TITLE : 終着駅は始発駅 終着駅は始発駅   宮脇俊三   目次 ●ちょっと長い前がきにかえて—— 点の旅と線の旅 鉄道ファンのいる国いない国 時刻表に乗る ●東京を旅する—— 通勤電車もまた愉しからずや 東京の私鉄七社乗りくらべ 東京駅素顔の24時間 都会のなかのローカル線 ●鈍行列車に乗って—— 赤字線の乗りごこち 汽車に乗るなら北海道 流氷列車 雪のスイッチ・バック 山陰ストリップ特急 ●歴史を旅する—— 幌内鉄道紀行 陸羽東線と芭蕉 高山本線の車窓 宇高連絡船と高徳本線 加悦谷《かやだに》の小さな私鉄 ●また旅の日々—— SLと蒸気機関車 トンネル三題 陽気な睡魔 風景と非情と ビジネスホテル考 君臨すれども 旅と電話 わが家の「フルムーン」切符 四〇年後の子どもたち また旅の日々——読書日記 乗り物の本 私が選んだ鉄道旅行の本100冊  あとがき ちょっと長い前がきにかえて——    点の旅と線の旅  科学・技術の進歩は、いろいろと便利なものを私たちに提供してくれる。  けれども、ありがたがってばかりもいられない。恵みの神は奪う神でもあるからだ。  自動車が人間をひき殺す、ビニール栽培の冬のトマトのまずさ、冷房病などなど、いろいろある。テレビで野球を見ていると、どうしてあんな球が打てないのかと思う。ところが現地へ行ってブラウン管を通さずに見てみると、なんたる球の速さであることか。バットに球が当たるのが不思議なくらいだ。野球でメシを食うことがいかに大変であるかがよくわかる。それぞれの人生の厳しさに触れる思いがして感銘を受ける。テレビ指定席では、この肝心なところが伝わりにくい。  交通機関の発達がもたらした恩恵については言うまでもない。けれども、その代償はあるだろう。奪われたものは何なのか。  東海道新幹線は、東京—大阪間の所要時間を、従来の半分以下の三時間一〇分に短縮した。それまでは一日を費す行程であったのが、会社がひけてからでも大阪へ行けるようになった。  便利になったから東京—大阪間の旅行者が激増した。国鉄は新製車両を続々と投入し、増発に増発をかさね、数年後には一日一〇〇往復もの列車が運転されるようになった。新幹線開通以前の在来線の昼間特急は一〇往復程度であり、普通急行や準急までを含めても三〇数往復にすぎなかった。  新幹線開通によって、なぜこれほど東京—大阪間の客が増加したのだろうか。便利になれば利用者が増えるのは当然であり、当時は高度成長時代でもあった。しかし、この激増ぶりは異常である。  この「異常」の中身は分析しておく必要がある。といっても、残念ながらそうした調査はなされていないので、私や知人たちのごく個人的な経験の上でしか言えないが、新幹線開通による旅客激増が何によったものか、その一半は肌身で感じとってきた。  当時、私は会社勤めをしており、仕事の関係でしばしば東京から関西へ出張していた。そのたびに片道六時間以上を費していたから能率がわるかった。着いた日は午後四時ごろからでなければ仕事にならず、帰る日は午前中から汽車の時間を気にしなければならなかった。だから新幹線が開通したとき、これで関西での仕事はやりやすくなったぞと思った。  ところが、新幹線によって仕事の能率が上ったかというと、かならずしもそうではなかった。  新幹線ができる以前は、訪問される側にも、「遠路はるばるよく来てくれた」との意識があり、それが仕事の推進の上で無形の力となっていたのだが、便利になった分だけそれが薄らいだようであった。一回の出張ですんでいたことが二回になるような傾向がでてきた。また、それまでは電話や手紙ですませられたことも、三時間で行けるのならと、わざわざ出向くようになった。関西への出張回数は仕事の実質的能率とは関係なく激増し、日帰りの場合もあって、労働強化にもなった。  結婚式の招待状や会合の案内状が関西から届くようになったのも、新幹線開通以前にはほとんどなかった現象である。わずか三時間では行かなければならない。  時間は短縮されたが特急料金は逆に上った。乗りものの料金は早馬、早駕籠《はやかご》の昔からジェット機時代の今日まで、利用時間が短いほど高くなるという、原価計算上から見ると妙なことになっている。とにかく、公私ともに関西往復の回数は増える、特急料金は上るで、出費がかさんだ。  東京から大阪へ転勤になっても、家族を残して単身赴任し、週末だけわが家に戻って過すといった人たちが現われ、月曜日の始発の「ひかり」が混《こ》むようになったのも、恩恵か被害かわからないけれど、新幹線のせいである。  新幹線の便利さの代償や副作用は、このほかにもいろいろあるだろう。純粋に恩恵だけを受けているのは新幹線によって年間三千億円もの収益をあげている国鉄当局だけかもしれない。  しかし、私は新幹線をなくせと主張しているわけではない。騒音に悩まされている沿線の人たちには申しわけないが、あったほうがいいと思っている。と言うのは、問題は新幹線にあるのではなく、人間の側にあるからだ。新幹線に「乗る」か「乗らされる」か、活用するか振り回されるかは、私たちの問題であろう。  通勤電車は「乗らされる」乗りものと言える。新幹線も、どちらかと言えばそれに近いものとして機能している。通勤電車や新幹線にかぎらず、私たちの社会生活は「される」という受動に満ち満ちている。自分では「やっている」つもりでも「やらされている」ことが多い。いま私が原稿用紙に向ってこんなことを力んで「書いている」のも、じつは「書かされている」のである。  社会のしくみがそういうふうに出来上っているから、人は一時的であれ受動の日常を脱却して自由な旅に出ようとする。「遠くへ行きたい」と時刻表を開き、旅行社を訪れる。  ところが、ここに旅行産業なるものがあって、網を拡げて待ち構えている。うっかりすると「旅をする」ではなくて「旅をさせられる」ことになりかねないのである。させられる旅、とは何であるか。それは、すでに定められた目的地から目的地へと大急ぎで駆けめぐる「点」の旅のことである。  旅は、ほんらい「線」であった。目的地があっても、そこに至る道程のなかに旅のよさがあった。『おくのほそ道』にしろ『東海道中膝栗毛《ひざくりげ》』にしろ、そこに描かれたのは「点」よりもむしろ「線」である。  交通機関の発達は、短時間に遠くへ行けることを可能にした。それ自体はありがたいことだ。けれども、その代償として、旅のよさであった「線」を奪い、旅を「点」だけのものにした。点から点へ、できるだけ速く……、これでは「乗らされる」ビジネス旅行とおなじではないだろうか。  たとえば、北海道一周の定食的コースのパンフレットを見ると、すべて往復飛行機利用になっている。北海道での滞在日数を多くしようという親切かもしれない。旅行者がそれを求めているからかもしれない。いまや東京—札幌間の旅行者の九四パーセントが飛行機を利用しているという。  けれども、青函連絡船で北海道へ渡ったことのある人なら誰しも同感されると思うが、飛行機であっさり千歳空港に着いて高速道路で百万都市札幌へというコースでは接することのできない北海道がそこにあるのだ。青森から三時間五〇分の船旅が終りに近づくと、前方に啄木《たくぼく》が「われ泣きぬれて蟹《かに》とたはむる」を詠んだ立待岬《たちまちみさき》が見えはじめ、ついで漁船の群れる函館の港が視界に広がってくる。「はるばる来たぜ函館へ」との旅情がつのってくる。北海道は遠いところなのだとの実感が湧《わ》いてくる。  青函連絡船は北海道の旅の序曲だと私は思う。序曲があって幕が開く、そのつながりにオペラのよさがある。多少退屈な個所もあり、我慢していると美しいアリアがはじまる。点と線から成り立っているから、点が際立つ。有名アリアだけを集めた抜粋レコードは味気ないものである。  旅を「点」だけにしてしまったのは、交通機関の発達、旅行業者、ガイドブックのせいばかりではない。旅行者の側にも問題がある。  九州へは行ったことがあるが、まだ北海道を知らない、パリへは行ったが、ローマには立ち寄っていない、こんどこそぜひ行きたい、といった願望は誰にでもある。行ったことのないところへ行きたいのが人情である。けれども、そこには大学で単位をとるのに汲々《きゆうきゆう》とするに似通うものがありはしないだろうか。有名観光地を一つずつ「行きつぶし」ていく。まだ行ったことのないところはあそことあそこだと考える、行けば観光地の名を刻んだ立札を背景にして写真を写す、記念写真がライセンスのようになる、勉強するための学校が学歴のための学校になるのと、よく似ている。  そうした旅行者に対して、旅行産業は便利な「点の旅」を提供してくれる。そして「乗らされる」のである。  せめて旅だけは、このようなしくみから脱け出させたいものだ。その方法はいろいろあるだろうが、旅の計画を自分でたてることが第一だと私は思う。  そのためには地図と時刻表は欠かせない。ガイドブックも、点だけしか書いてないという欠点はあるが、揃《そろ》えたい。それから歴史の本を読む。旅先でめぐり会うもののほとんどすべてが歴史とかかわっているからだ。  これだけを揃えて何日もつき合っていると、けっこう机上旅行が楽しめる。そうしていると、旅行業者が相手にせず、ライセンスにも自慢にもならないところへ行ってみたくなるにちがいない。  自分で計画をたてた旅は失敗や苦労も多い。けれども、これだけは確信をもって言えるのだが、失敗や苦労の思い出こそ、あとになると楽しみに転化する。土地の人との「ふれあい」なども、こうしたときに発生する。  失敗や苦労は写真として残ってはいない。カメラで写せないようなことに旅の重味があるのではないか。    鉄道ファンのいる国いない国  台湾を一週間ほど旅行した。目的は台湾鉄路局の全線と阿里山鉄道に乗るためであった。  台南で駅の売店を覗《のぞ》いていると、「汽車雑誌」というのが眼にとまった。思わず手が伸びかけたが、表紙の写真は蒸気機関車でも特急列車でもなく、新型の乗用車である。中国語の「汽車《チーチヨー》」は自動車を意味し、私の好きな汽車が「火車《フーチヨー》」であることは知っていたが、「汽車」という文字を見ると条件反射を起こすのは生来やむをえない。私は、あらためて「火車雑誌」はないかと見渡したが、それはなかった。旅行中、駅の売店ばかりでなく、街の書店でも探したが、「火車」に関する雑誌や本は見当らなかった。  台湾には「自強《ツーチヤン》号」「〓光《チユイコワン》号」という特急列車が走っている。日本流に言えば全車グリーン車という豪華列車で、外観も美しく、服務小姐《フーウーシヤオツエ》、つまりスチュワーデスも乗っていて、おしぼりやお茶のサービスもしてくれる。日本であれば少年たちがカメラの放列を敷くにちがいないが、日曜日でも、そのような少年は一人も見かけなかった。  阿里山鉄道には「シェー型」という小型の蒸気機関車が走っている。六〇年前にアメリカから輸入されたもので、鉄道ファンなら誰でも知っている珍品である。さすがに、このシェー型にはカメラを向ける人が何人かいた。けれども、日本人やアメリカ人と思われる外国人ばかりで、台湾の人ではなかった。  台湾におけるカメラの普及率は日本より格段に低いであろう。しかし、観光地に行けばカメラをかまえ合ったグループをいくらでも見かける。しかるに鉄道を写す人はいない。鉄道など写してもしようがないだろうから、写さなくていっこうにかまわないが、日本には鉄道の写真を撮りたがる人がたくさんいる。が、台湾にはまったくいない。カー・マガジンはあっても鉄道雑誌はない。  私は鉄道に乗りたくて台湾を訪れたのであるから、終着駅に着けば、ただちに折り返す。ローカル線の終着駅では下車する客が少いし、日本人の乗客など皆無だ。だから駅員たちは私に関心をもち、日本語のできる年配の駅長や助役が話しかけてくる。そして、終着駅に着いて、何もせずに引き返す私の行為に仰天してしまう。鉄道に乗るのが好きなのだと、いくら説明しても理解されない。集集《チーチー》線というローカル線の終点車〓《チヨーチエン》駅の助役は、私が誤って乗ってきたのだと信じて疑わなかったし、東勢《トンシー》線の終点東勢駅の助役は「キップ、モッタイナイ」をくりかえした。  これは当然の反応である。用もないのに鉄道に乗るという行為を理解してもらおうと思うほうが無理である。  けれども、この無理なことが日本では通じる。通じるだけでなく、国鉄のごときは「いい旅チャレンジ2万キロ」というキャンペーンまでして、用もないのに鉄道に乗ることを奨揚している。そして、これに呼応して国鉄全線完乗を目指している人が二万人ちかくもいるという。  交通機関は移動のための手段である。だから、移動すべき所用がないのに鉄道に乗るというのはおかしい。  しかし、用がないのに乗っていけないということもないだろう。用があるからする、用がないからしないでは、この世は味気ないものになる。内田百〓《ひやつけん》は名随筆『阿房列車』の冒頭で「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」と書き、特急「はと」の一等車に乗って出かけている。ここには「文明」ではなく「文化」としての鉄道が立ち現われている。私としては大いに共感するところである。  けれども、交通機関が文化になるような国は、今後どうなるのだろうかとも思う。  聞けば、イギリスには日本よりももっと熱心な鉄道ファンがたくさんいて、休日になると、禿《は》げ頭の会社社長が石炭をくべ、白髪の大学教授が踏切番をやったりしながら私設の鉄道を走らせているという。さすが鉄道発祥の国ではある。が、しかし、イギリスには老大国のイメージがつきまとう。  どこか、鉄道マニアのワンサといる発展途上国はないものだろうか。    時刻表に乗る  鉄道ファンとか汽車マニアとか呼ばれる人口は多い。私もその一人であるが、そのなかに身を置いてみると、つまり、至近距離から眺めてみると、いくつかの型があることに気づく。  いちばん多いと思われるのは「車両派」で、鉄道趣味雑誌のほとんどはこの派を対象にして編集されている。ブルートレインにカメラを向ける小学生などは車両派の卵である。 「模型派」もいる。車両派の一種かと思うと、そうではないらしく、一派をなしている。本物よりも模型に興味を抱く人たちである。自分で自由に運転できるという点が決定的にちがうからだろうか。  それから「時刻表派」。時刻表ほど変わりばえのしない月刊誌は他にあるまいと思われるが、これを毎月買っては旅行の当てもないのに読みふける人たちである。  以上をタテ割りの分類とすれば、横割りもある。古い文献を渉猟したり、廃線跡を歩いたりする「歴史派」、汽車の部品や切符などを集め、ときには泥棒に近いことまでやる「蒐集《しゆうしゆう》派」等である。  私自身は時刻表派で、これに歴史派の要素が加わっているが、その他の派とはまったく無縁で、車両の型式についての知識など小学生ファンにも及ばない。  時刻表派といっても、これまた、その中に入って周囲を見回すと、ワン・パターンではない。たとえば、駅名を連ねて俳句をつくる人がいる。帯解《おびとけ》(桜井線)、芭露《ばろう》(湧網線)、陣場《じんば》(奥羽本線)、狩川《かりかわ》(陸羽西線)、石生《いそう》(福知山線)というぐあいに並べ、「帯解けば老人ばかり可哀そう」、そして莞爾《かんじ》とするのである。また、同じ駅を二度通らなければ、どんなに回り道をしても一枚の片道切符になるという国鉄の営業規則に着目し、その最長ルートはどれかとコンピューターを使って計算している大学教授もいる。  これらは極端な例であるが、時刻表派を大別すれば、机上派と旅行派とになるのではないかと思う。このうち、趣味としてもっとも純粋なのは机上派であろう。時刻表という実用書中の実用書のなかから肝心の「実用」を捨て去って「無用」の境地に遊ぶのである。この境地にもいろいろあって、地図や案内書を広げながら机上旅行を楽しむ人もいれば、鈍行に追い抜かれる急行を見つけて喜ぶ好事家もいる。  もちろん、机上と実行との両方にまたがった人も多く、私など正にそれである。  私は小学一年生のころから時刻表に親しんできた。漢字の駅名の訓《よ》みかたを兄や姉にうるさく訊《たず》ねながら特急「つばめ」の神戸までの停車駅と時刻を諳誦《あんしよう》したり、ひとりで山手線に乗ったり、東京駅へ汽車を眺めに行ったりしていた。  小学一年から時刻表に親しむとは、なんと早熟な子どもかと思われるだろう。事実、両親は神童かと喜んだらしい。ところが、そうではなかった。得意なのは時刻表だけで、学校の勉強など全然ダメなのであった。母は「時刻表ばかり見ていないで、もっと勉強しなさい」と言うようになった。  私と時刻表との関係を決定的にしたのは、小学五年生のときであった。その年の夏休み、私はひたすら方眼紙に向かっていた。時刻表を開いて東海道本線のダイヤグラムづくりに専念したのである。  手順からいうと、これは逆で、タテ軸に距離を、ヨコ軸に時間を刻み、そこに列車のスジを記入したダイヤグラムが先にあって、それを一般の旅客にわかるように数字であらわしたのが市販の時刻表である。  けれども、この逆の作業をやってみると、列車の追い抜き、すれちがいがよくわかり、時刻表の裏に広がる世界の大きさが感じられるのであった。それいらい私は、旅行に出かけるたびに、乗ろうとする列車を中心にしたダイヤグラムを書くようになった。  鉄道少年の多くは、成人するにつれて汽車ポッポから離れて行く。私も、文学づいたり、出版社に勤めたりして、自分のなかの大きな部分を占めていた「時刻表」が片隅に追いやられた時もあった。けれども、火種は残っていたらしい。「時刻表に乗る」としか言いようのない生活は細く長くつづいた。いい齢をして相変わらずの汽車ポッポでは大人気ないので、なるべく黙っていたが、五〇歳の大台を迎えた年に国鉄の全線に乗り終えた。  その記録を一冊の本にまとめたことがきっかけとなって、私は鉄道もの書きになった。乗っては書き、乗っては書きして暮らしている。  趣味と実益とが一致して羨《うらや》ましいですな、と人から言われる。けれども、「時刻表に乗る」のは好きだが、書くのは辛い仕事である。四苦八苦している。  汽車に乗ろうと思って生まれてきたわけではないが、不思議な人生にめぐり会ったものだと思っている。 東京を旅する——    通勤電車もまた愉しからずや  私は国鉄の全線に乗ったことがあり、それに関して本を書いたりしたので、よく、 「いちばん景色がよいのは、どの線か」 「おもしろい線は、どれか」  と人にきかれる。  これは難問である。  一般に、景色がよいとされるのは地勢の嶮《けわ》しいところが多い。けれども鉄道は、そういう景色のよさそうなところにさしかかると、トンネルに入ってしまう。鉄道建設工学上の宿命であろう。高原の湖なども景色のよいところとされるが、そんなところまで鉄道は登って行ってくれない。  したがって、車窓から眺めたかぎりでの日本の風景は大同小異で、むしろ人家の多いところを走るか否かで車窓の印象は左右される。  いっぽう、日本の風景は季節によってずいぶんちがう。夏はつまらないが冬はすばらしいところもあるし、紅葉に眼を見はった線区でも、他の季節に通れば凡庸である。  また、旅の楽しさは地方色に接することにあるが、これはもう言うまでもなく薄れている。車内で接しられるものといえば、方言くらいだろう。  だから、どの線がいいか、おもしろいかときかれても困るのである。  けれども、これだけの前置きをし、旅の印象など十人十色で私の言うことなど当てにならんですぞ、と覚悟してもらったうえでなら、あえていくつかの線区を推すことはできる。北から順にあげると、天北《てんぽく》線、湧網《ゆうもう》線、大湊《おおみなと》線、五能《ごのう》線、能登線、小海《こうみ》線、宮津線、木次《きすき》線、宮原《みやのはる》線、高千穂線、肥薩《ひさつ》線……。  これらは、いずれも大赤字線である。シーズン中の小海線を除けば車内は閑散としていて、それが線区の実力以上に旅情を高めてくれる。  赤字係数が高いほど乗って楽しい線、というわけではないけれど、大赤字線のほうが旅情に富んでいることはたしかだろう。  この論法でいくと、黒字線はつまらない線ということになる。  黒字線の筆頭は東京の山手線である。昭和五四年度の収支係数は四八、つまり四八円の経費で一〇〇円の収益をあげている。第二位は新幹線で五七、以下、高崎線(七三)、総武本線(八三)、根岸線(八六)、大阪環状線(八九)、横浜線(九九)と、ここまでの七線区だけが黒字線で、残る二三五線区はすべて赤字になっている。  収支係数は線区のさまざまな条件によって左右されるから、それだけで線区の性格をおしはかるわけにはいかない。構内の用地を売却すればその年度の収支は好転するし、土砂崩れで長期間運休すれば悪化する。中央本線が赤字線だと知れば、あの満員電車を思い浮かべる人は首をかしげるだろうが、甲信州の山々や木曾谷を走る区間での赤字が通勤区間での黒字を上回っているのである。  このように収支係数は、あくまで一つの目安にすぎないが、しかし、右にあげた七つの黒子線区を見るかぎり、なんと魅力のない線区が並んでいることか。鉄道好きの私でも、あまり乗りたくない線ばかりだ。  とりわけ山手線は、黒字第一位だけあって、もっとも乗りたくない線である。  ところが、運のわるいことに私は山手線に乗ることが多い。国鉄全線のなかで、もっとも乗る頻度が高かったし、いまでも高いのである。  私が育ったのは渋谷で、土手の上を走る山手線を見ながら原っぱで遊んだ。いまは世田谷に住んでいるが、国鉄の最寄駅はやはり渋谷で、指定券を買うときは渋谷駅の窓口へ行く。そのような関係で、もう五〇年も渋谷駅を核として山手線とつき合ってきた。だから渋谷や山手線には忌避とともに親近感も抱いている。悪口を言われたりすると弁護もする。  たとえば、渋谷駅はゴチャゴチャしていて乗換えに不便だと言われる。いや、そうでもないんですよと私は言う。あれは使いなれると実にうまくできた駅で、乗換えに時間がかからない、だいたいわかりやすく設計された駅は地下道がやたらに長くて、かえって不便ではないですか、というような釈明をする。ほんとうにそう思っているのだが、相手には通じにくい。半信半疑のような顔をしている。通じにくいのは、渋谷駅にたいする私の親近感があるからにちがいない。  このように親近感はあるのだが、では渋谷駅や山手線が好きかというと、とんでもない。行かず乗らずですませたいと思っている。つき合いたくない身内は誰にもあるだろう。  そもそも、山手線に乗りたいとか乗りたくないとか、そういう話の進め方自体がナンセンスである。この線に乗りたいと思って乗っている人はまずいないだろう。みんな、やむをえず乗っているのだ。交通機関はすべて移動のための手段であって、楽しみの対象となるべきものではないが、乗っていれば窓外の眺めは刻々と変るし、多かれ少なかれ、副産物としての楽しさを提供してくれる。けれども通勤電車や山手線では、それが皆無といってよい。乗っている時間は辛抱の時間でしかない。  それなのに、山手線に乗らされる機会はまことに多い。それが社会生活というものなのであろうか。鉄道に限ったことではない。会いたくない会社の上役とは毎日顔を会わせなければならない。  とすれば、嘆いているよりも、そこにわずかでもいいから楽しみを見出したい。欠点を見ながら人とつき合うより、長所を探りながらつき合うほうが人生は豊かになる。私は根が楽天的でお目出度くできているから、いつのまにか通勤電車や山手線を楽しむ法を身につけたように思う。  私は井の頭線と地下鉄銀座線を利用して二二年間、会社へ通った。東松原から渋谷までが九分、渋谷から京橋までが一八分であるから、片道の電車だけで一時間以上の通勤者が多くなった今日からすれば恵まれたほうであったが、それでも、雑誌や本を広げる空間のないときは退屈でたまらなかった。  そのうち私は、吊革《つりかわ》につかまった左手の腕時計の秒針をにらみながら、各駅ごとの電車の発着時刻を計るようになった。ゴトリと発車してからつぎの駅に着いてドアが開く瞬間まで何秒かかるかを計ったのである。到着の場合も電車の停止時にしたかったが、発車時とちがって停車の場合は「瞬間」がとらえにくいので、ドアの開く瞬間としたのであった。  そういう計測を毎日やっていると、いくつかの発見がある。その詳細は省略するが、運転士によって所要時間に差があることなどがわかってきた。とくに地下鉄は差が大きく、渋谷から表参道(旧駅)までを一分四〇秒でつっ走る場合もあれば二分一〇秒もかけてゆっくり走ることもあった。地下鉄のダイヤには十分なゆとりがあり、早すぎたときは銀座で一分以上も停車して時刻の調整をするので、全体のダイヤに狂いは生じないのだが、思いのほか運転士に個性があるのに驚いた。  やがて私は、運転士の顔つきを見て駅間所要時間を予測するようになった。最初の駅に予測より何秒か早く着いたときは、あの運転士は顔つきに似合わずセッカチなのだなと思い、二つ目の駅からはそれを参考にして修正した。時を経るにつれて私の精度は高まり、井の頭線での誤差は平均一秒、運転士の個性の強い地下鉄銀座線でもプラス・マイナス平均二秒程度という水準に達した。  こうなってくると、本や雑誌を読むよりおもしろいので、車内がすいているときでも腕時計の秒針をにらむようになった。  私は時刻表ファンとかマニアとかいわれる人間だから、かような他愛ないことで退屈をまぎらすことを思いついたのであろうが、とにかく、この遊びのおかげで退屈せずに通勤できるようになった。  私は、山手線に乗ったときも、退屈しのぎに駅間所要時間を計測する。しかし、山手線だけでなく一般に国電は地下鉄銀座線などとちがい、運転速度の基準が厳しいようで、ほとんど「個性」は発揮されない。そうでなければならぬとは思うが、計測や予測をする側からすると、あまりおもしろいとは言えない。  けれども、いつとはなしに私は山手線のなかに別種の楽しみを見出すようになった。といっても、乗りたくない線であることに変りはないのだが、かつてのように退屈と辛抱だけの線ではなくなってきた。  山手線の楽しみかたは、いくつかあるが、その第一は「自然」である。  山手線の沿線に自然があるのか、と不審に思われるだろう。私もそう思っていた。  けれども、山手線を利用している人はお気づきかもしれないが、この線は、じつに複雑な地形の上に敷設されている。丘と谷がこまかく交錯しているので、切通しや盛土、あるいは鉄橋が目まぐるしく現われる。山手線が開通したのは明治一八年、まだ鉄道建設技術の幼稚な時代である。この凸凹《でこぼこ》の多い「難所」に線路を敷くのは大変だったろうと察せられる。しかも当時の沿線は、内藤新宿のほかにはこれといった集落はなかった。にもかかわらず明治一八年という早い時期に山手線(当時は品川線といった)が建設されたのには事情がある。  山手線が開通する以前の関東地方の鉄道は新橋—横浜間と上野—前橋間だけで、この二本の鉄道はつながっていなかった。新橋から上野までは五・五キロしかないから、両線の接続は容易そうに見えるが、この区間は太田道灌《どうかん》のころまでは海か沼地で、江戸時代に入ってから埋立てられたところである。地盤の軟弱と人家の密集、そこでやむをえず山あり谷ありの現在の山手線ルートに難工事覚悟で鉄道を敷設し、南北両線を結んだのであった。  この山手線建設の事情は、東京という都会の立地条件を象徴していると思う。  東京の地形はわかりにくい。国土地理院の地図を広げても、市街地をあらわす斜線で埋めつくされ、肝心の等高線がほとんど見えない。赤羽—上野—新橋と結ぶ線の東側は埋立地か河口洲で真っ平らだからそれでかまわないけれど、この線から西側、つまり山手の地形については何がなんだかわからない。  東京に住んでいるから、日常生活のなかでおおよその地形はわかっている。西北西からのびてきた武蔵野台地が、赤羽—上野—新橋—品川—大森を結ぶ線でストンと海に落ち、急斜面の海蝕崖《かいしよくがい》をつくっていたことはたしかだ。飛鳥《あすか》山《やま》、上野公園、品川の八ッ山、大森あたりの東面にはその面影がはっきり残っている。大森の崖下《がけした》には貝塚跡の碑さえある。  武蔵野台地は、中野付近から西は概して平坦で、台地を流れる石神井《しやくじい》川、神田川、目黒川なども比較的おとなしいが、山手線を横切る少し手前から谷を刻みはじめ、流れも急になり、海に落ちる直前では深い谷を形成していたように思われる。  概略は以上のようなものであろうが、これらの川にはそれぞれいくつもの支流があり、濠《ほり》に化けてしまったのもあれば、渋谷川のように、どこからともなく忽然《こつぜん》と現われ、他の川が東へ向うのに自分だけは南へ流れるという変なのもある。とにかく東京の山手の地形はややこしいのである。だから、等高線の入った東京の地図がほしいのだが、それがなかった。  山手線は、東京の自然地形を知りたいという渇を、ある程度は癒《いや》してくれた。山手線には乗りたくないが、乗らねばならぬときの私は、せめてもの慰めとして、地形への関心をかりたててきた。  では、品川から外回りの山手線に乗って、東京の自然を見てみよう。  品川駅は品川区にはなく、港区の南のはずれにある。品川宿に反対されたため現在地に駅を設けざるをえなかったともいう。右窓に高層ホテルがそびえているが、その土台になっているのが武蔵野台地の東端である。  品川を出た山手線は、しばらく東海道本線と平行して南に向い、台地の末端を切通しで抜けてから右へカーブして本線と分かれる。両線に挟まれて薄暗い墓地があるが、このなかに沢庵和尚《たくあんおしよう》の墓と、鉄道の父とされる井上勝の墓がある。山手線をわずか一年二カ月の突貫工事で完成させたのはこの人であった。この墓地は東海寺の境内であるが、線路に分断されて、本堂は本線の向う側にある。武蔵野台地の崖上から海を見はるかす景勝地に東海寺は建てられたのであろう。  線路は右へ右へとカーブし、一四〇度も転回して北北西へ進路を変える。これほどカーブするのは新宿、池袋方面へ向うためではあるが、このあたりの西側は台地のなかに深く切れこんだ入江の跡で、地盤が軟弱だったためでもあろう。  つぎの駅大崎は、その入江に突き出た岬の名に由来するという。  大崎から五反田へかけての右側は、ひときわ高い高輪台地で、海がここまで入りこんでいたころは景勝地だったにちがいない。いまでも屋敷町の面影を残しているところである。  五反田の直前で目黒川を渡り、山手線は武蔵野台地の中へと分け入って行く。勾配《こうばい》も上りになり、電車は坂を上りながら、よいこらしょとばかり切通しのなかの目黒駅にすべりこむ。台地の下の五反田駅の標高は八・八メートルだが、目黒駅は二二・四メートルある。切通しの上の改札口では二八メートルぐらいになるだろう。目黒の駅を切通しにしたのは勾配を緩和するためかと思われる。沢寿次氏の『山手線物語』(日本交通公社、昭和46年)によれば目黒駅が現在地に落ちつくまでには目黒村の反対運動、上大崎村の誘致運動など、ややこしい事情があったという。目黒駅が目黒区になくて品川区にあるのは、そのためである。  目黒から恵比寿《えびす》へとつづく切通しのなかで貨物線と立体交差して左右が入れかわると、右にサッポロビールの工場が見えてくる。地名・駅名のもとになった「恵比寿麦酒」の工場である。  恵比寿から渋谷へかけては渋谷川の右岸に沿って行く。いまはドブ川だが、かつては水車がまわり、アユが釣れたという。  渋谷は文字通り谷底の駅で、東が宮益坂、西が道玄坂である。昭和二〇年五月二五日夜の空襲で宮益坂が焼野原になったとき、私は坂の上から渋谷駅を見下ろしたことがある。谷底を横一文字に貫いていた山手線の線路が忘れられない。  渋谷を過ぎると渋谷川から徐々に離れ、西側の台地へと上って行く。私はこのあたりで育ったので、貨物をひいた蒸気機関車が力みながら上り勾配を原宿へと向うのを見ていた。  明治13年測量の2万分の1「東京近傍中部」図に山手線の渋谷—新宿を書き入れてみると……。(×0.6)  原宿付近は、最近復刻された明治一三年測量の二万分之一地図によれば桑畑か何かだったらしい。この地図には凡例がなく、記号も現在のとは異っているのでわからないが、記号の形は桑に似ている。  つぎの代々木は山手線ではもっとも高いところにある駅で、標高三九・一メートル。その代々木を過ぎると、国鉄でいちばん乗降人員の多い新宿(一日平均約一三五万人)に着くが、明治一三年測量の地図によれば、このあたりにも桑畑らしい記号が描かれている。  新大久保から高田馬場にかけては、山手線の沿線では珍しく平坦なところで、地図にも草原らしい記号が見える。戸山ヶ原である。  高田馬場を過ぎると、山手線は広く深い神田川の谷を渡る。神田川は緩やかに右へ曲っているので、増水時には谷の北側ばかりを削ったらしい。高田馬場側より目白側のほうが崖の傾斜が急になっている。鉄橋の上からの神田川の眺めは山手線の車窓でも屈指のものだったにちがいない。山手線はこの河蝕崖に突っこむので、目白は切通しのなかの駅になっている。  池袋、大塚を過ぎると、ゆるやかな丘陵地帯となり、山手線は長い切通しに入る。この丘陵の上を中仙道《なかせんどう》が通っていて、その交差するところにつくられたのが巣鴨《すがも》駅である。  つぎの駒込も切通しの駅で、両側の土手に植えられたツツジは山手線の名所になっている。  さて駒込を発車して一分、長かった切通しを右へカーブしながら抜けると、突然眺望が開ける。武蔵野台地の東端が海へ落ちる海蝕崖の上に出たのである。左窓には荒川、江戸川の平野が広がっている。いまでもここは眺望のよいところだが、山手線が開通したころは絶景だっただろう。さらにそれより昔は海だから、もっとよかったにちがいない。  電車は海蝕崖を斜めに下り、田端に着く。「日本国有鉄道線路名称」によれば、山手線の区間は「品川—新宿—田端」となっており、これから先き東京までは東北本線、さらに品川までは東海道本線への乗入れという形にされている。この区間も山手線は専用の複線を有し、電車は環状線としてぐるぐる回っているのだから、「線路名称」なるものは実態に合っていないが、すでに述べたような、東海道、東北両線を結ぶために建設されたという歴史的経過の名残りをとどめているのであろう。それに、山手線の名にふさわしく武蔵野台地を走るのは正に品川—新宿—田端であって、田端—東京—品川はかつての海の上である。  山手線の退屈をまぎらす方法は他にもあるだろうが、私は以上のような地形と、それをもとにして家やビルが建てこまなかった昔の自然のままの東京を空想することで、いくらかの効果をあげたと思っている。  けれども、世の中にはえらい人がいるもので、私のように退屈をまぎらそうという受け身の姿勢ではなく、積極的に山手線の特性を活用している人がいる。  ある人は、外国人に東京を見せるときは山手線でぐるっと一周するのが安上りでいい、と言う。  また、ある人は、むつかしい本を読まなければならないときは山手線を回ることにしているという。群衆のなかの孤独の効用でもあるのだろうか、頭によく入るのだそうである。  また、ある人は、寝不足のときは山手線で昼寝をするにかぎりますよ、と言う。冬は暖房、夏は冷房がきき、適当な揺れもあり、しかも終点について車掌に起こされることがないからだそうだ。  なるほどと思い、えらい人たちだと思う。  もっとも、この人たち、どんな切符の買い方をしているのか、いささか疑惑の念を抱いているのだが。  東の山手線に対し、西には大阪環状線がある。例の「日本国有鉄道線路名称」によれば、区間も「大阪—大正—京橋—大阪」となっていて、大阪らしく明快である。  一周二一・七キロ、駅数一七、所要時間は三八分で、山手線電車の三四・五キロ、二九駅、六〇分強にくらべると、だいぶ規模が小さい。  大阪環状線の昭和五四年度の収支係数は八九で、黒字になっている。わずか七線区しかない国鉄の黒字線に、環状線が二つとも入っているということは、大都市内だけを相手にしていれば、国鉄でも経営が成り立つことを示している。  黒字線は魅力がない、乗りたくないと私は冒頭に書いたが、大阪環状線だけは例外にしてもよい。積極的に乗りたいとは思わないが、時間が余れば乗ってもよいぐらいの気持があるからだ。  じっさい、大阪駅や新大阪駅で一時間以上の待時間があるとき、私は大阪環状線でくるりと一周してくる。先月は、大阪発22時10分の青森行急行「きたぐに」を待つ間に一周したし、つい先日も大阪駅近くで一一時に人に会う約束をしておいたところ、名古屋のビジネスホテルで朝早く眼がさめたので、八時半に大阪に来て二周した。どんな切符の買い方をしているのか、と問われると私も困るのだが、とにかく手軽で、一周わずか三八分、山手線の一周が「ぐるり」または「ぐるっと」ならば、こちらは「くるり」または「くるっと」といった感じである。  手軽だとはいっても、大阪環状線は山手線と同工異曲の線である。にもかかわらず私の対応にちがいがあるのは、まだなじみが薄く、新鮮さを感じることができるからだろう。  けれども、それだけではない。というのは客が山手線とは異質なのだ。それが旅の楽しさに通じるものを与えてくれるように思われる。山手線の電車は秋葉原あたりで下町の香を積みこみはするが、その雰囲気を支配しているのは山手族で、私もその一人である。ところが大阪環状線の性格を形成しているのは下町である。西九条、大正などの西側は工業地帯であり、京橋や鶴橋のある東側は商業地帯になっている。山手線のように女子学生がどっと乗ってくることはないから、車内はくすんでいるが、それが大阪の下町に来たとの実感を与えてくれる。しかも大阪弁がふんだんに聞ける。阪急電鉄の客とは言葉もちがうように思われる。  大阪環状線は下町を走るので、山手線のように地形の起伏はない。そのかわり、天王寺付近を除くと全線高架で、つねに大阪の町を眺めることができる。