クロスファイア 下 宮部みゆき 「燔祭《はんさい》」で登場した�念力放火能力者《パイロキネシス》�の持ち主、青木《あおき》淳子《じゅんこ》という女性のその後の人生をどうしても書いてみたくなり、ひとつの物語にしてみました。彼女の幸せは、果たしてどこにあるのでしょうか——。 [#地付き]「著者のことば」 �あたしは装填《そうてん》された銃だ。持てる力を行使し、無軌道《むきどう》に殺人を続ける若者たちを処刑する。人は自分の行為にふさわしい罰を受けなければならない�——青木《あおき》淳子《じゅんこ》はそう信じて、血と炎と黒焦げ死体とともに復活した。  連続焼殺事件の背後に�念力放火能力者《パイロキネシス》�の存在を感じた石津《いしづ》ちか子《こ》・牧原《まきはら》両刑事は、過去の事件関係者を洗い、ついに淳子の存在に気づくが……。さらに�ガーディアン�を名乗る自警組織が一連の�処刑�を淳子によるものと察知! 彼らは巧妙に淳子を組織に誘う。  正義とは何か。今、最も熱き[#「熱き」に傍点]宮部みゆきが鋭く問う興奮の超大作完結! かつてないヒロインの痛切な哀《かな》しみを描く [#地付き]評論家 大森《おおもり》望《のぞみ》    美しすぎる容姿、優秀すぎる頭脳は、その持ち主にとって、時に呪《のろ》いともなる。それと同様、平凡な人間に、もし大きすぎる力が与えられたとしたら。こうした観点から、宮部《みやべ》みゆきはリアルで印象的な現代の超能力者たちを描き続けてきた。 「燔祭《はんさい》」の青木《あおき》淳子《じゅんこ》は、中でももっとも忘れがたいひとり。本書は、�装填《そうてん》された拳銃�として生きる彼女の物語である。  安全装置は解除され、縛《いまし》めを解《と》かれた�現代のプロメテウス�は破局に向かってひた走る。かつて、こんなヒロインが存在しただろうか。超能力者の痛切な哀しみが激しい炎で胸を灼《や》く。 [#改ページ]               17         「凄《すご》い住まいでしょ?」  石津《いしづ》ちか子は、めまぐるしく階数表示を変えてゆく高速エレベーターのなかで、先ほどからずっと黙りこくったままの牧原《まきはら》に声をかけた。ようやくまた倉田《くらた》かおりに会えることになったことを連絡すると、彼の方から言い出して同行してきたのに、なんとなく元気がないように見える。 「ただ、こういう超高層マンションに住むと、どうしても外出が面倒になって、閉じこもりがちになるらしいんですよ。小さな子供にとっては、それは望ましいことじゃないわね」 「さっき暗証番号を打ち込んでましたが、このエレベーターは倉田家専用で、しかも直通なんですね?」  三十階台にさしかかった階数表示を見あげながら、牧原は訊《き》いた。 「ええ、そうですよ」 「外部の人間は、そう簡単には入り込めないわけだ」 「セキュリティはしっかりしてます」ちか子は言ってから、釘をさした。「だからわたしも、放火は内部の人間の仕業だろうと思います。でも、だからと言ってかおりちゃんが超能力で火をつけてるんだとも思いませんね」  牧原は何も言わずに、黙って片方の眉《まゆ》をつりあげた。そのとき、エレベーターが三十九階に到着した。  三十九階のホールに降りると、そこで砧《きぬた》路子《みちこ》が待ち受けていた。端正な顔にかろうじて硬い笑みを浮かべることには成功していたが、両の瞳という心の窓には、繊細な透かし彫りで、ちか子たちのこの訪問に対する怒りと不信の図柄が刻み込まれている。それがあまりにもよく見えるので、ちか子はふと苦笑いをしそうになった。  実際、倉田家を再訪したい——しかも今度は、できればかおりだけでなく、両親のそろっている時に——という要望を、こんなにあっさりと受け入れてもらえるとは、ちか子も予想していなかった。何度か断られること、その際の相手の対応ぶりを観察することを頭においた上での申し出だったので、ちょっと計算が狂った。  幼い子供や思春期の青少年がからむ犯罪を手がけるときには、捜査と同時にカウンセリングの真似事もしなくてはならない場合がある。しかし刑事は、経験則の積み重ねで多少のノウハウを得てはいるけれど、基本的にはカウンセリングに関してはまったくの素人《しろうと》であり、そして素人がよく犯すミスのひとつに、「結果を急ぎすぎる」ということがある。待つべきときに待てないのだ。今回の再訪の申し出も、もう少し時間をとってからの方がよかったかと、心の隅にはちらりと引っかかっている。  牧原が同行することは、事前に砧路子に知らせてあった。かおりのケースと似たような事件を扱った経験のある人物だと説明してある。ちか子がふたりを簡単に引き合わせると、牧原と砧路子は、お互いに対する無関心さの度合いを競うようにあっさりと初対面の挨拶《あいさつ》を交わし、あろうことか砧路子はぷいと横を向いた。 「倉田さんはご不在です。やはりご多忙な方ですから、平日家にいるのは無理なんですよ。たとえ数時間でも」砧路子は丁寧に、しかし冷淡に言った。「倉田夫人はかおりちゃんに付き添っておられます。夫人はこの前の出来事についてかおりちゃんから聞いて、ひどく心配されまして……」 「この前、わたしがおじゃましているときに、十九件目の小火《ぼや》が起こったということね」わざと確認するように、ちか子は言った。「その後は大丈夫でしたか? 二十件目は?」 「まだ起こっていません」 「それはよかった。じゃあ、参りましょうか」  倉田母子は、あの豪華なリビングのソファに並んで腰かけていた。かおりが母親の膝《ひざ》にもたれるようにして、二人はしっかりと手を握りあっていた。そのせいか、倉田夫人はちか子たちが近づき、砧路子の紹介を受けて挨拶をしているあいだも、一度も立ち上がろうとしなかった。 「どうぞ、おかけくださいな」  第一声はそれだった。物憂《ものう》いような声だ。 「何かお飲物をお持ちします。コーヒーでよろしいですか」  江口《えぐち》総子《ふさこ》がキッチンに通じるドアから顔を出して、ポットや茶器を載せたワゴンを押してきた。彼女も、ちか子の挨拶にはそそくさと会釈《えしゃく》を返すだけで、給仕が済むとすぐに退散してしまった。一同は、気の重い会議に取りかかる前の厳粛な儀式のようにコーヒーカップを手にとった。  倉田夫人は美貌の人だった。かおりが美少女なので、母親もきっときれいだろうと想像していたけれど、まさかこれほどとは思わなかった。ちか子はともかく、普通に分類すればかなりの美人の部類に入るはずの砧路子でさえ、夫人の前では十人並以下に見える。  けっして身なりが派手なわけでもなく、化粧もごく薄い。顔立ちも、モデルのそれのような日本人離れしたものではなく、頬はふっくらしていて、一重瞼《ひとえまぶた》で伏し目がち。人によっては、おとなしすぎる寂しげな顔だと思うかもしれない。男女を問わず、周囲の者の庇護欲をかきたてるような女性である。江口総子の献身ぶりや、砧路子のレポートの底に流れていた倉田家への傾倒の理由が判るような気がしてきた。  かおりと並んでいると、親子というよりは、長姉と末の妹というふうに見える。色白の染みひとつない肌は母娘共通の財産であるようで、今、二人がそろってその頬に緊張の色を浮かべているのは、なにがしか痛ましい。  気詰まりな沈黙を破るのは自分の役目だと思っているのか、砧路子が切り出した。「石津さん、倉田さんご一家は、ここから引っ越すことを検討しておられるそうなんです」  ちか子は驚きを隠し、ちらっと横目で牧原を見た。ほんの三十分ほど前、ここへ来る途中の会話のなかでもその話が出ていたのだ。  ——たぶん、引っ越すと言い出すでしょうね。  あっさりと冷たい口調で、彼は言ったものだ。  ——ストーカーまがいの放火魔から家族を守るために、転居先は伏せて引っ越すとね。そういうふうに体裁をつくらないと、もうつながっていることのできない家族なんだろうと思いますよ。 「遠くへ移られるおつもりなのですか」と、ちか子は倉田夫人に尋ねた。夫人は、外国の犯罪ドラマのなかで取り調べを受ける容疑者が同席している弁護士の顔を見るように、砧路子を見た。正確には、路子の口元を見た。そこに秘密の暗号があるのかもしれない。 「判りません……」夫人はあいまいに答え、とりつくろうようにコーヒーカップを手に取った。「ただ、恐ろしいことばかり続きましたから、もうこのマンションが嫌になってしまって。それに、庭のある一戸建ての家の方が、やっぱりかおりの健康のためにはいいんじゃないかと考えまして」  ちか子はかおりに微笑《ほほえ》みかけた。「そうすると、学校も転校することになっちゃうね。寂しくない?」  少女は答えずに横を向いた。母親の手をさらに強く握りしめる。 「失礼」と声をかけて、牧原が立ち上がった。迷いのない足取りで部屋を横切り、前回のちか子の訪問のときに燃えあがった、造花の活けられた花瓶のあった場所へ近づいてゆく。今、そこには花瓶も造花もなく、コーヒーテーブルの上には、凝《こ》ったステンドグラスの笠をつけたランプが載せられていた。 「ここが前回の小火の場所ですね」振り返りもせずに、壁の方に向いたまま牧原は質問した。「壁は塗り替えたんですか、倉田さん」  答えようとしていた砧路子が、名指しされた夫人の方を見た。夫人は目をしばたたくと、小声で答えた。「ええ、塗り替えました」 「小火のたびに、大変ですね。バカにならない費用がかかる」 「怪我人が出るよりはましです」 「そうですね。でも、学校で出火したときには、生徒が火傷《やけど》をして病院に運ばれたこともあったでしょう? レポートに書いてありました」  夫人は、何を訊かれているのか判らないという表情で黙っている。牧原はまだ壁を見あげてこちらに背中を向けている。 「その生徒の治療費を、あなたが負担しておられますね、奥さん」  びくりとして、砧路子が夫人を振り返った。倉田夫人は瞬間凍結したようにじっと身動きもしない。かおりはうつむいている。  ちか子は驚いていた。まったく、そんな事実をいつ調べあげていたのだろう。 「費用を負担していますね。違いますか?」  やっと振り向いて夫人の方を見ながら、牧原は訊いた。 「ええ、払いました」と、夫人は答えた。さっきよりももっと小さな声だった。 「なぜですか?」 「なぜ?」 「ええ。そんな筋合いはないでしょう。かおりちゃんだって、そのときは怪我こそしなかったけれど、被害者のひとりなんですからね」 「ですから、放火がかおりを狙ったものだとすれば、その生徒さんは側杖《そばづえ》をくったようなものですし、それにかおりのお友だちですし」 「なるほど」 「裕福なお宅でもないですし」 「私立の学校に子供を通わせているのに?」 「内情は大変だという意味です」  なるほどねと、牧原はもう一度小さく呟《つぶや》いた。べつだん皮肉な口調ではないが、夫人が小さく身構えるように顎《あご》を引いたことに、ちか子は気づいた。そして、夫人と並んでいるかおりの顔につと目を移して、驚きのあまり息を呑んだ。  かおりは蒼白になっていた。ついさっきまでは、元気がないし内気な感じで閉じこもってはいたけれど、血色は悪くなく、目もきれいに澄んでいた。ところが今は、両の瞳は凍りついたように硬く曇り、頬からは血の気が失せて、少女はまるで病人のようだ。  何がこの子に衝撃を与えたのだろう。小火で怪我をした同級生の治療費を母親が負担していたという事実のどこに、この子を動揺させるものが潜んでいたのだろう。 「かおりちゃん——」ちか子が呼びかけたとき、牧原が壁際からくるりと踵を返して戻ってきた。そして砧路子の椅子の脇に立つと、ちょっとかがんで、かおりの顔をのぞきこみながら話しかけた。「知らない人間ばっかりが家に出入りするんで、落ち着かないね」  別人のように穏やかで、優しい声だった。 「引っ越しして落ち着ければいいね。君のお父さんもお母さんも、君の安全を守るために心を砕いているんだし、おじさんたちもできるだけのことはするから、安心していていいよ」  少女はそろそろと顔をあげた。そうやって密かに行動しないと、彼女の内側で何かが壊れると信じているかのように。そして真正面から牧原の目を見た。  牧原は微笑した。「ところで、その指はどうしたの?」  見ると、かおりの右手の中指の先に真新しい絆創膏《ばんそうこう》が巻いてある。肌色の目立たないものなので、今まで気づかなかった。 「ああ、これは、深爪したんです」母親が代わって答えた。「夜になってから爪なんか切るからよ」 「奥さんは縁起を担ぐ方なんですね」まだ笑みを浮かべたまま、牧原は言った。「まだ明かりの乏しい時代には、陽が落ちてから爪を切ると深爪しやすいから、それを禁じるために、夜爪を切ると親の死に目に会えないなんて言ったんですよ。今じゃ意味はないです」 「そうかしら。まるっきり無意味だとは思わないけど」 「火遊びをするとおねしょをするという迷信もありますね」  倉田夫人はまた凍りついた。かおりは母親とつないでいた左手を離し、身体を牧原の方に向けて、じっと牧原を見ている。その目が糸のように細くなる。なぜかしら、ちか子は心臓がどきどきしてくるのを感じた。ひどく不吉な予感がした。  かおりの視線をたじろがずに受け止めて、ごく自然にすっと手を伸ばすと、牧原は少女の右手を取った。 「どれ、見せてごらん」  その瞬間だった。かおりのつぶらな瞳が大きく見開かれ、少女ははじかれたように背中を伸ばすと、叫び出す寸前のように大きく口を開いた。 「かおりちゃん?」  牧原も少女の異変に気づき、彼女の手を握ったままその場にしゃがむと、膝を乗り出した。砧路子が椅子から飛び降り、牧原を押しのけて少女のそばに近づこうとしたが、そのとき——  長い長い吐息と共に、かおりが言った。 「知ってるのね[#「知ってるのね」に傍点]」 「かおりちゃん? かおりちゃんしっかりして!」砧路子がしゃにむにかおりを抱き寄せようとした。が、少女は空《あ》いた左手で路子をはらいのけた。 「知ってるのね[#「知ってるのね」に傍点]。知ってるんだ[#「知ってるんだ」に傍点]」  ぎゅっと牧原の手を握り返しながら、少女はうわごとのように繰り返した。その目は空《くう》を見つめており、くちびるが震えている。 「誰なの[#「誰なの」に傍点]? その子は誰[#「その子は誰」に傍点]?」 「かおり——」夫人がかおりの背中を抱いたが、少女はまったく反応しない。左手で牧原の肘《ひじ》のあたりをぐっとつかむと、身を乗り出した。子供とはいえ精一杯の力でつかまれて、牧原がちょっと顔をしかめるのをちか子は見た。 「どこにいるの[#「どこにいるの」に傍点]?」ぜいぜいと喉を鳴らしながら、かおりは叫んだ。今やその顔は蒼白から一転して紅潮し、目が飛び出さんばかりになっている。「その子はどこにいるの[#「その子はどこにいるの」に傍点]? 会えるの[#「会えるの」に傍点]? どうしてあなたは知ってるの[#「どうしてあなたは知ってるの」に傍点]? その子はあたしの[#「その子はあたしの」に傍点]——あたしの——教えて[#「教えて」に傍点]、教えて[#「教えて」に傍点]、教えて[#「教えて」に傍点]——」  かおりの叫びは加速度的に高まり、やがて悲鳴になった。途端に、テーブルの上のカップとポットが、まるで悲鳴に共振したかのように音をたてて砕け散った。倉田夫人が両手を口にあて、逃げるようにソファから転がり落ちる。砧路子が泣くようなわめくような声をあげた。  少女が狂ったように高い声をあげてわめき始めると、牧原は彼女の両手を強引にもぎ離して、少女を抱きかかえた。かおりは全身を引きつらせて手足を振り回し、その口の端からよだれが流れ出し、目がうわずって白目になった。 「救急車を呼んで!」倉田夫人が叫んだ。砧路子がはいずるようにして電話に近づく。ちか子は素早く動いて、暴れ回るかおりの手足の届く範囲にある物を遠ざけた。 「かおりちゃん、落ち着け、大丈夫だ、落ち着け」牧原は華奢《きゃしゃ》な少女の身体を押さえ込むようにして抱きしめながら、呪文のように繰り返す。「大丈夫だから、何も怖いことはないから、落ち着くんだ、息を吸って、そう、息を吸って」  かおりはひゅうひゅうと喉を鳴らしながら息を吸い込んだ。 「そうそう、深呼吸して、そうだ、大丈夫、何も起こらないから。何も起こらないからな」  かおりはもう白目をむき出しにしてはおらず、黒い瞳は怯《おび》えたように縮み上がり、やがてどっと涙があふれ出し、牧原の肩に頭をあずけると、わっと泣き出した。彼は少女をあやすように抱きかかえたまま、髪を撫《な》でた。 「そうそう、もう大丈夫だよ。もう怖いことはない」  ふと気がつくと、砧路子も倉田夫人も、床にぺたんと座り込んでいた。ちか子は背中に汗をかいていることに気づいた。 「念のために病院へ連れて行きましょう」  少女の頭ごしに、牧原がちか子を見あげて言った。 「また引きつけるといけないし、いい機会だから、一度きちんとした検査を受けた方がいい。よろしいですね、奥さん」と、今度は倉田夫人に呼びかける。夫人はぼんやりと顎をうなずかせた。彼女の足元に、優美な白い茶器の持ち手の部分だけがひとつ、ぽつんと落ちていた。さながら、切り取られた人間の耳のように。   「どんな手品を使ったんです?」  特別病棟へ向かう自動ドアを通り抜けながら、ちか子は牧原の背中に訊いた。彼はむっつりと押し黙ってちか子の前を歩いてゆく。  とりあえず倉田かおりが入院したのは、自宅から歩いても十分ほどの場所にある私立の総合病院だった。ここの特別病棟というのは、難病や重病の患者のためのものではなく、金持ちの患者専用の病棟のことだった。ひとつひとつの病室に、ちょっとしたホテル顔負けの仕様がなされている。倉田夫人は、彼女自身が名目上の理事を務める実家の病院へ連れて行きたがったが、都下にあるその病院ではこの緊急事態に応じることはできないと、牧原とちか子が強く言い張り、彼女も結果的にはその主張に折れざるを得なくなって、知り合いの医師がいるというこの病院に落ち着いたのだ。 「かおりちゃんが叫んでいた言葉の意味は何です? あなたに何を教えてもらいたがっていたんですか」  病室の番号表示を確認するためにちょっと足を止め、そのついでのように牧原は言った。 「サイコメトラーですよ」 「は?」 「サイコメトラー。聞いたことはないですか?」 「あなたの仰《おっしゃ》ることの大半は、わたしには初耳なんです」  牧原は苦笑の顔でちか子を振り返った。 「やっぱり、いわゆる超能力と呼ばれるものの一種です。人や物に触れることによって、そこに残っている記憶や映像を読みとる能力のことですよ。つまり、かおりちゃんはその力を使って、僕の頭のなかの記憶を読んだんでしょう」  ちか子はため息をついた。「あの子の持っている力は念力放火能力《パイロキネシス》だったんじゃないんですか? まだ新手《あらて》があるの?」 「石津さん、スポーツはしますか?」 「え?」 「運動はしますか?」  今度は何だって言うのだ。「テニスを少しね」 「学生時代から?」 「ええ。わたしは足が速いことだけが取《と》り柄《え》だったんで、最初は陸上部にいたんですけどね。その韋駄天《いだてん》を活かして球を追えってスカウトされて、中学校からずっとやってましたよ」 「素晴らしいですね。能力というのはそういうものだ」牧原はうんざり顔のちか子に笑いかけながら、指でこめかみを叩《たた》いてみせた。 「超能力というものが、一般の人間には使うことのできない脳の未知の部分を使って発揮される力であるのならば、そこに一種の多様性があるのはむしろ自然なことなんじゃありませんか。足が速い人は短距離走が得意なのと同時にテニスも上手い——球に早く追いつくことができるから——それと同じでね。得意とする一種類の能力の発現形の周囲に、それと関連する別の発現形が共存していても、ちっともおかしくない」 [#改段]               18          ちか子がよほどヘンな顔をしたのだろう。牧原は笑って首を振り、病室番号を示す壁の表示の方に目をやった。 「つまり、倉田かおりは強力な念力放火能力《パイロキネシス》を持っているが、その力は単独で存在するものじゃなくて、他の能力もある程度付随しているということです」 「それがサイコメトラー?」 「そうです。接触した相手の記憶を読みとる。思念じゃなくて、記憶をね。ですから、対象は人間とは限らない。物体の場合もありますよ。欧米じゃ、この力を活かして警察の捜査活動に協力している能力者もいるんです。ある意味じゃ、異能者のなかでもいちばんポピュラーなタイプかな」 「ですけどそんなことって——」  牧原は目指す病室番号を見つけ、コートの裾《すそ》を翻《ひるがえ》してさっさと歩き出した。ちか子は小走りで彼に追いつかねばならなかった。 「それと、彼女の場合、若干の念動能力もあるみたいですね。テーブルの上の食器が飛び上がって壊れたでしょう?」  今度はちか子が首を振る番だった。「臨時ニュースで、アフリカの奥地でティラノサウルスが発見されたって聞いてびっくりして、次の臨時ニュースで、ティラノサウルスだけじゃありませんでした、ブロントサウルスもいましたと聞かされるような感じですね」 「で、三度目の臨時ニュースで、どちらもエイプリル・フールのお遊びでしたという訂正が流れる?」 「だといいわねえ」 「石津さんは恐竜がお好きなんですか?」 「わたしは別に。ただ、言ったでしょ、息子がSF好きだって。マイケル・クライトンとかいう作家のファンなんですよ」 「なるほど」  やっとたどりついた倉田かおりの特別個室のドアの前には、「面会謝絶」の札がぶらさがっていた。牧原は、一応はその札に敬意を表するつもりか、札を避けてノックすると、返事も待たずにノブを回した。  広いリビング仕様の室内の革張りのソファの向こう側に、窓を背にしてぽつんと白いベッドが据えられている。倉田かおりは枕に寄りかかって半身を起こしており、すぐ脇に倉田夫人が付き添っていた。  ちか子と牧原の顔を見ると、かおりは両目を丸く見開き、夫人は迎撃するように素早く立ち上がった。彼女が何か言い出す前に、牧原は如才《じょさい》なく声をかけた。「かおりちゃん、気分はどうだい?」  少女は答えずに、一瞬だけじっと牧原を見つめてから、母親を振り仰いだ。 「お帰りください」倉田夫人の語尾が少し震えていた。「娘はまだ、警察の方とお話しできるような状態ではございません」 「お加減はどうかと、それだけうかがいに参ったのです」と、ちか子は穏やかに応じた。「かおりちゃんも奥様も、お怪我はありませんでしたか?」  やんわりと受け止められて、夫人はかえって混乱したようだった。目をそらし、おどおどと白い手を握ったり開いたりしながら、どうぞお帰りくださいと繰り返した。 「今ここでお話をうかがいたいのは、お嬢さんではなく、奥さん、あなたなんです」牧原はきっぱりと言い放って、夫人を見据えた。  夫人はさらにうろたえた。目に見えないタオルでも絞るように手首をひねりまわしている。「わたしに? 何を?」  倉田かおりが、華奢な手をそっと伸ばして母親の腕に触れた。夫人の手の無意味な動きが止まり、ただ指先だけがぶるぶると震えているのが見える。 「ママ」と、かおりは小さいが確信に満ちた声で呼びかけた。「ママ、この人は信用できる。この人には話しても大丈夫よ」  ちか子は息を呑んだ。牧原はぴくりとも動かずにドアの前に立ちはだかっている。 「この人は知ってるの。見てるんだもの。あたしわかったの。だから話しても平気よ。ママ、あたしたちこのままじゃいけない。ずっとこのままではいられないよ、ママ」  そこには、砧路子に甘えてまとわりついたり、ちか子に向かって悪態をついたりしたときの、小さなヒステリーの女王の面影はなかった。さっきのあの精神力の暴走のような出来事で、かおりのなかに淀んでいたなんらかの黒い感情が洗い流されたのか。母親を見あげる少女の瞳のなかには、ちか子が今までそこに見たことのなかった清潔な光が宿っていた。 「かおり……」  倉田夫人は娘の手を握った。彼女の方が娘にすがっているみたいにちか子には見えた。かおりはもう一度牧原の方に顔を向けると、幼いが迷いのない声で尋ねた。「刑事さんは、火を点《つ》けてしまう人間のこと、よく知ってるのよね?」  牧原は黙ってうなずいた。ついでかおりはちか子を見た。ちか子は喉がカラカラになるのを感じた。 「そっちの刑事さんは、最初っからあたしのこと疑ってた。あたしが火を点けたって。そうなんだけど、でもあたし、刑事さんが思ってるみたいに、わざとやってるわけじゃなかった。面白がってやってるわけじゃなかった。だからあたし、刑事さんが嫌だった。嫌だと思ってたら、花瓶の花が燃えちゃったのよ」  言葉を続けるに連れてかおりは早口になってゆき、つんのめるようにしゃべり続けた。 「いつだってそういう感じなの。あたしにはそんなつもりないのに、勝手に火が点いちゃうのよ。嫌いな人に近寄ってこられたり、嫌なこと言われたりしたときもあるけど、何もなくても火が点いちゃう。お天気が悪くてむしゃくしゃするとか、テストの出来が良くなかったとか、おなかが痛いとか、そんなちょっとしたことでも火が出てきちゃうの。あたしにもどうしようもないの」  倉田夫人がかおりの頭を抱え込んだ。「今、そんなことを話すことはないわ。あなたは休まなきゃいけないの。いいわね?」  かおりは息をはずませながら口をつぐみ、母親の腕のなかに顔を埋めた。彼女をしっかりと抱きしめてから、倉田夫人はちか子と牧原の方に向き直った。目が充血して、頬には深いしわが刻まれ、急に十歳も老《ふ》けたように見える。 「ここでは話せません。もうじき夫が参りますし……江口さんも来るでしょう。どこかほかへ移りましょう」    倉田夫人はひどく人目を気にした。三人は結局、夫人の提案で、この総合病院専用の広い駐車場へと足を向け、夫人がここへ来るために自ら運転してきた車に乗り込んだ。新車の匂いのする濃いグレイの外車で、ちか子が運転席を占め、牧原と夫人が後部座席に座った。 「少し移動していただけますか」夫人はまだ周囲の人影に怯えていた。「もう少し、ほかの車の陰になる場所へ。夫の車が来たら、やはりこの駐車場に停めるでしょうから」 「我々と話しているところをご主人に見つかるとまずいのですか?」  牧原の問いに、夫人はすぐには答えず、ふと放心したように目の焦点をなくして、それからゆるゆると首を横に振った。 「夫は——かおりを理解していません」 「かおりちゃんの心をという意味ですか? それとも、彼女の能力を?」  夫人はうなだれるようにうなずいた。「どちらの意味でも結構です。同じことですわ」  ちか子が慣れない左ハンドルの車をそろそろと動かしているあいだ、夫人は小さなハンドバッグからハンカチを取り出して目をぬぐい、そのままそのハンカチを口元に押し当てて、じっと目を閉じていた。 「このあたりでいいでしょうかしらね」ちか子はできるだけ優しく言った。「暖房がきいてくるまで寒いですね。何か温かいものを買ってきましょうか」  夫人はかぶりを振った。「いいえ結構です、ありがとう。それよりタバコをお持ちですか?」  牧原が上着の内ポケットからタバコのパックを取り出して差し出すと、夫人はそれを受け取り、何度か取り落としそうになりながらやっと一本抜き出した。敏原がライターで火を点けてやったが、彼女の指がわななくように震えているので、なかなかうまくいかなかった。 「ありがとう」ようやく一服吸い込み、煙を吐き出すと、夫人はちょっと咳《せ》き込んだ。 「わたし、本当はタバコ呑みじゃないの。かおりがそこらじゅうに火を点けてしまうようになってから、あわてて吸うようになっただけなんです」 「かおりちゃんの起こしている小火が、あなたのタバコの火の不始末に見えるように?」 「ええ」夫人は口元を押さえ、けいれんするようにくっくと笑った。「馬鹿みたいですわね。かおりは学校でも道ばたでも、ところかまわず火を点けてるんですのに。でもせめて、家のなかの不審火だけでもわたしの不注意のせいだというふうにしたかったんです」  石津ちか子の心の秤《はかり》は、右へ左へ大きく揺れていた。この気の毒な、疲れ切って今にもすり切れそうな心を抱えている哀れな母親を見つめていると、彼女が口にしている言葉のすべてを丸ごと受け止めてやりたくなる。この母の小さな娘は、思念だけで自由に火をおこすことができる。物を焼き、人を傷つけることができる。そしてその能力故に、母娘共に深く戸惑い、傷つき、途方に暮れているということを、事実として丸飲みにしてしまいたくなる。  だが一方で、冷静で常識的で現実的なちか子の人格の土台の部分は、この母娘は互いに互いの妄想に共振しているだけの不幸な病人の組み合わせであり、彼女たちは然るべき専門の医療機関によってのみ救われるべきであるという健全な意見を主張するのだ。ちか子はそのどちらにもまだ軍配をあげられず、倉田夫人の言葉の真偽も決められず、だから今は夫人に投げかける問いのひとつも見つけられそうにない。その昔、ちか子を鍛えてくれた取り調べの名人から与えられた教訓の二つ目に、「どういう答えが返ってくるかまったく予測のつかない質問をしてはいけない」というものがあったからだ。  倉田夫人はまだ長いタバコを車内の灰皿で神経質なくらいきちんと消した。あまりぎゅうぎゅうと強く消したので、タバコがくの字に折れてしまった。彼女の動作を見届けてから、牧原はゆっくりと口を切った。 「いつですか?」  ちか子が初めて耳にする尋問口調だった。 「あなたが、お嬢さんにあの種の力があることに気づいたのは、いつのことですか?」  倉田夫人は灰皿の中の折れたタバコを見つめていた。それはひどく痛ましい表情で、折れたのはタバコではなく彼女の指で、それが灰皿のなかに灰にまみれて転がっているのを見つめているかのようだった。  やがて、彼女はぽつりと言った。「ずっと恐れておりました」 「ずっとというのは?」 「かおりが赤ん坊のときからです。いえ、あの子がわたしのおなかのなかにいるときからです」  ちか子は夫人の横顔から目を移し、牧原を見た。ちか子には夫人の言葉の意味がわからない。彼ならわかるかと思ったのだ。おなかにいるときから? 胎児のときから? かおりが——いや、その時点ではまだ性別さえ確定していないはずの赤子が、母親の胎内から能力を発揮して家のカーテンに火を点けたとでもいうのか。  不意に夫人が顔をあげ、牧原を見た。彼らは互いの顔がひどくまぶしいものであるかのように、あるいは、慎重に見定めないと中央を射抜くことのできない難しい的に対峙《たいじ》しているかのように、それぞれに目を細め瞳をしぼって視線をぶつけた。 「病室で、かおりから聞きました」と、夫人は続けた。「あの子はあなたの頭のなかに記憶を見つけたそうです。燃えあがる小さな男の子の記憶を。火を点けたのはかおりぐらいの歳の女の子だったと言っていました。あなたもまだ子供で、恐ろしい叫び声をあげていたと」  ちか子は倉田家でかおりが発作を起こしたときの光景を思い出した。彼女の口から噴出した切れ切れの言葉を。  ——誰なの? その子は誰?  ——どうしてあなたは知ってるの?  ——教えて、教えて、教えて。 「その小さな男の子は亡くなったのですか」と、夫人は尋ねた。 「ええ」と、牧原は短く答えた。 「お身内ですのね?」 「弟です。二十年前の話ですよ。弟は当時八歳でした」 「ああ」夫人は片手を額に当てた。「お気の毒に。でもあなたは今でも、一日だって忘れたことがないんですのね。だから、かおりにも簡単に読みとることができたんですわ。あの子の——記憶を読む力は、それほど強くはないんです。そちらの力の方は、ほとんどオマケみたいなものなんですもの。あなたのときにあんなに劇的に読みとれたのは、あなたの記憶があの子にとって、とても身近な種類のものだったからじゃないかと思います」 「念力放火能力《パイロキネシス》ですね?」  牧原の直截《ちょくせつ》な問いかけには答えず、夫人は手を額に当てて半ば顔を隠したまま言葉を続けた。「かおりはわたしに、あなたはこの力の存在を信じている、そして同時にとても恐ろしく思っている、だから信頼できる人だと言いました。わたしたちを助けてくれるかもしれない、少なくとも利用しようとはしないだろうと。だからさっきも、ママ、うち明けても大丈夫よって言ったんですわ。やっとそういう人に巡り会えたから」  運転席のちか子は、自分が倉田かおりの言う意味での「信頼できる人」の範疇《はんちゅう》に入っていないことをよく知っている。牧原とセットになっているからこそ、今ここに同席していられるわけだ。だから、いくばくかの居心地悪い思いを味わった。しかし、円の外側にいるからこそ冷静でいられるということもある。うわごとのような夫人の台詞《せりふ》を聞き逃してはいけない。気を引き締めた。 「わたしは……かおりの言葉を信じたいと思います。ですから申しあげますわ」夫人は言って、ため息をひとつつくと、手のひらで額を強くこすってから、勇敢な子供のようにぐいと面《おもて》をあげた。 「わたし自身が能力者なんです」  ちか子は驚いたが、牧原は動じなかった。 「わたしの母も、同じような力を持っていました。ご存じでしょうけど、この能力は遺伝するんです。それが性別に関わりがあるかどうか、わたしは存じませんが、少なくともわたしの家系では、代々女たちばかりにこの力が現れるようでした」 「どういう発現形です?」と、牧原が尋ねた。ケチな窃盗犯に、引き出しから盗んだのは本当に現金三万円だけかと訊いているときのような、刑事なら当たり前の口調だった。 「母はときどき、物を動かすことができました。でも、本領は別のところにありましたの。気味が悪いくらいにぴたりと他人の心を読んだんです。正確には記憶を読むということでしょうけれど」  夫人はふと、頬を緩めて微笑した。 「母は看護婦でしたの。救急外来が専門でした。とても有能でしたのよ。当然ですわね。かつぎ込まれた病人や怪我人が意識を失っていても、その人の手に触れるだけで、母には前後の状況がわかるんですもの。わたし、よく覚えています。父が誇らしげに、感心したように話してくれたことがあって。幼稚園児の男の子が救急車で運ばれてきたんです。意識不明で、呼吸不全で、びっしょりと冷汗をかいていました。気絶する直前は、しきりと吐いて、おなかが痛いと泣いていたそうです。救急医は、子供によくある細菌性の胃腸炎だろうと診断しました。でも、母はすぐに真相をつかみました。子供をストレッチャーに乗せるために抱きあげたとき、�見えた�からですわ。その子は、子供向きに甘い味をつけてある鎮痛解熱剤をまるまる一瓶食べてしまったんです。キャンディだと思ってね。つまりアスピリン中毒を起こしていたんですの。  母は頭のいい人でしたから、うまく言葉を選んでそのことを救急医に伝えて、子供はすぐに胃洗浄を受けました。翌日には元気になりました。父は当時、同じ病院で働く内科の医師だったんですけれど、救急外来の先生が母の冷静な判断を誉めているのを聞いて、その晩、バラの花束を買って帰ってきました。そしてわたしに、おまえは日本一素晴らしいお母さんを持ってるんだよと申しました」  甘やかな回想に、つかの間、夫人の顔から疲労の影が薄れた。 「あなたのご実家は病院ですね?」と、牧原が訊いた。 「ええ。父が親から継いだ小さな開業医院を、母と二人で大きくしたんです。それには母の能力がずいぶん役立ったと思います」 「ご両親はお元気で?」  夫人は残念そうに首を振った。「いえ、二人とももう亡くなりました。かおりが生まれる前に。家はわたしの兄が継いでおります。わたしも一応理事をしておりますが、これは肩書きだけですわ」 「今うかがったお話によると、お母様は幸せな能力者だったようですね」  夫人は小さくうなずいた。「希有《けう》な例でしょうね。でも、まったく悩みがなかったわけではございません。自分の能力について、家族にも秘密にしておかなければならなかったわけですから」 「するとあなたのお父様は、お母様の力について知らなかった?」 「知りませんでした。わたしだって、わたし自身が力の兆候を見せるようになったとき、初めてうち明けられたんです。弟は、現在《いま》でも何も知りません。弟の子供は二人とも男の子で、力の兆しはまったく見えていませんから、生涯何も知らずに過ごすことになりますでしょうね。ごめんなさい、もう一本タバコをいただけるかしら?」  夫人の指は、さっきほどひどく震えてはいなかった。 「父と母は、本当に仲のいい夫婦でした。あんなに深く愛し合って、信頼しあっていた夫婦を、わたしはほかに知りません。それだけに、父に隠し事をするのは、母には辛いことだったろうと思います。でも、怖かったんですわ」 「怖かった?」 「ええ。真実をうち明けて、もしも父の心のなかに、母に対する疑いや怯えが生まれたらどうしようかと思ったんでしょう。なにしろ母は他人の記憶を読むのですもの。牧原さんはご結婚しておられます?」 「いいえ」  夫人はなんとなく不義理を詫《わ》びるようにちか子の方を見て、「あなたは?」と訊いた。 「夫と大学生の息子がおります」と、ちか子は答えた。 「それなら想像していただけるのじゃないかしら。いくら仲むつまじい夫婦でも、やっぱり相手に知られたくないことのひとつやふたつはあるものでしょう? それを尊重しあってこそ、大人の信頼関係が成り立つものじゃないかしら。ですから母は、うかつに父に自分の特殊な力についてうち明ければ、父とのあいだに亀裂が入るのではないかと恐れていたんです。父のことを愛していたからこそ、本当のことが言えなかったんですわ」  ちか子は何も言わなかった。夫人もちか子には返事を求めなかった。 「あなたが自分の力に気づいて、お母様から事情をうち明けられたのはいつのことでした?」と、牧原が訊いた。 「わたしが十三歳のときでした。今のかおりと同じ歳ですわね」 「あなたの場合は、どういう形で発現したんです?」  夫人はちょっと周りを見回すような仕草をみせた。それから言った。「わたしは……少しばかり、物を動かすんです」 「念動能力ですね。お母様も少しだけお持ちだった力だ」 「ええ。でもわたしの力は母のそれよりももっとずっと弱くて、自発的な意志でどうこうすることはできません。それは今もそうです。驚いたり怒ったり泣いたり、そういう激しい感情の動きがあると、テーブルの上のものが飛びあがったり、椅子が倒れたり、ガラスにひびが入ったりする程度なんですもの」 「ちょっと待ってください」ちか子は初めて割り込んだ。「さきほど倉田さんのお宅でかおりちゃんが発作を起こしたとき、テーブルの上の茶器が壊れましたね。あれは——」  夫人は恥ずかしそうに顔を伏せた。「ええ、そうです。わたしがやったことですわ。あんまり驚いたものですから」  ちか子が牧原の顔を見ると、彼はちょっと考えるようにまばたきをした。 「僕は、あれもかおりちゃんの力だと思っていましたが」 「いえ、あの子には物を動かすことはできません。今まで一度も、そういうことは起こったことがありません。ごくたまに他人の記憶を読むことはありますけれど、それも、さっき言ったように不完全なもので」  言葉を切って、夫人は声を落とした。 「あの子の持っている力は、ただひとつ、火を点けることだけに集中しているみたいですの」    夫人の希望で、ちか子は再び車を動かした。長話のせいか夫人の喉が辛そうなので、牧原が一度車を離れてコーヒーを買いに行った。  彼がいないあいだ、ちか子と倉田夫人は、座席のシートに隔てられ、その上さらに、常識と非常識というもうひとつの見えない壁に隔てられて、不自然にそっぽを向いていた。  折れて出たのは、夫人の方からだった。 「石津さん——とおっしゃいましたわね?」 「はい、そうです」ちか子は緊張した。この美しい女性は、いろいろな意味でちか子とは無縁の世界の住人だった。同じ言葉を話してはいるけれど、ちか子には彼女が異国人《とつくにびと》のように感じられる。 「かおりは、あなたは牧原さんとは違うと言っていました」 「念じるだけで火を点けたり、物を動かしたり、触れるだけで相手の心を読んだりすることのできる力の存在を無条件に信じているわけではないという意味では、そうです」  夫人はふっと笑った。「それなら、わたしとかおりのことを、とんでもなくおかしな母子だとお思いでしょうね」  ちか子は黙っていたが、口の端を持ち上げて笑う努力をした。 「でも、あなたとかおりちゃんが、何らかの助力を必要とされているということは、わたしにもわかります」  夫人は言った。「ありがとう」  その素直な言葉は、つと、ちか子の心を揺さぶった。端正な横顔をこちらに向けてうつむいている倉田夫人は、遠い昔、ちか子がまだ多感な女子学生であったころ、机を並べていた、はにかみやの美少女を思い出させた。  牧原が戻ってきた。車内に入ってドアを閉めると、彼はすぐに訊いた。「ご主人の車は、ミッドナイトブルーのBMWですか?」  倉田夫人が目を見開いた。「ええ、そうです」 「ご自分で運転を?」 「します」 「一七〇センチぐらいで、がっちりとした体格の方ですね?」 「そうですわ」 「今さっき、正面玄関にその車が乗り付けて、降りてきた男性が受付でかおりちゃんの病室を尋ねていました」  夫人の頬がこわばった。「主人です」 「倉田さん」ちか子はシートに手をおいて乗り出した。「なんだか、ご主人のことを怖がっておられるみたいですね?」  牧原が何か言おうとしたが、その前に夫人が素早く打ち返すようにして答えた。「ええ、怖いですわ。恐ろしくてたまりません。今までにも何度か、かおりを連れてあの家から逃げ出そうと思いました」 「どうして?」  今度は、夫人は返事に迷った。夫人の内心の感情が、言葉というたったひとつの非常口をやっとの思いで発見して、一斉にそこに殺到している。だから、どれから逃がしてやったらいいのかわからないのだ。 「その前に、ちょっと話を戻しましょう」と、牧原が言った。「あなたのお母様は、お父様にご自分の能力を隠しておられた。あなたにも、あなたが能力者だとわかって初めてうち明けた。そのとき、どんなふうにおっしゃいましたか? お母様は、一族の女性たちのなかに発現するこの力について、誰に教えられたとおっしゃいました?」 「母は——母の祖母に聞いたそうです。でも祖母は能力者ではありませんでした」 「まったく?」 「はい。母の母も、祖母もね。ただ祖母は、祖母の父方の伯母という方が……なんていうんでしょうね、その時代のことですから、一種の巫女《みこ》とでもいうのかしら、ときどき神懸かりのような状態になっては占いをする、そういうことで生計を立てていたのを知っていたそうなんです。もっとも、あまりにもエキセントリックになるので、依頼者は少なくて、ひどい暮らしだったみたいです。母の祖母の親族のあいだでは、その人の存在については語ることもタブーとされていて、事実上は身内の縁を切ったような状態になっていたそうなんですが、母の祖母は何度かその人に会ったことがあって……。母の祖母の父親にとっては、その人は実の姉ですから、こっそり面倒をみていたのかもしれませんわ」 「巫女ね……占いか」 「やはり、他人の記憶が見える人だったのかもしれません。不幸な人生で、十年以上も病院暮らしをした挙げ句、誰にも看取《みと》られずに亡くなったそうです」  夫人は小さく身震いをした。 「母の祖母は、自分の父親から、うちの家系にはまれにああいう伯母さんみたいな者が出る、それも女ばかりだから、おまえも結婚して子供を持つときには気をつけるようにと言われたそうです。伯母さんみたいというのはどういうことかと尋ねても、口を濁してはっきりとは教えてくれなかったそうですが、ただ、もしもその子に他人様《ひとさま》と違うところがあったなら、初潮を迎えるころにははっきりそうだとわかるから、注意していろ、おまえのこともずいぶん心配したが、何もなくてよかったと、なんだか怖いような顔で言われたと、母の祖母は言ったそうでした」 「なるほどね……」牧原は深くうなずいた。 「お母様のお祖母様《ばあさま》は能力者でなかった。お母様のお母様も普通の人だった。そうですね?」 「はい」 「いわば因子保持者《キャリアー》だったわけだ。そしてあなたのお母様の代になって能力が発現した。あなたも微弱だが力を行使することができる」 「ええ……」 「お母様は、あなたが倉田さんと結婚なさるとき、あなたもまたご自分と同じ悩みを抱えることになると、ずいぶん心配されたんじゃないですか?」 「とても心配しましたわ」 「でも、最終的にはあなたは結婚をされた」 「はい。当時は、それが正しいことだと思いましたの」不本意な言い訳をするように、夫人は口元を歪めた。「それにわたし自身は、何度も言うように微弱な力しか使えない能力者です。だから大丈夫だと思いましたの」  先ほどから、倉田夫人は秘密の箪笥《たんす》の引き出しを次々と開けてみせてくれた。だが、まだ開けきっていない引き出しがある。今、その取っ手に手をかけている。 「夫には、わたし……自分の力について、全部うち明けました。交際を始めて一年ほどで、夫が二人の結婚について話を持ち出してきたときに」  夫人は最後の秘密の引き出しを引いた。 「すると、夫はとても……とても興味を持ちました。詳しく話を聞きたがりました。すぐに母にも会いました。当時夫はもう就職しておりまして、駆け出しの銀行マンでした。忙しくて、日曜もろくに休めなかったんですの。それなのに、何とか時間をやりくりしては、母の記憶を確かめるために自分で足を運んでいって調べものをしたり、自分だけでは手が回りきらない分は調査会社を頼んだりして、事実を確認していたようです」  夫人は首を巡らせると、ぼんやりと車窓の外に目をやった。 「当時はわたし、それを夫の誠意の表れだと受け止めていました。わたしを理解するためにやってくれていることだと。実際に、夫もそう申しておりましたの。わたしを愛しているから、理解したいんだと。もちろん別れる必要などない、ぜひ結婚してほしいと言ってくれました。わたしは——」  不意に喉を詰まらせて、夫人は口をつぐんだ。瞳がうるんだ。 「わたしは、それを信じていたんです」  信じていた[#「信じていた」に傍点]。それは過去形なのだ。 「幸せでした」ぐいと顎を引いて顔をあげたまま、夫人は続けた。「わたしは母と同じ悩みを悩まずに済んで、なんという幸せ者だろうかと思いました。母もそれを喜んでくれていました。間もなく母が病みついて、死が時間の問題となりましたときに、わたしを病床に呼んで、弟のことを頼むと申しましたわ。あの子が結婚して、生まれる子供が女の子だったら、あなたと倉田さんの二人で、しっかり導いてあげてくれと。母もそれぐらい、倉田を信頼していたんです。ですから、安らかに亡くなりましたわ。そして母の四十九日が過ぎたころ、わたしは妊娠していることに気づきました。ええ、かおりがおなかにいたんです」  目尻をつたって、涙が一滴だけ流れ出した。夫人はそれを指先でぬぐった。 「わたしは不安でした。検査でおなかの子が女の子だとわかってからは、心配のあまりに食事もとれなくなってしまって、一時は入院しなくてはならなかったくらいでした。わたしは幸い微弱な力しか使えないから今の幸せをつかむことができたけれど、この子はどうかわからない。もしかしたら、わたしの分も力を集めて誕生してくるかもしれない。そう思うと、本当にこの子を産んでいいものかどうか、自信がなくなってしまったんです。  主人はそういうわたしを叱《しか》って、励ましてくれました。そしてかおりが無事に誕生したときには、底抜けに喜びましたわ。あの子、赤ん坊の時から美しい子でしたの。主人は鼻高だかで、看護婦さんから笑われるほどでした」  そうしてかおりはすくすくと成長した。夫人にとっては潜在的な不安と縁の切れない日々ではあったが、子供の成長はやはり手放しで喜ぶべきことであった。夫の精神的な支えも頼もしかった——  ぽんと投げ出すように、夫人は言った。「それでも、かおりはやっぱり能力者でした」  ちか子は、我知らず膝の上に乗せた手を握りしめていた。 「最初に兆候を感じたのは、あの子が歩行器に乗り始めたころです。たとえば、かおりはベビーベッドにいて、歩行器は空《から》なのに、誰も押しているわけではないのに、部屋の端から端までごろごろと床を滑っていくんです。電池仕掛けでシンバルを鳴らすうさぎのぬいぐるみが、電池を入れてないのに勝手に動き出すこともありました。かおりの部屋では、小さな備品の置き場所がしょっちゅう変わって、わたしは苦労して探し回らなくてはなりませんでした。ささやかではあるけれど、念動能力の兆しです。わたしは絶望しましたけれど、夫はそうではありませんでした。何もこの力があるからといって、未来が暗いばかりではないと言うんです。そして二人目の子供を欲しがりました。わたしは嫌でした。かおりひとりだけで充分、この子にどうやったら無難な人生を与えてあげることができるのか、それだけで手一杯だと申しましたわ。  夫はかおりの日常を注意深く観察していました。その興味の強さと言ったら、わたし以上でした。わたしは疑って然るべきだったんです。だっておかしいでしょう? 心配しているのじゃなくて、興味を持って観察しているんですもの。でもそのときも、これも愛情の所以《ゆえん》だと思って……心の底には違和感があったのかもしれませんけれど、それを押し隠して、夫の真意を測ることはしませんでした」  夫人は大きく息を吐いた。 「そして二年前、十一歳のときに、かおりは初潮を迎えました。その直後からです。あの子が火を点け始めたのは」  燃えあがる花瓶の花。 「最初は小さな火ばかりでした。テーブルクロスの端がちょっと焦げたり、壁紙が茶色くなっていたり、ぬいぐるみのネコの髭《ひげ》が溶けていたり。でも、だんだんエスカレートして、そのうちわたしたち夫婦の目にも、燃えあがる炎が見えるようになってきました。  放火能力が目覚めるのと入れ替わりに、念動力はきれいに姿を消してしまいました。まるで、今までのあれは単なるプレビュウだったのだというみたいに。  能力者によって、力の発現の仕方に違いがあることは、わたしも承知していました。でも、火を点ける[#「火を点ける」に傍点]というのは初めてでした。こんなことがこの世にあり得るのかと思いましたわ。かおりを呼んで、あの子を抱きしめて、話を聞き出しました。あの子自身も、意識してやっているのではないようでした。そのうちに、あの子も怖がり始めました。感情が高ぶると、勝手に火が点いてしまうからですわ。あの子は賢い子ですし、わたしの言うこともよく理解してくれましたけれど、言ってみれば勝手に暴発してしまう銃を持って暮らしているようなものです、あの子はとても不安定になって、引きこもりがちになりました」  夫人は一度強く目を閉じてから、まぶたを開き、牧原とちか子の方を振り返って、続けた。 「あの子は扱いにくい子供です。そうお思いになりましたでしょ?」  その質問は、ちか子に向けられていた。 「好ましいと感じる人には、まるで商売女がお客に媚《こ》びを売るみたいにべたべたとまつわりつくんです。そのかわり、ちょっとでも印象の悪い人に対しては、ひどい悪態をついたりして遠ざけようとします。あれはあの子なりの防衛反応なんですの。好きな人には、�この人が好きだ�という感情以外の感情を一切抱かないように、ひたすらべったりとくっついてしまう。嫌いな人、嫌いになるかもしれない人には、もしかしてその人に対して悪感情を抱いても不用意に火を点けてしまうことがないように、最初から距離をとろうとしてしまう」  ちか子は尋ねた。「今日、学校の同級生が小火で怪我をしたとき、奥様が治療費を負担したというお話が出ましたね? あのとき、かおりちゃんの顔が真っ青になるのを、わたしは見ました。あれはどういうことでしょう?」  夫人は両手で頬を押さえると、辛そうに首をうなだれた。「わたしはかおりに、外で火を点けてしまっても、そのことについて気にしてはいけない、誰かに話してもいけない、わざとやっているわけではないのだし、あなたはちっとも悪くない、だから知らん顔をしていなさいと命令してきました。かおりは不本意だったかもしれないけれど、わたしの言いつけに従ってきました。でも、そんなことを言う一方で、火傷した子供さんのところにわたしが頭を下げにいっていた——そのことがショックだったんでしょう。かおりが知れば、きっと面目なく感じるだろうと思って、ずっと隠していたものですから」 「お辛いですね」と、牧原が言った。あまりにまっとうな慰めの言葉なので、かえってそれは宙に浮いた。 「いいえ、かおりちゃんは、お母様がかおりちゃんに、お友だちへのお見舞いの件を隠していたこと自体がショックだったんですよ。今の奥様のお立場で、かおりちゃんに対して秘密を持つことは、あまりいいやり方ではないと思います」  夫人はつと目をあげて、ちか子を見つめた。その瞬間、どれほどこの荒唐無稽《こうとうむけい》な話についていけなかろうと、超能力に関する知識が欠けていようと、牧原にはなくてちか子だけが持っている夫人との連結器が存在していることを、ちか子は感じた。  母だ。母親であることだ。  牧原がちょっと咳払いをした。「一連の不審火について、最初に当局に連絡したのはどなたです?」 「江口さんです。わたしは反対しましたけれど、あまり抵抗してもかえって不審に思われるかもしれませんから、彼女のしたいようにさせました。どっちにしても、学校でも火は出ておりましたしね」 「家のなかにいるのがあなたがただけだったら、届け出なかった?」 「わかりません。でも、夫だけなら、届け出なかったでしょう」  牧原がちか子を見て、意味ありげに目配せをした。彼より先に、ちか子は訊いた。 「奥様、あなたは先ほど、ご主人が怖いとおっしゃいましたね? お話の様子だと、昔はご主人を信じておられたけれど、今はまったく逆のように感じられます。それはどういうことなんでしょう?」 「あの人は——」  ここで初めて、夫人はそういう呼称を使った。「倉田」でもなく「夫」でもなく「主人」でもなく、正体不明の人物をさすように、「あの人」と。 「あの人は、かおりがあんな呪《のろ》われた力を持っていることを喜んでいますの。ええ、気が違いそうになるほど嬉しがっていますわ」 「なぜです?」 「利用価値があるからです。かおりを武器として使えるからです」  夫人の声が切迫し、目の底に強い光がひらめいた。 「あの人は、なんだかよくわからない組織《グループ》に属しているんです。いえ、会社とは違います。一種そうですね——警察みたいな。いえ、そうじゃないわ……」くちびるを噛んで、イライラと考える。それから、ぱっと目が晴れた。 「そう自警団[#「自警団」に傍点]。あの人がわたしに初めてその話をしたときには、その言葉を使っていました。一種の自警組織だと」 「何から何を守るんです?」  夫人はいかにも軽蔑したように肩をすくめた。