工藤久代 ワルシャワ猫物語   は し が き  誰でも幼いころから、何かのかたちで生きものとのつき合いがあるはずです。  幼少のわたしの記憶につよく刻まれた生きものは、犬でした。下町の縁日で物めずらしさから、ひよこ、二十日ねずみ、りす、モルモット、うさぎをねだっては、飼ううちに死なれて泣きを見る、そんなことのくり返しのあとで、犬がようやくわが家の姉弟たちの遊び相手になったといえます。  つぎつぎに飼われたなかで、小学三年のとき、愛犬が死にました。わたしは泣きに泣いてもまだ心が晴れず、あくる日の明け方、しょんぼりと「エスの死」という作文をつづりました。自分のために書いたつもりのそれを担任の先生にだけ読んでもらったのに、どうしたわけか「|土堤《どて》の若草」という校内誌にのりました。わたしの書いた文字が活字で印刷された、あれは記念すべきものだった、と今思いかえしているところです。  大の犬好きだった父は、そのころでいう「|日支事変《につしじへん》」の始まった当時、ボビーと呼んでいた中型の|青島《チンタオ》シェパードが死んでのち、プツリと犬を飼わなくなりました。  動物のすべてに目のない父は、上野の動物園には二、三カ月に一度ぐらいの割でこどもたちを連れて行ってくれました。また、動物映画は必ず浅草の大勝館まで見に行ったものです。だからワイズミューラーのターザンものは、たぶんのこらず見ているはずです。わたしの覚えているいちばん古い動物映画は「ザンバ」という象物語でした。いまでもテレビの動物ものから目が放せないのは、きっとこんなせいかと思います。  さて猫の話です。わが家と猫とのつき合いは、疎開先きからもどった姉が大切に連れてきた金目銀目の|雌《めす》猫に始まります。この金目銀目に生まれた|仔《こ》は赤トラの雌で、これが母の|溺愛《できあい》するところとなります。この二匹は季節のたびごとに競って仔を生み、わが家は次第に猫屋敷の観を呈してゆきました。  わたしは、離れの茶室を勉強部屋にしていたので、甘やかし放題の猫たちがわがままをしつくす母屋の猫さわぎからは安全でいられました。  わたしの「猫学入門」は、デカと呼んだ雌の野良猫を知った時からです。ひとまわり図体の大きなこの黒白のブチ猫は、母から|外猫《そとねこ》の扱いを受け、食べものだけはもらっていました。  ある日、デカが三匹の仔猫をわたしの離れに連れてきました。仔猫は一カ月ほどの大きさ、毛糸玉のような可愛い三匹のために、わたしはあがり口にミカン箱を置き、そこに毛布を敷いてやりました。  デカのみごとな子育てぶりが、わたしの「猫学入門」です。仔猫の餌の第一回分は、焼跡の原っぱからくわえてきた野ねずみの|袋児《ふくろご》でした。親指ほどにちいさなピンク色の生き餌を、やさしいのど声ですすめながら食べさせる──その様子は、わたしが、生きものの親の不思議さに触れた初めのように思われます。  袋児の段階が終ると、次には生まれたての小さなねずみを運びこみます。こうして仔ねずみのサイズは仔猫の発育に応じて着実に大きくなってゆき、わたしはますますデカの知恵に目を見はりました。  三匹の仔猫を初めて庭へ誘導する時のなんともいえないデカのやさしい声。|錦木《にしきぎ》の根元に誘いよせたあとは木登りの授業です。はじめはほんの四、五歩よじ登ってから後ずさりにおりる仕草を、これもくぐもり声でなきながらいくどもいくどもくり返します。やがて仔猫は母親をまねて木に爪をかけ、すべったり転げ落ちたりしながら、何日もかかったすえ、木登りができるまでになりました。  あるときから、きっぱりと乳をふくませるのをやめたデカの子離れの厳しさは、二十一歳のわたしに、生きものの姿、女の運命、いのちの重みについて考えさせる機会となったと思います。  デカは三回、このように子育てをくり返し、その後、不意に姿を消しました。|内猫《うちねこ》とちがって、この猫には|凛《りん》とした野生の猫族の風情がありました。(幸せにもデカ親子四匹と写したわたしの写真が一枚だけのこっています)  チャルと名づけた雄猫とのつきあいは、まだ戦後まもないころ、先立たれた夫と過した田舎ぐらしの三年間のことでした。雄猫には雌猫とちがった特別な個性の魅力をわたしは感じとったものです。この本の中扉の裏に掲げた詩からは、夫とチャルの交わす愛情のまなざしが見えてくるようです。  猫に対する夫の可愛がりかたはいっぷう変っていました。ポーランド式だったのか、とわたしはワルシャワの七年間に思い当ります。彼自身、第二次大戦までの十七年を、そこに過したのでした。久しぶりの日本の田舎ぐらしで夫は、ワルシャワで出会った猫への思いをチャルに向けていたかと、今ようやく理解できます。  わたし自身が十六匹の猫たちとつき合ったワルシャワぐらしについて、このような本を書こうと思い立ったのは、ひとつには別れた猫たちへの愛惜からでしょうが、猫とのかかわりを通じて見たあの街の普通の人びとの気ごころも知ってほしいからでもあります。  きらいないいかたですが、ペット時代といわれ、猫ブームと呼ばれる半面、団地で猫さえ飼えないきまりのある日本のあり方に、ちょっとした反撥心も手伝っているのかもしれません。作文「エスの死」のつづきほどに、あまりにも私的な「ワルシャワ猫物語」ながら、わたしなりに精いっぱい書いたつもりです。人間をふくめた生きもののいのち、くらし、そしてこころについて、この本のなかから何かしらを感じとっていただければ幸いです。  これからそれぞれの人生を歩もうとする若い人たち、ことに少女たち(かつてわたしもそのひとりでしたが)には、ぜひとも読んでもらいたいと願っています。 [#改ページ] 目 次  は し が き  オコポーヴァ45   アパートの人たちと環境   心の救い──チャルとの出会い   好奇心といたずら   ゲットー跡の原っぱ   野良猫と老人たち   小さな銀の鈴   スタシェクの悪事   庶民のための動物病院   空中の大冒険   嫁さんさがし   トマトの好きなナホ   夜なかすぎの家出  シ レ ナ32   新しい家で   目利きの梶山さん   出産のドラマ   「メンデルの法則」とは?   育ちざかり遊びざかり   スパツェルはお散歩   仔猫の片づくまで   文盲の女ゾシアのこと   復活祭のごちそう   広告──黒猫を「善き手」に   ナホの親ごころ   チャル失踪の衝撃  カルヴィンスカ48   庭つきの長屋が五十ドル   おおみそかの夜   チャピと焼海苔の匂い   月夜の仔猫の恩返し   ノミが有料なら猫はただに   目でこたえながら死んだチャピ   太郎が戻らない   二度目の受難   形見の花はクレマチス   花子と太郎のこどもたち   郵便配達と「温室成金」   雨の日の別れ   お わ り に  あ と が き [#改ページ] [#ここから4字下げ]  ち ゃ る に ほかのことをかんがえたり よその方をみたりしているとき まるい眼をほそめ したから うかがうように おまえは わたしの眼をのぞきこむ わたしは それをみないけれど 眼をのぞきこまれていることを知っている しかし ときに わたしも その眼を ふとみかえすことがある おまえは ひげをふるわせ まぶしそうに 下をむくか 眼をほそめたまま 視線をそらしてしまうかする [#地付き]梅田良忠詩集『ちいさいものたち』(一九六〇年刊)より  [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  オコポーヴァ45   アパートの人たちと環境  アパート管理人のことをポーランドではドゾルツァといいます。フランスのコンシェルジュ(門番)と似た制度かも知れませんが、社会主義国のポーランドでは、ドゾルツァはれっきとした国家公務員です。アパートのパルテル(地面に接している階)つまり普通いうところの一階に、他の住民と同じ面積の居住部分を与えられ、月給が支払われます。給与の対象となる仕事は、第一にアパートの公共部分、つまり出入口、エレベーターや階段などを常に清潔に保つことです。  雪が降る季節には、アパートの出入口から道路までの雪かきもドゾルツァの仕事です。アパート内の事故や、急病人の救急連絡なども管理人役として面倒を見なければなりません。  アパートの最上階にある洗濯室、乾燥室も公共部分です。ここの鍵はドゾルツァがしっかり握っています。煮洗いの大洗濯をしたい時には、前もって洗濯室の使用をドゾルツァに申し入れ、鍵を受け取るシステムになっています。  ドゾルツァには、週二回まわってくる清掃車にゴミを運びこむ労働もあります。ワルシャワの大アパートのゴミ処理は、ほとんどがダストシュート方式です。エレベーターのある公共部分に投げ込み口があります。百軒近い入居人が、たった一カ所しかないこのゴミ捨て場に、生ゴミ、ガラスびんの分別もしないまま投げこみます。ガタンと鉄製のフタを押しあげてほうりこみますが、ビニール袋ならぬ紙袋に入れただけのびん類は、途中ダクトの壁にぶつかって砕け、がらがらっと大きな音をたててはるか階下に落下してゆきます。ビニール袋が足りないから生ゴミも紙袋入り、集中室に落下するまでには袋は破れてしまいます。このダストシュートの終点のゴミ部屋のきたなさ、くささはちょっと口ではいいあらわせません。  清掃車に運びこむのはドラム缶より大きな金属製のゴミ容器です。このゴミ容器にくさくてきたない雑多なゴミをつめ直す作業は、ドゾルツァにとって一番つらい仕事であろうと、気の毒に思ったものです。  わたしたちが初めに住んだこのアパートは、ワルシャワ市の西方を走るオコポーヴァ通りという幹線道路に直接面した十二階建ての大きなものでした。北隣りが今は訪れる人とてないユダヤ人墓地です。地図で見ると、このユダヤ人墓地はオコポーヴァ45−51と番地が記入されています。わがアパートはオコポーヴァ45で、ユダヤ人墓地との間の47番地は五百坪くらいの、ただの原っぱになっています。西には四階建ての小ぢんまりしたアパート群の向うに新教のエヴァンゲリン墓地(ふつうドイツ人墓地といわれている)の深い緑が見られます。  東向きの窓からは、こわれたままの工場がひとつポツンとあるだけの数千坪の原っぱがひろがっていて、人びとが通って自然にできた道が対角線にクロスしています。この原っぱの向うがもとのユダヤ人ゲットー跡、ワルシャワ市内でもまったくの廃墟となった地域です。一九四五年当時の写真集で見ると、たったひとつ残ったムラノフの聖アウグストス教会以外、見渡すかぎり|瓦礫《がれき》だけになった地帯なのです。戦後、復興の手がまっ先きにつけられたところで、瓦礫を郊外に運び出す手だてもないまま、一メートル近い瓦礫のつみ重ねがアパートの土台となったということです。  わがアパートが、こうした意味で、どんなにすごい所に建てられていたか、それはずっと後になってわかることになります。われわれが入居したとき、建築されてからすでに三年経っているというのに、外壁はコンクリートの打ち放しのまま、他のアパートのように塗装されていないので、なにかすさんだ感じを受けました。隣りの地区のヴォーラの工場地帯に通う労働者が多いせいか、エレベーターの中のいたずら書きや、出入口のホールのよごれかたなどからみても、あまり品のいいアパートとはいえませんでした。  都心の手入れの行きとどいた上品なアパートと大分ちがうのは、ひとつはアパート管理人であるドゾルツァの責任もあったようです。  四十歳ぐらいの、あまり背の高くない、質素な身なりのドゾルツァは、いつも出入口のあたりに、なんということもなく立っていました。アパートそのものが仕事場ですから当りまえのことですが、当りまえでないのは、朝からお酒が入っていることでした。白人らしくもない赤ぐろく陽にやけた顔を一層赤くして、ゆらゆらと安定のない|躯《からだ》で出入りの人びとを眺めているドゾルツァを見るたびに、日本では朝からお酒をのむ労働者のいないことを改めて思ったものです。彼はわたしの顔を見ると、にこりともせず、むずかしい顔のまま、唇を動かすわけでもなく、小さな声で「ジェンドブリ」(こんにちは!)といいます。  愛想のない酔っぱらいドゾルツァでも、クリスマスや復活祭の前にはどうしても働かないわけにはいきません。アパートじゅうがガラスふきやじゅうたんたたきを始める頃、彼も十二階から順番に階段の大掃除を始めます。少し年上に見える小柄ながらがっしりと太ったおかみさんと、十八と十五ぐらいの息子と、一家総出でていねいに階段を洗って拭いていきます。これは一日で終る仕事ではなく、三、四日かかりきりです。そんなときの彼はまじめ一方に見えました。  ワルシャワぐらしも二年目を迎えた六八年の秋ごろには、買物に出かけるときなど、入口に立っているドゾルツァに、わたしの方から「ジェンドブリ」と声を出して|挨拶《あいさつ》ができるようになりました。  中年になるまで日本から一歩も出ぬのみか、社会的な働きもしたことのない主婦のわたしが、西側と呼ばれる西欧ではなく、東側の社会主義国のポーランドに移り住むようになったのは、生涯に一度ともいうべき大事件でした。気候・風土・習慣の違いだけでも大変なのに、わたしはポーランド語のポの字もわからないままに来てしまったのです。  わびしい、つらいワルシャワ生活を、わたしは無我夢中という言葉そのまま、ただ手足を振りまわして暮していました。生活が前向きの姿勢を持ちはじめたのは、わが家ではおフミさんの愛称で呼ぶようになった隣人のフミェレフスカ夫人と仲好くなってからでした。  戦中戦後の苦しい時代をたくましく生きてきたわたしと同年輩のこの中年婦人のことは、前著『ワルシャワ貧乏物語』に書きましたのでここでは省きますが、このおフミさんのおかげで、人間の暮しに東も西もないと少しわかったような顔ができるようになりました。ようやく酔っぱらいのドゾルツァに対して挨拶のひとつもかけられるようになった、というところなのでした。  このおフミさんは、ジャウキと呼ばれる家庭農園の権利を持っていました。百坪ほどの農園から、マージョランやういきょうなどの香り草がとれ、畑で完熟させたまっ赤なトマトがわたしにまでおすそ分けがまわってくるほどでした。   心の救い──チャルとの出会い  わたしがおフミさんの農園のトマトの苗の植え付けを手伝いに行った帰りですから、五月末の午後のことです。明らかにウォトカを飲んでいるとわかる眼のすわっているドゾルツァがアパートの出入口にいました。いつもとちがうのは、その幅広の肩にまっ黒な仔猫がちょこなんと四つの足を揃えて坐っているのです。肩幅が厚いとはいっても、酔っぱらいの|躯《からだ》は安定がありません。それなのにこの猫はしがみついている風ではなく、落ちついた態度で四足を揃え、入ってくるわたしたちの顔を、まっすぐに見るのでした。  散歩させられている犬に出会うことはあっても、猫たちはひっそり飼われているとみえて、それまでまともに猫と出会ったことはありません。この猫は、ワルシャワでわたしが出会った初めての猫といっていいのです。くりっとした眼で、まばたきもせず、じっと見つめられたとき、胸にじいーんとくるものがありました。おフミさんもこの猫の落ちついた態度に目を止めていましたが、急にドゾルツァと早口に何か話しはじめました。ドゾルツァはろれつもあやしく、いい返しています。しかしあっという間に、猫はおフミさんの腕の中にしっかり抱きかかえられていました。  ぶつぶつつぶやきながら、ふらつく躯のドゾルツァが出口から去るのを見て、 「あんな酔っぱらいドゾルツァにはもったいない。さあ、あんたは今日からうちの猫よ」  と話しかけながら、おフミさんはわたしとエレベーターにのって部屋の扉の前まで来ました。  その時、「ああ、おフミさんよりも、もっともっとわたしの方がこの猫をほしい」と、わたしは心の中で|地団駄《じだんだ》ふんでいました。ポーランド語がわたしの口からすらすらと出ていたら、この猫はこの日からわたしの猫になっていたでしょうに。とっさにわたしの願望を言葉にできなかったばかりに、この黒い可愛い猫は、おフミさんのものになってしまいました。わたしにとっては、取られてしまったといってもいいくらいの気持でした。  実をいうと、わたしは黒猫には忘れがたい想い出を持っていたのです。亡くなった前の夫と初めて世帯を持ったのは山居とよばれる山寺でした。貧乏ながら晴耕雨読の静かな生活に、一匹の黒の仔猫が加わります。ポーランド語の「黒」と「魅惑的な」という二重の意味をこめて「チャル」と亡夫に名付けられた黒猫は、わたしの|もの《ヽヽ》となった初めての猫でした。こどもの頃から、母の猫、姉の猫はいても、それまで自分の猫を持っていなかったわたしは、この黒猫にのめりこみました。三年ののち、東京へ戻って間もなく、この黒猫はわたしの手の中で死にました。「もう絶対に猫は飼わない!」とこの時、わたしはかたく決心しました。以後二十年間、わたしは野良猫に餌をやることはあっても、家の中に入れたことはありません。  昔の思い出が一度に戻ってくるほど、眼のまんまるなこの黒猫はチャルそっくりにみえました。  あとで知ったのですが、おフミさんはそれまで猫を飼ったことはないそうです。しかし、「こんなに利口そうな猫を見るのは初めてだったので、孫のアダーシと末娘のダヌーシャの遊び相手にと思った」といいます。行動派のおフミさんは、ドゾルツァの酔っているのをいいことに、うまくいいくるめて取り上げてしまったのです。  翌日、わたしの知らないうちに、猫はおフミさんの農園小舎へ連れて行かれてしまいました。毎日、畑仕事に通っていたおフミさんは、長女クリーシャの子(つまり孫)をあずかる日が多いので、この猫をこどものおもちゃ代りにしたのです。もちろん酔いのさめたドゾルツァとはじまるにちがいないいざこざを避けるためでもありました。  仔猫は農園で元気に遊んでいるようでした。しかし夕方、おフミさんが家に戻る時は、農園小舎に仔猫は|閉《し》めこまれることになります。翌朝、孫の手を引いておフミさんが来るまで、猫はじっと小舎の中で待たねばなりません。クリーシャの都合で孫の来るのがおくれれば、農園行きもおくれて、時には午後になってようやく出かけることさえあるのです。その間、じっと小舎の中で待つ以外にない仔猫のことを思うと、わたしは居ても立ってもいられない気分になってしまいます。  朝のひと仕事が終って、いつものように主人とおフミさんと三人のお茶の時間です。 「仔猫が可哀そうではないの」  とわたしが少々怒っていいました。すると、 「パニ・クドウは猫が好きなのか」  と彼女はきき返します。  二十年ぶりに出会ったチャルとそっくりなドゾルツァの黒猫を見たとき、「ほしい」とこどものようにただ強く思いました。旅先きの暮しに生きものを飼う無謀は止めた方がいいと思う気持も心の片隅にありながら、この猫だけは自分のものにしたい──という強い思いが胸の中に泡立ってきます。ですから、この黒の仔猫に出会ったことは、その日のうちに主人に話してあります。二十年も昔の戦争直後のことです。チャルの性質。チャルと暮した山居生活。「ちゃるに」とわざわざ献詞のついた八篇の亡夫の詩、すっかりおしゃべりはすんでいました。  主人が何かこまごまとポーランド語でおフミさんに話しているのは、このわが家の猫の歴史を通訳したものだとわかります。  翌日、ジャウキから戻ってきたおフミさんの胸の中に、黒い仔猫は抱きかかえられていました。ニコニコ笑いながら、 「パニ・クドウへのプレゼントです」  と仔猫を渡されました。アパートの玄関先きで出会った日からちょうど一週間がたっていました。  抱いてみて、初めてこの仔猫が三カ月ほどの大きさだとわかります。この猫が、普通の仔猫とちがう──と感じた直感は当っていました。人みしりしない朗らかな性格なのです。おフミさんにもすんなりなつき、人里離れた農園小舎に一週間も置かれていながら、うらみがましさやおずおずしたところがまったくありません。新しい主人となったわたしの掌の中に包みこまれると、ふざけてすぐに指をぺロペロ|舐《な》めはじめます。  前に書いたように、ポーランド語のチャルネ(黒)、チャロヴァチ(魅惑する)、チャル(魔力、魅力)という意味をこめて名づけた初代の黒猫の名「チャル」を、そのままこの猫に進呈しました。掌の中にすぽっとつつみこんで、 「チャル、チャル」  と呼びかけると、はじめのチャルと過したなつかしい昔の感覚がそのまま|蘇《よみがえ》ってきます。  ワルシャワに住んではじめて、人間以外ながらわたしは日本語を心おきなくしゃべる相手ができました。どちらを向いても、自分の口から発する言葉がちゃんと通じない世界に住むつらさは、口にこそ出さずともわたしの身にはこたえていました。対象が人間でなく、猫であり、それが先方に通じても通じなくても、日本語を勝手にしゃべる相手となってくれたのは、わたしにとって救いでした。言葉の壁にふさがれ、心を開けて見せたくても、その相手のいないのが一番つらい。わたしにとって何より必要だったのは、なんでもいえる友だちだったのです。  もうひとつつらいことがありました。悲しすぎる出来事なので書かないつもりでした。実は、ワルシャワに住みはじめて間もなくできたわたしどもの最初で最後の�こども�を失ったからです。外地に出ると不妊症の人でもこどもが|授《さず》かるといいますが、わたしの年齢でこどもに恵まれようとはまったく思いがけないことでした。友人の元伯爵のWさんが、 「おめでとう、早速乳母車を贈らなくっちゃあ……おふたりでワルシャワの街を乳母車を押して歩くか……」  おどけながらちょっぴりうらやましげな口調でいったことを今もはっきり思い出します。彼ら夫婦は五十代、こどものない寂しさから、おのずとそんな言葉が口に出てしまったのでしょう。  ワルシャワの街なかで、もっとも美しい|みもの《ヽヽヽ》の乳母車、ピカピカの乳母車を押しながら歩く……この想像は四十五歳のわたしにとって|眩《まばゆ》いほどのものでした。  日波(日本−ポーランド)のバレーボール試合をハラミロフスカの雨天体操場に応援に行った日、照明のない楽屋道で転んだのが原因で、とうとう入院、流産という運命をたどります。社会主義国の病院が貧しく不潔であったことも、麻酔薬すら充分でない状況を見てしまったことも、わたしの心を打ちのめしました。チャルはわたしのこんな心の状態の時に現われた救い主だったのです。   好奇心といたずら  ふつう、動物は人間にじっと見つめられると目をそらしてしまうものだといいますが、この猫はまばたきもしないでじっとわたしの目を見つづけながら、今まで聞いたことのない言葉を理解しようとでもするように、熱心に耳をかたむけるのでした。こうなっては片時も手放せません。  そのうえ、間もなく彼がすこぶるつきの外出好きということが判明します。  ドゾルツァが肩にのせて、いつも外へ連れ出していたからでしょうか。わたしが牛乳の空びんを持って外へ出るときなど、おいてけぼりはいやだとばかり泣き叫びます。ドア越しにこの声をきくと、仕方なく後戻りして、チャルを抱きかかえることになるのでした。  買物のお供がこんなに好きな猫はもうふたたび現われないことでしょう。わたしの曲げた片腕の中に、実に上手に坐って、両手を腕におき、爪を立ててしがみつくでもなく、肩にもたれかかるのでもない、チャルの後足と腰をちょっとわたしの手が支えるだけで、安定してしまうのです。まんまるい眼を一層大きくあけて、道ゆく人を眺め、電車が通って行くうしろ姿を追います。傍を自動車が大きな音を立てて走りすぎても、驚いてわたしにしがみつくわけでもありません。|泰然自若《たいぜんじじやく》、わたしの腕から逃げ出すそぶりなどまったくないところが、臆病といわれる猫の性質とおおいに変っている点でした。買物をする間も声を立てず、すべてのものをまじめな顔で見たりきいたりしています。家に戻って、わたしの手から下におろされるまで、自分勝手に床にとびおりようともしません。飼い主に躯をあずけてしまうこの特技は、わたしがみた今までのどの猫にもないものでした。牛乳を買いに出る、新聞を取りにゆく、小さな赤ん坊ひとりを家に置いて出られないように、もうチャルを置いて外出ができなくなってしまいました。  チャルを|貰《もら》ってから十日ほど経ったある夜、呼鈴が鳴ったのでドアをあけると、|険《けわ》しい顔をしたドゾルツァのおかみさんが立っていました。ごめんくださいもいわないで、すいっとプシェッドポクイ(玄関の部屋)に入りこみ、大声で一気に話し出しました。 「うちの猫が行方不明になって半月もたつ。ずいぶん探したが見つからない。ところが、お宅の奥さんがいつも連れて歩いている猫が、うちの猫ではないか、と人が教えてくれた」  おかみさんの声が家じゅうに響くとともに、チャルがとび出してきました。主人も何ごとかと出てきます。 「マルウトゥキ、マルシェンキ(おチビ、おチビさんや)」  チャルを抱きあげると、おかみさんは頬ずりをし、話しかけます。チャルも喜んでペロペロ舐めはじめます。おかみさんは改めて主人に|切口上《きりこうじよう》でいいました。 「この猫はうちの猫ですからね。連れて行きますよ!」  主人はおかみさんの勢いにたじろいで、何もいえず立っています。わたしが主人ぐらいポーランド語ができるなら、ここできちんと、「ご主人もちゃんと承知で貰ったんですよ」といったでしょう。|更《さら》に下町言葉で「もうわたしの猫なんだ。誰にも渡すもんか」とすごんだはずです。しかし、残念ながら、とっさにそんなポーランドの言葉が出てくるはずもなく、ドゾルツァのおかみさんが、意気揚々とチャルを抱いて出て行くのを見守るよりほかありません。  その勝ちほこったようなうしろ姿を見た時、わたしは自分で自分をどうすることもできなくなって、声がわっととび出します。うわぁおーんと泣きだしてしまったのです。廊下の壁をじれて打ちたたきながら、いつまでも泣き止まないわたしに、主人はあきれかえって、部屋に黙って入ってしまいました。  この十日間、昔のチャルを上まわる可愛さに、ふたたび猫とくらす楽しさに夢中になりはじめたわたしは、むざむざとドゾルツァのおかみにチャルを取りあげられ、連れ去られた悲しさ、とっさに言葉の出ない口惜しさが一度に吹きだしたのでした。  この夜、お隣りのおフミさんは留守でした。もしも彼女がいたら、ドゾルツァの女房と、どんな派手な口げんかが始まったことでしょうか。事態は最悪の方向へ向ったかもしれません。  口をきいてくれなかった主人にも悲観して、わたしはすねて、その夜ひとりで泣き明かしました。翌朝また、けたたましく呼鈴を鳴らしてドゾルツァのおかみがやって来ました、チャルを抱いて。彼女は昨日とは打って変ったしおらしい態度で、通訳役の主人にいうのでした。 「ゆうべ家の者と話し合った。ヤポンカ(日本人の奥さん)が、あんなに可愛がっているのだから、さし上げてはどうだろう。家じゅうで可愛がっていたので残念だけれども、奥さんも知らぬ国に来て寂しいにちがいない。その代り、旅行に出るときは必ず|家《うち》があずかることにしたい。夏休みになれば外国人はたいてい休暇を取って旅行するようだから」  主人がニコニコしはじめ、改めてわたしも先方の言うことが理解できたとき、このドゾルツァの女房に何をお礼にしたらいいだろうか、とまず思ったほどでした。おかみの厚い胸の中におとなしく抱かれていたチャルは、当りまえのようにわたしの手に抱かれました。  これが、チャルがわが家の猫となったいきさつです。人みしりをしない陽気な性質のこの猫には、猫を飼ったことのない主人もだんだんと気をひかれていくようでした。人間好きなのは、あの酔っぱらいのドゾルツァが、意外とよい人間であり、あのきつそうな女房も、案外、やさしい性質だったのでしょうか。それとも十代の二人の息子がいい性格だったのかも知れません。  人をうたがったり、人が嫌いになることのない猫に育ったのは、チャルが生れつき持っていた性格だけではなく、赤ん坊時代の育て手のやさしさがなくては得られないことでしょう。一見、貧しそうに見えるドゾルツァの家庭が、ポーランドのほとんどの家と同じように、カトリック的やさしさをちゃんと持っていて、猫に対しても常に話しかけ遊んでやったことが、|天衣無縫《てんいむほう》のチャルを生んだのでしょうか。わたしはドゾルツァに対して持っていた偏見が少々はずかしくなりました。  二カ月ほど経って、いみじくもドゾルツァのおかみが指摘したように、われわれは夏休み利用の旅行へ出ることになりました。おフミさんがあずかる、と申し出てくれましたが、初めからの約束です。ドゾルツァのおかみは見ちがえるほどに大きくなったチャルを見て、大よろこびであずかるといいます。名前がチャルと変ったにもかかわらず、おかみにとっては小さな「マレク」なのでしょうか。「マレク、マレク」と呼びます。チャルは|鷹揚《おうよう》なのか、別にまごつく様子も見せず、今日からはここの家の子とばかり、ふだんと変らぬ落ちついた様子で、パルテルの窓から見える、動く人影や自動車の方に気をとられてしまうのでした。  二十日間ほどの旅行から戻ったとき、チャルのことで大問題が待っていました。  西ベルリンで買ったちょっとしゃれたブラウスをお土産にもって、ドゾルツァの部屋の扉を|敲《たた》きました。入って来たのがわたしだとわかると、チャルがまっ先きにわたしの胸にとびこんできました。二十日間も充分に自分の猫を|堪能《たんのう》して満足なはずのドゾルツァの女房は、むずかしい顔をしていうのです。 「お宅のしつけはなっていない。この猫がどんなにいたずらか、大切なうちのカーテンを全部めちゃめちゃにしてしまった。こんないたずら猫とは思わなかった」  と大げさに嘆きます。 「このカーテンはアメリカの親戚から送られたもので、大切にしているものなのに。ほれ、こんなにビリビリに引き裂かれてしまった。これはなんとしても弁償してもらわねば困る」  持参のブラウスを差し出し、 「カーテンの弁償はもちろんさせていただきます」  とわたしはした手に出ます。 「弁償、弁償といってもね、これはこんなに薄い上等のもので、ワルシャワでは絶対に買えないものを、どうやって弁償するんですか?」  とおかみはすごみます。窓ぎわに行かせてもらって、カーテンの布地に触って見ました。なんとそれは、布地ではなくビニールなのです。水色の地に白の草花をプリントした安物です。日本のデパートの台所用品売場に行けばいくらでもメートル単位で売っているものが、ここではドルで弁償するという申し出もきかないほどの貴重品だということを知って、わたしは笑うに笑えなくなってしまいました。  ちょうどドゾルツァへ用事を持ってきた近所のおかみさんが、わたしたちのやりとりの一部始終を見ていましたが、やはり当然とばかりドゾルツァ側に加勢します。 「言葉がよくわからないから、あとで主人にどうしたらよいのか聞いてもらうことにします」  と、わたしはチャルをかかえて家に戻りました。チャルは丸まると太って、ドゾルツァの家ではたっぷり食べさせてもらったと一目でわかるほどになっていました。  主人が改めて話をききに行くと、同じようなビニール製カーテン布地を買って返さねばならないと、強硬にいわれました。東京から送ってもらうことは容易だが、靴下一足についてもべら棒な関税がかかるお国柄のこと、どれほどの税金を取られるかわかりません。 「ベルリンへ行く時にでも、買ってくるより仕方ないだろう」  と主人はいいます。  今すぐベルリンへ行くことはないが、必ず行って買ってくるから、一体何メートル買えばよいのか、それをしらべるために、翌日わたしはドゾルツァの部屋をたずねました。昨日までチャルの破いたままにしてあったカーテンは、スコッチテープを使ってはり合わせ、ほとんど目立たないように修理されています。結構直るものなのに、ごねるために、わたしの帰ってくるまで、わざと破けたままにしていた|底意《そこい》がわかって、大体の目分量をすますと、 「必ず買って返しますからね」  と向うがわかってもわからなくても自分にいいきかすつもりで、使い馴れた日本語で強くいって、ドゾルツァの部屋を出ました。お隣りのおかみさんが扉の外にいましたから、あとでドゾルツァのおかみとおしゃべりしていくにちがいありません。  ドゾルツァという役目は、アパート内の|噂《うわさ》の集まるところ、常に人の出入りの多いところということもわかりました。すると、チャルが人間を恐れず、人なつこい犬のような猫になった原因は、小さい時からのこうした環境が作った部分も大きいのではないかと思い当りました。  アメリカに親戚のあるドゾルツァには、目新しい品物やドルなどがときどき送られてきて、見かけより内実はずっと裕福な暮しなのでしょう。ドゾルツァが朝からお酒を飲めるわけも少しわかりはじめます。チャルの鷹揚さは、食事がたっぷり与えられたことも多分にあずかっている、とわたしは見てとりました。  冬休みにわたしひとりでベルリンへ行ったのは、ドゾルツァの借りを早く返したい一心でした。ベルリンのデパートを足まめに歩いても、日本で売っているようなしゃれた柄のビニール布は見つかりません。カーテンにするのだからもう少しましなのをと思っても、デパート以外の小売店を探すだけの意欲も出てきません。ドゾルツァの怒る顔を思いながら、仕方なく水玉模様の布を十メートル買いました。  このビニールの布をひろげたとき、ドゾルツァのおかみさんは手の裏を返したように急にニコニコと満足そうな笑顔になって、わたしのおそれていた柄の文句はひと言も出ませんでした。  これでわが家とドゾルツァの縁は切れます。チャルをあずける用もなく、ドゾルツァのドアをたたく用事も起りませんでした。あいかわらずきれいにならない出入口で、ドゾルツァ夫婦のどちらかに出会えば、ごく簡単に「ジェンドブリ」と挨拶をするだけとなりました。   ゲットー跡の原っぱ  黒猫といっても、全身まっ黒な�|烏猫《からすねこ》�は少いものです。チャルもまっ黒な猫というわけにはいきません。普通の明るさの中にいれば、全身が黒に見えます。しかし陽なたに出ると、躯全体に|横縞《よこじま》が浮き出てきます。そして長い毛の下の|柔毛《にこげ》は、茶色といってもいいくらいなのです。  その上、おへその下、性器のちょうど上あたりに、五円玉ぐらいの大きさの白いやわらかい毛が生えていて、抱くと意外に目立ちました。耳の中にも白毛が四、五本、あとは爪の色まで黒ですが、毛の質はいままで知っているどの猫よりもやわらかく、抱くとわたしの指にまとわりつくほどに感じられます。  眼はこどもの頃は黄色、だんだん成長するにつれて、うすいみどり色が勝ってきました。一人前の猫になったときには、「アグレストのようだ」と人びとに賞められる淡いみどり色になりました。  アグレストというのは、ポーランド人が好む木の実で、日本名は玉すぐりといいます。背のあまり高くない木に白い縞の入ったうすみどり色の美しい玉の実が鈴なりにつきます。六月、この実が街に出ると、手まめな奥さんたちは、コンポートやコンフィトゥーレ(ジャム)を作ります。幾たりもの人が、アグレストのように美しいというこのほめ言葉を使いましたから、猫の眼の色をほめるおきまりの言葉になっているのでしょう。このアグレスト色が大きな張りのある眼をいっそう大きく見せます。  遊び盛りの三カ月の年頃でわが家にきたチャルは、きりなく遊びたがりました。ハタキをかければハタキに飛びかかり、とびあがってじゃれまわり、わたしの後をついてまわります。ちょっとでも動くものに気をうばわれます。ハタキあそびは、チャルの重要な朝の日課でした。(ちなみに、東欧には日本式のハタキはありません。カラぶきが掃除の原則。ホコリを舞いあがらせる日本式掃除を見て、ポーランド人はおどろきの色をかくしませんでした。このハタキは、むろん日本からの持参品です)  散歩のついでにアパートの前や横の原っぱで遊ぶのも、お気に入りです。遊ぶだけではなく、チャルは鼻をぴくつかせて好きな草を探します。|かもじ《ヽヽヽ》草や|えのころ《ヽヽヽヽ》草のような|禾本科《かほんか》の草の葉をかじるのがうれしい様子です。  はじめ、広い原っぱにわたしの胸から首紐なしのままおろすのが不安で、贈り物の包みにかけるピンクの|繻子《しゆす》の紐を首にかけました。チャルが自由自在に野原をかけまわれるように、長く長く紐をくり出し、紐の端を持って腰をおろします。あとは彼の自由にさせておくと、草の根元の虫にたわむれたり、突然舞い出てくる白い蝶を追いかけたりします。  ピンクのリボンが、チャルの走る方向につれて風にあおられ、波うつように舞いあがり、ゆれ動くのを見ていると、ワルシャワに移り住んでから続いている気を張った生活のシコリのようなものが、少しずつほどけて、なんともいえないやすらかな気分がからだじゅうにみちてくるようでした。(ワルシャワには、贈りものに使う繻子織のテープのかざり紐も不足がち、と日本学科の女の先生のご忠告を守って、丸く巻いてある安物の紐を幾巻も日本から持ってきたのが、チャルのお遊び用に重宝したわけです)  この東側の野原はチャルの大好きな遊び場でした。原っぱの中央、自然にできた道が|交叉《こうさ》するちょうどまん中に立つ一本の樹が、チャルの木登りの練習台です。あるとき、散歩につれられてきたボクサー犬が、原っぱの中ほどで革紐を外されました。草の中に動く猫を発見したボクサー犬は、猛然とおそいかかります。チャルは素早く、練習台の樹のてっぺんにかけあがって助かりましたが、原っぱで猫が遊んでいるなどとは思いもかけなかった犬の飼い主は驚いて、恐縮していました。  ところが、恐怖のあまりに樹の上の方にかけあがりすぎて、チャルはおりるにおりられなくなってしまいました。なだめてもやさしい言葉をかけてもだめです。暗くなってからでは助けられません。通りかかった三人の腕白坊主にたのみますと、よしやっとばかり、するすると樹にかけのぼり、なんなくチャルをつかまえてくれました。  だいぶ後になって、この原っぱが、ワルシャワ・ゲットーの西端の一部分であったことがわかります。崩れかけた|煉瓦《れんが》の工場跡とわかる建物の壁には、「ここでヒットラーのために何十人が殺された」というプレートがはめこまれていました。  一昨年(一九八一年)出版されたみすず書房版『ワルシャワ・ゲットー』の地図で見ると、わがアパートはまったくゲットーの壁と接したところだったとわかります。チャルが木登りした原っぱの外れは、ワルシャワ・ゲットーの日々を記録したノート「O・S・リンゲブルグ蒐集資料」が地下に埋められた地点でした。戦後、地下深く埋められていたミルク缶とブリキの箱が掘り出されたノヴォリプキ街は、いつも使うバスの終点のあるところでしたが、そんな重要な場所なのに、記念のプレートひとつありませんでした。  わがアパートとユダヤ人墓地の間にある原っぱも悲劇の地でした。同じ本のゲットーの地図で見ると、わたしたちの住むオコポーヴァ45番地と原っぱの47番地の境界にも、ゲットーの壁が築かれていたことを知ります。ワルシャワ案内のヴォーラ地区篇の説明文には、オコポーヴァ47番地について次のように書かれています。  