とくに昭和三六年に開通した西九条以南は、高架橋も一段と高く、かなり眺望がきく。幅の広い安治川を河中橋脚のない鉄橋で斜めに渡るときは、中央市場へと行き交う船が見下ろせて、大阪の活気が伝わってくる。  大阪環状線に乗っていて、ふと思いついた。環状線の電車は折り返す必要がないから、運転席は一方の端だけにあれば事足りる。運転席は何かと機器が多く、製作費もかかるから片っぽだけにすればよい。そして、後尾の車掌室を少し前に移し、最後部はガラス張りの展望室にする。ちかごろ流行の外から丸見えのエレベーターのようなものだ。人気が出るにちがいない。眺めがよいから椅子など設ける必要はない。椅子がなければラッシュ時の収容力も増す。  山手線でも、一八〇度の展望が開ければ、楽しい線になるだろう。    東京の私鉄七社乗りくらべ  たった一両のディーゼルカーに、わずか数人の乗客、ときには私ひとりだけのこともある。駅があっても乗降客がないから、ドアが空《むな》しく開閉するだけである。退屈そうな車掌に話しかけてみる。 「いつもこんなに空《す》いているの?」 「ええ。お客さんゼロのことがよくありますよ」  北海道の美幸《びこう》線での話である。北海道まで行かなくても、こういう閑散線区は全国に数多くある。  乗り物は原則として空いていることが望ましいが、あまりに空いていると淋しいし、夜など気味がわるいくらいで、誰か乗ってこないかなあと思うことさえある。  こういう列車を一方の極とすると、その反対の極に大都市近郊の通勤ラッシュがある。  私は鉄道の時刻表を見るのが好きで、それが昂《こう》じて国鉄の全線に乗ってしまったような人間であるから、汽車でも電車でも線路の上を走るものなら何でも好きである。遊園地に行っても、豆汽車があればかならず乗る。  時刻表を携えて、全国を旅行するのを趣味とすれば、どうしても国鉄に片寄る。国鉄は規模が抜群に大きいから、当然列車の種類もダイヤも複雑で、時刻表のおもしろさにおいて私鉄の及ぶところでない。特急「はやぶさ」のように丸一昼夜にわたって運転するのもあれば、急行が急行を追い抜いたり、「ひかり」が「ひかり」を追い抜いたりする。急行券不要の快速電車が急行列車を抜くこともある。  そういうわけで、私鉄への関心は国鉄にくらべて薄かったのだが、その報いで、今回(昭和五四年三月)、東京近郊の私鉄の乗りくらべをさせられることになった。  東京近郊の私鉄を比較するとなれば、やはり、各社がもっとも力を入れ、苦労もしている通勤通学輸送を対象としなければならない。  まず東武に乗った。  東武鉄道は、浅草からの伊勢崎線と日光線、池袋からの東上線の三本の幹線に一一本の支線を加えると、旅客営業キロが四七三・五キロに及ぶ関東大手私鉄の第一位である。第二位は西武鉄道の一七五・二キロであるから、東武は断然規模が大きく、西武、小田急、京王帝都、東急四社を合わせたほどの旅客営業キロを有している。東京西郊の住宅地を走るこの四社に対抗して、関東の田舎をひとりで背負って立った形になっている。  伊勢崎線の北千住—越谷《こしがや》間に乗ってみる。いちばん混雑するのは、この区間だからである。行ったり来たりしてみたが、通勤圏内であるから、西側と大きな違いはない。しかし、車内にはどことなく関東平野の香りがただよっている。  根元から先きまでパーマで縮れさせた、雀の巣状の髪型の女性が多い。これは農協の団体旅行でよく見かけるものであり、かつぎ屋のおばさんたちの好む髪型である。こうしたほうが、パーマ屋に行く回数が少なくてすむのだそうだ。若い女性にはさすがに少ないが、それでも多少いる。東急、京王帝都などではまず見られない髪型で、西側は髪を長く垂らす女子学生型か、裾だけカールさせる銀座ホステス型が多い。  つぎに女性の服装であるが、色が派手であった。派手なのは原色が多用されているからで、金魚を思わせる袢纏《はんてん》に紺のスラックスといった婦人が眼につく。西側では見られないもので、東急や京王帝都の客は中間色が多い。  男性の客層は多様である。西はサラリーマンと学生がほとんどであるが、こちらは人工皮革のジャンパー姿や町工場の熟練工タイプが目立つ。もちろん背広姿が大半であるが、上着とズボンの色違いが多く、ズボンもやや太目のようである。  客の顔色は、ビルとマンションを往復する西側族にくらべて黒っぽい。やはり日当たりがよいからであろう。健康さでは、こちらが優れているように思われる。  私は突然、西ベルリンから東ベルリンへ足を踏み入れたときのことを思い出した。  目立つところを列挙すればこのようになるが、もとよりおなじ東京近郊であるから、東西共通の部分が大半を占めている。ただし、こちらで気がつくのは、大学生の少ないことで、車内を華やかにする女子学生の姿がほとんど見られないのは惜しまれる。沿線の広大な農地を転用して優良な女子大学を設置もしくは誘致することが、東武鉄道のイメージアップと発展のために必要ではあるまいか、と私は考えた。  もっとも、そのためには駅の便所の質を、せめて西側の水準まで引き上げることが先決であろう。数の点では西側を凌《しの》いでいるのだが、水洗化が遅れている。「不便」と「不潔」とどちらが嫌われるのかわからないが、要するに古びた駅が多いのである。  東武は、農村地帯に敷かれた区間が長いために輸送効率がよくない。人口の少ない地域にまで線路を延ばしているという点で、関東の私鉄大手七社のなかでは、いちばん国鉄に似ている。だからキロ当たりの営業収入は七社のうちの最低、従業員一人当たりの営業収入は第六位となっている。しかも、ストライキは他社がやらないときでもかならずやる。  東武は、北千住から地下鉄日比谷線に乗り入れており、通勤線としての条件は備わっているのだが、通勤圏内の地域があいにく荒川と江戸川に挟まれた湿地帯なので、住宅地としての人気はうすく、都心への時間距離の短いわりに地価は安い。ターミナルが国鉄のない浅草であることも不利である。  竹ノ塚、草加《そうか》などに大団地ができてはいるが、農村を背景に持つだけに沿線の印象は田舎で、駅舎にも車両にも住宅誘致を促進するハイカラさに乏しい。どうでもいいことだが、東武の車両はクリーム色一色、わるくいえば下塗りだけで走っているように見える。「以前は横腹に別の色の線が入っていたのですが、二色だと塗装に一日余計かかるので、やめました」(広報課)というように、全体に質素かつ野暮が東武の基調になっていて、OLや若奥さんを惹《ひ》きつけそうに思われない。二代目の根津嘉一郎社長が派手好みでないからだという説もある。  しかし、最近ようやく宅地開発やステーションビルの建設、レジャー施設の設置などに積極的になってきた。とくに伊勢崎、日光両線の分岐駅杉戸の近くに建設される「東武動物自然公園」(昭和五六年開園)は、東武のイメージを明るくすると期待される。東武では不動産部門への進出がもっとも遅れているから、逆に考えれば将来性があるとも言える。  おなじ東武でも、池袋を起点として武蔵野台地の裾を走る東上線は事情がちがう。沿線には朝霞《あさか》基地やサツマイモの川越などがあるので、高級住宅地のイメージにはほど遠いが、台地に接しているので地形に起伏があり、宅地化は急速に進んでいる。  したがって、東上線の線路延長は東武全線のわずか一六パーセントに過ぎないのに、営業収入は四〇パーセントを占めるという高収益路線になっている。  東上線の印象は、畑と丘陵住宅地の境目を走るためか、東武伊勢崎線と西武池袋線との性格を併せ持っているように思われた。言いかえれば、まとまった印象がないのである。デパートの食堂のように丼物《どんぶりもの》もあれば洋食もあるといった感じなのだ。  まとまらぬままに、車内の中吊り広告を眺める。車内広告は沿線居住者の客層をはかる目安になると言われる。そうだろうと思う。サラリーマン金融がいちばん目につく。「やっと持てたオレの城」というコピーの入った埼玉県下の建て売り広告もある。そういえば、パルコや角川書店のようなイメージ広告は見当らない。東急、とくに東横線あたりの広告とはちがう。東横線などではビデオカセット、高級カメラといった贅沢品《ぜいたくひん》が目立ち、テニスクラブの広告があったりする。  しかし、一度や二度乗っただけで、その線の特徴をつかもうとするのはよくない。沿線の勤め人は、毎日揉《も》まれながら体で知っている線である。ちょっと乗ったぐらいで、とやかく言ってはならぬと思う。  私は、東上線の通勤者の話を聞くことにした。三三歳の男性で鶴ヶ島から池袋まで通っている人である。鶴ヶ島は川越市の二つ先きの駅で、池袋までは準急で約五〇分。  おなじ線の利用者でも、親の代から永年にわたって沿線に住みついている人と、新参の人とでは評価がちがうようで、新しい人のほうが点が辛い。私が訊《たず》ねた人は後者だったので、酷評が返ってきた。  まず、夕方の池袋駅での席の奪い合いがすさまじいと言う。電車が到着するまでは列をつくっているが、扉が開くと目茶苦茶になるのだそうだ。  しかし、これは東上線に限ったことではない。乗車距離の長い線の始発駅は概してそうである。一時間立つか坐るかとなると、どうしてもそうなる。小田急の新宿駅など相当なものである。京王帝都の井の頭線の乗客は上品で、席の奪い合いなど見られないとされるが、井の頭線は全線で二四分しかかからない。  乗っている時間が長いということは、客のマナーを悪くする。ああこれから一時間も吊皮につかまって、と思えば気持ちが荒《すさ》む。 「酒くさい連中が多くて、車中でも足を踏んだとか、肩を押したとか言って、よく大声をあげています。ついこのあいだも、酔っぱらいが『なんだ、こんな電車、みんな田舎もんばっかりじゃないか』と怒鳴ったら、とたんに二、三人が『そういうお前も田舎もんじゃないか』とやったので大笑いになったけど、そんな線ですよ」 「ぼくも以前、西武の新宿線沿線に住んでいたときはそんなことなかったけど、東上線に移ってからは、池袋駅で天津甘栗を買って車内で食べながら帰るのが楽しみになりましたよ。不思議なもので、東上線だと恥しくないんですよ」 「東上線沿線のヒット曲は『朝霞ショー劇場』から生まれると言われているんです。沿線のレコード屋で、あるとき『ハーレム・ノクターン』や『枯葉』が突然売れ出した。古い曲で、いまごろなぜ売れるのかと不審に思ったら、そのストリップ劇場でやっていたんですね。いい踊り子がその曲で踊ったらしいんですよ。それ以来、レコード屋はどんな曲をかけているか事前に研究しておくと言って、朝霞へ出かけるようになったそうです。京王線も昔は幡《はた》ヶ谷《や》にショー劇場があったけれど、イメージ・ダウンするというのでなくなりましたね。東上線はそういうこと気にしてないようですね」 「車内での読み物は『東スポ』が断然多いですね。週刊誌はわりに少ないです」  さすが沿線に住んでいるだけに、とうていよそ者の及ぶところではない。それにしても、これでは東上線があまりに可哀そうだ。何かいい点はないですか、と訊ねると、 「そうですね、しいてあげれば沿線に静かないい遊び場がたくさん残っていることでしょう。宮沢湖、森林公園なんかいいところですが空いていますね。西武だと小さな公園まで宣伝しつくしてしまうけど、東武は宣伝が下手なのかな。住民にとってはありがたいですね」  と、ようやくプラス面が出てきた。  しかし、東上線というと痴漢の出没率の高いことで名高い。「東上線道徳普及会」さえあるという。 「よくそう言われるんだけど、見たことないなあ。だいたい年頃の娘のいない線ですよ」  痴漢については、男性に訊ねてみてもしようがないので、数人の女性に当たってみたが、あいにく東上線沿線の在住者はいなかった。それに素人の娘さんからは聞き出しにくいことでもある。しかたがないので、バーのホステスに訊ねることにした。私鉄の乗りくらべも楽ではないのである。  やはり接触時間の長いことが、痴漢発生の条件のようであった。体の密着した状態が長時間つづく必要があるわけだ。だから井の頭線や東横線のように運転時間が短い線では、痴漢が潜在しても顕在するに至らないのであろう。東横線や井の頭線は痴漢のいない上品な線と言われるが、それはうわべの評価である。私は井の頭線沿線の住人であるけれど、残念ながらそう解さざるをえない。  東京近郊の私鉄を乗りまわってみて、あらためて認識させられたのは、立地条件が各社の性格を形成しているということであった。  全国の私鉄大手一四社の鉄道部門における営業損益の総計は、昭和四九年度から赤字となり、その数字は年度ごとに増大している。その主因は、輸送力増強工事や踏切立体化などの保安工事に要した莫大な資金の金利であり、また、運賃を値上げしようとしても、認可制の公益事業料金であるために思うままにならぬからだという。  だから鉄道部門だけでは私鉄の経営は成り立たなくなっている。バス部門についても、マイカーの普及と交通渋滞で赤字に転落している。それにもかかわらず、私鉄各社が成り立っているのは、兼業部門、とくに不動産部門の利益に負っているからである。  したがって、私鉄事業の成否を握っているのは不動産部門であり、その面でいかに力量を発揮するかが私鉄経営者の課題となっている。これは明治の末に小林一三が着眼したところであり、ついで関東の五島慶太、堤康次郎がやってきたことで、目新しくもないのであるが、大都市圏への人口集中がつづくかぎり、私鉄経営者の腕の見せどころであることに変わりはない。  だから、不動産部門に重点をおく私鉄コンツェルンでは、それを「足」の面で支える鉄道部門に力が注がれ、サービスが向上するという関係になっている。造成した宅地を売り出す場合でも、下見の客を冷房つきの電車に乗せるかどうかで、売れ行きがちがってくるような、そんな関係である。  東京付近の自然地形を見ると、北は江戸川と荒川流域の関東平野、西は武蔵野台地、東と南は東京湾岸沿いとなっている。  その武蔵野台地の東端に、太田道灌が江戸城を築き、徳川幕府が根拠をおくと、下町は町人、台地の上は武家が住むという形が定着した。この時点で東京の西への発展が約束されたと言ってよいだろう。世界の大都市の形成過程を見ても、王侯貴族の住む側に町は伸びていったようである。  しかし、台地の上は水に恵まれない。そこで江戸の初期に玉川上水が四谷まで引かれたが、その程度の水では大きな発展は望めなかった。そういう状態が明治のはじめまでつづいた。早稲田大学が「都の西北」であり、中央本線が東中野から立川まで二四キロにわたって一直線に敷設できたような人口分布であった。  ところが、多摩川の水を引いて村山貯水池(現在の狭山湖)をつくるなど、上水道施設が備わるにつれ、住み心地のよい台地の住宅化が促進されることになった。  関東私鉄の大手七社といわれる各線の立地条件を見ると、  関東平野=東武(東上線を除く)  武蔵野台地=西武、京王帝都、小田急、東急  東京湾岸=京成、京浜急行  となっており、関東平野と武蔵野台地の境目を東上線が走っている。  このうち宅地用地として好条件を備えているのは、言うまでもなく武蔵野台地で、そこを走る四社はいずれも不動産部門が活躍している。しかし、横浜や京浜工業地帯に近い東急の東横線、目蒲《めかま》線、池上線においては沿線の宅地化はとっくに終っている。これに対して、埼玉県側を走る西武池袋線沿線には未開発地域が広々と残っている。  西武鉄道の駅、とくに池袋線はどの駅も似たような印象をあたえる。駅自体もそうなのだが、むしろ駅前が似ている。各駅で降りてみたわけではないが、電車から見ても、ソバ屋、植木屋、DPE店、自転車置場、それに少し離れて西友ストアといった定型があるようで、どの駅も新開地の感がある。  昭和二〇年に武蔵野鉄道(現池袋線)が旧西武鉄道(現新宿線。当時は高田馬場起点)を合併したときの社名は、「西武農業鉄道」で、東京都民の排泄物《はいせつぶつ》を貨車で沿線の農村へ運び、肥料に供していたという。翌二一年には「農業」の二字がはずされて西武鉄道となったが、武蔵野台地を走る四社のなかでは、埼玉県へ向かう線だけに農村色が濃かった。私の子どもの頃は、芋掘りというと、かならず武蔵野鉄道の沿線に出かけたものであった。しかも遠くまで行くのではなく、池袋から一〇分余の富士見台あたりで掘った。大根の練馬など、池袋からわずか一〇分の近さであった。  このように、沿線はほとんど宅地化されておらず、池袋を出るとすぐ畑であった。  その池袋へ、昭和二九年に戦後第一号の地下鉄丸の内線が開通したのだから、発展するのは当然であった。広大な住宅用地を沿線に持っていたところへ、絶好の時代が訪れたのである。  以後二五年間の西武の発展ぶりについては説明を要しない。「パルコ」という「農業」とは正反対のイメージをひっさげて、東急の牙城《がじよう》の渋谷にまで進出している。もちろん経営者の力量もあるだろうが、その大発展のもとは立地条件の良さであろう。  駅前に個性がないのも、急速に開拓されたからにちがいない。今回の私鉄乗りくらべでは、西武がいちばんつまらなかった。おもしろくないので、私は西武遊園地まで行き、豆SL列車に乗った。ちょうど春休みではあったが超満員で、西武のやることはこんなことまでうまくいくのかと思った。所沢のような、東京から離れすぎているかに見えるところにプロ野球の球場をつくり、観客動員の面でも成功しているのは、これまた沿線開発の成果である。  西武がストライキをやらないのは、高卒、大卒の差を問わない人材登用など、管理の良さによるとされるが、会社が発展しているからでもあろう。  西武と対照的なのは東急、とくにその幹線とも言うべき東横線である。  この十余年間、東横線に乗ってみても新しいものにお眼にかからない。十数年前までは駅も車両もつぎつぎに改築、新造され、踏切の立体化や中目黒からの地下鉄乗り入れなど、各社の先端を行く近代化が積極的におこなわれた。さすが東急の看板線との感を抱いたのだが、このところ停滞している。一応やるだけのことはやったから停滞しているのだろうが、車両の冷房化率は二八パーセントで、大手各社の平均が五〇パーセントを越えた現在、いかにも低い。目蒲線、池上線のごときは旧型電車が走っていて、冷房車は一台もない。 「乗車時間が短いので……」(広報課)  ということだが、京王帝都の井の頭線のように距離が短くても冷房化率七〇パーセントという線もある。東横線の沿線は、東京の最高級住宅地とされる田園調布をはじめ住民の生活水準が高く、東横線には美人が多いと言われるだけに、この客扱いは奇妙である。が、これは東横線の沿線の宅地化が完了し、不動産部門の活躍する余地がなくなったからではあるまいかと、私は邪推している。  渋沢栄一がつくった郊外住宅地田園調布への足として、五島慶太が目黒蒲田電鉄(現目蒲線)を敷設したのは大正一二年、以後、東横線の建設で東京西南部の地盤を固め、関東における私鉄コンツェルンの先頭を切ったのが東急であった。  しかし、開発が早かったのと、東京と横浜の間という立地条件の良さのため、沿線の宅地化は早期に終了して、頭打ちになってしまった。東急の兼業部門が沿線を離れて北海道から沖縄に及び、また、鉄道と無関係あるいは競合する企業へ進出するなど多彩をきわめているのは、在来線の沿線開発が限界に達したからであろう。しかし、最近は多摩丘陵に田園都市線を建設して宅地開発を進め、同線と渋谷を結ぶ新玉川線を開通させるなど、鉄道会社らしさを取り戻した。  もっとも、本家の東横線沿線の居住者は、東急の関心が田園都市線に移ってしまったと嘆いている。東横線に乗ってみて、停滞感をおぼえるのはそのためであろう。冷房化率の低さも、無関係ではないだろう。  そのかわり、東横線には老大国を思わせる雰囲気がある。もとより沿線にはアパートも多く、乗客は普通のサラリーマンや学生が大半であって、特色とか雰囲気とかいっても、ほんの一割あるかなしかのことだが、たしかにひと味ちがうところがある。 「昼間の時間に乗ったりすると、ものすごくきれいなおばあさんを見かけることがある。いかにも苦労しないで齢をとったなって感じの。マニキュアをつけたり、髪を紫色に染めたりしているのだけど、それがどこか上品に落ち着いてるんだなあ」(多摩川園在住の男性・三五歳)  といった声も聞かれた。  田園調布にスーパーがないのも、いかにもであるが、そのかわり洋菓子屋が七軒もある。 「田園調布は、いまやアンノン族の観光地ですからね。洋菓子屋のRという店なんか、彼女たちのメッカなんです。ただお茶を飲むだけなのに、入口に名前を書いて待たされる。絶対に相席をさせないで、席があくと『○○様』なんて呼ばれるわけです。それが田園調布らしくっていいらしいんですね。そのかわり、夜は九時頃になると真っ暗になって静まってしまいます」(同)  私鉄の不動産部門にも、自社の沿線を開発するタイプと、遠隔地で独立した不動産業を営むものとの二つの型がある。京王帝都は多摩ニュータウンの開発など沿線にしぼっており、他の兼業部門もホテル、百貨店などおもなものはターミナルの新宿にある。東急や西武の派手さはなく、ひたすら甲州街道への忠節を守っている、といった感じである。  つい先日、平山城址《ひらやまじようし》公園で京王帝都の不動産部が土地二二〇平方メートルつきの建売り住宅を四千万円で売り出したところ、その日のうちに全部売れてしまったそうである。平山城址公園から新宿までは通勤快速で五〇分もかかる。  このように、不動産業への依存度が高いから、入居者への足のサービスにも配慮が行きとどくわけで、車両の冷房化に踏み切ったのはこの社がいちばん早い。冷房化率は六五パーセントで、関東の私鉄では最高である。そしてまた「改札の自動化は、一切しない方針です。切符は自動販売機、改札口も無人というのではお客さまに対して冷い感じになります」(広報課)というように、乗客を大切にしようとする姿勢は感じられる。  けれども、肝心の輸送力増強のほうは、線路不足で、どうにもならない。この線の朝のラッシュに桜上水から乗ってみたが、明大前でドアが開くとどっとホームへ押し出され、ふたたび乗ろうとしたら、アルバイト学生の「尻押し」が私を剥《は》ぎとった。 「尻押し」のアルバイトに使っているのは昭和鉄道学校や岩倉高校の学生で、入社を前提とした実習の一部なのだそうである。 「尻押し」というとお客に協力しているようで聞こえがよいが、鉄道側では「剥ぎとり」と呼ぶ人もいるくらいで、要するに扉を一刻も早く閉めるようにするのが職務である。世界一を網羅した「ギネスブック」によれば、日本の鉄道で世界に冠たるのは「新幹線」と「尻押し」となっている。 「ドアを閉めるのが三〇秒遅れたとしますと、そこから先きの各駅に三〇秒ぶんずつお客が余計に溜《た》まってしまうのです。なにしろ朝のラッシュは二分そこそこの間隔で運転していますから、三〇秒遅れたら大変なのです。つぎからつぎへと悪循環になり、ダイヤは乱れて、パニック状態を惹き起こすことになるのです」(京王帝都広報課) 「尻押し」は、こういう状態を回避するための重要な任務を担っている。 「剥ぎとろうとすると、頼むから乗せてくれ、オレはこの電車に乗れないと会社を……なんて言われると、本当に困るのです」と、東武北千住駅のアルバイトは、苦労話をしてくれた。各社が口を揃《そろ》えて乗客に要望するのは、尻押し係への協力であった。  東京近郊の私鉄で、もっとも立地条件に恵まれているのは小田急ではないだろうか。  小田原線、江ノ島線ともに東海道本線と接続し、しかも両線の末端には箱根、江の島という季節変動の少ない観光地がある。ターミナルが新宿のみに偏せず、藤沢、小田原もその機能を持っている。三駅の中心にあたる町田は新宿に次いで乗降客が多く、こういう中間都市を持ったことも強味である。  したがって輸送効率がよく、従業員一人当たりの営業収入は、大手七社の最高となっている。  私は小田急をしばしば利用するが、昼間でも急行は混んでいる。沿線に学校が多いからであろう。私鉄、国鉄を問わず、一般に東京から遠ざかるにつれて空いてくるものだが、小田急の場合は遠距離客が多いうえに、途中駅から乗る客が多いから、なかなか空かないのだ。  ラッシュ時の急行のノロノロ運転に対する不満はとくに強いようだ。町田—新宿間は休日なら三五分だが、平日の朝は五〇分もかかる。二分間隔で電車がつながっているので急行でもスピードが出せないのである。このラッシュ時のノロノロ運転は各線とも共通の現象で、要するに線路が足りないのだが、小田急がとくにひどいようである。  各駅停車の客にも不満がある。ロマンスカーの運転本数が多いので、各停がいったん待避駅に停車すると急行と合わせて二本に抜かれることが多く、四分も停車する。長時間停車のときは四ドアのうち三つを閉め、車内温度を保つなど、きめのこまかい配慮はなされているが、これは末梢《まつしよう》的なことで、各停の客は、急行の停まらない駅の客をもっとだいじにしろと言うし、急行の客は町田—新宿間をノンストップにしろ、と主張して、代々木上原駅のトイレに「上原に急行を停めるな」という落書きがあったりする。乗客各自のエゴがぶつかり合っている感じである。沿線の居住者はとりわけ中間層が多いので、権利意識も強いのだろう。  線路を増設しないかぎりどうにもならないのだろうが、私が要望したいのは、下北沢の下りホームの改造である。上を走っている井の頭線の古くて太い橋脚が蟠踞《ばんきよ》して、ホームの幅が一メートルもないところがある。乗降客数第三位の雑踏する駅だけに危険である。事故が発生したら「未必の故意」とされてもしかたないようなホームである。  小田急は西武とともにストのない線で、社員を大切にすることその右に出る者はないと言われる安藤楢六会長の人柄によるとも、沿線の居住者を重点的に採用しているからとも言われる。  さて、いよいよ経営状態、サービスとも最低との定評がある京成電鉄である。私は、心を新たにして上野駅へ行った。  せめても、と考えてまず「スカイライナー」に乗った。京成が起死回生の夢を托した成田空港行ノンストップ特急で、ほぼ三〇分ごとに発車している。車両も上野地下駅も成田空港駅も新しく、その三点に関するかぎり各社を凌駕《りようが》していたが、それ以外はみすぼらしかった。  とくに、上野から中川を渡った京成高砂あたりまでは、こまごまとした急カーブが連続していて、スピードが出せないのはやむをえないとしても、揺れがひどい。  不良不動産の大量買入れ、成田空港線の建設と開港の遅れなど、京成電鉄は自他双方による悪材料が重なって巨額の負債を抱え、その金利だけで鉄道部門の総売上高が消えてしまうという経営状態で、ワンマン川崎千春社長の評判は芳しくない。従業員一人当たりの営業収入も、関東大手七社中の最低である。  地下鉄への乗り入れは京成が最初であったし、京浜急行との相互乗り入れのために全線、全車両のゲージを従来の一三七二ミリから一四三五ミリに改軌するなど、なかなか積極的なところを見せた会社なのだが、不動産部門の遅れを一挙に取り戻そうとした焦りが禍いしたのであろう。  東京の下町と千葉県の農村部を走る線であるから、もともとモダンとは縁遠かったが、経営不振のため、ますます西側各線との差が開いてしまった。  たとえば、京成でいちばん乗降客の多い京成船橋に降りてみる。一日に一三万人もの人で雑踏するというのに、駅舎は古く、ホームは狭く、しかも上り線のホームに下車した客が国鉄に乗り換えようとすると、京成の踏切を渡らねばならない。跨線橋《こせんきよう》がないのだ。  そんな駅を「スカイライナー」が掃き溜めに降りた鶴のように颯爽《さつそう》と通過して行く。ただし乗客は少なかった。 「ラッシュ時の電車でも最高六両編成、各駅停車など四両です。私の乗る新三河島なんか各停しか停まらないから、準急やスカイライナーが間に入ると、朝でも一〇分以上間があいてしまう。だから大変な混雑ですよ」 「経営不振のせいか、どことなく駅員も投げやりな感じですね。定期を出しても見やしませんからね」と、三〇年余も京成を利用しているという中年氏は嘆く。  京成高砂—青砥《あおと》間のわずか一駅ではあるけれど、複々線化の工事がおこなわれているのは、財政の苦しいなかでよくやっていると感心したが、地下鉄への乗り入れ駅押上《おしあげ》で降りて掲示してある時刻表を見ると三分遅れている。しかも、この電車の行先は西馬込《にしまごめ》なのだが、ホームの表示板には「京浜川崎」と出ている。しばらく様子を見ていたが、三、四分の遅れが多く、行先表示板の掲示も、混乱していた。夕方のラッシュ時でもあり、こんな調子で、よく地下鉄や京浜急行との相互乗り入れができるなと思った。  関東の私鉄は、関西にくらべるとサービスがわるいと言われる。交通機関の持つ切実な機能とサービスという言葉を結びつけることに私など違和感をおぼえるのだが、とにかく速度の面ではだんぜん関西勢が関東を圧している。関西では、過密ダイヤの朝のラッシュ時でも、急行は急行らしい快速で走っている。  関西の私鉄が高速で走るのは、言うまでもなく競合する線が並行しているからで、関東のように、どんなにノロノロ運転をしても、客をとられる心配がない会社とは心構えがちがう。  しかし、関東にも例外があって、関西なみのスピードで走る私鉄がある。品川—横浜間を国鉄と並行して走る京浜急行電鉄である。  乗ってみると、これが関東の私鉄かと思うようなスピード感がある。所要時間は国鉄の湘南電車より二、三分よけいにかかるが、国鉄にくらべると線路際の空地が狭く、カーブや駅数も多いので、むしろスピード感では上回っている。「京浜急行は怖いくらい速い」とさえ言われる。 「東京の私鉄は似たりよったりで、個性がありませんけれど、京浜急行だけは別ですね。見るからに目いっぱい走っています。駅間距離は短いし、カーブはきついから加速性能のいい電車を投入して、スピードの出せるところへ来たら一気に速度を上げるんです。走れるところは最高の意気ごみで走る、といったところがたまらないんだなあ」  と、京浜急行が好きで川崎に住みついた二七歳のファンは言う。  京浜急行の乗客調査で、おや、と思う点が一つある。それは朝のラッシュ時のもっとも混む区間が東京のターミナル駅の直前ではなく、横浜の直前となっていることである。横浜が大都市だからでもあるが、横浜で東京への客を国鉄に取られてしまうという点も無視できない。  京浜急行の朝の上りのラッシュに乗ってみると、横浜でどっと降りる。意外に都心まで直通する客が少ない。 「京急はサービス精神も旺盛《おうせい》で接客態度も良好だが、控え目すぎるような気もする。たとえば、三浦半島から横浜に着くと、国鉄線乗り換え、と車内放送をする。横浜の周辺に行く客のためにはそれでよいが、品川にはこの電車のほうが早く着く、ぐらいのことはあわせて放送したほうがよいのではないか」(京浜急行友の会会員)と、ファンがやきもきするほどだ。  しかし、京浜急行の客で都心まで直通する客が少ないのは、乗り入れる地下鉄が都営浅草線で、昭和通りの下を通っているからでもあろう。住宅地が西へ広がって行く趨勢《すうせい》に引っ張られてか、東京のオフィス街の中心も徐々に西へ移動している。中央区、とくに昭和通りあたりになると、すでに中心から相当にはずれてきている。  以上関東大手七社の現状を通勤輸送を中心に探ってみた。通勤電車にいろいろ乗ってみたし、毎日乗っている人の意見や会社側の見解もきいてみた。  ひと口で言うと、乗っているかぎりにおいて大差はなく、京浜急行の速いのが目立つ程度であった。とにかくどの線の電車も混んでいて、混むとおなじになってしまうのであった。  駅の新旧、サービスの良し悪しにはいくらか差があり、京成がいちばん見劣りしたが、この線の沿線には絶対住みたくない、と思うほどではなかった。乗車時間がおなじならば、京成より東武、東武より西武、西武より京王帝都、私の好みとしてはそういう選びかたをするだろうが、京王帝都に四〇分乗るよりは京成の三〇分のほうがいいし、他の条件がおなじならば、京王帝都沿線の四千万の建売りよりは京成沿線の三千万円のほうがいい。  安全施設については、技術的なことでよくわからないが、各社とも大差はないようであるし、要するに、いまこれからどの線の沿線に住もうかと考えた場合、通勤時間の短いこと、地価や建売り住宅の安いことが選択の基準になるだろうと思われた。かならず坐れるという条件でもない限り、各社の通勤輸送の現状は似たりよったりだからである。 「住宅新報」の五三年一〇月二七日号に、九月一五日現在の地価一覧が出ている。  それによると、私が考えるより以上に東方の不人気はひどい。駅から徒歩一〇〜一五分、平均価格地という同一条件で比較してみよう。乗り換え時間は駅の構造を勘案して加算した。地価は一平方メートル当たりである。  銀座まで五〇分   竹ノ塚(東武・伊勢崎線) 一三三、五〇〇円   大泉学園(西武・池袋線) 一八〇、〇〇〇円  新橋まで六〇分   京成大久保(京成)     八五、〇〇〇円   つくし野(東急・田園都市線) 一一七、五〇〇円  銀座や新橋ではやや東に偏するかもしれないから、もっと西をとってみよう。新宿では東西私鉄の比較がしにくいので、地下鉄東西線の両端の国鉄でくらべてみる。  高田馬場まで四八分   津田沼(総武本線) 一〇五、五〇〇円   豊田(中央本線)  一三一、〇〇〇円  どうも差がありすぎる。  なぜだろうと考えているうちに、奥さんのせいではないかと思いはじめた。家を建てたり買ったりするときは、どうしても女房の発言権が強くなる。女性はイメージに弱い。そのせいではあるまいか、と私は考えた。  しかし、この結論では心もとないので、交通学者の角本良平氏に訊ねてみた。 「子どもの学校ですよ。東武や京成の沿線にはあまり大学がないでしょう。ほかにもいろんな要素はあるでしょうが」  そういえば、東武にも京成にも女子学生らしい女の子の集団はほとんど見かけなかった。    東京駅 素顔の24時間  東京駅に勤務する国鉄職員の数は、一一〇九人(昭和五四年度末)だという。  日本一の駅であるから、二〇〇人や三〇〇人はいるだろうとは思っていたが、そんなにいるのかと、おどろいた。しかも、東京駅で働いているのは国鉄職員だけではない。清掃や施設の保守などの仕事は外部に委託しているのである。これでは人件費や外注会社への支払いが大変だろう。国鉄の赤字が累積するのも無理はない。どうしてそんなに人手がかかるのかと、そう思っていた。  ところが、昭和五五年の一月から五月にかけて「朝日新聞」東京版に連載された「東京駅いま昔」(筆者は国鉄担当社会部記者岸本孝氏、『東京駅物語』と改題して弘済出版社より同年一〇月に刊行)を読んでいるうちに、すこしく考えが変った。  なにしろ、一般乗降客の知らない裏側に、じつにいろいろな仕事があるのだ。これだけの裏側があって、はじめて東京駅という「表」が成り立っているのか、東京駅って大変なんだなあ、と思うようになった。  もとより一一〇九人もの職員が必要かどうかはわからない。けれども、面積二八万平方メートル、乗降番線数二二本、一日平均延べ一三二万人もの客が乗降・乗換えする東京駅を、二〇〇人や三〇〇人で管理しようとするならば、どうなるだろうか。地下に逼塞《ひつそく》しているネズミは繁殖して新幹線の駅弁売場を襲い、汚物の異臭は構内に満ち、扉に挟まれた乗客は引きずられて線路に落ち、列車ダイヤは乱れ、地下駅で火災が発生すれば数百人、場合によっては千人以上が煙にまかれるにちがいない……。『東京駅物語』を読み返しながら私は、そんな場面を想像した。  それで、私も東京駅の舞台裏を見たくなった。  東京駅に電話すると、見学は結構だが、どこをどう見たいか、はっきりしてほしい、できれば見学希望箇所を列挙した願い書を提出されたい、とのことであった。私が「裏側を見たい」とばかり言うので、要領を得ない見学者だと思われたようでもある。  願い書をつくってハンコなど捺《お》し、指示にしたがって駅長室を訪れた。  駅長室は丸の内側正面玄関のすぐ南にある。東京駅の乗降客の割合は、八重洲側六四パーセント、丸の内側三六パーセントであるが、駅長室、貴賓室、公安室など、いかめしい部屋はすべて丸の内側にある。依然として、こちらが表口なのである。  駅長室といっても、駅長のいる部屋は奥まったところにあり、私が訪れたのは首席助役、総括助役、内勤助役等々の勤務する「駅長事務室」であった。  東京駅には助役がたくさんいる。どんなに大きな駅でも、帽子に金筋二本の駅長は一人しかいないが、金筋一本の助役は何人いてもいいのだそうで、東京駅には五六人もいる。  私の相手をしてくれたのは、高野要助内勤総括助役で、私が願い書に列挙した十数項の見学希望箇所をひとつずつ指先でおさえながら、 「遺失物取扱所は駅の管轄ですから問題ありません。しかし、出札口は現金を扱っていますので、外部の方は一切お断わりすることになっています」 「車掌区は東京南鉄道管理局の管轄ですから、南局の了解をとらなければなりませんね」 「便所掃除ですか。これは弘済整備という会社がやっていますので、いちおう話を通しておかないと」 「霊安室もご覧になりたいですか。鍵《かぎ》さえ開ければいいんですから問題はありませんが、ただ、あそこを人に見せますとね、なぜかそのあと本物の仏さまが入ることがよくあるのですよ。が、まあいいでしょう」  とチェックしていく。  東京駅の構内にあるからといって、すべてが駅の管轄というわけではないのである。 「東京南局や弘済整備にも、それぞれ願い書を書いて持っていかなければならないのでしょうか」 「いや、いいですよ。私から頼んでみましょう」  高野さんはそう言うと、さっそくダイヤルを回した。しばらくすると東京南局の松丸進広報係長が来てくれた。 「南局関係のスケジュールを先きに決めてください。私のほうは、その残りの空いた時間にはめこみますから」  と高野さんが松丸さんに言っている。  一人の見学者の扱いでも手数がかかるんだなあ、と私は面倒くさいような、申しわけないような気持になった。  