むろん、牧原とちか子に向かってではなく、今の彼女の話の内容に対して。 「不完全な法律から正義を守るんだそうですわ。つまり、法律では裁くことのできない犯罪者を処刑するんです。おかしいわね? 映画みたいだわ。まるで作り話よ」  牧原の目がまた細く歪んだ。「その組織のために、かおりちゃんのような強力な超能力者が役に立つと?」 「ええ、そうです。あの人は、最初からそれを狙っていたんです。それ目当てでわたしと結婚したんです」夫人は身をよじり、言葉を足元に吐き捨てた。 「愛なんか、かけらもなかったんだわ!」 「落ち着いてください。どうか落ち着いて」  ちか子が手を伸ばして遮ると、夫人はまた両手で顔を覆ってしまった。そのまま、うめくように続けた。「かおりが火を点け始めると、あの人は大喜びでした。待っていた甲斐《かい》があったというんです。かおりのような子供に恵まれることを望んでいたって。この子は救世主になるかもしれない[#「この子は救世主になるかもしれない」に傍点]。そんなふうに申しましたわ。かおりは指一本動かさず、かおりがやったという証拠など一切残さずに、一度に百人もの人間を焼き殺すことだってできます。そうやって、この世にはいない方がいい野獣のような人間を退治するのがこの子の天職だ、そのために生まれてきたんだと言うんです。いったいどんな父親が、我が子に対してそんな義務を課すことができるっていうんです? かおりは人間です。火炎放射器でも爆弾でもないんです。それなのにあの人は、かおりを暗殺者にしようとしている。かおりがあの力を自由にコントロールできるように訓練して、組織のために働かせようとしているんです!」 「奥さん」 「わたしは嫌よ、かおりを渡したくない!」 「奥さん、しっかりしてください」  牧原に肩をつかまれて、夫人は泣き崩れた。しばらくのあいだ、彼とちか子は夫人の号泣を聞きながら押し黙っていた。  夫人の泣き声がすすり泣きにまでおさまるのを待って、牧原は訊いた。「奥さん、その�組織�について、倉田さんは具体的なことは言いませんでしたか? たとえば、どんな構成で、どんな場所にあって、どんな人間が参加しているか」  夫人は目をぬぐうと、しゃくりあげながら顔を持ちあげた。 「わかりません。けっして怪しげなものではないということばかり言ってました。参加しているのはまともな社会人ばかりで、幹部には大物政治家や財界人がいると」 「どこから活動資金を得ているんでしょうね?」  知らない、と、夫人はかぶりを振った。 「倉田さんは、いつからその組織のメンバーなんでしょう。それについては何か言いませんでしたか?」 「あの人の父親の代から参加していると。組織ができたのは、終戦直後だそうです。最初は、進駐軍による無法行為を秘密に制裁するために誕生した、ごく小さな自警団だったとかいう話でした」  すでに忘れ去られた昭和の一場面だ。日本が無条件降伏し、アメリカの進駐軍により占領・統治されていた時代。GHQという統治組織自体はどれほど機能的かつ合理的で公正なものであろうとも、マッカーサーがどれほどの硬骨漢であろうとも、実際に敗戦国の民を統《す》べるアメリカ兵のなかには確かに無法者もいたであろうし、当時の日本の国内法ではどうすることもできない残酷な犯罪もおかされたであろう。その時代に、光の届かない水面下で、不当に持ち込まれ植えつけられた悪を刈り取るために誕生した自警団—— 「組織の名前はなんというのです? 倉田さんから聞きましたか?」  夫人はちょっと思い出すように間をおいた。やがて、またかぶりを振った。 「わからないわ。聞いたかもしれないけれど、なにしろわたし、そのときは動転していて。ただ、組織のことをどこかに訴え出ても無駄だと言われました。そのことは、何度も繰り返し言われてますの。何より、そんなものの存在を誰も信じないからと。でも、わたしがおとなしくかおりを引き渡して沈黙を守っていれば、組織はわたしをかおりの母親として尊敬するし、もしもわたしが——わたしがもうひとり子供を産めば、組織全体でわたしに感謝すると。だって、その子も能力者かもしれないわけですから」  ちか子は思わず呟いた。「ひどい話ね。女を子供を産む道具扱い」 「でもあの人は、最初からそういうつもりだったんですもの。わたしはあの人の望む子供を産むだけの女でした。倉田には、わたしたちが結婚した直後から続いている愛人がいるんです」  夫人は気の抜けたような笑い方をした。 「あの人はかおりに——あの子が火を点ける力を発揮しだしたころに、怖がることはない、パパはおまえを誇りに思うと言いました。世界でいちばん愛してる、かおりのためなら何でもする、かおりを守るためならどんな敵とだって戦うって。わたしにはわからないんです。あれはあの人の親としての誓いだったのかしら。それとも、あの人がかおりを大事にするのは、軍人が銃を手入れするのと同じなのかしら」  ちか子は何も言ってやることができずに、ただ夫人に向かってうなずきかけた。夫人の涙に濡れた目に、そのとき、つと明かりが灯《とも》った。 「そういえば……」 「なんです?」 「あの人、言ってましたわ。俺はかおりの守護者だって。そしてかおりもやがて守護者の一員になるんだって」 「守護者?」と、ちか子は言った。 「かおりちゃんも一員になる——ということは、それが組織の名前なんでしょうか。そぐわない感じがしますけどねえ」 「守護者……ね」牧原が呟いた。「ガーディアンか」 [#改段]               19          テレビ画面に三田《みた》奈津子《なつこ》の笑顔が映っている。淳子《じゅんこ》はベッドの足に寄りかかって、ぼんやりとそれをながめている。  夕方のニュース番組だった。二十分間ほどの特集で、浅羽《あさば》敬一《けいいち》たちがからんだ三つの事件を取り上げている。被害者二人の人となりに焦点をあてつつ、事件の未解明の部分を検討するという形をとっていた。  警察当局は、基本的には捜査開始直後の見解をそのまま持ち越し、三つの事件の根をひとつのものだと考えていた。浅羽たちグループ内部の仲間割れである。直接的なきっかけとなったのは、あの夜、拉致《らち》監禁し殺害した藤川《ふじかわ》賢治《けんじ》の遺体をどう処理するかという問題であったが、内輪もめの火種は以前から存在した、それはあのツツイという工員が横流しする密造拳銃からあがる金をめぐるグループ内の確執であり、また、グループのなかに、リーダー格の浅羽敬一を引きずりおろして彼に成り代わろうとしているメンバーがいて、最近、急速に浅羽との対立を深めていたということであり、従ってあの三つの事件は、すべて彼らの権力争いに端を発しているのだという推論である。  ゴロツキはゴロツキなりに、縄張りを守るための駆け引きや闘争をするものだ——昼間のワイドショウでコメンテーターがそんな台詞を吐いていたのを、淳子は記憶している。警察の調べによると、浅羽と激しく対立していたと思われるメンバーは、桜井《さくらい》酒店で遺体となって発見された十九歳のYという青年であるらしい。彼の顔写真は、目元にモザイクをかけられた形で映し出されているので、淳子にもしかとは確信が持てない。だが、彼が桜井酒店で死んだという警察の調べに間違いはないと思う。Y青年というのは、淳子に銃を向けたカーキ色のズボンをはいた男だろう。淳子は彼を熱波で吹き飛ばし、彼の目玉が溶けるのをしっかりとこの目で見た。遺体はさぞかしひどい状態だったろうに、よくまあ身元が判明したものだ。以前から警察と縁の深い若者だったのかもしれない。  警察の提示する推論は、ドミノ倒しのように続けざまに発生したあの三つの事件を、それなりにうまく説明するものだった。初動捜査の段階で立てた仮説を適宜に加筆修正しながらつくりあげた筋書きは、こんな具合だ。まず、藤川と奈津子を拉致した浅羽と彼の仲間数人は、奈津子だけを桜井酒店のアジトに監禁し、藤川の遺体を処分するために出発した。しかし、すぐに藤川の遺体処理をめぐって諍《いさか》いを起こした。遺体をあの廃工場に捨てようとする浅羽に反対する若者がおり、口論が始まり、銃が持ち出され、発砲が起こり、火花が廃工場内に充満していたメタンガスに引火、爆発炎上が起こった。  一人だけ命からがら脱出した浅羽敬一は、この際、自分に逆らうメンバーを一掃しようと決意、強力な武器を求めてツツイを呼び出す。が、ツツイが思わしい返事を寄越さないことに激怒して彼を殴打し、頸骨《けいこつ》を折って殺害、証拠を隠滅するため、「カレント」に火を放つ。その後、アジトに舞い戻った浅羽は、連続殺人の興奮をそのままに仲間を次々と血祭りにあげ、桜井酒店に放火して母親さえも殺害、しかし、奈津子を人質に脱出をはかろうとして予想外に早い火の手に追われ、屋上で進退|窮《きわ》まり、結局は奈津子を射殺して自分の頭に銃口を向ける羽目になった——  暴走する若者。タイトルはそれだ。なかなかどうして上手い筋書きだと、淳子は他人事《ひとごと》のように感心した。それにしても、警察の科学捜査をもってしても、淳子の起こす爆燃現象と通常の放火との差異点を見つけることは難しいのだろうか? それだけは、ちょっと引っかかる。  藤川を救えず、奈津子をあんな形で見殺しにしてしまったことへの敗北感は、今も強烈だった。浅羽敬一を自分の手で殺すことができなかったことも、淳子のなかに黒い欲求不満となって淀んでいた。そして謎があった。奈津子を殺したのは誰だ? 奈津子が「あ、あなたは——」と顔を認めた人物は誰だ?  画面に再び奈津子の顔が映る。会社の同僚だという女性のインタビュー音声が流れる。それによると、奈津子と藤川があの夜浅羽たちに捕まったのは、ただの不運な偶然によるものではなかったらしい。事件よりも一ヶ月ほど前、奈津子は友人ふたりと新宿《しんじゅく》の映画館へ行き、その帰り道、駅へ向かっているときに、浅羽たちに声をかけられ、からまれたというのだ。  ——三人組でした。顔をはっきり覚えています。ひとりは、あのAという男です。  浅羽はイニシャルになる。青年Aだ。  ——わたしたちもひとりではなかったので、勇気を出して振り切って、走って逃げました。でも逃げる途中で三田さんがハンドバッグを落としてしまって、中身が道路に散らばって、彼らが追いかけてきてましたから大急ぎで拾って、西口地下の交番に駆け込んだんです。彼らもやっと諦《あきら》めたらしくて、姿が消えていたからほっとして。でも、よく調べてみたら、三田さんが定期入れを落としてて……。お巡りさんにも一緒に来てもらって、走って逃げた道を後戻りして探してみたんですけれど、見つからなくて。  三田奈津子は不安がっていたという。定期入れは、彼らに拾われてしまったのではないか? そしてその懸念《けねん》はあたっており、翌日すぐに、彼女の自宅に浅羽敬一から電話がかかってきた。  彼は彼女につきまとい始めた。数人で奈津子の会社帰りを待ち伏せし、車に押し込もうとしたこともあったという。電話は深夜でもおかまいなしにかけてくる。奈津子は両親と同居しており、かかってくる電話にはできるだけ父親に出てもらうようにして対処したが、浅羽は�一家皆殺しにされたくなかったら、親父に出しゃばらせるな�と彼女を脅しつけたという。奈津子がすっかり青ざめて同僚に相談を持ちかけるまで、一週間もかからなかった。  奈津子はずっと狙われていたのだ。定期入れを落とし、それが浅羽の手に渡った瞬間から、彼女には標的のしるしがついていたようなものだった。  淳子は無力感に身体が重くなるのを感じた。あたしは強力な銃だ——だけど目と耳は二つずつしかないし、テレパシーもない。  廃工場で浅羽たちに遭遇したことは、まったくの偶然だった。浅羽たちを倒すことができたという結果のみに注目すれば、それは僥倖《ぎょうこう》と呼んでいいほどのラッキーな偶然だった。もしもあそこで彼らを目撃しなかったならば、翌朝の新聞やテレビで藤川の遣体発見のニュースを知り、彼の恋人の三田奈津子という女性が依然行方不明であるという事実を知り、苛立《いらだ》ちにくちびるを噛みながら数日を待ち、やがて奈津子の無惨な遺体が発見され、十日後か、二週間後か、あるいは一ヶ月後か半年後に、警察の辛抱強い捜査の甲斐あって浅羽たち不良グループが検挙され、しかし大した罪にはならずに社会に戻され、そしてそこが淳子のスタート地点になっていたことだろう。浅羽たちを探し出すところから動き出さなければならなかったろう。小暮《こぐれ》昌樹《まさき》たちを処刑したときにそうだったように。だから、浅羽たちに関しては、事件がまだ進行中に彼らと出くわしたことは幸運だったのだ。二十四時間以内に浅羽たちを掃討し得たことで、彼らが野放しになっているあいだに殺されたり傷つけられたりしたであろう潜在的な被害者を、おそらくはかなりの数、未然に救ったことになった。  だが同時に、それがまた口借しい部分でもあるのだ。藤川と奈津子も潜在的な被害者であるうちに助けてやりたかった。浅羽たちの先手を取りたかった。しかし、いかんせんそれは淳子の手には余る難事なのだ。淳子には、放置しておけば時間の問題で社会の足元に食らいつき骨までしゃぶりつくそうとするに違いない野獣の群を感知するレーダーがないし、彼らに関する情報のストックもない。  コマーシャルが始まった。リモコンでテレビを切ると、淳子は頭をそらして天井を見あげ、目を閉じた。  まぶたの裏に、ゆっくりと、いっそ優雅な動きで地面から飛びあがり、炎に包まれながら落下してくるヒカリのくるぶしが映る。  事件がまだ小さな芽であるうちにキャッチすることができるなら、後追いをせず先回りができるのなら、ヒカリのような副次的な被処刑者を出さずに済む。早期ガンを切り取るように、本当の患部だけを摘出すれば事足りるようになる。  えらく気弱になったものだ——淳子の内心の一部分がせせら嗤《わら》う。ヒカリを殺したことが、そんなに悪いことだったというのか? あの女だって、浅羽の母親とおっつかっつのシロモノだった。そのうちにもっともっと悪いことをし始めていただろう。ヒカリを殺したくなかったというのなら、浅羽の母親も、密造拳銃のツツイも、みんな殺したくなかったというのか?  嘘をつけ[#「嘘をつけ」に傍点]。進んで連中を処刑したくせに[#「進んで連中を処刑したくせに」に傍点]。  淳子は目を開き、天井に向かって呟いた。「いいえ、進んで殺したわけじゃないわ」  嘘をつけ[#「嘘をつけ」に傍点]。おまえは優秀な銃だ[#「おまえは優秀な銃だ」に傍点]。優秀な銃は標的を見分ける力を持っているものだ[#「優秀な銃は標的を見分ける力を持っているものだ」に傍点]。おまえにはその力と、その資格がある[#「おまえにはその力と、その資格がある」に傍点]。  そうなのだろうか? 本当にそう考えていいのだろうか? 淳子は揺らぎ始めている。だけど、だけど——  もし、淳子の選択に間違いがあるとしたら、淳子が標的を選び間違える可能性があるとしたら、それならばなぜ、そもそも、こんな危険な力が淳子のなかに存在するのだ?  淳子には、それを使いこなすだけの能力と資質が備わっているからこそ、力はここに在るのではないのか?  淳子には、自由に使う権利があるのではないのか? 与えられたのだから、この力を。  電話が鳴った。  頭を振って、混乱する思考を追い払った。こんなことを考えていちゃいけない。こんなはずじゃなかった。つい最近までは、自分と自分のなかの力について、すべてが滑走路のように遠くまで見通しがきいて、何の障害物も遮蔽物《しゃへいぶつ》もないように感じていたのに。  やるべきことがある。体力は回復した。傷ももうほとんど痛まない。警察やマスコミにしっぽをつかまれた形跡もない。動き出そう。奈津子を射殺した人間を見つけなくては。そしてふさわしい代償を支払わせなくては。淳子にとってはまだあの事件は終わっていないのだ。  電話は鳴り続けている。うるさい。乱暴に受話器を取った。「はい」 「やあ」と、若い男の声が言った。「ご機嫌斜めのようだね」  当惑した。誰だ? 「なんだ、俺の声、忘れてるの? 冷たいな。美人だってほめてあげたのに」  やっと記憶がつながった。前回の、叶《かのう》仁志《ひとし》の居所を教えてくれた、あの医者のように落ち着いた声の男の電話の前に、まるでいたずらみたいにかかってきた若い男からの電話だ——あいつだ。 「思い出したわよ」 「そりゃ、ありがとう」 「何の用?」 「素っ気ないな。叶仁志をやっつけたようだね。おめでとうを言おうと思って電話したんだよ、カワイコちゃん」  淳子は、以前のこの若い男との会話を思い出しながら言葉を続けた。「ねえ、あなたあたしに電話しちゃいけないんじゃなかったの? 叶仁志の居所を教えてくれた人が、軽率だって怒ってたわよ」 「ああ、あのおっさんね」若い男はクスクス笑った。「ああ怒りっぽくちゃ、管理職は務まらないと思うんだけど」 「あの人も、あたしに会いたがってた」 「そう? だけど、君に対面するのは俺の仕事なんだよ。あのおっさんはお膳立てをするだけの人だ。だから俺が先んじて連絡したのが面白くないってわけだ。でも、そんな堅苦しいこと言わなくてもいいと思うんだけどね。君はもう、俺たちの仲間も同然なんだから。ところで、叶仁志の事件についての報道は見たかい?」  さっきのニュース番組のヘッドラインで取りあげられていた。不審火と変死という言葉が使われていた。浅羽たちの事件と手口が似ているというコメントも出されていたが、神奈川県の事件であるせいか、まだ直接的に結びつけられてはいないようだ。鋭意捜査中、というところだろうか。  淳子が黙っていると、相手は先回りをするように続けた。「心配しなくてもいいよ。ちょっと派手にやりすぎたきらいはあるけど、叶仁志の件が大事《おおごと》になる気遣いはないからさ。そこは�組織�がうまくやってくれる」 「組織って何?」 「だから、ガーディアンだよ」  淳子の心のなかに、初めて前向きの興味がわきあがってきた。叶仁志の所在をつかんでいたこの�組織�。事件をうまくおさめてくれるという�組織�。 「ねえ、わたしもあなたたちに会ってみたい」  電話の向こうで口笛が聞こえた。「嬉しいねえ」 「ただ、この前電話してきた人は、叶仁志を倒したら、その後もうひとつ情報をくれるって言ってたの。あの——わたしの知り合いで、今は消息がわからない人の居所を教えてくれるって」 「そんな遠回しに言うことないよ。多田《ただ》一樹《かずき》だろ?」と、若い男は笑う。「もちろん教えてあげられるよ。なんなら、今すぐにでも」 「ホント?」 「ああ。あんなおっさんともう一度しゃべるの面倒だろ? ちょっと待ってね」  場違いにきれいな保留音のメロディが聞こえてきた。「エリーゼのために」だ。二小節流れて、途中で切れた。 「もしもし? メモするものはあるかい?」 「ええ、あるわよ」  先方が告げたのは、渋谷《しぶや》区内の住所だった。若い男は、淳子が書き取ったものを復唱させてから、ついでに付け加えるように言い足した。「彼は今、可愛い女の子と一緒に棲んでるよ」  自分でも思いがけないほど、淳子はどきりとした。若い男は、彼女のそういう反応を予期していたようだった。電話だから顔など見えるはずがないのに、淳子はひどくバツが悪い思いをした。 「俺は、君の方がずっとカワイコちゃんだと思うけど、彼はぽちゃぽちゃタイプが好きらしい」 「失礼なこと言わないでよ」 「あれ? 俺は君の方が可愛いって誉めてるつもりなんだけどな」  ふざけた言い方をしてから、不意に口調を変えた。 「がっかりするなよ。そういうもんなんだ。俺たちはそういうもんなんだよ」  慰めの言葉のように聞こえた。理解を表す言葉のようにも受け取れた。 「どういう意味よ?」 「言葉通りさ。能力者のことは、能力者にしかわからない。彼には君のことはわからない。たとえ一生一緒に暮らしたって、わかりあうことはない。だから、ホントは忘れた方がいいんだ」  淳子はわけがわからなくなってきて、口をつぐんだ。 「もしもし?」と、相手は呼びかけてきた。「もしかして、涙ぐんでるんじゃないだろうね?」  やっと言葉を見つけて、淳子はささやくように尋ねた。「あなた、いったい誰よ?」 「俺は俺だよ」 「まぜっかえさないで。あなた、ガーディアンの一員なんでしょう? どういう立場なの? 何をしてるの? 能力者って——あなたも何か——その——普通じゃない力を持ってるの?」  ちょっと沈黙があった。相手もまた、言葉を選んでいるのを淳子は感じた。 「君は火を点ける」と、彼は言った。「そして俺は人を動かす」 「動かす?」 「うん。操ると言ってもいいかな。俺自身は、�押す�という言い方をしているけど」 「どういうこと?」 「まあ、会ってみりゃわかるよ」またお気楽な口調に戻った。「組織が君を多田一樹に会わせたがってるのは、彼が今どんなに平和に幸せに暮らしてるか、君に君自身の目で確認させて、自信を持ち直してもらいたいからだと思うよ。俺はそんなことしなくたって大丈夫だと思うけどね。ただ、ここんとこ君は殺伐としたことばっかり目の当たりにしていて、その結果救われたものの方には視線が向いてないからさ」  多田一樹は平和で幸せなのか。可愛い女の子と一緒に暮らして。 「で、そのとき君をエスコートするのが俺の役目なんだ。本当はこのことを君に伝えるのはあのおっさんの仕事で、俺はご紹介を受けてからおもむろに登場するはずだったんだけど、君があんまり魅力的だからさ、ちょっとフライングしたってわけ」 「わたしが多田さんに会いに行くとき、あなたがくっついてくるっていうの?」 「いいや」相手はまたヘラヘラ笑った。「第一目的は、俺と君がご対面することなんだ。多田一樹は、ただのおまけさ——おっと、ほかの電話がかかってきた。一旦切るよ、またかける」    淳子が切れた電話の前でしばらくのあいだぽかんとしていると、またベルが鳴った。急いで受話器をとると、今度こそ、叶仁志の居場所を教えてくれた、あの丁寧な中年男性の声が聞こえてきた。 「跳ねっ返りが勝手に先走って、あなたを混乱させたようだ」彼はまた怒っていた。「お調子者で我々も手を焼いている。気を悪くされたのではないかな?」  淳子はご心配なくと応じた。「それよりあの——あなた、前回のお電話で、わたしに会いたい、我々は目標を同じくする同志だっておっしゃっていましたよね?」 「ええ、そうですよ」 「あなたの言う�ガーディアン�て、何なんです?」 「それは……そうですね、直《じか》に会ってお話しした方がいいでしょう」 「さっきの若い人、あの人もわたしと同じような特殊な力を持ってるんでしょ? ガーディアンはそういう人たちの集まりなんですか?」  相手は慎重を期すように間をおいた。 「いえ、そういうわけではありません。戦力としては能力者が重要な役割を果たしていますが、絶対数は非常に少ない。同志の大部分はごく普通の人間です。ただし、全員きわめて有能だが」 「なんだか、安っぽいサスペンス映画を観てるみたいな気がするんですけど」  相手は上品に笑った。「無理もない」 「わたしも笑い飛ばして、この電話を切って、何もかも忘れちゃった方がいいのかしら」 「それもいいでしょう。だが、それではあなたは、生涯、自分の力を最大限に活かす場所を失ったことを後悔し続ける羽目になりますよ」  柔らかだが毅然《きぜん》とした口調だった。柳の枝でできた鞭《むち》だ。 「あなたは知らないかもしれないが、能力者の寿命は短い。一般の人間の平均寿命よりも二十年は短いのです。それに加えて、能力そのものの寿命も短い。あなたの場合、せいぜいあと十年が限度でしょう。あとは衰える一方のはずだ。力が消えた後、この世で成すべき仕事を成し遂げた満足感を胸に抱いて楽しく暮らすためにも、あなたは我々の仲間になるべきだ。ほかでもない、何よりもあなた自身の幸福のために」  淳子は黙った。相手も黙った。二人で張り合っているような沈黙だった。  無言の押し相撲には、当然のように、相手が勝った。淳子は受話器に向かってささやいた。「どうすればいいんです?」 「時間と場所を決めましょう」相手の滑らかな声の底に、隠しようのない勝利の響きがにじんでいる。 「あのお調子者に会ってやってください。彼はあなたに興味を持っている。我々も——何しろああいう男ですから不安がないでもないが、ひょっとしたら彼とあなたは気が合うのではないかと思っている」 「それは、あの若い人も能力者だから?」 「あいつはもう、そんなことまであなたにお話ししたんですか?」 「人を動かすと言ってました」 「おしゃべりな男だ。まあ、それも彼から説明を受けてください」 「多田さんには……」 「会うも会わないも、そちらはあなたの自由です」  彼は平和で[#「彼は平和で」に傍点]、幸せに暮らしている[#「幸せに暮らしている」に傍点]。 「わかりました」淳子はうなずいた。「おっしゃるとおりにしてみましょう。わたし……自分で自分の身は充分に守ることができますから、万が一あなた方に騙《だま》されているのだとしても、全然かまわないわ」  相手は楽しそうに笑った。「頼もしい。いや、実に頼もしい女性《ひと》だ」 [#改段]               20          石津ちか子が横浜《よこはま》市内の不審火と焼死事件について知ったのは、牧原と別れて本庁の刑事部屋に戻ってからのことだった。清水《しみず》が教えてくれたのだ。彼もまた、今はもう田山町《たやまちょう》の廃工場を振り出しとした三つの事件を手がけているわけではないのだが、やはり興味はあるらしい。 「すごくよく似た手口でしょう? 検死報告書を読んでみたいなあ! 神奈川県警の管轄だから、こっちはあんまり口出しできないのが悔しいですよ」  ちか子はすっかり気疲れしてしまっていて、清水と一緒に盛り上がる気分にはなれず、適当に相づちをうってお茶を濁した。もちろん、あちらの事件に対する熱意が失せたわけではないけれど、倉田夫人のあの告白を聞かされた後では、すぐに現実感覚を取り戻すのが難しい。  病院を出て駅へと歩きながら、倉田母娘については、すぐにはどうにも手を打つことはできないと、牧原は言っていた。 「ガーディアンという組織について、あまりに情報がなさすぎますからね。心当たりを二、三あたってみます」  ちか子はため息をこらえてうなずいた。どういう心当たりをあたるのだろう? 超常現象や陰謀史観を扱った書籍で儲《もう》けている出版社か?  溜まった連絡メモや書類に目を通していると、砧路子から二回電話がかかっていることに気づいた。二回とも「またかけ直す」という伝言が残されている。着信時刻欄を見ると、どちらも倉田かおりが病院に運び込まれて以降のものだった。  ちか子は首をあげて周りを見回したが、刑事部屋のなかに、伊東《いとう》警部の姿は見えなかった。今のところまだ、倉田かおりの一件についての感想を求められてはいない。砧路子は、尊敬する「おじさま」に、どんなふうに事態の進展を報告しているのだろう。  ちか子の疲れた顔が目に余ったのだろう、清水がコーヒーを持ってきてくれた。こんなことは初めてだ。 「そんなにビックリしないでくださいよ。自分の分をいれるついでがあっただけなんですからね」と、彼は照れ隠しにうそぶいた。 「ありがとう」  礼を言ってカップを受け取り、思い直して、清水の背中に声をかけた。「ねえ、ちょっと」 「なんですか?」 「実はね、信じられないような話を聞いたんですけど、こういうの、清水さんみたいな若い方にはわかりやすいのかしら」  清水の顔を、右から左へはっきりと好奇心が横切った。「どんな話です?」 「それがね……なんていうのかしら。超——能力というの?」  清水の小さな目が丸くなった。「はあ?」 「ですからその、異能者というんですか? なんかそういうの、あるじゃないですか。念じるだけで人を殺したり」  清水がまともに吹き出したので、コーヒーの混じった彼の唾《つば》がちか子の顔めがけて飛んできた。 「嫌だなあ、石津さん、何にかぶれてるんです? いい歳して、恥ずかしいですよ。もうちょっと分別のある人だと思ったのになあ」 「あら、あなたは超能力というのを信じないんですか?」 「信じません」清水は断固という感じで言い捨てた。「あんなものはでっち上げか幻想か手品ですよ。どれにしろ、大人が、ましてや我々警察官がまともに取り合うようなシロモノじゃありません」 「それじゃ、そうか……そうするとね、たとえばですよ、今まともに笑われて気を悪くしたわたしが、清水さんをこうぐっとにらみつけるとね、清水さんの髪の毛が燃え上がるなんてことは……」  清水は笑いを通り越して怒ったような目をした。「スティーブン・キングの小説じゃないんですよ。いい加減にしてくださいよ」  くるりと背中を向けて行ってしまった。ちか子はやれやれと肩を落とした。そうよねえ、そうだわよ、やっぱり。あれがまともな反応だろうねえ。  そのとき、机の上の電話が鳴った。砧路子かもしれないと、すぐに受話器を取った。  違った。衣笠《きぬがさ》巡査部長だった。彼と会い、荒川署の牧原を紹介してもらってから、まだ一週間も経っていない。それでも、なんだかずいぶん久しぶりのような気がした。  幸い、彼が赤羽《あかばね》署へ詰める原因となっていた強盗殺人事件は昨日解決していた。ちか子は礼儀正しくねぎらいの言葉をかけた。巡査部長も丁寧に礼を述べた。 「ところで、荒川署の牧原刑事には会われましたか?」 「ええ、会いました」 「どうです? 何か参考になる話は聞けましたか?」  ちか子は申し訳なくなった。「それがですね、例の荒川河川敷事件の件では、とりあえずは牧原さんの協力を仰いでも仕方のないことになってしまったんです。事情が変わりましてね、わたしは、オブザーバーとしてさえも、今度の田山町の事件に関われなくなってしまって」  成り行きを説明すると、衣笠巡査部長は妙に考え込んだようなうなり声を寄越した。 「ふむ……それはしかし、急な話でしたね」 「はい。ですけども、大事件ですからね、あちらの三事件は。わたしのような経験不足の者が出ていっても仕方ないかもしれません」 「それは私にはわかりませんが、まあ、牧原刑事とお引き合わせしたことは、長い目でみればけっして無駄ではないと思いますので」  ちか子は、牧原がああいう�変人�であることと、衣笠巡査部長のこの信任ぶりとのあいだに、どうしても納得の橋をかけることができない。牧原は無能な刑事ではなさそうだが、いささかベクトルが偏りすぎている。そのことを衣笠は知っているのだろうか? 「牧原さんというのは、ずいぶん変わった方ですねえ」と、遠回しに言ってみた。「いろいろ、刺激的な説をうかがいました」  衣笠は笑った。「念力放火の話を聞かされたんですね?」 「ご存じだったんですね、もちろん」 「ええ。まああれは、彼のトラウマが唱えさせている説でしょう。聞きましたか、彼の弟が不審火で変死しているんですが」 「ええ、聞きました」 「彼はその件から立ち直れないまま大人になったんですな。ずっと引きずっている。しかし、頭は切れる男です。仕事を通して、彼の心のなかにわだかまっている謎への解答が見つかればいいと、私は願っているんですが」 「わたしもそう願いたいですねえ」  衣笠は、明日には一旦本庁に戻るという。ではまた明日と言い置いて、ちか子は電話を切った。受話器を置いたと思う間もなくベルが鳴った。  今度こそ砧路子だった。 「ごめんなさい、二度も電話をいただいて。あなたはかおりちゃんの病院にいらっしゃらなかったの?」  砧路子は興奮気味で、彼女らしくもなく語尾が跳ねあがっていた。「連絡を入れたら、とにかくすぐ戻って来いと、署に呼び戻されたんです」 「あら、そうでしたか」 「石津さん、わたし、外されたんです」 「え?」 「かおりちゃんの一件から外れるように命令されたんです。全然別の事件を割り当てられました。上司はわたしが——わたしが——かおりちゃんにのめり込みすぎて、事態を冷静に把握することができなくなっているというんです」 「砧さん、落ち着いて」 「後任の刑事は、最初からかおりちゃんが小火を起こしていると決めつけています。まだわたしの報告書を読んでいるだけで、あの子に会ってもいないのに。このままじゃ、かおりちゃん、危険な放火癖があるということで、ヘタをしたら少年院送りです」  砧路子は半分泣き声になっている。ちか子は頭が痛くなってきた。 [#改段]               21          ——君の顔ならよく知ってる。こっちから見つけるから、せいぜいお洒落《しゃれ》して来てくれよ。なにしろ初デートだもんな。  あの若い男は、そんな調子のいいことを言っていた。淳子は黒いセーターにジーンズ、歩きやすい——いざという時には走りやすいゴム底の黒いブーツ、そして細かい格子縞柄《こうしじまがら》の黒いショートコートを羽織ってアパートを出た。手荷物は財布などの貴重品だけにとどめ、ウエストポーチのなかに入れてある。  さほどの緊張感を感じていたわけではない。電話での話で、管理職風の中年男性に向けて言った言葉は、はったりではなかった。淳子は充分以上の自衛力を持っている。見知らぬ人間と会うために身構える必要などない。ただ、追跡と調査と戦闘を繰り返してきたこの年月が、淳子の身のまわりから必要以上の装飾や衣装を削《そ》ぎ落《お》としてしまっただけのことだ。  先方が指定してきた待ち合わせ場所は、最近できたばかりの新宿の高層ホテルのメインロビーだった。ビルの五階フロアにまで達する吹き抜けの下に、見上げるような高さのクリスマスツリーが据えてある。つかのま、淳子は驚いて足を止め、それを仰いだ。そうか、もうすぐクリスマスだ。忘れていたというか、もうずっと、クリスマスだのお正月だの夏休みだの、意識したことがない。たった一人で世間から離れて生きている人間には、所詮縁のない行事だ。  クリスマスツリーの下に、ぐるりとソファが設置してある。席はすべてふさがっていた。淳子は周囲を見回したが、空いている場所は見あたらない。これだけの人びとが、みんな待ち合わせだろうか? 何の用があるというのだろう。  こんな形で人混みのなかに出てきたのは本当に久しぶりのことなので、めまいがしてきそうだ。それに暑苦しい。淳子はコートを脱いで左肘に引っかけると、クリスマスツリーの周囲をぶらぶらと歩き始めた。向こうから見つけるというのなら、こっちが気にしてきょろきょろしてやる必要などないだろう。  まだ電話で話したことしかない、それもたった二度だけだが、淳子はこれから会おうとしている例の若い男が嫌いだった。というより、会えば嫌いになる自信があった。今日支度をしながら考えて、�鼻持ちならない�という表現を思い出したときには、思わずニヤリとしてしまった。女の子と見れば気軽に声をかけ、それで喜ばすことができるとバカみたいに思いこみ、笑えば何でも許してもらえるとタカをくくっているだけの、どうしようもない軽い奴に決まってる。  ——でも、本当に彼も能力者なんだろうか?  人を�押す�とかなんとか言っていた。操るのだと。他人の精神をコントロールする能力を持っているということだろうか。そんなのは初耳だ。できるんだろうか、そんな曲芸みたいなことが。  思わずふっと苦笑いして、コートを抱えなおした。まあ�曲芸�というのは、このあたしが言うべき台詞じゃないわね、公平じゃないわ。  後ろから、ぽんと肩を叩かれた。振り向くと、赤茶色の髪をジェルで固めた若い男が、顔いっぱいに愛想笑いを浮かべて立ちはだかっていた。 「やあ彼女、一人?」  淳子はしげしげと相手を観察した。こんな声じゃない[#「こんな声じゃない」に傍点]、別人だ[#「別人だ」に傍点]と判断がつくまで、二秒ほどかかった。  世間知らずの若い娘を引っかけようとしている世間を舐《な》めきった若者を増長させるには充分な二秒間だった。 「俺も、こんなロマンティックなクリスマスツリーの下で、彼女にすっぽかされて一人っきりなんだ。どう? 一緒に映画でも観に行かない?」 「あたしは——」 「名前なんていいよ。あ、当ててみせようか。ナギサちゃん? それともサオリちゃんかな。まさかヨシコとかカズコとかじゃないだろうね? ま、レトロも悪くないけどさ」  淳子はぐるっと目を上に動かして、�冗談じゃないわよ�という表情をつくった。だが相手は全然気づかずにしゃべり続けている。唾が飛んできそうだ。 「ちょっとお茶でもしようっていうなら、いい店を知ってるよ。成城《せいじょう》にさ、雑誌なんかに絶対載らないけど、知る人ぞ知るっていうティールームがあるんだ。テレビ局のさ、ADなんかじゃないよ、大物のプロデューサーが女優との打ち合わせに使ったりしてて、ホラ、撮影所が近くにあるからさ」  淳子は手を振って�結構よ�の意思を示し、若者をやり過ごして歩き出そうとした。すると相手は淳子の肩をつかんだ。 「なあ、そんなつれない顔するなよ。せっかく声かけてやったんだからさ、俺だって全然暇ってわけじゃないんだ——」  突然、若者が作り笑いを浮かべたまま、うがいをするような音を出した。淳子はぎょっとして凍りついた。 「がががが」と、若者は喉の奥で声をたてた。 「ががが……げろげろ」  白目をむいている。下顎ががくがくして、口のなかで舌の先がぴくぴく引きつっているのがちらりと見える。淳子は半歩下がり、思わず手で口元を押さえた。そのとき、若者につかまれていた肩が自由になっていることに気づいた。  ついさっきまで、図々しく淳子の肩を鷲《わし》づかみしていた手は、甲を下に向け、指を鉤型《かぎがた》に曲げたまま宙に浮いていた。その手がゆっくりとひっくり返り、手のひらの方を下に向ける。ついで、人差し指だけを残し、ほかの指が畳まれてゆく。  若者はもう白目をむいてはいなかったが、目尻が張り裂けそうになるほどにまぶたを大きく見開いて、自分の右手の動きを見つめていた。左腕は、見えない鉄の輪で固定されているかのように、彼の身体の脇にぴったりとくっついたまま動かない。ただ左手の指だけが、逃げだそうと悪あがきするようにバタバタと動いていた。  他人の背中を指さすときの形になった彼の右手は、のろのろと持ちあがってゆく。若者の目が泳ぐ。ごろごろと唸《うな》るような声だけが、喉の奥から漏れ出てくる。  右手の人差し指の先端が、若者の右目にぴたりと焦点を合わせた。子供が鉄砲ごっこをするときの形だ。バン[#「バン」に傍点]! おまえは死んだ[#「おまえは死んだ」に傍点]。  そしてどんどん近づいてゆく。瞳の中心に向かって。  右手の爪が、若者の右目のまつげに触れるところまで迫った。彼の喉の奥から、押しつぶされた必死の悲鳴があがる。 「やめて」淳子は毅然として言い放った。  途端に、若者の右腕がぶらりと下がった。彼の身体全体がぐにゃりと溶けるように力を失い、足がもつれて大きく後ろにたたらを踏んだ。倒れる——と思った瞬間、彼は背後から誰かに抱き留められた。 「おいおい、大丈夫かよ?」と、声が聞こえた。「せっかくこれだけキメて出かけてきたんだろ、女の子の前で腰抜かすのはまずいんじゃないの?」  声をなくし、冷汗を流しながら、若者は口をぱくぱくさせている。その彼の肩越しに、ひょいと別の若い男の頭がのぞいた。 「お待たせ」  厄介な荷物でも押しやるように若者の身体を脇にどけながら、彼は笑顔で淳子に声をかけた。 「俺がたった三分遅刻しただけで、もう悪い虫にたかられちゃったんだね、カワイコちゃん」  電話で聞いた、あの声の主だった。   「さっきのあれ、何?」  淳子の問いに、若い男は大げさに眉をつりあげてみせた。 「まったく何だろうね? イナカ者が、女の子を引っかけようと思って精一杯洒落こんできたつもりなんだろうけど、なっちゃないよな。見た? トサカみたいなあの髪さ」  二人はホテルの二階にあるティールームにいた。テーブルを挟んで斜向《はすむ》かいに座っていた。吹き抜けを見おろす手すりのそばの席で、手を伸ばせば届く距離にクリスマスツリーが見える。 「混ぜっ返さないで。あの男の人のことを訊いてるんじゃないわよ」淳子は音をたててコーヒーカップを受け皿に戻した。「さっきあなたがやってみせた曲芸のことよ」 「曲芸って何?」と、相手はとぼけた。ツリーの方に身を乗り出すようにして、「なあ、この距離でも、あのクリスマスツリーの雪、いかにも雪らしく見えるよな。綿じゃないのかな。何だと思う?」  淳子より頭ひとつ背の高い、痩《や》せぎすの若者だった。同じ歳くらいだろうが、ひょっとしたらひとつふたつ年下かもしれない。黒革のジャケット、チェックの厚いシャツにチノパンツ、ふさのついたローファー。どれも安物ではない。だが、茶色に染めた肩までの長髪を跳ねあげる仕草や、開けっぴろげな笑顔を見ていると、なんとなく学生の匂いを感じるのだ。お金持ちのおぼっちゃまなのかもしれない。  ティールームはメインロビー以上に混んでいた。年末で忙しいはずの平日の午後に、みんな何をやってるんだろう。淳子は声をひそめた。「さっきのあれが、あなたの言ってた他人を�押す�ってことなの?」  あの若者を操り、彼の指を彼の右目に突き立てさせようとした—— 「あなたはああやって、人をコントロールする力を持ってるの?」  相手は淳子の方を見たが、まだとぼけるような笑みを浮かべたままだった。と、身軽に腰をあげて淳子の真向かいに移った。ここに席をとったとき、彼が淳子と差し向かいで座ろうとすると、淳子は無言で席を隣に移した。すると彼も淳子の真向かいに移動する。淳子はまたひとつずれる。子供の椅子取りごっこみたいなことをさんざんやって、やっと斜向かいに落ち着いたのだ。 「やっぱりさ、こうやって正面から向き合った方が話しやすいじゃない?」笑いながら、彼は言った。「アップで見られるの嫌なの? 気にしすぎだよ。君、ほとんど化粧してないけど、肌きれいだよ」 「ちょっと!」淳子は左手でテーブルを叩いた。通路を挟んだ隣のテーブルで、その音に気づいてちょっと目をあげた背広姿の男性に、淳子の向かいの若い男は、こびるように頭を下げてみせた。 「スミマセン、彼女を怒らせちゃって」  隣のテーブルの男性は、近頃の若い者はと言いたげな口元で顔をそむけた。  淳子はため息をついた。一人相撲ばかりしているような感じだ。どうあしらったらいいのかわからない。すごく腹立たしいけれど、少しばかり吹き出してしまいそうな気もする。それが余計に癪《しゃく》にさわる。 「なんだか時間の無駄みたい」と言った。「こんなことして遊んでいられるほど、あたし暇じゃないのよ」 「そうかな。時間ならあるよ」 「あなたにはね」 「今、何時?」  淳子は腕時計を見た。「三時十五分」 「俺の今夜のミッションまで、八時間と四十五分あるってことだな」 「ミッション?」 「そ。定期的に十二歳以下の少女にいたずらせずには生きていくことのできない三十七歳の哀れな無職の男を、彼の動物的本能から解放してやるお仕事さ」  淳子は姿勢を直して彼を見つめた。周囲をはばかって、彼の方に頭を寄せた。彼も頭を寄せてきた。 「それ、どういうこと?」 「具体的に何をするかって質問?」 「ええ、そうよ」 「簡単だよ。彼の手に肉切包丁を握らせるんだ」 「………」 「で、�押し�てやるんだ。�切り落とせ�ってね」 「——何を」 「おいおい、君の前では言えないよ、カワイコちゃん」 「それがガーディアンの仕事なの?」 「アメリカには、悪質な性犯罪の累犯者を去勢することを法律で認めている州もあるんだぜ」  淳子はますます近く彼に頭を寄せ、さらに声を低くした。「だけど、そんな残酷なことを」 「いいじゃないか。長い目でみれば、本人にとってもいいことだよ」そして彼はにっこりした。「なあ、こうやって囁《ささや》きあうの、楽しいね」  淳子はぐいと身体を起こした。相手は笑いだした。 「君さ、まだ俺の名前も訊いてくれないね。興味ないの?」 「ないわ」 「そんなあ」 「あたし帰る」淳子はコートをつかんだ。 「多田一樹に会いたくないのかい?」  淳子は彼を睨《にら》んだ。「あなたね、ずっと誤解してるようだけど、多田さんとあたしは何でもないのよ」  相手は、今度は自分の右手をピストルの形にしてみせ、人差し指を淳子に向けた。 「バン! この嘘つきめ」 「勝手になさい」  立ちあがろうとしたとき、不意に、うなじのあたりをすうっと手で撫でられたように感じた。ひそやかな、ささやかな感触だった。電源を切ったばかりのテレビに近づき、ブラウン管に手を触れたときみたいだ。  そして額が熱くなってきた。温湿布でも貼ったみたいに、かあっと燃えるようだ。やがてその熱さが眉と眉のあいだにまで広がり、視界がぼやけ、鼻先がつんと痛んだ。  淳子の右手がぴょんと跳ねあがり、右の頬を押さえた。コートをつかんでいた左手がゆるみ、コートは床に落ちた。そのまま、見えない手に引きずられたようにどすんと椅子に戻った。はずみで両足がぽんと跳ねた。  淳子はテーブル越しに相手を見た。彼はわずかに首をかしげて淳子を見つめていた。その目が焦点を失い、瞳の色が薄くなって、尖《とが》った鼻の頭に汗が浮いている。  何かが匂った。馴染《なじ》み深《ぶか》い匂いが。  焦げ臭い[#「焦げ臭い」に傍点]。  淳子はあえぐようにして息を吸い込み、強くまばたきをして自分を取り戻した。目の前のお冷やのグラスをひっつかむと、若者のチェックのシャツの襟元めがけて水をぶっかけた。彼は殴《なぐ》られたみたいにして正気に返った。瞳の色が元に戻った。  周囲のテーブルから視線が飛んできた。淳子は空になったグラスをつかんだまま身体を固くして、じっと座っていた。空いている左手の拳《こぶし》も握りしめていた。  若者はシャツの胸元から水滴を滴《したた》らせながら、手を伸ばして淳子の右手から空のグラスを取りあげた。そしてそれをテーブルに置くと、今度は彼女の左手の拳に触れた。 「大丈夫だよ」と、なだめるように小声で言った。 「大丈夫だよ」  そのあいだも、ずっと真正面から淳子を見つめていた。淳子も見つめ返した。彼は淳子の左手の指を一本一本|引《ひ》き剥《は》がすようにして拳を解かせると、そのままその手をしっかり握りしめた。淳子は振り払わなかった。  胸の奥で、心臓が狂ったように踊りだした。 「今……あたしを�押し�たの?」 「うん」 「あたし……力を使うつもりはなかったのよ。そんなこと全然考えてなかった」 「わかってる」  彼は淳子の左手を握ったまま、空いた手でテーブルの下のコートを拾いあげ、自分の隣に置いた。 「あなた、シャツの襟が焦《こ》げてる」 「火傷はしなかった」そう言って、彼は襟元をくつろげた。「びしょ濡れで気持ち悪いけど、それだけだよ」 「どうして……」 「一種の攻性防壁だろうな。君には外から侵入する力に対する耐性があるんだ。しかも即座に反撃できる」  急に学者みたいに真面目《まじめ》な口調になった。 「あなたがあたしを�押し�たから、あたしはあなたに火を点けようとした?」 「そういうこと。今の勝負はあいこだね」  彼はにっこり笑った。「ところで、まだ俺に興味ない?」  淳子のなかで、鎧《よろい》がひとつ脱げた。両肩から力を抜いて、彼女は言った。「自己紹介してくれない? あ、でもそれより先に——」 「なんだい?」 「いいかげんに手を離して欲しいんだけど」    彼は木戸《きど》浩一《こういち》と名乗った。 「あんまり平凡な名前なんで、がっかりしたんじゃない?」  がっかりするよりも、淳子はおかしなことを考えていた。ここへ来る途中、電車のなかで見かけた経済雑誌の中吊り広告の見出しを思い出していたのだ。事務機器会社の東日本最大手であるキド・コーポレーションが、会長職に退いた前社長派と、入り婿の現社長派のまっぷたつに分かれて争っており、それが社内人事にも影響を与えているという内容だった。  木戸という名字は平凡ではないが、それほど珍しくもない。だから、見出しのことだけなら淳子も深読みはしなかった。ただ、彼がいかにも良家の子息であるような雰囲気を持っていることと、ちらりとのぞいた左手首の腕時計が、「デル・バリオ」というイタリアの時計メーカーの人気商品で、それを最初に日本に持ち込み、若者たちのあいだにブームを巻き起こしたのがほかでもないキド・コーポレーション傘下のインポート会社であったことも引っかかった。 「デル・バリオ」は安価な品ではなく、輸入ルートが限られているのでダンピングも起こらず、このブームは、店に行けば、あるいは辛抱強く半目列をつくって並べば、有象無象《うぞうむぞう》でも望む品物が入手できるという種類の軽い流行ではなかった。木戸浩一が左手首にはめているのは、なかでもいちばん入手がしにくかった木ねじをパーツに使ったモデルのように見えた。 「あなたのお父さん、キド・コーポレーションの社長?」  相手は目を見張った。「なんでわかるの?」  淳子は説明した。彼女自身はけっして流行品にも経済界にも詳しくないが、廃工場での事件に巻きこまれたころに勤めていた喫茶店にはサラリーマン客が多く、彼らのために週刊誌や経済雑誌を買い込んでカウンターに揃えておくのも店員の役割のひとつだった。否応なしに見出しが目に入らざるを得なかったから覚えているのだ。  木戸浩一は、感心したように淳子の顔を眺め回した。「頭いいね」 「叶仁志もデル・バリオが欲しかったらしいわ」  彼を焼き、火が部屋中に燃え広がる前に、マガジンラックのなかにカタログを見つけたことを思い出した。その俗物根性に身震いが出た。カタログを抜き出して、彼の身体の上に投げつけてやったものだ。カタログは気の早い送り火のようにメラメラと燃えた。 「叶仁志——あの女子高生殺しの?」 「ええ、そうよ」 「行って片づけてきたんだね?」 「あなたの上司が居所を教えてくれたから」  木戸浩一の目が細くなった。「ははん……横浜の男女の変死事件がそうか」  淳子はうなずいた。「ガールフレンドが一緒にいたの。できれば殺したくなかったんだけど」  そうか? 本当にそう思っていたか? 本音は逆ではなかったのか? 「仕方がないよ」彼は肩をすくめた。「たまには非戦闘員を巻きこむことだってある。それが戦争ってもんだ」 「戦争——」 「そうさ」  淳子はひたと彼を見つめた。「ガーディアンのことを教えて」  彼は話した。組織の誕生、その役割、その目指すところ。声は低く、ティールームのざわめきのなかで、淳子は彼の声を余さず聞き取るために全神経を集中しなくてはならなかった。  ひと通りのことを話し終えると、彼はコーヒーカップを持ちあげた。空だった。手をあげてウエイトレスを呼んだ。  新しいコーヒーが来るまで、淳子は押し黙り、やはり空っぽの彼女のカップのなかをのぞきこみ、今聞かされたことを理解しようと努力していた。知らず知らずのうちに顔をしかめていた。 「納得がいった?」  淳子は眉をひそめたまま彼を見た。「あなたはいつから組織に加わってるの?」 「十五の時から」 「そんなに早く?」 「親父がメンバーだったからね。うちは俺で三代目なんだ。実は、じいさんが——さっき君の言った、派閥抗争の一方の親玉の会長だけど、あの人が最初なんだよ。親父はじいさんに逆らえなくて参加しただけで、まああんまり活発なメンバーじゃなかったな。資金繰りの方ではずいぶん頑張ってた時期もあったみたいだけど」 「資金繰り?」 「そうさ。組織というものは金なしに動くことはできない。ガーディアンだって同じだよ。そこらの企業と一緒さ」 「終戦直後に結成されて、以来ずっと、お金を出す人と、組織を運営する人と、組織の先兵になる人がいて、みんなで秘密裏に活動してきたっていうこと?」 「そのとおり」 「誰にも、どんな報道機関にも、その存在をかぎつけられることなく?」 「それほど難しいことじゃないさ」 「そうは思えないわね。あなたたちにとっては�処刑�でも、つまりは殺人なんだから。事件性があれば、警察が捜査に乗り出すでしょう? マスコミだって騒ぐわ」 「だから、事件性のない処刑の仕方をすればいいわけさ。自殺とか、事故とかね」彼はにやりと笑った。「その点で、俺なんかすごく役に立つメンバーなわけだ」  ターゲットを操り、�押し�て自殺させる。さっきの若者に、彼自身の指で彼の目玉をつぶさせようとしたように。 「それに、マスコミや警察組織のなかにもメンバーはいるからね。ある程度の融通はきくんだ」 「まさか!」 「なんでそんなに驚くんだい? 一流企業の会長がメンバーだってことにはビックリしなかったのに」 「一般人と警察関係者は違うわよ」 「違わないよ。それに言わずもがなのことを言うと、この国を動かしてるのは警察やマスコミじゃないよ。結局は財界だ。そこにある程度の数のメンバーがいて、影響力を発揮してくれるなら、たいていのことはできる」  彼は再び右手の指をピストルの形にして、警告するように淳子に向けた。 「まだ信じられないようだから、具体的なことを言ってあげる。君、荒川の河川敷で小暮昌樹を片づける前に、一度試みて失敗してるだろ? 日比谷《ひびや》公園でさ」  確かにそういうことはあった。あのとき多田一樹が一緒だったのだ。 「小暮昌樹に火を点けて、焼き殺そうとした。でも、さあこれからというときに邪魔が入った。君の協力者というか依頼人であったはずの多田一樹が怖《お》じ気《け》づいて、逃げ出したんだ。君を車の助手席に乗っけたままね」 「怖じ気づいたわけじゃなかったわ」 「レトリックはご自由に。で、放射中の力をコントロールし切れなくなった君は、あろうことか君と多田一樹の乗っている車のなかに火を点けてしまいそうになった。多田は車をガソリンスタンドに乗り入れて、火事だと騒いで店員に放水させた」  事実、そのとおりである。 「日本の警察は優秀だよ。当然の作業として、小暮昌樹が大火傷を負って病院へ担ぎこまれたあと、周辺の聞きこみを行った。多田一樹が車を停めたガソリンスタンドは、日比谷公園から充分遠く離れていたわけじゃない。刑事たちは店員の証言をとったに決まってる。そうですよ刑事さん、あの日、あの車のシートが燃えてぶすぶすいぶってたんです、だけど火元がはっきりしなかった、乗っていた人に怪我はなかったようだけど、火が消えるとすぐに立ち去ってしまったので、よくわかりません、男女の二人組でした、え? そうそう、なんだか怪しかったんで、ナンバーを控えておきましたよ——」  木戸浩一は椅子の背に寄りかかり、自分の言葉が淳子のなかに染みこんでゆくのを見守るように腕組みをした。淳子は背骨のあたりが冷たくなるのを感じた。そんなこと……そんな細かいこと……あの当時は気にもしていなかった……… 「だけど君も多田一樹も追跡されなかった」と、木戸浩一は続けた。「刑事が多田一樹を訪ねてゆくことも、彼の車に火災の痕跡があるかどうか調べることもなかった。どうしてだと思う?」  淳子は片手で目を覆った。 「警察内部のメンバーの働きがあったからだよ。彼らは、君らの起こした小さなアクシデントをあっさりもみ消すことのできる地位についてる」 「彼ら? 何人もいるの?」 「警察は大きな組織だからさ。警視庁だけに限ってみたとしてもね」  淳子は顔をあげた。