うごうげんばのかみ》や目明し文吉が殺され、井伊直弼の謀臣長野主膳の愛人村山|可寿江《かずえ》は三条大橋の橋杭に生晒しにされた。また和宮降嫁をすすめた岩倉|具視《ともみ》や妹の堀河|紀子《のりこ》ら、いわゆる〈四奸二嬪《しかんにひん》〉も、尊攘激派の脅迫に恐れをなし、官を辞して京都郊外に身を隠す羽目となったし、九条関白も辞職して頭をまるめた。 〈天誅〉の黒い旋風《つむじかぜ》は文久三年に入ってさらに吹き荒れた。  正月二十二日、儒者池内大学が大坂で殺され、その首は難波橋に晒されたが、二日後にはその左右の耳がそれぞれ正親町《おおぎまち》三条|実愛《さねなる》と中山|忠能《ただやす》の邸に投げ込まれるとか、正月二十八日の夜、公卿|千種《ちぐさ》家の家臣賀川|肇《はじめ》が殺されて、二月一日の夜、その両腕がそれぞれ千種家と岩倉家に投げ込まれるといった陰惨な事件が相次ぎ、さらに二月二十二日夜には、尊攘激派の一味は洛西等持院に押し入り、そこにあった足利尊氏・同|義詮《よしあきら》・同義満三代の木像の首と位牌を持ち出して、三条大橋の下に晒し、〈醜像へ|加[#二]天 誅[#一]者 也《てんちゆうをくわうるものなり》〉と書いた札を建てる事件まで起こした。  ここに至れば、これはあきらかに足利氏にかこつけて、将軍に天誅を加え、倒幕を意図することを宣言したものであった。  このような尊攘激派の跳梁の中で、将軍|家茂《いえもち》の上洛、天皇の賀茂社および石清水八幡宮における攘夷祈願を経て、幕府はついに心ならずも五月十日をもって攘夷の開始の期日とすることを発表した。  五月十日、長州藩は下関海峡で外国船を砲撃して攘夷実行に先鞭《せんべん》をつけたが、六月に入ると米仏両国の軍艦に報復攻撃を受けて敗北したし、薩摩藩は七月二日、鹿児島湾でイギリス艦隊と戦闘の火蓋を切ったが大きな損害を蒙り、両藩ともに攘夷の実行が決して生やさしいものでないことを痛感させられた。  しかし、京都における尊王攘夷熱は燃え上がる一方であった。六月八日、入京した久留米水天宮の神官真木和泉は天皇の攘夷親征を関白以下の廷臣たちに説いて廻り、八月十三日、ついに攘夷祈願のため大和行幸を行い、神武山陵や春日神社などに参拝し、その後、伊勢の神宮にも行幸する旨の詔勅を出させるのに成功した。  尊攘派の勝利であった。しかも真木和泉はこの攘夷親征をもって、倒幕の契機にしようともくろんでいた。大和行幸の日は近づいた。     2  大和行幸の詔勅が出た翌日、元侍従中山忠光から、かねて盟約ある同志たちに書状が回されて、東山方広寺に集合するように命じられた。こうして忠光の下に三河刈谷藩士松本謙三郎(奎堂)、備前岡山藩士藤本津之助(鉄石)および土佐藩士吉村寅太郎の三人が総裁として参画し、忠光以下三十八人が集った。土佐藩の者が多く、因州、久留米、肥後の藩士もいた。  もちろんかれらは脱藩者である。しかも長州藩ではないので、今回の親征に供奉する資格をもたない。主将の忠光自身まだ十九歳の少年で、中山忠能の七男ではあるが、過激な攘夷運動の結果、侍従の官位も返上していた。そこでかれらは大和行幸の本隊の先駆けとして同地方で義徒義民を募り、それを率いて奈良に鳳輦《ほうれん》を迎えようということになった。倒幕の先兵として、その起爆剤になろうというわけだ。  かれらは自分たちの計画の明るみに出るのを恐れて、攘夷親征の立案者たる三条|実美《さねとみ》や真木和泉、久坂玄瑞たちには何の連絡もせずに、八月十四日の夜、京都を脱出した。  一行は伏見から淀川を下り、翌朝大坂に到着して支度を整え、天保山沖から二艘の船で堺に上陸、河内国を横断し、千早峠を越えて大和に入った。  八月十七日、まず大和五条の幕府代官所を襲撃してこれに火を放ち、代官鈴本源内以下五人を血祭りにあげて、その首を晒した。五条代官所は大和四郡、百五カ村七万千余石の土地を支配する。その平和な大和の一角に、突然都で流行している〈天誅〉の狼火《のろし》があがったのだ。大和の人々にとっては、天から降ったか、地から湧いたか、といったような、忽然たる衝撃だった。  この一行がいつごろから〈天誅組〉を名乗るようになったかははっきりしないが、この挙兵に参加した久留米藩士半田門吉の「大和戦争日記」によれば、天誅組がもはや潰滅しようとする九月二十四日の記載に、 〈総勢天誅ノ二字ヲ合詞《あいことば》ニ定メケル。此称ハ先頃ヨリ誰云《だれいう》トナク味方ノ事ヲ天誅組々々々ト唱ヘ、敵モ味方モ唱ヘケル故、合詞ニ用ヒシ也〉  とある。おそらく挙兵側が事あるごとに「天誅」「天誅」と叫んで人を脅迫し斬殺したのが、やがてかれらの隊名となったものであろう。  尊攘激派の唱える〈倒幕論〉は、いまや〈天誅〉の義旗となって大和にひるがえったのである。かれらの行動をあまりにも無謀だとみた三条実美や真木和泉の指令で派遣された平野国臣が、五条に到着したのは八月十八日。すでに後の祭りであった。しかも、かえってこの〈義挙〉に感動した平野は、やがて京都へ帰ってから生野の変にのめりこんで行く。  ところが、この八月十八日、京都にクーデターが起きていた。  孝明天皇は攘夷主義者ではあったが、〈倒幕〉など夢にも考えてはおられなかった。天皇は尊攘派の遣り口に嫌気がさし、みずからのご意志で大和行幸の延期を中川宮に申し出られた。そこで中川宮を中心とした公武合体派の公卿と、会津・薩摩両藩の武力をもって、尊攘派公卿および長州藩を中心とした尊攘派勢力を京都から一掃したのである。いわゆる〈七卿の都落ち〉がこうして行われた。  天誅組の〈天誅〉はその拠りどころを失い、かれらの〈義挙〉は糸の切れた凧《たこ》と化して単なる〈暴挙〉に成り下がった。あとは〈暴走〉だけが残されていた。  かれらは南下して十津川郷士に呼びかけ、千二百名の参加をえて高取城を攻めたが、一発の砲声で十津川郷士は離散。やがて彦根・紀州その他の藩兵も出動し、ついに吉野郡|鷲家口《わしかぐち》で松本・藤本・吉村の三総裁をはじめ、那須信吾ら多くが戦死し、九月二十五日、天誅組は潰滅した。  主将の中山忠光は六人の部下と吉野を脱出、大坂から長州に脱れ、下関の長府藩(五万石)に潜伏していたが、翌元治元年(一八六四)一月十五日、萩から来た刺客に暗殺された。絞殺だったという。享年二十。  天誅組は明治維新によって〈義挙〉の名を復活しえた。しかし、もし明治維新が実現しなかったら、かれらの名はどう処遇されたであろうか。また、かれらの〈天誅〉によって流された無辜《むこ》の血は何によって保障されるのか。天誅組の遺跡をたどりながら、わたくしは絶えずこの矛盾した二つのテーゼを考えつづけていた。吉野川の両岸は台風十号と集中豪雨の傷痕を残して、荒れていた。 [#改ページ] 第12話 生麦の鮮血     1  幕末の外国人斬殺事件のうち、国内的にも国際的にも最も大きな波紋を投げかけたのは〈生麦《なまむぎ》事件〉であろう。薩摩藩士のイギリス人殺傷事件である。  事件は文久二年八月二十一日(洋暦・一八六二年九月十四日)、東海道の川崎宿と神奈川宿のあいだの生麦村(現横浜市鶴見区生麦)で突発した。時刻は尾佐竹猛《おさたけたけき》や大塚武松といった先学の研究で、およそ午後三時頃と考証されている。  この年六月、幕府の軟弱外交を不満とし、強力な幕政改革を要求した島津久光の建議書にのっとり、孝明天皇は勅使大原|重徳《しげとみ》を江戸に派遣して、将軍|家茂《いえもち》に勅諚を伝えさせた。その内容は要約すると、「将軍上洛して朝廷といっしょに国家の治平を討議する」「薩摩・長州・土佐・仙台・加賀の五大藩に国政を諮問《しもん》し、外夷防禦の処置をとる」「一橋慶喜を将軍後見職に、前越前藩主松平慶永(春嶽)を政事総裁職に任じて、幕府を輔佐させる」の三つであった。  ちなみに、第一項は長州藩(桂小五郎)の建議にもとづき、第二項は朝議(岩倉|具視《ともみ》)に出で、第三項は薩摩藩(島津久光)の奏聞《そうもん》を採用したものだという。  このとき、島津久光は藩兵三百を率いて勅使大原重徳の護衛に当り、幕府にその要求を無理矢理呑ませて、意気揚々と京都へ引き揚げるべく江戸を出発した。それがこの八月二十一日である。明二十二日江戸を出発する大原重徳の先発隊のつもりだった。  そのころ、頻発する攘夷派浪士の異人斬り事件に頭を痛めていた幕府は、二十三日に大原重徳の行列が神奈川宿を通行する予定だったので、内外人間の紛争を避けるために、二十二日と三日の両日は外国人の東海道通行と、条約上の遊歩区域(横浜のばあいは六郷川筋を限りとし、その他は各方へおよそ十里)への出遊を禁止する旨の通牒を、各国公使館や領事館に通達していたが、この二十一日についてはその措置をとっていなかった。それが第一の不幸だった。  この日、横浜から川崎大師見物に遠乗りに出かけた四人のイギリス人がいた。香港から観光のために来日していたリチャードソン、横浜在住の生糸商マーシャル、横浜のハード商会(アメリカ人経営)に勤めているイギリス人クラーク、および香港のイギリス商人の妻で、マーシャルの従妹ボラデールの四人である。  この四人が久光の行列とどういう形で遭遇したか、諸説あって明瞭ではない。ただ、四人が行列を横切ったり、駕籠近くへ来て久光の駕籠まで蹄《ひづめ》にかけようとした、というような状況は、全くありえなかったようである。  ただ、外人の負傷は体の左側に多く、しかもほとんどが後ろ疵であるから、最初行列に向って道路の左側におり、馬首を右に転じて、行列から見た右側を、行列に背を見せて走ったところを斬られたものと推定されている。  大塚武松著『幕末外交史の研究』(新訂増補版・昭42・5、宝文館)所収「生麦事件の一考察」によると—— 〈斯くて彼等(四人のイギリス人)は、更に少し許《ばか》り行きて、島津久光の行列に出会ったので、彼等は馬足を緩めた。二列に行進せる行列の前駆は、彼等の傍を通過し、やがて本隊が殆んど道の全幅を襲うて進行し来たつたので、彼等はこれを路の左側に避けて停止した。その時の彼等の位置は、リチャードソンとボ|ロデ《(ママ)》ールとは、クラーク及びマーシャルより約拾ヤード(一〇メートル足らず)を先行し、行列に向つて、リチャードソンは内側、ボロデールは外側に馬首を並べてゐたと言ふから、行列が街道を通行する為には、大いに邪魔であつたらうと思はれる。  而《しか》してこの時、リチャードソンの馬がボロデールの馬を押した為、その馬は、片脚を道路の外に踏み落したので、ボロデールは馬を少し前に進めた。この時、行列の中より一偉丈夫奈良原喜左衛門が出で、外国人の前に来りて、何か手真似をした。この光景を後方から見たクラークは、「引返せ」と呼び、マーシャルは「並行するな」と呼んだので、リチャードソン等は馬首を返さんとして、行列の中に馬首を衝き入れたのである。依つて、かの偉丈夫は肩衣《かたぎぬ》を脱ぎ、太刀を抜いてリチャードソンに切付けたので、一同は急に馬首を返したが、馬が発足する前に、リチャードソンは二痍を受け、その一痍は腹部の大傷であつた。マーシャル及びクラークも左腕と左肩とに一傷を受けたが、多分、馬を左側に避け、右廻りに馬首を廻したから、傷は孰《いず》れも左に受けたのであらう。続いて斬りつけて来た十数名の藩士中、二三の者が馬脚に触れると言ふ混雑の間に、馬が疾馳《はやがけ》に移つたので、漸《ようや》く行列から脱出する事を得た〉     2  気の毒なのはリチャードソンである。一キロほど走ったが、深手に耐ええず、ついに落馬した。付き添って走っていたマーシャルは、リチャードソンの腹部から臓腑がはみ出して身動きもしないので、絶命したものと思ってそのままクラークとボラデールの跡を追った。リチャードソンの馬も一緒に走り去った。  落馬する前に、リチャードソンの脇腹から、ほとばしる鮮血とともに臓腑ようの血の塊が路上に落ちたのを、走って来た一匹の犬がくわえて、海辺のほうへ逃げ去った、という話が遺っている。  落馬したリチャードソンは這《は》って路傍の茶店に近い一本の樹木の下に身を寄せ、遠くからこわごわ眺めている里人たちに、かれが知っているたった一つかもしれない日本語で、「水、水」と一杯の水を乞うたが、だれも傍に近づく者はいなかった。  このときまでにリチャードソンの負った傷は二カ所である。一つは左の肩先から腕にかけて四寸程(十二センチ強)で、鎖骨から肋骨数本を切断していた。これは奈良原喜左衛門の第一刀によるもの。  第二創は左の脇腹で、〈腹部から肺部に拡がり、それより腸現はれたり〉(「ジャパン・ヘラルド」紙)とある。  ただし、尾佐竹猛著『国際法より観たる幕末外交物語』(大15・12、文化生活研究会)所収「生麦事件の真相」によれば、これは奈良原喜左衛門がリチャードソンの逃げるうしろから横に斬った第二刀による傷口に、行列の前駆をしていた鉄砲組の久木村利休が振り向いて、逃げて来るリチャードソンを待ち構えていて斬りつけた傷が重なり合わさったものだ、と推定している。  久木村の実歴談に、〈馬上の英人は右の手で手綱を掻繰《かいく》り、左の手で左の片腹の疵口を押へて居〉たのを、さらに自分が〈矢張り左の片腹をやつたので、真紅な疵口から血の塊がコロ/\と、草の上に落ちた、何でも奴の心臓らしかつた〉とあり、心臓が落ちたというのは頂けないが、とにかくそのとき〈左の腕甲二寸程〉も一緒に斬っている。この久木村の与えた、腸のはみ出るような傷が致命傷となって、やがてリチャードソンは落馬したわけだ。  ところが、この気息奄々《きそくえんえん》たるリチャードソンを、さらに追って来た五、六人の薩藩士が手を取って畑地の中へ引き摺《ず》って行き、〈皆一太刀宛|寸切々々《ずたずた》に斬倒し、茶店の脇に捨てありし古き葭簀《よしず》を持来り、死骸の上に打被せ、勇々《(ママ)》として立出でたり〉(「生麦村騒擾記」)。尾佐竹猛は、落馬後《ヽヽヽ》にリチャードソンの受けた傷を、日本側とイギリス側の記録によって、次のように比較している。 名主《なぬし》の書上《かきあげ》  一、右の腕首|大方《おおかた》切落候様  一、左|顋《あご》より胸へかけて八寸程  一、咽差通《のどさしとお》し候様子 ジャパンヘラルド  一、右の拳《こぶし》は全く分れたり而《しか》して手は    単に一片の肉にて懸り居りたり  一、頭を動かしたるに頸《くび》は左側に於て    全く切通されたる如く見出されたり    氏の咽喉を切りて殆んど氏の頭を    切り去りたり(モツスマン)  一、心臓の附近に槍傷一つ口開き居たり  右の傷で、「ジャパン・ヘラルド」紙の〈槍傷一つ〉とあるのは止《とど》めで、槍ではなく、当然刀か刺し傷である。同書によれば、このときの薩藩士の中には、海江田《かえだ》武次(有村悛斎、のちの信義《のぶよし》。子爵)や奈良原幸五郎(喜左衛門の弟、のちの繁。男爵)もいたと断定している。  なお、マーシャルは第一に背を斬られ(奈良原喜左衛門にではなく、その後でワッと押し寄せた誰かによるものと思われる)、さらに久木村利休に左の腹を切られる重傷。クラークも誰かに背後から袈裟掛けに左の肩を斬られ、腕がほとんど離れそうになった。幸い、ボラデール夫人だけは帽子の前部と頭髪の一部分を斬られ、髪飾りの金具が割られていたが、傷は無かった。  紙幅の都合で詳述はできぬが、この生麦事件を追ってどうにも納得がいかぬのは、薩藩士の不可解というか、煮え切らぬというか、きっぱりしない態度である。右の、落馬後のリチャードソンにたいする〈苛《さいな》み〉ともいうべき残酷な殺し方にしても、われわれが平素〈薩摩隼人《さつまはやと》に抱く剽悍《ひようかん》さの底を流れる一種清風に吹かれるような〈潔《いさぎよ》さ〉の印象からは、程遠い感じがするのである。  それに、この兇行者の隠蔽《いんぺい》のしかたが薩摩隼人らしくない。薩摩藩の最初の届書では、〈横合《よこあい》ヨリ浪人|体之者《ていのもの》三四人外国人エ何カ及混雑《こんざつにおよび》候ニ付〉と言いのがれ、次には〈足軽岡野新助ト申者〉がやったが、その者は異人を追って行方知れずになったなどと、ぬけぬけと架空の人物をデッチ上げ、最後には「従士三百人ことごとく下手人でござる」とケツをまくる始末で、そのため薩英戦争や賠償金の支払いにまで応じたのに、なぜか直接の下手人についてはついにはっきりさせないで終った。尾佐竹猛が、これには〈何等かの消息があつたのではあるまいか〉と疑問を投げ、〈一説には右殺傷は島津三郎(久光)の使嗾《しそう》に出づと為すものあり、猶ほ考ふべし〉とその稿を結んでいるのも、うべなるかな、というべきである。 [#改ページ] 第13話 写真術事始     1  いまや日本は世界の最尖端を行くカメラ王国となったが、日本に写真の技術が導入された歴史をたどると、幕末の三つの開港場——従来の長崎のほかに下田(のち横浜に変更)、箱館(函館)の三つの窓口が、それぞれ独自にその後の日本の写真術の源流をなしていることが知られる。  長崎から入った写真術は上野彦馬によって代表される。彦馬は長崎でオランダ人ポンペに舎密《せいみ》学(化学)を学び、その一環として〈ポトガラヒー(撮形術)〉(文久二年・上野彦馬著『舎密局必携』)を研究する。そして実際に写真術を教わったのはフランス人写真師ロッシェからだったといわれるが、まあ、オランダ系と看做《みな》してよいだろう。  下田(のちに横浜)から入った写真術は下岡|漣杖《れんじよう》が代表者である。これはアメリカ系。そして箱館から入った写真術の先覚者としては、木津孝吉と田本研造に指を屈せざるをえまい。木津は箱館に駐在したロシア領事ゴシケヴィッチに写真術を学び、田本研造は同領事館の医師ゼレンスキーから手ほどきを受けたということで、ロシア系というべぎであろうか。  考えてみると、写真をとられると精気を吸いとられ、やがては影が薄くなって死んでしまうと信ぜられていた時代に、写真の不思議さに驚き、その魅力にとりつかれたこれらの先覚者たちが、それぞれ独自な好奇心と夢に燃えて、新しい文明の導入口となったそれぞれの地域で、ほとんど同時に写真の技術を修得しようと熱中して行くさまは、感動的ですらある。それにしても当時の日本人の西欧文明にたいする好奇心の強さには、ただただ敬服の頭を下げるしかない。  そして長崎では長崎としての、箱館では箱館としての、それぞれ他とは違った環境と経緯のなかから、興味津々たる写真師創業物語が展開されるのであるが、ここでは下田および横浜から生まれたといわれる下岡漣杖の物語を少し追ってみよう。ちなみに下岡漣杖が横浜野毛に写真館を開業し、営業写真師第一号となったのは文久二年(一八六二)であり、上野彦馬が長崎の中島川ほとりに上野撮影局を開いたのも同年である。そして木津孝吉が箱館船見町で写場を開業したのは、それから二年後の元治元年(一八六四)である。  さいわい『横浜開港側面史』(明42・6、横浜貿易新報社)に下岡漣杖自身の談話が掲載されている。もっともこの談話そのものにどれほどの信憑性があるかいささか疑わしい個所もあるが、とにかくその談話によると、漣杖がはじめてオランダから来た銀板写真を見たのは、横浜開港の十年ばかり前だという。横浜開港は安政六年(一八五九)であるから、その十年前というと嘉永二年(一八四九)にあたる。  もっとも、漣杖がはじめて銀板写真を見たといわれる年には弘化二年(一八四五)説と安政四年(一八五七)説もあって、はっきりしない。ここでは前掲書によって、開港の十年ばかり前ということにしておく。  当時、漣杖は絵師を志し、故郷の下田から江戸に出て、法眼狩野董川《ほうげんかのうとうせん》の下で董園《とうえん》という名をもらって画を勉強していた。文政六年(一八二三)生まれであるから、嘉永二年とすれば数え二十七歳のときである。  ある日、その師匠の家でオランダ渡りの銀板写真を見た漣杖は、その細密さに驚き、〈これは薬で出来るものだと聞《きい》て、果してそれが筆を用ひずに出来るものなら、いくら画を習つても之には及ばない、一層のこと狩野派の画を止めて写真術と云ふものを研究して見たいと、俄《にわ》かに心が変つて師匠に話すと〉、師匠もこれを許したので、長崎からオランダへ渡ろうと遊歴の途に上った、という。また、漣杖が銀板写真を見たのは島津屋敷だった、という説もある。「銀板に息がかかると画像が消えるから、口を覆って拝見しろ」といわれたという話が遺っている。ここで銀板写真というのは、一八三七(天保八)年、フランスのダゲールの発明したもので、銅板に銀メッキをし、ヨジュームの煙で燻《いぶ》し、これを暗箱に入れて撮影したのち、水銀の蒸気で現像する。露光時間は二十分程度という。  さて、ここでまた漣杖の談話の首尾一貫しない話になるのだが、こうして長崎への旅に上ったとき、かれのついていたのが蓮根のかたちをした五尺三寸(一・六メートル)もある唐桑《からくわ》製の杖だったという。この杖は成島柳北の祖父の成島|司直《もとなお》(『徳川実紀』の選述者)から旅に出るときにもらったもので、それにちなんで〈漣杖〉を名乗るようになったわけだが、その杖には〈嘉永六|癸 《みずのと》丑年如月《うしどしきさらぎ》〉に董園の需《もと》めに応じて造ったということが刻まれているのである。とすると、漣杖が旅に出たのは嘉永六年であり、したがってかれの談話の流れからすると、銀板写真を見て感動したのは嘉永五年か六年ということになる。しかも漣杖はこの旅の途中、路銀がないので相模あたりでまごついていると、ペリーが来たというのですぐさま浦賀へ引き返した、と語っている。  話はそれからいっぺんに安政四年(一八五七)に飛ぶ。というのは、漣杖が下田へ帰って、駐日アメリカ総領事として下田へやって来たハリスの通訳であるヒュースケンと接触をもつことになったからである。  安政三年七月、下田に入港したハリスは、柿崎村の玉泉寺を総領事館としたが、翌四年、胃病に悩み、下田奉行所に看護婦の周旋を頼む。こうしてハリスとお吉、ヒュースケンとお福の組合せが出来るのであるが、このころ漣杖がヒュースケンと親しくしたという。そして〈下田に居てヒユースケンと心安くしたのも、実は此人から写真の伝授を受けやうとしたのでした〉と語っている。  しかし、外人との接触はすぐに隠密につけられるので、〈ヒユースケンと諜《しめ》し合せて、下田港の入口にある嶽山《たけやま》と云ふ八丁ばかりの高さの山で出会ふことにして、そこで写真術の一通りを口伝《くでん》して貰《もら》つた〉というのである。  この嶽山というのは、現在〈寝姿山《ねすがたやま》〉と俗称される〈武山《ぶざん》〉を〈たけやま〉と読んだのであろう。もとより写真器械もないのだから、ホンの手真似口真似の伝授で、十分な説明を聞くことはできなかったが、それでも写真はどうして撮《と》るかということだけは理解できた、と述懐している。  やがて横浜が開港場となったので横浜へ移った漣杖は、ユダヤ人のショーヤーという家に入り、ショーヤー夫人から油絵を習っていたが、その店を訪れるウンシンというアメリカ人の客が写真機を持っていたので、そのウンシンからはじめて実地に写真術を教わった(『横浜開港側面史』に漣杖の談話とは別に収録されている〈無名の一老翁談〉では、漣杖はショーヤーの店で油絵を描いていたが、ラウダという米国婦人から写真術の秘法を教えてもらった、と語っている)。  このウンシンなる人物がいかなる人物かはっきりしないが、職業写真師だったらしく、ウンシンはアメリカへ帰国するにさいし、写真機や器具一式を漣杖に譲って行ったものの、同業者の増えるのを嫌って、肝腎の現像法を教えてくれなかった。そのため、ショーヤーの店にいるあいだは万事西洋人の指図通りにしていたので一枚の失敗もなく写ったのに、そこを出て独立してやってみると、全然写らないので狼狽した。それから研究に没頭し、暗室を作る元手がないので、自分たち夫婦の住んでいる借家の雪隠《せつちん》の一つを塞いで目張りをし、これを暗室に代用していたが、家主から「そんな魔法《ヽヽ》のために雪隠を使うのなら、さっそく立ち退いてくれ」と苦情が出たので、やむをえず雪隠を元の通りにして、その代りに古い屋台店を買って来て暗室に使ったという。  こうして何度やっても失敗し、一年半もたったが現像がうまく行かない。薬はなくなる借金はかさむで、ついに種板が二枚だけになった。 〈もう斯うなつては仕方がないと女房にも相談して、愈々《いよいよ》今日此二枚をやつて見て、これが出来上らなかつたならば今晩中に夜逃げをするより外はないと、夜逃げの手筈《てはず》から極めてかかりました、シヨーヤーの店を出る時に、器械を譲つて貰つたり薬品を買つたりしたので二百十両の借金が出来て居たのですから、肝心な写真が写らぬやうでは金を返す当《あて》がないから、夜逃げをする外に途はないのでした、処で薬も少し取変へてやつて見ると、幸ひなるかな、写した物の形がはつきりと現はれた、しめたと女房を呼んで、もう夜逃げはするに及ばぬ、此の通り写真が出来上つたと云ふと、女房も涙を流す程喜んで、愈々此の研究所から立退くこととなりました〉  漣杖夫婦の喜びようが眼に見えるようである。  さて、いよいよ写真師として店を出すことになったが金がない。そこで残っていた妻の衣類を質に入れて四両の金をこしらえ、これで賑やかな弁天通りへ店を出すことにした。ところがその店の家賃が前払いで三両、残った一両も引越し代や隣り近所に|そば《ヽヽ》を配った代金などを差し引くと、財布に残ったのはたった一分《いちぶ》(一両の四分の一)。これでは写真場さえ造られない。ほとほと困っていると、さすがは女の知恵である。漣杖の妻のアイディアで、一分のうちから二|朱《しゆ》(一朱は一分の四分の一)をはずんで四分板を二枚買って来て、これを切って十四枚の板にし、それに漣杖が油絵で日本の風景を描いて店先へズラリと紐で吊り下げておいた。すると店の前を通る西洋人が面白がり、一枚一分で買って行った。たちまち二朱の元手が三両二分となった。その金で写真場を造り、富士山の大きな看板を掲げて、漣杖の名を横文字で出すと、それが評判となって「レンジョー、レンジョー」と外国人が写真をとりに来た。〈此処で其後写真ばかりの為めに儲けた金は凡《およ》そ七八千両にも上りましたらう〉と、漣杖は得意そうに語っている。  しかし、まだ世は写真を魔法だといい、写真をうつせば寿命が縮まるといっていたころであるから、客はもっぱら外国人であった。前述した〈無名の一老翁談〉によると、日本の武士たちが写真をとりに来るようになったのは、文久二年(一八六二)八月の生麦事件以後だという。〈諸藩の士が決死の覚悟で、父母兄弟への記念にとて写しに来る者がありました〉と語っている。  長崎における上野彦馬が坂本龍馬をはじめ、高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文・山県有朋その他、当時の政治青年たちの写真をたくさん遺しているのも、かれらが自分の死を覚悟し、形見のつもりで写したからであろう。と同時に、かれらの新しい文明にたいする好奇心もあったはずだ。写真をうつすにも命がけというのは、いかにも日本人の好奇心のあり方を示しているようで面白い。 [#改ページ] 第14話 ナポレオンと留学生     1  フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト一世が南大西洋の孤島セント・ヘレナで五十一年の波瀾の生涯を閉じたのは、一八二一年五月五日である。一八二一年といえば、日本では徳川十一代将軍|家斉《いえなり》の文政四年にあたる。いわゆる化政期(文化文政時代)の江戸文化爛熟期だった。  ナポレオンの遺骸は同島ロングウッドの地に、十五発三回の弔砲をもって埋葬された。しかし、ナポレオンは遺言の中で、「わが遺骨はセーヌ川のほとり、わが最も愛せしフランス人民のなかに眠らせよ」と要求していた。その要求がかなえられたのは、それから十九年たった一八四〇年十二月、パリのドーム・デ・ザンヴァリード Dome des Invalides 廃兵院)に改葬されたときである。  ロングウッドの墓が発掘され、棺《ひつぎ》がしずかに開かれた。マホガニーの内蓋《うちぶた》が除かれ、白い繻子《しゆす》の帛紗《ふくさ》が取り去られたとき、ナポレオンの遺体が現れた。  埋葬してから二十年近い歳月が流れているのに、屍体は生けるがごとくだったという。睫毛《まつげ》が少し見え、頬がいささか脹《は》れていた。鼻梁《はなばしら》が少し欠けていたが、髪と爪は死後も幾分伸びたらしく、両手にはなお生色があった。軽騎兵の軍服も昔のままで、肩章や胸章の色だけが、さすがに時の経過を告げて色褪《いろあ》せていた。  遺体はパリに移されたが、ナポレオンの墓は墓としてそのままセント・ヘレナ島に遺された。ナポレオンの死後四十二年たった一八六三年三月二十七日(和暦・文久三年二月九日)日本人の一団がこの墓を訪れた。おそらく日本人としては最初の弔問者であっただろう。それは日本政府(幕府)から派遣されて、これからオランダに赴こうとしていた留学生の一行であった。  嘉永六年(一八五三)六月と七月の、アメリカのペリーとロシアのプゥチャーチンの来航をきっかけとして〈鎖国〉にピリオドを打たざるをえなかった幕府は、それから二年たった安政二年(一八五五)八月、長崎に海軍伝習所を開いて、オランダ海軍の知識と技術を導入した。さらに六年後の文久元年(一八六一)十一月、幕府は駐日アメリカ公使タウンゼンド・ハリスのあっせんで、蒸気軍艦二ないし三隻をアメリカ政府に注文し、同時に海軍留学生をアメリカに派遣して近代海軍の諸技術を学ばせることにした。それは当時の欧米諸国間のバランス・オブ・パワーにおいて、オランダの頽勢《たいせい》がはっきりしたことの反映であった。  ところが、たまたまアメリカ政府は南北戦争の勃発を見たため、日本政府の申入れをことわって来た。そこで幕府は急遽、方針を変更し、蒸気軍艦一隻の発注先をオランダとし、留学生十五名も同時にオランダに派遣することにした。その十五名の留学生を列記すると、—— 〈海軍班〉——内田恒次郎・榎本釜次郎・沢太郎左衛門・赤松大三郎・田口俊平 〈同|職方《しよくかた》〉——古川庄八・中島兼吉・大野弥三郎・上田寅吉・大川喜太郎・山下岩吉 〈洋学班〉——西周助・津田真一郎 〈医学班〉——林研海・伊東玄伯 〈職方〉というのは士分以下の職人である。従来、そのような職人が海外渡航をするときは、幕府はこれを正規の渡航者として扱わず、士分の渡航者の随伴者とみなすのが通例だったが、このときは技術士の養成のために正規の留学生として派遣したのであり、これは大きな進歩であった。  この十五人の留学生が軍艦咸臨丸で品川沖を出帆したのは文久二年(一八六二)六月十八日であったが、途中、伊豆の下田で麻疹《はしか》にかかったり、長崎から乗り継いだオランダ商船カリップス号(同年九月十一日長崎出航)が、南シナ海からジャワ海に入るガスパル海峡で座礁遭難して九死に一生を得たりして、ようやくジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)にたどりついたのは十月十八日であった。  こうしてテルナーテ号というオランダのロッテルダム行きの客船で十一月二日にバタビアを出発し、無事インド洋を渡って、マダガスカル島沖で文久三年の元旦を迎え、アフリカの最南端喜望峰を廻ってセント・ヘレナ島のジェームスタウン港に投錨したのが同年二月八日(洋暦・一八六三年三月二十六日)だった。そしてその翌日、十五人のうち職方六名を除いた九人が、テルナーテ号の船長と、同船に乗り合わせたオランダ人船客二人を伴って、二頭曳き四人乗り馬車三台を連ねて、ロングウッドのナポレオンの墓を訪れたのであった。     2  わが国でナポレオンのことが最初に書かれたのは、いわゆる〈シーボルト事件〉で獄死した高橋|景保《かげやす》の『丙戌異聞《へいじゆついぶん》』においてのようである。 〈丙戌〉は〈ひのえいぬ〉で、文政九年(一八二六)にあたる。この年、幕府の御書物奉行兼天文方筆頭の高橋景保が、長崎から参府してきたオランダ商館長から聞いた話をまとめたのがこの本である。その中で景保はフランス革命に触れ、それに関連してナポレオンの名を挙げているのである。  そのナポレオンの名は、日本ではむしろ軍事的天才の面でもてはやされ、かれの創出した歩兵・騎兵・砲兵のいわゆる〈三兵戦術〉が、諸藩のインテリたちのあいだで勉強されるようになる。  この〈三兵戦術〉はプロシアの軍人のハインリヒ・フォン・ブラントの『歩騎砲三兵戦術綱要』(一八三三、ベルリン)で集大成され、それがオランダのミュルケンによって蘭訳されて日本に入って来た。日本のインテリはこれにとびついて、何種類かの翻訳がなされた。鈴木春山『三兵活法』(弘化三年、一八四六)、高野長英『三兵|答古知幾《タクチキ》』(嘉永三年、一八五〇)、箕作阮甫《みつくりげんぽ》『三兵|達吉知幾《タキチキ》』などがそれであり、春山・長英共著『兵学小識』(天保十年?)もフォン・ブラントその他を合わせ訳述したものである。  余談であるが、万延元年(一八六〇)七月、プロシアのオイレンブルクが来日して幕府と通商条約の交渉をしたとき、その衝に当った外国奉行の堀|織部正《おりべのしよう》 利煕《としひろ》が、オイレンブルクの随員のマックス・フォン・ブラントがハインリヒの息子であることを知り、「あなたのお父上の著書が日本でも翻訳されている」といって、高野長英訳『三兵答古知幾』をプレゼントしている。  このような状況で、ナポレオンの名は幕末の日本のインテリにはかなり親しみがあったと思われる。吉田松陰が萩の野山獄から佐久間象山の甥で松代藩士の北山|安世《やすよ》にあてた手紙で、—— 〈独立|不羈《ふき》三千年来の大日本、一朝|人《ひと》の羈縛《きばく》を受くること、血性《けつせい》ある者|視《み》るに忍ぶべけんや。那波列翁《ナポレオン》を起してフレーヘード(自由)を唱へねば腹悶医《ふくもんいや》し難い〉  と叫んだのはよく知られている。松陰にはナポレオンが政治的な自由と独立のシンボルだったのである。  松陰の叫びは黒船来航のもたらした、いわばカルチャー・ショックにたいする危機意識からの叫びである。しかも、この手紙は安政六年(一八五九)四月のもので、オランダ留学生たちがナポレオンの墓に詣でる四年前である。留学生たちがセント・ヘレナの名を聞き、自分たちが万里の波濤《はとう》を乗り超えてオランダに渡るのは何のためかを考えるとき、かれらを動かしているのはおそらく吉田松陰の危機意識と同根のものだったはずである。留学生たちの眼には、ナポレオンは自分たちの師と仰いで畏敬すべき英雄として映っていたにちがいない。じっさいのところ、留学生の一人だった榎本釜次郎(のちの武揚)は、セント・ヘレナに入港する前夜、眠られぬままに次の七言絶句を作っている——     去載深秋《きよさいしんしゆう》 瓊陽《けいよう》を発し。     路程十有五旬|強《きよう》。     春風|喚《よ》び醒《さま》す往時《おうじ》の夢《ゆめ》。     吹き向う烈翁幽死《れつおうゆうし》の場《ば》。 〈瓊陽〉が長崎、〈烈翁〉がナポレオンであることを知れば、この詩の感情はおのずと知られよう。セント・ヘレナと聞いただけで胸中に湧き上がる、釜次郎の感情の昂《たか》ぶりが伝わって来る。  いよいよナポレオンの墓を訪れたときの模様は、留学生のうちの何人かが強い感激として印象記を書き遺している。赤松大三郎はのちに『赤松則良半生談』(昭52・11、平凡社東洋文庫)の中で、—— 〈奈翁の墓はゼームスタウンから約三里山道の谷間にある幽静な処で、幅四尺余長さ七尺もある一枚石を敷いて墓碑とし、鉄柵《てつさく》を囲《めぐ》らしてあった〉  と記録している。  このとき作った榎本の詩が有名である。——   長林《ちようりん》の烟雨《えんう》は孤栖《こせい》を鎖《とざ》し。   末路の英雄 意転《いうたた》迷う。   今日弔来《こんにちちようらい》の人は見えざるも。   覇王樹畔《はおうじゆはん》 列王《れつおう》鳴く。 〈長林〉はロングウッド(長い林)をそのまま漢訳したものである。また、結句の〈列王鳴く〉を〈鳥空《とりむな》しく啼《な》く〉としている本もあるが、この〈列王〉つまりナポレオンというのが、ナポレオンその人ではなく、セント・ヘレナ島に棲息する、日本の菊戴《きくいただき》に似た、美しい小鳥に土地の人がつけた名であることを知れば、覇王樹《サボテン》の花が咲く樹間にナポレオンと呼ぶ小鳥が鳴いて、英雄の霊を慰めていると詠じた榎本の心情が、〈鳥空しく啼く〉という通俗的な辞句よりも感動的であると思って、わたくしは〈列王鳴く〉のほうを採っているのである。  ナポレオンの墓を訪れた翌々日の三月十一日、留学生の一行を乗せたテルナーテ号はセント・ヘレナ島を出航し、一路ロッテルダムに向った。同行の林研海の歌も遺っている。——     ますらをが沖の小島にあとゝめし         むかしを照らす春の夜の月 [#改ページ] 第15話 オランダ離れ     1  福沢諭吉がオランダ語を勉強しようと思ったのは、ちょっとした偶然からである。  嘉永六年(一八五三)六月、浦賀へやって来たペリー艦隊のいわゆる〈黒船来航〉の衝撃は、九州|豊前《ぶぜん》(現大分県)中津《なかつ》の奥平《おくだいら》藩にも海防のための砲術の必要性という形で波動して来た。そしてその砲術は、もはや従来の日本式砲術では時代遅れであり、オランダ流を学ばねばならぬ、という意見となって藩論を刺戟していた。  ペリーは翌安政元年(一八五四)一月に再来航して、日本に〈開国〉を迫ったが、その二月、当時数え二十一歳(満では十九歳三カ月)だった福沢は、中津藩の門閥制度に嫌気がさし、中津を飛び出したいと念願していた。  ある日、兄の三之助が諭吉に向って、 「オランダの砲術を研究するには、どうしても原書を読まねばならぬ」  といった。それにたいして、 「何ですか、その原書とかっていうのは」  と質問したのが、いうならば諭吉の生涯を決定づけた、といってよいだろう。  