Okopowa 47 [#この行1字下げ] スポーツクラブ Skry の元運動場。一九四二−四三年、ワルシャワ・ゲットーでドイツ軍に殺害された数万人のユダヤ人が、ここに埋められた。その後、一九四四年八月には「ワルシャワ蜂起」の際に殺された民間人を埋める場所に使われた。  この五百坪ほどの草地のどこにもまた、一片の石碑もプレートもなかったのはなぜなのでしょうか。知らないこととはいえ、ピンクのリボンを風にひるがえしてチャルが遊びたわむれた平和な草地の下に、どれほど多くの悲劇がかくされていたことか。たった四分の一世紀前(あのときから数えて)に行われたゲットーの悲惨な光景が重なって、改めてワルシャワの街が、ユダヤ人が、そしてポーランド人が背負ってきた苦労を、当時のわたしは多少知ってはいたものの、その重みをずっしりと受けとめるには、さらに長い時間が必要だったのです。   野良猫と老人たち  犬のようにいつもわたしの傍を離れないチャルを抱いて歩いていると、見ず知らずのポーランド人から声をかけられる機会が多くなってきました。今まで髪の黒い東洋人、多分言葉も通じないだろうと思うのか、誰ひとり話しかけてくる人などなかったのに、チャルをのぞきこんで、 「可愛いですね」  とまずこのひと言から始まって、 「何国人ですか」 「何をしているのですか」 「ポーランドを好きですか」  などと簡単な質問を受けるようになりました。ようやく少しはポーランド語がききわけられるようになったのも幸いして、単語を並べるだけのいんちきポーランド語でも、いいたいことの何分の一かを表現すると、 「とても発音が上手ですよ」 「ちゃんと話せるではありませんか」  と、街のおばさんやおじいさんは賞めてくれるのでした。  ほめられるのはいい気分のものです。いい気分、楽な気持で、今度は先方の言葉をまねてくり返すと、その言葉は頭の中に定着していくのがわかります。  わが家のお客さまはほとんどがインテリ。わたしの片言ポーランド語など、主人や息子にとっては恥さらしでしかありません。ポーランド語をしゃべることのできない口惜しさが、街の人たちとお近づきになるにつれてだんだん薄れてきます。  チャルがわが家に来たことは、わたしの精神衛生にプラスし、閉ざされた社会から一歩をふみ出す、踏み台になったといえそうです。  今まで街を歩いていても目につかなかったよその猫たちが、急に目につくようになりました。道をよぎって早足で駈けて行く猫、草むらからわがアパートへ駈けぬけて行った猫は、わたしの見ているまえで突然消えました。よく見ると、パルテルの下がピヴニーツァ(地下室)の窓になっていて、窓ガラスが都合よくこわれています。ここから地下室に逃げこんだのでした。  オコポーヴァのわがアパートに、こんなにたくさんの野良猫が住みついていたとは、まったく驚きでした。入居したとき、地下室の鍵を渡され、引越し荷物の木箱やボール箱を入れに行ったことがあるだけです。迷路のような地下室全体が、むきだしの土だったことが印象的でした。冬になれば暖房の通るパイプもあって暖かいところです。地下室に猫たちが幾匹も住みついているのだと思ったら、一度に楽しくなってしまいました。  夕方、アパートのお年寄りが、食べものをそこの猫に振舞っているところにも出会いました。地下室をねぐらとする猫たちは、アパートの猫好きな老人たちの「|外猫《そとねこ》」と見受けました。  車の往来のはげしい道路と、電車の軌道が目の前を通っているオコポーヴァのアパート。その入口近くに、横長の木のベンチがひとつ、ぽつんと置いてあって、陽が入ってからも長いあいだ明るい夏の夕方など、アパートのパルテルの住民たちがそこでのんびりおしゃべりを楽しんでいます。老人のための居住にパルテルを当てる、そんなきまりのようなものがあるのでしょうか。階段やエレベーターを使って降りてくる老人たちに出逢うのが稀れだったことを思い出すと、あの人たちのほとんどがパルテル住いだったにちがいありません。  こどもたちとは別居し、夫婦二人きりの老後の生活を支えるのは、社会主義国となって制定された年金制度です。決して充分な額とはいえぬまでも、つましく暮せば静かな老後を保証されているといえます。アパートの地下室に住みついてしまった野良猫たちに、硬くなったパンを牛乳に浸し、スープの残りの骨などを振舞うのは、こうした老人たちの楽しみなのでしょう。  しかし、老人たちは、ピヴニーツァの猫たちをジキ・コテク(野生猫つまり野良猫)といって、馴らそうとはしていませんでした。もちろん彼らの方も馴らされるはずはありません。  ドゾルツァの部屋のまん前に住む老夫婦は、「三匹の内猫」を飼っていました。「うちの猫たちを見せてあげる」と誘われて、訪れる機会がありました。七十歳をとうに過ぎていると見える彼女の夫は、中風とみえ、|辛《かろ》うじて杖にすがって室内を歩いていました。彼の口から出る言葉はほとんど意味をなさず、白濁した眼は、多分もう物が見えないのでしょう。  ベッドと食卓だけ、ほかには家具らしい家具のひとつもない殺風景な部屋。むっとするほど猫臭さが鼻をつきます。外猫とちがって、「ほんとの内猫は、外へは一切出さない」とは、このおばあさんの説明です。「大小便はホーロー製の西洋風呂桶の中でやらせる」とおばあさんは自慢そうにいいますが、水で流しているとはいえ、お便所兼用のこのお風呂場からは、ことにもつよく異様な臭気が立ちのぼっていました。  おじいさんは一体何を職業としていたのでしょうか。労働につぐ労働、一生を貧しく過してきたにちがいありません。加えて、この人たちは二度の大戦争をまともに受けた世代です。主人に聞いて知ったのですが、この世代は年金が最も低い世代ということでした。この二人の老人が手にする老齢年金がどれほどのものか、部屋を|垣間《かいま》見ただけでわかるほどです。  一年に一度か二度、遠縁の娘さんがたずねてくる以外、三匹の内猫だけを相手に、こどもに話しかけるようにおしゃべりをする生活と見うけました。おじいさんは外へ出るわけにはいきませんが、おばあさんのほうはまだしも、夕方、地下室の猫へ少しの施しをするために表へ出、そこで同じような年金生活者の幾たりかと会話を交わす楽しみがあります。  アパートの地下室の前、「野生猫」の出入口に置かれた施しの食事、それを人に馴れないはずの猫たちが、おどおどする様子もなく、堂々と、安心しきって食べています。老人たちは眼を細めて、この光景を見守ります。 「白い猫の姿がしばらく見えないが、お腹が大きかったから、そのうちに仔猫づれで現われるだろう……」 「縞猫の雄はもう死んでしまったのだろうかね……」  そうした会話には猫好きというよりも、人生の|黄昏《たそがれ》に差しかかった人たちの達観しきった哀歓のようなものが聞きとれます。こうした話の仲間に入れてもらえたのは、わたしを猫好きと見てのことだったのでしょう。 「あしたプラガ(ワルシャワの東部、川向うとよばれる地区)へ馬肉を買いに行くから、ついでに買ってきてあげようか」  とひとりがいってくれます。肉食が主のポーランドでは、猫のごちそうは馬肉らしいとわかりました。農村へ行けば今も馬耕が多い国なのに、ポーランド人は決してといってよいほど、馬肉を食べません。フランスへ多く輸出するときいていました。馬肉を売る店があるというのも初耳です。プラガの市場の前にあるという馬肉屋と、その後知ったコシコバの市場の傍にある馬肉屋は、多分こうした猫好きや、犬好きが出かけるところだったのかもしれません。  うちの飼い猫となるまえ三カ月ほどの間、チャルはドゾルツァとこうした猫好きの老人たちにちやほやと可愛がられ放題可愛がられて育ったのでしょう。そのせいか肉食好きで、「猫には魚」と思いこんでいるわたしをあわてさせました。買ってもらった馬肉をタタールステーキふうにしたものを大喜びで食べたチャル。幼いチャルがどのような食事で育てられたか、その結果、どんなものが好みとなっていたか、今でこそ理解できるわたしも、そのときは、はっきり理解できなかったのが悔まれます。  馬肉は脂肪の少い赤身肉です。わが家にきて、牛肉や豚肉、魚と交互に与える食事はたぶん馬肉になれてしまったチャルの胃腸には強すぎたにちがいありません。チャルのお腹の弱さは、わたしの苦労のたねとなりますが、三カ月の猫のポーランド的飼育法にうとく、いわば彼の食歴に正しい認識を欠いたわたしの|迂闊《うかつ》さの罰といえそうです。  チャルはいたずら盛りの男の子そのもの、ドゾルツァを悩ませたカーテンのぼりはお得意中のお得意です。椅子に爪を立てる。じゅうたんを引っかく。それでも少しずつ禁止の「ニエ」( nie 英語の「ノー」に当る)を覚えてゆきました。昼間の|活溌《かつぱつ》はいいのですが、明け方の四時、五時という時間に起き出して食べものをせがみます。眠い目をこすりながら簡単なソーセージなど与えて、また寝床に入って眠ろうと思っても、チャルは寝かせてくれません。わたしに遊んでもらいたいとばかりに泣き立てます。相手にせず、そら寝をしているわたしが、いつまでたっても起きないとわかると、チャルはこのときとばかり、居間のカーテンのぼりをはじめます。大学支給の木綿の丈夫なカーテン地は破れなくても、レールを走る小さな歯車は、カーテンレールがきわめて|やわ《ヽヽ》な作りのせいもあって、すぐに外れて、うっかり寝こんだわたしが起きたころには、カーテンの半分はぶざまに垂れ下っているというあんばいです。  夜のおそい主人が朝方はぐっすり眠る習慣なだけに、これには困ってしまいました。いくらチャルが可愛くても、なんとかしなければなりません。わたしの解決策はこうです。夜半、われわれが床につく時間になると、チャルにはお風呂場に引きこもってもらうことにしたのです。われわれが起き出すまでの彼の個室というわけです。そこには飲み水と食事と、細かく裂いた新聞紙の入った箱と毛布が置かれました。初めての朝、泣きわめかれても仕方がないと覚悟して、明け方の五時にそっと起きて様子をうかがうと、彼はひとりでゴソゴソと食べている様子です。そしてまた、おとなしくなります。与えられた環境に実によく順応する、聞きわけのよさを発揮しました。その代り、起き出したわたしを待ちかねて、もう甘えに甘えられてしまうのがいつものことでした。ドゾルツァ夫婦の寝床の中で、ぬくぬくと眠る習慣のついていたにちがいないチャルは、一晩じゅう隔離される時間を取り戻そうとするかのように、わたしの胸から離れようとはしませんでした。   小さな銀の鈴  ポーランド語で、猫がゴロゴロとのどを鳴らすことを「ムルーチ」するといいます。チャルのムルーチは実に表情ゆたかで、大きくなったり小さくなったり緩急自在、この声ではない声はチャルの心のバロメーターでした。わたしは抱くたびに、耳のところまで持ちあげて、このムルーチの不思議な音楽にききほれたものです。  わたしは朝食の|仕度《したく》さえ、チャルを抱いたまま片手ですることも多くなって、「仕方がない、仕方がない」とぼやきながら甘えるにまかせました。とうとう大切にしていた銀の鈴をチャルに進呈するほどに、わたしは彼の名前にそむかぬ「魅力」にひき入れられてしまいました。  直径が一センチほどのこの銀の鈴は、貧乏学者の前の夫と貧乏ぐらしをしている時代に買ったものです。お化粧ともアクセサリーともまったく縁のなかったわたしが、この純銀の鈴を見つけ、なぜかふっと買ったのは大阪のデパートでした。わが家のくらしから考えても、たしかに高いものだったにもかかわらず、ためらわずに手に入れたのはどうした弾みだったのでしょうか。  紫の組紐にさげられたこの銀の鈴を、そのころわたしの持っていた一つきりの黒革の抱えハンドバッグの端の小さな金具に付けました。それ以後、銀の鈴は、どこへ行くにもわたしのお供をしてくれました。  子育てに追われた時期と重なって、志半ばで病に|仆《たお》れた夫の世話に明けくれた数年間、この銀の鈴はわたしの手元から離れたことはありませんでした。心せわしく小走りにわたしが駈ける時には、この鈴の音が励ますように聞こえました。夫が|癌《がん》と宣告された時には、わたしの膝の上でふるえて小さく鳴りました。品のいい形と音色をもつこの銀の鈴は、わたしにとって愛着の深い大切なものでした。  この小さな鈴を、ていねいにハンドバッグの金具から外して、チャルの首輪につけました。一センチ幅の革の首輪をくぐらすと、紫の紐はちょうどいい具合に納まります。長すぎればチャルの歯は紐をくいちぎってしまうでしょう。  銀の鈴はまるで、前々からチャルのために用意したものと思われるほど、うすみどり色の眼をもった黒い毛色に似合いました。銀の鈴を得たチャルの魅力は格別です。そのうえ、チャルの動きにつれてやさしく鳴ります。長年わたしをなぐさめてくれた鈴の音は、わたしの耳には少しも耳ざわりでなく、かえって、鈴の音をききながら、チャルがふざけたり、駈けまわったりする様子が、見えないところにいても手に取るようにわかって楽しくなったものです。  夏から秋まで、日に一度は抱いたままの散歩をするか、近所の野原で遊ぶのがほとんど日課でした。運動をした日は活力が余ってのいたずらが少しはおさえられるようです。  秋も深まり外出もままならない頃になると、中廊下を遊び場にすることを思いつきました。このアパートは、中央部分をはさんで互いちがいに南北の棟に分かれています。わが家は南の棟の南の末端、そこへ着くまで二メートル幅の廊下が、エレベーター前のホールから中仕切りのガラス扉を経て続きます。廊下を挟んで両側に三つずつの居宅があります。五軒はほとんどが共働き家族ですから、この廊下は、朝八時をすぎれば通る人もなくなります。  ゴム|毬《まり》一個で、チャルがはしゃいで遊ぶさまは、人が見たら犬かと思ったでしょう。犬のように毬をくわえて持ってくる芸はできなくても、放り投げた毬の後を追って、鈴を鳴らしながら夢中に駈けてゆく様子は素晴らしいみものでした。勢い余ってつるりと滑ってころんだりしながら、何度も何度も飽きないで挑戦します。こちらの方が飽きてしまい、早やばやと部屋に入ろうとドアを開けますが、チャルは、もっともっととばかり部屋へ入ろうとしません。  そんなチャルの遊び相手を熱心につとめてくれるこどもが現われました。栄養がわるいのか、やせて背が低いせいで六歳ぐらいにしか見えなかったスタシェクは、日本より一年おそくあがる小学一年生だから八歳。われわれが引越した当時から、出入口で会うと、気さくに大きな声で「ジェンドブリ」と叫ぶこどもでした。学校の帰りだったのでしょうか、毬遊びをしているわたしたちを見たのは。  早速ホールとの間のガラス扉をあけて入って来て、少々うんざりしているわたしに代って、毬投げを続けてくれました。これがつきあいの始まりです。もうわたしが家の中に入っても大丈夫、スタシェクはチャルが飽きるまでつき合ってくれます。よく遊んだ後はこどもと同じで、静かに眠ってくれるので大助かりです。スタシェクのためには、お菓子のひと切れか、いただきもののチョコレートや|飴《あめ》がごほうびとして待っているというわけです。  スタシェクはチャルのお遊び係りといった|恰好《かつこう》で、わが家には|木戸御免《きどごめん》で出入りするようになります。  ある日、スタシェクが灰色の痩せこけた仔猫をかかえてやって来ました。彼は「シャム猫だぞー」と威張ります。  チャルにとっては初めての同類の遊び相手、いや、そろそろお嫁さんのほしい年頃に入りはじめていた頃です。彼にとってこの雌猫の到来は狂喜せんばかりの事件だったにちがいありません。午後、スタシェクが戸口に来る足音を聞きつけると、もうガールフレンドの匂いがわかるのでしょうか、玄関の扉の下方のほんの少しの|隙間《すきま》に鼻を押しつけて、大さわぎとなります。  ノミの付いたことのないチャルに、ノミが付いたのは、このスタシェクの仔猫のせいでした。スタシェクは、プフとかプファとか、わたしにはとても発音できないポーランド語で彼女を呼んでいましたが、わたしはこの猫の名前を本気で覚えようともしないですぎてしまいました。スタシェクのいうシャム猫にはとうとうならず、灰色と褐色が混じった変な色あいの猫になってゆきますが、チャルの残りごはんをたっぷりと食べたので、痩せっぽちは見る見る太って、それなりに可愛らしい猫になっていきました。  しかし、それも三カ月ほどで、スタシェクとの縁が切れ、この猫とも縁がなくなってしまいます。  三月、お|雛《ひな》祭りの季節です。一年に一度は飾るものと堅く思いこんでいたわたしは、小型の木目込み人形の一揃えを人に預けようとも思わず、後生大事にはるばる日本から持って来ました。本や箱を工夫して積みあげて雛段を作り、ようやく昔|馴染《なじ》みの小さなお雛さまが並びました。遊びに来たスタシェクは眼をまんまるくして眺め入って、大きく溜息をついたものでした。  翌日、スタシェクは珍しく猫づれではなくて、二歳ほど年下に見える男の子を連れてやって来ました。後は自分の家のもののように、前日知ったばかりの日本のお雛さまのことを説明しています。   スタシェクの悪事  その日、急のお客さまが来ると主人にいわれて、わたしはあたふたしていました。レモンが切れているのに気づいても、買いに行く時間はもうありません。スタシェクにお使いを頼むわけにもいきません。というのは、オコポーヴァ通りはワルシャワ市内では事故の多発地帯といわれるほど、交通の激しいところだったから、これだけは前々から主人に堅く禁じられていました。お使いに行く途中、もしものことがあったら、ご両親に対してどうにもならぬ、というのが彼の主張でした。  頭のめぐりの早いスタシェクに頼めばすぐ間に合うとわかっている急の用事があっても、今までわたしは一度もお使いは頼みませんでした。しかし、もう時間は迫っています。電車通りの向う側へ行かないですむプリヴァトネ(私営)の八百屋なら大丈夫、と判断して、スタシェクに急いでレモンを買いに行ってもらうことにしました。  あいにく細かいお金がなく、五百ズロチ(約五千円)の紙幣を一枚渡すと、「よしやっ」とばかり年下の男の子を連れて彼は元気に駈け出しました。  間もなくレモンを買って戻ったスタシェクは、きちんとお釣りもわたしに渡しました。「ありがとうね」といっている時、お客はもう玄関先きというきわどいところでした。  スタシェクと男の子に、貯めておいた日本の郵便切手を渡した後、わたしは居間のお客に気を取られて、彼らが家のどこにいたか、いつ出て行ったのかも気づきませんでした。  翌日の午後、四十前後の、ちょっと髪の薄い実直そうな男の人が、きのうスタシェクと一緒だった男の子を連れて入って来ました。彼は非常に恐縮しながら何か|詫《わ》びています。�通訳官�の主人が出て来て話をききます。 「今日、会社から戻ると、息子が菓子を食べていた。家にはない菓子である。どうしたと聞くと、ここの日本人の奥さんから貰ったという。しかし、どうも様子がおかしい。彼の机をあけてみたら、駄菓子がいっぱい出てきたので、問いつめたところ、奥さんのところからお金を持ち出したスタシェクが買ってくれたんだ、という。今、スタシェクの家にも行ったが、|家《うち》の子はそんなことはしない、と彼の母親は話にものらない。しかしあの子は前々から問題児であって、あの子と遊んではいけない、と以前から強く注意していたのだが……。とうとうこんなことになった。母親がいないので(離婚です)、|躾《しつけ》は厳しくしていたつもりだが……。本当に申しわけない。人のものを盗む罪は一番重い、手首を切られても仕方のないことなんだぞ……といいきかせましたが……」 「手を切る」という言葉に、わたしの方がびっくりしていると、彼は真剣な顔でこどもに向い、更におごそかな声でいったものです。 「盗みは最大の罪、指をぜんぶ|鉈《なた》で切り落すぞ」  その声音には単なる|嚇《おど》しとも見えぬものを感じとりました。  わたしはあわてて仲に入り、 「釣り銭を|蔵《しま》わずに、台所に置いたままだったのはわたしの不注意です。こどもさんに罪はないのだし、もうこれだけ叱られればこたえているでしょうから、どうぞ勘弁してやってください」  と、主人と二人であやまります。「弁償したい」という彼の申し出も、なんとか断りました。  何度も何度も頭を下げて詫びながら、親子は帰って行きました。このおやじさんは|敬虔《けいけん》なカトリック教徒なのでしょう。こどもとはいえ、また誘われたとはいえ、彼には我慢のできないことだったにちがいありません。  改めて財布をしらべると、昨日の釣り銭の中からスタシェクが持ち出したお金は百ズロチ紙幣一枚です。スタシェクの行動を推理すると、こうではないかと思います。  スタシェクはあの年下の男の子に、「日本人の家に行くとお菓子がもらえるぞ」といって誘って来た。お使いまでしてやったのに、古い切手だけしかくれない。この子の手前、|面子《めんつ》が立たないじゃあないか。それなら……ちょっとお釣りを失敬して、兄貴分ぶって大散財した──というところではないでしょうか。  それにしても百ズロチ全部を駄菓子に使ったとは……。何軒ものお店で、少しずつ買ったにちがいありません。日頃ほしいと思っていたものが、買いたいだけ買える──スタシェクの満足感がどんなものかわかるような気がしてきます。  おフミさんは同じアパートに住むスタシェクの一家のことをよく知っていました。おやじさんは飲んべえの工員、おふくろは一日じゅう家にいないが働いているというわけでもない。彼女も大酒飲みである。スタシェクの姉さんは十三歳だけれど、もういっぱしの不良少女だという。  おフミさんは「何か問題が起らなければよいが、とスタシェクがお宅に出入りするのを見ていたが、やっぱりこんなことになってしまった」と嘆きます。玄関前に置く習慣の配達牛乳が盗まれるのも「犯人は彼だと思う」といいます。そこまで疑うわけにはいきませんが、チャルのお相手にちょうどよいと、気ままに出入りさせていたスタシェクに、誘惑を与えたこちらこそが悪いわけです。しかし、生真面目なおフミさんは、スタシェクのおふくろさんに出会ったとき、 「悪いことは悪いのだから、日本人の奥さんにちゃんとあやまらせる方がいいですよ。それをしないと、スタシェクの悪い癖は直りませんよ」  と注意したそうですが、スタシェクのおふくろはかえって食ってかかる始末だったということでした。  その後、スタシェクと出入口のホールで顔を合わせても、彼の方から目をそらして逃げてしまうようになります。スタシェクひとりで盗んだお金なら、|迂闊《うかつ》もののわたしは、財布の中から百ズロチ紛失したことに気づくはずもなく、スタシェク自身も知らぬ顔でチャルのところへ遊びに来たことでしょう。そして、スタシェクの自称シャム猫とチャルはいずれ結婚して、面白い顔や色の仔猫が生まれた可能性は強いのです。   庶民のための動物病院  自分で遊びを開発し、朗らかに暮す|術《すべ》を心得ているチャルにとって、友だち猫がいなくなっても、格別な影響はありませんでした。  猫といえば、おとなしくてひっこみ思案で陰性なのがふつうと思われるなかで、とびきり陽気で楽しいチャル──チャルはまさしくワルシャワの閉ざされて少々つらい社会(情報の上からも、言語の上からも、また消費物資の極端に少いという意味からも)に住むわたしのため、天からやってきた救いの神でした。  冬、寒さよりも人の気持を暗くする日照時間の少さ、ほとんど鉛色に低く雲の垂れこめるワルシャワの空に押しつぶされていると、東京のカラリとした日本晴れそのものの冬空を想像することさえつらくなります。  冬の楽しみに友人たちが集まる日は、チャルにとっても楽しいらしく、お客さま好きを|遺憾《いかん》なく発揮して、猫好きと見るや、つきまといます。犬のように尻尾を振らないだけです。翌朝は遊び疲れでなかなか起きられないのは、こどもが|夜更《よふか》しして寝坊するのとまったく同じでした。  今までにずいぶんたくさんの猫と出会いましたが、お風呂好きという変な趣味まである猫は、チャルをもって初めにして終りでしょうか。  貰われてきて二カ月くらいの頃から、わたしがお風呂に入ると、一緒に風呂場に入ってきます。わたしにくっつききりの意味から「|腰巾着《こしぎんちやく》のチャル」といわれていたチャルは、今度は「エッチなチャル」と称号が変ります。  チャルは湯舟の中でじゃぶじゃぶ揺れる音が面白いのか、お湯が跳ねてもたじろがずに、なんとか|覗《のぞ》きたくて背のびをし、前足をかけようとしますが、湯舟のふちまでは届きません。温かいヴァンナ(西洋湯舟)のぬくもりを楽しむように、背のびをして二本の後足で立ち歩きしながら、なんとかわたしのぽちゃぽちゃあげる音の源を見つけたいと夢中になるチャルを、「それっ」とばかりつまみあげて、湯舟の隅の三角の場所に坐らせます。せまい縁に坐りこむと、お湯の中に手でチョッカイをかけていたずらを始めるのです。  ある日、わたしはふざけるつもりで、 「チャルや、お風呂に入りたいかい」  ときいてみました。チャルは確かに入りたいといっているようでした。お湯を少しぬるめにうめて、チャルのからだをタオルに包みます。驚いて逃げ出すとき、裸のわたしに爪を立てないようにと思ったのです。  静かに、そおっと、赤ちゃんを入れる気持で、お湯の中に沈めました。とっぷりと首までつかっても、チャルはあわてず、泣きもせず、じっとしています。もう大丈夫、わたしはタオルの上から背中を静かにさすります。すると、いかにもいい気持、といわんばかりに目をつぶるのです。  長湯は無理と判断して、お湯からあがります。からだじゅうの毛がぺちゃんこになってみると、太っていると思っていた猫の躯が、実に細くてたよりなげなのに驚いてしまいました。風邪をひかせては大変と、まずタオルで水分がなくなるまでよく拭きます。すると今度は、チャルが自分のピンクの舌でたんねんに舐めあげるのです。  寝ていた毛が少しずつ立ちはじめ、一時間もすると、ようやくいつものようにふさふさになります。お風呂はよくても、このあとの労働は大変でした。チャルを乾かすうちに今度はわたしの方が風邪を引きかねません。それまで買いたくても我慢していたヘアドライヤーを思いきって買いました。音に驚くチャルではないと思って買ったのですが、温かい風が吹き出して、すぐ躯じゅうが乾く気持よさに、ポーランド製ドライヤーのすさまじい音もまったく気にならないようでした。 「猫をお風呂に入れるなんて自然に反することだ」  と、あきれ顔におフミさんはいいます。 「チャルのお腹が弱いのは、かまい過ぎの上に、このお風呂がいけないのだ」  と彼女は断言します。  おフミさんに指摘されるまでもなく、チャルとお医者さまとの縁はずっとつづいていてなかなか切れません。いわば動物病院の常連です。お|腹《なか》こわし、つまりしょっちゅう下痢をします。次には長い間耳の病気で通いました。紐なしで電車に乗っても平気なチャルにとって、通院も散歩の一種でした。チャルは電車やバスが好きで、窓ぎわに坐るなり、わたしの膝に二本の足で立ち、窓わくに前足をかけ、ガラスに鼻をぺったりとつけて外を眺めるのです。ほとんどの乗客は、このチャルの可愛らしい恰好にニコニコ顔をほころばします。ちなみにワルシャワの市電は大型犬が一ズロチと人間なみの料金ですが、小型犬と猫は無料です。  通い馴れたハラ・ミロフスカの市場に近い、シベルチェフスキ通りとマルフレフスキ通りの交叉点をちょっと入ったところにある動物病院も、おフミさんが電話帳を繰って探し出してくれました。ワルシャワには、重病や入院を要する動物のためには一カ所だけ、立派な設備のととのった動物研究所がありますが、一般には、公営の動物病院がワルシャワの各地区に一カ所ずつ配置されています。  この動物病院は半地下室といったらいいでしょうか、六、七段の階段をおりて、左が十四、五畳分の待合室、右が診察室になっています。窓の上半分から地上の明りが入りこむ作りです。  公営動物病院は三交代制の二十四時間勤務、常時二人のお医者さんと二人の看護婦さんが詰めています。早朝と夜間は高料金になるようでした。そのせいか、朝九時ごろはいつも待合室は超満員の盛況で、入口の階段にまで犬と飼い主が立ちん坊するのは当りまえのことでした。  後からやってくる新しい患者は、「一番最後の人はどなたですか?」とたずね、「わたしが最後です」という人と犬の顔を覚えておかねばなりません。次ぎつぎに自分の前の人を覚えるというだけの順番ですが、番号札を合わせるようにそれはきちんと守られていました。  内部は駅の待合室然とした木の長椅子が壁際にコの字型に作りつけになっています。さまざまな種類の犬が寝ころんだり坐ったりしています。大きいの、小さいの、仔犬からよぼよぼの老犬まで十数匹ほどが、ほとんど鼻をつき合わせるようにしているのに、吠えつくこともなく、静かに順番を待っています。  ワルシャワに住んで驚いたことは、街で見るかぎり純血らしい飼い犬の多いことと、犬同士のけんかがないことでした。この待合室でも、一度として吠えついたり、喧嘩をしかける犬はいませんでした。しつけがよほどよいのでしょう。ところが、病院通いでは意外にも、雑犬の多いのが目立ちます。庶民の病院だからでしょうか。  どんなにみめ形のおかしな駄犬でも、飼い主にとっては目の中に入れても痛くないほどの愛犬なのだということを、わたしはこの待合室で知りました。薄い膜ができて、ほとんど盲目に近いスコッチテリヤの雑犬を抱いて、人間に話すように、やさしく話しかけている老人、交通事故にあって、前足に|副木《そえぎ》をしたなんとも珍妙な毛色の、犬の種類も判別できないような雑種犬の背中を絶えず|撫《な》でつづけていた中年の奥さん。鼻のぺしゃんこの|狆《ちん》に似た犬は|喘息《ぜんそく》で、ぜいぜい苦しそうでした。息がつまりそうになると、飼い主のおじいさんは自分も息がつまりそうな顔になって背中をさすります。  猫はほとんど籠に入れられてやってきます。チャルのように抱かれてくる猫はありません。犬が十匹いると、猫は一匹か二匹の割合いです。わたしの膝の上におとなしく坐り、あたりの犬を恐がりもせず、かえって物珍しそうに眺めているチャルに、誰もが話しかけてくれます。  あるとき、籠に入れた猫を連れてきた五十くらいのおばさんが、待合室に入ってくるなりいいました。 「こんなにたくさんの犬の中に猫を置くことはできない。動物病院は昔から猫が優先というきまりなんですよ! わたしはお先きにさせていただきます」  さっさと診察室の前に立ってしまいました。そのとき、順番の近づいていた中年の男の人が、 「猫だって順番を守るのが規則だ。こちらの猫はもう一時間以上待っているんだぞ」  と犬にまじっても平気なチャルを指さします。おばさんはまだブツブツいっていましたが、結局、犬のいない階段上のポーチに行って順番を待ちます。  初めて病院へチャルを連れて行く日、�通訳官�の主人も心配してついて来てくれました。電車も平気、犬も平気なチャルが、診察室の背の高い、ビニール引きの冷たいベッドの上にのせられたとたん、どうしたわけか口からタラタラとよだれを垂らし、泡のようなものを口の端に吹き出しました。  薬の匂い、金属のふれ合う音、注射器を持ったお医者さん、何もかも異常な体験です。じっと身体を固くして、タラーリ、タラーリとよだれを流しつづけて動こうともしないチャルの様子は、待合室のおっとりと構えた時とあまりにちがっていました。それでも処置がすむと、チャルはすぐ元気になり、次の診察からはもうよだれを垂らすようなはずかしい姿は見せませんでした。  この動物病院には、犬や猫ばかりではなく、小鳥を持ってくる人もあれば、亀の入ったボール箱を大事にかかえてくるこどももいます。近所の老人の飼っている猫を、お年寄りに代って連れて来たという二人づれの女の子もいました。犬の紐をしっかり握りながら、「猫も好きなんですよ」とチャルにお愛想してくれる中年の品のいい女の人や、美しい首輪をつけた、わたしにとって初めて間近にみるシャム猫の飼い主と、お互い猫自慢をしあったりもしました。何かしら故障を持つ飼い犬や飼い猫を心配する主人たちが、低い声で症状をたずね合ったり、なぐさめたりしているこの待合室は、じっと眺めていても飽きることのない場所でした。  しかしわたしがまったく経験したことのない、ショッキングな出来事にも、ここで出会いました。ある日、わたしの順番の一つ前の二人の老婦人は、一匹の黒っぽいキジ猫を入れた籠を膝に、ひっそりと話し合っていました。姉妹なのでしょうか、一見教養人とわかる黒の地味な服装の二人は、ポーランド語ではなくフランス語で話していました。順番がきて、籠をもった二人が診察室に入り、間もなくわたしの番が呼ばれました。入室したわたしの目の前に、さっきまで老婦人の手でさすってもらっていたあのキジ猫が、手術台の上に冷たく横たわっていたのです。安楽死! だったのです。あまりの驚きに息をのみました。そして、たった二、三分前にわたしと見合わせたつぶらな大きな瞳を思い出したとたん、思わずわっとわたしは泣き出してしまいました。  見ず知らずの東洋人が突然泣き出したのに、この老婦人は驚きもしないで、静かにわたしの傍によりそい、 「彼女はもう苦しんではいない。平安になったのだから、どうか悲しまないで」  とわたしの肩を抱きしめ、静かな、ゆっくりとしたポーランド語でいい含めてくれました。  病気とも見えなかった猫を、なぜ安楽死させたのでしょうか。三月事件の後、ユダヤ系のインテリは続々と国外へ出て行きました。出て行くというより、ポーランドにいられない雰囲気がつくりあげられていました。フランス語で話し合っていたこの二人の老婦人も、これからいよいよ息子や娘の住むパリあたりへ行く準備中だったかと思われます。 「愛するものに死を与えなければならぬ時もある」老婦人の口からは、そんな言葉もきかれました。戦争、亡命というのっぴきならない「別れ」が、この国にはどれほどたくさんあったことか。わたしはそのほんの一部分を垣間見たのかも知れません。  さまざまな人びとと知り合ったこの動物病院は料金も安く、お医者さんも親切でした。異国人のわたしには、特にやさしい言葉でゆっくり説明してくれて助かりました。たび重なるチャルのお医者通いにまで、わが�通訳官�を連れて行くわけにはいきませんでしたから。  チャルの下痢の症状や、耳だれの具合など、その日、お医者さんに伝えるべきポーランド語を、坐りながら頭の中で反復練習したあの待合室は、今もなつかしく思います。分厚いオーヴァを着なければならない冬、毛糸のショールに包んだチャルを抱いての病院通いは、今になって考えれば大変だったと思うのですが、弱い子ほど可愛いのたとえ通り、その時は少しも苦になりませんでした。   空中の大冒険  スタシェクが来なくなってみると、オコポーヴァの猫たちと住人たちと、わたしの間の縁は、しばらくすっかり切れていました。しかし、オコポーヴァを去る前に、チャルの大曲芸で住人たちをおおさわぎさせた事件があります。  わがアパートは出来上ってから何年ぶりかで、ようやく外壁のお化粧をすることになりました。建物全体に丸太の足場が組まれはじめたころ、お隣りの家に猫が飼われているのを知ります。ある日、バルコニーに出てみると、お隣りのバルコニーにキジ猫が坐っています。「キチキチ」と呼ぶと、こちらを向きます。美人猫です。直感で雌猫と判断しましたが、後でやはり女の子とわかります。大いそぎでチャルを呼んで、お隣りの猫にお愛想させてみました。  今まで北隣りの家に猫がいるなどまったく知らないほど、なき声ひとつ聞こえたことがありません。北隣りは夫婦共働きで、朝七時頃には、二人とも出かけてしまいます。小学校五年か六年に見える男の子は、学校が|退《ひ》けると、家に入ったきり出て来たことがありません。たまにパンを入れた買物袋を持っているのに出会いましたから、家に戻ったら勉強するほかに、お使いのお手伝いもするのでしょう。チャルが廊下で毬遊びをしていても、立ち止まりもせず、さっさと家に入ってしまいます。スタシェクとは正反対の、|躾《しつけ》の厳しい両親に育てられたお行儀のよい子なのです。  お隣りのキジ猫は、チャルがよいお仲間ができたとばかり呼び立てても知らん顔をして部屋に入ってしまうところは、このしっかり者の息子さんとよく似ていました。  翌日の午後、ちょうど帰宅するところに行きあったお隣りの奥さんに声をかけてみました。 「猫を飼っていらっしゃったなんて思いがけませんでした。それにしてもお静かで、よほどお躾がよろしいんでしょうね」  日本語でいうとこんなぐあいになりますが、ポーランド語ではこうはすんなりいきません。それでも会話は会話です。お隣りのキジ猫は、もう二年も飼っていること、避妊手術もすんでいること、それに、大小の便は、 「セデスでちゃんとするように躾けました」  というではありませんか。セデスとはポーランド語で便座のこと、つまりおトイレの坐るところをこう呼びます。猫は自分の匂いを|嗅《か》ぎながら用を足し、そのあと砂や紙を手で掻いてかくすのが自然のきまりのように思っていたわたしには、便座に足をかけ、不安定な恰好で用を足しているお隣りの猫の姿を想像すると、少々あわれに思えてきました。 「いいですね、お行儀がよくて」  と賞めあげはしたものの、チャルの方が幸せだね、といいたい気持があります。  お隣りの奥さんは気取って、 「では、失礼いたします」  と家に入ってしまいました。これで北隣りの奥さんとの会話は終りです。以後、何度か顔が合っても、軽く|会釈《えしやく》するだけの仲でした。  うちのやんちゃ坊主のチャルなどに、しっかりと躾けられたお隣りのキジ猫が簡単にデートなど許されるはずもないのに、チャルは終日バルコニーに出て、キジ猫が姿を見せるのを待ちます。チャルが何度も声高になくので、お隣りでは用心して、窓を開けようともしなくなりました。  ちょうどこんな時期に、わが家の窓辺にも丸太の足場がはりめぐらされ、アパートの塗装が始まったのです。日本では大きな建物の足場のほとんどが今では鉄パイプなのに、ワルシャワの目抜き通りに面した十二階建ての大アパートの足場は、昔ながらの丸太です。その丸太の太さもまちまちなら、組み方も、日本人の目から見れば実に雑なものでした。  足場は幸いなことに、バルコニーから少々離れたところに組まれています。チャルがいたずら心を出しても飛び降りられないだけの距離のあることは、わたしにとって安心なことでした。チャルならばお隣りの猫のところまで、丸太伝いに行きかねない、と思ったからです。  しかし、思いがけない所から、チャルは丸太の足場に出てしまいました。  ポーランドのアパートの台所には、一カ所だけですが、通風|孔《こう》があります。南側の上方部に明りとりの大きからぬ窓が一つ、その真下、床から十センチほどのところに、十二、三センチ四方の四角い|孔《あな》が壁を|穿《うが》つようにあけられ、外気が入るようになっています。この造りはアパートの規格らしく、台所の入口のドアをぴったりと閉じれば、台所は物の貯蔵に最適の冷たい部屋となります。  チャルがはじめてこの狭い孔にからだを突っこんだのは、壁の外の鳩の声に引き寄せられたからでした。