「あたしは——あなたたちに借りがあるってわけね?」 「だから協力しろとは言ってないさ」彼は白い歯を見せて笑った。「それに、君があんなヘマをしてくれたおかげで、ガーディアンが君の存在を感知することができたんだ。以来、ずっと君をマークして探し続けてきた。だけど君、行方をくらますのが上手いね。河川敷事件でやっと捕捉できたと思ったらまた消えて、幹部連中は大慌てしてた。今度の田山町の事件は、まさに最後のチャンスという感じだったんだ」  さしたる考えもなく、淳子はぽつりと応じた。「身軽だからよ。一人だから。どこへでも行かれるもの。あなたみたいに結構なお金持ちの家族に囲まれてるわけじゃないものね」 「俺はひとり暮らしだよ」 「家賃はお父様が出してくださってるの? あなた、跡取りなんでしょう? いかにも長男という名前じゃないの」  木戸浩一の瞳のなかに、初めて冷たい刃のようなものが閃《ひらめ》いた。怒ったんだろうかと、淳子は思った。 「俺は跡取りじゃない」平坦な口調で、彼は言い返した。「確かに長男だけど、親父の跡を継ぐのはすぐ下の弟と決まってるんだ。あいつには俺みたいな力がないから」 「………」 「十三の時だったかな。俺がおかしな力を持ってるってことを、じいさんに気づかれたのは。それまでは自分でもよくわからなくて、隠してたんだ。じいさんは喜んだよ。喜びすぎておかしくなっちまうんじゃないかって心配になるくらいだった。手を打って踊りだしたからね。それで俺の進路は決定。おまえはガーディアンの兵士になるんだってさ。だから俺が高校を中退しても何も言わなかったし、仕事にも就《つ》かずぶらぶら遊んでいたってニコニコ笑ってるのさ。世間体をつくろうために、一応じいさんの仕事を内緒で手伝ってることにしてくれてるけどね」  淳子は何か言おうとしたが、それを遮るように彼は言葉を続けた。「確かに俺は金持ちの息子で、君から見たら鼻持ちならない奴かもしれないけど、だからって俺の言ってることは全部信用できないと考えるのは間違いだ。君はそういう感情的なものの見方をする人じゃないと思ってたけど、やっぱりただの女の子だってことかな?」  淳子はぴしゃりと言い返した。「あたしはただの女の子じゃないわ」  彼は淳子を見据えた。淳子は微笑した。 「あなたがただのお金持ちの道楽息子じゃないのと同じように、ね」  わずかな間をおいて、木戸浩一も微笑した。そして言った。「初めて笑ったね」 「え?」 「さて、出ようか」 「多田さんのところに行くの?」  彼は腕時計に目を落とし、首を振った。 「彼は勤め人で、夕方六時を過ぎなかったら住まいには戻らない。まだ早すぎるよ」 「じゃ、どこへ行くのよ?」  立ち上がり、淳子の手を引きながら、木戸浩一は愉快そうに笑った。「買い物に行くんだ」 [#改段]               22          気前がいいというよりも、めちゃくちゃな浪費ぶりだった。 「呆《あき》れてものも言えないわよ」と、淳子は口を尖らせた。「店にあるものを全部買うつもり?」 「バカだな、そんなに厚着をしちゃお洒落じゃないよ。ちょっと黙っててくれない? 組み合わせを考えてるんだからさ」  最初は、水に濡れたシャツが気持ち悪いから買い換えるのだと言っていた。ところが、浩一が淳子を連れていったのは女ものの衣服ばかりを扱っているブティックだった。店名はイタリア語で、淳子には読めない。値札も、一、十、百とゼロの数をかぞえてからでないとすぐには読めない。  売り子は品のいい中年の婦人で、自身もイタリア製らしい色合いの鮮やかなウールのスーツをすらりと着こなしていた。浩一の顔を見ると嬉しそうに顔をほころばせて寄ってきて、彼が淳子の両肩をつかんで貢ぎ物のように差し出し、 「彼女をなんとかしてやってくれない?」と頼むと、喜んでと引き受けた。ちょっと待って、どういうことよと淳子が抗議しても、浩一も売り子の婦人もただ笑っているだけで、一向に手を緩める様子はない。あれよあれよという間に試着室に押し込まれ、下着姿にされて、次から次へと差し出されるスーツやセーターやワンピースを試着する羽目に陥ってしまったというわけだ。 「わたし、こんな高価なもの買えないんです、試着したって無駄ですよ」  必死に言い張っても、婦人はなだめるような面白がるような顔をして、こう言うだけだ。 「大丈夫、木戸のぼっちゃまがお支払いになりますから」 「だって、こんなことしてもらう筋合いはないんですよ!」 「ぼっちゃまはお友だちにプレゼントをなさるのがお好きなんです。いいじゃございませんか。それに、あなたはちょっと服装を変えるだけで、もっともっと魅力的になられますよ。そのままじゃもったいないわ、こんなにおきれいなのに」  売り子の婦人は浩一と二人、ああでもないこうでもないと議論を重ね、試着をした淳子を大鏡の前に引き出しては眺め回し、赤が似合うの緑はダメだのこのデザインは堅苦しすぎるだのと言いたい放題を言い、小一時間かかって、結局、淳子は鮮やかな紺色のセーターをかぶらされ、ぴったりと脚の線の出る黒いスパッツをはかされ、家を出るとき履いてきた底のすり減ったブーツはどこかに処分され、代わりに売り子の婦人が倉庫から出してきたスエードの膝上まで届くロングブーツに足を突っこみ、伸ばしっぱなしで肩に届いていた髪は売り子の婦人の手で手際よくまとめられて、左耳の横に可愛らしく編んだ短いおさげをのぞかせる形になった。 「さ、これをかぶって」  セーターと同色のウールの帽子を頭に乗せられた。 「ぎゅっとかぶっちゃダメよ。ちょっと斜めに……そうそう、ほら、似合うわ」 「まあ、どうやらカッコがついたかな」顎を撫でながら、浩一は愛車のチューンナップを監督しているみたいな顔をしている。「アクセサリーは?」 「これでどうかしら」売り子の婦人は淳子の左腕を引っ張り、三重になった銀色の細いバングルをはめさせた。「あんまりじゃらじゃらつけるより、この方が彼女の個性を引き立たせるわ。お化粧もいじらないようにしておきましょう。でも、口紅はもっと濃くていいわね。ちょっと待ってて」  婦人がいそいそと奥の方へ消えると、淳子は浩一を睨みつけた。「どういうつもりよ?」 「すごく可愛いよ」と、彼はニヤついた。「それに、さっき着てた裾の伸びちゃったようなセーターより、ずっと暖かいだろ?」 「あたしはマネキンじゃないわよ!」 「多田一樹に会いに行くのに、きれいにしていった方がいいじゃないか。ほんの一瞬でも、彼に後悔させてやろうよ、ああ、こんないい女をオレは振ってしまったのかって」  ぶってやろうかと思ったが、そこに売り子の婦人が戻ってきた。明るいピンク色の口紅を差し出すと、 「お嬢さんは色白だから、これぐらいの色をお使いなさいな。肌がきれいだから、それだけでもずいぶん顔が明るくなるわ。間違っても、紫色やベージュ系の口紅なんかつけちゃいけませんよ。あれは無鉄砲な十代の女の子たちが、せっかくの天然の魅力を台無しにするためだけに使うものだから」  そして半歩下がって浩一と淳子を見比べると、ほうとため息をついて笑み崩れた。 「お似合いですわ」  浩一は胃のあたりに肘をあてて、ウエイターのようにお辞儀をした。「では、参りましょうか、お嬢様」    助手席でシートベルトを締めながら、淳子は唸《うな》った。「覚えてなさい」  浩一は声をたてて笑った。「頼むから、あの店を焼き払ったりしないでくれよ。あのマダムが個人輸入で仕入れていて、日本国内じゃあそこでしか手に入らない品物がたくさんあるんだ」 「あなた悪趣味よ」  彼は驚いたように淳子を振り返った。「なんで? 君はぐっとセンスアップしたよ」 「人を玩具みたいに扱って」 「だけど、それが俺の能力なんだ」  淳子ははっと口をつぐんだ。浩一はバックミラーをのぞきこみ、狭い駐車スペースから車を出す作業に専念している。  あたしは他人を焼き払う[#「あたしは他人を焼き払う」に傍点]。この人は他人を玩具の兵隊のように自由にする[#「この人は他人を玩具の兵隊のように自由にする」に傍点]。  さぞかし金持ちらしい外車にでも乗っているのだろうと予想していたのに、浩一の愛車は武骨な国産の四輪駆動車で、かなり長いこと乗り回しているらしく、車体のあちこちにごくわずかではあるが錆《さび》が見えていた。妙にタイヤが大きいので、実際以上に車高が高い感じがする。 「びっくりしてるんだろ?」  ようやくホテルの駐車場の出口へと向かいながら、彼はからかうように言った。 「こんなボロ車だとは思わなかったんじゃない?」 「ボロではないけど、確かに意外ね」 「だけどこれ、山道や雪道には滅法強いんだよ。俺、仕事のないときは都会になんかいないからね。こういう実用的な車でないとダメなんだ」 「別荘に住んでるの?」 「まあね。一ヵ所じゃないけど。実は、このあいだ君に電話をかけたときには河口《かわぐち》湖にいたんだ。あっちはもう氷点下で、道も木の枝もバリバリに凍ってるよ」  道賂は混みあっていた。ちょっと進んではすぐに停まる。そのたびに、後部シートに積みこんだ買い物袋の山ががさごそと音をたてた。 「多田さんはどこに住んでるの?」 「参宮橋《さんぐうばし》」と、浩一は簡潔に答えた。「ハイム野口《のぐち》っていうアパートだよ」 「……女性と一緒なのね」 「半年前から」 「恋人なのね」 「少なくともおふくろさんでも妹でもないだろうなあ。二人とももうこの世にはいないんだから」 「やめてよ」  淳子の声の調子の変化に気づいたのか、彼はすぐに謝った。「ごめん」  しばらく、黙って渋滞のなかにいた。 「彼の妹さん、雪江さんていう名前だったのよ」と、淳子は言った。「ホントに雪みたいに色白で、すごく可愛い女の子だった」 「写真を見たの?」 「ええ。多田さんに見せてもらったの」  何枚か見せてもらったけれど、今でもよく覚えているのは、幼稚園のお遊戯会で、白雪姫《しらゆきひめ》の衣装を着た雪江が、七人の小人に扮した男の子たちと一緒に踊っている様子を写したものだった。雪江は紅葉《もみじ》のような小さな手のひらを広げて、顔をちょっと上にあげ、何か歌っている。 「木戸さん、妹さんは?」 「いないよ」 「お兄さんにとって、血を分けた妹って特別な存在なのね。恋人にも奥さんにもない何かを持ってるのよ」 「そういうもんかな」  またしばらくのあいだ、淳子は口をつぐんで車に揺られた。十分ほどするとようやく渋滞の列から抜け出し、車はスムーズに走り始めた。  浩一の車の助手席の前に、おかしな顔をした小さなピエロのマスコットがぶらさげてあった。白地に大きな水玉の衣装を着て、真っ赤な帽子をかぶっている。つるつるした赤い鼻の頭にハチがとまっていて、ピエロはそのせいで寄り目になっていた。  ぶらぶら揺れるピエロを見つめながら、淳子は呟いた。「わからないの」  浩一は何も言葉を返さなかったが、ちらりと彼女の方を見た。  淳子は続けた。「訊いてみたのよ、彼らに。焼く前に、いつだって質問してみたの。どうして多田雪江にあんなひどいことをしたの? どうしてあんな残酷なことができたの? 彼女があんたたちと同じ人間だってこと、そのときは忘れていたの?」  静かに、浩一が問い返した。「彼らはなんて答えた?」  淳子はゆるゆるとかぶりを振った。「答えないのよ。ただ命乞いをするだけで」 「誰も?」 「ええ、誰も」言ってから、淳子は彼を見た。「そういえば、小暮昌樹はちょっと違ったけど」 「彼はなんて言った?」 「�そんなことが、おまえになんか関係あるのか�って訊いたわ。�そんなこと、とっくに片がついてる、とっくに忘れた�って」  本当に忘れているみたいな顔だった。夕方、一日の仕事に疲れて帰宅を急ぐサラリーマンが、バス停で呼び止められ、もしもしあなた、今朝バスに乗るときに、アリを一匹踏みつぶしましたね? と問いかけられたかのように。え? そうですか、そんなことがありましたっけ? ところであなた、なんでそんなこと訊くんです? あなたアリの権利の代弁者かなんかですか? 「命乞いか」と、浩一がハンドルに手を乗せたまま呟いた。「俺はそういうの、されたことない。悲鳴は聞いたことがあるけど。何度もね」 「悲鳴?」 「ああ。いったいどうなってるんだっていう悲鳴だよ。二年くらい前かな。ある男を、ごりごり音をたてて稼働している破砕機の方へ�押し�て行ったことがあるんだ。そいつは強姦魔《ごうかんま》だった。狡猾《こうかつ》な手口でね、逮捕されることは一度もないまま、何年間も若い女性たちを餌食《えじき》にしてたんだ。だから俺は、ためらいなんてこれっぽっちも感じなかったよ」  淳子は黙って彼の横顔を見た。 「そいつは完全に俺のコントロールのままになってたから、自分の足でふらふら破砕機に近づいて行ったんだ。ちょっとトイレに行って来ますってなくらいの気軽な感じでね。俺は奴を充分に�押し�て、安全バーを乗り越えさせた。すぐ目の下で破砕機の刃がぐるぐる回ってる。俺は奴をもうちょっと�押し�た。奴は半歩進んで、足の裏が半分くらい宙に浮いた。そして俺は……身を乗り出せと、奴を�押し�た。奴はそのとおりにした。奴の身体が四五度ぐらい前に傾いたとき、俺は�押す�のをやめたんだ。途中でぱっと手を引っ込めるみたいにね。そんなことをやったのはそのときが初めてだった」  浩一はわずかに喉を鳴らした。 「奴は正気に戻ったよ。だけど、身体の方は勢いがついていて止まらない。どんどん落ちてゆく。すると奴は悲鳴をあげた。狂ったように泣いたりわめいたりしながら落ちていった。身体が破砕機の刃にはさみこまれてからも、十秒ぐらいはわめいてた」 「何て言ってたの?」 「ほとんど言葉になってなかった。ただ俺の耳には、これはなんだ? 俺はなんでこんなことやってるんだ? どうしてこんなことになったんだ? と叫んでるように聞こえた」  どうして[#「どうして」に傍点]? どうして[#「どうして」に傍点]? 「それ以来、処刑のとき、これでもうけっしてしくじらないという安全圏を越えたあとは�押す�のをやめて、相手が死に際に何て言うか聞き取るようにしてきたんだ。君と同じだな、俺も知りたかったんだ」 「あなたは、答えを見つけた?」  彼は口元をちょっと吊り上げるようにして微笑した。「あいつらも、質問しかしない[#「質問しかしない」に傍点]ってことはわかったよ。なんでこの俺がこんな目に遭わされなきゃならないんだよってね。それはつまり、自分のやったことについてきれいさっぱり忘れてるってことさ」 「彼らには罪悪感なんてないってこと? 後悔も恐怖も自己嫌悪も?」 「ないね」悟りきったような口調だった。 「人間のなかには——いいや、ここはむしろ�人類�と言った方がいいのかな——人類のなかには、そういう変種も混じって生まれるんだってことさ。生まれつき、�良心�というものを全く欠いた、恐ろしい変種だ。だけど、変種はいろいろな形で存在する。いい変種だっているさ。現に俺や君がいるだろ? 彼らとは、座標軸をはさんで正反対の場所にね」  浩一は、助手席の前で揺れているマスコットにちらっと目をやった。 「それ、おかしな飾りものだろ? どこかの土産物屋で見つけたんだ。蓼科《たてしな》だったかな。雪の深い時期で、スキーに出かけて、帰りしなに買ったんだ。一緒に行った友達は、なんでこんな場所でそんなものを買うんだって笑ってたけど、俺には意味があった。その旅先でも仕事をひとつこなした後だったからね」 「標的はどんな奴だったの」 「リゾートホテルに巣くって、小汚い詐欺を続けていた女だよ。もういい歳だったけど、積み重ねてきた悪事は、顔のしわの数より多かったろうな……。そのおばさん、俺が用件を話すと、必死になって懐柔《かいじゅう》しようとするんだ。もともと、そのときの目的は彼女を処刑することじゃなかった。精神を破壊すればよかった。だから俺が担当したんだ」 「その人——」 「もうずっと行方不明のままだ」  大きなハチを鼻の頭にくっつけたまま踊りをおどっているピエロを、淳子はそっと手で押さえた。 「ハチに刺されそうになったら、誰だってそのハチを追い払ったり、叩き殺そうとするよな? 当然の反応さ」と、浩一は言った。「それをしないで、刺されるのは時間の問題なのに、ハチが可哀想だ、ハチだって生きていかなくちゃならない、ハチには罪がないなんて言って、鼻の頭にとまらせたままでいるのは、みんなピエロだよ」  淳子が手を離すと、ピエロはまた車の振動にあわせて揺れ始めた。紐のところにスプリングが仕込んであるので、いかにもハチに刺されそうになって大慌てをしているみたいに、ピョンピョン動く。  彼の言うとおりだ。毒虫に刺されそうになったなら、叩き落とさねば。そして人類のなかには、姿だけは人間でも、中身は毒虫よりも悪質な変種が存在することも明らかだ。 「あと十分くらいで着くよ」  浩一が明るい声でそう告げた。だから淳子は言いそびれてしまった——あなたの言うことはよくわかる。あなたの言うことは正しい。だけどあたしは、このごろときどき自信がなくなるの。短いあいだに殺しすぎたからかもしれない。血の匂いが肌にしみつきすぎたからかもしれない。  それらの凶悪な変種と、あなたやあたしという変種とは、本当に座標軸をはさんで反対側にいるのだろうか? 実際には、思いのほか近い岸辺に、ただ脆《もろ》い岩場をひとつ隔てただけで、隣り合って存在しているのではないのかしら——と。    ハイム野口は、アパートというよりはタウンハウスのような造りで、四世帯が入居できる二階建ての建物が、幅三メートルの公道に面して左右に二棟並んでいた。全体に玩具の家のようにお手軽ではあるが、いかにも若い女性や新婚カップルに好まれそうな意匠がほどこされている。  助手席の窓から淳子がそれぞれの家のドアの前に掲げられているネームプレートを確認できるように、浩一はのろのろと車を転がした。淳子はシートベルトを外し、前方に身をかがめるようにして、一軒一軒のネームを確認していった。  多田一樹のネームは、二棟目の方の左から三番目のドアのところにあった。ネームも彼ひとりではなかった。「谷川《たにがわ》美紀《みき》」という女性名が、彼の名前のすぐ下に寄り添っている。 「もともとは彼女の住まいだったらしい」と、浩一が言った。「同棲を始めたのは一年ぐらい前からで、彼がここに転がり込んだという格好になるのかな」 「そんなに詳しく知ってるってことは、あなたたち、ずっと多田さんを監視してたの?」 「まあね」 「どうして?」 「決まってるじゃないか。君が彼と接触する可能性が高かったからだよ。日比谷公園での小暮昌樹焼殺未遂事件のあと、君たちは一旦別れ別れになった。でも、必ずどこかでまた接触するはずだと、組織は考えていた。それに、ホテルのティールームでも話したけど、君は行方をくらますのが上手で、まったく消息がつかめなくなってしまったけど、彼はそうではなかったからね」 「わたし、一度だけ多田さんに会いに行ったことがあったのよ」まだネームプレートの方を見ながら、淳子は言った。「そのころの多田さんはまだ、日比谷公園の焼殺未遂事件のころと同じところに住んでた。そこに行ったの」  多田と谷川のネームプレートのある玄関の白いドアのまわりはきちんと片づけられていて、枯葉以外のゴミも見あたらない。新聞受けに夕刊が突き刺さったままだ。門灯は消えており、家のなかにも明かりは見えないが、ドアのすぐ脇の格子のはまった腰高窓に、花模様のレースのカーテンがさがっているのがわかった。多田一樹のひとり暮らしの部屋には、あんなカーテンはなかった。女性と二人で日々の暮らしを営むようになっても、彼は妹の遺影を部屋に飾っているだろうかと、淳子は思った。 「何しに行ったんだい?」 「河川敷事件のすぐ後だったのよ」 「つまり、報告に行ったってわけだね? 仇討ちのさ」  浩一はエンジンを踏み込んで車を出した。「まだ留守みたいだな。ひと回りして戻ってこよう」  車内の時計を見ると、午後七時半を過ぎている。浩一が淳子の心の内を読んだようにタイミングよく答えた。「二人とも勤めてるんだよ」 「多田さんは東邦製紙《とうほうせいし》にいるのよね?」 「いや、河川敷事件のあと間もなく辞めてるよ。今は、新宿にある小さい広告代理店で営業マンをしてる」 「なぜ辞めたのかしら」 「わからないな。君が小暮昌樹たちを殺したことがショックだったんじゃないか?」 「それでどうして会社を辞めるのよ?」 「俺に怒らないでくれよ。ただ、河川敷事件のあと、一時期彼はだいぶ生活が荒れていたみたいだよ。荒れるって言っても、酒浸りになるとか女遊びをするとかいうわけじゃないけど、言ってみりゃノイローゼかな。母親が亡くなったことも辛かったのかもしれないし」  車はゆっくりとその街区を一周し、元の場所の近くまで戻ってきた。そのとき、参宮橋の駅の方向から、人影がふたつ、肩を並べてこちらに歩いてくるのを見つけた。  ひと呼吸おいてから、浩一が呟いた。「やっとお帰りだ」  淳子は前方を見つめた。二人は既に、フロントガラス越しにはっきりと服装や表情を確認することのできる距離にいた。さらにどんどん近づいてくる。浩一がエンジンを切り、ライトを消した。  ハイム野口の前に停まっている見慣れない車に、二人の男女が注意を払う様子はなかった。彼らはしきりと話をしたり相づちをうったりしながら歩いており、慣れた道筋を、家族や恋人や親しい友と一緒にたどる人が一様にそうするように、ほとんど前など向いていなかったのだ。  多田一樹の外見は変わっていなかった。髪型もそのまま、歩き方のくせもそのままだ。背広の上に、淳子にも見覚えのある白っぽいコートを着ている。左手には鞄《かばん》を、右手には大きくふくらんだスーパーの名入りのビニール袋を提げていた。袋の口から長ネギが飛び出している。いかにも所帯持ちの男という風情だった。  彼は笑っていた。笑顔も淳子の記憶のなかにある笑顔と同じだった。ただ、あの人はあたしにはあんまり笑いかけてくれなかったな——と、ぼんやり思った。  寒気が厳しくなりつつある。女性の方もすっぽりとロングコートに身を包んでいた。温かそうな起毛のウールのコートだ。足元もふかふかしたブーツを履いている。  厚着の季節だ。正面から見ているだけではわからなかった。彼女が街灯の下で、彼が何か言った言葉に反応して笑いながらちょっと身体を横に向けたとき、初めて淳子は気がついた。  多田一樹に並んで歩く女性は、腹部がふっくらとふくらんでいた。  何かが、かすかな音をたてて割れたような気がした。池の面に張った今年最初の氷。その下で魚が泳いでいるのが見えるような、存在感の薄い氷。何かそんなものが、淳子のなかで砕ける音を聞いたような気がした。 「おめでたなのね」と、小声で言った。「あなたは知ってたんでしょう?」 「うん」と、浩一は答えた。「でも、言いにくかった」  さまざまな言葉が淳子のなかで渦を巻き、互いに互いを押しのけてくちびるのあいだから外へ飛び出そうと争いを続けている。淳子はじっと前を見つめて、その争いに自然な決着がつくのを待った。どんな言葉が勝つか、自分でもわからなかったから。  やがて、さっきよりももっと小さな声で言った。「バカね」  浩一は、誰がバカなのかなんて、輪をかけて馬鹿なことは訊き返さずにいてくれた。  多田一樹と谷川美紀は、彼らの住まいの前へとやってきた。よく見ると、多田一樹は彼女のハンドバッグを肩にかけて持ってやっていた。ドアの鍵は、彼女がそのバッグの中身を探って取り出した。通りしなに彼女が夕刊を取り、二人はドアの内側へと消えた。窓に明かりがついた。 「俺はこういうことには詳しくないからわからないんだけど、あとどのぐらいで産まれるのかな?」と、浩一が呟いた。 「あたしもよく知らない。でも、そう遠い先ではなさそうね」 「春にはオギャアオギャアかな。真面目な男だから、それまでには結婚するんだろうな」 「よかったわ」と、淳子は言った。自然に口元からこぼれた言葉だった。「幸せそうで、よかった」  浩一はまだエンジンをかけず、車内の二人は闇のなかにいた。ハイム野口の窓から漏れ出てくる明かりで、かろうじて彼の真っ直ぐな鼻梁の線だけが見える。 「君が、彼を幸せにしてやったんだよ」  浩一は、淳子に横顔を見せたまま、そう言った。 「彼は君が小碁昌樹を処刑することに反対した。妨害さえした。だけど、君が小暮昌樹を倒さなければ——あいつをこの世から消さずに、雪江さんの辛い記憶に対して少しでも償《つぐな》うことをしないまま、ただ年月だけが経っていたならば、彼は今、あんな顔で笑うことはできなかったはずだ。途中で断ち切られていたかもしれない彼の人生を、生きてはいても、ただ生きるだけに終わっていたかもしれない人生を、今のような形に戻してやったのは君だ。君が彼を生き返らせたんだ」  浩一は勢いよくキーを回し、エンジンをかけた。淳子は黙って座っていた。ひょっとしたら泣いてしまうかもしれないと思ったけれど、涙は出なかった。目は乾いていた。悲しくはなかった。  ただ、淋しかった。 「オイラたちゃ、男やもめの消防士さ」と、浩一がおかしな節をつけて歌うように言った。「ビル火災のまっただ中から、カワイコちゃんを救い出す、感謝感激彼女は感動、あなたは命の恩人よ、だけど恋人が駆けつけてきて彼らはひしと抱き合い、嬉し涙にくれながら現場を立ち去り、そしてオイラが仕事を終えて家へ帰ると、窓は真っ暗ストーブは冷え冷え、ネコがにゃあおと泣いてメシを催促」  淳子は吹き出した。「なによそれ、ヘンな歌。あなた音痴ね」 「実はそうなんだ」  ひときわ大きくエンジンを唸らせて、車は動き出した。そのとき、助手席側の窓越しに、花柄のレースのカーテンがふわりと揺れるのが見えた。淳子が何気なくそちらに目をやると、カーテンは横に開き、そこに多田一樹の顔がのぞいた。  彼も何気なく外を見ただけだったのだろう。家の前で車のエンジン音がするので、気になったのかもしれない。ハイム野口の窓と車の窓と、二枚のガラス越しに淳子は彼の目を見た。彼も淳子の目を見た。  淳子の瞳のなかに認識の光があったから、それが彼の記憶を照らしたのかもしれない。淳子がそっぽを向いているときに、彼が彼女を見かけただけなら、何も気づかなかったかもしれない。それとも気づいたろうか。淳子の記憶は彼のなかで、いまだに「未決」のファイルに綴《と》じこまれたままになっていただろうか。たとえファイルのなかではもっとも古いページとなり、端は黄ばみ、インクは薄れても。  多田一樹の目が大きく見開かれ、口が動いて何かの形をつくった。そのとき、車はハイム野口の前を離れた。  捨て猫を拾わずに置き去りにしてゆくときのように、心が後ろに引っ張られる。淳子は首をよじって後ろを見た。ハイム野口の窓が遠くなってゆく。と、突然ドアがはじけるように開き、多田一樹が走り出てきた。車に向かって何か言った。そして後を追いかけてきた。彼は靴を履いていなかった。それなのに走って追ってきた。エンジン音にかき消されて、彼が何を言っているか聞き取ることはできない。リアウィンドウのなかで、サイレント映画の主人公のように手足をばたばたさせながら、靴下|裸足《はだし》の男が懸命に夜道を駆けてくる。淳子はたったひとりの観客になり、シートに両手をかけてそれを見つめていた。  前方に踏切が見えてきた。警告音が鳴っている。赤信号が左右に点滅している。黒と黄色に塗られたバーが、ゆっくりと降りてくる。  浩一がアクセルを踏み込んだ。車は加速して踏切を突っ切った。線路と踏み板の上でバウンドしながら渡り終えたとき、向こう側のバーが車の天井をかすめる音が聞こえた。  淳子はまだシートにかじりついていた。多田一樹は手前のバーにはばまれ、踏切を渡ることができなかった。大きく口を開き、彼が何か叫んだ。確かに淳子の名を呼んだようだった。そのとき勢いよく電車が通過して、多田一樹の姿をかき消した。轟音が淳子の耳を満たした。車は踏切からどんどん離れて遠ざかってゆくのに、その轟音は消えなかった。どうして消えないんだろう? もう踏切は見えないのに。そして、その音は自分自身の荒い呼吸の音で、車と一緒に走っているかのように、肩をあえがせていることを知った。  交差点にさしかかった。前方で黄色い信号が赤信号に変わった。車はゆっくりとすべるように横断歩道の前で停車した。 「さっきは停めなかった」と、浩一が言った。彼は前ばかり見ていた。  淳子も前を向き直った。シートベルトを引っ張り、締め直した。ぱちんと金具のはまる音がした。 「バカね」と、短く言った。今度も、浩一は何も問い返さなかった。    淳子を田山町のアパートまで送り届けると、彼は後部座席の荷物を抱えて一緒に降りようとした。 「やめてよ」淳子はぴしゃりと言った。「そんな贈り物、もらう理由はないって言ったでしょ?」  浩一は彼女のセーターを指した。「じゃ、それは?」 「クリーニングして返す」  くるりと車に背を向けて階段をあがろうとすると、「ちょっと待てよ、忘れ物」と声をかけられた。忘れ物なんかないわよと言おうとして振り返ると、スエードの黒いコートが飛んできた。反射的にキャッチしてしまった。まだタグがついている。 「明日電話するよ」と言って、浩一は車のドアを閉めた。車が街角を曲がって消えるまで、淳子はその場に突っ立って見送った。やはり、そんなことをする理由などなかったのに。    翌朝、玄関のインタフォンのチャイムで起こされた。十時過ぎだった。宅配便だという。  ドアを開けると、台車に昨日のマダムのブティックの紙袋をいっぱいに積んで、配達員が待っていた。 「青木淳子さん? お届けものです」  淳子は配達員と一緒に荷物を室内に運び込んだ。途中で思わず「バカね」と呟き、笑い出してしまい、配達員が妙な顔をした。  送り状の発送元欄に、木戸浩一の住所と電話番号が書いてあった。住まいは代々木《よよぎ》で、どうやら超高層マンションであるらしい。部屋番号は三〇〇二だった。  荷物を引き取り終えると、彼の電話番号に電話した。コール七回で、寝ぼけたような声が出た。昨日の深夜、彼にはミッションをこなす予定があったのだということを思い出した。 「おはよう」と、淳子は言った。「あなたたちの仲間になるわ」 [#改段]               23          さんざん迷った末に、石津ちか子はレポートを書いた。念力放火のことも、倉田夫人の言う正体不明の組織�ガーディアン�のことも、隠さず詳細に報告した。今ここで肝心なのは、ちか子がそれらについてどう思っているかということよりも、この件の関係者がそれぞれに何を言っているかということを忠実に記録し伝えることだと判断したからである。レポートは十ページあまりの長さになり、書きあげたときには、倉田かおりの緊急入院の日から三日が過ぎていた。  出来事を時系列で細かく報告するだけなら、慣れた仕事だ、こんなに手間をくいはしない。時間がかかったのは、牧原のとなえる念力放火という特殊な能力の存在について、望める限り客観的・科学的な報告書や資料の類はないものかと、あちこち探し回っていたからだった。資料など、牧原に頼めばいくらでも提供してくれるのだろうが、それでは検察側の調書も弁護側の調書も一緒くたにしてつくりあげるのと同じことになってしまう。  図書館を当たったり、大学の研究室を訪ねたり、息子のところに電話をかけたりして、ちか子の頭で思いつく限りのことはしてみたつもりだ。大学の研究室では失笑されたし、長距離電話を通して自分の子供に、「おふくろ、正気かい? 最近ストレス溜まってんじゃないの?」などと真面目な声で心配されるというのも愉快な経験ではなかったが、それでも我慢した。身体の芯に、これは笑い事ではないという気持ちが一本通っていたからだ。  それだけ真剣に取り組んでみて、ひとつだけわかったことがあった。この種の超能力を正面切って取り上げ、時間と資金と人材を投入して研究しているところは、少なくとも日本国内には見あたらないようだということだ。がっかりした。  できあがったレポートを伊東警部に提出するとき、交通課の婦警時代に、パトロールで初めて違反者に切符を切ったときのように緊張した。この件はそもそも警部からの内密な依頼だったし、砧路子があいだに入っているという事情もある。レポートを持って参上すれば、いくら多忙な警部でも、五分や十分は時間をとって、ちか子の口頭での報告も聞いてくれるだろうと思っていたから、そのための準備もしていった。  ところが、現実は違った。忙しく電話に出ていた警部は、ちか子の顔を見て目顔でうなずいただけで、何も言わない。レポートを手に机の脇で待っていると、なにがしか苛立たしいような目つきをしてちか子を見て、�書類ならそこに置け�と、机の端に顎をしゃくった。電話の相手は上役のようで、てきぱきとやりとりしながらも丁寧な口調だったが、内容的には愉快な会話でないらしく、その分、ちか子への応対が雑になっていた。  刑事部屋の自分の机に戻ると、拍子抜けしたようで、急にがっくりした。つくづく考えてみると、映画や小説のなかの出来事のような事どもを、自分のこの手で文章化し書き綴ったことが、ひどく照れくさい。  砧路子は正式に倉田かおりの件から外されたが、もともと正規の捜査員として派遣されていたわけではないちか子は、宙ぶらりんになってしまった。継続捜査扱いの手持ちの小さな事件のほかに、不審火や放火の可能性がある小火などについて、所轄から照会を受けたり捜査協力の要請を受けた案件が数件あったが、これはそれぞれ担当が決まっている。もちろん、事件数の割には人員は少なく、皆、ちか子が手伝うと申し出れば喜んで事件を振り分けてくれるだろうけれど、倉田母娘という錨《いかり》を引きずったままでは、どうにもそんな気分になれなかった。  田山町の廃工場を振り出しとする一連の事件の捜査は、今ではすっかりちか子から遠いものになってしまった。心理的な距離さえ離れてしまったような気がする。合同捜査本部内での各担当者の意地の張り合いと手柄の競い合いの様子は、清水がどこからか情報を仕入れてきては、折に触れて実況中継さながらに熱をこめて教えてくれるけれど、倉田かおりの怯えた瞳と、�わたしも能力者なんです�と告白したときの倉田夫人の絶望のまなざしを思い出すと、そんなものへの興味は、宵越しの風船のようにへなへなとしぼんでゆくのだった。  ところが、その日の午後のことだ。ひとつだけ、田山町の廃工場を振り出しとする一連の事件とちか子とのごく個人的なつながりが、新しく見つかった。代々木上原《よよぎうえはら》の桜井酒店で射殺された三田奈津子という女性は、浅羽敬一たちのグループに、事件のしばらく以前からストーカー行為を受けていたというのだが、思いあまった彼女が相談に行った先に、そのものズバリ「ストーカー一一〇番」という民間団体があり、そこで、かつてちか子が親しくしていながら、現在はすっかり音信の途絶えてしまっている先輩刑事が働いていたのである。  刑事の名は伊崎《いざき》四郎《しろう》と言った。ちか子より五歳年上で、ちか子のいた所轄署の交通課のベテランであり、六年前、ちか子が本庁に移る直前に、彼が突然辞表を出したときには、周囲の皆が驚き、懸命に慰留した。それでも本人の決意は固く、翻意はなかった。早くに細君を亡くし、男手ひとつで一人娘を育てあげた彼は、家庭内のこまごまとしたことについても知り尽くしており、有能な刑事であると同時に、働き者の家庭人でもあった。ちか子は彼に教えてもらった「伊崎風豚汁」の作り方をよく覚えている。  彼が職を離れる理由は、表向きには、彼自身の健康面に不安があるということで通されていた。実際、辞職する前の彼は、ほんの半年ほどのあいだに著しく体重を落とし、生気を失い、別人のようにやつれてしまっていた。心配した同僚たちが病院で検査を受けることを勧めると、「悪いところがあるのはわかってるんだよ」と、困ったような顔で申し訳なさそうに言った。  しかし、彼の送別会の帰り道、同じ方向だということでタクシーに乗り合わせ、彼が仲間たちからもらった記念品や大きな花束に埋もれて走り出したとき、ちか子は、彼が職を離れる本当の理由についてうち明けられることになった。 「こんなこと、男同士じゃかえって言いづらくてね、黙ってたんだけど」 「まあ、どうしたんですよ?」 「本当はね、ちかちゃん」彼はちか子を�ちかちゃん�と呼ぶ数少ない仲間のひとりだった。「具合が悪いのは、俺じゃないんだ。娘の方でね」 「加世子《かよこ》さん?」 「ああ。子供が産まれたのは知ってるよな?」 「もちろんですよ」  ちか子は伊崎の愛娘が中学生ぐらいの時から知っていた。結婚式にも呼んでもらったし、彼女が結婚後十ヶ月ちょっとでまるまるとした男の子を産み落としたときにも、「ハネムーン・ベビーを産むなんて、加世子さんはなんて親孝行なんでしょう、伊崎さんは可愛いおじいさんになりそうですね」と書いたカードを添えて、大きなひまわりの花束を贈った。ブーケにするには珍しい花だが、加世子がひまわりを大好きなことを知っていたので、特別に花屋に頬んでつくってもらったのだ。  そして伊崎加世子は、まさにひまわりの花のような娘だった。学生時代はずっと水泳の選手で、国体にも出たことがある。一年中小麦色に日焼けしており、バンビのようにほっそりとした手足には、しなやかで躍動的な筋肉がついていた。笑えばこぼれるような愛嬌《あいきょう》があり、明るい美声の持ち主で、とにかく笑顔以外の顔を見たことがないというくらいにおおらかな娘さんだった。  そんな健康優良児のような加世子が具合が悪いと聞いて、ちか子はいささかショックを受けた。 「よくない病気なんですか?」 「病気なら治せるんだけどね」伊崎は言いづらそうに口ごもった。「亭主との関係がよくなくてさ」  加世子の夫は製薬会社の研究員で、彼女とは、互いの友人の結婚式の披露宴で知り合った。なれそめとしては、このごろの流行のパターンである。相手はひまわり娘とは対照的な細身の男性で、学究肌で繊細そうで、銀縁眼鏡の内側の目は、いつでも何かに怯えているように絶え間なくまたたいていた。結婚式で新郎と会ったとき、ちか子は、この二人の意外な組み合わせに、正直言って驚かされた。だが、対極は引き合うというし、何よりも加世子が旦那サマにベタ惚れの様子だったので、余計な心配はしないことにしておいたのだった。 「ご主人、神経質そうな人ですからね」  ちか子の言葉を受けて、伊崎は顎を胸元に埋めるようにしてうなずいた。送別会でだいぶ飲んだはずなのに、彼の顔からは赤みが消えていた。 「平和だったのは、新婚のほんの三ヶ月ぐらいのあいだだったらしいんだな。そのあとすぐにおかしくなって……。ただ、そのころにはもう腹に赤ん坊がいたから、加世子もどうしようもなかっただろうと思うよ。それが半年前にさ、もう我慢ができないって子供を抱いてうちに帰ってきたんだ」  ちょっと間をおいて、言い直した。 「いや、逃げ出してきたんだ」  ちか子は花束を抱え直し、伊崎の顔を見た。 「あいつめ、加世子を殴るんだ」と、彼は言った。「ちょっとしたことですぐカッとなって手をあげるというんだな。実は妊娠中にもしょっちゅう殴られてたっていうから、俺は仰天してさ、なんでもっと早く帰ってこなかったんだって、怒鳴っちまったんだよ。そしたら泣き出してね、お父さんに心配かけたくなかったからって」 「可哀想に……」 「本当にバカみたいなささいなことで怒るらしいんだよ。メシがまずいとか、一緒にテレビを観ていて、亭主が笑ったところで笑わなかったとか、風呂がぬるいとか、電話が長いとか」 「だけど、旦那さんより加世子ちゃんの方が強いでしょう。鍛えてるものね。殴り返してやったらいいのに。そういう人は、案外反撃されると弱いものですよ」 「俺もそう言ってやったんだ。ところが、亭主の方も考えてるんだな。まず、素手じゃ殴らない」  ちか子は驚愕《きょうがく》した。開いた口がふさがらない。「武器を持ち出してくるんですか?」 「うん。金属バットにタオルを巻いて、いつも用意してるっていうんだ。で、殴られて加世子が倒れると、洗濯紐で縛りあげておいて、また殴る。子供が産まれてからはもっとひどくて、言うとおりにしないと子供を殴るぞって脅して、加世子に自分で自分を傷つけさせるっていうから——」  それでなくても酔っているときには車にも酔いやすいちか子は、吐き気がしてきた。 「それは立派な犯罪ですよ。もう家庭内の問題じゃないわ」 「俺もそう思うよ。加世子もよく辛抱してたもんでさ……。ただ、そうやって頭がおかしくなったみたいに暴力をふるっているとき以外は、ごく優しい男だっていうから、またわからないんだよ。給料だって全額家に入れるし、ギャンブルもしない酒も飲まない。女遊びなんてまるっきりしない。職場での評判もすごくよくて、出世頭だっていうし」  人間の二面性について知らないわけではないちか子だが、これにはただただため息をつくしかなかった。 「所轄の生活安全課に相談してみたらいかがです? 最近じゃ、家庭内暴力についても力を入れてるみたいだし」 「俺も……それは考えたんだけどもなあ」 「なぜダメなんです?」 「加世子がうちへ帰ってきた後、先方の父親が追っかけるみたいにして訪ねてきてさ、土下座して謝るんだよ。で、どうかこのことは表沙汰にしないでくれと」 「そんな虫のいい話はないですよ」 「あちらのおっかさんという人が、心臓病でね、だいぶ悪いんだ。ショックを与えちゃいけないって、医者からきつく言われてるんだそうで。もしもこんなことが耳に入ったら、それだけで死んじまうというわけだよ」 「それなら先方のお父さんが責任持って息子さんを再教育してくださらなくちゃ」 「うん……」伊崎はかぶりを振った。「そんな期待はするだけ無駄だろうな。とにかく俺は、加世子も孫も、もう渡さない、弁護士をたてて早急に離婚するからって、それだけ言ってやったんだけどね」  そんなこんなで、伊崎はすっかりやつれてしまったというわけか。 「でも、少しずつ事態が収まる方向に進んではいるんでしょう?」  その質問には、伊崎は返事を寄越さなかった。実際、もしも事態が収拾しかけているのなら、彼が辞職する理由もないわけだ—— 「東京を離れようと思ってね」 「加世子さんと、お孫さんと一緒に?」 「うん。俺も出身は九州だからね。遠縁だけど、まだ親戚もあっちにいる。福岡あたりに移って、警備員の仕事でも探してさ、三人でのんびり暮らそうと思ってね」 「それがいいかもしれませんね。加世子さんも、嫌なことが忘れられるし」 「こっちにいると、あいつが追いかけてくるからさ」なんでもないことのように伊崎は言ったが、目は夜の底よりも暗かった。「今までにも、何度もあったんだ。うちに押しかけてきて、わあわあ泣いたりすがったりして、加世子に復縁を迫るんだよ。二度と乱暴はしない、自分は生まれ変わったって言ってね。加世子もそれに負けて——一度は俺も承知の上で、一度は俺が仕事に出ているうちにこっそりと、あいつのそばに戻ったことがあったんだ」  結果はどうでしたかと訊くまでもなかった。伊崎はやつれた頬をこわばらせている。 「二度とも、加世子の奴、入院しなきゃならないほどこっぴどく殴られた」 「なんてことかしら……」 「仏の顔もなんとやらでさ、以来、奴がなんと言おうと、復縁してくれないならうちの玄関の前で自殺すると脅かそうと——実際にそういうことがあったんだよ——加世子はあいつの元には戻らなくなった。俺も戻す気はない。ところがね、ちかちゃん、恐ろしいもんでさ、こうなるともう、あいつとは戦争状態になるんだよ。それもゲリラ戦だな」 「今度はなんだって言うんです?」 「あいつめ、孫をさらおうとするんだ」伊崎の声に、押し殺した怒りの響きが混じってきた。「孫を連れ戻してしまえば、加世子もあいつの元に帰らざるを得なくなるだろう?」  不気味さに、ちか子は背中が冷たくなるのを感じた。「伊崎さん、それはもう放っておいちゃいけませんよ。先方のお母さんの心臓病がどうのこうのなんて話だって、本当かどうか怪しいもんだし、はっきりと警察沙汰にした方がいいわ」  不思議なことであり、同時に痛ましいことでもあるのだが、警察官というものは、こうした、ともすれば刑事と民事の狭間《はざま》に落ち込んでしまいがちなトラブルについて、自分の属する組織や仲間たちの手を借りることに対して、強い抵抗感を持っている。べつに見栄を張っているわけではない。遠慮があるからだ。皆が多忙で限界ぎりぎりまでの仕事を抱えているのを知り抜いているから、なかなか思い切って助力を請うことができないのだ。もちろん、この程度のこと、自分で処理できなくてどうするのだという意気地もある。  伊崎も元気なく首を振るだけだった。「それもあるけどさ、まあ、次善の策だ。まずは九州へ行ってみるよ。俺も、退職したらあっちへ引っ込もうと思ってたことでもあるし、それが十年ばかり早くなっただけのことだからね」  距離をとれば、いくらなんでもあの暴力亭主だって、加世子のことを諦めるだろうよ。車を降りて別れるとき、伊崎は薄い笑みを浮かべてそんなふうに言った。自分で自分を励ましているように、ちか子には聞こえた——  その伊崎が、ほんの数年で東京に戻り、しかもストーカー問題の相談窓口となっている民間団体で働いていたとは。清水からその話を聞いたときには、本当に驚いた。 「伊崎さんて人は、直接に三田奈津子の相談に乗っていたわけではないようですけどね。でも、この団体の幹部クラスの人で、婦人団体の催し物や私立の女子校へ出かけていって講演したり、護身術のイロハを教えたり、いろいろと活発にやってるらしいですよ」 「このストーカー一一〇番て団体は、ボランティアなの?」 「いや、ボランティアではないようですよ。相談料もとるみたいだし」 「どこが資金を出してるのかしら」  清水が調べてみると、「ストーカー一一〇番」というのはこの団体のいわば通り名で、正式名称は関東総合安全サービスという、立派な株式会社だった。関東では大手の警備保障会社二社が株式を保有しており、定款を見ると、法人向けのセクハラ防止教育や、女性社員の多い会社専門の警備システムの設置・維持管理など、業務内容は幅広い。それでも通り名の方が有名になってしまったのは、彼らのこの業務がテレビのニュースショウで何度か取り上げられたからで、以来、首都圏どころか全国から問い合わせが殺到するほどの繁盛ぶりだということだった。 「それだけ、ストーカーとか、この手の問題に悩む人が多いってことだわねえ」 「我々ももっと積極的になるべきだっていうんですか、石津さん」 「そうよ。笑い事じゃありませんよ、これは」 「テレビの女性キャスターみたいなことを言うんだなあ」  ただつきまとうだけでは逮捕はできません、実際に脅迫行為がなければ警察は乗り出せません、いつだってそんなお題目ばっかり言っていて、誰か殺されたり怪我をさせられたりしてからやっと、どれどれ犯人を捕まえましょうかと捜査を始める、警察のやることは、いつだって後手後手だ——ちか子も、弁舌さわやかな女性キャスターが、怒りに口元を引きつらせながらそう言っているのを聞いたことがある。あれは確か、埼玉県下で、何年も前から問題行動が多いことで有名で、その地域ではずっと恐れられていた不良少年が、小学校三年生の女の子を暴行して殺害した事件のときだった。  伊崎が、ストーカーを始め女性を標的とする悪質な犯罪に対抗する組織で働いているというのは、四年前に彼が抱えていた問題から推して、当然至極のことのように思える。しかし、加世子はどうしたろう? もう東京に戻ってきても大丈夫なほどにまで、環境は改善されたのだろうか。それとも、彼女はまだ子供と共に別の土地にいるのだろうか。たとえば再婚して——今度は、以前のようなグロテスクな「夫」のまがい物ではなく、真の伴侶を得て。  伊崎自身、少しは健康を取り戻しただろうか。今の職場はやりがいのあるものだろうか。  ——会いに行ってみよう。  伊東警部からは、まだ何の反応もない。席にいないところを見ると、忙しくてレポートに目を通してさえいないのかもしれない。それならば、ここでいたずらに時間をつぶしている必要もないだろう。倉田母娘を訪ねたところで、現状では何をどうしてやることもできない。携帯電話をホルダーに入れて肩にかけ、ちか子は立ちあがった。    通称「ストーカー一一〇番」は、銀座四丁目の交差点を望む十二階建ての小ぎれいなビルのなかにあった。六階の六〇二号室である。集合表札のところには、通称と一緒にきちんと会社名も表示してあった。  エレベーターに近づくと、開閉するドアのすぐ脇の壁に、でかでかとポスターが貼ってあった。スカイブルーの地に、飛行機雲を模した形の大きな文字が並んで文章をつくっている。 「ストーカー一一〇番を訪ねていらした貴女、ここでくじけないでください。私たちは必ず貴女の力になります」 「私たちのフロアは六階です。最初の相談では料金をいただきません。勇気を出してお訪ねください。私たちは貴女の味方です」  これらの文字の形の雲を吐き出している小型飛行機は赤い翼《つばさ》の複葉機で、操縦席の窓から、メアリ・エアハートのような古風な飛行帽をかぶった女性が顔を出し、丸めた拳を宙に突きあげていた。  思い悩み、助けを求めて、噂《うわさ》に聞くストーカー一一〇番を訪ねてみたのはいいけれど、やっぱり怖じ気づいてしまった——そんな若い女性を励ますために、これはなかなかいいアイデアだ。絵も上手い。ちか子は微笑した。  エレベーターで六階にあがると、着いたフロアの目の前に、上半分が曇りガラスになったドアがあった。フロア自体は一畳分ぐらいの広さしかない。小さなビルだから無理もないが、最初の訪問者はいささか面食らうだろう。それを埋め合わせるように、さっき見たポスターがドアの前にも貼ってあった。  ちか子はドアをノックすると、返事を待たずに開けた。入るとやはり目の前に机が並べてある。雑多な書類やリーフレットを種類別に箱に詰め、「ご自由にどうぞ」という但し書きとともにずらりと並べてある。この机の向こうには衝立《ついたて》が立ててあり、すぐには内部をのぞくことができないようになっていた。だが、電話がしきりと鳴り、人の話し声も聞こえてくる。  書類やリーフレットは、女性の犯罪被害者へのメンタル・ケアに力を入れているクリニックのリストや、PTSD(心的外傷後ストレス障害)について書いた専門書のリスト、各種公共機関の電話番号リスト、ストーカーと闘い、これを退けたり、裁判闘争を続けている女性たちが発行している手作りの小冊子など、いかにもこの受付に並べられるにふさわしいものばかりだった。ちか子はたくさんの見出しやタイトルをざっと眺め渡してから、それらの端にちょこんと置かれているベルを叩いて鳴らした。 「はい」  涼しい声で答えながら、衝立の向こうから若い女性が出てきた。手に書類を持っている。紺色のハイネックのセーターに、ウールのロングスカートという格好だ。ショートカットの髪から大きくのぞいている耳たぶに、きらきら光るピアスがついていた。 「こんにちは」と、彼女は言った。明るい歓待ぶりは、まるで美容室のようだ。 「こんにちは」ちか子も愛想良く応じた。「わたしはご相談ではなくて、知人を訪ねて参りました。こちらに、伊崎四郎さんがお勤めになっているとうかがったのですが」 「伊崎さん?」若い女性は目をぱちくりさせ、それから、くくくと笑み崩れた。「ああ、副所長ですね。はい、こちらにおりますよ」 「伊崎さんは副所長なんですか」 「ええ、ここの旗揚げのときからのメンバーです。わたしたち、キャプテン・シローってお呼びしてます」  刑事だったころから、伊崎は事務畑の若い女性たちに人気があった。モテるというわけではないが、信頼が厚く、頼りにされていたのだ。そのあたりは、六年経った今も変わっていないらしい。 「わたくしは、警視庁の石津ちか子と申します」ちか子は警察手帳を取り出し、身分証明のページを開いて提示した。「伊崎さんとは、何年か一緒に仕事をしていました。お約束もなしにうかがったのですが、お取り次ぎいただけますか?」  若い女性の顔に、にわかに警戒するような表情が浮かんだ。「あの……まだ何か聞き込みみたいなことするんでしょうか?」 「は?」 「警察の方、何度もここにいらっして……」 「ああ、三田奈津子さんのことがあったからですね。ご協力ありがとうございます」 「わたしたち、そんなに協力できなかったんですよ。彼女は一度しかここに来なかったし、とてもひどく怯えていて、わたしたちの提案を受け入れてくれなくて。そのあと、すぐに——たった三日後ですよ——あんなことになってしまって、わたしたち本当に悔しいし、残念なんです」 「お気持ちはお察しします」  三田奈津子は、ここのドアをノックする勇気は奮い起こすことができたけれど、その先の一歩を踏み出すにはまだ足らなかったのだ。そして彼女が次の勇気を貯めようとしているあいだに、凶事が追いついてきてしまった。 「あ、スミマセン、お取り次ぎします」そう言って身を翻してから、彼女はあわてて引き返してきて、念を押すようにちか子を窺《うかが》い見た。「あの……テレビ局の人じゃありませんよね?」 「ええ、違いますよ」 「警察手帳、本物ですよね?」  ちか子は笑いながらもう一度手帳を取り出し、広げて見せた。相手の顔に、安堵《あんど》の色が広がった。 「ごめんなさい。取材の人も、一山いくらっていうくらいに押しかけてきて、一昨日ぐらいまではもう大騒ぎ、仕事も何もできないくらい大変だったんです。うちとしても、うちの業務を広く知ってもらうためにもテレビに出るのは嬉しいことなんだけど、局によってはひどい取り上げ方をするところもあって。事実関係についてはひととおり話し終えたから、今後の取材はご勘弁願いますって、今日は朝から、問い合わせがあってもお断りしているんです」 「その方がいいでしょうね」  ちょっとお待ちくださいと言い置いて、彼女は今度こそ衝立の向こうに消えた。ちか子はまた、頻繁に鳴る電話のベルを聞くことになった。人声も、よく聞いていると、電話に応対している声のようだ。相づちや、道順を説明する言葉が混じる。ここを直に訪れてくる相談者は、きっとブースのような相談室に通されて、プライバシーをしっかり守られた状態で話を聞いてもらえるのだろう。 「ちかちゃん」  衝立の向こうから、灰色の背広を着た小柄な男性が出てきた。上着の下に、ひと目で手編みとわかる赤いベストを着ている。 「久しぶりだねえ」  伊崎四郎は、両手を広げてちか子を歓迎した。   「ちかちゃんは変わっていないね」  伊崎はミルクティーをかきまぜながら、嬉しそうにしみじみとちか子を見た。 「俺が辞めた後、すぐ本庁に引っ張られたんだってね。凄いなあ」  伊崎の顔から、六年前のやつれた男の面影は消えていた。ずいぶんと元気になったように見える。頬のあたりに張りが戻り、目が輝いている。  ちか子は安心した。これなら、昔のように腹蔵のない話ができそうだ。加世子の亭主が何を手がかりに移転先を突き止めてくるかわからないので、辞職後すぐに、伊崎たちとは音信が途絶える形になっていた。落ち着き先が決まったらきっと連絡するよという約束は果たされないまま、ちか子は彼らが九州にいると思っていたのである。