そのあと、高野さんに連れられて中央線ホームの下にある弘済整備東京事業所の古賀容弥所長に会い、後日あらためて清掃業務を見せてもらいに来るからと挨拶した。  駅長事務室に戻ると、 「これで全部了解がとれましたから、私のほうでスケジュールを組んでおきます。なるべく一日半ぐらいで終るようにしましょう」  と高野さんは言った。  高野さんを訪ねてから、すでに一時間以上たっていた。内勤総括助役といえば助役のうちでも上位であろう。その人の時間をだいぶ奪ったことになる。 「見学希望者があると、いちいちこんなふうになさるのですか」  と私は言った。 「ええ、これも仕事のうちですから」 「東京駅は何かと取材者が多いでしょうね」 「多いですよ」  ちょうどその時、電話が鳴った。受けた若い室員が、「週刊○○から出札口の内部の写真を撮りたいと言ってきてますが」と、高野さんに伝える。 「現金を扱うところはダメだよ。いまここに見えているお客さんにも、そう言ってお断わりしたばかりだ」  と高野さんは言ってから、やれやれというふうに椅子に深く腰を落とした。  一二月一一日(昭和五五年)、木曜日、午後一時三〇分、私は再び東京駅の駅長事務室をたずねた。  駅長事務室は、このあいだとちがって、ざわついていた。みんな、電話にとりついたり、早口で指示し合っていたりしていた。高野さんは非番で不在になるから私の相手は小林康雄内勤助役がしてくれる、とのことであったが、その小林さんも忙しげに電話をしている。とりつく島がないので、立ったまま聞き耳を立てていると、新川崎と品川の間で事故があり、横須賀線の電車が止まっているらしい。  こういう場合、情報はすべてこの駅長事務室に集められ、ここから各部署への連絡と指示がおこなわれる。大きな駅だから連絡先も多いのであろう、室員たちはつぎつぎにダイヤルを回している。  ようやく受話器をおいた若い室員に、 「事故だそうですが、どんな事故ですか」  と私はたずねた。 「踏切での人身事故です」 「飛びこみですか」 「わかりません」  と彼は答え、またダイヤルを回しはじめた。  しばらくすると、13時38分に運転が再開されたという情報が入り、騒がしかった室内も落ちついてきた。「すみません、横須賀線で事故があったものですから」と言いながら小林さんは私を応接セットのあるコーナーに招じ入れた。  ところが、こんどは非常ベルが鳴った。  駅長事務室には、いろいろな器具や表示板が備えられている。構内の各所に設けられたテレビ・カメラからは乗客の流れがひと目でわかるように五台のテレビに映し出されているし、新幹線の各列車の運転状況なども刻々表示されるようになっている。そうしたものの一つに「防災受信盤」というのがあり、構内に火災などが発生すると非常ベルと同時に事故発生箇所を示す赤ランプがつくようになっている。  非常ベルとともに点灯した赤ランプは、八重洲地下街の北口を示していた。一人の助役がパッと立ち上ると壁にかけてあった金筋一本の帽子をかぶって駆け出した。私もそのあとにつづいた。助役といっしょになって走れば改札口などフリーパスである。それはいいのだが、丸の内側から八重洲北口までは遠い。息切れがする。ところが、ようやく現場にたどり着いてみると、火の気などどこにもなく、事故報知機のボタンも使用されていなかった。助役は清掃係や売店の売り子に何かなかったかと訊《たず》ね歩いたが、事故発生の気配は何もないのであった。私たちは顔を見合わせ、あらためて名刺を交換した。内勤助役の田中利雄さんであった。  いっしょに走ったことが縁になって、その日は田中さんが私を案内してくれることになった。  私の見学スケジュールは、誰でもその気になれば見られる箇所にはじまり、しだいに「裏側」へ入っていくというふうに組まれているようであった。  最初に案内されたのは、略称「声担《こえたん》」つまり「お客さまの声担当室」で、横須賀線と総武線の発着する地下駅一階の北側改札口の脇にあった。 「お客さまの声担当、となっておりますので、もう何でもおっしゃって来られます」  と次長の井沢忠司さんは言う。中央線の乗り場はどこか、といった簡単なものから、東京駅や国鉄とは無関係な鬱憤のはけ口を求めて、あるいは人恋しさでやってくる客まで、さまざまだという。駅員の応対がわるいといった苦情も多く、なかには二時間も三時間も粘る客もいる。客の側に落度があると思っても、それは絶対に口にしてはならない。お茶を出し、相手の機嫌がなおるまで話を聞く。  そういう客が来ないかと、私は二〇分ほど待ったが、その日は誰も現れなかった。  つぎは「旅行者援護所」である。これは丸の内北口ホールにある。  扉を押して入ると、木のテーブルをはさんで椅子が置かれ、いっぽうに係の鹿股照夫さんが坐っている。身上相談所といった感じである。その奥は治療室で、白い上っぱりの看護婦さんがいる。この道二六年の島村なかさんであった。  ここもいろいろな客が来る。朝のラッシュ時は、脳貧血のOLが多い。朝食をとらずに出勤してくると貧血を起しやすいという。  階段から落ちたりした怪我人がおもな客だが、最近はエスカレーターで転ぶ老人が増えた。土産物などをたくさん抱えた旅慣れない老人が荷物に気をとられて転ぶことが多いそうである。指をつめられたヤクザが治療にやってきたこともある。  財布をなくして金を借りに来る人には、自宅に電話をし、住所を確認した上で、三千円を限度に貸す。構内をうろついていた老人が駅員に連れられて来る。身元の確認できる場合は迎えに来てもらう。家の遠い人は運賃着払いで送り返す。身寄りのない人は東京都の民生局福祉事務所に回す。  帰りの汽車賃を借りに来たおじいさんがいた。家族に電話すると、 「おたくのようなところが金など貸すから、うちのじいさん、すぐ汽車に乗ってどっかへ行っちまうんだ。今後は絶対に金なんか貸さんでくれ」  と叱られたこともあったという。この話、ちょっと他人事《ひとごと》でない気がした。  丸の内南口ホールの改札口に向って左側、遠距離切符売場の前に、一辺四〇センチほどの正方形の御影石があり、その中央に真鍮《しんちゆう》を巻いた六角形の小さな大理石がはめこまれている。大正一〇年一一月四日、原敬首相が暗殺された場所である。  東京駅ならではの歴史の一コマが刻まれているわけだが、そのすぐ前に、それとは対照的な「お忘れ物承り所」がある。ここに一日平均約六〇〇件の忘れ物が集められる。新幹線をはじめ、東京駅を終着とする列車は多いから、途中駅で下車した客の忘れ物もここへ集まってくる。  なかに入ると、無いものは無いと言ってよいほど何でもある。人間とはこんなに何でも忘れることができるのかと感心してしまう。  手押し車がある。ここの備品かと思うと、そうではなく、荷札のような「遺失物切符」が結びつけられていて、発見場所と日時が記入されている。改札口の近くに置いてあったというから、荷物を運んできた見送人が置いて帰ったのであろうか。  高級ブランデーがある、ギターがある、荒巻鮭《あらまきざけ》がある。一セット揃ったゴルフ・バッグもある。  もちろん、忘れ物でいちばん多いのは傘である。ひと雨降ると四〇〇本ないし五〇〇本の傘が集まってくる。傘を取りにくる客は、わずか五パーセントに過ぎないが、これにもいちいち「遺失物切符」を付さねばならないから、雨が降ると係員は忙しくなる。  雨が降れば傘、夏になれば脱いだ上着から札入れが落ちる。現金は月末に多くなり、月給日前は減る。そうした変動はあるが、 「平均すれば乗降客数と忘れ物の比率は一定しています。みなさん、キチンと忘れ物をなさるようで、不思議ですねえ」  と主任の中井広一さんは言った。風呂敷から紙袋へと時代は変っても、その数は変らないのだそうだ。 「ここにいますと、いまどんな本がベストセラーになっているか、わかります」  と中井さんは言う。  なるほど、司馬太郎の『項羽と劉邦』が三冊も棚にある。しかし山口百恵の『蒼い時』は一冊もない。読者の年齢層のちがいだろう。  落とし主が現れるのは、物品については約三〇パーセント、現金はさすがに返却率がよく、約八〇パーセントだという。ただし、本人のものであることが証明できない裸現金は別にしての数字である。  主の現れない物品や現金は三日間保管したのち、飯田橋にある警視庁遺失物管理所へ回される。そして六カ月後に国鉄に返却され、物品は業者に競売される。  この「お忘れ物承り所」の向い側、精養軒のある通路を入りかけた右手に「テレフォンセンター」がある。ここは外部からの問い合せや苦情に応答するところで、タイピスト学院のように机が前向きに並び、電話機を前にして七、八人の係員が坐っている。  一日平均二四〇〇件、新幹線が遅れたりすれば激増し、一万件を越えたこともある、と聞いていたので、絶えずベルやブザーが鳴る騒がしいところかと思っていたが、意外に静かであった。 「あんがい静かなんですね」  と言うと、指導係長の大石秀子さんがクスリと笑ってから、 「これで忙しいのですよ」  と私を睨《にら》んだ。  なるほど、あちこちの電話機にランプが点《つ》いたり消えたりしており、レシーバーをかけた係員たちのほとんどが応答している。その声は低く、口は動いているが声はほとんど聞えない。  かかってくる電話のうち、約一三〇〇件は列車の発着案内で、これはテープで流す。したがって係員が直接応答するのは約一一〇〇件、一人平均一五〇件になる。一日に一五〇本の電話を受けた経験は私にないし、数えてみたこともないから実感は湧《わ》かないが、一時間ごとに一五分の休憩をとらないとやれない仕事だという。  苦情のなかには運輸大臣や国鉄総裁でも答えられそうにない内容のものもあり、当該部署に電話を回したくなるのも多いが、極力タライ回しをせずに自力で答えるのをモットーにしているので、応対には知識と忍耐とが必要だという。しかもバカヤロー呼ばわりも日常のことで、大石さんは、口惜しくて涙の出ることもある、と唇をかんだ。  そういうテレフォンセンターであるが、希望者は多く、非現業試験という難しい試験に合格しなければ配属されない。  たしかにこの職場は鉄道に関するすべての知識を要求される。最近は鉄道ファンが増え、車両や電気関係、複雑な営業規則についての質問が多くなった。書棚には、ぼう大な『国鉄百年史』をはじめ、鉄道工学書などが収められて図書館の閲覧室のようである。各係員の机の上にも事典や図鑑が並んでいる。大石さんは、 「もう、なんでもかんでも読んでおかないといけないんですよ」  と言って、自分の机の上を指さした。見ると、その「なんでもかんでも」のなかに私の本もあった。  東京駅の丸の内側と八重洲側を結ぶ通路は八本ある。  このうち、入場券を買わずに通り抜けられるのは、いちばん北側にある狭い第二自由通路と、横須賀線・総武線の発着する地下駅のコンコースと八重洲北口とを地下で結ぶ第一自由通路の二本、入場券がないと通れないのは、北口通路、中央通路、南口通路と、五五年一〇月に開通した中央地下通路の四本で、計六本が一般用の通路である。  あとの二本は、貴賓用特別通路(中央通路の南側)と小荷物運搬用通路(南口通路の北側)で、一般の人は通れない。  丸の内南口の改札口を入って、すぐ左手の壁に目立たない扉がある。そこを入ると、時は一瞬にして逆戻りし、大正三年の世界になる。東京駅創建当時そのままの赤煉瓦を巻いた丸天井の薄暗いトンネル、これが小荷物用通路である。  眼をこらすと、床から三〇センチぐらいの高さのところだけ煉瓦が凹んでいる。運搬用の台車がぶつかって削り取った跡なのだ。けれども、すでに台車はない。小荷物業務が汐留《しおどめ》に移管されたからである。  名ばかりになった小荷物用通路であるが、各ホームへのエレベーターがあるので、車椅子の客はこの通路を利用する。けれども、なぜこんな汚いところを通すのだという苦情も出るという。たしかに廃坑のように陰気くさい通路である。  線路の下をくぐるたびに頭がつかえそうになる小荷物用通路を行くと、新幹線の下に出て、壁も煉瓦からコンクリートに変る。  そのまま進めば八重洲側に出られるのだが、右からもう一本のトンネルが合流してくる。これが、丸の内の中央郵便局と東京駅とを地下で結んでいた通路で、かつてはレールが敷かれ、小型の電気機関車が走っていたという。現在はまったく使用されていない。  この通路は照明もなく、真っ暗である。懐中電灯だけをたよりに足もとを踏みしめながら進むのは洞窟《どうくつ》探検に似ており、ここが東京駅だとは信じられないような気持になった。  夕方のラッシュが終ると、酔客たちの時間帯になる。これはもう見るまでも言うまでもない。私自身が自分のこととして眺めてきている。  ただ、ひとつだけ見ておきたいことがある。終電車発車後の東京駅である。  午後一二時、丸の内北口の公安室を訪ねる途中、駅長事務室に立ち寄ってみた。室内では小林内勤助役、若い室員一人、酔客一人、この三人が坐って何やら話し合っていた。 「切符を持った客がいるのに終電を発車させるとは何事だ」 「お客さんは、切符を買ってから、まっすぐホームに行かれましたか」 「余計なことを聞くな。オレは逗子《ずし》までの切符をちゃんとこうして持っているんだぞ」 「まあ、ちょっと私の言うことも聞きなさい」 「聞きなさいとは何だ。聞いてくださいと言え」 「はいわかりました。それでは私の言うことも聞いてくださいませんか」 「よし」 「お客さまは、切符を買ってから、まっすぐホームに行かれましたか」 「余計なことを聞くな。オレは逗子までの切符を……」  正確に覚えているわけではないが、だいたい以上のような対話をかわしているのであった。  こういう客を仮泊させる大部屋が東京駅の地下に設けられている。通称「一〇〇号室」、収容力は約一〇〇名である。  公安室には五人の公安職員が待機していた。これから「構内整備」がはじまる。構内整備では何のことかよくわからないが、浮浪者や酔っぱらい、終電車に乗り遅れた人たちを構内から排除したり保護したりする作業で、駅員たちは「追い出し」と呼んでいる。  四人の公安職員が二人ずつ一組になって横須賀線・総武線の発着する地下駅へ下りる。  0時25分、津田沼からの上り電車が3番線に到着した。これが東京地下駅に発着する最終電車である。  客はきわめて少ない。三人降りただけである。しかし、車内に酔いつぶれている客が五人いる。公安職員が起こして歩く。いったん眼を覚ました客が、また座席に横になる。こんどは腕をつかんで車外に引っぱり出す。  終電車で着いた客は男ばかりで、全員が酔っている。比較的足どりのしっかりした者もいるが、フラフラと電車にもたれかかる者、公安職員にからむ者、いろいろである。素直にエスカレーターに乗ったと思うと、四つん匍《ば》いになる者もいる。これは危険だ。公安職員が急いでエスカレーターを駆け上る。わずか八人の客でも四人の公安職員では手がたりないくらいである。  公安職員は客の一人ずつに行先きを訊ねている。山手線、中央線、京浜東北線にはまだ電車が走っているので、終電車に遅れぬよう乗り換えさせねばならない。  乗り越して来た客や遠くまで帰る客は、すでに終電車が出てしまっている。この人たちは、いったん八重洲側に出てもらう。  追い出されるのはイヤだから駄々をこねる客もいる。横須賀線の終電に乗り遅れた客が、身分証明書を出して、 「オレは海上自衛隊の者だ」  と言う。 「海上自衛隊でも検事でも終電車はありませんよ」  と若い職員は、なだめるように肩に手をかけて誘導する。若いのに練れたものだと感心していると、その職員にわざとドスンと突き当たる酔客がいて、若い職員がよろめいた。 「ちくしょう、こんな制服着てなきゃあ、ただじゃおかねえんだが」  と彼は舌打ちした。  公安職員は、みんな柔道、剣道の有段者であり、公安室のある丸の内北口には武道場が設けられている。  1時01分発の山手線品川行が5番線から発車して行った。これが東京駅での最終電車である。  私が同行したのは丸の内北口に詰めている公安職員であるが、「追い出し」は、このほかに八重洲南口の公安室員、宿直の駅員もおこなう。網をしぼるように各ホームから八重洲中央口のコンコースに集められた客は約一五人で、忘年会シーズンにしては少ないとのことであった。  三〇代後半かと思われる女性が一人いる。この女性は待合室に連れて行かれたが、あとの客は構外へ追い出される。だんだん酔いがさめたのか、もう公安職員にからむ客もなく、おとなしく外へ出た。そしてシャッターが下ろされた。午前一時二〇分であった。 「一〇〇号室」という仮泊所があるのに冬の寒空に追い出すのは気の毒にも思われるが、あまり優遇していると浮浪者や酔っぱらいの簡易宿泊所になってしまうし、経費もかかる。そこまでする義務は駅にない、というのが国鉄の考えかたのようである。  シャッターが下ろされると、各ホームの灯りが消され、東京駅はわずかな眠りに入る。星が見えている。東京駅で星を見たのは、はじめてのような気がする。  午前三時一五分、シャッターが開かれる。ホームの事務室に灯りがともる。  四時を過ぎると、1番線で夜を明かした中央線の電車に電灯がつき、モーターがうなりはじめた。この電車が東京駅における一番列車で、4時35分発の高尾行である。  中央線のホームに上ってみると、1番線から新幹線ホームまで見通しがきく。こんなに見通しのよい東京駅を見るのもはじめてであった。  事務室から帽子に金筋一本の運転助役が現われた。事務室主任の佐藤茂美さんで、昨夜から泊りこんでいるのは七人、いすれも二四時間交代制とのことであった。  一番電車の発車一分前になると、佐藤さんは柱にとりつけられたベルのボタンを押す。ベルが鳴りやみ、懐中時計を見つめていた佐藤さんが手を上げると、4時35分の高尾行がピッタリ定刻に発車して行った。客は一車両に一人ずつぐらいしか乗っていなかった。一番電車が構内信号機を通過するのを見届けると、佐藤さんは事務室から御茶ノ水駅に電話をかけ、定刻に発車したことを告げた。  4時52分、中央線の上り一番電車が2番線に到着する。こちらは一両に数人ずつ乗っている。ところが、終点の東京駅に着いたのに、降りてくるのは約半数で、あとは車内で眠りこけている。あたりはまだ暗いし、始発というよりは終電車の雰囲気が漂っている。私は、東京駅に着く一番電車からは早起きの客がすがすがしく降りてくるのだろうと想像していたが、どうもそうではない。新宿あたりで夜を明かした客が、駅よりも居心地のよい電車を利用してきたにちがいない。 「起こしますとね、いい気持で寝ているのに何だ、って叱られるんですよ。顔ぶれも決ってますね」  と、佐藤さんは苦笑した。  東京ステーションホテルの食堂は丸の内側の建物の南端の二階にある。ちょうど東京駅の各ホームが切れたその少し先きにあるので発着する列車や電車を眺めるには、ぐあいがよい。  朝食をとりながら一時間半ばかりそこにいた。ラッシュ時になると、つねに二本、多いときは四本もの列車・電車が同時に眺められた。  午前九時、丸の内北口にある「東京車掌区」を訪ねた。ここに所属するのは東海道方面への列車に乗務する車掌で、総勢六四四人。もちろん東京駅の職員ではないから、例の一一〇九人とは別の人たちである。しかし、九二ものベッドがあるから東京駅の住人ではある。  東京車掌区にはベッドのほかに食堂、フロ、理髪室が備わっている。食堂は驚くほど安い。のり二〇円、シラス干し三〇円、サラダ一〇〇円、魚の煮つけ一二〇円等々、しかも、いわゆるおふくろの味といった趣きの盛りつけである。ここは外部の客も利用できるが、昼食時には行列が通路にはみ出すほど人気があるので、車掌用と一般用とでハッチもテーブルも別にしてある。  理髪室も安い。調髪が一二五〇円である。一般の客も利用できるが、予約表を見せてもらうと一〇日先きまでほとんど埋まっていた。  東京車掌区を出て地下駅への階段を降りて行くと、地下一階のコンコースの奥に「防災室」がある。  昭和四七年七月に開業した東京地下駅は、ホームが地下五階という深いところにあるので、防災設備には当時の金で七〇億円を投じたという。それだけに、集中制御する防災室のなかは壁いっぱいに表示板がはりめぐらされ、中央には機器と無数の押しボタンが並んでいる。どこかで火災が発生すれば、表示板に位置を示すランプが点灯し、ブザーが鳴る。室員はそのセクションにいる客に退避のアナウンスをし、テレビ・カメラで確認しながら前後の防火扉を遠隔操作で下ろす。防火扉は密度濃く設けてあるので、ランプや押しボタンの数が多いのだそうである。  そのほかにも、テレビ・カメラでエスカレーターを写し、客が転倒すればただちにモーターを停止させるなどの操作も、ここでおこなっており、そのほかいろいろな防災設備を制御しているので、機器類の熱で室温が他よりも三度ほど高い。  東京駅には一三カ所のトイレがあり、男女大小合わせて二八七個の便器がある。  これを清掃するのは弘済整備株式会社のおばさんたちである。  八重洲中央口に「清掃中」の札のかかった男子用トイレがあったので、弘済整備東京事業所の古賀所長、田中内勤助役といっしょに入った。  二人のおばさんが小便器に手をつっこんで排出口の金網をつまみ出している。ブラシも使わず、ゴム手袋もはめず、食器を洗うような手つきで便器を撫《な》で擦ったあと、布で拭く。  その一人、小能《おの》志づ子さん(六二歳)に、 「手袋ははめないのですか」  と訊ねてみた。 「いやあ、あんなものしたら……」  と、小能さんは両手を擦り合わせる。横から古賀さんが、 「ゴム手袋はめて作業するよう言っとるんですが、やりにくい言いましてな。塩酸を使うときだけは、はめますが」  と言った。  トイレの掃除で手間がかかるのは、やはり落書きだそうである。シンナーで消しても消しても書かれる。 「女のトイレにも落書きはありますか」  と私は小能さんにきいた。 「そりゃあ、ありますとも」 「どんな落書きですか」 「おんなじですよ。男が恋しーい、っといったものばかり」  と、小能さんは「恋しい」に妙に力を入れてから、明るく笑い、また両手を擦り合わせた。齢のわりに若く見える人であった。  つぎに見るのは、おなじく弘済整備が担当している新幹線の清掃である。  それで八重洲中央の改札口に向いかけると、精算所の壁にもたれ、両手をポケットに突っこんでいた男が、卑屈な笑みを浮かべて田中助役に会釈する。何者かと訊ねると、地見《じみ》屋とのことであった。お客が落とした百円玉を素早く拾ったり、靴で踏んで隠し、あとで拾ったりするのが商売である。  新幹線北口への階段を上りかけると、六〇歳ぐらいの男性が、手すりに体をもたせかけるようにして立ち止っている。足が不自由とは見えないし、様子がおかしい。田中さんは急いで階段を駆け上ると何やら訊ねた。そして「大したことはないようですが、私はこれで失礼します」と言って私たちに敬礼し、男の人を抱えるようにして階段を降りて行った。  一般の客は気づかないが、新幹線ホームへの階段を四分の三ぐらい上ったところに、くぐり戸がある。  扉を開けて中に入ると、線路に沿ってコンクリートの通路があり、頭すれすれのところにホームの縁が軒のように突き出ている。これが新幹線のゴミを運ぶ通路である。  東京駅に着いた新幹線が装いを新たにして新大阪や博多へ向けて発車して行くまでの時間は「ひかり」二八分、「こだま」二四分が基準となっている。このうち、着いてから客が全員降りるまでが二分、検査が五分ぐらいかかるので、残りの時間内に一六両、全長四〇〇メートルに及ぶ一編成の車両を、清掃し、ゴミ箱を取り換え、座席の向きを変え、枕カバーを交換し、トイレの紙を補充し、水槽に水を補給するには、六一名ないし七五名の整備員を必要とする。  新幹線は時間帯によっては平均六分間隔で着発するから、五編成分の整備員を常駐させなければならない。弘済整備の新幹線事業所には約三八〇人もの整備員が働いているのである。  各車両のデッキの脇にある取出口から布袋に詰められたゴミは、八重洲北口のはずれにある集積場へ運ばれる。足もとをネズミがちょろちょろするところである。  東京駅のゴミ集積場は、このほかに二カ所あり、東海道方面の列車が発着する第4、5、6ホームのゴミが集まる丸の内北口の集積場では、幾匹ものネコが、饐《す》えた臭いのする弁当ガラの山の間から眼を光らせていた。  八本ある東京駅の通路のうち、いちばん北、つまり神田寄りにあるのを「第二自由通路」といい、入場券を買わなくても通り抜けられる。そのかわり幅が狭く、天井も低くて、東京駅の場末といった感じのする通路である。一般に東京駅は有楽町寄りがきれいで、神田寄りは汚い。  この通路を八重洲北口から入って行くと、まん中あたりの左側に霊安室がある。といっても、通路の壁とおなじ平面にはめこまれた鉄の扉に、マジック・インキらしい墨跡で小さく「7」と書かれているだけである。  その前後に6号室や8号室があるわけではないが、東京駅で「7号室」と言えば、この霊安室を指す。  内部の壁は煉瓦で、白いペンキが塗られ、柱に相当する部分がアーチ型に上でつながっているので、ロマネスク様式の白い地下壕《ちかごう》、とでも言うほかない不思議な部屋である。  小さな部屋であるが、奥は左右に広がり、そこに遺体を安置する木製の台が置いてある。その上に畳表の一枚敷かれているのが生ま生ましい。  手前の右手の壁に沿ってベンチがあり、左手には焼香台と仏具一式があり、線香やロウソクも揃《そろ》えられている。  この部屋が使われるのは年に三、四回とのことであった。  霊安室を出て、丸の内側に向いかけると、もうひとつ同じような扉がある。二つもあるのかと思ったが、これは食堂会社の倉庫であった。  午後一時半、駅長室を訪ねた。  駅長室は天井が高く、部屋も広く、壁には横山大観の「富士に雲」がかかり、たぶん本社の総裁室より立派だろうと思われた。  しかし、水島昌一駅長は気のおけない人柄で、私の、 「東京駅長は世間的には名士ですが、国鉄の組織のなかでは、どのくらいエライのですか」  という他愛のない質問にも、 「兵隊の位で言うと、少将ってところでしょうか」  などと答えるのであった。  東京駅には大観から寄贈された「富士と桜」という百号の彩色画、入手経路の定かでない狩野元信筆の六曲屏風《びようぶ》など、一級美術品があり、貴賓室に飾ってあると聞いていたので、それを話題にすると、どうぞ見て行ってください、と水島駅長は言ってくれた。  元信や大観の絵があるのは「松の間」で、天皇・皇后用の部屋である。天皇の椅子にはカバーがかかっていたが、皇后の椅子はムキ出しであった。さわってみると、意外に硬い。侍従の椅子のほうがフカフカしていた。  水島駅長とは、まじめな話も少しはした。 「東京駅には国鉄職員が一一〇九人いるそうですが、もし仮りに、列車はいっさい遅れず、職員の勤務も客への応対も百点満点、そして客もまた完全無欠、チリひとつ落とさず、酒も飲まず、駅員に文句を言うどころか口もきかず、空気か神様のようであったとしたら、駅員は何人ぐらいで足りるでしょうか」  と、私はきいた。水島駅長は即座に、 「いまの半分でやれますでしょう」  と答えた。    都会のなかのローカル線  旅行といえば、お金と、そして暇を必要とする。概してそうである。  遠くへ行きたい、ローカル線に乗ってみたい、しかし、先立つものがない、時間もない、時間に恵まれるときは連休とか盆暮の大混雑期で指定券が入手しにくい、しかも国鉄の運賃・料金の高くなったこと……。嘆きは堂々めぐりになる。  けれども、旅とは日常性からの脱却である、と考えれば救いの細道はある。旅に出かけるには、高価な指定券や航空券を購入し、旅行鞄《りよこうかばん》に装備一式を詰めこんで、という既成観念を捨てて、どこでもいい、とにかく家庭と職場間の単振動的日常性の線上から、ちょっとでもはずれてみれば、「旅」の真髄とも言うべき「異質」と触れ合うことはできる。  私は二七年間もおなじ会社に通い、その「単振動」をくりかえしてきたが、生来の旅行好きもあって、暇を見つけてはあちこちへと旅に出た。ただ、いまにして思えば不明を恥じるばかりだが、遠くへ行けば行くほど「旅」の味わいが深くなる、というような浅い価値観のなかにいた。  その私に、そうではないのだ、と教えてくれたのは鶴見線、とくに浅野—海芝浦間であった。  鶴見線に乗ったのは、ごく無粋な理由からで、つまり、国鉄の全線に乗ってみよう、と決心したために、乗らざるをえなくなったにすぎない。東京に育ち住んでいる人間にとって、都内や近在の国電区間は乗りたくないものである。だから、国鉄全線の九〇パーセント以上に乗り、いよいよ落穂拾いの段階に入ってから、ようやく足もとの鶴見線に乗ったのである。  乗ってみたら感動した。そして、遠くへ行きたいなどと浮わついていた自分を反省した。蒙《もう》を啓《ひら》かれた。  国鉄全線完乗記を書いたのが契機になって私は鉄道に関するもの書きになった。  もの書きは同じ内容のことを二度書いてはならない。これが仁義である。買ってみたら、以前読んだのと同じであった、というのでは腹が立つ。当然のことだ。  けれども、書くということは、自分の意見を世に広めたいとの志に支えられるという面を、ほんらい持っている。だから書く。しかしながら、活字の氾濫《はんらん》している今日においては、一回書いたぐらいでは読んでほしい人の何百分の一、いや何千何万分の一の人の眼にしか触れない。その点、講演とか政見演説の類は同じことを幾度もしゃべったり絶叫したりできるから羨《うらや》ましいが、文筆ではそれができにくい。  ここがもの書きの苦しいところで、私も悩んだが、これだけはぜひ多くの人に聞いてもらいたいということの三つに限っては、キャンペーンのつもりで何度でも書くことにした。  その三つとは、つぎのようなものである。  1、交通機関が便利になったからといって、点から点へと大急ぎの旅行をしてはならない。旅とは、古来、点ではなくて道程、つまり「線」であり、線にこそ旅のよさがあった。鈍行列車にでも乗って、ゆっくり道中を楽しもうではないか。  2、北海道へ行く人の大半が飛行機を利用するようになったが、はじめて北海道旅行にでかける場合は、せめて往路だけは汽車と連絡船を利用してほしい。そうでないと北海道がわかりにくい。  3、遠くへ行くばかりが旅ではない。首都圏の人は、ぜひ鶴見線に乗ることをおすすめする。  1は一般論、2、3は各論であり、さらに3は首都圏在住者を対象としているので、おなじレベルで並列するのはどうかと思うが、とにかく以上の三つについては、何回でも書くぞ、と心に決めた。  ところで、その反響であるが、いまのところ、おなじことを何度も書くとはけしからん、という抗議はない。そう思っている人はいるだろうが、形にはあらわれてこない。それから、残念ながら、あなたのものを読んで汽車と船で北海道へ行った、あるいは行くことにしたという人もいない。どうも張り合いがない。  ただ、鶴見線だけは手ごたえがあった。乗ったという人が二人、乗ろうと思うが三、四人、いずれも女性からの手紙を頂戴した。そのほか雑誌『暮しの手帖』の「私の読んだ本」欄に「ホームの真下に海が見えるという海芝浦の駅など、遠くに行けない私ですが、行ってみたい気がします」という四七歳の主婦の感想も載った。  私の本の読者は女性が少ないのだが、鶴見線に関しては、なぜか女性ばかりである。東京から片道三〇〇円ぐらいで行けると書いたからだろうか、それとも海が見えるからだろうか。 鈍行列車に乗って——    赤字線の乗りごこち 「日本一の赤字線美幸線に乗って秘境松山湿原へ行こう 美深町」  昭和五一年の六月、はじめて美幸《びこう》線に乗ったとき、美深《びふか》駅前には、こんな文字を大書した飾り塔が立っていた。  美幸線は、宗谷本線の美深からオホーツク海岸の北見枝幸《きたみえさし》までを結ぼうとするローカル線で、昭和三九年に仁宇布《にうぷ》までの二一・二キロが開通している。  松山湿原は、その仁宇布から七キロほど登ったところにあり、大小の池塘《ちとう》の周辺にはミズバショウ、エゾムラサキツツジなどの高層湿原植物が群生しているという。  営業成績の悪さを宣伝に利用する、という例はなかなか思い当たらない。美深町の長谷部秀見町長によれば、「悩み抜いたあげく、逆宣伝を思いついた」そうで、町の予算六〇万円を計上して「日本一」のポスターを配布した。  効果は顕著で、松山湿原を訪れる若者の姿が見られるようになり、美幸線の切符を求める手紙が駅や町役場に数多くくるようになった。私が乗ったときも、仁宇布の窓口で切符を買おうとすると、「一枚でいいの」とか「ハサミを入れるか」と訊《たず》ねられ、「日本一」の効験を実感したのであった。  美幸線は零細な盲腸線であるから、この程度のことでも経営数字に如実に現われた。昭和四九年度では収支係数三八五九、つまり一〇〇円の収入に対し三八五九円もの経費を要していたのが、五〇年度には依然として日本一ながら三二三三に下り、五一年度には二六〇八まで下って、めでたく最下位を脱出し、第四位となった。 「町民も自信を持ちましてね、美深も捨てたもんじゃない、と。美幸線が縁で沖縄や鳥取県から嫁さんも来たり、いいことずくめですわ」  と長谷部町長は語っている。  最下位を脱出したとはいっても、二六倍もの経費のかかる大赤字線であることに変りはないじゃないか、そんなに喜ぶな、と思う人がいたらそれは人生経験に乏しい人である。私など中学一年のとき、学校の成績がビリから二番目、しかも最下位の盟友の落第、という貴重な経験をもっているので、美深町長の気持はよくわかる。  ところが、美幸線の人気は「日本一の赤字線」によるのだから、収支係数が好転してトップの座を他に譲ってしまっては、有力なキャッチフレーズが使えなくなる。当時、 「美幸線四位に転落!」  というスポーツ紙のような表現が、事柄の倒錯を感じさせずに自然な語感で通用したのであった。  はたして、物好きな乗客は減りはじめ、五一年度には三四〇〇人であった観光旅客は、五二年度になると二三〇〇人に落ち込んだ。  はたせるかな国鉄の五二年度監査報告によると、収支係数ワースト10の順位は、  ㈰美幸線(北海道)    二八一七  ㈪深名線(北海道)    二六四九  ㈫漆生線(福岡県)    二五〇九  ㈬万字線(北海道)    二四二二  ㈭白糠線(北海道)    二三三一  ㈮室木線(福岡県)    二一五五  ㈯宮原線(大分・熊本県) 二〇一五  ㉀湧網線(北海道)    一七〇二  ㈷興浜北線(北海道)   一六九〇  ㉂胆振線(北海道)    一六六五  となり、再び美幸線が「首位」の座についた。  美幸線は短い線区であるから、損失金額は少ないが、収支係数に関する限り実力ナンバー1であることが立証されてしまったといえる。そして長谷部町長は言う。 「こんなことでガッカリしていたらしようがないのでがんばります。再び日本一になりましたが、この前のキャッチフレーズでは二番せんじ。なにかいいアイデアないですか」(東京新聞昭和五三年八月一日朝刊)  お役に立ちそうな名案は浮かばないけれど、こういう記事に接すると、二年前の六月に乗った美幸線の情景がくっきりと甦《よみがえ》ってくる。  美深発7時05分の下り一番列車。列車といってもディーゼルカー一両であるが、乗客は私一人であった。しかもその乗客は運転席の脇の鉄棒につかまって前方を眺めているから、外から眺めれば乗っているのは運転士と助士と車掌の三人だけで、乗客なしの回送車のように見えただろう。もっとも、沿線にはほとんど人家はなく、美深の平地を過ぎると、あとは原始林のなかをゆっくりと上って行くだけであった。  警笛を鳴らすこともなく、樹林の景観に格別の変化もない。二人の乗務員も一人の乗客も、ただ黙々、じっとして三〇分を過ごす。おもしろくもなく、つまらなくもなく、時が静止したかのような無の世界で、ただ逆光に透けて見える新緑のみ美しい区間であった。  それにしても、収支係数ワースト10の線名を眺めていると、あらためて魅力ある線区が揃っているのに驚いてしまう。  魅力、といっても私の勝手な好みの問題であるから一般に通用するとは思わないが、左に掲げる五つの黒字線(昭和五二年度)をもっとも魅力のない線区だと言えば、大方の人は同感されるにちがいない。  ㈰新幹線       収支係数 六〇  ㈪山手線(赤羽線を含む)     六二  ㈫高崎線            七七  ㈬総武本線           九三  ㈭根岸線            九八  魅力のない線区が黒字で、魅力のある線区は大赤字、どうも国鉄の赤字線について考えていると、「日本一の美幸線」ばかりでなく、話がいちいち逆さまになる。  しかし、人口が大都市圏に集中し過ぎているかぎり、乗りたくない線区が繁盛するのは当然のことであろう。  これに反して、魅力あるワースト10に共通している立地条件は、僻遠《へきえん》の過疎地帯または閉山あいつぐ炭鉱地帯にあること、有名観光地と縁がうすいこと、などである。  時刻表を開いて、これらの大赤字線を眺めると、いずれも運転本数がひじょうに少なく、一日三往復ないし六往復しか走っていない。一位から九位までは、特急・急行はもとより快速も運転されない鈍行だけの線区で、わずかに一〇位の胆振《いぶり》線に「いぶり」という急行が一本走っている。もっとも、胆振線が突然上位に食い込んできたのは、有珠《うす》山の爆発によって運休が続いたのと、線路に積もった火山灰を取り除く費用がかさんだためというから、五三年度はワースト10から姿を消し、代りに常連の添田線(福岡県)あたりが復活してくると思われる。  線路の保守には一定の経費がかかるのに、運転本数がこうも少なくては大赤字もやむをえないが、実際にこれらの線区に乗ってみると、通勤通学の定期客がほとんどで、とくに高校生の通学専用線のようなのが多い。