工藤美代子 工藤写真館の昭和 目 次  ㈵  ㈼  ㈽  ㈿  文庫版あとがき [#改ページ]     ㈵   知らん顔して昭和が始まった  もう晩年になってから、工藤哲朗は摂政宮|裕仁《ひろひと》殿下を撮影した時のことを、繰り返し子供たちに話してきかせた。  それは、大正十五年七月十七日のことで、当時、哲朗は千葉県下志津にある陸軍航空隊の写真技師だった。摂政宮の行啓にあたり、哲朗が選ばれて撮影を仰せ付かったのである。もちろん、写真師としては非常な名誉であった。  哲朗は写真を撮るのも好きだが、撮られるのも大好きな人間だった。だから、彼の死後に残されたファミリー・アルバムには、自己のポートレートが、かなりの枚数含まれている。この時も、摂政宮の写真の貼ってある次のページには、白の背広を着た自分の写真が貼ってあった。  これは、摂政宮を撮影するにあたり、白の背広に白靴を着用のことという指令が、上部からあったためだという。だが、一介の写真技師に白ずくめの衣装の用意などなかった。普通の人なら貸衣装を借りてすますところなのだが、哲朗は一メートル五〇センチに満たない小男だった。そんな小さいサイズの貸衣装はないので、わざわざ新調しなければならず、月給取りの身には大変な物入りだった。  いざ撮影する段になって、どれほど苦労したかも、哲朗が好んで家族に聞かせた思い出話の一つだった。  なにしろ、写真を撮るのに摂政宮のお顔を見てはいけないという。顔を見ないで、どうやって撮影できるのか……。リハーサルは何度も入念に行われた。摂政宮が歩かれるコースは決まっている。いつ撮影するかも決まっている。ただし、お顔を見てはいけないのだから、カメラをかかえ、下を向いて、あらかじめ測ってある歩数だけ前進してから立ち止まる。パッと摂政宮の立っている方角にカメラを向け、いそいでシャッターを切ると、また下を向き、そのまま後ずさりして、もとの地点にもどった。  暑い盛りのことでもあり、哲朗は緊張の余り汗みずくになった。もちろん、写真の出来は良いはずがなかった。しかし、撮り直しは絶対にきかない被写体なのだから、写っているだけでも有り難いと思わなければならない。  それにしても、不自然な構図であり、摂政宮の眼鏡には日光が反射して、お顔もよく見えない。だが、極端なことを言えば、哲朗にとって、写真の出来はどうでも良かったろう。ああした条件の下では、誰が撮ってもたいした変わりはなかったはずだ。むしろ、庶民がお顔も正視できない人を撮影した名誉の方が、ずっしりと重たかった。  哲朗が緊張でコチコチになって、いかにもコチコチらしい写真を撮ってから、わずか五ヵ月余りで、大正天皇は崩御され、摂政宮は天皇になった。  ほんの七日間ばかりの昭和元年が終わると、翌年はもう、ずっと前から昭和だったといわんばかりに、カレンダーにも新聞にも、くっきりと昭和二年の文字が刻まれていた。大正は終わり、知らん顔をして昭和が始まったのである。  この時、工藤哲朗は三十七歳だった。難しい年齢にさしかかっていた。どうやら、浮き立つような思いで、新しい時代を迎えたわけではなさそうだった。  大正七年十一月に哲朗は、浅草生まれで九歳年下のやすと結婚している。長男|生一《せいいち》(大正八年生)、長女初枝(大正十一年生)、次男弘(大正十四年生)と、すでに三人の子持ちだった。  所沢陸軍気球隊(後の航空隊)に勤め始めて十年が過ぎている。写真班の技師として、月給百十円は、雇員ながらも大尉級だった。じゅうぶんに妻子を養うことはできた。だが、生涯、陸軍の写真技師で終わって良いものかどうか……。そろそろ結論を出す時期は迫っていた。  実は大正十三年の二月に、哲朗はサイドビジネスに手を出して、失敗している。江戸川区小松川に、南部屋《なんぶや》という酒屋を開いたのである。自分が青森県南部地方の出身だったので、それを屋号にした。酒屋を営む知人がいて、良い商売だからぜひやるようにと勧められた。哲朗は陸軍に勤めたままで、妻のやすに店番をさせるつもりで開店したのだった。  やはり後年になってから、哲朗は失敗した理由を息子たちに話して聞かせている。  当時の酒屋というのは、店先で量り売りをしていた。その場で立ったまま飲む人もいれば、容器を持参して、一合、二合と小売りしてもらう客もいた。今考えれば、ずいぶんとつましい話だが、すべての人が一升ビンを買えたわけではなかったのである。  酒屋が儲《もう》けるのは、この量り売りからだったという。つまり、樽の中の酒を適当にブレンドする。高い酒の中に何十パーセントか、安い酒を混合したとしても、それに気がつく客は少なかったし、気がついたとしても客の方も、ある程度承知で買っていた。  このちょっとした|コツ《ヽヽ》を、哲朗の知人の酒屋は、教えてくれなかった。馬鹿正直に、ブレンドしない酒を売っていた哲朗は、たちまち商売がゆきづまり、半年ほどで閉店した。  これは哲朗にとって苦い経験だった。写真の技術に関しては、哲朗もある程度の自負は持っていた。十七歳の時、写真館に住み込みで修業を始めて、二十年である。摂政宮だった裕仁天皇を撮影する写真師に選ばれたのは、彼のキャリアが一つの頂点に達したことを示している。  だが、商売となると話は別だった。まずは試しにと始めた酒屋が失敗に終わった上、昭和になってから、日本は深刻な金融恐慌に襲われている。芥川龍之介が、ただぼんやりした不安で自殺したように、銀行や大商店とは、深い縁のない哲朗でさえも、世相の暗さは感じていた。不景気になれば、まず削られるのは軍事予算であり、哲朗のような写真技師が、兵隊さんより先にカットされるのは、ほぼ確かだった。  身の処し方を、あれこれ考えている哲朗には、もう一つ頭を悩ませていることがあった。それは、突然の実母の出現である。  千葉の四街道の家に、ある日、青森から母親が訪ねて来た時は、哲朗も仰天したが、妻のやすはもっと驚いた。見合いで結婚する時の仲人の口上では、哲朗に親兄弟はなく、天涯孤独のはずだったのである。係累などいない方が、いっそ気楽でよいだろうと思って、やすは哲朗と一緒になった。  ところが、突如として凄《すさ》まじい母親が、玄関先に忽然《こうぜん》と現れたのである。  もともと哲朗は、この母親の顔もよく覚えていない。哲朗が三歳の時、母親は家を出てしまった。それからは父親が男手一つで哲朗を育ててくれた。その父親も哲朗が十四歳の時に亡くなり、それが、哲朗の故郷を捨てるきっかけとなった。  哲朗の父親と母親の結婚は、後から考えるとずいぶんとユーモラスな経緯があった。  哲朗の母、|とき《ヽヽ》は、若い頃から近在でも有名な気の強い女性だった。哲朗の父、与三郎と結婚する前に、何度か他家に嫁にいったのだが、いつも派手な喧嘩をしてはおん出てしまう。その|とき《ヽヽ》と、そっくりの気性だったのが、与三郎で、やはり何度か婿入りをしてみたものの、いつも婿入り先の人々と喧嘩をしては、実家に戻ってきた。  ある日、村の古老が、はたと気づいたように、あの気性がそっくりで、何度も出たり入ったりしている二人を結婚させたら、もしかして今度こそ腰が落ち着くのではないかと言い出した。とにかく、|とき《ヽヽ》の勝ち気さはハンパではないので、普通の男性ではとても御せないというのが、親戚縁者の意見だった。  だが、これもよく考えてみると無茶な話である。自己主張の強い者が二人で暮らすのは、片方が普通の人間であるよりもっと難しいだろう。それでも、|とき《ヽヽ》は哲朗を産んで、三歳くらいになるまでは与三郎のところにいたのだから、結婚生活は四、五年は続いたのだろうか。  両親が、別れる原因がなんであったのか、哲朗も詳しいことは知らなかった。物心ついた時には、もう母親はいなかった。ただ、成人してから聞かされた|とき《ヽヽ》の武勇談は強烈である。夫の与三郎が、たまに料亭で芸者をあげて遊ぶことがある。それが|とき《ヽヽ》にはどうしても気に入らない。悔しいとなったら無性に悔しくなり、与三郎の実家の米蔵を開けさせ、米を全部売り払ってしまうと、その金を握って、自分も夫が遊んでいる料亭に乗り込み、隣の部屋で、もっとたくさんの芸者を呼んで、どんちゃん騒ぎを始めたという。  まさに明治初期にしては、稀に見るコンペティティヴ——競争心の強い女性であった。  工藤家を飛び出した|とき《ヽヽ》は、間もなく他の村の男性に嫁ぎ、さすがにそこでは落ち着いて暮らしているらしいという風の便りを聞くぐらいで、何十年も哲朗と|とき《ヽヽ》は音信不通だった。父の与三郎と二人で、肩を寄せ合うようにして幼少期を過ごした哲朗にとっては、母親は初めから死んだ人に等しかったといえる。  憎しみもないかわりに、関心もなかった母親が、まるで降って湧いたように、中年を迎えた哲朗の眼前に現れたのは、息子が東京で、写真師として成功しているという噂を、郷里の青森で聞いたためだった。  平然と哲朗の家に上がると、|とき《ヽヽ》はコップ酒を所望してグイと一気にあおり、相変わらずの傍若無人ぶりである。おとなしい哲朗の妻、やすは、ただ途方に暮れた目で夫を見る。  幸いなことに、|とき《ヽヽ》はそれほど長逗留をせずに帰って行ったが、この時以来、たびたび前触れもなく上京するようになり、そのたびに滞在期間は長くなっていった。ほとんど他人に近い感じしかない実母の急襲に、哲朗は頭を悩ませる毎日だったのである。   工藤家に三男・明が生まれた   天上の旅客、旅客   星夜は真近し、街のごとし。   世界の建築、未来の人文   目ざまし、あかるし、楽し、楽し。   航路は輝く、空は涯無し。  昭和四年一月一日付の『朝日新聞』に載った、北原白秋作『空中行進曲』の一節である。  この年の七月、日本はようやく東京—大阪—福岡間の定期旅客輸送を開始した。初めて徳川大尉が空を飛んでから十八年が過ぎている。哲朗が陸軍航空隊に入ってからでさえ、十年が流れた。航空技術はめざましい進歩をとげ、日本の詩人が、年頭にあたり「天上の旅客、旅客」と、いささか興奮気味に謳《うた》ったのも、確実に空の時代の到来を予感してのことであった。  だが、皮肉なことに、あれだけ飛行機が好きだった哲朗は、この正月に限っては、とても、「目ざまし、あかるし、楽し、楽し」などと呑気に謳っていられるような心境ではなかった。十五年間勤め上げた陸軍航空隊をクビになり、いよいよ東京の本所に、写真館を開業したからである。  クビになった理由は、別に哲朗に落ち度があったためではない。軍縮の影響で、月給百円以上の技師は人員整理された。いくら腕の良い写真師でも、そして航空写真の技術をマスターしたパイオニアであっても、一国の軍事予算の前には、秋の枯れ葉ほどの重さもなく、さっと一吹きの風ではじき飛ばされた。  そして、吹き飛ばされた先が、本所区東両国二丁目、国技館のすぐ近くのせまい横丁であった。  なぜ、こんな場所を選んだのか……。なんといっても、わかりやすいことが、その理由だった。「お店はどこですか?」と問われて「はい、国技館の脇でございます」と答えれば、たいがいの人は捜しあてて来てくれる。なにしろ目印に巨大な国技館が控えているのだ。  戦前の国技館は、現在の国技館のある場所と、駅をへだててちょうど反対側にあった。その横にはずらりと相撲茶屋が並んでいた。その相撲茶屋のある通りの次の路地に工藤写真館は開店した。昭和四年一月一日のことである。  当然ながら、まわりは相撲部屋だらけだった。といっても、ほとんどが小部屋で、土俵などはなかった。今では、相撲部屋に土俵があるのは常識になっているが、当時は小部屋の力士たちは大部屋に通って稽古をさせてもらったものだという。  だから、親方と弟子が寝泊まりするだけのちまちまと小さな相撲部屋や、寿司屋、和菓子屋などにはさまれて、工藤写真館のモダンな建物が建てられたのである。  モダンではあるが、その建物のほとんどの空間は、いわば営業用に使われ、家族のための部屋は階下の八畳一間だけだった。その意味では、下町の長屋と何ら変わりない生活様式である。  まず、一階は、客用の洋間の応接室や暗室、修整室などに半分以上のスペースを取られ、残りが居間と台所だった。風呂場でさえも、流し場は写真の水洗いをするように作られていた。二階は、全部スタジオ——当時は写場と呼ばれていた。写場は広ければ広いほど良いわけだから、目いっぱいに二十畳以上の広さに取ってあった。  写真館が建つ前は小さな貸家が二軒あった。それをつぶして建てたので、昭和初期にしては大きな建物である。だが、家族が寝るのも食事をするのも、すべて生活に使えるのは階下の八畳だけだった。  開店して間もなくの一月十八日、工藤家に三男が生まれた。この三男は弘の生まれ変わりだと、哲朗の妻、やすは信じていた。前年の昭和三年十月二十八日、次男の弘が猩紅熱《しようこうねつ》で死亡した。医者の見立て違いで、手当てが遅れたためである。それから三ヵ月足らずで弘によく似た顔の男の子がこの世に生を享《う》けた。どう考えても、弘の生まれ変わりだと、やすが信じるのも無理はなかった。  子を亡くすのも得るのも、女のやすにとっては一大事だが、哲朗にはもっと考えなければならないことが、たくさんあった。  数え年で四十歳の哲朗は、営業写真館が、自分の一番最後の定職であると知っていた。写真館は設備に金がかかる。カメラも買わねばならず、ライトや修整道具も必要だ。開店に使った費用は二千円だった。二千円のもとを取るのに何年かかることか。  哲朗の形相は凄まじかったと、当時六歳だった長女の初枝は記憶している。ちんどん屋をやとい、ビラをまき、近所に挨拶をして歩いた。  ただ国技館に近いというだけの理由で開店したのだが、両国の土地に特別のコネがあったわけではなかった。ぼんやりと店を開けて待つだけでは客は飛び込んで来ない。哲朗は積極的に近所に売り込みを開始した。  やすは、生まれたばかりの三男に乳を含ませながら、ひどく心細い思いでいた。哲朗が、いつまでたっても三男の名前を考えてくれないのである。名前をつけてもらえない赤ん坊は、いかにも不憫《ふびん》だが、哲朗の方は開店したばかりの写真館に夢中で、それどころではなかった。  すぐ向かいの富士ケ根部屋の親方の奥さんに、相撲茶屋をやっている姉さんがいた。その姉さんが哲朗を気に入って、なにくれと世話を焼き、近所の人たちを紹介してくれる。大金《だいきん》という隅田川沿いにある大きな料理屋の主人も、小ノケ崎という幕内力士あがりなのだが、哲朗の気っぷを見込んで、相撲協会の専属写真師に推薦してくれた。  相撲協会の専属になれれば、力士の昇進時の写真や、その他、協会の行事がある時に撮らせてもらえる。個人よりは、そうした団体のお得意さんが確保できれば、経営はずっと楽になる。だが、そのためには良い仕事を素早くこなして信用を得なければならない。  実際、哲朗は仕事が早かった。客の心理を一歩先に読んで、希望の写真を撮る。 「あそこは夫婦の生まれが反対みたいだね」と近所の人たちは笑った。哲朗は東北の生まれにもかかわらず鈍重さがなく、まるで下町育ちのように機敏だった。  やすは、浅草の生まれのくせに、のんびりとおとなしかった。夫が赤ん坊の名前をつけてくれなければ、いつまでも泣きそうな顔で待っている。哲朗の命令はなんでもきいたが、キビキビと先に立って働くことはなかった。  いくらなんでも赤ん坊がかわいそうだと、やすの姉のみつが三男を明と命名してくれたのは、もうとっくにお七夜も過ぎて、二、三週間もした頃だったという。  そして、妻と三人の子供が八畳一間にひしめくように暮らす中、哲朗は二階の広い写場に客を立たせ、アンソニー・カメラのシャッターを切っていたのだった。   義兄の危篤の報に愕然《がくぜん》とした  国技館の近くに引っ越して来たのが、良かったものかどうか、哲朗は考え込んでいた。  東京はおろか日本中で、国技館の脇と言えば、誰でも容易に探しあてて来られる。それを利点にしようと引っ越したのだが、まだ、ようやく三男の明の名前が決まったばかりの、てんやわんやの中で、とんでもないシロモノが飛び込んで来たのである。  それは、またしても実母の|とき《ヽヽ》だった。洒落たショーウインドウをつけ、客用の玄関は、家族の出入りする勝手口とは分けて、無理をして間口を広く取った。その玄関に、自分によく似た四角い長い顔の|とき《ヽヽ》が、傲然《ごうぜん》と立っている。ひょいと後ろを見ると、タクシーの運転手が、腰をかがめていた。  上野駅から、タクシーで乗りつけたのかと、すぐに察した哲朗は、運転手に料金を尋ねると、聞かれもしないのに運転手は|とき《ヽヽ》をここまで連れて来た経緯を話し始めた。  寝台車で、青森から上野駅に着くと、まず、|とき《ヽヽ》はお巡りさんを探した。そして、哲朗が郷里の人たちに出した新規開店の案内状を見せ、自分の息子はここに住んでいる、国技館のすぐ近くだから、連れて行けと、さも当然のごとく命令した。  この時、|とき《ヽヽ》はもう七十歳近かった。そんな老婆を怒鳴るわけにもゆかず、もてあました巡査は、ともかく、|とき《ヽヽ》をタクシーに乗せた。  もう少し、わかりにくい場所なら、タクシーの運転手も断ったところだが、国技館の脇といえば、相撲茶屋の次の通りしかない。迷うことなく|とき《ヽヽ》を工藤写真館に送り届けた。それにしても、すごい婆さんだと、運転手は同情したように哲朗の顔を見て言ったという。  お巡りさんにもタクシーの運転手にも、|とき《ヽヽ》は哲朗のことを「おらが倅《せがれ》」と自慢げに言う。東京の真ん中で写真館を開いたのは、東北の片田舎にいる母親からみれば、大変な出世である。いっときも早く、写真館を見たかったのだろう。まるで東京中の人が、息子の名声を知っているはずだと言わんばかりの|とき《ヽヽ》の威張った態度は、自分をしがない下町の写真師だと思っている哲朗には、身がすくむような恥ずかしさだった。  この時、ふと哲朗は、まだ物心ついたばかりの幼児の頃、郷里の五戸で母親に連れられて銭湯に行き、いつも母親がホロ酔い機嫌で湯船の中で、大きな声で歌を唄うのを、子供心にたまらなく恥ずかしく感じた日々を思い出していた。銭湯中の人が、あきれて|とき《ヽヽ》の顔を見ても、|とき《ヽヽ》は一向に意に介さず、良い気持ちで唄い続けていた。 「国技館の脇の工藤写真館って言えば、誰でもわかるもの。お義母さんだって来られますよ」  すっかり苦り切っている哲朗に、やすもため息まじりに言う。日本中で国技館を知らない人はいないだろうと思って開店したのは良いが、本当に東北のはてからでも、探しあてて来てしまったのである。  |とき《ヽヽ》は朝からコップ酒で、ずっと前から下町に住みついているかのように、悠然と居間に座っている。こんな時、気性の激しい嫁ならば一戦始まるところだが、やすは、強度の近眼でぼんやりとうるんだ大きな目をあけて、時折、困ったように哲朗の顔を見るだけで、文句も言わずに|とき《ヽヽ》の世話をしてくれていた。  せっかく出て来たものを、すぐに追い返すわけにもいかないと、|とき《ヽヽ》の逗留にも慣れかけた頃、哲朗にとっては、それこそ青天の霹靂《へきれき》のような事件が起きた。  やすの姉にあたるみつの主人がチフスで後いくばくかの生命だという。  みつの主人である黒岩辰彦は、三菱商事の経理課長を務めていた。つい最近、大連から帰ったばかりだった。みつはやすとは正反対に派手好きで色っぽい女性だった。お洒落で浪費家のみつに、黒岩辰彦はじゅうぶんな資力で、贅沢三昧をさせていた。  実は、その黒岩から哲朗は写真館の開業資金を借りていたのである。現代なら、銀行からローンでというところだが、昭和の初期は、まだまだ庶民は個人的な金の貸し借りにたよる時代だった。その上、昭和二年の金融恐慌で小さな銀行はバタバタと倒産し、哲朗のみならず一般の人たちの銀行不信は強かったのである。  親戚中でも最も羽振りの良い黒岩が、ポンと気前良く二千円を用立ててくれた。サラリーマンの初任給が五、六十円だった時代の二千円である。  月賦にして返す心づもりだった哲朗は、黒岩辰彦危篤の報に愕然《がくぜん》とした。黒岩が死んでも、未亡人のみつに金を返してゆけば、それですむことかもしれない。だが、男として哲朗は死んでゆく黒岩の心情が手に取るようにわかるのだった。  みつは金の勘定などできる女ではない。もしも哲朗がごまかそうと考えたら、みつには、きちんと毎月、金を取り立てるだけの才覚はなかった。ただなんとなく、あるだけの金を使って、ふわふわと暮らしてゆくだろう。貸した本人の黒岩が死んでしまえば、いつの間にか借金はうやむやになる可能性がじゅうぶんあった。  死んでゆく黒岩を、なんとか安心させたいと哲朗は考えた。それがせめて、二千円もの金を貸してくれた黒岩の恩義に報いる道だった。  二日間、哲朗は家を留守にして、もどって来なかった。どこへ行ったのか妻のやすさえも知らなかった。しかし、その二日の間に、どこでどう工面したのか、哲朗は二千円の現金をつくって来たのだった。金の出所を、哲朗は死ぬまで誰にも話さなかったので、今でも二千円は謎の金である。ただし、哲朗がかなりの高利で、その金を調達したらしいのは、これ以後、工藤家の経済の逼迫《ひつぱく》が長く続いたことからも想像できる。  ともあれ、哲朗は、ようやく工面した二千円を持って、黒岩辰彦の病床にかけつけた。 「義兄さん、借りた金は、返したからね。確かに返したからね」  と言いながら、みつの手に二千円を握らせた。もう、ほとんど重体で意識も薄れていた黒岩には、どこまで哲朗の言葉が理解できたかは疑問だった。それでも、しきりにうなずく黒岩に、哲朗はほっと重荷をおろしたような気持ちだった。 「あれで、義兄さんに安心して死んでいってもらえたんだ」と、後から哲朗は思い出しては語っていたという。  ようやく写真館を開店したものの、哲朗はまだ舗装もされない悪路を、よろめきながら歩いているような心境だった。八畳の居間には、すっかり長逗留を決め込んだ母親が、でんと鎮座している。だが不思議なことに、哲朗は自分にそっくりの風貌と気性の、この暴れ馬のような母親に、かすかな愛情を覚え始めていたのである。   初枝の気性の激しさは|とき《ヽヽ》ゆずりだった 「先祖代々デベソの伝わりか……」  哲朗は、妻のやすの言葉を思い出して、ふっと笑う。  江戸っ子のやすが言うのだから、江戸の言葉なのかもしれない。先祖がデベソなら、その子孫もデベソに生まれるという意味から転じて、先祖の性格や体形が、そのまま子孫に遺伝するという時に、やすが好んで使う言いまわしだった。  母親の|とき《ヽヽ》の顔を思い浮かべ、それから娘の初枝の顔を思い浮かべたら、自然に哲朗の口から、デベソの伝わり……という言葉が衝《つ》いて出てきたのだった。  |とき《ヽヽ》と初枝の顔は似ていなかった。特に鼻の形が違う。哲朗は鼻筋がすっと通っているのが、内心は自慢でもあったのだが、これは明らかに|とき《ヽヽ》譲りだった。しかし、初枝は哲朗の鼻ではなくて、やすの丸いちんまりした鼻を受けついで、全体的にもまん丸い顔だった。  ほとんど血の繋がりなど感じさせないほど|とき《ヽヽ》と初枝は外観は似ていないのだが、その気性は、哲朗が思わず噴き出してしまうほどよく似ていた。  隣家の和菓子屋の主人が、ある日、市電に乗っている|とき《ヽヽ》の姿を見かけた話をしてくれたことがある。  たまたま、同じ市電に乗り合わせたのだが、最初は|とき《ヽヽ》が乗っていることに気がつかなかった。ところが、そのうち車両の後ろの方で、大声で車掌に何かわめいている婆さんがいる。どこかで聞いた声だと思ってふり返って見ると、工藤写真館の婆さんだったと言う。  |とき《ヽヽ》は車掌に食ってかかっていたのだ。自分は七銭払ってこの市電に乗った。そこの座席に座っている人たちも、やっぱり七銭しか払っていない。それなのに、あの人たちは座っていて、私は立っていなきゃならない。不公平じゃないか。どうして同じ七銭なのか……と、すごい見幕で車掌に文句をつけている。  不公平だと言われても、車掌には返事のしようがなかった。 「おらの倅《せがれ》はな、日本で一番偉い写真師で、工藤写真館を国技館のところでやっている」  最後に|とき《ヽヽ》は、歌舞伎役者が舞台で見得を切るように、哲朗の写真館の名前を持ち出して、得意そうに市電の中の乗客を見まわしてから、電車を降りたという。  和菓子屋の主人から、その一部始終を聞いて、やすは身が縮むような思いだった。女は出すぎないのが一番と信じているやすは、夫に口答えしたこともないし、まして他人様と喧嘩するなど、もっての外《ほか》だった。新しく引っ越して来た両国の土地で、ご近所さんとも仲良く付き合ってゆきたいと、気を配りすぎるほどにしていた。  吹けば飛ぶよなちっぽけな写真館を|とき《ヽヽ》は日本一だと東京中の人に言って歩いているのかと思うと、気の小さいやすは、恥ずかしさで言葉も出なかった。  以前だったら、哲朗も、そんな|とき《ヽヽ》に、「お母さん、いくらなんでも気をつけて下さいよ」などと、小言の一つも言うところなのだが、最近は少し考えが変わってきていた。  確かに、七銭の金を同じように払って、座席に座れる人と座れない人といるのは不公平だ。不公平だと思ったら、食ってかかればいい。いくら食ってかかっても、やはり座れないのが、世の中なのだ。七十年も生きてきて、それでもまだ不公平に腹を立てる母親のような人間が、この東京に一人くらいいてもいいではないかと思い始めたのだ。  東京は、地方の貧しい農村漁村の次男、三男が、分けてもらえる土地も財産もなく、こぼれ落ち流れ落ちて、吹き寄せられてでき上がったような町だった。徒手空拳で故郷を出てから、東京で根を張るまでの間に、男たちはいつしか不公平に真っ向から怒ることを忘れてしまう。  それに、|とき《ヽヽ》が哲朗を日本一の写真師だと思っているのなら、そう信じてくれる人間がやっぱり一人くらいいてもいいと、哲朗は東京には星の数ほど写真師もいて、写真館もあるのを知っているだけに、かえって微笑ましい気がした。 「お義母さんは、もう仕方がないけれど、初枝の方は、どうにかなりませんかね」  やすは、哲朗に真剣な顔で問いかける。  長男の生一は、おだやかな性格で、親の言いつけもよく守った。ところが、長女の初枝は、めっぽう気が強くて、やすが叱ったくらいではケロリとしている。  生一は人が好いところがあって、やや、ぐずなので、よく近所の餓鬼大将にいじめられる。泣き泣き帰ってくる生一に、「お兄ちゃん、誰がやったの? 誰がやった?」と小学校一年生の初枝は三歳年上の兄の身体をゆすぶるようにして聞く。生一が自分をいじめた子供の名前を言うと、初枝は木戸に立てかけてある棒をむんずとつかんで、まだ子供たちが遊んでいる近所の回向院《えこういん》の境内に突進する。  この辺の子供たちの遊び場は、たいがいは回向院の境内だったのだ。髪の毛が真っ黒で、むっくりとした頭を振り立てながら、棒切れを握って駆け出してゆく初枝の後ろ姿を見ると、やすは思わず、ため息が出てしまう。  自分の身体の倍もありそうな餓鬼大将を、初枝は、いつもさんざんにぶん殴って、兄の仇を取って帰って来るのだ。  どうして、あんなに気が強くて喧嘩早いのかと、やすには不思議だった。だが、それも初枝が女の子だと思うからこそ不思議なのであって、哲朗や|とき《ヽヽ》を見ていれば、その血が初枝に流れていて、気性が激しいのも当然のことだった。  四十歳になって、ようやく哲朗も少しは円く、おだやかになったが、結婚当初は、味噌汁の味が気に入らないといっては、卓袱台《ちやぶだい》をひっくり返し、やすは何度泣かされたかしれなかった。  哲朗は短気で怒りっぽかった。俗にいう癇癪《かんしやく》持ちである。生まれたばかりの明の初節句に、五月人形を買いたいとやすが言うと、哲朗は、生一の時のがあるから、それを飾ればいいと取りあわなかった。その時、やすがあきらめればよかったのだが、珍しく、しつこく買ってくれと言い募った。すると哲朗は、突然烈火の如く怒り出し、「だいたい、こんなものがあるからいけない」と、生一の五月人形を庭先にほうり出し、それでもまだ悔しいと、足で踏んづけて粉々にしてしまった。  |とき《ヽヽ》といい、哲朗といい、初枝といい、なんと気性が激しいことだろう。やっぱりデベソの伝わりだと、やすはその血筋にあきれはてる。  しかし、長男の生一は、やすのデベソに似て、やさしくおだやかだった。哲朗に怒鳴られて、やすが台所で泣いていると、生一はいつまでも小さな手でやすの背中をさすってくれたりするのだった。   回向院と国技館で子供たちは遊んだ  両国の回向院は、江戸時代に有名な振袖火事があった時、たくさんの無縁仏が出たのを祀るために建てられた寺だという。  近所の子供たちは、無縁寺《むえんじ》回向院と呼んでいた。工藤家の子供たちも、遊び場はもっぱら回向院の境内である。ごちゃごちゃと軒先がくっつくように小さな家が建てこんでいる下町では、子供が遊びまわれる庭のある家などなかった。道路でさえも、ようやく車が二台すれ違えるほどの広さだ。自分の家から五、六軒先に、広いお寺の境内があるのは、恵まれている方だと言わねばならない。  もともとが無縁仏を祀るために建てられた寺だから、その墓地には不思議な人たちのお墓があった。大黒屋光太夫や、初代義太夫、それに何故だか、ねずみ小憎次郎吉の墓がある。共通しているのは、実在だったかも知れないが、どこかその生涯が曖昧模糊《あいまいもこ》とした感じのする人たちの墓ばかりということだった。  子供たちの遊びは、石けり、縄跳び、鬼ごっこと昔ながらの他愛のない遊びだが、なんといっても隠れん坊が、人気ゲームのトップだった。  境内は広くて木や墓がたくさんあるし、本堂に上がれば、それこそ隠れる場所は無数にある。  初枝は女の子だが、ままごと、人形遊び、折り紙など、まどろっこしい遊びは大嫌いだった。いつも、兄の生一と一緒に男の子に交じって、回向院の境内をすっ飛んで歩いた。隠れん坊は得意中の得意だが、時には大失敗をすることもある。  夏の暑い盛りの頃、絶対に見つからない隠れ場所はないものかと幼い頭で考えた末、寺の本堂に入り込み、阿弥陀様の後ろにまわった。すると、そこに小さな押し入れ戸棚がある。夢中で扉をあけ、息をひそめてその中に隠れた。ここなら、誰も気がつかないだろうと、ほっと安心して、なに気なく後ろをふり返ると、うす暗闇の中に真っ白い陶器の骨壺が、無数に積み上げられてぼうっと浮かんでいる。その中に、まだ埋葬されていない人骨が入っているのは、いくら子供でも察しがついた。「ひえーっ」と声にならない声を上げ、ぶるぶるふるえながら、押し入れから飛び出したという。なるほど、無縁寺なら無縁仏の骨をたくさん預かっていても無理はないと初枝が気づくのは、十年も後に女学生になってからだった。  年末になると、なにやら人相の悪い男たちが、ふらりと一人で境内を歩いているのを見かける。不思議に思った生一が母親のやすに聞いてみると、縁起をかつぐ博奕《ばくち》打ちや、やくざ者が、賭け事に強くなるようにと、ねずみ小僧の墓の石を少し削ってお守りに持って帰るために来るのだとの返事だった。言われてみれば、ねずみ小僧の墓石だけは、あちこち欠けて、ボロボロだった。年末になると、やくざ者の姿が多くなるのは、「おおかた、借金に追いつめられて、年の暮れの最後に、のるかそるかの大博奕を打つためでしょ」と、やすは、はき出すように言う。哲朗もやすも博奕は大嫌いだし、酒飲みも嫌いだった。  哲朗の写真館も、開業して、二、三年たつうちには、少しは名前も知られ、それなりに客も増えていったが、あてにしていた相撲協会の方は、相撲そのものが不入りで、どうにもパッとしなかった。 「場所が始まっても、客が入るのは雛壇の一部と、四階の大衆席だけじゃなぁ」 「本当ですね、生一と初枝が今日も国技館に入れてもらったけど、枡席は芸者連れの旦那衆がちらほらいるだけ。子供たちはお菓子をもらって、喜んでますけどねえ」  哲朗とやすは、話しながらも、ますます気が滅入ってくる。  遊び友達に相撲茶屋や相撲部屋の子供たちが多かった生一と初枝は、彼らにくっついて、ちゃっかり国技館の空席に入り込んで、遊び場にしていた。子供にとっては、空席が多い方が楽しいのだが、哲朗とやすにしてみれば、国技館の不入りは他人事ではなかった。「相撲はね、時代遅れの代名詞なんだって」と生一が学校で聞きかじって来て言っても、哲朗はもう怒る気にさえなれなかった。  青息吐息の相撲協会が、決定的な危機に見舞われるのは昭和七年の正月である。名門出羽海部屋の花形力士、大ノ里、天龍、綾桜などが、大井町の春秋園に立て籠って、相撲協会に「改革意見書」をつきつけ、待遇の改善を要求したのである。  仲介者がたって、事態を収拾しようとしたのだが、ついに交渉は決裂し、なんと三十人の力士が髷《まげ》を切り、協会を脱退するという事件に発展してしまった。これは後に「春秋園事件」と呼ばれるようになるのだが、この際に力士側が要求したのは、次の十項目だったという。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 一、相撲協会の会計制度を確立すること 二、興行時間を改正すること 三、入場料を低下し角技を大衆のものたらしめること 四、相撲茶屋を撤廃すること 五、年寄制度を漸次廃止すること 六、養老年金制度を確立すること 七、地方巡業制度を根本的に改革すること 八、力士の収入を増加し生活を安定ならしむること 九、冗員を整理すること 十、力士協会を設立し共済制度を確立すること [#ここで字下げ終わり]  なんとかして生活の安定を図りたいと考える当時の力士たちの、切実な叫びが聞こえてくるような十項目である。しかし、切実だったのは、両国の力士たちだけではなかった。この頃、日本全体が昭和五年の大恐慌の深刻な後遺症にあえいでいた。失業率は上昇を続け、昭和七年の日雇い労働者の失業率は一一・六パーセント、ホワイトカラーでさえも五パーセント近かった。  国中が窮乏のどん底にあるのだから、もちろん相撲見物などと、優雅なことを言っていられるのは、ほんの一握りの資本家たちにすぎない。力士たちの大量脱退によって、ついに相撲協会は、十両力士の給料も払えないところまで追い込まれるに至ったのだった。  国技館に活気がなければ、その周辺で生存している商店は、哲朗の写真館を含めて、みんな、どんよりと気重の日々が続く。  子供たちだけが、親の心配をよそに、元気に回向院の境内を走りまわっていた。  そんなある日、立浪部屋の新十両を撮影して帰って来た哲朗が、やすにつぶやいた。 「今、十両にいる双葉山って相撲は、あれは腰がいいから強くなる。出世するぞ」  やすは、その十両が、お腹いっぱい、ちゃんこを食べているかしら、などと家庭の主婦らしいことを考えていた。  昭和七年七月十五日、工藤家には、また男の子が生まれ司朗と名付けられ、家族は六人となった。   松岡外相邸には異様な空気が漲《みなぎ》っていた  夫婦の両方が機嫌が悪いと、喧嘩になる。どちらか片方だけが不機嫌なら、なんとか日常のものごとは進んでゆく。たいがいの夫婦は、お互いに相手の不機嫌を、順番に少しずつ体内に吸収しあって生活をしている。  だが、たまには、夫も妻も、二人とも素晴らしく機嫌の良い日があるものだ。  昭和八年四月二十七日の工藤家が、まさにそれだった。哲朗は上機嫌で、やすも、なぜかいそいそしている。  この日、哲朗は軽飛行機に乗る予定だった。  写真館を開いたものの、航空写真と全く縁が切れたわけではなかった。時々、アルバイトで、新築されたビルとか、工場の建設予定地などを空撮していた。まだ航空写真の技師の数も少なく、空撮も機械よりは人間の勘にたよっていた時代なので、哲朗の技術は重宝がられた。  要領のいい哲朗は、空撮と一緒に、近所の商店街のビラを、空から撒く仕事も引き受けていて、それが、けっこう馬鹿にできない収入となっていた。  だが、四月二十七日はアルバイトで飛行機に乗るのではなかった。  もう一ヵ月ほど前から、哲朗は友人たちと、この計画を立てていた。その友人たちの顔ぶれは、今となっては不明なのだが、おそらくは下志津の陸軍航空隊にいた頃の同僚たちではなかったかと思われる。 「国際連盟脱退!」の大見出しが、黒々と新聞紙上に躍ったのは、三月二十八日のことである。  スイスのジュネーヴで、前年の十一月二十一日から開かれていた国際連盟理事会に、松岡洋右は日本代表として出席していた。  満州国を公式に承認し、そのコントロール権を得ようとしていた当時の日本に対し、列国の非難の声は激しく、ついに日本は妥協点を見いだせぬまま、連盟脱退へと踏み切った。「光栄ある孤立のためジュネーヴで闘い抜いた松岡全権」とは、その時の新聞に載った表現であるが、世界中が唖然とするなかで、たちまち松岡洋右は日本国内で英雄にまつり上げられた。 「真に日本精神に基づく自主的国民外交をなすべき時だ」と、力強く言い切る松岡に国民は感激し、新しい時代に突入するのだと、ふるい立った。  哲朗は友人たちと相談して、松岡全権がサンフランシスコから乗船した浅間丸が、横浜に入港するところを、空から撮影して、その写真を贈呈しようと計画した。  やすも、自分の弟の秀男が満州に行っていた関係もあって、このアイディアには大賛成だった。  それに、新聞で読んだ限りでは、松岡は九十歳を過ぎた老母を大切にする情に篤い人間のようだ。十四歳の時に大望を抱いて渡米し、苦学力行してオレゴン大学を卒業して、ついに名をなしたところも気に入っていた。哲朗だって、裸一貫で、十五歳の時に故郷を飛び出したのだ。  まだ未明のうちに、機材を入念に点検して家を出る哲朗を、やすは上機嫌で送り出した。哲朗も、微力ながらも松岡の健闘に報いようと、気分はすっかり高揚していた。  松岡全権を乗せた浅間丸が、巨大な船体を横浜港外に現したのは、午前十一時四十分である。 正午ちょうどに港内所定の位置に停止した。  風は少し強いが、空は真っ青に晴れ渡っていた。哲朗は浅間丸が、まさに港内に入ろうとするところをとらえてカメラに収めた。  地上を見おろせば、横浜市内の中学生、小学生、在郷軍人、青年団員など約一万人が、手に日の丸の小旗を持って整列している。やがて、ポートトレーンが十二時五十五分に到着した。普通は、船の入港に際しては運転しないのだが、特別にこの日のために、東京駅を十二時十分に出て、横浜港岸壁に十二時五十五分着の臨港列車を、二等車四両、三等車四両の八両編成で走らせたのである。  あっという間に岸壁は数万の人の山で埋めつくされた。哲朗は機体を大きく旋回させて、帰路を急いだ。長く飛行機を借りていれば、それだけ余計に金がかかる。抜けるような青空にはまだ、新聞社から来たらしい飛行機が数台、ぶんぶん爆音を響かせていた。それに合わせるように、地上の人波がどっと揺れ動く。  地上の熱気はむっと焦げつくように熱く哲朗にも伝わってきた。松岡の言う通りだ。日本は自主外交を貫き、わからずやの英米など相手にしなければよい。両国へ帰って来た哲朗の面持ちは、興奮しきっていた。  大切なガラス乾板を、哲朗はすぐに現像して焼き付けた。もともと哲朗は、写真を撮ったら、ただちに現像、焼き付けをするようにしていた。その方が、画像の質が良いものができるのも確かだが、それ以上に、お客は早く写真を見たがるからであった。手早く、短時間で仕上げると、必ず喜んでくれた。  それに、哲朗はぐずぐずしているのが嫌いだった。どうも、他の人よりも体内に備わっている時計が、少し早目に時間を刻んでいるようなのだ。  松岡全権の船の写真は、その晩のうちにお届けしてこそ、こちらの誠意も伝わる。そう友人たちにも、やすにも言って、一心不乱に写真を仕上げた。  その写真を風呂敷に包み、哲朗が友人たちと家を出たのは、すでに夜の七時を過ぎていた、とやすは記憶している。  松岡全権の邸宅は、麹町下六番地にあった。円タクで行っても、両国から二、三十分はかかったろう。  だが、意外に早く、九時前には、もう哲朗は帰宅した。迎えたやすが、ひょいと哲朗の手もとを見ると、あの風呂敷包みが、そっくりそのままある。 「これは郵便で送ることにした。全権もお忙しいようだし……」  それだけつぶやくように、口の中でボソボソ言って、哲朗は修整室に入ってしまった。  翌朝になって、ようやくやすは、哲朗の友人の一人から、何が起きたかを聞くことができた。  写真を届けに行った哲朗たちを、松岡家では、金をたかりに来たとでも勘違いしたのか、けんもほろろの応対で、まるで玄関から叩き出すように乱暴に追い立てたのだという。日本の恩人であり、温情家のはずの松岡の家には後援会の人らしい横柄な若者たちが、ごろごろしていて、訪ねて来た客を軍人口調で怒鳴り散らしていたと聞き、やすは、なにか言葉にならない不安を感じた。  その日から、しばらく、哲朗の不機嫌は続いたが、やすは黙って夫の不機嫌を受け止め、やわらかくそれを吸収していた。   食卓は早い者勝ちの戦場だった  長い冬が終わると、|とき《ヽヽ》は青森へ帰ってゆく。青森で、|とき《ヽヽ》がどんな生活をしているのか、哲朗は知らない。哲朗の父親と別れた後で、隣村の男と再婚した。そちらの家にも子供はいるはずだった。だから、どれほど東京に長逗留しても、住みついてしまうことはなかった。必ず帰ってゆく。  世間の常識から、いささかぶっ飛んだところで生きている|とき《ヽヽ》は、工藤家にいても孫を猫可愛がりすることはなかった。そのかわり干渉もしなかった。家族のすべてと、一定の距離を保って、一人で銭湯へ行き、一人でコップ酒をあおっている。それが彼女なりの気の遣い方なのだと、哲朗はひそかに感心していた。  |とき《ヽヽ》がいなくなっても、階下の八畳の人口密度が薄くなるわけではなかった。まだ、よちよち歩きの司朗を含めて四人の子供と哲朗にやす、加えて、いつも二、三人、写真の修業に地方から来た弟子が住み込みで働いていた。  八畳間からはみ出た生活の場は、写場《スタジオ》へと延びてゆく。学校から帰った子供たちは、客のいないわずかな時間を狙って、写場の片隅で教科書を広げて勉強する。夜になると、ゴザを敷き、その上に蒲団を敷いて、弟子や男の子たちは寝た。写場にテーブルを並べて大きな寄り合いを開くこともある。  哲朗の考案した特別あつらえの箪笥《たんす》が、八畳の居間に運び込まれたのは、昭和九年の夏だった。それは、普通の箪笥よりも、引き出しが大きくて奥行きが深かった。スポンと抜くと、リンゴ箱くらいのサイズである。その引き出しの取っ手の横に、哲朗はそれぞれ家族の名前を書いた半紙をペタペタ貼っていった。 「今日から、自分たちの持ち物は、各自この引き出しにしまうこと。そのへんに散らかしておくんじゃないぞ」  という鶴の一声で、五歳になったばかりの明まで、衣類から玩具、すべて自分の引き出しにしまい込む。生一や初枝は教科書やノートにお菓子までほうり込んだ。そうでもしなければ、大所帯の居間は収拾がつかなくなる。  最も凄《すさ》まじいのは食事の時間だった。上品に一人ずつ取り分けてなどいられない。鍋物ならおでんやすき焼き、天ぷら、コロッケなど、とにかく一種類でデンと大盛りで食卓の中央に置かれる。それを、早い者勝ちで自分の皿に取って食べる。家族だけならまだしも、哲朗は近所の人でも誰でも、ちょっと立ち寄った客には、すぐに「飯を食っていけ」と声をかけ、強引に座らせる。やすも心得たもので、二人や三人増えても、かまわないような料理ばかり用意している。  だから、子供たちは必死だった。大人に負けず早食いをしなければ、ご飯とお新香しか残らない羽目になる。そんな中で、悠然と、おかずの好き嫌いを言って、御託を並べているのは長女の初枝だった。男の子のことは叱り飛ばす哲朗も、なぜか女の子の初枝には弱かった。美味しいものをさっさと初枝の皿に取ってやり、初枝がどんなワガママを言おうとニコニコ聞いている。たまには怒鳴ることはあっても、初枝がひらりと身をひるがえして表通りに逃げれば、苦笑いしてその後ろ姿を見送る。ところが、これが男の子だと、そうはいかない。五歳の明が逃げ出せば、どこまでも追いかけてゆく。ステテコ一枚でも、むきになって追いかける。回向院の境内から、相撲茶屋の通りまで、走りに走ってふり返ると、まだ、もの凄い形相で哲朗が追いかけてくる。仕方がないのでもう一周、家の前を通り過ぎてまた、回向院へ逃げ込んだら、さすがにあきらめたのかもう追っては来なかった。そんな時、夕暮れになってから、そっと勝手口から家の中に入れてくれるのは、いつも母親のやすだった。  すぐに頭から湯気を立て、相手が子供だろうと本気になって怒る哲朗も、お客の前では、どこから出るのかと思うほどやさしくて、丁寧な言葉遣いだった。それは、若い頃に修業した写真館で「写真師とは接客業である」という言葉を、骨の髄《ずい》まで叩きこまれたためだった。  客にポーズを取らせながらも、常に何か話しかける。天気の話でも、着物のことでもいい。そのうちに、客の表情がふっとなごんだ瞬間にシャッターを切る。この呼吸が、いってみれば営業写真の生命だった。それは、もっと平たく言えば、とにかく、客をいい気分にさせることなのである。  それはなにも、カメラの前に立った時とは限らない。その以前に、客が玄関を開けて、一歩、写真館の中に足を踏み入れた時から勝負は始まる。「いらっしゃいませ」の一言と笑顔が、なんともいえない良い電波を客に送るのでなければならない。  哲朗が幸運だったのは、やすが、この「いらっしゃいませ」が実に上手だった点である。いかにもやさしげな様子で、ゆったりとやすが玄関に立つ。その後をうけて、哲朗がキビキビと客にポーズをつけ、表情がリラックスするまで、気長に世間話をして、あっと思う間にシャッターを切る。まさに絶妙のコンビであった。  不景気は相変わらずだったが、工藤写真館には固定客がつき、経営状態はまずまずの線だった。そのためか、すぐ近所の表通りに古くからあった写真館はつぶれてしまった。  この頃から、哲朗は一人で聖書を広げて読んでいることがよくあった。別に日曜日に教会へ行くわけではない。ただ、思い出したように、一週間に一度くらい、黙って聖書のページを繰っている。中学に通っている生一が、その手元をのぞき込んで尋ねた。 「なんで、そんな本読んでるの? もしかして、お父ちゃん、聖書って毛唐《けとう》の本だよ」 「毛唐の本には違いないがな、この本には、いろんな読み方がある」  哲朗は、もう中学生の生一になら話して聞かせてもわかると思ったのか、まだ若い頃、北海道で写真師の修業をしていた時、札幌の独立教会に入会したのだと語った。忘れもしない、大正元年十月十三日のことである。 「独立教会はな、洗礼も受けないでいいし、教会にも行かないでいい。自分の心の中に教会があって、心の中でお祈りをすればいいんじゃ」 「それでも毛唐の教えじゃないか」  時の文部大臣が、「パパ、ママと呼ぶのは孝道にもとる、若い女の洋装や断髪もけしからん」などと叫んでいるご時勢に、どうも聖書は具合が悪いように生一には思えた。 「聖書はいい。なんでいいかと言えば悪いことが一つも書いてないからだ。他人の頬を叩けとは書いていない」  生一には難しい説明をすると、今度は哲朗は東北地方の大凶作を伝える新聞記事をじっと食い入るように見ていた。   故郷・五戸では哲朗も�東京の人�だった  その新聞記事は、いかにも悲惨だった。昭和九年秋の東北地方の、大凶作の現状を報じている。貧しい農家の娘の身売りは相次ぎ、小さな村は村道の電灯さえつけられない。農夫はトラコーマで視力の衰えた目をしばたきながら、冬の訪れに怯えている。  大凶作……という活字を哲朗は、じっと見つめていた。大凶作の反対は大豊作だ。しかし、自分の生まれた青森県の五戸《ごのへ》村に、大豊作の年などあっただろうか。  最後に哲朗が五戸村へ帰ったのは、大正三年頃だった。もう自分でも、はっきりとは覚えていない。北海道での七年間の写真修業を終え、東京へ向かう途中に立ち寄ったのだ。まだ二十三、四歳で、写真の技術だけは身につけていたものの金もなければ将来の見通しもなく、ただ一流の写真館に勤めたい一心で、東京を目指していた。  あれから二十年。けっして贅沢はできないが、自分の写真館を開けた。妻も子も健康だ。哲朗の目は、ちゃんとカメラのファインダーを覗《のぞ》き、手はシャッターを切り、指先は器用に現像も修整もこなす。五体が五体の役目を果たし、それが一家の糊口を潤す。  こうした当たり前のことが、急に有り難く思えてきた。涙が出るほど有り難く感じられる。 「五戸に帰ってみるか」  そんな言葉が、ふいに哲朗の口からこぼれ出た。妻のやすには、まだ哲朗は自分の故郷を見せたことがない。子供たちは親戚の者にでも頼んで、やすを連れて五戸へ帰ってみるのもいい。  東京は景気もようやく少し上向きになり、国技館も活気を取りもどしつつあった。寒いのは承知の上で、十二月の初めにでも、五戸へ行かないかとやすに相談をすると、しかし、思いがけない返事が返ってきた。 「いやですよ、あんな田舎」  その口調が、あまりにもきっぱりと強いのが、ドキリと哲朗の胸にこたえた。哲朗は、やすをおとなしい女だと思っていた。自分の言うことには、なんでも従うと信じていた。  だが、まだ見たこともない五戸村に、やすはほとんど嫌悪に近い感情を示す。やすは東京の浅草育ちだった。下町の娘にしては、おっとりとしているのが気に入って嫁にしたのだが、対人関係の気配りは、東京人ならではの細やかさがあった。着物の趣味も粋で、すっきりとしている。  それだけに田舎者の野暮はなにより嫌いだった。露骨に口には出さないが、相手の気持ちを先まわりして読めない人間を田舎者だと、腹の中ではせせら笑っているようなところがあった。  それは娘の初枝の言動にも、微妙に反映している。どうしても、住み込みの弟子たちは、地方出身者が多い。その中でも特に田舎くさい、うすぼんやりした男がいた。その男の顔を見ると、初枝は囃《はや》したてるのである。 「信州信濃の山猿が、花のお江戸で修業するゥー。ワーイワーイ」  これには、さすがに哲朗も怒って、きつく初枝のことを叱った。甘やかされて育った都会の娘が、いかにも残酷な仕打ちを田舎の青年にするのは、やはり母親のやすの心持ちが影響していないとは言えない気がする。 「私ね、なまりのある相撲取りのお嫁さんになんか、絶対ならないから」  などと、まだ十二歳の初枝が小生意気な口ぶりで言うのも、やっぱり、やすの都会崇拝、田舎蔑視の表れだ。  