水くさいですねえのひと言ぐらい、ちくりと言ってやるつもりだった。 「いつこちらに戻ってこられたんですか?」  ちか子は、彼の近況を知った事情について説明してから、やんわりと尋ねた。  伊崎は頭をかいた。「それがね、退職してから一年ぐらいで戻ってきてたんだ」  ちか子は口元でコーヒーカップを止め、目を見張った。「そんなに早く? だけど、一度は九州にいらしてたんでしょう?」 「うん。向こうで仕事も見つけてさ」 「加世子さんはお元気ですか?」  伊崎はミルクティーをかきまぜるのをやめた。スプーンを取り出すと、それをそっと受け皿の上に乗せた。  目をあげたとき、その一瞬で、彼は六年の月日を逆戻りしてしまったように見えた。目はもう輝いていなかった。ちか子は不吉な牙《きば》が胸を噛むのを感じた。 「加世子は死んだんだ。孫も一緒に」  コーヒーカップをおろして、ちか子はやっと声を絞り出した。「どういうことです? 何があったんですか」  伊崎は背広の内ポケットを探ると、マイルドセブンを取り出した。彼はずっとこの銘柄を持ち歩いていた。持ち歩く[#「持ち歩く」に傍点]という表現には理由がある。彼はタバコを吸わない。ちか子が知っている限り、一度だって吸ったことがない。彼はタバコを指にはさみ、もてあそぶのだ。そのうちに折ってしまい、タバコの葉がこぼれ出す。彼はそれを指先で丁寧に集め、テーブルの上に小さな山をつくる。一時間で一本ぐらいの割合で、そうやってタバコをもみほぐすのが彼の長年の癖だった。 「九州で亡くなったんですか?」  伊崎はタバコを振り回しながら首を振った。「いや、こっちで死んだ」 「でもこちらには、もう家はなかったはずでしょう?」問いかけてから、ちか子は思い当たった。 「ひょっとして、ご主人の実家ですか」  がくんと頭を足元に落とすように、伊崎はうなずいた。 「なぜそんなことに……」  伊崎と加世子が九州の新しい家に落ち着いたころ、まるで頃合いをはかったように、加世子の夫が訪ねてきたのだという。 「驚いたよ。なんでわかったのかね。今でも不思議でしょうがない。俺も交通課専門だったとはいえ刑事だからね、後を尾《つ》けられないように、極力注意をしたつもりだったんだが、引っ越し屋にも堅く口止めをしておいたし」 「残念なことだけど、お金で口がゆるむ人もいますからね」  加世子の夫は、まだ離婚届に判を押していなかった。なんとかやり直したいと、伊崎の家に日参するようになった。父親に折檻《せっかん》された記憶があるはずの幼い子供も、泣いて謝り、門の外から子供の名を呼ぶ父の姿に、小さな手をさしのべるようなこともあったという。見ている伊崎と加世子の方が辛かったことだろう。 「そういうときのあいつは、これ以上ないほどの真人間なんだな。あんな奴が暴力をふるうだなんて、想像することもできない。雨の日も風の日もやって来て、子供にお菓子や玩具を差し入れてさ、明日また来るからねって帰っていくんだ。それでとうとう、あるとき家のなかに入れて、一緒に夕飯を食った。俺は怒って、加世子は泣いて、奴も泣いて、夜通し話し合った。それから半月ほどして、加世子は一度東京へ帰ると言い出したんだ」  ——向こうのお義父《とう》さんお義母《かあ》さんともちゃんと話をしてきたいの。 「俺も一緒に行くと言ったんだ。だけどあいつは大丈夫だと言った。俺は向こうで就職したばっかりだったから、有給休暇もなかったし。子供を連れて、一泊だけホテルに泊まって、話が済んだらすぐに帰ってくるからって。で、その日取りが決まったら、あいつが迎えに来てね。心底嬉しそうに、加世子たちを抱きかかえるようにして一緒に東京へ戻っていったよ」  三人は早朝の飛行機で九州を発《た》った。母子は翌日の午後には伊崎のいる家に戻るはずだった。 「ところがね……昼過ぎだったかな。職場に電話がかかってきたんだよ。出てみると、八王子北《はちおうじきた》署の刑事だった。あいつの実家は八王子にあるんだよ。俺はどきりとして、その場で死ぬかと思った。何も訊かずに電話を切ろうかと思った。だけど実際にはそうしなかった」  八王子北署の刑事は、加世子と彼女の幼い子供が死んだことを知らせてきたのだった。 「宿泊先のホテルでね、奴が隠し持ってたナイフで刺されて……死んでいたんだ。朝、掃除に来た従業員が見つけて、通報した。加世子は死にものぐるいで抵抗したらしくて、部屋中血だらけだったそうだ」  伊崎は喉をごくりと鳴らした。こみあがってきた過去を、ちか子に事情を語るために必要なだけ取り出して、後はまた胸の奥へと飲み込み、送り返したように見えた。 「二十六ヵ所刺されていたそうだ。どれが致命傷なのか、すぐにはわからないほどだった。孫の方は、腹と喉をひと突きにされていた。検死医の話じゃ、殺されたのは加世子が先で、最初に脇腹を刺されてるというんだな。で、倒れたところを馬乗りになって、滅多突きにした。子供はそのあいだ、ベッドで泣いていた。隣室の客が、子供の泣き声を聞いてるんだ」  警察はすぐに加世子の夫を手配した。前夜、午前零時を回ったころに、彼が母子を送ってホテルのフロント前に来て、鍵を受け取った彼女と一緒に、そのまま部屋まであがって行ったことを、フロントマンが覚えていた。そのときは、彼が子供を抱いていたそうだ。  部屋の前まで送る、せめてそこまで子供を抱いて行かせてくれ——たぶん、そんな台詞を吐いたのだ。ちか子は考えた。たとえどれほど深く彼が反省し、心を入れ替えたとしても、加世子がにわかに翻心して、彼との復縁を承諾したはずはない。もっとも好意的な返答でも、�もう少し時間をください、考えさせてください�という程度のものだったのではないか。  それだけのことを言うために、彼女はわざわざ東京へ出向いて行ったのだ。夫の親に自分の誠意を見せ、どうしようもないやるせない心中を理解してもらうために。  その優しさが、仇《あだ》になった。  加世子が伊崎と一緒にいる局面では、卑屈なまでに這《は》い蹲《つくば》って自分の非を認めてみせた加世子の夫は、彼女を父親から引き離し、彼の実家という強力な磁場の働く場所に彼女を誘い込むことに成功した瞬間に、逆向きのベクトルの上に足を乗せてしまったのだ。それまでが一方的な謝罪に終始していただけに、すぐには復縁を承知しない加世子に対して、�俺があれだけみっともないことをやって謝ってやったのに、おまえはまだお高くとまっていやがるのか、まだ足りないというのか�という、逆恨みに近い感情がこみあげてきたのだろう。  そして今や彼は、より計画的に巧妙になっていた。いたずらに感情を爆発させては、彼女に逃げる隙を与えてしまう。時を待つのだ。機会を待つのだ。頭を使え。  それが、ホテルでの殺人となって成就したのである。 「奴は翌日見つかった」と、伊崎が重苦しい口調で続けた。「都心のビジネスホテルに隠れていて、テレビでニュースを見た従業員に気づかれて、自分も警察へ行きたいと思っていた、付き添いを頼むと言って、支配人と一緒に出頭したそうだ」  道々、ずっと泣いていたという。自分も妻子の後を追って死ぬつもりだった、加世子に、どうしても離婚したい、子供は渡さないと言われて、生きる望みを失ったのだと。彼の手首には、ためらい傷らしきものが無数に刻まれていたという。 「女房を二十六回も刺しておいて、何がためらい傷だよ」伊崎は皮肉に笑った。彼の指のなかのマイルドセブンは、フィルターのあたりでぽっきりと折れ、テーブルの上に細かな葉をまき散らしていた。煙ではなく、タバコの匂いがした。 「もちろん、裁判で有罪になったんでしょうね?」 「十三年だよ」と、伊崎は言った。そして、ちょっと声を高めて付け加えた。「模範囚だそうだ。いや、そうだった」  ちか子は首をかしげて彼を見た。 「収監されて十ヶ月後に、拘置所のトイレで首を吊って死んだんだ。シーツを切って、細く繋《つな》げてな。そのころにはもう、俺は東京に戻ってきてたから、奴が葬られたあと、一度だけ墓を見に行ったよ」  そこで何をしたのか、ちか子は訊かなかった。 「だけど……東京で起こった事件だったのに、わたしたち誰も何も知りませんでしたよ」 「都下の事件だったからな。あっちには俺たち知り合いもいなかったし、そもそも筋がはっきりしていて、最初から亭主が怪しいってわかっていたから、本部もできなかったしな。それに、あのころ都内は大事件続きで大騒ぎで、加世子たちのことは新聞にも載らなかったくらいだよ」  伊崎はバラバラになったタバコを指から払い落とすと、冷えたミルクティーを飲んだ。 「こっちに戻っても、申し訳ないけど、警察時代の知り合いには誰にも会いたくなかった。加世子のことを思い出したり、人にしゃべって聞かせたりしたくなかったんだ。いっそ全然違う人間になってしまいたかったよ。もう父親でもなく、おじいちゃんでもなく、おまけに警察官でもない。そんな俺は、何でもなくなっていた。透明でふわふわしていて実体がなくて、幽霊のそのまた影みたいなもんだった」  ちか子は努力して笑みを浮かべた。無理をしてでもどちらかが先に微笑まない限り、二人して永遠に笑い方を忘れてしまいそうな気がしたからだ。 「今の伊崎さんは、ちゃんと実体のある人間に見えますよ」と、静かに言った。「少なくとも、退職したころよりはずっとお元気そうに見えます。もちろん外見だけの話ですけどもね」 「今の仕事のおかげだよ」 「そのようですね。伊崎さんは、正しい復職をなすったように思います」 「復職?」伊崎が真顔で聞き返した。 「ええ。関東総合安全サービスという会社には、警察と同じ魂があるように思います。今も昔も、やっぱり伊崎さんは警察官なんですよ」 「我々は、警察よりももっと攻撃的で積極的な活動をしていると自負してるんだがなあ」  笑いながらではあったが、若干の棘《とげ》を含んだ言い方だった。 「だから、キャプテン・シローと呼ばれているんですね?」  伊崎は照れた。女の子に人気があるのは相変わらずですねと、ちか子は冷やかした。 「どなたかの紹介があって、就職したのですか?」  ちか子は何気なく訊いたつもりだったのだが、答えが返るまで、予想していたよりも一瞬だけ長い間があいた。 「いや、そういうことじゃない。最初は警備保障会社にいたんだ。今だって、出向の身分だから」 「そうでしたか。わたしはまた、何かつて[#「つて」に傍点]があったのかと思いました。求人広告で簡単に見つけられるような職場じゃありませんからね」 「退職以来、警察OBにも、現役の人たちにも、誰にも会っていないんだ」伊崎は言って、空のカップのなかをそわそわとのぞいた。「だから誰の紹介もなかったよ」  ちか子はわずかな違和感を覚えた。警備保障会社には警察OBがよく再就職するし、一般的に彼らの横の繋がりは強い。つてを頼ることは恥ずかしいことでも珍しいことでもない。なぜ、こんなにあわてて否定するのだろう。しかも、誰にも会っていないというところを強調して。  ——誰にも会っていないなら、なぜわたしが本庁に移ったことを知っていたんだろう?  伊崎は引き上げたそうに、横目で伝票を見ている。今にも手を伸ばしそうだ。ちか子は彼を足止めするために、話題を振った。 「三田奈津子の件では、取材攻勢で大変な目に遭われたそうですね」  その瞬間、伊崎の目がひゅっと泳いだ。ちか子はぎくりとした。  今の伊崎の目は、弟の不審な焼死について語り出す前の、牧原の目と同じだった。思い出したくない、日常は脳の深いところに押し込めてある追憶に引っ張られて、瞳が過去を向いたのだ。心の傷や罪悪感が引き起こす、無意識の反射運動だ。  しかし、三田奈津子の事件に、なぜ伊崎がこんな強い反応を起こすのだろう。せっかく一度は相談に来てくれたのに、彼女を救うことができなかったからか? だが、伊崎は直接彼女を担当したわけではなかったと、清水は言っていた。直に彼女と接触していなかったにしては、今の目の泳ぎ方は尋常でない。 「まったく、惨《むご》いことだ」伊崎は言って、テーブルの上に散らばったタバコの葉をかき集め始めた。 「浅羽敬一といったっけ? 主犯格のちんぴらは。ああいうケダモノをちゃんと捕まえてくださいよ、石津刑事」 「本当に、そうしたいと思います。願わくば、彼らが大きな事件を起こす前に」 「しかし、予防処置は警察の守備範囲じゃないからねえ。そこが辛いな」 「耳が痛いですね。でも、踏み越えてはいけない、とどまらなければいけない国境線というものも、確かにあると思うんですよ」  伊崎は目をあげた。「そのために、無垢《むく》の犠牲者が出てもかい? ちかちゃんは本気でそう思っているのかい?」  ちか子が答えようとしたとき、バッグのなかでポケベルが鳴り始めた。思わず、舌打ちしそうになった。 「お呼びだね」今度こそ、伊崎は席を立った。伝票を取りあげる。「これは俺のおごりだ。また今度、ゆっくり飯でも食おうよ。な?」  ええ、ぜひそうしましょうと答えて、ちか子も立ちあがった。会計を済ませる伊崎の背中は、なぜかしらほっとしたように無防備にゆるんでいた。まるで、今の今まで、ちか子には内緒で上着の下に録音機でも隠していたかのようだ。だからここで話を打ち切り、スイッチを切ることができるのを、心の底から喜んでいるかのようだ。 「じゃあ、またな」  伊崎は言って、手を振った。だが、彼の方から夕食に誘ってくれることは、けっしてないのではないかとちか子は思った。伊崎がビルのなかに姿を消すまで、顔をしかめてじっと見つめた。それから、携帯電話を取り出した。   「昨日の夜だというんです」  ゆりかもめの駅で落ち合って、お台場《だいば》の高層ビルを遠くに見やりながら、牧原とちか子は早足で歩いていた。佐田《さだ》夫妻の住まいを訪ねるのである。 「直前に電話があって、これからうかがってもいいかと訊いたそうです。夫妻はもちろん歓迎した。彼は夫妻の主催するホームページをずっと見ていたそうで、どうしても力を貸してほしいと」 「で、何をしろというんです?」  昨夜十時すぎに、女子高生殺しの被害者のひとりである多田雪江の兄、多田一樹が佐田夫妻を訪ねてきたというのである。数年前に夫妻と面識があったが、今ではすっかり音信が途絶え、どうしているかまったくわからなかった彼が、自ら足を運んで夫妻に会いに来た—— 「人を探してくれというんです」牧原は言って、木枯らしが目に染みたのかまばたきをした。「彼の友人で、名前は青木淳子。彼がまだ東邦製紙に勤めていたころ、同じ職場にいたOLだそうですが」 「なぜそんな娘さんを? 女子高生殺しと、何か関わりがあるんですか?」 「それは僕もまだ知らないんです。とにかく信じられないような話だから、電話じゃ言えない、すぐ来てくれ、すぐ来て、我々の目を見て、我々が正気だということを確認しながら話を聞いてくれと、佐田さんがおっしゃるもので」  佐田夫妻の家は、いつものように気持ちよく片づけられ、居心地よく散らかっていた。 「どうぞ、どうぞ」夫妻は揃って在宅しており、テーブルの上いっぱいに書籍を積み上げていた。書店のカバーのついた本もあれば、図書館のマークの入った重そうな本もある。腰をおろしながらそれにざっと目をやって、ちか子は驚いた。 『世界の超常現象』 『あなたの知らない世界』 『超常現象の謎に挑む』 『サイキック・ディテクティブ』 『超能力と科学』 『超能力——その研究の最前線』  ちか子の表情を見て、佐田夫妻が互いに顔を見合わせた。 「びっくりなさるでしょう?」 「私も家内も、今日は勤めも休んで本屋や図書館をかけずり回って、にわか勉強をしておったんです」  牧原も書籍の背表紙を目で追っていた。彼はまったく驚いていなかった。馴染みの世界なのだろう。 「どういうことです?」と、彼は訊いた。 「まあ、お座りください。コーヒーをいれましょう。わたしらの話を聞いたら、きっと気付けに濃いコーヒーが欲しくなるに決まってますからね」  コーヒーなどどうでもいい。ちか子はひどくもどかしくて、佐田夫人が台所で立ち働いている間に、「失礼しますよ」と声をかけてから、テーブルの上の一冊を手に取った。あちこちに付箋《ふせん》がつけてある。そのうちのひとつの部分を開くと、太字の見出しが目に飛び込んできた。  念力放火能力《パイロキネシス》。  牧原もそれを見た。表情はまったく変わらなかったが、わずかに彼の目が晴れた。 「青木淳子[#「青木淳子」に傍点]?」と、自問自答するように呟いた。「何者ですか?」 「それ、それなんですよ」  ようやく運ばれてきたコーヒーカップに手を伸ばしながら、佐田は口を切った。そして話し出した——彼の言うとおり、信じがたい話を。にわかには信じられない話を。しかしこの十日間ほどで、ちか子には、少なくとも、相対性理論だとかクローン羊だとか、専門家の手によって検証され実証されてはいるものの素人には縁のない科学的事実よりも、はるかになじみ深くなってしまった話を。    コーヒーは有り難かった。もっと濃くてもいいくらいだった。 「彼はね、まるで吐き出すみたいにして全部ぶちまけてくれたんですよ」  佐田は薄い頭にうっすらと汗を浮かべている。夫人の方は落ち着いてじっと座っていられないらしく、ときどき夫の話に相づちを打ったり、ちか子と牧原にうなずきかけたり、夫の言葉を繰り返したりしながら、盛んにそわそわしている。 「いちばん最初に、その青木淳子とかいう娘さんが小暮昌樹を焼き殺そうとしたとき——日比谷公園の事件ですな、あのときは私らも驚いたもんだったけど——あのとき、彼女を止めずにやらせてやればよかった、あそこでやらせてやっておけば、彼女もここまでエスカレートすることはなかったと、顔を覆って泣くんです。私も家内も、可哀想やら薄気味悪いやらで、とにかく阿呆のようにここに座って、話を聞いてやることしかできませんでした」 「多田一樹は、青木淳子というその女性が、小暮昌樹の焼殺未遂事件と、後の荒川河川敷事件と、今回の田山町を振り出しとする三事件、すべての犯人だと言っていたんですね?」 「そうです、そうです」牧原の質問に、夫妻は双子の人形のように揃って大きくうなずく。 「彼女の仕業だと、一樹君はずっと知っていたそうです。あんなことができるのは、彼女以外にいないんだってね。それに、荒川河川敷事件のときは、事件が報道されたその日に、その娘さんが彼を訪ねて来たんだそうです。雪江さんの仇《かたき》はうった、時間がかかってしまったって、報告をしにね。その時点じゃ、まだ被害者の身元はわかってなかったはずなのに、彼女ははっきりと、あれが小暮昌樹だと言ったそうです。そして、すぐに姿を消してしまった」  ちか子は訊いた。「彼が以前にご夫妻を訪ねてきたのは、河川敷事件の直後ではありませんでしたか?」 「ええ、そうです」 「だけどそのときは、青木淳子という女性のことは話さなかった?」 「全然」と、夫人が首を振る。 「じゃあなぜ、今になって?」  間髪入れず、牧原が言った。「罪悪感ですよ」 「罪悪感?」 「そうです。彼女ひとりに手を汚させたことに対する後ろめたさがあるんです」 「だけどそれなら、河川敷事件のときだって同じですよ。彼は途中で降りて、彼女だけが小暮昌樹を追跡して、ついに仕留めたわけだから」ちか子はひと息に言って、念のために付け加えた。「まあ、すべてはこれが手の込んだ作り話でなければという仮定の上でのお話ですけどもね」  牧原は、毎度のことながら、ちか子の断りになど頓着しなかった。平然と続けた。「作り話なんかじゃありませんよ。これは真実だ。多田一樹は、彼女が念力放火能力を使いこなす特殊な人間であることを知ってたんだ。彼女は、言ってみれば歩く火炎放射器みたいなものです。それも特大のね。存在そのものが武器なんだ」  ちか子は気づいた。牧原はわざと�武器�という表現をした。�凶器�とは言わなかった。 「河川敷事件のときは、一方でどれほど良心が咎《とが》めたにしても、多田一樹のなかに、一抹の快哉《かいさい》を叫ぶ気持ちが混じっていなかったとは言えませんよ。青木淳子が屠《ほふ》ったのは、小暮昌樹だったんだから。しかし、今度の一連の事件はわけが違う。確かに、女子高生殺しに負けず劣らず卑劣で残酷な犯罪ですが、直接的に彼とは関係がない。それだけに、自分があのとき見捨てたばっかりに、青木淳子が殺人機械と化してしまったという認識に、まるで殴り倒されたみたいになってしまったんでしょう」 「だけど、事件が起こったのは十日も前ですよ」ちか子は反論した。「手口から見て、彼女の仕業だってことは、彼にはすぐにわかったでしょう。だけどそのときは、騒ぎ立てもしなかったし、彼女を探そうともしなかった」 「姿が見えなかったからですよ」と、牧原は言った。わずかながら、多田一樹という青年をかばうような口振りだった。「彼には彼の生活だってあるはずだ。河川敷事件からはそれなりの年月も経った。田山町の事件の報道を見ただけでは、すぐに狼狽《うろた》えたりしなかったでしょう。自分で自分をなだめて、騙すことだってできた。早のみこみはいけない、青木淳子がやったんじゃないかもしれないってね」  しかし、青木淳子は現れた。再び、血と炎と黒焦げの死体という事実と共に、彼の目と鼻の先に。 「そうなれば話は別です。もうごまかしはきかない。彼は自分自身の頭のなかの考えと、真正面から対峙しなくてはならなくなった」  佐田が腕組みをしてうーんと唸る。 「それでも、うちを訪ねて来るまでに、二晩考えたと言ってました。なにしろ途方もない話だから、証拠もなしに信じてもらえるかどうかわからないってね。だけどあんまり一樹君の様子がおかしいんで、奥さんが心配してね、奥さんに気をもませるのはいけないって、それで決心したんだそうです」 「奥さん、妊娠中なんですよ」と、夫人が言い添えた。 「多田一樹は、それなりに平和な生活をおくっていたんですね」と、牧原は言った。「だからこそ、すぐには行動を起こすことができなかった。それだけに、青木淳子に再会して、一気に喫水線を越えてしまったというわけだ」  彼女を探したい、なんとしても探し出して、あんなことをやめさせたい、そのために手を貸してくれと、多田一樹は佐田夫妻に頼んだ—— 「私らのホームページでね、ほら、この前石津さんたちがいらしたときに、言ってたでしょう、田山町の事件を起こした犯人は、私らのところに何かメッセージを寄越すかもしれないって。で、私らそれを頭に入れて、なんていうのかな、呼びかけの文章をつくって載っけてみたんです。あの事件の犯人さん、私らはあんたと話がしたい、アクセスしてきてくれ、あんたがこのホームページを見ているかもしれないって、警察の人が言っていた、私らもそれを期待しているよ、秘密にしてほしいことがあるならば、表には出さない、だから連絡しておくれってね」  室内のパソコンを操作して、佐田がその画面を呼び出して見せてくれた。文章のすぐ脇に、握手を求めるように、あるいは救助の手をさしのべるように、丸っこい手がひと揃い、空《くう》に向かって伸ばされているイラストが添えてある。 「一樹君もこのホームページを見ていて、ひょっとしたら青木淳子という人がここに連絡しているかもしれないと思いついたんでしょうな。彼女を探すったって、ほかには何も手がかりはないし、で、藁《わら》をもつかむような思いでうちに来たってわけです」 「三日前の晩、車の助手席にいた彼女を目撃したとき、後を追いかけたんでしょう? 車のナンバーを覚えておかなかったんだろうか」 「気が動転していて、それどころじゃなかったと言っていました。悔しがっていましたよ」 「彼の住所を教えてください」牧原は手帳をぽんと閉じ、席を立った。「直に会って、もっと何か聞き出せることはないか、試してみます。彼の人となりも知りたいし」 「嘘を言うような青年じゃないですよ」先回りするように、佐田が言った。 「作り話もしないわよね」と、夫人もうなずいた。  夫妻には、引き続きホームページで犯人への呼びかけを続けてもらうように頼んで、牧原とちか子はエレベーターに急いだ。 「怖い顔をしていますね」と、ちか子は言った。「青木淳子という女性が実在していると信じてるんですね? パイロキネシスの能力者で、すべての事件の実行犯」 「信じていますよ」  あがってきた箱に乗り込み、ボタンを押してドアを閉めながら、牧原はきっぱりと言った。 「佐田夫妻の話だけでも充分なくらいだけど、その上に重ねて、僕には僕の個人的理由もあって、確信しています」 「個人的理由?」  牧原は天井の蛍光灯を見あげた。「あんな特殊な能力を持つ人間が、そんじょそこらにごろごろしているはずがない」 「もちろんですよ」 「多田一樹の話では、青木淳子は二十五、六歳だということでした」  終わりまで聞かないうちに、ちか子は牧原の言わんとするところに気がついた。思わず、小さくあっと言った。 「弟を焼き殺した公園の小さな女の子」と、彼は頭上を仰いだまま言った。「順調に成長していれば、ちょうど青木淳子ぐらいの歳になる」  エレベーターが停まった。彼は素早く降りた。何かに向かって駆け出すような早足だった。ちか子は急いで後を追った。 [#改段]               24          多田一樹の現在の勤め先である広告代理店は、新宿駅南口から歩いて二十分ほどの雑居ビルのなかにあった。十坪ほどの狭いオフィスで、机が押しくらまんじゅうをしている。営業担当者は全員外に出ているということで、残っているのは数人だけだった。  応対した若い女性は、壁のボードを見て、多田さんなら三時には帰ってきますと教えてくれた。あと三十分ほどだ。待たせていただけるかと持ちかけると、こちらの素性を問おうともせず、ちか子と牧原の二人連れの訪問者を怪しむ風情もなく、どうぞと招き入れた。彼の机はどこだろうと尋ねるとあっさり指さして教えてくれたので、ちか子たちはその机のそばで、勧められた回転椅子にそれぞれ腰をおろして待つことにした。 「すみません、うちには応接室がなくて」  さっきの女性が笑いながら謝る。ちか子は微笑して黙礼したが、牧原は厳しい顔つきで多田一樹の机まわりを観察しており、女性が彼女の席に戻って仕事を再開すると、すっと椅子を寄せ、引き出しや書類ケースのなかを探り始めた。 「おやめなさいな」ちか子は小声で注意した。 「あなたの探し出したいものが何であれ、職場の机のなかにしまわれているわけがないでしょ?」  牧原は手を休めなかった。「彼氏、妹のことを思い出したりするんでしょうかね」と、独り言のような口調で呟いた。 「雪江さんでしたっけね」 「この会社の連中は、彼の過去を知ってるんだろうか」 「多田さんが黙っていたとしても、仕方がないんじゃありませんか」ちか子は牧原の右肘を軽く叩いた。「あなただって、弟さんのことを荒川署の同僚たちに話してないでしょう? わたしにうち明けてくれたのは、例外中の例外でね」  牧原は返事をせず、机の端に放り出してあった、反古《ほご》のコピー用紙をカットして束ねたメモ帳をめくり始めた。多田一樹の肉筆だろうか、大きな角張った字体で、おそらくこれは広告のキャッチ・コピーだろう、いくつかのまとまった文章が書き留められている。どうやら粉ミルクの広告のようだ。 「今の彼にはふさわしい仕事だな」牧原は言って、ぽいとメモを投げ出した。  オフィスのドアが開いて、大柄な女性が入ってきた。古ぼけたコートを着ている。ちか子たちに目をとめると、条件反射のような感じで会釈をした。 「南《みなみ》さん」と、さっき応対してくれた若い女性が彼女に言った。「多田さんにお客様なんです。出先で会いましたか?」  大柄な女性はコートを脱ぎながらうなずいた。「お昼前に、東和印刷《とうわいんさつ》で会ったわよ。なんだか具合悪そうな顔してたわ」  そしてちか子たちの方に顔を向けた。「お待たせして申し訳ありません。多田とは、お約束が?」 「はい、ございます」ちか子は嘘をついた。 「わたくしは南と申します」脱いだコートを椅子の背中にかけると、大柄な女性は近づいてきて、名刺を差し出した。「営業担当チーフ南|知子《ともこ》」と刷ってある。 「多田はわたくしの下で働いております。お世話になっております。恐れ入りますが、わたくしはお目にかかるのは初めてだと思うのですが……」  言葉は滑らかで愛想がいいが、明らかに警戒していた。ちか子は直感で、この南という女性は多田一樹と相当親しく、ひょっとすると彼の抱えている事情についても多少は知っているのではないかと感じた。年齢的には、多田一樹より十歳ほど上だろう。明るく朗らかそうな雰囲気の女性である。  ちか子は警察手帳を取り出すと、身分証明のページを広げ、胸のすぐ前に掲げて見せた。  南知子は目を見開いた。そしてオフィス内のほかの社員たちの方へ素早く視線を投げた。誰も気づいていない。彼女は姿勢を低くしてちか子たちの方に近寄ると、自分の回転椅子を引き寄せた。 「多田が何か事件に巻き込まれたのでしょうか」声を潜めて、彼女は訊いた。 「違います。そういうご心配でしたらなさらなくて結構ですよ」  南知子は確認をとるように牧原を見た。彼は軽くうなずいた。 「多田に会いにいらっしゃるのは、今日が初めてですか?」 「ええ、そうです」  ためらうようにちらっとくちびるを舐めてから、南知子は訊いた。「警察の方が、以前から多田の身辺を調べておられるということはありませんか?」  意外な質問だった。ちか子は逆に訊き返した。 「わたくしたちの前に、警察官がこちらに伺うようなことがあったのですか?」 「いえ」南知子は短く否定し、それから不安そうにまばたきをした。「そういうことではないんですけど……」  またドアが開いた。同年代の若い男性の二人連れだった。一人は筋骨たくましい体格をしており、この季節だというのに褐色に日焼けしている。あとから入ってきた白っぽいコートの男性は、対照的に細面《ほそおもて》でひょろりとした長身で、寒気に参っているのかほとんど白いような顔色をしていた。  南知子は立ちあがりながら、その蒼白な顔の方の青年に声をかけた。「多田君、お客様よ」  多田一樹は、一瞬だけ驚いたような目をした。病みつかれたように削げた頬に、ぴくりと緊張の色が走った。 「あの……ここでは何ですから、場所を移していただけますか?」南知子はコートに手を伸ばしながら言った。「それで、お邪魔かもしれませんが、わたくしも同席させていただきたいんです。理由は、あとでちゃんとご説明しますので」   「警察の方ですか」  多田一樹の最初の一言はそれだった。ほんの少しだがエコーのかかったような、響きのあるいい声だとちか子は思った。顔立ちも端正だし、全体に誠実そうな感じがする。良き夫、良き父親の候補者として、同年代の女性たちに人気のありそうなタイプだろう。  もっとも今は、それらすべての持ち前の魅力を、彼の暗い表情が帳消しにしていた。よく見ると、まぶたの縁が腫《は》れ、目も充血しているのがわかる。昨夜、佐田夫妻を訪問した彼が顔を覆って泣いたという話に誇張はなかったようだ。 「佐田さんご夫妻からお話を伺って来たんです」ちか子は穏やかに口を切った。「あなたには、いろいろ教えていただきたいことがありましてね。でもその前に、南さん——」  ちか子は南知子を見た。 「先にあなたのお話を聞いた方がいいようですね。多田さんの身辺に、最近、何かあなたが気をもむような事態が起こっているのですか?」  これは多田一樹本人も初耳のようだった。 「南さん……?」 「ごめんなさいね、黙ってて」彼女は面目なさそうに両の眉毛をさげた。「言い出せなかったのよ。わたしの取り越し苦労かもしれないし」 「どういうことですか」 「あの……」南知子はおろおろと、多田一樹とちか子のあいだで視線を往復させた。これで商売になるのかと心配になるようなガラ空きのコーヒーショップで、奥の方でかすかにラジオの音がしているだけだ。ちか子には、彼女の心臓がどきどきする音がほとんど聞こえるようだった。 「そうね、この半月ぐらいのことなんですけど……多田君、誰かに尾行されてるみたいで」  むっつりと黙っていた牧原が、急に目を覚ましたように背もたれから起きあがった。 「見たんですか?」 「ええ。うちでは、わたしがたいていいちばん最後にオフィスを出るんです。鍵を持っているのはわたしと社長の二人だけで、社長はほとんどオフィスにはいませんから。ほかにも経営している会社がありますので」  それは、十二月の第一週の中頃のことだったという。 「わたしが戸締まりをしていたら、先に帰ったはずの多田君が戻ってきて——」 「ああ、そうでした」多田一樹はうなずいた。「忘れ物を取りに戻ったんです」 「十時過ぎだったかしら」 「そうですね」 「それで、わたしたち一緒に外に出たんです。駅まで歩いて——そのときに、後ろから誰かがあとを尾《つ》けていることに気づいたんです」  南知子はちょっと笑った。 「いやに敏感だと思われるかもしれませんけれど、新宿駅の周辺はともかく、このへんはね、夜間には、ぞろぞろ人が歩いてるという場所じゃありません。まわりはうちと同じような小さいオフィスビルばかりですし、民家もまだまだ残ってます。それに、わたし以前、夜道で通り魔に遭ったことがありまして、それ以来すごく神経質にまわりを気にするクセがついてしまったんです。だからそのときも、最初はわたしが尾けられているんじゃないかと思いました」 「どんな人物でした?」 「黒いコートを着た男の人でした。若い男じゃなかったと思います。顔は見えませんでしたけど、なんとなく、感じで」 「一人でしたか?」 「ええ。そのときは」  駅に着き、南知子はJR線の改札口に、多田一樹は京王《けいおう》線の改札口へ向かった。手を振って別れてすぐに、南知子は尾行者の様子をうかがった。 「その男は多田君の後を追いかけていきました。なにしろ混雑してますからね。見失わないように小走りになって。そのときにもう一人、駅のコンコースに立っていたやっぱり黒っぽいコートを着た男が、その男に合流するのが見えたんです」 「あなたは気づいてましたか?」と、ちか子は多田一樹に訊いた。彼は黙って首を振った。  二人一組《ツーマンセル》で尾行にあたるというのは、いかにもプロ風のやり方である。ちか子のまったく知らないところで、警察が多田一樹をマークしているということはあり得るだろうか? 「それ以来、気になって……」南知子は目を伏せた。「多田君には黙っていましたけど、それとなく観察するように心がけていたんです。そうすると、いろいろなことが目につき始めました。多田君が営業に出かけてゆくのを上の窓から見ていると、すぐに後を何気ない風にぶらぶら歩き始めるサラリーマン風の男がいることに気づいたり、うちのオフィスのあるビルの前で座り込んでウオークマンを聴くふりをしながら、人の出入りを見張っている学生風の若い男とか。多田君が不在の時ばかりを狙ったみたいに、多田一樹さんはいますかという電話がかかってきて、だけど一度も名前を名乗らないとか」 「そのへんのこと、あなたは気づいてなかったんですね?」ちか子はもう一度多田一樹に問いかけた。彼は再度、かぶりを振った。 「ご自宅の近所で不審者を見たことも?」 「ないです」と、小声で答えた。 「わたしもね……すごく迷ったんです。実はあの、興信所じゃないかと思って」南知子はいかにもすまないというように上目遣いで多田一樹を見た。「美紀ちゃんのご両親が、多田君の身上調査をしてるんじゃないかって思ったのね」 「美紀さんというのは、多田さんの奥さんですね?」 「まだ正式に結婚していません」多田一樹は下を向いたまま答えた。「同棲してるだけです」 「だけど、先方のご両親のお許しはいただいたのよね?」南知子がとりなすように訊いた。「お式の日取りだって決まってるんでしょ?」 「奥さんは妊娠中だそうですね」牧原が、かけらも愛想のない訊き方をした。口調だけなら、�奥さんは亡くなったそうですね�と訊いているみたいにさえ聞こえてしまう。 「ええ。身重です」と、多田一樹も陰気に応じた。こちらも、�はい、死にました�みたいな応酬だ。 「予定日は?」 「——来年の二月です」 「楽しみですね」 「お式は赤ちゃんが産まれてから、三人で挙げるんですよ」南知子は一生懸命に笑顔で言った。「超音波診断で、もう女の子だってわかってるんですって。すごく順調で。ね、そうよね?」  彼女の努力の甲斐もなく、沈黙が落ちてきた。南知子は、世にも情けなさそうな顔をしてコーヒーカップに手を伸ばした。 「余計なことを言ってごめんなさい」 「いえ、そんなことはありません。貴重な情報でした」ちか子は優しく言った。言外に、ではあなたは席を外してくださいという意味を込めて。南知子は賢明な女性で、ちゃんとそれと察してくれた。腕時計をちらりと見ると、「じゃ、わたしはオフィスに戻らなくちゃ」と、急にあたふたした。 「ごめんなさいね」と、彼女は多田一樹に言った。彼はまだうつむいている。 「警察の方だって聞いて……もう黙っていられなくなっちゃったのよ。ホントに余計なお節介だったかもしれないけど」  そして、弁解するようにちか子たちを見る。「美紀ちゃん、わたしの後輩なんです。以前は同じ会社にいましてね。本当に素直ないい子で、わたし、妹みたいに思ってます。多田君と美紀ちゃんを引き合わせたのもわたしですし、だからあの……」  ちか子はうなずきながら黙って微笑んだ。南知子はしどろもどろになった。 「……よろしくお願いいたします」  深く頭をさげると、叱られた犬のようにしょんぼりと肩をすぼめて店を出ていった。  また沈黙が来た。のしかかるような、息苦しい黙《だんま》りだ。ちか子には、牧原も多田一樹も等しく怒ってむくれているだだっ子のように見え、しかしそのだだっ子をどう叱ってやったらいいのか糸口が見つからなかった。 「もう——」  椅子のなかで姿勢を直し、腕組みをしながら、不意に牧原が言い出した。 「もう、青木淳子のことなど放っておけばいいじゃないか」 [#改段]               25          多田一樹が、この店に来て初めて目をあげると、正面から牧原を見た。牧原も彼を睨み返した。 「どういう意味ですか」  低く問い返す多田一樹の語尾が、かすかに震えていた。 「言葉通りの意味だよ」 「ですから——」  牧原は腕組みを解くと、前に乗り出して片手をテーブルに載せた。「今の君には幸せな生活がある。間もなく君の妻になる女性がいて、産まれてくる子供もいる。親身になって君たちを気遣ってくれる友人もいる。ちゃんとした職場もある。だが、青木淳子を探し出して、彼女がやっていることをやめさせたり、彼女のしでかした出来事に関わったりしたら、それらすべての人たちに心配をかけ、迷惑をかけ、そうでなければ秘密を作ることになる。君には何の得もないじゃないか。それどころか、下手をすれば持っているものを全部失いかねないぞ。だから、もう青木淳子のことなど忘れろと言ってるんだ」 「僕は——」 「君は、一度は彼女を放り出した。そうだろ?」牧原はたたみかけた。「小暮昌樹の一件では、君は計画を中途放棄して彼女を捨てた。だから彼女は独りで、君の妹さんの仇を追うことになった。君は安全地帯に逃げ帰って、傷を舐め、新しい人生をつかむために必要な時間を得た。そうやって知らん顔を決め込んでいるうちに、青木淳子は小暮昌樹を探し出し、勝手に処刑してくれた。君はまったく手を汚さずに、上々の成果だけを受け取ったわけだ。万々歳じゃないか」  フンと鼻先で笑うと、 「だが、青木淳子は君に頼まれたからやったわけじゃない。彼女自身の信念に従っただけのことだ。だから君は彼女に対して何の負債を負っているわけでもないし、負い目を感じる必要もない。今になって彼女を探そうと考える動機が、もしもそのへんのところにあるのだったら、それはとんでもない勘違いだよ」  多田一樹はまじまじと牧原を見つめ、白い顔をいっそう白くして、目を見開いていた。ちか子は、佐田夫妻のところでは多田一樹をかばうような発言をしていた牧原の豹変《ひょうへん》ぶりに驚き、何か思惑があるのではないかと考え、じっと口をつぐんでいた。 「あんたは……あんたは僕が苦しまなかったとでもいうのか?」  ようやく、声をしぼりだすようにして多田一樹が言った。 「あんたは僕が、淳子のことなんかケロリと忘れて、雪江のことも忘れて、過去のことは全部引き出しに放り込んで鍵をかけて、何もなかったふりをして自分の生活を楽しんできたとでも言いたいのか?」 「そうじゃないのか?」牧原は陰悪に目を細めた。「現に君は、今の職場の人たちにも、美紀さんという同棲中の女性にも、あの南知子さんにも、君の人生のなかで最大の悲劇だった雪江さんのことをうち明けてないんじゃないのか? そうだろ?」  大胆な当て推量だが、図星のようだった。多田一樹がわなわなと震え始める。テーブルの下で、彼が両手の拳を堅く握りしめていることに、ちか子は気がついた。 「今の君の人生を支えてくれている人たちには、一切を秘密にしている。それだからこそ、美紀さんと幸せに暮らしている家のすぐ近くで青木淳子の顔を見て、君はパニックを起こしたんだ。引き出しに放り込んで健をかけて、なかったことにしておいたはずの過去が目の前に現れたから、震えあがっちまったんだ。とてもじゃないが、もう独りじゃ抱えきれない。だから佐田夫妻のところに駆け込んだ。全部ぶちまけた。青木淳子を探し出して、彼女のやっていることをやめさせたいだなんて言った。彼女が今のような処刑機械になってしまったのは、自分に責任があるんだなんて言った。そうやって吐き出せば気分がよかったからだ。違うか?」  多田一樹が身を固くしたまま叫んだ。「違う!」 「いや、違わない」牧原は冷酷に切り返した。「君の本音は全然別のところにあるんだ。本気で青木淳子を探そうなんて思っちゃいない。本気で彼女のやっていることをやめさせようなんて思っちゃいない。そんな、今の人生を丸ごと賭けて、そっくり失ってしまうかもしれないような危ない橋を渡ろうとなんかしていない。ただ、そう言ってみたかっただけだ[#「そう言ってみたかっただけだ」に傍点]。そう言って、自分の良心を満足させたかっただけだ」 「違う、違う、違う! 僕は本気で——」 「じゃあ、なぜ佐田夫妻を選んだ? なぜ警察へ行かなかったんだ? なぜ捜査当局に、君の握っている情報を全部差し出さなかった?」 「それじゃ淳子が捕まっちまう! だいいち、こんな荒唐無稽な話、信じてもらえると思わなかったからさ!」 「それは佐田夫妻だって同じじゃないか。あの人たちが、君の話を鵜呑《うの》みにしているとでも思うのか?」 「現にあなたたちに話したじゃないか!」 「そうだな。だけどそれは君の計算外のことだったんじゃないか? 佐田夫妻が、こんなに早く我々に事情を知らせて寄越すなんて、君は考えていなかった。君は佐田夫妻のホームページをあてにしていた。そこに集まる清報をあてにしていた。あのホームページを通してこっそりと青木淳子に呼びかけて、もう一度彼女に会って、危ない真似をやめるように、独りで凶悪犯を処刑して回るようなことをやめるように、説得すればいいと思っていた。そうすりゃ彼女も捕まらないし、君の良心がうずくこともない。一挙両得だ、そうだろ?」 「そんな……」 「君がもうちょっと悪知恵の働く男で、あれほどのパニックに陥ってさえいなかったなら、佐田夫妻にすべてをうち明けたりしないで、彼らのホームページをうまく利用する方法を考え出していただろうにな」  今や、多田一樹は両手で頭を抱えていた。その姿勢のまま、いやいやをするようにかぶりを振っている。 「できもしないことを、ましてや本気でやろうともしていないことを、めったに口に出すもんじゃない。青木淳子はもう君とは無縁の人間だ。君が、今になって真剣に彼女を探し、彼女をくい止めようと試みるような人間であるならば、そもそも最初から彼女を見捨てたりできなかったはずだ。彼女から逃げ出したりしなかったはずだ。確かに、君が正面から彼女に向き合ってやってさえいれば、彼女はこんなふうにならなかったかもしれない。可能性としては充分に、それはあり得る。だが、失くすものなど何ひとつなかった昔にできなかったことが、両手一杯に人生の果実を抱えた今になって、なんでできるもんか」  多田一樹はのろのろと身体を起こした。もう反撃するためではなかった。ノックアウトされたボクサーがリングから降りるために起きあがるだけの話だった。 「もうそれぐらいにしておきなさい」  ちか子はやんわりと牧原を制して、多田一樹の顔をのぞき込んだ。 「多田さん、教えていただきたいことがあるんです。答えていただけますか?」  顔を覆った手の隙間から、彼はかすれた声で答えた。「このうえ、何を訊こうというんです?」 「荒川河川敷事件の直後に、青木淳子さんがあなたを訪ねてきたと聞きました。その話に間違いはないですね?」 「ええ……」 「そのあと、ついこのあいだ彼女があなたのアパートのそばに現れるまでのあいだは、彼女とはまったく音信不通だったんですか?」 「そうですよ」 「電話も手紙も?」 「まったくありません」手で顔を拭《ぬぐ》って、多田一樹はちか子を見た。目が真っ赤になっていた。「僕も……彼女が連絡してきてくれないものかと、待ってもみたし、探してもみたんです。でも、無駄でした」 「あなたそのころ、以前にお勤めだった会社を辞めていますね?」 「ええ」 「なぜです?」 「あそこでは、淳子も一時働いていたんです。それで知り合ったんだ。だから、河川敷事件の起こったあとは、とてもいられなかった。僕のせいで……」多田一樹はごくりと喉を鳴らした。「僕のせいで、淳子はとうとう本物の殺人者になってしまった。僕が彼女を裏切ったせいで。見捨てたせいで。そう思うと、彼女を思い出させるようなもののすべてから逃げ出したくなってしまった」  牧原がまた何か言おうとしたが、ちか子は目顔で牽制《けんせい》した。 「佐田夫妻のお話では、その後しばらく、あなたは生活が荒れたということでした」  ひとつうなずき、しばらく黙ってから、彼は答えた。「それでも、淳子を探していたんです。最初のうちはね」 「河川敷事件の現場をうろついたこともあったそうですね」 「そうです。だけど手がかりなんか何もないし、素人の僕にはどうしようもない。そうこうしているうちに母が死んで、父もますますがっくり老け込んで、何ひとつ明るいことなんかなくて、そんななかであてもなしに連絡を待つだけの暮らしなんて、気が狂いそうなほど歯がゆくて、ずいぶん酒も飲んだし、半分ホームレスみたいになった時期もありました」 「よく、立ち直れましたね」ちか子は優しく言った。話を聞き出すためのテクニックではなく、この繊細そうな不幸な青年に同情を感じていたからだ。  その気持ちが通じたのか、初めて多田一樹の目尻の線がやわらいだ。彼はちか子の目を見ると、「もう二年ほど前のことになるけど、酔っぱらってトラ箱に保護された僕を、父が請け出しに来てくれたんです」 「あらまあ」 「そのときに言われました。最近、しょっちゅう雪江が夢に出てくるんだって。お兄ちゃんのことが心配だと、悲しそうな顔をして呟くんだって。それを聞いて——聞いて——」  彼の声が割れ、顔が歪んだ。 「お辛かったのね」 「それで——家に帰りました。父と一緒に」  酒をやめ、ボロボロになっていた身体を休めた。実際、肝機能障害で半月ばかり入院したのだと話した。 「退院して職探しをして、見つけたのが今の職場です」 「南さんは面倒見のいい上司のようね」 「いい人です」単純な言葉だが、実感がこもっていた。 「美紀さんも、優しい方なんでしょうね」  ちょっとためらい、また腕組みして石のように黙り込んでしまっている牧原の表情をわずかに気にしてから、多田一樹はうなずいた。「本当の意味で僕を立ち直らせてくれたのは、彼女です」  お返しに大きくうなずいてから、ちか子は訊いた。「だけど、その美紀さんにも妹さんの事件についてはまだうち明けてない?」 「ええ……」 「うち明ければ彼女に心配をかけることになるから」 「そうです」 「うち明ければ、その話を通して、青木淳子さんの記憶も蘇《よみがえ》ってしまうから」 「そうです」 「雪江さんは安らかに眠っているのだし、小暮昌樹ももうこの世にはいない。だったら、辛いことは思い出したくないと思うのは、人情ですよ」  多田一樹はまた手で顔を拭うと、「実は、美紀が妊娠するまで正式な結婚話を引き延ばしてきたのも、そのせいだったんです。付き合いが僕らのあいだだけのことならば、内々の過去の出来事も、言わなければそれで済みます。でも結婚となると、やっぱり家同士の話になるから——」 「あなたは話さなくても、あなたのお父様が美紀さんや美紀さんのご家族にうち明けるでしょうからね。なぜ、妹さんがあんな若さで亡くなったのか」 「そうです、そうですね」多田一樹は何度も頭をうなずかせると、ぎゅっと目を閉じた。 「さっき言われたとおりですよ。僕は身勝手な人間です。もう雪江のことも淳子のことも、全部封印してしまいたかったんだろうと思う。そうしたいと願う自分自身の本音さえも」 「仕方がないですよ。人間はそれほど強いものじゃありません」  弱々しく笑うと、多田一樹はぐったりと肩を落とした。 「雪江さんが亡くなったときの事情と、その後、有力な容疑者だった小暮昌樹という少年が河川敷事件で死んだということは別として、それ以外の件については、今後も美紀さんにはお話しにならない方がいいと思いますよ」  ちか子の言葉に、彼は驚いて目をしばたたいた。牧原が、ちか子の脇で小さくため息をついた。 「美紀さんだけでなく、誰にもね」 「それでいいんでしょうか」 「ええ。言わずにおいた方がいいことが、人生にはけっこうあるものです。今のあなたは、美紀さんが無事に初産《ういざん》を済ませることができるように、しっかりと彼女を守ってあげることだけを考えていればいいんじゃないですか。これはね、おばさんの忠告だと思って聞いてください」 「でも、でもそれじゃ……」 「そうですね、青木淳子さんを探すことは、あなたにはできなくなります。それはわたしたちの仕事です。それでいいでしょう?」  多田一樹は、ちか子と牧原の顔を見比べた。「つまり警察は、僕の話をそっくりそのまま信じてくれるんですか」 「念力放火のことですね?」 「ええ。世迷い言だと笑わないんですか?」  ちか子は微笑した。「正直言って、わたしにはね、多田さん、そんなスーパーナチュラルな力が実在するとは思えないんですよ。こちらの牧原刑事には、また別の考えがあるようですけどね」  牧原はむっつりしている。 「だけれど、青木淳子さんという女性が、一連の事件に関わっているかもしれないという可能性は感じます。多田さんが凄い想像力の持ち主で、何から何まで作り話でしたというのならまた困ったことになりますけどね、それだって、まあ調べてみないことにはね」  ちか子は、多田一樹の反応を何種類か予測していた。実際に返ってきたのは、そのなかでいちばん素直な反応だった。 「ありがとう」と、彼は言った。  ちか子は名刺を取り出すと、裏返し、自分のポケットベルの番号、自宅の電話番号、牧原の携帯電話の番号など、思いつく限りの連絡先を書き留めて、多田一樹に渡した。 「もしも——もしもですよ、青木淳子さんがまた現れたり、連絡してきたりしたら、いつでも結構ですからわたしたちに知らせてください。できる限り彼女の近況を聞き出して、会いたいと持ちかけてみてください」  名刺を受け取り、多田一樹は緊張した面もちに戻った。「僕があなたたちに連絡したら、それは……あなたたちに淳子を売り渡すことになるんですか」  ちか子は「いいえ」と言おうとした。青木淳子が犯人である可能性が——何しろ途方もない話だし、途方もない能力だから——半分しかない以上、ちか子たちが彼女を逮捕したり拘束したりする可能性も半分だ。半分しかないという言い方もできるし、半分あるという言い方もできる。だが、ここは「いいえ」と答えてやらねばならないと思った。  しかし、その前に牧原が答えた。「いや、違う」  多田一樹は牧原を見た。牧原も、今度は睨むのではなく、落ち着いたまなざしでその視線を受け止めた。 「彼女を売るわけじゃない。彼女を救うことになるだけだよ」  数秒のあいだ、多田一樹は名刺を手のなかに握りしめていた。それから、やっと心が決まったというように、内ポケットにしまい込んだ。 「佐田夫妻のことは心配しないでいいですよ。わたしたちの方で、多田さんは思い詰めてノイローゼ気味なのだとでも言っておきましょう。最近読んだ小説の筋書きと現実がごっちゃになってしまったんだ、と言いますかね。それでも佐田さんたちは、けっしてあなたをバカにしたり、変人だと笑ったりはしないと思いますよ」 「ええ、わかっています」 「ただ、うまく話を持っていって、ご夫妻のホームページで、あなたが、少年の起こした凶悪事件で身内を失った遺族として、今度の一連の事件の犯人に会いたがっているという書き込みを流してもらいます。青木淳子さんがそれを見るかもしれないしね」  多田一樹の顔がほころんだ。話は終わった。ちか子と牧原は立ちあがりかけた。 「牧原さん」と、多田一樹が呼びかけた。牧原は中腰になっていたが、彼の視線に引きずられるようにしてまた席に戻った。 「あなたのおっしゃったことは、正しい」多田一樹は言って、真っ直ぐに牧原を見た。  牧原は無言で彼を見返した。 「あなたの言うとおり、僕の……腹の底には、僕自身でも気づいてないような本音がありました。それは認めます」 「………」 「だけど、それでもやっぱり言いたい。あなたは見事に僕を見抜いたけれど、僕の気持ちはあなたにはわからない。けっしてわからない。あなたはたぶん凄く頭の切れる人なんでしょう。それでも、肉親を殺されて、その犯人がぬけぬけと罪を免れているのを見て、この手で報復してやりたい、殺してやりたいと願う気持ちはわからない。確かに僕は、途中で淳子と離れた。淳子の計画についていけなくなったからです。でも、本気だった。小暮昌樹を殺してやりたいと思う気持ちに、これっぽっちの嘘もなかった。それでもできなかったのは、僕が臆病だったからでしょう。だけど、殺してやりたいと思う気持ちは真実だったんです。それだけは言いたい。あなたには、あのころの僕の気持ちがわかるはずはないって」  牧原は黙っていた。彼のなかで様々な思考と感情が渦巻くのが、その音が、空気を震わせてちか子に伝わってきた。 「わかるよ」と、彼は静かに言った。「僕も君と同じ体験をしているから」  多田一樹の目が大きくなった。「え?」 「僕も君と似たような形で、幼い弟を失った。その犯人は、まだ捕まってない。弟は僕の目の前で死んだ。ほかに目撃者がなかったんで、疑いは僕にかかった」  本当ですかというように、多田一樹がちか子を見た。ちか子は目だけでうなずいた。 「そのときから、弟を殺した犯人をこの手で捕まえることが、僕の人生の目標になった」  淡々と、牧原は続けた。 「生きる目的はそれだけになった。この手で捕らえて、然るべき罰を与えることが、報復することだけが生き甲斐になった。僕は君のように——」  ちょっと詰まった。 「——途中で道を変えるチャンスに恵まれなかった。