古川 薫 桂 小五郎(上) 目 次  第一章 剣士の旅程      江戸屋横丁/離郷/神道無念流  第二章 軍艦の世紀      黒船来航/海を撃つ大砲/流落の人/大船建造  第三章 志士となる日      嵐の前/猛士消ゆ/航海遠略策  第四章 謀臣への道      寺田屋の変/正藩連合/黒船を撃て  第五章 花と銃弾      京洛の恋/池田屋騒動/禁門の変/逃げの小五郎/頂上の座 [#改ページ] 第一章 剣士の旅程   江戸屋横丁  日本海から吹き渡ってくる寒風のなかで、夏みかんの実が、どうやら色づきかけている。  一月のなかば、私は古地図を片手に、桂小五郎のふるさと萩の町を歩いてみた。  安政年間につくられたらしいこの萩城下古図をみると、外堀で隔てられた街区の北部一帯は、ほとんどが町家で埋まっている。  赤・青・緑と、美しく色分けされた、商人町の下の方に、彩色しない白い区画が、三十ばかり並んでいる。これが呉服町の侍屋敷である。  城下町をのせた阿武川デルタの南端にあたる川島から、東の松本川沿いにひしめく下級武士の住居とちがって、呉服町の武家屋敷は、地図の上でも姓名を書きこむ余白が広く、字体もやや大きくなる。しかし、堀内の高級家臣の屋敷割りには及ばないから、呉服町の彼らが、中級の士分であることは、一目でわかる。  呉服町は、外堀を渡る「中の総門」に近く、東西に走る広い|御成道《おなりみち》(藩主、貴人の通路)である。一丁目、二丁目とあって、あと瓦町、西田町、東田町など商店の建ち並んだ繁華街に続く。  この呉服町筋から、三本の小路が、平行して南に下りる。角にあった豪商の屋号をとって、菊屋横丁、伊勢屋横丁、江戸屋横丁と呼ばれた。  江戸屋横丁には、有名な蘭方医青木|周弼《しゆうすけ》の旧宅があり、|直目付《じきめつけ》をつとめた佐伯丹下の旧宅をはさんで、漢方医和田|昌景《しようけい》の旧宅がある。  古地図では、青木家が伊勢屋横丁東側にあって、江戸屋横丁の和田家と背中あわせになっている。幕末、現在の位置に、青木家が移転したものと思われる。  和田家は、毛利元就の七男天野元政の支流で、毛利一門の血をひいているというのだが、藩士ではなく、医者としての食禄は二十石だった。だから地図では、和田家だけが、ちぢこまったような字で小さく表示してある。  桂小五郎、のちの木戸孝允は、天保四年(一八三三)六月二十六日、その和田家の長男として生まれた。昌景五十四歳のときの子である。  昌景は、藩主の侍医をつとめ、また藩の医学館で、眼科教授にも任じられた。  典医は、一般診療も許されていたから、その面の収入もあり、二十石とはいえ、実際は裕福なくらしを立てていたはずである。  同じ呉服町の菊屋横丁には、高杉晋作の生家も、そっくり保存されている。高杉家は二百石の大組士だが、屋敷の規模は、二十石の和田家と同程度のものだ。建物なども少し念入りに比較すると、門構えにしろ、家屋のつくりにしろ、和田家の屋敷が、ずっと贅沢にできている。  贅沢といっても、政商菊屋などの豪邸にくらべたら、三本の小路に並ぶ家々のたたずまいは、いかにもちんまりしている。中士たちのつつましい生活ぶりも目に浮かぶようだ。  菊屋をのぞいて、伊勢屋も、江戸屋も、今は姿を消している。江戸屋の苗字は武田といった。主に|鬢付《びんつけ》製造業を営む御用商人である。明治初年、家屋は解体され、跡地は現在、夏みかんの畑になっている。  日ごろ観光客でごったがえす江戸屋横丁も、冬の一時期は、かつての武家屋敷町がそうであったような静けさを、わずかにとりもどすのである。 「木戸孝允誕生地」と彫った標柱のそばの門をくぐると、数歩も行かないうち、玄関に突きあたる。和田家には、二つの玄関が取りつけてあり、右側が、史跡となっているこの家屋を管理する人のそれとして今も使われている。左側は、公用の来客や患者が出入りするための玄関であった。たいそう合理的だが、同じようなつくりの入口が二つ、直角に隣りあっているのは、やはり奇妙な風景である。  それをとりつくろうように、玄関先に|柘榴《ざくろ》の木が植えてある。すでに老木である。|剪定《せんてい》された柘榴のごつごつした大枝の先が、何かにつかみかかる人間の手のかたちで、雪もよいの天にのびているのが、ひどく印象的だった。  和田家の裏庭は、およそ二百坪(六百六十平方メートル)のだだっ広い野菜畑である。  伊勢屋横丁側の隣家の植え込みの先端から、指月山の頂上が、わずかにのぞいている。  和田家の旧宅は、萩市の所有であって、開放されているから、玄関横の路地を通り、見学者が家の左側にまわりこむことを許されている。そこは植木の間に飛び石をおいただけの、簡素な庭園である。庭に面して客間、その隣りが小五郎の生まれた部屋だという。上が一部二階になっていて、二十歳の秋、江戸へ出るまで、小五郎が書斎に使っていた。  ここで、この家に現在住んでおられる人の私生活をおかすようで、ちょっと気がひけるのだが……。まったく無遠慮な旅行者がうろつくこうした史跡でくらすというのは、大変なことだなと、同情しながらも、結局、書いてしまうのは、ある偶然の体験が、若き日の小五郎に関する私の想像を、かなりの実感をともなって、かきたててくれたからである。  つまり、私が小五郎の生まれた部屋をのぞいていると、階上から、人間の|鼾《いびき》らしい音が、しのびやかに落ちてきたのだ。日曜日のことだから、おどろくほどのことはないが、私は思わず失笑してしまった。  小五郎が昼寝しているような錯覚を抱いたのが、自分でおかしかったのである。私には、小五郎がこの書斎で、猛烈に勉学に励んでいたとは思えない。よく昼寝などもしていたのではないかと、そのとき気づいたのであった。  小五郎は、八歳のとき桂家の養子となったが、間もなく当主が死んだので、実家にひきとられて成人した。和田家とは家格のちがう大組士百五十石の桂家で養われていたら、そうのんびりもしておれなかっただろう。  結局、小五郎は、きびしい武家のしつけや、気づまりな養子の生活を経験せずにすんだ。医師は知識人であり、侍とはちがった、いくらかは自由人らしい気風が、和田家にはただよっていたであろう。しかも裕福である。そんな実家で、のびのびとはぐくまれたことが、小五郎の資質に大きく影響しているようだ。  小五郎が八歳のときというから、天保十一年(一八四〇)の春である。近所に住んでいた桂九郎兵衛という百五十石の藩士が、重症の床についた。桂家には後継ぎがいない。そのままだと断絶するので、大急ぎで養子をとる。これを|末期《まつご》養子という。藩の規定で、末期養子は、相続しても家禄の約半分を没取されることになっている。  九郎兵衛が死んだあと、小五郎には九十石が与えられた。それでも二十石の医者和田家の子が、れっきとした大組士の士格を得たのである。  九郎兵衛のあとを追うように、その妻も翌年病死した。一人とりのこされた小五郎は、実父昌景のもとに帰ってきた。封建社会での特権身分をつかんだ九歳の小五郎は、親が喜ぶほどには自覚しなかっただろうが、とにかくめぐまれた幼年時代を、和田家ですごすのである。  多少、病弱だったせいもあるが、医師である父親の慎重な庇護のもとで成長した。がつがつと稽古ごとに励むというふうでもなかったから、まずは平凡な子供に育っている。後年、入学した藩校明倫館でも、中程度の成績しかあげていない。  生活苦に追われながら、這いのぼろうとして努力する、思いつめた表情は、江戸屋横丁時代の小五郎には無縁のものであった。それは、たとえば伊藤俊輔(博文)や山県小助(有朋)や吉田栄太郎(稔麿)といった軽輩の子が、望むべくもなかった環境である。また同じ医家の出身でも、不遇な少年時代をおくった村田蔵六(大村益次郎)の生き方とも、まるでちがっている。  しかし、そんな小五郎にも、やはり暗い影はさした。桂小五郎となった八歳のときから、十年の間に、六人の家族の死を見たというのも異常なことといわなければなるまい。  小五郎には、捨子、八重子という腹ちがいの姉が二人いる。昌景の先妻の子である。  先妻というのは、藩医田辺玄養の娘で、文政八年に病死している。二度目にめとった妻は、藩士平岡氏の陪臣猪口宗右衛門の姉で、清子といった。後妻として嫁いできた清子が、最初に生んだのが小五郎である。  五十四歳で男の子をもうけた昌景は、その後も旺盛で、また子供をつくった。女でハルと名づけられた。後年、志士|来原良蔵《くりばらりようぞう》と結婚した治子である。良蔵は、やがて「航海遠略策」をめぐって、義兄の小五郎と対立するが、ついには藩邸で割腹自殺をとげた。  激動する幕末期を前に、不安な予感のひとかけらもなく、まずは平穏な江戸屋横丁における和田家の日々がすぎて行くかにみえた。  以前、昌景は、周防佐波郡宮市の町医者小泉雄仙の弟、文譲を養子とし、長女の捨子をこれに配した。そのあとで清子と再婚し、念願の男子出生となったのだが、普通なら厄介な相続問題も起きかねないところである。  高齢に達して得た、はじめての男の子を手放す父親の気持は、さすがに複雑だが、養子口としては文句のない縁組みである。しかもその小五郎が、大組士の士籍をみやげに舞い戻ってきたのだから、昌景としては、文字通り願ったりかなったりだった。  だが、和田家の喜びは長くつづかない。桂家で養父母の死に立ち会った小五郎は、実家に帰ったその年の秋、異腹の姉捨子の死を見なければならなかった。捨子は、養子文譲の嫁である。昌景は、そこで妹の八重子を文譲の後添いとした。  次に、小五郎が十六歳のとき、母の清子が死んだ。昌景は、たまたま藩主に従って江戸へ出ており、妻の臨終には立ち会えなかったばかりか、三カ月後には八重子が死んでいる。昌景が、萩へ帰ってきたのは、そんな不幸つづきの直後であった。  参勤交代の旅は、萩から江戸まで一カ月を費すが、飛脚便ならその旅程を十日以上ちぢめることはできる。昌景は、妻の訃報を江戸で受け取ったが、参勤交代の随従は、戦場に出るのと同じで、家の事情で帰れるものでもない。じっと藩主が帰国する日を待たなければならないのだ。八重子が死んだのは、彼が帰路の行列について、東海道を歩いているときだった。  父の留守中、家には義兄の文譲がいたが、小五郎は痩せ細っていく母の枕元で、ただおろおろするばかりだ。清子が息をひきとったとき、小五郎は、悲嘆のあまり、出家するなどと言い出す始末だった。  ところが間もなくこんどは、異母姉の八重子が死の床についた。呪われた家の妖気に引きこまれるように、小五郎が熱を発して、たおれたのは、八重子の葬儀が、終るかおわらないかのころであった。ひどい衝撃を受けて、昌景は、翌年の春遺書を書いた。老残の自分を意識したのだろう。この遺言書は、なかなか興味のある内容なのだが、あとで述べることにする。  昌景は、つづいて、十七歳になった小五郎の後継ぎを決めた。そのころ、小五郎がよく病臥していたので、この子も長くはないとみたのだ。文譲の次男直次郎を、桂家の養子にしようというのである。  薄命を予想された小五郎は、再び元気になって、馬術など習いはじめた。そして、昌景は、遺書を書いた翌々年の嘉永四年(一八五一)一月に七十二歳で世を去った。小五郎は、十九歳になっている。  うちつづく家族の死で、多感な青春時代を、間断なく悲痛の色に塗りこめられた小五郎だが、それからようやく立ち直りをみせはじめる。ほとんどの肉親を失ったあとの、皮肉な解放感が彼をつつむのは、やはり若さということであったかもしれない。何よりも和田家には、かなりの遺産があった。それは昌景の遺書で知ることができる。 「これより父上の遺書を開封します」  それとない親族たちの好奇の視線が揺らぐなかで、奉書にしたためられた和田昌景の遺書を、文譲がゆっくり読みあげた。初七日をすぎた嘉永四年一月下旬のことである。  当時では「遺書」と呼んだが、要するに財産分けの遺言書だ。「一、銀十貫目、右ハ桂小五郎へ相譲リ候……」  ほう、といった声が、思わず参集者から洩れても、不思議ではないのである。小五郎が養子に入った桂家の当主夫妻が死んだとき、遺された財産など、ないにひとしかった。どこの武士も台所は火の車で、遺るといえば借金くらいのものだ。 「近世米価表」(角川書店『日本史辞典』)によって、嘉永四年の米価と現代のそれを比較換算すると、銀十貫目は、およそ六百万円に相当する。 「一、銀七貫目、右ハハルヘ相譲リ候間、借屋ナリトモ求メ置キ候テ、縁付キ之アリ候ハバ……」  小五郎の妹ハルには、銀七貫目をやるので、家を買い求めて、貸し家にしろ、嫁に行ったら、その家の所有権は和田家に残し、家賃収入だけをハルが取れ、万一結婚に失敗でもしたときは、自分の小づかいにでもしたらよかろう、というのである。  こうした細かい指示を与えるところにも昌景という人物の側面があらわれている。  財産分与の最高は、やはり養子文譲の子、つまり昌景の孫の卯一郎で、銀五十貫目をもらっている。その他の者にも分配された銀を合わせると総額七十貫目で、今でいえばおよそ四千二百万円の現金が和田家に蓄えられていたことがわかる。別に貸し家があり、また金融しているところからの利子収入、さらに|頼母子《たのもし》講の入金予定なども、詳細に列挙してある。  最後に昌景は、次のようなことを書いている。この遺書における唯一の教訓を述べたところである。 「私は、若いころから倹約につとめてきたから、これだけの財産をつくることができた。お前たちも倹約を第一とし、遺産を子孫に譲るよう心がけなさい」  倹約しても食うだけで精一杯という武士がほとんどだ。俸禄のほかに、典医の診療収入というものが、どれほど大きかったかが窺える一例である。もっとも昌景という人が、理財の才にたけていたこともたしかだろう。  同じ時期、和田家の禄高の倍以上──といっても五十七石だが──をもらっていた兵学師範の吉田大助(吉田松陰の叔父・養父)が、家族のために書いた遺書がある。武士だけに、精神性の濃い文章が並ぶが、その一部として「勘忍状」というのがあり、これが財産分けの指示となっている。  実収七人扶持(一人扶持は四石五斗)のうち、一人半扶持を妻に、一人半扶持を虎之助(松陰)にやる、残りはすべて吉田家の借金返済にあててくれという内容である。まさに勘忍して下されといった遺産相続だが、武士たちの苦しい経済事情とは、そのようなものだったのである。  萩藩の財政は苦しく、武士は|半知《はんち》といって、俸禄を半分に削られている。そのほかに御馳走米などという減石がある。和田家のゆたかな家計とは対照的な逆境のなかで、大多数の侍たちが、生活にあえいでいたのだ。  桂小五郎は、亡父から与えられた遺産をふところに、鷹揚な九十石の大組士として、ようやく世に出ようとしている。  眉濃く、二重瞼の深く刻まれた秀麗な面ざしは、母親似だろうという。洋髪に蝶ネクタイを結んだ「木戸孝允」の写真が、一般によく知られているが、これは明治四年、特命全権副使としてアメリカヘ渡ったときに撮影したものである。  十代のころの小五郎は、この写真を二十歳以上若くした好男子だったと思えばよい。坊ちゃん育ちで、やや病弱で、かすかに暗い翳りのある柔和な若侍がそこにいる。やがて、神道無念流の達人になろうとは、だれしも想像できないことであった。   離郷  嘉永五年(一八五二)の秋が深まろうとするころ。  背のひょろ長い侍がひとり、萩城の外堀に沿った道を歩いている。藩校明倫館の授業が終ったあとの、のんびりした足どりだ。  二十歳の桂小五郎である。  この年齢で、自宅から明倫館に通うというのは、あまり名誉なことではなかった。  ──入舎生。  家から通学する学生たちは、そう呼ばれる。それに対して、校内の寄宿舎に寝起きして学ぶ者を「居寮生」といった。官費である。学力優秀な藩士は、入舎生の中から選ばれて、居寮生となる。  小五郎は、いつまでも入舎生のままだ。明倫館には、十四歳のとき入学した。それ以前には、十歳のとき、藩士岡本権九郎が城下の|江向《えむかい》にひらいた向南塾で、経書の句読を学んだ。  権九郎は、号を|栖雲《せいうん》といい、藩内ではかなり文名の高い儒者で、詩文をよくした。教授法にもすぐれていることを伝え聞いて、藩校に上る前の武家の子弟が、争って入門した。それはやはり、親のほうが本気である点で、現代に似ている。ここもいわば�狭き門�であった。父昌景が生きているころだから、あれこれ頼みこんで、いくらかは金も積んでの入塾である。  小五郎は、目立つ塾生ではなかったが、ただ詩作の才を見せた。     寒梅帯雪雨皚々     処々友人沽酔来     満面風軽香馥郁     樹間携手共徘徊  そのころ師の栖雲に添削を求めた小五郎の七言絶句である。雪中に寒梅を鑑賞する情景をうたったもので少年の詩としては、添削されたにせよ、相当に、出来ている。多くの詩を遺し、自他共に詩才をみとめる高杉晋作の少年時代につくった作品と比べても、決して劣らない。晋作は、詩人を気取るところがあったが、小五郎には生涯そんな気持がなかったようだ。学者であり、詩人であった栖雲が、何よりも教師としてすぐれていたのなら、小五郎の詩魂を、もっとのばしてやれたのではないかと思われる。それはなかった。  小五郎にしても、詩人になるには、いつも醒めているようなところがある。しかも幼少のころから、青年期にかけて、学問より武術への関心が高かった。これは、父昌景の意思だったのかもしれない。医者の子から、九十石大組士の身分を獲得した者にふさわしく、ひときわ武技を身につける必要が意識されたのだろう。文武両道に秀でるというのが、武士の理想像である。昌景は、士分となった息子を、それに追い上げようと手を尽したようだ。小五郎は、そのいずれの道も、ある程度まで軽くこなしたが、力をふりしぼって精励するふうには見えなかった。  明倫館に入学した十四歳の春、|親試《しんし》にのぞんだ藩主毛利|慶親《よしちか》から命じられて、即興の詩を賦した。藩主はいたく感心して、この少年に賞品を与えている。十六歳のときも、そんなことがあった。慶親は、のちの|敬親《たかちか》だが、よほど明倫館に関心を抱いていたらしく、しばしば親試をおこなった。つまり藩主みずからが、学生の実力をためすのである。吉田松陰が十一歳で、藩主に『武教全書』戦法篇を講じて有名になったのも、この親試であった。天保改革いらい人材を求めつづけた長州藩が、明倫館で育つ若者に、大きな期待をかけていたということである。  小五郎の詩才は、そんなかたちで、時に姿をあらわしながら、しかし、それだけで終っている。とにかく飄々として、学校に通っているという毎日である。──  外堀の水面を、本の葉がすべるのを見て、小五郎は、ちょっと立ち止まった。詩句でも浮かんできたのか、後ろから彼の名を呼んで、走ってくる人の気配に、いっしゅん気づかずにいた。男は、追いつきざま、息をはずませながら言う。 「桂さん、どうも面白うないことがある」  小五郎は、おどろいた顔で、その小肥りした若侍をふりかえった。 「面白うないこと?」  小五郎は、思いつめた表情の山県武之進に聞き返した。 「そうじゃあ、どだい面白うない」  武之進が、わめいた。白目の多い目を、むき出している。  ──山県武之進。  大組士の子で、小五郎より二つ年下だ。のちの大和国之助である。語呂あわせのような名だが、大和家の養子となり、国之助という名は自分でつけた。国学の影響があらわれているとみるべきだが、彼が生来身につけている|諧謔《かいぎやく》もただよっている。熱血漢で、小五郎の目には、万事大げさな男だった。後年、「大和国之助」となった彼は、尊攘志士として、高杉晋作らと江戸や京都で暴れた。帰国したがやがて藩内の政権抗争に巻き込まれ、反対派に捕えられて、野山獄で斬首の刑に処せられた。  このころ小五郎と武之進は、内藤作兵衛という明倫館の武道教師について、剣術を習っていた。まだ平穏な日々である。  明倫館の主な剣術師範は、四人いる。各流派への好みによって、師を選ぶが、小五郎は柳生新陰流の内藤作兵衛についた。小五郎より数年おくれて、高杉晋作も作兵衛についている。晋作が、作兵衛から免許を皆伝されたのは、万延元年である。  小五郎は、新陰流から、間もなく神道無念流に移るのだが、そのきっかけとなったのが、江戸の剣客斎藤新太郎の萩来訪だった。諸国巡歴の途次、新太郎は萩城下へ立ち寄って、藩士たちに稽古をつけた。新太郎の父斎藤弥九郎が、藩主毛利慶親と親しくしており、彼の入国は武芸者として最大級の歓待を受けた。  明倫館の構内には、今もその建物が遺っているが、完備した武道館が一棟ある。中央の玄関を境にして、艶光りした三十三畳敷きの黒い板張りが左右に配置されている。玄関の上には「諸国修業者引請場」と大書した懸額がある。武者修業中の者は、だれでもここを訪れて、立合いを求めることができた。  さすがに江戸でうたわれる神道無念流の名剣士斎藤弥九郎の子だけあって、新太郎は父親をしのぐほどの手並みを披露した。各流の門人が、立合いを求め、小五郎も武之進も、わずかな時間、新太郎に稽古をつけてもらっている。 「江戸の私共の道場へきて、無念流を修業したいと思う人はいませんか。慶親公に、それをお許し下さるよう申し出るつもりです」  新太郎は、藩士たちとの座談の席で、そんなことをいった。小五郎や武之進も、そこにいたのだ。武之進が、小五郎を呼び止めて、「面白うない」というのは、どうやら江戸行きにかかわるそのことらしい。 「近く斎藤先生が、江戸へ帰られるちゅうことは知っちょるでしょう」 「らしいの」 「そのとき、五人が随行する。江戸斎藤道場にて剣術修業せよとの藩命が、先程出た。費用も藩から給付されるそうです」 「五人の名は、わかるかね」 「剣術師範の門弟から、それぞれ選ばれ、まず|馬来《まき》先生のところからは財満新三郎、平岡先生の門弟では佐久間卯吉、北川先生の門人では林乙熊、そして……」 「われらが内藤先生の門弟からは?」 「河野右衛門と永田健吉です」 「………」  小五郎は、急に黙りこんだ。 「河野や永田なら、いつも三本のうち二本は桂さんが取るじゃないですか。拙者にしても、永田となら互角じゃ。内藤先生が、なしてあの二人を選ばれたか、わからん。面白うないですよ。しかも……」 「武之進、少し静かにしちょれ」  小五郎は、不機嫌に言って、腕を組んだ。胸の中で、音をたてて崩れるものがある。はじめて、自分がいかに強い希望をもってこの人選の結果を待っていたかを、小五郎は思い知った。  内藤作兵衛の門下では、河野右衛門、永田健吉、そして小五郎や武之進をふくめて、十人くらいが互角の腕を競っていた。とび抜けた者はいないが、他の流派にくらべると粒ぞろいの門弟をそろえている。もっとも山県武之進は、彼が自認しているほどでもないが、ひどく口借しがるのには、小五郎と共通の立場がある。  小五郎と武之進が、江戸へ剣術修業に出ようと話しあったのは、前年の嘉永四年のことである。江戸へ出たい理由を強いていえば、退屈していたということだろう。だからそれなりに説得力がなく、両人とも周囲に反対された。  小五郎は、自分に配分された遺産があるので、費用には事欠かないはずだったが、遺言の中に、妻帯したらという条件がつけられている。それをタテに、義兄の文譲が、金を出ししぶった。  反対を押してでもといった意欲もないままに忘れていたのだ。ところが、斎藤新太郎が五人の藩士をつれて江戸へ帰ると知って、再び小五郎の胸は泡立った。藩命なら、文譲は一も二もないだろう。機会到来とみたが、五人といえば厳選である。あまり期待しないことにして、平静を保っていた。駄目だとわかると、失望と同時に不満が噴きあげてくる。  山県武之進と別れ、彼は江戸屋横丁の和田家へ帰ると、二階の自室に、ごろりと寝ころんだまま、何事か思いにふけるふうだった。障子を開け放った窓から、風が吹きこんできた。机上に書き散らしていた紙片が、はらりと畳の上に落ちる。手にとって、仰向けになったまま目を細めてその詩稿をながめ、ふふふと思わず笑った。  詩稿といえるほど大げさではなく、|戯《ざ》れ書きに近いものだが、一応の詩にはなっている。いや一応などというまい。これはかなりの格調をもって、何よりも熱心に推敲された作品といってもいい。だが、その内容は、道学者流の人物が、眉をひそめるといったていのものだ。 「掌上一塊腰下肉」などという怪し気な文字が見える。数枚の半紙に書かれた七言律の長詩である。その一部分は、次のようにつづられている。     想見東家相思女 騒興感春十分催     亦是陰門太極上 不辞満酌舐蚌胎     ………  不埒な詩である。「東家」とは、この横丁の筋向いにある藩士小川兵助の屋敷をさしている。「相思ノ女」といっても、別に小五郎と恋仲にある人ではない。つまりは「想ヒ見ル」のである。  兵助の娘で、園江という。一度嫁したが、夫に死別して実家へ帰ってきた。二十五、六歳の大柄な美人であった。が、高慢ちきで、すれ違っても会釈ひとつしない。彼女の親である兵助が、夫婦そろって尊大な性格だった。何となく和田家の人々を見下しているような姿勢も窺える。  小五郎は大組士桂家を継いだが、和田家は医者である。昌景が理財にたけ、しきりに蓄財していることは近所でも評判だった。武家の兵助は、和田家を内心軽蔑の目でにらんでいたのに違いない。それが家族の態度にあらわれるのだ。いわば腹いせに、小五郎は、小川家の園江を凌辱するような詩を作って、ひそかに溜飲をさげていた。ひとつには、これも青春の憂悶がなせるわざである。 「こんなことをやっちょるから、江戸にも行かせてもらえんのじゃがのんた」  周防佐波郡宮市から養子にきた義兄文譲の周防ことばを真似ながら、自嘲めいた笑いをうかべ、天井にむかって紙片を投げた。それはヒラリとひるがえって、小五郎の鼻先に、ほのかな墨のにおいをただよわせた。 「行くか、江戸へ」  小五郎は、むっくり起き上がる。内藤作兵衛を訪ねるつもりで、脱ぎ捨てていた袴をつけた。  皮肉なことに、家を出たとたん路地の曲り角から、ひょっこり小川園江が白い顔をあらわした。茶席の帰りらしいが、相変らずニコリともしない。「門内誰窺秘密蔵」といった例の自作の詩句が、意地悪くうかんでくる。 (だめだな、私は)  小五郎は、苦笑しながら、人通りのすくない屋敷町の路地を急いだ。  内藤作兵衛の屋敷は、城下の秀岳院通りにある。四十七石の大組士で、分限帖には、「剣術者新陰流柳生家当流」とあり、公称禄高のほかに五人扶持、銀弐百拾目を給せられている。明倫館師範としての役料だ。  柳生流の剣術師範として藩に召し抱えられた内藤家で、作兵衛は六代目である。剣客として、多くの弟子を持ち、柱小五郎、高杉晋作など、やがて藩内外に活躍した人々と接触したが、彼自身はまったく政治というものの埒外にいた。それで個人的には何の風波もなく明治九年十一月まで生きている。その月の六日に作兵衛は六十二歳で生涯を終った。しかし、横死である。  前原一誠らがおこした萩の乱のとばっちりを受けたのだ。十一月六日といえば、叛乱もようやくおさまり、出雲に逃げた一誠が捕えられたころだが、作兵衛は私用で城下はずれの玉江を歩いていた。作兵衛が刀を差しているのがいけなかったのである。鎮圧後も警備についていた政府軍が彼を見つけ、賊徒のかたわれと思いこんで射殺してしまった。すでに廃刀令が出たあとだが、作兵衛は剣客だから、どうしても刀を捨てきれなかったのだろう。そのために思いがけない奇禍に遭った。  小五郎が、その屋敷を訪ねて行った嘉永五年、作兵衛はまだ三十八歳の男ざかりである。剣術者らしく、恰幅のよい作兵衛は、くつろいだ姿で、縁側に出て刀剣に打粉をかけていた。小五郎は中庭にまわって、遠くから声をかけた。 「桂小五郎です」 「………」 「実は、斎藤先生について江戸へ行けるように、取り計っていただきたく、参上しました。費用は、自弁いたす所存であります」  作兵衛は、小五郎を無視するように、渋面をつくったまま、パタパタと小さな音をたてて、なおも刀に打粉をかけている。ようやくそれを拭い、ゆっくり刀身を鞘に納め終って、口をひらいた。 「河野と永田が決まっておる。