[#表紙(表紙.jpg)] 耳袋の怪 根岸鎮衛=著 志村有弘=訳 目 次  はじめに  其ノ壱 物怪、妖怪のうわさの怪 [#2字下げ]妖怪《ようかい》なしとも申し難い事/ 大|通人《つうじん》/ 河童《かつぱ》の事/ 鬼僕の事/ マミという妖獣《ようじゆう》の事/ 番町にて奇物に逢《あ》う事/ 芸州|引馬山妖怪《ひくまさんようかい》の事/ 河怪の事/ 彦坂《ひこさか》家縁の下の怪物の事/ 怪談、そのよるところある事  其ノ弐 幽霊の怪 [#2字下げ]老姥《ろうば》の残魂、志を述べし事/ 下女の幽霊、主家へ来《きた》りし事/ 怪竈《かいそう》の事/ 幽霊奉公の事/ 幽霊なきとも申し難い事/ 幽魂をまのあたり見し事/ 霊気残れるという事/ 女妖《によよう》の事/ 人魂《ひとだま》の事/ 幽霊、恩を謝する事/ 幽霊を煮て喰《く》いし事/ 久野家の妻、死怪の事/ 駒井蔵主《こまいぞうす》幽魂奇談の事/ 幽魂、貞心孝道の事/ 幽鬼、その証を留めし事/ 霊鬼、狐を頼み過酒を止めし事/ 死霊の奇談の事/ 亡霊の歌の事/ 思念、故郷へ帰りし事/ 幽魂奇談の事(死霊、その血縁をたちし事)/ 赤坂与力の妻亡霊の事/ 小幡小平次《こばたこへいじ》事実の事  其ノ参 憑き物の怪 [#2字下げ]奇病の事/ 国によってその風俗が変わる事/ 狐憑き、奇異を語った事/ 狐の憑きし女、一時の奇怪の事/ 狐に欺かれて漁魚を失う事/ 頭痛の神の事/ 狐|祟《たた》りの事/ 妖気《ようき》、強勇《ごうゆう》に勝てない事/ 猫が人に憑いた事/ 貧窮神の事  其ノ四  動物の怪 [#2字下げ]狐狸《こり》のために狂死せし女の事/ 蝦莫《ひき》の怪の事 附怪を為す蝦莫は別種なる事/ 猫、物を言う事/ 獣の衣類など不分明の事/ 人間に交わる狐の事/ 美濃《みの》の国の弥次郎《やじろう》狐の事/ 老狐名言の事/ 女の髪を食う狐の事/ 鳥獣、讐《あた》を報ずる怪異の事/ 怪虫、泡と変じて身を逃るる事/ 蛇を養った人の事/ 狐、痛むところを外科に頼み、その恩を謝した事/ 菊むしの事/ 小堀《こぼり》家稲荷の事/ 鼠恩死の事 但し鼠毒《そどく》妙薬の事/ 猫の人に化けし事/ あすわ川亀、怪の事/ 畜類また恩愛深い事/ 鼬《いたち》の呪《まじな》いの事/ 佐州団三郎の狸の事/ 海上にいくじというものの事/ 狐、猟師を欺きし事/ 戯歌にて狸妖《りよう》を退けた事/ 有馬《ありま》、家畜犬奇説の事/ 未熟の狸、切られる事/ 猫の怪異の事/ 妖狐《ようこ》、道理に服従の事/ 蜘蛛《くも》怪の事/ 猫忠死の事/ 死馬|怨霊《おんりよう》の事/ 猫の怪の事/ 古猫に害された事/ 猫の怪談の事  其ノ五 植物の怪 [#2字下げ]黄桜の事/ 怪異の事/ 板橋辺の縁切り榎《えのき》の事/ 非情といえども松樹不思議の事/ 勿来《なこそ》の関の事 但し桜、石に成る事/ 非情のもの、恩を報ずる事  其ノ六 怪異のうわさ怪 [#2字下げ]怨念《おんねん》なしとも極《きわ》め難き事/ 初午《はつうま》奇談の事/ 魔魅《まみ》不思議の事/ 怪刀の事/ 神に祟《たた》りがないとも申し難い事/ 人の運、計ってはならない事/ 信心に奇特ある事/ 前生なしとも極め難い事/ 不思議なしとも極め難い事/ 尊崇するところ奇瑞《きずい》がある事/ 二十年を経て帰ってきた者の事/ 神隠しというたぐいある事/ 日《ひ》の御崎神事《みさきしんじ》の事/ 思いがけなく悟道の沙汰《さた》があった事/ 信心に奇特ある事/ 鄙姥《ひぼ》、冥途《めいど》へ至り立ち返りし事/ いささかのことにより奇怪を談じ始める事/ 鬼神を信じ薬剤を捨てる迷いの事/ 信心によって危難を免れたという事/ 水神を夢みて幸いを得た事/ 狐を助け鯉を得た事/ 奇石鳴動の事/ 妖《よう》は実に勝たない事/ 作仏|祟《たた》りの事/ 稲荷《いなり》宮奇異の事/ 疱瘡《ほうそう》の神がいないとも申し難い事/ 老僕奇談の事/ 計らざるに詠《よ》める歌に奇怪をいう事/ いぼの呪《まじな》いの事/ 前兆奇怪の事/ 人魂《ひとだま》の起発を見た物語の事/ 上杉家空き長屋の怪異の事/ 死なない運、奇談の事/ 怪棒の事/ 鬼火の事/ 大井川最寄り古井怪の事/ 怪窓の事/ 妖談《ようだん》の事/ 外山《とやま》屋敷怪談の事  あとがき [#改ページ]   はじめに  少年のころから、奇談が好きであった。とりわけ幽霊話・妖怪《ようかい》話・怨霊《おんりよう》話……等々、そうしたものに心|惹《ひ》かれるものがあった。『今昔物語集』など、説話文学を勉強してみようという気持ちになったのも、多分に〈奇談〉に関する強い興味が作用していたと思う。 『耳袋』を訳出するにあたり、幽霊話、怪異現象や物怪《もののけ》・妖怪の噂、動物や植物の怪、憑《つ》き物の怪というところに視点を置いたのも、結局、〈奇談〉への関心がそうならしめたものであろうと思う。 『耳袋』(正しくは『耳嚢』と書く。但し、本書では一般性を考えて、『耳袋』と記した)は、佐渡の奉行職にあった根岸|鎮衛《やすもり》(一七三七—一八一五)が知人や同僚から聞き集めた奇談・珍談を一書としたものである。事件の舞台も天明(一七八一—八九)・寛政(一七八九—一八〇一)・享和(一八〇一—〇四)・文化(一八〇四—一八)と、著者が生きた時代とほぼ同時代の内容の話が多い。その意味では、本書は当時の〈近代奇談の世界〉を構成しているといえよう。  ところで、『耳袋』には幽霊や妖怪、あるいは河童《かつぱ》が登場し、動物が人間をたぶらかす話がある。かと思うと、人間が突然消息を絶って、そのまま時が経過し、何年も後に場所を同じくしてもどってくる話がある。とはいえ、完全な神隠しというのではない。時には猫が人間の言葉を話したりする。まさに、〈奇談〉である。また、今はやりの陰陽師《おんみようじ》も登場する。読んで興趣の尽きることがない。  興味深いもののひとつに、江戸の妖怪文学『稲生物怪録《いのうもののけろく》』に類似する内容を伝える話があることだ。巻之五「芸州引馬山妖怪の事」や巻之十「怪棒の事」である。この話は、三次《みよし》藩の稲生武太夫にまつわる『稲生物怪録』と似た内容で、稲生物怪|譚《たん》が巷間《こうかん》に相当流布していたことを示しているのだが、同時に、本書が江戸の怪奇文学を解明するうえで貴重な一資料となりうることも示している。  ともあれ、『耳袋』——この稀有《けう》なる〈近世奇談の世界〉を楽しんでいただければ幸いである。  二〇〇二年五月 [#地付き]訳者しるす [#改ページ]     其ノ壱 物怪、妖怪のうわさの怪   妖怪《ようかい》なしとも申し難い事  安永九年(一七八○)子《ね》の年の冬から翌年の春まで、関東六カ国の川|普請《ぶしん》の御用で、私(根岸鎮衛《ねぎしやすもり》)が出役して、その六カ国を巡回した。  大貫次右《おおぬきつぎえ》衛|門《もん》と花田|仁兵衛《じんべえ》を伴って一緒に旅行し、村を回った。花田は五十歳余りで、ここ数年の間土木工事に馴《な》れており、ことに精神健やかで、あくまで不敵な性質であった。  安永十年|丑《うし》の年の春、玉川(多摩川)通りの村を巡り、押立《おしだて》村(現在の府中市押立町)に至り、私はその村の長である平蔵という者のところに旅宿した。他の者たちはその最寄りの民家に宿を取った。  いつもは朝早くに次右衛門・仁兵衛などが一同を伴って旅宿に来て、次の村へ移るのであった。  ある日、仁兵衛がいつもより遅く来たので、 「不快なことでもあるのか」  と尋ねると、 「いや別事ありません」  と返事する。  その次の日もまたまた私の旅宿に集まって御用の向きを取り調べたおりから、仁兵衛が、 「押立村の旅宿で埒《らち》もないことがあって、夜中眠ることができず、翌朝は遅くなりました」  と語った。 「どういうことだ」  と尋ねると、 「その日は羽村《はむら》の旅宿を出立し、雨もそぼ降るありさまだったので、股引《ももひき》、草鞋《わらじ》で堤を上り下りし、たいそうくたびれたので、根岸様の旅宿を辞し帰り、すぐに寝ることにしようと思っておりました。その旅宿の造りは本家から廊下続きで少し離れており、家僕などが寝ているところからも離れていました。  普段は人が住んでいない場所であるのか、戸や垣根もまばらで、裏に高い藪《やぶ》が生い茂り、不用心なところだと見えました。戸を閉めた状態なども自分で改めて寝たのですが、とろとろと眠ったと思った頃、天井の上で何か大石などを落としたような音がしたので目覚め、枕を上げて見ますと、枕元に座頭が、汚れた縞《しま》の単衣《ひとえ》を着て、手をついているのです。  驚いて、『座頭でありますか』と声を掛けようと思ったが、もしも『座頭ではない』とも言わないものでもなく、心の迷いかとあれこれ考えました。ともあれ、起き上がり、枕元の脇差を取り上げると、さっきまでいた座頭の姿が消えたのです。心の迷いであろうと、懐中の御証文などもしっかりとふところに納め、戸の締まりも改め、再び寝ました。  しかし、何となく心にかかって、眠るまいとは思っていたのですが、昼の疲れで思わず眠ってしまったのでしょう。しばらく経ってから枕元を見ると、またしてもあの座頭が出て、今度は手を広げ、おおいかぶさってきたので、もはや我慢できず、夜着《よぎ》をとりのけ、枕元の脇差を取り上げると、再び消えてしまいました。  それで灯火をかき立て、座敷内を改め見ましたけれど、どこから入ったと思うところもなく、僕《しもべ》を起こそうと思ったのですが、場所も隔たっている。人に聞くのもどうかと思い、また枕を取ったのですが、何となく心にかかって眠ることができなかったのです。座頭は再び出ることはありませんでしたが、まったく狐狸《こり》のなすしわざでありましょう」  と語った。   大|通人《つうじん》  安永・天明(一七七二—八九)の頃、若い者は、もっぱら通人ということを尊んだ。その通人とか大通というのは、物事に行き渡り、悪所(遊里と芝居)、その他世の中の流行意気地に詳しい者を呼ぶのだが、はなはだしい者にいたっては、放蕩無頼《ほうとうぶらい》の人を指して通人または大通と称するたぐいが多かった。  按《あん》ずるに、通の字は漢家に通といい達といい、仏家にも円通の文字があるから、本来、このような放蕩者を指すものではないが、物事に行き渡ったという心から唱え称したものであろう。  ある人が、その通人の画讃をたずさえ見せにきた。まことの戯《ざ》れごとであるが、後世より見たらおかしく、また昔もこのような事があったと、心得の一つになるだろうと思って記した。  安永の頃、奇怪な人がいた。自称して通人といったが、およそ絵に描いてあるようなものである。たとえば鵺《ぬえ》という変化《へんげ》に似て、口はこざかしく、尾は蛇のようにくねくねとし、姿は虎のようであった。鳴く声は唄《うた》に似ている。  たぶん酒を食として、世を一《ひと》飲みにする、まるで真崎《まさき》の田楽を奴に与えるより安い。忠《ちゆう》といえば鼠のように生意気なことを言い、孝《こう》といえば烏のとまる本堂の屋根を振り向く。燕雀《えんじやく》がどうして鴻《こう》鵠こくの志を知っていようか。小紋返しの三つ紋は紺屋に見栄えよくして手柄を立てさせ、裏半襟はいくら立派に造っても目立たぬことでは仕立て屋の手間損である。三枚裏の八幡黒ではないが世上は真っ暗な足もと、金・銭を入れるどんぶりは煙草入れと落ち、木綿手ぬぐいは長くても拭ふき足らず、穴知らずの穴ばなし、書家|三井親和《みついしんな》の書を染め込みながら文字を知らない者、俳諧《はいかい》のことを知らずに俳諧の号をもつ。これらは、通人の不通というものであろう。このような者は、親類から縁を切られることになるだろう。   河童《かつぱ》の事  天明元年(一七八一)の八月、仙台|河岸《がし》(隅田《すみだ》川東岸)の伊達《だて》侯の蔵屋敷で、河童を打ち殺して塩漬けにしておくのをまのあたりに見た者がいた。その者が語ったことを絵にして、それを松本|伊豆守《いずのかみ》(秀持《ひでもち》)が持ってきた。子細を調べたところ、 「その屋敷で小児が理由もなく入水《じゆすい》した。不思議なことがあって、その堀の内淵ともいうところを堰《せ》きとめて水を替えて干してみた。すると泥をくぐって、その敏捷《びんしよう》なこと、まるで風のようなものがいた。やっとのことで鉄砲で撃ちとめた」  ということを語った。  そばに曲淵|甲斐守《かいのかみ》がいて、 「昔、その人が河童の絵だと言って持ってきたのを見たことがございましたが、伊豆守が持参した図と少しも違いがなかった」  と語った。   鬼僕の事  芝田|某《なにがし》という御勘定を勤めた人が、美濃《みの》の御普請御用で、先年、その地へ行ったとき、出立前に一人の僕《しもべ》を雇って連れていった。その僕は忠実に給仕していた。ある夜、芝田が旅宿で床に就いたところ、夜半頃と思われたが、夢ともうつつともなくその僕が枕元に来て、 「私は人間ではありません。魍魎《もうりよう》というものです。よんどころないことがあるので、暇《いとま》をいただきたい」  と言った。芝田は、 「よんどころのないことがあるのならば、暇を遣わさなければならないが、そのわけを聞きたい」  と告げた。僕は、 「私には順番で死人の死骸《しがい》を取る役目があります。このたび私はその順番にあたっていて、この旅宿の村から一里ばかり下った百姓某の死骸を取らなければならないのです」  と言うと、そのまま行方不明になってしまった。 「埒《らち》もない夢を見た」  と心にも掛けずに、翌朝起き出したのだが、その僕の行方はわからなかった。そこから一里余り下った某人の母のことを聞いた。その土地の者が、 「今日、葬式をしたのだが、野道で黒雲が覆ったと思うと、棺の中の死骸がなくなった」  と話したのを聞いて、いよいよ驚いたということである。   マミという妖獣《ようじゆう》の事  しばらく御使番《おつかいばん》を勤めて、病気で退役した松野八郎兵衛という者は、屋敷が番町にあった。天明六年(一七八六)の午《うま》の年の春、その屋敷へ妖獣が出たとのもっぱらの噂があった。  八郎兵衛方に勤めていた吉田某が、その後、私のもとに来て勤めたので、真偽を尋ねてみた。吉田は松野のもとを退いた後のことであったが、古い傍輩《ほうばい》であった者に聞いたところ、話の内容に相違はなかった。  ある夜、屋敷内を廻《まわ》っていた中間《ちゆうげん》へ飛びつくものがいた。中間が棒で打ち払うと、棒に食いついてきたので、驚いて、給人を勤めた中村作兵衛という者の長屋へ駆け込んだ。  作兵衛もただちに出てみると、犬よりは余程大きく、眼は太陽か月のように光り輝き、皮膚の色は鼠色、杖《つえ》で打ち据えると、蟇《ひき》の背をたたくような感じであった。しだいに人が出て来てその妖獣を追い散らした。妖獣は境にある大藪《おおやぶ》の内へ入ってしまい、闇夜でもあるので、行方を見失ったという。  その後はまったく出ることはなかったけれど、どういうものであったのであろうか。マミ(猯。穴熊・狸・山犬などの類)というものだ、とある人が語っていたが、そういうこともあるのか、と吉田が語ったことである。   番町にて奇物に逢《あ》う事  私(根岸鎮衛)の一族の牛奥《うしおく》氏が壮年であったころのことである。相番《あいばん》(当番仲間)から急用の呼び出しが来た。秋の風雨の強い夜のことで、一人の侍を連れて番町馬場の近所を通った。前後の往来者もいないほどの大雨で、提灯《ちようちん》一つを吹き消されないようにと桐油《とうゆ》(桐油をひいた紙製の合羽《かつぱ》か)の陰に下げて通った。そのとき、道ばたに女のような人がうずくまっていた。  合羽のようなものを着て、傘や笠《かさ》のたぐいは持っていない。はっきりと女であるということも見えず、謎めいているが、そのそばを通り過ぎた。連れていた侍は、 「あれは何でありましょうか。とくと見るべきでありましょうか」  と言った。牛奥は、 「いらざることだ」  と返事したが、そのとき提灯を持った二人の足軽風の者が脇道に来たので、その後について、もと来た道をもどって様子を見ようとした。だが、最初に見た場所にはなんにもいない。 「四方が離れている道であるから、どこへも行くことができようはずもないのだが……」  などと口ずさみながら帰った。  門へ入ろうとしたとき、非常な寒気を覚えた。翌日、瘧《おこり》(熱病の一種)を患って二十日間ほど病床に臥したが、連れていた侍も同じように寒気がして、二十日間ほど患ったとかいうことだ。  あの女は、瘴癘《しようれい》(伝染性の熱病)の気《け》が雨の中に形を現わしたものであろうか。   芸州|引馬山妖怪《ひくまさんようかい》の事  芸州引馬山の中には立ち入ってはならないところがある。七尺ほどの五輪に地水火風空と記し、三本五郎左衛門《さんもとごろうざえもん》という妖怪がいると語り伝えられていた。ところが、稲生武太夫《いのうぶだゆう》という剛気な武士がいたが、かねて懇意にしていた相撲取と、 「どうして今の時代に怪事などあろうか。さあ、その引馬山の魔所へ行って酒を飲もう」  とささえ(酒を入れる携帯用の竹筒)を持って出かけ、一日中、飲み暮らして帰った。三日ほど過ぎて、相撲取は理由はわからないが死んでしまった。  武太夫のところにも引馬山から帰って一日から十六日まで毎晩怪奇事件が起こり、家僕までもが暇を取って宿下がりをした。武太夫自身は少しも心にかけず、毅然《きぜん》としていたが、十六日目に妖怪も退屈したのであろうか、 「さてさて、気丈な男よ、わしは三本五郎左衛門だ」  と名乗り、そののちは怪異現象も起こらなくなった。 「中でも堪え難かったのは、座敷内に糞土《ふんど》をまいたのであろうか、はなはだ臭く不浄なことには困った」  ということであった。  その武太夫のところに寄宿した小林|専助《せんすけ》という者が、今は松平|豊前守《ぶぜんのかみ》の家来となっているが、その専助が語ったという。   河怪の事  七都《なないち》という座頭の話したことである。その者は上総《かずさ》の国|夷隅《いすみ》郡大野村の生まれで、二十四歳のときに目が見えなくなったという。  この話は二十二、三歳のときのことであるが、大野村には幅十間ほどの川があった。その川の中には、通称|縦《たて》の井戸といって深いところがあった。対岸は竹藪が生い茂り、昼は日陰となって暗く、寂しい場所であった。七都が出家する以前、よく魚が釣れると聞いて、しばしば釣糸を垂れていた。  あるとき、いつものように釣糸を垂れていると、水中から蜘蛛《くも》が出てきて、足の指に糸をかけてはまた水中に入り、また出てきて糸を指にかけることが繰り返された。足首の過半に糸をかけたので、ひそかにそのそばにあった杭《くい》の木にその糸を前のように移して、どうするかと見ていた。すると何度も前と同じように糸をかけ、何か水中で、 「よしか、よしか」  と言う声がしたかと思うと、藪の中で、 「よし」  と返事がして、その杭の木は半分から折れてしまった。七都は仰天して逃げ帰った、と語った。   彦坂《ひこさか》家縁の下の怪物の事  文化三年(一八○六)寅《とら》の年、小普請《こぶしん》支配であった彦坂九兵衛が駿府御城番《すんぷごじようばん》を仰せつけられ、その地を引っ越すことになった。家内が取り込んでいたおりふし、縁の下から奇怪な物が出てきた。  頭は鼬《いたち》のようで、大きさは二尺廻りほどで、しゅろのような毛が全身に生えていて、長さは三尺ばかりもあったであろう。縁の下より出てきて、庭の中を輪になって通り過ぎ、再び縁の下へ入ったということだ。何というものであろうか、知る者はまったくいなかったという。   怪談、そのよるところある事  文化六年(一八○九)の巳《み》の年、柳原土手に毎晩光る物が出るということがもっぱらの評判となった。  去年の夏か秋のころ、神田紺屋町(東京都千代田区)に住む嘉兵衛《かへえ》の十四歳になる娘が、風雨のときに道を通ったところ、立てておいた材木が倒れ、驚いた衝撃で死ぬという事件が起こった。その妄執の陰火であると、夜中見届けに出た近辺の者がこじつけたが、よくよく真実を糾明してみると、同所の三郎兵衛店《さぶろうべえだな》に髪結い渡世をしていた市兵衛《いちべえ》という者が、二間四方の土蔵を持っていて、灰墨を混ぜた漆喰《しつくい》で塗り上げ、使用した油なども強かったのであろうか、その壁へ往来の人の持つ提灯《ちようちん》の灯かげが映って光ったのだということが判明した。  その土蔵の鉢巻(土蔵の軒下で、横に一段細長く土を塗ったところ)のところに、むらがある形で塗ったものでもあろうか。まったくそこに往来する者の灯がちょっと映ったのを仰々しく話したものだという。  そのせいであろうか、または他に損じたところがあるのだろうか、この節、修復に取りかかり、足場・むしろ張りなどをしたところ、その怪談はたちまち消えてしまったという。 [#改ページ]     其ノ弐 幽霊の怪   老姥《ろうば》の残魂、志を述べし事  御|普請《ふしん》役元締(支配勘定の下の職)を勤めていた早川富三郎の祖母は病気がちだったが、その祖母が隣家の心安く交際していた同位の者のところへ行って挨拶《あいさつ》をした。その隣家の妻は祖母に病気のことを尋ねながら、 「元気でめでたいことです」  などと述べた。祖母は、 「病気のときにお訪ねいただいたときは、何もお構いせず、かたじけないことでした。本日は暇乞《いとまご》いに参りました」  と言う。隣家の妻は御普請役の家の者のことでもあるから、旅などに出るのであろうか、と相応の挨拶をしておいた。  祖母は町家の心安くしていた者のところへも行って、同じように礼などを述べた。長いあいだ患っていた老姥が元気になってめでたいことや暇乞いだなどと話されたことでもあるから、同輩の妻も町家の妻も、富三郎のところへ返礼に行こうと家を出ると、富三郎のところでは葬礼の支度をしていた。驚いて尋ねてみると、その老姥は今朝死んだというので、みんな驚いたという。   下女の幽霊、主家へ来《きた》りし事  鵜殿《うどの》式部|長衛《ながもり》という人の奥で、数年のあいだ奉公していた女が長いこと患って、暇を乞うた。それで永《なが》の暇を遣わして、しばらく時が経った。その女が来て、式部の母の隠居宅へ行き、 「長いあいだの厚恩で養生いたし、ありがたいことです」  と、挨拶をした。老母もその病気がよくなったことを喜び祝福して、 「まだ顔色も悪いから、よく養生して、再びもどってきて勤めるがよい」  と話した。すると、 「もう奉公ができます」  と言い、 「土産《みやげ》にと思って持ってきました。自分が作ったものです」  と、団子を二段の重箱に詰めて持参し、相応の挨拶をした。老母も、 「そういうことならば、まず養生をして、勤めるがよい」  と挨拶を返した。  女はその場を立ち、別の場所へ行ったので、老母はまもなく勝手に出て、 「あの者が病気が治ったということでもどってきたが、まだ顔色も悪いので、仲間の者たちも助け合ってやるように」  と言った。家の者たちは、 「その下女が帰ってきたことは、誰も知りません」  と返事して、あちらこちらを探したけれど、行方がわからなかった。  しかし、土産として貰った重箱を見ると、重箱は確かにあり、中には白い団子が詰められていた。女の実家に人を遣わして、事情を聞いてみると、 「あの人は、二、三日前に死んでしまった。知らせることを延引していた」  と言い、実家の者が訪ねてきて知らせたという。 「不思議なことであった」  と、鵜殿の一族の者が語ったことである。 役者、怪死を為《な》す事 寛政八年(一七九六)辰《たつ》年の春より夏にかけてのことであった。伝馬《てんま》町(東京都中央区日本橋)に住んでいて旅芝居などの座元《ざもと》をして国々を歩いている者が、行徳《ぎようとく》(千葉県市川市)で芝居興行をし、それが大当たりして、ずいぶんと儲《もう》かった。仲間の者たちも喜んで、芝居が終わると、四人は船で行徳|河岸《かし》を目掛けて渡海した。その座元の者は、 「このたびは万事調子がよい」  ということで、酒肴《しゆこう》を用意して、四人で酒を飲んでいた。ところが、どうしたことか、その座元は海中に落ちたのであろうか、狭い船の中で行方がわからなくなった。残る三人や船頭も非常に驚いて、再び行徳へ引き返し、海士《あま》をやとって網を入れ、くまなく探したけれど、死骸《しがい》も見えない。どうすることもできないので、その船の中をそのままにしておいて、三人の者は、 「あの座元の家内へ知らせよう」  と、江戸表へ便船でたち戻り、その日の昼過ぎに、座元の住んでいる伝馬町の裏店《うらだな》へ入ろうとした。だが、三人ともものすごく恐ろしい。互いに譲り合って、 「まず、そなたがお入りなされ」  と、争っていた。 「所詮《しよせん》、よいことをするのではないから、迷惑なこともありがちなことだ。それならば酒を飲んでから行こう」  と、三人は近くの酒店に寄って、一杯飲んでから再び立ち寄った。さっきほどと同じように三人とも尻込《しりご》みをしていたが、その中で年長の男が先に立って入った。他の者もそのあとについて中へ入ったところ、座元の女房は門口で洗濯をしていた。女房は三人を見て、 「どうして遅くお帰りになったのですか。夫は今朝もどってきました」  と言う。驚いて、 「無事にお帰りなさったか。お目にかかりたく、ご案内くだされ」  と言った。 「先刻帰って酒を飲み、食事をし、二階で寝ておりますから、すぐに二階へお上がりなさいませ」  と言うから、ますます不思議に思っていると、座元の妻は、 「先に行って起こしなさるがよい」  と言う。かねて芝居仲間のつきあいで、案内にも及ばないことだから、女房はまるでそしらぬ顔をしていて、仲間の者たちの話を聞こうともしない。仲間の者たちは、女房が火など焚《た》いていたのを無理に止めさせて二階へ遣った。すると女房は、 「わっ」  と言って倒れ伏した様子である。その音に驚いて近所の者が駆けつけ、三人の者も事情を語り、家主を呼んで二階へ上がった。とにかく座元は一度は帰って寝ていたと見えて調度などが取り散らかしてあり、その脇に女房が気絶していた。  女房は、水などを顔にかけると次第に正気にもどった。何があったのか、と尋ねてみたら、 「今朝帰ってのち、まったく普段と変わることがなかったのに、今になって不思議と思いますのは、『私が死んだならば相応に葬儀をして、いずかたへも再婚するがよい』と言っていたのは戯《ざ》れごとと思っていましたが、その他にも不思議なことを……」  と語った。だが、 「これは他には漏らすことはできない」  と言ったので、 「夫婦のあいだには話しにくいこともあるだろうが、かまわないことであるならば、話しなされ」  と切に尋ねた。女房は、 「夫婦のあいだのことではありません。語るに不面目なことではないけれど、このことは固く外へ漏らしてはならないと夫から口止めされたので……」  と、話さなかった。それをなだめすかして、「どうしても……」と言って尋ねると、 「それならば……」  と、ふたことみこと語り出したとき、二階の上で大石を落としたような音がしたので、女房は、 「わっ」  と言って倒れ、みんなも恐ろしくて最後まで聞くことができず、自分の家へ帰ったという。  その三人の者のうち宇田川|某《なにがし》が出入りしていたので、 「その座元の妻がふたことみこと話し出したのは、どのようなことか」  と熱心に聞くと、 「よんどころなく話し出そうとしたが、次の間で磐石を落としたような音がしたので、驚いて止めた」  と、人が語ったのであった。 幽霊なしとも極め難い事 天明二年(一七八二)の夏の初め、浅草|新《あたら》し橋(神田川にかかる橋)外の町屋の娘が、武家であるのか町家であるのか、偕老《かいろう》の語らいをして、囲い者(妾《めかけ》)というかたちで、その親元に住んで、一子を産んだ。