古川 薫 桂 小五郎(下) 目 次  第一章 開戦前夜      鴻峯山麓/長州処分/南奇の脱走/四境戦争/晋作昇天  第二章 征討の旗      船中八策/大政奉還/小御所会議/慶喜去る/鳥羽・伏見  第三章 官僚の門出      京都へ/攘夷残風/五箇条の誓文/幕藩解体  第四章 旅次変転      浦上四番崩れ/諸隊の叛乱/米欧回覧  第五章 帰去来      征韓論/松菊枯る  文庫版のためのあとがき [#改ページ] 第一章 開戦前夜   鴻峯山麓  ──先日、私は山口市|糸米《いとよね》にある木戸孝允の旧宅をたずねた。そこでまず山口盆地の秋色のことから、この物語を再開しよう。  紅葉をはじめた背後の山が、いちだんと家々の屋根を覗きこむように近づいて見える古都の初秋である。  町の三方をとりかこむ群嶽の主峰は|鳳翩山《ほうべんざん》で、標高七百四十メートル前後の東と西の峰に分かれている。その東鳳翩から発する一ノ坂川の清流も、秋を迎えて冷気を増しながら、人家の密集した町中を貫流し、|椹野《ふしの》川に合して、やがて瀬戸内海に臨む山口湾にそそぐ。人口約十万、県庁所在地としてはめずらしい小都市といえる山口の中心街は、盆地の北東部にあたる一ノ坂川扇状地にのせた静かな町並みである。  街区のやや中央付近で、小高い丘をなした亀山公園の森を突き抜けて、ザビエル記念聖堂の尖塔が、蒼穹を刺している。室町時代、西国を席捲した守護大名大内氏は、本拠をこの山口においた。スペイン人宣教師ザビエルが、山口にやってきて、わが国で最初の切支丹布教を開始したのは、十六世紀の中葉であった。大内氏三十一代義隆の治下で、すでに終末に近いころだ。  領主の徹底した中央志向と貴族化によって、家臣団が分裂し、武断派の統領|陶晴賢《すえはるかた》の叛逆で、防長の名族大内氏は崩壊した。ザビエルが、フェルナンデスに後事を託して山口を去ったわずか十数日後の天文二十年(一五五一)九月のことである。  二十四代弘世のころから義隆まで二世紀にわたって、大内氏の代々が、そのゆたかな財力を注ぎこんだ山口の町は、文字通り西の京都であった。ひたすらな京へのあこがれが、一ノ坂川を鴨川にみたてた模倣都市としての山口をつくりあげたのである。その小京都も、陶の叛乱により炎上、消滅した。劫火は八日間にわたって、秋晴れの山口盆地の空を焦がしたという。  滅びの秋といえば、それから五十年後の慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の役も秋だった。中国八カ国支配の座を失い、広島城を追われて防・長二国に閉じこめられた毛利氏は、新たな本城を防府におきたいと望んで幕府に拒否され、さらに第二希望地の山口案も一蹴された。  しぶしぶ萩に本拠を築いたものの、山口には出先を設けて、ひそかに藩領中央部への執着をつなぎとめてきた。長州藩が、幕府に無断で萩を捨て、「山口移鎮」を決行したのは、文久三年(一八六三)である。即今攘夷の藩論が頂点に達し、関門海峡で外国艦船に砲撃を浴びせた年だ。  翌元治元年、禁門の変や四カ国連合艦隊来襲に惨敗した長州藩が、幕府の威圧に屈したのもその年の秋である。藩主|敬親《たかちか》は、謝罪の一条件として山口を去り、萩に謹慎したが、ほとぼりがさめるとまた山口の政事堂を復活させた。  禁門の変後、但馬に潜伏していた桂小五郎が、九カ月ぶりに姿をあらわして、長州へ帰国した慶応元年四月当時には、早くも山口が藩政の府となっていたのである。  五月二十七日、政事堂用掛及び国政用談役心得を命じられた小五郎は、山口で暮らすことが多くなり、妻の松子も一緒だから、一戸を構える必要があった。  糸米に住居を持ったのは、明治になってからだという説もあるが、『史実参照・木戸松菊公逸話』(妻木忠太著)によると、慶応二年(一八六六)にここへ移っている。つまり京都での薩長連合盟約を終え、帰国してから、松子と糸米に落ちついたものであろう。もっとも小五郎は、京都から帰ると、萩や下関などへ頻繁に出かけ、また長崎、京都と飛びまわっているので、山口のこの居宅に腰を据える暇はあまりなかったにちがいない。  糸米は、亀山公園下から南西へ、国道九号線に並行して走る細い道路を一キロばかり行ったあたりだ。障子岳に突き当たるようにして右に折れ、山手に最も奥まったところ、低い丘陵地の一部に木戸孝允旧宅がある。  国道九号線からいえば、下清水のバス停からわずか湯田温泉寄りの地点で交差する道を、右折して山手にむかって行く。道はしだいに細く、やや登り坂となり、にわかに山肌が接近してくる。兄弟山または土地の人が双子山と呼んでいる山の形が、ムスビを二つ並べたようで、いかにも箱庭めくというか、童話劇の書き割りにも似たあどけない感じなのだ。  木戸邸は、双子山のふもとだが、東隣りにそびえる鴻ノ峯の南麓にもあたる。木戸孝允の死後、その遺志によって土地屋敷は地元に寄付された。そこで奨学制度の基金にするため売却したのである。だから今は、和菓子本舗山陰堂の社長竹原哲史氏が、ここに邸宅を構えている。竹原家の所有となったのは、昭和初年である。そのころは付近に人家もなく、ものさびしいところだったらしい。  木戸孝允こと桂小五郎夫妻が、移ってきた当時、この場所には古びた武家屋敷があったはずで、藩士湯川平馬の居宅だったものを譲り受けたことになっている。古くは大内時代、代官屋敷がおかれていたともいわれ、邸内の庭にふくまれる一段高い山林の一部は、かなり広い平面を持ち、あきらかに拓かれた土地を思わせる。  そこからはるかに東山を望み、その手前に山口の市街地を俯瞰できる。朝日も、満月も東山から昇るのだ。  屋敷のすぐそばを小さな谷川が流れ、数百年を経た老松、また楓の大樹が枝をひろげて、鬱蒼とした庭園をつくる。小五郎は、よほどこの新居が気に入ったのであろう。「秋日山居」と題し一詩を賦している。     山松幾株色蒼々     峯頭時ニ看ル一草堂     荒径草深人跡少ク     細流痩石残陽ヲ帯ブ  この中の「峯頭」とは、鴻ノ峯である。標高三百二十メートル、街角からも、ふと見上げるほどの高さで、山口の人の親近感をそそる。そして糸米の住人は、|鴻峯山麓《こうほうさんろく》の静寂に、風流の心を養った。  かつてこの山都に弊衣破帽の青春を謳歌した旧制山高も、鴻ノ峯南麓の糸米にあり、その寄宿舎を鴻南寮といった。彼らは木戸孝允の旧邸周辺を遊歩しながら、金木犀の香に酔い、また血の色をした楓の葉の間から鴻ノ峯を仰いで、青雲の志を燃やしたかもしれない。  鴻ノ峯には、大内氏が城を築きかけたが、乱世への備えを忘れた守護大名の砦は、まるでものの用に立たなかった。陶晴賢の攻撃を受けると、大内義隆は、鴻ノ峯中腹にある法泉寺に入ったが、すぐに長門にむけて脱出した。  義隆が自刃し、大内の主流が滅んだあと、晴賢は、豊後の大友宗麟の弟晴英を迎え、大内義長と改名させて、傀儡政権を山口においた。  ここで広島にいた毛利元就の登場となる。彼は厳島で陶晴賢を討ったあと、大軍を山口ヘさしむけ、大内の�偽主�義長を攻めた。義長も山口を守りきれず、ただちに逃げて、長門国の長府に入り、長福寺(功山寺)で自刃した。  木戸旧邸からというと、鴻ノ峯と対称の位置に、障子岳が間近に見える。毛利軍の襲来と知って、この山には城の石垣と見せかけるため障子を集めて山腹に並べたという故事によって、その名がある。  京を真似た文化都市山口の、軍事的にはまことにひ弱な話がまつわる二つの山を南北に見る屋敷に、桂小五郎はひとときの休息を味わいながら、来るべき幕府との決戦に備える長州の強兵策を練ったのである。  そこからほど近く、同じ鴻ノ峯南麓には|普門寺《ふもんじ》がある。小五郎が最も頼りにしている西洋兵学者村田蔵六は、そのころ普門寺に三兵塾をひらいて、士官養成の軍事教育をはじめていたのである。薩摩との提携、新式小銃の大量密輸、それに洋式訓練の実施と、長州藩の対幕戦準備は着々と進んでいた。  糸米の自宅から鴻ノ峯のふもと伝いに白石、春日町を通って滝町の政事堂にかよう馬上の小五郎の姿が断続的に見られたのは、慶応二年からおよそ二年間である。  小五郎と松子にとって、糸米の屋敷は、文字通りの新居であった。  二人が結ばれたころの京都は、血風吹きすさぶ不穏な日々がつづいていた。白刃の下をかいくぐる思いをしながら確かめあった愛は、それなりに深い思い出を遺したが、やはり落ちついた夫婦らしい生活を、絶えず夢みていたにはちがいない。現実は、逆に二人を引き裂いた。小五郎は但馬へ、松子は遠く対馬にまで逃避の旅を強いられたのだ。  世間並みにいうなら、苦労の甲斐があって、ようやく一戸を構えることができた。山口がかつて西の京といわれた土地だと知って、松子は長年住みなれた京の面影をなつかしんだことであろう。  新婚の喜びを、あらためて味わったとしても、小五郎は座のあたたまる暇もなく、外を飛びあるいている。慌しい時代に活躍する男たちの妻が、すべてそうであったように、松子も多くの日を留守居妻として暮らさなければならなかった。  この屋敷は、一軒だけいわば人里離れた山ふところに抱かれる位置に建っていた。南風が、まともに吹きつけてくるが、双子山と鴻ノ峯の谷間に吸われるのか、建物には風があたらない。しかし、夜など耳をおおうほどの山鳴りが、家をとりつつむのである。  半年余りの対馬での生活で、田舎暮らしに多少慣れたとはいえ、松子にとって、糸米はひどくものさびしいところだった。  しかし、小五郎が在宅するとなると、次々に訪問客があって、とたんに賑やかとなり、松子も多忙な家事に追われた。ここにはいろいろな人がやってきた。薩摩の大久保一蔵や土佐の田中顕助も来ている。  糸米時代について、後年の田中光顕が次のように語っている。彼は土佐勤王党解体後長州に亡命しており、小五郎が薩長連合の件で京都へ行ったときも随行しているので、かなり頻繁な接触があった。 「私が木戸公に初めて面会したのは、但馬から帰国して、馬関におられた慶応元年であった。……木戸公が山口の糸米に住居せられた時に、私が其の宅に參って、種々の話を聞いたことがある。或る日、公の夫人の翠香院が、私の着物は垢染みて臭気が甚だしいから、洗濯しましょうと言って、別の着物を出された。それは公の着物であって、之を借りて着たこともあったのである……」  翠香院とは、孝允の死後、髪をおろした松子の法名である。ちなみに明治十年に孝允が死んだあと、松子は九年後、四十四歳で世を去っている。  慶応二年、糸米に住んだとき、小五郎が三十四歳、松子が二十四歳である。田中光顕のこの回顧談は、賢妻といわれた松子の横顔を、さりげなく紹介したものといえるだろう。  糸米の屋敷は、相当に老朽化したものであったらしく、大工を入れて増改築し、見違えるほどの邸宅になったが、それらはすべて松子の指揮によるものだった。  田中光顕は、次のようにも言っている。 「高杉晋作も、常に木戸公は長者であると言っていたが、人に対しては余程親切であるから、何事も打ち明けて話が出来る。そして、私共にしばしば言わるるに、人は貧乏しない心掛けが必要で、常に費用を慎まねばならない、もし借金したら、人に頭が上がらなくなる……」  裕福な医者の家に生まれた小五郎は、生涯を通じて経済的にめぐまれた生活をおくった。それはまた浪費を慎む資産階級の心構えとして彼の身についたものであろう。  糸米のこの屋敷は、そうした彼にふさわしい面目を整えていたにちがいないが、現在の竹原邸は、そのほとんどが建てかえられている。木戸邸時代をしのばせるのは、裏庭の二階建て一棟が、なおしっかりした骨組みで遺されているだけである。  ところで、私は前巻の惰性もあって糸米時代の彼をも、なお小五郎と呼んでいるが、正確には木戸貫治、または準一郎である。このあたりでぼつぼつ木戸姓に改めなければならないだろう。  木戸姓になってからの彼は、三度名を変えている。初めが貫治、それから準一郎となり、そして孝允を名乗った。  桂小五郎が、木戸貫治となったのは、慶応元年九月二十九日で、これは藩命によるものであった。前年の秋から、小五郎は幕府のお尋ね者になっていたのである。広島へやってきた幕府の大目付永井|主水正《もんどのしよう》が、岩国藩主の|吉川経幹《きつかわつねまさ》を呼びつけて詰問した条項の中にも「桂小五郎、高杉晋作は如何にせしか」という言葉が見える。経幹は「居所不明なり」と逃げた。高杉は福岡へ、小五郎は但馬に潜伏中で、居所不明というのは事実である。  幕府が長州再征の勅許を得たのは慶応元年九月二十一日で、小五郎に改姓の藩命が出たのはその八日後だった。さらに十二月には村田蔵六も姓名を変更するようにとの藩命を受けた。蔵六はフィーパン号事件(上海での武器購入)の主役として幕府が追及している人物である。  蔵六は大村益次郎となり、小五郎は木戸貫治となった。この時期、長州藩を背負って立つ二人が、相次いで改名したのである。それは、単なる姓名変更でなく、小五郎にとっても蔵六にとっても、新しい人格に生まれかわるときであった。  百姓あがりの蘭学者村田蔵六は、軍制専務という肩書きの軍師として、長州藩軍事組織の頂点に立つ大村益次郎となり、やがて明治新政府の兵部大輔にのしあがるのである。  そして、志士桂小五郎は、一藩の枢機をあずかる木戸貫治となり、明治新政府の官僚木戸孝允への道をまっしぐらに歩みはじめるのだ。  小五郎が選んだ木戸姓が、どこからきているのかは定かでない。一説によると、妻の松子の出身地の|字《あざ》をとったものというが、あるいはそうかもしれない。  とにかく木戸貫治を名乗ったのは、それからまる一年間であり、慶応二年九月二十七日には、再び藩命を受けて準一郎と改名している。  その年六月から始まった第二次長州征伐の幕軍との交戦は、長州藩の圧倒的勝利に終り、九月初めには、幕使勝安房と休戦条約を厳島で交わしている。桂姓を捨てたときほどの理由は見あたらず、この改名が何によるのかはついにわからないままである。どの伝記類を見ても「再び命を以て氏名を木戸準一郎に改む」としているだけで説明がないところをみると、特別詮索するほどのことはないのかもしれない。 「孝允」の|諱《いみな》は、かなり早くから使っており、嘉永六年、藩に提出する建言書の添削を、吉田松陰に依頼したときの署名もこれになっている。しかし、貫治、準一郎に代わって、孝允を通称としたのは、明治三年六月、参議に任じられて以後とみてよいだろう。孝允の「孝」は桂家の代々が多く用いた家名である。正しくは、タカヨシと読むが、コウインと音読みするのが一般化している。  貫治、準一郎、孝允と順を追って呼ぶべきだが、煩わしくもあるので、孝允に統一して、以後そのように彼を呼ぶことにしたい。 「桂小五郎」と「木戸孝允」、同一人物でありながら、これほどかけはなれた印象を受けるのも不思議なことである。つまり志士桂小五郎に対して、官僚木戸孝允というほどの違いである。  名が変わったからそうなったのではもちろんなく、彼の生きる環境の激変と、それにつれて変換された体質にふさわしい改名が、別人格のひとりの男を生み出したということであろうか。   長州処分  京都で薩摩との盟約をとりかわした小五郎こと木戸孝允──このときは貫治を名乗っていたのだが──は、品川弥二郎と薩摩の黒田了介を伴って、慶応二年一月二十七日、海路広島へ着いた。  ここへ寄り道したのは、萩藩家老、|宍戸備後助《ししどびんごのすけ》が、幕府の問罪使と応接しているので、その成り行きをたしかめたかったからである。  幕府は、執拗に長州藩の行動を責め、前年六月には、支藩の徳山と岩国の領主を大坂城に呼びつけようとした。しかし両人とも病気を理由に拒絶している。それではと、幕府は長府・清末の藩主を召喚したが、これも病気だといって応じようとしなかった。見えすいた理由をあげての抗命である。  しびれをきらした幕府は、大目付永井主水正らを問罪使として広島に派遣した。支藩主が病気なら、本藩の萩から家老を広島までよこせというのである。  萩藩では、藩士の山県半蔵を、宍戸家の養子ということで、にわか仕立ての家老に変身させ、宍戸備後助の名で広島へむかわせた。この山県半蔵という人物は、明倫館の学頭で儒者として名高い山県太華の養子である。山県家に迎えられるだけあって、彼もすぐれた儒者であり、世子定広の侍講をつとめていた。堂々たる押し出しで、弁舌もさわやかだから、家老といっておかしくはない。孝允より五つ年上の三十九歳であった。  長州に好意を寄せる広島藩が、宿舎として城下に用意してくれた海蔵寺に備後助はいた。 「京都の様子は、いかがでありますか」  と、彼のほうから先に質問をむけてきた。表向き孝允は京都の情勢探索で出かけたことになっている。薩長同盟について、備後助は知っていないようだった。まだ教えるべきではあるまいと思い、孝允は適当に京の昨今を話してやり、ところで問罪使との応接はどうかと膝を乗り出した。 「大目付の永井主水正もうるさい男だが、一緒にきた目付の戸川|※[#「金+半」]《ばん》三郎が、ねちねちとしつこい役人でして」と備後助は眉をしかめた。幕府が責めるのは、謹慎中であるはずの藩主敬親父子が藩内を動いていること、破却した山口城を修理し、武器を配備していること、大小の銃砲を外人から買い入れていることなど八カ条である。 「どれもうまく答えておきましたよ。私がさし出した国情陳述書を持って、彼らは大坂へ帰って行きました。いずれ幕府の決定が広島藩を通じてさがるので、こうして滞在しているわけですが、どうも退屈なものですな」 「幕府は、長州をどう処分する|肚《はら》でしょうか」 「永井の言うところでは、まず減封、それもかなりのことを考えておるようです。周防一国を没収するくらいは当然といった口ぶりです。もっともこれは大目付ごときが決める問題ではありませんが、大坂城ではそんな話が出ているのかもしれません」 「拒否すれば、征伐軍をさしむけると……」 「戦争ですな。桂さん、いや木戸さんでした、戦えますか」 「戦わざるを得んでしょう」 「戦えますか」  と、備後助は、もう一度同じことを言った。居丈高な幕府大目付の詰問に応対しながら、彼はそのことをいつも考えていたのだろう。 「幕軍恐るるに足りません。そのつもりで正義を主張されたらよいと思います」  薩摩も後ろについていると、備後助を力づけてやりたかったが、やはり黙っていた。  孝允は、接幕使という気の重い任務を押しつけられた備後助の立場を十分に理解できた。重役のほとんどは怯んで、尻ごみする仕事である。一度は、この役が孝允のところにも回ってきた。彼は昂揚した気持でそれをやるつもりだったが、いかに変名を使っても拙いだろうという意見が出て、結局はずされ、そのうち京都へ行くことになったのである。 「ああそうだ、桂小五郎はどうしていると、目付の戸川がたずねちょりましたよ」  備後助が、いたずらっぽく笑った。  孝允たちが広島から再び船に乗り、下関に上陸して、山口ヘ帰ったのは二月六日だった。  薩長密約のことを藩主に報告したが、そのさい黒田了介と品川弥二郎を立会人として同席させた。西郷吉之助との話しあいで取り決めた盟約は、いわば口約束である。坂本竜馬をはじめ大勢の証人がいるので、文書の必要はないということだったのだろう。孝允は、あとで不安になり、六カ条の内容を書きとめ、竜馬に送って確認を求めている。その文書の裏面に、間違いないと朱書して、竜馬は送り返してきたが、藩主に報告するときはまだそれが届いていなかったので、了介と弥二郎を証人として立ち会わせたのである。もともとこの二人を同伴して帰国したのは、そのためだったのだ。いつもながらの慎重な配慮であった。  孝允の慎重さは、また権謀への緻密な手段としても現われた。再び京都へ帰って行く黒田了介に、品川弥二郎をやはり従わせた。京の情勢を探索させるためである。弥二郎は松下村塾に学んだが、少年時代のことで、松陰とのつながりからいえば、孝允は彼の大先輩にあたる。  孝允は松下村塾と直接の関係を持たないが、松陰の兵学門下だから、いわゆる松門の一人である。村塾に学んだ者たちは、孝允に同窓意識を感じていたらしい。高杉晋作、伊藤俊輔、山県狂介らは、そうしたことで、孝允にそれとなく敬意を払っている。  後世、松下村塾グループといわれる彼らは、ある種の学閥をつくっていた。幕府の手で処刑された師松陰につづこうとする気負いが、周囲の者の目に時に�跳ねあがり�とうつることもないわけではなかった。いずれにしても、ひとすじなわで行かない彼らを統率できるのは孝允だけという信頼感のようなものが、藩主をはじめ上層部にはある。  さしあたっては、品川弥二郎が孝允の命ずるままに、忠実な働きをみせた。 「品川君、京都へ行ったら、長州藩の大宣伝をやってもらいたい」 「どう宣伝するのでありますか」 「幕府が、いわれのない叱責を長州にむけ、弱い者いじめをやっておるように言いふらすのだ。これに対して長州は、毅然として正義を説きつつも、なお丁重に幕府に嘆願しちょるというふうに、告白するかたちで諸藩の耳に入るようにする。嘆願書の写しを散布するのもよいだろう」  嘆願書とは、長州藩がこれまで朝廷の命令で攘夷を実行しながら、今では朝敵の汚名をかぶせられて苦境に立っていること、第一次長州征伐のときは三家老の首まで提出して恭順を示しているのに、さらに追い打ちをかけられるのは心外だといったことが述べられている。その嘆願書は、広島藩を通じて、幕府に差し出してある。おそらく一方的な長州の言いぶんとして、幕府の見むきもしないものであった。  山口を去るにあたって、薩摩の黒田了介が、藩主敬親にあいさつすると、敬親は、しごく満悦のていで、了介の労苦をねぎらった。 「土州の坂本竜馬の骨折りでごわす」  と了介は竜馬の働きをあらためて説明した。 「坂本にも会うてみたい」  敬親は言ったが、ついにその機会はないままに終った。竜馬は、それから一年半ばかりでこの世を去るからである。  竜馬が伏見の寺田屋で、長府藩の三吉慎蔵と共に、京都守護職配下に襲われたのは、薩長盟約のわずか三日後である。孝允は、そのことを二月二十二日、薩摩藩の使者として、京都から山口ヘやってきた村田新八、河村与十郎に託された竜馬の手紙を見て知った。盟約の内容を確認する孝允の書簡に、彼が裏書きしたものも、そのとき届けられたのである。  竜馬は、寺田屋から慎蔵と共にうまく脱出したが、右手の親指を負傷し、薩摩藩邸で療養中だという。 「坂本さんは、まるで警戒心をもたないから危い目に遭うのだ」  と、孝允はこぼすように言い、暗い顔をした。不吉な予感が、胸をかすめるのである。  たしかに、小五郎時代からの孝允の慎重な身辺警戒ぶりにくらべると、坂本竜馬は、あまりにも無頓着だった。  孝允は、京都へ帰る村田新八らに託し、竜馬にあてて十分注意をするようにと手紙を書き送ったが、結局、翌年十月、中岡慎太郎と共に京都で暗殺されている。  それはともかくとして、まだ竜馬が薩摩藩邸で指の傷を療養している慶応二年二月、長州藩は、なお幕府の問罪使から執拗な追及を受けていた。  大目付永井主水正らが引き揚げたあと、こんどは老中小笠原壱岐守|長行《ながみち》が、広島へやってきた。幕府の決定を伝えるので長府・清末・徳山の三支藩主及び岩国領主の吉川経幹がそろって広島の国泰寺に顔を出すようにと、宍戸備後助に命令を伝えた。国泰寺は、幕使の宿舎であり、長州に対する審問所としても使われていた。  備後助は、副使としてつれてきている木梨彦右衛門を長州に帰らせ、藩の意向をたずねるように命じたが、「広島には絶対出頭しないように」と内意をさずけた。岩国の吉川経幹は、第一次征長のときの接幕折衝で、弁舌をふるったことになっているが要するに「知らぬ存ぜぬ」で押し通しただけだ。こんどはそういうわけに行くまい。それに、世間知らずの支藩主らに、不用意な発言をされてはたまらないと、備後助は思ったのだろう。  やがて藩からの返事があった。四人とも病気で、広島には行けないといういつもの見えすいた理由を掲げている。備後助は、その通りを壱岐守に報告した。  幕府をナメているというわけであろう。壱岐守は大いに怒った。 「藩主敬親と世子定広及びその子|興丸《おきまる》、ならびに三支侯、吉川経幹、老臣のすべてを広島へただちに出頭させよ」  と、広島藩に命じた。敬親が拒絶する場合は、藩兵を山口にやり、強制的にでもつれてこいというのである。  それはできませんと、広島藩が断わった。長州藩と幕府の間に入って周旋の労をとってきたが、藩兵を長州にまでさしむけるような命令が出るのであれば、この役を辞退させてもらうと言い出したので、壱岐守も困って、少しおとなしくなった。 「どうしたものかね」  山口の政事堂では、参政の山田宇右衛門が、木戸孝允に思案顔で言った。 「とにかく幕府の決定を聞くのが先決です」 「では、備後助と、もう一人小田村素太郎をやろう」  ということで、その二人が特使として国泰寺へ行くと、壱岐守は待ち構えていたように、長州処分の幕命を読みあげた。その決定というのは、長州藩の石高三十六万九千石から十万石を削り、藩主父子は蟄居、福原・益田・国司の三家老の家は断絶せしむべしというのだった。  この三家老は、前の第一次征長のとき、京都出兵の責を負い切腹した三人である。その後、藩は彼らの罪状を撤回し、いったん取りつぶしていた三家を復興させている。それを知った幕府は、謝罪の意思表示を長州藩がひっこめたものだと解し、もと通り断絶させよというのである。  壱岐守は読みあげたその命令書を、備後助に渡そうとした。 「それは受け取れませぬ」  備後助が、断乎とした声をあげた。 「なにゆえであるか」 「そのような重大な処分を伝える命令書を、一家老にすぎない拙者が奉じて帰国できましょうや」 「………」  これは最初から孝允と備後助が打ち合わせた筋書きである。まずは処分決定の内容をつかもうということだったのだ。  困惑した壱岐守は、その命令書を広島藩を通じて長州に渡そうとした。ところが広島藩も、いやだと受け取りを拒絶したので、宙に迷ったかたちになった。 「芸藩に預けおくぞ」  壱岐守は、むりやり広島藩に命令書を手渡してしまったが、首席家老の辻将曹は、 「ではお預かりいたします」  と念を押すことを忘れなかった。  壱岐守はひどく不機嫌な表情で、そのまま広島へとどまり、長州の出方を見守った。  宍戸備後助と小田村素太郎も広島へ滞留する。彼らは使いの者に書を持たせて山口ヘ帰らせ、処分の内容を孝允に伝えると共に、これは暴命とも申すべきであり、長州として受諾できないものと考えられる、やはり幕軍との一戦は避け得ぬのではないか、よろしく武備を充実して必勝の策を画されよと、自分らの意見も書き添えた。  備後助と素太郎が、突然、壱岐守の命で身柄を拘束され、軟禁状態におかれたのは四月九日の夜である。幕府への使者として出むいた長州藩家老を捕えるという行為が、どのような意味を持つかを壱岐守はあまり深く考えもしなかったのだろう。問責される立場にいる備後助らの毅然とした態度を、苦々しく思っていたこともあったのに違いない。 「幕軍に抗戦するひとつの理由ができましたな」  と孝允は、山田宇右衛門に言った。さっそく、京都にいる品川弥二郎にあてて、このことを伝え「幕使の暴虐ぶり」を、薩摩へはもちろん、朝廷から諸藩に宣伝せよと命じるのだ。長州が、幕府によるいわれなき言いがかりに耐えきれず、やむなく起ちあがろうとしているといった印象を与えておかなくてはならない。  幕府の征長令はすでに発せられ、諸藩への出動命令も出ているのだが、薩摩などは「幕府の私争に荷担できぬ」とはっきり出兵を拒否していた。それに影響されたのか、出兵をしぶる藩も少なくないのである。孝允としては、それとなく長州への同情をひき、討伐軍への参加を最小限に食いとめようとしての宣伝工作を進めているのだった。 「木戸さん、萩へ行ってもらえまいか」  と宇右衛門が言う。萩にいる藩士たちが、薩長同盟のことを知って騒いでいるというのだ。  かつては先鋒隊として、俗論政府の手先のように動き、奇兵隊はじめ諸隊に対抗していた彼らも、内訌戦いらい討幕の藩論確定後は、干城隊として再編成され、新しい敵にむきなおって訓練に励んでいるはずであった。  ところが薩摩と手を結ぶと聞いて、不服を唱えはじめた。これを説得できるのは、木戸をおいて他にないだろうというのが宇右衛門らの判断である。  孝允はただちに萩へ走り、干城隊の幹部を集めた。  広島にきた幕府の老中が、どのような処分をつきつけているかを詳しく彼らに説明し、もはや幕軍との対決は避け得ない事態に立ち至っていることを告げた。 「おそらく数万の幕軍が、長州藩を襲ってくる。強力な|後楯《うしろだて》が必要である。今は好き嫌いを言っている場合ではないと思うがどうかね」  孝允の口から、きびしく切迫した情況を知らされて、彼らはたちまち沈黙した。 「幕軍は四境からわが藩を攻めてくる。諸君には石州方面からの敵を迎え撃つ任務が与えられるだろう。敵は明日にもなだれこんでくると思ってもらいたい」  孝允は、そのように萩の藩士たちを鎮めると、下関へまわった。ここには奇兵隊がたむろしており、高杉晋作がいる。薩長連合への反発は、諸隊からも当然あがっていたが、すでに晋作によって説得され、来るべき対幕戦に闘志を燃やしているところだった。萩の武士は、観念論に支配されるが、奇兵隊などは骨のズイまで戦闘部隊だから、戦争を前にして、あまり理屈はいわない。薩摩であろうと味方は多いほどよいのだ。  晋作と戦備について打ち合わせを済ませ、孝允は慌しく山口へ帰った。四境戦が始まるおよそ二カ月前である。   南奇の脱走  孝允が萩、下関、山口の間をとびまわっているころの慶応二年四月のはじめ、京都の大久保一蔵から手紙がきた。  黒田了介たちが長州で歓待されたことへの礼状である。薩摩との親交が、このようなかたちで、少しずつ深まっている。同盟を結んだ当時のぎごちない気持にくらべると、ずいぶん|解《ほぐ》れてきたものである。  西郷吉之助とは違った大久保一蔵の細心な配慮が、文面ににじんでいると孝允は思う。一蔵はまた次のようにも書いていた。 「……幕府内輪ノ次第モ益々紛乱ノ模様ト察セラレ、京摂ノ間モヤヤ不熟ノ様子……浮説流言耳底ニヤカマシク、即今ノ姿ニテハ、イヅレニ帰向スル処ヲ知ラズ……」  と、幕府の内情が紛糾している模様を告げ、 「必ズ遠カラズシテ面白キ機会ヲ生ジ申スベキカト、ヒソカニ愚考仕リ候」  つまり討幕に立ち上がる機会が近づいているというのである。大久保の見通している情況は理解できるが、薩摩がいう「面白キ機会」を迎えるまでに、長州藩は独力でやり遂げなければならぬ難事がひかえている。第二次長州征伐の幕軍を撃退したあとでこそ、それは言えるのだ。  一蔵は、危機に立つ長州への激励と親しみをこめて、この手紙を送ってよこしたのだと孝允は、読み終ってから思った。 「今はとにかく、初めは処女のごとく、終りは脱兎のごとく……」  そのころ下関の高杉晋作がよこした手紙の文句である。むろん孫子の兵法にある「初めは処女の如くにして、敵人戸を開く。後には脱兎の如くして敵|拒《ふせ》ぐに及ばず」をさしている。  迫りつつある幕府の力の前に、ひたすら低姿勢に構え、まるで戦意のないようなふりをしながら、いざというとき果敢な攻撃態勢に移る。晋作は、孝允にあてて、幕府への対応はそのようにあるべきだと意見を述べてきたのだ。  いわれるまでもなく、徹底的にその方針で臨んでいる。「木戸のやり方は卑屈にすぎないか」との声が、諸隊からあがるほどである。すでに「満を持す」といった昂揚をみせる諸隊士の一部では、あすにでも幕府との戦争が始まるような言動さえ見える。そのように士気が燃えあがるのは結構なことだが、今はそれこそ「処女のごとく」いてもらいたいというのが孝允の願いだ。晋作の手紙は、それを裏付けてくれたようで、うれしくもあった。 (晋作もずいぶん大人になったものだな)  と孝允はおもわず|微笑《ほほえ》むのだが、それは他人の目にいたずらな暴走をくりかえすかに見えた晋作の印象が、まだいくらかは残っているからであろう。  晋作のことを、爆弾でも抱えこむようにながめていた政府員たちも、このごろでは違う見方をしている。孝允にしても同様である。四カ国連合艦隊との講和使節として、晋作が期待通りの働きをみせたころ、孝允は但馬にひそんでいた。帰国して詳しい話を聞きながら、あの乱暴者がと、おどろきもしたのである。  しかし何といっても奇兵隊の創設者として、晋作は諸隊士たちの信望を一身に集めている。彼が「初めは処女のごとく」と言えば、はやりたつ隊士たちもおとなしく力を養っていてくれるだろうと、孝允はひとまず安心していた。  ところが、それを裏切るような事件の発生を知ったのは「面白キ機会」の到来が間近いことを告げる大久保一蔵の手紙が届いてから三日後の四月五日夕刻のことである。  第二奇兵隊の百人ばかりが脱走したというのだ。さらに五日後には、あきれかえるような事件に発展していた。彼らは勝手に幕府との戦いを始めたのである。  第二奇兵隊は、ほとんど晋作の息のかからない諸隊のひとつで、名称だけ奇兵隊にあやかろうとする新しい戦闘部隊だ。  孝允は、舌打ちして、その脱走兵が暴れている東のほうに激しい怒りの視線をむけた。  厄介な事件である。あらゆる意味で、厄介この上ないできごとだと、孝允は即座に判断したが、藩外にむけて脱走しているのだから、打つ手もないままに、しばらくは見守っているしかなかった。  第二奇兵隊は、はじめ南奇兵隊といったので、略して南奇と呼ばれる。高杉晋作が挙兵して間もなくの慶応元年一月、周防熊毛郡で募兵を開始した。付近の農民を中心に二百人ばかりが集まり、本陣を三月末から|石城《いわき》山の頂上近くにおいた。  石城山は、現在の熊毛郡田布施町、平生町、大和町および柳井市にまたがる標高三百五十二メートルのゆるやかな円形台地である。山頂には古代の|神籠石《こうごいし》とみられる列石があり、瀬戸内海と沿岸一帯を見下す眺望にすぐれている。対幕戦に備えての要塞として、ここに本陣を定めたものであろう。  南奇兵隊を結成したのは、萩藩の老臣浦|靱負《ゆきえ》の陪臣白井小助である。創設当時は勝手に奇兵隊の名称をつけていたが、四月には下関にあった奇兵隊の分隊扱いとなり、第二奇兵隊と改称した。  脱走した隊士は全体の半数近い九十六人で、それぞれに小銃をたずさえ、大砲まで持ち出している。彼らの統率者、というより煽動者は、第二銃隊長をつとめていた立石孫一郎である。 「立石とは何者なりや」  孝允は、事件の報告を受けるとすぐ、残留組の第二奇兵隊幹部を政事堂に呼び出してたずねた。調べてみると、きわめて曖昧な身元しかわかっておらず倉敷出身の浪士だという。十分に素姓を吟味せず、他藩の者を入隊させていたというのも、にわか仕立ての諸隊らしいところだ。  ──脱走の理由。  それは立石孫一郎が、隊士たちにむかって一席ぶった演説によっておよその見当がついた。四月五日の午後、白井小助ら最高幹部が本隊との連絡で山を降りた隙をねらって、孫一郎が呼びかけたのだという。 「これから隊の全員で、山口の藩府に出かけ、われらの苦衷を訴えようと思うが賛成してもらいたい。征長軍が広島に集結しはじめたというのに、長州は何をしておるのか。いたずらに日を過ごすばかりだ。これでは討幕の時機を逸してしまう。要路の優柔不断を責め、併せて第二奇兵隊の処遇についても改善を要求したい」  賛成する隊士の中から、給金も少ないぞという声があった。士分出身の隊士にくらべて、農民出の隊士がひどい差別を受けていることへの不満である。これは深刻な問題で、煽動に応じた隊士のほとんどが農民出身兵であったということと結びついている。  奇兵隊をはじめ諸隊は、一応四民平等をうたっているが、内部組織には封建の身分制度がそのまま持ちこまれたのだ。  一例を挙げると、隊士は氏名を書いた|袖印《そでじるし》を着けなければならなかったが、士分は絹、農民は|晒《さらし》というふうに布地が決められている。そして「苗字御免」のない者が勝手に姓を記入することは禁じられた。あくまでも「士分」と「|匹夫《ひつぷ》 」を区別しているのである。支給されるわずかな報酬にも格差がついている。  最初は当然のこととして、気にもならなかったらしいが、同じように訓練を受け、隊内でまったく変わらない共同生活をしているうちには、その差別に対する不満が少しずつ頭をもたげはじめる。何かのきっかけを与えれば、容易に表面化する状態におかれていたのである。  孝允は、しかしそうした身分差別への怒りが根本に作用して脱走に発展したのだと深く考えるだけの余裕を失っていた。むしろ立石という男が掲げている対幕戦への焦りから発した暴走であることに困惑していた。まずこの騒擾事件は、日ならずして幕府にも伝わるにちがいないと彼は怖れた。  山口ヘ強訴をかけるという脱徒たちは、いつまで待っても姿をあらわさないのである。藩外に走った。もっと悪いことに、彼らは天領倉敷へむかったのだ。  二日目には、脱走の途中から逃げ帰ってきた隊士が捕えられ、その者の口から、かなり詳しい事情をつかむことができた。  立石孫一郎に従ったのは、九十六人で、彼らが石城山頂の本陣を出ようとするのを、書記の楢崎剛十郎が大手をひろげてさえぎった。 「邪魔するな!」  と孫一郎は腰のものを一閃させた。嘘のように、剛十郎の首が宙に飛んだという。孫一郎は、居合の心得があったらしい。それからは、もう彼の思うままに脱走兵たちは動いた。剣術とは無縁の生活をおくってきた農民出身の隊士たちは、目の前であざやかに、しかも悲惨な剣をふるってみせた孫一郎への恐怖と畏敬のおりまざった気持を抱いたまま操られるように隊伍を整え、山を下って行った。 「山口ヘ出かけるつもりだったが、楢崎を殺した以上、行けば捕えられるだけだ。これから手柄をたてて、その罪を消したい。われわれはこれから倉敷にある幕府の代官所を襲撃する。討幕戦のさきがけとなるつもりである」  孫一郎が、隊士たちにそれを言ったのは、船が夜の海上をすべりはじめてからだった。進路はすでに東へとられていた。  そのときになって、孫一郎にだまされたと気づいた者も多い。しかし、もうどうしようもないところまできている。ほとんどは観念したが、数人の隊士は海へ跳びこんだ。岸まで泳ぎつけるという自信のある者たちだが、孫一郎の命令で、小銃の一斉射撃が始まった。半数はそこで絶命し、かろうじて三人ばかりが逃亡に成功した。  船の目標は|連島《つれじま》の西之浦で、そこに上陸し、一気に倉敷の町へ攻めこむつもりだという。  四月八日になって、立石孫一郎の正体が、倉敷へ放った密偵により明らかにされた。本名は大橋敬之助で、播州上月村の大庄屋の子に生まれ、十八のとき倉敷の庄屋大橋家の養子となった。  母方の叔父にあたる作州二宮村の勤王家立石正介の家にごろごろしているころ、ここで儒者森田節斎から学問を受け、やはり立石家に出入りしていた井汲唯一から剣を学んだ。 「井汲唯一?」  孝允は、その名を聴きとがめた。江戸の練兵館にいた井汲である。何度か竹刀を合わせた記憶があった。癖のある鋭い剣を使う。あまり好きになれなかったが、彼も斎藤弥九郎の影響で、勤王の志を持ったようである。郷里で後進の指導にあたっていると知って、 (あの井汲が、立石とかいう男に剣を教えていたのか)  ふとなつかしさを覚えかけたが、それはたちまちまだ見たこともない孫一郎への憎しみに塗りかわっていった。  立石孫一郎という変名で、うまく第二奇兵隊に潜入した大橋敬之介の目的は、最初から倉敷の代官所を襲うことにあったとしか思えなかった。  庄屋としての勤めを果しているころの敬之助は、まじめだったらしい。勤王家としての自覚もあって、代官と組んだ商人の不正をきびしく追及した。そのために代官桜井久之助の恨みをかったのである。  代官は敬之助を天領に巣食う危険人物として、京都へ使いをやり新撰組の助力を乞うた。暗殺を図ったのだ。間もなく敬之助は襲われ、軽傷を負っただけであやうく逃れたが、やはり倉敷にはおれなくなって姿を消した。元治元年十一月である。  立石孫一郎になりすました敬之助が、第二奇兵隊に応募したのが、翌慶応元年二月。第二奇兵隊を煽動し、倉敷の代官所を襲ったのは、それからわずか二カ月後だ。  勤王に名をかりただけで、これは要するに代官に対する私怨を晴らそうとしたにすぎない。このような重大なとき、長州藩はとんだ跳ねあがり者を抱えこんでいたものである。  敬之助にひきいられた第二奇兵隊が、倉敷の代官所を襲撃し、火を放ったのは四月十日の朝であった。  大した抵抗もなく代官所は襲えたが、敬之助がめざす代官桜井久之助は不在だった。  広島に長州征伐の幕軍が集結を始めている。桜井はその広島へ用務のため出かけていたのだ。やむなく代官所に火をかけ、引き揚げようとしたが、もはや行き場を失っていたといえる。  十二日には倉敷からほど近い浅尾藩の屋敷を襲って焼いた。浅尾は一万石の小藩だが、禁門の変のとき出兵して、長州藩兵に打撃を加えている。  このときも浅尾藩兵の主力は、京都警護に出ており、残っているのは、高齢者を中心とした百人余の家臣たちだった。  長州の脱走兵が浅尾藩を襲ったことを知って、ついに岡山藩が大軍を出動させた。これに幕軍も加わって、脱走兵は追いつめられ、うまく船を入手して逃げた者もいれば、うろついているところを捕えられた者も多い。  岡山藩などには、すでに長州藩からの回状がまわっていたのである。 「脱走兵は賊とみなす。見つけ次第討ちとられても構わぬ」  この回状は、孝允がみずから筆をとって文案を練った。その内容は、単に脱走兵の処置を依頼したものでなく、長州藩の苦境を訴え、幕府に対しても低姿勢に征討の猶予を願っていることを説明した。武力をもって幕府にたてつく意志はなく、倉敷を襲ったこの者たちは厳罰に処するつもりだと弁明これつとめるといった内容である。あくまでも「処女のごとく」という孝允の方針が、ここにもつらぬかれている。  この脱走事件の余波は、孝允が恐れていたように、いろいろな方面にあらわれた。まず流言が飛びはじめている。長州藩内の統制が乱れて、大混乱をおこしたというもので、そうした怪情報を撒いているのは、どうやら小倉藩あたりらしい。  しかし、それを思わせる情況が、一部で動きはじめたのも事実であった。諸隊の動揺である。第二奇兵隊の事件を知って、これに呼応しようと脱走をはかる者が、他の諸隊にも少なくなかった。 「初めは処女のごとく」とか「粛然夜のごとくあらねばならぬ」と、満を持した上で静かな待機の姿勢を保とうとする孝允や高杉晋作や大村益次郎らの方針を、徹底的におびやかす騒擾が藩内にひろがろうとしているのだ。放っておけば、幕軍の侵攻を目前にして、内乱のため長州の軍事組織は、崩壊してしまうかもしれない、そのような危機に見舞われているのだった。  孝允はまず、第二奇兵隊の脱走を秘密にしておくよりも、一部の者の暴走であることを小倉、広島、岡山、津和野など隣藩に明示することとし、併せて脱走兵の処置を願う回状として配布した。  次に、諸隊にあてては、雷同して脱走をくわだてた者を厳罰に処すべきこと、特に煽動者はみせしめのため極刑にせよと命じた。  各地に分屯している諸隊の陣営で、斬首、切腹などの断罪が、慌しくおこなわれ、藩内は戦場になるまでもなく、悲惨な血の色に汚れていった。下関で十人、上関で十人、山口で五人、萩で五人……南奇脱走の余波による処刑者たちの数である。  やがて倉敷から逃げ帰ってきた脱走兵たちが、周防の沿岸に上陸し捕えられ、処刑されて、ようやく一段落をとげた。結局、この事件で死刑となったのは、実に四十五人にのぼった。  四月二十五日になって、周防浅江の屯所から、二人の脱走兵が助命を嘆願しているがいかがしたものか、山口へ出頭させるべきかと、政事堂に伺いをたててきた。  倉敷襲撃の功績に免じて、寛大な処置をと申し立てているのは、立石孫一郎と引頭兵助であるという。首謀者の二人が、最後に姿をあらわしたのだ。  めずらしく孝允は、感情をおもてにあらわした。討死するとばかり思っていた立石孫一郎こと大橋敬之助が、倉敷襲撃の「功績」を述べたてているという。 「助けてくれと?」  怒りが、こみあげてきた。 「山口につれてきて、今さら裁く必要はないでしょう」  孝允は、ひややかに言った。  大橋敬之助と引頭兵助は、浅江に上陸すると、そこの清鏡寺に入っているという。住職の片山瑞明は、面識のある敬之助に頼られて、仕方なく助命の周旋を承知したのだが、最初から二人を藩に引き渡すつもりだったらしい。  敬之助と兵助の処置が決まったその夜、瑞明は彼らに言った。 「藩の意向は、清水家を通じてさぐらせておりますが、脱走の件は許されるのではないかとのことです」  清水家とは、在地の萩藩重臣である。 「倉敷での詳しい戦況も聴いておきたいと清水家のほうで言うちょられます。ついては島田の屯所までお運び願いたいとのことで、拙僧も同道します」 「よいでしょう」  敬之助は、どうやら安堵したという表情でうなずいた。藩命を受けた清水家の狙撃隊が、闇の中にかくれていることも知らず、敬之助と兵助は、瑞明の案内で清鏡寺を出発した。  相木鷹之助を指揮者とする狙撃隊十三人は、島田川にかかる千歳橋のたもとの草むらに隠れて、彼らを待っている。狙撃隊の者は、相手が第二奇兵隊くずれの二人とは教えられていなかったのである。 「今夜、千歳橋を、浅江側から三つの提灯が渡ってくる。二人は幕府の隠密である。一人は長州藩士じゃ。橋の中ほどで一つが引き返すから、それを合図に二人を討ちとれ。必ず仕止めよ」  そんなふうに命令されている。  やがて、遠い闇の奥に、豆粒ほどに見える三個の標的が、もつれるように動いた。光は、なおわずかに揺れながら、少しずつ大きさを増し、橋の低い欄干に沿ってゆっくり移動してきた。  いわれた通り、橋の中央まできて、一つの提灯が浅江側に引き返した。残された二つの灯は、少しの間、ためらうように立ち停まったが、また動きはじめ、狙撃兵のかくれているすぐそばまで近づいた。 「撃て!」  相木の命令で、草むらの中の銃口が、轟然と火を噴き、橋上に投げ出された二つの提灯が、めらめらと赤い舌を吐いた。──  大橋敬之助、引頭兵助という二人の首謀者の死によって、第二奇兵隊脱走事件はまったく終熄した。  広島をはじめ長州の国境近くに、幕軍の集結が始まっている。いわばぎりぎりのところで、軍事組織の崩壊をまぬがれた長州藩は、息つく間もなく対幕戦にむきなおるのである。   四境戦争  幕府の長州藩攻撃は、四方面からの包囲作戦をとった。  石州口(島根県)、芸州口(広島県)、大島口(山口県大島郡)、九州口(北九州市)の四つの国境を戦場としたので、長州ではこれを四境戦争と呼んだ。  戦いは、慶応二年六月七日、幕府の軍艦による大島砲撃から始まった。陸上軍の動きは、密偵のもたらす情報で、およそのことはつかんでいたが、突然、海上にあらわれた軍艦の襲来は、やはり不意を衝かれる結果となった。  まず、七日朝、一隻の幕艦が、大島南部の|安下庄《あげのしよう》村を砲撃し、翌八日払暁には軍艦二隻が和船十隻を曳航して油宇村を砲撃、松山兵百五十人が上陸した。彼らは松山藩領|興居《ごご》島からの出撃であった。この付近に長州側の守備兵はおらず、砲撃のため女や子供たちが犠牲となった。  同じ日、幕府海軍の主力は、厳島を発して、大島の北部にあたる久賀村の沖合にあらわれた。富士山丸・翔鶴丸・八雲丸・旭日丸の四隻、さらに曳航した和船四隻、計八隻の艦隊である。これに幕府|麾下《きか》の陸兵・砲兵数百人を乗せている。  これらの軍艦は久賀村の海岸を砲撃したのち、その沖合にうかぶ前島に碇泊して、兵を上陸させた。十日にはさらに十隻の和船に分乗した幕兵が前島の上陸兵に合流した。翌十一日、久賀村の総攻撃が始まり、ここを守るわずかな長州兵を駆逐して大挙上陸し、一帯を占拠してしまった。  大島郡代官斎藤市郎兵衛らに率いられた長州兵は、衆寡敵せずと見て、いったん大島西端に近い屋代に逃げ、さらに海を越えて本土の遠崎へ退いた。国境のひとつを放棄したのである。大島郡は、たちまち幕軍の制圧下におかれた。  孝允は、山口の政事堂にあって、この敗報を聞いた。彼が最も頼りにしている大村益次郎は、石州口方面を担当し、精鋭隊・南園隊および清末の藩兵を指揮して現地に向かっている。益次郎は芸州口の作戦にも参画しており、とても大島郡まで駆けつけられるものではない。  やはり第二奇兵隊に出動を命じ、大島の奪還にあたらせるほかはなかった。そのころ彼らの本陣は、大島を東の海上に見据える上関にあった。これに浩武隊を協力させることにした。 「此の度、賊兵大島郡襲来につき、応援のため彼の地へ急速出張仰せつけられ候事/但し浩武隊も同様出張仰せつけられ候につき、万端申し合せ|忽《ゆるがせ》なき様肝要の事/六月十日夜/南奇隊各中様/政事堂各中」  そんな命令書を、孝允は祈るような気持で使番に渡しながら、最悪の事態を想像せずにはおれなかった。大島郡を確保した幕軍は、ここに大勢力を集結させ、やがて海を渡って周防の海岸一帯を制圧するのではないか。防備の薄いところである。  下関にいる高杉晋作の顔が、ふと浮かんできた。長州藩は、いつも切札のように、彼を使ってきたのだ。 (晋作なら何とかしてくれるのではないか)  しかし、その晋作も小笠原藩を中心として小倉に待機する幕軍を迎え撃つべく、多忙な日々をすごしているはずである。 「部署を勝手に動かすのもどうか、他の士気にも影響する」  政事堂に集まる重臣連から、そうした意見も出た。危機に直面して、まだ縄張りめいた考え方から脱しきれない人たちに、孝允は内心怒りを発しながらも、穏やかな声で言った。 「高杉ではない。軍艦に出動を命ずるのであります」  下関の港に|丙寅《へいいん》丸がいる。これを大島郡にさしむけることについては、だれも異論がない。  丙寅丸の応援命令書は、孝允がみずから書いた。そして但し書きとして「谷潜蔵乗り組み仰せつけられ候につき、乗り組みの面々潜蔵差図を請け候様……」とした。谷潜蔵とは、高杉晋作の変名である。それを持った使番が、下関へ走った。  軍艦丙寅丸は、その年三月、晋作が長崎で英国商人グラバーから買ったオテント丸のことである。  晋作は前にも一度、長崎で船を一隻無断で買おうとし、藩政府の反対にあって失敗している。こんどは、みずからオテント丸に乗り込んで下関に帰り、うむを言わさず代金三万九千二百両二分を藩に払わせようとした。高価な買物を、相談もなしにしてきたというので、また重臣たちが難色をみせた。  晋作は孝允に泣きついた。今さら不要だと返すわけにはいかないという。孝允は、井上聞多と共に、海軍増強の必要を説いて、どうやら代金の支払いにこぎつけた。そのオテント丸は、丙寅丸と新しく命名され、大砲を搭載して下関港に碇泊している。  晋作にとっては、とくに愛着のある軍艦だ。これに乗って、大島郡奪回作戦に参加することを、彼がしぶるはずもないと孝允は見ている。  晋作は、命令を受けると、すぐに丙寅丸を出航させ、三田尻・上関・遠崎を回って、第二奇兵隊をはじめ各隊と作戦を練った。 「この軍艦は小型であり、多数の幕府大型艦と対等に長時間戦えるものではない。それに小倉方面の戦いも間もなく始まるので、すぐ引き返さなければならない。丙寅丸は、とにかく幕軍の胆を奪うために、短時間大暴れして引き揚げるから、その直後、諸君は大島への大反撃を開始されよ」  晋作の申し入れに、第二奇兵隊の軍監林半七は賛成した。 「われわれは十四日を期して、大島奪回の軍を向けるので、それに合わせてもらいたい」 「十四日を選ぶのは、とくに理由あってのことかね」  と、晋作がたずねた。 「十四日は洞春公(毛利元就)の命日である。神に誓って、その日、幕軍を撃退する覚悟だ」 「その意気壮とすべし!」  いつもなら冷笑を|泛《うか》べるところだが、晋作は大まじめに頷いている。何しろ寄せ集め千人ばかりの兵をもって、大艦に掩護される幕軍の精鋭と戦うのだ。精神を発揚させる何かがあれば、それも戦力のひとつと考えたいほどの緊迫した情況であった。  十二日、淡い月明の夜だ。久賀沖に錨をおろしていた四隻の幕艦の間に、突然丙寅丸は突っこみ、自由に走りまわりながら、大砲を撃ちまくった。幕艦は火をおとしていたので、にわかには動き出せない。上陸していた幕兵も長州の海軍が来襲したというので、大混乱におちいった。思いきり暴れたのち、晋作は丙寅丸を三田尻港に引きあげさせた。奇襲攻撃をかけ、幕艦が動き出す前に退いたのである。  勢いづいた第二奇兵隊・浩武隊など長州軍は十四日の夜、ひそかに大島郡へ上陸し、反撃を開始した。晋作が言った通り胆を奪われた幕軍は、戦意を喪失して逃げ腰になっている。思ったよりたやすく大島郡の奪還に成功し、危機を脱した。  第二奇兵隊は、倉敷への脱走事件があってわずか二カ月後、体制を立てなおして、この初陣をかざったのである。  大島を回復したこの日、遠崎の後方にある琴石山の頂上においた見張所からの報告によると、芸州大竹村の方向に火煙が立ちのぼるのが見えるという。 「芸州口でも始まったのだ」 戦勝気分にひたったのは、ほんのわずかな時間だった。幕軍の再来に備えて、大島に釘付けとなった彼らは、そこからほど近い芸州国境での苛烈な戦いに、不安な思いを馳せた。  芸州口の幕軍は、勇猛をもって知られる彦根・高田両藩の兵が先鋒に立っている。紀州・大垣・宮津などの諸藩兵が後陣となり、大島沖から移動した幕艦が、時に掩護の砲撃をくりかえした。  これに対して長州藩の兵は、遊撃・御楯・膺懲・鴻城の諸隊および岩国吉川家の兵が防戦にあたり、井上聞多・河瀬安四郎がこれを指揮した。  この芸州口の戦いは、十四日に国境の小瀬川で始まったが、長州軍が機先を制して芸州領の大竹に攻めこんだので、日本三名橋といわれる錦帯橋付近での戦闘は避けられた。  小瀬川を渡った長州軍は、彦根・高田両藩兵を、たちまち蹴散らした。寡兵ながら、やはり新式小銃の装備がものをいったのである。  幕軍を駆逐して芸州領大竹を占領した長州軍は、玖波からさらに大野をめざして進撃の態勢を整えた。大野は広島城下から西へ五里(二十キロ)の地点である。  山口の政事堂では、参政の山田宇右衛門らが、複雑な表情で、木戸孝允に話しかけている。勝報はうれしいが、これほど広島藩領に突っ込んでよいだろうかというのである。 「幕軍が、わが領内に攻め入れば戦うのは当然だが、先制してあまり侵攻すると広島藩とて黙ってはいまい」 「征長総督は広島にいるのですから、そこを衝くのは当然でしょう。それに、広島には長州の使者が二人拘禁されちょります。幕府ともあろうものが、使者を捕えるなどの無法を犯しておるのです。これを奪取するという意味でも、進撃は当然で、あの二人のことは、薩摩を使って京都をはじめ近隣諸藩にも大宣伝しちょりますから、長州を無法というものはいますまい」 「左様か」  山田宇右衛門は、おどろいたという顔で黙ってしまった。彼は孝允の外交的な配慮が、そこまで及んでいるのを初めて知ったのである。  進撃をつづける長州軍は、幕軍が本営をおいた大野にせまった。彦根・高田兵に代って、こんどは紀州藩など主力の大軍を投入し、必死の反撃を加えてきた。この幕軍は、フランスの後押しで洋式訓練を受けた軍団である。長州兵との互角の戦いを展開したが、ともすれば押し戻されて、大野の入口にあたる四十八坂を守りきれないのではないかと、幕軍本営を慌てさせた。  長州軍が大野に近づいたと知って、広島城下にいた老中松平伯耆守は、うろたえだした。使者二人の拘禁に対する非をならして、身柄奪取を理由に長州軍が広島城下を攻めるのであれば、幕府の失策ともなりかねない。このさい釈放するのが無難だと考えたのだろうが、怒り狂ったようにも見える長州藩をなだめようとする気の弱い意図ものぞいている。六月二十五日、広島藩の使者が岩国をおとずれ、国泰寺に拘禁中の長州藩使者、宍戸備後助・小田村素太郎の両人を、伯耆守が釈放した旨を告げた。  二人は二十八日に岩国へ帰着し、翌日山口の政事堂に無事な姿をあらわした。  釈放は、伯耆守のほとんど独断に近いかたちでおこなわれ、直接の決定を下したのは征長副総督本庄宗秀だったという。そのころ総督の徳川|茂承《もとつぐ》は宮島にいたのである。 「面白いことになりそうだな」  と孝允は、備後助を見て笑った。  征長総督徳川茂承が、その職を辞めると宣言し、兵をまとめて宮島から広島へ引き揚げたのは七月四日のことである。備後助ら二人の釈放を、総督たる自分に相談なく、老中と副総督が勝手に決めたのは許せないというのだった。  総督辞任の理由としては、いささか言いがかりめいている。要するに、徳川茂承は、旗色の悪い幕軍を見て、この責任ある座から降りたいと機会をねらっていたのであろう。茂承は紀州藩主である。ぬくぬくと育ってきた殿様につとまる仕事では、しょせんなかったのだ。  幕軍主力の最高幹部たちが分裂して指揮系統を失いそうな情況を目ざとく察知した広島藩は、ひそかに長州藩と提携する方向に傾いて行った。もともと長州に好意を寄せながら動いてきた広島藩である。八月に入ると、ついに藩兵二千を出動させて、幕軍と長州軍との間に割って入り、両者の戦火を遮断してしまったので、この方面の戦いは急速に冷えた。  広島藩としては、城下を戦場にして荒らされたくないという気持も強い。幕軍の内紛は、もっけの幸いというところだろう。  石州口ヘの長州軍の進撃は、大島郡奪回作戦と前後して始まった。  |石見《いわみ》の国は、西南端を長州藩領長門と周防に接している。六万一千石の浜田藩と四万三千石の津和野藩が、石見国を二分し、このうち長州に隣接しているのは、津和野藩である。  だから国境戦となれば、真っ先に衝突するのは津和野ということになる。ところがこの藩は、広島と同様、以前から長州と親しくしており、しかも小藩のことでそれほどの軍備を待たない。幕府からは、軍監として長谷川久三郎がやってき、津和野藩の征長軍を督励しようというのだが、同藩としてはひどく迷惑顔で彼を城下に迎えているのだった。まるで戦う意思がないのだ。ひそかに使者を長州に送り、「藩兵を城下に集め、いかにも決戦の態勢を整えたようにして、長谷川軍監の目をごまかしておくから、その隙に城下の北側を通り抜け、浜田藩領の|益田《ますだ》を攻められたらよろしかろう」と通告した。外様大名の津和野藩としては、幕府に義理立てする必要もあるまいという考え方だ。  石州口を分担する長州軍は、萩藩の武士で構成する精鋭隊(以前俗論派に属していた先鋒隊を改組したもの)、南園隊、清末藩兵あわせておよそ千人。大村益次郎と杉孫七郎が指揮した。  作戦、指揮はもっぱら益次郎に一任されている。民兵を集めた諸隊と違って、石州口にむけられた兵員のほとんどは武士である。益次郎のことを、内心「百姓上がりに何ができる」と蔑視する者も少なくないので、やりにくい面がある。  萩藩直目付だった杉孫七郎も、そのあたりのことは、木戸孝允から言いふくめられてよく心得ており、益次郎の立場を尊重したので、作戦の命令系統は一本化できた。  山口の政事堂にいる孝允のところに、石州口に出陣した益次郎の噂が早くも流れてくる。  ──風采、|颯爽《さつそう》ならず。  などと|嗤《わら》われているらしい。石州口筆頭参謀といういかめしい肩書きにも似ず、そのときの益次郎のいでたちが、あまりにも滑稽だというのである。  異相の小男が、浴衣がけに檜笠、渋ウチワを帯の間にはさみ、身辺にひきつれている藩の兵学校の学生数人に、長い|梯子《はしご》をかつがせているという。 (蔵六先生らしい)  孝允は、微笑しながら、そんな話に耳を傾けていた。  