この辺の経緯《いきさつ》を『福翁自伝』によると、次のようになる。—— 〈原書と云ふは、和蘭《オランダ》出版の横文字の書だ。今、日本に翻訳書と云ふものがあつて、西洋の事を書いてあるけれども、真実《ほんとう》に事を調べるには其|大本《おおもと》の蘭本の書を読まなければならぬ。夫《そ》れに就《つい》ては貴様は其原書を読む気はないかと云ふ。所が私は素《も》と漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では何時も出来が好くて、読書講義に苦労がなかつたから、自分にも自然|頼《たのみ》にする気があつたと思はれる。人の読むものなら横文字でも何でも読みませうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、其時|丁度《ちようど》兄が長崎に行く序《ついで》に任《まか》せ、兄の供《とも》をして参りました〉  中津を飛び出そうという気持のところに「蘭学をしてみないか」という兄のことばである。渡りに舟と、大喜びで長崎へ出かけて行った。それが福沢のオランダ語をはじめたきっかけである。  後年(明治十九年)、福沢は自分の経営している慶応義塾の学生にたいする演説の中で、自分が何を目的として洋書を読みはじめたかについて触れ、それを読んだからといって別に郷党朋友に誉れを得るわけでもなく、また自分の身に利益をもたらすわけでもなかったが、〈当時横文を読むの業は極めて六《むつ》かしきことにして容易に出来難き学問なりしが故に之《これ》を勤めたることならん。或は洋学ならで他に何か困難なる事業もありて偶然に思ひ付きたらば、其方に身を委ねたるやも知る可《べか》らず。畢竟《ひつきよう》余が洋学は一時の偶然に出でゝ、其修学の辛苦《しんく》なりしが故に之に入りたるものなりと自から信ずるの外ある可らず〉、つまり「洋学というのは難かしい学問だというからやってみたまでだ」と述懐している。  黒船のもたらしたカルチャー・ショックが、こういう形で福沢に波及したわけである。  こうして一年間長崎に遊学し、ついで大坂の緒方洪庵《おがたこうあん》の適塾《てきじゆく》に入門して三年半の修業を積み、塾長となったが、故郷の中津藩に江戸へ呼び出され、築地鉄砲洲《つきじてつぽうず》にあった中津藩|中屋敷《なかやしき》で蘭学塾を開くことになったのが安政五年(一八五八)十月、二十五歳のときであった。  当時、日本政府(幕府)はこの安政五年のうちに米・蘭・露・英・仏の五カ国と修好通商条約を調印し、いよいよ翌安政六年(一八五九)六月から従来の長崎の外に、神奈川(横浜)と箱館の二港を開港場とした。そのため、日本の国論は〈攘夷〉と〈開港〉に二分され、世の中が急に騒がしくなってきた。  時代の動きに敏感な福沢は、ある日、さっそく新開地横浜を訪ねてみた。  ちなみに、神奈川と横浜の関係について一言すると、はじめ幕府は通商条約面では開港場を〈神奈川〉と指定したのであるが、実際にその開港期日が近づくと、神奈川の対岸にあった、当時は人家六十戸たらずの小漁村に過ぎない横浜村を開いてこれに当てた。神奈川は東海道の宿駅の一つだったので、貿易のために来航した外国人が大名行列や攘夷派浪人と接触して不慮の事件の起きないための配慮からであった。  当然、この幕府の措置に不服を唱える外国公使もいたが、幕府は「横浜は神奈川の一部だ」とこじつけ、山を開き、沼を埋め、住宅・会所・倉庫・波止場などの築港工事を急ぎ、江戸・神奈川・下田などから貿易商人を呼んで店を開かせ、将来の繁栄を約束するような町づくりをし、文章上は〈神奈川〉だが実際には〈横浜〉という現実をつくって押し切った。そのためこれに反対していたアメリカ公使ハリスは、任期を終えてアメリカに帰国する最後まで、横浜の土を一度も踏まなかった、という話も遺っている。 『福翁自伝』によれば、福沢が訪れたときの横浜は、外国人がチラホラと歩いているだけで、掘立小屋みたいな家があちこちに立っており、そこに外国人が店を出している程度だったという。ところが、その横浜で福沢を不安におとしいれた事件《ヽヽ》が起きた。どこへ行っても、ちっとも〈言葉が通じない〉ことであった。 〈此方《こつち》の云ふことも分らなければ、彼方《あつち》の云ふことも勿論《もちろん》分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙《はりがみ》も分らぬ。何を見ても私の知《しつ》て居る文字と云ふものはない。英語だか仏語だか一向分らない。居留地をブラブラ歩く中に、独逸《ドイツ》人でキニッフルと云ふ商人の店に打当《うちあたつ》た。其商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。此方の言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうにか意味が通ずると云ふので、ソコでいろ/\な話をしたり、一寸《ちよつ》と買物をしたりして江戸に帰て来た〉     2  いままで五年間、営々辛苦して勉強してきたオランダ語が、新開地横浜では全く通じなかっただけでなく、横浜で眼にした外国語が一語も読めなかったという事実。これは福沢にとっては大きなショックであった。 〈横浜から帰《かえつ》て、私は足の疲れではない、実に落胆して仕舞《しまつ》た。是れは/\どうも仕方がない。今まで数年の間死物狂ひになつて和蘭の書を読むことを勉強した、其勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、左《さ》りとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た〉  という福沢のことばは、そのショックの大きさを物語っている。  このショックによって、福沢はいままでの蘭学から英学に眼を向けるきっかけをえたのである。〈英学|発心《ほつしん》〉の瞬間であった。福沢のわれわれ凡人と違うところは、この横浜におけるショッキングな体験から、世界はすでにオランダの時代は過ぎて、英仏の時代が来ていることを肌で感じとったことである。  福沢の英学への転向がこれから始まる。それにはまず英語の勉強からはじめねばならない。きのうまで学んできたオランダ語を捨てて、新たに英語を学ぶという決断は、そう簡単にできるものではない。そのうえ、当時は、その英語を学ぶにも、どこでだれに学んだらよいのか、さっぱりわからなかった。  いうまでもなく、当時の幕府の公用外国語はオランダ語であったが、ペリーの来航以来、アメリカとの交渉が深まるにつれて、次第に英語の重要性が認識され、幕府はオランダ語|通詞《つうじ》に英語もあわせて学ぶことを命じた。しかし、その効果は期待ほどには上がらなかった。  福沢も英学への転向を決意してはみたものの、さてその取付端《とりつきば》がない。  そこで長崎の通詞の森山多吉郎《もりやまたきちろう》という人が江戸に来て幕府の御用を勤めており、その人が英語を知っているといううわさを聞いたので、森山の家に行って頼むと、「昨今は御用繁多《ごようはんた》で大変忙しいが、折角の頼みだから教えて進ぜよう、ついては毎日わたしの出勤前、朝早くに来てほしい」というので、鉄砲洲から森山の家のある小石川水道町まで二里(八キロ)余の道を毎朝早くに通ったが、結局、英語を教わる暇がなく、それでは夜にしようと、日暮れに出かけて行って深夜に帰るようにしたが、これもやはり多忙のため駄目で、二、三カ月通ってついにあきらめた。  そこで横浜に行ったときドイツ人キニッフルの店で買って来た二冊の『蘭英会話』を頼りに独学を始めたが、困ったことには辞書がない。たまたま九段下にあった幕府の蕃書調所《ばんしよしらべしよ》にはいろいろな辞書があると聞いたので、面倒くさい手続きをとってようやく入門を許されたが、辞書を自宅に持ち帰ることはできないというので、一日で蕃書調所に通うのもやめてしまった。  さて、どうしたらよかろうかと考えているとき、前から頼んであった商人が「横浜にホルトロップという英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある」と教えてくれた。そして「ただ、ちょっと値が張る」という。「いくらだ」ときくと、「まことに小さな字引だが、価《あたい》五両だ」という。当時の一両は現在の五万円から七万円くらいの重みがある。五万円としても五両では二十五万円である。福沢の私費ではとても手の出る値段ではない。 〈夫《そ》れから私は奥平の藩に歎願して買取て貰《もらつ》て、サアもう是れで宜《よろ》しい、此字引さへあればもう先生は要らないと、自力研究の念を固くして、唯《ただ》其字引と首引《くびつぴき》で、毎日毎夜独り勉強、又或は英文の書を蘭語に翻訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました〉  現在の外国語学習に較べると、先人の苦労に頭の下がるものがあるが、こうして英学を志向した福沢は、明治維新前に、三度外遊する機会に恵まれた。最初は咸臨丸《かんりんまる》でアメリカへ。二度目は竹内下野守遣欧使節団の随員としてヨーロッパ諸国を見て廻り、三度目はふたたびアメリカへ。この三度の外遊で福沢は完全に〈オランダ離れ〉をし、慶応四年(明治元年、一八六八)四月、鉄砲洲から芝の新銭座《しんせんざ》に家塾を移して、年号にちなんで〈慶応義塾〉と名づけ、英学を教えることにした。  幕府の蕃書調所の後身で、現在の東京大学の前身である〈開成学校〉が、修得すべき外国語を英語に限定した、つまり蘭学が完全に英学に取って替られたのは、それから五年後の明治六年(一八七三)である。福沢の先進性がしのばれよう。 [#改ページ] 第16話 仏人〈白山伯〉     1  安政六年(一八五九)六月、横浜が〈開港〉してから、幕末の日本に多くの外国人が外交官として、また貿易商人としてやって来たわけだが、その中には〈謎の人物〉とか〈怪人物〉と呼ばれる外国人もいた。その一人に、〈モンブラン伯爵〉(Comte des Cantons de Montblanc)というフランス人を数えてもよいだろう。  モンブランは名前をシャルルといい、先祖はむかしフランスがベルギーを領有していたとき、そこの領主をしていた何人かのフランス貴族の一人だといわれている。シャルルは長じてパリの社交界へ出入りしていたが、東洋の〈日本《ジヤポン》〉という国が開国したときいて、おそらくひと儲けを夢みたのであろう、文久元年(一八六一)に来日し、翌二年まで横浜や箱館に居留していた模様である。そして滞日中、横浜で一人の日本青年を拾って通訳がわりにし、これを従僕としてフランスへ帰った。この日本青年がジェラルド・ケンである。  このジェラルド・ケンがまた不思議な人物で、日本名を〈斎藤健次郎〉といい(もっとも、かれと会った人によって健次郎を健二郎とか賢次郎と書き、また謙治とだけ書いている人もあり、一定していない)、あるいは〈白川健次郎〉とか〈白川二郎〉とも称している。  さらにかれの素姓は武州熊谷の医者斎藤竜貞(隆貞と書いている人もある)の弟とも、佐竹藩の出とも自称している。  とにかく素姓の曖昧《あいまい》な人物で、フランスに行くとすぐにフランスに帰化して、ジェラルド・ケンと名乗ったわけだ。フランスに渡った最初の日本人かもしれない。  わたくしがいままで読んだところで、このジェラルド・ケンが最初に登場するのは、元治元年(一八六四)三月、遣欧使節池田筑後守|長発《ながおき》の一行が〈横浜鎖港〉の談判のためにパリを訪れたときである。  このとき随行した岩松太郎の「航海日記」の三月二十三日の項に、—— 〈本朝人(日本人の意)壱人|仏蘭西《フランス》人に成り居たり。是《こ》の者《もの》両三日以前より当家(当グランド・ホテルの意)へ使節(池田筑後守)来《きた》るを聞《きき》て来り、僕《ぼく》面会致し種々|噺《はな》し〉  云々《うんぬん》とあり、〈姓は斎藤と云《いい》名は不知《しらず》〉とある。そして、その後も毎日のようにホテルに日本使節の一行を訪ねて来たようである。  また、同じく池田筑後守に随行した金上佐輔《かながみさすけ》の「航海日録」の三月二十三日の記載では、—— 〈一両日以前ヨリ武州熊谷駅ノ医者斎藤竜貞ナルモノ、弟謙治ト申スモノ旅亭ニ来リヌ。四年以前横浜ヨリ仏ノ軍艦ニ乗リ渡海シ、欧羅巴《ヨーロツパ》洲処々游歴シ、当時(現在の意)仏人ニ成リ、高貴ノ家ニ仕へ居リテ、衣服言語等西洋人同様ナルヨシ〉  とあり、使節団のうちの四、五人の者が会って話をしたようだが、〈吾ハ逢ハザリシ〉と書いている。  ところが、この金上佐輔が二日後の三月二十五日の午後に、一行のうちの高橋留三郎(副使|河津《かわづ》伊豆守家来)・名倉|予何人《あなと》(調役田中廉太郎家来)・三宅|復一《またいち》(組頭田辺|太一《やすかず》家来)の三人と、その〈斎藤謙治〉の家を訪ねている。  尋ね尋ねてようやく探し当て、〈電信機(ベルの意か?)ヲ門前ニ仕掛《しかけ》アリ。案内セシ土人(土地の人、つまりパリの住民の意)押シテ彼ヘ通ズルニヨリ、老婆一人|出《いで》テ門ヲ開キテ入ルヲ許セリ。無程《ほどなく》謙治モ出デ来リ、門右《もんみぎ》ノ小室ヘ案内セリ〉とある。そしてこの日、ここの二階の客間ではじめてこの屋敷の主人であるモンブランと面会したのである。 〈此家ハ六百年来ノ旧家ニテ、我邦ニテ云ヘバ旧大名ノ類《たぐい》ノヨシ。「コント(大名)」、名ハモン|プラ《(ママ)》ント云フ。謙治ガ教ヘシト|申※[#「こと」、unicode30ff]《もうすこと》ニテ、僅《わず》カニ邦語ヲ解セリ〉と、金上は後年注記している。  初対面の挨拶ののち、〈主人プラン〉はその母と二人の妹を紹介し、〈巴黎斯《パリス》都府地図ヲ出シ、種々談話等ヲ為シ〉、やがて奥座敷ともいうべき別間に案内されると、そこには〈我邦ノ錦絵、漆器等飾り置キテ〉、金上たちに見せてくれた。 〈此処ニテ西洋時刻|半時《はんとき》(三十分)余リモ談話〉したのち、金上たちはモンブラン邸を辞去し、ケンの案内で〈花園(ブローニュの森)〉に遊び、〈アルクテトリヨン(|Arc de Triomphe《アルク・ド・トリヨンフ》・凱旋門)〉に登って、パリの市街を一望してから、ホテルへ帰った。     2  以上はパリへ到着して九日目の出来事であるが、モンブランはそれから積極的に使節団に接触を求めて来た。日本使節団の顧問となって、甘い汁を吸おうとしたらしい。  一説に、このときの副使をしていた河津伊豆守|祐邦《すけくに》がまだ箱館奉行所に在勤中懇意にしていたことがあり、また通弁御用の塩田三郎もフランス語を習ったという縁故があったので、「自分を顧問に使わないか」と、モンブランのほうから売り込んできた、ともいわれている。  河津伊豆守自身が、後年、次のように述懐している(尾佐竹猛著『夷狄《いてき》の国へ』)。—— 〈(モンブランは)日本の使節団が仏蘭西に来ると云ふ事を聞て、河津を手寄《たよ》りて仕事を仕やうと云ふ考へで、日本から使節団が来るは斯ういふ主義であると云ふ考へで、儲《もう》け仕事をしやうと思ふてひどく池田の機嫌を取りて、参る度毎に何か持つて参る、さういふ性《さが》の男で、晩食でも共に為せば大層喜ぶ、日本の使節と晩食したと云つて、演劇にも一処に参る、市中などで人の中でも「アンバツセドール(使節閣下)」と云つて先に導く様な風で、自ら参つたので幕府から附けたのではない〉  ここには少しも〈好感〉は感ぜられない。  また、このとき組頭(三人の使節の次の地位)をしていた田辺太一は『幕末外交談』の中で、モンブランについて次のように語っている。—— 〈予が池田筑後守にしたがって、さきにパリへ行ったときも、モンブランの招待をうけ、使節の許しを得てその晩餐会におもむいたところ、かの謙次郎はすでに頭髪を刈っていたが、わざわざ仮髻《かりまげ》をつけ、羽織|袴《はかま》の姿で、そのほかに南洋の蛮人には、赭色《しやしよく》の裸体に紋布の腰巻をつけさせ、この二人を給仕として座の取り持ちをさせた。もちろんほかに西洋人の客はなく、ただ通弁のブレッキマン(フランス公使ベルクールが池田使節団につけてよこした案内役)だけであったが、それをもってしても平日の生活が思いやられよう。モンブランは、実に異を立て、奇をてらう独得の癖を有していた〉(引用は同書・平凡社東洋文庫、坂田精一氏訳から)  ここにも〈好感〉は感ぜられない。  はじめは知らぬ他国で日本通のフランス貴族に遇ったというので、他日使節団の一行はモンブランを有難がっていたが、その後、パリの社交界の様子も少しずつわかって来ると、どうもモンブランの評判はあまりよくないというので、次第にこれを敬遠するようになり、フランス政府との外交交渉の顧問には、かつて長崎のオランダ商館の医師であった、有名な親日家のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトを迎えた。  池田ミッションに袖《そで》にされたモンブランは、それでも日本人との接触をあきらめず、慶応元年(一八六五)七月、横須賀製鉄所(造船所)建設用務でフランスへやって来た柴田|日向守剛中《ひゆうがのかみたけなか》の一行に取り入ろうとしている。  しかし、〈此人巧名心の深き性《さが》にて頻《しきり》に日本に関係して栄誉を博さんと思ひ、柴田に交《まじわり》を通じ稍々《やや》其意を洩《もら》したるに、其評判の余り上等社会に良《よろ》しからざる所より斯《かか》|る人には関係する事を止《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽやめ》|られよ《ヽヽヽ》と云へる忠告を受《うけ》たりければ、柴田も悟る所ありしか敬して遠ざくる様の交際をなしたり〉と、このとき柴田に随行した福地源一郎(桜痴)は『懐往事談』で書き遺している。  しかも、柴田剛中自身がモンブランと会談したとき、モンブランは薩摩を贔屓《ひいき》し、二年後のパリ万国博覧会には幕府の出品物と一緒に薩摩の産物も出品したほうがよい、などと傲然《ごうぜん》と申し出たりするので、剛中はすっかり腹を立て、〈御国《おくに》の御為《おんため》を思はず後日の事を謀《はか》らざれば、面《おもて》に唾《つばき》し辱《はずかしめ》を与へ度《たく》、憤悶《ふんもん》に堪へず、中座をして退席す〉と、その「公私日載」(慶応元年十月六日)に書いている。  これではとてもモンブランが幕府に食い入る余地などあるはずもない。モンブランは幕府に冷たくされた腹癒《はらい》せに、当時、日本を密出国してフランスへ潜入していた薩摩藩の松木弘安《まつきこうあん》や新納刑部《にいろぎようぶ》、五代才助らに急接近し、すでにその七月にはかれらとベルギーの首府ブリュッセルで〈開国貿易のための商社設立契約〉を結んでいた(これは結果的には履行されずに終った)。  こうしてモンブランは慶応三年(一八六七)のパリ万国博覧会では薩摩藩代表岩下|方平《まさひら》の顧問となり、〈薩摩琉球国勲章〉を作製してフランスの各方面にバラ蒔《ま》き、博覧会の会場には幕府の〈日本大君政府〉の他に〈薩摩大守政府〉〈肥前大守政府〉の建札を立てさせて、幕府(大君政府)は薩摩藩や肥前藩と同等の地位にしかないという印象をヨーロッパ諸国に与え、幕府の威信を失墜させるのに大いに貢献した。  その後、岩下らと再来日したモンブランは、〈白山伯(モンブランは「白い山」の意)〉と号し、薩摩藩の外交上の相談役として働いた。幕末においては、幕府はフランスと提携したのに、そのフランスの貴族がイギリスや薩摩と手を結んで倒幕に寄与したということ自体が、かれの〈怪人物〉たるゆえんであろう。慶応四年(一八六八)二月十日付で、モンブランは日本の新政府から〈在巴里日本総領事〉に任命されている。冷たかった幕府にたいする腹癒せは十分に満たされたわけだ。一八九一(明治二十四)年、パリで死去。五十七歳。  中里機庵著『幕末開港|綿羊娘《らしやめん》情史』(昭6・2、赤爐閣書房)によれば、モンブランには横浜に〈フランスお政〉という洋妾《らしやめん》がいた、とある。どの程度の実在性をもった女性か不明だが、興味は深い。  なお、ジェラルド・ケンはパリ万博ののち日本に帰り、薩摩にいたが、薩摩藩の機密を幕吏に漏洩《ろうえい》したという理由で、薩人の手で海中に投げ込まれて殺された、という。知り過ぎた者の悲劇か? 哀れというしかない。 [#改ページ] 第17話 攘夷派と国際派     1  次の二つの引用文を読んでいただきたい。—— 〈わらは賤《いや》しき遊女なれど、日の本の女なり、つとめする身は是非もなし、唯《た》だ日本《ひのもと》の丈夫《ますらお》のみ肌《はだ》ふれ、はべりぬ。異人と申すもの、わらはを買はんと迫り、今夜の約束なれど、いかで日の本の女の操《みさお》を、けがすべきぞ、わが無念の歯がみせし死骸《しがい》を見せ、日本《にほん》の女はかくぞと知らしめくださらば、すこしは異人も恥を覚ゆべきかと存ずれ     文久二年|壬戌《みずのえいぬ》十一月二十三日   岩亀楼喜遊《がんきろうきゆう》        露《つゆ》をだに厭《いと》ふやまとの女郎花《おみなえし》         ふる亜米利加《あめりか》に袖は濡《ぬら》さじ〉 〈世に苦界《くがい》に浮沈《うきしず》みするもの幾千万人と限りも候はず。我が身も勤《つとめ》する習ひとて、父母の許し給はぬ仇人《あだびと》に肌《はだ》ゆるすさへ口惜《くちお》しけれど、唯々《ただただ》御主人の御恩を顧み、ふたつには身の薄命とあきらめ侍りしが、其基《そのもとい》ははかなき黄金《こがね》てふものゝ有るが故《ゆえ》ならめ。此金は遊女の身を切る刃《やいば》に候まゝ、其刃の苦界を離れ、弥陀《みだ》の利剣に帰《き》しまゐらせ度《たく》、主人に辞して亡き双親《ふたおや》に仕へ参らせ候得ば、黄金の光りをも何かせむ。おそろしく思ふうらみの夢覚《ゆめさめ》よかしと、誠の道を急ぎ候まゝ、無念の歯がみを露《つゆ》はせじ。我死骸を今宵の客に見せ下され、かゝる卑しき浮《うか》れ女《め》さへ、日の本の志は恁《か》くぞと知らしめ給はるべく候。     露をだにいとふ倭の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ〉  いうまでもなく、横浜|港崎《みよざき》遊廓の岩亀楼遊女喜遊の書置と辞世である。  横浜は日米修好通商条約(安政5年6月)の取決めによって翌安政六年(一八五九)六月五日に開港された。そして、それとほぼ時を同じくして港崎遊廓が開業したのである。そのうちで、外国人の登楼できるのは岩亀楼と五十鈴《いすず》楼であったが、とくに岩亀楼は廓内第一楼として繁昌した。そこの喜遊という遊女が義理のしがらみにからまれて、異人(ここではアメリカ人)の枕席に侍らざるをえない羽目となり、異人に貞操をもてあそばれるのは日本女性最大の恥辱と考えて、その晩、自害して果てた、といわれている。その烈女喜遊の書置と辞世というわけだが、ご覧のように、歌は同じにしても、その書置が少なくとも二種類は存在することになる。  前の書置は、中里機庵著『幕末開港|綿羊娘《らしやめん》情史』(昭6・2、赤爐閣書房)の冒頭部分からの引用であり、後者は『横浜市史稿風俗編』(昭7・4、横浜市役所)所収「温古見聞彙纂《おんこけんぶんいさん》」(明32・9、平林九兵衛編)からの引用である。  ここでこの書置の比較をして、後者は前者の焼直しでしかない、などというような考証はやめよう。これらの書置の文章を一読しただけで、これはフィクション以外の何物でもないことが|感じ取られる《ヽヽヽヽヽヽ》からである。  しかし、攘夷思想のなお強かった戦前の日本では、この話は実在の美談として、いろいろなストーリーに仮託されて語りつがれていたようである。中里機庵はもちろん喜遊実在説を採っているわけだが、『横浜市史稿』では喜遊実在説を採用している本を七冊挙げ、異説として、例えばこの話は喜遊ではなく、江戸新吉原の娼婦桜木(さくらぎ)の話であるとする類《たぐ》いのもの四種、さらに偽作説として二説を挙げている。  その偽作説の一つは、『闢邪小言《へきじやしようげん》』の著者大橋|訥庵《とつあん》の偽作という説であり、もう一つは大橋訥庵の門人|椋木《むくのき》京太郎の偽作という説である。ちなみに、大橋訥庵の門人で椋木といえば〈八太郎〉である。参考のため、同書の椋木京太郎(八太郎?)偽作説の説明を引用すると、—— 〈彼は訥庵の命に依り、京都・水戸の間を往復し、尊王攘夷に奔走し、安藤閣老を要撃したのも、彼れの計画であつた。文久年中、横浜にも往来して、港崎遊廓で遊興中、暗示を得て偽作したものと云ふ説。椋木がかゝる暗示乃至動機を掴《つか》んだのは、支那|広東《カントン》を英仏軍が占領した時(咸豊七年、我が安政四年)、広東の美人娼婦|李宝卿《りほうけい》を士官某が意志に従はせ様《よう》としたので、之《これ》を怒つて毒を飲み、血を士官の顔面に吐いて憤死したと云ふ談を聞知し、之にヒントを得て、仮作したものと云はれて居る〉  当時、横浜には来日外人にたいする怒りを胸に秘めた過激攘夷派が蟻集《ぎしゆう》し、異人斬りも多発したことであるから、この椋木八太郎の仮作説などは、なかなか面白い。ただわたくしは、喜遊の美談《ヽヽ》の以前に、〈アメリカ〉をもじった〈降るアメリカ〉ということばから〈露をだに〉云々《うんぬん》の三十一文字《みそひともじ》を作ったパロディーの名人がいた、と想定したいのである。この歌ができれば、喜遊の話などは、わりあい簡単にできるはずである。  いまでは遠い記憶になって正確な歌詞は忘れたが、太平洋戦争中、——     ルーズベルトの褌《ベルト》が解けて         チャーチル散る散る花が散る  といったような、都々逸《どどいつ》まがいの俗謡がはやったが、これなども〈露をだに〉の歌ほど上品ではないが、排他的な攘夷思想から戦意昂揚をねらったものとして、同じ流れに属する歌といってよいかもしれない。  横浜開港五十年を記念して刊行された『横浜開港側面史』(明42・6、横浜貿易新報社)には、故老の懐古談が満載されているが、岩亀楼喜遊について語る故老は一人もいない事実からも、わたくしはこれをフィクションであろうと推測している。     2  新開地ヨコハマをめぐる女性といえば、喜遊のような攘夷派とともに、〈ラシャメン〉と呼ばれる国際派(?)もよく知られている。普通〈外妾〉とか〈洋妾〉と書いてラシャメンと読んでいるが、ラシャメンということばそのものは横浜が開港場となってから生まれたようである。  その語源については、確定的なものがないといってよいかもしれぬが、『横浜市史稿』では〈らしやめんは綿羊の毛で造つた洋織物であつて、現今単に羅紗《らしや》と称するものに当り、外国人は大方此羊毛織物に包まれて臥すものと断じ、これが軈《やが》て|らしやめん《ヽヽヽヽヽ》なる称呼の因を為したものと推考される〉とある。  わたくしは〈木綿《もめん》〉にたいして毛織物を〈ラシャ綿《めん》〉と呼び、外人の妾となった者の大方はかれらからもらったラシャ綿を着ていることから、そういう女性を木綿や絹の和服を着る女性と区別して〈ラシャ綿〉と呼ぶようになった、という説に傾いている。 『広辞苑』では〈羅紗綿《ラシヤめん》〉の第一義を〈ひつじ〉とし、第二義として〈西洋の水夫が緬羊を船中に飼育して犯すという俗説〉から来日西洋人の妾になった日本婦人を|卑しめていう語《ヽヽヽヽヽヽヽ》としているが、わたくしは元来の〈ラシャメン〉には〈卑しめていう〉という語感はなかった、と推測している。そういう語感が生じたのは、攘夷派が、喜遊伝説をつくったように、日本庶民の攘夷感情を刺戟し、攘夷思想を鼓吹してからだ、と考えている。  前掲の『横浜開港側面史』に「珍事五ケ国横浜ばなし」という一篇が〈補遺〉として収められている。その〈遊郭《(ママ)》と羅紗綿女郎の元祖〉という一節に、次のような話が伝えられている。—— 〈此|掘立《ほつたて》女郎屋に、神奈川桑名屋より出稼ぎし居たる、お島といふ者がありしが、此頃神奈川長延寺に居たる蘭国紳士某《おらんだこくしんしぼう》が試みに日本婦人をとの野心を起し、白羽の矢はお島女郎に中《あた》りぬ、抱主《かかえぬし》は福徳の三年目と喜びしものゝ、お島は泣きつ喚《わめ》きつ死んでも否《いや》ぢやと強情張るを、無理に因果を含めて送り込めるに、翌朝帰つてからのお島は、打《うつ》て変つた莞爾々々《にこにこ》ものにて、『なに、日本人より優しくて親切で、夫《そ》れは/\は勤めよい』など嬉しがりしも道理、神奈川にては一晩たゞの四百文、横浜にても特に直上《ねあげ》して二朱なるに、一度のお伽賃大枚二分《とぎちんたいまいにぶ》と云ふを得たればなり〉  このお島が通った〈長延寺に居たる蘭国紳士某〉は、『横浜市史稿』によればオランダ領事ポルスブルークであることがわかる(ポルスブルークはのち総領事から弁理公使となる)。ポルスブルークはその後、本町通り二丁目の商人文吉の娘おてふ(当時二十一歳。『開港側面史』ではお長《ちよう》、十九歳とある)を散歩の途中に見染め、〈百枚の洋銀ザラリと投出し交渉に及びけるに、固《もと》より開放主義のお長とて、蘭《らん》でも漢《かん》でも私《わし》や構《かま》やせぬと、早速|応来《オーライ》の吉報は与へたるも〉、野暮天の役人は「公許の娼妓でない者は外国人の妾たるを得ず」という規則を楯にして旅館への出入りも許さなかったので、お長は〈表向き岩亀楼|左吉抱《さきちかかえ》娼妓|長山《ちようざん》となり〉、万延元年(一八六〇)十月八日から月極め十五両のラシャメン女郎となり、鑑札料として月々一両二分ずつを岩亀楼に納めるようになった(引用は『横浜開港側面史』より)。 『横浜市史稿』によれば、それから二年後の文久二年(一八六二)十月板行の『横浜ばなし』に「異国重役人之部」として領事や公使の〈名寄せ〉がある中に、ポルスブルークの使用人として〈小使頭佐吉〉〈別当豊吉〉と並んで〈ラシャメンてう〉とあり、〈此頃から|らしやめん《ヽヽヽヽヽ》と云ふ名称が起つたものと思はれる。即ち公娼でない長山のおてふは、正式なる|らしやめん《ヽヽヽヽヽ》であり、横浜に於ける元祖であり、やがて日本に於ける|らしやめん《ヽヽヽヽヽ》名称の始原を為すものであつたと推想される〉と説明している。そこには〈ラシャメン〉ということばに特にこれを|卑しめていう《ヽヽヽヽヽヽ》語感は感じられない。  近年、幕末史における来日外国人の研究が重きを占め、かれらの滞日生活における日本女性との交流状況にライトが当てられつつある。したがってラシャメンといわれる女性も注目されてしかるべきだが、その性質上、史料が極めて乏しいことが残念というしかない。 [#改ページ] 第18話 パリのおまわりさん     1  最近、知人のすすめで小林善彦氏の『パリの日本館だより』(昭54・5、中公新書)という本を読んだ。小林氏は同書掲載の略歴によると、昭和二年(一九二七)のお生まれで、東京大学文学部仏文科のご出身、昭和五十一年(一九七六)から二年間、〈パリ大学国際都市にある日本館の館長〉を勤められ、現在東京大学教養学部教授をしておられる方である。  パリの日本館についての詳しい説明は同書にゆずるが、パリの大学都市にある三十いくつかの各国館の一つで、昭和四年(一九二九)、薩摩治郎八が当時の金額で三百五十万フランを寄付して作った鉄筋七階建ての学館である。同書によると、〈周囲には広く日本式の庭園をめぐらし、一階にはピアノをそなえた大きなサロンと広い廊下、図書館があり、二階より上には事務室と留学生のための個室六十五がある〉と紹介されているが、〈日本館ではだいぶ前から薩摩氏の援助が不可能となり、それ以来もっぱら日本の外務省が、毎年相当額の援助金を出して維持を助けている。なお、フランス政府は近年まったく援助をしていない〉と憂慮している。  もしそれが事実とすれば、きわめて残念なことであるが、この日本館そのものが、幕末以来、われわれ日本人が西欧文明に傾倒し、〈花の都〉パリにあこがれた歴史の記念碑ともいうべき存在であった。したがって、その日本館について書くことも幕末から現在に至る日仏文化の交流史に深く関わることになるであろうが、わたくしがいまここで書こうとしているのはその日本館についてではない。  わたくしが知人とこの本について話題としたのは、小林氏が日本館長をしておられた時代のパリが、その二十年ほどむかしに小林氏が留学生としてパリにおられた時代にくらべると、治安が悪くなったと書いておられることについてであった。  小林氏はこう書いておられる。—— 〈近頃のパリの治安の悪いこと、これはやはり人間の心の変化の結果ではなかろうか。「花のパリ」とかいう、フランス語にはまったく存在しない、日本的なうたい文句に誘われてやって来た旅行者、観光客はもちろん、長期滞在者の中にも、(中略)「盗まれた」「かっぱらわれた」「こわい人たちに囲まれてとられた」という経験を持っている人が実に多いのには驚かされる。  パリの大体のアパルトマンでは、ドアに四つも五つもかんぬきをかけているのが普通である。いうまでもなく、空巣、強盗に対する防衛のためである。それでも最近は、電気のこぎりを持って来て、ドアをくり抜く泥棒がいるそうで、それを防ぐために気のきいた家では、入口の扉の裏に鉄板をはっているのを見たことがある。実際わたしの身のまわりの人たちが、つぎつぎに盗難にあったり、地下鉄の中でズボンのポケットを切られたりした話を聞くと、東京では感じたこともない一種の緊張感を感ぜざるをえない。今のところ、いきなりガツンと頭をなぐられたという話が比較的少ないのが、ニューヨークとの差であろうか〉  われわれは最近のアメリカ映画やテレビのドキュメンタリー・フィルム、ときにはアメリカから帰った日本人の旅行談などで、アメリカの大都会の物騒なさまを見聞する機会が多くなったが、小林氏の本によると、ニューヨークほどではないにしても、パリも年々物騒になりつつあることが知られる。そして小林氏はこれに引きくらべて日本の治安にも触れ、〈それはそれとして、いずれにせよ日本というのは、恐ろしく治安のよい国であって、日本の警察は盗難に対してまじめに対応してくれる、たぶん世界で唯一の警察であることを、日本人はもっと知っておいた方がよかろうと思う〉と述べておられるのだ。  わたくしは知人からこの話を聞き、さっそく小林氏の本を読んだわけだが、それを読みながら、かつて読んだ栗本|鋤雲《じようん》の『暁窓追録』という回想録の一節を思い出していた。     2  これはかつて「警察を支えるもの」という随筆の中でいささか触れたことがあるが、幕末の日本人が西洋文明に接触したときのカルチャー・ショックの一面をあらわす面白い話だと思うので、もう一度紹介してみたい。  かつてNHKテレビの大河ドラマで「獅子の時代」という幕末から明治にかけての歴史ドラマが放映されたが、その冒頭は慶応三年(一八六七)にパリで開催された万国博覧会における日本の幕府と薩摩藩の葛藤からはじまっていたと記憶する。  このパリの万国博覧会に日本から出品物係りとして渡仏した一人の日本人商人がいた。長崎会所の手代をしていた佐兵衛という男で、この佐兵衛さん、ある晩、パリで道に迷った。もちろん、フランス語はしゃべれず、困りはてていたとき、たまたま一人の〈ポリス〉に出遇った。そこで佐兵衛さんはたった一つだけ覚えていた「リュ・ガリレー(ガリレー通り)」というホテルの住所を繰り返しながら、そこに行く道筋を教えてほしいと、身振り入りで訴えた。するとそのポリスはうなずいて、親切にも佐兵衛のホテルまで案内してくれたのである。感激した佐兵衛が、部屋で酒を一杯のんで行ってください、と手真似で申し出ると、ポリスはにっこり笑って立ち去った。  後日、佐兵衛は日本語のわかるフランス人にその話をし、「何もお礼をせずにかえしたのは失礼ではなかったか」とたずねると、「それがポリスの職分だから、それほど有難がる必要はないでしょう。ましてそのポリスが酒の饗応を受ける理由はありません」と答えたので、佐兵衛はますます感心した。  じっさいのところ、当時の日本においては、百姓や町人が与力・同心に道をたずねるなどということは夢にも考えられず、ときには土下座さえしなければならなかった時代であることを思うと、パリのポリスの親切は、とくに言葉の通じない外国人をホテルまで送ってくれたという事実は、佐兵衛にとっては、感謝とか感激というよりは、驚きといったほうがよいほどの強い印象を与えられたにちがいない。  この驚きは佐兵衛だけのものではなかった。この話を佐兵衛からきいた栗本鋤雲にとっても、同じ驚きだったにちがいない。  当時、小栗上野介の下で外国奉行のほかに勘定奉行格・箱館奉行を兼任していた鋤雲は、パリ万国博覧会に派遣された徳川昭武の一行が現地で内紛を生じ、同行したメルメ・カションの排斥運動にまで発展し、日仏間の提携にひびが入ったのを憂えて、その調整のために渡仏していたのである。  鋤雲はそこで西欧文明の発達ぶりを実際に目撃した。とくに司法・警察制度の先進性には脱帽せざるをえなかった。鋤雲は『暁窓追録』の中で「ナポレオン法典」の存在に触れ、その内容の概略を報告し、日本語に翻訳することを緊急の仕事と考えていたことを明らかにしている。  同書中、鋤雲は〈ポリス〉について次のように描写している。—— 〈「ポリス」は市中|巡邏《じゆんら》の小官なり。陸軍兵士中の謹飭《きんちよく》な者を撰用すと云ふ。遠山形《とおやまがた》の帽子、蝉翼様《せんよくよう》(せみのはねのような、の意)の外套にして、腰間に鉄鞘刀《てつしようとう》を佩《お》べり。人|一目《いちもく》して其「ポリス」なることを知るべし。其数貳千人に及ぶと云ふ。