そののち血労《けつろう》(労咳《ろうがい》)を患ったので、小児を最寄りの豊かでもない町屋に里子に遣わした。そのうち、女は養生できずに死んでしまった。  ある夜、女が里子のところへ来て門口より会釈したまま、里親はその小児を寝かしつけていたのだが、 「よくいらっしゃいました」  と、その里子を抱いて見せた。 「さてよくよく太って成長いたした」  と言い、抱き取っていろいろあやし、 「さてさて可愛らしくなった者を捨てて別れるのも残念なことよ」  と言った。  里親夫婦は、〈この女は大病をしていると聞いていたが、なぜか不思議なこと……〉と思っていた。  もはや灯をともす時分で人の姿もさだかでなかったので、明かりをつけると、女は小児を返し、挨拶《あいさつ》をして帰っていった。  その翌日、親元からその女が昨夜死んだことを知らせてきた。  母子の情は捨てがたく、心が残ったのも恩愛の哀れなことだと、同町の医師田原子が来て語ったことである。   怪竈《かいそう》の事  よほど以前のことであるという。改代《かいたい》町(東京都新宿区)に住んでいた日雇い人がひとつの竈《へつつい》を買って、自分の家に据えて煮炊きをしていた。  二日目の夜、竈元を見ると、汚そうな法師がその竈の下から手を出したので驚き、次の夜も試してみたら、やはり同じように法師が手を出した。 〈竈下に箱をしつらえ、割った薪などを入れておけば、人が入ることはできない〉と思い、〈いやなことだ〉と悩みながら、あの竈を売っていたところへ行った。そして、 「あの竈はよろしくない。取り替えてくれるように」  と頼み、最初の値段に加算して、他の竈と取り替えた。そののちは怪しいこともなかった。  さて、例の竈を仲間の日雇い人が調達したというので、その買ったところなどを聞いてみると、自分が竈を買い返した店と相違ないので、一、二日が過ぎて、その仲間のもとを訪ねた。仲間の者は、 「不思議なことに、その竈の下より夜毎に怪しいことがある」  と語る。  男は、それならばわしも話そうと言って、 「わしも、その竈を一度買ったのだが、怪しいことがあったので返して取り替えたのだ。そなたも取り替えた方がよいだろう」  と教えた。そこで、この男も少々の添え銀をして他の竈と取り替えた。  男はあまりにも不思議に思って、その商った古道具屋へ行き、 「あの竈はどうなったか」  と尋ねた。 「他へ売ったが、また返ってきた」  と語るものだから、詳しいわけを話した。古道具屋は、 「そんなことがあるはずがない。商い物に傷がつきます」  などといささか怒ったので、 「それならばそなたの台所に置いて試してみなさるがよい」  と言って別れた。  古道具屋も、〈一か所ではなく二か所からもどってきたのは、わけがあるだろう〉と、台所に入れて、茶など煎《せん》じてみた。その夜、注意して見ていると、果たしてうす汚れた坊主が手を出して這《は》い回る様子なので、夜が明けて、その竈を打ち壊してしまった。すると、片隅から金子《きんす》五両が出てきた。  さては道心者などがいささかの金子をここに蓄えて死んでしまったが、その念が残っていたのかと、ある人が語った。   幽霊奉公の事  紀州の高野《こうや》山は清浄不怠の霊場として、女人堂から上は女が登ることを禁じている。蛇柳《じややなぎ》の橋は歌舞伎にもとりあげられ、人口に膾炙《かいしや》していることであるけれど、後世、無慙《むざん》な悪僧がいて始祖|弘法《こうぼう》大師の教戒を犯したのであろうか。  寛政八年(一七九六)のころ、営士花村某のもとに抱えられていた女はいたって色青く、関東の者ではないので、傍輩の女子などが出身地を尋ねると、 「高野山で幽霊奉公ということを勤めていた」  と答える。幽霊になって俗人を欺く仕事で、これは悪僧が渡世のわざとしていたということだ。虚談であろうけれど、ないこととも思われないので、ここに記した。   幽霊なきとも申し難い事  私のもとに来る栗原《くりはら》某という者が、小日向《こひなた》に在住し、近隣の旗本のところにいつも出入りしていた。とりわけ懇意にして奥まで出入りしていたが、旗本に一人の子息がいて、年齢は五歳になっていた。いたって可愛らしいので、栗原はたいそう可愛がり、行くときは土産などをたずさえて行った。  しばらく訪れなかったところ、その屋敷より、 「今晩はどうしても来るように」  と伝えてきた。  玄関より上がって勝手の方の廊下へ行くと、あの小児がいつもの通り出てきて、栗原の袖《そで》を引いて勝手の方へ行った。勝手の方ではなにかしめやかに屏風《びようぶ》などを立てていたので、〈病人でもいるのか〉と何気なく通ったとき、主人が出てきて、 「かねて可愛がっていた倅《せがれ》が、疱瘡《ほうそう》で死んだ」  と話した。驚いたというだけではない、恐怖のため剛毛が立ったと、直接、その栗原が語ったことである。   幽魂をまのあたり見し事  中山氏が召し使っていた小侍(武家に奉公した少年の侍)の話である。その小侍は、はなはだ利発で、主人もとりわけ目をかけて召し使っていた。だが、寛政七年(一七九五)の暮れに流行した疱瘡を患って他界してしまった。主人はことのほか哀れんで、手厚く弔ってやった。  さて、中山のもとに常に親しくしている男が昌平《しようへい》橋(千代田区神田)を通ったとき、その小侍が死んだことも知らなかったのだが、はたと小侍に行き遭《あ》って、 「主人にはお変わりがないか」  と尋ねた。小侍は相応の挨拶《あいさつ》をして別れたが、中山のもとへ行って小侍について聞くと、 「ずっと前に死んでしまった」  と語ったので驚いて、 「私一人でございますから、見間違ったということもございましょう」  と連れていた僕《しもべ》にも尋ねると、この者も、 「あの小侍はよく覚えていて間違いがない」  と語り、ともに驚いたという。   霊気残れるという事  佐渡《さど》の外海府《そとかいふ》というところは、とりわけ海が荒れて、激しいところである。鳥居某《とりいなにがし》がその湊《みなと》に番所役勤したとき、同所の浜辺に住んでいた者が、ある夜、船を引き上げる声がしたと言うので、海端へ行ってみた。だが、まったくそのようなことはなかった。二、三夜も同じ声がするので見てみると、浜辺の声がしたあたりに転覆した船が流れ寄っていた。驚いて大勢の人夫で引き起こしてみた。鍋《なべ》・釜《かま》のたぐいは沈んだとみえて見えない。  しかしながら、箱・桶《おけ》のたぐいは船の中にあった。その箱には海府村の名が書いてあったという。 「さてはこのほど行方知れずとなったという船であろう」  と、その村へ知らせ、人がやってきて調べてみると、相違なかったということである。  その船は相川《あいかわ》の町へ薪を積み廻《まわ》してもどるときに、鷲崎《わしざき》(両津《りようつ》市)の沖で難風にあって行方知れずとなったが、自然と乗組員の霊気が残って、このように声を出したものであろう。海辺ではときどきあることだという。   女妖《によよう》の事  荻原弥五兵衛《おぎわらやごべえ》の勤める代官所のあった下総《しもうさ》国豊田郡|川尻《かわじり》村でのできごとである。その村の名主である新右衛門《しんえもん》の家来の百姓|喜右衛門《きえもん》の後家のさきと申す者が、享和三年(一八○三)亥《い》の年、八十三歳になり、新右衛門のところに召し使い同様の形でおいてもらっていた。  同じ村の吉右衛門《きちえもん》といって五十六歳になる者と、この一、二年親しく、さきは、 「夫婦になりたい」  ということを新右衛門へ内々願い出た。しかし、 「年齢からいってもあるべきことではない」  と制して取り合わなかった。すると、吉右衛門と話し合い、駆け落ちするとの噂があったから、新右衛門はやむを得ず、さきの願いを聞き入れて吉右衛門を婿にとったという。  鈴木門三郎が村に廻った際、新右衛門の台所にそのさきという老婆が居合わせるのを見たが、歯は落ちておらず、お歯黒をして、頭は白髪で、立ち居振る舞いは五十歳くらいにも見えたと、門三郎が語った。  その地では、 「吉右衛門が夫婦になって、夜の契りにはおくればかり取って困っている」  と語り、 「交わりをまのあたりに見た」  と話す者もいたが、これは流言であろうか、まことらしくないと語られたことである。   人魂《ひとだま》の事  ある人が、葛西《かさい》(東京都江戸川区)に釣りに出たとき、釣竿《つりざお》その他に虻《あぶ》がおびただしく集まった。そばにいた老婆が、 「このあたりに人魂が落ちたのであろう。それでこの虫がたくさん集まっているのだ」  と言った。私の知っている者が、夜明けに出て釣りをしたが、人魂が飛んできて、あたりの草むらの中に落ちた。 「どんなものが落ちたのか」  と、その場所へ行き、草など掻《か》き分けて見たが、泡だったものがあって臭気もあったが、まもなく虻となって飛び散ったという。老婆の言ったのも偽りではないと、語ったという。   幽霊、恩を謝する事  文化二年(一八○五)八月のことという。神田橋外津田某の先代が召し使っていた女が、今は隠居して、その屋敷に住んでいた。その隠居は、長年、一人の少女を召し使っていた。少女は音曲を好み、琴を弾くことを願っていた。隠居は、 「身分の低い者は、音曲などで奉公するのはなかなか通りいっぺんのことでは、その業を立てるほどにはいたるまい。読み書き、物を縫うことこそが、身分の低い者が嫁に行って用に立つものだろう」  と教えた。  少女はもともと聡明怜悧《そうめいれいり》な素質を持っており、読み書き、裁縫に努力したので、ほどなく見事な裁縫上手と能書家となった。主人である姥《うば》も、 「それではかねて望みであった琴を弾くがよい」  と、その屋敷へ立ち入り、娘子たちに指南した瞽女《ごぜ》を頼んで教えてもらったが、これもほどなくその心を得たものの、哀れなことに風邪の様子で八月中に死んでしまった。  その風邪は初めのころはそうでもなかったのだが、段々陰症の瘴疳《しようかん》(高熱を伴う疾患)となって悩み、橘宗仙院の弟子の宇山隆琢を頼んで、薬を用いることに心を配ったけれど、邪気深くてその効果がなく、隆琢も、 「宿下がりをさせるのがよろしいでしょう」  と申した。主人である姥は年久しく召し使っていたのを哀れがって、否《いな》み止《とど》め、しばらくは屋敷にいたが、 「とにかくよくない」  ということで、皆が申すことに従い、深川の親元へ帰した。  ある夜、隠居の老人が夜更けに目覚めると、枕元にあの少女がすわっている。現実のように思われて、 「そなたは病気であったが、どうやって来た」  と尋ねた。少女はさめざめと泣いて、 「まことに幼いときから厚いお恵みで人並に成長いたしましたこと、海山のご恩、いつかお返ししようと明け暮れ思っておりましたが、もはや、今を限りの命でございますから、思っていた甲斐《かい》もございませんけれど、せめては御礼を申し上げるのです」  と話したという。  主人の姥も、 「どうしてそういう改まったことを申すのか。年頃へだてなく私に仕えて心に背くことがないのは、こちらの方こそ礼を申すべきだ。患うことがあってからは、私も朝夕不自由に思われますから、年も若いことゆえ、よくよく養生し、早く元気になるように」  と言葉を返した。少女は、 「ありがたい仰せごと、身にあまることです」  と申すと、姿が消え、なにか夢のような心地がした。夜が明けて、少女の親元に人を尋ねさせると、 「昨夜亡くなりました」  と答えてきた。主人の姥も深く嘆き悲しんだ。  その明くる日、あの出入りの瞽女が来て、 「今日は外へ用事があって参上いたしましたけれど、いささかお目にかかりたいことがあって訪ねて参りました」  と言う。早速に呼び入れて、その瞽女も深川の者であるから、少女のことを聞いてみると、 「そのことでございます。今朝、あの親元へ行きましたら、その少女は夜中に死にました、今わのきわに抱き起こしてくれと申したので、そんなことはできないと必死にこばんだけれど、たっての願いというので抱き起こしますと、手をついて、幼いときからの厚恩を繰り返し謝し、何か誰かがいる様子で、その返事など致すことがあって、最早心残りはない、と言って臥《ふ》したが、ほどなく亡くなってしまいました」  と語った。  主人の姥が昨夜夢とも現実《うつつ》ともなく彼女と応対したこととほとんど相違がないから、 「さては精心が顕われて通ってきたのだ」  と深く哀れを催し、老姥はもとより、あたりの者たちも袖《そで》を涙で濡《ぬ》らしたのであった。  また、奥医師の多紀安長《たきやすなが》のもとに随身していた医師が、安長が世話をしていた松浦《まつら》家(肥前平戸《ひぜんひらど》六万一千石)に二十四歳でお抱えとなった。だが、ほどなく瘴疳の病で他界してしまった。病気のあいだも安長が厚く世話をしていたが、療治の効なく死んでしまったので、安長も不憫《ふびん》に思っていた。  ある夜、安長のもとに出入りしている薬種屋|藤蔵《とうぞう》が、医師が死んだことも知らず、ひょいと、道の途中でその医師と出会った。 「さてさて久しぶりに対面した。私も病気で長いこと引っこんでいた」  と語り、 「さて、安長のところに数年のあいだ寄宿して世話になり、松浦家にもその紹介で抱えられ、病気のあいだも厚い世話になったこと、まことにその恩はいくら謝しても限りがない。どうか安長のところに行かれたならば、私がこのように申していたと丁重に話し、謝礼をお頼みします」  と申したという。  薬種屋は承知して別れ、その日であろうか、翌日であろうか、安長のもとへ行き、医師に行きあったこと、伝言と謝礼のことを頼まれたことを伝えた。安長が、 「その者はこれこれの日に死んでしまった」  と話すと、薬種屋はたいへん驚き、安長方でもみんなが驚嘆して、 「さては思いが残って、こういうこともあるのだろうか、哀れなことだ」  と涙を流したという。   幽霊を煮て喰《く》いし事  文化二年(一八○五)の秋のことであった。四谷《よつや》の者が夜中、用事があって通行した道筋に、白い装束をした者が先に立って行くので、様子を見ると、腰から下は見えない。 〈幽霊などというものであろうか〉と思って、あとをつけていった。振り返ったのを見ると、大きな目が一つ光っているので、抜き打ちに切りつけた。 「きゃっ」  と言って倒れたのを取っておさえて刺し殺すと、大きな五位鷺《ごいさぎ》であった。そのままかついで帰り、若い友達が集まって調味して食べたという。これぞ、幽霊を煮て喰ったと、もっぱら巷《ちまた》の話となったということだ。   久野家の妻、死怪の事  二、三代前、安永(一七七二—八一)の頃まで勤めていて、私が知っている久野|某《なにがし》が妻を迎えた。  ある日のこと、夫は夜咄《よばなし》に出て、妻だけが閨《ねや》で寝ていた。月は明るく障子を照らしていた。そのとき、怪しい影が映ったので、目が覚めて、 「何者であるか」  と声をかけた。だが、何の応答もないので、起き出して障子を開けると、一人の女が縁をおりようとしていた。それを追いかけて、 「誰であるか」  と、髱《たぼ》(結髪の後ろに張り出た部分)をつかむと、 「ゆかですよ」  と答えた。その髱は残って、姿は消えてしまった。妻は髱をしまっておいて、夜更けに夫が帰ってきて閨に入ったとき、 「あなたには、私が嫁いでくる以前に妾《めかけ》がいたでしょう」  と尋ねた。まだ妻が嫁いできてほどないころであったから、 「決してそのような者はいなかった」  と夫は否定したものの、 「そういうふうにおっしゃるな。ゆかという召し使いがいたはず……」  と尋ねると、夫も驚いて、 「どうしてそんなことを尋ねるのか」  と言う。妻は先刻のことをくわしく語り、その髱を出して見せて、 「死後をていねいに弔いなされ」  と伝えると、夫も道理に服して仏事などをしたという。   駒井蔵主《こまいぞうす》幽魂奇談の事  しばらく高家(幕府の儀式をとり行う役)を勤めた日野|伊予守資栄《いよのかみすけよし》という人の家来に、その領地に住んでいる駒井蔵主という者がいた。  どこであろうか菩提所《ぼだいしよ》を定め、しばらく精勤していたが、もともと、在所の上州に菩提所があったので、 「もしも死んだならば先祖代々の寺に葬られるようにいたしたいのだが、江戸勤中のことゆえ、よんどころなく江戸に菩提所を決めた」  ということを、主人へも申し立て、傍輩へも話していた。 「それはどうでもなることだ」  と傍輩などが言って、なんということもなく時が流れた。  駒井は最近、風邪気味だということで、床についていた。病気の中でもとかく、 「在所の寺に葬られるようにいたしたく……」  と、傍輩・親族へも語っていたが、ほどなく死んでしまった。  親族・傍輩たちが彼の願いのおもむきを主人へ伝えると、主人は、 「いったん菩提所と決めたその寺より送りの証文がなければ、在所の方でも差支えが出てくるだろう。どうしようか」  と言う。それで、江戸の菩提所より在所に僧を遣わして、その送り証文を持たせて寄こしたので、 「それではいかがしよう」  と問うと、 「江戸の菩提所へ行きますと、『蔵主がかねてから頼んでいた送り証文をしたためて下さるように』と申すので持参しました」  と語った。蔵主がその江戸の菩提所へ行った日は、死んだのちのことであるという。意念のすることは、このようなことが多いと、日野氏が物語ったことを記した。   幽魂、貞心孝道の事  江戸四谷長泉寺横丁(四谷山長善寺、東京都新宿区)にますやという紺屋(染物屋)があった。女房並びに子供も死に、渡世にも差支え、ことに口のきけない一子が残って、ひどく困り、手間取り(手間賃で雇われる者)を頼んで。面倒を見てもらっていた。貧しく暮らしていた夫婦の者がいかにも真面目そうなので、その夫を養子にするように相談して、さっそく紺屋の株、並びに家財・雑具を渡して、自分は隠居同様にして暮らしていた。  その養子夫婦はあくまでも孝養を尽くし、口の不自由な幼い者をいたわり、まことに実父のように仕えたので、近隣の者もその親切を褒めたたえ、隠居はことのほかに喜んでいた。  老齢限りがあって、隠居は死んでしまった。妻もどうしたのであろうか、病気になって、これまたほどなくはかなくなってしまった。夫の嘆きは言うばかりもない。  さて、男の住まいは、ことに口のきけない幼い者もいるから、知っている者や近隣の者が進めて後妻を入れたけれど、こののち、妻も夫の申し付けにまかせ、その幼い口の不自由な子をいたわって育てていた。  ある夜、夫は留守で、女房一人が寝ていたところ、物音に驚いて目覚めた。枕元の屏風《びようぶ》の陰に、その様はこの世の人間とは思われない女が立っていた。 「きゃっ」  と叫び、おびえ驚いて、夜着をひっかぶって臥《ふ》していた。よくよく考えてみると、〈先妻の幽魂が、心が残って来たのであろう。このようなところには一日もいることはできない〉と思った。とはいえ、翌日の夜は、〈今夜は来るまい。心の迷いだ〉と寝ていると、またもやその女は前夜のように立っていたので、 「きゃっ」  と言って夜具をかぶった。  夫もその夜は脇に寝ていたので、 「どうしたのか」  と引き起こすので、もう隠すことはできずに事情を告げ、 「どうかお暇を下され」  と申した。夫はよくよく聞いて、 「先妻の行状や心根はそのような者ではない。まったくそなたの迷いであろう」  と、いろいろとなだめたけれど、 「一晩だけではなく、二晩もまのあたりに見たことは、まったく心の迷いではない」  と言う。それをなんとかなだめ、 「こういうことには、ささばたき(巫女《みこ》の口寄せ)をして聞くのがよかろう」  と、市女《いちこ》(巫女)を呼んで作法通り水むけ(霊前に水をささげること)をした。先妻がその市女にとり憑《つ》いて言うことは、 「二夜、夢のような形で姿を現わしたのは、狐狸《こり》のせいではない。私が現われ出たのは間違いがない。しかしながら、嫉妬《しつと》や執着心で来たのではない。今の妻へくわしいわけを言って頼みたいことがあって来たのを、ひたすら恐れているので、思うことを述べることができないのだ」  と、家のあらましを語って終わった。  その夜寝ると、また現われ来たので、妻も今度は恐れないで話を聞いた。幽魂は、 「口のきけない子の実父は、私たち夫婦を頼りとして、ゆかりもない身に家蔵・雑具まで譲り与え、この子の養育を頼みなさったので、私が世にあったころは、夫婦は心を合わせ、孝養も尽くし、幼子もいたわったが、私たちは命が尽きて泉下の者となってしまった。後妻も心の良い人ではあるけれど、初めのことはご存じない。くわしく事情を話して幼子を育て、家を大切にしていただくほか、私の願いはない。くれぐれも夫のこと、幼子のことを頼みます」  と言って姿を消した。このたびは妻も恐れる気持ちがなく、わけを聞いて涙を流し、夫も厚く幽魂の信実を感じ、 「それにしてもまだ心の迷いもあるだろう」  と、施餓鬼《せがき》供養などをしたところ、ある夜の夢に、 「夫婦の志を喜び、成仏した」  と語ったということだ。  この一段は談義僧の咄《はなし》らしいけれど、いたって最近のことで、間違いのないことだ、と、ある人が語ったことである。   幽鬼、その証を留めし事  白河(福島県、松平|定信《さだのぶ》)の藩中のことだと、ある人が語ったことであるが、しかとその実は知らない。  いずれの地であるか、奥州の在所に一人の貧しい医師がいた。夫婦のあいだに二人の娘を得、姉妹共に絶世の美人であったが、中でも妹の方は冷艶《れいえん》で、郡中の評判はたいへんなものであった。  姉はその容貌《ようぼう》がよいことで、家中の侍以上の身分の人の妻となった。  同家中で番頭《ばんがしら》をしていた者が妻を失ったのだが、この者は絵を書くことを好んで、それを慰みとして日々を暮らしていた。親しい男がいて、 「若い身で一人寝するのもいかがであろう。後妻なりと側室なりと求めなされ」  と話した。男はその言葉を聞いて、 「そうも思うけれど、相応の者がいたならば……」  と答えた。 「聞いてもおられるだろう。この郷の者でしかじかの医師の娘がいる。これを呼び迎えたらどうか。その娘をご覧あれ」  と、野行きにかこつけて、二人は連れ立ってその医師のところを休息所として娘を見た。なるほど絶世の佳人であるから、男もしきりに望み、仲立ちする人が医師に告げたところ、医師は心安く承知した。  男は藩中でもれっきとした身分なので、同役へ相談した。すると、 「田舎の医師の娘というのでは不都合だ。是非というのであれば、まずそれとなくしておいて、あとで妻にすればよい」  と言った。そのわけを仲立ちする者が医師に語ると、 「歴々のお方の妻となるには、まず、わたしのところを実家とするのはいかがでありましょう。当分は側室ともして、追って妻とするのが、その身の幸せというのであれば……」  と納得して、娘は嫁いでいった。  その姉の嫁いだ男は羽振りよく勤めて、見事な立身をした。一族・傍輩《ほうばい》が寄り集まって祝したが、その翌年にはまた立身して重役となった。みんなもまた寄り集まって酒に興じて、 「この亭主は毎年出世して、あやかりたいものだ。まことに才力があって手柄なことだ」  と褒めたたえた。だが、客の中の一人が、 「私はうらやましくはない。この亭主の妻の妹は、当家の番頭をしている某《なにがし》の妻で、あれこれの内縁取り持ちで立身したと聞いている」  と酔興のままに申した。 「本当にそうであるか」  などという者もいたが、物陰で亭主が聞いていた。その座席は何事もなく酒も進んでおのおの喜びながら帰ったけれど、その夜、亭主は妻に向かって、 「そなたも聞いたであろう。御身の妹婿が、今、権勢の職にあるから、私がこのように出世したと、雑談をしている人がいた。定めて家中でこのように噂をしているからだ。私が縁故で昇進したというのであれば、なんとしても面目が立たぬ。そなたにあやまちもなく、お互い飽きも飽かれもしていないけれど、外聞には代えがたいので、離別をしよう。もしもその面目が立つようになったならば、再び復縁することもあるだろう」  と言ったので、妻ももっともだと思い、父の医師のもとに帰った。  父が帰ってきたわけを尋ねると、 「かくかくのことです」  と述べたので、これを聞いて、 「こういうこともあるはずだ。妹は側室の形であるけれど、やがて正式な妻にも迎える約束だから、私が行って考えさせる方法がある」  と医師は仲人を誘い、あの番頭のもとに行った。 「妹娘は追って表立って妻にしようと約束していたが、子どもまで生まれて、はや一年を重ねた。これによって早々にこの願いを差し出しなさるか、さもなくば離縁し給え。それについて引っ込みのつかないわけがある」  と語った。そこで番頭をしている男も、 「それは子細ないことで、子まである仲であれば、急にどうこう願うこともない」  と言い、仲人共々利害を述べたけれど、その医師は、 「なにぶん道理が立たない」  と強く訴えた。妻もくわしく親の話を聞いてどうしようもなく、仲人を連れて宿に帰り、そうして姉の夫の方へ、 「妹は離縁して取りもどした」  と申したので、 「それではもとより子細ない」  と復縁した。  その医師の妻は後妻で、二人の娘も継子であったが、心のよくない継母であるうえに、もとより清貧の医師であるから、その妹娘は鬱々《うつうつ》として患い出したとかいうことである。  さて、その番頭は、子どもを見て、また、あの妻のことを思いつづけると、それにしても不憫《ふびん》なことだと感じた。しかしながら未練にその医師のもとを訪ねるのも面倒であったから、ただ気がふさいで楽しくない日々が続いた。  あるとき、番頭の男は、小座敷の窓のところのかねてより好んでいる絵を見て、〈それにしても飽きたわけでもないのに別れた妻はいかがしたであろうか、不憫なことだ〉と思いだしながら、灯火の前で手を組んだまま夢を結ぶと思ったところ、窓の障子がさらさらと開いて顔を出したのを見ると、別れた妻の変わらぬ姿であった。夫の手を取ってつくづくと見ているので、さすがに武士で、その腕をつかんでしげしげと見ていた。女は物言うこともない。男は、 「そなたは女の身として、夜になぜ一人で来たのか。まったく狐狸《こり》が私の心の鬱々としているのを見て現れたのか。世間にはそういうことがあるけれど、私がどうして狐狸にたぶらかされようや。もしもまことに私が別れた妻であるならば、何か証拠を持ってこい」  と言って、手を放した。すると、姿が消えてしまった。  そののち四、五日が過ぎて、またしてもあの窓のところにいると、例のごとく障子を開けて内に入ってくる者がいる。誰だと見ると、別れた妻である。このたびは先と変わって髪も乱れ、顔色も青ざめて、この世の人とも思われない姿で、喉《のど》のあたり、また腹のあたりに血潮がしたたり、見るも哀れであったが、懐中からわが子の小袖《こそで》を一つ出し、 「私が里へもどるときに、あなたの物、子どもの物は残しておいて、自分の品ばかり持ち帰ってきたが、外包みの中にこの品がまぎれ入っていた。『証拠を』とおっしゃるので持ってきました」  と自分の身がはかないことを話した。男は絵を書くことにくわしかったので、その姿を彩色画に描いて書き写した。  このようなことは、現実にありえないから、その菩提所《ぼだいしよ》を訪ねて和尚に、 「しかじかの亡者が来たかどうか」  と尋ねると、 「確かに遺体を運んできた」  と言う。 「変死であるのか、病死であるのか」  と尋ねると、 「それは知らない。変死とは思われない」  と言ったので、 「厚く追善供養して下され」  と、布施物を与えた。すると、 「このことはお許し下さい。私もこの施主と檀家《だんか》としての縁があり、懇意にしているので、手厚く弔いましたが、私の未熟な法力で浮かばれていないので、このような奇談を聞くのです。ここから近いところに徳の高い僧がいるので、この方をお頼みなさい」  と指図し、その寺において法会を執り行ったということだ。