この壁の穴に躯をはめこむようにして頭の先きだけ出し、下界をのぞくと、これはまた違った眺めだ、と|悦《えつ》に|入《い》ったのでしょう。鳩や雀が自由自在にアパートの壁すれすれにとび交います。この穴くぐりをすると、よほど面白いのか、なかなか戻ろうとはしません。穴が小さくて躯がきつくはまって戻れないのかとハラハラして、尾っぽを引っ張ったりしましたが、充分に下界見物がすむと、また後ずさりして戻ります。危険がないと思い、穴をふさがなかったのが失敗のもとでした。  丸太の足場は、バルコニーのどこからもチャルが飛びつけるほどの高さにはなかったのに、この四角い穴の目と鼻の先きに、丸太の横木がありました。チャルはいつものようにここへ躯を突っこんで下界を見ようとし、眼前の足場に気づくと、何の|躊躇《ちゆうちよ》もなく丸太の上に出てしまったのでしょう。丸太の上に出ると、地面からは六階上の高所です。さすがのいたずら者でも恐ろしくなったのは当りまえでしょう。助けを求めるように大声で鳴き立てる声を耳にしたのは、そのときにちがいありません。あちこち探しますが、どこにも姿は見えません。声は南側から聞こえてきます。床に頭をつけて通気孔をのぞくと、すぐ向うに足場が見えました。事態がようやくつかめます。丸太の足場に出てしまったチャルは通気孔の狭い四角い穴に戻りたくても、そこへ飛びこむことは不可能になってしまったのです。  主人を呼び、おフミさんのドアをたたきます。チャルはわが家のバルコニーのある東側から聞こえる電車や自動車の轟音を避け、おフミさんの家の方角に移動する──それがなき声でわかりました。おフミさんの家の窓から大声で呼ぶと、ようやくそちらの方へ丸太伝いに歩いてきます。しかし、丸太の高さはバルコニーの下方、手をのばしても届くわけもなく、板切れを渡すぐらいでは足場として不安定です。チャルの爪の引っかけがわるければ、板きれの上で均衡がとれず、地上までまっさかさまに落ちるのは必至でした。猫は高所から落ちても必ずふわりと躯を回転させて地上におりると話には聞いていても、六階の高さからでは絶対に不可能だと思い至って、わたしの身体の方がふらついてきます。  われわれの姿が見えても、助けてもらえないと、チャルは判断したようです。用心深い慎重な足取りで、チャルはわたしたちの目の下をぬけてそのまま先きへ進みはじめました。うしろを振り向くこともできないギリギリのところ、サーカスの綱渡りと同じです。  チャルの歩いて行く先き、おフミさんの北隣りの家は留守で入れず、もう一軒北隣りの工員さんの家に、幸い留守番のおばあさんがいました。わけを話して、室内へ入れてもらい、窓から二人してチャルに声をかけます。チャルは、どこかいい所はないかと、慎重な眼つきで前方に目を配り、一歩一歩、足もとを確かめながら、沈着にわたしたちの方に歩いてきます。  工員さんの家からは北棟の家の窓がよく見えました。北の棟はこの工員さんの家の角で折れ曲って始まります。南棟と多少構造のちがう北棟の台所には、ちゃんとしたふつうの大窓があるのがわかります。丸太と窓の関係を目測すると、窓の上部と丸太の高さとがほとんど一致しているではありませんか。  北棟の四階の窓からなら救出することができる。おフミさんと素早く相談すると、もうわたしは一階下まで階段をかけおりていました。北棟のとっつきの家は留守。その奥の家にはお年寄りがいて、ようやく中に入れてもらえました。共働きが原則のポーランドでは、昼間はどの家も空っぽです。老人年金を受けている親が同居している家だけがかろうじて在宅者あり、というわけなのです。  北棟の家の窓から大声でチャルを呼びました。チャルはわたしの声のする方に移動を開始したようです。台所のガス台の上にのせてもらったわたしの足は、おフミさんにしっかり押えられています。身体を乗り出すと、目の前三十センチのところにチャルがきました。しっかりつかまえて、床におりた時、目がくらくらとくらみ、今度はおフミさんがわたしのからだをつかまえてくれました。  南北のアパートをちょうど半周したチャルは、どんな気持だったのでしょうか。全身の神経の集中を強いられたこの大冒険は、さすがの彼にもこたえたにちがいありません。しばらくしてから、ようやくムルーチがはじまります。そして、チャルはいつまでもいつまでもわたしの胸を離れようとはしませんでした。  チャルにはムルーチで甘える甘えかたのほかに、「胸のぼり」という甘えかたがありました。一、二時間の留守でも、ドアをあけると、飛びかかるように胸によじ登ってくるのです。「おそくなってごめんよ」とか、「お待たせしました」とか、言葉をかけてもらういつものご挨拶がすまないうちは、けっして下におりません。  玄関に現われる最初の人間がこのアタックを受けます。ですから、主人のオーヴァや皮ジャンパー、よそゆきの背広の襟にも、チャルのつけた爪あとが今も残っています。せっかくの背広の、一番目立つ所にささくれができてしまうのですから、チャルの「胸のぼり」が、爪を隠す余裕もない夢中な行為だとわかります。少々の傷よりも、チャルの心からなるお帰りなさいの方を、いつの間にか主人も大切にしてくれるようになっていました。  チャルの一大冒険は、今までにないような複雑微妙なのど鳴らしに加えて、わたしのブラウスをぺちゃぺちゃ舐めて濡らし、ようやく大団円となりました。   嫁さんさがし  チャルはいよいよおとなの領分に足を踏み入れます。壁や扉にくるりと腰をまわして小水をかけ始めたのです。おしっこかけを見ると、思わずわたしは、「バカッ」と大声をあげてしまいます。チャルはこの日本語の「バカ」という声の中に籠められたもろもろの要素を敏感に感じ取っていたのは確かです。わたしがついつい本気になって叫んでしまうと、非常にいやな顔、残念そうな顔、反感を示す顔でわたしに向って低く唸ります。唸った後で、「バカではありませんよ」と甘え声で短くないて抗議するのでした。少々ふざけて、わたしが「バカ」というときは知らん顔なのに、おしっこで汚す時、わたしが反射的に「バカッ」と叫ぶ時には、必ず抗議の声をあげました。後にわが家に加わるどの猫にも、とうとうこの言葉は使わなかったのに、なぜチャルにだけ、しばしば「バカッ」と声をあげてしまったのか、不思議でなりません。  チャルのおしっこかけにはほとほと手を焼きました。|雑巾《ぞうきん》をもって追いかけても、いつの間にかとんでもないところに腰をあげて振りかけます。家じゅうがだんだん猫臭くなってきます。主人が顔をしかめると、わたしは身の置きどころがないような申しわけない気持になります。  手術をすればおしっこかけはしなくなる、とポーランド人の誰かがいいました。けれどもうちのチャルにそんなことができるはずはありません。初めて庭のない悲しさを感じました。  お客さんの来られる日には、あらかじめお線香をたいたり、玄関先きに香水をふりかけたりしました。外から入室すると、まっ先きに感じるにちがいない「猫臭」をごまかすのに、その頃のわたしは躍起になっていました。猫臭さは一時間もすれば鼻が馴れて感じなくなるとわかりましたから、入口が勝負どころでした。  さあ、チャルのお嫁さん探しを急がねばなりません。  チャルのお嫁さんはやはり黒猫がいい、とおフミさんは注文を出します。ですから知り合いの猫好きたちには、黒猫の仔猫がどこかで生まれたら教えて、と前々から口を掛けてありました。  五月、ワルシャワのもっとも美しい季節です。  知り合いのH夫人から電話がかかってきました。 「黒い仔猫の捨て猫がいる」  というのです。彼女のアパートのはずれにある物置小舎の|蔭《かげ》で泣いているといいます。捨て猫でもいい、何とかつかまえてほしい、と頼みました。翌朝、ふたたび電話がかかってきて、 「息子が仔猫を保護したから、なるべく早く取りに来てください」  といいます。  ワルシャワの北部、大製鉄所のあるフタ・ワルシャワの近くに住むH夫人の家まで、市電を乗りついで一時間かかりました。初めて乗る路線です。沿道の景色にはまったく馴染みがないので、実際の時間よりずっと長く感じられました。H夫人の息子さんはユダヤ劇場の俳優さんです。猫好きの彼が出勤前の忙しい時間をさいて、仔猫をうまく|掴《つか》まえて、ボール箱に入れておいてくれたのだそうです。  抱きあげると、ずっしりと重く、二カ月半か三カ月に近いなと感じました。しかし、H夫人がうっかり雌とばかり思い込んでいたのが、あに|図《はか》らんや、雄猫です。夫人は注文とちがっていたことに恐縮して、 「またもとの所へ戻しておきましょう」  といいます。しかし、わたしにしてみればいったん抱きかかえたものです。ふたたび捨て猫にするには忍びませんでした。雄でもいい、チャルが一匹で淋しく暮すよりはと思い直して、この雄猫を貰って、帰宅しました。  ご飯と牛乳を煮て、少しお砂糖をかけてやると、よほど空腹だったとみえて夢中で食べます。チャルは黒い小さい猫の突然の出現に驚く風もなく、そばに近づき、興味深げにじっと様子を見ています。連れてきてよかった、と思いました。  二日後、またH夫人があわて声で電話をかけてきました。 「同じ場所に、同じくらいの黒猫が捨ててある」  というのです。不思議な話だと思いました。今度はきっと雌にちがいないという直感がします。ぜひつかまえてほしいと頼みます。 「しかし、今日は息子がいない。どうしたらよいだろうか」  お年寄りでも非常にこどもっぽいところのあるH夫人は、おろおろしています。空腹にちがいないから、肉かハムを|囮《おとり》につかえばつかまるはず、と知恵をつけて、わたしはいそいで仕度をしました。  二日前に乗った市電にまた乗って、フタに着きました。H夫人とお隣りの老婦人とで協力してつかまえたという黒猫が、前と同じようにボール箱に|閉《し》めこまれていました。この前は猫好きの息子さんの手で、小さな息抜きの穴があけてありましたが、今日はきっちりと閉められています。あわててわたしは穴を少しあけて覗いてみました。まったく姉弟というよりほかないほど、大きさも色もそっくりな黒猫です。たしかに今度は雌猫だった、とH夫人は得意そうでした。  ワルシャワの外れ、フタの三Kのアパートに住むK夫人は、第二次大戦後、|満洲《まんしゆう》のハルビンから息子さんとふたりで引き揚げてきました。息子さんのお父さんは日本人ですが、戦争末期に日本に帰ってしまいます。混乱の時代です。鉄道病院の看護婦さんだった彼女は、苦労の末、ワルシャワに戻り、彼女がポーランド人であることの証明も受け入れられて、ワルシャワ市民となりました。  この男の子は父親とはなればなれになったあとも、小さいながら、自分は日本人であるとはっきり意識していました。鯉のぼりをあげた父親との思い出は今も鮮明に残っています。H夫人は再婚し、その夫と死別を経験する中で、息子を日本人として登録するための証明を求めて|奔走《ほんそう》します。ハルビンに住んでいた頃の教区の神父さんが、日本人H氏と円満な家庭を営んでいた、と証明してくれても、日本へ帰った実の父親の認知を受けないと、何も法律的な効用はないということでした。母親と同じようにポーランド人として登録する道がないわけではなかったでしょうに、彼はどこまでも日本人でありたいと思いつづけていました。  この男の子は無国籍のまま成人します。音楽好きでレコードのコレクターでもあったといわれる日本人H氏の血は、確実に彼に受けつがれました。音楽に夢中になった時代を経て、やがて芝居の道に入ります。   ワルシャワには世界でも珍しいユダヤ劇場というのがあります。ユダヤの言葉で劇が上演されるのです。失われた言葉であるユダヤ語で演じられる劇はほとんどの人がイヤホーンで聞きます。ワルシャワ市の中央、文化宮殿に近い、かつてのユダヤ人街であったグジボフスカ広場にあるこの劇場の中堅の役者となっているH夫人の息子さんのために、日本人であることの証明には何が必要であり、日本の大使館はこのような例をどのように扱ってくれるのか──こんな相談が、わが家とH夫人との接触の始まりでした。結果はこうでした。日本に住むH氏の住所が判明し、日本人留学生が通訳を買って出て、H氏との間に手紙の連絡がつきました。しかし、家庭のあるH氏は、もう過去のこととして忘れたいといって、とうとう認知の相談には乗ってくれませんでした。  少し波うつまっ黒な髪の、この日波の混血青年の彫りの深い顔は、憂愁とでもいっていいものが漂っていました。わたしの目をのぞきこむようにして、「無国籍者という人間がどんなものかわかりますか」といったときのことは、今も忘れられません。このあと彼は演出を勉強するため、演劇大学のコースにかよいました。  彼は一匹の猫を飼っていました。息子自慢のついでに、猫自慢までえんえんと話すH夫人のおかげで、どんなにいい猫であるかは想像していましたが、H夫人の家を訪れ、実物に会ってみて、そのみごとさにおどろきました。  今までわたしの出会った猫の中の最大級、体重七キロ以上にみえる堂々たる黒白の猫です。鼻のまわりに、|髭《ひげ》が黒々と生えているようなブチが|愛嬌《あいきよう》ともなり、威厳ともなっています。その上、うすみどり色のキッと張った大きな眼。日本人である、と強く思いながら、日本人になることのできない不思議な運命の持ち主が、心をこめて丹精したこれは「傑作猫」でした。そういえば、テレビで見る赤塚不二夫さんのところの菊千代に似かよっているところもあるようです。  H夫人との交遊のおかげで、チャルの未来のお嫁さんが日本人であるわが家にやって来たのも、不思議な縁というほかありません。   トマトの好きなナホ  H夫人に拾ってもらった仔猫は、二日前の猫とまったく同じくらいの大きさで。姉弟猫にちがいありません。女の子はぜひ家に残したいのですが、男の子は不要です。といっても、どうしたらよいのでしょう。  またまたお隣りのおフミさんが救いの手を差しのべてくれました。この雄猫を「長女のクリーシャがほしいといっている」と連れて行ってくれました。名前も付けないうちに、男の子であるという理由だけでわたしの|手許《てもと》を離れたこの雄猫は、わが家では一度も|粗相《そそう》をしたことがないのに、貰われて行った日からベッドのシーツの上でおしっこをするという失敗をしでかします。白い布の上だけにするというのです。クリーシャのところには、生後半年の赤ちゃんがいます。そのおしめの匂いに触発されてのことかとわたしは推測しましたが、あまりに粗相が度重なるので、この雄猫は、とうとう田舎へやられてしまうことになります。  クリーシャのご主人はトラックの運転手。出身はビヤウィストック近くの農家ということでした。たまたま荷物の都合で実家に立ち寄る時間があるとわかった日、この黒ちゃんは、トラックに乗せられて、田舎へ連れて行かれました。  農家に行ってからは粗相など一度もせず、丈夫に育っているとききました。半年もするとこの猫は、「ねずみも取らないが、ニワトリが庭を歩いていても追いかけない珍しい猫だ。さすがにワルシャワの猫はちがう」と田舎でも評判になっている、とおフミさんがきいて来ました。  庭や畑の、広々とした大地に、誰にも気がねなしでおしっこをしている、あの名なしの黒猫、短い縁とはいえ、チャルの将来の嫁の弟に当ります。新鮮な牛乳やタマゴ、手製のハムやソーセージを、たっぷり食べさせてもらっていることでしょう。都会に住むより、どれほど幸せかと思って、わたしは心から安心しました。  さて、この|雄黒《おすぐろ》の姉さん。姉さんと断定したくなるほど、この雌猫はしっかりした顔立ちをしていました。鼻筋が太く通っていて、アーモンド型の濃い黄色の眼が、きっと|吊《つ》りあがっています。耳が大きく立っているせいか、顔が小さく見え、この|吊《つ》りあがった眼が一層目立ちます。この猫は胸に一カ所、菱型の白い|柔毛《にこげ》を持っていました。チャルの毛色よりずっと黒くて、長く太い尾が、小さい躯をませて見せました。肛門がきゅっと締まっているので、胃腸が丈夫だな、と安心しました。  さて、まず名前です。わたしは即座に「ナホ」と名付ける、と言明しました。次男|尚史《なおふみ》の名前を取ったつもりです。早速反対の声があがりました。主人と長男芳穂の男性陣からです。亡夫の遺言に従って、十三歳の時にポーランドに留学させた長男は、ウッジ市の考古学者J教授の第六子として育てられ、無事高校を卒業してワルシャワ大学に入学しました。五年ぶりにわれわれと合流した長男は、大学提供のわが家の一室を占領して、学生生活を楽しんでいるところでした。  彼らのいうところはこうです。猫に自分の子と同じ名前をつけるのはおかしい、それに男の名前である、と。  しかし、ワルシャワに来るまで呼び馴れた名前を声に出さなくなって久しいわたしにとって、男の名前であろうが構わない感じです。日常生活の中に、「ナオや、ナオちゃんや」という音声が響かないのは、なんとしても不自然で寂しいのです。女らしく菜穂と思えばいい、そんな小説の女主人公もいるではないか。|断乎《だんこ》としてわたしは、小さな雌猫に発音はナオであっても、あえてナホと命名しました。  警戒心の極度に発達しているこの猫は、食事係りのわたしにさえなかなか馴れようとはしませんでした。その上、同類のチャルが、好奇心と愛情に充ちたやさしい面もちで傍に行くと、フウッーと歯をむいておどすほどです。チャルは驚いて後ずさりし、つくづくとナホを「あきれた!」といわんばかりに見つめます。  ナホが利口な子だとの直感は正しいようでした。彼女は実に注意ぶかく家じゅうを点検するのです。頭を低くして床の臭いを嗅ぎ歩く、本棚やタンスには二本足で立って背のびして眺め渡す。好奇心は押えられず、といって、さて大っぴらに探検するのもはばかられる。彼女が、わたしどもの目を盗むように、ひっそりと家じゅうを検査する様子は、チャルにはまったくなかったことでした。  ナホはすべての点でチャルと対照的でした。チャルのようにいろいろななき声で自分の意志を表わす猫も|稀《ま》れですが、ナホのように、ほとんどなかない猫も珍しいでしょう。この子は|聾唖《ろうあ》者かしら、と思うほどでした。チャルに向けてフウッーとおどす声で、どうにか声を持っているとわかるくらいなのですから。  食欲は旺盛でした。好ききらいの多いチャルにくらべ、彼女は魚でもマカロニでも、牛乳に浸したパンでもよく食べます。夏に入ってトマトが食卓にのぼるようになったとき、ナホの奇癖が発揮されます。不思議なことに、彼女は大のトマト好きだったのです。ある朝、トマトの少々かたい皮を食べ残してテーブルの端に置いたとたん、ナホが素早く爪に引っかけて下におとすと、ペロリと食べてしまいました。 「トマトが好きなの」  とお皿に取り分けてやると、おいしそうに平らげます。またお代りしてやると、それも食べてしまいます。赤いきれいな色のトマトと黒猫との取り合わせは、わたしにとってなんとも珍奇なながめでした。  ナホは一体どんな家に生まれたのだろうか、と考えるきっかけになります。ポーランドは野菜の公定値段がきちんとあって、夏の出盛りにはトマトは一キロたったの五ズロチ(約五十円)と安くなりますが、冬から春先きには温室もののみとなるせいか、十倍の値段、時とすると出盛り期の二十倍にもなります。ナホの生まれた季節を逆算すると、彼女は二月から三月にかけて生まれているはずなのです。彼女がわが家に来たのは五月の初旬ですから、ものを食べはじめた時期、そして猫の|嗜好《しこう》が定着する生後二カ月の頃は、トマトの最も高価な時期に当ります。  ナホの生まれた家には春先きなのにトマトがあったとなると、ポーランドの平均的収入を上まわる相当裕福な家庭にちがいありません。それにしてはナホからは愛情のある家庭に育ったおっとりした風が見られません。普通、二カ月、三カ月の猫なら、わたしの掌の中にぽっくりと包みこんで、やさしく話しかければ、二、三日で馴れるものなのに、彼女は世話係りのわたしにもなかなか心を許しませんでした。  二匹の黒猫をあっさり捨ててしまう家の人にとって、彼女と弟は招かれざる客だったに違いありません。ポーランドでは黒猫が行く道を|遮《さえぎ》るときは不吉だとしていったん家に戻って出直す風習があるのですが、また一方には、黒猫は幸福をもたらす、ともいって珍重します。まして二匹とも黒の毛なみの美しい猫なのです。  ナホがチャルの仔を生んだときに、この謎は解けました。ですから、この話は後にまわしましょう。  嗜好についてはチャルの方がもっと変っていました。日本の|海苔《のり》が大好きなのです。日本からのお客さまは、軽いせいもあってか、お土産には海苔というのが多いのです。なに気なく、いたずら心でチャルの鼻先きに持ってゆくと、これはいいとばかり、パリパリと一気に食べてしまいました。そして更にねだります。磯の香り、海の香が彼を捉えたのでしょうか。幼年期に覚えた味とちがって、これはまったく彼の嗜好に|叶《かな》った味といえます。  ガス台で海苔をあぶっていると、匂いをかぎつけてさっと駈けつけてくるようになりました。焼海苔の場合はカサカサと折る音だけで、海苔とわかると見え、どこにいても派手に鈴を鳴らして急いで駈けつけます。  そのうちに古くなって少々しけた海苔よりも新しい海苔の方が一層おいしいことがわかるようになります。焼いている時の駈けつけ方が違うし、食べる時の夢中さも違います。海苔の微妙な味がよくわかるチャルは何か普通の猫より高級に見えてくるから不思議です。  チャルが|美味《おい》しがっているのを見るのが楽しくて、|戴《いただ》きものの上等の海苔を自分の食べる分まで、ついつい食べさせてしまいます。そんなとき来合わす日本人の留学生は、目をむいて、もったいないと抗議の色を見せたものでした。   夜なかすぎの家出  チャルが人間の傍を離れないのにくらべ、ナホは探検のすんだ戸棚の上や本棚の上など高いところに行っては坐る習慣がありました。彼女はじっと思慮深げな面もちで、わが家全体を観察しているようでした。  ナホのきつい性格から、チャルの夜の居室である浴室に二匹だけとじこめることはためらわれました。しかし、夜は夜、猫好きとはとうてい思えぬ主人のことを考えると、人間の時間も大切にしなければなりません。もう一部屋わたしのための部屋があったなら、わたしは自分のベッドに二匹を入れて、夜の間じゅう一緒に過したでしょうが、大学支給の四十六平米のアパートでは、それは叶わぬ|希《のぞ》みでした。  夜の時間だけにせよ、チャルとナホだけのとじこめ時間は、よい方へ向いました。日ごとにナホがチャルに心を開いてゆくのがわかります。チャルが近づいても、いつの間にかフウッーが出なくなりました。しかし、チャルはもう充分に大人で、時には好色の気持も起るのでしょうか、こどものナホにいかがわしい行為を試みようとすることがあります。その時には、ナホはまたみごとにフウッーと|逆毛《さかげ》を立てて、歯をむいて怒りました。チャルは失敗だったかな、といわんばかりに隅の方へ下って、ちょっと照れたような恰好でナホを眺めたものです。  ナホの性格の中には、何か|厳《げん》とした|姉《あね》さんらしい利発さがありました。一歳半のチャルよりも、半歳のナホの方が、わたしにはおとなびているように見えました。  そのうえ、ナホはなかなか潔癖でした。チャルと共用のお小水場はごめんこうむりたいという気持がみえみえで、仕方がない、といわんばかりにしぶしぶ使います。そのうちにお便所用の新聞紙を細かく裂く音がすると、さっと駈けつけるようになります。イの一番に、さも気持よさそうに新しい紙の上に坐ります。  朝、わたしがうっかりお便所そうじに気がつかずにいると、箱の前に坐ったまま待っています。早く取りかえてくれないかな、といった顔で我慢しているのです。わたしがようやく気づくと、なき声の催促こそしませんが、早く取りかえるべきです、といわんばかりにじっとわたしの顔を見上げます。チャルはそのへん|鷹揚《おうよう》で、ナホの後でも平気で用を足しました。  ポーランドのアパートの下水管は太く、ごわごわした新聞紙でも、細かく裂いてありさえすれば、一回ずつ流す分を平気で飲みこんでくれるので助かりました。  こんな平和な日々が続いているある夜、チャルとナホが脱走? します。  毎月一回開く「ソーダン」という恒例の飲む会が、この月の番はわが家に当っていました。夕方六時から夜半の十二時までに、各自持参の一本のウォトカを空けるほど、つまりドドナ(底の底)まで痛飲するというポーランド式の宴会です。その夜は日本からのお客さまもあって話がはずみ、お開きになったのはもう一時近くだったでしょうか。  お客さまを送り出すまでなんとか持ちこたえていた酔いが、わたしの頭を|朦朧《もうろう》とさせてしまい、辛うじてベッドに倒れこむという有様です。夜明け、ふと水が飲みたくて目が覚めました。台所へ行って、ゴクゴクと水を飲み、お手洗いに行きました。猫たちがいません。二匹ともまったく姿が見えないのです。あわてて居間に戻り、椅子の下まで探しましたが、やはり二匹は消えています。  だんだんと頭がはっきりしてきます。チャルはお客さまのいる間、確かに一緒だった。ナホは茶ダンスの上にいた。しかしその後がわからない。  お客さまが次ぎつぎに出て行くドアから、ナホがまず外に出たにちがいない。チャルがその後からついて行く。それにしてももう四時間経っている。だんだん頭がはっきりしてきます。どこへ行ってしまったのか。アパートの外へ出てしまっていたらと思ったとたん、酔いは覚めはて、よく眠っている主人のところへこの一大事を知らせにとび込みました。眠りたがり屋の主人も、事の重大さに驚いて起き上ります。どんなに朝早くても、お隣りを起すよりほかありません。おフミさんは呼鈴の音に何ごとかと寝巻のまま出てきました。一部始終を短く話します。彼女も驚いてすぐ仕度してくれます。三人で手分けして一階一階探すこととなりました。  おフミさんは、 「猫は必ず階段を上に行ったにちがいない」  と断言します。 「下におりることはまずないと思うから、上に行ってみましょう」  ということになりました。  北棟の六階の入口の扉のかげの暗い所に、ナホが小さく|蹲《うずく》まっているのを、間もなくわたしが見つけました。しばらくすると、十一階にいたというチャルをかかえて、おフミさんがおりて来ました。十一階の朝の早い工員さんの家族が、廊下をうろつき歩いているチャルを見つけてくれたそうです。いつも黒猫を抱いて歩いている日本人の猫だと思ったが、部屋の番号がわからないので、出勤の前にドゾルツァにたずねるつもりで、とりあえず部屋の中に入れたのだそうです。しかし、ドアの前でこの猫がなき騒ぐので、おフミさんの探している声にようやく気づいたといいます。  チャルの人なつこい性質と、やさしい工員さんの気持が重なり、一件落着を迎えることができました。わたしが思いがけなく、朝早く目覚めたせいで、大事に至らずにすんだのは不幸中の幸いでした。  昨夜、お客さまと別れの挨拶を交わしているちょっとの隙に、利発なナホがドアからぬけ出し、チャルがそれに続いた、というわけなのでしょう。しかし、ナホはすぐ身の危険を感じて、さほどうろつかないうちに、じっと坐りこんだにちがいありません。チャルは冒険心に動かされて、上へ上へと昇り、あちこちの匂いをかぎながら、夜半の散歩をきめこんだのでしょう。  主人は眠り直しにベッドに入りました。わたしとおフミさんは興奮している猫たちを抱いて台所に入ります。ドアを閉めてしまえば、少々話し声が高くても、主人の部屋には届きません。まず二匹に牛乳を飲ませてから、おフミさんは人間に話すように、こんこんとポーランド語でいいきかせるのでした。 「チャルもナホも|懲《こ》りたにちがいないのだから、許してやって」  とわたしの方が折れてしまいますが、彼女は、 「ちゃんと叱っておかなくてはだめですよ」  といいます。チャルはあまりしょげていませんが、ナホはおフミさんの言葉の調子に、耳を伏せてきいているようでした。  なぜ猫は階段をおりて外に出なかったのでしょうか。おフミさんは、猫は火事のときでも上に逃げる、ということを昔きいたことがあるそうで、とっさに階段を上って行ったにちがいないと感じたそうです。彼女の判断が無事、二匹を救ってくれました。  やれやれと、おフミさんとわたしは熱い熱い紅茶をいれ、ゆっくりと味わいました。急に下の方から自動車の走る音や電車の音が高く高くきこえてきました。 [#改ページ] シ レ ナ32   新しい家で  七〇年の十月、まる三年間住んだオコポーヴァのアパートから、シレナという街へ引越すことになりました。ワルシャワ市のシンボルである人魚のシレナと同じです。ほんとは格変化というものがあって「人魚の」という形になり、正確にちかく書けば「スィレニ」に似た音というのですが、ここではシレナと表記しておきます。 「そんな発音だとタクシーに乗っても家に戻れないぞ」とよく主人におどかされるほど、わたしにはもちろん、主人にさえ難しい発音でした。  オコポーヴァから歩いても十五分ぐらいの同じヴォーラ地区に建設された一大団地にある大学提供のこのアパートは、木立の中に見えかくれするように配置された小ぢんまりしたいくつかの建物の中の一つで、バス通りからも大分奥まったところにありました。自動車や電車の騒音にかこまれたオコポーヴァ通りからは考えられぬほど静かな環境です。  オコポーヴァではブラインドのない窓に射しこむ朝日に直撃されて、夜のおそいわが家は困り果てていたのですが、今度の部屋は二階(日本風には三階)と、アパートの中の低い場所にあるうえ、東南がお隣りの壁ですから朝日に起される心配はありません。西南側と西北側の二面の窓が、丈高いポプラの樹に向いて開かれていて、まわりのアパートの窓からのぞかれるおそれもありません。  ワルシャワに来て初めて得た静かさに、ようやく神経が休まります。アパートを換えてほしいと、根気よく大学側に申し入れてよかったと思いました。  環境はよくなっても、残念なことは、おフミさんという隣人と別れねばならないことでした。実をいうと、われわれの移転がきまる少し前、彼女は急に新しい職場が決まり、わが家のお手伝いもできなくなるほど忙しくなっていたのです。その彼女の新しい職場というのはキオスクの売子さんでした。  キオスクというのは、ワルシャワの街の中に|隈《くま》なく配置されている新聞雑誌の販売店ですが、トイレットペーパー、歯みがき、歯ブラシ、シャンプー、アスピリンまで日常生活に必要なものならたいてい揃う市民にとってなくてはならない便利なお店です。鉄道弘済会のお店みたいなもので、売店は網の目のように市内に配置されています。しかし、戦傷者や戦争被害者に優先されるこの店の権利を手に入れるのは、なかなかむつかしいとききました。  おフミさんは私営の貸結婚衣裳屋を開いていましたが、これはあくまでも自由営業です。何年つづけてもその働いた年数が年金に加算されることはありません。社会主義のさまざまなきまりを熟知している彼女は、何とか公営の働き場を、と前々から探していました。  家庭農園の行き帰りに乗り降りするコウオ(ワルシャワの西の外れ)の市電の終点に、閉めたり開いたり気まますぎる一軒のキオスクがありました。キオスクはよほどのことがなければ休めないはずです。そのキオスクの持ち主は病気がちで、休みが多いのでした。おフミさんはここの権利者と懇意になります。そしてアルバイトとして働くきっかけをつかみました。やがて、権利者は病気が重くなって引退を決意します。おフミさんは格別に安い権利金で、このキオスクの権利をゆずり受けました。  目はしのきく彼女は、こうして自力で公的な職場を得ました。もう安心です。彼女のこれからの働きは必ず、年金取得の条件に必要な年月として加算されるのです。ワイロやコネがまかり通るポーランドの労働事情の中で、彼女のような正々堂々とした職場獲得の例は珍しいのでした。頭のめぐりのよい、そしてポーランド人としては例外的に暗算の早いおフミさんには打ってつけの働き場所です。  普通、キオスクは朝六時から二時まで、二時から九時までの二交替制で、二人ひと組で当ります。夫婦で交替しているところもあれば、母娘で時間をはかり合って働いているところもあります。おフミさんは、この二人でやるところをひとりで受け持たねばなりません。夜九時まではとうてい出来ない話です。結局彼女は、朝六時開店、夜七時閉店とし、十三時間も、せまい売店に詰め切りという重労働をこなさなければならなくなりました。  お弁当を二食分と紅茶の入ったポットを用意して、朝の暗いうちに出かける彼女の姿は、寝坊のわたしの知らないところでした。彼女は彼女なりに、社会主義の体制の中で、振り落されまいと必死に働いているのでした。彼女がどんなに疲れていたことか、わたしは思いやる心に欠けていたと思います。お客の多い土曜日の翌朝、つまり日曜の朝、一時間でもわたしの手助けをしようと労を惜しまない彼女に甘えて、何かにつけてはお隣りのドアをたたくのが常でしたから。  せっかくよい環境に移転できても、この友人であり生活指導者でもある人と別れねばならないことは、わたしにこたえました。しかし、主人にもわたしにも精神衛生上から見て転居は必要でした。  七〇年の秋、新学期の始まる直前に、大学から廻されてきたトラックに乗り、チャルはわたしの腕に抱かれ、ナホはボール箱に入れられて、ワルシャワ生活の最初の三年間をすごした思い出深いオコポーヴァのアパートを後にしました。  新居に着いての最初の仕事は、「猫に注意」と大きな字で書いた紙を入口の扉に貼ることでした。「猛犬に注意」とはちがって、あけたドアから猫が逃げ出さないように気をつけてくださいという意味のつもりです。チャルについては心配はありませんが、おませのナホは要注意。すっかりナホが新居に落ちつくまで、玄関の出入りに気をつかいました。  近所のお店まわりはたいていチャル連れでした。オコポーヴァより店屋の配置が適切で、アパートの周辺だけでおおよその用は足りました。プリヴァトネ(私営)の八百屋もすぐ近くに二軒あり、その上、この地区にはパン焼工場まであったのです。  団地の外れにある一戸建てのこのパン焼工場は、|戦禍《せんか》の中に|僅《わず》かに残った赤煉瓦造りの昔のままの建物です。 「出来上りの時間に行けば分けてくれますよ」と耳うちしてくれた人にいわれたとおり出かけました。手掴みで取るしかない公営食料品店の山積みパンとちがって、焼き立ての香りがプンプン立ちあがるここのパンは、久しぶりに自由社会の味わいがありました。  シレナに住む間じゅう、わたしは時間を計ってはこの小さなパン焼工場へ出かけたものでした。ほとんどが共働きのポーランドの社会で、店へ|卸《おろ》す前の、ホカホカのパンを買える人は年金ぐらしのお年寄りぐらいのものです。公営企業のがっちりとはまった枠の中でも、こんな横流しはパン焼職人さんのお小遣い稼ぎとして大目に見られていたのでしょうか。  スパツェル(散歩)という言葉はチャルのいちばん好きな言葉です。「ホッチ(おいで)」という言葉がかかれば、胸に飛びあがる。軽く抱きあげるだけで決して下におりようとしないチャル、何にでも興味ありげに丸い目を見張っているチャルは、新しい町の行く先きざきで、ふたたびチヤホヤされはじめました。黒い髪の日本人だけでももの珍しく、人なつこいポーランド人は声をかけてきます。まして黒猫を抱いているとなれば、きっかけは簡単です。 「まあ、可愛い」から始まって、えんえんとお愛想をいってくれます。わたしにわかってもわからなくても、猫にはわかると思いこんでいるのでしょう。十分間ぐらいの立往生は当りまえでした。最後にはきまって、 「まあ、あんたはいいものをつけてもらっているのね」  といって、首にさげた銀の鈴を鳴らします。  猫がうれしさを表現するにはのどをゴロゴロ鳴らすのがお定まりですが、その上にチャルは全身でうれしさをあらわしました。チャルの腰を支えて抱いているわたしには、おしりをもぞもぞさせ、小刻みにからだをふるわせてほんとに喜んでいるのが直接伝わってくるのでよくわかるのでした。  ナホは今度の家を自分の新しい家と納得したとみえて、一週間もするとドアがあいても外へ出ようとはしません。わたしとチャルが連れ立って外出しても、うらやましげな顔ひとつ見せず、自分は自分と割り切っていつも静かに留守番役に徹します。ナホはすべてにおいてチャルと対照的でした。チャルは首輪がよく似合うのに、ナホは首輪もリボンもおよそ似合わないのです。女の子だからと赤いリボンを首に巻くと、とたんに田舎娘の恰好になって、なんとも|様《さま》になりません。  どちらかといえば太くてみじかい首が胴長な躯につづいているせいでした。それでもやはり飼い猫らしくしてやりたいと思います。赤い中細の毛糸を一本、ほんのおしるしに巻いてやりました。これならなんとか見られます。いくら似合っても、チャルの首輪は昼間だけでした。夜寝る前に必ず首輪を外したのは、鈴の音がうるさいというよりも、夜なかまで首輪をつけていては可哀そうに思ったからです。首輪を外すときがおねんねの合図、二匹の寝室であるお風呂場の扉は翌朝まで閉められます。  ある朝起きてみると、もう二匹とも居間にちょこなんと坐っています。明け方、お手洗いに立った主人がお風呂場のドアを開けてやったのだろうと思いました。次の日も、また次の日も同じように、居間のソファの上で二匹は満足そうに躯をなめあったりしているのです。主人も大分猫に甘くなって、閉じこめるのが可哀そうになってきたのだな、と思わずにやりとしてしまいました。  しかし、主人は明け方、トイレに行く習慣がないのに気づきました。そこで主人にたずねてみました。主人は明け方起きることもなく、ましてや猫のためにお風呂場のドアを開けてやった覚えもまったくないといいます。ナホの仕業ではないかと思いました。しかしどうやってドアをあけたのでしょう。  実験してみることになりました。まず二匹を台所に閉じ込めました。居間を通して台所の扉と向いあっている部屋にかくれ、部屋の扉を細目にあけて、じっと様子を|窺《うかが》います。夜でもないのに台所に閉じこめられて、チャルは不服にちがいありません。調理台に飛びのったり、ガス台からとびおりたり、落ちつかない様子が鈴の音からわかります。その時、二度ほど扉にぶつかるような音がしました。そして三度目、カチッという音とともに、ドアのくさび型のノッブがまるで姿の見えない妖精の手にかかったように下に向きました。そしてドアのおへそが外れる音がします。ナホの鼻先きが現われ、次いで肩でドアが押されて開き、先導者の得意気な恰好で部屋に入ってきます。チャルが後からニコニコ続いてきます。   目利きの梶山さん  ナホの利口なことは前からわかっていました。ごはんの時、お坐りすることを、「ちゃんと」と教えると、次からきちんと腰をおろし、前足をそろえてお行儀よく食べますし、食べ散らかすこともなく、お皿の端から食べ進みます。「ニエ(だめ)」は一度で覚え、椅子の背やじゅうたんで爪をとぐこともしません。甘ったれることを知らない情緒欠乏のところはあっても、この利口さはおおいに賞められるべきところでした。  