常に市街中に満布《まんぷ》し、大雨烈風と雖《いえど》も屹立《きつりつ》して|不[#レ]動《うごかず》、或は逐処《ちくしよ》に徘徊《はいかい》し、以て非常を警《いまし》む。劇場観場の門口は言ふに|不[#レ]及《およばず》、郊外園囿《こうがいえんゆう》と云へども稠人広衆《ちゆうじんこうしゆう》の区には必ず数員出張し、車馬|麕集《くんしゆう》の衢《ちまた》、傍行側出《ぼうこうそくしゆつ》、来去織《らいきよお》る如《ごと》くなれども、能《よ》く条分科別《じようぶんかべつ》し、觝触《ていしよく》(ふれさわる、の意)に至らざらしめ、老少是に頼りて|※[#「足+昔」、unicode8E16]跌《せきてつ》(つまずく、の意)なし。真に無かる可からざるの職なり〉  こうして佐兵衛の体験したエピソードを紹介しているわけだが、鋤雲にとってはパリは次のような別天地であった。—— 〈予|巴里《パリ》に在る、秋より冬を経て夏に渉《わた》る、九月《ここのつき》の久《ひさしき》に至れり。其間《そのかん》家に蚤蚊鼠噛《そうぶんそこう》の患《かん》なく、途に|酔※[#「酉+凶」、unicode9157]盗偸《すいきようとうちゆう》争闘高歌の喧《けん》なく、且《かつ》火災地震なし。真に楽土楽邦と称すべし〉  これこそパラダイスだ、というのである。この〈楽土楽邦〉という羨望の念が、単に鋤雲ひとりのものではなく、当然、このときパリで幕臣たちと対立していた薩摩藩士たちのそれででもあった。大きくいって、この羨望憧憬の念は、西欧文明の洗礼を受けた日本知識人全体のその後の方向を決定づけた西欧心酔の心理的源泉である。  明治五年(一八七二)九月、新政府は大警視|川路利良《かわじとしよし》を欧州に派遣した。鈴木蘆堂著『大警視川路利良君伝』(大1・12、東陽堂)によれば、〈西郷隆盛の推薦に依り命を奉じて欧州に航し、各国の警察制度を攻究し、其実況を視察す〉とある。そして翌六年(一八七三)九月、帰朝ののち、その建白書の中で、—— 〈臣|至愚且《しぐかつ》西洋ノ文語ニ通ゼズ、全ク通弁ノ助ケニ依ルモノニシテ、得ル所実ニ尠《すくな》シ。然レ共|曾《かつ》テ事ニ与《あずか》リシ故ニ、彼《かれ》ノ長ヲ見、我《われ》ノ短ヲ知ル処アリ。職掌ノ万一ニ充《あ》テンコトヲ欲シ、敢テ条列シテ左ニ建言ス〉  と述べているが、その内容の中心がフランスの警察制度だったことがしられる。この事実は高橋雄豺氏著『明治年代の警察部長—明治警察史研究』(昭51・7、良書普及会)に収められた川路利良の「泰西見聞誌」という、当時の視察メモの内容とも合致する。  現在、世界に誇るに足ると小林善彦氏もいっておられる日本の警察制度が、幕末維新期においてフランスにあこがれた先人たちの研究学習の結果であることを思えば、歴史の流れの速さをもっとわれわれは認識する必要があろう。そしてわれわれは先進文明から学びとったものによって現在の平和と繁栄を享受している事実と、その先進文明そのものがすでに荒廃の一面を露呈している事実をじっくりと考え、文明の盛衰興亡に思いをいたし、人間の歴史が無言のうちに啓示している教訓の前に|謙虚に生きる《ヽヽヽヽヽヽ》ことを心がけるべきであろう。 [#改ページ] 第19話 慶喜裏切る     1  慶応二年(一八六六)七月二十日、十四代将軍徳川|家茂《いえもち》が大坂城で死んだとき、海舟勝麟太郎は号哭《ごうこく》し、長大嘆息した。  家茂、数え二十一歳。海舟、四十四歳。年齢的には親子ほどの開きがあったが、海舟は家茂にたいして実の弟にたいする兄のような親愛感をもっていた。海舟の意見に耳を傾け、何の偏見もなくその説を用いようと努力してくれた人間は、かれの接触した将軍や閣老や上司のうちで、家茂に勝る人はいなかった。この将軍のためなら命もいらぬ、という気持になったこともたびたびであった。  ところが、家茂の跡を継いだ十五代将軍|慶喜《よしのぶ》とは、考えがいつも食い違って、ギクシャクした関係がつづいた。幕府瓦解にさいしては、いわば〈終戦処理内閣〉の責任者となって慶喜に〈絶対恭順〉劇を演じさせ、それによって慶喜の四十五年にわたる後半生を保証してやったほどの忠誠《ヽヽ》・|親密な《ヽヽヽ》関係からみれば、一見、奇異な、とみえるほど、極めて波瀾に富んだ|からみあい《ヽヽヽヽヽ》だったといってよいだろう。海舟の〈徳川家〉への忠誠心は家茂によって培《つちか》われ、慶喜への献身は、心ならずも深みにはまった、といった観がある。  二人のギクシャクした関係は、そのほとんどが慶喜の〈裏切り〉によって表面化したように思われる。いちばん最初の裏切りは長州再征停戦問題であろう。  家茂の死後、将軍職は固辞しながらも、とにかく徳川宗家第十五代当主となった慶喜の最初の仕事は、長州再征の解決であった。  慶喜は幕府内部における自分の不人気を知っていた。したがって幕閣内や大奥における自分の不人気や、御三家親藩などの反慶喜的感情を抑えこむためには、自分が家茂の跡を嗣《つ》がなければいかに幕府自体が困るかという現実を徳川家全体に認識させる必要があった。そしていやだいやだと言いながらむりやり酒を飲まされる〈ねじあげの酒飲み〉みたいに、十分ねじあげられて、ということは反慶喜派を十分困らせたうえで、徳川宗家だけは嗣いだ。そのとき慶喜は、—— 「将軍|宣下《せんげ》は思う仔細があって辞退するが、〈我が意の如く弊政を改革して差支《さしつかえ》なからんには〉、宗家を相続することだけは承諾しよう」  といっている(『徳川慶喜公伝』)。つまり、「自分の考え通りに幕政を改革して差支えないなら」という条件をつけて宗家を嗣いだわけである。これは幕府内部における独裁権の要求である。そしてそれは慶喜にとっては、やがて将軍職に就くための第一段階だった。  慶喜が将軍職を固辞しつづけたのは、全国の大名に慶喜の将軍たるべき必然性を確認させ、かれらの推戴によって将軍職就任をかちえようという魂胆があったからである。そのためには第二次長州征伐の緒戦において連戦連敗している幕府軍を、慶喜みずから指揮して勝利に導くことが最善の道であった。それが実現すれば、将軍職における慶喜の評価は絶対的なものになるだろう。慶喜はそれをねらっていた。  したがって慶喜は老中板倉|勝静《かつきよ》に徳川宗家相続の内諾を与えた翌日の七月二十八日、将軍家茂の名をもって天皇に上奏し(家茂はまだ公けには死んだことにはなっていない)、—— 〈臣が病患危きに至らば、家族慶喜をして相続せしめ、且《か》つ征長の軍務は急を要するを以て、慶喜を名代《みようだい》として出陣せしめん〉  と、長州再征への〈名代出陣〉を乞うて、翌二十九日、それが勅許された。慶喜はただちに長州への〈大討込《おおうちこ》み〉を宣言し、天皇へのお暇乞《いとまご》いに参内《さんだい》し、節刀まで頂戴して退廷したが、出発予定日の八月十二日の前日、小倉落城の情報が入ると、突然、出陣を中止して、天皇以下、幕府の内外を唖然とさせた。  慶喜のもくろみは画餅《がべい》に帰し、将軍職就任は遠のいた。そして、いかに長州征伐を停戦に持ち込むかという難問だけが残った。  ここで勝海舟の起用となるのである。  その頃、松平春嶽が老中板倉勝静に時局打開について相談を受けたので、勝海舟の起用を勧めたところが、板倉は「勝は橋公《きようこう》(一橋慶喜公)が殊の外嫌っておられるので」といって、その案を斥けた、という話が『続再夢記事』に載っている。それほど嫌われている勝が突然慶喜から呼出しを受けて大坂から京都に赴き、八月十六日、慶喜に謁見すると、慶喜は「天朝でもぜひお前の外に無いとおっしゃるから」などとお世辞をいって、「長州に談判に行ってくれ」とのことであった。停戦交渉の密使である。  そこで海舟は停戦の条件として、慶喜がこのたび徳川宗家を相続したからには、万事御一新を目指し、大政を朝廷に返上し、雄藩諸侯の公論衆議によって今後の問題を解決してゆくことを約束させ、これを「奉使心得」として書面に作成し、慶喜の〈見込之趣《みこみのおもむき》、 |尤に《もつともぞ》|存 候 間《んじそうろうあいだ》、十分|取 計《とりはからい》|可 申 事《もうすべきこと》〉という直書《じきしよ》と署名までもらって(「解難録」)、八月十九日、大坂を出発、翌二十日、兵庫から船で会談予定地の広島へ向った。  その八月二十日、幕府は将軍家茂の喪《も》を発し、慶喜が徳川宗家を相続したことを発表した。     2  ところが、翌八月二十一日、慶喜は海舟のルートとは別に朝廷に願い出て、休戦命令の勅書を出してもらった。  その内容は「このたびの将軍|薨去《こうきよ》により、上下の哀情を察し、暫《しばら》く兵事を見合わすべしと沙汰せらる」というもので、「長藩にても早々隣境侵掠の地を引き払うよう取り計らうべし」と命ぜられていた。そこには海舟の「奉使心得」で停戦条件として長州藩に提示することを約束したはずの大政返上論はもちろん、今後の幕政一新による諸大名との公議衆論についてもなんら触れておらず、極めて高圧的な姿勢で長州藩の軍事撤退を命じていた。これでは長州藩が応ずるはずはなかったし、それが長州藩に達せられたならば、海舟の交渉は吹きとんでしまい、海舟の生命すら保証できないことは明らかであった。慶喜はそれを知りながらもあえて海舟を死地に送り、時間かせぎに使ったにすぎないことがはっきりした。  この勅旨が広島に届いたのは八月二十六日であった。幕府と長州藩の斡旋にあたっていた芸州藩家老の辻将曹《つじしようそう》はこれを読んで、「これでは到底長州藩に持って行くわけにはいかない。少なくともこの〈侵掠〉の二字を改めてほしい」と、広島に滞陣中の幕府征長軍先鋒総督紀伊|茂承《もちつぐ》と副督の老中水野出羽守|忠誠《ただのぶ》(駿河沼津藩主)に申し入れたが、「自分たちだけの一存ではむずかしい」と断わられた。困りはてた辻は、三十日、宮島にいる海舟を訪ね、その経緯を報告した。  つまり、海舟は九月二日に行われた長州藩士広沢|兵助《ひようすけ》(のちの真臣《さねおみ》)や井上|聞多《もんた》(馨)たちとの停戦交渉にあたって、すでに朝廷からそのような勅命書の出ていることを知りながらも、それを知らぬふりをして、自分の初志に従って交渉を進めたわけである。海舟の外交的手腕というべきであろう。  会談の席上における長州側の発言は、いままでの幕府の態度の信用できなかったことを楯にして、理路整然としていた。海舟としては、今後の幕府の進むべき路線を信用させること以外に取引の条件はなかった。長州側は十分に納得したわけではなかったが、とにかく休戦に応じ、幕府軍撤退のさいは追撃しないという要求に同意した。勝は差し当っての任務は果たしえたとみて、会談を終った。  会談の翌日、海舟は早船を仕立てて大坂に帰り、さらに早駕籠をとばして、九月十日夜、京都に入り、慶喜に面謁しようとしたが果たせず、十一日にようやく面談して、〈御直《おじき》に、長州の情実、転末《てんまつ》言上〉、十二日には〈長州情実の細事を書して呈上〉と「海舟日記」にある(ただし、これは勁草書房版『勝海舟全集』に拠ったもので、改造社版や講談社版の全集には収録されていない)。  このとき慶喜とどんな話合いがあったかは不明である。ただ、十三日、〈我が微力にして、当節の大任に当るべからざるを述べ、退職|願書《ねがいしよ》を差上《さしあぐ》〉とあるのは、海舟が慶喜を見限ったことを物語るとみてよいだろう。海舟が広島から大急ぎで帰ったのは、慶喜の路線変更を要請するためだったと思われる。しかし、それは全然受け付けられなかった。  この辺の事情を、後年、海舟は次のように語っている。 〈(広島から)帰つてみると、留守のうちに一体の様子はがらりと一変して居つて、わざ/\宮島まで談判に行つたおれの苦心も、何の役にも立たなかつた〉(『氷川清話』)〈ソレに帰つて見ると、宿屋もない、モウ冷淡な扱ひで、ひどいものだよ。慶喜は、モウ将軍職で、君臣の格だらう。ソレニ、原市(原市之進)などが付いて居て、ワシが大嫌ひだからネ〉(『海舟語録』) 〈しかしもしこの時の始末がおれの口から世間へ漏れようものなら、それこそ幕府の威信は全くなくなつてしまふと思つて、おれは謹んで秘密を守つて辞職を願ひ出た。するとある老中(板倉勝静)が中へはいつて周旋してくれたために、軍艦操練専務の役でもつて、たうとう江戸へ帰ることになつた。しかしこれがために幕府の命脈もちやうど一年延びた勘定だ。  こんな風で、表面は長州の人を売つた姿になつたのだけれど、いくら怨まれても仕方がない。跡からかれこれ言ひわけなどをするのはおれの流儀でないからサ〉(『氷川清話』)  はたして長州藩は休戦の勅命書を突き返してよこした。幕府もその処置に窮し、ついにはうやむやになったが、幕威の失墜だけは蔽《おお》いようがなかった。そして慶喜と海舟のギクシャクした関係は、これからも続くのである。 [#改ページ] 第20話 真犯人を追う     1  幕末に三条|実美《さねとみ》の衛士《えじ》をしていた尾崎|三良《さぶろう》の自叙伝によると、慶応三年(一八六七)十月九日、当時戸田|雅楽《うた》と名乗っていた尾崎は坂本龍馬とともに京都へ入り、そのころ龍馬が定宿としていた河原町四条上ル醤油商近江屋新助方に投宿した。尾崎の回想によると、—— 〈其時坂本等の評判が高くなり、其頃散じ紙の新聞様のものを時々発行する事がある。それを見ると、今度坂本龍馬が海援隊の壮士三百人をつれて上つたと書いてある。実際は我々|瘠士《せきし》が僅か五、六人であると大いに笑ひたり。然るに坂本の知人より忠告して、君等に幕府方で目を付けてるからあぶないと云ふ者もあり、云々〉  というのである。坂本龍馬の動きが幕吏の眼には誇大に映っていたわけだ。  前年(慶応二年)一月二十三日夜、龍馬は伏見寺田屋で伏見奉行の配下に襲われたと高杉晋作から贈られた六連発のピストル(このときは五発装填されていた)で捕吏二人を射殺していた。それが幕府側の龍馬を探索する理由であった。それに倒幕を画策する中心人物といううわさは十分に滲透していた。  したがって龍馬を追う幕吏の眼は厳しく、慶応三年七月ごろに龍馬がそれまで定宿としていた河原町三条下ル車道《くるまみち》の材木商|酢屋《すや》から近江屋に移ったのも、そのためである。  ところがこの年の十月十五日、〈大政奉還〉が実現し、幕府は瓦解した。とすると、それまでの幕府の監察方というものはもはや龍馬を逮捕する資格を失ったわけである。しかし、現実はどうであったか。  大政奉還により幕府は公的には存在しなかったというべきだが、大政を奉還された朝廷側は現実には政治を行う体制を持っておらず、将軍慶喜にたいして「諸大名が参集して会同が行われるまでは、将軍の職務は|従来の如く《ヽヽヽヽヽ》心得(こころう)べし」という沙汰書が出ており、さらに京都守護職の会津藩主松平|容保《かたもり》には将軍慶喜から「追て相達《あいたつ》するまでは、是《これ》までの通りに心得べし」という指令が出ていた。したがって京都守護職配下の新選組や見廻組、また町奉行所などが、いままで通り京都の治安維持に当っていた。  いうならば、龍馬の逮捕(そのなかには、もし反抗すればこれを切り捨てることも許容されている)は〈警官射殺犯人〉にたいする公務の執行という意味をまだ持ちうる状況下にあったのである。そのため龍馬を〈大政奉還〉——つまり倒幕の陰の演出者として幕府側が殺害するには、それが〈公務〉たりうる状況下に行われる必要があったことは確かである。しかし、その公務《ヽヽ》の執行ぶりは、それを行なった方法や、それが龍馬ひとりでなく、たまたま現場に居合わせた中岡慎太郎まで巻添えにしたこと、さらにその執行者がだれかはっきりしなかったことなどから、〈暗殺〉という印象が極めて強い結果となった。  事件は〈大政奉還〉からちょうど一カ月後の十一月十五日、夜の九時頃に起きた。殺害されたのは坂本龍馬と中岡慎太郎、それに龍馬の下僕をしていた藤吉の三人である。藤吉は雲井龍という四股名《しこな》の相撲取りであった。  このときの土佐藩側の資料をもとにして作られた平尾道雄著の『龍馬のすべて』(昭41・5、久保書店)によると、この事件が近江屋の家人たちによって発見され、土佐藩邸から谷守部(干城)や、陸援隊から田中顕助(光顕)らが駈けつけたときは、龍馬はすでに絶命し、中岡は重傷だったが気は確かだった、とある。そして六カ所の傷を受けた下僕の藤吉は翌十六日の夕刻に死に、中岡は一時は元気をとりもどして握り飯などを所望したが、しだいに嘔《は》き気を催し、十七日の夕刻に息を引きとった。したがって龍馬たちが襲われた状況については、谷や田中が意識をとりもどした|中岡から聞いた《ヽヽヽヽヽヽヽ》という話が中核をなしている。藤吉はすでに虫の息だったので、その報告は残っていない。  中岡は自分がだれに襲われたかわからなかった。したがって土佐藩側としては、刺客の割出しに苦心した。しかし、中岡の判断では〈之はどうしても人を散々斬つて居る新選組の者だらう〉(明治39年、坂本・中岡両先生四十年追弔会における谷干城講演)ということで、この中岡の推測がその後の土佐藩の人々の意識を強く縛ってしまった気配がある。  たまたま龍馬たちが殺された三日後の十八日夜、京都七条|油小路《あぶらのこうじ》で新選組から分離した高台寺党の党首の伊東|甲子太郎《かしたろう》が新選組の闇討ちに遇い、その屍骸を引き取りにきた高台寺党の党員たちも待ち受けていた新選組に襲われて、三人が闘死するという事件が起きたことも、土佐藩の人々の新選組真犯人という意識を強化した。  しかも、近江屋から犯人の遺留品と覚しい刀の鞘《さや》と、瓢亭の焼印のある下駄一足とが発見され、刀の鞘《さや》のほうは谷守部と毛利恭助が薩摩の中村半次郎(桐野利秋)と一緒に当時伏見の薩摩屋敷に潜伏していた高台寺党の篠原泰之進たちに鑑定させると、「新選組の原田左之助の鞘と思う」という返事であり、また下駄のほうは南禅寺と先斗町《ぽんとちよう》のどちらかの瓢亭のものだろうというので、事件の翌日の十六日、近江屋新助が当ってみると、先斗町の瓢亭で「ゆうべ新選組のお方に貸しました」という答えをえていた。  さらにこの思い込みを強めたのは、犯人が中岡に斬りつけたとき「コナクソ」ということばを発したという中岡の証言である。これは四国人がよく使うが、土佐の者にはそのころ龍馬や中岡を斬ろうとしていた者はいないはずだし、そこへ行くと原田左之助はもと松山藩士だし、「コナクソ」は伊予(愛媛県)では普通のことばだということで、ついに真犯人は新選組の、しかも中岡に斬りつけたのは原田左之助だ、という結論を土佐藩側は導き出したのである。     2  この土佐藩の思い込みは極めて強かった。そしてその新選組のうしろには、龍馬が大洲《おおず》藩から借りたいろは丸に衝突してこれを沈没させた紀州藩船明光丸との訴訟で、紀州藩から多額の賠償金を奪ったことを怨みに思っている紀州藩公用人三浦休太郎(のちの貴族院議員三浦安)がいるということで、十二月七日に三浦の止宿している油小路花屋町下ル天満屋惣兵衛方を、海援隊の陸奥源二郎(宗光)や十津川郷士中井庄五郎ら総勢十六名が夜襲し、三浦を警護していた新選組と激闘が展開されるという事件が起きている。  また、翌慶応四年(一八六八)になり、新選組隊長近藤勇が下総流山《しもうさながれやま》で新政府軍に投降して来たのを、多くの寛典論を押し切って、四月二十五日、板橋の刑場で斬首の刑に処したのには、土佐藩大軍監谷守部の龍馬の仇討という気持から出た強い主張があずかって力があった、といわれている。  龍馬暗殺の真犯人は新選組ではなく、京都見廻組の佐々木唯三郎、今井信郎《いまいのぶお》ら七名の仕業である、という説が一般の話題となったのは、明治三十三年五月、「近畿評論」という雑誌に「今井信郎氏実歴談・坂本龍馬殺害者」という記事が掲載され、さらに明治三十九年十一月十五日、京都|霊山《りようぜん》招魂場で行われた龍馬と中岡の四十年追弔会で、谷干城が今井信郎真犯人説を真正面から反駁し、今井を〈売名の徒〉とまで非難する大演説を行なったときからである。  これには明治三十七年(一九〇四)二月、日露開戦前夜に皇后陛下(昭憲皇太后)が葉山御用邸で坂本龍馬の夢をみ、龍馬がその夢の中で「誓って皇国のために帝国海軍を護ります」と奏上したという記事が新聞を賑わしたことと無縁ではないようである。このニュースにより龍馬の名が世人の新たな関心を呼ぶようになったからである。  この谷干城講演を機として、〈箱館降伏人〉今井信郎がすでに明治三年二月(今井三十歳)に兵部《ひようぶ》省および刑部《ぎようぶ》省で龍馬暗殺に関する口書《くちがき》をとられていることが明らかになり、いままでの被害者側だけの資料に加えて、加害者側の資料への関心も強まるようになって来た。  このときの口書では、見廻組に属する渡辺吉太郎・高橋安次郎・柳|隼之助《はやのすけ》の三人が二階へ上り、与頭《くみがしら》の佐々木唯三郎は二階への上り口に、今井と土肥仲蔵・桜井大三郎の三人は〈其辺ニ見張〉していたということであったが、それが次第に龍馬に直接手を下したのは今井信郎ではないかという説に変って来る。  たとえば大正三年九月十三日の『史談会速記録』では、宮内省の殉難録編纂掛をしていた外崎覚という人の談話で、〈今申す如く、大鳥圭助(介)さんは確かな者から聞いて居る。今井信郎に相違ないと確信して居ります。さういふ調査の結果殉難録にもそれに依て書いたのでありますが、兎にも角にも坂本龍馬といふ様な偉人が今井信郎といふ名も分らぬ様な一人の乱暴なる撃剣家の為に、あれ程の人が生命を奪はれたことは実に残念と思ひます〉と述べている。しかし、この説が定着するまでにはなかなか時間がかかった。  大正六年六月に刊行された『徳川慶喜公伝』では、新選組説の外に今井信郎説を挙げて〈|尚 疑《なおうたがい》あり〉としており、大正十五年刊の岩崎鏡川編著『坂本龍馬関係文書第二』の中の「坂本と中岡の死」という論考では、今井信郎説を斥け、明治三年の兵部省・刑部省口書の線を認めるに過ぎなかった。もっとも、岩崎鏡川は土佐の出身であり、したがって土佐藩側の見解に見廻組真犯人説を採用したことは大きな前進だったというべきである。  この今井信郎下手人説については、昭和四十一年五月に刊行された平尾道雄著『龍馬のすべて』でさえも、まだ全面的には肯定していない気配がみられる。それを全面的に主張したのは、信郎の孫にあたる今井幸彦著『坂本龍馬を斬った男』(昭46・12、新人物往来社)であった。  この書は幕臣今井信郎の生涯を描いた伝記で、いままで土佐藩側の、いわば被害者側の資料に重点がおかれていた龍馬殺害事件の研究に、新たに加害者側の資料を提供して、事件の真相を再検証しようとした労作である。  宮地佐一郎氏の編集・解説になる大著『坂本龍馬全集』全一巻(監修平尾道雄、昭55・2、増補改訂版、光風社出版)の傍にこの『坂本龍馬を斬った男』を置き、龍馬暗殺の現場を再構成してみるのも、維新史研究には無駄な試みではないと思われる。 [#改ページ] 第21話 文藝春秋界隈     1  福島市の一陽会病院長寺山晃一氏から一通の複写コピーが送られて来たのは、昨年(昭和59年)の二月下旬であった。寺山君はわたくしの旧制高校以来の友人である。同封の手紙に〈「脳」という昭和初期の精神衛生雑誌のバックナンバーを入手しましたところ、「浅右衛門の研究」というのが目に入りました〉とあり、昭和十年十月号と十一月号の「脳」という変った名前の雑誌に連載された「首斬浅右衛門の研究」という講演筆記のコピーであった。拙著『斬(ざん)』に関係する文献として贈ってくれたもので、わたくしには初見の文献であった。  講師は望月茂という人で、その名を見たとき、わたしくは「あッ」と思った。すぐに書棚から『斬』を取り出し、かつてわたくしが東京・池袋三丁目の曹洞宗瑞鳳山祥雲寺にある「浅右衛門之碑」という山田家顕彰碑を訪れたときのことを書いた部分を開いてみた。  予期した通り、それは昭和十三年十一月に建立《こんりゆう》された「浅右衛門之碑」に、その建碑発起人として彫り込まれている名前の一つであった。  ちなみに、この建碑発起人には八人の名が列記されているが、そのうちの五人、つまり鴇田《ときた》恵吉・玉林繁・篠田鉱造・永島孫一、それに望月茂の五氏は、熱心な浅右衛門研究家であった。この五人の研究により、それまで伝説的側面の極めて濃厚だった山田浅右衛門家がはじめて現実性を獲得できるようになったのである。いうならば、わたくしの『斬』という作品が成立しえたのも、まず最初にこれら五人の研究家の実績があったお蔭である、といってよいわけだ。  この講演の内容は、大筋としては、かつて『斬』執筆のためにわたくしの集めた山田浅右衛門家に関する知識にとくに新しい視野を提供するものではなかったが、こまかな挿話などにわたくしの知らぬ話もあったりして、なかなか興味ある読物だった。  たとえば、幕末から明治初年頃の山田家は平河町一丁目と麹町八丁目(現在の五丁目)とにそれぞれ屋敷があったが、望月茂は平河町の山田家の隣りに住んでいた三平作太郎という人に昭和八年に初めて会い、山田家の事情をつぶさに聞いたという。 〈当時、三平氏は五十年輩でありました。此の三平家は、旧幕当時、諸大名出入の人夫元締をして居つた尾張屋留吉の後であります。丸に二の字を染出した半纒《はんてん》は、其頃人足仲間では羽振《はぶり》をきかせたもので、新門《しんもん》一家と並び称せられてゐた。のみならず、上野の戦争には、炊出《たきだ》し方《かた》を承つて居たのであります。尾張屋は、全盛の頃は、麹町一丁目に本宅があり、平河町、元園町に別宅があり、麹町八丁目に隠居所があつたといふことで、三平氏が育つた頃は、明治初年のことで、平河町の家であります〉  三平作太郎が昭和八年(一九三三)に〈五十年輩〉で、子供の頃が〈明治初年〉というのは、いささか印象を不明確にさせる。むしろ〈六十年輩〉といってもらったほうが、明治初年頃の話にピッタりする。また、わたくしの調べた山田家側の家庭的事情にも適合するように思われる。  まァ、それはともかく、望月が三平から聞いた話の一つを紹介すると、—— 〈浅右衛門の麹町の屋敷では、弟子達に此の首打《くびうち》の稽古をさせたものです。庭先きへ厚い菰《こも》を敷いて、丁度人間の座つた位《くらい》な大きさの藁人形《わらにんぎよう》を据ゑて、その外はもう何もかも、本格にかまへて此の人形の首を切るのですが、左側にハンド桶《おけ》(はんどう桶?)といつて、深《ふかさ》八寸位(二十四センチ強)の水桶があつて、その中に万年《まんねん》| 杓《びしやく》を入れておきます。弟子達は、襷《たすき》をかけ、鉢巻をして、刀をぬいて、此の万年杓で水をかけます。さうして二度振つて露を切つて、御法通りに大上段にかまへる。エイツといふ掛声と共に、人形の首を切るのです。その芯《しん》には銅の針金が入つてゐたさうで、首をコロリと前へ落して了つてはいけない。皮一枚をのこして後(前?)へぶら下げなければならぬのださうですが、藁では四五本のこさなければならないのです。その掛声が素晴しいもので、清水谷《しみずだに》の高い土手の下の道を通つてゐてさへも、ギヨツとする程にひゞいて聞えた。此の稽古場には、絶対に人を入れない。子供でも何でも追出されることになつてゐる。往来の方では、高い土手を這上つてきて、垣根の隙からこれをのぞいてゐたりすると、中からハンド桶の水をかけられて土手をころげ落たりしたものだと、三平氏が語つて居ります〉     2  この話でわたくしがいちばん興味を惹かれたのは、麹町の表通りで発した掛声が、清水谷の下の道を通っている人をギョッとさせるほどひびいて聞えた、という事実である。  清水谷の下の道といえば、赤坂見附の傍の現在の弁慶橋からホテルニューオータニ新館と清水谷公園のあいだを通る道であろう。この道は喰違見附《くいちがいみつけ》から下りてきた紀尾井坂と、その反対側の、文藝春秋(千代田区紀尾井町三—二三)の横(北側)を下りてきた清水谷坂、それに麹町六丁目の郵便局の角から第31森ビル(道路公団)の前へ下りてきた坂と、いびつながら十字路を作っている。そのいちばん低い地点まで山田家の門弟たちの掛声が聞えたのであろう。当時のこの辺の閑静さがしのばれる。  なお、幕末の切絵図によると、嘉永二年の「永田町絵図」(近江屋板)では、麹町八丁目(現在の五丁目の弘済会館とヤマトビルの間)から下りてきた坂に〈里俗ニシミヅ谷ト云《いう》〉とあり、嘉永三年の「麹町永田町外桜田絵図」(尾張屋板)では、麹町九丁目(現六丁目)から下りてきた坂に〈シミヅダニ〉とある。おそらく当時は、現在の清水谷公園付近一帯を総称して(紀尾井坂も含めて)、清水谷といっていたのであろう。じっさい、『江戸名所|図会《ずえ》』では紀尾井坂を〈清水坂〉といっている。〈紀尾井坂〉という呼称が、この坂をはさんで紀《ヽ》州藩邸、尾《ヽ》州藩邸、それに井《ヽ》伊家中屋敷があり、その頭文字をとったということは、よく知られている。現在、清水谷公園の前に、むかしは清冽な清水が湧いていたという井戸が遺っている。  紀尾井坂を登り切ったところの喰違見附といえば、明治七年(一八七四)一月十四日午後八時過ぎ、表霞ヶ関の自邸へ帰ろうとしていた右大臣岩倉|具視《ともみ》の馬車が一群の刺客団に襲われ、岩倉は軽傷を負ったが馬車から飛び降りて傍の真田濠《さなだぼり》に転落、暗い水中の岩にしがみついて危うく難をまぬがれた。  また、明治十一年(一八七八)五月十四日、二頭立ての馬車で裏霞ヶ関三年町の自宅を出た参議兼内務卿大久保利通が、午前八時半頃、紀尾井坂に登る手前、旧紀州藩邸(当時は北白川宮邸)と旧井伊家中屋敷(当時は華族|壬生《みぶ》邸)のあいだ、つまり現在の清水谷公園とホテルニューオータニのあいだまで来たとき、一団の刺客に襲われ、見るも無残な死に方をした。現在、清水谷公園内に大久保の哀悼碑が建っていることは周知のところである。  岩倉を襲った武市熊吉以下九名も、大久保を殺した島田一郎以下六名も、全員斬罪に処せられたが、その首を刎《は》ねたのは七代目浅右衛門山田和水の三男|吉亮《よしふさ》であった。また、なぜ岩倉や大久保のような顕官がこのような淋しい場所を通ったのかというと、明治六年五月五日、皇居(旧江戸城西ノ丸)が全焼したため、赤坂離宮(喰違見附の外にあった旧紀州藩邸が明治五年三月に離宮となった)が仮皇居となり、御座所や太政官・宮内省などがこちらに移っていたからである。  山田家の平河町の屋敷は同町一丁目の藁店《わらだな》にあったが、ここは現在の文藝春秋の前(東側)の大通りを越えて、清水谷坂の反対方向に進んで三ブロック目(平河町一丁目二番地)の中ほどではなかったかと思われる。  今回、本稿を書くために、前述した近江屋板と尾張屋板の切絵図を比較しているうちに、面白いことに気づいた。近江屋板では平河町二丁目の山元町側(現在では麹町二丁目側)の真ン中に〈山田〉とあるのに、尾張屋板では同じ道をもう一丁東に進んだ平河町一丁目に〈山田浅右エ門〉とあるのだ。  これはどうも近江屋板の誤りのようである。なぜなら、戦前の「麹町区役所除籍簿」にあった〈東京府囚獄掛斬役山田吉豊〉(和水長男、吉亮の兄)の住所は〈麹町区平河町壱丁目拾壱番屋敷居住〉となっているからだ。ただし、この除籍簿は戦災で焼失した。  この平河町の山田家の隣りに住んでいた三平作太郎は、子供の時分、山田家の〈肝蔵《きもぐら》〉に入ったそうである。—— 〈三間に二間半ぐらゐの蔵で、中には柱が少ししか建つてゐなかつた。三つの大きな甕《かめ》があつて、その上に綱を引廻し、それに丁度、茄子《なす》の干からびたやうな変なものがぶら下つてゐる。七八分から一寸ぐらゐあつて、細長くて、赤黒くて、一寸《ちよつと》青味を帯びた、実際茄子の腐つたやうな形で、それに一々紙片がついてゐた。(中略)甕の中には、脳味噌が一パイ詰つてあつた。これは油のドロ/\したやうな、油ぎつた、薄鼠色で、甘ずつばいやうな、気味のわるい匂がした。蔵の中には、外に何もない。こゝに一人|蔵番《くらばん》の爺さんがゐた丈《だけ》であります。これが、いろ/\な薬となつて、随分高価に取引されたのです〉  なんとも無気味な話であるが、試斬《ためしぎ》りの禁止ならびに人胆《じんたん》・霊天蓋《れいてんがい》(頭蓋骨)・陰茎等の密売厳禁という法令が布達されたのは明治三年(一八七〇)四月十五日であった。これを境として山田家の運命が大きく没落に傾いたことについては、拙著『斬』で詳述した。 [#改ページ] 第22話 時は流れる     1  わたくし自身の体験として、〈昭和二十年(一九四五)八月十五日〉という日は、その日の前と後とでは劃然と時代が変ったという意識をもっていまも記憶されている。しかし、このような〈歴史的瞬間〉に遭遇したという認識を日本人の大部分に与えた事件というものは、日本の歴史上、そうざらにあったとは思われない。〈明治維新〉のような劃期的な事件にしても、当時の日本人に、われわれの体験した〈終戦の日〉のように、はっきり「いつから」とその境界線を意識させたとは考えられない。  しかし、われわれが幕末から維新への歴史を好んで読む理由の一つは、この大きな政治的事件によって世の中が急激に変化して行く軌跡をたどる楽しみがあるからではあるまいか。しかも、たとえば斎藤|月岑《げつしん》の『武江《ぶこう》年表』のような年代記で〈江戸〉から〈東京〉への移り変りを客観的に眺めるのも面白いが、その移り変りの中に生きていた個人の回想記を読むのもまた、興味津々たるものがある。その人間の頭の中を、〈幕府瓦解〉から〈明治維新〉へと、どのように時間が通過して行ったか、という興味である。  わたくしが時々思い出して読む、そのような個人の記録に、塚原|渋柿《じゆうし》の「三十五年|前《ぜん》」という思い出話がある。明治三十六年一月発行の「文藝倶樂部」定期増刊号(特集「諸国年中行事」)に掲載されたもので、明治三十六年から〈三十五年前〉の、〈維新の当時、——慶応三年の暮から、翌四年、即ち明治元年に亘《わ》たる江戸の沿革《えんかく》の有様〉を〈私《わたくし》(塚原渋柿)の見た通り、否《いな》、寧《むし》ろ出遇つた儘《まま》の其儘を毫《すこ》しも作り飾らずに、小説気《しようせつぎ》を離れて御話をして見よう〉というものである。  筆者の塚原渋柿は普通〈塚原|渋柿園《じゆうしえん》〉(一八四八〔嘉永元〕—一九一七〔大正六〕)と称し、明治中期から大正の初めにかけての歴史小説家として知られる。渋柿園(本名|靖《しずむ》)の履歴については、現在、わたくしの手許に詳細な記録がないが、この「三十五年前」の記述によると、塚原家は元来江戸の大手三之御門(下乗橋《げじようばし》の奥)の勤番をしていた下級幕臣で、幕末には根来《ねごろ》百人組与力として、市谷合羽坂上《いちがやかつぱさかうえ》の組屋敷に住んでいた。  渋柿園の父は講武所の槍術世話心得取締をしていた、とある。勝海舟の『陸軍歴史』で講武所関係の記録を見ると、万延元年(一八六〇)三月三日の桜田門外の変ののち、講武所の人員を非常警備につけることになり、同年|閏《うるう》三月八日付で〈講武所泊り番〉というものが組織され、その槍術班三番|頬《ほお》の世話心得に〈塚原|重之丞《じゆうのじよう》〉という名が見える。ひょっとしたら、これが渋柿園の父かもしれない。もっとも、長谷川伸著『相楽総三とその同志』には〈塚原|市《ヽ》之丞〉とあり、そのどちらを採るべきかに迷っている。  渋柿園の父は文久三年(一八六三)三月、将軍|家茂《いえもち》の第一回上洛のお供をして京都へ上り、大坂で御徒目付《おかちめつけ》となり、その後、京都の二条|御定番《ごじようばん》与力、さらにそれが廃せられると京都見廻組に属した。こうしてみると、父は槍においては相当の遣い手だったようだ。  渋柿園自身は元治元年(一八六四)、家茂の二度目の上洛に父の名代《みようだい》として京都へ上ったこともあるが、まだ家督相続前の部屋住みの身として、その後はずうっと江戸にいたようである。そしてこの「三十五年前」は、慶応三年(一八六七)十二月二十五日の〈薩州邸の焼討《やきうち》〉の思い出から始まっている。渋柿園はこのとき数え二十歳である。  これはこの年の秋頃から江戸市中に強盗《おしこみ》、辻斬りなど、いろいろ物騒《ぶつそう》なことがはやって、夜になると日本橋や京橋界隈、神田、芝、品川あたりの盛り場でさえも、人通りが絶えるようになった。そこで市中の寺院や大家《たいけ》などに屯所《たむろ》を設けて別手組や撒兵組《さつぺいぐみ》・新徴組などが詰め切り、市中の巡邏《じゆんら》や取締りにあたったが、それらの賊は二、三人、多いのは、五、六人で組み、浅草蔵前の蔵宿《くらやど》や深川|木場《きば》の材木屋などへ押し入った者は七、八人以上もいたというので、これは普通《なみなみ》の賊ではあるまい、諸方からの浪士たちか、一、二大藩の家来たちの行動ではないかとうわさされ、あるとき岡ッ引の一人がその賊の跡をつけてみると、それがはたして芝の薩州屋敷に入ったというので「さてこそ」とこの騒ぎになった。     2  この日、渋柿園は京坂出張中の父の無事を祈るという母の代参として、赤坂の豊川稲荷へ出かけようと朝飯を終った辰刻《いつつ》(午前八時)頃、半鐘が鳴った。普通の火事だと思って豊川稲荷に参詣して帰ろうとしたが、どうも世間の様子が変だと感じ、赤坂の火消屋敷の浅井という与力の家に嫁いでいる叔母のところに立ち寄ると、「火事ではなく戦《いく》さだよ。薩摩様の焼討ちだよ」というので、驚き勇んで溜池の端《はた》から虎の門|外《そと》、愛宕下通《あたごしたどお》りの藪加藤《やぶかとう》(近江|水口《みなくち》二万五千石の藩主加藤越中守屋敷。同邸前の四辻に小さな竹藪があったので、その通りを藪小路といった。現行虎ノ門一丁目のうち)の門前まで行くと、—— 〈流石《さすが》に此辺は人気《じんき》も騒立《さわぎだ》つて、人の眼もきよと/\してゐる、荷物を片付け、土蔵の目塗《めぬり》などをして居る家もある。