桂君も腕は彼らにおとらぬが、何故拙者が推挙せんじゃったか、それがわかるか」 「よう心得ちょります」 「桂君には、必死という気魄がない。素質はおとっても、永田君には、それがあるのだ。剣は人である」 「そうですね。求道者としての真剣さに、私は欠けておるといわれるのでしょう」 「それだけわかっておるなら、君の来訪は、無駄であろう」 「河野や永田をのぞいて、割りこもうちゅうのではなく、私は自費で行きたいのです。藩の厄介になることはありませんので、江戸へ行けるようお口添え願えないものかと思うて参ったのであります」 「左様か」作兵衛は立ちあがって言った。「桂君、一本稽古をつけてやろう。道場へ通りなさい」 「支度をして来ちょりませんが……」 「そのままでよい」  言い捨てて、作兵衛は、屋敷内の一部をあてがった道場へ、小五郎を導いた。道場といっても、八畳敷き二間をつぶして、床に厚板を張っただけのものである。  正面に簡素な神棚があり、採光が悪いので、昼間でも薄暗く、湿ってカビの臭いがする。作兵衛は、早朝この道場で居合を抜く。門弟に稽古をつけることはあまりないが、奥義の伝授などはここでおこなった。  木剣をとって、二人は|対《むか》いあう。 「桂君、拙者のどこでもよい、その|剣尖《けんさき》で、触れることができれば、江戸行きを推挙しよう。遠慮なく打ち込んで参れ」  青眼に構え、作兵衛が低く言った。 「御免!」  小五郎は、まず大上段に構えて、前進し、作兵衛の頭部をめがけて振りおろした。むろん、軽く払われる。さらに同じ動作をくりかえした。小五郎の打ち込みは、全身隙だらけである。わざと打たれようとしていることは、作兵衛も感づいていた。  小五郎はすでに、江戸行きの推挙などあきらめている。師の怒りの前に、身を投げ出そうとする気持が、素直にあらわれており、そのことが、わずかに作兵衛の心情をやわらげた。  たしかに、作兵衛は腹をたてていた。訪れてくるなり、自費で江戸へ行くから何とかしてくれという小五郎の申し出が、たまらなく不愉快に聞こえたのだ。作兵衛自身、貧しさをかこっている藩士の一人である。とかく資産にものいわせて、意志を押し通そうとする商人たちの動きが、武士の目に苦々しくうつっているころだった。  医者の子で、ゆたかな遺産をふところに、しかも物質的には別に不自由のない典医和田文譲の家にくらしている小五郎である。彼が、日ごろ大身の家の者に見えるほどに屈託なくふるまっていることにさえ、どうかすると反発を覚える者がいなかったわけではない。  江戸行きについては、藩の厄介にならなくともよいという小五郎の言葉が、武骨に生きている作兵衛を刺激したことを、小五郎はまだ理解できずにいた。しかし作兵衛の態度から、漠然とした何かを感じとってはいたのである。稽古をつけてやるという唐突な作兵衛の出方を見て、今は下手に突っかかって行くより、無心に打たれるべきだと、とっさに覚悟を決めた。  作兵衛は、しかし、小五郎の隙を衝いて、打つことをしなかった。激しく振りおろしてくる相手の太刀先を、払いかわしているだけだ。小五郎は突きに出た。すさまじい勢いで、連続の突きを見せ、ほとんど身体ごとぶつかって行く。さらに、何本目かを突き出したところで、ビシッと小手を打たれ、不覚にも木剣を取り落としてしまった。粗雑な音をたてて、それが床にころがるのと同時に、作兵衛の荒い声が、ひびきわたる。 「未熟者、分際を知れ!」  小五郎は、呆然と、その場へたたずんだ。 (これは破門ということか)  自問している。  作兵衛が、奥へ消えると、静かに小五郎は木剣を刀架にしまい、内藤邸を出た。  山県武之進に、このことを話すべきか、と彼は考え、やはり黙っておこうと心に決めて足早に歩き出す。  打たれた右手首が、醜く腫れあがっている。ずきずきと胸までも疼いた。 「その手はどうしたのです」  夕飯のとき、義兄の文譲が、目ざとく、紫色に盛りあがっている打撲傷を見とがめた。 「撃剣のとき、打たれたのであります」 「防具をつけてですか」 「素手で木剣をにぎって立合ったものですから」 「荒っぽい稽古をやったもんじゃのんた。あとで手当をしてあげよう」 「いや、一晩、冷やしておけば大丈夫でしょう」 「骨にひびでも入っておると大変だ。とにかくあとで診せなさい」  文譲は、医師らしくあまり感情のこもらない声で言い、それきり黙々と箸を動かした。 「兄上、預けてある私の取り分ですが……」  遺産のことかと、文譲はすぐに気づいたらしく、 「必要なことでもあるのですか」  と、細い目で、小五郎を見据えた。 「少しばかり」 「滅多なことでは、出せませんよ」 「その滅多なことであります」  江戸行きのことを打ちあけた。 「是が非でもかね」 「決めました」  小五郎は、燃えるような目で、文譲を|凝視《みつ》め、返事をせまった。  小五郎が、江戸へ行きたいというのは、これで二度目である。その思いつめた表情を見て、文譲は、以前のときのように、真っ向から反対の意見を述べることはしなかった。手首の傷について、小五郎は何もいわなかったが、余程のことがあったのだろうと、文譲は想像している。これが実の兄弟なら、もっと激しいやりとりがあったに違いないが、 「まあ遊学ちゅうことなら、やむを得んか。亡き父上もお怒りにはならんじゃろう」  その程度にしか、文譲は言わなかった。 「ハルのことは、なにとぞ頼み入ります」  小五郎の実妹ハルは、婚期を迎えようとしている。 「お前様の留守に決めるようになるかもしれんが、任せてくれますね」 「然るべく」 「実は、きょうのこと、来原様から人を通じて、どうかと申し入れがありました」  来原良蔵は、大組士来原良右衛門の子で、そのとき二十四歳である。つまり小五郎より四つ年上だ。明倫館でたまに会ったことがある。軍学師範吉田大次郎の親友だった。  小五郎は嘉永二年に大次郎の兵学門下となったが、良蔵は、軍学に興味がなく、大次郎と師弟関係は結ばなかった。ただの友人としてつきあっているようだった。小五郎にしても、兵学を大次郎から習ったのは、せいぜい一年足らずで、ほとんど身についていない。吉田大次郎は、小五郎が入門した翌年、九州遊歴の旅に出ており、さらにその翌年には江戸へ出ている。江戸へ出た大次郎は、他藩の友人と東北旅行に行くさい、過所手形の発行がおくれたので、それを持たずに出発し、事実上の脱藩となった。江戸の藩邸にいた来原良蔵は大次郎のために画策したが、成功しなかった。  大次郎は士籍を剥奪されて、萩に送り返され、小五郎が江戸行きを思いたったこの当時、松本村にある彼の父杉百合之助の|育《はぐくみ》として謹慎しているのだった。良蔵も、大次郎の脱藩事件に連座して罪に問われ、やはり謹慎中の身だ。 (あの男が、私の弟になるのか)  何だかくすぐったい気持である。 「お前はよいのか」  食事の給仕にひかえている妹のハルに言った。 「兄様たちに、お任せいたします」  細面の、まずは美人といえる顔を赤らめ、ハルが消え入るような声で答えた。 「しかし、来原さんは、例の吉田先生の件で、謹慎中ですよ」 「大したことにはなるまい、それが落ちついてからという内々のお話しです」 「私に異存はありません」  小五郎はすかさず言ったが、ハルはこれで不幸になるのではないかという思いが、理由もなく胸をかすめた。  父昌景が遺言状の中で、ハルヘの遺産分与に付け加え、「万一不縁ノ節ハ……」などと書いている。苦労性の細かい配慮から、そんな状況を仮定したのだろうが、小五郎は、ふとそのことを思い出したりもしていた。  世情が穏やかなら、来原良蔵とハルは、翌年にでも結婚したかもしれない。しかし、この当時予想もしなかった変動が、やがておとずれてくるのだ。良蔵も小五郎もその渦中に巻きこまれて行くのである。それでも四年後の安政三年に、ハルは良蔵のもとに嫁いだ。  ところで、義兄の文譲に江戸行きを承諾させたその夜、小五郎はいつになく興奮した自分をもてあましながら床に就いた。城下を離れるための許可を得る問題が残っている。藩政府との交渉も、内藤作兵衛が口添えしてくれないとなれば、これは厄介なことになりそうだった。  翌朝、明倫館に行くと、思いがけなく国家老配下の役人から、小五郎への呼び出しがかかっていた。  剣術修業のため、三カ年間、自費を以て江戸へ出たい旨の願書を早急に差し出せというのであった。おそらく内藤作兵衛が、前日のうちに、各役宅を回り、手続きを整えてくれたのだろう。作兵衛に対する恨めしい気持を、ひそかに抱いていたことを、小五郎は激しく悔いた。  彼が、江戸へ帰る斎藤新太郎に従って、萩を出発したのは、九月末だった。財満新三郎ら官費修業者に選ばれた五人も一緒である。小五郎だけが、自費で行く。そのことを知って山県武之進が口をとがらせた。 「桂さん、拙者に黙って事を運ぶちゅうのは、薄情ですよ。ほんとうに。……」  武之進は、出立ちの朝になっても、まだそんなことを言った。 「武之進も、あとで来るがよいのだ」 「ああ、必ず行く。それまでの留守はまかせなさい。他国修業者が来ても、拙者が片づけておくから、安心しちょって下さい」  明るい笑い声があがる。  旅に出るのは斎藤新太郎を入れて七人、にぎやかな一行である。それを見送る三十人ばかりは、城下の金谷天満宮の前まで送り、そこで手を振って別れた。  |明木《あきらぎ》村を通り抜け、紅葉した樹々のむこうに横長くそびえる秋吉台を左に仰ぎながら、|美祢《みね》を過ぎ、吉田の宿に出る。そこから山陽道を行く。  萩から江戸までは、ゆっくり歩いて一カ月だが、このときの一行は、二カ月後の十一月末に江戸へ入っている。各地で剣術試合をやり、同じ土地に数日とどまることもあったからである。何しろ江戸で有名な斎藤新太郎が、腕の立つ六人もの長州藩士をひきつれているというので、各藩で歓待された。武者修業は、通常一人旅だから、このような一団となった剣士の来訪は、めずらしいのである。交歓試合をかさねながらの旅は、うきうきと楽しいものでもあった。  大坂、京都を回り、伊賀上野に着いたのが十月十八日。藤堂氏の講武場で、数日にわたり藩士たちと立合い、歓談した。そこから伊勢に出て、ここでも津藩の演武荘で撃剣をこころみ、十日余をすごした。  旅行中、六人の中で、抜群の腕をふるい、長州藩士の名をあげたのは、やはり財満新三郎である。彼は、小五郎より一つ年上の二十一歳、それ以後江戸斎藤道場で腕にみがきをかけ「武勇絶倫」といわれる剣士となった。後日のことに及ぶが、慶応元年には、いわゆる俗論党政府に属する家臣団の一人として彼は萩にいた。高杉晋作が、藩内クーデターの兵を拳げたころである。新三郎は叛乱鎮圧を命じられて|絵堂《えどう》に出動、進撃してくる奇兵隊と戦った。  尊王か佐幕か、長州の藩論が二つに分れて、血を流したそのとき、小五郎と新三郎は、互いに正反対の道を選んでいたのだ。味方の敗色濃いとみるや、新三郎は白刃をふりかざして、単身奇兵隊の陣地に斬り込み、小銃で撃ち殺された。それは、剣客斎藤新太郎に従い、小五郎や新三郎たち六人が、山陽・東海道を江戸にむかっていたときから、十三年後のことである。そのような暗い時代のおとずれを予感させることもない嘉永五年の晩秋、江戸へむかう若い剣士たちの、のどかな旅程だった。  ペリーの黒船艦隊が、浦賀沖に姿をあらわしたのは、翌嘉永六年(一八五三)の六月だ。外圧におののく幕末暗黒時代の幕あきである。むろん、そんなことは夢想もしない小五郎らの旅はつづいている。剣術試合の日程を終えた一行は、ようやく近づいてくる江戸の様子を思いえがきながら、くつろいだ旅行者の一団となった。  すでに寒気を肌に感じはじめた旧暦十一月のはじめである。この若者たちの、多少は好色の目を輝かせた旅の行状を、小五郎はわずかに記録している。  この旅行中、桂小五郎が筆記した「小遣控」が遺されている。旅の金銭出納簿である。  これを見ると、十一月四日に松坂を出て山田へ着いたが、「懐胎之図見物銭」として、まず八文を払っている。見世物である。「懐胎之図」とは、婦人の解剖図にそれらしい手を加えて、怪し気な絵に仕立てたものだ。嘉永年間ともなれば、舶来の解剖図譜『ターヘル・アナトミア』は翻訳され、『解体新書』となってかなり出まわっている。  当時、女性の解剖図だけを軸装にしたものもあった。彩色され、妖艶な姿の裸婦の一部を切り開いた図鑑は、医学のためというよりも、男たちの好色の目にさらす目的で作成されたのではないかと思われる一種の秘画である。医師の家に生まれた小五郎なら、そうした解剖図くらいは見ていただろうが、「懐胎」というので、皆を誘ったか、あるいは誘われるままに見物したのであろう。 「小遣控」によると、山田での宿銭を一貫五百文払っている。これは小五郎一人の宿泊費としては、多すぎるといわねばならない。天保年間から幕末まで、宿場の宿賃は、武士の場合一人二百文とされたもので、小五郎も松坂の宿では二百文と記録している。文化六年ごろ「宿銭上下六人一貫二百文」とつけた武家の道中費用帳のことが三田村鳶魚の『江戸叢書』で語られている。これから割り出すと、どうやら小五郎は、その日の皆の宿銭を出してやったことになる。  もっと興味をひく事実がある。  十一月八日、烏羽での「小遣控」には、「酒肴芸者ェ之払 金一両ト五百文」と記帳されているのだ。とても一人で楽しむわけにはいかないから、これは皆の遊興費である。宿場の芸者といえば、いずれ飯盛女のたぐいをさしているに違いないが、当時物価の高い江戸で、線香代の最高は一夜が三分、普通は一分以下とされた。地方なら七人が飲んで騒いで、女と枕をかわした代金が一両と五百文なら、まずは妥当なところだろう。(一分は一両の四分の一)  つまり小五郎が、同行の六人におごってやったのである。小五郎はじめ一行の何人かは、そこで、いうところの初体験をもった。  とぼしい旅費を切りつめている他の者と違って、小五郎のふところは、暖いのであった。この旅行中、実に気前よく金を使っている。割り込むようにして、一行に加わった小五郎の配慮なのだ。どことなく立場の異る自分を、皆に溶けこませようとする努力であり、あるいは歓心を買うための散財ではなかったかと、意地悪い推測もできる。  ともあれ、ここまでが、小五郎の生涯における序曲ともいうべき期間である。その特色は、物質であがなわれた幸運といったにおいがする。小五郎にとってのすべては、ゆたかな和田家の財力に支えられていると言ったほうがよい。しかし、それは彼がひとつの舞台を得る重大な契機をなしたこの江戸遊学実現までで、さらにいえば、二カ月の旅程を終って、江戸の町へ入るまでのことであった。  彼らが、江戸九段坂下にある斎藤弥九郎の道場についたのは、十一月下旬である。密集した屋根の上を、からっ風が吹きわたっていた。  小五郎ら六人は、身をかたくして、弥九郎に挨拶した。千葉周作、桃井春蔵と並んで、江戸の三剣客とうたわれる斎藤弥九郎は、このとし五十四歳になる。越中国|氷見《ひみ》郡仏生寺村の郷士の家に生まれ、十五歳ごろ江戸へ出て、幕臣能勢氏の下男として住みこんだ。そのかたわら暇をさいて儒学、兵学を修め、剣術は岡田十松吉利について神道無念流を学ぶ。たちまち群を抜いた。二代目十松利貞のときには師範代となったが、六年後独立して道場をひらいた。干葉の玄武館、桃井の士学館、そして斎藤の練兵館をもって、江戸の三大道場という。  いわば倦怠感につつまれたような、それまでの小五郎が、人が変わったみたいに、緊張の色をうかべている。必死におのれの道を拓こうとする彼の新しい生活が、この練兵館で始まる。   神道無念流  斎藤弥九郎は、明治四年、七十四歳で他界した。今に遺されている彼の写真は、その晩年に達したころのものだが、なおたくましい骨格をうかがわせる。  顔だけを見ると、|白鬚《しろひげ》をのばしたロシヤの文豪みたいな風貌をしている。左手に刀を立てて支え、やや頬骨の張った頭蓋をかたむけて、右上に視線を投げた姿勢は、やはり剣客らしい隙のない構えである。鼻梁は、高く太い。目も大きいが、眼光するどいというほどではない。いかつい中にも、温和な人柄がにじんでいるのは、あながち老齢のせいだけではないだろう。元気なころも、激しい太刀を使う人物とは思えないほど温厚だった。学者としての一面が、そのような印象を人に与えたのである。稽古以外では、門弟にもやさしい気を配る道場主であった。  小五郎ら六人の挨拶に、一々礼を返したあとで、弥九郎がおもむろに口をひらいた。 「毛利公からお預りした以上、みっちり稽古をつけて進ぜよう。神道無念流の極意をつかんで、萩へお帰りなさい」 「はあ、一年で免許皆伝となりますでしょうか」  河野右衛門が、例のごとくつまらぬことを言ったので、財満新三郎が、ジロリと横目で睨んだ。 「何事も修練次第です」  弥九郎は、微笑を|泛《うか》べている。何事も修練という弥九郎の言葉には、実感がある。苦労をなめ尽したという経歴の持主だ。長い修練の期間だった。小五郎などには、ぞっとするような辛苦の積みかさねである。十三のとき郷里の近くで油屋や薬屋の|丁稚《でつち》となって、立身を夢みたが意にそわず、十五歳で江戸へ出た。能勢祐之丞という四千五百石の旗本の下男となり、それこそ青雲の志に燃えながら、仕事が終ったあとの夜の時間を勉学にあてた。ほとんど床に入らず、机上に伏せて仮眠する程度だったという。  剣の道に入ったのは十九歳で、武家にくらべると、少し遅い出発である。それでも神道無念流の岡田十松にみとめられ、やがて独立したのは二十九歳のときだった。今は、江戸三大道場の|主《あるじ》で、大名と交わるほどの著名な剣客となっている。水戸藩から師範に取り立てたいと誘われたが辞退して、門人の金子武四郎を推挙し、自分はあくまでも民間の武芸者として通した。しかし、水戸藩は弥九郎に扶持米を出して、つながりを保とうとした。弥九郎としては、単なる剣術者として、微禄の家臣となることに、気乗りがしなかったのである。その彼が、|韮山《にらやま》の代官江川太郎左衛門には、わずか四人扶持の用人格として、名目上ではあるが臣従する立場をとっている。兵学の面で起用されたからである。  郷士といっても、事実上農民の子に生まれた彼が、身分制のかたまった封建社会の、おそらくはそれが立身の限界ともいえる今の位置に到達するまで、半世紀を費している。── 「桂君といいましたか」  弥九郎が急に話をむけてきたとき、瞬間、彼は心をうつろにしていたので、返事がおくれ、 「か、桂小五郎であります」  と、ぎごちなく頭を下げた。  弥九郎は、新太郎の口から、小五郎に関する一応の事情を聞いているようだった。五人の給費生に藩が与えた修業期間は一年である。小五郎だけが、自費ということで三年を貰っているのは、これもたしかに資産を持つ者の有利な条件といえた。しかし、皆の前でそれを言われるのは、押しかけの自費修業生というひそかな劣等感を、無情に衝かれた思いである。 「さっそく、明日から稽古に入りなさい。乱暴者もいることゆえ、多少の覚悟は必要ですぞ」  弥九郎が、いたずらっぼく笑った。荒い剣を使う者は、どこの道場にもいる。だが、ここには師範代の中に、名うての乱暴者がいることを、そのとき小五郎らは忘れていた。  江戸の道場は、将軍家の指南役柳生道場を標準に、その規模を構えた。柳生道場は、八間(約十五メートル)四方である。  だから、民間武芸者の道場は、それを上まわることを|憚《はばか》った。しかし門人の多いところでは、間口を六間に押える一方、奥行を十二間に広げる便法を用いた。いずれにしても、板張り部分が百畳敷きほどの広さ、それに二十畳ないし三十畳が畳になった稽古人たちの控え場所──というのが大道場の一般的規模だった。そのほかに道場主とその家族の居室、内弟子の宿舎なども別棟になっているので、名の売れた剣客の道場は、かなり宏壮な敷地、建物を持っていたのである。  斎藤道場は練兵館という。飯田町爼板橋際にあったのが、天保九年に火事で焼け、九段坂下に移動して、以前より立派なものとなった。門人に名をつらねる者千人を越えるといわれた剣客にふさわしい道場の構えである。内弟子三十人ばかりが住みこんでいる。ちなみに、内弟子の月謝は、食費をこめて一両前後であった。  ちんまりした町道場くらいに想像していた小五郎らは、はじめて練兵館の門前に立ったとき、その豪勢さに思わず目をみはったものだ。斎藤弥九郎という人物の力をしのばせるが、その背後からの相当な援助もあってのことである。弥九郎に対する熱心な支援者とは、江川太郎左衛門だった。伊豆韮山の人で、伊豆・|相模《さがみ》・|甲斐《かい》など天領五カ国の代官である。江川の名は、むしろ西洋流兵学者としてよく知られている。幕府の信任厚く、代官とはいえ、その勢威は一万石の諸侯なみとさえいわれた。彼は弥九郎という人物が、単なる剣士でなく、儒学・兵学に通ずる論客としての器量に、すっかりほれこんだ。弥九郎が道場を張るのに、その費用をすべて出してやるほどの肩の入れようである。しかも弥九郎を江川家の用人格とし、四人扶持を給している。弥九郎の名声を政治的に利用しようというねらいもあったらしい。──  練兵館での稽古は、萩からの六人が江戸入りした翌日、まだ旅の疲れもとれないうちから始まった。そのころ練兵館は、今の靖国神社の境内にあたる位置にあった。  小五郎たちは、長州藩の上屋敷である桜田藩邸内の長屋に居室をあてがわれ、そこから練兵館に通う。桜田藩邸は、一万七千坪(五・六ヘクタール)の広大な敷地を持ち、三十六万九千石の西国大名らしい格式を誇っていた。  日比谷公園堀端に近い藩邸跡付近には、現在東京地裁、法曹会館、法務省などの建物が並んでいる。つまり藩邸から九段坂下まで約十八町(二キロ)の距離である。  早朝、六人はうちそろって、練兵館にあらわれた。初冬の冷気につつまれて鎮まりかえる道場では、新参の内弟子たちが、白い息を吐きながら、忙しく拭き掃除をやっている。 「斎藤先生は、間違った時刻を、われらに示されたのではないか」 「いや、掃除を手伝えちゅうことかもしれん」 「まさか」  突っ立ったまま、そんなことを話しあっていると、奥の入口から稽古衣を着た若い男が姿をあらわした。柄は大きいが、まだ十七、八歳にしか見えない。 「お手前たちもおやりなさい」と、先輩らしい尊大さをただよわせる身ぶりで、床をゆびさした。 「江戸まで来て、さっそく道場の掃除をさせられるとは思わんかったのう」  河野右衛門の胴間声が、すかさず響きわたった。 「江戸には、何をしにおいでになったのですか」  皮肉な丁重さをこめて、その若い男が言った。 「稽古よ、稽古。知っておろうが、われらは長州藩士……」 「稽古なら、あとでいやというほどできます」  苦笑したのだろう。彼は、ほんの少し口を歪めて、右衛門に視線を投げ、すぐ奥へ引っ込んだ。 「あれは、だれかね」  そばへ来た門人の一人に、右衛門が、いまいましげに尋ねた。 「若先生、勧之助殿です」  少年のような無邪気な目を輝かせた彼が答える。 「鬼勧!」  突然、小五郎が、低く叫んだ。  鬼勧、と聞いて、さすがの河野右衛門も、ギョッとしたようだったが、 「案外、若いではないか」  などと、相変らず強気なところをちらつかせた。 「鬼勧」こと斎藤勧之助は、弥九郎の三男である。このとき二十歳。小五郎と同い年だが、白面の童顔なので、ずっと若く見える。そんな風貌に似合わず、練兵館の剣士のうち最も荒い太刀を使うということで人に知られている。粗暴な剣客を出さなかったことで有名な練兵館では、異色の存在だった。父の素質を受けつぎ、腕も立つが、傲岸な態度もあって、嫌う者も多い。荒稽古だから、気の弱い門弟たちは、彼との立合いをなるべくなら避けようとしたほどだった。  もともと神道無念流は�力の剣法�といわれ、強引なまでに打ちこんで行くのがこの流派の特徴である。形式を排して、勝負を主眼とした。竹刀なども重いものを用い、「略打」でなく、したたか「|真《しん》を打つ」のでなければ、技ありとしない。「載せるだけでは、斬れぬ」というのである。だから、防具も皮革を使い、堅固に作って、打たれても負傷しないように配慮した。  元来、剣術の稽古は、防具を付けず、各流派で考案された組太刀によっておこなわれた。打太刀、仕太刀を組み合わせる今の剣道形みたいなもので、木剣、たまに真剣を用いたから、注意深く略打するほかにない。試合となれば、それの応用動作を競うわけだが、思わず力がこもって、略打とならずに烈しく真を打って相手を傷つけ、悪くいけば殺してしまうということもめずらしくはなかった。他流試合になると、さらにその危険がふえるので、ほとんどは他流との立合いを禁止して、事故を避けようとしたのである。これを不満として、竹刀や防具を使うようになったのは、江戸中期ごろからといわれている。初めは面と小手だけを付けた。力を入れて打ち合えるので「撃剣」という言葉が生まれた。「面・小手撃剣時代」という。それをほぼ完成させたのは、直心影流の長沼四郎左衛門という人で、宝永二年(一七〇五)ごろであったらしい。  面・小手に胴が加わって、だいたいこんにちのような形に近づいたのは、それから約五十年後の宝暦年間である。さらに幕末になって「面・小手・胴・竹刀撃剣時代」は完成する。  桂小五郎が、江戸で稽古に励んだころ、練兵館で使った防具は、とくに念を入れたもので、頭部を保護する面にも、緩衝のための「面ぶとん」は厚くしてあった。それでも勧之助のような剣客から、力まかせに打たれると、激痛が走ったに違いない。彼は中空になった竹刀の物打ちの部分に芯となるオモリを詰めて、わざわざ重量を加えていた。荒稽古のため竹刀が痛むので、いつも代わりのものを数本用意している。稽古中は門弟の一人が、つきっきりで彼の竹刀を修理しなければならなかった。  その日、稽古が始まり、思いおもいに相手をみつけて打ちあっているところに、のっそりと勧之助が、道場へ姿をあらわした。六尺ゆたかな大男である。 「お手前、稽古をお望みでしたな。お支度を!」  ひと稽古終って息を入れていた河野右衛門の前に立ちふさがり、|面金《めんがね》の奥で、目を光らせながら、鬼勧が怒鳴った。  右衛門は、余裕たっぷりにうなずき、面具をつけ、小手をはめて立ちあがった。  二人は道場の真ん中に出て、礼をかわし、互いに竹刀を構えた。数十人の門弟たちは、いつの間にか稽古をやめ、新しく入門した長州藩士と鬼勧先生の立合いに好奇の目をそそいでいる。  右衛門は、中段に構え、得意の突きに出る姿勢をとった。江戸行きの五人に選ばれただけあって、明倫館では彼も暴れん坊といわれた使い手だったから、相当な自信を抱いている。  鬼勧は、悠然と双手上段をとって、右衛門の攻撃をうながした。  右衛門は、槍も使うので、突きを得意とした。突き出し、さらに突いて、打ち、打って突く。いわば捨身の連続技で、これまでも萩へやってきた他国の修業者を例外なく辟易させている。  大上段に構えた者が、突きをかわすために一歩しりぞいたりすると、間髪をいれず次の突きが伸びてくるので、避けるだけでは不利な態勢となる。その場を動かず、突いてくる敵の|鍔元《つばもと》を狙って、振りおろすのが得策といわれている。小手を斬るのである。ただしこの技は、長身を必要とする。長身だから、双手上段に構えて、必殺の突きを迎えることができるともいえる。  勧之助は、このとき突いてくる右衛門の竹刀を、はたき落とすように、唸りをあげて打ちおろした。重い勧之助の竹刀に斬りさげられて、水平にのびた右衛門の剣尖が、一瞬、たわむように下を向いた。と同時に、勧之助の竹刀が、容赦しない力で、右衛門の頭部を打ち、怯むところを、また一撃する。さらに体当りして足払いをかけると、右衛門は、ひどい音をたてて床に転がった。 「立たれよ!」  鬼勧が、殺気をはらんで、甲高く叫んだ。よろけながら、右衛門は立ったが、呆然と青眼に構えているだけだ。こんどは、片手上段から、大きく半円をえがいた鬼勧の竹刀が、まるで巻きつくように、右衛門の横面をはたいた。素早く一歩退いて、再びするどい前進を見せたかと思うと、双手突きが、まともに顎をとらえ、ずんぐりした右衛門の身体は、後方に吹っとんでしまった。気絶したらしい。