人間がドアをあける仕草をよく観察していなければ、ドアの把手を下に向けると開く原理はわからないはずです。彼女は静かに坐りながら、いつもわたしどもの行動に細かく注意していたのでしょう。閉じこめられることに耐えられないチャルの工夫ではなくて、おとなしいナホの工夫であるところが、わたしにはおかしくてなりません。そして改めてナホの利発さに感心してしまいます。  ナホのおかげでお風呂場のしめ切りは解除となりました。一年も年下の、小さなナホの、こうした姉さんぶりに、チャルは甘えておとなしくなり、夜半のあばれ廻りをしなくなりました。閉じ込めずにすめば、その方がわたしの気は軽くなります。  シレナの家でナホは愛嬌はないながら、だんだんと娘になってゆくのがわかります。人間でいえば十三、四歳でしょうか。チャルはもう待ちきれずに、ナホをなんとか自分のものにしようとします。普段は二匹で仲よく舐め合っているのに、ことがセックスとなると、ナホのガードはきつく、背中の毛を立て、尾をふくらませた上に、フウッとすごい|威嚇《いかく》の声をあげます。チャルはそのたびにすごすごと部屋の隅に引き下がって、うらめしそうにナホの方を見つめます。  不満は、所きらわずのおしっこかけになります。オコポーヴァのアパートは青灰色のビニタイル張りだったので、雑巾でていねいにふき取れば痕跡も匂いも残りません。しかし、シレナの家は床が寄木細工です。「新しい建築になるほど、住宅の質が落ちてくる」とはワルシャワっ子の言ですが、シレナのアパートの方が古い時代に建設されたにもかかわらず、材料も手間もかかっています。チャルのおしっこかけを、すぐに雑巾でふいたとしても、寄木の床にワックスを塗ってピカピカに磨いても、おしっこの痕や匂いはゆっくり木にしみつく感じで、少しずつ家の中が獣くさくなっていきます。  十一月に入ってから、ナホの態度が微妙に変化してきました。チャルが首をつかまえて噛んでも怒らなくなり、じっとしているようになります。チャルがその気になれば、結婚は簡単なはずです。しかし、チャルは首を噛んでもどうしてよいかわからぬ、といった風情で、困った顔をしてぶつぶついいながら止めてしまうのです。  ちょうどそんな頃、作家の梶山季之さんがワルシャワに来られ、わが家でおおいに飲み交わす機会がありました。梶山さんはわが家の黒猫の幼い恋愛ごっこを見て、 「なさけないな! お宅の雄はセックスの仕方がわからないらしい。教えてやらなければならないんじゃないかな」  と笑いながら二匹を見ていましたが、 「これは二匹ともシャム猫の血が入っている猫ですね」  と確言します。動物病院で時たま出逢う美しい茶のぼかし模様の水色の目のシャム猫と、一体どこが似ているのかな、とチャルとナホの顔をしげしげと眺めましたが、まっ黒な二匹から、シャム猫を思い描くことはできません。ただチャルの緑色っぽい目の色は、空色と黄色のミックスかも知れないと、ふとかすかな思いがよぎりましたが。  この日、公式招待の見学を早やばやと切りあげた梶山さんはわが家に腰を落ちつけて飲みはじめました。お昼の十二時から夜中の十二時頃まで、えんえんと楽しい酒盛りがつづきます。こんなに長い時間、飲み食べかつしゃべったのは、ワルシャワ生活の中でも珍しいことでした。時の流行作家が、旅先きで得た稀れな休憩時間だったのかもわかりません。ゆったりとソファに腰をおろして、実に楽しそうに二匹の猫のじゃれ合いを見ておられました。客好きのチャルは、ソファにあぐらをかいている梶山さんの膝の間のくぼみにおさまって、うれしそうに首すじを撫でてもらいました。梶山さんは改めて、つくづくと、 「この猫は完全にシャム系統だな」  というのでした。  梶山さんに笑われてしまうほどのセックス下手のチャルは依然としてナホが許すにもかかわらずもたもたしています。ある夜、わたしは甘い声ひとつ出したことのないナホのなんともやさしげな声をきいて、居間の戸をそっと開けました。そこにはようやく一人前の女になったナホが、チャルを誘っている姿が見えました。  ナホはじゅうたんに背返りしながら身をくねらせているのです。くねらせかたも普通の背返りとはまったくちがう、コケットという言葉が当るかどうかわかりませんが、チャルに|媚《こ》び、チャルを誘惑する求愛の背返りでした。成熟した、おとなになった女の内的欲求の正直な表現です。それはそれは美しいみものでした。  ナホが一人前になった、わたしは主人を呼び起し、おとなになったナホの愛らしい姿を見せました。しかし、こんなにナホが誘うのに、チャルはかえって尻ごみしてしまいます。この状態が二日もつづきます。愛くるしい女の求愛の姿が、だんだん物狂おしくなってきます。あられもないという言葉そのまま、部屋の隅でつぎつぎとさまざまな|媚態《びたい》でチャルを誘うナホを見ていると、動物の持つ自然の欲求の素直さに脱帽という感じでした。  十一月のなかばのある夕方、チャルとナホの結婚は完了しました。この一週間、自然の成りゆきながら、息のつまるような毎日でしたから、ようやくほっとしました。「梶山さんに無事結婚完了と手紙を出さなくてはね」と主人とわたしは話し合いました。  ナホの変身ぶりには目をみはるものがありました。甘えることを知らなかった彼女が、わたしの足もとにまつわりつき、首をすりよせてきます。背中を撫でてやると、のど声を出してうれしさをかくしません。短く小さい声ながら、ごはんがほしいと意思表示もします。姉さんぶっていたナホが、急に姉さん女房的になって見えるのは、自分の躯を舐めるだけでなく、チャルの躯もていねいに舐めてやるからでした。チャルよりもひとまわりもふたまわりも小ぶりなナホ、人間の年齢になおせば十五、六歳の少女にすぎないナホがチャルと抱きあって昼寝をしている姿は、動物にも家族を作る権利のあることを、わたしに教えてくれるのでした。   出産のドラマ  この年は七〇年、十二月事件が起った年です。十二月十四日から始まったグダンスクやシチェチンのストと暴動さわぎは、たちまちわが家を巻きこみます。西側から、モスクワから新聞記者の訪れが後を絶ちません。大学は早やばやと冬休みになります、主人もジャーナリストとして、この機会をフルに使わねばなりません。夜半の二時三時、テレックスを打ちに市内中央まで出かける主人につき合って、わたしにとってもワルシャワ生活はじまって以来の忙しい毎日がつづきました。  世の中のあわただしさとは無縁に、チャルとナホは甘い新婚生活を送ります。妊娠の徴候があきらかになり、食欲も旺盛になって、ナホは急にひとまわり大きくなります。少女の堅い殼を破ってからのナホは、身体も心もぐんぐん大きくなってゆくのが、毎日見ているにもかかわらずわかるほどでした。  こうしてワルシャワで迎えた四度目の冬は、例年にない寒い年だったにもかかわらず、北国ぐらしに馴れた上に、わが家独特の、社会主義国で楽しく暮す方法ともいうべき暮しかたがまがりなりにも確立した時期に当ります。  |杓子《しやくし》定規な体制、慢性的な消費物資不足を|逆手《さかて》に取って、わたしなりの工夫生活が、ようやく軌道にのりはじめたのです。『ワルシャワ貧乏物語』でこの話はすっかり書きましたから繰返しませんが、手作りの食品がたっぷり手もとに貯蔵してあるおかげで、貧しいいじましい気持が影をひそめ、生活にゆとりが出てきたことも多少の効がありました。しかし、何よりも、チャルとナホの仲むつまじいひと組が、いつも家の中を動きまわり、誰にも気がねなく日本語でおしゃべりするわたしの話相手になってくれたことが、満足度の最大の源でした。  シレナの街に移ってきてうれしかったのは、われわれが「おばあちゃま」と呼んでいた「ソーダン」の仲間のひとり、日本|贔屓《びいき》で日本の童話の翻訳もなさるJ老夫人が、同じシレナ通りにあるドム・レンチスティ(年金生活者の家)に移ってきたことでした。  日露戦争の直後、ポーランド人ながらその当時のロシアの武官だった夫の日本赴任に、新婚の妻として伴われた彼女は、まだ十七歳だった由です。鎌倉に住み、一女をもうけた新婚の数年間の楽しい生活は、彼女を一生日本と結びつけました。一九一九年、ワルシャワ大学に日本語の講座ができるとともに聴講生となります。ご主人が亡くなった後は、日本の昔話の翻訳や日本の風習について書くのを楽しい仕事としていました。数えてみればあのとき八十四歳という年が割り出せたのに、誰も彼女がいくつか知りませんでした。 「彼女は絶対に自分の年を教えたことがない。本当の女ですからね」と�ソーダン�仲間のSさんはウインクしてわたしにいったものです。背筋をしゃんと伸ばし、いつも身ぎれいにしている彼女から老女のイメージはまったくありませんでした。おしゃれもなかなか上手で、きれいな色の日本のマフラーなどさし上げると、こどものように喜んで、実にシックに身につけてくれるのです。  灰色と水色のまざりあったうす紫のような眼がやさしく、ものごとに興味を持つ無邪気な娘のようなところがあります。昔はどんなに美しい顔だったことか、|眼窩《がんか》は落ち窪んではいても、その細面の顔には長い人生の年月が|培《つちか》った品格が備わっています。バレリーナだったひとり娘を癌でうばわれた彼女は、婿にあたる人と二人で暮していましたが、その婿さんに女ができ、出て行けがしに彼女につらく当るようになります。彼女は日本から持ち帰った大切な家具調度類も婿に取られてしまいます。友人たちの奔走がようやく実って、身のまわりのものだけ少しを持って、ようやくこの老人ホーム入りしたところでした。  年金のほとんどは施設への入居料、改めて毎月与えられるお小遣いだけが彼女の自由になるお金です。ワルシャワ市内にある典型的なこの老人ホームは、見学にくる人も多いのか、社会主義の建前である老人福祉のモデルケースのように、看護婦さん、お医者さんつきのなかなか立派なものでした。  彼女は図書係りとなって一定時間働くことに楽しみを見いだします。常勤のケースワーカーである美大出の若い女性も、J老夫人には尊敬の念をもって相談相手になってもらっていました。入居してくる老人たちの過した生活はさまざまで、彼女のようなインテリは少く、必ずしも心休まる安住の場所ではなかったでしょうに、彼女は老人ホームの生活を積極的に実りあるものにしようとしていました。ある時など、彼女は日本週間を企画し、日本大使館から写真や絵など資料を借り出したものです。そのうえ、わたしにはいけ花の実演をぜひとたのみに来ます。ホームの老人たちにいけ花を見せ、日本の音楽をきいてもらった「日本週間」と名づけたこのささやかな行事は、文化使節の名で大がかりに開くどんな行事よりも心暖まる思い出です。  歩いて五分のところにわたしどもの家があるのは、彼女にとってうれしいことでした。彼女は大の猫好きです。「猫の顔を見たくて」という口実でよく訪れて来るようになりました。そんな時、彼女は乏しいお小遣いの中から、必ず季節のお花を手にしてくるのです。クリスマスにはちゃんと可愛らしい猫の描かれているクリスマスカードがわざわざ送られてきたものでした。  ママコチャ(ネコおばさん)という可愛いポーランド語も彼女から覚えたものです。  最晩年を迎えた日本びいきのJ夫人にとって、チャルとナホのカップルを見るという口実を作ってとりとめのない話に三、四時間を過してゆく──こうした時間は、何にもまして楽しい時間だったにちがいありません。わたしにとっても実のおばあちゃんと一緒に過したような暖かい想い出となりました。  十二月事件が政権交替を生み、新しい指導者のもとに迎えたこの年のクリスマスは、何か期待が持てるという気分にみなぎっていました。ようやく雪も本格的に降り出して、年が明けてからは|寒波《ムルース》が何度か繰り返しやってくる、ポーランドらしい冬となりました。  初めての妊娠のせいか、ナホのお腹はそれほど目立ちません。胴長で尾が太く長い彼女のお腹は横にひろがらず、床の方に下っているせいか、歩いている姿を上から見おろすと、前より太ったといったくらいの恰好でした。しかし、だんだんと落ちつかない様子が見えてきます。チャルがそばに寄ってくるのが|煩《わずら》わしいといわんばかりに、本棚の蔭にかくれたり、ベッドの下にはいりこんだりします。  ある日、 「ナホにやられた!」  と主人が叫びました。何ごとならんとかけつけると、本棚の下段の、本の後に、新聞雑誌を細かく噛み砕いて、ナホが産床を作ってしまったのです。主人が叫んだのは、その破かれた中に一冊大切な雑誌があったからでした。ナホに代ってあやまったものの、この雑誌一冊だめにされたことでは、珍しく主人はあとあとまで愚痴りましたから、よほど大事なものだったのでしょう。  お産が近いことをナホは動物の本能で知り、自分自身で産む場所を作っていたのです。自然が命じる行動とはいえ、つい三、四カ月前にはこどもだった彼女が、独立独歩、飼い主に頼らずひそやかに産床の用意をすることに、わたしは驚くよりほかありませんでした。改めて民芸店で見つけた柳編みの籠に清潔な布を敷いてやり、「紙を破くのはだめ」とよくいいきかせました。利口なナホには、ちゃんとわたしのいったことがわかったとみえ、それ以上の紙かじりはしませんでした。  一月十七日の明け方、ねているわたしのふとんを鼻先きで押しあげて、ナホがわたしの寝床に入ってきました。この頃、主人は隣りの小部屋を勉強部屋と寝室とかねることにし、わたしの部屋は猫の寝室にもなっていました。柳の枝で編んだ籠がふたりの寝床ときまっていたのですが、チャルはひろびろとしたところが好きなのか、たいてい居間のソファに大の字になって、そっくり返ってねていました。ナホの方から積極的に甘えるということがまったくなかっただけに、ちょっとびっくりしたものの、ようやくナホもわたしに心を開いてくれる時が来た、とうれしくなります。  ところが、ふと見ると、シーツの上に血が一滴つきました。お産が始まる、ナホはわたしに手伝ってもらいたいのだ、と気づきました。ナホがわたしを頼ってきたからには、面倒を見てやらなくてはなりません。おどかさないように静かに起きて、大きなバスタオルを浴室から持って来て、シーツの上に敷きました。「猫のお産にお腹をさすってやるくせをつけたら大変、いつまでもさすらせられる」といった母の言葉が浮びましたが、くせがついてもいいではないか、お産の苦しみが少しでもやわらぐならば、とすぐ思い直して、動きはじめたお腹をさすることにしました。人間の陣痛と同じ、間をおいてお腹の横の方が突っぱってかたまりが動く、そこを静かに撫でてやると、ナホはありがとうというように眼をつむります。  五度、六度、強い突っぱりがあったと思ったとたん、股の間に半透明のオブラートのようなものに包まれたかたまりがつるりとすべり出ました。次いで、黒紫のアンコ玉そっくりのキラキラと光る膜に包まれたものが出てきました。瞬間ふっと生ぐさいにおいが鼻先きを通りすぎました。ぬるりとした薄い膜の中に黒い小さいねずみのようなものが手足をちぢめているのが見えます。ほんの少しの血がタオルをよごしただけで、出血らしきものはありません。  ナホが肩から頭を立てて最初にしたことは、薄いこの膜を舐めることでした。鼻の先きをまず舐め取ったのにはおどろきました。すぐ息ができるようにすることをどうして知っているのでしょうか。次いで、頭からからだへと、全部うすい膜をなめ取って食べてしまいました。全部舐めとってきれいになっても、水からあがったばかりのように仔猫の毛はびっしょり濡れたようにねています。少し色の変ってきた胎盤と仔猫を結んでいるへその緒を噛み切ると、そこでナホはちょっと息をつきました。わたしも、息もつけないほど見つめていたので、ひと息つきます。  何回か襲ってくる陣痛のいたみに、苦痛の声をひと声出すわけでもなく、生まれ出たものの始末まできちんとやってのけたナホの出産に立ち会う羽目になったことを、わたしは心ひそかに感謝しました。主人は血を見てもこわい人ですから、黙ってお産が終るまで静かにしておこうと思いました。  一時間半ぐらいの間に、つごう四匹が生まれました。三匹目にはまっ白な仔猫が生まれたのには驚いてしまいました。外へ出したことがないから、ナホのご主人はチャルだけなことは明らかです。不思議とは思っても、今はそれ以上考える時間はありません。一時間でも二時間でも、この自然のドラマを見ていたいと思いました。主人はまだよく眠っているとみえて隣りの部屋の物音はありません。浴室にタオルを取りに行った時、チャルはソファの上で丸くなってねていました。   「メンデルの法則」とは?  明け方から三時間ほど、わたしはナホにつき合いました。目も見えない四匹がナホのお乳を鼻先きで探して、乳首にとりつきます。まだ毛がぬれたままの最後の仔猫を、たんねんに舌でなめるナホからは、ゴロゴロと今までにないムルーチの声が聞こえてきます。  そしてひろげたタオルの上には血痕が少々残ったきり、胎盤のひとかけらもありません。実にみごとなお産です。くたびれたナホにミルクを少し温め、お砂糖を少しまぜてお皿を口もとにあてがって飲ませます。手を洗ってソファにねているチャルを抱きあげて、 「のんきもの、お前はもうお父ちゃんだよ」  といってやりました。  一月十七日はワルシャワの解放記念日です。正午になると、全市いっせいにサイレンが鳴りひびきます。一九四五年一月十七日、ワルシャワ蜂起から五カ月後の瓦礫の町ワルシャワは、ソ連軍とポーランド国軍によって解放されました。この日からワルシャワの再建が始まるわけです。  四匹の仔猫の生まれた日を、きちんと覚えていられるのは、この記念日のおかげです。  起きてきた主人にざっと説明してわたしの寝床のナホを見せました。ナホは心もちやつれた顔ですが、はればれときれいでした。  この日の正午、記念のサイレンの鳴るころ、仔猫たちはふわふわと毛が立って、三つの黒い毬とひとつの白い綿毛のようなかたまりが、もうナホのお乳をうばい合っていました。  さてチャルです。チャルと仔猫とのご対面はみものでした。ナホのお腹の中でおとなしく四匹がかたまってねむっているところへチャルを連れてゆきました。チャルはおそるおそる近づいて、まず匂いを嗅ぎます。ナホがチャルの頭を舐めて挨拶します。ナホの躯が動くと、早速仔猫たちが動きはじめました。かたまりがほぐれて、それぞれいいお乳にありつこうと、見えない目でこそこそ動きます。するとチャルは目をまん丸くして後ずさりするではありませんか。初めて見るものに対していつも積極的に、あまりこわがらずに近づくチャルが、この得体の知れない動きまわるかたまりに、ちょっとひるむ様子を見て、主人は、 「わかる、わかる」  と笑いながらいいますが、ナホの苦労を知っているわたしにはなさけない父親と見えてしまいます。それでもナホが食事に出てくると、傍に付き添って首筋やからだを舐めてやるので、まあまあと許してやることにしました。  黒い三匹は問題はないとして、三番目に生まれた白い猫は突然変異なのでしょうか。  その謎が解けるのには、更に一週間かかります。白はなかなか|活溌《かつぱつ》で、お乳を飲むのも上手なようでした。ナホは白も黒も分けへだてなくよく面倒を見ます。|下《しも》の始末も全部なめ取って、柳の編み籠の中はきれいに保たれています。一週間目に白猫の耳先きがよごれているのに気づきました。耳先きだけでなく、鼻のあたりがなんとなく灰色がかって見えます。「おかしいわね」といううちに、二、三日経つと、四本の足先きも薄墨を|刷《は》いたようになってきました。わたし自身シャム猫のこどもを見たことがないので半信半疑ながらシャム猫ではないかと、おそまきながら気がつきました。ようやく開いた両眼は濃い灰色です。  チャルを見て、「これはシャム猫の系統」と梶山さんが確信をもっていった言葉を改めて思い出しました。「メンデルの法則」という言葉を、主人と私は共に思い出しました。改めて百科事典を引っぱり出して調べると、二分の一ずつの遺伝子を持っているもの同士の結婚では四分の一の確率で二代前の遺伝が現われるとあります。するとチャルもナホも黒猫ではあっても、両親のうちのどちらかがシャム猫でなければなりません。  どちらの黒猫も偶然の成りゆきでわが家の一員となりましたが、二匹ともシャム猫を片親に持つという偶然が更に重なったことになります。であったからこそ、三匹の黒猫と一匹のシャム猫が生まれたのだと、ここに至ってようやく主人もわたしも納得します。  ポーランドでシャム猫を飼っている家といえば、ほぼお金持かインテリか社会主義国の中の上層部の党員かと考えられます。そこに生まれた黒猫の運命、つまりチャルとナホが担った生い立ちの推理をしてみましょう。  わたしの推理はこうです。シャム猫を見せびらかすように飼っている家に生まれたチャルは招かれざる客、不必要とばかりまったく小さいとき捨てられます。あのオコポーヴァのドゾルツァの息子が拾ってきたのでしょうか。おかみさんか、それともあのドゾルツァが、|武骨《ぶこつ》な太い指で綿に含ませたミルクを吸わせたのでしょう。目が開くか開かないかの十日目ぐらいの時に、チャルは捨てられた可能性は大きいと思います。  人間の声を母猫の声ときき、抱きあげられ、肩にのせられ、町を歩く。ごくごく幼い時の習慣が、チャルを犬のように人間に馴れた猫に仕立てあげた──と考えられるのです。  充分に母乳を吸っていない仔猫ほど、飼い主の胸で乳もみをしたり、ハンケチっ子とでもいってもいいような、布を唾でぬらしながら|恍惚《こうこつ》とする動作をするものです。チャルの甘えぶりは、母猫から離された時期が、よほど早かったにちがいありません。こう考えてくると、チャルが育つには並々ならぬ人間の暖かい手があったからこそと思われます。チャルがあのドゾルツァにとってどんなに大事な猫だったことか。推理から引き出したチャルとドゾルツァの関係を思うと、あの一家がチャルを手放す時の気持がどんなものか、今にしてようやくわかるのでした。  さて、ナホです。ナホが捨てられたのは生後二カ月半の頃でした。雌のシャム猫を飼っていたのは、羽ぶりのいいバディラシ(温室草花栽培者)かそれとも共産党員として政府の要職にあるような人の家かもわかりません。バディラシならば庭も広く、もう少しのんびりした猫になるはずです。やはり後者でしょう。家の中だけで飼っていたのに、ちょっと目を離したすきに、シャム猫は外の雑種猫と通じてしまいます。  生まれてきた猫のうち半分がシャム猫、半分が黒猫となります。困った困ったといいながら捨てるに捨てられないうちに二カ月半が経ち、母猫の方が仔猫を構わなくなる頃、誰かが拾うだろうとまず一匹を捨てます。次の日に誰かが拾ったことを確かめて、二匹目の黒猫を捨てます。その二匹ともを、わが家が拾うという不思議さ。ナホのトマトの皮好きの謎は、こうではないでしょうか。ナホが育った冬から春にかけて、高価なトマトを食べられる家はそう多くはありません。たしかにトマトを食べられる階級の家であり、|芯《しん》から動物好きではなくて、階級的シンボルとしてシャム猫を飼っているにすぎない成り上がり者の家、シャム猫だけにはチヤホヤしても、不要な黒猫にはそれほどの世話をしてくれなかった。猫に話しかけたり、やさしい仕草をしてくれなかった。ナホの情緒欠乏的性格はこんなところに原因がありそうです。絶えずまわりの眼を窺うような生活から、ナホの特別な利発さが生まれたといえないでしょうか。たっぷり魚や肉が与えられていたら、猫がトマトを食べるなんてあり得ないと思います。よほどお腹がすいていたからこそ、トマトに手が出たのだと思います。  そのナホみずからの意志ではなく、飼い主の意志によって捨てられ、またまったくちがう人間に拾われる。そして、同じような血を持つチャルと家庭を持つ。偶然とは、時にこのような不思議な縁を結ぶものなのでしょう。   育ちざかり遊びざかり  情感を表わすことを知らないナホが、四匹の子の母親になってからの、細やかな愛の表現を示す変身ぶりに、毎日がわたしにとっておどろきの連続となります。  昔雌猫を飼っていたので、猫っ可愛がりというものがどういうものか知っているとはいえ、改めて母猫というものが普通の猫とまったく種類のちがった愛のかたまりそのもののように見えてきます。  眼があいて、まんまるい毛糸玉のようなこどもたちが小さくなく声をきくと、チャルはようやく同族という意識を持ちはじめたようでした。  十日ほど経ったある日、ナホが食事に出た後に、こどもたちのうごめく籠の中に、おそるおそる入りこむチャルの好奇心に満ちた眼つきは今も忘れられません。  母親と思ってチャルの方へよたよた寄ってくる仔猫たちを見ても、もう後ずさりすることなく、ナホに代って舐めはじめたものです。舐められていい気持になって、おしっこをしはじめた仔猫の始末を、当然とばかりに舐め取ったのを、この眼でしっかりと見た時の驚きは、大声で主人に報告したほどでした。  父親という意識があるのかどうか、人間の尺度で計ってみても仕方のないこと、チャルは確実に家族という|摩訶《まか》不思議な|絆《きずな》を理解し、自分自身の役目を認識したのだと思います。  目がすっかり明いて、籠の中でピーピーなく仔猫に、それぞれ個性があらわれてきます。白のふくらんだ毛糸玉のような子は、手足、耳先き、鼻先きと、茶ともねずみ色ともつかぬ黒っぽい色が、|刷毛《はけ》でぼかしたように描かれはじめ、素人のわたしでも、これがいわゆるシャム猫であることに疑いをさしはさむ余地はなくなりました。この雄猫は、いつもナホの一番張ったお乳にかぶりつくせいか、ひとまわり大きく、ナホの長男の貫禄充分です。名前は「太郎」と決めました。  次の黒の雄は、顔のバランスがくずれるほど、がっしりと筋の通った特別大きな鼻の持ち主なので、「ハナ(鼻)」とつけます。  雌猫はふたりとも個性が乏しく、これといった特徴はありません。お隣りのおフミさんの末娘が仔猫たちを見に来たとき、「ミーシュカ、ミーシャ」と甘く呼びかけたものです。熊の赤ちゃんという意なのかもしれません。早速一匹は「ミーシャ」ときまりました。あと一匹の名前はなかなかつきません。一カ月経って家の中を動きまわるようになったとき、眼のまんまるなところが父親そっくりなことに気づいて、「チャルコ(チャルの子)」と呼ぶことにしました。  いよいよお乳だけではすまなくなりました。  ナホが自分の食べかけのチーズを籠の中に持ちこんだのが、わたしへの合図となります。仔猫が母乳以外のものを食べはじめると、母親は仔猫の下の始末をきっぱりと止めてしまいます。この時人間の手が必要となります。一日か二日間の注意と|躾《しつけ》が、その仔猫の一生を支配するほど大事な大事な時間なのです。これはわたしの娘時代に覚えたことでした。わが家では、姉の飼っている猫、母つきの猫とがいて、常にどちらかが仔を生んでいました。母は母乳離れの時期がくると、数日間はこどものように、 「そこはダメダメ、こっちよ」  と大声をあげて、右往左往するのでした。きちんと砂場のしつけが出来ると、店のガラス戸に「可愛い仔猫さし上げます」のハリ紙をはります。  姉は変り者で猫を叱るということがありません。ただ可愛い可愛いで、結局ふとんの上でのおもらし常習者が何匹かに一匹は出てしまいます。この躾の失敗猫はどこにも貰い手はなく、結局大きくなっても母猫といっしょに暮すことになります。  こうしていつも四、五匹の常住の猫のおかげで、わが家はにぎやかでしたが、お産が重なると、親子ともども、一ぺんに十二、三匹にもふえて、そのさわぎは大変なものでした。母はお魚屋さんと特約を結んで、魚屋が店じまいする時間になると、勝手口から威勢のいい声がして、|鯵《あじ》の中落ちやまぐろの切れ端がどっと届けられていました。  三十年のブランクはあるとはいえ、貰い手もないような猫にしては飼い主の恥だという母の教訓をわたしは覚えています。その上、わたしはナホの生活を見つめているうちに「猫の躾法」ともいうべきものを学び取っていました。ナホは実に面倒見のいい教育ママでした。彼女が仔猫を躾ける根気のよさに、わたしはただただ驚くのみでした。一例をあげると、こうです。  仔猫が開いたドアからバルコニーまでヨチヨチと歩いて行った時、ナホは黙って仔猫の首をくわえて室内に戻しました。しかし、仔猫は下界の物音に引かれてか、ふたたびバルコニーへ出ていきます。ナホは黙々と首すじをくわえて、また元の室内へ戻します。口がきけない動物にとって禁止を覚えさせるのは、ナホがくり返しくり返し同じ動作で示す母親の根気以外にないことがわかりました。ナホが五回までチビの世話をやいたところで、手伝いのつもりでわたしがドアをしめ切りました。  さて、お小水の躾をわたしがする番となりました。新しい新聞紙を細かに切って入れた水切り桶を居間の片隅に置きます。仔猫がちょっとでも暗い所へ入りこむ姿勢を見せるや否や、首筋をつまんで箱の中に坐らせます。何べんやってもなかなかそのチャンスはやってきません。四匹が思い思いの方向へ散って、遊びともお小水場探しともわからぬ恰好で動いているのを、ハラハラしながら見守るよりほかはありません。  ハナが戸棚の隅の方で、やみくもに床を引っかきはじめました。さあおしっこの合図です。首をつまんで箱に坐らせると、おとなしくちょこんと坐ってお小水をやりはじめました。これでハナの一生は大丈夫、わたしは満足感で大ニコニコですが、もうひとつ仕事が残っています。終ったとたん、飛び出そうとするハナをつかまえて、今やったばかりのお小水のそばに鼻をつけて、自分の匂いを覚えさせます。充分に匂いをかがせてから放します。  四匹の躾がすっかり終るまでは、仔猫の眠っている間だけがわたしにとって食事や洗濯をする時間です。動く仔猫から眼が離せない丸二日間がすんで、それぞれ無事にお小水場を覚えてから水切り桶を浴室のお小水場の定位置に置きました。  おしっこの躾はついても、大の方がみんなすむまでには更に四、五日かかります。これまでいつも舐めとってもらえたのは、母乳だけのやわらかい便だからでしょう。チーズのすりおろしや牛乳、やわらかく煮たマカロニなどを食べて、初めてかたいコロコロした便をした後、誰が教えるわけでもないのに土をかぶせるように一生懸命、新聞紙を手で寄せ集める動作をくり返す仔猫の姿を見て、思わず涙が|湧《わ》いてきたとしても、仕方ありません。長い長い猫と人間のつき合いの中で、こうした出会いの時を持つことによって、人間は自然の不思議を感じ、何となく謙虚な気持になるものなのでしょう。  チャルは好き嫌いがはっきりしていて、牛肉の赤身ならばごきげんです。そのほか、ハムやソーセージが好きで、お魚はあまり喜びません。そのうえ、人間と一緒に食べる癖がついてしまって、わたしたちが食事をしはじめると、空いている椅子にちょこんと坐ってしまいます。結局、小皿に少し分けて、人間と同時に食事するのが当りまえのようになってしまいました。  ナホは、チャルの残りでも、人間の残りでも不平ひとついわずに、きれいに平らげてくれます。  さて、仔猫の食事について考えてやらねばならない時が来たわけです。  肉やハムはポーランド人の大好物です。一応、公定価格がきめられているとはいえ、日本人のように薄くスライスした肉を二百グラム三百グラムと買うのとちがって、一キロ単位で買います。カトリックの風習で昼食に肉が付かないのは金曜日だけ。その日でさえ、お魚の代りに|鶏《とり》を食べる人が多いお国柄(魚はむろん「鶏」も肉の部類からはずされている)ですから、肉の消費量の多いことは相当なものです。  七〇年の十二月事件のきっかけとなったのは肉の値上げでした。八〇年八月も肉の値上げから始まりました。街じゅうの肉屋から肉がなくなるというハプニングが起るのです。  チャルのような肉好き猫を持つ飼い主にとっては、一時的とはいえ、困った時期となります。  肉にくらべて魚はまったく驚くほど安く、|鯵《あじ》などは一キロ十五ズロチ(約百五十円)で肉の四分の一以下の値段でした。安いし、猫にとっては一番いい|蛋白質《たんぱくしつ》のはずなのですが、これは入荷に|むら《ヽヽ》があります。遠洋航海がもたらす冷凍の鯵は、それこそタタキにしても干物にしても、|とれとれ《ヽヽヽヽ》とほとんど変らない時があるかと思うと、冷凍技術の関係からか、脂肪分が黄色く変色して、猫にも食べさせられないほどの代物なのに、値段はそのままという時もあります。入荷がストップすれば、二カ月でも、四カ月でも、鯵にはお目にかかれません。ポーランド人は鯵のゼンゴのトゲトゲをこわがって、鯵のことをオストロボック(刺腹魚)の名で呼び、敬遠する気配です。  仔猫たちに与える魚は、将来、うちの猫たちの飼い主となるポーランド人のために、まず入荷の安定している上に安いことが第一条件です。加えてポーランド人が扱い馴れている魚でなければなりません。  ニシンはポーランド人と深い馴染みの魚ですが、猫には脂肪分が多すぎます。  |鱈《たら》は淡白な味と皮にウロコが少い魚というわけで、ポーランド人に受け入れられています。そのうえ、政府は、お魚を食べようと大々的なキャンペーンを繰りひろげ、料理法なども宣伝したおかげで、料理するばかりになった鱈のフィレの冷凍ものも出回っていて、それでも一キロ十八ズロチと安く、四季を問わず一年じゅう魚屋の店頭に出回るという、最もポピュラーな魚といえましょう。  結局いつでも入手できる淡白な魚、ということで、猫のための魚を「鱈」ときめました。魚だけでは、貰われて行く先きのポーランド人の家計に負担がかかります。そこでマカロニと人参を配合すれば、ビタミンの点でも満点で、ためらうことなく、この三品のミックスを主食とすることに決定しました。  カットマカロニをまずゆでる。人参一本を大きな目のおろし器ですりおろす。鱈とマカロニと人参を合わせて煮る。塩はほんの少し最後に加えるだけ。さっぱりした鱈の身がマカロニ全体を味つけしてくれるので、みんな素直に食べます。人参さえも、幼い仔猫の味覚にとっていやがられるものでもないことがわかりました。仔猫たちが貰われて行ったとしても、もう大丈夫でしょう。  仔猫がねむりから覚め、部屋じゅう縦横無尽に走りまわってのお遊びがひと区切りつくと、人間のこどもと同じで、きまって「何かチョーダイ」というような気分になる時間があります。そんな時、おきまりの主食とは別に、お|八《や》つとも副食ともなるようなチーズ、ソーセージ、魚の|燻製《くんせい》のひときれが、みんなの口に与えられます。一匹一匹とおしゃべりをしながら、掌の上のものを食べさせます。  あの当時のことを今、ふり返って思い出す時、育ちざかり遊びざかりの仔猫と一緒になって、わたし自身が遊んでいた、いや遊んでもらっていたのだとさとります。  チャルとナホ夫婦、ふたりから生まれたハナ、ミーシャ、チャルコの黒猫一族、灰色から美しい水色に変った眼と茶色のボカシ入りのシャム猫の太郎が加わる六匹と、楽しい日々を過した七一年の一月から早春にかけて、十二月事件後のポーランド政情の展開もあって、わが家はまたまた新聞記者をはじめとする日本からのお客ががぜん多くなりはじめていました。   スパツェルはお散歩  チャルは四児の父親になっても、甘えん坊の散歩好きはそのままつづいていました。ヴォーラ地区で歩いて行けるめぼしい場所はほとんど散歩しつくしたといってもいいすぎではありません。  五キロを越える体重になっても、抱っこはそのままつづいています。少し遠出をする時には、さすがのわたしも抱ききれません。ポズナンスカ通りをちょっと入ったハンドバッグの修理屋さんで小型犬用の革紐を見つけました。首輪につける一本のまっすぐな紐ではなく、二つの三角の頂点で革紐が一つになります。この三角の間に猫の前足を入れると、おのずと首輪の役目もできて、首を締める心配はまったくない工夫がされています。緑色の革紐の裏にはフェルトの裏打ちまでしてあって、小動物に対するやさしいポーランド人の心遣いが見えるようでした。この革紐を買ってからは、遠出が苦にならなくなりました。  チャルはスパツェル(散歩)という言葉を、はっきり認識していました。近所の買物に連れて行くのも彼にとってスパツェルでしたし、電車に乗っての病院通いもスパツェルでした。雨の日や、よほどの|寒波《ムルース》の日でないかぎり、チャルを連れての外出はわたしの楽しみでもありましたから、どれだけの回数のスパツェルをしたか数えられないほどでした。 「チャル、スパツェル」  というと、たとえいい気持で眠っているときでも、さっと飛び起きて玄関に来て待機します。革紐をつけ終るやいなや、胸にかけのぼります。  春先きになって、近所の原っぱの草もようやくのびてきます。チャルは肉食家だった関係からか、よく草をたべました。ナホや仔猫たちに草を持ち帰った思い出がないのは、人参入りの食事が健康食で、その必要がないというわたしの判断があったのかも知れません。  抱かれ歩きの好きなチャルが、たった二回でしたが、チャル自身の意志で、それも突然、反抗的ともいえる態度でわたしの手から飛び出したことがあります。  一回目はワルシャワから二十キロ離れている所に住む|甥《おい》の家を訪れたときでした。幼い子が三人いるので、チャルを見せて喜ばせたい気持もありました。まず市電でターミナル駅へ、そこから国電に乗って二十分、夕方のラッシュとぶつかってしまいました。まわりのポーランド人がチャルをあやすうちに目的駅につきますが、小さなチャルには、この遠出はこたえたのでしょう。駅と甥の家の中間にある、広々した原っぱに来たとたん、チャルは急にわたしの手に噛みつき、身もだえして飛びおりようとします。二年近いつき合いの中で、初めてチャルの反抗に出会った驚きで、かえってわたしの方が動転してしまい、素直に土の上に置かなかったのも悪かったのでしょう。今度は爪を立てて引っかいてもおりようとします。やっとわたしもチャルの意志の固いのがわかって地面におろしました。草を少し食べてのどの渇きが取れたのか、すぐにいつもの落ちついたチャルになりましたが、野良猫が人間に向けるような野性そのものを、たとえ一瞬の間にせよ見せたことは、わたしに考えさせる材料となりました。いくら気のいいチャルでも、小さな動物にとって我慢の限界というものが確かにあったのでしょう。  そのうえ、甥の家にはブルドッグがいます。それを知りながらの猫連れの訪問は失敗でした。犬は別室に隔離されましたが、犬の臭いのする室内で、チャルは落ちつかない時間を過さねばなりません。いつもならばウォトカを痛飲するところが、その夜ばかりは初めて息子に反抗された母親よろしく、どうしても気勢はあがりません。猫をこれ以上疲れさせる非常識を重ねるわけにはいかないと、早目にタクシーをよんでもらって帰宅しました。  第二回目はポボンスキ墓地の裏手にあるタタール墓地を訪ねた時でした。この時は主人と|三人《ヽヽ》で、家の裏手を通る汽車の線路土手を越えて、深い木立を抜けての遠出です。チャルを時には土の上におろし、時には抱きかかえて、人っ子ひとり通らない林を抜けると、低い土塀に囲まれた小さな墓地がありました。イスラム様式の墓石は半ば傾き、誰も見る人がない寂しい荒れたかんじです。