山の手から出た消防夫《ひけし》などは火掛《ひがか》りも出来ぬので、階子《はしご》や纒《まとい》を其処らに立てゝ、屯集《たむろ》して居る〉  そこでばったり出入りの魚屋に会い、「これから先はあぶない。行くとつかまります」ととめられ、しかも「戦さはもう終りました。薩摩が負けて酒井様などのほうが勝ったのです。いまはその逃げた者の詮議中なのです」というので、引き返してきた。  ところが、渋柿園のそれからの観察が面白い。—— 〈成るほど穿議《せんぎ》で往来が厳《やか》ましいのか、其れでは詰《つま》らぬ。其れは兎もあれ、先づ勝《かつ》たとあれば嬉しい、と悦び勇んで引返したが、其時に又《ま》た驚いたのは、再《ま》た以前《もと》の道を四谷へ来ると、いや太平至極なもので、此辺《ここら》は戦争《いくさ》ではない歳暮《くれ》の騒ぎ。大横町《おおよこちよう》には市《いち》がある。富山《とみやま》(有名な呉服店)には客が一ぱい。紙鳶《たこ》はあがる、鯨弓《うなり》は聞える、羽子《はね》はつく、獅子舞の太鼓の音《ね》はする、絵双紙屋には人が多集《たかつ》て役者の似顔画を馬鹿な面《かお》して眺視《ながめ》てゐる。目と鼻の間の芝——火事は尚《ま》だどん/\燃(もえ)てるんですよ——其の芝で今|戦争《いくさ》があつて、兵燹《いくさび》で人家《ひとのいえ》が焼《やか》れてゐる抔《など》とは夢にも知らぬ、長崎の葬礼《とむらい》を江戸で聞くと云ふやうな調子で、往来は絡繹《らくえき》、人は皆近づく春の経営《いとなみ》に余念なしと云ふ景色を見て、私も其の|のん気《ヽヽき》さ加減には大に呆れた〉  というのである。薩邸焼討ちの日の江戸の明暗を、これほどくっきりと描いた文章は珍しい。  明くれば慶応四年(一八六八)の新春である。渋柿園は〈鳥羽伏見の大戦争〉で大坂から徳川慶喜が帰って来たというニュースにびっくり仰天。何が何だかわからずにいるうちに、落武者たちが帰ってきた二十日過ぎに、ようやく幕軍総崩れという真相を知った。しかも、渋柿園たちのような若者がその|〈弔《とむらい》|戦〉《いくさ》をしなければと、泣いたりわめいたりしているうちに、慶喜は上野寛永寺に謹慎、官軍〈新政府軍〉が江戸へ入って来るというので、女子供は江戸から〈近い所で練馬近在、遠いので相州の厚木《あつぎ》、武州の川越、八王子、下総《しもうさ》の行徳《ぎようとく》、市川辺〉まで逃げ出す始末。そのために人夫代や馬車賃などが法外に値上がりし、市川までで駕籠一挺が金十両、荷車一台が金七両といった有様。行徳に二た月ほど間借りし、五人家族で二百両を捨ててきた、という人もいた。一両を現在の五万円から七万円として計算してみれば、その法外さが想像できよう。  こうして江戸開城、彰義隊戦争が終り、各地の脱兵騒ぎも次第に奥羽の戦争に集約されて、その模様を聞きたがり見たがる人情に投じて現れたのが錦絵であり、「もしほ草」「江湖新聞」「中外新聞」「内外新報」などの新聞雑誌類であったが、〈多くは見て来たやうな虚構《うそ》ばかり吐《つ》いて、会津や脱走〔兵〕が勝つたと書《かか》ねば売れぬと云ふので、其の記事には奥羽軍は連戦連勝、今にも江戸へ繰り込むやうな事のみ書いてゐた〉。  最後に、渋柿園は〈無禄移住〉について報告している。徳川家が駿河府中(静岡)に七十万石で転封《てんぽう》を命ぜられ、旧幕臣とその家族たちは陸路または海路で駿府に向ったが、塚原家は海路を選び、十月中旬に品川沖から清水港行きのゴールデン・エージ号という汽船に乗せられた。この船は徳川家が三千両でチャーターしたアメリカ船で、渋柿園は〈後に確か東京丸となつた船でした〉と書いている。ちなみに、勝海舟が海路駿府に向ったのは十月十一日、三百二十三トンの千歳丸であるが、塚原家の一行と同じ船かどうか、いまのところわたくしにはよくわからない。  渋柿園はこのときの移住者二千五、六百人が船底に寿司詰めになり、船酔いと用便に苦しみ、〈子供は泣く、病人は苦叫《おめ》く、其の中で彼《か》の崑崙奴の水夫《まどろす》は我鳴《がな》る〉といった悲惨な状況を詳細に報告している。 〈其れに——甚《はなは》だ汚穢《きたな》いお話で恐れ入るが、便所です。もとより此の大勢に五ケ所や十ケ所の便所で間合ふ理由《わけ》のもので無いから、彼《か》の階子《はしご》のかゝるべき下方《した》のところに、四斗樽を十四五もに並べて、其れに人々が用を足すのだ。其れでも男子《おとこ》は尚《ま》だ然《さ》でもあらう。唯《ただ》さへも物羞《ものつつ》ましい婦人方が此の大勢の見てゐる面前《まえ》で那麼《そんな》ことが出来ますものか。(中略)中には清水港《しみず》へ着くまで用便を耐《こら》へて、其の為めに船中でも卒倒し、上陸後も病気になつた人もある。実に、実に、牢屋どころで無い、目の前に見た活身《いき》ながらの地獄でしたな!〉  このような〈地獄〉を見ることで、時代が変ったことをこの船の乗客は実感したことであろう。歴史の刻薄な一面である。 [#改ページ] 第23話 戊辰の江戸     1  慶応四年(一八六八)の正月元旦は快晴に恵まれた。しかし、その十二日には前将軍徳川慶喜が軍艦開陽丸で大坂から江戸へ逃げ帰って来て、二月十二日には上野寛永寺大慈院に屏居謹慎してしまった。斎藤|月岑《げつしん》著『武江年表』明治元年(九月八日改元)の項を拾い読みしてみると、三月頃から諸侯ならびに妻室たちが大方自分の藩へ帰国し、旗本衆もそれぞれ知行所へおもむく者が多かった、とある。  やがて新政府軍(東征大総督府)が進駐して来て、尾州侯藩邸、池上本門寺、芝増上寺、浅草六郷家藩邸などを屯営とし、江戸城西ノ丸にも入った。そして〈三月頃より、人心|穏《おだやか》ならず、諸方へ立退くものあり。又|闘諍辻斬《とうそうつじきり》等多く、夜中は別けて往来|尠《すくな》し。又強盗多し〉とあり、一月頃から東海道の駿河遠江《するがとおとうみ》辺より始まった「ええじゃないか、ええじゃないか」の乱舞が江戸市中にまで及んで、伊勢皇大神宮のお札を虚空から降らして世人を惑わせる族輩《やから》もいたが、〈程なく止みたり〉とある。  このような世情不安の中でも、新春から両国橋の橋詰に足芸女《あしげいおんな》の見世物が評判となっていた。大坂下りの花川小鶴という芸人で、年齢は二十歳ばかり。両足の指を自由自在に働かせて、糸車を廻しては糸をつむぎ、花瓶に花を活け、火打ち石をたたいては行燈《あんどん》に灯をともし、針を使って縫い物はもちろん、きせるにたばこをつめて喫ってみせるなど、見る者を感心させた。  また、四月に入ると、外神田結城座では、女歌舞伎の芝居が興行され、〈見物多し〉とある。  女歌舞伎というのは文字通り女役者だけで一座を組んで歌舞伎狂言を観せるもので、篠田鉱造著『幕末明治女百話』にある「神田三崎座の女役者」という話を読むと、だいたいその様子が推測できる。  この女百話の話は、明治も三十年頃の話であるが、神田三崎町の三崎座に岩井|粂八《くめはち》という女役者の一座が永い間女芝居を打っていたという。そしてたとえば「切られ与三」で粂八がお富を演り、錦糸《きんし》という女役者が与三郎になって、「お富さん、イヤサお富ッ」といいながら、お尻をクルッとまくるのが大受けしたというのである。その与三郎は真綿でちゃんと前を包み、その上から六尺ふんどしを巻いてクルッとお尻をまくってみせるのであるが、錦糸の腿《もも》たぶもそう貧弱ではなく、蚊の脛《すね》みたいではない女だったので、|みっともない《ヽヽヽヽヽヽ》という感じはなかったという。おそらく明治元年の女歌舞伎も、このようなお色気で売ったものであろう。  同じ頃、麹町九丁目の心法寺の境内では、曲馬の見世物も興行されていた。  一方では血腥《ちなまぐさ》い戦乱の不安と、一方ではその日その日の歓楽を求める狂騒と、明治戊辰の江戸は明暗二相をくっきりと描き出していた。  五月十五日、雨の中で上野彰義隊の戦さが繰り広げられ、東叡山寛永寺は劫火《ごうか》に蔽われて、全山ほとんどが灰燼に帰した。御門跡の輪王寺宮公現《りんのうじのみやこうげん》法親王は護衛の彰義隊士どもにかしずかれて、根岸から千住のほうに落ちて行った。その後、会津から仙台に脱れ、東北戊辰戦争の渦中で艱難《かんなん》の日々を送る。のちの北白川宮|能久《よしひさ》親王である。  しかし、六月八日には、この数年間中止になっていた川開きの花火が両国で打ち上げられ、隅田川には数多くの屋根船が漕ぎ連ねて絃歌|喧《かしま》しく、水陸の賑わい大方ならず、という浮かれようであった。  おそらく江戸の町民は、公方《くぼう》様への義理は彰義隊という|いけにえ《ヽヽヽヽ》を捧げることで、上野の山の火とともに果たし終えたと考えたのかもしれない。江戸町民の本心はわからない。しかし、きのうまでの公方様|贔屓《びいき》の姿勢はサラリと捨てて、きょうは御一新の風に心地よさそうに横顔を吹かれていた。平和ならええじゃないか、というわけである。  悲しいのは江戸の武士どもであった。敗者となった幕臣および佐幕派大名の家臣たちは、江戸を捨てるか武士を捨てるしかなかった。暗く嶮《けわ》しい戦雲も北越や奥羽に移動して、江戸町民には日一日と遠い存在となって行く。  七月十三日の朝、彰義隊を統括していた天野八郎が潜伏先の本所石原町で新政府軍に捕縛され、「北にのみ稲妻ありて月暗し」の辞世を遺して十一月八日に処刑されたが、それに関心を寄せる江戸町民はほとんどいなかった。  これも『武江年表』によると、七月頃から下谷|御徒士町《おかちまち》、本所深川、番町辺では、家禄を奉還した小身の旗本・御家人《ごけにん》たちや、きのうまでは幕府とつながって利権の上にあぐらをかいていた元御用達商人どもが、新たに商売を始める姿が続出した、とある。いちばん多いのが骨董屋《こつとうや》であった。先祖伝来の家宝としてきた書画骨董のたぐいを二束三文でたたき売るしかないのである。その他、料理屋・酒屋・茶店・しるこ屋・そば屋・すし屋・漬物屋・紙店・煙草屋・ろうそく屋・乾魚《ひうお》屋など、どれをとってみても、商売の道に慣れない下級武士の妻や娘、きのうまで贅沢《ぜいたく》な暮らしをしてきたお店《たな》の御新造さんやお嬢さんの身過ぎ世過ぎの糊口《ここう》の道であった。しかし、それとても、すぐに店を閉じて姿を消して行った。     2  将軍家侍医を勤めていた桂川甫周の娘に今泉みねという人がいた。この人の著書に『名ごりの夢』(昭16・10・長崎書店、昭38・12・平凡社)がある。それによると、—— 〈私もいつの間にか八十三になりましたが、御維新《ごいつしん》の昔(当時数え十四歳)を思うと今さら夢のようでございます。まるで大火事でもあって、江戸中が焼けて行くのもおんなじで、大変な騒ぎでした。男はどこにいるかわかりません。女だけがうちに残って、めぼしいものをしまって夫の指図する所へ行く、奥様が地方の人ならそのお国へ、という風でした。桂川でも、父はどこかに出掛けて幾日も幾日もいないことが続きました。(中略)  そのころは私は、あちらに三日こちらに十日と、よそを廻りあるいておりました。|きもの《ヽヽヽ》を持って行くと申しましたら、きものどころかと叱られました。「女が|ぼろ《ヽヽ》を着て死ぬのは死に恥ね、あなたはどうお思いになりまして」と十三、四のものがよって話したこともありました。「自害するのはいいけれどこわいわ」と誰かが言いました。「おばか様ね、こわくてできますものか」「じゃ私は止めますわ、でもとう様がおっしゃるようにすればそれでいいわ。まあおしるこたべましょうよ」とおしまいにはお汁粉でした。(中略)  男の児には腹を切ること、女の子には自害の仕方を教えますが、大ていは大人がついていて介錯《かいしやく》をしてくれますから、ただにっこり笑って死んで行けばいいのです。無茶苦茶に死なないで、りっぱに書置きをして死体の処置を大人に頼んで死ぬ、こういうことは、よく言いきかされていましたから、子どもでも、コトンとも言わさず静かに死んで行くことができます。自分は桂川の娘だということだけを、死んでもおぼえておればいいと父が申しました〉  こうしてそれまでの築地の屋敷を没収された桂川甫周父子は、小さな借家住まいとなり、〈さて、父も私も、暗くなっても|あかり《ヽヽヽ》のつけようもわからぬ〉生活をすることになる。  あるとき|みね《ヽヽ》がろうそくと油を買いに生まれてはじめて油屋へ行き、店の前を行ったり来たりして、ようやく入ることは入ったが、〈おどおどして口がきけず、店に上ってしまって、まだ今までの振袖姿でぴたっとすわり、両手をついて、油のいれものを恐る恐る前に置いて、「どうぞ油を少々いただきとうございます」と鄭寧《ていねい》に申しますと、おかみさんはまあ徳川様のおちぶれの|ひいさま《ヽヽヽヽ》が、と気の毒がって、「さあさあ私がおともいたしましょう」と言って、油は自分が持ってついて来てくれましたが、お宅はときかれても場所がわからず、さがしさがしてやっとうちまで送ってもらいました〉という状態であった。  父の甫周は甫周で、はじめて町の銭湯へ行き、どこにはいっていいのかわからず、最初に水風呂へ入ったが、どうにも我慢がならず、となりの上り湯に足を入れようとして、ふと気がつくともやもや湯気の立っている大きな湯ぶねから人が上って来るので、はじめてそこかとわかった、という話もある。  このような生活の変化による戸惑いは、少しも珍しいことではなかった。きのうまでの旗本きょうは乞食姿になって路傍に跪《ひざまず》いている光景もみられた。  これは幕末に外国奉行から会計副総裁までした成島柳北が、維新後、自分を〈天地間無用の人〉と看做《みな》して向島須崎村に隠遁して、そこから静岡にいる義兄に書き送った「東京珍聞」という通信の第一号(明治二年六月執筆)に書かれている話であるが、——  ある人が本町通で、むかし諸大夫《しよたいふ》(江戸時代の五位の武家で、参内を許される)にまで任ぜられた石川右近将監という旗本が乞食になっているのを見かけた、という話を聞いた。あまりにも興ざめな話だと思っていたが、自分も六、七日前、左衛門河岸を通りかかると、一人の新乞食が新しい笠を被り、路上に跪いていた。その羽織に〈丸の内|笹輪藤《ささりんどう》(笹竜胆)の紋〉があったところをみると、おそらくその人であろう。いままで落ちぶれた人はたくさんいるが、〈白無垢《しろむく》の乞食〉になったのはこの人をもって最初とするだろう。——  と述べている。そしてそれに付記して、この話を栗本鋤雲(同じく旧幕臣)にしたら、皮肉屋の老人は膝《ひざ》をたたいて「うゥム、石川右近に先鞭《せんべん》をつけられたか。残念無念イマイマシイ」とくやしがってみせたが、それにしても〈此の一珍聞誠に筆を把《と》るに忍びず、読者|亦《もまた》巻を掩《おお》うて嘆ずるなるべし〉と慨嘆している。旧幕府の身としては、当然の心情だったであろう。  明治二年三月に創刊された「六合《りくごう》新聞」第三号に、「南八丁堀|情死《しんじゆう》のはなし」という記事がある。その三月二十日に、南八丁堀|蜊河岸《あさりがし》の藤本という船宿に美しい女性をつれた若い侍がやって来て、「本所まで船を出してくれ」という。あいにく船が出払っていたが、武士の頼みを断わりきれず、船宿の者たちが他に船を探しに行っているあいだに、その侍は女を殺し、自分も腹を切った。船宿の下女が帰ってみると、死にきれない待は流しに這い出て水を飲もうとしていたので、下女は酔覚めの水かと思って「どうぞこれを」と茶碗に水を汲もうとして座敷を見ると、一面の血の海だった。「あッ」と叫んで侍に抱きつくと、侍の持っていた刀で下女もかなりの怪我をし、侍はやがてこときれたが、〈此侍ハ脱走士にて娘ハ去《さる》旗本の令嬢なるよし〉とその記事は結んでいる。追いつめられた武士階級の哀れさが身にしみる話である。 [#改ページ] 第24話 トコトンヤレ節由来     1  ※[#歌記号、unicode303d]宮さん宮さん お馬の前に   ひらひらするのは何じゃいな   トコトンヤレ トンヤレナ   あれは朝敵征伐せよとの   錦《にしき》の御旗《みはた》じゃ知らないか   トコトンヤレ トンヤレナ(下略)  いうまでもなく、明治戊辰戦争のとき、新政府軍が〈軍歌〉第一号として歌ったといわれる「トコトンヤレ節」である。中央公論社版「日本の詩歌」別巻の『日本歌唱集』(昭和43・11)では〈洋楽歌唱のあけぼの〉という章の冒頭に掲げられ、次のように解説されている。 〈作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎と伝えられているが、一説には京都|祗園《ぎおん》の芸妓中西|君尾《きみお》が品川の作詞に節《ふし》づけしたものともいわれている。しかしこれにも確証はない。ただ、長州の大村は蘭学に通じていたから、洋式鼓笛を早くから耳にしていたかもしれないので、大村作曲説も強い〉  作詞のほうはともかくとして、大村益次郎ないし祗園の君尾|姐《ねえ》さんがこのメロディーを作り、そしてこれが洋楽を基調としたわが国の最初の歌唱だ、ということらしい。  大村益次郎が万能選手だったらしいことに異存はないが、鼓笛隊というのはすでに幕府がフランスの軍制を採用したときから存在しているのであるから、何も大村だけが洋楽の耳を持っていたわけではないであろうし、また君尾姐さんが品川とどんな関係にあったかはしらぬが、祗園芸者が突然このようなメロディーを、しかもおそらく三味線で作曲するというのが、どうも意外性のほうが強くて、長いあいだ疑問に思っていた。いや、現在もその疑問は続いている。しかし、いずれにしてもこの歌がヒットソングとなったのは、東征大総督有栖川宮|熾仁《たるひと》親王の率いる新政府軍が、東海道を江戸に向って進軍中に歌ったからであることは確かのようである。  ここに、わたくしのこの疑問にいささかながら答えてくれる本がある。小池藤五郎編『政事総裁職松平春嶽・幕末覚書』(昭43・4、人物往来社)である。  この本は編者の小池藤五郎博士(いまは故人となられた)がたまたま入手された『松平春嶽公史料』全十七冊のうちから、興味ある話を二十話だけピックアップし、それを分りやすく解説した本である。昭和四十三年一月四日の日付のある「はしがき」によると、〈史料はごく薄手の紙に書かれた物が多く、調べるたびに痛む状態である。この史料と『松平春嶽全集』(自第一巻、至第三巻。第四巻は空襲で焼失。校正刷一部のみ残存)との関係は調査中である〉とあり、ここにピックアップした二十話は〈全体の百分の一にも及ばないわずかな量〉である、とも断わっておられるが、その史料がこの本の刊行後、どうなったか、さらに別な形で公刊されているのかどうか、残念ながらわたくしは知らない。  この本の第十五話は「『トコトンヤレ節』は江戸生まれ」という題である。小池博士によると、一口に「トンヤレ節」というが、これには三種類あるという。すなわち(一)「流行トンヤレ節」、(二)「トンヤレ唄」、(三)「都風流トコトンヤレ節」である。第一の「流行トンヤレ節」は慶応元年(一八六五)か、それより少し前に、江戸から流行しだした歌で、『流行トンヤレ節』(横本二冊)として出版されている、という。そしてその表紙には〈洋服姿で鉢巻をした男が、左膝をつき、右膝を立て、両腕を肩の高さで前へつき出し、踊るさま〉が描かれ、〈この男は、上唇をつき出し、目尻をさげた笑い顔〉でこの「流行トンヤレ節」を歌っているわけで、〈幕府洋式調練兵の勇み踊る姿〉だとある。歌は全部で二十四首あるが、そのうちのいくつかを挙げると、——  ※[#歌記号、unicode303d]トンヤレ/\、鉄砲かついで、   狩人鹿《かりうどしし》おうて、チョチョンがよんやサ。  ※[#歌記号、unicode303d]トンヤレ/\、トントンヤレヤレ、   トンが何のその、トトンがよんやサ。  ※[#歌記号、unicode303d]ドンタク/\、横浜がんきで、   唐人が拳《けん》うつ、踊ってよんやサ。 〈ドンタク〉はオランダ語の〈日曜日《ゾンダーク》〉の訛《なま》ったもの。これから土曜日のことを〈半ドン〉(半分ドンタク)というようになった。〈横浜がんき〉は横浜遊廓の岩亀楼《がんきろう》をいう。  これはどうも「チョンキナ節」から派生したものと思われるが、〈振りチン振りチン、褌《ふんどし》高くって、しめずに倹約、ぶらちんよんやサ〉とか〈金玉金玉、親父の金玉、時々ふくれて、ブラブラよんやサ〉といった、きわどいものもある。     2  第二の「トンヤレ唄」は「流行トンヤレ節」より少し遅れて歌われたらしい。歌詞も二倍に長くなっている。  ※[#歌記号、unicode303d]殿さん殿さん、お馬の股で、   ブラブラするもナ、何じゃやら、   こりゃトンヤレ、トンヤレナ。   これは太鼓《てえこ》を、ドンドン打てとの、   お馬の棒チン、知らねえか、   こりゃトンヤレナ。  きわめて卑猥《ひわい》な歌詞であるが、興奮した牡馬が逸物《いちもつ》で太鼓を打つしぐさは、江戸っ子には珍しい光景ではなかった。これを歌って江戸の町民ないし洋式訓練兵なども、ゲラゲラ笑って心にはずみをつけたであろうことは想像に難くない。そこには卑猥さに密着した心のリズムがあった。  しかも、この「トンヤレ唄」まで来れば、本稿冒頭に掲げた「トコトンヤレ節」(正確には第三番の「都風流トコトンヤレ節」にそのままつながることは、だれの目にも明らかである。  ところが、この〈宮さん宮さん、お馬の前に……〉の載っている『都風流トコトンヤレ節』の瓦版《かわらばん》は、その名の示すように、江戸ではなく京都で出版されたものである。 〈一枚の紙に戦争の絵を刷り出し、絵の中には「丸に十字」の薩摩藩主の紋、「一に三ッ星」の長州藩主の紋その他を描く。右方の薩・長・土兵の砲撃で、左方の幕兵が小銃を投げ棄て逃げ去る様である。この上部に、六百の歌が刷ってある〉  という。もっとも、これには挿絵や歌詞の多少違った瓦版が何種類かあるらしいが、すべて明治元年(一八六八)の出版である。第一番の「流行トンヤレ節」から三年たっている。しかも京都で出版されたものであり、——  ※[#歌記号、unicode303d]一天万乗の、みかどに手向いするやつを、   トコトンヤレ、トンヤレナ、   ねらいけずさず、ドンドン打ちだす薩長土   トコトンヤレ トンヤレナ  といった歌詞からも、これが江戸城攻略のために進軍歌として、討幕派によって作られたことは十分推定できる。  こうなれば、在京の討幕派首脳部である岩倉や西郷・大久保との連絡将校を勤めていた長州藩士品川弥二郎が「トンヤレ唄」の文句を新たに改作したかもしれず、それを最初に宴席で三味線にのせたのが祗園の君尾姐さんだったと想像することも十分可能である。品川弥二郎にとっていちばん欲しいのは、本歌《もとうた》がその卑猥さゆえにヒットしている普及度と、そのメロディーが与えるリズミカルな心のはずみであったろうし、また、江戸の歌とはいえ、「トンヤレ唄」のメロディーなら祗園芸者も十分に知っていたはずだからである。したがって、このメロディーを作曲したという栄誉は、気の毒ながら、君尾姐さんからは剥奪されねばならぬし、まして大村益次郎説など雲散霧消せざるをえまい。 『都風流トコトンヤレ節』の瓦版には〈橋本八郎〉が作ったとあるという。橋本八郎が品川弥二郎の変名であることは『明治維新人名辞典』(日本歴史学会編・吉川弘文館)にも載っている。江戸っ子が作曲した「トンヤレ唄」のメロディーと焼き直しされた歌詞が、江戸城を攻める〈軍歌〉となったことは〈世紀の皮肉〉ではあるまいか、と小池博士も慨嘆しておられる。  品川弥二郎といえば思い出すのは、錦旗作製の一件である。  慶応三年(一八六七)十月六日、薩摩の大久保利通と長州の品川弥二郎の二人が洛北岩倉村に岩倉具視を訪ね、王政復古や討幕の方略から新政府の職制・人事案に至るまでの密議を凝らしたが、このとき岩倉から〈錦旗〉の図を授けられ、「これが討幕軍の御旗の図です」と、その作製方を託された。これは岩倉の懐刀といわれた国学者・玉松|操《みさお》のアイディアであった。  今出川石薬師の私邸に帰った大久保は、さっそく愛人のお勇(祗園一力の養女)を呼び、密かに西陣から帯地の紅白の緞子《どんす》と大和錦を買わせ、これを品川に預けた。  十月十四日、将軍慶喜が〈大政奉還〉を上表し、同じ日に〈討幕の密勅〉が薩摩と長州に降下された。大久保と長州の広沢|真臣《さねおみ》はその密勅を携えて、それぞれ国許へ帰ったが、それと前後して品川も長州へ帰り、有職家《ゆうそくか》の岡|吉春《よしはる》に原図と錦の布地を渡して、錦旗の作製を命じた。  岡吉春の『錦旗調製一件|并《ならびに》調査書』という文書によると、岡は弟子の鬼童丸重助と二人で山口に到り、諸隊会議所の土蔵の二階で極秘裡に調製に従い、約三十日間で日月章の錦旗各二旒と菊花章の紅白旗各十旒を作った。そこで品川はその半分を山口城に、あとの半分を京都相国寺林光院の薩摩藩邸内に密蔵し、十二月九日、〈王政復古の大号令〉のさい、岩倉具視の手を経て朝廷に納められた、といわれる。  翌慶応四年(一八六八・明治元年)一月三日、鳥羽・伏見で戦端が開かれ、翌四日、征討大将軍|仁和寺宮嘉彰《にんなじのみやよしあき》親王(のちの小松宮|彰仁《あきひと》親王)に賜わった錦旗が、寒風の中にはじめて翻《ひるがえ》った。「錦旗翻る」のニュースは新政府軍の鋭気を倍増させ、幕軍の戦意を喪失させた。戊辰の命運を一気に決した、といってよいほどの効果を現わした。  そして二月十五日、有栖川宮大総督に賜わった二旒の錦の御旗は、品川弥二郎の作った「都風流トコトンヤレ節」に護られながら、東海道を下ったのである。 [#改ページ] 第25話 黒 い 爪 痕     1  この七月三十日(昭和55年)には、原稿の締切に追われて、東京の染井霊園の傍にある慈眼寺《じげんじ》に行くことができなかった。この寺には谷崎潤一郎先生の墓がある。  いうまでもなく先生の本《もと》の墓は京都の法然院にあるが、東京ではこの慈眼寺に谷崎家全体の墓域があり、その一画に先生の分骨が埋められているのである。わたくしは毎年、そのご命日に当る七月三十日にはお墓詣りに行くのを例として来たが、去年と今年は都合が悪く、それができなかった。もっとも去年は十一月に、佼成出版社の講演会に講師として招かれて、十年ぶりで京都の地を踏み、暇を見て法然院のお墓にお詣りして、いささか心を慰めることができた。  谷崎先生が亡くなられて、今年でまる十五年を迎えた。戦後三十五年ということもさることながら、時の過ぎ去る速さに、いまさらのように驚かされるものがある。  十五年といえば、ペリーの黒船来航から明治元年まで十五年である。二百五十年つづいた徳川幕府が、最後の十五年で倒れてしまったその|あっけなさ《ヽヽヽヽヽ》が、この十五年という時間の長さであったかと、歴史の時間というものを自分の身の時間感覚に引き較べて考えてみることがある。  その十五年前にわたくしは編集者として谷崎先生の担当をしており、またその後「谷崎潤一郎全集」の編集にもたずさわった。したがって先生の作品については少し知っているつもりで、今回この原稿の執筆のために先生の少年時代のある経験を調べてみようと思い、そのことはたしか先生の「幼少時代」という回想記に載っているとばかり思い込んでいた。ところがいよいよ執筆にとりかかろうというときになって「幼少時代」を読み返してみると、わたくしの考えていた話はどこにもないのである。わたくしはあわてた。  とすると、あの話は何という作品に出て来たか。  わたくしは考えうる作品のあれこれを調べて、ようやくそれが「当世鹿《とうせいしか》もどき」であることを発見した。われながら記憶の不正確さに腹の立つ思いであった。  先生はその「当世鹿もどき」のなかの「書生奉公の経験」という一章で、明治三十五年の数え年十七歳、東京府立一中(現日比谷高校の前身)の二年生のとき、父親の事業の失敗で退学の憂目に会おうとし、ようやく学校の紹介で家庭教師の口がみつかって、その家を訪ねた話を書いておられる。  先生の文章によると、—— 〈始めて手前が学校の紹介で、親父に連れられてお目見えに上りましたのは、麹町の中六番町(今の四番町)の原保太郎さんと申す貴族院議員のお邸でした。今考へると、あの時分の麹町は随分物静かな屋敷町でございましたな。原さんのお邸も、多分旧幕時代には旗本か何かの住居だつたんでございませうな、うしろの庭が広い梅園になつてゐたことなんぞを覚えとります。この原さんと申される方は、もと長州藩のお侍であつたらしく、御一新後山口県の知事をなすつたことがあると伺ひました。日清戦争の後で、講和《こうわ》談判のために李鴻章が馬関に来られました時、暴漢のために狙撃されて負傷したことがございましたが、その時の知事さんがこの方でしたので、責任を負つて辞職されたか罷免されたかしたのださうでございます。いや、そんなことよりも有名な小栗上野介が、今の群馬県、上州の領地に引き籠つてゐましたのを、ドサクサ紛れに引つ張り出して官軍の兵が斬首に処した、その時の官軍の隊長がこの原さんであつたと云ふことを、後年維新の物語の中に見出しまして、大層驚いたことがございます。  たび/\申します通り、手前共は江戸育ちと申しましても下町の素町人でございますから、徳川家に何の恩怨もある訳ではございません。でございますから、原さんにさう云ふ過去の経歴があつたとしましても、別段どうと云ふことはございませんが、もしその当時から存じてゐたとしましたら、あまりいゝ気持はしなかつたでございませうな。兎にも角にも江戸ッ子が、徳川方の重臣を斬つた長州のお侍の前に頭を下げて恩を受けると云ふことは、まことに意気地のない話と、いくらか口惜《くや》しく感じたことでございませうな〉  結局、谷崎先生はその原保太郎という貴族院議員の紹介状をもらって、築地の精養軒の経営者北村家の家庭教師になるのであるが、わたくしがここで書きたかったのは、谷崎先生の書生奉公のことではなく、先生が少なくとも生涯に一度だけは〈原保太郎〉という人物の顔をみているという事実である。  明治維新のような、時代の大きな転換期には、〈革命〉とか〈御一新〉という美名の下に多量の血が流されることがよくある。そしてその血がどうしても流されざるをえなかったと万人の納得できるものと、これははたして流す必要があったのかと、納得できぬものとが出て来る。原保太郎という人は、その後者の例として、歴史の黒い爪痕を残しているといってよいかもしれない。     2  わたくしの最初期の歴史小説に「冤《えん》」という作品がある。これは慶応四年(一八六八・明治元年)正月に起った戊辰戦争の経過《プロセス》で、新政府の先鋒嚮導隊として派遣された「赤報隊」が、新政府の政策変更により〈偽《にせ》官軍〉という無実の汚名を着せられ、隊長|相楽総三《さがらそうぞう》以下が下諏訪で処刑解散させられた事件を描いたものである。  相楽総三他七名の赤報隊幹部の首を刎《は》ねてこれを晒し、その他の隊士たちを追放処分にしたのは、赤報隊の跡を追って進んで来た東山道総督府であった。  東山道総督府というのは、岩倉|具視《ともみ》の第二子具定を総督、その弟八千丸(のちの具経)を副総督として、慶応四年正月二十一日、東山道鎮撫のため京都を出発した新政府軍で、参謀には伊地知正治《いじちまさはる》(薩摩藩で宇田|栗園《りつえん》(岩倉家)・乾《いぬい》(のちの板垣)退助(土佐藩)たちがいた。  長谷川伸の名著『相楽総三とその同志』によると、相楽らの処刑に手をくだしたのは薩藩の兵か長州の兵かはっきりしないが、岩倉家の香川敬三とか原保太郎・南部静太郎とかがこの処刑に直接か間接かに関係がなかったとは観られない、と述べている。そして原保太郎は丹波《※》篠山《ささやま》の人で、剣道ができるので岩倉具視に知られ、子供の具定たちが東下するにあたり側人《そばにん》(原にいわせると「用心棒だよ」といっていた)として随行を命ぜられた、とある。時に原は二十二歳。  この原は三月一日の相楽総三たちの処刑ののち、三月五日にも信州追分で赤報隊の桜井常五郎たちを斬首し、当時十六歳の豊永貫一郎と検視役として立ち会っている。  同じく長谷川伸によると、—— 〈此の原・豊永は追分の処刑に関係しただけでなく、四月六日(おなじ年の慶応四年)上州の権田村烏川の河原で、小栗上野介等を死刑に行ったときも、立会人であるだけでなく、原は自分の刀で上野介を斬った。この調子から推して想像すると、相楽総三等八人の死刑執行の立会人も、原・豊永ではないかという事になり易い〉  とある。当然至極の推測である。  この東山道総督府軍はさらに四月二十五日、板橋駅で旧新選組局長近藤勇の首も刎ねている。どうも、人殺しの好きな人間がいた、としか思われない軍隊である。  昭和三十四年八月、八十七歳の高齢で亡くなった蜷川新《にながわあらた》という国際法専攻の法学博士がおられた。この人は日露戦争のとき日本軍の国際法顧問として従軍し、第一次世界大戦後は世界赤十字社連盟の創設に功のあった人として知られているが、もう一つ有名なのは、幕臣小栗上野介|忠順《ただまさ》の顕彰に生涯を捧げたことである。蜷川氏自身も旗本五千石の子孫であったが、蜷川氏の母親が小栗の妻のすぐの妹だったという宿縁からも、小栗がいかに傑出した幕臣であるかを説き、新政府軍の小栗処刑がいかに理不尽な、残虐|無慙《むざん》なものであったかを明らかにして、小栗上野介の雪冤と再評価に努力した。『維新前後の政争と小栗上野の死』正篇(昭3・9)続篇(昭6・2)、『維新正観』(昭27・9)などがある。  蜷川新によると、新政府軍は自分の采邑《さいゆう》である、権田村に退隠して、なんらの抵抗もしなかった小栗を捕え、一度の取調べも行わずに斬首したという。監軍の原保太郎と豊永貫一郎の命令で、安中藩の中沢浪平という者が、後手に縛られている小栗の両手の下に木片を当てて、その上体を前方に傾けさせ、斬首を容易ならしめようとすると、「無礼を致すな!」と小栗は中沢を大喝して睨《にら》みつけ、自ら悠然と首を差し延べ、「さ、速かに斬れ」とうながした。〈すでに数多くの殺人を犯した原保太郎も、小栗の気魄に打たれ、心臆して、一刀を仕損じ、血飛沫を浴び、無惨にも、二刀にて辛うじてその首を新り落としたのであった〉と『維新正観』は述べている。  蜷川新が小栗の実際の処刑者が原保太郎である事実を知ったのは、大正八年(一九一九)の秋である。同年十月、世界赤十字社連盟創設の仕事を終えて帰国した蜷川の歓迎会が日本赤十字社で行われた。その席上で、当時日本赤十字社長をしていた石黒|忠悳《ただのり》が小声で、「蜷川さん、いまうちの常議員をしている原保太郎に、きょうの主賓の蜷川博士は小栗上野の義理の甥《おい》にあたる人だといってやったら、原は非常にびっくりしていましたよ」と告げてくれたという。  その後、蜷川は原に何度か面会を申し入れ、ようやく会うことができて、原の〈凡庸な人物であることを確認した〉し、〈小栗が反逆入でないことは、原自身も充分承知していた〉と書いている。  歴史の波間に浮ぶ人、消える人、その跡に遺された栄光と宿怨。その対照から生れる陰翳が、歴史を読む人に感動を与える。そして谷崎潤一郎が〈原保太郎〉に会ったことがあるという事実が、どんなにわたくしに原という人物の現実感を与えてくれたことか。その現実感の有無が、同じ歴史でもわたくしの関心の対象となるかならぬかを決める選択肢となっているようだ。 [#2字下げ、折り返して3字下げ]※松井拳堂氏著『丹波人物志』(昭35、柏原《かいばら》高等学校内・同書刊行会によれば、原保太郎は丹波園部藩(現・京都府船井郡園部町)の藩士原知次の二男とある(安藤豊氏の御教示による)。 [#改ページ] 第26話 馬を駆る女     1  わたくしが樺太《からふと》庁立|真岡《まおか》中学校に入学したのは昭和十二年(一九三七)四月であったが、入学して驚いたのは、中学校とはいいながら、音楽部員によって構成されている、素晴らしいブラスバンドがあったことである。  わたくしものちには音楽部に入ったが、わたくしはピアノにあこがれていたため、ラッパやドラムとは無縁だった。しかし、全校生徒が軍事演習や行軍に出かけるときには軍隊ラッパの喇叭手《らつぱしゆ》として、また学校関係の葬式とか、たとえばノモンハン事件における戦死者の遺骨を出迎える町葬のさいなどには町民を代表するブラスバンドとして、それら音楽部員たちが長い行列の先頭に立ち、「進軍ラッパ」や「葬送《フユーネラル》マーチ」を吹奏しながら整斉《せいせい》と行進する光景は、われわれ一般生徒の眼には大きな魅力として映った。ラッパを口に当ててホッペタを緊張させている級友の顔が、なんとも凛々《りり》しい美少年に見えたものである。  幕末の江戸の錦絵でよく眼にする光景に、越中島あたりの調練場から帰営する幕府や諸藩の洋式調練兵であろうか、鉄砲をかついだ一団の兵隊が江戸庶民で賑う橋の上とか街の中を行進している図があるが、その先頭にはたいてい軍楽隊がおり、そのほとんどが少年の喇叭手とか鼓手《こしゆ》であるのがわたくしの眼をよろこばしてくれる。  こういう軍楽隊というものは、当時、幕府の軍制が従来の〈慶安|軍役《ぐんやく》〉から新しい洋式軍制に変革されて行く過程で生まれたわけで、最近、たまたまわたくしが彰義隊の鼓手をしていた鈴木経勲という人の回顧談を面白く読んだのも、中学生時代のブラスバンドの記憶が働いていたからかもしれない。  この回顧談というのは、旧幕臣とその子孫の会である同方会の機関誌「同方会誌」第六十二号(昭13・1)に掲載された「彰義隊の思ひ出」というインタビュー記事である。そのインタビューアーの説明では、この鈴木経勲という人は〈下谷北稲荷町の大地主で附近の名望家〉とあるが、外務省に勤めていた人で、明治十七、八年頃、南洋探検をしたことで有名だったらしい。その経勲翁の話を少し聞いてみよう。——〈私は此の一二年、八十歳を越えましてから、往時を追想しまして感慨に耽つたことが二つあります。