したがって、朝の上り一本、夕方の下り二本、土曜のみ運転の午後一時ごろ発の下り一本だけは黒い学生服で埋まるが、それ以外はガラ空きとなる。大きな赤字を計上しながら廃線にされず、私のような鉄道好きの人間を楽しませてくれるローカル線が辛くも生きのびているのは、彼ら高校生のお蔭だということがよくわかる。  もっとも、一緒に乗り合わせると騒がしいことおびただしいし、坐れなかったりするから、時刻表を見て彼らの流れとは逆方向へ向かう列車に乗るようスケジュールをたてる必要がある。しかし、行き止まりの盲腸線の場合は、片道だけは付き合わざるをえない。  冬の深名《しんめい》線に乗ったのは、もう八年も前のことである。名寄《なよろ》発8時11分の朱鞠内《しゆまりない》行一番列車であった。7時59分に到着して通勤通学客を吐き出し、役目を終った一両のディーゼルカーのなかは閑散としていた。私のほかに三人ぐらい乗っていたような気がする。  深名線は、函館本線の深川を起点とし、石狩川の大きな支流である雨竜《うりゆう》川に沿って北上し、日本最大の人造湖朱鞠内湖の西岸北岸を迂回《うかい》して名寄に達する一二一・八キロの長い線区である。  五二年度の収支係数は二六四九、美幸線に次ぐワースト第二位となっている。係数は第二位だが、一二〇キロ余の長大線区であるから、赤字額は大きく、一日平均五二五万円もの損金を計上し、年間一九億円にも達している。  私は深名線には一度しか乗ったことがないけれど、二月という季節であったから、その雪の深さにはまったく驚いた。雪とはこんなにも積もるものかと思った。  なにしろ、日本海からの湿った冷風が天塩《てしお》山地にまともにぶつかり、どか雪を降らす豪雪地帯なのである。  名寄を8時11分に発車した一両のディーゼルカーは、すぐ右折して雪原のなかを西へ一直線に走り、まもなく天塩川の鉄橋を渡る。大きな氷片がかなりの速さで河面を流れ下ってゆく。  一〇分ほどで天塩弥生に着く。ここは名寄盆地の西端で、まだ雪は深くない。乗客はみんな降りてしまい、私ひとりになった。  ここからつぎの北母子里《きたもしり》までは一五・六キロという長い駅間距離で、天塩と石狩の分水嶺《ぶんすいれい》をこえる。時刻表を見ると、登る列車は二九分を要するのに降る方は二〇分となっているから相当な勾配《こうばい》である。  線路はたちまち山中に入り、ディーゼルカーはエンジンを震わせながらゆっくりと登りはじめる。自動車でいえばギアをセカンドに切り替えたような感じになる。重油の消費量も多いことだろう。  にわかに林相が立派になり、雪も深くなる。登るにつれて線路沿いの雪かさが窓の上までせり上ってくる。山ひだの谷を通過するときは外界が見えるが、あとは雪に遮られて見えないので運転席の脇へ行く。除雪車を走らせたのであろう、半円形の雪の掘割りがつづき、白い二条のレールが粉雪のなかにかすんでいる。除雪のための経費が深名線の赤字をさらに大きくしているにちがいない。ワイパーが降りかかる雪を間断なく根気よくフロントガラスの両隅へと払いのけている。  高い樹々の枝には、フットボール大の丸い籠状の鳥の巣がいくつもくっついていて、白い薬玉《くすだま》のように見える。  この区間は昭和一六年の開通で、極力トンネルを掘らずに敷設したためか、線路は等高線とともに右に左に曲折しているから、いったん窓外に消えた薬玉が、反対にカーブをきると再び視界に戻ってきたりする。  二〇分ほど忍耐強く登りつづけ、大量の重油を消費したディーゼルカーは、やや長いトンネルで分水嶺を抜ける。エンジンも唸《うな》るのをやめる。  積雪は一段と深くなった。何メートルぐらい積もっているのか知りたいが、除雪された雪は盛り上っているし、見当をつけようにも基準になるものがないからわからない。人家でもあればわかるのだが、まったくない。  ようやく北母子里に着く。駅舎の軒まで積もっている。こういう駅でも駅員がおり、ホームは除雪されているが、降りる客も乗る客もいない。身の丈ほどもある見事なつららが、軒先にずらりと並んでいる。一本ぶっかいて東京へ持って行ったら、みんなびっくりするだろうと思う。  ここからしばらくは朱鞠内湖の北岸に沿って走る。路盤が高くなっているので、雪が深いのに水面が見渡せる。この大きな人造湖は、島が一三もできたというほど複雑な地形につくられているので、湖岸線も入り組んでいる。水没によって立ち枯れた白樺《しらかば》たちが、たった一人の乗客を相手に乱舞している。  このあたりは白樺の多いところで、白樺という名の無人駅がある。白一色の冬ではせっかくの白樺ももうひとつ見映えがしないが、雪のない季節に来たら、湖はあるし、さぞ気持がよいだろう。  白樺のつぎが蕗《ふき》ノ台《だい》、これも無人駅である。ホームの雪は人一人が通れるだけ取り除かれ、自然の改札口のようになっている。ほかにもう一カ所、横穴状に雪を掘ったところがあり、動き出した車窓から覗《のぞ》くと、駅名標が見えた。  9時19分、朱鞠内に着く。深名線には全線を直通する列車はなく、深川へ抜けるにはここで乗り換えねばならない。  粉雪の降りつづくホームにおりて、乗ってきたディーゼルカーを、ねぎらうというのでもないが、なんとなくその顔を見たくて前部へ行ってみると、雪がこびりついてなかなか凄味《すごみ》のある形相になっている。全面的に白いのではなく、風向きのせいか右下の部分が斜めに白くなっている。隻眼のダヤン将軍が白い眼帯をかけたような迫力がある。  朱鞠内からは雨竜川に沿った狭い耕地を下ってゆくので人家が現われてくるが、積雪量は北母子里あたりより多いように思われた。日本海からの湿った空気を雪に変える天塩山地がぐっと近くなったためであろうか。二階屋の埋まりぐあいから見ると、三メートルは積っている。  一茶の「これがまあ つひの栖《すみか》か 雪五尺」の五尺を十尺に置きかえればぴったりするような豪雪のなかを三〇分ほど走ると政和《せいわ》という温泉があり、旅館が一軒だけある。さらに一〇分で雨煙別《うえんべつ》。いまは雪にけぶっているけれど、いい駅名である。もちろんアイヌ語の当て字で、ウェンペツは悪い川の意だというが、こういう見事な当て字を見ると感心させられる。私だったら迂遠別などとやりかねない。これも悪くはないが、いかにも詩情に乏しい。詩情がないから時刻表などを読み耽《ふけ》り、鄙《ひな》びた温泉場があっても素通りしてしまうのであろうか。11時37分、終点深川着。  昭和五二年度の収支係数ワースト10のうち、美幸線、深名線についで三位となった漆生《うるしお》線(福岡県)、四位の万字《まんじ》線(北海道)、六位の室木《むろき》線(福岡県)はいずれも炭鉱線で、ワースト10の常連である。五位の白糠《しらぬか》線(北海道)は昭和四七年の開通だが、沿線は超過疎地帯で、はじめから大赤字を出している。  かつての繁栄の跡を沿線各駅の荒れ果てた諸設備にのこす炭鉱線と、はじめから大赤字を承知で敷設した戦後派の美幸線や白糠線とでは趣きがいちじるしくちがう。おなじ赤字線でも世代の相違、生き方のちがいを感じさせるものがある。かりに万字線が一位になったとしても、「日本一の赤字線に乗ろう」などと宣伝する気にはならないだろう。  七位の宮原《みやのはる》線は久大本線の恵良《えら》(大分県)から分岐して肥後小国《おぐに》(熊本県)に至る二六・六キロの線であるが、宝泉寺までの七・三キロは昭和一二年の開通、肥後小国までは昭和二九年だから、ここでは戦前派と戦後派が同居している。  この線には昭和五〇年の四月に肥後小国から乗った。16時46分発が上りの最終で、乗客は一〇人くらいであった。  一般に、山中に分け入る盲腸線の場合は、川に沿って遡《さかのぼ》り、その途中で終点となるのが普通であるが、宮原線は二県にまたがるという珍しい線で、県境の分水嶺を越えている。だから終点から乗ったのに、はじめの三〇分は登り一方であった。とくに一つ目の北里から県境にある麻生釣《あそづる》までは勾配が急で、ディーゼルカーは火山性の荒蕪地《こうぶち》を時速二五キロぐらいの低速で登ってゆく。  時刻表によれば、七・七キロの駅間を登りが二一・二分、降りは一三分となっている。  例によって運転席の脇へ行ってみると、線路は直線がまったくないと言ってよいほど曲りくねっている。谷に添ってカーブするのではなく、峠道のようにジグザグにすることによって勾配を緩めているのである。太陽に向かって進むかと思うと、ゆっくりと一転して線路上の自分の影を踏みながら走ったりする。  狭軌の鉄道の速度は、軌道の規格や状態にもよるが、時速六〇キロないし一〇〇キロぐらいが適当なように私には思われる。それ以上になるとスリルを感じ、以下になるとまだるっこしくなる。三〇キロ以下ではイライラしてしまう。  それなのに、宮原線の運転士はハンドルを左手で軽く握ったままの姿勢で前方を見つめ、たまに右手で鼻の先を掻《か》く程度で、じいっと二〇分を過すのである。乗客もまた悠揚としており、もうちょっと速く走れぬものか、などとせかせかしているのは私だけらしい。こういう線にたまに乗るのは修養になる。  登りきったところが麻生釣で、ちょうど県境にある。無人駅で、あたりは木のない淋しい高原であった。人家はなく、駅を設置する必要はなさそうに見えた。おそらく車窓からは見えないところに小さな集落でもあるのだろうが、乗降客はなかったから、忍耐強く登ってきた運転士を一服させるための、峠の茶屋のような駅であった。大分県の側から登ってきても、七・五キロの駅間で二一分を要する勾配なのである。  気の短い人間にとっては修養の場ともなりかねないような、この急がず慌てぬ我慢強いところが宮原線の魅力であって、そんなことがなぜ魅力なのか、と言われればそれまでであるが、八位の湧網線(北海道)なら誰しも満足されるにちがいない。ただし冬が条件である。  季節を限ったのは、私は二月に二度乗っただけで他の季節を知らないからであって、旅行案内書によれば、六月から八月にかけては沿線はエゾキスゲなどの花ざかりとなり、九月中旬にはサンゴ草が色づいて能取《のとろ》湖の西岸は一面に真紅の絨毯《じゆうたん》を敷いたようになるという。  網走《あばしり》を発車したディーゼルカーは、刑務所の赤レンガの建物を右に見ながら石北本線と分れ、まもなく網走湖の北岸を走る。氷の上に坐ってワカサギの氷下漁をする人たちの姿が見られる。低い丘陵を越えると能取湖の南岸に出、西北岸まで線路は湖岸に沿って半周する。結氷した湖面に人跡はまったくなく、太古そのままの自然の景観となる。  二〇分ほど湖岸を走って能取湖と別れると、こんどはオホーツク海岸に出る。そのとたん、私はほんとうに息をのんだ。一面の流氷。線路は海蝕崖《かいしよくがい》の上に敷かれているので、遠くまで見渡せるが、押し寄せた氷塊はどこまでつづいているのか、雲烟《うんえん》の彼方《かなた》に及んで定かでない。荘厳ということばでしか表現しようのない大景観であった。  湧網線の車窓から流氷の眺められるのはここだけで、時間にして五分ぐらいである。流氷をもっと見たい人は、釧網《せんもう》本線の斜里—網走間や興浜北線に乗れば堪能できるだろうが、高い位置から見渡せるだけに、区間は短いながら湧網線の流氷は圧巻である。  流氷を避けて浜に引き上げられた漁船の集団が現われてくると、常呂《ところ》に着く。ここからサロマ湖東岸の栄浦まではバスで二〇分であるが、湧網線は南側を大きく迂回しているので、約一時間かかってサロマ湖の西岸に出るまでは平凡な車窓風景となる。湧網線の全区間に乗ってみようというのでなければ、常呂で下車し、バスで栄浦を往復してから網走に引き返すほうが、スケジュールとしては気がきいているかもしれない。  しかし、しばらく退屈してから突然眼をみはるのはよいもので、計呂地《けろち》を過ぎると待望のサロマ湖が現われる。琵琶湖《びわこ》、霞《かすみ》ヶ浦《うら》に次ぐ大湖が、白一色、無垢《むく》のまま結氷して広大な静寂をたたえているのが車窓から一望できるではないか。眼福である。  一般に大赤字線は観光客の乗らない線区が多いが、この湧網線は起点が網走であり、能取湖、サロマ湖、原生花園を有しているから、ひと工夫あれば収支係数の改善は可能ではなかろうか。もっとも、ありきたりの工夫などで汚されてはたまらない、とも思う。  私は時刻表と鉄道旅行が好きで、国鉄の全線に乗ってしまったりした人間だから、二四一線区のそれぞれに情を感じる。出来のわるい子ほど可愛いとも言うし、収支係数ワースト10などが新聞に発表されると、情が移ってしかたがない。世間の評判はまことに悪いが、どうせ国鉄の力ではどうにもならぬものと図太くかまえて生きていてほしいと思う。私も今年中には、もう一度、深名線、漆生線、湧網線、胆振線に乗りたいと思っている。  五三年一〇月二日のダイヤ改正による新時刻表によって「週末利用・北海道大赤字線めぐり」をつくってみたので、披露させていただく。 〈第1日〉札幌(前夜)22時15分発(急行・大雪9号)—網走7時52分着/8時25分発—湧網線—中湧別11時09分着/11時33分発—名寄14時50分着/15時35分発—美深16時06分着/16時10分発—美幸線—仁宇布16時40分着/16時46分発—美深17時12分着/17時39分発—名寄18時10分着(泊) 〈第2日〉名寄8時17分発—深名線(朱鞠内で乗り換え)—深川11時46分着/12時09分発(急行・宗谷)—倶知安15時42分着/15時46分発—胆振線—伊達紋別18時15分着/18時30分発(特急・北斗5号)—札幌着20時30分    汽車に乗るなら北海道  汽車に乗っていると、背筋がゾクゾクッとすることがある。  楽しさのあまりか、武者顫《ぶる》いか、うまく言えないが、わかる人にはわかるだろう。  たとえば小海線に乗ると、小淵沢《こぶちざわ》を発車してすぐ右にカーブし、高い築堤の上から直進する中央本線の線路を見下ろす地点がある。晴れていれば北アルプスの連峰がちらっと望まれる。こういう所を通ると、そのゾクゾクッが起こりやすい。  小海線のような景色のいい線ばかりではない。鶴見線でも起こることがある。海芝浦行の国電に乗ると、浅野で本線と分かれて運河に沿いはじめるが、ここでもそれがあった。  もとより、どの線に乗ればかならず起こるというものではない。時と場合による。旅の印象は、季節や天候によって左右される。乗りものが混雑しているか、旅館のサービスがよいか、によってもちがってくる。さらに、旅行者自身のそのときの気分、ご機嫌の良し悪しの影響も大きい。ふところ具合も無視できない。  だから、いつどこで、ゾクゾクッという絶頂感に陶酔できるかはわからない。山手線や新幹線に乗っても駄目なことはたしかだけれど、五能線ならかならず、というわけでもない。  私の知人に毎週何回も音楽会に通う人がいる。ナマ演奏でないと駄目なのだそうだ。それにしても、そんなに頻度が高くては何かと大変だろうし、退屈したり飽きたりするのではないか。思ったとおりのことを訊ねてみると、 「退屈することもあるし、途中で帰っちゃうときもあるけれど、たまアに背中がブルブルッとすることがあるんですよ。そのブルブルッが堪まらないものだから」  という答が返ってきて、大いに共感したことがある。 「生まれて、苦しんで、死ぬ。人生はただそれだけ」と、故正宗白鳥先生はあの苦虫を噛《か》みつぶしたような顔でおっしゃったけれど、雲間から陽光が漏れるような瞬間は、どの道にもあるのだろう。  もっとも、汽車のなかで背中がゾクゾクッとすると言うと、 「一種の性的エクスタシーですな」  と解釈をする人もいる。そして、 「どちらも乗りものですからね」  などと言う。  わかってないなあ、と思うが、相手のほうがわかっているのかもしれぬ。  性的エクスタシーでも何でもいいけれど、とにかく私は汽車に乗りにでかける。背筋ゾクゾクッだけが目的ではないが、それがあれば汽車旅はいっそう楽しく、生きている証《あか》しとなる。  それにしても、時とともにゾクゾクッがだんだん遠のいていくようだ。淋しいことである。それみろ、性的衰えだ、などと言わないでいただきたい。これは生理ではなくて物理や工学の問題なのだ。  新幹線が開通する以前は沼津を過ぎると、わずかながら旅情を感じることができた。ところが今や、博多まで行っても旅に出た気がしない。  新幹線で一本槍みたいに西へ突き進むからいけないので、ちょっと横道に入れば「旅情区間」はいろいろある。けれども、どの線区もそれなりに近代化され、ずいぶん辺鄙《へんぴ》な線にまで特急や急行が入るようになった。  東北や上信越にしても、以前は矢板、渋川、横川を過ぎれば旅情を催すことができたが、いまではだいぶ遠のいた。鈍行ででかけてみても、やたらにエル特急に抜かれるので、しっとりとしない。  しかし、旅情が遠のいたのは国鉄のせいだけではない。要するに、東京、大阪を中心にして放射状に日本が開けてしまったのだ。国鉄はそのあとを追っているにすぎない。もし国鉄に、私鉄の不動産部門のような開発力とビジョンと商魂と法的自由があったなら、今日のような赤字を招かずにすんだのではあるまいか、と言いたくもなることなのだが、とにかく開けた。  旅行者とは勝手なもので、藁葺《わらぶき》屋根がトタンに変わると、昔は田舎らしくてよかったのに、と嘆く。格子戸の並んでいた家並がアルミサッシになったと蔑《さげす》む。けれども藁で屋根を葺けば人手がかかる。格子戸の拭き掃除は手がかかるから、そんな家にはお嫁さんが来ない。私など流氷に閉ざされた港を見て喜ぶから、漁師にぶん殴られかねない。  もう十何年も前であるが、山の温泉場に泊まったことがあった。冷凍もののマグロの刺身などが夕食の膳に載っていた。もっとこの土地らしいものはないのか、と私は言った。すると番頭が部屋にやってきた。 「よくお客さまからそう仰言《おつしや》られるのですが人を使って山や川を漁《あさ》らにゃならんのです。宿料を三倍いただいても合いませんわ」  けれども旅は、異質なものに触れたい、変わったものを見たい食べたい、という願望によって支えられている。  私は汽車に乗るためだけが目的で旅行にでかけるような人間だから、理屈からすると「異質」や「地方性」に接する資格がない。なにしろ鉄道は統一国家の象徴で、線路の幅から何から統一されていて、要するに、地方と中央の差をなくして国全体を等質化するために敷設されたようなものだ。統一者を愛好しながら異質なものをも見たい食べたい、では虫がよすぎる。  虫がよすぎるけれど、汽車一辺倒とはいえ旅にはちがいないから、やはり異質なものに接したい。論理上は資格がないが接したい。  それに、例のゾクゾクッは汽車だけでは起こりにくい。車窓の眺めが媒介として必要なのだ。新線が開通してはじめて乗るときはゾクゾクッとすることが多いが、昭和五三年一〇月二日の武蔵野線延長のときはそうでなかった。車両が国電型だったからでもあるが、西船橋—新松戸間の開通ではゾクゾクッとしようがなかった。腰掛から伝わってくる鉄路の感触、都会での日常性を嘲笑《ちようしよう》するような窓外の眺め、この二つが必要なのだ。  その点、北海道は遠くて経済的にも時間的にも頻繁には行きにくいところだが、ゾクゾクッの発生率は断然高い。札幌周辺を除けば、どこだっていい。  内地で人気のある線区といえば、小海線あたりがすぐ挙げられるが、函館を発車して三〇分もしないうちに、小海線を凌駕《りようが》する景観が現われる。白樺に囲まれた大沼、小沼の高原と駒ヶ岳だ。北海道の入口ですでにそうなのだから、道東や道北へ行けばなおのことである。緯度が高いので、内地の「高山植物」が浜辺に咲いている。オホーツク海の流氷にいたってはゾクゾクッを通り越して厳粛な気持ちになる。  私は冬の北海道の、あの厳しい景観が好きだ。白一色の原野にポツンとしつらえられた仮乗降場、その上に立つ母子連れの姿、ディーゼルカーの前部にこびりついた雪、走る列車に吹き上げられて車窓に舞う粉雪、川面を流れる氷片。来てよかった、都会の人間はときどきこれに接しなければいけない、と思わせる眺めばかりである。  けれども、ひとつ惜しいことに、北海道の冬の日は短い。四時には日が暮れる。しかも運転本数が少ないからスケジュールが非常に制約される。  その反対に夏は思う存分に乗れる。道北や道東だと三時には空が白む。どの線区の始発列車でも明るくなってから発車する。鉄道旅行派にとって有難い季節である。原生花園の季節でもある。  冬もよし、夏もよしだが、今回は夏の北海道へでかけてみることにしよう。  昭和五二年度の『日本国有鉄道監査報告書』によれば、東京—札幌間の旅客のシェアは、飛行機が九三パーセント、鉄道はわずか七パーセントだという。  けれども、いきなり千歳空港に着いて高速道路でビルの立ち並ぶ札幌へ、というのでは北海道の第一印象が損われる。会社がひけると脱兎のごとく羽田に駆けつけ、札幌から夜行列車に乗り、翌朝眼がさめると道東、道北の原野や水辺を走っているというやり方も演出効果抜群で、私は何度かそれを楽しんだが、しかし、はじめて北海道へ行く人のやるべきことではない。  私は人から旅行のスケジュールについて相談を受けることがよくある。たいていは相手の希望に合わせて日程表をつくってさしあげるが、北海道ははじめて、という人に対しては、断固として青函連絡船での渡道をすすめる。帰りは飛行機でもよいが、往路は絶対に函館からでなければならぬ、序曲も聴かず第一幕も見ずに北海道というオペラがわかりますか、ぐらいに強く言う。相手は、たかが観光旅行の相談をしているだけなのに、なんで叱られるのか、といった顔をするが、これだけはどうしても譲れないのだ。  青函連絡船は北海道への旅の序曲である。三時間五〇分という所要時間も適度だ。  国鉄の連絡船の所要時間は、なかなか絶妙にできていて、四国への宇高連絡船の一時間も適度である。こう言っては四国の人に失礼かもしれないが、四国へ渡るのに二時間も三時間もかかっては長すぎる。宮島航路の一〇分も分相応だ。  ハッチに並ぶ船員たちに鄭重《ていちよう》に迎えられ、銅鑼《どら》が鳴って青森を出港する。左舷《さげん》に津軽半島のなだらかな海岸がつづき、まもなく右舷にマサカリ型の下北半島の刃の部分が接近してくる。こちらは険しい断崖である。甲板の望遠鏡で覗くと仏ヶ浦の白い岩々が見える。  左舷は津軽半島が尽きて海峡にさしかかっているが、右舷の下北半島はまだつづいている。左右を見くらべると、北海道南端のほうが本州北端より南にあることがわかる。  六月から七月上旬の梅雨の季節であれば、津軽海峡の空は、青森県側は曇、北海道側は晴のことが多い。このあたりがモンスーン地帯の北限で、北海道に梅雨はないのだ。  前方に黒々とした函館山が見えてくる。断崖に囲まれた島のように見えるが、北側は砂嘴《さし》で北海道とつながり、その上に函館の町が開けている。  連絡船は函館山の西側を回って入港態勢に入る。北向きの斜面には明治村で見るような西洋館や教会が点在している。内地では生活の糧が得られず、傷心と希望を交錯させながら蝦夷地《えぞち》へ渡った人びとは、どんな気持ちでこの函館山を眺めたのであろうか。  港には北洋漁業のさまざまな船が見られる。はるばる来たぜ函館へ、の思いもしてくる。飛行機でなく船で来てよかったと思う。  いずれ青函トンネルが開通すれば、この青函連絡船はなくなってしまうだろう。連絡船が最後の汽笛を鳴らして消え去るまえに、ぜひお乗りになるといい。私も何回かは乗りたいと思っている。  函館を発車すると、すぐポプラやサイロが現われ、いよいよ北海道だと嬉しくなる。まず第一回のゾクゾクッだ。もっとも、北海道をひと回りしての帰途に見ると、どうしてこんな所で感動したのかと呆《あき》れてしまうのだが。  列車はすぐ登りにかかり、まもなく左窓に小沼が見えてくる。静かな「高原の湖」だ。函館の郊外なのに志賀高原に来たようだ。函館の人がうらやましい。そして前方には駒ヶ岳。すらりと裳裾《もすそ》を引いた貴婦人のような火山である。  私は北海道の山では利尻富士と駒ヶ岳が好きだ。飛行機で往復する観光客のほとんどは渡島《おしま》半島を無視し、洞爺湖《とうやこ》あたりから札幌や千歳へ引返してしまう。だから駒ヶ岳は噴火湾の向こうに小さく見えるにすぎない。  しかし、函館本線は駒ヶ岳の山裾の草原を、右へ左へと迂回しながら噴火湾へと向かって下って行く。駒ヶ岳の山容は刻々に形を変えて飽かさない。  森から列車は噴火湾に沿って走る。左には牧場とサイロがつぎつぎに現われるが、右は淋しい海岸がつづく。オホーツク海岸のあの寂寞感《せきばくかん》には及ばないが、内地の海ではない。  噴火湾は名の通り、火山に囲まれた海である。左に黒煙を勢いよく上げる有珠山と白い蒸気を上げる昭和新山、その向こうに蝦夷富士の羊蹄《ようてい》山、右窓には駒ヶ岳が遠ざかっていく。この湾が「噴火湾」と呼ばれるのは、江戸末期に来航したイギリス船の船長が、湾を取り囲む火山を見て「ヴォルカノ・ベイ」と言ったのに由来するという。  八雲に停車する。八雲は明治のはじめに尾張藩主徳川慶勝《よしかつ》が拓《ひら》いた酪農の先進地で、地名は「八雲たつ出雲《いづも》八重垣つまごみに」に因《ちな》むという。  北海道は奥へ行くほど史跡に乏しくなるが、南部では「歴史」の香のただよう町が多い。こういう町を通り過ぎながら開拓時代に思いをはせることができるのも、鉄道と船とを乗り継いできたからではないか。  室蘭本線との分岐駅、長万部《おしやまんべ》に停車する。 「おしゃまんべ」はアイヌ語で「カレイのいる所」の意だという。それにしても、なんと北海道らしい駅名だろう。私は汽車に乗ってばかりいて、あまり町中を歩かないからだろうが、駅名標を見るのが好きでたまらない。とくに長万部とくると、ゾクゾクッとしてしまう。昭和三六年一〇月のダイヤ改正で北海道にも特急が走り始めたが、長万部には停車しなかった、私は驚きかつ慨嘆した。その後、特急の本数が増加するにつれ、停車する列車が多くなったが、五四年四月現在、まだ三往復が通過している。どうもおもしろくない。  札幌方面へ向かう主要列車の大半は長万部から室蘭本線経由となる。しかし私は、ニセコ、倶知安《くつちやん》、余市《よいち》、小樽《おたる》を通る函館本線のほうが好きだ。私がはじめて北海道を訪れたのは昭和一七年の夏であるが、当時の列車はほとんど函館本線を通っていた。私が乗った函館発午後1時20分(当時は24時間制ではなかった)の稚内《わつかない》行急行(普通急行には愛称名がなかった)もそうであった。私は和食堂車(当時は洋食、和食の区別があった)の窓から、エゾマツ、トドマツ、カラマツ、白樺の入り混じった原生林や羊蹄山を眺め、大いにゾクゾクッとした。  当時、北海道へ行くことは今日とは比較にならぬ大旅行で、中学四年生の身には贅沢《ぜいたく》きわまることであった。夏休みが終って、北海道へ行ったんだ、と言うと、級友たちの羨《うらや》ましく眩《まぶ》しそうな視線に囲まれたことを覚えている。  そういう思い出があるからだろうが、私はできるだけ長万部—札幌間は不便でも倶知安を通るようにしている。この区間は急勾配が多く、大観光地もないので幹線の地位を海岸経由の室蘭本線に奪われてしまったけれど、それだけに駅々には没落した旧家のような風情があって、たまらない。「くっちゃん」の駅名標はぐっとくるし、小樽の広いガランとしたホームに堂々と張り出した鉄骨の片持ち屋根には往時の栄光の残照がさしている。旧型車両をつらねた「客車列車」が多いのも嬉しい。長万部—倶知安—小樽間は、山陰本線とおなじく「偉大なるローカル線」だ。  かくして、きらびやかな札幌に着く。東京から札幌までの汽車旅行は飛行機より半日ないし一日は余計かかる。関西からなら完全に一日余計かかる。けれども一日という時間を超えた価値のあることは、おわかりいただけたと思う。  私は国鉄全線に乗ったことがあるので、「どの線がいちばんいいか」という質問をよく受ける。じつに答えにくい質問である。鉄道にかぎらず、こういう質問は相手を困らせる。半年ばかりまえ、日本中の温泉の「全泉入浴」を目指している美坂哲男さんとお話しする機会があった。人口が一億人以上の国となると変な人がいろいろいるものだが、この人も「どの温泉がいちばんいいか」と訊《たず》ねられると答えに窮する、と述懐していた。すでに一四五〇もの温泉に入った人だから、なおさらだろう。もっとも「混浴はどこがいいか」と質問されるのでやりきれない、と苦笑していたから鉄道のほうがまだましである。  とにかく、どの線がいちばんいいか、ときかれても、個人の印象の問題である。いちばん高い所を走るのは小海線、最西端の駅は平戸口、というのとちがって基準がない。国鉄全線に乗ったといっても一回しか乗ったことのない線も多い。冬か夏かでずいぶん印象がちがう。晴か雨かでもちがう。旅行者の気持ちの持ちようでも変わってくる。期待度が高ければ、いい線でもつまらなく感じる。うっかり「あの線がいい」などと推薦しては迷惑をかけかねない。  そういうわけで困るのであるが、どうしても、となれば、北海道から何本か選んで挙げる。これならまず怨まれずにすみそうだからである。  昭和五三年度の国鉄の『監査報告書』はまだ発表されないので、昭和五二年度のを見ると、収支係数のワースト10、つまり、大赤字線10傑のなかに北海道が七線区も入っている。一〇〇円の収入に対して経費二八一七円の美幸《びこう》線が第一位で、以下、二位の深名《しんめい》線、四位の万字《まんじ》線、五位の白糠《しらぬか》線、八位の湧網《ゆうもう》線、九位の興浜北《こうひんほく》線、一〇位の胆振《いぶり》線と並んでいる。  これを眺めて思うのは、国鉄には気の毒だが、魅力ある線区がずらりと並んでいることである。考えてみれば当然で、私たちが「景色がよい」とするのは人が住みにくく、人跡稀《ま》れで自然がそのまま残っているところだから、乗客の少ない線、つまり大赤字線が魅力ある線区となるわけだ。  北海道の国鉄線は三六線区あり、そのすべてが赤字線であるが、そのうちでは千歳線の収支係数がもっともよい。そのかわり千歳線はもっともつまらない線だ。だから大ざっぱな言い方をすれば、収支係数の悪い線ほど乗ってみて楽しい線となる。  特急や夜行列車の走るような幹線はワースト10には顔を出さないが、そのうちの一部の区間、たとえば根室本線の厚岸《あつけし》—根室間、宗谷本線の名寄—稚内間、石北本線の上川—北見間、函館本線の長万部—小樽間などの収支を抽出したとすれば相当な赤字区間となるだろう。  そういったことも勘案しながら、季節等々の条件を超えて、いつ乗っても素晴しいと思う線を大胆に挙げてみると、順不同で、  根室本線の厚岸—根室間  標津《しべつ》線の厚床《あつとこ》—別海《べつかい》間  湧網線の中湧別《なかゆうべつ》—計呂地《けろち》間と常呂《ところ》—網走間  天北《てんぽく》線の浜頓別—鬼志別《おにしべつ》間  宗谷本線の幌延《ほろのべ》—南稚内間  が一級品であろう。  いずれも広漠、荒涼とした荒蕪地、原野、湿原、湖沼地帯を走る線で、景色がいいと言うにしては焦点がなく、「超景色」なのだが、それがたまらない。北海道でなければ絶対にお眼にかかれない眺めである。とくに厚岸—根室間は海霧に包まれやすい地域なので、景観はいっそう厳しさを増し、夢幻の境をただようような気分にしてくれる。夏ならば、ここが一番だと私は思っている。  このほか根室本線の厚内《あつない》—白糠間も捨てがたい。特急の食堂車の窓から、日光の戦場ヶ原を凌《しの》ぐ景色を眺められるのも北海道ならではだ。  海岸に近い線ばかりを挙げたが、これはやむをえない。北海道の景観は、流氷を別格とすれば原野と森と湖によって代表されるけれど、山に入って森や湖を見るには鉄道はバスにかなわないからだ。  けれども、摩周湖や然別《しかりべつ》湖などの北海道らしい幽邃《ゆうすい》な湖は眺められないにしろ、森と若干の湖は汽車の窓からも眺められる。挙げてみると、これも順不同で、  釧網本線の緑—弟子屈《てしかが》間  士幌《しほろ》線の清水谷—糠平《ぬかびら》—十勝三股間  石北本線の上川—丸瀬布《まるせつぷ》間  深名線の朱鞠内《しゆまりない》—天塩弥生間  函館本線の長万部—余市間  といったところだろうか。このうち、士幌線の糠平—十勝三股間の一八・六キロはマイクロバス代行となってしまったが、線路とほぼ並行して走るので眺めはおなじである。  なお、別格として、  夕張線の紅葉《もみじ》山《やま》—夕張間(昭和五六年一〇月の改称により、石勝線の新夕張—夕張間)  をぜひ挙げておきたい。北海道へ来て炭鉱線を無視するのは、きつく言えば許せない気がするからである。陰気な谷に沿って登るディーゼルカーの窓から黒く煤《すす》けたトタン屋根の低い家並を見下ろすとき、石炭産業の現況に胸をつかれずにはいられない。  それからもう一つ、  美幸線  を加えることにしよう。とくに絶景を走るわけではないが、なにしろ日本一の赤字線である。ささやかながら収支改善に貢献できるし、たった一両のディーゼルカーがあなた一人だけを乗せてコトコト走る可能性も高い。その意味で魅力ある線区と言える。  さて、以上挙げた区間のすべてに乗るべく、五四年五月号の時刻表によってスケジュールをつくってみよう。 〈第1日〉上野(前夜)19時08分(急行・八甲田)または22時21分(寝台特急・はくつる)—6時17分または7時11分 青森 7時30分〜11時20分 函館 11時50分(急行・宗谷)—13時25分 長万部 14時27分(小樽経由)—19時46分 札幌(小憩)22時20分(寝台つき鈍行・からまつ・車中泊)— 〈第2日〉—5時30分 帯広 6時09分—8時27分 十勝三股 8時56分—11時02分 帯広 11時36分(急行・狩勝1号)—13時47分 釧路 14時45分—15時47分 厚岸(見物)17時08分—19時13分 根室(泊) 〈第3日〉根室 5時31分—6時30分 厚床 6時33分—7時40分 中標津 7時46分—9時05分 標茶 9時52分(急行・大雪6号)—12時02分 網走(小憩)14時25分—17時00分 中湧別 17時16分—17時43分 遠軽 18時25分(特急・オホーツク)—20時32分 旭川(泊) 〈第4日〉旭川 5時44分または6時25分(急行・礼文)—8時06分または7時36分 名寄 8時17分—9時25分 朱鞠内 9時31分—10時32分 名寄 10時35分—11時14分 美深 12時52分—13時22分 仁宇布 13時28分—13時54分 美深 13時59分—14時49分 音威子府 15時12分(急行・天北)または15時39分—17時48分または19時31分 稚内(泊) 〈第5日〉稚内 6時09分—7時38分 幌延 8時02分—11時50分 留萌(見物)13時45分—15時12分 深川 15時38分(急行・大雪4号)—16時33分 岩見沢 16時42分—17時29分 追分 17時32分—18時40分 夕張 18時47分—20時26分 苫小牧 20時58分(特急・おおぞら6号)— 〈第6日〉—0時20分 函館 0時40分〜4時30分 青森 4時53分(特急・はつかり2号)—13時43分 上野  留萌での「見物」などあまり出来映えはよくないが、北海道鉄道旅行を堪能されただろうか。これで堪能されないようだったら、鉄道病院へいらっしゃるか、それとも第5日の苫小牧から札幌へ戻って22時20分発の鈍行「からまつ」でもう一周なさるか。ワイド周遊券なら通用二十日間である。五日や六日で帰るのはもったいない。しかし私は帰ることにする。あまり贅沢が過ぎると不感症になる。内地ではどこへ行ってもゾクゾクッとしなくなっては困る。    流氷列車  日本の風景は四季折り折りの変化と風情に富んでいて、いつどこへ出かけても、それなりの味わいはある。  けれども、雄大な大自然の景観となると、地勢の規模が小さいから、とりたてて世界に誇示するものはない。対岸が見えぬほどの大河もなければ大峡谷、大瀑布《だいばくふ》もない。砂漠もなければ氷河もない。外人観光客が京都を見物して新幹線に乗って事足れりとするのもやむをえないだろう。  そのような日本にあって、例外と言ってよいのは冬のオホーツク海岸を埋める流氷の眺めであろう。そのスケールの大きい景観は、日本にいることを忘れさせるものがある。  流氷の時期は年によって異るが、だいたい一月中旬から三月下旬までで、最盛期は二月下旬と三月上旬である。風や海流によって北海道の東北岸に押し寄せた流氷群は、ひしめき合い、せめぎ合いながら氷柱となり、あるいは氷丘となって水平線まで埋めつくし、荘厳をきわめる。  はじめて流氷を見たのは、ちょうど一〇年前の昭和四五年二月二三日であった。  旅に出ると、案外に会社や家のことが気にかかるものである。幸か不幸か日本全国どこからでも即時通話だから、公衆電話のボックスを見かけると、ついダイヤルを回したくなる。だらしのない話だが、そうなる。  ところが、流氷にはそうした小市民的心情を圧殺する迫力がある。会社や家が念頭から消える。それどころか、煩悩の虜《とりこ》になり果てたわが身をあの純白の大氷原のなかに埋没させてしまいたい、という物騒な誘惑にさえ駆られる。  それいらい私は流氷の季節になると、じっとしていられなくなった。  流氷は北海道のオホーツク海沿岸ならばどこでも見られるが、氷の状態、交通の便などを勘案すると、網走、紋別あたりがよいと思う。一般に北海道、とくにオホーツク海岸まで行くとなると休暇をとらないと無理だと考える人が多いけれど、流氷だけを眺めるつもりならば東京から中二日あれば十分である。週休二日制の会社であれば休まずにすむ。  むしろ、せっかく北海道まで来たのだからと、ついでにあちこち回るよりも流氷一本にしぼったほうが感銘が強いかもしれない。東京から交通費だけで五万円はかかるから贅沢な旅行ではあるが、流氷にはそれだけの価値があると私は思う。  金曜日の羽田発18時ごろの飛行機で出発する。