その写した絵をその両寺、家の者、その他見た者は、いずれも熱病を患ったという。しかしながら、薬を与えて、みんなも全快したということだ。   霊鬼、狐を頼み過酒を止めし事  神田|佐久間《さくま》町(東京都千代田区)に(他説に浅草元鳥越町〈東京都台東区〉)万吉という者が、酒を好んで朝夕飲んでいた。あるとき、娘を呼んで、 「酒五合ばかりを調えて飲ませよ」  と言ったので、娘は心得て、ちろり(酒の燗《かん》をするのに用いる器)をさげて、隣にある酒屋に五合の酒をつがせ、暖めて親父に与えた。親父は喜んで、茶碗《ちやわん》に入れようとしたが、一滴もない。 「これはどういうことだ」  と娘を呼んで叱った。娘も非常に驚いて、 「しっかりと見ていて酒をつがせたのですから、そんなわけがない」  と、再びちろりを持って、今度は一升の量で調えて帰り、ただちに暖めて出した。親父が茶碗に注ぐと、また一滴もないから、たいへん不機嫌となった。だが、娘が燗をするのを見届けていたのだから不思議に思っていた。娘は驚き、 「このほど夢の中に母が現われて、とかく父の大酒は体にも家のためにも悪いから、よくよく注意して、酒をやめるように申されたのです。一通りは申しましたが、聞き入れてくれませんので、強いては申しませんでした。酒がなくなったのは、こういうことでもありましたものか」  と語った。親父も、 「自分もそのような夢を見て、埒《らち》もないことと捨て置いたが、それならば止めることにしよう」  と、そののちはしばらくは止めていた。すると、最近なくなっていた徳利・ちろりなどが出てきたのだが、近所の寄合いで、またしても禁酒を破って酒を飲んだので、またまた酒の道具がなくなり、娘は何かにとり憑《つ》かれたような様子で、 「先妻の死霊が酒が過ぎることを憂いて狐を頼んで意見をしたのだが、その誓いを破ったので、またまた来て御身に付き添うことにした」  と口走った。親父も大いに恐れ、 「こののちは断固、酒を断つことにしよう」  と誓ったので、娘の狂気もすぐに治ったとかいうことだ。  ただし、この話は、山崎|某《なにがし》が語ったのだが、私(根岸鎮衛)の組の内、市中の風説を聞かせたものが、同様なことを書き出した。  その風聞によると、浅草元鳥越町の平三郎|店《だな》に五十三歳になる万吉がおり、現在の妻のすぎは四十歳、倅《せがれ》の市太郎は二十五歳、嫁のぎんは十八歳で、十六年以前に死んだ先妻のゑいが、常々、万吉の大酒を憂い、たびたび意見をしていたという。ぎんはこの正月下旬より乱心いたし、いろいろなことを口走っているうち、ゑいがとり憑いていることがわかった。ゑいは自分が死霊ではどうにもならず、そこで狐を頼んで神通力で意見をしたのであるという。奇怪なことではあるけれど、もっぱら噂となったので、書き出した。先妻の親切は当然あるべきことで、頼まれた狐も親切なものだと一笑したという。   死霊の奇談の事  下谷《したや》とか浅草とかの話で、その名も聞いていたが、忘れてしまった。代々若死にで、養子をもって相続していた家筋があったが、わずかに一人だけ血筋の娘が残ったという。この娘をみんなで大切にしていたものの、ふとしたことから患ってしまい、諸医が手を尽くして祈念|祈祷《きとう》したが、効果はなかった。  あるとき、夜が更けてから見たこともない一人の小坊主がこの家に来て、 「私はこの家の三代前の主人に仕えていた者であるが、いささかのあやまちを犯して情けなくも殺された者だ。その後も非道にも弔われることもなく、怨恨《えんこん》晴れやらず、これまで祟《たた》りをなしてきたため、その血筋は、あの娘一人である。この者の命もほどなく取るだろう」  と告げた。家人はこのことを夢幻のように聞いたというが、 「それはもっともなことではあるけれど、最早年月も経ったことだから、今、娘が死んだとしても、そなたの妄執が晴れるという考えがわからない」  と返答した。 「それでは、私の塚はそまつなものだが、山谷《さんや》の玉林寺にある。どうかそこで追善供養をしてくだされ」  と語って、姿を消した。  翌日、玉林寺へ人を遣わして、その小僧の申す場所を探し出し、手厚く供養すると、不思議なことに、娘の病気はただちに治ってしまったという。その夢に見た男の一つのはかりごとであったのかもしれない。   亡霊の歌の事  奥州の諸侯の藩中に勤番(参覲《さんきん》交替の供としての江戸勤務)の者がいた。在所には母と妻が留守をしていた。しばらく互いに音沙汰《おとさた》もなくて過ぎていたが、ある夜、夢ともうつつともなく、枕元に寄ってきて呼び起こす者がいる。起き上がって誰かと見ると、なんと、在所の妻ではないか。たいへん驚いて、 「どうしてここに来た。山海を隔てて女が来るべきところではない」  と言うと、妻はしだいに話し出して、 「あまりに懐かしいので来てしまいました。まことを申しますと、今の私はこの世には存在しない魂なのです」  と語る。夫は、 「それはどういうわけだ」  と尋ねると、 「刃にかかり、変死しました」  と語った。夫が、〈わけを尋ねよう〉と思ううちに、妻の姿は消え失せてしまった。 「それにしても不思議なことだ。まったく夢であろうかと思うと夢ではない。在所のことはどうであろうか」  と心を苦しめ、それとなく母と妻とへ、 「変わったことはあるまいか」  と手紙をしたため、近親の者がいたので、そこにも書状を遣わした。  しばらくして、母のもとから返事が来たが、 「女房は、そなたが出立したあと、行いが悪く、行方不明となってしまった。ひそかに探っているけれど、今なおわからない」  と書いてきた。  親類のもとからもそうしたことを書いてきたので、〈さてはそれで便りがなかったのか。それにしても妻の行動の不埒《ふらち》さよ〉と思いつづけて寝床についた。  その夜また、妻の霊が来てさめざめと泣いて、 「故郷のお便りはありましたか」  と聞く。夫は、 「確かに便りがあったが、そなたは密通があって出奔したというではないか」  と告げると、妻はさめざめと泣きながら、 「私にはいささかのあやまちもありません。あなたが出立したのち、母上の身持ちがよろしくありませんでした。はからずも私がその様を見たのを母上が憎みなさり、私はひそかに母の手にかかり殺されてしまったのです。それなのに、ありもしない浮き名を立てられて、屍《しかばね》の上の恥辱は言葉で言い表わすこともできません。私の死骸《しがい》は近くの谷間にまだ腐らないで捨てられてあります」  と告げた。夫はなおもくわしく尋ねようとしたが、 「その屍のあるところのしるしです」  と言い、髪を一束に切って置いたのを見て目覚めた。不思議な夢だと思いながら改めて枕元を見ると、一束の髪の毛があった。  このとき、その亡霊が、   待ちわびし法《のり》の教への数々も 行く先安き身こそ嬉《うれ》しき [#2字下げ、折り返して3字下げ](待ちわびた仏の教えの数々も阿弥陀《あみだ》様のいる浄土へすぐに行くことができるこの身が嬉しい)  と詠じたというが、この歌は妄説らしく思われる。  夫は、ひそかに信頼できる親族へこのことを申し遣わして、親族がその谷間を訪ねたところ、雪国の冷地のことで、死骸は厳然として少しも変わっていなかったという。母は主人から尋ねられたりして、その罪に服したともいうが、そののちのことは聞かなかったと、ある人が語ったことである。   思念、故郷へ帰りし事  大御番与力を勤めている横田某が語ったことである。  京都の二条城や大坂在番の留守中は、組屋敷の惣門《そうもん》を厳重にして、番人もめったな者は断りなしに通すことはなかった。  明和・安永(一七六四—八一)の頃、在番に上った酒井小七という同心が、正しい時間ではなく、暮れが過ぎる頃に惣門に来て、 「通りたい」  と申し出た。番人も組内の者だから疑わないで通した。  その夜、小七の妻が夢とも現実《うつつ》ともなく、帰ってきた小七と対面したが、なんとなく顔色が悪く衰えたように思われた。  翌日、上方から書状が来て、 「小七が在番先で病死した」  と知らせてきたということだ。  文化五年(一八○八)にも、松山|弥三郎《やさぶろう》という同心が、二条で病死したが、横田が江戸に帰ってから人々が、 「弥三郎が病死したみぎり、江戸惣門の番人が、弥三郎が帰ってきたことを留守宅に告げた際、留守に人魂《ひとだま》が入ってきて、家の棟を徘徊《はいかい》しているのを見た」  と語るのを聞いた。二度までもそうしたことがあるので、意念が帰ってくることもあるものだと、横田が語ったことである。   幽魂奇談の事(死霊、その血縁をたちし事)  間部《まなべ》藩(越前鯖江《えちぜんさばえ》五万石)中の医者で、青木市庵という者がいた。また、芝あたりに町医の外科で北島柳元という者がいた。二人とも長崎出身で、天明(一七八一—八九)の末に江戸に出て、市庵は藩中の者となり、柳元は町医者で内弟子も二、三人いて業をなし、互いに同じ国の出身だから、仲良く語らっていた。  寛政(一七八九—一八○一)の初年の夏の頃、市庵が癰《よう》(背中などにできる急性の腫《は》れ物)を発したので、柳元は治療を依頼された。腫れ物もそれほど大きくはならず、たいして強い痛みでもなかったから、一晩中つきそっているほどのことでもなかった。  藩中のことだから、手狭でもあり、柳元が薬を調合しているあいだ、市庵は独りで寝ていたが、まだ痛みもあり、熟睡せずにいた。  ある夜の丑三《うしみ》つの頃(午前二時頃)、障子の外に女の声がして、 「お願い申したいことがあります」  と聞こえた。〈夢かな……〉と市庵は枕から頭を上げて聞くと、女の声に違いない。 〈同じ藩中の者であろうか、不思議なことだ〉と起き上がり、 「何者か」  と尋ねた。 「私は奥州の三春《みはる》の者です。お願いのおもむきを聞いてくだされ」  と言う。市庵は大胆な男であるから、少しも驚かず、 「それにしても戸の外では姿も見えない。中へ入られよ」  と声をかけた。戸を開けて中へ入ってきたのを見ると、二十歳ばかりの女で、顔色は青ざめ、衣類の様子はわからないけれど、すごすごと座についた。  市庵は女を見て、 「夜中に屋敷の中へは門を入ることもできないのに、合点のゆかぬことだ。狐狸《こり》のたぐいが嘘をついてたぶらかそうというのであろうか。憎い奴だ」  と叱りつけた。女は涙を流し、 「さらさらそのような者ではございません。もとは奥州の三春の者で、今はこの世に存在している者ではございませぬ。お願いと申しますのは、北島柳元のところに居候をしておる者が所持いたしている扇筥《おうぎばこ》(扇を入れる箱)に封をしたものがあります。これをもらいくだされたいというお願いです」  と言って、さめざめと泣く。市庵は、 「そういうことであるならば、どうして柳元のところへ行って願わぬのか」  と尋ねた。女は、 「柳元の門口に尊い守り札があるので、入ることができません。それでお願いしているのです」  と説明する。 「その品は受け取りにくるのか」 「どうしてももらい受けて持ち帰る必要はありません。いずかたなりとも墓地に埋めて、いささか仏事をしてくだされば、それで望みは足りることなのです。どうかこのことお願いいたします」  女はこういうことを語った。 「なるほど、それはたやすいことだ。柳元に話をしよう。しかしながらどうしてこのような願いをする。また、その品物はなんだ」  と尋ねると、 「そのことは所持している人にお尋ねください」  と言い、もとのところから立ち去った。 〈奇異なることだ〉と、あれこれ思いめぐらして、寝ることもできないうちに、短い夜はほのぼのと明けた。柳元のもとに、 「すぐに来てください」  と言い遣わすと、柳元は寝覚めたところに使者が来たものだから、〈腫れ物にでも異変が起こったのか〉と、駆けつけてきた。  市庵が夜中のできごとを語った。柳元も不思議に思って、 「それならば帰って調べることにしよう」  と、立ちもどり、三春から来た弟子を呼び寄せた。  その弟子はちょうど銭湯に出かけていたので、 「それならば、そこらを探せ」  と命じて、弟子の取り散らかした部屋を調べると、紙貼りの手箱の中に一つの扇箱が封じた形であった。そのまま素知らぬ顔をして置いたが、ほどなく、その弟子が帰ってきたので、柳元が、 「どうしていわくのある箱を所持していたか」  と問うた。 「そのような覚えはありません」  と答える。 「いや、隠してはならぬ。必ずあるはずだ。この者の手筥《てばこ》・文庫を持ってこい」  と、他の弟子に、紙貼りの手文庫を持ってこさせて開かせた。その中に封がされている扇筥を取り出し、 「ここにはどのような物が入っているのか」  と尋ねた。弟子はうつむいて無言でいたが、しばらくして顔を上げた。 「このことについては、面目ないことですが、長い話がございます。こうなったからには包み隠すこともないことでございます。しかし、この品をお改めになり、お尋ねになったのはどうしてですか。まず、それを承りたい」  と申した。 「なるほどもっともな疑問だ」  と、今朝、市庵が話したことをありのままに語った。弟子は涙を浮かべ、 「さてさて面目のないことでございます。それならば懺悔《ざんげ》いたしましょう。私の生国は奥州の三春で、まことにわずかな畑をもった百姓の倅《せがれ》です。母には幼少のときに死別し、兄弟もなく、父と二人でどうにか暮らしておりましたが、父が長《なが》の患いをして、わずかな畑も質入れして失ってしまい、父は七年前に江戸へ出て奉公稼ぎをし、私は菩提寺《ぼだいじ》へ参って奉公しておりました。二、三年のあいだ寺に奉公いたしておりますうちに、ひまひまに手習いいたし、少々は本を読むことなどを習い、少し物を書くことも覚えました。  三年前に寺を下り、小さな家を借りて、あちらこちらの雇い人となって渡世いたしておりました。同じ村の百姓の太郎兵衛と申す者のところに、たびたび雇われて参りました。太郎兵衛は豊かに暮らしている人でございますけれども、物を書く家来ということで、かなりの者を召し使っておりました。  私は荒々しいこともせず、読み書きの手伝いなどをして、毎日出入りしておりますうちに、娘と密通し、娘は妊娠してしまいました。そのうえ、男子はなく、一人娘であることから、婿取りをするなどということで、どうしよう、ああしようと案じておりますうちに、娘は『いずれにしてもここから出よう』としきりに申すので、せんかたなく、ある夜、娘を連れて出奔したのです。その娘は金子《きんす》二百両を盗み持ち、『これでどこへなりとも立ち退いて生きてゆこう』と申します。  二里ばかりも参りますと、夜中のことです、差し当たって行くあてもなく、つらつら思いめぐらしますと、太郎兵衛にはあれこれ世話になり恩を受けたのに、一人娘と不義をいたし、そのうえ金子を持ち出して嘆きをかけることは、人の情けに背いている。たとえ首尾よく逃げ延びたとしても、天命のほどが恐ろしいと思い決めました。三里ばかり隔たったところに、その娘の母方の叔父《おじ》がいたが、娘はその家を知りません。  なんとか、その叔父の家に娘を連れていって門の外に置き、門をたたくと、内から人が出てきたので、『太郎兵衛のところから用事があって参上しました』と、ひそかに申し入れると、〈夜中、なにごとであろうか〉と驚いて内へ入れてくれたので、『太郎兵衛のところから来た長吉と申す者でございます。急にご主人様へ内々に直接申さねばならない急用です』と言い入れました。  私はかねて主人にも覚えられておりましたので、一間《ひとま》へさそい、『わたくしは隠し申すべき、かようの次第で、姪御《めいご》様を連れ退きました。しかしながら、太郎兵衛様にはたった一人の御娘子、家をお譲りになろうということで、婿をお探しの中に、私は種々《いろいろ》ご恩になっている身で、このような不届きをいたし、そして姪御《めいご》様を連れ退き、そのうえ二百両という金子をお持ちになって連れ退きましたこと、あまりに天命が恐ろしく、太郎兵衛様のご立腹、お嘆きも恐れ入っております。ここもとを姪御《めいご》様がご存じないのを幸いに、お連れ申して参りました。今晩はご存じないかたちで、お泊めくださり、明日、ご対面なされて、太郎兵衛様へおもどしくだされたく、私は今夜中にどこへなりとも立ち退き、江戸の親父を尋ねまして、いかようにもいたしましょう。金子はここにございます』と言って、二百両の金を叔父に渡しました。 『一度の不埒《ふらち》は若気の至り、この節に至りその心底は感じ入ったことだ』と、二百両は取り納め、別に金子七両を取り出して、『これで江戸へ出て、どのようにでも渡世いたすように』と言い、娘は座敷へ通して休ませたので、夜の明ける前に、私は江戸へ下り、父に会いまして、松平|右近《うこん》様へ足軽奉公いたしておりました。  翌年、国の者にふと行き会い、あれこれの話をしておりますと、太郎兵衛の娘は親元に帰り、そののち出産し、生まれた子はそのまま死に、女は産後に死んだということを承りました。たいへん不憫《ふびん》になり、『出家いたしたい』と父に申しましたけれど、納得してくれぬまま、せめて髪ばかりでも剃《そ》ろうと、こちらの御弟子になることを願い出て坊主になり、心願があるので、今もって常に精進しているのです」  と説明した。筥を開くと、中にはもとどりを付けたままに剃った髪、また半切《はんせつ》に血で念仏が書いてあった。 「これは、あの女の菩提のために血で書いた夏書《げがき》(夏安居《げあんご》中に書写した経文)でございます」  と語ったので、柳元の菩提所である麻布永坂《あざぶながさか》光賢寺の卵塔《らんとう》(塔が卵の形をした墓)に、その髪、血書の夏書を納め、髪塚という碑を立てて仏事を行った。そののち、市庵の夢にあの女が来て、 「追善供養のお蔭《かげ》ではや妄執を晴らすことができ、ありがたい」  と、礼を言ったということだ。  そののち、このことを人に語り、望みのごとく出家して、光賢寺住職の弟子となり、それ相当の僧となって、武州|桶川《おけがわ》の在で平僧《へいそう》(位のない僧)が住職をしている小寺の西念寺という寺の住職をしたという。  清家玄洞という医師は、柳元の友人であったから、物語ったのだという。   赤坂与力の妻亡霊の事  去る申《さる》年のこと。馬道《うまみち》で茶屋商売している者が、深川に用事があって、夜に入り霊岸寺の前を通った。そのとき、赤と青の陰火(火の玉)が二つ見えたが、ぱっと消えた。気丈な男なので、その寺のはずれまで何心もなく行った。すると、若い女の声で呼びかける者がいるので、たちもどると、女は、 「私は赤坂の某《なにがし》という与力の妻ですが、病死したので、この寺に葬られました。夫は後妻を呼び迎えたのですが、その後妻ははなはだ嫉妬心《しつとしん》が強く、それで自分も成仏できかねています。なにとぞそのわけを夫に伝えてください……」  と言い捨て、かき消すように姿を消してしまった。そのまま放っておこうかと思ったが、〈伝えなければ、どんなことに遭《あ》うかわからない〉と考え、ちょうど赤坂あたりに行ったことでもあり、その与力のもとを探し出して面会を申し入れた。初めは知人ではないということで断られたものの、強いて申し入れると会ってくれた。  面会の上、先程の若い女の霊の訴えを伝えると、その与力は、 「後妻のことははなはだ嫉妬深く、私も困り果てている」  と言い、「亡妻の伝言、かたじけない」と謝礼をし、そこで別れたのであった。  そののち、また、深川へ用事があって、夜になって霊岸寺前を通ったが、このたびは陰火は見えなかった。しかし、呼びかける者がいるので、立ち止まると、かすかに女の姿が現れ、 「先だってのこと、言伝《ことづて》くださったことのかたじけなさ、その後妻も死に、今はわが身にも障害がなく、成仏することができました」  と、礼を述べたので、不思議なことに思い、その与力のもとへ行って事情を尋ねた。与力は、 「後妻は死んだけれど、同じ場所に葬ったならばむずかしいこととなると思い、里方の寺へ送った」  と語ったうえ、 「後妻は嫉妬の激しい者で、あるとき、私に願いがあるというので、『何ごとだ』と聞くと、『どうか先妻の位牌《いはい》を私にくだされ』と言うから、『どういうことだ』と尋ねると、『どうしても……』と言うので、『好きにするがよい』といい加減に返事すると、たちまちその位牌を物陰に持ってゆき、薪割りでこなみじんに打ち砕いてしまったが、それから病気となって死んでしまった。恐ろしい妬《ねた》み女だ」  と打ち明けたという。   小幡小平次《こばたこへいじ》事実の事  小幡小平次のことは、読本にも綴《つづ》られ、浄瑠璃《じようるり》にも取り組まれ、さらに俳諧《はいかい》の附合《つけあい》などにもされるなど人口に膾炙《かいしや》しており、歌舞伎の役者であるとは聞いたが、具体的なことについては知られていない。  ある人がその事跡を語った。  小平次は山城国小幡村の生まれで、幼年時代に母と死別し、頼る人もいなかったので、その村の長などが世話をして養っていた。 「ひたすら両親の追善のために出家するがよい」  という勧めに従って、小幡村の浄土宗の寺である光明寺の住職の弟子となり、真洲と名乗った。  頭脳|明晰《めいせき》、利発であることは言うまでもなく、和尚も真洲を愛してしばらくそばにおいていたが、学問もでき、 「どうかこのうえは諸国を遍歴して出家の修行をしたい」  と本人が願ったので、金五両を与えて、その願いを許した。  真洲は江戸表に出て、深川あたりにいた同じ小幡村出身の者を頼ってしばらく滞在していたが、呪《まじな》い・祈祷《きとう》などにはなはだ奇瑞《きずい》を示したため、ここかしこから招かれ、後には他に店を得るほどで、信仰の者が増え、金子《きんす》を蓄えるほどになった。  深川の茶屋の女子で花野という妓女《ぎじよ》が、美僧である真洲に病気のときに加持祈祷してもらったことから深く執心して、あるとき口説いたことがあった。だが、真洲は、 「私は出家の身で、このようなことは思いもよらないことです」  と否み断った。  ある夜、真洲の庵に花野が来て、 「この願いをかなえてくださらないならば死ぬより他にない。私を殺しなさるか、どうなさる」  とせっぱ詰まった様子で嘆いたうえ、一つの香合(香を入れる容器)を出して、 「私の心をご覧あれ」  と手渡した。香合を開けてみると、中には指を惜しげもなく切って入れてあった。真洲はたいへん驚き、 「出家の身で、いかに言いなさろうと、堕落する気持ちはない。しかしながらそれほどにおっしゃることなれば、明日の夜においでください。よくよく考えてどうするかを返事しよう」  と言って別れた。だが、〈このままではどうしようもあるまい〉と思い、その夜、手元の調度類を取り集めて旅の支度をして、深川を立ち退いて神奈川に到着した。  ある家に寄って、一夜の宿を求めたところ、亭主は真洲を見覚えている様子で、 「あなた様はどうしてここにお出でになったのか」  と尋ねるので、  あらましを語った。亭主は、 「まずは逗留《とうりゆう》されよ」  と、留め置いて世話をしてくれた。  あの香合は、けがらわしいと思って途中で取り捨ててしまったが、不思議なことに漁師の網にかかり、神奈川|宿《しゆく》で不思議なことに真洲の手にもどっていた。そのことを、亭主が聞いて、 「このように執心の残った香合であるならば、焼き捨てて手厚く弔いなされ」  と言うのに従って経を読み供養して、一つの塚の内に埋めた。これで〈心残りがない〉と思っていたが、ある日、大山に参詣《さんけい》する者が、宿泊している真洲を見て、 「そなたはどうしてここにおられるのか。あの花野は乱心して親方のところを出て、今はどこをさまよっているのか行方もわからない。もう江戸表に帰りなさい」  と言い、口々に勧めて連れて帰った。その後、堺町あたりの半六という者が世話をしてくれ、 「浪人して世を渡る仕事がなくては駄目だ」  と、茶屋の手伝いや楽屋の仕事などをしているうちに、 「出家者ではどうであろう」  と還俗させた。役者たちも、 「そなたも役者になりなされ」  と勧め、そうしてついに役者の道に入り、初代|海老蔵《えびぞう》といった市川|栢莚《はくえん》の弟子となった。 「小幡を名乗るのもどうであろう」  と、小和田小平次と称したが、男ぶりはよし、芸も相応にでき、中よりは上の役者になった。しかし、茶屋で博打《ばくち》をしたことがあり、栢莚が破門としたので、せんかたなく田舎芝居に半六と同道して下った。  のちに、雨天が続いて旅回りを休んだ日、その半六と見世物師を仕事としている穴熊三平が連れ立って漁に出たとき、はからずも小平次は海に落ちて水死したという。 (実は、花野が堺町で小平次のいることを聞いて夫婦になっていたが、三平が深川にいたとき花野に執心していたので、半六と申し合わせて小平次を海へ突き落として殺してしまった。このことが露見して取り調べられ、三平・半六が共に深川で仕置されたとかいうことだ。)  こうして三平と半六は江戸へ帰り、小平次の留守宅に来たが、花野が出てきて、 「どうしてお帰りが遅かったのか。小平次は昨夜帰りました」  と言うものだから、二人ははなはだ疑問を抱き、 「実は小平次は海に落ちて死んでしまった。申し訳のない事態で話し出すことができなかった」  と語ると、妻は本当とは思わない。両人も驚いて小平次のいるという一間《ひとま》をのぞいてみたが、荷物などはあるものの、小平次の姿はなかった。  そののちも小平次のことについては、怪しいことがたびたびあったという。その他のことは聞かなかったので、ここには書かない。享保《きようほう》(一七一六—三六)の初めより半ばまでのことだという。 [#改ページ]     其ノ参 憑き物の怪   奇病の事  松平|京兆《けいちよう》の物語に、このほど不思議なことがあった。  家中の侍の妻が病気となり、里へ帰っていたが、ふと、 「夫が他の女に心を寄せている。私を見捨て、『不快だ』ということで里にさし返されたのも、あの女の仕業だ」  と口走ったという。あるときは恨み、あるときは怒りなどする様子は、普通の病気とは思えない。この妻はいたって容色も美しいということである。男の方は色好みのことはともかく、武士としてもたいそうたくましい人物だという。妻が疑っている女とは、脇坂《わきさか》家の茶坊主の娘で、松平京兆家の奥に勤めていたが、その男の人品を普段褒めちぎっていて、とりわけ執心していたという。とはいえ、不埒《ふらち》なことがあったということは聞いていない。ただ互いに知っているという間柄にすぎなかったのだが、この女も発熱して、 「あの本妻は私を恨んで呪っている」  などと口走るというありさま。最近では熱もとれて快癒したが、それでもときにはののしっているという。  狐狸《こり》のしわざであろうか。怪しいこともあったと、京兆が私(根岸鎮衛)に話された。   国によってその風俗が変わる事  佐渡《さど》にいたときのこと、その土地では物騒がしく、だらしがない者を「むじな憑《つ》きのようだ」と言う。土地の者に、 「どういうことだ」  と尋ねると、 「江戸やその他では『狐憑き』と言うことだ」  と説明する。ことわざに三郡(佐渡は羽茂《はもち》・雑太《さわた》・加茂《かも》の三郡)には狐がいないと伝えられている通り、佐渡の国には狐がいないのだという。 「しかし、他国でむじなや狸が人に取り憑いたということを聞かないが、佐渡ではむじなも人に憑くのだろうか」  と尋ねたら、 「時にむじなが人に憑くことがある」  と語った。   狐憑き、奇異を語った事  以前、本所《ほんじよ》に住んでいた人が語ったことである。  本所|割《わり》下水に住んでいた頃、隣の女の子に狐が憑いてさまざまなことがあった。それで毎日見にいってみたのだが、その狐が憑いた女の子は、隣の幟《のぼり》が風も吹いていないのに倒れたのを見て、 「ああ。