目次 錦繍  解説(黒井千次) 錦繍 前略  蔵《ざ》王《おう》のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした。私は驚きのあまり、ドッコ沼の降り口に辿《たど》り着くまでの二十分間、言葉を忘れてしまったような状態になったくらいでございます。  あなたに、こうしてお手紙を差し上げるなんて、思い返してみれば、それこそ十二、三年振りのことになりましょうか。もう二度と、あなたとはお目にかかることはないと思っておりましたのに、はからずもあのような形で再会し、すっかりお変わりになってしまったお顔立ちやら目の光やらを拝見して、私は迷いに迷い、考えに考え抜いて、とうとう思いつくすべての方法を講じて、あなたの御住所を調べ、このような手紙を投函《とうかん》することになってしまいました。私の我儘《わがまま》を、こらえ性のない相変わらずな性格をどうかお笑い下さい。  あの日、私は急に思い立って、上野駅からつばさ三号に乗りました。子供に、蔵王の山頂から星を見せてやりたいと思ったからでした。(息子は清高という名で、八歳になりました)リフトの中で、たぶんお気づきになったことでしょうが、清高は生まれつきの障害児で、下半身が不自由であるだけでなく、同じ八歳の子供と比べると二、三歳知能が遅れていますが、どういうわけか星を見るのが好きで、空気の澄んだ晴れた夜には、香《こう》櫨《ろ》園《えん》の家の中庭に出て、何時間でも飽きずに夜空を眺めているほどです。父の青山のマンションに二泊して、あす西宮の香櫨園に帰るという晩、何気なく一冊の雑誌を手に取りますと、蔵王の山頂から撮影したという夜空の写真が目に入りました。あっと息を呑むほどの満天の星で、私は生まれてこのかた殆ど遠出などしたことのない清高に、何とか実際にこの星を見せてやれないものかと思ってしまったのです。  父はことし七十歳になりましたが、まだ矍《かく》鑠《しゃく》と毎日会社に顔を出し、そのうえ、月の半分は東京支社で指揮を取るため、あなたも御存知の、あの青山のマンションで東京住まいをつづけています。ただ、十年前と比べると、髪はすっかり白くなり、幾分猫背にもなったように感じますが、香櫨園での生活と青山でのマンション住まいをちょうど半分ずつの割合で元気にこなしています。とが十月の初め頃だったでしょうか、会社からのお迎えの車が来て、マンションの前の石段を降りる際、踏み外して足首をひどく捩《ねじ》ってしまいました。ほんの少しですが骨にひびが入り、内出血もひどくて、まったく歩けない状態で、そのため私は清高をつれて慌てて新幹線で駈けつけました。動けないとなると途端に癇癪《かんしゃく》を起こして、お手伝いの育子さんの世話の焼き方が気に入らなくなり、電話で私を呼びつけたのです。少し長びくのではないかと考えて、仕方なく清高をつれて来たのですが、怪我といっても足首の捻《ねん》挫《ざ》で、それほどたいしたこともなく、父も私や孫の顔を見ると苛《いら》立《だ》ちもおさまって、今度は香櫨園の家の方が気になるのか、早く帰ってやれなどと勝手なことを言いだしました。その我儘勝手ぶりに呆《あき》れるやら可笑《おか》しいやらで、私は育子さんや秘書の岡部さんにあとをお頼みして、香櫨園の家に帰るために、息子と一緒に東京駅まで来て、そこでまた蔵王の観光ポスターを見たのです。ちょうど紅葉の季節らしく、大きな写真いっぱいに、色とりどりの樹木が枝を拡げていました。蔵王といえば冬の樹氷ぐらいしか知らない私は、東京駅のコンコースに立ち停まって、やがて無数の氷と化してしまうであろう樹木たちが、いま鮮やかに色変わりして、満天の星空の下で風になびいているさまを想像してみたのです。私はなぜか矢も楯《たて》もたまらず、体の不自由な自分の息子に、清涼な山のたたずまいやたくさんの星々を見せてやりたくなりました。そのことを清高に言うと、清高も嬉しそうに、行きたい行きたいと目を輝かせてねだりました。それで、私たち親子にはちょっとした冒険だと思われましたが、駅の中にある旅行代理店に行って、山形までの切符と蔵王温泉の旅館の予約、それに仙台から大阪空港までの帰りの飛行機の座席を頼んだのです。とが飛行機は満席で、切符を取るためには予定を変更して蔵王か仙台でもう一泊しなければなりませんでした。私は蔵王で二泊することに決め、上野駅に向かいました。もし蔵王を一泊で切り上げていたら、あなたとお逢いすることもなかったでしょう。いま私には、それがとても不思議なことのように思われてなりません。  山形は曇り空でした。山形駅から蔵王温泉に向かうタクシーの中で、私は空を眺めながらがっかりした気持で坐り込んでいました。そしてふと、東北を訪れるのはこれで二度目であることに気づきました。あなたとの新婚旅行で、秋田の田沢湖から十和田に向かったことを思い出していました。その夜は、溢《あふ》れた湯が疎水のように街並の淵《ふち》を流れて、強い硫黄の匂いにむせかえっている温泉場の旅館で一泊しました。雲が夜空を覆って、月も星のかけらも見えない夜でしたが、山の空気がすがすがしく、初めての親子ふたりの旅ということもあって、心が浮き立つ思いでございました。翌日は朝からよく晴れて、清高は松《まつ》葉《ば》杖《づえ》をかかえて、いっときも早くリフト乗り場に行きたい様子で、私たちは朝食をとってから、休む間もなくダリア園のゴンドラ・リフトの乗り場に向かったのです。山形という遠い地の、それも蔵王の中腹の、巡り巡っている無数のゴンドラの一台に、同時にあなたと乗り合わすはめになるなんて、考えただけでも心が冷たくなるような偶然ではないでしょうか。  ゴンドラに乗ろうとする人が数組順番を待っていましたが、二、三分もすると私たちの番になりました。係り員がゴンドラの扉を開き、松葉杖をついた清高を抱きあげて中に入れてくれ、つづいて私が乗り込んだとき、もうひとり乗ってもらいますからと言う係り員の声が聞こえ、薄茶色のコートを着た男の人が狭いゴンドラの中の私たちと向かい合った席につきました。扉がしまって、ゆらりと動き出した瞬間、私はそれがあなたであることに気づきました。あの時の驚きを、いったいどう表現したらいいのでしょうか。その時、あなたはまだ私に気づかず、コートの衿《えり》を立てて、その中に顎《あご》を埋めるような格好で景色に見入っていらっしゃいました。あなたがそうやってぼんやりとガラス窓越しに視線を投げていらっしゃる間中、私は瞬きひとつせず、あなたのお顔を見つめつづけていました。私は見事な紅葉を見たくてゴンドラに乗り込んだのに、片時も樹林に目を移すことなく、目前のひとりの男性を凝視しつづけていたのでございました。私は、ほんのつかのまに何度も、本当にこの人はかつての私の夫だった有馬靖明さんであろうかと自問自答いたしました。間違いなく有馬靖明さんであるなら、どうしてこの山形の、蔵王のゴンドラなどに乗っているのだろうかとも思いました。それはあまりの偶然に対する驚きだけではなく、十年振りに再会したあなたのお姿が、私の心に焼きついている思い出の中のお姿とあまりにもかけ離れていたからでした。十年……。当時二十五歳だった私も三十五になりましたが、あなたとて三十七歳におなりの筈で、歳月による面変わりが、いよいよ目立ち始める年齢を、お互いが迎えてしまったわけでございます。けれども、それにいたしましても、あなたのお変わり様は尋常ではなく、私はあなたが決して平安な日々をお暮らしでないことを直感してしまいました。どうかお気を悪くなさらないで下さいませ。私はいま、何の為にこんな手紙を書いているのか、自分でもよくわからないのです。ただありのままに、自分の気持を綴ることで、たぶんもう二度と差し上げることもない私からの一方的な手紙を書き終えるつもりでございます。しかも私は、こうやって書いておりましても、実際にあなた宛にポストに投函するかどうか、迷いつづけているのです。  あなたはやがて何気なく私に視線を向け、そのまま再び目を窓外の景色に移してから、愕然《がくぜん》と目を見《み》瞠《ひら》いて私を見つめ直しました。そうやって随分長い間、私たちはお互いの顔を見つめ合っていたようでございます。私は何か言わなければならないと思うのですが、言葉が出て来ませんでした。それでも私はやっとの思いで、お久し振りでございますと申しました。「ほんとにお久し振りです」。あなたはそう仰言《おっしゃ》ってから、ひどくぼんやりしたお顔を清高に向け、「お子さんですか」とお訊《き》きになりました。私は震えそうになる声で、はいと答えるのが精一杯でした。ゴンドラの両脇のガラス窓越しに、真紅の葉《は》叢《むら》が流れ過ぎて行くのが、私の目に虚《うつ》ろに映っていました。私はこれまで何度、清高のことを、人から「お子さんですか」と訊かれたことでしょうか。もっと小さいときは、肢体の不自由なあきらかに知恵遅れとわかる顔つきでしたから、ある人はあからさまに気の毒そうな表情でそう言い、ある人はわざと無表情を装って訊いてくるのでした。私はそのたびに、体のあちこちに力を込めて、あえてまっすぐに相手の目を見つめながら、昂然《こうぜん》と、はいと答えてきました。けれども、私はあなたから「お子さんですか」と訊かれたとき、かつて一度も味わったことのないような恥しさに包まれて、ためらいながら、小さく返事をしていました。  ゴンドラは、ドッコ沼の降り口に向かってゆっくり昇っていました。遠くに朝日連峰が見え始め、眼下の山ふとでは、温泉町の建物の屋根が小さく光っていました。温泉町からぽつんと離れた別の山並の斜面に建っているホテルの赤い屋根が、樹木の途切れめから見え隠れして、それが一瞬なぜか私に、鎌倉時代の絵巻物に描かれている地獄の炎を連想させたことを、いまでもはっきりと覚えています。どうして、そんなものを私は連想してしまったのでございましょう。たぶん、私はゴンドラに揺られている間、動揺と緊張で、少しばかり異常な精神状態に陥っていたのでしょう。ですから、あのゴンドラの中の二十分もの間に、私はあなたともっといろいろなことをお話し出来た筈でしたが、ただ黙りこくって、早く降り口に到着しないものかと、ただもうそればかり考えておりました。それは、あなたとお別れしたあの十年前とまったく同じ形でした。私たちは、離婚するにあたって、もっともっとお互いの気持を話し合う必要があった筈でしたのに、そうはいたしませんでした。十年前、私は頑《かたく》なにあの事件に関する説明を求めようとはいたしませんでしたし、あなたも意地みたいに口を閉ざして、ひとことたりとも弁解しようとはなさいませんでした。二十五歳の私は、あのときどうしても優しく寛容にはなれませんでしたし、二十七歳のあなたは御自分をあれ以上卑屈に出来なかったのでございましょう。樹木の繁りが深くなり、それが陽の光をさえぎってゴンドラの中を暗くさせたとき、あなたが、向かい合って坐っている私の肩口あたりからそのまま前方を見つめて「着きましたね」と呟《つぶや》きました。その瞬間、あなたの首の右側の傷跡が見えました。ああ、あのときのお怪我の跡なのだと私は思い、慌てて目をそらせました。汚れた灰色の発着場に降り、ドッコ沼への曲がりくねった道に立って、あなたは「それじゃあ」と小さく礼をしてそれから足早に去って行ってしまわれました。  私はこの手紙を、出来る限り正直に書くことにいたしましょう。私はあなたのお姿が消えたあと、しばらくじっとそこに立ちつくしておりましたが、これでもう永遠に、あなたとお別れしてしまったように思えて、泣きだしたくなるのをこらえつづけていました。どうしてそんな気持に襲われたのか、私には自分の心がよくわかりません。ですが、私は突然、あなたのあとを追いかけて行きたくなりました。あなたがいまどうやってお暮らしなのか、私と別れてからの十年間、どうやってお過ごしになって来たのか、たまらなく訊いてみたい思いに駆られたのでございます。もし清高が一緒でなかったら、あるいはそうしていたかも知れません。  私は、清高の歩調に合わせて、ゆっくりゆっくりドッコ沼への道を歩き始めました。枯れかけたコスモスの破れた花びらが、涼やかな風になびいていました。普通の子供が十分で歩いて行ける距離が、清高には三十分もかかってしまいます。これでも以前と比べると、うんと歩けるようになったくらいで、ああしたい、こうしたいという意欲を、実際の行動として表わせるようになったのは、ほんの二年程前からでございます。最近では、訓練と本人の努力で、いつかは普通の人と同程度の生活やら仕事やらが出来るようになるかも知れないと、養護学校の先生が仰言ってくださるようにまでなったのでございます。私たちは沼の横手の木洩れ陽の中を抜けて、山頂へのリフトに乗りました。私は山の斜面の彼方《かなた》を見渡して、あなたのお姿を捜してみました。けれども、あなたのお姿は、もうどこにも見当たりませんでした。山頂からくぬぎ林を少し下り、大きな岩が山肌から突き出ているとまで来て、私はそこに清高を坐らせ、長い時間景色に眺め入っていました。空には雲ひとつなく、目の高さのとで鳶《とび》がいつまでも旋回しつづけていました。はるか遠くの、おそらく日本海に近いのであろうと思われる薄紫色の霞《かすみ》に覆われたあたりに山々が連なり、私はあれが朝日連峰、そこからずっと右の方にぽこんと盛りあがって見えているのが鳥海山と清高に教えてやりながら、蔵王の別の斜面を下って行く四角いゴンドラに何度も目を走らせました。ひょっとしたら、あなたがお乗りになってはいないものかと考えてしまうからでした。背後の小道で足音がするたびに、もしやあなたではあるまいかと、恐る恐る振り返ってしまうのでした。清高は鳶を見ては笑い、小さい点のような眼下のゴンドラを見ては笑い、下界のどこかから立ち昇ってくる煙を見ては笑っていました。私も子供の声に合わせて笑いながら、いましがた目にした十年振りのあなたの容姿を心に描いていました。なんとお変わりになったことだろうと思いました。そして、いったいなぜ、あなたはこの蔵王にやって来たのであろうかと、そればかり考えつづけていたのでございます。  二時間近く、岩に腰を降ろしていたでしょうか。私たちはやっとその場を離れて、旅館へ帰ることにしました。リフトでドッコ沼まで下り、またゴンドラのとに帰って来ました。こんどは、ゴンドラの中は私たち親子のふたりきりで、私はそこで改めて、まっ盛りの紅葉を目にしました。全山が紅葉しているのではなく、常緑樹や茶色の葉や、銀杏《いちょう》に似た金色の葉に混じって、真紅の繁みが断続的にゴンドラの両脇に流れ去って行くのでした。それゆえに、朱《あか》い葉はいっそう燃えたっているように思えました。何万種もの無尽の色彩の隙間から、ふわりふわりと大きな炎が噴きあがっているような思いに包まれて、私は声もなく、ただ黙って鬱蒼《うっそう》とした樹木の配色に見入っておりました。私はふと、何かしら恐しいものを見ている心持になっていました。私はそのとき、さまざまなことを考えていたような気がいたします。言葉にすれば、きっと何時間もかかってしまうことを、紅葉がまたひとつまたひとつと目の前をよぎって行くごとに、そのつかの間に、とめどなく絶え間なく考えつづけていたと申しましたら大袈裟《おおげさ》でございましょうか。また相変わらず夢みたいなことを言うと、あなたはお笑いになるでしょう。けれども、私はあの烈しい紅葉の色合いに酔ったまま、確かに、何かしら恐しいものを、しかもしんと静まった冷たい刃《やいば》に似たものを、樹木の中の炎に感じたのでございます。あるいは、あなたとのまったく思いがけぬ再会が、私に例の少女じみた空想癖を呼び醒《さ》ましていたのかも知れません。  その夜、私は清高と一緒に、旅館の大きな岩風呂の硫黄の湯に入ってから、星を見るために再びダリア園まで登って行きました。旅館の人に教えられた近道を抜け、懐中電灯で足元を照らしながら、誰もいない曲がりくねった坂道を行きました。そんなに歩いたのは、清高にはたぶん生まれて初めてのことだったでしょう。松葉杖を支えている脇の下が痛むらしく、暗闇の中で立ち停まって何度も弱音を吐いていましたが、私がきつい口調で励ますと、思い直して懐中電灯の丸い光に向かって少しずつ進んで行きました。ダリア園の前に辿り着くと私たちは息を弾ませて立ち停まり、夜空を見あげました。ほおっと力が抜けていくような気持にさせる、たくさんの星が、手を伸ばせば届いてしまうばかりのとで瞬いていました。ゆるやかな斜面に造られたダリアの花園には、ただ黒い輪郭とほのかな香りだけがあって、花の色彩は夜の闇に塗りつぶされ、風の音ばかり聞こえてくるのでした。目前にそびえる山々も、ゴンドラ乗り場の建物も、ワイヤーを支えている鉄柱も黒く静まり返って、その上空に天の川が鮮やかに横たわっていました。私たちは花園の真ん中に入って行き、天を見あげたまま上へ上へと歩いて行きました。ダリア園の端まで登ると、小さなベンチがふたつ並んでいましたので、そこに腰を降ろし、山形の駅前で買ったヤッケを着込み、冷たい風になぶられたまま、いつまでも宇宙のきらめきに見入っていたのでした。ああ、それら星々のなんと寂しかったことでございましょう。そしてそれら星々の果てしない拡がりが、なんと途方もなく恐しく感じられたことでございましょうか。私は、あなたと十年振りに、突然みちのくの山中で再会したということが、なぜかとても悲しい出来事であったように感じられて仕方ありませんでした。いったいなぜそんなことが、悲しいことだったのでしょうか。私は顔をあげて星を眺めつつ、悲しい、悲しいと心の中で呟いてみました。するといっそう悲しさがつのって来て、十年前のあの事件のことが、スクリーンに映し出されるように甦《よみがえ》って来たのでした。  長いお手紙になりそうでございます。あなたは、あるいは途中でこの面白くもない手紙を破り捨てておしまいになるかもしれません。ですが、私はそれでも最後まで書いてしまうつもりでございます。少なくとも、あの事件の最も大きな被害者であった私が(それはお前ではなく、この俺の方だとあなたは仰言るかもしれませんが)、当時、どんなことを考え、どんなふうに私なりの結論を導き出したのかということを、ありのままにお話しておきたいのでございます。本当は、あなたとお別れするときに、あの十年前に、お話しておくべきでしたが、そうはいたしませんでした。すでに遠くに過ぎ去った出来事ではございますが、いま改めて書き綴ることにいたしましょう。  あの日、事件を報《しら》せる電話は、明け方の五時にかかってまいりました。二階の寝室で眠っていた私は、お手伝いの育子さんに揺り起こされたのでございます。 「靖明様が、えらいことやそうです」  と育子さんは言いました。その声は震えていて、ただならぬ出来事の襲来を私に感じさせました。私はパジャマの上からカーディガンを羽織って、階段を駈け降りました。電話に出ると、太い落ち着いた声で、こちらは警察だが、あなたは有馬靖明さんとはどういう関係の人間かというようなことを訊かれました。 「家内でございますが」。私は寒さと動揺とで震えそうになる声を押さえて答えました。するとしばらく沈黙があって、それから事務的な口調で、あなたの御主人と思われる男性が、嵐山の旅館の一室で心中事件を起こした。相手の女性は死亡したが、御主人はあるいは一命を取りとめるかもしれない。病院で治療を受けているが極めて重体なので、すぐにもお越しいただきたい。そう言って病院の所在地を教えてくれました。 「主人は、今夜は京都の八坂神社の近くの旅館に泊まってるはずですが……」と私が言いますと、電話の相手はその旅館の名を訊き、こんどは、きょう御主人はどんな服装で外出したかと尋ねました。私が背広の色と柄、ネクタイの模様などを思い出すままに答えると、やはり有馬靖明さんであろうと思われるので、取りあえず病院までお越しいただきたい。そう言って電話を切ってしまいました。私はどうしたらいいのかわからず、慌てふためいて離れの父の寝室まで走って行きました。父もちょうど起き出して来たとで、私の話を聞くと、「まさか、いたずら電話とは違うやろなァ」と言いました。しかし、真冬の朝まだきに、わざわざいたずら電話をかける人間がいるとは思われませんでした。育子さんがタクシー会社に電話をしているとき、門のチャイムが鳴りました。インターフォンに出ると、近所の派出所のお巡りさんで、京都の警察署から連絡があり、念のために確認に来たとのことでした。いたずらではないことがはっきりして、私は父のガウンにすがって、一緒に行ってくれるよう頼みました。 「ほんまに心中やて言うたんか?」 「相手の女の人は死にはったんやて」  私と父はタクシーに乗り名神高速道路を京都に向かって走らせながら、何度も同じ言葉を繰り返しておりました。それがただの事故ではなく、私の知らない女性と心中しようとしたのだということで、事の真偽をいっそう疑わせているのでございました。実際、あなたがよその女と心中するなんて、そんなこと信じられることだったでしょうか。私たちは長い恋愛期間を経て結婚し、やっと二年が過ぎたばかりでしたし、もうそろそろ赤ちゃんが欲しいとさえ考えていた矢先のことだったのです。私は、きっと人まちがいに違いないと思いました。あなたは京都の得意先の方々を祇《ぎ》園《おん》のクラブに接待して遅くなり、そのままいつものとおり八坂神社脇の旅館に泊まっている筈なのです。  けれども、嵐山の病院に着き、ちょうど手術室から出て来て病室のベッドに移されたばかりの男性を見たとき、ひと目であなたであることを認めました。そのときの驚愕、そのときの戦慄《せんりつ》を言葉にすることなど到底出来っこありません。私は茫然として、輸血を受けている瀕《ひん》死《し》のあなたの傍《そば》に歩み寄って行くことさえ出来ないほどでした。傷は、首と胸を果物ナイフで突いたもので、相当深いが、間一髪のところで頸動脈《けいどうみゃく》をそれていると、病室の前の廊下で私たちの到着を待っていた警察の方が説明してくれました。しかし発見されるまでに少し時間がかかり、その間の出血が多くて、片方の肺も気胸を起こし、病院に運ばれたときは血圧も殆どなく、呼吸も途切れがちで、ここ数時間が問題だとも教えてくれました。すぐにお医者様がやって来て、詳しく説明して下さいましたが、いまなお危険な状態で、助かるかどうか断定は出来ないとのことでした。相手の女性の名は瀬尾由加子、二十七歳、祇園のアルルというクラブのホステスで、やはり首の横を果物ナイフで切っていて、殆ど即死に近い状態だったとのことでございました。警察の方からはいろいろなことを訊かれましたが、私は何をどう答えたのか、まったく覚えておりません。何を訊かれても、あなたと瀬尾由加子さんとのことは、どうにも答えようがありませんでした。父は秘書の岡部さんのお宅に電話をかけました。「えらいことが起こった。嵐山まで、わしの車ですぐに来てくれ」。父は沈んだ声でそう言い、岡部さんに病院の場所を教えて電話を切ると、火のついていない煙草をくわえたまま、私を見つめ、外の景色に目を投じました。その瞬間の父の顔と、病院の廊下のガラス窓から見えていた夜明けの風景を、私はなぜかくっきりと覚えているのでございます。母が死んだときも、父はまったく同じ表情を浮かべて、虚ろな動作で突然煙草を唇に持っていきました。母が亡くなったのは、私が十七歳のときでしたが、私はお医者様から母の臨終を告げられた瞬間、枕辺に坐っていた父の顔を見つめました。豪胆な、弱気なとなどただの一度も見せたことのない父が、放心したように胸ポケットから煙草を取り出してくわえたのでした。それは考えてみれば、場にそぐわない唐突な動作でした。父は、その母の臨終のときとまったく同じ仕草と表情をして、病院の長い廊下に立ったまま、青みがかった冬の早朝の空をぼんやり見ていました。私は咄《とっ》嗟《さ》に不吉なものを感じて、ハンドバッグの中からマッチを捜し出し、父の煙草に火をつけてあげましたが、その私の手は冷たく凍ったようで、小刻みに震えつづけておりました。父は私の震えている手に目を走らせ、それからぽつんとひとこと、こう言ったのです。 「死んでもかまわん。そうやないか?」  しかし私には、そんなことを考える余裕すらありませんでした。いったい何がどうなったというのでしょう。他の突然の事故ならともかく、なぜ私の夫が、クラブのホステスと心中しなければならないのでしょうか。  あなたは意識を恢復《かいふく》するまでの二日間に二回危険な状態に陥りました。ですが、お医者様も驚くくらいの強靱《きょうじん》な生命力を発揮して、生き返りました。これもまた不思議なことであったと言うべきでしょう。そしてあなたの口から、私はやっと事の経過を知ることが出来ました。事件は、心中は心中でも無理心中で、あなたは眠り込んでいるとき、自殺を図ろうとした瀬尾由加子さんに首と胸を刺されたのでした。あなたを刺したあと、瀬尾由加子さんは自分の首を切ったのです。なぜそのようなことになったのか、あなたにはまったく思い当たる節がないとのことでした。確かに、あなたにはそれ以上語るべきものがなかったのでしょう。病院での警察の事情聴取にも、ただわからないという言葉だけを繰り返していらっしゃいました。警察は一応、あなたの方から仕向けた無理心中ではないのかという点を問題にした様子でしたが、状況や傷の具合からも、その疑いはすぐに晴れたようでございます。あなたは瀬尾由加子さんと情死を企てたのではなく、思いも寄らぬとばっちりを受けた可哀そうな被害者だったというわけでした。あなたは運良く一命を取りとめ、事件としては結着をみたわけでしたが、そうなると、おさまらないのは私の方でございました。新聞には、妻のある某建設会社の課長の心中事件として報道されてしまいました。あなたのちょっとした浮気は、血なまぐさい大きなスキャンダルとして、世間にも知れ渡ってしまったのでございます。あなたをいずれは自分の後継者にと考えていた父にとっても、それは大きな打撃でした。  あなたは覚えていらっしゃるでしょうか。もうあと十日もすれば退院してもいいとお医者様から言われた日のことでございます。よく晴れた暖かい日で、私は着換えとか、途中河原町のデパートで買ったマスカットの箱とかを持ってあなたのいる病院に行きました。事件以来、そうすることが癖みたいに、私は待合室から病室までの長い廊下を恐る恐る、おずおずと進んで行きました。あなたの体力が完全に恢復するまで、私は事件に関する質問は決して何ひとつ口から出さぬ決心でございましたが、病院の廊下を歩くたびに、情なさや腹立たしさが、押さえ難い感情の波立ちとともに湧《わ》きあがってきて、怒りや嫉《しっ》妬《と》や哀れみを含んだ言葉をいっそ力まかせにぶつけてみようかという思いに駆られるのでございます。病室に入ると、あなたはパジャマ姿のままベッドから立ちあがって、ちょうど窓から外の景色に見入っているところでした。私の姿を見ると、何も言わず、そのまま窓外を眺めつづけていらっしゃいました。私は、この人はこんどの事件のあらましを、いったいどう自分の妻に説明するつもりであろうかと思いました。傷も殆ど癒《い》えて、いよいよそのときが来たのではないか、お天気もいいし、病室の中は暖房もきいて熱いくらいで、きょうなら私も冷静に話し合うことが出来そうだと思ったのでした。それで私は、ベッドの下の収納箱に着換えをしまいながら、「さあ、説明して下さい。私がちゃんと納得出来るように」とさりげなく言うつもりで口を開いたのです。ところが、口から出た言葉は、それとはまったく違うとげとげしい可愛げのないものでした。 「高くつきましたわね、こんどの浮気」。言ってしまうと、もうおさまりがつかなくなってしまいました。私がやっぱりただの女であったこと、しかもまだ所詮《しょせん》小娘であったことを、いまになれば思い知ってしまいます。 「命を落とすところやったのよ。助かったのが不思議なくらい」。あなたは終始無言で、私に背を向けたままでした。いま思い起こせば、私はあのとき随分ひどい言葉を、執拗《しつよう》にあなたの背に向かって投げつづけたような気がいたします。新聞にでかでかと書かれてしまったこと、父の会社でも、社員たちの間で毎日話題にのぼって笑い者にされていること、香櫨園の家の近辺は、お手伝いの育子さんでさえ顔を伏せて歩かねばならないこと等々……。私はだんだん取り乱して、涙まじりの金切り声を張りあげ始めてしまいました。あなたの沈黙が、ますます私を逆上させていったのでした。 「私、もう一緒に暮らせる自信はありませんから」。そう言ってしまってから、私ははっとして口をつぐみました。もしかしたら、私とあなたとは、本当に別れてしまうことになるのではなかろうかという気がしたからでした。事件が起こってから、私は取り乱しながらも、それまで一度も、あなたと別れるなどとは考えもしていなかったのでした。ただ、助かってほしい、死なないでほしい、なんとか命を取りとめてほしいと、そればかり念じつづけてきて、それ以外のことは考える余裕がなかったのです。私は体の奥が冷たくなっていくような思いで、あなたのうしろ姿を見ていました。それから、いったいなぜ私は、あなたと別れなくてはならないのだろうと考えました。なぜそんなことになってしまったのだろう。なぜ私たちの間に、このような事件が、それこそ降って湧いたように起こってしまったのであろう。私たちのような幸福な夫婦が、どうして別れてしまわなければならぬ事態に追い込まれるのであろう。あなたは口をつぐんだままでした。それこそ、ただのひとことも喋《しゃべ》ろうとはなさいませんでした。そのあなたの態度が、私のおさまらない気持に、ますます火に油を注ぐ格好となっていきました。「そうやって、ずっと黙ってるつもりなの?」。大怪我のあとの青白い肌に、早春の昼下がりの陽が当たって、あなたは松明《たいまつ》の火をあびた能面のような顔をなさっていました。その顔に薄い微笑を浮かべて振り返ると、やっと口を開いたのです。その言葉の、なんとふてぶてしく傲岸《ごうがん》だったことでしょう。他にもう少し別の仰言りようがあった筈だと、私はいまでも思い出すたびに腹が立ってしまいますわ。「謝ったら、許してくれるとでも言うのか」。  ああ、お互いが、なんと拙《つた》なかったことかと思ってしまいます。私は、お医者様から、もう十日もすれば退院出来るだろうと言われたことをあなたに伝えると、そのまま一度も病室の椅子に腰を降ろさぬまま帰って行きました。病院の玄関を出て、アスファルトの道を門の方に歩いて行くと、父の車がやって来るのが見えました。父は車の窓から顔を出し、少し戸惑ったような顔つきで私を見つめました。私に内緒で病院にやって来たのに、ばったり鉢合わせしてしまって、少々困ったという表情でした。父はあなたと何かお話があったようでしたが、私と逢って気が変わったのか、車に乗るように促しました。運転手の小堺さんに、どこか喫茶店があれば停めるようにと言って、いかにも疲れたというふうに、車のシートに凭《もた》れ込み、ライターの蓋を何度もあけたりしめたりしていました。 「競走馬に譬《たと》えたら、ぽきんとまっぷたつに前足を折った、そんな状態やな」。小さな喫茶店の椅子に坐るなり、父はそう言いました。それから、壺でいえば粉《こな》微《み》塵《じん》に割れてしまったのだと、恐《こわ》い目をして私を見つめました。私とあなたとの夫婦としての関係を言っているのではなく、父は会社でのあなたの立場を言っているのだということが、私にはしばらくわかりませんでした。しかしそれに気づくと、私は改めて事態の容易ならざることを知りました。事業家の父は、いかにも父らしく、あなたを私の夫としてよりも、自分の後継者として考えているのでした。あなたもよく御承知であったと思いますが、跡継ぎのない父は、あなたに大きな期待を寄せていました。かなり強引な形で、あなたを星島建設の後継者とすべく布陣を整えていたのです。当然、それを阻もうとする動きも社内にはあったのでございます。副社長の小池さん、それに小池派である森内さんや田崎さんなども、あなたの星島建設への入社を快く思っていなかった方たちでした。父は当時、まだ十五年は現役をつづけられると計算していました。十五年たてば、娘婿は四十二歳になる。そう読んでいたようでございます。父一代で築きあげた星島建設は、しかし発展を遂げるに従って、父ひとりのものではなくなって行きつつありました。専務に弟を、常務に従弟を、営業本部長に甥《おい》をというように、一族で固めつつあった会社に、小池繁蔵氏という辣腕《らつわん》の副社長を擁したことで、少しばかり様相が変わりつつあったのは、あなたも充分御存知だった筈でございます。あなたは、言わば父にとって希望の星だったわけなのです。父があなたを、一人娘の夫に選ぶに際して、どれほど慎重に選択吟味したかをお知りになったら、きっと驚かれることでしょう。私は、その話を、あなたとお別れしてしばらくたってから人づてに聞いたのです。まず私自身が、有馬靖明という青年との結婚を望んでいるという既成事実がありました。大学時代から交際をつづけていて、お互いが結婚したいという意志を抱いている。しかし父は、ただそれだけの理由で結婚を認めたわけではありませんでした。父は興信所に依頼して、あなたという人間を徹底的に調べました。それも一社だけではなく、三社の興信所を使って調べあげたということでした。御両親を早くに亡くされたあなたは、伯父様のもとで成長されたのですが、父にはその点が最も気にかかるところだったようでございます。三つの興信所の調査の結果がどのようなものであったのか、私は父に訊いてみたことはありませんが、とりたてて問題となるような点はなかったのであろうと思われます。それから実際にあなたと接して、父は父なりの鑑識眼で注意深く観察したのでございましょう。ある人に、あなたについてこう洩らしていたと聞きました。有馬靖明は人から好かれるところを持っている。人間として大きな美点であろう。ただそれが事業家として一級の資質であるかどうかはまだわからない。自分は娘の夫としてではなく、星島建設の後継者として選択しようとしているので、早急な断を下しかねている。またある人には、自分がどれほど決断をつけかねているかという真情を素直に吐露していたとも聞きました。何もかもを独断的に、ワンマンですすめてきた父にしては珍しいことだったと思われます。私たちの結婚を承認したということは、とりもなおさず自分の亡きあとの星島建設を、有馬靖明という血のつながらない青年に託す決意をほぼ固めたからだったと言ってもいいでしょう。  父は喫茶店の椅子に腰をかけ、煙草をくゆらせながら、「男やから、浮気のひとつやふたつ、どうっちゅうこともないんや」と言いました。「しかし、こんどのようなことはなァ」。そして大きく溜息《ためいき》をついて、私をちらっと睨《にら》みつけ、馬の足は折れたのであり、壺は割れてしまったのだと、また同じ言葉を呟きました。それは、もうお前たちの間も、決してもとには戻らないだろうと言っているように聞こえました。  その夜のことでございます。ひとりの見知らぬ男性が、香櫨園の家を訪ねてこられました。父は東京出張のため、夕方の新幹線で発っていましたから、家には育子さんと私しかおりませんでした。インターフォンで応対すると、その方は、自分は瀬尾由加子の父親であると名乗られました。私と育子さんは顔を見合わせて、お逢いすべきかどうか思案いたしました。女だけの家に、それも夜に、見ず知らずの男性をあげるのはためらわれましたが、それ以上に、亡くなられた瀬尾由加子さんのお父様が、いったい私にどんな用件があるのかおもんばかられたのでございます。  応接間にお通しすると、老人は(老人とお呼びするほどの年齢ではなさそうでしたが、小柄な白髪まじりのお姿は、とても老けて見えました)遠慮がちに何度もお辞儀をなさり、皺深《しわぶか》い顔を歪《ゆが》めるようにして、こんどの事件のことを何と言ってお詫《わ》びしたらいいのかわからない、そんなふうに仰言って首をうなだれていらっしゃいました。私も返す言葉に困り、お嬢さまを亡くされて、さぞお力落としであろうといったようなことを口にしました。もしかしたら、こんどの事件に関して、何か因縁のようなものをふっかけられるのではないかと心配していたのですが、いかにも朴訥《ぼくとつ》そうな顔つきやら物腰に接して、安心いたしました。瀬尾由加子さんのお父様は、事件を起こした娘の父親として、やはりこのまま知らぬふりをしているわけにはいかない、たとえひとことでも謝罪して帰りたいと思われたそうでございました。その日はちょうど瀬尾由加子さんの四十九日で、京都で簡単な法要を済ませ、郷里《くに》へ帰る途中であると仰言って、しばらくソファに坐り、小さな目をしばたたかせていらっしゃいました。それから、「まさか娘と有馬さんが、こんな関係になっていようとは思いませんでした」と言われたのです。その言い方に不審なものを感じて、「有馬を、以前から御存知だったのですか」と訊いてみますと、老人は私が茫然とするような事実を教えて下さったのです。あなたと瀬尾由加子さんとは、中学生の一時期、同じクラスで学んだことがあると仰言るのでございます。老人も最近になって思い出したらしく、警察の事情聴取の際には、すっかり忘れていてその件には一切触れなかったそうでした。お母様に次いで、お父様も亡くされた中学生のあなたは、大阪の生野区の伯父様のもとに引き取られるまでのほんの一時期、舞鶴の親《しん》戚《せき》に預けられたそうでございますね。ほんの四ヵ月ほどで、また大阪に戻って行かれたのですが、その間、舞鶴の中学校に転入され、そこで同じクラスの瀬尾由加子さんとお知り合いになった。煙草屋を営んでいる瀬尾由加子さんの家に、一度遊びに来たことがあり、大阪に移ってからも、ときおり有馬さんと娘とは手紙をやりとりしていたらしいと、老人は仰言いました。由加子さんは地元の高校を卒業すると、京都のデパートに就職したそうです。「ずっとデパートに勤めてるものとばかり思ってました。なんで死んだんか、私にはさっぱりわかりません。遺書みたいなものもありませんでしたし」。由加子さんのお父様は、それこそ応接間の床に額をこすりつけるような格好で頭を下げ、御家庭を乱し、あまつさえ御主人に命にも及ぶほどの怪我まで負わせて、親としてどうお詫びしてよいかわからないと、何度も何度も謝っていらっしゃいました。  お出ししたお茶にも口をつけられず、身を小さくさせて帰って行かれたあと、私は長い間、ぼんやりと居間に坐り込んでいました。なんとも言えない悲しさがありました。私は、あなたと瀬尾由加子さんとの関係の中に、愛情という言葉をふと置いてみました。なぜかその言葉は、色濃く確かな存在感を持って、私の胸の中に坐り込んでしまいました。あなたと瀬尾由加子さんとの間には、ただの男と女といったものだけではない、私など到底入り込むことの出来ぬ強い愛情が存在していたのではないかと考えたのでございます。その思いは、次第に私の中で膨れあがり、ある確信となって居坐り始めました。行きずりの男女の遊び事だと思っていたものが、実はそうではなく、そこに誰人も立ち入ることの出来ない烈しい秘密めいた愛情があったのだとしたら……。私はそのとき初めて、押さえようのない嫉妬の湧いてくるのを感じました。私の心の中で、一頭の競走馬が前足を折るシーンと、一個の壺がばらばらに砕け散るシーンとが、ぼんやり映像となって浮かんでまいりました。確かに父の言ったように、事件が、取り返しのつかない悲惨なものであったことを、私は居間に坐ってうなだれたまま再認識したのでございます。私は、あなたと冷静に話し合わなければならぬと思いました。私の頭に、離婚という言葉が浮かびました。私の、あなたに対する愛情が、すうっと音もなく溶けて消えていくような気持でした。そして、それと同時に生まれてきたのは、憎しみという感情でした。私はあなたと大学の一年生のときに知り合って二十三歳で結婚するまでの五年間の恋人時代と、夫婦として過ごした二年三ヵ月の月日を思い、それよりもっと長い、あなたと瀬尾由加子さんとのつながりを思ったのです。あなたはなぜ、瀬尾由加子さんと中学生時代から知り合いであったことを、私にも、あまつさえ警察にも内緒にしたのであろう。隠さなければならぬものが、そこにあったからではないか。女の勘というものであったのでございましょう。瀬尾由加子という、すでに死んでしまった顔も見たこともない女性が、私の前に立っていました。その横にあなたが、例の何か考え事をしているようなぼんやりとした、そのくせ何やら冷たいものを放っているお顔をこちらに向けて立っていました。その瀬尾由加子さんとあなたとの間には、私の存在とはまったく無関係に、悲しいほどに深いひそやかで烈しい愛情が横たわっているのです。いかにも私らしい空想でございました。あるいはこれをお読みになったあなたからは失笑をかいかねないかも知れません。ですが、こうした際の直感というものを、私は信じているのでございます。そんなあなたと瀬尾由加子さんの、男と女の姿は、いつまでも私の心から消えて行きませんでした。  あす退院という日、意外にもあなたの方から離婚の申し出がありました。「もう香櫨園の家にも星島建設にも戻れんよ。俺もそこまであつかましい人間とは違う」。あなたはそう言って笑うと、頭をぺこんと下げて、初めて私に謝りました。あなたらしい、ぶっきらぼうな謝り方でしたが、心はすでに決まった、そんなさばさばしたところが見られたのです。 「この間、瀬尾由加子さんのお父様が香櫨園の家までお越しになりました。瀬尾由加子さんとは長いおつき合いでしたのね」。そう出かかった言葉をぎゅっと押さえつけて、「本当は、ちゃんと慰謝料を貰わんとあかんのよね」と私は言いました。そして、あなたがどんな反応を見せるだろうかと、「あの方とは、祇園のクラブでお知り合いになったんでしょう?」。そう訊《き》いてみたのです。あなたは小さく頷《うなず》いて、ベッドの上から窓の外を見つめながら、「酔っぱらってたから、どんないきさつでああなったのか忘れてしもた。人生、何が起こるかわからんなァ」と答えました。それから私たちは病院の庭に出て、春のまっ盛りみたいな暖かい光の中を歩きました。私は自分が冷静であるのが不思議でした。水の流れていくのを、静かな心で眺めている、そんな気持でした。ああ、あんなにしあわせだったのにと私は思いました。事件が起こるまでは、あんなにも平穏で充たされていたのに、本当に何が起こったというのだろう。何か夢でも見ているのではないか、そんなことをぼんやり考えていました。この人は、離婚するというのに、まだしら《・・》を切ろうとしている、そんなふうにも思いました。なにが酔っぱらっていたからだ、それなら私も知らぬふりをしてやる。私はそう考えて、ガウンを羽織ったあなたと並んで、ポプラの裸木の間を歩いていました。  なぜ私は、あなたとあの亡くなった女性との本当のいきさつを問いただしてみなかったのであろうかと、いまでもときおり考えてみることがあります。