数人の門弟が、慌てて走り寄り、抱きかかえて、道場の隅に彼を運び去った。  鬼勧は、呼吸の乱れた様子もなく、また小五郎たちのいるところへやってきた。 「稽古をつけてあげます。だれか……」  と言ったが、立ち上がろうとする者はいなかった。財満新三郎でさえ、黙ってうつむいている。右衛門が招いた災厄のとばっちりをかぶることもあるまいという表情だ。 「長州には、どうも口だけ達者な剣士がそろっておいでのようですね」 「お願い申します」  小五郎は、去りかけた鬼勧の広い背中にむけて、思わず声をかけた。 「よろしい、おいでなさい」  ゆっくりふりむいて、剣鬼が、笑った。  小五郎は、面具をつけ、道場の中央に待ち構えている勧之助に近づく。剣尖を合わせ、立ち上がると、双方二、三歩退いて間隔をとった。小五郎もかなり背丈はあるほうだが、鬼勧にくらべると、枯木のように線が細い。小五郎は、まず青眼に構えた。鬼勧は、やはり威嚇する身振りで、双手上段にとり、わずかずつ間合を詰めてきた。小五郎は、右衛門の場合を見ているから、むやみには攻撃しない。青眼を崩して、徐々に、竹刀を倒し「村雲」の構えに移ろうとしたのは、敵が待っているのに仕掛けて、その変化に対応して破るという柳生新陰「九箇必勝」の太刀打ちに出るつもりだ。 「とおっ」  鬼勧が、気合を発して、撃ちおろしてきた。かろうじて受け止めたが、すかさず鍔元まで詰め寄ってきた彼のすさまじい体当りをくって、のけぞりながら、小五郎は胴を|薙《な》いだ。しかし同時に面を打たれている。相打ちだが、鬼勧の一撃は、目が|昏《くら》むほど、頭の芯にこたえた。不覚によろけるところを、足をすくわれて、床の上に投げとばされ、起き上がった瞬間に、また打たれた。屈せずに必殺の双手突きに出た。それが鬼勧の胴にしたたか命中したのと、再び激しい一打を面に浴びたのを憶えている。── 「もう一本お願い申す」  息を吹きかえすと、小五郎は叫ぶなり、突っ立っている鬼勧へ、打ちかかった。 「さあ、参れ!」  重い竹刀が、小五郎の頭部に、さらに一撃を加えた。そのまま小五郎は、すべての記憶を失っている。  小五郎の目標は、当面、斎藤勧之助におかれた。火を噴くような荒稽古がつづけられる。身体のあちこちに、太いミミズ腫れができるほど、打ち据えられる毎日である。朝、寝床から起きあがれないばかりに、足腰が硬直していることも珍しくなかった。 「小五郎は、鬼勧に殺されるのではないか」  などと財満新三郎が、心配するくらい、まるで憎悪に燃えるような勧之助の手荒な稽古にも、小五郎は屈しなかった。萩にいるころの彼とは、別人のような精進ぶりである。執念ともいえる練兵館通いだったが、藩邸に帰ると、夜おそくまで書物を開いているようだった。 (金の力で武家になった医者の子である)  ひそかな侮蔑の目が、自分にそそがれているのではないかという自覚は、以前から小五郎にあった。選ばれた官費修業生にまじり、ひとり飛び入りの自費遊学で江戸へ出てきたことが、余計に小五郎の劣等感を積みあげているのを、だれも気づいてはいないのである。江戸へ着くなり、人が変ったみたいに、勤勉な修業生活をはじめた小五郎を、藩邸の者は、何となく|怪訝《けげん》な面持で見守っている。  嘉永六年(一八五三)の正月は江戸で迎え、そのまま三カ月ばかりがすぎた。小五郎と鬼勧の稽古はつづいているが、かなり様子が違ってきた。もはや引き倒されたり、打ち据えられるといったことはなくなっている。違うといえば、鬼勧の傲慢な態度も、いつの間にか薄れて、むしろ小五郎に対する友情めいたものさえも覗きかけていた。  たまに弥九郎が稽古をつけてくれることもある。 「新太郎や勧之助から聞いておったが、ずいぶん手をあげられたものだ」  ほとんど驚嘆に近い表情で、弥九郎が言った。 「小五郎、毎旦藩邸から通うのも面倒であろうが。ちょうど部屋が一つ空いておるが、道場へ住み込んだらどうだ」  勧之助がすすめると、即座に小五郎はうなずいた。弥九郎もこの者なら代稽古を頼めるのではないかと異論はない様子である。  数日後、小五郎は練兵館に居を移す。経書や兵学の講義があるときだけ藩邸に顔を出し、ほかの日は剣術楕古にあけくれる生活が始まった。小五郎の身体つきが、見違えるようにたくましくなっていく。  四月、藩主毛利慶親が、参勤交代で江戸へ出てきた。その翌月、さっそく親試がおこなわれた。よほど教育熱心な藩主で、暇さえあれば若い藩士たちの勉学ぶりを試そうとするのである。  このときは江戸遊学中の十五人が召し出され、それぞれに習った学業の成果を、藩主の前で披露した。剣術修業とはいえ、学問する義務も与えられている。  小五郎は、孟子・|尽心《じんしん》上十五章の「聖人は百世の師なり」を進講した。終ると、慶親がたずねた。この殿様は、時々意地の悪い質問をする。小五郎の講じた部分の前章についてだった。 「尽心上十四章を読んでおるか」  これは一種の帝王学であって、慶親のよく知っているところだ。問われて小五郎は、やや恐縮した口調で答えた。 「孟子曰く、民を貴しとなす。|社稷《しやしよく》これに次ぎ、君を軽しとなす」 「いかなる意味であるか」 「主君たる人の自らを戒めることばと存じます。主君のなさるべきは民を治むるにあり、民のための主君なれば、民なければ社稷(国家)なく、主君なし、故に民を貴しとし、君を軽きとなす……」 「よかろう」  慶親は、満足気にうなずいた。  練兵前に帰り、夜、弥九郎の居室に呼ばれたとき、小五郎はそのことを話した。 「孟子の中で、最高のことばだ」  と、儒学にも造詣のある弥九郎が言い、さらに「幕府のかみしめるべき教えだね」と小五郎を見た。不意の述懐である。小五郎は、剣術者とは違う弥九郎の視線にあてられて、軽いおどろきを覚えた。  練兵館に寝泊りするようになってから、当然、小五郎は斎藤弥九郎と接触することが多くなっている。剣術の稽古だけでなく、剣客としてはめずらしく学識をたくわえた弥九郎の話を聞く機会にめぐまれた。ときには他の高弟たちと共に、あらたまって彼の講話に耳をかたむけ、意見を述べあうこともあった。  当時では、桃井春蔵のように、実技一点ばりの古風な剣豪もいるが、哲学的な剣の道を説く人も少なくはなかった。島田虎之助などは、禅の話ばかりして、剣術をちっとも教えてくれないと、弟子に逃げられたりもしたものだ。  弥九郎にしても、剣術そのものについては、あまり語らない。儒教的な訓話もあれば、時勢を論じもした。露骨な幕政批判は、意識的にも避けているようだが、「勤王」ということばをしばしば口にした。また|清国《しんこく》におけるアヘン戦争の例を引いて、外国の侵入に備える方策についても門弟たちと語りあった。弥九郎は、尊王攘夷思想を抱いているのだった。練兵館につながる顔ぶれを見ると、彼がその方向に傾いていたのも不思議ではないのだ。  弥九郎の師である岡田十松の弟子には、水戸藩の藤田東湖、田原藩の渡辺崋山がいる。つまり東湖や崋山は、弥九郎が親しくつきあってきた同僚である。  崋山は南画家だが、洋学者として知られている。幕府の保守的な海防方針を批判する『慎機論』を著わし、いわゆる|蛮社《ばんしや》の獄に連座し国許に|蟄居《ちつきよ》を命じられて、天保十二年に自殺した。  藤田東湖は、水戸学派の儒者であり、尊王攘夷論者の大御所とみられる人物である。東湖は、安政二年の江戸大地震のとき圧死するという奇禍に遭ったが、小五郎が練兵館にいたころは、橋本左内や横井小楠らと交わり、江戸で活躍していたから、弥九郎のところにもよく顔を出していた。  弥九郎が、尊攘論の一拠点でもあった水戸藩から扶持米を受けていることは前にもふれた。そうした水戸藩との結びつきも東湖を介してのことである。このようにしてみれば、斎藤弥九郎の尊王攘夷思想は、筋金入りだったといえる。長州藩主毛利慶親に「勤王」を吹きこんだのも弥九郎だといわれるくらいだ。  のちのことだが、明治元年(一八六八)官軍に抵抗して上野にたてこもった彰義隊から、総帥になってほしいとの要請を弥九郎はうけた。その使者の口上を聞き終ると、弥九郎は言下にはねつけたという。 「幕府に忠ならんとすれば、諸君はいたずらな抵抗をやめて、いさぎよく自刃し給え。もしその趣旨であるならば、私も一緒に腹を掻き切ってよい」  弥九郎が幕府の講武所で剣術師範を兼ねたこともあるので、彰義隊の連中は、彼が参加してくれるものと考えたのだろう。  尊攘思想を抱きながらも、弥九郎は決して実践運動には加わらず、練兵前での門弟育成に専心した。  たとえば津山藩士井汲唯一は、練兵館に学んで安政五年に帰藩し、剣術師範となったが、やがて脱走して京都に道場をひらき、勤王運動に投じているところを捕えられ、津山に禁獄中、自殺した。  鳥取藩の託間半六も、練兵館を出てから志士として行動中、出雲で斬殺されている。いずれも弥九郎の影響をみることができる。  桂小五郎に、思想的影響を与えた最初の人物といえば、やはり弥九郎を挙げなければなるまい。  小五郎は嘉永二年に吉田大次郎の兵学門下となり、一年足らず従学したが、その後はほとんど接していない。しかも当時の大次郎が、明倫館の授業で小五郎に与えたものといえば、まだ山鹿流兵学の断片的知識でしかあり得なかった。  剣術修業の目的で、長州から江戸へやってきた小五郎の白紙のような心に、墨痕あざやかに「尊王攘夷」を書き入れたのは、たしかに斎藤弥九郎であった。  しかし、小五郎にとって、必ずしも無縁の存在ではない吉田大次郎は、そのころ脱藩の罪で士籍を剥奪され、十年の|暇《いとま》をもらって江戸へ出てきた。寅次郎と改名し、「松陰」の号を使いはじめた彼が、練兵館に姿をみせたのは、その年五月二十四日のことである。  吉田大次郎、改め寅次郎──やはり吉田松陰と呼ぶことにする。  五月二十四日、松陰は練兵館に斎藤新太郎をたずねた。二年ぶりの再会である。嘉永四年四月、最初の江戸遊学中、新太郎と会ったときの松陰は、まだ藩士であり兵学教授として、尊敬を集める地位にあった。今は一介の長州浪人でしかないが、二年の間に、彼の知識人としての内容は、いちだんと磨きがかけられている。第一、目の光りが違う。 (この人は変ったなあ)と、新太郎は剣客らしく、松陰の以前よりぐっと引き締まった風貌を、早くも見てとりながら思ったことである。  そのとき、松陰は旅装しているのだった。二度目の江戸遊学ということで萩を出たのが一月の中旬。途中、四国にまで足をのばし、大和・美濃・信濃と四カ月ばかりも歩きまわって、その日の朝、江戸へ入り、まっすぐ練兵館へきたという。 「桂小五郎にも会いたいと思いまして……」  松陰は、着崩れして、垢じみた白ガスリの肩を少し怒らせるように、前かがみの姿勢で、思いつめた顔をしているが、語調だけはおだやかだった。  遠くで、大勢が竹刀を撃ちあう音がしている。 「かれとはもう三年間、会うちょりません」 「桂君はよく精進して、今では私も十本勝負で、四本はとられます。もう少しで追い抜かれそうですよ」 「練兵館でのご薫陶のおかげであります」 「いや、素質でしょう」  新太郎は、部屋の前を通りかかった門弟に、小五郎を呼ぶように命じた。間もなく小五郎が、稽古着のまま、急いでやってくる。面具をとったばかりらしく、髪が乱れ、額に汗をにじませている。好男子の彼が、無造作にそうしていると、余計にたくましく、若侍らしい魅力を発散させた。小五郎も変ったのだ。  松陰のほうは、体格も小づくりで、顔にはアバタがひろがっている。小五郎と向かいあうと、いかにも対照的だった。生涯、女との交渉がなかったともいう松陰と、いくらかの女性遍歴をもつ小五郎と。生き方もまったく違った二人である。 「吉田先生、お久しぶりであります。お元気で何よりと存じます」  小五郎が型通りの挨拶を述べ、明るい表情で、両手を突いた。  松陰の兵学門下生名簿ともいうべき「入門|起請文《きしようもん》 」には、天保六年八月に登録された天野熊太郎を筆頭に、二百三十三人が名をつらねている。その中で百六人目に、嘉永二年十月一日の入門として桂小五郎の名が見える。  松陰にとって、生まれて初めての旅行である九州遊歴に出たのは、翌嘉永三年八月だった。その後、しきりに旅をしていた。そしてついには事実上の脱藩となった東北旅行によって、士籍を削られ、いったん萩へ送りかえされ、ようやく自由の身となって江戸へ出てきたばかりだ。すでに松陰は、九州の長崎・平戸・熊本から始めて、日本国を縦断し、青森までも旅している。  松陰をかこんで、旅の話がはずんだ。 「これは私たちだけで聞くのはもったいない。おさしつかえなくば、父やそのほか門弟たちにも話してやっていただけませぬか」  急に、新太郎が言いだした。  旅行者の見聞が、尊重されているころだ。長州藩では、藩士の旅程や旅費の計算を主な仕事にしていた|遠近方《えんきんかた》が、この当時では、旅から帰った者に見聞の報告を義務づけて記録するまでになった。全国的な情報が、真剣に求められる時代にさしかかっている。  吉田松陰の長期にわたる多様な旅行が、彼の思想展開と密接に関連しているのは疑いのないところである。松陰の旅が、単に他郷を通過するだけでなく、各地の有識者との交流をふくめた個人的な情報活動でもあったからだ。──  これから鳥山新三郎の家に行かなくてはならないとしぶる松陰を、斎藤新太郎は、なかば強引にひきとめた。  かつての長州藩兵学教授吉田松陰の話を聞けるのは願ってもないことだと、斎藤弥九郎も大喜びだった。  勧之助だけが朝から外出したまま帰ってこない。あとは新太郎をはじめ門弟数十人が、稽古をやめて、臨時の講義室となった道場に集合して聴講した。  松陰は一段高い師範席の中央で、神棚を背に正座している。それがどうやら身についた姿に見えた。六歳のとき叔父吉田大助のあとを継いで、山鹿流兵学教授の家職をになわされた。十一歳で親試を受け、藩主の前で『武教全書』戦法篇を講じていらい、学ぶと同時に、人に教える生活が、二十四歳のきょうまでつきまとっている。いわば宿命的に、松陰は教師であった。やがて密航未遂の罪で投獄されるのだが、牢に入れば囚人を相手に教えた。いつどこにいても、松陰はほとんど本能に近い衝動で、教師としての自己を充足したのである。 「僕の旅行から得たささやかな想見をお耳に入れたい」  ややふくみ声で、声量も十分だった。  ──余談だが、松陰はこのころから「僕」という自称を使った。この人称代名詞は、古代中国の『漢書』に初見される。日本には平安時代か、それ以前にか輸入されているが、僕と書いてヤツガレと読んだ。ボクと音読みにしたのは、ずっと後世だが、幕末でもまだ普通には使われなかった。  |忠諌《ちゆうかん》を家臣の義務と信じ、絶えず自己主張をくりかえした松陰が、最もふさわしい自我の謙称として選んだのがこの「僕」ということばであった。のち松下村塾の者が、皆それにならった。拙者、それがしといった武家ことばを、僕とおきかえた松陰の一人称は、新しい人格を表現していたが、当時ではまだ違和感があっただろう。明治初年、東京の書生たちの間で「僕」がしきりに使われはじめた。それが中央へ大挙進出した長州士族の影響であるかどうかはわからない。もっとも松下村塾出身の元勲たちは、にわかに「吾輩」などと、大言壮語にふさわしい自称を用いるようになったのだが……。 「三年前、僕が旅したのは、長崎と平戸でありました。長崎では異国船を見、平戸ではもっぱら書を読みました」  門弟の中のだれかが、無遠慮な笑いをもらした。本を読むためにわざわざ旅行したのかと思ったのだろう。 「今、お笑いになるのはよろしい。だが、僕が何を読んだかを知れば、また考えも違ってくるのではあるまいか。僕は、平戸でまず|阿芙蓉彙聞《あへんいぶん》を読みました。この書物は萩にはなかった。江戸でもめったに入手できない。これはシナのアヘン戦争の経緯が詳述されている。この戦争がなぜ起こったか、西洋軍隊とそれを迎え撃つ清国の武力との比較、戦術の対比が、清国人有識者によって論じられております」  門弟たちのざわめきがやみ、水を打ったように鎮まりかえる道場内で、松陰の声だけが、やわらかくはずんだ。次第に兵学の講義調となる。 「近時海国必読書は、何ぴとによって編まれたかは不明なれど、貴重な新知識を著わした九巻、別に続篇七冊あり。その巻一は、ケンペルの日本誌にして、ポルトガル、イスパニアの渡来とキリシタン布教の始末を略述せり。巻二はオランダ紀略にして、ナポレオン・ボナパルトによるオランダ侵奪のことを記せり……」  この日の松陰の講話の大半は、平戸の家老葉山佐内が所蔵する数十冊の|稀覯本《きこうぼん》を読んだときの感想によって占められた。松陰を世界史に開眼させた最初の旅であり、読書だったのだ。彼がそこで抱いたのは、あきらかに対外危機感である。練兵館の人たちに、松陰はそのことを淡々と訴えたのち、静かにここを立ち去った。  まるで松陰が、日本人を驚愕させる変事を予言するために、江戸へやってきたようにも思える。浦賀沖に、四隻の黒船があらわれたのは、それから十日後のことであった。  小五郎が、練兵館の塾頭に推され、神道無念流の免許皆伝を受けたのは、江戸へやってきて一年も経たないときである。  萩で新陰流の修業をつみ、素地が出来あがっていたとしても、異例のことといえた。一緒に出てきた六人のうち、最も腕が立つとされた財満新三郎の上達もめざましかったが、その彼も小五郎にはすでに歯がたたなかった。それどころか、新太郎や鬼勧と恐れられた勧之助とさえ、対等に立合えるまでになっている。  防具をつけた撃剣が普及すると共に、過去には危険視されていた他流試合もさかんになった。江戸では、山内家、藤堂家など大名屋敷での各流派の名手を集めた大試合や、有名道場の招待試合がよくおこなわれた。  神道無念流の練兵館からは、たいてい斎藤新太郎が、桂小五郎をつれて試合にのぞんだ。弟の勧之助が同行することもあったが、この男の傲慢な姿勢を憎む者も多かったせいか、他流との試合に出すことは極力避けたようである。小五郎を奮起させるきっかけともなった鬼勧の存在は、それなりに忘れられないものだが、なぜか彼とのつきあいは、あまり深まらないままに終った。  とにかくどの試合でも、小五郎はほとんど負けたことがない。当時、幕府の講武所で教授をつとめる剣名の高い男谷下総守(精一郎)とも立合って、小五郎が勝ったという噂が流れたことがある。これは男谷の門人柿本清吉を破ったのが誤り伝えられたものだが、その柿本にしても名うての剣士であった。  小五郎の他流試合は、土佐山内家鍛冶町邸の「撃剣大集会」で、柳剛流の富田尾三郎との立合いと、桃井の士学館で土佐の坂本竜馬と激しい試合を展開したのが記録としてのこされている。安政五年(一八五八)のことだから、これは後の章で述べる。──  いずれにしても、それらはすべて竹刀をもっての試合である。真剣をふるって斬り結ぶのとはまた違うとしなければなるまい。後年、小五郎は、京都で蛤御門の変のとき、一度だけ刀を抜いて、敵とわたりあったことがある。あくまでも護身のためで、相手を斬るまでにいたらず、血路をひらいて死地をのがれた。つまり小五郎は、生涯その剣の腕にたのんで人を斬ることはしなかったのである。  免許皆伝の儀式が終ったあと、斎藤弥九郎は、小五郎に言った。 「真の名医を|国手《こくしゆ》と呼ぶのは、国を医するほどの識見をいうのである。いったんは医師の子に生まれた桂君が、剣の心をもって国手たらんと志す侍となるのであれば、練兵館の本義にかなうものだ」  弥九郎は、たくましい腕をのばして道場の|壁書《かべがき》をゆびさしながら、さらに言葉をついだ。 「神道無念流の極意は、すでに公開してあるあれだ」  小五郎は、あらためて、その壁書を読んだ。  ……兵は凶器といへば其の身一生用ふることなきは大幸といふべし。これを用ふるはやむことを得ざる時なり。私の意趣遺恨等に決して用ふべからず。是れ則ち暴なり。……  練兵館の塾頭までやった桂小五郎が、人を斬らなかったことを、後世不思議とする声もある。しかし、彼が神道無念流の教えを、忠実に守ったとすれば、必ずしも異とするにはあたらないだろう。それはまた小五郎の知的な資質に発しているともいえる。剣客にして人を斬らなかった者は、彼の師である斎藤弥九郎がそうであったし、やがて小五郎と関わりをもってくる坂本竜馬にしても同じだった。だが、竜馬は斬られて死んだ。  小五郎は、人を斬ることなく、修羅場をくぐり抜けながら、この人物にふさわしい仕事をつらぬいた。弥九郎にいわせれば、「大幸」であった。そして、弥九郎が教えたように、小五郎が剣の心をもって「国手」たらんとする激動の舞台は、黒船来航によって日本国内にくりひろげられる安政の暗黒時代から、血なまぐさい幕をひらくのである。 [#改ページ] 第二章 軍艦の世紀   黒船来航  吉田松陰が練兵館に訪ねてきた翌日、小五郎は、藩邸に出かけた。浪人となり、江戸へやってきた松陰が、藩邸に出入りしたものかどうか、それを打診するためである。  江戸へ着くなり、小五郎を訪問した彼の用件とは、実は、藩邸の空気を偵察するように依頼することだった。すさまじい意志力を発揮する反面では、そんな気の弱いところもある。松陰という人は、いわば気易く他人に物を頼む。頼むというより、無意識に命令することが多いのである。何しろ幼少のころから「師」の肩書きをもち、周りから懇切な手がさしのべられるという環境に、常時生きてきた。教育者として門弟を指導することには熱心だったが、俗事にわたって個人的にこまかく人の面倒をみるといった事例は、ほとんど松陰にみられない。いつも周囲の者の手をやかせながら、自分の信ずる道を純粋に直線的に行動したのが松陰の一生である。  それに対して、だれもが抵抗を感じなかったのは、松陰自身が、きわめて誠実な目をもって周囲の人間をみつめていたからだろう。やはりそれだけの徳をそなえていた。  松陰は小五郎よりわずか三つ年上だが、兵学の師だから、やはり師弟の関係にある。小五郎は、比較的従順に、その後も松陰の頼みをきいて働くことが多かった。比較的、というのは、そうでもない情況がやがて生じてくるからである。とにかく、その日、小五郎は松陰のために藩邸をおとずれた。 「吉田先生が江戸へ出て来られたようですが、藩邸への挨拶はまだでしょうか」 「うむ、まだのようじゃな」 「遠慮されちょるのでしょうか」 「そうかもしれぬ」 「学問を教えていただきたいと待ち受けている者も多いようですね」 「そのうち来るであろう」  さりげなくそんなことを何人かに話しかけてみて、別に抵抗もないのをたしかめると、小五郎はそれを松陰に知らせるため、桶町の鳥山新三郎の家にむかった。  鳥山は房州の農民出身だが、江戸へ出て学問を修め、蒼竜軒という塾をひらいている。諸国から江戸へやってきた若い人々の集会所のようにもなり、長州藩士も、かたくるしい藩邸での生活をのがれて、よく蒼竜軒に集まった。彼らはそこで時事を論ずるのである。  松蔭が脱藩までして東北旅行に出かけたのは、熊本の|宮部鼎蔵《みやべていぞう》と蒼竜軒で再会し、また南部藩の|江※[#「巾+者」]《えばた》五郎とここで会ったのがことの始まりだった。  鳥山は、浪人となった松陰を、蒼竜軒の講師として招いた。食べるだけは、それで十分である。  小五郎が訪ねると、松陰は不在だった。鎌倉の伯父のところだという。「遠慮なく藩邸にお出になるがよかろう」と鳥山に伝言して、練兵館に帰った。  松陰に会えなかったのが、何となく小五郎には残念にも思えた。明倫館で山鹿流兵学を講述していたころの松陰にくらべたら、すっかり人物が変っている。それをもっと確めたい気持もあった。その松陰が、めざましい行動をみせるのは、それから間もなくの月があけて六月に入ってからである。  ──嘉永六年六月三日。新暦になおすと一八五三年七月十四日。浦賀沖の朝靄をついて、四隻の黒船が、無気味な影をあらわした日である。  いわゆる「幕末」とは、どの時期からをさすのかという歴史学での論議がある。幕藩体制のひずみが、あらゆる社会現象に目立ちはじめた天保年間からだとする説はおそらく正しいだろうが、通説としては、このペリー艦隊の来航以後だとされる。鎖国の夢をむさぼっていた封建国家が、黒船来航を機に、崩壊にむかって急速な変転をとげるからである。吉田松陰や桂小五郎の人生にとっても、それは新しく、けわしい道がひらかれる突然の大事件であった。  黒船の衝撃は、たちまち江戸中にひろがって行った。松陰はその日の午前中、佐久間象山の塾にいたが、そこを辞してそのまま蒼竜軒に帰ったので、騒ぎのことをまるで知らないでいた。  佐久間象山のもとに黒船来航の報が入ったのは、松陰が辞去した直後のことである。当時、最高の洋学者といわれ、海防の必要を説いていた象山は、ただちに門弟たちをひきつれて浦賀へとんだ。  翌四日、そのことを知った松陰は、大慌てでひとり象山のあとを追った。  小五郎もその日、練兵館で昼まで撃剣に励み、午後、自室で『文章規範』を読んでいるところへ、門人の一人が、それを報じてきた。黒船が日本近海にあらわれるのは、これが初めてではないから、いずれ逃げて行くだろうと、練兵館ではそれほど騒がなかった。しかし、こんどの黒船は、錨をおろしたという。ようやく不安を感じはじめたころ、小五郎のもとに藩邸から呼び出しがかかってきたのは六日の朝である。  行くと、屋敷内ではすでにものものしい人の動きが始まっていた。大検使の執務部屋では|能瀬《のせ》正路が、松陰の手紙を読みおわったところだった。浦賀にむかう船の中で書き、むこうへ着いてから飛脚便でよこしたものらしい。 「面白いことをする男だ。浪人のくせして、わしに指図しおるわ。変報を萩に知らせよ、とな。まだ軍学師範のつもりであろう。……小五郎、読むか」  能瀬正路が、笑いながらその書面を小五郎に渡した。能瀬は五十をすぎた能吏である。長年納戸役をつとめ、昇進して大検使となったばかりだ。国学の造詣深く、歌人としても知られた。小五郎の父和田昌景との交際があり、以前から小五郎に厚意を示している。  その手紙、松陰が躍るような字を書いていた。松陰はやはり悪筆というしかない。少年のころの習字帳をみると、一応整った形をしているが、年が経るに従って、右上がりの癖字にかたまってしまった。激した感情を、自家製の原稿用紙におびただしくぶっつけているうちに、そうなったのだろう。ちなみに、松陰が使ったのは、現代のそれと同じ二十字・二十行の四百字詰原稿用紙である。  ──浦賀の異船来りたる由に付き、私只今より夜船にて参り申し候。海陸共に|路留《みちどめ》にも相成るべくやの風聞にて、心甚だ急ぎ、飛ぶが如し、飛ぶが如し。──  松陰のはやる気持が、手に伝わってくるようである。「飛ぶが如し、飛ぶが如し」という文章にうながされたように、小五郎は立ち上がった。 「私も浦賀に行くことをお許し下さい」 「それはならぬぞ、小五郎」 「いけませんか」 「足軽に命じて倉から武具を取り出しておるところだ。江戸在府の者を集めたのは、出動の準備のためで、これは殿様のご命令である」  藩主毛利慶親が、参勤交代で江戸へ出ていたということも幸いして、長州藩邸では、幕命を待つまでもなく、出陣の支度にとりかかっていた。支藩の侍から、足軽、|中間《ちゆうげん》までも狩り集めて、六百人の隊を編成する予定だったが、結局七日の夕刻までに五百十二人が集合した。  幕府から、江戸湾をのぞむ大森海岸の警備を命令してきたのは、七日の夜である。そのころには、出動の態勢がまったく整っていた。  奇妙なことに、幕府の命令は「火事装束でよい」というのであった。うちつづいた泰平の世になれて、大名たちは藩邸に兵器をたくわえることをしなかった。ひとつには幕府を憚ったのである。そんな事情を知っているから、出陣するにしても、武家のぶざまな恰好を庶民に見せまいとする配慮で、火事装束でよいなどというのだった。たしかに揃いの制服姿には違いないが、とても戦争をする支度ではない。武士の体面だけを気にする幕政のつまらなさが、こんな非常の場合にも露出している。  