其の一つは二三年前に蜷川新《にながわあらた》博士の著述にかゝる『小栗上野介』を読みました節に、其の巻首に掲げられた幕兵の洋式調練行進の図を見まして、そゞろに感慨に打たれたのであります。永代橋の上を、マンテル、ズボンの洋装をした幕兵が行進します先頭に太鼓を叩いてゐる若者が居りますが、私はあれをさん/″\やつたものでありまして、大抵十五六前後の若者が太鼓叩きやラツパを吹く役目を勤めたものであります。それ故此の図を見まして、昔自分がやつた通りの俤《おもかげ》そつくりなので、感慨無量でありました。  私の家は別に宮様お附きの寺侍といふわけではありませぬので、代々幕府の御家人でありまして、講武所で洋式教練を開始されるについて、幕人の子弟で十四五歳のものから太鼓叩きとラツパ手を募集されるといふことを聞きまして、大久保の御家人で大賀正三さんといふ、私と同年の十五歳の少年と共に講武所へ入りましたが、願書を出しますのに太鼓打手志願のものは可なり多くあつたやうでありましたが、ラツパ手志願のものは私と前記大賀氏と八丁堀の加藤万五郎氏と、三人だけでありました。  講武所の教官について二三日ラツバを吹いて見ましたが、どうも今のやうなわけに往かず、うまく吹けさうもないので、教官達が評議の結果、私共三名も鼓手(即ち太鼓打手)の方へ廻はされてしまひました。何分まだ十五の少年ですから講武所の制度なども注意して居りませぬし、朝昼晩と一日三回太鼓の稽古に余念がなかつたので、ラツパの方へは左程注意しませんでしたからよくは分りませぬが、其の後講武所ではラツパは全然廃止せられて、稽古は無かつたやうに記憶してゐます〉 〈彰義隊が上野に立籠つて居つた頃、私は榊原鍵吉先生の関係がありましたので、彰義隊の鼓手として入隊したのであります。しかし入隊したといふても十五の少年でありますから、他の隊員の如く家を捨てゝ、上野へ籠り切りといふわけではなく、十日に一度ぐらゐは家へ帰つたものですが、山内《さんない》に居る頃は、天王寺の別院に隊員が合宿してゐましたので、私も其処に寄宿して居り、朝夕二回の一部の隊員の調練の太鼓を打つてゐました〉  やがて彰義隊と官軍(新政府軍)の間が険悪になってきた頃、ある日、榊原鍵吉が昌平橋を渡った湯島の河岸の辺で七、八人の官軍に喧嘩《けんか》を売られ、「この大地へ両手を突いて、砂へ面型《めんがた》を押せば許してやろう」といわれたので、鍵吉は大地へピタと座り、〈河岸でふかふかに砂のたまつてゐるのを綺麗に手でならし、ピタと顔を押当て画型を印《お》し〉た。すると官軍が「念のため貴殿の姓名を聞いておきたい」というので、「榊原鍵吉と申す愚図でござる」と答えると、官軍たちはサッと顔色を変え、平謝まりに謝まって逃げ去った。  そして、彰義隊の戦争が起きた日、鈴木少年は輪王寺宮のお供をして山内から脱出し、三河島方面まで行ったが、「人数が多くては人目につくし、その方は少年のことだから、ひとまず退散せよ」といわれて、浅草の家へ帰ろうと歩いている途中官軍に捕われ、小塚ッ原で斬罪になるところを、まだ十五歳の少年だということで助かった。     2  以上は、ある少年鼓手の思い出のあらすじだが、ちょっと蛇足を加えると、この鈴木少年が講武所に入った年と彰義隊に入った年が同じ十五歳のときだとある。つまり、慶応四年(一八六八)である。しかし、講武所は安政三年(一八五六)築地に創設され、万延元年(一八六〇)に小川町《おがわまち》(現在の中央線水道橋駅前、千代田区三崎町二丁目一帯)に移転、慶応二年(一八六六)十一月に廃止となって陸軍所と改名され、そこに翌慶応三年(一八六七)五月、フランス軍事顧問団による幕府歩兵伝習隊が横浜の太田陣屋から移って来た。したがって、鈴木少年が慶応四年にラッパ手志願で入隊したのは、小川町講武所跡の歩兵伝習隊(隊長大鳥圭介)だったのではあるまいか。しかし、幕府の軍制などには関心の薄い鈴木少年の頭には〈講武所〉ということばだけが強烈に印象づけられていたのであろう。  最近、榊原鍵吉について調べることがあって、玉林晴朗の「剣客榊原鍵吉」(「伝記」昭11・5〜11・9)という史録を院んでいたら、偶然この鈴木経勲翁の名が出て来た。  外務省退官後、下谷北稲荷町に住んでいた鈴木経勲に、明治二十六年(一八九三)五月、外務大臣(明治二十六年といえば陸奥宗光である)から「シャム(現タイ国)の皇太子が来朝されたので、何か面白いものをご覧に入れたいのだが」と相談があり、「それでは」というので、武術大演習を開催することになった。これは非公式の催しだったので、鈴木は〈遠征会〉というものを作って会長となり(このころ、郡司|成忠《しげただ》海軍大尉の千島遠征や福島安正陸軍中佐のシベリア横断旅行が国民の血を沸かしていた)、その会の主催で上野不忍池畔馬見所前において、五月十三日から三日間、榊原鍵吉を顧問として武術大演習を挙行することになったのである。  この大演習には、元講武所剣術師範役の鍵吉の名で、当時一流の武術家が多数参加し、馬術・剣術・槍術の試合や居合抜き、詩吟剣舞などもあって、たいへんな盛況であった。  なかでも一番人気を集めたのは、二人の女性による〈母衣引《ほろびき》〉という馬術の演技であった。一人は馬術の達人草刈庄五郎の娘であり、もう一人は同じく庄五郎の門人で、芳町《よしちよう》は浜田家の芸者|奴《やつこ》である。  浜田家には代々〈奴〉という名の人気芸者がおり、先代の奴は福地源一郎(桜痴《おうち》)に落籍されてその愛妾となり、間もなく胸を病んで死んだが、彼女は金時計の蓋《ふた》を開くパチンという音が好きで、桜痴は奴の病床の枕許で終夜パチンパチンを聞かせてやったので、奴の死んだとき、バネのこわれた金時計が二十いくつも枕許に並んでいた、という美談が遺っている。  これに対して、きょうの奴は馬術に秀《すぐ》れ、〈馬乗り歌妓《うたいめ》〉というあだ名がある、これも評判の芸者であった。 〈母衣引〉というのは、乗馬者が母衣串《ほろぐし》にかけた長い吹貫《ふきぬき》の母衣を背負って後方になびかせ、地につかぬように疾駆するもので、乗り手は互いに妍《けん》を競う妙齢の美女、吹貫は目の覚めるような紅白の絹縮緬《きぬちりめん》、というのであるから、薄化粧をした二人が馬に|※[#「足+包」、unicode8dd1]足《だく》を踏ませて現れたときは、観衆の拍手喝采は大変なものであった。  やがて草刈庄五郎師範の振り下ろす小旗の合図で、二人は互いに反対の方向に馬を馳せて池の畔《ほとり》を環《めぐ》り、徐《おもむろ》に母衣を放って十一間(約二〇メートル)の吹貫を颯《さつ》と中天に流すと、紅白の布は翩翻《へんぽん》と舞って、その影の池水に映ずるさまは華麗とも艶冶《えんや》ともいうべく、観る人をして陶然と酔わしめるものがあった。  二日目、奴は洗い髪のままで出場し、前日同様、母衣を放って馬場を一周したが、終点も間近になったとき、強風に煽《あお》られた母衣の裾《すそ》が、池の畔の柳の枝にひっかかった。はッと気づいて手綱を絞ったが間に合わず、奴は見事に落馬した。観衆の喚声は極点に達した。  さいわい、奴は肱《ひじ》を少し擦《す》り剥《む》いた程度で無事だったが、そんな椿事《ちんじ》が武芸大演習の人気を一層強化した。この奴こそ、現在(昭和60年)NHKで放映中の大河ドラマ「春の波濤」のヒロインで、川上音二郎の妻となった川上貞奴その人である。 [#改ページ] 第27話 目撃者は語る     1  もう二十年以上もむかし、わたくしがまだ雑誌の編集者をしていたころ、ある晩、銀座のさる「おでんバア」で、酔余のたわむれに「侍ニッポン」を踊ったときの話である。  もちろん、振付は自己流で、刀のかわりには傍にあったお客さん用の靴ベラを使った。金属製の、長い柄の先のヘラがスプリングでペコペコ動く、あの靴ベラである。そして口三味線で前奏から入り、「人を斬るのがサムライならば」と振りをつけ、「恋の未練がなぜ斬れぬ」と、グッと腰を落し、その靴ベラを腰から斜め右上に抜いたときである。あのペコペコの、しかも彎曲している靴ベラがピンと一本の刀となり、テーブルの上にあったお銚子を|はす《ヽヽ》に斬り上げていた。  銚子を斬るつもりなど全くなかったことはいうまでもない。ところが、銚子はすッ飛ぶどころか、微動もせずにそこにあり、細長い首の部分だけが飛んで、肩のふくらみのところが、さながら真剣で竹でも切ったように、スッパリと斜めに切り口をみせて、立っていた。一座の者は一瞬息をのんでその銚子を注目し、ママがヒャーッと嘆声を放った。わたくしも踊りをやめ、〈もののはずみ〉の思わざる凄《すご》さに見とれていた。  それは例えば、映画の「座頭市」シリーズなどで、剣の冴えをみせるシーンでよく使われる演出である。しかし、それが現実に、しかも真剣ではなく靴ベラでできたということに、なかば呆れながらも、わたくしは感動したのである。「恰好いい!」という気持も否定できなかった。そして剣の達人とか名人といわれる人々は、われわれ素人が〈もののはずみ〉で|まぐれ《ヽヽヽ》にしかできないことを、いつでも、どこででも、間違いなくやってみせる人なのかもしれない、などと考えたりした。  しかし、むかしの真剣勝負というものは、必ずしも剣の名人上手だけがするものではあるまい。したがってそれがつねに「恰好いい!」と見とれるようなシーンを展開してくれるとは限らない。「会津会会報」第七十七号(昭和45年度)に、慶応四年(一八六八)の戊辰戦争で実戦の場面を目撃した、次のような話が紹介されている(高坂覚治「或る会津武士の最後」)。——  これは筆者の高坂氏が、それより四十年前に宗田幸助という故老(福島県棚倉町在住)から聞いた話だそうであるが、白河口で新政府軍と会津軍が戦ったとき、その宗田老は白河方面へ避難しようとして、かえって激戦の中に巻きこまれてしまい、偶然二人の武士の切合いを目撃した、というのである。 〈一人は会津の武士で、もう一人は官軍(新政府軍)の方でした。わしは恐ろしくて震えながら、崖の上の木立の間からそうっと見ていやした。お互に名告《なの》り合いやした。三十歳前後の武士でした。  刀を抜き合うと、シャリーンと切先が触れ合いやした。と同時|位《くらい》に後へ二三歩退りました。退いたまま両人はねらい合う様にして動きません。するとまた二三歩、ズズッズズッと進み出ると、刀の刃先がシャリーンと触れ合いやした。すると二人の武士は又後へ数歩後退しました。  そしておたがい真ッ青になり肩をいからして、その荒々しい息づかいが十間(約十八メートル)とも離れぬわしの耳元に聞えて来やした。  どの位の時間が過ぎて行ったのかわしは夢中でしたが、又シャリーンと云う音を聞いた時、どちらの武士からか叫び声が起り、刀を打合う音がしばらく続き、又しばらくすると、地響きする様にして二人は共倒れするのをまのあたり見ると、思わず目をふさぎやした〉  これは決して恰好のいい斬合いではない。映画でこれをそのまま演出したとすれば、退屈なシーンとなる危険が多大にある。しかし、ここには目撃者でなければ伝ええない、ある切実な現実感《リアリテイー》があることは否定できまい。わたくしはそれを大切にしている。     2  右の会津戦争における斬合い場面の目撃談を読んでいて、ふと想い出した文章がある。むかし、「斬(ざん)」という作品を書いているときに読んだもので、「古東多万《ことたま》」第一号(昭6・9、やぽんな書房)に掲載された倉田白羊という人の「虫ぼし」という随筆である。こちらは彰義隊の戦さの話である。  この筆者にいわせると、人を斬るとか斬られるというのは、どちらも異常なことである。だからその空気にもかたちにも異常なものがなくてはならない。したがって、講談や剣戟《けんぎ》映画、芝居などでは、強い者は無暗《むやみ》に強く、道場の竹刀《しない》稽古のように人切り庖丁を振り廻して、なおかつ余裕たっぷりでも不思議には思われない。それはそこで演じられているのが喧嘩そのものではなく、芸だからだ、という。実際には腹を立ててはいないのに、腹を立てるふりをするからうまく怒ることができるので、本当に腹を立てたら、かえって黙りこくってしまうに違いない。写実写実といっても、舞台で黙りこくってしまっては、観客には通じないだろう、というのだ。  そして自分の家で使っていた人力車の老車夫がまだ十四、五歳のころ、下谷|徒士町《おかちまち》の大工の家で見習の小僧をしていたときに、ちょうど彰義隊の戦さ(慶応四年五月十五日)に出逢った、という話を報告している。  それによると、その老車夫の小僧はひとりだけ立ち退きもせず、雨戸を閉めただけで大工の家に残っていたが、こわいもの見たさで恐る恐る雨戸を二、三寸開けて外を見た途端に、上野の山のほうから〈美しいちご(稚児)姿の少年〉が走って来た、というのだ。しかも、〈血気の官軍兵士両人がこれを追つて来〉たという。—— 〈少年はいきなり立ちどまつて身構へた、しかも雨戸の隙からのぞく小僧の真前《まんまえ》での事だ、官兵は左右に開いて下段《げだん》につけ呼吸をはづませて居るが少年の方は金輪際《こんりんざい》動かず、たゞ真青な顔からたら/\と油汗を流して居る、小僧は此の後どうなるやらと気が気ではなく、わけは知らぬがどうぞ少年に勝たせ度いと不乱に祈る気持ちになつた、とすると少年は矢庭《やにわ》に一方の官兵をおがみ打ちにすると見えたがさに非ず、他方の一人を美事に斬つた、斬られた官兵がもろくも倒れるが否や僚兵は一目散に逃げ出した、少年はすかさずこれを追つて上野の方へと消えて仕舞つたが、あの人はあれからどうなつた事か、多分討ち死にしたでせう、わしや本統に眼から離れませんや、と老車夫のはなしである〉  この筆者は、実際の斬合いというものは決して映画や芝居の立廻りのように派手派手しいものではない、といいたいのであろうが、この老車夫の少年時の目撃談は、上野の彰義隊に華やかな稚児姿の少年がおり、しかもその少年剣士が滅法強かったことを物語っていて面白い。  筆者の倉田白羊はこの話に続いて、自分自身の体験談として、〈私の目撃せる刃傷《にんじよう》は、巡査良民を斬るの場面で誠におだやかならぬものだが、穏ならぬ空気の中での出来事なのだから致し方もない〉といって、明治三十八年(一九〇五)九月五日、日露戦争終結のポーツマス講和条約の内容を不満とした東京市民が日比谷で焼打ち事件を起こしたときの話を述べている。——  この日、倉田はたまたま国民新聞社(徳富蘇峰の経営する新聞社で、当時、同紙は政府の御用新聞視されていた)が〈白昼包囲され投石されて居るところ〉に通り合わせ、〈白服の巡査の一人が何だか無雑作にサーベルを抜いて一寸《ちよつと》動かすと、傍に居たこれも白い単《ひとえ》ものゝ老人が無雑作にそろりと倒れた〉のを目撃した。そして〈白いきものも大地も無雑作に赤くなる、たゞでそれ丈けのはなしで万端が無雑作であ〉った、という。  こう報告した倉田は、講談や映画に出てくる壮絶活発な人斬りが常に嘘で、この巡査の良民斬りこそ真実無飾の自然だとは決して思わないが、巡査程度の腕でいくら狂気のように刀を振り廻しても、そううまく人が斬れるはずがない、〈他愛もなくやられたのは腕のさえではなくてほんの拍子で、此の老人の運勢それ丈けに生れついた不仕合はせと云はなくてはならぬ〉と述懐している。つまり、わたくしのいう〈もののはずみ〉でそうなったのだ、というわけだ。  ここで倉田は〈上野|鶯谷《うぐいすだに》の真上で官軍を食ひ留めた〉榊原鍵吉を引合いに出し、〈稽古着一枚に袴《はかま》のもゝ立ちを取り、さあ片つぱじから来いと仁王立ちとなつて、一々《いちいち》面、胴、小手と大声のかけ声は、道場稽古の時と何の変りもなかつたさうだ〉といい、稀代の達人である榊原先生でなくてはこの余裕は生まれない、と絶讃している。そして倉田はこの話を〈現に見たもの、つまり辛《から》い目を見たものゝ直話《じきわ》の事とて信ずるに余りある〉と書いているが、わたくしはこの一段だけは疑いをもっている。というのは、このときの榊原鍵吉は自宅からまっすぐ御本坊にいる輪王寺宮《りんのうじのみや》の護衛に駈けつけ、刀は抜いていないはずだからである。それに鍵吉自身、晩年になって、夕食の折など酒が入ると、「人など容易に斬れるものではない。俺など犬一匹斬ったことがない」とつねに語ったといわれる。  死の前年の明治二十六年五月、数え六十四歳の鍵吉は、上野不忍池で行われた武術大演習で、真剣の早業を披露している。ゴム製の豚にゴム紐をつけて門人三人に力一杯引っぱらせ、自分は豚の耳を握っていた両手を離すと同時に、パッと飛び去る豚を抜打ちに両断してみせたのである。それが素人の〈もののはずみ〉をつねに実行してみせる、プロの〈妙技〉というものであろう。 [#改ページ] 第28話 〈妖怪〉の実像     1 〈江戸の三大行革〉といわれる享保・寛政・天保の改革は、戦時体制社会をタテマエとしていた幕藩体制が、実質的な平和体制社会の出現によって生じた矛盾をいかに克服するかにその狙《ねらい》いがあったわけだが、結局、武士経済の農本主義的自給体制が押し寄せる町人経済の商業資本とその効率性に抗しえず、次第に破綻《はたん》の度を拡大して行く歴史の一里塚である。とくに〈天保の改革〉は、いわばこの行政改革によって幕藩体制が新たな生産体系を発見して、経営の近代化に脱皮すべき最後のチャンスであった。それがわずか二年半でついえ去ったために、徳川幕府はそれから二十五年後に瓦解して、明治維新を迎えねばならなかった、といって過言ではあるまい。 〈天保の改革〉の推進者だった水野越前守忠邦には〈三羽烏〉と呼ばれた三人の側近がいた。目付から南町奉行になった鳥居|耀蔵《ようぞう》、天文方見習兼書物奉行の渋川六蔵、それに金座を握っていた御金改役《おかねあらためやく》の後藤三右衛門である。  この三人のうち、際立って鳥居耀蔵の評判が悪い。故海音寺潮五郎も、その『悪人列伝』中の一人として鳥居耀蔵を取り上げている。  耀蔵は通称である。本名は忠耀《ただてる》。天保十二年(一八四一)十二月、従五位下・甲斐守となったので鳥居甲斐とも呼ばれ、耀蔵の〈耀〉と甲斐守の〈甲斐〉とを重ねて〈耀甲斐《ようかい》〉すなわち〈妖怪〉と恐れられ、〈蝮《まむし》の耀蔵〉と忌避された。  たとえば、南町奉行矢部駿河守|定謙《さだのり》の罷免《ひめん》と桑名藩お預け(この処遇に痛憤した矢部は食を絶って死んだ)とか、渡辺|崋山《かざん》・高野長英・小関三英たちを死に追い込んで蘭学グループの弾圧を企てた〈蛮社の獄〉、武州大井村の修験者《しゆげんじや》教光院了善が水野忠邦の政敵水野美濃守|忠篤《ただあつ》の依頼で忠邦|呪詛《じゆそ》の祈祷《きとう》をしたという冤罪《えんざい》をデッチ上げて教光院を遠島に、美濃守を信州諏訪藩に幽閉したとかいった事件が、すべて耀蔵の陰謀によるといわれている。  それだけではない。矢部駿河守に替って南町奉行となった耀蔵が、『江戸繁昌記』の著者|寺門静軒《てらかどせいけん》や当時最高の人気役者七代目市川団十郎を江戸追放の刑に処したのなどは、かれの峻厳・執拗《しつよう》な司法官としての一面である。さらに長崎の町年寄兼鉄砲方だった洋式砲術家の高島|秋帆《しゆうはん》を冤罪で投獄し、ついには水野忠邦をすら裏切ってこれを失脚させるなど、その権謀術数ぶりは枚拳にいとまがない。  海音寺さんはその『悪人列伝』の中で〈すべてこれ、耀蔵の偏狭な保守主義、旺盛な出世欲、深刻な復讐心、陰険な策謀による〉といい、耀蔵は〈功名心が強く、嫉妬心が強く、復讐心が強く、陰険であって、政治の中枢《ちゆうすう》に参画していれば、その役割は自然にきまる。スパイを駆使しての秘密警察長官だ〉と評している。CIAやKGBの長官あつかいである。  その耀蔵が〈天保の改革〉挫折後まる一年たった弘化元年(一八四四)九月六日、南町奉行を罷免され、翌弘化二年(一八四五)十月三日には讃岐《さぬき》丸亀藩主|京極長門守 高朗《きようごくながとのかみたかあきら》にお預けとなり、鳥居家は改易となった。  耀蔵の罪状については、その当時の世相を伝える資料を集成した『浮世の有様』という本に収録されている判決文によると、—— 〈其方儀《そのほうぎ》御目付勤役中〉、天文方の役所の取締りの件で探索したとき、天文方見習の渋川六蔵は懇意の者だから手心を加えよと手下の者にいいふくめたり、また〈町奉行勤役中〉には教光院了善が容易ならざる祈祷をしたということで、探索のため、家来の本庄茂平次を同寺院に潜入させたことはやむをえない取計らいだったとはいえ、いよいよ了善を吟味するにあたり、茂平次を囚人のようにいつわって証人とし、デッチ上げの押付吟味《おしつけぎんみ》を行い、あるいは御金改役後藤三右衛門が町人から幕臣に登用してほしいと内願に及んだときに、〈同人より|相贈 候 音物《あいおくりそうろういんもつ》をも致受用《じゆよういたし》〉、そのうえ評定所(幕府の最高裁判所)の評議内容は他へ洩らしてはならぬのに、オランダ使節渡来につき将軍家よりお尋ねがあって評議したさい、渋川六蔵に内々に相談し、評定所の評議内容の写しをも六蔵に貸し与え、また町奉行罷免後も、オランダ国王からの書簡の翻訳を六蔵に頼んでひそかに見せてもらったり、かつまた〈町奉行勤役中〉探索などのことにつき不正の取計らいをなした。〈右の内には自己の安危を量り候|心底《しんてい》より仕成《しなし》候所業も相聞へ、其余如何《そのよいかが》の次第も有之段《これあるだん》、|重々 不届《じゆうじゆうふとどき》の至《いたり》に候。依之《これによつて》 重き御仕置《おしおき》にも|可被仰 付処 格別《おおせつけらるべきところかくべつ》の御宥恕《ごゆうじよ》を以《もつて》、京極長門守へ御預け被仰付者也《おおせつけらるるものなり》〉  ——というのである。  こうして耀蔵は明治元年(一八六八)の幕府瓦解まで、丸亀でまる二十三年間の幽閉生活を送るのである。     2 〈妖怪〉と恐れられ、〈蝮〉と嫌われた耀蔵も、すでに世間からは忘れられた存在となっていた。北島正元氏によると、〈幕府の預け人は、どの家でも迷惑がり、早く死ぬように食事そのほか粗略に扱ったものだといわれるから、それに耐えぬいたことは、鳥居の心身がいかに堅牢であったかを語るものであろう〉(『水野忠邦』吉川弘文館・人物叢書)ということになる。  御一新となり、京極家でもすでに幕府は滅びたのだから、どこへでも行ってもらいたい、と申し出たところ、耀蔵は「わしは幕府の命で当家にお預けになったのだから、勝手なまねはできぬ」と断わったので、京極家では朝廷に上申してその許可をえ、はじめて耀蔵に立ち退いてもらったという。  そこで耀蔵は東京に出たが、そのときの年齢は数え七十三歳であった。そして旧幕臣を訪れて、「わしはむかし、御公儀にたいして夷狄《いてき》の学問などお近づけになってはならんと申し上げたが、お聞き入れにはならなかった。しかし、結果はわしのいった通りになったではござらぬか」と、誇らしげに語ったといわれる。  耀蔵にいわせれば、徳川幕府が滅びたのは西欧の近代文明を入れたからだというのである。つまり、耀蔵はカルチャー・ショックのこわさをいちばん強く予感していた人間だったわけだ。  わたくしはいささか図式的だが、耀蔵の人と為りを次のように考えている。——  耀蔵は大学頭《だいがくのかみ》林述斎の子であり、数え二十五歳のとき、二千五百石の旗本鳥居家に養子として入って、そこの娘|登与《とよ》と結婚した。鳥居家は支流ではあるが、有名な鳥居彦右衛門元忠(関ヶ原合戦の前夜、石田三成の軍勢を伏見城で防いで戦死した)を始祖とする家柄である。つまり血筋としては当時最高の学問の家である林家《りんけ》の頭脳と教養を受け継ぎ、家系としては誠忠無比といわれた鳥居元忠の殉忠の誉れを相続したわけで、その両面からの誇りを強く自覚して幕府に仕えていた、ということができる。しかもこの幕臣としての誇りは、二十八歳から三十七歳まで中奥番《なかおくばん》として十一代将軍|家斉《いえなり》の側近に仕えることで、将軍家にたいする〈偏忠《へんちゆう》〉ともいうべき頑《かたくな》な忠誠の姿勢をとるようになった。  林家の人間として、耀蔵には松平定信の行なった〈寛政異学の禁〉の精神である〈聖学(朱子学)の護持〉という使命感があった。〈異学〉のなかには儒学における朱子学派以外の学問だけでなく、蘭学で代表される洋学も入っていた。その使命感は〈蛮社の獄〉という洋学弾圧となって現れ、さらに隣国シナの阿片戦争における大敗北というニュースがその使命感に深刻な危機感を加重した。  儒家である林家にとっては、シナ文明は至高至美の価値基準である。そのシナ文明がいまやイギリスの非人道的な阿片の密輸によって汚毒され、近代兵器を装備した軍隊の前に膝を屈するという事態は、耀蔵にとっては一般の日本人とは違ったショックとなって危機意識をあおられたはずである。この使命感と危機意識とがないまぜになって暗い焦燥感を産み、耀蔵の行動を陰険刻薄にした。  最近、『鳥居甲斐晩年日録』(訓注・鳥居正博)という本が公刊された(昭58・4、桜楓社)。訓注者の鳥居正博氏は鳥居耀蔵から四代目(したがって鳥居家〔支流〕十三代目)の御当主である。  この本は耀蔵が罪をえて讃岐の丸亀に流された弘化二年(一八四五)から没年の明治六年(一八七三)まで、じつに二十八年間(足かけ二十九年)にわたって書き綴られた耀蔵の日録を公開したものである。  いまその詳細を報告する余裕を持たぬが、いちばん興味を惹かれたのは、同書に併録されている「鳥居甲斐忠耀;自筆履歴書」である。これは明治三年《ヽヽヽヽ》十二月に新政府からの「身分尋問書」に答えた文書のようであるが、とくにその〈履歴〉の項の中で、自分が丸亀に配流《はいる》になった理由を、徹底した攘夷論を主張したためだとしていることである。こうなると、前掲の判決文とはニュアンスがかなり違ってくる。じっさい、かれの「日録」や遺された漢詩などをみても、攘夷感情の吐露はあっても、自分が不正を働いたという罪の意識はみられない。また同履歴書中の〈平生持論〉という項目に〈奸《かん》を去り夷を攘《はら》ふ〉とある。つまり将軍の君側の奸を去り、夷狄を日本に近づけない、というのだ。これが御一新によって釈放された二年後の耀蔵の感懐である。幕臣開明派の川路|聖謨《としあきら》は耀蔵を〈悪人〉と呼び、羽倉外記《はぐらげき》は〈狂人〉と評したが、耀蔵自身は自分こそ国を愛する者だという確信に立って天保の改革を推進していたのである。  最近、歴史学者の大石慎三郎氏は〈天保の改革〉を論じ、それを〈江戸および大坂(とくに江戸)の都市政策がその主眼点であった〉と考えれば、〈これまで極悪人として扱われてきた鳥居耀蔵は、もっとも真面目に政策目標を実現しようと努力した官僚ということになる〉と、耀蔵の業績の再検討を示唆しておられたが(昭57・9、「歴史と人物」〈江戸の三大行革〉)、耀蔵の〈四代の末に連なる〉鳥居正博氏が〈永い苦悩に耐えた高祖への「鎮魂の書」〉としてあえて公刊に踏み切られた『鳥居甲斐晩年日録』などを参考にしながら、あらためて幕臣鳥居耀蔵の実像を組み立ててみるのも、幕末論に新たな視野を提供するものとして、無意味ではないであろう。 [#改ページ] 第29話 勇者の末裔     1 「幕末の三舟」とか「維新の三傑」とかと、日本人はとかく数合わせが好きである。この数合わせ人物見立ての一つに「文化の三蔵」というのがある。  これは「寛政の三助」に倣《なら》って文化年間の奇傑三人をいったものだ。  寛政の三助というのは古賀弥助(精里)・尾藤良佐《びとうりようすけ》(二洲)・柴野彦輔(栗山《りつざん》)をいい、「寛政の三博士」ともいわれる。  これにたいして「文化の三蔵」というのは、平山行蔵(子龍)・近藤重蔵(正斎)・間宮林蔵(倫宗)をいう(はじめ清水|俊蔵《しゆんぞう》をいったが、のちに間宮林蔵に変った)。この三人とも北方に関係が深いので「蝦夷《えぞ》の三蔵」ともいわれた。  平山行蔵は普通〈コウゾウ〉と読んでいるが、栗本|鋤雲《じようん》(幕臣、明治になって報知新聞主筆。匏庵とも号す)の『匏庵《ほうあん》遺稿』では〈剛蔵〉という字を宛てているので、当時の人々は〈ゴウゾウ〉と呼んでいたのかもしれない。この鋤雲の文章によると、〈剛蔵《ヽヽ》は三蔵中に於て、尤《もつと》も武技に長じ、短衣長剣、寒に韈《たび》せず、暑に扇《おうぎ》せず、常に好んで古英雄勝敗の跡を論じ〉た、とある(「真勇似怯」)。  平山行蔵、名は潜《せん》、字《あざな》は子龍。行蔵は通称である。兵原・兵遷《へいせん》・運籌堂《うんちゆうどう》などを号とする。その居を兵原草廬といい、江戸は四谷北伊賀町稲荷横町にあった(現在の新宿区三栄町・三栄公園一帯)。  行蔵は武芸十八般に通じ、毎朝寅の刻(七ツ。午前四時)に起きて八尺(約二メートル半)ほどの樫の棒で庭前の立木(高さ五尺、周り三尺ほどの立木で、下に合板を据え、上のほうに鬼の面《めん》などが描かれていた)を百ぺんずつ打撃し、それが終ってから朝食をとるのを例とした。その打撃音が戞々《かつかつ》と四隣にひびき、人呼んで「平山の七ツ時計」といって、目覚まし代りとしたという。  面白いのは、この平山行蔵の武名にあこがれて、勝海舟の父の夢酔道人・勝小吉がまだ十七歳のころ、しょっちゅう行蔵を訪ねていることである。後年、勝小吉は「平子龍先生遺事」という文章を遺し、自分の実際に見た行蔵の面影、また直接行蔵から聞いた武芸談を回想している(平凡社東洋文庫『夢酔独言』に併載)。  小吉がはじめて行蔵を訪ねたとき、小吉はひと思案して、知人から水天子天秀という刀鍛冶のきたえた刃渡り三尺二寸もある長い刀を借り、それを供の者に持たせて本所から四谷におもむいた。取次に出て来た栄次郎という内弟子に来意を告げると、栄次郎は奥に入ってしばらくしてから出て来て、「折角のおいでですが、師匠ただいま病臥中で、お目にかかれません」と答えた。そこで小吉はその長い刀を栄次郎に預け、「目貫《めぬき》に大先生|思召《おぼしめ》しのことばをお願いいたしたい」と頼んで帰って来た。  しばらくすると、うしろから呼ぶ人がいる。振り返ってみると栄次郎で、「師匠が見事な刀を持参されたのを見て頼もしく思われ、病臥中ながらお目にかかると申しております」という。さっそく引き返して行蔵に会うと、〈若き者にて長刀を帯し候事|神妙故《しんみようゆえ》に、押して逢ひ候〉と上機嫌で、小吉の願いも快諾して、「尽忠報国」という四字を目貫に書いてくれた。そしてそれから武辺ばなしに花が咲いて、夜の九ツ(午後十二時)まで長座してしまった、と同書にある。  あるとき行蔵が小吉に「わしは老人の自慢ばなしばかりいっているように思われるのもなんだから、十八般の武芸のうち、お前の望むものを見せてやろう」といったので、「それではまず野太刀を」と希望すると、樫の木刀の八尺五寸もあるのを使ってみせた。「ついでだから、いま少々希望をいってみよ」というので、「それならその大まさかりを振ってみてください」というと、七貫三百目(約二七・五キロ)の大まさかりを片手で七遍振ってみせた。「次にその一貫目筒を|ため《ヽヽ》てみてください」というと、軽々とその大筒《おおづつ》を立射ちの姿勢で構えてみせ、「このくらいでいいだろう」といって元の席にもどったが、少しも息づかいが変っていなかった。  ——こんな話もある。  行蔵中年のころ、相撲取りの雷電が来て力自慢をし、「力較べをしてくだされ」といって、あるとき、醤油樽二つを足駄がわりに履き、両手で酒樽を差し上げてやって来た。そこで行蔵は「そんな芸当はわしにはできんが、わしの持っている一貫目筒を|ため《ヽヽ》て見たまえ」というと、雷電は「ようがす」といってその大筒を受け取ったが、ただ持っているだけで、それを構えることができない。くやしがった雷電は「ご自分さまで|ため《ヽヽ》てみてくだされ」というので、行蔵はそれを〈立ちだめ〉に構えてみせるとびっくりし、「それではわしと胸押しを」と挑んできた。雷電と行蔵はたがいに胸押しをしたが、雷電がかなわない。三度まで試みたが雷電が負け、「さすがに武士は違うものですなァ」と頭を下げた。     2  平山行蔵は一生独身で過したので子供がいなかった。そこで内弟子の栄次郎を養子として家督を継がした。栗本鋤雲は〈鋭《ヽ》次郎〉と書いている。  鋭次郎は晩年、一族・門下生を連れて蝦夷地(北海道)に移住することを幕府に願い出て許され、箱館で生活することになった。師匠であり養父である行蔵の遺志を継ぎ、北門|鎖鑰《さやく》の地に骨を埋ずめてこれを外敵から護ろうとしたのである。当時、栗本鋤雲は箱館奉行組頭として同地にあり、平山鋭次郎はその部下として働いていた。しかし鋭次郎はその時勢論が人に用いられず、つねに怏々《おうおう》として楽しまず、あまり人とも交わらずに病死した。  鋭次郎もまた子供がいなかったので、箱館にやって来た一族の子供の金十郎を養子とした。この金十郎がまだ平山氏を嗣がないころ、しばらく栗本鋤雲の家に寄寓していたことがある。金十郎はことばの少ない青年だったが、性質が順直で、友人に愛され、婢僕といえども悪口をいう者はいなかった。また真面目で、よく鋤雲のために朝の結髪を手伝い、鬚《ひげ》を剃《そ》ってくれ、夕方になると酒を温め、肴《さかな》を作ってくれたりした。  文久二年(一八六二)七月、鋤雲が北蝦夷(樺太)巡視に出発するとき、金十郎は暇をもらって箱館の近くの七重村|峠下《とうげした》というところにあった自宅にもどり、そこで明治維新を迎えた。  慶応四年(一八六八・明治元年)閏《うるう》四月二十六日、箱館府知事|清水谷公考《しみずだにきんなる》が五稜郭に入って、蝦夷地に明治維新の新政を布告した。それを機に、幕臣たちの多くは南に帰ったが、金十郎は峠下の屋敷に残って同志を糾合し、旧幕府のために新政府の手から箱館を奪還しようという計画を練っていた。  しかし〈耳属于垣《かべにみみあり》〉で、同志の一人である医者が箱館で新政府の役人に逮捕され、拷問にかけられた。医者は〈脛骨挫け肋骨折れ、身完膚無きに至れども〉自白せず、死んだふりをして番人の眼をぬすみ、縄を切り、匍匐《ほふく》して床下から脱走し、いざりの身で一晩中逃げつづけ、ようやく金十郎の家にたどりついて、はかりごとの漏れたことを告げた。安心した医者は「わしはもうだめだ。あなたの手を借りて死なせてほしい」と頼んだ。金十郎は医者を背負い、刀と鍬《くわ》とを携えて裏山に到り、医者を殺して埋葬してやった。  七重村に住む同志の二人が飛びこんで来たのは、それから間もない、ある晩だった。かれらは密謀の破れたことを告げ、いままで村長の家で取調べを受けてきたが、いまのうちなら偽って「知らぬ」といって調書に署名捺印してくれば助かるにちがいない、というので、金十郎が村長の家へ行ってみると、村長の家はあかあかと灯をともし、軍装して肩に錦切《きんぎ》れをつけた五、六十人の兵士の一隊がおり、待ってましたとばかりに金十郎を逮捕した。それではじめて同志二人に裏切られたことを知った。  金十郎は箱館に護送されることになった。護送には馬で行くことになり、駅馬数十頭を呼び集めて大騒ぎをしているとき、夕立がにわかに襲ってきて、全員ずぶ濡《ぬ》れになったので、金十郎は「家から蓑笠《みのかさ》を取って来たい」というと、かれの家は村長の家の真向いなので、「よろしい」と許可が出て、二人の兵士が付き添って金十郎の家に駈け込んだ。  金十郎はすぐさま部屋に入り、米や鍋や火打石・金ぶくろなどを携えると、そのまま裏山に逃げた。兵士たちが気づいて山狩りをしたが、ついに見つからなかった。金十郎はすぐ裏山の、医者を埋めた、樹木鬱蒼とした場所に潜んで動かなかったので助かった。  その後、金十郎は髪結いの職人姿で逃げ廻っていたが、やがて榎本武揚軍が鷲ノ木に上陸し、十一月一日、榎本が五稜郭に入ったときは、松前城の堀を修理する人夫にまじって畚《もつこ》を担いでいた。榎本軍が松前城を占領したとき名乗って出て、箱館にもどって中島三郎助の手に属し、亀田の旧津軽陣屋に一部の兵の長として勤務することになった。  そのころ休暇をもらって、七重村の旧宅を訪ねてみた。妻子は離散し、家屋もすっかり壊されていたが、裏山の医者を埋めたところはそのままに残っていた。帰途、自分を裏切った同志の消息を聞くと、新政府兵に反抗して二人とも銃殺されたというので、ようやく胸のつかえが取れた思いで陣屋にもどった。明治二年五月、五稜郭陥落のさい、中島三郎助父子は壮烈な戦死をとげたが、金十郎はふしぎに負傷一つせずに生き残ったので、ボロに着換えて脱走した。途中、新政府軍に捕えられたが、湯ノ川村の漁師だと偽って危機を脱し、山中を放浪したのち、ある晩、北斗七星を背に小舟で津軽海峡を渡り、南部領から仙台に入ってようやく人心地を得て、飄然《ひようぜん》としていずこへか立ち去った。  この話を詳しく紹介した栗本鋤雲は、後年、駿州(静岡県)江尻駅の村はずれにあった小さな洋品店の主人が、平山金十郎にそっくりだったと教えてくれた人がいたが、真偽のほどは知らぬ、と書いている(「真勇似怯」)。 [#改ページ] 第30話 下北の会津藩士     1  昭和五十二年の五月の終りから六月の初めにかけて、青森県の下北《しもきた》半島を訪れたことがある。NHKテレビ「新日本史探訪」の「白虎隊以後—下北の会津藩士たち——」というフィルム撮影のためであった。  明治元年(一八六八)の戊辰《ぼしん》戦争に敗れた会津藩が明治政府によって移封《いほう》されたのが、旧南部藩のうち、下北半島の田名部《たなぶ》(現むつ市)を中心とした三万石の地であった。会津藩は斗南《となみ》藩と改称され、藩士たちはそこで挙藩流罪の悲劇に歯を咬みしばった。わたくしはその旧会津藩士たちの悲劇の跡を訪ね歩いたわけで、その撮影の一環として、六月一日、青森県三沢市|谷地頭《やちがしら》の広沢牧場を訪れた。  現在、この牧場を経営しておられるのは広沢|一任《かずとう》氏である。