益次郎は、自分にむけられる武士たちの視線が、どのようであるかを知りつくしているにちがいない。指揮官らしい軍装をと、へたに飾りたてれば、かえって軽蔑を買うものと考えたのだろう。いっそ奇異ないでたちで、行軍の先頭に立つのも、この集団の意表をつく、彼らしい|戦略《ストラテギー》であるのにちがいない。 (しかし、暑いときだからウチワを持つのはわかるが、梯子は何のためだろう)と、孝允は首をかしげた。その疑問は、やがて戦勝の報告と共にもたらされた戦場における益次郎の逸話を聞いているうちに氷解した。  進軍の途中、益次郎はその梯子を使って民家の屋根に登り、手をかざしながら、しばらく周囲を眺めて降りてくる。用心深く前方を偵察したのちに進むのである。  西洋兵学の知識をはじめて実戦に応用する戦いだったが、益次郎の作戦は的確で、見事な指揮ぶりのうちに石州方面の幕軍を圧倒した。それはまさに孝允が、期待した通りの戦果だった。  益次郎にひきいられる長州軍が、津和野を素通りして、浜田藩領の益田を攻撃したのは、六月十七日である。その日のうちに、各寺院にたてこもった浜田藩兵を撃破し、追い散らして、本営を益田においた。  幕軍としては紀州兵、福山兵などがきている。浜田藩は、それでも心細いとみて、因州・雲州に援兵を求めた。  長州軍の最終攻撃目標は、浜田城だが、その城下へ突入するまでには|大麻山《たいまざん》の要害を陥さなければならなかった。  六月二十二日、紀州軍の指揮者安藤飛騨守は、周布の正徳寺を本営とし、応援にきた雲州兵は熱田に、福山兵は長浜に陣取ったが、いずれも浜田藩に協力して益田を奪回しようという動きをみせない。休戦状態となって、七月に入った。  浜田藩は、大麻山の尊勝寺に本営を構えている。ここが最大の要害とされた。  大麻山の総攻撃に移ったのは、七月十五日である。その前夜、益次郎は兵学校の学生に用意させていたヒールベールという|火箭《ひや》を、大麻山の敵陣近くから射ち上げた。それは蒼白い光を発しながら弧をえがいて夜空を飛び、ほんのしばらくだが、付近を真昼のように照らし出した。わが国で照明弾を使用した最初の戦いといわれるのがこれである。数発のヒールベールを発射して、敵陣の様子を大略のみこんだ益次郎は、翌早朝、大麻山の浜田兵に猛烈な砲火を浴びせかけた。  大麻山の陥落により、幕軍は|雪崩《なだれ》をうって敗走する。付近には紀州兵二千がいたが、まったく戦おうとしないばかりか、逃げてくる浜田兵を長州軍の進撃と間違えて、銃を乱射したりするなどの慌てぶりだった。  浜田兵を前面に押し立て、その背後で督戦するくらいのつもりで出兵してきた紀州兵は、二千もの数をたのみながら、まるきり戦意がない。  大麻山が落ち、浜田兵は、いよいよ城下での決戦を覚悟して、郊外に布陣した。うろうろと逃げてきた紀州兵は、守る場所もわからず、ついに城下へ入ろうとした。  浜田藩は、宿所がないという理由で、その紀州兵を締め出したというのだから、よほど肚に据えかねたのだろう。行き場を失った紀州兵の惨めな敗走ぶりを、浜田の人々はせせら笑ってながめている。畑に入って盗みとった野菜を、生のままかじる彼らの哀れな姿は、どうやらひとつの時代が終末に近づいていることを示していた。  石州口における長州軍の快進撃を許した理由は、そのような幕軍内部の崩壊にもあったといえる。長州軍の作戦を容易にする条件がそろった中で、洋式兵学者大村益次郎の�初陣�も、ひときわ見事な戦果をみせたのである。  ようやく浜田城総攻撃の日がきた。その軍議では、雲州松江、因州鳥取などの藩が大軍をなして攻めてくるのではないかとの不安を述べる者もいた。長州軍は、あとから到着した援兵をあわせても千二百人しかいない。 「大丈夫です」  それまで深追いを避けてきた益次郎が、こんどはめずらしく侵攻作戦をとるのである。 「赤穂浪士が、吉良邸に討ち入ったときのことを考えたらよろしい」  と、古めかしい話を持ち出した。 「上杉が吉良の親戚だから、多勢の応援をさしむけてくるのではないかと、浪士の者が心配したが、大石良雄は、そういうことはないと確信しちょったでしょう。これも同じで、浜田城下が戦場になっても、むやみに援兵を出すようなことはありません」  浜田藩は譜代だから、幕府の命令に従い、忠実に戦っている。三十五万五千石の鳥取藩は、長州と並ぶ大藩だが外様大名である。最初から逃げ腰だ。十八万石の松江藩は譜代なので浜田の救援に出動するかというと、益次郎が見た通り、これもまったく傍観を決めこんでいた。  浜田藩が、みずから城に火を放ったのは、七月十八日のことである。これで石州口の戦いは、長州軍の一方的勝利に終った。──  この石州口の戦いの最中、津和野にいた幕府の軍監長谷川久三郎が、山口に護送されてきた。  はじめ津和野藩は、幕府の要人を長州に引き渡すと、あとでどんな報復を受けるかもわからないので、それだけは勘弁してほしいと拒否したのである。  浜田攻撃に、あれほど協力してくれた津和野藩のことだ、強引な要求をつきつけるのもどうかと、石州口参謀の杉孫七郎も気乗りしないでいた。是非にも連行せよという木戸孝允の意向をくんだ政事堂の厳命が再び発せられる。 「木戸さんも、今さら幕府の役人一人を捕虜にしてどうするつもりだ」  孫七郎はぼやきながら、津和野藩との再交渉を坪井竹槌に命じた。これは意外な人物である。  長州軍の使者に立ったこの坪井竹槌という侍は、いわゆる「長州俗論党」の祖ともいうべき坪井九右衛門の長男である。  藩内政権抗争が激化した文久三年(一八六三)十月、結党の罪名で急進派から追及され、九右衛門は野山獄内で切腹させられている。長男の竹槌は、連座をまぬがれた。その後彼がどのように生きてきたかは不明だが、突然、幕吏長谷川久三郎引き渡しを津和野藩に迫る使者として登場する。  竹槌は「あくまでも津和野藩が長谷川を庇護しようとするなら、わが藩は武力を行使してでも身柄を奪取するであろう」と威圧的に出た。  幕府と長州藩との間にはさまれた津和野藩は苦悩のあげく、ついに長谷川久三郎を長州側に引き渡した。六月二十八日のことである。  竹槌らによって山口に連行された長谷川軍監は、下宮野村の慶福寺に軟禁された。もっとも、丁重に遇するようにとの政事堂からの命令で、粗略な捕虜扱いにはしなかった。それでも長谷川としては、幕府を憎む長州人の手で、どのように処分されるかと不安だったにちがいない。彼の身柄は、七月に入って慶福寺から大殿大路の竜福寺に移された。  孝允がそこをおとずれたのは、その月の十一日だった。 「長谷川殿には、ご心労のほどお察し申しあげる」  穏やかに頭を下げる孝允の態度に、長谷川は戸惑った様子だが、どうやら危害を加えるつもりはないらしいとみて、ほっとした表情をあらわし、 「石州口は、もう片がつきましたか」  と多少へつらうように言った。 「間もなく浜田城も落ちましょう」と孝允は、いつもの柔和な口調で、さりげなく答えた。 「左様ですか」  石州口督戦の使命をさずけられて、津和野藩に乗り込んだ幕府軍監の尊大な面影はどこにもない。憔悴した色浅黒い顔を、無気力にかしげた四十男がそこにいるだけだ。 (捕えてみればこんなものだ)  と、孝允は内心苦笑しながら、とにかく用件を切り出した。 「本日、貴殿を藩領の境までお連れ申す。あとは然るべくご帰還下さい」 「………」 「ただ弊藩の立場を陳述したものをここに用意して参りましたので、それを幕閣へ届けていただきたい。ご足労願ったのはそのためであります」  孝允は、幕軍と開戦するに至った理由をしたためた書面に旅費を添えて、彼の前に差し出した。  長谷川久三郎は、どのような行路をたどって江戸へ帰ったのだろうか。末松謙澄の『防長回天史』には「益田に護送し数日後、戦闘線外に放つ」とある。  強引に長谷川の山口連行を求める孝允の目的が、もしかしたら幕府の軍監を処刑して藩内の士気を高めようとでもするのではないかと、ひそかに見守っていた者も少なくはなかった。なるほどそうだったのかと、杉孫七郎も納得したようだった。つねに行動の正当性を藩外に訴えておこうとする孝允の外交手段は、激しい戦闘の間にも、緻密に進められているのだ。  たまたま薩摩からは、対幕戦を見学するため村田新八、西郷従道、黒田了介らが長州にきていた。いわゆる観戦武官の派遣である。抜け目なくそんなことをやっている薩摩という国柄に、長州人は、あきれたり感心したりもしていたが、彼らの側でも孝允のそうした配慮がひとしきり話題になったことである。──  ところで、四境戦争のうち最大の激戦となった九州口では、六月十七日から長州兵と小倉兵との間で火を噴きはじめた。  この九州口の戦いを、長州では小倉戦争と呼ぶ。同日明けがたに長州軍が小倉藩領の田野浦に上陸してから、翌慶応三年一月二十三日、小倉側の請いに対して長州が回答を与え、和議が成立するまでの約七カ月にわたる長期の戦いだった。  小倉藩小笠原氏は、譜代大名である。ここだけが、隣接する藩との激烈な戦闘となった。  幕府側は、小倉におよそ二万の大軍を投入して、まさに|乾坤一擲《けんこんいつてき》の戦いをいどんでいるという。山口政事堂には、露骨な不安の色がただよっていた。 「大村先生は石州口だし、大丈夫であろうか」  山田宇右衛門が、周囲をはばかるように、孝允をつかまえて言った。 「高杉晋作がおります。大島郡奪回でも、あれだけの働きをしたではありませんか」 「近ごろ妙な咳をして、ひどく疲れた顔をしちょるというが、|労咳《ろうがい》ではあるまいな」  晋作に肺結核の症状が出ていることを、孝允も少し以前から耳にしている。四月、下関で会ったとき、晋作は風邪をひいていると言い、熱っぽい目をしていた。しんじつ彼は、そう思いこんでいるのだった。  労咳ではあるまいなという宇右衛門の質問には答えず、 「奇兵隊もおります。それに坂本竜馬が、海援隊の連中をひきつれて応援にやってきちょりますから……」  と、孝允はわざと明るい声を出したが、不安をかくせない。九州口には老中小笠原壱岐守|長行《ながみち》が総指揮官として、幕艦富士山丸に乗ってやってきた。小倉藩兵をはじめ、熊本、久留米など九州各藩の兵が関門海峡をのぞむ小倉から門司の大里、田野浦にかけて、ぎっしり配備されている。幕艦は富士山丸のほかに回天なども出動し、これに小倉藩の軍艦飛竜が加わって一艦隊を編成、紫川の河口付近に待機していた。  これに対して長州側は奇兵隊と長府藩の報国隊を中心に精鋭を集めたが、軍夫などを除いて、戦闘員の数はせいぜい千人を少し越えるくらいのものである。四千人ばかりの兵員を四境に分散しての迎撃だから、一カ所当り千人となるのは仕方がない。それで二万もの幕軍と戦おうというのである。  長州軍の総指揮は清末藩主がとったが、事実上、海陸総督に任命された高杉晋作が、すべての作戦行動を指揮した。その晋作もすでに結核が進行しており、作戦会議は、しばしば彼の病床でおこなわれた。それでも体調を回復すると再び前線に出て指揮にあたり、夜営をかさねることもあった。  死の十カ月前である。この戦争中に、喀血を見た。晋作は、残された命のすべてを小倉戦争にそそぎこんだのだ。自分が創設した奇兵隊を指揮したのは、晋作にとって、それが最初で最後であった。  小倉戦争における晋作の「作戦差図書」は、現在も|東行庵《とうぎようあん》(下関市吉田)に保存されているが、緻密に練られ、大胆に実行された作戦が、その差図書通りに進んだことが立証されている。  戦いは、六月十七日の明けがた、軍艦五隻をもって、門司の田野浦を砲撃することから始まった。晋作はみずから|丙寅《へいいん》丸に乗り込んで指揮をとった。また|乙丑《いつちゆう》丸には海援隊士も何人か乗り、坂本竜馬が指揮した。  まず艦砲射撃ののち奇兵、報国両隊が敵前上陸して、海岸付近を守る小倉兵と戦い、いったん下関に引き返した。  七月三日から本格的な上陸作戦を開始、田野浦から海峡に沿って西へ進撃し、各砲台を占領しながら大里を陥した。  長州藩の最終目標は、小倉の城下に攻め入り、小倉城を占拠して敵を屈服させることである。しかし門司から小倉へ行くまでには、赤坂という難関を突破しなければならない。小倉勢もここで長州軍を食いとめようと、全力をつぎこみ、延命寺および赤坂の台場に砲列をしいて、西進する長州軍を待ちかまえた。赤坂には精強を誇る熊本兵が陣を構えている。  この赤坂は要害の地で、北は小さな谷を隔てて宮本山、手向山にむかい、東には遙かに陣の山がそびえ、西のほうは小倉城下を見おろす断崖になっている。眼下に赤坂の町が見え、その端は関門海峡の潮に洗われる海岸である。  七月二十六日、赤坂総攻撃の軍議が、高杉晋作の宿所である下関の白石正一郎邸でひらかれた。晋作は病状が悪化して床に就いていたので、作戦会議はその枕元でおこなわれた。  作戦会議に示した晋作の「差図書」を見よう。病魔とも闘いながら、渾身の力をふるいおこして筆をとった跡が、痛ましく遺されている。 「敵も一生懸命の場合である。あるだけの力を尽し小倉城を守るであろう。われわれもまた必死に攻めれば落城するに違いないが、無益の力を費し、多くの兵を失うことは避けなければならない。そこで左のようにしてはどうか」 「吉日を選び早暁より軍艦の砲を使って空砲を打ち鳴らし、陸軍をことごとく大里に揚げ、各所に陣を布いて兵を配備する。一日二日くらいは兵糧を下関から送ってもよろしい。要所にかがり火も焚け。敵は今にも総攻撃が始まると思い、あくまでも城を死守するか、または背後の山地へ退くか、いずれかに決めると思う。二つに一つ。そのうち何らかの機会がある。また敵地にいる一般の非戦闘員で困っている者には救い米などを渡し、人望を得ておくことも大切である」  一連の「差図書」は、周到で緻密をきわめ、病人が書いたとも思えない。しかも晋作の作戦計画が、すべて正確に実現されているということはまったく驚きというほかはないだろう。  赤坂総攻撃は、作戦会議の翌日、七月二十七日に、第二回の大里攻撃を皮切りに始まった。大里には敵影がなかったので、晋作の作戦通り、報国隊は本街道を、奇兵隊は|下《しも》|馬寄《まいそ》から山手を、両隊ともわずかに砲一門を先頭にして進んだ。  奇兵隊はさらに二手にわかれ、一隊は赤坂砲台の背面を突き、他の一隊は街道を進んできた報国隊に合して、前面から赤坂を攻めることにした。  この赤坂砲台攻撃が、小倉戦争のうち最大の攻防戦で、長州の強豪奇兵隊および報国隊と熊本の精鋭が文字通りの死闘を演じ、この戦いだけで長州軍の死傷者は百十四人を数えた。  小倉側がこの赤坂を失えば、小倉城下は総くずれになる。長州にとっても、赤坂攻略は至上命令だった。互いに勝敗を賭しての激突だが、高所に陣取って、長州軍を狙い撃ちにする熊本兵は終始優勢に立った。  高杉晋作は、病をおして海峡を渡り、住吉原までやってきた。そこから望遠鏡で赤坂の戦況を見つめていた。晋作は、あまり無理押しして多くの死傷者を出すことを好まず、弾薬を補給しながら、もっぱら撃ちこむことに主力をそそいだ。それでもしびれを切らした奇兵隊士たちが、決死の先鋒を願い出て、強引に突撃することも多く、ほとんどは山腹をよじ登り、砲台近くまで迫ったところで撃ち殺された。 「はやるな、はやるな」  と晋作は肉弾の突撃を制止する。そこでまたしばらくは砲撃戦となった。その日の正午近く、熊本兵からの発砲が、ややゆるんだ。  実は、熊本兵は撤退しようとしていたのである。それというのも、総指揮官の老中小笠原壱岐守に対する不満からであった。壱岐守は幕艦富士山丸でやってきたのだが、この軍艦は小倉城下の中心を流れる紫川付近に碇泊したまま動こうとしなかった。長州の軍艦は、海峡から大里、赤坂方面に砲撃を浴びせては引きあげ、再び弾薬など補給物資を積んでやってくるという行動をくりかえしている。当然、富士山丸は出動すべきだが、いっこうにその気配がない。この軍艦は船体を黒く塗った鋼鉄張りで、全長八十メートル、中央に百十四ポンドの大砲をすえている。他の幕艦も長州藩の小型艦にくらべたら堂々たる姿を海上に浮かべているだけで、動きはきわめて消極的だ。  山の上からそれを見ていた熊本兵は急使を出して、壱岐守に富士山丸などの出動を要請したが、がんとして応じない。 「われわれは幕府の命令で出兵し、恨みもない長州兵と殺しあっているのだ。その幕府が戦ってくれないような戦争で犠牲者を出すことはない」  熊本兵は、赤坂の要害でその精鋭ぶりを発揮したし、武士の面目は立ったということだろう。陣屋に火をかけ、さっさと熊本に帰ってしまった。  熊本兵が引き揚げて行ったのをきっかけに、久留米をはじめ九州諸藩の兵も次々と戦場を捨てて帰国してしまった。  長州軍が赤坂の砲台を占領し、小倉城下総攻撃の希望を見出したのは、七月二十八日のことである。晋作はしかし、いきなり総攻撃に移ることを許さなかった。満を持して、しばらく見守ろうというかねてからの作戦である。  八月一日に小笠原壱岐守のもとへ江戸から密書がとどいた。それは彼にとって驚愕すべき知らせだった。将軍家茂が、七月二十日に大坂城中で急死したというのである。そのことはまだ極秘にされていた。  動転した壱岐守は、その日ひそかに富士山丸に乗り込み、戦場を捨てていったん長崎に逃げ、江戸に帰った。彼が富士山丸を動かさなかったのは、自身の逃亡用においていたとしか思えない。  この小笠原壱岐守という人はたしかによく逃げた。江戸へ帰ったあとは、奥州棚倉、会津、仙台と逃げて行き、最後は箱(函)館の五稜郭に入った。五稜郭降伏に先立ってついに海外へ逃げた、と思われていたが実は国外逃亡とみせかけて、再び江戸へ逃げ帰り、かくれていたのである。後に許され、明治二十四年(一八九一)に七十歳で、一市井人としてこの世を去った。ちなみに、日露戦争当時、日本海軍で活躍した小笠原長生中将は、壱岐守の妾腹の子である。幕末、軍艦で逃げまわった父親の汚名を|濯《すす》いだということか。──  九州諸藩に去られ、総指揮官にも逃げられた小倉兵は孤立してしまい、悲壮な決意をかためて、みずから城を焼いた。壱岐守が姿を消した八月一日のことである。  そのとき、小倉藩の家老小宮民部は、自邸に火を放って、それを合図に城内に火をかけさせたので、町にも燃えひろがり、小倉の城下は四日間にわたって炎につつまれた。  高杉晋作が喀血したのは、小倉落城とほとんど同じころである。小倉城下から立ちのぼる黒煙は、下関の白石正一郎邸の一室をあてられた晋作の病室からも眺めることができた。彼は、それを見届けると、多少の安心感もあったせいで、急速に病状が進み、起きあがれないほどになった。九州口参謀の軍務は、佐世八十郎にゆずり、十月二十日、現職を免ぜられた。  晋作は、もう安心して休養に入ってよいのだが、小倉戦争ですべての力を出しきってしまい、すでに療養にはおそすぎた。  城を焼いた小倉兵が、晋作が「差図書」で予言したように、一帯の山にたてこもり、ゲリラ戦を展開して長州軍を悩ませた。むしろ緒戦のときよりも、この掃討戦で払った長州の犠牲が大きかったのである。それでもついに十月八日、狸山の戦いを最後に、小倉方が止戦を請い、およそ四カ月にわたる四境戦争中最も長く、激しく、苦しい戦闘はおわった。正式に和議が成立したのは翌慶応三年(一八六七)一月二十三日である。  四境にせまった幕軍を、新式の小銃を頼りに、少数の兵をもってとにもかくにも撃破した。藩内は戦勝気分でわきかえっている。ともすれば暗い緊張にとざされがちだった山口の政事堂も、ようやく明るさをとりもどした。  しかし、孝允は内心うかぬ顔で、祝宴の酒を口にふくんでいるのだ。 (これからどうする)  それを考えている。四境の戦勝が、ただちに幕府の倒壊につながるのではなかった。この対幕戦では、少なからぬ犠牲を払った。全力をふるったあとの疲れも色濃くただよっている。このまま幕府の本拠江戸へ突っ走れるものでもなかった。  薩摩は無傷だが、長州はいわば|創痍《そうい》の身である。軍事同盟が実を結ぶまでには、いくらかの時間が必要だった。  土台がぐらついているとはいえ、幕府がなお強大な権力機関であることに変わりはない。それに年若い将軍が死んだだけで、突然弱体化するわけでもなかった。むしろフランスの援助を得て軍事態勢を立てなおし、再び長州を襲う可能性もある。それはあながち孝允の杞憂というものでもなかった。  そんなとき、大村益次郎と両翼をなして四境戦争を領導した高杉晋作の病状の悪化が、しきりに気づかわれるのである。   晋作昇天  江戸いらいのことをふりかえると、孝允と晋作はそれほど親交をかさね、直接提携して仕事をした跡がない。ただ、ふしぎに共通する人間関係で、この二人はそれとなく心を結ばれていたといえる。まず吉田松陰とのつながりがある。そして萩では内藤作兵衛に剣を習い、江戸へ出ると練兵館に入門した。孝允が先を歩き、後れて晋作が同じ過程をたどっている。あらゆる行動を通じて、二人が何となく擦れ違ったのは、ひとつには晋作が、かなりの期間足踏みして、政治運動に加わらなかったせいもある。  晋作は水長密約のときもそっぽをむいていたし、航海遠略策をめぐる反対論にも、一度は長井|雅楽《うた》を斬るなどと騒いだりしたが、途中で上海へ行ってしまった。もっともそのとき晋作を江戸から遠ざけたのは孝允である。  晋作が、本腰を入れて長州尊攘派の戦列に加わってきたのは、上海から帰国して以後だった。アヘン戦争後の清国における半植民地状態を見て、対外危機感をかきたてられた結果である。  それでも帰るとすぐイギリス公使館焼き打ちを煽動するなど、孝允の目には彼の突飛な行動が目に余った。 「十年後、僕が何かするときは晋作にすべてを相談するつもりだ」というのが吉田松陰の口癖で、孝允も何度かそれを聴いた。門弟を見る松陰の目の確かさを信じていたので、暗示をかけられたように、孝允は暴れ者の晋作を、ひそかな好意をもってながめてきたともいえた。  松陰の予言はあたったのだ。奇兵隊を組織したころからの晋作は、長州藩に欠くことのできない人物におさまっていた。孝允は、京都にいたから、そんな晋作を遠くから見守っているだけだった。  しかし、但馬に潜伏した孝允が帰国し、再び活躍の場を得られたのは、晋作の決断による功山寺決起で、藩論が確立されたからだといわなければならない。  遠くを浮遊していたような晋作が、急速に孝允の周辺に接近し、互いの行動と噛みあいながら、四境戦争を迎えるのである。  大村益次郎のほかに、強力な人材を発見した思いだった。益次郎はまったくの軍事技術者だが、晋作は違う何かを持っている。しいて言えば、それは思想というものかもしれない。あるいは想念と言いかえてもよい。直感力と、武士的な独断と、破壊力にとんだ想念である。今は、それがこよなく頼もしく思われる。  だが、晋作は、血を吐いたという。彼が不治の病である労咳におかされていたことを、いやおうなく認めないわけにはいかなかった。  晋作が床から起きあがれなくなって、孝允は何度か下関へ見舞いに行った。  慶応三年一月下旬──それは晋作が死ぬ四カ月前だが──孝允は、小倉藩との和議成立後の事情視察のため下関へ出むいた。  用務を終ったあと、白石正一郎邸を訪れると、そこに寝ているはずの晋作は、病室を新地の桜山に移したという。 「高杉さんが、その……どうしても、むこうへ行くと、がんばられますもので……」  正一郎が、ひどくぎごちなさそうに、事情を説明しようとするので、変だと思いながら、教えられた晋作の病舎へ行って見て、唖然としてしまった。およそ病室などといった場所ではないのである。  桜山は招魂社のある山で、現在では約四百柱の維新殉難志士を祀る桜山神社になっている。招魂社は、もともと晋作の発意で、元治元年に奇兵隊士らの手で創建された。靖国神社の発想は、ここから出たといわれている。  この桜山のそばに、奇兵隊の営所だった建物があった。農家を改造した粗末なつくりで、一月の隙間風がしのびこみ、寒気がきびしい。薄暗い部屋の中に、晋作は病み果てた体を横たえているのだった。  枕元には、愛人のおうのが、ひっそりと坐っている。木枯しの音を聞きながら、死期を待つといったていの陰惨な風景に、孝允はふとこみあげる怒りを感じた。 「どうしてだ。どうしてこんなところにいる!」  孝允は、晋作の枕元に這い寄るようにしながら、激した声を出した。 「ああ、桂さんですか」  と晋作は孝允の旧姓を呼び、頬骨の突き出た痩せた顔を歪めた。笑ったのだろう。制止したのもきかず、おうのに手伝わせて、上半身を起こした。 「こういう詩ができましたよ」  一枚の紙片を、晋作が見せた。 「桜山七絶、時に予、家を桜山の下に移す」と題する七言律だった。     落花斜日恨無窮     自愧残骸泣晩風     休怪移家華表下     暮朝欲払廟前紅 「すばらしい作だが、少し悲しすぎないか」  と孝允は努力して笑ってみせた。 「結構これで楽しいのですよ」  嗄れ声で、晋作が笑う。  孝允には、やはり「怪しむを|休《や》めよ、家を華表(鳥居)の下に移すを」の詩句が気になった。 (怪しまずにおれようか)  白石正一郎は、なぜ晋作を屋敷から出したのかと、孝允は思うのである。労咳は感染する病気として怖れられている。食品なども扱う回船問屋の白石邸に寝ていては迷惑をかけると晋作は判断して、みずからそこを出ようとしたのであろう。しかし、それにしても酷い家に移したものである。  正一郎が勤王商人といわれ、志士のために尽したことも、孝允はよく知っている。自分もかなり世話になった。しかし、奇兵隊結成いらい正一郎は、とくに晋作と親交を結んだ。ほとんど晋作ひとりに賭けるといったほどの尽しようだった。  晋作はもちろんだれもが正一郎の行為を、商人とはいえ鈴木派の国学を修めた勤王家の志に発するものと信じて疑わなかったのだ。それは確かにそうであるかもしれなかった。  だが、死の病いに喘ぐ晋作を、今となって手許から放すというのはどういうことかと、孝允は険しい気持になるのだ。 (しょせんは、商人の打算であったか)  正一郎は又末家といわれる清末藩の御用商人である。幕府の政商に押さえられた北前航路にも進出できず、|地回《じまわり》回船の比較的小規模な|商《あきない》で我慢している。そこで安政年間、薩摩との交易を、正一郎は開拓した。ところがその薩長交易も、ようやく緒についたところで、萩宗藩の政商中野半左衛門に横取りされている。  正一郎の勤王思想は、国学の影響にもよるが、ひとつには封建制下の抑圧に耐える地方商人の変革待望からもきているだろう。つまり商人的な打算に裏打ちされているとみてよい。彼は、晋作を通じて、支藩を上まわる藩権力に結びつこうとしたのかもしれない。  孝允が正一郎に怒りを覚えるのは、商人としては当然といえるその打算に対してではなかった。命を摺り減らし、彼にとってはすでに利用価値を失って死の床に就いた晋作を、屋敷から遠ざけた行為そのものが許せないのである。  明治以後、白石正一郎が、あれほどの功績をうたわれながら、まったく世に出なかったのは、自分の意志によるものといわれている。それは、おそらく正しい見方だろう。しかし、孝允や伊藤、山県たちが、まるで意識的にそうしたかのように、正一郎を一顧だにしなかったのも謎めいている。死の直前の晋作に対する彼の態度を、この元勲たちが記憶していたからだといえば、うがちすぎた解釈となろうか。ともあれ正一郎もまた革命に利用された一個の走狗ではあった。  機能を失った人間を切り捨てて行くという非情な社会に、やがて孝允自身、当事者として直面しなければならない。そして彼もいずれは、巨大な時代の波から自分が置き捨てられようとする情況と戦うときがくるのだ。──  桜山の病室で、孝允が晋作を慰めることばを、それとなくさがしていると、奇兵隊の山県狂介や福田侠平らが、陽気に喋りながらどやどやと入ってきた。 「高杉さん、どうだ見事な魚でしょう」  と、福田侠平が、さげてきた目の下一尺ばかりの鯛を高く捧げてみせた。 「料理してこようと思ったが、この姿をちょっとご覧に入れてからと、さげてきたのです」  怒鳴るように言って、侠平は一緒につれてきた奇兵隊の小者らしい少年に、それを渡した。どこかで料理するように命じたのだろう。しばらくして、大皿に盛った鯛の刺身が運ばれてくると、一同持参した酒を飲み始める。  晋作は、注がれた酒を一口ふくんだだけで、すぐに盃をおき、魚にもほとんど手をつけなかった。あれほど酒の好きな男が、もはや見むきもしなくなっているのだ。 「桂さんもどうですか」と山県狂介が酒を注ぎながら、「ああ、木戸さんでした」と言いなおした。 「飲めない人の前で、酷ではないのかね」  憮然としたその孝允の声が、耳に入ったらしく、晋作が弱々しい笑い声をあげた。 「僕は好きなんですよ、酒席にいるのが。それでこうしてやってきてくれるのです」 「なるほど、では私も頂戴しよう」  一刻ばかり歓談したのち、孝允は皆と一緒に外へ出た。 「潮が退くようで、さびしくなるのう」  床の上から一同を見送るとき晋作が洩らした言葉が、耳の底に残っている。 「山県君、あれでよいのか」  呟くように、孝允が言った。 「え? 何がです」 「あれは病人が暮らすような場所ではない」 「ああ、そのことですか。すでに手は打っちょります。林算九郎の離れが空いているので、引き受けてくれるはずです」 「早いほうがよいな。たまに出てきて指図がましいと思われるかもしれんが」 「いや、当然です。すぐ転居というのも白石にあてこするようですから。しかし、二、三日うちには必ず……」  恐縮したように、山県が歩きながら頭を下げた。  孝允はその足で山口ヘ帰ったが、山県の言ったように、晋作の病室が林家に移されたという報告が間もなく政事堂に届いた。  林算九郎は新地の造り酒屋で、屋敷は白石正一郎邸にほど近いところにある。  晋作が重態というので、萩から妻の雅子が子供の梅之進(東一)をつれて下関へ出てきた。  晋作が福岡へ亡命したとき、平尾山荘にその身柄を保護した野村望東尼も枕元にやってきた。望東尼はその後福岡藩の勤王派弾圧で姫島に流されていたのを、晋作の部下が奪取して下関へつれてきたのである。  晋作の臨終近しと知って、奇兵隊の者も目立たないように、林邸へつめかけている。久坂玄瑞をはじめ、松下村塾時代の多くの友人は、戦場で悲惨な最期を遂げた。暴れ者の晋作が今は畳の上で果てようとしている。やりたいことは、すべてやったという安らかな表情だった。  狂おしく、しかも聡明に激動の時代を生き抜いた初代奇兵隊総督高杉晋作は、四つの国境戦に長州軍が凱歌をあげたのをたしかめ満足して「吉田へ……」と謎のようなことばをひとことのこし、四月十四日の未明、静かに息をひきとった。満二十七歳と八カ月の生涯だった。  晋作が臨終に言った「吉田へ」ということばは、いろいろに解釈されたが、当時奇兵隊の本陣があった吉田に埋葬してくれと頼んだのだとの結論に達した。晋作の墓は、だから吉田(下関市)の清水山に建てられた。  元治元年十二月、いわゆる功山寺挙兵の直前、晋作が大庭伝七(白石正一郎の弟、長府町年寄)にあてた手紙には、  表/奇兵隊開闢総督高杉晋作則/西海一狂生東行墓/遊撃将軍谷梅之助也  裏/毛利家恩古臣高杉某嫡子也  という墓碑銘が指定されている。  しかし実際の晋作の墓は、なぜか「東行墓」と三字を彫っただけのものである。  慶応三年五月十九日の朝、孝允は山田宇右衛門と共に、藩主毛利敬親の前に召し出された。  その前に、宇右衛門は心持ち眉をひそめるようにして「何事であろうかの」と、孝允に言った。 「さあ……」 「このごろ、あまり細かく報告しておらんので、催促かもしれん。まあ問われたら、ご心配遊ばしますなとだけ言っておこう」  宇右衛門は、そのあたりのことをよく心得ている。�そうせい侯�などといわれる敬親は、ほとんど家臣の仕事に口を出さない。藩政をあずかる能吏たちは、それで助かっていたのだ。へたに口出しされたのでは、藩主の意見を無視もできないので、とんだ方向へ乗り上げないともかぎらない。  第二次長州征伐の幕軍を撃ち払うことはできた。これからが正念場で、じっくりと腰を据えなければならないが、さりとて事態の推移をただ座視してもおれないのである。 (早く大権を朝廷に移さねばならない。それをどのように進めるかは、薩摩の考え方にもかかっている) 「ぼつぼつ京都へ出兵ということになりますか」  廊下を歩きながら山田宇右衛門が言った。似たようなことを考えていたのだろう。 「時機を見なければなりませんな」  孝允は、それだけ答えた。いたずらに隠すつもりはないが、詳しいことを宇右衛門に話すと、他の重臣たちに伝わり、あれこれと論議百出して、動きがとれなくなる。  宇右衛門は、このとき五十五歳である。  吉田松陰の養父吉田大助の門下で、松陰の幼年時代にその後見人のひとりとして兵学を授けた。だから松陰の兵学門下である孝允にとっては大先生ともいえる人物だ。安政元年には、浦賀防禦総奉行参謀として、宇右衛門は長州藩兵の指揮にあたっている。当時は身分が違いすぎて、孝允は彼と話もできなかった。  その宇右衛門と今は肩を並べて藩主の前に伺候するまでになった。宇右衛門と話していると、孝允はときに不思議な気持で後ろをふりかえるのである。しかも、内心では宇右衛門への不遜な姿勢をとっている自分がそこにいるのだ。つまり彼の為政者としての限界のようなものを孝允は、このごろ感じているのだった。  宇右衛門の号は頼毅という。それが示しているように「人と為り強毅謙遜にして居常質素を尚ぶ」などと評される。藩内での人望も厚いので、参政としてまとめ役には向いているし、孝允の仕事も大いに助けられた。しかししょせんは軍学者であって、政治的な曲折する動きの中を、たくみに泳ぐという人物ではない。和を強調するあまり自身も敵をつくらない。それで孝允も彼に関していらだつことがよくあった。以前、小銃と一緒に軍艦を買うというとき、海軍局の横ヤリが入って長くもめ抜いたのがそうだった。  やはり年齢ということもあったのだろう。古いといえば、宇右衛門は古い世代に属する家臣団の代表ともいえた。肉体的にも、このごろ衰えが目立つのは持病のためである。ひとつの時代の節目を、彼なりに必死に生きている。孝允と藩主の前に出たこのときから半年後の十一月に宇右衛門は病死した。──  さて、藩主敬親は、その日宇右衛門と孝允を呼んでまずこのように言ったのである。 「高杉晋作が死んだそうじゃな。惜しい男であった」 「はい、惜しい侍でありました」と宇右衛門が答えた。 「晋作がおらんでもよいのか。この先」  妙な言い方だが、孝允にも藩主の気持はわかる。奇兵隊の結成、連合艦隊との講和談判、功山寺挙兵……藩が危機に瀕しているとき、晋作は飄然とあらわれて、決定的な役割を果した。  四境に迫った幕軍は破ったが、これから本当の危機を迎えるのだという認識を、敬親が抱いているのは、宇右衛門にしても、孝允にしても(失礼ながら)とひそかに前置きしたうえで、意外だった。  晋作のほかに、この危機を突破する人物がいるのかと、藩主は素朴な質問を二人にむけているのである。 「大村益次郎がおります。以前の村田蔵六であります」  と孝允は即座に答えた。 「石州口での巧みな戦さの仕方が評判になっちょります」  これは宇右衛門が言った。 「しかし、九州口での晋作もなかなか見事だったというではないか。病身の身でよくやった」  敬親は、だれかの報告を受けたのだろう。(だれだろうか)と孝允は思った。おそらく広沢兵助にちがいない。──広沢兵助。  のちの広沢真臣である。孝允と同年の三十五歳。でっぷりと肥えた童顔の武士で、これまではそう目立つ存在でもなかった。高杉ら松下村塾出身の者と交わりもないし、孝允との接触もほとんどなかった。かといって俗論派に肩入れするでもなく、藩内動揺のころはいわば中立を保って、傍観の立場をとったともいえる。  しかし、元治元年秋、俗論派の弾圧を受け、多くが投獄されたとき、その一人として野山獄に入っている。時に正論に近い言辞を洩らすことが目ざわりにも思われたのだろう。弁舌の達者なところもあるので、やはりいずれは人の前に現われる人物ではあった。  野山獄では急進派の武士が大勢斬られたが、兵助は処刑されるほどの立場でもなかったので助かった。椋梨藤太ら俗論派が敗退し、藩論が回復すると、野山獄を出た兵助は、にわかに政府員として進出してきた。「俗論党によって投獄」というのが、新しい履歴になったかの観もある。  前年の九月、四境戦争の止戦交渉が広島の厳島でおこなわれ、幕使として勝安芳がやってきた。長州側からは井上聞多が行き、副使のかたちで兵助が選ばれた。何しろめぼしい人物の多くが野山獄で殺されている。いわば人材不足の中で、兵助は機会にめぐまれた。弁舌さわやかという特技もあるが、もともと才能もあったのだろう。選ばれれば一応のことはこなしたのである。  聞多と共に止戦交渉の接幕使の役目を果したことで、兵助の株はいちだんとあがる。  内心不満に思う者がいないわけでもなかった。伊藤俊輔、山県狂介、品川弥二郎をはじめ、早くから尊攘運動で活躍した連中が、それほどの要職にひきあげられているわけではない。彼らが足軽、|中間《ちゆうげん》といった軽輩出身ということもある。文久三年に|士 雇《さむらいやとい》に昇格したのがせいぜいというところだ。  広沢兵助の立身は、れっきとした藩士であることに負うところが大きい。まだ封建の身分制が根強くからみついているのだ。百姓医者出身の大村益次郎が、譜代に列し、百石を賜るなど例外中の例外であろう。  その益次郎は、用所役、軍政専務、軍政用掛などの役についている。広沢兵助は、軍政総掛で、その上司に立っているのである。益次郎は当然兵助に直属するわけだが、前からの行きがかりもあるので、兵助を無視するかたちで何かと孝允に相談することが多い。兵助は面白くないのだ。  こういう人物にありがちな傾向だが、兵助は藩主の側近を気取っているようだった。  高杉晋作の名指揮ぶりを敬親に吹きこんだのは、孝允が想像した通り兵助である。それは益次郎をあまり評価しないという間接的な表現にもなるのである。 (このままではいかんな)  と孝允は思う。やはり益次郎を自分の直属におきたい。そのためには、軍政総掛という地位を手に入れる必要がある。しかしそれは兵助がつとめている。  奪いとるのだ、いっしゅん猛々しい目をあげると、まだ敬親が晋作のことをくどくど言っているようだった。 「晋作には、機略というものがあったな」 「殿!」と、孝允は穏やかではあったが、はっきりした口調で敬親の声をさえぎった。「晋作はすでに故人でございます。今はそれに代わる人物を押し立てて、幕府にもう一戦挑まなくてはなりますまい」 「それは、そうである」  敬親は、素直に折れた。 「ところで、今後どうするのか」  敬親は、やっと本題を切り出した。 「そこがむつかしいのでございます」と宇右衛門が唸るように言う。「幕府もこのまま退きさがることはありますまい。やはり一戦は避けられません」 「また戦さをするのか、どこでやる、迎え撃つのか。広沢は、さらに割拠して、武備をかためて時を待つがよいと申しておる」 「そうもしておれんでしょう」  孝允は、苦々しく兵助の顔を思いえがきながら言った。 「では出兵するのか」 「場合によっては……」  と曖昧に答えておく。そのための薩長同盟ではないかと、一気にまくしたてたかったが、抑えた。いずれ会議にかけて方針を決めたいという意味のことを述べて退席しようとする二人に、 「頼むぞ、励んでくれい」  と、敬親は、あるいはそれを言うために呼んだのかもしれないと思えるほど力をこめて言った。 「ご安心遊ばしませ」  宇右衛門が、やはり用意してきた言葉をのべたので、孝允はちょっとおかしくもあった。 「山田さん、聴いていただきたいことがあります」  あとで孝允は、宇右衛門と二人きりのとき、あらたまった調子で話しかけた。先程考えた軍政総掛のことだ。 「大村さんと広沢では、肌が合わないかもしれんな」  宇右衛門は、すぐに理解したらしい。この当時孝允は用所役・蔵元役兼務という役についている。要職ではあるが、直接軍務を管掌する立場ではない。 「しかし、広沢をやめさせて、あんたを据えるとなると、波風が立つ。このときじゃから慎重にやらんとな」  しばらく腕組みしていたが、とにかく考えておくと、宇右衛門のほうから話を打ち切った。  晋作なきあと、長州の三軍を叱咤して戦いの先頭に立つ者といえば大村益次郎しかいない。孝允は何としてもその直属の上司として彼の動きを助けてやりたいと、あらためて願った。  それにしても京からどのような返事がくるか、孝允は品川弥二郎からの報告を、焦るように待っている。三日前、彼は京都の薩摩藩邸にいる弥二郎に手紙を出した。 「一刻も早く幕府から大権を朝廷に還すようにさせないと、天下は幕府とフランスの手中に陥ることになるだろう」といった意味の内容である。薩摩は、どのように今を対処しようとしているのか、それを即刻知りたいのだった。  六月十九日になって、弥二郎の動きに対する反応があらわれた。薩摩の黒田了介からの手紙が孝允に届けられてきた。西郷吉之助が、打ち合わせのため長州へ行きたいと言っているというのである。ついに西郷が乗り出してきてくれるか、急に明かりがさす思いだった。  ところが、一カ月足らず経た七月十五日になって、薩摩藩士村田新八が、京都から山口ヘ下ってきた。西郷吉之助の来山は、もう少し遅くなるのでよろしくという断わりの使者である。 (またか!)  西郷のこのやり口には、慣れているとはいえ、やはり腹が立つ。どこまで人を|虚仮《こけ》にするつもりかと、村田新八にも噛みついてやりたいところだが、かろうじて感情を抑えた。薩摩とは争えないときである。  翻弄されながらでも、今は必死にしがみついて、薩摩を討幕の戦列にひきこまなければならない。……いや薩摩は、すでに討幕の路線を進んでいるのだ。長州を蹴落として単独ででも突進しかねない。……いや薩摩としても長州の協力なしにはそれをなし得ないだろう。……などと孝允の思いは乱れる。京都にいる西郷吉之助の心底がつかめないままに、夜もろくに眠れず、人しれず憔悴する毎日である。 「木戸さん、初めは処女のごとく、終りは脱兎のごとく」  そんな高杉晋作の声を、うつつに聴いたように思う。今になって、しみじみ晋作の凄味を帯びた存在の重みを知った。 [#改ページ] 第二章 征討の旗   船中八策  西郷吉之助の山口訪問が、急に中止となった旨を告げる村田新八の説明を、何か歯切れの悪いところがあるように、孝允は聴いた。  吉之助は、藩務に忙殺されて、長州行きが果せないというのである。忙しいのはわかるが、その藩務の中でも、薩摩と長州の討幕出兵打ち合わせは最優先のことであるはずだ。忙しくて来られないというのは、薩摩が、また尻込みしている証拠であった。  村田新八が山口ヘきた翌日の七月十六日、糸米の孝允の自宅に、直目付の柏村数馬がおとずれた。明治になって毛利家の家令をつとめた柏村|信《まこと》である。新政府の役人にならず、公爵家の家令として晩年をすごしたことからも察せられるように、愚直なまでにまじめな侍で、ひとつにはそれを買われてこの時期、直目付の要職を与えられていた。孝允より年長の四十四歳だった。  わざわざ自宅までおもむいてきたのは、孝允が歯痛のため政事堂に出仕していなかったからである。床に就くというほどではないが、奥歯がズキズキ痛んで、読書もしておれない。薩摩からの不愉快な返事のこともからみ、いっそう苦悩をかきたてられている。 「西郷吉之助殿は、なぜお見えにならないのでしょうな。あるいは近々のうちに来山の予定がありましょうか」  のんびりした口調で訪問の口上を述べる数馬に、孝允は歪んだ顔をむけた。悪いなと思いながら、つい不機嫌な声になる。 「わからんのだ。薩摩の考えちょることは」 「当分は西郷殿の来山なしということで処理してよろしいでしょうな」 「然るべく」  と、追い返そうとしたが、数馬は動かなかった。厠に行くので失礼すると、孝允は奥へ引っ込んだ。茶を運ぼうとしていた松子が、小声で言った。 「柏村様が気ィ悪うしやはりますえ」 「痛いのだ、とにかく。早く帰るようにいうてくれんか」 「困ったことどすなあ」  しばらくぐずぐずして客間へ行くと、数馬は、のっぺりとした感じの白い顔を傾けるようにして、外をながめていた。鴻ノ峯が紅の色を染めようとするには少し早いころだ。  数日前まで、薩摩の西郷吉之助がくるというので、受け入れ準備に大勢の者が追いまくられていた。だれが吉之助に応接するかで、まずひと論議あった。  老臣の毛利筑前は、あまり仰々しく多人数で押しかけるのはよくないと言い、孝允と広沢兵助と二人でよいだろうという意見を出した。孝允はこれに反対し、参政の山田宇右衛門や御堀耕助らも同席させるべきだと主張した。兵助と二人きりで会うと、彼がまた単独で藩主敬親に、勝手な耳打ちをするのではないかと思ったからだ。やはり宇右衛門を出しておきたい。御堀耕助は、以前太田市之進と名乗り、江戸練兵館では孝允の後輩にあたる。容貌魁偉の大男で、剣技にすぐれ才知もある。世子定広の小姓をつとめたこともあり、このころは政府員に列していた。耕助を同席させようとしたのは、護衛の意味もあった。  藩内には、いぜんとして薩摩に悪感情を抱く壮士がいるかもしれないので、吉之助の山口入りに対しては警備も厳重にかためることになっていた。直目付の柏村数馬は、その警備態勢をどうしたものかと伺いを立てにきているのである。  吉之助の応接役について、老臣から嫌な顔をされてまで自説を押し通したのも徒労におわったことが、孝允にはまた腹立たしく思われる。 「西郷殿が来山されない理由はもっと別にあるのでしょう」  再びあらわれた孝允に数馬がたずねた。孝允は、また右の頬をおさえ、顔を歪めた。 「あ、歯が痛いのでありましたな。奥方から今お伺いしました」  と、数馬が眉をしかめてみせた。 「土佐藩の動きが変わったのかもしれません」 「なるほど」  数馬が身を乗り出した。  柏村数馬は、役目柄一応の情況を知っておきたいと、彼なりに思いつめているのだろう。 「土佐藩と薩摩藩の間で、何か取り決めていたのですか」 「取り決めとまではいかないが、それらしい動きはあったと、品川弥二郎が知らせてきております」  土佐藩が、薩長同盟の戦列に加わろうとしたのはたしかである。これを推進したのは、土佐の|乾《いぬい》退助だった。のちの板垣退助である。急進派の彼は、薩長がめざす武力による倒幕に賛成で、在京の西郷らと話しあった末、帰国して同志をつのり土佐の兵力をひきいて再び上京するという決意を示した。  ところが、土佐には武力によらず平和解決を主張する後藤象二郎がいる。保守色の強い藩主山内容堂を動かすには、退助よりも象二郎のほうが有力な立場にいる。  しかし、退助の自信たっぷりな土佐藩出兵の申し出を、薩摩は期待した。つまり薩長土と結ぶ軍事同盟となればさらに心強い。すでに武力倒幕の方針をかためている島津久光もさっそく西郷吉之助を山口ヘやって、出兵の時機など話しあうように命ずるというところまで情況は進んでいたのだ。 (土佐は大丈夫か)  という危惧が、孝允にははじめからあった。これまでの山内容堂の言動からすれば、とても土佐が武力解決などという過激論に同調するとは思えなかったのである。  土佐の接近で、急に積極的な姿勢をみせた薩摩が、にわかに尻込みしはじめたとすれば、それは土佐の後退によるものとしか考えられない──。  そうした事情を、孝允はかいつまんで数馬に話してやった。 「このことは、明日政事堂に行き、殿様をはじめ政府員に話しておくつもりです。ま、士気に関わることでもありますので、吹聴はできません」 「吹聴などいたさぬ」  数馬は、むっとしたように言い、しばらく視線を外のほうにやっていたが、突然、丁重に一礼し帰って行った。  翌日、大村益次郎に会うなり、孝允は歯痛を何とかならないだろうかと相談した。 「私はもう医者ではありません。それに歯のことは知りません」  このそっけない返事は、相変わらずということかもしれないが、それだけではない怒りのようなものを、わずかに含んでいる。益次郎は、自分を便宜的な存在としか見ない人々の無神経な視線に腹を立てているのだ。茫洋としていながら、どこか一点、するどい感受性をめざめさせている益次郎を、あらためて発見した思いで、孝允は、こんなとき人間に対する畏怖の感情を覚えるのである。  坂本竜馬や西郷吉之助や、藩内の人々にまで、孝允の周辺にあらわれるすべての人物に、大なり小なり感じている畏れである。わずかに顫える心を叱しながら、剣尖をふれあわせ対峙するときのように、立ちむかっている。人知れず息切れのするそれぞれの対人関係を処理していくことへの疲労感が、いつもただよっているのだった。 「風邪をひいちょられますな。それを治すことが先決です。あるいは歯痛もおさまりましょう」  大真面目な表情で、思いなおしたように益次郎が言う。 「医者のところへ行ってみます」 「あとで私が処方を書いておきましょう」  そんな会話を取りかわしていると、山田宇右衛門がやってきて、「木戸さん、ちょっと」と手招きした。長崎へ行けという藩主の命令を伝えるためである。  先程、薩摩と土佐の関係を中心に京都の政情を、藩主に推測してみせたとき、孝允は、長崎にいる坂本竜馬に問いただしてみる必要もあると説明した。長崎へ行きたい、と孝允は言わない。希望して出かけて、何も得るもののない場合がある。だから藩命を受け、義務的に行くかたちをとったほうがよい。名目は「長崎の形状偵察」ということになっていた。  孝允の長崎行きは、慶応三年七月二十一日に三田尻からの船で出発して、九月四日下関へ帰るまでの四十日余にわたった。  大村益次郎の処方による薬が効いたのか、船に乗ったころは感冒もなおり、歯痛は嘘のようにおさまっていた。長州藩にとっての多難な情況は、心の重みになっているが、やはり快適な旅だった。  長崎では坂本竜馬の歓待を受け、毎晩のように丸山の花月あたりで酒びたりになるほど遊びもした。このころ竜馬は才谷梅太郎という変名を使っている。すでに幕府から睨まれる存在だが、海援隊をひきつれ、薩摩と交流しながらの長崎滞在中は、まず安全といえた。  竜馬は船を乗りまわし、よく京都に出かけて行く。ここでは変名を使っているくらいで安心できるものでもない。薩摩屋敷に身を寄せている限り、何事も起こり得るはずはないが、竜馬は平気で京の町へ出没する。本人としては、それなりに用心しているのだろうが、はたから見れば危険に対する警戒心がまるでない。その点では、小五郎時代からの孝允にみられる動物的本能にも似た危険予知と、それに対処する行動と……まったく対照的だった。  六月のはじめにも、竜馬は船で京都へむかっている。同じく京をめざす後藤象二郎と一緒である。  象二郎は、長崎に竜馬をたずね、土佐藩がこの時局にどのような藩論を掲げて進むべきかを相談した。同じ土佐人として、意見をうかがいたいというのだった。  以前なら「わしのような脱藩のお尋ね者に、そんなことを問うのか」と竜馬は皮肉まじりに言いかねないが、この時期、彼は藩主容堂から、その脱藩の罪を許されていたのである。 「二月に西郷吉之助が、高知をたずねて容堂公に会うちょる。そのとき中岡と坂本を許してやれと、言うてくれたらしい。深き御含みの筋あらせられ|御宥怒《ごゆうじよ》仰せつけられ候……とありがたい沙汰がきたのは、この四月じゃった」  と、大笑いした。 「二月に、西郷さんが、土佐へ行ったのですか」 「何だ、おまん知らなかったのか。京の薩摩屋敷には、長州の忍者が堂々と入りこんで、見張っちょるきに、逐一わかっちょると思うちょったが……西郷どんはその裏をかいたか」  と、また笑った。西郷と土佐の接触は、薩摩屋敷にいる長州の品川弥二郎らに隠したのではなく、やはり幕府を刺激しないために隠密の行動をとったのだと、孝允は善意に解釈した。薩摩は、同盟の中に、土佐藩を引き込もうと、ひそかにそのころから努力していたのだ。まさに孝允が以前から主唱している正藩連合は、今薩摩を軸として動きはじめたということか。  西郷が高知をおとずれた二月、自分は何をしていただろうと、孝允は五カ月前の記憶をたぐり寄せた。 (大山が来た!)  薩摩藩の大山格之助が、京都から鹿児島へ帰国の途中だが、ちょっと立ち寄ったというふれこみで、孝允に面会を求めたのは二月の中旬だった。彼には山口の近くの|小郡《おごおり》で会っている。  大山格之助。のちの大山綱良である。戊辰戦争では奥羽征討参謀として活躍、やがて初代鹿児島県令となる。西南戦争のとき、官金十五万円を独断で西郷軍に貸し与え、乱後その罪を問われて、長崎で斬首の刑に処せられた。──  西郷吉之助が土佐へ行っている間に、腹心の格之助は長州へやってきて孝允に会い、提携を深める使者として、いわば特別な内容もない話をして去った。山内容堂と吉之助の会見のことはもちろん一言もいわなかったのである。 (薩摩怖るべし!)  あらためて、そう思った。 「……それで、京都へむかう船の中で、後藤象二郎に、ある策をさずけてやったぜよ」  目の前にいる竜馬が、また孝允をおどろかすような話を切り出した。 「船の中のその策とは何です」 「武力を使わずに、幕府を倒す方法」  こともなげに、竜馬が言う。 「できるかね、そんなことが」  武力によるしか、情勢を解決する法はないと信じている孝允は、竜馬が冗談を言っているとしか思えない。 「徳川慶喜が将軍職を辞し、大権を朝廷に還すといえば、それで済む。つまり大政奉還を、土佐の山内容堂が、慶喜にすすめる、ちゅうよりも押しつける。今、将軍にそれが言えるのは容堂公だけじゃきに」  なるほどと、いったん孝允は思った。それが成功すれば、土佐藩は主導権をにぎれる。曖昧な動きをみせて、佐幕派からも倒幕派からも見放されようとしている土佐藩の回生の策を、竜馬は象二郎にさずけたということになる。 「それで、将軍職を辞したあとの徳川家は列侯の中に並ぶ。つまり幕府はつぶれ、徳川は一大名として残る。これなら慶喜もしぶしぶ承知するだろう。どうかね木戸さん」  竜馬は自信たっぷりに言うのだが、孝允は頷かなかった。 「慶喜がいやだといえば、武力解決しかありませんな」  と彼はあくまでもそれに拘っている。 「いや、承知する。土佐藩は武力を使わぬ大政奉還を実現させるに違いないてや」 「………」  孝允には、そんな甘い話は信じられない。しょせんは徳川との武力対決しかないのだと、これは薩摩とも一致する意見だ。  このときの竜馬と孝允の予想は、交錯したまま、ある意味では両人とも未来への当たり外れをみせている。結果からいえば、竜馬がいう通り容堂の働きかけによって大政奉還は実現したが、そのあとで武力対決となった。── 「徳川慶喜の大政奉還後は、公議政体にし、二つの議会をつくって国政を運営する。わしが象二郎に与えた策の眼目は、それにある」  竜馬は、人の意表を衝くことを、小出しに示してくる。孝允は、長崎滞在中に、竜馬のいう公議政体論を、じっくり聞かされて、ようやく彼の意図を理解できた。  竜馬が象二郎に与えた策は八カ条から成っており「船中八策」としてよく知られている。要約すれば次のようになる。 [#ここから1字下げ] 一、天下の政権を朝廷に奉還する。 二、上下の議事院を設置して、万機を公議によって決する。(議会制) 三、有材の公卿・諸侯及び天下の人材を顧問に備え、有名無実の官を省く。(人材登庸) 四、外国との交際を公議に基づいて、至当の規約を立てる。(外交) 五、古来の律令を折衷して無窮の大典を定める。(立憲) 六、海軍力を強める。 七、親兵を設置して帝都を守衛する。(大名の武装解除、国軍の設定) 八、金銀貨及び物価を外国と平衡させる。(国際通貨) [#ここで字下げ終わり] 「幕府はつぶれるが徳川家は列侯として残る」と聴いたときは、かつて長州の航海遠略策に対抗して薩摩が掲げた列侯会議を軸とした公武合体策と大して変わるものではないと思った。ところがこの船中八策を見ると、それとはまったく違うものである。たしかに公議政体という新しい方策が示されているのだ。 「象二郎は、これを容堂公に進言し、これを土佐藩の藩論として打ち上げたようじゃ。はじめ宇和島藩に同意を求めたが、薩摩に相談してみろといわれ、西郷のところへ行ったらしい」 「それで、西郷は賛成したのですか」 「乗ってきた。公議政体論をもって薩土盟約を結んだことになっちょる」 (それで、西郷吉之助は、山口ヘやってこないのだ!)  薩摩は、武力倒幕の方針を変更して、土佐とはかり平和的な大政奉還に持ちこもうとしているのだった。長州と結んだ討幕の軍事同盟という立場からはひどい背信である。  長州に隠して、薩摩が土佐とそんな提携を始めていると知ったとき、孝允は異様な衝撃を味わった。手を振りあげたまま孤立していく長州はどうなるのかと、蒼ざめるような不安を、いっしゅん感じたのである。  しかし、ようやく居直る気持で、周囲をながめてみると、やはりどことなく芝居じみた作為が見えてくるのだ。薩摩の行動に矛盾があるとすれば、坂本竜馬だって、ずいぶんなやり方である。薩長を軍事同盟させておいて、一方では土佐藩をけしかけ平和解決の方向に動かそうとしている。それぞれが政治的な策略をめぐらしながら、じわじわと事態を煮つめようとしているようだった。  何だか長州だけが生真面目に、直線的に走りつづけているとしか思えない。禁門の変、攘夷戦、内訌戦、対幕戦と、ひとりで犠牲を払って、こんにちにいたっている。その間、薩摩から手玉にとられているという口惜しさもある。  こうなれば、騙されたふりをして、突き進んで行くしかあるまいと、しだいに冷静さをとりもどしたのも、ひとつには土佐と薩摩がそんなにうまく噛みあうわけがないという安心感も手伝ってのことである。薩摩の|老獪《ろうかい》な政治性を、いくらかは見てきたつもりであった。 「公議政体綸はすぐれた経綸であります。これを是非とも推進させるべきです」  と、孝允は賛辞を述べた。多分にひっかかるところはあるが、字義通りに解釈すれば竜馬の船中八策は、国家がえがく未来の構図として、それ以上のものを求めようがない。  これは自分が新しく考えついたことではない、教えてくれた人を紹介しようと、竜馬は孝允を長崎のイギリス領事館へつれて行った。そこに横浜英国領事館通訳官アーネスト・サトウがいたのである。たまたま九州へやってきたサトウは、喜んで孝允と面接した。  竜馬をはじめ伊藤俊輔や井上聞多は、すでにサトウとは|昵懇《じつこん》の間柄だが、孝允は初対面だった。 「木戸さんのこと、よく知っています」と、サトウはおどろくほど流暢な日本語で言った。 「木戸さん、このサトウさんが英国策論を書いた人だ」  と竜馬は、彼を紹介した。『英国策論』は、前年の四月、アーネスト・サトウが横浜の英字新聞ジャパン・タイムズに発表した論説である。イギリス人側から、日本の政治形態変革の試案を示したもので、がぜん注目を集め、和訳されて広く国内で読まれた。竜馬はむろん読んでおり、常識のように言っているが、孝允は彼に教えられ、サトウに会う直前、初めてそれを読んだ。  原題は English Policy というのだが、これを『英国策論』と訳し、大坂・京都の書店を中心にかなり売れた。英国公使館を代表する意見のように日本人は受けとったが、実際はサトウ個人の提言である。しかし心ある人々には、きわめて新しい発想であり、行きづまった幕藩体制への強烈な示唆にとむ論文だった。  主として条約締結のさいの天皇と将軍との関係、貿易のことなどについてふれているが、これらに関連して「日本ニ大君ノ名ハ二ツナシ、其ノ名ヲ持チ得ルモノハ只帝一人ノミ」といったことに及んでいる。