あの家の子どもが病死するだろう」  などと言い、あるいは木の枝が折れたのを見て、 「あの家には何々がある」  と言い、竿《さお》が倒れるのを見ては、 「あの主人にこういうことがある」  と言っていたが、果たしてその子の言う通りであったので、 「なぜわかるのか」  と尋ねてみた。すると、その女の子は答えて、 「総じて家々には守り神がいて、吉凶共に何かに託してお知らせになるのですが、普通の人はそれがわからずに過ごしているだけなのです」  と言ったという。   狐の憑きし女、一時の奇怪の事  私の同僚が壮年の頃、本所に相番《あいばん》(一緒に当番すること)することがあったが、そこの下女に狐が憑いた。しばらくすると狐も離れ、もとの状態になったので、小さな祠《ほこら》を屋敷の隅に建てておいた。すると、その女は後には人の吉凶を祠に伺って語るようになり、それはまるで神のようであったという。  私の同僚の者も煙草入れを紙に包んで、 「これはどのような品が入っておるか」  と、その女に与えると、下女は、神前に行って、 「それは煙草入れだ」  と答えたので、〈不思議なことだ〉と思っていた。  しかし、しばらく月数も経って、同じように下女に尋ねてみると、 「わからない」  と答えた。それからというもの、当たることはなかったという。   狐に欺かれて漁魚を失う事  大久保原町(東京都新宿区)に魚を商う滝介という者がいた。ある夜、目白下《めじろした》の水神橋の下へ、友達と二人で鰻《うなぎ》を釣りに出た。すると思いがけなく獲物が多く、二人とも竹籠《たけかご》いっぱいになったので、滝介は、 「もう帰ろう」  と言った。しかし、連れの男は、 「もう少し……」  と、獲物に夢中になって手間取っているとき、水神橋の上を若い女があわただしく後ろへ行ったり、前へ行ったりして、何度も行き来しているのを見かけた。 〈あの女は、きっと身投げをするのだろう〉と思い、止めようとして、二人は陸へ上がり、 「そなたはどうしてこのように行き来なさる」  と声をかけた。その女は、恥ずかしそうに、 「わたしは継母から憎まれ、殊に好きな男と一緒になることができぬので、身を投げようと思うのです。おとどめなさいますな」  と泣きながら答える。二人は不憫《ふびん》に思い、 「継母の憤りは、私たちが詫《わ》びてあげればすむことだろう。好きな男もよいように取り計らう方法があるだろう」  と必死になって止めたので、ありがたそうにして、少しばかり制止を受け入れるような姿勢を示した。そこで二人は、 「それならば、そなたの住家まで送るとしよう。どこにあるのだ」  と言うと、遠くはないといって、先に立って待っているので、かたわらに置いた竹籠と釣り道具を探して帰ろうとして竹籠を見ると、その中には獲物がひとつも入っていなかった。同じく二人ともないので、驚いてその女を探したけれど、行方はわからなかった。 「まったく、狐にたぶらかされたものであろう。悔しいことだ」  と、その滝介が知人のところに来て語ったということだ。   頭痛の神の事  浅草|田圃《たんぼ》の幸竜寺という寺に、柏原《かしわばら》明神という神社があった。頭痛に悩む者が拝むと、その祈りが叶《かな》わないことがなかった。  ある日、御徒《おかち》を勤める者が、頭痛が激しく発《おこ》って悩んでいたところ、知人が来て、 「頭痛にはあの神社へ祈願するとよい。そなたはそのように悩んでいるから、参詣《さんけい》することは叶うまい。我らが代参して願を掛けるから、信心していなされ」  と諭《さと》して出立した。  だが、頭痛に苦しむ男は、堪え難さに枕を取って寝転がっていると、思わず眠ってしまった。そのとき、小猿が三匹来て、頭の痛いところを揉《も》むなどした。 「その気持ちがよいことはこのうえもない」  と夢見心地でいると、頭痛が全快して目が覚めた。  その頃、あの代参を頼んだ男が来たので、起き出して、礼を言うと、 「一所懸命に願を掛けたので、治っただろう」  と言った。そこで、夢の中のことを話すと、その男はたいへん驚いて、 「不思議なことだ。これまではわしらも気がつかなかったが、神社に数多くの猿の額があったので、まさに神の使いが来て、そなたの病を治したのであろう」  と、一緒に驚いたことであったという。   狐|祟《たた》りの事  文化七年(一八一○)の秋の頃、日本橋左内町(東京都中央区)に一つの奇事があった、とある人が語った。  その町に最中饅頭《もなかまんじゆう》という品を商う菓子屋があった。そこの娘はまだ十二、三歳で外から婿を取ったが、まだ実際の夫婦にはしていなかった。  さて、その婿もとても生真面目で、一間に一人寝かせていたが、夜が更けるとその一間で話し声がするのを、おいおい聞いた者がいたものの、寝所へ立ち入った者はいなかった。母も疑ってその婿に尋ねてみたけれど、 「まったく知らない」  と答える。  そうしているうちに、その婿に狐が憑《つ》いて、 「私は実は女狐である。この息子に関わる縁があって来たのである。分に従い立ち退くべきであるけれども、私は懐妊したので、子を産んだならば、早々に離れることにしよう。その子をなにとぞ育てて下され。私は陰で身に添って養育するので、世話もかかりますまい。この願いを聞き届けてくれないならば、私も生きていることはできないので、息子の命もないであろう。どうかお頼みします」  ということを口走った。  みんなは不思議なことに思っていたが、その母がひとり、 「どうして狐の子を育てることがありましょう。外聞が悪いから、たとえどんなことがあってもだめじゃ」  と激しい口調で断った。その後、婿と母は共に病気となり、母は真っ先に死んでしまった。そのあとはどうなったのであろうか。以上は、その家の向こうの薬屋が、私(根岸鎮衛)の知っている医者のところに来て語ったということだ。   妖気《ようき》、強勇《ごうゆう》に勝てない事  土屋侯(常陸《ひたち》国|土浦《つちうら》城主)の在所の土浦の家士《かし》に、小室甚五郎《こむろじんごろう》という者がいた。その者はあくまで強気で、いつも鉄砲撃ちを好み、山猟などを楽しみとしていた。  土浦の者が官妙院と呼んでいる狐がおり、女狐の方をお竹と呼び、稲荷《いなり》の社などを造ってその二匹の狐を尊ぶ者がいた。  あるとき、甚五郎がその女狐のお竹を火縄銃で撃ち殺し、料理して酒の肴《さかな》とした。すると、土浦城下にほど近い他領の百姓の妻に、狐の官妙院が取り憑いて、さまざまなことを口走り、甚五郎を恨みののしった。  夫は無論のこと、村中の者が集まって、 「これは道理が通らぬ狐だ。甚五郎に恨みがあるのだったら、甚五郎に取り憑くべきであるのに、無関係の他領の者に取り憑いて苦しめるとは……」  と責め尋ねたところ、狐は、 「わが妻を殺し食べたほどの甚五郎にどうして取り憑くことができるか。土浦領に入ることさえ恐ろしいので、汝《なんじ》の妻に取り憑いたのだ。どうか甚五郎を殺してくれ」  と申した。  土浦領に知っている者が伝えたところ、甚五郎はこのことを聞いて、 「憎い畜生の仕業だ」  と、頭《かしら》役人に届け、その村方に、 「不届きな畜生、他領の人を苦しめる不届きさ。どうしても取り憑いたままでいるのなら、主人へ申し立て、百姓たちが建てた社も壊し、たとえ日数が延びたとしても、昼夜何としても官妙院を打ち殺すことにしよう」  と激しくののしり、その社へも行って同じようにののしったところ、たちまち狐が取り憑いたのが落ちて、その後は何ごともなかったという。   猫が人に憑いた事  古い猫が人間に化けた物語について、ある人が語ったことは、次のようであった。 「物ごとは心を静め、よくよく考えたうえで重大なことは取り計らうべきである。一般に猫が憑くということもあるという。  駒込《こまごめ》あたりに住む同心の母が、倅《せがれ》の同心が昼寝をしていたとき、鰯《いわし》を売る者が声を出しながら表を通ったのを聞いて呼び込み、鰯の値段をつけて片手に銭を持ち、『この鰯を残らず買うからまけるように』と申した。  それを、鰯売りは手に持っている銭を見て『そればかりのお金で、この鰯を残らず売ることができようか。値段をまけることはできない』と嘲《あざけ》り笑った。 『残らず買うことにする』と言った老女はたいへん怒ったが、顔は猫となり、口が耳もとまで裂けて、振り上げた手の様子は恐ろしいとも何とも言いようがなかった。  鰯売りは『わっ』と言って荷物を捨てて逃げ去った。  その音に倅が起きて振り返ってみると、母の姿はまったく猫であったので、『さては、わが母は畜生めに取られてしまった。くやしい』と枕元の刀で何の苦もなく猫を切り殺した。  この物音で近所から駆けつけた者が見たところ、死んでいるのは猫ではなく、母に間違いがない。鰯売りも荷物を取りにもどってきたので、その者に尋ねると、『猫に間違いない』と言うけれど、四肢《しし》とも母に相違ないので、是非もなく、その倅は自殺したということだ。これは猫が憑いたということだが、粗忽《そこつ》に行動してはならないという例だ」   貧窮神の事  近頃、牛天神の境内に社祠《しやし》ができたので、 「何を祀《まつ》る神か」  と尋ねたら、 「貧乏神の社だ」  という。その社へ参詣し、貧乏を免れることを祈れば、霊験があるということだ。その起源を尋ねてみると、同じ小石川に住む御旗本が代々貧乏で、家内は思うことが叶わず、日々明け暮れ難儀していた。その人がある年の暮れに貧乏神を画像にこしらえ、神酒・洗米などを捧《ささ》げて、 「我らは数年来、貧窮をしている。願いが叶わないのはしょうがない。ずっと貧しいけれども、他の愁いはない。これはひとえに尊神がお守りになっているからでしょう。我らのことをお守りくださる御神でしょうから、どうか一社を建立して尊神を崇敬いたしますので、少しは貧窮を免れ、福分に移りますようにお守りください」  と、小さい祠《ほこら》を屋敷の内に建てて朝夕に祈っていた。  その利益《りやく》であろうか、少し願いの叶うことも出てきて福もあったので、かねてから心安かった牛天神の別当である者にそのわけを話し、 「境内の隅なりとも、その社倉《ほこら》を移したい」  と伝えると、別当も面白いことだと思って、許諾したということだ。  今は天神の境内にある。このことを聞き伝えて、貧しい者はこの社倉に参詣《さんけい》して祈ったということである。「敬して遠ざくの類、面白いことだ」と思いここに記した。 [#改ページ]     其ノ四 動物の怪   狐狸《こり》のために狂死せし女の事  寛政七年(一七九五)の冬のことである。小笠原《おがさわら》家の奥に勤めていた女は、容貌《ようぼう》も奥では一、二と数えられるほどに整っていたが、ふいに行方がわからなくなった。 「これはもう駆け落ちしたのであろう」  と、その女の実家にも尋ねたものの、まったく見つけることができなかった。軽輩の家と異なり、四壁厳重な屋敷であるから、あれこれ疑っていた。  二十日ほどが経過して、同じ長局《ながつぼね》(大奥で、長い一棟の中に沢山の奥女中の部屋の続いている住居)に住む女が手水《ちようず》を使っていたとき、手水鉢の流れに白い手を出して貝殻で水を汲《く》む者がいるのを見て、驚いて気絶してしまった。  同じ部屋の者はむろんのこと、みんなが駆けつけて見ると、怪しい女が縁の下に入るのが見えた。大勢で取り押さえたところ、行方知れずとなっていた、あの女であった。湯水などを与えて、事情を聞くと、初めのうちは拒んでいたが、切に問うと、 「私は良い縁があって、よろしいところに縁付き、今は夫をもっている」  と返事した。 「いったいどこに住んでいるのか」  と聞いたが、しっかりとした返事をしない。いろいろとなだめすかして尋ねると、 「それでは私が住んでいるところへお連れ申しましょう」  と言い、縁の下へ入ったので、後について、二、三人の者が入った。ずっと縁の下を行って、ある場所の縁の下に茣蓙《ござ》や筵《むしろ》を敷いて、古いお椀《わん》や茶碗《ちやわん》を並べ、 「ここが住家です」  と言うので、夫の名前を尋ねると、 「かねて話していた通りの男です」  と、名前もしっかりと答えない。  まことに狂人の有様なので、そのことを役人へも断り、実家の者を呼び寄せて暇を遣わしたが、両親も娘の存在が確かめられて喜び、あれこれ薬などを施して治療をしたけれど、そのかいもなくて、ほどなく他界したという。   蝦莫《ひき》の怪の事 附怪を為す蝦莫は別種なる事  営中(将軍の居所)で同僚の者が次のように語っていた。 「狐・狸の怪は、昔より今にいたるまで聞くことも見ることも多い。蝦蟆も怪をなすものだ。蝦蟆が厩《うまや》に棲《す》めば、その馬の心気が衰え、ついには枯骨《しやれこうべ》となり、人間の場合もまた床下に棲んだ場合、その家の人は鬱々《うつうつ》として気が衰えて患うことがある。  ある古い家に住んでいる人が、なんとなく患って元気がなくなったある日のこと、雀などが縁側のへりに来て、なにげなく縁の下に飛び込んで行方がわからなくなった。あるときは、猫や鼬《いたち》のたぐいが縁の端にいたのが、縁の下に自然と引き入れられるように入っていって行方知れずとなった。このようなことがたびたびあったので、主人が不思議に思い、床を取り払い、縁の下に人を入れて調べさせた。そこには大きな蝦蟆が窪《くぼ》んだところに棲んでおり、あたりには毛髪、枯骨のたぐいがおびただしく散乱していた。  それでこれは完全に蝦蟆のしわざだということで、それを打ち殺して捨て、掃除をすると、病人は日増しによくなったという」  私(根岸鎮衛)が壮年のとき、西の窪(東京都港区)の牧野方に行って、夕暮れ方に庭を眺めていた。春のことであったが、普通よりも大きな毛虫が石の上を這《は》っている。すると、縁の下から蝦蟆が出て、毛虫のいる場所から三尺余りも隔てた場所へ這ってきた。  しばらくして口を開けたと見えたが、三尺余り先の毛虫を吸い取り、毛虫は蝦蟆の口の中へ入ってしまった。だから年を経た蝦蟆が人間の精気を吸うのも嘘とは思われない。  また、柳生《やぎゆう》氏は、 「上野の寺院の庭で蝦蟆が鼬《いたち》を取ったことがある。蝦蟆が息を吹きかけると、鼬が倒れて死んでしまい、土をかけてその上に蝦蟆が登っていたので、翌日、その土を掘ってみると、鼬の形は溶け失せていた、とその寺院の者が語った」  ということを語ったのであった。   猫、物を言う事  寛政七年(一七九五)の春、牛込《うしごめ》山伏町(東京都新宿区)のとある寺院で、大切に猫を飼っていた。庭に降りた鳩が気持ちよさそうに遊ぶのを狙っていた様子なので、声をかけ鳩を追い逃した。そのとき、その猫が、 「残念なり」  と物を言った。和尚はひどく驚き、猫が勝手の方へ逃げたのをつかまえて、小束《こづか》を持って、 「汝《なんじ》は畜生であるのに物を言うとは奇怪至極だ。何かが化けたものか、人をもたぶらかすことだろう。一度人の言葉を話したからには、正直にまた言うがよい。もしも拒否するのであったならば、わしは殺生戒を破って汝を殺すことにしよう」  と怒った。その猫は、 「猫が物を言うことは、我らに限ったことではない。十年余りも生きておれば、すべて言葉を話すもので、それより十四、五年も過ぎたならば、神変を得るのです。しかしながら、この年数の命を保つ猫はいない」  と語ったので、 「それならば、汝が物を言うこともわかったけれど、まだ汝は十年の年齢ではない」  と尋ね問うた。猫は、 「狐と交わって生まれた猫は、その年功がなくとも物を言うのである」  と答えた。そこで、 「そうであるならば、今日、物を言ったのを他に聞いた者はいない。わしもしばらく飼っておいたからには、何の子細があろう。これまで通りいるように」  と和尚が申すと、猫は和尚を三拝してそこから出て行ったが、その後はどこへ行ったものか姿を見ることはなかったと、その近くに住んでいた人が語ったことである。 霊獣もその才が足りない事 江戸の真崎《まさき》(荒川区南千住)にある稲荷《いなり》の霊社に、宝暦の頃から参詣人《さんけいにん》が群集するようになり、その後、明和・安永(一七六四—八一)の頃から少し衰えたとはいえ、物好きな遊び人が春秋に逍遥《しようよう》の場所としていた。天明(一七八一—八九)の頃のこと、その場所に御出狐《おんいでぎつね》という狐がいた。  この狐はその境内のひとつの穴に棲んでいて、信心の輩《やから》やあたりの茶店の婦女が菓子や食べ物を穴のあたりに供えて、 「お出《い》で、お出で」  と呼ぶと、穴の中から出てきて、その食べ物を食べる。それを、あれこれと面白がって評判となったことがあった。  その後、狐はどこへ行ったものか、今は音沙汰《おとさた》を欠いている。  仙台家中の家士《かし》斎藤所平という者は、江戸の生まれで、仙台のことには不案内であったが、春の頃、真崎稲荷へ参詣した。その際に所平が、かたわらの茶店に寄って御出狐のことを尋ねたところ、 「今は呼んでも出てこない。きっと場所を変えたのであろう」  との答え。所平は、はなはだ心残りで、 「さてさて遅く来たので、そのありさまを見ることができない」  と言い、くわしく尋ね問うたところ、茶店の女は、 「狐は奇怪なものです。先年、私の娘は十二歳になったのですが、まだ一文字も書くことができません。そのうえただごとではないことを申すので、不思議に思い、しきりに尋ねますと、『我らはここにいた狐であるけれど、官位のことで早々に他に行くのである。長い年月世話になったから、この娘に憑《つ》いて暇乞《いとまご》いをするのだ。縁があったらまた来るだろう』と言って、一種の和歌をそのあたりにあった扇に書き置いていきました」  と話して、その扇を見せてくれた。娘が文字を書くことができないのは間違いないが、扇に書いた歌は拙《つたな》いとは言えない。   月は露露は草葉に宿かりて それからこれへ宮城野《みやぎの》の原 [#2字下げ、折り返して3字下げ](月は露に、露は草葉に宿を借りる。それからこれへと宿を移るのと同じように、私も宮城野の原へ行くことだ)  こうしたためてあったのを、所平は珍しく感じて、女に金子《きんす》二百|疋《ぴき》(古くは鳥目《ちようもく》十文を一疋とし、後には二十五文を一疋とした)を与え、その粗末な扇をもらい受けて、表装などを施して家中の同志の友が集まったときに見せた。するとある者は、 「それにしても上の句は面白いけれど、下の句はわからない」  と話す。その友人の中に奥州出身の者がいて、 「その狐は奥州より下ったものではないか。その話は奥州の宮城野の古い物語にあることだということを聞き覚えたものの、さすがに畜生だ、歌の心がまったくわからないのであろう」  と語った。その古い物語のことをその男に問うと、 「いつの頃であったろうか、奥州のある寺にいた稚児が、和歌を好んで詠《よ》み、宮城野の月と萩を嘆賞して、あるとき、『月は露露は草葉に宿かりて』と詠んで、下の句をいろいろと考えたけれど、心に浮かばなかった。明け暮れに、宮城野に立ち尽くして、ついに病の床に臥《ふ》して死んでしまったという。  人々は可愛そうなことだと、稚児の死体を取り寄せて一塊の土に埋めて弔ったけれど、それから宮城野の原で月がさやかな夜、あるいは雨が降り曇ったときは、誰とも知れず、『月は露露は草葉に宿かりて』と詠じては、『わっ』と言ってひとかたまりの火が立つという。  そのことを師の坊が聞いて、気の毒に思い、鉄の如意(仏具)をたずさえ、月のさやかな夜に宮城野の原へ行って、同じ宿の僧などを連れて今か今かと待っていた。すると夜も四更《よんこう》(今の午前一時から三時まで。丑三《うしみ》つ時にあたる)の頃であったか、ひとかたまりの火が立って、聞いていたことと違わず、『月は露露は草葉に宿かりて』と詠じ、『わっ』という声がしたのを、師の坊が大声で『それこそこれよ宮城野の原』と言って鉄の如意を投げつけると、その後は仏果得道したものか、宮城野にこの怪奇もなくなったという。畜生であるから、その歌の下の句を覚え違ったのであろう」  と話した。そういうこともあるだろう。   獣の衣類など不分明の事  大坂に古林見意という医師がいたが、その見意が語った話ということである。  真田《さなだ》山のあたりに学才のある老人がいた。見意はその老人に会って物など尋ね問うことがあった。見意が老人を訪ねたある日、物々しい男が衣服をさわやかに着て、老人のもとに来た。老人が遠方から来たわけを尋ねると、 「用事があって遠い国へ参るので、しばしの暇乞いに来た」  と言う。当時、藤森《ふじのもり》(京都市伏見区)あたりに住んでいたということで、老人は召し使っている者に言いつけて、人からもらったぼたもちを盆にのせて出した。男は何かと礼を述べて、外見に似ず、手や箸《はし》などでは取らないで、うつむいて口で食べた。老人が、 「遠方のことだ。早々に帰るがよい」  と言うと、老人の言葉に従い、暇乞いをして帰っていった。  その後で、 「藤森まではこのあたりから相当な距離があるのに、今日の暮れ方になって帰ると言っていたが、夜通しで帰るというのであろうか」  と、見意が老人に尋ねてみると、 「あの者は暮れる前に帰るであろう。実は狐だ」  と語った。また、 「あの者の衣服をどうご覧になったか」  と尋ねるので、 「どこか立派には見えたが、品質までは覚えていない」  と答えると、 「だからよ、狐や狸などすべて妖化《ようげ》の者の着服は何であったか見定めがたいものだ」  ということを、その老人が語ったのを、見意が直々に私の知っている人に語ったという。   人間に交わる狐の事  丹波《たんば》の国に、場所は忘れたが、富家の百姓がいた。その家に数年いた翁《おきな》は、山の崖《がけ》に穴居していたが、衣服なども普通の人と同じで、食事もまたそうであった。長年百姓に仕えて幼児を介抱したり、農事・家事共に手伝っていたが、古い話などをすることなどまったく今の人間とは思われないところがあった。  しかしながら年久しく家にいたので、家の中の老いも若きもこの者を重宝して怪しんだり恐れたりする者はいなかった。  さて、あるとき、翁がその家の長に向かって、 「私のことですが、数年ここにいて恩愛は捨てがたいことではありますが、官途のことで、このたび上京することになりましたので、永《なが》の別れをお伝えするのです」  と語った。家長はもちろんのこと、家の中の者たちもたいへん驚き、 「そなたがいなくては我が家はとうていたちゆくまい。とりわけ数年のあいだ親しくしていたのに……」  としきりに留めたけれど、 「かなわぬこと」  と言って、翌日からどこへ行ったものであろうか、行方がわからなくなった。しかし、翁は別れを告げるとき、 「もしも恋しくお思いになったら、上京のおりに藤森で、『おじい』と呼びなさるがよい。必ず出てお会いしましょう」  と言ったものだから、初めて翁が狐であることを知った。その後、藤森へ行き、裏の山から、 「おじい」  と呼ぶと、その翁が忽然《こつぜん》と現われ出てきて、安否を尋ね、四方山《よもやま》話をして、 「そなたと親しくしたことは忘れることができないから、これからはそなたの家の吉凶を前もって知らせよう。そなたの吉事・凶事につけ、狐の声が三声ずつ鳴くのが聞こえたならば、慎しんだり、気をつけたりするように」  と言って別れたが、果たしてそのしるしの通りであったという。   美濃《みの》の国の弥次郎《やじろう》狐の事  美濃の国に弥次郎狐といって、年を経た老獣がいるという。その老狐が出家に化けて、おりふし古いことを語ったが、紫野《むらさきの》の一休和尚のことを常に話したので、一休和尚は道徳心が強いということを聞き及び、その真偽を試そうと思った。  そのころ、その寺の門前に住んでいた母子がいて、子の娘が婿を取ったけれど、母親・夫婦のあいだがらが穏やかではなく離縁したことを聞いた。狐はその女に化けて一休のもとに来て、 「夫とは別れた。母の勘気を受けてどうすることもできない。今宵はこの寺に泊めて下され」  と申し出た。だが、一休は、 「わが門前にいた者だから、ここまでは対面もした。だが、門前を出たならば、泊めることはできない」  と断った。すると女に化けた狐は、 「出家の御身であるから、なにか他に疑いがあるのでしょうか。女が暗い夜に迷うのを捨てなさるとは……」  と、恨み嘆いた。一休は、 「それならば、台所の隅なり、客殿の縁端《えんばな》なりで夜を明《あか》しなされ。座敷の内へは入れることはできない」  と伝えた。一休は女を許して宿泊させたが、女の正体である狐は、もともと一休の道徳心を試みようとの気持ちであるから、夜になって一休の臥所《ふしど》へ入って戯れ寄った。一休は、 「不届きだ!」   と声をかけ、持っていた扇のようなもので背をたたいた。狐は本当に失神しそうなほどに身にこたえて苦しかった。まこと、道徳に高い人だ、と、その老狐は語ったという。  今も老狐は生きているのであろうか、と人が語ったことである。   老狐名言の事  美濃の弥次郎狐であるのか、あるいは他の狐であるのか、こんな話がある。  人に昔のことを語って、人のためになったことなどを話していたとき、ある人がその狐に向かって、 「畜類であるけれども、これほどまでに理に聡《さと》くて、吉凶・禍福をあらかじめ悟って人にも告げるほどの術があれば、まことに名獣とも言うべきであるが、どうしてか人をたぶらかし、あざむいたりするのは、合点がゆかないことだ」  と語りかけた。すると、その老狐は、 「人をたぶらかすなどといった悪業をすることは、狐たるものすべてがそうするわけではない。このようないたずらごとをするのは、多くの人間の中に、いたずらやふとどきをするものがいるのと同じことだ」  と言って笑ったという。   女の髪を食う狐の事  世間では女が髪の毛を根元から切られるということがある。髪切といって、世の中では怪談の一つとされている。中には男と婚約させて、父母や親戚《しんせき》が片付けようとするのをいやがって、その怪談にかこつけて髪を切る者も多い。  しかしながら、まことには狐や狸がすることもあるということだ。  松平|京兆《けいちよう》が在所で、髪を切られた女が二、三人あり、当時、野狐を殺してその腹を切ったところ、腸の中に女の髪が二束あったという話が語られた。狐や狸がたぶらかして髪の毛を切ることと、人間の女が髪の毛を切ることとを同一に論じてはならないものか。   鳥獣、讐《あた》を報ずる怪異の事  寛政|辰《たつ》の年(一七九六)の六月頃のことという。武州の板橋より川越《かわごえ》への道中に白子《しらこ》村(埼玉県|和光《わこう》市)というところがある。白子観音の霊場を、槻《つき》とも榎《えのき》とも聞いたが、ともかく大木があった。そこに無数の鼬《いたち》が集まって、その大木の根元の穴に入って、数刻群れていたが、ほどなくその穴の中から長さ三間ばかりで、太さは六、七寸ぐらいの蛇が苦しみながらはい出てきて死んでしまった。  それで土地の者たちは不思議に思い、馳《は》せ集まってきた。鼬はどこへ行ったのであろうか、すべて行方知れずとなってしまった。  それにしてもどのようなわけであろうかと、その木のうつろを調べたところ、一匹の鼬の死体があったということだ。月頃、その蛇のために仲間を取られたのを恨んで、仲間を駆り集めて、仇《あだ》を報いたのであろうかと、その村近くに住んでいる人が話したことである。   怪虫、泡と変じて身を逃るる事  蟇《ひき》はどのような箱の中に入れても形を変えてしまうことがあることから、若い者たちが集まり、一匹の蟇を箱の中に入れて夜咄《よばなし》の席の床上に置き、酒を飲みながら、時々その箱に気をつけていた。  しかし、酒が進んで気づかぬうちに抜け出したのであろうか、二間ほど隔てたところに下女の声がして、驚いている様子である。みんながそこへ行ってみると、蟇がいたので、 「これは別の蟇だろう」  と言いながら、最初の箱を見ると、いつ抜け出したのであろうか、箱の中は空っぽであった。ふたたびその箱の中に蟇を入れて、今度は代わる代わる目を離さず見守っていた。