札幌で遅い夕食をすませてから、22時15分発の急行「大雪9号」網走行に乗る。この列車にはB寝台車が連結されている。  夜が明けると列車は結氷した網走湖の岸辺を走る。一夜にして東京とは別世界である。氷に穴をあけてワカサギを釣る人、氷片を切り出す人などが見え、7時52分、終着網走に着く。  駅前からタクシーで二〇分、能取《のとろ》岬《みさき》の灯台から流氷を眺めるのも一案だが、網走発8時25分の湧網線に乗ることにする。  国鉄には二四一もの線区があるが、「いちばん景色のよいローカル線」としてこの湧網線を推す人が多い。私も同感である。とくに冬がよい。  けれども、いつ廃線になるかわからない。なにしろ昭和五四年度の収支係数は一七一一、つまり一〇〇円の収入に対し支出は一七一一円という国鉄第七位の大赤字線なのである。  湧網線の「列車」はたった一両のディーゼルカーで、網走駅の片隅の0番線からわずかな客を乗せてひっそりと発車する。網走刑務所の敷地内を抜け、左窓に網走湖を見渡して走ると、こんどは右窓に白樺林を透して能取湖が現われてくる。列車は湖の南岸から北岸へと約一五分かかって半周しながら氷に被われた冬の能取湖を満喫させてくれる。うっすらと積った雪の上には、ときどき動物の足跡が見えるばかりで人跡はまったくない。  やがて一両のディーゼルカーは登り勾配《こうばい》にかかり、純白の能取湖が右後方に遠ざかると、突然海蝕崖《かいしよくがい》の上に出る。息をのむ。眼に入るのは流氷の大平原だけで、他には何もない。焦点も何もなく、ただ渺々《びようびよう》と広がるばかりである。これは景色と呼ぶにふさわしくない。しいて言えば「超景色」である。  網走から二時間、終着の中湧別に近づくとサロマ湖岸を走る。日本で三番目に大きい北辺の湖は、凍てついた白無垢《しろむく》の姿を広げるばかりで何もない。  中湧別で名寄本線に乗り換えると約四〇分で紋別に着く。港は流氷に閉ざされ、引き上げられた漁船の群れが、ひたすら四月の「海明け」を待っている。土地の人にとって流氷がどれほど迷惑な存在であるかを思い知らされる。けれども身勝手な旅行者はそれに感動する。幾度訪れても、来てよかったと思う。    雪のスイッチ・バック  一月一三日の日曜日、東京に雪が降った。  雪が降ると、もっと降れ、うんと積れと思う。雪遊びをしたい齢ではないが、いつもそうなのだ。  私は長靴をはいて家を出た。電車に乗って友人の家を訪ねた。一度訪ねねばならぬ用件があったからだが、とくに急ぐことではなかった。雪が降らなかったなら私は出かけなかっただろう。  ボタン雪が粉雪に変り、降り方が本格的になった。私ははしゃぎながら友人の家で少し酒をのんだ。  ところが、夜になると雪がやんだ。天気予報は、あすは晴れだと言った。私は欲求不満におちいった。雪国へ出かけずにはいられなくなった。  三日後、上野発7時00分の仙台行特急「ひばり1号」に乗った。乗車券は山形県の新庄まで買った。検札に来た車掌は、奥羽本線への客が「ひばり」に乗っているのを不審に思ったのであろう、「あれ? お客さん、これ仙台行ですよ」と言った。  宇都宮までは快晴で、関東平野の雪は消えていた。黒磯から郡山にかけては地表にうっすらと雪があったが、薄日がさしていた。けれども、左窓に連なる奥羽山脈は厚い雪雲に被われていて、典型的な冬型の気象になっていた。  福島で下車し、10時45分発の奥羽本線の鈍行列車に乗り換えた。  おなじ線路の上を走っても、特急と鈍行とではずいぶんと味わいがちがう。別の線区を走っているような気分になることさえある。とくに奥羽本線の福島—米沢間はその最たるものだろう。私が奥羽本線に直通する「つばさ」や「やまばと」に乗らず、仙台行に乗ったのは、この区間だけは鈍行でなければ気がすまないからであった。  福島—米沢間には七つの駅がある。そのうち福島、山形の県境にある赤岩、板谷、峠、大沢はスイッチ・バック駅である。線路の近代化によってスイッチ・バック駅は減少し、現在、全国に三〇カ所ほど残っているが、四駅も連続しているのはここだけである。  特急や急行はそのすべてを通過するから、福島—米沢間を約四〇分で走る。しかし鈍行は駅ごとに側線に入ったり出たりするから一時間半ほどかかる。  福島から二つ目の庭坂を過ぎると上り勾配になる。山肌を巻いて上って行く旧式の客車列車の窓から薄日のさす福島盆地を見下ろす。と、にわかに日がかげり雪が降ってくる。積雪もぐんぐん深くなる。  列車は側線に入っては停車し、バックして本線を横切ると雪に埋れた小駅に停まる。二、三人の客が下車し、二、三人が乗る。それをくりかえす。  峠駅では名物の力餅の売り子が二人もいた。しかし買う客はいなかった。  最後のスイッチ・バック駅の大沢では下り特急「つばさ1号」に追い抜かれるために一〇分停車した。通過列車は一段低い本線を直進するので姿は見えない。雪のために音も聞えない。  米沢から急行に乗り換え、新庄に近づくと猛吹雪になった。列車も遅れはじめた。さすがの私も、もうこのくらいで止《や》んでほしいと思った。  新庄から陸羽東線で小牛田《こごた》に抜けると、雪はなかった。  車窓からの雪見は終ったので、最終の上り特急「はつかり12号」で東京へ帰ろうかと考えていたが、仙台まで来ると松島湾の生ガキを食べたくなった。殻の厚い大ぶりなカキで、いまがシーズンである。その晩は仙台に泊った。    山陰ストリップ特急  時間と値段の関係について、私がつねづね不審に思っていることがひとつある。  それは、国鉄の運賃・料金と乗車時間との関係である。各駅停車の鈍行なら運賃(乗車券)だけ支払えば乗れるが、速い列車に乗ると別に料金(特急券・急行券など)を徴収される。これがどうも釈然としない。  長い時間乗っていられる列車のほうが値段が安くて、短い時間しか乗れない特急のほうが高いとは、おかしくはあるまいか。  私は汽車に乗るのが好きで、用もないのに乗りにでかけ、とうとう国鉄の全線に乗ってしまったような人間だから、言うことが少々おかしいのはやむをえないと思っている。しかし、用がないのに汽車に乗ってはならぬということはない。戦時中は「不急不用の旅行はやめましょう」のポスターが駅々に貼《は》られ、それを犯す者は非国民とされたが、いまは時代がちがう。乗りものに乗る楽しみを子どもや暴走族にばかり独占させておくのはもったいない。大人だって乗りものが好きなはずだ。  遊園地の豆汽車に乗って喜んでいるのは子どもばかりではないらしい。大人も楽しんでいるのだが、子どもとのつき合いという建前を崩すまいとするから、笑い顔が歪《ゆが》んで複雑な表情になる。  豆汽車などを引き合いに出すのはおかしいかもしれない。運転時間がひどく短いし、そもそも交通機関ではないから国鉄と同一に論じるべきではないとも思う。交通機関は目的地へ人や物を運ぶための手段である以上、手段に要する時間は短いほどよいにちがいない。短いほど価値が高いのなら、特急のほうが鈍行より値段が高いのは当然ではあろう。  しかし、やはりおかしいのである。  昭和三三年一一月、東海道本線に電車特急「こだま」が走り始めた。下りの「第1こだま」は東京発7時00分、大阪着13時50分、上りの「第2こだま」は大阪発16時00分、東京着22時50分で、東京—大阪間の日帰りが可能となり、「ビジネス特急」と宣伝された。二等車(現在のグリーン車)の片隅にはビジネス・デスクが設けられ、食堂車の代りに立食式のビュッフェ車が連結された。ビジネス特急だから立って食べろ、というのも変だが、とにかく東京—大阪間の日帰り特急の出現は日本鉄道史上劃期《かつき》的なことであった。  けれども、乗客にとってはそれほど劃期的でなかった。というのは、従来の客車列車、つまり電気機関車に牽引《けんいん》された「つばめ」や「はと」が七時間三〇分で走っていたのを四〇分短縮したに過ぎなかったからである。事実、「こだま」を利用して東京—大阪間を日帰りする人などほとんどなかった。ビジネス・デスクは専務車掌がたまに利用している程度であり、立食いビュッフェは不評判で、まもなく普通の食堂車が連結されるようになった。  この「こだま」の出現で「劃期的」だったのは車両運用の面であった。 東北本線白川—郡山間の旅客列車ダイヤ(昭和53年11月)  従来の「つばめ」や「はと」の車両は一日に東京—大阪間を片道しか走れなかったのに、「こだま」は往復する。車両運用の効率が二倍になったのである。「行って帰ってくる特急」だから「こだま」と名づけられたのであるが、それは乗客ではなく、車両のことなのであった。  鉄道の経費は、人件費、動力費、線路保守費など、いろいろな要素から成り立っているから、車両運用の効率が二倍になったからといって経費が半分になるわけではないにしても、国鉄は相当な利益を上げたはずである。  新幹線となると、一編成の車両が東京—大阪間を一日二往復もするようになり、「つばめ」「はと」時代の四倍の効率になったが、特急料金は逆に二倍にはね上った。  どうもおかしいのである。安くしろ、とは言わないまでも、すこし虫がよすぎるように私には思われる。  とにかく、スピード・アップによって乗っている時間が短くなればなるほど車両運用の効率はよくなるのに、料金のほうは高くなる。そのことについて乗客の側からほとんど苦情は出ないようである。  それほどに乗客は鉄道に乗るのがきらいなのであろうか。拘置所から出るために保釈金を積むように、車両から一刻も早く脱出したいと願っているのだろうか。  窓外を流れる四季おりおりの景観は大方のテレビ番組よりおもしろいし、高い特急料金を支払ってまで短縮すべき時間ではないと思うのだが。  昨昭和五三年の秋、東北本線の安積永盛《あさかながもり》(郡山《こおりやま》の隣駅)から白河まで鈍行の128列車に乗った。そのダイヤは図のようなもので、10時58分発、白河着12時07分、三三・六キロを一時間九分かかって走る。  その間に三本の特急に抜かれる。とくに泉崎《いずみざき》では二本まとめて抜かれるので、一四分も停車する。  この鈍行は古い型の客車を九両も連結していて、私が乗ったのは後尾から二両目であったからホームからはずれており、窓の両側はススキばかりであった。  高原の小駅で、列車が停まるといっさいの音が消え、しいーんとなる。この車両に乗っているのは私を含めて三人しかいなかった。  静かなので、時速一二〇キロで後方から接近してくる特急「あいづ」の地響きが、ずいぶん遠くから聞こえてくる。轟音《ごうおん》とともにわが鈍行の脇をかすめるまで三〇秒もかかったから、一キロも向うから聞こえてきた計算になる。  特急に吹かれたススキの穂が忙しく揺れ、それが鎮まって六分ほどすると、こんどは「ひばり10号」がおなじように快速で追い抜いてゆく。またススキの穂が揺れる。ようやく発車しかけると、右側の下り線路を「やまびこ3号」が通過する。風圧でこっちの車両がガクンと揺さぶられる。  速度が速いので、どのくらい乗客が乗っているのか見定めがたかったが、九〇パーセントぐらいと思われた。みんなそんなに忙しいのだろうか。  東北本線に限らず、幹線ではいまや特急ばかりが走っている。大都市近郊の通勤通学列車を除くと、特急四本に鈍行一本ぐらいの割合いになっている。国鉄では、乗客の特急希望が強いからダイヤ改正ごとに特急を増発するのだと言っている。  じっさい、長距離列車はほとんど特急化してしまい、普通急行すら減って、鈍行にいたっては、寥々《りようりよう》たることになっている。上野から仙台へ鈍行で行こうとしても、直通は常磐線経由に二本あるだけで、東北本線には一本もない。これでは鈍行に乗りたいと思っても、時刻表に強くないと乗るわけにはいかない。  乗客が特急に乗りたがっているのをいいことに、国鉄がそれに便乗して、いつのまにか特急にしか乗れないようにしてしまった、と見える。  私だって特急に乗らないわけではない。急がねばならない時もあるし、速いということは、それなりに気持のよいものではある。けれども、時間に余裕のあるときは、あれほどつっ走って一目散に目的地に着きたいとは思わない。  もしかすると、特急に乗っている人は自分の意志で急いでいるのではなく、急がされているのではないか、とも思う。 「特急券一九〇〇円を節約するために、今回の仙台出張は鈍行で参ります」  と申告しても、上司は承知しないだろう。特急なら上野—仙台間四時間一五分だが、鈍行だと九時間ぐらいかかる。その差だけ働かせたほうがよいにきまっている。鈍行で行きたい、などと言えば、 「贅沢《ぜいたく》言うな」  と叱られるかもしれない。  鈍行旅行、これこそ現代の贅沢なのだ。  ところで、目的地へ向かって特急で一目散に突っ走った人たちが、やっと着いたとばかり生き生きとして駅に降り立つのにひきかえ、汽車に乗るのが目的の私は日暮れの駅の改札口をしょんぼり通る。  よく旅行をするので、「いろいろおもしろいことがあるでしょう」と旅先きの夜について訊《たず》ねられる。ない、といったらうそになるし、旅館でひとり膝《ひざ》をかかえて女中が蒲団を敷きにくるのを待っているよりは、見知らぬ町の夜を探るほうがおもしろいから、多少はある。  私は、早く朝がきて汽車に乗りたいと思っているから、夜の時間は短いほどありがたい。のむほどに楽しくなり、夜よ止まれと言いたくなるときもないではないが、概してそうだ。  ところが、ぐあいのわるいことに、私は夜の長い冬の旅が好きなのである。旅情ということになると、なんといっても冬の北海道や日本海側が群を抜いており、しかもうまい海産物は冬のほうが多い。夜が長くて時間をもてあますことを知りながら、冬になると一段と張り切ってでかけてしまう。  いままでのところでは、冬の鳥取で泊ることが多かった。城崎《きのさき》から浜坂へかけての車窓風景がいいことと、鳥取で泊ると妙に時刻表との折り合いがうまくゆくのが原因であるけれど、生の松葉ガニが食べられるのと温泉のあるのも嬉しい。県庁所在地で、本物の温泉があるのは鳥取と甲府と山口だけであろうが、鳥取のは駅前に湧《わ》いている。温泉大浴場のあるビジネスホテルなど他にはないだろう。  それにしても、夕方の五時には暗くなり朝は六時半まで夜が明けないとなると、時間をもてあます。温泉につかってから街へ出て、カニを食べても七時過ぎには一段落してしまう。宿に帰って寝る気になれる時刻ではない。  早くあしたの朝になってくれればよいと思う。  鉄道に乗ることを手段と見なす人たちにとっては、これからが目的の時間帯であろうけれど、私にとっては鳥取の夜をどうつぶすか、その手段を探さねばならぬ時間となる。特急旅行者に白い眼を向けていた昼間の報《むく》い、因果応報である。  冬の山陰であるから天候はよくない。たいていはみぞれまじりの氷雨が降ったりやんだりで、道路はじめじめしている。温泉街やそれに接した飲み屋通りを歩いてみるが、そういう天候だからながくも歩いていられない。冬なので観光客の姿はほとんどなく、通りは閑散としているが、看板の明りはどの店も灯っている。  一軒ぐらいはバアに入ってみる。  地方の町に泊って、見ず知らずのバアなどに入ると、まず五軒に四軒は失望ないし後悔という結果になる。こういうことに才能のある人がいて、なかなかの好打率を示すらしいが、私にはそんな才能はない。  しかし、私といえども苦い経験を積んできただけあって、多少の技術は身につけた。扉をあけてみて、客がおらずに女性が何人も待機していたら、 「あ、ちがった」  と店をまちがえたような顔をして退散するのである。  客の混んでいる店なら安心だが、地方都市では地域社会の規模が小さいから、カウンターのなかのバーテンと止まり木に坐っている客が高校時代の同級生であったりする。公私の境がはっきりせず、よそ者にとって居心地はよくないが、端のほうでぽつねんと彼らのやりとりを聞いているのもわるくはない。それにしてもながくはいられない。  いろいろ勘案して、いちばんいいと私が思うのは、カウンターのなかに女性がひとり、それもあまり美人でないのがひとりだけいて、せっせとグラスなど拭いており、客がいない店である。こういう店でぽつりぽつりと土地の話など聞きながらのむのはいい。私は人見知りが強いので話ははずまないが、さいわい旅先きの駅名や地名はふつうの旅行者よりは知っているので、そんなことをきっかけにして、多少は話がつながる。話がなくなれば黙っていればよいし、まちがっても「空いているね」などと言ってはいけない。急に彼女の表情が険しくなり、 「いまお客さんが帰ったばかりなのよ」  と言われて、白けてしまう。  四年ほどまえの二月、やはり鳥取で一軒のバアに入った。客は一組の男女だけであった。女は彫りの深い顔立ちで鼻も高く、なかなかの美人であったが、顔も体格も大きい。気になるので、ときどき眼をやっていたが、そのうち席をこっちへ移してきた。声を聞いたとたん、男であることがわかった。向う側の客との商談が不成立だったので相手を変えたのであろう。さいわい事なきをえたが、一般にこの種の人たちはなぜか腕力が人一倍強いようで、腕をふりほどくのに苦労した。  バアなどに入っても、よそ者の私はながくはいられない。三〇分もたてば外に出てしまうが、まだ寝るには時間がありすぎる。鳥取の温泉街にはヌードの看板がいくつも出ている。何年かまえの冬、その一軒に入ってみた。  木の狭い階段を上ると、切符売場のようなものがあり、十畳くらいのスペースの三分の一が舞台で、土間には三、四人掛けの椅子が七、八脚並んでいるが、人影はなく、電灯も暗い。あまりにひっそりしているので、休みなのかと帰りかけたが、念のため「ごめんください」と声をかけた。  すると、四〇歳ぐらいのおばさんが舞台から現われ、近眼なのか眉をしかめるようにして私を見つめてから、 「なにかご用?」  と言った。  商売の看板を出しておいて、入ってきた客に、なにかご用、と言うのも変だが、みぞれそぼ降る冬の夜、寒さにひきつった顔の男がたった一人でやってきて、ごめんください、とていねいな言葉遣いで声をかけたので勘ちがいしたのであろう。 「きょうは休みなの?」  と私が言うと、おばさんはようやく客だとわかったらしく、 「ごめんなさい、やってますよ」  と、はなやいで答え、私から五〇〇円を徴収し、ちょっと待っててね、と言って舞台の袖に姿を消した。  最前列ではあまりあけすけなので、二列目に坐り、体を動かすたびに四本脚のどれか一本が宙に浮く長椅子で、どんな踊り子が現れるかと待っていると、まもなく件《くだん》のおばさんが今度はガウンのようなものをまとって現われ、ライトのコンセントをさしこんだりしてから、私に最前列に坐るよう命令し、舞台の片隅に置いてあった小型の卓上プレーヤーで「セレソ・ローサ」だったような気がするマンボをかけるや、ぱっと脱いで私の眼前に立ちはだかった。  かつてのストリップというものは、この段階に達するまでに、ずいぶんと時間をかけたものであった。三曲も四曲もかかった。旅にたとえれば「道行」があり、そこがよかった。しかるにいまや、かかることになっている。これも客が特急を望むからだろうか。それとも効率をよくして客の回転を早めようというのであろうか。  おばさんのすする鼻水の音を頭上に聞きながら、閉じこめられたような拷問に近い時間をすごした。あの種の曲はせいぜい二、三分であろうが、長い長い時間であった。彼女の古びた山陰本線を眺めながら私は、はやくあしたの朝になればいいなと思った。あすは因美《いんび》線に乗る予定であった。  因美線は鳥取—東津山間七〇・八キロ、あまり話題にのぼらない線であるが、民家の形がおもしろく、とくに美作《みまさか》との国境に近い智頭《ちず》、土師《はじ》あたりの山間の景観がよかった。あしたは二度目の因美線であるが、雪の国境はさぞよかろう、と夢想した。  ようやく曲が終って、私は解放され、「どうもどうも」と言って席を立ちかけると、彼女は、 「お客さん! もう一曲あるんね」  と言った。  もういい、とも言えずに坐りなおし、別の曲でおなじものを見ながら、また長い時をすごした。  ふたたび、星のまったくないまっ黒な空からみぞれの降る鳥取の湿った裏道に出ると、のみたりない気がしたので一軒の店に入った。そこでしばらくぼんやりしているうちに、適当に夜が更けた。 歴史を旅する——    幌内鉄道紀行  幌内《ほろない》鉄道の面影をしのぶべく、昨昭和五五年の夏、北海道へ行った。ちょうど手宮《てみや》—札幌間に鉄道が開業してから一〇〇年にあたっていて、駅々には「祝・北海道鉄道一〇〇年」の垂れ幕が下がり、ポスターが貼られていた。  新橋—横浜間の開業が明治五年(一八七二)であるから、北海道最初の鉄道は、それより遅れることわずか八年にすぎない。  手宮—札幌間が開業した明治一三年(一八八〇)現在の日本の鉄道は、新橋—横浜間、大津—神戸間、それと、釜石《かまいし》製鉄所の軽便鉄道のみであったことを思うと、北辺の僻地《へきち》北海道における鉄道敷設の異常な早さに、あらためておどろかされる。  これほど早い時期に北海道に鉄道が敷かれたのは、この鉄道が当初から「幌内鉄道」とよばれたことからもわかるように、幌内炭鉱の石炭を小樽の手宮埠頭《ふとう》へはこぶためであった。手宮—札幌間開業の二年後、明治一五年には札幌—幌内間が開業し、幌内鉄道が全通している。あらためて明治政府の「石炭と鉄」に対する熱意を知ると同時に、世界史上でも異例とされる日本の急速な近代化を、この幌内鉄道が象徴しているようにも思われてくる。  だから、往時をしのんで幌内から手宮まで乗ってみたいのだが、残念ながら、すでに旅客列車は幌内にも手宮にも入っていない。貨物列車だけである。  幌内鉄道のルートを現在の国鉄の線名でたどると、つぎのようになる。  幌内—三笠     二・七キロ 幌内線の枝線  三笠—岩見沢     一〇・九キロ 幌内線  岩見沢—札幌—南小樽 七二・八キロ 函館本線  南小樽—手宮      二・八キロ 手宮線  このうち、幌内—三笠間は昭和四七年に、南小樽—手宮間は三七年に、それぞれ旅客営業は廃止され、貨物専用になった。しかし、閉山があいついだ石狩炭田の諸炭鉱のなかにあって、幌内炭鉱は依然として掘りつづけられ、幌内、手宮の名が線名として残り、そこに石炭列車が走っていることは、せめてもの慰めではある。  まず幌内を訪れることにした。札幌から岩見沢にかけては石狩川流域の穀倉地帯で、広区劃の田畑がひろがり、ときに牧場がある。ポプラの並木がつらなり、サイロが点在する。北海道ならではの景観である。  しかし、幌内鉄道が敷設された当時は原生林と湿地帯で、交通機関は丸木舟しかなかった。したがって、測量隊は羆《ひぐま》に出遭いながら原生林を伐採し、入り組んだ沼に丸木舟を迷いこませながら進んだという。  このあたりの事情は、秋永芳郎氏の小説『開拓列車』(昭和四三年、東都書房刊)にくわしくえがかれている。  右から室蘭本線が合流し、岩見沢に着く。岩見沢は私の好きな駅である。いかにも汽車の駅らしい貫禄がある。一ノ関、新庄《しんじよう》、平《たいら》、新津、石打、直江津、塩尻、国府津《こうづ》、米原、鳥栖《とす》など、背後の町は小さいが鉄道の要衝として活躍した駅には、得も言われぬ風格がある。  とくに石狩炭田をもつ岩見沢には蒸気機関車がひしめき、北海道開拓の文字どおり牽引車となっていた。もう蒸機の姿はどこにもないが、煤煙《ばいえん》の跡をのこす跨線橋《こせんきよう》や、すすけたホームの屋根をながめていると、いまにも蒸機が現われそうで、これこそ汽車の駅なのだ、との思いがする。それは、没落した旧家をながめて感慨にふけるようなものではあろうが、とにかく好きな駅である。札幌から釧路行や稚内行の夜行列車に乗ったときなど、岩見沢駅を見とどけるまでは眠る気になれない。  さて、その岩見沢からタクシーで幌内に向う。夕張山地が前方にせまり、道路は幾春別《いくしゆんべつ》川の谷に入って行く。谷といっても流れにそって耕地がひろがり、このあたりは岩見沢や札幌への通勤圏内にあるので、青い金属屋根をのせた新しい住宅も多く、雰囲気は明るい。もっとも、いまは夏で、しかも晴れている。冬になれば様相は一変するだろう。岩見沢付近はシベリアからの西風をまともに受けるので、雪のふかいところである。  この谷底平野の中心地三笠で右折すると、右から幌内への貨物専用線が寄り添う。道床が黒い。線路にそう細い流れも炭塵《たんじん》で黒く濁っている。線路際の樹々の根元が釣針を山肌に引っかけたようにまがっている。ずり落ちてくる雪の圧力のためだ。  谷がせばまり、道路も線路も上り勾配《こうばい》になると、わずかな集落が現われ、幌内駅があった。プレハブの新しい建物である。鉄道雑誌の写真で見たときは古い木造であったから、最近改築されたのであろう。  車をとめて構内に入ってみると、新しい駅舎は表側の一部のみで、あとは古い建物のままであった。ホームの柱には「ほろない」の文字を白抜きで焼きこんだ琺瑯《ほうろう》びきの駅名標が打ちつけてある。旅客列車は来なくなったが、取り外してもしようがないので、そのままにしてあるのだろう。こういう無駄と放置は、なぜか心が温まる。  構内に石炭列車の姿はなく、若い駅員が二人、ホームのベンチで日向《ひなた》ボッコをしていた。  幌内は終着駅であるが、単線の線路がさらに先きへのびて、一〇〇〇分の二五の急勾配で山鼻をまがり、消えている。駅員にたずねてみると、約五〇〇メートル先きに鉱業所の炭積み装置があり、ディーゼル機関車がそこまで後押しして登って行くのだそうである。  線路にそって進むと、はたして前方に一段高く巨大な炭積み装置が現われ、線路は三本に分かれながらその下にもぐりこんでいる。行く先きに山が立ちはだかっているので、トンネルに入って行くかに見えるが、行き止まりである。  二本の線路には石炭をつんだ貨車がつらなっていた。私は朝寝坊をして来たので、すでに一一時三〇分である。この時刻に幌内に駐留する石炭列車はなく、つぎに上ってくるのは12時06分着の五六八七列車だと思っていた私は意外だった。  国鉄本社の貨物局が発行した「貨物時刻表」というものがあり、非売品であるが、これの幌内線の欄には一日七往復の列車がかかげられている。そのうち六往復は岩見沢—幌内間で、あとの一往復は下りが手宮始発、上りは江別《えべつ》行となっている。江別は岩見沢と札幌の間ではいちばん大きな町で、火力発電所や製紙工場がある。そこへ幌内炭を直送するのであろう。  手宮始発と江別行が一本ずつ運転されているとは、歴史を感じさせずにはおかない。幌内炭の搬出は、当初、アメリカ人の地質学者ライマン(B. S. Lyman)の提案により、幌内から江別までを鉄道、江別からは石狩川の水運によると決定したが、あとから来日した同じくアメリカ人の鉄道建設技師クロフォード(J. U. Crawford)の意見により、手宮埠頭まで鉄道一本ではこぶ計画に変更されたという経緯がある。  それはさておき、幌内に登ってくる石炭列車はつぎのようなダイヤになっている。  まず下りの一番列車は岩見沢を4時05分に発車して幌内には4時34分に着く。貨物時刻表の「編成内容」欄には「石炭(空)」となっている。カラの石炭車の意である。これに対し、幌内からの上り始発は6時49分で、「石炭」とのみあって、(空)の記号はない。  つぎの下り二番列車の幌内着は7時17分、上りは8時51分発で、これが江別まで行く。  三番列車は10時00分に着き、上りは11時02分発、以下、12時06分着、12時50分発、13時17分着、14時24分発、14時49分着、16時27分発とつづき、最終列車は手宮始発のが17時50分に着いて、上りの18時57分発で幌内枝線の一日が終る。  私は鉄道の時刻表の愛読者であるけれど、それは市販の旅客用時刻表についてである。また、それが昂《こう》じて国鉄の全線に乗ったが、全線といっても貨物専用線にはほとんど乗ったことがない。そうした経験の範囲で、この幌内枝線のダイヤを見ると、つい、 「着いた列車がすぐ折り返す、その単純な繰り返しだな」  と考えてしまう。そして、盲腸線のディーゼルカーとちがって、着いてから発車するまでに長い間合いがあるのは、石炭の積み込みや機関車のつけ替えに時間を要するからだろうと推察する。  したがって、11時02分の上り三番列車が発車してから、12時06分着の下り四番列車が到着するまでの間は幌内には列車はないものと思っていた。私は、12時06分着の列車に石炭がつまれ、12時50分に発車して行くのを見るつもりであった。  ところが、一一時三〇分現在、機関車は見えないが、石炭をつんだ貨車の列が二本も並んでいるではないか。  鉱業所の守衛さんに挨拶して構内に入れてもらい、貨車の列に近づいてみる。二本とも八両編成で、すでに石炭がつまれ、洗炭の余滴がポトリポトリと落ちている。さしこまれた送票も新しく、日付も今日で、機関車が迎えにくるのを今やおそしと待っているかに見える。いったいこれは何時発の列車なのだろう。11時02分発がおくれているのか、12時50分発なのか、それとも14時24分発なのだろうか。二編成あるのも謎《なぞ》である。  積み込み作業が一段落したからであろう、炭積み装置のベルトコンベアは停止したままで、あたりは静かである。ここが北海道最古の炭鉱なのかと思う。  山肌にそって折り重なるように炭積みや洗炭の建物がそびえている。足もとの溝を黒い水が流れて行く。その一隅に鉱業所の詰所があり、中年の所員が一人、台帳を繰りながらお茶を飲んでいた。 「ここに並んでいる列車は12時50分発ですか」と私はたずねた。 「いや、これは13時25分発ですよ」  貨物時刻表には13時25分発という列車はない。幌内発12時50分のつぎは14時24分発である。国鉄貨物局発行の「貨物時刻表」は国鉄駅に関する時刻表であって、鉱業所内の発着時刻は掲載不要ということなのであろうか。 「この貨車が幌内発14時24分の列車になるのですか」 「さあ、どうなんですかなあ」  鉱業所とは直接関係のないことらしい。 「迎えの機関車は、いつ来るのですか」 「13時20分ごろです。カラの貨車を押して登ってきますよ」 「この二本の貨車のうち、どっちが13時25分発ですか」 「両方ともです」 「へ?」 「一本ずつ国鉄の駅まで持って行って、あそこで一本の列車に仕立てるのです」 「ここで一本にはできないのですか」 「勾配がきついので、石炭をつんだ重い貨車を一六両もつないで下るわけにはいかんのです」と中年の所員はいった。  いろいろ腑《ふ》に落ちないこともあるが、すこしはわかってきた。とにかく、扱いに手間と時間のかかる貨物列車の車両運用は、旅客列車にくらべて複雑なのだ。旅客の場合は、酔っぱらったり嘔吐《おうと》したり弁当ガラを残したりする難点はあっても、駅に着けば自分で降りて行くし、地下道や跨線橋を通って乗り換えてくれる。  炭積み装置の下に敷かれた三本の線路が一本になる地点にポイントがあり、踏切りがある。その傍らにわずかな空地とバス停の標識があって、「幌内中央」とある。中央にしては何もないところだが、雑貨店が一軒あるから、このあたりでは「繁華街」なのであろう。私はパンとミルクで腹ごしらえをし、線路際で待機した。  夏の北海道はさわやかである。あたりは静かで、急ぐ用は何もないし、ぼんやりしていると、一時間ぐらいはすぐにたってしまう。  一時をすぎると、線路の上を二人の国鉄職員が登ってきて、ポイントを切り換えた。幌内駅で日向ボッコをしていた若い駅員たちである。貨物時刻表によれば、幌内着13時17分の五六八九列車があるから、その数分後にはカラの貨車を押して登って来、石炭をつんで待っている貨車をひいて下って行くのであろう。鉱業所の所員の話では13時25分発とのことであったから、わずか八分の余裕しかなく、いそがしそうだが、たぶんそうであろう。  一三時二〇分になったが、列車はやってこない。しかし、若い二人の駅員はのんきに雑談をかわしていて屈託がない。まだ来ないのか、と私はたずねた。「いま来ます」との返事である。  そのとおりに、すぐ列車がやってきた。一六両のカラのホッパ車が、カーブの向うから、ゆっくりと、そしてつぎつぎに現われてきた。動力のない貨車が勾配を上ってくるのは、超能力によって動いているようであったが、もとより後尾には機関車がついている。ベンガラ色に塗られた、ナッパ服の職工を思わせるようなDE10形のディーゼル機関車であった。  一六両編成のカラの貨車を炭積み装置の奥深く押しこんだDE10形は、私の眼の前まで引き返し、こんどは二番線に待機していた石炭列車にとりついて、下って行った。そして一〇分ほどすると、カーブの向うから姿を現わし、残った一本をひいて行った。DE10形にひかれた二本目の列車が遠ざかると、ベルトコンベアが動きはじめたのであろうか、石炭の落下する音がひびいてきた。  幌内駅に引き返すと、DE10形は行ったり来たりしながら、二本の八両編成を一六両一本に組成していた。  貨車は大小があり、積載量は一七トンから三六トンまで、さまざまであった。積み上げられた石炭もいろいろで、ひとかかえもあるような大きな固まりばかりをつんだ貨車には、行先標に「特塊」と大きく墨書され、粉炭のように粒のこまかいものには何も書かれていなかった。 「この列車が14時24分発ですか」と私は駅員にたずねた。 「そうです」  そうです、との答えが返ってきたのは、これがはじめてであった。旅客列車の時刻表になじんできた私にとって、貨物列車の運用ぶりを理解するには、幌内枝線のように、おそらく、もっとも単純な運用と思われる線区においても、かように時間を要するのである。  けれども、まだ理解に達したわけではない。ここまでの稿を、丹念に読んでくださった読者は、幌内着12時06分の下り列車と、12時50分発の上り列車は、いったいどうなったのかとの疑問をいだかれるであろう。もちろん私もそうである。  午前一一時三〇分から午後二時にかけて、私は沿線に滞在していたのだから、この二本の列車を見かけなかったのは、おかしい。貨物時刻表がまちがっているのか、今日は運休したのか。 「12時50分発の上りは、どうしましたか」と私は幌内の駅員にたずねた。駅員は怪訝《けげん》な顔をし、それから、 「定時に出て行きましたよ」  といった。コナン・ドイルの鉄道推理小説に「消えた臨時列車」というのがあったことを私は思い出した。列車を炭鉱線に引きこんで奈落《ならく》に落としてしまうのである。  貨物列車の時刻表や列車運用は、旅客列車より複雑で奥が深いかに見え、おもしろそうだ。しかし、これ以上、深追いしないことにする。貨物列車なんぞに乗りたくなったら大変である。  その晩は小樽に泊り、翌朝、手宮へ行った。手宮は北海道鉄道一〇〇年記念行事のメイン・イベントともいうべき「義経号と静号のご対面」の舞台であり、飾りつけや土産物店などもあって華やいでいた。  たしかに、手宮には現存する最古の美しい機関庫があり、そのなかには静号、大勝号、い一号客車などがいる。幌内鉄道建設の功労者であるクロフォードの像が立ち、資料館もある。そして神戸の鷹取工場から送られてきた義経号もいる。  それにひきかえ、幌内には何もなかった。記念物どころか一〇〇年祭のポスターすら見かけなかった。私はなんだか幌内がかわいそうになった。両端の駅を同格にあつかわねばならぬ理由はないし、小樽と幌内とでは立地条件もちがう。いっぽうが晴れ着姿で、他方が着古した普段着でいるのはやむをえないとしても、せめて手宮から幌内まで、蒸気機関車による記念列車ぐらい走らせればよいのに、と私は思った。  資料館に入ってみる。「乘客賃錢表」というのが展示してある。札幌—手宮間は、「上等一圓、中等六〇錢、下等四〇錢」となっている。岩見沢や幌内への項がないから明治一五年一一月以前のものであろう。そのあとに注意書きがある。 「汽車ニテ行スルハ總《スベ》テ鐵規則ニ從フヘシ」 「乘車セント欲スルハ遲クモ發車時〓十分ニステイションニ來リ切手買入ノ手續ヲナスヘシ且切手買入ニ手〓取ラヌ爲《タメ》ニ賃錢ハ成丈《ナルタ》ケ不足ナキ樣豫《アラカジ》メ用意スヘシ」  明治一四年四月一日現在の時刻表もある。一日一往復で、下りは「手宮發九時〇〇分、札幌着一二時〇〇分」上りは「札幌發二時三〇分、手宮着五時三〇分」となっていた。  この資料館で、とくに眼をひくのは、「藥師寺欣彌」という人の六三枚におよぶ辞令であろう。幌内鉄道と直接の関係はないが、そのいくつかを紹介しよう。 「驛夫ヲ命ス 但日給金參拾錢支給 岩驛務 明治三十七年九月廿三日 北鐵株式會課」 「車掌ヲ命ス 明治三十九年八月二日 北鐵株式會營業部」 「一金七拾六圓 今般本會解散ニ付株主總會の決議ニ基キ手當トシテ頭書ノ金額ヲ與ス 明治四十年六月三十日 北鐵株式會 長北垣國」 「ヲ命ス 日給金四拾貳錢ヲ給ス 明治四十年七月一日 帝國鐵廳」 「金貳拾六圓 右職務格別勉勵ニ付慰勞トシテ賞與 明治四十一年十二月十五日 鐵院」 「小澤驛助役ヲ命ス 明治四十四年六月十九日 北鐵管理局」 「岩驛助役ヲ命ス 大正二年一月二十二日 北鐵管理局」 「大正元年十月二十五日小澤驛ニ於《オイ》テ函驛着無賃手荷物十七個全部積殘且着驛ヘ何等知ヲナサヽリシ爲客ノ苦ヲ惹起《ジヤツキ》スルニ至リタルハ當務ノ取扱宜シキヲ得ザルニ基因スト雖《イヘド》モ畢竟《ヒツキヨウ》監督不行屆ノ致ス處職務上不合ニ付譴責《ケンセキ》ス 大正二年二月三日 北鐵管理局長野村彌三郎」 「自今月給金貳拾四圓ヲ給ス 大正二年十二月十六日 鐵院」 「大正二年九月十五日秋葉原驛發岩驛着斤扱第六十五號知書ニ對スル綿メリヤス二個ノ一個容破損中味減量ノ處粗漏ノ爲メ取ノナキニ至ラシメタルハ職務上不合ニ付自今篤ク意スヘシ旨《チユツシ》訓ス 大正三年四月十五日 北鐵管理局長井出三」 「自今月給金貳拾八圓ヲ給ス 大正六年九月一日 鐵院」 「滿拾五年以上續シ成績良好ニ付年功加給月額金參圓ヲ給ス 大正八年十二月一日 鐵院」 「月給金八拾圓ヲ給ス 大正九年十二月十六日 鐵省」 「札幌鐵局務ヲ命ス 大正十年六月三十日 鐵省」 「依願免本官 大正十四年四月十一日 鐵省」 「職特別賜金貳千參百四拾六圓ヲ支給ス 大正十四年四月十一日 鐵省」 「金百七拾圓 右職務勉勵ニ付賞與ス 大正十四年四月十一日 鐵省」……  資料館を出ると、ファンや一般観光客の視線をあびながら、「義経」と「静」がならんで日光浴をしている。