だから、人生の半分以上を棒に振ったよ」  立ちあがった。コートを取る。そのまま外へ出ていった。ちか子は多田一樹と一緒に、何も言わずにしばらく立ちすくんでいた。    街角に出て、牧原の背中を見つけるまで五分ほどかかってしまった。駅へ続く道のバス停の近くで携帯電話をかけながら、煙そうな顔をしてタバコを吸っていた。  ちか子が近づくと、彼は電話を切った。 「倉田夫人です」と言った。「かおりちゃんが今日の午後退院したそうですよ」 「家に帰ったのかしら」 「いえ、当分の間、赤坂《あかさか》のホテル住まいだそうです。夫人と二人で。連絡先は聞きました」 「お手伝いさんの江口さんは?」 「倉田氏がクビにしてしまったそうですよ」 「そう……砧さんもかおりちゃんの件からは外されたそうだし。わたしたちだけになってしまいましたねえ」  牧原は携帯電話をしまい、バス停の灰皿に吸い殻を投げ込んだ。 「黙ってましたね」と、ちか子は言った。「青木淳子さんが、あなたの探している——弟さんを殺した犯人であるかもしれないということを、言わなかったですね」  彼は骨張った肩をすくめた。「言っても仕方ないでしょう。彼を警戒させるだけだ」 「そうだけどね」ちか子はコートのポケットに両手を突っ込んだ。「牧原さん、あなたはけっして人生を棒に振ってはいませんよ」  牧原はバス停の表示を見あげるようなふりをしていた。聞こえないですよという顔で。 「だいいち、まだ道のりの半分も来てないじゃないの。わたしより十歳以上も若いでしょう」 「そんなに違いますかね」 「そうですよ」と、ちか子は笑った。彼は笑わなかったが、聞こえないふりをするのをやめて、ちか子を見た。 「彼がすべてを忘れたいと思ったのは当然だし、今つかんでいる新しい人生のなかで一緒にいる人たちに、過去のことを知ってほしくないと思うのも当然ですよ。それに、それは正しい」 「なぜそう思うんです?」 「僕は彼と逆のことをやって、見事に失敗したからですよ。僕がちょうど——彼が青木淳子と出会ったぐらいの歳のころだったかな」  口の端に苦笑が浮いた。こういうときには苦笑いをするべきだと心に決めているみたいな笑い方だった。本音は別なのだ。 「結婚したいと思った女性がいたんですよ。幸い、相手も同じ気持ちだった。だから話したんです。弟のことをね。この人に隠し事はしたくないと思ったから、洗《あら》いざらいうち明けた。一生かかっても犯人を見つけるんだと。彼女も手伝うと言ってくれた。そのときは」 「そのときはね」ちか子は言って、何度か小さくうなずいた。 「そう、そのときはね。その先の成り行きに、察しはつくでしょう、人生の先輩」 「ええ、つきますよ。弟さんのことが、あなたたちのあいだの溝になっちゃったのね」 「そのとおり」牧原は軽く両手を広げて、手品師がウサギを消してみせたときのような顔をした。「彼女は言いましたよ。僕は——憑《とりつ》かれているんだって。片時も弟のことを忘れず、弟を殺した人間を見つけて罰を与えることばかりを考えてる。人生の中心を、そんな殺伐としたことのために明け渡して、どうしてわたしを愛したり、わたしと家庭を築いたり、わたしとのあいだに産まれてくる子供を愛したりすることができるのってね。僕はできると言った。彼女はできないと言った。まるっきり噛み合わない」  ふっと笑って、 「長い年月、復讐心《ふくしゅうしん》に凝り固まっているうちに、あなたは、自分自身でも気づかないうちに、人殺しよりも冷酷な人間になり下がってしまったんだと言われました」  ちか子は首を振った。否定の意味も肯定の意味もこめず、ただ肩に積もった雪をはらうように重い話をそっと払い落とすために。 「結局、一年ばかりで別れることになりました。当時はずいぶん——恨んだけど、今じゃ、彼女は正しかったと思ってますよ。だから、多田一樹も正しかったんです」 「どっちが正しいとか、間違っているとかいう次元の話じゃありませんよ。さ、行きましょう」  バッグを抱え直し、ちか子は歩き出した。 「あなたの人生だって、まだまだこれから。それより、わたしは安心しましたよ」 「安心? 何をです?」 「さっきの話を聞いていて、あなたが青木淳子という女性を憎んでいるようには感じられなかったから」  牧原を見あげると、彼はほんの少し——そう、ほんの一瞬だけ——怯えたような顔をしていた。 「憎んでいるのかいないのか、まだわかりませんよ」と、彼は言った。「本当に彼女なのかどうかもわからない」 「そうですね」 「でも、ひとつだけ確信がある」白く凍る息と共に、彼は言った。「僕と彼女は、たぶん——よく似ているはずですよ、きっとね」 [#改段]               26         「今、何してた?」 「——そんなこと訊いてどうするの?」 「べつにどうしようってわけじゃないよ。興味があるだけ」 「用件は何?」 「素っ気ないねえ。ま、しょうがないか」 「仕事の話?」 「そうですよ、お嬢さん」 「ところでわたし、本当にガーディアンの一員になったのかしら」 「もちろんだよ。なんでそんなことを訊くの?」 「だって……資格審査とか……そういう類のものが何もないんだもの」 「バカだなあ、あるわけないじゃないか。就職試験とは違うんだよ。それに、君の能力がいかに並外れたものであるかってことも、これまでの華々しい実績についても、うちのメンバーはもうみんな知ってるよ。知ってるからこそスカウトしたんだから」 「入会儀式みたいなものもないわけ?」 「フリーメーソンみたいに? あったら楽しいだろうけどね、残念ながら何もないよ」 「あなた以外のメンバーの人たちに会う必要もないの?」 「いずれ、僕ら二人だけでは手に余る仕事が回ってきたときに、誰か助っ人が来るってことはあるだろうけど、それまではないね」 「ということは、わたしは当面、あなたと二人で行動するの?」 「そういうこと。ゴールデン・コンビだぜ」 「なんだか不安だわ」 「悲しいこと言わないでくれよ」 「あなた、ガーディアンのほかのメンバーのこと、どれぐらい知ってるの? 組織自体の構成や歴史についても、いろいろ知らされているの?」 「そういうことを気にするのは時期尚早だよ、カワイコちゃん」 「気になって当然よ。知らずに深入りするわけにはいかないじゃない」 「おやおや。わたしは自分の身ぐらい自分で守れるから、たとえ騙されてるとしてもちっとも困らないと言ったのはどこの誰かな」 「……なんでその話、知ってるの? あなたはあのもう一人の男の人と連絡を取り合ってるのね?」 「上司だからね」 「だったら、わたしもあの人に会う権利があるんじゃない?」 「それはない」 「どうして?」 「立場としては、俺が君の直属の上司だから。君は俺の顔だけ見て、俺の指示にだけ従ってればいいってわけ。会社のOLだってそうだろ? いきなり社長や重役が用事を言いつけるわけじゃない。係長や部長がいる」 「入社のときには、社長のお説教を聞かされるわよ。顔だって知ってるわ」 「君は途中入社なの。ところで君、パソコン使える?」 「わからないわ。使ったことないから」 「ということは、持ってないんだね」 「必要なかったもの」 「じゃ、買いにいこう。すぐ出かけよう。迎えに行くから」 「結構よ[#「結構よ」に傍点]」 「断る権利はないんだよ。これは業務命令なんだ。我々にとってパソコンは必需品なの。携帯電話もね」 「どうして?」 「仕事のデータをやりとりするためさ。ターゲットに関する詳細なデータや作戦指令書を、宅配便や速達で送るわけにいかないだろ? こんなふうに、電話でちまちまやってられないしね。パソコンがあれば、ネットを使ってメイルで送れる。用が済んだらさっと消せるし」 「……そんなこと、考えてもみなかった」 「心配しなくても、セッティングから使い方から何から何まで、俺が教えてあげるよ。懇切丁寧にね。一時間もあればそっちへ行けるから、髪を洗って着替えて化粧して待っててくれよ」 「こんな天気の日に、外出前に髪を洗ったら風邪をひくわよ」 「良家の子女は、デートの前には髪を洗うもんだよ、カワイコちゃん」   「頑固だなあ」  濡れた傘を閉じ、助手席に乗り込む淳子を横目に見ながら、木戸浩一は恨めしそうな顔をしてみせた。 「なんで俺のプレゼントした服を着てきてくれないんだよ?」 「理由のないものはもらえないからよ」  淳子はシートベルトの金具をカチリとはめた。バーゲンセールで買ったアクリルのセーターにジーンズ、運動靴という格好だった。ただし髪だけは軽く束ねて、あの高級ブティックのマダムが整えてくれたのと似たような形にしてある。伸びかけのうっとうしい髪をまとめるのにちょうどいいスタイルだと思ったから採用したのだ。  浩一もジーンズをはいていたが、淳子のそれとは一桁《ひとけた》値段が違う品物だろうと思われた。生成《きなり》色のフィッシャーマンズ・セーターを着て、襟首にちらりと色目のシャツをのぞかせている。彼も今日は長髪を首の後ろで束ねているが、むろん、淳子のように愛想のない黒いゴムバンドではなく、ミサンガのような凝った組紐を結んでいた。おかげで先日よりもさらに若く見え、淳子はふと、わたしたちが並んでいると、傍目《はため》には姉弟に見えるだろうなと思った。  今朝方からみぞれ混じりの雨が降り続いている。寒さも日毎に増すようだ。クリスマスまであと一週間。テレビの週間天気予報で、明日にはまた晴天が戻るが、今後さらに大きな寒気団が日本の上空に移動してくると思われ、今年は本当にホワイトクリスマスになる可能性が強いと言っていた。それも大雪になるだろうと。  淳子のアパートの前の道は細く、浩一は慎重に車をバックさせて公道まで出た。そのあいだ、淳子はまたぼんやりと、ぶらぶら揺れるピエロの人形を見ていた。と、公道に入って最初の交差点で停まったときに、浩一が不意に声をあげた。「ねえ、ちょっとさ」  淳子は何気なく彼の方に首をよじった。「なあに?」  突然、彼はハンドルから左手を離し、淳子の首に回して、ぐいと引き寄せた。シートベルトがあるので、淳子の身体は座席からほとんど離れなかったけれど、動きもとれなかった。浩一は一瞬だけ彼女の髪に顔を埋めて、うなじのあたりを軽く抱くと、またぱっと突き放し、だだっ子のように口を尖らせた。 「なんだよ、髪洗ってこなかったね?」  あまりに驚いてしまったので、ちょっと声が出なかった。生え際のあたりに、何かとてもやわらかいものが押しつけられたような感触が残っていた。頬が熱くなった。 「あれ、赤くなったね」  信号が変わった。車を出しながら、浩一が笑った。淳子は猛然と腹が立ってきて、今度はそのせいでまた言葉が見つからなくなった。「何考えてんのよ」とりあえず、やっとそれだけ言った。 「何も考えてませーん」  お気楽そうな顔である。淳子は、今は何を言ってもダメなような気がして、黙って助手席の窓の方を向いた。なんでこんなに腹が立つのか、ドキドキするのか、自分でもよくわからなかった。いや、わからないと思っていた方が安全なような気がした。 「……怒った?」にやにやしながら、浩一が訊いた。淳子は返事をしなかった。 「ボーイフレンドとか、いたことある?」  淳子は黙り続けた。 「俺はね、昔っからガールフレンドは大勢いた」  淳子は窓にぶつかるみぞれの粒を数え始めた。 「結構モテたわけよ。バレンタイン・デーなんか、下駄箱にチョコレートが溢《あふ》れてた。あ、俺の放り込まれた中学って、中高一貫教育の私立だったんだけど、いわゆる進歩的な校風っていうのかな、共学だったんだ。女子生徒の数は少なかったけどね」  あらそう、と淳子は鼻先で答えた。浩一はかまわず続けた。「でもね、なかなか思うようにはいかないもんでさ、初めて——なんていうかな、本気で好きになった女の子は、全然俺のことなんかかまってくれなかったんだ。中学二年のときね。彼女、学年中の男の子の視線を集めてるモテモテの子で、みんなが彼女にのぼせてた。でも、俺は自信があったわけ。なにしろ俺もモテたからさ。なあに時間の問題だ、そのうち必ずって。ところが、その子の本命は上級生だったんだ。野球部のエースで、結構カッコいい奴でさ、これが。誰も太刀打ちできないんだな」  淳子はみぞれ粒を数えるのをやめた。 「俺、劣勢挽回を狙って、ラブレターを書いたんだ。何日もかけて、文案を練ってね。古今東西の恋愛小説の名作から引用しまくり。おふくろは俺が机にかじりついてて、しかも自発的に本を読んでるって、喜びのあまり赤飯炊いちゃった」  不覚にも、淳子はちょっと笑った。 「最後の日にはもう徹夜でさ、仕上げた手紙は、我ながら涙が出るような名文だったと思うよ。魂を振り絞った愛の告白ね。で、翌日直接彼女に手渡した。そしたらね、二目と経たないうちに、郵便で、開封しないままそっくり送り返されてきたんだよ」  淳子は彼の方を見た。彼もちらっと横目で淳子を見ると、また笑った。 「ひどいよなあ。せめて読んでくれたっていいと思わない? 別に、手紙が襲いかかるわけじゃないんだからさ」 「女の子はそうは思わなかったのね」 「そう? そんなもん?」 「あなたの手紙を読んだら、その上級生の彼氏に対して申し訳ないと感じたんじゃない? わからないけど、十代の女の子のなかには、そういう古風で潔癖な部分があるかもよ」 「そうかな」 「そのラブレターを彼氏と二人で読まれて、笑われるよりはよかったんじゃない」 「うは! よくまあそんな悪意のある所業を考えつくね?」 「女の子のなかにはそういう部分もあるかもしれないってこと」  師走でもあり、天候のせいもあり、道は混んでいた。車は進んでは停まり、進んでは停まり、そのたびにピエロの人形がぴょんぴょん跳ねた。 「俺、腹が立ってさ」浩一は遠い目をして続けた。「その子を�押し�ちゃったんだ」  淳子の口元から笑みが消えた。  この前会ったとき、自分に他人をコントロールする力があることに気づいたのは、十三歳のときだったと言っていた。してみると、その女の子を�押し�たとき、浩一はまだ、自分の力を意図的に行使することに、あまり慣れてはいなかったはずだ。 「——無茶をしたのね」 「ハートが傷ついてたからね」浩一は、口元だけでうっすらと笑っていた。 「どうなったの?」 「デートしたんだ」 「彼女を�押し�て連れていったのね?」 「うん。最初は学校で、約束だけさせて、当日家まで迎えに行って——俺ね、彼女のおふくろさんに挨拶までしたの——で、あとはずっと、効果が切れると�押し�、切れると�押し�。彼女が我に返って、あたしウチに帰るって言い出したら大変だって思ってさ」 「——どこ行ったの」 「中学生だからね、たかが知れてるよ。でも結構高尚だったんだぜ。美術館へ行ったの。そういう場所なら、彼女の親も許してくれるだろうというのも作戦のうち」  無言のまましばらく車に揺られてから、淳子は訊いた。「楽しかった?」  ほとんどためらいや粉飾を感じさせず、浩一は即座に答えた。「全然」  それはそうだろう。淳子はちょっと目を閉じた。中学生のカップルが、ぎこちなく手をつなぎ、美術館の広い回廊を歩いてゆく姿を心に浮かべてみた。彼らとすれ違う大人たちは、初デートの幼い二人に、ほほえましさを感じたろうか。それとも、何か異様な雰囲気を覚えて、通り過ぎざま振り返って彼らの後ろ姿を見つめずにはいられなかったろうか。実は彼らが初々《ういうい》しいボーイとガールではなく、操り人形と人形使いに過ぎないということを、本能的に察知する者はいたろうか。 「おまけに、彼女を家まで送り届けて、自分の家まで帰る道々、三回も吐いちゃった」  能力の使い過ぎで、身体に負担がかかってしまったのだろう。 「バチが当たったのね」 「そういうこと」  浩一が口をつぐみ、淳子は、彼がこの悲しいうち明け話を始めることになったきっかけの言葉に戻って考えた。ボーイフレンドがいたことはあるか? 「ずっと独りだったわ」そう言った。「わたし、男の人と付き合ったことないのよ」  けっして軽々しい口調ではなく、むしろ厳粛な面もちで、浩一は言った。「そうだろうと思った」 「モテモテのあなたとは大違いね」 「君は、わざとモテないような生き方をしてきたんじゃないか」  さりげなく差し出された言葉だったけれど、それは淳子の胸を打った。 「そもそもわたし、友達がいたことないの。子供時代、ずっと転々としてたから」  淳子の力が発動し始めたのは、浩一よりもずっと早かった。彼女がよちよち歩きのころから、両親は一瞬も気を抜くことのできない生活を強いられていた。いつ、どこで、何に火が点くかわからないから。  淳子は浩一に、自分の両親と祖父母のことを話して聞かせた。父も母も能力者ではなかったが、この力について一定の認識を持っていたということ。彼らが淳子をけっして見捨てずに守り育ててくれたのは、この力が遺伝するものであり、淳子のなかに発現したそれは、彼らが彼女に与えてしまった負の遺産であると考えていたからではないかと思えること。  破壊の力を持って生まれたことで、両親を恨んだことは、淳子自身には一度もない。この先、自分の子供や孫に恨まれることもないだろうと思っている。なぜなら、そんな子供や孫は存在しないからだ。  少なくとも、淳子が両親と祖父母とその前の祖先から受け継いできた血の流れは、ここでおしまいだ。それがどんな遺伝子であれ、淳子で途切れる。彼女は子孫をつくらないし、そんな危険を冒さねばならない機会そのものが、永遠に訪れないだろう。火炎放射器と恋愛する男などいるものか。 「うちの父も母も、わたしが自分で自分の力をコントロールできるように、そりゃもう必死で仕込んでくれたの。まるで猛獣使いよ。それでも子供のことだから、感情が高ぶると勝手に火が出てきちゃって、そのたびに引っ越ししたり転校したり。どの学校でも最初から問題児扱いで、先生からも煙たがられて」 「寂しい子供時代だったんだね」  そうよ、可哀想でしょと答えるつもりだったのに、気がついたらくちびるからは別の言葉が飛び出していた。 「でも両親はわたしを愛してくれたわ」  浩一が黙って淳子を見た。それから、無言のまま首を巡らせて前方を見た。みぞれがいっそう激しく降りしきる。 「二人とも、わたしのために人生を投げ出してくれた。平凡な幸せも、出世もお金も、すべて犠牲にしてわたしだけのために生きてくれたの。どうしてあんなことができたんだろうって、今思うと信じられないくらいよ。あたしだったらできないわ。こんな厄介な力を持った子供なんて、育てられない。きっと殺しちゃうわ。だけど父も母も、一度だってわたしを見捨てなかった。最後の最後まで、わたしのこと大切にしてくれた」  灰色に凍った雨のカーテンの向こうに、秋葉原《あきはばら》の電気街のビルと明かりが見えてきた。たった今の大演説が急に照れくさくなって、淳子は笑った。「ねえ、秘密組織も秋葉原の量販店で機材を買うものなの?」 「大量販売するところの方が、万が一の場合も足がつかないの!」大真面目にそう言って、浩一も笑い出した。「そんなわけないよ。ま、経費を節約できるところは節約すべしというのが、組織の鉄則なんだよね」    口先ばかりでなく、浩一は実際にパソコンには詳しいようだった。広い売り場のなかを歩き回りながら、彼が店員と矢継ぎ早に交わす会話の九〇パーセントは、淳子には異国語のように聞こえた。 「それどういうこと?」 「今の、どういう意味?」  尋ねても、「あとで教えてあげるから」と軽くいなされるだけである。ついに堪忍袋の緒が切れて、 「うちは狭いんだから、場所をとらない小さいのがいいわ」 「それじゃパワーが足らないって」 「メイルを受けるのに、そんなにパワーが要るの? あなた、わたし向きの機械じゃなくて、自分が欲しいものを選んでるんじゃない?」 「バレたか」  結局、淳子の意見を入れたコンパクトサイズのデスクトップパソコンを買った。台車を借りて駐車場まで運び、浩一が独りで車に積み込んだ。ガイドブックやソフトもいくつか買い込んだので——浩一が必要だと主張するので——結構な買い物になった。 「こういう資金て、どこから出てるの?」 「ガーディアンの経理部」 「領収書を出して精算してもらうの?」 「左様でございますよ、お嬢さん」 「ガーディアンの資金源て何?」 「ここだけの話だけど」声をひそめ、もったいぶって顔をしかめて、「ファミリーレストランのチェーン店を経営してるんだ」  帰り道の途中で夕食をとり、そこではもうガーディアンの話も身の上話もなしで、浩一はパソコンについての基礎知識のレクチュアだと銘打ち、うんちく[#「うんちく」に傍点]を山ほど垂れた。淳子の投げる質問が的外れだと言っては笑い、理解が早いと言っては喜び、何も知らないんだねと言っては目を丸くする。淳子は涙が出るほど笑った。  ふと気がついて窓の外を見ると、みぞれは雪に変わっていた。 「ああ、でもこれは積もらないな」 「空が明るいものね」  しかし、淳子のアパートに帰り着くころには、雪はやむどころか一段と激しくなっていた。寒さに手がかじかむようだ。二人で雪をかいくぐりながら、大きな荷物を部屋に運び込んだ。 「ふーん」  腰に両手をあて、浩一は室内を見回した。 「何よ」 「確かに狭い」 「悪かったわね」 「あの小さい書棚をこっちに移せば、なんとかなるな。だけど、やっぱりパソコンデスクを買った方がよかったんじゃない?」  場所ふさぎだから要らないと、淳子が突っぱねたのだ。 「要りません。台所のこのテーブルを使えばいいでしょ?」 「それだと、飯食う場所がないじゃない」 「実は使ってないのよ、このテーブル。向こうの小さいので充分なの」 「シンプルだねえ」  場所が決まると、浩一はさっさと梱包《こんぽう》を解き始めた。淳子は壁の時計を見た。八時を回っている。 「これから設置するの?」 「早い方がいいでしょ、ベイビー。仕事は待ってくれないよ」 「どれぐらいかかる?」 「二時間ぐらいかな」そう言ってから、にやりと笑った。「心配しなくたって、襲ったりしないよ。生きたまま火葬されるの、俺だって嫌だもんね」 「バカみたい」  浩一が台所のテーブルに陣取り、淳子にはさっぱりわからないことをブツブツ呟きながらコードをつないだりボタンを押したり画面を調整したりさまざまなことをするのを、最初のうちは、気にしないようにしようと心がけていた。パソコンを入れるスペースを都合するためにいちばん邪魔になっているのが、先日彼が買い込んで押しつけた衣類やアクセサリーを入れたショッピングバッグだということがわかったので、淳子はそれを整理することに専念しなければならなかったということもある。 「もっと早く片づけておいてくれりゃよかったんだ」と、彼は文句を言った。「いいね、これでもう返品はできないよ」 「ユニセフに送ろうかしら」 「素直じゃないな」 「無料《ただ》より高価《たか》いものはないのよ」 「じゃ、こうしよう。この洋服やアクセサリーもガーディアンに払ってもらうんだ」 「そんなこと、できるわけないじゃない」 「できるさ。あのねお嬢さん、俺たちは仕事とあらば、最高級のホテルにだって行かなきゃならないんだぜ。そういうときには、フロントで怪しまれないようなちゃんとした支度が必要なんだ。つまり、これも立派な必要経費だってこと」  片づけが終わると、とりあえず淳子にはすることがなくなった。浩一は熱心にパソコンにかがみ込んでいる。話しかけては邪魔になるだろう。  淳子の住まいのなかに、他人がいる。こんなことは生まれて初めてだった。今まで誰も家に招き入れたことはなかった。多田一樹でさえそうだった。淳子が彼の住まいに行ったことはあったけれど、その逆はなかった。私生活を知られたくないと、彼女が言ったからだ。あたしは多田さんの武器だから、武器のことなんか、使用法以外に知る必要はないでしょう?  だが、もしも——もしも多田一樹が来たがったら、断らなかったかもしれない。しかし彼は来たがらなかった。一度だって。  部屋の仕切に頭をもたせかけて、淳子はしばらくのあいだ浩一の背中を見つめた。顔は見えなくても、とても楽しそうで、忙しそうで、リラックスしているように見えた。赤の他人の�誰か�が淳子の椅子に座り、淳子のテーブルに向かって、勝手知ったる気軽さで何かに夢中になっている。まるで家族のように。不思議な気分だった。淳子も女性としては背の小さな方ではないが、浩一が長身のせいだろう、家具がみんなひと回り小さく、華奢に見える。昔、ほんの短期間だけアルバイトをしたことのある家具屋の主人が、「家具は女性名詞なんだ」と言っていたことを、ふと思い出した。  ——家具ってのは女っぽいものだよ。青木さんも、結婚してご亭主と一緒に住むようになるとわかるよ。  それが、今の淳子の感じていることへの説明なのだろうか。わからない。ただ、家具だけでなく、自分も小さくなったような気分がする。そしてそれは不快ではなかった。  カーテンの隙間から外を見ると、雪はまだ盛んに降っている。冷え切ったガラスから、冷気がじんわりと伝わってきた。  コーヒーをいれよう。テーブルの脇を回って流しに近づいた。ひとり暮らしの唯一の贅沢《ぜいたく》で、インスタントではなく、ちゃんと豆を買ってきて、ドリップでいれている。香ばしい匂いを感じると嬉しくなった。 「いいね」  背後で声がしたので振り向くと、浩一がキーボードのそばに肘をついて彼女を見ていた。 「俺のためにコーヒーをいれてくれる人って、夢だったんだ」 「あなたのためにいれてるんじゃないわよ」 「またまた、意地張っちゃって」 「さっさと働いてちょうだい」 「だいたい目処《めど》はついたよ。あとは君に説明してあげるという大仕事が残ってるだけ」  二つの大きなマグにコーヒーを注ぐと、淳子は椅子を引き寄せて浩一の隣に座った。電源を入れて初動画面を立ちあげるところから、彼は説明を始めた。  しばらくすると、席を代わり、淳子がパソコンに向き合うことになった。夕食のときにレクチュアは受けていたけれど、実際に操作するのは初めてだ。頭ではわかったような気がしていたけれど、いざやってみると、マウスを使うことさえ難しくて、なかなか目的のアイコンをクリックすることができない。 「まあ、インストラクターが�ではここをクリックしてください�と画面を指したら、その場所にマウスをつかんでくっつけちゃったというおじさんよりはマシだよ」 「バカにしてるでしょ」 「習うより慣れろだよ」  メイルを受信したり送信したりする手順を覚えると、さあ次がいよいよ本題なんだと浩一は言った。 「高価《たか》いって、君は渋い顔してたけど、こいつはどうしても必要だったんだ」と、パソコンと別に買い入れた小型の箱のようなものを指し示した。コードで本体に繋がれているが、それ自体はのっぺりとしていて、ただ電源スイッチと赤いランプがついているだけだ。 「高度な音声識別入力装置ね」 「それ何?」 「君の声を認識して作動してくれるってこと」ぽんぽんと操作して、淳子の初めて目にする画面を呼び出した。「こいつで暗証登録すれば、このマシンでガーディアンからのメイルを見ることができるのは君ひとりだけってことになる。つまり、我々秘密組織にとって何よりも大切なセキュリティね」  画面には、「暗証を入力してください」という文章が表示されている。 「何にしようか」 「数字を言えばいいの?」 「いや、数字の暗証番号は、さっき僕が設定したのをあとで教えてあげるよ。これはダブルロックの二つ目で、君の声を聞いて声紋を照合して、ああ、ジュンコさんだ、メイルを見せても大丈夫だって判断するのさ。賢いでしょう」  よくわからないが、声が鍵になるということらしい。 「じゃ、何か台詞みたいなものを言わないといけないのね?」 「そう、キーワードだね」 「……�ガーディアン�でいいんじゃない」  浩一は芝居がかって人差し指を振ってみせた。 「それじゃつまらない」 「だって……考えつかないわよ」 「じゃ、俺に決めさせてくれる?」 「ヘンな言葉は駄目よ」 「コウイチさん愛してるわとか? 痛ェ!」  淳子は彼の向こうずねを蹴飛ばした。 「素足で助かったのよ」 「怖いなあ」すねをさすりながら、「実は、さっきから考えておいたんだ」  手元の取り扱い説明書をひっくり返すと、その余白にボールペンで書き留め、彼女に差し出した。  淳子は読んだ。「これ、どういう意味?」 「間違いなく、君のことだよ」  モニター画面は辛抱強く「暗証を入力してください」と表示したまま待っている。淳子はちょっとためらって浩一を見たが、うなずいて促され、渋々口に出した。 「�ファイアスターター�」  画面のなかに、声紋の波が画像で現れた。ひと呼吸おいて、内蔵スピーカーから淳子の声が流れてきた。�ファイアスターター�。 「これでいいの?」 「そう、ばっちりね」  モニターに�登録を終了しました�という文字が出たかと思うと、ぱっとひらめいて別の画面が映った。スカイブルーのバックに、身の丈ほどある白銀の剣を構えた小さな白い天使が天を指して駆けのぼってゆく。宗教画のような絵だ。 「ようこそ、ガーディアンのネットワークへ」と、浩一が言った。    いつの間にか雪は止んでいたが、アパートの外階段には浅く積もっていた。浩一は気にする様子もなく軽い足取りで駆け降りると、車の方へ歩き出しながら、空を仰いだ。 「あーあ、もっと降ってくれりゃよかったのに」  雲が流れ、動いている。空気は凍《い》てついて、耳たぶの感覚がなくなりそうだ。 「大雪に降り込められたら、泊めてくれた?」 「うちは狭いから、お風呂場で寝ることになるけど。客用の布団なんてないしね」 「もっと広いところに引っ越しなよ」 「わたしはお金持ちのお坊ちゃんとは違うの」  キーを取り出し、ちゃらちゃら鳴らしながら、浩一はちょっと首をかしげた。 「ガーディアンは、ちゃんと報酬を払うよ」  淳子は周囲を見回した。アパートの窓の大半の明かりに消えている。結局は十二時を過ぎてしまったのだから、当然だ。だが、静まり返った雪の夜に、人の声は思いのほか遠くまで届くものだ。 「そんな話、外ではやめましょう」と、声をひそめて言った。 「君は今、表向きは無職だろ?」と、浩一も小声で訊いた。 「裏向きも裏向きもないけど、とりあえずはね」小声でしゃべるために、淳子は彼のそばに近寄った。足元で、十センチほど積もった雪がさくさくと崩れた。「以前だって、喫茶店でアルバイトしてただけで、ちゃんと就職してたわけじゃなかったけど」 「そうか……。これからもそうした方がいいよ」 「働いていいの?」 「もちろん。ガーディアンの仕事は毎日あるわけじゃないからね。拘束時間の長くない仕事なら、やってた方がいい。世間体もとりつくろえるし。だけどさ——」  と言いながら、彼は淳子の肩に手を置いた。 「頼むから、俺を心配させるような職場には勤めないでね」  淳子は真顔で彼を見あげた。真っ直ぐに、少しもたじろがない強い視線を投げた。そして訊いた。「それは、わたしがあなたのパートナーだから?」  淳子の真剣さは過《あやま》たず伝わった。浩一はニヤニヤ笑いを消して、口元を真っ直ぐにした。 「そうだよ」  淳子はまだ挑むように彼を見据えていた。彼も淳子を見つめていた。  くちびるの端をぐいと吊り上げて、淳子は笑った。これは浩一の笑い方だった。彼に似せたつもりだった。 「それならいいわ」と、短く言った。  浩一は笑わなかった。まだ淳子の瞳の奥をのぞき込んでいた。二人とも、呼気が白く凍る夜の真っ白な底で、人通りも絶えた路上で、このまま化石になろうと決心したかのように向き合って立っていた。  不意に浩一が前にかがみ込むと、両腕を淳子の身体に回して抱きしめた。淳子は逆らわなかった。素直に彼の厚いセーターに包まれた肩に頭をあずけた。痩せぎすに見えた彼の身体は、意外にしっかりと淳子を受け止め、包み込んだ。彼の顎が髪に触れ、ついでくちびるが触れるのがわかった。  淳子の頭のなかには、意識してすくいあげることのできる思考や言葉は、一切存在していなかった。自分が震えていることだけを感じた。それは寒さのせいだろうと思った。少しも怖くはないのだから。震える理由など、ほかにはないのだから。  真っ白に混沌とした心の底から、たったひとつ、ふわりと浮きあがるようにして、ひとつの思いが見えてきた。淳子はそれを口に出した。 「あなたは寂しいのね」  浩一が、びくりと震えた。 「わかるわ。わたしもずっと、寂しかったから」  彼の肩を手で押しやって、頭をあげ、淳子は浩一を見あげた。彼の目が、さっきよりも暗くなったように感じられた。 「あなたはいい人よ」淳子の言葉を追いかけるように、白い息が漂った。「だけどね、これだけは覚えておいて。わたし——わたしはね、一緒に人殺しで手を汚すことができるまでは、けっして、けっして、誰にも心を許さないわ」  浩一の目が、わずかに細くなった。彼が手を動かし、淳子の頬に触れ、指先で目尻を拭ってくれるまで、淳子はそこに涙があることに気づかなかった。 「俺は多田一樹とは違うよ」  凍る息を吐きながら、浩一は言った。 「それに、俺たちがやっていることは人殺しじゃない」 「じゃあ、何だというの?」  ようやく、浩一のくちびるに笑みが戻った。 「正義の実現さ」  淳子の頬を両手ではさむと、額を寄せて、彼は目を閉じた。淳子も目を閉じた。じっとそうしていると、なぜか、互いに祈りあっているような気がした。誰のために祈るのか、何に対して祈るのか、教えられもせずわかりもしないままに。 「おやすみ」  顔をあげると、もう一度微笑んで、彼は車の方に向き直った。 「もう部屋に戻った方がいいよ。風邪をひくよ」  ドアを開けて乗り込み、エンジンをかける。走り去るまで、もう淳子の方を振り向くことはなかった。それでも、彼の車のテールライトが見えなくなるまで、淳子はその場に立ったまま見送っていた。  今、この瞬間に初めて�ガーディアン�が実体化したものに感じられた。引き返すことのできない場所まで踏み込んだのだということを、全身で感じた。 [#改段]               27          昨日のみぞれと雪で茶色くしおれてしまった植木の手入れをしていると、家のなかで電話が鳴りだした。呼び出し音からしてホームテレフォンではないようだ。ちか子は急いで家に入り、キッチンのカウンターに乗せておいた携帯電話を取りあげた。  砧路子だった。このあいだのような思い詰めた声ではなかったが、元気がない。少し話をしたいというので、ちか子はこちらへ来るようにと勧めた。 「そんなに遠くないでしょう?」 「ええ……。でも、よろしいんですか」 「かまいませんとも。今日はわたし、休んでいるんですよ。消化してない代休があったものだから」  一時間ぐらいで着くと思うと言って、砧路子は電話を切った。ちか子はてきぱきと家事を片づけると、すぐ近所の洋菓子屋でケーキを買った。  多田一樹からは、まだ連絡がなかった。もっとも、彼と対面したのがたった二日前のことだから、これは仕方あるまい。それよりもむしろ、ちか子は、昨日の冷たいみぞれと雪で、妊娠中の彼の婚約者が足を滑らせたりしなかったかどうか、そちらの方が気になった。多田一樹が青木淳子のことで心を乱し、それが婚約者にも伝わって、彼女が疑惑や不安に苦しむようなことがないかどうか、そちらの方が心配だった。  牧原は、青木淳子という女性が、必ずまた多田一樹に連絡してくると信じているようだが、ちか子は、彼と会ったあと時間が経過するに従って、その確信が揺らいでいた。一度�共犯者�になり損なった二人だ。しかも今では男の方には伴侶がおり、子供まで産まれようとしている。それを知った以上、青木淳子はかえって近づいてこなくなるのではないか。少なくとも彼女が、最初に多田一樹に接近したときに自己申告していたように、正当な義憤に燃え、多田の傷ついた心情を思いやり、不当に殺された雪江への追悼の気持ちに突き動かされて行動していたのならば、そういう女性であるのならば、たとえどれほど強力で異常な能力の持ち主であるとしても、もう多田一樹にとって自分は不要な人間であることを悟り、彼がようやくつかんだ幸せな人生をそっとしておくために、黙って離れてゆくのではないか。たった一度だけ会いに来たというのは、彼がどうしているか知りたかったからで、その目的を達した以上は、青木淳子はもう遠くへ行くのではないか。  それが女の考え方だ。ちか子はそう思う。だが一方で、多田一樹は青木淳子を見つけるための唯一無二の手がかりであるということもはっきりしている。この機会を逃したら、牧原はもう、青木淳子を捕らえることはできないだろう。だから彼の�確信�は、必死の願いでもあるのだ。  ——だけど、ねえ。  台所で湯をわかしながら、流しの縁に手をついて、ちか子は考えた。現行の法律の範囲内で、青木淳子を逮捕することはできまい。たとえ彼女が——そう、本当にその能力を持っているとしても、念じるだけで火をおこし、高熱の衝撃波で人間の首をへし折るなんて、そんな事実認定を裁判所が許すはずがない。警察には希《まれ》に、「わたしは人を呪い殺しました」と自首を望む、心の秤《はかり》の調子が良くない人びとが現れることがあるが、これはもしもその人が百パーセント正気であったとしても、「不能犯」として退けられる事柄だ。念じただけでは人は死なない。それで殺せると信じるのは自由だが、法律はそれを認めないのだ。  それなら実証しましょうと、青木淳子が警察の取調室で火をおこしてみせたとしても、それが即、彼女の超能力を証明することにはならない。なんとなれば、火をおこす方法はほかにいくらでも存在するからだ。彼女が何らかのトリックを使っているかもしれないという可能性があるからだ。そして、どれほど調べても調べてもトリックの痕跡が見つからず、青木淳子がどんな手を使っているのか解明することができなかったならば、その場合は、少なくともあの不可解な殺人の数々については、国家権力は彼女を起訴することを諦めるだろう。起訴状に「念力放火能力」と書くことはできないからだ。  牧原だって、もちろんそんなことは百も承知だろう。彼はただ、自分が心に描いてきた�真実�が、本当に事実として存在するのを確かめたいだけなのだ。警察官としてではなく、弟を殺された兄として、彼は青木淳子を追いかけている。それがはっきりしている以上、ちゃんと上司に報告することのできる事件の解決を求めている石津ちか子とは、一八〇度立場を異にすることになる。 「ごめんください」と、砧路子の声がした。  ——超能力なんてねえ。  ああややこしいと独りごちてから、ちか子ははーいと返事をした。    長身のはずの砧路子が、少しばかり縮んだように見える。なるほど、人間の外見は、確かに心の内に影響されるのだ。彼女は意気消沈しており、顔色も優《すぐ》れない。今、握手をしてみたら、初めて会ったときのような、あんな自信に満ちた手応えは感じられないだろう。 「おじさまにさんざん叱られました」  ちか子が薦《すす》めたこの家でいちばん座り心地のいい肘掛け椅子に浅く腰かけて、砧路子はグチっぽく呟いた。 「でも、かおりちゃんのことで、あなたが大きなミスをしたとは思えませんけどね」  少しばかり倉田母娘に肩入れしすぎたきらいはあったが、ちか子が読んだあのレポートなど冷静に綴《つづ》られていたし、実際問題として、砧路子は不審火の件を何も解決していないけれど、その代わり、一件全体に対して何の影響も与えていない。 「おじさまは、倉田さんから厳重な抗議を受けたんだそうです」 「かおりちゃんのお父様ですね?」 「ええ。わたしが、冷静で公正な捜査官のあるべき立場を忘れて、かおりちゃんを甘やかして、不審火の件の解決を先送りにしたって」  ちか子は驚いた。倉田氏がそういう内容の抗議をするということは—— 「じゃ、倉田さんは、不審火はかおりちゃんのせいだと思っていらっしゃるのかしら」  砧路子はこっくりとうなずいた。「最初からそう確信していらしたそうです」 「わたしも少しばかり不出来な親としての経験があるから申しますけど、それは大変なことですよ。父親が娘を疑って、警察に捜査を要請して家のなかに招き入れるとはね」  もしも倉田氏がそれほど強くかおりの仕業だと確信していたのなら、警察に頼む前に、父親として娘と話し合い、必要ならば強く教育指導をするべきなのだ。 「倉田さんの話では、かおりちゃんは奥さんの影響を強く受けすぎていて、いっぷう変わった子供に育ってしまっているんだというんです」 「奥さんの影響って……?」ちか子の頭を、ガーディアンの話や能力者の家系の話がよぎった。 「詳しいことはおっしゃらなかったそうですが、倉田夫人は神秘主義にかぶれているとかで。それって、ご夫婦のあいだでは長年の確執の元になっている問題で、これ以上かおりちゃんを奥さんの悪影響の下に置かないようにするために、倉田氏は今、離婚話を進めているところだというんです。もちろん、かおりちゃんは倉田氏が引き取ると」  倉田夫人の涙に濡れた顔を、ちか子は思いだした。「奥さんは承知しないでしょうね」 「絶対にかおりちゃんを渡さないと頑張っているそうです」  伊東警部が砧路子を叱りとばしたのは、彼女が、そうした家庭内の事情について、当の倉田氏からねじこまれるまでまったく気づかず、かおりちゃんのシンパになってしまっていたからだろう。かおりは少女らしい率直さで砧路子になついていたが、念力放火能力について語らなかったし、母親に勧めて語らせることもしなかった。その点では、砧路子は頼むに足らぬと判断されたわけである。なんだか振り回されたようで、気の毒だ。 「おじさまはこのところ外出がちで、まだ石津さんにはお会いしてないようですね?」 「ええ。一応、報告害は提出しておいたんですけれど、お話はしていませんね」 「今日うかがったのは、わたしの分とおじさまの分と、二重にお詫びするためなんです。石津さんもどうぞ、もう倉田家のことからは手を引いてください。あとはうちの署の後任が受け持ちます。おじさまもすまながっていました。わたしのような未熟者のために、正式な捜査でもないのに、オブザーバーなんていう名目だけで時間を割いていただいて、感謝しています」 「わたしは何もしてませんよ」  正確には、「まだ何もしていない」だ。これからなのだ。それなのに、これで、ちか子は公的に、倉田家の人びとに接近する口実を失ってしまったことになる。もう関わらなくていいと、伊東警部が言っているのだ。ちか子は倉田母娘のことが気になって仕方ない状態なのに、ちか子の説明を一切聞かず、砧路子が外れた以上、ちか子にももう用はないと。ひどい肩すかしをくったような感じがした。  そして、考えてみれば、伊東警部の今回の指示や指導には、今ひとつすっきりしないものがあったように思えてくるのだ。ゆっくりと自宅で落ち着いているせいか、ちか子は視界が開けたような気がした。  ちか子はもうけっして若くない。放火捜査班での今の地位も、実はかなりいい加減なものだ。手腕をかわれて抜擢《ばってき》されたわけではなく、やる気をかわれたわけでもない。組織内での複雑な政治的足し算引き算の結果、たまたま転がってきただけのポジションだ。ちか子はちか子なりに懸命に働いているけれど、戦力として強く期待されているというのにはほど遠い。  それだけに、伊東警部が荒川河川敷事件についてのちか子の意見に耳を貸してくれたことは嬉しかった。田山町の廃工場の事件が起こると、すぐに様子を見に行かせてくれたことも有り難かった。だが、冷静に考えてみれば、それで何がどうなったわけではない。伊東警部はちか子の気が済むようにしてくれたけれど、そこで何かしら成果があがることを期待していたわけではなかったようにも見える。  これで倉田家の事件からも離れれば、ちか子には毎日の細かな書類仕事や、小規模な放火事件の捜査など、元通りの日常が待っている。もちろんそれらも大切な仕事であり、おろそかにするつもりは毛頭ないけれど——。  もしもちか子が、個人的に倉田家の事件を調べ続けたいと申し出たら、伊東警部は何と言うだろうか? いやいやそれはカンベンしてくれ、石津さんだってわかるだろう、あれは本来、うちの事件じゃないんだ。路子が外れた以上、関わり合う口実もなくなってしまったしね。  伊東警部は、何を思ってちか子に倉田家の事件を投げて寄越したのだろう? 田山町の事件から気をそらせるためか? あれだって、早々に現場に行かせてくれた翌日には、さあ手を引いてしばらく様子を見てくれというパターンだった。一度は言い分を聞いてやったんだ、あんまりうるさく文句を言うなというゼスチャアか? いや、いくらなんでもそれはないだろう。多少はあったとしても、それだけではないはずだ。ほかに何かあるはずだ。  河川敷事件、そして今回の連続焼殺事件。  倉田かおりの念力放火能力。  いや、違う。ちか子は倉田かおりにそんな力があるなんて考えてもいなかった。思いつきもしなかった。教えてくれたのは牧原だ。  どきりとした。そう、牧原だ。ちか子はまず、衣笠巡査部長に紹介されて彼と会った。それは連続焼殺事件のことで会いに行ったのだ。しかし、その後倉田家の事件を回されたとき、ちか子はためらうことなく彼の知恵を借りた。ふたつの事件の様相が似ていたからだし、彼がその種の知識を——途方もなく荒唐無稽ではあるが、ちか子ひとりでは知り得ない知識を持っていたから。  砧路子もちか子も、牧原という所轄の一刑事を——変わり者で知られていて、周囲にはその能力を正当に評価する者もおらず、敬遠されて孤立無援の彼を、不自然な手続きを踏まずに、まったく管轄違いの場所で起こっている倉田家の事件に関わらせるために、ただの案内役として配置されただけではなかったか?  ——でも、何のために?  牧原に、倉田かおりを念力放火能力者だと認めさせるために。そうすれば、彼は、何も言わなくても勝手に捜査を進める。念力放火能力者がこの世に実在する証拠を求めてやまない牧原のことだ、かおりの身に何か起こったり、かおりが何かしたりすれば、けっして放ってはおかない。ちか子が降りても、彼は降りない。  そうやって——そうやってかおりの周辺の状況へ深入りしていけば、いつかどこかで、必ず彼は接触するはずだ——もしも倉田夫人の言っていることが真実であるならば——  ガーディアンに[#「ガーディアンに」に傍点]。 「石津さん?」  砧路子が怪訝《けげん》そうにこちらを見ている。ちか子はまばたきを繰り返して現実を取り戻した。「ごめんなさい、何をおっしゃってたの?」 「ああ、いえ」砧路子は照れたように薄く笑った。「大したことじゃありません。ただ、今さらのようですけど、倉田家についてちょっと調べてみたというだけの話で」 「資産家なんでしょう?」 「ええ。ですけれど、実は大きな不幸に見舞われていて」  倉田氏の母親は、彼が十歳の夏休み、一家で滞在していた蓼科の別荘に押し入った三人組の強盗に殺害されているというのである。このとき彼女の妹、つまり倉田氏の若い叔母が、倉田家の自家用車を盗んで逃走する犯人たちに人質として連れ出され、懸命の捜索も空《むな》しく、三日後に遺体となって発見された。犯人たちは約十ヶ月後に東京で逮捕されたが、直接の容疑は都内で起こした強盗傷害事件であって、倉田家の事件ではなかった。 「結局この三人は、主犯格が終身刑、あとの二人が十三年ぐらいの刑になったそうなんですけど、三人とも前科者で、しかもそれぞれに重罪なんですよ。本当なら、まだ社会に戻しちゃいけない連中だったんですね」  話を聞きながら、ちか子はじんわりと手のなかに汗が浮いてくるのを感じていた。倉田夫人の話を思い出してみる——彼女はこう言っていた——夫は、夫の父親の代からガーディアンに関わっていると。それはもしかしたら、この悲惨な体験が引き金になったのではなかったか? 「その事件以来、倉田家は警察関係者に繋がりが出来て、ずっと懇意にしていて、実は寄付金などもずいぶん出してもらっているらしいんですよ。今回、倉田さんがすぐにおじさまに会いにくることができたのも、そのへんの歴史があったかららしいんですけど……。それと、倉田さんという人は熱心な死刑廃止反対論者で、その手の集会を主催したり、雑誌を出したりしていたこともあったそうです。まあ、犯罪対策についても、ひとことふたこと言いたい人なんですね」 「そういうことだったんですか」  ちか子が上の空で呟くので、砧路子はまた怪訝そうに首をかしげた。「石津さん……」 「砧さん」 「はい?」 「あなた、もうほかの仕事に専念した方がいいですよ。伊東警部のおっしゃるとおり、もう倉田家のことはお忘れなさい。その方がいいわ」 [#改段]               28         「昨日はのんびり休んでましたね」  牧原はあまり機嫌がよくないらしく、運転が荒っぽかった。しかし、彼がこういうふうに感情を外に出すのは珍しいことで、ちか子は、これは悪いことではないだろうと思った。  二人は牧原の車で、倉田夫人とかおりが滞在している赤坂のタワーホテルに向かっていた。昨日の午後、ちか子がちょうど砧路子と話をしていたころ、牧原の携帯電話に、江口総子から連絡があった。ぜひお二人に会いたいので、時間をとってもらえないか、という。そして今日の正午、タワーホテル一階のカフェテリアでという約束をしたのだった。 「江口さんは倉田家をクビになったんじゃなかったんですか?」 「倉田氏にクビを言い渡されたんですよ」牧原は言って、ホテルの方向を示す標識を見あげた。今日も空はよく晴れあがり、北風が凍るように冷たい。上空を雲が速い速度で移動している。 「だが、倉田夫人がクビにしたわけじゃない。だから、夫人は自分のポケットマネーで江口さんを雇い直したんだそうです。倉田氏は夫人とかおりちゃんの居場所を知ってはいますが、夫人からは面会を拒否されています。夫人はホテル側にも事情を話して、離婚話が進行中の夫を近づけてくれるなと協力を頼んでいるそうですから、いっかな倉田氏でも、ひと騒ぎ起こさない限りは夫人とかおりちゃんの部屋に踏み込むことはできない。従って、とりあえず今は三人で平穏に暮らしているようです」 「かおりちゃん、学校は?」 「休学していますよ。ところで、あなたは昨日一日何をしてたんですか?」  ちか子は砧路子の訪問について話して聞かせた。彼女との会話がきっかけになってちか子の頭に浮かんだ考えについても。 「今、伊東警部に不信感を持ってるんですか?」と、牧原は訊いた。 「どうでしょうね。実は自分でもよくわからないんですよ」ちか子は頭を振ってみせた。「だけど、警部が、あなたを今回の事件に関わらせるために、繋《つな》ぎ役としてわたしを使ったということは、大いにありそうな気がするんです」 「もしもそうだったら?」 「警部の目的は何かという意味ですか? そう……そういう形で、警部はガーディアンを調べようとしておられるのかもしれません。あなたを使ってね」 「なるほどね」牧原はにやりとした。「あるいは警部もガーディアンの一員で、僕をスカウトしようとしているのかもしれない」  ちか子は(そんなバカな)というふりをして両眉をあげてみせたが、実はちっとも(バカな)などと思ってはいなかった。 「ガーディアンのなかに、現役の警察官がいたってちっともおかしくはありませんよ」と、牧原は続けた。「むしろ、いない方がおかしいくらいだ。現行の、ひたすら犯罪者に有利な法律体系の下ではね」 「ガーディアンなんて組織が実在するならば[#「実在するならば」に傍点]の話ですよ」ちか子は念を押した。「あくまで仮定の話です」 「わかりましたよ、お母さん」またにやにやしながら、牧原は言った。「ところで、ちょっと疑問に思ったんですよ。青木淳子は、連中にスカウトされてないんだろうか」 「彼女が?」 「ええ。ガーディアンと彼女の意図するところは、ほとんど完全に一致しているじゃないですか。法の網の目をすり抜けてしまう犯罪者を直接叩く。ただガーディアンは、組織の存在そのものを社会に悟られてはならないわけだから、派手な殺人事件を起こすわけにはいかなくて、事故や自殺に見せかけながら、一種の�処刑�を行ってきた。それぐらい慎重でなければ、こんなに長い間水面下に隠れて活動を続けることはできなかったはずです。ところが、一方の青木淳子は、手加減もカモフラージュもなしに、当たるを幸いに処刑を行っている。当然、彼女の行動はガーディアンに察知されているはずだ。彼らの側が、兵士としての彼女の高い能力を評価して、組織のなかに取り込もうと動き出してもちっとも不思議じゃない」 「彼女の能力って言ったって——」  牧原はおっかぶせるように言った。「石津さん、あなたがこの期《ご》に及んでまだ念力放火能力の実在を信じないのは、そりゃあなたの自由です。でも、連中は信じてるんですよ[#「連中は信じてるんですよ」に傍点]。信じているからこそ、倉田かおりを手に入れようとしているんだ。だったら、同じ能力者で、もっと大人で、もっと有能な即戦力である青木淳子に目をつけないわけがない」  渋々と、ちか子はうなずいた。確かにそのとおりだ。 「でも、少なくとも荒川河川敷事件のときや、今回の田山町を振り出しにした殺人事件では、彼女は単独行動をしてたんじゃないですか。なにしろ派手だものね」 「ええ。それは間違いないでしょう。だからこそ、ガーディアンも彼女との接触を急いだ——そして接触に成功した。今回派手にやらかしてくれたんで、連中も楽に彼女を見つけだすことができたのかもしれない」 「なぜそんなことがわかるんです?」 「彼女が多田一樹に会いに行ったからですよ」 「?」 「いったい誰が、彼女に多田一樹の現住所を教えたんです? 青木淳子は強力な異能者だが、だからって探偵としても有能なわけじゃない。彼の現在の居所を、彼女ひとりでどうやって突き止められます? それにあの日、彼女は車に乗ってやって来た。多田一樹はショックで取り乱して、あの夜の彼の記憶ときたら赤い霞《かすみ》がかかっているものばっかりだったけど、よくよく聞き出してみると、あの夜、青木淳子が車を運転しているようには見えなかったというんです。確信はないけれど、助手席に乗っていたような気がする、と。ということは、誰かが彼女を車に乗せて、多田一樹のところまで連れていったということになる」 「あなた、あのあとまた多田さんと会ったんですか?」 「会いました。この数日ね。石津さんが代休をとってるあいだにもね。彼、協力的ですよ。正直言って、事を我々の手のなかに預けることができて、ほっとしているんじゃないかな」  ハンドルから左手を離すと、上着の内ポケットを探り、牧原は手帳を取り出した。 「そこに紙が挟んであるでしょう? 広げてみてください」  ちか子は言われたとおりにした。便せんよりもひと回り大きなサイズの白い紙に、若い女性の首から上の肖像が描かれていた。 「それが青木淳子です」と、牧原は言った。「残念ながら、多田一樹は彼女の写真を持ってない。だから、彼の記憶を頼りに、うちの鑑識に描いてもらったんです。それはコピーですけど、あとで石津さんにもあげますよ」  おとなしげな女性の肖像だった。つぶらな瞳とつるりとした輪郭、優しい眉の線。充分に美人と言っていい顔立ちだが、くちびるの両端が下がっているのが気になる。