真夜中になり、みんな眠くなってきた頃、箱の縁から何か泡が出てきたが、次第に泡も多くなったので、 「どういうわけであろうか」  と見ているうちに、ひとかたまりの泡が動いて消えた。目覚めた者たちが近寄ってのぞくと、蟇はどこへ行ったものか姿が見えない。みんなは、驚き、 「さては泡と化して立ち去ったのであろう」  と、私のところに来た者が語った。   蛇を養った人の事  江戸山王永田町あたりのこととか、あるいは赤坂・芝ともいったり、場所ははっきりとしない。御三卿《ごさんきよう》方(将軍家の一門である田安《たやす》・一橋《ひとつばし》・清水)に勤めた人だというが、名字はわからない。清左衛門《せいざえもん》と名乗った人であるという。  いかなることであるのか、小蛇を飼い、夫婦共に寵愛《ちようあい》して、箱に入れ、縁の下に置いて食事を与え、天明二年(一七八二)まで十一年間養った。次第に成長して、ことのほか大きくなって見るもすさまじいさまになったとはいえ、愛する心は夫婦共に変わらず、朝夕の食事のおりには床をたたくと縁の上に頭を上げるから、自分の箸《はし》で食事を与えていたという。  家僕の男も女も初めは恐れおののいていたが、馴《な》れるにつれて恐れもなくなり、 「縁遠い女子などは、その蛇に願いなされ」  などと夫婦が言うのに従って、食事などを与えて祈ると、御利益というわけではないが、願いがかなったこともあったという。  さて、天明二年三月に大嵐が起こったことがあった。その朝もいつもの通り蛇を呼んで食事を与えていると、縁の上へ上り、なにかはなはだ苦痛を訴えるようなので、 「いかがいたしたか」  と、夫婦も他のことを放り出して介抱していると、雲が起こり、たいへんな雨が降り出してきた。蛇は初めは縁の端《はな》にうなだれていたが、やがて頭を上げて空を眺め、そのまま庭の上まで雲が下りてきたと見ていると、縁より庭へ体を伸ばすと見えたが、強い雨とともに天へ上ったということだ。   狐、痛むところを外科に頼み、その恩を謝した事  田安家の外科医に横尾道溢という者がいた。その親の道益は長崎の生まれであったが、 「なんとかして江戸へ出て家業を立てたい」  と兼ねてから願っていた。だが、なにしろ大願のことゆえ、なかなか遅々としてその願いは進まなかった。あるとき、一人の男が来て治療を乞《こ》うたので、その痛むところを見ると、肩に打ち傷があった。ただちに薬を与えると、日の経過とともに治り、男は厚く礼を述べて金子《きんす》二百匹を持参した。道益は断って、 「そなたは旅の者で、難儀していることを初めに話された。それで、私が施薬をしたからといって、そんなに気にすることはない。旅の費用とされよ」  と返した。だが、重ねて厚く礼を述べて、 「どうしても留めおきなされ」  と言う。道益が、 「それにしても、そなたはどこの人であるのか」  と尋ねると、その男は、 「今は何を包み隠すことがありましょう、私は狐です。江戸の市ヶ谷の茶の木|稲荷《いなり》のあたりより、はるばるここまで使いに来たのですが、途中で石・瓦《かわら》を投げつける者がおり、思わぬ怪我をしたのです。お陰で快気いたし、明日は帰ることにします。そなたは江戸表へ出府の希望があるようですが、今までは都合が整わなかったけれど、来年お出でになる長崎奉行の縁で江戸へお出でになることでしょう。江戸へ出られたならば、市ヶ谷何屋の裏に住む某《なにがし》という者、この者は頼りとなる者ですから、これを頼って安危を考えなされ」  と言い残して立ち去った。  不思議なことだと思っていると、次の年、在勤の奉行が腫《は》れ物の病にかかり、道益が治療を引き受けて治すことに成功した。江戸へ出ることをすすめて、翌年に交替するときに同伴することができた。その道益は馬喰《ばくろう》町あたりに落ち着いて、店など借りたのであるが、すぐに医者としての患者も得られ、それ相応に暮らしていた。  ある夜の夢に、あの男が来て、 「ここは万全の土地ではない。一両日のうちに市ヶ谷あたりに引き移りなされ」  と言う。 「まことに長崎であの男が言っていたとおりのことだ」  と、早速、市ヶ谷に行き、その裏店《うらだな》の某を訪ねた。亭主はたいへん驚き、 「このほど茶の木稲荷がそなたのことをたびたび夢に示した。お世話申しましょう」  と言い、その最寄りの所々を聞いて、龍慶橋あたりに土地を借りて道益を住まわせた。すると、ほどなくしてしばらく住んでいた馬喰町あたりに火災が起こって旧地は焼失してしまった。  一層その稲荷を信じていると、まもなく田安に召し出され、今は心安く医業をしているという。この話は、道益の妻がまのあたりに狐と言い交わしたことを、私の知人である望月《もちづき》氏に語ったことである。   菊むしの事  摂《せつ》州の岸和田《きしわだ》の侍屋敷の井戸から、寛政七年(一七九五)の頃、おびただしく異虫が出て飛び回った。それをつかまえてみると、玉虫かこがね虫のような形で、細かく虫眼鏡で見ると、女の形で手は後ろ手にしてあったという。  素外という俳諧《はいかい》の宗匠が行脚《あんぎや》をしていたとき、その虫の一つ二つをふところに入れて江戸に来た知人に見せたのを、私のところに来る者もしかと見たと語っている。  津富という宗匠も一つ貰《もら》ってしまい置き、翌年の寅《とら》の年(寅の年は正しくは寛政六年)の春に人に見せると言って出したところ、蝶《ちよう》と化して飛んでいってしまったという。  また、元禄《げんろく》(一六八八—一七〇四)の頃、青山|播磨守《はりまのかみ》が尼崎《あまがさき》に在城していたとき、その家士《かし》に喜多玄蕃《きたげんば》といって家禄《かろく》を少なからず頂戴《ちようだい》している者がいた。その妻ははなはだ嫉妬《しつと》深く、菊という下女を玄蕃が心をかけて召し使っていたのを怒り、飯椀《めしわん》の中にひそかに針を入れて、菊に配膳《はいぜん》させた。それを玄蕃が食べかかって激怒した。 「菊の仕業だ」  と讒言《ざんげん》したものだから、玄蕃は無情にも菊を縛って古井戸へ逆さまに入れて殺してしまった。下女の母もそのことを聞いて、共に古井戸の中へ入って死んだという。その後、玄蕃の家は絶えてしまったということだ。  今は領主も代わって年数が経ったが、去年は百カ年忌に当たっていて、菊の怨念《おんねん》が残って、異虫と変じたのであろうか。播《ばん》州皿屋敷という浄瑠璃《じようるり》などがあるけれど、この話に基づいて作ったと、その物語をした人が語った。   小堀《こぼり》家稲荷の事  京都に住む上方|御郡代《ごぐんだい》小堀|数馬《かずま》の祖父のときの事件という。  ある日、小堀家の玄関へ三千石以上ともいうべき供回りで来る者がいた。取次が敷台に下りたところ、 「長いあいだお世話になり、数年にわたって懇意、厚情に与《あずか》りましたが、このたび立派に出世して他国へ参ります。それでお暇乞《いとまご》いに参りました」  と申し伝えて帰っていった。  取次の者も不思議に思ったのは、〈洛中《らくちゆう》はむろんのこと、かねて数馬方に出入りしている人で、このような人は知らない。不思議だ〉ということで、そのわけを数馬の祖父に聞いてみた。数馬もいろいろと考えたが、〈公家・武家、その他|家司《けいし》、宮仕えの者にも、このような名前の者は聞いたことがない〉と疑問に思いながら日数が過ぎた。  ある夜の夢に、 「屋敷の鎮守の白狐である。年久しく屋敷内にいたけれど、このたび藤森神社の指図で他国へ昇進したので、疑わしく思うだろうが、このほど暇乞いに来たのである。なお疑わしく思うならば、明朝、座敷の縁を清めておくがよい。訪ねてくるので会おうではないか」  ということがあった。  あまりに不思議なことながら、翌朝、座敷の縁を塩水などで清め、数馬もその座敷にいた。そこに一匹の白狐が来て、縁の上にしばしうずくまっていたが、ほどなく立ち去ったということだ。 「それならば稲荷に住んでいた白狐が立身したのだ」  と、神酒・赤飯などを備えて祝ったということである。   鼠恩死の事 但し鼠毒《そどく》妙薬の事  西郷市左衛門《さいごういちざえもん》という人の母は、鼠を飼って可愛がっていた。ところが、どうしたことか、その鼠が母の指に食いついた。それがことのほかに痛んで腫れたものだから、市左衛門が立ち寄って、 「憎いことかな。畜生であるからといって日ごろの寵愛《ちようあい》もかえりみず、このようないやなことをするとは不届きだ」  と言い、打擲《ちようちやく》すると、逃げ去った。  その夜、母の夢にその鼠が現われ、 「指に白いつつじの干したのをつければ、たちどころに鼠毒は去って治る」  と述べて、白いつつじの花を枕元に置くのが見えたところで、夢から覚めた。  驚き目覚めて枕元を見ると、あの鼠は死んでおり、白いつつじの花をくわえていた。その花を指の痛いところにつけると、たちまち腫れも引いてよくなったという。   猫の人に化けし事  田舎の身分の低い者の話では、妖猫《ようびよう》が古くなると老姥《ろうば》などを食い殺し、自分が老姥になっていることがあるという。  昔、老母をもっている者がいた。その母は実は猫がなりかわっていたので、はなはだ残虐で人をいためつけることが多かった。しかし、その子としてはなすべきすべがなく、そのまま歳月を過ごしていた。  あるとき、老婆が猫の姿を現わした。まさしく妖怪に相違ない。 「それでは、わが母を食った妖獣《ようじゆう》か」  と、切り殺した。だが、死体は母の姿のままである。 「ぜひもない次第である。とんでもないことをして、親殺しの大罪を犯した」  と、親しい者を呼んで、 「切腹いたすので、このことを見届けて下さるように」  と申したとき、頼まれた男は、 「死ぬことはたやすいことだから、まずはしばらくお待ちなされ。猫や狐のたぐいは一度人に化けて年が久しく経つと、たとえその命を落としたとしても、しばらくはもとの形を現わさぬものだ」  と話した。そう言って懸命に押しとどめるので、その心に従ったが、夜になってしだいに姿を現わし、母と見えていたのは、恐ろしい古猫の死骸《しがい》であった。性急に死んでいたら、犬死にするところであったという。   あすわ川亀、怪の事  越前《えちぜん》の福井の家中に、名字は何といったか、源蔵《げんぞう》という剛勇不敵の男がいた。だが、その不敵な性格であるために、かえって国詰《くにづめ》を申し付けられて福井へ行った。  福井にあすわ川(足羽川)という川がある。九十九《つくも》橋という大きな橋が架かっており、その川に大きな亀が住んでいて、人を取ることもあったという。  さて、ある日、源蔵がその九十九橋を渡ったとき、まことに普通ではない大亀が川の端に出ていた。源蔵が、〈人を取るというその亀であろう。憎いことだ〉と、刀を抜いて裸になって、川の中に飛び込んだ。  難なくその亀を殺して、そのあたりの民家の者に助勢を頼んで引き上げ、〈甲羅は領主へ捧げ、肉は自分の家へ持ち帰って酒の肴《さかな》にしよう〉ということにした。  召し使う主人から付き人の中間《ちゆうげん》へ調味することを申し付けて昼寝した。その中間がつくづくと思ったことは、〈このような大亀であれば、毒もあるはずなので、主人へ差し出すのもどうかと思われる。川へ捨てて、そのわけを話そう〉と、ただちに捨ててしまい、そのあとで、主人に話した。源蔵は激怒し、無情にもその中間を切り殺してしまった。  さて大守から、 「源蔵の取り計らいは不埒《ふらち》である」  と、お預けの身となり、一室に押し込められてしまった。このような剛気の者であるが、源蔵が大守の咎《とが》めに恐れ入って、少し気弱になったとき、臥《ふ》せっていた枕元に、深夜、来る者がいて、   暮ごとに訪《と》ひ来しものをあすは川 明日の夜浪《よなみ》のあだに寄るらん [#2字下げ、折り返して3字下げ](毎晩、雄亀が通ってきていたのに、明日の夜は通うものもなくただあだ浪が寄せてくるだけである)  と詠じて、源蔵の頭をたたく。その痛さが我慢できないほどなので、起き上がってみると、誰もいない。このようなことが、二夜ほど続いたので、源蔵も心得て、歌を吟ずる頃から、頭をはずし、枕を差し出すと、枕は微塵《みじん》に砕けた。たいへん驚いたものの、そのことが大守に聞こえたので、大守は、 「それは不思議なことだ。源蔵が殺したのは雄亀で、雌亀が仇《あだ》をしているのであろう」  と、一首の返歌を詠《よ》まれ、封じてあすわ川へ流させた。その後は源蔵へも仇をなさなくなったという。  源蔵もそれからというもの、それまでの行動を改めて真面目になったところ、 「悪質な悪事ではない」  ということで、大守からも咎が許され、無事に勤仕したということだ。   畜類また恩愛深い事  天明五年(一七八五)の頃、ある者が堺町(東京都中央区)で猿をたくさん集め、その猿に女形の芸をさせたりしておびただしい数の見物客が集まった。  見た者に聞くと、 「よく仕込んだもので、今の流行役者の呼吸、形《かた》をのみこみ、身振りなどもおもしろい」  と語った。  さて、その中に子を産んだ猿がいた。芸に出るのにも、その子を世話をし、可愛がるさまは感動させられるものがあった。  次第にその子は成長したが、とりわけ虱《しらみ》が出てうるさかったので、猿廻《さるまわ》しの者が湯をあびせて虱を取って、濡《ぬ》れた毛を乾かすために二階の物干しにつないでおいた。それを鳶《とび》が見つけてくちばしを突き刺した。慌てて猿廻しが鳶を追い散らし、さまざまな介抱をしたものの、ついに死んでしまった。猿廻しは親猿を呼び、 「さてさて、そなたが多年頑張ったことで、猿廻しがわが家業ともなることができた。このほど出産した子猿を愛する様子を見れば、このたびの別離はどんなにか悲しく思っていることであろう。わしも鳶が来るとは考えてもおらなんだ。物干し場に置いたことが無念であった」  と慰めると、その猿は涙に伏し沈んだ様子であったが、猿廻しの者がその席を離れて、あれこれしているうちに、狂言道具の紐《ひも》を棟にかけて縊死《いし》してしまったという。哀れな恩愛の情であったと、ある人が語ったことである。   鼬《いたち》の呪《まじな》いの事  金魚の水槽や大切な品物に鼬が取り憑《つ》いて、難儀をする場合は、左のように書いて札を立てておくと、そのあたりに鼬は取り憑かないものだと、ある老人が語った。  鼬の呪いは「たかんなのねぢきり也」(筍のねじ切り)である。これは五大明王のしるしだということであろう。   佐州団三郎の狸の事  佐渡《さど》の相川の山に二つ岩というところがある。そこに昔から住んでいる団三郎狸というのがいた。その土地の都鄙《とひ》の老少がこぞって言うので、土着の老人にその証拠を尋ねてみると、 「誰が見たということはないけれど、昔から言い伝えられている」  ということだ。  享保《きようほう》・元文の頃、役人に寺崎|弥三郎《やさぶろう》という者がいたが、相川で狸を見かけて、いきなり逃げるところを足をなぐったという。  この寺崎は後にふつつかなことを起こして家名を断絶したそうだ。  さて、芝町(相川町内)に元忠という外科医がいた。夜になって、 「急病人がいる」  と言って、男が駕籠《かご》で迎えに来た。それで、なんということもなく駕籠に乗って行くと、二つ岩と思われるあたりの、門長屋、その他家居など美しいところに着いた。主人が出てきて、 「子が怪我をした」  ということで、元忠に診《み》せ、薬などもらい、厚く礼を述べて帰したという。  そうしてその後、薬を取りに来ることもなく、厚い謝礼も得て帰ったことだし、再び訪ねようと思ったけれど、まったくその場所がわからない。ずっと後に聞き尋ねたところ、元忠が治療をしたのは、団三郎の子狸であったのだろうか。げにも人間の様子ではなかったと語った由で、国中に語り伝えられたということだ。   海上にいくじというものの事  西海・南海に「いくじ」といって、時によっては船の舳先《へさき》に取り憑く怪異があるという。色はうなぎのようなもので、計り知れないほど長く、船の舳先に取り憑くと二日、あるいは三日ぐらい取り憑いていつまでも動いているという。  そのために長さは何千丈、何百丈という。「いくじなき」という俗語は、際限がわからないということか、これより出た言葉であろう。ある人が語ったことに、 「伊豆《いず》の八丈島の海辺などには、そのいくじの小さい物だろうというものがある。これは、輪になったうなぎのようなもので、目も口もなく動くものである。だから、船の舳先のこのようなたぐいのものも、長く伸びて動くものではなく、丸く回るものだ」  という。いずれがまことであろうか。もちろん、船の害をするものではないということだ。   狐、猟師を欺きし事  遠州のあたりに狐を釣ってなりわいとしている者がいた。明和(一七六四—一七七二)の頃、御|中陰《ちゆういん》の事があって、鳴物《なりもの》停止(天皇・貴人が死去したとき、音楽などの鳴物を停止すること)になったとき、商売のことであるから、その男は狐を釣っていた。そこへ一人の役人が来て、たいへん怒り、 「公儀御禁じのおりに、このようなことをするとは不届きだ」  と、厳しく怒り、その罠《わな》などを取り上げてしまった。その男もたいそう恐れ、いろいろと詫《わ》び言を言ったが、どうしても納得しないので、酒代として銭二百文を差し出し、嘆き詫びた。役人も納得して帰っていった。  猟師がつくづくと思ったことは、 「このあたりに来る役人とも思われない。酒代など取って帰ったのもあやしい」  と思い、その者の姿が見えなくなる頃になって、再び罠を仕掛けて、自分はずっと遠くの陰に隠れて様子をうかがっていた。  夜明けになって、果たして狐を一匹捕らえたが、縄で帯をしており、男が宵に与えた銭をその帯に挟んでいたと、遠州でもっぱら評判になったという。  地改めで遣わした御|普請《ふしん》役が帰ってきて話したことで、鷺《さぎ》・大蔵《おおくら》の家の釣狐に似ている物語である。事実とはなしがたいけれど、聞いたままのことをここに記した。   戯歌にて狸妖《りよう》を退けた事  京都で隠遁《いんとん》している縫庵《ほうあん》という者の隠宅の庭に、狸であろう、時々腹鼓など打つ音がした。縫庵は琴を持ってきて、その鼓に合わせて弾じ、一首のざれ歌を詠《よ》んだ。   やよやたぬまた鼓打て琴ひかん 我琴ひかばまた鼓打て [#2字下げ、折り返して3字下げ](やーい狸よ、また鼓打て、わしは琴を弾じよう。わしが琴を弾じたならば、また鼓を打て)  そこからほど近いところに住んでいる賀茂《かも》の社司で信頬《しんきよう》という者がいたが、   拍子よくたぬ鼓打てわたつみの おきな琴ひけ我笛吹かん [#2字下げ、折り返して3字下げ](拍子よく狸よ鼓を打て、海老《えび》は琴を弾け、わしは笛を吹こう)  と、このように詠吟したところ、その後は狸が鼓を打つことはなくなったという。   有馬《ありま》、家畜犬奇説の事  松平|丹波守《たんばのかみ》の家法に、金瘡《きんそう》(刀など金属製のもので受けた切り傷)を治す奇薬がある。俗に不|手引《てひかず》という油薬である。手を引かないうちに平癒するということだ。  あるとき、有馬|玄蕃頭《げんばのかみ》が丹波守邸に来て、何かにぶつかって額とかを傷つけたのを、亭主が気の毒に思い、その薬をつけた。すると、たちまちに癒えて傷跡が見えないくらいになった。それで、玄蕃頭はしきりにその方法を教えてほしいと懇望した。だが、松平丹波守は、 「家に伝える秘薬であって、今、作る者はいません。数年、蓄えおいた品です」  と拒否した。しかし、有馬は、 「これは、武家であったら戦場などで必ず持っていなければならない奇薬だ。そこをなんとかいただきたい」  としきりに欲しがる。それで、 「そうまで言うのでは拒否することはできません。その方法は狐を薬で飼い置き、生きたまま薬にして、油で煎《い》った薬です」  ということを話した。有馬はこれを聞いて、 「たいそうたやすいことだ」  と、早速、領地の者に申しつけて狐を捕らえ、方法通り薬を作ったということだ。  その狐の魂魄《こんぱく》であるのか、またはその狐の余類なのであろうか、そのころから居間へ日夜狐が出はじめた。家ではありとあらゆることをしたけれども、去ろうとはしなかった。そこで、犬を飼い置いて、居間または寝所近くに置いたら、狐妖《こよう》はまったくいなくなった。それで、引き続き、その家では犬を飼い置き、宿直《とのい》をするようになったという。  事実であろうか、人が語るにまかせて書き留め置いたことである。   未熟の狸、切られる事  石谷|某《なにがし》の一族の下屋敷に妖怪《ようかい》が出ると聞いて、その主《あるじ》(石谷)がある夜、宿泊した。丑三《うしみ》つの頃(午前二時頃)、月の光で障子に映る怪しい影があったので、そっと立って突然障子を開けたところ、そこには白髪の老婆がいた。 「何者であるか」  と声をかけると、その老婆は、 「それがしはこの屋敷の先生の妻であった者でありましたが、情けなく命を召されたのです。今もって成仏できないでおります。ああ、私をねんごろに弔い、この屋敷に一つの堂塚を築いてくださいと頼みたいと思ったけれど、私を恐れて聞き届けてくれる人もいないのです」  と言う。主が、 「妻であるならば、顔形が美しく、年も若いはずであるのに、白髪の老婆であるのがなんとも合点がゆかない」  と尋ねた。 「年が久しくなったので、昔の姿はないのです」  と答える。 「死んでも年は取るものか」  と、抜き打ちに切りつけると、 「きゃっ」  と言って姿を消した。  夜が明けて、血糊《ちのり》のあとをたどってゆくと、山陰の藪《やぶ》の内へ血が点々とついていて、穴があるので掘り崩してみると、年を経た狸であった。堂塚を建てさせ、供物などをむさぼろうとたくらんだのだろうが、未熟な思考ゆえに切られたのであろう、と、石谷が語ったことである。   猫の怪異の事  ある武家で、番町あたりに住んでいるという人のことだが、その家では猫を飼うことはなかった。ある人がその主人にわけを尋ねてみたら、次のような話であった。 「いささかわけがあるけれど、広く知らせるのは軽はずみなことなので、語らない。しかし、何度も尋ねるから、話すことにする。祖父の代であったか、長いこと飼っていた猫がいた。あるとき、その猫が縁側の端に二、三羽いた雀を狙って飛びかかった。雀はすばやく飛び去ったのだが、猫は小児の言葉のように、 『残念なり』  と言った。驚いた祖父は猫に飛びかかって押さえて、火箸《ひばし》をかかげ、 『おのれは畜生の身でありながら、物を言うとは奇怪なことだ』  と、今まさに殺そうとするような剣幕で怒った。猫はまた声を出して、 『物を言ったことはないのに』  と言う。祖父が驚いて手をゆるめたのを見すまして、飛び上がって行方知れずになってしまった。こういう事件があったのだ」  それからというもの、その家では猫を飼ってはなるまいと申し置いて伝えられ、今もって固く戒め、飼わないのだという。   妖狐《ようこ》、道理に服従の事  八王子《はちおうじ》千人同心の頭《かしら》の山本|銕次郎《てつじろう》は、私の親友、川尻《かわじり》の親族である。先に山本が妻を呼び迎えた事情は、川尻の祖父が世話をしたもので、荻生惣七《おぎゆうそうしち》の娘と婚約した。  結婚したのち、その妻に狐が憑《つ》いた様子で、何かはなはだ不埒《ふらち》なことを口走る。夫はこのことを狐に責諌《せつかん》し、 「いかなるわけがあって、呼び迎えた妻に憑いたのか」  と道理を説き聞かせた。その道理に服したのであろうか、 「なるほど、退き申すことにしましょう。されどもわればかりではなく、江戸より憑いてきた狐もいる」  と言ったので、 「それはともかく、まず汝《なんじ》が退くべきだ」  と何度も責め続けると、退いたということだ。  それでもまだ正気ではないので、繰り返し諭《さと》したところ、 「われはこの女にもとから恨みがあるので、取り憑いてきたのだ。それで退きがたい」  と言う。山本は聞いて、 「何ともその意味がわからないことだ。江戸表からここに嫁いできた頃から狐が憑いたという様子であるならば、どうして嫁としたであろう。それで離縁いたしたとしても、里方ではこちらで狐が憑いたのだと思うことだろう。狐が憑いて正常ではなくなったと里方で思うのも、武士道では難儀なことだ。いずれにしても離れるように」  と厳しく責め諭した。その道理に屈服したのであろう、狐は、 「退く」  と答えた。  山本がなおも考えて、 「離縁したのち、里方へ行き、すぐに狐が憑いたというのでは同じことだ。そのわけを詳しく証文に書くように」  と申した。狐は、 「書くことはできる。だが、文言が出てこない」  と答える。 「文言を作るのは好きだから……」  と、夫は詳しく文言を教えて書かせた。 「書面だけでは信用できぬ。人も疑うかもしれぬ。狐が憑いていたという証拠がなくては……」  と、再びしつこく説得する。また、 「印形はないけれど、人間世界では爪印《つめいん》ということがある」  などと教えると、手を口もとに寄せて、墨を含み、その書面に押した。獣の足の先の跡のようなものが残った。 「これでよい」  と、ただちに離縁状を添えて川尻氏へ戻して、荻生家へ帰したということだ。惣七は徂徠《そらい》の甥《おい》である由、川尻が語ったことである。   蜘蛛《くも》怪の事  文化元年(一八○四)子《ね》の年、吟味方|改役《あらためやく》西村|銕四郎《てつしろう》が御用があり、駿河《するが》の原宿の本陣に止宿した。人も少ない広い家に泊まり、夜中、ふと目覚めて床の間の方に目をやると、鏡のような小さい光があるものが見えた。驚いて次の間で寝ている若党らに声を掛けると、その者たちも起きてきた。  本間、次の間とも灯火が消えていて、若党らもその光るものを見てたいへん驚き、灯火をつけようとあわてた。物音に亭主も灯火を持って出てきて、光るものを見た。  それは一尺以上の蜘蛛であった。みんなで打ち殺し、早々に外へ掃き出したが、ほどなく湯殿で恐ろしい物音がしたので、行ってみると、何かが戸を打ち倒して外へ出たような様子である。そこには二寸四方ほどの大きさの蜘蛛のひからびたのがあった。  寝床に出たのも湯殿に残っていたのも同じ種類の蜘蛛であろう。どういうわけであろうかと、西村が語ったことである。   猫忠死の事  安永・天明(一七七二—八九)頃の事件だということだ。  大坂の農人橋《のうにんばし》に河内《かわち》屋|惣兵衛《そうべえ》という町人がいた。一人娘は容貌《ようぼう》がよく、父母もたいへんに可愛がっていた。  さて、惣兵衛方に長年飼っていた猫がいた。ぶち猫であったという。その娘も可愛がっていたけれど、猫は娘につきまとって片時も離れようとはしなかった。一日中そばにいるのはむろんのこと、厠《かわや》の往来にまでつきまとうので、後々は、 「あの娘は猫に魅入られたのであろう」  と近くの者も言うようになり、縁組などを世話しても、 「猫が魅入った娘だ」  と、断る人も多かった。  娘の両親も憂い、しばらくは猫を離れた場所に追い払っても、まもなくもどってきた。 「猫は恐ろしいものだ。ことに親の代から数年飼っていたものだけれど、打ち殺して捨てるのが一番だ」  とひそかに話を決めてしまった。  その猫が行方知れずになったので、 「やはり……」  と、家の者はみな祈祷《きとう》をしたり、魔除けの札などを貰《もら》うなど重く慎んでいた。ある夜、惣兵衛の夢の中に、あの猫が枕元に来てうずくまっているので、 「なんじは身を退いたのに、なぜ、また来たのか」  と尋ねた。猫は、 「私はお嬢様を魅入ったということで、殺されようとしたから、身を隠しました。よく考えてもごらんあれ。私はこの家に先代から養われて、およそ四十年ほど厚恩を蒙《こうむ》ったのですから、どうして主人に対して悪いことをするでしょうか。  