広沢さんはこの牧場の創始者である旧斗南藩少参事広沢|安任《やすとう》から四代目にあたり、いまもなお初代安任の建てた「六十九種艸堂《ろくじゆうくしゆそうどう》」という居宅を大切に保ちながら、そこに住んでおられる。  斗南藩は明治二年十一月、前会津藩主松平|容保《かたもり》の嗣子|容大《かたはる》(生後五カ月)に新政府から許された新たな支配地であったが、明治三年の春から冬にかけて藩士およびその家族たちは斗南の地に移住し、権《ごん》大参事山川|浩《ひろし》・少参事広沢安任・同永岡|久茂《ひさしげ》の三人が藩政の指導者となった。しかしこの斗南藩も、明治四年七月の廃藩置県で斗南県となり、やがて青森県に統合された。  同年十月、一切の公職から離れた安任は、現在の三沢市谷地頭地区におよそ三千二百六十町歩の広大な牧場・農地・森林地・水田・耕作地・沼地からなる広沢牧場を開き、イギリス人ルセーとマキノンの二人を雇って酪農経営を志した。それが二代目弁二、三代目春彦と受け継がれ、太平洋戦争後は農地改革のため土地は二百町歩に減らされたとはいえ、安任の夢と精神はいまなお四代目一任氏によって脈々と鼓動を続けているわけだ。  わたくしの訪れた広沢邸の座敷の欄間には、「六十九種艸堂」と書かれた額が飾られていた。書き手は勝海舟。わたくしは座敷の縁側で安任翁の遺品のかずかずを拝見しながら、その名の由来を一任氏にお尋ねした。  一任氏によると、これは安任翁が牧場を経営するにあたり、谷地頭付近において牛や馬の飼料となるべき牧草がどのくらいあるかを調べ、それが六十九種類あったことにちなむ、とのことであった。安任は明治十四年(一八八一)三月の第二回内国勧業博覧会にそれら六十九種の牧草を出品し、それを機会に自宅を「六十九種艸堂」と称した。そしてその揮毫《きごう》を勝海舟に依頼したものであろう。  広沢安任と勝海舟とがいつから交際を持つようになったかははっきりしない。しかし、この二人のあいだに佐久間象山を入れて考えると、案外二人のつきあいは早くからあったような気もする。 「佐久間象山公務日記」は象山が将軍後見職の一橋慶喜に招かれて元治《げんじ》元年(一八六四)三月に京都に上ってから、暗殺される直前の同年七月九日まで(遭難は七月十一日)の日記であるが、そこには当時京都守護職をしていた会津藩の砲術師範山本覚馬(のちに新島襄と同志社大学を創立)や公用局勤務(朝廷や他藩とのいわば外交方面を担当)の広沢富次郎(安任)と密接な連絡をとり、時事を密議していたことが知られる。  徹底した開国主義者だった象山は、七月十一日、三条木屋町で攘夷派の河上|彦斎《げんさい》に暗殺されたが、山本覚馬や広沢安任たちは象山の遺児恪二郎を新選組の近藤勇にあずけ、やがて恪二郎が隊内でいろいろな事件を起して脱走するまで、なにくれとなく面倒をみてやった。恪二郎は象山の妾腹の子であったが、象山の正妻は海舟の妹順子だったので、海舟は後年まで恪二郎の世話を焼いている。山本覚馬はすでに江戸で江川太郎左衛門や勝海舟の門を叩いて教えを受け、海舟とは面識もあったはずだから、あるいは安任もこの京都時代に、山本覚馬の紹介で海舟と面識ぐらいは持っていたかもしれない。     2  慶応四年(一八六八、明治元年)二月、松平容保が江戸の藩邸を引きはらって会津に帰国したとき、安任は藩主容保から江戸へ残ることを命ぜられた。容保の恭順の意を東征大総督府に釈明するためであった。  やがて江戸は新政府軍によって無血占領され、会津藩士がそこに在住することは極めて危険な状態になった。しかし安任はなんとか大総督府参謀西郷隆盛に会って容保の恭順の意を伝えようと奔走し、幕府側の終戦処理に当っている大久保一翁や勝海舟を介して西郷との面談の機会を得ようとした。  そのうちに安任は先鋒総督府参謀|海江田武次《かえだたけじ》を通じて、嘆願書を新政府に届けることができた。それまで会津藩は、容保がまだ江戸にいたころから、輪王寺宮をはじめ二十余藩の大名を通じて新政府に嘆願書を上呈し、王師に抗する意志のないことを釈明してきたのであるが、後難を恐れた各藩はそれを握りつぶし、一通も新政府に届かなかった。それがこんどはじめて、安任の嘆願書一通だけが上達されたのであった。  しかし、事態は安任の希望通りには進まなかった。脱走幕軍の将兵たちが日光や越後方面で騒ぎを起し、新政府部内も寛典派と強硬派の対立が次第にはっきりしてきた。そしてついに安任は閏四月二十六日、新政府軍に逮捕され、のち軍務官|糺問所《きゆうもんじよ》の獄舎に入れられた。  はじめ安任が連行されたのは旧老中屋敷、当時は東海道先鋒総督府に属していた浜松藩の屯所であるが、そこから五月三日に糺問所の獄舎に移された。ところが驚いたことには、その糺問所というのは当時〈守護職屋敷〉と呼ばれていた旧会津藩邸だった。安任はこのときの驚きと悲しみを次のように七言絶句にうたっている。——     是《こ》れ我が当年の政事堂。     豈図《あにはか》らんや忽地囚墻《たちまちしゆうしよう》と作《な》るを。     乗除何《じようじよなん》の数《すう》ぞ 此《かく》の如《ごと》きを看《み》る。     耐《た》えず 断腸《だんちよう》 還《また》 断腸《だんちよう》。               (訓責綱淵)  ここはこのあいだまでわが藩庁だったところではないか。それがいつのまにか囚獄になっていようとは。いったいどんな運命のいたずらで、自分がそこに囚われの身とならねばならぬのか。うたた断腸の思いに耐えない。  これは安任の有名な「囚中八首」の冒頭の詩であるが、安任はそれから転々と牢獄を移され、ようやく青天白日の身となったのは明治二年十二月である。その間に会津戦争が起り、やがて鶴ヶ城も開城して、世は大きく変っていた。安任と同じ獄中生活をしていた会津藩士の武川信臣《ぶかわのぶおみ》は、あらゆる拷問にも屈せず薩長の横暴を罵り、石抱きの極刑にあって肉は裂け骨は砕けたがこれに耐え抜き、ついに斬首の刑に処せられた。安任もいつ処刑されるかわからなかったが、有力な友人たちの口添えで助かった、と後年述懐している。  まず第一に、大久保一翁が西郷や海江田に安任の私心の無いことを釈明してくれ、西郷たちもはじめはすぐにも出獄させる予定であったが、彰義隊の戦さが起ったため中止となり、その後、勝海舟・山岡鉄舟・沢簡徳らも骨を折ってくれ、とくにイギリス公使館書記官のアーネスト・サトーが長州藩の木戸|孝允《たかよし》に書を送って、安任の誠意を高く評価してくれたことが助命の大きな力となったという。  サトーに日本語を教え、その忠実な秘書兼ボディーガードとして働いた野口富蔵が会津藩士だったことはよく知られているが、サトーの『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳・岩波文庫)によると、明治元年十二月中旬、麻布|飯倉《いいぐら》の金剛大夫の能楽堂で、サトーは偶然ミナミトラジローを観客の中に見受けた。そして〈この男は会津の若|侍《サムライ》で、この四月に同国人の広沢《ヒロサワ》と一緒に私に会いに来たことがあり、そのとき私は広沢を相手に、日本の政治問題、特にわが公使館の演じた政治的役割について大いに論じたものだ〉と述べている。訳者はこのミナミトラジローに〈三並虎次郎〉という字を当てているが、わたくしはこれを広沢安任たちといっしょに江戸残留を命ぜられた南寅次郎|保寿《やすとし》ではないかと推測している。寅次郎は彰義隊の敗戦後、前述した武川信臣や桑名藩士川村兼四郎と再起をはかっているときに新政府軍に捕えられ、安任と同じ獄舎につながれたが、やがて寅次郎と兼四郎の二人は赦されて出獄し、信臣だけが処刑されたのであった。  サトーは安任の人物を殺すに惜しいと評価し、一面識しかない安任の助命嘆願をしてくれたのであろう。もって安任の人物の大きさが知られる。  先日、森鴎外の「西周《にしあまね》伝」を読んでいたら、慶応三年初春、西は『立憲君主制度と聯邦制度との利害及中央集権論』を著わし、「幕府一派の人士中、能《よ》く此書を解するものは、原市之進、酒井十之允、広沢富二郎《ヽヽヽヽヽ》、山田安五郎数輩あるのみ」(傍点綱淵)と嘆じたとあり、後年(明治十一年十二月、安任の『開牧五年紀事』に序文を書いた、とあった。  わたくしが広沢牧場を訪れたとき一任氏から譲られた本が『開牧五年紀事』(昭25・12、ガリ版印刷)である。それには福沢諭吉の序文があるのみで、残念ながら西周の序文は見当らなかった。福沢はその序文を受け取りに行った使いの者に、「私は自分の著書に他人の序跋を乞うたこともなく、また他人の著書に序跋を求められてもこれに応じたことはない。しかし広沢君は人格経歴学識等、当世稀に見る人物なので、特にその乞いに応じた。したがってこれは空前で、かつ恐らくは絶後の序文かもしれない」と言って、その草稿を手渡したといわれる。これも安任の交友範囲の広さを物語るエピソードである。  わたくしはいつか、西周の書いた序文を読む機会の訪れる日を楽しみにしている(※)。 [#2字下げ、折り返して3字下げ]※西周の「『開牧五年紀事』序」(漢文)は「西周全集」(昭35・3、宗高書房)に収録されている。—綱淵 [#改ページ] 第31話 死 出 の 旅     1  万延元年(一八六〇)一月、遣米使節団の一行が米艦ポーハタン号に搭乗し、幕府軍艦咸臨丸がその護衛艦という名目でそれぞれ太平洋を渡ったことは、第4話「海を渡ったサムライたち」で触れた。そしてそのとき、ポーハタン号に乗っていた仙台藩士玉虫左太夫|誼茂《やすしげ》がホノルルで経験したエピソードを紹介し、その玉虫がのちに戊辰戦争で切腹させられたことにも少し触れておいた。  幕府の第一回の遣外使節団であるから、このとき外国を見て来た武士たちがその後の日本の文明開化や西欧近代化に大きな貢献をしたことはいうまでもないが、なかには時代の転換期に遭遇して、玉虫左太夫と同じように、あたら有為の才幹を散華《さんげ》させた人もいるのは、悲しむべき事実である。たとえばポーハタン号に乗っていた人では小栗上野介(当時は豊後守)忠順《ただまさ》の名が挙げられよう。そして咸臨丸に乗り組んでいた人としては吉岡|艮太夫《ごんだゆう》の名を挙げておきたい。  当時、艮太夫はまだ吉岡勇平と名乗って、幕府の御軍艦取調役(五十俵三人扶持)を仰せ付かり、この咸臨丸では公用方を勤めていた。このとき同行した赤松|則良《のりよし》(当時大三郎、のち海軍中将・男爵)の艮太夫追悼文によると、公用方とはいまの主計官だという。しかし艮太夫のこのときの航海日誌である「亜行日記」に描かれたかれの仕事の内容から推すと、必ずしも主計官(会計官)といった狭い意味ではなく、外人との応接から、病死者の入院・埋葬の面倒までみているところから、外務・内務全般にわたる世話役だったようである。この面倒見のよさという性格は、かれの人柄を推測する場合の、案外重大な手ががりかもしれない。  艮太夫はもともと武士の出ではない。天保元年(一八三〇)二月二十六日、磐城国《いわきのくに》(福島県)東白川郡中石井村(現|矢祭《やまつり》町のうち)の農、鈴木家に生まれた。『吉岡艮太夫小伝』(大8・11)によれば、〈天資豪邁、志を他に抱きて耕耘《こううん》を好まず〉とある。  十七歳で村を出奔し、諸方を遊歴することおよそ八年。その足の及ぶところは、北は会津から南は長崎に到る。はじめて長崎に行ったのは、江戸の土手四番町(牛込御門内と市ヶ谷御門内の外堀に面した武家屋敷の地。現行の予代田区九段北三〜四丁目・富士見町二丁目のうち)の長崎奉行牧志摩守(千三百石)の屋敷で祐筆を勤めており、やがて主人に随って任地におもむいたのだという。  二十四歳のときふたたび江戸に出、駿河台観音坂上にある御鷹匠頭戸田家に厄介になっているときに吉岡家で養子を求めていると聞き、親友の橋爪正一郎と相談して吉岡家の事情を調査し、吉岡家に婿《むこ》として入った。橋爪はのちに御徒目付となり、長州征伐に従軍して豊前小倉で戦っている。  吉岡勇平となった艮太夫は安政三年(一八五六)四月から表御台所人|無足《むそく》見習となって、はじめて幕府に出仕するようになる。〈表御台所人〉とは大名以下諸役人に賜わる食事を調理する役で、〈無足〉とは扶持米だけで田禄を与えられないことをいう。これは養父が表御台所人をしていたからで、その見習となったわけだ。そして翌安政四年十月に養父の跡式《あとしき》を継いで勇平は表御台所人となった。  翌安政五年八月、伊豆|韮山《にらやま》の代官江川太郎左衛門の手付出役《てつきでやく》となり、さらに同六年八月には御軍艦取調役を仰せ付かって五十俵三人扶持を与えられるようになった勇平は、翌七年(万延元年)正月、威臨丸でアメリカに渡ったわけである。  アメリカから帰った勇平は御軍艦取調役組頭|勤方《つとめかた》、同組頭、神奈川奉行支配|定番役《じようばんやく》頭取取締と、トントン拍子に昇進した。勇平を艮太夫と改名したのもこのころである。  こうして慶応元年(一八六五)には新御番入りして将軍護衛の任に当る身となり、同二年には長崎奉行支配組頭、同三年には大坂町奉行支配組頭、さらに同年に別手組頭取取締・二ノ丸御留守居格|布衣《ほい》(六位)を仰せ付かって、幕府瓦解を迎えた。  幕末においては、幕府は人材登用に心がけ、多くの俊英を抜擢したとはいうものの、それでも上下門閥を尚《たつと》ぶ風習はなお牢固たるものがあり、幕臣でも下士(御目見《おめみえ》以下)から中士(御目見以上)に昇るのを無上の光栄としていた。それがさらに上士(布衣)に擢《ぬき》んでられるのは異数に入れられた。勇平が下士から身を起こし、十一年で布衣にまで進んだということは、時代的要請もさることながら、もってかれの有為の才幹たることを推測しうるであろう。     2  大坂から江戸に帰った前将軍徳川慶喜は、慶応四年(一八六八)二月十二日、上野の東叡山寛永寺大慈院に屏居謹慎した。艮太夫は別手組を率いて谷中天王寺付近に屯《たむろ》して、慶喜を警衛した。  四月十一日、江戸開城の日、慶喜は大慈院を出て水戸に向った。  この日、艮太夫は護衛隊の中に別手組も入れてほしいと請願したが許されず、ひそかに腹心の部下三名を伴って供奉《ぐぶ》の中に加わり、水戸におもむいた。  このとき艮太夫と同様、ひそかに水戸におもむいた彰義隊士や有志の者が十五、六名いた。そこで供奉の取締をしていた浅野美作守氏祐の伝命で、艮太夫がこれらを統率して、慶嘉の幽所である弘道館にあって、日夜邸内を巡衛することになった。  しかし、当時は新政府が徳川家をどう処遇するかでいろいろなうわさが飛び、薩長諸藩が禁側にあって何をしでかすかわからぬというので、艮太夫は江戸へ帰って日夜朝廷の動静を窺《うかが》った。すると別手組の部下だった者やその他の旧幕臣たちが三百人以上も集って来て、艮太大の同志となった。  閏《うるう》四月二十九日、新政府は六歳の田安亀之助をもって徳川家を相続させた。そして五月十五日、上野で彰義隊の戦いが起きた。艮太夫は部下たちに動揺の色が見えたが、みだりに王師に抗するの不可なるを説いて軽挙を戒め、事なきをえた。  五月二十四日、新政府は徳川|家達《いえさと》(五月十八日、亀之助改名)に駿府(静岡)七十万石を与える旨を発表した。その報に愕然《がくぜん》とした艮太夫は江戸で兵を挙げることに決し、品川沖に碇泊中の幕府艦隊旗艦開陽丸に榎本武揚を訪ね、ともに協力して主家を恢復すべきことを力説した。しかし榎本と意見が合わず、引き返して来た。  このころから、上野彰義隊や各地で敗れた旧幕兵たちが艮太夫の名を慕って集って来るようになり、その数千余人にのぼった。中には無頼の徒もまじり、往々にして市家を掠奪し、新政府軍に捕われるとみな「吉岡艮太夫の隊中だ」と名乗ったので、官憲の艮太夫追求の手が厳しくなって来た。  艮太夫は吉岡家の菩提所である小石川の心光寺に隠れ、髷《まげ》を町人風に改めて商家に潜み、部下の兵士は解散して官の追捕を避けていたが、ついに捕えられて、下谷七軒町の警衛に当っていた立花藩士深尾鑑吉の屯所に拘引された。そこの座敷牢に監禁されて訊問を受けること二、三日。ある晩、番兵に酒を与え、その酔いに乗じて厠《かわや》の窓を破って脱走した。そして寛永寺の末寺である浅草東光院に逃れ、住職に請うて剃髪《ていはつ》し、徳順と称したのは、明治元年十二月二十一日のことであった。  翌日、東光院から府中|高槻《たかつき》にある円通寺に身を隠し、明治二年を迎えた。その正月二十五日、円通寺を出て東光院に帰ってみたが、依然として官憲の探索が厳重で、しかも艮太夫を慕って来る者がなお少なくなかったので、解盟の檄《げき》を回わして、各自その赴くところにまかせた。そして二月十一日、みずからも墨染の行脚僧となり、荷物持ちの従者を一人伴なって、飄然と奥羽旅行に出かけた。  この旅行は水戸から奥州街道に出、塩釜、洒田、山形に至り、会津方面を経て四月六日に帰京しているが、その約六十日間の旅路のさまは「奥羽日記」として遺っている。  この日記の特徴は、前年の戊辰戦争の傷跡が行く先々でまだ生々しく残っているさまが報告されていることである。水戸、白河、二本松などの焼跡のさまが報告されているが、とくに会津若松城下の戦後の繁昌ぶりについては、次のように描写している。 〈哺時《ほじ》(午後四時ころ)城下に至りしに、士邸市中とも兵火にて一円に焼失、残りしは十分の一にも至らずと見ゆ、然れ共|如何敷仮屋杯《いかがわしきかりやなど》取建てゝ市中空漠の地ありとも見へず、そが上に繁昌なる事驚くに堪へたり、是れは会公降参後官吏鎮撫しけるに、何故か、売婦渡世勝手たるべしとの事故《ことゆえ》、細民ども利潤に迷ひ、大通りなどは家毎に売婦を業として、三絃の声、江(東京)の花街には遙かに勝りて騒《さわが》ケ敷《しき》事なり、売婦弐干人、一夜の遊に一円半より減ぜずといふ、嗚呼昌盛也《ああさかんなるかな》、此売婦の盛んなるも、去歳より会城内にて官吏貨幣造り出しけるに、其工職のもの数百人ありて莫大の工賃を得て売婦を愛しける故といふ、土人是れを舶来職人といふ)  明治三年の春になって、二月下旬から艮太夫はふたたび奥州に旅をし、三月の末に東光院に帰って来た。そして東光院の住職と付近のある酒屋で碁をしているところを邏卒一小隊ほどに急襲され、浅草|茅町《かやちよう》の屯所に拘引され、ついで小伝馬町の獄に下された。明治三年四月二日であった。  その後、池上文教院の日薩上人や小石川心光寺住職などから助命嘆願書が出されたがそのかいもなく、同年十一月十八日、小伝馬町囚獄の処刑場で斬に処せられた。行年四十一。  当時は斬刑を〈刎首〉と呼び、当時の行刑資料によると、明治三年の死刑執行数は「刎首・男五十八人、梟示・男二十八人、磔・女一人」計八十七人となっている。そして艮太夫の首を刎ねたのは、拙著『斬(ざん)』の主人公・山田|吉亮《よしふさ》だったかもしれない。遺族は即日官から遺体を貰《もら》い下げて東光院に葬った(のち心光寺に移す)。  艮太夫の辞世が遺っている。——     郭公《ほととぎす》われを誘《いざな》ひ死出の山         独行身《ひとりゆくみ》の友しなけれハ 〈われを誘ひ〉は〈誘《いざな》へ〉という命令形の意味だと思われる。死に臨んで思わず生国の訛《なま》りが出たものであろう。そう考えると、艮太夫の死が悚然《しようぜん》と身に迫る思いがする。 [#改ページ] 第32話 刀 痕 記     1  長谷川伸の『日本敵討ち異相』は、わが国の数多くの敵討ち(長谷川伸はそれを〈三百七十件ばかり〉と書いている)のうちから十三件を取り上げ、それぞれに日本独得の文化的特性がうかがわれ、欧米の復讐譚とは大きく違うゆえんを説き明かした名著として知られる。  その第十三話は「九州と東京の首」と題され、わが国最後の仇討《あだうち》といわれる、臼井六郎が父|亘理《わたり》と母清子の敵《かたき》一ノ瀬直久という裁判官を殺害した事件を描いたものである。  昨年(昭和55年)の十一月十三日、NHKテレビ「歴史への招待」で「最後の仇討」という題で放映され、わたくしも招かれていささかの感想を述べた事件なので、ご記憶の方もあるかもしれない。  この事件が世間の評判になったのは、明治六年(一八七三)二月七日、明治政府が太政官布告第三十七号をもっていわゆる〈仇討禁止〉令を公布し、〈復讐厳禁〉を言い渡してから七年十カ月もたった明治十三年(一八八○)十二月十七日に、しかも東京のド真ン中ともいうべき京橋区三十間堀三丁目十番地にあった旧秋月藩邸(子爵黒田|長徳《ながのり》邸)で起きた仇討事件だったからである。  仇討人は当時数え二十三歳(安政五年九月生まれ)の旧秋月藩士臼井六郎であり、討たれた方は同藩|干城《かんじよう》隊士一ノ瀬直久(前名山本|克己《かつみ》)であった。当時、一ノ瀬直久は東京上等裁判所の判事で、現職の裁判官が仇を討たれたというのであるから、いっそう世間の耳目を集めた。  この日、午前十時ころまで丸の内永楽町の東京上等裁判所(現千代田区丸の内一丁目)付近で一ノ瀬直久の登庁するのを待っていた臼井六郎は、いくら待っても直久が出勤しないので、張込みをあきらめ、旧藩主である黒田子爵邸で旧藩士たちが毎日のように囲碁の集りを楽しんでいることを思い出し、なにかの手ががりを得ることもあろうかと、そこを訪れてみることにした。  黒田家の家扶は鵜沼不見人《うぬまふみひと》という。鵜沼は不在であったが、その子とその友人の藤野房次郎がおり、ともに秋月時代の学友だったので、招かれるままに二階の八畳間で三人で話し込んでいた。  そこに家扶の鵜沼が帰って来て、隣りの十畳間で一人の客と用談を始めた。その客が一ノ瀬直久であった。直久は脚気療養のためこれから熱海へ旅行するというので、その挨拶に来たものである。  やがて直久は筆紙を借りて手紙を書き、その手紙を小使に託そうとして二階を降りて行った。六郎は厠《かわや》へ立つふりをして同じく二階を降り、玄関の衝立《ついたて》がわりに立ててあった屏風のうしろに隠れて用意の短刀を取り出し、直久の帰りを待ち受けていた。そこに直久がもどって来た。  六郎は階段を昇ろうとする直久のうしろから左手で直久の襟《えり》をつかんで引き寄せ、右手に短刀を構えて、 「父母の敵、覚悟せい」  と声を掛け、咽喉をめがけて突いた。  不意のことで驚いた直久は、本能的に短刀をよけたので、六郎の第一撃は直久の首に巻いていた襟巻を刺しただけで、突き損じた。あわてた六郎がこんどは胸を刺したが、それも軽かった。 「なにをするか! 小癪な」  と、はじめて直久は声を出し、「乱暴者だ」と叫びながら組みついて来た。  あとは夢中であった。六郎は「父の敵」「母の敵」「思い知ったか」などと、一語一語を口から出すたびに、力をこめて直久の左胸部を短刀で突き刺した。すると直久も最後の気力を振り絞って六郎を押し倒そうとしたので、二人はそのまま階段下の廊下に転がってもつれ合っていたが、若さのおかげか、六郎が上になり、直久を組み伏せて、咽喉にとどめを刺すことができた。  仇討を終えた六郎は、血に染んだ羽織を脱ぎ捨て、藩邸を出て人力車を雇い、第二方面第一分署(幸橋外《さいわいばしそと》警察分署)に自首して出たが、所轄が違うというので、分署の手で第一方面第三分署(京橋警察署)に護送され、さらにそこから警視庁第三局へ送られた。  長谷川伸は「九州と東京の首」で六郎の本懐を遂げた場面を描き、六郎が「|あの晩《ヽヽヽ》のようにしてやる」といって、直久の首を切り落した、と書いている。 〈あの晩〉というのは、六郎の父母が殺された慶応四年(一八六八。九月八日「明治」と改元)五月二十三日の夜のことである。     2  慶応四年五月といえば、十五日に上野彰義隊の戦さがあり、いよいよ戊辰戦争は関東から奥羽越に拡大しようというときである。全国の大名たちは、それぞれ新政府と旧幕府とのどちらに加担するかで、厳しい選択の場に立たされていた。その二者択一の態度決定をめぐって藩内抗争を招いた藩は多数にのぼった。九州福岡黒田藩(五十二万三千石)の支藩秋月五万石(現福岡県甘木市)もその例外ではなかった。  六郎の父臼井亘理を藩内の干城隊士二十数名が襲ったのも、この過熱化した藩内抗争の余波である。亘理の師にあたる陽明学者中島衡平も、亘理と同じ夜に暗殺されている。  当時、臼井亘理(馬廻役用人三百石から執政兼軍事総裁に抜擢され、数え四十四歳)は藩命で京都に出張し、新政府と折衝して、この日(五月二十三日)、帰国したばかりである。その晩、帰国慰労の酒宴があり、酔余の熟睡のところを襲われた。夜中の午前三時であった(したがって日付は正確には五月二十四日ということになる)。  襲った側の干城隊というのは、藩内の十五、六歳から二十歳までの部屋住みの若者を組織したもので、尊攘主義の立場をとる過激派だった。総裁は執政の吉田悟助であり、この晩、亘理を襲った組の指揮者は今村百八郎だったといわれる。今村はのちに明治九年十月の〈秋月の乱〉で死んでいる。  この晩の惨劇は尾佐竹|猛《たけき》の「明治の仇討」に引用されている「臼井亘理遭難遺蹟」によると、—— 〈現況を視て察するに、行兇《こうきよう》の彼等は、卑怯にも亘理が酔夢熟睡せるを窺ひ、寝首をかかんとせしならんも、誤りて衾襟《きんきん》を伐《きり》しなり、察するに、亘理は其目を覚まし、側に置きたる短刀引寄せ、身を起さんとせしを、彼等は二の太刀|振翳《ふりかざ》して深く頭顱《とうろ》に斫《き》り付け、ひるむに乗じて、首を打ちしものなるべく、現に衾袖裏《きんしゆうり》に、その短刀を左手に伸して掴《つか》み居たるを見ても、其場の顛末を証せらる。而《しか》して首級は其場に見えず、彼等が持去りしなり〉  とある。亘理の首は執政吉田悟助の邸に持参され、首実検に供されたという。  次に妻清子のばあいであるが、—— 〈妻清子に至りては、之《これ》に異《こと》なり、是又現況を視て察するに、彼等が寝室に侵入し、夫が惨殺せられつつある物音に、其目を覚まし、清子は直《ただち》にもろき孱臂《せんぴ》を揮《ふる》ひ、いつしか髪も解けて乱髪とはなり、白刃の下をくぐりて彼《かの》行兇者が襟元掴んで狂ひかかり、行兇者が手腕に喰《か》みつきて、当場《とうば》のささえをなせしものの如くなりし、獰悪《どうあく》嗜殺の一人ありて、清子が後に廻り、肩先深く斫り付る、ハツと叫びて横に僵《たお》れしを、彼等は妄状《ぼうじよう》にも、伏したる腰部を蹴却《けかえ》し、頭部より背部にかけて所を撰まず乱撃して、遂に死に至らしめしなり、それの顛末は、行兇者その者が、後日誇りげに物語りせしを、世間に伝へられたり〉  という悲惨なもので、後年、臼井家の親族に知人の裁判官が、自分が水戸にいたとき同僚の一ノ瀬判事の左の手首に傷痕があるのを認め、何の傷かと問うと、一ノ瀬は先年臼井という奴をやっつけたとき、傍に寝ていた妻が目を覚まして狂いかかり、この手に喰いついて放さないので、これを蹴倒すと、うしろの連れが一太刀|浴《あび》せて、やってしまえと叫び、二人でその女をやっつけてしまった、というような話をしたのを聞いたことがあると告げている事実も、同書に収められている。そして、—— 〈成程《なるほど》其惨澹辛酸の有様たるや、妻の清子は寝所《ねどこ》に足をかけ、髪振乱して寝所の外に倒れゐたり、二人で殺せしものと見え、中々に三刀や四刀でなく、実に乱刀の惨殺であり、彼等も狼狽せしか、止《とど》めも刺さずして逃去《にげさり》たることを知らるるなり〉  と、その惨状を描いている。しかも清子といっしょに寝ていた娘(次女)のつゆ(数え四歳)も負傷していた。  この惨劇を目撃したとき、六郎は数え十一歳だった(長谷川伸は六歳としているが、十一歳が正しいようだ)。縁側にまで長い髪の毛と血や肉が散らばっていたのを六郎は目にしている。その酷烈鮮明な印象が少年の生涯を決定づけたわけである。  亘理を殺したのは山本克己(のち一ノ瀬直久)であり、清子を殺したのは萩原伝之進(のち萩谷静夫)であった。そこで六郎は一ノ瀬直久を殺害し、明治十四年九月二十二日、東京裁判所から〈禁獄終身〉を申し渡されたのであるが、石川島の懲役場から小菅《こすげ》集治監で服役し、明治二十四年九月二十二日、大赦により出獄したとき、敵はもう一人残っていた。しかしその萩原伝之進については詳しいことはわからない。長谷川伸は〈臼井六郎出獄すと新聞が書くと、発狂したものがある。六郎の母を無残に斬った往年の萩原伝之進である。萩原は怖れ戦《おのの》いて死んでいった〉と述べている。六郎は大正六年九月四日、佐賀県|鳥栖《とす》市でひっそりと死んだ。数え六十一歳だった。  このたびのNHKテレビ「最後の仇討」の取材に当った同局教養科学部の宮下義弘氏によると、臼井家は現在亘理の弟|慕《したう》のお孫さんの臼井二郎氏(福岡県筑紫野市在住)が嗣いでおられ、その二郎氏が臼井家の墓を改葬したとき、亘理と清子の頭蓋骨が出て来たという。そして亘理のそれには左額部から頬骨にかけてはっきりと刀痕があり、清子のそれには後頭部に真横に刀痕があったそうである。また、六郎の妹つゆは、生涯、切られた手の指がぶらぶらしていたという。 [#改ページ] 第33話 門外不出の裏ばなし     1  複雑怪奇な政局に処して、一人の政治家が首尾一貫した政治的姿勢を貫くことは至難の業といってよい。政敵ないし反対勢力との対決のために、ときには自分の公約している姿勢を変更する現実主義的《リアリステイツク》な、あるいは権謀術数的《マキヤベリステイツク》な姿勢を必要とすることもあるはずだ。  現在のようにマスコミが発達し、政治家や財界人の出処進退や経営姿勢というものを記録し報告する機会や媒体が多くなった時代でさえ、ある大きな政治的ないし社会的事件の〈真相〉というものが正確には捉えにくいのであるから、幕末に生きたリーダーたちの生きざまを現代のわれわれが追跡する作業が、〈極めて〉という副詞をつけねばならぬほど難かしいことはいうまでもない。とくに、そのようなリーダーたち同士の心理的交渉がどんなものであったかについては、いまも昔も、同じくらいわからぬといってよい。  そういう意味で、幕末の四賢侯の一人といわれた越前藩主松平|慶永《よしなが》(元服のとき雅号を〈春嶽〉とし、のち通称とする)が書き遺してくれた『逸事史補《いつじしほ》』はたいへん貴重な史料といってよいだろう。 『逸事史補』は同書巻末に〈明治三年より起草す/明治十二年九月十八日功|畢《おわ》る〉とあるから、明治維新後、春嶽がすべての公職から足を洗ってすぐに筆を起こし、足かけ十年ががりで書き上げた幕末維新の裏ばなしである。  たとえば、「伊達宗城《だてむねなり》と井伊|直弼《なおすけ》」という一節がある。  安政五年(一八五八)六月十九日、日米修好通商条約が大老井伊直弼の主宰する日本政府(幕府)と駐日アメリカ公使タウンゼンド・ハリスとのあいだで調印されたとき、水戸|斉昭《なりあき》・同|慶篤《よしあつ》・尾張|慶恕《よしくみ》・松平慶永、それに一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》が不時登城《ふじとじよう》し、幕府の〈無勅許調印〉と、京都朝廷への奏聞《そうもん》に〈宿次飛脚《しゆくつぎびきやく》〉を使った不臣不遜《ふしんふそん》を非難した。  これに対して幕府はその押しかけ登城を責めてかれらを厳罰に処し、松平慶永は〈隠居|急度慎《きつとつつしみ》〉を命ぜられて、その後五年にわたる霊岸島別邸における幽居を余儀なくされた。幕府のこの措置には、当時、通商条約問題と並行して幕論を二分していた将軍継嗣問題にからんで、一橋慶喜擁立派に対する処罰の意味もあった。その後、井伊の行なった〈安政の大獄〉の進行にともない、翌安政六年(一八五九)八月には斉昭・慶篤・慶喜たちは追罰を受け、土佐藩主|山内豊信《やまのうちとよしげ》(容堂)も二月に隠居、十月に謹慎の身となった。  そこで春嶽は、次のようにいうのである。—— 〈水戸、尾張、余、容堂は厳譴《げんけん》を蒙《こうむ》りしが、|独伊達遠江守 宗城 一人《ひとりだてとおとうみのかみむねなりいちにん》は此《この》厳譴を受《うけ》ざりしは、常に怪《あやし》みて居たり〉  つまり、このとき井伊の無勅許調印を批判し、一橋慶喜擁立にも積極的だった伊予(愛媛県)宇和島藩主伊達宗城だけは、ふしぎに幕府から厳罰を受けなかったのを、春嶽は長いあいだ「変だ、変だ」と思っていた、というのである。  ところが、のちになって山内容堂が密かに話してくれたところによると、宗城はああ見えてもなかなかの〈狡猾《こうかつ》先生〉で、慶喜を将軍に擁立しようということでは水戸や春嶽や容堂と足並みを揃えていたが、水戸・尾張・春嶽・容堂が幕府から厳譴を受けたと聞くと、さっそく〈井伊家へ諂佞《てんねい》(こびへつらい)を朝夕呈し、井伊|掃部頭《かもんのかみ》は茶道具を|被好 候《このまれそうろう》を知りて、伊達家重代の珍重せる茶碗と外《ほか》に一品を井伊家に送〉った。そこでこの高価な茶碗のおかげで厳譴を免れた、というのだ。そして次のように付言している。—— 〈乍併《しかしながら》、隠居を願《ねがい》、尚《なお》遠江守|宗紀《むねただ》へ家督を頂戴せるは(これは春嶽の記憶違いである。宗紀は宗城の先代藩主で、宗城はその養子。 『続徳川実紀』によると、安政五年十一月二十三日、伊達宗城は病気を理由に隠居を願い出、家督は宗紀の実子で宗城の弟にあたる大膳大夫|宗徳《むねえ》に譲ることを許されている)、全く井伊家の取斗《とりはからい》なりと容堂の話、容堂も大に冷笑せり。これらは後世に伝《つたわ》らざるゆへ、余が記憶のまゝを記せり〉  ——というのである。  春嶽の遺言により〈門外不出〉だった『逸事史補』が一般に公開されたのは、彼の死(明治23年6月2日)から八年たった明治三十一年九月号の雑誌「旧幕府」(第二巻第九号)からである(明治32年3月号まで連載7回)。伊達宗城もすでに死んでいた(明治25年12月20日)が、これでは伊達家としても黙視できまい。大いに物議をかもしたのは当然である。  もちろん、わたくしは右の逸話の客観性を検証すべきなんの史料も持っていないが、その事実はともあれ、春嶽の口をついて出るこの率直さ、忌憚《きたん》のなさが、この『逸事史捕』の魅力であり、価値なのである。     2  春嶽は『逸事史補』の序文で歴史の必要性を強調しているが、同時に歴史は多くの〈美事《びじ》〉だけを記載して〈悪事〉は書いていないといい、〈悪事〉にはそれがはたして本当かどうかの〈嫌疑〉が残るからだ、と説いている。しかし春嶽は、自分がこの書で世間の知らぬことを〈嫌疑ヲ不憚《はばからず》〉に書いたのは、後の世の参考に供せんがためであり、〈コレ余ガ本懐トスル所ナリ〉と述べている。  実際、われわれは春嶽・容堂・宗城の三人に島津久光を加えて幕末の〈四賢侯〉と称し、西郷や大久保は、慶応三年(一八六七)五月、この四人による〈四侯会議〉を発足させて、朝廷主導の新たな雄藩連合政権を夢みたことを知っている。しかも、明治維新後も春嶽と宗城は新政府において協力関係にあったことを思えば、春嶽が心中密かにこのような宗城観を抱いていたことは、われわれにとってかなりショッキングなことである。  同書には、このようなショッキングな例がたくさんある。たとえば「水戸斉昭卿と結城寅寿《ゆうきとらじゆ》)という一節では、水戸家の家中がとかく党派をたて、常に不穏の状態にあったのは、烈公水戸斉昭の失策によるもので、天下の乱も、水戸藩内の血で血を洗う抗争も、それによって惹き起こされた、と断じている。しかもその根源は、烈公が〈姦悪巨魁〉な結城寅寿を寵愛《ちようあい》したことだという。  寅寿は十三、四歳のころ、烈公の御側に侍して御伽衆《おとぎしゆう》を勤めていたが、〈烈公は色欲を専ら好み給ふ御性質〉なので、美少年の寅寿に溺れ、寅寿と〈男色《なんしよく》〉に耽ったため、姦悪な寅寿と誠忠無二の藤田虎之助(東湖)や戸田銀次郎(蓬軒)とのあいだに対立ができて、水戸家混乱の原因となったと説明し、〈嗚呼《ああ》一時の過失より、天下の乱兆となる、可畏《おそるべき》かな〉と慨嘆している。  また「水戸|内訌《ないこう》のこと」という一節でも、後年の竹田耕雲斎の天狗党と市川三左衛門の諸生党の抗争は藤田東湖と結城寅寿の対立を引き継いだもので、その争いの起源は同じく烈公の大失策・大不徳にあるといい、現在この事実を知る者はだれもなく、〈余は或人《あるひと》(名|覚《おぼ》ゆ、わざと不記《きせず》)より内々聞《ないないきき》たり〉と注記している。  結城寅寿は〈容貌少年の時は大美少年〉で、〈実に難逢《あいがたき》好男子なるよし〉。それに〈烈公は元来好色家にて、妾《めかけ》数人を置き、其上|峯寿院公主《ほうじゆいんこうしゆ》(十一代将軍|家斉《いえなり》の娘で、斉昭の養母)|之上臈 唐橋《のじようろうからはし》と密通せられし事あり。かく迄の好色家|故《ゆえ》、寅寿を愛寵し、屡鶏姦《しばしばけいかん》を行はれしよし(真疑難保証《しんぎほしようがたし》〉と、ズバリ書いている。そして烈公は寅寿を重く用いたが、のちに藤田や戸田の言葉を信用して寅寿を黜《しりぞ》けたため、〈寅寿は烈公を深く恨み奉り、藤田党を悪《にく》む事|豺狼《さいろう》の如し。これが即《すなわち》原因なり〉と述べ、〈人を誹謗するやうなれども、実情を記《しるさ》ざれば分らず、依てこゝに是を記載せり〉と付け加えている。  春嶽はかつて十六歳のとき、藩主となってはじめて越前に赴くにあたり、当時声望第一の水戸藩主徳川斉昭(四十四歳)を小石川の水戸藩邸に訪ね、藩主としての心得九カ条の質問書を提出して、教えを請うている。春嶽にとって烈公は崇敬の対象であった。それなるがゆえに春嶽は将軍継嗣問題で烈公の七男一橋慶喜を積極的に擁立し、そのために幕府に罪を得ても悔まなかったし、戊辰の変にさいしては慶喜の助命嘆願に努力もしている。春嶽が生涯慶喜に肩入れしたのは、烈公に対する敬慕の念に発するといってよいだろう。その春嶽が一面では烈公をこのように突き放して見ていたのである。