当時は、そんな自分の心がよくわかりませんでしたが、いまになれば自分というものを少し詳しく分析出来そうでございます。簡単に申し上げれば、私は、恋人時代から新婚時代におけるあなたとの月日の上に、離婚を目前にしながらなおあぐらをかいていたかったのです。そんな心の底には、あなたに対するかすかな同情の思いがあり、それを数倍上まわる憎しみもとぐろを巻いていました。それらすべてが、一種の強固な自尊心を作りあげて、私を無口に、無表情にさせていたのでございましょう。あなたと瀬尾由加子さんとの間柄を、単なる行きずりの、肉体だけの関係として、私の中で処理してしまいたかったということになるかとも思われます。言い換えれば、私は、もう亡くなってしまった見知らぬひとりの女性に、負けたくなかったのでございます。  もうすぐ春が来る、そうしみじみと実感させるその日の陽光でした。あなたは、退院後はしばらく伯父のところで厄介になるつもりだとぽつんと仰言って、あとは黙ってしまわれました。腕をぐるぐる廻したり、立ち停まって大きく深呼吸したり、膝《ひざ》の屈伸運動をしたり、本当に何やらさばさばした様子に見えました。私は、瀬尾由加子さんのお父様の、肩を落とした小さなうしろ姿を何度も思い出していました。あなたと病院の中庭で別れると、私は電車で桂まで出て、そこから梅田行きの急行に乗りました。梅田に着くと、香櫨園に帰るつもりで阪神電車の乗り場まで行きましたが、急に思いついて、そのまま御《み》堂筋《どうすじ》を歩いて淀《よど》屋《や》橋《ばし》の父の会社へ行きました。社長室のソファに坐って、私はあなたから離婚の話があったことを父に伝えました。父は、そうかとひとこと言うと、財布からお金を出して私の前に置きました。「お小遣いや。好きなように使いなさい」。父はそう言って微笑《ほほえ》みました。私は紙幣の束をハンドバッグの中にしまいながら、子供のように声をあげて泣きました。あなたとの離婚に際して、私が泣いたのは、そのとき一回きりでしたが、涙も涸《か》れる程いつまでも泣いていたのでございます。私は悲しかったのではありません。これから、何か不幸なことが始まって行きそうな気がして、烈しい恐怖にかられていたのでした。何か不幸なことが、私の身の上だけでなく、あなたの身の上にも起こりそうな気がして、それがたまらなく怖かったのでございました。私は帰宅を急ぐ勤め人の群れに混じって、黄昏《たそがれ》の御堂筋をまた帰って行きました。泣いたあとの残る顔を伏せて歩きながら、私は離婚の決意をいたしました。行きたくもないのにむりやり船に乗せられてしまい、すうっと岸壁から離れてしまった、そんな思いがいたしました。一ヵ月後、あなたから送られてきた離婚承諾書に、私は署名して判を押しました。  書きたいことは、もっと他のことだったような気がいたします。本当に書きたかったのはこんなことではない、もっともっと書きたいことがある、そうも思われますが、私の前に重ねられた便箋《びんせん》は、思いのほかぶ厚くなってしまいました。蔵王のダリア園で星を見ていたときの淋しさが、私にペンを取らせたのでございましょう。それは、十年振りに思いがけず再会したあなたの横顔の持っていた淋しさが私にもたらした余韻でもありました。蔵王のゴンドラの中でお逢いしたあなたは、本当に淋しそうでした。重傷を負って、病院のベッドに横たわっていたときだって、あんなお顔はなさっていませんでした。何か暗い、疲れた、捨鉢な雰囲気を、強い目の光の中に漂わせていらっしゃいました。それがどうにも気になって、心の落ち着かぬ数日を過ごし、あなたにお手紙を書こうなどとつまらぬ考えを起こしてしまいました。もう何の関係もない私たちの間柄だとは言うものの、離婚によってお互いが不幸になったというふうには考えたくなかったのでございます。もしそうだとしたら、あのあなたとお別れすることを決意した日、父の会社の社長室に坐って考えたことが、単なる不吉な予感だけではなかったことになってしまうのです。私は、あなたとお別れしたことで、清高という子供をもうけました。清高の疾患に気づいたときの悩みや苦しみを言葉にして表現する術《すべ》を知りません。私は一歳を過ぎてもお坐りひとつしようとしない吾が子を見て、自分の予感が現実となって襲って来たと思いました。そして、この障害を持つ子を私にもたらしたのは、ほかならぬあなたなのだとさえ思ったのでございます。あなたさえ、あのような事件を起こさなければ、離婚などということはなかった筈だ。そうすれば、私はあなたの子供を産んで平穏にしあわせに生きていた筈ではないか。すべてあなたが悪いのだ。私は父の勧める大学の助教授と再婚し、清高という男の子を産んだ。清高のような子供を産んだのは、あなたと別れて勝沼壮一郎という人と結婚したためではないのか。私は本当にそう考えて、しばしば物思いにひたりました。私はあなたを憎んだのでございます。とんでもない八つ当たりだとあなたは仰言るに違いありません。ですが、当時私は本気で、清高という子の母になった原因を、あなたの不貞と、それに関連する血なまぐさい事件に結びつけて考えたのでございました。しかし、子供の不具を知った当座の衝撃やら悲しみやら動揺やらがしずまって、やがて母親としての新しい愛情と闘志を感じるようになると、あなたへの憎しみも影をひそめていきました。あなたの面影は、私の中でだんだん薄くなりました。三歳から七歳までの四年間、私は清高を抱いて、阪神整肢療護園というとに通いました。毎日が必死で、やれ立てたと言っては泣き、やれ伝い歩きが出来たと言っては泣く日々がつづいたのでございます。それでも障害が比較的軽症であったのでございましょう、言葉も不自由ながらも使えるようになり、松《まつ》葉《ば》杖《づえ》で歩けるようにもなって、養護学校の小学部に入学以来、子供の将来に小さいながらも一筋の光明が射してきた現在、私は幾つかの不満はあるものの、自分がまあまあ幸福な生活をおくっていると感じられるようになりました。私はあなたとの離婚によって、断じて不幸になったりはしたくないと思っておりました。まるで何物かに対する意地みたいに、そう思いつづけてきました。そして私は、あなたにも決して不幸になってもらいたくはなかったのでございます。それもまた意地のように強く念じつづけてまいりました。  もうこの辺で、長い手紙の筆を擱《お》くことにいたします。何の為の手紙であったのか、長々と書き綴ってきて、私にもわからなくなってしまいました。いまになって、この手紙を投函せずに破り捨ててしまおうかとも考えますが、ただひとつ、瀬尾由加子さんのお父様との件、あなたにお伝えするのを目的に、ポストに入れることといたします。お返事をいただくためにお出しする手紙ではありません。何となくあいまいな、そこに明晰《めいせき》な意志というもののなかった私たちの離別への、十年越しの弁解だとお取り下さいませ。寒さの折、お体どうか御自愛下さいますように。 かしこ    一月十六日       勝沼亜紀   有馬靖明様 追伸  差出し人が誰であるのか、すぐにおわかりになるように、旧姓の星島亜紀でお出ししました。またあなたの御住所、資材課の滝口さんから聞きました。最近まで御交友がおありだったと伺いました。 拝復  お手紙拝見いたしました。読み終えた当座、返事を出す気持はまったくありませんでした。しかし、日がたつにつれて、私もまたお話しなかった多くの心理的事件を胸の内に持っていることに気づき、ためらいつつ筆を取った次第です。あなたは、何となくあいまいな、そこに明晰な意志というもののなかった私たちの離別とお書きになりましたが、それは間違っています。私の方には、別れなければならぬはっきりした理由がありました。私の起こした不祥事がそれです。私は妻がありながら、他の女と関係を結び、あまつさえ無様な事件に巻き込まれてしまったのですから、どうにも弁解のしようがありませんでした。これ以上の離婚の理由はなかったであろうと思います。多くの人に迷惑をかけました。私も傷を負いましたが、あなたの受けた傷はそれよりも大きかったことでしょう。あなたのお父さんにも、星島建設にも傷を与えました。私の方から離婚を願い出ることは当然だったのです。  それはさておき、私はこの手紙を、瀬尾由加子と私との関係から書き始めようと思います。それがあなたに対する礼儀ではないかと思われるからです。そのうえで、あなたを長い間あざむいてきたことをお詫びいたしましょう。なぜ私が、離婚の際、そのことを話さなかったのかは御理解いただけるでしょう。きざな言い方ですが、あなたをあれ以上傷つけたくなかったのです。瀬尾由加子のお父さんがあなたと逢って、私とのことを話したということを、あなたもひた隠しにしていたではありませんか。あなたがそれを打ち明けてくれていたら、私はもうすっかり兜《かぶと》を脱いで、あの病院の中庭で、有体《ありてい》に泥を吐いていたかもしれません。しかし、あなたは黙っていた。女の勘だと、あなたは書いていますが、核心を掬《すく》いあげてくる恐るべき勘であったと、お手紙を読みながら感じ入ってしまいました。  私が瀬尾由加子と知り合ったのは、中学二年生のときでした。両親を亡くした私は、最初、舞鶴に住む母方の親戚に引き取られました。緒方という名の子供のない夫婦で、いずれは私を養子にするつもりだったようですが、なにしろ十四歳のむつかしい年頃の少年のこととて、お互いの相性がどうであるかも判らず、しばらく一緒に暮らして様子を見ようということになり、入籍しないまま、私はその夫婦に養われながら地元の中学校に転入したのでした。もう二十数年も昔のことですから、当時の私がどんな少年であったのか、どんなことを考えていたのか、殆ど記憶にありません。ただ今でもはっきり覚えているのは、初めて東舞鶴の駅に降り立った際の、心が縮んでいくような烈しい寂寥《せきりょう》感です。東舞鶴は、私には不思議な暗さと淋しさを持つ町に見えました。冷たい潮風の漂う、うらぶれた辺境の地に思えたのでした。実際、東舞鶴は京都の北端の、日本海に面した閑散とした町でした。冬は雪、夏は湿気、それ以外の季節はどんよりした厚い雲ばかり、まばらな人通り、埃《ほこり》まじりの潮風。私はどれほど大阪に帰りたいと思ったか知れません。けれども、私には帰るとがありませんでした。緒方夫婦も、私を引き取ってすぐに、自分たちの行為を後悔した様子でした。お互いがいつまでも遠慮し合って、気づまりで窮屈な日々がつづいたのです。町の消防署に勤める実直な叔父と、舞鶴で生まれ、舞鶴で育った地味で温和《おとな》しい叔母とは、何とか親となるべく努力をしてくれたようでしたが、いっこうに心を開いていかない私を扱いあぐねて思い悩むようになっていきました。  学校でも、私には友だちが出来ませんでした。親を亡くしたばかりの、都会からやって来た物言わぬ少年を、いったいどのように扱ったらいいのか、同級生たちも当惑していたのだろうと思います。学校生活にも、緒方夫婦との生活にもなじめないまま数ヵ月が過ぎましたが、その中でたったひとつ、心ときめく事件が私のまわりで生まれました。同じクラスの、ひとりの女生徒に惹《ひ》かれたのでした。とかくの噂《うわさ》の多い女生徒で、どこかの高校生とひそかな恋愛関係にあるとか、すでに男を知っているとか、不良グループが彼女をめぐって争いを起こしたとか、そういった風聞に取り巻かれた少女でした。短かった舞鶴の生活の中で、私が体験したただひとつの鮮明な事件は、その瀬尾由加子という少女への恋でした。緒方夫婦が与えてくれた六畳の部屋にこもって、私は決して出すことのない何通もの手紙を、瀬尾由加子宛に書きました。書きあげると封筒に入れ、二、三日机の底にしまい込んでから、裏の空地で燃やしました。いま思い出してみても、私の瀬尾由加子に対する思いは、思春期の少年の淡い恋心といったものではなく、もっと狂おしいまでの烈しさをともなったひたむきな恋情でした。当時の私の置かれていた特殊な環境を考えると、あるいはそうしたことで自分の淋しさをまぎらわせようとしていたのかもしれません。しかし、私は遠くから彼女の横顔やら立居振舞いやらを盗み見るだけで、自分の方から話しかけていったり、自分の気持を伝えようと工夫したりはしませんでした。いかにそれが真剣な熱っぽい思いであったにしても、私はまだ十四歳の子供でしかなかったのです。瀬尾由加子は、同年齢の女生徒と比べると、笑い方も喋《しゃべ》り方も、歩き方も足の組み方も、あらゆる点で垢《あか》抜《ぬ》けておとなっぽく見えました。舞鶴という、薄暗い人《ひと》気《け》のない海辺の街のたたずまいが、私にかえって彼女を取り巻いている風聞を妖《あや》しい神秘的なものに高めさせてきたのかもしれません。瀬尾由加子に関する淫《いん》靡《び》な噂話を耳にするたびに、私の思いはさらにつのっていきました。そうした罪の匂いのする醜聞は、いかにも彼女にふさわしいとさえ思えるのでした。それほどに、私の目には、彼女は美しく華やかに映っていました。  十一月初旬の、舞鶴特有のささくれだった冷たい風の吹く日でした。(いい気になって何を書いているのだと笑われそうですが、私は瀬尾由加子が嵐山の旅館の一室で、自らの命を絶ったことを思うたびに、二十数年前のその日の出来事をある痛切な感懐をもって思い出してしまうのです)。  学校から帰ると、私は叔父の家を出て港の方に向かって歩いて行きました。何の為に、どこをめざして行ったのかは、まったく覚えていません。入り組んだ舞鶴湾の東側には、舞鶴東港というさびれた港があり、小さな漁船が絶えず何艘《そう》か繋《つな》がれて停泊していました。汚れた防波堤がうねうねとつづき、海鳥の鳴き声がディーゼル船の音と混じって聞こえていました。私は防波堤に凭《もた》れて、しばらく港の景色を見つめていました。その頃の私は、海を見れば、ああ、なんと淋しい海だろうと思い、何としても大阪に帰りたいと考えてしまう。空を見れば、なんと暗い空であろうかと感じて、死んだ両親を恋しがるといったふうでしたから、多分そのときも、港内の静かな波を眺めながら、いかにして大阪へ帰って行こうかなどと思いを巡らせていたのでしょう。人間というものはおかしなもので、遠い遠い昔の出来事でも、あるちょっとした愚にもつかないことを鮮明に覚えている場合がありますが、そのときも、手ぬぐいで頬かむりをした女が、泣きじゃくっている幼児を自転車のうしろに乗せて、私の背後を走り過ぎて行ったことを覚えています。泣いている子供と一瞬目が合ったのですが、私はいまでもその子供の濡れそぼった瞳《ひとみ》をまざまざと思い出すことが出来るのです。子供の泣き声が消えて行ってすぐに、私は防波堤の上に手をそえて、港の方に顔を向けたまま、ゆっくりした足取りで歩いて来るセーラー服姿の瀬尾由加子に気づきました。彼女は何か考えごとをしている顔つきでそのままぶらぶら歩きつづけて来て、行く手に立っている私に突き当たりそうになり、驚いて歩を停めました。そして突然の出来事にどぎまぎしている私をまっすぐに睨《にら》みつけてきました。同じクラスにいても、私たちは一度も口をきいたことがありませんでした。彼女は、こんなところで何をしているのかと私に訊きました。しどろもどろになりながら、私は何か答え返しました。すると彼女はしばらく何事か思案している様子でしたが、これから船に乗るのだが一緒に乗ってくれないかと言いました。船に乗ってどこへ行くのかと私が尋ねると、彼女は湾の中をぐるっとひと廻りして、すぐに帰ってくるのだと言って、停泊している漁船の方に目を向けました。ただし連れがいると知ったら、あるいは乗せてくれないかも知れない、そう呟《つぶや》いて漁船の繋がれているところへと歩きだしたのです。私は、きっと彼女は船に乗りたくないのであろうと思いながら、あとをついて行きました。何か厄介なことが持ちあがりそうな予感がしてためらわれたのですが、そのまま別れてしまうのも惜しい気がして、潮風の中を歩いて行ったのです。大杉丸という船の上にひとりの年若い男が立っていました。由加子を見ると笑って手を振ったのですが、うしろをついて来る私に気づいて、きつい目つきに変わりました。髪は短く、殆ど坊主頭でしたから、最初は高校生かとも思いましたが、見ようによっては二十二、三歳の青年にも見えるのでした。由加子は桟橋に立って男を見上げ、私のことを大阪から転校して来た級友であると紹介し、船に乗せて欲しいと言うのでつれて来たと言いました。男はさぐるような目で私を見やっていましたが、軽く頷いてから小さな船室に入ってエンジンをかけ、私たちに乗るよう促しました。船が桟橋を離れた直後、男は大声で私に泳げるかどうかを訊きました。少しなら泳げると答えると、男は素早く船室から走り出て来て、私の衿首《えりくび》をつかみ、そのまま海に突き落としたのです。海中から浮きあがって、船を見ると、ちょうど由加子が私のあとを追って、セーラー服姿のまま海に飛び込むのが見えました。男が何か叫んでいましたが、私たちは必死で桟橋まで泳ぎました。私は桟橋の上によじ登り、由加子を引き上げると、ずぶ濡れになった格好で走り出し、少し行ったところで立ち停まりました。男が追いかけて来はしまいかと恐しかったのでした。しかし船は、そのまま港をまっすぐ進んで行き、引き返してくる様子はありませんでした。泳いでいる最中に靴が脱げたらしく、私も由加子も濡れた靴下から海水をしたたらせて立っていました。由加子は私を呼び停め、走って来ると、私の手をつかみ、何度もごめんね、ごめんねと謝っていましたが、突然高い声で笑いだしたのです。私が茫然と見つめるほど、それは異様な笑い方でした。全身濡れ鼠のようになって、彼女は私の手を握ったまま、身をよじらせて笑いつづけました。ひとしきり笑ってから、由加子は自分の家に来るようにと誘いました。十一月の舞鶴の海は冷たく、だんだん体が冷えてきて、私が小刻みに震えだしたので、彼女は兄の服があるからそれに着換えたらいいとすすめてくれました。私たちは小走りで港から町へ入り、道行く人の注視を浴びながら由加子の家の方へと急ぎました。  由加子の家は、叔父の家からは少し離れた干物工場の並ぶ町外れにありました。干物工場といっても、スレート葺《ぶ》きの黒い屋根と板壁だけの建物ですが、そのあたりに行くと、生臭い匂いが鼻をついて、群れをなした野良犬が積みあげてある木箱のまわりをうろついているのが見えました。煙草屋の看板をあげた小さな二階家が由加子の家でした。店先に坐っていた由加子の母親が、私たちを見て驚きの声をあげました。由加子は、桟橋で遊んでいて海に落ちたのだと言い、兄の服を出してあげてくれと頼みました。由加子が二階で着換えている間に、私は台所へつづく板の間で濡れた服や下着を脱ぎ、体を拭くと、母親の出してくれたナフタリン臭い男物の衣類を身につけました。由加子の兄は、その年に地元の高校を卒業すると、大阪のある自動車会社に就職していました。ふたりだけの兄妹だと聞きましたが、私は由加子の兄とは一度も逢ったことはありません。着換えを済ませた由加子に二階から呼ばれて、私は階段を昇って行きました。赤いセーターを着た由加子が濡れた髪をタオルで拭きながら、風邪をひくといけないから温まっていけと言って、電気コンロを部屋の真ん中に置きました。母親が熱いお茶をいれてくれ、私と由加子は赤く熱したコンロを挟んで坐ると、しばらく無言で茶を飲んでいました。由加子の机の上には、電気スタンドと小さな木箱、それに陶製の人形がひとつ置かれていて、私はいまでもそれらのどこか少女っぽい配置を思い出すことがあります。彼女をとり巻く風聞からはおよそかけ離れた幼いつつましやかな雰囲気が、その六畳の部屋のそこかしこに漂っていましたが、海水で濡れた黒光りする髪を肩まで垂らして、コンロの熱に頬をかざしている由加子からは、ある暗さをともなった色香のようなものが放たれているのでした。風呂あがりの洗い髪を乾かしている成熟した女が、ひっそりと物思いにふけっているといったふうに、私の目には映りました。いや、そのときそう映ったというのは間違っています。こうやってこの手紙を書きながら、二十数年前の中学生だった瀬尾由加子の姿を心に描きつつ、いま私はそう思ってしまうと言った方が正しいのでしょう。「なんで海に飛び込んだんや」と私は訊きました。彼女はいたずらっぽく微笑むと、あいつとふたりっきりになりたくなかったからだと言いました。ふたりっきりになりたくないのなら、どうしてあいつの船に乗ろうとしたのかと私は問い詰めました。彼女は勝気そうな目を私に注ぐと、黙って睨みつけてきました。そして、誘いに応じないといつまでもつきまとわれる、これまでも何度も学校の帰りを待ちぶせされて、しつこく誘われたのだと教えてくれました。私は、自分の聞いた彼女に関する風聞を話し、本当かどうかと尋ねてみたのです。本当のこともあるし、そうでないものもあると彼女は答え、きょう起こった出来事は決して誰にも喋らないでくれとつけ足しました。小さなコンロの熱が、額や頬や掌を温めてきて、私の体からはやっと震えが去り、それと同時に何やらゆったりした気分がひたひたと押し寄せて来るようでした。私は、由加子と自分が、あたかも親しい幼な馴染ででもあるかのような錯覚に襲われて、そんな噂をたてられるのは心に隙があり、無意識のうちに男の誘いを呼び起こす媚《び》態《たい》をとってしまっているからではないかといった意味の言葉でなじりました。「そんなことあらへん」。彼女は強い語調で言って、下唇を噛《か》みしめると、長い間私を睨みつけていました。その目はどことなく悲しげで、いっそう彼女の持つ美しさをきわだたせてくるのでした。そんな彼女を見ていると、私はふいにいつもの押さえがたい寂寥感に包まれました。瀬尾由加子という少女から発散してくる不思議な暗さは、裏日本の辺《へん》鄙《ぴ》な港町のたたずまいと同質のものだったのです。私は由加子に、舞鶴という町がいかに嫌いであるか、そしてどれほど大阪に帰りたいと思っているかを話して聞かせました。日は暮れかけて、部屋の中は暗く、コンロの赤いニクロム線だけが渦巻状にうねって浮きあがってきました。こうやって書いていると、そのときの情景が、まるできのうのことのように心に浮かんできます。私はそのときの思い出を、ある幻想的な、夢のような、はかない、かけがえのないものとして心に蔵《しま》いつづけてきました。成人し、社会人となり、あなたと結婚してからも、しばしば私はその追憶の中にひたったものです。  彼女は両手を差しのべ、私の頬を挟むと、落ち着いた仕草で、額を押しつけてきました。そしてそうやったまま、私の目を覗《のぞ》き込み、くつくつと忍び笑いを洩らしました。それは、どう考えても、十四歳の少女のふるまいではありませんでした。一瞬の驚きが去ると、私は陶然としてされるままになっていました。彼女は、以前から少し好きだったけれど、きょう本当に好きになってしまったと囁《ささや》いて、頬をすり寄せ、唇を這《は》わせました。いまにして思えば、十四歳にして何のためらいもなく男にそのようにふるまえるということが、瀬尾由加子という人間の持っていたひとつの業であったと言えるでしょう。業という言葉が、いったいいかなる深い意味を秘めているのか私には判りません。けれどもその言葉は、由加子という女を思い出すとき、最も適切な響きを持って、私の心に浮かんで来るのです。  誰かが階段を昇って来る音がしたので、私たちは慌てて離れました。由加子の父が勤めから帰って来て、二階にあがって来たのでした。当時、由加子の父は煙草屋を営みながら、町の水産加工会社で働いていました。由加子は父親に私を紹介し、両親を亡くしたこと、叔父の家に養子となるためにやって来たことを話しました。その話しぶりは、父親に甘えかかるまだ娘とも言えない幼さだけが表に出て、私に顔をすり寄せて甘い言葉を囁きかけていた際の匂うような女らしさは跡形もなく消え失せていました。私は自分の濡れた学生服や下着をふろしきに包んでもらうと、彼女の家を辞しました。由加子は干物工場の前まで私を送って来て、何事もなかったふうに、さよならと言いました。しかし、舞鶴における瀬尾由加子との交わりは、その日一日きりでした。私が体に合わない大きな服を着て、ふろしき包みをかかえて叔父の家に帰ると、大阪の生野区に住む父の兄が訪れて、私を待っていました。緒方夫妻とすでに相談が出来ていたらしく、私を引き取るために舞鶴までやって来たのでした。緒方夫妻の強い要望でお前を舞鶴に行かせてしまったが、やはり自分が面倒をみるのが本筋だったと伯父は言いました。今後のことを考えても、大阪で生活した方がいいだろう、自分の家も決して裕福ではないが、お前さえ承知なら、成人してひとり立ちが出来るようになるまで父親がわりになるつもりだ。伯父はそう言って大阪へ帰るよう勧めました。私の返事を待つまでもなく、話はすでに決まっていたのです。大阪に帰れるのは、私にとっても嬉しいことでしたが、即座に同意するのは緒方夫妻に対して申し訳ない気がして、私はしばらく考えさせてくれと言って二階の自分の部屋に行きました。私の体のあちこちには、まださっきの由加子の名残りが残っていて、何やら複雑な気持でぼんやり壁に凭れかかっていました。きょう本当に好きになってしまったという由加子の言葉が、あれほど大阪に帰って行きたかった私の心を烈しく揺り動かすのでした。私はまだ十四歳でしたが、緒方夫妻の私に対する思いは充分に察しがついていました。やはり、伯父のもとに行くしかあるまいと私は思いました。  その夜、私は伯父と一緒に、中学校の担任の教師宅を訪れ、事情を話し、急なことではあるが、出来ればあすにも舞鶴を発ちたい由を伝えました。あくる日の朝、私はきのう借りた由加子の兄の服と下着を持って、彼女の家に行ったのです。ひと足違いで、由加子は学校に出かけて行ったあとでした。私は由加子の父親に手短かに事情を話し、家の住所を教えてもらうと、待っている伯父のところに走って行きました。列車の時刻が迫っていたのです。あわただしく舞鶴をあとにした私は、級友たちにも由加子にも、何の挨拶もせず大阪に帰ってしまったのでした。  私は大阪の伯父の家に落ち着くと、すぐに彼女に手紙を書きました。どのような文面であったのかは忘れてしまいましたが、すぐに由加子からも返事が届きました。私は月に一度の割合で、舞鶴にいる由加子に便りを出しました。由加子からも二、三度返事を貰いましたが、そのうちぷっつりと手紙がこなくなり、やがて私は高校に進学しました。私はときおり、気も狂わんばかりの思いで、由加子の横顔を心に描きました。何度、舞鶴まで行って由加子に逢ってこようと考えたかしれません。だがそんな自分の烈しい思いとは裏腹に、私はいつしか彼女への手紙を書かないようになっていきました。返事をくれない由加子が、もはや手の届かない遠い存在に思えてきたのでした。由加子の部屋で彼女が私に示したふるまいは、その場かぎりのほんのきまぐれでしかなかったのではないかと考えるようになっていきました。おそらく舞鶴の高校に進学したであろう彼女は、いっそう華やかな風聞に取り巻かれて、とうの昔に私のことなど忘れてしまったに違いない、私はそう自分に言い聞かせて大学入試のための受験勉強に励んでいきました。私は由加子のことを殆ど完全に忘れてしまったかのようでしたが、それでも何かしたひょうしに、あの日の夕暮迫る二階の部屋での、濡れた髪を肩に垂らした彼女の姿態やら忍び笑い、さらには私に囁きかけてきたときめくような言葉の意味が、心を走り抜けて行くのでした。  大学に入って三年目に、私はあなたを知りました。結婚してからも、あなたがふざけて何度も私の口から言わせたがったように、私は大勢のクラスメートと一緒にキャンパスの芝生の上に坐ってアイスクリームを食べていたひとりの女子学生に心を奪われました。飽き飽きするほど言わされましたね。いまさら馬鹿みたいなセリフですが、ここでもう一度繰り返しておきましょう。私はあなたにまさにひと目惚《ぼ》れでした。私はあなたの気を引くために、それこそ考えつくあらゆる手段を講じました。もはや私の心の中から、瀬尾由加子の影は消えてしまい、育ちのいい、溌剌《はつらつ》としたひとりのお嬢さんがそれに取って換わったようでした。けれども、依然として由加子は私の中にひそんでいたのです。私はそのことに随分あとになって気づきました。  あなたと結婚し、星島建設に入社して一年程たった頃のことです。ある機械メーカーが、舞鶴に工場を建設することになり、その施工を地元の建築会社との共同作業という形で依頼してきました。私は現地を視察するため、施工主の係の者と設計課の担当者と三人で舞鶴まで出掛けました。十数年振りに訪れる舞鶴でした。仕事はすぐに終り、私たちは駅の近くの旅館に入って早い夕食を済ませました。私は懐しい舞鶴の町や港を見たくなり、ひとりで旅館を出て、まず緒方夫妻の家に向かって歩いて行きました。その二年前に緒方の叔父は他界して、叔母だけがひとりで暮らしている筈でした。とが、あいにく叔母はどこかに出掛けていて留守でした。仕方なく港の方に歩きかけて、私はふと由加子はどうしているだろうかと考えたのです。すでに結婚して母親となっているかもしれない。私の足は自然に町外れの由加子の家のあった方に向いていました。舞鶴の町はすっかり変わっていて、干物工場は大きな水産加工工場になっていましたが、瀬尾煙草店は十数年前とまったく同じたたずまいで立っていました。店先にはすっかり歳をとった由加子の母親が坐っていました。私は煙草を買い、そっと中を覗き込んだりしていましたが、思い切って声を掛けたのです。自分の名前を名乗り、中学生のとき娘さんと同じクラスにいたこと、海に落ちて、びしょ濡れの服をこの家で着換えさせてもらったことなどを話し、由加子さんはお元気であろうかと訊《き》きました。母親はしばらく考え込んでいましたが、そのうちだんだんに思い出したらしく、大阪に帰って行って、その後ときおり手紙をくれた人であろうかと訊きました。私がそうだと答えると、母親は懐しそうにわざわざ表まで出て来て、丁寧に挨拶をし、由加子はいまは京都の河原町にあるデパートに勤めていると教えてくれました。寝具売り場にいる筈だから、京都に行くことがあればぜひ寄ってやってくれとのことでした。もう結婚してお母さんになっているものと思っていたと私が言うと、親の言うことも聞かず気ままに遊び暮らしているようだ、いい人があればお世話してもらいたいくらいだと言って母親は笑いました。私は日の落ちた舞鶴の町を歩いて港まで行くと、防波堤に凭れて、湾の入江に点々ときらめいている明かりを見つめ、そこで初めて、私の中にひそんでいる由加子に関する思い出が、とうに過ぎ去ってしまった誰にでもある単なる感傷でしかないではないかと考えました。ああ、懐しいなァ、俺はここで由加子とばったり出くわし、見知らぬ男に海へ放り投げられたのだ。あの頃は父と母を喪《うし》ない、緒方夫妻に貰われて舞鶴までやって来て、淋しさや不安をいっぱい心につめ込んで、いったい何を考えていたことであろうか。それにしても瀬尾由加子という少女は、なんと不思議な少女であったことだろう。私はそんなふうに考えながら、いつまでも潮風に打たれて立っていました。その瞬間、由加子という少女の亡霊は、私の中からふっと抜け出て消えてしまったのです。確かに、私の中から抜け出たのです。私はそのことをはっきりと感じました。私はなにやら心楽しくなって、煙草を何本も喫いながら、駅前の旅館に帰って行きました。  それから数週間が過ぎた、ある雨の降る日でした。私は社の車で、京都の円山公園の近くにある病院に出向きました。得意先の業務部長が入院していて、その病気見舞いが目的でした。私は河原町の交差点の近くで車を停めさせると、果物屋でもないものかと捜してみました。目の前にデパートがあったので、車を待たせておいて、見舞い品にメロンでも買おうと中に入りました。果物売り場でメロンを包んでもらっているとき、ふとこのデパートの寝具売り場に由加子がいることを思い出してしまいました。すると心がときめいてきました。(結婚して一年足らずの妻がいるというのになんともいい気なものですが、それが男というものだと御理解いただくしかありません)。私は六階の寝具売り場へ上って行きました。言葉を交わそうなどという気は毛頭ありませんでした。ただ逢ってみたい、由加子はどんな女性になっているだろうか、そんな軽い気持だったのです。寝具売り場にいる女店員の顔を盗み見ながらうろついてみましたが、由加子らしい女性はみつかりませんでした。みな制服の胸のとに名札をつけていましたが、瀬尾という名前の店員はいませんでした。そのとき、私がそのまま帰ってしまっていたらと、ときおり考えることがありますが、それが人生というものの持っているどうにも抗《あらが》うことの出来ない罠《わな》のようなものなのでしょう。  私は売り場にいたひとりの女店員に、ここに瀬尾由加子さんという方がいらっしゃるだろうかと訊いてみました。するとその女店員は、売り場の奥の小さなドアをあけて、大声で、瀬尾さん、お客さんよと呼んだのです。私が制する暇もありませんでした。すぐに呼ばれた由加子が売り場に出て来て、怪《け》訝《げん》そうに私の前に立ったのです。そうなると、私としては何か喋らなくてはひっこみがつかなくなってしまいました。  私は自分の名前を言って、由加子の表情を窺《うかが》ってみました。当然彼女は不審気に私を見つめ返してきました。私は数週間前舞鶴で由加子の母親に言ったのと同じような言葉を早口にまくしたて、たまたまこのデパートに立ち寄ったので、懐しさに駆られて声を掛けてみたのだと言いました。彼女はやがて私を思い出しました。思い出した途端、由加子の表情には十数年前の少女だった頃と同じ雰囲気を持つ笑顔が浮かびました。デパートの制服を着た由加子は、私が想像していたよりもずっと地味な面立ちだったのですが、大きく目を見《み》瞠《ひら》いて笑うと、そこにあの幾つかの華やかな風聞を招き寄せていた美貌が甦《よみがえ》っていました。それは確かに由加子でした。だがどこかに崩れたものを取り入れて成人した女に特有の下司《げす》っぽさがない、意外なほど清純な容姿に、私は少し面くらってしまいました。彼女は私を見てしきりに懐しがり、こんな所で立ち話も変だからと、デパートの隣にあるという喫茶店に私を誘いました。三十分ぐらいなら仕事を離れてもさしつかえがないとのことでした。しかし喫茶店でいざ向かい合ってみると、いったい何を話したらいいのか判らず、私はとりとめもなく舞鶴での思い出ばかり繰り返していました。話が途切れたとき、彼女はぽつんとこう言いました。「私、もうじき勤めを辞めるんです」。勤めを辞めてどうするのかと私が訊くと、由加子は以前からアルバイトに祇園のクラブで働いていたのだが、いろいろ考えた末、そっちの方を本業にすることにしたのだと言って、制服のポケットからクラブのマッチを出して私に手渡しました。得意先の接待で祇園のクラブを利用することが増えそうだと私が言うと、それならぜひ自分の店を使ってくれと笑いました。私は車を待たせていたので、その日はそれで由加子と別れましたが、それから一ヵ月後、得意先のおえら方を連れて、由加子の働いているアルルに初めて出向きました。  私は、瀬尾由加子とのいきさつを洗いざらい書いてしまうつもりでペンを取りましたが、これ以上書きつづけて行けば、あなたに頂いた手紙よりも長くなってしまいそうです。この手紙も、すでに長過ぎるほどに書いてしまいました。書きながら、何やらうんざりしてきました。もうどうでもいいではないかという気持になってしまいました。これ以後の、私と由加子との出来事は、どこにでもある男と女のなれそめとそれにつづくありふれた関係を御想像いただければいいでしょう。なぜ由加子が自らの命を絶ったのか、なぜ彼女が私をナイフで刺したのか。考えてみれば、そこまであなたに詳細に説明することもないと思われます。さらに、あなたの言うように、私と由加子との間に、誰人も立ち入ることの出来ない烈しい秘密めいた愛情というものが実際に存在したのかどうかも、いまとなっては曖昧《あいまい》模糊《もこ》とした、あるかなきか判らぬ夢のようなものでしかないとでも言うしかありません。烈しかったのは、あの舞鶴での少年時代だけのことであって、由加子と十数年振りに再会してからの私の心には、もはやどろどろとした肉欲だけがうごめいていたとしか思えないふしもあるのです。ともあれ、あなたにもたらした悲嘆を、あなたに与えた苦痛を、あなたに対する裏切りを、心からお詫びいたします。書き疲れて、ぐったりした気分ですが、最後に、あなたの御家庭がいつまでも御多幸でありますようお祈りして、この辺でペンを置くことといたします。 草々    三月六日       有馬靖明   勝沼亜紀様 拝啓  もう随分年老いてしまったと思っていた庭のミモザアカシアの木が、ことしも、黄色い微細な花をいっぱいに咲かせました。あの粉のような花が好きなものですから、頃合の枝を切って活けようと、ハサミを持って庭に出て行きました。少し触れただけで、ふわふわと花が散り、切った枝をそっと静かに運んでいると、それでも散り落ちて行くので慌てて立ち停まってしまいました。ミモザアカシアの枝を手にするたびに、いつも私は切ないような、悲しいような、変な気持に一瞬襲われてしまうのです。あなたからのぶ厚いお手紙を手にしたとき、まさかお返事がこようとは思っておりませんでしたので、胸がドキドキして、封を切るのが恐しいような気持でございました。読み終えて、まるであのミモザアカシアの花が散りこぼれて行くのを見ている際の奇妙な心の動きと同じものを抱いてしまいました。あなたが、あんなロマンチックなお返事を下さるとは予想も出来ないことで、この手紙を書いたのは有馬靖明などという人ではなく、まったく別の人間なのではないかと悲しくなったり、切なくなったりしてしまったのでございます。いったいあなたは、あのお手紙で、私に何を教えたかったのでしょうか。私はあのお手紙によって、何を知ることが出来るというのでしょう。あなたは気分よく前奏曲だけを弾いて、これから本当の音楽が始まるというとき、突然疲れたと言いながらばたんとピアノの蓋を閉めてしまったのでございます。甘い調べの、人を小馬鹿にした長い前奏曲でございましたこと。  初めからお返事をいただこうと思ってお出しした手紙ではありませんでしたが、いざお返事を頂戴してみると、逆に妙な消化不良みたいな気分になってしまいました。私、あなたと瀬尾由加子さんとのいきさつを、最後まで知りたいと思います。なぜ瀬尾由加子さんは自らの命を絶ったのか。なぜあなたを道連れにしようとしたのか。いまどうしても知りたいという気持でいっぱいです。私には知る権利がある。そんなこと一度も考えたこともなかったのに、あなたのロマンチックな初恋物語を読まされて、かえってそう詰め寄りたくなってしまいました。それから、まだまだ知りたいことが出て来ました。あなたはなぜ蔵王へなど行ったのでしょうか。あなたはいま何をして生活していらっしゃるのでしょうか。それらをどうしても知りたいという気持になってしまいました。あるいは、最初から私はそのことが知りたくて手紙などを出してしまったのかも知れませんが、あなたからの思いがけないお返事、何やら眠っている子を起こしてしまう効果を持っていたようでございます。もはやお別れしてから十年が過ぎ、お互い何の関係もない間柄ではありますが、私、どうしても、あなたのロマンチックなお話の顛末《てんまつ》を教えてもらわなければおさまりがつかない気分なのです。どうか瀬尾由加子さんと京都のデパートで再会してから、あの嵐山の旅館に至るまでの道筋をお書き下さいませんでしょうか。なお余計なことかも知れませんが、主人は今月の末から三ヵ月間の予定でアメリカにまいります。あちらの大学で東洋史の講義をすることになっています。 敬具    三月二十日       勝沼亜紀   有馬靖明様 前略  お手紙確かに頂戴いたしました。あなたのご立腹ももっともな話で、私も返事を差し上げてから、いささか自己嫌悪に陥っておりました。年がいもなく甘っちょろいことを書き綴ったものだと、数日恥しさと馬鹿らしさで落ち着きなく過ごしてしまった次第です。ですが、私にはもうあなたにこれ以上手紙を書きつづける気持はありません。お便りをいただくのは、はっきり申し上げて迷惑です。私に、由加子との顛末を書かねばならぬ義務はないと思われます。そんな厄介なことはご免こうむりたいという気持です。私たちの手紙のやりとりは、これを最後にしたいと思います。 草々    四月二日       有馬靖明   勝沼亜紀様 拝啓  うっとうしい梅雨の季節に入りました。いかがお過ごしでいらっしゃいましょうか。あなたから、もう二度と手紙など出してくれるなというお便りを頂いてからまだ二ヵ月しかたっておりませんのに、性懲りもなく再びペンを取ってしまいました。ためらいつつ、迷いつつ、この手紙を書いております。こんどこそ、あなたは読まずに破り捨てておしまいになるかも知れませんね。いったいこの女はなぜこんなにもしつこく手紙を書いてくるのかと呆《あき》れ果てていらっしゃることでしょう。でも、じつのところ私自身にも、あなたに手紙を書きたいという理由がわからないのです。手紙を書くことで、いったい自分が何を得ようとしているのか、まったくわからないのです。わからないのですが、私はなぜか、あなたに自分の心の奥にひそんでいるものを知ってもらいたいという衝動に突き動かされて、不思議なくらい気持が高ぶってまいります。あなたにお手紙を差し上げたことで、あるいは私は十年前の、あなたと離婚した直後の心の状態に戻ってしまったのかも知れません。馬鹿な女だとどうかお笑い下さいませ。御迷惑であるのを百も承知で、読んでいただけないのを覚悟のうえで、やはり私は書いてみることにいたします。だってあなたは、私にとっては、かつてはどんな愚痴も我儘《わがまま》も黙って受け止めて下さったただひとりの人だったのですもの。女の持っている最大の悪徳は、愚痴と嫉《しっ》妬《と》の心だと何かの本に書いてありました。ですが、それが女の持つ本然の性だとすれば、私は本能のように、自分の心に溜《た》まった愚痴や嫉妬の心を吐きだしてみたいと思うときがあります。あなたのあの事件以来、私の中には言うに言えないさまざまな鬱屈がかたまり合って、私に別な人格をもたらしたのではないかと思わせるふしがあります。私には、まだまだあなたにぶつけたいものがあるのです。なしのつぶてでも結構。相手がただの板きれみたいに、単なる洞窟《どうくつ》みたいに、何の応答も返してくれないほうが、あるいは私には都合がいいのかも知れません。  父が、私に再婚の話を切り出したのは、あなたとお別れして一年が過ぎようとする頃でした。私はその間、香櫨園の家に殆ど引きこもって暮らしていました。近くのマーケットでの買物も、育子さんにすっかりあずけて、夫の去った、いまは自分ひとりの部屋となってしまった二階の寝室の、庭に面する窓のとに腰を降ろし、まるで読み切ってしまう気もないまま、外国の長いミステリー小説に目を落としたり、あなたの置き忘れていったレコードを聴いたり、ベッドにうつぶせて、時計の音に聴き耳をたてたりして、日を過ごしていたのです。  