子供が四人もいれば、女は強くなる。やすだって、そうそう自分の言うことばかりきいてはいなくなったと、哲朗も認めざるを得なかった。  しかし、だからといって、せっかく五戸へ行こうと哲朗が思い立ち、一度は捨てた故郷への、淡い感傷にひたっている時に、にべもなく「あんな田舎」と言われては、哲朗も気持ちの持ってゆき場がない。  夫婦は他人かと、今さらながらしみじみと、怒るよりは寂しい思いが押し寄せてくると、よけいに五戸村がなつかしく、甘やかに瞼《まぶた》に浮かんできた。  辛い思い出しかないと言っても過言ではないほど、哲朗の少年時代は厳しい生活だった。それが時間の流れに濾過《ろか》されて、四季折々の美しい景色ばかり甦《よみがえ》ってくる。  十二月に入ると、生一の学校が冬休みになるのを待って、哲朗は生一と二人で青森へ発った。やすは他人だが、生一は違う。自分の血がつながった息子だ。その生一に故郷を見せて、どうして悪いと、変に言い訳じみたような奇妙に力みかえったような気分だった。  この意気込みは、汽車が八戸の駅に着くと、抑え難い興奮に変わっていた。八戸の街で、哲朗は当時としては珍しいハイヤーを一日、借り切って、その大型車で五戸村へと乗り込んだのである。  まっすぐに工藤の総本家のある鳥沼新田へ、まず行った。  そのあたり一帯は、柿の木が多いので工藤の本家は代々、村人たちから柿旦那様と呼ばれていた。  柿旦那様の家は大邸宅である。田舎とはいえ、堂々とした門構えだ。大きな格子戸をガラリと開けると、哲朗は「俺だ、俺だ」と家中に響く大声で叫んで、仏間にどんどん進んで行く。何十年たっていようと、間取りは、はっきり覚えているので迷うことはない。  びっくりしたのは本家の人たちである。見たこともない洋装の男が、子供を連れて飛び込んで来て、いきなり仏壇で手を合わせている。 「どなたですか?」と、おずおずと問うと、「東京の工藤だ」と哲朗は答えた。  哲朗の父、与三郎は本家の三男に生まれた。長男以外は、分けてもらえる土地も財産もないのが東北の農家だ。まして、哲朗はその三男の息子である。一生、本家の小作人で、ただ飼い殺しの身で終わるしかない運命だった。それが嫌さに、十五歳で五戸村を出た。  分家の倅である哲朗が、東京へ出て写真師として成功しているらしいという噂は、本家の人々も知っていた。|とき《ヽヽ》が得意になって尾鰭《おひれ》をつけて話してもいる。だから、本家の人々はすぐに合点がいった。これがあの、哲朗さんかと、あらためて、真新しいオーバーを着た、洋装の親子を眺める。  見慣れぬ車に、他所者の姿は、せまい村では人目を惹《ひ》く。あっという間に子供たちが柿旦那様の家の周囲に集まって、物珍しそうにのぞき込む。  東京では、東北人の哲朗も、ここでは完全に東京の人だった。しかも、哲朗自身、わざと東京人らしくふるまっている。  本家の人たちへの挨拶もそこそこに哲朗は立ち上がった。「ちょっと見たいものがある」とだけ言って、ずんずんと柿林の中に分け入って行った。   古井戸の前で哲朗は一つの儀式を完了した  柿林の中になんの変哲もない、古びた井戸があった。  井戸の前に哲朗は佇《たたず》んでいる。十二月というのに、雪はなかった。  カメラを取り出し、哲朗はその井戸を撮った。生一は黙って父親のそばに立っている。この井戸にまつわる思い出が何かあるのだろうと、生一には察しがつく。しかし、それを口には出さなかった。人間と人間の肩先が、ちょっと動いただけでもぶつかるような東京の下町で育った生一は、無神経に他人の心の領域に踏み込まない術を、すでに身につけていた。今の哲朗は、あまりに遠くへ行っている。勝手に一人で、どこか違った時間をさまよっている表情だ。  井戸の写真を撮り終えると、すっかり気がすんだのか、哲朗の表情はやや、なごやかになり、墓参りをすませると|とき《ヽヽ》の家を訪ねた。  ぼてぼてと厚い綿入れを重ね着して、着ぶくれた|とき《ヽヽ》が、転がるように玄関から出て来た。|とき《ヽヽ》の息子や孫も後から続く。ここでも、大型ハイヤーと洋装は効果満点だった。東京で成功した哲朗さんが、帰って来たのだと、|とき《ヽヽ》の家族も近隣の人々も畏敬の目差しで二人を迎えた。  故郷に錦を飾る——とは、なんとも陳腐な表現だが、哲朗が打っている芝居はそれだと生一は感じていた。凶作の波に呑み込まれたように、暗い色彩の疲弊しつくした村で、哲朗親子だけがピカピカしていた。ご丁寧にもハイヤーを雇い、商売道具のカメラをぶらぶらさせながら村中を歩く。まるで二人のまわりだけ、スポットライトが当たっているようだ。  しかし、なぜ……と生一は不可解だった。そんな示威行為をしなくとも、哲朗が苦労の末に東京で写真館を開いたのは、誰もが知っている。どちらかといえば自慢話やハッタリの嫌いな哲朗が、五戸村との違和感も気づかぬふうに、東京の匂いをことさらふり撒きつつ闊歩《かつぽ》するのが、繊細な生一の神経には耐えられなかった。 「つまりは、あれは、親父の男の意地だったんだなぁ」と、生一が、ふいと悟りが開けたように納得するのは、自分も男として太平洋戦争に出征する直前だったという。  哲朗は明治二十三年五月十九日、五戸村に生まれた。  五戸村は青森県の東南部、三戸郡の東北部に位置している。農業が主体の村だが、気候は不順であり、「凶作は二年に一度。五年に一度は大きく、十年に一度は大飢饉がくる」といわれているような村だった。  哲朗の父、与三郎が、どうやって男手ひとつで息子を育てたのか、なにを職業にしていたのかも不明だが、おそらく本家の小作人の一人だったのだろう。あるいは「手間取り」と呼ばれる日雇い労務や、冬場は炭焼きをしたかもしれない。  明治三十七年十二月十一日、与三郎が死ぬまでは、哲朗は父親と二人で五戸村の遊廓が並ぶ新丁の近くに、小さな部屋を間借りして暮らしていた。  五戸村は古くから馬市が立ち、多くの馬喰宿《ばくろうやど》があったため、この村の規模にしては大きな遊廓があった。  母親のいない子供を不憫《ふびん》に思ったのか、遊廓の女たちは哲朗を可愛がってくれた。目はしの利く機敏な少年だったのでよく女たちに使い走りを頼まれた。それが哲朗の小遣い稼ぎになっていた。  客とわりない仲になってしまったハツという名の女郎が、男に恋文を届けるのに、哲朗を連絡係にした。いくら哲朗がせっせと恋文を運んでも、客と女郎の間がどうなるものでもない。いつも悲しそうに、ため息をつきながら、お駄賃をくれるハツの横顔は、次第にやつれてゆくが、その哀れな風情が哲朗には胸がしめつけられるほど美しく感じられる。ハツは哲朗と、そんなに年が違わないのだが、五、六歳も年上だと、女はすっかりおとなびて見える。哲朗のハツに対する淡い恋心は、母親にすがりたい寂しさ故だったかもしれない。老境に入ってからだが、哲朗は、よくハツのやさしい仕草を思いだして、親しい友人にだけ、その様子をぽつりぽつりと語っていた。  哲朗親子が本家に住まなかったのは与三郎と本家の間に、なんらかの確執があったためと考えられる。  与三郎が死んだ時、まだ十四歳の哲朗が、たった一人で葬式を出した事実も、その推測を裏付ける。  小柄な哲朗は、与三郎の死体を引きずるようにして、借りてきた荷車に載せ、一人でその車を引いて墓地まで運んだ。ようやく墓地にたどり着くと死体を埋める穴を掘った。与三郎が死んだのは、十二月十一日である。冬の土は凍っているので掘りにくい。人間一人の死体を埋められるだけの大きさの穴を、十四歳の少年が掘り終えるまでにどれほどの時間と汗と涙が流れただろうか。  父の死体を凍った土の中に埋葬し、その前で手を合わせ、頭を下げて、極貧のあばら家にもどってみると、哲朗は本当に独りだった。  葬式にすら手を貸してくれなかった本家も、まさか哲朗を一人にしておくわけにはゆかず、間もなく哲朗は村はずれの柿林の中の家に引き取られた。  引き取られたといっても、十四歳ともなれば、大人と同じに働くことを要求される。家族全員が寝る暇もなく働いて、やっと全員の食糧が確保できるかどうかの毎日だ。  貧しさには慣れている哲朗も、しかし、本家の人々が自分を使用人扱いして、見下した態度を取るのが、我慢できなかった。畑仕事が終わった後まで、本家の赤ん坊を泣かせないよう子守をしろという。こんな餓鬼が泣こうとどうしようと、知るものかと思うと無性に腹立たしくなる。  それで赤ん坊を、柿林の中の井戸の釣瓶に縛って、上げたり下げたりしてゆすった。子供はキャッキャッと喜ぶが、母親が血相を変えて飛んで来た。  もしも赤ん坊が井戸に落ちたら、どうするつもりだと、その晩、哲朗はこっぴどく叱られた。 哲朗をかばってくれる人は誰もいなかった。 「俺はどうせ、誰にもあてにされないで生まれてきたんだ」  哲朗は思った。両親もいない。兄弟もいない。天涯孤独のこの身なら、なにもこんな土地にしがみつく必要もない。誰にもあてにされない人間らしく独立独歩でゆこう。それがまだ十五歳になったばかりの哲朗が、小さな頭で一生懸命に考えた、冷たい世の中に対する精一杯の「居直り」だった。  自分が故郷を捨てるきっかけとなった井戸を、哲朗はふたたび見ることで、ある一つの儀式を完了した。それは、現像されないまま、自分の体内にしまい込んでいたネガを、初めて焼き付けする儀式だったかもしれない。   一円五十銭とお握り十個を懐に家を出た  哲朗は自分の意志で、五戸村を飛び出したと信じていた。死ぬまで、そう信じ込んでいた。  個人的なレベルでみれば、間違いなく、それは哲朗の選択であった。しかし、もう少し大きな視点で考えてみると、哲朗は時代の意志によって、五戸村から押し出されたとも言える。  五戸村という限られた面積の中で、人間が生の営みを続ければ、人口が増えてゆくのは当然である。その土地がある一定量の食糧しか供給できないのなら、余った人間は餓死するか逃走するしかない。  おそらく本家の人々は哲朗を邪険に扱い、いたたまれない気持ちにさせたろう。だが、本家の人々がそうせざるを得ないほど、当時の五戸村の経済状態は悪かった。  明治三十五年から三十八年にかけては、東北で凶作の年が続き、特に明治三十五年の青森県南部地方の稲作は不良というよりは無作に近い収穫だったため、冬に入って食糧難に苦しむ者は四万五千人を超えるだろうと言われた。東京の『時事新報』が、「速かに餓死者を救え」と報じたほどである。 「凶作地窮民は馬を屠《ほふ》り、犬を殺して食となし得る。——又無数の窮民は粗衣粗食の結果、頻々として腸加多留を病むものあり」(『東奥日報と明治時代』より)  こうした状況で、哲朗の父、与三郎はたいした治療も受けられず死んでいったのであろうし、その後の哲朗を引き取った本家でも、他人の子供には一粒の米すら惜しい窮状だったろう。  確かに哲朗は、志を立てて郷里を出た。だが、その時に小さな哲朗の痩せた背中を突き押したのは、東北地方を襲った凄《すさ》まじい凶作の波だった。  哲朗にとって、昭和九年十二月の五戸村再訪は、人生の前半の総決算ではなかったか。もちろん、本人にそこまで明確な自覚はなかったろうが、ふり返るのすら辛い過去に正面から対峙《たいじ》するだけの強さを、やっと哲朗は持ち得たのだろう。そして、一度は打ちのめされて本家を後にしたのであれば、どうしても、その第二ラウンドでは、哲朗は本家の人々に勝たねばならなかった。それが、生一の目には、なんとも気恥ずかしい、もろに錦衣帰郷の芝居となって表れたのだった。  これ以後、哲朗は誰にでも素直に自分の少年時代を語るようになった。東京にいれば、優れた写真師はいくらでもいる。哲朗はその中の一人にすぎず、暮らし向きも中流にさえ入らない。だが、あのままずっと五戸村にいたなら、一生、本家の小作人として牛馬の如く働かされて終わったろう。大凶作に苦しむ故郷は、哲朗に「お前は勝者だ」と語りかけてくれたのだった。  五戸村に着いた翌日、哲朗は生一を連れて村から歩くと二、三時間もかかる薬師様まで出かけた。  くねくねと曲がりくねった坂道を登りながら、哲朗は三十年前のある一日を息子に語り始めた。堰を切ったように激しく情熱を込めて語った。  薬師様を、この地方の人々は「やくしこ」と呼ぶ。やくしこのお祭りは四月八日だった。北国の冬は長く、囲炉裏ばたで過ごす時間も長い。そのため人々は囲炉裏の煙で目をやられる。村に眼科医がいなかった時代に、やくしこは目の神様として信仰されていた。  四月八日の祭礼の日は、みんな夜が明けないうちから家を出て、やくしこに向かう。だんだん、やくしこに近づくと、道路の脇に露店が出ているのが見える。  なぜか、この日は必ず風が吹いた。やくしこのある場所が高台なので、地形の関係かもしれないが、いつもいつも、突風が道行く人の背後から強く吹き上げる。  だが、この風がどんなに強くても、ほのかに暖かい春風なのを、人々は背中いっぱいに感じていた。ようやく長い冬は終わったと、やくしこの風は肌身に感じさせてくれる。だから、五戸村の人々は、やくしこを楽しみに、夜明け前から弁当をこしらえて家を出る。  明治三十八年四月八日の早朝、哲朗は二人の友人と一緒に、やくしこへ向かう村人の群れにまじっていた。  あちこちで顔見知りの挨拶が交わされる中、哲朗を含めて三人の少年の顔はひきつったように真剣だった。  哲朗の懐中には一円五十銭と、お握り十個があった。それが本家の持たせてくれた餞別《せんべつ》のすべてだった。他の二人の懐中も似たようなものだったろう。  ちなみに、当時の上野—青森間の汽車賃は五円七十九銭であるから、これは東京に出るための汽車にも乗れない金額である。  しかし、汽車なるものを見たことさえない哲朗には、一円五十銭の現実感よりは、お握り十個がいつまで持つかの計算のほうが、より切実な問題だった。  三人の少年たちは、とにかく「東京へ出て偉くなろう」と語り合っていた。いずれも農家の次男三男である。彼らにとって、「東京」はマジック・ワードだった。目も眩むほどの富を手に入れるはずの場所だった。  やくしこまでの道のりは、何度も通ったことがあるだけに順調だった。昼前に到着した哲朗たちは、境内で弁当をひろげ、さっそくお握りを食べた。気がつくと五個が消えていた。  うらうらと暖かい日差しだった。早く八戸まで出ようと、やくしこから八戸の方角へ歩き始めて、はっと周囲を見まわすと、道路の人通りは全く絶えていた。五戸村からぞろぞろと一緒に歩いてきた一群は、やくしこまでで、ぷっつりと止まり、それ以上先の山道を歩く者はいない。故郷を捨てた少年たち以外には……。  気味悪いほどに、しんと静まり返った真昼日の下を、三人の少年たちは歩を進めた。黙々と半時間も歩くと、長いトンネルにぶつかった。なんとなくトンネルの前で少年たちの足並みは止まった。黙って顔を見合わせる。  このトンネルを越えると、本当に未知の世界が待っているのだと哲朗は思った。暗い穴の向こうに、小さな光が見える。無言のまま、決然と哲朗はトンネルの中に入って行った。  長いトンネルを抜けてから、ほっと安心して哲朗がふり返ると、友人は一人しか立っていなかった。もう一人はトンネルの途中で引き返したのか、それともトンネルにも入らなかったのか、先頭にいた哲朗にはわからなかった。  一人残った友人は泣きそうな顔で哲朗を見ていた。肩が小さくぶるぶる震えていた。何も言わずに、さあっと風のように、一人残った友人もトンネルの中にふたたび吸い込まれてしまった。  どんなに貧乏だろうと、あいつらには両親がいて兄弟がいる。だが、俺は違う。誰にもあてにされない。  取り残された哲朗は、ただ東京を目指して前進するだけだった。   写真を見て天啓のように閃《ひらめ》いた  五戸村を飛び出した哲朗は、数日後にふらふらになって、盛岡にたどり着いた。  八戸へ出て、初めて汽車を見たものの、汽車に乗る金が惜しくて、線路づたいに歩いて盛岡に行った。そこで、もう一銭の金も懐になく、もちろん十個のお握りなどとっくに食べ尽くし、行き倒れの浮浪者のように道端にうずくまっていたという。  哲朗はそう家族に語り、子供たちは皆、その話を信じていた。「一円五十銭とお握り十個」は、いわば伝説的に工藤家の親戚の間でも語り継がれ、近頃の若者は意気地がないと言う時など、「やっぱり、おじいさんは偉かった。なにしろ線路づたいに歩いて盛岡まで出たんだから、今どきの若い者とは根性が違う……」といったふうに、必ず引き合いに出されるエピソードだった。  しかし、本当に哲朗は五戸村から一直線に盛岡へ向かったのだろうか。その距離は、八戸からでさえ三五里一〇町(約一四〇キロ)あった。  実は、五戸村に古くから住む工藤家の親類の間では、全く違うストーリーが残されていた。哲朗は八戸に住む遠縁の人をたよって、まず八戸へ行き、そこで一、二週間滞在した後に、盛岡へ発ったというのである。  どうも、こちらの説の方が信憑性が高そうだと思うのは、いくら哲朗の気性が激しくても、全く、やみくもに一四〇キロの道のりを、十五歳の少年が歩くとはとても考えられない。また、もしもストレートに歩いて盛岡に着いたのなら、一円五十銭の金は多少は残っていただろう。  おそらく、哲朗は話をドラマチックに語ることで、自分の少年時代を少々ヒロイックなものに仕立て上げたかったのかもしれない。  しかし、盛岡で、ほとんど餓死寸前だったのは事実のようだ。そこで、哲朗に声をかけてくれたのは、高橋経木店のお婆さんだった。小さな子供が倒れているので不憫《ふびん》に思い、助け起こして店に連れ帰ってくれた。小柄な哲朗はどう見ても十歳くらいの子供にしか見えなかった。経木店の主人のお母さんだという老婆は、やさしい人だったのだろう。哲朗を住み込みで働かせてくれるよう、主人に頼んでくれた。これで、なにはともあれ、哲朗の衣食住は確保された。  当時の記録を調べてみると、盛岡には十一軒の経木を作る工場があり、岩手県の代表的な輸出品の一つにも数えられていた(『盛岡市史』より)。  明治二十三年に東北本線が開通し、三十八年には電灯がついたという盛岡は、落ち着いた城下町だった。人情も、どこかおっとりとしたところがあり、文化も進んでいた。  哲朗にとって、高橋経木店は、けっして居心地の悪い場所ではなかったが、たった二ヵ月でこの店をやめて、ふたたび八戸へ後戻りしてしまった。  これには、二つの理由があった。まず第一に、哲朗は東京に行き、とにかく偉くなるのだと決心して五戸村を後にした。盛岡で小ぢんまりとした経木店を開くために郷里を出たのではなかった。だから、初めから経木店に長居はしたくないと思っていた。もっと広い世界に泳ぎ出したかった。  そこへ、八戸の泉太《せんた》呉服店で丁稚《でつち》の口を世話してくれるという人が現れた。泉太呉服店——という名前は、当時の東北地方では、きらめく太陽のように燦然《さんぜん》たる光を放つ存在だった。そこに丁稚に入るのは、現代ならさしずめ三井物産や三菱商事に就職するのと同じようなもので、エリートの商人として踏み出す第一歩だった。  泉太呉服店の当主、泉山太三郎は、従兄の泉山吉兵衛と共に、銀行、水力電気会社、酒造など様々な事業に携わり、東北では知らぬ者がいないほどの有力者であり、泉山財閥を支える一角であった。  泉山財閥は、東京にも木綿問屋やネル、綿工場、醤油醸造所などを開き、中央進出を図っていた。泉山吉兵衛の息子の結婚相手が、のちに首相になる吉田茂の長女だったというのも、一族の隆盛を物語っている(もっとも、この結婚は一週間で花嫁が実家へ帰ってしまい、破局を迎えたという。『これは巷のはなしでございあんす』より)。  哲朗が丁稚として住み込んだ頃の泉太呉服店は、「正札現金」のキャッチフレーズで十三日町に店舗を構えていた。  余談になるが、泉山太三郎が亡くなった後、大正の初めに店を継いだ三浦万吉は、店名を三万呉服店と改め、後に八戸で最初のデパートへと変身する。作家の三浦哲郎の母方の実家が、この三万呉服店だったといわれる。しかし、哲朗が丁稚で入店した頃は、すでに三浦万吉は、独立して店を出ていた。  泉太呉服店で、哲朗は接客業のノウハウを叩きこまれる。丁寧な言葉遣いもおそわる。呉服を見立てるところまではいかなかったが、器用にクルクルと反物を巻くことも覚えた。  しかし、哲朗はここも一年足らずでやめてしまった。 「やっぱり違う」と哲朗は感じていたらしい。なにが違うかといえば、呉服店のことである。  まだ盛岡にいた頃、哲朗が道を歩いていると、小さな少年が家の前で絵を洗っていた。なんだろうと思って、のぞいてみると、それが写真という絵だった。「これだ!」と哲朗の胸に天啓のように、ひらめくものがあった。おそらく、当時はまだ珍しかった写真館で、丁稚の小憎が写真の水洗いでもしていたのであろうか。小学生の頃から絵が好きだった哲朗は、水で洗う写真に、ころりと魅せられてしまった。 「やっぱり写真だ。これからの時代は写真だ」  どうしても、写真への執着が断ち難く、哲朗はせっかく勤めた泉太呉服店もやめ、今度は北海道へと旅立つのである。故郷を出てから東京へたどりつくまでの道程は、だから、当初哲朗が想像したよりも、はるかに、はるかに長かったわけである。  その道程も今となっては一瞬のようにも思える。一週間の五戸村滞在を終えて、ふたたび東京へ帰る哲朗は満足だった。実母の|とき《ヽヽ》が、思いがけなく青森の風景にしっくりと溶け込んでいたのも哲朗の心を軽くしていた。  実はひそかに案じていたのである。もしも|とき《ヽヽ》が青森の家族と折り合いが悪いのなら、東京に引き取らねばならない。だが、それは杞憂にすぎなかった。|とき《ヽヽ》はどこから見ても土地の老婆だった。「そうか、根っこは動かさない方がいいのか……」。そんな感慨も浮かんでくる。  東京の生活に不足があるわけではないが、五戸村が自分の根っこだと、哲朗はあらためて、しみじみと感じる。年を取ったら、五戸村に隠居しようか、しかし、やすは嫌がるだろう。  とつおいつ、思いに身を任せているうちに汽車は上野駅に着いた。  やすが、子供たちを連れて駅のホームに迎えに出ていた。若草色と白の棒縞の御召《おめし》に、紫の綸子《りんず》のコートを江戸前にしゃきっと着こなしたやすの姿は、くっきりと浮き立つようだった。   火事騒ぎの夜、下町の人情をしみじみ感じた  そういえば、最近のやすは、あまり泣かなくなった。結婚したての頃は、しょっちゅう泣いていた。女というのは、どうしてこんなにビショビショと涙が出る動物なのかと、哲朗はいささか、あきれた。  やすの一番下の妹であるさと子が、ある日、遊びに来た時に平然と言い放った。「そりゃ当たり前よ。姉さんは娘の頃には、家で『泣きやす』って呼ばれてたんだもの。ずっと前からすぐに泣く人だったのよね」  やすより十三歳も年下のさと子が、きびきびと、はねっ返りの口調で言うのがおかしかったが、どうも女というよりは、やすが特別に湿っぽい質《たち》なのだろう。短気な哲朗は、やすに泣かれると、余計に腹が立ってくる。だが、そもそも、やすが泣き出す理由は、たいがい自分にある。靴下と言えば靴下、ネクタイと言えばネクタイが一、二秒ですぐに出てこないと、哲朗はやすを怒鳴る。すると、ビショビショとやすは泣き出すわけだ。  そこのところだけは、娘の初枝に遺伝したようだ。初枝も気が強いくせにすぐ泣き出す。だから小さい頃の仇名は「ゾーキン」だった。雑巾みたいにしょっちゅう湿っぽい奴という意味だった。 「泣きやす」も「ゾーキン」も、そして他の子供たちも、しかし、今日は揃って外出していた。昭和十年五月の日曜日だった。良い天気である。やすが、思い立ったように、上野の松坂屋に行くと言い出した。哲朗は内心、面白くなかった。住み込みの弟子たちもそれぞれに出かけることになっていた。哲朗は家に一人で取り残される。一人になることくらい嫌いなことはなかった。肉親の情に飢えて育った哲朗は、いつも家族に囲まれていたかった。特に、家の中にやすがいてくれなくては困る。落ち着かない。昔だったら「絶対に行くな」と怒鳴りとばすところだった。だが、なぜかこの頃、哲朗は声を荒立てることが少なくなった。それが年齢というものかもしれない。したがって、やすが泣く場面も少なくなる。  仏頂面で、やすと子供たちを送り出すと、哲朗は修整室に入った。細い絵筆で、写真の修整を始めたが、間もなくうたた寝をしてしまった。これも近頃はよくあることで、やはり四十五歳という年齢のせいだろうか……。  メリメリと、なにかが剥《は》がれるような奇妙な音で、哲朗が目覚めたのは、小一時間もたった頃だった。ザワザワと激しい風が吹くような音もする。はっとして頭を起こすと、ぷんと焦げ臭い匂いが鼻を打った。  火事だ! と、哲朗は飛び上がった。音は上の方から聞こえてくる。二階に駆け上がると、もう写場の半分が炎につつまれていた。  慌てて階下の電話に飛びつこうとするのと、ほとんど同時に、消防車がせまい路地を分け入って、到着していた。哲朗より早く火事に気づいた近所の人が通報してくれたのだ。  後は夢中だった。消防隊の人たちと一緒になって、目を血走らせて消火にあたった。自分がどこをどう動いたかも、よく覚えていない。幸いなことに、火は階下までは燃え移らず、写場を三分の二程度焼いただけで鎮まった。  だが、もちろん、写真機も照明道具も、すべて燃えるか、水をかぶって使いものにならなくなった。 「でもまあ、やすさんとお子さんたちが無事なんだから良かったわよ」  水浸しの写場に悄然《しようぜん》として佇む哲朗に、近所の相撲茶屋のおかみさんが声をかけた。本当にその通りだった。やすが子供たちを連れて外出してくれて幸運だった。さもないと、まだ小さい明や司朗は二階で煙に巻かれたかもしれないのだ。  それに、つい一年前の函館の大火で死者が六百五十人も出たこともあって、火災保険はちょっとしたブームで、哲朗もちょうど加入したばかりだった。虫が知らせたのか、多額の保険金を掛けておいた。もちろん、火事は不快な出来事には違いないが、おそらく実質的な被害はそれほど多くはないだろう。  哲朗は自分の幸運に、ほっと胸を撫で下ろす思いだったが、なんと、この幸運が後で、とんでもない誤解を惹き起こす羽目になる。  火元はすぐに判明した。隣の洋食屋の厨房の煙突から出た火の粉が、工藤家の物干し台に干してあった蒲団に飛んで、火がついたのだった。  夕方になって帰宅したやすと子供たちは、変わりはてた我が家に呆然とした。弟子たちは、留守にしていたことを、さかんに哲朗に詫びていた。その時だった。突然、本所警察の巡査が現れ、哲朗に同行を求めたのである。家族の全員が、思わず耳を疑った。今度の火事は放火の疑いがあると、その巡査が言ったからである。  理由は三つあった。あまりにもタイミング良く、哲朗以外の家族が全員外出していた。その上、多額の火災保険を掛けたばかりだ。そして、本当に煙突の火の粉くらいで、蒲団が燃え上がるかどうかも疑問である。というわけで哲朗は連行されたのだった。  夕方も遅い時間だったので、もう今夜は家へは帰れないだろうと、哲朗は覚悟を決めていた。いずれ身の潔白は証明されるだろうが、気の小さいやすが、どれほど動転しているかと思うと、哀れでならなかった。  ところが、午後十一時も過ぎた頃、哲朗はなんの説明もないまま放免されたのである。まるで狐につままれたような気分で、家路を急いだ。  まだ焦げ臭い匂いが漂う写真館の玄関を開けると、どどっと子供たちが走り出て来た。居間へ行くと、やすがへたり込んだように座って泣いている。しゃくり上げながら、話し始めた。  哲朗が警察に連れて行かれたと聞くと、隣近所の旦那衆が、町会長を先頭に立てて、血相を変えて警察に乗り込んだのだという。「工藤の親父さんは、付け火なんかするような、ケチな野郎じゃない。子沢山で貧乏かもしれないが曲がったことをする人間じゃない」と、みんなが口々に抗議するので、警察もその気迫に押され、釈放を約束してくれた。「もうすぐ親父さん帰って来るよ」と、たった今、町会長が知らせてくれたばかりだという。 「皆さんのご親切が嬉しくって……」と、やすはポロポロ泣いている。哲朗もじんと胸が熱くなった。この土地に越して来て六年、いよいよ自分も、両国に根を張ったのかもしれないと思った。下町の人情が、しみじみと温かく感じられる。  やすが泣くのを見るのは久しぶりだった。傍で初枝もワァーワァーと涙の二重奏をやっている。気がつくと、男の子も弟子たちも、みんな下を向いて大粒の涙をこぼしている。それを見る哲朗の視界もぼうっと霞んでいた。   すべては順調。だが何かが足りなかった   あなたがた貧しい人たちは幸いだ。   神の国はあなたがたのものである。   あなたがた今飢えている人たちは幸いだ。   飽き足りるようになるからである。   あなたがた今泣いている人たちは幸いだ。   笑うようになるからである。  聖書をパタリと閉じて哲朗は考える。なにかが足りない。聖書にではなく、自分にだった。  人間の幸せなんて、相対的なものである。以前に比べて……とか、あの人に比べたら……といったところで、幸、不幸を感じ取る。  火事で燃えた写真館の二階は、保険金が三千五百円もおりて、きれいに再建された。むしろ、燃える前よりも上等な建築材料を使った。撮影用の機材も、最新式のものを購入できた。  なにか不思議なほど、街には活気があった。テロ事件が横行し、軍人が威張り出し、日本脳炎が流行し、利根川が氾濫したりしても、それでも日本人は元気だった。 「この頃、軍人さんがよく写真を撮りに来るね」と子供たちが言う。中国大陸へ出征する兵士たちが、記念に撮影をするのだ。  もともと、日本全国で写真館が飛躍的に増えたのは、日露戦争のためといわれている。出征記念に兵士が写真を撮るのと同時に、家族たちも肖像写真を撮って、兵士に持たせた。まだ一般家庭に写真機などなかった時代に、人々は写真館で今生の名残となるかもしれない瞬間を凍結した。  その思いは、昭和の代になっても変わってはいないのだろう。中国大陸がどれほど希望に満ちた約束の地であったとしても、兵士たちの顔には隠し切れない悲壮感や不安が漂っていた。  カメラのファインダーを覗くたびに哲朗は、それを感じていた。普通の家族の肖像写真とは、空気の密度がまるで違っている。まだ十代後半や二十代の初めの、若々しい兵士たちの顔は、いやにくっきりと、その輪郭を縁どる空気が濃く凝縮して見える。 「ずっと戦争が続けば、生一もいつか出征しますね」  やすに言われて、哲朗は、はっとしたものだった。まだ十五歳で、商業学校へ通う生一が徴兵されるなどとは、考えてもみなかったが、母親のやすは女だけに妙に勘が冴えることがある。一番末っ子の三歳の司朗は、身体が弱くて、よく夜中にひきつけを起こす。そんな時、やすは必ず目が冴えて眠れず、じっと司朗を見守っている。哲朗は大いびきで寝てしまうのだが、やすは司朗を自分の傍に抱き寄せて、片時も目を離さない。  男の子が三人もいれば、やすも戦争に無関心ではいられなかった。その上、やすはまた身籠っていた。来年の二月には、家族がもう一人増えるのだ。一人っ子で淋しい思いをした哲朗は、子供は多いほどいいという主義だった。もう生一や初枝が大きくなっているので、下の子供たちの面倒は見る。やすが子供を生んでくれるのは、哲朗にとってはうれしいことだったが、やすは浮かない顔をする日が多かった。  昭和十年は、おおむね良い年だったと哲朗は思う。火事はあったが、怪我の功名とでもいおうか、かえって保険金のお陰で店はきれいになった。初枝が府立第七高女に入学したのも、哲朗には自慢の種だった。学年で上位五番くらいに入っていなければ、第七は受からなかった。初枝がセーラー服を誂《あつら》えるのに、哲朗は学校に出入りの洋服屋では気に入らず、わざわざ日本橋の三越まで行って注文した。  順調といえば、あまりにも、すべては順調である。満州で航空写真を撮影する仕事の依頼も来た。まだ正式に返事はしていないが、軍の仕事で、各地にダムを建設するための空撮だと聞いた。しかし、もちろん哲朗はそれを鵜呑みにしているわけではなかった。破格の給与が提示されただけに、どうも裏はありそうだった。 「それでも、お金がいいんだから引き受けたらいいじゃないですか」  月に一回、満州へ飛ぶ仕事で家計が潤うならと、やすは呑気に勧めるが、どこかに躊躇《ためら》う思いがあって、なかなか返事ができないでいた。  あんまり長く貧乏だったから、少し暮らし向きが落ち着いてくると、変に居心地が悪いのかとも思う。中国大陸に渡って金儲けをする奴はたくさんいる。所沢の陸軍航空隊にいた頃の仲間にも、今は出世して満州で権勢をふるっている者が少なくなかった。日本人が優秀なんだから、それも当然だろうと哲朗は納得していた。  だが、なんとなく何かが足りないような気がする。昭和十年の晩秋、哲朗は世田谷に住む江渡狄嶺《えとてきれい》を訪ねた。  狄嶺は明治十三年十一月十三日に五戸村で生まれ、仙台二高から東京帝大に進んだ秀才である。だが、思うところがあって、一切の知識人としての活動をやめ、家族とともに武蔵野の一角で農業を始め、「百姓愛道場」と名づけた。原始共産制のごとく、すべての人間が平等で、労働に従事する尊さを謳っていた。狄嶺は五戸村が生んだ名士でもあり、哲朗は以前から名前は聞いていた。その狄嶺が農業学校「牛欄寮」を創立して、毎週日曜日には哲学その他の説話があると知り、出掛けて行ったのだった。  狄嶺自身が、若い労働者たちと起居を共にしながら作農をする姿は、確かに感動的だった。同郷の哲朗の来訪も快く迎えてくれて、気さくに言葉をかけてくれた。 「だが、あれは辛いな」  帰宅した哲朗は、狄嶺の説話よりも牛欄寮の光景の方が、強い印象として残っていた。あまりにも、すべては混沌としている。人間も家畜も、土も作物も、あらゆる有機物が境界線をなくしたまま共存していた。それが、狄嶺の理想とする農耕共同体の生活には違いない。しかし、半ば都会の人間となってしまった哲朗には、土間に家畜と人間が同居する生活への順応性はなかった。精神の純粋性に対する憧《あこが》れはあったが、そこまで極端にはなれない。  何を捜しているかは、哲朗にもわからなかった。ただ、このまま流されるのは恐ろしい。哲朗の手にある聖書には、次の言葉が続いていた。   しかしあなたがた富んでいる人たちは災いだ。   慰めを受けてしまっているからである。   あなたがた今満腹している人たちは災いだ。   飢えるようになるからである。   あなたがた今笑っている人たちは災いだ。   悲しみに泣くようになるからである。   ライカを手に入れ相撲を撮り始めた 「工藤君、ライカなんか買ったって写真館じゃ商売にならんよ」  いつになく厳しい口調で中鉢直綱が言う。哲朗は、ちょっとむっとしながら答えた。 「いえ、商売にしてみせます」  昭和十一年も明けたばかりだった。新年の挨拶に、麻布の中鉢写真館を訪ねた哲朗は、近いうちにライカを買う予定だと話したのだった。  中鉢直綱は、哲朗が北海道から東京に渡って、最初に師事した先生だった。麻布飯倉五丁目にあった中鉢写真館は大正時代にしては超モダンな洋館で、中鉢自身もアメリカで修業しただけあって、洒落た雰囲気を身につけた人だった。  若い頃の哲朗は中鉢の影響を強く受け、中年になってからも、写真師とは時代の先端をゆく感覚が必要だと思っていた。そして、その感覚は、どこか垢抜けた非凡なものでありたかった。  だから、哲朗は他人と違ったものを身につけるのが好きだった。カンガルーの靴や、ウォルサムの時計などは、その心意気の表れともいえた。少し生活に余裕が出てからは、洋服も出来合いのものは嫌って、変わった素材でオーダーすることが多かった。  ドイツ製の小型カメラ、ライカの高性能について、哲朗はたびたび写真師仲間から聞いていた。仲間の一人市村利平が上海へ行くと知り、ライカを買って来てくれるよう頼んだのだった。  しかし、頼むまでには哲朗もずいぶん迷った。なにしろ家一軒が千円前後で買えるというのに、ライカ一台が七百円したのである。新装開店した写真館の客足は順調とはいえ、哲朗にとっては一世一代の出費だ。  だが、写真師としての哲朗には、ある予感があった。スタジオで来てくれる客を待つだけではダメだ。これからは、写真師も外へ出てゆく時代が来る。小さくて、抜群の性能を備えたカメラがあれば、被写体の量質は、ともにぐんと上がる。それにはライカ以外になかった。  とはいうものの、七百円もの金を、ただの趣味道楽で使うわけにはゆかない。ライカで商売をする目算が哲朗にはあったのだが、中鉢は斬り捨てるように「商売にならんよ」と言う。他人に先がけて、どんどん新しい技術や機材を導入していた中鉢が、思いがけず保守的な発言をするのが、哲朗には意外だった。そういえば、写真技術の可能性についても、哲朗は、「まだもっと、何か違ったものがあるはずだ、新しい技術がないものか……」と常に考えていたが、そしてその姿勢は中鉢から学んだはずだったのだが、功成り名遂げた今の中鉢は、悠揚迫らざる態度で、日常業務をこなしている。「そこまで俺は固まっていないぞ」と、哲朗はそんな中鉢に接して、あらためて闘志が湧いてくる。  市村利平を長崎まで迎えに行き、待望のライカを手にした哲朗は、しばらくは街に飛び出し、スナップ写真ばかり撮っていた。  ようやくライカが自分の身体の一部となり、目と頭が直接パイプでつながったような感じになった頃、哲朗は小柄な初老の紳士の来訪を受けた。  差し出された名刺には「帝都日日新聞社社長、野依秀市」と書かれていた。これがあの野依秀市《のよりしゆういち》かと、哲朗はまじまじと、丸眼鏡に頭の禿げ上がった田舎くさい男の顔をみた。  その当時、野依の名前は日本全国に知れ渡っていた。といっても、良い意味で有名だったのではない。大正末頃に野依は東電事件というのを起こしていた。東京電灯が値上げをしたのに対し『帝都日日』は値上げ反対の論陣を張っていたのだが、その論調はだんだんエスカレートしていって、最後に何を思ったか、東電の社長に短刀を送りつけたのである。警察沙汰にまでなったこの事件で、野依は、いわば言論ギャング、たかり屋、恐喝屋といったイメージを世間に与えた。実際、これ以後も野依は新聞を武器に、気に入らない人間を叩き、その上で金銭で問題を解決するという恐喝まがいの商売をしているとの噂だった。  あまり評判の良くない野依だったが、一つだけ金銭の勘定を抜きに打ち込んでいるものがあった。それが相撲だったのである。  四尺七寸(約一四二センチ)しかない小男だった野依は大きいものが大好きだった。特に相撲は「勝負がはっきりしているから好きだ」と言って、場所が始まると『帝都日日』の三面全部を相撲記事にした。  まだ相撲がさびれていて、大手の新聞はろくに勝敗の結果さえ報道していない頃から、野依は地方巡業の結果まで詳しく報じた。したがって、相撲ファンはどうしても『帝都日日』を購読することになる。ようやく相撲が勢いを盛り返しつつある昨今は、『帝都日日』の部数も伸びていた。 「いやー、私も小さいが、あんたも小さいねえ」というのが、野依の第一声だった。実際、哲朗と野依ではどっちがどっちと言えないほど、二人とも小さかった。哲朗は気さくな野依の言葉に親近感を覚えたが、これは野依が他人と打ち解けるために、いつも使う手でもあった。  野依が帰った後で、やすが言ったのである。「今ね、立浪さんのところに双葉山って相撲がいるでしょ、野依さんは最近は双葉を贔屓《ひいき》にしているんだけど、やっぱり初めて会った時に、『君も中津出身なら僕も中津なんだよ』と言ったって話ですよ」  それ以来、野依は双葉山の面倒を見てきた。しかし、もちろん、この時はまだ、哲朗もやすも、そして野依さえも、双葉山が歴史に残る大横綱になるとは夢にも思っていなかった。  野依の来訪の目的は、哲朗のライカにあったのだ。これからの時代は新聞も写真が重要になる。特に今は相撲がふたたびブームになっているので、ぜひ本場所の期間は、その日の名取組の写真を載せたい。しかし、弱小新聞社としては専属の写真師を雇う予算はない。伝え聞いたところによると、あなたはライカをお持ちだとのことなので、場所中だけ、我が社と契約して相撲の写真を撮ってもらえないだろうか——というのが野依の口上であった。  哲朗は感激した。わざわざ社長が出向いてきたのである。しかも、あのライカが、ついに商売になるのだ。胸がキリキリとしめつけられるような興奮を感じた。  昭和十一年春場所から、哲朗はライカを肩に国技館へ通うようになった。相撲の勝負は一瞬の間につく。砂かぶりに待機して、最高のショットをとらえるのは神経を遣う仕事だった。場所中は、ずっと下痢が止まらなかった。神経を異様なほどに張りつめていた。それでも写真師としての新しい場面の展開に哲朗の心は充実していた。 [#改ページ]     ㈼   その朝、物売りの声がぱたりと止んだ  下町の朝は、物売りの声で始まる。一番早いのが浅蜊《あさり》や蜆《しじみ》売りの声で、午前六時頃には、もう聞こえてくる。 「あさり〜しじみ〜」  朝の空気をふるわすように、その声が響くと、工藤家の子供たちは家の中から全員で声を揃えて怒鳴り返す。 「あっさり〜死んじめぇ〜」  外を歩く物売りに、この声が聞こえるのではないかと、初めはハラハラして子供たちを叱りつけていたやすだったが、近頃はあきらめている。どうしたって、毎朝一回は怒鳴らないことには子供たちはおさまらないのだ。  大騒ぎで子供や弟子たちが、顔を洗ったり身づくろいをしていると、今度は納豆屋が町々を通り抜ける。 「なっとぉ〜なっと、なっとぉ〜」  こちらは少年の声だった。肩から籠を下げている。その中には藁《わら》の苞《つと》に包んだ納豆と辛子が入っている。  青森育ちの哲朗は納豆が好物なので、朝食の膳に出ない日はなかった。  続いて、豆腐屋のラッパが悲しいような、くぐもった音で鳴る。朝夕、必ず二回、このラッパの音が聞こえるのだが、夕暮れの方が、より物悲しい感じがする。豆腐屋は天秤棒《てんびんぼう》の両端に盥《たらい》を下げて、ピチャピチャと豆腐を泳がせている。頼むと厚い木のまな板を出して、「はい、味噌汁ね、やっこね」と、料理に応じた大きさに豆腐を切ってくれた。朝の味噌汁に、きちんと間に合う時間に現れる。  少し遅れて煮豆屋が、チリンチリンと、遠慮がちな鈴の音を響かせて、ゆっくりと荷車を引いて来る。お多福、うぐいす、うずら、ぶどう、黒豆など様々な種類の煮豆が、甘辛く味つけされていた。下町育ちのやすは、煮豆にちょこっとでも箸をつけないと気がすまないので、これも納豆と並んで朝食には欠かせなかった。  冷蔵庫もなく、お手伝いさんもいなかったが、買い物は家にいて、ほとんどの用が足りた。午前中のうちに魚屋は、今日仕入れた魚の種類を経木に書いて、注文を取りに来る。夕方には頼んだ魚が配達される。八百屋も酒屋も必ず御用聞きに来た。  子供たちは学校が始まる時間に合わせて、順番に家を出る。一番早いのは、平井にある府立第七高女に通う初枝だった。  その日は朝から、しんしんと雪が降っていた。そして、どうしてか物売りの声が、雪に封じ込められたようにどこからも聞こえてこない。  なんだか変だ——と、初枝は思っていた。ラジオも雑音ばかりで、ガーガーと嫌な音を立てるので消してしまった。  多分、この大雪のせいであろう。それでも、やっぱり学校には行かなくちゃと、初枝はオーバーを着て手袋をはめた。それから、生まれて十日しかたっていない赤ん坊の顔を、ちょっと覗《のぞ》き込んだ。  工藤家にまた男の子が生まれたのである。名前は敏朗とつけられた。目がクリクリして、全体にまん丸い赤ん坊だった。「あの子の仇名、南京豆がいいや」。そう思いながら、初枝はゴム長を下駄箱から引っ張り出して履いた。準備完了。昭和十一年二月二十六日、午前七時三十分だった。  学校は、どんなことがあっても休んではいけなかった。頭から、固く信じ込んでいた。初枝だけではなく、同級生はみんなそうだった。だから、去年の秋に、台風で中川が氾濫し、平井の駅前の大通りが水浸しになった時は、なんと舟に乗って学校までたどり着いた。まさか、あの大通りを舟で渡るなんて……と、初枝は思い出すたびにおかしくなる。学校側が、ちゃんと生徒のために、舟を出して、高台になっている駅から、四、五人ずつ乗せて運んでくれたのだった。  あの時はさすがに遅刻しても、先生に怒られなかった。しかし、今日はそうはいかない。八時四十五分までには、教室に入っていなければと、いつもより十五分も早く家を出た。  ほとんど小走りに、雪を蹴散らしながら靖国通りに出て、国技館の前の交差点のところで、信号を見ようと傘を上げたとたんに、異様な感覚が全身を打った。  音がない。靖国通りの音が消えていた。市電が通っていないのだ。市電だけではない。車も走っていない。朝のあの喧騒が、ぽっかりと嘘のように雪の中に消えていた。  その代わりに、今まで見たこともない光景が、目の前にあった。交通が遮断された大通りの真ん中に、武装した兵士たちが、何十人も並んでいる。彼らの前には機関銃が一列に地面に据えつけられていた。  武装した本物の兵士を見るのは、初枝は初めてだった。しかも、こんなにたくさん、いっぺんに白い雪を被って立っている。ぎょっとして、しばらく立ちすくんだが、また気を取り直した。なにがあったか知らないが、とにかく学校へ行かなければならない。敢然と、初枝は信号を渡り始めた。両国駅へ行くには、ここを渡るしかない。  通りの半分くらいまで来たところで兵士の一人に呼び止められた。 「君、駅へ行っても電車は走っとらんよ」 「でも、学校へ行かなきゃならないんです」  必死の形相で初枝が答えると、 「学校も今日は休みだ」  と、はっきりとした口調で、その兵士は言い切った。初枝は通りの真ん中で立ち往生した。兵隊さんが嘘を言うはずはない。しかし、どうして、電車も通っていなければ、学校も休みなのか。駅へ行けば、その理由を書いた貼り紙でも出ているのではないだろうか。  じっと初枝が兵士の顔を見詰めたまま考えていると、まるで外観にそぐわぬやさしい声で傍へ寄って来て説明してくれた。今朝早く、反乱軍が首相官邸その他を襲った。今はもう鎮圧にあたっているから心配はいらないが、千葉方面から援軍が駆けつけるらしいとの情報が入った。それで、我々は待機して、もしも反乱軍が来たら、ここで喰い止めて一歩も都心に入れないつもりなのだ。  そう言われて、はっと気づくと、確かに機関銃はピタリと千葉の方角を指して並んでいる。  とにかく家へ帰って、今日は一歩も外へ出るんじゃない。家族にもそう伝えなさいと言われて、初枝はすごすごと家へ引き返した。  思いがけない休みに、小学生の明ははしゃいでいたが、生一と初枝は不安だった。あの靖国通りに、もしも反乱軍の援軍が押し寄せたら、ドンパチ市街戦が始まるのだろうか。やすも、産後の疲れが取れない青い顔で、敏朗を抱いたまま押し黙っている。いつもはお喋《しやべ》りな哲朗も、なぜか無口だった。   置き手紙を残して、哲朗は姿を消した  哲朗が、いつ家を出たのか、気づいた人は誰もいなかった。昼食が終わって間もなく、すうっと消えてしまったのである。  玄関のところに置き手紙があった。 「虎ノ門の北村さんのところまで行ってきます」  ただそれだけ書かれていた。家族は思わず顔を見合わせた。  今日は電話も不通だし、ラジオも止まっていた。何か大変なことが、首相官邸で起きたらしいとは聞いていたが、委細は不明だった。もしかして、靖国通りまで反乱軍の後続部隊が押し寄せてくれば、このへん一帯も弾丸が飛び交う羽目になるだろう。戸締りをよくして、一歩も外へ出ないようにと、町会を通じて警察からの通達もあった。  だから、家の者はみんな居間に集まってひっそりとしていた。それなのに、いつの間にやら哲朗だけ姿を消してしまった。 「またか……」 「それにしてもねぇ」 「だめだよ」 「だけど……」  家族にだけわかる会話が、哲朗の置き手紙を前に交わされていた。  哲朗がなぜ出掛けたのか、みんな百も二百も承知していたのである。  とにかく事件が大好きなのだ。火事、台風、地震、大雪……など、なんでも変わったことがあると、誰よりも真っ先に、哲朗はカメラを持って飛び出してゆく。  写真は日記だ——と、哲朗は口グセのように言っていた。文字を書くのは面倒くさい。それに文章はうまく書けない。そのかわりに写真ですべて記録を取っておけばよい。  面白いものがあったら、すぐに撮れと、弟子たちにも言っていた。たとえば旅行をする。新しい町に着いた瞬間に、「わあーっ」と思うような珍しい景色が目に入るはずだ。そうしたら、その場でカメラに撮っておけ。翌日になると、もう目が慣れてしまって、それは当たり前の景色になってしまう。感動は、感動した瞬間にカメラでもって自分の側に取り込んでしまうことだ。  そう言って、それを実践していた哲朗は、台風ともなれば雨合羽に長グツで、それこそ嬉々として暴風雨の中をあちこち歩き回った。  そんな哲朗の性癖を知っているだけに、また飛び出したのかと、家族は察しがつくのだった。しかし、今回は台風や火事とは違う。小さな戦争のようなものが、すぐ近くで起きている。  置き手紙に書かれている北村さんとは、同じ写真師仲間で、虎ノ門に店があった。そこまで行けば、もっと詳しい情報が入るだろうし、面白い写真も撮れるかもしれないと哲朗は考えたのだろう。 「北村さんのところに行って、先生を連れもどして来ます」  弟子の一人が決心したように言い、午後三時頃、家を出た。だが、ものの三十分もたたないうちに帰って来た。「駄目です。お巡りに止められて、靖国通りより先へは行けません」  街角という街角には、兵士か巡査が立っていて尋問されて、家へ帰れと言われる。警戒が厳重で、市中を歩くのは不可能だった。  それでも哲朗なら、きっと虎ノ門まで行ったに違いないと家族は思っていた。なにしろ身が軽くて敏捷なのだ。電車の飛び乗り、飛び降りなど自由自在だった。警戒網をごまかすくらい、哲朗だったらやるだろう。 「それにしてもねぇ」  同じ言葉を子供たちは何度も繰り返した。誰も口に出しては言わないが、哲朗の心はわかっていた。ライカを試したいのだ。もうライカは、哲朗の目の延長みたいなものだ。写真師の勘で、今度の事件の記録こそ、ライカで撮れば、歴史の一瞬を封じ込めることになると知っている。  二月二十六日の夜、哲朗はとうとう帰って来なかった。相変わらず電話も不通で、北村とも連絡が取れず、ついに哲朗の行方はわからなかった。  