これをサトウ自身に解説させると、「大君(将軍)を本来の地位に引き下げて、これを大領主の一人となし、天皇(ミカド)を元首とする諸大名の連合体が大君に代わって支配的勢力となるべきである」(坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』)というのであった。  内容は相当に将軍の�顔を立てた�意見だが、竜馬の船中八策はさらにこれを一歩進め、諸大名が支配的勢力になることを押さえ、議会制を導入したものになっている。  竜馬は、その船中八策を、サトウに見せて意見をただした。 「私たちはまだ将軍の庇護なしにはこの国に滞在できないので、これだけ思いきったことはいえない。実に立派な意見です」  とサトウは竜馬をほめそやしながら、一方では痛烈なことを言う。 「英国では、いかに立派な意見を吐いても、それの実現がむつかしいからといって、途中でやめることを男子の大きな恥とします。意見だけに終るのを�老婆の理屈�と言います」  長崎では、竜馬やサトウはじめ、多くの人物と出会った。その中の一人に肥後藩士荘村助右衛門がいる。孝允と助右衛門は、安政年間まだ練兵館の塾頭だったころ会っているので旧知の間柄である。 「木戸さん、土佐は信用できませんよ」  と助右衛門は言った。 「信用できるのは、おのれだけです」  孝允はそう答える。これは実感である。 「どうでしょうか、長・薩・肥・雲の四藩同盟を組みませんか。坂本さんも賛成してくれちょります」  いきなり助右衛門が、そんな話を持ち出してきた。孝允は、内心苦笑しながら、 「坂本さんも承知なのですか。……私一存ではいかんことでありますから、いずれ後日……」  と即答を避けた。手当りしだいこんな�縁組み�に首を突っ込もうとしている竜馬は、いったい何を考えているのだという思いもある。 「木戸さんご自身のお考えはいかがでしょうか。この四藩連合について」 「正藩が連合するのは、前々からの私の持論ですから……」  その程度のことを言って、助右衛門と別れた。このとき助右衛門は、記念にと拳銃を一挺孝允に贈っている。孝允が京都時代、危険にさらされた話を聞いて、助右衛門は護身用にと差し出してくれたのだろう。礼を述べて受け取ったが、これをいつも|懐《ふところ》にしのばせておくつもりはなかった。  あとで竜馬にそのことを話し、もらっておいてよいだろうかと相談した。助右衛門の提案する四藩連合など、まるでその気がなかったから、贈り物だけを取るのはどうかと気がひけた。何か贈り返せばよいが、用意していた旅費も底をついてしまっている。 「ありがたくもらっておけばよい。肥後や雲州のことも考えてやったらどうかね」  などと言いながら、竜馬は孝允が見せた助右衛門からの拳銃を、慣れた手つきで扱ってみせたが、それほど魅力を感じてもいない様子だった。拳銃といえば、竜馬は高杉晋作が上海から買ってきた二挺のうちのひとつをもらって携帯していたころがある。  伏見の寺田屋で三吉慎蔵と共に襲われた夜、それを使った。 「撃っても撃っても当たらんぜよ、ピストルちゅうのは」  と、笑いながらそのときのことを話しはじめた。六連発のうち五発は狙いがはずれた。最後の一発は、慎蔵の肩を利用して手許を固定し、やっと刺客の一人に命中させたが、結局は、逃げるしかなかった。最初から刀を抜いて応戦していれば、右手の親指を斬られることもなかったのである。至近距離の敵にしか当たらないとすれば、かえって危険な目に遭いかねない。 「逃げるにしかずだ」  と竜馬は言う。 「刀も抜かんほうがよいのです」  孝允は、禁門の変の直後、河原町のはずれで一度、新撰組の数人にかこまれ連行されようとしたとき、虎口をのがれた話をした。一緒に歩いていた「小五郎」は、急に立ち停まり、下痢をしているのでしばらく失礼すると、刀を彼らにあずけ、袴を脱いで、路傍にうずくまった。臭気に眉をひそめながら新撰組の者が、少し距離をおいた隙を見て闇の中に逃げこんだ。 「これも兵法であります」  と、孝允は笑った。 「そうだね、身に寸鉄を帯びると、へたな自信が生じて策を用いる目を失ってしまう」  竜馬は共感を示したが、彼ほどの無防備もいけなかった。敵が周辺にうろついている限り、刀は身近においておくものであり、時にはそれを抜いて襲撃に即応しなければ、みずからが|斃《たお》されるのである。  竜馬が京都で中岡慎太郎と刺客に襲われ、前途を閉じたのは、孝允と長崎で歓談したこのときから、三カ月後のことである。竜馬は、まさしく身に寸鉄を帯びていなかった。──  肥後との提携はよく考えてくれという竜馬の強い進言もあったが、孝允は帰国して相談するまでもなく拒絶するつもりだった。  荘村助右衛門に返事をしてやってくれとも竜馬は言う。孝允はそこで、竜馬あてに書簡をしたためた。それを助右衛門に見せてくれればよい。そう思って筆を執り、このさいビシリとしたことを述べておくほうが助右衛門のためにもなると考えたのである。 「長州はこれまで同じ外様である肥後藩に対して好意を抱いてきた。近来どうしたわけか、肥後藩は終始長州藩を敵視し、一昨年などは天下の列侯にさきがけて長州再征の先鋒を幕府に願い出るなどしており、翌年の四境戦争のさい強兵をさしむけてきた。その後も敵意をもってわれわれに対し、一方では将軍家をよほど称揚して佐幕の意思を強めつつあると聞き及んでいる。長・薩・肥・雲の四藩を握手させようという計画はまことに結構だと思うが、失礼ながら荘村助右衛門殿の言われることは、肥後の藩論と大きく食い違っていて、実現不可能といわざるを得ない。志は多とするが、以上の理由でこの話はなかったものとしたい旨、助右衛門殿に伝言願いたい」  だいたいそんな意味の手紙を、竜馬に渡した。肥後を土佐に、助右衛門を乾退助に入れ替えれば、ほぼ通用するような文面である。孝允としてはそれを竜馬にわからせたいという気持もあった。  竜馬は、またどこかを飛びまわっているのか、孝允が帰国の途に就こうとする八月の下旬には、長崎にいなかった。  長期にわたる長崎滞在で、予想以上の情報を入手することができた。さすがに長崎である。横浜に次ぐ国際的な港町だった。イギリスをはじめ列国の触角が、ここに集まっている。天領に対する幕府の視線もそそがれていれば、薩摩の神経もめざめ、西国諸藩からの往来も激しい。  幕末、変転する政情の一中心をなした長崎での偵察を終えた孝允が、下関に帰着したのは、慶応三年九月四日だった。  翌日、山口ヘ入り、藩主に報告を済ませると、参政の山田宇右衛門が、その執務部屋へ孝允を呼びこんだ。 「八月二十一日付けで、あんたを軍政総掛に任じてある。ただし広沢兵助と二人でこの役目にあたってもらいたい」 「考えましたな」 「まあ、笑いなさんな。これも年寄の知恵だ」 「広沢さんは、何か言いませんでしたか」 「わしが言うた。よく説明しておいたよ。あれはもののわかった男だ。木戸さんの片腕として働くそうだ。これで大村先生も動きやすくなるだろう」 「広沢さんとは仲よくやりますからご安心を」  笑顔で孝允はそう言ったが、どことなく釈然としないものは残った。軍政総掛が二人いるということは、軍事の命令系統が二つに割れる危険性をはらんでいる。兵助も如才ない人物だから、表むき摩擦なしにやってはいけると思うが、やはり気の重い相手だった。  孝允と兵助の関係は、微妙な空気をただよわせながら、そのまま肩を並べるようにして明治政府の中に持ちこまれるのである。参議広沢真臣となった兵助は、明治四年一月、東京の妾宅で、刺客に襲われ即死した。一緒に寝ていた女だけは助かったので、彼女が手引きしたのではないかと厳しい取り調べを受けたが結局わからなかった。下手人もついに挙がらず、迷宮入りとなった。  刺客をむけたのは木戸孝允ではないかとの噂が流れたのは、やはり二人の間に、この慶応年間当時から尾をひくひそかな対立感情が、新政府内でしだいに露出していったせいであろう。── 「それにしても」と孝允は思う。「山田老人らしい解決法ではある」  とにかく強力な軍制を確立しなければならない。武力倒幕の日は必至だとする孝允の剛直な考え方は、長崎で薩土盟約のことを聴いてからも変わるものではなかった。平和解決による倒幕論に惑うなどは、アーネスト・サトウの言うように、まさに老婆の理屈を弄する徒でしかないと、孝允は思う。  坂本竜馬が、後藤象二郎に書いて渡した「船中八策」の原文書は失われているが、現在下関市の長府博物館には、竜馬自筆のそれが所蔵されている。  象二郎だけでなく、その後同じものを何枚か書いたもののひとつが遺ったのだろう。筆勢のある見事な字である。いわゆる志士の遺墨の中でも、現代の書家たちがひとしく絶賛するのは、竜馬の筆跡で、とくにこの「船中八策」が有名だ。すばらしいのはやはりその内容であろう。  内容といえば、各条項は大綱を述べた短い文章だから、読む側で勝手に解釈できるところもある。  孝允が覚え書きとしてつくった薩土盟約のうち、大政奉還の項は次のようになっている。 「将軍職ヲ以テ天下ノ万機ヲ掌握スルノ理ナシ、自今宜シク其ノ職ヲ辞シテ諸侯ノ列ニ帰順シ、政権ヲ朝廷ニ帰スベキハ勿論也」  大政を奉還し、諸侯の列に帰順したあとの将軍の処遇をどうするかについては明示されていないのである。  孝允は、将軍が列侯の一人として政治にくちばしを入れること自体に問題があるように思う。これを除けば、公議政体論を説く船中八策こそ疑いもなく「大文字」であった。 (やはり武力倒幕しかない)  平和的に大政を奉還したのでは、徳川家の名で幕府は生きのびるだろう。西郷吉之助が、土佐急進派・乾退助の主張する武力倒幕の線で薩土盟約を結ぶのであれば、長州藩も容易にこれと連合できる。  それはおそらく後藤象二郎の動きによって封鎖されるのではないかという見通しが強いが、土佐を引きこむとなればそれしか考えられない。──  長州に帰るとすぐ、孝允は竜馬にあてて手紙を書いた。土佐の乾退助が兵をひきいて京に向かい、薩摩と合流、さらに長州もそれに加わって武力倒幕の旗揚げをするという構想を、芝居にたとえながら力説した手紙である。 「……乾頭取ト西吉座元トトクト打合セニ相成リ居リ、手筈キマリ居リ候事、モツトモ急務カト存ジ奉リ候。コノ狂言喰ヒ違ヒ候テハ、世上ノ大笑ヒト相成リ候ハモトヨリ、終ニ大舞台ノ崩レハ必然ト存ジ奉リ候……」  つまり乾退助が芝居の頭取(楽屋一切の監督をなす者)、西吉(西郷吉之助)が座元(劇場の持主)だというのである。この手筈が狂っては、倒幕の大舞台は崩れてしまう。  孝允がこの手紙を書き了ったころ、執務部屋に大村益次郎が、のっそりと入ってきた。 「先生、どうでしょう」  と、それを見せた。  益次郎が、その手紙を読んでいるところへ、伊藤俊輔が顔を出した。何事ですというように、俊輔はさっそく好奇の目を動かしている。 「坂本さんに出す手紙だ。伊藤君も読むかね」  孝允が言うので、俊輔が急いで手をさしのべると、益次郎は、無視するようにそれを俊輔には渡さず、いったん孝允に返した。  さっと目を通したという感じで視線を上げた俊輔に、「どうだろう」と孝允はたずねた。 「小生の考えを述べさせていただきますと、政治的大問題を、芝居にたとえるちゅうのは、どうでしょうか」 「軽率と受けとられるだろうか」  孝允は言われてみて、少し気になってきた。 「そんなことはありません」それまで憮然とした例の表情で、二人のやりとりをながめていた益次郎が言った。「ある状態を、演劇になぞらえてみるのは、大変わかりやすく、また動きを離れたところから冷静に観察することにもなります。私は今、戦いにのぞんで戦場を舞台になぞらえて作戦指揮することはできぬかと、何となく考えちょったところであります」 「そんなものですかなあ」  と、俊輔は、素直に頷いて、用件を喋ると、忙しそうに出て行った。 「出兵はいつごろになります」  益次郎の用件はそれだった。 「のんびり待ちましょうや」  心にもないことを言ったな、孝允は自分を嗤いながら、またぞろ奥歯が疼くのを感じている。   大政奉還  孝允が、坂本竜馬にあてて、芝居になぞらえた武力倒幕の構想を書き送ったのは、慶応三年九月四日だった。  その中で、孝允はくどいほど乾退助の役割を強調している。つまり武力倒幕論に賛同する退助が、土佐兵を率いて、薩長軍事同盟の戦列に加わることへの期待を述べたものである。それは竜馬の�肚芸�に対する杞憂を、間接的に表現しているのでもあった。  竜馬としては、後藤象二郎が喜びそうな策を一方で与えている。大政奉還とはいえ、公武合体策ともとれるその構想を象二郎が進言すれば、山内容堂はとびつくだろう。それで少なくとも土佐は、大政奉還の藩論を掲げて一歩前進する。  その流れに乗って、退助が土佐兵をひきつれ上京、大勢は薩長のもくろむ武力倒幕に動き出す。── (そんなに、うまく事が運ぶだろうか)  孝允の不安は、そこにあるのだ。竜馬の�肚芸�が孝允の目には野放図な賭けにも見える。 「コノ狂言喰ヒ違ヒ候テハ、世上ノ大笑ヒト相成リ候ハモトヨリ、終ニ大舞台ノ崩レハ必然ト存ジ奉リ候」というのが彼の本音であった。  そんな手紙を竜馬に出してから十三日後の九月十七日、まるで突然という感じで、薩摩の使者が二人、山口ヘやってきた。大久保一蔵と大山格之助である。  翌日、二人は藩主敬親に会い、京都の情勢を告げた。どうやら幕府は、フランスの応援で軍事力を強化し、再度長州への攻勢をかけるのではないかという。 「周旋の儀はいかがであろう」  と、敬親が言った。早くからそのことが気がかりだったらしく、一蔵の説明が終るやいなや尋ねるのである。文久三年いらい、敬親は官位を剥奪されている。これを薩摩が周旋して、復権させる約束だった。 「間もなくでごわす」  これは格之助が答えた。  官位を奪われた大名は、丸腰になったようで、ひどく心もとないのだろう。 「周旋の儀はまだであろうか」  という敬親の質問を、孝允はすでに何度か聴いている。そのときの彼の答えも「間もなくでありましょう」だったので、思わず苦笑してしまった。  しかし敬親がそれを待ちこがれているのとは別の意味で、孝允も京都からの早い沙汰を望んでいるのだ。京へ軍を進め、|玉《ぎよく》──孝允は天皇をそう呼んでいる──を手中にするにしても、藩主が無位無官では、どうにも都合が悪い。 (芋は何をしちょるのか)  と思ったりする。「芋」とは、薩摩のことである。�薩摩の芋侍�というのからきている。孝允が長州人同士の手紙のやりとりにそれを使うものだから、たいていの者が、真似てそんな呼び方をする。陰語には違いないが、蔑称ともいえた。あれほど頼りにしながら、内輪ではその相手を「芋」などと蔑称するところに、薩摩に対する長州人の屈折した思いも覗いている。  その�芋侍�たちは、骨太に、細心に行動計画を進めている。長州藩主の復権などは、何かのついでに片づければよいと思っているのかもしれない。 「土佐との同盟は捨てもした」  さりげなく大久保一蔵は言い、微笑をふくんで、孝允の反応を窺うように、しばらく言葉を切った。 「やっぱり薩長二藩でやるほかに道はごわはん。出兵のことにつき、打ち合わせにやってきもした」 「乾退助は、出てきませんか」 「土佐は、後藤象二郎が妙な策を進めちょります。もはや一刻も猶予なりもはんど」 「それは西郷さんの意思でもありますか」 「西郷どんも、間もなく長州にやってくるはずでごわす」 「敬親公の官位復旧のこと、しかるべくお願いしたい」と孝允は、たたみかけるように持ち出し た。「それなしに、長州は動けません」  薩摩が、ようやく焦りはじめている。 (見たことか)  孝允は、そんな思いもあった。  大久保一蔵と大山格之助の二人を、孝允が山口糸米の自宅に招いたのは、九月十九日の夕方である。 「よか妻女ぶりでごわすなあ」と、一蔵が大真面目な顔で、松子に言った。京で座敷に出ていたころ何度か顔をあわせている。 「まあ、おひやかしになっては嫌でございますよ」  松子は、なるべく京言葉を使わないようにしているが、やはり京なまりが抜けない。孝允の妻は、祇園の名妓だったらしいと地元の者は噂している。祇園ではなく三本木だと訂正する者もいないままに、そういう前歴が、いつの間にか知れわたっていた。  山口は、室町時代の守護大名大内氏の本拠だったところで、西の京都ともいわれるくらい京の町を模倣してつくられた町だ。ひたすら京都へあこがれた大内氏の古都も、|陶晴賢《すえはるかた》の叛乱で焼け、遺構はほとんど影を消してしまっている。  ただ瑠璃光寺の五重塔や常栄寺の雪舟庭などわずかに大内文化の名残りをとどめており、山口でくらす人々の、おっとりした気風が、何となく京のにおいを漂わせているようでもあった。そんな土地だから、木戸松子が�祇園の名妓�だったことに、むしろ好意を抱く者もいないわけではない。しかし、萩からやってきた侍たちのなかには、藩の要職にある人の妻が、花柳界出身であることを、それとなく蔑視するむきも少なくはないのだ。  糸米の孝允の家には、いろいろな人物がやってくる。応接に出る松子は、別に孝允から命じられたわけではないが、つとめて京言葉を出さないようにしていた。このあたり賢妻といわれた松子らしい配慮である。  その夜、孝允と一蔵、格之助は、なごやかに酒を|酌《く》みかわしながら、おそくまで歓談した。はじめて、薩摩人と打ち解けたという感じだった。西郷吉之助から受ける印象とかなり違っているようにも思えた。  坂本竜馬は、「西郷は馬鹿である。しかし、その馬鹿の幅がどれほど大きいかわからない。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」と言う。的確な人物評かもしれないが、孝允にはこういう相手との接触には、負担を覚えるのだ。  孝允のみるところ、吉之助の一見穏和な人柄には親しみがもてるが、半面彼は口数が少なく、茫洋としてどうも肚の底が読めないもどかしさがある。何度か薩摩から手痛い目にあわされたのは、その西郷の底深い部分に、鈍くうずくまっている|佞奸《ねいかん》な知力によるのだといった被害意識を孝允は抱いてもいた。  吉之助にくらべると、大久保一蔵は、体躯も筋肉質で、精悍な風格をそなえている。この時期、やや吉之助の陰にかくれた存在だが、彼の盟友として勤勉に働いていた。言うことも明快で、歯切れがよい。  孝允と一蔵が、熱心に話しこんでいる間、大山格之助は、ほとんど口をはさまず、静かにそのそばに控えていた。  格之助は、のちの大山綱良で、明治十年の西南の役当時、鹿児島県令だった彼が、西郷軍に軍資金を提供し、斬に処せられたことは前に述べた。文政八年生まれだから、孝允より八歳年上、一蔵より五つ年上である。  格之助が木戸邸にきたこのとき、孝允は彼のことを、かつて寺田屋にむかった上意討ちの刺客であったという程度にしか知らない。久光の命で同僚を斬った男の、どことなく翳りのある顔を、特別うとましく感じるほどではないが、どうかすると孝允は意識的に彼を無視した。いずれにしても、格之助と孝允は、その後も深い関わりを持つことなく前後して世を去るのである。  関わりといえば、孝允と一蔵つまり大久保利通の関係は、やがて明治四年の岩倉使節に従い、近代日本の生き方を模索しながら、欧米を歴訪する使節団中の二大重要人物として浮かびあがってくる。  互いに反発し、また微妙に結びつき、ついに連合して西郷の征韓論に対立するまでの経緯は、いずれ詳しく語ることになろう。それはしかし、慶応三年九月のこのとき、糸米の木戸邸で倒幕計画を語りあう二人にとって、わずか数年先のことでありながら、なお濃い霧につつまれた遠い未来の話である。──  孝允と一蔵の間でとりかわされた倒幕挙兵の具体的な日取りと行動計画は、次のようなものだった。  まず薩摩軍がその月の二十五、六日ごろ三田尻港に着く。待機していた長州軍がそれに合流して、共に出港し、京都へ向かう。薩長両軍で京都を制圧したのち、大坂城を攻撃する。── 「とにもかくにも、|玉《ぎよく》を手中にしておくことが肝要であります」  と孝充は、くりかえし強調した。倒幕の大義名分は、天皇を味方の陣営に抱きこんでおくことによって確立される。何事にも「筋を通す」ことにこだわる孝允にとって、これが最大の課題であった。 「薩土盟約の破棄は、土佐に言い渡したのですね」  孝允は、そのことも念を押した。 「西郷どんから後藤象二郎に、武力倒幕の方針を、七日、はっきり通告しもした」 「後藤は、あがくでしょうな。土佐が手を打つ前に、ことを始めなくてはなりません。このたびは終始脱兎のごとくありたいものであります。さよう西郷さんにもお伝え下さい」 「しかと伝えもそ」  大久保一蔵は、深く頷いて、二十日の朝、格之助と共に山口を発った。  彼らと入れ替わりに、広島藩から植田乙次郎という藩士が、使者として山口ヘやってきた。長州藩に歩調をあわせ、出兵したいので集結場所など指示してもらいたいというのである。  本当ですか、と言いたいくらい唐突な申し入れだった。もっとも広島藩は、第二次長州征伐の折にも、芸州口の戦いは彦根兵などの幕軍にまかせきりで、避戦の態度を通した。最後には、幕軍と長州軍の間に兵を割りこませて、戦闘を遮断してしまうといった長州への積極的な好意を示している。しかし薩長に同調して武力倒幕の戦列に加わるというまでの決意がかたまっているとは思いもしなかった。  植田乙次郎が帰って行ったあと、広沢兵助が首をかしげながら、 「信じられん」  と、孝允にささやくように言った。 「敢えて、そのつもりでいるのもよいのではありませんか。信じられんのは、薩摩とて同様です」 「いや薩摩は最早信じてよいのでは……」  と兵助があきれたという表情で、孝允をみつめた。 「とにかく出兵の段取りを決めておきましょう」  孝允は抑揚のない声で、兵助をうながし、先に立って執務部屋へ急いだ。そこではこの二人の軍政総掛を、仏頂面した大村益次郎が待っているはずだった。  益次郎は、そのころ三兵教授役兼軍政用掛兼海軍用掛と、三つの役職を兼務している。出兵は当然彼の指揮系統にゆだねることになるが本人は出兵東上に反対している。 「負けるからであります」  と理由は簡単明瞭だ。時期尚早というのである。彼には政治的なかけ引きなど無縁で、軍略の立場からかなり強硬な反対論を唱えている。  結局は、命令ということで動かすほかないが、あの無愛想な受け答えはどうしようもないなと、孝允はいつも苦笑させられるのだった。  ──もげ作。  というのは長州の方言で、気むずかしく愛想のない人間をそのように呼ぶ。 「よう降りますなあ」と、益次郎に雨の日のあいさつをした者がいると「春は、こんなものです」と彼は答える。「お暑うございます」と言えば「夏は暑いものです」と、憮然とした表情であいさつを返すというのだ。これは『大村先生逸事談話』(村田峰次郎編)に取録された天野御民の回想の中で語られる話だ。  そのもげ作大村益次郎が、出兵反対を唱えているこのころ、山口郊外の|柊《ひいらぎ》刑場で、処刑された女を解剖したことを、孝允は伊藤俊輔から聞いて知っていた。女体にメスをふるっているときの大村先生は、必ずしも仏頂面ではないと、笑いながら俊輔が言う。  人の命を救う医師であった者が、逆に人間の生命を大量に奪う闘争の指導者になっているという自己矛盾に苦しむといったことは、益次郎にはなかったであろう。  むしろ軍事専門家であることと、医師であることは、益次郎の中で微妙に和合している。その医師とは、解剖執刀医としての彼である。  大村益次郎が石州口で見せた戦闘の指揮ぶりは、あたかも戦場という生き物を解剖するおぞましい医師のそれであった。  解剖を得意とした。江戸にいるころも、孝允は村田蔵六が女の死刑囚を解剖した噂をしばしば耳にした記憶がある。  彼が、このたび柊刑場で女体を解剖したのは、孝允が長崎で坂本竜馬と会ったりして多忙な日々をすごしているころのことらしい。益次郎にしても軍務に忙しい身だが、それを依頼されると、ただちに駆けつけたというのだ。  決して女と遊びたわむれるということがないといわれる益次郎の、女陰の解剖にみせる異常なほどの意欲が、そのもげ作などといわれる冷たい面持ちの底に青白く燃えているようだった。  メスをとって切り裂きながら、これが膣、これが子宮、卵巣……と綿密な解剖を進め、いくぶんは得意気に解説してみせる益次郎の姿を、孝允はやや複雑な思いで想像しながら、 「先生、出兵東上は、藩命であります。一刻の猶予もできぬ事態ですから、そのつもりで。なお出兵後の藩内警護についても、配備のことを練っておかねばなりません」  と、抑えこむように言った。 「はい、そういたします」  意外なほどあっさりと益次郎が答えたところをみると、大久保一蔵の来訪や広島からの使者など、慌しい藩内の動きを見て、もはや尚早論ばかりも唱えておれないと覚悟したものだろう。  三田尻への集結がただちに開始される。藩兵、諸隊をあわせて、東上する兵員は精鋭千二百をひとまずあて、陸路と海路に分けて待機させる。三田尻港には、保有している大小の軍艦六隻が集められた。  編成をおわった兵士の屯営では、気合の入った調練がおこなわれ、たちまち緊迫した空気が漂いはじめる。  だが、二十五日になっても、薩摩軍のあらわれる様子はなく、翌二十六日も同じだった。大久保一蔵との約束の期限が、むなしく過ぎようとするころ、広島からの使者植田乙次郎が再び山口ヘやってきた。出兵をしばらく延期したいというのである。  このほうは最初から疑わしく、あまり期待していなかったので、おどろきはしないが、孝允はわざと大仰に失望してみせた。 「いずれ浅野侯に面談いたし、とくと話しあいたいと存じます。ご帰国の上、しかるべくお取り計らい願いたい」  と言いふくめて、乙次郎を帰らせた。これは本心である。かねてから広島城へ乗り込み、肚を決めさせねばと思っていたのだから、そのきっかけをむこうから与えてくれたと解して、去就に迷う広島藩のことをそれほど憎いとも思わなかった。  それよりも腹が立つのは、薩摩である。はぐらかされるのは、これで何度目だろうと、孝允は投げ出したくなる気持を、じっと抑えている。  孝允だけではない。藩兵、諸隊の間でも、薩摩を|罵《ののし》ったあげく、こうなれば長州単独でも進発しようという声があがっている。それを進言してくる諸隊幹部もいた。 「元治甲子の失策を忘れたわけではあるまい」  と、孝允は荒々しく一蹴した。たしかに禁門の変の直前の空気にも似た爆発寸前に近い興奮状態のまま十月を迎えた。  そして、その月の六日、やっと大山格之助が、軍艦一隻に兵四百を乗せて、三田尻港に入ってきた。数千の薩摩兵を積む後続の軍艦も次々到着のはずだという。  十月十三日、長州藩主父子の官位を旧に復すという内勅がおりる。薩摩が動き始めたという実感を、それでかみしめることができた。  薩長両藩に、倒幕の密勅が下ったのは、その翌日である。  だが──ようやく武力倒幕を呼号する出兵の機運が頂点を迎えようとするころ、孝允を驚愕させ、失望につきおとす事態は、さらにその翌日、つまり慶応三年十月十五日に、突然おとずれた。  京からの急使が山口に到着したのは、十月二十一日である。  将軍徳川慶喜が、十四日に大政奉還を奏上、翌十五日に勅許となったというのだ。  みごとに足をすくわれた。武力倒幕の決行直前、将軍が機先を制して大政奉還を実現させたことにより、薩長両藩は、ふりあげた手のおろしようがないまま局外に投げ出されたかたちである。  薩土盟約の破棄を、西郷から通告された土佐の後藤象二郎は、ただちに藩主山内豊信(容堂)の名で大政奉還建白書を、二条城にいた老中板倉|勝静《かつきよ》のもとに提出した。武力倒幕を叫ぶ薩長の策謀をくじくためには、これしか方法がないと説く板倉の言を容れて、慶喜はついに奉還に踏み切った。 「それでは、幕府はつぶれたのか」  山口の政事堂では、毛利敬親が、拍子抜けしたような表情で孝允に言った。 「いや、幕府は、これで生き残ったのであります。厄介なことになりました」 「なぜであるか」 「後藤のすすめる公議政体論とは、そのようなもので……」  象二郎は、竜馬から授った船中八策を換骨奪胎して、徳川氏寄りの新しい政権構想に仕立てあげ山内容堂に具申した。保守的な容堂が賛成したほどだから、どの程度の内容かは、およそ見当がつく。要するに、徳川氏が列侯の一員に降りた公議政体とはいいながら、徳川慶喜が絶大な権限をにぎる権力機構として幕府が生まれ変わるにすぎない。 「……|玉《ぎよく》は彼らの手中にあり、わが藩の出番はありません。薩摩も同様であります」 「薩摩も黙ってはいまい」 「薩がどう出てくるか。それを待つしかありません」  言いながら、孝允は、三田尻にやってきている先発の薩摩兵四百人のことを思いうかべた。 「薩兵の一部は、すでにここまで出兵してきておるではないか」  敬親も同じことを考えていたらしい。彼らが国からの新しい指令を受けて引き揚げるかどうか、ここは判断のむつかしいところだ。 「薩摩が後退すれば、わが藩もしばらく|干戈《かんか》をおさめて静観するしかありません」 「………」  敬親は、溜め息をついて黙ってしまった。 「薩摩は、必ず起つでありましょう」  と、広沢兵助が、藩主をなぐさめるように言った。 (さて、どうであろうか)  孝允は内心首をかしげたが、こんどは「芋」も逃げられまいという予感はしている。 「起つでしょうな」  と、孝允はやや自信なげな声で、兵助に賛成した。 「木戸さんもそう思いますか」 「思いたいと言ったほうがよいかもしれません」 「実は、私も同様であります」  兵助が笑った。この男とはじめて意見があったような気持だった。 「薩摩が起てば、即刻出兵することになるのか」  めずらしく敬親は、次々と質問を発してくる。 「一刻も早いほどよいと考えます」  これは兵助が答えた。孝允も同意見だ。  京都では、佐幕派が天皇を大坂城に迎え、今後倒幕派と朝廷との接触を、いっさい断ち切ろうという動きもある。これは風説であり、簡単に実現できることではないが、考え方としてはあり得る。 (玉を奪われてはならぬ)  終始、孝允の頭の中にあるのはそのことだった。藩体制さえも「皇国之病を治し候には、よき道具と存じ申し候」という彼にとって、徳川幕府の権力をそっくり吸収するための道具の頂点に立つ最大の象徴は、玉でなければならなかった。こだわり過ぎるほどこだわるのである。 (玉のいます京都へいつになったら入れるのだ)  武力倒幕の挫折したいま、長州にとって、孝允にとって、京都はあまりにも遠い。  薩摩がどう出るかを、孝允たちが話しあった翌日の十月二十二日、西郷吉之助が予告もなく山口ヘあらわれた。  大政奉還の勅許を知らせる急使のすぐあとを追うように京から山口ヘむかっていたのだ。なぜもっと早く来なかったのかと、多少は腹立たしい思いもあったが、孝允は手を取らんばかりに彼を迎えた。  吉之助は、家老の小松|帯刀《たてわき》と一緒だった。帯刀は長年島津久光のお側役をつとめ、文久二年久光の上洛の折に家老職となった。以後、薩摩勤王派の代表的存在として知られているが、吉之助より六つ年下、孝允より二つ下の三十三歳である。孝允が京都で薩長同盟を結んだときも、帯刀は吉之助のそばに同席していた。 「木戸さん、いよいよ約束により、打って出る日が参りました」  山口ヘ入った帯刀は、眉の濃い、目の大きな卵形の顔を突き出すようにして笑った。吉之助のほうが年長で体躯も大きいものだから、いかにも帯刀を供につれているように見えるが、家臣の序列からいえば、その逆である。吉之助は寡黙にひかえており、帯刀が喋った。毛利敬親の前に出たときもそうだった。  帯刀が来たということは、久光の意思を伝えるためと解してよい。こんどこそ薩摩は、長州と戦列を並べる肚を決めたのだ。  実質的な問題はどうであれ、形の上だけでも幕府は消えた。その解体劇の主役を土佐の山内容堂に独占されて、久光はひどく不機嫌になった。もう武力行使以外に形勢挽回の道はない。ここで薩長両藩の利害は完全に一致したのである。  帯刀と吉之助は、その翌日、慌しく三田尻港から帰国の途についた。孝允は兵助と一緒にそれを見送り、同地に駐屯している藩兵・諸隊の幹部を集めて情況を説明した。 「間もなく�脱兎�となるときがやってきます。調練に身を入れてもらいたい」 「薩摩の西郷は本当に再びここへくるのでしょうな」  と、だれかが念を押した。 「こんどは藩主が軍を率いてきます。もはや間違いはない」  孝允は自分に対しても言いきかせるように、そう答えた。  十月三十日、広島藩の世子浅野紀伊守が、船で岩国の新港にやってくるというので、長州藩からも世子の毛利長門守(定広)が出むいた。孝允がこれに従った。  両藩の世子を会談させ、互いの親睦をはかろうというのであって、特別に議題は用意されていない。実は孝允のお膳立てによるもので、ひとつの目的がかくされている。彼のその目的は会談が終るころ、さりげなく果された。  いわば懇親会といったていのもので、世間話めいた鈍い会話をとりかわしている二人の若殿にむかって孝允が言う。 「切迫した京の事態について、広島藩の要路の方々にお話ししたいことが山ほどあります」 「では予の船で一緒に広島へくるか」  ことは簡単に決まり、孝允が紀伊守の豊安号に同乗して広島へ行き、登城したのは十一月三日だった。  広島藩は、前に出兵の申し入れをした直後、延期の名目でその取り消しを伝えてきた。孝允は「いずれ浅野侯に面談いたし、とくと話しあいたい」と使者の植田乙次郎に言いふくめたのだが、その後広島からは何の音沙汰もない。  第二次長州征伐のときは勝手に長州と和議を結んで幕府から不興をかったほどの広島藩である。ところがこのときは土佐に同調して公議政体派に|与《くみ》している。広島藩内には家老の辻将曹はじめ倒幕派勢力も強く、これを説得して、薩長の戦列に引き寄せることはできると孝允はみているが、いきなり乗りこむわけにはいかなかった。両藩世子の会談で、そのきっかけをつくろうとした彼の計画は、みごと図にあたったのだ。  広島城に乗りこんだ孝允は、薩長の行動計画を打ち明け、ついに六カ条からなる協約を結んで、十一月六日に山口ヘ帰ってきた。薩・長・芸の軍事同盟がこれで成立した。あとは薩摩藩兵の三田尻到着を待つばかりである。  十一日、参政の山田宇右衛門が死んだ。五十五歳。一人の強力な支後者を失った悲しみに打ちしおれる暇もなく、十六日、孝允は広沢兵助と共に、三田尻へ駆けつけなければならなかった。西郷吉之助が、藩主島津忠義(久光の子)を押し立てて海路薩摩からやってきたのだ。すぐに出兵の戦術会議をひらく。  薩摩軍は、ひと足先に京都へ入ることにし、長州は少しおくれて進発するが、まだ正式には入京を許されていないので、一応西宮に陣を張ることになった。  長州兵が入洛するのはいつになるのだろうかと、ようやく孝允は焦りに似たものを感じはじめた。二十二日、京の薩摩藩邸にいる品川弥二郎にあてて手紙を書く。 「政局の展開にさきがけて、玉を抱きこむことが最も肝要である。万一、敵にそれを奪われてしまうと�芝居�は大崩れとなる。薩長芸の滅亡はもちろん、ついに皇国は�徳賊�の有となり形勢挽回は不能となるであろう」  ここでも「玉」のことをくりかえし述べるのである。 (早く、早く玉をとれ!)  そう叫びたい気持だった。それを弥二郎一人に書き送ったところでどうなるものでもないが、言わずにはおれない。  いずれ長州入洛の禁が解けると同時に、西宮に滞陣する長州兵も京都へ入り、薩摩軍に合流する手筈だ。薩摩が三千余、長州が千二百で、両軍あわせやっと四千五百足らずの兵員である。  これに対し大坂城を中心に集結した幕軍は一万五千。薩長の三倍にあたる勢力である。その一部はフランス式の洋式兵制で強化したあなどりがたい敵だった。  薩摩は、一万の兵を動員したと宣伝しながら、十一月二十四日に入京、相国寺に本営をおいた。  長州の全軍が防府の鞠生松原から進発したのはその翌日で、途中、広島藩兵と合流し西宮に着いたのが十二月一日であった。  薩長両藩に討幕の密勅を与えた朝廷は、その直後、徳川慶喜の大政奉還を容れたので、すぐさま両藩に対し、実力行動を猶予するようにとの命を発している。そういうことだから、出兵してもいきなり幕軍に挑むわけにはいかない。しかし、機が熟せばいつでも戦端が開けるように強引な兵力配備を、十二月の初旬にはすべて完了した。  そのころ山口にいた孝允は、京都で坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺されたという報に接し、愕然として息をのんだ。十一月十五日の夜、河原町の醤油屋「近江屋」の裏庭にある土蔵の二階で斬られた。信じられないほどあっけない竜馬と慎太郎の死だった。  下手人ははっきりしないが、おそらく新撰組であろうという。確証はないが、どうせ彼らの仕業にちがいないといった推測にとどまっている。 (果して新撰組か)  孝允は、ふと首をかしげた。そのころ竜馬が、微妙な立場にいたからである。  武力倒幕の薩長軍事同盟を周旋しておきながら、一方では土佐をけしかけて公議政体論を進めさせた。後藤象二郎が掲げたのは、竜馬の意図をかなりはずれたものだったが、大政奉還が実現してみると、それならそれでよいではないかと彼は言いはじめた。つまり武力倒幕に反対する方向に傾いている。極論すれば、薩長の計画遂行にとって、竜馬は邪魔な存在に変化していたのである。  たしかに竜馬を斬った下手人は謎とされたまま、こんにちに至っている。明治になって、竜馬を殺したのは自分であると告白した者がいた。幕府の京都見廻組にいた今井信郎という男である。そこで新撰組ではなく、見廻組の凶行という定説ができあがった。  しかし、これさえも疑わしいとする論考があって、結局わからずじまいである。  暗殺される直前、坂本竜馬は、倒幕派と公議政体派の双方から人材を出して構成する新しい官制計画をつくり、後藤象二郎を通じて岩倉具視に提出していた。妥協による連合政権構想だが、岩倉をはじめ公卿や諸侯の上に内大臣として徳川慶喜を据えることに、倒幕派が賛成するはずもなかった。  これを推進しようとした矢先、竜馬は何者かの手によって殺されたのである。時局収拾に力を持つ人物の一人が突然消えて、政情はさらに混沌としてきた。  こうした中で、倒幕派は京都およびその周辺に配備した武装兵を動員し、一挙に優位を占める計画をめぐらしていた。徳川慶喜の大政奉還で、倒幕計画に挫折した情況を挽回するための武力クーデターである。  この密謀の中心人物は、岩倉具視と薩摩の大久保一蔵だ。彼らが掲げる大義とは「王政復古」であった。  この時期、孝允は太宰府に閉じこめられている三条実美ら五卿の「迎謁」を画策する任を与えられ、なお山口にとどまっている。京都に潜入した井上聞多、伊藤俊輔らから大久保たちによる王政復古の謀議を知らされた孝允は、それを歓迎する一方で大きな不安を感じはじめていた。長州藩欠席のままでそのことがおこなわれたのでは、主導権を薩摩が一手ににぎる結果になりはしないか。  西宮に滞陣する藩兵の指揮にあたっている毛利内匠(干城隊総督)も、とどまるべきか、入京を強行すべきかの判断を仰いでいる。 「断乎進発すべし」  孝允は主張した。多少の危険を冒しても、京都接近の行動をおこすようにとの藩命が西宮に届けられた。長州兵の一部が動き出したのは十二月四日である。山崎から入京しようとした彼らは、案の定、そこを警護する津藩兵に阻止された。戦闘は避け、対峙のかたちとなる。まずは山崎まで進んだ。それだけでもよい、と孝允は思う。  十二月八日、長州藩処分に関する朝議がひらかれた。長州藩主の復権については、すでに内勅があったが、正式な決定でないために、入京の禁も解かれないままになっている。  この朝議を提案したのは意外な人物である。かつて第一次征長総督として広島に出むいたこともある前尾張藩主の徳川慶勝であった。彼は山崎までせまった長州軍と幕軍との衝突を回避するため、長州藩への宥和策として、文久三年いらいの失地回復を早めるように動いたのだ。  毛利敬親父子および末家の官位は旧に復し、長州藩兵の入京も許された。同じ日、長州と共に京を追放された三条実美らも復権、また皇妹和宮の降嫁を画策して朝廷の不興をかい蟄居を命じられていた岩倉具視もそれを解かれた。  岩倉はすでに大久保一蔵らと共にクーデターの中心人物として暗躍中である。もともと岩倉をかつぎ出したのは薩摩なのだ。  降嫁問題のころは、幕府寄りで公武合体を推進した岩倉が、一転して今は倒幕派にまつりあげられ、まるで公卿らしくもない政治的な辣腕を発揮している。  家禄百五十石の貧乏公卿で、生活のために自邸を博奕場に貸したこともあるというほどのしたたか者だ。  和官降嫁を推進したというので、志士から命をねらわれた。蟄居してからは頭を丸め、出家したことにして追及をのがれた。薩摩からかつぎ出されるまでの仮の姿であった。  孝明天皇の死には、毒殺説が流れている。親幕派であり、また頑固な攘夷主義者だった孝明帝は、開明的に脱皮した倒幕派にとって邪魔になる存在とみられていたからである。  真疑はわからないが、その直接の下手人は岩倉具視ではないかといわれている。いずれにしてもこの曲者公卿を主役とする史上有名な「小御所会議」は長州藩主父子の復権、岩倉具視の復帰、|還俗《げんぞく》が決定した日の翌日、つまり慶応三年十二月九日にひらかれた。   小御所会議  倒幕派の機先を制し、大政奉還を実現させた公議政体派は、事実上幕府権力を温存する新しい体制を整え、しかも「玉」をにぎっている。  この形勢を挽回するには、武力を背景とするクーデターしか方法はなかった。岩倉具視や大久保一蔵らは、非常手段に訴える決意をかため、京都の相国寺に駐屯していた薩摩藩兵を主力とする武装兵をひそかに御所内に導いた。彼らが警備を名目に宮門内を制圧したのは十二月九日の朝だった。  一万五千を数える幕軍は、そのころ二条城にいた将軍徳川慶喜を守って大半はそっちのほうに集結し、また大坂城にも待機している。完全に隙をねらわれたかたちである。  宮門内に武装兵を配置して、「玉」を手中におさめ反対派を締め出すこのやり方は、かつて文久三年八月十八日、長州藩が京都から追放された堺町門の変のときとそっくりで、これを手本にしたといってよい。  八日に洛中帰住を許されたばかりの岩倉具視は、その翌日かねて準備していた王政復古の勅書・制令の文案を持って参内し、「大策は今日を以て断行あらせらるべき」旨を天皇に奏上するという手際のよさだ。  すべては計画通りに進んだ。討幕派はただちに「王政復古大号令」の勅書を公布し、国政の組織を一気に改変する。つまり将軍・摂政・関白などの職を廃止したのをはじめ、国事御用掛・議奏・武家|伝奏《てんそう》・京都守護職・所司代などすべてを廃絶した。  そのような幕藩体制のにおいのする職名を一掃し、代って「玉」の下に皇族から選んだ総裁、公卿・諸侯から選んだ|議定《ぎじよう》、廷臣・藩士・庶人から選ぶ参与の三職をおいた。  ただこの場合、職名を変えただけで、顔ぶれは以前とあまり変わらないところに公議政体派との妥協があり、クーデターというには、いかにも不徹底なものだった。  王政復古の大号令を、かけ声だけに終わらせないためには、もう一つ手続きが残っている。それは将軍徳川慶喜を追放し、温存された幕府権力を武力討伐して根絶やしすることであった。  すでに「将軍」という職名は消えているが、徳川慶喜はなお内大臣という官名で、諸侯の頂点に立ち、しかも四百万石の所領を保持している。その意味では、まだ幕府というものが生きつづけているのである。  岩倉具視・大久保一蔵らは、慎重に策を練った。「将軍」追放を天皇の御前会議の結論として引き出すことでその大義名分を得ようとするのである。そしてその会議には、親徳川の公議政体派も出席させ、討論のすえいやおうなくそれを認めるようにしむける……。  松平慶永(春嶽)、山内豊信(容堂)、後藤象二郎といった人々をむこうにまわしての論戦が、どの程度の成功をおさめるか、倒幕派にとっての、これは賭けであり�大芝居�なのだ。  会議は、王政復古大号令を発した十二月九日、その夜のうちにひらかれた。場所が御所内の小御所だったので、小御所会議という。  小御所は、京都御所内殿舎のひとつで、|紫宸殿《ししんでん》の東北(以前は清涼殿の東だった)にある書院造りの部屋である。天皇と幕府の使者・所司代・諸侯らとの謁見の間として使われてきた。  小御所会議はひとくちでいうと、即位間もない十六歳の明治天皇を玉座に、総裁・議定・参与が集まった御前会議で、大政奉還後の徳川氏処分が主な議題である。  徳川の天下が関ヶ原役によって定まったとすれば、維新政府の基礎は小御所会議で定まったといわれるほどの重大な意味をもった。  大久保一蔵の日記には次のように書かれている。 「今夜五ツ時(午後八時)小御所に於て御評議、越公・容堂公大論、公卿を挫き、傍若無人也。岩倉公堂々論破感伏に堪へず……」  徳川擁護にまわる春嶽、容堂の「傍若無人」な舌鋒を切りかえす岩倉具視の奮闘もまためざましかった。  小御所会議の主な出席者は、総裁の|熾仁《たるひと》親王はじめ議定、参与がズラリと並んだ。  この熾仁親王は尊攘運動の側に立ち国事御用掛の職にあったのを、元治元年の禁門の変で罷免され、謹慎を命じられていた。王政復古大号令のとき、岩倉具視と共に許され久々の登場となった。  熾仁総裁の下に議定として権大納言中山|忠能《ただやす》が司会役をつとめ、そのほか参与の岩倉具視・大原重徳・徳川慶勝・松平春嶽・山内容堂らが発言した。  また薩摩藩の大久保一蔵・岩下佐次右衛門、土州の後藤象二郎、芸州の辻将曹ら各藩の重臣も御三の間敷居際に陪席したが、論議が白熱すると、大久保や後藤らも発言して、互いに舌戦を展開するのである。  出席者の顔ぶれから、長州藩はまったく欠落している。毛利敬親父子の復権、入洛勅許が正式に出たのは前日のことで、山口にいたのではとうてい間にあわない。この重大な会議が、長州抜きでひらかれたのをあとで知り、最も口惜しく思ったのは木戸孝允であった。  小御所会議を中心とする一連の情況を、遠くからながめたせいもあって、孝允は公議政体派と妥協する倒幕派の動きを、かなり批判的にみることになるが、大久保はじめ在京の人々にすれば、難関突破の大変な作業ではあった。会議の模様を追ってみよう。  まず中山忠能が開会の口上を述べた。 「徳川慶喜はすでに政権を朝廷に返上し、将軍職を辞するにより、その請いを許すことになった。ここに王政の基礎を定め、万世不抜の国是を建て給わんとされる帝の聖旨を奉戴して、公議を尽くされよ」  表現はぼかされているが、要するに徳川慶喜をどう処分するかを十分話しあおうとの趣旨だ。  待ち構えていたように、山内容堂が口をひらいた。 「内大臣徳川慶喜を召して、朝議に参画せしめられたい」  参与の大原重徳がすかさず反論を述べる。 「内府はすでに大政を奉還したというが、果して誠意をもってそうしたのか疑いなきを得ない。しばらく朝議に|与《あず》からしめざるが妥当である」 「これは異なことをうけたまわる」と容堂が声を励ますといった調子で、重徳にむきなおった。 「そもそも、このたびの変革一挙は陰険の所為多きのみならず、王政復古と称し、武装した諸藩士を宮門内外に配し凶器を弄ぶとは不祥もまた甚しいというべきである」  容堂はこの会議に臨むにあたり、用意していたらしい発言の内容を|滔々《とうとう》と述べはじめた。歯に衣きせぬ倒幕派への勇敢な挑戦ともいえた。いっしゅん議場は緊張し、鎮まりかえった。 「徳川氏が二百余年の治平を致した功績はまことに偉大である。しかるに今毫も顧みられるところなく、一朝|厭棄《えんき》して、これを疎外せられるが如きは、天恩の薄きに似て、決して天下の人心を帰服せしめるゆえんではない。内府が祖先いらい継承せる覇権をなげうって、大政を奉還したのは、皇国のために政令を一途に帰し、永くこの国の尊厳を維持しようと願う誠意に出たもので、その純忠は感嘆に堪えぬところである。……」  容堂の�演説�は長々と続く。自分の言葉に酔うように、徳川慶喜を称える文句が、多少は荒々しい語調のうちにも、次々と繰り出されるのだが、どうやら本当に酒に酔っているのだった。  夜、緊急に召集された会議ではあり、酒好きの容堂が夕食時大盃をあおっていたとしても不思議ではない。喋っているうちに、しだいに酔いがまわってきたのかもしれないし、また調子にも乗りすぎた。  学殖あり、詩才豊かで、酒を愛し、色を好み、風流太守といわれた容堂だが、この日は公議政体派を代表する論客として、大いに味方から頼りにされる存在だった。  ところが、次の彼の発言は不用意というか不覚というか、とにかく決定的な失言を犯してしまった。 「……かかる暴挙を敢えてしたる三、四の公卿は、果して何らの定見あってのことか。|幼沖《ようちゆう》なる天子を擁し奉り、以て権力を盗もうとするものであるか。……」  酔いも手伝って、容堂の発言はしだいに激しく、舌鋒冴えわたるというところだが、ここで岩倉具視が一喝を加えた。 「待たれよ! 幼沖の天子とはなにごとですか」  幼沖とは、幼くてものの判断がまだ定かでないという意味だ。倒幕派は、即位間もない十六歳の天皇をかつぎあげ、自分たちの野望をとげようとするものではないかという容堂の言葉は、岩倉や大久保らの最も痛いところを衝いている。拍手があがりかねない場面だ。  しかし、容堂のその発言内容には、みずからを陥れる不穏当な表現があり、いわば揚げ足取りというかたちにはなったが、それを見事に捉えたところに、岩倉具視の才知のひらめきがあった。 「今日の挙はすべて聖断に出たものである。しかるに幼沖の天子とは何たる無礼の言であるか。今はしかも御前における会議である。言葉をお慎みなさい」  この岩倉の一喝は、十分に効果があった。色を失った容堂は、いっぺんに酔いもさめ、威儀をただして失言の罪を謝したまま、それ以後はまったく口を閉ざしてしまった。この公議政体派の論客を沈黙させたことで、討幕派はひとつの難関を切り抜けたといえる。  だが容堂を助けるように、こんどは松平春嶽が発言した。 「王政施行の初めに、まず徳川慶喜追放などという刑律を先にし徳誼を後にするのはよろしからず。徳川氏の功罪を考えるに……」とやりだした。具視がそれを受ける。 「徳川は権威をたのみて、上は皇室、下は公卿・諸侯を抑制して大義名分をみだすことすでに久しい。特に嘉永癸丑いらい勅命を無視し、外に欧米列国と修交通商の約を結び、内は暴威を振って憂国の宮・堂上・諸侯を処罰し、勤王の志士を刑戮した。近年また無名の師を長州に発して政道を失ったその罪は実に大なるものがある……」  具視の論駁も激しく、たちまち春嶽をしりぞけた上で、やおら肝心の議題を持ち出した。 「慶喜にして罪を反省し、自責する心があれば、速かに内大臣の官位を辞退し、四百万石におよぶ領地を返納してその実を示すべきである。しかるに空名にひとしい大政を奉還し、なお土地人民の実力を有している。朝廷は、よろしく内府に諭して、まず辞官・納地の実効を徴すべきであろう」  ここで大久保一蔵が、具視を掩護して口をはさんだ。 「土・越二侯の説は内府の心術正しきを証するに足りません。むしろこれを事実によって証するにしかずと存じます。すなわち官を辞し、所領を納める旨を命じ、これを承諾するなら慶喜公を朝議に召すべきでありましょう。もしこれを拒否するなら、その罪を天下に鳴らして、討伐すべきであります」  ここでようやくかねてから薩長が抱く武力倒幕の凶暴な意志が顔を出した。  陪席の大久保に発言が許されるなら自分もと、後藤象二郎が身を乗り出した。彼は容堂・春嶽の説を支持して、徳川氏の弁護に熱弁をふるうのである。  論議が出尽したあたりで、中山忠能が、決を取るように、まだ発言していない者の意見をただした。ほとんどは徳川擁護の説に賛成だという。岩倉具視と薩摩藩は、数の上で孤立に追いこまれているのだった。  忠能は、一時休憩を宣言した。  大久保一蔵が、憂鬱な表情で、控室に戻ると、西郷吉之助が、端然と坐って待っていた。この日、吉之助は警備の兵を指揮して、会議には出席していなかった。 「一蔵どん、どうなりもした」  大久保の顔を見て、およその察しがついたのか、吉之助も暗く抑えた声になった。 「形勢すこぶる悪しでごわす」 「この期に及んで……」と、吉之助が無気味に笑った。そしてそばに投げ出すようにおいた刀をゆびさすのである。「これで片はつきもそ!」  計画通り会議が進まないばかりか、徳川慶喜擁護にまわる多数の公議政体派に押し切られようとしている。  困惑した表情で、その模様を報告する大久保一蔵が、泣きごとを並べているようにも西郷吉之助には見えたのだろう。  一説によると、吉之助は「唯これあるのみ」と言いながら、自分の帯びている短刀をゆびさしたというのである。このさい、長い刀よりも短刀のほうが、よほど無気味だ。吉之助としては、思うように運ばないのなら武力を背景に押し返す以外にないではないかと、一蔵を励ましたつもりかもしれない。  しかし聴きようによっては、|懐《ふところ》に短刀を呑んで、再開される会議に臨めと、教唆しているようでもある。これはたいそう物騒な話で、宮門内に武装兵を引きこんだ討幕派の、しかもその指揮をとっている男の口から出たとすれば、単なる比喩ともいえない凄味をふくんでいる。  会議が休憩に入った間に、両派入り乱れての工作が展開される。最も積極的に動いたのは、公議政体派の側に立つ土佐の後藤象二郎だった。  象二郎は、大久保一蔵に働きかけ、徳川慶喜追放の論が否決される前に進んで取りさげたらどうかと、彼を別室に呼んで説得につとめた。むろん一蔵がこれに応ずるものではない。  そこへ芸州の辻将曹がやってきて、なお言いつのる象二郎を制止した。 「後藤さん、もうやめたほうがよいようです」  広島藩の老練な家老として知られる将曹が、ゆっくり首を横にふりながら言った。ひどく落ち着いてはいるが、威圧するような低い声である。 「やめる?」  と、象二郎はまだ勢いづいて開きなおった。 「あちらへ」  将曹は静かに象二郎を廊下へ連れ出し、立ち話でしばらく説明すると、そのまま奥へ消えてしまった。 「負けましたよ」  象二郎は、苦笑した顔をつくりながら、一蔵にそう言って、そそくさとこれもいなくなる。  辻将曹が、後藤象二郎に耳うちした話の内容とは、岩倉具視、浅野茂勲(芸藩世子)からの伝言で「山内容堂が、これ以上口舌を弄して慶喜を擁護し、抗論するのは彼自身のためにもならない」といったなかば威嚇めいた忠告である。  会議が再開されたのは、それから間もなくで、終ったのは三更すぎ(午前一時ごろ)であった。  会議では、まるで|憑《つ》き物が落ちたように、公議政体派が一斉に鳴りをひそめた。容堂も黙りこんでいるし、松平春嶽もほとんど発言しなかった。 「今にして猶極論すれば、却って内府(慶喜)に姦あるを掩ふものとなるを|慮《おもんぱか》って、敢て論ぜず」というのだが、それにしては急な沈黙である。  倒幕派の意見がすんなり通って、徳川慶喜の追放、つまり辞官・納地の決議をみたのだった。  倒幕派の裏工作が功を奏し、休憩前の不利な情況を逆転させた。それはただ巧妙なかけひきとだけとはいえない、思いきった手段が用いられたとみなければなるまい。  後半の会議に、岩倉具視が、大久保一蔵が、短刀を呑んで出席したという。あるいは一蔵に与えた西郷吉之助の、そうした不穏なひとことが、出席者の耳に伝わっていき、倒幕派は一挙に劣勢を挽回する機会をつかんだのかもしれなかった。  いずれにしても具視と一蔵を主役とする小御所会議は、彼らがえがいた思惑に沿って、ひとまず落着した。大政奉還後も、うまく命脈を保とうとした徳川幕府を壁際まで追いこんだと吉之助も一蔵も思ったにちがいない。しかし、日を経るにつれて、そうでもなかったことに気づくのだ。 (やはり武力倒幕あるのみ!)  再び薩摩藩があせりはじめるころ、長州にあって小御所会議の情報を入手した木戸孝允も、同じくいらだちを覚えていたのである。   慶喜去る  京都で王政復古の大号令が渙発され、ひきつづいて徳川慶喜追放を議決する小御所の会議が開かれたことを、長州にいる木戸孝允はむろんまだ知らないでいた。  慶応三年の暮れ近いころ、京都で展開されたこの二つの重大場面に、長州藩は関与できなかった。だから孝允はじめ藩の要路は、在京の品川弥二郎らから書き送ってくる報告書によって、想像をまじえながら時々の情況をつかむ以外にないのである。  しかし、孝允は、かなりの度合で的確にそれを分析していた。むしろ渦中から距離をおいて見守っているため冷静に判断できたともいえる。  小御所会議からおよそ二十日を過ぎるあいだに、徳川慶喜を中心とする京都および大坂の情勢が、いわば倒幕派の裏をかいた逆の方向に進んでいることを見抜いたのも孝允であった。  彼は、慶応三年十二月十五日に山口を発って太宰府へむかった。それはまだ小御所会議のことなど知らないころだ。孝允が太宰府へ行ったのは、三条実美ら五卿を迎えるためである。例の第一次長州征伐以後、幕府の意向で、長州藩内に潜居していたこの公卿たちは太宰府へ移された。  長州藩主毛利敬親父子の復権と時を同じくして、文久三年八月いらい都落ちし、慣れない田舎生活に苦労していたこの公卿たちもやっと京へ復帰する日がおとずれたのである。  孝允が太宰府へ行ってみると、待ちきれなかったのか、三条実美らは一足先にそこを出ていて、すれ違いになった。  空足を踏んだ孝允は、すぐとんぼ返りで長州へ引き返し十七日には下関へ帰着したが、公卿の一行は余程ゆっくり進んでいるらしくまだ姿を見せていないという。  まる四日間、無駄な時間を費したという口惜しさを感じながら翌十八日山口ヘ帰ると、京からの手紙が届いていた。そこではじめて王政復古大号令、小御所会議という一連の動きを知るのである。 (乗り遅れた)と思い、しきりに京都へ心が飛ぶのだが、今ただちにそこへ出かけて行ってみても長州人が坐る場所はどこにもないのだった。  おそらく瓦礫をさらしたままになっているはずの三条御地通りの藩邸を思いえがいたりもした。禁門の変のとき、彼と同じ留守居役だった乃美織江が、みずからその藩邸に火を放って脱出したのだ。  藩邸が焼けるのは見なかったが、炎につつまれた京の町を横目に、必死で走ったときのことはよく覚えている。そして|出石《いずし》への逃避行。──三年前の苦悩が、遠い以前のできごとに感じられるかと思うと、また急にきのうのことのように、あざやかな記憶をよびもどしもした。  十九日になって三条実美一行が山口に入ってきた。なつかしい再会だった。攘夷親征運動で、京を飛びまわり、しばしば孝允が会っていたころの三条卿とは人が変わったように萎んだ顔になっている。ところが、 「お互い苦労いたしましたの」  と、相手から先に言われて、自分にもそのような疲れがあらわれているのだろうかと、孝允は内心おどろいてしまう。ひと通りの三年間ではなかったのだ。その倍にも匹敵する苦難の歳月だったかもしれない……などと安手な感慨に長くふけっていられるときでもなかった。政情がどう転がっていくのか、まるで見当もつかない。薩摩の西郷や大久保からは、その後直接何の連絡もなく、彼らがこの先どのような手を打とうとしているのかを早く知りたかった。 「京都の様子を申しあげます」  孝允は品川弥二郎の手紙で心得たばかりの小御所会議の内容などを実美に説明するのだが、いくらかはむなしい気持ちである。そんな会議で、決めたからといって、今後の情勢が素直に進展するとは、西郷も大久保も考えてはいないだろう。  