阪神電車の駅から家へと向かう道に沿って細い川が流れていましたね。あなたと正式に離婚してから二ヵ月ぐらいたった頃だったでしょうか、あなたも御存知のあの川沿いの玉川書店が店をたたみ、そのあとに「モーツァルト」という名の喫茶店が出来たのです。六十歳ぐらいの夫婦者が経営する店で、モーツァルトの曲以外は店内に流さないという主義だということを育子さんが誰かから聞いたらしく、散歩がてら、その店で珈琲《コーヒー》でも飲んできたらどうかとしつこいくらいに勧めるのです。梅雨が終わって、陽差しの強い日でした。途中、二、三人の顔見知りの奥様方と出逢いましたが、軽く頭を下げるだけで、向こうが何か言おうとするのを無視して、眩《まぶ》しい道を歩いて行きました。あなたに逢いたいと思いました。照り返しの熱気が、私の額や背中のあたりに汗を滲《にじ》ませてきて、かすかな眩暈《めまい》のようなものを感じたことを覚えています。あなたに逢いたいと、私は何度も思いました。世間の目が何だろう。粉《こな》微《み》塵《じん》に割れた壺でも、それがいったい何だろう。私がもっと大きな人間になればよかったのだ。私はあなたを許すことが出来た筈だった。夫が他の女に心を移すことなど、世間ではいっぱいあるではないか。自分は取り返しのつかないことをしてしまった。ああ、どうかしてあなたに帰って来て欲しい。そんなことを考えながら歩いておりました。暗に私たちを別れさせようとした父に憎しみを抱きました。そして見たこともない、しかももうこの世に存在しない瀬尾由加子という女性に対して、ざわざわと全身の血が波立つほどの憎しみを感じました。 「モーツァルト」は、避暑地でよく見かけるようなペンション風の造りで、外観も店内も茶色い木肌の美しさを強調して、まるで山小屋が一軒ぽつんと建っている、そんなふうな喫茶店でした。太い丸太をそのまま使って、わざと露出させた天井の梁《はり》にも、手作りで組みあげたような木の椅子やテーブルにも、よっぽど吟味して選び抜いたと思われる程の味わいのある木目やら節の形が、小さいけれどいかにもお金をかけて凝り抜いて造ったお店であることを感じさせました。育子さんの言ったとおり、店内には、少し大きめの音量でモーツァルトの曲が流れていました。私も曲名だけは知っている「ジュピター」でした。お水をテーブルに置いた御主人に、「モーツァルトの曲しかかけないそうですね」と話しかけると、黒縁の度の強い眼鏡をかけた御主人は笑いながら、「音楽はお好きですか?」と言いました。「好きですけど、クラシック音楽はよくわかりません」。私がそう言うと御主人は「私の店に一年間お越しになれば、モーツァルトの音楽がわかるようになります。モーツァルトがわかったら、音楽というものを理解したことになります」。銀色の大きなお盆を胸にかかえ、御主人は血色のいい顔を天井に向けて自慢そうに言いました。その言い方がおかしくて、私がくすっと笑うと、御主人は「いまかかってるレコードは交響曲第四十一番です」と教えてくれました。私が「ジュピターでしょう?」と言うと、「なんや、ちゃんと知ってはるやないですか。そうです、ジュピター。四十一番ハ長調。モーツァルト最後の交響曲で、第一、第二楽章のソナタ形式を受け止めるために、最後の第四楽章でフーガを導入して強靱《きょうじん》なフィナーレを築きあげた傑作です」。そんな言い方でしばらく耳をそばだてていましたが、「さあ、これからですよ。これから最後の楽章に入るんですよ」と声を忍ばせました。私は珈琲を註文して、モーツァルトの壮麗な交響曲に聴き入りました。そうしながら、店の中を見廻しました。モーツァルトの肖像画の複製が額に入れて飾ってあり、その横の小さな棚には、モーツァルトに関する何冊かの本が並べられてありました。店の中にはお客は私だけで、「ジュピター」が終ると、何やら吸い込まれていきそうな静けさが私を包んだのです。何という奇妙な静寂だったことでしょう。私はその静寂の中で、また、あなたに逢いたいと強く感じました。するとすぐに別の曲が流れ始めました。御主人がやって来て、学校の先生が幼い生徒に教えるような口振りでこう言いました。「これが三十九番シンフォニイ。十六分音符の、奇《き》蹟《せき》のような名曲です。こんどお越しになったときは、ドン・ジョバンニをかけてあげましょう。その次は、ト短調シンフォニイです。だんだん、だんだんと、モーツァルトという人間の奇蹟がおわかりになってくるやろと思いますよ」。  珈琲もいいお味でしたし、御主人のお人柄に好感がもたれて、私はそれから二、三日して、また「モーツァルト」に行きました。その日はお客様が多く、御主人は、ひとりで窓辺の席に坐っている私を気にしながらも、カウンターの中で珈琲を沸かしたり、ジュースを作ったり、モーツァルトの曲が終わるたびに、慌てて別のレコードをかけに行ったりで、とても忙しそうでした。最初の日には姿を見かけなかった奥様が、註文された物を運んだり、コップの中の減った水をつぎ足したり、テーブルの上を片づけたりしていました。私の知らない曲が流れている間中、目を閉じて、首をうなだれたまま聴き入っている若い男性の姿が、ひどく荘厳なものに見えて、私は珈琲カップを両手で口のあたりに持っていったまま、ぼんやりとその青年を見つめていました。何か巨大な物に祈りを捧《ささ》げているような、それとも、とても恐しい人に叱られて全身で懺《ざん》悔《げ》しているような、そのどちらにもとれる表情と姿勢で、青年は静かなシンフォニイに聴き入っているのでした。  私はそれまで殆どクラシック音楽には興味がありませんでしたし、御主人の言ったモーツァルトという人間の奇蹟を理解する感性も素養も持っているとは思いませんでしたが、そのひとりの青年の姿と、店内に流れている静かなシンフォニイに接しているうちに、ふとひとつの言葉が頭に浮かんだのです。それは「死」という言葉でした。なぜそんな言葉が心をよぎったのか私にはわかりません。もちろん、その瞬間死のうと思ったのでもなければ、死というものに対する恐怖に襲われたのでもありません。でも、はっきりと、「死」というひとつの文字が心に浮かんで離れて行こうとはしないのでした。私は珈琲をすすりながら、「死」という言葉を頭のどこかに置いたまま、モーツァルトの音楽に初めて真剣に耳を傾けました。ひとつの音楽に、あんなにも真剣に聴き耳をたてたのは、たぶん生まれて初めてのことだったと思います。すると、それまで何でもなかった一曲のシンフォニイが、たとえようもないくらい美しい妙《たえ》なる調べ、そして同時にどうしようもなくはかない世界を暗示する不可思議な調べみたいに感じられてきたのでございます。どうしてこんなにも美しい曲を、二百年も昔に、三十歳そこそこの青年が創りあげることが出来たのであろう。しかもこんなにも烈しく、悲しみと喜びの二つの共存を言葉を使わずに人間に教えることが出来たのであろう。私はそんな思いにとらわれて、ガラス窓から表通りの葉桜の並木を見ていました。もう死んでしまった、顔も見たこともない、きっと私よりもはるかに美しい人であったに違いない瀬尾由加子さんの容姿やら表情やらを勝手に想像してみながら、モーツァルトのシンフォニイの、さざなみのような調べに身をまかせていたのでございます。  別の曲が始まると、さっきの青年は御主人に何か礼を言って代金を払い、帰って行きました。それと同時に、満員だった店内からは、潮が曳《ひ》くようにお客様が席を立って行き、私ひとりが残ってしまいました。やっとカウンターから出て来た御主人が、奥様を私に紹介しました。奥様はまだそんなにお歳を召していない、五十五、六になったかならないかぐらいの方でしたが、もう頭は見事な銀髪で、それをきれいにたばねて、御主人と同じような度の強い眼鏡をかけていらっしゃいました。夫妻は一息いれるように、私の隣の席に腰かけて、しばらく自分たちだけの話をなさっていましたが、そのうち夫人が私に話しかけてきました。「奥様は、この近くにお住まいでいらっしゃいますか?」。そんなようなことを訊かれました。私が、この道を浜のほうに十分程歩いたとだと答えると、夫人は丸い目をきょときょとさせて考え込みながら、幾つかの名前を思いつくままにあげました。私の近所の家の名も入っていましたが、私の家は出て来ませんでした。「星島という家なんですよ。テニスクラブの手前の」と言いますと、「それやったら、存じあげてますよ。お庭に大きなミモザアカシアの木があるお屋敷ですよねェ」。それから、あんなに見事なミモザアカシアは見たことがないと仰言《おっしゃ》って、来年花が咲いたら、ぜひ二、三本の枝を頂戴出来ないかと頼まれました。(もしこの手紙をお読みになっているとすれば、きっとあなたには退屈極まりない文面であることでしょう。でも、もう手紙を出してくれるなと断わられたうえで、なおしつこく差し上げる手紙なのですから、私、好きなことを好きなように書きつづけてまいるつもりでございますことよ)。  私はもう一杯珈琲を註文して、御主人に、「私、先日仰言ったモーツァルトという人間の奇蹟が、ほんのちょっとわかりかけてきました」と言いました。御主人は、ほうっと驚いたように私を見つめました。眼鏡の奥の、笑いの消えた小さな目がいきいきと光って、まるで少年のような顔をいつまでも私に向けていらっしゃるのです。あんまり長い間、目をお離しにならないものですから、私は恥しくなって「私、独身なんですよ。二ヵ月前まではそうじゃありませんでしたけど」と言いました。夫人は、私が夫と死別したと思ったのか、「何か御病気か事故かで……」とお訊きになりました。私は「いいえ、離婚したんです」と正直に答えました。きっとその件について、根掘り葉掘り訊かれるかもしれないと予想していましたが、(だって働き者らしい夫人のよく動く丸い目を見ていると、世間によくいるそういった種類の奥様のように見えたからです)けれども御夫妻はただ、そうですかと言い合って、あとはそのことにはいっさい触れようとせず、話題を変えるように、自分たちが「モーツァルト」という喫茶店を出すようになったいきさつを話して聞かせてくれました。それで、私はおふたりの御家庭のことや、これまでのだいたいの来し方を知りました。御主人は昭和十六年に徴兵され、終戦の年の昭和二十年の冬に、中国の山西省というとから帰って来たということでした。大正十年のお生まれだと仰言っていましたから、終戦のときは二十四、五歳だったのでしょう。いずれにしても、その頃は私はまだ母のお腹に入っていたのではないでしょうか。終戦の年から三年程たって、ある人の紹介で銀行に入社し、それ以来、停年を迎える昭和五十年の秋まで、二十七年間、銀行マンとして働きつづけ、最後の二年間を大阪の豊中支店の支店長として勤めあげて退職されたということでした。それから同系の信用組合に嘱託として働き口を得たそうですが、事故手形の跡始末や、取り立て屋まがいの仕事が主で、自分にはどうしても合わないからと一年ばかりで辞めてしまわれたのです。御夫妻が、停年後、喫茶店を営もうと思われたのは、もう十何年も前のことだったそうでございます。そのときから「モーツァルト」という店の名も、店のインテリアや外観もすでに心にあったということでした。ですが三人のお嬢さまの結婚が相次いで、開店の資金にと蓄えていたお金に手をつけなければならなくなり、そのうえ店を出したいと思う場所に適当な土地や売りに出る店舗がみつからず、予定より三年も遅れてしまったのだと御主人は説明なさいました。「十六歳のときに、初めてモーツァルトを知りました」と御主人は仰言いました。それ以来、モーツァルト狂いになり、少ないお小遣いは全部、モーツァルトのレコードに変わったそうです。徴兵されて、大陸で銃を構えているときでも、耳の中でモーツァルトの曲が鳴り響いていたと懐しそうに仰言っていました。モーツァルトの曲しかかけないモーツァルトという名の喫茶店を持って、それで老後を生きて行こう、そのために自分はいま銀行員として働いているのだ。職場でいやなことや辛いことがあると、心にそう言い聞かせて、開店のための大きな資金となる退職金を楽しみに、二十七年間の、たいして面白くも楽しくもなかった銀行員としての仕事を勤めあげたということでした。香櫨園の駅の近くに、店をたたんだ本屋があると人づてに聞いて、御夫妻で飛んで来たのだと嬉しそうに仰言いました。「ひと目で、ここやと思いました。土地柄といい、足の便といい、もうここしかあらへん。とうとうみつけた。ここに『モーツァルト』を造るぞ。もういてもたってもおられへんくらい興奮しました」と御主人は笑って私の顔をまた長い間見つめていらっしゃいました。「とにかく、モーツァルト、モーツァルト。酒も飲めへん、賭《か》け事もしはれへん。釣りに凝るわけでもないし、碁も将棋も知らん。会社から帰ってくると、何百枚もあるモーツァルトのレコードを大事そうに拭いたり撫《な》でたりして、一日過ごしてはるんです。おかしな人と結婚したと、初めは気持が悪いくらいでした」と夫人は言って、それから「そのうち、私も自然にモーツァルト気違いになったみたいです」と笑いました。そうやって私たちは随分長い間お話をしていました。私はふと思い出して、さっきの青年のことを訊いてみました。すると御主人は、あの青年もモーツァルト狂いで、たくさんレコードを持っているのだが、もう手に入らない名盤を聴きたくて、ああやって店にやって来ては、毎日同じ曲をかけて帰って行くのだと説明してくれました。  そろそろ夕飯の支度をする時間でしたので、私は二杯の珈琲代をテーブルの上に置いて立ちあがりました。御主人も立ちあがりながら、さっきモーツァルトという人間の奇蹟がわかりかけてきたと言われたが、どんなふうにおわかりになったのか教えてくれと、微笑《ほほえ》みながら尋ねられました。きのうやきょうモーツァルトに触れた私に、それを言葉で表現することはとても出来そうにありませんでしたし、モーツァルトの音楽に魅せられて、何千回、あるいは何万回と曲に耳を傾けてこられた御主人に、私ごとき者がかりそめな感想など述べられる筈がありませんでした。ですが、御主人のあまりに真剣な目の光に促されて、私は思わず言ってしまったのでございます。「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへん。そんな大きな不思議なものをモーツァルトの優しい音楽が表現してるような気がしましたの」。  私は、悲しみと喜びの二つの共存を、言葉を使わずに人間に教えることが出来た、それを妙なる音楽という、言葉では説明出来ない調べに包んで、いとも簡単に、しかも人をここちよくさせながら表現出来たということが、モーツァルトという人間の奇蹟だったと言いたかったのですが、御主人の目に射すくめられて、ぜんぜん考えもしていなかった言い方で答えていたのでした。もしかしたら、さっき突然私の頭の中に浮かんだ「死」という言葉が、まだ消えずに残っていて、私はその言葉に操られて、実際には考えてもいないことを口走っていたのかも知れません。 「ほう、そうですか……」。御主人はそう呟《つぶや》いて、いつまでも私を見つめていらっしゃいました。私は、夏の日の長く伸びる夕暮の陽差しの中を急ぎ足で帰って行きましたが、自分の言った言葉が、いったい何を意味していたのか自分でもわからぬまま、再び瀬尾由加子さんのことを脳裏に浮かべたのでございます。どんな女性であったのであろうか。なぜ自らの命を、あなたとの交わりのあとで絶ったのであろうか。私はなぜかぐったりと疲れて、家に帰り着きました。  それから冬までの数ヵ月間、私は週に二、三回の割合で「モーツァルト」に珈琲を飲みに行きました。ときおり阪神電車で神戸の三ノ宮に出かけて行ったり、反対方向の梅田まで出て、デパートで買物をしたりしましたが、大学時代のお友だち、あなたもよく御存知の、照美さんや愛子さんが誘ってくれる映画の試写会とかコンサートなどはいっさいお断わりして、殆ど家に閉じこもって日々をおくりました。そんな私を、父も育子さんも、心では気遣いながら、自由に好きなようにさせてくれました。でもそんな無気力な空《むな》しいと言えば言える生活の中に、ひとつだけ楽しみが生まれていました。私もまた、モーツァルト気違いになってしまったのでございます。私は「モーツァルト」の御主人に教えてもらいながら、彼の勧めるレコードを買って、自分の寝室で夜遅くまで聴き入ったりしました。大阪の大きな本屋さんで、モーツァルトに関する本を買い込み、読みふけったりもしました。「モーツァルト」の御夫妻ともすっかり親しくなって、店に行けば、御夫妻がプレゼントしてくれた私専用の珈琲カップを出してくださるのです。御主人も奥様も驚く程神経が細やかで、私があまり喋《しゃべ》りたくない日は、すぐにそれと察して、そのまま放っておいてくださいますし、レコードを聴くよりも、何かお話がしたいと思っている日は、どちらかが声をかけて話し相手になってくださるのです。それでも、おふたりは、決して、私がなぜ離婚したのかという件には触れようとはなさいませんでした。  また長い手紙になってしまいました。昔の思い出だけをだらだらと書き綴って、大事なことは何ひとつしたためないうちに、ひどく書き疲れてしまいました。この次のお手紙で、本当に書きたかったことを書くことにいたします。もういい加減にしてくれと仰言りたいことでしょうね。でも、私、またお便りいたしますことよ。破ってお捨てになってしまおうとも、私はお手紙を差し上げます。でも、きょうはひとまず筆を擱《お》くことにいたします。ことしの梅雨は長引きそうだと新聞に載っていました。もう五日も雨が降りつづいています。こんなときは、清高の機嫌が悪く、もう最近では殆どなくなった粗相を、突然思い出したようにしてしまうのです。トイレに辿《たど》り着くまでに失敗をしてしまうのです。雨が何日も降りつづくときに限って……。不思議なことだなと思いますが、きっと人間は、自然のリズムと同じものを、自分の中でも奏でているのでございましょう。でも私の息子は、たったそれだけのことで、もう目も当てられない程に打ちひしがれて、何日も誰とも口をきかなくなってしまいます。ですから、私は、昔はとても好きだった雨の日が、たまらなく嫌いになってしまいました。  それではどうかお体お大切になさって下さいませ。 かしこ    六月十日        勝沼亜紀   有馬靖明様 前略  ことしの梅雨は、なんと雨が多かったことでございましょう。おかげで、毎年夏になると水位が低下して、近畿の水事情に影響を及ぼす琵琶湖には、たっぷり雨水が蓄えられて、結構なことねと腹立ちまぎれに育子さんに申しましたら、降った雨水は湖には溜らずに、幾つかの川を伝って海に流れ落ちてしまうのですよと言われました。だから、いくら雨の多い梅雨の年でも、真夏の猛暑が琵琶湖の水位を結局下げてしまうのだそうです。もうじき梅雨明け宣言が出されるとのことですが、もう家の中はじめじめして、壁も畳も廊下も、ドアの把《とっ》手《て》までにも、黴《かび》が張りついているような気がいたします。そんなことはさておき、この前の手紙のつづきを書き進めることにいたしましょう。 「モーツァルト」に足を運ぶようになって、ちょうど半年が過ぎた頃でございます。年が明けて、二月の六日のことでございました。はっきりと、二月六日であったと記憶しています。夜中の三時過ぎに、私はふと目を醒《さ》ましました。大きなサイレンの音が、家のすぐ近くで途切れることなく響き始めたからでした。目が醒めると同時に、それが消防車のサイレンの音だとわかりました。一台や二台の消防車の音ではありません。西の方からも、東の方からも、何台もの消防車がひとつの場所に向かって集結して来ているのでした。それも私の家のすぐ近くにです。私はガウンを羽織って、カーテンをあけ、窓から夜更けの住宅街を眺めました。家々の屋根の向こうで炎があがっていました。夜の町の一角に赤い靄《もや》が膨れて、その中ではじけている火の粉が鮮やかに見えていました。私は胸を押さえたまま、しばらく立ちつくしていました。もしかしたら「モーツァルト」が燃えているのではないかと思ったのでした。火の手のあがっている地点は確かに「モーツァルト」の近くであるには違いないのでした。「モーツァルト」の御夫妻は、駅の裏のマンションに住んでいましたから、かりに火事の現場があの喫茶店だとしても、おふたりの身に何かが起こるということはない筈でした。ですが、私はすぐに服を着ると階下に降りて行きました。「火事ですねェ」と育子さんも寝巻姿のまま廊下に出て来て玄関をあけると、寒そうに、赤く染まっている夜空を見ていました。「モーツァルトかも知れへんわね」と言って私がサンダルをつっかけたまま表に走り出すと、育子さんは防寒コートを持って追いかけて来て、「すぐに帰ってこなあきまへんでェ。こんな夜中に、ぶっそうですがな」と言いました。とりわけ寒い晩で、私は裏が毛皮のコートを着込むと、小走りで火の手のあがっている方向に進んで行きました。住宅街を横切り、川のとに来て小さな橋を渡ったとき、燃えているのが、間違いなく「モーツァルト」であることを認めました。夜中だというのに、たくさんの野次馬が火事の現場を取り巻いて、川沿いの道には七、八台の消防車が停まっていました。私が着いたときが、いちばん火勢の強いときでした。木だけで建てられた「モーツァルト」はもうすっぽりと巨大な炎に包まれて、手の施しようがないといった状態で、ホースから噴き出る太い棒みたいな水が何本も重なり合いながら、店内や屋根に吸い込まれて行くのが見えていました。消防署の方が野次馬の侵入を防ぐために張ったロープを両手で握りしめて、パジャマ姿のまま、燃えて行く自分の店をじっと凝視している御主人の姿が目に入りました。私は野次馬をかきわけて前へ前へと進んで行き、御主人の横に辿り着いて、同じようにロープを握りしめました。炎の余熱が体の前面に当たって、私は熱くて堪まらなくなりましたが、それでも両手でロープを握りしめたまま、御主人と並んで、ぱちぱちと木のはぜる音や、ときおりなだれ落ちて来る夥《おびただ》しい火の粉に包まれるようにして、消失して行く「モーツァルト」を見ていました。いつ横にいる私に気づいたのか、「木ィやから、ほんまによう燃えよる」と御主人が目を炎に向けたまま、顔だけねじって私の耳元で言いました。私は奥様の姿を捜しました。どこにも見当たらないので、奥様はどうなさったのかと訊《き》きました。あるいは店の中にいるのではないかという不安に駆られ、自分の声が震えているのがわかりました。「家内は、さっきマンションの方に帰りました。とても見てられへんかったんでしょう。このままやったら風邪をひくさかい、何か上に羽織るものを持って来る言うてました」。私は安《あん》堵《ど》の胸を撫でおろし、「お店は、また建てられますよね」と訊きました。御主人は軽く頷《うなず》いて、「火災保険に入ってますから……。そやけど、二千三百枚のレコードは灰になりました」。そう言って、泣き顔とも笑い顔ともつかない奇妙な歪《ゆが》みを表情に表わしながら、少しずつ火勢のおさまって行くお店に目をそそぎつづけていらっしゃいました。私も、早く帰って来るようにと育子さんに言われたにも関《かか》わらず、炎が完全に消えてしまうまで、御主人の傍《そば》にいてあげようと決めて、一緒に「モーツァルト」を見つめました。「こんなことになるやなんて……」と私が言うと、御主人はうっすらと笑みを浮かべながら、「店が燃えてるてしらせを受けたときは、もううろたえてしもて、体中が震えました。そやけど火勢を見て、もうあかん、もう手のほどこしようがないとわかったら、不思議に気がしずまって、何というか、恬淡《てんたん》とした気持になりました。中には誰もいてへんねやから……」と、本当に恬淡という言葉がぴったりの表情と口調で仰言ったのです。  燃え尽きた屋根が大きな音とともに崩れ落ち、その瞬間、大勢の野次馬たちが思わず一斉にあとずさりする程の火の粉の波が襲って来ました。御主人も私の腕をつかんで、うしろにさがろうとなさいましたが、私は一瞬の熱さをこらえて、火の粉を全身で受けとめました。なぜそんな危険な行動に出たのでしょう。ただ私は、勢いを失なったかと思うと、にわかにもり返して、ごうごうと音立て噴きあがる炎がそれでも徐々に徐々に鎮まって行く過程を見つめながら、あなたのことを考えていたのでございます。少しでも体を動かしたら、心の中にせりあがって来たあなたの映像がたちどに消えてしまいそうな気がして、私は、意地みたいにその場に立って身じろぎひとつしないように体を固くさせていたのでした。あんな形で離婚せざるを得なくなって、私たちは別れてしまったけれど、それでもあなたは、きっと私と同じ気持でいらっしゃるに違いないと思ったのです。あなたも私のことをふと思い出しながら、どこかの雑踏を歩いていらっしゃるときがあるのではないか。まだ、私を愛して下さっているのではないか。そんなことを考えていたのでございます。火の粉は、あなたの顔が、ある押さえ難い惜別の念をともなって目に浮かんだ瞬間に、突然噴き出たのでした。そんな空想にひたっている私を突き放すように、轟音《ごうおん》とともに火の粉は噴き出て、あっという間に消えてしまいました。烈しい平手打ちを頬に受けたような気がして、炎のかわりに大量の煙に包まれ始めた「モーツァルト」の残骸を見ていました。すると御主人が静かな口調で私に言いました。「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかも知れへん。そんな宇宙の不思議なからくりを、モーツァルトの音楽は奏でているのだ。星島さんはそう言わはりましたなァ」。突然何を仰言りたいのだろうと、私はじっと御主人の口のあたりを見つめました。御主人はしばらく考え込むようにしていらっしゃいましたが、やがてこう仰言ったのです。「私は、モーツァルトのことは誰よりも知ってるつもりでした。私以上に、モーツァルトを聴いた人は、そんなにたくさんいてるとは思えん。そのくらい、モーツァルトのことに関しては自信を持ってました。そやけど、モーツァルトの音楽を、星島さんが言われたようには考えたことがありませんでした。私はあれ以来ずっと、星島さんの言うた言葉の意味を考えつづけて来て、いまそれがわかりました。星島さんの言うとおりです。モーツァルトは、きっと、人間は死んだらどうなるのかを、音楽によって表現しようとしてたんですよ」。  話しているうちに興奮して来たのか、御主人の顔はいつしか恐《こわ》い程にひきしまり、いつもは柔和な眼鏡の奥の目は強い光を帯びていました。私の思いつきの言葉は、御主人が反復されたものとは一部違っているように思えました。私の言葉の中には、多分、宇宙のからくりというのはなかった筈でございました。ですから、御主人は、私の思いつきの言葉を長く繰り返し考えつづけているうちに、私の言わなかった言葉までいつの間にかつけ加えてしまわれたのでございましょう。それで私は、「宇宙のからくりなんて言葉は言わなかった筈やと思いますけど」と言いました。御主人は不審気に顔を向け、「いや、言いはりましたで。私ははっきりと覚えてます。宇宙の不思議なからくりと、星島さんは言いはったんです」。  私は、その部分に関しては、御主人の錯覚であろうと思いましたが、それ以上の反論をやめて黙って御主人の喋りつづけるのを聞いていました。火が殆ど消えて、くすぶっている木のあちこちに炭火のような火が斑状《まだらじょう》に張りついていました。その残り火めがけて、銀色の防火服を着た消防署員が店内に水を撒《まき》つづけていました。すると御主人が大声で言いました。「いいや違う。違います。宇宙のからくりと言いはったんとは違います。私の思いすごしでした。星島さんは……」。それから、じっと私を見つめて言葉を思い出そうとしていらっしゃいましたが、細かい煤《すす》に覆われた眼鏡のレンズを拭こうともせず、やがて、「生命のからくりて言いはったんや。そうや、思い出しました。確かにあんたは、生命の不思議なからくりと言うたんです」。  それも違っているような気がして、私は首をかしげながら御主人の目を見つめ返しました。御主人が笑ったので、つられて私も笑いました。御主人は、うしろに立っていた野次馬のひとりに頭を下げ、煙草を一本いただけないかと言いました。その人は「モーツァルト」でよく見かける顔で、快く胸ポケットから煙草を一本抜き取ると火までつけてあげながら、火災保険にはちゃんと入っていたのかと心配そうに訊きました。御主人は私に言ったのと同じ言葉を繰り返しました。しかし二千三百枚のレコードはもう返ってこないといった意味の言葉をうけて、その人はこう言いました。「レコードなんか、レコード屋に売ってまんがな。そんなもん、これからまた集めたらよろしおまんねや」。御主人はむっとした表情で、もう手に入らないレコード盤がたくさんあるのだと、誰に言うともなく呟くと、ロープをくぐって、消防署の人に何か話しかけていきました。私はそっと人垣を縫って現場から離れて行き、人っ子ひとりいない住宅街を急ぎ足で帰りました。「モーツァルト」の焼け落ちるのを見ていたことで、かなり私も興奮していたのでしょう。やっぱり始まったと私は思いつめたように地面を見つめながら考えたのです。やっぱり不幸が始まった。あなたとお別れすることを決心したとき、父の会社の社長室のソファに坐って考えたことが、いよいよ本当のことになり始めた。そう思ったのでございました。あなたと別れることによって、何か不幸なことが始まって行きそうな予感に襲われたと、私が最初の手紙に書いたのを覚えていらっしゃるでしょうか。思いも寄らぬ突然の出来事によってあなたは私から去って行き、それから一年もたたないうちに「モーツァルト」という、私のお気に入りの喫茶店が消失し、二千三百枚の、天才の創りあげた名曲が灰になった。こんどは何を私は失なうのであろうか。  家に帰り、寝室に入ると、防寒コートを脱いで、ベッドの端に腰を降ろしました。時計を見ると四時を少し廻ったとでした。到底眠れそうな気になれなかったので、私は、モーツァルトの作品の中で一番好きな曲を、ボリュームをぎりぎりまで落として、何度も何度も耳をそばだてて聴いていました。それは三十九番シンフォニイで、「モーツァルト」の御主人に教えてもらって、梅田の大きなレコード店で買い求めて来たレコードでした。十六分音符の、奇蹟のような名品だと御主人が言った曲でございます。生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかも知れない……。なぜ私はモーツァルトの音楽から、そんな突拍子もないことを考えたのであろうかと思いました。そして、先程御主人が、燃え尽きた自分の店の前で私に言った言葉を思い起こしたのです。私は決して言わなかった言葉。彼が私の突拍子もないセリフから勝手に創り出した言葉。宇宙の不思議なからくり、生命の不思議なからくり。まだ若い女の私には、それ程心魅《ひ》かれる言葉ではありませんでした。ですが、モーツァルトの三十九番シンフォニイの、さざなみのような調べが、しんと静まった夜更けの寝室の隅々にまで、ひたひたと打ち寄せて行くのが感じられるに従って、私はその言葉が、人生にちりばめられた無数の秘密をいちどきに解明してみせる何か途《と》轍《てつ》もない手品の種みたいな気がして来たのでございます。燃え落ちる「モーツァルト」に目を向けながら御主人はいったい何を見ていらっしゃったのだろう。そんな思いが心をかすめたのでした。  私はベッドに横になり目をつむりました。いつしか心の中からは、炎も、木のはぜる音も、御主人の姿も消え、あなたと初めて逢った大学時代の夏の日の木陰の涼しさ、あなたと手を握り合って何度も行きつ戻りつした御堂筋の車のテールランプのうつろな光、父からあなたとの結婚を許されて、嬉しさのあまり行く先も決めず阪神電車に乗った日の、車窓から見えていた神戸の海のどろりとした輝きなどが三十九番シンフォニイと渾然《こんぜん》と解け合って、あるおぼろな、言葉にならない思いに包まれて行きました。そうしているうちに、さっき御主人の言った宇宙の不思議なからくり、生命の不思議なからくりという言葉の秘めている何物かを、私はほんの一瞬理解出来るような気がしてきたのです。けれども、それはほんの一瞬のことでした。私の心の中にはまた突然、瀬尾由加子さんの幻影が映りました。私よりはるかに美しい容貌と肉体を持つ物言わぬ女性が、私の中に立っていました。そして、その人はもう死んでこの世にいないのでした。  その翌朝、遅い朝食をとっているとき、父が、そんなに親しくおつき合いをしていたのなら、やはり何かお見舞いをすべきであろうといった意味のことを言いました。こんなとき、いちばんありがたいのは、やっぱりお金でございましょうと育子さんも言いました。私は、火事場の跡始末でここ二、三日は御夫妻もお忙しいことだろうと思い、それから四日程たってからお見舞い金を持って、おふたりの住むマンションにうかがいました。御夫妻は私の訪問をとても喜んでくださり、応接間に案内して、わざわざあの寒い夜に現場に来てくださってと何度も頭を下げられました。御主人はなかなかお見舞い金を受け取ろうとはなさいませんでしたが、私はテーブルに置いたまま、父からの言いつけだから、持って帰るわけにはいかないと引き下がりませんでした。御主人が恐縮しながら、やっとお金を受け取ってくれたとき、もうひとりお客さまが訪れました。やはりお見舞いのお金を持って来た様子で、玄関で奥様と押し問答をなさっていましたが、御主人が、ちょうどいいから紹介しておきましょうと言って、お客さまを私のいる応接間に呼びました。入って来た男性は三十二、三歳の目鼻だちのはっきりした背の高い方で、御主人は「甥《おい》です。私の死んだ兄の長男にあたります」と紹介なさいました。私たちは初対面の挨拶をして、互いに名前を名乗り合いました。その人が勝沼壮一郎で、現在の私の主人でございます。でも、私が勝沼と結婚するに至るいきさつは、もう少しあとで書くことにいたしましょう。  私は「モーツァルト」の御主人のマンションを辞すと、駅前の本屋で婦人雑誌をめくってみたり、文庫本の棚の前をぶらぶらしながら、たくさんの本の背表紙を眺めたりして時間をつぶしました。どこかでおいしい珈琲《コーヒー》を飲みたいと思いましたが、「モーツァルト」が焼失した直後のことで、他の行ったことのない喫茶店に入ってみる気は起こりませんでした。その日は確か土曜日だったと思います。電車が停まると、何人かの女子高生が降りて来ました。彼女たちが昼過ぎに帰宅するのは、きっと土曜日であるからに違いありません。その頃の私はと言えば、きょうが何月の何日で何曜日であるのかといった事柄とは、まったく無縁の生活でしたから、ぼんやりと女子高生たちのセーラー服姿を見ていました。父の会社も土曜は昼までで、きょうはその後は何の予定もなさそうな様子だったから、ひょっとしたら父も夕刻までに帰宅するかも知れないと考えました。あの父のことでございますから、もうそろそろ、何か自分の意見を、一見穏やかに、そのじつ断じて言うことをきかせてみせるといった目つきで、じわじわと投げかけてくる頃ではないかという予感がいたしました。  ときとして、予感とは何と見事に当たるものでございましょうか。家に帰ると、父がリビングのソファに横になり、テレビを観ていました。そして私を見ると、話があるからそこに坐りなさいと、自分の前のソファを指差しました。私はときおり、自分の勘の当たることに内心驚いたり得意になったりすることがあるのですが、この勘のいい妻が、どうして、あなたの一年間もつづいていた不貞に気づかなかったのでしょう。よ程あなたという人間は、つかみどのない、しかも演技力豊かな役者であったのだと、私、いまごろになって舌を巻いてしまうくらいでございます。  父は横たわってテレビに目をやったまま、そろそろ今後のことを考えてみてはどうかと言いました。「忘れてしまわんとあかんことは、やっぱりすっぱりと忘れてしまうことが肝心や。忘れてしまうための方法を、お父さんが考えてあげよう」。父はそう言いました。 「私、もう忘れました」。そう答えると、父は私の言葉の終わらないうちに、外国へでも行って来たらどうかと言いました。「ようするに、きりをつけるっちゅうわけや。どこがええかなァ……。パリ、ウィーン、ギリシャ。北欧にまで足を伸ばしてもええ。のんびりと、外国をひとり旅して、きれいさっぱり白紙になって帰って来なさい」。  知らない国をひとり旅など、そんな淋しいことはいやだと私はうつむいてペルシャ絨毯《じゅうたん》の模様を目でなぞりながら言いました。お前を見ていると、可哀そうで仕方がない、その言葉で私が顔をあげて父を見ると、父は目に涙を浮かべていました。私が父の涙を見たのは、それが初めてでございました。父は私に、こんな可哀そうなめにあう娘だとは思わなかったと言いました。しかし、可哀そうなめにあわせたのは、他でもない、この俺だ。もし自分が有馬を会社の後継者にと決めていなかったら、お前たちは、お前たちだけの事件として処理出来たかも知れない。世間ではよくあることだ。お前の気持さえ済んだなら、ある時間の経過によって、ふたりは元通りの夫婦に戻れたやも知れぬ。しかし、俺は星島建設の社長として、有馬に会社から去ってもらわねばならなかった。俺はそのとき、いささか短絡的に事を考え過ぎてしまったようだ。有馬が会社から姿を消すということは、この星島家からも去って行くことだと思い込んでしまった。だがそんな必要はなかったのだと、最近になって考えるようになった。星島建設の跡取りとしては失格しても、それがそのまま、お前からも去って行かねばならぬという理由にはならないではないか。俺は、もっと深い配慮を自分に課すべきだった。有馬には別の仕事口を与えてやり、お前の傷が癒《い》えるまで別居するなりして、ある時間を置き、ふたりが元の鞘《さや》におさまるよう心を配ってやればよかったのだ。それが、おとなの知恵というものだろう。俺は口にこそ出さなかったが、病院で、有馬の方から離婚を申し出させるよう、因果を含んだ言い方で、娘の父として彼をなじった。だがそれは嘘だった。俺は娘の父親の顔をしていたが、本当は星島建設の社長という立場だけに立って彼をなじりつづけたのだ。遠廻しに、遠廻しに、ふたりは別れるしかないだろうというふうに持っていった。そして俺は、お前が、たとえこんな事件にあったとしても、それでも有馬とは別れたくはないのだということを知っていた。お前は決して別れたくなかったのだ。それはこの父が一番良くわかっていたことだ。  私は途中から泣きながら父の言うことを聞いていました。父は一気にそこまで喋りつづけると、ふいに口をつぐんでそのまま長いこと黙り込んでしまいました。長い沈黙がありました。冬の陽の差し込むリビングルームのソファに坐って、私はいつまでも自分の嗚《お》咽《えつ》の音を聞いていました。 「そやけど、馬の前足は折れて、壺は粉《こな》微《み》塵《じん》に割れたのよ。そうでしょう、お父さん。お父さんは、私と有馬が別れる前に嵐山の喫茶店でそう言ったでしょう。でも、ほんとはあのときはそうやなかった。別れてしまったときに、私が離婚届に判を押したときに、馬の足は折れ、壺は粉微塵に……」。私がそこまで言ったときに、父は起きあがって私の言葉を制しました。そして、「有馬はええ男やったなァ。俺はだんだんあいつを好きになってた」と言って、何とも言えない恐しい顔をして自分の部屋に入って行きました。  紅茶を二人分運んで来た育子さんは、広いリビングの中でぽつんとひとりうなだれて、まだ小さく子供のようにしゃくりあげている私を見ると、何か言葉を捜している様子でしたが、結局何も言わず、ティーポットと紅茶カップをテーブルに置いて、台所の方に戻って行きました。私はティーポットの注ぎ口から立ち昇っている湯気にぼんやりと見入りながら、父の最後の言葉を胸の内で反芻《はんすう》していました。有馬はええ男やったなァ。俺はだんだんあいつを好きになってた。仕事、仕事、仕事で、家庭を省みることもなく働きつづけて来、冷徹なくらい他人を自分の中に入れようとはしなかった父の言葉であっただけに、そこに、ある大きな説得力と愛情が込められていたように感じられました。本当に、かつての私の夫はいい人だった。そしていま父は、心の底から私の幸福について考えてくれている。そんなふたつの思いが、湯のように体の中に浸《し》み入って来たのでございました。あなたへの情ないくらいの未練も、父に対する憎しみも忽然《こつぜん》と消えて、何もない真っ白な空間に漂っている思いでございました。  どのくらいその場所に坐り込んでいたのでしょう。気がつくと、冬の陽は殆ど落ちかかり、庭の苔《こけ》むした石灯籠《いしどうろう》が黒ずんで、その長い影が離れの父の部屋の窓にまで届いていました。顔を直して台所に行くと、育子さんが、きょうは嬉しいことがありましたと私に言いました。ことし高校を卒業する息子さんの就職口が決まったとのことでした。調理師になりたいという息子さんの希望が叶《かな》って、芦屋の有名なフランス料理店に雇ってもらえたのだと育子さんは言いました。あなたと二、三度行ったことのある「メゾン・ド・ロワ」というお店でございます。子供が産まれて三年後に夫と死別した育子さんは、その後五年程嫁ぎ先の丹波の農家で、姑 《しゅうとめ》 や 舅《しゅうと》と暮らしていたのですが、結局籍を抜いて、一時、神戸の東灘《ひがしなだ》区に住む姉のとに厄介になっていたそうです。母を亡くして、人柄のいいお手伝いさんに来てもらいたいと考えていた私の家に知人の紹介で住み込みで働いてくれるようになり、息子さんを姉さんの家に預けて、それ以来、ずっと私たちと家族みたいに生活して来たのですが、やはり口には出さないものの、たったひとりきりの息子さんと別々に暮らさなければならぬのは辛いことであろうと思い、私も父もときどき育子さんにそのことを訊いてみたものでございます。香櫨園の近くにアパートでも借りて、そこで息子さんと一緒に暮らしながら、この星島の家にかよって来ればいいではないかというのが、私と父の意見でした。別に書くまでもなく、あなたは御存知の筈でしたわね。それで、育子さんもその気になって、適当なアパートを捜していた矢先に、あなたのあの事件が起こったのでございます。そのことと育子さんとのことは別段たいした関係はなかったのですが、彼女はひどく私に同情して、まるで母親みたいに、なにくれとなく私を気遣ってくれるようになりました。育子さんはアパート捜しをやめてしまい、いままでどおり、住み込みで働かせてもらいたいと言いだしました。亜紀さんが元気になってからにします。それまでは、やっぱり私が住み込みで働く方が、なにかと便利でしょう。息子が一人前になったら、私も勤めを辞めて、それからゆっくり、ふたりで暮らすことでも考えましょう。男の子なんて愛想もくそもない、べつにいまさら母さんと暮らさなくともいいなんて言うんですよ。