翌二十七日、ようやくラジオ放送が再開され、事件の全貌がわかってきた。一部の青年将校たちが、二十六日早朝、首相官邸、内大臣私邸、朝日新聞社などを襲撃し、岡田啓介首相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が即死したと報じられた(後に岡田首相は生存していたことが判明する)。  反乱軍は、議事堂を中心とする官庁街を占拠していたが、間もなく鎮圧される予定だから、国民は流言に惑わされぬようとのラジオ放送もあった。  学校は二十六日は休校だったが、翌日から始まり、電話も通じるようになった。  それでも依然として、哲朗は帰って来なかった。虎ノ門の北村に問い合わせたが、わからないとの返事だった。北村の家に泊めてもらったのだろうという希望的観測もなくなった。  若い将校たちが、何を考えて政府首脳部の暗殺を謀ったのか、一般庶民には、よく理解できなかったが、どうやら反乱軍は半端な人数ではないらしいとのニュースが入ってきた。 「馬鹿なことをするねぇ」  昨日から極端に無口になって、顔色も悪いやすは、女学校から帰って来た初枝に、赤ん坊の敏朗を手渡した。  敏朗を膝の上に抱き取ってから、初枝は聞く。 「兵隊さんのこと? お父ちゃんのこと?」 「両方だよ。馬鹿なんだよ、本当にねぇ。兵隊さんだって奥さんや子供がいるだろうに。自分のことばっかり考えて、よくも勝手なことができたもんだよ。責任取って、みんな死ななきゃならないっていうのに。死ぬのは男の勝手だけど、後に残された奥さん、子供はどうするのさ」  やすの声は震えている。無理もないと初枝は思った。五人目の子供が生まれたばかりで、一家の大黒柱だというのに、ライカを持ってすっ飛んで行ってしまうのは本当に馬鹿だ。流れ弾にでも当たって死んだら、どうするつもりなのだろう。それは兵隊さんたちだって同じだ。 「男ってね、しょうがない馬鹿なものなのよ」  日頃は穏やかなやすが、いつにない激しい言葉を吐いても、初枝は驚かなかった。やすが心底怒っているのが感じられたからだった。  二十九日の夜になって、ようやく哲朗は帰って来た。虎ノ門の近くで警備中の兵士に尋問され、近所の小学校に三晩もとめおかれたのだという。せっかくのライカも役に立たず、写真は一枚も撮れなかった。「下士官兵ニ告グ」と大書されたビラだけ、さも大事そうに持って帰った。男の子や弟子たちは、哲朗を囲んで、その冒険談を聞くのに余念がなかったが、やすと初枝は口もきかずに横を向いていた。   英雄・双葉山の出現に初枝の胸は躍った  二・二六事件が、結局はなんであったのか。やすには最後までわからなかったが、「馬鹿なことをするものだ」という怒りに似た、激しい感情がおさまってみると、後には、「酷《むご》いことだ」という思いばかりが残った。  反乱軍の兵士たちは、昭和維新と叫んだというが、妻子を捨ててまで、なにをどう新しく改める必要があるのだろう。家族がみんな健康で、諍《いさか》いがなければ、それ以上に望むものがあるというのだろうか。  なによりもぞっとしたのは、自分の夫が、まるで憑《つ》かれたように、軍靴の足音に興奮して、ライカを抱えて飛び出して行ってしまったことだった。哲朗が三日も帰らない間、やすは心底から情けない思いをした。妻の自分も、五人の子供たちも、そんなに簡単に忘れられるのかと思うと、腹が立って仕方がなかった。  それでも、哲朗は体裁の悪そうな顔をしながら、三日目には帰って来た。だが、殺された重臣たちの妻はもとより、殺した側の将校たちの妻も、結局はこの世に置き去りにされるのではないか。どんなに待っても、夫はもう帰って来ない。それがやすには、たまらなく酷いと感じられる。そして、一歩間違えば、自分や子供たちも同じ運命だったかもしれない。  内向的なやすは、面と向かって哲朗をなじることはしなかった。だが、「あなたの本心は、よくわかりました」と言わんばかりに、冷ややかな眼差しを夫に向ける。それは哲朗にもビンビンと伝わってくるのだが、こちらも、わざと弁解しようとはしなかった。  日本は今、大きな転換期を迎えていると、哲朗は見ていた。しかも、あまり多くの選択はないだろう。このまま軍部が強くなれば、どこへ突き進むかおおよその想像はついた。その想像が流れ出す原点に、二・二六事件があったような気がする。  やすが考えているように、無責任な物見高い気持ちで、雪の中をほっつき歩いたのではない。歴史の転換期を、しっかりと記録に残すのが、写真師としての自分の使命と感じたからだ。  心の中で、何度もそう弁解を繰り返してはいるのだが、口に出して説明する気にはなれなかった。乳呑み児の敏朗を抱き、明や司朗にまつわりつかれるやすの姿は、哲朗にそんな弁解をする隙を与えない強さがあった。 「女子供に、なにを言ったって、どうせわかりっこない」と、哲朗は居直って、やすの眼差しを無視することに決めた。  夫婦の間が、なんとなくギクシャクしているのなら、日本の世相そのものも、やはり滑らかというわけにはゆかず、二・二六事件から派生した不安感は、どんよりした雨雲のように、いつまでも帝都の空に居座っていた。  そんな中で、厚い雲を突き破って差し込む、一条の光のように明るい話題もあった。  話は溯《さかのぼ》るが、この年の一月、大相撲の春場所で、彗星《すいせい》の如く出現し勝ち星を重ねた力士がいる。  双葉山定次だった。  東前頭三枚目で、九勝二敗の成績をおさめたが、これは全勝優勝の横綱玉錦についで、大関|男女ノ川《みなのがわ》と並ぶ好成績だった。  そのため、五月の夏場所には関脇の座に駆け上った。後になってみれば、この時すでに、前人未到の六十九連勝が始まっていたのだが、もちろん当時の人々はそんなことを知る由もなかった。  だが、双葉山人気は異様だった。そのお陰で、相撲は空前の黄金時代を迎えたと言われ、連日札止めが出るほどの盛況ぶりだった。  普段は相撲が嫌いで、よほどの美男力士でも来ない限り、愛想笑いもしない初枝も、双葉山だけは別格だった。 「双葉山って可愛いのよねぇ、ああボロ錦が憎ったらしい」  横綱の玉錦を初枝は目の仇にして、ボロ錦と呼んでいた。それに比べて、双葉山は可愛くて可愛くて仕方がないと言う。 「どこがそんなに可愛いんだい?」  あきれたように、笠置山《かさぎやま》が聞く。  笠置山は出羽海部屋の力士で、前年に入幕した。年齢は双葉山より一歳上の明治四十四年生まれだった。  哲朗と、どこか性が合うのだろう。笠置山は東京にいる間は、ほとんど工藤写真館に入り浸っていて、場所中も、写真館から真っ直ぐに国技館へ場所入りしていた。  初枝が笠置山に一目置いていたのは彼が早稲田大学出身のインテリ力士だったからだ。文学、演劇にも詳しく、弁も立てば筆も立つ。小説まで書くという異色力士だった。 「どこが可愛いって、あの姿がいいのよ。清潔な感じじゃない」  初枝の返答は、だいたいどの女性も双葉山に対して感じていることだった。 「それは本当ね。まだ双葉が十両になったばかりの頃、うちへ写真撮りに来たことあったけど、他の若い相撲取りと違って、下品な話は全然しなくて、ああ清潔な子だなぁって思ったわ」  相撲界の裏表を見尽くして、女や酒、賭博に溺《おぼ》れる若い力士も多いことを知っているだけに、やすも双葉山の生真面目な態度には好感を抱いていた。  それだけに、夏場所九日目に、双葉山が最強豪の玉錦を倒した時の、やすや初枝の喜びようはなかった。  ラジオの前で、固唾《かたず》を呑んでその一戦を聞いていた。初めから、玉錦は勝つつもりなので傲然《ごうぜん》と双葉山を睨《にら》みつける。過去六回の顔合わせで、一方的に玉錦が勝ち続けていたのだから当然だった。仕切り七回で立ち上がると、激しい突き合いの後、双葉山に有利な右四つの体勢となった。そのまま、双差しを狙って巻き返そうとする玉錦の隙を寄り立てて、正面土俵一杯に詰めて骨も折れよと浴びせ倒した。  これが、歴史に残る覇者交代の一番だった。  勝敗を伝えるアナウンサーの声は、満場総立ちとなった見物客の喚声にかき消された。ラジオの前で、日本中の家庭が手拍子を打って狂喜したと言っても過言ではないだろう。  この一戦以後、ついに玉錦が双葉山に勝つ日はこなかった。十一年の夏場所を全勝優勝で飾った時、双葉山はもう、新しい日本の英雄だった。  大阪の夏場所から東京へ帰った笠置山は初枝の変貌ぶりに唖然とした。双葉山と並んで撮った集合写真を、初枝は勝手にエアブラシで、周囲の人たちを消してしまい、自分と双葉山だけ残して悦に入っている。  あの相撲取りをいつも馬鹿にしている小生意気な女学生の初枝がと思うと、笠置山はライバルである立浪部屋の力士、双葉山のカリスマ性に、なにか不気味なものさえ感じるのだった。   奇跡のように双葉山は連勝し続けた  奇跡だ……と、日本人は誰もが思った。昭和十一年の夏場所の全勝優勝から、双葉山は勝ちっ放しだった。  昭和十二年の一月場所には大関に昇進した。そして迎えた五月場所は、興行日数が十一日から十三日に延長された。これは、相撲人気があまりにも凄《すさ》まじく、午前三時から行列ができ、それでも毎日、数千人の客が収容しきれず、追い返される始末だったからである。  相撲の黄金時代到来と、新聞、雑誌は報じた。国技館周辺は活気に満ちあふれ、力士たちは日本中どこへ行っても大歓迎を受けた。つい数年前までは過去の遺物のように見られていたのが、まるで嘘のようである。  ある意味では、双葉山はラッキーだった。ちょうどこの頃、横綱陣は盛りを過ぎていた。五月場所では、武蔵山は怪我に倒れ、男女ノ川も休場しており、三横綱中、出場したのは玉錦だけだったが、その玉錦も三八度の高熱を押して土俵に上ったのである。  破竹の勢いにある双葉山のゆく手をさえぎる者はなく、この場所も全勝優勝して第三十五代横綱となった。  誰の目にも、確実に年老いた力士は淘汰され、新しい英雄の時代となっていた。  初枝は無邪気に双葉山の活躍を喜び声援を送っていたが、やすは力の衰えた力士への同情の方が強く感じられる。特に準優勝ながら潔く、この場所を最後に引退声明を出した清水川には特別の思いがあった。  清水川は、双葉山より十二歳も年長の三十七歳だった。若い頃、女性関係が原因で、一度、二十山部屋を破門になっている。しかし、なんとか帰参させたいと後援者や父親が相撲協会に働きかけたが、聞き入れられなかった。思いあまった清水川の父親は、自分が死んで詫びたなら息子の帰参が叶うかもしれないと、相撲協会に詫び状を残して自殺した。さすがの協会関係者も、これには心を動かされ、前例を破って清水川の帰参を許した。  実に二年ぶりで相撲に復帰した清水川は、十両から出直して、大関にまで昇進した。だが、続けざまに三場所も双葉山に敗れた上、腰を痛めたため引退を決意したのだった。  やすは、大関昇進の時、写真を撮りに来た清水川の嬉しそうな表情や、盆踊りの夜に、芸者衆を何人も連れて両国橋を渡っていた男らしい、いなせな風情などが走馬灯のように目の前に浮かぶのをなつかしんでいた。  双葉山のように、すっくと伸びた若竹みたいに、真っ直ぐ美しい力士もいいが、世の辛酸をなめ尽くした清水川のそれ故に滲《にじ》み出る苦みをたたえた顔も良かった。  そんな清水川のような力士も、これからはだんだん少なくなってゆくのかもしれない。相撲ファンの賞讃を一身に集める双葉山は、あらゆる点で優等生だった。神々しく輝くようで、馬鹿な失敗などしそうには見えなかった。  翌年の昭和十三年十二月には、初枝が「憎らしくって」と言っていた玉錦が、あっけなく盲腸炎で死んでしまった。  旅先で腹痛に襲われたが、医者にかからず、風呂に入った上に、若い弟子たちに腹をマッサージさせた。そんなことをすれば盲腸は破裂して、たちまち膿《うみ》があふれる。激痛に苦しみながら玉錦は死亡したという。  笠置山から、その最期の様子を聞いて、さすがに初枝もしゅんとなった。  玉錦は豪放|磊落《らいらく》を装っていたが、本当は気の弱い男で、常に取り巻きがいないと不安だった。初めて双葉山に敗れた夜も、相撲の終わった後で、双葉山の支度部屋を訪れ、豪傑笑いをして、その肩を叩き相手の勝利を祝福した。余裕しゃくしゃくたるその態度に、さすがは大横綱と、居合わせた人々は感激した。それは新聞や雑誌にも報じられた。  だが、それは玉錦の精一杯の見栄だったのだろう。 「死んだ者に、どうこう言う気はないが、わしも玉錦は、あせっていたと思うよ」  哲朗は、本場所の支度部屋で、玉錦の周囲に、いつも、ごろつきのようなヤクザ者がたむろしていたと言う。その人数は、双葉山に敗れ、落ち目になればなるほど増えていった。人相の良くない男たちに囲まれ、暴飲暴食を重ねる玉錦は、哲朗の目には手負いの野獣のようにも見えた。  あきらかに、体力も気力も衰退の一途をたどる玉錦の現実とはうらはらに、日本の世相は相撲を熱狂的に持て囃《はや》し、玉錦を双葉山に対する強力な対抗馬とみなしていた。  昭和十二年の七月には、蘆溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まった。戦局は拡大を続け、国をあげての軍事色が強まる中で、相撲は国技として、非常時に最もふさわしいスポーツと目された。  ひらたく言えば、軍部の精神主義が実にすっぽりと、うまくはまったのが相撲であった。  そんな時代の期待を、衰えた身体で無理にでも演じきろうとしたのが玉錦だったのだろう。 「いやあ、名横綱でした。ああいうタイプの相撲はあの人で終わりだ」  笠置山がみんなの話をしめくくるように言うのを聞いて、初枝はおやっと思った。  哲朗がずいぶん控え目に言ったにしろ、玉錦が傲慢《ごうまん》で、しかも倫理観にも問題があったのは事実だ。また、それだからこその哀れさもあると哲朗は思っているはずだ。だが、同業の笠置山は、いかにも理知的な醒《さ》めた態度で、「名横綱でした」と片付けるのである。批判的な言葉は一切口にしない。ほとんど家族同然の人なのだから、ここで玉錦評の本心を語ったとしても、誰も他言はしないに決まっているのに。 「利口な男だ……」  初枝が感じたのと、同じことを哲朗も感じたらしい。笠置山が帰った後につぶやいた。 「勘ちゃんは、いつもそうじゃありませんか。余計なことや、理屈に合わないことはけっして言わない男です」  本名が勘治というところから、工藤家では勘ちゃんで通っている笠置山のことを、やすは相撲取りには珍しい、頭脳優先型の男だと思っている。清水川や玉錦の時代には、考えられなかった合理的な相撲取りである。 「そういえば勘ちゃんの付け人の柏木さんから聞いたんだけど、この頃、勘ちゃん八ミリに凝ってるんだって」  生一が思い出したように言う。 「八ミリ?」  家族全員、びっくりして聞き返す。 「そうか……勘ちゃん研究してるんだな、あの男の考えそうなことだ」  哲朗だけ一人、うなずく。 「なにを研究してるんですか?」と聞くやすに答えた。 「双葉山の取り口に決まってるじゃないか」   連勝は思いがけぬ相手に阻止された  その頃、軍需景気などと言われて、景気が良かったのは、ほんの一握りの軍部関係者にすぎなかった。昭和十二年の日中戦争勃発以後は、「非常時」との掛け声と共に、一般庶民は質素な生活に耐えるのが美徳と思い込まされる時代に突入した。  第一次世界大戦の際、フランスの女性たちがスカートの裾を八インチ(約二〇センチ)短くすることによって、数百万フランも節約した例を挙げ、日本の女性の袂《たもと》も、元禄袖に統一しようという運動が本気で議論されたのは、昭和十三年の夏である。 「冗談じゃないわ。着物の袂は一尺八寸(約五五センチ)か二尺はなくっちゃあ」  いよいよ服装統一か……という見出しの新聞記事に、初枝は不服そうな声を上げる。「代用品育ての会」とか「帝都青年勤労奉仕」「街頭の無駄を拾う運動」など、新聞は、拡大する戦局に備えて、国民の心構えを問う世の論調を伝えてはいるが、両国|界隈《かいわい》は、そんな風潮とはうらはらに、華やいだ明るい空気があふれていた。  双葉山のお陰で、相撲は空前の大入りを続けている。写真館を訪れる客もさることながら、哲朗が本場所で撮る写真は、新聞、雑誌に引っぱり凧だった。写真館の居間には、力士の二、三人に加えて、新聞、雑誌の記者も二、三人はいつもたむろしているようになった。  開業当時は相撲そのものがさびれていて、ずいぶん苦労したが、やはり国技館の傍に店を出して良かったのだと、哲朗は内心得意でもあった。  正直なもので、仕事が忙しければ収入も増え、生活も贅沢になる。呉服屋の出入りが多くなったのも、昭和十三年頃からだった。娘の初枝が年頃になってきた上に、やすの唯一の道楽が着物だった。  毎年、春場所には九州の福岡から博多屋が上京して来る。相撲茶屋のおかみさんや芸者衆を相手に商売をしていた。もともとは、力士の締め込みや化粧廻しを作る専門店だったのだが、いつの頃からか定期的に荷を担いで東京に来るようになった。それでも十分に採算が取れるほど、博多屋の博多帯は両国界隈でよく売れた。  靖国通りの裏に小さな店を出している金伸《かねしん》も、始終、反物を見せに来た。若い主人は伸ちゃんと呼ばれて、芸者衆に人気があった。初枝も普段着は縞や格子の銘仙に、博多帯を締め、着物と共布で作った前掛けをつけた。着物の傷みようが違うし、共布の前掛けは下町娘のお洒落でもあった。本場の大島|紬《つむぎ》は高価なので、東京の村山で織る村山大島や埼玉の秩父銘仙が、もっぱら普段着だった。  そして、普段着は伸ちゃんから買っていたが、外出用となると、三越や松坂屋に行って最新の柄をさがした。現代なら、さしずめブランド志向とでも言うのか、良い品物が大好きだった哲朗は、母親のやすが不機嫌になるほど、娘の初枝のためには、金を惜しまずに着物を買ってやった。  三越のショーウインドウに、目のさめるような鮮やかな紫と白の矢絣が飾ってあると、哲朗はその着物を指さして初枝に言う。「おい、買ってやろうか?」。初枝が気に入った反物の前に立つと、必ず哲朗はこのセリフを言った。「おい、買ってやろうか?」  だから、初枝は自分の欲しいものはほとんどなんでも手に入ると思い込んでいた。中国大陸で戦争が始まったからって、どうして長い袂の着物を着てはいけないのか……冗談ではない、誰がなんと言っても、元禄袖なんか着るものか。  初枝がいつもの勝気な表情で文句を並べていると、兄の生一がおだやかに反論した。「お前な、みんなが元禄袖を着るとしたら、自分だけ長い袂の着物を着て嬉しいか? どれだけ元禄袖が馬鹿馬鹿しくっても、足並みを揃えねばならない時が、人間にはあるんだよ」 「どんなに馬鹿みたいでも?」 「そうだよ」  生一が答えると、傍で縫い物をしながら聞いていたやすが初枝の方を向いていった。 「お兄ちゃんだって、どんなに馬鹿らしくても、みんなが戦争に行く時はいかなきゃならないのよ」  これには初枝も、言葉の返しようがなかった。もうすぐ十九歳になる生一が出征することはあり得る。だが、日本軍が勝ち続けている限り、それほど心配しなくてもいいのではないか。それは、まだ初枝にとっては、元禄袖と同じくらい、小さな関心事だった。  相変わらず連勝を続け、昭和十四年を迎えた双葉山を、人々は、ひょっとしたら百連勝、いや二百連勝も続けるのではないかと噂し合った。  そして、日本軍も徐州の中国軍を破り、華北・華中の占領地をつなげ、さらに武漢三鎮、広東も占領、向かうところ敵なしの快進撃だった。  だが、双葉山の連勝は思いがけない力士によって終止符が打たれる。少なくとも普通の相撲ファンにとっては、予想外の結果だった。まだ前頭三枚目の出羽海部屋の力士、安芸ノ海が、春場所四日目に、浴びせ倒しで双葉山を破ったのである(当時の記録は、外掛けとなっているが、これは動転した報道陣が間違えたためだった)。  国技館に詰めていた哲朗は、この瞬間、思わずニヤリとした。 「あの男、やったな」  哲朗が思い浮かべた「あの男」とは、しかし、安芸ノ海のことではなかった。笠置山だったのである。安芸ノ海と笠置山は同じ出羽海部屋だった。関脇の笠置山は、いわば先輩格と言える。  名門、出羽海部屋の面子にかけても双葉山の連勝をストップさせなければと、笠置山の打倒双葉山に賭ける執念は凄《すさ》まじいものがあった。だが、自身は上背がなく、どうやっても双葉山に勝てない。普通の力士なら、ここであきらめてしまうところだが、笠置山は、八ミリ映写機で、双葉山の取り口を徹底的に分析した。その結果、双葉山が右足を引くクセがあるので、その虚を衝《つ》けば倒すのは可能だとの結論を出し、雑誌『改造』に発表までした。  素質に恵まれている安芸ノ海に、笠置山は双葉山の右足を狙う作戦を授けた。それが見事に功を奏して、双葉山の万全の体勢が崩れたのだった。  しかも、神経戦まで計算に入れて、巡業中も絶対に双葉山の胸を借りて稽古するなと、安芸ノ海に指示していた。そうすれば、安芸ノ海の力は、本番の時まで双葉山にとって未知数である。  こうした話を、笠置山の付け人から聞いていた哲朗には、灰皿や座布団が乱れ飛ぶ国技館の喧噪の中で、笠置山の笑顔が大きく甦《よみがえ》って来た。精神主義ではもはや相撲は勝てない。頭脳で勝つ時代になった。   不思議な街・上海をライカとともに彷徨した  どうして、もっと早く気づいてやらなかったのか……。  哲朗は、家々の軒先の間から、わずかに狭く覗《のぞ》いている下町の低い空を何度も仰ぎ見た。何度見上げても、視界は開けてこない。強い悔恨の思いだけが、胸いっぱいに広がる。  昭和十四年の五月、修学旅行で関西へ行った初枝が、帰京してから身体の不調を訴えた。旅行中、たびたび具合が悪くなって倒れたという。「病気かもしれない……」と言う初枝に、「病気? お前がか?」と、哲朗もやすも笑いとばした。  初枝は健康な娘だった。いつも真っ黒に日焼けして、外を飛び歩いている。女学生になっても、弟の明や司朗と取っ組み合いの喧嘩をしていた。エネルギーが満ちあふれている初枝が、少々気分が悪いと言っても、本気で心配する者は一人もいなかった。  だが、珍しく初枝は、ぐずぐずと床についていた。「なんだ、お前、わがまま病じゃないか、さっさと学校へ行け」。哲朗は、不機嫌に怒鳴りさえした。  そのうち、初枝の様子はどんどんおかしくなり、高熱が出始めた。それでも、まさか初枝が病気のはずがないと半信半疑のまま、やすが付き添って大学病院へ行くと、もう、かなり進んだ肺浸潤——つまり結核だと診断された。  即刻入院を申し渡され、やすだけが途方にくれた顔つきで初枝の着替えを取りに帰って来た。大きな風呂敷包みをかかえ、ふたたび、泳ぐような足取りで病院へ向かうやすの後ろ姿を見送ると、哲朗は二階の写場に上がり、一人で腕組みをして、じっと考え込んでいた。  落ち着いて、心の整理をしなければと思った。病状はずいぶん進行しているので、予断は許さないと医者は言ったらしい。日頃が丈夫な娘だけに、まさかと油断していた。そんなに悪くなるまで気づかなかったのは親の責任だった。不憫《ふびん》なことをしたと思うと、胸が詰まって涙がこぼれ出た。それを振り払うように、何度も窓の外に小さく透ける青空を見上げていた。  初枝を死なせたくはなかった。そのためには、どんな治療でも受けさせてやりたい。  治療方法は医者の指示に従うしかないだろう。だが、金だけは用意しなければならない。結核は金のかかる病気だと哲朗は知っていた。これといった特効薬はない。新鮮な空気を吸って、滋養のあるものを食べて、長期の療養生活を送る。それ以外に方法はなかった。しかし、その簡単で、おそろしく金のかかる治療方法を続けられないために多くの結核患者が死んでいった。  その夜、子供たちが寝静まった後で哲朗はやすと生一、それに弟子たちを前にして、中国へ行く決心を告げた。  もう三、四年前から、航空写真を撮る仕事で、満州から中国をまわってくれないかと軍部から打診されていた。写真館の一年分くらいの給与が提示されていた。それでも気が進まずに、ずっと断り続けてきた。ダムの建設用地の撮影というのが表向きの依頼だが、そんな簡単な仕事ではないと哲朗は承知していた。中国大陸の戦局は依然として拡大を続けている。敵の領土の正確な航空写真は、軍部が最も必要としているものに違いない。哲朗は日本の航空写真の草分けであり、その技術は定評があった。もしも、軍部が哲朗の手腕を買いにきただけならば、迷うことなく協力していたろう。しかし、手腕と同時に生命も買いにきたのだと哲朗は思っていた。  それが哲朗の|読み《ヽヽ》であり、その胸中を誰にもしゃべったことはなかった。特に女のやすには、とうてい理解できない話だと口をつぐんでいた。 「初枝の治療で、これからどれだけお金がかかるかわからないのですから、私もシナの仕事を引き受けてくれたらと考えていたところですよ」  やすはほっと安心したように賛成した。弟子たちも、先生の留守の間は我々で頑張りますからと、健気に言ってくれた。生一だけが黙って何も言わない。商業学校を卒業した生一は、家業を手伝っていた。最近は川端康成や横光利一の本をさかんに読んでいる。自分が若い頃は、小説を読む暇もなく働きづめだったことを考えると、生一が本を読むのは哲朗には好ましく感じられる。それだけ生活が向上したということだろう。  生一にだけは何か言い残して行こうかとも考えたが、結局は何も言わずに東京を発った。家族の生活は、父親である自分の肩にかかっている。初枝の生命も自分が支えている。その重さを、長男だからといって、生一に少しでもふり分けるのは卑怯な気がした。生一には生一の人生がもう始まっている。  与えられた航空写真の仕事はこなそう。これは契約だ。それだけの金をもらっている。だが、仕事以外の軍部との接触は極力避けようと哲朗は心に決めた。簡単に言えば、弱みを握られたくなかった。かなり危険な作業なだけにいつでも辞められる状態にしておきたかった。妙なところが潔癖な哲朗は、北支から南京を経て上海へたどり着く旅の途中、各地で空撮をしたが軍部の接待は食事も固辞した。それどころか、飛行場まで行くのに、乗用車が旅館に差し向けられても、絶対に乗らずに、テクテク歩いて行く徹底ぶりだった。 「私は一介の写真師で、車に乗るほど偉い人間ではありません」と言って、黙々と頼まれた写真だけ撮って帰る。頑固で変わり者の親仁《おやじ》と見られていたようだが、技術に関しては非の打ちどころがないので、軍人も文句はつけられなかった。  一ヵ月以上にわたる長い旅が終わり、哲朗が上海に旅装を解いたのは八月二十八日だった。もうここからは、九月一日に出る上海丸に乗るばかりだった。  正直言ってホッとしていた。心配したほどには危ない目にも遭わなかった。昔、所沢の陸軍航空隊に勤めた関係で、陸軍を通しての発注だった。旧知の陸軍軍人に各地で出会った。個人としては良い人間ばかりだが、中国人に対する居丈高な態度は、不気味な勢いを感じさせた。他人に威張るのも、他人から威張られるのも嫌いな哲朗は、日本軍の躍進を嬉しいと感じる半面、中国人に気の毒な気持ちも拭えなかった。  確かに、中国の空はのびやかに悠久の広がりを見せる。そして、空は地面ほどには、はっきりとした境界線がない。だが、いったん地上で戦いが起きれば、危険な面積は空の方がはるかに大きかった。戦争が続けば続くほど、自由に飛べる空は狭まってゆく。航空写真を撮ってみて、哲朗はこの大陸に自由な空がどんどん少なくなっているのに気づいた。それは多分、空が日本の空にも中国の空にもなりきっていないせいだろう。  ふいと、自分の家の二階から眺める下町の小さな空を思い出した。小田原の海浜病院に転地療養させている初枝の容態も気になった。やすや子供たちも八畳の居間で何をしているのだろう。  上海の黄浦江に立って、哲朗は自分が、両国の写真館をずるずると引きずったまま旅をしていたのだと、今さらながら後ろをふり返るような思いがした。  あと三日すると、哲朗を長崎まで連れ帰ってくれる上海丸が入港する。黄浦江の埠頭には、まるで重なるように幾隻もの大型船が浮かんでいた。水深があり、流れもおだやかなので、これだけたくさんの船が停泊していられるのだろう。湿気が多いのか海面がぼんやりと曇り、空までがゆらゆらと霞んでいる。茫洋として得体の知れない中国の空だ。  仕事が終わり緊張感が解けたためもあるかもしれないが、写真師として、哲朗は上海の風物に激しく心|惹《ひ》かれるものがあった。  こんな不思議な街は見たことがない——だが、その不思議の正体はわからない。わからないながら、ライカを肩に市内を歩き廻った。  心が動いたものを、動いた順に撮影してゆく。何も考えなかった。目とカメラが連動するだけだった。  どんな旅行者もそうであるように、哲朗が最初に驚いたのは、黄浦江沿岸ザ・バンドに建ち並ぶ高層ビル群であった。どの建物もヨーロッパの雰囲気を感じさせる石造りの美しいデザインだった。  海に面して建ち並ぶ、それらの建造物は、しかし、いかにも外壁じみた印象を与えた。中国最大の貿易港が、諸外国に見せる取り澄ました顔。それなのに、強く心を打つのは中国であることを忘れさせる西欧風の造形の故ではないか。黄浦江に降り立つ旅客は、地球の上にある東西のバランス感覚を一瞬のうちに失う。東でもなく西でもない、ただ上海という名の街があった。  ザ・バンドから南京路と呼ばれる大通りのあたりは、まさに堂々とした都会のたたずまいだが、裏道にはけっして入らないようにと、哲朗は上海をよく知る知人から注意されていた。  特に哲朗の場合は、生命の次に大切なライカをぶら下げている。治安の悪い地区はひったくりなど日常茶飯事で東京と同じつもりでいたら大間違いだと、日本を出る前にさんざん脅かされた。  中国人の対日感情がますます悪化しているとの噂も聞いていたので、哲朗は人の流れに沿うように、ぶらぶらと南京路を競馬場の方へ向かって歩いて行った。  写真を撮るのが商売であり、習い性となっているから、目がキョロキョロ動くのは仕方がない。ところが、南京路で、哲朗は目よりも先に鼻が動くのを感じ、手が素早くカメラを持ち上げていた。  今まで嗅いだことのない、きつい香りが漂って来たのだ。それは前方を歩く何人かの白人女性から流れて来る匂いだった。人工的な香水、白粉といった化粧品の甘い香りと、西洋人の体臭がミックスされた、形容し難い強烈な匂いだった。  それが未知の感覚であったから、自動的に哲朗の手は動き、シャッターを切ったのだろう。日本では、そろそろ華美な服装が非難の目で見られ、質素倹約が叫ばれている時世だというのに、共同租界を歩く西洋人の女性たちは、堂々と贅沢を享受し、臆するふうもなかった。  一度、鼻孔の感覚が鋭くなると、目と同じくらい多くの情報量を頭脳に送り込んで来るようになった。  南京路と福建路の交差点で立ち止まった哲朗は、つんと油っぽい匂いがしたようで反射的にまたライカに手をかけた。それは、どうやら通りの角に立つ、威風堂々としたインド人の巡査が発散している匂いのようだった。 「食べるものが違うからな……」  哲朗は巡査の傍まで歩いて行った。歩きながら、今度は埃っぽい匂いが後ろから追いかけて来る。あまり良い感じではないが、どこかで嗅いだ覚えがある。それは、哲朗の肩越しに通り過ぎようとする日本兵の軍服の匂いだった。  まだ年若い、純朴そうなその日本兵に頼んで、哲朗はインド人の巡査と並んで記念撮影した。  それにしても、にぎやかな通りだった。銀座と浅草を一緒にして、師走の慌ただしさを足しても、これほどの雑踏にはならない。あらゆる人種が波のように揺れながら歩いていた。市街電車、二階建てバス、自動車、自転車、人力車が勝手な速度で勝手な方向へと流れて行った。  裏通りへ入りたいのを我慢して、哲朗は四川路、河南路、江西路、福州路など、大きな通りばかりを盲滅法に歩いた。人間と建物の密度が、ここまで高いと、異様な興奮につき動かされて、いつまでも街中を彷徨《さまよ》っていたかった。  夕方になると、さすがに疲れ果て、どんよりと鈍い視線を左右に注ぎながら歩いていると、若布《わかめ》の塊のようなものが、道端に淀んでいる。と、その海草に似た黒いものから手が伸びて、中国女性の着物の裾をつかんだ。  行き倒れの子供だった。哲朗は何かを考える前に、シャッターを切っていた。真夏の街に充満している饐《す》えたような臭いが、夕風に乗って突然、強く流れ出た。痩せた中国女性は、子供の腕を足先でふりほどくと、何事もなかった顔で去って行った。日暮れとともに、ライカのフィルムも終わっていた。後は下を向いて、真っ直ぐに、旅館へ帰る道を急ぐだけだった。  九月一日、哲朗は上海丸に乗り、翌二日、長崎に到着、すぐに夜行に乗り継いで、三日に東京へ帰り着いた。  現像した上海の写真を、写場の床いっぱいに広げて見入っていると、生一が傍へ来て座った。 「上海ってすごい奥行きだね。上海じゃなくって、戦争の奥行きみたいでもあるけど……」  文学青年らしい生一の表現に、哲朗は不意を衝かれたようだった。戦争の奥行きの深さを、本当に自分は上海で見たのだろうか……。  写場の天窓に雨のぶつかる音がした。窓の外を見上げると、いつの間にか空は真っ黒に変わり、大粒の雨が落ちてきた。  洗濯物を取り入れるため、やすが慌てて階段を駆け上がる足音が聞こえた。  小田原に入院している初枝の病状は快方に向かっているものの、まだ当分、長引きそうだった。   長男・生一は哲朗の姿をいたましく思った  小田原の海浜病院に三ヵ月ほど入院した初枝は、病院のすぐ近くの小さな旅館へ移って、療養生活を続けることになった。  病状がいちおうの安定を見せた後では、特別な治療方法があるわけではなく、病院にいても旅館にいても、たいした違いがなかったためである。  それに、海浜病院は贅沢な病院で、個室の入院費を払うのは大変だった。まだ、旅館の方が多少は経費が安かった。  もっとも、そんなお金の心配は、絶対に初枝の耳に入れてはいけないと、哲朗はやすに厳命していたので、初枝は旅館の方が規則がうるさくなくて良いと、無邪気に喜ぶ程度で、その支払いに哲朗が身の細る思いをしていることなど、知る由もなかった。  中国大陸から帰ってからも、哲朗は一ヵ月おきくらいに、何度か満州へ飛んだ。しかし、仕事の詳細は家族にも語らなかった。  初枝がいなくなってみると、工藤写真館は急に男くさくなったようだった。他の子供たちは全員男だし、弟子も男ばかり。やすはお洒落だが着物の好みは渋くて地味な色が多い。だから、たとえ初枝が、弟たちをぶん殴るような、お転婆な娘であっても、ただ女の子が一人いるというだけで、家の中の色彩は明るくなっていた。初枝が身につける赤やピンクの着物やリボンが、なんとも、やわらかく華やいだ空気をふりまいていた。  わがままな娘なだけに、たった一人でどうしているのだろうと思うと、哲朗は心配でいてもたってもいられない。そんな哲朗の気持ちを、一番良く理解してくれるのは長男の生一だった。  やすは、哲朗が初枝ばかりに贅沢をさせるのを快く思わない部分もあった。下の三人の男の子たちは、まだ子供だということもあるが、質素なつつましい育ち方をしていた。初枝が次から次へと、哲朗にねだって着物を買ってもらうのに、男の子たちは上から順番におさがりの服を着ていた。生一、明が着た服は、司朗のところでは布地を裏返しにして仕立て直される。だから司朗は、上着とは右にポケットがついているものと思い込んでいた。小学校へ上がって、初めて友だちのポケットがみんな左についているのにびっくりした。司朗の服だけは必ず裏返しの仕立て直しなので、ポケットが逆だったのである。  工藤家を訪れる客にしても、五人もいる子供の全員にお土産は持って来られない。いきおい、女の子の初枝にだけ、帯留めだ、半襟だと買ってくることになる。 「また今度も、娘さんにどうぞだって、ちぇっ」  明や司朗は客が初枝に土産をやるたびに悔しくて舌打ちする。そんな弟たちに、初枝が少しでも思いやりを見せれば良いのだが、長女の特権で、弟たちはこき使うものと心得ている。豆腐買ってこいの納豆買ってこいのと、顎でこき使うので、よけいに明や司朗は悔しい。  あんなに気が強くては、これから先どうなるかとやすは心配するが、哲朗は初枝の才気を愛していた。当意即妙というのか、すぐに叩けば響く返事がもどってくる。気が短くて、せっかちな哲朗の生活のリズムと、初枝のそれは、うまく一致していた。  生一は、元来、人が好くて、おだやかだった。妹のわがままは、よく承知の上で、見守ってやるやさしさがあった。だから初枝がますます増長するのだと、やすは時々、哲朗に意見じみたことを言うのだが、哲朗は取り合わなかった。「お前は黙っとれ」と、不機嫌に怒鳴られて終わりだった。 「女の子はイヤだわ。いくら可愛がっても当たり前って顔をしている……」  やすが愚痴をこぼす相手は、哲朗ではなく生一だった。やすには、哲朗が初枝ばかりをえこ贔屓《ひいき》する不合理しか見えないので腹が立つ。だが、生一は、両親のどちらの気持ちも良く理解できる。  哲朗は初枝に贅沢をさせ、わがままを言わせるのが嬉しいのだ。それが生活の張りあいになっている。人間は、自分のためだけにだったら、それほどエネルギーが出るものじゃない。だれか、他の人を助けるための方が、よほど力が出る。中国大陸で、たくさんの兵士たちが戦っているのも、自分のためではない。日本帝国のため、そして天皇陛下のためと思えばこそだ。  哲朗は今、初枝の生命を助けるために必死になっている。今までで、こんなに金を稼ぎまくったことはない。もともと、哲朗は金の交渉は苦手だった。写真館に客が来ても、どのサイズの写真を、何枚とかいった注文は、もっぱらやすが取っていた。やすは実に上手に、大きな版の写真をすすめる。だが哲朗は、高い写真をすすめるのは、さもしいようで絶対にできなかった。まして、集金などには、間違っても自分で出掛けて行ったりはしない。いつも、やすに任せて、金を取って来てもらう。男子たるもの、金の取り立てのようないやしい所業はするべきではないと、頭から信じ込んでいた。  その哲朗が、初枝の入院費を捻出したいばっかりに、陸軍と賃金の交渉までして、中国や満州に飛んでいた。自分の親ながら、その心根を思うと、いたましいようで、生一はやすのようにぐずぐず文句を言う気にはなれない。  だが、あんまり無理をさせるのも考えものだと、この頃は生一も少し心配になってきている。  生一が子供の時分は、悪さをすると必ず、暗室に放り込まれた。普通の家なら押し入れに放り込まれるところが、写真館にはもっと大きな暗室があった。真っ暗闇の中で、泣いても叫んでも出してもらえないのは、子供にとって忘れられない恐怖だった。  明や司朗は、さすがにもう聞き分けのある年齢になったが、末っ子の敏朗は三歳になったばかりの、いたずら盛りである。よく悪さをしては哲朗に叱られるのだが、そのたびに哲朗は「オーイ、生一」と、生一を呼びつける。そして、「敏坊を暗室に入れろ」と生一に命令する。昔は、自分で子供をひっつかんで暗室に放り込んだものなのだが、今の哲朗はそれも大儀になってきている。だから、生一に下請けに出すのである。「先生も年を取ったものですねえ」と、五、六年前の哲朗の、子供たちを叱る勢いを知っている古い弟子は苦笑する。  それだけ哲朗が疲れているのだと思うと、生一は笑ってばかりもいられない。  小田原にいる初枝は、そんな事情など一向に知らないので、相変わらずフランス人形を飾りたいから買ってこいだのわがまま放題を言っている。一度、初枝を訪ねて、様子を見てこようと生一は思っていた。   病床の初枝は、兄の遠からぬ出征を予感した   勝ち力士 両国橋や 風薫る  雑誌に載った笠置山の句を、生一は初枝に見せた。小田原の旅館で療養している初枝を、久しぶりに見舞った時だった。 「なによこれ、金龍さんのことじゃない。いい気なもんね」  初枝があきれたように言う。 「お前もそう思うだろ。家でも、みんなで勘ちゃんのこと冷やかしたんだ」  初枝のいう「金龍さん」とは、湯島天神の芸者で、笠置山と深い仲だった。細面のいかにもやさしげな人で、工藤写真館にも、始終、出入りしていた。  金龍さんのいる置屋は、芸者の名前に全部、龍の字がついていた。桃龍さん、艶龍さん、豆龍さん……などといった具合だ。その中で、一番美人の芸者が代々金龍の名を襲名していた。  さて、その金龍さんの本名が薫だったのである。初枝や生一は、彼女のことを「薫さん」とも呼んでいた。  それを知っての上で笠置山の句を読むと、取組に勝って帰った笠置山と両国橋を嬉しそうに歩く薫さんの姿が匂い立つように浮かんでくる。 「それにしても、勘ちゃんって、ちっともいい男じゃないのに、どうしてあんなにもてるんだろ」  初枝には不思議で仕方がなかった。金龍さんはもちろんのこと、大阪にも笠置山を慕っている芸者がいた。ちょうど金龍さんが工藤写真館に遊びに来ている時、その大阪の芸者も笠置山を訪ねて、写真館に来てしまったことがあった。  とっさの機転で、初枝が金龍さんを二階の写場に連れていって、あれこれ悩みを打ち明けるふりをして、なんとか時間稼ぎをした。  そんな時、哲朗をはじめ男たちは、すぐに慌ててしまい、ただうろたえるだけだが、やすは落ち着いた態度で大阪の芸者にお茶を出し、さも親身な様子で、笠置山についての相談まで聞いてやり、大阪芸者は気分良く帰って行った。  初枝とやすの連係プレイの見事さに哲朗は舌を巻いた。女とは、なんと図々しいものだろとも思った。なんだか顔の表面に何枚もの皮が重ねられているようだ。その点、自分や生一などは、せいぜい一、二枚の皮で、その下にある心の動きなどすぐに顔の表面に出てしまう。  芸者がはち合わせしそうになった一件以来、笠置山は初枝に頭が上がらなかった。 「勘ちゃんがもてるのは、やっぱり相撲取りだからだよ」  生一に言わせると、双葉山のお陰で相撲は異常な人気だ。野球とかテニスとか、他の舶来スポーツは、すっかり肩身が狭くなっている昨今、相撲だけは日本古来の競技で大威張りできる。仮にも幕内力士ともなれば、笠置山がハンサムじゃなくとも、女はいくらでも寄ってきた。 「それに勘ちゃん頭もいいしね、羽黒山がまた悔しがっていたでしょ」  初枝は小気味よさそうに笑う。それは羽黒山という力士が、笠置山よりも上位なのだが、しょっちゅう笠置山に負ける。そのたびに、「ちくしょう、また明日の新聞に、頭脳で負けたって書かれるだろうなぁ」と悔しがるからだった。羽黒山は身体も大きく、後に横綱にまでなった力士だが、風呂屋の三助あがりだった。銭湯で客の身体を流していた時、あまりに体格がよく力もあるのを見込まれて、相撲部屋にスカウトされた。一方、笠置山は同じ力士でも相撲部屋にいながら早稲田大学に通って、とうとう卒業してしまった。二人の経歴の違いを知っている新聞記者たちは巨大な羽黒山が小柄な笠置山に倒されるたびに、「またしても頭脳の勝利」と、いかにも揶揄《やゆ》した調子で書く。それをのっそりと大きな羽黒山が、鈍い口調で悔しがる様子がおかしくて、初枝は笑い転げるのだ。 「でも、羽黒山の身にもなってみろよ。お前みたいに残酷には俺は笑えないよ。だいたい初枝は弱い者に対して思いやりが足りない」  生一にしてはきつい言葉が口から出た。病気の妹に辛いことは言いたくなかったが、いつか兄として、やっぱり言わねばならないと、ずっと胸にしまっていた言葉だった。  初枝は勝者が好きなのだ。愚鈍な者、弱い者、負けた者は嫌いだった。それは、人生をどん底から這い上がってきた哲朗の影響もあった。強い人間が哲朗は好きだったし、自分も、どんなことがあっても勝負を途中でなげたりはしない。初枝の治療費だって、歯をくいしばっても捻出して、泣き言を言わないのが哲朗だ。  そんな父親を見て育った初枝は、弱い者を徹底的に馬鹿にする残酷さがあり、それが生一には気になるのだった。  初枝のボーイフレンドは、皆、良家の坊っちゃんで、慶応や早稲田の学生だった。ボーイフレンドといっても、グループで野球の早慶戦を見に行くくらいの、他愛ないつきあいではある。さして美人ではないのだが、初枝は愛嬌があって、なにより話術が巧みなので、相撲取りの間でも人気があった。初枝を目当てに通って来る若い力士もいるのだが、初枝の方は一流大学の学生でなければ歯牙にもかけない。  それが生一には高慢ちきに見えて、なんとかしなければと思うのだ。  珍しく兄の口からきつい言葉が出て、初枝がむっと不機嫌に黙り込むと、しかし、生一はそれ以上強いことは言えなかった。根がやさしい生一は、どうしたって初枝の顔色を無視したりはできない。 「俺、新潟へ行ってみようかと思ってるんだ」 「新潟? なにしに?」 「うん、湯沢の温泉にでも行って、ゆっくりしてくるよ」 「わかった、『雪国』でしょ」 「うん、まあな」  あいまいに答える生一は、相変わらず妹の勘が鋭いのに感心する。  川端康成の『雪国』を読んで、生一はひどく感激して、初枝にも読むように勧めた。  すべては徒労と知りながら、ひたむきに主人公を愛する芸者、駒子のいじらしさに生一はすっかり参っていた。どうしても『雪国』の舞台となった湯沢を見てみたかった。 「お兄ちゃん、湯沢に行ったって、駒子はいないわよ」  小生意気に見透かしたように初枝は言う。まだ生一に女友達もいないのを、妹の初枝は知っていた。だから兄が駒子をさがしに雪国へ行きたい気持ちもよくわかる気がする。  とにかくしっかり養生するようにと言い残して、日が暮れる前に生一は東京へ帰った。急に淋しくなって、部屋の電灯をつけようと立ち上がった初枝は、湯沢に本当に駒子がいたらお兄ちゃん喜ぶだろうなぁと思った。それから、はっと、お兄ちゃん、もしかして出征が近いのではないかという予感がした。   召集された生一の優しさを初枝は知った  初枝を小田原に見舞って間もない昭和十四年の晩秋、生一は召集令状を受け取り出征した。  明けて十五年の正月、八ヵ月ぶりに初枝が両国に帰って来た。医者も驚くほど回復が早かったのは、もともと身体が丈夫なせいもあるが、なにより、肺病だからといって、くよくよ思い悩まない、あっさりした性格が良かったようだ。哲朗が、余計な心配をさせなかったためもある。普段は、やすが外出するのを極端にイヤがる哲朗が、初枝の見舞いの時だけは、気持ち良くやすを送り出した。笠置山も、必ず初枝の大好きなオリンピックの棒チョコを、やすにことづけて持たせた。  みんなが自分のことを心配してくれていると思うと、初枝は元気が出る。自分は不治の病ではないかという悲愴感など、ついぞ感じないで療養生活を送っていたのだから、のん気な患者である。  健康になって、両国へ帰った初枝が最初に目にしたのは、がっくりと気落ちした様子のやすの姿だった。  二十一歳になれば男の子は兵隊に取られると、頭ではやすも理解していた。何度も何度も、心の準備をしておくようにと自分自身に言いきかせてもいた。それでも、いざ生一が出征するとなると、心の準備など吹き飛んでしまった。  国家の非常時に、女がなにを言ったところで、仕方がない。いや、非常時じゃなくたって、やすが自分の意見を強く言うことなどない。ただ、じっと押し黙って、生一が無事に帰って来るのを祈るだけだが、日がたつにつれて生一がいない実感は深まっていた。 「お兄ちゃん、新潟へ行ったの?」  初枝は小田原に来た生一が、新潟の湯沢に行ってみようと話していたのを思い出して、やすに尋ねた。 「そうそう、去年の秋に行ったのよ。面白いんだよ、帰って来てね、二、三日は何も言わなかったんだけどね、しばらくしてから、湯沢で芸者よんだ話を母さんにしたんだよ。それが次の日の朝になったら、その芸者が河原で大根洗ってたんだって」 「芸者が大根?」 「そう、芸者ったって、浅草や天神あたりの芸者とは違うからね。山里の芸者はとってもいかつくって骨太でね、いかにも丈夫そうなんだって。それがジャブジャブ、河原で大根洗ってるんだから、お兄ちゃん、もうすっかり興醒めで、がっかりしたって」  やすは、生一が芸者に失望して帰って来たのが、さも愉快そうだった。もちろん、生一だって、『雪国』に出てくる駒子みたいな芸者がいるとは思っていなかったろうが、いかつい芸者を前に憮然とした顔をしていたのかと思うと、初枝もおかしくなってくる。 「お兄ちゃん、母さんになんでも話してたのね」 「そうだよ。あの子がまだ商業学校に行ってた時分ね、親父がこのままずっと横暴なら、俺が大きくなってから、きっと離婚させてやるから、そしてお袋、引き取ってやるからなって、そう言い言いしたもんだよ」 「ふーん、そんなこと言ったの」 「そう、だからそれ以来ね、私は父さんになにを言われても平気、今に生一が離婚させてくれるからって、心の中で思っていたのよ」  やすの言葉を聞いて、初枝は仰天した。生一とやすが、二人でそんな話をしていたなんて、少しも知らなかった。「離婚させてやる」とは、生一も大きく出たものだ。初枝はどちらかというと哲朗の方と以心伝心なので、時々、やすの言動にイライラする。やはり親子でも相性があるようだ。  体格の良い生一は甲種合格で、東京聯隊区の独立歩兵第四十二大隊に入隊した。ご近所の人たちから盛大な見送りを受けて出征したという。 「その時ね、魚屋のおかみさんから言われたんだよ。あんた本当に生一さんのお母さんだったんだねって」 「え? どういう意味?」 「母さんも知らなかったんだけど、工藤さんちは後妻さんらしいって、ご近所じゃ噂してたんだって。生一だけが特別に大きいから、先妻の子に違いないって……」  思いがけない近所の評判に、またしても、初枝は目を丸くした。言われてみれば、初枝以下、明、司朗、敏朗と四人とも、チビだった。学校でも、いつも最前列だった。哲朗もやすも、ひときわ小さい。それなのに生一だけが堂々たる体格でタテ、ヨコともに大きい。だから先妻の子に違いないと噂していたのだが、いざ出征となったら、やすが世間体もなにもなく、打ちしおれた顔をしている。あんなに悲しんでいるのだから、やっぱり実子らしいよということになったという。 「なんておっちょこちょいなんだろう。それに、そんなことわざわざ母さんに言うなんて、金棒引きの婆さんが多いんだから」  初枝は下町の、そうしたおせっかいなところが嫌いだった。下町は人情が温かいといわれる。確かにご近所さんとは親戚同様のつきあいだ。だいたい、門のある家なんてないのだから、誰でもすぐに、ガラガラと玄関の戸を開けて入ってくる。もちろん、戸に鍵をかけている家なんて一軒もない。  