玉座の前で、慶喜追放の議事を確定したことは、たしかに重大な意義を持つが、問題はこれから始まるのだ。名を失ったとはいえ、徳川幕府は依然として、巨大な力を蓄えた「敵」でしかなかった。 「三百年の根をおろした徳川の葵は、ちょっとやそっとのことでは枯れませんな」  参政だった山田宇右衛門が、生前何かのとき、そう言って笑ったのを孝允は記憶している。  それを思い出させるような徳川慶喜の意外な動きが、次々に伝わってくる。徳川家に深い恩顧を感じているおびただしい幕臣たちがいるのだ。慶喜だけの意志ではどうにもならないという事情も察することはできるが、なかなか油断できない行動を見せはじめた。  小御所会議の結論をもって、その日の朝のうちに、徳川慶勝と松平春嶽の二人は二条城にいる慶喜をおとずれた。  辞官・納地を言い渡す嫌な役を引き受けた二人が、二条城に行くと、すでに武装した幕臣たちが城内にひしめいており、中には平服で歩いていく春嶽たちに罵声を浴びせる者もいた。慶喜追放を決めた小御所会議の内容が、早くも知れわたっているのだ。  とくに騒ぎたてているのは、幕府|麾下《きか》の遊撃隊士のほか会津・桑名の藩兵たちで、軍装をかため兵器を整えて、殺気をみなぎらせている。  勅旨を伝えるというかたちで、慶勝らは慶喜の室に入り、決議事項を告げた。内大臣の職をなげうち、四百万石の所領を朝廷に差し出せというのだ。 「よくわかったが、今すぐそれを実行するについては、城中城外の情況もあり、禍変が激発するおそれもあるので、しばらく御請けを猶予されたい」と慶喜は即答をしぶった。  二人は諒解して二条城を退き、ただちに参内してその旨を復命する。 「そのようなこと承知されたのでごわすか」  西郷吉之助、大久保一蔵らは色をなして慶勝に詰め寄った。  慶勝も必死になって慶喜の立場を弁明した。一緒に動いた春嶽は自筆の陳情書を総裁に差し出している。 「……慶永に於て天地へ誓つて御請合申上げ候間、徳川内府内願の筋、御聞き届け下され候様願上げ候」  結局、聴許ということに落ち着いたが、吉之助らはなお不満を洩らしつづけた。  慶喜の辞官・納地を一人で請合ったかたちの松平春嶽は、翌十一日、できれば事を片づけたい意向で再び二条城を訪れた。ところが興奮の情況は前日よりもさらに高まっている。  講武所御槍隊に属する侍たちは、口々に薩摩の陰謀を罵り、今にも打って出るほどの勢いを見せた。  このため慶喜が、諸隊の幹部を呼んで、 「予がもし割腹するようなことにでもなれば、思うままにするがよい。予が生きている限り妄動してはならぬ」  と強く戒めるという一幕もあったと聞いて、春嶽は用意していた督促の言葉も切り出せなかった。むしろ城内鎮撫の評議に参加させられるという始末である。  このままでは事態が悪化するばかりで、打つべき手もない。結局、徳川慶喜が京を去るほかはないという情況に追いこまれた。つまりは辞官・納地の朝議に返事をしないで、慶喜は京から逃げ出すことになったのである。  それは十分に理由のある成り行きでもあったので、吉之助らも慶喜を京にとどめよと春嶽らに追ることもできなかったのだ。  十二日夜、慶喜は馬に乗って二条城の裏門を出た。路を鳥羽街道にとり、十三日の夜明けごろ|枚方《ひらかた》に着いた。そこで朝食を済ませ、さらに守口駅を経て、七ツ時(午後四時)大坂城に入った。  慶喜に従ったのは、会津藩主松平|容保《かたもり》、老中板倉|勝静《かつきよ》はじめ幕府麾下の兵、会津、桑名両藩兵らである。  当時、二条城には幕兵五千余、会津藩兵三千余、桑名藩兵千五百余、あわせておよそ一万人が集結していた。その大半は慶喜について大坂城へ移ったものとみなければならない。ゆうに戦争をひきおこせるだけの数である。  幕臣たちの暴発を怖れて、辞官・納地の朝議に対する即答を避けたまま徳川慶喜は京を離れた。やむを得ない措置ということではあったが、いわば大軍を擁して大坂城へ入ってみると、予期しなかった新しい情況がひらけてきた。倒幕派にとっては、好ましからざる方向に流れようとしているのだ。  騒然とした空気をのがれて大坂の城にひとまず落ち着いた慶喜の中に、ある種の割拠意識のようなものが芽生えたのかもしれない。  そのことは、長州にいる木戸孝允の敏感な視線を刺激せずにはおかなかったのだ。すでに将軍職を失い、辞官・納地を決意したはずの慶喜が、奇妙な言動をみせるのを知って、不安をかきたてられた孝允は、すぐに在京の品川弥二郎に手紙を送った。  慶応四年(一八六八)つまり明治元年が始まるその年の一月三日、弥二郎に与えた彼の手紙には「三大事」が失われたと、西郷・大久保の失策を指摘している。 「皇国は瓦解し、|土崩《どほう》し、折角の変革が水泡、|画餅《がべい》に帰すことは明らかだ」と激しい調子で慨嘆するのである。  小御所会議以後、武力倒幕の初志をゆるめ、徳川氏の処分を慶勝や春嶽に一任する公議政体派の意向に妥協した、それが失われた第一である。  次に慶喜が大軍を引きつれて大坂城に入り、しかも諸外国の使臣たちに対して、自分が条約履行の責任をとるといったことを通告している。これは将軍職を意識し、幕府の実質的な存在を誇示する僭越な行為だ。そんなことを許しているのが失われた第二である。  その第三は、小御所会議で決定した徳川の所領四百万石返上の件が、なしくずしになっていること。返上の諭書は大久保一蔵が起草し、はじめは「天下之公論を以て|返上《ヽヽ》」とあったのを、公議政体派に押し切られ「天下之公論を以て|御確定《ヽヽヽ》」と訂正、要点をぼかされてしまっている。このさい「天下之公論」とは、列侯会議をさしているのだから、それで確定するとすれば、あるいは徳川氏の所領返上は、否定される可能性もある。そしてそのような重要事項がうやむやのうちに、慶喜の参朝は許され、|議定《ぎじよう》就任ともなった。倒幕派の意図とはまったく逆の結果をまねいているのだ。  勢いこんで十二月九日の小御所会議を画策通りに乗り切って、慶喜を追放し、幕府の息の根を断ったつもりの倒幕派は、いつの間にか肩すかしを食っているのだった。 (いったい何をしているのか)  と孝允はいらだつ。長州軍は、前年の小御所会議後、ようやく入京して、いったん相国寺に屯営した。四年ぶりに蛤御門の警衛につくようになったが、その後の詳しい報告は届いていない。  武力を背景にしてきた王政復古大号令のクーデターは、実に不徹底なものだった。公議政体派の巻き返しによって、政情は逆転をはじめ、孝允が言うように、変革は水泡、画餅に帰そうとしているのである。  もはやこの形勢を持ちなおす唯一の手段は、武力行使以外に考えられなかった。  大坂城の幕軍は、しだいに数をふやしつつある。上方の不穏な情況を知り、江戸を脱してかけつけてくる者も多いのだ。幕臣にとっては、徳川家への恩顧というより幕府崩壊に対する現実の危機感に動かされてもいるのであろう。  流言も飛びはじめ、薩摩軍が襲撃をかけてくるのではないかというので、ますます城内の興奮状態は高まっていく。  この時点で、幕府側が対象としているのは薩摩である。たしかに薩摩だけが、彼らの憎悪をさらにつのらせるかたちで動き出していた。  木戸孝允が、遠い長州から、やきもきしながら、失われた「三大事」を訴えているころ、薩摩は独自に幕府への挑発行為を進めている。孝允に指摘されるまでもなく、西郷も大久保も、すでに挽回のための非常手段を開始していたのである。   鳥羽・伏見  押さえこんだと思っていた幕府が、手許をくぐり抜け、不遜な言動をみせている。薩摩の西郷吉之助や大久保一蔵らが、それを黙って見ているはずもなかった。 (武力でたたきのめすほかはない!)  何度それを決意したことだろう。実行に移す機会を失ったまま今に至ったが、もはや猶予できないところまできている。しかし、きっかけがないのだ。  徳川慶喜は慎重で、はやりたつ幕兵をとり鎮めながら、大坂城に割拠するかたちで倒幕派に隙を与えない構えである。 (きっかけがなければ、作ればよい)  薩摩が考えだした強引な手段とは、要するに挑発である。彼らを怒らせ、先に手をふりおろさせて、応戦する恰好で武力倒幕の目的をとげようというのだった。  単純といえば単純な策謀だが、巧妙でもあった。京都の薩摩陣営は、素知らぬ顔をしている。行動は、遠く離れた江戸で始まった。しかも、直接動くのは薩摩人にけしかけられた浪士の集団である。  まず密命を帯びた薩摩藩士伊牟田尚平・益満休之助は江戸にむかい、浪士を募って薩摩藩邸に集めた。  ここに登場するのが|相楽《さがら》総三である。彼のほかに落合直亮・権田直助といった指導者がいるが、統領はやはり総三で、五百余人の浪士が集まった。のち「偽官軍」として悲惨な末路をたどる人たちもこの中にいるが、それぞれに志を秘めながら、今は与えられた凶暴な役割を果すのだ。  彼らは薩摩藩邸を本拠に、江戸内外を横行して、豪商の家に押し入り、幕吏の邸宅を襲って殺傷の限りを尽した。幕府お膝元の攪乱戦術といえば、いくらかは聞こえはよいが、やることといえば斬りとり強盗である。  幕府は市中警備を厳重にして、凶悪な男たちを追跡する大捕物をくりひろげた結果、賊が薩摩藩邸から出動している事実をつきとめた。  幕府の勘定奉行小栗|忠順《ただまさ》は、怒りに燃える海陸軍士官らの建言を容れて、断乎これを討伐することにした。小栗は幕府に接近するフランスと結んで洋式軍隊の創設につとめた人物で、主戦論者だった。江戸開城前後から、戦意を失って領地にひきこもったが、新政府軍に捕えられ処刑されている。  小栗忠順が、賊の討伐を決意し、その本拠である薩摩藩邸・佐土原藩(薩摩の支藩)邸を襲撃したことが、戊辰戦争の火口になった。そのため官軍から憎まれもしたのだが、真相からいえば小栗は薩摩の仕掛けた罠にひっかかったにすぎない。  小栗忠順が、江戸取り締りの庄内藩兵を主力とし、前橋・西尾・上ノ山諸藩兵および新徴組・陸軍兵に応援を命じ、薩摩藩邸を焼き打ちしたのは、慶応三年十二月二十五日のことである。このときの砲撃は、幕府のお雇いフランス人ブリューネーが指導した。  相楽総三ら浪士は、藩邸を脱出して品川に碇泊中の薩摩軍艦翔鳳丸に乗り、京都方面へ逃がれた。  幕軍の薩摩藩邸襲撃つまり江戸における薩摩の行動は、間もなく大坂城に伝えられた。城内に屯集する幕臣諸隊、会津・桑名両藩兵は、たちまち憤激して老中板倉勝静を衝きあげた。上下こぞって「討薩」を徳川慶喜に迫るのである。  慶喜もついに腰をあげざるを得なくなった。幼沖の天皇を擁して私意をとげようとする。�君側の奸�を払うという趣旨の「討薩の表」を発したのは、慶応四年(明治元年)一月一日だった。  そして、京都郊外の鳥羽・伏見で戦いの火蓋が切られたのは、その二日後である。木戸孝允が、品川弥二郎にあてて「三大事」が失われたことを憂慮する手紙を出したのはその日であった。  小栗忠順が、薩摩の仕掛けた罠にかかって、薩摩藩邸を襲撃したとすれば、それに刺激されて「討薩の表」を発した徳川慶喜は、まんまと薩摩の挑発に乗って、みずから武力倒幕の標的に立ち上がったことになる。  しかし、大坂城に集結した幕府軍(正確には旧幕府軍と書くべきだろうが、わずらわしさを避けるため単に幕府軍と呼称する)は、一万五千を越える勢力であり、倒幕派の三倍にも達している。幕府側には、軍事力で優位にあるという自信もあったにちがいない。  一方、薩摩を主力とする倒幕派は、強引に戦いを挑んでみたものの、いざとなるとさすがに心細さをかくせなかった。とくに岩倉具視などは、武力行使を主張する大久保一蔵らを、つとめて抑えにかかったが、切迫した形勢は、薩摩の挑発に乗った幕府側から高まりをみせ、もうどのようにも避けられないことを知った。 「ことここに至れば、幕府を討伐し、徳川氏を待つに朝敵を以てするに決するしかありませぬな」  と言いながら、そのときすでに入洛、参内を果している三条実美と顔を見合わせ、正直に憂色をみせている。  幕軍は、本営を淀本宮におき、三日午後には鳥羽・伏見両街道から兵を分けて京都をめざす。鳥羽口には桑名藩兵、伏見口には会津藩兵を主力とした幕軍が押し寄せた。  その日、申の下刻(午後四時)まず鳥羽口に進んだ幕兵と、中村半次郎(桐野利秋)らの率いる薩摩藩兵との間に砲火が開かれた。ついで伏見口に進撃してきた幕兵と、長州藩兵が衝突した。いわゆる鳥羽・伏見の戦いが始まるのである。  薩摩を軸として展開する京都の政情が火を噴くと同時に、これまで隠れた存在にすぎなかった長州藩兵が、ようやく顔を出した。この長州軍を指揮していたのは、山田市之允(顕義)と林半七(友幸)であった。  戦闘は激しく、伏見では市街戦もくりひろげられた。両街道に砲声がとどろき、日が暮れてからも戦いはおさまらなかった。兵火は夜空を焼き、混戦は暁までつづいて勝敗はいっこうに決しない。時には、幕軍が優勢に立ち、薩長軍の苦戦を告げる急使が御所に走った。  倒幕派には薩長のほか芸州、土州兵などもいるが、ほとんど頼りになる戦力ではなく、しょせん薩長両藩兵の孤軍奮闘というかたちで戦いは進められている。  苦戦ははじめから予想されたことで、西郷吉之助と大久保一蔵は、「乗輿潜幸策」などというものを、前もって岩倉具視に示している。これには孝允より一足先に京都へ入った長州の広沢兵助も加わって、真剣に話しあった。  あとで考えれば、滑稽というほかはない「乗輿潜幸策」だった。もし官軍が敗れ、幕軍が入京するような事態になれば、天皇はただちに女装して女性用の駕籠に乗り、山陰道を下り、迂回して芸備あたりに身を潜めるというのである。  その間、具視は総裁熾仁親王を奉じて京にとどまり、あくまでも幕軍に抗戦するが、支えられなくなれば尾・越二藩兵に命じて、無人の|鳳輦《ほうれん》(天皇の乗物)を擁して比叡山に登る。これは陽動作戦である。幕軍は必ず叡山を攻めるだろう。天険に拠って防戦すること数日におよべば、議定|嘉彰《よしあき》親王が東国に下り、令旨を天下に示して勤王の兵を集め、江戸城を衝く。そこで幕軍は東西に攻守するところを失って崩壊するにちがいない……。 「どうであろう」  と、あまり冴えない顔色で岩倉具視が、議定・参与に問いかけた。 「よろしいでしょう」  消極的な声が返ってくる。そんなにうまく事が運ぶだろうかという懸念は、だれもが抱いている。 「そのようなことなりませぬぞ」  突然、松平春嶽が、身を乗り出した。ばかばかしいと言わぬばかりに薄笑いを泛べているのだった。潜幸策など姑息な手段で「乗輿一たび動けば、則ち天下の大事は全く去るであろう」と猛反対を唱えるのである。  論議しているところに、鳥羽・伏見の戦況が好転し、どうやら官軍の勝利に落ち着きそうだとの報が入る。ほっとした表情がひろがり、騒然としていた御所内は平静をとりもどした。  四日、議定嘉彰親王を征討大将軍に補して錦旗節刀をさずけ、ほかに参与の中から錦旗奉行を選んで、薩・長・芸三藩の兵をその麾下に配した。この日未刻(午後二時)、征夷大将軍の宮は錦旗を東寺に進め、軍令を諸軍に伝えた。「錦の御旗」を先頭に押し立て進軍する新政府軍のかたちが整った瞬間である。  錦旗は、玉(天皇)を擁していることの|印《しるし》だった。倒幕派にとっては、重要なシンボルである。  このとき東寺にひるがえった錦旗は二旒あって、一つは「日」を、もう一つは「月」の図案をあしらったいわゆる「日月章錦旗」である。こうした錦旗は、以前から御所に備えてあったものかというとそうではない。  倒幕派がひそかに錦旗調製をはかったのは、前年(慶応三年)十月だった。つまり討幕の密勅が発せられる前後、京都郊外の中御門別邸に岩倉具視・大久保一蔵・品川弥二郎が密会したとき、一蔵がそのことを発議した。昔から�天皇軍�は錦の御旗を押し立てて戦ったので、その故事にならおうというのだった。いかにも古めかしい着想だが、圧倒的な数を誇る幕軍に対抗するための心理的戦術の意味がある。たしかに錦旗は戊辰戦争の官軍にとって、重大な役割をもった�征討の旗�であり、玉を手中にしていることを誇示する文字通りの華麗な軍旗であった。  一蔵がそれを作ろうと言いだしたその時期、討幕はなお密勅という陰謀でしかないころだから、京都で錦旗を仕立てるわけにはいかなかった。そこで一蔵は大和錦と|緞子《どんす》などを買い入れて品川弥二郎に渡した。長州で作ろうということになったのだ。  弥二郎はこれを山口に持ち帰り、はじめ山口の石原小路にあった諸隊集会所で作ろうとしたが、ここは人の出入りが激しい。 「大秘密」の作製場所としてはふさわしくないというので、それから北にのぼった水ノ上の養蚕局に作業所を設け、萩から岡吉春という藩士を呼んで錦旗調製を命じた。吉春は、第二次大隈内閣(大正三年)の陸軍大臣をつとめた岡市之助の父にあたる入で、この方面の知識を持っていたらしい。  吉春は錦旗の図案を|大江匡房《おおえのまさふさ》(平安後期の漠学者・歌人)が著わした「皇箕考」を参考とし「日」「月」一対のものとした。  養蚕局二階の十三畳敷きの部屋で一カ月かかってつくられたこの錦旗は、幅一尺七寸(約五十センチ)長さ一丈(約三メートル)という大きさで、裾は三つに割れ、上部は白布で金具がつき、白の風帯がさがっている。 「日」のほうは瑞雲に金色の太陽、三頭の竜、三羽の鳳凰、一頭の麒麟、二匹の亀があしらってある。もう一つは瑞雲に銀色の月、ほかは同じ図案で、いずれも凝りに凝った錦旗が出来あがり、ひそかに京へ持ちこまれた。  鳥羽・伏見の戦いで官軍勝利の見通しがついた一月四日、東寺においた征討大将軍の本営に、初めてひるがえったのはこの錦旗二旒である。これはのちの江戸攻めのとき、熾仁親王征東総督に引きつがれ、東海道を進むことになる。  戊辰戦争のとき官軍が使った錦旗には、数種類がある。多くは菊花章をあしらったもので、これらはもはや堂々と京都で�量産�し、気前よく下賜されて、官軍の陣頭を飾ったのである。 「……あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか、トコトンヤレトンヤレナ」  品川弥二郎の作詞といわれるこの歌は、「トコトンヤレ節」として民衆の間にも広く歌われた。変革を待望する歌声に乗って、新政府軍は、東へ進む。  幕府との間に立ち、いわば曖昧な態度で、慶喜の賊名を救うべく動いていた尾張の徳川慶勝や越前の松平春嶽も「王事に勤むべき請書」を出した。薩摩の島津茂久(忠義)はむろんのことだが、公議政体派の重鎮としてこれまで岩倉一派に対抗していた土佐の山内容堂や宇和島の伊達|宗城《むねなり》までも、今はもう慶喜征討に賛意を示す立場にいる。何もかもが鮮明な色に塗り変わっていくなかで、一点欠けているとすれば、長州藩主がまだ京都に姿を見せていないことだった。世子の毛利定広が入京するのは、これから一カ月後の二月七日である。  それよりもこの当時、木戸孝允はどうしていたのだろうか。長州からは品川弥二郎が早くから情勢探索の役目を帯びて薩摩藩邸に入り、それなりに活動しているが、藩を代表するほどの地位にいない。要路といえば小御所会議後、広沢兵助が入京して、すでに西郷・大久保らとの接触を開始しているが、長州藩の京都回復以後、だれよりも早く参内すべき人物と思われている孝允が、いつまでも顔を出さないのだ。  実は、前年十二月十八日付けで、孝允には朝廷から登庸の意あり上京すべしとの命令が出ているのだった。ところが太宰府から長州へ入った三条実美らを応接しているうち、風邪をひきこんでしまった。ひどい発熱で、糸米の自宅に寝たきり、動けないほどの症状が、年末から正月三ガ日までも続いた。  三条実美と共に上京する予定もだめになり、ずっと床に臥せたままである。だから弥二郎に出した「三大事」の失策を訴える手紙は、そんな病床でしたためたものだ。  一月六日、藩主敬親は、朝廷に対して孝允の病状を告げ、上京猶予を奏請するというようなことだった。熱にうなされ、そのためにも一人取り残されたような憂悶をかきたてられながら、孝允は戊辰の動乱が始まる慶応四年の正月を迎えた。三十六歳であった。 [#改ページ] 第三章 官僚の門出   京都ヘ  慶応四年一月二十一日の夕刻、木戸孝允は京都にいた。三年六カ月ぶりの入洛である。  まだいたるところに禁門の変のときの残骸をとどめ、京の街は、薄い夕陽に染まりながら、底深い冷気につつまれていた。鳥羽・伏見の戦いの騒然たる気配は遠のいているが、どことない不安がただよい、多くの商家が早々と戸をおろしはじめているのも佗しい感じだった。  山口にいるときは、あれほど苛立ち、京へ心を馳せながら、現実にそこへ身をおいてみると、それほど昂揚するものがないのはなぜだろう。それは孝允が、ひどく疲れているせいであった。十分に快癒しないまま起きあがった無理がたたって、まだ足がふらついている。  山口を発ったのは、一月九日である。藩主の命令で備前岡山藩へ行き、腰の定まらない池田氏を倒幕の陣営に引きこむための交渉を任されたのだ。そのころ、山口で把握していた京都の情況からいえば、大藩岡山の去就がしきりに気になるところである。毛利敬親は何とかこれを説得し、成功すれば長州藩の周旋によるものであることを朝廷に知らせたい意向もあったのだろう。孝允の病状がいくらかは回復したとみて、備前行きをせきたてた。このような外交の仕事は、木戸に限るということで、病床の彼のところへうるさく出仕をうながしてくるのだ。  孝允に備前行きの命令が出たのは七日だが、その前日には敬親から朝廷にあてて同人の上京猶予を奏請したばかりである。「多病にして|客臘《かくろう》以来寒疾を患ひ、未だ癒えざるの故」などと孝允を重病人のように言いながら翌日はひそかに岡山藩へさしむけている。  仕方なくといった冴えない顔色で、孝允は衰弱したからだに旅装をまとい九日出発して十一日には岡山藩主池田茂政に会った。すでに鳥羽・伏見の戦いで官軍が勝利を占めたあとだから、日和見の諸藩がようやく徳川離れをはじめている。思ったほど困難な交渉ではなく、無事つとめを果した孝允は大坂へ入った。  頭痛、発熱と感冒の症状がぶり返し、このまま寝込むのではないかと自分でも心配になってきた。病床に就くと起きあがれなくなる。感冒くらいの病気ならわずかでも動きながら、息をひそめるようにして体調を整え、いつか組み伏せてしまうというのが小五郎といっていた時代の彼のやり方だった。剣術にも精出していた若いころはそれでよかったが、今は日ごろからの体力の衰えをどうすることもできなかった。  風邪をひきやすくなっている。風邪だけではない。頭痛、歯痛、ときに胸が苦しく、しじゅう身体の不調を訴えている。藩主が孝允の上京猶予を奏請したのは、岡山藩に立ち寄らせるための虚偽をふくんでいるが、「多病にして……寒疾を患ひ」と彼の症状を表現したのは、まんざら嘘でもない。年をかさねるごとに腺病質になっていく孝允を見て、周囲の者がそれとなく眉をひそめているのもたしかだった。──  京都では河原町御地通りの藩邸に入った。ここは禁門の変のとき、留守居役の乃美織江らが火を放って脱出したため、本館など主な建物は焼けてしまったが、まだかなりの部分は遺っていた。  変の直後、幕府に没収されていたが、王政復古大号令のあと新しい政府の手で長州藩に返還された。相国寺にいた長州藩兵は、さっそくこれに移り、邸内の整理、再建にとりかかったので、孝允が姿を見せたときは、よほど片付いていた。  翌二十二日は、どこにも出かけず静養につとめる。さらにその翌日、薩摩の大久保一蔵がたずねてきた。  一蔵は、颯爽としていて、いかにも血色がよい。病気と聞いて心配していたと、形通りのことばを述べると、すぐに用件を切り出した。 「問題は遷都……都を移す遷都のことでごわす」 「遷都?」  孝允は思わず坐りなおした。  大久保一蔵が持ちこんできた話とは、大阪遷都の計画である。(大坂を大阪と書くようになったのは明治以降とされる。正確にいつからかは判然としないが、この項から大阪と書くことにする)  一蔵の大阪遷都論は、国政・軍事・外交のいずれからみても、京より大阪のほうに条件がそろっている。「因循の腐臭を一掃する」ためには、古い都をこのさい捨てるべきだというのである。  そして京都御所の奥深くに住み、公卿たちにとりまかれているだけの天皇を大阪という庶民的な土地に押し出し、しかもその「一天ノ主(天皇)」が命令すれば天下が|慄動《りつどう》するような体制をつくりあげることでなければならないと説く。  要するに一蔵は、玉を大阪において、その権威を背景にした強力な中央集権の国家機構を完成させ、諸外国とも対等に交わっていこうというのだ。  孝允はそうした一蔵の考え方に全面的な賛意をあらわしながら、内心それが途方もない夢のようにも思えてならない。 「遷都となれば、簡単にはいきませんよ」 「まず岩倉卿を口説きおとして、一挙に事を運びもす。小御所会議のときがそうでした」 「聞いちょります」  と孝允は笑った。一蔵が勝ち誇ったように言う小御所会議も、結局は武力での後始末が不可欠のものであった。遷都は、武力でというわけにはいかない。  これから岩倉卿に会うといって一蔵は帰って行き、じっさいその日から大阪遷都の議を精力的に進めはじめた。そうした彼の行動力がまぶしくも見えるのは、まだ孝允が病人に近い衰えた身体を、寒々とした藩邸の一室に休めているからであろう。  一月二十五日、|太政官代《だじようかんだい》から呼び出しがあったときは、体調もどうやら回復しかけていた。  孝允が知らぬうちに、太政官代などというものが開設されたことは、一蔵から教えられている。十三日のことで、これが御所外の九条邸(のち二条城)におかれたことに、ひとつの意味がある。つまり朝廷という概念にふくまれない独立した政府の最高機関として誕生した、はっきり「新政府」といえるものであった。  もともと太政官は、ダイジョウカンと読み律令制時代の機構である。太政大臣・左右大臣・大納言以下で構成されていた。 (古めかしい呼称を借りてきたものだな)と孝允は思った。ダジョウカンと読み方を改めたとはいえ、そんな旧時代の官制の名を使用するところに、まだこの時期の低迷する何かをあらわしている。  この太政官は明治十八年(一八八五)内閣制度が発足するまで、明治政府の最高官庁として絶大な権力をふるったのである。  新しい政府は、この太政官を頂点に、総裁・|議定《ぎじよう》・参与の三職および行政七科(神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度)とそのほかに徴士・貢士の制をもつ組織をつくった。  総裁は|熾仁《たるひと》親王が就任し、総裁局をおいた。議定には三条実美や岩倉具視をはじめ宮・公卿・大名がなり、行政各科の長官に任じた。参与は各藩の人材が選ばれてその次官となる。  議定たちによる「上ノ議事所」に対して、「下ノ議事所」は、徴士・貢士たちによって構成された。  徴士・貢士は各藩の人材から選ばれたが、とくに徴士は藩士だけでなく農・商・工の階層からも抜擢されることになっていた。新政府当初の議事官で、「与論公議」を代表するというこの徴士・貢士の設置には、封建制を脱した新しい政体への芽生えも見える。しかしこうした新政府の組織は、めまぐるしく変更され、まさしく朝令暮改というありさまだった。  さて、二十五日の朝、孝允が太政官代に行くと、侍従の坊城俊克が待っていた。孝允を「徴士となし総裁局顧問に任ずる」というのである。  徴士や参与などには、長州からも孝允のほかに一足先に出京していた広沢兵助をはじめとする藩士たちが顔を並べていたし、他藩からも越前の横井小楠、薩摩の大久保一蔵といった人々が新政府の議事官として、ぞくぞく出仕している。その中でも、総裁局顧問の兼務をこの日命じられたのは孝允と一蔵だけである。  総裁局は総裁熾仁親王を長官として、新政府の庶政を統轄し、いっさいの事務を決する最高機関である。この年|閏《うるう》四月の官制改革で廃官となるまでのわずかな期間だったが、孝允と一蔵が総裁局の要職に就いて呼吸を合わせたということは、新政府の内容を象徴するきわだった人事として注目をあびた。  松平慶永ら諸侯の目からは、薩長によって牛耳られていく新政府の進路に対する反発をよび、たとえば一蔵と孝允が掲げる大阪遷都への強力な反対論としてもあらわれた。 「木戸さん、大阪遷都の件、岩倉卿には一応話を通しておきもした。朝議にかけようということになったが、思った通り公卿の中に反対の声が強い。それに春嶽公も異論を唱えちょる」  太政官代での任命式が終るとすぐ、一蔵は孝允にそのことを告げた。岩倉具視のすすめで、一蔵が建言書を熾仁親王、三条実美に提出したのは二十三日だという。 (あの日のうちに飛びまわっていたのか)  と孝充は藩邸に自分をたずねてきたときの、一蔵の気負いこんだ表情を思い出した。総裁局顧問に任じられた今は、さらに生気をみなぎらせ、自信めいた微笑さえ泛べている。 「性急に事を運べば、破れますぞ。慎重に」  と孝充は、やはり彼らしいことを言った。 「このさいは、まず押しまくる以外にない」  と一蔵は言い、広沢兵助ともこのことは話しあったが同意見だったと、孝允の表情を窺うようにした。兵助とのいくらかは微妙な間柄を知っているのだろう。  兵助のどちらかといえばハッタリに近い強気な言動を、孝允はあまり好きではなかった。かといってこの当時特別彼と対立するようなこともなかったのだが……。  前にも述べたが、兵助は元治元年秋、藩内の俗論派による粛清の嵐が吹いたとき、捕えられ野山獄に投じられた。それほど目立つ存在でもなかったので処刑はまぬがれ、そのうち俗論派の失脚と同時に釈放された。兵助は、時折、野山獄中での体験を人に語るのだが、孝允がいると意識的にか大げさになった。出石に潜伏していた孝允に対するあてつけのようでもあった。それは自分のひがみかもしれないと思いなおしたりもするが、とにかく肌合の違うものを、兵助に感じている。 「明日、広沢さんもまじえ、あらためて遷都について話しあいたいが、木戸さんの都合はいかがでごわす」 「よろしいでしょう。遷都だけでなく、早急に推し進めるべき策についても一度大久保さんと打ち合わせておきたいと思うちょりますが、どうです、今晩あたり……。三本木の旗亭が開いておると藩邸の者に聞きました」  やはりまず大久保と二人だけでと希望するのは、一緒に総裁局顧問に任ぜられたささやかな祝宴を意味している。一蔵も同意して、太政官代を退庁したその足で、旗亭にむかう。  もう長い間、酒を飲んでいない。酔ってうかれるほどの気持にはなれないが、幾松との思い出もある三本木に行くとなれば、にわかになつかしさを覚えるのだった。──  鳥羽・伏見での敗戦後、江戸へ帰った徳川慶喜を、遙かに見据えながら、ようやく体制を整えてきた新政府の慌しい動きの中に、いつか孝允は身をひたしていく。京都に返り咲いた彼の活動は、徴士・総裁局顧問に任じられたその日から始まるのだが、それは一剣客から出発した長州の志士から、ついに明治新政府の枢機に参画する官僚としての華やかな門出のときでもあった。  三本木の旗亭で、熱心に話しこんだ孝允と一蔵の結論は、当面、次のような「三大事」にしぼられた。  その第一は、一蔵が意欲を燃やしている大阪遷都である。これはすでに公卿たちの間から猛反対の声があがっている。孝允は、内心実現不可能とみたが、そのことは口に出さなかった。  第二は、賊徒の討滅。賊徒とは、徳川慶喜を擁して江戸城にたてこもる旧幕府の残存勢力である。  第三は、外国交際の規則を制定するということで、これは孝允が積極的に述べたてた。前年末、まだ大阪城にいた徳川慶喜が、外国使臣たちに、条約履行の責任は自分がとるといった通告を発し、なお政権が徳川氏の手に握られているかのような姿勢を見せた。  新政府を一日も早く外国に承認させなければならない。そのためには外交に関する体制をかためる必要があり、外国事務掛の設置も急がれた。  英仏二大国際勢力が、日本を窺っている。そのうちイギリスは薩長を支援し、新政府による国内統一への見通しを立て、フランスに対抗している。  そのフランスは、開国いらいイギリスに差をつけられている貿易の独占をねらって幕府に接近し、軍事的援助を申し出ているほどだ。  幕府がフランスの援助を受けるとなると、軍事力の均衡がやぶれ、新政府は苦境に追いやられる。だからといって、イギリスの軍隊に頼るとなれば、日本の国土で英仏両軍による代理戦争が始まることになる。  外国の軍事力が国内に導入された結果は、かつての清国の惨めな例がはっきり示している。 「これは幕府も先刻承知しておるはずだが、追い込まれれば何をするかわからぬという不安もあります」  熱っぽく説きながら、多少の酔いもあって、孝允は次第に|昂《たかぶ》っていく自分を意識していた。新政府の要職を与えられたという気負いを、やっと顔にあらわして、孝允はやや饒舌になった。これなら大久保一蔵とも肩を並べていけそうだった。  とにかく、この時点で孝允が最も急務と考えているのは、新政府が正式な外交関係を、何よりもまずイギリス・フランスと持つということだった。それが大阪遷都などより優先する問題だった。  この日以後、一蔵と孝允、それに広沢兵助も加えた三人が、太政官を中心に、「三大事」の実現を唱えて行動を開始する。  孝允は別に、外国科の参与伊藤俊輔に、早急な外交規則の制定、さらに外国使臣の参朝を勧めるように説くことも忘れていない。  大阪遷都の議は、公卿たちの猛烈な反対もあり、松平春嶽などは「そのような重大事は列侯会議にかけるべきだ」と、いぜん公議政体派の立場でものを言っている。要するに武力倒幕派に対する反発であり、また一蔵や孝允を代表とする薩長勢力ヘの反感もある。  前内大臣の久我建通などは、 「大阪遷都は、薩長両藩が提携して国内を制圧せんとする陰謀であろう」  と、ヒステリックな声で岩倉具視に述べたという。一応はその気になっていた具視も困惑し、一蔵を屋敷に呼びよせてそんな情況を告げ、つづいて孝允を招いた。一蔵は退出したあとだった。 「木戸さん、遷都の雲行きがすこぶる悪い。何かよい知恵はないか」 「次善の策をとることですな。大阪遷都ではなく、大阪行幸とするのであります。一時的なご滞留なら、だれも異論はなく、大久保さんの主張する目的もある程度は遂げられましょう」 「名案である!」  と、具視は膝を打った。薩長のだれよりも遅れて、いわばしょんぼりと出てきたこの男の鋭い才智に感じ入ったという表情で、しばし孝允をみつめている。   攘夷残風  慶応四年一月から二月にかけて、二件の日本人による外国兵殺傷事件がおこった。  攘夷浪士が外国人を襲うといったことは、文久年間にも頻発したが、こんどの場合は、浪士などではなく、れっきとした藩の武装兵によるものである。幕府に代って外国との修好を軌道に乗せようとしている新政府にとっては、実に頭の痛いできごとであった。  ──神戸事件。  これは孝允がまだ京都に入る以前の一月十一日、神戸で発生した。  この日午後二時ごろ、西宮警備にあたっている備前藩の家老|日置帯刀《ひきたてわき》の率いる藩兵が、神戸を行進していたときのことである。行列のすぐ前を、一人のアメリカ人水兵が横切るのを見た備前兵の小銃が、たちまち火を噴き、その水兵を射殺してしまった。  薩摩の行列を横切ったイギリス人を斬殺した生麦事件(文久二年八月)に似ているが、直後の情況が違う。そのまま戦闘に発展したのである。  アメリカ海兵隊が出動して、現場から退去しようとする備前藩兵を追撃し、急を聞いたイギリスの警備隊も応援に駆けつけた。戦闘は生田川畔でおこなわれたが、備前兵が早々に退却したので長くは続かず、双方に死傷者はなかった。ただ河原にいた一人の老婆が、足に貫通銃創を受け、イギリス軍の治療を受けた。  騒ぎはそれだけに終らなかった。怒った外国側が、神戸を占領状態におき、港内碇泊中の筑前・久留米・宇和島各藩の汽船を|拿捕《だほ》して、ミカド(帝)の政府に補償をせまった。このようにも外国軍が硬化したのは、アメリカ兵を射殺した備前兵たちが興奮して、みさかいなく外国人を襲撃しようとする動きをみせたことも、ひとつの原因になっている。被害者であるアメリカだけでなく、日本人のこの排外的な姿勢をイギリス、フランスなどすべての外国人に共通する重大問題と受け取ったのだ。  この神戸事件が新政府に衝撃を与えたのはもちろんだが、とくに前日の一月十日、諸外国に手交する文書を発したばかりだったので、さらに困惑を深めた。これは天皇「睦仁」の名による通告で、およそ次のような内容である。 「日本の天皇は、将軍徳川慶喜の願い出により政権返上を許した。今後は天皇の政府が内外のあらゆる事項について最高の権能をにぎることになる。したがって従来、条約締結のときに使われた|大君《タイクン》の称号に、天皇の名がそのままあてはめられるので、条約諸国公使はこの旨を諒とされたい」  この通告は、二つの意味を持っている。まず前年、京都から大坂城へ入ったときの徳川慶喜が、大政を奉還した身でありながら、各国に対して「過去締結した条約の履行は、自分が責任を持つ」と宣言し、依然として政権の座にある虚偽の事実を誇示した。これを否定し、訂正する。もう一つの目的は、幕府の結んだ条約は今後も効力を有すと言明した上で、新政府を各国に承認させることであった。  神戸事件によって、その外交文書を手渡す機会を失ったかに見えたが、新政府は敢えて特使を兵庫にむかわせた。その特使には参与の東久世|通禧《みちとみ》が任命された。この人は文久三年、京都を落ちて長州へ人った七卿の一人である。  通禧が伊藤俊輔ら少数の随員をつれて兵庫港に人ったのは、一月十四日だった。  兵庫開港の勅許が出たのは前年の五月だから、まだ領事館などもなく、仮設の税関として使っている古い建物で会見はおこなわれた。  各国使臣の代表的人物といえば、イギリス公使のハリー・パークスとフランス公使レオン・ロッシュである。四カ国連合艦隊による下関襲撃を主唱したオールコックのあとを|承《う》けて赴任したパークスは、辣腕の外交官であり、薩長に肩入れするイギリスの方針をさらに強力に推進した。  ヨーロッパでもイギリスと対立関係にあるフランスは、公使ロッシュが幕府側に立ち、鋭くパークスに対抗するのである。  東久世通禧と外国使臣との会見がおこなわれた兵庫港は、当時まだ神戸港とは別の場所である。  もともと和田岬と湊川三角州にいだかれた兵庫海岸は、|大輪田泊《おおわだのとまり》と呼ばれ古く奈良・平安時代からの港として知られた。平安時代の末期には、平清盛による対宋貿易の基地として繁栄した。兵庫津といわれるようになったのは源平時代からである。  室町時代には対明貿易などの基地となり、江戸時代には大坂の繁栄につれ、日本海と瀬戸内海をつなぐ西廻り航路の寄航地として、長崎に次ぐ港となった。  安政の神奈川条約でこの兵庫港が対象から外されたのは、経済的・軍事的な理由もあるが、何よりも京都に近く、朝廷を刺激すまいとする幕府の配慮もあった。孝明天皇が頑固な攘夷主義者だったからだ。  表日本では横浜と並ぶ兵庫の開港を、イギリスはじめ各国が強く希望し幕府にせまったが、あくまでも拒否しつづけている。関門海峡での最後の攘夷戦(元治元年八月、四カ国連合艦隊の襲撃)で、連合国側は降伏した長州藩に三百万ドルという法外な賠償金を要求した。長州は幕府から払ってもらえと逃げたが、これを切札として、連合国は幕府に兵庫開港を突きつけた。それでも拒否して、三百万ドル賠償を選ぶというほどに、幕府は兵庫港を開くことを嫌った。  しかし、再び連合艦隊を編成して兵庫沖にせまった外国の|恫喝《どうかつ》に負け、朝廷に泣きついた末にやっと開港に踏み切ったのが慶応三年五月であった。  兵庫を開いたのだから、賠償金の全額といかないまでも相当な減額を交渉すべきなのに、弱腰の幕府が何の手も打てなかったことが、後年まで日本政府の財政を圧迫した。つまり幕府は百万ドルを支払っただけで倒れたので、あと二百万ドルは明治政府がこれを受け継いだのである。──  兵庫開港とはなったが、兵庫にはすでに民家が密集しており、そこを外国船の碇泊地にしたのでは摩擦がおきるので、生田川尻と湊川尻の神戸浦をこれにあてた。ここに居留地や正式な神戸税関を設けたことから、隣接の兵庫港とあわせて神戸港の名称が一般化した。  備前藩兵がアメリカ人水兵を射殺し、そのあとアメリカ海兵隊やイギリスの警備隊と撃ちあった一帯がのちの外国人居留地になるところだが、慶応四年一月のこのころでは、まだ荒れた野原にしかすぎなかった。  外国兵たちは神戸浦に碇泊中の軍艦で起居しており、一部が上陸している。彼らに護衛されながら、パークスやロッシュは、兵庫で新政府の使者東久世通禧に会ったのである。  通禧は小柄な男で、あまり並びのよくない歯に、オハグロの跡が残っていた。鉄片を茶汁や酢につけてつくった液で、歯を黒く染める風習は、古くからあった。主として上流婦人の間でおこなわれ、やがて公卿など男子もやりはじめたが、江戸時代には既婚女性のすべてがオハグロをつけた。このころになると、東久世通禧はそれをやめていたのだろうが、まだ完全には脱色していなかったので、外国使臣たちはちょっと妙な顔をした。  文書の翻訳がおわったあと質疑がとりかわされ、それが一段落すると、通禧は「この通告を各国の代表は自国の政府に報告し、それを人民に公示するや否や承りたい」と言った。新政府の承認を要求しているとみたフランスのロッシュは、ひどく怒って通禧の質問をはねつけたが、他の使臣はむしろ歓迎の意向をみせた。新政府の目的は一応果されたのである。  この席上、神戸事件に関して、備前藩の責任者の処罰、また神戸在住の外国人保護など外国側から強い意見が出た。通禧は、言下にその要求を容れることを答え、会見は成功裡におわった。  神戸事件の責任者といえば、備前藩家老の日置帯刀だが、彼は他藩へのお預けということで死を免れ、結局藩士滝善三郎が切腹した。外国側としては、いくぶん不満もあったが、これでひとまず事件は解決したと思われていた。ところが神戸の騒ぎから一カ月ばかり後に、また外人殺傷事件が発生するのである。  一月二十一日、新政府は各国公使団に対し「徳川氏に兵器や軍艦を売ったり、また軍隊を貸したりして、兵力を助ける行為のないようにお願いする」という内容の申し入れをした。  神戸事件から間もなく、フランス公使ロッシュが江戸へ行き、徳川慶喜に面会して、駐留のフランス軍を貸すので、断乎薩長勢に抵抗せよと申し入れたことは、イギリス側からの情報として新政府に入っていた。  さらにイギリスは、そのようなこともあるので、新政府から各国使臣にクギを刺しておけと入れ知恵したのである。  イギリス公使パークスは、神戸事件に関する新政府の処置は、大いにその誠意が認められると宣伝し、進んで各国公使を説いてまわってくれた。これまで応援してきた薩長両藩が�玉�をかざし、討幕を呼号していよいよ正念場を迎えようとしているとき、イギリスは何としてもこれを成功させたかったにちがいない。失敗すれば過去の投資がすべて水泡に帰すばかりでなく、以後は不仲のフランスが主導権をにぎることになる。パークスは、ほとんど手放しの声援を、新政府に送るのである。  徳川方に兵器を供与したり、軍隊を貸したりすることはやめようというパークスの主張にアメリカ、オランダ、プロシャなど各国公使は賛成したが、フランスだけは、おいそれと首をタテにふらなかった。  しかし、大勢がそのように傾いていくなかで、フランスだけがひとり逆らうこともむつかしく、結局従うほかはなかったが、同時に、京都政府に対しても軍事援助はしないという条件で各国に歩調をあわせた。ひとつには兵庫、長崎の両港、またこの国の経済の中心である大阪までもが京都政府の支配下におかれた現状をみて、この政権を無視できないとする現実論もフランス側にあり、しぶしぶパークスの説得に応じるという事情もあった。  徳川方にも京都政府にも荷担しないというのは、要するに局外中立の態度をとることにほかならない。各国が日本の内乱に対する局外中立を宣言したのは、一月二十五日である。  幕末、欧米列強の力が、あれほど身辺に及びながら、ついにその軍事介入がなかったことは、日本および日本人にとって、実に幸せな成り行きだったといわなければならない。  ヨーロッパにおける英仏対立の情況が、そのまま日本に持ちこまれ、互いに牽制するかたちで、中立の立場をとったことが、対外情勢の構図を決定したといえる。しかし外国の介入を避け得た理由を、必ずしもそうした外部条件だけに限るとしたら、それは間違いだろう。つまり当時の日本人の高い見識が、外国の干渉を押しのけたのだ。そのことは倒幕派の人々もだが、幕府側にもいえる。  幕吏の中には、たとえば連合艦隊による下関襲撃のとき、関門海峡の測量図を外国側に提供しようとした者もいた。またフランスの申し入れ通り、その軍隊を借りて薩長勢を討つべしと考えた者がいないわけではなかった。  それを絶対不可とする勝海舟のようなすぐれた人物もいたし、何よりも徳川慶喜がロッシュの提言を拒否したという事実は見逃がせない。  一八四〇年、清国でおこったアヘン戦争は、日本人に強い危機感をよびさました。外国の軍隊が一国の領土内に、それがいかなる理由にせよ踏みこんでくることで、どのような民族の悲劇がもたらされるかを、清国を手本としてすべての日本人は知っていたのだ。  日本の攘夷思想は、それによって高まり、さらに反幕行動としての攘夷論と共に、長い歳月にわたり日本人の血肉に浸みこんだということもまた自然な結果であった。  今、幕府に|止《とど》めを刺そうというとき、倒幕派の人々は、かつて唱えた攘夷をみずから拭き消し、新しく外国との和親を深めなければならない立場にいた。だが、吹きまくった攘夷の風を、一朝にしておさめるすべはなかったのである。局外中立をかちとった新政府を苦境に追いやる排外的精神風土は、なお無気味に横たわり、彼らを脅やかしつづけるのだった。  慶応四年一月二十六日の夕刻、孝允が藩邸に帰ると、留守居の者が「きょう、佐藤という人がたずねてきました」と告げた。  二十六日といえば、孝允が入京して五日目、さらに総裁局顧問に任命された翌日のことである。大久保一蔵と協力して、大阪遷都・慶喜追討・外国交際の規則制定など彼のいう「三大事」をめぐってさっそく忙しく立ちまわり始めたばかりだ。たずねてきた佐藤という人物にも心当りがないので、そのまま自室へ行こうとした。疲れて食欲がなく、少しばかり横になりたかった。 「佐藤と言ってもらえばわかるというのですが、そのような名の異人、たしかに妙な異人でした。ご存知でしょうか」  その藩士は、すでに行きかけている孝允の背になおも話しかける。 (アーネスト・サトウだ!)  孝允はおどろいてふりかえり、 「宿舎はどこか、言わなかったかね」  と慌ててたずねた。 「相国寺というちょりました」 「そうか、その人はアーネスト・サトウという英国人だ。またやってきたら、私がぜひ会いたいというておったと伝えて下さい」  翌日、相国寺へ行くつもりだが、うまく会えるだろうか、いや、何としても会わなければと思う。  孝允がサトウと長崎のイギリス領事館で会ったのは慶応三年の夏であった。あれからサトウは、公使パークスに蹤いて、江戸・横浜・大阪・神戸と動き、今は飄然と京都にあらわれている。この時点で孝允が最も気にしているのは、新政府に対する各国の向背である。そのためにも外国交際の規則制定を急いでいるのだった。  兵庫における東久世通禧と外国使臣との会見の様子は知っているが、サトウの口から各国の真意がどのへんにあるのかを聞き出したい。サトウがいるのなら、パークスにも会えるのではないかという期待もあった。  相国寺は、御所の裏手にある薩摩屋敷に近いところで、小御所会議当時、長州藩兵が屯営を構えたこともある。兵火をのがれたので、建物はそっくりのこっている。  翌朝、孝允がたずねて行くと、サトウは外出もせず、のんびりと広い寺の中を見物していた。本堂に通されたが、そこには西洋人のためにという配慮らしくシナ風の卓と数脚の椅子が並べられていた。サトウをこの寺に入れたのは薩摩藩主島津茂久であり、西郷吉之助の差配だという。 「特別な用事ではありません。ずっと前から京都を見物したいと思っていたのです」とサトウは流暢な日本語を喋りながら笑っている。パークスは一緒ではなかった。  神戸事件がやはり話題になった。 「西宮の備前藩兵に、報復の討伐軍を出そうという意見も出ましたが、私たちがそれを押さえたのです」  やや得意そうに、サトウが胸をそらせた。いつも日本人に対し武力を背景にしかものを言わない外国人を、孝允はサトウの中にも発見して、思わずうとましい感じを抱きはしたが、とにかく丁重な姿勢を終始崩さなかった。 「風習が違うので、いざこざが起こるのは当分覚悟しなければいけませんが、神戸事件のような衝突は何としても避けなければいけない。どうしたらよいと思いますか、木戸さん」 「行列を横切ることは、われわれの側からは罪人には違いないのですが、その始末の方法を冷静に考えるようにすべきでしょう。つまり両者が交際の規則を取り交わしておけば、紛争は最小限にくいとめられるのではありませんか」 「そうです、日本政府は諸外国代表と訴訟手続きについても検討しておく必要がありますね」  サトウが言ったその「日本政府」ということばに、すかさず孝允はとびついた。 「その日本政府とは、むろん京都政府のことですね」 「………」  サトウが意味ありげに、孝允を見た。 「英国としては、京都のミカド政府を、この国の代表と考えてはいますが、徳川の権力も生きています。関東から北の諸大名は、まだ徳川家の支配下にあり、京都政府は全国を統一しておりませんね。木戸さん、これをどう思います」  とサトウは、多少いたずらっぽく言った。 「いずれはそうなります。われわれの長州藩では、幕軍と戦って支配下におさめている豊前や石見を天皇に奉還しました。徳川もすべての大名も、やがてその領土を奉還し、全国は統一されるでしょう」 「いずれは、でしょう。今は違います」 「そうすると、天皇の政府と徳川と、二つの政権があるとお考えですか」 「その通りです」  あっさりサトウが頷いたので、孝允は不満だった。もともと各国が局外中立を宣言したこと自体、新政府と徳川家と二つの対等な勢力の存在を認めている証拠なのだ。薩長にしてみれば、イギリスがフランスに同調していることが心外だという気持も強い。 「冷淡ではないかと、言う者もおります」  と孝允はそれについて述べた。 「木戸さんは、そう思わないのですか」  サトウは、孝允の第三者的な言い方が気にくわないらしい。 「私もそのように考えますが、英国の立場もわからないわけではありません」 「フランスは、天皇の政府を絶対に認めないといいます。むしろ徳川を援助しようとして軍隊を貸そうとまでしているのです。そのフランスに中立を誓わせるためには、イギリスも一歩しりぞく必要があったのです。それはわかりますね」 「そうであります。だから、われわれは我慢しなければならぬと思っています」 「木戸さん」と、サトウは急にあらたまった声を出した。「各国が中立宣言をしたことを、京都政府の人たちはもっと喜んでおられると私は予想していたのです。これまで将軍を元首と認め、将軍と条約を結んできた各国が、正式に京都のミカド政府を将軍と対等に承認したのですよ。これは大変な決断と思ってよいのではありませんか」 「左様でありました」  孝允は深々と頭を下げながら、この外人はそれを言うために、京都へやってきたのかと思ったりもした。しかし、サトウが孝允に言いたかったのは、それだけではなかった。やはり神戸事件に関しての忠告だったのである。  今のミカド政府の立場も考えて、外国に対する軽率なふるまいのないように、くれぐれも注意せよというのだ。 「だいたい攘夷の種は、あなた方がまいたのです。それを刈りとるのもあなた方の仕事でしょう。神戸事件のようなことがたび重なると、せっかくの中立宣言が崩れて、ミカド政府には不利な結果となります。英国の好意と努力が無になってしまうのです。気をつけて下さい」  サトウからくどいほど念を押されながら、孝允は相国寺を出て太政官代に行き、岩倉具視にもそのことを告げて、殺傷事件などおこらないように十分な手を打つべきだと進言した。 「長州藩兵は大丈夫ですか」  と具視が言った。攘夷戦でさんざん痛めつけられた長州だけに、外国人への悪感情が強く残っているとすれば、ほかならぬ孝允の配下にこそと言いたげな表情だ。 「神戸事件のときでも、長州藩兵は関わりを避けて遠ざかったくらいです。むしろ、心配なのは、備前藩のような、これまで表にあまり出たことのない連中でしょう」  孝允の見方はあたっていた。  アーネスト・サトウが京都を去ったおよそ二十日後の二月十五日、懸念された外国人殺傷事件が、こんどは堺で発生したのである。  問題を起こしたのは土佐藩兵で、悪いことに相手はフランス兵だった。しかも、二月十五日といえば、有栖川大総督宮が東征に進発し、官軍が江戸城への進撃を開始したばかりのときであった。  徳川氏追討の戦いが、いよいよ展開されようという重大な時期、しかも新政府が各国の中立宣言をとりつけ、フランス公使ロッシュをはじめ外国使臣たちの言動に神経をとがらせているとき、怖れていた外人殺傷事件が再発したのだ。困惑その極に達したといってよい。  問題は、慶応四年二月十五日午後四時ごろ、思いがけないことから殺傷事件へと発展し、新政府を窮地に追いこんだ。  堺港の警備には土佐藩兵があたっていた。その日、|箕浦《みのうら》猪之吉の率いる六番小隊、西村左平次の指揮する八番小隊が、町を巡回していたところ、フランス兵が大阪方面からやってきて、堺を通行するらしいとの情報が入った。  堺はまだ開港されておらず、外人は立ち入れないことになっている。警備兵たちは、ただちに大和橋へ急ぎ、そこまで行進してきているフランス兵を阻止し、説得して退去させた。フランス兵たちは、不服顔だったが、一応これに従ったので、ここでは何事もなく済んだ。  ところが午後四時ごろになって、デュプレクス号という小型船に乗った約二十人のフランス兵が堺港に入り、警備兵の隙をうかがって上陸したのである。彼らには特別の目的があるわけではなく、古くから貿易基地として栄えた堺の町を見物し、めずらしい物でも買うつもりだったのだろう。  異人兵が一団となって、町をうろつきはじめたので、堺の町中は大騒ぎとなる。話を聞きつけた箕浦、西村らは兵をひきつれ、急行して、ロミュールとデュレルという二人のフランス兵を捕えた。彼らには通訳もついておらず、土佐藩兵側にもフランス語のわかる者がいないので、まったく要領を得ないのであった。  そのうちロミュールが、港のほうにむかって逃げ出した。それを土佐藩兵が追う。よほど日本人を馬鹿にしていたのか、ロミュールは逃げるとき、土佐藩兵の隊旗を奪って走ったので、彼らの怒りに火がついた。  現場には、たまたま土佐藩お雇いの江戸の鳶職梅吉という者がいて、ロミュールに追いつきざま、持っていた鳶口で殴りつけ、隊旗だけは奪い返した。  ロミュールはそのまま港へ逃げこんで、岸壁のデュプレクス号に跳び移り、船を出すように火夫をせきたてたが、おいそれと発進するものでもない。土佐兵が近づいてきたので、恐怖にかられたロミュールは拳銃をかざし、つづけて数発を撃った。命中はしなかったが、兵たちをさらに挑発することになったのだ。 「撃て!」  その命令がどのような結果を惹き起こすことになるかの判断を、咄嗟に二人の隊長が持ち得なかったとしても、これはやはり時の勢いというものであったかもしれない。  三十人ばかりの土佐兵は、小銃を構え、引き|鉄《がね》にあてた指に力を加えた。一斉射撃の轟音がひびきわたり、デュプレクス号の舷側に立っていたフランス兵ロミュールが血しぶきをあげて倒れる様子を確認して、土佐兵の発砲はやんだ。しかしそれ弾にあたって、他のフランス兵六、七人も傷つき、小さな船は大混乱となって、大揺れに揺れている。弾に当たって海に落ちた者のほか、慌てて海に飛びこんだ十人ばかりが、片手で|舷《ふなべり》をつかみ、片手で水を掻きながら、やっとのことで船を港外に曳き出してどうやら逃げて行った。  岸壁に集まった堺の町民たちは、歓声をあげて、異人の退散を見送ったのだが、やがてこの報復が、悲惨なかたちではねかえってくることを予想する者は、むろんだれもいなかっただろう。  もともと非はフランス兵にある。しかし、いかに理由を並べてみたところで、死傷者を出したフランス側が、黙っているはずもなかった。  それでなくとも、幕府に肩入れしている公使ロッシュのことである。新政府に属する土佐兵の行為に関して、一切の弁明は通じなかった。ロッシュの一方的な激しい抗議が、翌日から始まる。 「困ったことになりもした。土佐は何ちゅうことをしてくれるのだ」  太政官代での会議の席上、怒りを正直にあらわしているのは大久保一蔵である。孝允は、無口に蒼ざめた顔で考えこんでいる。サトウから念を押されたばかりなのに、この失態であった。 「木戸さん、どうすればよい」  岩倉具視が、これもうかぬ顔色で、ささやくように言った。 「事件を起こした土佐藩兵の処分を、まず厳達すべきでしょう」 「それは当然だが、ロッシュはおさまるまい。陳謝に行った東久世卿に門前払いを食わしたほどでごわす」  と大久保一蔵が、苦々しげに言う。 「藩主父子にも罰を与えるべきであります」  孝允がつめたく吐き捨てるように提案すると、はじめはだれも答えなかったが、一蔵だけは黙って頷いた。  このころ土佐藩では山内容堂が隠居し、世子の豊範が藩主の座に就いている。徳川擁護を織りこんだ公議政体論などかかげて、ことごとに討幕派の動きに水をさす土佐藩への怒りが、孝允の胸中にも渦巻いている。  会議の結論は、孝允が言うように、直接事件に関係した土佐藩兵の責任者の処罰、土佐藩の堺港警備解任、山内容堂、豊範父子に|戒飭《かいちよく》の沙汰を出すことなどに落ちついた。 「これで片付くだろうか」  と、東久世通禧と一緒に外国応接を受け待っている宇和島藩主の伊達|宗城《むねなり》が心細げな声をだした。 「いずれロッシュからの正式な要求書が届くでしょう」  孝允は、それが相当な難題を吹きかけてくるものと思わなくてはなるまいと、サトウのことばなども引いて、くどくどと説明した。前日から体調が悪く、こんなことがなければ宿舎で休養をとりたいところだ。なるべく口をききたくなかったが、喋りはじめると少々愚痴っぽくなるのも仕方のないことだったかもしれない。  このころから孝允の手紙などにも、愚痴めいた文言が並ぶようになるのだが、出仕早々待ちあがってくる困難な問題を前に、彼のすぐれない健康状態がそうさせたのであろう。  一方、国許にいる藩主敬親からは、しきりに帰国をうながしてきている。広沢兵助のところにも、それを言ってきているようだった。主要な人材が、京都へ出てしまって、藩政を切りまわす者がいない、帰ってきてくれというのである。  高杉晋作や久坂玄瑞をはじめ多くの俊才たちが逝き、また元治元年の秋には俗論派によって、松島剛蔵ほか有能な人々が二十人近くも斬首されてしまった。新政府も大事だが、藩のほうを放棄してもらっても困るというのはわかるが、京都出仕から一カ月もたたないうちに呼び戻すなど勝手がよすぎると思わないわけではない。 (どうせ消えてしまう藩など、今さら大騒ぎすることもあるまい)とひそかに考えてもおり、これは兵助にしてもそうだった。  慶応二年、幕府の征長軍を破って、長州が支配下に加えていた豊前・石見を朝廷に奉還するよう強く藩主にすすめてそれを実現させたのは孝允である。