ところが、さらに驚くべきは、次の斉昭評である。——  春嶽によれば、烈公は好悪《こうお》の情が強く、好きとなるとその人間の意見はなんでも容れ、嫌いな人間のことばはたとえ善言でも採用しなかった。したがって〈老公の性、智恵はいと暗《くらし》といふて可なり〉というのである。さらに春嶽は〈天下の動乱を引起せしは老公・藤田・戸田の三人〉だと断定し、〈第一は我《わが》国家(水戸藩)の姦党を圧倒せんとし、第二には幕府の旧弊を矯せんとせるなり。此二条にとまれり。是《これ》天下を鼓動し且煽惑《かつせんわく》するゆへんなり〉と述べたのち、次のように強調する。 〈水戸老公の私心は頗《すこぶる》盛んなり。此事件については、我等も老公のために売られたり。勤王の誠意は感ずべき事ながら、一橋|刑部卿《ぎようぶきよう》を将軍となす事は、老公の私心と慾とに起れり。天下の人民いまだこれを知らず、天下有志の者は、名君を将軍家定公の後にせんと謀るは、有志の者の志《こころざし》にして、感賞すべき事なり。乍併《しかしながら》、是も天下の有志、水府老公の私心のある事を知らず、為彼《かれがため》に欺《あざむ》かれたり〉  このことばの肯綮《こうけい》にあたっているかどうかは別として、水戸斉昭の政治活動の真意をこれほど厳しく批評したことばを、わたしはまだ知らないのである。 [#改ページ] 第34話 慶喜揺れる     1  前将軍徳川慶喜が幕軍将兵を大阪城に置き去りにして、軍艦開陽丸で江戸へ帰って来たのは慶応四年(一八六八)一月十一日の夜であった。翌十二日早朝、浜御殿内海軍局の船着場に上陸。  このときの模様を、明治三十年七月発行の「旧幕府」第四号に掲載された「某翁日記摘録」が次のように報告している。この〈某翁〉というのは、その内容から、当時軍艦奉行をしていた木村|兵庫頭喜毅《ひようごのかみよしたけ》(号|芥舟《かいしゆう》。万延元年、咸臨丸で渡米したときは摂津守だった)であることが知られる。—— 〈十一日|薄暮《はくぼ》退朝して(江戸城から新銭座《しんせんざ》の自宅に帰って)着換《きがえ》んとする時、大砲一声を聞く。曾《かつ》て開陽艦の品川に碇泊せし時の砲声と同じきが故《ゆえ》、若《もし》や同艦の帰来せしにあらざるか、と怪しみ居たりし折柄〉、海軍局からの使いで、目付|設楽備中《しだらびつちゆう》がわたくしに宛てた一通の手紙を届けて来た。披《ひら》いて見ると、本日|大君《たいくん》が開陽丸で品川沖までご帰着あり、明朝御浜御殿へご上陸の予定なので、その準備をせよ、との趣きであった。  そこでただちに馬を飛ばして海軍局に行ってみると、局の手前の暗闇の中で、開陽丸の士官香山道太郎と小杉雅之進に出逢い、一緒に局に到る。そこで二人から事の次第を尋ねると、〈二氏|悲咽《ひえつ》して言ふ能《あた》はず。大要伏見の争戦《そうせん》利あらずして、去る七日大君開陽艦に御乗組、翌八日摂海|御開纜《ごかいらん》、只今品川へ御着船なり、此事秘密なればかまへて他に洩《もら》すながれとて、二氏は直ちに舶《ふね》に返れり〉。  この夜は局にとどまり、明早朝のご上陸の準備を指揮して終夜眠らず。やがて同僚たちも急報を聞いて、追々と局に集まってきた。 〈十二日|払暁《ふつぎよう》、板倉閣老(伊賀守|勝静《かつきよ》)まづ局に来られ、御庭海岸に出て待受《まちうけ》られ、やがて大君には押送《おしおく》り船にて御上陸、松の御茶屋にて暫時《ざんじ》御休憩あり、今朝より未《いま》だ御膳召上《ごぜんめしあが》られずとの事により、予が宅よりビスケット一大缶を取寄せ、差上げたり、其内《そのうち》騎兵方より御馬|相廻《あいまわ》り、扈従《こしよう》の面々一同乗馬にて、第十時|過《すぎ》御帰城あり〉  慶喜は京都で徳川宗家を相続し、さらに将軍職に就任したので、〈征夷大将軍〉としては江戸城に起居したことがなく、この日の帰城も、徳川家第十五代当主の資格としてははじめて江戸城へ入ったのである。当時、江戸城は本丸も二ノ丸も火事で消失し、西ノ丸しか残っていなかった(それがやがて皇居となり、二度の火災を経て今日に到っている)。 『続徳川実紀』の「慶喜公御実紀」によると、この一月十二日の記載に次のようにある。—— 〈上様御事《うえさまおんこと》、御軍艦え召させられ、今《こん》十二日西ノ丸え着御《ちやくぎよ》遊ばされ候。もっとも、此後の動静により、速やかに御上坂《ごじようはん》遊ばされ候|思召《おぼしめし》に候。  右の趣き、向々《むきむき》え触れらるべく候〉  つまり、慶喜は江戸城へ帰還すると、まず最初に、今後の情勢次第ではすぐにも大坂へ進発する予定である、ということを各方面に通達させているのである。これは慶喜が江戸を本拠として反撃に出る決意をもっていたことを物語るものであって、慶喜が大坂城脱出のさい、すでに恭順の意向をもっていたという説とは背反するものである。  慶喜は江戸に帰ると、再挙の可能性を積極的に探っているのだ。その姿勢があればこそ、抗戦派に期待と勇気を与えたのである。  右の「某翁日記摘録」のつづきを読んでみると、—— 〈予も御跡より登営し、夜十一時に至り芙蓉《ふよう》の間《ま》役人一同御前へ召出され(芙蓉の間には寺社奉行・江戸町奉行・勘定奉行・大目付・駿府城代・奏者番《そうじやばん》・遠国《おんごく》奉行などが詰める)、此度《このたび》はからずも大事変|差起《さしおこ》り、実に当家危急存亡の際なれば、何《いず》れも隔意なく存寄申出《ぞんじよりもうしいず》べくとの上意あり、是時《このとき》に当り議者|紛然《ふんぜん》、或《あるい》は敵兵を半途に扼《やく》し、決して函嶺《かんれい》(箱根山)を踰《こえ》しむ可《べか》らず、或は軍艦を出して浪華《なにわ》を襲ひ、前後より夾撃《きようげき》すべしなど、切歯扼腕案《せつしやくわんつくえ》を斫《たたき》て怒る者あり、泣血悲咽|狂《きよう》するが如き者あり、又建議する所あらんとて謁見を願ふ者、陸続として絶へず、大君には終日諸吏及び藩士を延見せられ、日の|?《くる》るまで食し玉ふの暇なく、殆ど疲労し給へりと、予も聊《いささか》愚見もあれば、封書にて御手元まで差上げたり〉  こうして翌十三日からは全幕臣の大評定が連日行われ、〈徹底抗戦〉と〈絶対恭順〉の両論が白熱化した。その過程でなぜか慶喜の姿勢は次第に〈恭順〉に傾いて行った。それが抗戦派に焦燥感を与えた。慶喜のこの変り身を責めて主戦論に引きもどそうとする勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗上野介|忠順《ただまさ》は、一月十五日。突然罷免された。そして江戸城内の大評定が〈絶対恭順〉路線で纏《まと》まったのは、一月十七日であった。     2  江戸へ帰った慶喜を〈絶対恭順〉にまで持って行ったのは、勝海舟と大久保|一翁《いちおう》(越中守|忠寛《ただひろ》)であった。この二人はそれまで慶喜に毛嫌いされていた人間である。左遷、復活、また左遷、といった処遇に甘んじてきた幕臣である。その二人を慶喜が側近に呼び出したのは、おそらく薩長対策という政略のためだったと思われる。幕臣中、薩長側リーダーが重視しているのはこの二人だけであることを、慶喜は知っていたからである。  ところが慶喜は、その二人に〈誇り〉と〈いのち〉とどちらを取るか、という二者択一を迫られたのだ。鳥羽・伏見の戦いののち慶喜追討令が出ると、西郷吉之助も大久保一蔵も「慶喜の首をとらぬうちは絶対に手はゆるめぬ」と豪語していることは、慶喜の耳にも達していた。徹底抗戦によって潔く〈誇り〉に死ぬか、絶対恭順を守ってなんとか〈いのち〉を全《まつと》うするか。おそらく二人はいままでの経験で、慶喜には命のかかった土壇場に立たされると、急にその場から逃げ出す脆さがあることを知っていたのだ。二人はそれを逆用して、慶喜の再挙抗戦の野望をピシャリと抑え、〈絶対恭順〉を選ぶなら〈いのち〉の安全だけは一命に替えても保証すると誓った。案の定、慶喜は〈いのち〉のほうを選んだのだ。その〈臆病〉がそれからの四十五年にわたるかれの後半生を確保した。  慶喜は揺れていた。しかし、この選択の結果、一月十五日、徹底抗戦派の小栗忠順を罷免した。それは絶対恭順派を喜ばせた。同日付で大久保一翁が松平春嶽宛に〈小栗等|御退《おしりぞけ》(は)旧習御一洗(の)大好機と奉存《ぞんじたてまつり》候〉と、その喜びを手紙で書き送っている(『戊辰日記』)。当時、松平春嶽は維新政府の議定《ぎじよう》職にあり、政府と徳川家の調停に苦心していた。  ナポレオン三世にあこがれる慶喜が、それまでかれが積極的に進めてきた親仏路線の中心人物として常にかれを助けてきた小栗忠順を罷免したことは、慶喜としては大きな〈決断〉であった。そしてそれは、結果的には正しい〈決断〉だったかもしれない。しかし、それが本当に慶喜の考えぬいた結果の〈決断〉だったかどうか、わたくしは大きな疑いをもっている。もっと、発作的な罷免宣告ではなかったか。  というのは、大評定の席上で小栗は非妥協的な強硬論を主張して慶喜を直諫《ちよつかん》し、いたたまれなくなった慶喜が席を立とうとするとその袖をとらえたので、その気魄に慄え上がった慶喜が小栗の手を力いっぱい振り切って奥へ逃げ込んだ、という話が遺っている。そのとき蒼ざめた慶喜がじきじきに小栗に罷免を言い渡したのだという。もちろん、罷免は、一月十五日、芙蓉の間で老中列座の上、酒井|雅楽頭《うたのかみ》(忠惇《ただとし》)から申し渡されているが、これは形式だけのことであろう。  以上のような経過を眺めて、そこから浮び上がってくる慶喜像は、必ずしも思慮分別に富んだ熟慮断行型の人物とは思われない。もちろん、頭脳の回転の速さ、教養の深さなどについては疑問の余地はないのであるが、どこかに現代の知識人とも共通する、精神的な、というよりももっと肉体に密着した、器質的な、ともいうべき脆さが感じられる。  ここで思い浮ぶのは、前回に紹介した松平春嶽の『逸事史補』である。前回は春嶽が一度は畏敬した水戸斉昭にたいして、厳しい批判の眼をもっていたことを述べたが、斉昭の子の慶喜にたいしてはどうであったか、ということである。  春嶽が終始慶喜擁立派の中心であったことは周知のところである。そして慶喜自身は、自分には将軍になろうというような気持は全くなかった、と常に語っているが、春嶽は次のように述べている。—— 〈慶喜公は、衆人に勝れたる人才なり。しかれども自ら才略のあるをしりて、家定公の嗣《し》とならん事を、ひそかに望めり。この事は、余の想像論なれども、我《わが》信ずる所にして、決《けつし》て疑《うたがい》を入れざる所なり〉  すなわち、春嶽は慶喜に将軍たらんとする野望があった、とみているのである。そしてさらに、次のようにも語っている。—— 〈慶喜公は頗《すこぶ》る有名にして、才智勝れ給ひて、実に感佩《かんぱい》するの人なれど、世間にてはこれをしる物はなけれども、至て胆《きも》の小なる性質なり。夫故胆力《それゆえたんりよく》小なるが故に、決断する事ならず、水戸烈公右同断にして、父の性質を受けたるものと存《ぞんぜ》られ候。是は世人のしらざる所なり。夫故(江戸城明渡しにあたって)旗本等|喋々《ちようちよう》議論に眩惑せられ、当惑こゝに極《きわま》り、今此城を渡せば都下の人民無事|安穏《あんのん》なれど、東照宮以来代々所有の城を渡せば、先祖代々の尊慮も如何《いかに》、不孝の罪|難遁《のがれがたし》とて、実に喫食《きつしよく》もせずして心配〉  というのである。揺れる慶喜の心情をこれだけ書き遺した大名はいない。 [#改ページ] 第35話 海舟疑われる     1  大橋|乙羽《おとわ》の『名流談海』(明32・3、博文館という本に、乙羽が勝海舟を訪ねて交わした座談が四篇収録されている。その第一篇「洗足軒話《せんぞくけんわ》」(明治29年10月末?)の中で、海舟は日清戦争の戦後処理のまずさについて第二次伊藤博文内閣を厳しく批判したのち、次のように語っている(現代表記に書き改めた)。—— 「もちっとしっかりしてもらいたいネ。なぜあのように腰が弱いんだろう。私などは、チャンチャンバラバラの中を往来しても、やるところはキチンとやり、纒《まと》めるところはキッパリと纒めた。今の人は足踏み一つされても、すぐヘタクタになる。それは本を読むからだ。物識りになると人間が弱くなる。お前、ご覧よ。三代目|唐様《からよう》で書く売家札《うりやふだ》で、今の人たちもその三代目の格だ。まず、積ってもご覧よ。いまの政府の先祖は西郷・大久保・木戸だ。幕臣では山岡鉄太郎や大久保一翁などが先祖の格だが、その先祖はみんな死んでしまい、私ばかりが残った。長生きをするおかげで、いろいろな詰まらぬことを見るよ。西郷は豪《えら》かった。西郷は親玉だ。次は大久保。木戸に至っては、よほど下った。今の人たちは何をしているのか。ちっと騒ぎがあると、すぐ辞するの退《しりぞ》くのと、そんなことで国家の料理ができるものか。大根の種を蒔《ま》いておいて、その大根の生えぬうちにまた牛蒡《ごぼう》を蒔くのは、わからぬ話じゃないか。私なんかの遣った折には、あまり他人に物をいわせなかった。だから敵も多かったよ。勝を殺すの、暗殺するのといううわさは、朝晩のように聞いたが、いまにこうピンピンしているところをみると、世の中というものも、そんなに怖いものじゃないよ。お前なんぞはまだ若いのだから、ドシドシ遣りな。喧嘩《けんか》しなくちゃいけないよ」  と、話はいささか横に逸れて、乙羽は目を白黒させたはずだが、とにかく勝海舟が幕末から維新にかけて、何度か暗殺されかかっていることは、かれの座談などからも知られる。  たとえば、文久三年(一八六三)、海舟は京都寺町通りで三人の暗殺者に襲われている。おそらく尊攘激派であろう。このときはボディーガードをしていた〈人斬り以蔵〉こと岡田以蔵がさッと刀を抜いて一人を斬り捨て、「弱虫どもが、何をするか」と一喝したので、残り二人は逃げ去った。  また慶応四年(一八六八)二月には、幕兵の徹底抗戦派脱走隊に小銃で何度か狙撃され、四月になって新政府軍の江戸入城後には、官兵に狙撃されて落馬し、路上の石に後頭部を打って失神したこともある。  そもそも考えてみると、海舟のボディーガードをした土佐の岡田以蔵は坂本龍馬に命ぜられて海舟を護衛していたもので、その龍馬自身、文久二年(一八六二)十月、はじめて海舟に会ったのは、海舟を暗殺する目的で海舟邸を訪れたのであった。  それほど海舟は暗殺の危機にさらされた半生を送ってきたわけである。しかもそれは佐幕派・倒幕派の両方から狙われるという、複雑な立場にあった。  その複雑さは、慶応四年五月十五日、彰義隊の戦争が上野で行われたとき、赤坂元氷川の海舟邸に二百人ほどの新政府軍兵士が乱入して、刀剣・雑物を掠奪して去っていることでも知られる。このとき海舟はたまたま田安邸にいたので難を免れたが、海舟は旧幕府の恭順派の頭目である。新政府軍に襲われるべきいわれはないはずであった。  結局、暴徒乱入の理由はもちろん、だれの指令によるものかもはっきりせず、問題はうやむやに終ったが、新政府内部におけるそれまでの勝・西郷協調路線を不満とする彰義隊討伐強行派が、海舟が彰義隊を利用して江戸における徳川勢力の温存を画策していると疑ったためらしかった。     2  海舟が新政府軍の兵士に襲われそうになった事件がもう一度ある。  田安亀之助が駿府(静岡)七十万石藩主徳川|家達《いえさと》となって駿府へ移ったのち、旧幕臣の多くは駿府へ〈無禄移住〉の旅に出たが、海舟が江戸(すでに七月十七日に〈東京《とうけい》〉と改称されていた)の残務整理を終って、海路駿府へ向ったのは同年十月十一日——天皇が東京へ都を遷し、その鳳輦《ほうれん》が東京城西ノ丸に到着した十月十三日の二日前であった。 「海舟日記」によると、翌十二日、〈駿府着。上様《うえさま》(徳川家達)へ拝趨《はいすう》、春|已来《いらい》の情実、御跡々《おあとあと》の転末《てんまつ》、当時の形勢、其他|言上《ごんじよう》〉とある。数え六歳の家達が海舟のことばをどの程度理解できたか。ただ「ウン、ウン」とうなずくだけだったかもしれない。  ところが、それから二十日以上たった十一月六日の日記に、次のような記載がある。—— 〈聞く、東京を我が発せしは、先月十一日也。東本願寺(築地の西本願寺?)へ寄り、移住の者等と同船す。其跡へ官兵三十人|斗《ばかり》来り、我を探索す。云《いう》、我が建言|悉《ことごと》く虚言|而已《のみ》、ゆへに召捕為也《めしとるためなり》と。本日、此事を或人に聞く。既に上官は是を知れども、我に告げず〉  つまり、海舟が東京を発った直後、新政府の兵隊三十人ばかりが追って来て、「勝はいないか」と探索したというのである。探索の理由は、いままでの海舟の建言がすべて嘘ばかりだったから召捕るのだ、といったという。どうもその理由の内容がいまひとつはっきりしないが、とにかくこの段階になってもまだ新政府内部に反勝派がいたことだけは想像できよう。勝という人物にたいする疑惑と警戒心は意外に強いのである。  閑話休題《それはさておき》、海舟にとって新政府の自分にたいする疑いは、いわば毎度のことでたいして驚きはしなかったであろうが、徳川家の重役たちがそれを知っていながら海舟には黙っていたことが気に障った。しかも右の記述に続けて、海舟は次のように書いている。—— 〈前上様《ぜんうえさま》(徳川慶喜)の御説には、我が一策にて、官兵に頼み、斯成《かくな》さしめたるものならむ云々《うんぬん》と。嗚呼《ああ》、当春已来、我が微力を奮《ふるつ》て今日に到れり。人心の頼み難き、千古一轍、大功の下、久しく立《たち》がたし。永訣して致仕《ちし》の念、益《ますます》甚だし〉  つまり慶喜はこの話を間いて、「勝のことだから薩長との結びつきをごまかすために、官兵に頼んで、自分を逮捕させようとする芝居を打ったのさ」といったというのである。  これはいかにも頭の回転の速い慶喜の言いそうなことばである。すぐ他人の行動の裏を読む〈癖《へき》〉も、慶喜のものである。そして海舟をまだ単なる〈薩長派〉としてしか見ていないことが、海舟にはショックだったのだ。  海舟にしてみれば、二年前、長州再征の停戦交渉を慶喜から委任され、命がけで広島に赴いて長州藩士と交渉を纒めたのに、結局は慶喜に裏切られ、幕府内における〈薩長派〉として時間かせぎのために利用されたにすぎぬ、とわかった。そのとき飲まされた煮え湯の記憶はまだ癒えていない。にもかかわらず、幕府瓦解にさいしては、その失望感を押し殺して、慶喜の助命、徳川家の存続に奔走してきたのに、慶喜はまだこんな疑いの眼でしか自分を見ていなかったのか、という悲しみと憤りが、吐露されているわけだ。 「もう徳川家とは手を切りたい」と叫びながらも、海舟は生涯それができなかった。そして徳川家の経済的安定と旧幕臣の救済のために黙々と努力している。  明治二十年(一八八七)五月、海舟は伯爵を授けられた。すでに明治十七年七月七日、華族令が公布され、徳川家達は公爵を、慶喜の四男|厚《あつし》(兄三人は早世)は男爵を授けられていたが、海舟は慶喜の家よりは上の爵位に叙せられたのである。しかし、明治二十五年(一八九二)二月七日、長男の海軍予備少佐勝|小鹿《ころく》が病死したとき、海舟は「わしの死後は爵位を徳川家に奉還したい」といって、慶喜の末子|精《くわし》(明治21年生)を養嗣子に迎えたいと希望し、それが許された。海舟の意向を聞いたとき慶喜は〈たいそう涙にムセバレ〉、〈「勝は、自分に対して怨《うら》みでもしていると思ったに、それまで信切《しんせつ》に思っていてくれるか」〉と感謝したという(岩波文庫『海舟座談』付録・宮島誠一郎談)。長いあいだ二人の心に蟠《わだか》まっていた疑いの念が、このときはじめて和解したというベきであろうか。  明治三十一年(一八九八)三月二日、慶喜ははじめて参内《さんだい》して、天皇・皇后に拝謁した。いちばん喜んだのは海舟である。幕府瓦解にあたって海舟が慶喜に演出した〈絶対恭順劇〉の大切《おおぎ》りといってよかったからである。その三月十四日、海舟は巌本《いわもと》善治に次のように語っている。—— 〈慶喜が参内の時は、破格のお取扱いがあったから、お礼に行ったがネ、その時から、こう風を引いた。もうかれこれ送迎するものがあるし、|慶喜はまた得意になる人だからネ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。この間もひどくそう言って置いた。(中略)これで、徳川氏の事は首尾を全《まつと》うしたから、もうこれで、また他の事をよくせねばならぬ〉『海舟座談』(傍点綱淵)  この歳になってもまだ慶喜の癖《へき》を心配しながら、翌明治三十二年(一八九九)一月十九日、海舟は死んだ。  慶喜は明治三十五年(一九〇二)六月、公爵を授けられ、晩年は渋沢栄一編纂の『徳川慶喜公伝』の史料座談会である昔夢会《せきむかい》に出席して、『昔夢会筆記』という回想談を遺している。その第一回(明治40年7月23日)の発言の最後に、—— 〈勝のこの時(慶喜が東帰恭順したとき)の態度は、世に伝うる所とはいささか異なるものあり。すべて勝の談話とて世に伝うるものには、多少の誇張あるを免れず〉  と、死んだ海舟に一矢《いつし》報いている。大正二年(一九一三)十一月二十二日死去。海舟と同じ数え七十七歳であった。 [#改ページ] 第36話 死 の 正 夢     1  昭和五十三年(一九七八)は大久保利通の死んだ明治十一年(一八七八)からちょうど百年目にあたったので、大久保の出身地である鹿児島では〈大久保甲東百年記念顕彰会〉が結成され(会長・鎌田要人鹿児島県知事)、大久保利通像の建立・その他の顕彰事業が行われたが、その一環として、松原致遠編『大久保利通』(明45・5、新潮社)という、いまでは稀覯本《きこうぼん》に属する図書が復刻され、大久保利謙氏による〈補遺編〉を別冊として付して、同顕彰会事務局からわたくしにも恵贈されたのは、昭和五十六年の暮であった。わたくしはさっそく翌五十七年一月一日付で受領の礼状を送った。  この本の内容は、明治四十三年(一九一〇)十月から同年末まで八十回余にわたって「報知新聞」紙上に「大久保公」という表題で連載されたインタビュー記事を纒めたもので、大久保に生前親しく接した人々の思い出話が収録されている。大久保の近親者はもちろん、同僚として、また部下として直接大久保の謦咳《けいがい》に接した人々の直話《じきわ》であるから、貴重な記録というにはばからない。大久保利謙氏が祖父利通の顕彰記念としてこの本の復刻を奨められたのもまた宜《うべ》なるかな、というところである。  わたくしは昭和五十二年(一九七七)の十月、西郷隆盛の没後百年記念にさいして、記念講演の講師として招かれ、川内《せんだい》市と串木野《くしきの》市で講演をする機会に恵まれたが、そのとき「来年は大久保先生の死後百年なのですが、西郷先生に較べるとどうもいま一つ人気が薄くて、顕彰のムードが高まりません」と地元の人々が漏らしていたのを記憶している。  西郷の百年記念には記念式典、大西郷博、記念講演など、県をあげて大々的な顕彰行事が催され、「さすが西郷の地元だ」とびっくりするほどの賑かさであった。それに較べて、大久保のばあいはどの程度の多彩さであったのかは知らぬが、いずれにしても銅像の建立や記念図書の復刻といった、心のこもった顕彰が行われたことは、慶賀の至りというべきである。  さて、怠け者のわたくしは、この復刻された『大久保利通』をツン読に委せ、すぐには読む時間を持てなかった。そして、送られて来てから一年三カ月もたった最近になって、ようやく通読の機会を得た。もちろん、こういう逸話集が面白くないはずがないわけだし、また当然、大久保の人柄について勉強させられるところも多かった。  たとえば松村淳蔵という人(この人は元治元年にイギリスに密航した薩摩藩留学生の一人で、後年海軍中将で退役)の談話で、〈藩の役人として大久保公ほど早く出世をした人は、鹿児島藩始まつて以来例がない〉というのがある。これは大久保が〈お小姓組〉から〈お徒《かち》目付〉になり、〈お小納戸《こなんど》係〉そして〈お側役〉へと昇進したのであるが、普通だとこれらの役職はそれぞれが数年から十数年も勤めて〈功労もあり年功も積んでから〉はじめて昇進するはずなのに、〈それを如何《どう》ぢや、大久保公は唯《た》ツた一年で行つてしまうた。(中略)其の出世の早い事は驚くべきものぢや〉というのである。  こういう昇進ばなしは、人物伝を読むとき、あまり実感なしに読みとばしがちだが、このようにいわれると、薩藩内における大久保の地位、とくに〈久光派〉側近として権力の座にいかに素早く接近したかということが、極めて具体的に印象づけられる。〈お側役〉というのは幕府では将軍の御側御用人にあたろう。とすれば、大久保は幕府における柳沢吉保や田沼|意次《おきつぐ》と似た出世コースをたどったとみてよいわけだ。  また、米田虎雄《こめだとらお》(肥後熊本藩家老長岡|監物《けんもつ》の子で、明治になってから侍従長にまでなった。子爵)の話によると、朝廷に出仕するのに、大久保が一番最初に断髪したという。 〈まだ人が頭の髪を截《き》らぬ内《うち》、大久保さん一人断然切つて朝廷へ出られた。これが断髪して朝廷に出たはじまりだが、大久保さんの此の英断には皆が胆をひしがれた。畏《おそ》れながら陛下もそれから十日|許《ばか》りして御髪《おぐし》をお断《き》り遊ばされたし、下々《しもじも》の者もこれに倣《なら》つて切つたといふ次第だ。先日伊藤公(博文)の一週年祭に其事を話したら、皆がそれは珍らしい話だと言つて居た。牧野男爵(伸顕。利通次男)すら初耳であつたらしい〉  大久保の話が出ると、当然西郷の話も語られるが、同じく米田虎雄に次のような話もあった。—— 〈今の人は知るまいが、あの上野にある銅像や世間によくある西郷の肥満した肖像などは、あれは西郷が島に流されて帰つてから以後の風采で、島へ流されるまでは、極痩《ごくや》せぎすな、背のスラリとした、髪の毛のバサ/\した人で、眼ばかりは矢張《やはり》ギロ/\と光つて居た。島に流されて非常に肥満《ふと》つて帰り、其後も人が心配する程だん/\肥満つて来たが、藩の為めに奔走して居る頃は痩せたスラリとした人であつたのだ〉     2  このような話を紹介するときりがないが、これも米田虎雄の話に「佐賀陣中の公」という一章がある。  明治七年、江藤新平の佐賀の乱にあたって、大久保はみずから佐賀におもむいたわけだが、佐賀城攻略のとき、大久保が弾雨の中を平然と歩いて行くのにびっくりしたという話が披露されたあとで、明治十一年の近衛兵が起こした竹橋騒動のときの話が語られている。—— 〈近衛兵が騒動を起しては、宮中は頗《すこぶ》る危険である。大臣方や首《おも》だつた人々は早速駆け付けるべき筈《はず》だのに、誰も参候《さんこう》しない。斯《こ》う言つては変だけれども、有名な人々でも弾丸の飛ぶ時は誰も/\伺《うかが》ひに出なかつた。此時は野津(鎮雄)が近衛の参謀長をして居たが、後になつて私に話したが、騒動が起つて第一に飛んで来たのは、大久保さんであつた、その次に大隈(重信)さんが来た、その外は騒動が済んで弾丸の雨の降り止むまでは誰も来なかつた、弾丸が降つては有名な人も形無《かたな》しだと言つて居た。大久保さんは此の危険な中を冒して陛下の御機嫌を伺ひ、野津を御前に召して万事を御命令になるやうに取計らはれたが、実に泰然たるもので、野津も敬服したと言つて居た〉  これは大久保がいかに沈勇大胆の人であったか、という逸話である。したがって、これは素直に感心しておればよい話であったが、わたくしはそれを読み終ったとき、「待てよ」という気持がふと脳裏を掠《かす》めた。  わたくしはかつて『斬(ざん)』という作品で、この竹橋騒動を書いたことがある。そのときの記憶がよみがえったのかもしれない。そして問題は、この竹橋騒動のとき、はたして大久保は生きていたか、という疑問が湧いたことである。  わたくしは『斬』の中で、大久保が紀尾井坂で石川県士族島田一郎たち六人に刺殺され、その兇行者たちを小説の主人公である山田|吉亮《よしふさ》が斬首した場面も描いていた。そこで、大久保が暗殺されたのは竹橋騒動の前ではなかったか、という疑問だったのである。  これは調べればすぐわかる。大久保の遭難は明治十一年(一八七八)五月十四日であり、竹橋騒動は同年八月二十三日であった。したがって、この談話が真実とすれば、死んだ大久保が宮中へ駈けつけたことになる。  この間違いが米田虎雄の記憶違いか、米田に竹橋騒動の夜のことを語った野津鎮雄の記憶違いか、いまは調べるよすがもないわけだが、人間の記憶というものが三十年もたつと(明治十一年から新聞掲載の明治四十三年までに三十二年の歳月が流れている)、いかに曖昧《あいまい》なものになるかという好例というべきだろう。  最後にもう一つ、〈補遺編〉に収録されている前島|密《ひそか》(明治初年、郵便制度の創設に功あり。貴族院議員・男爵)の懐旧談から紹介しておこう。大久保がみたという夢の話である—— 〈紀尾井町の変のあつた三、四日前の晩、何であつたか相談する事があつて大久保公の屋敷へ行つた。一緒に晩餐を食べて居たら、「前島さん、私は昨夕変な夢を見た。何でも西郷と言ひ争つて、終ひには格闘したが、私は西郷に追はれて高い崖から落ちた。脳をひどく石に打ちつけて脳が砕けてしまつた。自分の脳が砕けてピク/\動いて居るのがアリ/\と見えたが、不思議な夢でありませんか」といふやうな話で、平生夢の事などは、一切話されぬ人であつたから、不思議に思つて居たが、偶然かどうか二、三日にして紀尾井町の変が起つた。  その日は太政官に緊急な相談事件があつて、皆が早く出かけた。皆が出揃つても大将一人見えない。大変遅いが何うしたのだらうと言つて居たら使が来て、今大久保公が紀尾井町で刺客の手に倒れたと報らして来た。私は直ぐに駈けつけた。公はまだ路上に倒れたまゝで居られたが、躰《からだ》は血だらけで脳が砕けて、まだピク/\と動いて居た。二、三日前に親しく聞いた公の悪夢を憶ひ出して慄然《ぞつ》とした〉  これを読んだとき、わたくしは『斬』の中で、別な資料によって次のように書いていたことを思い出した。—— 〈分署に詰めていた警部巡査たちが遭難現場へ駈けつけてみると、死体はよほど引きずり廻されたらしく、一間ほどずつ間隔をおいて三カ所におびただしい血だまりができており、全身五十数カ所の傷を負っていた。しかも見るも無慚《むざん》だったのは、路上に仰向けに倒れている大久保の首に大刀《だいとう》一本、脇差《わきざし》三本が鍔元《つばもと》までズブリと突き立てられ、刺客たちの大久保にたいする恨みの深さを物語っていたことである。勿論《もちろん》、すでに絶命し、ただ飛び出した脳漿《のうしよう》だけがピクリピクリと動いているのみであった〉 [#改ページ] 第37話 二十年後の再会     1  榎本武揚の生涯の足跡を追っていて、いつも感動を覚える挿話が一つある。かれがオランダ留学中に購入して持ち帰った電信機と二十年後に再会する、という話である。  この話には出所が二つある。一つは榎本武揚が明治四十一年(一九〇八)十月二十六日に死去して間もなく出版された、したがって榎本の纒まった伝記としてはおそらく最初のものと思われる一戸《いちのへ》隆次郎著『榎本武揚子』(明42・1・7、嵩山房)所収の「榎本子爵逸話」であり、もう一つは海軍技術中将|沢鑑之丞《さわかんのじよう》著『海軍七十年史談』(昭17・12・1、文政同志社)所収「榎本武揚が和蘭より持帰つた電信機」という史談である。  まず、一戸隆次郎の集めた逸話の一つによると、——  榎本がオランダ留学中、あたかもかのモールス電信機の発明があったので(この言い方は正しくない。アメリカ人モールスが電信機を発明したのは一八四〇〔天保十一〕年、ワシントンとボルチモア間に電信線が引かれて、アメリカの電信事業が始まったのが一八四四〔弘化元〕年であり、榎本たちのオランダ留学はそれから約二十年後の一八六三〔文久三〕年である。—綱淵)、榎本はさっそくモールス電信機二台を買い入れ、〈一台は己《おの》れの下宿に据《す》ゑ、他の一台は十数町(約一・五キロ)を隔てたる友人の宿に据ゑて心のまゝに之《これ》が学理を研究し、開陽丸成るや之を船中に携《たずさ》へて尚研究を怠らず、帰朝後も之を開陽丸内に留めたり、されば、電信機の第一の輸入者は榎本|子《し》にして、子《し》(榎本子爵の意)が後日日本電友協会の会長に上げられしは斯《かか》る|※[#「夕/寅」、unicode5924]因《いんいん》のあればなり〉という。  ところが、その後、開陽丸は江差沖で難破し、秘蔵の電信機もついに海底のものとなったが、後年、榎本が〈廟堂《びようどう》に立つ〉に及んで、ある日電友協会を訪れると、〈電友社長加藤木氏〉が「最近珍らしいものが手に入りました。多分電信機だと思われますが、錆《さび》が甚だしくて、いつごろの物かわかりません」といって、一台の電信機を取り出して見せた。 〈子爵は凝視多時《ぎようしたじ》の後痛く感慨に撃たれたるものゝ如く、暫《しば》しは憮然《ぶぜん》たりしが、加藤木氏に向ひ、是れこそ我が和蘭より購《あがな》ひ来《きた》れる第一の電信機にて、往年に江差沖にて難破の際、海底に委《まか》せる者なり、此の機械は目下のものと異なり、其の作法《さくほう》は斯々《かくかく》其の使用は斯々《かくかく》と、一々説明を下せしかば、並居《なみい》たる人々も深き感慨に言葉なかりしといふ、思ふに右の電信機は漁夫の手に依りて拾ひ上げられ、怪しきものとしてただ幾度か古物商の手を経て、つひに加藤木氏の手に入りたるものなるべし云々《うんぬん》〉  ——というのである。そしてその末尾に括弧《かつこ》して、(沢海軍造兵総監談、報知新聞掲載)と、その出典を明記している。  ところで、この〈沢海軍造兵総監〉というのは、明治三十九年十一月から大正二年一月まで海軍造兵総監(その後の海軍造兵少将に相当)の地位にあった沢鑑之丞である。沢鑑之丞は榎本と一緒にオランダに留学した沢太郎左衛門の長男で、のちに海軍技術中将となり、『海軍七十年史談』を書いた著者その人である。この「報知新聞」の記事はその冒頭に〈故子爵が云々〉とあるところからみて、榎本を追悼する談話であることが知られる。  ただ、不思議なのは、同じ沢鑑之丞の話なのに、これら二つの資料は細かな点で異なっている部分が多々あることである。『海軍七十年史談』の「榎本武揚が和蘭より持帰つた電信機」には(昭和十四年十二月)と執筆年月が記入されている。つまり明治四十一年から昭和十四年までの三十一年のあいだに、沢鑑之丞はむかしの自分の誤まっていた記憶をいろいろと訂正しているわけだ。したがって、榎本と電信機の話は『海軍七十年史談』のほうが正確とみてよいだろう。それによると、——  榎本はオランダのハーグで〈モールス印字機〉を研究し、現品を日本へ持ち帰ってから足掛け十九年たった明治十八年(一八八五)十二月二十二日、内閣制度施行最初の逓信《ていしん》大臣となった。そして明治二十一年(一八八八)の春、帝国大学工科大学電気科出身者の発起によって設立された電気学会の会長に推された。  同年九月二十一日、京橋区|紺屋町《こうやちよう》にあった東京地学協会の楼上で、電気学会第三回通常会が開催された。そのプログラムが全部終ったとき、吉田正秀幹事が「本日はたいへん珍らしい機械をご覧に入れます」といって、演壇中央のテーブルの上にその機械を置き、「これがそのたいへん珍らしい、モールス印字機の最初のものです。本品は会員の沖牙太郎氏が愛宕下町《あたごしたちよう》のさる古道具屋の店先にあったのを求められたもので、フランスの〈ヂクニー社製〉のものです」と説明した。  そのときである。榎本会長が眼鏡をかけ、ツカツカとその機械の傍に近づいて熟視し、驚きと懐かしさとを表情に浮べて話し出したのは。その内容は次のようなものであった。     2 「ただいま吉田君から〈ヂクニー社製〉といわれたのでうっかりしていたが、この機械を沖君が古道具屋で求めたといい、それにこの機械がなんとなく見覚えのあるような気がしたので、よく拝見すると、驚いたことには、わたしがオランダ留学中に毎日実修していた、フランスの〈デニヱー社製(原注—Degney 仏音にてデニヱーなり)〉のモールス印字機でした。奇遇というしかありません。  そもそもこの印字機は、慶応三年三月二十六日、開陽丸がオランダから横浜港に到着後、一時これらを築地の軍艦操練所に格納し、のちのちの実用に供しようと思っておりました。ところが、そのうちに幕府が瓦解しましたので、ふたたび開陽丸に積み込んで箱館港にまいりましたときに、器具や機械はすべて同港運上所(税関)の倉庫に入れ、そのまま保管して置いたものです。  その後、わたしは獄舎につながれる身となり、明治五年、特赦を蒙って今日に及んだが、時にはこれら愛用した器具機械がそれからどうなったかなどと思い浮べ、うたた感慨にふけることもありました。  ところが、この印字機と別れてから二十年目のきょう、はからずもこの印字機に再会できたのは、なんという仕合わせでしょう。これ全く電気学会の賜物と深く謝意を表し、あわせて沖君の本機を発見されたことに厚く御礼を申します」  そう述べたのち、榎本は沖に向って、「ところで、この印字機にはテーブルが付属していませんでしたか」  と尋ねると、 「はい、あるにはありましたが、破損甚だしく、やむなく取り捨てました」  と沖が答えた。  ——以上がそのあらましである。そして沢鑑之丞は、〈老生は当時の会員で会長と並んで列席し、このシーンは慥《たしか》に承知してゐる〉と注記している。ちなみに、その後、この機械は逓信博物館(現在の逓信総合博物館)に寄贈され、電信機類の部に由緒書を添付して陳列された、とある。  このときの榎本の感激が伝わって来る思いがする。遠い青春時代に別れた肉親なり恋人にでも再会した思いがしたであろう。