普通にしていても泣いているみたいに見えるからだ。髪はシンプルなセミロング・スタイルで、肩にかかるくらいの長さだ。 「最近再会したときには、髪を束ねているみたいに見えたそうです。それに帽子をかぶっていた」 「……きれいな娘さんね」 「とてもじゃないが、両手の指に余る数の人間を殺している怪物には見えませんね」 「彼女は多田さんに連絡してきませんね。佐田夫妻のホームページにも反応している様子はないみたい」 「佐田夫妻と連絡をとりましたか?」 「ええ。それに、わたしもあのホームページをのぞいているから」  牧原がちか子の顔を見た。ちか子は笑った。「わたしが昨日休んだのは、家にパソコンを導入するためだったんですよ。主人の会社の同僚の息子さんがアルバイトでインストラクターをやっていて、お願いしたらふたつ返事で購入から設置まで引き受けてくれたんです」  砧路子が帰ったあと、入れ替わりに彼がやってきて、夕方までかかって、ちか子が自力でインターネットにアクセスしたりメイルを送ったりすることができるように指導してくれたのだ。 「今度のことを抜きにしても、佐田夫妻の活動には興味がありますしね。いい機会だし」 「恐れ入りました」 「どういたしまして。多田さんからは、ほかにも何か収穫はないんですか?」 「小暮昌樹をマークしていた当時、彼と青木淳子が二人で出かけた場所を、いくつか教えてもらいました。彼女が彼に、自分がいかに武器として優秀であるかということをデモンストレーションしてみせた場所とかね。野犬を焼いてみせたそうです」  ちか子は手のなかの肖像画に目を落とした。この娘が。野犬を。 「待ってばかりいてもらちがあきませんからね。青木淳子は多田一樹に連絡してくるかもしれないし、こないかもしれない。彼との思い出のある場所を訪れるかもしれないし、訪れないかもしれない。だから、ひとつひとつ訪ね歩いてみるつもりです」 「そうですね。じゃ、これからはわたしもその聞き込みに付き合いますよ」 「いいんですか? 僕は何をしていようと署内の誰も何も言わないけど、石津さんはそうじゃないでしょう」 「休みをとりますよ」と、ちか子は澄まして言った。「亭主の浮気と子供の成績不良でストレスが溜まってゴミ捨て場に火をつけた主婦を取調室でなだめるときぐらいしか使い道のないオバサンが休んだって、誰も気にしません」  牧原が何か言うだろうと待ってみたが、彼は黙っていた。ちらと横目で見ると、ひどく真剣な顔をしていた。 「石津さん」 「はい」 「さっきの話……僕は本気で言ってるんですよ」 「どの話です」 「警察内部にガーディアンのメンバーがいるという話です」  タワーホテルの高層棟が見えてきた。 「あなた、何か証拠をつかんだんですか?」  牧原は真顔のままうなずいた。「多田一樹と青木淳子が、日比谷公園で小暮昌樹を狙って失敗した一件について覚えてますか?」 「ええ。彼が逃げ出したんで、彼女の能力が暴走して、危うく自分たちが焼け焦げそうになったという話ね」 「あのとき、彼らは東銀座のガソリンスタンドに駆け込んで消火してもらってるんです。スタンドの店員たちはびっくり仰天したでしょうよ。昨日訪ねてみると、当時の店員の大半はもう辞めていましたが、店長は同じ人物でした。なにしろ不審な車両火災だったし、彼らが逃げるように立ち去ったあと、日比谷公園の一件をニュース速報で見たので、驚いて警察に通報したそうです」  今度はちか子が顎を引いて黙った。 「控えておいた多田一樹の車のナンバーまでちゃんと報《しら》せた。すぐに警視庁から刑事が二人やってきたそうですよ。店長始め、店員全員から事情を聞いて帰っていった。ところが一週間ほど後に、同じ刑事から、調べてみたがあれは関係ない、ご協力には感謝するという電話が入り、それっきりだったそうです」  念を押すように、牧原はちらりとちか子を見た。 「で、僕は、今さらのように日比谷公園の一件の捜査記録をひっくり返してみました」 「どうでした?」と、ちか子は敢《あ》えて尋ねた。 「ないんですよ[#「ないんですよ」に傍点]。そういう通報があったという記録も、そこに聞き込みに行ったという報告書も。何ひとつ、きれいさっぱり」  駐車場の標識の手前で、牧原は乱暴にハンドルを切って右折した。車がバウンドした。 「誰かがもみ消したんです」 「………」 「ここから先は僕の推測ですが、恐らく、このとき初めて、ガーディアンは青木淳子という能力者の存在に気づいたんでしょう。彼らだって万能の探知機を持ってるわけじゃありませんからね。事が起こらなきゃわかりません。そして、焼殺未遂事件の捜査で彼女が当局に追われることのないよう、先んじて手を打った——もちろん、ゆくゆくはメンバーに取り込むことを視野に入れた上で、彼女の身の安全を確保してやったんです。貴重な念力放火能力の保持者を保護してやったんです」  警察組織内にいるガーディアンのメンバーが。 「僕は、弟の死の真相さえつかむことができれば、警察を追われても痛くも痒《かゆ》くもない」牧原は言って、かたくなな感じで口元を引き締めた。「でも、石津さんはそうはいかないでしょう?」  牧原が地下駐車場でスペースを探しているあいだ、ちか子はずっと黙っていた。やがて、やっと彼が車を収めてエンジンを切ると、言った。「——牧原さん」 「何ですか」 「多田さんは、同棲している女性とうまくいっているようですか? 彼女には今回のこと、伝わってないでしょうね? 不安がらせてないでしょうね?」  ややあって、牧原は答えた。「大丈夫だそうです」  ちか子はにっこりした。「よかったわ。さ、行きましょう」  さっさと車を離れたちか子の後ろで、牧原が何かに腹を立てているみたいに、あるいは快哉《かいさい》を叫んでいるみたいに、勢いよくドアを閉めるのが聞こえた。    江口総子は妙にセンチになっており、ちか子の顔を見ると目を潤ませた。三人はカフェテリアの隅に席をとり、観葉植物の陰に隠れるようにして頭を寄せ合った。 「奥様とかおりちゃんはお元気ですか」  ちか子の問いに、江口総子はハンカチで目尻をぬぐいながらうなずいた。「はい、お嬢様はすっかり食が細くなってしまわれて、お痩せになりましたけれど、でも夜はぐっすりおやすみのようですし、奥様もご自宅にいらしたときよりはずっと安心してお過ごしのように見受けられます」  倉田氏が離れたからだ。少なくとも、視界からは消えたからだ。 「不審火はどうです。続いていますか?」と、牧原が頷いた。途端に、江口総子の顔が明るくなった。 「ホテルに移りましてからは一度もございません。わたくしがおそばを離れておりましたあいだも、何事もなかったと奥様が」 「それはよかった」  これもやはり、かおりが精神的な安定を取り戻したからだろう。 「今、お二人は?」 「お嬢様は室内プールで泳いでおられます。奥様もご一緒に」江口総子はおろおろと周囲を見回すと、うかがうように牧原を見た。 「奥様は、牧原さんのことをとても信頼していらっしゃるようでございますね?」 「夫人がそうおっしゃったんですか?」 「はい。わたくしが、これからご相談したいと思う事柄を奥様にうち明けましたとき、それならぜひとも牧原さんにお話しなさいと薦められました。本当なら、この場に奥様も同席していただきたかったのですけれども、お嬢様の耳には入れたくない話ですし、だからといってお嬢様をお部屋でお一人にするわけにも参りませんし」  江口総子を勇気づけるために、ちか子は彼女のそばに椅子を寄せて座り直した。「どうぞ、何でも話してください」 「はい」江口総子はまた目尻を拭う。「わたくし、つい先日旦那様に呼び出されました」 「倉田さんに」 「はい。会社の方へ来るようにと。うかがいましたら、もう秘書室の方も皆さんおられなくて、旦那様お一人でした。折り入って話があるのだとおっしゃいまして」  かおりを連れ出してくれないかと頼まれたという。 「奥様と旦那様が離婚のお話し合いをしていることは——」 「ええ、知っています。夫人は強く離婚を望んでおられるようですね」 「はい」と、深くうなずく。「財産も何も要らない、お嬢様だけ連れて別れたいとおっしゃっています」 「しかし、倉田さんもかおりちゃんが欲しいわけだ」 「それはその……お父様でございますからね、お気持ちはわかります」少しかばうような口調になって、「ご夫婦のあいだのことは、わたくしにはわかりません。奥様があれほど思い詰められるまでには、きっといろいろなご事情がおありだったんでしょう。でも、ことお嬢様に関しては、旦那様も奥様に負けないくらいに深い愛情をお持ちでした。お嬢様に手をあげたことなど一度だってございませんし、声を荒らげたことさえないんです。不審火が始まりましたときも、警察に調べていただこうと言い出したのはわたくしで、旦那様は反対なさいました。かおりは繊細な子供だから、知らない人間に囲まれて質問責めにさせたくない、それよりも、引っ越したり転校したりして、まず環境を変えようと」  ちか子は牧原の顔を見た。彼は両手を揃えて鼻先に指をあて、じっと江口総子を見守っている。 「それで……あの、旦那様がおっしゃいますには、奥様はご病気だと」 「病気?」 「はい。心を病んでおられるのだと。実は、一連の不審火も奥様のせいではないかと、奥様が人を使ってあんなおかしな小火を起こさせているのではないかと、旦那様はずっと疑っていたとおっしゃいますの」 「何のためにです?」 「お嬢様を独り占めするためです。外の社会に出さないようにするためです」江口総子は二人の顔を見回した。「現に、今もこうしてお二人でホテルに閉じこもって、お嬢様は学校もお休みしているじゃないかと」 「だから、夫人のその病的な愛情からかおりちゃんを解放したい、連れ出してくれという依頼なわけですね?」  江口総子は肩の荷をおろしたようにほうっとうなずいた。「左様でございます」 「しかしあなたは引き受けなかった」 「はい……考えさせてくださいとお答えしました。わたくしには難しいことですと申し上げまして」 「倉田氏は、どんな報酬を約束しました?」  江口総子の顔が青くなった。「わたくしは——」 「ええ、わかっています。あなたはそんなものに釣られたりしなかった。だからこそ、倉田氏からそういう申し出があったことを夫人にうち明け、こうして我々に相談してくれた。そうですね?」 「はい……」 「倉田氏は、見返りに何をあげると言いましたか?」 「お金を」消え入りそうな声だった。「三千万円です」  ちか子は息を吐いた。「大金ですね」 「はい、しかもそれだけじゃないんです。あの……わたくしには、老人ホームに入っている母がおります」江口総子はうなだれた。「もう十五年も病みついておりまして、介助なしでは生きてゆくことができません」 「江口さん、ほかにご家族は?」 「わたくしは独身です。兄弟姉妹もおりません。母の面倒は、わたくしがみるしかないんです。結婚など、考えたこともありませんでした。わたくしは母のためだけに生きてきたんです」  江口総子の顔に、初めて、疲れ果てたような、諦めきったような、そしてわずかに無念そうな色がよぎった。 「その母を、もっといいホームに移せるように、旦那様が手配してくださるとおっしゃいました。そこで母が亡くなるまで、終身面倒をみてあげる、お金は一切心配しなくていい、三千万円は、あなたがあなた自身のこれからの人生設計のために使いなさいと」  あまりにも魅力的すぎる申し出である。 「心が動かなかったんですか」  牧原の冷静な問いに、江口総子は目をしばたたかせ、悲しげに首を振った。 「動きました……動かないわけがありません。でも、奥様を裏切るわけにも参りません。わたくし、ずっと良くしていただいてきました。倉田の家にいるあいだ、嫌な思いなど一度だってしたことはありません。わたくしには、奥様が心の病気を患《わずら》っておいでのようには見えません。ええ、全然見えません。奥様はお優しい方です。わたくし……奥様のおそばで働かせていただいてきたおかげで、どんなにか孤独を慰められたか知れません。そんな奥様を殺して、お嬢様と引き離すような企てに手を貸すことはできません。そんなことをすれば、わたくし一生後悔します」  ごく平凡な、とりたてて特徴もない普通の人間が、人生のある局面で、驚くほど強靭《きょうじん》な善良さを見せることがある。ちか子は今それを見ていた。  江口総子はぽつりと落とすように言った。「旦那様にはお断りいたしました」 「いつですか?」 「昨日です。お電話をいたしまして」  すると倉田氏は、江口総子にこう通告したのだという。 「仕方がない、できるだけ穏便なやり方をしたかったからあなたを頼ったのに、断られたとあっては、もっと厳しい手段をとらなければならなくなった、とても残念だとおっしゃいました。それは冷静なお声で、わたくし怖くなってしまいました。それで奥様にうち明けました。あの……」また、彼女の目がおろおろと動き出した。「これからどうしたらようございましょう? 旦那様がおっしゃる手厳しい手段というのは、法律を盾にしてお嬢様を奥様から奪い取るということなんでしょうか。それとも、奥様をお嬢様から引き離すように、何か細工をなさるということなんでしょうか。わたくし、どうやったら奥様とお嬢様をお守りすることができますか?」  牧原がじっと考え込んでいるので、ちか子には江口総子の震えるような息づかいが聞こえた。 「離婚の話し合いには、双方とも弁護士を立てているんですよね?」ようやく目をあげて、彼は訊いた。「夫人の弁護士は、夫人に信頼されているようですか?」 「はい。ご結婚前からお付き合いのある先生です。元はご実家の病院の顧問弁護士で」 「それなら、法的な措置を仕掛けてこられた場合には、ちゃんと対抗することができるでしょう。かおりちゃんが夫人と一緒にいたがっている以上、法的措置で無理に引き離すことはできませんよ」 「そうですか……」 「問題は、もっと直接的な手を打ってこられた場合です。かおりちゃんを強引にさらってゆくとかね」 「そこまでやるでしょうか」と、ちか子は呟いた。「倉田氏も、社会的な体面があると思いますよ」 「人を使ってやらせることはできますよ」 「あの、それならば、ここにいては危ないですね? 旦那様はこのホテルのことをご存じです。旦那様の知らないところに逃げた方がようございますよね?」 「夫人の実家へ移ることはできませんか? それがいちばん安全ですよ」  江口総子は自分のことのように面目なさげな顔をした。「それができれば……」  そうか。ちか子が後を引き取った。「そうですね、それができれば最初からホテル住まいなんかしていませんよ。何かご事情があるんですね?」 「はい。ご実家を継いでおられる奥様のお兄様が、近々市長選に出馬するご予定がありまして……」  倉田夫人が実家へ逃げ込み、そこへ倉田氏が乗り込んでいって騒動を起こしたりしたら、とんだスキャンダルだ。倉田氏の方は、当然夫人の実家側のそういう弱点を承知しているだろうから、夫人が実家に逃げてくれた方が、遥かに事が運びやすくなる。 「それなら、むしろ都心から動かない方がいい」と、牧原は言った。「二十四時間、大勢の人間がまわりにいる場所の方がいいです。下手に地方に、しかも土地勘のないところに逃げたりしても、かえって不利になるだけですよ」 「でも、ホテルは替わった方がいいですか?」 「替わっても、探し出されればそれまでだ。イタチごっこですよ。いたずらに逃げ回るだけのことになってしまう」 「でも……」 「今現在、このホテルの対応はどうです? 夫人の事情を理解した上で、保護してくれているんでしょう?」 「はい、それは親身になって」江口総子は、なぜかしらちか子の方に目を向けた。「このホテルの支配人は、女の方なんです」 「女は女同士ですからね」と、ちか子も受けた。 「それならなおのこと、うっかり他所《よそ》へ動かない方が賢明です。替わった先のホテルで、同じような協力が得られるとは限りませんよ。ただし、今まで以上に注意して、外来者を入れず、外出を控えて、ホテルから外に出ないようにして生活してください。そうすれば、倉田氏側だっておいそれとは手を出せません。もちろん、我々もできる限りの協力をします。もしも誰かが押しかけてきて手に余ったら、すぐに連絡してください。駆けつけてきて、必ず追い払いますから」  ちか子も江口総子の小さな目を見つめてうなずいた。 「それならわたくし……わたくし、しっかりしなくてはいけませんね」 「そうですよ。あなたが砦です。ところで江口さん、あなたカメラは好きですか?」  牧原の突然の問いに、江口総子だけでなく、ちか子もきょとんとした。 「カメラ——でございますか?」 「ええ。写真を撮るのは上手いですか」 「さあ……わたくし旅行もしませんし、写真はさっぱり」 「よろしい。それなら僕が教えます。機材を仕入れて、小一時間経ったらまたここへ戻ってきて、フロントからあなたを呼び出します。そしたら降りてきてください」 「江口さんに何をさせるんです?」  もう立ちあがりかけながら、牧原は答えた。「超小型カメラで、ホテル内に出入りする人間の写真を撮ってもらうんですよ。倉田夫人とかおりちゃんに近づいてくる人間です。ロビーとか、プールとか、レストランで隣り合わせるような人間です。部屋に出入りするボーイや清掃担当者も撮ってください。そうしておけば、もしも見慣れない人間が入り込んだらすぐにわかるでしょう? カメラはうんと小さくて、ペンダントみたいな造りになっていますから、上手に扱えば誰にも気づかれませんよ」  江口総子は、少しばかり当惑し、少しばかり勇気が出たように、拳を握った。「わたくしにできるかしら。いえ、やらなくちゃいけませんわね。まるでスパイみたい」  心なしか、ここに来たときよりは元気づいた足取りで去ってゆく彼女を見送って、ちか子は訊いた。 「近づいてくる人間のなかに、ガーディアンのメンバーがいると思ってるんですね?」 「たぶんね。そのなかに知った顔が混じっている確率は、大隕石《だいいんせき》が地球に落下してくる確率より少ないだろうけれど、でも資料にはなりますよ」 「このままでは、わたしたちの手札《てふだ》は少ないままだものね。あなたはカメラの調達に行くんでしょう? わたしはそのあいだに、あなたが多田さんから聞き出した�二人の思い出の場所�とやらを二、三当たってみますよ。リストをくださいな」 [#改段]               29          帰宅すると、パソコン画面が新しいメイルの着いたことを報せていた。淳子はコートから袖を抜きながら画面にかがみ込み、声をかけた。 「�ファイアスターター�」  画面が切り替わり、ブルーのバックに天使の図柄が出た。メイルのアイコンをクリックして開く。石油ストーブに火を点けてから戻ってみると、人物の顔写真が三枚並び、その脇に年譜風の文章が並んでいた。どうやら、この人物たちのプロフィールのようだ。  写真は三枚とも女性、正確に言うならば女性二人に少女が一人だ。江口総子という、プロフィールの実年齢より五歳は老けて見える地味な女。倉田|由希子《ゆきこ》という、実年齢より五歳は若く見える美しい女。そして少女は倉田かおり、由希子の娘だ。十三歳。母親似の美少女である。  プロフィールの最後に、この三人が現在、赤坂のタワーホテルに滞在しているという一行があった。淳子はつと眉をひそめた。この年齢の少女が母親とホテル暮らしか。友達が遊びに来たがったらどうするんだろう?  画面をスクロールさせて最初から読み直していると、電話が鳴った。 「やっと帰ってきたね」浩一の声が聞こえてきた。「どこ行ってたのさ? 電話するの、さっきからこれで五度目だぜ」 「混んでたのよ」 「スーパーが? コンビニが?」 「美容院よ」  不謹慎に陽気な口笛が聞こえた。 「いいことだよ。やっぱり女性は美しくなくちゃ」 「その台詞《せりふ》は、同僚によるセクシャル・ハラスメントだわね」と言ったが、淳子は笑った。 「俺たち、同僚?」 「そうじゃないの?」 「恋人かと思った」 「言ったでしょう、わたしは——」 「わかったよ、一緒に危ない橋を渡るまでは誰にも心を許さない。氷のお姫様だ」  それは正確な引用ではない。淳子は「一緒に人殺しで手を汚すまでは」と言ったのだ。浩一のこの言い換えが、たとえ無意識のものだとしても、彼女にはわずかにひっかかった。だが、ひっかかった次の瞬間には振り払っていた。だから笑みも消えなかった。消さないようにしたのだ。彼の一語一語をいちいち検証しているわけにはいかない。そんなことをしていたら、信頼感など最初から育たないだろう。この人はわたしのパートナーなのだ。やっと出会った理解者なのだ。 「ところでこのメイル、なあに?」 「今回のお仕事。実はね、残念ながらあんまり危ない橋じゃないんだ。彼女たちはターゲットじゃない」 「良かったわ」淳子は本気で言った。「まさかとは思ったけど、わたし、こんな子供を手にかけるのは嫌だもの。この子がケタ外れに凶悪な殺人鬼ででもない限りはね」 「そんなこと気にするの?」 「するわ。当然よ。あなたは気にならないの?」 「気にしてたら、今までやってこられなかった」そう言ってから、ひょうきんな口調に戻って言い足した。「まあ僕は、君と違って、ストレートに破壊的な力を使うわけじゃないからね」  今度は努力の甲斐なく、淳子の口元から笑みが消えてしまった。声が低くなった。「あなた、子供を殺したこと、あるの?」  即座に返事がかえってきた。「ないよ」  嘘だと思った。問いつめたい衝動と闘うために、淳子はしばらく黙った。 「なあ、話を進めてもいい?」 「……いいわ」 「今回のミッションはね、マン・ハントじゃない。ヘッド・ハントなんだ」 「なんですって?」 「僕ら、仲間をスカウトに行くんだよ」 「この三人を? この人たちがガーディアンの仲間に? だいいち、新米のわたしがそんなことしていいの?」 「最後の質問から答えるならばですね、お姫様、いいんだよ[#「いいんだよ」に傍点]。というより、君にこそふさわしい仕事なんだ」 「なぜ?」 「この十三歳の女の子が、君と同じ能力者だからさ」  一瞬言葉を失って、淳子はぽかんと口を開けた。モニターのなかから、かおりという美少女の瞳が、物問いたげにじっと見つめている。 「もしもし、聞いてるかい?」 「この子も火を点けるの[#「この子も火を点けるの」に傍点]?」 「君に比べたらマッチみたいなもんだけどね。でも将来性はあるよ」  淳子は思わず手を頬に当てた。「同じ力を持ってる人間に出会うのは初めてよ」 「おめでとう。俺はまだそういう経験ないんだよね」  倉田かおりのプロフィールを読み直す。今度は流し読みではなく、一行一行確かめるように、文章の切れ目切れ目に少女の顔写真を見つめながら。  裕福な家の娘だ。ただの成金ではなく、育ちもいい。淳子と同じように一人っ子だ。 「ねえ……」淳子はモニターに向かって目を細めた。 「何だい?」 「目的はこの子一人なのね?」 「そうだよ」 「この子をガーディアンのメンバーに迎え入れる?」 「そういうこと」 「それはつまり、こんな幼い女の子に、犯罪者を狩る手伝いをさせるってこと?」  淳子の声が尖っていることに、浩一は敏感に気づいたようだ。吹き出した。 「おいおい、まさかそんなことがあるわけないじゃないか」  彼の笑い声を聞いて、淳子も急に力が抜けた。「そうよね、そんなことあるわけないわよね」 「僕らはそれほど人手不足じゃないよ。今回のミッションは、むしろ彼女を保護するためのものなんだ」  この、寂しげなまなざしの女の子を。 「保護する? ねえ、そういえばこの子のお父さんはどうしたの? 倉田さんという人。ここにはプロフィールがないわね。江口総子という人はお手伝いさんなんでしょ? なぜ父親のデータがないの?」 「父親は既に僕らの仲間だから。もうひとつメイルが来てない?」  淳子はファイルを確認した。来ている。 「ちょっと待って。今見てみるから」 「そっちの方に、かおりちゃんを取り巻く現在のフクザツな状況と、彼女の能力の発現状態についてのレポートが入ってるはずだよ」  浩一の言うとおりだった。びっしりと横書きの読みにくい画面だが、淳子はできるだけ急いで目を通した。  父親はこの特異な力を持つ娘を�ガーディアン�の保護下に置きたがっている。母親はそれに反対し、離婚を申し出、娘を連れて赤坂のタワーホテルで一種の籠城を決め込んでいる——どうやらそんな事情であるらしい。  資料で見る限り、倉田かおりは、淳子よりはずっと�奥手�の能力者であるようだ。発現が遅い。従ってまだ念力放火能力をコントロールする技術を身につけておらず、彼女のまわりでは不審火が相次ぎ、怪我人まで出て、警察も調査に乗り出している。淳子は舌打ちした。「親は何やってるのかしら」 「夫婦仲が良くないことが、かおりちゃんの精神状態を悪化させている」と、浩一は言った。「不審火はそのせいさ」 「大人が教えてあげなきゃいけないのよ。能力をコントロールするコツをね。別に難しいことじゃない。基本的には感情をコントロールすることと同じなんだもの。かんしゃくを起こしやすい子供や、落ち着きがなくてすぐに騒ぎ始める子供を躾《しつ》けるのと似てる」 「君のご両親はそうやって君を躾けた?」 「そうよ。いろいろな方法を考えてくれたわ。どうしても我慢できないときには、どうしたらまわりの人たちに気づかれずに熱を放射することができるかっていうテクニックまでね。あたし、学校にいるときは、よくプールを利用したものよ」 「君、そういうノウハウを教えられるよね?」 「この子に? ええ、できると思う。ぜひやらせてほしいわ。このままじゃ危険よ」 「そうこなくちゃ」浩一の声が弾《はず》んだ。「実はね、倉田かおりの身柄を早急に保護しようという計画が生まれたのは、君が僕たちのメンバーになってくれたからなんだよ。これは倉田氏の強い希望でもあってね」  確かに、淳子ならばほかの誰よりも親身になってこの少女の面倒をみることができるかもしれない。理解することができるのだから。少女の力と、その力への畏怖を。 「だけど、訓練が必要なのはこの子だけじゃないわ。親も一緒よ。何をゴタゴタしてるんだか知らないけど、子供のことなんだから、責任持って一緒にいてくれなくちゃ」 「それは——」浩一がちょっと詰まった。「すぐには無理だと思うんだな」 「どうしてよ」 「だからホラ、先に夫婦の問題を解決してもらわないとね」 「子供のことの方が優先よ」 「そうはいかないんだよ」浩一が淳子に聞こえるようにため息をついて見せた。「その資料にもあるとおり、母親は娘をガーディアンのメンバーにすることに反対してる。だからしばらくのあいだは彼女を娘から引き離して説得しなくちゃいけないんだ。今の状態では、念力放火能力を使いこなせるように訓練します、それがかおりちゃんのためですよって説明しても、素直には聞いてくれない」 「そうとは限らないじゃない。母親なら、それが娘のためだと説得すれば、きっと理解してくれるはずよ。この子には早急に訓練が必要なのよ!」 「それはわかってるよ。落ち着いて——」 「落ち着いてなんかいられないわよ!」受話器を持ったまま、思わず立ちあがった。はずみで、軽い電話機がテーブルから転がり落ちた。「現に怪我人が出てるじゃないの! 放っておけば、死者が出るのは時間の問題よ。あなたたち、この子に人殺しをさせる気? まだ子供なのよ、それがどんなに大きな心の傷になるか、想像してみたことがあるの?」  淳子の心の底の小さな部屋の隅に、古いビックリ箱がしまってある。それがそこにあることはわかっている。だからいつも意識して近寄らないようにしているのだ。それなのに今は、意志の力に逆らって、心のカメラがどんどんそのビックリ箱に近づいてゆく。ズームアップする。待っていたようにビックリ箱の蓋が開く。そうだ、ビックリ箱は待っている。淳子が蓋を開けるのを待っている。執念深い復讐者のように待っている。  ぽん。鈍い音がする。飛び出してくるのは火だるまになった小さな男の子。宵闇の公園の滑り台の手すりの冷たい感触。頬を濡らす涙の味。男の子は炎に巻かれて踊り出す。恐怖に見開かれた眼球が溶けてゆく。肉の焼ける臭いが立ちこめる。そして誰かの恐ろしい悲鳴が聞こえる——ツトム、ツトム、ああ大変だ、いったいどうしたんだよツトム——  わざとやったんじゃないの[#「わざとやったんじゃないの」に傍点]、わざとじゃないの[#「わざとじゃないの」に傍点]、そんなつもりはなかった[#「そんなつもりはなかった」に傍点]。  淳子は息を切らし、両足を床に踏ん張って、空いた手の拳を握りしめていた。電話線のなかを沈黙が流れる。 「——大丈夫?」と、浩一が静かに問いかけた。 「今、大きな音がしたね」 「電話が落ちたの」拾いあげて、元の場所に戻した。手が震えていた。 「こういうときでも、君は家のなかのものに火を点けたりしないんだよね」 「だから、それが長年の訓練の賜物だと言ってるの」ひとつ深呼吸をして、今度は意識的に、手の震えを身体の内側に押し返すために拳を握りしめた。「あたしと同じように、この子が能力を制御できるようにしてあげなきゃいけないわ。不用意に人を殺さないように」 「淳子」と、浩一が初めて彼女を呼び捨てにした。「昔、そういう経験があったんだね?」  黙っていようか。いいえと答えようか。それともすべてをうち明けようか。短いあいだにめまぐるしく迷い、結局いちばん簡単な道を選んだ。 「ええ、そうよ。だけどそのことは話したくない」 「わかった」  急に泣きたくなってきた。こんなに気弱になったのはいつ以来だろう? 今になって、どうしてだろう? 電話でなければいいのにと思った。彼がそばにいてくれればいいのに。そばにいて、一人ではどうしても止めようのないこの震えが止まるまで、抱きしめてくれたらいいのにと思った。 「この子の面倒は、俺たちでちゃんとみてあげられるよ」慰めるように、浩一が言った。「覚えてる? 俺が河口湖に家を持ってるってこと」 「ええ」 「かおりちゃんを連れて、そこへ行くんだ。かおりちゃんが、君の目から見てもう大丈夫だと言えるところまで訓練を積むまで、そこでのんびり暮らす。まわりは雪と氷だらけだから、訓練には最適だと思うよ」 「どうしても親と引き離さなきゃならないの? せめて母親だけでも——」 「残念ながら」浩一は本当に辛そうに言った。「それができるなら、わざわざ僕らがかおりちゃんを連れ出して保護しなきゃならない理由もないんだ」  淳子はもう一度倉田母子の顔写真を見た。面差しの似た母と娘。 「母親はかおりちゃんを殺すつもりだ」と、浩一は言った。「そして自分も死ぬ。そこまで思い詰めてる。現に何度か試みてるんだ。一刻も早く手を打たないと、手遅れになるよ」  そういうことだったのか。淳子は受話器を握り直してうなずいた。「わかったわ。それなら反対しない」 「仕事は明日の夜だよ」 「ホントにすぐなのね」 「時間がないんだよ。難しいミッションでもないしね。荒事《あらごと》は起こらない。ちょっと説得が必要なだけさ。細かい段取りのために、一度会わなきゃならない。下見を兼ねて、タワーホテルのレストランで落ち合おう。俺たちより先に、かおりちゃんたちの周辺を調べていたメンバーに接触しないといけないし」  木戸浩一以外のメンバーに、淳子は初めて会うことになる。 「また迎えに行こうか?」 「結構よ、待ち合わせましょう」  浩一がいつもの調子を取り戻した。「ところで、どんな髪型にしたの?」 [#改段]               30          あれこれ迷った挙げ句、淳子は深みのあるワインカラーのニットのワンピースを選ぶことにした。身につけてみると、きまりが悪くなるくらいに丈が短かく、やっぱりよそうかと思ったけれど、まごまごしているうちに時間がなくなってしまっていた。仕方がない、思い切ってコートを引っかけると、外に出た。  地下鉄のなかでは、窓ガラスにぼんやりと映る自分の姿ばかりが気になって、危うく赤坂見附《あかさかみつけ》で降り損ねるところだった。約束の午後六時まであと十分。タワーホテルまで早足でブーツの踵を鳴らして歩き、ロビーへの入口で、回転ドアから出てきた若いビジネスマンが、すれ違いざまにこちらを振り返ったことに気がついて、少しばかりいい気分になった。あれは断じて、�なんていうおかしな格好をした女なんだろう�という振り返り方ではなかった。もっとずっといい振り返り方だった。男性に、あんなふうに目で追われることなど、生まれて初めての経験だ。  レストランは中二階と最上階にあったが、浩一が指定したのは中二階の方だった。イタリア料理がメインのようだ。迎えに出てきたウエイターに木戸の名前を告げるよりも先に、庭園に面した窓際の四人掛けの席で浩一が軽く手を振っているのを見つけた。今日もやはり、カジュアルだが金のかかった服装をしている。 「道々、うるさくて仕方なかったんじゃない?」淳子が椅子に落ち着くと、彼は上機嫌で言った。「男どもに口笛を吹かれてさ」  淳子は鼻先をツンと上にあげ、澄ました顔をつくってみせた。パーマをかけたばかりの髪が首筋でやわらかく揺れた。 「その髪、よく似合うね」 「ありがとう」 「その服も、さ。やっと封を開ける気になってくれたってわけだ」 「あなたの言ったとおり、これは一種の制服ね。仕事の時の」 「じゃ、アパートでは今までどおりの地味なジュンコちゃんに戻るわけ?」 「そうよ。あれが地のままのわたしだもの」 「今度はマンションをプレゼントしないといけないみたいだな。ハイ・クオリティのところをね。そうすりゃ、家でもヘンテコなスタイルをしていられなくなる」彼はちょっと肩をすくめた。「一緒に住めばもっと手っ取り早いんだけど」  まんざら冗談ではなさそうだったし、淳子の耳にもちゃんとそう聞こえていることを承知している口振りだった。淳子は口を閉じたままにいっと笑ってみせた。 「仕事の話をしましょ。あの子、ここに食事に来るのね?」 「予約は六時半に入ってる」ため息をついて、「育ち盛りなのに、外食続きの生活はよくないよな。やっぱりママの手料理を食べないと、ちゃんと育たないよ」 「もう一人のメンバーはいつ来るの?」 「もう来てもいいころなんだけど……」顎をあげて、入口の方を見やった。「道が混んでるのかな。今日は祭日だけど」 「そうだった?」 「天皇誕生日さ。気づいてなかったの?」 「今は勤めてないものね」 「じゃ、明日が何の日だかわかる?」  淳子は笑った。「いくらなんでも、さすがにそれは覚えてるわよ。クリスマス・イヴじゃないの」 「なあ?」と、浩一は軽く手を広げてみせた。「よりにもよってクリスマス・イヴだぜ。俺たちにとって初めてのイヴだよ。それなのに仕事を持ってくるとはね! 無粋な上司を持つと苦労が多いよ」 「何を言ってるんだか」  店内には既に八割ほど客が入っており、周囲は心地よくざわめいている。平和で、裕福で、贅沢《ぜいたく》だ。空気のなかに、スパイスの香りに混じって、人びとの�充足�の気分が匂う。それは、こういう雰囲気に慣れきった者にはかぎ取ることのできない匂い、淳子のように、外から来て初めてこのドアを開けた者にだけ、感じることのできる匂いだ。そのなかで、浩一と二人、こうして当たり前のように向き合っていることの不思議さに、淳子はふっとぼんやりした。 「どうしたの?」  目をあげると、浩一がちょっと首を傾げてこちらを見ていた。 「何でもない」淳子は首を振った。「ただ、わたし、こういう場所には不慣れなの。ずっと貧乏暮らしをしてたから」 「とてもそんなふうには見えないよ。それに、すぐ慣れるって」そう言って、浩一は微笑んだ。が、その笑みが中途半端な消え方をした。「——来た」  淳子は身を固くした。急な動作をしないよう、自分を抑えて、さりげなく肩越しに振り向き、浩一の視線の先に目をやった。そして拍子抜けした。小柄な中年の男性が一人、愛想笑いを浮かべてこのテーブルに近づいてくる。 「やあ、遅れて申し訳ない」と、その男は言った。「道が混んでいて」  男を見あげて、浩一はひどく硬い表情をしていた。だからこそ、淳子はてっきり倉田母子がレストランに入ってきたのかと思ったのだ。おかしな話だ、仲間がやって来たのに、浩一はなぜこんな緊張したような、驚いたような顔をするのだろう? 「座ってもいいかね?」男はさっさと椅子の背を引き、やっこらしょと声をかけて腰をおろした。「ターゲットはまだのようだね」  まだ眉のあたりを強《こわ》ばらせたまま、浩一が低い声で言った。「あんたか[#「あんたか」に傍点]」 「そう、私だよ」 「なぜあんたが?」咎めるような訊き方だった。「あんた、今度の件には全然関わってなかったじゃないか。そんな話、聞いてないぜ。それなのになぜ——」 「前任者が急病で倒れたんだよ」男は辛抱強く説きつけるように言った。「それで私が呼び出されたんだ。すぐには誰も動かせなくて。話をもらったのはほんの数時間前のことだが、事件についてレクチュアはしっかり受けてきた。大丈夫だよ」 「それにしたって、少し早すぎるじゃないか」  男は早々に白いナプキンを広げ、胸の前に挟み込みながら笑顔で応じた。「教訓話があるだろう? 落馬した後は、怪我が治ったら、できるだけ早くまた馬に乗るようにしなさい、そうしないと二度と乗れなくなる。そういうことさ」 「飛行機についてもそう言いますね」と、淳子は穏やかに言った。「怖い目に遭ったら、日をおかずに乗りなさいって」  男は初めて淳子と視線を合わせた。目尻のしわの深い、優しそうな顔をしていた。ちょうど、亡くなった淳子の父親ぐらいの年格好だ。さして高価ではなさそうな背広の下に、いかにも手編み風の赤いウールのベストを着込んでいる。ニッポンの良き父、良き夫の典型のような人物に見える。 「あなたが淳子さんだね」 「はい」 「噂どおりのきれいな人だ」  男が淳子を観察する視線に、不愉快な要素は含まれていなかった。それなのに、なぜかしら淳子はふと奇妙にアンバランスな感触を覚えた。この人、あたしのことを、まるで以前から知っているみたいな目をしている。以前のあたしと今のあたしを比べるみたいな目をしている。 「あの……」淳子はわずかに身を乗り出した。「前にどこかでお会いしたことがありますか?」  かたんという音がした。浩一が食前酒のグラスを倒しそうになったのだ。 「紹介するよ」あわててグラスを置き直しながら、浩一は笑った。「このおっさんが今回の第三の男さ」 「よろしく」と、男は頭を下げた。「足手まといにならないように努力するよ」 「情報さえくれれば、ミッションそのものは俺たち二人に任せてくれていいんだよ」 「そうはいかない。上からも言われてる。なにしろ、淳子さんは今回が初めてだからね」 「彼女は大丈夫だよ」怒っているような口調で、浩一は短く言った。「あんたよりよっぽど強い」 「そうだろうね」  再び、男の目が淳子の上に戻った。また、観察し直されている[#「観察し直されている」に傍点]という感じがした。 「失礼ですが、まだお名前を——」  淳子を遮り、浩一が言った。「このおっさんは、俺たちと違って名前を使ってないんだ。通称で呼んでる。何をこだわってるんだか知らないけど」 「船長《キャプテン》と呼んでください」と、男が言った。 「似合わないだろ?」 「そんなことはないけど……」淳子は微笑した。「でも、差し支えなかったら由来を教えてください。海がお好きなんですか? 船をお持ちだとか?」 「いやいや」�船長�は手をひらひらさせながら首を振った。「とんでもない」 「カッコつけてるだけさ」 「邪魔しないでよ。私は�船長�に訊いてるんだから」  �船長�と、淳子の目を見た。「私には娘と孫がいましてね。海辺に住んでいるんで、二人とも船が大好きなんです。特に孫がね」 「おいくつですか?」 「四歳ですよ。そもそもは、この子が私を�船長�と呼び始めたんです。知人に本当に遊覧船の船長をしている男がいましてね、そいつが家に遊びに来たとき、ふざけてそいつの帽子をかぶってみせたのがきっかけだったらしいです。おまけに娘が、�うちではおじいちゃんがいちばん偉いんだから、おじいちゃんが船長よ�なんて言ったもんだから」 「いいお話ですね」 「私なんぞ、家のなかでも外でもちっとも偉くないんですよ」楽しそうな口調が少し翳《かげ》り、�船長�はテーブルに視線を落とした。「だから、いつかきっと、小さくてもいいから本物の船を買ってやるよと、約束していたんですがね。そうなれば、私も本当に船長になるわけだから」  約束していた——そこだけ過去形だ。淳子は微笑んだが、さらに質問を続けていいかどうか迷いを感じた。浩一が庭園の方に目をやって、話に参加してこないのも気にかかる。何を拗《す》ねているんだろう、子供みたいに。 「ウエイターが来たぜ」浩一は、ほっとしたように足を組み替えながら言った。�船長�も、もうこの話を続ける気はなさそうだ。  軽いコース料理とワインを決め、ウエイターが去って行く。それとほとんど入れ違いに、浩一がまた「来たよ」と言った。そっと目をやると、今度こそ倉田母子だった。江口総子も一緒にいる。 「いつも、ああして三人で行動しているそうだ」�船長�が、奥のテーブルに案内されてゆく三人を観察しながら言った。「だからこそ、今回は木戸君の出番なんだよ」  淳子は魅せられたように倉田かおりを見つめていた。華奢な少女だった。そのせいか、十三歳という年齢よりも幼く見える。整った顔には生気が乏しく、少女らしいはつらつとした表情も見えない。  椅子に座りながら、母親が少女に何か言った。すると、少女の顔にぱっと笑みが浮かんだ。周囲のすべてを照らすような明るい笑顔だった。江口総子も何か言い、今度は三人で笑った。声は聞き取れないが、少女がくすぐったそうに喉で笑う様子がよくわかった。 「あんまり見つめてると、気づかれるぞ」浩一が囁《ささや》いた。淳子はうなずいて視線を外した。  食事をしながら、淳子たちは淡々と手順を確認した。ターゲットが同じ店のなかにいることさえ忘れたかのように、みな落ち着き払っていた。 「部屋は最上階のスイート、三十階の二五号室だ」と、�船長�が言った。「明日の夜、午後八時半。彼女たちは六時から、最上階のレストランでクリスマス・ディナーを予約している。部屋に戻るのが八時過ぎだろう。子供が一緒だから、いくらイヴでもそれから外出することはまずあり得ない」 「江口総子も一緒ですか?」 「一緒だ」 「スイートにあがるのに、外来者はチェックされないのかな?」 「まず大丈夫だろう。なにしろイヴの夜だからね。ホテルは一年でいちばん忙しいんじゃないか? 宿泊客以外の外来者がわんさと入り込んでくる。ただ、念のために、私と君たちは別々のエレベーターであがろう」 「ノックしても、簡単にドアを開けてくれるかしら?」 「それが私の仕事だ」�船長�は薄く笑った。 「安全そうなおっさんだからね。それに、これは昨日わかったことなんだが、江口総子は、倉田氏の手からかおりちゃんを守るために、警察に相談しているらしい」  浩一が眉をひそめた。「どこの?」 「それが面白いんだ。荒川警察署。牧原という三十歳代の捜査課の刑事なんだが、まだどういう人物なのか調べ切れていない。いくら我々の調査能力を以てしても、昨日の今日だからね」 「個人的な知り合いなのかな」 「かもしれない。案外、従姉《いとこ》の息子だとかな。昨日の午後、ここのカフェテリアで会っていたそうだ。そのときにはもう一人、中年の女が一緒だったそうだが、彼女の身元はつかむことができなかった。ホテルを出た途端に牧原と別れて、地下鉄に乗って行っちまったそうでね」 「その人が江口総子の友人で、刑事を紹介したのかも」 「あり得るね。牧原の方は、一度車でホテルを出てから、一時間ぐらいでまた戻ってきて、江口総子を呼び出し、今度は二人でスイートへあがっていった。そこで夫人にも会ったらしいよ。小一時間で降りてきたときには、江口総子ではなくて夫人が一緒だったそうだからね」 「なんだか嫌だね」と、浩一が鼻にしわを寄せた。「警察が鼻を突っ込んできてるなんて話は聞いてなかった。あんまり急ぎたくなくなってきたな」 「まあ、そう言わないでくれよ。この牧原という刑事については、そう深刻に考えなくてもいいと思うよ。一人で何ができるわけじゃない。だいたい、離婚話と子供の親権をめぐるもめ事なんて、警察が介入したがらない事件の典型じゃないか」 「明日、わたしたちがかおりちゃんを連れ出した後のフォローはどうなってるんですか?」 「それは倉田氏と倉田氏の弁護士がやってくれる。心配ないよ」 「ホテル側に怪しまれないかしら」 「怪しんだとしても、彼らにはどうしようもないよ」  計画はシンプルだった。�船長�が江口総子に、「牧原刑事からの遺いだ」と称してドアを開けさせる。すかさず、浩一が彼女を�押す�。そして彼女を操り、倉田夫人にこう伝えさせるのだ——奥様、牧原刑事が急ぎの御用でおいでになっています、お嬢様にはお聞かせしたくないことなので、ロビーまで降りていただけますか? わたくしは部屋でお嬢様と一緒におります。  夫人は階下へ降りて行く。妙に怪しんで降りていかなかったとしたら、彼女が江口総子に近づいてきたところで、ちょっと�押して�やればいい。  部屋には操り人形の江口総子と、倉田かおりだけが残る。 「彼女を安全に連れ出すためには、淳子さんの力が必要だ」と、�船長�が言った。 「同じ能力者だということを伝えて、安心させてやってほしい。我々が彼女の力になりたがっているんだということ、彼女の父親の倉田氏が、本当に心の底から彼女のことを心配しているんだということを理解させてやってほしい」 「難しそうだけど……」  淳子はまた、そっと首をめぐらせて倉田かおりを見た。少女はあまり食欲のなさそうな手つきでフォークを動かしている。夫人はワインを飲んでいる。江口総子は何か夫人に話しかけながら、胸元にさげたぶかっこうなペンダントをしきりと指先でもてあそんでいる。 「倉田夫人は酒呑みだね」と、浩一が呟いた。「育ちのいい奥様の飲み方じゃない。最近になって酒量が増えたという感じだな」 「かおりちゃんはともかく、彼女はどうなるんです? ここに置き去りにするの?」 「ロビーで倉田氏が待っている。彼の側がかおりちゃんを保護したということを知れば、夫人もおとなしく倉田氏の言いつけに従うだろうよ」  淳子は急に不安になった。「まさか、彼女に手荒なことをしないでしょうね?」  �船長�が首を振った。「絶対にしない。今のストレスから解放してあげることになるだけだ」  淳子は�船長�の顔をじっと見つめた。ついで浩一の方に視線を移した。彼はちょっと眉を動かして、口の端を吊りあげた。 「あのね、お姫様」と、彼は言った。「いいことを教えてあげるよ。俺たちはあくまでも正義の味方なんだ」  しばらくのあいだ彼を見つめてから、淳子も真似をして口の端を吊りあげてみせた。  �船長�が笑った。「君たちは気が合うようだね」 「おかげさまでね」と、浩一が言った。 「若いというのはいいことだ」と、�船長�は懐かしそうに呟いた。「時間がたくさんあるというのは素晴らしいことだよ」  失ったものを悼《いた》んでいるのだと、淳子は感じた。だがそれは、彼自身の若さではない。�船長�は何を悼んでいるのだろう? 何を失ったのだろう? ひょっとしたらそれが、今�ガーディアン�に属していることと関わりがあるのだろうか。 「彼女たちが帰るよ」  浩一の声に、淳子は目をあげた。倉田かおりが母親に寄り添って出口の方へ歩いてゆく。夫人は少し酔っているようで、少女は母親の細い腰に腕を回して支えていた。  ——おやすみなさい。  淳子は心のなかで少女に呼びかけた。  ——明日会えるわ。もう、何も怖がることなんかなくなるわ。 「あの子はわたしの妹よ」  小さく、そう呟いた。    �船長�を先に帰し、淳子と浩一は、カップルを装ってホテルのなかをぐるりと歩き回った。スイートルームのある階にも降りてみた。目的の部屋の近くまでぶらぶら歩き、そこから引き返してエレベーターに乗ると、最上階のバーに入った。止まり木に並んで、そこで淳子は、彼の選んだカクテルを飲んだ。色がきれいで口あたりも甘かったけれど、名前が面倒くさくて覚えられなかった。  もう仕事の話はしなかった。車で来たからと、浩一は強いアルコールを口にしなかったが、ほとんど酔っぱらっているような陽気さで、彼自身のこと、彼の家族のこと、今の住まいのこと、昔飼っていた犬のこと、今飼っている�ヴィジョン�という名前のシャム猫のこと、次から次へと話をして淳子を飽きさせなかった。 「猫はどっちで飼ってるの? 代々木のマンション? それとも河口湖の家?」 「俺と一緒に移動してる。一人で放っておくわけにはいかないからね」 「優しいのね」 「おや、誉めてるの? それとも妬《や》いてるの?」  淳子は彼にヘーゼルナッツの殻をぶつけた。 「ヴィジョンは牝だからね。君が妬く理由もないわけじゃないんだよ。シャム猫は色っぽいし」 「プライドが高いんでしょう?」 「まるで女王のようにね」と、彼は笑った。「僕は彼女の僕《しもべ》でありますよ」 「あなたが猫にへいこら[#「へいこら」に傍点]してるとこなんか、見てみたいわね」  カウンターに肘をついて、浩一は彼女を見た。「じゃ、見に来る?」  淳子は両手でグラスを支えたまま、しばらく彼の目を見ていた。この人、瞳の色が薄いんだわ——と、初めて気づいた。右のまぶたのすぐ上に、子供時代にもらった勲章だろう、うっすらと二センチほどの長さの傷跡が残っているのも見えた。 「その目の上の傷、どうしたの?」  浩一は手をあげ、ほとんど反射的な仕草で傷跡に触れた。「これ? 何だと思う?」 「木登りして落っこちたんでしょう」 「残念でした。僕は都会っ子だよ。自転車から落ちたんだ」 「イヤね、あなた鈍かったの?」 「失礼だな、稲妻のような速さで坂道を駆けおりたんだよ」彼は笑った。「で、ゴミ箱に衝突したの。近所の人が大急ぎでじいさんに報せてさ、もうそのころは引退してたから、一日家にいたんだよ。足が弱ってて、普段は杖ついて歩いてたくせに、あのときは速かったなあ。すっ飛んできて、俺の首根っこつかまえてゴミの山から引きずり出して、いきなり怒鳴ったもんな。�この、愚か者!�」  淳子はケラケラ笑った。なんだか目に浮かぶようだ。 「話をそらすの、上手くなったね」  淳子はグラスのなかをのぞき込んだ。もう、ほとんど空だ。 「お代わりする?」  淳子はグラスをカウンターに置いた。「ううん、別のお店に行きたい」 「え?」 「あたしの知ってるお店」止まり木から滑り降り、浩一の手を取った。「ここからそう遠くないわ」    淳子の記憶に間違いはなく、「パラレル」はちゃんとそこにあった。窓越しに、談笑する客たちの笑顔と、テーブルの上のキャンドルの灯が見える。 「ネオンを修理したんだわ」  ガラスのドアを押してなかに入る前に、淳子は頭上を見あげた。「ずっと前にわたしがここに来たときは、Pの字が消えてたの」 「左前のパチンコ屋みたいな話だね」  テーブル席は一杯で、彼らはここでもカウンターに座った。浩一はエスプレッソを頼み、淳子もそれに倣《なら》った。 「飲んでもいいのに」 「酔っぱらってるところにつけ込まれたくないもの」  彼は本気で傷ついたようだった。「そんなことはしない」  口喧嘩をした恋人同士のように、彼らは黙った。いえ、もう口喧嘩をした恋人同士なのかしら、あたしたち——と、淳子は思った。「ここには、よく独りで来てたの」呟いて、カウンターの上で静かに揺れているろうそくの炎を見つめた。「店内にたくさんろうそくを灯してるでしょ? それが好きで」 「きれいだね」  浩一はすっと周囲を見回した。 「だけど、独りで来るには不向きな店じゃない?」 「そうね。だから、一度だけ二人で来たこともあったのよ」  ゆっくりと五数えるぐらいの間をあけてから、浩一は訊いた。「多田一樹と?」  淳子はろうそくに向かってうなずきかけた。「ええ、そうよ」  話して聞かせた。淳子の力を証明するために、この店でろうそくを灯してみせたこと。外の街路に停まっていたベンツを燃やしてみせたこと。そのとき多田一樹がどんなに驚き、淳子は彼を驚かしたことは申し訳なく思ったが、それで彼の淳子を見るまなざしが変わったということには、胸がふくらむような誇りを感じたということも。浩一は淳子の思い出語りには何の感想も差し挟まなかったが、語る淳子と同じくらい遠い目をしていた。  カップが空になり、話も尽きた。時計は午前零時を過ぎた。客も半数になった。 「ねえ、あれ何だろうね」淳子は指を振り、カウンターの奥に、隠すようにして立ててあるものを指してみせた。  背の高い燭台だった。上の部分がハート型になっており、その形に添ってたくさんのろうそくを灯せるようになっている。火が点《つ》いてないと、裏側から見た大道具みたいに安っぽく見えた。  浩一が苦笑した。「披露宴のキャンドルサービスで使われるようなヤツじゃないの」  二人の会話を聞きつけたウエイターの一人が、グラスを磨く手を止めて笑顔を見せた。 「明日、使う予定なんです」 「なんで? 結婚披露パーティでもあるの?」 「いいえ、明日はクリスマス・イヴですから、カップルのお客様が多くなります。飾っておけばロマンティックじゃないかと思いまして。バレンタイン・デーにも同じようにするんですよ」  ウエイターが仕事に戻ってから、浩一は小声で囁いた。「悪《あ》しき商業主義だね」  淳子はハート型に並べられたろうそくを眺めた。その数を数えた。二十本ある。  今夜はもう、浩一の方からは誘いをかけてこないだろう。ふざけたふりをしてはいるけれど、彼の孤独を、彼の不安を、彼の寂しい渇きを、淳子は理解することができる。それは彼女の内側に、長い間、なだめられることもごまかされることも知らず、ひたすら積もることだけを強いられてきたものと、そっくり同じだから。  今日の午後、メイルを読みながら彼の声を聞いていて、どんなに心細かったか思い出した。どんなに彼が恋しかったか思い出した。知り合ってまだほんの十日ばかりだけれど、日にちや時間には代えられない何かを、彼とは共有しているのだということを思い出した。  さっき、ホテルのバーで、言ってはいけないことを言って彼を傷つけたことも思い出した。あれはわざとやったのだということも思い出した。 「ヴィジョンはあたしのこと、好きになってくれるかしら」と、淳子は言った。「どう思う?」  信じられないという目で、浩一は彼女を見た。その素朴な驚きは、淳子の心を温めた。  彼女は素直に微笑んだ。 「見て」  あの燭台を指さした。振り向いた浩一は目を見張った。  ハート型に並べられたろうそくが、すべて灯っていた。 「ひとつだけお願いがあるんだけど」 「何?」 「二人きりになったら、あたしのこと、笑わせて」  微笑んだままでいようと思ったけれど、続く言葉はあまりに切実で、くちびるが震えた。「だけどあなたは笑わないで。あたしのこと、笑わないで」  カウンターの下で、浩一がしっかりと手を握ってくれるのを感じた。 「どうして笑ったりするもんか」と、彼は言った。