彼はいずれ長州藩そのものの版籍も奉還させ、全国の大名すべてにそれを迫るという計画を立てていたが、豊前・石見の奉還はその第一歩のつもりだった。天皇を頂点におく統一政権の樹立は、幕府を完全に倒壊させ、藩を解体させた上で可能なのである。  遠大な計画を秘めて新政府の要職に就いた孝允に、帰国をうながす──実際には命令なのだが──という藩主の勝手さに、最初は腹も立ったが、それに応じてよいなどと彼が考えはじめたのは、激務に耐えられそうにない体力の衰えを自覚した結果ともいえた。  孝允が徴士罷免を申し出るのは、堺事件に一応の結着の見通しがついた直後のことである。  その堺事件に話を戻そう。  孝允が言ったように、フランス側からきびしい要求書がつきつけられてきたのは、二月十九日のことであった。  その日、新政府は、外人排撃の気風を一掃する目的で、外国と和親を進めるので不心得がないようにとの布告を発した。  そんな一片の布告で、根深く浸透した攘夷思想が影を消すなどとは、新政府の要路たちも期待していなかったが、今はその程度の手を打つしかないのである。  外国和親の布告を出した同じ日の二月十九日、フランス側から堺事件に関する正式要求書が、新政府に届いた。 [#ここから1字下げ] 一、堺事件を惹起した土佐兵をフランス兵の面前で、しかも事故現場で、三日以内に斬首のこと。 二、死亡したフランス兵士の遺族への補償として十五万ドルを請求する。 三、外国事務掛の皇族が、フランス船に出頭して謝罪すること。 四、土佐藩主も同様に謝罪すべし。 五、土佐人は、今後、一切兵器を帯びて開港地に入らぬこと。 [#ここで字下げ終わり]  要求書は以上のような過酷ともいえる五項目から成っている。ロッシュは、この内容について、各国公使の了解をとり、また掩護を依頼したらしく、つづいて英国のパークス、米国のファルケンベルグ、プロシャのフォン・ブラントといった各公使から、フランスの要求を誠実に実行せよとの勧告書を送ってきた。  中でもパークスは「この要求をミカド政府が容れない場合、列国使臣は一斉に大阪から退去するであろう。フランス側の要求はきわめて公平なものである」とつけ加えている。  各国公使が大阪を退去するということは、新政府の承認を取り消し、局外中立もまた白紙に戻ることを意味する威嚇であった。 「何が公平であるか」  と、新政府の参与、徴士たちは怒りの声をあげる。開港地でない堺へ踏みこんだフランス兵の無法の責任はどうなるのか、条約違反を犯した彼らの罪については、一切触れず、要求は公平であるというパークスの言に、だれもが不愉快以上のものを感じたのは、それが列国のなかで最も新政府に理解を示していると思っていたイギリス公使の言葉だったからであろう。  江戸城攻撃をめざす幕府追討の官軍は出発したばかりだ。不条理を怒りながらも、フランスの要求を全面的に受け入れないわけにはいかなかった。  要求がすべて実行されたのは、二月二十二、二十三の両日だった。  最も無残な情景を呈したのは、やはり第一項にある土佐兵の処刑である。フランス側は斬首を指定したが、これは彼らに武士としての特典を与えよという新政府側の要請で、切腹の形式にすることだけがせめて認められた。  問題は、処刑される土佐兵の数である。要求はフランス兵殺傷に関与した全員というのだ。土佐藩でこれを調べたところ、六番・八番両小隊七十三人のうち、二十九人が名乗り出た。これだけの者が切腹しようというのである。 「二十人でよいのではないか」  と政府から土佐藩に助言し、九人を対象からはずすことにした。だれを除外するかがむつかしい。ついに|抽籤《ちゆうせん》ということになった。  死を選ぶ残酷な|籤《くじ》引きは、土佐大阪藩邸内の稲荷神社の神前で、その日おこなわれた。  箕浦・西村の両隊長、池上|弥三吉《やさきち》・大石甚吉の両小頭は指揮者として死はのがれられず抽籤に加わらなかったので、この四人をのぞいた二十五人の中から十六人を選ぶのである。  大監察小南五郎右衛門が二十五本のコヨリにした籤を持って着座し、目付に読みあげられた者が一人ずつ立ってそれを引き、開いてたしかめ、目付に渡すという|死籤《しにくじ》の儀式が淡々と進められる。六番隊北代健助、八番隊武内民五郎以下十六人が死を引き当てた。  籤に洩れた中城淳五郎ら九人は、あらためて死を嘆願したが、許されなかった。  籤にあたった者の一人横田辰五郎は、その日の最後の日記に「神州初めて生死の御下知、|籤《くじ》取りを以てすること、夢にも聞く者無し」と無念さを率直に書きつづっている。  凄惨な彼らの最期は、翌二十三日、泉州堺の妙国寺境内に展開された。  堺の妙国寺は、四千坪の境内を持つ日蓮宗の大寺である。その本堂前およそ八百坪が�死の儀式�にあてられた。  正面に菊の紋章を染め抜いた幔幕、左右に警護の熊本(細川)・広島(浅野)両藩の幕を、さらに切腹の場には土佐山内氏の定紋を打った幕を張りめぐらしてある。  切腹に決まった土佐兵二十人は、三百人の熊本・広島両藩兵によって大阪から護送され、二十三日の朝妙国寺に到着、書院が控室にあてられた。  この日、フランス側からは、殺害されたフランス兵が乗っていたデュプレクス号の指揮官トゥアール大佐がフランス海軍上級士官代理として、一分隊ばかりの兵をひきつれ、刑の執行に立ち会った。はじめトゥアール大佐は、新政府に出した要求書通り、事件の現場である海岸で処刑はおこなわれるべきだと強硬に主張してゆずらなかった。  日本側からの立会人を代表する外国事務局判事五代才助(薩摩、のち友厚)は、この国のしきたりとして切腹の場を道路にひとしいところにはおかないのだと説得につとめ、どうやらまるめこんだ。そうこうしているうちに大雨が降るというようなこともあって、正午から始める予定だった執行が、午後四時に延びてしまった。  いよいよ二十人の者が、一人ずつ呼び出されて割腹するという異様な儀式の開始である。この大量の処刑者は、殺されたフランス兵の数にほぼ見合うものでもあった。事件当時、土佐兵の撃った弾で即死したのは二人だが、他に重軽傷者がおり、また負傷して海に落ち七人が行方不明となった。これはやがて死体で発見され、死者は合計十一人におよんだ。フランス側から何人という指定はなかったが、単に指揮者だけでなく、命令によって発砲した者までもふくめ二十人を新政府が選んだのは、やはり相手側の犠牲者数を考慮した上での決定である。  最初、切腹の場に就いたのは、六番隊長箕浦猪之吉だった。二十五歳だが、土佐では儒者としても知られ、藩校致道館の教授をつとめていた。  呼び出された猪之吉は、総髪を束ねて後ろに垂らし、黒ラシャの陣羽織に錦の小袴という隊長らしい正装を整えていた。左手に指揮旗をにぎっている。それはフランス兵への銃撃を彼が命令したように、この日の切腹をも指揮しようとして先頭に立っているかのようにも見えた。  猪之吉は、五代才助ら日本側立会人に一礼し、次に青い目を凝らしているフランス人を睨みつけながら、白木の|三方《さんぽう》の上にのせられた短刀に右手を伸ばした。おもむろに腹をくつろげ、逆手ににぎった短刀を、勢いよく左の脇腹に突き立て、斬りさげ、右に引きまわして、そのまま垂直に三寸上まで裂いた。作法通りの十文字腹である。彼はさらに左手を、切り開いた腹中に入れ、内臓を取り出そうとするのだった。その間、目はずっとフランス人にむけられているから、彼らにそれを投げつけようとしたのかもしれない。  介錯人は、急いで刀を振りおろしたが、手元が狂い、うなじの上を浅く斬っただけで、首を|刎《は》ねることができなかった。 「静かに、静かに」  と、猪之吉が声をしぼって動転する介錯人を励まし、刎ねやすいように首を伸ばすようにしたが、再び斬りつけは失敗におわり、やっと三太刀目で首を落とすことができた。  戦国時代の軍法によると、介錯は「手前早くと心得たる仕よきもの也。切腹人脇差を引廻す時は必ず前にかかり首伸びて見ゆるもの也。此時に目を付け討つべき也」(軍侍用集)とある。つまり早い時期に首を刎ねたほうが、介錯は容易だというのである。しかしこのたびのように、不条理な死を強いられている者には、本人が納得するまで憤死であることを表現させてやるのが介錯人の心得であったかもしれない。  また介錯人の不馴れ、不手際という事情もあって、猪之吉以外にも凄惨な介錯の光景が、次々と演じられた。それは検視のフランス人を蒼ざめさせるのに、十分な効果をもつことにもなったのである。  二人目に切腹の座に就いた八番隊長西村左平次は二十四歳。彼は猪之吉とは逆に、微笑をたたえながら、短刀を腹にあてた。  最初は一文字に浅く斬ったので、途中で抜き、もう一度やりなおしたときは、深々と引き裂いた。内臓が露出するほどで、このように深く刃を入れる切腹のやり方を昔から無念腹といった。左平次は淡々とした動作の中にも、それなりの悲憤をこめたのである。  このときは介錯人が少し力を入れすぎたせいもあって、刎ねた首が三間ほども飛んで、地面の上に勢いよくころがったので、その瞬間、フランス人たちはハッと息をのんだ様子だった。  猪之吉のように怒りを発散しながらの死にぶりも、また左平次が見せた静かな自決も、若者らしいいさぎよさといえるだろう。  三人目は六番小隊小頭の池上弥三吉、四人目は八番小隊小頭大石甚吉で、共に三十八歳である。一同の中では最年長組に属するが、とくに大石甚吉の切腹は印象的だった。  甚吉は体つきも逞しく、いかにも武骨な感じの藩士で、控えの間で待機しているとき「本日の切腹は、十文字法を用いるきに、よう見ちょれよ。また首が胴から離れたあとも、姿勢が崩れんときは、わが魂魄なおそこにありと思うてくれ」などと宣言した。  甚吉は、座に就くと鋭い目でフランス人を睨みつけるのである。この当時の土佐兵の軍服は、上が筒袖、下は「段袋」とか「つつっぽ」と呼んだズボンで、活動的な洋服になっている。腰に白い兵児帯を結び、それに刀をさして、さらに鉄砲をたずさえた軍装が、洋式教練を経た官軍の一般的な姿でもあった。  窮屈そうにズボンの膝を折って正座した甚吉は、居並ぶフランス兵に視線をやったまま、ゆっくり軍服のボタンを一つずつはずして、白い腹を出した。右手で三方の短刀を執り、左手の指で切先をつまんで支えながら逆手に持ちかえると、それを前方に突き出し、左手で腹をなでた。一つひとつの動作を、わざと時間をかけ、異人たちに見せつけようとしているのにちがいなかった。  やおら息をつめると、左脇腹に激しく刺し込んだ短刀の柄に左手をのせて力を加え、深々と下に切り開き、横に引きまわして、さらに上にはねた。箕浦猪之吉と同じ十文字腹で、これは形からいうとコの字に裂いている。みぞおちから下に切り下げ、いったん短刀を抜いて左から右へ引きまわす場合もあるが、いずれも十文字腹と呼ばれている。  甚吉は、そのような古法にのっとる切腹の作法を見事にやってのけたあと、短刀をそばに置き、両手を前について「介錯頼む」と言った。このときも介錯人が未熟で、首を落とすまで七太刀を費すという残酷な介錯となった。しかし、甚吉は宣言通り、両手を前についたまま動かず、首が胴を離れても、その姿勢を保っていた。  強烈な土佐人の精神力を示す甚吉の最期で、四人の責任者の処刑をおわり、五人目から死籤にあたった兵士の切腹に移ったが、それぞれに武士らしい自決の様相を異人たちの前にくりひろげた。  彼らは全員が名実共に武士として死んだ。というのは兵卒の中には足軽など軽輩の者もいたが、直前に苗字をもらい、士分として死ぬことを藩から許されたからである。  十一番目の柳瀬常七が、呼び出されたころには、すでに暮色が漂いはじめていた。これもまたすさまじい無念腹を切ったところで、立ち会っていたフランス人の間に狼狽の色が見えはじめた。そして十二番目の橋詰愛平が切腹の座にすわったとき、彼らは一斉に立ち上がり、騒然として何か言いながら、逃げるように場外に出て行ってしまった。  日本側検視役の五代才助は、通訳をうながしてそのあとを追い、トゥアール大佐を呼びとめて「割腹はまだ全員終了していない、すみやかに席へ戻られよ」と怒鳴った。  トゥアール大佐は手を振りながら「もう切腹は打ち切りにしたい。われわれは軍艦に帰る」と言い捨てて、立ち去った。才助が大急ぎで幕の中に引き返すと、橋詰愛平が短刀を腹に突き立て、介錯人が刀を構えるところだった。 「その切腹、待たれよ」  と、五代才助は叫んだ。  興奮した橋詰愛平が、なおも短刀を引きまわそうとするので、二、三の役人が慌てて走り寄り、彼の手を押さえた。  首を刎ねられる寸前に愛平は助かったのである。控室で順番を待っている八人も、死をのがれることができたのだが、まだ事情がよくわからない。  血まみれになり、手当てのため運びこまれてきた愛平を見て、彼らは口々にわめいた。 「土佐人の名折れぞ!」  愛平が切腹に失敗したと思ったのだ。いやそうではないのだと、役人から説明されて、はじめて自分たちも助かったことに気づいたのだった。  結局、切腹する予定だった二十人のうち、九人が命拾いしたわけである。酸鼻をきわめた日本人の自決を目のあたりにしたフランス人たちは、耐えられなくなってその場を逃げ出した、と解釈された。このあたりのことについて、徳富蘇峰は『近世日本国民史』で次のように言う。 「フランス側は壮烈無比なる日本武士の最期に叩きのめされ、精神的に惨敗を喫したのだ。されば彼等が|倉皇《そうこう》とし大阪に碇泊せる軍艦ウエヌス号に帰るや、翌日フランス公使ロッシュは伊達宗城宛てに公文書を出し、土佐藩兵死刑執行中止の事を申入れた。政府もこれを受諾し、更にロッシュは重ねて残余九名の土佐藩兵赦免を申入れたから、勿論我に異存あるべき筈もなく、二月二十九日特赦と決し、ここにさしも天下を|聳動《しようどう》せしめた堺事件も其の落着を見るに至つた。しかし重ねて言ふ、土佐藩屈強の士十一名を壮烈なる自刃に|追遣《おいや》った事は痛恨事とは云へ、其の魂魄はフランス人士を驚倒せしめ、|震駭《しんがい》せしめ、畏伏せしめ、長く日本武士の精神を後世に伝へたる事は、以て十一烈士瞑すべきものありとせねばならぬ」  堺事件の結末を、このように見ることによって、日本人はわずかに溜飲をさげるのだが、それとは少々違った見方もある。  フランス人が切腹を目撃して「左右に耳語し、顔面蒼白、騒然として席を立」つことがあろうかという疑問だ。二十世紀の現代となってもなおギロチンという死刑の方法をつづけているフランスは、古くから残酷な血を見ることに、さほど驚かない国柄であり国民性を持っている。フランス人に限らず、ヨーロッパ人の残虐性は、古今の歴史が証明するところだ。日本人だけが野蛮で、血を好む民族だと彼らが断ずるとすれば、それはおのれを知らぬも甚しいといわなければならない。  土佐兵の切腹が十一人目をおわったとき、フランス人たちが急に帰ろうと言いだした理由については、アーネスト・サトウがその著書に書いている。 「ロッシュが加害者二十名のうち九名の命乞いをしたという話は、誤りであることがわかった。その後私たちの得た知識によれば、実は殺害された水兵の乗艦デュプレクス号の指揮官ヂュ・プティ・トゥアール大佐がフランス海軍上級士官代理を命ぜられ、部下の一部をしたがえて刑の執行に立ち会ったのだが、処刑が全部すむのは日没後になり、上陸した部下の帰艦がそのため遅くなると思ったので、十一人目の処刑がすんだところで手をあげたのであった」(坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』)  サトウはまた次のようにも言っている。 「死刑を宣告された二十名中十一名の処刑がすんだとき、艦長のヂュ・プティ・トゥアールが執行中止の必要があると判決したのは、実に遺憾であった。なぜなら、二十人はみな同罪であるから、殺されたフランス人が十一人だからとて、これと一対一の生命を要求するのは、正義よりむしろ復讐を好むもののように受取られるからである」(同)  真相はやはりこういうことだったかもしれない。「目には目」で、十一人の処刑が終了したとき、フランス人の堺事件に対する復讐心は充足されたのである。しかし同時に、執行中止の理由は、帰投の時間を気にしただけでなく、凄惨な日本人十一人のハラキリに、さすがの彼らも目をそらしたくなったということでもあろう。  堺事件処理の朝命を受けたのは、木戸孝允・大久保一蔵・中根|靱負《ゆきえ》の三人である。中根は福井藩士で、松平春嶽に重く用いられ、その推挙によって参与になった人物だが、すでに六十歳を越えていた。  三人は事件直後、|交々《こもごも》大阪に足を運んで、各国公使との折衝をかさね、どうやら二月二十三日の土佐兵処刑で一段落に持ちこんだ。 「いやはや、すさまじい割腹でごわした。フランス人は度肝を抜かれ、途中で逃げもした」  検視から帰った五代才助は、太政官代にあらわれるなり、そこにいた孝允と一蔵に、かなり時間をかけて詳しく顛末を話したが、これはいくらかの皮肉もある。  事件の処理を命じられた直接の責任者でもあり、外国事務掛を兼務している孝允をはじめ、一蔵も靱負も切腹の場に立ち会っていないのだ。嫌な仕事であることには違いなく、他に外国事務掛としては、後藤象二郎も伊藤俊輔も他用ということで姿をあらわさなかった。もっとも象二郎の場合は、土佐人であり、過酷な刑の執行も彼が進言したのではないかと非難する同郷人もいる様子なので、近づくことは危険だともいえた。  処刑前日になって一蔵は病気と称し藩邸に引っ込んでしまった。靱負もほかの用事で忙しく、孝允も結局は靱負に同調して堺には出むかず、外国事務局判事の五代才助だけが、太政官の要路を代表して立ち会った。彼は孝允や一蔵が逃げたと思い、多少不満だったらしい。  しかし孝允らにしてみれば、事実多忙ではあった。事件が落着したあとの重大な計画を、早くも進めていたのだ。それは外国公使団の参朝というかねてからの課題である。  諸外国によるミカド政府の承認を、決定的なものにするためには、使臣たちを御所に招く、つまり参朝させて天皇との接見を実現させる必要があった。これはアーネスト・サトウから言われ、孝允が強く主張していたもので、ようやくその動きが始まろうとしたころ堺事件が発生し、いったんはお流れになってしまった。  土佐兵の処刑や死者に対する賠償などの条件が整ったので、再び外国使臣参朝の議が活発になった。何しろ慶喜追討の軍は刻々江戸へ近づいているのだ。各国公使の召見は、新政府にとって急務だった。堺事件に関するフランス側の要求は、一方的で理不尽なものといえた。無念腹を切った土佐兵たちの怒りやかなしみは、そのまま、冷酷だと同胞から恨まれても二十人の犠牲を捧げなければならない新政府の鬱屈した怒りでもあった。九人の命が助かったことだけが、せめてもの慰めとはいえ、後味の悪さがそれで拭き消されるわけでもない。 (やはり見なくてよかった)  と孝允は、ひそかに思う。十一人がたてつづけに腹を裂く悲惨な光景を目撃していたら、今のような冷静な動きができるだろうかと、一応は考えてみるのだ。げんに剛胆と見える五代才助が、まだ興奮からさめていない様子で、現場の様子をくりかえし声高に語るのは、必ずしも孝允らに対するあてつけばかりとはいえない何かがあった。  孝允は、たしかに冷静に、外国使臣召見の日を早めるべく、身辺の騒音を突き抜けるように働いた。無表情に、的確に彼は一つの目的にむかって何事かを期している者のように歩みを進めていた。  新政府が切望したその公使参朝は、二月末日に実現することになった。それについての確実な見通しがついた二月二十六日、孝允は突然、徴士罷免を朝廷に奏請した。藩から帰国するようにと強く、再三うながしてきていることに応じることにしたのである。  参与広沢兵助のところにも帰国の命令が届いていた。兵助は、孝允が罷免を願い出たのを知り、急いで同じ罷免の奏請書を提出した。兵助の意向はともかく、孝允は、相変わらずひどい疲れを感じていたのだ。藩に帰って楽ができるとは思えない。しかし京都の太政官にいるよりは、体をやすめることができると、気の弱い期待を抱いていた。  木戸孝允と広沢兵助が提出した徴士罷免の奏請書は、当然却下された。長州の藩政に人手が足りないからといって、重大な局面を迎えている新政府の要路二人が辞職し帰国するなど許されるはずもない。 「驚きもした」  直後にそれを知った大久保一蔵は、孝允にそう言った。笑っているが、その非常識さを責めているのである。  とにかく外国使臣の参朝は間近にせまっていた。あれこれ考えている暇もなく、その準備に忙殺される数日がつづく。  当日──慶応四年二月三十日、西暦では一八六八年三月二十三日である。招きに応じて京都へやってきたのは、フランス公使ロッシュ、オランダ公使ポルスブルック、そしてイギリス公使パークスであった。幕末の日本と最も深く関わった三大国の公使と天皇との会見が、ようやく実現しようとしている。天皇が外国人を召見するのも有史いらいのことだ。新政府の人々も緊張したが、京都の市中は異人が御所に入るというのでわきかえった。  神戸事件、堺事件とつづく外人殺傷にこりた新政府が、きびしい警戒をしたのはもちろんだが、街にあふれる見物人の中に、イギリス公使を狙う攘夷浪士がまぎれこんでいることまでは気づいていなかった。  その日午後一時、イギリス公使サー・ハリー・パークスは、宿舎にあてられた知恩院を出発して御所へ向かった。日本側からは土佐藩の後藤象二郎が先導役として|裃《かみしも》を着け、「特命全権公使の燦然たる正装」(サトウ『一外交官の見た明治維新』、フロックコートといわれる)をしたパークスのすぐ前を進んだ。象二郎もパークスも馬に乗っている。さらにその前を徒歩の肥後藩兵が先導し、ロンドン第一警備部隊の十一騎をひきいたピーコック警視と宇和島藩周旋方の中井弘蔵が馬で行列の先頭に立った。  これから間もなく起こる変事で、イギリス人を護り重傷を負いながら奮戦するのがこの弘蔵であり、また後藤象二郎である。  弘蔵と象二郎は、何か不思議な因縁で結びついているといえる。もともと中井弘蔵という人物は、薩摩藩士だったが脱藩して浪人になり、後藤象二郎に救われて慶応二年から翌三年までイギリスに留学した。帰朝後、宇和島藩主伊達宗城に見出され、同藩周旋方として京都にきていたのだが、すべては象二郎の引き立てによるものといってよい。弘蔵はアーネスト・サトウとも親しくつきあっていた。サトウは「愉快な小男の友人」と彼のことを著書で書いている。  さて、パークスの後には、サトウをはじめ数人の公使館員、英国第九連隊第二大隊の分遣隊四十八人が金モールで飾った儀仗の正装で従い、しんがりも肥後藩兵がつとめた。  一行はイギリス人七十人、護衛の肥後藩兵三百人という華やかな行列を組んで、悠々と都大路を進む。沿道は見物人で埋まった。  行列は桜の馬場を出て、小堀通りを左折し、林下町から橋本町、さらに元吉町あたりをパークスが通過するころ、先頭はすでに四条縄手通りを右に折れ、弁財天を北に向けて進もうとしていた。  ちょうど行列の先頭集団にいたピーコック指揮の騎馬隊が縄手通りを右折した瞬間、抜刀した二人の凶漢が、物陰から飛び出し、いきなり馬上の正装した異人たちに斬りかかった。たちまち数人が傷を負い、叫び声をあげて落馬する。大混乱におちいる中を、二人の浪人者は、すさまじい勢いでなお刀を振りまわしながら、暴れまわるのである。  この二人の暴漢──|三枝蓊《さえぐさしげる》と|朱雀操《すざくみさお》──が、なぜパークスを襲ったのか。堺事件で大量の日本人処刑を要求したフランス人への報復というのなら、ロッシュを狙ったはずである。要するに特定の相手を求めない素朴な攘夷行動であった。  しかも彼らは公使パークスの暗殺をめざしながら、行列のどこに本人がいるのかをつきとめることができず、赤い儀仗服に金モールという派手な姿の騎兵にむかって突っ込んできたのだ。  朱雀のほうは山城国出身で、一見浪人とわかる総髪だが、三枝の頭は丸坊主である。それも日に焼けているので、眉の薄い目の吊りあがった異様な顔つきに見えた。|衣《ころも》は着ていないが、大和十津川の郷士から一向宗の僧に転じた男だ。異人たちの目には、白刃をきらめかした怪物の出現ともうつったのだろう。なかば唖然としているうちに凶行は展開された。  死にもの狂いの三枝と朱雀は、馬といわず人といわず手あたり次第に斬りかかるのである。中井弘蔵は、素早く馬から跳びおり、右から襲ってきた朱雀操の頭部に抜き打ちの一撃を浴びせた。朱雀はひるまず反撃し、斬り結んでいるうちに、弘蔵も頭をやられ、袴が足にからんで、どうと後ろに倒れた。朱雀はたたみかけて弘蔵に襲いかかったが、倒れながらも、弘蔵が突き出した剣尖に胸をつかれ、ややたじろいで向きを変えたところを、駆けつけてきた後藤象二郎から、袈裟がけに肩を斬りさげられた。朱雀が転倒するのと同時に、起きなおった弘蔵が這い寄り、その首を喉元から掻き斬った。  弘蔵と一緒に馬を並べていた警視ピーコックは、パークスを護るため後方に駆け、まだ元吉町あたりを進んでいた彼に急を告げた。パークスは行列の先頭で起こったことをそのときはじめて知り、ピーコックと共に十字路の真ん中に馬を停めて、前方に視線を注いだ。  そのころになって、公使のいる位置に気づいた三枝は、血のついた刀を右手に高くかざしながらパークスをめざして走り、その途中でも馬上のイギリス人に斬りつけた。アーネスト・サトウは、瞬間馬の向きを変え、うまく彼の太刀先をかわしたが、鼻先を斬られた乗馬が|棹《さお》立ちになり、あやうく落馬するところだった。  パークスの近くには第二大隊の歩兵が列を崩さず、銃剣を構えていたが、三枝はいきなりその隊列に突撃して、一人の頭部を割り、さらに走り出した。歩兵のだれかが長い足を突き出して小股をすくったので、三枝は見事に転倒し、そこをすかさず他の者が銃剣で突き刺した。  三枝はなおひるまずに刀を振るって立ちあがったが、再び突き出された銃剣を払おうとして、銃身に激しく刀を打ちつけ、|鐔元《つばもと》近くから折ってしまった。すぐに差し添えを抜こうとしたが、激闘中に抜け落ちたらしい。丸腰になった三枝は、はじめて逃げようとし、そばの民家の庭に走り込んだが、護衛のブラッドショー中尉が拳銃を構えて彼を追い、その頭部をめがけて発射した。弾は下あごの付け根のあたりに命中した。意識を失って倒れた三枝は、捕えられ、医官の手で治療をほどこして、イギリス側がその身柄を預かることにした。  イギリス人で傷を負った者九人、斬り倒された馬は四頭、死者はなかった。暴漢二人のうち一人は弘蔵と象二郎の手で仕止められ、一人は重傷のまま逮捕という結果である。  神戸事件、堺事件は、攘夷の風潮がその底を流れているとはいえ、外国側にも一半の責任がみとめられる紛争だった。ところが、こんどの場合は、純然たる攘夷浪士による流血事件で、新政府の人々が最も不安に感じていたことが、事実としてあらわれたのだともいえる。このような狂信的な攘夷主義者は、おびただしく国内にひそんでいるとみなければならない。  それにしても、ようやく漕ぎつけた外国公使参朝の途上におきた不祥事件だ。新政府の困惑その極に達したというべきだが、この報が届くまで少しの時間がかかった。御所では、パークスの到着がおそいので、木戸孝允らがいらいらしながら待っている。  外国使臣謁見の間には、御所の南面の正門建礼門および中の承明門を入った正面にある|紫宸殿《ししんでん》(ししいでんとも読む)があてられることになっていた。  孝允は生まれて初めて見る紫宸殿内部の、古色を帯びたいかめしさに目を|瞠《みは》った。それはやはり荘厳なおもむきといってよいものだった。間口十八間(約三十二メートル)、奥行十四間(約二十五メートル)の大広間で、中央のあたりは昼間でも薄暗く、板張りの床が鈍い艶光りを這わせて鎮まりかえっている。めったに使われないせいか、空気が湿り気をふくんで、カビのにおいが漂い、ものを言うと高い天井から重い|谺《こだま》が降りてくるような感じだった。  正面に天皇の玉座が一段高くしつらえられ、その上には天蓋があり、それよりやや低目の高座が公使たちのために特別に設けられた。  大名たちが拝謁するときは、板張りの上にひざまずくのがしきたりだが、まさか外国人にそのような姿勢を強いるわけにもいくまいというので、結局立ったままでそれを許すことになった。  たしかに紫宸殿は、簡素で雄大な建物であり、天皇の古代的権威を異人たちに示す恰好の場所といえた。パークスやロッシュが、どのような表情で、あの十八段のきざはしを登ってくるのだろうと、孝允はしばし床にたたずんで考えながら、薄暗がりの中に浮き出た玉座に目をやった。彼にもまたひとつの感慨がある。  倒幕派にとって、天皇は至高の旗印だった。孝允のいう「玉」をめぐって奔走し、また血を流した日々が、遠い過去のことのように思われるのだ。そしてまさしくその「玉」を手中にし、こうしている現在が夢のようでもあったが、確実に孝允は、紫宸殿のつめたい床に足をおろし、外国使臣たちを待っているのだった。  しかし、どうしたことか定刻になってもパークスは姿をあらわさないのだ。前日、彼は三条実美、岩倉具視といった公卿たちのところへ挨拶まわりをしている。京都へ入っていることはたしかなのだ。参朝しない理由があろうはずもなかったが、少しおそすぎる。ロッシュは相国寺、ポルスブルックは南禅寺からやってきた。パークスの宿舎となっている知恩院がそれほど遠いわけでもないのにと、ようやく気をもみはじめたころ、後藤象二郎が一人であらわれ、外国事務掛判事の伊藤俊輔に事件を告げた。これを耳にして騒然となる周囲の者を俊輔が叱りつけた。 「騒ぐな。このことは公使たちに知らせてはならん」 「どうしたのです」  と孝允は急ぎ足で、俊輔と象二郎のそばに近づいた。象二郎の目が血走っている。 「パークス氏はどこだ」 「知恩院に引き返しました」 「四条縄手で襲われたそうであります」  俊輔が落ち着いた声で答えた。 「傷は……。パークス氏は負傷しましたか」 「無事です。賊は二人、一人は斬り……」  と象二郎が説明しようとするのを制して、俊輔は命令口調で孝允に言った。 「パークス氏遅刻、今きている二人だけの謁見を進めて下さい」  ロッシュ、ポルスブルックにはパークス遭難のことを秘密にして、予定通り、謁見を済ませようというのである。 「詳しく調べ、あとで報告しなさい」  俊輔は外国事務の役人に言いつけると、孝允をうながし身をひるがえすようにして、控えの間に急いだ。ただちに謁見が始まる。待ちくたびれていたロッシュたちは、パークスの遅刻に大した疑いもはさまず、紫宸殿にみちびかれて行った。  |山階《やましな》外国事務総督宮、三条実美、岩倉具視、東久世通禧はじめ新政府要員が居並ぶ前で、きわめて短い時間、天皇と両公使の会見がおこなわれる。形通りのやりとりを伊藤俊輔が通訳して難なく終った。 「伊藤さん、今知らせが入ったことにして、襲撃の件を話しておいたほうがよい」  紫宸殿を出ると、孝允がささやいた。 「無論、そのつもりです」  俊輔は、前方をみつめたまま答えた。  控室に帰り、初めてパークスの遭難を知らされたロッシュとポルスブルックは、あまり多くを語らず、表情を|強《こわ》ばらせて早々に御所を退出した。  変事の発生にもかかわらずフランス、オランダ両公使の謁見は何とか実現させた。 (見事だ)と孝允は、ひそかに俊輔の手際よい処置に感心していた。彼らに事実を告げ、あのままいったん宿舎に帰らせたら、この次いつ謁見の機会がおとずれるかわからないことになったろう。象二郎の報告を受けた瞬間、騒ぐ役人共を叱りつけて、平然と事を運んだ俊輔の手腕に、孝允はほとんど舌を巻いたのだ。数年前の俊輔には、多少軽薄なところもあって、正直なところ見下すような気持でいたのだが、まるで別人のように孝允の目には彼がうつりはじめた。 (私などもういなくなってもよいのだ)などと、またぞろ気の弱いことを考えている。この事件で自分がそれほど動いたわけでもないのに、ひどい疲れを覚えているのだった。  そうしているうちにも事件の詳報が次々に入ってくる。死者はなかったが、九人ものイギリス兵が重軽傷を負ったという。怒りっぽいパークスが、どんな要求を吹きかけてくるかも不安でならなかった。  知恩院に謝罪の特使をむけ、ひたすら詫びるほかはない。この事件でひとつパークスの心証をよくしたのは、後藤象二郎と中井弘蔵の果敢な働きだった。 「あの二人がいたお蔭で、被害を最小に食い止めることができた」  とパークスはむしろ上機嫌だが、さりとて要求すべきことはきびしく押してきた。まず公式に謝罪書を差し出すこと。捕えた下手人の三枝蓊は、日本側に引き渡すが、極刑に処すべきこと。負傷者への見舞金として一万四千ドルを支払うこと。外人への暴行禁止を全国に布告することなどである。  なお三枝の刑は、切腹といった恩恵をほどこさず斬罪にせよと指定してきた。異人を殺傷した者を、ひそかに英雄視する風潮が日本人にあることを知った上での要求であった。  パークスはさらに言う。 「彼らの襲撃は、単に英国人への危害にとどまらず、ミカドの客を敵視した許せない行動であることを布告すべきでしょう。彼らが尊敬してやまないミカドに対する罪であることをはっきりさせなければなりません」  かつて孝明天皇は最高の攘夷論者として知られていた。攘夷行動が、国粋主義者にとって忠義に結びつく一時期もあったのである。時代が進展しても、なおそれから脱しきれない浪士たちには、攘夷が今や天皇に反抗する行為であることをわからせてやる必要があるというのだ。これは日本通のサトウが進言したものであろう。  パークスは要求がすべて容れられるというので、あらためて三月三日、天皇の召見に応じた。当日は公使の通る道はすべて通行止めにするなどものものしい警戒ぶりだった。三枝蓊の処刑は翌四日、粟田口の刑場でおこなわれ、首は三日間さらされた。  新政府のイギリスに対する徹底的な謝罪ぶりに満足したパークスは、四日に京都を去り、大阪から兵庫に出て、そこから船で横浜に帰って行った。しかし書記官ミットフォードを大阪にとどめ、新政府の動きを監視させることも忘れていなかった。  ミットフォードは公使の代理として忠実に職務を遂行した。彼は新政府が出した三枝蓊の罪状宣告文に「今度入京仰付けられ候英国公使参内の途中……」とあるのを見て、早速ねじこんできた。「入京仰付け」とは何事だ、公使は天皇の命令で入京したのではないというのである。これも「右様の失敬の文意、きつとこれ無きやう致すべく候間、此の節の議は御海容下さるべく候」と詫び状を出して、平身低頭するといった有様だ。  攘夷の残風が吹き荒れる中で、新政府は内に屈辱を秘めながら、徳川慶喜追討直前の困難な外交を、かろうじて切り抜けたのである。   五箇条の誓文  外国使臣の参朝が、まがりなりにも実現したころ、慶喜追討の官軍は刻々江戸へ近づいていた。  追討令を発すると同時に、慶喜および佐幕諸藩主、幕臣ら二十六人の官位は剥奪され、旧幕領は朝廷領とすることも布告されている。  鳥羽・伏見で官軍に反抗した「朝敵」は第一等から第五等に分けて、その罪の軽重を明らかにしているが、第一等はむろん徳川慶喜、第二等は会津・桑名両藩、第三等には伊予松山・姫路・備中松山が指名された。宮津・大垣など第四等以下の罪は軽く、恭順の態度によっては許されるとしている。  鳥羽・伏見の戦い当時から、官軍への軍費献納は、これまで幕府の政商として財力をたくわえてきた三井などが積極的な姿勢を示している。まず鳥羽・伏見の戦いは、三井組や小野組、島田組がさし出した四千両でまかなわれた。  のち財閥を形成する三井家は、中世いらい近江の佐々木氏の家臣だったが、江戸初期に伊勢松坂で酒屋・質屋を開業して当て、越後屋の屋号で呼ばれる商人となった。やがて江戸・大坂・京都に進出、呉服店や両替店を開き、幕府・諸藩の為替用達の地位を利用して大いに発展した豪商である。この三井は、いち早く新政府を支持して軍用金を調達し、鳥羽・伏見以後も一万両、三千両、一万両、再び一万両、米千俵、また二万五千両と、官軍の勢いが増すにつれて献金の額もふやしていった。そしてついには新政府の大蔵省中枢部に食いこむのである。  三井ほどではなかったが、小野組も島田組も追従した。小野組は近江から出て京都に本拠をおき、両替商として江戸でも活躍していたが、新政府支持にまわり、やがて為替方を命じられて巨利を占める。また島田組は、京都の豪商で両替商・呉服屋を営み、江戸にも進出していた。三井組、小野組と共に新政府に御用金を調達し同じく為替方を命じられて官金出納を取り扱った。  これらの豪商は、古くから幕府の政商として躍っていたのだが、新しい時代の到来を見越し、素早く鞍を乗り替えたというわけであろう。営利追求の冷静な先見性と機敏な保身が、他にさきがけて錦旗の前に彼らをひざまずかせることになった。  これにならうように、日和見を決めこんでいた諸藩もようやく官軍に迎合し、関西以西の大名はすべて新政府の翼下に集まってきた。有栖川宮|熾仁《たるひと》親王を大総督とする東征軍は、たちまち五万の軍勢にふくれあがったのである。  江戸城総攻撃は、三月十五日を期して敢行されることになっていた。  その日を数日後にひかえたころ、木戸孝允は大久保一蔵に言った。 「前途の大方向を定めるべく、国是の確立を示すことが、今は必要と思われますが、いかがでありましょう」 「何のことですか」  一蔵は、わざとらしく首をかしげてみせた。こうした孝允のものの言い方を「大時代な」と内心嗤っているふうでもある。 「例の由利さんの原案になる御誓文の件です」 「ああ、あれですか」  と、一蔵は気のない返事をした。 「やっぱり反対でありますか」 「いや、反対するほどのことではないでしょう」 「では、私から建言書を出して、進めることにいたします。江戸城総攻撃の前に、宣布しなくてはならんのです」 「然るべく」  相変わらず気乗りしない口調で、一蔵はじっと孝允の顔を見ている。  由利|公正《きみまさ》。  越前福井藩出身で、旧姓を三岡といった。公議政体派の松平春嶽(福井藩主)にくっついて新政府に入りこんできたというだけで、一蔵はこの公正という男をあまり好きではない。  しかし、公正は福井藩の政治顧問横井|小楠《しようなん》に学び、財政通としても知られている。 「あれは藤次が手を入れたものでしょう。しかも第一項が気にくわんのです」  一蔵が、思い出したように言う。藤次つまり福岡|孝弟《たかちか》も�敵�なのだ。  由利公正は、一月ごろ議事所の規則として「議事之体大意」なるものを五カ条にまとめて起草した。  その第一条は「庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す」というものである。横井小楠や坂本竜馬の影響とみられ、進歩的な西洋の思想が打ち出されている。第五条の「万機公論に決し私に論ずるなかれ」というのもそうである。  公正はこれを土佐藩出身の参与福岡孝弟(藤次)に見せた。孝弟は後藤象二郎と共に大政奉還運動に活躍した男で、公議政体派に属している。だから彼はその立場で由利案を修正し、第一条を「列侯会議を興し万機公論に決すべし」とした。あくまでも列侯をかつごうとする公議政体派の考え方が露出している。これを諸侯会盟の盟約書にしようという福岡孝弟の意向は、当然倒幕派の大久保一蔵らの賛同するところではなく、そのまま握りつぶされたかたちになっている。  孝允は、京都に出てきて、はじめてその草案を見た。由利公正の原案、孝弟の修正案を引き比べながら、部分的な表現はともかくとしてよく出来ている、さらに修正すれば使えると思ったのである。  神戸事件、堺事件、パークス襲撃事件と外国使臣の感情を逆撫でする不祥事件が相次いだあと、官軍の江戸城総攻撃である。事件の後始末はつけたものの、いつ彼らの局外中立が崩れないとも限らない。孝允は、しきりにそんな不安に怯えていた。  このさい京都政府は、普遍的な大方針を打ち上げておかなければならない。それは孝允が早くから考えていたことでもあった。江戸いらいの彼の行動は、勤王だとか、尊王攘夷とか、尊王討幕といった理念に沿って展開された。ひとつの思想、ひとつの理想という精神的な背景があって、孝允は一途に走ることができた。  幕府を追いこんで、京都政府が誕生したとき、彼には依拠すべき新しい理念が必要だったのだ。この新政府が掲げるべき永久不変の理念とは何であるのか。孝允には、新政府部内の様子が、ただ慶喜追討を叫び、生起する目前の事象に右往左往する雑然としたものにしかうつらなかった。 (先行きどうなるのだ)  このごろ間断なく襲ってくる頭痛に、ひとしお悩まされてもいる。事あらば我意を張ろうとする諸侯、何もしないくせにやたらと饒舌な公卿たち、孝允は、こうした�俗侯・俗卿�たちのかきたてる騒音にとりまかれている気分である。  三条実美、岩倉具視は公卿としては出来のよいほうで、新政府の上層をそれなりにうまく取り仕切っているが、実務の面ではやはり西郷吉之助、大久保一蔵そして木戸孝允の三人がすべてを動かす立場にある。その中の西郷は東征軍の参謀として江戸をめざしている。結局京都に残った一蔵と孝允が新政府の重鎮として、忙しく働いているが、この二人は性格がまるで正反対だった。  一蔵はいわば今日と明日のことしか考えていない。彼がそのとき考えていることといったら、大阪遷都であり、それが不可能とわかって大阪行幸と決まってからは、その推進に全力を挙げようとしているのだ。大阪行幸は、薩摩の陰謀ではないかと、今は薩摩への憎まれ口が、諸侯や公卿の間で公然とささやかれるほどだが、頓着しなかった。剛胆ともいえるが、そんな一蔵から見れば、いつも頭痛に顔をしかめ、何かと愚痴っぽく、また大方向とか、至尊(天皇)の御主意とかをまくしたてる孝允が、迂遠なことを口走っているとしか思えないのである。 「宣布すべき大方向の内容は、外国使臣たちをも納得させるものでなくてはなりません。そのためには、由利、福岡らの起草した五カ条がよくできておる。あれに手を加えればよいのです」 「三条公、岩倉公と相談されて然るべく起草されたらよろしい。しかし列侯会議を興し、などはいけませぬよ」  と、一蔵は気乗りしないまでも、クギを刺しておくことだけは忘れていない。 「五箇条の御誓文」は、由利公正起草、福岡孝弟の修正案を、さらに孝允が加筆修正して成文化した。三条実美、岩倉具視がその作業に参画したが、大久保一蔵はついにそれには加わらなかったのである。 [#ここから1字下げ] 一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ。 一、|上下《しようか》心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ。 一、官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス。 一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ。 一、智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ。(後略) [#ここで字下げ終わり]  これを見ると、福岡案の「列侯会議を興し」は、「広ク会議ヲ興シ」と改められ、わずか一筆で公議政体派の意志は払いのけられている。見事な添削というべきだが、原案のやや具体的な条文は、孝允の修正によって、すべて抽象的な表現に変えられた。カタカナになったのもいかめしい感じを出している。  由利原案にくらべると「官武一途」とか「上下」とかいった封建的な文言が加わり、趣旨の後退をみせたが、それでも慶応四年のこの当時政府が示した「大方向」としてはきわめて進歩的なものであった。後年やがて興る自由民権運動が、これを掲げて政府に迫るだけの内容はそなえていたのである。この誓文を広く宣布しようとする孝允の発想が、外国使臣たちを多分に意識していたこととも関連しているといってよいだろう。  そして、由利公正が五カ条を起草したときは、議事所での盟約をうたうものだったが、孝允の場合は、これを新政権の大方針として打ち上げるという目的に高められている。つまりは紫宸殿に百官群臣を集め、天皇が天地神明に誓うという儀式によって、内外にこれを宣明したのである。東征軍が江戸城に総攻撃をかける予定の前日、慶応四年三月十四日のことであった。 「五条誓文の発布」は、たしかに歴史的場面であり、事実上その条文を起草し演出した孝允は、むろん強い感動をもって紫宸殿での儀式を見守った。孝允と隣りあわせて列席した大久保一蔵は、また別である。彼は傍観者のように、白けた表情でその時間をすごし、式が終るなりさっさと御所から退出した。この現実派の目には、抽象的な条文を読みあげること自体に何らの意味もみとめられなかったのだろうか。 「十四日太政官出席」  その日の大久保の日記には、ただ一行そう書かれているだけである。  一蔵と孝允は、性格的にも相容れないものがあり、この二人の関係は最後まで微妙な距離をおいたままで終った。  孝允は、薩長同盟という重大な提携を交わした当事者同士でありながら、西郷吉之助という人物をどうしても好きになれなかった。何度か煮え湯を呑まされた経験からもきているが、要するにこの一見茫漠とした薩摩人と肌が合わなかったのである。  吉之助より大久保一蔵に、孝允ははじめ親近感を抱き、彼が山口にやってきたときは自宅に招いて大いに歓談したこともある。ところが新政府へ出て、一緒に行動しているうちに、どうも噛み合わないものを感じるのだった。太政官という新しい舞台で、それぞれに長州・薩摩を代表する立場を意識していることがそうさせるのだろうが、 (一蔵は変わったな)  と思う。しかし変わったのは孝允のほうであるかもしれないことを、自分では気づくべくもないのだ。少なくとも健康を害しているだけ、以前の孝允ではないのである。  妙に疑い深くもなっている。一蔵が岩倉具視と親密で、いつも孝允をのけものにし、東征軍の西郷とも連絡をとりながら、事を運んでいるように見えて仕方がない。孝允と同時に総裁局顧問に就任した一蔵が、いつの間にかその職を辞して、大阪行幸の準備を精力的に進め、行幸のさいの布告案も彼と岩倉との間で練られている。もともと行幸御用掛は、大久保一蔵のほか木戸孝允、広沢兵助も命じられているはずであった。  一蔵が去ったあと総裁局顧問には孝允のほかに薩摩の小松帯刀、土佐の後藤象二郎がいるが、小松と後藤は外国事務に追われ、孝允ひとりが総裁局の雑事まで引き受けさせられた。不満はまだある。  大久保・小松・後藤はいずれも参与である。長州から孝允より一足先に出京した伊藤・広沢も参与になっている。孝允は総裁局顧問という別格の地位におかれてはいるが、彼だけが徴士のままだ。それでいて大久保一蔵と並ぶ要職を太政官で果している。いかにも不安定な気分だったが、それを言えばもの欲しそうにも聞こえるので黙っている。ちなみに孝允がようやく参与に引き上げられたのは、その年閏四月二十一日のことであった。  一月に出京していらい何かと不満をつぶやきながらも、孝允は持前の生真面目さで、職務には精励した。頭痛がするかと思えば、胸や背中が痛むこともある。医師の診察を受けると、多分過労であろうという。休養をすすめられても、やはりその気にはなれなかった。  太政官に出仕して、孝允が最初にやりあげたことといえば五箇条の御誓文によって、新政府の大方針を天下に示したということであり、これはいかにも孝允らしい仕事であった。  江戸城総攻撃までにというこの誓文は、攻撃予定期日の前日に実現したが、江戸からは意外な知らせが届いた。江戸城の無血開城である。京都御所の紫宸殿で、五条誓文の儀式が進められているころ、江戸高輪の薩摩邸では、西郷と勝海舟のこれも歴史的な会談がおこなわれていたのだ。  三月二十日には、西郷が江戸から帰京し、勝と交わした江戸城明け渡しの条件についての了解を求めてきた。ただちに太政官で会議にかけ同意を与える。徳川慶喜への処分は寛大なものとなっており、これは孝允が前から主張していたのだから特に異議をさしはさむこともなかった。  二月のはじめごろまでは西郷も大久保も慶喜処分については、強硬論を吐き、寛典をとなえる孝允と対立していたのである。 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届千万、是非切腹までには参り申さず候ては相済まず……」などという激しい語調の手紙を西郷は大久保に与えている。彼もまた西郷にあてて「天地の間容るるべからざる大罪なれば天地の間を退隠すべし」と、慶喜の死罪を強調するというようなことだった。  これに対して孝允は、前将軍を死罪にして旧幕臣の反抗心をいたずらにあおるのは得策でないと説いたが、薩摩の二人が呼吸を合わせて「慶喜死罪」を言い張るのである。この両人が、いつの間にか寛大論に落ち着いている。勝海舟との会談の過程で西郷の心が動いたものだろうが、それだけではない全般的な情勢に即応して方針を変更したのも悪いことではなかった。しかし、帰京するなり西郷・大久保だけでそのあたりの事情をひそひそと話しあっているのが、孝允には不愉快だった。  のち徳川家処分になると、再び孝允と西郷の意見は対立するのである。慶喜個人については寛大な処分を主張する孝允も、徳川家そのものとなるときびしい態度を見せた。倒幕の最終目標は徳川家にありというのが孝允の持論で、容赦のない処分案を示すのである。そこには冷酷に論理をつらぬこうとする彼の性格がよくあらわれている。その点では大久保一蔵もやや孝允に近く、断乎徳川の移封を主張するが、西郷となるといったん慶喜への寛典を打ち出した以上、徳川家も寛大に扱ったらよいではないかと人情論をちらつかせる。西郷の士族階級に対する同情、固執といったものがやがて悲劇を生むことになるのだが、木戸・大久保が提携して西郷に対立するというかたちは、このころから芽生えていたともいえるだろう。  たしかに孝允と一蔵は、ひそかに反目しながらも、共通する立場があって、互いを必要とした。とくに一蔵にとって、孝允はなくてはならぬ政治的な盟友だったのだ。しきりに徴士罷免を嘆願する孝允を、岩倉具視に説かせて引き止めようとしたのも一蔵にほかならなかった。  西郷が江戸開城の件でいったん帰京した直後の三月の終りごろ、孝允はまたぞろ帰国したいと言い出すのである。   幕藩解体  慶応四年三月二十八日、孝允は広沢兵助に奇妙な手紙を送っている。 「王政御一新と申し条、先づ今日の処は只名のみにして、実事は未だ挙り申さず……俗卿俗侯四方に充満、互いに相防禦いたし居り……」  と例によって愚痴っぽい書き出しだが、その次には薩摩を持ちあげている。薩摩の「誠心にて死地に投じて活を得」たというのである。薩摩とは時に意見が相違し対立することもあるが、基本的には通じているとし、その薩摩がしきりに世人から論難され「我藩其の境に至らざるは、今日に在りては実に我大いに恥じる処なり」というのだ。薩摩だけが悪評を一手に引き受け、長州藩は局外に立ったかたちになっている。そんなとき、自分が総裁局顧問にとどまっていては、薩摩と長州との間が不和になる。だから何とか辞職できるように広沢の口からも総裁へ働きかけてもらいたいというのだった。  広沢は、孝允の辞意と帰国の希望を、熾仁総裁よりも岩倉具視にそのまま伝えた。彼には、孝允が何を言いたいのか、およそわかっていたのだろう。  三月二十八日といえば、その七日前には懸案の大阪行幸が、ようやく実現した。大久保一蔵が精力的に推進した大阪遷都に代る行幸である。天皇親征による慶喜追討を天下に示すためのこの行幸を大久保はひたすら急いでいた。彼にとっては、五条の誓文以上に意味のあることであり、討幕派にとって東征軍の東上に呼応する重要な行動計画であった。  行幸御用掛には大久保のほか木戸孝允、広沢兵助も任命されているのだが、ほとんどは大久保の|独擅《どくせん》場だったといえる。反対の公卿・諸侯から、薩摩は大阪を根拠に覇権を策謀していると陰口が出るのもそのためだ。これについて長州が非難の対象とならないのは、言い換えれば局外に立たされているということだった。  孝允はその不満を正直に口にしない。つまりは広沢にあてた手紙のような表現となるのである。孝允としては、自分と同じ立場にありながらお前は腹が立たないのかと広沢に言っているのだ。  薩摩への不満は、東征軍についてもいえた。東征軍に従っている長州藩の木原又右衛門が京都へ帰ってきて、薩摩の横暴を訴えるということもそのころあった。江戸では西郷、京都では大久保と、このころ新政府の中枢は、薩摩に押さえられてしまっている。孝允の目には、それは薩摩と同時に朝廷に対する不満でもあった。  大阪に行幸した天皇の行在所は、西本願寺別院におかれた。そこで大久保一蔵は、はじめて天皇に拝謁し、京都・江戸をめぐる現状を詳しく説明した。薩摩だけが大活躍しているような印象が、これでひときわ鮮かになった。本人の大久保も大感激である。 「実に卑賤の小子、殊に不肖短才にして|此《か》く玉座を穢し奉り候義、言語に絶し恐懼の次第、一身に余り仕合に候、感涙の外無之、尤も藩士にては始めての事にて、実に未曾有の事と恐懼奉り候」  彼の日記の一節である。  孝允にとっては、まことに面白くない大久保一蔵ひとりの栄光であった。そこで辞職・帰国の意志を広沢兵助に伝えるのである。自分はまだ参与に准ずる徴士の身分でしかない、兵助は参与だから、何とか運動してみてくれといういくらかの皮肉もふくんでいる。さらに兵助が大久保らに迎合しているのではないかと、暗に責めてもいるのだが、そこはまったく逆に薩摩を持ちあげた未、自分がこのまま職にとどまったのでは薩長を離間させようとする者の策にはまることになる、辞めたい、帰国したいという理屈にあわない文面になるのである。  屈折した心情が、彼らしい周到さにくるまれて吐き出されると、事情を知らない者には一種の錯乱とも思われかねない。しかし、岩倉具視は、さすが孝允の気持を敏感に見通していた。それは大久保にしてもわかっているのだ。いずれにしても孝允の再度の辞意表明は、この二人を困惑させるのである。さっそく木戸懐柔の手が打たれる。  大久保一蔵は、その翌日、岩倉具視にあてて、書状を出している。木戸が辞職、帰国を、またも言い出した由だが、このようなすぐれた人物に去られては新政府の大きな損失であるという意味の内容である。 「……実に当時此の人を置き他に得させられ候人物は天下に無之と愚考仕り候……|政《まつりごと》をなすは人に在りと申し候通り、即今御前方の御任は、只其の人を御用ひ損ひの無之までの事と存じ奉り候」  と孝允の政治的手腕を最大限に称賛した文面は、いささか面映ゆいものでもあったが、大久保にしてみれば、みえすいた世辞ばかりではなかったのである。彼にとって最高に頼りになる協力者といえば、西郷と木戸だという確信は、早くから動かないものだった。  大久保・西郷・木戸の三人が新政府の主柱として、互いに結びながら活躍する期間は、これからもしばらく続くが、やがて大久保は、同じ薩摩出身の盟友西郷との間に、どうしても相容れないものを感じはじめるようになる。それはやはり思想的対立からくる離反であった。  いつまでも旧時代の士族意識から抜け出せない西郷に対して、大久保一蔵は開明派としての木戸孝允と多くの共通点を持った。しかし、同一歩調をとろうとする一蔵と孝允も反目する薩長を背景に、また溶けあえない資質ということもあって、小刻みな反発をくりかえしながらも、なお互いを必要とし、連携せざるを得なかった。一見なれあいとみえるまで、一蔵は孝允の人物を称揚し、孝允もまた一蔵をかついで、新政府内での政敵に対してそれぞれの立場を庇いあう宿命的な関係におかれたのである。  大久保からの手紙を見せながら、岩倉具視は、孝允の辞意をひるがえさせようと、説得にかかるのだが、もともと辞職が彼の真意でないことは見抜いている。どのようにすればよいのかと、具視は条件をたずねた。 「大久保さんが総裁局顧問に戻って下されば……」  と孝允は言った。薩の大久保、長の本戸と均衡を保った上で総裁局を切りまわすことがよいのだ、とにかく自分一人では煩雑な用務に耐えられないし、持病でも苦しんでいるのだからと、あれこれ理由を挙げてみせた。 「大久保と相談してみよう」  具視は即答を避けた。案の定、一蔵はしぶるのである。総裁局には小松や後藤もいるのだから、何もここで木戸・大久保の二人がわざわざ肩を並べることはあるまいというのだった。 「でなければ、木戸は辞めるというのです」  具視は、孝允が薩長の二人三脚を計算していることに気づき、内心嗤っていた。  大久保一蔵の日記。 「(木戸が)顧問、徴士御断り申し出で、岩倉卿より段々御説得相成り候処、色々申し立て候て、つまる処一人にては大任に耐へず候間、小子へ顧問仰せ付けられ度く、左候はば共に尽力仕るべしとの事にて……」  一蔵は、しぶしぶといった面持ちで、再び孝允と共に総裁局顧問となる。  四月十一日、江戸城を受け取ったとの報が西郷から入った。血を流さずに、開城させたことでやれやれと胸をなでおろしていると、追っかけるように厭な知らせである。会津をはじめとする親幕の奥羽、北陸諸藩が官軍へ抵抗する姿勢をかためているという。どうやら一戦は避けられない様子だった。  また江戸開城の日、幕府の海軍副総裁榎本武揚は、旗艦開陽以下富士山、蟠竜などをひきいて品川沖から房州館山へ走った。彼はやがて箱館五稜郭へこもるのである。その他歩兵奉行大鳥圭介、撒兵頭福田八郎右衛門らも手勢をひきいて各地に走った。  最も目ざわりなのは、江戸の膝元で、上野に割拠し不穏な動きをみせる彰義隊である。江戸にいる官軍より優勢ではないかという。 「西郷は何をしているのだ」  と孝允はいらだった。  江戸の西郷が、何となくもたついている。勝海舟との友好的な交渉で、江戸開城までは順調に事が運んだ。それは西郷のめざましい働きとも見えたのである。  ところがその幕臣との穏やかな雰囲気が、西郷の覇気を鈍化させているともいえた。徳川慶喜を切腹させずにはおかぬと意気まいていたころの彼とは別人のように、おとなしくなってしまっている。  江戸城受け取りの任務を、西郷は薩摩人の海江田武次(信義)に負わせた。海江田は、井伊大老の首を斬って凶名をはせた有村治左衛門の兄であり、また自身も生麦事件の折、イギリス人に一刀を浴びせた薩摩武士という気負いをやたらと発散させた、いわば始末の悪い人物である。  その海江田が一人で采配をふるっている江戸城へ、長州の大村益次郎が入って行く。ここで彼と対立したことが益次郎の命を縮める原因のひとつになるのだが、益次郎を江戸へさしむけたのは孝允の強い意見によるものであった。 「戦はずして、平定の理を天地に求むとも得るべからず。平定は決戦の中に在り、|猥《みだ》りに凶器を好むにあらず、一人を殺し億生を救ふ也」  と孝充は閏四月一日の日記に書いた。さらに十一日には、たたきつけるように、書きなぐっている。 「関東の戦争は実に大政一新の最良法也。然し遷延失機するときは復すべからざる大患害を生ぜん」  それでも上野にたてこもる彰義隊に何ら手を打つ気配が伝わってこない。この当時、大村益次郎は、北陸道にむかった長州兵に付いているが、やはり足踏みしている官軍の様子は、彼を切歯扼腕といった気持にさせるらしい。 「西郷の始末聞く毎に薄氷徒歩の思、瓦解近日に在り」などと孝允に手紙を書き送ってくるのであった。  孝允らが西郷の手ぬるさを批判しても、大久保一蔵は、さすがに沈黙を保っている。 