あの箱館の運上所の薄暗い倉庫から東京愛宕下の古道具屋の店先にほこりをかぶって並べられるまで、この電信機はどんな経路をたどったのであろうか。ふと、その電信機に人間と同じ二十年という浮き沈みの時の流れを感じて、いとおしさがこみ上げたはずである。  わたくしがこの話を読むたびに感動を新たにするのは、〈戊辰戦争〉という歴史の大きな曲り角を経験した榎本たち旧幕臣の心情がこの電信機にも投影されていたように感ぜられるからである。それは四十年前の〈敗戦〉によって樺太《からふと》という故郷を失ったわたくし自身の心情とも重なるからにちがいない。  同時にわたくしは、若き日の榎本武揚がわが国の第一回海軍留学生としてオランダに渡り、いわば当時の最尖端を行く〈ハイテク〉を必死に学んでいる姿を想像するとき、わたくしも含めた明治以降の日本の若者たちが送った〈青春〉の原像を見る思いがして、心を動かされているのかもしれない。  当時、〈テレガラフ〉といった電信機を、みずからツーツートントンとたたいた日本人は、榎本の前に少なくとも二人はいたようである。佐久間象山と島津|斉彬《なりあきら》である。  佐久間象山がショメールの『百科事典』の記述に基づき、自藩の松代《まつしろ》で電信機を作って実験してみたのが嘉永二年(一八四九)である。これはワシントンとボルチモア間に電信線を引き、最初の電信事業がアメリカで発足した一八四四年からは、わずか五年後、ペリーの黒船来航の四年前である。  島津斉彬は安政二年(一八五五)の秋、江戸で松木|弘安《こうあん》(のちの外務卿寺島宗則)・川本幸民・杉田|成卿《せいけい》といった少壮蘭学者に命じて電信機製造法を翻訳させ、機械は宇宿《うすき》彦右衛門・肥後七左衛門らに命じて芝の田町邸で製造させ、安政三年(一八五六)の夏に渋谷の藩邸で最初の実験をした。その後、数十回の試験を経て、安政四年(一八五七)五月に鹿児島へ帰国してから、〈御本丸御休息所ヨリ二ノ丸探勝園御茶屋ニ通線シ、日々試験シ、稍《やや》練熟致シ候〉と『島津斉彬言行録』(昭和19・11、岩波文庫)にある。〈通信ハ鉛墨《えんぼく》ヲ以テ記号スル機ナリ、線ノ長サ凡《およ》ソ三百間(約五百五十メートル)許《ばか》リ、絹糸ヲ以テ巻キタル者ナリ〉と説明を加えている。  象山・斉彬・武揚といった西欧近代化の先覚者たちがツーツートントンと電信機の鍵《キー》をたたいている光景を思い描くのは、なんとも心楽しい。維新後、郵便よりも電信のほうが早く実用化されたのは、〈テレガラフ〉のほうが幕末の日本人にカルチャー・ショックとして強烈な感銘を与えたからであろう。 [#改ページ] 第38話 獄中の地雷火     1  前回の「二十年後の再会」の原稿を編集部に渡して二十日ほどたった四月十一日(昭和60年)、榎本|隆充《たかみつ》氏におめにかかる機会を得た。  榎本隆充氏は榎本武揚の直系の曾孫にあたる方で、昭和五十八年九月、NHK函館局で函館の歴史をテレビで放映したとき、五稜郭の石垣をながめながら榎本武揚についてお話ししたのがきっかけで、おつきあいを願うようになった。  ちなみに、武揚は明治元年(一八六八)から翌二年(一八六九)にかけての箱館戦争を契機として、薩摩の黒田清隆と盟友の誼《よし》みを結んだことはよく知られているが、武揚の長男|武憲《たけのり》が清隆の長女梅子と結婚して武英《たけひで》(次男、榎本家を継ぐ)をもうけ、その武英の長男が隆充氏である。したがって隆充氏には榎本武揚と黒田清隆の血が流れていることになる。  その隆充氏と久しぶりにお会いして歓談に時を過ごしたとき、わたくしはつい最近、ある雑誌に「二十年後の再会」と題して、榎本武揚がオランダから持ち帰った電信機に再会した話について短い随筆を書いた旨を報告すると、隆充氏は「わたくしも最近、開陽丸の沈没場所から武揚の使った電信機が引き揚げられた話を聞きました」とおっしゃられた。  わたくしはびっくりした。というのは、寡聞にしてわたくしは北海道の江差沖に沈んでいる開陽丸から電信機が発掘されたという話を耳にしていなかったからである。現在、開陽丸の発掘・引揚げについては、江差町教育委員会から発行されている『開陽丸—海底遺跡の発掘調査報告I』(昭57・3)がそのすべてを網羅しているはずであるが、わたくしの読んだかぎりでは〈電信機〉が引き揚げられたという記載はなかった、と記憶していたからである。  そこでわたくしは隆充氏に、そのお話が掲載されている本ないし資料について尋ねると、今年の梁川会《りようせんかい》で水中考古学者の荒木伸介氏が行われた講演に拠るとのことであった。  梁川会というのは、榎本武揚の子孫の方々の親睦会である。昭和五十八年十月二十七日、武揚の七十五年忌が駒込の吉祥寺《きつしようじ》で行われたとき、そこに集った〈孫・ひ孫・やしゃご達〉がその日を出発点として親交を深め、〈これからの若い力と英知を、血縁のあたたかさを基に更に大きく強く結集して、どんな事でも相談し合えるような会に発展させると共に、少しでも社会に寄与し、新しい歴史の一頁を創造〉しようという趣旨で発足したもので、会名は武揚の号である〈梁川〉にちなむ(引用は「梁川会趣意書」による)。  その第一回の集りが昨年(昭和59年)の二月四日に千代田区平河町の日本海運倶楽部で行われ、わたくしがその来賓として招かれ、榎本武揚に関する短い講演を行う光栄に浴した。隆充氏のお話は、その第二回の梁川会の集りに招かれた荒木伸介氏が、実際にご自分で海底に潜られての体験談を報告されたわけで、その講演の内容に疑いを挟むべき余地は全くなかった。  その晩、帰宅したわたくしは、もう一度念のために発掘調査報告書の『開陽丸』を読み返してみた。しかし、同書に記載されている昭和五十五年までの出土遺物二万九千三百三点のどこにも、〈電信機〉という品名は見当らなかった。  ところが、ただ一つ、「これだ!」と思われるものがあった。出土遺物の〈船体・船具・機関部品等〉の部門に、配列番号一一〇番で、次のように説明されている物品およびその図版がそれである。—— 〈一一〇は全長一二・五cm、径四・七cmの真鍮《しんちゆう》製の心棒に銅線を巻いたコイルである。この用途については現在調査中である〉  わたくしは咄嵯《とつさ》に、これこそ武揚の愛用した電信機の一部に違いない、と確信した。わたくしがこのシリーズの前回で、武揚が二十年ぶりに再会したと書いたのは〈モールス印字機〉つまり受信機のほうであったから、この銅線コイルはその発信機のほうの部品であろうと推測したのである。  当時、水中考古学者で立教大学講師の荒木伸介氏は開陽丸発掘調査委員会の委員であり、みずから海底調査員としてこの仕事に尽力しておられた。その荒木氏が開陽丸の沈没現場から武揚愛用の電信機を発見したといっておられるとすれば、右の〈調査中〉とある銅線コイルの〈用途〉が電信機のものであることが確認されたのであろう。  わたくしはそう推測して、いずれ近日中にもう一度榎本隆充氏に連絡してみようと考えていた。     2  それから一週間ほどたったある朝、わたくしは隆充氏の会社に電話をして先日の礼を述べ、開陽丸に積み込まれていた武揚の電信機について『開陽丸』で調べた結論について報告した。すると隆充氏は「じつは先日、わたくしの話で不正確な部分がありました。あのとき、電信機が発見された、といいましたが、正しくはそのコイルがみつかった、ということでした」とのことで、そのことばはわたくしの推理をピタリと裏づけしてくれた。しかも隆充氏は第二回梁川会の席上で荒木伸介氏が講演されたテープ・レコーダーの一部を電話口で回して、その正確を期してくださった。  そのテープ・レコーダーからは、荒木氏がみずからダイバーとして海底の開陽丸を調査していたとき、一個の太い棒状の物体を発見したこと、引き揚げて泥を落してみると、前述のような銅線コイルで、調査の結果、それが電信機の発信機の部品であることがわかったこと、現在、その受信機のほうは逓信総合博物館の地下室にあり、したがって、開陽丸にあった発信機は沈没のさい、ひょっとしたら日本で最初のSOSを打電したかもしれないこと、そのコイルから推測して、武揚の使った電信機はペリーが来航したとき将軍に献上した電信機にくらべるとはるかに進歩していること、そういう当時の最も進んだ文明と取り組んでいた榎本武揚という人がいかに優れた国際人であったかと頭が下がること、などが要領よく伝わってきた。それはたいへん感動的なお話であった。わたくしは隆充氏に厚く謝意を述べて電話を切った。  繰返しになるが、わたくしは前回、榎本武揚がかつて自分の愛用した電信機の受信機(モールス印字機)と二十年ぶりに再会した話を述べ、その話を想い起こすたびにいつも感動を覚える、と書いた。それが今回、その発信機のほうのコイルが約百十年ぶりに江差沖の海底から引き揚げられたと聞いて、その感動をさらに深めたことはいうまでもない。そこには榎本武揚に代表される幕末日本の知識人たちが、日本の将来に何を夢みてこれらの文明の利器を使用していたかがしのばれるからである。  現在、その発信機の本体は江差沖の海底でどうなっているのであろうか。コイルだけしか引き揚げられなかったところをみると、発信機そのものはすでに崩壊して原形をとどめなくなっているのかもしれない。とすれば、せめてそのコイルだけでも、東京大手町の逓信総合博物館地下室に眠る〈モールス印字機〉と一度は肩を並べさせて、百十年ぶりの再会を喜ばしてやることも、榎本武揚の遺徳をしのぶよすがとなるのではあるまいか。わたくしはいささか感傷的な思いで、その二つが揃って陳列される日の来るのを夢みているのである。  明治二年(一八六九)五月、五稜郭の落城後、榎本武揚は松平太郎・荒木郁之助・永井玄蕃・大鳥圭介・沢太郎左衛門・松岡盤吉の六名とともに東京|竜《たつ》の口《くち》の兵部省糺問所仮監獄に送られ(明治2年6月30日)、それから約二年半の牢獄生活を送った。  かれらはそれぞれ獄房の牢名主みたいな地位に置かれ、入牢してくる一般囚の面倒をよく見てやった。たとえば、同じ罪を犯した連累者は別々の房に入れられるのが普通であったが、榎本たち牢名主はそれぞれの房に入って来た囚人から事情をきいて、気の毒な事情にある者たちについては、牢名主のあいだでよく打ち合わせて、その連累者たちの白洲《しらす》における口うらの合わせ方を教え、なるべく罪の軽くなるように心配してやったという。  面白いのは、その牢名主間の打ち合わせの方法である。榎本房と大鳥房とでは英語で会話をし、榎本房と沢房とではオランダ語を用い、永井房その他とは外国語ができないので詩吟に拠ったというのだ。看守には外国語はもちろん、漢詩さえ理解できなかったので、詩吟がきこえると、 「唐人の寝言のような歌はいかん、静かにせい」  と叱って通り過ぎて行くのを常とした。  その獄中の徒然《つれづれ》に、武揚はいろいろな機械の模型を紙で作ったという。ある囚人のごときは、武揚からブランデーをつくるランビキ(蘭引、蒸留器)の雛形《ひながた》をもらい、出獄後それに従ってブランデーを製造し、お礼かたがたブランデーの現品を榎本の留守宅に持参したという。  またあるとき、沢太郎左衛門が地雷火とその付属電池の紙製雛形を造ったという。当時の地雷火は、地雷と電池のあいだを電信機《テレガラフ》の電線でつなぎ、それに通電して爆発させたようであるが、この話を耳にした糺問正の黒川|通軌《みちのり》は沢を白洲に呼び出し、その紙製の電池の雛形を目の前で鋏《はさみ》で真ッ二つに切断せよ、と命じたという。いくら地雷火が恐いからといって、紙の雛形に顫《ふる》え上がったとは喜劇というしかない。  黒川は後年陸軍中将にまで累進したが(明治18年5月)、沢と面談するたびに、「あの話は忘れてくれ」と赤面したという。明治初年における榎本や沢のようなオランダ帰りの旧幕臣と、黒川のような尊王攘夷派上がりの新政府官吏との学問的な落差が、いかに大きかったかが知られる。 [#改ページ] 第39話 慶喜へのこだわり     1  先日、札幌行きの飛行機の中で読んだ週刊誌のゴシップ記事で、上野の西郷さんの銅像を取り除いて徳川慶喜公の銅像を建てようという運動がある、というのを読んでビックリしたが、北海道から帰って一週間ほどすると、ある新聞が、徳川慶喜の業績をたたえて顕彰会が発足する、というニュースを報じていた。西郷さんの銅像を取り除けという運動と、慶喜さんを顕彰しようという運動と、一連のものかどうかはっきりしないが、わたくしがこれを一連の運動かと印象づけられたのは、確か同一の人名が両方の記事に載っていたと記憶するからである。  わたくしはいままで幕末に取材した歴史小説を書く機会が多く、必然的にわたくしなりの慶喜観を述べる機会もしばしばあったが、全体的な語調《トーン》としては、慶喜批判の語気が強かったように思っている。したがって、右の慶喜顕彰会について何か申し上げてもかえって失礼に当たるかもしれぬが、あえて一言いわせていただくと、徳川慶喜顕彰会はたいへん結構なことで、双手をあげて賛成こそすれ、それに反対すべきなんらの理由も心のひっかかりもない。ぜひこの運動は実現してほしい。ただ、そうだからといって、西郷さんの銅像を上野から取っぱらって、鹿児島へでもお引き取りいただこうという運動は、もしそれが事実なら、やめていただきたい。  これが慶喜顕彰会全体のご意見かどうかははっきりしないので、その辺、こちらに失礼があればご容赦願いたいが、慶喜を顕彰するために西郷を上野から追放する、といった二者択一は、わたくしのような、江戸ッ子でない第三者からは、いささか気負いすぎのような気がする。わたくしはただ、西郷も顕彰してほしいし、慶喜も顕彰してほしい、それだけのことなのである。  わたくしの慶喜にたいする語調がいささか厳しかったのは、わたくしのかれにたいする好悪の情からではない。いままでの慶喜論でも常に触れてきたが、わたくしは慶喜の個人的才能や時代の先行きを見通す能力を高く評価する者である。ただ、そのように優れた資質をもった人間が公的生活においてなぜ挫折し、しかもその陰には必ずしも怨嗟《えんさ》の声がないわけでもないのはなぜか、というところに関心があった。そのため、自分の小説の作中人物に時にその当時の怨嗟の声を代弁させることもあった。それがわたくし個人のことばのような印象を与えたかもしれない。わたくしはむしろこのような陰翳に富んだ慶喜に、近代人としての側面を見る思いがして、強くひきつけられているのだ。  徳川慶喜の私生活や、徳川家全体からみてどういう処遇を受けていたかについては、遠藤|幸威《ゆきたか》氏の『聞き書き徳川慶喜残照』(昭57・9、朝日新聞社)が大変参考になる。『徳川慶喜公伝』の「逸事」の章と併読すると、とくにその面白さが倍加されるであろう。  わたくしはかねがね十五代将軍としての慶喜の墓がなぜ徳川家の菩提寺である増上寺ないし寛永寺の将軍墓所に存在しないのか、いささかの疑問をもっていた。  もちろん、慶喜の生家である水戸家は神道を奉じていたので、慶喜家もそれに準じたのであり、その結果、歴代将軍廟には葬られず、同じ寛永寺ではあるが谷中の地に神式の土饅頭《どまんじゆう》の形式で祀《まつ》られたことは承知している(浦井正明氏著『もうひとつの徳川物語』参照)。しかし、わたくしの知りたかったのはもう少しホンネの部分であり、徳川宗家と慶喜家の関係、つまり十六代当主|家達《いえさと》と慶喜とのあいだになんらかの心理的葛藤、とまではいわぬにしても、なんらかの心理的|齟齬《そご》感といったものがあり、それが無言のうちに慶喜の墓所の位置に表現されているのではあるまいか、という疑惑の裏付けであった。  たまたま遠藤氏の著書の「大河内富士子夫人聞き書き」(富士子夫人は慶喜の孫にあたる)を読んでいると、慶喜が何かにつけて家達に遠慮していたという話が眼に入った。  あるとき、慣例になっているさる大名家の例会で、慶喜が早く来すぎて、これも慣例になっているので、正面床の間前の正座について、参会者たちと話していると、家達が入ってきて、「おや、わたしの坐る処がない」といった。その途端、慶喜はみずから隣りの座蒲団へ移って、正座を家達に譲ったが、それ以後は、どこでも慶喜と家達を一緒に招くことはなくなった、というのである。また、家達はつねに「慶喜さんは徳川を滅ぼした方、私は徳川家を再興した人間」と、富士子夫人の母の糸子(慶喜十女、四条|隆愛《たかちか》侯爵夫人)に語っていたともある。  家達は慶喜より二十六歳も年下である。これだけの年齢の差があり、しかも温厚な人柄といわれた別家にしてこのような言動を慶喜にたいして示したということは、われわれが考える宗家と家達の分《ぶん》以上の何かがあったと考えてよいのではあるまいか。     2  じっさいのところ、これもまた遠藤氏の『徳川慶喜残照』所収の「小島いと女憶え書き」(いと女は慶喜晩年の侍女)には、上野で行われた慶喜の葬儀(大正二年十一月三十日)についての言及がある。  それによると、葬儀は寛永寺寺域内で神式によって行うという連絡を受けた寛永寺側は、これを断わったという。憤慨した旧幕臣たちが「寛永寺はどなたのお寺だ! 前将軍のご葬儀を拒否できるのか」と抗議すると、「確かに当山は将軍家の菩提寺ですが、徳川将軍家には神葬されたお方はございません。なぜ天台宗か浄土宗でご法事なされませんのか。どうしても神葬でというなら、水戸家の寺院なり斎場で行なってはいかがですか」という返事だったとある。 〈「宗儀《しゆうぎ》以外の使用は出来ない」  と言いながらお寺は裏面で御宗家十六代さまと連絡をとっておりましたのね。  家達公爵のお答えは、あの温厚なお方らしく、 「私の方で言うべき筋合いではない、すべて寺側にまかせる」  というお答えだったそうで、遂にお寺側も折れまして、中堂道場内でのご葬儀執行だけは拒否しましたけれど、徳川家歴代の霊廟地域内と寛永寺の全子院は開放されました〉  と、いと女は回想している。  このときの葬儀委員総裁は渋沢栄一だった。渋沢の著わした『徳川慶喜公伝』によれば、—— 〈此度の御事につきては、著者は御葬儀事務の総裁を託せられければ、万般の事|挂漏《けいろう》なからんやうにと心力を尽せし中に、寛永寺の中堂は、宗規上神葬をば許されずといふにより、葬儀掛の人々は、音楽学校の隣地を以て式場に充《あ》てんと言ひしも、余は之を不便とし、寛永寺裏手の空地に仮斎場を造作すべき由を発議し、人々の賛同を得て、斎場殿・及幄舎《およびあくしや》の造作と、御壙穴《ごこうけつ》(はかあな)に至る通路の設備とを担当して設計せしめたるが、幸に多人数|輻輳《ふくそう》の御葬儀も、何の滞《とどこお》ることなかりしは、せめてもの御奉公なりけり〉  と、斎場づくりの苦心を語っている。  前掲「小島いと女憶え書き」によれば、葬儀当日には、東京中の火消しが新門辰五郎の跡取り一家をはじめ、揃いの股引《ももひき》、半纏《はんてん》すがたでずらりと並び、旧大名二百二十家ばかりが全員参列したという。『徳川慶喜公伝』では、—— 〈朝野の名士葬に会する者六七千人に越えたれば、さしも広き斎場も人を以て満たされ、沿道には拝観の人|堵《かき》の如く、遥に遠地より上京して、永き訣《わかれ》を惜む旧臣の面々も少からざりければ、明治天皇の大葬に次ぎては、かばかりの盛儀はあるまじきなりなど、囁《ささや》き合ふ人々も多かりき。午後五時式終りて、霊柩を谷中の御墓地に移さる、其|塋域《えいいき》の広からざる上に極めて質素に取設けられたるは、公の予《かね》て自ら占め置かせ給ひ、且《かつ》遺言の旨ましますによりてなりとぞ。此日東京市民は歌舞音曲を停止して哀悼の意を表し、東京市長(男爵|阪谷芳郎《さかたによしお》)は市民を代表して哀悼文を呈せり〉  と、旧幕臣や東京市民の哀悼の模様を伝えている。  これでみると、谷中への埋葬は慶喜自身の遺志だったようであるが、これも慶喜の徳川宗家ないし家達にたいする遠慮だったのであろうか。あるいは慶喜としては、そういう自分の遠慮にたいして家達が寛永寺内歴代将軍廟への転移を命じてくれることを期待していたのかもしれない。しかし、家達はそれをしなかった。島津家出身の天璋院を十三代家定(寛永寺墓域)の傍に、天皇家出身の和宮を十四代家茂(増上寺墓域)の傍に埋葬して、徳川将軍廟としては夫婦揃って宝塔を並べるのはこの二例だけといわれるはからいをした家達も、慶喜については歴代将軍廟に並んで眠ることを拒否したのであろうか。  もちろん、これは徳川家内部のプライバシーに属することであろうし、他人がとやかく論ずることではない。ただ、わたくしとしては、右の東京市長の哀悼文をはじめ当時のすべての新聞が、武門から朝廷へ政権を平和裡に委譲し、内乱の大規模化を阻止した点で明治新政府に大きく寄与したとして、慶喜の偉勲を最大級にたたえているが、徳川家内部ではやはりなんらかのこだわり、たとえば前掲の「慶喜さんは徳川を滅ぼした方」という家達のことばからうかがわれる、慶喜を疎外する心理が存在したのかどうかが知りたかったのである。しかし、これはそういう心理が存在したとしても、それをはっきりそうだと断定すべきものではあるまい。それはなんとなく微妙なものとして、曖昧のままにしておくのが、先人にたいする礼儀かもしれない。 [#改ページ] 第40話 百年の怨念を超えて     1  あと二十数日で昭和六十年(一九八五)も終りを告げることになる。終戦から四十年が過ぎたわけだ。  最近、わたくしは歴史上の時間の流れる速さについて考えることが多いが、明治元年|戊辰《ぼしん》の年(一八六八)から四十年後というと、明治四十一年(一九〇八)にあたる。この年の十月二十六日、榎本武揚が死んでいる。榎本は天保七年(一八三六)八月二十五日生まれであるから、七十二年二カ月、数え七十三歳の生涯であった。そして榎本が旧幕府艦隊八隻を率いて蝦夷地(北海道)へ赴いてから明治政府の高官として死ぬまでの時間が、われわれの体験した敗戦から現在までと同じ量の時間だったのだと考えると、歴史上の四十年という時間がなんとなく身近なものに実感できるような気がする。  榎本の死からまる一年たった明治四十二年(一九〇九)の、しかも同じ十月二十六日に、明治の政治家を代表する伊藤博文がハルビンで非業の死を遂げた。また、慶応三年(一八六七)、パリの万国博覧会に使節として派遣された徳川昭武が、翌明治四十三年(一九一〇)七月三日に死去している。昭武の兄はいうまでもなく徳川慶喜である。そして、明治四十五年(一九一二)七月三十日の天皇の崩御をもって明治の終りとするなら、翌大正二年(一九一三)十一月二十二日の徳川慶喜の逝去は幕末の終りといってよいであろうか。数え七十七歳であった。  維新後、——というよりは、明治三十年(一八九七)十一月、静岡から東京に移り住んでから、といったほうがもっと正確かもしれぬが、慶喜が長途の旅行をしたのは二度あったようである。  一度目は明治三十六年(一九〇三)五月の大阪行きである。『徳川慶喜公伝』によると、慶喜はこのとき大阪砲兵工廠を訪れ、当時同工廠提理だった陸軍少将楠瀬幸彦(のち中将)の案内で同工廠内を見学している。  まず、大阪城の天守閣跡の台上に登って四方を眺めた慶喜は〈今昔の感に堪へざる御様子〉だったが、やがて工廠内に入って職工たちの作業を見学し、たまたま製作中のアルミニュームの飯盒《はんごう》に特別の興味を示した。  慶喜はその飯盒なるものの使用法についていちいち楠瀬に質問したのち一個を所望し、それを東京に持ち帰って自邸の居間の火鉢でみずから飯を炊いてみたところ、〈日頃の食事にも勝りて極めて美味なりければ〉、楠瀬に手紙を出して「アルミニュームは日常頻繁に用いても人体に害はないか」と尋ねてやった。  これにたいして楠瀬から「アルミニュームは軍隊で用いてまだ日も浅く、詳しい実験もしていないので害の有無は確証することができないけれども、銀ならば無害を証明できます」という返事が来た。慶喜はさっそく銀塊を大阪に送り、楠瀬の管理の下に飯盒を作ってもらい、これを毎日の食事時に用いて飯を炊いた、という。慶喜はこのとき鄭重《ていちよう》な挨拶状に添えて、——     寂しさを軒の雫《しずく》に残し置きて         また誰《た》が里にしぐれゆくらん  という自筆の短冊を贈ったことが、楠瀬の談話として遺っている。  慶喜の二度目の旅行は逝去の年となった大正二年五月の京都行きである。同年五月十八日付「大阪毎日新聞」は〈慶喜公維新の戦跡を弔ふ/老公の感慨殊に無量也〉という見出しで、次のように報じている。—— 〈前《さき》の征夷大将軍徳川慶喜公には十六日|舞子《まいこ》に有栖川宮《ありすがわのみや》(威仁《たけひと》)殿下(慶喜の子|慶久《よしひさ》の妻|実枝子《みえこ》は威仁親王の第二王女である)の御機嫌を奉伺《ほうし》し、午後零時三十分京都駅着。直ちに馬車を駆つて桃山御陵(明治天皇陵)に参拝し、帰途|内匠寮《たくみりよう》出張所に立寄りてフロツクコートを和服に改め、麻裏草履に洋杖《ステツキ》と云ふ軽装にて大森府知事、小林秀明、高谷忠義氏等京都在住の旧幕臣及増田于信氏等を伴ひ、京阪電車に打ち乗りて先づ淀に向ひ、淀城址に登りて、天守台上|苔蒸《こけむ》せる一基の石に腰打ちかけ、暫くは遠近《おちこち》の風景を眺望し居たるが、忽《たちま》ちにして将軍の瞼《まぶた》には涙あり。  理《ことわり》なるかな、東の方鳥羽伏見の里より淀川あたりの野と云はず河と云はず、是れ維新の当時官軍と幕軍が撃ちつ討たれつ刃《やいば》をまじへ、砲火を交《かわ》したる戦場の跡なれば、慶喜公が今昔《こんじやく》の感慨さもありなんと、同伴の人々と共に惻隠《そくいん》同情の念に打たれたり。  公は憮然《ぶぜん》として「アノ青田の中に一筋自く見える往還は、今を去る五十年の昔、乃公《わし》が二条の城にゆく時、輿《こし》で通つた道筋か。五十年|振《ぶり》に此地《ここ》に来て見たのだが、大分に変つたやうぢや」と語り出でて昔を偲《しの》び、夫《そ》れより男山《おとこやま》八幡宮に詣《もう》で、伏見町寺田屋に引返し、薩藩の志士が勤王の血に染《しみ》たりといふ一室に入りて仔細《しさい》にそこらを見廻し、同家に保存せる紀念の品々を点検し、大森知事を始め旧幕臣等と卓を囲んで夕餉《ゆうげ》を認《したた》めながら、戊辰の役に淀にて戦死せる幕臣の首が近来|樟葉《くすは》で発見されたる事などを聞きて一層感を深め、薄暮同家を出《いで》て、午後八時二十分京都駅発列車にて帰京せり〉(小注・振仮名・句読点綱淵)     2  慶喜のことばからも推察できるように、これが京都付近の戊辰の戦跡を訪れた、最初にして最後の旅行だったであろう。慶喜が淀城址天守台上に立って落涙したときの感慨がいかなるものであったかは、他人の推し測りえないものがある。  思えばこのときから四十五年前、慶応四年(一八六八)一月六日の夜、幕軍最高司令官としての慶喜は大坂城大広間に諸有司・諸隊長らを召集し、かれらが異口同音に慶喜の出馬を要請する声を聞いたのち、 「さらばこれより打ち立つべし、皆々その用意すべし」  と全軍に総出陣の命令を発したのであった。 〈一同|踊躍《ようやく》して持場持場に退きたり,予はその隙に伊賀(老中板倉|勝静《かつきよ》)・肥後(会津藩主松平|容保《かたもり》)・越中(桑名藩主松平|定敬《さだあき》)等わずかに四、五人を随えて、潜かに大坂城の後門より就け出でたり。城門にては衛兵の咎むることもやといたく気遣いたれど、御小姓なりと詐《いつわ》りたるに欺かれて、別に恠《あや》しみもせざりしは誠に僥倖なりき〉  と語っているのは、後年、昔夢会の席上における慶喜自身である(『昔夢会筆記』明治44年11月9日)。  こののち慶喜たちの一行は、天保山沖に碇泊中の開陽丸に搭乗し、江戸へ逃げ帰ってきたのである。それは司令官みずからの〈敵前逃亡〉というしかなかった。  置いてきぼりをくったのは幕軍将兵である。鳥羽・伏見の戦いの決定的段階で慶喜がだましたのは敵軍ではなく、かれのために生命を投げうち、瓦解寸前の幕府に殉じようと燃えていた味方の軍勢であった。おそらくその回想と反省は、その後の四十五年間、口には出さずとも、慶喜の胸中に大きなしこりとなっている苦《にが》みの源泉だったと思われる。  しかも、あの夜の全軍出陣の命令は、その後解除されないままに、このときもなお虚空に空しく鳴りつづけていた、といえないだろうか。考えようによっては、あの動員令あるがゆえに、鳥羽・伏見の戦いは関東に飛び火して、総野から奥羽越、そして蝦夷地にまで拡大して、戊辰戦争の犠牲者の数をふやしつづけた、といってもよいであろう。慶喜が淀城の天守台上で落した涙には、出し遅れの動員解除命令をせめてこの旅行で在天の霊に布告したいという思いもあったかもしれない。  旅行から帰った慶喜は、九月九日に小日向の自邸において昔夢会を催している。もっとも、このときの出席者は慶喜のほかに三名だけだった。そして『徳川慶喜公伝』によると、十一月四日、風邪気味で床についていたが、翌五日に九男誠が分家して男爵を授けられたので、六日、そのお礼言上に参内した、とある。しかし、そういう喜びごとで気の張りが緩んだのか、十四日からふたたび発熱し、日一日と重態化して、二十二日の午前四時十分に永眠した。  こうして戊辰の出陣命令は、ついに解除されずに終った。それがようやく解除されたのは、それから百九年たった昭和五十二年(一九七七)十月九日、上野の東叡山寛永寺で行われた「戊辰殉難者慰霊祭」においてである、とわたくしは考えている。  この法要は戊辰戦争における東軍(旧幕府軍)戦死者七千三百八名(この中には幕臣以下四十藩の将兵のみならず、会津藩の非戦闘員自決者や、藩論統一のための犠牲となった刑死者も含まれている)の霊を慰めるべく、現在の徳川宗家ご当主(第十八代)徳川|恒孝《つねなり》氏を祭主とし、会津松平家ご当主松平|保定《もりさだ》氏と尾張家ご当主徳川|義宣《よしのぶ》氏をそれぞれ正副の実行委員長として、旧藩主子孫二十五人の参与、さらに約四百五十人の賛同団体関係者によって営まれたものである。もちろん、戊辰殉難者全員の霊を徳川家として慰めようという行事は、これが初めてであった。たまたまわたくしはその席で追悼の講演を行うという光栄に浴したが、この慰霊祭で慶喜の発した出陣命令はようやく解除されて、殉難者の霊も永遠のやすらぎを得たであろう、というのが、その日の偽らざる感想であった。  この企画が事前に新聞で報道されたとき、一人の老婦人から事務局に電話があり、「いままでは寛永寺でひっそりと一人で先祖や彰義隊のお墓を拝んでおりましたが、これからは天下晴れてお参りができます」といって、感謝の意を告げたという。その話を聞いたときわたくしは、ようやく〈幕末〉というものが百年の怨念《おんねん》や痛みを超えて、歴史の時間に入ったことを実感した。 [#地付き]〈了〉   [#改ページ] あ と が き  出版社勤めをやめて、間もなく満十五年になる。数字としては長い歳月だが、感覚としてはあッというほどの短さである。しかも、それが〈幕末〉の十五年—嘉永六年(一八五三)の黒船来航から慶応四年(一八六八)の江戸開城までと同じ長さなのだと思うと、その限られた時間の中で西欧文明のカルチャー・ショックをどう受け容れ、どう乗り越えるかに必死に生きていたわれわれの祖先の生活感覚までが、なんとなく身近なものに感ぜられるから不思議である。  本書の成立ちには二つの流れがある。一つは佼成出版社発行の「普門」誌に連載した〈幕末に生きる〉シリーズであり、もう一つは株式会社文藝春秋発行の「諸君!」誌に連載した〈幕末風塵録〉シリーズである(ちなみに、これらのシリーズは現在もなお連載中である。)  思えば、「幕末をテーマにした歴史随筆を」という注文で「普門」に連載を始めたのが昭和五十四年四月からであるから、七年前になる。「普門」は季刊誌(年四回)なので、回数の増えるには遅々たるものがあった。それに紙幅が四百字詰一〇枚と限られていたので、量的にも微々たる積重ねであった。  ところが、たまたま一昨年の秋、「諸君!」編集部からの依頼で、翌年一月号から毎月同誌に歴史随筆を連載することになり、それが「普門」と同じテーマ・同じ枚数だったので、急に執筆の量が増えることになった。  したがって、このたび、「普門」の七年間二十八回分と、「諸君!」の一年間十二回分とを纏《まと》めて、全四十話の歴史随筆集に編集してみたのが本書というわけである。  しかも、今回の編集にあたっては、以上の四十篇を雑誌に掲載した順序にとらわれず、もう一度各篇を読み直して、その内容のテーマとなっている事件なり話題の日時に従い、目次の順序をなるべく幕末史の時間の流れに沿って配列し直した。それによって、黒船ショックというものがその後の十五年間でどういう形に変容・止揚され、それが〈西欧近代化〉という国是となって明治維新、ひいては現代にどう受け継がれてきたかが、せめて行間からなりとも読者に伝わってほしい、という著者《わたくし》の願いからである。 〈幕末〉はわたくしの作品活動の大きな柱の一つである。したがって、ここに纒められた四十篇はわたくしの小説ないし史伝の余滴ともいえるが、必ずしもそれだけではない。まだ小説や史伝の形をとらずにいる史料もあれば、随筆の形のほうがかえって活きる話題も少なくない、と自分では考えている。ただし、小説だろうと随筆だろうと、〈幕末〉と向き合うわたくしの姿勢に変りはない。  わたくしが〈幕末〉にこだわるのは、主として戊辰戦争の敗者——大きくはその戊辰戦争を導き出した西欧文明によるカルチャー・ショックの波瀾の中に呑み込まれて行った人々の慰霊鎮魂なしには、明治以後の歴史は語りえない、と考えるからである。敗者の声を無視した勝者の歴史の永続きしないことは、これまた歴史の教えるところである。  もう二年後には、慶応四年〈明治元年〉から二度目の〈戊辰〉がやって来る。そのとき、勝者も敗者もともに百年の怨念から解放されて、〈歴史〉という客観的な時間の中にそれぞれ正当な評価と位置を得て、静かに永遠の眠りに就くことができるようになっていることを期待したい。幕末史がわれわれの未来を映し出す鑑《かがみ》となるのは、そのときである。  昭和六十一年二月中浣 [#地付き]著  者 [#3字下げ]付記—本書をもってわたくしの上梓された単行本(文庫その他を除く)は二十五点三十冊となった。歩みの遅鈍《のろ》さが恥しい。 [#改ページ] 初 出 紙 誌 『諸君!』(原題は「幕末風塵録」)     攘夷派と国際派           昭和六十年一月号     舟を漕ぐ遊女           昭和六十年二月号     文藝春秋界隈           昭和六十年三月号     吉田松陰とテレパシー           昭和六十年四月号     馬を駆る女           昭和六十年五月号     時は流れる           昭和六十年六月号     目撃者は語る           昭和六十年七月号     護持院ヶ原の仇討ち           昭和六十年八月号     門外不出の裏ばなし           昭和六十年九月号     慶喜揺れる           昭和六十年十月号     海舟疑われる           昭和六十年十一月号     慶喜へのこだわり           昭和六十年十二月号 『普門』(原題は「幕末に生きる」)     榎本武揚と樺太           第4号/昭和五十四年四月十五日     下北の会津藩士・広沢安任           第5号/昭和五十四年七月十五日     水垢離をとる勝小吉           第6号/昭和五十四年十月十五日     家茂びいき           第7号/昭和五十五年1月十五日     海を渡ったサムライたち           第8号/昭和五十五年四月十五日     勇者の末裔           第9号/昭和五十五年七月十五日     黒い爪痕           第10号/昭和五十五年十月十五日     刀痕記           第11号/昭和五十六年一月十五日     戊辰の江戸           第12号/昭和五十六年四月十五日     黒船ショック           第13号/昭和五十六年七月十五日     写真術事始           第14号/昭和五十六年十月十五日     大奥は砂糖天国           第15号/昭和五十七年一月十五日     死出の旅           第16号/昭和五十七年四月十五日     真犯人を追う           第17号/昭和五十七年七月十五日     〈天誅〉のゆくえ           第18号/昭和五十七年十月十五日     パリのおまわりさん           第19号/昭和五十八年一月十五日     死の正夢           第20号/昭和五十八年四年十五日     将軍の気くばり           第21号/昭和五十八年七月十五日     〈妖怪〉の実像           第22号/昭和五十八年十月十五日     トコトンヤレ節由来           第23号/昭和五十九年一月十五日     ナポレオンと留学生           第24号/昭和五十九年四月十五日     生麦の鮮血           第25号/昭和五十九年七月十五日     オランダ離れ           第26号/昭和五十九年十月十五日     仏人〈白山伯〉           第27号/昭和六十年一月十五日     二十年後の再会           第28号/昭和六十年四月十五日     獄中の地雷火           第29号/昭和六十年七月二十日     慶喜裏切る           第30号/昭和六十年十月十五日     百年の怨念を超えて           第31号/昭和六十一年二月十五日 〈底 本〉文春文庫 平成元年四月十日刊