「約束するよ」    その約束は守られた。思いのほか居心地のいい家庭的な彼の部屋で、びっくりするくらい清潔で広いベッドで、淳子はさんざん笑い、間近に彼の瞳をのぞき込み、笑っていないときには彼のくちびるを感じ、その下に健康な歯の感触を感じ、彼の身体には、まぶたの上のほかにもいくつも小さな傷跡があることを発見した。浩一はそのひとつひとつの謂《い》われについて説明してくれたけれど、そのうち二人ともそんなことはどうでもよくなってしまった。あなたは何回自転車から落っこちたの? 何回骨折したの? 何回頭をぶつけて、何回救急車で運ばれて、何回自分で自分を傷つけたの? よくまあこうして無事でいられたわね——  それもみんなあなたが寂しかったから。あたしが自分で自分の心を削りながら生きてきたように、あなたは自分で自分の身を削りながら生きてきたから。他者と違う自分が許せなかったから。望まずに押しつけられた天性の贈り物が重かったから。誰も助けてはくれなかったから。  だけどこれからは[#「だけどこれからは」に傍点]、あたしがいるわ[#「あたしがいるわ」に傍点]。  最初は浩一が淳子を抱いていたけれど、二人で眠りにつくころには、彼女が彼を抱いていた。母のように。愛のように。    なんとなく気配を感じる。窓の向こうでさわさわと音がする。  淳子はそっと起きあがった。浩一は枕に頭をあずけて熟睡している。何か羽織るものはないかと見回すと、すぐ足元に彼のシャツが落ちていたので拾いあげた。  するりとベッドから降りると、部屋の隅の肘掛け椅子の上で丸くなっていたヴィジョンが耳ざとく起きあがって、金色の目がきらりと光った。淳子は寝室の薄闇に溶け込んだ猫のシルエットに向かって、くちびるに指を立てて「しいっ」と囁いた。 「あんたのご主人を起こしちゃ駄目よ」  シャツに袖を通しながら、窓際まで近づき、ブラインドを動かしてみた。思った通りだ。雪が降っている。珍しく、天気予報が当たった。  大粒のぼたん雪だった。先に雨が降ったのだろうか。首を伸ばしても、この高さからでは地上を見ることができない。小さく見える家々の屋根はまだ白くなっていないから、雪になってから、そう時間は経っていないようだけれど。  ——明日はホワイト・クリスマスだわ。  そう思ってから、ふと微笑んだ。自分の人生のなかで、そんなロマンティックな単語に縁があるとは思っていなかった。  窓枠に頭をもたせかけて、降りしきる雪を見つめた。最初のうちは寒かったけれど、すぐに何も感じなくなった。淳子の脳裏に、それまで考えてもみなかった事柄や、過去の記憶や、今夜初めて取り出した感情や、さまざまな映像が入り乱れて映り、消え、また映り、そうしているうちに唐突にあるところで焦点が結ばれて、気がついたら泣いていた。 「何してるの?」  不意に耳元で声がして、背後から浩一に抱きしめられた。彼の頬が淳子の頬に触れ、すぐに、びっくりしたように離れた。 「——泣いてるじゃないか」  淳子は手で頬をぬぐった。「何でもないの」  そう言いながらも涙を止めることができなかった。嗚咽《おえつ》が漏れ出して、どうしても止まらなかった。浩一は淳子をベッドまで連れ戻すと、並んで腰かけ、彼女が泣いているあいだじゅうしっかりと抱きかかえていてくれた。 「ごめんなさい」  しばらくしてようやく息をつくことができるようになると、淳子は彼のシャツの裾を持ちあげて顔をふいた。ふくらはぎのあたりを、何かやわらかくてしなやかなものがするりと撫でたかと思うと、猫の鳴き声がした。 「ほら、ヴィジョンも心配してるよ」  心得たように、シャム猫がまた鳴いた。ジャンプして浩一の裸の腿に乗ろうとしたが、彼は丁重にそれを退けた。ヴィジョンはゴロゴロと喉を鳴らしながら彼の背中にくっつくと、ころりと丸くなった。 「あたしたち、やっぱりライバルみたい」 「俺ってモテるんだなあ」  淳子が笑うと、彼は両手で淳子の髪をかきあげ、頬をはさんで、音をたててキスした。「はい、今スイッチを切ったから、もう涙は出ないよ」 「ホントかしら」 「ホントさ。これがいちばんいい治療法なんだ」笑ってそう言ってから、淳子の目をのぞいた。「……どうした?」 「本当になんでもないの。自分でもよくわからない。いろいろ考えてたら涙が出てきちゃっただけ」 「センチメンタルになったわけ?」 「そうかな」  彼の肩に頭を乗せ、しばらくそうやって、男臭い体温にすっぽりと包まれながらじっとしていた。それから言った。「助けられなかった人のこと、思い出してたの」 「誰のこと? もし、訊いてもいいなら」 「全然かまわないわ。あなたもニュースで知ってると思うもの」淳子は顔をあげた。「三田奈津子」  寝室の明かりは消えている。ブラインド越しに降りしきる雪明かりだけが頼りで、淳子にもしかとは見えなかった——が、奈津子の名前を聞いた瞬間に、浩一の顔の上に、淳子のまだ知らない未知の表情が素早く横切ったような気がした。 「浅羽敬一たちに殺された女性だね?」  問い返す彼の口調に変化はなく、さっきの表情ももう消えていた。 「ええ。彼女には恋人がいたの。田山町の廃工場で殺された男の人」 「藤川と言ったっけ」 「あの人、�奈津子を助けてくれ�と言い残していったの。だけどあたし、助けられなかった」 「——君は精一杯やったよ」  淳子は首を振った。「だけど、失敗したのは事実よ。あと一息だったのに。彼女、あたしの目の前で撃ち殺されてしまった」  浩一はさらに強く淳子を抱きしめた。「もうそんなことは忘れるんだ」 「ううん、忘れられない。忘れちゃいけないのよ」彼の胸を押して、淳子は身をほどいた。彼の両腕をつかみ、その目を仰いで、「あたしはあんなに人殺しをしたのに、結果的には奈津子を助けられなかった。みすみす見殺しにしてしまった。しかも誰が彼女を撃ち殺したのか、あたしは知らないの。そうよ、知らないの、誰だかわからないのよ」 「浅羽の仲間の一人だろうさ。あそこには何人もたむろしていたんだろ?」 「ええ、そうよ。だけどあたし、あの場で目についた限りの人間は倒したわ。もう誰もいないと思ったから、奈津子を連れて屋上へ逃げ出したんだもの」  しかし、まだ誰かいたのだ。まだ誰か残っていた。そいつが奈津子を撃った。しかも殺される寸前に、奈津子はその人物を認めて、  ——あ、あなたは。  そう言ったのだ。その�誰か�は、少なくとも奈津子の知っている人物だということになる。 「だから、浅羽の仲間だろうさ。奈津子をなぶっていた男どもの一人さ」  浩一は声を励まし、ほとんど説得するような口調になっていた。淳子も、このことで彼と議論をするのは嫌だった。 「そうかもしれない」と、うなずいてみせた。 「ああ、そうさ」 「だけどね、たとえそうだとしても、あたしったら、今の今まで、奈津子が未知の人間に殺されたってこと自体を忘れてたの。それは——それはあんまり無責任じゃない? 日本中の人が彼女と藤川さんのことを忘れたって、あたしは覚えていてあげなきゃいけないのに」 「そこまで責任を負うことはない——」  淳子は頑として首を振った。また涙がにじんできたが、ぐいと顔をあげて押し戻した。 「あの酒屋のあの恐ろしい部屋で見つけたとき、彼女、もうほとんど死んでるみたいに見えた。さんざんいたぶられて、壊れたみたいになってた。だけどあたしが、�藤川さんに頼まれてあなたを助けに来た�って言ったら、それだけで顔に生気が戻ったの。彼の名前が命綱だったのよ。あの人は大丈夫なのかって、彼女訊いたわ。あんな場合でも、彼女は藤川さんを心配してた。彼が苦しい息の下で、必死になってあたしの腕をつかんで、�奈津子を頼む、奈津子を頼む�って言い残したのと同じよ」  あの二人は、本物の絆《きずな》で結ばれていたのだ。 「殺される人の痛みを、餌食にされる人の叫びを、あたしはわかってるつもりだった。わかってるつもりだったから、殺す者[#「殺す者」に傍点]を殺すことなんかへっちゃらだった。だけど本当は違ってたのよ。あたしは何もわかっちゃいなかった。今の今まで、何ひとつ本当のことなんか知らなかったんだわ」  そっと手をあげて、浩一の頬に触れ、彼のまぶたの上の傷を指先でなぞってみた。彼は身動きもせずに淳子を見つめていた。 「今、やっとわかった。あたしにも大切な人ができたから」と、淳子は囁いた。「失いたくない人ができたから。離れたくない人ができたから。それで初めて、あのときの藤川さんの恐怖が、奈津子の苦しみが、自分のことのように実感できたの。だからあたしは、二度と彼らのことを忘れちゃいけないんだわ」  三田奈津子を殺した人間を探し出すのだ。探して、彼女の無念を晴らすのだ。そこに手加減があってはならない。それがどこの誰であれ、青木淳子は逃がしはしない。地の果てまでも、海の底までも追いかけていこう。追いつめて、けっして、けっして許しはしない。  淳子は震え始めていた。浩一の腕も、わずかに震えているのが感じられた。同じ心の高揚を、彼と共有しているのだと思った。  ようやく、あたしは人間になった。その夜の残り、木戸浩一の腕のなかで、淳子はそれだけを考えていた。もう、ただの�装填《そうてん》された銃�ではない。これから先は、人間としての青木淳子の戦闘が始まるのだ。    雪は降り続いた。クリスマス・イヴの朝は、蒼く底白い幕を開けた。それと同時に、まだそれとは気づかないままに、いくつかの魂の終幕も始まった。音もなく、密かに。 [#改段]               31          ちか子のゴム長靴に息子の古いスキーウエアというスタイルを見て、牧原はまともに笑い出した。 「失礼ですねえ」ちか子は雪の吹き溜まりから右足を引っこ抜きながら抗議した。雪は膝頭に届くほど深く、はずみでゴム長が脱げて後ろにひっくり返りそうになった。 「深いところは避けて歩くんですよ」牧原は手を差し出しながら言った。ちか子はその手をつかんでなんとか体勢を立て直す。 「それにしてもレトロなスキーウエアですね」 「うちの孝《たかし》が中学生のときに着てたんです」  どうにかこうにか彼と並んで歩き出しながら、ちか子は言った。息が切れていた。 「最初に買ってやったスキーウエアでしてね。あのころはまだ、今時のみたいな、オリンピックの選手が着るようなカッコいいウエアは少なかったんです。あっても高価《たか》いでしょ。中学生にはこれで充分だって言ったんですけど、ずいぶんゴネられましたよ」  一夜明けて、一面に真っ白なクリスマス・イヴだった。今はとりあえず雪は止んでいるが、雲はまだ厚い。空は乳白色、地上は純白だ。ながめるだけなら美しくてロマンティックだが、現実問題としては困りものだった。東京中で、地下鉄や一部の私鉄を除いた公共交通機関が軒並みダウンしてしまい、首都高速は封鎖、スリップ事故が多発してそこここで大渋滞が発生している。駅やターミナルは、それでも会社目指して出動しようとする勤勉な人びとで、いつも以上にごった返していた。 「予報じゃ、まだ降るかもしれないそうですよ」 「あらまあ、勘弁してほしいわね」  えっちらおっちら歩いてゆくと、歩道の一角の、まったく雪のない場所に出た。見あげると、喫茶店の前である。店主だろうか、半白の髪の小柄な男性が、スコップを手にせっせと雪かきをしている。  ちか子は一息つき、ウエアのジッパーを開けて、懐から地図を取り出した。有田《ありた》好子《よしこ》が教えてくれた彼女の自宅への道筋が記してある。周囲を見回して番地を確かめると、もうすぐそこまでたどりついているようだった。東中野《ひがしなかの》の駅から十分ほど歩いた、静かな住宅街である。時刻はそろそろ十一時に近い。約束ではもっと早く訪問するはずだったのだが、足が確保できずに遅れてしまった。  有田好子という女性は、多田一樹が東邦製紙に勤めていたころの同僚である。青木淳子のことも、若干は知っているらしい。  多田一樹から東邦製紙に連絡してもらうと、幸い、有田好子は現在も総務部に勤めていることがわかった。が、一年前に結婚し、現在は産休中だという。現住所を教えてもらい、電話をかけると、生後二ヶ月の女の子の育児に奮闘中だという本人の元気な声が返ってきた。  多田一樹は、ちか子と牧原が有田好子に会いに行くときには同行したいと希望したが、ちか子はそれを断った。青木淳子は東邦製紙の社内にほとんど友人がおらず、有田好子は数少ない話し相手であったようだ。女は女同士、たとえどんなに希薄なつきあいでも、多田一樹の知らない情報が出てくる可能性はあるし、それは多田一樹のいるところでは言いにくい種類のことであるかもしれない。  多田一樹はかなり記憶力がよく、日比谷公園の焼殺未遂事件を起こす前後、青木淳子と二人で出かけた場所や、二人でした事柄、当時付き合いのあった人物などについて、ささいなことまでよく覚えていた。牧原は彼の証言を元にリストを作り、ひとつひとつ丁寧に当たっていた。どんなつまらないことでも、どんな辺鄙《へんぴ》な場所でも——と注文をつけたので、多田一樹は誠実にも本当に些末《さまつ》なことまで思い出して証言しており、リストは結構な長さになる。昨日、ちか子が単独で当たった場所や人の分を繰り入れても、やっとリストの半分を消化し終えたところだ。有田好子は、ちょうどその半分のところに載っている名前なのである。 「えーと……ここですねえ」  ちか子は四階建てのこぢんまりしたマンションの前で足を止めた。電線に積もった雪が落ちるどさりという音がどこかで聞こえる。 「今朝電話をかけたときには、こんな日に本当に来るんですかって驚いていたけど」 「ニッポンのサラリーマンのたくましさを知らないわけじゃないでしょうにね」  エントランスはまったく雪かきがされておらず、ちか子はゴム長と共にまた遭難しそうになった。  有田好子は三十九歳ということだったが、新米のお母さんとなった今、顔に若さが戻っていた。化粧気のない頬はつやつやとして、笑顔がのびのびと明るい。少しばかり眠たそうだが、これは授乳のために三時間おきに起きているせいだろう。ちか子も一人息子の孝を育てているころ、母親の同義語は�睡眠不足�だと、しみじみ思ったものである。 「大変ですね、こんな日に」  てきぱきと台所で動き回り、コーヒーをいれ始める。ちか子がおかまいなくと言うと、いえ、わたしが飲みたいんですと笑った。  居心地の良い住まいだった。狭いなりにきちんと片づけられているが、和室に据えられたベビーベッドの存在感は圧倒的で、ほかの家具が遠慮がちに首を縮めているように見える。有田好子の許しを得て、ちか子はベッドのなかをのぞきこんだ。ピンク色の産着《うぶぎ》を着た色白の赤子《あかご》がスヤスヤと眠っている。甘いおっぱいの匂いが懐かしい。  耳たぶが痛くなるような寒気から逃れ、ちか子と牧原は、いかにも家庭的な雰囲気のキッチンのテーブルについて、ぬくぬくとコーヒーを味わった。有田好子は少しのあいだ物入れのなかをごそごそと探っていたが、やがてクッキーの四角い缶を抱えてキッチンへ戻ってきた。ちか子はもう一度「おかまいなく」と言いそうになって思い留まった。クッキーの缶はかなり古い物だった。有田好子が蓋《ふた》を開けると、中には写真がたくさん入っていた。 「多田君から話を聞いた後、青木さんのこと、わたしもいろいろ思い出してみたんですけどね——」  有田好子は楽しそうに写真を選び始めた。 「全然整理をしてないもんで……あらやだ、これなんか十五年も前の旅行の記念写真だわ……みんなこの缶のなかに入れたっきりで」  ちか子は微笑んだ。「お子さんの写真を撮るようになれば、現像したそばから整理する習慣もつきますよ」 「そうですか?」笑顔のままで、有田好子はちらりとちか子を見た。そしてキャビネ判の写真を一枚つかみ出した。「あ、あった。これこれ。きっとあると思ってたんだ」  多田君と青木さんが二人とも東邦製紙にいたころの写真です——と言いながら、ちか子と牧原の方に差し出した。牧原がそれを受け取った。 「独身寮の寮祭の時の記念写真です」有田好子はテーブルにつき、コーヒーの入ったマグカップを手に取りながら説明した。「寮祭って、まあ寮の懇親会みたいなものですね。模擬店が出てるでしょ?」  二十人ほどの男女が、「やきそば」「おでん」というのれんのかかった屋台の前に並んで写っている。ほとんどが二十歳代の若者たちのようだ。楽しそうな記念写真である。 「女性たちも寮の人たちですか?」 「いえいえ、女の子たちは遊びに来てるだけです。東邦製紙には男子の独身寮しかありませんからね」有田好子はくすっと笑った。「寮祭で誕生した社内カップルはすごく多いんですよ。まあ、一種の社内集団お見合いですかしらね」  ちか子は写真のなかに多田一樹の顔を見つけた。今よりも少年ぽい顔をしている。目元が明るく、口元の線が甘い。日付が入っていないのでわからないが、青木淳子は東邦製紙に三年ほど勤めていたそうだし、ひょっとするとこれは雪江の事件の起こる以前に撮られた写真なのかもしれなかった。 「これが青木さんです」有田好子のぽっちゃりした指が、写真の左端に添え物のようにして写っているほっそりした女性を指し示した。「なんだか影の薄い女の子でしょう?」  多田一樹の記憶から描き起こした似顔絵と、髪型も、痩せた頬の線も、微笑みのない口元も、すべて同じだった。  普通は、この年頃の若い娘は、半年刻みで雰囲気がガラリと変わったりすることが珍しくないものだ。もちろん恋人や友人の影響が大きいわけだが、人生でいちばん�生のままで美しい�一時期のことだから、あれこれと自分自身を飾ったり変えたり足したり引いたりして試してみたくなるのは当然のことなのだろう。  青木淳子にはそれが無いのだ。彼女は変わらない。何も足されず、何も引かれない。  彼女が淋しそうに見えるのは、そのせいなのだと気がついた。自分を変える、あてが無いのだ。  ——現在《いま》は、どうだろう。  多田一樹の住まいを訪ねたとき、彼女は独りではなかったようだという。彼女を車の助手席に乗せ、運転席に誰かいたようだという。  ——もしもそれが男性だったなら。  ——そしてその男性が、一緒に�多田一樹�という過去を見に行くことのできるほど、心の許せる相手であるのならば。  現在の青木淳子は、少なくとも、こういう淋しい顔はしていないのではないか。  ちか子は、夫や恋人を得ることだけが女性の幸せだとは思わない。だが、たとえそれが最終的にはひどく不幸な組み合わせに終わるとしても、男は女を、女は男を、ある瞬間、この人こそ自分だけのものだと思う刹那《せつな》、そのときだけは確かに、永遠に孤独と縁を切ったかのような明るい顔をするものなのだということも、また事実として知っていた。 「青木さん、何かとっても悪いことをしたんですか」  有田好子は遠慮がちに質問した。当然のことながら、彼女に対しては必要最低限の話しかしていない。彼女の人の好きそうな丸顔が、不安よりはむしろ心配で曇っていることに、ちか子は少し救われた気がした。 「そういうわけじゃないんです」 「多田君の声、ずいぶん切羽つまってました」有田好子は目を伏せた。「青木さん、おとなしい女の子でした。すごく孤独で。望んで孤立してたようだから、誰も気にかけてなかったけど。この寮祭のときもね、さんざん誘ってやっと引っぱり出したんだけど、しゃべるでもなし笑うでもない。だから男の人たちも女の子たちも、彼女のことにはかまわなくて」 「この写真、お借りしていいですか」牧原が言った。 「ええ、どうぞ。彼女の写真といったら、わたしはこれしか持ってなくて。もっと顔がはっきり写っているものがあった方がお役に立つんでしょうけれど」  牧原は手帳を出し、東邦製紙にいた当時、淳子が出入りしていた場所に心当たりがないかどうかと質問した。喫茶店、定食屋、書店、ブティック、花屋、歯医者——時には一緒にランチを食べにいったりしなかったのか? 仕事が終わってからデパートのバーゲンセールへ出かけたり、映画を観たりしなかったのか?  有田好子は首を横に振るばかりだった。 「そういうことは一度もありませんでした。考えてみれば、彼女がこの寮祭に参加してくれたことはもう奇跡みたいなものでね。あの人は、筋金入りの人嫌いだったんです。誰も寄せつけようとしませんでした。わたしはそれでもまだ、挨拶したり世間話したり、時には駅まで一緒に歩いたりしたけれど、それが精一杯でした」  これから東邦製紙に回ってみますと言って、牧原は手帳を閉じた。古い社員録をあたれば、少なくとも当時青木淳子が住んでいた場所ぐらいはわかるだろう。 「無駄足でしたね。ごめんなさい」  有田好子はすまなさそうに頭を下げた。ちか子はとんでもないと言って、彼女の腕を軽く叩いた。牧原は挨拶を済ますとさっさとエレベーターの方へ歩いていってしまい、玄関先にはちか子と彼女しかいなかった。 「赤ちゃん、お名前は?」 「桃子《ももこ》といいます」 「可愛いですねえ」 「主人がつけました」有田好子は頬を染めた。「遅い結婚で、恥ずかしいぐらいなんですけどね。優しい人なんです。桃子にはもう夢中で、おしめも洗ってくれます」 「いいですねえ。なんで恥ずかしいもんですか。幸せになるのに、年齢制限なんかありませんよ」  有田好子は嬉しそうにうなずいた。「わたしね、独身時代も、会社ではそこそこ頼りにされるようになってて……なにしろお局《つぼね》さまですからね。お給料も悪くはないし、それなりに楽しかったんですよ。でも、縁があって結婚して桃子に恵まれて……初めて、ああやっぱり自分は孤独だったんだなあって、あらためて気がついたような気がしましてね。そんなところへ、青木さんの話でしょう。なんだか……いろいろ考えちゃいましてね。わたし、もっとあの人と——親しくしてればよかったなあなんてね」  今は考え事よりも、ご主人と桃子さんのことだけ見つめていればいいじゃないですかと、ちか子は言った。 「お身体に気をつけてね」 「はい、ありがとうございます」有田好子はぺこりと頭を下げた。赤子がぐずり出す声が聞こえてきた。来客が帰るまで待っているなんて、親孝行な子だ。    東邦製紙で古い記録を当たったついでに、社屋の近所にある喫茶店や食堂などに入り、青木淳子の似顔絵と写真の両方を見せる作業をしてみたが、収穫はなかった。それから足を延ばし、東邦製紙勤務当時の淳子の住まいにも行ってみたが、ここにも刈り入れることのできる穂は生えていなかった。 「多田一樹も、河川敷事件のころ、彼女の昔の住まいには当たってみたと言っていましたからね」  雪の重みで電線が切れたとかで、JRは正午を過ぎても全面復旧していない。タクシーは需要超過の供給不足でまずつかまらない。移動には地下鉄を使うしかなかった。笑い話のような遠回りをしながら都内を行ったり来たりした。  あいだに佐田夫妻や多田一樹のところに連絡を入れて状況に変化のないことを確認し、江口総子と話して倉田母子の様子を聞き——お嬢様はホテルのお庭で雪うさぎをつくりました——時々滑ったり、滑って倒れそうになる人を助けたりしながらこつこつと歩き続け、リストの列を少しずつ縮めながら、ちか子と牧原はクリスマス・イヴの午後を過ごした。都心に出ればデパートやレストランやブティックの華やかな飾り付けと、どこからともなく流れてくるクリスマス・ソングに、ちか子はやっぱり心華やぐ思いをするけれど、牧原は終始|仏頂面《ぶっちょうづら》で、ただ雪道の歩きにくさに文句を言うだけだった。 「それでも、あれきり止んでくれてるだけ助かったですよ」  空はあいかわらずどんよりと曇っており、いっこうに晴れる兆しは見えないが、雪は止んだままである。それだから、道路の方は順調に封鎖が解けているらしく、東名《とうめい》高速道路や中央《ちゅうおう》自動車道は、思いのほか早く復旧した。ただし渋滞がひどいようである。  午後も遅くになると、さすがに普段の倍くらい疲れを感じた。足が重い。 「今日はこれぐらいにしておきましょうか」  石津さんは先に引き上げてくださいと、牧原は言った。「僕はもう一ヵ所だけ寄っていきたいところがあるんです」  赤坂にある「パラレル」というレストランだという。ちか子はリストを見た。「パラレル」はいちばん上に記載されており、すでにチェックがついている。 「もう聞き込みは済んでるでしょ?」 「ええ。ただそのときは、手元に青木淳子の似顔絵しかなかったんです。今日、写真が手に入りましたからね。もう一度見せてみたい。やっぱり、似顔絵と写真じゃ、記憶を喚起する度合いに差があるかもしれないし」 「じゃ、わたしもご一緒しますよ」  リストの一行目にあるということは、多田一樹が真っ先に口にした場所だということだ。「二人で行ったことのあるレストランなのかしらねえ」 「雪江さんの事件と小暮昌樹を�処刑�することについて、最初に話し合った場所だそうです」  青木淳子の気に入っていた店らしいと、牧原は言った。「テーブルにキャンドルが飾ってあるんですよ。彼女はそれを、多田一樹の目の前で点けてみせたそうです。彼がそれでも彼女の能力を信じないと、窓の外に停められていたベンツを一台、まるまる燃やしてみせた」  ちか子は首をふりふり地下鉄の入口を目指した。   「パラレル」の入口には、本物の樅《もみ》の木《き》が置いてあった。牧原の背丈よりも高い。豆電球だけのシンプルな飾り付けだが、緑色の葉の上に載せてある雪は本物だった。  幅広のカウンターが目立つ、瀟洒《しょうしゃ》な店である。なるほど各テーブルでキャンドルが輝いている。すでに六時を過ぎ、店内は混み始めていた。クリスマス・イヴを二人で愉しもうというカップル客ばかりである。カウンターの脇に、結婚式のキャンドルサービスで使われるような、たくさんのろうそくをハート型に並べた燭台が飾ってあって、店側としては気の利いた趣向のつもりなのだろうけれど、ちか子の目には、せっかくの落ち着いた雰囲気を台無しにしているだけのように見えた。  店長を始め、従業員たちは牧原の顔を覚えていた。一年でいちばん忙しいであろう宵に、よりによって刑事の来訪である。店長は一瞬だけ露骨にイヤな顔を見せたが、すぐに如才なく気を取り直して奥の事務室に案内し、手の空《す》いている従業員を順番に、それぞれ短時間ならばという条件で、面会を許してくれた。  店長自身は、写真を見ても似顔絵を見ても、こんな女性客に見覚えはないと、あっさり断言した。続く何人かの男性従業員たちも同じだった。が、七時近くになって、やっぱり収穫はなしかと諦めかけたころに、一人の若いボーイが、実は思い出したことがあると言い出した。 「刑事さんに電話しようかどうしようか迷ってたんでス」  小柄で人形のように整った顔をした若者だった。せいぜい二十歳代の半ばだろう。しゃべるとほんの少しなまり[#「なまり」に傍点]があるのがわかった。 「この前、刑事さんここ来たとき、似顔絵のコピーを置いていったスね?」  牧原はうなずいた。この事務室のコピー機で何枚か複写したのだという。 「それ、彼女に見せたんでス。つまり、僕の彼女なんスけど。彼女も三、四年前、ここでバイトしてたこと、あるっから」  彼の彼女は、似顔絵の女性の顔を覚えていると言ったそうなのである。 「よく独りで来てたお客さんだって」 「この女性独りで?」 「そうでス」 「待ち合わせじゃなくて、まったく独り?」 「そうっス。だから彼女、覚えてたみたいでス。だいたい女の子って、俺たちよか記憶力いいでしょう? それってときどき、すごい辛いケド」  ちか子は笑った。「彼女じゃなくて、あなたにとってね」  ボーイも笑った。「ははあ。そうっスね」 「それで?」牧原がイライラと促す。「それだけ?」 「あ、えっと」ボーイはくしゃくしゃと頭をかいた。「すごく淋しそうな人だったよねって、彼女言うんでス。彼女って、すぐいろいろ想像するヒトなんスよ。でね、当時ね、あんなにちょくちょく独りでこの店に来るなんて、きっとなんか理由《わけ》があるんだって想像してたんスね。死んだ恋人との思い出の場所に違いないとか」 「ははあ」 「だから、すっごい記憶は確かでス。おかげで僕も、この女の人の顔、空《そら》でも思い出せるようになったでス」ボーイは青木淳子の写真を指先でとんとんと叩いた。「そしたらね、つい昨日、この人来たんスよ」  しまりのない話に手帳を閉じかけていた牧原が、ぎょっとして目を剥《む》いた。「なんだって[#「なんだって」に傍点]?」 「来たんス。間違いないでス」 「やっぱり独りで?」  ボーイは首を振った。「それが、男の人と一緒だったでスよ。カウンターの端に二人で並んで、エスプレッソ飲んで。飲み終わるとすぐに出ていったから、せいぜい三十分ぐらいしかいなかったスけど」 「どんな男だ?」 「や、金持ち風」ナントカカントカのジャケットを着てたと、カタカナのブランド名をあげた。「無造作に着こなしてたでス。あれ、モデルかなって」 「歳は?」 「二十五、六くらいかなあ。ロン毛。ああいうスタイル、みんなしたがるけどなかなか似合わないっスよ」 「うちのバカ息子もやってるわよ。髪を伸ばして頭のうしろで縛って。どう見ても栄養失調の武道家か所帯やつれしたおかみさんにしか見えないんだけど、本人は似合うと思ってるのね」 「そうっスか? 僕は彼女に止《と》められてるでス」  ちか子は嬉しくなって思わず合いの手を入れたのだが、牧原が怖い顔をした。「余計なことを言わないでくださいよ。間違いなくこの写真の女性なんだな?」 「はい」 「近くで顔を確認した?」 「はい。僕が席まで案内したスから。だけどね刑事さん」ボーイはちか子に向かって言った。「すごい変身してたでスよ、この女の人」 「変身?」 「はい。きれいになって、ゴージャスになって。僕らがこの店で見かけてたころと、全然別人みたいでした。ミニスカートなんかはいてね」  牧原が顔をしかめた。「だったら別人なんじゃないのか?」  ボーイはとんでもないとしゃかしゃか両手を振る。 「確かでス。ここんとこ、彼女と会うたんびにこの女の人のこと話題にしてたし、ずっと似顔絵見てたし。なんで警察に探されてるんだろうねって、興味あったし」 「そうやって話題にしてたから、ちょっと似ている女性を見ただけで、思いこみで——」  ちか子は牧原の言葉を遮り、ボーイに訊いた。 「その二人、どんな感じだった?」 「どんな感じって——」 「親しげだった?」 「そりゃもう。カップルそのものでス。こう、ぴったりくっついて座って、帰るときなんか、手をつないでたでスから」  自分のことでもないのにニヤニヤする。 「あれはね、どう見ても、店を出たら、じゃ、またねっていう感じじゃなかったス。十二時過ぎてたし」 「どんな話をしてるか聞き取れなかった?」  ボーイは悔しそうにまた髪をくしゃくしゃする。「あんまり近づくとヘンでしょう? お客様に失礼だって、店長に怒られます。だからほとんど——」 「そうよね、それはしょうがないわ」 「けど、なんかテレビがどうとかこうとか言ってたでスね」 「テレビ……」 「テレヴィジョン[#「ヴィジョン」に傍点]ていう言い方してたかな。わかんないスけど」 「その人たち、お店を出てどっちへ行ったかわかる?」 「さあ……。ただ、車で来てたみたいでスよ。運転するからアルコールはもう止すみたいなこと、男の方が言ってたでスからね」 「支払いは現金?」 「はい。エスプレッソ二杯でスから」  牧原はまだ怪しげな顔をしている。ボーイは口述試験に落とされかかったみたいな顔をしている。 「カップルねえ」と、口元を歪めたまま牧原は呟いた。「別人じゃないのかな」 「彼女は誰かに連れられて多田さんのところへ行ったんですよ、お忘れなく」 「彼の記憶だって曖昧《あいまい》ですよ」 「わたしはそうは思いません」  牧原は片眉を吊り上げた。「石津さん、なんだってさっきからそう嬉しそうなんです?」  青木淳子が孤独ではなかったから嬉しいのだ。どうやら恋仲の男性がそばにいるらしいから嬉しいのだ。彼女を囲む状況に変化が起こっているらしいから嬉しいのだ。彼女がもう淋しい顔をしていないであろうから嬉しいのだ。 「女性はね、短いあいだに別人みたいに変わることがあるんです。わたしはこのボーイさんの話を信じますよ」  ちか子の応援を受けて、ボーイは元気づいた。「ホントに別人みたいに明るくて幸せそうだったス。えっとあの、店にあるあのハート型のろうそく、見たっスか?」 「ええ、見ましたよ」 「悪趣味だ」と、牧原は吐き捨てる。 「まあその、僕もあれは照れくさいスけど、あれをね、この女の人、指さして見てました。きれいに点いてて。あれは今日のための仕掛けで、昨夜《ゆうべ》は点けるハズじゃなかったんスけど、あの人たちがカウンターにいるあいだに、なんか知らないけど点いてたんでス。後でカウンター係のまっちゃんが店長に叱《しか》られて、俺は点けた覚えはないからぬれぎぬだって怒ってたスけど」  ちか子は牧原の顔を見た。今度こそ、彼は固まっていた。 「あれ、なんか僕、悪いこと言ったスか?」 「いいのよ、気にしないで。それより、その二人がどこへ行ったか見当つかないかしら。あなた、ずっと観察してたんでしょう?」 「そうスけど……まさか後を尾けるわけにもいかないスから。僕も仕事中だったし」 「その男の車、わからない?」 「あ、それは思いつかなかったス。確かめておけばよかったスね」  ボーイは頭をかく。人は好いが気が利かない。まあ、往々にしてそんなものだ。 「ここはお客専用の駐車場があるの?」 「ないでス。だからみんな路上駐車。パーキングメーターもありまス」 「昨夜はたくさん停まってた?」 「そうでもないス。祭日の夜で、イヴの一日前だから」  張り込んでれば、また来ないでスかねと、ボーイは申し訳なさそうに言った。「そしたら今度はすぐ電話しまス」 「電話するより、車のナンバーを控えておいてもらえると有り難いわね。駆けつけても間に合わないかもしれないし」 「そうスか」  牧原がため息をついて手帳を閉じた。そのとき、ボーイがあっと言った。「昨夜、前の道路に停まってた車のナンバーなら、わかりますよ」 「え?」 「えと、昨日の男の車がそのなかに混じってるかどうかはわからないスけど、とにかく前に停めてある車のナンバーなら、店長が控えてるはずでス」 「なんでまたそんなことしてるの?」 「前にね——やっぱ三、四年前かな、うちの前に停まってたベンツが燃えたことがあったでス」  ほかでもない、青木淳子が燃やしたのだ[#「青木淳子が燃やしたのだ」に傍点]。 「ええ、知ってますよ。それで?」 「なんか、不審火というんでスか? 放火だったらしいスけど、結局犯人捕まらなくて、そのベンツのオーナーがなんつうかゴネる人で、俺はおまえのとこの得意客だ、自分の車があんなことになったのはおまえんとこの管理不行き届きだ、責任があるだろうってねじこんできて、だけどその人お得意なんかじゃないスよ。その夜だって、車停めて余所《よそ》で用足して、ちょうどおまえの店に行くところだったんだなんて言い張るんスけど、そんなの証明できないスよね。だけど、そうじゃないという証明もできないス。だから店長、えらい目に遭ったでス。結局いくらか包んでカンベンしてもらったらしいスけど、それ以来、店長すごく神経質になったス。警察からも、出入りする車のナンバーを控えるようにって指導されたス。犯人も、車で来て火を点けたのかもしれないスし、また来るかもしれないスもんね。一時は入口に監視カメラも付けてたんスけど、お客さんから評判悪くて、すぐやめちゃって、だけどナンバー控えることだけはずっと続けてて、店長って粘着質のヒトだから——」  牧原が椅子を倒して立ち上がった。「店長はどこだ?」    店長からもらったリストには、開店時刻の午後五時半から閉店の午前二時までのあいだに、「パラレル」前の路上に停められた車すべてのナンバーが列記されていた。青木淳子と連れの男は、店内には三十分ほどしかおらず、出ていったときには午前零時を少し過ぎていたという。そこで、午後十一時から午前零時までのあいだに停められた車だけに絞ることができる。  該当する車は四台しかなかった。ナンバーを照会し、車種を確認してみると、そのうちの一台は明らかに営業用の車だった。次の一台は「パラレル」の近くに事務所を構えている弁護士の自家用車で、本人に連絡をとってみると、昨夜は「パラレル」には行っていないという。車を他人に貸した覚えもない。実際問題として、青木淳子の連れの男が、借り物の車を乗り回すとも考えにくいので、これは外していいだろう。  問題は残る二台だった。どちらも若者に人気の四輪駆動単で、どちらも持ち主は二十歳代の男性なのだ。一台は練馬《ねりま》ナンバー、もう一台は、意外なことに河口湖ナンバーだった。登録住所を見ると、どうやら湖畔の別荘地のようである。 「河口湖なら、遠くはない。二ヵ所とも、これからでも当たれます。僕が行きますから、石津さんは帰ってください」 「なんでわたしだけ追い返すのです?」 「ゴム長を引きずってるじゃないですか。確認するだけなんだから、僕独りで大丈夫だ。それに、今夜はクリスマス・イヴですよ」 「今さら亭主とクリスマスケーキ食べたって嬉しくもありませんよ。それに、河口湖の方には、どうせ車でないと行かれないでしょう? あなたが運転してくだされば、わたしはそのあいだ、おばさんにふさわしく足を投げ出して休んでいますよ。さ、行きましょう」  時刻は午後六時を回ろうとしていた。 [#改段]               32          クリスマス・イヴの朝。  青木淳子のその朝は、ベッドに潜っているあいだに頭の上を通り過ぎてしまった。目覚めたらもう午前十時過ぎで、起き出そうとしたら浩一に引き戻され、それからまたひとときを夢中で過ごしてしまったからである。 「餌え死にしそうだ」と彼が呟き、やっと二人して枕元の時計を見たときには、正午に近くなっていた。 「だから、さっき起きようとしたのに」 「そう? まだ寝足りないように見えたけどなあ」 「イヤな人ね」淳子は浩一に枕をぶつけてベッドから逃げ出した。彼は大笑いした。  外は一面の雪景色だった。浩一は散歩がてらに外で昼食をとろうと誘ったが、淳子はまだこの部屋にいたかった。どちらにしろ、今夜のミッションのためには、一度アパートに戻って着替えを取ってこなければならない。それまでは、まだここでヌクヌクしていたかった。  結局、冷蔵庫のなかのものを工面して食事をつくった。浩一はけっこうまめに自炊をするらしく、食材も道具も揃っており、キッチンもそれなりに使い込まれている感じがする。 「料理は好きなんだよ。何なら、明日にだって、フルコースをつくってご馳走してあげられるよ」  食事をしながら、淳子が一度アパートに帰ることを話すと、彼はちょっとムキになって引き留めた。 「いいじゃないか、帰るなよ」 「だって着替えが——」 「そんなの買えば済むことだろ?」 「もったいないわよ」と、彼の鼻の頭をつついた。「お金持ちのお坊ちゃん、無駄遣いは慎みなさい」  素早く淳子の手をつかんで抱き寄せながら、彼は思い詰めたような目をした。「帰ってほしくないんだ。離れてほしくないんだよ。とにかく今日は。今は」 「だって……すぐまた一緒に行動するじゃないの。倉田かおりちゃんを連れ出したら、そのまま河口湖のあなたの家に行くんだもの」 「そうだよ。だけど、それまでに一度でもアパートに帰ったら、君、昨夜のことなんか忘れちゃいそうな気がしてさ。正気に戻るみたいに。魔法がとけるみたいに。そしたら俺たちのあいだだって、また後戻りしちゃいそうな気がするんだ」  淳子は胸がうずくのを感じた。自分から彼に寄り添うと、膝に座って、彼の首に手を回した。 「そんなことないわよ」と、優しく言った。 「いいや、絶対そうなる」と、浩一は首を振る。「だから駄目だ。帰っちゃ駄目。ね、いいだろ?」  何か言おうとしたらくちびるをふさがれてしまったので、淳子は目を閉じ、しばらくのあいだゆったりと彼を抱いて、心から愉しんで、そのキスを味わった。孤独と甘えと、少量だけれど危険なくらいに純粋な恐怖の味がした。  この人は恐れているのだ。昨夜「パラレル」で、淳子がここへ来ることを承知したときの、彼の驚いた顔を思い出すと、それがよくわかる。淳子があまりにあっけなく扉を開いたので、逆に不安になっているのだ。  これは本当なんだろうか、と。これは自然のなりゆきなのだろうか、それとも、無意識のうちに、自分が淳子を�押して�引き起こしただけの結果なのではないか、と。  淳子には彼の能力を跳ね返すだけの力がある。だから、彼に�押される�はずはない。理屈ではそれはわかっているのだろう。だが、感情は別だ。  その気になれば、巡り会う人びとを、すべて自分の意のままに動かすことのできる人間——これは、そういう人間だけが感じなければならない種類の不安だ。あなたは本当にあなたの意志でわたしのそばにいるのか。わたしを好いてくれているのか。 「帰らないわ」と、淳子は囁いた。「ここにいる。一緒に仕事に行きましょ」  浩一はしっかりと彼女を抱きしめた。淳子も抱擁を返した。彼の不安を取り除いてあげるには、言葉で対応しても駄目だ。そばにいて同じ空気を吸い、同じ物を見て笑ったり怒ったりして、どんな些末なことでも一緒に経験し、時間を積み重ねてゆく以外に適切な方法はない。  そして幸せなことに、その処方箋は、淳子の心にも同じく効き目があるのだった。 「さ、お皿を洗わなきゃ」彼の膝からぴょんと飛び降りて、淳子は笑った。「それに、ヴィジョンがさっきからあなたの膝を狙ってるわよ。わたしって平和的だから、戦争したくないの。ちょっとだけ彼女に明け渡してあげる」    後かたづけを終え、二人で買い物に行くことにした。雪道が面白いので、歩いて出かけた。白い息を吐き、笑ったり滑ったり支え合ったりしながら歩いた。雪も風も、少しも冷たく感じられなかった。  新宿駅の南口近くまで出て、下着やタオル、化粧品、淳子の使う食器の類などを買い込み、かなりの嵩《かさ》になったのでタクシーを使って帰ると、マンションの正面玄関のドアの前で、�船長�が待っていた。  �船長�は、昨日と人相が違ってしまっていた。こわばり、やつれ、げっそりとして顔色が悪い。ひどく狼狽《うろた》えているようだ。目がきょときょとと動いている。 「どこ行ってたんだ? 携帯電話も持って出ないで。緊急連絡なんだ」  言葉も震えていた。浩一はちらっと淳子の顔を見ると、マンションのエントランスへ向かいながら言った。「ごめん。小一時間ぐらいだから、大丈夫だと思ったんだよ。とにかく入れよ」 「一緒だったのか」と、�船長�は淳子を見ながら浩一に訊いた。その瞬間だけ、�船長�の視線が「男の視線」になった。淳子は自分をかばうように腕を組んで、つと目をそらした。 「話が早くていいだろ?」と、浩一は冷たく答えた。  浩一の後に続きながら、淳子は、�船長�の足元、きれいに雪かきされた玄関前のコンクリートの通路の上に、何かゴミみたいな細かくて汚いものがたくさんまき散らされていることに気づいた。よく見るとタバコだった。タバコがバラバラにされているのだ。気がつくと、�船長�の右手の指に、まさに今分解中のタバコが一本はさまれていた。  変わった癖だ——  ふと、以前にこれと同じようなものを見かけたことがあると思った。どこでだろう? 吸い殻ならばどこにでも転がっているが、こんなふうにほぐされて捨てられたタバコなど、まず見かけるものではないのに—— 「何ぼうっとしてるんだい? 行くよ」  浩一に肩を抱かれて、淳子はあわてて歩き出した。  部屋に入ってドアを閉めると、�船長�はつんのめるようにしてしゃべりだした。「今夜の計画は一旦中止だ。延期になった」 「どうして?」 「江口総子というお手伝いの女——」 「牧原とかいう刑事に相談してた女だろ?」 「ああ。その刑事に知恵をつけられたらしい。近づいてくる人間を写真に撮ってる」  淳子は驚き、コートを脱ぐ手を止めた。「どうやって?」 「あの女が胸にさげていた、不格好なペンダントに気づかなかったか? あれはカメラだったんだ。隠しカメラだ。最近のは性能がいいから、かなり距離が離れていてもはっきり写せる。あの女、昨夜、レストランの客の顔も写していたかもしれない。我々が写っている可能性も、まったく無いとは言えない」 「それぐらい、いいじゃないですか」と淳子は言ったが、浩一が険しい顔をして首を振った。「いや、駄目だよ」 「なぜ?」 「俺たちにとって何よりも大切なのは、痕跡を残さないことなんだ。写真なんてもってのほかさ。たとえ千分の一でも、そのカメラで写されている可能性がある以上、迂闊《うかつ》には動けない。——だけど、確かなんだろうな?」 「間違いない。私が確かめたんだ。ホテルで現像を頼んだ後、新しくフィルムを入れ替えて、周りに誰もいないと思ったんだろう、試し撮りをしているところを見た」 「あなたは、今朝からずっと倉田さんたちを張り込んで様子を見ていたんですか?」 「そうだよ」�船長�はうなずいた。なぜかしら卑屈そうに口元を歪めた。「わたしには君たちのような特別の能力はないからね。平凡人の元刑事にできるのは、せいぜい張り込みぐらいだ。私なんか、ガーディアンのなかの下っ端さ」  瞬間、浩一の目に怒りの光が走った。何を怒っているのだろうと淳子が思う間もなく、それは稲妻のような速さで消えた。 「ひがむなよ、�船長�」と、浩一は笑顔になった。�船長�の肩を軽く叩く。 「あなたは元は警察の方だったんですね」  淳子の言葉に、�船長�は顔をそらしてうなずいた。「そうだ。私は退職刑事さ」 「事情はわかったよ。延期は仕方ない。そうあわてるなよ。計画が延期されたり変更されたりすることは、けっして珍しくない」 「でもあの子——かおりちゃんは大丈夫かしら」淳子は心配せずにはいられなかった。「母親は、あの子と一緒に死のうとしたことがあるんでしょう?」  浩一は微笑む。「今はクリスマスだ。その先は正月。子供にとっちゃ、一年でいちばん楽しい時期だろ? 母親だって、いくら前途に絶望しても、そんな時期に闇雲に子供と無理心中しようとはしないんじゃないかな。最初から、この計画は唐突過ぎたんだよ。年明けだってよかったんだ」 「倉田さんが急いでいたからだ」と、�船長�が責めるように小声で言った。「母子でホテルにこもっている今がチャンスだなんて」 「ま、いいじゃないか」  �船長�が何かぼそぼそっと言った。うつむいているので、よく聞こえない。 「なんだい?」 「——昔の同僚かもしれないんだ」  淳子は浩一と顔を見合わせた。 「誰がですか?」  �船長�は喉をごくりとさせた。「牧原と一緒に江口総子と会っていたという中年女さ。昨日は、江口総子の知人じゃないか言ってたろう? だが、どうも違うらしい」 「じゃ、その女も刑事——」 「ああ。今朝、私の前任者とまた話をしてみたんだが、牧原とその女が話をしているときの様子から、彼女も刑事じゃないかという気がしてきたというんだな。しかも、年格好や人相が、私の昔の同僚によく似ていて——」  手で口元をぬぐう。�船長�の指に残っていたタバコの屑《くず》が、くちびるにくっついた。「彼女とは、つい最近会ったばかりなんだ」  浩一が驚いたように眉を上げた。「なんだって?」 「私の勤め先に訪ねてきたんだ。単に旧交を温めに来ただけだったようだが——」  浩一がくちびるを噛む。淳子は、それぞれに異なった思惑を秘めているように見える二人の男に挟まれて、漠とした不安に両腕で身体を抱いた。 「あんまり動揺するなよ」と、浩一が�船長�に言った。「あんたの悪い癖だ」  �船長�は何も答えなかった。タバコの屑のくっついた指先が、細かく震えている。 「下まで送るよ。あんたも今日は帰って休んだ方がいい。なにしろクリスマス・イヴなんだからさ」  浩一はそう言って、首筋を硬くしてうつむいている�船長�と一緒にエレベーターに乗り込んだ。淳子は買い込んできたものの整理に取りかかった。  十分ほど経ったが、浩一は戻ってこない。二十分過ぎても戻らない。新品のタオルや衣類のタグを取り去り、きちんとたたみ、食器の類は洗っていつでも使えるように片づけ終えたが、それでもまだ戻らない。  いささか気になって、階下へ降りてみようか——でも、この部屋の鍵をかけないまま出ることはできないし——と思案していると、ようやく帰ってきた。 「ずいぶん長いお見送りね」 「名残り惜しかったもんでさ」浩一はにっと笑った。「さて、荷造りしようか」 「え?」 「俺たちだけで出かけようよ」手にしたキーをグルグル回しながら、彼は陽気に言った。「仕事がなくなったんだ。ラッキーじゃないか。中央自動車道もだいぶ滑らかに流れ始めてるらしいから、たいして時間はかからないさ。何なら、正月も向こうで過ごしたっていい。静かで空気がきれいで、人っ子ひとりいないから誰にも気兼ねがいらないよ」  ちょっと笑って、 「思いっきりイチャイチャできるよ」  淳子はわざと首をかしげて彼の顔を見た。彼もおどけて淳子と同じことをした。 「何考えてるの、お姫様」  淳子は微笑した。「ボストンバッグはどこにあるのかなって」 「お貸ししましょう」  上機嫌で、浩一はクロゼットの方へ歩み寄った。淳子は時計を見た。五時になるところだった。    西へ向けて走るに従って、すっかり陽の暮れた暗い空に、さらに蓋をするように灰色にのしかかっていた厚い雲が、次第に切れてゆくことがわかった。まだ渋滞の名残もあったし、途中で食料品を買い込んだりしたので、浩一の車のずんぐりした鼻先が、「レイクビュウ河口 オーランドタウン」という表示の掲げられた別荘地へ続く道へ乗り入れたときには、八時近くになっていた。助手席の窓から見上げる淳子の目に、まばらな星のまたたきが映った。どうやら天候は回復しつつあるらしい。 「ホントに誰もいないだろ」  浩一の言うとおりだった。夜目には黒々とうずくまった闇の固まりにしか見えない森の木立の合間合間に、様々な外観の大型の別荘が散らばっているが、明かりが点いている窓はひとつも見当たらない。とびとびの街灯だけが青白い道を照らしている。それでも、別荘地内の道路はすべて完璧に除雪されているところを見ると、よくある「売りっぱなし」はなく、ここでは維持管理も商品で、隅々まで行き届いているのだろう。 「夏場は避暑客で混むんだけどね。このへんは、冬には観光客を集める要素が何もないからさ。でも、俺みたいな孤独好きの人間にはそこがたまらないわけ」  ここまでの道中、淳子はまた蜂に鼻の頭を刺されそうになっているピエロの人形のダンスを楽しんできたが、昨夜以来の環境と心の激変に、さすがに疲れが出たのか、少しばかりウトウトしてしまった。窓を細めに開けて冷気を入れると、すうっと目が覚めた。 「もうすぐ?」 「もうすぐ。どんな家だと思う?」 「ログハウス風?」 「そう。よくわかるね」 「ただあたしの好みを言っただけ」  浩一は笑った。「じゃ、俺たち好みが似てる。南側のデッキは湖の上に張り出してるんで、そこで釣りができるよ。シーズンが来たら教えてあげる」 「ミミズに触るのはイヤよ」 「ルアーを使えばいいじゃない——ほら、そこだ、その角の家」  暗く沈んだ湖面に面して、道路の方に側面を向けたログハウスだった。淳子のイメージしていた丸太造りの象よりは、ずいぶんと屋根の勾配が急なようだ。  どことなく——浩一の横顔に似ていた。 「煙突があるわね」 「なぜだろうか? 推理せよ」 「暖炉があるから」 「素晴らしい。君は名探偵だ」家の前の植え込みを回って、玄関先に車をつけた。「さあ、どうぞ」  車から降りると、冷気が身体を包み込んだ。不愉快な寒さではなく、凍った布ですっぽりと覆われるような感じだ。ふうっと口をすぼめて息を吐いてみても、白く見える。 「実はね、この家、俺が自分で設計したんだ」ドアの鍵を開けながら浩一が言った。「ガキのころからの夢を、金部この家にぶちこんじゃったの。広い屋根裏も、水の上に張り出したデッキも、三階分の高さのある吹き抜けも、暖炉も何もかも」 「お父さまやお祖父さまだって、別荘をお持ちだったでしょうに」 「温かくて温泉の出る場所にばっかりね。じじいだからさ。おっと、最初にヴィジョンを頼むよ。俺はほかの荷物を運ぶから」  淳子は車の後部シートから「箱入り娘」のヴィジョンを運び出した。豪勢なペットキャリアだが、道中ずっと押し込められていた彼女としては不満があるらしく、淳子の顔を見つけてゲージごしに鋭く啼《な》いた。 「ドライブには慣れてるはずなのにな。やっぱり君に妬いてるらしいね」  浩一はまず家中の明かりを点けた。ボイラーを動かして温めた。二人で荷物を運び込み、片づけ、それから彼が家のなかを案内してくれた。ひとつひとつの部屋が淳子にとっては驚きだった。好ましい夢が現実になっているのを、目の当たりに見ているのだ。  周遊を終えてリビングルームに戻ってくるころには、もう家のなかではコートを脱いで、ついでにセーターも脱いでもいいくらいにまで暖房が効いていた。そして、淳子はすっかりこの家が好きになっていた。この家と気が合いそうな気がした。それはまた、淳子と木戸浩一との今の関係が、けっして間違いではないことの確かな証拠のようにも思える。なにしろ、この家は彼の分身なのだから。  ほっとすると、急にお腹が空いてきた。二人で協力して、パスタとサラダの簡単な夕食兼夜食を作った。  ここのキッチンにも、道具や器がぞろりと揃えられていた。そのなかに、大型のどっしりとした土鍋《どなべ》があった。浩一が笑った。 「これで鍋物を食うのが夢だったんだ」 「これで一人分じゃ、大きすぎるでしょう」 「そうなんだ。だいいち、一人で鍋食ったって何が面白い? 佗《わ》びしいだけだよね。だからさ、明日の夜は鍋物にしない?」  喉元まで、今までここで一緒にお鍋をつついた女性はいなかったの? という質問がこみあげてきた。あるいは、そういう女姓は何人いたの? という質問が。  だが、それは口に出されることはなかった。過去に嫉妬《しっと》しても時間の無駄だ。それに、たとえ浩一がこれまでに付き合った女性が何十人いようとも、彼女たちは淳子とは決定的に異なっている。異能者ではないのだから。  広いリビングルームの端に、淳子の小さなアパートにある浴槽ぐらいの大きさのワイド画面テレビが据え置いてある。今はテレビの吐き出す無駄な音声よりも、静かな音楽が欲しいくらいの気持ちだったけれど、天気予報が知りたくて、スイッチを入れてもいいかと浩一に声をかけた。キッチンで新しいコーヒーをいれていた彼は、いいよと返事をかえしたが、さて淳子にはどれがスイッチだかわからない。しばらくウロウロしていると、見かねた浩一が出てきて操作を教えてくれた。  鮮やかな色彩の大画面に、豊かな音声。スピーカーが複数配置されているのだろう、頭の上からも背中の方からも声が聞こえてくるような気がする。 「普段はこれで何を観てるの? 映画?」 「いや、ほとんど観ない」 「もったいない……」 「ケーブルテレビのチャンネルのなかに、芝居専門のヤツがあるんだ。それは観る。舞台は好きだから」 「なんとなくわかる気がするわね。あなた、演劇青年だった時代がありそう」 「バレた? 