ところが、長州藩では、黒船来航の報を聞いたのち、江戸藩邸の武庫を開いて具足を取り出し、しかも三門の火砲と百挺の和銃で武装した五百人の藩兵を、数日のうちに編成しおわったのである。 「入鉄砲、|出女《でおんな》」といわれ、とくに武器搬入にうるさかった江戸へ、長州藩はいつの間にか、それほどの兵器を持ちこんでいたのだ。  長州藩が、天保の藩政改革に着手したのは、慶親が十三代藩主となってからである。  村田清風が起用された。清風は、富国強兵をめざし、財政の建て直しと同時に、武備の拡充をはかり、久しくおこなわれなかった野外の大操練を実施したりした。  武器は江戸藩邸にも配分した。藩邸内の武庫を修築し、四百人分の甲冑刀槍、銃砲はもとより兵糧から望遠鏡、羅針盤にいたるまでを常備し、毎年きまった時期に整備することをおこたらなかった。それが思いがけなく役に立ったのだ。これだけの手際よい出動態勢を整えたのは、長州藩だけで、そのことは幕府にも当然伝わった。 「江戸防備のためである」という長州藩の名分も、普通なら|謀叛《むほん》の疑いありと因縁をつけられかねないところだが、幕府としてはめずらしく長州藩の武器備蓄を頼もしく受けとった。これが、幕末の不安な政情に、長州藩を登場させる契機となるのである。  外様大名として、長く中央から疎外されていた毛利氏が、一躍脚光を浴びたのも黒船異変によるのだが、それは天保改革を経て、長州がようやく雄藩らしい実力をつけはじめた時期とも一致していた。  改革の功労者村田清風は、すでに七十一歳の高齢で、天保十四年いらい要職から身を退き、国許での閑職についている。清風の直系として|周布《すふ》政之助が、江戸家老配下の|右筆添役《ゆうひつそえやく》の地位にあって、政敵坪井派の椋梨藤太に対立していた。──  六月七日の深夜、桜田の長州藩邸の庭にはかがり火が紅く燃えている。桂小五郎は、着なれぬ具足を身につけ、緊張に|強《こわ》ばった表情を並べる藩士の隊列に加わった。 「本当に、黒船と戦争になるんじゃろうか」 「しきりに大砲をぶっ放しよるそうだ。今のところ空砲らしいが、どうやら戦う構えだ。一戦は避けられんちゅうことかもしれん」  そんな私語を交わす者もいる。 「鎮まれい!」  野太い号令が響きわたり、全軍の指揮にあたる井原豊前が姿をあらわした。寄組、二千二百石の堂々たる貫禄に見える。陣羽織など着ているが、当時ではまだ、それが大時代とも滑稽とも思えないころである。  出陣に先立って、藩主の条書が読みあげられた。訓令である。朗読したのは、右筆の椋梨藤太と添役の周布政之助だった。 「このたび異国船が渡来したので出陣を申しつけるが、上下一致して粉骨任務を遂行せよ」といった「本書」を椋梨が読み、つづいて陣中でのくわしい諸注意を個条書きにした「副書」を周布が読んだ。  燃えさかるかがり火に照らし出されながら、かわるがわる立って条書を読みあげる二人の横顔を、小五郎はちょっとした興味をもってながめていた。  天保の藩政改革が開始されたのと時を同じくして、長州藩には二つの派閥が生まれた。村田清風派と坪井九右衛門派である。いわば急進的な政策を掲げる村田に対して、坪井は保守的な方向を打ち出し、両派による藩政の実権争奪がくりかえされてきた。村田と坪井が引退したあとは、周布と椋梨があとを継いでにらみあっている。  小五郎などは、まだそのような政争の埒外にいた。ほとんど無関心といってよい。上層部に二つの派閥があって、しのぎを削っているらしいといった程度のことしか知らない。だから、椋梨と周布が、呉越同舟よろしく並んでいるのを見て「ちょっとした興味」を示すくらいのものだった。  小五郎は、それよりもむしろ、浦賀沖に居据わっているという黒船に心を走らせていた。松陰からいつか聞いたアヘン戦争の真相を思い出している。欧米諸国の強大な戦力についてのわずかな知識でしかないが、何か巨きな怪物に立ち向かおうとしているのではないかという漠然とした不安がある。それはどうかすると、やはり恐怖に近いものであった。  その夜おそく、五百十二人の長州藩兵は、重苦しい江戸の闇をくぐって、粛々と大森海岸をめざした。  浦賀沖の艦隊が、攻撃してくるのではないかという恐怖が江戸市中をおおっていた。  江戸湾の水深を調べるため、一隻がかなり接近してきたこともある。それを見て大騒ぎとなり、黒船来襲の流言は乱れとんだ。家財をまとめて逃げまどう者もいる始末である。  幕府から江戸湾付近の警備を命じられたのは、長州藩のほか福井・高松・熊本・姫路・阿波・柳河など七藩で、別に芝・品川近くに藩邸を構えている仙台・土佐・因幡の各藩も周辺の警備にあたった。  長州藩兵が警衛の陣を張った大森海岸は、現在の羽田空港近くで、そこから浦賀まで、江戸湾の一部を横切る直線距離にしておよそ八里(三十二キロ)、旧式の望遠鏡でも、晴れわたる海上にいる黒船の動静は十分につかめた。  藩主毛利慶親は、八日の夜になって現地へやってきた。大森代官に折衝して、厳正寺に設けた本営に慶親が入ると、海岸の陣地にいた桂小五郎は、呼び出されて、警固隊の一員となった。小五郎の剣術の腕を見込んだ最初の起用である。はじめて藩主の側近にひかえ、小五郎は毛利慶親という人物の、いやに甲高い声を知った。嫌悪というほどではないが、何か生理的な反発を感じたのは、あるいは権威に対する畏れであったかもしれない。  小五郎は、身を硬くして、藩主を中心に居並ぶ重臣たちから、少し引き離された位置に控えている。警固隊の中には、財満新三郎、河野右衛門はじめ小五郎と一緒に江戸へやってきた練兵館の者もいるが、彼らは外の廊下にいた。小五郎だけが室内に入れられたのは、すでに六人の剣士の序列が出来あがっていることを示すが、大検使能瀬正路の引き立てともいえた。  幕府の|使番《つかいばん》中根宇右衛門と西尾式部が、長州の陣営をおとずれたのは、慶親が本営に入ってから一刻の後である。 「今のところ、特に、これという動きはないようである」  慶親は、使番から黒船の様子をたずねられると、肥満した身体を反らすようにして、鷹揚に答えた。�そうせい侯�と、家臣たちは、陰で呼んでいる。何をいっても「そうせい(そのようにいたせ) 」と、応答することからきている。  藩内の派閥が、政争をくりかえし、実権が村田派、坪井派とめまぐるしく移っても、藩主はその上に超然として坐り、彼自身の意見をさしはさむことがない。悪くいえば無定見、善意にみれば寛容で、家臣を信じてすべてをゆだねているのだともとれる。  薩摩藩の島津|斉彬《なりあきら》や久光の独裁者的な性格とは対照的な長州藩主�そうせい侯�をだからといって暗愚ときめつけるのは正しくない。天保の藩政改革を意欲したのは慶親である。それに、家臣団の論議が等分に割れたとき、つまり「そうせい」とばかりは言えないときに、この藩主が下した決断は大胆で、結果的にも当を得ていたという例がいくつかはある。少なくとも慶親が、封建的独裁領主でなかったことが、維新史における長州藩の立場を決定した。その要因は、人材を自由に活動させる空気をつくりだしたからである。  人材の中心は、若く有能な下級武士たちだが、彼らが躍り出る時期は、今少し後日になる。そのことは、ちょうど長州藩兵が大森に布陣している時分、浦賀にあって至近距離から、思いつめた顔で黒船を観察しているはずの吉田松陰とも関係がある。萩につれもどされて、彼がひらく松下村塾に集まった俊才たちの出番が、やがて回ってくるまで、まだ六、七年という時間が必要だった。──  幕府の使番と慶親のやりとりがつづいている。 「尊藩においては、まさか黒船に戦いをしかけるつもりはないでしょうな。幕閣も、実はそれを心配しておられます」  と中根宇右衛門が、やや尊大な口調で言った。長州藩の武備が他藩にまさっていることを頼もしく思う反面では、抜け駆けをねらう長州人の勇み足を、幕府は危惧しているのだった。 「公儀の命令を待たず、軽々しく兵を発することはありません。幕閣の方々にも、しかとお伝え下され」  慶親が答えると、 「ま、そのように願いたい」  使番の中根宇右衛門という幕臣、いかにも虎の威をかりた横柄な態度をとりつづけている。 「シナのごとき大国にして、アヘン戦争の惨禍をみておる。四面海の我国にして、もし兵端をひらかば、海岸の防備もまだ充実しておらぬ折でもあり、容易ならぬ国難に及ぶことを、ふくみおかれたい」 「ならばお伺い申す」  総指揮の井原豊前が、膝を乗り出した。肚に据えかねたという面持ちだった。 「もし、異船が襲いくればいかに」 「それは申すまでもないこと。応戦せられよ」 「異船の発砲なく、先日のごとく至極接近して来たときはいかに。退去を命じて、弊藩の銃砲を撃つことも可なりや、伺いとうござる」  豊前が詰め寄ると、中根は返事に窮した。ここまでの微妙な判断ができないところは、やはり使番という名の役人でしかない。 「それはあるまいと存ずる」  もう一人の使番西尾式部が、おだやかな声で言った。 「明日、久里浜にて、ペルリの差し出す国書を受領することになっておるので、異船は日ならず立ち去るでありましょう。それまで自重されたい、とのことでござる」  使番たちは、肝心な話を最後に伝えると、馬を駆って帰って行った。 「異船とは、決して戦わんちゅうことか」  慶親がつぶやくように言った。 「そのようでございます」  井原豊前は、まだ不愉快さをぬぐえないといった表情のまま答えた。  ペリーがたずさえてきた米国大統領の開国を求める親書の受け取りをこばんでいた幕府は、砲門をひらいた黒船の威嚇に屈し、九日、久里浜に設けた応接所で、ついにそれを受理した。ペリーは、返事をもらうため翌年再びやってくることを告げ、ようやく錨をあげた。  大森の陣営では、その日の朝からほっとした空気が流れ、藩兵たちは雑談に打ち興じながら一日をすごす。ところが夕刻になって、見張りの者のけたたましい声が響きわたった。 「黒船が、こっちに来よるぞ!」  たしかに、黒煙を吐きながら、湾内にむかって、四つの船影が近づいてきているのだった。夕焼に染まった海面を、すべるように移動する黒船艦隊に怯えていると、やがて大きく旋回して針路を外海に変え、日没前には、まったくその影を消した。不敵な示威行動をみせて、ぺリーの艦隊は去ったが、再訪を言い残している。屈辱と怯えは、さらに尾をひくのである。  長州藩兵は、そのまま五日間、大森海岸に陣を張っていた。翌年に備えて本格的な陣地を設営して、海岸線の測量など始めているところへ、幕府からの命令が届いた。六月十五日をもって、撤兵せよというのである。追いたてるように、海岸からの引き揚げを命じてきたのは、長州などの外様大名に江戸湾の情況をさぐらせたくないという幕府の意向からだった。  月末になって、桂小五郎は練兵館へ復帰し、久しぶりに竹刀をにぎったが、なぜかむなしい気分である。何かしきりに心の中ではやるものがあった。  斎藤弥九郎に、大森海岸での様子を報告し、撤兵を追いたてる幕府のことも話した。 「国を守ることより、徳川家の安泰を願うとはな。命運、すでに見えたりということか」  弥九郎は、吐き捨てるように言った。彼のロから、はじめて出た幕府批判である。小五郎は、たしかに、それに共感した。  黒船が去ったあと、江戸は連日の猛暑に襲われはじめた。一カ月ばかり、小五郎は汗を流し、剣術に励んだ。胸中にうごめくものは、次第にふくらんでくるようだった。   海を撃つ大砲  このあたりで、しばらく話を現代に移す。筆者自身の見聞である。──  一九六六年(昭和四十一年)の春から秋にかけておよそ半年間、私はヨーロッパからアフリカを歩いてきた。そのとき、ある使命を帯びて、パリに一週間ばかり滞在した。使命などといっては大げさだが、それは長州藩の大砲の存在を確認することであった。  幕末の文久三年(一八六三)から翌元治元年にかけて──つまりこの物語が一時進行を停止しているペリー来航の時点から約十年後のことだが──関門海峡で長州藩とイギリス、フランスなど四カ国の軍艦が交戦した。そのとき下関の海岸砲台に据えつけてあった大砲は、ほとんどが戦利品としてヨーロッパに持ち去られたのである。  七十門ばかりの青銅砲は、その大半がイギリスに運ばれたと思われるが、鋳つぶされたかどうかして、今ではまったくみられない。日本国内にも、砲身に毛利の紋を彫った記念すべき大砲は、そんなわけで一門も遺されていないのである。  これがフランスで大事に保存されていることは、明治のはじめ、文部省の委嘱で、維新関係資料の調査のため渡欧した歴史学者によって報告されたが、その後忘れ去られていた。  私が行った一九六六年は、いわゆる�明治百年�を二年後にひかえ、ようやくそのことへの関心が高まっているころである。下関市から「パリにある長州藩の大砲をたしかめてきてほしい」という非公式な要請を受けて、私はパリに着くなり、大砲さがしを開始したのであった。  長州の大砲は、ナポレオンの墓と背中あわせになっているアンバリッドの軍事博物館に納められている二百門以上はあると思われる各国の大砲の中にまじっていた。  アンバリッドとは「廃兵院」である。戦傷兵のために、ルイ十四世が建てたものだが皇帝ナポレオン自身も廃兵院の一部にほうむられたのだから、フランス人らしい気のきいたはからいである。廃兵院は、軍事博物館になっていて、大昔からの兵器類が、ぎっしりつめこまれている。この建築物は一時、武器庫として使われたこともあるらしい。例の一七八九年七月十四日、蜂起した民衆は、ここから武器を掠奪し、バスチーユを襲撃したといういわくつきの建物でもある。  このごろでは、アンバリッドに長州の大砲が保存されていることは常識みたいになったが、当時では、これをさがし出すのも、かなりの苦労ではあったのである。発見したとき、私は、いうならば血をわけた肉親と再会したような感激を覚えたものだ。  私の報告によって、下関市は外務省を通じ、フランス当局にその返還を要求した。駐仏の萩原大使がメスメル国防大臣に思いきり食いさがったが、結局拒絶された。メスメル氏もさすがに気の毒がって、次のような最終文書を大使によこしている。 「貴下が希望されるならば、造艦局において、本件大砲の実物大の複製品を、どの程度の期間と費用で製作することが可能か、検討させることができると存じます」  複製品というのはどうかといった論議もあり、話は立ち消えになった。  フランス人だけでなく、なべてヨーロッパ人は、今も大砲に強い魅力を覚えているようである。かつて大砲は、民族ないしは国家の力を象徴する兵器だった。いくたの栄光とかなしみの歴史が、大砲にきざまれている。  下関海岸に、黒船を迎えて火を噴いた大砲に、長州人が執着するのも、似たような心境であろう。そして、パリのアンバリッドにある長州の大砲には、一に三ツ星の毛利の紋章と、おどろいたことに、嘉永七年、江戸で鋳造されたことが、はっきり刻まれているのだ。それはまさしくペリー来航の直後、江戸藩邸で鋳造した大砲なのであった。  長州藩は、鋳砲に関して、佐久間象山と江川太郎左衛門に協力を依頼している。太郎左衛門と斎藤弥九郎の間柄は前に述べた。それに当然、松陰と桂小五郎が結びつくのである。  長州の江戸藩邸は、本家の萩藩だけでも、上屋敷・中屋敷・下屋敷・蔵屋敷、それに|抱《かかえ》屋敷もふくめて約三十カ所におよんでいる。  藩政時代に売り払ったもの、また明治になって朝廷から拝領したものや支藩関係を除いて、嘉永六年当時、主な長州藩邸は、桜田の上屋敷、芝の中屋敷、麻布の下屋敷、|葛飾《かつしか》の抱屋敷、京橋の蔵屋敷であった。この中で最大の敷地を持っているのが葛飾砂村にあった抱屋敷である。はじめ十万坪、のち天保、弘化年間に約半分を松平出羽守らに売ったが、それでも五万坪(十六・五ヘクタール)といった広大な敷地だった。  ペリー来航の直後、長州藩は大っぴらに軍備増強をめざした。佐久間象山らに鋳砲の指導を受け、萩の鋳砲家郡司喜平治を招いて、葛飾の藩邸で鋳造した。これらの大砲は、一時、相州警備にむけられたが、やがて関門海峡での攘夷戦に備えて、長州に送り出された。パリのアンバリッドにあるのは、葛飾藩邸で鋳造した三十六門の青銅砲の中のひとつである。  異国の地で、一世紀にわたり眠りつづけていた長州の大砲の冷えきった砲身をなでたのち、私はスペイン、アフリカを経て、半年後に帰国した。帰りは船を利用し、スエズ戦争後、一時開通していたスエズ運河を通り、四十日かかって相模湾に入った。  初秋の空気が、快く頬をなでる日本の海である。インド洋の炎熱を、遠い悪夢のようにも思い出しながら、早朝、故国の山を左に見た。嘉永六年の夏、新しい外圧の波をペリーが運んできた浦賀沖を通過し、やがて東京湾に入ってから、私は妙なものを海上に発見した。  品川沖である。小さな島がいくつか浮かんでいるのだ。それは黒ずんだ石垣でかこった人工島であることがすぐにわかった。石垣の護岸は、城壁そっくりである。遠くに東京タワーを|屹立《きつりつ》させる近代都市を背景とする港内で、この人工島はいかにも古めかしく、不似合だった。  私は、ブリッジに上がって行き、それが何であるかを船長にたずねた。 「あれは昔、江戸を黒船の襲撃から守るために築造された台場だと聞いております。途方もない障害物で、どの船も困ってますよ」  船長は、海図を見せてくれた。この人工島を|海堡《かいほ》と呼ぶ。第一海堡から第三海堡まであり、別に岸壁近くには台場が五つ。台場のうち二つは埋立てによって解消し、もう一つは取り除いたが、まだ二つが残っていた。港内にちらばる三つの海堡は、江戸時代の築城技術をそのまましのばせる石垣づくりで、樹木もあおあおと茂っている。小規模な要塞になっていて、砲座の跡も遺っているということだった。それは、一世紀前の日本人の、海外勢力に対する恐怖の記念碑である。  嘉永六年製造の大砲をパリで見ることから始まった私の旅行が、北半球をひとまわりしたのち、同じ嘉永七年、品川沖に築かれた海堡をながめることで終ったというわけである。──  幕府が江川太郎左衛門に命じ、品川沖にこれらの台場を築かせたのは、ペリーがいったん退去した直後の八月である。太郎左衛門は、斎藤弥九郎に協力を頼んできた。  練兵館にいた小五郎は、そのことを知るとすぐ弥九郎に願い出た。台場築造工事に、同行したいというのである。 「まず品川海岸の測量から始まる。長州藩が介入することは、絶対に幕府が許すまい。江川殿に頼んでも、これだけは聞き入れてはもらえんだろうから、諦めてもらいたい」  弥九郎は、困惑した表情で言った。 「方法が一つあります」  小五郎が、声を低めた。 「私を先生の|奴僕《ぬぼく》として、お連れ下さればよいのです」 「ははあ、そのことか」  弥九郎は、うなずき、急に笑いだした。奴僕、つまり走り使いの下男として台場工事の現場に連れて行けと小五郎は言うのだ。考えたものだね、ところで、と弥九郎は真顔になった。 「桂君は、もう剣を捨てるつもりかね」 「いや、決してそのような……」 「ちかごろ退屈してるようだが」 「………」  黒鉛来航いらい、何となく落ちつかないでいる小五郎の姿が、弥九郎には、そう見えたのだ。 (日中、松村と碁など打っているところを、みつけられたりしたからな)  小五郎は、ここニカ月ばかりの自分の生活を、ふとふりかえった。  とにかく、よく酒を飲むようになった。もともと好きなほうである。剣術稽古に熱中しているころは、ほとんど酒を断っていた。江戸へ出てからつけはじめた小五郎の日記は、最初のうち「撃剣」「読書」「夜、詩会、読書」といった字で埋められている。ところが、黒船が去った後の六月十七日、練兵前での先輩松村|宰輔《さいすけ》と芝浦まで飲みに出かけた。  松村宰輔は長州人で、熊毛郡阿月の出身。いくらかは裕福な陪臣の子で、小五郎より三つ上の二十四歳だった。嘉永元年いらい練兵館に入塾して修業中だが、あまり身を入れたふうでもなく、たちまち小五郎に追い越されてしまった。平然として、いつも微笑をうかべている。 「松村の武芸天資に基く。これに刻苦の力あらしめば到底我の及ぶ所にあらず」  と斎藤新太郎を嘆かせた。松村には、小五郎のような「刻苦の力」がないということであろう。適当に怠けてはいるが、他流の修業者が道場へやってきたときなど、進んで立合うのは松村で、結構、|捌《さば》いている。風変りな剣士ではあった。  大森出陣いらい虚脱感に見舞われている小五郎のことを、敏感に察した松村宰輔が、突然、夜遊びの誘いをかけたのが十七日である。 「これからは、剣の腕をみがくだけではどうしようもないぞ」  松村は、小五郎の心を見すかしたようなことを言う。 「では、あんたはなぜ練兵館にとどまっちょるんです。もう六年目でしょう」 「天下の|帰趨《きすう》は、やはり江戸で決まる。練兵館は、それを見守るための足がかりだと思うておるよ。斎藤先生のところには、いろいろ面白い人物が出入りする。先日の吉田寅次郎もその一人だね。千葉や桃井の道場と違うところさ」  そんなことを言ったあとで、本当は長州に帰りたくないのだと、正直な気持を洩らしたりもした。正規の武士身分を与えられていない又家来(陪臣)では、立身の機会はほとんどない。松村は、心中何かを期していたようだが、結局、郷里へ帰り、田舎の剣術教師となった。安政七年(万延元年)三十一歳で病死している。  その日、松村は芝浦の海月楼に小五郎を案内した。夕刻から飲みはじめ、やがて女を呼び、深夜におよんだ。  十八日の朝は、|宿酔《ふつかよい》に悩みながらも、さすがに気がとがめて撃剣に励んだ。午後は、桜田の藩邸に行ってみる。大和国之助が、断乎アメリカの開国要求をしりぞけるべしと大演説していた。 「我未だ何が是、何が非であるかを知らず」と、その夜、小五郎は日記に書いた。  二十日、藩邸に行ったときも、開国、攘夷の議論がわいていた。小五郎は、黙ってそれを聴いているだけだ。帰途、一人で飲む。 「我無学浅心故、未だ両端の是非を知らず、晩時帰門。|惶慨《こうがい》紛々、独り吾が愚痴を哀れむ」  翌二十一日、松村と久しぶりに竹刀を合わせた。午後、ぼんやり考えていると、松村が呼びにきた。碁をかこもうというのである。何となく相手をする。──  退屈しているのかと弥九郎がいうのは、そんな小五郎の日々を見てのことだった。  決して退屈しているわけではありません、と小五郎は弁明した。 「開国の要求をしりぞけ、異国の大軍艦を相手に戦うべきでしょうか。そのことを考えちょります」 「負けるのはわかっておるというのだな」 「そうです。幕府は、まず戦う意思はないようですが……」 「どうもそうらしい。品川に台場を築くといっても、あれは外国が怖しいというだけの気休めみたいなもので、戦いの準備ではないようだ」 「それもどうかと思われます」 「戦うべきであろうな」と、弥九郎が断定的に言った。 「剣の道でいえば、もはや抜刀して防ぐしかない」 「藤田東湖先生とお会いになりましたか」 「この前、水戸藩のお屋敷で、ちょっと話した。東湖も私と同意見だ」 「………」  そのように単純明快な答えの出せる人をうらやましいと小五郎は思う。あの異国の大軍艦に、素手にひとしい武力で立ち向かうのか。そのあとはどうなる。では戦わずに屈服するのか。いずれの論を押しても矛盾に突きあたる。小五郎が「我両端の是非を知らず」というのはそのことだった。  ペリー来航直後の攘夷、開国論は、いかにも素朴なものである。幕府の開国策は、単に恐怖による屈従でしかない。基本的にはあくまでも鎖国政策をとっているのであり、攘夷主義でありながら、外国と戦って幕府体制が崩壊することをしきりに懸念している。つまりは現実に強いられた開国に落ちつくのだ。  一方の攘夷論は、主として儒教的な教養からくる排外思想に発している。国内を焦土と化しても戦うというか、もしくは黒船など見事に撃退してみせるという頑迷な自己過信だ。それは海外情勢への無知からもきている。西洋の新知識を学ぼうとする洋学にさえ、まだ風当りの強い時代である。  そのいずれにも共感できないのは、小五郎の冷めた資質によるもので、沸騰する時勢論に気持が噛み合わないのをどうしようもなかった。「我無学浅心故」として、それを割り切る論理のなさを嘆くのである。  この当時の小五郎には、きわめて自虐的な意識が過剰しているようにみえる。「独り是れ天涯一鈍生」とか「独り吾が愚痴を哀れむ」といった内側へ投げつける言葉が日記の文面に並んでいる。それはあるいは二十一歳の青年にありがちなことともいえるが、黒船来航に遭遇して、たちまち意識の混乱に苦しむあたりは、やはり彼の感性によるものであったかもしれない。  目前に黒船を見た人々の反応の仕方はさまざまである。多くは興奮と怖れを抱いた。小五郎は、それを通過したあとで、江戸の地上に落としている自分の影に、ある懐疑の視線をむけようとしていた。剣術修業という行為へのむなしさが、霧のように、心をおおいはじめている。  そんなとき品川に台場を築くことを聞いた。弥九郎が言うように、これは幕府の戦備というより、外国への怖れから、江戸を囲おうとする発作的なものでしかない。しかし、それは従来なおざりにされていた海防への第一歩であり、またそれまで隠れた存在だった西洋流兵学家が、新時代の日の目をみる最初の機会でもあった。  小五郎は、当面の目標を、江川太郎左衛門への接近においた。まず台場工事を現地に見たい。 「奴僕になるといっても、江川殿をだますわけにはいくまい」 「頼んでいただけましょうか」 「近くここへ江川殿がやってこられるので、引き合わせてあげよう。直接ぶっつかってみることだな。そのさい斎藤弥九郎の奴僕になどといわず、江川太郎左衛門の弁当持ちにさせてくれろと頼むがよいのだ」 「江川様は、いつごろ当道場においでになるのでしょうか」 「えらく慌てておるな」 「じっとしておれないのです」 「君には剣術というものがあるではないか」  弥九郎が、はじめてきびしい顔をした。  数日して、江川太郎左衛門が、練兵館をおとずれた。  弥九郎が、小五郎を紹介すると、 「噂には聞いておった。長州の桂小五郎とは、そこもとか」  太郎左衛門が、無遠慮な観察の視線を、小五郎に向けた。それでなくともギョロリとした大きな目である。それで小五郎の全身を|睨《ね》めまわした末に、ひとり合点で頷いている。 「何か願いの筋があるとか……斎藤さんがそう申しておられる」 「品川の台場工事へ随行しとうございます」 「それは困るな。他藩人、まして|外様《とざま》の家中を加えたとあっては、身共が幕府から咎められる」  予想した通りの答えである。小五郎は、膝を乗り出した。 「海防は、幕府ひとりのためではございますまい。また江戸湾だけでなく、お国全体の急務と心得ます。長州の沿岸も異船に対してかためねばなりません。私はそのために、江川様の台場築造を見ておきとうございます」 「理屈じゃな」  太郎左衛門が、苦笑して、弥九郎をふりかえった。 「江川殿の奴僕として、工事現場へ潜入したいと桂君は言うております」  弥九郎が微笑をうかべながら、口を添えた。 「潜入などとは、ますますけしからん」  太郎左衛門が、笑った。 「何かのときには、私が責任を負いましょう。江川殿は、この斎藤にだまされたということで……」 「師弟共謀で、私を攻めようというのじゃな」 「左様、すでに小五郎としめしあわせてのことでござる」 「負けたわ」  太郎左衛門は、上機嫌に扇子をばたつかせ、胸に風を入れた。 「見破られぬように、よく変装して参られよ」  そんなことも言い残し、やがて帰って行った。 「桂君、暇があれば、剣術にも励んだがよい」  太郎左衛門を送り出したあとで、思い出したように、弥九郎が言った。 「決して、剣を捨てようなどとは思うちょりません」 「いや、別のことだ。今、江川殿が、桂君の名をすでにご存知であったろう。何を感じたかね」 「おどろきました」 「それも剣術にすぐれていたおかげだ。刀を振りまわして世を渡るときではないが、剣名をとどろかせ、剣を通じて重要な人物とまじわり、剣術以上の仕事もできるのが、今のところこの国の西洋と違う世の中の仕組みだ。黒船がやってきても、当分は変るまい。剣を不用なりと思うのは、まだ早いのではなかろうか」 「はい」 「君は、ともかく江戸に出てきたではないか。