育子さんはそんな言い方をして、それから声をひそめると、「あのこむずかしい旦那様の世話をしてたら、亜紀さん、ノイローゼになってしまいまっせェ。私にまかしときなはれ」と囁《ささや》きました。それ以来、通《かよ》いで勤めるという話は立ち消えになってしまいました。まるで何十年も父という人間を見て来た人のように、育子さんはじつに心得たやり方で、父の癇癪《かんしゃく》も、勝手気《き》儘《まま》な人使いも、まったく意に介さず飄々《ひょうひょう》とあしらって、それでいて決して父を怒らせることがないのですから、私はいつも育子さんには感心したり有難く思ったりしているのです。父も東京住まいが長引きそうなときは、育子さんを伴って上京することが多く、それだけ、育子さんという人を信頼しているということなのでございましょう。  私は息子さんの就職先を聞いて、芦屋のメゾン・ド・ロワで修業したら、もう日本中どこのフランス料理店でも通用するコックさんになれると言ってあげました。どこまで辛棒出来ますやらと育子さんは言いましたが、内心の嬉しさは隠し切れないようで、包丁の使い方やお料理の盛り付け方がいつになくリズミカルでございました。よくあんな有名なお店に就職出来たものねと私が言うと、「旦那様のお口添えですねん。旦那様が一筆書いてくれはりまして、それを息子に持たして面接に行ったら、その場で決まったそうです」。  育子さんは鼻歌まじりで、夕食の支度をてきぱきとつづけました。私は離れの、父の部屋に行きました。父は座机を使って、何か書き物をしていました。育子さんの息子さんのことについて、私が礼を言うと、父は無愛想にちらっと振り向き、お前に礼を言われる筋合はないと言いました。私は、お父さんと呼んでみました。その途端、また涙が出て来ました。父はそんな私を見て、わざわざ俺の部屋にまで泣きに来たのかと言ってから、書き終えた手紙らしい物を封筒にしまうと、「どうや、ほんまに外国へでも行って来たら。気分を変えるには、転地が一番や」。そう言って、初めて笑いを浮かべました。「そんなことせんでも、私、ほんとにもう忘れました」。父は座机に向かい、私を見ないまま、「そうか」とひとこと言って、それきり口を開きませんでした。私は父のうしろに坐ると、父の首に自分の両腕を巻きつけ、片方の頬を背中にすりつけながら、「私、ほんとに忘れたのよ。お父さん、ほんとよ」と囁きました。でも言えば言う程、あなたの面影が目の前に浮かんでくるのです。父は私の腕を両手で撫《な》でさすりながら、「人間は変わって行く。時々刻々と変わって行く不思議な生き物やなァ」。そう自分に言い聞かせるような口調で呟《つぶや》き、「お前は優しい子やから、きっとしあわせになる」と言いました。そのときの父の、凛《りん》とした声の響きと、火の気のまったくない静まり返った八畳の和室の中の空気の冷たさは、もう十年近くたったというのに、あなたとお別れして以後の私の心に刻まれた無数の思い出の中心部に、なぜかひっそりと生きつづけて消えて行かないのでございます。  私は外国にも行かず、それどか、神戸や梅田の繁華街にも出かけることなく、それからの日々を過ごしました。「モーツァルト」が再建されたのは、桜の季節が終わり、さまざまな木の芽が芽ぶき始めた頃でした。火災保険に入っていたというものの、最初にお店を建てたときと比べると四割近くも木材の値段が高騰してしまったとのことで、御主人はかなりの借金をかかえられたそうでございました。以前とまったく同じ設計で建て直したのですが、予算の都合で違う材質の木を使わざるを得ない状態で、再び店開きした「モーツァルト」は、以前の「モーツァルト」とはどこか違っていました。けれども、扉を押して私がお店に足を踏み入れたとき、それだけは変りようのないモーツァルトの曲が鳴り響いていました。四十番シンフォニイで、私は四十一番の「ジュピター」よりも、その方が好きでした。開店のお祝いの言葉を御夫妻に述べて、私はいつもの、道に面したテーブルにつきました。「星島さんの珈琲茶碗も、割れて砕けてどこに行ってしもたのかわからんようになりました。それで京都の河原町の陶器屋で、ええ珈琲茶碗をみつけたので買《こ》うて来ました」。御主人はそう言って、真新しい珈琲茶碗を私の前に置きました。かすかに灰色がかったきめの荒い無地の茶碗でした。ですが、きめの荒いわりに透き通るように薄く、とても高価なものではないかという気がして、私はお金を払わせてくれと頼みました。御主人は、自分からのプレゼントだと言って、値段をいくら訊いても教えてくれません。その日は日曜日で、葉桜の並木に沿った道を散歩している人の姿が目立ち、店内も殆ど満席で、私は久し振りにおいしい珈琲を飲みながら、モーツァルトの音楽に耳を傾けていました。すると、ガラス窓の向こうに散歩に出て来たらしい父の姿が見えました。父はカーディガンを着て、サンダル履きの格好で、うららかな陽光を楽しむように、ゆっくりこちらに歩を運んで来たのです。私は扉をあけ、顔を出して父を呼びました。父は私に誘われて「モーツァルト」に入って来ました。父は私のいるテーブルに腰を降ろし、ここの珈琲はうまいかと訊きました。父に言わせると、淀屋橋の会社の近くにある小さな珈琲専門店の珈琲が日本で一番うまいのだということでした。それを聞きつけた御主人がやって来て、私の店の珈琲は、日本で二番目においしいと言いました。私の父だと知ると、奥様も慌てて駈け寄って来て、見舞い金に対するお礼を何度も繰り返し述べられ、お嬢さまだけでなく、どうかこれからはお父さまもぜひ当店を御《ご》贔《ひい》屓《き》願いたいと、以前の元気さを完全に取り戻したような明るい笑顔を向けられました。  私は、父が何の寄合もパーティーもない日は絶対と言っていい程、どこにも寄り道せず帰宅することを知っていましたので、定刻に社を出た日に、わざわざ車を「モーツァルト」の前で停めさせて、珈琲を飲んでから帰って来るなどとは想像もしておりませんでしたが、その日以後、ときおり歩いて帰宅することが多くなり、お車はどうなさいましたかと育子さんが訊いても、国道で降りて散歩がてら歩いて帰ったのだと答えるだけで、他には何も説明しようとはいたしません。そんな日は、きまって夕食もみんなよりあとに食べるので、私は、これは怪しいとにらんで問い詰めてみました。すると、お前の珈琲茶碗を使わせてもらっているのだと父は照れ臭そうに笑いました。「お父さんが、モーツァルトを聴いてるなんて、想像でけへんわ」。私のその言葉に、父は少し思案顔で言い返しました。「お前の縁談について、『モーツァルト』の主人と話し合ってるんや」。  私は驚いて父を見つめました。「私、もう結婚なんてする気、ありませんから」。私は強い口調で言いました。そうでなければ、この、自分の決めたことは絶対に実行する人が、そう簡単に引き下がるとは思えなかったからでございます。そして父は、冗談など滅多に言わない人でございます。父の話は、次のようなものでございました。  じつは、お前に思いを寄せている男がいるそうだ。「モーツァルト」の主人が、先日、俺にそれとなく打診して来た。「モーツァルト」の主人の甥にあたる男で、大学の講師をしている。三十三歳だが独身。専門は東洋史学であと二年くらいで助教授になれることは間違いないらしい。お前とは正式には一度だけ「モーツァルト」の主人のマンションで逢ったことがあるそうだが、それ以後も、向こうは珈琲を飲みに来たお前をカウンターに坐って見ていたらしい。自分は初婚で、星島亜紀にはかつて夫がいたが、そんなことは何も気にしていない。学問、学問で明け暮れて来て、結婚したいと思うような女性にはめぐり逢わなかったが、お前を見て、ひと目で気に入ってしまった。そう「モーツァルト」の主人に語ったそうだ。最初に「モーツァルト」の主人に話を持ち込まれたときは、俺はそれ程気乗りがしなかった。しかしあまりに熱心に頼み込まれて、一度その男と逢ってみることにした。向こうには俺を亜紀の親父だとは教えないようにと念を押して、ただ店の贔屓客だということでそれとなく紹介してもらった。たいした話をしたわけではない。いい陽気になりましたなァとか、大学の講師というのは、どのくらいの収入があるのかとか、東洋史という学問は、どのような学問であるのかといった程度の話をしただけだ。俺は、もう自分の会社を、娘の婿に継がせようなどとは考えていない。俺のその望みは、有馬靖明がお前と別れたことで完全に断たれてしまった。また別の後釜《あとがま》をすえるなんてことは出来るものではない。星島建設は、俺が身を引いたら、しかるべき人間が跡を継いでくれるだろう。それでいいのだと思うようになった。俺の心配は、お前のことだけだ。お前がしあわせになってくれることだけだ。よく考えてみろ。お前はまだ二十六になったばかりで、これからが本当の人生ではないか。いい人さえみつかれば、やはり結婚して新しい家庭を持つことが一番正しい道だと思う。お前が相手を気に入らないのなら、何も気にすることはない。あっさり断わってしまえばいいではないか。しかし何はともあれ、どこかに席を設けて、その男と話をしてみるぐらいのことはやってみてもかまわないと俺は思う。  つまりは、父はその方とのお見合いを、父一流の強引さで私に勧めているわけでございました。私は父の話を聞きながら、ああ、あのときのあの方かと思いましたが、どうしてもその男性の容貌やら雰囲気やらを思い出すことが出来ませんでした。確かに、大学の講師と知らされてみると、そんな雰囲気を持っていたような気もいたしますし、目鼻立ちのはっきりしたお顔であったような気もいたしました。ですが、父に何と言われようが、そのときの私にはお見合いなどする気はありませんでした。だって、私の心の中には、もう絶対に帰って来る筈のないあなたが、まだどうしても消えずに立ちはだかっていたからでございます。父は煙草を何本もたてつづけに喫いながら話をつづけました。  俺はきょう、もう一度「モーツァルト」に寄って、主人と話をしてきた。娘が、なぜ夫と離婚したのかを包み隠さず話して聞かせた。そして、あなたの甥にそのことを伝えてもらいたいと言っておいた。俺は喫茶店の主人の反応などどうでもよかったが、彼は話を聞き終えると、いやに沈痛な顔をして考え込んでいた。それから、この縁談はどうもまとまらないような気がすると言った。お嬢さんには、まだまだ長い時間が必要でしょうというのが主人の意見だった。それから、こうも言った。私は、お嬢さんは女性としてきっと何か大きな深い哀《かな》しみを味わった方だと感じていた。そうでなければ、女性で、しかもあの若さで、モーツァルトの音楽の秘密を、一瞬のうちに、この私よりも鮮やかに掬《すく》い取ることなど出来る筈がない。そして俺に頭を下げて、当方から申し出た願い事ではあるが、この話はなかったことにしていただきたいと言った。俺はその理由を訊いたが、主人は黙ったまま口を開かなかった。それで、こんどは俺の方から逆に縁談の話を持ち出すはめになった。娘の不貞で別れたのではない。夫の不貞と、それにまつわる悲惨な事件で、ふたりは別れざるを得なくなったのだ。離婚の理由が、この縁談を反古《ほご》にするものとは思えない。俺は主人の反応に少し腹を立ててそう言った。本当はどこの馬の骨かわからぬ安月給取りの大学の講師に、娘をやる気など俺にはないのだとまで言ってやった。すると主人は丁寧な物腰で非礼を詫《わ》びてから、ひょっとしたらお嬢さんは、たとえそんな事件があったからといっても、御主人とは別れたくはなかったのではありませんか、と俺に言うのだ。俺は一瞬、錐《きり》か何かで、ぐさっと突かれたような気がした。ぼんやりと珈琲をすすっているお嬢さんの横顔を思い浮かべると、自分にはどうしてもそんな気がしてならないと主人は言った。そして、お嬢さんには、まだまだ長い時間が必要でしょう、とさっきと同じ言葉を繰り返した。確かに「モーツァルト」の主人の言う通りかも知れぬと俺は思った。そう思った途端、それとは反対の考えが浮かんだ。だからこそ、一日も早く、いい人をみつけて、人生の再出発をさせてやらなければならないのではないかと思ったのだ。俺がそう言うと、主人はしばらく考え込んでいたが、彼なりに考えを変えたらしく、お嬢さんにはこういう話が私とあなたとの間に起こっていることを伝えてあるのかと訊いてきた。俺がまだだと答えると、主人は、もう今晩にも、この縁談の話をお嬢さんに切り出してみてはどうかと言った。もしかしたら、瓢箪《ひょうたん》から駒ということもある。お嬢さんが私の甥を気に入ってくれて、どんなしあわせな夫婦が生まれるやも知れぬではないかと言うのだ。こんどは俺の方が腕組をして考え込んでしまった。俺は、貧相な男が一番嫌いだ。その次は酒癖の悪い男だ。だが一度逢って自分の目で見た限りでは、勝沼壮一郎という男は、そのどちらも持ち合わせていないという気がした。学問をやる人間らしく、多少神経質そうな気はしたが、全体に清潔なものが感じられた。それで「モーツァルト」の主人の言うように、きょう、お前に話を切り出したというわけだ。  私は一度も父に勝てたことはありませんでした。そのときもそうでした。私は父の話を聞き終えると、考えさせて下さいと言って、二階の自分の寝室に入りました。二階の窓のとに立つと、春の夜気に包まれた閑静な住宅地が、うっすら青味を帯びてひろがっていました。目をあげると、もうあと少しで満月になるかと思える月が出ていました。完全な円形を作っていない分だけ、私にはとてもその月がいびつなものに見えました。あなたとお別れして、もう一年が過ぎてしまったのだと思いました。それなのに、私には実際は、三年も四年もたったように感じられ、どんな休息によっても、どんな烈しい労働によっても、またどんなに我を忘れる楽しみに興じても、決して癒《いや》されそうもない頑固な疲れが、ずっしりと心と体に居坐っているように感じられたのでございます。あなたはどうだろうかと私は想像してみました。あなたとて、たった一年ばかりの月日で、私のことを完全に忘れてしまえる筈はない。見知らぬ女性に夫を盗まれていたというのに、まだ私はその時点においても自惚《うぬぼ》れていたのでございましょう。そして私はさまざまな思いにひたり、私のことを忘れてはいなくとも、あなたはもうすっぱりとあきらめてしまわれたことであろうという結論を無理に引き出して、私もまたあきらめるべきだと思いました。一年前に、すでにそうしていなければならなかったのに、私には出来なかったのでございました。あきらめなければならない、私はその言葉を幾度となく自分の心に言い聞かせました。父の言った言葉が甦《よみがえ》ってまいりました。「人間は変わって行く。時々刻々と変わって行く不思議な生き物だ」。私はこれからどう変わって行くのだろう。そう考えて、身震いするような不安に駆られました。またあの、何か不幸が始まって行くという予感にとらわれたのでございました。あなたにも、そしてこの私にも……。  私と父、「モーツァルト」の御夫妻と勝沼壮一郎の五人で、二週間後の日曜日に芦屋の「メゾン・ド・ロワ」で夕食を共にいたしました。私も父も勝沼も殆ど自分からは口を開かないものですから、「モーツァルト」の御夫妻が何やかやと話題を引き出そうと気遣っていらっしゃいました。夕食が済むと、父と御夫妻は帰って行き、私と勝沼は阪急の芦屋川の駅まで歩いて、一軒の喫茶店に入りました。 「御主人との離婚の件、叔父から詳しく伺いました」。勝沼はそう言って、次の言葉を考えていましたが、適当な言葉が出てこないのか、少し苛《いら》立《だ》ったように額に皺《しわ》を寄せ、もみあげの部分の毛を指で撫でたり、つまんだりしていました。それで私の方から結論を申し上げたのです。 「私には、まだ再婚の準備が出来ていませんのよ。これからどうしようという計画もありませんが、もう少し、何もせず月日のたっていくのを待っていたいと思っています」。勝沼は間髪を入れず、「じゃあ、私も待ちましょう」と言って、私の顔を真正面から見つめてきました。いやな物を感じさせる人ではありませんでしたが、かと言ってどこかに好意を感じさせる物もない、そんな男性のように思えました。その夜はとりとめのない話をして、九時過ぎに喫茶店を出ると、タクシーで家まで送っていただきました。いまでも、いかなる理由によって、勝沼壮一郎との結婚を決断したのか、私にはわからないのでございます。あなたとの離婚が、ちょうど、別れたくもないのに、むりやり船に乗せられて岸壁を離れて行ったという状態であったとすれば、勝沼との結婚も、まったく同じように、行きたくもないのに、知らぬ間に船に乗ってしまったと言うのが、一番適当な表現ではないかと存じます。そこには「モーツァルト」の御夫妻の、私に対する言葉に尽くせぬ暖かい心遣いがあり、私の幸福を願ってくれている父の心情があり、もうひとつ、あなたのことを、私は断じて忘れてしまわなければならぬという思いがあったのでございます。  私と勝沼壮一郎は、その年の九月に結婚いたしました。父は勝沼に婿養子として来てくれるよう望みましたが、勝沼は一人息子で、しかも大学生のときにお父さまを喪《うし》なって、母ひとり子ひとりの生活でございましたから、その件については父もあきらめざるを得ませんでした。それどか、先方のお母さまにひとり暮らしをさせるわけにはいかず、私が勝沼家に嫁いで行く形になってしまったのでございます。けれども、父は自分の希望とはまったく逆の状態になってしまうことが決まっても、縁談をそのまま進めて行きました。しかもそのことに関する自分の考えは、ひとことも口にいたしませんでした。勝沼の家は、御《み》影《かげ》の弓ノ木町にあって、小さな庭のある古い二階家でした。再婚同士ならともかく、相手は初婚なのだからと言って、父はちゃんとした披露宴も持ち、新婚旅行にも行ってこいと言ってお金をくれました。父はいやに外国に行くことを強要しました。私はまるで心のない人形みたいに、父の言うとおりに動きました。あなたとの新婚旅行は、東北を小さく一周しただけの簡素なものでしたわね。どこか外国に行こうと思えば、父はそのくらいのお金はぽんと出してくれた筈でしたが、私とあなたは、あえて冬の東北旅行を選んだのでした。私は、パリやオランダやローマや、ヨーロッパ中を観て廻りたかったのに、あなたは冬の東北に行ってみたいと言って譲らなかったのです。田沢湖から十和田に向かう道で烈しい雪が降って来ましたね。覚えていらっしゃいますか。それで予定を変更して乳頭温泉というとで一泊しました。あの晩、しんしんと降りつづいている雪の気配に耳をそばだてながら、ふたりで熱い地酒をいただきました。そして私はあの夜、あなたを心から愛しました。あなたを心の底から好きになりました。結婚するずっと以前から、とうに私はあなたに何度も抱かれて来たのに、あの乳頭温泉の小さな旅館の夜具の中で、あなたという人を深く知ったのでございます。またなんとつまらないことを書いてしまったことでしょう。自分でも恥しくなるようなことを思わず書き記してしまいました。話を元に戻すことにいたします。  私と勝沼は、父の言うとおりに、ヨーロッパの国々を廻って帰ってまいりました。勝沼と六十七歳の義母との生活が始まってひと月もたたないうちに、思いがけないことが起こりました。私が近所のマーケットから帰って来ると、義母が台所で倒れていたのです。すぐに救急車を呼びましたが、病院に着くとまもなく息を引き取りました。心筋梗塞《こうそく》ということで、もう殆ど手のつけられない状態でした。四十九日が済んだ日、父が勝沼に、香櫨園の家に引っ越すよう勧めました。勝沼は最初はしぶっておりましたが、父の有無を言わさぬ強引さに結局折れてしまい、私はわずか二ヵ月別々の生活をしただけで再び父と一緒に暮らすことになったのでございます。  いま午後三時を少し過ぎたとです。そろそろ清高を迎えに行く時間になりました。この、何日もかかって書き綴ってきた長い手紙でも、私はまだ書こうとしていることの半分も書けないでおります。まだまだあなたにとっては御迷惑このうえない手紙を差し上げることになりそうでございます。たとえあなたが封を切ることなく、そのまま破って屑籠《くずかご》に捨てておしまいになっていようとも……。  養護学校のスクールバスが、三時半に駅前に到着するのです。もう急がなくてはなりません。この手紙はひとまず終えて、また次の手紙をしたためることにいたしましょう。なんだか、あわただしい結び方になりましたが、それではお元気で。 かしこ    七月十六日       勝沼亜紀   有馬靖明様 前略  頂戴した長い二通の手紙、破りもせず、屑籠に投げ捨てもせず、確かに拝見させていただきました。しかし正直に言えば、私が、もうお便りをいただくことは勘弁願いたいという手紙を差し上げて二ヵ月後に、またあなたからの郵便物を手にしたとき、そのぶ厚い封筒をしばらく机の中に蔵《しま》い込んだまま二、三日放っておきました。読みもしなければ、返事も出さないぞと私は思いました。けれども私は結局、その封筒から漂って来る無音の信号みたいなものに抗《あらが》うことは出来ませんでした。私は、やはり読んでみたかったのです。そして封を切りました。読み進んで行くうちに、十年前と比べて、あなたが大きく変わられたことに気づきました。いったい、どこがどう変わったのか、私には文章にすることは出来ません。でも、あなたは変わりましたね。体の不自由なお子さんの母として、八年間闘いつづけてこられたことが(私には闘うという言葉が最も適切であろうと感じられました)、きっとあなたという人間に、何かある大きな、強い、しかも以前よりもいっそうふくよかなものをもたらしたのに違いないと思いました。おざなりの言葉ですが、そういうお子さんをきょうまで育てて来た過程には、他人には判らぬ幾多の悩みと御苦労を、歯を食いしばって乗り越えなければならぬ事態が何度も何度もあったことでしょう。私はふと、もし私とあなたとが離婚せずに夫婦として暮らしていて、そのような子供をもうけていたら、と考えました。そう考えた瞬間、あなたに対して、どうかして十年前の事件のつぐないが出来ないものか、あなたに与えた不幸のつぐないが出来ないものかと真剣に思いにふけりました。場末のスナックのカウンターで酔っぱらっているときに、満員電車に揺られて車内吊《づ》りのポスターをぼんやり見ているときに、私はある押さえようのない懺《ざん》悔《げ》の思いに襲われて全身をしめつけられるのです。  しかし、そんな女々しいことを書くために私はペンを取ったのではありません。あなたの手紙の中にあったひとつの言葉について、どうしても何か書かずにはいられなくなったからです。あなたはモーツァルトの音楽を聴いて、なぜか「死」という言葉を連想したとお書きになっていましたね。そして喫茶店の主人にこう言った。「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれない」。私はあなたの手紙を読み終えてからも、その箇所だけ何回も読み返しました。私は、私の命に起こったある不思議な体験を、どうしてもあなたに伝えたいという衝動に駆られました。私もまた、長い手紙を書くはめになりそうですが、何の思惟《しい》も推理も交えず、ただ私が見たものだけを書き綴ってみるつもりです。ですが、話の前置きとして、蔵王であなたと偶然に再会した日のことから書き始めることにいたしましょう。  私がなぜあの日、蔵王温泉に行ったのか。話は簡単で、まったく偶発的な出来事からでした。友人と共同で始めた商売がうまく行かなくなり、苦しまぎれに出した手形が、ならず者の手に渡りました。すぐに回収するつもりで致し方なく発行した空手形でしたが、そういう手形を飯の種にするならず者に渡ったことで、どうしてもある期日までにまとまった金を作らなければならなくなりました。それで東京にいる友人や取り引き先を頼って上京したのです。東京で私は約一週間駈けずり廻りましたが、金は出来ませんでした。私は動転していたのでしょう。飯田橋の駅の近くで何気なくうしろを振り返ると、身なりはきちんとしているものの、あきらかにその種類の人間であることを匂わせている若い男が立って私を見ていました。友人とふたりだけの小さな会社でしたので、私が上京したことを、逃げたというふうに解釈して、ずっと追って来たのだと私は思いました。私は人混みを縫ってホームに入って来た電車に飛び乗りました。するとその男もホームに駈け昇って来て、閉まりかけた扉をこじあけて乗り込んで来たのです。いま思えば、私の錯覚だったのかもしれません。その男は、たまたまそこに立っていて、何となく私と目が合った。そして、私と同じように偶然同じ電車に飛び乗ったのかもしれない。しかし、私はその男から何とか逃げようと思いました。男はときおり、私に目を向けているようにも思えました。やっぱり俺を追って来たのだと私は信じ込んでしまったのです。私は御茶ノ水駅で降りてみました。すると男も降りました。私は別の電車に乗り換えて東京駅へ出よう、そこで男をまこうと考えたのです。東京駅に着くやいなや、私は全速力で階段を走り降り、どこへ行くなどとはまったく考えずに別のホームに駈け昇り、ホームの先端にまで行って物陰に隠れました。男の姿は見えませんでした。電車がやって来たので私は行先も知らないままそれに乗りました。すぐに上野駅に着きました。私はしばらく身をくらまそうと思いました。どこでもいい、二、三日姿を消してしまおう。切符売り場でも、私はおどおどと周囲を窺《うかが》いましたが、さっきの男の姿はどこにもありませんでした。なぜ山形までの切符を買ったのか、私には判りません。ですが、ポケットから紙幣を出すと「山形まで一枚」と言ってしまったのです。改札口にかかげられている発着列車の案内板を見ると、つばさ五号があと五分で発車するのに気づき、私はまたホームを走って、列車の扉の前で立ち停まり、こんどはじっくりとあたりを見廻しました。男はどこにも見当たりません。列車が動き出し、数時間がたち、夕刻、山形に着いて、降りる人の列の最後に並んで改札口を出て、そこでやっと落ち着きを取り戻しました。財布には六万円ばかり入っていました。大阪へ帰る交通費を差し引くと、残りは心細いものでした。安い旅館を捜そうと考えて、私は駅前の繁華街を抜け、蔵王行きのバスの発着場まで歩いて行きました。冬はスキー場になるのだから、スキー客用の安い山小屋があるに違いない。そんなところなら、いまの季節だから部屋も空いていることだろう。そこで三日か四日身を隠して、大阪にいる友人と連絡を取り合い、今後のことを検討しようと思ったのです。  あなたと別れてからの十年間は、じつにさまざまなことをして生きて来たと申し上げるしかありません。じつにさまざまなことを……です。その十年間のことをすべて書いていたら、二年も三年もかかってしまうでしょう。転げ落ちるという言い方がありますが、十年間、私はゆっくりと、だが確実に転げ落ちて行きました。しかし考えてみれば、あなたと結婚して一年程後に、私が京都の河原町のデパートにメロンを買いに入り、ふと由加子のことを懐しんで六階の寝具売り場に足を運んだ瞬間、私は転落を開始したのでした。十年の間に、勤めた会社は十指に余りますし、手掛けた商売も三つや四つではありません。関係を結んだ女も何人もいます。その中には三年も私を食わせてくれた女もいるのです。現在も、私はひとりの女と暮らしています。この厄介な男を大切にしてくれる気立ての優しい女ですが、私は愛情を感じてはいません。私の十年間を説明するとしたら、ちょうど相撲に譬《たと》えると、寄ればうっちゃられる、突けばいなされる、上手投げをかければ下手投げで転がされる、外掛けに行けば内掛けで切り返されるといった具合でした。何をやっても裏目裏目と出る。何か魔物に取りつかれているような案配でした。あなたと蔵王で再会したのは、言わばそのどん底に落ち込んでいた時期でした。  私は蔵王温泉に着くと、硫黄の匂いに包まれた温泉町のなだらかな坂を昇って行きました。道の両側には何軒もの旅館が建ち並んでいましたが、財布の中味を考えると、その種の宿に泊まることは出来ませんでした。煙草屋で、山の上の方に宿泊出来そうな山小屋はないかと訊《き》きました。ドッコ沼の横にそのてのものがあると教えられ、私はリフト乗り場への道を行きました。ダリア園の横のゴンドラ・リフトに乗り、ドッコ沼をめざして歩いて行きました。沼の横にそれらしい建物があったので、中に入って、二、三日泊めてもらいたいが宿賃は幾らかと訊きました。予想していた値段よりも、まだ少し安いくらいだったので、私はほっとして汚れた長椅子に坐り込みました。シーズンオフでもあるし、他に泊り客はないから、たいした支度も出来ていない。食べる物もありあわせの物しか出せないがそれでもいいかと言うので、私は承諾して二階の、冬は若者たちでいっぱいになる部屋にあがりました。一階は売店と食堂で、二階に宿泊設備を持つその山小屋と呼ぶには少し大きめの建物は、冬になると二階が出入り口になるのだと若い主人が教えてくれました。雪はいつも四メートル以上積もって、一階は埋もれてしまうのだそうです。温泉につかりたかったら、リフトで旅館街まで降りるといい、安い料金の町営の公衆浴場があるとのことでした。早い夕食を済ませると、私は再びリフトに乗って降りて行き、坂道の途中にある公衆浴場の硫黄の湯につかると、小さな喫茶店で珈琲《コーヒー》を飲んで、再びドッコ沼の横の山小屋に帰りました。あなたの最初の手紙にも書かれていたように、その夜は月も星も見えず、私は八時頃蒲団にもぐり込むと、泥のように眠りました。本当に、泥のような人間になってしまっていたのです。  翌朝、私は朝食を済ませると、珈琲が飲みたくなり、またリフトで旅館街まで降り、前の晩に入った喫茶店に行ったのです。昼頃までぶらぶらしているつもりだったのですが、大阪の友人に連絡を取らなければならぬことに気づきました。喫茶店の電話を使おうと思ったのですが、その私の作った会社の共同経営者である友人も、私と同じように金策に駈けずり廻っている筈ですし、もしかしたら、ならず者に追われてどこかに逃げたということも考えられます。もし姿をくらますとしたら、あそこしかないな、と私は思いました。その男には妻子がありましたが、ねんごろな女がひとりいたのです。しかし、その女のマンションの電話番号を記した手帳は、私の小さな旅行鞄《かばん》に入っていて、ドッコ沼の横の山小屋の二階に置いてあるのです。私は急いでダリア園まで戻って行きました。気がせいていたので、別に次のゴンドラを待ってもたいした時間の差はないのに、誰かがすでに乗り込んだゴンドラに慌てて乗ってしまいました。そして、そこでなんとあなたと巡り合ったというわけです。目の前に坐っている、身なりの上品な婦人を見たときの私の驚きは、あるいはあなたが感じた以上のものだったかもしれません。私は髭《ひげ》も剃《そ》らず、汚れた靴を履き、カッターシャツの首筋には垢《あか》をつけて、しかも泥のような顔色をしていました。誰が見ても、私という人間の置かれている境遇はひと目で見抜けたことでしょう。私はうろたえました。いっときも早く、あなたの前から姿を消したいと思いました。リフトを降りると、懐しいあなたを振り返りもせず、山小屋へ急ぎました。そして、すぐに二階にあがり、窓辺に隠れて、あなたと、松《まつ》葉《ば》杖《づえ》をついた息子さんが、ゆっくりとした歩調で通り過ぎて行くのを眺めていました。林のとを過ぎ、山道を右に曲がって、完全に姿が消えてしまってからも、私は長いこと、その場に立ちつくして、おふたりの消えて行った道の曲がり角を見ていました。その道に降り注いでいる金色の木洩れ陽が、かつて自分の人生で一度も見たこともない淋しい荒涼とした光の刃《やいば》となって、私の汚れた垢まみれの心に突き刺さって来ました。私は友人に電話をかけることも忘れ、長い時間、その窓辺に凭《もた》れ込んで、あなたと息子さんが再び道を曲がって林の前を帰って来るのを待ちました。何時間か後に、もう一度あなたの姿を木洩れ陽の中に認めたとき、何か熱湯に似たものが、私の胸の底から噴き出して来ました。亜紀は別の男の妻となり母親になった、そして裕福で元気そうだ。そう思いました。あなたは、山小屋の二階の窓から私が見ていることなどまったく気づかずに、さっきと同じゆっくりした歩調で、リフト乗り場への雑木に挟まれた小道へ消えて行ったのです。  その夜も、山小屋には私以外誰も泊り客はありませんでした。私とおない歳ぐらいの主人が石油ストーブを運んで来てくれて、いろいろ面白そうな話題を投げかけていましたが、いっこうに笑いの生まれてこない私の顔を見て、寝るときは必ず火を消してくれるようにと念を押して下に降りて行きました。九時頃だったと思います。きっと、あなたと息子さんが、ダリア園の中で星を眺めていたときかもしれません。私は部屋の蛍光灯を消し、豆電球だけを灯《とも》して、蒲団に横たわりました。沼地の廻りの樹木が風になびいている音が聞こえ、階下で談笑している山小屋の夫婦の声が途切れ途切れに伝わって来ました。ときおり、ガラス窓に何かのぶつかる固い音が聞こえました。蛾《が》のような生き物ではなく、カナブンブンに似た甲虫が飛んで来ては当たっていたのでしょう。私はしばらく目を閉じ、それらの音が混じり合って、逆に怖いくらいの静寂を作りあげている湿った部屋の匂いを嗅《か》いでいました。何とも言えぬ懐しい匂いのような気もしました。と、奇妙な物音が部屋の隅から聞こえました。私は蒲団の上に起きあがり、その物音が聞こえて来た一角に目を凝らしました。小さな瑠璃《るり》色《いろ》の玉がふたつ、ぎらっと光りました。よく見ると、一匹の猫が身を屈《かが》めて、ある方向に向かってにじり寄っていました。目が慣れてくると、猫の大きさや毛の色も判別出来るようになり、赤い布製の首輪も見えました。首輪をつけているのだから、きっとこの家に飼われている猫なのであろうと思い、私は追い払うつもりで枕をつかんで投げつけようとしたのです。その瞬間、部屋のもう一方の隅に、猫と対《たい》峙《じ》して身動きひとつせずうずくまっている鼠の姿が目に入りました。子供の頃、確か六歳か七歳の頃だったと記憶していますが、一度だけ、猫が鼠を食べる場面を見たことがあります。しかし最近では珍しい光景に出くわしたわけで、私は、さてどうなるのかと、じっと二匹の生き物の動きに見入りました。猫は、私の存在などまったく意に介さぬように、尖《とが》った両耳をひきしぼって一歩進むと、驚く程慎重に次の行動を待ちました。そうやって少しずつ、鼠に近づいて行きました。私は部屋のあちこちに目を走らせ、鼠が逃げて行く場所はないものかと捜してみましたが、部屋の扉はぴったりと閉ざされ、ガラス窓には鍵《かぎ》がかかりカーテンまでかかっていて、どこにも逃げ場はなさそうでした。天井を見ると、鼠のいる場所のちょうど真上に破れ穴があいていました。いまなら、壁を伝ってあの穴に逃げ込める、そう私が思ったとき、猫は鼠に襲いかかりました。鼠は金縛りにあったように無抵抗でした。猫は鼠の背に前足の爪を突き立てて、それから初めて私を見つめました。目を細くすぼませながら、得意気に私を見ていました。そして遊び始めたのです。猫は鼠を空中に放りあげました。もんどりうって転がった鼠が、そのとき初めて逃げようと走りましたが、すぐに難なく捕えられ、また空中に高く放り投げられました。何度も同じことが繰り返されました。まるで毬《まり》か何かを弄《もてあそ》ぶような無邪気さが、猫の柔軟な動きに込められていました。二匹の生き物の絡みを見ていると、殺そうとする者と殺されようとしている者との、ぎりぎりのやりとりではなく、心を許し合った者同士の、じゃれ合いであるかのように思えてくるのです。猫は何十回も鼠を空中に放り投げ、鼠が動かなくなって横たわってしまうと、右に転がし、左に転がし、いかにももう退屈したという表情で私を見ました。もうその辺にしといてやれよ、そう私が心の中で呟《つぶや》いたとき、猫は鼠の横腹あたりを食いちぎったのです。鼠の体は生きたまま、一寸刻みに減って行きました。首をのけぞらせたり、手足をぴくつかせたりしていた鼠がまったく動かなくなったとき、猫は畳の上に落ちている鼠の血を舐《な》めました。それからもう死んでしまった小さな生き物を、なおも食べつづけました。猫は鼠の骨まで食べました。最後に残った頭の骨を噛《か》み砕く音が、私に聞こえました。こぼれていた血をまんべんなく舐めた後、前足で口の廻りの念入りな手入れを始めました。それだけは猫の味覚にそぐわなかったのか、鼠のしっぽが、畳の上に残されていました。ふいに、私の中に、この猫を殺してやろうという考えが浮かびました。猫に対する得体の知れない憎しみのようなものが、むらむらと湧《わ》いて来たのです。部屋の入口のとに、何も活けていないガラスの花瓶があったので、私はそっと立ちあがって花瓶を持つと、まだ舌舐めずりをしている猫に近寄って行きました。猫は私を見ると、背中の毛を立てて扉の方に走りました。きっと私の心を見抜いたのでしょう。逃がすもんかと私は思いました。どこにも出口はないんだ。とが扉の横の壁が破れて、猫どころか大きな犬でも出入り出来そうな穴があいていたのです。その穴は外側から板をかぶせて誤魔化していたらしく私には判りませんでしたが、猫は知っていました。猫は板を押しのけてあっさり逃げて行ってしまったのです。  私は蒲団の上に坐り、煙草を喫いました。そして、ぽつんと残された鼠のしっぽを見ていました。どのくらいの時間がたったでしょう。私は何本目かの煙草を消して、蒲団に横たわりました。この十年間、絶えず心から離れることのなかった幾つかの疑問が、そのときまた私の中に起こったのでした。由加子という女は、いったいどういう人間だったのだろう。そしてなぜ自分の首をナイフで切ったのだろう。もしかしたら、俺は由加子を、あの鼠のように扱ったのではなかったか。いや、あるいは由加子こそ、いまの猫そのものではなかったか。こうした私の思いの根拠をあなたに説明するためには、由加子との間に起こった幾つかの出来事を書き綴る必要があるでしょう。しかし、それはまた別の機会に譲ることにいたしましょう。  私はその夜、まんじりともせず、蒲団に横たわって考えつづけました。生きながら食べられてしまった鼠の姿が、私に特殊な感覚を与え、私をひどく興奮させていたのでしょう。いろいろなことを考えました。葡萄色の服を着て私の眼下を通り過ぎて行ったあなたのこと、あなたと知り合って離婚するまでの数年間のこと、今は亡き瀬尾由加子のこと、舞鶴での少年時代のこと、振り出した空手形のこと、これからの金策のこと……。そんなことをあれこれ考えているうちに、突然私は気づいたのです。猫も鼠も、他の何物でもない、この俺自身ではないかと。自分の生命が孕《はら》んでいる無数の心というものの中で、ふいに生じたり、ふいに滅したりしている猫と鼠を見たのだ。そして、こう思いました。俺はあの日、死の世界に漂って、確かに自分の命というものを見た筈ではなかったか。  あの日。十年前の、あの事件が起こった日のことです。思い出すままに、出来るだけ正確に書いて行くことにいたします。  私は社内での事務仕事を片づけると、待たせてあった社の車で京都に向かいました。京都のある私立大学が開校百年を記念して、図書館と記念館を建てることになり、何社かの建設会社が名乗りをあげていました。うちの社にとってはそれ程欲しい仕事ではありませんでしたが、谷川工務店が常識外れの見積り書を出して、何が何でも星島建設には渡さないぞという構えを見せたことで、あなたのお父さんは、私にいつもの簡略な、だが簡略であるだけに余計に威圧力を持つ言葉で、「この仕事は取れ」と命じました。私は直接の担当者として、知り合いの大学教授を通じて学長と理事長に接近しました。とにかく商売の件は抜きにして、一度ゆっくりどこか静かな場所に座敷でも設けましょうと私が誘いを入れると、向こうは応じる気配を見せたので、祇園の「福村」という料亭に接待することになったのです。大学の連中は「福村」ですでにかなり酔ってしまい、学長も理事長も高齢ということで、二次会はやめにして、そのまま車で自宅まで送り届けました。二次会はアルルを使うことにしてすでに予約を入れてありましたので、私は車を停めさせて、道端の公衆電話で、きょうは予定が変わって行けなくなった由をアルルに伝えました。いつもなら、私はそのままタクシーに乗り換えて、嵐山の「清乃家」という旅館に行ってしまうのです。そして、勤めを終えた由加子がやって来るのを待つのですが、電話に出て来た由加子は、今夜は行きたくないと言いました。私が理由を訊いても由加子は黙っていました。それで、私はぴんときました。由加子のもとにそれこそ連日通って来る男がいました。大きな病院の経営者で五十二、三の恰幅のいい男でした。由加子に店を持たせてやろうと、もう三ヵ月前から口説きつづけていたのです。由加子からその話を聞いたとき、一生水商売の世界で生きて行くのなら、それもよかろうと私は答えました。私は本当にそう思ったのです。私は由加子との関係がそんなに長くつづくとは思っていませんでしたし、どちらかと言えば、早く清算しなければならぬと考えていたくらいです。だがもう一方では、由加子という女に対する未練も根強く抱きつづけていました。「きょうは、あの男につき合ってやるのか」と私は言いました。由加子は何も答えませんでした。由加子はそうするつもりなのだと私は気づきました。何もかも由加子の自由であるべきでした。私にそれを邪魔する権利などない。けれども、嫉妬《しっと》という感情は不思議なものです。私は「清乃家」で待っているからと、いつにない怒りを含んだ口調で言うと、がちゃんと電話を切り、社の車を帰させてから、タクシーを拾って嵐山まで行きました。由加子は来ないだろうという気がしましたが、私はいつまでも待ちつづけました。夜中の三時頃、由加子は部屋に入って来ると、黙りこくったまま、浴室に行って、長いことシャワーを使っていました。「清乃家」は古い旅館でしたが、私たちのような泊り客のために、浴室のある部屋も設けていました。浴衣を着て私の横に坐った由加子の顔を見たとき、私ははっとしました。中学生のときの、あの舞鶴での夕暮時、濡れた髪を垂らして横坐りしていた由加子がそこにいたのです。私はじっとそんな由加子を見ていました。浴衣の合わせめを割って手を由加子の内《うち》股《もも》に這《は》わせ、そのまま奥に進めて行こうとすると、由加子は横坐りのまま、うしろに逃げました。いつもは私のしたいようにさせるのに、その夜は頑《かたく》なに拒みました。「あいつと寝て来たのか」と私が訊くと、由加子は「ごめんね」と言って、それからきつい目で私を睨《にら》みました。「あしたになったら、私の寝てる間に、帰って行くんでしょう?」。私と由加子はしばらく無言で互いの顔を見つめ合っていました。「いっつも帰ってしまうのよね。いっつも、自分の家庭に帰ってしまう。私のところに帰って来るなんてこと、絶対にあれへん……」。