実はね、自分で戯曲を書いてた時期もあるんだよ。もちろん箸《はし》にも棒にもかからない習作だったけど」 「これからだって書けばいいじゃない」  コントローラーでチャンネルを替えてみたが、折悪しくニュースや天気予報を流している局がなかった。ケーブルテレビのなかでも、CNNならやっているが、我が国のニュースは見当たらない。中途半端な時間帯だからだろう。九時半だった。  それでも、アパートのテレビの三倍くらいのチャンネル数があるので、肘掛け椅子に腰をおろし、オットマンに足を乗せて、面白半分にどんどん替えていった。最初のうちは付き合って、いろいろ説明してくれていた浩一も、そのうち退屈したのかあくびをして、先に風呂に入ると立ち上がった。淳子は、いつの間にかそばに寄ってきていたヴィジョンを膝に抱き上げて、猫が居心地良さそうに落ち着くまで撫でてやってから、またしばらくテレビに見入った。音楽番組を見つけると、そこでチャンネルを止めて目を閉じ、椅子の背に寄りかかり顎をそらして、リビングルームの吹き抜けの天井から、あたかも雪が降るようにおりてくるメロディを全身で感じ取った。なんという贅沢だろう。  そんなことをやっているうちに、どうやら居眠りをしてしまったらしい。はっとして目を覚ますと、膝の上のヴィジョンが身じろぎをして姿勢を変えた。暖炉の上の時計に目をやると、ほんの二十分ほどしか経っていないようだ。  眠り込んだときに合わせていたチャンネルでは、クリスマス音楽の演奏会をやっていた。だが、どうやら地元のテレビ局のそれだったらしく、今映っている番組は、趣がガラリと違う。報道特集番組だ。年末の「今年の十大ニュース」の走りのようなものだろう。  そして、素材となっている事件はほかでもない、淳子の起こしたあの事件だった。田山町の廃工場。青戸《あおと》陸橋の喫茶店。代々木《よよぎ》上原《うえはら》の桜井酒店。  藤川と奈津子。彼らの顔写真。  淳子は目を半ば閉じ、まぶしいものを我慢して見つめるようにして画面を見た。奈津子を殺した人物を突き止めるという作業は、今はまだ、どこから始めればいいか見当もつかないけれど、必ずやり遂げねばならない淳子の義務だ。自分の幸せばかりに浮かれてはいられない。  浩一が風呂からあがり、キッチンの方へやってきた。何か言ったようだが、淳子には聞き取れなかった。 「うん? 何?」 「疲れがとれるから、早く入れって言ったんだよ」  冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルトップを開ける音がする。「何観てるの?」 「あたしの事件」  浩一が急ぎ足でキッチンを離れ、リビングを横切って淳子に近づいてきた。バスローブを羽織り、タオルを首にかけている。すぐ隣のソファに座ると、テレビではなく淳子の顔をのぞいた。 「そんなもの、わざわざ観るなよ」  淳子の手からコントローラーを取り上げようとしたが、淳子はさっと避けた。視線はテレビに釘付けになっていた。 「しょうがないなあ。休暇なんだから、仕事のことは忘れなきゃ駄目だよ」  淳子は聞いていなかった。浩一がさらに何か言ったが、人差し指を立てて、 「しい!」と制止した。  画面には、一見したところ学校の事務室か、弁護士事務所のように見えるオフィスが映っていた。拉致監禁事件の前、三田奈津子が浅羽敬一につきまとわれて怯えていたころ、相談に行っていた「ストーカー一一〇番」という民間団体の事務所であるらしい。言われてみれば、机の後ろの方に並んでいる小会議室のドアなど、いかにも内密の相談を受け入れる機関にふさわしい。  しかし、淳子の目は画面の上をただ滑っているだけで、実は何も見ていなかった。声を聞いていたからだ。事務室内を映し出すカメラの動きに乗って流れてくる声。  ——非常に追いつめられた精神状態で、担当した相談員も心配していました。  ——救出することができず、あんな惨《むご》い事件になってしまったことを思うと、夜も眠れない気持ちがします。  テロップが出ている。声:「ストーカー一一〇番関東総合安全サービス 副所長 伊崎四郎氏」  この声[#「この声」に傍点]。  ——今さら申し上げるまでもなく、我々にとってもっとも大きな課題は、いかにして、相談者を、殺害されるような悲惨な事態から守るかということです。  聞き覚えがある。 (元刑事にできるのは、せいぜい張り込みぐらいだ) (私は退職刑事さ)  �船長�の声だ。  あの人は生前の三田奈津子を知っていたのだ。相談相手になったわけではなくとも、顔ぐらいは見ていたはずだ。 (あ、あなたは)  奈津子の最期の言葉。誰か見知っている者の顔を認めたかのような驚きの声。 (あ、あなたは)  そして銃声。  桜井酒店の屋上での情景が蘇《よみがえ》る。奈津子の白っちゃけた顔。震える肩。太股《ふともも》の内側にこびりついていた幾筋もの血の痕。殴られて切れたくちびる。腫れたまぶた。  そう、そして——  あの、給水タンクの脇のコンクリートの上に散らばっていたゴミ。  タバコの残骸[#「タバコの残骸」に傍点]。  記憶が殴りかかってきた。淳子は思わずコントローラーを取り落とし、記憶の拳から逃げるように頭を振った。 「あれは�船長�だったんだわ」  広い吹き抜けの天井に、淳子の叫ぶような声が響いた。壁にぶつかり、粉々に砕け散って降ってくる。船長だ、船長だ、船長だ!  腕をつかまれた。浩一が淳子の正気を疑うような顔をしている。淳子は逆に彼の腕をつかみ返した。 「あれは�船長�よ」 「誰が?」 「奈津子を撃ち殺した犯人よ!」  吐き気がしてきた。淳子は言葉を嘔吐《おうと》した。吐いたものを手でつかみ、力一杯ぶつけるようにして、浩一に自分の考えを話した。おぞましい、おぞましい作業だ。 「あの日、あたしが奈津子を助けに行ったとき、�船長�もあの桜井酒店にいたのよ。侵入してたのかもしれない。奈津子を助けるためか、単に浅羽たちがあそこで何をやらかしているかを探るためだったのか、それはわからない。あの人は元刑事なんだから、それぐらいできたはずよ」  浩一は淳子の手を離すと、両手で膝を叩いた。 「バカバカしい」と、鼻息とともに言った。「なんで�船長�がそんなことをしなきゃならないんだよ?」  淳子はきっと彼を見据えた。 「あの人がガーディアンだからよ。そしてガーディアンも、浅羽敬一たちのグループをターゲットとして狙っていたからよ。たぶん、あたしよりもずっとずっと以前から、彼らの動静を探っていたからよ」  あの日、淳子がたまたま廃工場で浅羽たちに遭遇したのは、本当に偶然以外の何物でもなかった。そして淳子が彼らを追跡してたどりついた桜井酒店には、もうひとつの偶然が待ち受けていたのだ。  ガーディアンのメンバー、伊崎四郎、�船長�もまたそこに忍び込んでいた、という偶然が。 「あたしが�処刑�を始めたことで、あの人はあわてた。巻き込まれちゃいけない。だけどあたしが何者か、正確に何をしにきたのか確認せずに逃げるわけにはいかない。だから屋上にのぼって潜んでいた」  そして緊張と混乱のなかでじっと待ち続け、そのあいだにタバコをバラバラにしてまき散らしていた—— 「あの人は、浅羽が屋上まで逃げてきて、エレベーターの動力室に隠れるのを見て、あいつを撃ち殺した。あるいは、あの人自身がそのときは動力室に潜んでいたのかもしれない。そして自分も逃げようとしたけれど、あたしの動向がわからないので、まだしばらくは動けなかった。あたしは奈津子を連れて屋上へのぼり、浅羽の死体を見つけた。あの人はその一部始終を見届けて、隙を見て急いで逃げようとして——」  奈津子に顔を見られてしまったのだ。 (あ、あなたは)  そして、とっさに彼女を射殺した。  ガーディアンにとって何よりも大切なことは、痕跡を残さないこと。ガーディアンの正体を暴かれないどころか、その存在さえも社会から隠し通すこと。  そのためには、�船長�が、伊崎四郎が、どこの誰であるかを正確に知っている三田奈津子を、生かしておくわけにはいかなかったのだ。  なんて愚かな。  犯罪者を狩るために、被害者も一緒に犠牲にするとは。  ——時には、非戦闘員も犠牲になるさ。  悲劇であることは百も承知で? 百人を生かすために、一人を犠牲にする?  戦争を続けていけば[#「戦争を続けていけば」に傍点]、それは不可避なことなのだ[#「それは不可避なことなのだ」に傍点]。  淳子もそうしてきたじゃないか。ヒカリを殺したじゃないか。喫茶店「カレント」の女主人に重傷を負わせたじゃないか。それだって同じことじゃないか。  同じように、淳子の手も血に汚れているのじゃないか。  だが戦争とはそういうものなのだ。そしてこの戦闘には前線もなく後方もない。奈津子が死に、伊崎四郎が安全になったことで、ガーディアンは安泰。多くの凶悪な犯罪者を水面下で葬る仕事にいそしむことができる——  震える手を拳に握りしめると、目の裏が熱くなってきた。  だけどそれは——それは、本当に正しいことなのだろうか? 正義とはそういうものなのか。  気がつくと、浩一がそばにいない。首をあげて見回しても見当たらなかった。淳子はテレビを切り、まつわりついてきたヴィジョンを邪険に除《の》けて、立ち上がった。  都心へ戻ろう。とにかく、ここで安閑としている場合じゃない。伊崎に会って、真相を確かめるのだ。そして彼が今、何を感じているのかを確かめるのだ。どんなに不本意であっても、奈津子を殺してしまったことについて罪悪感を感じているのかどうかを聞き出すのだ。  それは、淳子の真実にも通じている。  浩一が急ぎ足で階段を下りてきた。きちんと着替えて、小脇には自分のコートと淳子のコートを重ねて抱えていた。まだ湿っている髪をうなじのところできつくひとつに縛っているせいか、心なし目尻がつり上がって見えた。あるいは、本当に引きつっているのかもしれない。 「戻ろう」と、ちぎって投げるように言った。「�船長�をつかまえて吐かせるのがいちばんだ。そうしなきゃ、君の疑惑は晴れない。そうだろ?」  淳子はぐいとうなずいた。 「車を回してくる。裏庭に、ボイラーのメインスイッチがあるんだ。そいつを切ってきてくれないか」 「裏庭って?」  浩一は廊下の奥を指さした。「あのフランス窓から出られるよ」  彼が投げてくれたコートに袖を通しながら、淳子は廊下を走った。フランス窓を開けると、冷気が顔を打った。この窓は真っ直ぐ湖面に向いていた。そして足元は一面の白だ。雪のないときには、おそらく芝生の庭なのだろう。湖に向かってなだらかに傾斜している。車が十台ほど入る駐車場くらいの広さで、視界と風を遮るものは何ひとつ見当たらない。  爪先も指先も耳たぶも、凍てつく夜気にちりちりと悲鳴をあげている。窓から身を乗り出して見回したくらいでは、浩一の言うメインスイッチは見当たらなかった。仕方なく、淳子は急《せ》かれる心のままに、スリッパ履きで雪の上に降りた。雪は凍りついており、思ったほど深くは沈まない。  いったん建物から離れて、壁や窓にそって見回す。メインスイッチ? どこにあるのだろう? 操作盤らしいものなど何も見当たらない。  それにしても寒い。湖を渡る風は薄氷のように薄い盤になって、次々と淳子に斬りつけてくる。振り向いて湖の方に目をやると、冷気に涙がにじんだ。両手で身体をぎゅっと抱き、フランス窓の方へ戻ろうと走った。スイッチの場所がわからないと、浩一に言おう。  そのとき、半分だけ開いたフランス窓のガラスに、何かが映った。人影のように見えた。背後の人影。反射的に淳子は振り返った。  刹那の映像。  湖を背にして、木戸浩一が立っていた。コートも着ずに、両足を広げて立ちはだかり、そして右手を前に差し出している。  パンと音がした。  淳子は後ろに吹っ飛んだ。頭をフランス窓の方に向け、両足を湖に向けて、天を仰ぎ、腕を広げて。凍った雪が、ばさりと音をたてて彼女の身体を受け止めた。  痛い[#「痛い」に傍点]。  そして熱い。胸のあたりがどくどくと脈打っている。  そして初めて、撃たれたのだと気づいた。  さっきのは銃声だったのだ[#「さっきのは銃声だったのだ」に傍点]。  動けなかった。起きあがるどころか、首を持ちあげることさえできない。どこを撃たれたのだろう? 胸か? 腹か? 血が流れ出ていることは感じられるけれど、あまりにも大量で、どこが出血場所なのか感じ取ることができない。  ぜいぜいと息をする音が聞こえる。淳子自身の呼吸の音だ。命が漏れ出ていく音だ。呼気が白く立ちのぼり、夜気に溶けて消えてゆく。真っ白な命が漏れてゆく。つかんで引き戻すこともできないまま。  凍った雪をさわさわと踏み崩して歩く足音が聞こえる。仰向けになった淳子には、今やすっかり雲が切れ、満天にきらめく星が見える。いや、星しか見えない。  その、星空に占められた視界の外側から、話しかける声が聞こえてきた。 「君の言うとおりだよ。�船長�が伊崎四郎だ。三田奈津子を射殺した犯人だ」  木戸浩一の声だった。変わらぬ彼の声だった。  何か答えようと、淳子は口を開いた。声が出ない。かわりに、口の端から血が流れ出るのが感じられる。 「なんでそんなことになったのかという不幸な事情についても、君の推測どおりだよ。やっぱり頭がいいね」  なあ、伊崎さんと、浩一は呼びかけた。また、さわさわと雪を踏む足音が近づく。  淳子は目を閉じた。伊崎が来ているのか。木戸浩一を手伝うために。青木淳子を殺す手伝いを。  いや、殺すのではない。始末するのだ。消すのだ。  そうか……それでわかった。代々木の浩一のマンションで、彼が伊崎を送っていったきりなかなか戻ってこなかったのは、このためだったのだ。あのとき、二人で打ち合わせをしていたのだ。  マンションの前で伊崎が淳子たちを待っているのを見つけたとき、彼の足元に、タバコの残骸がたくさん散らばっていた。淳子はそれを見た。淳子がそれを見たことを、浩一も伊崎も気がついていた。そして淳子が、それを手がかりに何かを思い出すのではないかと懸念していたのだろう。  幸か不幸か、あのときはまだ、淳子はあのタバコの残骸と、桜井酒店の屋上で見たものとを結びつけて考えてはいなかった。だが、木戸浩一と伊崎四郎にとっては、それはいずれ発覚するもの、時間の問題でしかなかったのだろう。  思えば、伊崎がタワーホテルにやって来たときから、浩一は様子がおかしかった。あんたがこの件に噛むなんて話は聞いていないと、彼らしくもない露骨に棘のある口調で言っていた。伊崎も伊崎で、初対面ではないような顔つきで淳子を見ていた。当然だ。桜井酒店で、彼は淳子を目撃していたのだから。  だけど、それなら、なぜわざわざ伊崎を寄越したのだ? 淳子に正体を見抜かれる危険のある人物を、どうして近くに配置した?  それほど、ガーディアンは人手不足というわけか? それとも、見抜かれてもかまわないと、最初から割り切っていたのだろうか。  彼女の疑問に答えるように、浩一の声が続けた。 「だけどね——」  淳子は目を開いてみたが、彼がどの位置に立っているのか見当をつけることができなかった。さっきよりは少し右手にいるようにも思えるし、さっきより遠くなったようにも思える。 「君を殺すのは、君が伊崎さんのしでかしたミスに勘づいたからじゃないよ」  ミス? 奈津子を殺したのはミスだった?  間違いでした、ごめんなさいで済むようなことだった。  藤川に頼まれて助けに来たと告げたとき、にわかに生き返った奈津子の顔。あの濡れた瞳。涙の筋がついた頬。 「ごめんね」  口調も変えずに、淡々と言う。 「ガーディアンは最初から、君を殺すことに決めていた。そして、その実行を俺に任せた。俺はね、君にとって、最初から殺し屋でしかなかったんだよね」  星空に向かって、淳子は呼気を吐いた。それは白く凍り、ひとかたまりになって空に消えてゆく。  今のは、淳子のなかの温かな�恋�だ。ああ、もう見えなくなってしまった。 「どうして」と、問いかける言葉だけが残った。 「君みたいな|過剰な殺戮《オーバーキル》しかできない能力者は、ガーディアンにとっては危険なだけで、実はあまり役に立たないんだよ[#「実はあまり役に立たないんだよ」に傍点]。言ったろ? 痕跡を残さないことがいちばん肝心だって」 「あなたは派手に殺し過ぎた」と、伊崎の声が聞こえてきた。「逃げ隠れする気がないんだから、それも当然だが」 「倉田かおりみたいに幼い子供なら、訓練次第でこっちの意のままになるから使いようがあるんだ。その場合は、パイロキネシスなんて、貴重品なんだよ。だけど君はもう大人で、完成品だ。下手に扱うと、操縦し損ねてこっちが危ない。なにしろ、君は強いもんね」  淳子はまた目をつぶった。声の聞こえてくる方向に神経を集中することで、二人のいる場所を探るつもりだったが、目尻から涙が流れるのを感じると、あたし、本当はただ泣きたいだけなのかもしれないと思った。  当てずっぽうに、淳子は力を放った。それは思いがけないほど弱々しく、それでも闇に向かって流れ出たが、すぐに凍った空気と夜と湖に吸い込まれてしまった。  なるほど、だからここで、こうして、この位置で撃ったのだ。淳子に反撃させないために。 「ガーディアンのターゲットと君のターゲットは、当然だけど、何度か重なってきた。小暮昌樹だってそうだった。俺たちが、なるべく自然死か事故死に見えるような方法を模索してあいつの周囲を回っているうちに、君はあいつを屠《ほふ》ってしまった。そして大事件にしてしまった」  いくらガーディアンに底力があり、警察組織のなかにも仲間がおり、危ない証拠や証言を握りつぶすことができるとしても、やはりそれには限界がある。淳子の引き起こした殺戮《さつりく》を調べる捜査当局が、どこかで、同じターゲットを狙っていたガーディアンのメンバーのしっぽをつかんでしまうかもしれない。  それは危険きわまりない。 「だから俺たちは、最終的には君を殺すために[#「最終的には君を殺すために」に傍点]、探していたんだ[#「探していたんだ」に傍点]」  淳子はまた息を吐いた。身体の真ん中あたりがずきんと痛んだ。だが、その痛みで何かつっかえがとれたみたいに、やっとまともな声を出すことができた。 「それなら、どうして、あたしを、口説いたの」  しばらくのあいだ、浩一は答えなかった。雪の上を歩いて位置を変える気配がした。 「本当なら、こんなに早く殺したくはなかった」と、彼は言った。あいかわらず淡々と。「君に、倉田かおりの面倒をみてもらいたいという意向も、本当にあったんだよ。今日の計画だって、ペンダント型の隠しカメラなんてふざけた物さえなかったら、決行されていたはずなんだ。そしたら、今ごろ君はあの女の子を腕に抱いて、妹みたいなあの子のぬくもりを感じて、どんなにか幸せだったろうにな」  残念だよ——と呟きながら、また歩く。淳子はまた力を絞り出す。それは虚空に消える。「だけど、組織の基本的な方針はさっき言ったとおりだ。もしも君が、少しでもガーディアンやガーディアンのメンバーに対して攻撃的な態度をとったり、疑惑を表明したり、迷ったり、反発したりしたら、即座に処分する。そういうことになっていた。だから、今こういうことになってる」  ごめんねと、もう一度言った。 「だけど俺は考えた。君が組織に従順で、何の疑いも抱くことがなければ、付き合いは長くなる。それなら楽しい方がいい。だから口説いた。短い間だったけど、ホントに楽しかったよ。だって俺も——」  寂しかったからね[#「寂しかったからね」に傍点]。  誰かが泣いている。嗚咽が聞こえる。あたしだろうか? これはあたしの泣き声か?  いや違う。伊崎だ。�船長�だ。 「あたし」  淳子は星に向かって言った。 「あなた——と、心が、通じ、たと、思ってた」  あなたは寂しいのね[#「あなたは寂しいのね」に傍点]。 「それは幸せな誤解だったよ、淳子」と、木戸浩一は言った。「だって俺には心なんかないんだから」  わかるわ[#「わかるわ」に傍点]。あたしも寂しかったから[#「あたしも寂しかったから」に傍点]。 「中学の時、強引に�押し�て、無理矢理デートした女の子のこと、話したよね?」  淳子は「ええ」と囁いた。星がそれを聞いてまたたいた。 「彼女、二年後に死んだ」  わずかな沈黙。伊崎の泣き声。 「すっかり頭がおかしくなってた。俺が彼女の頭のなかをいじったから」  でも[#「でも」に傍点]、これからはあたしがいるわ[#「これからはあたしがいるわ」に傍点]。 「君は、一緒に人殺しで手を汚すことができるまでは、誰にも心を許さないって言ったよね?」  そのとおりだ。今度は正確な引用だ。 「俺はね、初恋の彼女が発狂して死んだと聞いたとき、心を捨てたんだ。だから、誰にも心を許したりしない。できないから。自分は心なんか持ってちゃいけない人間だと知っているから」  通じるはずの心なんか、最初からどこにも存在してなかったんだ。  確かに、この人には戯曲が書けるかもしれない。ついでに役者もやれるだろう。名演だった。淳子ひとりが観客では申し訳ないくらいに。  星がまたたき、囁きかけてきた。間違ってたね、淳子。判断を誤ったね、淳子。  自分で決めた方針を、もっと意志強固に貫くべきだったのに。  だけど……今となってはそんなことなどどうでもいいと思えるのはなぜだろう。 「もういいだろう」涙でしゃがれた声で、伊崎が言っている。「早く楽にしてやってくれ。この人に、真相なんか聞かせる必要はなかったじゃないか。あまりに可哀想だ」  木戸浩一は無言だった。ただ歩き回って位置を決める気配だけが感じられた。淳子はまぶたを閉じ、神経を耳に集中させた。 [#改段]               33          練馬の男が小柄で太り気味で、「パラレル」で目撃された男の外見にはほど遠いと判明すると、ちか子と牧原はすぐに河口湖畔を目指した。幸い渋滞は解消していたし、道さえ空いていれば、都心からせいぜい二時間ほどの距離だ。  青木淳子の連れの男が、今現在その別荘地にいるかどうかはわからない。しかし、建物に忍び込むことができれば、彼についてもっと情報を得ることができるだろう。行って損はない。そしてもしも幸運に恵まれ、そこに男がいたならば、さらに高望みをしてもいいかもしれない。青木淳子もそこに一緒に滞在していると。それは天からのクリスマス・プレゼントになるだろう。  牧原は道中ハンドルを握りしめ、まるで馬から振り落とされないように必死になっている新米の騎手のように見えた。しかし、ちか子には、彼が振り落とされたくないとしがみついているのが、もちろん車でも馬でもないことがよくわかっていた。  この道筋だ。この運命だ。この僥倖と呼んでもいい。牧原を、青木淳子という女性の元へ導く、たった一本の細い道。  その道に間違いはなかった。  車が目的の別荘、木戸浩一という若い男が所有するログハウス風の家へと近づき、ヘッドライトが街灯よりも明るくその建物の玄関先のステップを照らし出し、牧原がブレーキを踏んだそのとき、一人の人影が、建物の脇を回って進み出てくるのが見えた。  そしてそこから先に起こった出来事は、牧原の過去の悪夢と一直線につながるものだった。    車のエンジン音だ。  淳子の急所に狙いを定めているであろう木戸浩一の視線を探ろうと耳を澄ましているうちに、淳子はそれを聞きつけた。車だ。こっちへ来る。除雪された舗装道路の上に残った薄氷のような残り雪を砕く、独特の音が近づいて来る。 「誰か来る」  木戸浩一が言って、歩き出し、遠ざかる気配が感じ取れた。様子を見に行ったのだろう。  淳子は目を開けて星を見た。星がまたたいて淳子を励ました。  幸運のお星さま、あたしに力をください。 「伊崎、さん」  呼びかける声を出すことができた。 「あたし、を、助けて」  伊崎がうめく。 「手を、貸して」淳子は唾を飲んだ。血の味がする。 「起こして」  伊崎が近づいてくる。「あなたは——」 「起こして。お、ねがい」  伊崎がまた泣き出す。「許してくれ、私はけっして——けっして——人殺しなんかしたくはなかったんだ。むしろ、あんな奴らを片づけて、犠牲にされる人の命を守りたかっただけなんだ」  わかってる。わかってる。それはあたしも同じ。 「私がガーディアンに入ったのは、娘を殺されたからだ。人間の屑のケダモノ以下の男に、娘と孫を殺されたからだ。そいつはぬけぬけと軽い罪で済んで、刑務所では模範囚になった。私をガーディアンに誘った人は、もしも私がメンバーになったなら、その男を自殺に見せかけて殺してやると約束してくれた」  ひと息に言って、伊崎はしゃくりあげた。 「その約束は守られた。だから私はメンバーになったんだ」  ああ、わかってる。だからそれはもういいの。 「メンバーになった以上は、ガーディアンの掟《おきて》は守らなければならない。痕跡を残すなという掟だ。だけど私だって三田奈津子を殺したくはなかった。何の罪もない犠牲者だ。顔を見られた、正体を知られたということだけで殺していいわけがない」伊崎は吐くような苦しげな声を漏らした。「だが、あのときの私は——動転していた。まったく計画にない殺戮が目の前で起こって、怖くてたまらなかったんだ。浅羽敬一を撃ち殺した直後で、興奮していたということもあったかもしれない。だから——、三田奈津子に呼びかけられた瞬間に、ほとんど反射的に撃ってしまった」  蘇った記憶に、伊崎が今度こそ本当に嘔吐する気配を淳子は感じた。 「あの瞬間の私は、ただの薄汚い人殺しだった。臆病者の人殺しでしかなかったよ」  人殺し、か。淳子も大勢の人を殺した。その多くは、果たして人と呼んでいいかどうか定かでない凶悪な者たちだったけれど、でも、それだって�命�であったことは確かだ。  自分が間違っていたとは思わない。だけど、正しかったのかどうかもわからなくなってきた。 「私は、木戸君の振られた役割を知っていた」喉を鳴らしながら、伊崎が続けた。「彼があなたを処分するためにあなたに接近しているんだということを知っていた。だからね淳子さん、私は——今度の倉田かおりの一件に、ガーディアンの上層部にはかなりの無理を言って、途中からわざと割り込んだんだよ」  淳子はかすれる声で訊いた。「どうして?」  あたしを助けるため? そうじゃないわよね。 「あなたに、早く私の正体を見抜いてほしかった」と、伊崎は言った。「見抜いて、指弾してほしかった。責めてほしかった。そうすれば、それだけ早く、木戸君の茶番劇も終わる」  今のこの、終幕が訪れる。 「私はこんな情けない男で、あなたを助けることなんかできない。だって私たちは同じ穴の狢《むじな》だからね。私があなたを引っ張り上げることはできない。あなただけ逃がすこともできない。心から申し訳ないと思うけれど、それはできない。ただ——」  伊崎は声を詰まらせて、凍てついた風のなかで咳き込んだ。 「木戸君があなたを騙しているのを、黙ってみているのは嫌だったんだ。だってあまりに卑怯で——あまりに残酷じゃないか」  自分勝手ね、�船長�。淳子は仰向いたまま微笑んだ。結局それは、あたしのためではなく、あんたの�良心�のためだったんじゃないの。最後はどうせ消される運命にあるのなら、一ヶ月騙されていようと、一年騙されていようと、あたしにとっては同じことよ。  いつかは殺されるにしても、それまでは何も知らず、楽しい夢を見せてやろうなんていうふうには考えられなかったの? バカバカしいけど、そういう考え方だってあるじゃない。  そして淳子はまた涙を流しながら思う。いや、伊崎にはそれができなかったのだ。それでは彼の心が保たれなかったから。  すうっと霧が晴れるように、淳子には、ひとつの真実が見えてきた。人殺しを続け、他人の生殺与奪を握ることを覚えてしまうと、たとえその殺戮の目的が何であったにしろ、人は自分勝手な生き物へと成り下がるのだ。なによりも自分を優先するようになるのだ。あたかも自分が神であり、神の考えは全てを超えるという思い違いをするようになるのだ。自分の考えに間違いはないと思うようになるのだ。  あたしだってそうだったじゃない。 「あたしを、起こして」と、声を振りしぼった。「あたし、あの人を——」 「可哀想に、可哀想に」伊崎が泣く。「木戸君はあなたを騙してた。騙す必要なんかこれっぽっちもなかったのに」  そういうものよと、淳子は思った。できると思えば、必要のないことでもやってみたくなるのが�神�じゃないか。  それとも——やっぱり彼は寂しかったのか。だからほんのつかの間でも、淳子をつかんでいたかったのか。  それなら、やっぱり独りにはさせられない。 「あたしを起こして」今までで、いちばん力強い声が出せた。「あたし、あの人を、連れて行かなくちゃ」  伊崎が近寄ってきた。視界に入った。淳子は口の端をひん曲げて、彼の泣き濡れた顔に微笑んでみせた。それが微笑に見えたかどうかはわからないが、淳子に彼を傷つける意思がないことは伝わったと思った。 「動くと、出血がひどくなる」  いいのよ、今さらと、淳子は呟く。  伊崎は淳子を抱き起こした。背中に腕を回して、淳子の視界を開かせた。  その先に、木戸浩一がいた。 「あの人、銃を、使い慣れてる?」と、伊崎に訊いた。 「あれは木戸君の護身用だ。以前にも、やむを得ず使うところを見たことがある。腕は確かだよ」 「弾は、あと何発?」 「五発だ」  それならば、充分に注意しなくては。今度はこちらが先手を取るのだ。 「私の娘と孫を殺したのは、娘の夫、孫の父親だった」と、伊崎が言った。  それを引き金に、淳子はありったけの力を解放した。    牧原は車から降りた。ちか子も降りた。凍結した道でゴム長の底が滑った。  人影は若い男の形をしていた。長髪をうなじのところで束ねている。すらりと長身で、雪の上を優雅な身のこなしで近づいてくる。 「どうかなすったんですか?」と、明るい声で呼びかけてきた。「何かお困りですか? ガス欠になりそうだとか? こんな場所ですからね、ほかには人っ子ひとりいないし、いちばん近いスタンドは一キロ先だ。僕がいて良かったと感謝してくださいよ」  それとも、僕がここにいたことが、あなたたちにとってはクリスマス・プレゼントになるのかなと、屈託なく続けた。  よくしゃべる男だ。ちか子は顔を確認した。「木戸浩一さんですか?」と、牧原が呼びかけを返した。  若い男の顔に、驚きに近い表情が浮かんだ。だが本物の驚きではない。優男《やさおとこ》のこの青年は、見かけ通りのお気楽な若者ではないと、ちか子はほとんど本能で悟った。 「ええ、そうですが?」  そうですが何ですか? の意味を込めた尻上がりの言葉の語尾が終わらぬうちに、木戸浩一は炎上した。    淳子は見た。  浩一はほとんど身動きしなかった。炎は一瞬にして彼を包み込んだ。髪が燃えあがり、セーターが真紅に染まり、すらりとした足を伝って蒼いびろうどのような炎が駆け上がり、すべては本当に一瞬のことで、気がついたら木戸浩一は炎の人形になっていた。  彼は両手をあげた。振り返ろうと身体をよじった。拳銃は見当たらなかった。雪の上に落ちたのかもしれない。彼の両手の十本の指が、紅蓮《ぐれん》の炎のなかで、きれいなシルエットになって浮かんで見えた。  彼は叫んだ。しかし淳子には聞こえなかった。聞こえるのは頭のなかの彼の声。淳子に呼びかける彼の声だけ。感じられるのはもはや死につながる苦痛ではなく、出血の苦しみでもない。淳子を抱く、彼の腕の感触だけ。  木戸浩一が燃え落ちるまで、淳子は目を開いていた。彼が倒れると、雪がじゅっと音をたてた。まるで優しく慰めるように。    牧原もちか子も、ただ棒立ちになったまま、燃えあがる木戸浩一を見つめていた。止めることも、助けることも不可能なのはわかっていた。滅ぼすことにかけて、火はこの世の何物よりも速いのだから。  倒れる直前、彼が「淳子」と叫んだような気がした。ちか子の耳はそれをとらえた。  牧原が走り出した。木戸浩一に向かって。しかし彼を避け、彼を追い越し、まだぶすぶすと燃えている彼を置いてきぼりにして、彼は木戸浩一の背後へと、建物の脇から背後へと続く、白い雪の広がりへと走った。  ちか子も後に続いた。ゴム長がごぼごぼと音をたて、ちか子の心もその音に共振して激しく揺れた。牧原が危険だ。あんなふうに一直線に近づいてはいけない。今度は彼が燃え上がるかもしれない。  そして追いついて、見た。雪の上を朱に染めて仰向けに横たわる若い女と、その脇に膝をつき、声をあげて泣いている伊崎四郎を。    耐えかねたように伊崎が腕を緩め、再び、淳子を雪の上に横たえた。そして泣き始めた。泣かないでいいのよ、�船長�と呟いた。ありがとうと呟いた。あたしにはあなたを罰することはできない。だってあたしとあなたは同じ間違いを犯してきた仲間だから。  知らない女の声が、「伊崎さん」と呼びかけるのが聞こえた。  誰かが淳子に近寄ってきた。淳子と星空のあいだに立ちはだかるほどの長身だった。男だ。だが浩一じゃない。浩一ほど若くない。  彼は淳子の肩の脇に片膝をついてかがみこむと、そっと手を伸ばして淳子の額に触れた。 「青木——淳子か?」と、彼は訊いた。  淳子はゆっくりとまばたきをした。 「今、あの男を焼いたのは、君か?」  淳子は口を開き、まだ白い呼気がたちのぼることに驚いた。 「ええ、そう」  男の手が、淳子の額を撫でた。「この怪我は?」  淳子の視界の外で、伊崎が答えた。「あの男が彼女を撃ったんだ。だから燃やされちまった。それでいいんだ」  伊崎はもだえるように泣きながら、ああ、この人には本当にそれができるんだよと叫んだ。  淳子の傍らの男は、ちらりと伊崎を振り向いたが、すぐに淳子に向き直った。まぶしいものに向かっているかのように目を細めていた。 「君は死ぬ」と、低く言った。「この傷じゃ、とても助からない」 「ええ」と、淳子は答えた。 「答えてくれ。荒川河川敷事件も、田山町の廃工場の事件も、『カレント』も桜井酒店も、みんな君のやったことか?」 「ええ」と答え、淳子は目を閉じた。「あなたは、誰?」  警察だよと、男は答えた。 「君は念力放火能力を持っているんだな?」  淳子は目を閉じたまま微笑した。 「知ってるの、そういう力のこと」  刑事はうなずいた。「ああ、よく知ってる」  いちばん最後の最後になって、あたしを知ってる警察がやって来たわけだ。あたしが武器だってことを——武器だったことがあるのを知ってる警察が。 「刑事さん」と、呼びかけた。 「何だね」 「詳しい、ことは、そこの、伊崎さんが、知ってる」  刑事は「わかった」と言った。 「あたし——は、人殺しよ」  刑事はまた、黙ってうなずいた。 「お願いが、あるの」  目を開くと、今度は星がかすんで見えた。涙のせいではなさそうだった。 「あたし……と、同じ、力を持ってる、女の子が、いるの」 「倉田かおりのことかい?」  目をこらして、淳子は刑事の顔をはっきり見ようと努力した。 「知ってるの?」 「ああ、知ってる」  この刑事は淳子を追いかけてきて、その道筋で、きっといろいろなことを知ることになったのだ。  それなら安心だ。 「刑事さん、あの子のこと、助けてくれる?」 「助けられると思う」 「あの子が、あたしみたいに、ならないようにしてあげて」  大きく息をつく。命のかたまりが流れ出てゆくのがわかる。さらに視界がかすみ、ぼやけ、暗くなる。 「あたし、ホントなら、あの子に、会うはずだった」  会いたかった。あなたはあたしの妹で、だからもう怖がることなんかないと言ってあげたかった。 「だけど、会わなくて、よかった。あたしなんかに、会わなくて、よかった。あの子が、あたしみたいな、人殺しを、見ることがなくて、よかった」淳子は微笑した。「見れば、心に、残ってしまう、から」  刑事の手がまた額を撫で、涙をぬぐってくれるのを感じた。 「あの人、死んだ?」 「木戸浩一か? ああ、死んでる」 「確かめて」  息が切れる。 「もし、死にきれずに、苦しんでたら、楽に、してあげて」 「大丈夫だよ」 「刑事さん」 「何だ」 「あなた、誰? 名前、なんていうの?」  男は答えなかった。右手で淳子の額を撫で、左手で淳子の右手を握りしめて、ただじっとかがみこんでいるだけだった。  どうして教えてくれないの、あなたの名前。  問いかけようとしても、とうとう声が出なくなった。 「さよなら」と、淳子は言った。さよならと、刑事も言ったような気がしたけれど、もっと長い言葉を口にしたようにも見えた。  ひょっとしたら、メリー・クリスマスと言ったのかもしれない。なぜなら、この安息の死は、青木淳子への何よりも美しいプレゼントなのだから。  星空が見えなくなった。それは、淳子が星に近づいているからだった。やがて暗闇が周囲を包み込んだが、そこでは淳子自身が星になっていた。 [#改段]               34          年明けの関東地方に、再び雪が訪れた。  石津ちか子は、クリスマス・イヴのあの日と同じようにゴム長靴を履き、家の近くの児童公園を目指して歩いていた。あと五分で、待ち合わせの時刻だ。雪は積もっているが、今日は空が晴れている。急ぐと、分厚いコートの下で身体が汗ばむようだ。  先方は、ブランコのそばのベンチで、コートの襟を立て、襟巻きをしっかり巻いて、そこに顎を埋めて待っていた。有能な刑事は時間に几帳面だと、今さらのようにちか子は思った。  挨拶をして、ベンチに並んで座った。まだ学校が退けない時間帯なので、せっかくの雪景色だが、子供たちの歓声は聞こえない。ブランコの乗り手も、積もった雪だけである。犬を連れた老人が植え込みのあいだを散歩している。 「木戸浩一と青木淳子の事件は、木戸の仕掛けた無理心中ということで処理できます」と、襟巻きの内側から刑事は言った。能率第一の人らしく、前置きは抜きだった。 「恋愛関係のもつれというわけですか」と、ちか子は訊いた。 「そうですよ。実際、そのとおりだったんじゃないですかね。ある一面では」  青木淳子の側から見れば、それだけだったと言うこともできると、ちか子は思った。 「それにしても、河口湖の別荘で、伊崎さんが泣きながら、あなたに連絡させてくれと言ったときには驚きました」 「ほう?」襟巻きの刑事は面白そうに声をあげた。「どうしてです?」 「だってねえ、それはそのまま、あなたもガーディアンの一員だと指さすようなものじゃないですか。そういうことを、あなたが許すはずもないと思いました」 「ところが、許すんですよ」と、襟巻きの刑事は渋く笑った。「指さされたところで、痛くも痒《かゆ》くもありませんからな。我々の目的は達したことだし」 「あなた方の目的」と、ちか子は繰り返した。 「そうです」と、襟巻きの刑事は言った。 「青木淳子という危険な能力者を除去するという目的です」  ちか子は目を閉じた。淳子の死顔が目に浮かんだ。雪よりも白く、雪の精のように清らかで美しい顔だった。 「衣笠さん」と、ちか子は襟巻きの刑事に呼びかけた。「あなたも伊東警部も、どれくらい前からガーディアンの一員なんですか?」  衣笠は首をかしげた。本当に、すぐには数えられないようだった。「さあ……警部の方が長いですがね」 「迷いを感じたことはありませんか」  意外なことを訊くというように、衣笠はちか子の目を見た。「私が? ガーディアンの活動にですか?」 「はい」  ため息をついて、衣笠はベンチにもたれかかった。ベンチの背に積もっていた雪が、はずみで下に落ちた。 「迷いはありませんよ。一度もない」 「ありませんか」 「ええ。だってねえ、石津さん。私も警部も、最初からガーディアンなんてものはロクでもないものだと承知しているんです」  ちか子は何も言えずに、衣笠の、その内側に秘められている鍛え上げられた剛直な精神にふさわしい強靭な顎を見つめていた。 「しかしあれは、必要悪です」と、彼は続けた。「現行の法律で仕切られた社会のなかでは、なくてはならないシステムですよ。できればなくなった方がよろしいが、今はないと困るシステムです。ですからね、石津さん。�警察内部のガーディアンのメンバー�という表現は、実は正しくないんです。正確には、�警察内部にいる、ガーディアンの存在を黙認している者たち�とでも言うべきでしょうね」 「今は[#「今は」に傍点]黙認している」と、ちか子は念を押した。 「そう、今は[#「今は」に傍点]ね」と、衣笠も自信ありげにうなずいた。 「じゃ、いつかはなくなるんですか」 「理想的な法律ができて、その執行がスムーズにいけばね」 「その法律とは、凶悪犯罪をおかした者は、片っ端から死刑にしていいという法律ですか」  衣笠は笑った。「凶悪な犯罪者に対して、現在よりも、もっともっと正しい対処の仕方ができるような法律です」  ちか子は目を伏せた。そのまま、強い口調で言った。「あなた方は、歩道を無視して、通行人も跳ね飛ばして、道のないところも無理矢理走って、それでも最短距離で目的地に到達できればそれでいいんだと考えておられるんですね?」 「いけませんか」と、衣笠は静かに言った。 「ぐずぐずしていたら、それだけ余計な犠牲者が出ます。我々の行軍によって跳ね飛ばされる歩行者の数より、一桁も二桁も多い犠牲者がね」  ちか子は黙って、じっと目を閉じた。それから、身を固くしたまま言った。「わたしはその考え方には与《くみ》しません。遠回りでも、通行人を跳ね飛ばさずに正しい目的地を目指します」 「ご自由に」わずかに冷たい口調になって、衣笠は言った。「仲間になれと、無理強いをする気はありません。あなたにも牧原君にもね。仲間にならないからと言って、あなた方の身に危険が及ぶということもないからご安心なさい。ガーディアンはそれほど子供ではないし——」 「わたしや牧原さんの存在を気にしなくてはならないほど小さな組織でもない?」 「そのとおりです」  沈黙が落ちた。雪の白さが目にしみる。遠くで犬が吠《ほ》えている。 「あなた方は、一人で派手な処刑的殺人を続けている青木淳子さんを取り除いてしまいたかったんですね?」 「そうです。あんなに盛大にやられたら、どこかでガーディアンにも火の粉が飛んで来かねないですからね。我々が本当に恐れていたのは、メディアの注意を惹《ひ》くことだけでしたから」  それについては伊崎も言っていた。木戸浩一が、青木淳子を殺すときに、なぜ殺さなければならないのか、理由を話して聞かせたのだそうだ。 「今回、わざわざ牧原さんを巻き込んで、彼に青木淳子さんを追わせたのはなぜですか?」 「簡単ですよ。彼は有能だ。放っておいたら自力で青木淳子にたどりつき、彼女を除去しようとしているガーディアンの存在にも勘づくかもしれなかった。それを防ぎたかったんです」  彼の個人的執念が問題だったと、しんみりと言った。 「青木淳子がこの世に居なくなった後ならば、牧原君がガーディアンの存在を知ろうが、それについて告発しようが、別にどうでもよかったんですよ。いちばん怖いのは、彼と青木淳子が組んでしまうことだった[#「彼と青木淳子が組んでしまうことだった」に傍点]。牧原君は青木淳子によって弟を殺された被害者だが、しかしあの二人は共鳴しやすい音叉《おんさ》を持っていた。同じように孤独で、同じように生きる目的を探していた」  そして善良だ——と、ちか子は心のなかで言った。 「これはとても個人的な質問です」ちか子は衣笠の横顔に言った。「ですから、あなたご自身の気持ちを教えてください。ガーディアンの方針ではなくて、衣笠さん個人のお気持ちを」  なんです? というように、衣笠は眉を動かした。襟巻きをさらに強く巻きつける。 「青木淳子さんに同情を感じませんか」  望んであんな危険な力を持って生まれてきたわけではない。望んで殺人者になったわけでもない。彼女は彼女なりに精一杯生きようとして、結果的にあんなふうになってしまったけれど、あれは彼女が進んで選び取った人生ではなかったのだ。  息をみっつ吐くぐらいのあいだ、衣笠は無言だった。  やがて、平坦な口調で言った。「私はね、石津さん。浅羽敬一のような凶悪な犯罪者というのも、一種の異能者だと思っている。青木淳子と同じ異能者だと」  違うと叫びたかったけれど、ちか子はこらえて続きを待った。 「良心に邪魔されずに目的を遂げることができるという点では、浅羽のような連中も立派な異能者ですよ。たとえば戦争のような異常な状況下で、使いどころさえ間違えなければ、浅羽は役に立つ人材だったかもしれませんよ」  そんな理屈があるものかと、ちか子は拳を握りしめた。 「浅羽敬一は、一般人にはあるものが欠落していることによって異能者たり得ていた。青木淳子は、一般人には無いものを獲得していることによって異能者たり得ていた。しかし、種類としては同じ人間です。つまり、結果的にはどちらも同じように危険だということだ。ですから、同じように人殺しになった」 「わたしはそうは思いません」と、ちか子は言った。 「私もそうは思いたくない。だが、現実は曲げられない」ほんのわずかだが、衣笠の声から力が失せた。「いつか、私のこの確信を根底からひっくり返すような見事な異能者が現れてくれることを、私自身、心から望んでいるんです」  しばらくのあいだ、二人で白い息を吐きながら黙って並んで座っていた。それぞれに働きの異なる機械が二台、雪のなかで音もなく稼動しているかのように。 「わたしは、あなた方とは違う道を行くつもりです」きっぱりと言って、ちか子は顔をあげた。「警察は辞めません」 「誰も辞めろとは言ってませんよ」 「伊崎さんは、ストーカー一一〇番を辞めてしまったそうですね」 「あの男は、もうあまり役に立つ人材ではなくなってますな」 「わたしは、伊崎さんがあそこでやっていたような活動を、警察内部でやれないかと考えているんです」 「なるほど」衣笠は顔をほころばせた。「おやりなさい。あなたにふさわしい仕事だ」 「意外なお言葉です」 「そうですか? 誤解されては困るので言っておきますが、私はね石津さん、ちゃんと安全運転で車道を通るあなたたちを、けっして軽んじているわけじゃないんです。ただ、それでは間に合わないかもしれないから、急いで行軍する方に加わっているだけで」  さて帰るかと、衣笠は立ち上がったが、ポケットをぽんとはたくと、そうそう——と、ちか子を振り向いた。 「これを渡すためにお会いしたんだった」  封筒のなかに、写真が数枚入っていた。 「江口総子の隠しカメラで撮ったネガを現像したものです」  ちか子は写真を見た。伊崎がいる。同じテーブルについているカップルは——。 「似合いの二人でしたな」と、衣笠は言った。 「ええ。幸せそうに見えますね」 「確かに幸せだったんでしょう、その時は」  だいたい、そんなもんですよと、ため息混じりに言った。 「幸せというのは、いつだって点[#「点」に傍点]なんです。なかなか線[#「線」に傍点]にはならない。それは真実も同じですがね」  それではまた——と、衣笠は雪のなかに踏み出す。  ちか子は呼びかけた。「衣笠巡査部長」  彼は振り向いた。 「伊東警部によろしくお伝えください。ご存じでしょうが、わたしはもう、異動しましたので。一月一日付だったんですよ」  衣笠は黙って手をあげた。そして歩み去った。石津ちか子は、青木淳子の輝くような笑顔を記録した写真と共に、今しばらく公園に残るつもりだった。    深夜の電話。 「もしもし?」 「どうしたんです、こんな時間に」 「あなたがなかなかつかまらないからですよ。いつかけても居なかったでしょ」 「独りで考えたいことが山ほどあったんですよ」 「そうね。それはわかりますよ。わたしだってそうしたかったものねえ。わたしがいないとお湯も沸かせない亭主がいなければね」 「石津さんに似合わないグチですね。でも、僕も電話しようと思っていたんです。夕刊には間に合わなかったらしくて、載っていなかったから。ニュースがあるんです」 「ニュース?」 「倉田氏が死にましたよ」 「………」 「離婚の話し合いの大詰めで、由希子夫人と二人で弁護土事務所にいたんですがね。応接室の書棚が倒れてきて、下敷きになってしまったんだそうです」 「……書棚が、ね」 「ええ。駆けつけた事務員たちが——それも男ばっかりですよ——三人がかりでも起こすことのできないほど重い書棚だったそうです」 「そりゃまあ、どうしてそんなものが倒れたんでしょうね」 「世の中には不思議なこともあるもんです。夫人に怪我がなくてよかったですが」 「そうですね」 「倉田氏が書棚に押しつぶされたとき、室内にいたのは、彼と由希子夫人の二人だけだったそうです」 「偶然ね」 「ええ、偶然です」 「夫人は落ち着いておられますか」 「ええ。少し疲れているようだけど」 「かおりちゃんは?」 「だいぶ元気になってきました。江口総子さんが、細かく面倒を見てくれていますからね」 「牧原さん」 「なんです、あらたまって」 「あなた、警察を辞めちゃいけませんよ」 「出し抜けにどうしたんですか」 「辞めちゃいけません。あなたやわたしみたいに、どんなにノロくさくても、歩行者を跳ね飛ばさずに進んでいく軍隊は、絶対に必要なんですから」 「面白い喩《たと》えですね」 「笑っちゃいけません」 「笑っていませんよ。僕は辞めません。生計の道は確保しておかないといけませんからね。干上がるわけにはいかないんです。なにしろ僕は、青木淳子から、たいへんな宿題を出されてしまった身の上ですから」 「かおりちゃんを……淳子さんのようにはしない……」 「かといって、専任の家庭教師になるわけにもいかないでしょう? こんな科目、ほかにはありませんからね」  今度こそ本当に笑って、牧原は電話を切った。      その月の末、ちか子は倉田かおりの手を引いて、青木淳子が暮らしていた田山町のアパートを訪ねた。相続人のいない彼女の遺物は、引き取り手も整理する者もいない。困り果てた大家が警察に泣きついてきたのを、ちか子が引き受けたのだった。  室内はきちんと整頓されていた。青木淳子はきれい好きだったのだ。かおりは物珍しそうにあたりを見回し、淳子の使っていた化粧石鹸を手にとって匂いをかいだり、キッチンの椅子の背に引っかけてある彼女のセーターを羽織ってみたり、彼女のスリッパをつっかけてみたりした。ちか子はかおりの好きなようにさせておいて、段ボール箱に詰められそうなものだけ選んでは箱詰め作業を続けた。家具もカーテンもみんな安物で、大家が喜んで処分を引き受けてくれそうなのは、キッチンのテーブルの上に据えられた真新しいパソコンぐらいのものだろうと思われた。  部屋のなかをぐるぐる見学していたかおりが、淳子のベッドの枕元でつと足を止め、そこに置いてあった小さな犬のぬいぐるみを手に取った。しげしげとながめる。  そして呟いた。「泣いていたのね[#「泣いていたのね」に傍点]」  ちか子は「え?」と問い返した。少女はきょとんとした。 「なあに?」 「今、かおりちゃん何か言わなかった?」 「なにも言わないよ」  牧原を透視したときのように、かおりの心の目に何か映ったのかもしれないと思ったのだが——。 「そう。じゃ、おばさんの錯覚かな」 「ねえ、おばさん」 「はいはい」 「このワンちゃんのぬいぐるみ、あたし、もらってもいい?」  つぶらな丸い目をした、小さなぬいぐるみだった。ずいぶんと古びていて、片方の耳など縫い目がほつれてとれそうになっている。ひょっとすると手作りかもしれない。淳子が母親からもらったものかもしれなかった。 「うん、いいよ」と、ちか子はうなずいた。「大事にしてあげて」 「うん!」かおりはぬいぐるみを抱きしめた。  大方の片づけを終え、外に出てみると、外階段のところに、髪を赤く染めた、顎の尖った若い娘が立っていた。手に小さな花束を持っている。どなたですかと、ちか子は呼びかけた。 「あの……」  娘はダウンコートの襟をつかみながら、まるで最初から断られることはわかっているから、こっちも先に怒った顔をしておくのだというように口を尖らせて、言った。「ここに住んでた人に、花をあげたいんだけど」 「ここの方?」 「うん。死んだの。ていうか、殺されちゃったの。男に無理心中させられちゃって」  ちか子は目を見張った。「青木淳子さんのこと?」 「うん」娘は花を持っていない方の手で髪をかきむしった。「テレビでもやってたよね。顔写真を見てすぐにあの人だってわかったから、テレビ局に電話して、知り合いだって言って、さんざん粘ってここの住所教えてもらったんだ」 「そう……。どういうお知り合いだったのかしら。差し支えなければ教えてください」  ちか子は名乗り、警察手帳を見せ、ここに来た目的を簡単に説明した。若い娘は驚くふうもなかった。 「おばさん、刑事なんだ」 「ええ、そうなのよ」 「あたしね、淳子さんとはいっぺんしか会ってないの。あの人が——あたしの昔の悪い仲間を探しにきて、そのときに」  ダウンコートの下で、おそらくは骨張っているであろう肩をすくある。 「その悪い仲間も死んじゃったんだけどさ」 「そう。たったそれだけのつながりなのに、淳子さんにお花を持ってきてくれたのね」 「うん。なんか……だってそうじゃない? 死んだ人にはお花ぐらいあげたいじゃない。あの人、寂しそうな人だったからさ」 「きっと喜ぶと思うわ。わたしが預かって、お部屋にお供えしてもいい?」  うんとうなずき、若い娘は花を差し出した。「あたし、伊藤《いとう》信恵《のぶえ》っていいます」 「伊藤信恵さんね。ありがとう」  信恵はまた肩をすくめ、たぶんそれが別れの挨拶のつもりだったのだろう、くるりと背中を向けて歩き出そうとした。だがそのとき初あて、辛抱強くちか子の陰に隠れて二人のやりとりを聞いていた倉田かおりに気がついた。  信恵はかおりを見た。かおりも信恵を見上げた。はっとするような、明るい顔で。 「おばさん——刑事さん」と、信恵は訊いた。 「何かしら」 「この子、淳子さんの妹? まさかね。こんな小さい妹がいるわけないよね?」  ちか子が答える前に、かおりが言った。「うん、そうよ」  へえ……と、信恵は感心した。あらためて、かおりの全身を見回した。 「あんた、お姉さんよか美人になりそうだね」と、率直に言った。「だけどさ、悪いヤツには気をつけるんだよ。そこらに、いっぱいゴロゴロしてるからね」 「うん、わかった」と、かおりはうなずいた。  それじゃねと、伊藤信恵は走るようにして去っていった。かおりがちか子の方に手を差し出した。花を持って行かせてくれというのだった。 「そうね。じゃ、お願い」  花を渡して、ちか子は少女の空いている方の手を取った。 「寒いわね」  外階段の下で、かおりはなんということもなく振り返り、寒気に頬を赤くしながら、ちょっとのあいだそこに佇《たたず》んでいた。 「どうしたの?」 「誰かに呼ばれたような気がしたの」  少女は風に耳を澄まし、それから微笑んだ。 「なんでもない。気のせいだったみたい」  その瞳のなかに、信恵のくれた花が映っていた。星のように。愛のように。 [#地付き]〈了〉     「クロスファイア」(上・下)は「小説宝石」(光文社刊)一九九六年一月号から、一九九八年十一月号まで連載された作品に加筆したものです。 [#地付き](編集部)