剣をもってすでに相当に知られるようになった。藩主もいずれは、その面から桂君を注目するようになる。ひとつの仕事をするには、一匹狼でなく、それにふさわしい地位を得なければならぬ。桂君は藩士だから、道は開かれておる」  弥九郎は、諄々と説き伏せるような口調で、さらに言葉をついだ。 「剣をそのように利用することを、不純と思うかもしれんが、世のために役立つなら、それも新しい剣の道と思えばよい」  それは不遇な身分から刻苦して、剣一筋にたたきあげてきた弥九郎の実感だったかもしれない。  そのころ江戸には、同じような意味で、野心を秘めながら剣術に励んでいる人々が少なくはなかった。たとえば小石川の試衛館に間もなく集まる天然理心流の一派がいる。近藤勇、土方歳三、沖田総司ら、やがて小五郎の命をねらう新撰組の中核となる彼らは、剣をもって騒乱の世に活動の場を得た浪士の一群であった。  小五郎が、藩邸で少しばかり大きな顔をしておられるのも、まずは練兵館でみがいた剣の腕を認められてのことだ。── 「桂君、明後日から、品川へ行くぞ。その|髷《まげ》を野郎頭に|結《ゆ》いかえて、下男に化けることを考えておきなさい」  愉快そうに、弥九郎が言った。  桂小五郎が、江川太郎左衛門に|従《つ》いて台場築造工事を見たのは、嘉永六年八月のはじめから九月にいたる約一カ月間である。  初めのうちは、測量ばかりで、工事そのものを見学した日数はわずかだから、それほど築造技術を習得したともいえない。しかし、六分儀などを用いた測量の方法を習ったし、砲台というものの概念をつかむことはできた。 「砲を据えつける位置は、敵艦の上部砲塔と同じくらいの高さにする。それは普通三十フィートとされている。ほぼ三十尺と思ってよい」  太郎左衛門は、小五郎を指導してやろうという懇切な態度を見せてくれた。 「ただし台場下の海の深浅にも注意しなくてはならぬ。砲の角度は小さいほど有利だが、敵艦の距離によって仰角が異る。その調節が自由にできなければいけない」 「海岸砲は二十四ポンド以上、できれば三十六ポンド、四十八ポンド砲が好ましいが、至近距離の敵艦に対しては六十ポンドから八十ポンド砲が有利である」  こうした江川太郎左衛門の要塞築造法は、果してどの程度の実用性をもったものか。なにしろ知識に頼るだけで、実戦経験に乏しい時代だから、太郎左衛門の品川砲台築造に対しては、後年の洋式兵学者からの批判もある。もっとも品川砲台は、一度も火を噴いたことがなく、いわば江戸湾の飾り物と化し、ついには障害物となって、その残骸をさらすだけにとどまった。  台場がいかに堅固に築かれたとしても、据えつける大砲そのものが、いかにも古めかしい青銅砲では、戦うすべがないのだ。当時の主砲として用いられたのは二十四ポンド前後だが、これは口径十五センチの大砲である。巨砲と呼んだ八十ポンド砲が口径二十二センチで、いずれも弾丸は球形をしており、文字通りの砲丸である。|柘榴《ざくろ》弾、|葡萄《ぶどう》弾、鉄散弾といろいろだが、とにかく射程が短い。  太郎左衛門の教えた敵艦の距離による使用砲の種類からみると、大体標的の位置千二百メートルを基準としている。しかしそれが確実な射程内にあるかどうかは、甚だ心細いのである。これらの大砲は、砲口から火薬をつつき込み、球形の弾丸を入れるのだから、あまり下へ向けると、転がり出るというしろものだった。  それに対して、当時の黒船が搭載していたのは、砲身内に螺旋条溝(ライフル)をほどこしたアームストロング砲で、射程が長く、流線形の砲弾は、命中率も爆発力も抜群だった。  領海三マイル説は、現代にいたってすでに古典となったが、これは海岸に据えた大砲の着弾距離からきている。アームストロングは、およそ五千メートル飛んだのである。  そんな黒船にむかって、日本軍が発射する砲弾は、目前の敵艦に届かず、多くは海面に落下した。しょせんは海を撃つ大砲でしかなかったが、それでもまったく無用の存在というわけでもなかったのである。  この品川台場を築いているころ、太郎左衛門は島津斉彬の要請で、海防論を書いた。それに従って築造された鹿児島の砲台は、かなり実用的な要塞にはなり得た。廃船や、黒船に摸した標的をつくって、実弾射撃訓練をかさねていたことも役立ったのだ。  文久三年(一八六三)七月、イギリスの艦隊が、生麦事件の報復で鹿児島を攻めたとき、薩摩は敗北したものの、砲台は善戦した。イギリスが、薩摩あなどりがたしと、その戦力を認識したのもこの戦いであった。  長州藩が、下関沿岸に砲台を築いたのは、薩摩より大分遅れ、文久年間に入ってからだが、すでに太郎左衛門は他界しており、その指導を受けることはできなかった。それはまた小五郎が参加する余裕もなく、間にあわせのにわか造りの砲台でしかなかった。──  嘉永六年の秋、その太郎左衛門から、桂小五郎は砲台築造について教えられ、さらに正式な門人となって西洋兵学を学びはじめた。翌年、再来を予告したペリーの艦隊と、当然一戦あるものと覚悟していたのは、小五郎だけではない。しかも、長州藩は真っ先に黒船と戦わなければならない立場におかれているのである。  十一月十四日の午後、小五郎が桜田藩邸に行くと、妙に慌しい気配が感じられた。黒船来航いらいこうした空気には馴れていたが、その日はまた別の重く沈んだ緊張感といったものがたちこめているようだった。 「どうしたのですか」  小五郎は、女性的ともいえるいつもの穏やかな口調で、右筆添役の周布政之助にたずねた。政之助は、蒼白く痩せて、目の大きな男である。ちょっと神経質な面立ちだが、見かけより剛胆な能吏とみられている。 「相州警備だ。きょう幕府から言うてきた。これは大変だぞよ」  政之助が、溜め息まじりに答える。 「相州警備は、彦根藩でしょう」 「長州に代われちゅうのじゃ」 「大役ですね」 「大役はよいが、金がかかる」  それだけ言うと、せかせかと小五郎の前から姿を消してしまった。  西浦賀から腰越八王寺に至る三浦半島の南西海岸一帯六十九カ村の民政と警備を、長州藩があずかることになるのである。陣地は原・宮田・三崎の三カ所に設営し、先鋒隊など百八十人の藩士を常時配備する。むろん非常のばあいは、村民を動員する一方、江戸から数百人の武装兵を再び編成して駆けつける態勢を整えておかなければならない。  藩主はただちに国許へ命じて兵器を取り寄せた。旧式であるにしても大小の火砲五百門、その弾薬十五万発が萩から送り出され、翌年一月早々には、江戸へ到着した。これに新しく鋳造させた三十六門の大砲が加えられる。  桜田藩邸の庭にズラリと並んだ大砲の列を見たときの藩主慶親の表情は、めずらしくいきいきと輝いたものだった。幕府をしのぐほどの兵器を江戸へ持ちこんだことへの興奮もあったのだろう。 「相州警備について、建策ある者は上書を許す」  そんな通達が藩邸内に貼り出された。来島又兵衛ら二十二人が、上書した。小五郎もである。大急ぎで書いた簡単なものだったので、小五郎は、その続篇ともいうべき上書をさらに書き始めた。この草案が出来上がったのは、嘉永六年の年の瀬も押しせまった十二月二十日であった。それによると「海戦」「海岸防禦」「陸戦」と三項目に分けて対策を論じている。江川太郎左衛門から教えられた知識が、さっそく役に立ったのである。  大軍艦の建造は間にあわないが、できるだけ大きく堅牢な船を早急に造ることを力説した。やがて小五郎が、長州藩の軍艦建造に関わる端緒をなすものである。  海岸防禦、陸戦では大砲、小銃の装備充実を訴えている。小五郎は陸戦に期待した。黒船とまともに戦う十分な力を望めない限り、上陸した敵を山野に迎撃することで勝敗を決する以外にないと考えている。  江川太郎左衛門の塾では、砲術、銃術のいずれかを各人に選択させる。小五郎は、銃術を選んだ。小銃の操法や西洋銃陣を学んだ。これはやがてヨーロッパ製の小銃を買いあさる小五郎の行動とも結びついている。後年、対幕戦に発揮された長州藩の戦力の中枢は、軍艦や大砲でなく、イギリスから買い入れた一万挺に近い新式小銃であった。極論すれば幕府を追い込んだ最高の武装とは、この小銃を持った奇兵隊をはじめとする民兵組織だったといってよい。  嘉永六年末のこの時点で、小五郎が近代戦における小銃の役割を、戦術理論として、どれほど体得していたかはわからないにしても、江川塾で選んだ学科が、銃術であったのは、彼の直感的な先見によるものとみてよいのだろう。──  小五郎は、上書の草案を書き上げると、吉田松陰に批判を頼もうと思った。人材登庸など長州藩内部にかかわる意見も詳しく述べていたからである。  松陰は九月に江戸を発って長崎に行き、再び江戸へ舞い戻って、鳥山新三郎の家に長旅の疲れをいやしていた。いつも爆弾を抱えているようなこの人物は、小五郎がたずねて行くと、まるで待っていたかと思われるそぶりで、上書の草案に目を通した。  松陰はむさぼるように、小五郎の上書草案を読み、筆をとって、熱心に添削をはじめた。 「若シ交易和親ヲ許ス時ハ、意ニ任セテ我儘ノ言ヲ吐カン。許サザル時ハ、即チ乱暴セン」  と、小五郎はぺリーの要求に諾否いずれかを与えた場合に予想される事態を述べている。 「桂さん、これでは藩の重臣たちは、おどろかない。もっとはっきり書く必要があります。あの入たちは、おどさなければ心を動かさないのです」  松陰はそう言って、例の右上がりの細い宇で、欄外に書き入れた。そこでその部分は「……日本ノ地ヲ借ラントカ、彼ノ城ヲ築カントカ、又江戸近辺へ商館ヲ建テントカ、千種万端、意ニ任セテ我儘ノ言ヲ吐カン……」となる。  長い時間をかけて、添削を終ると、松陰はほっと肩をおとし、小五郎を見つめながら、 「よく出来ています」  とあらたまった様子で、上書の内容を称賛した。 「長崎はいかがでした」  小五郎は、旅のやつれが目立つ松陰の顔をうかがった。 「プチャーチンの軍艦は出港したあとでした。カラ足を踏んでしまった。まあ、しばらくは江戸でくらすことにします」  なんとなく元気がない。九月、松陰が長崎へ行ったのは、ロシヤのプチャーチンの乗艦に潜り込んで、海外に密航しようとしてのことである。  ──漂流密航策。  佐久間象山から授った密出国の手段だ。そのころジョン万次郎が、アメリカから帰国して話題をまいた。彼は四国の漁師だが、漂流中をアメリカの漁船に救われ、本土に渡って新知識を身につけ送り返されてきた。密出国は大罪だが、事故によるものだからと幕府は万次郎を咎めないばかりか、彼の語学力や仕入れてきた知識を珍重して、仕官させ洋書の翻訳係や軍艦操練所の教授として優遇した。 「漂流とみせかけて、うまく海外へ行くのであれば罪にはならないではないか」  と象山は、いわば松陰をけしかけた。ロシヤ艦に救われたように見せかけようというのだが、それが駄目なら、要するに漂流して大陸に行き着けばよいと、乱暴な計画も用意している。 「九州の五島列島あたりの漁師がよく|上海《シヤンハイ》方面に流されると聞いている。九死に一生の至難事だが、もし天の助けがあれば、望み通りの風がおこって、上海に漂着できるかもしれない。そこからアメリカヘの航路がひらけているから……」と象山は言うのだった。  そういうことならプチャーチンの軍艦はいなくてもよいわけだが、さすがにためらわれた。無謀ともいうべき冒険だからである。しかし、その実行に踏みきれなかったことが、松陰にある挫折感を味わわせているようだった。 「桂さんのこれを読んで、僕も新しい一策を藩に差し出す気になりました。また出過ぎたことだと責める人もいようが、たとい殺されても上書はつづけるつもりです」  松陰はすでに『将及私言』『急務条議』などの上書を提出している。黒船対策である。しかし浪人の身で上書するなど僭越な行為だとする批判の声が藩邸内でささやかれたのを、松陰自身知っている。小五郎も耳にしていた。 「私も及ばずながら、吉田先生の上書が藩公の手に届くように力を尽しましょう」 「そう言ってもらうと心強い」  松陰がただちに書きはじめた『海戦策』は、黒船との海戦について、具体的な戦術を述べたものだが、その内容は、まことに古めかしい。 「焼討ちの一策も時に随つて|施《ほどこ》すべし。其の法、百石積以上の船に、焼草を積み、油の古樽を是れに交へ……」  干草と油を積んだ船に火をつけて、黒船にぶっつけろといったたぐいの�海戦策�である。だが松陰を笑えない。海を撃つにしかすぎない大砲を揃えるのと同様、当時の日本人が保有する戦力とは、およそその程度のものだったのである。  予告通り、ペリーが軍艦の数を七隻にふやして、浦賀にやってきたのは、年が明けて安政元年 (一八五四)一月十六日であった。   流落の人  ペリーの再来を、ふつう安政元年一月十六日とする。正確には嘉永七年というべきであろう。安政と改元されたのは、その年の十一月二十七日だからである。しかし安政としたほうが、その後の数年間にわたって展開される一連の政治情勢と結びつくので、時代区分としては、感じがよくつかめる。そのくらいの理由である。つまりペリー来航、神奈川条約、攘夷論沸騰、将軍継嗣問題、安政の大獄……という情況の連動でとらえる場合、ペリー再来を、安政元年一月と表現したいわけだ。  そこで、桂小五郎は、練兵館の塾頭として、安政元年の元日を、江戸で迎えた。萩から江戸に出て間もなくの嘉永六年の元日を「終日蟄居」してすごした小五郎だったが、二度目の江戸の正月は、なかなか忙しかった。  練兵館での新年儀式が終ると、すぐに藩邸へ行き、それから江川太郎左衛門の塾をまわり、また鳥山新三郎のところにも顔を出して祝詞を交わした。ここには吉田松陰や宮部鼎蔵がいる。それを幕うように長州藩の連中が集まり、気炎をあげていた。ここで小五郎はかなり酒を飲んだ。  いつの間にか酒量がふえている。小五郎は、酒の席に出るのを嫌いではない。どちらかといえば好きなほうだ。ただ酔って放歌高吟するといったタイプではない。日ごろよりいくぶん陽気になり、場合によってはやや多弁になる程度だが、ほとんどは物静かな酒である。シンから酔えない|性質《たち》でもあった。  このとき鳥山の家で来原良蔵に会った。妹のハルと結婚することになっている男である。小五郎より四つ年上だから、二十六歳のはずで、松陰とは親友づきあいをしている。藩邸で、時々顔を合わせることはあったが、坐って二人がゆっくり話すのは初めてのことだ。 「桂君、練兵館の塾頭ちゅう役も名誉ではあるが、大変だな」と、盃を突き出しながら良蔵が、酒くさい息を吐きかけるのである。 「いずれ|兄弟《けいてい》の契りを結ぶことになるが、この弟を何分よろしく頼む」  それなりに好意を示しているのだろうが、小五郎は、ひそかにこの眉の濃い、あぶらぎった|額《ひたい》を持った男を敬遠する気持が動いている。はっきりとは言えないが、どことなく粗暴で、狂気じみた体臭をただよわせる人物である。 「ペリーはやはりくるじゃろうなあ、吉田さん」  くるりと小五郎に背をむけて、良蔵が怒鳴った。 「来るでしょう」 「来れば、戦いとなるか」 「戦うべきです」  松陰は、酒をまるで飲まないから、彼が坐っているそこだけが、ひどく冷えこんだように見える。 「戦いにはならんよ」宮部鼎蔵が、吐き捨てるように言った。「去年、アメリカの国書を受け取ったときの幕府の態度を見給え。とうてい戦う意志などない。どうかね、桂さん」 「戦わざるを得ないのではありませんか」と、小五郎はうながされて答えたが、本当は宮部に共感を示すべきかとも考え、「幕府の軍備では戦えないかもしれませんね」と言いなおした。 「今は、軍備のことを云々するときではない。戦わなければ、居ながら敗亡の国となります。悔いを|千歳《せんざい》の後に伝えることになる。僕は、それを怖れる」  松陰が、持前の神経質な表情をつくり、膝の上でこぶしをかためている。そのとき少し離れたところで鳥山としきりに論じあっていた土屋矢之助が、大声で自作の詩を吟じはじめた。号を|蕭海《しようかい》という。藩士ではないが文章において長州第一といわれた人物で、松陰も添削を乞うことがあった。──  黒船との戦争などとそんな話題がしきりに交わされはしたが、安政元年の正月は、まだのんびりと酒が飲めた。だが、幕末の平穏な元日風景は、これがおそらく最後であったといってよい。  松の内が明け、江戸の空を渡る寒風に、酔いもとっくにさめた一月十六日、浦賀沖に黒船艦隊が、再び|獰猛《どうもう》な姿をあらわした。  戦いは、宮部の言った通り、なかった。  ペリーの艦隊は、下田に錨をおろして、一向に去ろうとしない。ときに恫喝の姿勢をちらつかせながら、ねばりにねばっているようだった。  そのまま三月になった。そして三日、ついに神奈川条約調印となる。幕府は、黒船の威圧に屈して、横浜・長崎・箱館(函館)の三港を開いたのである。  吉田松陰が、ペリーの軍艦に乗って海外へ渡航しようと思いたったのは、その直後だった。黒船と戦うことになれば、軍師として長州藩の戦列に加わる覚悟を決めていた松陰は、幕府がペリーに突きつけられた和親条約に調印したことを知って、もはや自分が江戸に踏みとどまる意味を失った。江戸、というよりこのまま国内にいても仕方がないと考えたのである。それは、すでに三年前、九州の平戸に行ったときから、松陰の胸をひそかに去来していることであったともいえる。  アヘン戦争の直後、清国の兵学者|魏源《ぎげん》が書いた『聖武記』を、松陰は平戸で読んでいる。 「それ外夷を|制馭《せいぎよ》する者は必ず先づ夷情を|洞《うかがう》……彼の長技を以て彼の長技を防ぐ、これ古より以夷攻夷の上策なり」  その部分を、松陰が抜き書きしたのは、よほど共鳴したからであろう。アヘン戦争で、イギリスの進んだ火器を相手に戦って惨敗した清国の兵学者が、痛切な感情をこめて書いた『聖武記』は、松陰ならずとも当時の日本人の胸にせまるものがあった。だから、松陰は外国へ出て、西洋の情況をたしかめ、進歩した文明を吸収しようというのである。しごくもっともな考え方だが、行動に移すとなると、たいへんな危険がともなう。密出国に対して死刑の厳罰をもってのぞむ幕府の禁を犯すことになるからだ。  佐久間象山の示唆にしたがって、はじめは松陰は、漂流をよそおい、やむなく海外へ出たという�漂流密航策�をとろうとした。だがこのたびは、ペリーに直訴して、その軍艦に乗りこむつもりだった。松陰と行を共にしたのが金子重之助である。  重之助は、萩の商人の子で、郷里を出奔し、江戸へ出てきていた。ひところ酒色におぼれ、身を持ちくずした重之助は、更生して学問に打ちこみ、長州藩邸の足軽として働くかたわら、鳥山新三郎の塾に通っていた。そこで松陰に会い、心酔して門弟となった。浪人した松陰にとっては最初の弟子である。  条約調印から二日後の三月五日、松陰は来原良蔵、宮部鼎蔵らを招いて一席設け、計画を打ちあけた。別れの宴のつもりでもあったのだろう。来原たちは、松陰の壮挙に賛成したものの、さすがにこの冒険に加わるとは言わなかった。  小五郎は練兵館の用事にかまけて欠席したが、あとで良蔵から松陰の計画を教えられ、やはりおどろいた。目的は理解できる。しかし良蔵らと同様、仮に同行を求められたとしても、断わる以外になかっただろう。 (無茶なことをする)  正直なところ、そんな感想が先に立った。しかし、思いこむと、ただちにそれを実行しようとする松陰の行動力がうらやましくもあった。 「とても成功はおぼつかぬ」  と良蔵が言った。 「では、なぜ引き止めなかったのです」  小五郎は、どうもこの男に好感がもてない。 「それは、寅次郎の決意がかたいからだ」  良蔵は、松陰の門弟ではないから、当然だともいえるが、寅次郎と呼び捨てるあたりには、多少わざとらしさが感じられる。 「吉田先生が、ペリーの軍艦に行くためには、船が必要でしょう。私がつごうしてさしあげると、お伝え下さい」  思わずそんなことを、小五郎は言ってしまった。 「ほう、君にそれができるのかね」  良蔵が、露骨に、意外だという表情をした。  良蔵が意外な顔をしたのは、桂小五郎という男が、危険な行動に荷担できるような人物ではないと思っていたからであろう。良蔵だけでなく、多くの人々が、小五郎をそんな目で見ていることもたしかだった。  神道無念流の免許皆伝をうけ、練兵館の塾頭までつとめている侍にしては、あまり武張った印象が小五郎にはない。持前の端正な風貌と、やわらかい物腰が、剣客としての彼の輪郭をぼかしているともいえた。 「練兵館の新しい塾頭は、まるで役人みたいだ」などと、いわれたこともある。しかし、それは道場で小五郎と立合った経験のない者の一面的な見方でしかないだろう。  小五郎が、面具でその秀麗な顔を覆い、袴の|股立《ももだ》ちをとって、ひとたび竹刀を構えるとき、獰猛ともいうべき荒々しい気魄が、全身からたちのぼるのは、不思議なくらいだった。小五郎のどこかに、剛直なものがひそんでいる。それが、撃剣のときだけでなく、なにかの場面で、不意にあらわれるのを、人はまだ気づいていないのだ。  松陰のために船を心配しようと言い出したときの彼は、いわばその状態にあった。松陰がそれを望んでいたら、おそらく相当な困難を押して、整えてやったにちがいないのである。  ところが、松陰は、拒絶した。万一の場合、諸友に迷惑をかけたくない、すべては重之助と二人だけの力でやりたいという。松陰らしい潔癖な考え方だが、あっさり断わられてみると、何だか傍観者の気休めに似た申し出をピシャリとはねつけるようなきびしい姿勢が、小五郎には感じられないでもなかった。良蔵が言うように、冷静に見れば、松陰がやろうとしていることは、成功の可能性きわめてうすい暴挙である。ペリーがそう気易く密航者を拾って、アメリカヘ連れ帰るはずがないのだ。  とにかく松陰は、金子重之助を伴って、江戸を発った。その二人の冒険者が、黒船に投ずる機会をうかがいながら、下田港の周辺をうろついているころ、小五郎は藩邸へ呼び出された。相州警備の一員に加えるという命令だった。来原良蔵と一緒である。気のすすまない相手だが、妹のハルと結婚することが決まっている男だと思えば、不興な顔をしてばかりもいられない。  小五郎たちが江戸を出発して、三浦半島にむかったのは、安政元年三月二十七日である。その夜、松陰と重之助が、柿崎の海岸で盗んだ小舟で、まずミシシッピー号に近づき、さらにぺリーの乗艦ポーハタン号へ乗りつけ、そして追い返されるという失敗を演じたことを、むろん小五郎は知るよしもない。  二十九日、小五郎と良蔵は、宮田の長州藩警衛陣地に着いた。宮田は、浦賀と三崎の中間に位置し、藩の精鋭ともいうべき先鋒隊百三十人ばかりが屯営している。そこから相模湾をへだてた伊豆半島の突端、下田の沖で発生した松陰たちの、いわゆる踏海事件が小五郎の耳に入るまでには、かなりの日数がかかった。  四月十五日になって、松陰と重之助は、江戸へ送られ、伝馬町の牢に入る。  予想していたこととはいえ、小五郎たちがひどい衝撃をうけたのは当然だが、もっと狼狽したのは、藩邸の重臣連である。幕府の禁忌にふれる重罪人を出したのは、長州藩にとってこれが最初だった。松陰が浪人であり、重之助が脱走した足軽であるとしても、幕府の怒りが、藩に及んでくることを避けられないと、彼らは怖れた。  松陰の行動を援けた者の詮索が、内々で進められ、宮田の陣地にいる桂小五郎、来原良蔵らのところにも直目付配下の藩士が取り調べにやってきた。知らぬ存ぜぬで一応は追及をのがれた。入れ違いに、牢内から出した松陰の手紙が、小五郎のもとに届く。百姓牢に投げこまれた重之助が発病して苦しんでいる、牢役人に賄賂を贈って特別の取り扱いを頼みたい、また自分も牢名主に渡す金が必要なので工面してもらいたいというのだった。  小五郎は、松陰の手紙を良蔵に見せた。 「寅のやつ、世話をやかせおる」  と良蔵が言う。小五郎も、このときばかりは、苦笑しながら、彼と同じ感想をもった。しかし、船を用意しようという小五郎の申し出は、諸友に迷惑をかけたくないと断わっている。  人に依頼すべき事項と、そうでないことを、ちゃんとわきまえてはいるのだ。頼んでよいだろうと思えば、まことに率直に、遠慮なく寄りかかってくる。じっさいには頼むことのほうが、多かったのである。自由を束縛されてからの松陰は、ほとんど何もかも人の手をかりようとした。後年、萩の獄中にいて、あれほど活発な言動ができたのも、要するに周囲の者が、かなり忠実に松陰の指示に従ったからである。──  牢内で賄賂に使う金がないという松陰のために、小五郎と良蔵は、持ちあわせの金をはたき、藩邸にいる土屋矢之助に送った。矢之助はじめ何人かがそれに足して、松陰の手もとに届けた。松陰は、藩邸の白井小助にも、同時に金の工面を頼んでいる。伝馬町の牢で、例によって思いつめた顔をし、瘠せた肩を突きあげて正座しているであろう松陰の姿を想像すると、小五郎の胸は、わずかに痛んだ。未遂だから、まさか死罪になることはあるまいが、軽い罰で済むとも思えなかった。 (あの人は、また転落して行くのか)  と小五郎は思う。友人との約束を守るために脱藩して東北への旅に出かけ、士籍を削られた松陰である。こんどは国禁を犯し、失敗して幕府の捕われ人になっている。  東北旅行の脱藩では藩主慶親の温情もあって、父杉百合之助の|育《はぐくみ》ということになっていた。  いつかは復権できるだけの余裕がのこされていたのに、このたびのことで、決定的にその期待が遠のいてしまった。兵学師範として、栄達を約束された輝くような座から、みずからすべり落ちていく松陰の生きざまが、小五郎には、やはり不可解だった。しかし、封建家臣の身分などまるで問題にもしていない松陰という人物への、ひそかな畏敬の念も抱きはじめている。  松陰の伝馬町での牢ぐらしは、およそ半年間におよんだ。痛々しい視線に見守られながらも、松陰自身は、意外に元気である。牢名主への賄賂のおかげで、牢内でも優遇されており、そこで囚人を相手に論語などの手ほどきもやりながら、結構楽しんでいるふうにも見える。  牢の生活を克明に記録して、獄中ルポともいうべき文章を、やがて『回顧録』につづっている。  ……しばらくして、鍵役が「|揚屋《あがりや》!」と言った。 「おお」と中から応答する者がいる。 「北町奉行所の御掛りで、松平なにがしの家来、杉なにがしの厄介吉田寅次郎、年二十五歳」 「おお」 「この囚人は御掛りより手当のことを申し送って来ておるので、厚く手当をしてやれ」 「おお」  戸前を開いて獄内に入れられると、そこは板の間になっている。新入りは、この板の間に伏せさせられるのが慣例である。私(松陰)が着物を頭にかぶっていると、牢名主がキメ板をとってそばに立ち、それで私の背中をたたくと、ひと声高く「御掛りはどなたか」とたずねた。 「井戸対馬守殿であります」 「御取り調べの筋は何だ」 「メリケンの船に乗って海外に出かけ、五大州を周遊しようとしたが、発覚して捕えられました」 「よく聞け、日本一の三奉行入り込みの東口揚屋とはここのことだ。命の|蔓《つる》としてお前は何百両持ってきた」 「私は下田で捕えられた者であり、所持品は全部召し上げられたので一文も身につけておりません」  すると、牢名主は、ひどく怒って叫んだものだ。 「奉行には慈悲心があるかもしれねえが、この牢内で慈悲がなければ、お前の命はどうなるか分りはしねえ! お前は、わが身が可愛くねえのかい」 「そう言われてもどうしようもない。また私はいずれ死罪になることはわかっているから、いまさら死ぬことなど怖しくはないですよ」 「(急に語調をやわらげて)お前には友人知人、また親戚の者で手紙を出せば金を送ってくれる者はいねえのか」 「むつかしいとは思うが、いないわけでもありません」 「では明日にでもすぐ手紙を出すがいい」  と言って牢名主は、キメ板で背中をまた二つ打ちすえて、やっと初日のしきたりを終った。  重之助はいったん無宿牢に入れられたが、翌朝早く百姓牢に移された。その辛苦のほどは筆舌に尽しがたいものである。彼はやがて長州に護送され、私に先立って獄死してしまった。重之助の薄幸な生涯は、人の心を打ち、恨みをもって私たちを嘆かせるのだ。  