由加子は今度は顔をうなだれてそう言いました。「あの男かて、帰って行くやないか。自分の家に」。私が言うと、由加子はうなだれたまま小さく頷《うなず》きました。私は自分でも変に思うくらい冷静でした。これで別れようと思いました。私は起きあがって、由加子を抱きしめました。ずっとずっと昔から、由加子は可哀そうな娘だったような気がしたのです。由加子は美しく、誰にもない独特のいじらしさを持った女でしたが、それが由加子を不幸にしていると思えて来ました。「したたかに操って、金を出させたらええ。相手は金持やないか。しょうもない男に関《かか》わるより、その方が得や。自分の店を持って、頑張って金儲《かねもう》けをせえよ」。私はそう言ってから、自分は何もしてやれなかったが、あの舞鶴で初めてお前と逢った日から、ずっと好きだったのだと、正直な気持を伝えました。自分はお前に、恋というものを教えてもらった。そのお返しも出来ないが、そのかわり、もう二度とお前の前に姿を出さないようにしよう。私の中にふたつの心がありました。やはりあぶくみたいに湧いて来る嫉妬、それと安《あん》堵《ど》でした。これで何のトラブルもなく別れられるという身勝手な安心感が、私に妙におとなぶった鷹揚《おうよう》な態度を取らせていました。私たちはそのまま蒲団に入ると目を閉じました。しばらく寝つけませんでしたが、そのうち私は眠ってしまいました。右胸のどこかに重い痛みと熱のようなものを感じて目をあけたとき、由加子が私の横に坐り、切れ長の目をひきつらせているのが見えました。その次に由加子が私に覆いかぶさって来た瞬間、首に焼火箸《やけひばし》を当てられたような激痛があって、私は無意識に由加子をはねのけると立ちあがりました。ぬるぬるしたものが首筋や胸のまわりに流れ、蒲団の上に血が流れ落ちるのが見えました。私は由加子の顔をほんの少しの間、見つめていましたが、そのまま視界が暗くなり何も判らなくなって行きました。警察官の説明によると、由加子は私を刺したあと、自分の右首を、耳の下から顎《あご》のとまで約七センチに渡って切ったとのことでした。深さは耳の部分が約三センチ近くあり、相当な力で突き刺したようですが、ナイフを切り降ろしていくうちに力が弱まったのでしょう、顎の方に下がるに従って浅くなり、最後の部分は二ミリの深さもなかったそうでした。由加子は床の間に倒れ込みました。それが、私の命を救ったのだと警察官は言いました。倒れたひょうしに、由加子の左腕が、帳場を呼び出す電話の受話器を動かしたのです。そのため、帳場にベルが鳴りつづけました。旅館の主人は自分の部屋ですでに眠り込んでいて、帳場には若い従業員がいたのですが、たまたま旅館の一番奥にある大浴場で仕事をしていて聞こえませんでした。その従業員は調子の悪くなったボイラーを点検してから、帳場に戻って来ました。その間、二十分ぐらいの時間があったということでしたから、少なくとも十分か十五分は、電話のベルに気づかなかったのかも知れない。それが警察官の推理でした。従業員がもっと長く仕事をつづけていたら、きっと私も死んでしまっていたでしょう。従業員は鳴りつづけている電話を取り、返事をしましたが、何の応答もありません。しかし部屋の受話器は外れている。不審に思って、私たちのいる部屋をノックした。返事はない。帳場の電話は鳴りつづけています。それで合鍵を使って室内に入ったというわけです。その時点で、すでに由加子は事切れていましたが、私の方はまだ息があり、脈もあったそうです。旅館中が大騒ぎになっていたときであるのか、それとも病院に着いてからであるのか、私にはまったく判りません。けれどもそのとき、私自身は不思議な状態の中にいたのです。  何も判らなくなってからしばらくたった、と私は思っています。徐々に体に冷たさを感じ始めました。それも生半可な冷たさではありません。全身がばりばり音立てて凍りついていくような冷たさでした。その恐しい程の寒気の中で、私は自分の過去に向かって戻って行きました。そういう言い方以外、他に適当な言葉がみつかりません。私のかつて成したこと、私のかつて心に抱いたことが、さまざまな映像となって猛烈なスピードであと戻りして行きました。それはすさまじいスピードでしたが、どれも鮮やかな映像として私の内に映し出されていました。異様な寒気に包まれ、さまざまな映像を私は見ていましたが、そのうち誰かの声が聞こえました。はっきりと覚えています。「もうあかんかもしれんなァ」という言葉でした。やがて流れ過ぎて行く映像はスピードを落とし、それと同時に言語に絶するような苦しみが襲って来ました。映像は、私の成した行ないや思考からあるものだけを取り出して私をそこに投げ入れました。そのあるものとは、私の成した悪と善でありました。そういう言葉以外、私には他に思い浮かばないのです。単純な道徳的な悪や善ではありません。生命に染まっていた毒素と、それとは正反対の清浄なものとが、区分けされて私にまといついていたと言ってもよいかもしれません。しかもそのとき、死にかけている自分の姿が見えたのです。自分の成した悪と善の清算を、烈しい苦しみとともに強いられている自分を見つめている、もうひとつの自分がありました。夢だったのだろうと人は言うでしょう。しかし私は断じて夢を見ていたのではありません。なぜなら、私は病院の手術室で手術を受けている自分のありさまを、少し離れた場所から確かに見ていたのです。医者の言った言葉も覚えています。私は恢復《かいふく》してから、医者に、手術室でこんなことを話していませんでしたかと訊いてみました。医者は驚いて「聞こえていたのですか?」と首をかしげました。聞こえていたのではありません。私は別の場所から、私と医者と看護婦と、手術室の無数の用具に至るまでの、すべての光景を確かに見ていたのです。医者の言葉を聞いていたのは、手術台に横たわっていた私ではなく、そこから少し離れた場所で、死んで行こうとしている自分を見つめている、もうひとつの自分だったのです。しかも烈しい苦しみにあえいでいるのは、手術台にいる自分ではなく、それを見つめている自分でした。私はさっき、自分の成した悪と善の清算を、烈しい苦しみとともに強いられている自分を見つめていたと書きました。あれは間違っています。いまこの手紙を書きながら、深く記憶を掘り起こしてみると、自分の成した、いや成さずとも心に抱いた、それら悪と善の清算を強いられ、気が狂う程の苦悩と寂寥《せきりょう》感と、得体の知れない悔恨に責めさいなまれていたのは、死に行かんとしている自分を見つめている、もうひとつの自分の方だった。私はきっとあのとき、ほんのつかのま、死んでいたのだと思っています。ならば、もうひとつの自分とは何だったのでしょう。私の肉体から離れた、私の命そのものだったのではないでしょうか。  やがて急激に暖かくなって来て、苦しみも寂寥感も悔恨も消えて行き、もうひとつの自分も消えて行きました。それから意識を恢復するまでのことは、まったくの暗黒です。何も覚えていません。有馬さん、有馬さんという声が聞こえ、混濁した視界に看護婦らしい中年の女性の顔が見えました。しばらくして、あなたがやって来ました。確かあなたは何か私に言いましたね。けれども私はそのあなたの言葉を覚えていません。私はまたそれから眠ったようでした。誰が信じようが信じまいが、これが十年前に私が体験した事実です。私はこの不思議な体験を、きょうまで誰にも話したことはありません。生涯、誰にも言わないつもりでした。しかし、あなたの手紙に書かれていた「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれない」という言葉を目にした瞬間、私は異常な興奮と長い思考にひたりました。死によってその生命のすべてが消えて失くなるという考えは、もしかしたら人間の傲慢《ごうまん》な理性によって作りあげられた大いなる錯覚ではないのか。私にはそう思えてなりません。私が生き返ったことによって、自分を見つめていたもうひとつの自分は消えて行きました。だが、もし死んでしまっていたら、あの「自分」はどうなっていたのでしょう。肉体も精神も何も持たない命そのものだけになって、この宇宙に溶け込んで行ったのではないでしょうか。しかも、自分の成した悪と善をたずさえたまま、果てしない苦悩の時をおくりつづけるのではないでしょうか。重ねて言いますが、私の見たものは断じて夢ではありません。それどか、あれこそまさに命というものの寤《うつつ》ではなかったろうかとさえ思えるのです。私はこの話を書き始めるに際して「何の思惟も推理も交えず」と前置きしました。けれども若干の私の思惟による解釈を交えざるを得なかったことは否定出来ません。私はその後幾度も、あの、もうひとつの自分とは、俗に言う霊魂というものであったのだろうかと考えました。霊魂なるものが、はたしていかなるものであり、真実存在するものであるのかどうか、私には判りません。しかし私は、死にかかっていた、いや、いったんは確かに死の時を迎えた自分を見つめていたものが、自分の霊魂であったとはどうしても思えないのです。もしあれが霊魂であったとすれば、私たち人間は生きているという状態の中でも、霊魂なるものによって、肉体活動や精神活動をつかさどられていると考えざるを得ないではないか。であるならば、心臓の動きも血の流れも、何百種もあるというホルモンの分泌も絶妙な内臓の働きも、それどころか心の絶え間ない無限の変化も、霊魂なるものによって操られているということになる。だが考えてみて下さい。私たちはそうではない。私たちの体は自らで動き、自らで笑ったり、泣いたり、怒ったりしている。そんな私たちの生命が、霊魂などといったものに、生きながら踊らされている筈などないではありませんか。もうひとつの自分、ただ己れの成した悪と善だけを内蔵して、果てしない苦悩に責めさいなまれて、死んでいながらなおも存在していたもの、それは霊魂などといった曖昧《あいまい》な化物などではなく、私という人間に、怒りや悲しみや歓びや苦しみを感じさせつつ、複雑かつ微妙な肉体活動と精神活動を営ませていた「命」そのものであったのではないかと私は考えるに至ったのです。霊魂などではありません。それは色によっても形によっても、ましてや言葉などでは到底表現することの出来ぬ、生命というものであったのに違いない。私は恢復して行くに従って、病室の窓から、春の近いことを示す自然の幾つかの兆しを眺めながら、そう考えていました。  私は自分の体験したこの不思議な出来事を決して忘れることは出来ませんでした。生きて行くということが恐しくなったのです。私はこの事件では死ななかった。けれども、いつの日か間違いなく死を迎えるときが来るでしょう。棺に入れられ、火葬場に運ばれて、灰になってしまう。私は跡形もなくこの世から姿を消してしまう。けれども、私の命そのものは、自分の背負い込んだ悪と善に包まれながら、決して消滅することなくつづいて行くのだ。それは私を身震いさせました。最後の夜、腕の中に抱きしめた由加子の体臭が甦《よみがえ》り、私の言葉に、ひとつひとつ素直に頷いていた由加子の子供のような態度が目に浮かびました。俺が殺したのだ、その思いは私の心にしっかりと根を張って消えることなく、きょうまでつづいているのです。しかし、自分の命というものを見た私は、それによって変わらなければならぬ。いままでとは違った生き方をしなければならぬ。そんな考えも、傷が癒《い》えるに従って私の中に起こって来ました。私は、自分の妻をどれ程傷つけ悲しませたかも判っていました。そんな自分の妻に対する愛《いと》しさは、事件以後、逆に以前よりもさらに大きく深いものになって行きつつありました。そして、もうこの世に存在しない瀬尾由加子に対する、胸をしめつけられるような愛情も、同時に烈しく膨れあがって来たのです。  ちょうどそんなとき、あなたのお父さん、星島照孝氏から、離婚を匂わせる話がありました。それはあの方には珍しい程に遠回しに、しかも執拗《しつよう》でした。もし、私があの不思議な出来事に遭遇していなかったら、あなたさえ許してくれるならば、もう一度夫婦としてやり直させてくれとお父さんに頭を下げたことでしょう。しかし、自分は変わらなければならぬ。いままでとは違った生き方をしなければならぬという考えが、私を動かしました。退院の日が決まった夜、私は何日間かの揺れ動く心に終止符を打ち、あなたとの離婚を決めました。そして新しい人生に向かったつもりでした。  確かに、私は変わりました。それまでとは違った生き方を試みて、泥のような男に成り下がり、生活疲れを引きずった、艶《つや》のないやつれた人間になったのです。それはともあれ、私が蔵王の山小屋の一室で猫に食べられていく鼠を見ていたとき、あなたはそこからそんなに離れていないダリア園のベンチに坐って、体の不自由な息子さんと夜空の星を見つめていたのですね。もしかしたら、私も、あなたたち親子も、別々のとで別々の光景に見入りながらも、じつは同じものを目にしていたのかもしれません。何と不思議なことでしょう。そして、何とこの人生は、悲しみに満ちていることでしょう。いやそんなことは書くべきことではありませんでした。この辺で、私からの手紙は終えることにいたします。このまま書きつづけていると、つい言わずもがなのことをしたためてしまいそうです。どうかあなたこそ体に気をつけて、お元気にお過ごし下さい。モーツァルトの音楽から、あなたが何気なく感じ取ったという、あの意味深い言葉に誘われて、私は、生涯誰にも明かすつもりのなかったものを書いてしまいました。何やら、やたらひとりよがりのことをしたためたようですが、酒場女に殺されかけたぶざまな男の戯言《ざれごと》と御放念下さい。 草々    七月三十一日        有馬靖明    勝沼亜紀様 追伸  差出し人の名前、新しい御家庭を築いていらっしゃるあなたのもとに、まさか有馬靖明としたためることも出来まいと思い、女性の偽名を使いました。筆跡を御覧になれば、あなたにはすぐにそれが私であることがお判りになったことと思いますが。 前略  私は泣きました。あなたのお手紙を読みながら、溢《あふ》れ出て来る涙をどうしてもこらえることが出来ませんでした。ああ、あなたが、ドッコ沼の横にあったあの山小屋の二階から、私たちの通り過ぎるのをそっと見ていらっしゃったなんて……。そればかりか、再びドッコ沼に沿って木洩れ陽の道を帰って来る私たちを、数時間も、ずっと窓辺にたたずんで待っていらっしゃったなんて……。私には思いも寄らないことでございました。この手紙に、これからいったい何を書いたらいいのか、私には見当もつきません。見当もつかないまま便箋《びんせん》に向かって、私はまた涙ぐんでいます。亜紀は裕福で元気そうだ。どうしてあんなことをお書きになったのでございますか。確かに私は、世間の平均的な御家庭の奥さま方と比べると裕福だと言えるでしょうし、体もどこといって悪いところはありません。でもあなたは、亜紀はしあわせそうだとはお書きになりませんでした。あなたが、あえてそう書かなかったことは、私にはちゃんとわかりました。あなたは、あのとき、もうすっかり私のことを見抜いていらっしたのですね。だからこそ、数時間も窓辺にたたずみ、再び山小屋の前を帰って行くであろう私を待って、その姿を見届けられたのでございます。きっとそうに違いありません。私は泣きながらお手紙を読み進めて行き、あの不思議な出来事の部分に来て、不意を衝かれたような気持になりました。読み終えたとき、頭がぼおっとして、しばらくじっと気のしずまって行くのを待っておりました。それからもう一度、死んでいたあなたが、感じたり、見ていらっしゃったものの書かれている部分を読み返しました。何度も何度も読みました。それはもはや私の理解出来る範疇《はんちゅう》を越えておりました。あなたは自分の成した悪と善という言葉をお使いになっていましたが、その悪と善という意味すら、私にはわかることが出来ないのでございました。いったい、あなたの言う悪とは何なのでございますか? そして、善とは何なのでございますか? 私の頭では理解の及ばぬ言葉でございます。ただ、あなたが見たこともない嘘を書いているのではない、あなたは実際にこのとおりの体験をなさったのだということだけはわかりました。ですがそのことに対して、私はどんなお返事を書いたらいいのか途方に暮れてしまいます。あるいは、あのお手紙の内容に関しては、何も触れない方がいいのかもしれない。あなたが私だけに教えて下さった不思議な体験として、いまはただ心におさめておくべきなのだと考えております。私の二通の長い手紙を読んで下さっていたこと、しかも、お返事まで頂戴出来たこと、ありがたく感謝いたしております。きっとこの次もお返事を下さることでしょう。私の例の勘でございます。あなたはまた私の手紙を読んで、お返事を書いて下さる、そう思うと、なんだかとてもしあわせな、それでいてどこかに背徳の匂いのするときめきを感じてしまいます。あなたは苦笑なさることでしょう。でも、私たちの手紙のやりとりは、(もしあなたがお返事を下さるとしたらの話ですが)いつか終わらなければなりませんね。そのこと、私はよく承知いたしております。  きょうは、私、ひどく興奮していて、何から書き始めたらいいのか、どんな言葉も浮かんでまいりません。それならば少し日をおいて、気がしずまってからペンを取ればよさそうなものですが、きのう、あなたからのお返事を受け取って、もうすぐにもお手紙を出したくてたまらない思いなのでございます。これまでは、主人がアメリカに行っておりましたので、自分の時間もいつもより多く取ることが出来ましたが、帰国してからは、またもとの忙しい主婦業に戻ってしまいました。そのうえ、今朝、主人が出掛けたあと、清高が部屋に閉じこもって学校に行こうとはしないので、わけを訊《き》いてみましたが、ただ唇をつき出して、いつもの強い不満を表わす表情を崩さぬまま、ベッドの中で身を縮ませて、黙りこくっているのです。きっと学校で何かあったのでございましょう。言いたいことを充分に喋《しゃべ》ることが出来ないものですから、何かあると、そうしたやり方で私に甘えようといたします。私が厳しく叱りますと、背広に着換えて会社からのお迎えの車を待っていた父が、行きたくないなら行かなくともいい、好きなようにさせてやりなさいと口を挟みました。いつものことでございます。こんな体なのだから、なぜもっといたわってやらないのかという父と、こんな子供だからこそ、決して泣きごとを言わせたり、甘えさせてはいけないのだという私との間で、論争が起こりました。  清高の先天的な疾患がはっきりしたのは、一歳を過ぎて三ヵ月ばかりたった頃でございました。お坐りも出来ない、這おうともしない、表情に変化が少ない、周囲の物音や動きに対する反応が鈍い。私はその半年程前から、この子は少しおかしい、何か異常があるのではないかと感じておりましたが、自分の予感が当たるのが恐《こわ》くて、一日伸ばしに病院に行くのをためらっておりました。ある育児書を見ると、五ヵ月ぐらいからお坐りを始める子もいれば、八ヵ月を過ぎても出来ない子もいると書かれてあり、私は、きっと清高は他の子供と比べて、うんとおくてなのだと思い込もうとしました。けれども、一歳と三ヵ月になってもお坐りも出来ないのを見て、やはり慄然《りつぜん》とせずにはいられませんでした。お医者さまに「筋肉の硬直状態からみて、かなり軽症の部類だという気はしますが、やはり先天性の脳性マヒであることは間違いありません」と言われた日、清高を抱いて、どこをどうやって家まで辿り着いたのか覚えておりません。  夕刻、育子さんが心配顔で部屋に入って来るまで、私は清高を胸の中に抱きしめたまま、ベビーベッドの脇に正坐して、焦点の定まらぬ目を絨毯《じゅうたん》の上に落としておりました。そのときは、烈しい悲嘆と動揺に包まれて、正常な心を失なっていましたが、夜中におむつを取り換えるために起きあがったとき、ある考えが私に襲って来ました。私は何も悪いことをしていない。なのに、どうしてこんなめにあうのだろう。そして夫の寝顔を見つめました。ふいに思いも寄らなかったある考えが私の心をつらぬいたのです。もし有馬靖明という人との間に生まれた子であったとしたら、清高は五体満足な人間として生まれていたかもしれない。何と恐しい考えだったことでございましょう。自分の夫を何と侮《ぶ》蔑《べつ》した考えであったことでしょうか。でも私は真剣にそう思ったのです。清高は私と勝沼壮一郎との間に生まれた子だ。この人と結婚しなかったら、清高のような子供も産んでいなかっただろう。あなたのせいだ、有馬靖明という男のせいだ。彼が、私にこの清高という可哀そうな子供を産ませたのだ。私はそのとききっと、豆電球の仄《ほの》かな明かりの下で、鬼のような形相をしていたと思います。許さない、私は生涯、有馬靖明という人間を許しはしない。あなたのせいだ、あなたのせいだ、と私は心の中で叫びました。清高は成長とともに、はっきりとその持って生まれた疾患を私たちの前に表わし始めました。そして、それとともに、私のあなたに対する憎しみは、いっそう強固な巨大なものになっていったのでございます。  ああ、私はとても興奮しています。手が震えて、手先に力が入りません。あなたのお手紙を読んだ興奮と、かつてあなたに、自分でも恐しいと感じる程の憎悪を抱いたときの興奮とが重なり合って、何が何だかわからなくなっています。どうかお許し下さい。やっぱり今夜は筆をいったん擱《お》いた方がよさそうでございますわね。もしお返事がなくても、私はお手紙を差し上げます。また涙が出て来ました。なぜ今夜の私はこんなに涙が出るのでしょう……。いったいどうしたというのでしょう……。 かしこ    八月三日       勝沼亜紀   有馬靖明様 前略  いつもはとても達筆なあなたの字が、細かく震えて、最後に行くに従って奇妙に崩れたり歪《ゆが》んだりしているのを見て、私は長い間足を向けなかった駅裏の安酒場のカウンターに坐り、閉店の時間までひとりで酒を飲みつづけました。あんなに飲んだのは久し振りです。飲みながら、なる程三段論法からいけば、あなたに先天的な障害を持つ子供をもたらしたのは、確かにこの俺だということになるなと自嘲《じちょう》混じりの、妙に重たい心の中で思いました。そして、京都のデパートで、六階の寝具売り場にふらっと立ち寄ったことが、いや、もっとさかのぼれば、中学生のとき、両親に死に別れて緒方夫妻の養子となるべく東舞鶴の駅に降りたったことが、かくも多くの人間の運命につながっていたのかと、暗澹《あんたん》とした思いにひたらずにはいられませんでした。そうです。あなたの言うとおりです。何もかも私が招いたのです。その罰を、自分はこの十年間にわたって受けつづけて来たのだ、そう思わずにはいられない気持になって、私は自分でも気づかないくらい多量のウィスキーを喉《のど》に流し込んで行きました。酒場の、私と同じ歳のマスターが、ときおり話しかけて来ましたが、私は返事ひとつするでもなく、コップの中の液体に目を注いでいました。その安酒場に来る客といえば、やくざあがりの近所のパチンコ屋の店員とか、小さな町工場に勤めるふてくされた工員とか、定職にもつかず、そのときそのときの儲《もう》け口を漁《あさ》りながら、競輪場やボートレース場に入りびたっているチンピラたちばかりです。たまには、少しまともな人間が飲みに来てもよさそうなものなのにと感心するくらい、そういう手合の常連ばかりが、汚ない空気の中で、やたらに煙草の煙をふかしながら、マスターの若い女房に(客には隠していますが、私にはふたりが夫婦であることはひとめで察しがつくのです)ちょっかいを出したり、卑《ひ》猥《わい》な言葉を交わし合って、くだらぬ冗談に大仰な笑い声をあげ、殆どが閉店の時間まで帰って行こうとはしません。  私は以前、手紙の中で、瀬尾由加子という女について、こんな言い方をしたことがありましたね。十一月の舞鶴の海に私が放り投げられ、それにつづいて由加子も海に飛び込んだあと、私と由加子は濡れ鼠のようになって彼女の家に行った。そして、服を着換えて二階の由加子の部屋で小さなコンロを挟んで向かい合ったとき、彼女はとても十四歳の少女とは思えぬ媚《び》態《たい》で、私に頬をすり寄せ、唇を這わせた。そう書いたあと、確か私はこんな言葉をつけ足した筈です。十四歳にして、何のためらいもなく、男にそのようにふるまえることが、瀬尾由加子という人間の持っていたひとつの業と言えるのではないかと。私は酔いの深まっていく頭で、その自分の書いた文章を思い出していました。自分で書いておきながら、しからばいったい業とは何であろう。私は長い間、考えにひたりました。由加子の体の感触を、私は自分の心のあちこちに感じました。そうしているうちに、ふと、私はあの、死んでいる自分を見つめていたもうひとつの自分に、がっしりとまとわりついて離れて行こうとしなかった「あるもの」の正体が何であったのか、おぼろげに判り始めたような気がして来ました。己れの成したすべての行為と、そればかりではなく、行動にあらわさぬまでも、心に抱いただけにしか過ぎない恨みや怒りや慈しみや愚かさなどの結晶が、命そのものにくっきりと刻み込まれ、決して消えることのない烙印《らくいん》と化して、死の世界に移行した私を打擲《ちょうちゃく》していたのではあるまいか。そして、その思いは、由加子を思い浮かべることによって一瞬心をよぎった業という言葉とどこかでつながって行く気がしたのです。なぜつながって行くのかも判らぬまま、私には確かにそれらがどこか一点でつながり合って行くように思えたのでした。しかし、次第に私は泥酔して行き、酒場の紫色の安っぽい照明の光と、並べられたウィスキーの壜《びん》とが混ざり合ってぐるぐると廻り始め、息が苦しくなってきました。どのくらい時間がたったのかも判りません。うしろから肩を揺すられて、私は朦朧《もうろう》とした頭でその方を見すえました。女が立っていました。一緒に暮らしている令子という女が、心配して私を迎えに来たのでした。令子は、酒場の主人に金を払っているようでしたが、私はふらつく足でドアをあけ、表に出て歩き始めました。犬が道端に立っていました。自分はあの犬よりも劣っていると思いました。終電車から降りて来る人間たちのまばらな一群が私を追い越して、それぞれの方向に消えて行きました。どの人間も、私よりましな人間だと思いました。蔵王のドッコ沼の山小屋の二階から見たあなたと息子さんの姿が思い出され、私は自分をドブにうち捨てられた破れ靴みたいな男だと思いました。令子は、私から少し離れて、黙ってついて来ていました。舌も廻らぬ程酔ってはいましたが、私は正気を失なっていたわけではありません。しかし歩いているうちに胸が悪くなってきて、道端に鼻面をすりつけるようにして胃の中の物を出しました。令子は私の背を撫《な》でて、アパートに帰ったら、冷たい濡れタオルで体を拭いてあげると言いました。私は、お前なんか嫌いだと令子に言って、彼女の体を振り程くと、さもにくにくしげに言葉を投げつけました。こんな男に尽くしているということが、お前を楽しませていることくらい、俺にはちゃんと判っているのだ。心配顔で酒場まで迎えに来て、こちらが頼みもしないうちにそっと代金を支払い、何歩かの間隔をあけてついて来て、いかにも今はそっとしといてあげようというふうを装って自分だけのお芝居の中で何を演じているつもりなのだ。俺が吐いたのはおあつらえ向きの出来事だったことだろう。背中を撫でさすり、アパートに帰ったら冷たい濡れタオルで体を拭いてあげる……。お前は自分の貞淑さと気立ての優しさに、喋りながらうっとりとしていただろう。だが俺はお前なんか嫌いだ。愛情なんて感じていない。今すぐ別れても、俺は痛くも痒《かゆ》くもないのだ。令子は、何も悪いことをしていない子供が突然いわれのない理由から教師に叱責《しっせき》されて困惑しているような、あどけなさと情なさとが入り混じった顔で、ぽかんと私の顔を見ていました。それから、いやにあっけらかんとした口調で、こう言いました。「うち、あんたと結婚してもらおうなんて、思てへん……」。じゃあ別れよう。俺はあしたお前のアパートから出て行く。私は変にどぎまぎしながらそう言い返しました。令子は二十八歳ですが、一年前に私と知り合いました。令子には、私が初めての男でした。二十七歳まで男を知らなかったこの女は、高校を卒業すると大手のスーパーマーケットに勤めて、きょうまで休日以外は毎日スーパーの勘定台に立ち、客の買った品の商品番号と値段を機械に打ち込みつづけて来ました。十年近く、ただそれだけをやりつづけて来て、いまの楽しみといえば、定休日である木曜日に、弁当を作ってむりやり私を誘ってピクニックに行くことぐらいで、料理に凝るわけでもなく、金を貯めてハワイやグアムに行こうと考えるでもなく、着る物に金をかけるわけでもありません。小柄で、色が幼女のそれみたいに白くて、二重の丸い目の動きにいまだに思春期の少女のような清潔感が残っているのと、余計なことをぺらぺら喋らず、ときにその重い口にこちらがいらいらするくらいに無口な点が取り柄と言えば取り柄の女に過ぎません。六人姉弟の上から二番目で、姉はどこかの安月給取りと平凡な家庭をもっていますが、弟ふたりは高校を卒業してから進学も働きもせず、数ヵ月も家に帰らなかったり、帰って来ても親の金をかすめ盗《と》ってまた出奔するといった具合で、どうにも頼りにならない存在です。あとのふたりの妹は、どちらもまだ高校生なのに、殆ど学校にも行かず、そぐわない化粧をして盛り場をほっつき歩いています。父親は大工ですが、仕事中に腰の骨を痛めてから、まともに働けない体になってしまいました。もう十二、三年も前のことだそうですが、それ以来、収入も途絶えて、町工場に勤める妻の乏しい収入と一番上の姉娘と令子とが月々に送ってくれるわずかな金をあてにしています。これはみんな令子から聞かされた話で、私は、令子の姉弟にも両親にも一度も逢ったことはありません。  アパートに帰り着くと、私は裸になって令子が敷いてくれていた蒲団に倒れ込みました。そして、暑いのでクーラーを入れてくれと頼みました。酔った体にクーラーの冷気は毒だからと、令子は洗面器に水を入れ、冷蔵庫から氷を出すと、冷たい氷水を作ってタオルをひたし、固く絞って私の体を拭き始めました。額、顔、耳のうしろ、首筋、胸から腹、そして背中と、令子は無言のまま何遍も冷たいタオルで私の体をぬぐいました。ひととおり拭き終えると、令子は正坐したままいつまでも裸の私を見おろしていましたが、やがて指先で私の首の傷と胸の傷とに触れました。私はその自分の体の傷跡について、ひとことも令子に喋ったことはありませんでした。令子もこちらが気味悪く思う程、傷跡について質問しようとはしてこなかったのです。ですから、令子が自分の指で、私の傷の跡にそうやってあからさまに触れて来たのは、その日が初めてのことでした。タオルで拭いてもらっている間は気持がよかったのですが、終わるとかえって前よりも体が火照《ほて》って来ました。私はもう一度拭いてくれ、とても気持がよかったと言いました。令子はまたさっきと同じことをしてくれました。私は体を拭いてくれている令子に、もう遅いから寝ようと言いました。時計の針は午前二時をさしていて、令子は朝は七時前に起きて朝食の支度をし、八時半に出て行くのです。「うち、あしたはもう会社に行けへん……」と令子はしょんぼりした声で答え、またじっと私の首の傷に目を注いできました。有給休暇がいっぱい溜《た》まっているから、二、三日休んでも支障はないのだとのことでした。しかし、令子が定休日以外、たとえ有給休暇にせよ休みを取るのは、私と暮らすようになって初めてであるのに気づき、私はさっきの自分の心ない言葉が、令子をひどく哀しませたのだろうと思いました。私は令子にもう一度、別れようと言って、目をつむりました。俺は由加子にされたことを、今夜また令子にされるかもしれないなとぼんやり思いながら、目をつむっていました。不思議なことではないか。俺は十年前と比べてこんなにも変わったのに、結局十年前と同じことをしている。そう思っていました。なぜか静かな、ゆったりとした気分でした。令子は部屋の明かりを消し、パジャマに着換えて、私の横に自分の蒲団を敷くと、腹《はら》這《ば》いになって寝転がり、顔だけ私に向けました。そして、最初はぼそぼそと聞き取りにくい声で、それから次第次第に熱を帯びた雄弁さで、こんな話を始めたのです。  自分の祖母は、七十五歳で死んだ。自分が十八歳のときだった。一番下の妹はまだ幼稚園に入る前の頃だったと記憶している。雨の降るとても寒い日にお葬式をしたことも覚えている。他の姉や弟と違って、自分は近所の人にからかわれるくらいのお婆ちゃん子で、祖母もなぜか特別に自分を可愛がってくれたような気がする。祖母はいつも着物を着ているときは袖口のところに、エプロンを着ているときはポケットに、自分の左手を隠していた。生まれつき、祖母には左手の小指がなかったからだ。生まれつき、左手の指が四本しかないという珍しい奇形だった。そのため、小さいときから、近所の子供仲間によくいじめられたそうだ。祖母は五人の男の子を生んだが、そのうちの四人までを戦争で喪《うし》なった。四人は、ビルマ、サイパン、レイテ、フィリピンと、それぞれ違った場所で、殆ど時を同じくして戦死した。それもみなもうあとひと月もすれば戦争が終わるという頃だった。祖母はまだ幼い自分を前に坐らせて、息子たちの戦死の報《しら》せが、日を置かずして次々と舞い込むたびに、どんなに泣いたかを話して聞かせた。どんな話をしていても、最後は必ず、その話になってしまうのだった。自分はもしかしたら、小さいとき、他の姉弟と比べると、とても聞き上手な子供だったのかもしれない。祖母が何度同じ話をしても、自分は一度もいやな顔もせず、自分の片方の耳たぶを親指と人差し指で挟んで軽く揉《も》みながら、いつまでも聞き入っていたものだ。耳たぶを揉むのは、自分の小さいときからの癖で、そのためいつもどちらかの耳が赤く充血して火照っていた。いまでも、ときおり仕事をしているときなどに、片手で機械のボタンを押しながら、もう一方の手で耳たぶを揉んでいるときがあって、それに気づいて慌ててその手を引っ込めたりする。  祖母は話の終わりに、きまって自分の奇形の左手を見せた。そして、戦場から遠く離れた安全な場所で、人々を戦争に駆り出していた偉い人たちは、今度生まれて来るときは、どれもみな人間になることは出来ないに違いないよと言った。戦争に勝った国の偉い人も、負けた国の偉い人もそれは同じだ。蛇やミミズやゲジゲジなどの、人からうとんじられる生き物に生まれるに違いない。よしんば、たまたま人間に生まれることがあっても、きっと人々を死に追いやった罪によって、相応の報いを受け、不幸で短命な人生をおくることになるだろう。そう言うときの祖母の顔は、いつも、きゅっとひきしまって、子供心にもとても毅然としたものに映ったように思える。祖母は、人間は死んでも必ずいつかまた生まれて来ると信じていたようだ。その証拠にと、幼い自分に生まれついて四本しかない左手の指を示すのだった。この気味の悪い手を見ろと祖母は言った。なぜそんな話をしたあと、自分の奇形の手をまじまじと見つめさせたのか、いまでも判らないが、祖母は、この指が私に一つのことを気づかせてくれたと言うのだった。  ……べつに確たる理由があってそう気づいたのではない。兵隊に駆り出された四人の息子たちが、遠い南方の地で次々と死んでいったあと、すぐに終戦を迎え、そして一年近くたち、私は五十一になろうとしていた。私の息子たちはなぜ三十にもならないうちに、死ななければならなかったのだろうと考えながら、焼け野原の暑い大阪の町のどこかを歩いていて、ふと考えたのだ。私はもしかしたら、あの死んだ息子たちと、またどこかで逢えるかもしれない、いや、きっと逢えるに違いない。それも来世にではない、この今世に、またあの可愛い息子たちのうちの三人に逢えるだろう。そう思うと、たとえようのない歓びを感じて涙を流し、たとえようのない哀しみも感じて涙を流した。私は自分の四本しかない指をモンペのポケットから出して、陽にかざしてみた。私は立ちつくしたまま、その気味の悪い手をどれ程長い間見つめていたかしれない。それは、自分でもぞっとする程醜くて恐しかった。けれどもその醜さと恐しさのかたまりみたいな、生まれつき四本の指しかない手が、なぜか、きっとこの世でもう一度息子たちと逢えるに違いないということを気づかせてくれたのだ。  いつもいつも聞かされてきた、自分にとってはおとぎ話みたいなものだったが、自分は祖母の前に正坐して向かい合ったまま、祖母が話し疲れて口をつぐんでしまうまで、ずっと耳たぶを揉みながら聞いてやったものだ。そして聞いていながら、いつも不思議に思うことがひとつあった。お婆ちゃんは四人の息子に戦争で死なれた筈なのに、どうしてこの世でまた逢えると信じている息子たちの数が四人ではなく三人なのだろうということだった。けれども私はそのことには触れずに、黙って聞いているのが常だった。祖母は話し終えるとき、それが結びの決まり文句のように、命を奪うことが最も悪いことだ。人の命だけでなく、自分で自分の命を絶つことも同じなのだ。この世にはいっぱい悪いこと、してはいけないことがある。けれども、このふたつが、一番恐しい悪いことなのだよ、とさとすのだった。祖母が、なぜそんなことを言ったのかを、自分はそれから何年かたった高校生のときに知った。祖母が亡くなる少し前のことだ。祖母は、四人の息子たちが、すべて戦死したと言ったが、じつはそうではなかった。ひとつだけ祖母の話には嘘が混じっていたことを、自分は父の口から教えられた。他の三人は確かに戦死したのだが、ビルマにいた上から二番目の賢介という名の息子は、飢餓とマラリアの熱とで戦友が何人も次から次へと死んでいくのを見て、ある日、森林の奥に入って行き、首を吊《つ》ったのだった。戦死の報せは、軍部の嘘で、祖母はそのことを、ビルマから復員して来た男から聞かされた。男は賢介の遺骨を小さな四角い紙の箱に入れ、遺品である眼鏡と、ぼろぼろになった手帳を持って訪れた。祖母は賢介が、敵の弾に当たって死んだのではなく、自殺したのだという話を、まっ青な顔をして聞いていたそうだ。手帳の中には、ただひとこと、こう書かれてあった。「ぼくはしあわせではなかった」。祖母の葬儀の日、骨揚げも終わり、遠方からやって来た親戚《しんせき》たちにささやかな料理を出すため、母と自分は狭い台所と座敷との間を行ったり来たりしていた。ふと自分は、祖母に幼い頃よく聞かされた例の話を思い出した。そしてこんなことを考えていた。祖母は生きているとき、どこかで、再び生まれて来た息子たちに逢ったと感じたことがあったのだろうか。この世で、またきっと逢えるに違いないと信じていた祖母は、息子たちに逢えたのだろうか。自分は、お酒やビールを運びながら、祖母はそんなことは感じることなく死んでいったことだろうと思った。だがとてもおかしなことだけれど、そう思いながら自分は、やっぱり祖母は死んだ息子たちと、生前どこかで逢っていたのではないだろうかという気がした。祖母もこの人間が死んだ息子だとは気づかぬまま、相手も祖母をかつての自分の母だとは気づかぬまま、どこかでたとえ一瞬にせよ顔を合わせたときを持ったのではなかろうか。そう思いながら、自分は何か深い歓びとも哀しみともつかない激情に包まれて泣きだしそうになった。きっとお通夜と、それにつづく葬儀の疲れが、自分の心を、いつもと違った感傷的な、繊細なものにさせていたのだと思う。そして自分は、祖母がこの世で再び逢えるに違いない息子の数を四人と言わず、三人と言っていた意味が理解出来た。祖母は、自殺した賢介という息子とだけは、決して逢えないと思っていたのだ。なぜなら祖母は、賢介は自分で自分の命を絶ったのだから、二度と人間に生まれて来ることはないと信じていたからだ。自分は、祖母の心が判るような気がした。四人の息子たちは、みんな間違いなく祖母の子供だった。みんな可愛い自分の子だった。そして戦争につれて行かれて誰ひとり帰ってはこなかった。けれども、その四人の中でも、賢介という、戦死したのではなく、ビルマのジャングルの中で首を吊った息子に、じつは一番逢いたかったのではあるまいか。最も愛《いと》しく、最も不《ふ》憫《びん》な子として、祖母は賢介という子を生涯心の中で抱きしめつづけていたのではなかったろうか。  要約すれば、令子はそのような話を喋りつづけ、喋り終えると私の腋《わき》の下に顔を埋めてきました。私は驚いて、思わず令子の肩を抱きました。そんなにひとりで喋りつづけたことも、そんなふうにして自分から身を寄せて来たことも、初めてのことだったからです。私はそれでもまだ素っ気ない口振りで、いったいそんな話をして、俺に何が言いたかったのだと訊きました。令子はいかにも喋り疲れたというふうに、深い息を吐いてから、こう言いました。「うち、あんたが死んでしまいそうな気がするねん」。俺がなぜ死ぬのかと、私はまたぶっきらぼうに訊きました。令子は何か言いかけた言葉を口の中にとどめると、そのまま黙り込んでしまいました。そんな年寄りのおとぎ話を俺に聞かせて、どうしようというのだ。そう思いながら私は目を閉じましたが、生まれつき指が一本足らなかったという令子の祖母の左手が、あたかも実際に見たもののように目先にちらつき、賢介という、ビルマの森林で自害して果てた青年が書き残した「ぼくはしあわせではなかった」という言葉が、心の中で繰り返されてどうにも眠れそうにないのです。私は令子にパジャマを脱ぐようにと囁《ささや》きました。私は蒲団の上に起きあがり、言われるまま裸になった令子に、彼女が最も恥しがる姿勢をとらせると、好き放題な扱いをして、自分の中に溜まっていたものをそそくさと絞り出し、すぐに体を離して蒲団に倒れ込みました。そして、わざとらしい寝息をたてて背を向けていました。しばらくすると、また令子が話しかけて来ました。「うち、ええこと考えてん」。そう言って、私の背中に頬をすり寄せるのです。私は知らぬふりをしていました。酔い醒《ざ》めの不快な気分がつのって来て、早く眠ってしまいたかったのです。令子はまた小声で言いました。「お婆ちゃん、なんで四人の息子のうちのひとりが、戦死やのうて、自殺したんやということを、うちに言えへんかったんやろ」。私もなぜだろうと思いましたが、返事をする気はありませんでした。私にはどうでもいいことだったからです。そのうち、私は眠ってしまいました。  あくる朝、遅くに目を醒ますと、令子は台所にある小さなテーブルの上に紙を何枚も拡げて、何か書き込んだり、考え込んだりしていました。何をしているのかと訊くと、昨夜と同じように、「うち、ええこと考えてん」と答えて、令子は笑い返しました。私は顔を洗ってから、令子の向かい側に腰を降ろし、煙草に火をつけて寝起きの一服を喫いました。令子は、紙きれの上にいっぱい細かな数字を書き入れたり、長方形の線を引いて、その中に字を書き込んだりしているのです。