私がお嬢様のそばを離れないのは、この家に年を経た妖鼠《ようそ》がいるからです。それがお嬢様に魅入って近づこうとしているので、それを防ぐために少しでも離れず付き守っていたのです。もちろん鼠を制するのは猫の当然の仕事ではありますけれど、なかなかその鼠は私一人の力では制することができません。普通の猫だったら、二、三匹でかかったとしても制することはできません。  ここに一つの方法があります。島《しま》の内《うち》(横堀川と道頓堀《どうとんぼり》川に囲まれた地)の河内屋|市兵衛《いちべえ》方に虎猫のすばらしいのがおります。これを借りてきて、私と共に制すれば事は成就するでしょう」  と語ると、そのまま行方知れずとなってしまった。  妻も「同じ夢を見た」ということで、話し合って驚いたけれど、 「夢を見たからといってそれに従うことはない」  と、その日は暮れてしまった。  その夜も、その猫が来て、 「お疑いになるな。あの猫さえお借りになったならば、災いは除かれるであろう」  と語る夢を見た。それで、島の内へ行き、料理茶屋風の市兵衛のところに立ち寄ってみると、庭のあたりの縁側の端に立派な虎猫がいた。  亭主に会って、ひそかに口止めをして、そのことを話した。 「あの猫は長いこと飼っておいたが、優れた猫であるかどうかは知らない」  と言う。必死に願うと承知して貸してくれることになった。  翌日、その猫を取りに遣わしたが、その猫もぶち猫から知らせがあったものか、嫌がらないで来た。猫にいろいろと馳走《ちそう》していると、あのぶち猫もどこからか帰ってきて虎猫と寄り合った。その様子は人間の友達が話し合っているような様子であった。  そうしてその夜もまたまた亭主夫婦の夢に、あのぶち猫が出てきて、 「明後日、その鼠を退治することにしよう。日が暮れたら、私と虎猫を二階へ上げておいてくだされ」  と約束した。その言葉に従って、翌々日は両猫にご馳走を与え、そうして夜になると、二階へ上げておいた。  夜の四つ頃(午後十時ころ)、二階の騒動がすさまじくなり、しばらくのあいだは震動などしているようであったが、九つ(午前零時ころ)になる頃、少し静まった。誰彼と話し合って、亭主が先に立ち上がって見に行った。猫にも優《まさ》る大鼠の喉《のど》ぶえに、ぶち猫が食いついていたが、ぶち猫は鼠に頭を掻《か》き破られて鼠と共に死んでしまっていた。  島の内の虎猫の大きさは鼠の背丈に優っていたが、気力がなくなったものか、今まさに死のうとしていた。それをいろいろと治療を加えると助かったので、厚く礼を述べて市兵衛のもとに返した。  亭主は、ぶち猫の忠義な心に感動して手厚く葬って一つの墓の主としたというが、この事件のことを在番中に聞いたと、大御番を勤めた某人が話したことである。   死馬|怨霊《おんりよう》の事  小石川《こいしかわ》の寂《じやく》蓮れん寺は、私のところに来る山崎某の菩ぼ提寺《だいじ》である。その寂蓮寺の住職が来て、このような怪異を話していった。  姫路藩中に村田|弥左衛門《やざえもん》なる者がいた。その娘は十六、七歳で、容貌もよく、人からの縁談も少なくなかった。  さて、娘はしばらくのあいだ患うことがあった。両親の心中の憂いは言葉では表現できないくらいであった。娘は乱心した者のようにあれこれと口走り、何か恨みがある様子なので、加持祈祷《かじきとう》をしたけれど、その効果は現れない。  弥左衛門は大いに愁い、 「これはまったく狐狸《こり》のなすところであろう」  と怒り、娘にしきりに尋ねると、 「私が狐狸であろうはずはない。この者の祖母は同家中の大河内帯刀《おおこうちたてわき》の娘で、私を情けなく殺した恨みがあるから、この家に祟《たた》りをなすのだ。娘を殺し、血筋を断つことにする」  と口走った。 「それはいかなる者の恨みであるのか」  と聞くと、 「わしはこの家に飼われていた馬であったが、年老いて乗馬の役にもならず、草を踏むこともできないのを、祖母である者に話したら、『馬が年取ったのは仕方がない。野へ放ち、捨てるのがよかろう』と言ったのに従い、厩橋《うまやばし》の天狗谷《てんぐだに》というところに捨てられ、ついに餓死してしまった。役に立つときはこれを愛し、役に立たないときはこのような不仁をする。そうした恨みがあるから、その恨みを報いるのだ」  と口走った。  それであれこれ利害を説き、追善供養などをしたので、娘の病気は治ったという。   猫の怪の事  文化十一年(一八一四)、日光に御修復のことがあって、江戸より大勢の役人がその地へ行った。この話は、御徒《おかち》目付であった梶川《かじかわ》平次郎より、御当地の知り合いへ伝えてきたことだという。  日光奉行組同心である山中左四郎の妻が、常々、猫を好み、三匹も四匹も飼っていた。一、二年前から何となく患っていたが、去る冬以来はなはだ重く、猫の真似などすることが次第に多くなった。この春は食事をするときも猫同様で、病気とは異なって、食事は多く摂る。看病人も困って、 「何にしても取り憑《つ》いているものがあろう」  と、加持祈祷をしたけれど、いささかも効果がなかった。  あるとき、 「八年前に死んだ猫が取り憑いております」  ということを、病人が口走った。左四郎は大いに怒り、 「死ぬまで飼っていた猫が取り憑くなどということ、はなはだ合点がゆかない」  と叱った。 「あまりにも可愛がりなさるので、離れられないのです。今飼っておられる猫もみんな私の産んだ子猫だから、いっそう離れられないのです」  と、病人が申したので、よんどころなく日光の社家を頼み、蟇目《ひきめ》(邪気|祓《ばら》いのために蟇目の矢を射ること)を執り行ったところ、その猫は離れていった。だが、三日目に、その病人も亡くなったという。  その蟇目を執り行ったとき、病人は、 「その猫の死骸《しがい》は庭に埋めてある。犬に食われて死んだのを包んでその庭に埋めてあるから、掘り出して川へ流してくれ」  と告げた。掘らせてみると、八年前に埋めた猫の死骸が、とりわけ変じてもいない状態で出てきた。さっそく川へ流して捨てたが、左四郎のもとにいた子猫も、またもらって飼っていた猫も残らず捨てたと、まのあたり見聞した者が物語ったという。   古猫に害された事  近頃のことという。  室町《むろまち》一丁目(東京都日本橋)の町屋に、長年、猫を好んで飼っていた人がいた。年を経たので、その猫はことのほか大きくなり、鼠を取ることもできなくなった。  主人の女房は、近頃、子猫を飼い、古猫を少しうるさく思ったものだから、子猫の方を愛し、古猫が来ると頭などをたたいていた。  ある日、女房が二階で昼寝をしていたとき、古猫がその喉に食いついた。女房は声を上げたものの、誰も聞きつける者もなかったが、ようやく向こうの家の人が見つけて駆けつけた。家の者やその他の者も駆け寄ったので、猫は逃げ去った。女房はほどなく死んだが、猫は家の奥の方へ入って自殺したという。   猫の怪談の事  巣鴨《すがも》(東京都|豊島《としま》区巣鴨)の大御番《おおごばん》(江戸幕府の職。普段は要地・城郭の守護。戦時は先鋒《せんぽう》を務める)の者の話である。  その者は、文化十一年(一八一四)の四月、二条在番(京都二条城の警護)で出立していた。ある夜、留守を守っている中間《ちゆうげん》部屋で何者かが踊り騒ぎ、ことのほか大勢で歌い舞っているようで、にぎやかな様子がした。 「主人の留守に、このようなさまはいかがなものであるか」  と、奥方から沙汰《さた》された。留守を守る家来が早速に中間部屋を調べると、そのようなことはないので、その旨を奥方に申し伝えた。  翌晩もやはりまた同様なので、その家来が行って調べてみると、騒いでいるのは、隣境の長屋で、物置同然にしている場所であるように聞こえた。そこへ行って調べたところ、見知らぬ者が一人出てきて、 「その空き家に少々宿願があり、同志の者が集まって祭礼同様のことをいたしております」  と言う。 「今一晩の容赦のこと、相《あい》頼みます」  と申したけれど、 「主人が留守中のことでもあり、決してなりませぬ」  と断った。だが、やはりまたその翌日の夜も同じさまであるので、またまた咎《とが》めた。すると、 「いささかもお気遣いすることはない者でございます。お断りを申し上げることで問題にすることもなきよう、なにぶん勘弁のほどを……」  と願い、謝礼金ということで、包んだ金を渡したので受け取って、奥方へそのことを申し聞かせた。奥方は、 「それはとんでもないことです。早々に返すように」  と、きつく命令した。  その者を訪ねると、どこへ行ったものか一人も姿が見えない。いずれ一両日中に誰であるのかわかるであろうが、住所も聞いておかなかったものだから、渡された金子《きんす》を留め置き、二、三日様子を見ていたけれども、まったく手がかりがない。  さて、その家で先祖の法事があり、菩提所《ぼだいしよ》へ法事料を遣わさなければならなくなった。ところがかねがね不勝手ですぐに遣わす金子がなく、 「この金子を法事料に遣わし、追ってつぐない置くのがよろしいでしょう」  という家来の考えで、その金子のうち二、三両を法事料として遣わした。  法事が済んだのち、和尚が来て、 「なにとぞ奥方にお会いしたい」  と言う。家来が、 「主人が留守であり、奥方自身も少々体調が悪くて……」  と断ると、 「なにぶん直接にちょっと、使用人一同にお聞き合わせしたいことがあり、聞き届けてくれますように」  とたっての願いだと申すので、よんどころなく対面した。 「あの法事料の金子はどこから出たものですか」  と尋ねるので、奥方も家来も赤面してしまい、当惑しながらも、 「どのようなわけで尋ねられますのか」  と聞いた。和尚は、 「あの金子は私の寺の本堂を建立したとき、施主からだんだんと寄付されたのを散らばらないように、新たに極印《ごくいん》(証拠として打つ刻印)をこしらえて一両ずつ打って積んでおいたものです。その金子のうち七十三両が紛失したのです。そうしているうちに、このあいだいただいた御法事料にすべてその極印が打たれているので、お聞きするのです」  と説明した。奥方・家来ともたいへん驚き、 「それはかくかくしかじかのことで受け取りました金子で、とりあえずしまっておいていずれ返そうと、その者が来るのを待っていたのです。しかし、そののち何の音沙汰もなく、このたび法事料が不勝手ゆえに他の金が手元になかったものですから、しまっておいた金子の一部を出した次第。さてさて面目のないことです」  と言い訳をした。和尚もたいそう驚き、 「紛失した金子の数もだいたい符合し、寺内の隅々まで探したけれど、あやしいことはなく、外から盗賊が入った形跡もない。寺内で数年飼っていた猫が、そのころからふっと見えなくなった。これは、まったく猫の仕業であろう」  と語った。奥方と家来も共に驚き恐れ、しまっておいた金子にその法事料の金も足して、その寺へ納めたということだ。 [#改ページ]     其ノ五 植物の怪   黄桜の事  桜には「黄色の花はない」と話し合っていたとき、ある人が語ったことである。  駒込《こまごめ》追分(東京都文京区)の先にある行願寺という寺に黄桜がある。もっとも山吹や黄梅のような正しい黄色ではない。しかしながら白に映えた黄色など一重の花で、その寺の名木だと、近隣の者たちのあいだでも、もてはやされていた。  だが、檀家《だんか》の者が参詣《さんけい》のおりに、ひそかに根から掘り出し、芽を掻いて四、五度も植え付けたものの、ある程度成長しては枯れてしまった。一本根づいたと思われたのも、花が咲き出したのを見ると、一重の山桜なので、和尚へしかじかのことをありのままに話して、 「なんとかして接《つ》ぎ木をしたい」  と願った。和尚が、 「たやすいことです」  と承諾したので、植木屋を雇って接ぎ穂をしたが、これもまた花は咲いたけれど、山桜の白いものであった。  残念な思いで日々を過ごしたが、寺内で根分けした桜はやはり黄色であったという。  土地によるのであろうか、不思議なことだと、人々は語りあったという。  その檀家の人は、笛吹きの春日市《しゆんにちいち》右|衛門《えもん》(能の笛方)だと聞いたという。   怪異の事  下総《しもうさ》の国の関宿《せきやど》に大木の杉と松があった。  享保《きようほう》(一七一六—三六)の頃であったか、一夜のうちに二本の木が梢《こずえ》を結び合わさったとかいうことだ。  俗にいう天狗《てんぐ》などというものがしたことであろうか。今も残っていると、その城主に仕えた者が話したことである。   板橋辺の縁切り榎《えのき》の事  本郷《ほんごう》(東京都文京区)あたりに、一人の医師がいた。名前は聞いたが、忘れてしまった。医術の仕事も繁盛して、相応に暮らしていたが、残忍な性質であった。妻は貞淑な者であったが、その医師は下女を愛して、偕老《かいろう》(夫婦仲|睦《むつ》まじく連れ添うこと)の契りという譬《たと》えを忘れていた。妻はむやみに妬《ねた》みもしなかった。  だが、日増しに下女は奢《おご》り強くなり、医師もその女を愛するままに家業もおろそかになっていった。今は病家への往診も間遠になり、日ごとに家風も衰えていった。嘆いた妻は幼いときより世話をして、家に置いていた弟子にそのわけを語った。その弟子も正直な者で、かねてこのことを嘆いていたものだから、一緒になって心を苦しめ、その下女の家の者へ、 「そのうち、こちらの考えも示すことにする」  と伝えたが、これも具体的な取り計らいがなく、日月が過ぎていった。妻とその弟子は、あれこれ悩みつづけていた。  あるとき、弟子が町へ出た際に、 「板橋のあたりに縁切り榎という木がある。これを与えると、どんなに親密なあいだがらでもたちまちうとましい気持ちが出てくる」  という話を聞いて、医師の妻に語った。妻女は、 「なにとぞその榎の皮をはがして持ち帰ってきてくだされ」  と弟子に申しつけた。  弟子はひそかに板橋へ行き、なんとかその榎の皮をはがして持ち帰って粉にし、医師と下女に飲ませようと相談して、翌朝の食事のとき、医師が好んで飲む吸い物の中に入れた。板の間で働く、長いこと召し使っている男がこれを見て、大いに疑問を抱き、 「あるいは毒殺しようというのであろうか」  と、一方で疑い、一方で驚き、 「どうしよう」  と思い困っていた。男は、 「手水《ちようず》の水を入れよう」  と言いながら庭にまわり、ひそかに主人の医師にそのことを語った。医師も非常に驚き、そうして膳《ぜん》にすわったものの、吸い物には手もふれない。妻は、 「以前から好むものをどうして嫌いなさる」  としきりにすすめたけれど、医師はますますこばんで食べようとはしない。妻は、 「このようにすすめ申す吸い物を忌みなさるのは、毒でも入っているかと疑っておられるのでしょう。そうであっては、私の立つ瀬がない」  と、なおもすすめた。だが、今度は医師が言葉も荒々しくさえぎったので、妻はますます腹を立て、 「それならば毒が入っていると思っておられるのであろう。そうであるならば、私が飲もう」  と、その吸い物を飲んでしまった。  縁切り榎の不思議なことは、そのことからいよいよ医師と妻のあいだがらは壊れて、妻は離縁となったという。   非情といえども松樹不思議の事  文化八年(一八一一)、芝のあたりで大火があり、増上寺もあやうく火災を免れたものの、火除けとしてその最寄りの土地は上地《あげち》(幕府に収めさせられた地)となった。屋敷は町家となり、町家は屋敷となるなど、火除け地として空地になったところもあった。  その中に御先手《おさきて》を勤めた能勢某《のせなにがし》という人の屋敷があり、市ヶ谷あたりに引っ越したが、その元の屋敷は半分は山で片目蛇山《かんだちやま》といわれていた。古くから蛇が住んでいると伝えられているところで、その山上は長いこと火災を免れ、先年の火災にも多くの人がそこで救われたと伝えられていた。  また、大木の松が一本あった。枝葉が繁茂して、なかなか見栄えがよかったため、これまで伐《き》られる心配がなかった。だが、 「今度は伐ろう」  と相談して、そのように話がまとまった。  しかし、違う屋敷の者がこの樹を欲しがり、 「どうしても貰《もら》い受けたい」  と言う。 「伐り捨てるのも無慈悲なことだから幸いだ」  と、能勢氏も承諾して、人夫を雇って根を掘りかけ、次第に根を切っていったが、一夜のうちにもとのように土が埋まっていた。なかなか動かすこともむずかしく、とりわけ人夫も疲れ、 「これは伐るよりほかに仕方があるまい」  と、みんなは手を引いてしまった。  能勢氏はこのことを聞いて、その場所へ行き、 「長年あった松が、よそへ移るのは辛いのであろう。しかし、私としても他に移ったのだからどうしようもない。幸いに愛する人が近くにいて、持っていくことを望まれたので、掘り動かしているのである。しかしながら、このように日数を積んでも動かないのならば、いたしかたない。伐ることにもなろう。とはいえ、それでは無残なことだから、明日は快く移るがよい」  と教え諭した。不思議なことに、その翌日は、何ごともなく樹を望んだ人の屋敷へ移ったということだ。   勿来《なこそ》の関の事 但し桜、石に成る事  奥州の勿来の関は、昔は山を越えて往来したのであろうか。今はその関所があった山は通路がなく、人々はその山の麓《ふもと》の海岸の道を通るという。潮が満ちてくると通路にはなり難く、飛鳥井《あすかい》殿の歌に次のようにある。   ここつらや潮満ちくれば道もなし ここをなこその関といふらん [#2字下げ、折り返して3字下げ](九九面《ここつら》〈いわき市の地名〉は潮が満ちてくると道もない。ここを名ばかりのなこその関というのであろう)  その当時、通路を九九面と書いて、「ここつら」と言ったという。いにしえ、勿来で桜を詠《よ》んだ古歌もあるけれど、今は桜はない。しかしながら、大木の切り株があって、半《なか》ばは石になり、石に桜の小口《こぐち》(切り口)もはっきりと残っているという。  萩原《はぎわら》某は見聞の御用で見て、そのいわれを聞いたと語った。それでは楠《くすのき》だけに限らず、どの木も消化して石になりでもしたのであろうか。   非情のもの、恩を報ずる事  駿河台《するがだい》(千代田区神田)に梅屋敷といって、ことのほか梅の鉢植えが多い家があり、それを愛翫《あいがん》する山中平吉という人がいた。石台などの用意もたいそうなものであった。  ある年、平吉は大病を患い、長いあいだ引き込んでいた。次第に気が重くなり悩んでいたが、ある夜の夢に一人の童子が現われ、 「私は数年来、厚恩の養いを受けた者である。さて、このたび御身の病はまことに寿命で死が到来するのも近いけれど、私は数年来の厚恩を思って御身の天命に代わることにしよう。さりながら今かかっている医師の薬ではよろしくない。同役を勤める篠山吉之助に頼んで、医師を招き、服薬したならば治るであろう」  と語るのを見て、夢から覚めた。  不思議なことだと思ったものの、 「まことに夢|現実《うつつ》のことだから、それに従うのもどうかと思うものの、これまでにかかった医師の薬もこれという効き目がなかったから、親しい間柄なので、吉之助へ頼んで医者の相談をしたい」  と手紙をしたためていた。そこに、表に来客があり、吉之助が来たと言ってきたものだから、たいそう驚き、早速に寝床に招いて、 「今、使いを出して、お話ししたいと思っていたところだ」  と話すと、吉之助も、 「そなたの病気が長いので、私も相談のために来たのだ。そのわけは、昨夜、夢の中に誰ということもなく、そなたの病を見舞って、薬用の相談をするようにと言っていると思って目が覚めたので、訪ねてきたのだ」  と語った。平吉もますます驚いて、 「これこれの夢を昨夜見た」  と語ったという。  かねて篠山家へ出入りしている医師を寄こして、治療を頼んだので、だんだんに快方に向かい、ついに全快した。不思議なことに、平吉の病気が徐々に快方に向かうにつれて、あまたある梅の中でもとりわけ寵愛《ちようあい》していた鉢植えの梅の様子が次第に変になり、ついには枯れ朽ちてしまったという。 [#改ページ]     其ノ六 怪異のうわさの怪   怨念《おんねん》なしとも極《きわ》め難き事  湯島《ゆしま》の聖堂の儒生で、今は高松家に勤仕している、佐助《さすけ》という者がいた。その佐助が壮年の頃、深川あたりに講義へ出かけて、帰るとき日が暮れてしまった。 〈家に帰るにも道が遠い〉と、仲町の茶屋で妓女《ぎじよ》を揚げて遊んだ。この仲町・土橋は遊女が多く、青楼(私娼街)のようであった。  夜更けになって、二階にいると下からしきりに念仏など唱える声がし、階段を上る音がした。佐助の寝ている座敷の障子の外を通る者がいるようで、すさまじい恐怖を感じながらも、障子の隙間から外をのぞいてみた。そこには髪を振り乱した女が両手を血に染めて通っていた。佐助は恐怖のあまり失神寸前となり、そのまま布団を引きかぶってしまった。物音が静まったので、同じ布団に寝ていた妓女に、こんなことがあったと語ると、 「実は、この家の主人は、そのむかし、夜鷹《よたか》の親方をしていました。大勢いた夜鷹のうちのひとりが病弱で、一日勤めては十日|臥《ふ》せるというありさまで、親方が憤って、たびたび折檻《せつかん》を加えたのです。親方の妻の方は少し情けがあったので、折檻の都度、『この女《ひと》は病気だから……』と言って夫をなだめていました。  あるとき、夫がことのほか怒って、その夜鷹を打ち据えるのを、いつものように女房が仲に入ってなだめようとしました。すると、夫はますます怒り、脇差を抜いて妻に切りかかったのです。妻をかばった夜鷹は両手で白刃をつかんだので、手の指は残らず切れ落ちて、そののち死んでしまいました。その亡霊が夜な夜な出て、あの通りなのです。そのため客も日々に来なくなってしまいました」  と話す。佐助は夜が明けるとすぐに帰ってしまった。  そののち、いくほどもなくしてその茶屋の前を通ったが、あとかたもなくなっており、今はその家名も見えないという。   初午《はつうま》奇談の事  寛政八年(一七九六)の初午は二月六日であった。そのむかし、太鼓の張り替えを仕事としている者が、本郷《ほんごう》あたりを通ったとき、前田|信濃守《しなののかみ》の屋敷前で、家僕とも見える侍に太鼓の張り替えを申し付けられた。侍がすぐに破れた太鼓を渡したので、値段を決めて、その侍は何の又左衛門《またざえもん》と申す者だと告げた。  その後、太鼓を張り替え、初午前に前田家の屋敷へ行って、 「又左衛門様とおっしゃる方がおあつらえになった太鼓ができました」  と門で伝えた。ところが、前田家には又左衛門という用人はいるものの、年格好などはその者の言うところとは違っている。そのうえ、太鼓の張り替えについて又左衛門から申し付けたことはなかった。 「かねて破れていた太鼓が新しくなったことが不思議だ」  とそれぞれに家中で話していたが、二百匹余りの代金であったのを、奇妙に思い値段を引き下げたと、ある人が語った。  狐などの仕業《しわざ》であろうか、または太鼓を張り替えた者、あるいはその前田家の家士《かし》の仕業であろうか。   魔魅《まみ》不思議の事  知人が語ったことである。  小日向《こひなた》に住む小身の旗本の次男がどこへ行ったものか、行方知れずになってしまった。次男の祖母が深く嘆いて、あちらこちらを探してみたが、ついに連絡がなかった。  あるとき、祖母が本郷の兼康《かねやす》という店の前で、突然、その次男と出会ったので、 「どこへ行っていたの?!」  と、嘆いたり、怒ったりしながら尋ねた。 「お嘆きをお掛けしましたこと、恐れ入りますが、今は私は難儀なこともなく世を送っておりますので、心配なさらないでください。家にも帰り、お目にかかりたいとは思いますが、そうしては自分にとっても人にとってもよくないことなので、これまで帰らずに過ごしてきました。もうお別れいたしましょう」  と言う。祖母は袖《そで》をつかんで引き止め、 「しばし……」  と言うと、 「そのように思いなさるのでしたら、来《きた》る何日に、浅草《あさくさ》観音境内の念仏堂においで下さい。そこでお目にかかりましょう」  と答えた。  祖母は家に帰って、このことを家の者に語ったが、 「老いぼれなさったのだろう」  と、家内の者は誰も取り合わなかった。  だが、その約した日になると、 「どうしても浅草へ参る」  と言って、祖母は、僕《しもべ》一人を連れて浅草観音境内の念仏堂へ行った。果たしてその次男が来て、あれこれ話をして、 「もはやお尋ねなさる必要はない。私にも今はいささかも難儀なこともない」  と語った。次男の連れであったのか、老僧一人二人が念仏堂に見えていたが、その後、人溜りにまぎれて見失ってしまった。召連れた僕もこの様子を見ていたが、やはり祖母の物語と同じであったという。  天狗《てんぐ》といえるものの仕業であろうかと、祖母が耄碌《もうろく》しているということは話題にならなくなった。   怪刀の事  松平|右京亮《うきようのすけ》が寺社奉行として話されたことである。  右京亮の家に二、三代も前から、箱に入れて土蔵の棟木《むなぎ》に上げておいてある刀があった。その刀のことで、次のような話が伝えられているという。  右京亮の先代の足軽が毎晩うなされ、たいへん苦しんだことがあった。 わけがあるのかと尋ねいろいろと治療などをしたものの、普段はさしたることもない。そこで、 「不思議なことだ」  と、枕元の刀を他へ移して寝てみた。すると、まったくその愁いがなくなった。〈まさに刀のせいだろう〉と思って、その刀を再び枕元に置いて寝てみると、また前のようにうなされた。  このことを主人に申し立てて、刀を差し出した。それで、あのように棟木へ上げて置いたのだと申し伝えられてきた。どのようなものであろうかと調べてみようと思ったけれど、何かが起こるのを願っているようでもあり、また、家来の者も止めるので、それに従い歳月を過ごしてきた、と右京亮は語った。  また、これは営中(江戸城内)で聞いた話であるが、小田切土佐守《おだぎりとさのかみ》の先祖は甲州の出身である。武田|晴信《はるのぶ》(信玄《しんげん》)から先祖に与えられた長刀が今に残っていて、玄関の鎗《やり》掛けに飾って置いてあるという。  おりふし、玄関に詰めている侍が刀に足を向けて寝ると、必ず枕返しをすることがしばしばおこったという。   神に祟《たた》りがないとも申し難い事  玄瑞《げんずい》が話したことである。  玄瑞が壮年の頃、同職の者四、五人を連れて薬草取りに出かけた。新田《につた》明神という新田|義興《よしおき》(義貞《よしさだ》の子)の墳墓は、当時竹が植えてあるところで、連れていった小僧が草を取った。同伴の者が、 「ここは……」  と、制止したのだが、聞き入れようとはしなかった。  家に帰ってから、その小僧は、 「わしが住んでいるところの草を取ったことが憎い!」  とののしるような調子で口走った。  家の者たちはたいへん驚き、その草をあったところに返すと、小僧はもとのようになったという。  英雄の怒気というものはそのまま動かないものだから、後の世に神として残すのもわけがあるということであろうか。   人の運、計ってはならない事  安藤|霜台《そうたい》の譜代の家士がいた。名字は忘れたが、幸《こう》右|衛門《えもん》という者であったという。今は他界してしまったが、その者の在所は紀州黒井村というところで、加太《かだ》(和歌山市)と向かい合っていて、島同然の場所であるそうだ。  その幸右衛門は若いときから、霜台の親のもとに仕えていたが(そのころ、霜台の父である郷《ごう》右|衛門《えもん》は、紀州の家士で、和歌山に勤仕していたという)、弟がおり、弟をも和歌山に呼んで勤めさせようと、遊びがてら幸右衛門はその黒井村へ行った。  父母その他の兄弟にも会ったが、そのころ、黒井村より加太の海面が二日ほど真っ黒になって渡るものがある。