|築地《ついじ》風の土塀の前で、突然チャルは歯をむき出して低くうなり声をあげ、わたしの胸を蹴あげるように逃げ出しました。アッという間の出来事で、革紐はチャルの首についたままわたしの手を離れてしまいます。  主人が傍にいたから助かりました。彼の無器用なごつい手の中に、チャルのみどりいろの革紐の端はしっかり握られます。しかし、チャルは犬がぐいぐい紐を引くように、塀の根元まで一気にかけ寄り、築地塀の土のくずれに鼻をつけて嗅ぎまわるのです。何の匂いが彼の野性を目覚めさせたのでしょうか。このタタールの墓地で見せたチャルの異常な興奮と、われわれをまったく無視し、何か物の|怪《け》に|憑《つ》かれたような振舞いに、二人とも不吉なものを感じとり、顔を見合わせてしまいました。  この二回の経験は、陽性で円満でお茶目で機嫌のいいチャルの内面にかくされていたもの「野生の顔」が、ふとしたはずみにあらわれたと思うよりほかありません。それから二カ月後に、チャルはわが家から永遠にいなくなります。   仔猫の片づくまで  寒波のくり返しが少しずつ間遠になったと気づいた時には、もう三月に入っていました。  仔猫たちは丸々と太り、可愛い盛りです。ごはんを食べてもお乳は離さないぞとばかりナホの小さなからだに四匹がむしゃぶりついてお乳を吸う様子は、時間の経つのを忘れるほどのみものです。しかし、ある時点からきっぱりとナホはお乳をやらなくなりました。しばらくの間、こどもたちはナホのあとを追って歩きます。ちょっと横になれば、こどもはこれ幸いとばかりに寄っていきますが、ナホはサッと身をかわして、仔猫の登れない戸棚の上へ飛び上ってしまいます。上からじっと下を見おろすナホの目には、もうひとり歩きができるのだから、しっかりしなさい、といった色がありました。ナホには、次のシーズンへ向けて体調を整えるという自然の指示があったのです。  さあ、わたしは仔猫たちの貰い手を一刻も早く探さなければなりません。排便の躾も、好ききらいなく食べる習慣も身についています。可愛い盛りに手渡すことは、貰い手に対する礼儀でもあります。  ただし、シャム猫の太郎はメンデルの法則を立証する生き証人(猫?)だから、「家に残そう」と、主人もわたしもきめていました。またまわりの人々も珍しいシャム猫が生まれたのだから、これは手放すまいと思っていたのです。  一番先きにミーシャが貰われていきました。ナホの弟? を貰ってくれたおフミさんの長女のクリーシャの家へです。あの黒の雄猫はおもらし常習者ということで田舎へやられてしまいましたが、一カ月近く飼った黒猫の可愛らしさが忘れられず、生まれた時から一匹貰うという約束が成立していました。ミーシャのためにわたしは仔猫のお小水の匂いのついた新聞紙をビニール袋に入れ、食器ひと揃えとナホの匂いのついたタオルを用意しておきました。  引きとりにきたのはクリーシャの妹のダヌーシャでした。お隣り同士、毎日顔をあわせていた少女のダヌーシャが、引越し以来、半年しか経っていないのに、急に大人びたはじらいを見せて現われたのには驚きました。口のききようもすっかり一人前です。彼女は秋から栄養専門学校へ入学し、お菓子作りやお料理作りに明けくれていることを知りました。母親のおフミさんが前からそんな希望を持っていたことを思い出しました。「女も手にしっかりと職を持たなくては」が彼女の持論でしたが、小学生時代から母親に躾けられて、ひととおりのお料理をこなしていたダヌーシャには、打ってつけの学校だったのでしょう。「面白いです」とニコニコしている顔を見て、わたしは安心しました。  タオルにくるまれたミーシャはダヌーシャに抱かれ、クリーシャの家へもらわれていきました。  次にはチャルコの番ですが、彼女は一番小柄で、二カ月とはいっても、そのままひとの手に渡すのがいじらしい感じです。それにくらべ、雄のハナはナホに似た胴長のがっしりした体格で、手放しても大丈夫。尾も太く長く、一人前になる時はどんなにいい黒猫になるか充分想像がつくような猫です。  いつも通うハラ・ミロフスカの私営業のおばさんのお店には、野良猫が住みついて仔を生み、お店のまわりでチョロチョロ遊んでいます。わたしは猫用に買ったばかりの魚の燻製をこの野良ちゃんにおすそ分けするのが例でした。ここのおばさんの口ききで、隣りに店を開いているもう一軒のおばさんがハナを貰ってくれることになりました。ワルシャワの東の方の村から、毎朝、一番電車で新鮮なタマゴや白チーズ、作りたてのバターなどをかついで来て、終日、この公営市場の片隅の畳一畳分くらいのボックスで計り売りに明けくれる人です。がっしりと太って、気のよさそうな四十歳くらいのおばさんが店じまいする夕方、雄猫のハナはビニール袋に入れたお小水のしみた新聞紙と食器一揃え、タオルというおきまり品の入った大き目のボール箱に入れられて、田舎へ連れて行かれました。  二匹がいなくなると、家の中は急にひっそりとなってしまいます。四匹が組んずほぐれつしていたさわぎは、おとなしい小柄なチャルコと、ひとまわり大きさに差のできてしまったシャム猫の太郎との組み合わせでは、にぎやかにはなりません。二匹の仔猫がいなくなったのに、ナホは寂しがるわけでもなく探す様子も見せませんでした。ちょうどこの頃、チャルとナホは第二の結婚の季節を迎えていたのです。  チャルとナホがひっそりと部屋の片隅でなめ合っている時、すっかり美しい毛なみになったシャム猫の太郎の教育とお遊びに、わたしは一日の大半を過していました。   文盲の女ゾシアのこと  六階建てのシレナのアパートは一階部分が四軒、全部あわせても二十数軒という小ぢんまりしたものでした。オコポーヴァのアパートに入居した時は、管理人の存在すら知らず、ご近所への挨拶も、ドゾルツァへの顔通しもしませんでした。  ポーランド人の暮しかたや仕組みが多少わかってみると、ドゾルツァに挨拶の仁義を切らないわけにはいきません。そこで引越し作業の終ったあと、チョコレートの箱を持って、パルテルのドゾルツァを訪れ、わが家の家族構成=夫婦と猫二匹(引越し当時)を報告しました。このアパートもワルシャワ大学の管理下にあります。前々居住者は米川和夫さん、次にアフリカから招かれた学者が三年住んでいたとききます。ですから、肌色、顔付きのちがいに驚くような管理人ではありません。かえって挨拶にわざわざ出向いたことに驚きをかくしませんでした。  ご主人は工員とか。十二歳くらいの男の子と八歳ほどの女の子が興味しんしんといった風にわたしの顔をじっと見つめます。がっしりと太った身体に地味な服をつけた女管理人を、だいぶ中年と見立てたのはあやまりだったようです。ポーランドの労働者階級の婦人は、こどもをもつと意外と早く老けこむようで、四十五、六歳と思っても、実は三十五歳だったりして、婦人の年齢の見当をつけるのにはなかなか馴れません。  四人乗るともういっぱいになるような小さなエレベーターが一基あるだけのアパートの出入口や階段まわりは、このドゾルツァがしっかり者とみえて、実に清潔です。居住者同士も気ごころがわかっているのか、お互いにニコニコと挨拶をかわし合って、なんとなくなごやかな雰囲気がありました。これはアパートが建てられてからの年数とも関係がありそうです。ゴムルカ政権直後に建ったものとのことで、すでに十数年が経過し、地域の人々もみんな顔なじみ、百五十世帯の人々が挨拶もしないで出入りするオコポーヴァの玄関口とは大分ちがいました。  騒音公害から逃れ、朝早くから直射日光に起こされる�東窓公害�からも逃れて、大満足の新生活に欠けていたものは、お隣りのおフミさんの手助けだけでした。朝の一時間にみたない短時間なのに、彼女と一緒ならさっさと掃除や後片づけがすみ、あとの一日がたっぷりしたものになります。自称�家事下手人間�のわたしは、ひとりになってみると、朝の片付け時間は一時間が二時間になり、結局、三時間になって、押せ押せのゆとりのないものになっていくのが身にこたえました。  わが家は女中さんを置くほどの余裕はありません。経済的に可能であったとしても狭いアパートの中に、お手伝いさんが長時間いるだけで、気むずかしいところのある主人の神経に耐えられないことはわかっています。わたしのほしいのは協力者、短時間で毎日の繰返し仕事を、やっつけてしまう助っ人なのです。「短時間のアルバイトをやってくれる人はいないだろうか」ふと人のよさそうなドゾルツァに頼んでみる気になりました。  わたしの希望は即座に|叶《かな》ったのですから、タイミングがよかったのでしょう。翌日にはゾシアと名のる大柄な女性が、小学一年くらいの女の子を連れて、わが家にのりこんで来ました。彼女は、日本人がここに住むのを知った時から、何とか女中さんになりたいと考えていた、といいます。あいにくわたしは女中さんは必要ではないこと、二時間だけの時間給お手伝いだけ、それより長く家にいられても困ることを説明しました。  下手なポーランド語ながらおフミさんにきたえられた日常生活用語は、はじめてにもかかわらず彼女にちゃんと通じて、交渉はまとまりました。わが家がポーランド人とまったく同じ月給を貰っているワルシャワ大学のつとめ人であったことは彼女の計算外だったようです。日本人の豊かさ、金払いのよさを噂で聞き知っているフシが見えて、一時間十五ズロチというお給料がわが家にとって大変なことを説明するのに骨を折りました。|端数《はすう》を切りあげて一週六日で二百ズロチは一カ月で八百ズロチとなり、大学支給の月給の四分の一強です。  こうして、窓越しに声をかければ届くほどの近距離に住むゾシアが手伝いに来ることとなりました。  以後二年にわたって、わが家に通って来たこのゾシアなのに、前著の『ワルシャワ貧乏物語』ではすっかり省いてしまいました。ゾシアの記憶はあまり楽しくなかったからです。たくましい庶民のひとりと素直に受けとれない、社会主義を|逆手《さかて》に取るような彼女の生きかたがだんだんとわかるにつれて、彼女のことはわたしのワルシャワ生活の想い出から故意に消そうとさえしていました。しかし、猫たちとのつながりから、どうしてもゾシアを抜かすことはできません。  ゾシアの年齢もまたわたしにはつかめませんでした。八歳の子を持つ親なら三十すぎかなと思うと、嫁に行ったもうひとりの娘のいることがわかります。ゾシアは十八歳ぐらいで結婚、すぐ長女を生み、その長女も十九歳で嫁に行った。十年以上おいて次女が生まれたところから算出すれば、彼女が三十七歳と判明します。  ゾシアが三十七歳とわかってみると、それより上でも下でもなく見えてくるから不思議です。前髪ごと引つめにうしろでくくっても、自然のカールがやわらかくおさまって、くっきりした目鼻立ちのなかなか立派な顔の彼女は、若い頃はさぞや美人であったにちがいないと思われました。しかし、身につけてくるものは一貫性がなく、派手なセーターを着こんでくるかと思うと、地味な袖口の破れたようなセーターの時もあります。裁縫は苦手とみえて、スカートの裾の糸がほぐれっぱなしでも平気なところがあります。その上、外国人特有の体臭が強いところも困ったことのひとつでした。大体、ポーランド人は肉食人種ですから、体臭の強いのは当りまえです。しかし、こちらが|辟易《へきえき》するような体臭を教養人から感じたことはありません。朝、シャワーを浴びるのを日課にしていたおフミさんは、小ざっぱりといつもさわやかそのものでしたから、ゾシアと二人せまい台所で一緒に洗い物を片づける時は、少々我慢が必要でした。  それでも二時間のお手伝いは、わたしにとって何よりの助っ人でした。彼女のお手伝いにすっかり慣れた頃、わが家から別居して学生生活を堪能していた息子が久しぶりに現われ、はじめて新しいお手伝いさんのゾシアに会います。彼女が帰ってから、息子が第一番にいったことは、 「お母ちゃん、彼女の言葉をマネしないでね」  でした。 「ひどい言葉ですからね。あんなポーランド語を覚えちゃったら、お母ちゃんの人格疑われちゃいますよ」  日本語だって上品な言い方、下品な話し方はあります。しかし、ポーランド語をきちんと勉強しないで、ただ耳からの聞き覚えだけで|罷《まか》り通って来た身には、痛い忠告です。そんなにひどい言葉なのかと思って、彼女の言葉に改めて注意してみると、あちこちで確かに投げやりな感じがわかります。「ザラス(すぐに)」が「ザラ」といったあんばいで、おフミさんと話し合うようなしんみりした雰囲気は持てません。かえってその方が簡単です。時間給の女中さんと割り切ればよいわけですから。  ところがある時、彼女が文盲とわかります。自分の名前だけは|辛《かろ》うじて小学一年生が書くような大きな字を、ゆっくりゆっくり下書きをなぞるように書けても、いわゆる読み書きがまったくできないと知った時のわたしの驚きは相当なものでした。時にふれて彼女がもらす言葉のはしばしから、ゾシアの半生が|朧気《おぼろげ》ながらわかってきます。  十九世紀の終りから二十世紀のはじめにかけて、ポーランドはロシアに先がけて、貧富の差をなくす社会主義運動が盛んでした。社会主義運動発祥の地といわれる背景の一部、貧しいポーランドを、わたしはこの文盲のゾシアを通じて多少理解できたのだと思っています。  ポーランドの歴史のなかで、一番いい時代と思われがちな|戦間《ヽヽ》時代(一九一八年から一九三九年まで)ヒットラーが攻めこむ少し前の貧しい層に生まれたゾシア。ある時、窓辺をとびすぎた鳩を見て、彼女はふっと、「鳩はおいしいよ」といいました。そして自分の言葉に驚いて、あわてて、「今はだめ、鳩を取ったら罰を受けるから絶対にだめ」「カラ(罰、刑罰)」という言葉に力を入れて念を押します。  彼女が幼かった頃、「ワルシャワの下町にはユダヤ人の食堂がたくさんあった。鳩や雀をつかまえて持って行けばお金になった。まだ学校にも行かない小さい頃のことだけど」といいます。多分、ちゃんと靴もはけないほどの貧しさだったのではないでしょうか。 「戦争が始まった。田舎へ行った。そこで子守をして食べさせてもらった。小学校には行かせてもらえなかった。水汲みもした。畑仕事もさせられた。鶏や|鵞鳥《がちよう》やあひるも締めた。大きな牛だって、豚と同じ、まる一匹を幾たりかで処理した」 「ソーセージ、カシャンカ(牛の血入りソーセージ)」といって、彼女はそのおいしさをあらわそうと、口をすぼめて笑います。「蛙だってカタツムリだっておいしい」一般のポーランド人が決して口にしない食物も彼女はちゃんと口に入れていました。  生きるために農村でこき使われたゾシアは、中世からつづくポーランドの牧農者たちの生活の|片鱗《へんりん》を、その大まかな料理で見せてくれるようになります。おフミさんがわたしに教えてくれたような経済的な料理とはまったくちがう、今の世の中では材料にお金を相当かけねば出来ないような田舎料理です。   復活祭のごちそう  わが家に来るようになってから何カ月もの間に、ポツポツと話す、とわず語りのうちからわかったゾシアの経歴をつづけてみます。  戦後、社会主義体制になってから彼女はワルシャワに戻り、カスプシャカのラジオの製造工場で働きはじめます。四、五年働いて結婚、すぐに長女が生まれ、こどもは保育所にあずけて女工生活をつづけます。戦禍で廃墟に等しいワルシャワ市内で、無から始める生活の厳しさは、三平米(六畳)ひと間に親子三人が暮したというだけでもわかります。  五六年ゴムルカ復帰、その翌年のメーデーの日、彼女は小さな娘を肩車にのせた夫と共に一本のカーネーションとかねて用意の|直訴状《じきそじよう》をメーデーの行進を壇上から見守るゴムルカに手渡すことに成功します。直訴状には一家の経歴と実生活をこまごまと書き、なんとか親子三人、人間なみに住める所がほしい、と書いたそうです。書いたのは、読み書きのできるゾシアの亭主です。この団地の完成とともに、まっ先きに入居できたのは、「頭、頭」とゾシアは自分の頭を指さして得意気でした。  年の大きく離れた二人目の娘を生んでから、彼女は貧血に悩まされはじめて、公害の疑いが出てきました。水銀を扱う職場だったようです。ひとりの新聞記者がこの問題を取り上げて、大々的キャンペーンを張ったので、彼女は目下病気休職中、裁判所が認めれば補償金がたくさん出るとのことでした。ですから、正式にはどこにも勤めてはいけないはずです。二時間のわが家のバイトは彼女にとってもちょうどよかったのです。  ある日、定時になっても来ない日がありました。病気かと心配になって、隣りのアパートの一階(日本の二階にあたる)の彼女の家をたずねました。前に訪れた時は、小ざっぱり整頓していた居間が、どうしたわけか今日は乱雑です。その上、ゾシアはざんばら髪のままベッドに坐っています。わたしの顔を見ると、「コミシア、コミシア」といって、片目をつぶってウインクします。  キョトンとしていると、わかりやすく身ぶりをまじえて、説明してくれます。コミシアとは公害病認定患者の生活を調べに来る査察官の一行のことなのでした。ゾシアはわざと哀れな公害病患者を演出する必要があったのでしょう。日本人のパニ(奥さん)に話したって大丈夫という安心感から、彼女は彼女自身の裏側を見せたわけです。ずっとずっと後に、もうゾシアと縁のなくなった後に、政府から彼女が一生働かないでも食べていかれるほどのまとまった補償金が支払われたことを知ります。  公害病患者がわざわざ惨めな生活ぶりを演出する必要はないのに、なぜだったのだろうと、今になって思うのですが、どん底生活から這い上ってきた彼女なりの知恵だったのでしょう。その後も彼女はいろんな知恵を、まったく関係のないわたしに吹き込んだものです。「お医者さんにかかる時は必ず袖の下を持っていくこと。工場を休む口実ぐらいすぐつけてくれる。ビタミン剤の処方だって頼み方次第」そのほか数々の社会主義下でうまく生活する方法ともいうべき、ずるくてたくましい庶民生活のノウハウを、主人には聞こえないように声をひそめて話します。  ゾシアの夫は元ボクサーということでした。背は低いががっしりした立派な体格の四十男です。黒髪が証明するタタールの血統を自慢していました。工員であるのは確かなのに、正式に勤めている様子はありません。丈夫なはずなのに、病院へ行く回数が多いと見ました。ゾシアに用事があって、ちょくちょくわが家の呼鈴を押しますから、彼が朝からウォトカの匂いをさせているのもわたしは気づいています。  ある時、わたしはふとゾシアの夫の手を見てしまいました。左の中指と薬指が二本、半ばから先がありません。わたしの視線を感じて、彼は工場で|怪我《けが》をしたのだといいました。「今でもしょっちゅう、病院へ通っている」といいわけをしました。工場を休むのはこの指のため病院へ通うためだったのか、とわたしは素直にそのとき思ったものです。でも、いろいろあの当時の彼ら夫婦の言動や、派手な食生活を思い出すと、あの怪我は偶然のものではなく、故意に指をつめたのではないかという気がしてなりません。社会主義社会のプイヴァク(世渡り上手)ならやりかねないと思うからです。「派手な食生活」と書きましたが、実際、ゾシアの家は、インテリ家庭のつつましやかな生活しか見知っていないわたしには驚くことばかりでした。  チャルとナホと四匹の仔猫が可愛い盛りの、その年の復活祭に、わたしども夫婦はゾシア家に正式に招かれました。労働者階級の派手なというよりも、昔風な、いやポーランド的というのでしょうか、あまりにもポーランド的な祝いかたに初めて出会ったわけです。  シンカ(もも肉のハム)、バレロン(肩肉のハム)、スハブ(フィレ肉のハム)と、高価なものばかりがたっぷり盛りつけられた大皿、ソーセージも山の地方の上等品、その上、|鵞鳥《がちよう》料理が一皿、サラダやお菓子や、こんな豪勢なテーブルは、知り合いの大学教授の家の結婚式の席でもお目にかかりませんでした。知人たちの普段のおもてなしは、フトコロと相談の上の|工夫《くふう》料理がありありとわかるものばかりでしたし、復活祭やクリスマスでも、節度のあるご馳走の並ぶテーブルで、結構楽しくおいしくいただきました。  こんなに食事を派手に祝うのに、ゾシアはいつも着るものがないとこぼしていて、なんとか日本製のセーターやスカートをわたしから貰いたい様子が見え見えでした。そうなると、わたしはかえって素直に衣服をあげられなくなったものです。  家具調度にしても安もののテーブルや椅子、折たたみ式のソファぐらいしかなく、決してゆとりのある生活とは思えません。ご馳走になりながらも、節度のない食べものの|氾濫《はんらん》は、貧しさの裏返しのようにさえ思えて、一般のポーランド労働者もこのようなら、大変な無駄遣いをしているのではないか、とひそかに思ったものでした。 「ポーランド人には考える人と考えない人の二種類がある」と誰かがいいました。どの国においてもこの言葉は当てはまりますが、おフミさんを考える人とすれば、ゾシアは考えることを知らない人の枠に入るのでしょう。   広告──黒猫を「善き手」に  さて、また猫物語に戻ります。  チャルとナホの結婚が成立した十一月なかば頃、ゾシアはわが家に来ました。声高にしゃべる労働者の家、つまりドゾルツァの家で育ったチャルは、ゾシアの遠慮のない大声もおなじみなら、ちょっと|辟易《へきえき》するような体臭もチャルには懐かしい匂いなのでしょうか。彼女がやってくるといそいそと愛想よく、|大袈裟《おおげさ》なお世辞(ポーランド語では「小さい」「可愛い」「美しい」が幾通りにも変化してえんえんとつづきます)に大満足をあらわします。動物に対して人間に話しかけるように絶えず話すのはポーランド人にとっては当りまえのこと、特に庶民の表現は大袈裟です。わたしは日本女、猫とよく話していた母を、日本人らしくない、変り者と感じていたくらいですから、ポーランド式の甘い言葉が素直に出てくるはずはありません。チャルという特別猫のおかげで、話をよくききわけると思うからこそ、わたしもおしゃべりになったのでした。  わたしの関心と注意はもっぱら仔猫に集中するようになりました。|紐《ひも》遊びや|毬《まり》あそびはもうチャルには縁遠いものとなり、もっぱら仔猫たちのものです。チャルはもう充分のおとな、それも父親らしい貫禄さえついてきました。ナホはこどもの面倒を見るかたわら、夫にもやさしく、こどもに心配がないと見れば、チャルに寄り添って眠ります。チャルもナホに甘えて満足そうです。チャルとナホを見ていると、動物の世界にも、夫婦という単位が厳然として存在するのだと納得できるのでした。  シャム猫の太郎を手元に残すのは、主人もまわりも当然と思ってくれます。妹猫のチャルコは、太郎といっしょに遊ばせているうちに手放しそこねてしまいました。仔猫のうちによい人に貰われるのが一番幸せなはずだと改めて気づきます。早速、新聞広告で貰い手を探そうということになりました。 「ジチェ・ワルシャヴィ」紙の広告欄は、ワルシャワ市民の素顔が見られる社会主義国でも珍しい場所といえるでしょう。主人はこの欄の愛読者で、自動車の売買から「求むお手伝いさん」「家庭教師いたしたし」などの他に、面白い記事があると、よく翻訳して話してくれたものです。「犬や猫をあげます」という記事も時には混ざっています。 「『善き手』にさし上げたし、当方三カ月の犬」  この「善き手」は「ドブレ・レンツェ」といいます。このポーランド語の中には、かわいがっている猫、または犬を、よい人にさし上げたいという飼い主の愛情がこめられていて、本当にいい言葉だと思いました。わたしたちも、このドブレ・レンツェを使う番になりました。     ──善き手にさし上げたし。黒猫雌三カ月。健康。     連絡先 シレナ街32棟16号室 日本人──  新聞にのった日やって来た四人のポーランド人のことは、主人の本『ワルシャワの七年』(新潮選書)でふれています。日本人と黒猫の取り合わせはドルの闇買い人への暗号と取られたのか、もうその頃マークされていたにちがいない日本人工藤の家に表から入れる絶好のチャンスと見たのかわかりませんが、四人が四人とも「猫好きです」「可愛い」を連発しながら、すぐに話を決める人は誰ひとりいなかったのです。 「今日は籠を持って来ていないから、明日改めて」とか、「家の者と相談しまして」とか口実がつきます。わたしの方としても、チャルコをさし上げる人物の採点は必要です。最初のひとりにただ上げるわけにもいきませんが、可愛い盛りのチャルコを見て、「ぜひいただきます」といってくれる人がひとりもいなかったのは奇妙でした。  翌日、置いていったメモどおり、二人に電話、二人にハガキを出しましたが、電話はまちがい電話、ハガキは宛名人なしの|付箋《ふせん》がついて戻ってきました。考えても奇妙な話で、主人がいろいろ想像をたくましくするのもいたし方ない事件といえます。こうしてチャルコは太郎といっしょに家に残ってしまいました。  ゾシアは、シャム猫の太郎が高価であるところに特別の価値を見出していました。 「買ったら大変な値段。パニは得しましたね」  というのが口ぐせです。小柄で見ばえのしない黒猫のチャルコには目も向けないばかりか、 「なぜいつまでも手元におくのかわからない」  とさえいいます。わたしは、ナホが子離れしたあと、手放しそこねたチャルコと太郎が少年と少女が遊びたわむれるかんじでからみあう様子を見て、何事もなるようにしかならないもの、兄妹いっしょに仔猫時代を過すのもいいことだと思うのでした。   ナホの親ごころ  三月に入りました。日本から持ってきたお雛さまたちが見ている前で、チャルとナホの二度目の結婚が成立します。ナホは完全に子離れしました。夫婦ふたり寄り添って、二度目の新婚生活を楽しんでいる|風情《ふぜい》さえ見えます。しかし、こどもの方はなかなか親離れができずにナホの後を追いますが、母親の貫禄はみごとにこどもをつき放します。  結婚成立を見た日からちょうど二カ月目の五月五日、夜八時から十一時まで、ナホは二回目のお産を経験します。はじめに白、つづいて黒が五匹、七匹目が白、最後が黒でした。  黒猫が六匹、シャムになるべきまっ白猫が二匹、「メンデルの法則」どおりというわけです。数が多いので身体はみんな小さく、なき声も前にくらべれば小さいと感じました。一回目と同じく、わたしのベッドが|産褥《さんじよく》、わたしはお腹をさするお産婆役もおおせつかります。ナホは経産婦、仔猫の鼻先きの薄い膜を舐めとる手際もあざやかです。  前にも書いたように、姉の猫と母の猫が同時にお産をすると、家じゅう猫だらけ、十二、三匹の猫がかけずり廻る時のにぎやかさがどんなものか、わたしは承知しています。主人は多分いい顔はしないだろうけれど、彼もこの頃では猫の愛らしさがわかりはじめているらしいから、なんとかなるだろう。持ちまえの楽天主義から、主人にはわざと軽く、八匹が生まれたことを告げてから、わたしもベッドにつくまえに仔猫とナホを籠に移し、横になったわたしの目と同じ位置の枕の横にこの籠を据えました。  つい五カ月まえにみた仔猫の生誕直後のドラマのような数時間を、ふたたびこの目でちゃんと見たいと思ったからです。でも、ナホに八匹を養うお乳があるのでしょうか。全員の毛なみが立つ頃、なんとかお乳にありつこうと、小さいものたちのうばい合いが始まっていました。  白の一匹がとりわけ活溌で、夜半一時すぎには見えぬ目ながら腕を突っ張って、他を押しのけ、一番いいお乳に取りついていました。  |分娩《ぶんべん》の近いことを知っていたゾシアが、様子はいかに、と早目にやって来ました。二匹のシャム猫を見ると、彼女はニコニコして、 「たいしたもんだ。こんなに高価な猫が二つも」  といってナホをほめ上げます。そして手の裏を返すように、 「黒猫なんて仕様がない。パニ、苦労のもとですよ」  とわたしの顔を見上げながらいいます。この時、わたしがきちんとしたポーランド語を話していたならば、悲劇は起らなかったにちがいありません。「シコダ、ジエ(残念、しかし……)」「もちろん育てますよ」とはっきりいうべきところ、つね日頃お互いいい加減なポーランド語のやりとりで過してきたツケがまわって来たとしかいいようがない事件が起ってしまったのです。  朝食の仕度をしているちょっとの隙に、ぬれた新聞紙を鼻先きに当てがうという簡単な方法で、六匹の黒の仔猫は、ゾシアに始末されてしまったのです。農村育ちの彼女にしてみれば当然の間引きなのでしょうが、自分の家の中でそんなことが起るとは考えることもできない都会育ちのわたしの頭から、自分でもはっきりわかるほど血が引いてゆきました。少女の頃、常習だった貧血が起りかけたのです。なんとか持ちこたえたのは、主人にだけは絶対にこれを知られてはならないという思いでした。わたしは浴室にゾシアを連れて入り、扉をきちんと閉めました。そして一語一語自分で確かめるように彼女に告げました。 「これはわたしののぞんだことではない。しかし、もう今さらいっても仕方がない。ただ主人には決して間引いたことを知られてはならぬ、絶対に。一度にたくさん生まれすぎて、みんな弱っていて今朝見たら死んでいた、とわたしは主人にいいます。それ以外ひと言もいってはだめ」  ゾシアはわたしのまっ白い貧血の顔をみて驚き、ただ|頷《うなず》くだけです。  猫は女房のお遊び相手ぐらいにしか思っていない主人は、わたしが呼ばないかぎり、どれどれと自分から仔猫の顔を見にくるという性格ではありません。  朝食が終ってから、わたしはごく自然にいいました。 「あんまり一度にたくさん生まれすぎて、発育悪いのか、六匹も死んでしまった」と。そして、「シャム猫は強いのかしら、なんとか残っているわ……。死んだのはゾシアがちゃんと埋めてくれるって」  彼にはそれ以上いう必要はありません。死という言葉だけでもう何もききたくも見たくもないからです。|憮然《ぶぜん》とした顔で書斎に入って行く主人のうしろ姿に、わたしは安心のため息を小さくつきました。  ゾシアはいつもの大声をあげることもなく、仔猫を埋める仕事を持って帰って行きました。  可哀そうなナホ──言葉がいえたら、わたしはどんなに怨みごとをいわれても仕方のないところです。  怨みごとはいわなかったナホが、突然、思いがけない行動を取りはじめてわたしをおどろかします。昨日まで甘えてくる太郎とチャルコを追い払っていたナホが、急に落ちつかない様子で、五カ月にもなる大きな太郎を、今度は追いかけはじめたのです。何事かと|怯《おび》える太郎の首根っ子をくわえると、引きずるように籠の中へ入れようとするのです。自分の|躯《からだ》とほとんど同じくらいに成長した息子をねじ伏せんばかりの勢いでくわえます。母親の異状さにおびえてしまうからこそ引きずられもしますが、当りまえの状態なら引きずられるはずはありません。  籠の中には小さく頼りない生まれたての白い毛糸玉のような仔猫が二匹だけです。無理に引き入れたらこの小さいのは押しつぶされてしまうでしょう。  あわててわたしは籠を取りあげ、ベッドの上にタオルを敷いてみました。ナホは大きくなった太郎とチャルコにもお乳を飲まそうとするのがわかりました。タオルの上に横になって、ゴロゴロとムルーチをつづけるナホの意図がこれで太郎とチャルコに伝わりました。禁止されていたお乳を吸ってもいいという合図なのです。太郎とチャルコは、いっぺんに赤ん坊のように甘ったれて、お乳に吸いつきます。ナホは仔猫の数の合わないことに気づき、逆上し、血迷ってしまったのです。落ちつくまで、ナホの思い通りにさせるほかありません。籠の中の小さな二匹を、わたしはつまみ上げて、太郎とチャルコに踏まれないように用心してナホに抱かせました。  一週間がまたたく間にすぎます。兄さん猫と姉さん猫の間で、二匹のシャム猫は押しつぶされそうになって、お乳に吸いつきます。生まれて三時間の後に他の猫をおしのけた大きい方の白は、いぜんとしてそのガムシャラぶりを発揮、ナホのいちばん張っているいいお乳を確保しますが、小さい白はなかなかいいお乳にありつけません。せっかく吸いつきはじめると、大きい白は腕をふるって邪魔をします。  小さい白は、仕方がないとあきらめが早く、絹糸のように細い爪の生えている自分の前足に吸いついて、チューチューやりはじめます。そして結局は、ナホの足元で自分の足指を吸いながら眠ってしまうのでした。思い出したように眠ったまま、また指吸いを始める恰好のいじらしいこと。見つめているわたしの目に、いつの間にか涙がたまってしまうこととなります。  二匹ははじめから大きさに差がありましたが、当時のおぼえ書きで見ると、一週後の五月十二日に、大の方の片目が少し開きはじめ、十五日には濃い灰色の両眼が開きます。  こうなっても、小さい方の目はかたく閉じたまま開く気配もありません。あいかわらずいいお乳にはありつけず、二匹の躯の大きさがはっきりとちがってきます。  そこでわたしは、人工栄養に切りかえねばちびはもたないと悟りました。牛乳をあたため、綿に含ませます。お乳のように小さな突起を作ってしゃぶらせます。お腹を空かせているちびは綿をかかえこむようにして、すぐ飲むことを覚えました。わたしの両掌のくぼみにすっぽり入ってしまうほどの小さい躯なのに、意志の強い、しっかり者のように見えるのは、妹をおしのけてまで母親の乳を独り占めにしようとする姉に対する怒りも多少入っての身びいきなのでしょう。  牛乳を含ませながら話しかけると、閉じたままの目の線がキュッとちぢみ、小さな貝殻のような耳がピクリと動くのでした。二週間経って、太郎の時と同じように、鼻先き、耳先きが黒ずんできたとわかるとき、チビの目が開きました。紫の混じった濃い灰色のまん丸な目です。おチャッピーになりそうなしっかりした顔付きのちびに、わたしは「チャピ」と名づけました。大の方は主人が平凡に「チロ」とつけてくれます。  チャル、ナホ、太郎、チャルコ、チャピ、チロの六匹の猫家族が揃いました。親離れ子離れのすんだはずがまた逆もどり、ナホはチャルコと太郎を小さな二匹とまったく変りなく世話します。五カ月すぎた二匹は食事を充分にとっています。でも、目の前にお乳があれば飲まぬわけにはいきません。お乳はふたりにとってデザートに等しいのみものというわけです。ぐいぐいと強い力でのまれては、チャピは一層押しのけられ栄養失調になりかねません。ナホの躯にとってもよいはずはありません。わたしはナホに吸いつきはじめる大きい二匹を見つけると、すぐに離して居間に連れてきては、あれこれと遊びを工夫してやらなければならないのでした。  ナホはようやく落ちついてきます。一月につづいて五月の出産でしたから、二匹の世話でも大変です。ナホの身体を思えば、短く終った仔猫たちのことは、いたし方のないことだった、と|強《し》いて思うことにしました。   チャル|失踪《しつそう》の衝撃  チロとチャピが生まれて一カ月、六月に入ってから居間の寄木細工の床をチクリノヴァチ(床削り)することになりました。何代かにわたる外人講師の仮りの宿、|折角《せつかく》の寄木細工の床は黒ずみ、いくら床用のワックスをつけ、電気床みがき器を借りて来てみがいても効果がありません。その上、チャルの性的不満によるおしっこかけがひんぱんです。(シーズン中はおさまっていて、妊娠出産の間、夫婦仲は睦まじいくせにことセックスとなるとナホのガードはきついのです)。主人が時に鼻をよせていやな顔をします。お客さんにも不快感を与えているにちがいありません。  ゾシアの世話で、住宅公団のれっきとした寄木細工の専門家が、夜間と休日利用の内職としてやってくれることに話はきまっていました。ようやく彼の日程のやりくりがついたのが六月八日です。三センチ×十センチの細長い寄木の木目通りに幅細のカンナで薄くうすく削っていく。二日がかりで床が全部白木になったところで、チャルがおしっこかけをしても決してしみこまない化学薬品を塗ることになりました。いわゆるデコラ加工です。その薬品の匂いの強さに今さらおどろいてももう後のまつり、仕方がありません。猫たちをお風呂場に隔離します。主人はちょうどポズナンの見本市が始まり、取材に出かけるので問題はありません。ポズナンを知らないわたしは、機会があれば行ってみたいとかねがね思っていたので、「この匂いでは仕方がない。わたしも行こうかな」と思ったのは、悪魔の|囁《ささや》きだったのでしょうか。  猫たちを窓のある台所に移す。ドアは締切る。朝と夕方、ゾシアがお小水場をきれいにし、食事を与える。たった二晩泊り、あさっては帰ってくるのだから、折角のポズナン行きのチャンスは逃せません。  しかし、床の面積が二畳にも足らない狭い台所に、六匹の猫一家を二日間も閉じこめようとしたわたしはバカでした。  もうデコラの匂いもないだろうと勢いこんで帰宅したわたしに、ゾシアからチャルの失踪を告げられます。 「チャルは台所の窓から逃げた」  とゾシアはいいます。台所の出窓を十センチほどあけ、止め金で固定したのはわたし自身でした。新鮮な空気を入れるためはもちろんですが、窓辺から外の景色を見るのが好きなチャルのためにわざわざあけてやりました。たった二日間でも窓ひとつない風呂場に閉じこめるわけにはいきません。ポーランド語の呼び方では二階でも、日本式の三階です。この高さ、この垂直な壁を、どうやって飛びおりたのか? ナホは小さなこどもにかかりきりだったにちがいなく、狭い部屋をいいことに太郎とチャルコまでナホにべったりなのは目に見えるようです。チャルがおだやかならぬ気持になったことは推察して余りあります。決心がつけば、窓から飛び出すことぐらいはしそうなチャルです。彼がどんな気持でとび出したか、その心情を考えると、二日間の留守がかえすがえすも悔まれました。  今、こうして当時のことを思い出しているうちに、ハッと頭を打たれるような衝撃がありました。ゾシアだ、ゾシアがチャルを自分の家に連れ出したのだ。そして逃げられた。ゾシアのあのずるがしこさ、嘘つきになぜわたしは気がつかなかったのだろう。あの時はまったくわたしの罪、自分自身を責めるばかりに、そこに気づく余裕はなかった、と気づいたのです。  あの当時を振り返って、推理を立ててみます。チャルはゾシアにちやほやされることが好きだった。部屋の中で抱かせても、彼女にチャルを抱かせて外に行かせたことは一度とてなかった。散歩はわたしとチャルだけのものだった。ゾシアはまわりの知り合いに、日本人のところへ行っているのを自慢していたフシがあった。そして、特別に人になれた黒猫のことも|吹聴《ふいちよう》していた。二日間の留守番は|千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンス。鍵はあずけていた。食事の世話をし、帰りがけにひょいとチャルを抱く。チャルはせまいところにうんざりしていた。喜んでゾシアに抱かれて行く。  可愛いチャルを見ようと、娘のアラの友だちの小学生がくる。近所の人もやってくる。  ある時間がすぎた。チャルはナホが恋しくなる。六月の十一日、空気はあたたかい。窓はあけ放たれている。一階(日本式では二階)から地面までの間には、下の家のバルコニーがある。(わが家の台所の窓下はまったく何もない垂直の壁だった)チャルは飛び出る。  窓から飛び出したといったゾシアの言葉は、この点では嘘をついていない。