食事をしていようが、なにをしていようが、かまわず近所の人が居間に上がり込む。その家が食事中だと、「じゃあ、あたしも食べていこうかな」などと言って、すすめられもしないのに、すました顔で食卓に一緒に座って、勝手に箸を取る。  プライバシーもなにも、あったものではない。夏、いくら暑くても下着姿でウロウロできないし、うっかりすれば着替えている時にだって、他人がずかずか家の中に入って来る。  それが初枝には、疎ましくてならなかった。それで、気に入らない客が来ると、プイと二階へ上がってしまう。  しかし、下町の生活形態から見れば初枝の態度はあきらかにルール違反なのだ。それをやすは心配していたし、生一も兄として意見しなければと思っていたところだった。だが、意見する時間もなく、生一はまるでさらわれるように兵役に取られて、いなくなってしまった。  哲朗は小まめに家族の写真を撮っては、中国の山東省、長清県付近に駐屯しているらしい生一の部隊にあてて手紙と一緒に送っていた。長男の身を案じる気持ちは、哲朗もやすも同じ強さだったろうが、男だから、哲朗はまさか口には出せない。やすは、いつまでもぐずぐずと未練がましく、初枝を相手に生一の話をしている。 「お兄ちゃんが行っちゃって、足の爪を切ってくれる人がいなくなったんだよ」  へえー、お兄ちゃんはそんなことまでしてやってたんだ、親切な人なんだと、初枝は他人を見るように目の前の母親の顔を見て感心していた。   百年後ニ残ス為——アルバムにそう記した  ガラガラと引き戸を開けて、ぬうっと勝手口から入って来る笠置山は、ぱっとみんなの顔を見ただけで、哲朗が在宅かどうか、すぐにわかった。 「今日、親父さん留守だろ?」  と言う日は、本当に哲朗は出掛けている。なぜわかるかといえば、家の者の表情が全然違うのだ。 「親父さんがいる時は、みんなピリピリした顔してるもんな。すごいよ。留守だと、のーんびりした顔してる」  それほど哲朗はワンマンだった。家族も弟子も、自分の思う通りに動かないと気に入らない。物差しでも茶碗でも、どんどん空中を飛んでくる。  だから、家族は哲朗の顔色を窺ってピリピリする。気の休まる暇がないので、やすは中年になっても、中年太りとは無縁だった。同年輩の奥さんたちが、生活も安定し、子供も小学校へ上がる時分になると、ほっと気がゆるんでぶくぶく太りだすのに対し、やすは、いつまでも同じ体形だった。サラリーマンと違って、一日中、哲朗が家にいるので、やすも一日中、気が抜けなかった。子供も弟子も、哲朗が怒ると怖いのは骨身にしみて知っているので緊張している。  そのかわり、プラスの面もあった。哲朗という強烈な個性のリーダーがいたから、貧乏で子沢山の一家が、生き馬の目を抜くような東京の下町で、まがりなりにも生き延びてこられた。  借金ばかりで始めた写真館なのだから、家族全員が団結しないことには生存競争に打ち勝てない。自分の理屈で一家をぐいぐい引っぱってゆく父親が必要だった。  あらゆる物事の判断基準は、哲朗にある。他の者たちは、その指令に従っていれば良い。ある意味では気楽だった。子供の教育も借金の心配も、すべて哲朗の肩の上にドシンと乗せて、その号令一下、全員が動くだけだ。  とはいっても、自ずから役割分担はあった。直情型の哲朗の周辺を、ふんわりとつつんで、世間と衝突させないように、うまく交通整理をするのは、いつもやすの仕事だった。  哲朗にとって最も大切なのは写真師としてのプライドである。ある時、双葉山を破って得意絶頂だった安芸ノ海が、哲朗の撮った写真に文句をつけた。出来上がりが気に入らないので撮り直せと言う。玄関で安芸ノ海と向かい合っていた哲朗の顔色がみるみる変わっていった。 「気に入らないなら帰れ」  大声で怒鳴ると、安芸ノ海の目の前で、その写真を粉々に引き裂いた。  その時に、後から安芸ノ海にそっと会って、どう話をつけたものか、機嫌よく残りの写真を引き取らせ、しっかり代金まで貰ってきたのは、やすだった。哲朗が客とトラブルを起こすたびに、やすは哲朗に怒鳴りたいだけ怒鳴らせておいて、後で必ず客との間をとりなした。口のきき方がやさしく、母親じみた仕草のやすに対しては、客もいつまでも怒っていられないようだった。  いわゆるノリやすい性格と言うのだろうか。怒るのも早いかわりに、熱中するのも早い。これと思ったら、とことん入れあげるところが、哲朗にはあった。  だから、昭和十五年十一月十日の「紀元二千六百年」を祝う祭典の時は大張りきりだった。  生一が出征してからというもの、哲朗は今度の戦争はきっと勝つと、以前にも増して、強く信じるようになっていた。よく考えれば、息子の生還を祈るあまりの盲信なのだが、もちろん、その渦中にある人間は、そんなことには気づかない。生一が加わっていると思うだけで、日本軍の必勝が確かな未来となっていた。 「紀元二千六百年」の祭典も、科学的には全く根拠のない神武紀元から数えて、二千六百年目ということなのだが、いかにも日本が世界で最古の歴史を持つ文明国であるといった印象を国民に与えていた。それが、皇国精神、軍国主義などを煽《あお》り立てる手段であったのは言うまでもない。  十一月十日、宮城前広場には各界の高官や外国からの賓客、学生代表など五万五千人の参列者を集め、華やかな式典が開催された。 「畏し両陛下宮城外苑に臨御」とは当日の朝日新聞の見出しであり、詩人の高村光太郎は、 「人類互に扶《たす》けて一家の如きに至るまで、  吾等はそのみことのりのまゝに進まん。  大きなる平和の日を地上に布くに至るまで、  吾等断じてかへりみはせじ。」  と、同じ朝日新聞紙上に、高らかに謳《うた》っていた。人類が一家であるならば「みことのり」をするのは父親である天皇であったに違いない。  この祭典の日、東京では各区から二名の写真師が選ばれて、撮影の任にあたった。無料奉仕ではあったが、各区でたった二名しか選ばれないのだから、その中の一名に入るのは名誉であった。任命を受けた哲朗は、久しぶりに大きな仕事に取り組む興奮を感じていた。  哲朗が最も得意とするのは、「ツナギ」と呼ぶ写真だった。何枚か連続的にカメラを移動させながら撮影する。後でつなぎ合わせると、パノラマ風の横長の大写真が出来る。カメラの動かし方にもコツがあったが、後から出来上がった写真を貼り合わせるのが難しく、これは家中で哲朗しか出来ない技術だった。  まずは、つなぎ合わせる写真の両側に定規で線を引く。その線に沿って、一枚はカッターで写真の上側の半分をはがす。もう一枚は下側の半分だけ、はがす。そして、はがした部分をピタリとはめ込むと、継ぎ目がほとんどわからず、しかも写真の厚さも変わらない仕上げとなった。  五万五千人の大観衆が、一堂に会した宮城前広場で、哲朗はなんとかその迫力を出したいと、得意の「ツナギ」の技術を駆使して、写真を撮りまくった。  天皇陛下を父親と信じ、人類は一家であり、その直命に従う人々の顔が、信じきった面持ちで重なり合って写っていた。父親に引っぱられて、どこへ進んで行くかはわからなかったが、高村光太郎が謳った如く、「吾等断じてかへりみはせじ」と固く信じる心だけは、恐ろしいほどはっきりと、画像となって現れていた。  祭典の写真を貼ったアルバムの隅に哲朗は次の言葉を書き付けた。  此ノ写真ハ百年後ノ国民ニ残ス為各区カラ二名宛ノ写真師ガ無料奉仕ノ為写シタモノノ余分ヲココニ貼ッ|タ《ママ》置イタモノ  コノ時小生ハ二百枚計リ寄贈ヲシタコノ写真モ百年後迄残シテホシイ   初枝は銀狐の襟巻きで銀座を闊歩《かつぽ》した  数えで二十歳といえば、嫁にゆく娘もいるというのに、初枝は相変わらず、弟たちを相手に派手な取っ組み合いを演じていた。  生一がいない分だけ、長女の自分がしっかり弟たちの面倒を見なければと思い込んでいる。  しかし、やさしく諭すように話す生一と違って、初枝は、いきなり実力行使に出る。弟たちが悪戯をすると、理由も聞かずポカンとやる。短気で怒りっぽいのは、まさに哲朗の女版といったところだ。  ある日、明が言うことを聞かないのに腹を立て、馬乗りになって、押さえつけていると、グルリとひっくり返されて、気がつくと初枝の方が下になっている。 「お姉ちゃん、乱暴はやめろよ」  バタバタとあばれる初枝の手首を押さえて、一言だけ言うと明は立ち上がった。  初枝は愕然《がくぜん》とした。子供だ子供だと思っていたのに、いつの間に、あんなに力が強くなったのだろう。そういえば、明も四月から中学生だ。背丈も初枝に追いつきつつある。 「明《あき》坊まで兵隊に取られるようになったら、イヤだねぇ」  戦地にいる生一のことばかり言い暮らしているやすは、このところメキメキ大きくなる明を見て、心細そうにつぶやく。軍国の母だのなんだのと、おだてられても、やすはちっともピンとこない。息子たちは、どうしたって自分の傍で、健康でいてくれる方がいいに決まっている。  明は目の大きい子供だった。小さい頃から、町内を歩いていると、「よぉー日本一!」と声をかけられる。大人たちが、明の目の大きさを揶揄して呼びかけるのだ。  その目がキョロキョロとよく動く。初枝が哲朗の系統なら、明もやはり、哲朗に似て敏捷で、頭の回転も速い。明の下の司朗は、落ち着いたおだやかな子供で、やすや生一の性格に生き写しなのだが、明と末っ子の敏朗ば、どうも哲朗型だった。同じ兄弟でも、その性格は、はっきり二種類に分かれているみたいだった。  学校の成績も良く、小まわりのきく明は、兵隊になったら、さぞや俊敏に無駄なく動くような感じがする。 「まさか。明ちゃんが大きくなる頃には、戦争は終わってるわよ」  初枝は母親の取り越し苦労に、あきれて笑った。 「でもねぇ、お兄ちゃんの時だってあんたそう言ってたじゃない」  やすに言われてみると、確かに生一が出征する日など来ないだろうとたかをくくっていたら、みるみる戦争は大きくなって、延々と続いて終わる気配はない。生一のみならず、生一の友人たちも、親戚の青年たちも、みんな兵役に取られて中国大陸へ行っている。ボツボツ、戦死した人の話も伝わってきていた。  明、司朗、敏朗と、三人ひとからげに鼻たれ小僧と思っていたけれど、明がすっかり腕力もついて、姉をねじふせるようになったのだから、下の二人も順番に大きくなってゆくだろう。いったい、この戦争はいつまで続くのかと、初枝は腹立たしくなってくる。  だいたい、あの銀狐の襟巻きをできないなんて、そんな馬鹿な話があるものか。いや、断固として銀狐はつけてやると、初枝はひそかに決心した。  小田原で療養していた初枝が、両国に帰って来た時、哲朗は銀狐の襟巻きを、全快祝いに買ってくれた。おまけに、それにぴったりのシールのコートも誂《あつら》えてくれた。シールといっても、本物の海豹《あざらし》の毛皮ではないが、そっくりの手触りの布地で、中国から哲朗がわざわざ持ち帰ったものだった。  さすがに、初枝にだけコートを作ってやるわけにはゆかず、やすにも同じ布地で和服のコートを作った。ところが、出来上がってみると重くて着にくいといって、やすは手を通そうとしない。初枝の方は大喜びで、重いのなどものともせず、得意になってシールのコートに銀狐の襟巻きを巻いて、ちょこちょこ銀座を歩いている。  その若さや、心意気が、哲朗には嬉しくて、目を細めて見ている。 「なんだ、あれ、大家のお嬢様じゃあるまいし、写真屋の娘が毛皮の襟巻きもねえよな」 「うちのお姉ちゃんだったら、狐よりか、狸の方が合ってんじゃないか」  などと、明や司朗は、身分不相応な恰好をして、しょっちゅう出歩いている姉の悪口を言っていた。だが。そんな憎まれ口が初枝の耳に入っても、 「ふん、あんたたち、そういうのは田作《ごまめ》の歯軋《はぎし》りっていうのよ」  と、平気な顔だ。  武運長久だの七生報国だのと叫んで「贅沢は敵」と言われても、初枝は、自分の好きなものが着たかった。生一が出征した後では、初枝に意見をする人もいないので、世の風潮は質素を尊ぶ時代になったというのに、特別誂えの桐の下駄を作らせてみたり、幅広で肉厚の帯留めを京都に注文して打たせたりと、勝手気ままなことをしていた。 「お姉ちゃん、シナじゃあ兵隊さんが戦ってくれているんだよ。お兄ちゃんだって征《い》ってるんだし……」  明が見かねて、生真面目な口調で言うことがある。中学生の明は、すっかり軍国少年に成長していた。なにしろ物心ついた頃から、日本はずっと戦争をしている。男の子なんだから、御国を守らなければと、言われ続けて大きくなった。この非常時を、ちっとも理解していないらしい姉には、困ったものだと、ひそかに小さな胸を痛めていた。  哲朗は軍部にいる友人から、かなりつっこんだ情報を入手していたが、家族にも、めったな話はしなかった。ただ、仕事量が増えているのは確かだった。出征する軍人の肖像写真だけではなく、戦死した人たちの葬儀の写真も頼まれて撮ることが多かった。それだけ、目に見えない形で、成人の男子の人口が変化しているのだとも言える。  戦地の生一は、たまに家族にあてて手紙を書いてきても、辛いとか苦しいとかいった言葉はないし、東京が恋しいとも書いていない。 「なんとなく、生一は本心を書いていないような気がするがな……」  哲朗が生一の手紙を読み終わった後で誰に言うともなく、ポツリと言った。 「それは違いますよ。あの子はね、誰からでも好かれる性格だし、わがままじゃないから、きっと上官からも可愛がられて、辛い思いなんかしてないんですよ」  やすが、キッとなって哲朗に言い返した。それはしかし、本当は哲朗に向かって言ったのではないことを、家族はみんなわかっていた。生一が、遠い異国で辛い思いをしているなどと、やすは考えたくもないのだ。だから自分自身に言いきかせている言葉だった。   有名人のお得意さんが哲朗の自慢だった 「今夜のおかずはコンビーフ」  やすが言うと、「ワァーッ」と子供たちの間で歓声が上がる。 「それじゃあ……」  と、哲朗がおもむろに立ち上がるとその後ろから、嬉しそうな顔をした、明、司朗、敏朗の三人が、はしゃぎながらついてゆく。  表の市電通りを、両国橋に向かって歩いて左側にある大谷《おおたに》さんのところでコンビーフの缶詰を買って食べるのが、工藤家では最高の贅沢だった。いつも父親の哲朗が、子供たちを引きつれて買いに行くのが習慣になっていた。  大谷酒店の主人、大谷米太郎は、下町ではちょっとした有名人だった。明治十四年に富山県の貧農の家に生まれ三十歳で上京。大正元年に稲川部屋に入門して鷲尾嶽《わしおだけ》という四股名《しこな》を名乗り幕下筆頭までいったが、指の怪我で廃業した。  入門の動機が、電信柱に梅ケ谷、太刀山のアメリカ興行のビラがヒラヒラしているのを見て、「洋行のチャンスがつかめる」と思ったからだという。  アメリカ巡業は流れ、力士としてもさして出世しなかったが、商売の勘は鋭く、相撲をやめた後に、ちょん髷《まげ》姿のままで鷲尾嶽酒店を開業。まずこれが大当たりして、小金をためると、かねて目をつけていた鉄に投資して機械部品製造の町工場を設立した。  折からの軍需景気に助けられ、大谷重工業は飛躍的に発展し、昭和十六年には、もはや押しも押されもせぬ実業家となっていた。  もちろん、大谷米太郎はもう店には出ていなかったが、大谷酒店は下町には珍しい舶来の缶詰を取り揃えていて、その中でも特にコンビーフが、ハイカラ好きの哲朗の気に入っていたのだった。  温かい御飯の上に、細かくほぐしたコンビーフをのせて食べる。子供たちは、こんな美味しいものがこの世にあるのかと、信じられないほど幸せな気分になった。  コンビーフといえば大谷さん、ともう工藤家では自動的に結びついていた。だから、戦後になって、その大谷さんが紀尾井町にホテルニューオータニを建てた時は本当にびっくりした。 「相撲取りあがりがねぇ、これだけのホテルをよく建てたもんじゃ」  晩年の哲朗は車でホテルニューオータニの前を通過するたびに、同じ文句をつぶやいて、ため息をついた。  大谷米太郎の方が、哲朗より十歳近く年長だったが、東北の寒村から、二十銭の金とお握りを懐に、東京へ飛び出したところなどは、そっくりのパターンである。米太郎は学問もなく文盲だったといわれるが、ひたすら働き通して巨万の富を得た。哲朗には、それほどの経営の才はなかったし、金銭信仰も薄かった。  だが、スケールの差こそあれ、昭和の初めの下町は、こうした立身出世志向の地方出身者が、ほっとひと息ついて、生業《なりわい》を立てている場所だった。  だからこそであろう。日本でも有数の実業家となってからも、大谷米太郎は、お正月になると、よくサト夫人と共に小さな工藤写真館に写真を撮りに来てくれた。国技館や両国橋と共に、工藤写真館も、大谷にとっては下町の心象風景の欠かせぬ一部を占めていたのかもしれない。  あるお正月、連れだって現れた大谷夫妻の夫人の手もとをみた明は、もともと大きな目が、さらに大きく見開いたまま、視線を動かせなくなった。  今まで、明が見たこともないほど巨大なダイヤの指輪が、こぼれるように、その指に輝いていた。 「すげぇー。あれじゃ手袋もできないだろうな」  ポカンと指輪を見詰めている明に、サト夫人はハンドバッグから手の切れるような百円札を出して、明にくれた。お年玉のつもりだったのだろう。世の中には金持ちがいるものだと、明は驚異の思いで、またまた大きな目をパチパチさせた。  この大谷夫妻のほかにも、『帝都日日』の野依夫妻や、工藤写真館を贔屓にしてくれる知名人は何人かいた。そうした人たちをお得意さんに持っているのは哲朗のプライドだった。写真館の品格が上がる気がしたからだった。  開業して十年以上たつと、近所の相撲部屋にいた若い衆も、いつの間にか出世して幕内や三役、そして横綱を張る者も出てくる。笠置山をはじめ、九州山、冨士ケ嶽(後の若港)、増位山、男女ノ川などが、にぎやかに写真館に出入りしていた。  大柄な男女ノ川が浴衣を仕立てるのに、普通の一反の布地では足りなくて二反つかう。その二反の残った分で、哲朗の浴衣が間に合ってしまうほど、哲朗は小柄だった。それがまた、おかしいと言って、哲朗と男女ノ川はお揃いの柄の浴衣を着て記念写真を撮ったりした。  相変わらず力士や新聞、雑誌関係者がたむろしている工藤写真館に、笠置山の友人だという池田恒雄が訪ねて来たのは、昭和十六年の初めだった。同じ早稲田大学出身で、雑誌『野球界』の編集長だという。『野球界』は、年に何回か相撲の特集号を出していた。その関係で、哲朗から写真を借りに来た。 「池田さんは、ご出身はどちらですか?」  八畳の居間で、お茶を飲みながら相撲の話に興じている池田に、初枝は娘らしい好奇心で身元調査を始めた。 「新潟の小出というところです」 「それで、いつから東京へ?」 「郷里の中学を出て、懐にコンサイスの英和辞典を一冊入れたまま、東京に来ましたよ。もう十年以上昔の話だなぁ」  屈託のない調子で池田は答える。哲朗の時代は田舎を飛び出すとなると、お握りに一円五十銭だったけど、さすがに昭和の代ともなると、コンサイスの英和辞典かと、妙なことに初枝は感心した。 「じゃあ、池田さんは英語がお好きだったんですね」 「いや、英語が好きなんじゃなくて、文学というのは、なんというか、その国の言葉で読んだ方がいいと思ったからなんです。中学三年の時に、トーマス・ハーディの『テス』を原書で読んで、すごく感激した。それから、なるべく英文学は原書で読むようにしてます」 「テス……」 「でも、一番好きなのはディケンズですが」  初枝はハーディもディケンズも原書どころか翻訳本さえ読んだことがなかった。特に英米文学は、なんとなく肩身の狭い昨今、そんなものを原書で読んだという池田は、初枝が今まで知っていた世界にはいない人だった。  文学の好きな生一が家にいたら、きっと池田と話が合っただろうと初枝はその時、思った。   師であり、父であった三島常磐が亡くなった  哲朗が最も尊敬する写真師の一人、三島常磐が八十六歳の天寿を全うしたのは、昭和十六年一月十七日であった。  葬儀に参列した哲朗は、自分の心の中で、ある一つの時代が終わりを告げたのを感じた。  一つの時代——とは、明治三十九年から大正四年にかけて、哲朗が一人前の写真師になるべく、北海道で修業した日々であった。明治三十九年八月、数えで十七歳の哲朗は札幌の榎本写真館に弟子入りした。本来なら、弟子入りは十五歳からなのだが年齢を二歳若く言って、入れてもらった。小柄な哲朗は子供っぽく見えたので、誰もそれを疑う人はいなかった。  なぜ写真師を志したか……といえばもともと哲朗には絵心があり、美しいものや、新しいものに興味があった。しかし、やがてその興味は強い自負へと変わっていった。写真師とは、社会的に高い見識を備えた、時代の先端をゆく人々の仕事だとの誇りを持つようになったのである。  明治、大正の時代の、写真師の象徴とも言えた三島常磐が亡くなり、哲朗は自分がひたむきに憧れ、激しい自負を持った一つの時代が終焉《しゆうえん》を迎えたことを、しみじみと実感した。  哲朗が榎本写真館に入門した頃、札幌の営業写真界は、一種の安定期を迎えていた。 「写真業は二十六年は他業と同じく未曾有の不景気にて、二十七年は稍恢復、二十八年は出征師団来札の為の、影写数非常に増加し、出征後もその景気衰えずして、今日に至れり。依頼者の最多なる月は、六月及七月にして、冬期は僅少なり。換言せば、上半期は下半期に優る。昨年著しくその数の加わりしは農家なり。農家は複写少なきも、多分は郷里に送る為なり。札幌神社祭礼盆等に多く写影し、近きは広島村白石村、遠きは滝川村岩見沢村より来るもの多く、田舎より幾十組と同盟して、写真師の出張を頼み来るもの多きは近来の一現象なり」(明治三十年『札幌沿革史』から)。  北海道へ入植した開拓民の生活も、ようやく軌道に乗り、内地の親類縁者に写真を送りたいと考えたのだろう。  明治三十二年の札幌区の記録では、写真師は、信伊奈亮正、三島常磐、榎本巌、武林支店(写真師名の記載はない)の四名と出ているが、十年後の明治四十二年には、倍の八名に増えている。これには写真師の氏名、住所とともに、税額が表示されているが、一位が三島常磐で二位が信伊奈亮正、三位が榎本巌だった。  つまり、榎本写真館は札幌でも老舗のベストスリーに入る写真館だった(明治三十六年発行の『札幌区実業家案内双六』には、当時の札幌の代表的な商家、銀行などが出ているが、その中に榎本写真館の、洒落た洋風の店構えの絵があり、写真館としては代表格だったのがわかる)。  当主の榎本巌は、文久二年五月、山形県鶴岡町に生まれ、明治十年五月に上京、早撮りで有名な写真師の草分け、江崎礼二に師事し技術を習得、十六年に郷里鶴岡で写真館を開いた。二十一年に札幌に移住し、初めは開墾に従事し、牧畜業を営んでいたが、二十八年に再び写真業を開業した。ちょうど、札幌の町が北海道の行政の中心地として発展する時期に、榎本写真館は開業し、経営は順調に波に乗っていた。  大正二年までの七年間を、哲朗はこの榎本写真館で勤め上げる。基本的な技術を榎本から学んだのは事実だが、哲朗の心のよりどころは、むしろ三島常磐にあったと言っても良いだろう。  物心つかないうちに母親が出奔したため、哲朗はもともと母親にはなんの幻想も期待も抱いていなかった。しかし、少年時代に亡くなった父親への思慕の念は消し難く、哲朗の内なる「父親捜し」は、北海道へ渡ってからも続いていた。  そんな哲朗が、初めて、父親像のモデルとも呼ぶべき人にめぐり会ったのが三島常磐だった。 それは人生の新しい局面が開けてゆくような新鮮な感動だった。  三島常磐は、札幌写真界の元祖、武林盛一が明治五年五月に開業した武林写真館の営業を、明治十七年に任され、二十年に譲与された。  本名は正治といったが、明治十年頃から、写真師も芸術家らしく雅号をつけるのが流行し、常磐と名乗るようになった。  武林盛一には実子がなかったので、常磐の長男磐雄を養子にした。この磐雄が長じて作家の武林無想庵となる。つまり、三島常磐は、武林無想庵の実父であった。 「わたしの眼には、ガラス屋根の二階のてすりや、二、三本植わった家の前の吉野桜や、それから、角にそびえた旗竿の尖端に、ひるがえりつつある細長い二等辺三角形、赤白青の三色旗が、まざ/\とのこっています。札幌草分けの武林写真館です」  とは、後に無想庵が三歳頃の記憶をたよりに回想した一文だった。  哲朗が修業した榎本写真館は、札幌区南三条西一丁目にあった。横板張りの洋館で、玄関の横に飾り窓があり、肖像写真を並べて見せていた。  広い中庭があり、常時十人前後の弟子を置く写真館の当主榎本は、豊かな髭をたくわえた豪快な人柄だった。妻のおまんは、しっかりした性格で、写真の材料の管理などにも常に目を光らせている。しかし、哲朗たち弟子の身になってみれば、なんとか一枚でも多く写真を撮って練習したいところである。  写真を焼きつける印画紙を、おまんはいつも細かく数えて弟子たちに渡すのだが、さすがに失敗することもあるのを見越して二、三枚余分にくれる。哲朗は、なるべく失敗しないように印画紙に焼きつけ、余分にくれた二、三枚を大事に自分のために取っておいた。そして、後から一人で内緒で練習するのに、その印画紙を使うのだった。  北海道の冬の厳しさには泣かされ、コツがのみ込めない初めの頃は、濡れている乾板を乾かすのに、家の外に並べておけばコチコチに凍ってしまうし、家の中でストーブの傍に置けば溶けてしまうので、ちょうど良い場所を捜すのに苦労をした。  寝食を惜しんで働く哲朗の生活は、日常の雑事に押し流される。だが、多感な思春期を迎えた哲朗は、どんな青年も必ず通過する「人はなぜ生きるのか?」の命題に足をとられていた。その命題に自分自身の厳しい生き方をもって、三島常磐は答えを示してくれた。  長男磐雄を養子に出した後、次男の昌司の死を契機に三島は、札幌独立教会の熱心な信者となった。札幌禁酒会の理事や札幌衛生組合、火災予防組合の組合長など、社会事業に打ち込んでいた。明治二十八年から、二期、十二年間にわたって区会議員(当時の札幌は区だったので、今の市会議員と同格)を務めた三島には、人々の尊敬を集めるだけの人徳が備わっていた。  早くから遊廓廃止を叫び、せめて廃止できないのなら、薄野《すすきの》にある遊廓を郊外へ移そうと提唱し、ねばり強い運動を続けた結果、ついに大正四年、豊平川西側の白石へ移転が決定、無事に移転が完了したのは大正九年のことだった。  三島の周辺からは、後に日本の営業写真の第一人者といわれるようになる森川愛三をはじめとして、優秀な弟子が次々と輩出した。  哲朗は、三島の人生観に強い影響を受け、大正元年十月十三日、三島常磐の養子、徳次郎や、弟子の青木修一とともに、札幌独立教会に、竹崎八十雄牧師の手で入会した(独立教会には洗礼はなかったので、入会が洗礼と同義だった)。若き日の哲朗の目には、地域のリーダーとして、地道に社会活動を続ける三島常磐の姿は、理想の写真師であり理想の父親像とも映った。  写真師とは、ただの職人ではない。精神的な修養がその作品にも反映する。社会の一員としても、大きな発言力を持ち、それだけの尊敬をかち得る。やはり写真を職業に選んだのは、間違っていなかったと、哲朗は三島を思うたび自分まで晴れがましい気持ちになった。  大正二年に榎本写真館での修業が満期となり、いよいよ哲朗は独立する。とはいっても、いきなり写真館が開けるわけもなく、哲朗は旅の写真師として、北海道を放浪して歩いた。  その当時は、まだ写真館のない町も多く、流しの写真師が辺鄙な地域をまわる姿がよく見られた。  ある程度、町が大きくなってしまえば、すぐに写真館の一、二軒はできるし、あまりに小さな集落では、客が少なすぎるし、流して歩く場所の選択は思いのほか難しかったが、旅も腕を磨くための修業と割り切り、哲朗はのん気で身軽な放浪を続けていた。  大正四年は北見で正月を迎えた。その頃は野付牛《のつけうし》と呼ばれていた町は、明治四十四年に駅ができ、屯田兵による開拓も一段落して、薄荷《はつか》の生産が大当たりしていた。町の経済が活発になれば、写真を撮ろうという精神的な余裕もできる。写真師はひっぱりだこで、吹雪に荒れる原野を、野付牛近郊の小さな村落まで、頼まれて撮影をしに行った。  冬場は零下二〇度にも下がる酷寒の地で、哲朗がどこへでも気軽に出掛けて行ったのは、若さの故だったに違いないが、それとともに、写真師を芸術家としてさながら昔の旅の絵師のように、大切に遇する習慣がまだ残っていたからでもあった。 「あんな時代はもう終わった……」  三島常磐の葬儀に参列しながら、ふいに哲朗は、北海道と自分の距離の大きさに気づいた。  昭和の代になって、写真師は増えすぎた。もはや、町の名士でもリーダーでもなかった。腕が良くて、営業能力があれば生き残ることはできる。しかし、写真師が芸術家であると同時に、社会をある方向へ推し進める力を持つ時代は終わっていた。今では商売人か、芸術家ぶった人間しか写真師になろうとは思わない。  三島常磐の薫陶を受けた写真師は数多いが、哲朗は最も若い方だった。もしかして、自分は古いタイプの最後の写真師になるのだろうか……と、哲朗は寂寥《せきりよう》の思いに身を浸していた。   結婚の思い出話に家族は笑い合った  お父ちゃんとお母ちゃんは、どうして結婚したの——という質問を、子供はある一定の年齢になると、必ず両親にするものだ。  工藤家の子供たちも、その例外ではなかった。ただし、子供たちは大人が考えているより利口である。両親が揃っているところでは、けっしてこの質問を口にしない。父親と母親が、それぞれ一人でいる時に、なにくわぬ顔をして尋ねる。  そこで哲朗版とやす版と、二通りの見合いの顛末《てんまつ》ストーリーを聞くことになる。その方が、父親も母親も相手には言えない本音を話すと、子供たちは本能的に知っている。  哲朗は元来お喋《しやべ》りだった。東北人は口が重いというが、哲朗は、自分は新渡戸稲造の系統に入る東北人だから、よく喋るのだという。なぜ新渡戸がそこに出てくるのか、よくわからないのだが、「口に出さねば意思は伝わらん」というのが哲朗の持論で、「鼻の下に道がある」とも口癖のように言っていた。これは、鼻の下にある口を開けば、自ずと道が開けるという意味らしい。  子供たちが、やすと結婚した経緯を尋ねると、哲朗は面白おかしく見合いの場を再現してくれる。  なにしろ、浅草の下駄製造問屋の娘と、航空隊の写真技師の見合いである。庶民といったって、これ以上庶民の取り合わせはない。仲人は哲朗の知人の谷中《やなか》という人だった。場所はやすの家の二階。哲朗は二十七歳、やすは十八歳だった。  いたってつつましく、お茶が出て、近所から取った寿司が出て、それで見合いは終わった。さて、終わってみると、哲朗は自分の見合いの相手が誰だったのか、さっぱり見当がつかない。それというのも、やすには三歳上の姉と三歳下の妹がいたのだが、その三姉妹が順番にお茶や寿司を運んで来て、黙って頭を下げて引きさがる。いったいどの娘が、見合い相手なのか、これではわかるはずがない。しかも、娘たちは一様に黙って下を向いているので、かんじんの顔も見えない。美人か不美人かさえわからないのだ。  見合いの帰り道、仲人に尋ねると、一番最後にお茶を持って来た娘がやすだという。 「決めた」  と、哲朗は心の中で思った。なぜ決めたかというと、その娘だけが、動作がどことなくゆったりとおだやかなのだ。おっとりと静かな感じがする。浅草あたりで育った娘にしては、ずいぶんと悠長な物腰が哲朗の気に入った。 「それがやっぱり変だったんだな」  哲朗は思わせぶりに子供たちの前で、ため息をつく。変だと気づいたのは、結婚して三日目くらいだった。やすが新聞を読んでいる。その読み方が尋常ではない。まるで顔をくっつけるようにして、新聞紙を目に近づけている。 「なんだ、あの読み方は……」  哲朗が見ていると気づくと、やすはパタリと新聞紙を伏せた。ますます変だと思って、部屋の隅の箪笥《たんす》の上にある茶筒を指さして、「あれを取ってくれ」と言った。やすは、きょとんとしてから途方に暮れた情けない顔をした。  それで、哲朗は、実はやすが強度の近眼であることを知った。近眼だから、哲朗がなにを指さしているのか、よく見えないのである。だから、見合いの時もお茶を出す手つきが、のろのろしていたのだった。  女の器量は眼鏡をかけると、半分以上損なわれるとやすは思い込んでいた。実際、やすの顔立ちはチンマりと丸々していて、可愛かったのだが、眼鏡は似合わなかった。見合いの場はなんとか眼鏡なしで切り抜けたものの、結婚生活が始まってみると、ほとんどなにも見えないのだから、つくづく困ったらしい。間もなく眼鏡をかけるようになった。 「騙《だま》された騙された」と哲朗が言うと子供たちは大笑いをする。  だが騙された話だったら、やすの方にもストックがあった。  まず哲朗が見合いに現れるという日、一番下の妹のさと子はまだ幼いので別にして、長女のみつや三女の末衛《まつえ》は、興味津々で哲朗の到着を待った。順番に座敷に出たのも、上眼遣いにチラリとでも哲朗の顔を見たかったからだ。台所に引き返して来た娘三人は、哲朗の背丈が気になって仕方なかった。座っているとわからないが、玄関を入って来た時の様子では、ずいぶん小さそうだ。  娘たちは知恵を絞って、二階から下りてくる階段の途中に小さな印をいくつかつけた。それで、哲朗が下りる時に後ろから続いて下りながら、哲朗の頭がどのへんの印のところを通過したかを記憶しておいた。そして、哲朗が帰った後でさっそく巻き尺を持ち出して、測ってみたのだった。  小さかった。五尺(約一五二センチ)にも満たなかった。あんまり背が低いから、どうしようかと迷うやすに、父親の貞吉が言った。 「聞くところによると、工藤さんは天涯孤独の身で係累が全くないとの話だ。女が嫁に行って苦労するのは姑や小姑がいるからだ。係累がいないのは気楽でなによりだから、お受けしたらどうだ」  のんびりしておとなしいやすの性格を知っている父親は、嫁ぎ先で苦労をさせたくないと思い、この縁談をすすめた。実の母親をすでに亡くしているだけに、よけいに父親はやすを気楽な家に片付けたかった。  ふん、ふん……とうなずいて、やすは嫁入りを決めた。たった一度会っただけで、次はもう婚礼の日だった。哲朗が短気で癇癪《かんしやく》持ちであることなど夢にも知らず、三三九度をかわした。大正七年十一月七日のことである。 「それはいいんだけどね、四街道にお母さんだって人が現れた時は、本当にびっくりした。だって天涯孤独のはずだったのだもの」  やすは何度でも「天涯孤独」という言葉を繰り返して笑う。哲朗の実母|とき《ヽヽ》の強烈な性格を知っている子供たちもそこで声を揃えて笑う。  だが、それは幸福な響きの笑いだった。両親がお互いに「騙された」と言いながら、どうしようもなく固く結びついているのを、やはり本能的に子供たちは感じていた。なんの不安もなく大声をあげて笑える。  やすの母親は大正六年に亡くなっていた。三年後に後妻が入った。やすはどことなく実家に帰りにくい気がした。やすの父親が再婚したと聞いた哲朗は、やすを連れて浅草の実家を訪ねた。少し残っていた母親の形見を貰うと、きっちりと手をついて哲朗は別れの挨拶をした。まるでやすの代わりに、実家に訣別を告げているような毅然とした口調だった。  哲朗には帰る家はもともとなかった。そして、やすにも帰る家がなくなって二人は二人の家をつくっていった。   放浪の人・秀男叔父さんは子供たちの英雄だった  哲朗には兄弟がなく、肉親の縁も薄いため、工藤家の親戚づきあいは、どうしてもやすの関係が多くなった。  やすの父親、榊原貞吉は茨城県土浦の出身だった。祖父は二百石取りの武士だったが、明治維新の後、様々な商売に手を出して失敗。やすの父親、貞吉が九歳の時に亡くなった。  貞吉は片桐という下駄屋に奉公に出され、子守をしながら算盤だけは習い、下駄職人としても「常陸《ひたち》の小天狗」と異名を取るほどの腕を身につけた。  明治三十二年にやすが生まれて間もなく、一家は東京に出た。その頃の下町は、やたらと火事が多くて何度も焼け出され、暮らしは楽ではなかったが、やすが物心つく時分に、ようやく浅草山谷、吉原の入り口あたりに落ち着いた。  下駄製造業を営み、常に住み込みの職人が七、八人、それに三男四女の子沢山だったから、二升炊いた御飯が一度でペロリとなくなった。  父親は東京市の下駄製造組合の副頭取をつとめたくらいの人望はあったのだが、昭和二年に五十六歳の若さで、脳溢血で急死した。もっとも晩年は、下駄をはく人口そのものが激減し、すっかり靴の時代となっていたため、いくら腕が良くても生活はずいぶん苦しかったようだ。  やすの母親も大正六年に亡くなっていたが、両親がいない分だけやすの兄弟はみんな仲が良く、始終行き来をしていた。工藤写真館に、いかにも下町らしい粋な雰囲気が漂っているとしたら、それは浅草で育ったやすと、その兄弟からの影響が強かった。  七人も兄弟がいれば、中には変わった性格や型破りのキャラクターも出てくる。  工藤家の子供たちの間で、なんといっても人気ナンバーワンの叔父さんは、やすのすぐ下の弟秀男だった。  もう一人の弟、勉は中央大学の法科を苦学して卒業した真面目な学者肌なのだが、秀男はその正反対で、若い頃から満州や朝鮮を放浪して歩き、どうにも腰が定まらない。 「どうもねぇ、今度こそは落ち着いたようですよ」  やすは居間にいる哲朗にそっと耳打ちをした。隣の応接間では、子供たちがズラリと並んで長椅子に座り、秀叔父さんの西遊記孫悟空の講談に耳を傾けている。毎回違った怪物が登場し、それを孫悟空がやっつける情景を、実に巧みな声色で語ってくれる。映画などめったに連れて行ってもらえず、テレビもなければ漫画本も簡単には買えない時代の子供たちにとって、秀叔父さんの孫悟空や馬賊の歌は、またとないエンターテインメントだった。 「良くできたかみさんらしいな」  哲朗も、去年の四月に結婚してから秀男に、どことなく落ち着きが出てきたと思っていた。もうすぐ子供も生まれるらしいし、いいかげんに落ち着いてもらわなければ困る。  といって、別に秀男が悪いことをしているのではない。ただ無類の短気でおっちょこちょいなのだ。  二、三年前に秀男のアパートに遊びに行った初枝は、みかん箱の上に位牌が置いてあるのを見て、びっくりした。それはやすや秀男の父親、貞吉の位牌だった。 「俺は親父の墓を建ててやんなきゃならないんだ」  ちょっと照れ臭そうに秀男が言う。よく意味がわからないまま家に帰った初枝がやすに尋ねると、笑いながら説明してくれた。  やすの実家である榊原の家の墓を建て直そうと長年、父親がコツコツと郵便貯金をしていた。大正十二年に、まだ十七歳だった秀男は、突然、満州へ行きたくなり、家族に無断でその郵便貯金をおろし高飛びしてしまった。 「僕も行くから君も行け  狭い日本にゃ住みあいた  浪隔つ彼方にゃシナがある  シナにゃ四億の民が待つ」  と、まさに「馬賊の歌」の心境だったのだろう。  ちょうど長女のみつが、夫とともに大連へ行っていた。みつの夫は三菱商事の経理課長を務めていたので、その紹介で満鉄や三菱商事に入社したのだが、どこでも「気に食わない奴だ」と上司を竹刀で撲ったり、派手な喧嘩をしてはクビになる。三年ほどして徴兵検査のため帰国したら、翌年、父親の貞吉が死んでしまった。本来なら墓を建ててやりたいところだが、そんな金は使い果たして、ない。  体裁が悪かったのか、お通夜の時も浅草に活動を見に行ってしまって、お坊さんの読経にもお焼香にも間に合わなかった。なんたる親不孝者とやすはあきれて物も言えなかった。  それでも秀男が長男だから、父親の位牌を預かっていた。 「あれでも墓を建てなきゃと思っているのね」  やすは初枝の話を聞いて意外な気がした。 「秀叔父さんって、やさしいところがあるわよ。なにを言っても洒落のめしちゃうけど」  子供たちはみんな秀叔父さんが好きだった。誰かが、「あー、有り難いねぇ」などと言おうものなら、すぐに「蟻《あり》が鯛《たい》なら芋虫ゃ鯨」などと半畳を入れる。  歌も上手で、秀叔父さんの「馬賊の歌」は絶品だった。普通の人が歌うのと、少し節回しが違うのだが、それは本場仕込みだからと自慢していた。夏になると怪談をやってくれる。子供たちが「秀叔父さんの後ろに幽霊が立っているのが見えた」と騒ぎ出すほど、その怪談は真に迫っている。  初枝が小田原に入院していた時は、日本髪を結って黄八丈を着た娘が、うつむいて一人であやとりをしている絵を色紙に描いて、お見舞いに届けてくれた。その娘の横には、 「夏痩せと答えてあとは涙かな」  という句が書いてあった。夏痩せにも恋患いにも無縁の初枝だったが、秀叔父さんが器用に岩田専太郎風の絵を描き、俳句を作るのに感心した。  満州から帰ってからも、カフェーのマネジャーをやったり、定職がない様子だったが、昭和十五年の四月に結婚して、東電の下請け会社に勤めるようになり、今度ばかりは堅気の生活を始めたみたいだ。  金儲けも世渡りも下手だったが、工藤家の子供たちの目には秀叔父さんは英雄だった。親の墓代をくすねて満州まで流れてゆくなんて、格好いいじゃないか、喧嘩早いけど、子供たちとはとことんゆっくり遊んでくれる。芸達者なのに一生懸命働かないところが魅力だった。まだ東京の下町には、そんな不思議な文化人がゴロゴロしていたけれど、秀叔父さんみたいな人がだんだんと生き難い世相になってきているのも確かだった。  昭和十六年七月に、長男|一《はじめ》が生まれて間もなく、秀叔父さんは立派な両親の墓を建てて、もう一度皆を驚かせたのだった。   両国界隈から若い衆の姿が消え始めた  よく昔から、嫁をもらうなら、その娘の母親を見てもらえと言う。良妻賢母なら、娘も同じようになるというほどの意味だろうか。もちろん、娘にだって出来不出来があるから、そう簡単に良い母親イコール良い娘とは限らないが、母親から娘へと、生活の文化が伝わる率は、確かに息子より娘の方が大きいようだ。  家風などというほど大袈裟なものではないが、工藤家でもやすが母親のとくから受け継いだ習慣はあった。それはまた、ごく自然に娘の初枝へと伝わっていた。  やすの母親である|とく《ヽヽ》は、土浦藩士・黒岩行水の娘で、武家の娘らしい厳しい躾《しつけ》をされて育った。しがない下駄職人に嫁いだのは、維新以後、どこも暮らし向きは楽ではなく、下級武士は、さながら失業したサラリーマンのようなものだったからだろう。  ただし、生活は貧しいのだが、家柄の格式は、やすの父親である榊原貞吉と、母親の黒岩|とく《ヽヽ》は、同じ士族という点で、まずは釣り合いが取れていたようだ。  しかし、下駄職人の女房におさまり、やがて、職人を何人も使う立場になると、|とく《ヽヽ》はしっかり下町のおかみさんとして、その役割をそつなく、こなすようになった。  やすが少女の頃に見た母親の姿で、一番よく覚えているのは、どんなに夜遅くなっても、もし、家族の中で一人でもまだ帰らない者がいると、必ず起きて待っている姿だった。  そして、夜が更けてから住み込みの若い職人が帰って来ると、居間に置いた長火鉢のへりで煙管《キセル》をトントンと叩きながら声を掛ける。 「お茶飲むかい?」  長火鉢の鉄びんには、熱い湯がたぎっている。それから続いて尋ねた。 「お腹空いてないかい?」  ある時、やすは母親になぜそんな質問をするのかと訊いたことがあった。|とく《ヽヽ》が答えたところによると、下駄職人などというものは、特に若い時分は威勢が良いかわりに、よく遊びもする。博奕《ばくち》、酒、女と、それこそ財布が空になるまで遊び、それでもまだ足りなければ自分の商売道具の鑿《のみ》や錐《きり》まで質に入れても遊ぶ。遊びに遊びほうけて、一銭もなくなって夜中に家にたどり着いた時は、ほぼ間違いなく、喉は渇いているし腹は空いているに決まっている。そんな時こそ、面倒を見てやるのが自分の役目だと言う。  下町には「宵越しの金は持たない」といった風潮があり、若い職人が遊びでスッテンテンになったからといって、それを非難する空気はなかった。むしろ、若い者はそれで当たり前だった。  現代のようにコンビニエンス・ストアがそこらじゅうにある時代と違うから、若い職人が真夜中にヨレヨレになって歩いていても、食事できる店も、お茶を飲むところもない。トボトボ砂漠を歩くような気持ちで帰ったところで、必ず待っていてくれるのが一家を預かるおかみさんだった。 「それにねぇ、若い者っていうのはいつだってお腹空かしているもんなんだよ。時間に関係なくねぇ」  という母親に育てられたやすは、同じように、若い人の顔を見れば必ず、 「お腹空いてないかい?」  と尋ね、「ご飯食べておいき」と言う。時間などおかまいなしに、午前十一時だろうが午後三時だろうが、いつも食事をすすめた。  そして、家族が一人でも帰って来なければ、じっと起きて待っていて、煙管をトントンで、「お茶飲むかい?」とやる。  末っ子の敏朗が成人した頃には、もう明治時代の下町とは違って、いくらでも深夜喫茶や終夜営業のラーメン屋などがある時代になったのだが、それでもやすは、息子たち全員が帰宅するまで頑張って起きていて、「お茶飲むかい?」と声を掛け続けた。  これは、そっくり娘の初枝に引き継がれ、昭和から平成の世になっても、相変わらず初枝は明治時代の|とく《ヽヽ》のセリフを繰り返している。  だが、考えてみれば「お茶飲むかい?」も「お腹空いてないかい?」も、日本が貧しい時代だったからこそ、威力を発揮したのだろう。ひもじさを真底味わったことがあるからこそ、こうした思いやりが出てくる。哲朗もやすも、金のない若者のひもじさは、すぐに察することができるような家庭環境に育っていた。  しかも、周囲を見まわせば、金持ちよりは貧乏人の方がはるかに多く、貧乏がみんなの常識だった。  お茶に対するこだわりは、哲朗にもあった。いつも口うるさく家族に言うのは、客の湯呑みにお茶がなくなったら、すぐにつぎ足せということだった。 「客が飲んだって飲まなくたっていい。とにかく湯呑みを空にするな。何度でもつげ」  湯呑みが空なのに知らん顔をしているのは、いかにも早く帰れと客に言っているように見える。また、どんなに嫌いな客でも、向こうからわざわざ出向いて来てくれた場合は、礼を尽くすようにと子供たちに言いきかせた。  客が帰る時は、必ず家族全員で玄関まで見送りに出るのも工藤家の規則だった。  お茶を出すのも見送りに立つのも、つつましやかな庶民の家庭の礼儀であり、おそらくは、ほとんどの日本の家庭に似たような決まりがあったのだろう。  だが、昭和十六年は庶民の家庭にとって不気味な年となりつつあった。哲朗のところに、ふらりと訪ねて来て、時間におかまいなくご飯を食べさせてもらい、お茶を飲ませてもらう若い男の姿が、少なくなっていたのだ。住み込みの弟子たちも、一人二人と召集されて、いなくなった。  生一の友人たちは、みんな出征していたし、初枝と同年齢の若者たちも、次々と召集令状を受け取っていた。  そのうち日本とアメリカの間で戦争が起こるだろうと、しきりに噂されていた。 「初枝の嫁の貰い手がなくなるかもしれないなぁ」  哲朗は父親らしい心配をする。日米開戦ともなれば、男は今以上に兵に取られ、若い者などいなくなるに違いない。早々と結婚させても、夫が出征して未亡人になっては可哀想だ。といって、この戦争が終わるまで待っていたら、初枝の適齢期は過ぎてしまう。 「初枝みたいな娘を嫁にしたら、相手の人が気の毒ですよ。それより、早く生一が除隊になって帰って来たら、いいお嫁さんを持たせなきゃ」  やすの方は、中国大陸にいる生一の身が気にかかった。生一が除隊になっても戦争が終わらん限りまた取られるぞ……という言葉を哲朗は胸の中で自分にだけつぶやいて、やすには聞かせなかった。   大変な事態が起きていると、初枝も悟った 「もんぺ」というものが、さかんに新聞、雑誌で取り上げられ、奨励されていた。  なんと不細工なものかと、こればかりは初枝もやすも意見が一致して眉をひそめる。  ダンスホールが閉鎖されたり、宝石類を身につけるのは気が咎《とが》めるような世相ではあったが、両国界隈は日本の伝統文化が昔と変わらず息づいていた。  初場所ともなれば、枡席には、裾の長いお座敷着を着た芸者衆が旦那と陣取って、贔屓《ひいき》の力士に黄色い声を上げる。有名な歌舞伎役者の姿もチラホラ見えた。  相撲で経済が成り立っているような町だから、工藤写真館の周辺も、相撲茶屋、相撲部屋など相撲関係者の出入りが圧倒的に多い。そうした人々の交友関係は、芸者や歌舞伎役者など江戸情緒を色濃く残す世界の人ばかりで、一種、浮世離れした様相もあった。  子供が五人もいて、特に下の三人はまだ小さいので、やすは目のまわるような忙しさだったが、時折、茶飲み話をする友だちは、芸者上がりの相撲茶屋のおかみさんや、待合の女将だったりで、その人たちにはどこか堅気とは呼べない雰囲気が漂う。  いわば人気稼業の人たちが、なにより大切にするのは気《き》っ風《ぷ》の良さだった。ケチな人間、ヤボな人間は嫌われた。やすも、どこへ出掛けるにも散財袋を忘れなかった。相場より少し多目の御祝儀を、寿司屋だろうが相撲場だろうが、パッパと気前良く切る。 「これができなかったら、下町に住む資格はないね」  と、やすは言う。それはまた、他人様から後ろ指をさされないための防御策でもあった。  収入に比べて支出が多いのは、下町の人間特有の見栄だったのだろう。だから、哲朗が写真館の仕事の他にも、軍部から依頼の航空写真や、雑誌社への相撲の写真などで収入が増えても、貯金をするとか家作を持つといった発想は、やすには皆無だった。哲朗にいたっては、利殖を考えるのさえ汚らわしいと思っていたので、稼いだ金は右から左へと消えていった。  着物道楽がやすなら、哲朗は骨董が好きだった。近所の武家屋敷で売り立てがあると出掛けてゆき、甲冑、刀剣、茶碗などを買い求めてくる。やすが金を遣うのに文句を言わないかわりに自分も、欲しいものはいくら高くてもさっさと一人で買って来た。  ただし、明治生まれの人間の常で、子供は贅沢をするべきではないという方針だった。特に男の子は質実剛健がなによりと、無駄な出費はさせなかった。明や司朗は漫画本さえ簡単には買ってもらえず、若い相撲取りにねだって、読み終わったのをもらってきたりした。  