「今日の天下の有様を視察するに、一の乱暴者が居なくては、かえって朝廷今日の御為に相成り申さず」  孝允は、一蔵に対して、しきりに「乱暴者」の江戸派遣に同意を求めるのである。 「乱暴者」とは、大村益次郎のことだ。孝允の目には、兵学者としての益次郎が、今こそ情況転換に必要な暴力のメスをふるうまがまがしい医師であった。大久保一蔵もついに賛成せざるを得なくなった。  軍防事務局判事に任命された大村益次郎は、江戸城へ入るなり、宇都宮にいる官軍を庄内にむかって出発させよと、参謀の海江田に命令した。二人は鋭く対立するが、結局海江田が辞表を提出して、ひきさがることになる。  五月十五日には、上野の彰義隊の討伐が敢行され、益次郎のたくみな作戦で、あっけなく成功した。二十二日、大総督有栖川宮から益次郎に脇差一ふりが賞賜される。それは益次郎のひきいる長州兵の栄光でもあった。ずっと薩摩の陰にかくれていた長州が、ようやく陽のあたる場所へ飛び出した瞬間でもある。もっとも彰義隊討伐が、長州兵だけの手でおこなわれたわけではない。むしろ勇猛な薩摩兵の働きがめざましい。ただ、これまで西郷や海江田ら薩摩人を最高指揮官とする江戸の官軍の中で、長州兵の存在はあまりにも目立たなさすぎた。前にも述べたように長州兵の指揮者の一人木原又右衛門が、わざわざ京都へのぼって薩藩の横暴を愁訴するほどのものだった。  彰義隊討伐で大村益次郎がにわかに名をあげたという江戸の様子を聴いて、孝允は溜飲のさがる思いを味わったが、同時にそのころになると激しい自省の念にもかられていたのだ。冷静に考えれば、たしかに滑稽な話である。薩摩とか長州とかと、出身藩を意識して、一喜一憂するむなしさにようやく気づいたのは、ひとつには温暖な季節を迎えて、孝允の体調が久しぶりに快適な日々をすごすようになったことと多少は関係がある。  新政府に出仕している人々は、ある意味で二重人格者といえた。それは藩というものが存在する限り、避けられない現実であった。彼らは新政府に職籍を持つと同時に、薩摩藩士であり、長州藩士であり、土佐藩士なのである。  そして例えば木戸孝允や広沢兵助に、長州藩主から帰国をうながしてくるように、新政府の職務を放棄してでも藩の仕事につかせようとする身勝手な藩でもあった。藩主たちは、やはり自分を中心にものごとを考えており、京都に新しくできた政府よりも、まるで藩が優先するくらいに思っているふうだった。  孝允は帰国の要請を受けたとき、健康を害し、ひどく疲労していたので、多少は休養もできるかといった弱気な姿勢でそれに従ってもよいと、いったんはそのつもりになったこともある。しかしあとで思えば、浅墓というべきであった。  重大な局面を迎えた新政府の要職にある者の足を引っ張るような在地の藩主の利己的な判断、そして孝允が新政府に顔を出している藩主たちを「俗侯」と罵るように、いずれにしてもそれが藩というものの、どうしようもない体質なのである。  政府が新しい政権を打ち立て、統一国家を築くためには、この古い体質を露出した藩は邪魔な存在であり、いつかは取り除かなければならないのだ。漠然とそんなことはわかっていながら、薩摩とか長州とかと出身藩の利害にこだわる立場から抜けきれない。一時期の孝允をふくめ、だれもがそうした藩士の属性を身につけたまま動いている。  だが、やはり真っ先にそれを断ち切ったのは孝允であった。というのは、彼が抱いた諸々の不満とは主として大久保や西郷の独断に対するもので、この二人が薩摩人同士の気脈を通じていることに、いつか長州人の立場で対抗していたのにちがいない。薩長を離間させようという公卿・諸侯にあおられたともいえる。  ふと冷静に立ちかえった孝允には、あらためて藩というものの|桎梏《しつこく》が感じられるのだった。幕府を討つには、藩もよき道具であると、孝允はかつて大島友之允への手紙に書いたことがある。その道具も役目を果して、ぼつぼつ不要になりつつある。──  いわば二言目には辞職、帰国をほのめかしていた孝允が、内心実は最もさめた目で藩を見ていたということかもしれなかった。  ここで孝允は、版籍奉還の構想を打ち出すのである。「版」とは土地、「籍」とは人民を意味している。藩主が土地、人民を朝廷に還納するという形式をとりながら、藩に対する政府の統制力を強化しようというのだ。藩を無力化し、やがては解体するのが最終の目的である。孝允は、その計画を大久保一蔵に打ち明けた。 「藩主が承知するであろうか」  と、一蔵はしごく消極的に答えた。彼は孝允から版籍奉還のことを聴いた瞬間、鹿児島にいる島津久光の顔を思い泛べたのかもしれない。藩主ではないが、依然薩摩藩の実権をにぎるその独裁者の賛同をとても得られるものではないと、ほとんど諦めてかかっているようだった。薩摩もまた長州同様、新政府に出仕した藩士呼び戻しの意向を持っている。つまりは藩権力の防衛に力を入れようとしているのだ。 (毛利敬親公なら、あるいは説得できるかもしれない)  孝允は、ひそかにそう思っている。�そうせい候�を、何とか説き伏せて、まず長州が垂範する。やがて薩摩に及ぼし、全藩にならわせるという手順を、彼はもくろんだ。 「徳川の所領、人民を朝廷に没収すると宣言しながら、新政府の中心にいる薩長が、なお版籍をにぎりこむというのは、理にあわないことではありませんか」  孝允に言われて、一蔵は困った顔をしたが、「いずれは進めなければなりませんな」と深刻に頷きはした。  孝允が厄介な別の用務を帯びて京を離れ、西下したのは、閏四月十日のことである。  西下する孝允に与えられた厄介な用務とは、キリシタン宗徒に関する問題である。この「浦上四番崩れ」といわれる明治初年のキリシタン迫害については、あとで少し詳しく述べることにして、まずは版籍奉還をめざす孝允の足どりを追ってみる。  孝允が船で大阪を出発したのは、慶応四年閏四月十日で、十四日には山口ヘ入っている。その日のうちに藩主敬親と会った。 「よう帰ってきてくれた」  と敬親は上機嫌だったが、すかさず孝允は深刻な表情で用務を打ち明けた。 「実は、キリシタン宗徒処分のことで長崎へ行く途中であります」  帰藩に応じたのではないのかと失望する藩主に、孝允はキリシタンの動きに悩む新政府が、大阪行在所での御前会議まで開いて処分を協議したいきさつを、多少大げさに話し、自分が政府代表として長崎へ行くのだと説明した。 「多端のようじゃな」  そんな敬親の言葉じりをとらえて、京都や江戸の情勢を語り、さりげなく「かくなる上は、諸藩の版籍奉還なくして大業は遂げられません。土地人民を大名がにぎっている限り、新しい政府の存立は望めません。すでに幕府の所領は没収いたしましたが、それだけで済むものではなく、わが藩がさきに豊前、石見の版籍を奉還したのは、まことに美挙というべきでありましょう」  孝允が何を言おうとしているのかを敬親は察したらしく、急に黙りこんだ。大義名分を説き、版籍奉還をと進言すれば聞こえはよいが、大名に丸裸になれとすすめているのだから、さすがの�そうせい侯�も気軽には頷けなかった。むしろ強い拒否反応さえ見える。これは十分予想していたことである。  孝允は、長崎へ行く途中立ち寄った「ついでに」という素振りをわざと見せたかったので、その日はあっさり藩主の前を退出した。  十日あまり糸米の自宅で休養をとり、久しぶりに妻の松子と落ちついた日々をすごした。閏四月二十六日に山口を発って萩に行き、五月五日まで滞在した。江戸屋横丁の和田家には、故人となった義兄文譲の三人目の後妻が先妻の遺児を育てながらひっそりとくらしている。  文譲は妻の縁に薄く二人に死別し、三度目の結婚後間もなく自身が他界した。この妻との間には子供がない。三人の子供はみんな男で、長男卯一郎(芳助)は最初の妻(孝允の異母姉捨子)の子、二男直次郎と三男勝三郎(孝政)は二度目の妻(孝允の異母姉八重子)の子である。なかなか複雑だ。  桂小五郎時代、父の和田昌景が小五郎の養子として直次郎を決めたが、その後勝三郎に変更した。直次郎が病弱だったためである。  ところが勝三郎は十七歳のとき、つまり元治元年七月、家老福原越後のひきいる藩兵の一人として京都へ出兵、禁門の変で戦死してしまった。孝允は戦火をのがれて但馬へ逃げたが、彼の養子勝三郎は戦いの犠牲になるという互いの生死を分ける道をあゆんだのである。  だから和田家には血のつながらない文譲の後妻と卯一郎、直次郎の二人の遺児がいた。直次郎は相変わらず病弱で、孝允が萩へ帰ったこのときから七年後に死んでいる。  そのころ萩には、孝允の実妹治子がいた。来原良蔵の妻となった人で、文久二年に良蔵が自殺したあと遺された二人の男の子を育てている。孝允は二男の正次郎を養子にとり、木戸家を嗣がせることにしていた。生前の良蔵という人物を、孝允はどうしても好きになれず、一時は航海遠略策に賛成する彼と対立したこともある。その良蔵の血が、木戸家に流れるようになったのも皮肉な結果だった。  ついでだが、孝允の死後、木戸家の家督を襲って侯爵となった正次郎は、明治十七年十月、欧州からの帰途の船内で急死した。木戸家はその兄の彦太郎(孝正、良蔵の長男)が嗣いで、まったく来原家と木戸家が合体した。彦太郎の子幸一が、太平洋戦争当時の内大臣で有名な「木戸幸一日記」を遺した人である。  萩で私用なども済ませた孝允は、再び山口ヘ出る。五月五日、いよいよ長崎へ行くのでお別れということで藩主に面会した。世子の|元徳《もとのり》(定広)も帰藩中で、敬親と一緒に孝允としばら く歓談した。  去りぎわに孝允は、 「版籍奉還のこと、お考え下さいましたか」  と肝心な問題を切り出したが、敬親は黙っている。 「他藩ではいかがであろう」  元徳が仕方なくといった表情で答えた。 「薩摩、土佐もやがて奉還ということになりましょう」 「最早、進んでおるのか」 「間もなくと思われますが、できればわが藩が率先して奉還の議を出し、他藩もそれにならったということのほうが至尊の覚えもめでたかろうと存じます」 「………」 「このたびは長崎での用務を帯びての西下でありますから、いずれあらためてご相談に参る所存であります。それまでにご一考を」  できれば明確な同意の返事を得たかったが、無理押しすれば逆の結果を生ずるとも思われるので、そのくらいにして引き揚げることにした。予想以上に敬親の版籍奉還に対する拒絶の意思は強い。薩摩、土佐もやがて奉還にかたまるだろうと言ったが、この両藩はもっと激しく抵抗するにちがいないのだ。大久保一蔵、後藤象二郎ともはかって、早急に事を運ばなければと、あれこれ思いをめぐらしながら孝允は九州へむかった。五月十一日に長崎へ着く。  閏四月に長崎裁判所は長崎府と改称されたが、いぜんとしてキリシタン問題で頭をかかえ、孝允の到着を待ちわびていた。そこで九州鎮撫総督沢宣嘉らと協議し、三千人というキリシタン信徒の処分をわずか数日で決めた孝允は、大急ぎで京都へ帰って行った。  徳川幕府のキリシタン禁教政策を新政府も引き継いでいる。あとで述べるように、フランス人が建てた大浦天守堂に姿をあらわした隠れキリシタンの処分を一任されたかたちで孝允は長崎へむかったのだ。中央の決議では、信徒の主な者は斬罪とし、余類は各藩に配流して説諭し、改宗もしくは棄教させるというのだった。孝允は斬罪などという極刑を避けて、全員配流とし、諸藩への割当てを協議して決定すると、さっさと長崎から退去した。  太政官での報告では「信徒を教導し改心させるのは、それほど困難なことではない。とくに津和野藩、長州藩では自信をもっている」などと説明した。それは孝允自身もそう思っていたわけで、いい加減なつもりはなかったのである。じっさい諸藩に預けられた信徒の大半は改宗、棄教している。しかし全体の数からすればわずかではあっても「不改心者」がいて、説諭に抵抗し、そのための悲劇を生むことになるのである。  当初ではいくらか手際よくという感じで、キリシタン処分の任務を果した孝允が、神戸、大阪を経て六月三日、京都へ帰ってみると、もうそれどころではないといった緊張がただよっていた。  ──奥羽越列藩同盟。  この反政府軍事同盟が結成されたのは五月三日であった。はじめ仙台、米沢藩など奥羽十四藩は、会津藩に対する朝廷の赦免を嘆願したが、却下されるや仙台にいた政府軍参謀世良修蔵を暗殺し、新たに十一藩を加えた「奥羽列藩同盟」を結んで、征討中止を嘆願した。これも拒否されるとさらに北越六藩が参加して「奥羽越列藩同盟」をなして、新政府に抵抗する構えをみせた。  反抗の主軸は、奥羽の会津、北越の長岡である。官軍進撃の目標は、いわばこの二つにしぼられたが、作戦は思うようにはこばず、しばしば苦戦におちいった。  戦いは北越で始まり、|小千谷《おぢや》と長岡の国境朝日山の争奪から火蓋を切った。五月十三日の早暁、長岡兵が占領している朝日山へ総攻撃をかけた官軍は惨敗して退却する。その後も長岡兵と官軍との間で一進一退の激戦が展開され、戦線はたちまち北越一帯に拡がって行った。  江戸無血入城でほっとしたのもしばしの間で、やはり戦争は避けられないものだった。消えたはずの幕府が、このようなかたちで新政権の行く方に立ちふさがっている。残党の掃蕩戦とはいえ、事実上本格的な討幕の戦いであった。奥羽越列藩同盟をたたきつぶすことによって、はじめて徳川の封建体制は壊滅したといえる。  鳥羽・伏見の戦いにはじまり、この北越から会津攻城、さらに北海道箱(函)館五稜郭の戦いにいたるいわゆる戊辰戦争に払った官軍の犠牲も当然大きかった。  六月九日といえば、北越での戦闘がようやく激化し、官軍の死傷者も多く、苦戦が伝えられてくるころである。その日、孝允は前線へ出て「戦機を助けたい」という趣旨の嘆願を総裁に提出し拒否されている。 (木戸は血迷うたか) という声も陰でささやかれたほど唐突な嘆願だった。孝允にしてみれば、かつて西洋兵学の少しはかじっており、まったくの素人ではないという自負もあるが、周囲では軍事専門家でもない彼が前線へ出て何ほどのことができるかと冷笑した。むしろそうした孝允の言動を「錯乱」とみて、憐れむような視線をむける者もいたのである。  たしかに孝允は、北越の苦戦をだれよりも気に病んでいた。官軍が敗走して、すべての形勢が逆転するのではないかという不安で夜も眠れない状態にあり、ひどく|窶《やつ》れた顔をしていた。  六月二十日、孝允は岩倉具視に北越に関する意見書をさし出し、さらに具視の執事山本復一にもよろしく取りはからってくれという長文の依頼書を渡している。 「北越モ余程苦戦ノ由、甚ダ煩念イタシ候。……天下ノ事、此日ノ機、実ニ失スベカラズト深ク苦心仕り候。連日ノ戦争ト申スウチ、終ニ兵士尽疲レ大敗ヲトリ候テハ、大瓦解ニ至り申スベク候。……諸軍ノ気鋒挫折イタシ候ハ申スニ及バズ、実ニ天下ノ事大瓦解ト存ジ候。且外国人ニモ大侮リヲ受ケ候ハ自然ナリ……」  くどくどと「大瓦解」の不安を述べ、大軍を北越に送るように主張するのである。奥羽各地でも戦いは始まっているのであり、北越だけに集中できない情況だったが、しきりに彼がこだわるのは北越苦戦の情報が次々に入るからでもあった。  孝允の意見を容れて、嘉彰親王麾下の兵を北越にむけることが決まったのは十四日だった。北越の苦戦は、七月になってさらにいちじるしく、その月二十五日におこなわれた長岡兵の城郭奪回作戦で敗走した官軍が路上に遺棄した死体は二百を越え、ほかに信濃川の渡河で溺死した者も加えると死者六百人を越える有様だった。  しかし八月十六日には、長岡藩兵を指揮して勇猛な戦いぶりを見せた家老河井継之助が死んだ。これで長岡藩の抵抗はまったくやみ、新潟港も官軍の手に帰して、兵員・武器の輸送は一段と便利になった。  このころから|新発田《しばた》・村上・黒川の諸藩が前後して降伏し、列藩同盟は崩れはじめた。官軍の攻撃目標は奥羽にしぼられ、白河口・平潟口・越後口の三方面から勢いに乗って進撃した。  その間、孝允は軍務局にまで出むいて、船による弾薬輸送に指示を与えるなど自分では大いに働いたつもりだが、担当の者からは煙たがられもした。じっとしておれなかったのだ。 「軍務局ニ談ジ弾薬輸送ノタメ蒸気艦一隻ヲ周旋ス。昨日長岡ノ報アリ。思フニ弾薬ノ乏シキヲ知ル。越前ヨリ五十万、御国ヨリ三十万。急速運送ノ事計リシ也。四時過ギ退朝」  八月五日の孝允の日記である。  官軍の戦況が優勢となるにつれ、列藩同盟を離脱する藩もふえ、八月二十八日には米沢藩が越後口からの官軍に降伏、九月十五日には仙台藩が平潟口からの官軍に帰順を請うた。  奥羽の列藩もほとんど瓦解し、あとは会津・庄内・南部などの十数藩がのこるのみとなった。問題は会津である。ここを落城させれば、他は簡単に降伏するだろう。白河口からの官軍は、八月二十三日に、会津若松城東北の外郭をおとしいれたが、会津藩兵は死にもの狂いの抵抗をつづけ、奇襲をかけて官軍を悩ました。飯盛山白虎隊の少年たちが悲壮な最期をとげたのもこのときである。  白河口からの官軍が会津の城を攻めあぐんでいるとき、越後口からの官軍が到着した。合流して包囲作戦をとり、ただちに総攻撃を開始する。  決死の会津人は、その後も老幼婦女子にいたるまで籠城し、あくまでも開城をこばんで戦いつづけること実に三十日におよんだ。ついに九月二十二日、会津藩主松平|容保《かたもり》は鶴ヶ城を官軍にあけ渡して、城外の妙国寺に謹慎した。  二十四日には南部藩が、また二十七日には頑強にさからっていた庄内藩も降伏し、前後して残余の諸藩もすべて抵抗をやめ、奥羽・北越の鎮撫はようやく成功した。  官軍が会津を攻めているころの九月八日、慶応は明治と改元された。天皇一世一元の制は、このとき決まったのである。  戦乱が終結するまでは、年号が明治となってからもなお八カ月を要した。幕艦八隻に彰義隊の残党などを乗せて仙台からさらに箱館に走った榎本武揚が最後の抵抗者だった。──  戦況が一段落すると、孝允は待ちかねたように版籍奉還の計画を進めた。  明治元年九月十八日、彼は大久保一蔵、後藤象二郎にその話を持ちかけた。大久保には前にも一度説いたことがある。いずれにしても困難な課題だが、新政府の基礎は、版籍奉還によってのみかたまるのだという意見は三人とも共通していた。しかし、島津久光や山内容堂の顔を思い泛べると、二人の返事は重い。久光も容堂も藩主ではないが、実権をにぎった独裁者として、両藩に君臨している。それだけに敬親・久光・容堂がウンと言えば他藩は文句なく従うに違いないのだ。まずだれかを口説き落とすかとすれば、やはり毛利敬親であろう。 「毛利侯はどうなのだ」  と一蔵がたずねた。 「いずれ近いうちに説得するつもりであります。自信はある。尊藩のほうでも、早急に手を打っていただきたい」 「やらねばなるまいが」  と一蔵は象二郎の顔を窺った。彼も何となく頷いているふうだ。 「事ここに至って、お二人とも気乗り薄のようでは困りますぞ」  孝允が、愚痴ともつかぬことを並べはじめる。しかし、そう言う彼自身にしても内心焦っているのである。七月二十三日付けで敬親にあて版籍奉還を決意する書状を送ったが、返事がかえってこないままだった。  とにかく努力するということで三人は別れた。その日の日記に、孝允は不満を書きつけた。「此の日、大久保一蔵に秘密事を談ず。彼一諾尽力すといふ。余久しく心に期して施す能はず遺憾なり。……大久保と雖も未だ奥意を語る能はず、只表面の条理のみにして止めたり。実に今日の遺憾なり」  孝允がその日記でしきりに「遺憾」を発するくらい版籍奉還に消極的な姿勢を見せた大久保一蔵も、ついに腰をあげた。孝允が輔相の岩倉具視に、版籍奉還の急務であることを進言し、一蔵や象二郎をつつかせたのもひとつの推進力になったのだろう。  結局、薩・長・土・肥四藩主がまず版籍奉還の上表文を朝廷に出したのは明治二年一月二十日であった。薩・長・土三藩主のほかに、肥前佐賀藩主鍋島|直大《なおひろ》が名を並べている。他の三藩にくらべると鍋島だけが突然といった感じで登場するのだが、これは佐賀藩出身の大隈重信、江藤新平らが新政府に出仕していたことを思えば納得できる。  いずれにしても主唱者ともいうべき孝允をはじめ大久保一蔵らがどのように藩主を口説いたのだろうか。これについては後年、孝允はその日記に「余、一の謀略を設け」たと書いている。  孝允が言う謀略とは、彼自身はっきり説明していないが、版籍奉還というその呼称そのものが、まず曖昧な内容をあらわしている。これは「廃藩」ではないのである。いきなり藩を廃止してしまうと打ち明ければ、藩主たちは絶対に承知しないだろう。だから一応土地・人民を朝廷にお返しするというかたちをとる。これは事実上の廃藩を意味している。そこでおそらくは「いったん奉還したあと、あらためて応分の領地を朝廷から与える」といった口約束をしたのではないかとみられている。藩主たちは空手形をつかまされたわけだ。 [#改ページ] 第四章 旅次変転   浦上四番崩れ  ──浦上四番崩れ  といわれる明治初年のキリシタン弾圧事件にふれておかねばならない。  慶応四年閏四月、孝允は長崎のキリシタン信徒処分に関し政府代表として西下した。彼としては山口ヘ立ち寄り藩主敬親に版籍奉還を進言するのが主目的だったともいえるが、しょせんはこの厄介な問題に関与せざるを得なかった。  幕府が安政五年に五カ国と修好通商条約を結ぶことによって、日本に居留する外国人の信仰と礼拝の自由が認められた。フランス人プティジャンが、長崎に大浦天主堂を建てたのは慶応元年で、居留外人たちの礼拝場が、公然姿をあらわすと、これまで隠れキリシタンとして、幕府の目をのがれていた日本人信徒もここに集まってきた。  慶応三年六月、長崎代官さらに奉行による弾圧が開始され、六十八人が投獄される。これが「浦上四番崩れ」である。寛政年間の「一番崩れ」から数えて四度目の迫害なので信徒たちはそう呼ぶ。それは浦上村の隠れキリシタンがいかに根強い信仰をもって生きてきたかを物語っている。  六十八人の逮捕者のほとんどが改心棄教して釈放されたが、実は本心からのものではなく「改心もどし」によって、彼らはいぜんとして信仰を守りつづけた。慶喜の大政奉還後、長崎のキリシタン問題は、新政府の手に移るのだが、禁教政策もそのまま引き継がれた。  五条誓文の出た翌日、新政府が布告した「|五榜《ごぼう》の掲示」では、「永世の法」であるとする第一札から第三札の中に儒教道徳をすすめ、キリシタン宗門の禁制をうたっている。  もともと五条誓文そのものが神式によっておこなわれた。新国家の大方針を宣布する儀式をおごそかな神事としたのは、皇室の伝統ということもあるが、ひとつには演出の意味もあった。このときは神祇事務局補の亀井|茲監《これみ》を中心とする神祇局が儀式の一切を取り仕切った。亀井茲監は津和野藩主である。そして神祇局の判事福羽美静・権判事大国隆正は津和野藩士であり、かつて「惟神の道」を頑固に信奉する国学思想で藩学をかためた中心人物たちだ。彼らは国学といわず「津和野本学」と呼んだ。新政府の神祇局は、このような津和野国学派に握られていたのである。五条誓文はその形式からも、明治政府の祭政一致、神道国教主義の出発をうながすものだった。必然的にキリスト教否定、また仏教弾圧という結果をもたらした。  キリシタンを「邪宗門」とみなすその弾圧政策には、諸外国からの強い抗議がむけられた。しかしあれほど外国に低頭した新政府が、この問題にだけは不思議なほど強硬な姿勢を崩さなかった。それは一時太政官よりも権勢をふるった神祇局の体質に支配されたせいもあるし、何よりも神道国教主義の砦を侵されまいとする必死の思いからきたものであろう。  慶応四年三月、当時長崎裁判所では沢宣嘉・井上馨(聞多)らが、以前長崎奉行が手がけた隠れキリシタンたちの改宗に力を入れていたが失敗に終った。対策は高圧的な方向にむかい、「主魁断罪・余類流罪」の案をもって井上が大阪へやってくる。天皇の大阪行幸中のことで、四月十九日にキリシタン処分の御前会議が大阪西本願寺の行在所でひらかれた。何しろ宗徒の数は、先に捕えられた百人足らずの者だけでなく、およそ三千人を越えるだろうという。へたをすれば島原の乱のような変事にも発展しかねないとする不安もささやかれている。  三条実美、木戸孝允、伊達宗城、後藤象二郎らによる会議では、あくまでも改宗を説得し、きかなければ指導者の斬罪、余類の配流という結論を出した。これはさらに親王、議定、参与からも意見を聴くことになり、山階宮、有栖川宮、岩倉具視、大久保一蔵、横井小楠といった顔ぶれで討議された。大体同じような意見だが、厳罰に処すべしと最も強硬な論を吐いたのは、有栖川宮や大久保一蔵らであった。 「宗徒の中心人物は長崎で厳罰に処し、余類は諸藩に配流して改宗させる」  この処分案を持って、政府の要人が長崎へ行くことになる。厭な役目だが、それを孝允が引き受けた。前にも述べたように、彼の胸中は、版籍奉還の件だけでいっぱいだった。  孝允としては、浦上のキリシタン処分について、かなり甘く考えていたといってよい。  現地には沢宣嘉・井上馨がいるのだから、彼らに中央の決定を伝え、その通りに指示すれば役目は果せる。いわば使者としての立場である。ただ信徒の主だった者を斬罪に処すということになっており、その人選などに関しては孝允の意思が反映する。これが唯一気の重い任務だった。 (血は厭だ)  と彼は思う。これまでも刀を抜いて人を斬ったことがない。人を死に追い込む作業を直接指揮した経験もないのだ。ましてこんどの相手は罪人とはいえ、凶暴な罪を犯したわけでもない信仰に生きる人々である。二百数十年前、島原における大規模なキリシタン弾圧は、徳川幕府の強行した後味の悪い事件として、なお語りつがれている。今となって、そのようなおぞましい役目を背負う気にはなれなかった。だから孝允は、大阪を出発するにあたって、キリシタン処分は、諸外国の目もあることだし、厳罰については余程慎重を要する。現地の情況も見た上で最適の措置を施したい、と含みをもたせた。  長崎に下った孝允は、はじめから信者の斬罪など考えていなかった。それでなくても外国使臣から強い抗議が出ているのだ。そこで信者たちは諸藩に配流して「教導」し改宗させるという方針が、いきなり実行に移された。配流の人数割当ては名古屋以西の十万石以上の藩を対象にしており、一藩最低五十人から二百五十人までとした。  三十八藩のうち辞退したところもあるので、結局二十藩が引き受けた。一藩当たりの人数もふえ、金沢の五百十七人を最高に、尾張・薩摩が三百七十五人、長州が二百九十七人、以下百人前後で、計三千三百八十人というキリシタン信徒が一次、二次に分けられ各地に送られた。  これら十万石以上の大名にまじって、津和野藩だけが四万三千石でありながら特別に信徒を預かっており、その数も百五十三人と多い。神祇局の主流を占め、いわばキリシタン禁教の発頭人ともいうべき津和野が「教導」に乗り出してきたのは当然というべきだろう。  津和野藩が、信徒たちを説諭し、必ず棄教させてみせるという自信を抱いたように、各藩とも何とかなるものと最初は軽い気持で引き受けたが、たちまち手を焼きはじめた。それでも虐待に耐えかねて大半が棄教を誓ったが、がんとして応じない者もいる。津和野藩に配流された信徒の中には、とくにそうした人々が多く、したがって扱いも酷薄をきわめた。迫害と拷問による死亡者は三十二人にのぼり、病死した改心者二人を加えて三十四人が信仰に殉じた。  凄惨な津和野藩のキリシタン虐待は「乙女峠」という事実とはおよそかけはなれた呼名の地に史跡を遺し、今では津和野を訪れる観光客が必ず足をはこぶ場所となっている。 「浦上四番崩れ」の悪役は、なぜか津和野藩だけが世に知れわたっており、長州藩は口をぬぐっている感じである。  長州藩にもむろん浦上から信徒が送りこまれてきた。輸送には加賀藩の蒸気船が使われ、第一次の六十六人が慶応四年五月二十一日、下関港に上陸した。藩では萩の沖合にある流人島の大島に「異宗徒預り所」を設けて収容し、ただちに教導にとりかかる。  この信徒たちは代官杉梅太郎の管轄におかれた。梅太郎は吉田松陰の実兄で、のちの杉民治である。そして小野|述信《じゆつしん》が教諭掛を命じられ、もっぱら神道を説いて、改心をうながした。  述信は萩藩士で、このとき四十五歳。明倫館では儒学を講じていたが、しだいに国学に傾き、新政府が成立すると神祇局に出仕し、宣教権判事となって神道を説いた。いつも白いはかまをはいて「資性清高」をうたわれた人物にふさわしい|身形《みなり》を整えていた。彼のほかに神官二人が教諭掛を命じられている。  大島の収容所は不便だというので、七月には萩城下に信徒を移し、堀内の寄組士清水美作の屋敷が空家になっていたので、ここを「異宗徒預り所」にして本格的な教導に乗り出した。  教諭掛の小野述信は、隣藩の津和野におけるキリシタン教導の情況を視察するため、時折そこへ足を運んだ。 「尊藩には信徒の中でも最も頑迷な者が預けられていると聞きましたが、説諭の方法はいかにされておりますか、お教え願いたい」という意味の、長州側から津和野藩に出した書簡が残っている。  三尺牢という小さな牢にとじこめ、または縄でしばりあげ、鞭でたたき、真冬の氷貴めなど、あらゆる拷問を用いた津和野藩の教導は、述信たちの大いに参考とするところだったろう。しかし必ずしも津和野藩を真似たというのではなく、改宗をせまる手荒い方法は長州のほうが先で、萩には食事を与えずに改宗をせまる「勘弁小屋」などもあった。  津和野藩は、信徒が送られてきて一カ月間は、丁重にもてなすような扱いで、何ら吟味らしいことをしていない。そうしてやおら厳しい指導に入るのだが、陰湿といえばこのほうがそんな感じである。  長州ではただちに教導を開始し、五月二十一日に六十六人の信徒を迎え、六月十七日には四十一人を「改心」させている。さらに翌明治二年五月十三日までには、死亡三人、脱走四人をのぞく全員が棄教を誓った。しかし、この死亡三・脱走四という数字が、教導の過酷さを物語っていると見るべきであろう。明治六年(一八七三)に解放され帰国した浦上の人々が語ったところによると、最も取り扱いが寛大だったのは薩摩で、逆に長州萩は最高にひどかったともいう。  第二次の信徒が送られてきたのは明治三年一月であった。長州への割り当ては予定より少し減って、二百三十四人となった。一次にくらべるとさらに悲惨で、その顔ぶれも十歳以下が五十三人、十代五十人と年少者が半数近い。その上、萩に着くまでの道中で十一人が死んだ。逆に輸送の途上で三人が生まれた。痛ましい迫害の旅程に命の燃え尽きた者と、新しい生命の芽吹きと。結局、萩が迎えた信者は二百二十六人、そのうち男九十二人、女百三十四人であった。彼らは城下の岩国藩邸に収容された。  新政府のキリシタン禁教政策に対しては、外国公使からのたび重なる抗議が集中したが、明治六年禁教が撤廃されるまで、実に六年間という長期にわたって迫害が続いたのである。その間、萩に収容された第一次、第二次預かりの信徒から二十四人の死者を出した。輸送中死亡の十一人をあわせると三十五人である。津和野藩における三十四人に並ぶ殉教者の数が、わが国キリスト教弾圧史に刻まれた。  木戸孝允が、中央から派遣されて長崎へおもむいたために、「浦上四番崩れ」の元凶を彼だとする見方があれば、それは前後の経緯からいっても正確な認識ではあり得ない。しかし、このいまわしい事件が、五条誓文を契機に、祭政一致、神道国教主義を掲げた新政府の前時代的な体質がもたらしたとする限りにおいて、孝允もまた罪なき人間に加えた、残虐行為の責任の座につらなる一人であるとはいえるだろう。 「異宗徒預り所」をおいた萩堀内の岩国藩邸跡が、その後キリシタン墓地になったことを孝允は知らない。フランス人のビリオン神父が萩にきて、殉教遺跡としてこの地を示したのは、孝允の死後すでに十数年を経たころだったからである。  現在、堀内のこのキリシタン墓地は、津和野と違って、萩を訪れる観光客の目標とはめったにならない。土塀や樹木にかこまれて、まったく眺望のない墓地の一段高いところに「浦上四番崩れ」の殉教者の、黒ずんだ砂岩の墓標が七基傾いている。むろんほんの一部にすぎない。「肥前国浦上村百姓……」といった文字も彫りが浅く見えるほど風化してしまっている。  この墓地の入口には、巨大な自然石の碑がある。慶長十年(一六〇五)、毛利輝元の命令で一族討ち果しとなった熊谷元直の殉教碑である。萩築城中の紛争によるが、キリシタン改宗を拒否したためともいわれている。ビリオン神父の建碑によるものだ。二百七十年の歳月をはさんで、萩藩の初めと、その終りにキリシタン迫害の歴史を遺したというのも奇しき偶然であった。   諸隊の叛乱 「浦上四番崩れ」の信徒第二次輸送の人々が萩に入ったころの明治三年(一八七〇)一月、長州藩内では、寒風をつんざいて銃弾が往き交い、暗い緊張につつまれていた。諸隊の叛叛乱である。脱隊兵事件という。  明治二年五月、北海道の五稜郭に立てこもっていた榎本武揚が降伏し、戊辰戦争は終結した。動乱がおさまると、奥羽・北越・北海道その他の戦場から官軍は引き揚げをはじめる。輝かしい勲功を立てた長州兵も、胸をはってぞくぞく郷里へ凱旋してきた。  戊辰戦争に出動した長州藩諸隊の人員は約五千、そのうち死者三百人以上、負傷者六百人を数えた。傷を負わないまでも、ほとんどの者が疲れきっている。凱旋とはいえ重い足どりの帰国だった。  郷里へ帰ってきた隊士たちのうち、家庭のつごうで除隊したい者は、その旨を申し出れば許された。しかし大多数はそのまま隊にとどまった。いま隊を離れても食っていけないのである。農村は荒廃しており、帰省したところですぐに生業に就けるような状態ではない。まして隊士の多くを占める次男や三男の落ちつく場所は見当たらなかった。  しかし藩にしてみれば、なお五千人近くの軍事組織をこのまま維持して行くことに大きな負担を感じはじめていた。そこでおこったのが「精選」の問題である。つまり五千人の中から二千人を選び出して常備軍をつくる。それも藩兵としてでなく朝廷の親兵にさしむけるという案だ。  これは版籍奉還後の兵制改革とも関連している。兵制改革の第一段階は、諸大名の武装解除である。大名が私的に軍隊をかかえるのでなく、中央政府が管轄する国軍としてこれを編成する作業が、兵部大輔に就任した大村益次郎を中心におこなわれた。  このころ新政府は、すでに東京に移っている。東京遷都は、なしくずしのように、いつの間にかという感じで実現した。大阪遷都と同様、強い反対があったからである。中央政府を京都から江戸へ移そうという計画は、江戸開城直後から新政府の中で具体化し、慶応四年七月には江戸を東京と改称し、東京府を開設している。はじめ行幸の名で東京と京都の間を天皇が往復しているうちに、江戸城は皇居となり、太政官が京都から東京へ移った。だから東京|奠都《てんと》は明治二年十月に公布されたが、「事実上の」とカッコ付きでいえばその年三月、最初の東京行幸のときに達成されていたのである。  東京の兵部省で、大村益次郎が木戸孝允の声援を受けながら進めたのは洋式兵制改革であった。益次郎は士族による職業的軍隊を廃し、広く国民から徴募した兵員による洋式兵制を大急ぎで整えようとし、これに反発する暴徒に京都で襲われた。明治二年九月四日のことで、重傷を負い、十一月五日大阪の軍病院で絶命した。  益次郎の遭難、危篤、そして死亡という報が届くたびにみせる孝允の「激歎」ぶりは、はた目にも痛ましかった。 「大村ハ春来、共ニ力ヲ尽シ、昨年モ亦前途ノ大策ヲ論定スル事多シ。彼剛腸ニシテ且ツ心切、毫モ表裏ナシ。実ニ此ノ際ニ当リモツトモ益友タルヲ知リ、交情甚ダ厚シ。尚前途ノ事モ相憂ヒ、大ニ後来ノ策ヲ約セシ事少ナカラズ。今日此ノ左右ヲ聞キ、実二浩歎失力、不覚|潸然《さんぜん》タリ」  益次郎危篤の報を受けたときのそんな孝允の日記にあるように、ひとつの分身を失おうとする不安と失意が彼をとりつつんでいる。  伊藤俊輔(博文)にあてた手紙に「大村歿去之到来コレアリ、力モ落チ、勢モ御座無ク候」と書いた通りの打ちひしがれようだった。  大村益次郎暗殺の下手人の中には、|神代《こうしろ》直人、団伸二郎ら長州出身の者がまじっている。いわゆる反動士族の暴発であり、その背後で糸を引いたのは京都の弾正台にいる海江田武次であったともみられている。江戸城受け取りのあと、益次郎と衝突した薩摩藩士で、しきりに洋式兵制に批判の矢を向け、浪士を集めて剣術の演武などをやらせていた。団伸二郎らの処刑を妨害しようとしたのも海江田であった。  益次郎が推進した洋式兵制への憎悪は、長州の諸隊内にも濃厚にたちこめていた。それは伝統的な攘夷思想から発する頑固な排外主義のあらわれでもあった。「攘夷の残風」が吹き荒れようとしている。  版籍奉還後の藩主に代る「山口藩知事」には世子の毛利|元徳《もとのり》が任命されている。元徳は明治二年十月、兵員二千人を朝廷の親兵として差し出したいとの意向を奏上した。  そのうち千人を東京におき、あと半数は山口において、随時交替させるというものである。だぶついた兵士をもてあました末の�名案�だったが、朝廷からは「千五百人でよい、しかもすぐ東京へ来てもらっても困るので当分そのまま藩内にとどめておくように」との返事だった。これによって、長州の常備兵は千五百人を「精選」し、これを四大隊に分け、山口・萩などに配置することにった。  この常備軍に選ばれる兵士は、二千人からさらに五百人減るわけである。「精選」をめぐる隊士間の競争意識も露骨となり、自分の勲功を書面にしたためて出す者もいた。「だれが選ばれるのか」で隊士たちは動揺した。  人選が進んでいる十一月十四日、突然、藩の軍事局にあてて、遊撃隊の|嚮導《きようどう》(中堅幹部)三人が、上官の弾劾書を提出した。その内容は、隊の規則が乱れ、人心が動揺しているのは、長官の「私曲の所業」によるものであると前置きして、十三カ条の弾劾項目をあげている。賞罰の不正、公金の濫費など上層部の乱脈を衝き、このような幹部によって選ばれた人員が他隊と合併するのでは「精選」の趣意にもそわないというのであった。  軍事局はこれをとりあげなかった。好ましからざる行動とみたのである。そこで遊撃隊の者は、結束して「精選」をこばんだ。軍事局はそうした遊撃隊の空気をきらって、常備軍の編成から遊撃隊だけをまったくはずしてしまった。  不満に火がついた。彼らはさらに上書して請願し、これもとりあげられないことがわかると、百八十五人が武器を持って山口から瀬戸内方面に走った。  それに呼応して、常備軍編成の人選にもれた奇兵隊二百五十八人、整武隊二百七十五人、振武隊二百二人、鋭武隊百七十一人をはじめ、いったん除隊して家に帰っていた者までが駆けつけたので、およそ二千人にのぼる脱隊兵の集団が騒然とした気配をもりあげた。  諸隊内での幹部層と下級隊士の対立は、かなり以前から芽生えていた。慶応二年、第二次長州征伐の幕軍を迎撃する直前の四月、周防|石城山《いわきさん》に本営を構えていた第二奇兵隊の脱走事件があったことは「南奇の脱走」で語った通りである。立石孫一郎という人物の煽動によるものではあったが、それも下級隊士の不満に火をつけた結果である。  第二奇兵隊脱走を知って、他の諸隊でも同調しようとする不穏な動きがあった。厳罰をもって臨み、かろうじて戦力瓦解の危機を切り抜けた。対幕戦の四境戦争、戊辰戦争とつづく戦線を駆けめぐっている間、隊内の対立は影をひそめていたが、戦いが終ると当然のように矛盾は激化し、「精選」にからんでそれが噴き出したのである。  武士を中心とした少数の諸隊幹部と、陪臣・農民で占められる下級隊士との離反は、いわば宿命的なものであった。下級隊士の多くは、諸隊成立当時からの攘夷、排外といった素朴な体臭を、まったく捨て去るまでには至っていないのである。むしろそれこそが長い間諸隊を存立させた支柱だったのだから、無理からぬことだった。  これに対して、諸隊上層部の人間は、時勢の推移につれて開明的な方向にむかっており、すでに攘夷思想を脱却して、しかも新しい権力機構の末端に接近しようとしている。つまり民衆の列に帰るべき下級隊士をふり捨てようとしているのだった。脱隊兵たちの不満は、そうした幹部層の特権意識に対する反発であり、そしてしきりに洋式兵制を進める新政府への憤懣である。  木戸孝允は、この諸隊叛乱の原因を、上級隊士と下級隊士の分裂であるということまでは理解していたが、それ以上には諸隊の本質をつかんでいなかった。  孝允は、武士団で編成された干城隊の総督を一時つとめたことはあるが、奇兵隊をはじめとする民兵諸隊と接触する機会は、それまでついに一度もなかった。孝允が彼らに特別の親近感を抱いていなかったのも、不幸のひとつの原因であったかもしれない。  少しさかのぼるが明治二年五月八日、孝允は大阪の軍病院を訪れ、オランダ人医師ボードインの診察を受けた。ボードインは大村益次郎の右足切断の手術を執刀した医師だが、外科医のせいか孝允の頭痛に関して確定的な診断は下さなかった。  ボードインに診てもらうように奨めたのは岩倉具視である。間もなく孝允は参議に任ぜられ、東京へ出て多忙な職務につかなければならない。それまでに一度西洋人の医師にかかってみてはどうかというのであった。  孝允の症状は、いぜんとして「脳痛」である。いつもこれに悩みつづけている。東京での「大会議」が五月二十一日に予定されていた。版籍奉還以後の新政府の方策を討議、決定する上局会議だ。「廃刀論」「切腹禁止論」などが出たのもこの会議で、また「郡県制実施」の機運もある。廃藩置県への動きが始まっているのだ。  大会議が終ったら辞官したいという意味の手紙を、孝允が岩倉具視に送ったのは、ボードインの診察を受ける前後のことである。 「……御奉公申上ゲル可クト存ジ奉り候処、不快ニテ、兎角ハカバカシク御座無ク候。当節モ時々|脳痛暴発《ヽヽヽヽ》仕リ候テ、|ヒール《ヽヽヽ》之百五六十数モ相ツケ、漸ク一時ヲ凌ギ候様之仕合ニテ……」  この中の「ヒール」とは|蛭《ひる》のことで、環形動物蛭綱に属する動物として知られている。魚貝類や人畜の皮膚に吸着し、血を吸う。ウマビル、ヤマビルなど多くの種類がいるが、医用蛭として使われるのはチスイビル(血吸蛭)である。  現代では鬱血など心臓循環系の負担を軽減するための|瀉血《しやけつ》は、血液凝固液で湿らせた注射器(針)を使う。これで血を体外に取り出すのだが、注射器のない時代は、この医用蛭を患者の皮膚に吸いつかせる方法をとった。  今でも医用蛭を使う療法があるのは、蛭そのものが医学的な自然の機能を持っているからであろう。つまり蛭は例えば人間の皮膚に吸いつくと同時に、ヒルジンという血液凝固を妨げる物質と、血管の拡張作用をするヒスタミン様の物質を|唾腺《だせん》から出し、吸血と共にこれを人間の体内に注入する。 「脳痛暴発」というのだから、孝允を襲う頭痛は、ずいぶん激しいものだったにちがいない。普通瀉血の量は一〇〇cc—三〇〇ccとされる。だから孝允が手紙に書いているように、百五六十匹の医用蛭は大げさではなく、必要な量なのである。自分の白い肌に取りついたおびただしい蛭が、吸いこんだ血にふくれあがっていくのを、表情を歪めて凝視している孝允の哀れな姿を想像して、岩倉具視は嘆息したことであろう。  孝允のこの「脳痛」が、いったい何の病気なのかがよくわからない。ボードインの診断も曖昧で、軍病院にいた日本人医師緒方拙斎も確たる病名をつかめなかった。ボードインは「身心過労のためであり、どこか静かなところで休養することが大切である。さもないと病勢はさらに増すだろう」と助言するにとどめている。  かつて孝允の父親である和田昌景は、幼少時代の腺病質な彼の寿命を|危《あや》ぶんで早々と養子を決めたほどであった。青年期になると、見事に立ち直って、練兵館の激しい修業にも耐え、有数の剣客といわれるまでになった。しかし、練兵館を離れて活動しているころの彼は、絶えず身体の故障を訴えており、虚弱な体質をのぞかせていた。  明治二年のこの年、孝允は三十七歳になっている。頭痛、胸痛、歯痛といった肉体的苦痛にさいなまれる日々が続き、しばらく小康にめぐまれたかと思うと、また苦しみに襲われるのである。多分に神経衰弱の気味もあった。 (木戸は神経病)  などと陰でささやかれている。  ボードインのすすめに従って、十日ばかりを天保山に遊んだ。このときは木梨信一がつきあった。木梨は長州藩士で、のち百十銀行(山口銀行の前身)の頭取になった人物である。  大阪湾にそそぐ安治川の河口左岸にある小丘が天保山で、幕末には砲台が築かれた。風光明媚の海浜だ。海水浴もよいとボードインからいわれたので、炎天に灼けた砂を踏んで海にも入ってみた。  毎日澄んだ青空をながめて、のんびりすごしていると、いくらかは体調もよくなり、五月二十三日には休養を打ち切って神戸へ行き、翌日グラバー所有の汽船で東京へむかった。  二十九日には神奈川でイギリス公使パークスに会う。さらに川崎に着くと通商司知事に任じられたばかりの伊藤博文が、外国官判事中井弘蔵と共に、孝允を迎えに出ていた。多忙な日程が始まる。 「大会議」といわれる上局会議は、五月二十一日からすでに開かれていた。親王、公卿、諸侯をはじめ新政府の要路が集まって、版籍奉還後の方向を定める重要な会議である。  孝允は、天保山で休養している間の十五日、参議に任じられ、従四位下に叙せられていた。病気療養ということで遅参し、これを拝命したのは六月四日である。  大会議の結果、政府は民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の各省が設置され、初歩的な内閣制度がここに発足した。  それを総括する太政官はなお存在した。しかもこれまで太政官にふくまれていた神祇官が独立したばかりでなく、太政官の上に据えられたのである。新時代をにおわせる内閣制を生んだ半面では、神祇の権威を増大させるという時代逆行もみせる制度である。攘夷思想を中心とする保守的な潮流にも迎合しようという政府の意向があらわれている。  大会議が終ったら参議を辞任したいという孝允の希望を容れ、岩倉具視は、「待詔院学士」に彼を任命した。待詔院はそれまで待詔局といっていた。建白書受理の機関で、いわば閑職である。 「一切の職を辞したい」  と孝允は、受けようとしなかった。  具視は孝允が|拗《す》ねているかのように誤解したのかもしれない。つまり大久保一蔵──もう利通と呼ぶことにする──が、なお参議にとどまっているのを、孝允が面白くない目で見ているのではないか、と思ったのだろう。 「大久保さんにも参議を辞めてもらいます。木戸さんと二人で、当分待詔院学士ということで骨休みして下さい」  具視としても、この二人をしばらく休憩させてやりたいという気持に偽りはなかったのだろう。しかし新制度によって、いよいよ国政を動かそうと張りきっていた大久保利通としては、孝允と一緒に閑職にまわされることに不満を抱いた。 (また木戸に足をひっぱられた)  そう思ったにちがいないが、それでは諸君のお手並拝見と、一応はひきさがって孝允と共に待詔院学士を拝命した。七月八日のことである。  ところが孝允と利通が勇退したあとの政府部内は、まったく不統一で、各個に勝手な意見を吐き、対立混乱の様相をただちに見せはじめた。  具視は自分の不明を右大臣の三条実美に詫び、六日後には待詔院を廃止することにして、再び孝允と利通の参議復帰をうながした。文字通りの朝令暮改である。 「何たるざまだ」  利通は吐き捨てるように言いながらも、参議に返り咲いた。彼は復帰するとすぐに「政府不動の根幹三ケ条」を提示する。   一、大目的を定む。   二、|政《まつりごと》一本に出づ。   三、機事は密なるを要す。  鼻息荒く条件を示しているのだ。「機事は密なるを要す」とは、政府の要路以外は、政務にくちばしを入れさせないという意味である。政府部内の不統一、混乱に怒気を発したような高姿勢だが、つまりは専制政治の宣言であった。  利通はそのようにして参議に再任されたが、孝允は病気を理由に固辞した。彼が一緒に返り咲くものと思っていた利通は、はじめて「おや?」と思った。しかしすでに盟友をふりかえる余裕はないのだ。利通が、冷ややかな表情で孝允の一歩前を、大きく踏み出す瞬間だった。  政府の中枢にあたる参議には、肥前出身の|副島種臣《そえじまたねおみ》と長州出身の前原一誠がいた。これに大久保利通が加わる。そして孝允の代りということで、一日おくれて長州出身の広沢|真臣《さねおみ》(兵助)が任命された。長州から二人の参議が出るのも異例といえる人事だ。 (しかし、あの両人では、束になっても大久保にはかなうまい)  相変わらず「脳痛」に顔をしかめながら、孝允は思う。  東京奠都以後の新政府は、あの西洋馬車に似た、新しくもまた古めかしい車輪の回転を始めた。それは大久保利通を馭者として、徐々に速度を増していくのである。──  待詔院が廃止され、参議復帰も断わったあと、孝允はあらためて休暇の許しを受けて、療養の日々を送った。このころ妻の松子が東京へ出てきている。  木戸家は番町(麹町三番地)にあった。築地には大隈重信がいて、一度孝允の宅を訪れたことがある。伊藤博文がつれてきたのだが、必ずしも重信のほうから孝允に接近してきたというようなものでもないようだった。  この大隈重信は佐賀藩の上士だったが、幕末動乱のころは傍観の立場にあり、新政府になってから突然登場した人物である。孝允より五つ年下だから、明治二年には三十二歳だ。早くからイギリス人について学んだ新知識として迎えられ、外交関係から財政経済畑に移って力をふるった。孝允が参議を辞めたころ、重信は大蔵大輔と民部大輔を兼務するなど重要な椅子を占めている。  重信に近づこうとしたのは、むしろ孝允のほうだったかもしれない。一度訪問してきた重信に、孝允は再度呼び出しをかけた。七月二十九日のことである。待っていたがやってこないので、孝允は散策を装って築地の大隈邸をたずねた。不在だという。筆と紙を借り、置き手紙して、帰ってきた。その手紙というのが、例によって愚痴っぽい内容である。 「所詮、皇国維持の目的は|覚束《おぼつか》なく候処、根軸相立たず、朝変暮移……|終《つい》に瓦解に至り候外はこれなく……」  といった文句が並んでいる。「終に瓦解」というのは、孝允の口癖だ。重信は、うんざりしたのだろう。病人なら病人らしくおとなしくしていればよいのにという気持が、黙殺の姿勢にあらわれているとみなければならない。孝允はいらいらして待っているのだが、重信は何も言ってこない。  八月一日に、孝允はまた手紙を書いた。十二字(時)までも待っていたのに、などとまず恨みごとを述べ、先日置いてきたあの手紙は返してもらいたいと要求している。そして大蔵・民部大輔の兼務については、反感を持つ者もいる様子なので、耳に入れておきたいこともある、ぜひ会いたいというのであった。この手紙は宛名を「大苦満様、御内密」とし、署名も木戸の|音《おん》をもじって「|鬼怒《きど》」と書いている。  その後も大隈重信に、ずいぶん手紙を書いているが、何となく取りあわない感じで、孝允はこの人物にあまり好かれていない様子だった。  財政経済官僚として、重信は長州の伊藤や井上らを顎で使うほどにのしあがっていく。これは薩長藩閥勢力の警戒するところとなり、やがて伊藤博文らから追放されるのである。重信が政府を出るのは孝允の死後、明治十四年の政変のときだが、ここで彼は改進党をつくり、野党的な精神にもとづく東京専門学校(早稲田大学の前身)の創立となる。──  明治二年の話にもどる。政府部内は開明派の大隈重信が次第に力を持つかと思えば、その上に立つ民部卿・内務卿には松平春嶽や伊達宗城といった保守派の諸侯がいぜんとして頑張っている。この二人は大蔵卿も兼ねるほどの勢力を持ったが、それなりに反発も強い。 「やはり薩長が出なければだめだ」  と大久保利通が、孝允に働きかけてきたのは、その年の十二月だった。利通は今の政府は「|蚊背《ぶんばい》の山」みたいなものだと言う。 「王政復古も版籍奉還も、すべてその基を開いたのは薩長であり、列藩はこれにならった。今薩長が天下の動静を傍観すれば、列藩もまたこれにならうだろう。薩長が再度登場すべき時がきている」  と利通は長州の毛利敬親、薩摩の島津久光、西郷隆盛(吉之助)を中央に引き出して、強烈な薩長の筋金を政府に入れようではないかと主張する。 「今日、力の強弱を計るに、朝廷より威力ある者は薩長なり」  利通はそうも断言してはばからない。「これを用ひずんば朝廷自ら微弱たるべし」とも言う。政府部内の百家争鳴といった空気に|業《ごう》をにやした利通は、第二の薩長同盟ともいうべき両藩の提携を呼びかけたのである。  すでに藩というものを捨て去り、さらに廃藩置県を強引に推し進めようとしている開明派官僚の大久保利通が、薩長を背景に強力な指導性を打ち出そうとするのだ。  一見矛盾した論理だが、なお薩長が隠然たる実力を持つ限り、それを利用しようというのだ。しかし、ここには明らかな藩閥勢力の形成をうながす毒液が流れこんでいる。藩は解体されても、藩閥意識だけは、むしろ濃厚に浮きあがってくるのである。  ──藩閥。  それは出身藩につながる人脈によって閥をつくり、権力を独占した維新政府に対して反撃する立場から生まれた言葉である。そしてその藩閥とは、版籍奉還で他藩にさきがけた薩長土肥四藩をさしているが、その中心は薩長そのものであった。薩と長の均衡の上に成り立つ「藩閥政治」を体質とする絶対主義政権への反感が、長く後世に尾をひくことになるのだ。  初期の藩閥形成を、もっと低い次元でみようとするむきもある。つまり長州は本州最西端、薩摩は九州最南端である。そんな辺地で蓄えた力を噴出して、京都からさらに東京という大都会に本拠をおく政権の担当者となったとき、一応は利害共通する二つの田舎雄藩の人間が、周囲からの力に対抗するために肩を寄せあうのは、必然的な力学というものであった。しかもその発想は、倒幕を遂行するために手を結んだ慶応二年の薩長軍事同盟に如実に示されている。──  孝允が大久保利通から提携を呼びかけられたのは、大村益次郎が絶命したという知らせを受け、「痛惜悲歎」にくれてからまだ間もないころの十二月三日である。  その夜、大久保利通と孝允は久しぶりに酒を酌みかわしながら「大いに時勢の不振を憂ひ」「両藩一致、東西合一の論を以て」尽力しようと話しあった。  利通は、近日中一緒に西下し、まず山口ヘ行って毛利敬親の賛同を得たのち薩摩へ足をのばし、島津久光を説こうというのである。 「余、又|平生《へいぜい》深く憂ふところ、その説よしとす」  孝允は同意した。  早くも翌四日、孝允と利通に帰藩命令が出る。むろん三条実美、岩倉具視に働きかけての朝命である。用務は山口藩知事毛利元徳の父敬親、鹿児島藩知事島津忠義の父久光及び西郷隆盛への上京命令を伝えるというものである。  二人が東京を離れたのは中旬を過ぎてからで、途中京都へ立ち寄った。思いがけなく京都では大村益次郎暗殺の下手人処刑をめぐって、紛糾していた。十二月二十日の死刑執行当日になって、京都弾正台出張所から手続不備の理由で京都府に異議が出され、中止となったのである。弾正大忠の海江田信義による妨害行為だった。海江田と大村の対立は前に述べた。  京都府権大参事は長州出身の槇村正直である。槇村はすでに太政官から執行命令がきていると言い、海江田は本台からの連絡がないと頑張っている。もともと海江田は、下手人に同情的で、助命運動に手をかしたほどである。槇村と海江田の対立は、薩摩と長州の反目でもあった。  薩長提携を誓いながら、京都までやってきた孝允と利通は、思わず苦笑いしてしまう。  しかしそれにしても、政府の一要人が、その職務をタテに政府命令による重罪犯人の処刑執行に、感情をまじえて妨害行為に出るというのも奇異な現象である。蒼ざめていく孝允の気持を見抜いたように、 「木戸さん、これは私が片付けます。一足先に山口ヘお帰り下さい。すぐにあとを追いましょう」  と利通は、すぐに弾正台出張所へ乗り込んで行った。  孝允は一人で大阪にむかい、そこから船に乗った。たまたま帰国する井上馨、杉孫七郎、品川弥二郎らと一緒になる。 「常備軍の選から洩れた連中が騒いだようですが、どうやらおさまったらしいです」  井上馨がそんな情報を教えてくれた。  十二月二十七日に船は三田尻港に着いた。常備軍監軍の野村靖(入江和作)が迎えに出たが、ひどく|強《こわ》ばった表情をしている。 「どうも厄介なことになりそうです」  いきなり靖が言った。 「大阪で聞いた話とは、ずいぶん違うではないか」  とまず井上馨が問いただした。 「はじめは遊撃隊だけの問題かと思われていたのですが、奇兵隊その他、ほとんどが歩調をあわせ、不穏な動きをみせておるのです」  野村靖はサジを投げたという口ぶりだ。足軽の子で、入江和作といっていたころ、兄の杉蔵と共に吉田松陰の忠実な門弟として活躍した。とくに杉蔵は松下村塾の四天王の一人に数えられたが、禁門の変で討死している。久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江杉蔵。四天王たちは戦いの途上に果て、すでにこの世の人ではない。  和作は戊辰戦争を戦い、生き残って、今は常備軍の幹部となり、約束された未来へむかって歩んでいる。こうして三田尻港で、脱隊兵の動静を不安気に話しこんでいるのは、すべて生き残りの志士たちだ。一方には、戦火をくぐって生き残っても、閉ざされた将来に怒りを投げつける人々がいる。ついこの間までは同志であったはずの脱隊兵たちである。 「すぐに藩庁へ行こう」  と孝充は言った。 「危険でありますから、ひとまず船で私と一緒に下関に行って下さい。それから機を見て山口へ入られたほうが……」  靖はしきりにすすめたが、孝允はやはり山口ヘ直行することにした。結局、野村靖・井上馨・杉孫七郎は船で下関へ、孝允と品川弥二郎は歩いて山口ヘ入り、藩庁に敬親父子をたずねた。山口の町にまだ脱隊兵の姿はなく、しごく平穏である。 (野村は何を怖れているのだ)  と言いたいぐらいだったが、孝允たちはまだ藩内の切迫した情況をよく知らなかったのだ。  敬親や藩知事の元徳も、諸隊の不隠な動きに悩んでおり、孝允が持ち帰った薩長提携や上京の話など、それどころではないといった面持ちだった。ひとまず中央の事情を報告して、大久保利通を待つことになる。 (大久保が長州のこの様子を見ておどろくであろうな)  恥部をのぞかれる思いだ。  明けて明治三年(一八七〇)の正月を迎える。脱隊兵たちは山口にほど近い宮市に本営をおき、砲台を築いて、鎮圧の常備軍がくれば敢えて迎え撃つ態度を整え、気勢をあげている。騒然とした気配は高まるばかりだった。 [#ここから2字下げ] 一、当今ノ時勢、攘夷ノ行フベカラザル、モトヨリコレヲ知ルガ、風俗ニ至ルマデ異人ニナラフハ甚ダシ。 一、兵制ハ彼ノ長ヲ取リ、我ノ短ヲ捨ツルニ異議ナシ。従ツテ洋銃、洋砲、洋服ヲ用フルハ可ナリ。シカシ被髪脱刀ニ至リテハ世上ノ人気ニモ関シ、事甚ダシキニ過グ。 一、今日、兵士ノ沸騰ハ畢竟、政治掛役員並ビニ諸隊長官等ノ処置其ノヨロシキヲ得ザルヨリ起レル如シ。相当ノ詮議アランコトヲ願フ。 [#ここで字下げ終わり]  藩庁に提出した脱隊兵たちの請願書である。これを読んだとき、孝允は殺された大村益次郎のことをふと思い出した。怒りとも悲しみともつかぬものが、こみあげてくるのである。  藩庁には支藩の知事も集まって、連日対策を協議しているが、常備軍に命じて鎮圧するかどうかで迷いつづけるだけで、脱隊兵たちはまったく野放しの状態になっている。何しろ倒幕戦で用いた武器をそっくり手中にしている二千人の兵たちである。