私は、翌日白井小助に金の工面を頼む手紙を書いた。白井がさっそく金を届けてくれたおかげで、牢内ではまず「御客」となり、つづいて「若隠居」「仮座隠居」「二番役」と昇格し、ついに「添役」にまでなることができた……。  牢につながれた松陰と重之助、それに連座して同じく投獄された佐久間象山をはじめ関係者一同に幕府の裁断が下ったのは九月十八日だった。  まず松陰・重之助・象山の三人は、それぞれ藩で蟄居、鳥山新三郎は、脱藩人の重之助を止宿させた罪で|押込《おしこみ》、事情を知らず松陰らの便宜をはかろうとした浦賀奉行組同心・吉村一郎は押込、神奈川の百姓三郎兵衛は|手鎖《てぐさり》に処せられた。  松陰に対する幕府裁決書をみると、取り調べの役人は好意的な態度であり、海外の「事情探索」に意欲を燃やす松陰に、なかば共感しているようなふしもうかがえる。事実、松陰に十分意見を述べさせ、それに耳を傾けたのである。このときの経験で、彼は評定所の取り調べが、意見開陳の機会でもあると思いこんだのであろう。のちの安政六年、再び呼び出されたさいの松陰の誤算はそこにあったようだ。  いずれにしても、思ったより軽い判決だった。ところが、長州藩の側になると、大公儀お咎めの重罪人を藩から出したということで大騒ぎしている。「下田表の一条、まことに存じ寄らざる|儀出来《しゆつたい》さてさて|苦々《にがにが》しき事に御座候」と、桂小五郎、来原良蔵、白井小助ら松陰と親交のある藩士を監視するように指示する萩の藩政府役人の手紙が江戸へ送られてきた。  小五郎や良蔵は、相州警備の陣地にいたので、いくらかは風当りを避けることもできたが、藩邸にいた白井小助らは、かなりいじめられたりもした。  松陰と重之助が、萩へ護送されたことを、小五郎は宮田の陣地で聞いた。九月末だが、この年は七月が|閏《うるう》だったから、新暦になおすとすでに初冬である。  八月の下旬にはイギリスの軍艦四隻が長崎に来航して、開港をせまった。アメリカとの条約を交わしている幕府は、これを拒絶できない。またロシヤのプチャーチンも長崎から回航して、十一月はじめには下田沖に軍艦をうかべ通商を要求してきた。ペリーによって突破口をひらいた欧米列強は、次々と触手をのばしてくるのだった。  十一月四日の夜、小五郎は、異常な大地の揺れに、目をさました。東海大地震である。この海底地震は、間もなく巻きおこった津波の被害が大きい。小五郎らがいる三浦半島はそれほどでもなかったが、伊豆がひどく、下田では流失家屋八千三百戸、流死者三千人を出した。下田沖にいたロシヤ艦は、このために大破している。  翌安政二年の江戸大震災を予告する地震だった。それはまた血しぶきの飛ぶ大獄の不吉な前ぶれでもあった。   大船建造  安政元年九月、江戸詰めの典医として桜田藩邸に出仕していた小五郎の義兄和田文譲が、思いがけぬ発病で急死してしまった。  相州警備に配属されている小五郎は、その直前にたった一度、たまたま藩邸に帰ったとき、文譲に会い、廊下で立話をした程度で、いずれ一杯やりましょうなどと別れた矢先の訃報である。  二十三歳のきょうまで彼が家族の死にあうのは、これで七人目であった。父の昌景をのぞいて、みんな若死である。次々に死者を送り出す和田家の暗い空気に打ち沈んだ数年前の記憶が、ふっと小五郎の胸をかすめた。 (次は、私の番ではあるまいか)  ちょうど腸をこわして、体力がひどく衰えているせいか、そんな思いが走る。  萩の和田家に遺された文譲の後妻や子供たち、小五郎の妹ハルが、心細げにしている様子を想像すると、やはり帰省しないわけにはいかなかった。 「アタシ事モ、|鳥渡《ちよつと》帰リタク候得共、シンテイニハマカシ申サズ候得共、来年中ニハ鳥渡帰リタク存ジ参ラセ候……」  と、ハルに手紙を送った。やや乱れた文面に、烏渡、鳥渡と連発して、心急ぎながら、任地を離れられない小五郎の、いらだつ気持があらわれている。  そうこうしているうちに、十一月の東海地震である。伊豆の下田沖で、プチャーチンの乗艦が、津波のため、岸近くに座礁、大破した。黒船を間近に見られるのは今だとばかり、小五郎は許しを得て、相州の陣地から、災害のあともなまなましい下田へ駆けつけた。  ロシヤ艦の見取図をつくり、付近に上陸していた乗組員から搭載した砲の名称を聞き出して書きこんだりしている。以前、藩に提出した上書に、軍艦建造の必要を力説していた小五郎が、下田にロシヤ艦を見に行ったということは、やがて藩邸にも伝わったらしく「軍艦製造について、くわしい意見を具申せよ」という藩主慶親の命令が、間もなく手もとに届いた。  小五郎は、また忙しくなる。江戸へ出て練兵館に立ち寄り、斎藤弥九郎に相談したが、軍艦の建造となると、ほとんど無知にひとしい。江川太郎左衛門だって、それはむりだろうという。困惑した顔で桜田藩邸へ行くと、江戸在府期間を終った藩主の帰国を翌日にひかえて、大勢の藩士が騒々しく立ち働いているところだった。 「きょう、あすというわけにもいくまい。調べて、藩公が来年江戸へ出府された折に上書すればよかろう」  と、行相府の周布政之助が言ってくれた。  翌朝、行列を見送りながら、小五郎は、ようやく帰心をそそられた。それでも、結局、彼が萩へ帰ったのは、翌安政二年四月である。黒船騒ぎの余波がゆらめく江戸の町にくらべると、萩はやはり辺地の静けさにつつまれた美しい城下町だった。  小五郎の胃腸の調子は、相変らずよくない。帰省の道中では、酒も飲まないように心がけたが、和田家に帰りつくと、ぐったりして、そのまま数日寝ついてしまった。  和田家は、文譲の子卯三郎が嗣いだ。桂家は、小五郎が独身のため、異母姉八重子の子勝三郎を養子にしている。小五郎がまだ萩にいて病弱だったころ、父の昌景が、先をあやぶんで早々と桂家の後嗣ぎを決めておいたものだ。若死の多い家の慎重な用意であった。  とにかく二年半ぶりに、自宅で手足をのばした。江戸や相州警備地での緊張した毎日に、小五郎は疲れている。のんびり明倫館に通ったあのころが、やはりなつかしかった。  どうやら体調を回復したところで、文譲なきあとの和田家について、|嫂《あによめ》と相談したり、遺産分けのことなども済ませると、やっと気持が楽になった。  登城したあくる日、松本村の吉田松陰をたずねるつもりで、外出の支度をしていると、来客の気配がした。女の声である。 「兄上様、大変!」  ハルが慌てた様子で、部屋へやってくるなり、声をひそめて言った。訪問者は、筋向いの藩士小川兵助の妻である。茶を飲みにこないか、ついては江戸や相州など、むこうの模様など聞きたいと主人が望んでいるというのである。 「めずらしいこともあるものだな」と、小五郎は笑いながら、ハルの耳もとにささやいた。「折角だからお邪魔しよう。あとでお伺いすると伝えなさい」 「お行きになるの」  ハルがいたずらっぽくしのび笑いをのこして、玄関のほうに引き返した。小五郎に似て、二重瞼の大きな目と、鼻筋の通った聡明な顔をしている。いつの間にが、まぶしいほど女らしく成長した妹を見ながら、小五郎は来原良蔵の面影を、ふと思い出した。惜しいなという気持だった。  ところで、小川兵助からの招待は、たしかに意外である。以前はほとんど言葉を交わしたこともない。禄は三百石ばかりだが、夫婦とも尊大で、近所でもあまり評判がよろしくない。娘の園江が、親に似て、お高くとまっている。一度嫁したが、夫に死別して帰ってきてからは、もっと冷たい性格になったという。  小五郎は、いつか園江を凌辱するような漢詩をひそかにつくって、あらぬ妄想にふけったことがある。それで溜飲をさげたりもしたものだった。  その小川家が、突然、何を思って接近してくるのか、あまり愉快ではなかったが、小五郎はとにかく行くことにした。文譲がいなくなった和田家は、小五郎の留守中、女子供だけになる。近所の世話になることもふえるのではないかとの配慮である。  小川家は、略式の茶室をしつらえて、小五郎を待っていた。おどろいたことに、園江が、東堂の位置に坐っている。 「園江も、このごろ大分茶道の修業を積みましてな、お城の茶会に半東で出仕することもあります。きょうはひとつ、桂殿にお点前を見ていただいたらどうかと、急に思いつきました」  兵助は、小五郎と並んで坐りながら、しきりに園江をひきたてようとする。半東は、妻のおときがつとめていた。 「私は、まったく無調法でありまして」  と、小五郎は、園江に笑いかけた。女は、それを黙殺し、ぐっと背筋をのばして、形式的な手順で茶をたてはじめた。面長の美貌ではあるが、武家の者としては、濃すぎるほどの化粧をしている。表情のない仮面だった。虚飾にみちた女の、かなしい|性《さが》が、そのしらじらしい態度に、露骨にあらわれていた。味は、当然のことながら拙かった。 「練兵館の塾頭におなりとか。大したものでござるな」  兵助が、大げさに茶をすすりあげたあとで言った。 「剣よりも、今のご時勢は、軍艦、大砲の力に頼るしかないようです。刀をふるって黒船と戦えませんからね」 「ほほう」  兵助は、うなずいて、黒船来航当時の江戸の模様などをたずねはじめた。おおまかに話してやる。それから、行くところがあるのでと、腰を浮かした。 「実はその……きょうのお茶は、園江が、ぜひ貴殿に、さしあげたいと申すので、おいで願ったのです」  帰りぎわに、兵助が、少しどもりながら、言った。園江は相変らず|強《こわ》ばった顔つきで、それでも門を出て行く小五郎に、わずかに頭をさげた。あれで好意を示しているつもりか、どこまでも高慢ちきな女だと思うが、園江を見る小五郎の目は、少し前と違ってきている。冷たくとりすました女の姿態が、妙に艶っぽく感じられるのである。 「想ヒ見ル東家相思ノ女、感春十分催シテ騒ギ興ル……」  小五郎は例の詩を思い出した。それが念力となって相手に通じたのではないかと、いっしゅんギョッとし、いつか苦笑に変っていた。兵助は、小五郎に園江を押しつけようというのではあるまいか。 「まさか……」  ひとりごちた。松本村の杉百合之助の家が近づいている。野山獄を保釈された松陰は、その実父の家に幽囚の日々をおくっていた。  そのとき松陰は、読書していた。  表むき面会は許されないので、小五郎は、勝手に裏庭へまわったことにし、そこから松陰の幽囚室にあてられた三畳の間にあがりこんだ。 「幕府の海防策は、進んでおりますか」  さっそく松陰がたずねる。 「先日、江川先生にお会いしたら、伊豆韮山に反射炉を築くとのことでした。それから、長崎に近く海軍伝習所を設けるようになったとか」 「伝習所はよいが、まだ軍艦がないでしょう」 「そのことですが……」  と、小五郎は長州藩の軍艦建造について、藩命を受けていることを話した。 「浦賀奉行支配組与力の中島三郎助が、西洋式軍艦に詳しいと聞いています。幕臣だが、今は譜代だの外様だのと言うておるときではない。それに中島は、江川太郎左衛門と同門らしい。あたってみたらどうです」  松陰は、熱心な情報収集家でもあったから、どこからかそういうことを聞きこんで憶えていたのだろう。 「僕が、あのとき下田から米艦で海外へ出ることができていれば、軍艦製造の法などすぐに調べられたのに、やはり残念です」 「いや、それでは間にあわんでしょう。外国はもう目の前に来ているのですから……。たしかに海外へ出て遠大の計をめぐらす人物も必要ですが、今ここで応急の策を立てる者もいなければならない。どうもその役目はわが長州藩が引き受けることになりそうですね」 「幕府も相州警備を押しつけるなど、長州にまるで寄りかかっている」  と松陰が眉をひそめた。 「幕府は、もうアテにはなりません」  小五郎は、しごく簡単に言ってのけ、「この狭い部屋では大変でしょう」と話題を変えた。ほの暗い室内を見まわしている。 「このごろは、親戚の者や近所の者が二、三、夜こっそりやってきます。僕が孟子を講じています。昼間は、こうしていると読書が進んで、結構楽しい」  松陰は無精ひげを生やし、頭髪もほとんど手入れしていないらしく、ひどく乱れている。いつもきちんと|身形《みなり》を整えている小五郎とは、まったく対照的だった。 「嫁をもらえば、寅次郎がおとなしくなるだろうと思うてか、それをすすめにくる者がいる。笑止千万だね。僕は三十までは独りで通すことに決めている。桂さんも、なるべくそうすることだ」  と、めずらしく松陰が笑った。小五郎はつられて笑いながら、小川兵助の家に招かれたこと、園江のことなどを話した。 「私も当分、嫁などもらわぬつもりです」 「女性は、勉学の邪魔です」  松陰が、こんどは真面目な顔で答えた。  その日、松陰は日記に、桂小五郎の来訪を書き、「一年バカリ隔テテ相対シ候処、|所謂《いわゆる》居ハ体ヲ移スモノカ、余程人物見上ゲ候物ニ成リ、小生ニ於テ何カ少シハ恐レヲナシ申シ候」と印象をつづっている。  一年間牢獄につながれている者と、第一線の現実を見てきた者との、意識のズレを、言葉の端々に松陰は感じたのかもしれない。  それは、やはりそうであった。松陰はその後、門下生たちを使って、あらゆる情報を入手し、居ながらにして天下の形勢を把握しているつもりだった。しかし、閉塞情況にある人間にとって、判断の限界はどうしようもなかったのだ。  松陰の言動は、しだいに純化されると同時に、狂気を帯び、従いて行けない門弟たちが背をむけると、錯乱におちいった。だが、松陰のその狂気は、強烈な�遺訓�となって、彼の死後に作用してくるのである。  杉家の幽囚室をおとずれたのち、次に小五郎が松陰に会ったのは三年後だった。処刑直前である。その間、松下村塾を中心とする松陰の最も充実した教師としての姿を小五郎は、ついに見ることができなかった。  小五郎が、萩を発ったのは、五月七日だった。新緑の山陽道をのぼり、二十三日に大坂へ入る。  砲術家本多為助、岡村貞一らをたずねて数日をすごしたが、また腸をこわし、ひどい下痢になやまされた。二十日近くも旅館に寝たきり、何もできなかった。  相模の陣地に帰ったのは、翌六月二十九日である。病み疲れた蒼い顔で、小五郎が営舎にたどりつくと、そこには彼の帰着を待ち構える二人の男がいた。長州藩の船大工・藤井勝之進と藤蔵である。 「桂小五郎様と相謀り、軍艦製造のことを修得せよとの藩命で、やって参りました」 「早々と来たものだね」  小五郎は、旅装も解かないまま、坐りこんで言った。軍艦製造を、藩主がよほど急いでいるらしい。ゆっくりやってよいという周布政之助の助言は、どうやら嘘になった。  大坂で患ったことを話し、すぐには動けそうにない身体の調子を、小五郎が訴えると、 「横になられたまま、お教え下さい。枕元で図引きをさせていただきます」  勝之進は、五十歳ぐらいの瘠せた男で、その息子らしい若い藤蔵は、いかにも船大工らしくたくましい体格をしている。両人とも顔や腕が赤銅色に日焼けして、精悍な感じである。  長州藩お抱えの船大工は、当時この二人だ。瀬戸内海に開いた三田尻港に住み、船舶の修理、造り立てに従事している。船大工の禄は二石四斗、士分ではないが、帯刀を黙認され、苗字も使う。 「図引き? そんなものは、後まわしだ。今の私は何も知らん」 「大船造り立ては、桂様が十分ご承知のはずだと、行相府の周布様のお言葉でございました」 「だまされたのだよ、お前さんたち」 「………」 「今から、学ぶのだ」 「こりゃ、おどろいた」  勝之進が、頓狂な声をあげた。 「幕府は、二百年以上、大船の製造を禁じてきた。黒船と同じような巨船のつくり方を、素人の私が知っちょるわけがあるまい。これから、いかにしてそれを身につけるかだ」 「教えてくれる人もいないとなると、困りましたな」 「いや、そうでもない。方法は考えているから、まかせてもらうとして、勝之進、まず船を造るときの工事の順序を、私に教えてくれぬか。知っておきたい」 「わしらが造るのは、伝馬船か、せいぜい二十人乗りの|関船《せきぶね》ですから、とても黒船みたいなものではありません。それなら北前航路の千石船の船大工にでもお習いになったがよいと存じます」 「そんな暇があるか。大小を問わず、ものごとには、基本というものがある。竜骨の組み立てくらいは知っておかんことには話にならんだろう。教えろ」  小五郎は、二、三日休養をとりたかったのである。気負いたって、すぐにでも活動を始めたい勝之進をなだめるには、それしかない。その日から二日がかりで、勝之進は、小型船の図引きから、詳しい造船の工程を小五郎に教えた。  寛永年間、幕府は鎖国令をしくと同時に、日本人の海外渡航を阻止するため大船の建造を禁じた。とくに大名について、きびしくそれを監視した。その後、先覚者によって何度か解禁が幕府に建議されたが、この禁制はかたく守られたままだった。しかし黒船来航を契機に、大船建造の必要を唱える声は急に高まり、ついに嘉永六年九月、幕府は二百年来の禁を解いた。これによって、幕府はもとより、各藩とも一斉に洋式軍艦の建造にとりかかった。だが、長い間の禁令で、造船技術をもたない日本人は、許されたからといって、おいそれと大型の船がつくれるわけでもなかったのである。独創的な大船の試作にとりかかる藩もあれば、他藩の軍艦建造工事の中に、藩士を船大工に仕立ててまぎれこませ、技術を盗ませようとすることもあった。肥前藩などがその口である。  ところで小五郎は、幕府の軍艦建造技術を盗むつもりだった。 「浦賀に行くぞ」  小五郎は、どうやら体調をとりもどした七月のはじめ、船大工の藤井勝之進と藤蔵に言った。 「浦賀に黒船でも?」 「いや、奉行所の役人に会いに行くのだ」 「幕府の役人ですかい」  |怪訝《けげん》な顔の二人をつれて、小五郎は浦賀の町に出た。浦賀は現在、横須賀市内にふくまれ、市の東部に位置している。小五郎たちのいる宮田の陣営は、浦賀水道にのぞんで広い湾になった海岸線の中央部にある。宮田から東に十キロ足らず行ったところが浦賀の町である。  黒船来航いらい、浦賀は、一躍有名になった。もともとは源頼朝の挙兵を助けた三浦党の海の根拠地として知られていた。三浦氏は北条早雲に滅ぼされたが、要衝としての浦賀はそのまま発展していった。  江戸時代中期から、幕府は奉行所を下田から浦賀に移し、江戸湾入ロ警備のかなめとした。回船問屋も集まり、防衛と物資流通の拠点となったのである。だから、長州藩の陣営は、浦賀にも当然おかれている。  相州警備を、彦根藩がやっていたころは、浦賀の料亭など大いに繁盛したものだ。それが長州藩に代わってから、さっぱりいけなくなった。長州藩は、徹底した節約を命じ、料亭で酒を飲んで騒ぐなどということは、きびしく禁止した。陣営では朝から撃剣の稽古を始めるなど、質実な日程を藩兵に押しつけている。  藩兵たちに稽古をつけてやるのも小五郎の仕事だったのである。大っぴらには酒も飲めない、うんざりするような毎日だから、軍艦建造の調査で、そんな生活から脱け出せるのを、内心ありがたいとは思っていた。  小五郎は、その日の夕刻、浦賀奉行支配組与力の中島三郎助の役宅をたずねた。彼のところへ行けと教えてくれたのは、吉田松陰である。  三郎助は、蘭学を修め、砲術、軍艦操縦法を学んでいる。ペリー来航のとき、沈着な応接ぶりで幕府の信任を得た。ついでだが、三郎助はその後軍艦操練所教授となる。そして明治二年、榎本武揚らと北海道の五稜郭にたてこもり、官軍に抵抗した。武揚は降伏したが、三郎助は、官軍の銃列をめがけて突進し、撃ち殺された。幕臣としての気骨ある生涯だった。──  小五郎が、三郎助をたずねる目的は、前年、浦賀で幕府の大型軍艦|鳳凰《ほうおう》丸が建造されたときの情況を聞くことだった。三郎助は、浦賀奉行として、また軍艦操縦の専門家として鳳凰丸建造にかかわっているはずである。できればその設計図なども手に入れたいと思っていた。  小五郎は、門の外に勝之進と藤蔵を待たせておき、ひとりで屋敷に入った。ガランとしてまるで人の気配がない。玄関横に、|銅鑼《どら》が吊り下げてある。たたけというのだろう、先を布で巻いた|桴《ばち》も一緒に吊してあった。静かに歩みよると、小五郎は、はじめ弱く一つたたき、音色をたしかめてから、やや強めに一回だけ打ち鳴らした。空気の微動するのが、たいそう快く感じられた。しばらく待っていると、奥から、長身の侍が、むすっとした顔であらわれた。 「中島だ、何用かな」  と言った。三郎助である。かれは三十五歳だった。頬骨の張った面長で、キュッとひきむすんだロのあたりに、ただならぬ気魄をうかべている。その年一月、江川太郎左衛門が急病で死んだので、紹介状がもらえない、いきなりやってきた非礼をお許し願いたいと小五郎は、丁重にあいさつした。 「貴公が、桂小五郎……名は聞いている」  三郎助は笑って答えた。 「尋常な打ち方ではないと思った」と銅鑼をゆびさし、「自宅ではあまり人に会わんことにしている。この鳴りよう次第で会う会わぬを決める」と、また笑った。  小五郎が、手短かに来訪の目的を告げると、 「まあ、あがりなさい」  と、意外に気さくな応対だった。 「実は、長州からきた船大工を二人、外に待たせております」 「一諸につれてきたらよかろう」  三郎助は、さっさと奥へ行ってしまう。家の内部は、さして広くもないようだった。町奉行配下の与力は百石、別に役料三十石というのが普通だ。同心よりも位が上だが、どっちにしても幕府機構のなかでは、下級武士扱いされている。  廊下を突きあたった右の八畳間が、三郎助の書斎で、うず高く書籍類が積みあげられ、洋書もかなりまじっている。ひどく乱雑な部屋だ。 「桂さん、鳳凰丸は、ダメです。あんな船は、役にたちませんよ。とても軍艦に仕立てるようなしろものではない。図体が大きいばかりだ」  小五郎たちが坐るなり、三郎助は、大声で言った。 「とにかく大きい船を製造せよといわれて、石川島と浦賀の船大工が競争してつくったのが、朝日丸と鳳凰丸です。朝日は水戸侯、鳳凰が幕府、それで張りあったのだろう。ばかげている」 「大金をかけたのでしょうね」 「金もかけたが、人間もかり出された。このあたりの者は、何と言ったと思う? 厄介丸、そう厄介丸と呼ばれながら、よたよたの船が出来あがった」 「先生に相談はなかったのですか」 「奉行所の与力ふぜいが、軍艦のことなど知ってはいまいと、お偉方は思ったのだね。まあ大船をつくるという意欲は大事だ。いずれにしても、今は西洋の造船を真似る以外に手はないのだ」 「さりとて、西洋に行くわけにも参りません」 「吉田寅次郎のようにな」と、ひとしきり笑って「あのときはおどろいたねえ。外国のことを習いたいと思えば、すぐ外国へ行こうとする。長州人はどうして、一足とびにものごとを行動に結びつけるのか……桂さん、本という便利なものがある。船もそれでつくればよいのです」 「その、軍艦製造の本がありますか」 「ここにある」  と、三郎助が、一冊の分厚い洋書を、突き出した。オランダ語らしい。 「今、この翻訳をこころみている」 「教えていただけましょうか」  小五郎は、思わず身体を乗りだした。 「私は、幕臣だから、許しもなく長州藩士に教えてよいのかな」  と、三郎助は言ったが、笑っているから、冗談のつもりだろう。 「国を守るのに、長州も幕府もない、そう思いたいのです」  小五郎は、まじめな顔で言った。 「幕府も長州もない、か。まあよいだろう。私的な関係ということで、一緒に研究しよう」 「恐縮であります」 「まあ、そうかたくならずに」  と言って三郎助は、勝之進たちに向きなおった。 「そこの船大工のお二人には、浦賀の船大工棟梁で勘右衛門という者を紹介してやろう。勘右衛門は、鳳凰丸をつくった男だ。これまでにない大きな船を組み立てた経験だけは貴重といえる。一応は聞いておく必要がある。現場は理屈だけではないからね」  そこにあった地球儀を、めずらしそうにながめていた勝之進と藤蔵は、あわてて、かしこまった。 「いずれは、世界のどこの海にも走って行ける船を、お前さんたちの手でつくるのだ」  言われて、勝之進がペコリと合点した。 「|妻《さい》が病気で伏せているので、何のおかまいもできない。よければ、明日からでも、おいでなさい。貴公、宿舎は?」 「まだ決めておりません」 「桂さん一人なら、この屋敷の隅に、空き部屋がひとつある。少々臭いところだが、よかったらお使いなさい」  それは二階建ての古い|中間《ちゆうげん》部屋で、倉庫になっている。下には魚を塩潰けにした樽が並んでおり、上に二畳半のタタミ敷きがある。なるほど臭い。  小五郎が、その臭い部屋に寝泊りして、いわば三郎助の内弟子となった期間は、およそ一カ月である。  安政二年八月の中ごろ、三郎助は長崎へ行くことになった。オランダ人について、汽船の操縦、航海術、砲術などを修得せよとの幕命だった。 「いつまでも奉行所の下働きをしているよりはましだから、私はよろこんで長崎へ行くが、桂さんはどうする。造船術は途中になってしまったね」 「一緒に、長崎へ出るというわけにはいかぬかと考えております」 「勝之進もか」 「藤蔵は、ひとまず長州へ帰らせますが、勝之進にはもっと学ばせたい。船をつくるのは、かれらですから……」 「それはそうだが……えらいことになったな」  と、三郎助は、腕を組んだが、別に迷惑そうでもなかった。ついてくるのは、勝手だと思っているふうでもある。  小五郎が、江戸藩邸に行き、そのことについて願書を出したのは、八月十一日だった。 「中島三郎助が長崎へ行くのは、オランダより献上してきた蒸気船の取り扱い方を修得するためで、かの地より航海術、造船などの巧者がやってきているとのことであり、ぜひ同行して勉強したい」  藩は許可を与えている。  長崎に幕府の海軍伝習所が開設されたのは二カ月後の十月であった。オランダから軍艦(日本名は観光丸)を贈られたのを機会に、勝海舟・榎本武揚・中島三郎助ら幕臣や薩摩藩の五代才助、佐賀藩の佐野常民ら諸藩士も集まって、オランダ士官に学んだ。長州藩からは松島剛蔵・福原清助らが参加し、船匠の藤井勝之進も造船術を習った。もっともこの伝習所は、はじめオランダ士官が、ペラペラ自国語でしゃべるばかりで、さっぱりわからないという不満もあり、やめて行く者もいたらしい。  ところで、藩の許しを得て、中島三郎助と長崎へ行ったはずの桂小五郎が、この海軍伝習所に入っていないのである。実は、出発するころになって、小五郎はまた腸をこわした。三郎助のところで、異臭のただよう二畳半の部屋に起居した一カ月ばかりの不摂生がたたったのであろう。  そのまま宮田の陣営で静養しているうちに、体調も回復したので、三郎助のあとを追って長崎へ行くかどうかを考えながら、十月を迎えようとしていた。  間もなく藩主が参勤交代で、江戸へ出てくる。命ぜられた軍艦建造の調査は、何もかもが中途半端になってしまっている。どう報告したものかと、なやんでいるとき、地震に襲われた。  安政二年の関東大地震は、十月一日の夜から始まった。前年の地震ではそれほどでもなかった江戸が、こんどはひどくやられた。  参勤交代を、|中山道《なかせんどう》を通ってきた長州藩主毛利慶親は、江戸入り直前の宿場|蕨《わらび》駅に到着した夜、最初の地震に出くわした。同じ時間、小五郎は、宮田の陣営で、無気味な大地の鳴動を感じた。 「揺れもどしがあるぞ。みんな外へ出よう」と小五郎は言ったが、それに従ったのは少数の者だけである。小五郎は、津波をおそれていた。下田で見た惨禍のあとを思い出し、付近の山への避難を考えながら、海の見える戸外で夜を明かした。  二日の朝が激震だった。ガクンと凶暴な上下動が一回、すわっていた地面から身体が宙に浮くほどの衝撃だった。安普請の陣屋は、もろくも倒壊し、中にいた者は押しつぶされた。  津波はおこらなかったが、相州警備の長州兵からは、この地震で七十人余の死傷者が出た。黒船との戦いもなく、|無聊《ぶりよう》をかこっていた彼らに、突然襲ってきた異変である。余震がつづくうちにも、負傷者を救出し応急手当をほどこした。午後、海岸で死体を|荼毘《だび》に付しているところに、江戸の惨状を告げる第一報が入ってきた。  規模としては、前年の東海地震のほうが大きいが、この安政二年の場合は、震源地が、遠州灘、土佐沖、江戸川下流とされ、密集地の江戸に最大の被害をおよぼした。