これほど性別不明の夫婦もあるまいが、仲よく寄りそっているのを見ると、「ご対面」という、やや演出過剰なことばが、不自然でない気もしてきた。やはり一〇〇年の重みなのであろうか。    陸羽東線と芭蕉  平泉見物をはさんで一ノ関に二泊した芭蕉と弟子の河合曾良は、つぎの宿泊地岩出山《いわでやま》まで約五〇キロの道程を一日で歩き切っている。元禄二年(一六八九)五月一四日、江戸を発ってから四六日目であった。  当日の天候は、曾良の日記によれば、「天気吉。(中略)真坂ニテ雷雨ス。乃晴《スナハチハル》、頓《ヤガ》テ又曇テ折々小雨スル也」となっている。「真坂」は一迫《いちはざま》町の中心地で、当日の行程を三分の二ほど消化した地点にある。「及暮岩手山(現在の岩出山)ニ宿ス」とあることから察すると、雷雨に遭ったのは午後二時ないし三時頃かと思われる。  五月一四日は、新暦の六月三〇日である。日の長い季節とはいえ、満四五歳の芭蕉にとって、五〇キロを一日で歩くのは相当な強行軍であったろう。  けれども、『おくのほそ道』では、 「南部道遥《はる》かにみやりて、岩手の里に泊る」  としか書いていない。あっさり片づけている。こうしたところが『おくのほそ道』の魅力でもある。  岩出山に一泊した芭蕉たちは、翌日、尿前《しとまえ》の関を通って出羽国に入り、封人《ほうじん》(国境を守る役人)の家で雨に降りこめられ、二泊してから、恐ろしげな山刀伐《なたぎり》峠を越えて最上《もがみ》の尾花沢《おばなざわ》にたどりついている。『おくのほそ道』の道程のなかで、もっとも苦労したのは、この区間だったかに思われる。  芭蕉の跡をたどってみたくなり、九月二四日、上野から夜行に乗って、翌朝六時前に一ノ関に着いた。 「跡をたどる」といっても、歩いてたどる体力も暇もないので、バスと汽車とタクシーを乗り継いで、芭蕉が四日かかった行程を一日で通り過ぎてしまおうという、芭蕉が聞いたら「関係ない」と言われそうな、たどりかたではある。  一ノ関から岩出山へのルートは、『曾良日記』によれば岩崎、一迫経由となっている。しかし、このルートにはバスがない。私は、やむをえず国道四号線を南下して仙台へ向かうバスに乗った。  バスは東北本線や工事中の新幹線とからみ合いながら丘陵地帯を走る。北上川に沿っているのだが、奥羽山脈の裾が複雑に出入りしていて、起伏が多い。道は上り下りしている。  約二〇分ほど走ると、芭蕉がたどった岩崎への道が右へ分れ、かなりの起伏が予想される丘陵へ入っていく。長い登り坂はなさそうだが、北上川の支流を幾本も横切って行かねばならないから、川を渡っては低い丘陵を越え、また川を渡っては登る、という型が幾度もくりかえされるにちがいない。そういう道を一日に五〇キロも芭蕉は歩いたのである。  一時間半で陸前古川に着き、すぐ接続する7時36分発の陸羽東線の下り列車で岩出山へ向かう。このあたりはササニシキの本場であるが、今夏の冷害のさまは痛々しい。九月末というのに穂が頭を垂れていない。実が入ってないのである。緑のまま穂の出ていないのもある。  穀倉地帯の中心古川市は刑部《おさかべ》氏の城地だったところで、陸羽街道が南北に貫き、石巻別街道、野蒜《のびる》街道、北羽前街道、中羽前街道がここへ集まって宿駅として栄えた。明治以降は東北本線が小牛田《こごた》経由となったため交通の要衝からはずされていたが、いままた東北自動車道、東北新幹線に恵まれて昔日の面目を取り戻しつつある。市内には三日町、七日町、十日町などの名が残っているが、いずれも江戸時代に市の立った町々である。  陸前古川から一五・一キロ、約二五分で岩出山に着く。  岩出山町は、仙台へ移るまえの伊達《だて》政宗が居城を置いていたところで、駅の左手に岩肌を露出した嶮《けわ》しい崖《がけ》が見え、その上に城址がある。  芭蕉と曾良が岩出山のどこに泊ったかは、二人とも書いていない。芭蕉は「岩手の里に泊る」であり、曾良は「及暮岩手山ニ宿ス」である。遺跡もないので、訪れるところはないのだが、一日で五〇キロに敬意を表して下車してみた。  田舎の小駅を思わせる岩出山で降り、城山の崖に向かって一五分ほど歩くと、崖の下に「有備館」という書院造りの建物が残っている。藩士子弟の学問所だったところで、藩校の遺構としては日本最古のものだという。  有備館は岩出山伊達家二代目の宗敏《むねとし》の居館であったものを移築して学問所としたので、武者隠しなどもあり、勉強をするところとしては妙な間取りになっているが、回遊式池泉庭園もあって、カヤ葺《ぶ》き屋根を二棟並べた東北地方らしい大味で素朴な建物と、みやびな池との対照がおもしろかった。  それと、駅から有備館に通じる道のかたわらを流れる水の豊かで清澄なこと。町なかにきれいな川があるのは、地方へ行けば珍しいことではないが、出逢うたびに羨《うらやま》しくなる。  岩出山で一泊した芭蕉たちは、翌五月一五日、鳴子《なるご》を経て出羽国に入り、堺田《さかいだ》というところに至っている。行程は約三〇キロで、曾良によれば、当日の天候は小雨であった。  岩出山10時04分発の列車で鳴子へ向かう。ディーゼルカー四両の編成で、前二両は新庄《しんじよう》行、後二両は鳴子行となっている。新庄まで行く車両は座席の半分がふさがっていたが、鳴子で切り離される車両はガラ空きであった。  列車は荒雄《あらお》川に沿って山間に入り、立ち並ぶ温泉宿を右窓に見下ろし、左窓に見上げながら、10時32分、鳴子に着いた。  奥羽山脈を横切って東北本線と奥羽本線とを結ぶ国鉄の線区は五本ある。このうち、陸羽東線はもっとも歴史が古く、大正四年に小牛田—鳴子間が開通し、大正六年には小牛田—新庄間九四・一キロが全通している。いらい六五年、ダム建設や近代化によるルート変更もおこなわれず、三分の二世紀にわたっておなじ路盤の上を走りつづけてきた。  こういう古い線区には戦後派の新線とはちがった味わいがある。地形にさからわず、自然のまにまに山裾をめぐり、谷に沿って走るからである。  陸羽東線は、そのほぼ中間にある鳴子を境にして東側は豊かな水田地帯、西側は奥羽山脈となっており、鳴子から先きは人家がめっきり減る。列車も鳴子止まりが多く、鳴子以遠は運転本数が半減する。  鳴子から先きも陸羽東線は約一六キロほど芭蕉たちの歩いた道に沿って敷設されており、堺田で途中下車すれば『おくのほそ道』をたどろうとする者にとって必見の「封人の家」が駅のすぐ近くにある。けれども、運転本数が少ないので、途中下車をくりかえしていると、肝心の「山刀伐峠」にかかる頃には日が暮れかねない。  私は鳴子駅前に停っていたタクシーに、山刀伐峠の旧道が通れるかどうかを確認してから「おくのほそ道ドライブ紀行」にきりかえた。  鳴子は『続日本後紀』の承和四年(八三七)の条に記録されているほどの古くからの名湯であるが、芭蕉たちは鳴子で泊らなかったばかりか、一浴もしなかったようである。「川向ニ鳴子ノ湯有」と曾良は記しているから、対岸に湯煙を望みながら素通りしたと思われる。今日の旅行者の眼からすると、少しく解せないが、奥羽山脈越えを控えた一行にとっては、温泉どころではなかったのかもしれない。事実、『おくのほそ道』には、 「なるごの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越《こえ》んとす。此路《このみち》旅人稀《まれ》なる所なれば、関守にあやしめられて、漸《やうやう》として関をこす」  とある。  タクシーは国道47号線(北羽前街道)を三、四分走ると右に折れ、うす暗い木立の下で停った。見ると「尿前の関」の立札があり、その奥に、子供がうずくまったような形の、小ぢんまりした自然石の碑が立っていた。  碑の前面には、大きく芭蕉の名が彫られ、右下に「明和五戊子六月十二日建 尿前連中」とあり、裏には有名な「蚤虱《のみしらみ》馬の尿《しと》する枕もと」が刻まれている。この句は国境を越えて羽前に入ってからつくられたもので、鳴子とは直接関係はないのだが、「五月雨《さみだれ》の降《ふり》のこしてや光堂」のつぎは、この「蚤虱……」まで句がない。したがって、鳴子に句碑を建立するとなれば、この句しかないし、しかも尿前の関の「尿」がかかっている。  聞くところによると、鳴子の旅館はこの句碑を迷惑がっているという。それはそうであろう。しかし、建立されたのが明和五年(一七六八)であり、現存する句碑では最古のものだそうだから、動かすわけにもいかない。  尿前の関跡から「鳴子峡」の景勝にかかる。二キロたらずの短い峡谷であるが、なかなかに見ごたえのある深い谷だ。とくに紅葉の時期がよいという。陸羽東線は、この鳴子峡の嶮を長いトンネルで抜けてしまい、出口にかけられた短い鉄橋の上から、ほんの数秒間だけ片鱗《へんりん》を拝ませてくれるに過ぎないが、国道を行く客は、大深沢橋で車を停めれば、高い橋の上から一応の鳴子峡観賞はできる。  現在、峡谷の底には遊歩道がつけられているが、当時の道は鳴子峡から離れたところを通っていたらしく、芭蕉は、 「大山をのぼつて日既《すでに》暮ければ、封人の家を見かけて舎《やどり》を求む」  と記すだけで鳴子峡には触れていない。鳴子峡を見ていれば何か物言いそうな気がする。『曾良日記』でも、尿前の関のあとは「壱リ半中山」となっていて、素っ気ない。  さて、芭蕉が宿りを求めた堺田の「封人の家」に着く。  国道に面した大きな平屋で、堂々たるカヤ葺き屋根をのせている。建坪は二七〇平方メートルだという。  堺田村の庄屋で、代々「封人の家」に住んできた有路《ありじ》家の新しい住居がその傍らにあった。声をかけると、品のいいお婆さんが現われ、中を案内してくれた。  この建物は昭和四四年に文化財に指定され、三千万円をかけて修復したという。内部は五つに仕切られており、いちばん東寄りに「うまや」、つぎが「土間」、そして「こざしき」「ながざしき」「いりのざしき」と並んでいる。奥へ行くほど座敷の格が上がるように見受けられたが、「馬の尿する枕もと」から察すると、最低の「こざしき」に芭蕉と曾良は寝かされたらしい。  念のため、「芭蕉は、ここで寝たのですね」と訊《たず》ねてみた。 「いいや、芭蕉さんは、あっちの部屋でおやすみになりました」  と、お婆さんは、奥の上等な部屋を指さした。  いずれにせよ芭蕉は、この家、あるいは、この付近が気に入らなかったらしい。「三日風雨あれて、よしなき山中に逗留《とうりゆう》す」と記している。 「封人の家」で大雨に降りこめられ、蚤と虱と馬の尿に悩まされながら心ならずも二泊した芭蕉たちは、いよいよ五月一七日、山刀伐峠越えにかかる。「道さだかならざれば」との主人のすすめにしたがい、「反脇指《そりわきざし》をよこたえ《〈ママ〉》、樫《かし》の杖《つゑ》を携」えた「究竟《くつきよう》の若者」に先導されて出発したが、はたして、 「あるじの云《いふ》にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木《こ》の下闇茂りあひて、夜《よ》る行《ゆく》がごとし。雲端につちふる心地して、篠《しの》の中踏分《ふみわけ》、水をわたり岩に蹶《つまづい》て、肌につめたき汗を流して……」  となる。  タクシーは陸羽東線に沿って六キロほど走り、羽前赤倉駅の手前で左折して国道47号線と分かれると県道に入った。山刀伐峠を越えて尾花沢に抜ける道である。  車がようやくすれちがえるくらいの狭い県道のあちこちに、観音堂や地蔵堂がある。おそらく芭蕉たちは、その一つ一つに手を合わせて道中の安全を祈念したのであろうが、こちらは、どんどん飛ばして行ってしまう。  国道と分かれてから一〇分余り走ると、狭かった県道が広がり、正面に真新しいトンネルが現われる。三年ばかり前に開通した新道である。しかし、これを通ったのでは意味がないので、トンネルの手前から旧道に入った。  旧道に入ってまもなく、路傍に「ふもとの泉」という立札と「奥の細道探勝路」の標識があり、茂みのなかに細い道が消えている。これが芭蕉たちが歩いた道なのであろうか。このあたりは豪雪地帯であり、すでに通う人もないから三百年前の道など跡形もないはずだが、探勝路ということで毎年整備しているのだそうである。山刀伐峠には、つごう三本の道があるわけだ。  車は、狭い曲がりくねった旧道を登って行く。芭蕉時代の大木は、とっくの昔に伐採されているから「木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし」ではないが、旧道の登りにかかってからは、晴のち曇りのように光が弱くなった。そのほの暗い道のところどころを探勝路が横切る。見ただけではわかりにくいが、標識が立っている。  新トンネルが開通したので、すれちがう車は一台もない。歩く人もいない。 「専用道路ですな」と運転手が言う。快適なドライブではあるが、多少、薄気味わるい気がしないでもない。だいたいこの運転手、濃いサングラスなんぞかけているから、人相が悪く見える。それに、私が車を停めて立札など読みはじめると、かならず降りてきて、黙って私のうしろに立つ。「尿前の関」でも「ふもとの泉」でもそうだった。  前方に明るみがさし、峠に着いた。着いた、というのは運転手が勝手に車を停めたからである。あまりいい気持ではないが、わざわざ旧道をたどって来たからには、峠で一憩しないわけにはいかない。  さして気はすすまないが、車の外へ出てみると、当然ながら森閑としている。「高山森々として一鳥声きかず」である。  ここにも「奥の細道探勝路」の標識があり、尾根伝いに登る小径《こみち》が見える。 「ここを行けば峠の地蔵がありますよ」と、運転手が小径を指さす。 『おくのほそ道』をたどると言って来ながら、車に乗ってばかりいて、なんだか芭蕉たちに申しわけないような気がしていたので、その小径を歩いて行った。運転手も私のあとからついてくる。なぜ前に立って歩かないのだろうと思う。  落葉を踏む二人の足音のほかには物音が何もしない山刀伐峠であった。  峠を無事に越えて最上の庄に出た芭蕉は、こう書いている。 「かの案内せしおのこの云《いふ》やう、『此みち必不用《かならずぶよう》の事有。恙《つつが》なうをくりまい《〈ママ〉》らせて仕合《しあはせ》したり』と、よろこびてわかれぬ。跡に聞《きき》てさへ胸とゞろくのみ也」  山刀伐峠越えで疲れたのか、芭蕉は尾花沢で十日も泊っている。私は奥羽本線の特急「つばさ」でその日のうちに東京まで帰ってきた。    高山本線の車窓  飛騨は「襞《ひだ》」、つまり、山々が着物の襞のように重なり合っているところからきたという。  まったく山深いところだ。日本中でもっとも山奥にある町といえば、飛騨の中心高山であろう。高山に転勤を命じられると辞表を書きたくなる、あるいは、辞めさせるために高山への転勤を命じる、といった話がむかしはあったらしい。高山への道は、野麦街道、益田街道、白川街道など、いろいろあるが、どれを選ぶにしても谷は嶮しく峠は高いのである。  その高山へ昭和九年に鉄道が開通した。岐阜側と富山側と双方からの同時開通で、これによって高山本線が全通したのであった。  昭和九年といえば、丹那トンネルの開通という日本鉄道史上に一期を画した年であり、明治五年いらい営々として建設してきた鉄道網がほぼ完成したのもこのころである。高山にまで鉄道が通じたのだから、そう言ってよいであろう。  現在、高山本線には特急も走り、名古屋から三時間、富山からは一時間半で高山に到達できる。新幹線を利用して乗り継げば、東京からの日帰りも可能である。「小京都高山」が観光の必修科目のようになり、訪れる若い女性が激増したのも当然であろう。駅前には貸自転車が並び、コイン・ロッカーの数の多さは大都市駅のそれに匹敵している。  交通が便利になると、旅が「線」から「点」に変わる。嶮しく遠い高山への道程は消え、むかしの人が難渋しながらやっとたどり着いた高山へ、現代人は難なく到着してしまう。  文明とはそういうものであろうが、ただ、私が不思議でならないのは、高山へ向かう車中の人びとが、高山への道程、つまり車窓風景にほとんど関心を示さないことである。 「高山へはあと何分で着くの?」などとリーダー格の友だちに訊ねながら、トランプに余念のない女性のグループを見かけたことがある。  これは高山への旅にかぎらない。どこでもそうである。平泉見物は終わった。さあ次は十和田湖だ、と旅行者は「点から点へ」と急ぐ。けれども、「点」は観光業者によって荒らされ、全国的に画一化されつつある。点と点とを結ぶ「線」に「みちのく」の味わいがあるのに、人びとは肝心の「線」にはあまり関心を示さない。そして目的地に着くやいなやカメラを構え合い、有名観光地の名を刻んだ立札と並んで記念撮影をする。  高山は、それのみを目的として訪れるに価する町ではある。けれども、高山への旅の価値は、その遠くて嶮しい道程を体感することをともなってこそ、高まるのではないだろうか。  かく言う私にしても、歩いて高山を訪れたわけではないから、もとより大きなことは言えないが、せめて、もっと車窓に眼をこらしてもらいたい。すると、いろいろなものが眼に入ってくる。それらの総和は、あるいは高山の魅力を上回るのではないかと思われるほどである。  高山への道は五本ある。名古屋、岐阜方面からは高山本線と国道四一号線(益田街道)、富山からはおなじく高山本線と国道四一号線(越中東街道)、東の松本方面からは安房《あぼう》峠、平湯峠の二つの高い峠を越えてくる国道一五八号線、東南の木曾福島からは国道三六一号線(野麦街道)、そして西からの国道一五八号線(白川街道)である。  いずれも谷嶮しく山深いルートで、白川街道のごときは峠を四つも越えるが、ここでは岐阜から高山本線で入ってみることにしよう。  岐阜を発車すると、左窓に金華山が突兀《とつこつ》として聳《そび》え、その上に復元天守閣が見える。標高三三九メートルに過ぎないが、平野からいきなり突き上がっているので、ひときわ高く見える。これが斎藤道三《どうさん》の稲葉山城、織田信長の岐阜城である。高山本線の車窓からだけでなく、東海道本線や新幹線からもよく見えるが、濃尾平野を睥睨《へいげい》するかのような山容を見れば、戦国の武将たるもの城を構えずにはいられまいと思わせる際立った山である。  以下、特急「ひだ」の所要時分で記すとして、岐阜から約一五分、右に木曾川が近づくと、対岸の小丘の上に渋く落ち着いた天守閣が現われる。織田信康が築いた犬山城で、現存する最古の天守閣だという。犬山城は白帝城の別称をもつが、これは江戸時代の儒学者荻生徂徠《おぎゆうそらい》の命名による。あたりの環境が李白の詩に出てくる中国の白帝城(四川省)を彷彿《ほうふつ》とさせるからだそうだが、もちろん徂徠は中国を訪れていない。  犬山城で濃尾平野は尽き、にわかに山が迫って、木曾川の流れを右窓から見下ろすようになる。流れは速く、両岸はかなり急峻《きゆうしゆん》だが、形のよい松が茂り、ところどころに岩が露出している。川舟下りで知られる「日本ライン」である。日本ラインは地理学者志賀重《しげたか》の命名だが、志賀はライン河を実際に見ている。とにかく、むかしの人は命名癖が強いようだ。  名前がなくては不便であるし、命名も大いに結構であるけれど、名前があり過ぎてうるさいことも多い。たとえば、この日本ラインや瀞八丁《とろはつちよう》などを舟で見物した人ならばご承知と思うが、両岸や河中の岩にやたらに名前がつけられており、とくにどうということもない平凡な岩が蓬莱《ほうらい》岩であり亀岩である。案内嬢の説明は、それらの名称の紹介に終始する。ここにも「点」と化した旅があるように私は思う。十和田湖へのバスで奥入瀬《おいらせ》の渓流にさしかかると、右も左も「明治の文豪大町桂月先生」のご命名物ばかりになる。名称のおかげで、自由な鑑賞を阻害される。  それはとにかく、このあたりの木曾川は水量が豊かで、それが岩に突き当たり、あるいは瀬となるから、なかなか見ごたえがある。川下りの観光船に出遇うこともある。車窓から見下ろすと、船頭の竿《さお》さばきよく、悠々と下って行くように見えるが、乗ってみるとスリルがある。もっとも、こうした川下りもむかしほどの人気はないようだ。宙返りジェット・コースターなどができて安直にスリルを楽しめるようになったからだろうか。  日本ラインを過ぎると美濃太田に着く。中仙道の木曾川の渡しがあった主要な宿場である。駅前通りを南へ一〇分ほど歩くと旧中仙道に出る。街道を東へ少し行ったあたりには、当時の面影がわずかにしのばれ、本陣跡は門だけであるが、脇本陣の建物は残っている。土蔵造りの主屋のほかに質倉、借物倉などを備えた大きな屋敷である。  美濃太田から木曾川の支流益田川の右岸をさかのぼる。一〇分余で三つ目の駅下麻生《しもあそう》を通過するが、駅を過ぎて右へ大きくカーブするあたりで、右窓に注意していると、「うだつ」をつけた家を見ることができる。 「うだつ」について格別の知識もないが、「うだち」の転訛《てんか》したもので、 〓・卯建・宇立などと書くらしい。要するに「うだつが上がらない」という、あのうだつである。屋根の妻の部分に壁をとりつけ、その上に瓦を葺《ふ》いたもので、隣家との防火用といわれる。余計なものがくっついているので、屋根の美しさを損じているように思うが、家の格や身分の象徴でもあったらしい。  車窓から見る下麻生の「うだつのある家」は大きな商家らしく、益田街道沿いの集落のなかでは、屋根が一段高く聳えていた。私は二軒見つけたが、下車して探せば、もっとあるかもしれない。 「うだつ」は美濃太田で見た脇本陣にもあったが、車窓から見えるものとしては、この下麻生しか知らない。下麻生は、かつては益田川をさかのぼる舟の終点であり、陸運との接点であったから栄えたのであろう。しかし、現在は特急はもとより普通急行も停車しない小さな集落である。  下麻生のつぎの上麻生を過ぎると、益田川の谷がにわかに狭く深くなり、「飛水峡《ひすいきよう》」にさしかかる。河床は岩盤だけとなり、流れの部分だけがさらに深く浸蝕《しんしよく》されている。うす暗く深く、不気味で「飛水峡」という名とは合わない。ダム建設で水量が減り、水が飛ばなくなったのであろう。しかし、この峡谷の眺めは高山本線はもとより国鉄全線のうちでも屈指のものである。現在は飛水峡を挟んで鉄道と国道四一号線が通じているが、かつての益田街道はこの難所を避けて、山越えのルートを選んでいる。益田川があっても、むかしの人は峠越えをしなければならなかったのである。  飛水峡から約一五分、益田街道の旧宿場町飛騨金山《かなやま》を過ぎると、峡谷美で知られる「中山七里」にかかる。この峡谷は飛水峡より有名であるが、現状では飛水峡におよばない。たしかに両岸の傾斜は急で絶壁もあり、なかなかの谷であるが、ダムのために水が青緑色に滞溜し、激流が見られないのである。  しかも、対岸を国道四一号線が大きく谷を削り、しばしば川面までコンクリートの壁で埋めている。こっちだって岸を削って線路を敷いているのだが、高山本線は本線といっても単線のローカル線であるから、せいぜい幅三メートル程度の路盤で事足りる。ところが国道のほうは二車線だから六メートルは必要である。幅員が二倍になれば削り取る岩の量は四倍になるわけで、自然の破壊度は比較にならない。これは何も私が鉄道贔屓《びいき》だから言うのではない。むしろその逆で、谷を挟んで両岸に道路と鉄道がある場合は、汽車よりも車に乗ったほうが眺めがよいということなのである。 「中山七里」は台なしであるが、このあたりの石積みはじつに美しい。斜面に耕地をつくり家を建てるために石を積んであるのだが、川で拾ったと思われる漬物石ぐらいの丸石を高く積んださまは見事だ。両岸の傾斜が急なので、わずかな畠《はたけ》をつくるためには石を高く積まねばならない。積まれた石の壁の面積のほうが、その上につくられた耕地よりも広かろうと思われるのさえある。高山本線はその石積みをかすめて走る。美しくも厳しい眺めである。  岐阜から一時間半、やや谷が開けて下呂《げろ》に着く。温泉旅館のビルが駅を見下ろし、高山本線の車窓では、突然変異のようなところである。  下呂を過ぎ、列車はふたたび益田川に沿って行く。このあたりは木曾御嶽《おんたけ》山の西麓《せいろく》であるが、谷のなかを行くので見えない。  ヒノキなどの大木を貨物ホームに積み上げた林業の町飛騨小坂《おさか》を過ぎると、列車は流れを細めた益田川を幾度も渡る。登り勾配《こうばい》もしだいにきつくなる。分水嶺《ぶんすいれい》が近づいたのである。  太平洋側の最後の駅久々野《くぐの》で益田川と別れた高山本線は、まもなく宮トンネルに入る。このトンネルを抜ければ、水は北へ流れ、神通川となって富山湾へ注ぐ。トンネルの入口で列車は警笛を鳴らす。それは、ここまで導いてくれた益田川への別れの挨拶とも聞える。  約二分で宮トンネルを抜けると、平地が開ける。谷底ばかりを眺めてきたので、眼かくしを突然はずされたように明るく広々と見える。下り勾配になった列車は、軽い足どりで下って行く。やっと高山に着いたと喜んでいるかのようだ。  特急列車、といっても高山本線の特急はきわめて鈍速で、特急らしいスピードは出さないし出せないのだが、それでも名古屋から三時間で高山に着けるとは便利になったものだと思う。  町らしい町もない山間ばかりを走ってきた眼には、高山が別天地に見える。駅前の道路がまっすぐ平らにのびているのが不思議なものとして映る。高山に着いたときの印象は、すこし誇張して言えば「都」である。何日もかかって山と谷の間を歩きつづけてきたむかしの人びとに高山がどう映ったかは、想像を超える。  宝永七年(一七一〇)の記録によると、高山の人口は七千二百六十一人となっている。現在は六万人であるが、いずれにせよ、地方の小城下町であり小都市にすぎない。けれども、それは問題ではないだろう。人口百万の政令都市である川崎市と、人口六万の高山市と、どちらが町としての結構と風格を持っているだろうか。  高山は「小京都」と言われる。三木自綱《よりつな》一族を亡ぼし、飛騨を平定した金森長近が京都を模して町をつくったというのは有名な話だが、そのようにして別天地の高山に君臨した金森氏も、わずか六代百余年で出羽国上《かみ》の山《やま》に移封され、飛騨は幕府の天領となった。飛騨地方が良質な杉材の宝庫であり、しかも神岡鉱山や白川村をはじめとする日本有数の金銀産出地を領内に有していたことが、金森氏の不幸だったのであろう。千利休門下の茶人としても知られる長近が、粋をこらして築いたと想像される高山城も、出羽移封後三年の元禄八年(一六九五)には廃城となり、城壁さえも取り壊されてしまった。  金森氏の菩提所《ぼだいしよ》は町の東のはずれにある素玄寺である。城壁のような反りのある石垣の上に建てられた風格のある寺だが、観光コースには組み入れられていないようだ。    宇高連絡船と高徳本線  四国の高松へ渡る宇高《うこう》連絡船の旅は、楽しい。  一般に船旅は景色の移り変わりが緩慢で、まだるっこしく、退屈してしまうのだが、宇高連絡船だけは幾度乗っても飽きない。わずか一時間では短すぎるくらいだ。  島が多いからではあろう。けれども、宇高連絡船の眺めを賑《にぎ》やかにしているのは行き交う船である。とにかく船が多い。宇野—高松間にはフェリーが一〇分ごとに往復し、それと交差する東西の水道は阪神方面へ往き来する大小の貨客船が絶えない。高松からも小豆島をはじめ近在の島々への船が繁く通っている。そして、海面にたゆたう漁船の数も少なくない。  とくに夜の宇高連絡船に乗ると、島はうっすらと稜線《りようせん》しか見せないが、船の灯りが際立ってくる。遠く近く行き交う灯火のなかから、ときとして連絡船の行く手をさえぎるように迫ってくる黒い船影を見かけることもある。  そんなとき、ふと海賊船を連想する。往時の人びとは、どんなにか不安な気持で瀬戸内海を渡ったことだろうと思う。  じっさい、屋島の突端の展望台、遊鶴亭から島と船を見下ろしていると、海賊の気分がわかるような気がしてくる。まるで絶好の漁場である。専門家が見れば、どの船にはどのくらいの「財宝」が積まれているか見当がつくにちがいない。  いっぽう、関西汽船の別府航路や、広島県の三原から愛媛県の今治への水中翼船などに乗っていると、入江に小ぢんまり固まった集落がつぎつぎに現われる。段々畠にはミカンが色づいている。歌謡曲の「瀬戸の花嫁」のような情景である。船を着けて上陸したくなる。少し大きな集落には立派な倉が並んでいる。何が入っているのだろうか。荒らしてみたくなる気持が理解できぬでもない。  千年前の瀬戸内海を知る由もないが、海賊討伐を命じられた藤原純友《すみとも》(?—九四一)が自ら海賊へと転化していったのも、わかるような気がする。  宇高連絡船の短い船旅が終わりに近づき、高松が近づくと、左舷《さげん》近くに女木島《めぎしま》が見えてくる。  女木島は、むしろ「鬼ヶ島」の俗称で知られる観光地で、高松から船が出ている。瀬戸内海の小さな島のどれか一つに上陸してみたいという人には、この島あたりが手頃ではないかと思う。もっとも私がこの島に上がったのは、もう四〇年も昔のことなので、変わっているかもしれない。しかし、女木島は連絡船からも屋島からもよく見えるし、とくに高松から神戸への船はすぐ近くを通るので、そのたびに気をつけて眺めてきたが、船着場のあたりに小さな旅館や民宿が建ち、ハマチの養殖場ができたりしているが、全体としてはそう大きく変わったようには思われない。この島のポイントである山頂近くの洞窟《どうくつ》は、もちろん変わりようのないものだ。  高松からの船は約二〇分で細長い女木島の中央部に着く。私が行ったときも、たしか二〇分であった。そういえば宇高連絡船も昔から正一時間のままである。  現在は船着場から洞窟まで細いながら自動車の道ができ、マイクロバスで登れるらしいが、歩いても三〇分ぐらいだ。女木島に限らないが、一歩一歩登るにつれて松の枝のあいだから、しだいに瀬戸内海の視野が広がってくるのはよいものである。  船着場のすぐ北には標高一八八メートルの鷲《わし》ヶ峰《みね》が富士山型に突起しており、問題の洞窟はそのすぐ下にある。洞窟は人工のもので、床も天井も水平、壁は垂直に掘り抜かれているので、洞窟というよりは大きな地下室といった感じがした。容積は四〇〇〇平方メートルもあり、大将の居間、番人の控室など幾間にも仕切られているというが、攫《さら》ってきた女を入れておく部屋があったことだけしか覚えていない。けれども、のどかな島の斜面を登ってきて、突然この大きな地下室に入ったときは、異様で無気味な思いがしたものである。  この洞窟が発見されたのは、昭和六年だという。無人島ではなく、集落もあり段々畠もある島の、海岸からわずか三〇分という近くにこんな大洞窟があるにもかかわらず、それまで発見されなかったとは驚かされる。おそらく倒木や崩れた土や落葉などで入口がふさがっていたからだろうが、瀬戸内海には、このような洞窟を秘めた島がまだ残っているのではないかという気もしてくる。  洞窟の主は桃太郎に退治された鬼ということになっている。もちろん海賊であろう。しかし、藤原純友のような大海賊ではなさそうに思われる。女木島は入江がなく、水軍を擁しておくことができないし、京都のしかるべき家柄の人間が、好んで島の洞窟に住むとも思われない。それに、純友は伊予で退治されている。いずれにせよ、海賊といっても、ヴァイキングやキャプテン・キッドや和寇《わこう》のようにスケールの大きなものではない。鷲ヶ峰の上に見張りを立たせておいて、適当な船を見つけると海岸へ駆け下り、船を漕《こ》ぎ出すといった規模の日帰り海賊だったのだろう。  けれども、女木島の鷲ヶ峰は瀬戸内海の絶好の展望台である。島だからぐるりと一望できるのがよい。海賊の気分にもひたれる。  さて、高徳本線の起点の高松であるが、嬉しいことに駅のすぐ前に城がある。  一般に城は駅の近くにはない。小高い丘の上に築城したからという地形的条件にもよるが、士族たちが陸《おか》蒸気のような汚らわしいものに、お城の近くを通られてなるものかと嫌ったからでもある。  駅に近い城がないわけではない。山形、白河、上田、福山などがすぐ思い浮かぶし、そのほかにもあるだろう。しかし、いずれも改札口を出てから五分はかかる。福山城は新幹線の上りホームに密着するほど近いが、駅の裏側にあるため、これも五分以上かかる。  ところが高松城の場合は、改札口を出てから一分で行ける。道路横断の信号待ちを加えても二分である。「城が見えます波の上」とうたわれた水城《みずき》なので、石段を上ることもない。高松での乗換え時間が一五分もあれば一応の見物はできる。駅前の高松グランドホテルのエレベーターで六階の食堂へ昇り、お茶を飲みながら上から見下ろすのもおもしろい。海水を引き入れて水城にした黒田如水の設計がよくわかる。  高松城は、天正十五年(一五八七)に入封した生駒親正《いこまちかまさ》が築いたものである。親正は信長、秀吉に仕え、賤《しず》ヶ岳《たけ》や朝鮮の役にも参加した武将であるが、関ヶ原の戦いでは孫の正俊を連れて西軍に加わったものの、嫡子の一正《かずまさ》を東軍に送るという芸当をやっている。  高松駅前から南へまっすぐ伸びる幅の広い中央通りを七、八分歩き、右へ曲がったところに法泉寺という寺がある。生駒家の菩提寺で、親正が朝鮮から持ち帰ったというソテツが数株繁り、一正と正俊を祀《まつ》った五輪の石塔が二つ並んで建っている。  生駒家は四代高俊の時代にお家騒動が起こり、それを咎《とが》めるという形で幕府は宝永一九年(一六四二)、生駒を出羽の由利郡に転封した。代わって家康の曾孫松平頼重が高松城主となり、以後、松平一本で明治まできている。瀬戸内海から西国への睨《にら》みをきかす要衝の地は、親藩でなければ任せられなかったのであろう。  現在の高松城は、外濠《そとぼり》は埋立てられ、天守閣も取り壊され、十七櫓《やぐら》のうち月見櫓と艮《うしとら》櫓だけが残る小ぢんまりしたものになっているが、月見櫓は一見天守閣かと見まがう三層の立派な構えである。  私は両親が讃岐《さぬき》の出である関係で高松を訪れることが多い。したがって、幾度も屋島に行っている。一〇回ぐらいになるかと思う。そんなに繁く屋島へ行ってみてもしようがないのだが、高松の人は気軽に屋島へ登る。自動車道路が出来てからは一五分ないし二〇分で行けるようになったので、ちょっと屋島までドライブしてきましょうかと出かける。夏は納涼台でもあるらしい。  屋島は高松から近く、手軽に行けるわりには眺めがきわめてよい。名の通り屋根の形をした熔岩台地であるから頂上は平坦で、ちょっとずつ歩けば東西南北が自由に見渡せる。瀬戸内海、高松市街、讃岐平野、そして壇ノ浦が、一巡三〇分ほどで全部見られる。私としても、四国ははじめてという人と同行したときは、何をおいても屋島へ案内する。連れて行ったり連れて行かれたりで訪れる回数が多いのである。  けれども、屋島の変わりようはひどい。変わったといっても屋島自体はそれほどではない。自動車道路と広い駐車場が出来たこと、コンクリートの旅館が何軒か建ったぐらいである。ところが、屋島の周辺が滄桑《そうそう》の変なのだ。  源平合戦のころの屋島は完全な島であった。それが相引《あいびき》川の運ぶ土砂で陸続きになった。しかし、昭和三〇年ごろまでの屋島は、西の高松側も東の壇ノ浦側も海が深く切れこみ、南麓には相引川が東西に流れて讃岐平野との間に一線を画し、島の面影をはっきりと残していた。船にたとえれば、船尾をちょっと着岸させた形になっていた。  ところが、現在の屋島の両岸は、埋立が進んで石油タンクが並び、あるいは宅地造成されて、南北に長い屋島の中央あたりまで海が押し戻され、義経の弓流しの跡も、那須与一の祈り岩も、海から陸に上がってしまっている。  私は、どちらかといえば源氏より平家のほうが好きだが、源氏を相手にもう一度リターン・マッチをするわけではないから、どうでもいいけれど、とにかくそういうふうに変わっている。  屋島は変わり果てたが、最近、自動車道路の入口近くによいものが出来た。「四国村」である。 「四国村」は財団法人「四国民家博物館」によってつくられたもので、各地に残る古い建物を移築して一カ所にまとめた点は、名古屋鉄道が開いた「明治村」とおなじであるが、ここに集められたのは四国の民家ばかりである。  屋島の西南麓の斜面を利用した敷地は広く、点々とカヤや杉皮葺の屋根が見え隠れする園内はのどかで、なかに入ると、まず祖谷渓のを模した「かずら橋」がかかっている。そのあと、庵治石《あじいし》の敷きつめられた小路を上り下りしながら見ていくのだが、道順にしたがって列挙すると、「農村歌舞伎の舞台」「小作農の家」「砂糖しめ小屋」「四国遍路の接待所」「こうぞ蒸し小屋」「塩づくりの功労者・久米通賢の旧宅」「祖谷渓の民家」「漁師の家」「若者組の泊り屋」などで、江戸末期のものが多い。テープから流れる説明を聞きながらゆっくり見ても一時間半もあれば一巡できる。 「四国村」は昭和五一年一〇月の開園で、まだあまり知られていないし、四国では立地条件がわるいのか、明治村のような賑わいはなかった。経営的にも成功してくれるとよいと思う。  屋島から高徳本線に乗り、八栗口《やくりぐち》を過ぎると志度《しど》に着く。志度湾の奥にある港町で、四国八十八カ所の第八十六番札所志度寺の門前町、平賀源内の生地でもある。  能の「海士《あま》」や童話の「海女の玉取り」で知られる伝説は、この志度寺で生まれたもので、南北朝時代の作とされる寺宝の「志度寺縁起図絵」六幅があり、そのなかの一幅に海女伝説が描かれている。