玄関のドアから出て行ったのでもなく、ゾシアの腕をのがれて逃げ出したのでもないのだから。  人を疑う余地もないほど、当時のわたしは自分自身を責め、自分自身に愛想をつかし、取り乱していた。半狂乱といってもいい状態だった。「チャル、チャル」と呼びながらシレナの街を探し歩くわたしの過去の姿を思い出しながら、今ようやくチャルの失踪の真相を推理し、結論が出てくるとは。新たな涙が次から次へと吹き出てくるのをどうすることもできません。  チャルは逃げたのではなく、ナホのところへ、こどもたちのところへ、そしてわたしのところへ帰ろうとしたのです。「抱っこの散歩だけでは、自分の匂いの後をつけて戻りたくても戻れないではないか」とチャルはぶつくさいいながら、わが家を探したにちがいありません。そして、探しあぐねてとうとう迷子になってしまい、そのうちにシレナの地下室の猫たちの後にくっついて仲間入りしてしまったのでしょう。 [#この行2字下げ]探しもの、黒雄猫、二歳半、体重六キロ、長いまっすぐな尾、目の色はアグレスト 情報提供者、発見者にはお礼をさし上げます。シレナ街32棟16号室 日本人 工藤  主人がチャルの似顔絵入りのポーランド語の看板を何枚も書いてくれました。人の出入りの最も多い私営の八百屋の店先き、キオスクの窓、バスの停留場、人の目につきやすい所に張り出したり吊り下げたりします。  お礼金で釣るつもりはありませんが、チャルを連れて来た人には、相当のお金をさし上げてもいいと、わたしは思っていました。  夜がくると、チャルが空腹ではないかと思って、居ても立ってもいられません。看板と同じように似顔を描き、横文字でチャル専用と書いたプラスチックのボウルにたっぷりの肉を入れて、わが家の台所の真下にあたるコンクリートの土台に置きます。夜半おそくまで何度も何度も上からのぞいてみても、野良猫の一匹すら寄ってくる気配はありません。  しかし、翌朝になってみると、ボウルは影も形もありません。その頃、プラスチック製品はポーランドではまだまだ高価でしたから、団地の誰かが失敬していったにちがいありません、その夜も次の夜もチャルのために食事をボウルに入れて置きます。次の夜、茶色い縞猫が、あたりに気をつかいながらボウルに首をつっこんで食べているのが、上から見えました。チャルでなくても、地下室猫の一匹が空腹を満たしている様子を見て、わたしは一種なんともいえない感動を受けました。このときチャルが食べても食べなくてもいいと思いました。ふと、|施餓鬼会《せがきえ》で、三界の精霊に|供養《くよう》の食事を供える気持に似ているのを感じました。チャルを失わなかったら、外猫に食事を与える人の心を察することは永遠になかったでしょうに。  シレナの街を去るまで、わたしは毎夜一皿の食事を置きつづけました。そして次のカルヴィンスカの家でも、アプローチ下の窪みに、残り肉や残り魚、時には牛乳に浸したパンなどを置く習慣はつづきます。  わたしと同じような気持で、家の外に住まねばならなくなった猫たちに、供養している人のおかげで、チャルは飢えずにくらしているにちがいないと信じるようになりました。  チャルの形見に銀の鈴がわたしの手に残りました。ポズナンへ出かける日、わたしが彼の首から外したのです。この鈴をつけていたら、音をたよりに多少とも手掛りはつかめたでしょうに。チャルと過した二年余の月日が、どんなに楽しいものだったことか。鈴を見ると思いは尽きず、泣く始末です。とうとう銀の鈴は机の奥深く|蔵《しま》いこんでしまいました。  ナホは平静でした。子育ての最中だったのもナホのためにはよかったと思いました。太郎もチャルコもいつもと変りはありません。ましてや生後一カ月とちょっとのチャルの娘、チャピとチロは、ようやくわたしの与える食事を食べ始める大事な季節に入っています。めそめそして、この子たちの将来を誤っては大変です。  シャム猫だからといって特別に太郎を可愛がったことにチャルは怒ったのだろうか。ふっとその気持がわたしに取りついてしまいました。世間ではシャム猫を珍重するけれど、わたしにとってはチャルの方がどれほど大切な猫であったことか。かえってシャムの太郎の残ったのが口惜しくてなりません。  一週間後、チャルの蒸発が決定的だと覚悟をきめた日、日本人青年と結婚したポルカ(ポーランド女性)のお姉さんが弟さんと二人連れでわが家を訪れました。どんな理由で来たのか今は覚えていませんが、結婚披露のまねごとのようなことをわが家で開いたお礼ではなかったかと思います。彼女は猫好きで、太郎を見るとその美しさに驚きをかくしません。ワルシャワ東部デンブナ地方の村の人で、素直なやさしい人柄と見ました。その日、午後の汽車で帰るときいた時、わたしは自分でも驚くほどの提案をしたものです。 「この太郎を貰ってください。田舎なら庭で遊ぶこともできるし、幸せだと思うから。アパートに閉じこめていては可哀そう。シャム猫が気に入ったようですから、わたしに代って育ててください」  いっているうちに涙が出て止まりません。チャルのような自然児をアパートの中だけで飼おうとしたのがそもそもの間違いではなかったかと、反省の気持が日に日に強くなっていた時なので、田舎と聞いただけで反射的にナホの弟やハナの自由に遊び戯れる姿が目の前をよぎったのです。  はじめは冗談と思っていた彼女は、本気とわかると、そのわけを聞きはじめます。チャルの蒸発をこと細かに説明して、やはり庭のあるところでのびのび暮させたいといいますと、ようやく理解してくれました。 「それではお預りしましょう」  と聞き入れてくれます。太郎を抱きあげて、人間に話すようにこんなアパートよりもっといいところへ貰われるのだからいい子になってね、とわたしは何度も何度も話しました。しっかりしたボール箱にまずビニールの風呂敷を敷き、更に新聞紙を厚く敷いて太郎を入れ、小荷物のように紐を十文字にかけます、もちろん空気穴を何個所もあけて。  冷蔵庫の中の猫用の食料品を全部包みます。こうして彼女は十七歳くらいの弟さんと二人して太郎を入れた箱を大事そうに持って、田舎の家へ帰って行きました。シャム猫だというので無意識に大事にしていた太郎を手放すことは、わたしのチャルへの詫び心でもあります。  主人はひと言も口出ししませんでした。わたしの決心がちゃんと伝わっていたからだと思います。シレナのアパートは、一週間の間にチャルと太郎の二匹がいなくなって急に寂しくなってしまいました。  今や、ナホと半歳の黒猫チャルコ、二カ月目のチャピとチロ、女ばかりの母子家庭となってしまいました。鼻先きが黒ずみ、長靴をはいたように四本の足先きが黒く色づき、灰色の眼がブルーに変化してゆくチャルの二匹の娘はまったく可愛い盛りです。どんなに気が|滅入《めい》っても、振るとカラカラと音を立てる枯れた|芥子《けし》の実のお遊びや毬遊び、キラキラ光るセロファンの紐ふり遊びなど、仔猫には仔猫らしい遊びを工夫してやらなくてはならないのでした。  この事件があって三カ月後、わたしどもはシレナの家を出ます。  シレナの街を去る前に、わたしはチャルと逢いました。夏の夜の十時、お招ばれ帰りの団地道です。わたしの前を数匹の猫がよぎりました。一番後から黒猫がついて行くのが、薄明りの中に見えます。わたしはチャルと叫んで、飛びかかってその黒猫をつかまえました。しかし、その猫はものすごい力で身を反らして逃げてしまいました。鋭い爪をわたしの腕に血の出るほどキッと立て、ひと声も発せずに逃げたのです。タタールの墓地でわたしの腕から逃げた時の、物に憑かれたようなすさまじい力と同じでした。  あっという間のことではあっても、たしかにそれはチャルでした。手にふれた毛のやわらかさはチャルだけのもの、ほかの誰でもありません。二年間、毎日毎日抱きあげたあの|柔毛《にこげ》の感触は忘れられるものではないのです。家に戻ってからあっと気づいたのは、ずっしりとした重さの感覚です。チャルは何をどのように食べていたのでしょうか。生肉や生のレバーならお腹をこわさないチャルは、団地の地下室に住むねずみを食料にしたのではないでしょうか、いずれにせよチャルの中の野性はみごとに蘇って、力強く生きているのだと確信が持てます。  チャルのように、おおらかでやさしい猫ならば、寄りそってくる雌猫は多いはずです。シレナの地下街のハレムの王様、黒猫のチャル、わたしはそう考えてだんだんと悲しみを追い払うことに成功しました。 [#改ページ]  カルヴィンスカ48   庭つきの長屋が五十ドル  家を出て友だちの画学生と共同生活を営んでいた息子は、恋人のアグネシカと結婚する気になったとみえて、真剣に部屋探しを始めていました。七〇年の十二月事件でゴムルカ政権が倒れ、七一年は積極政策のギエレク時代が始まっていました。日本企業がどっとポーランドに進出した時期でもあります。部屋探しの新聞広告に、「当方日本人」と一行加えるだけで、物件がどっと集まるほど、ポーランドにおける日本熱は高まっていました。  ある日、息子が相談にやって来ました。新聞広告を出した結果、上モコトフの古い住宅街に、条件のよい貸家があることがわかった。家主は外国へ出ることの多い建築家、三階の屋根裏部屋は家主自身のために確保しておきたいが、地下室使用も自由。月五十ドルのドル払い希望。  実際に下見してきた息子は、 「小さいながら庭つきだし、大きな部屋に大きな本棚もある。だいいち電話がある。工藤家がそこに移り、自分がシレナのこの家に住む、というのはどうだろう。もちろん大学に知れてはまずいけれど猫くさくなるより、ぼくが住んだ方が大学のためになるし、第一、工藤家は日本人のたまり場なんだから、大きな部屋のある方が便利ですよ」  十二月事件のおかげで、主人も通信社の通信員から駐在員に昇格し、日本からベルリンの銀行口座あてに払い込まれてくるドルは以前より多くなっていた時です。それに、�庭つき�のひと言でわたしは即座に移転を決意しました。  猫たちのために庭のある家に住みたいと何度も考えたものだったのに、チャルと太郎のいなくなった直後にその願いが叶うとは……。  チャルの住むシレナの街を去るのはうしろ髪をひかれる思いですが、チャルはもうわたしの手を離れた自由猫です。残った四匹のためにいい環境が与えられるのはありがたいことでした。  大学に内緒の引越しは、新学期の始まる前の九月に決行しました。  ワルシャワの街は第二次大戦の被害が八五パーセントといわれるほどの災害を|蒙《こうむ》りました。わたしどものくらした頃はすっかり高層アパートが建ち、戦災のあとを見ることはほとんどできませんでしたが、新しく移った上モコトフ地域は、戦前の建物が今も残っているワルシャワでも珍しい一帯です。ヴィラとよばれる石造りの二階建ての家は、シレナのアパートの三軒か四軒分の面積はあるでしょう。道路まで枝をのばしているような大きな果樹のある家や庭全体を花壇にしている家、どれもたっぷりと庭が取ってあります。  しかし、われわれの入った家は、|由緒《ゆいしよ》ある邸宅地帯にあるとはいえ、五〇年代の後半に作られた建売りの四軒長屋です。長屋とはいえ、地下室もあって三階に小さな屋根裏部屋を持つしっかりした造り。南側に四坪ほどの生垣に囲まれた庭があり、どうやらゴムルカ政権時代に建てられたモデルケース住宅かと思われます。この長屋式建物が八棟ほどありましたから、当時、相当な値段で買い入れたここの三十軒ほどの家主たちは、一般市民とはかけ離れて財産を持っていた人びとといえそうです。しかし一方に、この辺のヴィラとよばれる大型住宅の持ち主は、家の維持ができず、外人、つまりドルを支払える階級に家を貸し、自分はせまいアパートに住む例が多いときいていました。  近くには日本大使館の一等書記官や、有名商社の支店長が住んでいましたから、一種の特権階級なみのぜいたく地帯だったといえます。日本人講師|風情《ふぜい》の住む所ではないのに、お値段は最低、当時の日本人留学生ですら、住宅費には三千ズロチくらいかけていることからもわかります。  このドル払いとはいえ、安い家賃の裏には気の毒な話がかくされていました。家主には難病の男の子がいました。その特効薬が日本製なのです。日本人とつながりを持つことは、彼にとって大変重大なことだったとわかるのはだいぶ後になりますが。こうした事情で、貧乏ぐらしには出来すぎた家が借りられて、このカルヴィンスカ街48番地に暮した三年間は、わたしの人生の中の思い出深い年月となりました。   おおみそかの夜  後家さんというより独身に戻ったナホは、人間の年齢にすると十三、四歳の娘になったばかりのチャルコと六歳ぐらいの幼な児のチャピとチロのお母さんとして、しっかりしなければなりません。授乳期は完全に終っても、二匹の幼児は母親にまとわりつきます。ナホは甘ったれられるのは好きではないようでした。以前と同じように本棚の高みからただじっと見つめている時間が多くなりました。当然はじまる次のシーズンが、夫のチャルの不在のために始まらないのは、わたしをほっとさせます。オコポーヴァの家に拾われて来た当時のように、慎重な面もちで、音もなく新しい家の中を検分しながら歩くナホの様子には、どこか寂しげなものがありました。  チャルコも内気なおとなしい性質です。黒いふたりは喪服をまとった未亡人のように静かに毎日を過しています。  わたしは太郎に引きつづいて、シャム猫を育てる楽しさに夢中になりはじめていました。目と目の間、鼻から|眉間《みけん》にかけての三角地帯が日を追って濃くなっていく様子、口もと、耳先き、足など、躯の端々の色の変化していくのを見るのは、自然の妙というよりほかなく、毎日毎日が驚きの連続です。  押しのけやだったチロは、小さい時たっぷりお乳を吸ったせいで、体格はチャピよりひと回り大きくなっています。その代り、わたしに|疎《うと》まれ、かまってもらえなかったせいか、人間との会話に少々反応のにぶい猫になっていました。  チャピにはわたしは特別な思い入れがありました。絹糸のような爪をひとり吸っていた姿がわたしの心を|捉《とら》えてはなさなかったからでしょう。チャルに次いで、わたしの秘蔵っ子という形になっていくのは自然の成りゆきでした。チャルと同じように抱っこをして買物に行くのもチャピ、お散歩もチャピということになります。  留守番役にまわされるチロは、一日じゅう居間で新聞を読むか本を読んでいる主人の膝のなかに入ることを覚えました。酔っぱらって目もとの怪しい主人の肩にちょこんと坐っているチロの写真のあるところを見ると、チロと主人の間に淡いながら信頼関係があった様子がわかって安心しましたが、主人は無口、猫に話しかけたりやさしい言葉をかけるはずはありません。だんだんとおちゃっぴーになってゆくチャピにくらべ、チロが一層無口で静かな猫になっていくのは仕方のないことでした。  一年じゅうでいちばん美しい秋だというのに、カルヴィンスカの家の南側の大ガラス戸はいつも閉められたままでした。猫たちが、今度の新しい家にすっかり馴れるまで、庭に出すわけにはいきません。庭は塀のない生垣だけです。垣根をくぐって外へ出たとしても、果して自分で戻って来られるか、何の保証もありません。  移転に伴って、ゾシアとは縁の切れるはずでした。しかし、ゾシアは、電車で通うことになってもお手伝いを続けさせてくれと哀願します。本当に哀願という言葉そのままのへりくだりかたです。まるでわたしが封建時代の雇い主になったかと錯覚するほどです。 「この職場を失ったら生活に困る」  このひと言で結局わたしは折れました。おフミさんはまだ新しい職場で苦闘中でした。彼女の手助けはとうてい得られない以上、ゾシアの手はやはりわたしにとって必要でした。 「ゾシアは最低だよ」  と息子は反対しました。彼が育っていく社会の中で知り合ったお手伝いさんは相当に多いはずです。ポーランドの共働きのインテリ家庭では、たいてい時間給のお手伝いさんが一週に一、二度は来ていましたから。その彼がはっきりいうのですから、断乎として断るべきであったにちがいありません。その後起るさまざまな不愉快な事件は、いつも彼女がからんでいたのです。  おだやかな秋が過ぎます。ポーランド社会は借金政策ながら上向きに向いていました。日本人会ができるほど日本の企業はワルシャワに集まってきます。三年前まで三十人ほどのワルシャワ村だったことが嘘のようです。わが家を訪れるお客の数も多くなり、ゾシアの手助けはやはり必要でした。  クリスマスの季節に入った頃、ナホは三度目のシーズンを迎えます。二度目の出産から半年以上経っており、仔猫の乳離れがすんでからでも四カ月が過ぎています。体調はすっかり|恢復《かいふく》し、自然の呼び声はナホをゆり動かします。ナホは悲鳴に近い唸り声をあげて、外へ出せとせがみます。満一年に近いおとなしいチャルコにもシーズンが伝染してしまいました。ガラス戸を引っかき、さまざまな唸り声をあげ、わたしにすり寄って、出せとせがみます。チャルの例もあります。わたしとしてはどうしても戸を開けるわけにはいきません。主人は、 「そろそろ大丈夫だろう、出してやれよ」  とうるさがりますが、わたしは我慢し通します。  一九七一年の|大《おお》|晦日《みそか》、息子やその友だちがどっと押しよせて来ます。カルヴィンスカならドンチャン騒ぎをしても大丈夫という見通しです。十二時になったら派手にポンポン鳴らすクラッカーまで持ちこみます。アパートとヴィラのちがいはこういう時にはっきりします。  日本とはくらべられないほどアパートの床のコンクリートが厚くても、結局だめなことはシレナで充分経験ずみでした。一階上は女房に逃げられた酒呑み男、十二くらいの長女が二人の弟妹の世話をしていました。毎朝毎朝、椅子を引く音がギーギー響き、「ホレラ! (コレラのこと、こん畜生ほどの意)」というどなり声がこどもたちに浴びせられます。この日課ほどやりきれないものはありませんでした。「ホレラ!」の大声をきくと、こどもたちの怯える目が見えるようだからです。おやじのいない時、上の娘は思い切り大きな声で南米の歌「コンドルは飛んで行った」を歌います。よくも飽きないと思うほどこの歌だけを歌う娘さんの心情を思って、わたしも主人もこれは騒音公害のうちに数えませんでしたが、アパート住まいの上下の関係のむずかしさ、不自由さは経験ずみです。  息子の「お袋のところ、今度ヴィラなんだ」のひと言で、若者たちが集まるのは当然なのでした。  お客さんたちに遠慮するゆとりとてないナホとチャルコの「外へ出せ」とのせがみ声はますますエスカレートします。  恋に狂う猫の心は若者たちにもよくわかること、まして今夜はシルベストラ(大晦日)。夜半十二時には誰かれなしにキスしてもいいという一年じゅうで一番自由な滅茶滅茶に遊ぶ夜でもあります。 「もう越して来て百日以上経っているんですよ。どんなバカ猫でも帰って来ますよ。可哀そうじゃありませんか。さあ、出してやりましょう」  息子と友だちに説得されて、わたしはナホとチャルコに、 「帰り道をまちがえるんじゃあないよ!」  といいきかせて、戸を開けてやりました。  それっきりふたりは戻らなかったのです。  手がかりはまったくつかめません。大晦日の翌日、つまり元旦は日本とちがってポーランド人はみんな家で眠っている日です。夜明かしで踊り狂ったあとなので、ご近所もシンと静まりかえっています。カルヴィンスカの通りからオリンピースカまで、あちらの小路、こちらの庭と、 「ナホや、チャルコや」  と呼びながら歩いても、こたえる声はありません。三日、四日と夜も居間の灯りを全部つけて待ちうけましたがだめでした。  その上、息子は残酷な言葉でわたしをぎょっとさせます。 「ポーランドでは黒猫の毛皮はリウマチの特効薬ですからね。あれでさするとよく効くんだ。もう毛皮にされちゃっていますよ」とか、「ポーランド人は簡単にやるのよ! 昨日のマレクの黒の素晴らしい帽子見たでしょ。あれ黒猫。彼が自分でつかまえた猫で作ったの!」とか。  中学、高校をポーランド人の中でくらした子です。どんなことでもやる牧農国のしきたりを充分承知しています。  わたしの怒りは頂点に達します。母親の気持もわからないで、 「そんなことをいう人は、もうこの家の敷居はまたがせない」  とどなります。主人が仲に入って、 「そんなこと絶対にないよ。ナホは利口だから、シレナの家の方に戻ったんじゃあないだろうか」  その言葉にわたしは救われました。そうだ、ナホは本当に利発な猫、チャルとあんなに仲のいい夫婦だったんだから、そのチャルのところに行きたくて、とうとうシレナの方角へ歩き出したにちがいない。距離にしても五、六キロ、たとえ幾日かかっても、彼女の特別鋭いカンならば、きっと探し当てるにちがいない。チャルコにはそれだけの勇気も力もないから、まだこの近所をうろついているのではないだろうか。二週間経っても、|杳《よう》として行方のわからぬ二匹の黒猫のことは、わたし一流の楽天的希望的思考でケリをつけることにします。  チャルとナホの不思議な縁からシャム猫を混じえた四匹の|初児《ういご》を手にした、一年前と同じ一月十七日が近づいていました。あの賑やかな日とちがって、今年は、そのうちの二匹だけ、チャピとチロのシャム猫の姉妹だけが残りました。   チャピと焼海苔の匂い  右隣りは、中年の弁護士と体操教師の夫妻、左隣りは共働き夫婦(職業は不明)と十五歳くらいの音楽学校のピアノ科生徒の男の子。その隣りが貿易省につとめる家でとくに裕福のようでした(おくさんが専業主婦でいられるのは、社会主義国ではくらしにまったく困らない証拠です)。そろって自家用車を持っていましたから、余裕のある家庭ばかりと見受けました。  道を隔てて相対する隣人はゲネラルと呼ばれる将軍の家です。春にさきがけるクロッカスやサフランをまっ先きに見たのは、この家の花壇でした。つづいてみごとなチューリップが|妍《けん》をきそい、バラ、グラジオラス、ダリアと、季節順に配置された場所にみごとな花が咲いてゆきます。毎日手入れに余念のないのは将軍夫人です。十八、九の娘さんとあまり年のちがわない少年から青年になろうという年頃の男の子がいるので、四十二、三と見受けました。その昔のジーン・ハーロウという女優さんと同じようなみごとなプラチナブロンド、中肉中背の典型的なポーランド美人です。  チャピを抱いて散歩するわたしを見たゲネラル夫人から声をかけられたのがきっかけで、よく話し合う仲になりました。つねに四、五匹の猫が夫人を慕うようについてまわるので、みんな飼い猫と思っていたら、それらは、いわゆる彼女の外猫だとわかります。ゲネラル家の地下のボイラー室の窓が少し開けられていて、猫たちは勝手に出入りできるようになっています。ほんとの飼い猫は家の中、外へは決して出さない貴重な中国産の猫だといいます。北京のポーランド大使館の武官時代から飼っているそうです。  いつも立ち話ですが、チャピには実にやさしい声音でこどもに話すような可愛いポーランド語で話しかけてくれました。時には花壇から花を切ってくれました。朝、定時になると黒塗りの車が迎えに来ます。門のところまでご主人を必ず送りに出る将軍夫人を見ていると、なにやら日本の貞淑な妻の恰好に見えたものです。  息子の結婚式のためにご近所じゅうから椅子や机を借り歩いた時、ゲネラル家の屋根裏に蔵ってある机を取りに伺いました。そこではじめて、ゲネラル家の秘蔵の猫に会います。中国犬のチャウチャウと色はそっくり、レッドフォックス色のふさふさした毛なみ。顔はごく当りまえの普通の猫でした。二階の踊り場に置いてあったお小水場は、新聞紙を細かく裂いたわが家のお小水場とちがって、さすがに将軍家、箱の中にはまっ白なレグニーナ(わが家がトイレ紙として愛用している生理用チリメン紙)が敷かれていたのです。  ポーランド人はこどもに話しかける時、特別に甘い、やさしい言葉を使います。口のきけない赤ちゃんにも、一方的にえんえんとしゃべりつづけます。犬や猫に対しても同じです。ポーランドの言葉が充分にわからないわたしでも、その音声をきくと、とても暖かいやさしい気分になります。チャルがわが家に来てから、わたしはようやくポーランド語の|ty《テイ》(お前)でしゃべる相手ができたのです。それまでにどうしても出てこなかったこの国の親密ないいまわしかたがようやくわかってきました。その上、日本語も、赤ちゃんやこどもに話すような幼児言葉が自然に出て来てしまいます。  チャピを抱きあげてこども言葉で話していると、いつの間にか二十年も前の子育て時代に戻った感じで、母親らしい気分になるのが妙でした。  将軍家のお隣りは小さな幼稚園です。幼稚園の住みこみの用務員の飼い猫だったのでしょうか、白黒のブチと濃いグレーの縞猫がいます。こどもたちが抱いて頬ずりをしているのを何度か見かけました。猫はこどもがきらいというのは日本の話です。ポーランドの猫は、小さい時から人間から話しかけられ、キスされ、抱きあげられ、チヤホヤされるので、人間に何の不信感も抱かず、こどもともおとなともなごやかにつき合えるのでしょう。  ゲネラルの左隣りは有名な舞台俳優。年老いたお父さんと二人住いで、動物なし、女っ気なしの寂しい家です。この男性の役者さんには男の愛人があって、それらしいしなやかな躯の青年をむつまじく迎えたり送り出したりする姿が、時々見られました。  一軒一軒書いていったらきりがありませんが、ここは確かに猫町といってもいい町でした。生垣をくぐり抜けてゆくさまざまな色合いの猫は、どこの家の飼い猫かわかりませんが、シレナの地下室を根城にする野良猫とはちがって、自由気ままに庭と家との間を行き来する飼い猫とわかります。  知人のテレビのディレクターがたずねて来た時、 「娘に猫を、とせがまれているんですが、庭のある家に引越したらねと言って、もう五年になりますよ……」  といいます。「庭つきの家に移りたい願望は、猫よりも人間なんですがね」といいたい気分も籠められていると感じました。  せっかく庭があっても、チロは恐がってバルコニーから先きにおりようともしません。チロは少し離れたところからきこえる自動車や電車の音にも敏感で、おびえるように耳を動かすほどですから、外出など論外です。しかし、チャピはまったくチャルの直系の娘でした。外出が大好きなのです。チャルとちがうのは、抱っこの散歩より、犬のようにちゃんと歩く散歩の方を好みました。チャルの緑色の革紐はチャピのものになります。そろそろ満一歳を迎えようという春、ヴィラの間の道々を、犬を連れて歩くようにチャピを連れて歩きまわりました。とうとう机の引出しの奥からチャルの形見の銀の鈴を取り出して、チャピの首輪につけました。  チャピは西北側の窓に坐ってカルヴィンスカ通りを往来するひとびとを眺めるのが大好きでした。右から左から視野に入ってきて、また視野から消えてゆく人間、美しい色彩のセーター、黒い洋服のおばあさん、彼女の目にはきっと動く見世物だったのでしょう。  お隣りの家のさくらんぼの大木が半分以上わが家の庭に張り出していて、花の季節がくるとこの実桜は白い山桜のような風情に花を咲かせます。この桜の木に好んでやってくるキジ鳩夫婦がいました。窓先きまで伸びている枝の先きに、キジ鳩がとまっている時には、ガラス窓越しながら自然の野鳥を手の届く近距離から眺める幸せに恵まれたものです。ズームアップ、クローズアップされたキジ鳩の美しさは眺めていて飽きません。鳩たちが飛び去っていくまで息をつめて見つめたものでした。チャピもきっと同じように感じていたのだと思います。ガラスを引っ掻いたり、鳥をつかまえようとする身振りをすることもなく、静かに鳩の動きを目で追うだけでしたから。  ある日チャピは、この二階西北側の窓が開いているのを幸いに、玄関のアプローチの屋根に飛びおりてしまいました。そこから見上げれば、窓はずっと斜め上方になります。アプローチの屋根に勢いつけて飛びおりるのは可能でも、どうやら飛び上る高さではありません。庭にとびおりるのも不可能です。地下室がせり上っている造りのこの家は、玄関から更に数段の階段をおりなければ庭に出られないのです。椅子を持ち出したくらいでは届きません。チャルが丸太の足場で進退きわまった時に似ています。  チャピは泣きわめきません。どうやったらおりられるか、その可能性を見つけようと、アプローチの屋根を歩きまわります。地下室の石炭場から十センチ幅ぐらいの長い板を見つけて来た主人が、窓からアプローチにさし出します。斜めにさし出すのですから、安定はありません。チャピはその板に前足をかけてみますが、やはり危険を感じるのか後ずさりしてしまいます。  ふと私は海苔を思いつきました。  チャピはまったくチャルの娘でしたから、海苔に目のない好みもそっくりそのままです。海苔を焼く香りに飛び出してくるし、焼海苔を折る音にも素早く反応します。海苔に釣られるかも……早速海苔を一枚焼き、畳んで糸でくくります。竹の棒にこれを結び、窓からアプローチにさし出します。板は主人がしっかり押えています。この竹の棒はノレン用に日本から持ってきたものです。  チャピが海苔の匂いにつられて、しずしずと板に足をかけます。さらに少しずつ静かに海苔を移動させると、それにつられて、とうとう板を登りはじめました。海苔を正しくチャピの鼻先きにぶら下げ、板から足をふみ外さないように導くのに、わたし自身が綱渡りしているような錯覚を覚えるほど緊張したものです。  とうとう窓枠に前足の届いたところで、主人がチャピを抱きとめます。チャピは安心ののど鳴らしを大きくあげながら、誘い用のノリに早速パクつきました。   月夜の仔猫の恩返し  父親チャルの客好き、いたずら好き、冒険好き、散歩好きは、すがた、かたち、色がまったくちがうにもかかわらず、正しくチャピに受けつがれました。躯が小柄で、キリッと姉さんらしいしっかり者というところはナホ似です。  チャルやナホよりも幸せなのは、自由に家と庭の間を行き来できたことでしょう。カルヴィンスカでくらした初めての春は、チャピとチロの少女時代と重なります。まだシーズンの始まらない数カ月に、チャピはカルヴィンスカの街の隅々まで探検をすませていたはずです。二時間や三時間戻って来なくても、わたしはチャピを信用していましたから心配はしません。チャルがおねんねの時、鈴を外したように、今度はチャピの外出したいというとき(ほんとに彼女は意志をはっきり示しました)必ず鈴を外しました。樹木の多い庭つづきのカルヴィンスカを歩く時、樹の下枝に首輪を引っかければ、首くくりになりかねませんから。オンモへ出たい時はまず首輪を外すのがしきたりとなります。いつまでも帰って来ない時は、銀の鈴を振りながら「チャピ、チャピ」と呼び歩くと、いつの間にかわたしの足もとにすり寄ってくるので、チャピの外出にはまったく心配はありませんでした。  われわれ家族にとっても猫にとっても、ほんとうに心静かなよい時代だったといえます。  五月のある夜半、なかなか戻って来ないチャピを探しに、わたしは銀の鈴を鳴らしながらカルヴィンスカの通りを歩いていました。満月が中天にかかっていて、|皓々《こうこう》と照らすという言葉そのまま、ものすごい明るさが、街の通りへうつす家々の影をくっきりとえがいています。|凛《りん》と冷たい空気の中に、りんごの花の香りがどこからともなくにおって来ていました。  カルヴィンスカ通りの二番館の生垣に、小さな黒猫の仔が顔を出しました。鈴の音につられて母親のお腹の下から這い出して来たのでしょうか。鈴を鳴らすわたしの足元に垣の下をくぐって寄って来ました。二、三歩歩いてチリリンと鈴を鳴らすと、まだ二カ月そこそこのよちよち歩きで、寄ってくるのです。「音が気に入ったの?」と声をかけながら、わたしは家の方へ歩き出しました。三歩行っては足を止めてチリリンと鳴らす。仔猫は一生懸命歩いてわたしの足もとに追いつく。また三歩、また四歩と歩いては鈴を鳴らして、とうとうわが家の前までついて来たのです。 「どれどれ、せっかく来たのだから、ご馳走をしてあげましょう」  と抱いて家に入ります。帰宅しないチャピのために用意してあった食事を、この仔猫はガツガツもせず落ちついて食べます。物おじしないいい性質らしいのを知って、わたしはうれしくなりました。すぐに返すのが惜しいほど小さくて可愛いまっ黒な仔猫です。居間に連れこんで少し遊びました。  チャルコの子では、という思いがふとよぎりましたが、二番館と四十八番館は、番号こそ離れていても直線上のわりあい近い距離にあります。チャルコなら家に戻っているはずです。  わたしはその考えを振り切って、仔猫を二番館まで送って行きました。わが家の門の前で歩道におろし、鈴の音で誘いながら歩いたのです。明るい月の光が、小さな猫の|影法師《かげぼうし》まで作ってくれました。仔猫と小さな影法師が銀の鈴の音を伴奏に弾むようなリズムをつけて、わたしの後についてきました。お|伽話《とぎばなし》のような想い出です。  あの仔猫はやっぱりチャルの孫でした。チャルコは二番館の地下室に住みついていました。二番館のおばあさんがそこの地下室で飼っていた鶏はクリスマス用だったのでしょうか。お正月にはもういなくなった鶏の後釜に納まったと見ました。もちろんおばあさんの猫となったわけではなく、住居侵入を黙認されているにすぎない半野良猫です。わたしが「チャルコや」と呼んでも、もう知らん顔でした。  飼い主の手を離れた猫は、三カ月ぐらいで飼い主を忘れてしまうらしいとわかったのは、田舎へやった太郎を訊ねた時に痛感しました。  六月に手放して、再会したのは十月でした。太郎の貰われた家は質素な村の|鍛冶屋《かじや》でした。庭から直接入れる土間の上、暖炉の裏側の暖かい場所に、すっかり大きくなり、焦茶色の濃い立派な雄のシャム猫がねころんでいました。  水色ながら大きな丸い目の恰好といい、横ひろがりの顔といい、躯の色を除けばチャルそっくりの太郎は、おでこに大きなキズが一つくっきりありました。近所の猫とやり合った記念なのでしょう。その姿を見ただけで涙があふれてきました。わたしは、 「太郎」  と呼びました。太郎は知らない人に声をかけられ、うさんくさいという顔つきをします。太郎といえばすり寄って来たのに、もうわたしのことなどまったく忘れてしまったのでしょうか。名前をよんだだけではわかりません。わたしは手を差しのばし、抱きあげようとしました。太郎はすいっとわたしの手の下をくぐって土間に飛びおり、庭を駈けぬけて行ってしまいました。なんともいえない寂しい気持でした。  この村に一匹しかいない珍しいシャム猫というわけで、一度誘拐されて、一週間行方不明になったそうです。鍛冶屋の家族がある家にひそかに飼われているのを探知して、無事に取り戻したといいます。  一家をあげて可愛がってもらって、幸福にくらしているのを充分に見極めたことで、わたしは満足しなければならない、と自分にいいきかせました。  二匹目はミーシャです。クリーシャの家へいちばん先きに貰われていったチャルの|初児《ういご》は、どのような事情かオコポーヴァの私営の八百屋の猫となっていました。おフミさんも詳しい事情を話さないので、わたしはあえてたずねませんでしたが、やはり大きくなったミーシャを見たいと思って、わざわざオコポーヴァまで出かけました。  かつてのわがアパートの後ろに、まったく新しく出来たプリヴァトネ(私営)の八百屋の店の奥に、仔猫を抱いたミーシャがいました。ナホ似のしっかり者のお母さん猫になっているのを見て安心したものの、「ミーシャや」と呼びかけてもまったく反応がないのは、鍛冶屋の太郎と同じでした。太郎は太郎と呼ばれていて幼名を維持していたにもかかわらず、わたしの声に反応してくれませんでした。ましてやミーシャはもうミーシャではなくて、八百屋のおばさんの呼びやすい名前に変っていたのです。  三匹目のチャルコもわたしの呼び声に反応してくれませんでした。わたしがアプローチの階段のかげに置く外猫へのお供えを、ちゃんと食べてくれていたのか、丸々と太って、野性の気の|漲《みなぎ》っているチャルコは、家にいた時より幸せそうに見えたのが慰めです。  チャルコの生んだあの小さな仔猫が、チャルの形見の鈴の音に惹きよせられるように、わが家を訪れてくれた恩返しもうれしいことでした。  このころ、日本ブームに関連して日本学科の学生の数も倍増となります。一年に一度、わが家で開く日本学科の雛祭りパーティも、今度の家なら全員入ります。留学生たちのために日本の新聞雑誌を見、日本食の食べられる日を週一度設けることができたのも、誰に遠慮のいらないヴィラ住いだったからかも知れません。  広々としていて、一年じゅうほぼ温度差のない地下室は、食料の貯蔵場としても最適でした。すべて手づくりのお味噌も梅干しも魚の干物も、いつでも安心して置けます。ここにはホーロー引きの中古風呂桶までがすえられて、鯉の|生簀《いけす》になっています。『ワルシャワ貧乏物語』と重複するので省きますが、ようやくわたしのワルシャワぐらしは、安定期に入りました。  お客用のベッドもあります。東京の父を呼んでも、一カ月や二カ月気ままにくらしてもらえます。夏休みならば息子が自動車でおじいちゃんをあちこち案内するでしょう。父は精神のしっかりした人ですから八十をすぎていても、招び寄せれば出かけて来るはずです。若い頃、浅草のペラゴロだったハイカラさんを、ミラノのスカラ座には叶わぬながら、戦前の姿そのまま立派に再建されたワルシャワの大オペラ劇場へ連れて行くことぐらいできます。そんな計画をひそかに練っていた時、東京から父の死を知らされます。  取るものもとりあえず五年ぶりに戻った東京は、高度成長期のまっ最中でした。東欧の田舎からひょっこり帰ってきたおのぼりさんは、おろおろと一カ月半を過し、ようやく八月一日の夜、ワルシャワに帰りつきました。  モスクワからは巡業帰りのワルシャワ・フィルの一行と一緒になりました。 「ただいま、この機はポーランド領に入りました」  とアナウンスされた時、ポーランド人全員が立ち上って手を叩き、「ストラト、ストラト」と歌い出したのには驚きましたが、わたしもいつしか一緒になって、大きな声で歌い出していました。夫と猫の待つワルシャワは、わたしにとっても第二の祖国となっているのに気づくのでした。  八月一日はワルシャワ蜂起の記念日です。飛行機がワルシャワ空港へ近づくと、この夜、墓地に供えられるローソクの灯の残り火があちこちにぼうっとした光の模様をえがき、ぐっと目の中に入ってきました。  わたしの留守した四十日の間、主人はチャピに苦労していました。生後一年二カ月経っているチャピは、折あしくわたしのいない間にシーズンが訪れてしまいました。チロは家の外へ出ることなど考えない子ですし、おく手なのかシーズンはまだ起りませんから安心ですが、チャピは外へ出たいと思えば出て行く子です。いったん出れば勝手知ったカルヴィンスカの街です。友だち猫もでき、恋人もでき、楽しくて楽しくて家に帰るのを忘れてしまうほどだったのもむりはありません。  わたしの留守中にワルシャワのわが家に来られた作家の|中薗《なかぞの》英助さんが、その当時の様子を話してくれたことがあります。 「猫が帰って来ないといって、工藤さんが探す様子は本当に大変でしたよ」  わたしの大事なあの銀の鈴も、こうしたチャピの逃走中に紛失していました。