圧死、火災による焼死者は、公表されただけで七千人にのぼった。実数は一万を越えただろうという。  小五郎が、呼び出されて相州から江戸へ入ったのは、十月十日で、まだあちこちの廃墟から煙が立ちのぼっているころだ。  桜田の藩邸は、建物が倒壊したので、藩主は比較的被害の少ない麻布の下屋敷に人っていた。江戸の町の治安が乱れている。小五郎は藩邸の警備を命じられ十日ばかり、下屋敷に泊まった。小五郎が呼び出されたのは、そのためではなく別の用務が待っていたのだが、まだ何も知らされていなかった。  練兵館のことも気になるので、非番の時間を利用して九段へ行ってみると、門弟たちが道場の復旧作業をやっていた。 「心配していたが、無事でよかった」  斎藤新太郎が、明るい声で小五郎を迎えた。 「大先生は、どうしておられますか」 「それが、えらく気落ちして、われわれも気づかっているのです」 「何があったのです」 「藤田東湖先生が亡くなられた」  江戸本所にいた東湖は、二日の地震のとき圧死したのだという。朱子学的名分論でつらぬかれた尊王攘夷論をとなえ、思想家として当時の政情に影響を深めつつあった東湖の死を惜しむ声は強い。神道無念流の岡田十松について、共に剣をみがいた藤田束湖との長年の交遊を、突然の災厄によって断たれた弥九郎の嘆きは、精神の支柱を失った者の虚脱とも重なった。  彼は、その年の一月にも、大切な人を失っている。江川太郎左衛門の病死である。二人の畏友と死別した弥九郎の落胆ぶりは、はた目にも痛々しかった。小五郎は、なぐさめる言葉もないまま、弥九郎に短い口上を述べただけで、再び藩邸に引き返した。  江戸の治安が乱れたというだけではない。もっと気がかりなことといえば「こんなとき黒船がやってきて無理難題を吹きかけてくるような事態とならないか」といった不安である。多少は神経過敏に、海防論が高まったとしても当然だったろう。  十一月十七日、萩から|小船頭《こせんどう》の組頭尾崎小右衛門が、江戸に出てきた。小五郎の用務は、小右衛門の出府と関係がある。  長州藩の小船頭は、十六人いる。操船技術者で、船大工たちと共に三田尻に住んでいるが、その組頭は船大工の棟梁もつとめ、禄高三十九石をもらっていた。小右衛門は、長崎へ行っている藤井勝之進の上役ということになる。  小五郎と小右衛門は、協力して軍艦建造を、一日も早く実現させよという厳命である。藩主が異常なほど軍艦に執着していることを、小五郎はあらためて知り、いささか当惑してしまった。  斎藤弥九郎に相談した。 「伊豆君沢郡に高崎伝蔵という船大工がいる。彼が大船をつくっているということを、先日聞いたが、行ってみたらどうか。伝蔵は江川殿のところへも出入りしていたので、一応の面識がある。紹介してあげよう」 「和船でございましょうか」  と、小五郎はたずねた。幕府の鳳凰丸の件で、見込みちがいした経験もあり、和船ならどうしようもないと思ったのだ。 「くわしい話は知らんが、洋式船ではないかと思う。こんなことなら、江川殿にもっとたずねておくのだったな」  伊豆のいなかにいる船大工が、西洋式の大船をどのようにして建造できるのか、ふしぎだった。 「とにかく行ってみることだ」  弥九郎は、東湖が死んだ直後の脱力感から、すでに立ちなおっているようにみえた。 「桂君、私は隠居することにした。新太郎に二代目弥九郎を継がせる。しかし塾頭はあくまでも桂君だから、何かと忙しいだろうが、今後ともよろしく頼む」  それだけ聞いて、小五郎は、心急ぐままに、すぐ尾崎小右衛門をつれ、伊豆へむかった。  高崎伝蔵は、たしかに洋式軍艦を建造していたのだ。  前の年の安政元年十一月、東海地震のとき、下田沖で津波のためロシヤ艦ジャナ号が座礁、大破して使いものにならなくなった。プチャーチンの乗艦である。  地震の直後、小五郎は現地にそれを見に行きながら、代船建造の計画までは知らなかった。  プチャーチンは、幕府の許しを得て、伊豆君沢郡戸田浦に新しく造船所をつくった。本格的な軍艦はむりだが、彼はそこでスクーネル型洋式帆船を五、六隻建造して、三百人の乗組員をロシヤに帰還させるつもりだった。西洋造船術を修得できる機会到来というので、幕府はお抱えの船匠をこの工事に派遣し、戸田浦に住む船大エたちを動員して、プチャーチンに協力させた。  高崎伝蔵は、幕府の海防掛本多越中守の家来である。早くから戸田浦での造船にあたっており、こんどのロシヤ艦建造では船大工の棟梁として活躍した。  戸田浦での第一船は、安政二年三月に進水し、「シコナ号」と命名された。しかし、プチャーチン自身は、完成を待ちきれず、その一カ月前に百五十人の士官たちと共にアメリカの商船に便乗して帰国している。残りの百人がシコナ号に乗ってロシヤに帰り、それに乗れなかった五十人も、やはりアメリカの便船に乗って、六月までには全員が日本から引き揚げた。  戸田浦には、建造中の船が未完成のまま残された。工事を指導したロシヤ人は帰ってしまったが、高崎伝蔵らは、すでに造船技術を自分のものにしていたので、幕府は、工事の続行を命じたのである。  桂小五郎が、長州藩の小船頭尾崎小右衛門をつれて、戸田浦に行ったのは、安政二年の暮れも押しせまった十二月二十日すぎであった。  伝蔵をたずねて、斎藤弥九郎に書いてもらった紹介状を示すと、 「練兵館の塾頭をつとめておられますか」  伝蔵は、まず小五郎の剣の腕に関心を示した。「私も、若いころ練兵館に入って修業しようと思ったこともあります」と、ひとしきりそんな話になる。 (刀を振りまわして世を渡るときではないが、剣名をとどろかせ、剣を通じて重要な人物とまじわり、剣術以上の仕事もできる……)と言った弥九郎の言葉が、今さらのように、小五郎の胸にひびいてきた。 「軍艦をつくりたいのです」  小五郎は、小右衛門と戸田へやってきた目的を話した。 「もう大方できあがっていますよ。お見せしましょう」  伝蔵は、翌日、小五郎らを造船所に案内したが、それは、小五郎が想像していたより、はるかに大規模なものだった。幕府は、自前の軍艦建造を思い立つと同時に、船台をふやした。すでに六隻目が進水しようとしているところである。 「一隻が完成するまで何日かかりますか」  と小五郎がたずねる。 「百日です」 「使う用材は、どれほどになりましょうや」  こんどは小右衛門が、ひどく格式張って質問した。 「松材周囲八尺以上、一丈三尺まで、長さ十間から十三間のもの五本……」  伝蔵は、暗誦するように、用材の寸法、数量を、よどみなく答える。小右衛門があわてて矢立を取り出し、問い返しながらそれを筆記した。 (もっと早く知っておれば……)  と小五郎は、悔やんだ。この造船工事に、藩の船大工をもぐりこませればよかったのだ。萩へ帰省したりして時間をつぶしているうちにも、戸田浦では、次々と軍艦が進水していたのかと思うと、今さらのように、いらだちを覚えるのである。 「高崎さん、長州へ船をつくりに来ていただけませんか」  いきなり小五郎が言った。 「長州ですか」伝蔵は、いっしゅんおどろいたという顔で、小五郎を見たが、すぐに笑って「年が明けたら、この船に乗って江戸へ出ます。そこでまたお目にかかりましょう」と、そんな返事をした。  スクーネル(スクーナー)型というのは、二本ないし四本のマストをもつ縦帆装置の西洋式帆船で、わが国では「君沢型」とも呼ばれる。ロシヤ人の指導で、高崎伝蔵らが、伊豆君沢郡で、はじめて建造した船だからである。これがわが国における洋式帆船の典型となったのだ。  帆走式の軍艦が、当時なかったわけではない。最初ペリーがひきいてきた四隻の黒船のうち二隻は、帆走式だった。しかし世界の大勢は、すでに蒸気機関を備えた機帆船に移行しつつあるときで、スクーネル型は、いわば時代おくれのものである。  そうはいっても、大船を持たなかった日本人にとっては、この五十トン足らずの洋式帆船が、数門の大砲を積んでいれば、やはりたくましい軍艦には見えたのである。しかも、六隻という数をそろえて、安政三年の正月早々、江戸湾に姿をあらわしたときは、黒船再来とばかり人々をおどろかせた。幕府は、大名にさきがけて艦隊を保有したことを誇示するように、その�偉容�を品川港に並べ、気前よく見学も許した。各藩から押しかけたのはいうまでもない。この造船技術を伝授願いたいと、さっそく幕府に申し入れる大名も多かった。  六隻が品川へ入ることを、桂小五郎の報告で、早くから知っていた長州藩では、藩主慶親みずから品川へ出かけている。 「高崎伝蔵なる者を即刻藩邸へつれて参れ」  小五郎は、そう命令されて、すぐ練兵館へ走り、斎藤弥九郎に頼みこんだ。弥九郎から伝蔵を口説かせ、強引に彼を麻布の藩邸に案内したのは、入港した翌日の昼すぎだった。 「桂小五郎からも、かねて依頼しておる通り、わが藩の軍艦製造に、そちの力をかりたい。他藩からの誘いもあるであろうが、相州警備にあずかる長州を優先するについて、公儀も異論はないはずである」  藩主直々の言葉に、伝蔵はひどく恐縮して、大柄なからだをもてあますように、かしこまっていたが、主人本多越中守の許可がなければ、独断で決めかねることだけは、ちゃんと答えた。 「そのことなら、心配ない」  慶親は、いやに自信たっぷりだ。相州警備で、幕府から槍三本を許されたという誇りがましさが、満面にあらわれている。ふつう大名の行列では、槍二本と制限されている。三本が立てられるのは、徳川御三家および越前、薩摩、仙台の三家だけだった。長州が許されて、これに加えられるのは、破格の栄誉というのであった。 (今さら、槍三本か)  それを聞いたとき、小五郎は、内心笑ったものだ。槍三本より、新式の小銃三挺のほうが、どんなにありがたいか、そして、今はまず軍艦である。  長州藩の強い希望をみとめ、幕府も高崎伝蔵を萩へ派遣するよう本多越中守に申し渡したので、これは思ったほどの支障もなく実現へ運んだ。伝蔵が指示する軍艦建造の用材を整えるようにとの急使が、あわただしく萩へむかう。  伝蔵は、戸田浦から藤吉、金右衛門、又三郎ら三人の船大工を選び、萩へつれて行くことにした。  軍艦建造のため、藩主は幕府に願い出て特別に帰国することになった。とにかく大変な熱の入れようである。一見無気力な慶親が、これほど積極的に動くというのもめずらしいことであった。  帰国する長州藩の槍三本を押し立てた行列の後尾について、尾崎小右衛門や高崎伝蔵と三人の船大工が、江戸を発ったのは、二月十九日である。 「私はまだ、江戸で修業すべきことがありますので……軍艦の製造は、伝蔵と小右衛門が万事取りはからいます」  と小五郎は、江戸にとどまった。たしかに、彼の役割は、そこで終っている。  江戸修業期限も、実は前の年の秋で切れているのだが、延期願いを出すつもりだった。この三年間、剣術・砲台築造・小銃術・軍艦と、忙しくめぐり歩いた小五郎は、すでに新しい目標にむかって、摸索の手をのばそうとしていた。  萩小畑浦の|戎ヶ鼻《えびすがはな》に設けられた「軍艦製造場」で、作業が始まったのは、安政三年五月だった。  船材百三十本、建造に従事する船工は百人である。高崎伝蔵の指揮によって、長州藩初の軍艦は、少しずつ形をあらわしてきたが、不馴れな仕事のうえに、暑気も加わってきて、工事はなかなか|捗《はかど》らなかった。  外形ができると、松の根からとったタールを塗りつけた厚紙を貼り、その上に銅板をかぶせるといった工法である。戸田浦の造船所では、一隻を百日で仕上げたが、戎ヶ鼻では二百日以上かかり、十二月に完工した。工費およそ四千両、船体の長さ二十七メートル、高さ四・三メートル、四十七トンの軍艦である。  安政三年の|干支《えと》にちなんで、|丙辰《へいしん》丸と命名された。丙辰丸には三門の大砲が備えられ、船尾には、一文字に三ツ星の毛利の紋章をあざやかに染め抜いた旗が、勇ましくひるがえった。  長州藩が第二船を建造したのは、これから三年後の安政六年六月である。尾崎小右衛門が采配をふった。|庚申《こうしん》丸と命名。長州の自家製軍艦は、この丙辰、庚申の二隻だけだ。建造をやめたのは、欧米諸国が持つ蒸気を動力とする巨大な軍艦には、遠くおよばないとわかったからである。  スペインが、百三十隻の軍艦に、一万六千の陸軍、八千人の船員を乗せ�無敵艦隊�を誇った一五八七年といえば、日本ではまだ豊臣時代の天正十五年である。その年、イギリスに敗れ、急速に没落したスペインは、三世紀近い歳月を経て、すでに老大国となっており、幕末の日本に近づいてくることもなかった。逆に、無敵艦隊を撃破して隆盛の機運をつかんだイギリスは、着々と海軍力をやしない、世界の隅々にまで植民地主義の触手をのばしてきた。  世界は、なお軍艦の世紀であった。  日本の鎖国を解除させるきっかけは、アメリカのペリー艦隊がつくったが、この国は間もなく南北戦争というお家の事情で、幕末の日本に積極的に介入するだけの余裕を持てなかった。  日本の開国を知って、さっそくおどりこんできたのは、イギリスである。次いでフランスだった。ヨーロッパで角突きあわせていた英仏両国は、そのままの力関係を、日本に持ちこんで、張りあうのである。そして、列強のなかでも、東洋艦隊の編成に最も力を入れているのがイギリスであった。  そのような黒船の動静におののきながら、幕府をはじめ諸大名は、大あわてで軍艦の建造にとりかかった。それも帆かけ船に毛の生えたようなしろものでしかなかったのだ。小五郎の努力も、結局は、スクーネル型洋式帆船の長州導入ということで終ったのである。  長州藩が丙辰丸の進水に歓声をあげていた安政三年末、すでに薩摩、宇和島藩は、蒸気機関で走る軍艦の試作に成功していた。しかも宇和島藩で、洋書を頼りにその軍艦を設計した村田蔵六という人物が、周防|鋳銭司《すぜんじ》村出身の蘭方医であることを、長州藩のだれもまだ気づいてはいなかったのだ。  ただ薩摩も宇和島も、外洋に乗り出せるほどの実用性を持つ蒸気船を、自力でつくり出すまでには、なお多くの時間がかかりそうだった。そしてついには、外国から既製の船を買うほかはなかったのである。  やがて覇権を争うことになる幕府と長州と薩摩は、きそって軍艦を浮かべようとした。それらは、すべて外国商人から高い値段で売りつけられた蒸気船ばかりである。  国内的には、軍艦よりもやはり新しい小銃が戦力の中核だった。だから長州藩は、長崎のイギリス商人から小銃を買った場合、一度に何千挺かを下関まで運ぶのに、軍艦を利用した。慶応初年、桂小五郎の役割は、その小銃を買い集めることであった。それらはいずれも後の話だが、小五郎が安政の初め、まぼろしの軍艦を追って、江戸や浦賀や伊豆を駆けめぐった行動のひとつの結末だったとはいえるだろう。 [#改ページ] 第三章 志士となる日   嵐の前  湾内に初めて浮かんだ軍艦を見る萩城下の人々の興奮は、江戸にもわずかに伝わってきた。  小五郎の妹ハルが、来原良蔵と結婚したのは、丙辰丸の進水より二カ月早い安政三年十月である。ついでだが、良蔵とハルの間に生まれた子が、後年木戸家の養子となった孝正である。孝正の子が、太平洋戦争中、内大臣をつとめ、戦後『木戸日記』で知られた木戸幸一で、小五郎から数えて木戸家四代目にあたる。  妹の婚礼や、軍艦進水といった萩城下の便りを、小五郎は、江戸の練兵館で聞いた。そこで久しぶりに塾頭としてのつとめを果すかたわら、本郷の英学塾に通っていた。|又新塾《ゆうしんじゆく》といい、長州出身の手塚律蔵が開いている。律蔵は、周防熊毛郡の村医者の子で、長崎に遊学し、シーボルトに就いた。のち英語に熟達する。また高嶋秋帆から砲術も学んだ。  江戸時代、西洋から入ってきた外国語の主流は、むろんオランダ語である。長崎を窓口に日本への出入りを許された唯一の西洋国家オランダは、新しい西洋の文物を多くもたらした。知識としては、自然科学系の医学・天文学・兵学などで、それらはオランダ語と共に、日本人の身についていったのである。  西洋兵学者は、オランダ語のできる蘭方医から転向した人が少なくない。しかし、ぺリー来航いらい、オランダ語の評価が、わずかに揺らぎはじめた。とくにイギリスとの接触が強まるにつれて、英語が進出してくる。幕府が|蕃書 調所《ばんしよしらべどころ》を設けたのは安政二年で、はじめ洋学所といった。オランダ語が主で、英語は従だったが、それはやがて逆転するのである。  小五郎が又新塾で、英語を学ぼうとした安政三年当時、まだ蘭学は全盛時代の勢いをのこしてはいたが、すでに英学がそれに替わろうとする気配はあらわれていた。 「これからは英語だね」と小五郎に言ったのは、中島三郎助だった。手塚律蔵のことを教えてくれたのも三郎助である。 「師系」というものがある。封建組織とは別に、日本人の知識社会をタテ割りにする、一種の秩序としての人間関係が、要するに「だれに習ったか」によって出来あがっていた。師系は、人間を結合させる機能を持った。これは学閥の名で、いくらかは内容・形を変え現代にも持ち込まれている。  長州藩にあっては、吉田松陰門下という強力な師系が、政治結社に発展したが、これなどはめずらしい例である。  医学ではシーボルトの師系がある。またオランダの医師ニーマンに学んだ緒方洪庵を祖とする新しい蘭学の師系に、多くの有能な人物がつながった。  兵学では高嶋秋帆の師系が有名である。江川太郎左衛門、中島三郎助がそれで、手塚律蔵も秋帆の門下だ。江川、中島に就いた小五郎も、つまりはこの師系につらなる一人である。だから、彼が律蔵の又新塾に人ったのは、自然な成り行きといえた。  a b c d e……と、稚拙な筆跡のアルファベットが、小五郎の日記に並びはじめてから三カ月ばかり経ったある日、 「英語の原書が読めるようになるまで何年かかりましょうか」  と小五郎はたずねた。 「十年だ」  律蔵が、ぶっきらぼうに答える。三十四歳だが、もっと老けて見えた。ひどくやせた色黒の面長で、目が異様に鋭い。 「いったい何が習いたいのだ」 「歩兵調練であります」 「そんなら孝平に訳してもらいながら習ったらよかろう」  律蔵の門下に、めずらしい人物が二人いる。神田孝平と|西周《にしあまね》である。名もない私塾で、やがて明治の政界、学界に活躍する俊才たちが、ひっそりと勉学に打ちこんでいるのも、安政年間における江戸のかくれた一風景であった。  西周は、やがて森鴎[#底本では「區+鳥」]外と並ぶ石見出身の著名人となる男である。ふたりとも津和野藩医の子だ。  西はオランダに留学、経済・法律・哲学を学んだ。それは又新塾に通っていたこのときから六年後のことである。明治新政府にも出仕して陸軍・文部・内務各省の官僚として活躍した。 『軍人勅諭』の起草、また Philosophy を「哲学」と和訳した最初の人としても知られる。  西周と一緒に又新塾で英語を習っていた蘭学者神田孝平は、美濃の人である。彼も明治政府に入り、地租改正を建議し、やがて元老院議官、貴族院議員となった。『和蘭政典』などの訳書や著書がある。 「桂君が、歩兵調練を習いたいといっとる。何か教えてやって下さらんか」  手塚律蔵が、孝平に言うと、ちょうど手許に洋書が入ったので、訳してやろうと気軽に引き受けてくれた。 「オランダ語ですよ」  と、次の日にはその兵書を持ってきた。ヘルドフルステルキングキュンスト(野戦造築術)から、講義は始まった。孝平が訳すのを、小五郎は要点筆記しながら、じっと聴いているだけである。そんなわけで小五郎の英語学習は、ほとんど進まない。英語塾で、オランダ語の兵書を学ぶという奇妙な結果となった。 「長州では、軍艦を造っているそうだな」  ある日、律蔵が、するどい視線を小五郎に投げながら言った。 「左様であります」 「そんな真似ごとの小舟を造って、海防策を進めていると思うのなら、まことに笑止千万だ」  吐き捨てるように言う。 「今は、第一歩というところでしょう」 「素人が寄ってたかって、それでどうなるものでもあるまい。呼びにくれば、私が行って教えぬでもない」 「………」  自分を長州藩に仕官させろといっているのだなと、小五郎は解釈した。律蔵は英語をおさめ、高嶋秋帆について砲術を学んでいる。このような人物が、一人や二人長州にいてもよい。  吉田松陰は、早くから人材登庸を説いたが、小五郎も同じことを上書で訴えた。下級藩士の中から、有能な人物を起用するのは比較的簡単だが、藩へ帰れば百姓身分でしかない律蔵を、要職に据えるとなると、これはなかなか難しい。 「まあ、桂君に言うても仕方はないが……」  と、律蔵は笑った。 「しかるべきお方に、意見を上申することはできます」 「いや、何も私を藩へ推薦しろというているわけではないぞ」  見えすいた弁明である。小五郎は、この手塚律蔵という人物にわずかな嫌悪を感じた。彼が持っている知識や技術は欲しい。家臣団の外側にいる人材を、体制に|嵌《は》めこむためには、古い藩組織の一部をこわしたってよいのかもしれない。しかし、律蔵のような男は、与えられた役割を越えて、自己を主張しはじめる危険性がある。食いこんだ一角から、大きく亀裂をひろげ、甚しく秩序を乱すことにもなりかねない……。手塚律蔵に、小五郎が覚えた嫌悪感というのは、たとえばそのような危惧もふくまれている。それはどうやら、小五郎だけの観測ではなかったらしい。  又新塾に学んでいた西周や神田孝平は、やがて幕府の蕃書調所に出仕する。いずれあとで登場する村田蔵六にしてもそうだった。洋学者として実力ある人物は、多く蕃書調所に召し出されている。  ところが英学の先達として、彼らを指導した、手塚律蔵だけお呼びがなかったのはなぜだろうか。つまりは敬遠されたのだ。やや|狷介《けんかい》な性格と、よくいえばその思想性が、当時の為政者の求める技術者としての透明度を、濁していたからだともいえるだろう。  安政四年(一八五七)桂小五郎は二十五歳の春を迎えた。  練兵館の塾頭として、相変らず剣術にも励んでいる。又新塾でのオランダ兵書の講義は、神田孝平が蕃書調所に出仕したため中絶してしまった。  練兵館では、斎藤弥九郎が還暦を迎えた。それを機会に隠居して篤信斎と名乗り、二代目弥九郎を新太郎が継いだ。道場主の交代で、塾頭の小五郎も何かと忙しく五月を過ぎた。  篤信斎は、隠居といっても、道場から離れただけで、別の場所で新しいことを始めた。道場の稽古だけでは、実戦の役に立たないので、野外の集団洋式調練を、門人たちとこころみたいというのである。  三番町の野原で、たびたび野外戦闘訓練をやった。剣隊、銃隊、槍騎隊の対抗戦として、篤信斎が、馬上から指揮した。神田孝平についてオランダ兵書の歩兵調練を学んだ小五郎の知識も、ここでは多少は役に立ったのである。その後、篤信斎は、代々木に隠居所を構えた。広い敷地を切り拓いて、練兵館専用の調練場をつくる計画だった。開墾には門人を使った。 「海防のためには、いつどこで砲台を築くことになるかわからない。その工事のつもりで、しっかり土をかつぎなさい」と篤信斎は、馴れない土木工事にとまどっている門人たちを励ました。小五郎も傍観しているわけにもいかないので、一緒に汗を流した。  工事の合間に、野試合がおこなわれる。道場の中で、竹刀を打ちあうだけだった剣術稽古が、練兵館に限って、ずいぶん違ったものになった。若い人々の元気なかけ声が、初夏の空にこだまする野外稽古の風景を、めずらしそうに見物に集まってくる人たちもいる。それは、時として、いわば�戦争ごっこ�に見えなくもないが、たしかに緊張した世情を反映しているとはいえた。  五月二十六日、アメリカ領事タウンゼント・ハリスの強引な要請によって、下田条約の調印となる。これは日米約定ともいう。ペリーが結んで帰った日米和親条約を修補する条約で、ハリスと下田奉行との間に締結された。日米両国貨幣の交換とりきめをはじめ、日本に在住するアメリカ人の権利がいちだんと拡大された内容を盛りこんでいる。  彼らが最終目標としていた日米修好通商条約締結の前駆をなすものである。下田条約を結んだハリスは、勢いづいたように、江戸城に将軍をおとずれたいという。大統領の親書を渡すというのである。幕府が、これを許したのは八月だった。  徐々に、攘夷論が、熱を帯びていく。十月二十一日、ハリスの江戸城登城が実現することになった。  ところで、前年、一年間の延期を許されていた小五郎の江戸在府期間が、また切れようとしている。江戸へ出て四年過ぎた。さらに遊学期間を延ばすというのも、少々気のひける話である。桂小五郎だけが、どうしてそんなにも長く江戸へ居つづけできるのかといった声が、ささやかれてもいるからである。前回は、斎藤弥九郎の名で、延期の嘆願書が、藩に提出され、あっさり許可となった。 「小五郎儀、去る子年以来、私方へ入塾、剣術修業罷りあり、追々上達……元来慷慨節操の士にて海防等の儀も、甚だ苦心仕り、蘭学等も相心がけ……奥羽・松前・箱館まで剣術修業として巡歴仕りたく……」  そんな文面である。巡歴は名目で、結局出かけなかった。江戸へ止まる理由として、暗黙の了解を得たわけだ。 「こんどは、何にしましょうか」  小五郎は、新しく襲名した弥九郎に相談した。 「ハリスを利用したらどうかね」  と、弥九郎が笑いながら言った。 「ハリス……をですか」 「左様、この通り」  若い弥九郎は、筆をとると、手早く一枚の願書を書きあげた。 「外人の登城は、古来まれであり、諸侯によるこの警衛の儀仗を見ておくのも有益であるので、練兵館一同で見学することにしている。よって塾頭たる桂小五郎の帰国の期限を二百日延期していただきたい」  これも見えすいた理由だが、とにかく藩主お気に入りの斎藤弥九郎父子の願いであれば、何とかなりそうな感じではあった。  思った通り、数日後には、許可がおりた。小五郎は、ほっとして腰を落ちつけた。江戸で暮らしていると、もう萩に帰りたくなかった。あの箱庭みたいな城下町で、息苦しい毎日を送るのは、耐えられないといった思いがある。それは安政二年、一度萩に帰ったとき、つくづく味わったものである。なつかしい郷里に帰ったという、やわらいだ気持は、十日ばかりも過ぎたころには消えてしまっている。そのうち人々の動きが、鈍重に見えてならず、どうしようもなく退屈してくるのだ。  今、小五郎は、江戸という大都会の刺激に充ちた空気を、楽しんでいるかのような自分を、たしかに意識しているのだった。  安政五年(一八五八)の春がめぐってきた。四月、彦根藩主井伊|直弼《なおすけ》が、大老に就任した。嵐の前ぶれともいえる井伊直弼の登場である。  井伊は、懸案となっていた将軍継嗣問題、通商条約調印を、一気に解決しようとした。まず将軍継嗣問題というのは、現将軍(十三代)家定の後継ぎをだれにするかということだ。家定が病弱であるため、早急に決めなければならない。これは南紀派と一橋派に分れて対立した。  井伊直弼が属している南紀派は、自分たち譜代大名による幕閣独裁体制を守るため徳川慶福を推した。これに対する一橋派は、幕閣の独裁を押え、諸雄藩合議制を主張する松平慶永、島津斉彬らの家門・外様大名たちである。両派は、激しい暗闘をくりひろげた。  一橋派は、一橋慶喜を擁立しようと画策したが、井伊の大老就任によって、南紀派の勝利は決定的となった。  井伊大老は、朝廷の反対でもたついている日米通商条約の調印を急ぎ、六月十九日にそれを断行した。朝廷には、事後報告として、やむを得なかったという旨を奏上するにとどめた。ひきつづいて井伊は、継嗣問題にとりかかった。反対派を処罰し、遠ざけて、強引に徳川慶福を将軍の世継ぎと決め、正式に発表したのは、六月二十五日である。そして、長く病みついていた将軍家定が死んだのは七月六日、慶福あらため|家茂《いえもち》が、第十四代将軍の座についた。  幕府が、勅許を得ないまま条約に調印したことは、たちまち世上に伝わった。こうして大老井伊は、違勅調印に対する非難を浴びると同時に、将軍継嗣問題をめぐる一橋派諸侯の激しい反発を食うことになった。水戸藩の深刻な怨恨が、井伊にむけられ、やがて水戸浪士による暗殺へと発展するのも、攘夷論と継嗣問題がからんでのことである。  