「うち、貯金、なんぼあると思う?」と令子は紙きれに視線を注いだまま私に尋ねました。私は、本当は彼女の洋服ダンスの奥にしまい込んである貯金通帳を内緒で見たことがあったのですが、知らないと答えて、冷たい麦茶をいれてくれと頼みました。いつもは、すぐにそうしてくれるのに、令子は紙きれに目を落としたまま、冷蔵庫を指差し、中に入っているから自分でコップについでくれと言いました。仕方なく、私は冷蔵庫をあけました。すると令子は「三百二十万円あるねんで」。そう言ってから、やっと顔をあげ私を見つめながら、「他に定期預金が百万円。来月の三日に満期になるねん」と嬉しそうな、どこかにたくらみを隠しているような表情で微笑《ほほえ》みました。父親への仕送りの分がなかったら、もっと貯まっていた筈だったが、自分と姉が見てやらなければ、母の収入だけでは暮らして行けない。だから仕方がなかったのだと、なんだか申し訳なさそうに説明するのです。まるで俺のために金を貯めたみたいな言い方だなと私が呟《つぶや》くと、令子は、そんなつもりではなかったと、いやにむきになって言い返しました。私が冗談だと笑うと、「あんたと知り合うたん、一年前やもん……。一年間で四百二十万も貯まる筈ないやんか」。そう答えて、かすかな笑みを含んだ丸い目で、自分が考えついたという商売の件を切り出したのです。その商売を、令子は行きつけの美容院で思いついたのだと言いました。最近は美容院も過当競争で、ひとつの町に五軒か六軒、ひどいところになると十軒近くも店を出して張り合っている。そのため、それぞれの店は、新しい技術の習得や客へのサービスに努めているが、一番頭を痛めているのが宣伝の仕方だ。自分の行く美容院では、お客に店の月報みたいな物を作って渡している。けれども、何万部も印刷するわけではないから、一部のコストが高くつき、しかも毎月となると面倒で、最近はどこかの小さなデザインスタジオに頼んで作ってもらうようになった。でもそうしていると、こんどはますます制作費が高くつくようになってしまって困っている。その話を美容院の主人から聞いて、自分はあることを思いついたのだ。令子はそこまで説明してから、私に紙きれに書き込んだものを見せました。それは、一枚の紙を二つ折りにしてあって言わば客にサービスと宣伝をかねて渡す店のPR誌みたいなもので、一頁目の上に四角い囲みがあり、中に店名と経営者の名前、それに店の住所と電話番号が書き込んでありました。その横にPR誌の名前が大きく入れてあり、それはまだ仮の名前で正式には決めていないとのことでした。一頁目にはそれ以外に、その月々の季節を代表する花の写真とかを載せるのだと令子は言いました。そして二つ折りの紙を開いて、二頁目と三頁目を見せました。そこには例えば、家庭で出来る正しいシャンプーの仕方とか、肌の手入れの方法とか、珍しい料理の作り方とか、流行の髪型の紹介とかをして、裏の四頁目にさて何を載せるか思案中だと言いました。令子は目を輝かせて、表紙の上にある四角い囲みをボールペンの先でつつきながら、ここがミソなのだと身を乗り出して来ました。他の部分は同じだが、この四角い囲みの店名やら経営者の名前やらを、それぞれの店のものに変えるのだということでした。私は黙って令子の話を訊いていました。令子は話をつづけました。この間、近くの小さな印刷屋に行って、一部幾らで作れるものかを訊いてみた。すると、部数を三万部刷ることが出来れば、二色刷りで一部七円か八円で作ってあげようと言ってくれた。一軒の店に二百部をワンセットとして四千円で売るとすれば、三万部なら百五十軒の得意先を得ることで、商売になる。一部を二十円として月に四千円の広告費で、自分の店の名や電話番号や、その他それぞれの美容院の望む文章の入った、きれいなPR誌が出来るということになるのだから、美容院にとってもありがたいことだ。そして百五十軒で売り上げが六十万円。印刷費が七円として二十一万円。いろいろな必要経費を差し引いても半分の三十万円が儲《もう》かるではないか。令子の説明は、ざっとそのようなものでした。私は一回ではよく判らなかったので、もう一回説明してくれと言いました。令子はさっきよりも一層熱のこもった口調で説明を繰り返しました。私は、その四角い囲みの中の文字はどうやって刷り替えるのかと訊きました。三万部の印刷物を、それぞれ店の註文数に応じて、百五十回も凸版を作り直さねばならないではないかと思ったのです。そんなことをしていたら、一部七円や八円では出来ない筈です。令子はそうではないのだと言いました。四角い部分は、最初は空白のままにしておき三万部まとめて一挙に印刷してしまい、あとは四角い部分だけの凸版をそれぞれ作っておいて、刷り上がった三万部の紙の空白にもう一度、二百部ずつそこだけ刷り込んで行くのだと答えました。そんなことが出来るのかと私が訊くと、令子は、そんな作業は簡単なことだと印刷屋の主人がうけあってくれた、そう答えて笑いました。しかし、どの美容院も、一部二十円の安い広告代で済むとしたって、あっちでもこっちでも同じ内容のPR誌が出廻ってしまうとなったら、二の足を踏むだろう。中味は一緒で、ただ表紙に刷り込んだ店名や電話番号やらが違うだけの既製品だと判れば、客も興味を示さないのではないか。私は令子にそう言いました。だから、一地域に一軒しか契約しないシステムを厳守するのだ。ひとつの店と契約したら、その店の縄張りの範囲では、絶対他の店とは契約しないというのが、この商売の目玉なのだ。令子はいやに自信ありげにそう答えました。そして、すでにもう十八軒の美容院が、申し込んで来たと言いました。令子は私の知らない間に、手作りの粗末な見本を作って、行きつけの美容院の女主人と交渉したと言うのです。すると相手はえらく乗り気になって、一部二十円の広告費で毎月内容の違うPR誌が作れるのなら、契約させてもらうと答え、あげくは京都や神戸で店を開いている友人の同業者にまで勧めてくれたということでした。その友人が、また別の地域の同業者に宣伝してくれ、あっという間に十八軒の契約が決まったと言うのです。私は、しかしまだたったの十八軒ではないか、三万部刷って、十八軒しか契約してくれなかったら、残りの二万六千四百部はどうなるのだ、印刷屋に二十一万払って、入って来る金は七万二千円ではないか、と言いました。令子は貯金通帳と、もうすぐ満期になる定期預金の証書をテーブルに並べ、最初は赤字がつづくだろう。でも五十軒に増えたら、とんとんになり、百五十軒に増えたら三十万儲かるようになる。うんと頑張って三百軒の店と契約出来たら、月々六十万円の収入を得る勘定だ。そうなったら、東京や名古屋や、もっと地方にも拡げて行こう。千軒になったら、千五百軒になったら、と令子の話はどんどん大きくなって行きました。私は、一地域一軒と限定すれば、数が増えるに従って範囲も拡がって行く。どうやって、契約してくれる店をみつけるのかと訊きました。令子は「あんたが歩いて外交に廻るねん」。そうあっさりと言うではありませんか。私はしばらく、ぽかんと令子を見ていました。PR誌の中味の毎月の企画は誰が考えるのだ。私はあっけにとられたまま質問しました。「それも、あんたがするねん」。令子は私の顔を見て、両手で口元を押さえて、くすくす笑いました。とにかく珈琲《コーヒー》をいれてくれ。それからパンも焼いてくれ。俺はまだ朝飯を食ってないのだ。私の言葉で、やっと令子は立ちあがりました。こいつ、気が変になったのではないか、私はそう思って何やら気味悪くなってきました。話の内容が突飛だったというだけではありません。知り合って一年の間、令子は一度も自分の考えや感情を私に訴えるようなことはありませんでした。何を考えているのか判らない、ただ無口で気立ての優しさだけが目立つ、たいして美人でもなく、たいして頭もいいとは言えない女だと私は思っていたからです。それが昨晩の雄弁さといい、今朝の話といい、まるで人が違ったとしか言いようがありませんでした。  令子は、パンを頬張っている私の顔を、丸い黒目勝ちの目で窺《うかが》っていました。私は、「きのう、俺は別れようと言うた筈やぞ」と冷たく言い放ちました。令子は目を私の胸のあたりにそらし、指で自分の耳たぶをしきりに揉み始め、そうしながら「うち、別れるなんて、言わんといて欲しいねん……」と言いました。言い終わらないうちから、もう令子は涙を流していました。「うちと別れて、どないするのん?」と訊《き》くので、私はそれからのことは考えていないと答えました。私は、令子が泣いたことですっかり満足していました。私はまだ当分、令子と別れる気はなかったからです。情ないことですが、令子と別れたら、私はもうあしたから食って行くことが出来ないのです。私は、別れたくないという言葉を令子の口から聞きたくて、きのうもきょうも、別れよう、別れようと彼女をいじめていたのでした。  自分には、もう新しい商売に手を出してみようという気はまったくないのだと、私は令子に言いました。どんなうまい商売も、俺が手を染めることで、みんな駄目になってしまう。いままで、ずっとそうだった。もう商売なんてこりごりだ。俺には死神みたいなものが憑《つ》いているのだ。やりたいのなら、お前ひとりでやれ。何と勝手な言い草かと自分でも呆《あき》れながら、私は令子の濡れた丸い目を見ていました。自分は何もせず、まだ当分女に養ってもらおうというのですから、落ちるところまで落ちたものだと思いました。  私たちは昼過ぎにアパートを出ると、近所の喫茶店に行きました。それまでしょんぼりしていた令子が、あなたに働けとは言わないから、そのかわり、少しだけ自分のやることを手伝ってくれと言い出しました。まず、外交に廻るには、ちゃんとした見本を作らなければならない。それには、すでに決まっている十八軒の店に配るPR誌を制作することが先決だ。でも自分には、二頁目にどんな記事を入れたらいいのか、三頁目にどんな話題を載せたらいいのか、裏の四頁目はどうしたらいいのか考えつかない。だから、今回だけ、それをあなたに考えてもらいたい。それから、商売となれば会社の名前もつけなくてはならないだろうし、説明書や、近畿一円の美容院に送るダイレクトメールも必要だ。どうか、それだけは手伝ってくれないか。令子はそう言って手を合わせました。私は、つまらないことに手を出して、せっかく貯めた四百二十万円を失なってもかまわないのかと、うんざりした気分で言いました。令子は、こう言いました。「うち、絶対、うまいこと行くと思うねん。もし、あかんかったら、またスーパーで働いたらええんやろ?」。  とにかく、十八軒の店とは契約してしまったのだ。だから今月の末には納品しなければならないとのことでした。その日は八月の五日でした。印刷屋は、十日までに、ちゃんとした原稿やら写真やらを揃《そろ》えて欲しいと言ったそうでした。あと五日しかないではないか。私はたった五日で、そんなやったこともないPR誌の編集など出来るものかと思いましたが、令子の思いつめたような必死な表情を見て、つい、うっかりと、これ一回きりだぞと答えてしまったのです。四年程前、私は中堅の印刷会社に勤めたことがありました。三ヵ月で辞めてしまったのですが、営業マンとして一度だけ、心斎橋筋にある老舗《しにせ》の和菓子屋のPR誌を担当したことがあり、何とか体裁を整えることぐらいは出来そうな気もしました。しかしそれは会社のデザイナーやコピーライターが作ったのであって、私が直接手を加えたというわけではありません。令子の顔が、ぱあっと明るくなり、そそくさと喫茶店を出ると、駅前の本屋に私をつれて行き、何でもいいから、PR誌を作るのに必要だと思われそうな本を買えと言いました。そして私が本を物色している間に文房具屋に行って、何枚かのケント紙、定規、コンパス、接着剤、消しゴムといった、思いつくあらゆる道具を買い込んで来ました。私はまず「家庭で出来る指圧のコツ」という本を取り、次に「家庭菜園」という本を選びました。それから「おもしろ雑学百科」というぶ厚い本、「冠婚葬祭の手引き」、それに月刊の美容雑誌を二種類買いました。もうやけくそです。五日間で、やったこともないPR誌の編集を、それも各美容院の経営者が気に入ってくれてこれからも長くつづけて取ってくれるものを作らなければならなくなったのですから。だから、この手紙はこの辺で終わらなくてはなりません。令子はずっと会社を休んで、美容院に行ったり、印刷屋に行ったりして、一日中走り廻っています。私はこれから、いよいよそのPR誌を作り始めるわけです。この三日間、あなたに手紙を書いていたので、あと二日しかありません。しかし、一年間、面倒を見てもらったのですから、まあこのくらいのお返しは、令子にしてやってもよさそうです。いま、私の前には、買い込んで来た何冊かの本と、表紙に使えそうな風景写真、そしてエンピツ、定規、ケント紙などが並んでいます。風景写真は、あなたとの新婚旅行で、田沢湖畔を写したものです。どういうわけか、私の持ち物の中に、それが一枚入っていたのです。何が、いったい何に役立つのか、まったく判らないものですね。あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだり、脈絡のない手紙になってしまったように思いましたが、読み返してみると、あなたの手紙を受け取ってから今日までのほんの数日間の出来事が、ほぼ正確に記されていると言えそうです。 草々    八月八日       有馬靖明   勝沼亜紀様 前略  あなたから届いた手紙を郵便受けから取り出して、台所にいた私に手渡してくれた育子さんが、奥様にはこんな可愛らしいお名前のお友だちがいらっしゃったのかと、吹き出しそうにして言いました。差出し人の名前を見て、私も笑ってしまいました。だって花園あやめとしたためられてあったのですもの。これではまるで、宝塚歌劇のスターの名前みたいではありませんか。前のお手紙では山田花子という名前をお使いになりました。もう少し工夫していただかないと、そのうち、家の者に怪しまれてしまいますわよ。  私、あなたのお手紙、夜遅くに、主人も清高も、みんな寝てしまってから封を切りました。そしていつか、あなたにこう書いたことを思い出しました。あなたが舞鶴での、瀬尾由加子さんとの邂逅《かいこう》を、ぬけぬけとおしたためになった手紙を読んで、それに対するお返事を出した際のことです。私はあなたに、瀬尾由加子さんとのいきさつを、最後までちゃんと書いてくれ、私には知る権利がある、そう詰め寄ってから、あなたのロマンチックなお話の顛末《てんまつ》を教えてもらわなければおさまりがつかない気分だと怒りを込めて書いたことを思いだしたのです。(だって私、あのお手紙を読んで、本当にかっとして、手紙を破りたくなったくらいですもの)。でも、もうそんなことどうでもよくなってしまいました。あなたからの三通目のお手紙、あの不思議な体験をお書きになっているお手紙には、読み返してみると、ちゃんと瀬尾由加子さんとのことがしたためられてあることに気づいたのでございます。あなたは、瀬尾由加子さんとの最後の夜のことを簡単にお書きになっただけですが、私は先日もう一度読み返して、その中に、決して語られてはいないけれど、瀬尾由加子さんとあなたとの、再会からあの事件に到るまでのすべてが暗示されているように思えました。私にはそれで充分でございました。「あなたはいつも自分の家庭に帰って行く」。あの瀬尾由加子さんの言葉が、私の体の奥深くにひそんでいたこり《・・》のようなものを揉みほぐしてくれたようでございます。私は、瀬尾由加子という女性に対して、何かしら愛情に似たものを感じました。愛情という言葉は不適当かもしれません。自分の夫を奪った女性ではありますが、私は同じ女性として、あの方をいたわってあげたいような、静かで平穏な気持を抱いて向かい合えるような気がいたしました。いま、私は瀬尾由加子という女性を、もう二度と帰ってこない、とても懐しい人のように感じるときがあります。なのに、心の奥深いところには、なお執念深く、嫉妬《しっと》が居坐りつづけているのです。そして、あなたが一緒に暮らしていらっしゃる令子さんが語ったという、あのお婆さまの話が、なぜか決しておとぎ話などではなく、真実あり得る話として胸に迫ってまいりました。私は、令子さんのお婆さまの言うように、他人の、あるいは自分の生命を奪った者は二度と人間として生を受けることはないという話が、あるひとつの恐しい真実であるような気がいたしました。なぜ私には、そんなおとぎ話のようなものが、まぎれもなく真実であるかのように思えるのか、自分でも不思議に感じられて仕方がありませんでした。お風呂につかっているときや、庭木に水を撒《ま》いている夕暮どきに、私は、なぜだろう、なぜあのお婆さまの言葉がこんなにも心に迫って来るのだろうと考えました。そして私はふと気がついたのでございます。私が、清高という子の母だったからでございました。清高も、形は違っていても、あのお婆さまと同じ、生まれついての奇形と言っていいでしょう。軽度ではあっても、間違いなく清高はそういう不幸を背負って生を受けました。なぜそんな不幸を背負って、私の子供は生まれなくてはならなかったのか、なぜあのお婆さまには指が四本しかなかったのか、なぜあの人は黒人に生まれたのか、なぜあの人は日本人に生まれたのか、なぜ蛇には手足がないのか、なぜカラスは黒く、白鳥は白いのか、なぜある人は健康に恵まれ、ある人は病弱に悩まされるのか、なぜある人は美人に生まれ、ある人は醜く生まれるのか……。清高という人間を生んだ母として、私は、この世界に厳として存在している理不尽な不公平や差別の、本当の原因を知りたいと思いました。でも幾ら考えてみても詮《せん》ないことでございましょう。詮ないことではございますが、あなたのお手紙を拝見しながら、私は深い物思いに沈みました。あのお婆さまの語った話が、一笑にふすおとぎ話ではなく、もし真実だったとすれば……。  あなたは、瀬尾由加子さんについて触れたとき、業という言葉をお使いになりましたね。そして、それはなぜか、あの死んでいる自分を見つめていたもうひとつの自分にがっしりとまとわりついて離れて行こうとしなかった悪と善との結晶とに、どこかでつながって行く気がしたとお書きになりました。ああ、何が何だかわからなくなってしまいました。少し、自分の心の中を整理してみることにいたします。そう、そのためには、これまで一度も書かなかった、私と勝沼壮一郎との夫婦としての関係に触れなければなりません。勝沼は、お酒も飲まず、ゴルフやテニスなどのスポーツにも興味を示さず、賭《か》け事も碁や将棋も知らない人で、ましてモーツァルトの音楽などは、ただのうるさい雑音としか感じない人でございます。私は、歴史に関する難しい文献だけが、あの人にとって心を動かされるただひとつのものだと思っておりました。勝沼は結婚して三年目、清高が生まれて一年目に大学の講師から助教授になりました。それまでにも大学の学生さんたちが、ときおり遊びに来ることがありましたが、助教授になると、その数が急に増えました。男の学生もいれば、女の学生もいました。殆どが彼の担当するゼミを受講している学生さんたちで、その中に、背の高い痩《や》せぎすな、少し冷たい感じを与える美しい女子大生がいました。いつもわざとつんとして、自分の美貌を鼻にかけているようで、私はあまり好感を持っておりませんでした。ある日、いつものとおり、数人の学生さんたちが、がやがやと騒ぎ合いながら遊びに来、勝手知ったる他人の家とばかりに、冷蔵庫からビールやジュースやチーズなどを取り出し、勝沼を囲んでわいわいやっておりました。夕方になって学生さんたちはまた一斉に帰って行きましたが、玄関口に立って、送りに出た私たち夫婦にみんなが礼を言ったとき、その女子大生が勝沼を見て、かすかに微笑んだのでございます。彼女は、私の目を盗んで、何やら目で物を言っていました。私はそっと勝沼の顔を盗み見て、はっといたしました。勝沼もまた、彼女に目で何かを語ったのです。私はすぐに、ふたりがもうそういう間柄にあるのだとわかりました。でもその時点では、私の予感、それもとてもよく当たる予感の域を出ていませんでした。それから二、三ヵ月たった頃でございます。秘書の岡部さんが、自分で和歌山まで行って釣って来たという大きな鯛を二匹持って来てくれました。(岡部さんの釣り好きは、あなたもよく御存知でございますわね)。一匹は私たちがいただくことにして、もう一匹を、私の親戚となった「モーツァルト」の御主人におすそわけしようと、私はビニールに鯛を包んで出掛けました。いつもは住宅街を抜け、ふたつめの四つ辻《つじ》を右に折れて、川の横に出るのですが、行く手に大きな野良犬が一匹舌を垂らして立っていたものですから、私は恐くて、あと戻りし、普段はあまり通らない暗い道を遠廻りして行くことにしました。道を歩いていた私は、そこで、勝沼とあの女子大生が、ある大きなお屋敷の門の陰で抱き合っているのを見てしまったのでございます。私は慌ててまたあと戻りし、野良犬の横を恐る恐る通り過ぎて「モーツァルト」に行き、鯛を渡して帰って来ました。その日、勝沼は遅くに帰宅しました。自分の家のほんの近くで、あの女子大生と抱き合って、それからまたどこへ行って来たのだろうと私は思いました。どうせふたりで、テニスコートのまだずっと向こうの海の方まで行って来たのか、あるいは、駅の裏側にあるラブホテルに入っていたのか、そのどっちかであろうと私は思いました。私は、少しも哀《かな》しくありませんでした。少しも動揺しませんでした。何食わぬ顔で帰宅した勝沼に、私も何食わぬ顔で応対しました。なんと馬鹿馬鹿しいことかと思いました。なんと汚ならしい男と女の姿であったことかと思いました。勝沼とその女子大生の関係が、とても低俗な不潔なものに思えると同時に、私にとって勝沼は大切な人ではないのだと醒めた心の内で思ったのです。私はこの人を愛して結婚したのではない、しかも数年を経た現在でも愛情らしいものすら抱くことが出来ないでいる。どうでもいいのだ、そう自分に言い聞かせ、清高がいる、生まれついて不幸を背負った愛《いと》しい愛しい子供がいると思いました。それだけで、私は生きていける、そう強く感じたのです。あれから約七年、勝沼と、もう大学を卒業してしまったあの女性とはまだつづいています。私は知っていて、ただの一度もそのことを口に出したことはありません。ただ、どうかした一瞬、あの暗い道で抱き合っていた、夫と女狐みたいな女の姿が、忽然《こつぜん》と脳裏をかすめることがあります。でもそれはもはや人間の姿としてではなく、人形《ひとがた》をした汚れた煤《すす》のようなものとしてたちまち私の中から消えて行ってしまいます。ときおり、寝室で勝沼が手を差しのべて来ても、私は清高が何か言ったようだ、見に行ってやらなければとか、きょうは清高の調子が悪かったので、自分もとても疲れてしまったからとか、何やかやと口実を作って、夫を絶対に迎えようとはしませんでした。でもこの件に関しては、私、あなたにはこれ以上のことは書きたくありません。人が知ったら、きっと驚くことでしょうが、あの日、勝沼と女子大生が抱き合っている姿を見た日から、ただの一度も私たちは夫婦の関係を持っておりません。七年間、ただの一度もでございます。夫は、そのうち私が知っているということに気づきました。口には出しませんでしたが、私は、夫がそれに気づいたことを知りました。けれども、表面上は何事もないようなふりをお互いがし合って、きょうまで暮らしてまいりました。  業という言葉が、私にはわかるような気がいたします。それもなまやさしいただの言葉としてではなく、ある峻厳《しゅんげん》な法則として、私には理解出来るような気がするのです。私はきっと、誰と結婚していても、よその女に夫を奪われるという業を持っているのでございましょう。勝沼と別れて、また別の人と結婚しても、きっと同じことが起こるであろうと私には思えてなりません。あなたが業という言葉を使って、それが自分の命そのものにまといついていた悪と善との結晶と、どこかでつながって行く気がしたというくだりを読んだとき、私は、あなたを失なったことも、勝沼が他の女に心を移したことも、みんな私の業というものかもしれないと考えたのでございました。そう考えてしまうことは、あるいは私のエゴイズムかもしれません。業などという言葉を云々《うんぬん》する前に、私は女としての自分を振り返らなければならないでしょう。私は、女として、妻として、きっと何か足らないものがあるのかもしれませんね。お色気でしょうか、それとも素直さでしょうか。あなたなら御存知でございましょう? どうか遠慮なくお教え下さいまし。  父が帰って来たようです。こんどの東京滞在はとても長うございました。父も疲れていることでしょう。父も、すでに何年か前から、勝沼に女がいることに気づいています。私が言ったのではありません。父はちゃんと見抜く人でございます。またお便りいたします。そうそう、書き忘れるところでした。あなたが酔っぱらって令子さんに毒づいた言葉、とても懐しゅうございました。恋人時代、私たちは、つまらないことでよくケンカをいたしましたわね。あなたは決まって、私に言いました。「お前なんか嫌いだ」。でも私は自惚《うぬぼ》れ屋さんでしたから、「ふん、ほんとは私のこと、好きで好きでたまらないくせに」と思って、余計にいじわるな態度をとったものです。「お前なんか嫌いだ」。令子さんはあなたにそんな言葉を言わせることの出来る人なのですね。 かしこ    八月十八日       勝沼亜紀   有馬靖明様 前略  まず初めに、あなたの御質問にお答えすることにいたしましょう。私の知っているあなたは、とても魅力的な女性でした。恋人時代も、夫婦になってからも、あなたのその魅力は変わりませんでした。ベッドの中でも、娼婦のようにふるまうなんて芸当は出来ませんでしたが、可愛くて、ときに精いっぱい大胆にふるまおうと、恥しいのを我慢して私の無理強いする姿態をとったりしました。そして、充分私を歓ばせてくれる女性でした。あれ以上、お色気を持たれたら、亭主としては少々心配しなくてはならなかったでしょう。さらに、あなたはとても素直な人であったと、いま思い起こしてみてもお世辞でなく本心から私はそう感じることが出来ます。お嬢さん育ちで、ときおり一発横っ面を張ってやろうかと思うくらい我儘《わがまま》な面もありましたが、それよりも、よしよしと頭を撫でてあげる程度で、ちゃんと私の手の内にころりと入ってしまう人でしたから、その我儘な点も、またあなたの魅力のひとつでした。ですが、それらはみな、私の知っているあなたであって、新しい御主人に対してどうだったのかは、私の関知せざるところです。男の浮気というやつは、もう、しようのない本能のようなものです。男はそういうふうに出来ているのです。何と勝手な言い草かと女性は憤慨するでしょうが、本当にそうなのだから、仕方がありません。愛する美しい妻があっても、男は機会にさえ恵まれたら、あるいはそのときの成り行きによっても他の女と寝ることが出来るでしょう。しかし妻に対する愛情が、それでどうこうなるというわけではありません。いや、そう断定してしまうことは出来ません。いまの文章は訂正します。そのままその女に溺《おぼ》れて、家庭を捨てる男もいます。しかしおおむね、男の浮気とは、前述した程度のものなのです。これ以上書くと、手前勝手な自己弁護になりますので、この辺で打ち切ることにいたしましょう。  私はとにかく久し振りに働いたので、ぐったりしています。しかもいやな出来事がありました。二日間、私は殆ど徹夜でPR誌の編集をしました。徹夜しなければ、到底間に合わないのだから仕方がありません。PR誌の名は「ビューティ・クラブ」と決めました。決めるも何も、じっくり考えている時間なんかありませんでした。なんとセンスのない名前でしょう。でも他に思いつかないのだから、そうとでも名前をつけておかなくては、先に進まないのです。二頁目には、令子の作った見本どおり、正しいシャンプーのやり方を特集して、三頁目に、あの「家庭で出来る指圧のコツ」という本から、何種類かの指圧の方法を選んで、文章を変えて載せました。そのまま転載すれば、無断で盗作したということになるからです。四頁目に苦労しました。何を載せたらいいのか、まったく考えが浮かばないのです。しまいには、ええい、どうでもいいやと、「おもしろ雑学百科」から世界の珍談奇談を少し勝手にアレンジして載せ、新しく買って来た、謎々《なぞなぞ》やパズルの本から、二、三種類の問題を抜粋して格好をつけました。作った以上、私が印刷屋に行って、いろいろ註文をつけたり、レイアウトを相談したりしなければならなくなりました。PR誌が出来あがって来るまでの間に、令子はどこからか、一台の軽自動車を借りて来て、私に運転してくれるよう頼みました。免許証は持っていますが、もう五年近く車の運転からは遠ざかっています。令子は大阪の地図と、とりあえず試しに印刷屋が刷ってみたという五、六部の見本誌を持って、「出発進行」と言いました。令子は、今回はむりやり印刷屋の親父に頼み込んで二万部だけ刷ってもらうことにしたと言いました。そのため一部が十円についたので、十八軒から貰う代金は、捨て金と同じだと説明しました。だから納品日である月末までに少しでも契約してくれる店を捜すのだと言うのです。その日は、生野区を中心に廻りました。美容院をみつけると、令子は車を停めさせ、中に入って行きました。一時間も粘っていて、あれ、契約出来たのかなと思っていると「あかんかった」と言いながら出て来ました。次の美容院では二分もしないうちに追い払われてしまいました。そうやって五軒の美容院を廻りましたが、一軒も契約してくれる店はありませんでした。とびきり暑い日で、ポンコツの軽自動車の中はクーラーなんて気のきいたものはなく、私は全身に汗をかいて、熱気のこもる運転席に凭《もた》れ込み、もう勘弁してくれと言いました。「うち、きょうは、せめて一軒の店と契約するまで絶対に帰らへん」。令子はそう言い張ってきかないのです。食堂で昼食を済ますと、また私の手に車の鍵《かぎ》を握らせて立ちあがり「出発進行」と言いました。もう少し休憩させてくれ、食事のあとすぐに車を運転するのは胃に悪いのだ、私が頼むと、「ほな、冷たい珈琲を飲ましてあげるわ」。令子は食堂の隣の喫茶店に席を移して、まだ註文した珈琲が運ばれてこないうちから、早く飲め、早く飲んでしまえとせっつきました。私がわざとゆっくりと珈琲を飲んでいると、「あんたは、いじわるや。人が一所懸命になってるのに、いっこも親身になってくれへん」。また例の丸い目を私の胸のあたりに注いで、哀しそうに呟《つぶや》くのです。親身になるもならないも、俺はこの間から、お前に頼まれたことは結局引き受けて、言われるとおりに動いているではないか。PR誌の編集も二日も徹夜して仕上げたし、印刷屋の親父に誌面の説明をしに出掛けたのも、この俺だ。そのうえきょうは、どこで借りて来たのか知らないが、煙ばっかり吐いて、まったくスピードの出ないポンコツを運転して、うだるような街の中を走っている。こき使われているのは俺の方で、文句のひとつも言いたいのを我慢しているのだ。私がそう言い返すと、令子は哀しそうだった顔をにわかにほころばせ、黒目勝ちの目をきょろきょろ動かし、丸い鼻に皺《しわ》を寄せておかしそうに笑いました。(この丸い鼻が、令子を美人と呼ぶには程遠いものにしていますが、邪気のない愛《あい》嬌《きょう》という美点をもたらしてもいるわけです)。  何がおかしいのかと私は訊きました。すると令子はこう言いました。「このときのために、うちはあんたを一年間飼《こ》うて来たんや」。そして両手で口元を押さえて、いつまでも笑いつづけるのです。私は最初かっとしましたが、そのうち自分でもおかしくなって来ました。してやられたと思いました。私が、本当に一年前から、そのために俺と暮らして来たのかと訊くと、令子は笑うのをやめ、「そんなん、冗談に決まってるやろ? うち、自分の持ってるお金で、何か商売をしたいとは考えてたけど、何をやったらええのか判らへんかってん。判らんままに、何年もたってしもて、二十七になるまで、結婚もせえへんかった。あんたと暮らすようになって、毎日をぼんやり過ごしてるだけのあんたを見てるうちに、これはほんまに何とかせんとあかんと考えてん。四百二十万で、食べて行きながら進められる何かええ商売はないやろか。あんたが元気いっぱいに取り組めるええ商売はないやろかと考えたんや」。令子はいつものおっとりした口調でそこまで言うと、何かためらっているようでしたが、やがてまた口を開きました。「その、首と胸の傷は何やのん?」。私は黙っていました。いつまでも黙り込んでいる私に、「やっぱり教えてくれへんと思たわ……」。令子はそう言って立ちあがり、勘定を払うと、入口のところに立って私を待ちました。  車に乗って混雑している国道に出たとき、そのあたりが、昔住んでいたところのほんの近くであることに気づきました。生野区の伯父の家に引き取られて、私は中学、高校、そのうえ大学にまで行かせてもらったのです。しかし、その伯父は三年前に亡くなりました。いま、年老いた伯母は、私より三つ年上の銀行に勤める息子とその妻、それに三人の孫に囲まれて、平和に暮らしています。私があなたと離婚したことを、最も哀しんでくれた伯母です。自分の子でもないのに、自分の子供と何の分けへだてもなく育ててくれた伯母が、この近くにいる。そう思うと、何か熱いものがこみ上げて来ました。幾つかの会社勤めもうまく行かず、やがて幾つかの商売にも手を出して失敗した私は、伯母が誰にも内緒でそっと貸してくれた六十万円近い金を返せないまま、もう二年以上も、顔を出すどころか電話一本かけないでいます。伯母にとっては、自分の老後のための大切な六十万円でした。私はその六十万円を踏み倒して、消息を絶ってしまったのです。私は令子に、昔、このあたりに住んでいたのだと言いました。私が、自分の昔のことを令子に教えたのは、それが初めてでした。そう言ったとき、高校で同じクラスにいた女生徒が、親の跡を継いで美容院を経営しているのを思い出しました。あいつなら、俺が頼めばPR誌を取ってくれるかもしれないと思いました。しかしそこに顔を出せば、伯母にそのことが伝わるかもしれないとも思いました。その美容院から伯母の住む家までは、歩いてほんの十分程で、同じ町内にあるからです。しかし、一軒の店と契約するまでは、きょうは絶対に帰らないと言い張る令子から、私は早く解放されたいと思いました。そんな気持のどこかに、この、汗だくになって美容院で頭を下げている令子を喜ばせてやりたいという気持もありました。私は自分の卒業した高校の前を通り、商店街の手前で車を停めると、見本誌や申し込み書や、にわか作りのパンフレットの入った紙袋を令子の手から取って、この近所で昔の友だちが美容院をやっている、契約してくれるかどうか判らないが、ちょっとあたってみると言って歩きだしました。美容院というところは、男には実際なかなか入りにくいところですね。窓から中を窺《うかが》うと、かなりオバさんになってしまったその女友だちが、店の入口近くにたって、従業員に忙しそうに指示を与えていました。私は入りかけてはためらい、入りかけてはためらいしながら、その大きな美容院の前を行きつ戻りつしていました。そのあげく結局中に入る勇気がなく、あきらめて帰りかけました。と、有馬さんと呼ばれました。振り向くと、その美容院の女主人がガラスドアから体を出して私を見ていました。やっぱり有馬さんだとその人は言って、店の前を行ったり来たりして、いったいどうしたのかと訊いてきました。ちょっと頼み事があって来たのだが、どうも美容院というところは自分には入りにくくて困っていたのだと私は言いました。彼女と顔を合わせるのは、あなたと結婚した年の末に、同窓会に出掛けて行った日以来のことでしたが、向こうは顔を見た途端、すぐに私であることが判ったと懐しそうに言いました。中に入るように勧められ、頼み事とはいったい何かと訊かれました。私は店内に入り、待ち合い用のソファに坐り、見本誌とパンフレットを出しました。もう三年前から、こんな商売をやっているのだと私は嘘をつきました。つい最近始めたばかりだと言えば、相手もちょっと商品に対して信用出来ないだろうと思ったからです。彼女は長いこと、見本誌を丹念に見ていましたが、一地域一店というのは絶対に守ってくれるのかと訊きました。私は地図を見せ、だいたいこのあたりまでが、お宅の店の商売の範囲ではなかろうかと言いました。お宅の契約が決まったら、もうこの範囲の美容院とは決して契約しないと私は言いました。一部が二十円か……と彼女はひとりごとを言って思案していましたので、私は入口に示されている料金を指差し、技術とか客へのサービスとかは、どの美容院もそれなりの工夫と努力をしているだろう。けれども、もうひとつ、自分の店で毎月こんなPR誌を発行しているとなれば、お客も、他の店と比べて、この店が客に対してよりいっそうサービスに努めていると感じるに違いない。五千円も六千円もお金を払って行く客に対する還元を、たった二十円で出来るのだ。じつに安いものではないか。表紙の囲みの中には、ちゃんとお宅の店名やら経営者の名前やらが入っているから、客は出来合いの既製品を貰ったとは思わずに、ちゃんと目を通してくれるだろう。その為に、一地域一店を、我が社は厳守して来たし、もう二年も毎月つづけて取ってくれる店が関西で百二十軒もあるのだ。出まかせもいいところで、私はもう必死になっていました。彼女は、毎月どうやってこのPR誌を自分の店に届けてくれるのかと訊きました。郵送するとなると、四千円以外に郵送料も必要だろうと言うのです。私は、はたと返答に困りました。郵送代込みの値段にすると、儲《もう》けは減りますし、郵送料を相手に負担させるとなると、値段が高くなって、取ってくれないかもしれません。その点について、令子とはまったく打ち合わせをしていなかったのです。咄嗟《とっさ》に私は、毎月の末に、車で配達していると答えました。店に直接持って来て、そのとき商品と引き換えに料金を貰うシステムなのだと言ってしまったのです。それなら契約させてもらおうと彼女は言いました。そして、さっさと申し込み書に住所と電話番号、それに自分の名前を書いて判を押し、うちの店はワンセットの二百部ではとても足りない。六百部は必要だが、最初は試しに四百部契約させてもらいたいと言いました。あまり効果がないと思ったら、いつやめてもいいのかと言うので、それはそちらの自由だ、でも長くつづけてもらうと、いつの間にかその店のひとつの看板みたいになってしまう。だから二年もつづけてくれている店が百二十軒もあるのだと私はまた嘘の混じった言葉を並べました。彼女は商談が終わると、従業員に冷たいジュースを持ってこさせ、いつまでも懐しがって、A組にいた何々さんは、いまはどこそこの警察署で刑事をやっているとか、B組の誰それは、結婚して子供を産んだが、その翌年に乳癌《にゅうがん》で死んだとか、ひっきりなしに話をつづけて、私を離そうとしません。私は早く令子にしらせてやりたくて、うずうずしていましたが、とにかく四百部も契約してくれて、お客に好評なら、次から六百部に増やしてくれるというのですから、そのまま、はいさようならと立ち去るわけにもいかず、それから一時間近く話し相手になっていました。  私が商店街を抜けて、車に戻ると、令子は心配そうな顔で私の帰って来るのを待っていました。私は黙って申し込み書を令子の目先に持って行きました。「四百部?」。そう呟いてから、令子はその申し込み書を胸に抱きしめました。「おい、これでもう解放してくれよ」。私は言ってポンコツの車を再び国道に向けて走らせました。令子は、どうやって話をしたのかと何度も目を輝かせて問いかけて来ました。私は自分が言ったこと、美容院の女主人が訊いたこと、それら全部を話してやりました。「やっぱり、あんたはたいしたもんやわ。うちなんか、所詮女やねんなァ。そこまで頭が廻らへん」。そう令子が感心してみせるので、私はこれ一遍きりだと念を押しました。俺は早く帰りたいから、自分で行って契約を取って来たのだ。もうあとは知らない。「そやけど、月末の配達は、あんたがしてくれるんやろ?」。彼女はさも当然みたいに言うではありませんか。令子は、出来あがった商品を、各美容院に郵送するつもりだったらしいのです。郵便局で訊いたら、二百部のPR誌なら、郵送代に三百円くらいかかるということだったと令子は言いました。「うち、いままで入った美容院で、郵送代は別に三百円貰いますて言うててん。四千円と、四千三百円とでは、相手に与える感じがそんなに違うんやなァ。三百円なんて、ちょっとのことやけど、払う方にしたら、えらい違いに思えるんや。そうや、車で配達して廻ったらええんや。ガソリン代なんて、たかがしれてるし、その方が相手に与える印象もええわ。やっぱり、あんたは頭がええ」。完全に令子の手中に落ちたといった案配です。その日から、私は令子を車に乗せてセールスに廻るはめになりました。二万部のPR誌が刷りあがり、いよいよ次の作業である、表紙の空白の部分にそれぞれの美容院の名や電話番号の入った別の凸版を刷り込むという日の前日までに、令子は七軒の美容院の契約を取りました。合計二十六軒に増えたのです。それでも赤字には変わりないのですが、令子の喜びようは、大変なものでした。たかが二十六軒ですから、範囲が京都や神戸に散らばっているとはいえ、配達は夜の八時頃に終わりました。令子はアパートの近くのレストランで、私にビールとステーキを食べさせてくれました。まったく、食べさせてくれたという言い方がぴったりです。子供が何かの御《ご》褒《ほう》美《び》に、あめ玉を貰ったようなものです。令子は上機嫌で、私は疲労困憊《こんぱい》の態《てい》でアパートに帰り着きました。  私はそれから三日間、何もせずアパートの部屋でごろごろして過ごしました。四日目の夜、私は令子とふたりで銭湯に行きました。私たちの住んでいるアパートはとにかく古い建物で、部屋に風呂などついていないのです。銭湯から出ると、喫茶店で冷たいものを飲んで帰って来ました。アパートの前に白い乗用車が停まっていて、若い男が運転席から私を見つめました。私と目が合うと、男はさりげなく視線をそらせました。そのそらせ方と男の人相が、何となく気になりました。私は知らぬふりをしてアパートのドアを開き、階段を昇って行きましたが、何かいやな予感がしました。私たちの部屋の前に、もうひとり男が立っていました。赤い水玉模様の入ったハンティングをかぶった、これもまともな世界に住んでいるとは思えない男です。瞬間、私はあることを思い出しました。前の事業が失敗し、ついに倒産という段になったとき、私は出来る限りの事後処理をして、あとあと厄介なことが起こらないよう全力を尽くしましたが、一枚だけ、どこに廻ってしまったのか行方の判らない約束手形があったのです。額面九十八万六千円の三ヵ月手形です。何とか回収しようとしましたが、とうとうみつからずじまいでした。