へたにつつけば、藩内はたちまち戦場になるのではないかと怖れているのだった。中心になってこの難問解決にあたろうとする者がいない。 「藩公父子、各支藩知事が同心一致して、条理に基づき、百万諸隊を慰諭し、なお従わず暴挙の態度に出るときは、断乎たる処置をとる、まずこのことをお決めになるのが大事であります」  孝允が叱るような口調で言う。別の目的を持って帰藩した彼は、はからずもこの脱隊兵事件に巻きこまれ、しかも中心人物として解決に奔走する立場に追いやられたのである。  下関にいる井上馨は、干城隊をもって、脱隊兵を粉砕しなければ騒ぎはおさまらないのだと強硬論を吐き、そのため萩へ行こうという。「早まるな」と、孝允も一応はそれを押し止めている。  何としても火を噴かせたくなかった。そんな長州の状態が東京に伝わったらどうなるのだと、孝允はまずそれを怖れているのだ。  さっそく在京の参議広沢真臣にあてて手紙を送る。藩内の情況を説明し「最悪の場合は断乎たる処置をとるが、それもできるだけ内部で片付けたい。官兵派遣の必要があるときは、詳しい理由を述べあらためて奏請する。また中央からの大巡察使の派遣は、事が大げさになるので絶対にやめてもらいたい」と要望した。  帰国するなり、困難な問題に直面して忙しく立ち回っていた孝允も一月五日になると、腹痛をおこして、苦しみはじめた。それでも無理をして会議に出席していたが、八日には激痛のため動けないまでに病状は悪化した。医師竹田祐伯が呼ばれ、付きっきりで治療にあたるが、どうも思わしくない。  会議に出られないので、藩庁内の一室をあてられた病室で、呻きながら討議の様子を聴き、床に就いたまま書面で弁論応答するという苦行が数日つづいた。  見違えるほどに痩せ衰えた孝允を目の前にしても、どうぞ休んでいてくれと|労《いた》わる者はいないのだった。重病人の彼一人に、みんなで倚りかかって、ただ右往左往しているだけである。新政府に人材を吸い取られて弱体化した藩の現状が、はからずもさらけ出されたということであろう。よく芝居にたとえて情況を説明していた孝允の筆法をかりて言えば、うろうろと群がる大根役者にとりまかれ、体力を失って足をふらつかせながらも懸命に舞台をつとめている主役、それが孝允の立場である。  十一日には、京都での問題をさばいた大久保利通が、約束通り三田尻に寄港した。黒田清隆(了介)を伴っている。すぐに面会を求めてきたが、孝允は病臥中でだれか代わりの者に応接を依頼した。しかし孝允以外に利通と話しあえる人物はいないとあって、結局引っぱり出されることになる。  その日の夕刻、孝允は藩の権大参事久保断三、熊毛郡管事奥平数馬につき添われて、利通たちの宿舎になっている湯田温泉の松田屋を訪れた。  ひどく窶れた孝允を見て、利通は瞬間息をのんだが、さっそく懇談に人った。まず十二月二十九日、粟田口刑場で大村益次郎暗殺の下手人五名の処刑が執行されたことを、ごく事務的な口調で報告した。 「大村先生の霊も、これで何程かはうかばれましょう」  と孝允が感慨をこめて言ったが、利通はちょっと頷いただけである。  益次郎が絶命したと聞いたとき、孝允などは「実に痛歎残意、悲極つて涙下らず、茫然気を失ふが如し」と日記に書いているが、利通の場合は「京師に於て大村へ混雑乱暴」の事実を短く記入しているにすぎない。  むしろ五名の処刑が了った日に、利通は「今夕、離杯久々振りに絃声を聞き、|頗《すこぶ》る愉快を尽し候」と感想を述べるほどのものであった。自分の努力で処刑が無事に運んだことを|祝って《ヽヽヽ》芸者を相手に酒を呑み、歓を尽したというのである。 「大村先生の霊」などといった孝允の感情的なものの見方を利通は理解できない。彼の関心事は、この場合なら処刑それ自体でしかない。あくまでも冷ややかで現実的な政治家大久保利通の視線は、諸隊脱隊兵の騒然とした動きに困惑する長州の現状にもいち早くむけられている。 (今の長州ではあてにならない)  と利通は早々に引き揚げようと腰を浮かすのである。翌日、藩知事の毛利元徳とも一応は会談したが、熱はこもらなかった。 「薩長の力を天下に誇示しなければならぬというとき、弊藩のこの騒ぎはお恥かしい次第であります」  孝允は正直に情勢を打ち明けた。脱隊兵たちは、山口を包囲するように砲台を築いたりしているのだ。 「いざというときは、鎮圧の援軍を薩摩からむけましょう」  と利通は約束し、十六日に三田尻を出帆、薩摩へむかった。  脱隊兵とは別に、厄介な事件がおこっている。一揆である。  孝允が帰国する十二日前の明治二年十二月十九日、|美祢《みね》郡岩永村での騒ぎが発端となった。同村水田組の|畔頭《くろがしら》が年貢とりたてに使う|枡《ます》を不正に容量の大きなものにしていることを発見した農民が騒ぎだしたのだ。一揆はやがて隣村にうつり、また|厚狭《あさ》郡に飛び火し、再び美祢郡にかえり、一月に入って大久保利通がやってきたころは熊毛郡で荒れ狂っていた。一揆勢には、脱隊兵がはいりこみ、あるいは社寺改革で失職した僧侶なども煽動者となった。  脱隊兵と一揆がかさなって、長州全域が不穏な空気にとりつつまれている。脱隊兵はすでに砲台を数十カ所も築いているという。宮市に本営をおくほか小郡・徳地などにも兵を集結させ、関門を奪い、山陽側主要街道の交通を遮断してしまった。 「萩の干城隊を山口に呼び寄せるべきであろう」  孝允が、やっとそれを主張しはじめたのは、大久保利通が薩摩へむけて発った日の一月十六日である。 「長州は最早あてにならない。引き揚げる」という態度を露骨に示して利通が立ち去ったあと、孝允は急に焦りを感じてきた。藩内に戦火が走ることを極度に怖れた彼が、にわかに武力行使を決心したのは、このままでは済まないという見切りをつけたのと、騒ぎを延引させるより一刻も早い解決をとひたすら急いだからにほかならない。  だが脱隊兵に対抗する兵力を動かすことについては、藩全域の暴動に発展するとして反対する意見も強く、容易に結論が出なかった。藩知事の諭書を持った使者が、脱隊兵の本営に行き慰撫につとめるが、解散の気配はまったくあらわれなかった。  流言も飛びはじめる。木戸孝允が鎮圧のために東京から帰り、強硬な意見を吐いている、許せぬというのだった。孝允の帰国の目的は、大久保利通と話しあった新しい薩長提携を進めることにおかれていたが、たまたまその時期が騒ぎとかさなった。そして収拾のための中心的な役割をになわされた。孝允が兵力を動かして鎮圧しようとしているという情報がどこからともなく外部へ伝えられ、脱隊兵の耳に入る。かつての「桂小五郎」に寄せる信頼を裏切られた彼らの怒りが煮えたぎった。それは志士でなくなった「木戸孝允」という別人格への憎悪ともいえる。  孝允は、自分に対するそのような脱隊兵たちからの指弾を、まだ十分には意識していなかった。病苦にさいなまれながら、燃えひろがろうとする火を消しとめることのみを念じている。このような騒動が、やがて近隣各藩にも移り、全国的な規模にまで拡大したらどうなるか、それこそ「瓦解」である。孝允はそれを怖れ、次第に凶暴な意志をつのらせていくのだった。まさに病的な激しさを帯びた。  孝允の建言により、知事元徳は萩の干城隊を山口に移動させる命令を出した。それを知った奇兵隊・振武隊の六百人が阻止すべく萩近くの|佐々並《ささなみ》方面にむかった。干城隊があえて進もうとすれば、互いの銃が火を噴くことになろう。干城隊は、衝突を避け、佐々並の付近まで出て、行進をやめているという。孝允は藩庁に行き、元徳に会って鋭い声で訴えるのである。 「干城隊の遅疑逡巡するはまことに遣憾であります。彼らが国難に奔馳する能わざるを叱咤願います」 「あまり急ぐのもどうか」  と元徳は穏やかに言った。 「今は何としても解決を早めるときでありましょう」  孝允の蒼白な顔から、元徳は目をそらせた。  二十六日の午後、糸米の自宅に、疲労した体を横たえていると、使いの者がきて藩庁に出頭せよとの元徳の命を伝えた。  山口の冬は寒い。北風を受ける左の頬が、|強《こわ》ばるほどに冷たかった。鴻ノ峯を前方に見据えながら馬を進めていると、一本道のむこうから人があらわれた。近づくと路傍に孝允の馬を避けたその老武士が、 「ああ、木戸様」  とわめくように言った。  孝允を呼び止めたその老武士は、下級の者らしく見覚えのない顔だった。 「ちょっとお話が」 「急ぐのだが……」  孝允はやや不機嫌に、馬上から答えた。 「藩庁には行かれぬがよい」 「……」  仔細あり気に見えてきたので、孝允は鈍い動作で馬から降りた。 「脱隊兵たちが、元徳公の居館を取り巻いちょります。それに木戸様、あなたも諸隊士から命を狙われておりますぞ。ご用心」  それだけ言うと、名も告げず足早に歩み去った。孝允は、この老武士に命を救われたのである。  道を変えて、居館に近づくと、彼が言ったように脱隊兵たちが、群がっている。千人はいるかと思われた。馬をとばして糸米に帰りつくと同時に、|長三洲《ちようさんしゆう》がやってきた。三洲は豊後の人だが、万延元年のころ招かれて藩校明倫館で儒学を講じた。のち奇兵隊に入って書記をつとめている。戊辰の役にも従軍、会津攻城に参加した。凱旋してからは「精選」されて、脱隊兵とは逆の立場にいた。この事件処理をめぐって積極的に協力したことが契機となり、孝允との交流が始まった。後年、三洲が明治政府の文部大丞、一等編輯官などに立身したのは、孝允の推挙によるものだった。 「木戸さん、諸隊士があなたを探しています。間もなくここにもくるのではないかと思われます。身を隠されたがよい」  と三洲が、走ってきたらしく、息をはずませて言った。すぐに家を出て、三洲と一緒に吉敷郡の大庄屋吉富簡一(藤兵衛)の屋敷に行く。  吉富簡一は元治元年、高杉晋作が功山寺に挙兵したときにこれに呼応して軍資金を出し、自分も農民を集めて鴻城軍を組織して俗論派との戦いに参加した。この人も脱隊兵事件で孝允の協力者として動いたことが、明治政府の官僚にのしあがるひとつの糸口となった。大蔵省|大属《だいさかん》をつとめたが、士族でなかったためか冷飯を食わされた。不満を抱き、明治四年には中央の官職を捨てて郷里へ帰り、やがて衆議院議員となる。さらに防長新聞を創刊し、言論人として在野の立場をつらぬいた。  吉富邸は山口村の|矢原《やばら》にある。一月二十七日雨。孝允は三洲らと共に終日そこへ潜んで策を練った。萩の干城隊が佐々並で足踏みしている以上、山口で待っていても仕方がない。下関へ出て鎮圧軍を編成し、攻めのぼるのがよいということになった。  だが山口から出るための道路は、すべて脱隊兵たちによって封鎖されている。彼らは孝允を弾圧の巨魁として探しているというのだ。捕まれば命はないものと思わなければならない。 「百姓に変装することですな」  と簡一がすすめた。  翌日も雨である。|蓑笠《みのかさ》で農夫の姿に化けるには、好都合というものでもあった。早朝、簡一に命じられた三人の農民が先導して、矢原を出発した。道を避け、山越えで小郡まで出る。  山中ではしばしば道を失った。風雨は前日にもまして激しく、孝允の病躯を痛めつけた。|荊《いばら》のために、手足を血だらけにして、ようやく午すぎ小郡の桜井慎平(萩藩士、鋭武隊幹部)の家にたどりついた。  孝允にとっては、禁門の変後、乞食に扮装して橋の下に潜み、さらに京都から出石まで逃げた当時のことを、ゆくりなくも思い出させる惨めな行路だった。しかし六年前のあのときは、まだそれに耐えるだけの体力があった。今のような半病人の彼には、わずか半日とはいえ、死ぬほどの苦しさを味わわされた。違うのは、これが出石のときのように逃避行ではないということである。  氷雨まじりの風を衝いた困難な山越えで、再び寝つくような結果になりはしないかと孝允自身が危ぶんだが、桜井の家で一夜休息すると、多少の疲れは残ったにしても、意外なほど元気が出た。まがまがしい闘志で、病躯をよろいながら、|椹野《ふしの》川の河口から船に乗り、下関に着いたのは一月二十九日の夕刻であった。  孝允はただちに豊浦藩(長府)知事毛利元周に会って決意を告げ、長府に滞在中の三好重臣、野村靖ら諸隊幹部として歴戦の経験を持つ人々と会談した。 「脱隊兵討伐は、やむを得ぬ事態となっておりますが、常備軍を動かす以上、藩の独断ではあとに問題を残すことになりませんか」  野村靖が、慎重論を述べた。 「大丈夫だ。井上君が東京に行き、すべての手続きをふんでおるので、その点は安心してもらいたい」  孝允は、前に井上馨が、干城隊をひきいて脱隊兵を討つといきまくのを制止した。短気な井上が何をしでかすかわからないと監視しているうちに、どうやら最悪の事態を迎えそうな気配になったので、東京に出るように命じた。  井上は藩兵一大隊の臨時帰藩、そして臨機兵力を以て脱隊兵の鎮圧にあたることを太政官に申請して許可を得るなど必要な措置を講じている。 「山口周辺に集まる脱隊兵を、下関方面から攻めのぼる軍と、岩国・徳山方面から下る軍とで挟撃します」  地図をゆびさしながら、孝允が説明すると、三好重臣などは、やや心外だという表情で、曖昧に頷いた。三好ははじめ軍太郎と名乗った萩藩士で、奇兵隊参謀として攘夷戦、戊辰戦争に活躍した軍事専門家だ。 「東西挟撃はわかりますが、岩国・徳山からの出兵はどうなります」  穏やかな口調で、三好重臣がたずねた。 「山口を出る前岩国の桂九郎に会い、そのことは打ち合わせ済みです。徳山藩にも使者を送り、手筈は整っております。下関発進の期日が確定次第、通告して歩調を合わせてもらいます」 「わかりました」  重臣が、はじめて大きく頷いた。病気だと聞いていた孝允が、これだけ抜かりのない布石をしていることに、まず驚いたのだろう。驚くことはまだある。 「兵は三軍に分けます。第一軍は常備軍三百、第四大隊二百五十を中心に編成、第二軍は長府、清末兵及び第一大隊一中隊を併せた約七百をもって編成します。第三軍は岩国・徳山兵ということになります。第一軍は私が指揮をとろう。第二軍は長府侯にお願いするが、三好さんたちが補佐していただきたい。すでに元周公は承知されています」 「異存はありませんが、木戸さんは病気とうかがっていました。無理をされず、あとは私らに任せてもらってもよいのですよ」  三好重臣の考え方に、野村靖も同感だった。 「お気づかいなく。山口から小郡までの山越えが出来たのですから。私が出過ぎたことをすると思われるかもしれんが、脱隊兵といえども、かつてはあんたたちの部下であった者が多い。これを討つ心苦しい気持も十分わかっておるつもりです。すべては木戸に命じられてやむを得ず進む、それでよいでしょう」  萩の干城隊が脱隊兵との衝突を嫌って、佐々並に足踏みしているという情況が一方にはある。戊辰戦争を共に戦った同志へ銃口を向けることを逡巡する彼らの心境を孝允は理解できなくもないが、苛立ちも覚えた。干城隊参謀山県弥八にあてて、長文の書簡を送り、脱隊兵の阻止を排除して即刻山口ヘ行くことを促したが、すでにあてにしていなかった。こうなれば下関に集結している兵力を動かす以外にないとわかったとき、孝允は自分がその戦いの原頭に立つことを心に決めたのだった。  風雨は、なお数日おさまらなかった。鎮圧軍が下関を出発したのは二月八日である。孝允の指揮する第一軍は、海路をとり小郡の海岸に上陸した。そして柳井田関門や鎧峠などに集結した脱隊兵を撃って、山口をめざした。  豊浦藩知事のひきいる第二軍は、陸路を行き、厚狭郡山野井村、舟本にたむろする脱隊兵を破り、山陽道に沿って進撃した。  岩国・徳山藩兵を合わせた第三軍は、三田尻から山口ヘむかう途中の勝坂を攻めた。  脱隊兵たちは必死に抵抗したが、次第に追いつめられていき、二月十日には山口の重囲を解き、暴動の中心人物三十五人も捕えられた。つづいて多くの兵士が投降し、叛乱軍はようやく鎮圧された。  同じ二月十日、三田尻近くの|中関《なかのせき》に一隻の船が着いた。薩摩の旗印がひるがえっている。西郷隆盛だった。 「西郷さんは、兵をひきいているのではないのか」  と孝允は、彼が面会を申し入れているという報を受け、使いの者にたずねた。心外なことに、西郷は援軍としてあらわれたのではなかったのである。  脱隊兵と藩庁との仲介を目的としているのなら、断乎拒絶しなければならぬと孝允は思う。すでに援軍の必要はなくなっているのだ。ことがおさまったころになって、薩摩を割りこませるわけにはいかないと、孝允はいくらか不興気な表情で、十一日、西郷を山口に迎えた。  事件の経過を聴くと、西郷は別にそんなことも切り出さず、十三日に毛利敬親、元徳に会って挨拶を済ませ、十四日には山口を出発して鹿児島へ帰って行った。  西郷隆盛が山口へきたいきさつはこうだ。帰国していた大久保利通は、長州の脱隊兵たちが、藩庁に乱入したり、元徳の居館を包囲し、夜はかがり火を焚いて気勢をあげているらしいとの報を聞いて、到底一戦はまぬがれないものと判断した。島津久光、忠義にそのことを告げ、援軍を出す許可を得た。利通はみずから薩摩兵をひきいて山口ヘむかうつもりだった。  ところが藩庁での会議で、ただちに援軍を送るのは軽率ではないか、様子を調べた上で出兵の可否を決めるべきだとの結論が出て、利通の行動は阻止されてしまった。これには参政西郷隆盛の意見も強く反映されている。彼は脱隊兵たちへ同情をむけていたのであろう。いずれにしても、これが西郷と大久保との間に、微妙な亀裂が入る最初の場面である。──  長州における脱隊兵事件では、おびただしい犠牲者が出た。戦闘によって政府側から即死二十、負傷四十四を出し、脱隊兵側の即死六十、負傷七十三を数えた。  藩庁は投降帰順した脱隊兵を山口の竜福寺に集め、武器をとりあげて、罪状の調査にとりかかった。処分はきびしく、事件の首謀者や役付、他国逃亡者は斬首、このほか罪の軽重によって遠島、投獄などの判決を下した。  処刑は三月二日、まず山口郊外の|柊《ひいらぎ》刑場で、首謀者とみられる佐々木祥一郎ら二十七人の斬首ではじまった。佐々木は家老国司家の陪臣で、奇兵隊に入り多くの勲功をあらわした。彼は処刑されると知って刑場に送られる途中から暴れだしたので、刑吏に鉄棒で殴打され、血まみれになって引きずりこまれ首を打たれた。二十八歳であった。  柊についで、萩、熊毛郡、厚狭郡などでも処刑がおこなわれ、総計百三十三人におよんだ。 「|必竟《ひつきよう》今日に至り候次第、|赧顔至極《たんがんしごく》、実に天朝に対し奉り候ても、|恐懼《きようく》これ無き仕合せに御座候」  孝允がこの事件に関して利通に送った手紙である。長州諸隊の叛乱をいかに恥じていたかはわかるが、人間としての苦悩は欠如している。頑固な攘夷思想を滲ませた要求項目のほかに、脱隊兵たちが掲げた次のような訴えに対する反応は、ついに孝允にはあらわれなかったのである。   一、除隊となって浪々の身となる者の処置。   一、多年尊攘の働きにむくいる方法。   一、死傷者、不具者に対する恩典。   一、老年となった者への扶養の方法を講ぜよ。  幕末、志士として活躍したころも、孝允は自身の手で血を流す修羅場に臨むことはなかった。その彼が、倒幕の目的を達したあとの長州で、生まれてはじめての戦場を経験したのである。しかもその標的になったのが、かつて志を同じにして戦った同胞たちであるという残酷な現実がそこにあった。  たまたま帰藩した彼が、この事件の責任者に追いやられたという偶然性や激しい病苦に襲われていたことを仮りに考慮しても、なお孝允の生涯に大きな|染《し》みをのこす不幸な事件ではあった。  脱隊兵事件が、まったく落着したのは翌明治四年の春である。   米欧回覧  ──明治四年(一八七一)十一月十五日夜。  木戸孝允は、太平洋上北緯三十一度、東経百五十度の位置を通過する船の甲板を遊歩していた。  満月である。銀色にきらめく海面を、太平洋会社の外輪船アメリカ号(四五五四トン)は南南東に針路をとり、滑るように進んだ。目的地サンフランシスコに着くのは、十二月八日の予定である。  船客は百人あまりの日本人だ。その半数はアメリカ、ヨーロッパ諸国を歴訪する使節団が占め、あとは華族・士族・平民の書生など各階層から集まった留学生たちであった。  留学生の中には、振袖に紫メリンスの袴をはいた五人の少女の姿もまじっていた。最年少の津田梅は数え年の九歳であった。のち女子英学塾長となる津田梅子である。  ──岩倉使節団。  これがアメリカ号の一等船客であり、船内日程のすべてはこの使節団を中心に組まれている。  右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、明治政府の実力者約五十人を網羅した大型使節団である。  木戸孝允は、大久保利通と共に副使の肩書で、最高責任者の一人となっている。激務ではあるが、さいわい体調も上々だった。十二日に横浜港を出帆して、翌日はさっそく烈風に見舞われ、大半の者が船酔いに苦しんだが、孝允はさほどのこともなくすごし、ひそかに心配していた持病の頭痛もおこらずに済んだ。  悪天候は間もなくおさまり、十四、十五は絶好の航海日和となった。みんなくつろいだ船内生活をはじめている。  ところで岩倉大使は、洋服を嫌って、旅行中も公卿の装いで通し、女王や大統領との会見には衣冠の礼装で帯剣した。副使・書記官も公式の席には、それぞれ衣冠、|直垂《ひたたれ》をつけ帯剣という古典的な装束となったが、日ごろは断髪・洋服姿に変身した。そんな新しい恰好が身につかないせいもあるが、やはり出国前からの興奮がおさまらず、孝允は就寝時刻になっても、ひとりでよく甲板を歩きまわった。  月光を浴びながら、孝允は吉田松陰の「|下田踏海《しもだとうかい》」のことをそのとき考えていた。海外渡航という見果てぬ夢を抱きながら、松陰は江戸の獄中に果てた。明治四年のこのころ在外留学生は、およそ三百人を数えている。そしてさらに百人余の日本人が、巨船に乗りアメリカヘ押しかけようとしているのだ。まさに隔世の感があった。──  ほの赤い舷燈の下ですれ違った船の士官が、急に孝允にむかって話しかけてきた。むろん意味はわからない。大げさな身振りで、そのアメリカ人は、声を高めもう一度何か言った。孝允の背後から靴音がひびき、だれかが近づいて「かの国の言語」で応答したので、士官は納得して歩み去る。 「夜の甲板散策は危い。気をつけなさいと言うちょります」  伊藤博文だった。孝允のひがみでなければ、その声にやや得意気な調子を含んでいる。洋行経験者の多くが見せる軽薄な優越感が、すでにこの船の中で人の和を壊しかけていた。 「きれいだ」  孝允は、月明に澄みわたる洋上の冬空を仰いで、呟くように言った。ほんのしばらくそこに立ち停まっていたが、博文もゆるやかな足どりで船室のほうに消えて行った。  平穏なひとときである。慌しく駆け足ですごしてきたこの数年のことが、今はなつかしくもあった。 (松陰先生の海外渡航の遺志を最初に果したのは俊輔たちであったな)  孝允は、さきほど中断された回想をとりもどした。それにあることの記憶をよみがえらせたのは、伊藤の姿を見たからかもしれない。  文久三年、俊輔といっていた彼が、井上ら他の四人と共にロンドンに密航するときのことだ。村田蔵六のところへ送ってきた連名の手紙を読ませてもらいながら、孝允は私にもいつか外国へ行くときがくるのだろうかと自問したことを、ふと思い出したのである。  はるか地の果てにもあるかと、うつろな視線を投げていたアメリカやヨーロッパが、今、確実に自分に近づいている事実を、孝允は若者にも似た昂揚した気持で受けとめようとしていた。  しかし、使節団の前途は多難である。いつも風のない海を走る船のようにはいかなかった。  岩倉使節団の副使は四人である。参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通がまず肩を並べ、これに工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳が加えられている。  伊藤は洋行の経験があり、また肥前出身の山口は早くから長崎で蘭学を学んだ外国通である。この二人は手腕もさることながら、経歴を買われ使節団の首脳部に推されたわけで、要するに使節団の頂点にいるのは岩倉・木戸・大久保の三人にほかならない。  新政府を牛耳ってきた彼らが、そのまま打ち揃って海外に出かけるのである。その随員の顔ぶれを拾ってみると、   外務少丞 田辺太一(旧幕臣)   外務大記 野村 靖(長州)   司法大輔 佐々木高行(土佐)   侍従長  東久世通禧(公卿)   陸軍少将 山田顕義(長州)   戸籍頭  田中光顕(土佐)  といった名がズラリと並んでいる。いわば明治政府の大移動ともいうべきおもむきがある。大隈重信や西郷隆盛が「留守政府」をあずかった。文字通り政府は留守になったのである。しかも、それだけの構成をもつ使節団の旅程が十二カ国を十カ月半で回るというのも長期だが、実際には予定がさらに延びて一年十カ月にも及んだ。古今を通じて世界にも類例のない使節団といえるかもしれない。  版籍奉還につづく藩制解体も曲折の末ついにやり遂げ、明治四年七月十四日には廃藩置県令の公布にこぎつけた。新しい国づくりが、いよいよ正念場を迎えようとするとき、つまり廃藩置県の発足からわずか四カ月後に、まるで唐突といった感じの使節団出発については、反対の声も強かった。それを押して出かけなければならなかった事情もあったのである。  このあたりの顛末については、田中彰氏の『岩倉使節団』(講談社現代新書)に詳しいが、それをすべてなぞるほどの紙数はないから、ごく表皮の部分をかいつまんで述べておくことにする。  まず幕府がこれまで各国と結んできた条約は、きわめて日本に不利、不平等な内容だった。その条約改定の時期が明治五年にせまっている。使節を派遣して、予備交渉をするべきだと、最初に言い出したのは参議大隈重信だった。太政大臣の三条実美も同意していたので、ほんらいなら使節には大隈が立つはずだったのである。  ところがこれを岩倉や大久保が知った。廃藩置県後、政府の重点は、内政から外交へ移ろうとしている。そのとき「大隈使節」が条約改正に成功すると、彼に主導権を奪われてしまう。岩倉・大久保、それに孝允も加わった薩長派が、強引に大隈の案を取りあげ、自分たちがすりかわって編成したのが、この岩倉使節団であった。  廃藩置県の段階まできていながら、政府部内の藩閥抗争は、かえって激しくなっている。出身藩の人脈を中心に派閥を構えながら、官僚機構とも結んで、たとえば民部とか大蔵をめぐる権力争奪の暗闘がくりひろげられているのだった。その派閥の最たるものが薩長である。  薩長は、互いに強く結びつきながらも、個々にみれば大久保利通と木戸孝允のように、対立しつつも他の派閥に立ちむかうためには提携するといった奇妙な関係を相変わらずつづけていた。  孝允は大隈重信の人物に惹かれているが、伊藤博文などは大久保と組んで大隈締め出しを策謀していた。孝允に隠れてそれをやり、あとで怒りを買うこともあった。そこで例の「愚痴」を並べてみても、所詮孝允は薩長藩閥からはみ出せなかったのである。  孝允と利通に共通する弱味は、まだ一度も海外に出ていないということだった。外遊の経験者はずいぶんふえており、それなりに幅をきかしている。外国体験がないのは、最高指導者としての適格を欠くものだという空気さえあった。  一方、留守をあずかることになった大隈重信や西郷隆盛は、こうなれば主要な顔ぶれを海外へ追いやって、政府を思い通り動かそうとする魂胆もあり、大型使節団の編成にはむしろ寛大な態度を見せた。  そんなあらゆる条件が重なって、現役の政権担当者が大量の随員をひきつれ、長期間にわたって外国を|うろつく《ヽヽヽヽ》ことにもなったのである。  この使節団の報告書は『特命全権大使米欧回覧実記』と題し明治十一年に刊行された。全百巻、五冊、二千ページを越える厖大な量にのぼったのも当然であった。  たしかに「米欧回覧」の旅以外のなにものでもなかった。現代でも政治家による大急ぎの海外視察旅行や政府要人の外国訪問は、しばしばおこなわれている。しかし岩倉使節団の一年十カ月という旅程は、飛行機のない時代であったとしてもなお常識を越えた「壮挙」としかいえない。  例のその報告書は、いわば政府ぐるみの�団体赤ゲット紀行�である。それは新しい時代を摸索する明治政府の一途な姿勢をのぞかせた大旅行であった。その赤ゲットぶりは、以後一世紀にわたる日本人の生き方を暗示していたということもできるだろう。──  洋上を行くアメリカ号は、百人余の日本人を閉じこめた、浮かぶ密室でもあった。サンフランシスコに着くまで二十三日間の航海で、早くも使節団の人間関係にヒビ割れが入ってしまう。  それは洋行経験者が、外国知識のない人々を軽侮する風潮に対する反発から始まった。使節団の中には、すでに慶応年間から外国に留学し、たとえば司法理事官随行の平賀|重質《よしもと》のようにひとかどのアメリカ通になっている人物もいる。こうした外国体験のある者をなるべく多く随行させていたのである。  平賀たちは、まず船内食堂での食事があまりにも不作法であるのに眉をしかめた。今は日本人だけだが、むこうへ着けば外国の高官たちと食事をすることもあるので、日本人の恥さらしだ、と心配する。 「テーブル・マナーというものを教えなければなりません」  と平賀は岩倉大使に申し出た。 「では、注意すべき事項を詳しく書き出しなさい」  岩倉は船のパーサー(事務長)に頼んで印刷設備を借り、それを全員に配布させた。露骨な抵抗が始まる。  土佐出身の岡内重俊などは、さっそく|給仕《ボーイ》には大声で呼びかけ、スープを吸うにもわざと匙音をたて、しまいには皿を両手で持ちあげ、直接口に流しこんで舌打ちするという有様である。  それをニヤニヤ笑って見ていた薩摩の村田新八は、こんどは自分の前に大きなビーフステーキが運ばれるやいなや、右手にフォークを持って芋刺しにし、歯で食いちぎってみせたりしたものだった。  船内で裁判沙汰がおきるということもあった。女子留学生に、司法権少判事長野|文炳《ぶんぺい》がたわむれるという「事件」が発生したのだ。女子留学生が、副使の大久保利通にそれを訴えた。長野の肩書はいかめしいが、まだ十八歳の若者だ。大阪府の士族である。  同じく副使の伊藤博文に処置が一任されたが、福地源一郎らの提案で西洋式にのっとる模擬裁判を開こうということになった。福地は桜痴の号で知られ、のちに東京日日新聞主筆として活躍したが、このときは一等書記官の役で使節団に加わっている。洋行経験者だった。長野の上司にあたる司法大輔の佐々木高行は、たとえ模擬であっても、退屈しのぎに一人の人間を裁くなどはいけないと猛反対を唱え、「軽薄」だとののしっている。  こうした船内の騒ぎに、孝允はまったく関与しなかった。彼は時に岩倉とアメリカに着いてからの日程について話しあうこともあったが、与えられた船室のベッドに終日体を横たえ、また甲板を散歩するという静かな日々をすごしていた。持病の再発を押さえ、体調を整え、異国に上陸してからの行動にそなえるべく力を養っているのだ。  明治元年四月一日いらい欠かさずにつけている日記は、船内でも毎日書きつづけた。この「米欧回覧」中の孝允の日記も約七万字に達する量になったのである。  十二月二十日の項には、次のように書きこまれている。 「今夜洋暦七十一年の歳末、夜、洋人と会同、酌酒相話、同三十度四十分、経百七十度三十分、船行二百二十二里」  ハワイ諸島の海域で、西暦一八七一年の大晦日を迎えたことになる。  明治四年十二月七日、西暦でいうとすでに年を越して一八七二年一月十六日である。  その日午前九時、アメリカ号の甲板から、孝允はまぶしい朝の光を浴びたゴールデンゲイトを見た。異様な美しさを放つサンフランシスコの光景が、ゆるくのびやかに近づいてくる。やがて着船。十五発の祝砲が、|殷々《いんいん》と異国の空にとどろいた。  顫えるほどの緊張感を覚えながら、タラップを降り、アメリカ大陸の土を、たしかに孝允は踏みしめた。  午前十一時、モントゴメリー街のグランド・ホテルに着く。五階建てのその「旅館」に入ったとたん一行を驚嘆させたのは、磨いた大理石を敷きつめた床であり、天井に吊されているシャンデリアの華麗さであった。客室の数は三百だという。客室の模様を『回覧実記』は次のように説明している。 「寝床ハ螺旋ノ鉄ニテ其底ヲウク。|茵蓐《しとね》|穏《おだやか》ニシテ身ニサハラズ。衣ヲ掛ルニ衣箱アリ。|箪笥《たんす》アリ。顔ヲ洗フニ水盤アリテ、機ヲ|弛《ゆる》ムレバ、清水|迸《ほとばし》リ出ヅ。|奴婢《ぬひ》ヲ呼ニ電線アリ。指頭|纔《わずか》ニ|触《ふる》レバ、鈴声百歩ノ外ニ鳴ル。|案《つくえ》アリテ書スベク読ムベシ。鏡アリテ|鑑《かんが》ムベシ。|石鹸《サボン》・|※[#「巾+兌」]巾《てぬぐい》・|引火奴《マツチユ》・|嗽碗《コツプ》・|火※[#「缶+盧」]《ストーブ》・水瓶・便器ノ瑣末マデ各房ニ皆備レリ」  正午には陸海軍の士官が、ホテルを訪れ歓迎の辞を述べた。一日早い着港で、新聞には八日の予定だと書いていたらしい。夕刻の七時には軍楽隊がやってきて、ホテルの前で音楽を吹奏した。「数万の人民」が戸外に充満し使節の訪問を祝しているので、岩倉大使はバルコニーから「報辞」を述べた。 「土人我使節の至るを希望し待遇甚だ厚し」  満足した気分だった。  十二月九日(孝允の日記に沿うので日付けは旧暦である)も前日にひきつづき快晴であった。 「織物、楽器、小間物等の大店に大使始め|罷《まか》り越し形様を一見し六字(時)頃帰家……」  デパート見物である。次の日は馬車の製造工場、織物工場を視察し、帰りに|禽獣園《きんじゆうえん》(動物園)を見物した。この日は岩倉大使が病気でホテルに就寝したままだったので、孝允と利通、それに山口尚芳が同行した。博文は別行動をとっている。  十一日は軍艦に乗せられ付近の砲台を巡見、十二日は製鉄所を見た。巨大な鉱山機械に驚く。接する事物のすべてが、目をみはるものばかりである。彼らの持つこの進んだ文明に追いつかなければならないのかと、気の遠くなるような思いにかられることもしばしばであった。  十四日夜八時から、ホテルで大歓迎会が催された。知事をはじめ高官、軍人、市民ら三百人が正装して集まった。日章旗と星条旗(このころ、星は三十七個である)を飾った交歓会場で、副使の伊藤博文が演説をはじめた。英語である。彼は航海中から、その草稿を練っていたのだろう。  岩倉大使や孝允ら副使には、あらかじめその大要を知らせて了解を得ていたが、かなり長い演説だった。山口が小声で岩倉に通訳するのを、孝允は隣りで聴いていた。  伊藤博文は三十一歳である。ホテルに入ってからの博文の生活態度に、孝允はやや不快を感じている。イギリスの首都に留学し、またアメリカに来たことも一度あるという経験が、彼に優越感を抱かせているのは仕方がないとしても、万事が贅沢で華美にふるまっている。胸をそらせて、葉巻煙草をさかんにふかしているのも何か目障りだった。  この使節団の旅費は、いわばお手盛りで、とびっきりの高額が支給された。岩倉大使が支度料九百両、別段手当六百両で、毎月の手当五百ドルだった。孝允や伊藤たち副使の場合でも支度料・別段手当が五百四十両と五百両、そして毎月の手当が四百ドルである。一ドル一円のころだ。  田中光顕が六十万ドルを預かっていて、毎月それを支給した。せっせと貯金する者もいたほどで、贅沢もできたわけである。  さて、伊藤博文の演説は、まだつづいている。聴きながら、孝允はやはり感心した。  このときの伊藤博文の演説が有名な「日の丸演説」である。 「日本はいまだみずから創出した主張を持たないが、文明国の歴史に教えられた利点を用い、その経験を教師とし、あやまちを避け、実際に役立つ知恵を吸収していくようにつとめるであろう」 「先進諸国が享有している文明と同じ水準に達することがわれわれの目的であり、そのために軍事組織、学術教育の制度を採用し、外国貿易もさかんになりつつある。日本における物質文明の改良は急速に進んでいるが、精神面はさらにめざましいものがある……」  それはたしかに堂々たる外交演説であり、明治政府の姿勢を端的に表現している。しかも、博文が最後に付け加えた言葉が、いわゆる「日の丸演説」として、内外の注目をあつめることになった。 「我国旗の中央に点じた赤い丸形が、最早帝国を封じていた|封蝋《ふうろう》のように見えるということはないであろう。将来は、その本来の意匠である昇る朝日の尊厳をあらわす|徽章《きしよう》となり、世界における文明諸国の間に伍して、前方に、かつ上方に動かんとしている」  日章旗は、武田信玄や豊臣秀吉なども使っており、幕府も嘉永六年のペリー来航いらい日本の総印として用いた。外国人の目には、日章旗の意味がわからず、鎖国の日本の印象にかさねて、彼らが日常使っている封書のための蝋を想像した。四角な封筒の真ん中の赤い封蝋と見えたのである。博文はそのことにふれ、これは朝日であると、未来への抱負をこめて強調したのだ。明治政府が、太政官布告により日章旗を国旗として制定したのは明治三年七月であった。当時では日本人の中にも、この徽章の意味を知らない者が多かったのである。  博文の演説には傾聴すべきものがあったが、その得意気な態度は、孝允の目に決して愉快にはうつらなかった。  十二月二十二日、使節団・留学生ら百余人は、列車五輛を借りきってサンフランシスコを出発、ワシントンヘ向かった。雪をかきわけるようにして、列車はロッキー山系の山沿いをあえぐように進む。 「車窓より崖下を望めば、数千尺の下に渓流を見る」  孝允たちが乗った列車は海岸沿いに北上する南太平洋鉄道ではなく、内陸部に深く入った高地のソルトレークをめざしている。二十五日、グレートソルトレーク砂漠を横断した。 「今日、多くは広茫の地を過る」  生まれて初めて接する大陸の果てもない広がりだった。雪中に牛の群れを追う人々を見る。きびしい大自然と闘うアメリカ人の姿を、孝允はサンフランシスコで聞いた開拓の歴史とかさねあわせながら眺めた。  ソルトレークで、大雪のため鉄道は不通となり、ここで下車、いったんホテルに入った。 「夜、雪降る。寒気透骨」  日記を書く手も凍るようにつめたい。  明治五年の元旦は、モルモン教大本山として知られるこのソルトレークで迎えた。一月三日にはモルモン教の大寺院を見物する。一万人以上の男女が中に充満して、祈りを捧げている異様な光景があった。それにモルモン教徒の一夫多妻制にも驚きあきれるのである。 「プレジデント・ヨングなるものは、当年七十余歳にて十八人の妻、六十余人の子あり。実に開化の国と雖も様々の弊あり」  一月十一日、三浦梧楼にあてた手紙にそう書いた。そしてその末尾に、君がこの宗教を信仰するようなことがあってはならないので用心するように、と冗談めかして「世界之一珍事」を報告した。そのように筆が走るくらい、極寒の中にも孝允の体調はよいのだった。  サンフランシスコ上陸いらい、記憶からあふれるほど多くのことを学んだ。見るものすべて驚異の連続である。しかし孝允が三浦への手紙に書いているように「開化の国と雖も様々の弊あり」という感想は、使節団全員の思いでもあった。  たとえば男女の風俗が、たいそう奇異に見える。公式の席上に夫婦が手をにぎりあってやってくる。男が女にかしずくような風習、男女相擁して踊り、はては人前も憚らず接吻するのだ。いかにも|猥褻《わいせつ》であり、日本人たちが見た「西洋風俗の真相」は、「|卑猥《ひわい》の醜俗」をきわめるものであった。  明治五年一月二十一日、つまり一八七二年二月二十九日に、使節団一行は、アメリカ合衆国の首都ワシントンに着いた。宿舎はアーリントン・ホテルである。  二十五日、岩倉大使はじめ孝允ら四副使は、五人の書記官をつれて、ホワイト・ハウスを訪れた。|駐剳《ちゆうさつ》少弁務使・森|有礼《ありのり》と、国務長官フィッシュに導かれてアメリカ第十八代大統領グラントと会見した。  儀礼的な挨拶が交わされるが、グラント大統領は、そこでアメリカという国の富強の原因を次のように説明した。 「他邦トノ交際ヲ増進シ、製作工芸ノ進歩ニ勉励ヲ加へ、四海ノ各地ト往来音信ヲ便易ニシ、他邦ノ遷民ヲ優待シテ其風俗技芸ヲ国内ニ誘導シ、刷印ノ権利、人民ノ思慮、及内外人民ノ差別ナク宗教ノ事件ニ自由ヲ附与スベキコトニアルナリ」(『回覧実記』)  国際交流、思想、言論、信教の自由などを挙げ、民主主義礼賛をひとくさり、初対面の使節団にぶちあげた感じである。未開発国からやってきた人たちを教導しようとするアメリカ人の姿勢が、はっきりあらわれている。  使節団は、ワシントンに入ると、ようやく本腰を入れて「共和制」の勉強にとりかかるのである。幕末いらい、進歩的な人々によって「共和政治」の知識は、ある程度日本に持ちこまれている。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通など明治政府を背負って立つ三人にとっても、共和制の何たるかは重大な関心であり、それをたしかめることはこの使節団そのものが持つ目的の一つでもあった。  彼らはアメリカにおける自主・独立の精神を学び、大いに|裨益《ひえき》するところはあったが、結果的には共和国の政治にかなり強い批判を抱いた。立法院の議員選挙は、必ずしも「最上ノ才俊」ばかりが選ばれるとは限らない。そして多数決によって「上策」を廃し「下策」に帰することが多いというのは「是ミナ共和政治ノ遺憾アル所ナリ」と見たのである。  それは彼らがアメリカの政治を皮相的にしか見なかったというよりも、最初から共和制を学びとろうとしていなかった視点での認識というべきだろう。 「|玉《ぎよく》」つまり天皇をかつぎ出すことによって達成した倒幕、そして成立した新政府の軌道は、天皇制国家にむかって敷設されているのだ。さらに新政府指導者の目標は、|近代《ヽヽ》天皇制国家の創出であり、米欧回覧の目的は、日本という国柄にふさわしく「近代」を冠するに足る政体の模索にあった。それはアメリカよりも、やはりヨーロッパの立憲君主政体に学ぶものが多かったのである。  しかしそのヨーロッパにあって、先進文明におどろき感心はしても、彼らなりの選択の目を失うことは決してなかった。つまり天皇制国家の建設にふさわしくないと思われるものには、きびしく目をふさいで通りすぎようとするのである。  さて、ワシントンでの条約改定交渉は、明治五年二月三日から始まった。幕府が結んだ安政五カ国条約といわれる修交通商条約は、日本側に関税自主権がなく、逆に領事裁判権を相手に与えるなど、まさに国辱的な不平等条約だった。しかし、この改定交渉が、使節団に課せられた主要な任務のひとつであったとしても、使節団がいきなり調印にこぎつけるまでの計画はなかった。  入国いらいの歓迎ぶりに酔った気分の使節団は、アメリカがあっさり改定に応じてくれるのではないかとの安易な期待を抱いた。一気に調印しようと使節団をけしかけたのは少弁務使の森有礼である。副使の伊藤博文が、それに同調した。  ところが第一回交渉の席上で、早くも暗礁に乗りあげてしまうのである。国務長官フィッシュは、天皇の委任状を持っているかと、まず質問してきた。 「われわれは天皇の信任を受けている者であり、全権を委任されているのだから、委任状は不要であろう」 「いや、これは万国公法で決められたことで、委任状がなければ、どのような要職にある人だろうと交渉には応じられない」  傲然とフィッシュは言い放った。困惑した使節団は、その場で協議を始め、退屈したフィッシュは鉛筆をとって、日本人たちのスケッチにとりかかるという始末だ。  使節団は、アメリカの国務長官の前で大恥をかいたことになる。議論は、ホテルに帰ってからも続いた。こういう問題は、出国前にもっと慎重に配慮すべきであったと愚痴ってみても仕方がないのである。  だれかが委任状を取りに帰国するという結論が出かかったとき、孝允は直感的に首をかしげた。そうまでする必要があるのかと思ったのだが、はっきり反対するだけの理由がない。態度保留で黙りこんでしまった。 「一衣帯水ではないか、大した旅とは思うとらん」  とその年の初めアメリカヘ来ている博文は胸を張った。かつて連合艦隊が長州を攻撃すると知って、ロンドンから大急ぎで帰国した経験もある彼にとっては、たしかにそうかもしれなかったし、条約改定の調印に積極的な立場としては当然の役目でもあった。  上席の副使である大久保利通が同行することになる。間もなく二人が出発したのを、孝允はあとで知らされた。ちょっと不愉快な感じだった。  太平洋を往復するだけで二カ月はかかる。それ以上の期間、使節団はワシントンに釘づけされるのである。じっとしておれないのでその間、孝允たちは前後十回にわたりフィッシュ国務長官との交渉を進めはしたが、気乗り薄な態度は変わらない。結局は諦めて、何となくのんびり日をすごした。そのうちに寒気は去り、うららかな春となった。ハドソン川の船に乗ってエリー湖に至り、ナイヤガラの滝を見物するなど観光旅行を楽しんだりもした。  少弁務使の森有礼は、使節団の世話をする立場にあり、岩倉大使のところにもよく顔を出していたが、そのうち次第に横柄な態度をとりはじめ、大使の許しも得ないでひとり旅行に出たりするようになった。もともとこの男のことを、孝允は快く思っていなかったのである。外国に慣れず英語も話せない使節団の者を小馬鹿にする素振りを見せている。少弁務使といえば、代理公使にあたる程度の身分だが、ひどく尊大に構えている。そればかりか、アメリカ人にむかって日本人の悪口を言い、はては岩倉大使が無学で困るなどと触れまわっているらしい。 「森等の如き我国の公使にして、公然外国人の中にて|猥《みだ》りに我国の風俗をいやしめる風説あり。其他当時の官員中にも、米国に遊歴し、其皮膚を学び我国を軽視するの徒少なからず」  と孝允は日記に怒りを書きつづり、このように外国の表皮だけを学んだ日本人の十年先が思いやられると憂いを述べるのだが、この異国で頼らなければならない人物としての森に、面とむかって難詰するわけにもいかない。それは孝允の性格にもよるもので、そのために森に対する憎しみは陰にこもってしまうのである。  たまたま孝允は、ワシントンにプロシャの公使がいると知り、通訳をつれて会いに行った。プロシャは訪問予定国である。そこで意外なことをきかされた。 「貴国はアメリカと条約改定を交渉しておられるというが、いたずらに急いで不利な条項を取り決めると他の条約国にも波及して後悔することになりますぞ」  とその公使は忠告してくれたのである。深くは理解できなかったが、要するに慌てて調印すると禍根を遺すのではないかということだけはわかった。  孝允は、すぐ東京にいる井上馨にあてて手紙を書く。 「大久保、伊藤が帰国することについて、どさくさにまぎれ同意したが今は後悔している」と経緯を述べた末、つい森有礼の悪口になった。「伊藤なども�きゃつ�に籠絡されているので困りものだ」。きゃつとは森のことで、かなり激しい語調となる。「森は学校に関心を寄せ文部省入りに色気を見せているようだが、この有様ではお国のためにならない。そんなことを耳にされたら反対して下さるようお願いする」  孝允の精神状態の尋常でないものを、井上はふと感じたはずである。しかしそれはともかくとして、委任状問題についての孝允の直感は、やはり当たっていたのだ。  五月六日、ロンドンから二人の留学生が孝允をたずねてきた。ワシントンは、すでに酷暑の季節を迎えている。まるでロンドンから走ってきたかのように、彼らは大汗をかいていた。急いでいるのだった。  その二人の留学生とは、尾崎三良と川北義次郎(俊弼)である。川北は、長州人で吉田松陰に学んだことがあると言ったが、十六歳のときとかで、孝允にはむろん見覚えがない。 「ロンドンにいる日本人留学生の代表としてきました。条約改定に使節団が無理な調印をしようとしていると聞き、それを中止するように意見を述べるためであります」  彼らは|最恵国条款《さいけいこくじようかん》について詳しく説明した。もし条約改定のためアメリカに交換条件として一カ条でも特権を許すと、最恵国条款によりヨーロッパ諸国の条約国は、すべてその特権を得ることになる。だから各国の意向をたしかめ、よく研究した上でなければ、改定交渉などしないほうがよい。まして不用意な調印は不利な結果となるというのである。 「なるほどそうであったか」  プロシャ公使の言った意味が、はじめて理解できたのである。孝允は早速、尾崎と川北をつれて岩倉大使に面会し、条約改定交渉を中止するように説いた。岩倉も同意した。  一方、副島外務卿、江藤司法卿らに反対され、切腹するなどと騒いだ末、どうやら下付された委任状を持って、利通と博文がワシントンに再び姿をあらわしたのは、六月十七日だった。外務大輔の寺島宗則が、ロンドンに向かう途中だということで、一緒についてきている。実はこの委任状で使節団がへたな改定調印などしないように監視するためであった。 (森の尻馬に乗った伊藤が知った風になまいきな事をするからこんなことになる)  孝允は胸を泡立たせて、彼らを待っていたのだ。せっかくの委任状が無用のものとなり、 「五千里の海上、三千里の山陸を往来せしこと」が徒労におわっても、条約交渉は打ち切りにすると、心中にいきまいていたのだが、大久保も伊藤もあっさりそれに賛成した。帰国して委任状下付に奔走している間、軽率に運ぶべき問題でないことがわかってきたのであろう。  フィッシュ国務長官に会い、一応は委任状を見せた上で、条約改定交渉は中止したいと申し入れた。 「交渉はあなたがたが勝手に希望したことであって、中止するというのならそれも自由です」  と彼がひとこと答えて、最後の会見は終った。アメリカとしては条約を改定する意志などまったくないのである。それは他のヨーロッパ四カ国にしても同じで、ちなみにこの屈辱的な不平等条約が、完全に改正されたのは実に明治四十四年(一九一一)のことであった。──  伊藤博文は、森有礼に乗せられた自分の勇み足に気づいて、さすがにシュンとしているが、大久保利通にしてみれば、気の進まない役を押しつけられ余計な恥をかいたことがどうにも面白くないのである。その留守に、いわばひとり|よい子《ヽヽヽ》になっている孝允の分別顔が憎らしくもあった。このあたりで、利通と孝允の間に、またひとわたり冷たい風が吹き抜けていく。  とにかく無駄な努力を払っている間に、四カ月近い日程の空白ができてしまった。長逗留の末、使節団がワシントンを出発したのは、六月二十五日である。その三日前に、孝允は写真館へ行き記念写真をとった。  ワシントンを発った使節団は、ニューイングランドをまわり、ボストンに着いた。そこからイギリス船オリンパス号に乗船、ヨーロッパに向かったのは、七月三日である。  十四日の早朝、リバプール港に着いた。孝允は夜明けごろから甲板に出て、景色をながめ、山水の趣が日本に似ているなと思う。すべてが大味なアメリカ大陸を見なれた目には、妙になつかしい印象がある。  午前五時、リバプールから汽車に乗り、午後一時にはロンドンに着いた。パレス・ホテルに入る。  翌十五日、朝から在留中の華族蜂須賀夫妻に誘われ、馬車でロンドン市中を見物した。太陽暦の八月下旬、ロンドンには、もう秋の気配がただよっていた。テームズ川畔にそびえる古色を帯びた国会議事堂を見上げていると、アメリカとはまた違った重厚なヨーロッパの風土がせまってくる。  ビクトリア女王に国書を奉呈しなければならないが、スコットランドに避暑中とのことで、還幸はかなり先になる。  北緯五十一度のロンドンの夏は、涼しく、避暑とは|解《げ》せないが、これも英国王室の優雅な慣例なのであった。そこで岩倉使節団もまた優雅な長期滞在となる。アメリカの二百五日には及ばないが、百二十二日を、イギリスですごした。  駐日英国公使パークスが、たまたま帰国中で、方々を案内してくれた。「これから世界に伍して発展しようとする日本人には最も有益な見物であると信ずる」などといかにも得意そうにパークスが言う。手放しの優越感が目障りではあったが、やはりこの国でも行くところで嘆声を発せずにはいられなかった。  バッキンガム宮殿、国会議事堂から始まった見学は、次第に範囲を広げ「電信寮」「郵便館」「造幣寮」などは序の口で、リバプールの巨船ドック、マンチェスターの紡織工場、製鉄所を見学し、ニューカッスル、シェフィールドのアームストロング社やヴィッカース社など大規模な兵器工場の視察にまで及んだ。  幕末、イギリスから兵器密輸を、孝允は「微行論」と呼んだ。大村益次郎らと必死で長州の武装強化に動いたころのことを思い出し、(ああ、ここで作っていたのか)と、特別の感慨をもって眺めた。  すべてに圧倒された。それほど広い国土でもないイギリスのこの発展は何だったのか。使節団がここで学びとったのは、要するに貿易と工業化がもたらした富国強兵ということであった。  イギリスは島国で、日本と似ている。「日本は東洋の英国である」と、使節団は何度かイギリス人からもいわれた。それは東洋の未開国日本への励ましでもあった。日本が近代国家として成長していくための規範は、イギリスに求めるべきかと孝允をはじめ使節団の人々は思う。しかし、すでに見てきたアメリカにしても、このイギリスにしても、巨大な成熟を遂げてしまっていて、あまりにも日本とは文化・経済両面の落差がありすぎる。  強い関心を抱きながらも、何となく寄りつきがたいものを感じながら、使節団はロンドンを発ち、ドーバー海峡を越えてフランスヘむかった。  パリに着いたのは、明治五年十一月十六日午後六時すぎである。暮色を迎えたパリの街には、|瓦斯《ガス》燈が輝き、さまざまな技巧を凝らした石造の建物が並ぶ。街路の敷石を鳴らして、馬車が走り交っている。ロンドンのどちらかといえば陰鬱な空気とは打って変わった、パリは明るく華麗な街の表情をたたえ、孝允の目にとびこんできた。  宿舎は、プレスブール街十番のかつてトルコ公使館として使用されていた屋敷だった。迎賓館にあたるものだろう。三階建てで裏には円形の庭園がある。 「相応の|構《かまえ》にして、戸外にナ|バ《ヽ》レヲンの築きし大門あり」  階上の窓から東南の方向、それも近い位置に凱旋門が見え、シャンゼリゼの整然とした街が一望できた。  ──ところで私(筆者)は前巻で、パリのアンバリッドにある長州藩の大砲を見たときのことを書いた。今や孝允が、その近くまできているのである。ナポレオンの墓と背中あわせに廃兵院と軍事博物館が同居するアンバリッドは、凱旋門からほど遠くない位置だ。  孝允の日記を見ると、十一月二十三日にそこへ行っている。 「セネラールの案内にて第一世ナボレヲンの廟に至る。石槨を一見す。堂宇各種のマーブル石を用ゆ。老兵院此の廟に接す。(略)又四百年前よりの甲冑武器等を陳列せし一室、又古来の大砲、或はシーザーなどの用ひし橋梁等と雛形陳列せし一室に至りことごとく一見せり」  フランスが一八六二年、太平天国の乱で清国に出兵したとき持ち帰った大砲と共に、長州藩の大砲は、アンバリッドの中庭及び前庭に当時から並べてあったはずである。孝允は、室内だけ案内されたので、一に三ツ星の紋の入った長州の青銅砲を、ついに見ることができなかった。連合艦隊の下関襲撃は、そのときからわずか八年前のことだから、なまなましい分捕品を日本人に見せるのを、案内のフランス人が遠慮したのかもしれない。  パリ滞在中に、日本では陰暦が太陽暦にきりかえられた。外国との交際に不便だからである。つまり明治五年十二月三日が、明治六年一月一日となった。  この通知がヨーロッパにいる使節団に届いたのは、かなりあとのことで驚きもしたが、留守政府だと思われている人たちによるこのような重大決定を、越権行為だと心外な顔をする者もいた。  孝允は、素直に日記の日付けを訂正し「過日太陽暦御用ひの伝信到来、依て当日を元日とせり」と書き加えたりもした。二重の日付けに煩わされることがなくなったのを喜ぶ彼の合理性もそこにある。  パリにはその近郊をふくめて七十日いた。ヴェルサイユ宮殿、地下水道、士官学校からチョコレート工場まで見学した。何もかも貪婪に見てまわった。大統領ティエールと会見し、外相レミユザとは条約改定の意見も交わした。条約については、フランスもまったく改正の意志はないようで、この面での収穫はない。逆にキリスト教弾圧への抗議をつきつけられたりした。  パリを発った一行は、ベルギー、オランダを経て、明治六年三月九日、ベルリンに着いた。ここはプロシャの都であり、成立して間もないドイツ帝国の首都でもある。  三月といってもまだベルリンは冬だった。しかし暖房のきいたホテルの窓から見る吹雪は、いかにも美しい。「飛雪、銀の如し」と書くような日がつづく。  十一日、皇帝ウィルヘルム一世に謁見、翌日には「容貌魁偉」の宰相ビスマルク、そして元帥モルトケに会った。  十五日にはビスマルクの招宴に出席した。ここで使節団は「鉄血宰相ビスマルク」の名演説に感動し、深く共感するのである。  ビスマルクは、大国が小国を|侮《あなど》る弱肉強食の世界情勢を述べ、貧弱な国家だったプロシャの苦闘、そしてドイツ帝国形成の体験を情熱的に話した。  孝允が、めずらしくその日記に演説要旨を書きとめたのは、よほど心を打たれたからである。その一部はこうだ。 「英仏等の東洋に属地を領し、威力を張りて往来するは、独逸の志にあらず。故に独逸においては日本とも長く親睦を真に尽さんことを欲し、且つ才能の士の如きに至りても望むものあらば、周旋して其人を選び其望に満たんことを欲す」  ビスマルクが雄弁に語るプロシャの過去・現在は、日本の未来を暗示し、独立国家の理想を掲げるものであった。  そして、これもまためずらしく孝允は進んで立ち、ビスマルクに答えるのである。 「わが日本の人民も元より独逸の人民と毫も異るものなし。恨むるところは只数百年国を|鎖《とざ》し、自ら宇内の形勢に暗く、また四方の学問を研究するの暇なし。依て交通の際遺憾とするもの少なからず。希望するところは、努力して|速《すみやか》に地位の進むを祈る」  つづいてモルトケが演説する。彼は、政府たるもの、ただ倹約して租税を軽くすることだけを考えるのではいけない、兵力を養うべきだ、万国公法も国力の強弱によって左右されるのであると、武人らしく力の理論を強調した。  ビスマルクやモルトケの演説に感銘を覚えたのは、木戸孝允だけでなく大久保利通がそうであった。明治国家が、プロシャつまり新生ドイツ帝国に多くの範を求めたことは、岩倉使節団のベルリン訪問と決して無縁ではないだろう。  また彼らが「独逸」に強い親近感を抱いたのは、この国の発展段階が、米・英・仏よりやや遅れており、先進国の水準に追いつこうと努力しているところに共通する立場をみとめたからでもあり、あるいはまたその帝制に対する共感──。プロシャを祖型とする日本の近代天皇制国家の形成には、そうした種々の情況が挙げられる。  さて、使節団がプロシャに入っておよそ二十日経った三月二十八日、大久保利通が、突然帰国の途についた。  十カ月半という回覧期日の予定をはるかに超過した使節団の帰国遅延に苛立った太政大臣三条実美が、勅旨を発して、木戸・大久保に帰国を命じたからである。政府部内の紛糾、また対朝鮮・台湾など外交問題が|輻輳《ふくそう》し、この二人がいなければどうにもならないとの判断だった。  孝允は、その命令を無視しようとした。利通も、はじめはそれに同調したが、やはり帰国すると言いだした。 