寺の入口には海女の墓が集められていて、正にここは瀬戸内海にふさわしい海女の寺である。  高徳本線は高松から徳島への瀬戸内海沿岸を走る線であるが、残念ながら海はわずかしか見せてくれない。湾があり港町があると海岸に接近するが、建物が邪魔になって見えないし、そこを過ぎれば低い丘陵地帯に入ってしまう。丘のあいだに畑と田と、そして讃岐特有の溜池《ためいけ》の見える平凡な景色である。  志度からその丘陵地帯に入り、小駅を二つ過ぎると、讃岐津田に着く。ここも湾に面した港町である。この駅を発車すると、すぐ左窓に「津田の松原」が現われる。羽衣の松のように枝をくねらせた巨大な松が奥深くつづく見事な松原だが、これまた線路際に立ち並んだ新しい建物にわざわいされて、かつてのような、松原のなかを汽車がゆく、の風趣はやや薄らいだ。しかし、車窓から見える松原としては、筑肥線の虹ノ松原に次ぐものではないかと思う。  津田から東へかけての海岸は白砂青松で、じつにきれいだ。それをチラと見てまた丘陵に入り、ふたたび海が近づくと三本松である。ここは香川県東部では唯一の工業町で、紡績や製糖の工場が集まっている。  この三本松で下車し、与田川という細い流れに沿って四キロほど入ると水主《みずし》神社がある。神社の裏手の山は讃岐山脈で、これを越えれば阿波である。  水主神社は、どこででも見かけるような山裾の小さな社であるが、所蔵品の質がよいので、文化財関係者にはよく知られている。藤原時代の木彫の女神像や螺鈿《らでん》の鞍《くら》、大般若経などで、いずれも重要文化財に指定されている。とくに、女神像は幼女のような愛らしい顔の気品の高いものである。  じつは、私の父はこの水主神社のすぐ近くに生まれた。私の本籍地も水主である。本家もあり先祖の墓もあるので、これまで幾度も訪れているが、はじめのうちは、なんという山奥の、ひなびたところにわが本籍のあることか、と思っていた。しかもわが家には系図など何もなく、父の祖父以前のことは皆目わからないのである。  そういう次第で、自分の氏素姓については、まったく自信がないのだが、水主神社の所蔵品を知るにおよんでからは、まんざら捨てたものでもないぞと思うようになった。    加悦谷《かやだに》の小さな私鉄  寝台特急「出雲3号」は定刻7時09分、豊岡に着いた。珍しく晴れている。  豊岡盆地の年平均湿度は八一パーセントで、日本における最多湿地である。この地方には「弁当忘れても傘忘れるな」という俚諺《りげん》があり、一日じゅう快晴の日は年に一〇日しかないという。  きょうは快晴である。けれども、一年に一〇日しかない貴重な一日にめぐり合ったわけではないだろう。たぶん、そのうちに雲が広がる。雨が降るかもしれない。対馬海流の影響で天候が変りやすいのだ。「傘忘れるな」も、雨の日が多いからというより、天気が変りやすいことを言ったのであろう。  これから宮津線に乗り、丹後に入って加悦鉄道や縮緬《ちりめん》の町を訪れようと思う。こんどの宮津線の発車は7時46分である。  向い側に山陰本線の上り鈍行列車が入ってきた。ベンガラ色のディーゼル機関車を先頭に古びた客車が五、六両つながっている。東海道や山陽ではもう見られない旧式な列車である。その古びた列車から勤め人や高校生が、どっと降りてきた。豊岡への通勤通学客である。しかし、傘など持っていない。  宮津線のディーゼルカーは、但馬三江《たじまみえ》という小駅を過ぎると登り勾配にかかり、国境のトンネルを抜けて丹後の国に入った。左窓前方に湖のような久美浜《くみはま》湾が見え、列車は、小ざっぱりとした久美浜駅に停車した。  丹後縮緬は宮津市をはじめとする一市一〇町で織られているという。そのいちばん西にあるのが、この久美浜町である。下車して町を歩けば機織りの音が聞えるのだろうが、駅は静かだ。わずかな乗降客の踏む砂利の音だけしか聞えない。快晴だった空に、うすい雲が出てきた。きょうは一〇月一五日、湿った冬雲に閉ざされる日も近い。  列車は丹後半島の基部を横断しながら各駅に停車する。網野、峰山、丹後大宮、いずれも縮緬の町である。中心地域に入ってきたからであろう、「丹後ちりめん」の野立看板が目立つ。しかし、織物工場が続々と現われるわけではない。丹後織物工業組合の資料によれば、一市一〇町の事業所数は一万七千、従業者数は五万九千で、平均すれば一事業所当り三・五人、つまり丹後縮緬は依然として家内工業なのである。  丹後大宮を過ぎると、列車はふたたび登り勾配にかかり、薄暗い山間を行く。が、登りつめて、やや下りになったかと思うと、突然、右窓に加悦谷の全景が広がる。大江山を背景にした小盆地に過ぎないのだが、こここそ我が里と気位高く構えているかに見える。絶景でも何でもないが、私はこの眺めが好きだ。しかも、右からは愛すべき加悦鉄道の線路が近づいてくる。宮津線はそれを上から見下ろしつつ勾配を下り、二つの線路が寄り添うと、ひなびた丹後山田駅に着いた。  加悦谷に入るのに、豊岡経由では遠回りである。豊岡まで行かずに綾部《あやべ》から舞鶴線に入り、西舞鶴、宮津を経て丹後山田に至るほうが近い。沿線の景色も、寂寥《せきりよう》とした由良川の河口、栗田《くんだ》峠からの、「横一文字の天橋立」など見るべきものが多い。ほんらいなら、こちらから入ってくるのが順当であろう。けれども私は、遠回りをして豊岡から丹後山田にやってきた。夜行列車では綾部に早く着きすぎるということもあったが、加悦谷を見下ろし、加悦鉄道が寄り添う西からのコースに魅《ひ》かれたからでもあった。こんな理由は少しく通じにくいだろう。それより、空が曇ってきた。  加悦鉄道が開通したのは大正一五年一二月五日である。私が生れたのは同年同月の九日だから親近感がある。  国鉄宮津線のルート設定にあたっては、加悦を通る案もあったらしい。しかし、けっきょく峰山、網野経由に決定した。地形図を見れば、加悦谷に分け入って峠越えをするより現在のルートのほうが妥当であると思われるが、ガッカリした加悦谷の人たちは自力で私鉄を敷設した。それが加悦鉄道である。  鉄道が開通するまでは、加悦から京都へ出るのに与謝《よさ》峠を越えていた。与謝峠は加悦谷の南を扼《やく》す峠で、人力車や縮緬を積んだ荷馬車が毎日幾台も峠を越えて福知山に抜けていたという。加悦鉄道は、こうした人や縮緬の流れを変えた。開通後わずか三カ月の昭和二年三月七日にこの地方を襲った丹後大地震の際は、救援物資や復旧資材の輸送で大活躍をし、加悦鉄道の歴史を飾った。加悦谷の人たちは鉄道の有難さをかみしめたことであろう。  いらい五四年、すべてのローカル私鉄がそうであるように、加悦鉄道もバスとマイカーに客を取られ、寥々たる状態になっている。  加悦鉄道は短い三本の線区から成っている。大江山の麓《ふもと》にあるニッケル鉱山—加悦間二・七キロ、加悦—丹後山田間の五・七キロ、丹後山田—ニッケル精錬工場間の四・五キロ、計一二・九キロである。このうち、ニッケル鉱山線は閉山のため休線、精錬工場線は貨物列車のみが走っている。閉山しながら精錬工場が稼働しているとは変だが、これはニューカレドニア産のニッケル鉱を輸入して精錬をおこなっているからである。  大江山のニッケル鉱山は、戦時中は国策にそって隆盛をきわめた。地元の人たちが持っていた加悦鉄道の株を鉱山会社に譲渡させ、この鉄道を傘下におさめた。けれども、敗戦と同時に閉山となり、今日にいたっている。したがって、ニッケル鉱山線は名目上は休線であるが、実質は廃線で、残された道床は雑草に埋もれている。  旅客扱いをする丹後山田—加悦間には、現在、一日七往復の列車が走っている。「列車」と言っても、たった一両のディーゼルカーで、最盛期には五両編成であったものが、だんだん減って、とうとう一両になってしまったのである。  国鉄丹後山田駅に接して加悦鉄道の長いホームがある。そこに一両の古いディーゼルカーがポツンと停っている。国鉄の旧客車を譲り受けて床下にエンジンをとりつけたキハ08形である。このほかに、前後に荷物台を備えた一見展望車のようなキハ51形というのがあり、交互に使用されている。  乗り心地は格別のものがある。船のようにゆったりと横揺れする。制限速度は時速三五キロ、五・七キロの所要時間が一七分だから、のどかだ。途中駅は五つあり、いずれも無人駅で、朝夕の通勤通学時間帯を除けば乗降客はほとんどいない。  そんな加悦鉄道だが、本社のある終点加悦駅は、すばらしいところである。  まず、本社の建物がよい。赤瓦をのせた白い二階建ての洋館で、大正一五年の創業のままだという。鉄道会社というよりは村役場のようだ。歳月を経て、洋風の建物と背景の大江山とが似合ってきている。  が、それ以上にすばらしいのが駅の構内で、一八七三年にイギリスのスティーブンスン社で製造された可愛らしい「2号機」をはじめとする五両の蒸気機関車、一八八九年、ドイツのバンデルツィーベン社製の三等客車などが保存されている。しかも、重々しい博物館のなかに陳列されたのとちがって野ざらしだから、まだ生きているように見える。やはり汽車は戸外で見るものだ。  そのかわり、湿気の多い丹後地方での屋外保存は手間のかかることであろう。年に一度はペンキを塗りかえないと錆《さ》びてしまうし、木造客車の場合は、塗装だけでなく、さまざまな修理を必要とする。ただでさえ経営の苦しい地方の中小私鉄にとっては、お荷物にちがいない。「加悦SL広場」として鉄道ファンにはよく知られているが、立地条件がわるいため見学客は少ない。  保存経費は大変でしょうね、と私は案内してくれた大内光一郎常務に訊《たず》ねた。大内さんは加悦鉄道の主と言われる人である。手には竹箒《たけぼうき》を持っておられる。常務が箒を持つくらいだから構内は清潔そのものである。 「私たちで暇をみては塗りかえたり、修理したりしておるのです。運転士も保線係も、みんながやってくれます。ですから塗料代だけです。外に頼んだら、そりゃ敵《かな》いません」  と大内さんは言ってから、これを見てくださいとバンデルツィーベン社製の木造客車の窓を指さした。 「一つ一つの窓の幅がちがいますでしょう」  そう言われて見ると、なるほど、少しずつ寸法がちがう。意図的に寸法を変えたのではなく、手仕事の成り行きで、さまざまな窓幅になったらしい。 「これ、修理したばかりなのですが、一つずつ寸法に合せて板やガラスを切らにゃなりませんでした」  そう言って大内さんは苦笑した。  保存車両も現役車両も、すべて古めかしく、半世紀も昔に戻ったような加悦駅構内であったが、一両だけ新しいディーゼル車がある。新しいと言っても、国鉄から最近買い入れた中古車である。 「加悦鉄道といいますと、SL広場とか、古さだけが強調されますが、こうして新しい車両も入れておるのです。一二月五日の創業記念日から使おうかと思っております。加悦鉄道も、せいぜい気張ってやっているのですよ」 「新しい車両を買い入れたとすると、加悦鉄道は当分大丈夫ですね」 「ええ、鉄道部門は赤字ですが、他の部門の業績がよろしいので」  そう言って大内さんは会社の業績を説明してくれた。売上高の比率は、堤防造成や架橋などの土木部門が三九パーセント、京都支社での貸切観光バス部門が三六パーセント、トラック部門が一六パーセント、鉄道部門五パーセント、その他が四パーセントで、鉄道以外はすべて黒字だという。 「社員は全部で九七名ですが、鉄道関係は一四名です。五パーセントの売上げに対して一四名では多過ぎることになりますが」  と大内さんは言うが、国鉄なら二〇人は抱えこむにちがいない、と私は思った。  日がさしたかと思うと、また翳《かげ》る。雲間からもれる光で大江山がまだらになっている。 「うらにし」という言葉が丹後にはある。一一月ごろから吹きはじめる季節風のことである。この湿った西北風が丹後地方を雨とみぞれと雪で閉ざす。けれども、「うらにし」の運んでくる湿気が丹後縮緬の独特の風合《ふうあ》いを生み出すのだという。  加悦鉄道を辞して町を歩いてみる。格子戸の家や土蔵の多い古い町並みである。  あちこちから織機の音が聞えてくる。  民家から聞えてくる機織りの音というと、あの素朴で切ない「夕鶴」の世界を思い浮かべる人もあるだろう。しかし、いまはそうではない。一台何百万円という自動織機が三台も四台も同時に動いているから、ガチャガチャ、ガチャガチャ、相当な騒音である。あの繊細な縮緬とは異質な音だ。  丹後と絹織物とのかかわりは古く、天平年間に「〓《あしぎぬ》」を朝廷に献上したとの記録が残っている。しかし、丹後縮緬の歴史は、さして古くなく、享保年間(一七一六—三六)に峰山町の絹屋佐平治が京都西陣の機屋に奉公し、秘法とされていた糸撚《いとよ》り、糸口の仕掛け、絞りの出し方の技術を盗むようにして学び取り、丹後に持ち帰ったのにはじまるという。佐平治は丹後縮緬の始祖、恩人と仰がれ、その碑が峰山町の町はずれにある。 『女工哀史』(大正一四年)を書いた細井和喜蔵は加悦町の生れで、その生家がいまも残っている。  戦後は縮緬どころではない時代がつづいたが、昭和三六年から着物ブームがはじまった。好況は昭和四八年のオイル・ショックまでつづいた。この間に織機は自動化され、それまでは丹後全体で九千台程度だった織機数が四万台を越えた。一五〇億円だった生産高は二二〇〇億円に達した。自家用車の所有率は一戸当り〇・九台の高率となり、子弟は続々と京都や大阪の大学へ進学した。  昭和四八年末から不況がきた。韓国製の安い縮緬が輸入されるようになった。しかも、着物ばなれが目立ってきた。「若い娘さんに五〇万円渡してごらんなさい。着物なんか買いやしません。みんな外国旅行ですわ」と、丹後織物工業組合の田中正弘さんは嘆いた。  生産過剰で価格は低迷し、京都室町の問屋に買い叩かれても丹後の主婦たちは織りつづける。耕地を捨てて機織り専業になった家では、安くても何でも織りつづけなければならない。朝七時になると、もう織機が動き出す。そして夜の八時までつづく。 「せめて朝は八時から、夜は七時までにしなければということで説得に歩くのですが、なかなか徹底しません」  と田中さんは言った。  機織りの現場を見たいと思い、加悦町役場産業商工課の和田浴《ゆあみ》さんを訪ねた。和田さんは快く案内してくれた。  最初に訪れたのは山元貞義さんのお宅であった。二〇平方メートルぐらいの作業場に二台の織機が備えられ、夫婦背中合せで機械に向っていた。いずれも帯で、ご主人は複雑な文様を織っており、華やかな御所車が半分ほど姿を現わしていた。このくらいの文様になると、絶えず機械を止めては色ちがいの杼《ひ》をさしかえねばならないから忙しい。一本織り上げるのに丸二日かかるという。奥さんが織っているのは無地で、こちらは一日あれば十分とのことであった。それにしても根気のいる仕事だと思う。しかも絹糸は細いから眼が疲れるのだそうだ。  山元さんが織っているような高級帯になると、後継者が育たないという。後継者の問題は丹後縮緬業界の悩みになっている。 「一日じゅう立ちづめの、こんな仕事ぶり見てたら、後継ぐ気になれないのでしょうな。機業のおかげで京都の大学へ行かしてもろてるんやけど」  と山元さんは言った。  つぎに訪れたのは明是《あかぜ》徹男さんの経営する工場であった。ここでは撚糸から織り上りまで、縮緬の工程を見ることができた。  縮緬はタテ糸には普通の糸を使うが、ヨコ糸には強い撚りをかける。これによって独特のシボができるわけだが、その撚り方はきわめて複雑である。まず一本の糸に一メートル当り三千回ないし四千回の右撚りをかける。糸巻きを回転させながら軸の方向へ徐々に巻きとっていけば撚りがかかるという仕掛けは簡単だが、糸は細いし、撚りの回数が多いので、直径七センチの糸巻き一個を巻きとるのに一週間かかる。いっぽう、別の糸には左撚りをかける。そして右撚り左撚り二本の糸をかけ合せる。私が明是さんの工場で見たのは以上のようなものであったが、撚りの回数を変え、糸のかけ合せを変えることによって、それぞれ風合いのちがう縮緬が生れるのだという。  織機にはジャカードが仕掛けられている。ジャカードとは考案者のフランス人の名をとったもので、タテ糸を単純に上下させず、ヨコ糸を巻いた杼が一回通過するごとに一本一本のタテ糸に、上れ、下れ、休め、と指示し、これによって文様を織り出すのである。小穴の無数に空いた厚紙が鎧《よろい》のようにつながり、それがパタンパタンと回転して、自動ピアノの「楽譜」がキイを操作するようにタテ糸を操っているのだが、ピアノのキイよりタテ糸の数は格段に多いから複雑怪奇で、これは見ないとわからない。  このジャカードは京都の西陣から送られてくる。丹後縮緬の名は高いが、それは生地に関してであって、デザインは京都の領域なのである。  とにかく、こうして織り上るのだが、この段階では、まだ縮緬とは言えない。帯芯《おびしん》のようにゴワゴワし、色も淡いあめ色をしている。生糸に含まれている動物性蛋白質《たんぱくしつ》や脂肪分などのためである。これを取り除く工程を「精練」といい、丹後地方に四カ所ある組合直営の精練工場へ送られて、煮たり洗われたり乾したりされて、ようやく丹後縮緬になる。精練工場では品質検査もおこなわれ、合格印あるいは不合格印が捺《お》されて、もとの機屋に戻ってくる。  織機の騒音のなかで、ややこしい話を聞き、頭がくらくらする思いで明是さんの工場を辞すと、もう夕方で、加悦谷は底冷えがしていた。  役場の宣伝カーが「熊が出ましたから注意して下さい」と言いながら走っている。今年は冷夏の影響で山の木の実が少なく、冬眠まえに餌を求めて人里近くまでやってくる熊がいるのであろう。  翌朝、早起きして丹後山田駅へ行った。7時43分着の宮津線の下り列車で行商のおばあさんが一人降りてくる、そして加悦の町を売り歩く、機を織る主婦たちは忙しくて買い物に行く時間も惜しいほどなので、このおばあさんは重宝されている、と聞いたからであった。  下り列車が到着すると、はたして一人のおばあさんが降りてきた。二つの包みを二段に重ねて背負っている。そのうしろから二人の女性が、一つずつ包みを持って付き添っている。  おばあさんは、前かがみでホームをゆっくり歩く。加悦鉄道の発車時刻は7時45分で、わずか二分しかないが、運転士も車掌も、先きに乗りこんだ乗客たちも、みんなおばあさんが乗り換えてくるのを、のんびり待っている。  二人の若い女性は車内にそれぞれの包みを置くと引き返し、改札口を出て行った。出勤途次、おばあさんの手助けをするのが毎朝のならわしになっているらしい。しかし、加悦に着いてからはどうするのだろうか。とても一人で持てる荷物ではない。  加悦鉄道の一両のディーゼルカーは、例の横揺れで走った。  おばあさんの名は増井かつさん、七四歳、もとは機織りだったが、ご主人が亡くなってから、もう三〇年以上も行商をやっている、とのことであった。  加悦に着くと、待機していた中年の男性が荷物を手押し車に積み上げる。妹の旦那さんが毎朝こうして迎えに来てくれるのだそうだ。  増井かつさんの商売は駅からはじまった。まず駅員が菓子パンを買う。ベンチに坐っていたおばあさんが、太い武骨なチクワを「孫がこれが大好きでなあ」とつぶやきながら七本買う。  手押し車を押したりしながら、おばあさんといっしょに加悦の町をしばらく歩いた。立ち寄る家では主婦が機織りの手を休め、何かしら買った。商品はすべて食料品であるが、きわめて多種少量で、何でもある。その代り、いろいろなものがゴッチャになっているから注文の品を探し出すのは容易でない。最初の家で油揚げの注文があり、二人で一所懸命探したが見つからなかった。あまりかきまわしたからハタハタの臭気をカステラに移したかもしれない。けれども、それほど探して見つからなかった油揚げが、二軒目の家で包みを解くと、どこからともなく出てきた。  おばあさんと別れてから、もう一度、加悦の駅に立ち寄ってみた。「SL広場」に竹箒を持った大内常務の姿が見えた。 また旅の日々——    SLと蒸気機関車  蒸気機関車には、ずいぶんお世話になった。子どものころから人の何倍も鉄道が好きで、何かにつけて乗りに行き、乗れないときは見に行った。そのほとんどは蒸気機関車であった。  戦中戦後の混乱期には炭水車の上に乗ったこともある。機関助手がショベルを突っこむたびに石炭の山が徐々に崩れ、足もとが覚束《おぼつか》なくなったのをおぼえている。機関士と助士との荒っぽい言葉のやりとりのなかに、兄貴分と弟分との温かい心が通い、これでこそ汽車は走るのだな、とも思った。  とくに印象的だったのは、昭和二〇年八月一五日、終戦の日である。たまたま当日、私は山形県の今泉におり、駅前広場で天皇の放送を聞いた。拍子抜けと安堵《あんど》と半信半疑で虚脱状態になり、時が止まったようにポケッとしていると、蒸気機関車が今泉駅のホームに入ってきた。蒸気を吹き出し、ドラフトを響かせ、逞《たくま》しく動輪を回転させる姿は、いつもと変りはなかった。変れと言っても変りようないことではあるが、時が時だけに、その変りない態度が頼もしかった。国は敗れても蒸気機関車は平然と走っていたのだ。  かように、いろいろ思い出があって、なつかしさも人一倍である。蒸気機関車が消えてゆくにつれ、それを懐かしみ惜しむ人たちによってブームが起り、写真集の出版、静態保存や動態保存、さらには復活運転などが積極的におこなわれているが、好ましいことと思っている。  ただ、ひとつ、なじめないことがある。それは「蒸気機関車」の呼称が、いつのまにか「SL」(Steam Locomotiveの略)に変ってしまったことである。 「火車」「蒸汽車」「陸《おか》蒸気」として日本に現れた石炭を燃料とする動力車は、まもなく「蒸気機関車」の名で定着した。そして、日本の近代化、さらには軍国主義をも牽引《けんいん》してきた。勾配《こうばい》を苦しみながら登り、私の眼に石炭滓《かす》を飛びこませたのも、蒸気機関車であった。それ以外のものではなかった。  ところが、それが「SL」になった。あの重厚にして鈍重、そして時代遅れになった老機を、なぜ、そんなハイカラな呼び方をしなければならないのかと思う。オレの頭その他に毛は生えているが、ヘアなんぞ一本もないぞ、とでも言いたいような気持である。  そういう次第で、戦時中の国粋主義者に似てくるが、頑固に「蒸気機関車」あるいは「蒸汽」「蒸機」と言ったり書いたりしている。若い人と話すときも、 「おじさん、山口線のSL列車に乗ったことある?」 「乗ったことあるよ。だけど、エスエルって呼び方はキライだな」 「……」  といった調子でやっている。そのうちに若い人たちから相手にされなくなるかもしれない。  けれども、蒸気機関車など、もうどこにもないのではないかとも思うようになった。  全国各地に蒸気機関車が保存されている。それ自体は結構なことだが、艶《つや》のある錆び止めのペンキを塗られ、柵《さく》のなかに身動きできずに鎮座している蒸気機関車を見ると、剥製《はくせい》の熊を連想する。それは死骸《しがい》であって、迫力がない。痛ましささえ感じる。私たちが畏怖《いふ》と憧《あこが》れの眼をもって凝視した蒸気機関車とは別のものである。これなら「SL」と呼んでも抵抗はない。  大井川鉄道や国鉄の山口線には、観光用として蒸気機関車が走っている。煙を吐き、蒸気を吹き出すから見ごたえはあるが、煙突の上に防煙装置を取り付けたり、いろいろ加工されている。炭水車に積んであるのも石炭の塊ではなく、一口最中《もなか》のような練炭である。動物園の檻《おり》のなかで飼い慣らされた熊のようで、昔日の逞しさは感じられない。  つい最近、ニュージーランドで保存鉄道に乗った。ファンたちが廃線になった鉄道を譲り受け、休日に蒸汽列車を走らせているのである。機関士をはじめ、車掌、保線係、踏切番等々、すべてが素人で構成されているのだが、それぞれ、なかなかのベテランで、運転ぶりにもソツがなく、それが羊の群れを追い散らしながら牧草地を走る。そこには、のどかな国の大らかさがあり、私はすっかり羨《うらや》ましくなった。けれども、やはり、走っているのは蒸気機関車ではなく、玩具と化した別のものであった。 「蒸気機関車」は、すでに使命を終えて消え去ったのだ、残っているのは「SL」なのだ、とでも言えば、気持の辻褄《つじつま》が合うような気がする。    トンネル三題  汽車に乗ると、窓外ばかり眺めている。そして、川こそ道の母なのだと、いつも思う。  列車が平野から山間部に入ると、川沿いになる。いつのまにか道路も寄り添ってくる。国道の場合もあれば県道、あるいは人道だけのこともある。谷が狭まってくると、道路と鉄道は河岸のわずかな平地を奪い合うようにして、もつれ合いながら進む。母親に手をひかれた幼い姉妹のようだ。  谷が深まり、流れも急になってくると、まず鉄道が川沿いのルートをあきらめ、分水嶺の長いトンネルに入る。入口で鳴らす警笛は坑内で働く保線係に列車の進入を知らせるためであるが、ここまで自分を導いてくれた川への別れの挨拶とも聞える。  地図を見ると、急坂に強く排気ガスに弱い自動車の道は、山肌を巻いてから短いトンネルで抜けている。昔からの人道は、流れをどこまでも遡《さかのぼ》って、最後に峠を越えている。  列車がトンネルに入ると、いつも思う。この上を歩いて越えたとしたら何時間かかるのだろうかと。時間の問題ではないかもしれない。雪が深ければ越えられないし、はじめから道などないかもしれない。しかし列車は、五分か一〇分でトンネルを抜けてしまう。  明治のはじめ、イギリスから鉄道とともにトンネル工法が導入されていらい、日本の道は変った。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という旅が日常のこととなった。そして日本は、近代的統一国家として一色に塗りつぶされていった。  トンネルに入ると、その上を歩いて越えてみたい衝動に駆られる。その衝動は、体力に反比例して強くなるようだ。    *  電車に乗ると、つい先頭車のいちばん前に立つ。前方が見えておもしろいからである。  いい齢をして子供みたいだと言われそうだが、吊革《つりかわ》につかまって片側だけ眺めているより格段におもしろいのだからしかたがない。  けれども私だけではない。もちろん、そういうところに立つのは少年が大半であるが、大人も少なくない。もっとも、年配の紳士は少年のように窓に額を押しつけて前方を凝視したりはしない。たまたまその位置に乗り合わせたように何気ない振りで立っているが、眼は一心に前方を見ている。運転士の気分を味わい楽しんでいるにちがいない。同類のことはおのずとわかるものである。  ただし、電車のいちばん前に立って前方を見たがるのは、老若を問わず男に限られているようだ。女性は皆無といってよい。  女性が鉄道に興味を示さず、したがって共に語り合う機会のないことは、鉄道ファンの一人として淋しい限りであるが、とにかく少年たちや少年的大人といっしょになって前方を見ていると、退屈しない。  何がそんなにおもしろいかと訊ねられても困るけれど、運転席にハンドルがないのにカーブにくれば電車は自然に曲がって走るではないか。  とりわけおもしろいのはトンネルである。トンネルは遠くから見ると口径がじつに小さい。あんな小さな穴にこの大きな電車がはたして入るのだろうか、というふうに見える。もちろん無事に入るわけだが、突き刺さるように闇の中に突入する瞬間は胸がときめく。これは私だけではないらしい。トンネルに入るとき、先頭部に立つ人びとの関心が高まることは気配でわかる。そ知らぬ風に立っていた紳士も、このときだけは顔を前方に向ける。  男とトンネル、そこにフロイド流の解釈をほどこす人がいるかもしれない。たしかに、ゴルフにしろパチンコにしろ、男が考え出した遊びには、タマが穴に入るものが多いようだ。しかも、トンネルは生きもので、掘るときは山を怒らせないようになだめすかしながらやらねばならぬそうだし、何十年も使っていると齢をとって崩れてくるという。そうなれば、新しいトンネルを掘りなおさなければならない。汽車に乗って車窓に注意していると、廃棄されたトンネルをあちこちで見かけるが、トラックに積んで捨てるというわけにもいかないから、放置され、不気味な口をあけて草むしている。大いに気になる。  大の鉄道ファンで『阿房列車』を書いた故内田百〓先生は、きわめて男性的な、ニガ虫を噛《か》みつぶしたような怖い爺さんとお見受けしたが、やはり廃棄トンネルには強い関心があったようで、何とか再利用の方法はないかと考えあぐねた末、とうとうあきらめ、「口惜しかったら井戸の穴を背負って来い」という郷里の喧嘩《けんか》ことばを引用している。  この爺さまは、よほどトンネルが好きだったのか、「レンコンは穴がうまい」ともおっしゃっている。    *  帝都電鉄(現在の京王帝都電鉄井の頭線)が開通したのは昭和八年八月一日、私が小学一年生のときであった。  当時、私は渋谷に住んでいたので、さっそく乗りに行った。一度乗ると病みつきのようになり、たてつづけに何回となく乗った。渋谷には山手線のほかに東横電鉄、玉川電鉄、さらには市電もあって、鉄道には恵まれていたが、それらのなかで新開通の帝都電鉄が断然おもしろかった。帝都電鉄にはトンネルが二つもあったからである。しかも、渋谷駅のホームの端に立つと眼前に単線トンネルが二本、口を開けており、それを抜けると、すぐつぎのトンネルがあるというぐあいで、渋谷から子供三銭の最短切符を買えば、二つのトンネルを堪能できるのであった。当時の運転席は前部の左隅に小ぢんまり収まっていて、右半分は最前部まで客に開放され、そこに立つか坐るかすれば、運転士とおなじ眺めが満喫できた。  トンネルに入ると、開けた窓から冷気が入って心地よかった。もっとも、トンネルのすぐ上は人家が建てこみ、頬や腕に当たる水滴には臭気があって、清潔なトンネルとはいえなかったが、私は友だちを誘い、ときには一人で帝都電鉄に乗りに行っていた。  自分の鉄道旅行歴をふり返ってみると、いまさらのようにトンネル志向の強いのに驚いてしまう。東海道本線、中央本線、上越線、仙山線等々に乗ったのも、さらには、戦時中の「国禁」を犯して九州まで「不急不用の旅」に出かけたのも、いずれもトンネルのためであった。丹那、笹子、清水、仙山、そして関門の各トンネルが私を惹《ひ》きつけてやまなかったのである。昭和三六年に私ははじめて外国へ行ったが、最初に乗ったのはジュネーブからミラノまでであった。この区間には世界最長のシンプロン・トンネルがある。  トンネルを歩いて抜けてみたこともある。戦前は列車本数が少なく、短いトンネルならば列車に出合うことはまずなかったし、たまに遭遇しても、壁に張りついてさえいれば、列車が急停車することも、機関士に怒鳴られることもなかった。  戦後は人権や人命が尊重されるようになり、トンネル内を歩くことも難しくなったが、そこはよくしたもので、ときどきストライキというものがある。このときだけは胸を張って歩いた。  当然ながらトンネルを歩いてみると、いつも呆気《あつけ》なく通過してしまうトンネルが長く感じられる。しかも暗い。すこしでもカーブしていると真の闇となり、片足でレールをトレースしていないと進めないほどになる。光が直進すること、そして直進しかしないものであることを痛感させられる。  トンネルと鉄橋は鉄道のハイライトであろう。男の子なら誰しも興味をもつ。しかし私はとくにトンネル志向が強いようだ。精神分析を受ければ、母胎回帰、あるいはもっと性的な解釈を下されるかもしれないと思っている。じっさい、電化などによって新しいトンネルが掘り抜かれ、明治いらい長い勤めを果たしてきた老朽トンネルが無用の長物となって線路を撤去され、黒い口を虚空に向けて開いているのを見ると、未亡人を見る思いがする。  分水嶺の長いトンネルを抜けていると、この上の峠道を歩いてみたいと思うことがよくある。本当は、先きに峠越をし、そのあと汽車で一気にトンネルを抜けたらどんなに感動することか、それを体験してみたいのだが、それができない以上、せめて順序を逆にしてでも、ということなのである。明治から昭和初期にかけて各地に続々と鉄道が敷設されていた頃は、そうした感動に身をひたした人たちが多かったにちがいない。不幸にして私は遅く生れすぎたために、その経験がない。  昭和四六年八月二九日、只見—大白川間の開通によって只見線が全通した。たまたま私は当日の記念列車に乗った。只見を発車した列車が長いトンネルを抜けて、左窓に田子倉ダム湖の眺めが展開したとき、満員の車内に驚きの叫びがいっせいに上り、人びとは肩を叩き合って泣き笑いした。歩けば何時間もかかる山道であり、積雪時には通行不能になる難所を、列車はわずか一〇分で只見の人たちを運んだのである。涙声の大歓声に包まれながら、私は疎外感にひたらざるをえなかった。私は国鉄のすべてのトンネルを一度は通ったことのある人間ではあるが、只見の人たちに匹敵する感動を喚起してくれるトンネルは一つもなかった。だから順序は逆でも、せめてトンネルの上の峠道を元気なうちに歩いてみたくなるのであろう。  それにしても、トンネルの有難味も価値も下ってしまったものだと思う。用地の高騰と買収の困難、騒音問題など、平地に鉄道を敷こうとすれば幾多の難関が立ちふさがる時代になったのにひきかえ、トンネル掘りの技術が格段に進歩したから、ルート選定における価値観が逆転してしまったのである。  山陽新幹線に乗っていると、線路が山に引き寄せられていくような気がする。在来線は、ひたすら山を避け、よくよくの場合のみトンネルに入るが、新幹線は、ちょっとした丘陵を見つけると大喜びでそのなかにもぐりこむ。東北新幹線のルートを見ると、その傾向は一層顕著なようである。戸田—大宮間の用地取得が難航したのも、もぐりこめる山がないからだ。世の中も変ったものだと思う。これでは、いくら私でもトンネルへの興味を失わざるをえない。  ただ、ひとつ、青函トンネルが残されている。青函連絡船が消えるのは淋しいが、このトンネルは只見の人たちと同じ感動を私にあたえてくれそうに思われる。齢はとりたくないが待ち遠しい。    陽気な睡魔  睡魔というのがいて、眠るべきでない時と場所で人を眠らせる。  音楽会、教室、会議室などにはよく出没するが、ときには車の運転席にも現われる。さきごろは国鉄中央西線の鈍行列車を牽引していた電気機関車の運転士にとりつき、駅のないところで列車を停めてしまった。通りかかった警官が、変なところに列車が客を乗せたまま停車しているので、不審に思って機関車に近づいてみると、運転台に睡魔が一匹いたので、さっそく叩き出したという記事が新聞に載っていた。  いまの鉄道にはATS(自動列車停止装置)が備えられていて、運転士が居眠りをしていても赤信号の場合は自動的にブレーキがかかるようになっているから、追突の心配はないが、わるいいたずらをするものである。  自動車にはATSがないから気をつけてもらわないと困るが、そういう悪戯《いたずら》をするわりには、睡魔なるもの憎めないところがある。少々ちゃらんぽらんだが、根が健康で陽性なのだろう。  私が睡魔に対して好意的なのは、私とおなじように汽車が好きらしいからでもある。  汽車に乗っていて私がいつも不思議に思うのは、乗客が昼間からよく眠ることである。乗客にとって汽車に乗っている間は無用で退屈至極な時間らしいから、眠って過ごせれば申し分ないのかもしれないが、それにしてもみんなよく居眠りをする。適度に揺れるからでもあろうが、どうも汽車好きの睡魔たちがわんさと乗りこんでいて、眠り薬の炭酸ガスをさかんに吐き出しているようにも思われる。  いっぽう、睡魔とは正反対のことをする魔物もいる。いまだに誰も名前をつけてやらないのは、嫌われ者だからかもしれない。学校では優等生だったろうし、神経質でもあり、酒も飲まぬらしい。このほうは睡魔とちがって陰性のようである。  私は優等生でも神経質でもなく酒は大好きだから、不眠のほうの魔物とは縁のない人間であるけれど、ただひとつ、寝台車に乗っているときだけは、これとつき合わされてしまう。列車の振動や線路の継ぎ目の音がうるさいからではない。列車が走っているがために、いろいろ気になるものが去来して眠れないのである。  なにしろ私は、鉄道の時刻表を見るのが好きなので、どの列車と何時何分何秒ごろにすれちがうか、といったことに関心が向かう。つい寝台車の中でも時刻表を開き腕時計を見てしまう。上下列車が定時で運転されていれば、ほぼ私の推定時刻どおりにすれちがう。やった、と膝《ひざ》など叩くから眼が冴《さ》える。はずれればどうしたのかと気になる。それがくりかえされるから、なかなか眠れない。  そのうちに空が白む。そして昼過ぎになると、いつもなら窓外の風景と時刻表を飽かず眺めて居眠りなどしない私のところにまで、陽気な睡魔がやってくる。    風景と非情と  旅行が人一倍好きで、日本全国をあちこちしているうちに、風景の見方が変ってきた。  きれいだ、美しい、旅情がある、と気楽に言ったり感じたりしてきたけれど、それでいいのか、というふうにである。  それに気がつくことの、あまりの遅さに、われながら恥じ入っているのだが、たとえば雪国。  私は冬の北国が好きである。雪に埋もれた民家、流氷に港を閉ざされ、陸に引き上げられた漁船、そして鄙《ひな》びた温泉宿での雪見酒等々、どれも素晴らしい。人通りが絶えて凍てつく夜の町をさまようのも好きだ。冬の北国へ行くと、旅の喜びが、ひとしお強く湧《わ》いてくる。  そのこと自体、まちがっているとは思わない。お金と時間と、いずれは体力と、それらが許すかぎり、冬の北国への旅は欠かしたくないと思っている。  けれども、その土地に住む人にとって、雪とは、そして流氷とは何なのか。言うまでもなく迷惑至極なものである。もし、これらが人為的な迷惑であれば大公害として補償の対象になるだろう。  雪国の生活と伝承を描いた名著『北越雪譜』(天保六年=一八三五、初編刊)のなかで鈴木牧之《ぼくし》は吹雪についての項で、こう書いている。 