初枝だけは例外で、着飾って湯島の芸者衆と歌舞伎を見に行ったり、初詣では笠置山や付け人たちと明治神宮に繰り出したりした。 「羽左衛門は本当に水もしたたるいい男、でも、やっぱり六代目は最高だと思うわ。源氏店《げんじだな》でさ、与三郎とお富と蝙蝠安と、この三役のどれでも完璧に演《や》れるのって、六代目しかいないじゃない」  などと夢中になって話している初枝は、両国界隈という小宇宙の外で、なにが起きつつあるかなど、とんと念頭になかった。まだ明や司朗の方が、学校で教師から「精神総動員運動」とか「贅沢は敵」と聞かされ、幼い心をひきしめて、非常時を認識していた。  笠置山の友人で『野球界』の編集長だという池田は、「相撲特集号」に、笠置山の原稿を載せたいらしく、工藤写真館でとぐろを巻いている笠置山に、原稿の催促をするため何度か通って来た。  ペチャペチャと六代目菊五郎や羽左衛門の話をしている初枝に向かって、突然池田が尋ねた。 「リアリズム演劇はどうですか?」 「…………」 「新劇ですよ。築地小劇場も去年から国民新劇場なんて名前にされて、『報国演劇』などと馬鹿なことを言わねばならないんだから困りものです。しかし、今のうちに観ておかないと、もう新劇そのものがなくなる世の中になるかもしれない。一度、御案内しましょう」  芝居といえば歌舞伎、それに笠置山の好きな新国劇を観に行くぐらいだった初枝は、リアリズム演劇と言われてもおよそ見当がつかない。ただ新劇というものは、どうも左翼と密接な関係があって、危ない人たちがやっているらしいというくらいの知識はあった。  哲朗とやすには内緒で、初枝は池田と新劇を観に行った。多分、哲朗が反対するだろうと思ったからだった。池田と行くのに反対するのか、新劇に反対するのか、初枝もよくわからないが、本能的に黙っている方が良さそうな気がした。  連れて行かれた新劇は、「佐宗医院」という題だったが、初枝にはさっぱり面白くなかった。地味で暗いし、セリフもこなれていない感じがした。 「築地小劇場も小山内先生が生きておられた頃は画期的なものを次々と上演しましてね、『演劇は文学の単なる下女たるには、余りに力強く、余りに我儘《わがまま》である』という有名なトーマス・マンの言葉を引用してね、学生たちはみんなかぶれたものです」  その新劇も、もはや壊滅寸前だと池田は言う。国威を発揚するような芝居しか上演は許されない。 「非常時だ非常時だとみんな言うけれど、言論の自由を奪われることこそ本当の非常時なのですよ。僕が学んだ早稲田大学は、昭和七年のリットン報告書を英語のテキストに使うような校風ですからね、言論統制は実に不愉快だ」  初枝には、池田の言っていることの半分も意味はつかめなかったが、その語気から、なにか世間では大変な事態が起きているらしいと気づいた。おかしなことに、今までは考えてもみなかったのが、池田の言葉に気押されて、急に恐怖感のような冷たい震えが襲ってきた。  家に帰ると、哲朗が難しい顔をして、居間で腕組みをしていた。  昼間、久しぶりに所沢の航空隊時代の友人が訪ねて来たという。せかせかと急ぐ様子で、十分もしないうちに立ち去ったが、帰り際に、 「ここ二、三日のうちに大変なことがありそうだ。相撲もいつまで続くかわからんよ」  と、小さな声で耳打ちした。慎重な人柄の友人だけに、哲朗は気になっていた。  哲朗も初枝も重苦しい気分のまま、床についた。昭和十六年十二月初めの寒い夜だった。 [#改ページ]     ㈽   いつもの朝の食卓に開戦の報は届いた  いつもと同じ師走の朝だ。やすが気忙しげに食卓の上に納豆や漬物を並べる。最後に湯気のたった味噌汁の大鍋が置かれて、子供や弟子たちが一斉に箸をのばす。  ラジオのニュースは、その朝早く、帝国陸海軍が太平洋において米英軍と戦闘状態に入ったことを告げていた。  誰の耳にも、アナウンサーの声ははっきりと聞こえていた。しかし、奇妙なほど、家族全員が箸を動かす手を止めなかった。  幼い敏朗が、すぐ上の兄の司朗の皿をつついて、ちょっかいを出す。司朗はおっとりと困った顔で、敏朗の手を押さえては、自分のおかずを口の中にほうり込んでいた。生一に似て司朗は、めったなことでは怒らない。それを知っている敏朗は、なにかというと司朗にからみつくように悪戯をする。  やすは見て見ないふりをしている。生一が出征した後、その淋しさを埋め合わせるかのように、やすは末っ子の敏朗を溺愛していた。敏朗はもうすぐ五歳。なんにでも興味を示し、はしっこく動き廻る。初枝がつけた「南京豆」という仇名が、すっかり定着していた。  あまり敏朗が、うるさく司朗にからみつくのを見かねた哲朗が「コラッ!」と声を上げた。ニヤニヤと笑って敏朗は箸を引っ込める。自分が一番、可愛がられていると知っている顔だ。いざとなれば、やすのところへ逃げればいい。明や司朗は、哲朗に怒鳴られただけで震え上がるのだが、敏朗はケロリとして、味噌汁をすする。 「どうも押しつけがましくっていかん」  煮物を箸でつまみながら、哲朗が独り言のように言う。 「そういう性格で、悪気はないんですから」  取りなすようにやすが答える。夫婦も長年つれそっていると、主語を抜かした会話が多くなる。それで意味が通じるのは、相手が何を考えているか、だいたい察しがつくからだ。  お互いに顔を見合わせることもせず、主語を抜かしたままでも、やすと哲朗は会話を続ける。 「『お父ちゃん、美味しかったかい?』と、必ずききやがる。あれをきかなきゃ素直に美味しいと、こっちも感謝するんだ」  哲朗が言ってるのは、すぐお向かいの富士ケ根部屋のお虎婆さんのことだった。根っからの下町っ子で、無類に親切なお虎婆さんは、哲朗が写真館を開業した時からのつきあいである。 「お父ちゃんを男にしてやらなきゃ」と、猛烈な勢いで工藤写真館を宣伝してくれたので、相撲取りはみんな、哲朗のところへ写真を頼みに来るようになった。哲朗が放火の疑いをかけられた時も、ご近所さんの先頭に立って、警察に抗議してくれた。  今日も今日とて、朝早く、美味しい煮物ができたからと、どんぶりに一杯届けてくれた。それは有り難いのだが、きっと後からやって来て、「どうだいお父ちゃん、美味しかったかい?」と、鼻をうごめかして尋ねるに違いないと思うと、哲朗はうんざりする。  押しつけがましい人間が哲朗は嫌いだった。だから、控え目で、余計な口出しをしないやすを気に入っていた。  ブツブツと文句を言いながら、しかし、哲朗は箸だけは休めずに煮物を口に運んでいる。お虎婆さんが自慢するだけあって、確かに美味しい。  哲朗は機嫌が悪い。ラジオのニュースは、とうとう日米開戦を伝えた。半ば予期してはいたのだが、やはり不意を打たれたような気分だ。家長として、家族に何か言うべきなのかどうか……。しかし、何か言うにしては、判断材料が少なすぎる。つまりは、これが日本にとって、自分たちにとって、良いことなのか悪いことなのか、どうも判断がつかない。曖昧模糊《あいまいもこ》と未来がかすんでいる。  バタバタと食事が終わり、子供たちは学校へ、弟子たちは仕事場へと散った。初枝は何を思ったか、ディケンズの『クリスマス・キャロル』を持ち出して応接室で読んでいる。 「こんなふうに始まるもんですかね?」  静かになった八畳の居間で、やすが哲朗に話しかける。敏朗がやすの膝にへばりついていた。 「うん、そうだなぁ。そうなんだろうなぁ」  やすが言っているのは真珠湾奇襲攻撃のことだった。戦争が、どうやって始まるものなのか、実のところやすはよく知らない。よく知らないながらも、何か、もうちょっと手続きというか予告というか、そんなものがあっても良さそうな気がした。いきなり全面戦争というのが、なんだか不思議だ。 「生一が帰るのが遅れますかね?」 「いや、生一はシナだから関係なかろう。太平洋はまた別じゃろう」  答えながらも哲朗にも自信はなかった。自信のない自分に腹も立っていた。ラジオのニュースを聞きながら、わざと日米開戦を話題にしなかったのは、わからないからだ。何が起きているかわからないから、何も言えない。  今まで、哲朗はどんな時でも冷静沈着に危機に対処して、家族を守ってきたつもりだ。あの関東大震災の時だって、やすと、まだ赤ん坊の生一と初枝を守って、ケガもひもじい思いもさせなかった。  しかし、今度ばかりは、やすに何をきかれても返事のしようがない。生一は帰れるのかどうか、もっと戦争が長引けば太平洋戦線にもまわされるのか。 「こんなことして、勝つんでしょうかねぇ」  生一の身ばかり案じるやすは、夫の胸中などおかまいなしに、自分の不安を哲朗にぶつける。 「馬鹿、勝つにきまっとるから始めたんじゃないか。これだけのことを、おっ始めたんだ。勝たんでどうする。ただな、これからは、よほど心を引き締めてかからねばならんぞ」  ようやく結論めいた思いを、哲朗が気負った口調で喋っていると、台所の勝手口が勢いよく開いた。案の定、お向かいのお虎婆さんが、毛糸の襟巻きを寒そうに肩から掛けて立っている。 「えらいことになったねぇ」  お虎婆さんは、煮物の味を尋ねるのなど、すっかり忘れているようだ。 「お父ちゃん、相撲取りもみんな兵隊に取られるのかねぇ?」  お虎婆さんは、富士ケ根部屋の親方の奥さんの母親にあたる。相撲茶屋も経営しているので、相撲取りがみんな兵隊に取られたら商売にならない。 「まさか。相撲は国技だぞ」  ぶっきらぼうに哲朗は返事する。  それにしても、女はなんだって俺になんでも尋ねるのか。男がみんな知っているとでも思っているのか。俺だってわからん——と、哲朗は大声で叫びたい思いだった。   戦勝ムードの中、哲朗は震災を思い出していた  人間は自分が死ぬ前に、遺書を書き記す。しかし、哲朗はそんなものは不要だと思っていた。写真が残っている。それだけで十分だった。自分の生の軌跡は、写真の中に記録されている。それを見て、後は子供たちが各自の判断で生きていってくれるだろう。言葉に託して、この世に残す思いなどはなかった。  しかし——と、ある日、哲朗は思い出した。この世に残したくない記録が一つだけある。今まで、写真師として自分が撮った写真は、すべて自分の誇りであった。そして、そこに凍結されたあらゆる時間を愛していた。  だが、たった一つの例外があった。その例外の写真を、哲朗は家族にも見せずに、しまい込んである。  真珠湾攻撃が大勝利を収め、日本が太平洋戦争に突入した昭和十六年の暮れ近いある日、哲朗は十八年ぶりに、それらの写真を整理した。  整理したといっても、正確には、もう一度見直して、またしまったというだけのことだった。  哲朗が、その生涯でただ一度だけ、写真を撮るという自分の行為に対して強い後ろめたさを感じたのは、大正十二年九月一日に起きた関東大震災の数日後である。  関東一帯が大地震に襲われた時、哲朗一家は千葉の四街道に住んでいた。もうすぐ満一歳の誕生日を迎える初枝が、リンパ腺に雑菌が入って喉と脇の下に腫瘍ができたため、千葉医大に入院していた。やすも付き添って行かねばならないので、四歳の生一は日暮里のやすの実家に預けられた。  地震が来たのは、正午二分前である。木更津の航空隊に勤務していた哲朗がグラウンドで、ふと遠くに目をやると異様な光景が飛び込んできた。  はるか彼方の畑が波打って揺れている。その波が少しずつこちらに向かって来るのだ。 「地震だ!」  やがて、波は哲朗の立つ地面に達し、激しい震動が伝わってきた。  地震とは目に見えるものなのかと、哲朗は恐怖の中にも驚きを覚えた。  入院中の初枝とやすの身が案じられたが、それとともに日暮里に預けている生一も心配だった。  大きな揺れに続いて、何度も余震が続く。この調子では東京も被害が出ているだろう。だが、なによりもまず、やすと初枝の無事を確認しなければならない。  線路づたいに哲朗が千葉医大まで歩いて行くと、幸運なことにやすも初枝も怪我ひとつせずに元気でいた。しかし、病院は電気も断たれ次々と到着する怪我人たちで混乱をきわめている。哲朗は初枝を背負い、やすの手を引いて、四街道の自宅まで、ふたたび線路づたいに避難した。  その日は、やすと初枝の救出で暮れてしまったが、気がかりなのは東京にいる生一である。東京の家屋の多くが壊滅したとの情報も入って来た。といって東京までの汽車はもちろん不通だし、道路事情も悪化している。 「空からいくか……」  翌朝、航空隊に出勤した哲朗は、東京を偵察する名目で飛行機に乗った。日暮里の空の上まで行くと、やすの実家は倒れもせずに建っている。やれやれと哲朗は、まずは安心したが、下町は火事の発生で目を覆うばかりの惨状だった。  陸軍に交渉して、地震発生の四日後には哲朗は東京入りした。  リュックを背負い、陸軍の腕章をつけ、ゲートルを巻いた勇ましい格好で、やすの実家に現れた。  哲朗のリュックの中には、短期間でよく調達できたものだと感心するほどぎっしりと、米、ローソク、マッチが詰まっていた。  生一は無事だった。やすの一番下の妹のさと子が、大人びた口調でその日のことを哲朗に話す。さと子はまだ小学校六年生なのだが、目から鼻へ抜けるように利発で、機転のきく娘だった。  生一の面倒を見るのは、もっぱらさと子の役目だったので、その日も生一を連れて昼食のおかずを買いに出かけた。帰りに家の近くで電柱を立てる工事をしているのにぶつかり、生一と二人であかずに眺めていた。それから、はっと、こんなところで道草を食っていると継母に叱られると思い、あわてて生一の手を引き家に帰った。  大地震が来たのは、その直後だから、もしも、もう少し長く電柱の工事の場所にいたら、どうなっていたかわからないという。  正午少し前、まず海鳴りのようなゴーッという音が聞こえた。それからグラグラと横揺れが襲った。 「庭を飛んでいた雀がね、バタッと地面に落ちたの。だから地面だけじゃなくって空気もきっと揺れたんだわ。それから鶏が腰が抜けたみたいに歩けなくなってバタバタしてた」  大人のような恐怖心がないだけに、さと子は冷静に庭の生物を観察していたようだ。  座敷にいた生一を、継母が抱き上げた瞬間に、横に積み上げてあった下駄の山がどっと壊れた。一瞬の差で生一は怪我をまぬがれた。 「立つな!」  父親が叫んだので、家族全員が、揺れのおさまるまで畳の上に伏せてじっと動かなかった。  時計が止まったり、棚からすり鉢が落ちたりしたが、大正十年に建てたばかりの家屋はビクともしなかった。 「この家は二重土台だから大丈夫。台風が来ても怖くないよって大工さんが言っていたけれど、本当だったのよ」  さと子は自慢そうに哲朗に言う。だが、ビクともしなかったお陰で、どっと親戚の罹災者たちが、押しかけてきた。その数は最高の時で四十一人に達した。  その食糧を確保するだけでも大仕事だったが、さと子は子供とは思えぬ機転を働かせて食糧を調達してくる。  近所の友だちから上野の山で乾パンが配られていると聞くと、さっそく出かけて行き、乾パンをもらう。普通の子供は一回もらえば満足して帰るのだが、さと子はそれを、そっと長い袂《たもと》の中に入れ、また、なにくわぬ顔をして列に並ぶ。そんなことを五、六回繰り返して、袂いっぱいに乾パンを詰めて帰って来た。  それを生一にも食べさせてくれていたと聞いて、哲朗は小さな女の子の生命力に感嘆した。  生一を引き取りに来たはずの哲朗だったが、いざ無事を確認すると、憑《つ》かれたように街へ飛び出し、写真を撮りまくった。  市内は戒厳令がひかれ、一般の人々は外出禁止、朝鮮人が暴動を起こすなどといったデマが乱れ飛んでいたが、哲朗の腕に巻かれた陸軍の腕章は、絶大な威力を発揮した。どこへでも、自由に出入りして写真を撮れた。  哲朗の目の前に展開していたのは、見慣れた帝都の恐ろしいまでの崩壊だった。日常の喪失ほど、しかし、写真師の心を騒がせるものはない。こんな時期にカメラを持って歩き回れる自分を、哲朗は幸運だとさえ思った。  三日滞在した後、哲朗は生一を連れて四街道へ帰って行った。本当はもっと写真を撮っていたかった。しかし、やすの実家はもう超満員でこれ以上泊まっていては迷惑がかかる。それに初枝を抱いて、ひとりぼっちのやすもさぞや心細い気持ちで哲朗の帰りを待っていることだろう。  後ろ髪を引かれる思いで、哲朗はまだ焼死体が道端にころがり、異臭の漂う東京を後にした。  自宅にもどり、親子四人の無事をあらためて確認すると、少しずつ哲朗は興奮状態を脱していった。  現像した震災の写真を見ると、それが確かに自分の目を一度通過した画像とは信じられなかった。こんな地獄絵を前に平然とシャッターを押した自分が、別の人間のように距離を持って感じられた。  哲朗はそれらの写真をしまい込み、二度と手を触れようとしなかった。  十八年を経て、太平洋戦争突入という異常事態が、ふたたび起きた時に、初めて、一人でそっとその写真を取り出してみた。 「あれは若さだったのか……」  人間であるより、夫であるより、父であるより、写真師であることが優先した瞬間だった。道徳、倫理を考える前に、被写体の特異性が嬉しかった。 「どんなに良い写真が撮れても、人の心を忘れて撮ったものはダメだ」  哲朗は独りごちて、また写真を押し入れの奥深くもとの場所にもどした。「勝った、勝った」の戦勝気分で昭和十六年は暮れていった。  世間の浮かれぶりとはうらはらに、哲朗はあの地殻が揺れた大震災の日々を思い出し、みしっと気が滅入っていた。   両親の必死の思いが長男・生一を救った  昭和十七年を迎えて、家中で一番元気だったのは、次男の明だった。  早稲田中学一年生の十三歳。家庭よりは学校の方が、日常の生活に大きな比重を占めている。  真珠湾奇襲攻撃に、最も興奮したのも明だ。なにしろ学校へ行くと、教師も生徒も一緒になって大騒ぎ、「やった、やった」を連呼している。校長先生が、全生徒を校庭に集め、十二月八日のニュースの詳細を語った。日本軍の華々しい戦果に、何度も、「ワァー」と、割れんばかりの歓声が上がった。  明は普通の子供より小柄だったが、身体は丈夫で、なにより敏捷だった。学校の成績も上位十番以内に入っている。明るい性格で友人も多い。ひねくれたところなど全くないので、素直に学校の教師の言葉をすべて信じていた。  日本は大東亜共栄圏の建設のため、この聖戦に臨んでいる。僕たち少年が次の世代を担って御国のために戦うのだ——そう思うと、胸が震えるような感激だった。こんな生き甲斐のある時代に生まれた自分をつくづく幸せだと思った。  しかし、家に帰ると、家族は明ほどには興奮していない。姉の初枝は物資が少しずつ欠乏し、お洒落ができなくなったと文句ばかり言っている。弟の司朗や敏朗はまだ小さすぎて、とても戦局の重要性がわかっていない。母親のやすは、初枝のように文句を言わないかわりに、政治や社会にはほとんど無関心だった。  それでは哲朗はどうか……というとその腹の中は、明にはさっぱり読めない。熱を込めて、戦局の見通しを語れば、「フン、フン」とうなずいて聞いてくれる。けっして水を差すようなことは言わない。だが、どこか冷ややかな感じがあった。 「この頃、親父変わったな」という印象を明が持ち始めたのは、昭和十七年の春頃からだった。  哲朗の交友関係は同じ写真師仲間か、相撲関係者がほとんどだったのが、急に軍人が増え始めたのである。  一ヵ月に一度くらい、軍人の客がある。すると、やすも哲朗も、今までどんなお客にも出したことのないような豪華な料理や酒でもてなす。  酒を飲まない哲朗が、いつまでも辛抱強く酔っ払いの軍人の相手をしているのが不思議で仕方なかった。  やすが、戦地にいる生一にあてて送る慰問袋に、必ず同じものを二つ用意するようになったのもこの頃からだった。一つは生一あてに、もう一つは生一が所属する部隊の隊長あてだった。 「父さんも母さんも一生懸命なのよ」と、初枝が明に教えてくれた。  家に来る軍人の客は、生一の上官とか、その友人たちだった。太平洋戦争が始まり、中国大陸の戦線もますます激化してゆくだろう。御国のために戦うのが兵士の使命とはいうものの、無駄に生命は捨てさせたくない。  哲朗とやすは、二人で相談して、生一がなんとか激戦地に送られないですむように、あらゆるコネを総動員して一大キャンペーンを繰り広げていたのである。  生一の所属する部隊に少しでもつながりのある軍人が、日本へ帰国したと聞くと、とにかく訪ねて行き、家に招待した。しがない写真師にできる接待など、たかが知れていたが、誠心誠意もてなして、息子の面倒を頼んだ。  軍人とて人間なので、哲朗とやすに深々と頭を下げられると、悪い気持ちはしなかった。実際に、それがどれだけ功を奏したのか、はっきりとしたことは哲朗にもやすにもわからなかった。しかし、なにもしないで手をこまねいているよりは、良いような気がした。  後日談になるが、生一が中国戦線から一時帰国した時、たった一度、不思議な経験をしたと話している。ある時、部隊の同僚のほとんどが南方の激戦地に転戦したのに、生一だけ司令官に呼ばれ、しばらくとどまるよう言われた。命令は絶対なので、怪訝《けげん》に思いながらも、友人たちを見送って自身は残った。しばらくして、先発隊の全滅が伝えられ、生一はなんとも複雑な感慨を味わった。  この出来事と、哲朗、やすの内地での必死な運動がどう結びついていたのか、実のところ誰にもわからない。ただの偶然にすぎなかったかもしれない。だが、少なくとも、やすは、哲朗のひそかな努力のお陰で生一が助かったと信じていた。  哲朗は現実主義者なので、戦争が始まった以上は、それに対処するしかないと心を決めていた。社会がどう激動しようと、今まで自分は生き抜いてきたのだから、今度も家族を守って生き抜いてゆく自信はあった。いざとなれば、あの一円五十銭を懐に、故郷を後にした振り出し点にもどるだけだ。  覚悟ができてしまうと、哲朗は静観する態度を取った。明が熱っぽく忠国の思いを語るのも、それはそれで良かった。小生意気に戦争を批判するようなことを言い出して、社会から仲間はずれになる方が心配だった。  初枝は『野球界』の編集長の池田と、時々映画を見に行ったりしているようだった。男友達のことを、哲朗に隠したことなどない初枝が、池田との交際は、なんとなく話したがらない。それだけに、真剣な気持ちなのかもしれないと哲朗は察していた。  さすがにマスコミ界にいるだけあって、池田は軍部の情報も普通の人よりは早く入手する。 「池田さん、戦争はどうなるんでしょうねぇ?」  やすが、初枝を送りがてら写真館に立ち寄った池田に尋ねた。同じ質問は哲朗もしたいところなのだが、女のように、なりふりかまわずに聞いたりはできない。 「お母さん、大丈夫ですよ。山本長官が生きておられる限り、日本はきっと勝ちます。あの人は、負けるような戦《いくさ》をする人じゃない」  池田は力強く言い切る。山本五十六は池田と同じ新潟の出身である。もちろん、池田は山本と直接の面識はなかったが、もはや郷里では山本は伝説上の人物だった。十年、二十年先を読んで戦を進めると定評があった。 「ただし、戦争を長びかせたら駄目です。短期決戦に持ち込むことです。山本長官は、そこのところは良く承知しておられるから、ここ一、二年が勝負でしょう」  山本長官と聞いて、傍で明が目を輝かせている。今の明の英雄は、間違いなく山本五十六だった。 「そりゃあ、軍部には山本長官級の頭脳がズラリと揃っているんですもの、きっと早く決着がつくわ」  初枝が勢い込んで言うと、池田が静かだがきっぱりとした口調で答えた。 「いや、山本長官ほどの頭脳は、日本の軍部にも二人といません」   見合い話を初枝はにべもなく断った  初枝に見合いの話が舞い込んできた。  昭和十七年の春である。見合いといっても、実は先方はもう初枝の顔を知っている。  両国に親戚がいるため、何度か来ているうちに、近所の写真屋の娘を見かけた。着物の着付けもきりりとして、垢《あか》抜けた立ち居振る舞いが、気に入った。ぜひ、話をまとめてくれとその親戚に頼み込んだのである。 「千葉の方で、大きな鉄工所を経営しておられて、御両親も息子さんもそれは良い方です」  頼まれた親戚は、見合い写真を手に、工藤家に足を運んだ。口をきわめて、先方の息子を褒めるのは、ただの仲人口とは思えぬ熱心さがあった。  この見合い話を、一番喜んだのは、やすだった。  いくら初枝とソリの合わないところがあるといっても、そこは母親だった。そろそろ、初枝をどこかへ嫁がせる時期が来ているのにと、内心、焦っていた。なぜ焦るかといえば、やすが、ひそかに初枝の相手にどうかと考える若い男は、次々と出征してしまい、このままゆけば日本に若い男などいなくなるのではないかと思えるほどだった。  初枝の外観は、どう見ても下町娘なのに、内面は意外と山の手志向が強い。男友達も慶応や早稲田の学生が多く、おっとりとお坊っちゃん然としたタイプが好きだった。  ところが、そのお坊っちゃんたちも、どんどん兵隊に取られ、初枝の気に入りそうな縁談など、なかなか来ないだろうとやすは頭を痛めていた。  哲朗は男親の常で、いつまでも娘を手もとに置いておきたいらしく、口では「早く片付けねば」などと言いながらも積極的に動く気配は見えなかった。  今度の見合いの話は、工藤家には不釣り合いなほど先方は経済的にも裕福だし、慶応大学を出たという息子も、見合い写真で見る限り、上品な顔立ちで、これといって不足はなさそうだ。  これなら初枝も気に入るに違いない。やすは母親の勘で、そう思った。 「あちら様は、初枝がわがままなことも知らないで、見初めて下さったんですね」  哲朗と二人で、見合い写真をのぞきながら、やすは嬉《うれ》しそうな声で笑う。  つい半年ほど前、美男力士で有名な関取が、初枝に惚れて嫁に欲しいと申し込んできたことがあった。そろそろ三役入りしようかという人気力士だったが、初枝は顔をつんと天井に向けて言ったものである。 「小学校の時から、絶対に相撲取りの嫁さんになんか、ならないって言ってたじゃないの。さっさと断って」  同じ断るにしても、その言い方があまりに小憎らしいので、母親ながらやすは、こんな娘をもらった方が気の毒だとつくづく思った。 「私はね、あの子を育てたから、わかるんです。初枝はわがままで気が強いですから、それを承知で、見守ってくれるような、たっぷりした人じゃないとダメですよ。今度のお話の方は、おだやかそうな人だから、きっと初枝の自由にさせてくれますよ」  あまりに哲朗が甘やかしたので、金遣いも荒い初枝は、つましいサラリーマンのところでは、とても我慢できないだろう。羽振りの良い自営業なら、まずは安心である。 「しかし、女遊びをする心配はないか……」  哲朗が急に心配そうに言う。  苦労知らずの若旦那が、妾を囲うことは下町の商家によくある話だった。  哲朗は、基本的には女好きだし、特に美人には弱かった。美人が写真を撮りに来ると、撮影の熱の入れようが違った。長年、工藤写真館に住み込んでいる弟子の金木豊《かねきゆたか》に、「女はきれいに撮ってやらねばいかん」と、口癖のように言っていた。後に金木は、高島屋の写真室の主任に出世したが、金木の撮る写真は、実物より三割は美しく撮れると評判で、見合い写真を金木に頼みに来る娘が多かった。  女好きな哲朗ではあったが、素人《しろうと》女に手を出したことは一度もなかった。まだ三十代の時分には、女郎屋に居続けをして、いよいよ金がなくなり、付け馬を引っぱって帰って来たこともあった。付け馬とは、勘定の払えなくなった客の家までついてゆき、金をもらって帰る女郎屋の若い衆のことを指して言う。  やすは大人しい性格なので、哲朗が付け馬を引っぱって来ても、文句一つ言わずに金を払って帰した。それは心のどこかで、自分の夫が本気で女に迷っているのではないと知っているからだった。金で解決がつく女なら、やすが心配したり恐れたりする必要はなかった。 「お前らな、タダより高い物はないんだぞ。芸者、女郎は売り物、買い物だ。しかし、素人さんはダメだ。これは高くつくからな」  と、哲朗は生一や明に常々話をしていた。それでは商売女なら良いのかというと、今度は性病の話をして、さんざん脅かす。ただでさえ、両国|界隈《かいわい》は、梅毒や淋病にかかった相撲取りが、青い顔をして歩いていたりするので、生一や明は恐ろしくて、とても女を買う勇気などない。中学生の明はもちろんだが、生一は軍隊へ行っても、他の兵士たちが平気で慰安婦を買うのに、ついに一度も女性に触れなかった。いや、その以前にも、いよいよ生一が出征すると聞いて、ミルクホールの女の子が、一生懸命、電話をかけてきて、一目会いたいと言ってきても、とうとう会いもしないで出征してしまった。  哲朗の教育というよりは、脅しが効いたのか、息子たちはみんな女にかけてはクソ真面目だった。  自分も家族に辛い思いをさせたことはないと自負しているだけに、哲朗は初枝の見合いの相手が、責任感のある男かどうかが気にかかった。 「そりゃ嫁にやる前に、先方の様子も少しは調べますが、まさか仲人さんもあれだけ太鼓判を押してるんだし、大丈夫ですよ」  やすはもう、すっかり初枝を嫁にやると決めたような口ぶりだった。  しかし、やすの期待は初枝のにべもない返事で冷や水をかけられる。 「いやよ、そんな見合いの話。第一、その人もうすぐ出征するんでしょ。出征する前にあわてて結婚しておこうなんて、魂胆がまる見えじゃない。それに鉄工所の親父さんになる人なんて、 まっぴら。やっぱりもっと知的で教養のある人がいいわ」  ろくに見合い写真も見ないで断る初枝の相変わらずの勝ち気な言葉の裏に、やすも哲朗もピンとくるものがあった。「知的で教養のある人」とは、『野球界』の編集長、池田恒雄を意識しての言葉に違いないと思いあたったのだった。   遠かった戦争がいよいよ身近に迫ってきた  さすがにあきらめて、初枝もやすも、もんぺをはき始めた。周囲の人間がみんなはいているのだから、自分だけゾロリと着物を着ていては、浮き上がってしまう。  それでも、いろいろと工夫して、外出用のもんぺは洒落た柄で、普段用はウールの地味なもので作った。時と場合に応じて、何種類かのもんぺを、取っかえひっかえ、はいている。つい何年か前には、考えられないことだった。  早く戦争が終われば良い——と、初枝もやすも思っていた。平気で口にも出していた。  日本軍は快進撃を続け、各地で勝利をおさめている。この調子でゆけば、一年くらいで戦争は終わりそうな気がした。  相撲の景気も、不思議なことに、太平洋戦争が始まるとともに、かえって拍車がかかったように連日、大入りが続いている。  双葉山が、ようやくスランプから脱出して、勝ち続けているせいもあった。前年の昭和十六年夏、双葉山は立浪部屋を飛び出し、自ら、双葉山道場を設立した。現役の横綱ながら、親方業も兼ねて、後進の指導にあたっている。いわば二枚鑑札が許されるのは、双葉山が自他ともに認める不世出の名横綱だからだろう。  工藤写真館のすぐ近所にある双葉山道場では、毎朝、若い力士たちが「力士規七則」を読み上げる声が聞こえた。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 一、我等幸に万物の霊長たる人間と生れ、万邦無比の皇国の臣民たり。敬んで臣子の本分を全うすべし。 一、相撲は国技なり。国史と共に生成し、国運と共に消長す。力士たる者当に日本精神を体現し、風俗の醇美を粋養すべし。 [#ここで字下げ終わり]  といった言葉が、ずっと続く。まさに相撲が日本の国家理念を体現しているという意識が表れている。  双葉山のこうした気負いは、しかし彼一人だけのものではなかった。ほとんどすべての日本人が皇国の勝利に酔っていたし、戦争は確実に、個人の生活の中に根をおろし、日常と化しつつあった。  昭和十七年四月十八日の土曜日、明は九段下で市電に乗っていて、奇妙な光景を目撃した。空から降るように焼夷弾が落ちて来るのだ。どこかで、けたたましく警報が鳴った。電車の中の人々は何事が起きたかと、窓の外を見詰めるが、電車は止まらずにどんどん走って行った。  家に帰ってからも、それが何であったのか、明はわからなかった。ただひどく気にはかかっていた。  月曜日になって、早稲田中学に登校した明は、校庭に足を踏み入れて、唖然とした。地面がデコボコで穴だらけになっている。級友から、土曜日の夕方、アメリカ軍の空襲があって、こうなったのだと知らされた。それでは、土曜日に自分が市電の中から見たのはそれだったのかと、初めて明は納得がいった。  ショックだったのは、その時、たまたま校庭にいた学生の一人が、焼夷弾に当たって死んだことだった。もしかしたら、自分だって、その場にいれば死んでいた可能性もある。  朝礼の際、校長が全校生徒を集めて前々日の敵軍からの初空襲についての訓話を述べた。  まず東部軍司令部の発表を生徒たちに告げた。 「皇室の御安泰にわたらせられる事は我々の等しく慶祝に堪えざるところなり」  というのが、その第一声だった。空襲は東京、神戸、名古屋が標的だったらしいが、「我防空部隊の奮闘と国民の沈着機敏なる動作とにより被害を最小限に止め得たり」といったところだった。  備えあれば恐るるに足らずと、校長は、力説して訓話を終えた。  今までは、戦争といっても、遠い戦地で兵隊さんが戦ってくれていると思うだけだったが、実際に自分の生活圏内に敵の弾丸が飛んで来てみると、明はあらためて、戦局の深刻さを身をもって知らされた。  もしも、戦局が不利になれば、敵軍は毎日でも攻撃してくるだろう。その時はどうしたらいいのか……。 「そうだなぁ、貴重品はどこかへ避難させておいた方がいい。町内で消火訓練の回数をもっと増やして、すぐに動けるようにしておいた方がいいだろうなぁ」  哲朗は空襲を心配する明に、目をクルクル動かしながら、その対策を話す。こうした実務的なことに関しては、哲朗は抜群の実行力を発揮したし、現在も町内会では中心的な役割で、防空訓練の先頭に立っている。  だが、明が聞きたかったのは、そんな実務的な話ではなかったのだ。 「心配せんでもいい。日本軍はあっという間に敵を撃滅するんだから」というような強気の答えを期待していた。これだけ勝利を重ねているのだから、もう戦争は日本軍の勝利で必ず終わるはずではないか。  しかし、哲朗の口から、勝利を見通す言葉が出たためしはなかった。といって、弱気な言葉を吐くわけでもない。ただ、現実に自分の前で起きていることに、どうしたら最も有利に対処できるかを、いつも考えながら行動している。  それが明には歯がゆくもあった。敵が攻めてくるのなら、その前に撃って出れば勝つ。早く御国のために戦う兵隊になりたいと、そればかり考えていた。  この年の暮れは、物資の欠乏がひどくなり、正月の料理の支度も難しくなっていた。相撲は相変わらず大入りを続け、異常なほどの人気だったが、昭和十八年の初場所は、国技館の色彩も以前ほど華やかというわけにはゆかなかった。  貴賓席の隣室には、ドイツ、イタリアの放送員が、本国にラジオで相撲の実況中継をする姿が見られた。アメリカで収容所に入れられている日系人のために、相撲を短波で放送しているとの話もあり、昔ながらの相撲の取組が行われてはいるものの、その周辺は戦時色が濃く漂っていた。  生一の無二の親友の村瀬が、ガダルカナル島で戦死したとの報が入ったのも、正月早々であった。村瀬は自動車の免許を持っていたため、ガダルカナルに送られたという。生一はまだ中国大陸のどこかを転戦しているはずだった。たった一枚の自動車免許証が、生一と村瀬の明暗を分けたという思いが、哲朗の胸に強くせまっていた。  最後の力をふり絞るかのように全勝優勝した双葉山に、「純綿の星をずらりと双葉山」という川柳ができた。純綿が少なくなりスフ製品が出回る時代となっていた。   帰還した生一が突然、軍歌を唄い出した  山本五十六の戦死のニュースは、新聞やラジオより早く、『野球界』編集長の池田恒雄によって、工藤家にもたらされた。  池田の面持ちは沈痛だった。がっくりと肩を落としている。山本が米軍機に撃墜され死亡したという確かな情報を入手すると、なにはともあれ工藤家に直行した。少しでも早く初枝に知らせたかったからだ。 「もう軍部も発表しないわけにはゆかんでしょう。二、三日のうちに新聞には出るはずです。これが一つの節目になるかもしれない……」  池田が言う「節目」とは、どういう意味なのか、初枝にはよくわからないが、池田の悲しみだけはひしひしと伝わってくる。あれだけ山本を敬愛していたのだから、その死に動揺するのも無理はない。 「それにしても、どうして、こんなことになったのかしら?」  初枝は山本の身を守り抜けなかった軍部にたいして腹が立ってくる。 「だから僕が『節目』と言ったでしょう。あの人が戦死するようでは、日本はもうターニングポイントに来ている」 「ターニングポイント?」 「そう、分岐点です。しかし、それに気づいている日本人は少ない。不安です。自分の生涯で今ほど心細く不安なことはない」  五月だというのに、寒そうに身ぶるいをすると、池田は仕事があるからと言い置いてそそくさと去って行った。  三日後の昭和十八年五月二十二日の新聞は、大きく連合艦隊司令長官の死を報じた。  山本と同じ新潟県出身の歌人、相馬御風は、 「山本提督断じて死なじ根こそぎに鬼畜米英砕かずば山本提督断じて死なじ」  と詠《うた》った。  それは、そのまま明や司朗の気持ちでもあった。特に明は、悔しくて涙が出そうになる。必ず山本提督の仇は取ってやると、小さな握りこぶしをふるわせていた。  だが、哲朗は池田の言葉を聞いて以来、自分の思考が少しずつ方向転換するのを感じていた。 「池田さんが分岐点といった意味がお前にわかるか?」  新聞を広げて見入っている初枝に尋ねた。 「ええ。わかるような気がする。もしかして日本は坂道を転げ落ちてんでしょ」 「そうだ。山本提督が死ぬような戦《いくさ》はなぁ……」 「つまり負け戦。日本は負けるかもしれないって、池田さんは言いたかったのよ」 「うん、そうだ。それを一番最初にお前に知らせに来た」  国が滅びるかもしれないという予感に怯えながら、池田は初枝に会いに来た。悲しみも喜びも不安も、最初に分け合いたいと思ったからだろう。 「お前、池田さんと結婚の約束をしたのか?」 「ええ、近いうちに、ちゃんと話をしに来たいって言ってたわ」  わるびれたふうもなく初枝は答える。 「負け戦だから結婚か……」  哲朗は意味もない言葉をつぶやきながら、急に何かがふっ切れたような感じもした。  どんな時代でも、人間は生きてゆかなければならない。初枝を手放す時期が、そろそろ来たようだ。  中国大陸にいる生一が除隊になるのを待って、初枝は池田と結婚することになった。やすは、池田が十一歳も年上なのと、死別した前夫人との間に三歳の男の子がいるため、結婚に反対したが、哲朗はどんどん話を決めてしまった。自分にそっくりの気性の初枝のことだから、反対したら駆け落ちくらいはやらかすだろうと思ったからだ。  生一がようやく除隊となり、内地へ帰って来たのは、九月の末だった。  明日帰るからと電報が入り、本当に翌日には、生一が玄関に立っていた。実に四年ぶりの帰省だった。  やすは、生一の顔を見たとたん、割烹着の裾に顔を埋めて泣き出した。この四年間、一日たりとて生一の無事を祈らない日はなかった。近所の神社に必ずお参りに行った。哲朗にうるさがられるほど、何度も何度も生一の消息を案じ、戦局の変化に気を揉《も》んだ。  その生一が、今、ようやく自分のところへ帰って来たかと思うと、感極まって、言葉も出ない。嬉しくて嬉しくて、涙がとめどなく流れる。  生一は、四年の間にひとまわり逞《たくま》しくなったようだ。やすの肩を抱きかかえるようにして家の中に入ると、やさしく座敷に座らせた。 「大きくなったなぁー」  突然、母親が泣き出したので、なんだか照れくさいような気持ちになって、生一を遠まきにしている明、司朗、敏朗の頭を順番に撫でた。  すると、敏朗がびっくりしたように飛びのいて、やすの膝にすがりついた。 「あのおじちゃん、だれ?」  と聞く。思わず家中が笑い出した。 「敏坊のお兄ちゃんじゃないの」  やすが教えても、まだ敏朗は不思議そうな顔で、じっと生一を見ていた。生一が出征した時、敏朗はまだ三歳だった。憶えていろという方が無理だろう。 「ただいま帰りました」  生一は、きっちりと正座して、両親に頭を下げた。出征した時は、どこかに少年っぽさが残り、気弱でたよりない感じもしたが、今は、すっかり一人前の男の顔になっていた。 「無事でよかった」  哲朗は、ただ自分の心にある思いを素直に口に出した。生一の友人たちの戦死の報が相次いで届いていただけに、哲朗も胸の中では、やすに負けないほど、息子の身を案じていた。  気がつくと、やすはもう台所に立って、食事の支度を始めている。生一が帰ったら、あれも食べさせたい、これも食べさせたいと、やすの頭はいっぱいだったのだから、泣いている場合ではなかった。  久しぶりに家族全員が食卓を囲み、なごやかに食事をしている最中、突然生一が軍歌を唄い出した。  思わず哲朗は箸を動かす手を止めた。大きな声で一節、唄い終わると、ふたたび生一は食べ始めた。朗らかに、家族に戦地の話をした。辛い話や苦しい話は出なかった。  食事が終わると、また生一は軍歌を唄い出した。寝るまでに、何度も何度も大声で唄う。その時だけは、いつもの生一とは別人のような顔になった。  真夜中、明は生一の軍歌の声で目がさめた。眠っている間も、生一は軍歌を唄っている。怒鳴るような大声だ。  明は暗闇に目をこらして、じっと兄の歌声を聞いていた。   カメラの前で生一と明は離れて座った 「おい、お前の願書を出しておいたぞ」  昭和十九年の春、明は兄の生一にそう言われても、とっさにはなんのことだかわからなかった。 「予科練の願書だ」  怪訝《けげん》そうな顔の明に、生一が言葉をついだ。  予科練か……。  明は大きく一つ深呼吸をした。 「受かるかどうか、わかんないよ」 「いや、お前の成績なら大丈夫だ」  生一は確信に満ちた声で言うと、割れるような大声で『若鷲の歌』を唄い出した。軍隊から帰ってこのかた、生一は軍歌ばかり唄っている。それと声が大きくなった。笑う時も、大きな高笑いをする。  それ以外は、昔と同じ生一だった。やさしくて、おだやかなのだが、外側だけは強い男に見せる鎧《よろい》をまとっているようだった。 「若い血潮の予科練の  七つボタンは桜に錨     …………  」  西条八十作詞、古関裕而作曲のこの歌は、一世を風靡《ふうび》した。明も、この歌を聴くだけで胸がゾクゾクしてくる。  つい先週も、予科練に入った先輩が、七つボタンの制服でビシリと決めて母校の早稲田中学に挨拶に来た。 「諸君の来るのを待っているぞ」  と高らかに手をふる先輩のりりしい姿に明は強い憧れを感じた。  明の中学では、学年で一、二番を争うほどの生徒は海軍兵学校へ進んだ。その次の十番前後までが予科練を受ける。予科練に落ちたら、陸軍少年戦車兵がある。  明は十番以内には入っていたが、それでも自信はなかった。しかし、生一が願書を出してしまったと言うので、素直に試験を受けに行った。  中国大陸での四年の月日は、生一を熱烈な愛国青年に変えていた。今こそ国民が団結しなければならない時だ。そして、明が日本男児としての本分をじゅうぶんに果たせる年齢になったと生一は思っていた。  筆記試験に合格した明は、身体検査に出向いて、驚くべき場面にぶつかる。とにかく全員が素っ裸で、性器から肛門まで子細に調べられている。明も、その裸の行列に並ばせられた。  すぐ隣に立っていた男が、軍医から大声で「先天性梅毒」と言い渡されるのを聞いて、明はまた目を丸くする。  身長を測ったところで、軍医に「ちょっと来い」と手招きされた。なにごとかと思って行くと、明の書類の身長の欄を、素早く消して、五センチ多く書き直した。  なにも言わなくても、その意味は、わかっていた。明はひときわ小柄で、背丈も一メートル五〇センチがやっとだった。このままでは身長の不足で落第になると軍医は思って、わざと書き直したのだった。  その頃、明は知らなかったが、日本は兵力の不足で、予科練も大量に練習生を採る体制になっていた。軍医としては、視力が抜群に良い明を落としたくはなかったのだろう。  ほどなく採用通知が来て、明け六月一日に上野駅集合で土浦の航空隊へ入隊することになった。正式には第十四期海軍甲種飛行予科練習生である。  予科練には、甲種、乙種、丙種とあり、甲種は満十五歳から十九歳まで、乙種は中学二年生から、丙種は一般の兵隊から採っていた。  明は中学四年生の十五歳だった。  合格通知が来た夜、哲朗が明の目を見据えて訊いた。 「明坊、お前、行けば死ぬぞ。いいのか?」 「いいよ。御国のためなら死んでもいい」  きっぱりと言い切る明に、哲朗はそれ以上はなにも言わず、ただうなずいた。  予科練については、生一が熱心に勧めるうえに、時節柄、それが英雄的な行為と見られていることもあって、誰も反対する人はいなかった。なにより、明が少年らしい澄んだ瞳で、死を覚悟しているというのなら、哲朗に反対する理由はなかった。  息子を一人失う悲しみは、哲朗の心の内部で解決しなければならない問題だ。いつもそうして来たように、哲朗は一人で、その現実に対処しようと思っていた。  この戦争が始まった時から、息子を国に差し出す日が来るだろうと、予期はしていた。幸いに生一は無事に帰還したが、どうも普通の生活がしっくりいっていない様子も見える。再召集の通知は来ていないが、自分からジャワの飛行機会社に就職すると言い出していた。哲朗に仕込まれた航空写真を撮る技術を生かした仕事だというが、戦地には変わりないので危険はつきまとう。  うっかりすれば、生一も明も戦死するかもしれない。戦争が終わらなければ司朗や敏朗が兵に取られる日も来るのか。 「まさか……」  哲朗は頭をふって打ち消すが、暗澹《あんたん》とした思いは胸に広がる。  翌朝、哲朗は生一と明に記念写真を撮るから盛装するようにと命じた。出征記念の写真は誰でも撮るので珍しいことではない。明が予科練へ入るのと同じ頃、生一もジャワの南方航空に就職する予定だった。  二人を並んで座らせると、ファインダーをのぞいた哲朗は、「もう少し離れて」と言う。 「そんなに離れなくっても……」  と、傍に立って見ていたやすが言いかけると、厳しい視線でジロリと睨《にら》むので、それきりやすは口をつぐんだ。  二人の写真が仕上がった時、初めて哲朗は、やすに説明した。 「なぁ、ここの真ん中から切れば、どちらか一人が欠けた時にでも葬式の写真に使える。だから離れろと言ったんだ」  言われてみると、確かに生一と明の間は程よく空いていて、これなら切り離しても、そう不自然ではない。  やすは写真をじっと見詰めて、もう泣きそうな顔になっている。妻の気持ちが哲朗にはよくわかるのだが、「うんざり」という思いもしてくる。女は泣けるだけ得だ。男は泣けない。どうして、そこのところを、やすは察してくれないのか。  いよいよ六月一日、明が入隊する日は、家族、親戚、御近所の人たちまで総出で見送りとなった。  お向かいの富士ケ根部屋のお虎婆さんが、しきりに明の肩を叩いては涙声で周囲の人に訴えている。 「こんな小ちゃい子供まで兵隊に行かなきゃならないなんてねぇー。見てごらんよ、明坊を。まだ、ほんの子供じゃないの」  確かに明は十五歳の割には身体が小さく、童顔で十二、三歳にしか見えない。  もう昭和十九年になると、力士たちもそれぞれ地方に散って行ったり、召集されたりして、両国界隈もすっかり淋しくなっていた。工藤写真館が開業した年に生まれた明まで、細い小さな身体で戦争に行くのかと思うと、お虎婆さんは世の末が来たように悲しくなる。 「一句できたぞ」  あまりお虎婆さんがしつこく愁嘆場を演じているのに弱り果てた叔父の秀男が、明のための句を披露した。 「明坊の七つボタンは腰上げし——ってのはどうだ?」  七つボタンの制服を腰上げして着なければならないほど、明が小さいというのを揶揄《やゆ》したつもりだったのだが、これは逆効果になった。  その句を聞いて、今まで我慢していた涙がどっと出たように、やすまで泣き始めたのである。  前年の暮れに、池田恒雄と結婚して国立《くにたち》に所帯を持った初枝も、急にやさしい仕草で明の肩を抱きしめたりする。  なんだか、わけのわからない興奮につつまれたまま、明は両国を後にした。大人たちがみんな大騒ぎするほどには、戦争は恐ろしいものに思えなかったし、日本を守るためならば、自分の生命にも別に執着は感じなかった。  生まれて初めての一人旅で、土浦の航空隊に着いた明は、まず、支給された制服を見て困惑した。大きいのだ。とにかくブカブカに大きい。秀叔父さんが、「七つボタンは腰上げし」と言ったけど本当に腰上げしなければならないほどだ。  とっさに考えて、明は制服をひっつかむと烹炊所《ほうすいじよ》に行き、お湯をもらった。そのお湯の中に制服をつけて、それから乾かしてみたら少しちぢまって、なんとか着られるようになった。  支給された靴も大きくて、中で足が遊んでしまう。おずおずと教官に、靴が大き過ぎるのですが……と申し出ると、「貴様の足を靴に合わせろ!」の一言で終わりだった。  航空隊は土浦の駅から二キロほどのところにあった。途中には、ほとんど建物がないので、夜になると汽車の汽笛の音がポーッと聞こえる。長く尾を引くような音だ。  すると、明の寝ている部屋のあちこちから、クシュクシュと、かすかな音が聞こえ始める。それは練習生たちがポロポロすすり泣く声だった。 「えらいところに来ちゃったなぁ」  明は急に心細くなった。家族と離れて暮らすのは初めての経験だが、仲間たちの涙は、その淋しさからあふれ出るのだろう。自分も、やがて汽笛の音に涙するようになるのかなぁと、明はため息が出た。  だが、すでに入隊生活の長い練習生が、夜中にポロポロ泣くのは、実家が恋しいからだけではなかった。訓練が、あまりに辛いせいもあったのだが、その時の明は、予科練の実態など知る由もなく、ただ希望に胸をふくらませ飛行機に乗れる日を待ち望んだ。  明が入隊して間もなく、生一もジャワへ旅立った。おそらく、現地で再召集されるのは、確実だろう。  初枝もすでに嫁ぎ、弟子たちも一人残らず出征し、工藤写真館は火が消えたように静かだった。   夫の結核発病に初枝はむしろ安堵した  階下でやすの華やいだ笑い声が聞こえてきた。哲朗は二階の写場で、カメラの手入れをしている。  