私は部屋の前に立っている男を見た途端、あれだ、と思ったのです。男は私に「有馬さんですか」と訊きました。そうだと答えると、話があるので部屋に入れてもらいたい、男は彼等独特の言い方で言いました。ここは自分の部屋ではない、この女の部屋だ、話があるならどこか他の場所にして欲しい。私が断わると、男は静かな口調で、ここで話をしてもいいが、同じアパートに住む人に迷惑がかかることになると言いました。そして部屋のドアを靴の先でこつこつ蹴《け》りながら、この暑いのに自分は二時間も立ちん坊して待っていた、それにあまり大声を出したくないのだと言いました。私が、令子に一時間程どこかに行っているようにと言うと、男は奥さんも一緒に話を聞いてもらおうと、少しずつ語調を強めながら、私を睨《にら》みつけて来ました。取り立て屋の手口は、もういやという程知っています。私は部屋の中に男を入れました。男はハンティングを脱ぎ、畳の上にあぐらをかくと黒い上着の内ポケットから一枚の紙きれを出して、私の前に置きました。私の実印の押してある九十八万六千円の約束手形でした。断わっておくが、この女は俺の女房ではない、何のゆかりもない人だと私が言うと、「方、そうでっか。そやけど一緒に暮らしてはりますねんやろ」と男は言いながら、着ていた黒い背広の上着を脱ぎました。その下には紫色の、肌の透けて見える薄いシャツを着込んでいて、ボタンを胸の下あたりまで外し、汗で光った胸毛をわざとらしくはみ出させていました。男は背中に刺青《いれずみ》を入れていました。それを見せるために、透き通った紫色のシャツを身につけているのです。私は、たいした相手ではないなと思いました。チンピラです。しかし、時と場合によっては、チンピラの方が恐しいこともあるのです。令子は男の刺青を見て、青ざめました。「この手形、覚えてはりますやろ」。そう言ってから、男は、自分もある商売をしているが集金に行った取り引き先からむりやりこの手形で支払いをされた。そこから貰うのが筋というものだが、あいにく、その男は死んでしまって残っているのは二束三文の屑《くず》ばかりだ。となると、実印を押した有馬という人から頂戴するしかない、あんたの行方を捜すのに半年もかかったと言いました。どの取り立て屋も使うセリフです。こんな手合に理屈なんか通用しません。私はただひとこと、金はないと答えました。「ない……。それで世の中、済みまんのか」。しかし、ない袖は振れないと私が突っぱねると、「金が大事か、命が大事か、考えんでも判ることでっしゃろ。あんさんの命だけやおまへんで」。男はそうすごんで、私の横に坐っている令子に視線を注ぎました。令子は震えていました。それならば俺を訴えればいいではないか、そう私が言うと、「あんさんに刑務所に行かれても、こっちは一銭にもなれへんねや。俺がどの筋の人間かは、もう察しがついてるやろ。警察に訴えるやの、裁判に持ち込んでくれやの言うて、淀川の底に沈んだまま戻ってけえへん人間が、五人や六人はいてるんやでェ」。  令子の震えが激しくなったのを見たとき、私は、それなら仕方がない、俺の命を持って行けと言いました。はったりでも何でもなく、私はもう死んでもいいような気がしたのです。何もかもいやになりました。男の顔から血の気がひいて行きました。令子が立ちあがり、洋服ダンスの奥から、先日満期になって、幾らかの利子とともに手元に返って来た百万円の入った袋を出し、男の前に差し出しました。私はその袋を男がつかむ前に取りあげて、令子の膝《ひざ》の上に置くと、この金はお前の金だ、そんなことをする必要はないと言いました。男が立ちあがり、「まあ、きょうは考える時間もいるやろ。誰に払《はろ》てもろても、金は金や。またあした来まっさ。あしたは、命か金かのどっちかを貰《もろ》て帰りまっせ」。そう捨てゼリフを残して部屋から出て行きました。  私は、令子に心配しなくてもいいと言いました。俺は、あしたこの部屋から出て行く。もう帰ってこない。俺の女房でもない女から、幾ら何でも、あいつらとて金を取って行くことは出来ないだろう。あした奴等が来て、お前をおどかしたら、すぐに警察にしらせろ。奴等が一番恐いのは、こっちに開き直られることと、警察ざたになることだ。そのために、奴等は口ではああ言っても、暴力を振るったりはしない。もっとじわじわと精神的に責めて来る。夜中の四時頃にやって来たり、ひと月間毎日押しかけておいて、ぷっつり姿を見せず、相手がほっとした頃を見はからって、また連日やって来るといった具合なのだ。俺がいなくなっても、しばらくはお前に迷惑がかかるかもしれない。だがお前に手を出したりはしない。しかしそう言い聞かせながらも、私はやはり不安でした。相手がチンピラだけに不安だったのです。令子が金を持っていることを知った以上、私が姿を消しても令子を脅かすのではないか、そう思いました。もう逃げ廻るのはこりごりでしたが、それでもやっぱり自分が出て行く以外ないと決めました。令子が欲しい物も買わず、スーパーの食料品売り場の勘定台に十年も立ちつづけて、ひたすら蓄えて来た大切な金を、どうして私のような人間のために捨てたり出来るでしょう。私はやっぱりこの辺が潮時だと思いました。あなたといい、由加子といい、そして令子といい、私と関係する女はみんなひどいめにあってしまう。何もかもどうでもいい、そんな気持でした。あなたとの離婚を決めたときも、私はなぜか妙にさばさばした気持になったことを覚えています。しかしあの時とは違って、心のどこかに烈しい空《むな》しさを感じていました。 「うち、お金を払う。百万円ぐらい、何でもあらへん」。令子は泣きながらそう言いました。私は、余計なことはしないでくれと頼みました。もうどうでもいいのだ。俺にはきっと運がないのだ。そんな男と一緒にいると、お前まで転げ落ちてしまう。私はそう言って自分で蒲団を敷いて、部屋の明かりを消し、横になりました。そしてさっき、あの取り立て屋に言った言葉は、まさしく本心から出た言葉であったことに改めて気づきました。俺の命を持って行け。そう言ったときの自分の張りつめた、しかしどこまでも虚《うつ》ろだった心を思い出しました。死んだっていいのだ。私は目をつむったまま、もう一度心の中で呟きました。その晩、あなたの夢を見ました。短い夢でしたが、心から消えずに残っています。ドッコ沼の林を抜けてあなたがどんどん山道を昇って行きます。私が幾らあとを追っても、あなたの傍《そば》に辿《たど》り着けないのです。あなたは早く来るようにと笑いながら手を振っています。私はあなたと目鼻立ちがそっくりの女の子の手を引いています。四歳か五歳の女の子です。ほんの一瞬の、たったそれだけの夢でした。  翌朝、私は十時頃に、ボストンバッグに自分の持ち物を詰め込み、アパートを出ました。令子は引き止めませんでした。台所のテーブルに坐って、背を向けたままじっとしていました。私の出て行くときも振り返りませんでした。令子と別れて、さてどこへ行ったらいいのか、まったくあてはありませんでした。生野区の伯母のところに行くわけにもいきません。とにかく貸してもらった六十万円という金を、私はまだ返していないのですから、おめおめと顔を出すことも出来ません。私は高校時代の友人で、大熊という男がいることを思い出しました。京都の大学の医学部に残って、ずっと独身のまま癌の研究をつづけている男です。以前にも別の女と別れたあと二週間程世話になったことがありますし、取り立て屋から逃れて彼のアパートに転がり込んでいたこともあります。私は公衆電話で大学に電話をかけ、大熊を呼び出してもらいました。しばらく面倒を見てくれと頼むと、大熊は「なんや、また女に追い出されたんか」と言って、六時に京都の国立美術館の前で待っているよう指定してからあわただしく電話を切りました。逢えば、必ず飲み屋をはしごして、しつこく私を帰そうとしないくせに、いつも電話では、これが同じ人間かと思う程、あっさりと話を済ましてしまいます。  私はひとまず梅田に出ようと思いました。歩いて行くと踏み切りがあり、ちょうど遮断機が降りて来ているところでした。私は遮断機の前に立ち停まり、照りつける真夏の陽差しの中に立っていました。近づいて来る電車を見たとき、あっ、電車が来たと思いました。だんだん近づいて来る、もうじき俺の前を猛スピードで通り過ぎる。なぜそんなことを考えたのか判りません。ですが、そう考え始めると同時に、心臓も強く早く打ち始め、体中の血が、ざあっと音たてて足先に下がって行くような感覚に襲われたのです。電車はすぐ近くまで来ていました。私は目をきつく閉じて歯を食いしばりました。電車が通り過ぎ、遮断機があがり、車や人々が動き出したとき、私は隣にいた人のまたがっている自転車の荷台をしっかりと握りしめていることに気づきました。私は無意識のうちに、自転車の荷台をつかんでいたのです。近づいて来る電車が視界に入った瞬間から、それが通り過ぎて行ってしまうまでの間に、私の中の何かと何かが、烈しくせめぎ合っていたように思われます。私はタクシーを停め、梅田に行くよう言いました。タクシーの中は冷房がきいていて寒いくらいでしたが、全身から汗があとからあとから噴き出て来て、いつまでも止まりませんでした。私はあの事件以来十年間、どんな失意や挫《ざ》折《せつ》感の中でも、死のうとは考えたことはありませんでした。だが、あのチンピラの取り立て屋があらわれて、私の振り出した約束手形を見せ、たいして恐しくもないタンカを切ったときの、令子の体の震えを見たとき、私は失意とか挫折とか言ったものではない、もっと底深い真っ暗な穴の中に沈んで行く気がしたのです。もうどうでもいい、死んだっていいのだ、生きていて何になる、令子の哀しい程に大切な金をドブに捨てるような真似までして、俺が人生をやり直す価値がどこにあるのか。そう思ったのでした。  私は梅田から阪急電車に乗りました。河原町で降りると、人混みを歩いて行きました。かつて由加子が勤めていたデパートが見えました。私は映画館に入りました。裸の美女と、不死身のスパイとが、絡み合ったり敵に追われたりしている騒々しい外国の映画でした。映画館を出たのは四時過ぎで、大熊との待ち合わせ時間にはまだ二時間もありました。そこからは歩けばかなりの距離でしたが、他に時間をつぶす方法も思い浮かばず、私は国立美術館への道をゆっくり歩いて行きました。赤味を帯び始めた陽の光はまだ暑く、途中の道にあった喫茶店に入りました。目をつむって椅子に凭れ込んでいるうちに、少し眠ったようでした。ふと目をあけて時計を見ると、少しではなく二時間近くも、ぐっすり眠り込んでいたことに気づき、私は慌てて喫茶店を出ました。美術館の、玉砂利の敷きつめてある入口のところに大熊は立っていました。「俺は五時半に来たんやぞォ。一時間も待たせやがって」と彼は言いました。私たちはそこから近くの、大熊がときおり飲みに行くことがあるという小料理屋に入りました。きょうは給料日だから俺が奢《おご》ってやる、どうせ金なんか持ってないだろうと大熊は言って、生ビールの大ジョッキと、何種類かの魚料理を註文しました。私はポロシャツの上に背広を着てアパートを出たのですが、タクシーの中で脱いで、それをそのまま手に持っていました。小料理屋のおかみが、ハンガーにかけておきましょうと言うので、背広の上着を渡したとき、内ポケットから封筒の一部が見えました。不審に思って中を覗《のぞ》くと、一万円札が十枚入っていました。令子がそっと入れておいたのです。私はその金の入った封筒をズボンの尻ポケットに入れ、落とさないようボタンをかけました。アルコールが入ると、大熊はいつものように絶え間なく喋《しゃべ》り始めました。何とかいう相撲取りは、来場所には大関間違いなしだとか、どこそこの高校のピッチャーは、もう来年ある球団入りが決まっていて、裏金が一億も動いているとか、そんな話をしたかと思うと、箸《はし》の先にビールをつけて、カウンターの上に私の判らない数式やら、化学記号を書き、自分の専門である癌の治療法についての、さまざまな国の医学者の学説を私に語りつづけるのです。「癌はなァ、あれは自分なんや」と大熊は言いました。それはどういう意味かと私が訊くと、あれは外部から侵入して来た物ではなく、自分の肉体の中から生まれ出て来た物だ、と俺は思う。異物ではあっても、他の物ではない。自分の本来持っている何物かが、ある毒素を放つ細胞と化して増殖しているのだ。大熊はかなり怪しくなって来た口調で言いました。「癌を殺すには、自分が死ぬのが一番早道なんや」。無精《ぶしょう》髭《ひげ》を撫《な》で廻しながらどこまで本気なのか判らない言い方をしてから、大熊は立ちあがり、勘定をしてくれるよう店のおかみに言いました。私たちは、それから三軒のバーをはしごしました。三軒目の店に入ったときには、大熊は足がもつれて真っすぐ歩けない状態になっていましたが、私はいっこうに酔いを感じることが出来ませんでした。時計を見ると、九時でした。そろそろ、あの背中一面に刺青を入れた取り立て屋が、令子の部屋を訪れる頃かもしれない、いやもうとっくに部屋に上がり込んで、令子を脅かしつづけているかもしれないと思うと、いてもたってもいられない気持になりました。私は何度かためらった後、バーのカウンターの隅の赤電話のところに行きました。そして、令子の部屋のダイアルを廻しました。それまでは部屋に電話はなく、管理人に呼び出してもらっていたのですが、商売を始めるとなると、どうしても電話だけは必要だと言って、一週間程前に令子が電話局に申し込んで部屋に引いたのです。令子の声が聞こえました。令子は私だと判ると、こっちが何も言わないうちに、帰って来てくれるようにと言いました。男は八時頃やって来た。私は九十八万六千円を払い、あなたの発行した約束手形を返してもらった。もう終わった。だから早く帰って来てくれと涙まじりの声で言いました。いま京都にいると私は答えました。「あんたがおれへんかったら、この商売、つづけられへんやんか」と令子は今度は本当に泣きながら叫びました。次の分のPR誌の編集もそろそろ始めなくてはならないし、外交にも廻らなくてはならない、そう言ってから令子は、「あんたがいてへんかったら、うちは最初からこんな商売する気にはなれへんかったんや。あんたのために、うちは、ない頭をひねって、考えついたんや。百万ぐらいのお金、うち、すぐにこの仕事で取り戻したるわ。どうしても別れる言うんやったら、うちが払うた九十八万六千円分の仕事をしてから別れてんか。そやないと、あんた泥棒や」。私は令子に、ありがとうと言いました。そして、封筒に入れてくれた十万円、全部使って帰るかもしれない、そう言うと、令子は、「はよ使《つこ》てしまい。今晩中に使てしもて、はよ帰っといで」。そう言って、電話口で黙り込みました。私の返事を息を詰めて待っている、そんな気配が伝わって来ました。私は、あした昼過ぎに帰るようにすると言って電話を切りました。私はふと、ひょっとしたら令子とあの取り立て屋とは、何か打ち合わせでもしてあったのではないかという疑念に駆られたくらいです。令子は自分を引き止めておく為に、そんな計略を用いたのではないかなどと考えましたが、そのうち考えるのも面倒くさくなって大熊を見ると、奥のテーブルにうつ伏せて、何やらぶつぶつ言っています。私は大熊の背を叩き、「おい、俺は帰るぞ」と大声で言いました。「帰りたかったら、どこへでも帰って行け」。大熊は呂《ろ》律《れつ》の廻らない口で誰に言うともなく怒鳴りました。  私は表に出るとタクシーを停めました。そして、嵐山の「清乃家」という旅館に行ってくれと言いました。あしたから、またあの令子という女にこき使われるのだ、そう思うとおかしくなって来ました。私には、まだ令子の考えついた商売に、本気になって取り組もうという気は起こりませんでしたが、あの取り立て屋から約束手形を取り戻すために令子が支払った九十八万六千円分の仕事は、確かにやらなければならぬと考えたのです。しかし、令子という女は、何としたたかな女かと思いました。「このときのために、うちはあんたを一年間飼《こ》うて来たんや」と言って笑いつづけていた令子の顔を思い出し、あいつはあとで冗談だと言ったが、どっこい冗談ではなく、正真正銘の本心だったのかもしれないと思いました。私は笑いがこみあげて来ました。私が笑っていると、タクシーの運転手が、「何か、ええことおましたんか」と訊いてきました。「女に騙《だま》されたんや」。私は言いました。「見事に騙された」。すると運転手は、「女はお化けですさかい」と答えてバックミラー越しに私を見つめてにやっと笑いました。  嵐山の「清乃家」に着くと、私は二階の桔《き》梗《きょう》という部屋に泊まりたいのだが空いているかと尋ねました。昔、一度泊まったことがあって、気に入ったので、その部屋に泊まりたいのだと説明しました。「おひとりさんでおますか?」。番頭らしい男が少し困ったような顔つきで言いました。その部屋は、男女の客用に使っている部屋だったからです。私は、昔は女と泊まったが、きょうはひとりだ、何なら、二人分の料金を払ってもいいと言いました。主人が出て来て、私の顔を見、「どうぞ、おあがりやして」と言ってから番頭に桔梗という部屋に案内するよう命じました。こっちは覚えていますが、主人は私の顔をすっかり忘れてしまっているようでした。部屋に入って、私はびっくりしました。十年前と寸分変わっていなかったからでした。床の間の山水の掛け軸も、その前に置いてある青磁の香炉も襖《ふすま》の絵柄も、十年前とそっくりそのままの形で残されていたのです。私はお茶を運んで来た女中の顔を見てまたびっくりしました。絹子という名の、十年前もこの部屋にいつもお茶を運んで来た女性だったからです。当時は四十過ぎにみえていましたが、十年たっても少しも老けておらず、私は何やら薄気味悪く思った程でした。私はなるべく顔を見せないようにしていました。私は十年前、この部屋に来るたびに、少し多めのチップをこの絹子という女中に渡していましたので、向こうはきっと私を覚えているだろうと思ったからです。「お食事は?」と訊かれたので、私は、済ませて来た、それよりビールを持って来てもらいたいと言いました。するとその女中は、ビールならそこの冷蔵庫に入っているから、御自由に飲んでいただきたい、お帰りの際、一緒に計算させていただくから、と言いました。それだけが、十年前と変わっている点でした。由加子とこの部屋を利用していた頃は、冷蔵庫などは置いてありませんでした。私は千円札を二枚、女中に渡し、朝食は八時に運んで来てもらいたいと言いました。女中は黙ってうなずくと、部屋を出て行きました。私は部屋の入口のところにある浴室に行き、湯を出しました。それから浴衣に着換えて、浴槽に湯が溜《た》まるのを待ちました。庭に面した窓はあけ放たれ、そこから葉ずれの音が涼しい風とともに部屋に入って来ていました。湯が浴槽に落ちて行く音も聞こえ、そうだ、自分は十年前もこの窓辺から庭の方に目を向けて、浴槽に湯が落ちて行く音を聞きながら、由加子のやって来るのを待っていたのだと思いました。あるときはしょんぼりと、あるときは目を輝かせ、あるときは上気して火照《ほて》った頬を手で押さえながら、由加子はそっと部屋の襖を開いて入って来たのです。由加子はひどく酔っているときもあれば、まったく酒気を帯びていない日もありました。私はその由加子の姿を思い出し、本当にもうじき彼女がやって来るような幻想に襲われました。令子の祖母が言った、またこの世で逢えるかもしれないというあの話が、ある真実味を帯びて思い出されて来ました。だが令子のお婆さんの説を信じるとすれば、由加子は二度と人間として生まれることは出来ないということになります。けれども、私はそれでも、由加子が部屋に入って来そうな気がしたのです。湯が溜まったので、私は風呂に入りました。「失礼いたします」というさっきの女中の声が聞こえました。しばらくすると、「蚊取り線香を置いときました」と言って女中は出て行きました。私は念入りに、念入りに、頭髪を洗い、体を洗いました。足の指一本一本にまで石鹸を塗りつけ、長い時間をかけて全身を洗いました。風呂から上がり、体を拭きながら、私は鏡に自分の上半身を映してみました。首の傷跡と胸の傷跡は、いまはもうただのミミズ腫《ばれ》のようにしか見えませんが、鏡に近づけて仔《し》細《さい》に眺め入ると、何針かの縫ったあとが、ちゃんと消えずに残っていることが判ります。私は、由加子に切りつけられて、何が何だか判らぬまま蒲団に立ちあがったときの、夥《おびただ》しい血のぬるぬると首から胸にかけて流れ落ちていた感触をまざまざと思い出しました。浴衣を着て、再び庭に面した窓ぎわのソファに腰かけると、ビールの栓を抜いてコップにつぎました。さっき女中が敷いて行ってくれたのでしょう、ふっくらとふくれた敷き蒲団と夏用の薄い掛け蒲団がひとり分、部屋の真ん中に置かれてあり、その上を蚊取り線香の煙が、うねりながらゆっくり動いていました。私は煙草の煙を喫い込み、指先で自分の首の傷跡にさわりました。十年前の夜、この「清乃家」の一室で、何かが始まって行ったのです。それが何であるのか、私には少し判るような気がしました。あなたとの離別、そして、私という人間の転落などといったものではない、もっと大きな何ものかが始まって行ったのです。死んで行かんとしていた私が見た物は何だったのでしょう。それは私の命そのものであったと、私はあなたへの手紙に書きました。それでは命そのものとは、何だったのでしょう。死に行かんとしている私の心に、なぜ、私の辿って来たそれまでの過去の情景が、まるでフィルムを逆に廻すようにして鮮やかに映し出されたのでしょう。なぜあんな現象が起こったのでしょう。私は耳をそばだてました。十年前と同じように、私はこの部屋に向かって廊下を歩いて来る由加子の足音を待って、耳をそばだてました。そうやって何時間も、涼しいそよ風にあたりながら煙草を喫い、ビールを飲んでいました。腕時計を見ると、三時を廻っていました。私は部屋の明かりを消しました。あまりに暗過ぎるので、床の間の上につけられた小さな蛍光灯を点《つ》けました。帳場を呼びだす緑色の電話機が、床の間の端にありました。由加子はそこに倒れ込んで死に、私はそのおかげで命を拾ったのでした。死に行かんとしていた由加子の中には、どんな過去の映像が映し出されていたことでしょう。そして、死んでいる自分を、どのような命と化して見つめていたのでしょう。私は、あの不思議な出来事が、私だけに起こった偶発的な現象とは思えませんでした。由加子もまた、同じ現象の中を漂っていたに違いないという気がしたのです。すべての人間が、死を迎えるとき、それぞれがそれぞれの成した行為を見、それぞれの生きざまによる苦悩や安穏を引き継いで、それだけは消失することのない命だけとなって、宇宙という果てしない空間、始めも終わりもない時空の中に溶け込んで行くのではなかろうか。私は、暗がりの中の、そこだけ青白い光に照らされている床の間に目を注ぎ、浴衣を着た由加子がうつ伏せて死んでいる姿を目の前に見ながら、そんな妄想《もうそう》とも現実ともつかない思いにひたっていたのでした。誰が、それを妄想と決めつけることが出来るでしょう。そして誰が、それこそ真実であると、私たちに見せてくれることが出来ましょう。だが我々は死んだら判るでしょう。そしてこの人生には、死ななければ理解出来ない事柄がたくさん隠されているに違いありません。  私は一睡もせず朝を迎えました。もう六時頃から蝉《せみ》が鳴き始め、樹木の緑が、微妙な色合いをちらつかせながら、夏の朝日を透かせていました。八時に、女中は食事を運んで来ました。そして、敷いてある蒲団を見て、不審気に訊きました。「おやすみになれへんかったんどすか?」。私は、風が涼しくてあまりに気持がよかったものだから、ついそのままこのソファで眠ってしまったと答えました。女中は蒲団を押し入れにしまい、テーブルの上に朝食の用意を始めました。私が顔を洗ってテーブルにつくと、女中は御飯をよそってくれ、しばらく黙っていましたが、やがて、毎年あの日が来ると、床の間に花を飾ることにしているのだと言いました。やっぱり気がついていたのかと私は思いました。「絹子さんは、ぜんぜん歳をとりませんね」。そう私が言うと、彼女は「有馬さんも、お変わりやおへんえ」と答え返しながら笑いました。「いや、私は変わりましたよ」。そんな私の言葉には答えず、きのう、お茶を運んで来たとき、すぐに判ったと彼女は言いました。そして、長年このような仕事をしていると、客がどのような程度の人間であるのか、だいたい読めるようになる。それも男と女の客の場合には、幾ら夫婦のように振るまっても、騙せるものではない。どんな関係か、およその見当はつくし、それも殆ど外れることはないのだと言いました。この部屋で亡くなられたあのお方は水商売の、それも一流どころのクラブのホステスで、相手の男性はちゃんとした会社の、それもかなりの働き手であろうと感じていた。しかも男性の方は独身ではなく、家庭を持っているということまでも判るものだ。絹子という、あれから十年たって、もう五十を過ぎたであろう女中は、朝食を食べている私の斜め前に坐って、お茶をいれたり、おかわりの御飯をよそったりしながら、静かな口調で話しつづけました。自分はあの日は休みを取っていて、あくる日の昼に出勤して来たとき、あなたとあの女性との事件を知った。警察の人がまだ何人も出入りしていたし、主人は縁起の悪いことが起こった、これで客足が鈍るのではないかと機嫌が悪かった。自分は話を聞かされて、驚くというよりも、何か哀しかった。「ぱあっと花が咲いたみたいな、おきれいな方どしたえ」。彼女はそう言いました。男は死ななかったということを、何ヵ月かたって人づてに知った。自分は、この旅館の単なるお客に過ぎないあなたたちのことを、なぜか忘れることが出来なかった。とくに、亡くなった女性の、女の自分でさえ見とれてしまうような美しさが、忘れられなかった。それで毎年あの日が来ると、自分で花を買って来て、主人にも内緒で、床の間に花を活けるのだ。彼女は「そのときどきで、いろんなお顔をしてはるお方どしたなァ……」と言って、それで話を打ち切りました。  私は朝食を済ませると、タクシーを呼んでくれるよう頼みました。二人分の料金を払うと言った筈でしたが、勘定書には一人分の料金しか書いてありませんでした。私はタクシーで阪急電車の桂まで出て、そのまま梅田に向かい、令子のいるアパートに帰りました。  またあしたから、次のPR誌の編集にとりかからねばなりません。そしてそれが済むと、令子を車に乗せて、外交に廻るわけです。そうそう、令子は十年間勤めつづけたスーパーマーケットを辞めました。相変わらず、呆《ほう》けたように私に従順かと思うと、滅多やたらと私の尻を叩いて、うまくこき使います。  なおこれは余談になりますが、どうしても書いておきたいことですので、出来るだけ簡略につけ加えさせていただきます。あなたはお父さんについて触れていましたね。「父は見抜く人だ」と。実際、星島照孝氏は恐いくらい人の腹の中を見抜く人でした。私は何か深い感懐を持って星島照孝氏のことを思い出していました。一代で星島建設を築きあげた、まさに仕事の鬼みたいな方でした。家庭でも、どこか近寄り難い威厳とある正体不明の冷たさを感じさせる方でしたし、会社でも社員たちにとってはじつに恐しい社長でした。しかし私は、星島照孝氏に関して忘れることの出来ない懐しい思い出を持っています。  ある日、私は社長室に呼ばれました。また何か叱られるのかと思いながらドアをノックしました。すると氏は、自分の椅子に坐らず、長いソファに横たわって、真剣な表情で紙飛行機を折り、それを部屋中に飛ばしているのです。私を見ると、折ったばかりの紙飛行機を私に向けて飛ばしました。私に傍に来るようにと手招きして、「ちょっと相談がある。誰にも言うなよ。亜紀に喋ったら承知せんぞ」と小声で囁《ささや》きました。それから、何事かと思っている私に「好きな女がおるんや」と言ったのです。もうできかかっている、そんな状態だと、氏はあらぬ方に視線を向け呟《つぶや》きました。どんな女ですかと私が驚いて訊くと、氏は会社でよく使うミナミの大きな料亭の名を言いました。料亭の名は伏せておくことにいたしましょう。「芸者ですか、それともあそこのおかみですか」。私は身を乗り出しました。氏はそのどちらでもないと答えてから身を起こし「あそこのおかみは七十一やぞ。アホめ」と私を睨《にら》みつけました。そしてひとりの女性の名前を教えてくれたのです。その女性は料亭の末娘で、二年程前に夫を亡くし、それ以後実家に帰って来て、いまではおかみの代わりに座敷に顔を出すことが多く、私も何度か逢ったことがありました。三十二、三歳の着物のよく似合う人でした。鼻筋が細くて高く、頬のふっくらした、切れ長の目の美しい上品な女性であったように記憶しています。「できかかっているということは、まだできてはいないというわけですか」と私が訊くと、氏はいやに恐い顔をして、もう時間の問題というところだと答えました。そして、「俺は六十で、相手は三十二や。どないしょう」と急に情なさそうな表情になって言うのです。私は、「相手は未亡人ですし、社長も奥さんを亡くしてもう七年もたちます。お互い何もやましいことはないでしょう」と言いました。すると氏はしきりに煙草をふかし、仕事をしていても人と逢っていても、どうも変なのだ。女の顔がちらちらして落ち着かん。そう呟いて私を見ました。「恋ですね」。私が笑いながら言うと、氏は何となく力のない声で「恋かな……」と言いました。そもそものなれそめは何なのかと私が訊いても、氏はそのことについては話してくれませんでした。私は星島照孝氏と、二年前に夫を亡くした女盛りの料亭の娘が「できかかっている」なんて、信じられなかったのです。「おい、お前やから相談してるんや。どないしたらええと思うか」。そう訊かれたので、私はにやにや笑いながら「若返りますよ」と答えました。  それから三週間ぐらいたったでしょうか。また私は社長室に呼ばれました。こんどは社長用のあの大きな机に頬杖《ほおづえ》をついて、私を待っていました。「仕事のことですか。それとも例の件ですか」と私は訊いてみました。「例の件や」と氏は答えました。そして「聞くも涙、語るも涙の物語や」と言うのです。女とついに旅館に入った。入ったと言うよりも、入らざるを得ない成り行きになってしまったのだ。こっちはどぎまぎしていたが、女はもうすっかり覚悟が出来ているといった様子だった。俺はまだ女のひとりやふたり平気だと思っていた。ところが、裸の女を抱いているというのに、どうも態勢が整わん。焦れば焦る程どうにもならん。そのときの情なさがお前に判るか。おい、俺は本当に哀しかったぞ。「それはきっと緊張してたんですよ。とにかく恋をしてたんですから。よくあることです。こんどはうまく行きますよ」と私は可笑《おか》しさをこらえて、慰めたり励ましたりしました。「うん、俺はほんまに緊張しとったからなァ」。氏は上目づかいで私を見やりながら、しょんぼりと呟きました。それからにわかにいつもの社長の顔に戻ると、お前にだけ打ち明けたのだぞ、断じて亜紀には言ってはならんぞと命じて、それきり口を閉ざしてしまいました。  星島照孝氏とその女性が、それ以後どうなったのか私は知りません。氏は、その女性との間に起こった出来事のほんの一部を私に語ったに過ぎなかったのでしょう。きっと氏は、その女性にまつわる多くの思い出を決して誰にも語らぬまま、自分の心に秘めてしまわれたことと思います。そしてこれは私の単なる勘ですが、星島照孝氏が、その女性に対して再びチャレンジを試みるということはなかったであろうと思っています。「うん、俺はほんまに緊張しとったからなァ」と呟いた際の、あなたのお父さんの顔は、何か大失敗をしでかした少年のようでした。私はそのとき初めて、星島照孝という人に触れました。私はいまでもなお、星島照孝という人物を、近しい懐しい人として、しかも立派な事業家として、心の中にしまってあります。絶対に亜紀には喋ってはならぬと口止めされていた遠い昔のお話です。 草々    九月十日        有馬靖明   勝沼亜紀様 前略  長いお手紙、きょうは昼下がりの「モーツァルト」の窓ぎわの席に坐って拝見させていただきました。読み終えて家に帰ってまいりますと、清高がいま習っているひらがなの練習帳を持って、私のところにやって来ました。清高は、「あ」の行から始まって、やっと「は」の行を終えたところで、きのうから「ま」の行に入り、きょうは「み」のつく言葉を練習したというようなことを私に言いました。四角い升目の練習帳には、「みず」という字が、たくさん書かれてありました。震えていたり歪《ゆが》んでいたり、升目から大きくはみ出していたりしていますが、ちゃんと読める字でした。次のページには「みち」が書かれていました。私は清高に、とても上手になったと賞めてから、目の縁についていた水色の絵の具を拭き取ってやりました。すると清高はもうひとつあるのだと言って、ページをめくってみせました。そこには「みらい」という字が並んでいました。「ら」の行はまだ習っていないところなのに、どうして先生は「みらい」と書かせたかと私が訊《き》くと、清高はわからないと答えました。じゃあどうして「ら」という字が書けたのかと訊いてみますと、先生は何も言わず、黒板に「みらい」と書いて、何度も「みらい、みらい、みらい」と生徒たちに声をあげて読ませてから、「ら」はまだ習っていない字だけれども、「みらい」という言葉を知るために、黒板の字を写しなさいと命じたそうでございました。「みらい」とは、あしたのことだと先生は教えてくれたと清高は言いました。  私はいまこの手紙をしたためながら、あの清高の書いた「みらい」という字を思い浮かべております。私たちは、これまでの何通かの手紙で、殆ど過去のことばかり触れてまいりましたわね。ふたりの手紙を比べると、私の方が、過去について書いた回数の多いことに気づきました。でも、そんな私よりも、あなたの方がもっと過去にこだわっていらっしゃる。十年前のあの事件から次々と派生して来たこれまでのことに、憑《つ》かれたようにこだわっています。でも、過去とは何でしょうか。私は最近、私の「今」は、私の過去によってもたらされていると確かに思えるようになりました。別にたいした発見ではありませんが、そんなことは当り前みたいな気がして、そう取り立てて考えてみることはなかったので、私は何か新しい大発見をしたような気持になりました。過去は、まさしく私に現在をもたらす働きをしていたのでございましょう。だとすれば、「みらい」はどうなるのでしょうか。私の過去によって、もうどうにも変えることの出来ない未来が定まってしまっているのでございましょうか。もはや未来は変えようがないのでしょうか。私はそんなことはない、そんな馬鹿なことはないと考えずにはいられません。なぜなら、清高が、それを私に教えてくれているのです。清高を見ていると、私は勇気を感じます。落胆して失意に沈むときもありますが、思い直して我が身を奮い立たせて行くと、再び猛然と闘志が湧《わ》いて来るのでございます。  清高は初め、お坐りひとつ出来ませんでした。お母さん、お父さんという言葉を喋れるようになるまで五年もかかりました。自分でボタンをかけたり外したり出来るようになるまで、いったいどれだけの努力と日数を費したことでしょう。でも、いま清高はもうじき九歳になろうとしていますが、松葉杖を使って歩く速度が一年前と比べてほんの少し早くなりました。生麦、生米、生卵と、ゆっくりですが正確に言えるようになりました。自分の意志を言葉にすることが出来るようになって来たのです。そして、不可能であろうと思っていた数字の計算も、とても時間はかかりますが、なんとか出来るようになったのです。いまはまだひと桁《けた》の足し算がやっとですが、私はきっと清高を、いつの日か、正常な人と同じくらいの人間にしてみせます。十年、いやこれからまだ二十年かかるかもしれません。どうしても越えられない限界もあるかもしれません。しかし私は、必ず清高を、たとえ完全ではなくとも、出来うる限り普通の人と同じ能力にまで近づけさせ、ちゃんと自分で働ける人間に育ててみせます。お茶汲《く》みしか出来ない人間でもかまいません。何かの製品をダンボール箱に詰めていく作業しか出来ない人間でもかまいません。私は清高を、ひとりの人間として、ちゃんと働いて、たとえわずかのお給金であっても、堂々と貰って来ることが出来る人間にしてみせます。清高を生んだのはこの私なのです。あなたからの何通かのお手紙から、いろいろなことを考えました。清高を生んだのは、ほかでもない自分自身なのだ。この当然すぎる事実が、私に大発見をもたらしたのです。私は、不幸を背負ってこの世に生を受けたのは清高自身の問題であり、それもまた清高の業と言うものなのであろうと考えておりました。確かにそれもあるでしょう。でもそれだけではない。誰のせいでもなく、そんな子供の母とならなければならなかった私という人間の業でもあったのだと、ある日突然天啓に見舞われたように私は思いました。私は勘違いをしていたのです。かつては、憎しみにまかせて、それをあなたのせいだと思い込んでいた時代がありました。本当に何という八つ当たりだったことでしょう。でも誰のせいでもない、清高の生まれついての疾患は、私という人間の業なのです。さらには、そんな子の父とならねばならなかった勝沼壮一郎という人の業でもあったと言えはしないか。そう思いついた私は、しかしその自分の業をどうやって乗り越えたらいいのでしょう。私は成すがままに、未来に向かってただ歩いて行くしかないのでしょうか。いいえ、私は清高を不具なら不具のままに、出来うる限り正常な人に近づけるよう、何が何でも「今」を懸命に真摯《しんし》に生きるしかないではありませんか。清高のような子供を持った母として、私は断じて虚無やあきらめの世界に落ちて行くことは出来ないのです。あなた、どうか見ていて下さいね。私はきっときっと、清高をちゃんとよそ様のところで働ける人間にまで育ててみせますから。  つい清高の話になってしまいました。そして何やらお説教臭い文章になってしまいました。でも、どうかそんなふうにお取りにならないで下さいまし。だって、あなたは過去にこだわるあまり、「今」ということをお忘れになっていらっしゃるような気がするのでございます。かつて父が言った言葉が、甦《よみがえ》ってまいります。「人間は変わって行く。時々刻々と変わって行く不思議な生き物だ」。父のいうとおりです。「今」のあなたの生き方が、未来のあなたを再び大きく変えることになるに違いありません。過去なんて、もうどうしようもない、過ぎ去った事柄にしか過ぎません。でも厳然と過去は生きていて、今日の自分を作っている。けれども、過去と未来の間に「今」というものが介在していることを、私もあなたも、すっかり気がつかずにいたような気がしてなりません。  どうか、お説教なんかご免だと、怒って手紙を破ったりなさらないで下さいまし。私はあなたが心配でたまりません。いつかのあなたのお手紙にあった、令子さんという女性の言葉が、私の心を不安で不安でたまらなくさせるのです。「うち、あんたが死んでしまいそうな気がするねん」。きっと令子さんは、あなたという人を知ったのでしょう。あなたが何を語らなくとも、令子さんは、あなたという人間を深く知ったのでしょう。ああ、あなた、どうか死にたいなどと思わないで下さい。そんなことを想像すると、私の胸は張り裂けそうになってしまいます。いったい何の為に嵐山まで行って、「清乃家」のあの事件の起こった部屋にお泊まりになったのでございます。まるで二十歳の青年のような感傷ではありませんか。しかも、女中さんの言葉を使って、よくもぬけぬけと、瀬尾由加子さんが、いかに美しい女性であったかを私に教えるなんて……。  それはともあれ、令子さんの考えついたお商売、私、きっとうまく行くと思います。私の勘がよく当たることは、あなたも御存知でしょう。とても面白い、ちょっと誰もが考えつかないお商売ではありませんか。確かに、これからのお商売と生活にとって大切な貯金のうちから、九十八万六千円ものお金が消えて行ってしまいましたが、お金とあなたとを比べると、令子さんには少しも惜しくなかったのでしょう。だから彼女は、惜し気もなく、そのならず者にお金を渡したのです。私、あなたがその美容院を相手にするお商売をなさってみること、大賛成でございます。百五十軒の得意先を得ることなど、すぐに出来るような予感がいたします。よしんば、得意先の増え方が遅々として進まなくても、ひとつ、またひとつと積み重ねているうちに、百五十軒に達する日がきっと来ると確信出来るのです。清高が、自分の意志を言葉に表現出来るようになるまで、いったいどれ程の歳月がかかったとお思いですか。あなたも清高のように一歩一歩と歩いて下さい。もし悪く予想しても、一週間歩きつづければ、そのうち一軒ぐらいはそのPR誌をとって下さるお店がみつかるでしょう。月に四軒、すると年に四十八軒、三年で目標に達します。あなた、ねえ、あなた、たった三年ですわよ。その間、お金に困ることもあるでしょう。思わぬ障害が待ち受けているかもしれません。でも私、令子さんという女性はとても強い方だと思いますのよ。その無口で温和《おとな》しい性格の底に、浪花《なにわ》女《おんな》のド根性みたいなものを隠していらっしゃる人です。きっとそんな人なのに違いありません。あなたよりもうんと強く、粘っこい人に違いありません。そして、そしてあなたを、烈しく愛していらっしゃるに違いないのです。私にはわかります。いいえ、私だからわかるのでございます。あなたが音《ね》をあげて、やりかけたお商売を投げ出してしまいそうになるたびに、令子さんが助けてくれるでしょう。そんなときになって、初めて底力を見せる女性であることでしょう。私、一心にお祈りいたします。私は信仰を持っておりませんから、何に祈ったらいいのかわかりません。でも祈ります。そう、この宇宙に祈ります。お商売の成功と、あなたのしあわせな未来を、この果てしない永遠の宇宙に祈ります。  またお返事を下さい。お待ちいたしております。きっとお返事を下さいましね。 かしこ    九月十八日       勝沼亜紀   有馬靖明様 追伸  書き忘れてしまうところでございました。お手紙の最初に、私のことを可愛い妻であった、しかもお嬢さん育ちの我儘《わがまま》なところも、それはそれでまたひとつの魅力であったとお書き下さいましたね。私、読みながら、思わず顔が熱くなってしまいました。でも、そんな可愛い私という妻がありながら、あなたはなぜ他の女性と一年間も関係をつづけていらっしゃったのでございましょう。それが男というものだなんて言葉で、はいそうですかと納得することなんか出来っこありませんわ。そして、あなたがその言葉のあとでお書きになっていた、新しい御主人に対してどうだったのか云々《うんぬん》のくだりは、私自身が一番よくわかっていることでございます。私は勝沼にはいい妻ではありませんでした。