「暖地の人花の散《ちる》に比《くらべ》て美賞する雪吹《ふぶき》と其異《そのことなる》こと、潮干に遊びて楽《たのしむ》と洪濤《つなみ》に溺《おぼれ》て苦《くるしむ》との如し。雪国の難義暖地の人おもひはかるべし」  暖地に住む私としては返す言葉がない。スキーを楽しむ暖地の坊っちゃん嬢ちゃんを見たら、牧之はどう思うだろう。「かまくら」などの雪国の行事も、すっかり観光化し、それが地元の経済にいくらか貢献していることは事実だろうが、ほんらいは雪に閉ざされて冬を過さねばならぬ北国の人びとが、せめてもの楽しみを求めて考案した生活の知恵だったのである。  雪や氷だけではない。日本の名山の多くは火山であり、その姿は美しいが、これまた迷惑かつ物騒な存在で、時に大量殺人をおこなう。浅間山は天明三年(一七八三)に大爆発を起して嬬恋《つまこい》村の人たちを千余人も殺した。しかし、その悲劇の跡は「鬼押出し」という観光地になり、信越本線の特急の愛称名は「あさま」である。そのうち、また爆発して、軽井沢の別荘地をポンペイにするかもしれない恐ろしい山なのだが。  慢性的に迷惑なのは桜島で、降灰のため、洗濯物を戸外に干すことができない。地味も痩《や》せている。  にもかかわらず、浅間山も桜島も観光資源であり、画家は好んで描く。私にしても、鹿児島を訪れて、桜島の噴煙が少ないと物足りない気がする。    ビジネスホテル考  ローカル線の小さな駅の前に「旅館」を見かけることがある。土地の人しか乗り降りしない駅である。客がないのであろう、二階の雨戸がしまっている。  淋しい漁村のはずれに、小ざっぱりした「旅館」がひっそりと建っている。客の気配はまったくなく、わずかな洗濯物が干してある。家族のものであろう。  昼間の車窓から見るかぎり、あれで商売が成り立っているのだろうかと思う。  けれども、成り立っている。「旅館」の看板を掲げているから、ついこんなところで泊る旅行者がいるのだろうかと心配するのだが、じつは地元の人たちのための集会所であり割烹《かつぽう》業なのである。  夜の七時か八時ごろ、終着駅の田舎町で降りて、「旅館」の灯りをたよりに玄関に立ってみると、昼間とはうって変って賑《にぎ》わっている。「ごめんください」と大声で怒鳴っても、歌声と手拍子の音にかき消されて、女中もおかみもすぐには出てきてくれない。  ようやく現れても「あら、お泊りですか」などと言う。旅館であるから部屋へ案内してくれるし、宿帳なども持ってくるが、腹がすいたと言うと、「まあ、お客さん、お食事まだだったんですか」と困ったような顔をする。  こう書くと、いかにもサービスのわるい旅館のようだが、そうではない。反応が正直なだけなのである。だから、もう板前が帰ってしまったので、と恐縮しながらおかみさんが手料理をつくってくれたりする。宴会が終り、喚声が玄関から夜道へと遠ざかって行けば、昼間のように静寂になり、よく眠れる。  考えてみれば、大都市のホテルなども似たようなものだ。一流ホテルになるほど客室部門よりもパーティーやレストランの売上げのほうが多くなるという。  その点、最近とみに増えてきたビジネスホテルは客室部門専業である。小さなレストランやバーなども付随していて地元の人たちの社交場にもなっているが、主力は客室である。  ビジネスホテルが増えたのは、気楽で安価だからであろう。日本式旅館は二食付が原則で料金は高くなるし、夜おそく帰ってくれば玄関脇のくぐり戸の呼鈴を押して、すみませんなあ、などと言わなければならない。ホテルならばその気兼ねはいらないが、政府登録、日本ホテル協会加盟といった本格ホテルとなると室料は高いし、よそよそしい。チャックがしまらなくなった人工皮革のボロ鞄《かばん》などをボーイに恭しくひったくられて部屋まで案内されるのも好ましくない。  私も、最近はビジネスホテルを利用することが多くなった。国鉄のB寝台券より若干安い室料を前金で支払い、代りに鍵《かぎ》を受けとれば、あとは何の気遣いもいらない。廊下に罐《かん》ビールなどの自動販売機が備えてあるのも便利である。  かようにビジネスホテルは手軽で重宝なのだが、これにも欠点がある。  旅館やホテルにかぎらず、都市の規模によって業種の分化の度合いが異なる。大都市では細分化されることが小さな町では未分化である。小都市で寿司専門の店を探すのはむずかしい。たいてい鰻屋《うなぎや》と天ぷら屋を兼業している。私は鰻が好きだが、あの臭いを嗅《か》ぎながら寿司をつまみたくない。寿司だけの店はないかと探しても、なかなか見当らない。  大都市にはお二人様専用の旅館がかならずある。人口五〇万以上か一〇〇万以上かは、その方面の専門家でないからわからないが、だいたいそのあたりが境である。これに対し、中小都市では専門分化を促進するだけの量的需要がないから、その部門はビジネスホテルが兼業する。大都市の一流ホテルでも、ある程度の兼業はしているであろうが、専門店街のある大都市とそれのない中小都市とでは、兼業のウェイトがちがう。中小都市では兼業か本業か判然としない場合もある。  その割合いは曜日によって異なるのではないかと思うが、おなじビジネスホテルに幾日もつづけて泊った経験がないので、たしかなことは言えない。しかし、私以外に一人寝の客ははたしているのかしらんと、淋しい思いをしたことは幾度もある。  ホテルの防音では水洗設備が泣き所と言われる。排水管が共用であるために隣室や階上の水洗の音が伝送されてしまうからである。各室ごとに専用の排水管を備えれば静かになるが、設備費はかかるし、もっとも故障しやすい個所であるから維持費もかさむ。しかも、ビジネスホテルにおける浴室と寝室との間仕切りは概して薄手に出来ている。  水洗の音で眼をさます。朝かと思って時計を見ると、まだ午前一時である。二人客は一般に浴室の使用時間が遅い。  それらしき気配のしてくることもある。これは排水管からではなく、壁を通してである。廊下の向うの部屋から嬌声《きようせい》が聞こえてくることもある。  こういうときは罐ビールを飲みたくなる。立ち止まって聴き耳をたてるような真似はいやしくもしないが、耳は澄んでいる。罐ビールも一本ではすまない。そのたびに廊下を往復する。  ビジネスホテルに泊ると、しばしば寝不足になる。私の耳の感度が人一倍よく、かつ身心ともに若いからだと思っているが、そうではないと言う人もいる。    君臨すれども  私はよく一人旅に出る。四〇年らいそうしてきている。結婚してからも変らない。子供が生れてからは、なおのこと変らない。  女房も、亭主は一人で旅に出るものと思っている。 「今晩から出かけるぞ」 「いつ帰るの」 「まだわからない」 「あ、そう」  それだけである。行先きを訊《たず》ねもしないから、留守中に電話がかかってきても、 「旅行中です」 「いつお帰りですか」 「わかりません」 「どちら方面へ旅行ですか」 「さあ」 「……」  というぐあいらしい。  じつにうまく仕込んだもんだなあ、と電話の相手は感心する。しかし、仕込んだ覚えなどまったくない。はじめっからそうなのである。厳としてそうなっているところへ、女房があとから参加したのだから、当然と言えば当然なのである。  したがって、空気のごとく自然で、ちょっとのことでは揺るがない。  たとえば、最近、そのちょっとしたことが起った。私が旅行記を書きだしたからである。いずれも閑さえあれば女房子供を置きざりにして一人旅に出る話ばかりであったから、非難と羨望《せんぼう》と煽動《せんどう》の的となった。  私に対しては、 「よく奥さんが黙っていますな」  であり、女房に対しては、 「よく黙っていられるわねえ」  なのである。  けれども、お互いにビクともしない。煽動されても女房は一向に啓蒙《けいもう》される気配もなく、恬然《てんぜん》として育児とヨガ体操と友達づき合いに励んでいる。相手が攻めてこない以上、こちらも守る必要がない。守らなくてすむから憲法も不文律も必要としない。相変らず、 「ちょっと行ってくるぞ」 「あ、そう」  である。  旅行であるからには外で泊まる。すこしは嫉《や》かぬものか、まんざらモテぬわけでもないんだぞ、と思ったこともある。しかし、そういった心境は、とうに卒業した。  たまには女房を連れて行ってやろうと考えたこともあった。が、これも卒業した。  厳然と君臨する初老の城主は、いまや枯淡の境地なのである。  もっとも、いろいろな見方があるもので、ある女性は私にこんなことを言った。 「あなたの本を読むと、いてもいなくてもいい旦那さんみたいで、そこがとっても面白くって」  一人旅から帰ってくると、女房と二人の娘が楽しそうに食卓を囲んでいる。上の娘は私の椅子に坐っている。三人での一家団欒《だんらん》のさまには欠けたるものがない。    旅と電話  よく旅に出るので旅先から自宅へ電話をかけることも多い。  いまや、日本中のどこからでもダイヤル即時通話、まことに便利である。しかし、便利すぎて、利用する側の私には追いついて行けないような感もあり、ときどき女房とチグハグな会話を交す。  五年ほど前、夜行列車で朝早く延岡に着き、つぎの高千穂線の発車を待つあいだ、駅の食堂に坐って、ぼんやりテレビを眺めていた。すると、画面の下に「ただいま関東地方に地震がありました」というテロップのニュース速報が出た。  関東の地震を九州で速報するからには軽微なものではなかろう、と私は思った。  それで、さっそく東京の自宅に電話をかけた。  市外通話の場合は、ダイヤルを回し終ってからコール・サインが鳴り始めるまで、ちょっと間がある。わずか数秒であろうが、それが長く感じられた。家が倒壊して回線が切断されたのか、と思いかけたころ、さいわいベルが鳴り始めた。  ほっとしたが、こんどは家族が出ない。一家は全滅したが電話だけは無事で、鳴りつづけているのだろうか。  大いに心配になったころ、女房の眠そうな声が出て、 「何かあったの? こんな朝早くから電話して……」  と言った。 「みんな無事か?」 「……」 「地震は大丈夫だったか?」 「九州に地震があったの?」 「こっちじゃない、東京に地震があったのだ」 「地震なんかなかったわ」 「そんなはずはない。たしかにあったのだ」 「あなた、どうかしたの?」 「どうかしてるのはそっちのほうだ」  そのうち、子どもたちも起きてきて、電話口にこもごも出た。そして、口ぐちに「地震なんかなかったよ。パパどうかしてるな」と言った。  私は憮然《ぶぜん》としながらも安心し、予定どおり高千穂線に乗った。  電話の存在は、まったく有難いと思う。けれども、家族は無事だろうかと心配しながらつづける旅のほうが、ひときわ味わい深いのではないかという気もしている。旅行記がだんだんつまらなくなってきたのは電話のせいかもしれないと思う。もっとも旅行記などいくらつまらなくなっても、いっこうにかまわないことではある。    わが家の「フルムーン」切符  上原謙と高峰三枝子のポスターでおなじみの「フルムーン夫婦グリーンパス」が、発売後二カ月半で一万五千枚を越す好調な売れゆきだという。  好調をうかがわせる反応は私の身辺にもあらわれた。二人の未知の婦人から電話の問い合わせを受けたし、中年の婦人記者に会ったときも話題になった。けれども、私に「好調」を感じさせたのは、私事で恐縮であるが、家内が、 「二人で、グリーン車で、七万円なら安いんじゃない? 九州へでも行きたいわ」  と言ったからである。  私の家では、旅行は亭主がするもの、女房は育児とヨガ体操と友達づき合いに精を出すものと厳として決まっている。ひとつには私の旅行が鉄道一点張りの無茶苦茶で、ホテルより寝台車のほうが安眠できると言う始末だから、いっしょに行く気になれなかったのだろう、一度として私も行きたいと言ったことはなかった。したがって私は、男たちの羨望の的であり、人もうらやむ仲なのであった。  その家内が感応したのであるから「フルムーン」切符の発案者は相当な蕩児《とうじ》にちがいないが、それはとにかく、いっしょに行きたいわ、と家内に言われてみると、いつも一人で旅行して多少はすまないような気もしていたから、たまにはそれもよかろうということになった。  それで、さっそく時刻表を開いてスケジュールの作成にかかった。  七万円払えば日本中の国鉄のグリーン車に二人で乗り放題、特急料金不要、通用期間は七日間というのであれば、できるだけたくさん乗らなければ損である。見物や遊山は原則として車窓からに限り、ひたすら乗り通すことにして、まず頭に浮かぶのは新幹線である。速度がはやいから乗車キロが長くなるし、特急料金も高い。計算してみると、東京から岡山まで往復すれば七万一〇四〇円(往復割引乗車券利用の場合)となり、元がとれることがわかった。  東京から岡山往復の所要時間は九時間弱で、東京発6時00分の始発に乗れば一日に二往復が可能である。とすると七日間で一四往復となり、総計九九万四五六〇円分も乗れるのである。  特急料金は乗車距離が短くなればキロ数に比して割高になるので、往復する区間が短いほど「効率」は上る。しかし、あまり短区間では乗換えに時間をとられるので、京都—名古屋間あたりが手頃かと考え、しらべてみると一日八往復が可能で、七日間で五六往復、二人で一往復すれば二万四八〇〇円だから、実に一三八万八八〇〇円となる。  まあ、これは机上の遊びで、私でも実行するつもりはない。  以上のような予備体操をやってから本気で時刻表(昭和五六年一一月号)と取組んだ。グリーン車のない列車は利用しないという条件を課したので、やりにくい面もあったが、ようやく、つぎのようなスケジュールが出来上った。  第一日 東京6・00(新幹線)8・51京都9・20(山陰本線・特急)13・18鳥取14・46(急行)16・54松江=泊  第二日 松江7・04(急行)14・01小倉14・35(日豊本線・特急)16・13別府=泊  第三日 別府7・45(特急)13・23西鹿児島13・55(鹿児島本線・特急)18・25博多=泊  第四日 博多6・00(新幹線)10・41名古屋11・15(紀勢本線・特急)15・13新宮15・46(特急)17・27白浜=泊  第五日 白浜6・50(特急)9・06天王寺(国電)大阪10・18(北陸本線・羽越本線・特急)23・50青森0・35(青函連絡船)=船中泊  第六日 4・26函館4・50(函館本線・特急)9・22札幌11・00(宗谷本線・天北線・急行)17・48稚内=泊  第七日 稚内7・05(急行)13・43札幌15・05(特急)19・24函館19・40(書函連絡船)23・30青森23・58(東北本線・特急)=車中泊  第八日 9・18上野  以上である。  八日目にかかっても、七日目のうちに乗った列車は終着駅まで利用できるのだそうである。これは国鉄広報部に問い合わせた。  総乗車キロは連絡船を含めて六七三四・八キロ。国鉄全線の約三一パーセントに相当する。  問題の運賃・料金のうち、運賃には遠距離逓減制というものがあり、どの駅までで区切って何枚に分けるかがむずかしいのだが、その説明は省略して、一人当り五万一一〇〇円となった。これは案外安い。けれども、特急料金が四万二四〇〇円、グリーン料金が六万三七〇〇円で、総計一五万七二〇〇円。以上は一人当りなので、これを二倍して、三一万四四〇〇円という結果が出た。「原価」が七万円だから、きわめて収益性が高い。  私のスケジュールを見た家内は、意欲を喪失したらしく、わが家の「フルムーン旅行」は沙汰止《や》みになった。    四〇年後の子どもたち 「おとなになったら何になりたいか」  と先生がきく。いっせいに手があがり、当てられた子がつぎつぎに答える。陸軍大将、総理大臣が断然多く、軍人とか大臣、あるいは博士と答える子も多い。  昭和一一年か一二年、私の小学四、五年の頃のことである。そういう時代であった。  大将、大臣と答える子は概して平凡なサラリーマンの子弟で、医者や教師の子は父の職業を挙げるようであった。「大審院の裁判長」と答えたのが地裁の判事の子、「日本郵船の社長」と具体的なのが、その副社長の息子であったことなど、記憶に残っている。  なかには茶目か本気か、あるいは言葉がもつれたのか、 「先生のような先生になりたい」  と答えて、受持ちの先生を苦笑させた子もいた。  特筆すべきは、それらにまじって、 「つばめ号の機関士」  など、鉄道の運転士に憧《あこが》れる子が何人かいたことである。私もその一人であったが、特急のような優等列車ではなく、ただ「電車の運転士になりたい」と答えたような気がする。  全生徒の大志をきき終わってから先生が、みんな偉い人になりたいと思っているのは結構である、と概評を述べ、そのあとで、こんな意味のことをつけくわえた。 「しかし志の小さいのが何人かいる」  私は、鉄道大臣と答えればよかった、と後悔した。  つばめ号などの機関士でなく、電車の運転士に私が憧れたのには理由がある。当時の鉄道はほとんど蒸気機関車であったから、機関士は釜《かま》に遮られて前方がよく見えなかった。電車なら前がよく見える。  私の小学校は組替えがなく、男子ばかりの四十数人が六年間同じ組であったためであろう、卒業後四〇年に及ぶ現在でも毎年の暮れには同窓会が開かれている。  出席者は平均一五名くらいであるが、欠席者の消息も全部わかっており、それによると、医者の子が概して医者になっている以外は、志と現状とはだいぶ違っている。防衛庁関係は一人もなく、大臣はもとより区会議員もいない。「大審院の裁判長」は文芸評論家になり、「日本郵船の社長」は大手電機メーカーの組合委員長をやったりしている。鉄道関係者もなく、私も電車の運転士にはならず出版社に勤めた。  けれども、同窓会で酒をのんでいると、大審院の法衣を着るはずだった文芸評論家のO君は黒白をはっきりさせたがるような物の言い方をするし、喧嘩《けんか》が抜群に強くて、たしか陸軍大将になるはずだったS君は新聞社の地区販売担当にしては、顎《あご》がいかつく張って態度も大きく、それぞれまことになつかしい。  私はといえば、暇があれば鉄道旅行にでかけ、ローカル線に乗ったときなど、運転席の脇の鉄棒にかじりついて、前方を眺めているのである。    また旅の日々——読書日記  昭和五五年一〇月一日(水) 晴  きょうから横須賀線の電車が品川—鶴見間で新線を走ることになった。新線といっても、貨物専用だった品鶴《ひんかく》線を改造しただけであるが、旅客営業キロが一七・八キロ増えた。  品川発17時48分の逗子《ずし》行で横浜まで試乗し、湘南《しようなん》電車で引返してから、こんどは上野発19時50分の寝台特急「ゆうづる1号」で北海道へ向う。あすは北海道に残る唯一のローカル私鉄、三菱石炭鉱業大夕張線に乗る予定である。  B寝台の下段で『おくのほそ道』(岩波文庫)を読む。地方に細々と残る中小私鉄をいくつか拾って乗り、「時刻表おくのほそ道」なる通し題で『オール読物』に連載する予定なのだが、古典をカタるのは懼《おそ》れ多いような気持がしていたからである。それにしても、何たる簡潔な叙述だろう。あれだけの大旅行にもかかわらず、四〇〇字詰原稿用紙四〇枚にも満たない。これでは今どきの旅行作家はとても商売にならぬ。このところ、本を読む動機も感想も実利的でいけない。  一〇月七日(火) 曇  きのうから部屋に積み上げた本をかきまわしている。女房は、ようやく本の整理に着手したかと喜んだらしいが、そうではない。『話の特集』から「楽しい鉄道の本一〇〇冊」を選べ、と言われて、つい引き受けたのである。二〇冊ぐらいならば文句なしに推せるものが即座に浮んでくる。けれども、一〇〇冊まで許容範囲が広がると背丈の同じものがズラリと並ぶ。取捨がむずかしい。著者のなかには顔見知りもいる。本を頂戴したとき、“面白く拝見しました”などと礼状を書いているから、ますます扱いにくい。大仕事である。引き受けるんじゃなかったと後悔しながら本の山をかきまわしていると、ついページを開いて読みはじめる。それは鉄道の本にかぎらず一般に及ぶ。なかなかはかどらない。  読もうと思いながら見失っていた『日本列島地図の旅』(大沼一雄著、東洋書店刊)が出てきたので読む。国土地理院の最近の地図と陸地測量部時代の古い地図とを対比しながら地図の見方や国土の変遷を説いているので、じつに面白い。たとえば新宿の場合、明治一三年、四二年、昭和二〇年、四一年、五一年の五図が並んでいる。一〇〇冊選びはあすに持ち越すことにして読みふける。  一〇月一四日(火) 曇のち台風接近  今晩の夜行で丹後へ行く予定になっている。それで昨夜から『大江山風土記』(八木康敞著、三省堂選書)を読む。「うらにし」(丹後では冬の湿った季節風をこう呼ぶ)の下で鍛えられた丹後人の群像を描いている。著者自身も宮津の出身であり、丹後人を描かずにはいられないといった熱っぽさが伝わってくる。  午後四時から神田で「鉄道の旅」全一二巻の編集打合せ会。編集の仕事は楽しい。六時半に終って外に出ると風雨が強くなっている。台風が房総半島沖を通過している由。入手してある寝台券は東京発21時00分の「出雲3号」のAネ上段、時間があるので飲む。飲んでいるあいだに参加者が増えたりして、ますます気分がよくなり、予定を一時間延長して東京発22時00分の新幹線の終電車に変更する。静岡の手前で「出雲3号」を追い抜くのである。台風が来ているのに両列車とも定刻運転で、無事に静岡から寝台にもぐりこむ。  一〇月二二日(水) 晴  晶文社から電話があり、小池滋さんの『英国鉄道物語』が毎日出版文化賞に決定したので、あなたが書いた書評の一部を帯に使わしてほしい、とのこと。異存ないどころか大変喜ばしい。この本は、一九世紀のイギリス文学を通して鉄道という怪物を描いた好著で、文章ものびやかで屈託がない。視野狭窄《きようさく》になりがちなマニアの本が多いなかで、一般に通用する著作が現われはじめたのは嬉しいことである。つい棚の『英国鉄道物語』に手が伸び、しばらく読む。ひとの本でさえ、こうだから、自分の本の場合は大変だ。読者からの手紙に、あそこがよかったなどと書いてあると、さっそく開いて読む。ついでに余計なところまで読む。自分の本を幾度も読むのは、ほんとうにバカバカしいと思うのだが。ナルシシズムは時間を浪費するものだ。  一〇月二三日(木) 曇  午前中に仕上げるつもりだった原稿が遅れ、午後二時からの国鉄運賃問題懇談会に出席できなくなる。欠席する旨、国鉄に電話する。嬉々として出席しそうな委員が、しばしば欠席するので、意外に思っているにちがいない。  一〇月二七日(月) 晴  東京発7時19分の新幹線で兵庫県の相生《あいおい》に向う。汽車に乗ると窓外の景色ばかり見ている私でも、新幹線の場合は本を読んだり居眠りしたりする。『科挙の話』(村上哲見著、講談社現代新書)を読む。いまこの本を読んでおかねばならぬ事情は何もないのだが、私はこういうドギツイ内容のぎっしり詰まった本が好きだ。幅広く本を読み、それらを巧みに掛け合わせて口あたりのよい著書に仕上げるのを第二次あるいは第三次産業にたとえれば、この『科挙の話』は正に第一次産業である。  相生から鉄道建設公団の車に乗せていただき、工事中断中の智頭《ちず》線の建設現場を見る。開通すれば関西から鳥取への最短経路となる線だが、国鉄財政再建のため今年度の工事費が凍結され、開通見込みが立たなくなったのである。沿線の人たちの悲憤の声を聞き、国民宿舎「あわくら荘」に泊る。  一〇月三〇日(木) 晴  来月五日から北アフリカへ行くので、交通会館に行き、コレラと肝炎の予防注射。    乗り物の本  鉄道の「時刻表」は苦手だという人は多い。あの無味乾燥な数字の羅列を見ると頭が痛くなる、という人さえいる。  その反対に、旅行のあてもないのに時刻表を愛読する人がいる。これほど変わりばえのしない月刊誌は他にあるまいと思われるが、毎月の新刊をかならず購入して読み耽《ふけ》る。見るのではなく「読む」のである。私もその一人だが、同好の士は意外に多いらしい。  大方の時刻表利用者はお気づきにならぬと思うが、交通公社の時刻表の巻末に「クイズコーナー」がある。たとえば昭和五三年一〇月号の出題は「日本一周早回り」で、東京を起点とし鉄道と連絡船だけを利用してすべての道府県に足跡を印して戻ってくる、その最短時間を当てよ、という難問である。とても一日や二日でできる問題ではない。  ところが、これに対する回答者が一万人を越えた。難問だから「四日六時間四二分」という正解者は二四二人であったが、これだって大変な数で、日頃の研鑽《けんさん》のほどがしのばれる。底辺の広がりを推量すれば、時刻表の愛読者は五万人を下らないだろう。  先年、交通公社から『時刻表復刻版』が刊行された。戦前篇六五〇〇円、戦後篇五〇〇〇円という安からぬ価格なのに予約者だけで一万人を越えた。人口一億人以上の国となると変な人間がたくさんいるものだ。もちろん私も購入した。 『国鉄全駅ルーツ大辞典』(竹書房、六〇〇〇円)は刊行後一年で三万部に達したという。五二〇〇余の国鉄全駅名の由来解明に取り組んだ労作だが、従来の出版界の常識からは思い及ばぬ部数である。  書店に行くと、旅行ガイドブックといっしょに鉄道関係の本がずらりと並ぶようになった。時刻表に関するものだけでも、いろいろあり、いずれも版を重ねて書棚から姿を消さない。今年(昭和五四年)三月に刊行された石野哲著『時刻表名探偵』(日本交通公社)はすでに五万部を越えたという。数字に弱い人には無縁な本だけに、相当な部数と言ってよいだろう。  時刻表の周辺に限らず、鉄道関係の出版はますます盛んで、蒸気機関車の写真集が相変わらず店頭を占め、最近はブルートレインがそれに加わった。『鉄道ジャーナル』などのファン雑誌も累積する国鉄の赤字を尻目に部数を伸ばしているという。  私は時刻表の愛読者なので、つい眼も筆もそちらへ向いてしまうが、他の乗り物についての出版も隆盛なようである。それらを眺めていて気づくことは、従来のマニア向け基本図書、つまりカタログあるいは入門書のほかに、マニア自身による「告白」の書が増えてきたことである。近刊を例にとれば斎藤茂太著『とにかく飛行機への情熱』(三笠書房)、柳原良平『「客船史」を散歩する』(出版協同社)などで、いずれも著者は正気の方々だけれど書かれた内容は正気ではなく、だから面白い本となっている。  かく言う私も昨年夏に『時刻表2万キロ』(河出書房新社)という正気でない本を出版した。国鉄全線完乗記という阿呆らしい内容のものであるが、これがお蔭様でよく売れる。自分も全線に乗りたいと思っているが前途遼遠《りようえん》だ、といった読者からの手紙をずいぶん頂戴する。同志が多いから売れるのは当然なのである。けれども「もう八万部になりました」と言うと、多少出版業界に通じた人はみんな驚く。「ベストセラー並みですな」とも言われる。  しかし、趣味の本は、あまりベストセラー欄には登場しない。新聞に広告や書評が載っても一時的にぱっと売れるわけではなく、地味に細く長く売れるからである。 「そういう本を買ってしまうから、まともな本が売れなくなったのですな」  と解釈する人もある。  まともな本、と言われても定義に困るが、一般教養書などを指すとすれば正しい解釈だと言えるだろう。  たしかに、世界○○全集、日本××全集といった、出版社側で作品を選択して読者に提供する型の出版物の発行部数は減少の一途をたどっている。一〇年前には初版五万部の目算の立った企画が、いまでは一万部そこそこになった。代わって文庫判の発行部数が急激に増大した。選択の主体が出版社から読者へ移ったのである。この傾向は出版界のみではない。ファッションでも、かつてのような劃一《かくいつ》的な流行はなくなり、それぞれ自分の体型や好みに合った思い思いの恰好をするようになった。  いわば個性の確立と多様化であり、時代はそこまで進んできたのであろう。もっとも、正気でない本の隆盛まで「進歩」に入れてよいかどうか、そんなことは私にはわからない。 私が選んだ鉄道旅行の本100冊    *この一冊 ㈰時刻表(月刊)日本交通公社ほか    *もう一冊 ㈪Thomas Cook International Timetable(月刊) *註 一九八一年から「Continental」(月刊)と「Overseas」(隔月刊)に分割された Thomas Cook社   *どうせアホなら ㈫阿房列車、第二阿房列車、第三阿房列車 内田百〓 旺文社文庫 ㈬南蛮阿房列車  阿川弘之       新潮社 (番外)時刻表2万キロ  宮脇俊三  河出文庫    *旅行計画のまえに ㈭鉄道旅行術  種村直樹     日本交通公社 ㈮旅の気象ガイド  百瀬成夫監修 日本交通公社 ㈯旅客営業規則・旅客営業取扱基準規程 日本国有鉄道 中央書院ほか    *忙しすぎる人に ㉀鈍行列車の旅  種村直樹    日本交通公社 (番外)最長片道切符の旅  宮脇俊三  新潮社    *日本は広い ㈷車窓から見た日本  加藤秀俊  日本交通公社 ㉂新幹線・車窓と旅  芦原伸      波書房 ㉃ローカル線の旅  市川潔編著    大陸書房 ㈹ローカル線の旅  朝海猛・小林亜庭  光文社 ㈺ローカル私鉄の旅  野口冬人   文化出版局 ㈱終着駅  河合茂美        文化出版局 ㈾終着駅—ローカル線風土記(2巻) 毎日新聞社 ㈴ふるさとの駅  檀上完爾     読売新聞社 ㈲ろーかる漫歩—各駅停車の旅 国鉄盛岡鉄道管理局編 熊谷印刷出版部 ㈻北陸線ぶらり旅  千田夏光 毎日石川開発センター出版部 ㈶駅—上州の鉄道 読売新聞社前橋支局編 煥乎堂 ㈳岡山の駅  難波数丸      日本文教出版    *世界は広い 鉄道大バザール  セルー/阿川弘之訳 講談社 世界の鉄道 フォーダー編/小池滋監訳 集英社 世界の鉄道  NHK取材班 日本放送出版協会 ヨーロッパの鉄道旅行      日本交通公社 米ソ大平原特急  森村誠一   日本交通公社 ヨーロッパ軽鉄道の詩  堀淳一 スキージャーナル 鉄道の旅—北欧  中田安治    駸々堂出版 鉄道マン南アジアの旅  伊能忠敏   集文社 世界最長列車の旅—シベリア横断9300キロ ニュービィ/高山圭訳 日本交通公社    *雑学の花園 時刻表名探偵  石野哲     日本交通公社 鉄道きっぷ博物館  築島裕   日本交通公社 あの駅この駅雑学百科 伊藤東作 日本交通公社 時刻表世界の旅  窪田太郎   日本交通公社 汽車辨文化史  雪廼舎閑人      信濃路 駅弁の旅  瓜生忠夫      日本能率協会 鉄道の雑学事典  毎日新聞社編  毎日新聞社 鉄道マニアにおくる本 早稲田大学鉄道研究会 広済堂 日本の汽車100話  おの・つよし 新人物往来社 時刻表大研究 鉄道友の会監修     広済堂 映画は汽車で始まった  畑暉男編  芳賀書店    *クイズの好きな人に 鉄道パズル  慶応義塾大学鉄道研究会 広済堂 駅名クイズ  上月木代次       同信社 世界の時刻表クイズ  湯浅謙三   みき書房    *完全を追求する人に 各駅停車(48巻)         河出書房新社 国鉄全線事典            藤田書店 日本の駅               竹書房 私鉄全線全駅          主婦と生活社 駅名事典              中央書院 RAIL MAP(22巻、刊行中)      JRR 民鉄要覧運輸省鉄道監督局 監修 鉄道図書刊行会    *写真を主にした本 新しい日本の鉄道  久保田博 保育社カラーブックス ローカル線の旅  河合茂美 山溪カラーガイド 日本の私鉄(1・2)  広田尚敬・吉川文夫 山溪カラーガイド 私鉄ローカル線 和田久士・岡田明彦・大崎紀夫 国書刊行会 私鉄大カタログ(2冊)     日本交通公社 路面電車  中田安治  保育社カラーブックス 北海道の鉄道        鉄道ジャーナル社 山手線  青木栄一ほか編      立風書房 国鉄特急列車1979    鉄道ジャーナル社 国鉄私鉄特急大カタログ     日本交通公社 国鉄現役車両1980    鉄道ジャーナル社 駅弁旅行  石井出   保育社カラーブックス 世界列車大カタログ       日本交通公社 図説・世界の鉄道  ノック/高田隆雄監修 平凡社 スイスの鉄道  長真弓   平凡社カラー新書 たのしい鉄道写真の撮り方  広田尚敬 住宅新報社    *歴史をたどる人に 日本国有鉄道百年史(19巻)  日本国有鉄道 新日本鉄道史(2巻)  川上幸義 鉄道図書刊行会 資料・日本の私鉄  和久田康雄 鉄道図書刊行会 日本の鉄道  原田勝正・青木栄一   三省堂 鉄道の語る日本の近代  原田勝正  そしえて 時刻表復刻版—戦前・戦中篇   日本交通公社 時刻表復刻版—戦後篇      日本交通公社 懐しの時刻表復刻再現版        中央社 鉄道百年略史         鉄道図書刊行会 歌でつづる鉄道百年  高取武編 鉄道図書刊行会 昭和鉄道史  一億人の昭和史   毎日新聞社 昭和電車史—私鉄90年の軌跡 別冊一億人の昭和史 毎日新聞社 蒸気機関車  石井幸孝       中公新書 北海道鉄道百年  北洞孝雄   北海道新聞社 信濃鉄道むかし話  降幡利治    郷土出版 九州・鉄道歴史探訪  弓削信夫 ライオンズマガジン社 北海道駅名の起源       国鉄北海道総局 鉄道物語  メーデル/篠原正瑛訳   平凡社    *つくる人、動かす人 鉄道に生きた人びと  沢和哉    築地書館 東海道新幹線  角本良平      中公新書 列車ダイヤの話  阪田貞之     中公新書 続々匠の時代  内橋克人    サンケイ出版 山手線物語  沢寿次      日本交通公社 地下鉄物語  種村直樹     日本交通公社 動輪の響き  長谷川宗雄    キネマ旬報社 鉄道人生—駅と列車の人間模様  渡辺公平 日本交通公社 発車5分前—裏方さん奮戦記  萩原良彦 読売新聞社 国鉄ざっくばらん  高木文雄 東洋経済新報社    *近ごろの若い者は、と言いたい人に 国鉄の空襲被害記録          集文社 常紋トンネル  小池喜孝     朝日新聞社 (番外)時刻表昭和史  宮脇俊三   角川選書    *分類しにくい本 英国鉄道物語  小池滋        晶文社 時刻表の旅  種村直樹       中公新書 旅の文化誌  中川浩一     伝統と現代社    *鉄道がつまらなくなる本 日本国有鉄道監査報告書(年刊) 交通協力会翻刻  追記。以上の一〇〇冊は昭和五五年一〇月現在で選んだものであり、その後も楽しい好著、良書、労作が続々と刊行されている。とくに地方別鉄道史の刊行は活発で、応接にいとまがないほどである。以下、私が読みえた範囲内から刊行順に若干追加しておきたい。  鉄道の科学  丸山弘志        講談社  停車場有情  水上勉        角川書店  乗り物に生きる  檀上完爾  現代旅行研究所  終着駅(国鉄篇、私鉄篇) 鉄道友の会監修 雄鶏社  茨城県鉄道発達史  中川浩一    筑波書林  中国鉄道の旅(全五集)        美乃美  下駄の上の卵  井上ひさし     岩波書店  世界鉄道の旅  山内秀一郎     大陸書房  国鉄あちこち体験記 ヒサクニヒコ   雄鶏社  鉄輪の軌跡—鉄道車両一〇〇年の歩み  久保田博 大正出版  日本の私鉄  和久田康雄      岩波新書  ローカル線をゆく(全8巻)     桐原書店  栃木県鉄道史話  大町雅美     落合書店  全線全駅鉄道の旅(全12巻)      小学館  鉄道—明治創業回顧談  沢和哉   築地書館  終着駅の旅  種村直樹    講談社現代新書  南蛮阿房第2列車  阿川弘之     新潮社  滿鉄  原田勝正          岩波新書  ローカル線の旅  種村直樹   日本交通公社  駅弁全線全駅          主婦と生活社  ヨーロッパ鉄道の旅  南正時昭文社  新潮社  汽車誕生 原田勝正 絵・野田宣邦 らくだ出版  埼玉の鉄道  老川慶喜      埼玉新聞社  日本の鉄道百景         日本交通公社    あとがき  文章を書くようになってから、まだ四年にしかならないが、それでも、雑文、短文の類が、だいぶたまってきた。  某日、新潮社の栗原正哉さんが現れ、切抜帖を押収していった。そして掃溜《はきだ》めのごときそのなかから選び、配列してくれたのが本書である。 「終着駅は始発駅」という題には、二つの意味をこめた。  終着駅に着いた列車は始発となって折返していく、鉄道好きの私は、それに乗って、飽きずに行ったり来たりする。そのしつこさが雑然とした文集のなかに漂っているように思えたことが一つであり、もうひとつは、「人生の終着駅」というふうに比喩《ひゆ》的につかわれるけれど、その終着駅は第二の人生への始発駅ではないか、という想いである。私自身、五〇歳を過ぎてサラリーマンからもの書きに転向したのであり、それができたのも鉄道のおかげであった。  ここに収められた文章を書くにあたって、お世話になった編集者の方々、収録を快く許してくださった各社に、あつくお礼を申しあげる。  なお、二一六ページ(「ビジネスホテル考」)に妙な絵が載っているが、これは「オール読物」の“絵入り随筆”という欄のためにかいたものなので、恥しいが、しかたがないのである。 (昭和五十七年八月)  この作品は昭和五十七年八月新潮社より刊行され、 昭和六十年八月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    終着駅は始発駅 発行  2002年5月3日 著者  宮脇俊三 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.shinchosha.co.jp ISBN4-10-861189-6 C0893 (C)Shunz� Miyawaki 1982, Coded in Japan