顔馴染みの新聞記者が、羽黒山の写真を借りに来た。その男が来ると、やすがどことなく、そわそわするのに哲朗は気づいていた。 「おかみさんは本当に若々しい。どうしてそんなに肌がきれいなんですか?」  などと歯の浮くようなお世辞を言われ、 「あら、ただメンタムをつけているだけよ」  と、やすがはしゃいだ少女のような声で答えるのを、哲朗は不快な気分で聞いていた。五人の子持ちで、四十五歳になるやすも、他の男の目からは女に見えるのかもしれない。しかし、女に見えるのはやすの方にも隙があるからだろう。他愛のない男のお世辞に、若やいだ表情を見せるやすを、哲朗は浅ましいと思うのだが、だからといって、やすに意見がましいことを自分が言うのは、もっと浅ましい気がする。 「夫婦の間にも遠慮ってものがあるんだ」  哲朗はカメラを拭く手を休めて、ため息をついた。  ここ二、三日、やすに言いたくても言えない言葉を呑み込んでいる。  空襲は日増しに激しくなっていた。いつ、工藤写真館が焼けたって、ちっとも不思議はない。用意周到な哲朗はすでに貴重品は貨車一両を借り切って青森の親戚あてに送ってある。  東京にいたって、たいして商売にもならないのなら、そろそろ青森に疎開する時機がきているのではないかと考えていた。  郷里には、母親の|とき《ヽヽ》もいる。さすがに八十五歳という高齢で、身体も弱ってきているらしい。  だが、「疎開」という言葉を、どうしてもやすに言い出せない。やすが、露骨に嫌な顔をするのは、わかり切っていた。やすは東京を離れたくないのだ。田舎の生活をするくらいなら、死んだ方がましだと思っている。肌ざわりが良くて、ツルツルとした都会の人間が好きだし、哲朗の親戚ばかりの青森へ行くのは、考えるだけでもおぞましいようだ。  そんな妻の気持ちは、聞くまでもなくよく承知しているだけに、哲朗はなかなか疎開しようと言い出せないでいる。  しかし、今夜あたりは話を切り出そうと考えていた時、階段を上って来る足音が聞こえた。足音だけで、家族の誰が上がって来るかは、たいがい見当がつく。男のように元気が良いが、ややゆっくりめに上がって来るのは、国立に所帯を持った初枝の足音だ。嫁にはいったものの、しょっちゅう実家に帰って来る。  つい先日、いよいよ夫の池田にも召集令状が来たと言っていたので、出征の日取りが決まったのかと、哲朗は重苦しい気分だった。  初枝は娘時代とあまり変わらぬ威勢の良い歩き方で、スタスタと哲朗の傍に来ると、ペタリと横に座った。 「池田がね、身体検査で、ずいぶん進んだ結核だってわかったの」  哲朗の驚きにおかまいなく、初枝は言葉を続ける。 「でもね、私は正直に言うと、ほっとしてるの。池田には、やっぱり男としての複雑な思いがあるらしいけど、私はね、こんな戦争で、あの人が死ぬことはないと思っているわ」  初枝の喋り方は、女にしてはきっぱりとメリハリがきいている。 「昨日もね、池田が博文館の倉庫に泊まり込むって言うから、やめなさいって止めたの。だって、空襲で倉庫が燃える時は、どっちにしろ燃えるんでしょ。池田が泊まっていたっていなくったって同じこと。池田一人の力で火を消せるわけじゃなし、それより爆弾にあたって死んだらどうするのって言ったの」  興奮した初枝の口調に、池田との言い争いの様子が伝わってくる。初枝は女だから、池田が出征しないですむのが嬉しい。だが、男の池田には、いくら戦争に反対しているとはいえ、自分だけ出征しないことには後ろめたい負い目がある。せめて会社の倉庫に泊まり込んで空襲に備えようと考えたのだろう。  初枝はそんな男の屈折した意地などとんとおかまいなしに、夫の無事ばかり願っている。 「あの人にはね、生きていてもらわなきゃ困るわ、池田は普通の人とは違うんだから、これからの日本が必要としている人なんですもの」  初枝は大真面目な顔だった。哲朗はあきれるのを通り越しておかしくなった。自分の夫だけが特別の人間で、他の人は死んでもかまわないと言うのだろうか。それじゃあ生一や明はどうなるのか。  しかし、そんな理屈は、初枝には通じそうもなかった。今の初枝にとっては一番大切なのは池田であって、池田に生きていてもらうためには、どんな理由だって考え出しそうだ。 「美味しいものをたくさん食べて、まずは身体を治すこと。そのためには疎開することも考えているの……」  いつもはやすと二人で連合軍になって、東京の生活を礼讃している初枝が田舎へ行くと言い出したのに、哲朗は、ふと、いじらしい感じがした。  女は、とにかく自分の身のまわりのことだけ考えて暮らしていれば、それですむのだから楽だ。疎開を頑なに拒み、哲朗に話の糸口さえ与えないやすも、突然、疎開すると言い出した初枝も、結局のところ、自分の周辺の一メートル四方くらいしか見つめていない。  哲朗は、このまま戦争が続いて、万が一にも日本が負けるようなことになれば、相撲はどうなるのか、国技館はどうなるのか……と、そろそろ心配になってきている。写真館だって、衣食足りて初めての肖像写真なのだから、物資の困窮が続き、国が滅びる日がくれば、しばらく誰も写真を撮ろうなどとは考えないだろう。  それでも男は、家族を守り、日本国民としての義務も果たさなければならない。 「あーあ、早く戦争が終わらないかしらね」  ため息まじりにつぶやく初枝に、哲朗は問い返した。 「終わったらどうなるのかな?」 「戦争が終わったらね、池田は自分の出版社をやるって言っているの。会社の名前は『ベースボール・マガジン社』よ」  初枝の顔が得意そうに輝く。 「なんだそりゃ、英語の名前じゃないか」 「そうよ。アメリカにも同じ名前の雑誌があるんですって。戦争が終わるとどっと横文字が氾濫する時代がきっと来るって池田は言うの。その時に新しいスポーツ雑誌を出すのよ」  初枝の目は、はるか遠くを夢見るようにうっとりとしていた。   予科練生のお尻は痣《あざ》だらけで虹色に見えた  予科練に入隊した明が、指折り数えて楽しみにしていた正月の帰省は中止になった。 「戦局重大につき休暇取り止め」という通達が、昭和十九年十二月の初めに出た。  明は泣きたい気持ちだった。  予科練に入って半年が過ぎた。すべては、明の予想もつかなかった新しい世界だった。その新しい世界に、一日も早く順応しなければと思うものの、精神的にも肉体的にも、明の許容量をはるかに超える要求が続いていた。  食べ物も、最近はひどくなった……と、入隊したばかりの頃を思い出す。あの頃は、まだ四大節の日は御馳走が出たし、時にはお菓子の配給もあった。しかし、近頃は玄米飯にらっきょうだけの日が多い。  とにかく驚くことだらけだ。つい先週も練習生全員が集められたところで教官が、ニヤニヤ笑いながら口を開いた。 「お前らの靴の底もだいぶ減ったことと思う。今日は靴の減らない方法を教えてやる」  なにかと思えば、靴をはかずに裸足で歩けと言うのである。そんな無茶なと思っても、命令は絶対だった。たちまち、全員の足が血だらけになった。その上、明は石炭殻の上を走らされ、爪をはがして、まだ、足を引きずっている。  下痢をすれば、薬などもらえず、ただ絶食させられるだけ。  いったい、上官は練習生の健康について考えてくれているのだろうか。いや、健康なんて贅沢なことは言わない。練習生の身体というか、生命というか、そんな基礎的な当たり前のものについて、多少でも注意を払っているのだろうかと明は疑うことがある。  十二月に入って、寒中水泳が始まってからは、特にその感を強くした。  隊内には五〇メートルプールがある。そこに、酷寒の中、褌《ふんどし》もせずにすっ裸で並ばされ、水に入れという。初めて足を水に漬けた時は、まるで刺すような痛さだ。ぐずぐずしている者がいると、教官が竹竿の先で沈める。  いっそ泳ぎ出してしまった方が、寒さはやわらぎ、身体は楽になる。 「それにしても、すごい光景だ。まるで虹色じゃないか」  泳ぎながら、明は妙なことに感嘆した。それは練習生のお尻の色なのである。赤、青、黒、紫……と、さまざまな色でまだらになっているのは、上官にバットで撲られるからだった。それを、明たちは「バットを喰らう」と言った。  バットを喰らった者は歩き方ですぐにわかった。特に階段などヨタヨタと、やっとのことで上がったり下りたりする。ちょっとした規則違反でも、すぐに撲られたが、明たちの班長は気まぐれで理由がなくても撲った。  だから、ほとんどの練習生のお尻は痣《あざ》だらけで変色している。裸になるとよけいにはっきりそれが見える。  冷たい水の中で、少年たちが虹色のお尻をしながら必死になって泳いでいるのを、教官は暖かそうなコートで着ぶくれした姿のまま監視する。自らは間違っても水に入らない。それどころか手を濡らすのも寒いとばかり、竹竿をひょいひょいと延ばしては、練習生の頭を水の中に沈めた。  明は、哲朗の教育方針で、いつも、夏の間は一ヵ月くらい、千葉の房総半島で過ごしていたので水泳は得意だった。しかし、泳げない練習生は可哀想だったし、要領の悪い者はもっと悲惨だった。  明は小さい頃からすばしっこくて、運動神経も発達していた。だから、たいがいの訓練では良い成績を収めていた。基礎訓練の期間が終わると、「偵察」か「操縦」か、どちらかの隊にふり分けられることになっている。もちろん、みんなが行きたいのは華々しく飛行機に乗って活躍する「操縦」の方である。今のままの成績を維持すれば、明は確実に「操縦」の隊へ入れる予定だった。 「だから頑張らねば」と何度も自分自身にかけ声をかける。だが、身体が小さいのはハンディだった。朝の起床時に吊り床をたたむにも、あまりに小さいから椅子に飛び乗らねばならない。時間は、吊るのに四十秒、たたむのに一分しか許されていない。その間に椅子を動かす分だけ余分な時間がかかる。  根が真面目な明は、とにかく一瞬たりとも気を抜かないようにしようと決心した。他の人より小さいのだから、それだけ努力しないとついてゆけない。そう決心して頑張って来た半年間だったが、正月に家へ帰れないと知ると、張りつめていた思いがどっと崩れて、足もとがフラフラするような疲労感を覚えた。  洗面所へ行って鏡に映る自分の顔を見ると、げっそりと頬がこけて目ばかりがいっそう大きくギラギラしている。父親が写真師のせいもあって、明は人間の顔の形に敏感だった。似顔絵など描かせたら、教師が舌を巻くほど上手い。  鏡に映っている青い顔が、十五歳の自分の顔だとは、明はとうてい信じられなかった。それは老人の顔だった。しかも人相の良くない不幸な老人の顔をしている。  正月には自慢の七つボタンの制服を着て両国に帰り、弟たちにいかに訓練が厳しいかを話してきかせるつもりでいたが、それも夢と消えた。いや、もしかしたら、ただ家族に会いたいだけなのかもしれない。やすの手料理が恋しいし、弟たちの悪ふざけもなつかしい。  親が死んだ練習生だけは家に帰してもらえる。それが明には羨ましくてならなかった。親が死んだらいいのにと、知らぬ間に祈っている。ちょっとの間でも家に帰りたかった。よく考えれば、父親や母親に会いたいからこそ帰りたいのだが、そんな理屈はぶっ飛ばして、とにかく帰れればなんでも良いとさえ思いつめていた。  練習生たちの激しい落胆にもかかわらず、とうとう正月の帰省はかなわなかった。そのかわりに兎狩りをさせてやると郊外の山に連れて行かれたが、兎を追いかける者は一人もいなかった。みんな腑抜けたように、ぼんやりと立っていた。  昭和十九年も終わろうとする時期になって、ようやく寒中水泳は中止になった。あまりの寒さに肺炎を起こして死亡した者が出たからだった。  バットを喰らって、死亡する練習生も出てきた。明の知っている少年だった。|尾※[#「骨+低のつくり」]骨《びていこつ》の骨折が原因だと言われたが、それよりも精神的ショックの方が大きかったのではないかと明は思った。  やたらと寒い冬はいつまで続くのだろうか。それでも明は哲朗あての葉書に、いつも同じ文句を書いていた。 「楽しく訓練に励んでおりますので御安心下さい」   米軍機の窓ごしに金色の髪が光るのが見えた  どうせ学童疎開をするのなら、全く見知らぬ土地よりは、姉の初枝が住んでいる国立が良いだろうということになり、司朗と敏朗は初枝の家から学校へ通うことになった。  司朗は国民学校六年生、敏朗は三年生だった。  両国の家には哲朗とやすだけが残った。  やすと二人きりの生活など、新婚当時の一年間だけだから、実に二十六年ぶりである。  哲朗は思ったことをすぐに口に出してしまう性分である。腹にしまっておけない。だが、やすは逆に何も喋らない。じっと押し黙っている。だから、哲朗は時々、妻の心中をはかりかねることがある。  疎開の話を切り出せぬまま、昭和二十年を迎えた。やすはますます無口になってゆくようだった。他人の目には控え目でやさしい妻だが、芯の部分はゾクっとするほど強情だと哲朗は思っていた。  初枝が池田と結婚したことも、やすは心の底では許していなかったし、疎開も無言のまま哲朗に反抗を示していた。  それでも、哲朗にはすでに将来の絵図がくっきりと見えている。空襲は、日増しに激しくなっているのだから、工藤写真館が焼けるのは時間の問題だろう。そうなれば否応なく疎開せざるを得ない。  娘の初枝のところへ身を寄せるのも一案だが、国立も以前ほど安全ではなくなっている。  先週も、司朗と敏朗の様子を見に出かけた哲朗に、初枝が唇をふるわせてその日の朝の出来事を話した。初枝は哲朗にそっくりで思ったことをお腹に溜めておけない。機関銃のような勢いで、なんでも哲朗に喋《しやべ》る。 「人間ってね、あわてると本当に分別がなくなるものね。今朝、庭に出ていたら空襲警報が鳴ったのよ。それで急いで防空壕に入ろうと思って走って行って、庭の木戸を開けようとしたけど、どうしても開かないの。開かないはずよ、引けばいいのに一生懸命に押してたんだから。それで、木戸にへばりついてウンウンやっているうちに、ひょいと見ると、もうアメリカの飛行機が低空飛行で、すぐそこを飛んでいるんじゃない。見えたのよ、顔が。パイロットの顔がはっきり見えたの。ピンクの顔に金色の髪の毛が光っているのよ。ゾーっとしたわ」  初枝は興奮さめやらぬ口調だった。初枝の家は玄関のすぐ脇に防空壕があった。そこへ這い込むと、アメリカの艦載機が機銃掃射するパタパタという音が、はっきり聞こえる。身がすくむような嫌な音だった。 「あんなに近くまで、悠然と降りてくるんですものねえ。なんてことかしら」  恐ろしさが去った後では悔しくなってくる。自分の国の自分の庭にいるのに、どうしてこんなに怯えなければならないのか。  初枝の家のすぐ近所に靴屋がある。その靴屋のおじいさんは、空襲警報が鳴っても、頑として動かない。 「アメリカから飛行機が飛んで来るなんて、そんな馬鹿なことがあるはずがない。あんな遠いところから、来られるもんかね」  と言って、信じようとしないのだ。仕方がないので、おばあさんと娘が、おじいさんを引き摺るようにして防空壕へ連れて行く。近所では、みんな、その靴屋のおじいさんを笑っているけれど、つい二年ほど前までは、日本人は全員、「そんな馬鹿なことがあるはずない」と思っていた。あんな遠いところから、どうやって毎日のように飛行機が飛んで来るのか……本音を言えば初枝にもよくわからない。  国立は、いちおう疎開地区に入っているのだが、この調子だといずれ危険になるだろう。  哲朗はすでに大事なものは青森に送ってしまい、日常品も必要最低限のものを残して、すべて国立へ運んだ。  だから、工藤写真館はガランとだだっ広く見える。あるのは鍋釜と普段着が一揃いだけだった。  ジャワに行った生一も、案じていた通り、現地で再召集された。せっかく助かった生命なのにと、やすが落胆していると、追いかけるように生一から便りがあり、シンガポールで初年兵の教育にあたっているという。  それならば激戦地に送られないですむと、やすは手放しで喜んでいる。しかし、哲朗はもっと先へと思いをはせて、不吉な予感がしていた。  日本の国内でさえ、こうして空襲にさらされているのだ。シンガポールがいつ激戦地に変わるかはわからない。まして、戦争が終結する時が来れば、外地にいる兵士の運命など、およそ想像がつく。捕虜になるか殺されるかだ。  しかし、「あの子なら、きっといい教官でしょうね。初年兵も幸せですよ」などと、やすが言っているのを聞くと、あえて水を差す気にはなれなかった。  明も訓練期間が終われば、やがて出征する。明より半年前に入隊した練習生たちは、もう南方へ旅立ったというから、明たちの番が来るのも間もなくだろう。 「勘ちゃんがね、土浦へ行った時に明に面会してくれたんですって」  やすが、ふいに思い出したように哲朗に言う。二人だけの静かな夕飯を食べている時だった。 「へえー、勘ちゃんがねぇ」  哲朗は久しぶりに笠置山の顔を思い浮かべた。以前は、工藤家の長男だと、自分でふざけて言うほど始終、入り浸っていた笠置山も、結婚してからは、やや足が遠のき、昨年からは、もう相撲の興行そのものが不規則になっていたので、両国に姿を見せることも少なかった。 「慰問団かなんかで、明のいる土浦の航空隊に行ったんですって。本部に呼ばれた明が、コチコチになって来たって笑ってたわ」  相撲取りも、あちこちに慰問に歩かねばならないご時勢だった。双葉山も郷里の近くの太宰府に道場を開き、弟子たちも百姓をしていると聞く。  笠置山が訪ねてくれて、なつかしそうにしている明の顔が目に浮かぶようだ。 「やっぱり大根が一番合うようだな」  哲朗は、これ以上、明の話を続けると、またやすが泣き出すだろうと思って話題を変えた。  白米の配給がだんだん少なくなってきていた。だから小豆、大豆、大根など色々なものを混ぜて炊く。その中では大根が一番さっぱりして食べやすい。  水っぽい大根入りの御飯をかき込みながら、哲朗はふいに淋しさを覚えた。やすと二人きりのせいか、他にも理由があるのか、よくわからないが淋しかった。   夕暮れの街で、司朗は漠たる不安を感じた  不思議なことだが、司朗は自分が勝手に一人で大きくなったような気がしていた。  もちろん両親もいるし、兄弟もいる。その上、工藤写真館には哲朗の弟子も常時二、三人はいた。いつも誰かが、少しずつ司朗の面倒を見てくれた。しかし、母親のやすは、あまりに子供の数が多いので司朗にだけ特別の注意を払うことはほとんどなかった。生一は長男、初枝は長女として、それぞれ母親と父親の愛情をじゅうぶんすぎるほど注がれて育った。だが、その下の三人の子供たち、明と司朗と敏朗は、なんとなく三人ひとからげという感じだった。  それでも末っ子の敏朗は、一番長くやすの膝の上を独占していた。生まれつき愛嬌があり、剽軽《ひようきん》な性格だったので、つい、やすも哲朗も敏朗には甘くなった。  敏朗と二人で、国立の初枝のところに預けられ、新しい学校へ通うようになっても、司朗は別に淋しいとも感じなかった。  まだ国民学校六年生だが、誰かにたよるということのない子供だった。いつも身ぎれいにしている。自分で自分の洋服や所持品の始末をきちんとする。無茶や乱暴はけっしてしなかった。  新しい学校は西武系の私立校で国立《くにたち》学園といった。雑木林の中にある木造平屋の校舎だった。国立は新興住宅地で、ハイカラな人たちが住んでいる。国立学園も裕福な家の子供たちが多かった。  ゴチャゴチャと小さい家が密集し、庶民的な雰囲気の両国とは、あまりに違う環境だった。生徒同士が必ず、さん付けで呼び合うのにも、初めは違和感を覚えた。中途から入学したのだから、友達を作るのにも時間がかかった。  だが、司朗の、年より大人びた物静かな性格は、下町よりはむしろ山の手色の強い国立学園の方が合っていたようだ。  昭和二十年に入ると、物資はあらゆるものが不足していた。国民学校の教科書もクラスに二、三冊しか割り当てがない。それを全員が筆記した。司朗は几帳面な四角い字で、きれいに手製の教科書を作り、挿絵まで正確に写し取って先生に誉められた。  食糧事情も悪かったが、国立には農家もあったので、買い出しに行けば、さつま芋、かぼちゃ、大根、卵などはいくらでも手に入った。  所帯を持ったとはいえ、初枝だってまだ二十二歳の若さだったし、家にいた頃は勝手気ままな暮らしをしていたのだから、手の込んだ料理などできるはずもない。ようやく御飯を炊くのに失敗しなくなったと喜んでいるくらいの、おぼつかない主婦だ。司朗や敏朗の弁当など、持たせるだけで精いっぱいといったところだった。  棒チョコやキャラメルが姿を消して、もう二年はたつだろう。さつま芋を食べる日がやたらと多くなっていた。葉まで、ゆがいて、醤油をかけて食べる。  それでも司朗は強い不満も感じなかった。こんなものだろうと思っていた。大人に期待をすることを、初めから考えていなかった。だから文句も言わない。  いつか戦争が終われば、またチョコレートを食べられる日が来る。生一も明も帰って来る。両国で家族全員が暮らせる日が来るだろうと信じていた。  その司朗が、初めて、「何かおかしいなぁ」と感じたのは、町会からの要請で、爆弾の穴を埋める作業に駆り出された時だった。  それは家のすぐ前の十字路だった。深さ二メートルに直径四、五メートルの大穴がぽっかりと開いている。 「立川の基地が近いから……」 「二五〇キロくらいのやつかな……」  などと、大人たちが喋《しやべ》っているのが聞こえる。  町会の指示通り、スコップを持って駆けつけた司朗は、穴の大きさに驚くのもさることながら、この中にあった土はどこへいってしまったのだろうと思った。飛び散ったにはちがいないが、まるで空中に消えたように、どこにも土はなかった。  大人たちは、黙々と畑から土を運んで、穴を埋める。この穴が埋まらないことには人も車も通れないから、必死だった。それでも、ようやく穴が埋まって道路が平らになったのは、七、八人の大人が四時間以上も休みなく働いた後だった。  もと通りに道路を整えると、町会の人たちは急ぎ足で帰ってゆく。冬の日が暮れるのは早く、雑木林はすっかり葉を落とし寒々とした風景だった。  大きな穴のあった場所の真ん中に立って、司朗は盛られたばかりの新しい土をじっと見詰めていた。  もしも、自分がここに立っていたら、やっぱり死ぬだろうなぁと思った。しかも、この穴の土がどこへ吹き飛んだかわからないように、自分の身体も粉微塵になって飛び散るだろう。  ここのところ連日、こんな爆弾が落ちている。戦場ではもっとたくさん落ちるのだろう。生一や明の身体が一瞬のうちに粉々になるのか。  この間、様子を見に来てくれた哲朗に、初枝はアメリカの飛行機を間近に見た恐怖を語っていた。 「厳しいぞ。かなり厳しい」  と、哲朗は答えた。戦局はそんなに厳しいのだと傍で司朗は背筋を伸ばして聞いていた。だが実感は伴わなかった。学校へ行けば、先生は必ず勝つと言っていたし、事実、日本軍が勝ったニュースを友人たちも話している。  だが、なぜか夕暮れの十字路に立って、司朗は足もとがゆらゆら揺れているような気がした。「何かおかしいなぁ、どっかが変だ」と思ったが、姉の初枝に訊《たず》ねる気にはならなかった。  翌朝、学校へ行くと、男の友達が夢中になって時限爆弾の噂をしている。落ちた時はすぐに爆発しない。しばらくしてからボンとくる。だから空襲が終わったと思って油断して外へ出るとボンとやられる。  実際には、まだ誰も見た生徒はいなかったが、時限爆弾の話は不気味だった。  司朗はよく、一人で東京の方角をぼんやり眺めるようになった。両親が恋しいというわけではなかった。だが、国立よりもっと空襲が激しいはずの東京で、父親と母親がどうしているのかと思うと、自分の方が急に老成した大人になったような気がして、二人の身が案じられた。   国技館の丸屋根から紅蓮の炎が舞い上がった 「ほら、親仁《おやじ》さん、いつものフィルムね」  相撲協会の若い者が、三五ミリ映画用のフィルムの残りを届けてくれる。昭和二十年に入ると、写真館はどこもフィルムの不足に悩まされていた。  そんな日が、やがて来るに違いないと予測していた哲朗は、早くから相撲協会の映画部と交渉して、特別にフィルムの残りを分けてもらっていた。相撲は国技であり、国策にそったスポーツなので、映画部はフィルムの受給に困ることはなかった。  そのお陰で、戦局が厳しくなっても、哲朗は相変わらず家族の記念写真を撮り続けていられた。  だが、最近はほとんどカメラに触っていない。子供たちが、それぞれに散ってゆき、弟子も出征してしまうと、やすと二人きりの生活を写真に収める気にはなれなかった。あれは、やっぱり、子供の成長記録を撮りたかったからだと、哲朗は今さらながら目を覚まされた思いもする。  写真なんて、どれほど芸術的である必要もないし、劇的である必要もない。自分が一番大切な者たちの記録であればいい。大切な者たちのいない写真館は、なんとも虚ろだった。  それでも哲朗は暗室で、愛用のライカの専用マガジンにフィルムを装填しておいた。  けたたましい空襲警報の音が、夜空に鳴り渡ったのは、三月九日、午後十一時過ぎだった。  表に飛び出してみると、浜町方面に火の手が上がり、赤々と燃えている。哲朗は風の向きを考えていた。隅田川を越して飛び火すれば、この辺一帯も危険になる。  まずは食料品や、わずかに残してあった衣類など身のまわりの品を、居間の床下に掘った防空壕へ入れた。  東京の下町は、家屋が密集していて庭などない家が多いので、どこも家の中の床下に防空壕を作っていた。それとともに、表の通りにも、何軒か共同で使う防空壕があった。  しかし、家の中の防空壕に入るのは危険だと哲朗は判断した。これは今までにない大規模な空襲のようだ。次々と火は燃え移り、夜空を真っ赤に染めている。簡単な床下の防空壕で防げる火勢ではないだろう。  やすは、まるで忠実な犬のように、じっと哲朗の顔を見上げている。どんな時でも夫は的確な判断を下してきた。ひたすら夫に随《つ》いてゆけば間違いないと信じ切って、指示を待つ顔だ。 「すぐに逃げられる支度をしておけ。だが、まだ早いぞ」  やすに言い置いて、哲朗は町内をまわった。しばらく様子を見るように、しかし、場合によっては逃げなければならない、その時はどの順路を取るかなど町内会の役員と慌ただしく相談したが、爆撃される地域がどう変わるかによって順路も違った。火の手が風の向きでどちらへ変わるかもわからない。  だが、幸いなことに工藤写真館のある東両国二丁目は、直撃をまぬがれている。今、混乱をきわめ、激しく燃える火災地区を通過するくらいなら、このまま留まっている方が安全だ。  冷静に、哲朗はやすに指示した。鍋釜の類は表の用水桶に沈めるように、貴重品や大切な書類は、布製のバッグに詰める。  家の中をグルリと見まわして、はっと電話機が目の中に飛び込んできた。電話機は電話局からの借り物だ。これを燃やしたら弁償しなければならない。 「おい、電話機を引っこ抜け」  哲朗に言われて、やすは目を白黒させながら、夢中で電話のコードを引っぱった。興奮状態なので、とにかく操り人形のように、哲朗の言いつけ通り動いている。  小柄なやすが、どこから出たかと思うような馬鹿力で電話機をはずすと、哲朗はそれを受け取って、大事そうに布袋にしまい込んだ。  東京中が焼けようかという時に、電話機を夫婦で真剣になって引っこ抜いて、しまい込むのは後から考えれば滑稽な図だが、その瞬間は哲朗もやすも必死だった。  その間にも、火の手はどんどん、下町一帯を舐《な》め尽くしていた。どうしたわけか、燃える地域がふえてゆけばゆくほど風が強くなってくる。  やがて、浜町から隅田川を越して炎が飛び火して、川っぷちにある出羽海部屋に火がついた。続いて料亭の大金も燃え始めた。  それでも哲朗は一縷《いちる》の望みを託していた。もしかしたら、二丁目だけは焼け残るかもしれない。国技館の建物が風を避けてくれるせいか、この通りだけは突風も吹かない。どうにかして、火事をまぬがれないか……。  哲朗の祈りが通じたかのように、周囲の火勢は午前三時頃には衰えを見せ始めた。  東両国一丁目も三丁目も燃えているというのに、不思議と二丁目だけは、まだ無傷で残っている。 「この調子でゆけば、助かるかもしれんぞ」  哲朗は、すぐに逃げ出せるよう布袋を背負って、不安そうに傍に立っているやすに話しかけた。強張《こわば》ったやすの顔が、やっと少し弛《ゆる》んだ。  しかし、それもつかの間だった。哲朗は、その夜の空襲がどれほど熾烈《しれつ》なものであるかを知らなかった。東両国二丁目だけが焼け残る可能性など、万に一つもないほど、それは緻密に計算された大量無差別爆撃だった。  じわじわと、火の手は工藤写真館のある狭い路地にも迫ってきた。ついに、国技館の屋根が火を噴いたのは、もう午前四時近くなってからだった。  国技館が燃え出したら、最後だった。すぐにでも火は相撲茶屋から、二丁目の通りへと燃え移るだろう。  逃げる時が来たと哲朗は悟った。ご近所の人々も、バラバラと防空壕から出て来て走り始めた。  やすと二人で靖国通りへ出ようか、それとも逆の方向かと、火勢を見極めるため、空をふり仰いだ哲朗の目は、まっすぐに国技館の炎上を射抜いていた。  巨大な国技館の丸屋根から紅蓮の炎が舞い上がっている。  哲朗はライカのシャッターを押していた。一枚の画面には入り切らないので、二枚続けて撮った。得意のパノラマ写真の手法だった。  そして走った。やすの手を引いて力の限り走った。走りながら、どうしようもない怒りが込み上げてきた。国技館が敵の空襲で、あっけなく焼ける日が来るなどと、日本人の誰が予測したろう。相撲が日本の国技であるのなら、同時に日本人の矜持《きようじ》でもあるはずだ。それが今、めらめらと燃えている。 「この国は滅びるのか」  哲朗の内部で、日本全体が紙細工のように他愛なく燃え落ちていった。   三日目の朝、哲朗とやすは姿を現した  空襲警報の音が先だったのか、飛行機の轟音《ごうおん》が先だったのかわからない。とにかく、司朗が目を覚ました時、暗黒は凄《すさ》まじい音量に圧倒されていた。  姉の初枝と、夫の池田が起き出した気配が、隣室から伝わってくる。隣に寝ていた敏朗も目を覚まし、蒲団の中で身を堅くしている様子だ。  司朗はそっと寝床を這い出て、玄関の戸を開けた。  三月九日とはいえ、夜風はまだ冷たい。亀の子のように首をすくめ、おそるおそる空を見上げたとたんに、身体が凍りつくような光景が目に入った。  何百というアメリカの飛行機が、隊伍を組んで東京方面へ向かって飛んでいる。低空飛行なので、飛行機の腹が、まるで不気味な深海魚の群れのように、くっきりと見える。夜の闇は、そのまま深い海の底のようだ。 「それにしても、なんという数だろう……」  呆然として佇《たたず》む司朗の傍に、いつの間にやら池田が来て立っていた。 「馬鹿にしてやがる。もう日本が、迎え撃つ力もないと知っているから、あんなに悠然と飛んでいるんだ」  超低空飛行のB29は、確かに自信にあふれ、ひどく威圧的だった。 「東京がやられるぞ」  池田は寒そうに腕組みをして、くぐもった声で司朗に言った。  飛行機の大群が去ってしまうと、国立の空には満天の星が輝いていた。あたりは雑木林で、どこまでも奥深い闇だ。空気の冷たさは、星の光をいっそう青白く冴え冴えと見せる。  いつもの癖で、司朗は東京の方角を眺めていた。  暗黒の空に赤々とした火の手が上がるのに、どれほどの時間もかからなかった。  哲朗とやすの住む東京の方角が、みるみる真っ赤に染まっていった。池田も初枝も敏朗もみんな家の外に出て来た。夕焼けよりもさらに赤い、燃えるような色に変わってゆく東京の空を見つめている。 「親父もお袋も死んだな」  司朗は、なにかが、胸の中でガクリと落ちたような気がした。 「だから早く疎開して来いって言ったのに、母さんが動かないから……」  涙声で初枝が池田にかきくどくのを聞きながら、司朗は少しも動揺を感じない自分が不思議だった。姉の初枝より早く、まだ十二歳の自分は、「諦め」というものを知ってしまったのかもしれない。両親が死んでも、自分は、やっぱり一人で大きくなるだろう。 「大丈夫、親父さんのことだ、きっと火の手をかいくぐって逃げてくるに違いない。明日になれば様子がわかるよ」  姉弟を元気づけようと、池田がつとめて明るい口調で言った。  だが、その翌日になっても、哲朗とやすの行方はわからなかった。  国立の駅から、ゾロゾロと罹災者が縁故をたよって歩いてくる。放心したように口もきかず疲れ切った表情だった。  いつ哲朗とやすが無事に逃げて来るかと、家中で待ちわびていたが、夜になっても、なんの連絡もなかった。池田がジャーナリストの友人から仕入れた情報によると、昨夜の波状じゅうたん爆撃により、本所、深川、下谷、浅草などの下町はほとんど全滅したという。工藤写真館が焼けたのも間違いないだろう。  陰鬱《いんうつ》な空気が漂う中で、二日目も過ぎ、三日目の朝、まるで天から降って湧いたように、元気いっぱいの哲朗がやすを従えて、初枝の家の庭先に現れた。  敏朗が最初に二人の姿を見つけて、思わず大声を出した。 「なぁーんだ」 「なぁーんだとはなぁーんだ」  哲朗も喜びを隠し切れない、おどけた口調で答える。 「なに一つとして燃やさんかったぞ。電話もラジオも、逃げる途中で、表通りの防空壕にほうり込んできた。残して来たのは台所にあった喰いかけの納豆だけだ」  いかに冷静沈着に、後始末をして出て来たかを、哲朗は得意そうに語る。  やすの手を引いて、新大橋を渡った頃には、もう夜が白みかけていた。あわてて飛び出さなかったのが幸いして、浜町のあたりは火が鎮まり、一面に焼け野原と化し、逃避行は思ったより安全だった。  しかし、火の廻りの早かった地区の人々は、逃げる間もなく焼死した。初枝の女学校時代の友達も、まだ独身の人たちは親と一緒に下町に住んでいる。あの人、この人と、初枝は親しかった友人の顔を思い浮かべ、その中の何人が生きていてくれるだろうかと考える。早く嫁ぐか嫁がないかが、運命の分かれ目になったのか……。  神田まで出れば電車が動いていると聞いて、哲朗とやすはひたすら神田へ向かって歩いた。しかし、たどり着いてみると、神田も電車は止まっている。  昨夜から一睡もしていないので、やすは足もとがフラフラとおぼつかない。焼け跡には焼死体が転がり、油っぽい異臭がつんと鼻をつく。人間が焼け焦げている臭いだ。ただでさえ気の小さいやすは、真っ青な顔になる。  それを叱咤激励しながら、歩き続けて、ようやく新宿にある同じ写真師仲間の松平の家をさがしあてたのは、もう日暮れに近い頃だった。  次の日は、松平の家で休養させてもらった。 「松平さんに言ったんだ、新宿が焼けるのも時間の問題だって。世話になっているのに、おせっかいかもしれないが、一日も早く疎開した方がいいとすすめてきた」  アメリカが、東京の下町だけ焼いて満足するとは哲朗は思わなかった。全部を焼き尽くすまで、爆撃は続くだろう。そして、あれほどの勢いで焼夷弾が落ちるとしたら、東京のどんな場所も安全とは言えない。  朝一番の電車で哲朗とやすは国立へ来たのだが、午後になってから、同じように焼け出された知人や親戚が続々と初枝の家に押しかけて来た。  一戸建てで、三間ある家だったが、人があふれて座る場所もない。司朗や敏朗は押し入れに寝かされた。大人たちの蒲団も、人数分はなかった。春先でも夜は冷え込むので、部屋の中央にコタツを作り、車座になって足だけつっ込んで寝た。  こうした時、哲朗と初枝はぴったり呼吸が合って、食糧や夜具の調達など難問を次々に解決してゆく。  みんな家を焼け出されたというのに、奇妙な活気が漲《みなぎ》っていた。汲み取りの便所があふれそうになり、肥桶をかついで近所の畑へ捨てに行く当番が決まった。その恰好がおかしいといっては笑い転げる。それは死をまぬがれた人々の生の迸《ほとばし》りの笑いだった。   焼け跡にプーンとコーヒーの匂いが流れた  やはり気になるから、様子を見て来ると言って、哲朗は両国へ出掛けた。司朗を連れている。  電車はもう神田まで復旧していた。あの爆撃があってから、早いもので一週間たった。  焼けたには違いないが、自分の家である。後始末はしなければならない。  哲朗がしっかりとゲートルを巻き、ライカを布袋にしまい込むのを見て、 「親父、撮る気だな」  と司朗は思った。  黙って哲朗と並んで歩いた。司朗は少し恐ろしい気もしていた。いったい、自分が生まれて育った家は、どうなってしまったのだろう。 「アメリカは、飛行機を持ってるからなぁー」  歩きながら、哲朗がつぶやく。その昔、陸軍の航空隊に在籍した頃、哲朗はフランス人の技師から、航空写真に関する最新の技術を学んだ。  それ以来、哲朗は欧米諸国の航空事情について、少なからぬ関心を寄せていた。自分で資料も集めていた。そこから哲朗が知り得たのは、アメリカの抜群の飛行機生産量だった。四年前の開戦時でさえ、日本の四倍近くを生産していたという。今ではさらに、日本人の想像を絶するスピードで生産しているのだろう。そうでなかったら、あんなに大挙してB29が押し寄せてくるはずがない。  それに比べて、日本の飛行機の生産は、陸軍と海軍の対立で、おそろしく非能率的だと哲朗は聞いていた。つまりは内部事情が原因だとしたら、馬鹿な話ではないか。 「これからは飛行機の時代だ」と哲朗が信じて、航空写真を学んだのは、もう今から三十年近くも前のことである。あの頃、日本人は謙虚に諸外国の航空技術を勉強し、吸収しようとしていたはずだ。  しかし、結果はどうだったのだろう。哲朗が予測したように、飛行機の時代は確かに到来した。だが、その到来を、敵軍の飛行機によりさんざんの爆撃を受け、一夜にして帝都が焦土と化すという現実で知らされたのだから、あまりにも情けないと言うほかない。  そんな哲朗の胸中を察してか、司朗は無駄口をきかず、静かに歩いていた。  工藤写真館は、猛火に焼き尽くされ、わずかに残っていたのは、写場の鉄枠だけだった。後は見事に灰となっていた。  これがもし、自分の家だけが焼けたのなら、深い悲しみが、まず胸に迫ってきたかもしれない。だが、周囲はすべて灰燼《かいじん》に帰している。悲しいという湿った感情よりも、もっと乾いた、風のような空しさが哲朗の体内を吹き抜けていた。  ほんの一瞬、焼け跡に立って、足元をじっと見ていた哲朗は、しかし、すぐに顔を上げ、強い目の光を司朗に向けた。 「防空壕を掘ってみよう」  八畳の居間の床下に防空壕があったあたりを、親子で懸命に掘った。  瓶が三個出てきた。逃げる前に、哲朗は食料品をこれにほうり込んだ。あの火の勢いでは、瓶の中身が無事かどうかが心配だった。  そっと開けてみると、中のコーヒーも砂糖も、まるでピカピカ輝くように新品の包みのままで出てきた。それを取り出して、哲朗が司朗に笑いかけた。 「大丈夫だったな」  すごい奇跡のように思われた。司朗も嬉しくなって、微笑み返した。 「おい、火をおこせ」  唐突に司朗に言うと、哲朗は用水桶にあった鍋を持って来た。水筒の水をそれに注ぐ。  司朗は落ち着いた動作で、焼け残って焦げた木片を拾い集めて上手に火をおこした。  鍋の水が煮立ったところで、哲朗はコーヒーの包みの封を切った。もう本物のコーヒーは市場に出まわらなくなり、代用品ですます時代が続いて久しい。哲朗は軍部の友人から内緒で分けてもらったコーヒーを、大切に大切に保存していた。宝物のように、しまい込んでいたコーヒーを今、惜しげもなく開封している。  焼け跡に、プーンと香ばしいコーヒーの匂いが流れた。  親子は廃墟のような本所二丁目の通りに、ちょこんと並んで座り、コーヒーを水筒の蓋に分けあって注ぎ、うまそうに啜った。司朗はたっぷりと砂糖を溶かし、甘苦いコーヒーを喉に流し込むたび、身体の疲れが潮を引くように消えてゆくのを感じた。 「なかなかオツなもんだな」  哲朗は司朗の顔を見て、また笑った。それから二人で、表通りの防空壕に埋めて来たラジオを掘り起こしたり、まだ使えそうな鍋を探したりした。貴重品はほとんど青森に送ってあるので、焼けて困るものは何もなかった。  最後に哲朗は、どこからかベニヤの板を見つけてきた。その板にサラサラと書き始めた。「敢闘ノ後」というところで筆が止まった。首をかしげ、考えるような顔だったが、すぐに続けた。「——左記ニ転進セリ」  そして初枝の家の住所を書いた。 「転進せり……か」  司朗は父親の負けん気がおかしかった。焼け出されたには違いないが、それをどう書こうか、哲朗は迷った。逃げたような書き方はしたくない。転進だったら、まだ闘う気力が残っている言葉だ。そのベニヤ板を焼け跡の地面につき刺した。 「親父、悔しいんだろうな」  家を焼かれた父親の悔しさが、初めて息子の心に切々と伝わった。  国技館は天井が焼けたが、下の建物そのものは意外にしっかりと残っていた。その頃、国技館は風船爆弾の製造工場として使われていると、近所では、もっぱらの噂だった。もちろん秘密で製造しているのだから、実際に見た人はいない。  あの噂は嘘だったんだろうと司朗は思った。もしも風船爆弾を製造していたなら、火の手がまわった時に、建物は吹き飛んでいたはずだ。それとも、吹き飛ぶほどの量も製造していなかったのか。いずれにせよ、国技館が大きく聳《そび》えているのを見て、哲朗も司朗もほっと安堵した。  帰りの電車の中で、司朗は妙なことが気になった。哲朗は、あまり写真を撮らなかった。いつもならもっとたくさん写していた。強がって、コーヒーを啜ったりしたけれどやっぱりこたえているのだろう。 「もうすぐお前の卒業式だな」  哲朗は別のことを考えていた。爆弾が落ちようと、家が焼けようと、司朗は国民学校を卒業する。子供はどんな世の中になっても成長する。司朗の卒業式は、一週間後だった。年よりも大人びた司朗の顔を見て、哲朗はぎこちなく笑ってみせた。   猛吹雪の中、実戦参加を目前に明は倒れた  予科練にいる明は、仲間たちと共になす術もなく土浦から、東京が燃えるのを見ていた。  夜空が真紅に染まり、「ああ、やられた」という思いが、胸に込み上げてきた。  東京は敵の爆撃で無惨に破壊されている。それなのに、不思議と自分の家が焼けているとは思えなかった。ただ、東京という町が焼けているのであって、それがすぐには両親や生家と結びつかなかった。多分、前年の六月以来の厳しい集団生活で、明の意識の中で家というものの実像が稀薄になっていたためかもしれない。  だから、大空襲の四日後に、外出許可をもらって、叔母のさと子の家を訪ねた時、さと子から「お前の家は焼けたよ」と言われ、初めて、ショックを感じたのだった。  考えてみれば、焼けないはずはなかった。 「でも二人は無事に逃げたらしいよ。国立の初枝のところにいるらしい」  さと子はテキパキした口調で言う。やすの一番下の妹のさと子は、霞ケ浦海軍病院主計兵曹の植木|菊誉《きくよ》に嫁いで、土浦に住んでいた。明はよく休日には植木家を訪ねた。  予科練では外出の際も、いちいち許可を得なければいけない。それも親戚の家のみ訪問を許されていた。どうせわかるはずがないとたかをくくって、友人の家などに遊びに行くと、後から教官がその家を訪ねて本当に親戚かどうかを確かめるので、嘘はすぐばれてしまう。ばれた練習生は半殺しの目にあった。  さと子には敏朗と同じ年の一人息子・一義《かずよし》がいた。国民学校の三年生だが心のやさしい子で、明が遊びに行くと心配そうな顔でじっと見ている。年長の従兄を、まるでいたわるような眼差しで見るのは、明がいつも教官に撲られて、足を引きずっているからだった。  予科練に入隊してこのかた、明がまともに歩いているのを一義は見たことがなかった。それに、どんどん痩せ衰えている。この日は特に、家が焼けたのを知ったせいか、がっくりと憔悴《しようすい》して見えた。  それでも明は哲朗とやすの無事を知って気を取り直した。国立の新住所をさと子から教えてもらうと、いつもより早めに植木家を辞した。  その翌日、土浦海軍航空隊での訓練を終了した明は、仲間たちと青森県の三沢に転属することになっていた。  別れの言葉を述べて、玄関を出る明の後ろ姿を、一義はいつまでも見送っていた。子供心に、足を引きずり辛そうに歩く従兄が痛ましくてならなかった。  この頃、明は身体の不調に怯えていた。予科練の隊内では、練習生は常に駆け足を義務づけられている。のんびり歩いてなどいられない。それなのに最近ではその駆け足が続かないのだ。すぐに息が切れて、ぜえぜえいう。  自分では気がつかなかったが、友人から、夜、眠っている時にウーン、ウーンと唸っているようだが大丈夫かと訊かれた。  実は、夜間にびっしょりと汗をかくので、明も不安に思っていたところだった。なにより、いつも気分が悪くて、身体がだるかった。  それでも医務室へ行く気にはなれなかった。もしも医務室に行って、病気と診断されれば、明は仲間たちと三沢へ行けなくなる。一人取り残される。 「置いてゆかれるのはイヤだ」  ぜえぜえと苦しい息の中で、明は思った。今まで厳しい訓練に耐えてきたのは、みんなと一緒に空を飛びたいからこそだった。こんなことに負けてたまるかと、勝ち気な瞳を光らせた。  三月十五日、土浦航空隊における訓練は終了し、明たち第十四期練習生は三沢へと出発した。  青森県|古間木《ふるまぎ》の駅に着くと、三月というのに猛吹雪で凄まじい寒さだ。駅から三沢海軍航空隊までは一里(約四キロ)の道のりである。  全員、号令とともに駆け足で、猛吹雪をついて走り始めた。背中に、それぞれの所持品を背負っているのだが、これがかなりの重さになっていた。  走り始めて間もなく、明は息が切れて、胸が苦しく、荷物がずっしりと肩に喰い込んできた。  真っ白い雪がまるで襲いかかるように明の視界を遮る。仲間たちの姿が、次第に遠ざかるのを、明は必死になって追っていた。自分では歩いているつもりだったが、よろめいて、いくらも前へ進めない。 「工藤、大丈夫か?」  突然、どこからか班長の怒鳴り声が聞こえた。意地が悪くて、理由もなく練習生を撲るような男だったが、さすがに見殺しにはできないと思ったのだろう。 「大丈夫です」  最後の力をふりしぼって、明は答えたが、大丈夫なはずはない。仲間に助けられ、明はようやくのことで航空隊にたどり着いた。もしも、班長が珍しく仏心を出して声をかけなかったらあのまま落伍して、雪の中で凍死していたことだろう。  即座に医務室に運ばれ、「右濕性胸膜炎」と診断された。俗に言う「肋膜炎」と呼ばれる病気で、結核性のものだった。  大部屋のベッドに、横たわり、ただ暗澹《あんたん》たる思いで天井を見ていた。 「置いていかれる……」  仲間から置き去りにされると思うと、悲しくて涙が出てきた。  ろくな食べ物を与えられず、めちゃくちゃな訓練に明け暮れたのだから、身体が小さくて、体力がない明が病気になるのは、むしろ当然だった。死んでいった仲間だって何人もいるのだ。  それでも、明は惨めな気持ちで、身動きもせず、横たわっていた。  翌朝、若い軍医が診察に来た。 「水がたまっておるから、抜いてやる」  横柄な口調で言うと、いきなり明の胸にズブリと注射針を刺す。気が遠くなるような痛さだ。  注射器にたまるのは血ばかりで、水など出ない。明は懸命に耐えるが、吐き気がしてくる。  若い軍医は変な顔をして注射器を見つめ、何も説明をせずに出て行った。  肋膜炎にも乾性と湿性と二種類あり、湿性のみが水がたまるのだということを明が知るのは、だいぶ後になってからだった。  自分の病気は、まだ両親にしらせるのはやめようと明は思った。彼らを落胆させたくなかった。  せめて戦場に出て、軍功を立て、両親を喜ばせてから死にたかった。明は大きな瞳を見開いて、吹雪の舞う音を悲しく聞いていた。   B29の硝子の破片をこすると甘い匂いがした  春が近づいていた。昭和二十年の三月は、いつまでたっても暖かくならないで、底冷えのする陽気が続いていたが、さすがに四月に入ると、日差しがやわらかく、空気も肌にやさしくなってきた。  シンガポールにいるという生一の消息はわからなかったが、初年兵の教育にあたっているのなら戦場に出ている心配はないから、まずは無事に過ごしているだろう。  明は青森県の三沢に転属になり、間もなく実戦を経験するはずだ。三沢の航空隊で、明が肋膜炎に倒れたとは知らない哲朗は、おそらく明は戦死するだろうと覚悟を決めていた。勝つための出征から、死ぬための出征へと、いつの間にか日本人の意識も変わっていて、それが当たり前の日常になっていた。  四月に司朗は明星中学に入学した。自分で学校を決め、願書を出し、試験を受けてきた。空襲のドサクサで、大人たちが右往左往している時も、平然と自分のペースを守って行動する子供だった。  そのため、つい哲朗もやすも、司朗のことは念頭から離れてしまう。  だが静かな子供なだけに、時として哲朗の心にくっきりと影を落としたりもする。  府中にある明星中学に通い始めたばかりの頃だった。庭先で司朗が、かがみ込んで、しきりに何か動かしている。背中しか見えないのだが、夢中になっている様子が、子供ながらにもっこりとした丸い背中の形でわかる。  ふっと興味をそそられて、哲朗は庭へ出てみた。黙ってそっと覗《のぞ》いてみると、司朗は右手に小さなガラスの破片のようなものを握って、目の前の石にこすりつけている。しばらく、その動作を続けては、手を止めてクンクンと匂いをかぐ。 「なにしてんだ?」  後ろから哲朗が声をかけると、もうそこに父親がいたのを前から知っていたように落ち着いた声で答える。 「うん、これをこするとね、甘い匂いがするんだ」  司朗が手にしていたのは、ただのガラスの破片ではなかった。その前日に国分寺の駅の近くにアメリカ軍のB29が墜ちた。近所の子供たちと一緒に司朗はそれを見物に行った。  いくら日本の戦力が衰えているとはいえ、これだけ本土に空襲が続けば、稀に撃墜される敵軍機も出てくる。  司朗の見たB29は、原形をとどめぬほどに破損して、あたり一面に機体のジュラルミンが散らばっていた。一緒に行った友人の一人が、風防ガラスの破片を二個拾って、その中の一個を司朗にくれた。 「これ遊べるんだよ」  友人はニコニコしている。そのガラスを石にこすりつけると、なんともいえない甘酸っぱい匂いがするのだという。  さっそく司朗は家へ帰って、試してみていたのだった。確かに不思議な、えもいわれない匂いがする。