外出の前に、いちいち首輪を外してやる世話まで主人に頼むわけにはいきませんでしたから。首輪をなくす時、枝にひっかかって苦しまなかったでしょうか。鈴の失くなったことよりもその方が心配でした。口のきけないチャピはそれに答えず、久しぶりの女主人に会え、たっぷり新しい東京の海苔を食べさせてもらって満足そうでした。   ノミが有料なら猫はただに  さあ、チャピのお|婿《むこ》さんを早く探さなければなりません。チャピの血統には黒猫の血が厳然と入っています。シャム猫と結婚したとしてもシャム猫の生まれてくる確率は少ないはずです。「メンデルの法則」を実験するチャンスでもあります。 「求シャム猫」と新聞広告を出そうかなどと考えている時、ノーヴィシフィアト(新世界通り)の動物屋で、「シャム猫、百二十ズロチ」の看板を見てしまったのです。その日、わたしひとりの外出がなんであったか思い出せません。お金を充分に持ち合わせていたことから、新世界通りの裏手にある外交官専用の肉販売店へ出かけた日のような気もします。  新世界通りの中ほどにはアクアリウムという魚や釣具を売る店と、犬、猫、うさぎ、りす、二十日ねずみ、ハムスターなどのほか、小鳥類から|爬虫類《はちゆうるい》まで売っている店があります。以前、縞りすが車をまわしている可愛い姿にひかれて、店内に入ったことがありますが、その店の臭気のものすごさは一種異様で、すぐに飛び出してしまったものです。しかし、この日は貼り紙の「スィアムスキ(シャム猫)」の文字を見て、鼻をつまみたくなるような店の中へ入ります。鳥の剥製が薄暗い壁にいっぱい飾ってあって、あやしい雰囲気の店の中に坐っていたのは、|佝僂病《くるびよう》の小さな白髪のおばあさんでした。 「シャム猫、シャム猫」  というと、おばあさんは黙って裏手の部屋からシャム猫をつまむようにしてぶら下げてきました。もうだいぶ大きく、五カ月と見ましたが、痩せてギスギスしていましたから、実際は六カ月ぐらいだったのでしょう。わたしののぞんでいた雄です。少し斜視のブルーの目が大きく、手足が長く見えたのも、肉づきの悪いせいでした。値段は百二十ズロチ、初めてお金で猫を買うわたしに、それが安いか高いかわかりません。チャピのお婿さんに純粋種のシャム猫を迎えられるならば、それが千ズロチだとしても買ったはずです。百二十ズロチという金額はわたしにとってタダに等しいものでした。  それにしても、主人に話さねばなりません。相談するわけではないのです。もうわたしの決心はついてしまっているのですから。ただ了承を得る、恰好をつける、といったらよいでしょうか。それよりも、この動物屋の臭気から、ちょっとでも逃れて息抜きをしないわけにはいきません。 「すぐ戻るから、それまでにちゃんと箱に入れておいて」  といい残して、わたしは公衆電話でシャム猫が入手できたことを告げます。いつものように主人は何もいいません。猫は女房の趣味、勝手にするがいい、というところでしょうか。それとも雄が来て、チャピがおだやかになればいいと思ったのでしょうか。  バスの人々の好奇の眼を物ともせず、ボール箱の中で哀れげにミューミューなく猫に絶えず声をかけながら帰宅しました。  箱から出して抱きあげた瞬間、その猫がノミだらけなのに気づきます。四足は薄茶でも、躯はまだ白色です。その白い毛の間にモゾモゾ動くノミが目に入ったとき、あの汚い動物屋に幾日間置かれたのか、その様子が思い浮ぶと、いっぺんにこの猫が哀れになってしまいました。  昔、初代のチャルを田舎の人から貰った時と同じ状態です。米軍から配給されていたDDTという薬のあった、戦後間もなくのことです。この薬を小さな黒い躯にかけてタオルですっかりくるむと、毛の薄い目の上、耳のあたりにノミはゾロゾロとのぼって来ます。水を張った洗面器に片っ端からつまみ入れて、おおよそ退治したところでぬるま湯のお風呂につけて薬を洗い流した経験があります。ずいぶん前のことなのに、すぐそれを思い出しました。  洗面器にお湯を入れ、手拭いに躯を包んで浸します。DDTは使いませんでした。あばれていやがるのを押えつけて、ノミが上に這い上ってくるのを待ちます。しかし、這い上るノミの数は、とうていひとりで退治しつくせるほどのものではありません。主人は無器用だし、ノミ殺し作業なんて見たくないはずですが、今日ばかりは仕方ありません。ほかに手はないのですから。大声で主人に助けを求めて、猫の押え役になってもらいます。  あばれるとお湯が飛び散り、もうどうにも手のほどこしようがありません。居間に大きなタオルを敷いて、じっくり退治することにしました。躯をふき、タオルの上に坐らせると、このシャム猫にも事態はのみこめたのでしょうか、おとなしくノミを取らせるではありませんか。水に漬かってふやけたノミの動きも鈍り、取りやすくなっています。主人には退場してもらって、わたしは坐りこみました。  ノミ|櫛《ぐし》などという便利なもののないワルシャワでは、一匹一匹つまみ取って、洗面器で水死させるよりほかありません。  もう大丈夫、とわたしが納得するまで二時間もノミとの格闘はつづきました。取ったノミは、数えられるだけでも百二十匹でした。百二十ズロチで買った猫に百二十匹のノミがついていた。そして、百二十匹のノミがいなくなった。ノミ一匹一ズロチと考えると、この猫ちゃんはもうタダ、という変な計算をわたしは考え出して、主人に告げます。  これには主人も大笑いで、それ以後たびたび、百二十匹のノミの話を持ち出して、改めてうれしそうに大笑いするのでした。  さて名前です。田舎へやったチャルの長男の太郎にすげなくされて、わたしはがっかりしていました。衝動的に人手に渡したとはいえチャルとナホの初児のシャム猫です。やはり太郎の名を残そうと思いました。  せっかく雄の太郎が婿入りして来たのに、チャピのためには少々時期おくれで、チャピはもう妊娠していました。この頃はちょうど落ちつきを取り戻していたのです。  チャピは弟を迎えたように太郎と仲好くしようとしますが、太郎はいじけて、いつもおどおどとチャピの眼を見るのです。あの汚い動物屋に売ってしまった家の人の顔が見えてきます。チロの内気とはまったく別の、なさけない表情を見ると、わたしまでなさけなくなってしまうのでした。  太郎は姉さんたちふたりが食事をすませるまでおとなしく後の方にさがって待ちます。わたしの処方どおりの定食のほかに、ソーセージやチーズをたべても、太郎のやせた躯は、おいそれと太ってくれません。  わが家に来て一カ月、九月半ばのことです。太郎が急に|洟《はな》をたらしはじめました。喉がつまりそうなカスれた|咳《せき》ともいえぬ咳をして苦しみはじめます。さあ大変、こんな痩せた躯で病気になればひとたまりもありません。  チャルと通った動物病院は遠距離ながら乗り換えなしに一本の市電で行けます。タオルに包んだ太郎を、ワルシャワ市の半分以上ゴトゴトゆられて連れて行きました。例の通り、長い待ち時間があります。ほとんど半日がかりの仕事です。注射をしてもらい、指示を受けます。三、四日注射に通わねばなりません。三日間の通院で太郎はようやく快方に向い、わたしの心配が消えました。  ところが、太郎にかまけている間にチロの様子がおかしくなりました。おかしいどころの話ではなく、そのすさまじい変り方にわたしがうろたえるほどです。  ごはんもちゃんと食べていたと思うのに、太郎に手がかかって、どのくらい、どのような食べ方をしていたかの観察が足りなかったのは確かです。チロが黄色い液体を吐いているのに気づき、大変とばかりに抱きあげようとしても、歯をむいておどします。チロが必死の形相でわたしを|睨《にら》みつけ、寄せつけまいとする態度は、彼女が初めてわたしに見せる強い意思表示でした。  ベッドの下の暗い奥に逃げこむのを、どうすることもできず見守るばかりです。床に頭をつけてベッドの下を覗くと、今度はもう黄色い泡を吹いているではありませんか。その夜、ベッドを動かしてようやくチロの傍に行ったわたしが、手を出してチロを抱きあげようとしたとき、チロはカッと眼をいっぱい開き、一瞬、躯をふるわせたかと思うと、泡を吹いたまま息絶えました。  一生の間、外に出たこともなく、恋も知らず、生娘のまま息絶えたチロは、わたしを睨んで死にました。睨んだのではなく、ただ苦しかったのかもわかりませんが、チャピを偏愛していると自覚しているわたしには、劇的なチロの死はこたえました。お医者さんにもかけずに死なせてしまった悔いは、泣いても泣いても晴れません。  動物屋で買って来たおやせの太郎の病気にかまけて、チロの病気に気づかなかったとは……。ふっとチャピも病気かも知れない、と思いつきました。  太郎の病院通いから戻ってきても甘ったれないチャピを、ただおとなにしているとばかり思っていたのは間違いでした。改めてチャピを抱きあげると、チャピの眼はすっかりうるんで、鼻水も出ています。そのうえ、熱さえ手に感じられるではありませんか。チャピもまた病気だったのです。   目でこたえながら死んだチャピ  当時、わが家には居候がひとりおりました。居候という言葉にはちょっと引っかかりますが、ポーランド人の日本学科の学生さんが、外国へ出たまま帰らぬ三階の屋根裏にある家主の部屋に住みついていました。  わたしにとってつらい日々となった九月の一週間、このA君のお手伝いがあったからこそ耐えられたのだと思っています。  チロのお墓も彼が掘ってくれました。チロはもう両眼を静かに閉じ、ボール箱の中に花に囲まれてねむっているようでした。チロの死にいつまでもめそめそしていられません。チャピもまた病気なのですから。  動物病院の時間待ちをするほど悠長にはしていられません。なんとか往診してくれる獣医さんが必要です。A君はあちらの地区、こちらの地区と、区毎にある動物病院に電話をかけて、病院の仕事がすんでから往診してくれそうな先生を探します。  国際列車のとまるグダンスク駅近くの病院の先生が往診してくれることになりました。  ていねいに診察を終えたお医者さんは、わたしに病名を告げません。注射を何本も打って、また明朝、出勤前に来る、といって帰ります。チャピは身重でした。はじめての妊娠なのでそれほど目立ちませんが、抱くわたしには以前よりずっしりと重くなっています。暖かく毛布にくるみ、時々牛乳を含ませ、水を含ませます。注射のおかげか、目やにや鼻水は少くなりました。母親にとってききわけのいい赤ちゃんほど助かるものはありません。チャピは聞きわけのいい赤ちゃんのようでした。  翌朝、獣医さんは自家用車で往診にかけつけてくれました。また注射を何本もします。そしてこの時、予断を許さぬほどの重態だと告げられたのです。彼は静かにわたしに話してくれます。 「この状態ではたぶんだめだと思う。普通ならもう治療は中止して、安楽死をえらぶよりない。妊娠が病状をさらに悪化させる原因になっているからである。しかし、昨日から見ていると、パニのために何とかしたいと思いはじめた。今日これから病院へ行って同僚と相談する。帝王切開でこどもを出しましょう。絶望の中に残された唯一の道はそれだけなのです」  午後になってお医者さんから電話がかかります。 「同僚と相談してみた。彼も手術に賭けるという。勤務の終る夕方六時、病院へ来てください」  経過は主人に話しずみです。しかし、主人に何の手助けができるでしょうか。わたしもまた彼にたのむ気持はありません。怖いものを見ることのできないのが心やさしい証拠とすれば、彼は優しい人間なのでしょう。しかし、この世にはいやなこと、つらいこと、悲しいことがたくさんありすぎます。それから眼をそらすわけにはいかないのです。  A君がわたしに付き添ってくれました。チャピを抱いてタクシーに乗って行くわたしの恰好が、幼い次男を抱きかかえて東大病院へ駈けつけた二十年前と重なります。  往診してくださった長身の先生は、若いあごひげをいっぱい生やしているさっぱりした態度の先生を紹介してくださいます。そして、A君を通訳として次の条件を出されます。 「ご承知のようにわれわれの医療体制は不備だらけです。特に麻酔薬は絶対的に不足しています。奥さんは西側へ行かれることもあると思うので、今日ここで使用する麻酔薬と同じ処方箋を書きますから、買って埋め合わせてもらいたいのです。手術をする前にこんなことをいうのははずかしいのですが、いたしかたありません」  といいます。もちろんわたしは承諾しました。昨日からの先生の理性ある立派な態度に心打たれていましたから。  二人の先生は手術着に着がえ、チャピをわたしの手からそっと受け取って手術室に入りました。何とか成功してほしいと、わたしは祈るような気持でじっと身体を堅くしています。A君がわたしの手を強く握って、やさしくなぐさめてくれます。 「大丈夫ですよ、チャピはしっかりした猫ですから」  つね日頃は彼の大言壮語的なところが嫌いで、時にはうとましいと思うこともあったのですが、この時の心からの慰めの言葉と態度は、ありがたいと思いました。  弱いもの、打ちひしがれている人に対するこうした優しい態度を、ほとんどのポーランド人は持っています。これは民族的に共通する優しさとしかいいようがありません。  しばらくたって長身の方の先生が、お腹の中のこどもですと膿盆に入れて見せに来ます。小さな白と黒のブチが、おそらく三匹いたと覚えていますが、はっきりとこどもの数も色も見すえられるほど、そのときのわたしはしっかり者ではなかったことになります。  すっかり手術は終りました。チャピは包帯をされたまま麻酔で眠っていました。  明朝の往診を約束して、わたしは、小さく軽くなってしまったチャピを抱いて家に戻りました。  お医者さんの賭けにこたえるように、チャピは三日間がんばりました。朝夕二回、必ず廻って来てくださるお医者さんの手厚い治療で注射による栄養の補給も行われていました。わたしの抱く手の中でぱっちりと目を開いて、周囲を眺めまわす力もあります。「チャピや」と声をかけると、短いながら返事もします。  三日目の夕方、ひたいのあたりが少し白っぽくなりました。体温が急に低くなってきたのです。まる三日間、猫とわたしの西北側の部屋でほとんどチャピを抱いたまま長椅子に坐っていたわたしは、いよいよ来る時が来たことを知ります。 「チャピや」と小さく呼びかけます。わたしの声に小さく返事をしていたチャピは、だんだんと声が出なくなります。しかしまだ「チャピや」のわたしの声に閉じていた目を見開いて、じっとわたしの目を見るだけの力はあります。少しずつ意識が薄れて行く状態だったにちがいないのに、わたしの呼びかけには短いながら何度も何度も目をあけてこたえました。  しかし、とうとう眼でこたえなくなりました。最後に「チャピや」のわたしの声に|目蓋《まぶた》がかすかに動きました。それがチャピの返事の最後です。そしてそれっきり。静かに静かにチャピはわたしの手の中で冷たくなってゆきました。  九月二十三日の夕方です。日本ではお彼岸の|中日《ちゆうにち》に当ります。こんなに静かで、苦しまない死、チャピの魂が肉体を離れて、|涅槃《ねはん》の国へ入ってゆく──そう思いたくなるような死でした。最後の最後まで意識のしっかりとしていたこの利発な小さな猫のこと、特にわたしの手の中で迎えた臨終の数時間は、決して忘れることはないでしょう。  わたしと猫たちの部屋で、刻々と変る|茜《あかね》色の空を飽きずに眺めていたチャピ、その小さい躯にみちていた|神々《こうごう》しいまでの威厳に、何度わたしは|見惚《みと》れたことか。そして今日、窓にうつる夕映えの中で、あのつぶらな水色の瞳は開かない。  涙が出はじめます。そしてもう止まりません。主人は抱きついて泣き止まないわたしを、この時ばかりは受けとめてくれて、長い間、黙ってわたしの背中を撫でつづけてくれました。  翌日、新しい日本からの留学生が紹介状を持ってわが家を訪れてきました。せっかく訪れたわが家は、花に囲まれた籠の中に静かに横たわるチャピと、まだ泣きやまないわたしがいるという次第です。A君と二人の留学生が、チロの隣りにチャピのためのお墓を掘ってくれました。  その翌日、わたしは隣家の将軍夫人にわが家の悲劇を伝えました。 「しばらく見ないと思ったら、そんなことが……」  とわたしをやさしく抱きしめて慰めてくれます。彼女もまたこの二週間の間に、七匹の猫を葬ったといいます。庭の隅や花壇の間に死んでいた彼女のいわゆる外猫の幾匹かと、見たことのない迷い猫を含めての数なのです。 「猫の流行病、多分ジステンパーでしょうね」  といいます。  チロのお墓もチャピのお墓も掘れなかったわたしにくらべて、将軍夫人のしっかりした態度に頭がさがります。ほんとうに心のやさしい人なのだと思いました。  同じ日の夕方、犬好きの絵かきさんからドンブロフスキ街でも多くの猫の死んだことを知らされましたから、ほんの二週間ほどの間ながら、強烈な流行病がワルシャワの街々を走りすぎたのは確かです。  わたしは犬のジステンパーは知っていましたが、猫もかかる病気とは|迂闊《うかつ》にも知りませんでした。猫にも予防注射が必要ですよという忠告すら、誰からも聞きませんでした。  伝染病が家の中にまで入りこむものでしょうか。無知なわたしでも外を出歩くチャピがまず感染したことを認めないわけにはいきません。感染源のチャピが一番早くやられるはずのところを、栄養失調寸前の太郎が、まずがっくりまいる。見るからにやせている太郎におのずから向けられていたわたしの注意の目が彼を救った、といえます。  チロの異状を見逃したのはわたしの怠慢です。伝染病のいちばん恐ろしい威力に取りつかれたチロは、病気と闘う気力に欠けていたのでしょう。電撃的に死に追いやられました。  チャピが最後まで残ったのは、あのお医者さんたちの正しい判断と治療のおかげに加えて、チャピ自身の強い精神力だったのではないでしょうか。  すごい伝染病だったとしても、太郎と同じ時期に早く気づいていれば、助かる可能性はあったはずです。やせて哀れげな太郎にかまけていたために二匹は死んだ。わたしの心の中に出来上ってゆくこの図式が、太郎をうとましいと思わせます。   太郎が戻らない  しばらくの間、わたしは太郎を傍に寄せつけませんでした。|邪慳《じやけん》な気持を押えられないのです。  でも、太郎は黙って、ただひたすらわたしの後を追います。足にすり寄り、椅子に坐るわたしの膝に手をかけます。  とうとうわたしは根負けして太郎を抱きあげました。やせて口もとがとんがり、狐のような顔立ちの中の、ちょっとロンパリ、つまり|やぶにらみ《ヽヽヽヽヽ》の水色の目に見つめられると、もうこれ一匹しかいないのだから邪慳にするのは止そうと思いました。  どんな家に、どんな環境に育ったのかわからないけれど、わが家に来たからには、わが家の習慣を守り、人間との協調の生活を覚えさせねばなりません。まだこどもの気分が残っているうちに、ちゃんと世の中も見せておかねばなりません。チロのような、意気地のない猫にはなってもらいたくないのです。  幼いうちに人に馴らせ、音に馴らせる必要があります。チャルとチャピが散歩用につけた緑色の革紐を太郎に与え、またしても太郎づれで買物に出るようになりました。ナホとチャルコにもこうした教育は必要だったはずなのに、家の中だけで飼うという固定観念のようなものから、わたしはぬけられませんでした。ナホの失敗はくり返してはなりません。  ちゃんと家も覚えさせる必要があります。お使いの帰途、カルヴィンスカの通りに入ると革紐を外し、ひとり歩きさせます。太郎はわたしが傍にいなくても、わが家の門の下をくぐってアプローチをのぼって行きます。  太郎が外へ出たいと意思表示をする時には扉を開けて出します。お隣りの庭、道をへだてたゲネラルの庭にも出かけるようになりました。帰ってくれば玄関先きに坐ってなきます。わたしが思っている通り、太郎は意思をちゃんと主張できる猫になってきました。  陽性のいたずらっ子だったチャルとも、見るからに利発そうなチャピともちがう、おだやかな物腰の太郎は、特別に躾けるわけでもないのにお行儀がよく、食べものの好き嫌いもいわず、きちんと腰をおろして黙々と平らげます。みるみるうちに肉がついてきます。堅太りといってよい筋肉がついてきます。ヒョロリと手足(?)の長い感じにやせた太郎は、肉がついてみると大型の立派なシャム猫です。  濃い焦茶のポイントが背中の方にまでひろがり、全体に茶色っぽい猫になっていきます。太ってくるにつれて斜視も目立たなくなったのは、淡い空色の目が濃いブルーに変っていったからかもわかりません。  太郎がすっかり落ちついた秋の深まる頃、わたしは二日間だけ、ひとりで西ベルリンへ出かけました。銀行にあずけてあるドル貯金を取りに行く用事のほか、お医者さんと約束した麻酔薬を入手するためです。  お医者さんからはきちんと印を押した正式な書類を貰ってあります。結果としてその書類で薬は買えませんでした。印が押してあっても、体制の異なる東欧圏の医者に渡すわけにはいかなかったのでしょう。帰って経過を話すと、お医者さんはあっさり了承してくれました。わたしが約束を守ろうと西ベルリンまで出かけたことを評価してくれたのでしょう。  麻酔薬はこの国ではめったに使われない貴重な薬のようでした。ワルシャワ滞在中、世話になった歯医者さんは、亡夫の知人の朝鮮の方でしたから、歯の治療には麻酔薬をちゃんと使っていただけました。しかしわたしの流産の手術の時、入院した下町の病院には、麻酔薬が不足していたのは確かです。わたしは言葉もわからぬ異国人のお医者さんと看護婦さんの前で、「痛い痛い」と日本語の大声で叫びつづけました。チャピのために、ちゃんと麻酔薬を使ってくれたあのお医者さんには、今も感謝の気持でいっぱいです。  チロとチャピ、チャピの混血の子と太郎も加わって賑やかになるはずだったカルヴィンスカの二度目のクリスマスは、太郎一匹だけの寂しいものとなりました。大きな事件もなく、静かなポーランドらしいクリスマスです。コレンダ(ポーランドのクリスマス・カロル)がこんなに心にしみじみと聞こえた年はありませんでした。  雪が降り、南側のバルコニーにも十センチ、十五センチと雪が積ります。その雪の中を、小さな足あとを点々とつけて、一日に何度も一匹の猫が訪れてくるようになりました。大きな雄猫です。お腹と足が白く、背中全体が灰色の縞なので、わが家ではシャーリー(灰色という意味のポーランド語)君と呼ぶようになりました。シャーリー君はどうしたわけか太郎に恋してしまったらしいのです。あるいは庭に残っているチャピたちの匂いに惑わされたのでしょうか。|碧《みどり》いろの目(ほんとうにみどり色にみえました)を大きく見開いて、思いつめた表情で、ガラス戸越しに部屋の中を覗きます。時には窓の桟に前足をかけて立ち上り、首をかしげてのぞく恰好は、なかなかチャーミングなみものでした。  太郎はカロリフェル(ラジエーター)の前の椅子を自分の席と決めていました。シャーリー君はガラス戸をすかして斜めに太郎を見つけると、しゃがれ声で誘います。太郎がいつまでも知らん顔をしていると、くるりと後ろ向きになって尻尾を立てお尻をふるわせて、ガラス戸におしっこかけをします。こちらからは丸見えとなるシャーリー君の小さな黒いフグリが可愛らしいと、主人も笑って彼の来るのを楽しみにするほどでした。  太郎はまだおとなの領域に入ってはいませんが、ご近所の猫と友だち関係を持ったことは確かでした。  ゲネラル夫人がある時、 「お宅の猫ちゃんは雄なのでしょう。先日灰色の猫に首元を押えられて、雌の役をやっていましたよ」  と笑いながらいいます。まだ一人前になっていない太郎は、深なさけのシャーリー君にとうとうつかまってしまったようです。  ある日、一時間が限度の散歩時間が過ぎても太郎は帰宅しません。夜半になっても戻る気配は見えません。わたしは翌朝までまんじりともせず、帰宅の太郎の声を待ちます。太郎のシーズンはまだ始まっていないので、迷子になったか、盗まれたかのどちらかです。  わたしの教育は間違っていたのでしょうか。  大学には内密というリスクを|冒《おか》して、せっかく移り住んだ庭のあるヴィラです。猫たちを壁の中に閉じこめるつもりはありません。閉じこめるどころか、積極的に家と外との関係を教えこみました。心配しなくてよいまでに教育のすんだものが、家を忘れてしまうはずはありません。 [#この行2字下げ]当家のシャム猫(一歳)が行方不明となりました。どんな情報でもお寄せ下さい。  これは三日目にわが家の門に吊りさげた看板です。  盗まれたのを考えに入れて、名前は伏せました。  翌朝、呼鈴が鳴りました。いそいで出てみると、小さな中年の女の人が立っています。姿を見るなり、あの人だなと気づきました。不自由な足を引きずりながら家の前を、毎朝通るのを、窓ごしに見かけていたからです。しっかりとしたその顔つきから、きっと近くにある身障者の学校の職員ではないかと、わたしは勝手に想像していました。 「昨日オリンピースカでシャム猫を見かけました。お宅の猫ちゃんだといいですね」  それだけを伝えるために、不自由な足を引きずって、わざわざアプローチの上までのぼって来てくれたのでした。  情報第一号に従って、オリンピースカへ駈けつけます。通りの端から端まで、「太郎、太郎」と連呼します。この辺りはワルシャワの高級住宅地域です。チャピと散歩中にシャム猫を二匹も見かけたくらいですから、たぶん彼女もその同じシャム猫を見たのかもわかりません。徒労ではあっても、情報をもたらしてくれる人があったのは、わたしを力づけてくれました。  その翌日、牛乳配達のこどもが、門の前に立ってお使い帰りのわたしを待っていました。 「おばさん、おばさんとこの猫、何んて名前?」 「タロー、タローっていうの。なぜ?」 「探してやろうと思ってさ」 「ありがとう。頼むわ、探してね」 「タロー、タロー」とくり返しながらその子は帰って行きました。タタラ(しょうぶ)の根のエキス入りの養毛剤がタローという名前で、キオスクで売られているせいか、ポーランド人に無関係な太郎という日本語が、意外と発音しやすくすんなりわかってもらえます。ですから、ちょっと頭の甘そうなこの子にも簡単に覚えられたはずです。  この子は牛乳配達の子です。明け方の五時、まっ暗な道を手押し車でこのあたりの牛乳を配達する母親にいつもついて歩いていました。人びとが寝静まっているのに、無遠慮にこどもをガミガミと叱りつける大きな声に、わたしは何度も眠りを覚まされたものです。この子は昼間学校へ行っている様子もなく、カルヴィンスカのつき当りのキオスクか近くの食料品店のあたりでいつもぶらぶらしていました。十四、五歳ぐらいの身体つきなのに、言葉つきのゆっくりとしまりのないところは、多少、知恵おくれの子だったのかもしれません。にもかかわらず、わが家のウォトカの空びんを貰いにくるなかなかの才覚もあります。びんは一本一ズロチになるそうですから、わが家から出る相当量のびんは、彼のお小遣い稼ぎだったのでしょう。なぜ彼が名前をききに来たか、後でその意図に気づきます。   二度目の受難  太郎はとうとう一週間たっても戻りません。もう絶望的です。わたしがめそめそするのに主人は困って、おフミさんに電話をしたのでしょう、その夜、おフミさんはキオスクの仕事の帰りに、わざわざわたしをなぐさめに寄ってくれました。|晩《おそ》い夕飯をすませ、わたしとおフミさんは西北の部屋で一緒に寝ました。  二月の寒中休みのことで、日本人の留学生がひとり泊りこみに来ていました。主人と何か文学談義にふけって、二時頃までしゃべっていたそうです。  わたしははっと目が覚めました。猫の狂おしい泣き叫ぶ声が遠くからきこえて来ます。息せき切って、みえも外聞もないというかんじで、けたたましく泣きながら走ってくるようです。太郎です。わたしが階下に駈けおりる前に、 「お前さん、お前さん」  と主人が大声で叫びます。 「太郎が帰って来たぞ──」  泣き叫びながらかけてくる猫の声に、主人と学生さんはあわただしくバルコニーのガラス戸を大きくあけました。同時に、太郎が大声をあげてとびこんで来たのです。太郎は興奮のあまりブルブルふるえていました。おフミさんも起きて来ます。彼女は太郎の様子を見ると、すぐぬるま湯を用意して、太郎の口にあてがいました。よくもそんなに飲めると思うほどピチャピチャと音を立てて夢中で飲みます。その間に、わたしはいそいで牛乳とごはんとお砂糖のおじやを作ります。このやせ方では、ソーセージや肉は受けつけられない、ととっさに考えたからです。熱いおじやを小皿に分けて、さましながら与えます。太郎はお皿まで食べかねない勢いで、歯の音をガチガチたてて食べるのでした。みるみるうちに平らげてしまうその勢いに、みんなで顔を見合わせるほどでした。あれだけ太っていた躯が、しぼんだように力がありません。 「もう今夜はここまで、明日たくさんあげますからね」  とおフミさんはお皿を取り上げます。  改めて太郎を見ると、一週間、外をうろついた証拠は何もありません。躯には傷もないし、汚れてもいません。第一それほど遠いところから戻ったのではないことは、雪の中を歩いて来たにしては濡れ方も少く、足の汚れもありません。  おフミさんは、太郎は誰かに盗まれて監禁されていたにちがいない、といいます。こんなにやせてしまったのは、他人の出す食事にまったく口をつけなかったのではないだろうか、どんどんやせていく猫を見、なつかないことに気づいた盗人は、とうとうあきらめて放す気になったのだろう、という推理です。  アッとわたしは思いつきました。牛乳屋の子が三日ほど前、猫の名前をききにわざわざやって来たわけがわかったからです。この話をすると、おフミさんはわが意を得たという顔をします。そして「牛乳屋の子には何もいってはなりませんよ」と命令します。  翌朝、垣根の迷子探しの看板を外しました。おフミさんにいわれるまでもなく、牛乳屋の子と話す機会はありませんでした。あれほどウォトカのびんを貰いに来た子なのに、その日からプツリとわが家には来なくなりましたから。  やっぱりあの子が、シャム猫だというので盗んだのでしょうか。そしてどうにも飼い馴らせなくて、仕方なく逃がしたのでしょうか。  何はともあれ、太郎は自力で家へ帰って来たのです。えらいとほめるほかありません。翌朝、つとめに出るおフミさんから、 「いくら太郎がほしがっても、一度に食べさせてはだめですよ」  と強く申し渡されました。いくらでもほしがる太郎をコントロールしながら、一週間がまたたく間にすぎます。太郎はすっかり元通り元気になりました。  しかし、太郎の受難は更につづきます。  三月には息子の結婚式がありました。この日ばかりは猫にかまけてはいられません。大勢のお客さまから太郎を守るために、荷物置場ときめた一室に彼を閉じこめます。食事の盆と小水場さえ用意してあれば、丸一日ぐらいの|閉《し》め込みは、猫にとってそれほど酷ではありません。無事この関門は通過しました。  四月に入って、太郎は本格的シーズンを迎えたようです。外出時間がだんだん長くなります。長くなってもきちんと帰宅します。自然の成りゆきに任せるよりほかありません。  お昼の仕度をするために西北側の窓辺に立った時、太郎がアプローチの階段下に|蹲《うずくま》っているのに気づきました。あわてて扉をあけてかけおり、抱きあげようと手が腰にさわったとたん、太郎はギャッと低くうなります。よく見ると、腰のまわりには泥がつき、腰がヘナッと折れたかんじなのです。自動車に轢かれた、と直感しました。太郎を抱きあげるのは諦め、主人を大声で呼びます。太郎の籠を持って来てもらい、二人がかりで移し入れました。太郎はもう痛いとも苦しいともいわず、黙って静かに目をつぶるだけです。  重傷の太郎にとっていつもの動物病院は遠すぎます。直感的にまず近くの医者に、とわたしは判断して、嫁の実家に電話を入れます。嫁のアグネシカの家では老齢のダックスフントを飼っていました。その犬の家庭医は実家の四、五軒先きの私営動物医院ということでした。医者の番地をきくやいなや、タクシーをつかまえに主人に通りまで出てもらいます。事件発生後、二十分で、もう下モコトフの四階建て団地の二階にある医院に着いていました。ここは自宅を病院にしている内職的動物医院なのでした。  呼鈴を押すと、奥さんらしい人が扉をあけます。外国人のわたしに驚く風はありません。「どうぞ」と愛想よく、待合室を指して「お待ちください」と引っこんでしまいました。隣りのドア越しにお医者さんの声が手にとるようにきこえてきます。先客は犬とわかります。飼い主は婦人です。声を再現するとこんな風になります。 「奥さま、もう大丈夫でございますよ。ただ食事には、今しばらくお気をつけください」 「シンカがいいでしょうか」 「ポレンドヴィツアですよ、ポレンドヴィツア」 「先生、本当に感謝いたします、必ずご指示は守ります。また来週まいります。どうぞよろしく、さようなら」 「肉はポレンドヴィツアですよ」と念押しをするその口調は、まるで封建時代の領主夫人に向って、ぺこぺこしているような、非常にいやらしい調子なのですからたまりません。  シンカは上ハム、ポレンドヴィツアは牛肉でいえばサーロインというところです。人間さまでもそんな上肉はおいそれと入手できない社会主義の国の首都ワルシャワで、犬にポレンドヴィツアをと指示する医者も医者なら、飼い主も飼い主だ、とわたしはもう反感でいっぱいになります。どんな奴が出てくるか、と身がまえていると、女優さんかファッションモデルのような、厚化粧の若い女の人です。  最高級の洋服をシックに着こなしていても、どんな人柄かすぐにわかります。わたしの知るかぎりインテリ女性で厚化粧をしている人に出会ったことはありません。光沢のある黒の革紐に、大きな茶色のボクサー犬が繋がれています。犬はおそろしげなシワをよせた顔で、ドアを出、うちの太郎を見るなりウォーッと脅しをかけます。女主人に紐を強く引かれても、まだかかる気配を見せています。 「ニエ・ヴォルノ(いけません)」と女主人の強い声がかかって初めて脅しを止めます。女主人はわたしの顔を見ても「ブシェプラシャム(ごめんなさい)」のひと言もいわず扉をあけて出て行きました。「ごめんなさい」のひと言が出ないのは、まったくポーランド的ではありません。先き行き悪い徴候です。  診察室に呼び入れられます。ドクターは小柄な紳士でした。診察着の下は糊のきいた白いワイシャツにネクタイまでしめています。  彼の最初のひと言はこうでした。 「ずいぶんよごれていますね」といやな顔をします。 「ここ一週間シーズンで、外歩きがつづいている上に、何物ともわからぬものに腰をどやされ、泥土のついたままいそいで連れて来ました。緊急の場合ですから仕方がないでしょう」と日本語でまくし立てていい返してやりたいと思いました。  ドクターは太郎を診察台にねかせます。じっと声も出さない太郎のまったく力のない下半身の後足を持ちあげます。お腹いっぱい紫色のアザが目に入りました。腰の|打撲《だぼく》による内出血だと素人目にもわかりました。ドクターは多分痛み止めと消炎剤の注射をしたのでしょう。ほかに手の打ちようがあったでしょうか。  わたしはさっきの会話をきいた瞬間から、ドクターに不信感を持ってしまっています。詳しい病状をきく意志もなくして黙っています。先方もポーランド語もわからぬ黄色い東洋人と思っているにちがいない。両方の間にはさまれた太郎は声も立てず、ひたすら耐えています。これ以上会話の進むはずもなく、わたしはドクターの示す金額を支払いました。 「また明日どうぞ。今度来る時は、もう少しきれいにしてから来てください」 「ありがとうございました」  といんぎんにお礼をいったものの、わたしはもうここには決して来るまいと心に誓っていました。そっと太郎を籠に戻し、真直ぐ家に戻りました。涙が出るほど口惜しい経験でした。社会主義国の中の金持、特権階級に媚びるへつらい医者を、この目でしっかりと見てしまったのですから。  主人に事の次第をしゃべって、 「もうあそこへは絶対に行かない。チャルの先生のところへ行く」  と宣言しました。宣言した以上は全部わたしの責任です。  勢いこんで、マルフレフスキエゴの動物病院に電話をかけます。チャルたちに親切だったお医者さんは、「ヤポンカ(日本の女)です」のひと言で、いつものようにやさしいポーランド語で相談にのってくれました。 「夜間料金は少々高くなるけれど、夜の方が空いていますからどうぞ」といってくれました。夜になってから、その日、二度目の診察を受けに、わたしは久しぶりに公営動物病院へ行きました。  太郎は相当な重症ということでした。幸い腰の骨は折れていないものの、腹部全体が内出血におおわれ、腸の働きは当分のぞめません。毎日の注射は欠かせないとわかります。太郎のお腹は、さっきまでの紫色がどす黒いほどの色になっていました。自動車に轢かれたのならひとたまりもないはずです。いじわるな人に何かぶつけられたとも考えられます。太郎が伝える言葉を持たぬ以上、原因究明は不可能です。  夜の動物病院は待合時間もなくて助かりました。もっと早く知っていればよかったと思いました。市電も、夜間は特急並みに早いのです。二週間も通ったでしょうか、幸い太郎は食事も順調に取れるようになります。立たなかった腰がようやく立ちます。しかしとうとう真直ぐにシャンとは立てませんでした。いやな例ですが、あの醜いハイエナの腰つきのように、ちょっと下がるのです。足は正常でも、前かがみならぬうしろかがみになってしまったのです。結婚は無理かも知れません。  というのは、三月の雛祭りパーティの時に、学生結婚しているアンナさんのご主人の親元、弁護士のお|舅《しゆうと》さんの家で飼っているシャム猫に赤ちゃんが生まれ、その中の雌を一匹|頂戴《ちようだい》する約束ができていました。その猫が二カ月になったら、というその二カ月はもう目前だったのです。   形見の花はクレマチス  流行病を無事切りぬけたものの、冬から春にかけて、一週間の抑留生活につづく腹部内出血と、大きな受難を二度も体験した太郎に、ほんとの春が来たのは七三年の四月も末のことになります。  約束の仔猫の名前は初めから「花子」ときめていました。  二カ月半という幼さで、花子はわが家に来ました。職業に|貴賤《きせん》はないという建前の社会主義国の中で、名実ともにトップクラスは弁護士さんだときいていましたが、その弁護士さんの|御曹子《おんぞうし》と結婚した日本学科のアンナさんの実家も、実入りのいい私営工場主です。新婚生活には親が用意してくれた一戸建てのヴィラがあるほどです。もともと猫をもらう話が出たのは、新婚の二人に招かれた日のことで、その家はヴィスワの川向うの高級住宅街の三百坪はあろうかと思える地所に新築された、ひろびろと気持のよい、まぶしいばかりの家でした。  ここに住む人びとはわたしの知っている庶民たちとは別世界の人種といっていいでしょう。わが家がヴィラ住いだったからこそ花子を貰えたのだと、今にして頷けます。  アンナさんに抱かれて来た花子は、わたしにとってはじめて見る純粋なシャムの雌です。