だってどうしても、私はあの人を夫として愛することが出来なかったのです。それから、あなたがほんの一瞬ご覧になったというあの短い夢、私にはどんなに哀しい夢として残ったことでございましょうか。さらにもうひとつ、私にとっては驚天動地のようなお話、あの父のロマンスのくだりを読んで、私はなんと男という動物は、幾つになっても、美しい女性に目を眩《くら》まされてしまうものかと呆れてしまいました。けれども読みながら、何だか楽しくてくすくす笑っておりました。そしてあなたに感謝いたしました。なぜなら私は、きっとあなたは父を恨んでいることだろうと思っていたのですもの。 前略  過去、現在、未来……。あなたのあのお説教臭い言葉を、私はあなたの精一杯の言葉として、しかも清高さんという先天性の障害を持って生を受けたお子さんを今日まで育ててこられ、今後も幾多の苦闘を強いられているひとりの母であるあなたの精一杯の言葉として、受け取らせていただきました。そして、実際、自分という人間は三十八にもなろうとしていながら何と青臭い男であろうかと思いました。あなたの仰言《おっしゃ》るとおりです。私はいったい何の為に、「清乃家」のあの部屋に泊まったのでしょう。そんな男だからこそ、この十年間、転げ落ちて、ドブに打ち捨てられた破れ靴みたいに成り果ててしまったのでしょう。それはともあれ、私はいま働いています。それも、この大阪中を、てくてくと歩き廻って働いています。朝の九時に、見本誌とパンフレット、それに契約を取りつけたときに必要な申し込み書を鞄《かばん》に入れて、同じいでたちの令子とともに、駅まで向かいます。私たちはそこで別れて、その日の予定の地域めざして電車に乗るのです。大阪市内は令子の担当地域で、市外の、枚方《ひらかた》市や寝屋川市、堺市といったところが、私の担当地域なのです。車で廻ると、もう最近では殆どの道が駐車禁止で、美容院で話し込んでいるうちに、駐車違反の紙を貼《は》られてしまうはめになりかねません。しかも美容院というやつは、商店街の中にあったり、駅前の混雑しているところにあったり、車も通れない狭い道の奥にあったりして、車よりも歩いて外交に廻る方がいいという結論に達したわけです。  私は地図を片手に歩いて行きます。美容院の看板を捜して、あたりをきょろきょろ見廻しながら歩いて行くのです。美容院をみつけると、まずその店の外観を眺めてみます。ガラス窓が汚れていたり、客を呼ぶための工夫をまったく凝らしていない店は、たとえ大きな美容院でも、このPR誌に興味を示してくれません。ですが小さな、主人がひとりで細々と営んでいるような店でも、店の入口や壁などに、流行の髪型をしたモデルの写真を貼ったり、「土曜・日曜以外のお客さまは一割引き」などと書かれた掛け札をぶらさげている場合は、最初は迷惑そうにしていても、こっちが熱心に説明をつづけていけば、だんだん興味を示し始め、それなら試しにひと月だけ取ってみようかと、申し込み書に判を押してくれるのです。  一日歩きつづけ、二十軒近い美容院に入って、ただのひとつも契約を取れない日の足の痛さは格別です。場末の小さな美容院の、豚みたいに太った女主人が、私の説明を聞いているうちに突然怒り出したときは驚きました。彼女は遠廻しに、あることを要求しているのでした。自分を「先生」と呼ぶべきだというのです。たかがちっぽけな美容院の女主人を、なぜ先生と呼ばなければならないのか、理解に苦しむところですが、この世界では、店の主人を先生と呼ぶのがしきたりだと彼女は言うのでした。さんざん私にまくしたてたあげく、「一部二十円もの紙きれを客にあげるなんて、勿体《もったい》ないわ」と断わられました。それ以来、私はどんな美容院に入っても、相手があきらかに従業員だと判っていようが、まず「先生ですか」と訊くようになりました。一時間近く粘って、せっかく経営者が契約する気になりかけたとき、年若い見習いの青年に「そんなん、お客さんに渡したかて喜んでくれませんよ。先生、やめといた方がよろしいよ」と口を挟まれて、結局駄目になったことも何度もあります。しかし、午前中に三軒の店に入り、三軒とも、あっさり契約してくれた日もありました。そうやって三週間歩くと、私の皮靴が一足つぶれてしまいました。両方の靴底の親指の根元あたりに穴があき、かかとの部分もぺちゃんこになってしまったのです。外交用に買った新しい靴が、三週間でそんなありさまです。そのかわり、それまでくらげの足みたいだった私の足は、登山家のように強くなりました。この三週間で、令子が十二軒、私が十六軒の美容院の契約を取りました。先月の二十六軒と合わせて、五十四軒に増えたわけです。それ以外に、近畿一円の美容院五百軒に送ったダイレクトメールで、十二軒の店が申し込んで来ました。合計六十六軒ということになります。  この、美容院を捜して歩くという行為は、大袈裟《おおげさ》な言い方ですが、まさに人生そのものみたいな気がするときがあります。四つ辻に立って、さてどっちへ行こうかと思案して、右に曲がって行くと、だんだん人通りが少なくなり、何やら工場街に迷い込んでしまい、美容院など絶対ある筈のない道を歩いていることに気づくのですが、相当な距離を来てしまって今さらあとに戻ることも出来ず、延々と工場がつづく道を馬鹿みたいに進むしかなく、やっと町らしいところに辿《たど》り着いたときには日が暮れて、おまけにそこがどこなのか、どうやって帰ったらいいのか判らなくて、その場に坐り込んでしまいたい衝動に駆られ、へとへとになって一軒の美容院にも入らないまま家路を辿る、なんてこともありました。同じように、四つ辻に来て、えい、こっちだと歩き始めると、すぐ新興住宅の建ち並ぶところに出て、開店早々の美容院をみつけ、あっさり契約が取れたときもありました。右へ行くか、左へ行くか、まったく人生だなと、変に感心しながら、私は毎日歩きつづけていました。  六十六軒の店への配達だけは、車を使うしかありません。先月は一日で済みましたが、今月は三日かかりました。配達も終わり、三日程休みがとれました。私は本屋に行って、またPR誌の編集に役立ちそうな本を買い込んで帰って来ると、令子が、テーブルに坐って、何か深刻な表情でうなだれていました。どうしたのかと私が訊いても返事をしません。しかし私が寝転がってテレビを観ていると、とうとう我慢しきれなくなったように言いました。「勝沼亜紀さんて、誰やのん?」。私ははっとして令子を見ました。私はあなたからの手紙を全部、自分の机の一番下の抽斗《ひきだし》にしまってありました。令子は以前はスーパーに勤めに出ていましたから、あなたからの手紙は、アパートの部屋でごろごろしている私が、郵便受けを覗《のぞ》きに行くことで彼女に気づかれないまま手にすることが出来ました。しかし二ヵ月前から、令子が商売に没頭するようになると、私は、管理人のおばさんに頼んで、私に届いた手紙は内緒で取り出して、あとでそっと渡してくれるよう頼んでおいたのです。そのために、私はおばさんに五千円札を一枚握らせておきました。おばさんは、にやっと笑って引き受けてくれました。だから、令子がなぜあなたのことに気づいたのか判りませんでした。私が黙っていると、令子は私の机の抽斗から、あなたからの何通かの手紙の束を出し、私の前に置きました。消印を見ると、ことしの一月十九日に始まって、七通もの、それも驚く程ぶ厚い手紙がずっとつづいて届けられている。いったい勝沼亜紀という女性は何者なのか。令子は私を問い詰めました。封は切られているのですから、令子が読もうと思えば読めた筈です。しかし、何者なのかと質問するのは、中味に目を通していないからだと私は判断しました。令子は読みたいのを辛棒して、私の帰りを待っていたのでしょう。令子は言いました。初めの手紙は星島亜紀となっているのに、二回目からは勝沼亜紀に変わっている。いったいこの女性は誰なのか、あなたの何なのか教えてほしい。「嫉《や》いてるのか?」と私が笑うと、「うち、嫉いてへん」。令子は上目使いで私を見つめ返しました。「封を切ってあるんやから、なんで内緒で読めへんかったんや」。私が訊くと、令子はうなだれて、「人の手紙を勝手に読んだりでけへんもん……」と呟《つぶや》きました。私は、自分の過去については、何ひとつ令子に語ったことはありませんでした。ただ一度だけ、車に乗って外交に廻った日、昔、生野区に住んでいたことがあると言った覚えが残っているだけです。私はあなたの手紙に捺《お》されている消印を見ながら、届いた順番に並べると、令子に、読んでもいいよと言いました。あなたからの手紙を、無断で他人に読ませたことをお詫《わ》びいたします。あなたからの何通かの手紙を読めば、私が何を語らずとも、令子はいっさいを理解するだろうと思ったのです。  とにかく長い手紙ばかりです。それも七通あります。令子は最初、テーブルに移って、そこで読み始めました。私はその間ずっとテレビを観ていました。そろそろ晩めしにしてくれないかなァと思いましたが、令子は手紙に食い入るようにして読みつづけています。外で食事をして来るが、いいかと訊くと、令子は手紙に見入ったまま、小さくうんと答えました。私は近くのレストランで夕食をとり、そこを出ると駅前の喫茶店に入って珈琲《コーヒー》を飲みました。三十分もたつと、身をもてあましてきました。私は喫茶店のマスターにメモ用紙とボールペンを借り、得意先を百五十軒に増やすためには、今後どんなセールス方法を考えたらいいのかとか、来月のPR誌にはどんな記事を載せたらいいのかとか、そんなことを考えながら、現在の赤字分、残っている貯金の額などを書き込んでみました。頭に手をやって、メモ用紙に並んだ数字を見ているうちに、もう随分長い間床屋に行っていないなと思いました。あした散髪にでも行こうかと考えたとき、ふとあることを思いついたのです。同じやり方で、床屋用のPR誌も扱ってみたらどうだろうかということでした。システムは同じだが、床屋である以上、内容も男性向きに変えたらいい、そうだ、美容院だけでなく、床屋にも手を拡げて行こう。だが慌てるなよ、美容院の方が軌道に乗って、何とかそれで食えるようになってからだ。  私は喫茶店を出ると、アパートの前を通り越し、露地を曲がって印刷屋に向かいました。田中印刷と書かれたガラス窓は閉まっていて、中のカーテンも閉じられていましたが、仕事場には明かりが灯り、機械の動く音が聞こえました。私がガラス戸を開くと、黒い印刷用のインクで汚れた手袋をはめて、主人が、インクまみれの凸版を点検していました。まだお仕事ですかと私が言うと、背の低い、四六時中小粒な目をしばたたかせている白髪混じりの主人は、仕事の手を止めて「お越しやす」と愛想よく笑いました。絵の具の入った罐《かん》や、試し刷りに使われた紙が、足の踏み場もない程に散らかっていて、インクの匂いと紙の匂いに満ちていました。それに、壁にすえつけられた木の升目の箱の中の、何千個もの鉛の活字が、蛍光灯に照らされて光っています。主人は奥から椅子を運んで来て、私に坐ってくれと言いました。それから手袋をはずしながら、「今月は四十軒も増やしはりましたなァ」と話しかけて来ました。「このぶんで行ったら、百五十軒まですぐでっせ」。そちらが手間のかかる仕事を丁寧にやってくれるから、とても助かっているといった意味のことを私が言うと、彼は、「わたいは五百軒には増えると思いまっせ」とまんざらお世辞でもなさそうな口振りで言いました。「五百軒いうたら十万部や。中には、ワンセットの二百部では足らんで、四百部、六百部と取りはる店も出て来まっしゃろ。十万部を越えたら、今の一部七円といううちの貰い分を五円に下げさせてもらうことが出来るんだす。毎月五十万円、現金で払うてくれるお得意さんなんて、うちみたいな小さな印刷屋ではそないにおまへんでェ。はよそないなっておくれやす」。印刷屋の主人は真顔で言いました。そこで私は、さっき喫茶店で考えついた、床屋にも手を拡げるという計画を話してみました。「そらええ考えや」と主人は膝《ひざ》を叩きました。美容院を廻って、床屋を忘れる手はないと言うのです。もしかしたら、床屋の方が数が増えるかもしれない。彼はそう言いました。「散髪屋も、あっちこっちに増えて来て、昔みたいな商売してたらどもならん時代だす。そら絶対やりなはれ。こっちも初めから儲《もう》けたろなんて思てまへん。お宅の進み具合に合わせて、いろいろ考えさせてもらいまんがな」。主人は、腕組みをして、散髪屋が五百軒で、美容院が五百軒、合わせて千軒、二十万部やがなと天井を見ながら呟きました。彼は店の奥の階段を昇り、二階からビールとコップを持って降りて来ると、私についでくれました。私たちはビールを飲みながら、それから小一時間ばかり話し込んでいました。彼はもっと私と話がしたい様子でしたが、私は、思いついた自分の計画を早く令子に聞かせたくて、引き止める主人に礼を言ってアパートに帰って行きました。千軒か、と私は歩きながら思いました。じっくり行こう。十年で、千軒にしてみせよう。私は、十年の歳月を思いながらも、あと一球で泣いても笑っても勝敗が決まるという瞬間のピッチャーみたいな気持になって来ました。  令子はテーブルから離れ、部屋の隅の壁に凭《もた》れて、まだ手紙を読みつづけていました。そっと覗き込んでみると、あなたからの四通目の手紙の終わり近くにまで来ていました。いっぺんに読んでしまうつもりなのか、晩めしは食べないのかと私が訊くと、令子はただ「うん」と言ったきり顔もあげようとはしませんでした。私は自分で蒲団を敷き、パジャマに着換えて横になり、またテレビのスウィッチをひねりました。令子は六通目と七通目の手紙を、私の蒲団の横で腹《はら》這《ば》いになって読みました。令子があなたの手紙を全部読み終えたのは十二時を廻った頃でした。手紙の束を元の机の抽斗にしまうと、令子は立ちあがって部屋の明かりを消し、台所の明かりを点けて、冷蔵庫の中から何やら残り物らしきものを出し、それをおかずに食事を始めました。私はテレビを消し、起きあがって令子の横の椅子に坐り、煙草に火をつけました。令子は泣いていました。泣きながら、冷や奴を食べ、マヨネーズを塗りたくったハムにかぶりつき、御飯を頬張りました。そうしながら、手の甲で涙をぬぐい、鼻をすすりました。ぬぐってもぬぐっても、令子の丸い目からは涙が流れ、白い頬を伝ってテーブルの上に落ちて行きました。食べ終ると、令子は泣きながら、洗い物を片づけ、顔を洗い、歯を磨き、パジャマに着換え、私の蒲団の横に自分の寝床を敷くと、そのまま横になってひとことも口をきかぬまま、蒲団をすっぽりと頭までかぶってしまいました。私はしばらくぽつんとひとり台所の椅子に坐り、蒲団にくるまって身動きひとつしない令子を見ていましたが、やがてそっと近づいて行きました。そして、頭までかぶっている蒲団をゆっくりめくりました。令子は目をあけたまま、蒲団の中でまだ泣いていたのです。なぜそんなに泣いているのかと私は訊きました。令子は泣き腫《は》らした目で私を見つめ、手を差しのべて来ました。そうやって自分の蒲団の中に私を招き入れると、私の首の傷跡を指先でなぞりました。令子はあなたからの七通の手紙を読んだにすぎません。私が出したあなたへの五通の手紙の内容はまったく知らないのです。ですが令子は私にしがみついて、「うち、あんたの奥さんやった人を好きや」と言いました。ただそれだけ言って、あとは私が何を話しかけても黙っていました。私は令子の蒲団から出て、机の中のあなたの手紙をもう一度取り出し、台所のテーブルにそれを並べました。ひとり無言で煙草を喫いながら、七通の手紙の束を見つめました。あなたは、この手紙のやりとりもいつか終わらなければならないときが来ると承知している、そうお書きになっていましたね。私は、寝てしまったのか、それともまだしゃくりあげているのか判らぬ、蒲団にくるまった令子に目をやりました。そして、そろそろその時期が来たことを知りました。  きっとこの手紙は、私からの最後の手紙になるでしょう。私はこの手紙をポストに入れたら、次の目標地域である寝屋川市の道という道を、美容院の看板めざして、てくてくと歩きつづけることになります。そして、もしかしたら何年か後、私は阪神電車の香櫨園駅で降りて、あの懐しい住宅地を抜け、テニスクラブの手前にあるあなたの住んでいる家の前に行ってみるかもしれません。そうやって、そっとあなたのいる家を見、あの大きなミモザアカシアの古木を眺めて、またそっと帰ってくるかもしれません。どうかいつまでもお元気でお過ごし下さい。御子息が、きっときっと、あなたの願いどおりに成長されますよう、陰ながら心よりお祈りいたしております。 草々    十月三日       有馬靖明   勝沼亜紀様 前略  あなたからの最後のお手紙、テニスクラブの中の藤棚の下のベンチに坐って、穏やかで暖かい秋の陽差しを浴びながら読ませていただきました。さまざまな町を、地図を片手にてくてく歩いていらっしゃるあなたの姿が目に浮かぶようでございました。  あなたのお便りを読んで、私もまた最後の手紙をしたためなければならぬと考えたまま、いったい何を書いたらいいのかわからず、何日かを過ごしてしまいました。十月が過ぎ、十一月に入っても、私はなぜかペンを取る気持になれませんでした。そんなある日のことでございます。よく晴れた木曜日の昼近くでした。久しぶりに骨休めだと言って、会社に行かず、縁側に坐って庭の木を見ていた父が、母のお墓まいりにでも行こうかと私を誘いました。お彼岸でも命日でもなかったのですが、私も行きたいと思いました。育子さんに、清高を、三時半に駅前のスクールバスの到着するところまで迎えに行ってくれるように頼み、急いで服を着換えました。父は会社に電話して、車を寄こすよう命じると、少し自分には派手過ぎると言ってせっかく誂《あつら》えたまま一度も着たことのなかった濃いオリーブ色の背広を出して来て、「これはどうかな?」と私に訊《き》きました。その背広は父にとてもよく似合いました。私と父は、車が到着するまでの間に、軽い昼食を済ませました。墓まいりのあとで、うまい京料理を御馳走してやるから、そのつもりで昼めしを食べておけと父は言いました。あなたも一度、私と父との三人で、母のお墓に行ったことがありましたわね。たしかあの時は、結婚してまだひと月もたたない頃で、母の七回忌を済ませたあと、三人で山科《やましな》の樹林に包まれた小さな墓《ぼ》苑《えん》に詣《もう》でたのでございます。山科は母の生まれた地でしたから、父は母のお骨をあえてその墓苑におさめたのでございます。  運転手の小堺さんの声が聞こえ、私と父は車に乗りました。「山科まで行ってくれ。家内の墓まいりや」と父は小堺さんに言いました。小堺さんは、父の車の運転手をなさって、ことしでもう十五年になります。十月の初めに一番上のお嬢さまの結婚式を済ませたばかりだというのに、二番目のお嬢さままでが、来年の一月に挙式することに決まったと伺っておりましたので、私は「また急なことですね」と小堺さんに言いました。小堺さんは車を走らせながら、「もう我が家は破産寸前です」と仰言いました。私がどうしてそんなにつづけて結婚なさることになったのかと訊きますと、小堺さんの代わりに父が笑いながら教えてくれました。「はよ結婚式をあげてしまわんと、赤ん坊が生まれてしまうんや」。私が笑いますと、小堺さんは、片手で首のあたりを軽く叩きながら、いま七ヵ月で、早ければ挙式予定の一月十日までに生まれてしまうかもしれない、それが心配で心配で、と照れ臭そうに苦笑いなさっていました。  名神高速道路を降りて京都に入ると、山科に向かう国道に入りました。私は花屋さんをみつけて、小堺さんに車を停めて下さるよう言いました。すると父が、花はいらないと言いました。墓前で枯れている花を見ると淋しくなる。花をたむけても、やがて枯れてしまうだろう。俺は墓前に花をたむけたり、饅頭《まんじゅう》をそなえたりするのは嫌いだと言うのでございます。車がまた動き出すと、父は誰に言うともなく、墓には何も飾らない方がいい、ただ名前が刻んである、それだけでいいのだと呟きました。やがて田圃《たんぼ》が見えて来て、農家の並んでいる山里にはいりました。車は細い曲がりくねった道を、樹木の繁みに包まれるように進んでいきました。「紅葉が見頃やな」と父は言いました。  墓苑は小さな山の斜面に設けられています。そのひっそりとした墓苑を、無数の樹木の、色とりどりの葉っぱが覆い隠すようにして風になびいていました。墓苑の入口に小屋があり、中にお爺さんが坐っていました。雨や陽を除《よ》けるための、人ひとりがやっと入れる小屋ですが、中からはお線香の匂いが強く漂っていました。お蝋燭《ろうそく》とお線香、それに木の手《て》桶《おけ》と柄杓《ひしゃく》が置いてありました。父は老人からお線香を買い、手桶と柄杓を借りると、手桶に水を入れ墓苑へのなだらかな丘陵を昇って行きました。小堺さんも車から降り、私もおまいりさせていただきますと言って、あとからついてこられました。母のお墓は、墓苑の一番上にありました。「星島芙美 昭和三十八年十二月十四日没」とだけ刻まれた小さなお墓です。落葉が墓碑のまわりにたくさん散らばっていたので、私は斜面を下って、老人のいる小屋に行き、竹ぼうきとチリ取りを借りて戻って来ました。そして母のお墓の廻りの掃除を始めました。すると父がそれを制しました。このままでいいのだと父は言いました。幾ら掃除しても、枯葉はまた落ちて来る。きりがない。雨ざらしになり、風に打たれ、落葉に埋まって、やがて苔《こけ》に覆われて……、それでいいではないかと言うのでした。そして墓碑に手桶の中の水もかけないまま、じっと母のお墓を見ていました。じゃあ、お線香だけと言って、私は父のライターを借りました。「三本だけにしとけよ。そんなにぎょうさんの線香に燻《いぶ》されたら、けむたい」と父は怒ったように言いました。私は言われたように三本のお線香に火をつけました。母がもし生きていたら、あんな事件があっても、きっとあなたとの離婚に反対してくれたであろうと思いました。母は私が十七歳のときに亡くなったのですから、勿論《もちろん》あなたのことは知らないわけですが、私はなぜかそんな気がして、落葉を載せた小さな墓碑に見入っていました。でも「もし」とか「たら」なんて言葉は、幾ら言っても詮ないことでございます。詮ないことを口にするのも、愚痴というものでございましょう。私が、この三十五年間の中で喪《うし》なったもので、とりわけ大切なものといったら、母とあなたであったと思われます。でも私は、墓碑に見入りながら、そしてあなたの最後のお手紙を思い出しながら、もっともっとたくさんのものを喪なったような気がいたしました。私も父も小堺さんも、それからひとことも喋《しゃべ》らないまま、二十分近く墓前に立っていました。お線香が、最後の濃い煙をたてて消えたとき、父が「行こうか」と言いました。  車に戻ると、父は小堺さんに「あそこへ行ってくれ」と言いました。車はもと来た道を戻らずに、曲がりくねった細道をまだ先に向かって進んで行きました。樹木はいっそう深くなり、いったいどこへ行くのかと思っているうちに、立派な門構えの料亭の前に出ました。「しの田」というのが、その料亭の屋号でした。父と顔馴染みらしい中年の番頭さんが出て来て、私たちを離れの座敷に案内しました。調度品といい、建物の材質といい、どの部屋からもお庭が眺められるよう設計された造りといい、大層なお金と時間がかけられた料亭のように思われました。父は小堺さんも一緒にと誘ったのですが、彼は昼食を済ませてお腹がいっぱいですと遠慮され、ラジオでも聞いていますと言って、車の中に残られました。  お庭だけでも千坪はあったでしょう。それも簡素でありながら、手入れのいきとどいたさまざまな大木と、びっしり苔に覆われた大きな石が、見事な調和を見せている立派なお庭でした。すぐに、私とおない歳か、あるいはほんの少し歳上かと思える和服姿の女性がやって来て、父と私に御挨拶をなさいました。父は「ここのおかみや」と私に紹介しました。それから私を自分の娘だと教えてから、いつものやつを持って来てくれと註文しました。こんなところに隠れ家を持っていらっしたのと私が軽く睨《にら》みながら言うと、父は、得意先の接待に五年程前から使うようになったと説明し、名前はわからないが、あのおかみにはどえらい大金持のパトロンがいると教えてくれました。京料理が運ばれて来て、おかみさんがそつのない話をしながらテーブルの上に並べている間、私はお庭に目を向けて、そこから少し離れたところで風になびいている盛りの紅葉の朱に染まった一角を見つめていました。おかみさんが下がると、あの女をどう思うか、父はそう私に訊きました。着物といい帯といい、身につけているものは立派ですし、それにとても美人ですねと私は答えました。父は、あの女は金もあるし、なかなかの美人で頭も良くやり手だが、声が悪いと言いました。声なんか悪くともいいではありませんかと私が言い返すと、父はいやに真剣な表情で「声は大事や。その人間の本質が出るもんや」と言いました。そして、いい医者は、声の微妙な響き具合で、その日の患者の健康状態を察知するものだとつけ加えました。「あの女の声には品がない」。父は漆塗りの器に盛られた京料理に箸《はし》をつけながら、そう言って顔を綻《ほころ》ばせました。食後の果物をいただいてしばらくすると、父が庭の向こうを指差して、あそこに石の階段がある、昇りきると小さな祠《ほこら》が作ってあり、そのあたりから眺める紅葉は絶品だと言いました。それから、庭に出ると料亭の下駄を履き、「亜紀も来なさい」と誘うのです。私は、父が何か私に話したいことがあるのだと気づきました。それで、一緒にお庭に出ると、父のあとをついて行きました。父の言ったように、大きな松の木のうしろに長い石の階段がありました。ふたり並んで昇れないくらいの幅の狭い階段でした。随分長い階段で、昇り切ると息がきれて、私と父はハンカチを敷くと石の上に腰を降ろしました。私はじっと父のうしろ姿を見ました。そして、もうそろそろお仕事をひかえられたらどうかと言ってみました。すると父はこう答えました。「この歳になって、やっと仕事というもんがわかって来た。仕事をすることが生きるということやと思うようになった。俺はもっともっと働く」。父は夥《おびただ》しい紅葉に目を向けたまま、しばらく黙っていましたが、やがてこんな話を始めました。育子に聞いたが、この頃、ひんぱんにお前宛の手紙が来るそうだな。それもいつも違う名前の女で、いやにぶ厚い手紙だという。ひと月程前、昼から会社に出た日だが、車が来て門のところまで出たとき、郵便受けに手紙が入っていたので取り出した。お前に来た手紙で、差出し人は浜崎道子となっていた。俺はそのまま手紙を育子に渡して車に乗った。そこまで語ってから、父は振り返って私を見つめ、こう言ったのでございます。「懐しい字やった」。私と父はしばらく無言で見つめ合っていました。やがて父の方から口を開きました。「有馬はいまどうしてるんや」。私は父に何もかも話そうと思いましたが、いったい何から話したらいいのかわかりませんでした。それで一年前、蔵王で偶然あなたと再会したこと、それから手紙をやり取りするようになったこと、あなたの事件のいきさつ、瀬尾由加子さんとのこと、いまなさっているお商売のことなどを、順序も別々に、支離滅裂な話し方で説明しました。話していると声が震えて来て、涙が浮かんで来ました。そんな私を見て、「もっと落ち着いて話しなさい」と父は穏やかに言いました。話し終えると私はなぜか心臓がどきどきして、しばらくおさまりませんでした。父は長い間黙っていましたが、再び眼下に目をやって、「勝沼は、大学から貰う給料をお前にちゃんと渡してるのか」と訊きました。私が「はい」と答えると、父はまた何かを考え込んでいる様子でしたが、「あいつは勝沼と違うて、泥沼や」と、ぽつんと吐き捨てるように呟きました。父は、勝沼について調べたのだと言いました。神戸に女が住んでいる。お前もとうにそのことは知っているだろう。そして、と父はつづけました。「ふたりの間には、ことし三つになる女の子がいてる」。きっと何かのアルバイトで金を工面しているのだろうと父は煙草に火をつけてから言いました。父は私に「勝沼を嫌いか。好きになれそうにないか」と訊きました。そして私の返事を待たずに、怒りのこもった口調で言ったのです。別れたかったら、別れたらいい。お前の自由だ。嫌いな男と一生を暮らせるものではない。俺が押しつけた男だ。俺には人を見る目がなかった。お前はいつも、俺にひどいめにあわされて来た。そこまで言うと、あとは黙り込んでしまいました。「勝沼をあんなふうにさせたのは私です。結婚してひどいめにあったのは勝沼の方です。でも私はどうしても、あの人を好きになれませんでした」。私は声の震えを押さえ、やっとの思いでそれだけ言いました。  それっきり私は随分長い間黙っていました。父も紅葉に目を注いだまま、身動きひとつせず、同じように黙っていました。私は勝沼のことを考えました。私はこれまでの何通かの手紙で、あえて勝沼壮一郎という自分の夫については触れないようにして来ました。そのこと自体が、私の、勝沼という人に対する心を表わしています。でも、勝沼は決して悪い人ではありません。清高という子の父として、彼は口にこそ出さなかったものの、私に劣らぬ哀しみの気持と愛情とを抱きつづけて来たことでしょう。東洋史に関する難しい本ばかり読み、自分の研究に対しても、また大学で自分が受け持っている学生たちに対しても、とても誠実な人でした。清高を鍛えるために、庭の芝生の上で、いつまでも根気よく野球のボールを投げてやっている姿を、私は何度も目にしています。そしてそのあときまって、リビングルームの絨毯《じゅうたん》の上にあぐらをかき、そこに清高を包み込むようにして坐らせると、父と子の、ふたりだけの話をいつまでもつづけていました。どうしてそのような人を、私は好きになれなかったのでしょうか。そしてそんな私を、勝沼はどんな気持で見ていたのでしょうか。私はふと父の死んだあとのことを考えました。父ももうじき七十一歳になります。清高が成人するまで生きていてくれるかどうかわかりません。私は背を向けて坐っている父のオリーブ色の背広を見つめました。清高と何やら話をしている勝沼の顔を思い浮かべました。私は喉《のど》のあたりに強い圧迫感を感じました。私はじっとしていられなくなりました。夕暮の道の、大きなお屋敷の門の陰で重なり合っていた勝沼と女子大生とのふたつの影、そう、実体ではなく影のようであった黒々とした映像が心をよぎりました。そしてこのとき、私は初めて勝沼に対して何か愛情に似たものを感じたのでございます。私は立ちあがって、あたり一面を包み込んでいる鬱蒼《うっそう》とした樹木を見渡しました。何百種もの朱色が、何百種もの黄色が、そして何百種もの緑色や茶色が、秋の陽の中で踊り騒ぐように動いているさまを見ながら、私は父に、勝沼と別れたいと言いました。勝沼を、天下晴れて、あの女性の夫に、三歳の女の子の父にしてさしあげましょう。もう結婚なんかしません。清高を一所懸命育てていきます。お父さん、私を助けて下さい。  父はもう一本煙草を喫い、喫い終わると地面にこすりつけて消しました。父は立ちつくしている私を振りあおいで微笑《ほほえ》むと、「よし」と言って立ちあがり、苔むした長い石の階段を降りて行きました。  この手紙をしたためるにあたって、私はあなたから頂戴したすべてのお手紙を読み返してみました。いろいろなことが心に浮かびました。どれも言葉にすることの不可能な、私だけの心の綾みたいなものでございます。でもひとつだけ、文章にして伝えられるものがございます。自分の命というものを見たあなたは、それによって生きることが恐しくなったとお書きになりましたわね。でも本当は、あなたはこの短いと言えば言える、長いと言えばまた長いとも言える人生を生きて行くための、最も力強い糧となるものを見たのだとは言えないだろうか、ということでございます。このあなたへの最後の手紙を、いったいどう結んだらいいのか、私はペンを握りしめたまま途方に暮れています。それにしても私はどうして、モーツァルトの音楽から、あのような言葉を思いついたのでございましょうか。「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれない」。まるでどこかから降って湧《わ》いたみたいな言葉でございました。しかし、あの言葉を手紙の中にぽつんと書き入れた事が、あなたに、私の知らなかった多くの事柄を教えていただく引き金となったのでございます。けれども、私が決して言わなかった筈の言葉。「モーツァルト」の御主人が、あたかも私から聞いたものとばかりに錯覚していた言葉。あの、宇宙の不思議なからくり、生命の不思議なからくりという言葉が、いま私に深いおののきに似た感情をもたらします。  ナイフで自らの首をえぐり切って死んだ瀬尾由加子さん。死んでいる自分を見つめながら、なお生き返ったあなた。年老いて、いっそう仕事に打ち込んでいる淋しい父。もうひとつの秘密の家庭を持ち、あの女との間に生まれた三歳の幼児の父として苦慮しているであろう勝沼壮一郎。あなたが猫に食べられていく鼠を見ていたその同じ時刻に、近くのダリア園のベンチに坐って、無限の星々を眺めていた私と清高。私たちの生命とは、何と不可思議な法則とからくりを秘めていることでございましょう。  いつまで書いていてもきりがありません。いよいよ筆を擱《お》くときが来たようでございます。私はこの宇宙に、不思議な法則とからくりを秘めている宇宙に、あなたと令子さんのこれからのおしあわせをお祈りいたします。この手紙を封筒に入れ、宛名を書いて切手を貼《は》り終えたら、久し振りに、モーツァルトの三十九番シンフォニイに耳を傾けることにいたします。さようなら。お体、どうかくれぐれもお大切に。さようなら。 かしこ    十一月十八日       勝沼亜紀   有馬靖明様 解説 黒井千次   『錦繍』は近頃では珍しい書簡体の小説である。そして、男と女の間でやりとりされる手紙によって作品がつくられるというこの形式そのものが、小説の内容をきわめて率直に明らかにしていると思われる。  書簡体なる形式自体は、近代小説の出発にとって一定の役割を果したようだが、本格的なリアリズム小説が出現するに及んで、次第に影を薄くしていったといえる。なぜなら、一人の人間が一定の相手に対して書く手紙の形式はあまりに制約が大き過ぎ、自由に作品の世界を展開する上で障害となる要素が多過ぎたからだろう。その意味では、書簡体は今やいささか古風な小説形式なのである。  また一方、現代の市民生活を考えてみた時、手紙の占めるウェイトは急激に減じて来ている。用件の伝達や意志の疎通をはかるには、たとえば電話が充分にその役目を果してくれるからだ。今日では、印刷物ならぬ肉筆の手紙が郵便受けにはいっていることが次第に少なくなりつつある。  つまり、小説の方法としても、日常の生活感覚としても、手紙というものはわれわれの暮しからやや遠ざかりつつあるといわねばならない。そして、だからこそ、作者、宮本輝氏の狙いがそこに定められたのではないだろうか。  もしも電話の普及が手紙の多くを無用のものとしているのだとしたら、にもかかわらず書かれねばならぬ手紙とは、おそらく他のいかなる手段によっても取ってかわられることの出来ない、最も本質的な手紙であるに違いないからだ。ひとりの女が、ひとりの男に向けて、書くことによってだけ辛うじて伝え得る悔恨を、哀惜を、思慕を綴ったような便りが、手紙の中の手紙でなくてなんであろうか。いいかえれば、日常生活における手紙の影が一般に薄くなればなるほど、逆に、生き残っている手紙は濃厚なドラマの影を帯びざるを得ぬことになる。  このような事情があるからこそ、宮本氏は書簡体といういささか古風な小説形式を逆手にとり、思う存分にロマネスクの世界を繰り広げることが可能となったわけである。しかも、宮本輝は自他ともに認めるまぎれもなき物語作家である。語る人にとって、手紙とは精神が伸びやかに活動することの出来るきわめて貴重な場所の一つであるに違いない。そこでは、三人称で書かれる小説のようには描写も説明も不要であり、ただ手紙の書き手の紡《つむ》ぎ出す言葉だけによってひたすらストーリーを展開していくことが許されるからである。  たとえば、この作品の書き出しを見てみるがよい。 「前略  蔵《ざ》王《おう》のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした。」  これだけの一つの文章の中に実に様々な内容が盛り込まれている。まず、女と男が再会したらしいこと、しかもそれは全くの偶然であり、女にとって青天の霹靂《へきれき》の如き出来事であったこと、更に、その再会について女が当の相手である男性に対して手紙を書いていること、などを一挙に知らされる。特にこの文章が「あなた」と呼びかける手紙であることによって、再会が単に女の上を通り過ぎて行く事件ではなく、彼女に衝撃を与え、彼女の生の流れを一時立ち停らせ、相手をも捲きこんだ上でそこに男と女のドラマをうみ出さずにはいないだろう、との予感を読む者に与えずにはおかぬのである。  言葉について一つつけ加えれば、「ダリア園」「ドッコ沼」「ゴンドラ・リフト」と続く濁音の世界がなにやら湿ったリズムを刻み、その内に男と女の重苦しげな再会という事態を包みこんでいる点にも注目しておくべきだろう。  再会というからには、二人の間に当然過去がある筈だ。それがどのようなものであり、なぜ彼女と彼とは別れねばならなかったのかが、二人の手紙のやりとりによって、いわば過去に向けて積み上げられるドラマのように明らかにされていく。  つまりここでは、過去は流れ去って完成した時間ではなく、幾重にもかさね合わされた上で、お互いにとっての未知の部分を襞《ひだ》深くに隠し合った生きている時間なのである。それを辿《たど》ることは過去を生き直すことであり、現在の生活を確め直すことに他ならない。  再会後、勝沼亜紀から有馬靖明に向けて発せられた手紙によって、二人はかつて結婚していた間柄であり、慌しい離別が訪れたのは靖明が別の女との無理心中未遂事件に捲きこまれたからであり、その間の事情は亜紀にとっては謎《なぞ》のまま残されていること、などを読者は知らされる。  靖明はためらいつつも、自分を無理心中の相手とした女性、瀬尾由加子との関係について語り出す。  こうして二人の間に交された手紙は、一月中旬にはじまり、十一月中旬に至るまで、十四通に達して終る。  しかし、この一年弱の期間に二人はただ過去を追って生きていたわけではない。むしろ二人は、結婚前の過去、結婚中の過去、離別後の過去を、手に持った札を出し合うようにしてお互いに示し、欠落を埋め、謎を解く努力を続けるうちに、いつか過去を追い抜いて現在に足を踏み入れている。いや、現在から未来に向けて更に歩を進める姿勢さえ示しているのである。そして『錦繍』における真のドラマは、ただ男と女の愛憎の関係にあるのではなく、二人の間を往復する便りが、過去を追うものから現在を撃つものへと変貌するその転換の内にこそひそんでいるのだ、と思われてならない。  離別した二人が過去に追いつき、それを追い越すことに成功したのは、単に彼等が過去の空洞を埋め得たからではない。そうではなく、過去を見つめる彼等の眼がほとんど無意識のようにして掘り出してしまった、一つの認識に到達したからであったろう。  まずそれは、モーツァルトの音楽に対する素朴な印象として亜紀を訪れた、生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれない、という感慨である。  無理心中をはかった挙句自分だけ死んでしまった薄命な由加子に、首と胸をナイフで突かれて重傷を負った体験のある靖明は、その考えをもう少しふくらませてこう書きつける。 「そうしているうちに、ふと、私はあの、死んでいる自分を見つめていたもうひとつの自分に、がっしりとまとわりついて離れて行こうとしなかった『あるもの』の正体が何であったのか、おぼろげに判り始めたような気がして来ました。己れの成したすべての行為と、そればかりではなく、行動にあらわさぬまでも、心に抱いただけにしか過ぎない恨みや怒りや悲しみや愚かさなどの結晶が、命そのものにくっきりと刻み込まれ、決して消えることのない烙印《らくいん》と化して、死の世界に移行した私を打擲《ちょうちゃく》していたのではあるまいか。そしてその思いは、由加子を思い浮かべることによって一瞬心をよぎった業という言葉とどこかでつながって行く気がしたのです。」  死によってすべてが終るのではなく、むしろそこから生の姿がはじめて鮮やかに照し出されてくる。靖明の言う「命そのもの」とは、生理学的な生命のことではあるまい。それは彼の生の世界と死の世界を一貫する、より超越的ななにものかなのであろう。そして「生きる」とは、「命そのもの」に無数の傷を刻むことであり、「死」とは限りもなくその傷《きず》痕《あと》をあばき続けることなのかもしれない。  ひたすら過去を語り、裏切りを詫《わ》び、自己嫌悪を告白していた靖明の手紙に転調が訪れるのは、彼が「命そのもの」についての認識を洩らした八月八日の便りからである。「あなたの手紙を受け取ってから今日までのほんの数日間の出来事が、ほぼ正確に記されている」と靖明が述べるこの手紙には、突如として猥雑《わいざつ》といいたいほどの「現在」が乱入し、由加子の記憶を押しのけるようにして令子なる女性が出現する。  生命それ自体のように活気に充ちた令子は、ちょうど死んだ由加子と同じ二十七歳で靖明の前に登場する。美しい由加子は死に向けての歩みに彼を誘ったのだが、スーパーマーケットに勤めて貯めた金で美容院向けのPR誌を作ろうとする令子は、彼をがむしゃらに生の丘へ駆けのぼらせようとする。靖明の便りに令子が現われたことによって、亜紀の手紙の中にまでその明るさが反映していく。再会のテーマを奏でていた沈痛なトーンが、どこかユーモラスなほのぼのとした音色を響かせるのはこのあたりからである。  亜紀には靖明と離別後に再婚した勝沼壮一郎との間に清高という知恵遅れの子供がいるのだが、令子が靖明にとっての生命の杖《つえ》であるのと同様に、清高は亜紀の生命の火であるといえる。障害のある息子をただ溺愛《できあい》するのではなく、普通の人と同じ能力にまで少しでも近づけようとする母親の決意と努力によって、清高は亜紀の生命の火となる。  こうして、「ダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中」での再会以来、一年足らずの期間に男と女はそれぞれの道を探り出し、新しく歩み出そうとする。 『錦繍』はいわゆるハッピーエンドの小説ではない。かといって、男と女の愛の終末を示す悲しいお話でもない。そのいずれからも隔った地点に成立する、いわば未来に向けて吹く風に身をさらした男と女の生命の物語なのである。 (昭和六十年一月、作家)