異国の匂いかもしれない。 「ふーん、そうか」  哲朗は司朗の傍で、鼻をガラス片に近づけてみた。特別に甘い匂いがするとも思えない。だが、司朗はそのガラス片を宝物のように大切に扱っている。  アメリカの飛行機の破片で遊ぶ司朗の姿は、哲朗の心に妙な印象を残した。こうした形で、敵国の品物と、自分の子供が関わりを持つことの不自然さが何かを象徴しているようにも思えるのだが、それが何かは、はっきりしなかった。  初枝は嫁いでからも、相変わらずわがままで、思ったことは早口でどんどん喋る。しかし、池田の影響で、せっせと本を読むようになった。  その本も、国立の家に置いておくといつ焼けるかわからないので、ほとんど青森へ送った。池田の蔵書は多く、リンゴ箱で五十箱にもなった。それは貴重な本だけだから、全部を合わせるとどのくらいになるのか、見当もつかない。 「池田はね、毎日、本屋へ行って必ず一冊か二冊買ってくるのよ。あんなに本の好きな人って見たことないわ。つまり、自分の仕事と生活と趣味と、全部一致するわけ。本なのよ、すべて本。しかも、ちゃんと読んで、その上に忘れないの。本当にあの人、頭がいいのよ」  初枝は誰かが聞いていようといまいと、手放しで夫の自慢をする。池田が有名な作家や評論家と交流があるのも嬉しくて仕方がない。ラフカディオ・ハーンを、池田が原書で読んでいると、「やっぱり、あの人は教養がある」と、自分まで得意な気分になる。  一番心配なのは池田の健康だった。哲朗も青森へ疎開する時機を見計らっていた。  やすがどう思おうと、もうかまわなかった。今の哲朗には大義名分があった。それは、「生き続けなければならない」ということだった。  もはや、それほど多くの選択は残されていない。国立にいても、安全とは言い切れない日々ならば、郷里の五戸へ行くしか家族全員が生き続ける方法はなかった。とっくに哲朗は決心して、さっさと荷物は送ってあったが、やすの頑固な抵抗で遅れていた。しかし家まで焼かれては、やすもこれ以上反対はできない。  五月の初旬、まず哲朗とやす、それに司朗と敏朗の四人が青森へ旅立った。初枝と池田は、国立に残り、哲朗たちの生活が軌道に乗ったところで、後から加わることにした。  哲朗の生まれ故郷、青森県三戸郡には、実母の|とき《ヽヽ》が健在だった。五戸村の近くの志戸岸《しとぎし》村に住む|とき《ヽヽ》の家の離れを借りる手はずになっていた。  気性の激しかった|とき《ヽヽ》も、近年はめっきり弱って、おとなしくなったと聞く。  志戸岸までの鉄道の旅は長かった。しょっちゅう空襲警報が鳴る。そのたびに列車は小刻みに止まる。乗客全員が降ろされて、近くの林に避難することもあった。  丸一日以上、ガタガタと汽車に揺られ、警報に脅かされ、ようやく志戸岸の駅に着いた頃には、一家は疲労|困憊《こんぱい》して口もきけなかった。  駅で哲朗は馬車を頼み、|とき《ヽヽ》の家へ向かった。ダラダラとした坂道を下りきったところに、|とき《ヽヽ》の家族が住む本家があり、その横に哲朗一家のために空けてくれた離れがある。 「あれだな」  哲朗が坂道の上から離れを指差すと何を思ったのか敏朗が馬車から飛び降りた。坂道の崖をつたっている蔓にやおらぶらさがると、「アーアーアー」と叫んで、勢いよく空を飛んだ。  あっけにとられている哲朗とやすに司朗があきれたように言う。 「ターザンの真似してやがる」  九歳の敏朗は、まるで猿のように素早く蔓を伝って、坂道を下りていった。   わずか一ヵ月で敏朗は東北弁を覚えた 「ねのねのねのねぇー」  子供たちが、いっせいに囃《はや》し立てる。敏朗は、はっと気がつく。「ね」が、いけないのか……。  六月から、敏朗は豊崎第二国民学校の四年に編入した。  なにしろ東京の下町の生まれである。 「これ、きれいだね」 「早く行こうね」  などと、言葉の最後になに気なく「ね」をつける。それが青森の子供たちには気になるらしい。敏朗が「ね」を言うたびに大笑いして、囃し立てる。 「そうか、まず言葉を覚えなくちゃ、仲間に入れてもらえないんだ」  そうとわかったら、懸命になって聞き耳を立てて、土地の子供たちの言葉遣いや調子を覚えるように心掛けた。  上達は驚くほど早かった。もともと人見知りをしないし、活発な性格だった。わずか一ヵ月で完全に東北弁をマスターした。  家で敏朗が、「くわけー」などと言うと、他の家族は意味がわからず、きょとんとしている。哲朗だけが腹をかかえて笑いだす。それは、「これ喰えよ」という意味の方言だった。五戸で育った哲朗には、すぐに意味がわかった。自分の息子がまるで五戸で生まれた子のように、自然にそんな言葉を口にするのがおかしかった。  敏朗は後に成人してから、外資系の会社に就職して、見事な英語を操るようになるのだが、それはあっという間に東北弁をマスターした子供時代の資質と無関係ではなかったろう。 「この子って、昔からおっちょこちょいだったものねぇ」  ペラペラと得意そうに東北弁を喋る敏朗を横目に、姉の初枝があきれたように言う。 「そうねぇ、でんぐり返しがうまいって父さんに誉められたら嬉しくって嬉しくって、いつまでもでんぐり返しやってて目をまわしちゃったのは敏坊が四つの時だったね」  やすが思い出して笑っていると、初枝が話を続ける。 「ほら、去年だったか、風呂屋に行って、のぼせて貧血みたいになった時も、あわてて父さんが気つけにワインを飲ませたら、それから味をしめちゃって、しばらく子供のくせにワイン、ワインって騒いでたじゃない」 「そういう、おっちょこちょいのところは、この子が一番父さんに似ているわ」  やすは時々、敏朗があまりにも哲朗に似ているので、びっくりすることがある。いつも考え深そうにしている物静かな司朗と対照的に、どこへすっ飛んで行ってしまうかわからないような危なっかしさが敏朗にはあった。しかし、それが愛嬌にもなっていて、敏朗がいるだけで家の中は明るかった。  志戸岸村には、哲朗一家以外に、東京から疎開して来た家族はいなかった。初めて豊崎第二国民学校へ登校した日、敏朗は他の児童たちの姿を見て強い衝撃を受けた。 「ボロボロの服を着ている……」  敏朗だって、特別にきれいな服を着ているわけではなかった。貧乏人の子沢山の家に育って、戦争が激しくなるとともに、ますます質素な生活となり、外出着といえば必ず国民服だった。  それでも、都会の子供の国民服は、まだこぎれいだった。同級生の服装はつぎはぎだらけで、ただボロをまとっただけといった感じの子供もいた。  子供は異質の文化に対して敏感であり、残酷である。標準語を話し、上品な服装の敏朗は、本来ならグループから排斥されるはずだった。しかし、あっという間に東北弁を話し出したので、たちまち仲間に迎えられた。  国語の時間ともなれば、きれいな標準語で敏朗が教科書を朗読する。担任の教師も同級生も、みんなじっと聞き惚れていた。  敏朗は得意だった。授業は東京の方が水準が高かったようで、試験は満点ばかりだ。学期末の成績表は全優だった。  おそらく、工藤家の中で疎開生活を一番楽しんでいたのは、敏朗だったろう。だが、そんな敏朗も、ある日、カルチャー・ギャップを身をもって体験することになる。  敏朗が学校へ行くために家を出るのは午前七時半頃である。その時刻に、決まって家の前の畔道ですれ違う荷車があった。片足を引き摺るようにして歩く馬が、その荷車を引いている。足が悪いのに、重い荷車を引く馬が敏朗の目には健気《けなげ》に見えて、いつも、そっと馬の脇腹を撫《な》ぜてやっては通り過ぎていた。都会で育った敏朗には、馬そのものが珍しくもあった。  ある日、その馬がパタリと姿を見せなくなった。病気にでもなったのか、それとも他の仕事をするようになったのか、などとあれこれ思いをめぐらせては、心配したが、誰に尋ねてよいのやらもわからない。  そんな日が三日ほど続いた後で、工藤家の夕食にすきやきが出た。  東京にいては肉はおろか白米さえも手に入らないが、さすがに青森へ来たら食料はまだ豊富で、食生活は改善された。それでも、すきやきを食べるのなど、一年ぶりである。  久しぶりに柔らかい肉をお腹一杯食べて、家族全員が機嫌が良くニコニコしていた。 「おう、そうだ、敏坊知ってるだろ。毎朝、お前が学校へ行く時にすれ違っていた馬。これがあの肉だよ」  ニコニコ顔のままで哲朗が言う。  敏朗は一瞬、ゲーッと胃袋の中身が飛び出しそうな気がした。 「あの馬はまだ若いんだが、怪我をしたから、つぶすことにしたって飼い主が言うもんで肉を分けてもらった。やっぱりうまかったな」  楊枝など使いながら、哲朗は平然としている。 「どうしてそんな可哀想なことしたんだよ。どうしてだよ」  みるみる敏朗の目から涙があふれてきた。あんなに健気に働いていた馬を殺さなくたって、いいじゃないか。まして、食べちゃうなんて、そんなひどいことをなぜするのか。 「なにを言ってるんだ。馬はな、喰われるためにある」  厳しい表情で哲朗は言い放った。  敏朗はその晩、一人で部屋の片隅でシクシクと泣き続けていた。  やすには、都会っ子の敏朗が、殺された馬を不憫《ふびん》に思う気持ちもよくわかる。しかし、哲朗が少年時代を過ごした五戸は、昔から馬市の立った場所で馬肉を食べる習慣があった。なにより貧しい寒村では、馬肉は御馳走であり「可哀想」などと同情している余裕はなかった。食べられるものは馬でも犬でも喜んで食べた。 「いつか敏坊もわかる日がくるわ」  やすは泣き疲れた敏朗をやさしく寝床に連れて行った。   初枝は夫と青森—東京間を行き来した  やすは明治の女だから、声を荒立てたり、感情を爆発させることは少ない。そう育てられたし、実践してきた。  疎開生活の不自由さも、口に出して訴えたりはしない。  哲朗一家より、少し遅れて青森へやって来た初枝は、さっそく不平を言い始める。 「なによ、この台所、水道もないんじゃない」  実際、あばら家と呼ぶにふさわしいような簡素な離れには、水道など引いていない。風呂もトイレも戸外だった。  ハイカラ好みの哲朗は、昭和四年に工藤写真館を開業した時、すでに水洗便所の設備を取り付けていた。子供たちは国立の初枝の家へ疎開して、初めて汲み取りの便所を使うようになり、それだけでもなじめない感じだったのに、青森へ来たら、わざわざ外へ出てトイレに行かねばならない。不便なのもさることながら、夜は恐怖の方が先に立つ。司朗も敏朗も、こわごわローソクの灯をたよりにトイレへ行った。  一家の主婦はやすだから家事全般における不便さは、すべてやすの肩にかかる。東京にいたなら、お手伝いや哲朗の弟子たちがいて、炊事、洗濯、掃除など分担作業だったが青森ではそうはいかない。坂の上の井戸から水を汲んで来るのは、力仕事なので哲朗や子供たちも手助けしてくれたが、それ以外は、やすがたった一人で奮闘することになる。  初枝は池田と一緒に青森へ来ても、少しも腰が落ち着かない。やれトイレが不潔だ、台所が汚いなどと文句ばかり並べる。それでは少しでもやすの手助けをして、負担を軽くしてやるのかと思えば、そうではない。ものの十日もしないうちに、また東京へ帰ると言い出す。 「日本はね、終焉《しゆうえん》を迎えつつあるのよ。やっぱり東京にいて、それを見届けたいわ。歴史の転換点をね」  気負った口調で初枝が言うのを、哲朗はくすぐったそうな顔で聞いている。「終焉」だの「転換点」だのと、初枝が難しい言葉を使うのは、どうせ池田からの受け売りに違いない。だが、ジャーナリストの池田が、今この時期に国政の中心である東京にいたいと思う気持ちは痛いほどよくわかる。初枝はおそらく、池田の内部にある緊迫感だけは理解していて、ただ大騒ぎしているのだろう。その緊迫感の本質を承知している池田は、最近ではめったなことで戦局について言及しなくなっていた。鬱々としてたのしまない風情で日を送っている。  何十年か時間が逆もどりしてしまったような、田舎の生活で、利点があるとすれば食料が豊富になったことだった。どれほど戦争が長引いて、生活が逼迫《ひつぱく》しても、人間の基本的な営みは変わらない。どこかで結婚式があり、子供が生まれ、そして葬式がある。そのたびに、時間の区切りを記録に残すために、人々は写真師を呼んで写真を撮ってもらう。  哲朗は近在の村々から、仕事を頼まれることが多く、その報酬は、たいがいは食料品だった。白米、野菜、肉など、東京にいた頃とは比べものにならないほど食生活は改良された。  初枝は豊富な食料品をリュックに詰めて、夫と一緒に東京に行く。そして一、二週間すると青森にもどって来て、しばらく休養し、また東京へ出掛ける。 「それにしても、よく行くよな」  普段は無口な司朗がさも馬鹿馬鹿しそうに言う。東京までの列車は、空襲のために、いつどこで停止するかわからず、延々と丸一日以上かかって東京に着くのも稀ではなかった。まさに生命がけの旅なのに、初枝は嬉々として往復している。 「でもねぇ、姉ちゃんがこっちにいても、なんの役にも立たないんだからいいじゃないか」  敏朗がませた口調で答えるので、哲朗とやすは思わず顔を見合わせた。弟たちには不評の初枝だが、哲朗は猛烈な勢いで夫にくっついて東京と青森を往復する初枝の行動力を頼もしく思っていた。もしも自分が初枝の若さなら、やっぱり東京が気になって、じっとしていられないだろう。どんな形で、この戦争の決着がつくのか、予想は難しいが、確かに初枝の言う通り、終焉に向かっている。できることなら、哲朗だって、カメラを持って東京に行きたいくらいだ。それをしないのは、さすがに五十五歳という年のせいだろう。  慣れない田舎の生活で、辛い思いをしているのは、やすだったが、中学生の司朗も、よく熱を出しては学校を休んでいた。  司朗は県立八戸中学へ通っていたが、志戸岸の駅から尻打《しりうち》へ出て、そこで乗り換えて八戸まで行く。うまく乗り継ぎができても、片道一時間以上はかかった。雨や雪で汽車が止まれば、三里半の道のりを三時間かけて歩く。身体の弱い司朗は、歩いて帰った翌日は必ず熱を出して寝込んだ。  やすに似て、辛抱強い性格なので、司朗も口に出して不平を言うことはないが、新しい学校が性に合わない様子なのは、暗い顔付きからも家族には察しがついた。  いかにも山の手の坊っちゃん風の司朗は、八戸の子供たちの間に入ると、どうしても浮き上がってしまう。もう個我も確立し始めている年頃なので、弟の敏朗のようにスンナリと東北弁の世界に入ってゆけない。いつまでも標準語を喋《しやべ》る司朗は、よけい仲間外れにされた。 「授業なんて、ろくにないんだよ」  新しい中学に通い始めて一ヵ月もたった頃に、司朗は重い口を開いて哲朗にこぼした。  教室内で授業があるのは雨が降った時だけだった。それでは他の日はなにをしているのかというと、全生徒が駆り出されて、畑仕事だった。  痩せた山地を開墾して大豆やとうもろこしを植える。畑仕事だったら、がっちりした体格の土地の子供たちは苦もなくこなしたが、小さくて力も弱い司朗には、疲労も激しかった。 「戦争どうなるんだろうね?」  心細そうに、司朗は父親に尋ねる。八戸で、いつまでも畑仕事をしていたら、自分の身体がもつかどうか、司朗には自信がなかった。 「お前どう思う?」  反対に哲朗が訊き返した。 「うん。勝つのは難しいけど、負けるはずはないし——。だから、つまりは本土決戦とかで、それで、なんとか勝ったみたいにして終わらせるのかなぁ」  司朗のとまどいは大人のそれと変わらなかった。勝つとは思えないが、負けるのも困る。では、どうなるのかは哲朗にも予想が立たず、ただ、ため息をつくしかなかった。   各々の家族が各々の地で八月十五日を迎えた  昭和二十年の八月。暑さは本格的になり、東京に比べて涼しい青森も、真夏の光が強く照りつける毎日となった。  四、五日前から、そわそわと落ち着かない様子だった哲朗は、八月十日になって、突然、横須賀に住む友人を訪ねると言い出した。  この暑い最中に、なにも行かなくてもと、やすは控えめに反対してみたが、あっという間に旅支度をして、さっさと出掛けてしまった。  初枝も、池田と一緒に七月末から東京へ行っている。志戸岸の家には、やすと司朗と敏朗だけが残された。  青森へ疎開しても、空襲警報の鳴る日がたまにはあった。三沢の航空隊を目がけて、米軍機が飛んで来るためだった。  そのたびに、村人たちは大あわてで荷車に家財道具や米を積んで、山へ避難する。  哲朗は家の前を通り過ぎる荷車の列をいつもニヤニヤしながら見ていた。 「米がないないと言いながら、ずいぶん持っているものだな」  傍らの敏朗に話しかける。確かに、どの荷車にも、米俵が山積みになっている。哲朗が米を売ってくれないかと頼みに行くと、彼らは申し合わせたように米はないと答える。ところが、いざ、空襲警報が鳴ると、みんな荷車に米俵を積んで逃げる。持っていても売らないのだと、哲朗は皮肉な眼差しを荷車の上の米俵に向ける。 「逃げることはないのになぁ。どうせ爆撃なんかせんのに」  悠然と煙草に火をつけて、わざとゆっくり吸ってみせる。志戸岸のような小さな村を米軍が爆撃するはずがないと哲朗は知っていた。それに、東京ですっかり空襲ずれしてしまった哲朗は警報が鳴ったくらいでは驚かなくなっていた。  五月に疎開して来てから、一度も実際に爆撃されたことはないのだから、まずは安心だろうと思い、やすと司朗、敏朗を残して東京へ出たのだった。  もう学校は夏休みになっていたが、司朗は畑仕事に駆り出されて、八戸中学まで行っていた。  八月十五日の朝、学校へ着くと、教師が、「今日は重大なラジオ放送があるので、すぐに家へ帰れ」と言う。しかし、汽車の便は朝夕二便しかないので、仕方なく司朗は三里半の道を歩き始めた。  暑い日なので、途中で休みながら歩いて、ようやく志戸岸の家に帰り着いた時は、もう正午をまわっていた。  家の中に入ると、台所でやすが泣いている。静かに泣いている。夏のきつい日差しの下を歩いて来た司朗の目には、やすが黒い影のように見えた。 「戦争が終わったのよ」  司朗の姿に気づいたやすが、小さな声で言った。 「ふーん、そう」  無口な司朗は、それ以上は何も言わなかった。 「兄ちゃん、東京に帰れるね、もう帰れるね」  敏朗が嬉しそうに話しかけるが、それでも司朗は黙っている。  中学生の司朗は、敏朗ほど無邪気に終戦を喜べなかった。大変なことになるだろうと思った。戦争が終わった……とは、すなわち負けたことだ。アメリカ軍が大挙して押し寄せて来るにちがいない。  背中を冷たい水が走るような恐怖を覚えた。  やすは、ラジオで玉音放送を聞き、日本が敗れたことを知った時、初めて哲朗がそそくさと東京へ旅立った理由がわかった気がした。哲朗は知っていたのだ。戦争が終わることを。そして、それを見届けたくて、東京へ出て行った。 「あの人は、いつもそうだ」  二・二六事件の時も、哲朗は家族を放り出して、見物しに行ってしまった。今度も、こんな片田舎に妻子を残して、自分だけさっさと東京に行く。心細いのと悔しいのとで、やすは泣いていたのだが、実は哲朗も、まさかこんなに早く終戦になるとは思っていなかった。  どうも情勢が悪化していると察していたので、一度東京へ行ってみようと思い立ったのだが、横須賀に着いたとたんに、昔の陸軍の仲間から八月十五日あたりに玉音放送があり、いよいよ降伏という話を聞き、大あわてで八月十五日の汽車の切符を買って、青森へ帰るつもりでいた。  そして、確かに当日、汽車に乗ったのだが、終戦の報が伝わると汽車の乗務員たちは、すっかり気が動転して次々と職場放棄してしまい、丸一日以上足止めをくった。だから、志戸岸へ帰ったのは八月十七日の夜だった。  もちろん、やすはそんな事情は知らなかったので、哲朗に裏切られた思いで、終戦の日を過ごした。  シンガポールにいる生一の安否も気づかわれたが、大湊の海軍病院を退院して、七月末日に横須賀にある海兵団へ行った明の身も心配だった。  明は四ヵ月余り海軍病院で療養して、なんとか手術をせずに薬剤投与だけで全快していた。七月三十日付で、横須賀の海兵団へ移ったが、ここはなんとも珍妙な場所だった。  とにかく、行くところのない兵隊がすべてここの分隊に集められていた。船が沈められてしまった兵隊とか、脱走兵、明のように病み上がりの兵隊などが、ひとまとめにされている。  入隊してすぐに明は靴を盗まれ、続いて帽子を盗まれた。こんなことは予科練にいた頃は絶対に起きなかった。優等生の集団だった予科練と違って、海兵団は、いわば落ちこぼれ兵士の集まりだから、風紀も乱れている。そうと気づくと、明は自分の所持品から目を離さないようにした。  八月十四日の夜には、「どうも危ないらしい」という噂が、仲間から伝わって来た。翌日の十五日、正午に練兵場に全員が集められた。玉音放送が流れたが、雑音が多くてなにを言っているのか聞き取れない。  放送が終わると、司令官が台の上に立って訓辞を述べた。司令官の口がパクパクと開くのを、明は呆然と眺めていた。全身の力が抜けて、悲しいという気持ちすら起きなかった。  訓辞が終わると司令官は去って行った。そのあとを、まだボーッとした頭で見るともなく見ると、司令官の軍刀がポツンとラジオの横に置かれている。 「軍刀を忘れるくらいだから、司令もあわててるんだな」  明はふいにおかしさが込み上げてきた。「敗戦」のショックが自分を襲ったのは確かだし、それにうろたえて言葉も失っていたが、ポツンと置き去りにされた軍刀で目を覚まされたような気がした。みんながうろたえていると気づいた瞬間に、明はうろたえている側から、それを観察して笑う側へと移動していた。そこで初めて、「敗戦」を距離をもって受け止めることができた。  その後の通達で、予備役の兵隊は帰宅してよいが、明のような現役はまだ帰れないと言われた。  明は心配でたまらなかった。それは仲間たちの間で、広島や長崎に落ちた特殊爆弾が横須賀にも落ちると、もっぱらの噂だったからだ。そうなれば、せっかく助かった生命も終わりだった。  不安な気持ちで、二週間を過ごした。もう軍隊は規律もなにもなかった。主計兵は食糧を持って逃げる。トラックで乗りつけて、物資を持ち逃げする将校さえいた。そうかと思えば、煙草や焼酎を売りにくる兵隊もいた。機転のきく明は、自分で米を炊いて、空腹をしのいだ。鍋や釜も持ち出され、残っていたのはやかんだけなので、やかんで米を炊いた。  九月一日になって、明は除隊となり退職金七百円をもらい、青森へ向かった。やっとこの時、戦争が終わった実感が、明の胸にじんと伝わってきた。  一方、長女の初枝は哲朗が横須賀の友人を訪ねていることなど知らず、国立の駅前にある日通の事務所のラジオで、八月十五日の玉音放送を聞いた。  すでに終戦が間近なのは、池田の周辺でもさざ波のように人の口から口へと伝えられていた。声をひそめて、「無条件降伏」は避けられないらしいと語る池田やその友人たちの姿を見ると、初枝は緊張感と興奮と、悲愴な思いとが奇妙に入り混じった気持ちの昂ぶりを感じていた。  もはや覚悟していたことなので、敗戦の報を池田も初枝も冷静に受け止めてはいたが、思いがけず嬉しいような、はしゃいだような気分を自分が感じたので、初枝は内心びっくりした。 「あー良かった。もう逃げまわらなくってもいい」  空襲警報に怯え、夜も電灯をつけられない生活から、ようやく解放されるのだ。それに、なにより、あの威張りくさった軍人たちが、さぞやあわてふためいているだろうと考えると溜飲が下がる思いだった。  自然に頬がゆるんでくるのを、初枝は一生懸命我慢していた。周囲の人々はみんな沈痛な面持ちで立っていたし、池田も憮然《ぶぜん》とした表情で、なにも喋らない。 「私、ちょっと上野駅まで、切符を買いに行ってくるわ」  初枝は勢い良く言って、日通の事務所を出ようとした。 「なんでだ?」  池田が驚いて問うと、戦争に負けた以上、東京はひっくり返るような騒ぎになるに違いない。その前にさっさと青森に帰った方がいい。今なら玉音放送の直後のショックで、みんなぼんやりしているはずだから、その間に切符を買ってしまうのだと、初枝はさも良い考えだろうと言わんばかりの顔をしている。 「馬鹿、今、街をウロウロするのは危ない。行くなら一緒に行く」  池田は初枝の無鉄砲さにあきれて怒ってはみたが、確かにその言い分には一理ある。敗戦の次に何がやってくるにせよ、ひとまず混沌の時期を通り抜けなければならない。社会の秩序が崩壊するのは、ある意味では空襲よりもっと恐ろしいことだ。  とりあえず志戸岸に戻って様子を見ようと、さっそく翌日の汽車に乗って、池田と初枝は青森へ発った。同じ頃に先発の汽車に哲朗が乗っていて、途中で立ち往生しているなどとは、知る由もなかった。  終戦の翌日だったにもかかわらず、汽車は動いた。それだけでも初枝には有り難かった。  汽車に乗ってしまうと、どっと気がゆるんだ。長い戦争だった。気がつくともう泥沼で、軍人の掛け声にいやいやながら従わされてきた。  これでもう安心……と、心の中で独り言を言っていた初枝は、はっとある思いにつき当たった。 「本当に安心なのだろうか?」  敗戦と同時に、アメリカ兵が上陸してくるはずだ。しかも日本を占領するために上陸するのだから、はんぱな数ではないだろう。  女はどうなるのか。いや、男だってわからない。殺されるのか、強制労働をさせられるのか。兵隊だった生一や明は、どんな過酷な扱いを受けるのだろう。  アメリカ兵が、日本の女をみつけたら、きっと、ひどい目にあわせるだろうと、人々は以前から噂していた。戦争が終わったなんて喜んでいる時ではない。早く志戸岸の家へ帰って、母さんを連れて山の奥にでも避難しなければと初枝は思った。武装したアメリカ兵が来たら、夫や父親だって、とても自分たちを守ってはくれまい。守ろうと思っても、無理だろう。 「いざとなれば、これを飲むしかない」  初枝は片時も離さず持っている、非常用品を入れた袋の底をさぐった。その袋の中には、いつ空襲にあって怪我をしても、すぐに身元がわかるような身分証明書が入っていた。東京へ出る時は、簡単に下着を一、二枚持つくらいの身軽な恰好だったが、身分証明書は離さない。それともう一つ、初枝は小さな紙包みを持っていた。ずいぶん前に、知人を通して手に入れた青酸カリだった。  アメリカ兵に強姦されるような羽目になったら、この青酸カリを飲んで死ぬだけだ。勝ち気な初枝は、ぎゅっと青酸カリの包みを握りしめた。  相変わらず気まぐれで、走ったり止まったりしながら汽車は青森へ近づいていた。少しずつだが、近づいてゆく。  生一はどうしているだろうか。潔く死ぬ決心がつくと、初枝は一番仲の良い兄の顔が脳裏に浮かんだ。シンガポールから、今頃、日本へ向かう船に乗っていてくれれば良いが、捕虜になどなっていないだろうか。 「志戸岸の家に、みんなが集まることになるだろうな。それで、しばらく様子を見て、落ち着いたらまた東京へ出てこよう」  池田は混沌を通り抜けた先の時間に、もう思いを馳せている。新しい時代がどう開幕するのかは、予想もつかないが、今までよりは希望があるのは確かに思える。  やすと司朗、敏朗は青森で、生一はシンガポールで、明は横須賀で、哲朗は青森へ向かう車中で、初枝は国立でと、それぞれの家族が異なる地で迎えた八月十五日だったが、誰の目にも前途の生活は厚い雲をかぶったように不安でぼんやりしていた。 [#改ページ]     ㈿   映画の一シーンのように米兵は現れた  生きているからこそ迎えられた終戦だった。  青森の疎開先に哲朗が帰り、初枝が戻り、九月の早々に明も帰って来た。  シンガポールにいる生一の消息は不明だったが、それ以外の家族は久しぶりに同じ家に顔を揃えた。  アメリカ軍が占領して来たら、女は髪を短く切って山へ逃げようと、志戸岸の人々は真剣に申し合わせていた。「アメリカ人」が、どのようなものなのか、誰にもわからないまま、獣のようなイメージばかり、どんどんみんなの頭の中でふくらんでいった。  初枝も、じっと息をひそめるような思いで終戦直後の日々を過ごしていた。  まるで厚い雲に覆われたように暗い志戸岸の村に、空から白いパラシュートが次々と落下してきたのは、九月の初めだった。  ふわりふわりと、空から落ちたものの正体は誰にも想像がつかなかった。おそるおそる、村人たちは見物に行った。司朗も、好奇心にかられて後に続いた。  山中に落とされた荷物は、アメリカ製の缶詰だった。なぜ、そんなものが空から降ってきたのか、理由はわからないが、おそらくアメリカ軍が日本人にくれるために落としたものだろうという結論になった。  司朗も平べったい缶詰を一個もらって家へ帰った。  家族が全員揃った夕食の時に、缶詰を開けた。 「わぁー」という、ため息とも感嘆ともつかない声が、いっせいに上がった。四角い缶詰は、中が小さく仕切られていて、スープ、主菜、デザートなどがまるでおもちゃのようにチマチマときれいに並んでいる。  まだ少し不安はあったが、みんなで分けあって食べた。こんな美味しいものを気前よく空から落とすのだから、アメリカ兵は日本人をそんなに憎んではいないのかもしれないと、司朗は気分が明るくなった。  そのアメリカ兵を、司朗が実際に目撃する機会は、思いがけなく早くやってきた。  八戸にある空港に、いよいよアメリカ軍がやって来ることになり、事務所を掃除するため、司朗たち中学生が手伝いに駆り出された。  いつ飛行機が到着するのかと思いながら雑巾がけをしていると、轟音《ごうおん》を響かせアメリカ軍の輸送機が雲をつき破るようにどんどん空から降りて来た。司朗はあっけにとられて、その光景を見ていた。  大きな輸送機はすべるように着陸すると、後尾の部分がパカッと開いた。そして兵隊が乗ったジープが、シャーッとなめらかな音を立てて、開いた部分から次々と出てくるのである。  まるで映画の一場面のようだ。司朗はジープから目を離せなかった。  事務所の前へジープを横づけすると、アメリカ兵がヒラリと車をおりてこちらへ向かって来た。  がっしりとした体格で、背も高いアメリカ兵は意外にやさしい笑顔で子供たちに近づき、チューインガムを配り始めた。まだ半信半疑の表情で子供たちはそのガムを受け取っていた。  アメリカ兵の大きさに圧倒されながら、司朗は少しずつ後ずさりした。壁のところに背をつけると、チューインガムを配っている兵隊と、それを取り巻く子供たちを見ていた。どうしてか、チューインガムを欲しいとは思わなかった。  アメリカ兵は、どうやら日本人を傷つける意思はなさそうだという印象を司朗は持った。誰もが同じ印象だったらしく、終戦直後の恐怖感は、大人たちの間でも日を追って薄れていった。  待ちに待った生一からの便りは、十月になって、ようやく到着した。シンガポールからの引き揚げ船に託した手紙だった。  とにかく生一が生きていてくれたことに、家族はほっと安堵したが、手紙はシンガポールの病院から出されていた。 「お兄ちゃん、どこが悪いのかしらね?」  手紙をみんなで廻し読みした後で、初枝が心配そうにもう一度、便箋に目を落とした。  生一は、どこが悪いのかを一切、書いていなかった。ただ入院中だとだけ書いてある。内臓が悪いにしては、苦しそうな様子が見えないし、戦傷を負ったにしては、ちゃんと手紙も書けるし、病院の庭を散歩したりもしているようだ。  いったいどこが悪いのか、考えれば考えるほどわからなかった。それでも生きて、確かに自分の手で手紙を書いているのだから、それだけでみんな、じゅうぶん嬉しかった。早く全快して日本へ帰って来て欲しかった。  哲朗一家が疎開して間もなく、母親の|とき《ヽヽ》は亡くなっていた。八十八歳の大往生だった。哲朗は悲しいというより、ほっとした思いの方が強かった。|とき《ヽヽ》に対しては、それなりの愛情を持ってはいたが、むしろ責任感で面倒を見た部分も多かった。幸せな晩年を送った|とき《ヽヽ》を看取ってやったのは、重い荷物をほっと肩からおろすような解放感だった。  |とき《ヽヽ》の死は冷静に迎えられたが、生一や明のことは、いつも胸がしめつけられるような気持ちでいた。 「工藤の家は運がいいって、今日も言われたぞ」  哲朗は志戸岸の家で、やすが明に薬を塗ってやるのを見ながら、上機嫌で話しかける。  無事に帰っては来たものの、極度の栄養失調で、明は身体中に疥癬《かいせん》ができていた。医者は糖分の不足と言うが、おそらく予科練での生活で、体力が弱った上に大病をしたせいだろう。いくら薬をぬっても、皮膚はボロボロとむけて、痒《かゆ》くて夜も眠れない。 「男の子が四人もいて、一人も死なせないですんだなんて、運がいいと羨ましがられたよ」 「本当に、運がよかった」  やすも素直に相槌を打つ。長い戦争が終わってみると、成人の男子がいる家では、戦死者を出した話をよく聞いた。中には三人の息子が全員戦死した家もあった。それに比べたら、生一も明も生きて終戦を迎えられたのだから、幸せだと言わねばならない。 「明の疥癬の治療に、|酸ケ湯《すかゆ》温泉にでも行くか……」  哲朗は、東京に帰る前に、子供たちを連れて温泉へ行こうと思い立った。久しぶりに、もんぺではなく着物姿のやすも見たかった。   新年が明け、一家は東京へ帰ってきた  早く東京へ帰ろうと言う。やすも言うし、明も司朗も敏朗も言う。  戦争が終わった。東京へ帰る、よかろう。だが東京のどこへ帰るというのか。  哲朗は焼け野原となった東京を思い浮かべ、怒鳴りたい気がしてくる。 「馬鹿、家は焼けてもうないんだぞ」と叫びたいが、喉まで出かかってそれが言えない。  東京へ出れば、なんとかなるとやすは思っているようだ。しかし、そんな甘いものではないと哲朗は知っている。  家がないのだから、どうしようもない。やすの頭の中にある東京は、相変わらず人々がにぎやかに往来する下町の東京だ。そんなものは、この世からなくなったと怒鳴りたいのだが、可哀想で言えない。あどけない少女のような表情を浮かべて、いつになったら帰れるのかと尋ねられれば、「もうすぐだ」と、ぶっきらぼうに答えるだけだ。  雨が降った翌日は、哲朗は必ず一人で家を飛び出す。畑の畔道にできた水たまりに、どじょうが泳いでいるのをつかまえて来る。  家の前の一斗樽にそのどじょうを入れる。水がはってあり、中に大豆も沈ませてある。  やすは伏し目がちに哲朗の動作を見ている。 「味噌汁つくるぞ」  哲朗が声をかけても返事をしない。すっと台所から姿を消してしまう。  慣れた手つきで、哲朗は鍋に水を入れ、豆腐を一丁まるごと入れる。それから生きたままのどじょうをすくって鍋の中に放す。  蓋をして、強火で鍋を煮る。すっかり煮上がったところで、パッと蓋を取る。熱さに驚いたどじょうは、豆腐の中へ中へと頭をもぐらせて死んでいる。  そこに味噌を溶いて、味噌汁の出来上がりだ。どじょうの|だし《ヽヽ》がよくでていて美味しい。哲朗が子供の頃は、このどじょう汁が大御馳走だった。雨が降ると大喜びで、翌日はどじょうすくいに行ったものだ。  初めは気味悪がっていた子供たちも、こくがあって美味しいので食べるようになった。一斗樽にただ入れたままにしておくと、どじょうはどんどん痩せてゆくので、大豆を沈めておく。そうすると、いつまでも元気に泳いでいる。  少年の日に、夢中になってどじょうすくいをした思い出がなつかしく、哲朗はまるでバネ仕掛けの人形のように、雨が降った翌日はポーンと勢い良く表に飛び出してしまう。 「親父またどじょうすくいだよ」  子供たちがあきれてクスクス笑うほど、威勢が良かった。  それをやすは、口を堅く一文字に結んで、遠くから見ている。絶対にどじょう汁は食べなかった。それどころか鍋を見ようともしない。 「なんと野蛮な……」  わざと聞こえるように呟くこともあった。やすの知っている哲朗は、ハイカラ好みで、流行の先端をゆく写真師だったはずだ。それが、疎開生活が長くなるにつれて、どんどん青森の人間にもどっている。不気味なくらい、青森の生活にぴったりはまって、快適そうに日々を過ごしている。  どじょうだけではなく、兎もつぶして食べるし、少女の頃から、すでに加工されたものしか食べる習慣のないやすは、どじょうや兎を丸ごと平気で料理する哲朗の神経についてゆけない。  だからこそ、早く東京へ帰ろうと、まるでお題目のように毎日となえるのだ。 「それなら家に来ていればいいじゃない」  あっけらかんと言ってのけたのは初枝だった。初枝はさっさと国立へ帰っていた。といっても、疎開中に国立の家を知人に貸していたのだが、いざ終戦になってみると、その人たちが立ち退いてくれない。誰もが家を焼かれているのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、池田も初枝も困っていた。  昔からの知人なので、そうそう追い立てるような真似はしたくないので、自発的に出て行ってくれるのを、もう三ヵ月も待っているのだが、いっこうに動く気配がなかった。  哲朗ややすにしてみれば、ただでさえ同居人が立ち退かないのに困っている初枝のところへ、これ以上自分たちが転がり込むわけにもゆくまいと思っていたのだ。 「いいのよ、いいのよ、かえって父さんたちが荷物持って出て来てくれちゃった方がいいわ。そうすれば向こうにも、こういう事情ですから立ち退いて下さいって言いやすいもの」  相変わらず頭の回転の速い初枝は、それくらいの非常手段に出なければ、家は取りもどせないとふんでいた。  昭和二十年も暮れようという時期だった。寒い志戸岸の冬の生活は、やすの心身にこたえていた。最近はむっつりと黙り込んで、笑顔を見せるのも稀になっていた。ひたすら東京へ帰ろうとばかり繰り返すので、哲朗もいささか手を焼いていたところだった。  正月が過ぎたら、とにかく帰ろうと、哲朗は初めてやすに具体的な話をした。  男の哲朗は、娘の嫁ぎ先に厄介になるのは気が進まなかった。しかし、その反面、初枝にだったらなんでも相談して、困難は乗り切れそうな気もしていた。初枝はやすのように、じっと押し黙って執念深い目つきで自分を見たりはしない。口答えはするし、気性の激しい娘だが、なんでも腹にしまわず喋《しやべ》ってくれるので哲朗は気が楽だった。  現金なもので、東京へ帰れるとなったら、やすも機嫌の良い顔を哲朗に見せるようになった。動作のゆったりしたやすが、見違えるようにテキパキと荷造りをしている。 「お前が思っているような東京は、もうないんだよ。あれは消えちゃったんだよ」  哲朗は心の中で何度もやすに語りかける。浅草の仲見世には、あんみつ屋も履物屋も、べっこう屋もないんだよとやすに言うのは、あまりに残酷というものだろう。  焼けた工藤写真館のあった土地は、哲朗の持ち物ではなかった。借地だった。おそらく、二度とあの同じ土地に家は建てられないだろう。  それでも哲朗一家は、昭和二十一年が明けて間もなく、なつかしい東京へ帰って来た。正確には国立だったが、気持ちの上ではもう東京に帰ったつもりだった。 「これで、いつ生一がもどってきても大丈夫」  やすの顔にほっと安堵の表情が浮かぶのを見て、そうか、東京へ帰りたかったのは、まだシンガポールにいる生一を待つつもりだったからかと、哲朗は、はっと胸をつかれた。   ようやく帰還した生一は左手を失っていた 「お兄ちゃん、やっぱりおかしいわよ」  国立の初枝の家で、シンガポールから来た生一の手紙を前にみんなが顔を寄せ合っていた。 「どこが悪いんだと思う?」 「手紙が書けるんだから目や手じゃないし、歩きまわってるから足じゃない。文章はしっかりしてるから頭じゃないし……」  戦争が終わって半年もたとうというのに、生一はまだシンガポールの病院に入院していた。  ときおり手紙をくれるのだが、どこが悪いとはけっして書いてこない。  初めの頃は家族も楽観していた。しばらく入院していれば元気になって、日本へ帰って来られるに違いない……と。  ところが、いつまでたっても生一は病院暮らしなのだ。そのくせ、手紙で見る限り身体はいたって健康そうだし、どこが悪いのか、さっぱりわからない。いつもは家族に心配をかけない生一なので、どうして今度に限り、はっきりしたことを書いてくれないのかと、みんなには不思議だった。  生きていてくれればそれで良いと思っていた家族も、あまりに長い入院にそろそろ不吉なものさえ感じ始めていた。  その生一が、ようやく病院船で和歌山県の田辺というところへ上陸したとの報せが入ったのは、昭和二十一年の五月だった。 「とうとう帰って来たか……」  哲朗はにわかには信じられないような気分だった。生一は田辺からただちに京都の病院に入れられたという。  すぐにでも迎えに行きたいと言うやすに、哲朗は自分が一人で先に会ってくると言って譲らなかった。 「母さんは連れて行かない方がいいわよ」  初枝もそっと哲朗の耳元に口を寄せて言う。生一が日本に帰って来たのは確かだが、どこかが悪いに違いない。どこが悪いのかは想像もつかないが、生一が手紙にも書けないほど悪いのなら、まずは哲朗がそれを確かめに行った方がいい。気の小さいやすが、生一の前で取り乱すようなことがあれば、なおさら生一が可哀想だ。  哲朗と初枝は、二人ともお互いの気持ちが良くわかっていた。 「いいじゃない、なにがあったってさ。お兄ちゃんが日本に帰って来たのは確かだし、生きているのも確かだもの」  翌月にお産を控えて、大きなお腹の初枝は京都に発つ哲朗をはげますように元気な声を出した。  京都の病院で、哲朗は生一に再会した。  その時、生一は浴衣を着て寝台の上に座っていた。その姿を見て、哲朗は一瞬たじろいだ。足もとがヨロリとよろけそうな気がした。  生一の座り方が変だ。身体のバランスがおかしい。それは左手が手首の先から失くなっているためだった。 「もうすっかりいいのか?」 「うん」  親子はそれ以上、言葉を交わさずに二人で並んで寝台に座った。  謎のすべてがいっぺんに解けた。なぜ生一が手紙にこのことを書かなかったのか、哲朗にはすぐにわかった。  長男の生一を哲朗は自分の後継ぎにしようと思って育ててきた。自分の知っている写真の技術は、すべて教えるつもりだった。すでに航空写真の技術は教えていた。戦争のため営業写真師としての修業は中断されていたが、帰ってきたらふたたび始めさせようと思っていた。  しかし、手が不自由では写真師にはなれない。カメラを持てなかったらどうやってシャッターを押すのか。  心のやさしい生一は、もしも自分が手を失くしたと知ったら、どれほど哲朗ががっかりするだろうと思うと、どうしても手紙に書けなかったのだ。  ポツリポツリと、生一は話し始めた。それはちょうど終戦の日だった。シンガポールもまた、敗戦のショックで大騒ぎとなっていた。生一は若い兵士たちを一ヵ所に集めるため、トラックで部隊を出た。そして騒然とした市内で別のトラックと衝突して路上に放り出された。  ただちに病院へ運び込まれた。 「なにしろ戦争に負けたって放送があったその日だろ。軍医だって殺気だってるさ。興奮しきってる。怪我した手は落とすしかないって言うんだ。有無を言わせず手術だよ。ちょうど間が悪かったんだね。あのドサクサだ。本当に落とさなきゃならなかったかどうかは、今となったらわからないよ」  わざと軽い調子で生一が喋るのに哲朗は気づいていた。気を遣っているのだ。哲朗がどんなにがっかりしているかと思うと、なんとかそれを慰めようと、つとめて明るい表情を見せている。  哲朗も深刻な顔をするのはやめた。愚痴や涙はもうたくさんだった。終わったことは仕方がないし、初枝の言う通り、生一が生きているのは確かなんだから。  生一を連れて東京に帰ってみると、やすも心配したほどには驚いた様子を見せなかった。  ただ、生一が終戦の日の話を始めようとすると、 「いいのよ、いいのよ」  と手をふって聞こうとしない。 「母さんはね、聞きたくないのよ。お兄ちゃんが辛い思いしたことなんて聞きたくもないのよ。でもね、あれで一生懸命がまんしているのよ。自分が泣いたらお兄ちゃんに悪いと思って」  国立の家で、はちきれそうなお腹をかかえた初枝と哲朗は、思いがけなくやすが冷静だったことに、ほっとしていた。 「でもね、私、母さんに言っちゃったのよ。お兄ちゃんが帰って来るっていう日の前日にね、とにかくお兄ちゃんがどんな姿で帰って来ても、自分だけ泣いたりわめいたりするのはやめてちょうだいって。可哀想なのは母さんじゃなくて、お兄ちゃんなんだから、自分を甘やかさないでよねって言ってやったの」  ケロリとした顔で初枝は言う。やすにしてみれば、娘にそんなことを言われては、さぞや悔しかっただろう。だが、生一は、そんなやすの胸中も察しているかのように、一日中、辛抱強くやすの話し相手になってやっている。青森の疎開生活がどんなに大変だったかを、やすがくどくどと語るのを、何時間でも聞いてやっていた。  その年の六月、初枝は男の子を出産した。池田が岩波書店の創立者の名前から取って茂雄と名付けた。  国立の家も手狭になり、哲朗とやすと生一だけが、先に両国へもどった。もどったといっても、米屋を間借りしたのであって、いつまた写真館を開けるかは哲朗もあてがなかった。   結婚写真は屋外で撮るしかなかった  昭和二十二年の七月。 「これなら、なんとかゆけるかもしれない……」  哲朗は、ほっと安堵のため息をついていた。  写真の注文が、ぽつぽつと舞い込むようになってきた。敗戦直後はそれどころではなかった。いったい写真師として再起できるのかどうかさえ不安だった。焼け跡で、食べることに必死な東京人は、もう記念写真のことなど、すっかり忘れはてているように見えた。  だが、たった二年足らずの間に、驚くほどの勢いで社会の秩序は回復した。小学生は遠足に行くようになり、哲朗は記念撮影を頼まれて出張した。結婚式、葬式もあった。  もちろん、その量は戦前に比べればずっと少なかったが、それでも両国で親子六人が、なんとか借家で暮らしてゆけるくらいの収入にはなった。長い間、はなればなれになっていた家族が、ようやく同じ屋根の下に住めるだけでも、哲朗は無性に嬉しく有り難かった。  ちょうどその頃、生一に見合いの話を持って来た人がいた。哲朗の従弟にあたる川端という人が、神田で小間物屋を開いている。その川端の妻の姉が、母親と二人で、やはり人形町で小間物屋をしているのだという。 「華子さんっていう娘さんなんですがね。無邪気で、まるで少女のような人なので、生一さんにはぴったりじゃないかと思ってね」  川端は、何度も「無邪気で」を繰り返した。  生一には、早く嫁を持たせたいと、哲朗もやすも思っていた。左手が不自由なので、日常生活のちょっとしたことでも困る場合が多かった。母親のやすが一生面倒を見られるわけではない。なんとか生活も落ち着いてきたので、まずは生一に嫁を……と思っても、こればかりは縁のものだから、良い人が現れるのを待つしかない。  写真館を継がないことになった生一は『科学グラフ』という雑誌の編集部に勤め始めていた。どちらかというと文学青年タイプなので、編集の仕事は性に合っていて楽しそうだった。  しかし、相変わらず生真面目で、とても女友達などつくりそうにもなかった。  初枝は、前年に夫の池田がスポーツ雑誌を創刊したのが大当たりして、いつもバタバタと走り廻るような生活をしている。奥さんとして、家で内助の功を尽くすよりは、自分も夫と一緒に外に出たがる。機転がきくし行動力もあるので、それなりに役には立っているのだろうが、女があんなにしゃしゃり出て良いものかと、哲朗はさすがに心配にもなってくる。戦後の民主主義といったって、やはり女は女で、家庭を守る方がいいに決まっている。  その初枝が久しぶりに実家に顔を出したので、哲朗は生一の見合い話について切り出した。  話を半分まで聞いたところで、初枝がいつものメリハリのきいた口調で言った。 「私ね、お兄ちゃんのお嫁さんは、まず何よりも気立てのやさしい人がいいと思うの。見かけのやさしさじゃなくって、芯からやさしい人。だって、お兄ちゃん手が不自由でしょ。一生、お嫁さんに助けてもらわなきゃならない。その時に、お兄ちゃんが安心して助けてもらえるような人、遠慮したり辛い思いをしないですむ人がいい。それにはね、とにかくやさしい人じゃなきゃだめ」  気性の激しい初枝は、どちらかというと頭の回転が速く、キビキビした人が好きだった。それなのに、兄の嫁のこととなると、なにより気立てがやさしい人がいいと言う。  それはやすも哲朗も同じ意見だった。戦争から帰ってからも、生一が声を荒立てたことは一度もない。だからこそ、嫁は生一の細やかな心の襞を傷つけない人であって欲しいと思うのだ。  川端に連れられて、見合いの席に現れた華子は、色が白くてふくよかな感じの娘だった。声も可愛らしく、もう二十五歳だというのに、あどけなさの残る話し方をする。  生一の眼の輝きで、華子を気に入った様子が哲朗にはすぐわかった。  華子の父親は入院中で、他の姉妹もみんな嫁いでしまったため、華子は母親と二人きりで暮らしている。その母親もほとんど毎日、父親の世話で病院へ通っているので、華子が一人で店を切り盛りしていた。結婚をするのなら、人形町の家へ来て、母親と同居してくれる人というのが華子の希望だった。  病身の父親と、一人ぼっちの母親を置いては嫁に行けないという、けなげな気持ちに、生一は余計に心が動かされたようだった。  二度目に華子が両国を訪れた時は、初枝も国立から会いに来た。哲朗は、思うところがあって、生一が華子の家へ同居するのが結婚の条件だという話を初枝の耳には入れなかった。世間体を考えれば、まるで生一が婿に行くような感じになる。いくら商売は継がなくても、長男には違いない。そこのところを初枝が気にすると、ややこしいことになる。やすと相談して、哲朗はこの話を親類にも初枝にもしなかった。 「いい人じゃない。あんな可愛らしい人見たことない」  初枝も華子を一目見て、生一にぴったりだと思った。なにより兄の生一の表情が本当に幸せそうなのでどうしてもこの人以外にはないと感じた。  華子が帰ってから、生一は初枝に、初めてのデートのことを照れくさそうに語った。東劇のロマンス・シートで『風と共に去りぬ』を観たのだという。 「お前はスカーレットだけど、華子さんはメラニーだ」  生一はまだ頬に笑いが残っている顔で、嬉しそうに言う。初枝は『風と共に去りぬ』を観ていなかったので、その意味はわからなかった。  昭和二十三年二月一日、生一は華子と結婚した。結婚式は両国の家で行われた。やすの妹の主人である植木菊誉が、料理の腕をふるって、思いがけないほど豪華な御馳走を出してくれた。  