チャピもチロも純粋に近い形は持っていても、もし太郎と結婚した場合、どんな仔猫が生まれるかわかりません。反対に花子と結婚する太郎がまちがいなく純血シャム猫であるかどうかは、花子との間に生まれて来るこどもによって初めて立証されるわけです。  花子と将来のお婿さんのためにと、アンナさんは上等なハムまでつけてきました。日本流のカツオブシ代りというわけでしょうか。もちろんハムもチーズも太郎の好物ですが、わが家には鱈と人参とマカロニの健康食が基本食というきまりがあります。ぜいたくに馴れてしまったとはいえ、花子はまだ二カ月半、今のうちならちゃんと馴れるはずです。  親許を離れ、環境のまったく異る家に来たにもかかわらず、花子は最初から太郎を恐がりませんでした。チャルをおどすナホの前例を目のあたりに見ているわたしにはどうなるかが気がかりのひとつでしたが、さすがに裕福なやさしい家庭環境に育った花子は性質がおっとりと上品です。太郎が病後のせいで気が弱く、やさしい気持になっていたのも幸いしました。相性もよかったのでしょう。まったく何の障害も起きませんでした。  太郎は怪我が治っても腰が悪いせいか、あれほど好きだった近所への外出をぴたりと止めてしまいました。花子という可愛らしい相棒が来たのも、彼を家にとどめた原因なのでしょうが、外出なしですむならそれに越したことはありません。花子は外へ出さず箱入娘にして、太郎と家の中だけで暮しても不自然ではないでしょう。チャピたちのように、外へ連れ出すのは止めにしよう、とわたしは決心しました。ですから、花子は、わたしの腕に抱かれて散歩する経験はとうとう味わっていません。  太郎のお腹の上に顔を押しあてて眠っている花子、大きな太郎とまだまだちっちゃな花子の睦まじい写真がいろいろと残っているのは、主人もとうとう猫に興味を持ちはじめたのでしょうか。  チャル、ナホ、初代太郎やチャルコなどの写真はほとんどありません。チャピには革紐をつけて散歩している写真が一枚と、花にかこまれた最後の写真(これは珍しく、わたしが撮りました)が残されました。二、三枚のチャルの写真は、わが家を訪れたお客さまの撮影によるものです。わたし自身、猫の写真を撮って悦に入る趣味がなかったのを、今になって悔んでいます。そんな悔いが、今こうやってめんめんと猫たちを想う文を書かせているのでしょう。  花子が来たこの春、テラスの下から見かけない草の|蔓《つる》が這いあがってきました。手すりにからみはじめたころ、それがクレマチス(鉄線)だとわかりました。一軒おいたお隣りの壁いっぱいに、夏の間じゅう咲きつづける濃い紫色の花は、カルヴィンスカ通りのみものです。鉄線が種子をつけるのは九月です。とすると、チャピの躯についた種子が芽ばえた。これは正しくチャピの形見です。三年もすれば、きっとテラスの手すりいっぱいに紫色の花をつけることでしょう。太郎がおしっこかけをしないように、まわりに竹ぐしをさしました。  太郎と花子がソファの上に寄り添って眠っている姿は平安そのものでしたが、その頃、わが家には何か得体の知れぬ影がさしはじめていました。主人に何の話も相談もないまま、東京から新しい日本人講師が赴任するという噂がひそかに伝わってきました。今まで毎週のようにわが家にメシを食べに来ていた留学生夫婦がぱったり来なくなったのも、一連の噂と関係がありそうでした。  いろいろいやな思いをした最後は、家の中から大金が煙のように紛失した事件が起ります。  息子はゾシアが大嫌いでした。 「なぜ雇っているの? お母ちゃんはゾシアを文盲の可哀そうな人と思っているけれど、あれは隅におけないよ。利口ですよ。あわれっぽく見えるけれど、信用しちゃだめですよ」  と何度も何度も忠告していました。わたしも彼女の振舞いに少しずつ疑問を持ちはじめます。毎朝、来がけに買ってくる牛乳の値段を、一年以上ごまかされていたのがわかります。一リットルびん一本についてわずか二ズロチにすぎない差ですから、別に被害というほどのものではありませんが、その根性がいやでした。そこへわたしの不注意から大きなお金を失くしてしまいます。  ゾシアの根性がよくないとしても、彼女だけに疑いをかけるわけにはいかないほど、当時のわが家に出入りする人の数は多かったのです。泊り客もあり、居候もいました。一度におおぜいの芸術家が押しよせる夜もあります。自分自身に反省を強いつつ、牛乳の値段を長い間、ごまかした点を問題にして、彼女を解雇にふみ切ります。  彼女は彼女なりに忙しいわたしをよく手伝ってくれましたが、ことごとに見えてしまう|狡《ずる》さは、社会主義体制になってもどう改まりようもない貧しさの象徴と見えて仕方ありません。ゾシアの顔を見るのさえうっとうしく、重苦しくなっていたので、彼女と思い切って手を切ったのは、わたしの気持を大変楽にしてくれました。  今から考えると、われわれにとってワルシャワでの最後のクリスマスになった一九七三年のクリスマスに、わたしはほんものの大きなモミの木を買いこみました。八月に生まれた初孫のためにという口実なのですが、本音は二匹の猫のためでした。太郎と花子は、ちょうど半年間、仲むつまじく兄妹のように暮していました。花子は十六、七歳の娘ざかりとなり、愛らしさは純粋種の美しさと相まって、ほれぼれと目を離さずに見とれてしまうほどとなりました。家の中だけでくらすふたりへのせめてものプレゼントがしたかったのです。そして一度は、ポーランド式の、ほんもののホインカ(クリスマス・ツリー)を部屋の中に立てたいという願望がわたし自身の中にあったのも確かでした。  ポーランドのクリスマス・ツリーには、色とりどりのガラス玉のほかにもお人形やクッキー、|飴玉《あめだま》やチョコレートが下げられ、小指ほどの小さなローソクが特別なクリップで枝にとめられます。その間あいだに花火までつり下げるのです。ローソクに灯をともすと、色ガラス玉や白いセロファンの糸がきらきら光って、こどもばかりでなくおとなまでもうきうきするほどです。モミの木は部屋の暖房にあたためられて、匂いを放ちはじめます。その香りをかぐと、いつの間にか森の中に坐っている感じになってくるから不思議です。  猫の太郎と花子にも、このピカピカは楽しいみものだったにちがいありません。  寒に入ってシーズンが訪れました。腰の悪い太郎が果して結婚できるのだろうかと心配でしたが、チャルとナホのような結婚とちがって、わたしの知らないうちに、ひっそりと、いつの間にか結婚は完了していました。   花子と太郎のこどもたち  四月三日の朝、花子は五匹のまっ白なシャム猫の子を生みました。新世界通りの動物屋から百二十ズロチぶん百二十匹のノミをしょって来た太郎は、やっぱり正真正銘のシャム猫だったことが、これで証明されました。  花子はわたしに何の手助けも求めず、ひとりですべてをすませました。さすがに五匹を生んだ後は、しばらくの間、口もとがとがってきつい顔になりましたが。人間の年齢にするとちょうど十八歳か十九歳の花子が誰の手伝いもなく、無事お産をすませたのを見て、自然の不思議さに改めて感動します。  お産のあった日付けをはっきり覚えているのは、この日、ワルシャワ大学から、主人の任期は今年の九月までで終り、新しい学期に講師の職の継続は許されないという正式な書類が通達された日だからです。わたしどもは、九月末までにはポーランドを引きあげねばなりません。この場合、どんな理由でも、ビザが延長されるのぞみはありませんでした。  わたしは太郎と花子と、生まれて半日の五匹の仔猫たちを見て、久しぶりに大泣きしました。今までは、「失踪」あるいは「死」と、いわば猫の側の事情からの別離でした。おだやかな、こんなにいい夫婦の仲に初児の生まれた特別におめでたい同じ日に、人間の側の事情とはいえ、もう別れが確定してしまう無慈悲さに、身体のふるえるほどの怒りと悲しみにおそわれてしまったのです。  残された時間はもうきまっています。わたしはこの時間を、できるだけ猫たちと共に楽しくすごそうと思いました。  この時期にふたたびおフミさんの手助けが得られるようになったのは幸せでした。彼女は長い間、コウオの|辺鄙《へんぴ》なキオスクを一人で切りまわしていましたが、その真面目さ誠実さは、キオスクの元締めのルフの幹部にも認められ、今ではワルシャワの目ぬき通り、マルシャウコフスカ大通りの中央部、上海飯店のまん前のキオスクを任されるまでになっていました。二人ひと組の二交代制と、時間も楽になりました。ようやく彼女にも長年の苦労が報われてきたのです。  二交代制の朝番が終り、彼女に特別の用事のない午後は、様子を見にわが家に来てくれるようになりました。日本食に慣れているおフミさんは、わたしどもとおそい日本式のオビヤド(お昼ごはん)を共にすませ、その後、頭を使った彼女らしい能率のうちに片づけと掃除を手早く手伝って、夕方家へ帰るわけです。遅番の日も、自由時間があれば、帰途、わが家に泊っていきます。  最後の数カ月は、こうしてオコポーヴァ時代と同じように、おフミさんに助けられてくらしました。社会主義のいやな面を知るにつけ、何ものにも媚びず、自力で堂々と生きてゆくおフミさんが、女中さん意識でなく友人として手をさしのべてくれたのを、今もありがたく思います。  彼女がしばしば泊ってゆく部屋は、わたしと猫だけの部屋でもあります。日本式に|床《ゆか》に直接ふとんをひいて、おフミさんとわたしだけにしかわからない特別なポーランド語で、家のこと、娘のこと、いわゆる女の話で夜更ししてしまいます。  枕元を這いはじめるようになった可愛い仔猫たちを堪能しながら、 「四月十五日、よちよちはい出す。四月十九日、猫籠からはじめて出る。……」  などと手帳に書き入れたりしたものです。  仔猫たちは花子と編み籠の中でみんな重なって寝ますが、太郎は大きくなりすぎました。そのうちにわたしの寝床の中でねることを覚えました。  わたしの小さい頃、父はよく「テテマック」をしてくれました。「テテマック」とは手枕のことです。父の伸ばした腕を枕にして、弟たちと代りばんこにねるのが何よりの楽しみでした。太郎もわたしのテテマックでねることを覚えましたが、意外と頭が重いので、わたしは太郎用の小さな枕を作りました。人間と同じように布団から頭だけ出して、手足をのばせるだけのばしてねます。時にはいびきまでかいてぐっすり眠る太郎を見ていると、今までのどの猫よりも太郎はわたしになついてしまったのかも知れません。  五匹の白い毛糸玉はまったく同じ、どれが雄かどれが雌かもわかりません。よく気のつくおフミさんが、家からいろんな残り毛糸を持ってきました。毛糸の色で仔猫たちを識別しようというのです。二匹の雌には赤とピンク、三匹の雄には黄と緑と青をえらびます。赤い毛糸を首に巻いた子に「アカ」、ピンクは「モモコ」と名づけます。黄は「コータ」、緑は「ロク」です。青をつけた子がアオでは馬みたいで可哀そうだということになり、お土産のようかんについていた金色の紐につけかえて「キンタ」とします。  白い毛糸玉にすぎなかった仔猫に名前ができると、にわかに個性のちがいがはっきりと形を見せてくる──つくづく名づけることの不思議を感じました。  わたしは赤い毛糸のアカに注目します。彼女はその幼さにもかかわらず、もうチャルやチャピの系統であると直感できました。  モモコはチロのように少し甘く、そんな性格にはうすいピンク色の毛糸が似合うようです。  ロクは好ききらいが激しく、生まれて一カ月後に初めて与えたおろしチーズに夢中になる偏食児、わが家の健康食には目もあてず、いちばん小さい弱虫猫になってしまいました。キンタとコータはまったくの健康優良児です。  この仔猫たちは二カ月をすぎないうちに手放す決心でした。どこに貰われても、飼い主になじむ猫になってもらいたかったのです。  仔猫たち全部と、万遍なく話し、つき合っているにもかかわらず、わたしはアカには特別に肩入れしていく気持を押えきれません。チャルやチャピと同じように、散歩につれ出すのは、アカときまっていました。  ポーランドから追放にひとしい出国をせまられている主人の寂しさ苦しさは、傍で見ていてもつらいものです。その主人の気持をほぐしてくれたのは、やはり五つの小さいものたちだったのでしょうか。仔猫たちの写真が主人の手によってたくさん残されていますし、八ミリカメラにまでその姿は収まっています。そのうえ、めずらしくこんな一句も作っています。   シャム仔猫鼻くろずみて春深し  わたしのかかわり合った猫たちに対して、特別に何の干渉もしなかった主人の変化に、その頃の彼の心情が見えるようです。  とうとう二カ月目が来てしまいました。アカだけは見知らぬ人には渡したくない気持がだんだんと強くなっていきます。アカは事物に対する興味の持ち方も、積極的な探求心も、分別もチャピそのもののようにわたしには見えました。広告を出す前に、わたしはおフミさんの末娘のダヌーシャにぜひこの子を貰ってほしいと頼みました。アカだけは見知らぬ人には渡したくない気持からです。  こどもの時から知っているダヌーシャはもう十九歳。お料理学校の友だちと連れだって、アカを受取りにきました。同じ十九歳のこの背の高いアンジェイとの初恋に夢中になっていた時だったのです。ほんの三年前、シレナの家にミーシャを引き取りにきた幼顔とは打って変った女らしさが見えていました。ポーランド中世のマドンナ彫刻のように美しくなったダヌーシャの姿を見て、主人はびっくりしていました。  アカは、チャルやチャピと同じ抱っこで外出の平気な人慣れた猫です。ダヌーシャに話しかけられキスをされると、うれしさをかくしません。もうダヌーシャの指をぺロぺロ舐めます。これで決まりました。おフミさんの娘なら世話のよいのは確実です。寂しいよりも安心の気持の方が強いのでした。  このすぐあと、夏休みの三カ月を、彼女とアンジェイはベシチャーデというポーランド東南部にある山の保養地のホテルで、お料理の実習をかねてのアルバイトをして過します。アカ連れです。  二人の恋人はアカをお供に、ひまな自由時間は林の中を散歩します。ヤゴデイ(ブルーベリー)摘みをしたり、キノコ採りに興じます。そんな楽しい話を持って、ダヌーシャとアンジェイはアカを抱いて、報告に来てくれました。山の清流の|鱒《ます》、釣り上げたばかりのとれとれの鱒が主食ときくと、そのときのアカの喜びようが見えるようでした。赤い毛糸の首紐は、赤い立派な首輪と革紐に代り、むっちりと太ってふたまわりも大きくなったアカの顔は、きりっとした目の、チャピにそっくりな猫になっていました。  しかし、もうアカはわたしの顔を覚えていませんでした。あの田舎へやった太郎や八百屋のミーシャ、二番館のチャルコと同じです。これが自然の|理《ことわり》と、わたしにはもうあきらめがついていました。アカが丈夫で飼い主に|慈《いつくし》まれていればそれでいいのです。動物を飼い育てるのは、口のきけない動物の幸せのためであって、飼い主の幸せはそのおこぼれにすぎないと思うようになっていました。   郵便配達と「温室成金」  前の黒猫とはちがって、「シャムの仔猫ばかり四匹の貰い手を求む」というわが家の広告が、ワルシャワ生活紙に出ました。  朝一番、わが家を訪れたのはお年寄りでした。皺の刻まれた日焼けした顔は、長い間の労働を示しています。招じ入れてお茶をのみながら、ゆっくり話をききました。今はもう年金生活に入っていますが、元は郵便配達夫だったといいます。それも日本大使館のある一帯が受持ちで、ヴィロヴァ街の日本大使館にはよく行ったものです、と懐かしげです。「当方日本人」という広告の一語が、彼を引きつけたのでしょうか。 「可愛がっていた猫に死なれましてね。妻ともども寂しい思いをしています。前の猫と同じに可愛がりますから」  その言葉がとても|朴訥《ぼくとつ》で、誠実な人とわかります。  主人がどうする、どれをあげる、と目でわたしにききます。わたしは二階の猫部屋に遊んでいるロクを連れてきました。この子はわが家の異端、偏食児です。離乳期に食べさせたおろしチーズに目がなくて、猫定食にはプイと横を向きます。なだめてもすかしてもこの偏食は直らず、今までの猫たちがわたしに従順すぎたのが異常だったのだろうか、と考えるほどです。一番やせて小さい、ちょっとロンパリの太郎の小さい時に似ているロクを連れてきたのは、老人夫婦ならきっと小まめによく面倒を見てくれるにちがいない、というわたしの勘でした。  ロクを抱いたおじいさんは、 「マチェック、マチェック」  と呼びはじめます。ロクという名なんですけれど、とわたしが口出しするのを主人は押えます。おじいさんは、 「マチェックは死んだ猫の名です。できれば、マチェックと呼びたい」  といいます。主人がポーランド語で、 「どうぞ、お好きなようにしてください」  とていねいに答えてくれました。突然、おじいさんの眼に涙が浮びます。彼のマチェックはどんなにいい猫だったのでしょう。このおじいさんに貰ってもらえばきっとロクは幸せだ、とわたしは思いました。  お小水の匂いつき新聞紙をビニール袋に入れます。ロクの好きなチーズも包みました。おじいさんは貰う猫を入れるために古い傷だらけの革の鞄を持って来ましたが、ロクが抱かれて外へ出ても大丈夫な猫とわかると、わたしの差し出す例の品物の包みだけ鞄にしまいました。うつむいたおじいさんの赤黒い首すじが日焼けだけではないと気づいたわたしは、大いそぎでウォトカを一本、紙に包んでさし出しました。ほんとうにうれしそうにおじいさんはお礼をいって、これも鞄にしまいこみました。  日本製のみどり色のおろしたてのタオルにつつまれたロクは「マチェックや、マチェックや」と話しかけられながら、元郵便配達夫のおじいさんにおとなしく抱かれて行きました。  二番目の貰い手があらわれたのは、その日の午後です。すさまじい勢いで呼鈴が鳴ります。扉をあけると、派手な色の服を着た男が、 「シャム猫の……」  といって、わたしが言葉をはさむひまも与えずズカズカと居間に通ってしまいました。わが家としては例外中の例外です。習慣のちがうポーランド人といえども、わたしは靴のまま居間に通さず、わけを話して、上ばきに履き代えてもらうことにしていました。朝のおじいさんにも、ちゃんとわけを説明して靴を脱いでもらったばかりですのに、何とも奇妙な派手な身なりの人物に、この時は圧倒されてしまいました。  お茶の用意に台所に立つと、窓の向うに新品の国産フィヤットが横づけになっています。  たずねたわけでもないのに、彼はワルシャワ近郊で花の温室栽培をやっているといいます。バディラシです。バディラシはポーランドでは金持の代名詞になるほどで、実入りのいい私営業のなかでも、いちばん羽振りのいい特権階級といえます。話にもきき、劇映画の副人物に登場するのを見ていたそのバディラシのほんものと初のご対面となりました。  紫色の背広(ほんとに華やかな紫でした)にピンクのワイシャツ、その頃流行だった幅広のすっとんきょうな柄のネクタイも紫とピンクにわざわざ統一しているのがご愛敬でした。ワイシャツの下からこれ見よがしにチラつかせる腕時計は、やはりその当時流行のでっかいもの。そのうえ、指には太い金の結婚指輪と昔の貴族のしるしだったシグネット(印形)のまがいものがひとつずつはまっています。そのいでたちには、主人もわたしも笑いを押えるのに苦労しました。ポーランドに来て初めてのみものです。バディラシとみんなが|侮蔑《ぶべつ》の調子でいうのが少しわかるようです。 「新聞で見ましてね。あっこれだ。すげえや、ほんもののシャム猫だ」  と叫びます。朝のうちは二階でねていたのに、シャム猫一家はこの時はみんな居間に集まっていました。「すごい、すごい」を連発するこの人はいいました。 「うちの老いぼれ猫、たれ流しさ。あんなの捨ててしまうんだ。こどもたちが喜ぶぞ。こんなきれいなのを連れてったら」  とこんなぐあいです。  彼の話をきくうちに、絶対にこの人にはやらないとわたしは覚悟をきめてしまいました。もう予約済みだといえばよかったのでしょうか。予約済みが三匹もいるなんていっても、この人は信じないでしょう。  彼は好奇心にかられ、とうとうわたしたちに「いいですか」という言葉も口に出さずに、一匹の仔猫をつまみあげます。それはモモコでした。  わたしたちの不信の眼をバディラシは充分見て取っていました。 「これをいただきます」  そして、もう腰をもじもじさせます。わたしは少しきつい声で、 「仔猫をさし上げるには、彼女のおしっこのついた新聞紙も必要だし、お母さんの匂いのしみついたタオルも必要なんです。ちょっとお待ちなさい」  バディラシとわたしの気力の勝負どころです。 「いやあ、|家《うち》の庭は広くってね。花もいっぱい咲いてるし、おしっこなんて庭で勝手にやりまさあ! 新聞紙なんていりませんよ」  その言葉にころりと、わたしは負けたのでしょう。こんなイヤな奴でも、広い庭のあるのはモモコにとって幸せだ。現金な人間だから、高価なシャム猫とあれば大事にするにちがいない。彼の手に掴まれたのもモモコの運命かも知れない。そんな気弱さもさっと先き取りされます。 「お宅が大事にしているのはよくわかります。家中できっと大切にしますよ」  その辺の呼吸はみごとで、わたしの泣きどころを押えました。さすがは個人経営者の貫禄なのでしょう。 「自動車の中にボール箱を用意してきましたから。では、これ頂戴します」  モモコはアカとはちがい。おっとりしています。大きな手のバディラシの両掌の中にはさみこまれて、連れて行かれてしまいました。  モモコという名があるのに、彼はきこうともしませんでした。たとえきいたとしても、日本語のモモコなんて言葉の出るはずもありません。ポーランド人は雌猫にどんな名前をつけるのか、この時までわたしは気がつきませんでした。  おフミさんにきいたところによると、プシャとかキチャとかカヤなのだそうです。バディラシはモモコになんというポーランドの名前をつけたでしょうか。わたしの全然知らない名前をつけられ、間もなくそれがモモコの本名となり、モモコもその名をよばれて飛んでくるのでしょう。ばらやカーネーションやたくさんの花に囲まれるモモコの姿を想像することによって、バディラシを許す方へわたしは気持をむりに持っていきました。  いくら広告を出したとはいえ、アカのあとつづけて二匹にいなくなられてしまうと、わたし自身もがっかりです。まして母親の花子の気持を思うと哀れでした。電話がかかってくると、 「もう全部終りました」  と断ります。シャム猫はやはり高価だからでしょうか。黒猫のときは薄気味わるい連中ばかりがやってきたのに、今度はほんものの引き合いが殺到しました。  おフミさんはわが家のそんないきさつを見て知っています。 「二匹をクリーシャが貰いたいといっているが、パニの気のすむ時でいい。いっぺんでは花子たちにも可哀そうだから、いつでもいいから」  という条件づきの申し込みです。  クリーシャのところへ行った猫は、最後まで面倒を見てもらえずに、二匹とも他へ移されています。名なしの黒の雄は田舎へやられてしまったし、ミーシャはその後、八百屋にやられています。それぞれが幸せにくらしているのがわかっているので、文句をいう筋はないのですが、どうも気持に引っかかります。  太郎と花子が二度目のシーズンに入った時、わたしはキンタとコータをクリーシャにあげました。今度こそはきっと育てあげてくれるにちがいないと確信して。  ところが、やはりわたしの悪い予感は当ったのです。クリーシャの夫は家族の反対をよそに、実入りのいい内務省につとめはじめます。警察やスパイの総元締ともいえるお役所です。「内務省につとめるということは家族の恥」というのが大体のポーランド人の考えです。とどのつまり、クリーシャとの離婚が行きつく先きでした。その過程には女の問題も加わったのでしょうが、根本的には、おフミさんのようにしっかりした考えを持つ人の娘であるクリーシャの感情問題といえそうです。  クリーシャ一家にとって最後の家族|団欒《だんらん》となったこの年の夏休み旅行は、ポーランド北東部の湖沼地帯の中でも一番大きなギジツ湖でした。キンタとコータを連れての自動車旅行は、十歳と五歳の二人のクリーシャの男の子にとっても、思い出深い楽しい旅だったにちがいありません。  しかし、休暇が終った時、シャム猫兄弟はワルシャワには戻りませんでした。二匹は現地のレストランのご主人のたっての望みであげて来た、ということでした。あげたといえば聞こえはよくても、信じられる話ではありません。あんなに美しい純粋シャム猫を、クリーシャの夫がただであげてしまう気づかいはありません。百二十ズロチの太郎とは大分ちがう値段で、二匹を売ってしまったのは確実です。クリーシャにその気持はなくても、クリーシャの夫としては、貰う時からの計画だったのではないでしょうか。真相を知ったおフミさんが、どんなにいやな思いをしたかは察するにあまりあります。  わたしはこう考えることにしました。ギジツ湖ならば淡水魚の|とれとれ《ヽヽヽヽ》が手に入る。レストランならハムやソーセージにこと欠かない。人なつこい二匹は観光客の多いのがうれしくてニコニコしているかもしれない、などと明るい方にばかり心を向けて、おフミさんをなぐさめる側に立ちます。  しかし、夜ひとりになって考えると、売るつもりでわたしのところから持ち出すために、妻や妻の母までだましたクリーシャの夫がどうしても許せない気持になります。人のいいポーランド人の多い中に、こうしたずるい奴がいるのはほんとに残念でした。  太郎と花子の五匹の仔猫たちはこうして残らず貰われて行きました。党のおえらがたのような特権階級でなく、オコポーヴァの労働者と同じ、庶民の手にもらわれて行ったのを喜ぶべきだと思いました。純粋なシャム猫ということで、大事に大事にされたことは確実です。あのバディラシだって一種の特権階級とはいえ、もとは農民です。こう考えて満足するよりほかありません。   雨の日の別れ  太郎はますますわたしになつき、わたしと一刻も離れたくないといった気持をはっきりあらわしていました。わたしが買物に出かけた後、太郎は南側の庭からお隣りの庭をまわり、生垣をくぐって、わが家の北の小さな庭に来ます。そしてアプローチの一番上、玄関の靴ふき用のじゅうたんの上に犬のように身を伏せて、いつまでもわたしの帰りを待つようになりました。  戻って来るわたしを見ると、本当にいそいそと門までおりてきます。「お待ちどおさま」とねぎらいながら、荷物を地面の上に置いて抱きあげると、たっぷり二貫目(七キロちょっと)はある太郎のずっしりとした重みが伝わってきます。あのヒョロ長かった手足にむっちり肉がつき、ほとんどしぶい焦茶色の毛が密生していて、腰の少し下がっているくらいは欠点のうちに入らないくらい立派な猫となっています。  キンタとコータと二匹の雄の兄弟が貰われて行ったあと、七月から八月にかけて、太郎と花子の夫婦だけと最後のワルシャワ生活を過しました。ワルシャワは一年じゅうで一番よい季節なのに、主人もわたしも家に籠ったまま、散歩に出歩く習慣も忘れています。九月には引きあげるときまっているのに、引越しの予定さえ立っていませんでした。  花子の妊娠が確実となり、だんだんお腹が大きくなります。やはり今、いい人にあずけなければ、別れは一層つらくなるでしょう。 [#4字下げ]シャム猫夫婦 善き手にさし上げたし [#4字下げ]カルヴィンスカ街48番地 工藤 電話四四−四五−二○  とうとう八月のはじめ、またもや新聞広告を出しました。どんな貰い手が現われるか、おそれと期待が入りまじります。仔猫とちがって、馴れにくい|成猫《ヽヽ》夫婦の貰い手が、すんなり出現するとも思えませんでした。  ようやくお昼過ぎに電話がかかってきました。 「まだ猫ちゃんはいるでしょうか?」  と息を切ったようにせきこんでたずねます。いそいで受話器を主人にまわします。 「こちらはヴィシクフというところで、ワルシャワからは遠いのですが、ぜひ頂戴したいのです。これからタクシーで行きますから、他にあげないでくださいませんか」  とてもいいポーランド語を話す人だと主人がいいます。 「ではお待ちしています」  と返事をしてもらいます。  本当にその人は五十キロも離れたヴィシクフという街からやってきました。電話から二時間ほど経つと、自動車の止まる音がして、三十七、八の|細《ほ》っそりとした上品な女性が玄関に現われたのでした。自家用車ならばともかく、五十キロも遠いところをタクシーを使うポーランド人なんてまずあり得ないのです。  彼女は自己紹介します。母ひとり子ひとりの二人暮しで、彼女が勤め先きの図書館に出かけてしまうと、夕方まで年とった母はひとりきりとなる。お宅の広告を見て、留守の母の寂しさが少しでもまぎれるのではないかと思って、電話してうかがいました、といいます。  主人や息子がつねづねいっていることに、「インテリであるかないか、いい人かどうかは言葉でわかる」というのがありました。それから考えると、彼女は教養のある、いい人ということになりそうです。太郎と花子のこどもたちは、誰ひとりとしてインテリ家庭に貰われて行きませんでした。  これから太郎と花子夫婦が貰われてゆく先きは、どうやらもの静かな教養のある家庭のようです。花子が今、妊娠中であり、やがてそう遠くない時期に仔猫が生まれます。ふたりにとって二度目の子育ての時間が、新しい環境に馴れるいい機会となるでしょう。心配しなくても、きっと行く先きに落ちつくにちがいありません。  呼びなれている日本名の太郎と花子という名前も、この人なら「タロー、ハナコ」と呼んでもらえます。カルヴィンスカで過した日々のように、ふたりが幸せにくらすのを、わたしは信じます。  決心をつける時が来ました。  わたしはいそいで、プラスチック製のお小水場をきれいに洗ってビニール袋に包み、ふたりの食器も包みました。仔猫たちの遊び道具は、すぐまた必要になるはずです。体温計、綿棒、ホーサン、マーキロ、ビタミン剤など猫の救急用品もひとまとめにします。  救命丸は猫にもよく効くので、いそいで主人に「下痢のとき、元気のないとき、おとなはひと粒、仔猫は半粒」とポーランド語で書き入れてもらいます。わが家の猫定食の作りかたを手早く説明します。そこは女同士、よくわかってもらえました。  ゆっくり別れを惜しめないのは残念ですが、実をいうと、ふたりとはもう四カ月の間、毎日別れを惜しんできたといえます。今ここで泣いては太郎と花子に可哀そうです。  柳で編んだ大きくて平らな籠、入口は小さくても中はひろびろとして、みんなが大好きだった猫籠にまずビニールを敷き、毛布を敷きます。入口に紐を厳重にかけ渡して出られぬようにしても、ふたりが別にさわがなかったのはなぜでしょう。  さあ、お別れのあいさつです。主人の前のテーブルの上に籠を置いた時、太郎がわたしの顔を見てはじめて短くなきました。  主人はただ黙ってタバコを吸っています。  ようやく二匹の入った重い籠を彼女とふたりで持って通りに出ると、待たせてあるタクシーの中には、なんとお話でうかがったお年寄りのお母さんが坐っているではありませんか。 「足が悪くて階段をあがれないので、こちらで失礼させていただきました」  白髪をうしろで一束にまとめたおばあさんはおだやかなあたたかい声でいいます。 「下に待っているのがわかれば、気をおつかいになると思ったから」  と娘さんもいい添えます。改めてわたしたちはその心遣いに打たれました。娘さんは腰をかがめて、かかえていた籠の正面をお母さんのほうに向けました。七十をいくつか越していると見えるお母さんは、うなずきながらわたしの方を見ました。わたしを見る目に涙がたまっていくのが見えました。このおばあさんはやさしい人だ、とわたしは思いました。  わたしは衝動的に家にかけこみ、急いで財布の中から二十ドル紙幣を一枚つまみ出して小さく折ると、おばあさんに「タクシー代の足しにしてください」と渡しました。  おばあさんは強く断りますが、わたしは「こちらがお願いするのですから」と無理に受け取ってもらいました。教養のある人に、あんなことをなぜしてしまったのか、今もってわかりません。おばあさんは、ちょっと身体をずらすようにして肩からまっ赤な細い毛糸の手編みのショールを外しました。そして、 「これは自分で編んだものですが、記念に取っておいてください」  というと、タクシーの座席から身体をのり出すようにして、わたしの肩にかけてくれました。  それは麻の葉模様がレースのようにすかし編みになっている三角形の大きなストールでした。 「足はダメですけれど、手はまだ……」  とおばあさんがいいます。  娘さんの出勤した後、ひとり静かに編みものをして過すこのおばあさんの足もとに、太郎と花子が坐り、そのそばにはさらに何匹かの仔猫がじゃれまわる──そんな光景がわたしに見えてきます。  雨が煙るように降ってきました。タクシーのドアが閉められます。車の窓を通して、後部座席の娘さんとお母さんの間に大事そうに置かれた猫籠が見えます。 「ドヴィゼニア(さようなら)太郎、ドヴィゼニア花子」  みるみる猫籠がぼやけます。娘さんとお母さんが頭を下げて会釈します。とうとう車が動き出します。車の屋根の TAXI の黄色い文字が、カルヴィンスカ通りをぬけ、左にまがって、あっけないほどすぐに見えなくなりました。   お わ り に 「ワルシャワ猫物語」はここで終ります。  それぞれ楽しい個性をもった猫たちと共に過したワルシャワの日々は、この日で完全に終りました。彼らのうちの誰とも、もう永遠に会うことはないでしょう。  ことに太郎と花子夫婦を、人間の側の都合で、馴れ親しんだ世界から余儀なく別の人の手に渡したこの日のことは、痛切な思いで今も細部まで覚えています。  その後、猫づれの海外旅行を何度か経験した今のわたしなら、ふたりを日本まで連れ帰ったにちがいありません。文字通りの「善き手」に托せたことだけが、わずかに心のなぐさめとなっています。  わたしの想像の中でのチャル、天衣無縫の彼は、あのあとシレナの街の地下室を根城に、思うぞんぶん野生の生活を満喫したにちがいありません。やさしい猫好きのお年寄りたちが地下室の近くに運んでくれる食事にあずかって、それほどひどい飢えにあわずにすんだはずです。利発なナホも、シレナの街に合流して、チャルたちの仲間に入り、つぎつぎと仔猫を生んだかと思われます。  わたしの外国ぐらしを幸せなものにしてくれたワルシャワの十六匹の猫たちとくらした時間が、今もきのうのことのように鮮明に心の中に蘇ってくるのを感じています。  しかしわたしの心の中で生きているあの猫たちにも時がきます。  チャルは、どこかの美しい花の咲く庭の片隅に、静かに身をよこたえたことでしょう。あのやさしいゲネラルの奥さんのような方が、冷たいチャルの躯を、きっと大地に戻してくれます。  チャピのなくした銀の鈴は、土に埋まってしまったでしょうか。それとも、庭の持ち主に拾われて、時にはチリリンとやさしい音色を、ワルシャワの空気の中にふるわせているでしょうか。  春がめぐってくると、チャピとチロのお墓には、やわらかいみどりの羽根をひろげた鬼シダが、傘のように蔭をつくります。鬼シダのとなりに必ず咲いたけしの花も重おもしく頭をもたげることでしょう。生垣のライラックが匂い、真紅のバラも咲くはずです。  チャピの形見のクレマチスは、いつの年から紫色の花をつけたでしょうか。そしてチャルの横たわる土の上には、どんな花ばなが咲くのでしょう。  ワルシャワでくらした七年のあいだに出会い、そして別れたものたち。愛する猫たちだけではなく、ほんのひとときにせよ触れ合ったやさしい街のひとびと。そして形もなく流れ去ったひとつのいのち。  いつかきっと、どこかで、みんないっしょに出会うことになるのだ、とわたしは信じているのです。 [#改ページ]   あ と が き  四年まえに書きはじめたこの「猫物語」は、百枚書いたところで三年間、ストップしてしまいました。ポーランドに「連帯」運動がおこり、うちじゅうが忙しくなってしまった、というといいわけじみますが、刻々と動く現実の歴史から目が離せなくなった毎日の生活の中で、過去のセンチメンタルで私的な話を書く時間は片隅に追いやられてしまった、というのが実情です。  八一年の秋、文藝春秋の半藤一利さんのお世話で出版がきまり、いよいよ冬休みは温泉に行って、ひと息に書きあげようと宿の予約までしていた時、ポーランドに戒厳令が|布《し》かれたのです。  それからの一年は、「ゼノ・ゼブロフスキ記念・ポーランド人をたすける会」の世話人として、自分のことにかまけていられなくなりました。日本じゅうから送られた善意の寄金の第一期分を、無事ポーランドに送り終えたとき、「猫物語」を書きあげようという気持がにわかに強くわき立ってきました。  八二年の暮からお正月の十三日まで三河湾の中にある佐久の島の民宿に泊りこみ、ようやく残りの二百枚を書きあげることができました。  自分の書いた文章が印刷されて、ゲラに手を入れる作業は、前著で経験ずみなのに、こんどはゲラを読みながら泣いてばかりいました。  やっとわたしのゲラに目を通す時間のできた主人からは、「不思議」という言葉が多すぎると叱られました。しかし、動物を見ていると、不思議なことばかりなのですから仕方ありません。この「仕方ありません」もわたしの筆ぐせで、絶対的に多いと指摘されてしまいます。  文章はともかくとして、わたしと関わりあった猫たちの、それぞれが厳として持っている個性の素晴らしさ、そして動物と関わりあいを持つことの重み──そんなことが読む人に伝われば、これにすぎる喜びはありません。  猫が大好きで、猫の絵をたくさん猫いてきた土山芙沙子さん(多摩美大・大学院卒)と知り合い、みごとなイラストを描いていただけました。彼女の愛情のこもった観察眼は実に細やかでうれしくなります。  編集を担当してくださった小嶋一治郎さんは、へたなわたしの文章を持ちあげ、力づけてくださるという思いやり深い方です。おかげでいい気分になって筆が進みました。ありがとうございました。  終りに、ゲラを読んで文句をつけてばかりいた主人が、笑いにごまかして泣いていたことを、のちのちの証拠としてここにつけ加えておきます。   一九八三年 四月三日 復活祭の日 [#地付き]工 藤 久 代  〈追記〉  校了ぎりぎりになって、畑正憲先生より推薦文をちょうだいすることとなりました。ワルシャワ時代以来の愛読者として、またテレビ番組「動物王国」のファンとして、最高のよろこびです。付記して、厚く感謝の念を表します。 [#ここから2字下げ]  素晴しい猫たちですね。まるでスパイ小説を読む時のように、著者と個性あふれる猫たちとの生活ぶりに惹きつけられました。工藤さんは文章のうまさもさることながら、動物を飼う名人だと思いました。  この本の魅力をさらに増しているのは、猫という窓を通して、ポーランドという外国を見ているし、何よりも�人間�を見ているからだと思います。これはすぐれた、待たれていた動物文学だと信じます。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]畑 正憲 [#地付き](作家) 単行本  昭和五十八年五月文藝春秋刊