「大久保と余と帰朝一条に付き、過日以来、議|屡々《しばしば》変換、|終《つい》に三四度に到り、其の為今朝来甚だ不愉快……」  孝允はひどく不機嫌になっている。  結局、大久保利通が先発して帰国し、孝允は別行動をとり遅れて帰ることになった。  孝允は、慌てて自分らだけが帰国しても仕方がないではないかと言う。  それに、利通を先に帰らせたのは、彼と二人で日本までの長旅をしたくない気持も働いてのことである。滅入ってしまうだろうと思うのである。米欧回覧中でも、孝允と利通は、必要なことは話しあうが、個人的にくつろいで歓談するということはほとんどなかった。嫌悪などといった感情はないが、互いにどことなく肌があわない。初めて山口で会ったときの親しみあふれた、あの印象は何だったのか。それは共通の敵を目前にした打算の笑顔だったのかもしれぬ。二人の間にある溝幅は、ごく狭いものだが、巨岩の亀裂のように底知れぬ深さをもっていた。  利通はいったんパリヘ戻った。そこには薩摩出身の大山巌・川村純義・高崎正風・川路利良・中江弘・村田新八らが待っていた。やがて西南戦争で西郷と運命を共にする村田を除き、あとは利通の翼下に集まって西郷派に対抗する薩摩閥の切れ者たちである。  利通はそこからマルセーユに出て乗船、横浜にむかった。ベルリンを出て約二カ月後の五月二十六日には東京に帰着している。ほとんど道草を食わずに真っすぐ帰国したことになる。  それにくらべると孝允は、実に時間をかけて、のんびりとした帰路をたどった。使節団と別れてからも三カ月以上の旅程を組んで日本へ帰ってきたのだ。  利通が出発したあと、孝允は使節団と共にロシヤに人った。そして北ドイツにいったん引き返したところで、四月十六日に使節団から離れた。ハーグ、ドレスデンなどをめぐり歩き、イタリアに入った。単身ではなく欧州留学中の長州出身者らが、集まってアテンドする。野村靖・山田顕義・内海忠勝らであった。ここでも藩閥が異郷の地に臭いを放つのである。  しかし何度も言うように、同じ藩の出身者が、無条件で手をにぎりあうわけでもないのだ。薩摩では大久保と西郷に隙間風が吹き、長州では木戸と伊藤の間が、米欧回覧の旅でいちだんとしっくりいかなくなった。博文は利通に接近している。二人で委任状をとりに帰国したことなどもあって、とくに親密になったようだ。孝允にも、それがはっきり見えるのである。  その博文はなお使節団にあって、相変わらず贅沢をしているようだった。支給される旅費を貯金する人々を見て、博文は「旅費を遺して帰ろうなどとは思わぬ」とせせら笑ったという。  孝允は、むろんかなりの貯金をしており、帰路ヨーロッパのあちこちを自由に巡歴するにも旅費は潤沢だったし、集まってくる留学生たちをつれて散財することもできた。  米欧回覧中、孝允は自分でも怖れていた「脳痛」に苦しむことはなかった。ただ食物が変わったせいと寒さのために、ひどく痔を悪くした。痛みと出血が激しく、各地で診療を受けている。帰路もそれに悩んだ。医師に往診を頼み、何日もホテルのベッドに横たわったまますごすこともあった。  イタリアではフローレンスから、ローマ、ナポリと歩く。ポンペイの古代遺跡などは数日をかけて見学し、遺物の見取図を書くほどの熱心さだった。二千年も以前、これだけの文化を持つ人間が地球上にいたという証拠を目の前にしての驚きである。  たとえば裁判所の跡がある。その構造が、つい先日見てきた欧州各地の裁判所とほとんど同じであることに不思議を感ずるのだ。いったいヨーロッパの時間は、どのように過ぎていったのだろうかとも思う。 「議院あり。左右に時々の議長のスタチューを陳列するところあり。中央にスピーチを演ずる高壇あり」  古代都市の遺跡に立っても、この一人の日本人は、近代をさぐる貪婪な視線をあたりにふり撒くことを忘れていないのである。──  マルセーユを出航したのは、明治六年(一八七三)六月十日だった。地中海から、四年前に開通したばかりのスエズ運河を抜け、灼熱の紅海、インド洋、東シナ海を経て、横浜に入港したのが七月二十三日である。  一年八カ月ぶりに、真夏の熱気を帯びる故国の土を踏んだ瞬間、孝允の最初にして最後の大旅行は果てた。そして、彼の生涯もあと四年で尽きようとしていた。 [#改ページ] 第五章 帰去来   征韓論  孝允が外遊から帰ってみると、政府の様子は大きく変わっていた。一年八カ月も留守にしたのである。変わらないのがおかしいくらいだ。  しかし、岩倉使節団は、出発するとき、留守政府との間で十二カ条からなる「約定」をとりかわしていたのである。その中の第六項に、「内地ノ事務」の改正は大使が帰国してからおこなうので、なるべく新規の改正はしないとうたっている。  ところが実際には、留守政府のもとでかなりの大改正が断行されていたのである。兵部省を廃止して陸軍・海軍の二省を新設、そのほか学制改革、地租改正、徴兵令の施行、太陽暦の採用、国立銀行条例の公布など目をみはるほどの行政改革が進められていたのだった。しかも太政官職制では「内閣」というものが新設され、参議の権限が大幅に増大されている。  使節団の帰国が一年近くも延びたのだから、待ってはいられないという事情もあったのだろうが、「鬼のいない間に洗濯」といった気持が、最初から留守政府にあったらしく、それは留守をあずかった一人大隈重信自身がのちに公言していることからも明らかだ。  岩倉使節団が海外をめぐっている間の参議は次のような顔ぶれであった。   西郷隆盛(薩)   板垣退助(土)   大隈重信(肥)   後藤象二郎(土)   大木喬任(肥)   江藤新平(肥)  肥前・土佐の進出がめざましく、従来の薩長閥は、内閣でみるかぎり影をひそめている。西郷一人を残して薩長の大物がいなくなると、各個ばらばらの派閥抗争が激化し、太政大臣の三条実美は手を焼きはじめた。木戸・大久保の帰国を求めたのもそのためである。  孝允より一足先に帰ってきた大久保利通は、とてもそんな政府の中に割り込んで行ける空気ではないと見てとった。 「追々役者モ揃ヒ、秋風白雲ノ節ニ至リ候ハバ元気モ復シ」見るべき場面もひらけてくるだろうといった意味の手紙をヨーロッパにいる村田新八や大山巌らに書いて、利通は箱根から関西方面への旅に出てしまった。  役者が揃うというのは、岩倉大使らが帰国することを意味している。それまでは何をしてもだめだと東京を離れた。つまり逃げだしたのである。利通が逃避した原因のひとつは、帰国早々彼の耳に入った征韓論の騒音ということもあったろう。  その征韓論の先頭に立っているのが西郷隆盛だった。隆盛は、帰国した利通のところをたびたび訪れてそれを説くのである。利通も本質的には征韓論に反対するものではないが、今は「内治」が先決だという立場で反対をとなえた。海外に出兵するほどの財力があれば、国内の充実にあてるべきだという考え方は、米欧回覧によって得たものでもはや論議の余地はない。  征韓論に賛成しているのは、隆盛のほかに板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らで留守政府の参議六人のうち四人までが歩調をあわせている。反対しているのは大隈重信と大木喬任の二人だけだ。 「役者が揃えば」と利通は思う。「一気に征韓論をしりぞけ、薩長勢力の手に政府の実権を奪回せねばならぬ」  利通がしきりに海外の情勢を述べ、腰をあげないのを知って、隆盛の足はしだいに大久保邸から遠ざかり、そのうち利通も東京からいなくなってしまった。利通と隆盛が次に顔をあわせるのは、征韓論をめぐる対決の場である。  その征韓論の波は、当然孝允の足許にも押しよせてきた。大久保利通はこの時期、参議ではなかったので、閣議に出る義務もなく、小うるさい人々を避けて、のんびり旅行もできるが、孝允は出国前から参議の職にあったので逃げられないのである。  だが、孝允はやはり逃げた。病気ということで、閣議には一切顔を出さなかった。実は、必ずしも仮病ではなかったのである。長い海外旅行の疲れも手伝って、帰国すると間もなく、まるで待っていたかのように「|宿痾《しゆくあ》」にとりつかれた。  大久保利通より二カ月おくれて帰国した孝允は、はじめのうちまずは元気で来客と接していた。何しろ帰宅したその日から連日の客だった。  二日目などは「終日家居、来客不絶」という有様である。三日目も同じくだが、「応接甚困」と悲鳴をあげてしまった。このままではどうしようもないというので、四日目の七月二十六日からは、早朝家を出て、高輪の毛利邸に元徳を訪ね、翌日は皇居で天皇に拝謁ののち三条実美はじめ参議・諸官と会った。帰りに大久保邸を訪ねたが不在だった。利通は太政官にもめったに顔もみせないという。 (だから慌てて帰国することはないと言ったのだ)  このころになると政府部内の様子もわかってきて、孝允自身遠ざかりたい気持になっている。 「留守中の形情|紛紜《ふんうん》、|細縷《さいる》筆頭に尽す能はず、天下後世のためただ長歎に堪へず」  七月二十八日の日記である。それでも精力的に井上、大木、江藤、山県などの家を訪問してまわった。不思議なほど体の調子がよい。  八月に入った。その月の十七日に閣議がひらかれたが、孝允は病気と称して欠席した。柳沢家の旧邸に案内する者がいて、その庭を見物したり、帰途植木屋に足を運んだりという一日だった。  その日の閣議は、重大案件を決定していた。西郷が遣韓大使問題を持ち出したのである。つまり彼はみずから大使となって行き、おそらく謀殺されるだろうから、それを征韓の大義名分にして一挙に出兵しようというのである。賛成多数でそのことが決まる。 (何という幼稚な理論だ)  孝允は腹立たしい思いにかられるが、大久保もいないし、とにかく岩倉大使の帰国を待つしかない。こんなとき利通は、「此の際に臨み|蜘蛛《くも》の捲き合ひをやつたとて寸益もなし」と、のんびり旅にでも出かけて時間をつぶしている。孝允は何となく忙しそうに、馬車を駆ってとび歩いている。とにかく体を動かしていないと落ちつけないのだ。早朝から、予告もなしに、だれかれの家を訪ねる。  そして、八月三十一日、孝允は予期せぬ事故に見舞われるのである。その日、馬車に乗って九段坂を走っていると、物音に驚いた馬が暴れて車が大きく動揺し、不覚にも転落してしまった。新しく輸入された�西洋馬車�の、それに類する事故がよくおこった。そのころ天皇の馬車が工部省の溝に落ちこみ、肩のあたりまで下水で濡れるというようなことがあった。  孝允の場合は、外へほうり出され、肩と頭をひどく打って、痛みが激しく、そのまま家に引き返して床に臥せてしまった。剣の心得のある孝允にしては、醜態をみせたものだが、やはり疲れていたのか、またはもの思いに耽っていたためかもしれない。この事故が引き鉄になったかのように、体調が崩れた。 「米欧回覧」中は、ほとんどあらわれなかった「脳痛」が再発するのである。人力車の車輪が石ころに触れると、その音が頭蓋骨の中で、大きく反響したりもする厄介な症状だ。  九月十三日、岩倉使節団一行が横浜に帰ってきた。寝てもいられないので迎えに行く。東京から姿を消していた大久保利通が帰京したのは、二十一日である。彼は巻き返しの策を、ひとり練っていたのであろう。  使節団の帰国で、ようやく孝允の身辺も慌しくなったが、「脳痛」のほうも激しさを加え、彼を苦しませた。  九月十七日、孝允は馬車を降りるとき、左足がなんとなく不自由だという感じをもった。左足麻痺の最初の兆候だが、このときはそれほどでもなかった。しかし頭痛は、前にもましてひどくなり、以前のようには出歩けなくなった。  医師の司馬良海が、アメリカ人医師ホフマンをつれて、連日来診するが、ただ頭が痛いだけでは、病名をみつけ出すことがむつかしい。やはり神経系であるのは間違いなかった。別の医師長与専斎もくるが、やはり首をかしげて帰って行く。宮中の侍医岩佐純が「|病《やまい》御尋問」ということで来診したが、結果は同じだった。  頭痛のため夜もなかなか寝つけない。三時間ばかりしか睡眠がとれない日がつづくうちに、やがて征韓派との対決のときが近づいてきた。  ──征韓論。  明治政府における最初の政変をうながした、この外交問題について少しふれておこう。  中世に入ってからの日鮮交流は、南北朝時代に|猖獗《しようけつ》をきわめた倭寇によってその端緒をひらかれるといういまわしさである。つまり禁寇令を発して、海上の無法者を抑えた守護大名大内氏は朝鮮王の信頼を得て、日鮮貿易に乗り出した。山口に本拠をおく大内氏の立地条件が大きくものをいったわけだ。  当時の日本人にとって、朝鮮は文化的にも先進国であり、交流への強い期待を抱いた。大内氏などは、みずから|百済《くだら》王聖明の第三王子琳聖が日本に帰化したその子孫であると内外に宣伝した。そうした古伝があったのはたしかである。  もともと鎖国的な姿勢をとっていた朝鮮は、次第に猛々しい態度を露出させる大内氏を嫌うようになり、日鮮貿易は長くつづかなかった。足利尊氏なども前後六十回に及ぶ使節を朝鮮におくったが、その答礼として朝鮮使節が日本に派遣されてきたのは、ただの五回だったということにも示されているように、日本人への警戒は、倭寇に対するのと同じようなものだったのだろう。  そしてそのうちに豊臣秀吉による朝鮮出兵である。秀吉が死んで、文禄・慶長の役がおわり、やがて新しく政権をにぎった徳川家康は、積極的に善隣友好を進めた。  幕府と朝鮮王との仲介役は、対馬の宗氏が受けもったが、国交回復は容易にはかどらなかった。そしてようやく朝鮮から第一回の使節がきたのは、慶長十二年(一六〇七)である。以後、文化八年(一八一一)までの約二百年間に十二回つづいている。  この使節を朝鮮通信使といい、同国一流の文人・芸術家をふくむ二百人から五百人という大集団で、幕府は百万両前後をつぎこみ歓待した。下関に上陸し、山陽・東海道を進む通信使の行列は、大名のそれのように華美なものであったらしい。  通信使は各地に何日か滞在する。そこでは主として文化人同士の交流がおこなわれた。沿線の各大名のうち通信使を最も厚遇したのは長州藩だった。苦しい財政の中から、かなり巨額の接待費を出し、下関の商人にも臨時に課税した。  幕府では、通信使に対する出費が多すぎるという意見が出るようになり、それを初めに言ったのは儒臣の新井白石である。このあたりから微妙な空気が流れはじめた。儒学、国学の学者たちの間で、朝鮮侮蔑の風潮があらわれるようになったのは、通信使の中にいる著名な(例えば申維翰といった人)学者、文人が国内各地でもてはやされるのを嫉視する心理からもきているであろう。  また国学からは『日本書紀』の記述を鵜呑みにして、古代における朝鮮支配の夢を復活させるようなことが言われ、幕末になると欧米諸国から受ける外圧ともそれが結びついた。列強に対抗する力を、朝鮮半島から中国大陸にかけての広大な国土で補おうとする考え方で、吉田松陰もそれを主張した一人である。  朝鮮への侵入を狙うのは、日本だけでなく欧米諸国にしても同様だった。李氏朝鮮では幼少の国王の父|※[#「日/正」]応《せいおう》が大院君として実権をにぎり、圧迫を加えてくる列強に激しく抵抗、日本に対しても「洋賊」に変わるものではないとして開国を拒否していた。  明治政府内におこった征韓論は、たてまえとしては鎖国中の朝鮮に国交をせまる強硬策であり、それはかつて日本人がペリーに|恫喝《どうかつ》されて国を開いた体験を下敷きにしている。しかし一方では国内的な政治の陰謀に裏打ちされていた。  故意に対外危機を惹きおこして、国民の目を内政から、外へそらせようという意図だ。封建の特権身分を失った士族の不満、いぜんとして生活苦から救われない農民たちの維新への失望、怒り、一揆という騒然とした情況が全国的にひろがりつつある。  今は征韓反対の立場を強く打ち出している孝允自身が、かつてはそれを進言するということもあった。内政への不満として噴出する民衆の熱せられた力を、外にむけさせる例は、すでに長州藩が経験している。この藩の「攘夷」や「討幕」もそうした結果となった。異国の軍艦と戦い、幕府と争う間、長州ではまったく一揆が影をひそめたのである。孝允の征韓論の発想はそれであり、松陰から聞いたことも耳の底に遺っていたのだろうが、やはり思いつきにすぎなかった。米欧回覧によって、きれいに拭きとられてしまっている。  孝允たちがその外国を歩いている間に、西郷隆盛が呼号するようになった征韓論は、単なる希望的な議論でなく、対外政策の中心におく行動計画である。そしてその奥には、士族独裁政権の樹立という凶暴な野心が秘められている。  西郷隆盛の遣韓大使問題が閣議で決まった明治六年八月十七日、彼は同じ征韓派の参議板垣退助にあてて「内乱を|冀《こいねが》ふ心を外に移して国を興すの遠略」といったことを書きおくっている。  ここには民衆の不満を対外危機にむけさせるという共通の発想が述べられているが、西郷が考えるその「遠略」に重大な意味が隠されているのだ。まず民衆の不満というより、士族たちの新時代に対する絶望や怒りを背景にしている。  大村益次郎が進めた徴兵制による「国民皆兵」という軍事構想に、西郷ははじめから反対だった。新しい国軍は士族によって編成されるべきだと彼は主張しつづける。おおまかに言えば、ここで士族の不満を「征韓」にむけ、その成功によって得た主導権で士族による軍事独裁政権を樹立させる、それに自分の命を賭けるというのが西郷の決意であったのだろう。  孝允は、西郷の遣韓決定を知って、その翌日反対意見書を提出し、ひとまず抵抗の意志を表明した。九月三日の日記には、「今万民困苦、新令|屡々伝《しばしばつたわつ》て、|民益迷《ますますまよう》。去年来蜂起する数次(略)内政第一着とす」と留守政府に対する非難の言葉を初めて書いた。  頭痛のために日記の筆を持つのが辛くなっている。だが記載せずにおれないのは長年の習慣というものか。病苦に呻きながらも、まるで救いを求めるように日記帳にむかった。送りがなを略した漢文調の文章も、次第に多くなる。 「脳中不平生頭痛甚烈……」  痛みは、三日おき、五日おきと不規則に襲ってくるのだった。痛みのない日もいつか怯えるような気持で過ごすようになっている。怯えながらも、精一杯身構えている。──  閣議で西郷の遣韓は決まったが、岩倉使節団の帰朝後に正式に決定するということで上奏は留保されていた。九月十三日に帰国した岩倉は、休養のひまもなくただちにこの問題に取り組まなければならなかった。むろん岩倉も征韓に大反対である。  西郷らからは早急に閣議を開き、正式決定をとせまってくるが、岩倉はその前に大久保利通を参議に就任させようとした。孝允は会議に出られそうもないので、せめて利通を送りこんでおきたいのだ。利通が参議就任を承知するまで、また何かと面倒だったが、とにかく十月十日にはそれが決まった。しかし同時に征韓派の副島種臣(肥前)も参議となった。  そして十月十四日、岩倉帰朝後初の閣議が開かれたのである。木戸孝允だけが病気で欠席し、文書で意見を出した。  非征韓派の期待にたがわず、大久保利通は強硬な姿勢で反対論をぶちあげた。かつての盟友西郷隆盛は、利通の鋭く冷たい舌鋒の前に、その巨躯をたちすくめるように沈黙した。結論は翌日に延ばされた。  十五日の閣議には、孝允と西郷が欠席する。西郷は、三条大臣にあてて、否決された場合、参議を辞任するという意味をこめた意見書を出して欠席しているのだ。  三条自身に明確な信念があったわけではないが、進退をあずける西郷の姿勢に押されたかたちで、ついに彼の遣韓大使を認めた。  十七日の閣議は、岩倉・木戸・大久保・大隈・大木ら征韓反対派全員が欠席、四参議一斉に辞表を提出した。岩倉も右大臣辞任の意向を三条に伝えた。  西郷は、その日のうちに、閣議の決定にもとづく天皇への上奏許可をとってほしいと三条に要求した。一方では反対派の辞表を受け取っている三条は困惑した。一日の猶予がほしいと言い、西郷も一日だけならとそれを承知した。西郷の運命を狂わせた、というより明治六年以後の政治情況を決定する「一日の猶予」であった。  この隙をねらって、岩倉・大久保ら征韓反対派は、猛然と巻き返しに出た。ここで予想外の逆転をなしとげるのである。岩倉はさすが�曲者公卿�といわれただけの人物だった。三条を責めた。このとき岩倉は四十九歳、三条が三十七歳である。  十八日の明け方、太政大臣三条実美は「精神錯乱」をひきおこしてたおれた。 「三条公が発狂」などというのは少々大げさだが、板ばさみになった末の思考混乱というくらいのことはあったかもしれない。あるいは岩倉にすすめられての狂言であったか、とにかく三条は辞表を出し、遣韓一件の上奏は岩倉に頼んだ。  孝允はそのことを病床で聞き、「困憂|終《つい》にここに至れるか」と慨歎するのである。利通に手紙を書いた。情況を知って「浩歎痛哭」している、岩倉公を補佐して難関を突破してほしいという内容である。頭痛に耐えながらの執筆で、「病臥中大乱毫御高恕是願候」と断わりはしたが、ひどく字が崩れた。  しかし、ここまでくれば孝允が「痛哭」するほどのことはなく、三条にかわって岩倉がカギを握った以上、西郷の遣韓は、上奏の段階で粉砕されてしまったのだ。それが十月二十三日のことである。  征韓論に敗れた西郷は、参議・陸軍大将・|近衛都督《このえととく》の辞表を出して下野する。他の征韓派参議たちも全員が辞職した。土俵ぎわの大逆転ともいうべき明治六年十月の政変であった。  征韓派つまりは留守政府の主要な人物を追放して、実権を奪回した政変後の首脳は、文字通りの薩長藩閥勢力によって塗りかためられている。   太政大臣     三条実美(公)   右大臣      岩倉具視(公)   内閣顧問     島津久光(薩)   参議・文部卿   木戸孝允(長)   参議・内務卿   大久保利通(薩)   参議・外務卿   寺島宗則(薩)   参議・大蔵卿   大隈重信(肥)   参議・司法卿   大木喬任(肥)   参議・工部卿   伊藤博文(長)   参議・海軍卿   勝 安房(幕臣)         陸軍卿   山県有朋(長)       左院議長   伊地知正治(薩)       開拓次官   黒田清隆(薩)       陸軍大輔   西郷従道(薩)       工部大輔   山尾庸三(長)       教部大輔   宍戸 ※[#「王+幾」](長)  薩六、長五、肥二で、土は板垣、後藤という大物が征韓で敗れ去ったので、政府首脳から一人もいなくなった。そしてこの顔ぶれの中心的存在は、木戸孝允と大久保利通となるが、孝允は病気でめったに閣議にも出られない身の上だ。結局これは�大久保政権�にほかならない。参議と卿を兼任としたのも彼の意志によるものである。その他大久保の神経が隅々にまで行き届いた体制が、いつの間にか出来あがってしまっていた。  失意の西郷隆盛は、鹿児島へ帰って行く。参議と近衛都督は願いによって免じられたが、陸軍大将の肩書はそのまま与えられた。  西郷の帰郷で、近衛兵のうち薩摩出身の将校百人余が辞職して彼のあとを追った。また薩摩出身の|邏卒《らそつ》(警官)も多かったが三百人余が西郷を慕って帰郷するというのも異常で、ただならぬ空気をにおわせた。  西郷と大久保は、ここでまったく|袂《たもと》をわかつことになったのである。  鹿児島に帰った西郷は、士族たちの熱い視線に迎えられ、やがて明治七年(一八七四)六月、|私学校《しがつこう》を設立する。この私学校は、篠原|国幹《くにもと》の主宰する銃隊学校と、村田新八の主宰する砲隊学校を併せたもので、鹿児島県下各地に百三十六の分校をもち、経費は旧藩から県庁に引き継がれた積金でまかなわれた。県令大山綱良が協力を借しまなかったことも私学校を盛んにしたひとつの原因であろう。生徒は約三万人に達した。西郷を中心とする軍事組織であり、ときならぬ士族王国を現出した。  彼らをそこまで追いつめる理由があったにしても、武士という特権階級を解体した新しい時代に抵抗する、所詮は反動士族の集団としかいえないだろう。この私学校が主導勢力となって、三年後の西南戦争は勃発するのである。  大久保利通にとっては力強い誠実な協力者であり、木戸孝允とは薩長軍事同盟を結んで倒幕勢力を盛りあげ、勝安房とは肝胆相照らして江戸無血開城を実現させた維新の功臣西郷隆盛は、栄光をふり捨てて、みずから進んでか、あるいは望まれてやむなくか、その武装集団の統領となる。|毀誉褒貶《きよほうへん》を越えて、これもひとつの生きざまであった。  政変後の新しい政権も多難だった。真っ先にゆさぶりをかけてきたのは、征韓論で敗れ下野した人々であり、中でも江藤新平がその先頭に立った。明治七年二月の佐賀の乱がそれである。  その当時、佐賀の士族は征韓を主張する征韓党、政府の洋化政策に反対する憂国党を結成していた。江藤が参議を辞任し、郷里へ帰ってくると征韓党は興奮して、彼を首領にかつぎあげ不穏な動きをみせはじめた。憂国党のほうは、やはり政府への不満を抱いて帰郷した前秋田県令島|義勇《よしたけ》を擁し、これらが一体となって挙兵、二月十八日には県庁を襲って占拠した。  二月のはじめ佐賀の不平士族が蜂起したと聞いたとき、孝允は自分が行って鎮定の指揮をとりたいと利通に申し入れた。病気で閣議にも出席できない筈の彼が、叛乱鎮定のため九州まで出かけたいといって受け付けられるものでもない。利通は「これは内務卿である自分のつとめであるから」と陸軍省に出兵を求め、急ぎ西下した。叛乱軍は、孤立のうちに敗退する。  士族の不満は各地に芽生えている。江藤らは、それらの士族や、また生活苦に喘ぐ農民が一揆で同調するだろうという期待を抱いていたが、そんな動きもなかった。明治三年の長州における脱隊兵騒動のときは、農民が呼応した。それは農民出身者の多い諸隊の兵士と農民との連帯があったからだ。  ところが、士族叛乱の場合、それが封建的特権の擁護にすぎないのではないかという冷静な目で農民たちは騒ぎを見ている。このことはやがて明治十年の西南戦争にいたるまでに発生したいくつかの士族の蜂起にも共通していた。  江藤新平と島義勇は、佐賀を脱走し高知に潜入したがそこで捕えられた。二人は死刑に処せられ、首をさらされた。その他指導者十一人が斬罪となる。  江藤は幕末、佐賀藩で最初の脱藩者となり、京坂地方で尊攘運動に参加した。つれ戻され謹慎処分となったが許されて役につき、やがて明治政府に出仕、文部大輔などを経て司法卿となった。フランスを範とする司法制度近代化の業績を遺している。むろん刑法なども司法卿である江藤が扱ったし、例えば死刑についてもそうである。彼は、自分が手がけた法によって裁かれ、処刑された。──  佐賀の乱が燃えさかっているころ、大久保利通は征台論という危険な外交問題に積極的な姿勢をとりはじめていた。  この征台論は、征韓論と同じ時期に持ちあがっていたものだが、しばらく影をひそめていた。明治四年十二月、琉球島民が難破して台湾東南海岸に漂着したところ、六十六人のうち五十四人までが原住民に殺された。ここで�台湾征伐論�が叫ばれるのである。  米欧回覧から帰国してすぐ、孝允は征韓、征台いずれにも反対の態度をとり、その意見書も提出している。  台湾は清国の領土となっているので、賠償などについての交渉もおこなわれたが、一方では台湾を占領してしまえという強硬論も出た。とくにこの問題で日本人をそそのかしたのは、外務省のお雇い外人ルジャンドルであった。彼はアメリカ人である。駐日米国公使デ・ロングもやはり台湾出兵に拍手をおくろうとするのだった。アメリカは日本と清国の間を裂こうとしているのだ。アジアの諸国が結束することは、彼らの東洋経営にとって面白くない結果を生ずるだろうからである。  ルジャンドルにけしかけられながら征台論を進めていたのは、外務卿の副島種臣だったが、十月の政変で彼は西郷と共に下野した。征台も一時立ち消えになっていたのだが、佐賀の乱と時を同じにして、にわかにこの問題がむしかえされたのには理由がある。台湾出兵に乗り出したのは、大久保利通であった。  内治優先をとなえていた彼が、征台に踏みきったのは、士族の不平を、この強硬な外交姿勢で少しでもやわらげようとする意向もあるが、台湾で殺されたのが琉球の人々であったこととも関連している。薩摩と琉球の結びつきからみれば、大久保は薩摩の士族たちに対しても、台湾問題で断乎たる態度を見せておく必要が、このさいあると判断したのだろう。  四月九日、台湾蕃地事務都督となった陸軍中将西郷従道が東京を出発した。長崎から艦隊に三千六百の兵をのせて台湾へむかうのだという。  四月十日、孝允は工部省に伊藤博文をたずねる。台湾問題をどう考えているかと、いきなり彼にたずねた。 「よろしくありませんな」  と伊藤は答えたが、それ以上には言わなかった。 「最近、正院のほうにあまりお見えになりませんな」  と話をそらそうとする。 「台湾論のことで、何度か抗論したが、私の意見などに耳をかさないのだ。行っても仕方がないではないか」 「………」  伊藤は、またかといった顔で孝允を見た。憐れむような視線が、チラと覗いている。  工部省は鉱山・製鉄・造船・鉄道など官営工業の全般をにぎった。参議・工部卿の座を獲得した伊藤博文は、ようやく勢力家らしい体臭を発散させながら、孝允に対しているのだ。 「私は大久保君の強引な台湾論に反対だ。共に台閣に席を並べるわけにはいかないので、辞任しようと思う」  多少は驚いたふうの伊藤を尻目に、孝允は帰宅するなり一気に千八百字という長文の辞表をしたためた。  結局、征台問題に反対して辞職したのは孝允だけだった。工部卿の伊藤博文、陸軍卿の山県有朋も征台そのものには反対したが、孝允に歩調をあわせて辞職はしなかった。反大久保の旗をあげるほどの勇気はもてないのである。  孝允がその辞表を三条実美のところへ提出したのは十七日だが、早速その場で、三条から慰留された。 「よほど考えた上のことでありますから」  と孝允が言うので、一応預かりおくということになった。そのまま五月に入る。  五日朝、左大臣島津久光の使いがきて、きょう留任を勧告するために木戸家を訪問すると伝えた。 「お志はありがたいが、絶対に意志を変更するつもりはないから、どうぞ慰留など無用に願いたい。従って当家へのご来駕は、かたく辞退したい」  孝允の硬化した態度を知って、久光はあきらめたようだった。その後も二、三の人々から慰留の声がかかってきたが、孝允の決心は変わらない。  五月十三日になって、やっと依願免官の辞令が出たが、同時に「宮内省出仕」を命じられた。  十九日、宮内省出仕の罷免を奏請するが、許されなかった。もう何もしたくない。すべての役を離れてゆっくり静養したいと思っている。このところ「脳痛」はおさまっているが、左足に時々引き|攣《つ》るような痛みを感じはじめていた。   松菊枯る  台湾出兵と聞いて怒ったころは、まだ意欲を持っていたが、いったん辞表を出してしまってから、自分でも不思議なほど無気力になっていくのがわかる。前年、大蔵省を退いて下野した渋沢栄一などは「真に征台に反対なら、踏みとどまって撤兵に努力すべきでしょう」と忠告したが、その気にはなれなかった。だから宮内省出仕も断わったのだが、許さぬと言われれば、それ以上意地を張るわけにもいかない。そんな閑職をもらうというのは、どことなく惨めな気持である。  いっそのこと東京から逃げ出したいと思った。いったんそれを考えはじめると、一日もじっとしておれなくなる。長州へ帰ることに決め、両親の法要と病躯療養という理由をあげて、三十日間の賜暇を奏請し、これは許可となった。  五月二十五、六日は、三条・岩倉・大久保をはじめとする顕官、また外国公使のところにも別離の挨拶をしてまわった。たかだか一カ月の賜暇をとるにしては、大げさである。もう東京に帰ることがないかのような感傷的な素振りも見えた。無意識でそのつもりになっていたのかもしれない。  二十六日、再び上奏文を書いて提出した。このまま俸給を受けるのは心苦しいから、やはり免官にしてほしいといった意味の内容だった。孝允は、その回答を待たずに東京を出ようと思っている。  翌二十七日、妻の松子と共に出発しようとしているところへ、あたふたと開拓次官の黒田清隆が駆けつけてきた。薩摩出身、かつての黒田了介である。 「久光公が、大久保と大隈を罷免せよと騒ぎたてておられる。このままだと政府は瓦解するかもしれません」  明治四年三月に毛利敬親が病死したのちも、二大功藩として長州と並ぶ薩摩の島津久光だけは元気で、相変わらず気炎を吐いている。明治七年のこのとき五十八歳だった。  薩摩で新政府の悪口を言いつづけている久光を、うまくなだめて中央に引き出してきたのは大久保利通だが、左大臣に据えてみると、やはり黙っていない人だった。  これまでどちらかといえば保守的だった利通が、米欧回覧から帰国するとにわかに「新しく」なり、この点では孝允と逆の反応をみせた。そんなわけで大久保の考え方、やり方が、まだ旧藩の殿様意識から抜け出ていない久光とことごとに衝突するようになった。薩長勢力の象徴として久光を飾っておこうという利通の計画は失敗だったのである。そのうちに大隈重信と久光の折り合いもむつかしくなる。ついには久光が二人の罷免を叫びはじめ収拾できなくなってしまった。何とかなるまいかと、黒田清隆は出発間際の孝允に泣きついてきたのだ。  自分の知ったことかと、思わないではないが、傍観もしておれない。その日、孝允は横浜の富貴楼に宿をとり、夜おそくまでかかって、島津久光に手紙を書いた。この大事な時期、政府部内が動揺すれば、天下の方向にも影響しよう。大久保利通は積年志を尽くし、王室のためにしばしば危険の地をめぐり、朝野の嘱望を集めた有為の人材である。この人を失うことになれば、たちまち紛擾を生じるのは明らかだが、その責任はだれがとるのか。──かなり率直に久光の反省を促す文面である。  ほとんどは憎悪すべき利通でありながら、彼の存在の重要さを冷静に強調したそれを書き終えると、奇妙にさわやかな気分になった。互いに反発しながら、利通と孝允は共通の政敵にあたるべく、何度そのような褒め言葉を投げあい、冷えた手をにぎりあったことだろう。それもこれで終ったと、孝允は思う。そのとき、かすかにではあったけれども、彼ははじめて権力ヘの妄執を断ち切った自分を感じることができた。久しぶりに夫と一緒の旅に出たことで、無邪気なまでにはしゃいでいた松子は、机にむかう孝允のそばで、いつか安らかな寝息をたてている。すべてが平穏そのものだった。  孝允は、ようやく|旅情《たびごころ》を覚え、これから自分が帰って行く萩の空をいくらかは孤独な気持で思いうかべた。大名の武装解除を目的として明治政府が発した城郭破却令により、指月城の天守はすでに姿を失っているはずだった。  文久三年に藩主の居館を山口に移したので、萩はかつて城下町であったと記憶される場所にしかすぎず、めっきり淋しくなったという。武士という身分も消え、城は石垣だけとなった萩の町を、しかし抜けるような青空が覆っているのであれば、それもふるさととしては十分だと思えた。 「帰りなんいざ」  孝允は、今それを虚心につぶやける心境にあった。  ──|松菊《しようぎく》。  孝允がその号を使うようになったのは、明治二年一月ごろからである。「松菊|猶《なお》存す」は、陶淵明の『|帰去来辞《ききよらいのじ》』にある。松と菊がまだ存在している。つまり幽棲の地になお昔の知己が存することを言い、また乱世に清節の志士の存することを言う。  孝允にとって、この帰郷は、松菊という号にふさわしい文字通りの「帰去来」の旅であった。晋の陶淵明が|彭沢《ほうたく》の県令になった時、郡の長官が「束帯して面謁せよ」と言ったのに憤慨して、即日辞職して帰郷したことをつづったのが『帰去来辞』である。  ──帰去来兮(帰りなんいざ)!  萩にはそのころ、もう一人の松菊というにふさわしい人物がいた。暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔の地位に就きながら、今の政府になじめず、その上|病《やまい》を得て、傷心を抱き帰郷した前原一誠である。二年後、悲劇的な終末を遂げる彼もまた「帰去来」の人であった。  山口県に帰った孝允は、一カ月という賜暇の期限がきれても東京に帰ろうとはしなかった。いわば何となく日を過ごしているうちに、五カ月ばかりが経ち、十月のおわりに伊藤博文が帰京を促すためにやってきた。勅命だという。孝允は、すぐに上書をつくって帰京の猶予を奏請しようと答えた。  それではとにかく大阪まで出てくれないかと伊藤が言う。井上馨が待っており、大久保利通も下ってくるというのだ。伊藤は、どうでも孝允をつれ出せと大久保から命じられての西下らしい。強引な説得に負けて、孝允はしぶしぶ大阪へむかった。明治八年一月初旬のことである。  大阪では参議大久保利通・伊藤博文、それに在野の木戸孝允・板垣退助の四人が会合した。これを周旋したのが井上馨である。井上は明治六年に政府をとび出し、実業界に人っている。大久保体制の行きづまりを知って、木戸・板垣の入閣を画策したのだ。  征韓論に敗れて下野した板垣と征台論に反対して去った木戸とが、ここで顔を合わせたのは皮肉だった。しかも征韓論と征台論をめぐる政局の不安定を克服するのに、この二人の力を借りようというのである。  元老院・地方官会議を設けて国会開設への準備とするほか、立憲政体への改革を申しあわせることによって、木戸孝允と板垣退助は参議に復帰、大久保体制内での協力を約束した。世に言う大阪会議である。  孝允は、また引き出された。  衰弱した病躯の背を見せて去ろうとする孝允を、なおも必要とした舞台が別に用意されていたわけではない。もはや藩閥政治の冷酷な打算の一部分を、支えさせられるものでしかなかっただろう。  孝允と退助の名で体制が補強されたとみるや、日本政府は五月、|江華島《こうかとう》事件を発端とする強硬な対鮮外交路線を打ち出した。悪夢のような征韓論の復活であった。  明治八年五月二十二日、日本の軍艦が朝鮮沿岸で演習や測量をおこない、江華島付近で朝鮮側の砲撃を受け、交戦した。あきらかに日本側の挑発である。不法砲撃への抗議ということで圧力をかけ、日鮮修交条約を結ぼうとする謀略だった。外務卿寺島宗則が三条・岩倉の承認を得て、海軍と結んで極秘に進めたものという。  孝允はそうした情況の局外におかれていた。既成事実となったその外交問題に、彼は口出しをひかえ、以前のように辞表をたたきつけるということもなかった。 「朝鮮江華の暴発一条」として、日記にそれを嘆く愚痴っぽい言葉を並べているだけだ。それでも九月に入ると辞意を洩らした。辞めてもらっては困ると大久保が言い、伊藤が慰留にやってくる。これまでの孝允なら、その意志を押し通すところだが、どうしたことかあっさり辞意をひるがえし、 「朝鮮交渉の任に当たりたい」  と突然願い出た。長州藩と朝鮮の古くからの交渉史を説明し、自分が行けば、必ず平和的に話をまとめてくると強調するのである。当惑しながらも、閣議はそれを承認したが、一応「内定」ということにとどめた。十月四日である。  孝允が、激しい頭痛の発作に襲われ、左足が麻痺して歩けなくなったのは、それから約一カ月後の十一月十三日だった。ほとんど半身不随の状態で明治九年(一八七六)四十四歳の新春を迎えた。  医師が診察にくるが、毎日のように違った顔がやってくるのは、病名がつかめないからであろう。麻痺した左足には、電気ショック療法を用いているが、これも大して効果はあらわれなかった。 「実に余、此の節病気のため宿志を遂げられざるは甚残慨なり……」  日記だけは、欠かさずつけている。 [#ここから2字下げ] 一月二十三日は大雪だった。 二十四日は晴。 二十五日、曇、微雪。 二十六日、風、雪。 二十七日は風雪ことのほか激しく、病室の戸の隙間から、雪片が舞いこんできた。…… [#ここで字下げ終わり] 「脳痛」の発作が再発、左足麻痺の惨めなからだで、病室に吹きこんでくる雪を見てから約二カ月後の明治九年三月二十八日、孝允は参議を免ぜられた。そして内閣顧問という閑職につく。  |憑《つ》きものが落ちたように、頭痛は薄らぎ、左足の麻痺もほぼ消えたが、歯の痛みを感じた。  三十一日、歯科医師のところへ行き前歯を一本抜き去る。 「当月余の前歯三本を脱せり」  以前のをあわせると、これで十二本を抜歯したことになる。それでも義歯を入れれば、秀麗な顔を失うということはなかった。少しの|窶《やつ》れはみとめられたが、六月ごろには前よりも頬に肉がついて、穏やかな表情になった。  明治九年六月二日、孝允は奥羽巡幸の随員として、岩倉・大隈らと共に東京を発った。  新政府に敵対し、戊辰戦争の主要な舞台となった地域である。微妙な感慨をただよわせながらの初巡幸であった。  孝允は行列の中を歩きながら、時々別のことを考えていた。出発前に松子とヨーロッパに行こうかと話しあったことについてである。松子は本気にしなかった。 「欧州視察を願い出れば許されるかもしれない。外国人はみな夫妻一緒で公式の場に出るしきたりがあるから、お前をつれて行くことはできるだろう」  松子はただ笑っていた。  福島の半田銀山の宿で、孝允は急に興奮したように、ヨーロッパ行きのことを考え、眠れなくなった。松子には何もしてやれなかったと、今さら気づいたように思いつめた。パリの凱旋門を、ローマの遺跡を、もう一度この目で見たい。松子に見せてやりたい。  再度の洋行を言い出したら、真っ先に反対するのは大久保にちがいない、などといったことまで考えはじめる。松子に手紙を書く。 「極内/\/\/\、かならず/\御やきすて/\/\」と冒頭にしるした。「みな/\ぶじとぞんじ参らせ候、いまなにごとも申し参らず、天とうしだいにまかせおき申すべく……」要するにそれだけのことしか書いていないのだが、「此手がみ御よみののちはかならず/\御火中/\/\/\極内/\/\/\」と念を押した。  松子は、この手紙を受けとったとき、ふと不吉な予感を覚えるのである。孝允は真剣で、むしろ異常な意欲を燃やし、東京に帰ると伊藤博文などにも依頼して積極的にことを運んだ。 「洋行の件はどうなっただろうか。妻の洋服をつくる準備もあるので、早く決めてもらいたい」  そんな意味の催促の手紙まで書いた。岩倉具視が、孝允の欧州派遣に反対したのは、そうした精神状態を危惧したせいかもしれなかった。「木戸は神経衰弱にかかっている」というかねてからの噂もまたひとしきり流れていたのだ。  ヨーロッパ行きが挫折したとわかってからの孝允のふさぎかたには、やはり尋常でないものが感じられた。その情緒不安定な言動が、周囲の人々の眉をひそめさせるのである。  十月には前原一誠らによる萩の乱が発生した。前後して秋月の乱、神風連の乱と、士族叛乱が相次いだ。 「脳痛」の悪化に苦しむ孝允が、みずから鎮定に出かけるといきまいても、大久保らはまるで相手にしなかった。すでに彼が関与すべき問題ではなくなっているのだった。  明治七年五月、征台論を批判し、決然辞任して郷里に帰るとき、孝允自身がひそかに覚悟したように、彼の政治生命はそこで終っていたというべきだろう。  大阪会議のあと参議に復帰してからの孝允は、いわば蛇足の歩みとしかいえなかったし、それは自分の意志に沿うものでもなかったのである。しきりに洋行を望んだのも、彼にとってはふさわしい在り方を焦るような気持でさがしていたのか。  孝允のヨーロッパ再訪は果されなかった。彼は、日本にいたために、幕末の一時期を共に戦った薩摩の盟友、西郷隆盛がおこした西南戦争の悲劇を見ることになった。だがその西郷の自決より四カ月前、そして暗殺された大久保利通より一年前に、孝允は歴史から姿を消した。──  そのとき孝允は行幸に|供奉《ぐぶ》して京都にきていたのである。明治十年二月だった。西南戦争が始まると、孝允は例によって単身鹿児島に行き西郷を説得したいので行かせてほしいと、熱にうかされたような表情で、熱心に大久保に頼んだが一蹴された。大久保はみずから指揮して西郷を討つつもりである。鹿児島派遣を、なおも孝允が言いつのるので、岩倉は天皇の親諭によってそれを押さえた。  間もなく孝允は発病した。頭痛に加えて、胸痛、さらには腹痛を訴え、医師の診断によると肝臓が異常に肥大しているという。激痛が孝允の全身を走った。明治元年いらい一日も欠かさず記入してきた日記も、ついに明治十年五月六日で筆を投げた。その最後の日記は、 「晴、昨日来寒気病骨に徹するを|覚《おぼ》ふ」という書き出しである。九州の戦闘経過を簡単に述べ、「黒田清隆今日より帰京に付、八代口日記と戦地図を贈れり」と、一応その日の記事を完結させた上で、以下永遠の空白となった。  松子が東京から駆けつけてきたときは、すでに言葉を交わせない症状にあり、夢の中にあらわれる、さまざまな人物との会話が|譫言《うわごと》となって人々の耳を搏つばかりである。  当時の医学で結局その病因をつかみ得なかった業病に苦しみながら、終りにひとこと「西郷もまた大抵にせんか」とその幻に語りかけたまま、木戸孝允が上京区旧近衛別邸の仮寓で息をひきとったのは、明治十年(一八七七)五月二十六日午前六時であった。  四十五歳で、松菊は枯れた。 [#地付き]〈桂 小五郎 了〉 〔参考書〕 日本史籍協会編「木戸孝允文書」 日本史籍協会編「木戸孝允日記」 妻木忠太著「松菊木戸公伝」 妻木忠太著「木戸松菊公逸話」 末松謙澄編著「防長回天史」 山口県教育会編「吉田松陰全集」 徳富猪一郎著「近世日本国民史」 山田次朗吉著「日本剣道史」 アーネスト・サトウ著・坂田精一訳「一外交官の見た明治維新」 尾崎三良著「尾崎三良自叙略伝」 大江志乃夫著「木戸孝允」 奈良本辰也著「維新の群像」 田中彰著「岩倉使節団」 田中彰著「日本の歴史(小学館)明治維新」 井上清著「日本の歴史(中央公論社)明治維新」 冨成博著「木戸孝允」 沖本常吉著「乙女峠とキリシタン」 京都市編「京都の歴史7・維新の激動」その他 文庫版のためのあとがき  木戸孝允を書かないかという話が持ちこまれたとき、正直なところ私は|躊躇《ちゆうちよ》した。この人物を、あまり好きではなかったからである。長州出身の志士のなかで、私が惚れこんでいるのは、とにかく高杉晋作だけだ。高杉にくらべると、木戸は|怜悧《れいり》な印象ばかり強くて、どうも魅力がない。それに歴史家たちの木戸評もよくない。「維新後に生き残ったのは、どれも二流の志士ばかり」と言われたりもする。私自身は、しかしそんなふうには思わなかった。現代の安全地帯に、ぬくぬくと坐っている者が、過去の激動の時代を生きたあれこれの人物を捉え、したり顔で批判し、軽侮し、|謗《そし》るといったことに、不快をもよおさないでもなかったのである。  それでも私が、大してこの人物を深く観察してもいないくせに、|あまり好きではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》などと思っていたのは、そんな木戸評にさそいこまれてのことだったかもしれない。しかし、好き嫌いはともかく、桂小五郎といった時代の彼がになった役割を無視して、維新史は語れないという考え方はもっていたから、どうせ避けられないものならやるかという気持で、新聞連載を引き受けたのである。  以前、私は吉田松陰についても、このようなかたちで取り組んだものだった。高杉晋作を知るためには、松陰を素通りできないではないかと思いはじめたのだ。どうも松陰は苦手だという意識を、早くから抱いていた。戦前の山口県で育った私たちは、松陰の神格化された偶像を、幼少のころから押しつけられていたので、それは嫌悪というよりも「鬼神を|敬《うやま》いこれを遠のく」の心境だった。そうして松陰への接近をはじめたのだ。この人は大きすぎて、むろん私などの深く踏みこめる人物ではないが、やってみると、これまでの印象とはがらり違った人間像が浮かび上がるのに、今さら驚かされた。一口にいえば、親近感を覚えたのである。孔子は敬遠も「知」だと言ったが、それだけではいけないのではないかと、私なりな自戒を得たというわけだ。桂小五郎と親交のあった松陰像も、おかげであまり抵抗なくえがけたと思っている。  もうひとつ、この作品にも登場する人物の例を挙げたい。その後、私は|椋梨藤太《むくなしとうた》を書いたことがある(文藝春秋刊『獅子の廊下』)。椋梨藤太といえば、悪名高い俗論党の首魁で知られる長州の極悪人である。彼が藩の実権を握った第一次長州征伐令直後、血の粛清によって二十人ばかりの有為の士が惜しい命を散らした。藤太への恨みは、現代にまでも尾を曳き、彼に関する資料は何一つ遺されていない。俗名を隠した墓が、無縁となって萩の徳隣寺にあることが、最近発見されただけだ。故意に歴史から抹殺された気配がある。最初、私の発想は、この極悪人の像を、そのまま再現しようということだった。高杉のような、自分が共感する人物の対極において、悪人像をえがいてみようと思ったのである。  傍証資料は、ふんだんにある。それらを集めることによって、藤太のイメージは、かなり具体的に浮かび上がってきたのだが、自分でも意外なことに、書いているうち、彼に対する人間的な親しみを感じはじめたのである。初めから悪人ときめつけていても、人ひとりを|凝視《みつ》め長くつきあっていると、捨象された部分が次第によみがえってきて、その行動に関しての、ある理解が芽生えるのだ。徹底して非情になれない、私のペンの弱さだろうかと、思わないでもなかったが、いやそれだけでもあるまいと立ち直って、最後まで書き上げた。結局、私は椋梨藤太を悪人としてではなく、|悪役《ヽヽ》という座に据えてながめていたのである。  長州藩が倒幕勢力の中心になったといっても、その先駆的な行動に参加したのは、たとえば桂小五郎や高杉晋作らわずかひとにぎりの人たちだった。封建家臣の大半は、支配階級の特権にしがみつこうとする保守層を構成しており、それがぎりぎりの極限状況のなかで急進派とのきわどい対立をみせた。藤太は推されて、その代弁者になったともいえるが、それ以前の藩政改革の過程にあって彼が見せた営為を拾いあげれば、やはり長州をそこまで押し上げてきた功労者の一人に数えてもよいのである。藤太を仔細に調べてゆくうちに、私はそこに気づいたのである。  木戸孝允を書いていて、私の筆が、この人物の輪郭を、少しずつ柔軟にえがき出そうとしているらしいという自覚を早くももった。必ずしも怜悧といった印象ではなかったからである。聡明ではあるが、打算に終始するのではなく、高杉のような狂おしさはないにしても、熱い血をたぎらせて、目的にむかって突き進む男ではあった。激動期に要求される典型のひとつといってよく、現代の共感もそこにあるだろう。  彼は�逃げの小五郎�といわれた。それは池田屋事件のさいの行動や禁門の変直後の身の処し方に対する非難めいた|揶揄《やゆ》だが、逃げるといえば高杉などもよく逃げた。長州藩の重大事件のほとんどについて、彼は不在の人だった。しかし、また別の重大場面に|忽然《こつぜん》とあらわれ、その役割を見事にこなしたので、英雄的な名を遺した。かりに�逃げの晋作�といわれても、高杉の栄光がいささかも傷つかないように、もし小五郎が逃げたとしても、いっこうに差しつかえはないのである。猪突して早々と消滅点に達する者や、その|屍《しかばね》を乗り越えて進む者、さらに生き残って使命を果そうとする者と、歴史に登場する人々の役割は、三段式ロケットのようなものだ。  ちなみに、池田屋事件については、本文中でも前後の経緯を書き、小五郎の立場も一応史料をあたって書いた。小説だからといって、都合よく勝手にこねあげたわけではないが、小五郎の弁護になっているという人もいるかもしれない。しかし、それに反対するたしかな史証もないはずである。つまりその人物にむける視線によって、どうにでも書けるということだ。いってしまえば、私は桂小五郎及び木戸孝允への善意の視線でながめている。だから彼を弁護しているとばかり見られるかもしれないが、少くともそれは私にとってこの作品の目的ではないのである。また私は歴史家ではなく、これはあくまでも小説なのだ。維新史解釈などの大それた望みはもっていない。この作品の原題が「炎と青雲」であるように、激動の時代を生きた一人の人間の「炎」と「青雲」を書きたかった。炎は桂小五郎であり、青雲は木戸孝允の姿である。  ついでにいうと志士桂小五郎はいきいきとして、ドラマティックでもあり、書くときも楽しかった。新聞連載も予定をはるかに越え、小五郎篇で紙数をつかい果してしまったので、そのまま延長して、ついに千枚の長さになったのである。しかし、木戸孝允となると、そのニュアンスはずいぶん変わっていて、いささか当惑しないでもなかった。志士から官僚に変身した彼は、まるで別人格のような肌ざわりとなる。生彩に欠ける。木戸に対する悪評は維新の三傑の一人と数えられるようになった明治以後に、意地悪く集中しているといってもよい。「木戸は愚痴っぽいばかりで……」などと言われもする。  私は、晩年のこの人にとって、最大の不幸は、健康にめぐまれなかったことだと、その日記を読んで痛切に感じた。すべてはそれに起因しており、志士時代と違った生気のなさを、無念にも思ったことである。これまで私が見た限りで「木戸孝允」と題する評伝などの内容が三分の二を「桂小五郎」時代で占められているのは、そのあたりの事情を物語っているようだ。私としては等量に木戸を述べたいと、それだけの理由で、書き進めたのだが、たとえば岩倉使節団の副使として参加した米欧回覧については、彼を中心に据えて、もっと詳しく書くべきだったと思っている。いずれにしても、明治の世になってわずか十年間しか生きられなかった木戸孝允が身心を業苦の中においたその期間にこそ、人間という生きものの哀れさが、|滲《にじ》み出ているようで、完結したあとの感慨も、私としては深かったのである。  ことし一九八四年六月、フランスから一門の青銅砲が、下関に送られてきた。  これは、幕末、下関を攻撃した英仏蘭米四カ国連合艦隊が、戦利品として持ち帰った長州砲の一門である。パリのアンヴァリッドに展示してあるそれを私が最初に見たのは、一九六六年の春だった。私の提唱による返還運動は、フランス政府の拒否によって望みを断たれた。そこで私の考え方としては、日本史が世界史に組み込まれて行くいくつかの歴史的事件を|目撃《ヽヽ》したこの大砲は、パリの地にあることが、むしろ積極的な意味を持つだろうと、返還にはこだわらないことにしたのである。そこにあるのを記憶しておけばよいと思っていた。  ところがその後、パリを再訪したさい、私はアンヴァリッドに三門の長州砲が所蔵されているのを確認し、それなら一門くらいはと、またぞろ返還の希望を抱き、安倍晋太郎外務大臣にそのことを伝えた。長州人である安倍外相も大乗気で、再び外務省による返還交渉が始まった。この実務を担当した西欧第一課長の原島秀毅氏は、かつて私がパリで長州砲探しをした当時、大使館員だったという因縁もあり、精力的な折衝がくりかえされた。曲折の末、いわば永久貸与のかたちで、大砲の里帰りは実現した。いわゆる馬関攘夷戦から百二十年目のことである。  このパリの大砲については、木戸孝允が岩倉使節団の副使としてフランスを訪れたとき、パリでアンヴァリッドを見学したことに関連して、本文中にもふれた。木戸日記には「セネラールの案内にて第一ナポレオンの廟に至る。(略)老兵院此の廟に接す」とあり、|軍事博物館《ミユゼ・ド・ラルメ》を詳細に見たと記録しているが、長州砲と対面した記事はない。 「孝允は、室内だけ案内されたので、一に三ツ星の紋の入った長州の青銅砲を、ついに見ることができなかった。連合艦隊の下関襲撃は、そのときからわずか八年前だから、なまなましい分捕品を日本人に見せるのを、案内のフランス人が遠慮したのかもしれない」  と、私は書いている。ところが、最近、豊田穣氏の『最後の元老──西園寺公望』(新潮社刊)によって、木戸がアンヴァリッドの長州砲を調査するよう、当時留学生だった西園寺に依頼していたことを知ったのである。このとき西園寺が発見したのは、回廊に展示してある天保十五年製の長州砲だった。木戸はその報告にもとづいて返還運動の手続きをとったという。むろんフランスが承知するはずはなかっただろう。戦利品返還の前例をつくると、ルーヴル美術館が|空《から》になるというフランスの|惧《おそ》れは、現代も同様である。  パリを訪問したとき、木戸はアンヴァリッドに行きながら、長州砲の存在に気づかなかった。もし見ていたら、日記にも書いていたはずである。数年後、そのことを知って、残念に思ったのだろうか。パリの長州砲に執着した木戸は、やはり長州人だった。その後、文部省の歴史調査官大隈武松という人が、アンヴァリッドに行き、前庭の長州砲(嘉永七年製)を見ているが、大して心を動かしていない。  ペリー来航のさい、江戸大森海岸警備の幕命を受けた長州藩の対応ぶりに感心した幕府は、三浦半島警備の大役を命じた。藩では|葛飾《かつしか》の藩邸で三十六門の青銅砲を鋳造し、また国許にある旧砲も運ばせて、三浦半島に砲台を築いたのである。そのころ桂小五郎を名乗っていた彼は、練兵館で剣術の修業に励んでいたのだが、大森海岸警備にも参加し、はるかに黒船の姿を見た。対外危機にめざめる瞬間であり、また一介の剣士から激動する政局の中に進出して行く契機となった事件でもある。つまり志士桂小五郎の出発点であった。  三浦半島に据えられた長州砲は、やがてそのすべてが関門海峡を|睨《にら》む下関の砲台に移された。攘夷戦が展開されているとき、木戸は京都にあって、それに呼応する政治工作を進めていた。そして四カ国連合艦隊が下関を襲撃し、戦利品として長州砲を軍艦に積み込んでいるころは、傷心を抱いて出石に潜伏していたのだ。当事者としての彼が、パリの大砲にむける関心は、多少の屈折をただよわせながらも、やはり切実なものであったに違いない。  木戸が西園寺公望に、その調査を依頼したのは、西園寺の留学が終りに近づいたころだというから、京都で病死する直前だったと思われる。死期の近づいた木戸孝允が、最後に意欲を燃やしたことが、大砲返還というのも何かかなしい事実だった。その大砲が、攘夷戦から百二十年後に里帰りし、祖国の土の上に据えられたのである。  幕末、イギリスが薩長を支援したのに対し、フランスは幕府の|後楯《うしろだて》となり、長州に敵対した。フランスヘの憎しみも桂小五郎は抱いていただろう。明治以後、現代に至るまで、フランスは必ずしも日本という国家に、全面的な友好を感じてはいなかった。池田首相が、渡仏したときは「トランジスターのバイヤーが来た」とひやかすほどのものだったが、ようやくフランスは日本との関係改善を真剣に考えはじめている。長州砲の里帰りが、ミッテラン大統領の決断によって実現したという背景には、そのような事情もあると聞いて、私はあの素朴な青銅砲が、新しい国際的役割をになって、現代に再登場したという感懐を抱いた。  下関市役所前庭でおこなわれた、大砲引き渡し式には、駐日フランス大使も出席した。六月の空に高らかに鳴りひびくラ・マルセーエーズの旋律に耳を傾けながら、この大砲返還を夢見ながら、早逝した桂小五郎こと木戸孝允のことを、私はやはり思い出していたのである。     一九八四年夏 [#地付き]著 者 〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年十一月二十五日刊 初出誌  毎日新聞西部版  昭和五十二年十月十一日〜昭和五十三年五月三十日連載分 単行本  昭和五十三年六月文藝春秋刊  (「炎と青雲──木戸孝允篇」改題)