白無垢の花嫁衣装を着た華子は、清楚で美しかった。  結婚式の記念写真は、家の外で、白い幕を垂らして、その前で撮った。二月の寒い盛りなので、花嫁の華子はブルブル震えた。  長男の生一がとうとう嫁を迎えたかと思うと、哲朗は感無量だった。 「それにしても、写場のある写真館が欲しい」  哲朗はせっかくの花嫁を自分の写真館の写場に立たせて撮ってやれないのが悔しかった。その時、燃えてしまった古い工藤写真館が、言いしれぬ悔しさとともに鮮やかに哲朗の脳裏に甦《よみがえ》った。   両国の地に再び工藤写真館は店を構えた  それは哲朗にとって、ある種の賭けだった。だが、その賭けをしなければ、写真館は永遠に再建できないだろうと思った。  まず金を借りる。五万円の大金だ。それで土地を百坪買う。昔と同じ場所というわけにはゆかないが、旧国技館のすぐ近くに、土地の出物がある。  今は、土地が凄《すさ》まじい勢いで値上がりしている。借金の金利よりも、値上がりの率の方が大きいはずだ。半年ほどしたところで、百坪の土地の三分の二を売る。買った値段に比べたら、三割は高く売れるはずだ。借りた金の利子を払っても、まだお釣りがくる勘定だ。  それと、手持ちの骨董や宝石を処分した金を合わせれば、なんとか写真館を再建する費用が出る。  だが、危険も大きかった。土地の値上がりが止まったらどうなるか。土地が値上がりしているということは、木材など建築用材も上がっているわけだ。早く家を建てないと、予算が足りなくなるだろう。  哲朗は賭け事が嫌いだし、金勘定も嫌いだ。しかし、普通に働いていたのでは永遠に写真館は建たない。  いつものことながら、誰にも相談せずに、哲朗は金を借り、土地を買い、そして三分の二を処分した。  自分でも驚くほどうまくいった。その一生を、下町の写真師として終えた哲朗にとって、これは生涯ただ一度のささやかな土地転がしだった。  昭和二十三年四月、地鎮祭が行われ、七月に、工藤写真館は完成した。  粗末な平屋の木造建築である。戦前の写真館に比べたら、土地も建物も小さかった。  十四畳ほどの写場に、六畳と八畳の日本間、二畳ほどの応接間があって、それに暗室と台所ですべてだ。風呂もついていない。 「狭いなぁ」  哲朗は新築の家で独りごちたが、家族の数も少なくなっている。生一は華子と人形町に所帯を持っているし、初枝も国立で、ついこの間、長女を出産した。赤ん坊は与謝野晶子から取って、晶子と名付けた。生一のところも、十一月には子供が生まれる予定だ。  弟子もいない写真館には、哲朗夫婦と、明、司朗、敏朗がいるだけだ。  十九歳の明が、今では哲朗の片腕となって助けてくれている。こうやって、家族五人で小ぢんまりと暮らしてゆければ幸せだ。  哲朗にしてみれば、思うような材料も使えず不本意な出来の写真館ではあったが、とにかく、写場があるのだから、初心にかえって、お得意さんを増やしてゆくしかない。  それにつけても気になるのは、相撲の行方だった。  双葉山の全盛時代は、国技館の周囲を明け方からもう二重三重の行列が取り巻いて、開館されるのを待ったものだ。  しかし、昭和二十一年の秋場所を最後に、国技館の本場所はなくなった。  昭和二十二年夏、秋と、二十三年の夏場所は、明治神宮外苑相撲場での野天興行だった。  それというのも、国技館を接収した米軍は、なんとその名前をメモリアルホールと変えてしまい、自分たちの催し物に使っているからである。  日本の国技である相撲が、雨が降ったら中止になる野天興行では、いくらなんでも情けなかった。しかし、戦争中に軍部の国粋主義の宣伝に利用された節もあるので、戦後は、GHQへの遠慮があるのか、どうも人気はパッとしなかった。  その逆に、アメリカ生まれの野球は圧倒的な人気を博していた。初枝の夫が創刊した野球雑誌は飛ぶような売れゆきだった。リヤカーに刷り上がったばかりの雑誌を積んで後楽園球場へ運ぶと、まるで羽が生えたように見る間に売れてしまう。ものの十五分で、リヤカーは空になるのだと、初枝は自慢そうに言っていた。  しかし、哲朗は、相撲が必ず両国の地に戻ってくると信じていた。もともと、東京で初めて相撲の常設館ができたのは、明治四十二年のことで、本所本町回向院の境内だった。挨拶文に当時の文士・江見水蔭が「相撲は日本の国技なり」と書いたところから、国技館と名付けられた。  それ以来、大正六年の火事、十二年の関東大震災などで全焼したが、そのたびに復旧され、常に国技館は両国とともにあった。  だから、今でこそメモリアルホールなどと奇妙な名前にされたが、きっと国技館本来の姿にもどる日が来ると哲朗は思っていた。ふたたび、相撲に人気が集まる日が来て欲しかった。その日まで、メモリアルホールのすぐ近くで、写真を撮りながら待っているつもりだった。  それだけに、昭和二十四年になって、仮設国技館が日本橋浜町に建てられた時は、本当にがっかりした。追い打ちをかけるように、もっと本格的な建物が、今度は蔵前に建てられるそうだという噂が流れた。  国技館が両国の地から姿を消すなどとは、哲朗にはとうてい考えられないことだった。  しかし、哲朗のうろたえた思いなど関係なく、現実はしたたかな強さで写真館に入り込んでくる。  メモリアルホールへ行った帰りのアメリカのGIが、一見して商売女とわかる日本女性を連れて、哲朗の写真館に現れるのだ。  ひょいと通りがかったら、「写真」の看板が大きく出ている。終戦間もない東京では、写真館は珍しかった。記念写真を撮っておこうと思いついて、GIたちは工藤写真館のドアを押す。  GIに連れられている日本娘は、なぜかそろって同じタイプだった。ぼってりと太っていて、目、鼻、口が大きくはっきりとした顔立ちだ。化粧のせいもあるのだろうが、GIの好みもあるのだろうと、哲朗はシャッターを押しながら思った。  こんなに外国人の客が多くなるとは、予想もしないことだった。値段の交渉などで、意外に助けになったのが末っ子の敏朗だった。まだ中学に入ったばかりで、カタコトの英語なのに物怖《ものお》じせずに、茶目っけたっぷりに応対して、チューインガムなどを貰っていた。小学生の時に終戦を迎えた敏朗は家中で一番、外国人に対する恐怖心が少ないようだった。  思いがけない客層に、とまどいながらも、お客はお客である。哲朗は満面の笑みを浮かべて、自分の倍はありそうな外国人と、真っ赤なルージュの日本娘をカメラの前に立たせていた。   明が戻って工藤家の戦争が終わった  昭和二十四年の夏、明が喀血した。新しい写真館ができて、ちょうど一年目だった。  明も仕事を覚えてくれて、哲朗も少しは楽ができるかと思いはじめた頃でもあった。  六月頃から明は不調を訴えていた。なにしろ予科練の時に無理をして、大病した身体だった。熱が出て、さかんに咳きこむと思ったら喀血した。医者に行くと結核と診断され、ただちに手術だと言われた。  やはり治っていなかったのだ——と哲朗は愕然《がくぜん》たる思いで、予科練時代の身体歴を手に、家を出る明を見送った。その身体歴を提出すれば、明は傷病兵扱いとなり、治療費は免除される。そうしてもらわなければ、新築の写真館の借金返済に追われている哲朗には、入院費の捻出もおぼつかなかった。  それにしても、戦争が終わって四年もたつというのに、まだ戦争の影がしつこく一家の上を覆っているようで哲朗は気が滅入った。  長男の生一が片手を失くしたのを知った時もショックだった。ようやく自分の心の中であきらめがつき、次男の明が家業を継いでくれると安心したのもつかの間だった。明にもしものことがあれば、司朗か敏朗か……。  哲朗は暗い気持ちにならざるを得なかった。  明の手術は二回行われた。肋骨《ろつこつ》を七本取り、片肺を潰す大手術だった。 「ひどいのよ。電気メスっていうのができたばかりで、それを明ちゃんの手術に使ったんだけどね、電気が身体の中を通って感電して、あの子、腕に火傷してね……」  見舞いに通っている初枝が、怒りながら言う。  その頃、初枝は東京の新大久保に住んでいた。満一歳の晶子を連れて、戸山町にある東京国立第一病院に毎日のように通い、明の世話をしていた。  やると決心すると、初枝はいつでも猛烈な勢いでやる。新しい写真館の基礎作りに懸命な哲朗には、明を見舞っている余裕はなかった。やすも、哲朗の助手のようなものだから、同じだった。忙しい両親にかわって、自分が明の面倒をみなければと決心すると、初枝はつてをたよって栄養価の高い食料を入手しては、せっせと明の病室に運んだ。 「結核患者はね、コッペパンを一個余計にもらえるんだよ」  などと、まだ子供っぽさの残る顔で明が言うと、初枝は不憫《ふびん》で涙がこぼれそうになる。冗談じゃないわよ。こんな身体にされて、国からコッペパン一個くらいもらったからって、嬉しそうな顔しないでよと、明に怒鳴りたいところだが、病身の明には、それも言えない。  お国のためになら死んでもいいと言って入隊した十五歳の明と、すっかり痩せ細ってしまった二十歳の今の明と、その純粋さはあまり変わっていないように初枝には思えた。  いくら忙しいといったって、母親のくせに手術直後の一回しか見舞いに来ないやすを、初枝は薄情だと腹が立つのだが、明は別に文句も言わない。滋養がつくからと、持って行ってやったバターを、熱い御飯にまぶして、その上に醤油をかけて、美味しそうに食べている。  神経質な患者は、医学書などを読み漁り、自分の病状を知ろうと真剣だったが、明はしつこく医者に尋ねることすらなく、じっと病院のベッドに横たわっている。自分も娘時代に肺病を経験しただけに、あの病気特有の口では言い表せない恐怖感がよくわかり、初枝は弟が可哀想でならなかった。  明の入院生活は、結局十ヵ月間続いた。  その間に、司朗は新制となった早稲田学院二年生に編入した。できたばかりの早稲田学院は、この年、一、二、三年を同時に募集したのである。  初枝の夫は早稲田大学出身だし、明も早稲田中学へ通ったし、なぜか工藤家の子供たちはみんな早稲田へ行くものと決めていた。司朗も迷うことなく早稲田学院の二年生の編入試験を受けたのだった。  新しい高等学院は、生徒を大学生並みに扱ってくれた。校舎へは靴を脱がないで上がるし、掃除当番もない。教師は早稲田大学の教授の兼任が多かった。その上、復員兵の年をくった高校生もいたので、司朗は急に大人になったような気分だった。  初枝の夫の池田も、母校の早稲田に特別の愛着があるらしく、ことあるごとに、「在野の精神がですね……」などと言う。とにかく早稲田大学の教育の特徴は、在野の精神ということらしい。  こうした影響は末っ子の敏朗にまで及んだ。常に中学ではトップクラスの成績だった敏朗は、高校進学の時に、両国高校へ行くように担任の教師に勧められた。なぜなら、両国高校なら東大へ進むコースだからだと、その教師は言う。 「でも、僕は早稲田大学へ行くからいいんです」  何度勧められても、敏朗は早稲田へ行くからと言って譲らなかった。  とうとう、あきらめきれない教師が工藤写真館にやすを訪ねて、ぜひ東大へ行かせてくれと説得しようとした。なにを勘違いしたか、やすはむっとしてその教師に答えた。 「別に東大へ行ったところで、どうということはありませんでしょう。そりゃあ月謝は安いかもしれませんよ。でもねぇ、お陰様で、うちは日銭の入る商売ですからね、あの子の早稲田大学の学費くらいはなんとかなります」  これには、さすがにしつこい教師も説得をあきらめざるを得なかった。  昭和二十六年の初めに、ようやく明は長い療養生活を終え、両国の写真館に帰って来た。工藤家の戦争も終わりつつあった。   敏朗の卒業式に、やすは紋付き姿で出掛けた  早稲田学院の面接試験の日、敏朗は考えた末に、兄の司朗の学生服を借りて着てゆくことにした。  昭和二十六年の春である。司朗はその頃早稲田学院の三年生で、卒業を間近に控えていた。  どうせ司朗が卒業すれば、お古の学生服は敏朗が着るに決まっている。  一足早く、兄の制服を着込んで面接試験に出向いたのには、理由があった。教官の注意を引きたかったのである。  案の定、早稲田学院の制服を着た敏朗に、教官は尋ねた。 「君、なんで我が校の制服を着ているのかね?」  敏朗は内心「しめた!」と思った。 「はい、もちろん入学するつもりなので、もう今から着ております」  この返事に居合せた教官たちは、どっと笑った。  それから敏朗は、実は制服は兄のもので、今日はそれを借りてきたのだと説明した。教官たちは納得したようにうなずいた。  無事、早稲田学院に入学した敏朗は写真部に入部する。  門前の小僧ではないが、工藤家の子供たちはみんな写真を撮るのが好きだった。敏朗も中学生の頃から風景写真を撮っていた。  明が結核で入院していた間、哲朗はさかんに敏朗を出張撮影に連れて歩いた。身軽で要領が良いので、便利だったのだ。敏朗自身も、子供心に明の病気が治らないようなら、自分が家業を継ぐのだろうかと、ばくぜんと思ったりしていた。 「いいか、写真を撮る時はな、ピントを合わせるんじゃなくって、自分の身体を動かすんだ、わかるか? これはいいと思ったら、ごちゃごちゃピント合わせているより、自分の身体を素早くピントの合う距離に持っていって、シャッターを押せ。その方が早いんだ」  哲朗は、シャッターチャンスを逃さないためには、敏捷に動けと敏朗に教えたのだった。  もともと、早稲田学院の写真部は、定期的に慶応高校と合同で早慶写真展を開いていたが、敏朗の提案で、他の私立高校にも加盟してもらい、関東私立高校写真連盟を設立した。そして、関東一円の私立校が十校ほど集まり、写真展を開くようになった。  活動の輪を広げるためというのが、いちおうは表面上の理由だが、本当は女子高校の写真部員が目当てだった。  生一はむろんのこと、明や司朗の時代までは、女の子との交際などとても考えられない高校生活だったが、敏朗は戦後の自由な男女交際を、ごく自然と思う青春を迎えていた。  ガールフレンドは多いほど楽しかった。そして、別に恋人などと堅苦しく考えず、自然な交際をしていた。  早稲田学院でも、常にトップクラスの成績は維持していたが、だからといって、どうしても大学に進学する必要もあるまいと考えていた。  高校二年の時の進学相談では、担任の教師に、 「兄が病弱なので、もしかして自分が家業を継がなきゃならないので、大学へは進まないかもしれません」  と言った。翌日、学校の事務局長の部屋に呼ばれ、 「君は成績がいいのだから、ぜひ大学へ行きなさい」  と何度も勧められた。  結果的には敏朗は早稲田大学へ進学したのだが、周囲の大人が騒ぐほどには、それが重要なこととは思えなかった。写真が好きなのだから、父親の商売を継いでもいいと考えていた。  生徒会長をしていた敏朗は、早稲田学院を卒業する時、総代で答辞を読むよう指名された。  これは工藤家では、ちょっとしたニュースとなった。 「敏坊がねぇ、答辞を読むんだって。すごいじゃない」  いつも母親のやすのかわりに父兄会に出ていた初枝は、すっかり興奮していた。  やすは、どういうわけか子供の教育には無関心で、父兄会も面倒がって出ない。それで敏朗より十歳以上年長の初枝がいつも母親がわりで、父兄会や卒業式に出席していた。  だから、敏朗の卒業式には自分が当然行くのだろうと、初枝は前もって心づもりをしていた。  ところが、当日になると、やすが突然、箪笥《たんす》をゴソゴソ捜して、紋付きを引っぱり出した。 「母さんどうするの?」  敏朗の卒業式に出るつもりで、実家に立ち寄った初枝は、やすが鏡の前で紋付きを着始めたのに仰天した。 「だって、お前、紋付きってのはね、こういうために誂《あつら》えてあるんだよ」  初枝があきれるのもおかまいなしに、やすは、きっちりと紋付きを着て、敏朗の卒業式へ出掛けて行った。 「まったくねー、今まで父兄会も出たことないっていうのに、本当に現金なんだから」  取り残された初枝が、哲朗に訴えると、 「しかしなぁ、敏坊で卒業式も最後だ、母さんも行ってみたかったんだろう」  哲朗がやすをかばうように言う。  その言葉に初枝は、はっとした。そうか、ようやく末っ子の敏坊が高校を卒業して、この家も一段落といったところなんだと思った。途中の戦争をはさんで、両国の地で、子供を育て学校へやるために、夫婦で悪戦苦闘をしてきた。それがようやく、なんとか目鼻がついてきたのだろう。 「まあ、父さんも頑張ってきた甲斐があって、敏坊も総代で卒業するし、これでやれやれねぇ」  自分も三人の子供を持ってみると、両親の歩んで来た道のりの長さが、身にしみてわかるようになっていた。 「いや、この写真館をもうちっと、ましな建物に建て直すために、わしはまだ、ゆっくりできんよ」  最近はすっかり柔和になった目を、哲朗は初枝に向けた。  確かに、写真館は戦後のドサクサの中で、とにかく早く建てられれば良いと、大あわてで建てたものである。バラックに毛のはえた程度の粗末な建物だった。  哲朗は、もう少し恰好のついた写真館を建てるまでは、頑張らねばと思っていた。  そんな気力が、哲朗に残されているのが、娘の初枝にはたまらなく、たのもしく感じられた。   敏朗はエレベーターガールと交際を始めた  可愛い女の子が来るぞと言われて、敏朗は青年会の集まりに出掛けて行った。昭和三十二年の四月のことである。早稲田大学理工学部の四年生になったばかりだった。  現れた女の子は確かに可愛かった。しかし、いかんせん背が高い。敏朗より五センチは高かった。 「君はなにをしているの?」  女の子の顔を見上げながら、敏朗が尋ねた。 「私、松坂屋のエレベーターガールよ」  どうりで背が高いはずだと敏朗は思った。なにしろ、その頃、各デパートは競ってスタイルの良い女の子をエレベーターガールに採用していた。  翌日、敏朗は一人で松坂屋へ行き、その女の子を訪ねた。 「君さぁ、エレベーターガールの中で一番背の低い子を紹介してくれないかなぁ」 「いいわよ」  勢いよく答えて、ノッポの女の子は同僚を連れて来た。 「この人、多恵子さん」  一番小さいといったって、敏朗と並ぶと、ほぼ同じくらいの背丈だ。しかし、美人だった。女優の小山明子によく似ている。 「今夜、踊りに行かない?」  敏朗は、いかにも世慣れたふうに声を掛けた。多恵子が逡巡しているとノッポの女の子がはしゃいだ声で言った。 「行こうよ、行こうよ。女の子三、四人集めておくわよ」  その勢いに押されたように、多恵子は、こっくりとうなずいた。  敏朗はあわてて家へ帰り、兄の明の背広を借りて着込んだ。学生服よりは大人びて見える。それから考えた。なんとか多恵子に自分を印象づけたい。そのためには、どうしたら良いか。  わざと三十分遅れて、敏朗はダンスホールに着いた。そんな場所は初めてなのか、多恵子が不安そうに一人で立っていた。ノッポの女の子は、とっくにパートナーをみつけて踊っている。 「踊りましょう」  有無を言わせず、敏朗は多恵子をフロアへ引っぱり出した。ダンスを踊るのは初めてらしくオドオドしている多恵子に、敏朗はやさしくステップの踏み方を教えた。少しずつ、多恵子の緊張が解けてゆくのが、指先から伝わってくる。  フロアの人の目が、端正な多恵子の横顔に集まっているのが、敏朗には得意でもあった。  敏朗の松坂屋通いが始まったのは、その次の日からだった。  とにかく毎日、通って行った。エレベーターガールは三十分仕事をしては、三十分休みをもらう。その三十分の休みの時に、多恵子と一緒に松坂屋の屋上へ行く。並んでベンチに座り、ただ他愛のないお喋りをするだけだった。あっという間に三十分は経過してしまい、多恵子はあわてて仕事場へもどってゆく。  松坂屋でも、敏朗の日参は有名になった。受付の女の子が、敏朗の姿を見ると、すぐに休憩室にいる多恵子に電話をした。 「ただ今、敏ちゃん通過しました」  敏朗が来るのは、たいがい夕方だった。多恵子の仕事が終わるのを待って、二人で喫茶店に行き、コーヒーを飲んだ。なぜかコーヒー代を払うのは多恵子だった。  敏朗が二十一歳、多恵子が十九歳だが、学生の敏朗よりはまだ多恵子の方が収入があった。それでも、月収は六千円だから、その中からコーヒー代を払うのは大変だった。  たまに敏朗が、どこからかジャズのコンサートの切符を手に入れて誘うこともあった。  有楽町の読売ホールの柿《こけら》落としに、ジャズフェスティバルがあった。敏朗と多恵子は連れ立って聴きに行ったが、それが初めてのデートらしいデートだった。  ジョージ川口とフランキー堺のドラム合戦があって、日本人でも、こんなにリズム感のあるドラムを叩く人がいるのかと、敏朗はひどく感激した。  下町で育って、小唄や都々逸《どどいつ》などは小さい頃から耳にしていたが、全く異質のアメリカの音楽は新鮮だった。  江利チエミの「テネシー・ワルツ」を聴いた時も驚いた。まるで外人みたいに唄うじゃないかと思った。  多恵子は道ゆく人がはっとしてふり返るほど美人で、映画会社のスカウト係から、女優になる気はないかと、しょっちゅう声をかけられる。だが、そんな見掛けによらず、本人はおっちょこちょいで陽気だった。 「私ね、中学の時にね、ゲンコツが口の中に入るかどうかためしてみたことあるの」  多恵子が、ある日、真面目な顔をして話し始めた。 「それでね、無理矢理、ゲンコツをつっこんだのよ、口の中に。やったことある? ないわよね。とにかくね、入ったのよ。ゲンコツが、なんとか口の中に入ったの。ところがね、出なくなっちゃったの。どうしても出ないのよ。それで、もう窒息しそうになって、苦しくって苦しくって、あんな思いしたの初めてよ。ようやく口の中からゲンコツを出した後で気づいたわ。ゲンコツをほどけば、簡単に出たんだって。でも、もうあんなこと絶対にしない」  多恵子はその時のことを思い出したのか、クックッと笑っている。一緒に笑いながら、敏朗は、こんな女の子と一生暮らせたら楽しいだろうなと思った。  しかし、兄の明も司朗もまだ独身だし、工藤写真館は、哲朗の希望でもう一度建て直すことになった。今度こそ、納得のいく写真館を建てて、自分は隠居をすると哲朗は宣言していた。そんな最中に、学生の身では結婚どころか恋愛だって贅沢だと言われそうだ。それでも、敏朗は多恵子を両親に紹介しようと決心していた。   二代目館主となった明が結婚した  昭和三十三年の春、工藤写真館の建て直し工事は終わった。  四男の司朗が早稲田大学を卒業して、設計事務所に勤めていたので、新しい写真館は司朗の設計によるものだった。  哲朗は間もなく六十八歳になる。 「もういいだろう。俺は隠居だ」  小さくつぶやいた。  新しい写真館はモダンだった。間取りや広さは、以前とそれほど変わらないのだが、設計士の若さがはっきりと感じられるように、ラインは鋭く、色彩もモノ・トーンだった。  明の好きなシンメトリーの絵や壁掛けが飾られている。  営業主の名前を、哲朗は明に変更した。明も二十九歳になっているのだから、写真館主となってもおかしくはない。 「父さん、家もそろそろ経理士を入れた方がいいと思うんだけどね」  名義を譲られて間もなく、明が生真面目な顔で切り出した。  つい先日、税務署の人が調査に来た。 「お宅はどこで材料を仕入れているのですか?」  と尋ねられて、やすが答えた。 「そのへんで、適当に買ってくるんですよ」  傍らで聞いていた明は、心臓がドキリとした。やすは、あらゆることに丼勘定で、きちんとした帳簿もつけていない。仕入れ記録もなければ、売り上げの報告もいい加減である。  それで通る時代はもう終わっている。どんな小商売でも、収入に応じた税金は払わねばならない。そこのところがやすにはちっともピンときていないようなのだ。  税務署員にも、曖昧《あいまい》な返事をしておけば良いと思っているらしいが、それでは不審の目で見られても仕方がない。  経理士……と言われて、初めは驚いた哲朗も明の説明に納得した。なにより、写真館の主は明なのだから、これからは明の経営方針に従うつもりだった。  翌月から、親戚の紹介で石井という女の経理士が帳簿を見てくれることになった。  何回か通ってくるうちに、石井には独身の妹がいることがわかった。冗談に「ここへ呼んでみて下さい」と明がいうと、本当に石井は家へ電話をして、書類を写真館まで届けるように、妹に言いつけた。  ほどなく、石井の妹の勝又敏子が、書類をかかえて訪ねて来た。  瞳が大きくて可愛らしい娘だった。二十二歳だという。高校を卒業して勤めに出ていた。いかにもしっかり者という感じがする。  家業を継ぐのだから、明の結婚は初めから両親と同居が条件だった。しかも、やすのように、のんびりとした性格では、これからの商売には向かないだろうと明は思っていた。もっとテキパキと働いてくれる嫁さんでなければやってゆけない。  その点、敏子はいかにも利発そうで瞳がキラキラ輝いている。  すっかり嬉しくなった明は、どんどん盃を重ねて酒を飲んだ。哲朗はほとんど酒を飲まないのに、明は酒が強かった。  いい御機嫌になった明は、立ち上がって得意の日本舞踊を披露した。明の踊りは素人《しろうと》離れしていて、芸者衆にも人気があった。  山の手で育った敏子は、男が素踊りをするのを見るのなど初めてだった。まさか、それが見合いだとは知らないから、変わった人もいるものだと明の姿を見つめていた。  哲朗は直感的に、明の嫁はこの娘に決まるだろうと悟った。娘はニコニコと御飯を食べている。やすが勧めると悪びれたふうもなく、三膳もお代わりをした。まるで、ずっと前からこの写真館にいるように、すんなりと茶の間の一員となって溶け込んでいた。 「決まったね」 「うん、決まった」 「さっそく明日、話をしよう」  経理士の石井と敏子が帰った後で、哲朗とやすと明は、至極満足そうにうなずき合った。  結婚を前提とした交際をしたいという申し入れを、敏子は承諾してくれた。 「敏子さんが、まだ寄席を見たことないって言うから、人形町の末広亭に連れて行こうと思うんだ」  明が、最初のデートの計画を話すと、 「えー、寄席に連れてくの?」  敏朗が大袈裟に驚いてみせた。なにしろ、世はジャズだロカビリーだの時代である。今頃、古色蒼然たる落語に女の子を連れて行くなど、敏朗には考えられなかった。  この年の四月、敏朗は外資系の石油会社に就職して、社会人となっていた。この当時、日本の会社にしては珍しく土曜日も休みで、上司はイギリス人が多い。英会話を学ぶ必要もあって、せっせと多恵子と洋画を観に行っていた。 「うん、寄席がどんなものか、見せてやっといた方がいいんだよ」  明は自信たっぷりに言い切る。 「敏子さんは、どうせ下町の写真館の嫁になる人なんだから、寄席くらい知っててくれなきゃ困るし、それがイヤだと言う人じゃ、ここの嫁はつとまんないよ」  明に言われてみると、敏朗もなるほどと思う。確かに夫婦なんて趣味が一致しなかったらつまらないだろう。 「私はね、敏子さんさえ賛成してくれたら、もう勤めはやめてもらった方がいいと思うのよ」  やすが、二人の会話に口をはさんだ。 「なるべく早く、こちらの生活に馴染んでもらうために、勤めをやめて、結婚までは、家に通って来てもらったらどうかしら? 御近所さんや、お客さんのことも覚えてもらいたいし、そう頼んでみてくれないかしら?」  やすにしては思い切った発言だが、突然、一緒に生活を始めるよりは、その前に半年ほど準備期間を置いて、家風に馴れてもらうのは、悪い考えではなかった。 「そうか、敏子さんは兄貴のところに嫁にくるんじゃなくって、工藤家に嫁に来るんだもんなぁ」  敏朗は心の中で、そう思ったが口には出さなかった。  翌月から敏子は定期を持って、工藤写真館に通って来るようになった。思った通り頭の回転が速くて、気がきくので、哲朗は敏子がいてくれるのなら安心して家業を任せられる気がした。  昭和三十三年十月十二日、明と敏子は結婚した。披露宴は二人の友人たちが主催して、清澄公園にある大正庵で会費制で行った。一人百円の会費を取るのが、哲朗には抵抗があったが、これも新しい時代の潮流かと思うと余計な口出しはしなかった。  少しずつ、自分の人生が完結に向かっているのを、哲朗は出来たての若夫婦を見ながら、しみじみと感じていた。   結納の口上に敏朗と多恵子は笑い転げた  人生は常に、良いことと悪いことが順番に、波のように襲ってくるもののようだ。  昭和三十三年秋の明の結婚に続いて、翌年の三月四日、司朗が結婚した。相手は同じ設計事務所の大阪支店に勤めている娘だった。出張で大阪へ行った司朗が、一目惚れして、その日のうちにプロポーズした。なにごとにつけても慎重な司朗にしては珍しいことだったが、深田|朔子《さくこ》というその娘の、ふんわりとやさしい物腰がすっかり気に入ってしまったからだった。  おめでたい話の続く工藤家で、初枝の離婚は、哲朗にとってもやすにとっても、青天の霹靂《へきれき》だった。  夫婦の間のことは、他人にはわからぬものだし、まして離婚ともなれば、当人ですら納得のゆく説明などできぬほど、複雑にもつれた糸の塊だと思って間違いない。  三十代も半ばを過ぎた初枝に、今さら意見も説得もしようとは考えないが、子供を三人連れて離婚する長女の、今後の身のふり方が、哲朗には心配でならなかった。 「お姉ちゃん、ここへ帰って来たらどうだろうねぇ」  今は戸主となった明が、真剣な顔をして哲朗に言う。明も結婚して、もうすぐ子供も生まれるというのに、姉の身を案じてくれるのは有り難いが、実際問題として、ただでさえ狭い工藤写真館に、初枝と子供たちが住める空間などなかった。  ちょっと考えれば、そんなことはすぐわかるのだが、それでも一途に、姉が帰って来たらと言うところが、いかにも一本気な明らしかった。 「この家は無理だが、どこか近所に部屋をみつけてやろうと思う」  哲朗は、自分と気の合う初枝が近所に住んでくれれば嬉しかった。まだ三人の子供たちも小さいのだから、初枝が勤めに出るにしても、実家が近い方が心強いだろう。  だが、初枝は離婚した後も、両国へは帰ってこなかった。原宿に小さな家を買って、移り住んだ。  原宿の家は小学校のすぐ斜め前にあった。次女の美代子が小学校二年生なのだが、普通の子供より発育も悪く、知能も遅れていそうなので、とにかく通学が楽なようにと、小学校の近くにある家を探した。  しかし、初枝が両国に帰って来なかったのは、それだけが理由ではないと哲朗は知っていた。  全く新しい生活を、初枝は始めたいのだろう。両国にもどって来れば、初枝はふたたび出発点に帰ってしまう。下町の生活が嫌いで、家を出たのだから、もう一度、同じ場所へ後退するのは、初枝の性格からすれば我慢できないのだ。  戦後は何もかもが変わった。女の生き方も、昔とは違っている。ただ静観するしかないと、哲朗は心の中に少しずつ諦めの思いが広がるのを感じていた。  初枝は一番仲の良い兄の生一には、なにかと身のふり方を相談していた。 「今度、離婚してみてね、つくづく思ったのよ。悲しいとか辛いとかっていうのは、これは仕方ないけれど、心細いっていうのは困るわよね。私は何も手に職がないから、本当に心細いと思ったわ。そして、心細いと思わなきゃならない自分が情けなくってね。子供たちは女の子でも、きっと手に職を持たせて、私のように心細い思いはさせないわ」  奥様と呼ばれてチヤホヤされるのは結婚して、夫の地位があるからこそだと、初枝はあらためて思い知らされた。 「そうだよ。これからの女性は、どんな時でも自立できる訓練はしておくべきだな。しかし、お前の子供たちはお前の子であると同時に、別れた夫の子でもある。だから、子供と父親のつき合いは、きちんとさせろよ」  生一は、初枝が感情的になって、子供と父親の絆《きずな》まで断ち切ろうとするのではないかと心配した。 「別れた夫婦が何もいがみ合うことはない。まして子供にとっては父親だ。お前も人間として、別れた夫と、子供の教育についてはいつでも相談できるような良い関係は残しておけよ」  そう言われて、初枝は、はっと目が開いたような気持ちだった。初枝の新しい生活は、生一のこうした助言が基礎となって始まった。  司朗の結婚の二年後に、敏朗と多恵子が結婚した。  十九歳の時に敏朗と出逢った多恵子も、もう二十四歳になっていた。  結婚するなら多恵子……と、敏朗は心の中で決めていたのだが、上の兄二人が嫁をもらうまでは、言い出せないでいた。  明の結婚式にも、司朗の結婚式にも多恵子は敏朗のガールフレンドとして出席している。だから当然二人は結婚するものと誰もが思ってはいたが、具体的な結婚話はいっこうに出ない。 「ああいうのを、『永すぎた春』って言うんじゃない?」  三島由紀夫の小説の題から取って、当時流行していた「永すぎた春」という言葉を初枝が持ち出した。 「長すぎるのかなんだか知らないけれど、男と女で、あんなに友達みたいでいいのかしらね? 敏朗はケロリとした顔をしてつき合っているけど、あの二人がどうなってるのか、私にはさっぱりわからないわ」  やすが嘆くのも無理はなかった。昔なら、デートをすればすぐに結婚と続くところだが、最近の若い人たちは友達と恋人の区別をつけるのも難しくなっている。  しかし、さすがに多恵子の両親が娘の年齢を気にしだした。近所でも評判の美人なので、縁談は降るようにあるが、多恵子は見向きもしない。それでは敏朗さんの方でプロポーズしてくれたのかと訊くと、まだだと言う。いったい、どうするつもりなのかと、多恵子の両親から遠まわしに尋ねられ、あわてた明と初枝が、親の名代として多恵子の家を訪ね、正式に婚約を申し入れた。 「本日はお日柄もよろしく、日頃ご丹精にお育てのお嬢様を……」  初枝がしきたり通りの結納の口上を述べていると、多恵子と敏朗が急に立ち上がり、ダダッと部屋を出て行った。どうしたのかと後から訊いたら、かしこまった挨拶がおかしくておかしくて仕方がないので、台所に行って二人でゲラゲラ笑っていた。初枝の口ぶりを敏朗が真似て、また大笑いしていたのだという。 「あの二人は、一生友達みたいにして暮らすんじゃない」  それも新しい男女関係かもしれないと初枝は思った。   初のひ孫誕生の日、哲朗はこの世を去った 「どこへ行っても、山あり河ありだ。なにも変わりはせん」  というのが、晩年の哲朗の口癖だった。  家業を息子に譲ってからは、釣りが唯一の楽しみとなった。元来が凝り性なので、餌に味の素を入れてみたり砂糖を入れてみたり工夫をする。仲間は近所の和菓子屋やワイシャツ屋さんの御隠居だった。  東京湾ならハゼ、木更津沖ならアオギス、土浦方面ならタナゴにフナと、とにかく三日にあげず釣りに通って行く。元旦でも出掛ける。  あの気の短い人が、よくも……と家族が感心するほど、釣りのためだったら、一日じっと脚立に座り、魚がかかるのを待っていた。  昭和四十二年五月三日、哲朗とやすの金婚式を祝う会が、両国の料亭|大金《だいきん》で開かれた。百名以上の参加者があり、盛大な会となった。  この日を境に、哲朗はがっくりと老け込んだ。  翌年の一月二十日、敏朗の妻、多恵子の父親である及川敏夫にあてて、次のような手紙を認めた。  暮からお正月にかけて流感がはやり家中皆やられました。僕だけは早くなおりましたので好きな釣も出来ました。お正月になってからは寒いのでやりません。そのかわり愚妻が体の調子が悪くなって元旦早々から床に就きましたが、毎日医者に通っていますが幾分快方に向いつつあるとの事、もはや心配する事はありません。わざわざ御見舞い下さいまして恐れ入りました。  あなたの御病気もそのままかたまって、そうなれば御心配になる事もないと思います。僕は年のせいかどうも、歩くと息苦しくて元気な活動が出来なくなりました。座っていれば別に何ともありませんが、これも年のせいでしょう。  近頃は別に用事もありませんし隠居気分で張りもなく、友人知人は年毎に減っていくのが目立つ様になりましたのが、何よりも心細く感じられます。  昨年五月愚妻との金婚式を致しましたが、結婚五十年も長い様で短いもの、考えれば何のために生まれ何のために生き永らえて来たのか、人生不可解とでも言いますか、自分では分らなくなりました。  要するに生まれて家内を持って子供を作り育て上げれば、目的を達した訳で、別に余分に考える事はないと思います。これからはゆっくり死を楽しむ様に心掛けたいと念願して行きたいと思っております。では又、色々と御心配有難うございました。  末筆ながら為念申上げますが愚妻の病気は近頃流行の敷布団のフワ/\した柔らかいのが体の調子を毒したとの事、矢張り昔の木綿の固いものの方がよろしいそうです。  及川敏夫様 [#地付き]哲朗拝   哲朗が七十七歳の時の感慨である。  肉体は刻々と衰えていた。まだ釣りに出掛ける元気はあるものの、それも時間の問題で、やがて動けなくなる日が来るのを、「歩くと息苦しくて元気な活動が出来なくなりました」という形で、ひしひしと予知していた。  今の哲朗には、心配しなければならないことなど何一つなかった。  子供たちはそれぞれに結婚して、孫は九人になった。息子たちは一流企業に勤めているし、工藤写真館も明と敏子がしっかり守ってくれている。  明の長男の明敏が、派手なキルティングのガウンを着て家の中を歩いているのを見ると、「まるでアメリカさんの子供みたいだ」と哲朗は思う。子供たちの服装は、これが日本の子供かと驚くほど、当節はすっかりハイカラになっていた。生活全体が向上しているのだろう。初枝の娘たちは、高校から外国へ留学した。青森の田舎から飛び出して来た自分の孫が、昭和も四十年代に入るとアメリカやヨーロッパに出てゆくようになる。  それは時代の移り変わりには違いないが、「おじいちゃんも外国旅行をしたら?」と勧められると、激しくかぶりをふって、いつも同じセリフを言った。 「どこへ行っても、山あり河ありだ。なにも変わりはせん」  その哲朗が、いよいよ寝ついてしまったのは、昭和四十六年の十二月だった。  それでも重態だとは誰も思わなかった。八十一歳という年齢を考えれば、風邪をひいてもなかなか回復しないはずだ。まさか入院などは大袈裟だと思っていたので、写真館の二階に蒲団を敷いて、子供たちが順番に看病にあたっていた。  すぐにどうこうということはないだろうが、今度ばかりは衰弱も激しく、意識も時々は途切れがちなので、なるべく病床から目を離さないようにしようと子供たちは申し合わせていた。  十二月二十四日、クリスマスイヴの朝、初枝の長女、晶子が女の子を出産した。哲朗にとっては初めてのひ孫にあたる。  たまたま晶子が入院していた産院が両国だったので、赤ん坊が生まれるとすぐに、初枝は哲朗のところに駆けつけた。 「おじいちゃん、晶子に女の子が生まれましたよ」  耳元に口を寄せ、大きな声でしらせると、哲朗がうなずいた。 「そうか、良かったな」  かすれ声だが、しっかりした返事なので、初枝もほっと安心して、ふたたび晶子の産院へもどった。  ちょうど初枝と入れ替わりに、生一が見舞いに来た。  時間の許す限り、生一は哲朗を訪ねて、ただ静かに枕元に座っている。この日も、じっと夕方まで新聞など読みながら、哲朗に付き添っていた。  一瞬の間だけ、時が止まったかと思えるほど静かな夕暮れが訪れて、ふいに哲朗が生一に話しかけた。 「なぁー生一よ、あの世もこの世もけっきょくは一緒だな」  びっくりするほど、はっきりとした声だった。 「もちろんですよ。お父さん」  つとめて明るい調子で生一は返事をした。返事をしてから、はっと気づいて哲朗の顔を見た。何も答えない。傍に近寄ってみると、哲朗の呼吸はもう止まっていた。生一の返事を聞きながら、哲朗はあの世へ旅立ったのだった。 「おじいちゃんはね、本当は臆病だから、死ぬのが恐かったのよ。だから、お兄ちゃんにあんなことを言ったのね」  哲朗の遺体の傍で初枝が泣きじゃくりながら言った。やすも子供たちもみんな、泣いていた。大粒の涙をポロポロこぼしながら、ただただ哲朗の死が悲しくて、大きな声で家族は泣き続けた。   生命を封印してきた写真師の時代は終わった  昭和が終わり、年号が平成へと改まった年の十月十三日、哲朗の妻、やすは九十年の生涯を閉じた。  昭和四年に両国で写真館を開業して以来、下町のおかみさんであり、お婆ちゃんであり続けたやすの死は、そのまま工藤家の昭和が終わったことも意味していた。  いったい昭和とは、なんだったのだろう……。やすの通夜が営まれた夜、初枝は線香の匂いと、菊の花に包まれたやすの遺体を前に考えていた。  哲朗が死んだのは、あれは昭和四十六年のクリスマスイヴだった。  あの頃は、まだ家族の生活も質素だった。自家用車を持っている兄弟がいただろうか。通夜の席で、弔問客の女性たちがしている真珠の指輪は、どれもつつましい銀台だった。やすの通夜に来て下さるお客の数の方が、哲朗の時よりも、ずっと多いはずだ。それは子供たちの社会的地位があの頃より高くなって、そのぶんお客の数も多くなったからだった。  表の通りにずらりと並んだ花輪の中に、「墨田写真師会」と書かれているのがあった。不思議な気がして、初枝はその前に立ち止まったのを思い出した。 「写真師か……」  初枝は花輪の下に黒々とした字で書かれた文字を思い浮かべる。  写真師なんて言葉は、今はもう死語になってしまった。写真家か、写真屋しかいない。だが、哲朗はそのどちらでもなかった気がする。  写真家と呼ばれるほど、芸術的な作品を世に残したわけではない。といって、写真屋という響きは、哲朗にはあまりにも軽すぎる。  少なくとも、哲朗は写真師であることに誇りを持っていた。写真師とは、芸術的であり、かつ営業能力も必要であり、その上、時代を先取りする感覚を合わせ持っていなければいけない……と、いつも得意そうに言っていた。  哲朗が活躍した時代には、まだ、一般の人々は今ほどカメラを持っていなかった。誰でも写真が撮れるようになるのと同時に、写真家がもてはやされるようになった。  哲朗が亡くなった昭和四十六年を境として、日本はめざましい経済成長をとげた。ポケット・カメラを片手に、日本人は続々と海外旅行へ出てゆく。そして、営業写真館の数は、確実に減っていった。  平和すぎるからだろうか。初枝は首をかしげて考える。第二次大戦の時は、従軍兵士が次々と記念写真を撮りに来たものだ。もうすぐ消えようとする生命を、四角い枠組みの中に封印するように、哲朗は丁寧に、死んでゆく者たちの肖像写真を撮った。あれは、素人がポケット・カメラでパチリと撮る性質の写真ではなかった。  日本人が悲壮な決意で時間を凍結する必要がなくなった時、写真はゆるやかに流れる幸福を、ただ確認するだけの淡いスケッチ画になった。  そういえば、見合い写真だって同じだろうと、初枝は気づいた。女たちは、自分の将来をたった一枚の写真に託す覚悟で、カメラの前に立ったではないか。「なるべく美しく、美しく、撮ってやらねば」と、哲朗は口癖のように言っていた。ほとんどの女の命運が、どこへ嫁ぐかにかかっていた時代の、見合い写真の重さは、今と比べものにもならなかったろう。  しかし、現代は一枚の写真に生涯を託そうと考える娘などいない。そして兵隊として出征する男もいなくなって営業写真館の役割は微妙に変わった。  真剣に、印画紙に焼き付けなければならない時間など、誰も持っていないのかもしれない。ごくお手軽に、スナップ写真を撮って、それで日常が流れてゆくのなら、なんと気楽な時代ではないか。  やすは、哲朗が亡くなってから、十八年近くを生き永らえた。明の長男の明敏が、もう一人前に仕事をこなすようになり、還暦を迎えた明は、そろそろ引退を考えようかというほど、長い年月がたっていた。 「幸せか不幸せかって訊かれたら、やっぱり幸せな方だったね」  初枝は、いつの間にか心の中でやすに話しかけている。  昭和五十五年に、長男の生一が癌で亡くなったのは、やはりショックだったようだ。それ以来、寝たり起きたりの生活だったが、最後の四、五年はほとんど寝たきりだった。  病院へ見舞いに行くと、 「帰らないでおくれ、背中が痛いんだよ」  と、子供のように甘えた声を出した。死が間近に迫っているのを知っていて、怯《おび》えているようでもあった。  気の弱い性格なので、一人でいるのが恐ろしかったのだろう。だが、甘えられる子供たちに囲まれて死ぬのは、幸せと言えるのではないか。  午後七時から始まった通夜に、途切れることなく読経の声と線香の煙が続いた。  玄関のところに、孫たちが立って挨拶をしている。男の子四人に、女の子五人。そして、ひ孫は六人になった。  花輪の下で、長い間、写真館の内弟子として住み込んでいた金木豊が、ぽつんと立っているのが初枝の視界に入った。もう金木も、高島屋の写真室を引退したはずだ。病床のやすを、何度も見舞ってくれた。きれいな水中花をコップに入れて、やすの枕元に置いてくれたのも金木だった。  喰うや喰わずの生活から、ようやく写真館が軌道に乗り、金木のような内弟子が何人か、入れ替わり立ち替わり住むようになって、やがて子供たちも弟子も、それぞれに一人前になって写真館を後にした。  そんな六十年の歳月が、淋しそうにたたずんでいる金木の姿を見ているうちに、走馬灯のように初枝の記憶を走り抜けた。  日本がすっかり豊かになった時、もう写真師はいらなくなった。哲朗は、きっと最後の写真師の一人だったのだろう。  哲朗の妻のやすが、平成元年に亡くなって、この家もある区切りがついたと初枝は夜空を見上げた。  生暖かい風が、思いがけない強さでザァーと音を立てて渡っていった。 「きっと、この風に乗って、ひいおばあちゃんは、ひいおじいちゃんのところへ行ったんだね。うまく天国でめぐり会えるといいね」  哲朗が死んだ日の朝に生まれたひ孫の千香は、もうすぐ十八歳になる。初枝の傍に寄ってきて、一緒に空を見上げながら、若々しい声で言った。  その時、初枝は本当に濃紺の夜空を、やすが風に乗って哲朗のところへ飛んでゆく姿が見えた気がした。昭和の歳月が一緒に吹き飛ばされて、過去の深い闇へと消えていった。 [#改ページ]   文庫版あとがき  昭和六十三年の十二月初めだったと記憶している。その頃、私はカナダのバンクーバーに住んでいたのだが、真夜中に日本からファックスが入った。  当時、『朝日ジャーナル』の副編集長をしていた中町広志氏からで、「いよいよ連載開始をお願いします」という内容だった。  すでに新聞やテレビは昭和天皇の病状が重いことを報じており、昭和という時代がまさに終わりつつあると、誰もが予感していた。  以前から、『朝日ジャーナル』のグラビア・ページで、祖父工藤哲朗の撮った写真を軸に、彼の一生をノンフィクションで書く約束はしてあったのだが、連載がいつ始まるかは、全く未定だった。  それだけに、昭和が終わるのと連載が始まるのとが、同時であるという事実に、何か運命的なものを感じて、ひどく興奮したのを今でもはっきり憶えている。  週刊誌に長編を連載するのは初めてだった。写真と文章をどこまでうまくブレンドさせられるかも、私にとっては最も興味のある点だった。  最初の原稿を書き出す際に、「どうしよう……」と、心細い気持ちでしばらくじっと机の前に座っていた。  たしかに昭和は終わりつつあり、新しい時代が始まるのだろう。しかし、それはあまりにも漠然としていて、どこから手をつけて良いのかわからなかった。  三十分ほど考えていたときに、台所の生ゴミを捨てるのを思い出した。朝食に食べた果物の皮や卵の殻が流しにあった。これをディスポーザーで水と一緒に粉々にして流していて、ふと思った。  現在、この瞬間にカナダの家庭の台所で、数え切れないほど多くの主婦が生ゴミを流しているに違いない。しかし、その詳細を文字にして残そうと考える人はほとんどいないはずだ。なぜなら、それはあまりにも日常的な営みだからだ。  でも、誰かがそれを書き残さなかったら、庶民のライフ・スタイルもどんどん変わっていって、やがて忘れ去られる。  それでは祖父や祖母の生きた時代はどうだったろう。彼らは何を食べ、何を着て、何を考えていたのか、今の私はほとんど知らない。視点を日常生活のディテールに据えて書いてみようと、このとき思いついたのだった。  昭和が終われば、学者やジャーナリスト、あるいは作家が、その時代を様々に検証しようとするだろう。世界における日本の位置づけが大きく変わったのも昭和の時代に違いない。  だが、自分にできるのは、おそらく台所や居間での普通の人たちの生活をたどってみることだと気づいた。  それからは、とても気が楽になって、原稿を書き出すことができた。  幸い、まだ祖母のやすが健在だったので、明治から大正にかけての生活も話してもらえた。私の母は、本書に登場する長女の初枝なのだが、彼女は過去にこだわるのが嫌いな性格のためか、昔の記憶はあいまいで、あまり取材の役には立たなかったが、叔父たちは実に根気よく、毎日のように私が電話で工藤家の生活について質問をするのに答えてくれた。  これは単行本のあとがきにも書いたのだが、本書はノンフィクションとしては邪道ともいえる会話体を多用している。その理由は、舞台が工藤家の中であり、それは私が幼い頃からあまりにも慣れ親しんだ場所だったためである。祖父母や叔父たちの会話のリズムは、自然に耳に入っており、それを再生する作業は、創作とは思えなかった。  しかし、もちろん他の素材にはこうした手法が許されるとは考えていない。  結局、連載は平成二年の三月まで続いた。書いている最中も、本来なら家族の歴史などというのは、自費出版でもするところなのに、こうして週刊誌に発表できるのは大変幸運だと思っていた。  まして、ついに世の脚光を浴びることのなかった祖父の写真が、多くの人の目にとめてもらえるのは本当に嬉しかった。  それが朝日新聞社から単行本にして頂き、翌年、講談社のノンフィクション賞を受賞したのは、一箱のグリコにおまけが三十個くらいついてきた感じだった。最後のおまけとして、今回、文庫本にして頂くことになって、つくづくと私個人ではなくて、昭和を生きた工藤家の人々が強運だったのではないかと思っている。  平成元年には祖母も他界したが、今頃は祖父と一緒に仲良く天国で工藤家の人々を見守ってくれていることだろう。     平成六年二月七日 [#地付き]工藤美代子   この作品は、一九九〇年一〇月、朝日新聞社より刊行され、後、講談社文庫に収録(一九九四年三月刊)されたものです。 電子文庫版では、単行本・文庫版収載の写真は割愛しました。