よくよく見ると、黒井の鼠が加太へ渡って行くのであった。  このような不思議にも気がつかず、父母兄弟に別れを告げ、弟を連れて和歌山へ帰ろうとした。みんなは、 「どうか一、二夜、留まりなされ」  と、熱心に止めたけれど、 「約束していた日数だから……」  と告げて帰った。  その夜中、津波で一村が一波の中になくなってしまい、父母兄弟すべて水中に沈んでしまった。だが、不思議なことに幸右衛門はその難を免れたという。  また、天明三年(一七八三)、浅間《あさま》山が噴火した。上州・武州のうち甘楽《かんら》郡、碓氷《うすい》郡、緑埜《みとの》郡は、あるところでは三尺、あるところでは一尺ほどに焼けた砂が降り積もり、田畑を埋め、堀や川を埋めた。浅間に近い軽井沢などは火そのままの状態で降ったものだから、家を焼くこともあって、恐ろしい惨状であった。  上州|吾妻《あがつま》郡は浅間の北側だが、そのあたりは砂の降った量は少ないが、浅間山頭鉢領という洞から泥や火石が押し流れ、家を押し流し、人を泥に埋め、火石で動物を焼き殺した。吾妻川の川ぶちから群馬郡、武州の榛沢《はんざわ》郡(深谷市)のあたりまで利根《とね》川・烏《からす》川を通過して、場所によっては一丈、二丈も泥が押し上げた。だから死んだり負傷したりする人も少なくなかった。  私(根岸鎮衛)はその検分御用の仰せを命じられて、すべての村を検分した。翌年の春までに被害を受けたところの御普請《ごふしん》もできたのだが、吾妻川の川ぶちに祖母島《そぼしま》村というところがあった。  その地は泥が押し流されていたので、人々はみんな恐れおののき、北側の山へ命からがらよじ上った。翌日になっていささか静まったので、誰彼となく人を探すと、その村でも二十人余りも押し流されて行方不明となっていた。これによって姿の見えない者は死んだものと嘆き、弔っていたが、河原の崖《がけ》ぎわに何かが見えるので行ってみると、子供を背負ってうつぶせになっている者がいた。早々に取り出して、泥だらけになっているのを洗ってみると、村の百姓が孫を背負っている。その祖母は死んでいたけれど、背負われていた孫は無事であった。  その日のことではないが、翌日まで泥の中に倒れ、すでに祖母は死んでいたのに小児が生き残っていたというのも不思議な運命だ。   信心に奇特ある事  明和九年(一七七二)の江戸の大火は、人々のよく知っているところである。この話は、その頃のことで、私の近隣の若山|某《なにがし》の妻が話したものだ。  若山某の妻の伯母《おば》は佐竹右京大夫《さたけうきようだゆう》の奥の老女であったが、大火のおりに奥方について立ち退いた。だが、混乱しているさなかに乗物を見失い、所々を探したものの、乗物の行方はわからなかった。  老女は引き取っていた部屋子の少女を連れてあちらこちらを探し尋ねたあげく、浅草|大田圃《だいたんぼ》というところまでさまよい歩いていった。そのあたりもしだいに燃えていったので、どうしたものかと当惑していると、佐竹家の紋である源氏|香《こう》の図の提灯《ちようちん》を持った者が二人連れで通るのを見かけたので、呼びかけて事情を話すと、大いに同情し、 「我らが介抱いたしましょう」  と、二人の着ていた革羽織を脱いで下に敷き、上にかざして火の粉をふせぎ、少女の食べ物などを調《ととの》えてくれた。  しばらくして、そのあたりもようやく火が鎮まったので、老女は少女を連れ立って浅草|蔵前《くらまえ》まで出た。そこで、主人の乗物を見つけたので、やっと生きた心地がしてその乗物にすがり、「しかじか……」ということを語り、涙にむせび、そのまま供をして屋敷に立ち退いたという。  騒動のおりのことなので、介抱した二人の名前も聞いていない。 「このような者にことのほか世話になった」  と役人へ話し、謝礼もしたいと一所懸命に所々の屋敷を調べたけれど、似ている者もいなかった。きっとその老女はかねて信心が人一倍|篤《あつ》かったので、神仏がお助けになったのであろうと人々は語ったという。 人の性、忌み嫌うものある事 享保《きようほう》の頃(一七一六〜三六)、御先手《おさきて》(将軍の外出時、警備などにあたる者)を勤めていた鈴木|伊兵衛《いへえ》は極端に百合の花を嫌った。  あるとき茶会で四、五人が集まったおり、吸い物が出て、みんなは箸《はし》を取ったが、伊兵衛は極端に不快な顔色を示し、箸も取ろうとはしなかった。みんながわけを聞くと、 「ひょっとしたら、この吸い物には百合の根などは入っていないか」  と言う。かねて嫌っていたことを知っていた周囲の面々は、 「決してそのようなことはない」  と話したのだが、一座のうちの膳《ぜん》に百合の絵を書いたものがあった。驚いた人々は早速に膳を取り替えたので、伊兵衛はもとのように快くなったと、松下|隠州《いんしゆう》が語っていた。  また、土屋|能登守《のとのかみ》殿の家来に樋口小学《ひぐちしようがく》という医師がいた。その者は鼠をひどく嫌い、鼠のいる座敷では必ずそのことを悟るほどだった。  ある日、同僚たちが集まって茶飯などを振る舞ったとき、小学をも招いた。ちょうどそのとき小学は後から遅れてきたので、皆は、小学が現れる前に、 「かねて聞いていた彼の鼠嫌いはあまりにも異様だ。とはいえ、本当かどうかわからない」  と、鼠の死骸《しがい》を取り求め、小学の座る畳の下に置き、素知らぬ顔をして待っていた。  ほどなく小学も来たので、それぞれ席を譲り、件《くだん》の畳の上に座らせ、膳を出した。小学はみるみる顔色が悪くなり、全身より汗を流してはなはだ不快な様子となった。 「どういたしましたか」  などと、みんなが言うと、挨拶《あいさつ》もできないほどの様子である。もしやその鼠のことなど申し出したならば、討ち果たしでもするような様子なので、いずれも口を閉ざしてあれこれと介抱した。 「帰宅したい」  と願うので、人を付けて帰してやった。 「それにしても不思議な嫌い方だ」  と、ほどなく人を遣わして様子を聞いてみると、家に帰ってからはなんの障りもなかったという。その席に出ていた鍼《はり》医師山本東作の語った話である。   前生なしとも極め難い事  これは、安藤霜台が語ったことである。  紀州南竜院殿(頼宣《よりのぶ》)が逝去する以前に、 「もしも死んだならば、岡の山というところに葬るように」  と、遺言をした。その場所は和歌山の御城下近くにあったという。やがてご逝去されたので、その場所に御廟穴《ごびようけつ》を掘ったところ、一丈余りも下ったところに一つの石槨《せつかく》があった。槨の中には一鉢、一|杖《じよう》があって他には何もなかった。その槨の蓋《ふた》に「南陵」の二文字がはっきりと見えた。御|菩提所《ぼだいしよ》より差し上げた頼宣の御法号は、「南陵院」であった。 「まことに符節を合わせたことだ」  と、当時の人は驚嘆したといい、今も紀陽(紀州)に申し伝えられているという。   不思議なしとも極め難い事  安藤霜台の家来に幸右衛門なる者がいた。幸右衛門には初め一人の男の子がいたが、五、六歳の頃、すでにはなはだ聡明《そうめい》で、文字なども年齢にしては驚くくらいに書いたが、七、八歳で死んでしまったという。死ぬ前にその子は自ら、 「法名を付けた」  と言い、「即休」という二文字を数枚の紙に書いた。  親たちは忌まわしいことに思って叱り、制したものの、その子は聞き入れないで書いていた。そして、ほどなく死んでしまったので、菩提所へ申し遣わし、葬送のことなどを伝えたところ、寺から付けられた法名が「即休」であった。 「この法名は家内から聞いたのか」  と寺僧に尋ねると、 「まったく存ぜぬ」  というので、みんなは奇怪なことだと嘆息したという。   尊崇するところ奇瑞《きずい》がある事  これも霜台の家士で、富田作次郎という者がおり、日《にち》蓮れん宗で先祖は日蓮の縁者であったという。先祖以来の霊仏の釈しや迦《か》を所持し、いつも鼻紙袋に入れて持ち歩いていた。  ある日、浅草に参詣《さんけい》したところ、途中で落としたのか、あるいは偸盗《ちゆうとう》(盗賊)に奪われたのか、その鼻紙袋を紛失してしまった。鼻紙入れには書付けや金子《きんす》のたぐいは入っていなかったから惜しむこともないのだが、伝来の尊像を紛失したことを嘆き、その夜は寝てしまった。  翌朝、手水《ちようず》を使おうとして、自分の住んでいる長屋の縁に立ったところ、手水所の草の中に光る物がある。〈いかなる品か〉と取り上げてみると、昨日なくした尊像なので、たいへん驚き、今に崇敬して所持していると語った。   二十年を経て帰ってきた者の事  江《ごう》州|八幡《はちまん》(滋賀県|近江《おうみ》八幡)は、その国ではにぎやかな町場であるという。  寛延・宝暦(一七四八〜六四)の頃、その町に松前屋|市兵衛《いちべえ》という金持ちが妻を迎えてしばらくのあいだ過ごしていたが、どこへ行ったものか行方不明となった。  家中の者は、身分の上の者も下の者も非常に嘆き悲しみ、金銀を惜しまず所々を探したけれど、まったくその行方はわからなかった。これといって相続する者もなく、その妻も一族の中から呼び迎えた者だから、他から入り婿をとって跡目を立て、行方知れずになった日を命日として葬儀を行った。  その行方不明となったときのことは次のようである。その日、市兵衛は、夜になり、 「便所へ行く」  と言って、下女を連れて部屋を出た。厠《かわや》の外で下女は灯火を持って待っていたが、市兵衛はいつまで待っても出てこない。  妻は夫の気持ちが下女に傾いているのではないかと疑い、厠に行ってみると、下女は戸の外にいる。 「なんと便所の長いこと」  と、表から声をかけたがいっこうに返事がない。戸を開けてみると、どこへ行ったものか行方がわからない。こういうことなので、その当時はその下女なども疑われたりして苦労したという。  さて、二十年ほどが過ぎて、ある日、厠で人を呼ぶ声が聞こえたので行ってみると、その市兵衛が行方不明となったときの衣服と少しも違わず、座っていた。みんなは大いに驚き、 「どういうことだ」  と言ったけれど、はっきりとした返事もない。 「空腹だ」  と言って、食べ物を欲しがる。  さっそく食事などを進めると、しばらくして着ていた衣類などもほこりのように散り失せてしまい、まるで裸のようになったので、すぐに衣類などを着せた。薬などを与えたけれど、なにか昔のことを覚えている様子もなく、病気あるいは痛いところに対する呪《まじな》いをしたという。  私のもとに来る眼科の医師が八幡の者で、まのあたりに見たという話であるが、妻も後の夫もおかしなつきあいであろうと一笑したという。   神隠しというたぐいある事  下谷《したや》の広徳寺前というところに大工がいて、倅《せがれ》が十八、九歳になった。今年|辰《たつ》(寛政八年、一七九六)の年の盆十四日のことであるという。倅は、葛西《かさい》あたりに上手な大工がこしらえた寺の門があるのを見ようとして宿を出たが、行方知れずとなって帰ってこなかった。両親の驚きは普通ではなかった。近隣の知り合いをうながして、鐘を鳴らし、太鼓を叩《たた》いて大騒ぎをして尋ねたけれど、行方はわからなかった。  隣町の者が江ノ島へ参詣したところ、社壇でその倅を見かけたので、 「どこへ行っていたのか、両親が尋ね探していたのは普通ではなかったぞ」  と言うと、 「葛西あたりの門の細工を見ようとして、家を出たのだが、ここはどこであるのか」  と尋ねる。 「江ノ島だ」  と言ったけれど、ひどい健忘の様子である。そこで、江ノ島の別当のところへ連れてゆき、様子を語り、 「ただちに親元へ知らせ、迎えの者を寄こすから、それまで預かってくだされ」  と頼んで、その者は立ち返って、両親に告げた。親は喜び、早速迎えの者を立てたという。  不思議なことに、その者の伯父《おじ》で、大工の仕事をしている者も十八、九歳で、どこへ行ったかわからなくなってしまった。この者はついに行方知れずとなってしまい、ひとしお両親は憂い嘆いたという。 吉備津宮釜鳴《きびつのみやかまな》りの事 長崎奉行を務めた桑原《くわばら》予州(伊予守盛員《いよのかみもりかず》)が、次のように語った。 「長崎を往来のときに、吉備津宮に参詣した。その社内に差渡し四尺余りの釜が釜壇に据えられてあった。お供えを献じる場合は、神人《じにん》が米一合ほどをその釜の中へ入れ、塩水などで清め、松葉を少し釜の下で炊《た》くと、最初は鈴の響きほどに鳴って、段々鳴る音が高くなり、後にはあたりに響き、おびただしく聞こえた。そのまま神人が塩水を打つと、鳴る音もまた止まった」  戸田|因幡守《いなばのかみ》(忠寛《ただとお》)もその席におられたが、 「領地内の近くのことなので、たびたびその社頭へ行ったが、不思議なことだ」  と話されたのであった。   日《ひ》の御崎神事《みさきしんじ》の事  日の御崎神事のときは、神人が海辺に出て、波打ちぎわに立っているということだが、毎年、時日を違《たが》えず、沖の方から藻《も》の上に小蛇がとぐろをまいて流れ寄ってくるのを、神人が両手でこれを受け、ただちに神前に供えるのが恒例となっている。  その蛇は一日または二日ほどそのまま動かずにいて死んだという。それをすぐに干し固めて、その年々の蛇形を納め置き、信仰心で乞《こ》う者がいれば与えるのだという。  戸田因幡守も、 「去年、その神主を通して受納した」  と、寺社奉行勤めをしたおりに語った。ただし白蛇と言っているが、真っ白というのではなく、黒ずんだ蛇だという。   思いがけなく悟道の沙汰《さた》があった事  これは、私が知っている者のもとに来る禅僧が、 「禅家に入り、座禅の習い初めは、はなはだ苦しいので、足をゆわえて習ったものだ。それにつけて、おかしい話がある」  と言って語ったことである。  その僧が初めて禅を学んだころ、檀家《だんか》に病死した者がいた。遺体も棺《ひつぎ》の中に納め、そのそばに一人の僧を頼んでつけておいた。親族の者たちも代わる代わるその場にいたが、僧は例の通り結跏趺座《けつかふざ》して足を結び、座禅修行で心を静めていた。  その亡者は浮腫《ふしゆ》のたぐいであろうか、棺の中で水気が漏れるとみえて、怪しい音が小高く聞こえた。親族の者たちは、 「わっ」  と叫んで、そこから一間くらい遠くに逃げ出した。僧も恐ろしくて逃げようと思ったものの、足を結んでいたので、立つことができなかった。やむを得ず〈これは浮腫の死骸《しがい》だから、水が流れたのだ〉と心を静めて納得していた。恐ろしいこともなくなったので、そのままでいると、家内、親族の者たちも追々立ちもどってきて、 「さすがは禅家の優れた出家者だ」  と感心して、ことのほか帰依したのもおかしかったと語った。   信心に奇特ある事  私のもとにくる山中|某《なにがし》は、御抱席《おんかかえ》(世襲ではなく、その人一代限りで召し抱えられた者)の与力で、後には御代官に昇進したが、最初、大願を立てていたものの、あれこれ上に立つ者の心を把握することがむずかしく、思うようにいかなかった。  深く弁天を信じ、願成の法などを修めてもらったが、相州の江ノ島の弁天は霊験が著しいと聞いて、三日断食して代拝の者を差し遣わした。その代拝の者が江ノ島で不思議な霊夢を蒙《こうむ》ったという。誰ということもなく、 「山中の願望は今世話をしている川井某の手では遂げることはできないけれど、後役の人並びに権門家の某が心得ているので、最後には成就するはずだ」  ということであった。  その代拝の者はその世話した人の名前などくわしく知っている者ではないから、不思議に思ったけれど、まだ川井も盛んに勤めていたので、強いて心にもとめなかったが、ほどなく川井は他界して、後役の時節になり、願いがかなったという。   鄙姥《ひぼ》、冥途《めいど》へ至り立ち返りし事  番町の小林氏のところで久しく召し使っていた老女がいた。その老女が重病となって、急に危篤となって死んでしまった。蘇生《そせい》法などをしてまわりの者が立ち騒いでいるうちに蘇《よみがえ》った。ほどなく元気になってから、 「わたしのことはまるで夢のようで、旅でもするような気持ちで広い野へ出たが、どこへ行くのかもわからなかった。人家のある方へ行こうとしたけれど、方角がわからない。一人の僧が通ったので呼び止めたけれど、返事をしない。その出家者のあとについてゆけば悪いこともあるまいと、一所懸命になってあとについていったが、その僧の足が早くてなかなか追いつくことはできなかった。そのうちにあとから声をかける者がいるとみて、蘇った」  と語ったという。小林氏の親友の牛奥《うしおく》殿が語ったことである。   いささかのことにより奇怪を談じ始める事  安永三年(一七七四)の頃、本郷の三念寺門前町に住んでいた、軽輩の御家人の家の持仏堂の阿弥陀仏《あみだぶつ》が自然と読経をするということで、信心深い老若が仏壇を拝み尊んでいた。だが、そのわけを調べてみると、持仏堂のうしろは糀屋《こうじや》(麹《こうじ》を作って売る家)との家境であったが、その境へ蜂が巣を作って、子蜂が「ジジ……」と朝夕に鳴くのを聞いて、ふと仏像が読経なさると言い騒いだのであったという。  皆々笑って三十日余りの夢を覚ましたということであった。   鬼神を信じ薬剤を捨てる迷いの事  真言宗・日蓮宗の僧侶《そうりよ》が、専ら祈祷《きとう》をして人の病気を治すと請《う》け合い、はなはだしい場合には、 「薬を飲んでは仏神の加護《かご》がない。祈祷しているうちは薬を飲むのを禁じ、護符や神水などを用いること」  と教える者がいた。  愚かな者や、子供、女子で信仰・渇仰《かつごう》する者にいたっては、その教えを守り、まさに死のうとする病気でも、父母・子弟に薬を与えない者がいた。このような愚かなことがあろうか。  また、僧や山伏のたぐいも、自分の法力・霊験の著しいことを知らせるため、または物事というものは一途《いちず》でなくては成就しないとの気持ちからであろうか、自分自身が仏門に入って書籍をのぞきながらも愚かであるからか、人の命をこのようにたやすく取り扱う考えが不思議である。このような者たちがどうして天誅《てんちゆう》から免れることがあろうか。  ここでおかしなことがあった。私が知っている山本某という富裕な者が、中年を過ぎて大病にかかった。四谷《よつや》あたりの祈祷僧の効験が著しいということを聞いて招いたところ、その病状を見て、 「どんどん快気するのは間違いござらぬ。わしが七日間祈ったならば、結願《けちがん》の日には床から起き上がることもできよう」  とたいそう易々《やすやす》と請け合った。家族の喜びはたいへんなものであった。大がかりな祈祷には、毎日の初穂・施物その他進物は数を尽くしたが、日毎に快方に向かうのは間違いがないと話していたのに、七日目にあたる日、にわかに危篤となってその病人は死んでしまった。妻子は大いに嘆き悲しんだ。そうしたところへ、あの僧が来て、 「どうじゃ、病気は治ったか」  と尋ねたので、家の者たちも腹が立つままに、 「ご祈祷の効果もなく死んでしまった」  と、いい加減な態度で答えた。僧はまったく不思議な顔をして、 「そんなことはあるはずがない」  と、なおも読経などをして妻子に向かって、 「なおしばしこのままにしておきなされ。必ず蘇生するはずだ。もしも寿命を逃れることができずに病死したのならば、未来の往生、極楽善所に行くことは疑いがない」  と言ったとかいう。   信心によって危難を免れたという事  私のもとに来る与住《よずみ》某が、 「あまりにも信心して仏神に帰依するのは愚かに思われる。しかし、一途に帰依する者には奇特もあるものだ。私(与住)が知っている者はいつも法華経《ほけきよう》を読誦《どくじゆ》したり、書写したりしていたが、辰年(明和九年、一七七二)の大火のときに浅草に住んでいて、火が回ってきたとき、清水寺の観音(台東区松ヶ谷)のところまで逃げた。だが、前後を火に包まれてなすすべがなく、新堀川の端に立っていた。煙りも強く、逃れようもなく苦しんでいると、一人の僧が来て、『少しのあいだこの内に入って免れるがよい』と、仏像を取りのけて厨子《ずし》だけがあるのを教え、懐中から握り飯などを与えてくれたので、『かたじけない』と言って、その厨子の中へ入って煙りを避け、その飯で飢えもしのぎ、助かった。火もあたりを焼きながら通過していったから、厨子の中から出て、知っている人のもとに立ち退いた」  ということを語った。  一心に信仰をするところには、奇特もあるのではないかと語った。   水神を夢みて幸いを得た事  寛政六、七年(一七九四、五)の頃、江戸にもみ抜きというものが流行した。下谷・本所《ほんじよ》あたりの地水が悪くて、使うことができない場所に|井戸ケ輪《いどがわ》(井戸の側壁)を入れてそれから樋《とい》を入れてもみ抜くことがはやり、水が不自由している場所に大いに益を与えたことがあった。  その井戸の工夫をして流行のもとを作った者は、本所中ノ郷に住んでいる伝九郎という井戸掘りである。その者のある年の夢に、天女ともいうべき一人の婦人が枕元に立って、 「私は水神である。近いうちに汝《なんじ》の家に行くだろう」  と語ると、夢から覚めた。その後、日数が経って夏の頃、涼みに川端に出て水浴びなどしていると、河中に足にさわるものがあるので取り上げてみると、木像であった。よくよく見ると、あの夢に見た天女ともいうべきものである。ただちに持ち帰って、〈水神であるならば、龍王《りゆうおう》の形であるはずなのに……〉と怪しんで、近所の修験者《しゆげんじや》に見せて尋ねると、 「これは水神である。水神は天女の姿をしているという」  と説明した。  さっそく宮殿をこしらえ、その中に勧請《かんじよう》して、朝暮祈請していたという。すると日増しに幸せになり、思い通りに家業も整い、今は使用人も多くなり、伝九郎といえば誰ひとり知らぬ者がない井戸掘りとなったということである。   狐を助け鯉を得た事  大久保|清左衛門《せいざえもん》という御番衆が、豊島《としま》川近くの神谷《かにわ》村というところの漁師を雇って網を打たせたところ、はなはだ不漁で、昼過ぎになっても魚を得ることはできなかった。酒などを飲んでいたが、一匹の野狐が犬にでも追われたのであろうか、一目散に駆け込んできて、船の中に飛び込み、はいつくばっていた。清左衛門は不漁なので、 「この狐を縛って家への土産としよう」  と喜んだ。それを、船頭・漁師が強くとめて、 「狐は稲を守る神が遣わしたものだ。なんの科《とが》もないのに折檻《せつかん》するのはよくない。逃がしなされ」  と言って、どうしても逃がすようにと願うものだから、ただちにそのあたりへ船を寄せて放してやった。狐は喜んで立ち去ったが、漁師は、 「それでは日も暮れようとしているので、もう一網打ってみよう」  と、網を入れたところ、三年物ともいうべき大きな鯉を得ることができた。 「これは、あの狐の謝礼であろう」  と言い、 「もう一網打とう」  と望むと、漁師は、 「このように奇漁を得たときは再びしないものだ。お許しくだされ」  と言って、そのあとは網を打たなかったという。   奇石鳴動の事  享和二年(一八○二)の夏、ある人が来て語ったことである。  近頃、田村家(芝愛宕《しばあたご》下)の庭に石があったが、そのあたりにはどうしてか人が立ち寄らないという。そのわけを尋ねると、昔、元禄のころ、浅野|内匠頭《たくみのかみ》が営中|狼藉《ろうぜき》の罪で田村家にお預けとなり、庭で切腹した。そのあとに大石を置いて印としたのだという。そのころ、本家の仙台から、 「諸侯を庭で切腹させるとは、礼を失している」  としばらくのあいだ叱責《しつせき》されたという。  近頃どういうわけか、その石が鳴動するということだが、そのわけはわからないそうだ。奇談なので、ここに記した。   妖《よう》は実に勝たない事  ある僧が祈祷《きとう》・呪《まじな》いなどをして、芸州の家中に出入りしていた。その僧を信仰する者も多く、人々に手を出させ、悪血を取るということで、小刀を拳《こぶし》の上へ釣っておいて、無論、拳に小刀を突くことはしないけれど、 「手の甲から血が流れ出ることが奇妙だ」  と、人々は不思議がっていた。  物頭《ものがしら》を勤める者が大いに憤り、 「武士たる者が妖僧のためにたぶらかされたり、身体から血が流れ出るのを不思議だと称するのは嘆かわしいことだ。芸州一家中に、そのような妖僧を屈服させることができないことは外聞もよろしくない。わしもその僧に対面してみよう」  と言って面会した。 「わしも悪血があるはずなので、取って下され」  と物頭は手を出した。僧は、 「まったくそなたに悪血はない。取るには及ばぬ」  と返事する。物頭は、 「悪血があるかないかがどうしてわかるのか。悪血のある者の血を取って見せて下され」  と責めたてた。その僧ははなはだ困って、 「今は気分がすぐれぬ」  と言って断った。物頭は顔色を変えて、 「気分がすぐれぬということにかこつけて断ったが、わしが望み申したことにもかかわらず、是非ともそのことが成りがたいということであれば、まったく人を欺く売僧《まいす》のたぐいだ」  と、今にも切り捨てるような勢いでまくしたてた。僧は大いに恐れ、 「あやまる」  と申した。 「このうえは当家には江戸・在所を問わず立ち入ってはならぬ。武士の手に刃をあて、悪血を取るなどといって妖法を行うなど、不届き至極」  と猛烈にはずかしめた。僧はまるで鼠のように一目散に逃げ帰ったということである。   作仏|祟《たた》りの事  文化元年(一八○四)の夏、ある人が来て、語ったことである。  御先手能勢甚四郎《おさきてのせじんしろう》組与力内の者であるというが、名を聞いたものの、忘れてしまった。その者が庭を造らせたか、井戸を掘らせたかしたとき、仏像を掘り出した。職人が主人に見せたので、洗い清めてみると、いかにも良い造りの仏像である。主人は頑固な日蓮宗の信者であったから、はなはだ喜ばなかった。 「どうしたものか」  とその方面のことを心得ている僧や俗人に見せたところ、 「これは誰が造ったかはわからぬが、いずれにせよ教養ある者の作仏だ。大切になされ」  と申した。主人は不快な顔をしている。 「工夫してこれを日蓮の立像にしたならば良いだろう」  と、出入りの鍛冶《かじ》屋に、 「手に持っている宝珠・錫杖《しやくじよう》を取り除いてくれるように」  と頼んだが、その鍛冶屋も作仏と知って辞退した。やむなくやすりを借りて、持って帰り、みずから宝珠・錫杖を取り除き、日蓮の像に似ているように造り、堀の内に持参して開眼供養などを行った。  そのためではあるまいが、その主人は当番に出たときにわかに乱心して、種々のことを言い、讒言《ざんげん》ばかり申すので、早々に家へ帰された。その後、徐々に保養、療養を加えたので、狂気は治ったが、このほどは口がきけない人と同じく、物言うことができなくなったという。   稲荷《いなり》宮奇異の事  久保田|某《なにがし》は長いあいだ、小日向の江戸川端に借地して住んでいたが、幕府から拝領の屋敷を相対《あいたい》替え(幕府の許可を得て屋敷を交換すること)して、そのままその借地を居屋敷としていた。そこには借地のころから稲荷社といって小さな祠《ほこら》があったが、地主ははなはだ粗末にしていた。  地主は相対替えをしたので、本所にその地主は引き移った。二、三日が過ぎてその祠も取り払い、地主に返した。引き渡した祠は、誰が持ってきたのであろうか、以前の通りもとの場所にあったので、驚いて陰陽家《おんみようけ》の者を招いて、地祭りをして鎮守としたという。  その陰陽師は、 「この稲荷はあまりに立派にしてはよろしくない。粗末でも綺麗《きれい》に祀《まつ》るのがよかろう」  と言い、手軽なありきたりの小さな祠の上に、覆《おお》いを作って鎮守としたことを語った。引き渡しのとき、地主の僕《しもべ》などがもとのところにひそかに置いたものか、または稲荷では狐を使うとかいい、狐は異獣なので、このようにしたという。   疱瘡《ほうそう》の神がいないとも申し難い事  私の知っている人の、柴田玄養《しばたげんよう》が語ったことである。  疱瘡には鬼神が寄ることがあるのだろうか。玄養が預かっている小児が疱瘡にかかり、玄養が治療を行っていた。あるとき、その病人が、(疱瘡が治ったときに酒湯をかけるのだが) 「早々に酒湯、かけ湯を使いたい」  と言う。家の者が、 「まだかさぶたにもならない時期だから、だめだ」  と制止した。すると、 「このような軽い疱瘡に長くかかっているのはよろしくない」  と、どうしても湯を使いたいと強いて言うものだから、両親もはなはだ困り、玄養を呼びにきた。  軽い疱瘡ではあるけれど、まだ皮膚の表面が乾く日にちまでにいたっていないので、玄養はじきじきにその病人に向かって道理を説き聞かせた。病人は、 「このような軽い疱瘡に長くかかわっていては迷惑である。わたしも外へ行かなければならないことがある」  と言う。玄養が、 「どこへ参られるのか」  と尋ねると、 「四谷の何町の某という町家へ参る」  と答える。〈不思議なことだ〉と思ったものの、母と話して酒湯の真似をして祝いなどをした。ほどなく体も太ってきて、無難にことが済んだ。  玄養が帰宅して、〈それにしても不思議なことだ〉と、四谷何町某という者のところへ人を遣わして事情を聞かせると、 「一両日以前から熱気があって、小児疱瘡と思われる」  と答えたので、 「疱瘡には鬼神が寄ることがあるということわざも、またいいかげんなことではない」  と話したという。   老僕奇談の事  本郷の真光寺|店《だな》に、古庵《こあん》長屋などという片側町(道の片側にのみ家が並んでいる町)があった。私(根岸鎮衛)の親族である山本某もその街に住んでいた。  文化二年(一八○五)の春、その町に三河《みかわ》屋という質店があった。そこに長年仕えていた年の頃五十歳余りになる僕《しもべ》がいた。その者はたいへん実直で、数年のあいだ私心なく仕え、主人も殊勝な者だと思っていた。  文化元年の暮れか春のことか、そのあたりに小さな出火があり、一、二軒焼失したことがあった。老僕はその前に、 「このあたりに火災があるだろう」  と言うので、傍輩《ほうばい》たちは嘲《あざけ》り笑っていたが、果たして火災があった。その僕は、 「三河屋などは気遣いすることがないので、諸道具を片付ける必要はない」  と言って制したが、まもなく鎮火して、三河屋はなにごともなかった。  盗賊|火附改《ひつけあらため》を勤めている戸川大学に、その僕も捕らえられて調べられたけれど、もとより悪事もしていないから、ほどなく許し帰されたという。  その僕は常に二階に寝ていたが、夜が更けて誰かと話をする様子がたびたびあった。そのことを、主人も聞いて、 「どういうことだ」  と尋ね問うた。僕は決してわけを言わなかったけれど、しきりに尋ねるので、 「誰とは名前を知らないものの、山伏のような人が来て、話をすることがある。私が年が若いならば連れて諸国を見せるべきだけれど、老人であるからそのことを躊躇《ちゆうちよ》しているなどと、親しそうにいろいろな話をしていた。火事のこともあの山伏から聞いた」  と語った。話を聞いて、若い手代などが、 「それならば、またその客に会ったならば、私にも引き会わせよ」  と、懇望したけれど、 「その客人に聞かないとだめだ」  と返事した。 「そののち、その客人に聞いたが、絶対に他の人と会うことはできない。その方は見どころがあってこのように話をしているけれど、人にはみだりにあれこれ言うものではない」  と断った。そののちはどのようになったのかはわからないという。  一説には、その近辺の屋敷で狸の怪があったので、その狸のいたずらでもあろうかと人々は語りあった。   計らざるに詠《よ》める歌に奇怪をいう事  水戸の史館(彰考館)で万葉方を勤めている小池|源太左衛門《げんたざえもん》と申す者は和学を好み、先年、日野一位|資枝《すけき》の門弟となって努力し、日野家でもその心情に感心し、 「口伝なども授けよう」  と言っていた。  ところが、一年余りも随身して大事な伝授もあると聞いていたが、修行の暇を願って上京し、文化三、四年(一八○六、七)の年であったろうか、水戸の感応寺の境内にあった雷《いかずち》神社へ和歌を奉納した。  源太左衛門の歌に、   雨雲をわけいかづちの神よそに ふりすてゝいま守りましてよ [#2字下げ、折り返して3字下げ](雨雲を分け、別雷神《わけいかずちのかみ》がよそに振り捨てて今守って下さることよ)  とあったのを、その歌で病人が平癒すると噂になり、和歌をもらいに来る者が群集したので、天地が紅の半切紙を細く切ってしたため遣わした。金八両ほども筆墨紙に費やしたという。  もとより礼銭・進物なども申し受けないので、隣の町人の方で売ることになったが、書くのも間に合わず、板刻《はんこく》にして遣わすと、近辺はいうまでもなく、奥羽や総野《そうや》(上総《かずさ》・下総《しもうさ》・上野《こうずけ》・下野《しもつけ》)の国からも取りに来た。  日によっては二千人くらいも遠近から来《き》集まり、礼参りといって雷神社へ参詣《さんけい》をし、賽銭《さいせん》や供物も多く集まり、その歌を板に刷って渡したものは利益があったということだ。 「こういうことは山師がたくらんだことだろう」  と言う者もいたが、その小池はいたって愚直な者で、このようなことがあるはずがない。  近隣で由緒のある水戸の医師|玄与《げんよ》から谷中《やなか》善光寺坂に住んでいた大内|意三《いぞう》という同職の方へ申し越してきた書き物があると、人が携えてきたのをここに記した。   いぼの呪《まじな》いの事  いぼの呪いはいろいろあるけれど、三日月に豆腐一丁を供えて、ていねいに祈ると、不思議にも治るという。その豆腐は川へ流して捨てることだ。間違えてその豆腐を食らう者には、いぼができるというのもまた奇妙だと、ある人が語った。   前兆奇怪の事  大久保(東京都新宿区)あたりに、大御番《おおごばん》組の同心石山|某《なにがし》の妻が、どうというわけもなく、深い井戸の中に落ちてしまった。山の手の井戸だからたいそう深く、引き上げたとしても命があるかどうかわからない。ともかく、あれこれして引き上げたが、怪我もしておらず、普段通りであったけれど、不思議なことは翌年のその月の日時も違《たが》えず頓死《とんし》してしまったということだ。   人魂《ひとだま》の起発を見た物語の事  日野与州(日野|伊予守資施《いよのかみすけもち》)が若いとき、家の家来が長いこと患って、とても全快するような体ではなかった。与州の身辺に仕え、親しく使っていた者だから、長屋へも訪ねたことがあった。ある時馬場へ出て、暮れ過ぎに他の家来を連れて、患っている家来のことなどを聞いて帰った。  その患っている家来の長屋の門口に、タバコの吸い殻よりは少し大きく、蝋燭《ろうそく》の芯《しん》を切ったというべき火が落ちているので、 「火の元がよろしくない。踏み消しなされ」  と言ったが、見ているうちにその火が、一、二尺ぐらいずつ上がったり下りたりして、ほどなく軒口ぐらいまで上がり、茶碗《ちやわん》ぐらいに大きくなった。なんとなく身の毛がよだつような気がして、家へたちもどったが、その夜、病気の家来は死んだと、与州が語った。   上杉家空き長屋の怪異の事  上杉家(米沢《よねざわ》十五万石)の下屋敷であったろうか、また上屋敷であったろうか、名前を聞いたが忘れてしまった。近頃のことだという。  参勤交替のおりであろうか、交替長屋も多く塞《ふさ》がっていたが、相応の役格の者があとから上ってきたところ、役格にふさわしい長屋がなかった。一軒だけ相応の空き長屋があったけれど、その長屋に住んだ者は、自滅したりあるいは身分の立ち難いことが起こるなどいろいろと異変があって役職を退くということで、誰も住んでいなかった。このことは、主人の耳にも入っているほどであった。  さて、某人は、いたって気丈夫な男であったから、その長屋に住むことを願った。主人もその意思にまかせていたが、まったく怪しいこともなかった。  ある夜、一人の翁《おきな》が出てきて、書見台で書物を見ている前に来て座った。それを、ちらっと見たけれど、いっこうに見向きもしないでいたのだが、翁は飛び掛かるようなしぐさをしたので取って押さえ、 「そのほう、何者なればここに来た」  と詰問をした。すると、 「私はこの場所に久しく住んでいる者だ。そなたがここにいるならば、そなたにとって悪いことになるだろう」  と語った。某人は大いにあざ笑い、 「拙者は、この長屋を主人から賜って住んでいるのだ。そのほうは誰の許しを得て住んでいるのだ」  と告げると、その返答に差し詰まったものか、 「まっぴらお許しあれ」  と言うので、 「これから心得違いをせぬように」  と、翁を押さえていた膝《ひざ》の力をゆるめると、かき消すように姿を消してしまった。  さて二、三日が過ぎて、屋敷の目付役なる者が二人連れで来た。 「主人の仰せを受けて来た。面会いたしたい」  と申すので、服装を改め、その席へ出た。その目付は、 「そなたのこと、これこれという不届きのことが殿のお耳に入り、厳重に(斬首《ざんしゆ》を)命じるところではあるが、そなたの考えで切腹するというのであれば勝手である」  と申し渡した。 「委細仰せ渡されましたこと、畏《かしこ》まり承りました。用意ができますまで、しばらくお待ちくださいますように」  と述べ、勝手に行って召し使いに申し付けて、近辺に住んでいる者を急いで呼び寄せ、こっそりとその目付役をのぞき見させた。みんなは、 「まったく見たことのない者だ」  と言う。 「そうであろう」  と、召し使いの者たちにも言い含め、棒などを持たせてひそかに立たせておき、そうして座敷に出て、 「仰せ渡されましたおもむき、畏まりまして切腹いたすべきところでありますが、よく考えましたら、まったくお尋ねのおもむきは身に覚えのないことでございます。委細をその筋へ申し立てましたうえ、それからどうともいたしましょう。また、私は国元からお出でになったあなた様を存じておりませぬ。お屋敷内のどちらに住んでおられるのでしょうか。何年勤められておりますのでしょうか」  などと尋ねた。すると、 「我らは主人の仰せられたことを持って申し渡しに来た者である。他のことに返答する必要はない」  と返事する。 「そうであろうと思って、この屋敷内の者を呼んでおいた。まったくの不審な者を許すまい」  と、刀に手をかけると、二人はうろたえて逃げ出した。それを抜き打ちに切ったところ、負傷しながら逃げ去った。供の者も中間《ちゆうげん》などが棒で叩《たた》いて倒したが、これもほうほうのていで逃げ去った。こののちはまったくその長屋に怪異事件はなかったという。   死なない運、奇談の事  文化五年(一八○八)辰《たつ》年の七月二十五日、戸塚《とつか》・保土《ほど》ヶ谷《や》・三浦・三崎に高波がひどく荒れて、数|艘《そう》が破船し、死人がおびただしく出た。虚実は知らないけれど、漁船百四十三艘、人もこれに準じ、三崎近所の二町町谷《ふたまちまちや》村というところで、漁師が一村で六十七人も死んだという。  江戸|四日市干肴《よつかいちひざかな》問屋|市兵衛《いちべえ》と申す者が、その難儀な風に遭《あ》い、不思議に助かったということを言う者がいたが、 「その市兵衛にそっとよくよく聞いてこい」  と、その方面の者へ申し付けておいた。  九月になってその市兵衛に聞いたということで、委細を語ったことをここに記した。  市兵衛は相州湯川村に商売物を仕入れに、その村の善《ぜん》右|衛門《えもん》が送った湯川に帰る船に乗って、船主善右衛門、水夫八十七《かこやそしち》・市郎《いちろう》右|衛門《えもん》・半左衛門《はんざえもん》・長七・幸左衛門《こうざえもん》のほかに名前を知らない長七の兄がいた由で合計八人が乗り組み、七月二十四日に出船し、その夜は浦賀御番所《うらがごばんしよ》の手前に停泊して、翌二十五日の朝は雨天のところ、四時より晴れたので海に乗り出した。  九時頃、平塚沖でにわかに雲の様子が悪くなり、風雨が激しく高波になり、帆を下ろそうとして、帆柱を取り落として押し流されたうえ、風が次第に強くなってきたので、船主・水夫が市兵衛に、 「この様子では命のほどがはかりがたく、善右衛門そのほか水夫たちは水泳も心得ているので、いかようにも助かることはできようが、そなたはその心得がない。なんとかして助けたい。船梁《ふなばり》に取りついてしのいだならば、万一助かることもあろう」  と言うので、単衣《ひとえ》を脱ぎ捨て帯で胴を強く締め、細引きで船梁に結いつけられていた。  非常に風が激しくなり、船に水が入り込み、少しでも重い物は投げ捨て、船頭や水夫は飛び込み、船具などを持って泳いでいた。  市兵衛は船梁にしがみつき、波にゆられているうち、高波でたいへん暗くなり、東西もわからない。恐ろしく思い、波が打ち込むときは水をかぶり、目をふさいで息を詰め、そのあいだに息をつく。およそ六、七度もそれを繰り返す。  身命まさに絶えようとしたが、南風に代わり、平塚宿岸の方へ次第に打ち寄せられたが、陸へおよそ一町余りもあるだろうか。海べりを立ち回り、人の姿も見えないので、足で下をさぐると浅くなっている。砂地で水は臍《へそ》のあたりまでなので、初めて生きた心地がして、梁に結びつけていた細引きを解いた。およそ一間ほども歩くと、陸を見つけ、助けに来た者が手を取り、引き上げてくれたので、岸に泳ぎ着いたのだという。  市兵衛が船に乗っているとき、艫《とも》の方が崩れようとした。その寸前に市兵衛は陸へ上がった。そのあとの波で船も微塵《みじん》になったという。しかも、最初、船に結びつけられたおり、懐中の金十二両二分、二朱判を財布に入れて投げ出し、それを、水夫たちが取り計らい、船の中に結びつけておいたのを、船具を取り上げたときにいっしょに取り上げ、その金子《きんす》も失わなかったのだという。  乗組員のうち、船主善右衛門、水夫の半左衛門・長七・幸左衛門は船具に取りついて泳ぎ、市兵衛より先に平塚に、八十七・市郎右衛門、名前は分からない長七の兄の合計三人は溺死《できし》し、八十七は死骸《しがい》が出てきたけれども、他の二人はわからなくなったという。この嵐はおよそ二時《ふたとき》ほどのうちのことであった。  もっとも市兵衛も上陸したのちに気を失い、あれこれと介抱されて、かねてより知っている須賀《すが》村(神奈川県平塚市)の平兵衛《へいべえ》と申す者より衣類などを借り受けた。それより支配役所の手代がまかり出て、吟味を受け、船中で祈念いたしたので、江戸表へ飛脚で委細を申し大山石尊へ参詣《さんけい》し、八月一日に陸路を帰ったという。  市兵衛は二十六歳で、両親は死に、兄弟六人がいたが、男子五人のうちの末子であった。妻も死に、独り身で召し使っている男三人がいたが、干肴問屋として相応に暮らしたという。   怪棒の事  芸州の家士の五太夫は、文化五年(一八○八)、八十三歳で江戸屋敷に勤番し、いたって健やかな者であるという。  五太夫が十五歳のとき、同家中に三左衛門《さんざえもん》という者がおり、この者が、 「この国の真定山には石川|悪四郎《あくしろう》という化け物が住んでいるという。高い山の難所であるから誰一人として見届けた者はいない。行って見届けないか」  と言った。 「昔から言い伝えられている悪所など、行っても仕方がない」  と断ったが、 「いや、何かあるに違いない」  と、三左衛門が勧める。五太夫は臆《おく》したと言われるのもくやしいので、いっしょに登っていった。真定山はひどい難所でやっとのことで山頂に至ったところ、遥《はる》か向こうから暴風が時々起こり、黒雲もひっきりなしに飛び行き、雨が降り、振動し、その恐ろしさは言葉で言い表わすこともできなかった。  三左衛門は、 「山頂まで来たのだから、帰ろう」  と言ったが、五太夫は、 「夜も更けたので、足場も危険だ。夜が明けてから帰ろう」  と言い、三左衛門と別れて、岩のはざまに一宿した。だが、いろいろな怪しいことがあって、夜中、なかなか眠ることができなかった。  翌朝、下山したが、五太夫は高熱が出て、意識があるかないかのような状態となって、しばらくのあいだ患ったという。  家に帰ってから、五太夫のもとには妖怪《ようかい》がはっきりと出ることがたびたびあった。あるときは鬼の姿をし、あるときは山伏の姿をするなど、さまざまな変化《へんげ》の妖怪が出て、その恐ろしさはたとえようもない。だが、強勇の五太夫は少しも恐れず、あるときはののしり、あるときは笑うなどしていたので、七日、八日経ってから妖怪が一人の僧に化けて出てきた。 「さてさて、そなたは強勇の人よ。このうえはわれらも真定山を立ち去ろう」  と告げた。五太夫は、 「当然のことだ。しかし、そなたと話し合ったことの証拠がなくてはどうであろう。何か証拠の品をいただきたい」  と望むと、しばらくのあいだ姿を隠していたが、外から何とも知れぬものを投げ込んだ。見ると、三尺余りもある、何の木で作ったものかわからないねじ棒であった。 「その棒は広島の慈光寺という寺に、その五太夫宅へたびたび出た化け物の姿を、巻物に書き添えて納めておいた」  と、その五太夫が語ったという。   鬼火の事  大御番《おおごばん》の在番のときに箱根宿に泊まった。夏のことであるから、同勤の面々は旅宿に寄って、酒などを飲んで涼んでいた。向こうの山から一つの火が丸く空中に上がったのを見つけ、 「あれは何であろう」  と人々が不思議に思っていると、二つに分かれて飛び回り、あるときは一つになり、またいくつにも分散する。みんなは面白がって見ていたが、やがてこのあたりに来るようなので、みんなは驚いて、 「何であろう」  と大声で話し合っていた。  旅宿の僧が座敷に出て、 「早くお入りなされ。あとになると害が出てくる」  と、ことのほか恐れ、早々に戸などを立てたので、みんなも何となく恐ろしくなって中へ入ったという。  天狗火《てんぐび》などというものであろうと、石川翁が語ったことである。   大井川最寄り古井怪の事  大井川最寄りの遠州に島村・潮《うしお》村という土地があった。その村境に、古い井戸があった。近き頃の事件であるという。  ある百姓に仕えていた下女が、あやまってその井戸へ落ちてしまった。それを助けようとして、一人の男が井戸へ下りて、女の髪の毛が見える水際まで行った。ところがこれまた気を失い、井戸の中に落ちてしまった。気丈な男がいて、 「ともあれ二人を助けよう」  と支度していた。 「こんな怪しい井戸の中に入ることがあろうか」  と、みんなが制止したのを聞き入れず、酒を飲んで準備し、腰に縄などをつけて下りていった。  井戸の中には、大小の蛙がおびただしくおり、難儀したものの、ようやく男女二人の身体に縄をつけ、自分も縄を力としてなんとか上がってきたが、女は息が絶えていて蘇生《そせい》することはなかった。男はさまざまな療養を加えたけれど、これもまた翌日死んでしまった。  その気丈な男もしばらく患ってしまい、種々の薬を服用したけれど、死んだということだ。そのあたりに出入りしていた御勘定衆がまのあたりに見聞きしたこととして語った。  古井戸には地気が籠《こも》ってこういうことがあるのだと聞いたが、そういうことなのであろうか。また、蛙がおびただしく棲《す》むということだから、ガマが人を取ろうとしたものであろうか。わからないことだ。   怪窓の事  中川家領分の豊州の城下、または城内のことであろうか、また、家中の長屋のことであろうか。祟《たた》りがあるといって、窓の部分を囲いにしておいた。文化九年(一八一二)七月の頃のことというが、修復したとき、作事方を勤めた役人が、 「その窓は無用だから、ふさいでおくのがよかろう」  ということを申した。それよりも目上の役人は、 「昔からあった窓で、怪異があるというので長年囲っておいたのだ。何にせよ城地のことであるから、(修復したりするのは幕府の許可もいることゆえ)江戸表の主人へも、その状況によっては公儀へも伺いを立てるべきことだ」  と返答した。すると、作事方の役人は、 「そのようにむずかしくお考えになるから、ことがなりがたいのです。普請《ふしん》の模様替えですから、貴殿と私が内々の相談をした考えで直してよろしいでしょう」  と申すので、頭《かしら》である人もその者の気持ちにまかせ、その窓をふさいでしまった。  その夜に怪しく小さいものだが、頭が大きく眼がものすごい怪物が現われ、作事奉行の頭やのどが食らいつかれ、その傷がもとでまもなく死んでしまった。そのことが江戸表に聞こえて、もとのように窓を取り付けたという。   妖談《ようだん》の事  文化六年(一八○九)の春、ある人が語ったことである。  このほど、奇怪なことがあった。中山道《なかせんどう》の桶川宿《おけがわしゆく》(埼玉県桶川市)という場所で、母子二人が家も貧しくなく普通に暮らしていた。  その息子は乱心というほどではなく、狐が憑《つ》いているというわけでもないが、うつつではないことがあった。それでひたすら、よい薬を飲むことに専心したところ、段々快方に向かい、もう普通の状態といえるようになったのだが、ときに正常ではないことが多かった。息子が、 「近所の稲荷《いなり》に参詣《さんけい》したい」  と言うので、近所や親類の者たちに頼んでやめさせようとした。だが、そんなに遠いところでもないので、その社へ相談したうえで、出してやった。  その後、 「浅草観音に参詣したい」  と願ったので、母一人の考えでも決められず、親類や組合の役人にも相談したところ、 「そこまでは出してやることはない。気がかりだ」  と、役人も納得せずに止めたのだが、四、五日して、ふいに出ていき、行方がわからなくなってしまった。 「きっと浅草観音へ参詣しようとして、江戸へ出たのであろう」  と思ったけれど、母はたいへん驚き、人を頼んで探したものの、行方はわからなかった。  四日目の明け方、門口の井戸へ何かが落ちる音がしたので、家の者が驚いて井戸の中を探してみた。見ると、中に落ちている者がいる。なんとか引き上げてみると、行方がわからなかった息子であった。まだ息があるので、介抱してみたが、その日の夕方に死んでしまった。  母の悲しみは言葉で表現できないほどで、しかたなく親類が集まり翌日、菩提所《ぼだいしよ》に葬って、みんなで嘆いていた。  四、五日が過ぎて、夜になり、表の門をたたく者がいる。戸を開けてみると、亡くなった息子であるので、非常に驚き、 「幽魂のたぐいであろう」  と母親さえも近くに寄らなかった。息子は極めて不審そうに、 「私はどうしても観音に参詣したくて出立し、どこどこに宿泊して、昨日、向こうを出発した。道中、どこどこに泊まって帰ってきた」  と言う。それで、息子の話したその先々へ人を遣わして聞いたところ、まったく間違いがなかった。 「それでは葬式をしたのは、心の迷いであったのだろう。墓を掘ってみよう」  ということで、菩提寺に断って掘ってみた。やはり葬ったのは息子の遺体に相違がなかった。 「このような奇事もあるのだろうか、帰ってきた息子はあるいは妖物《ばけもの》であるのだろうか」  と近くであれこれ尋ねて、様子をためしてみると、まったく息子に相違がない。ときおり正気でないことがあるのも、以前と変わることはなかった。今でも不審が晴れないと語っているという。  ただし、こういうことがあるはずがないから、その虚実を糺《ただ》してみたけれど、いまだ真実は不明である。   外山《とやま》屋敷怪談の事  尾州公(尾張《おわり》徳川家)の外山(東京都新宿区戸山)のお屋敷は、名だたる広大な土地で、五十三次の景色をはじめ、その他、山水の眺望のすばらしさは比類がないという。  いつの頃であったか、将軍がお成りになるということで、前々、奥向《おくむき》(将軍家の内部の諸事にたずさわる役人)よりその場所を見聞に来た。そのお屋敷の役人が案内したが、片山里と思われるところに一つの社があって、錠をかけていかにも古く、年代が経っているふうであった。  そのころ、頭取《とうどり》を勤めた夏目某《なつめなにがし》は気丈な性質で、 「この社はなぜに錠で封をしてあるのか」  と尋ねた。役人は、 「昔から邪神を封じ込めたという申し伝えがあるので、この錠を開けることはこれまでなかったのです」  と、笑って説明をした。夏目が、 「そんなことがあるはずがない。一度見てみたい」  と言うのを、役人は必死になって止めたが、 「改めようというのは、意味がないわけではない。将軍様がお成りになることで、我らが見聞に来た以上、あるいは将軍様が封錠のことをお尋ねにならないとも限らない。鍵《かぎ》をお渡しくだされ」  と受け取って、その錠を開けて扉を開いた。だが、夏目は激しい驚愕《きようがく》ぶりを示し、早々に扉を閉めて、もとのように錠をかけたという。  何があったのか尋ねたところ、 「なにか真っ黒なものが、頭をぐっと差し出した。眼の光はあたりを照らし、恐ろしいなんていうものではなかった」  と、その頭取が語ったという。  考えてみると、これは怪しいことではあるまい。おそらく、みだりに人の噂になっては悪いような品物を、先代が封じて社として崇めなさったもので、それを夏目は心得ていてこのようにわざと話したものであろう。 [#改ページ]   あとがき  奇談が文句なく好きである。『耳嚢《みみぶくろ》』(以下、『耳袋』と記す)の中では、とりわけ怪奇|譚《たん》が好きである。もっとも、編者の根岸鎮衛も奇談が好きな人であった。とはいえ、盲目的に幽霊の存在や怪奇現象を信じているわけではなく、不可思議な現象を案外理性的な視点で眺めていることに気づく。そのような姿勢がまた興味深いものがある。 『耳袋』・『百物語』という書名の付く本が目につく。木原浩勝・中山市朗の『新耳袋』がメディアファクトリーから刊行され、漫画『闇に棲む音—新耳袋より—』(佐伯かよの他)もメディアファクトリーから出されている。このたび、木原浩勝・中山市朗の『新耳袋』は角川文庫として刊行された。ここには、こと細かに紹介することは控えるが、昔から『百物語』に因《ちな》んだ書物も相当数出されている。日本人は奇談や怪奇話を好む性質を有しているのであろう。そうして、本書も『耳袋』の〈怪奇〉に視点を置いた書物なのである。  平安時代、往生伝という奇妙な書物が編纂《へんさん》された。それは、極楽世界へ往くことができた人の事跡を記した、現在ではとうてい考えられない内容の本である。逆に、当時は極楽世界へ往くことなど、あり得るはずのないことと考えられていたから、極楽往生を遂げた人が出現したら、これはみんなに語るに足る大事件であったらしい。往生伝に収載された人物の多くは編者と同時代の人たちが多く、いわば〈近代往生人〉の世界を形成していたといえる。 『耳袋』も、同様に編者とほぼ同時代の内容の話が多く、収集した話は〈近代奇談〉の世界に視点を置いている。編者が直接聞いた話が相当数見受けられることから、どうしても近代奇談の世界を形成することになるのだが、昔の話ではなく、編者と同時代の奇談という点に興味をそそられるのである。  作家の夢枕獏氏が本書の解説を担当して下さった。私も、『陰陽師』をはじめとする、氏の熱狂的な愛読者のひとりであることから、なによりも嬉《うれ》しいことであった。心から謝意を表したい。そして、本書を刊行するにあたり、角川書店書籍事業部の松原太郎氏には種々お世話になった。氏は、角川ソフィア文庫『鬼人 役行者小角』を担当して下さった人で、前著『陰陽師 安倍晴明』(角川ソフィア文庫)についてもさまざまな御高配を賜《たまわ》った。衷心より御礼申し上げたい。  二○○二年五月 [#地付き]志 村 有 弘  角川ソフィア文庫『耳袋の怪』平成14年7月25日初版発行