安政大獄は、外交に対する幕政批判、幕府による攘夷派への弾圧、幕府内部の抗争などがからんで陰惨にエスカレートした。  八月上旬、朝廷から水戸藩に届けられた密勅の写しが、十三藩に配られ、長州にそれが到着したのは、八月二十一日だった。朝廷が幕府に与えた抗議書ともいえる|戊午《ぼご》の密勅である。  それは、桂小五郎が大検使として、江戸藩邸づめの番手を命じられて間もなくのことであった。江戸遊学の書生の身から、小五郎は、役付きに引き上げられたのである。練兵館塾頭という地位が、彼の存在を顕示する大きな理由のひとつになったのであろう。  小五郎が、にわかに脚光を浴びはじめたころ、幕府の手で次々と思想家が捕えられていく大獄の嵐が吹き荒れるまで、ほんのわずかな期間、無気味な静けさがただよった。  小五郎が就任した江戸藩邸の大検使というのは、ずいぶん繁雑な仕事である。  矢倉方・仲取方・勘定方・作事方の各部局を統轄し、その金銭出納を検閲する。江戸藩邸内の金穀出納、諸工事、諸需用品の調達など、今でいえば庶務、会計、用度、営繕といった職務を統合したような役柄だ。  藩邸内に起居して、朝から晩まで、そんな仕事に追いまわされる毎日が、八月から九月のおわりまで続いた。もう練兵館に行って竹刀もにぎれなければ、又新塾に通って英語を習ったりすることなど望むべくもなかった。  暑気が薄らいだなと思っているうちに、いつの間にか秋が深まっている。邸内のお花畑で桔梗の花が開いたというだれかの会話を耳にとめて、昼食後久しぶりに庭へ降りてみた。やわらかい陽を浴びた薄紫色の花を、ぼんやり眺めていると、背後から同役の波多野新蔵が声をかけてきた。初老の温厚な藩士である。すでに白髪が目立ちはじめている。 「桂さん、外に出たいでしょう」 「………」 「私らのような人間には、似合っているといえるが、桂さんにはこんな仕事で老いてもらいたくない」 「藩命とあれば致し方ないとあきらめてはいますが……」  小五郎は、何もかもが閉ざされた今、江戸にいる意義を失っていた。 「あきらめる必要はありません。方法はあります。怠けるんですよ。この仕事は自分の手に余る、とてもだめだと|音《ね》をあげることです。そうすれば、萩から代わりの者がやってきます。前にも一度そんなことがありました。私と違って、桂さんには才能がある。それを殺さないためにも、今のうちに逃げてしまいなさい……」 「やってみますか」  小五郎は、その日から仕事をやめてしまった。病気だという理由で、数日寝て暮らした。波多野がいった通りだった。やがて小五郎は事務的な単調な仕事から解放されたのである。しかし、そのあとがいけない。帰国命令である。これは迂闊にも予想しなかった結果だが、考えてみれば、このまま江戸に居据わるというのも虫のいい話だった。(出なおせばよい)と思うことにした。  帰国となれば、こんど江戸へ出てくるのはいつになるかわからない。練兵館の塾頭も、このさい辞任することに決めた。 「やむを得まいが、後任はだれがよいであろうな」  と弥九郎は思案顔だ。塾頭は、道場主とならぶひとつの看板といえた。とくに練兵館は、学究肌の先代弥九郎(篤信斎)の好みで、塾頭には剣だけでなく、教養をつんだ人物を据えた。  ここには小五郎より入門が早く、剣の腕も互角と思われる塾生が何人かいる。たとえば津山藩の井汲唯一、大村藩の渡辺昇、小五郎と同じ長州藩の太田市之進がいる。  また弥九郎の郷里仏生寺村から出てきた農民出身の弥助がいる。仏生寺弥助と名乗り、のち吉村秋陽と称した剣客である。この弥助などは、剣の腕は、小五郎よりはるかにすぐれていたが、教養の点では、くらべものにならない。弥助自身もそれを心得ていて、別に不服そうでもなく、「塾頭々々」と小五郎を立てた。このときから間もなく、小五郎は柳剛流の富田尾三郎と試合をすることになるが、陰から貴重な助言を与えてくれたのも弥助だった。  結局、小五郎のあとを継ぐ人物といえば、渡辺か太田ということだったろう。太田市之進は、のちの|御堀《みほり》耕助で、第二次長州征伐のとき御楯隊の総督として、芸州ロの戦いに勇名をとどろかせた。できれば市之進にゆずりたいが、渡辺は彼より三つ年上である。市之進を推せば、人は情実をまじえたとみるかもしれない。 (それは練兵館のためにも、太田のためにもよくない)  小五郎は、そう考えて、市之進よりやや剣は劣るが、渡辺昇を推挙した。ところが渡辺は、塾頭にはならぬというのだ。  剣術修業者にとっては、あこがれの地位ともいうべき練兵館の塾頭である。快く引き受けるだろうと思っていた彼が、意外にも固辞するのである。 「私は今、安井息軒先生の門に入って、経書の講義を聞いているところです。塾頭になれば、読書もできなくなるので、お断りしたい」 「読書ができぬということにはならない。私もいろいろとやってきたのだから」  小五郎が説得しても、かたくななほどに、渡辺は承諾しなかった。 「桂君、あれではどうしようもない」と、弥九郎が、あとで小五郎に溜め息まじりに言った。 「練兵館の塾頭を辞退したのは、渡辺君がはじめてだ。それはよいとしても、学問の邪魔になるという理由はこまるな。父の篤信斎が知ったら嘆くだろう」 「そうですね」  小五郎は、内心渡辺のことを(小癪な)と思わぬでもなかった。 「承知させますよ」 「するだろうか」 「おまかせ下さい」  すぐ大村藩邸に行き、重役の荘|勇雄《いさお》に面会を申しこんだ。 「私が塾頭の席をゆずりたいのは、大村藩の渡辺君だけであります。尊藩にとっても、決して不名誉にはなるまいと思いますが、いかがでしょうか」 「江戸三大道場のひとつ練兵館の塾頭を、わが藩から出すということは、不名誉どころか、殿様も大変よろこばれるにちがいありません」  荘は、目をかがやかした。肥前の外様大名大村藩は、二万八千石の小藩である。即日、渡辺昇には、練兵館塾頭に就任せよという藩命が出た。 「桂さんにはかないませんな」  と、頭をかきながら、渡辺が練兵館にあらわれそのことを報告したのは、二日後のことだった。  この人、明治になって、大阪府知事、司法官、会計検査院長などをつとめた。大正二年(一九一三)七十六歳で死ぬまで、渡辺子爵邸内の道場では、いつも竹刀の音がしたという。練兵館いらいの剣を生涯捨てなかったのである。── 「桂君、練兵館塾頭としての最後のつとめを果して行かんか」  弥九郎が、少しあらたまった顔で言った。土州藩邸での撃剣大集会に、練兵館を代表して出場しろというのである。山内家のこの大集会には、桃井道場、千葉道場からも出場する。その他江戸の名だたる剣客が一堂に会して、披を披露する派手な催しだった。山内家や藤堂家の大集会に出場するのは、剣士にとって、いわばヒノキ舞台に立つことであった。  各道場主は自慢の門弟をつれて、鍛冶橋の土州屋敷に集まってくる。立合いは門弟たちによっておこなわれ、流派の技を競うのである。  その日、参加した主な剣客は、斎藤弥九郎(神道無念流)、干葉栄次郎(北辰一刀流)、桃井春蔵(鏡新明智流)、石山権兵衛(忠也派一刀流)、島村勇雄(田宮流)で、それぞれの高弟をつれてきている。  千葉道場からは、坂本竜馬(土佐)、海保帆平(水戸)、桃井道場からは阪部大作(吉田)といった当時すでに剣名を知られた門弟たちが、自信たっぷりな顔を並べている。このほか有名無名の剣士がぞくぞく押しかけ、試合数でも五十組以上をかぞえる盛大な撃剣大集会となった。  斎藤道場からは、弥九郎につれられて桂小五郎、仏生寺弥助、岩永杢助の三人が出場した。  小五郎は、まず直心影流長沼正兵衛の門下福富健治と立合ったが、十本勝負のうち八本までもとって楽勝した。  次の相手は富田尾三郎だという。富田は柳剛流の名手とは聞いていたが、小五郎のよく知らない剣客だった。第一、これまで柳剛流と他流試合をした経験がない。この流派は、面や小手、胴だけでなく|脛《すね》を打つ。嫌な相手と組み合わされたものだと、小五郎は、ちょっと眉をひそめた。江戸を去る最後の舞台で、ぶざまな負け方をしたくないと思う。 「塾頭、柳剛流と立合ったことがありますか」  と、弥助が、出番の近づいた小五郎にささやいた。 「ないが、脛を打つとは聞いている。防ぐしかない。居合なら脛がこいの技がある。|霞《かすみ》で行こうと思っています」 「私は富田と一度立合ったことがありますが、やはり最初から脛をねらってきますよ。脛がこいでは、一撃は避け得ても、面に隙ができる。青眼に構えながら、跳ぶように動きまわったほうがよいようです。少し恰好は悪いが、あれが一番です。そうすれば脛を打ってきたときの相手の面をとらえることができます」 「ありがとう、やってみる」  小五郎は、弥助の親切に礼を言いながら、試合場に進み出た。  思った通り富田は、長い竹刀をふるって、左右から脛を打ってきた。小五郎は、弥助の助言に従って、跳躍しながら防禦につとめた。富田がやや意外な面持で、激しく小五郎を追いたてる。何度目か、左から脛をねらってきた富田の頭部にわずかな隙が見えた。すかさず小五郎は左の片手上段から、跳びあがりざま、したたかな一撃を、相手の横面に加えた。  検証の師範石山権兵衛から「一本!」とするどい声がかかる。二本目も同じような結果となった。富田に焦りが見えてくる。柳剛流の脛打ちも、その手の内を読まれると、|薙刀《なぎなた》とちがって、体が崩れるように敵に近づくのだから、まったく隙だらけの剣法だった。これはやはり、初太刀で相手の意表を衝く奇襲の技でしかない。  三本目から、富田は、青眼に構え、正面から攻撃してきた。小五郎は、ようやく得意の大上段に太刀をとり、悠然と対している。こうなれば、もう柳剛流も桂小五郎の敵ではなかった。七対三で小五郎の圧勝におわった。  柳剛流の奇妙な剣法を、神道無念流がどうさばくかと、目を凝らしていた多くの出場者、参観人から、ひとしきり拍手がわいた。  庭で汗を拭いていると、のっそりと一人の男が、小五郎に近づいてきた。笑っている。 「桂さんですかいの。わしは干葉のところにいる坂本竜馬です」 「存じています。先程の島田さんとの試合も拝見しました」 小五郎は |慇懃《いんぎん》に頭を下げた。 「いやあ、おまんのは見事でした。わしは前に富田尾三郎から、こっぴどい目にあわされたことがあったので、おまんがどう戦うか、それを楽しみにしちょりましたが、うまく考えたものだ」 「うちの仏生寺が教えてくれたのです」 「ああ、練兵館のつわものですか。わしは話にきくだけで、まだ神道無念流と立合うたことがない。一度お手合わせ願えませんか」 「残念ながら、私は近く帰国します。当分、江戸ともお別れであります」 「それはいつですかいの」 「十一月二十日すぎになりましょう」 「それなら間にあう」  竜馬が、大きな声を出した。十一月はじめ、桃井春蔵の士学館で撃剣会がある。他流からの参加も自由で、ここでは五人抜き試合だから、自分の腕をためすにはもってこいの機会だ。 「わしは行くつもりだが、桂さんも江戸の名残りにどうです、一試合……」  同じ剣士仲間と思ってか、以前から友達づきあいでもしていたような気易さで、この竜馬という男、初対面からいきなり接近してきた。土佐の郷士で、千葉道場ではいくらか名の知られた人物だが、それ以上のことを、小五郎は何も知らない。無遠慮な田舎剣士然とした侍を、小五郎は多く見てきたが、竜馬はそういう人種とも違う。どことなく親しみが持てた。 「つごうをつけて、のぞいてみることにします」 「では、桃井のところで、またお目にかかります」  飄々とした足どりで、竜馬は立ち去った。弥九郎が許せば、士学館に行くのも悪くはない、そう思った。  帰り途、小五郎は士学館のことを、弥九郎に話した。 「私もさっき桃井さんから案内を受けた。行かざるを得ないだろう。きょうの試合が、桂さんにとって、江戸への置きみやげと思っていたが、後学のためだ、行くかね」 「帰国まではどうせ暇なのですから、よければお連れ下さい。士学館の塾頭は、土佐の武市半平太でしたね」 「かなりの人物らしい」  武市半平太は、小五郎より四つ年上である。瑞山と号した。坂本竜馬と同じく土佐の郷士で、剣術は十二、三歳のころから小野派一刀流を麻田勘七に学んだ。二十七歳のとき免許皆伝、道場を開いた。百人余の門弟を抱え、これがのちの土佐勤王党の母体となる。弟子の中には、天才的剣士岡田以蔵がいる。その殺人剣をもって、武市のために働いた人斬り以蔵である。  武市は、郷里の道場をたたんで、安政三年、江戸へ出てきた。そして桃井春蔵をたより士学館に入門、免許を受け塾頭になったのは、その翌年である。  士学館での撃剣集会の日がおとずれた。この日、武市は引き受け側にいて世話係をつとめたので、小野派一刀流からさらに鏡新明智流の免許をとった彼の太刀さばきを見ることはできなかった。  試合に入り、注目の五人抜きが始まったのは午後である。元気ばかりよい若い連中がふるいおとされ、立合いは|手足《てだれ》の剣士の間で、抜きつ抜かれつの白熱戦となる。  やがて小五郎が出て、めぼしい四人を倒した。練兵館塾頭桂小五郎の名が場内でささやかれ、五人目の相手は、なかなか出てこなかった。  小五郎が、どうやら江戸での名残りの試合にふさわしいものになりそうだと、思わず口辺に微笑をただよわせていると、出しぶっていた五人目が、ようやく決まったようだ。 「北辰一刀流、坂本竜馬」  小五郎は、かすかに「あっ」と叫ぶような気持だった。はじめ姿を見せなかった竜馬が、いつの間にかやってきている。まるで仕組んだような五人目の挑戦者として、あらわれたのだ。 「武市さんにいわれて、やむなく出ました。悪う思わんで下さい」  防具の紐を締めなおし、控えの席にいた小五郎の耳もとに、竜馬が素早くささやいた。悪く思うなとは、勝つ気でいるのだろうか、小五郎は苦笑しながら、立ちあがった。  小五郎と竜馬は、伯仲の技を競う激しい立合いを展開し、その日の試合の中で、最も見ごたえのあるものといわれた。相打ちが十本も続くという大接戦である。  いよいよ十一本目、切り揚げの勝負となる。小五郎は、大上段から、すさまじい勢いで、ふりおろした。力の剣法ともいわれる神道無念流の大胆な技だが、竜馬も、いわば捨て身を覚悟したようだった。小五郎が動くと同時に、右足を一歩大きく踏み出して折り敷き、必殺の突きをくり出した。小五郎は、たしかに竜馬の面を打った。しかし、突き出した竜馬の剣尖に咽を襲われた。まるで首が飛ぶように、高々と、はずれた小五郎の面具が空中に舞いあがったのである。  小五郎の五人抜きは、竜馬のために阻まれたが、悔いのない名勝負だった。嘆声と柏手で、場内がこれほどどよめいたこともない。  嵐の前の静かなひとときである。道場で竹刀剣術を競う平穏な日々は、やがて音をたてて崩れるのではないかという予感を、少なくともここにいた三人は抱いていたかもしれない。  桃井の士学館に、このとき桂小五郎と武市半平太と坂本竜馬が顔を合わせたのは、これも時代を暗示するささやかな事実ではあった。しかしやがて三人が、志士としてどのように結びついて行くかについては、むろんひとかけらの予感も持てるところではなかった。  嘉永五年、小五郎が江戸へ出てきて、六年の歳月が流れている。剣術から始まって、西洋砲術、小銃、軍艦建造まで、試行錯誤する小五郎の江戸遊学は、出発点に還るかのように、華麗ともいうべき剣術試合によって幕を閉じた。   猛士消ゆ  吉田松陰が生まれた家は、萩城下の郊外松本村の団子岩という小高い丘の上にあった。現在、松陰と金子重之助の銅像が、そこに建てられている。海外密航をくわだてた二人が、決意の目を、下田の海にむけた姿を刻んだものである。萩出身の彫刻家長嶺武四郎氏の作だ。戦前の松陰坐像が、ひどく年寄くさいのにくらべると、生気に充ちた松陰の表情がよくあらわれていて、たしかにこのようであっただろうと肯かせる。  その松陰像を背にして、西方に視線をやると、眼下に萩の市街がひろがる。はるか家並の尽きるあたり、指月山が、武骨な山の影を日本海に突き出している。萩城址である。幼年時代の松陰は、毎日このような風景をながめながら育ったのであろう。  そこから少し坂を下ると、松陰の叔父玉木文之進の旧宅がある。粗末なワラ屋根の家で、もともと松下村塾は、文之進がここで興した。塾の主宰は、文之進が出仕したあと、一族の久保五郎左衛門が受け継ぎ、やがて松陰の代になる。  松陰の松下村塾は、文之進の旧宅からさらに坂道をたどって、平地に降りたところ、つまり松陰神社境内の杉家旧宅に隣接して保存されている。今では、建物の周囲に、生垣や石碑、説明板などが配され、お宮の一部としてきれいに整備されているが、かつては田畑にとりまかれた佗しいたたずまいだったにちがいない。  安政二年、小五郎が江戸から一時帰省して、杉家をたずねたとき、松陰は野山獄から保釈されたばかりで、同家の幽囚室にこもっていた。そして、安政五年十二月、小五郎が江戸における役職から解放されて萩に帰国したころ、松陰は、再び野山獄へつながれようとしていたのである。  松下村塾が全盛を迎えたのは、安政四年秋ごろから、翌五年夏までである。吉田家の家学を教えるという条件で、藩の許可がおり、大っぴらに塾が運営できたせいもある。しかし松陰は、すでに古典ともいうべき山鹿流軍学など大して教えなかった。むしろ時事を論じた。世界情勢を説き、幕府を批判し、日本の将来について、塾生たちとの熱っぽい討論に夜の更けるのも忘れた。  藩校の明倫館などは、学生が時事について論じたりすることを禁止している。それにあきたりない若者は、村塾に集まってきた。久坂玄瑞、高杉晋作らがそうである。  藩校に入りたくてもその資格のない足軽・中間の子弟、吉田栄太郎(稔麿)、伊藤利助(博文)、山県小輔(有朋)たちは、門を開放した松下村塾に、こぞってやってきた。  そのような重だった塾生も、安政五年七月ごろまでには、江戸遊学、あるいは何らかの役目を藩からさずけられて、江戸や京都へ出かけて行き、村塾の講義室は、冷えたように静かになった。多くの塾生が藩外に活動の場を得たのは、松陰がそのように藩政府へ働きかけたからである。京都の情報探索者として、塾生の何人かを推薦したこともある。それは同時に松陰自身にとっての情報探索者でもあった。あらゆる情報が、門弟たちによって松陰のもとにもたらされた。だから松陰は、萩に居ながらにして、国内の情勢をつかむことができた。  安政五年十一月はじめ、つまり小五郎が萩へ帰ってくる一カ月前のことである。松陰は、二つの情報を手に入れた。まず幕府の老中|間部詮勝《まなべあきかつ》が京都へのぼったこと。朝廷内の反幕的な動きを粛清するようにとの特命を井伊大老から与えられているというのであった。もう一つの情報は、水戸藩士を中心に、井伊大老を暗殺する計画がめぐらされ、その応援を長州にも求めているというのだ。 「井伊は水戸にまかせておく。われらは間部を討つべし」  村塾に残っている十七人の門弟たちは、師のすさまじい形相にうたれ、無言で頷くしかなかった。  松陰は、あきらかに狂を発していた。  老中間部を撃つので、大砲や弾丸を提供してほしいと、藩政府に願い出たのには、松陰の理解者とみられた周布政之助も、さすがに胆をつぶした。  幕府の要職にある人間を、白昼堂々、大砲で吹っとばそうという計画が実行不可能であるのは、だれの目にもあきらかだ。問題はこのような言動が幕府側に洩れて、長州藩が不測の事態に追いこまれるのではないかということだった。 「松陰の学術不純にして人心を動揺す。許すべからず」  十一月二十九日、周布は藩主の同意を得たうえで、松陰の厳囚を命じ、同時に松下村塾の閉鎖を宣告した。ただちに松陰は野山獄へ収監されるはずだったが、このころ|厚狭《あさ》郡吉田の代官をしていた玉木文之進の熱心な運動で、ひとまず獄はまぬかれ、以前のように杉家の幽室に厳囚となったのである。ところが十二月五日にいたり、野山獄の借牢願を出せと、杉百合之助のところへ藩から通達してきた。事実上の投獄だが、家族から借牢を申し出るという形式をとる。たまたま百合之助は病床にあり、症状が悪化していたので看病のため下獄を猶予してもらいたいと願い出て許された。そのうちに百合之助の病状も回復に近づいたので、十二月二十六日に松陰は野山獄へ入ることになった。  小五郎が、杉家に松陰をおとずれたのは、その数日前である。杉家の庭には、見なれぬ建物があった。これが松下村塾かと、小五郎は、ちょっと立ち止まってそれをながめ、前のときのように、杉家の裏庭にまわって、松蔭の幽室へ入れてもらった。  松陰は無精髭を生やし、ひどい|窶《やつ》れかただったが、目だけは異様に光っている。 「何ということだ、僕の忠となすところは忠に非ず、義となすゆえんのものは義に非ずと、それに応えるに獄をもってするとは……口惜しいではないか」  だれにも会いたくないと言っていた松陰が、小五郎を見るなり、引きつったような声で、まくしたてるのである。 「今は時期が悪いということではないでしょうか」  小五郎が、慰めるように言うと、 「時期を待って、動きやすくなって動く……それが功業というものだ。僕は忠をなすつもり、君たちは功業をねらう者だ」  松陰は、激昂して叫ぶ。手がつけられない感じだった。 「江戸の久坂や高杉にも協力せよと手紙を出しておいたが、まだ返事もよこさん。君がむこうを発つとき、かれらから何か聞かなかっただろうか」 「私が江戸を出て、しばらくして先生の手紙を受けとったようです。家に帰ってみると、久坂、高杉君らから、私あての手紙が先に届いておりました」 「そうか、あの者たちはどういう考えだ」 「やはり時期が悪いというております」 「………」  それきり松陰は、口をきかなかった。外は雪になったようだ。しんしんと寒気のしのびよる部屋で、息苦しいほどの沈黙がつづき、やがて小五郎は、腰をあげた。 「嫁をもらうことにしました」  と、帰りぎわに言った。 「君には、それもよいだろう。僕は三十まで妻帯せぬつもりできた」 「では来年ですね」 「わからない。二十一回猛士の誓いを果たすまでは、女など無用だと考えている」  二十一回というのは、吉田という宇を分解するとそうなる。脱藩、海外渡航計画、間部暗殺計画など、猛々しいことをすでに三回やっている。二十一回猛士とは、あと十八回、思いきった行動をおこすという決意をあらわす松陰の新しい号であった。  困惑した表情で、小五郎は外へ出た。薄暮の中にたたずむ松下村塾の屋根に、うっすらと雪がつもっている。戸の隙間から、灯が洩れていた。内部にだれかいるようだった。  小五郎は、歩み寄って、雨戸をたたいた。立てつけの悪い戸を開き、すぐに一人の男が、顔を出した。|佐世八十郎《させやそろう》、のちの前原一誠である。小五郎より一つ下の二十五歳だ。村塾の塾生の中では、最年長組に属する。  案内されて講義室の隣りの控室に行くと、品川弥二郎、入江杉蔵ら数人が、車座になって、どうやら酒を飲んでいる様子だった。 「村塾解散の|宴《うたげ》ですよ。どうです一杯」 「それより、ちょっと見せたいものがある」  小五郎は懐から手紙を取り出して投げるように八十郎の膝元においた。江戸の久坂・高杉が連名でくれたもので松陰にも見せるつもりだったが、出しそびれてしまった。 「正論だな」  読み終って、それを入江杉蔵に渡しながら、八十郎が呟いた。 「佐世君がいながら、なぜ先生をあのような立場に追いこんだのだ」  小五郎は、酒臭い溜め息をついている八十郎に、怒りの言葉を投げつけた。 「江戸にいる者には、冷静なことも言える。萩にいて、先生のそばにいる者とは違うのだ。先生は一人でもやると言われるのじゃから、一緒に死ぬしかないではないか」  八十郎が、ずんぐりした体を、前後に揺さぶりながら、野太い声で言い返した。 (そうかもしれない)と、内心彼らの立場はわかるような気もしたが、とにかく今後は慎重に行動するようにと言い置いて、その場を離れた。  江戸の生活とはまるで違った空気が、郷里にはただよっている。触れる人間がみんな粘液質の暗い翳りを持っているように思える。そういう種類の人物がひとり、江戸屋横丁まで帰ってきた小五郎を待ち受けていた。女は暗がりから、不意に声をかけてきた。小川家の園江である。 「お話がございます」  と懇願するように言った。家まで来てほしいというのである。うるさいとは思ったが、前に一度行ったこともあるし、筋向いの家だから、気軽に小五郎は女について小川家の座敷へ上がった。  客間に灯が入り、しばらく待っていると園江が酒肴を整えた膳を捧げて入ってきた。 「お寒うございますから」  すすめられて、小五郎は盃を受けた。先程、村塾で八十郎たちが酒をすすめたとき、彼らと一線を画するためにも、我慢して飲まなかった。そんなことで酒を飲みたいと考えながら帰ってきたのである。園江の酒は、ついに断れなかった。空腹には、快い刺激だった。 「両親は、親戚に行って、今夜は帰って参りません」 「では話とは何でありますか」  小五郎は、多少後ろめたい気持もあったが、注がれるままに飲んでいるうちに、いつしか酔いしれて行った。 「わたくしにも盃を下さいまし」  園江が艶然と、膝を崩すように、体を小五郎に傾けて、手をのばした。ほの暗い灯火に照らされた園江の白い顔が、凄味を帯びて、やはり美しかった。 「嫁をとられるとお聞きしましたが、まことでございますか」 「そのつもりです」 「あの人は、およしなされませ」 「知っているのですか」 「|宍戸《ししど》家の富子という方でございましょう。評判の悪い娘と聞いております。必ず後悔なさいます」  富子のことは、江戸にいるとき親戚の赤川半兵衛が持ち込んできた話だ。まだ見たこともない十七歳の娘である。役にも付いた侍が独身のままでいるのは、恰好がつかないという半兵衛のすすめで、漠然とその気になっただけだともいえるが、事は運ばれている。 「およしなされませ」  園江は、酔ったのか、大胆に小五郎にもたれかかってきた。(奇妙なことになったな)そんな醒めた意識が、ときによみがえってくるが、ほとんどは|朦朧《もうろう》として、夢の中での行為のように、小五郎は園江の肩を抱き、そして悶えるその女体を押し倒していた。  安政六年(一八五九)という年があけた早々、小五郎と藩士宍戸平五郎の娘富子との婚礼がおこなわれた。小五郎二十七歳、富子十八歳である。  富子は、小柄で瘠せた女だった。花嫁衣装を脱ぎ、化粧をおとすと頬骨の突き出た素顔は、どうしても二十五、六に見える。働き者ということだった。たしかに翌日から、いそいそと家事万端に立ちまわりはじめた。桂家は和田家と、同じ家を分けている。小五郎の父昌景の時代、玄関を二つ設けて、住居と医院とを区別していたものが、今では和田家と桂家とを分けるのに役立っている。小五郎は、左側の医者用の玄関を使っていた。  玄関は別々でも、家の中は続いている。和田家には小五郎の義兄文譲の未亡人がいる。文譲の先妻の子勝三郎は、小五郎の養子だが、和田家の方でくらしていた。  富子は、いわば姑にあたる文譲の未亡人を、大しておそれるでもなく、自由にふるまった。快活な性質で、少し口数の多いのを除けば、いずれ留守がちとなる桂家の嫁としては、まずまず頼りになる嫁と考えられた。  富子は交際好きらしく、一カ月も経たないうちに、隣近所の人々とすぐに親しくなった。家々に塀をめぐらして、孤絶したような日常生活を送っている武家町では、めずらしい人物がひとり、桂家にやってきたことになる。富子の父の平五郎が、長い間萩を離れて、周防|遠崎《とおざき》の給地で暮らし、彼女もそこで育ったため、田舎の気風が身についていたのだろう。藩内では、やはり萩は本藩の城下町であり、そこに生活する人々は、それなりの都会人だった。富子のふるまいが、近所の武家の家族たちから、何となく軽蔑に似た視線で見守られていることを、桂家・和田家の者は、はじめ気づかずにいた。 「小川様のところの園江様というお方、ご存知でございますか」  ある日、富子が小五郎にたずねた。さすがに、ギクッとしながら、何気ないそぶりで、 「知っているが、それがどうかしたのですか」 「だんな様はどうしておいでですかと、いろいろ訊ねられるものですから」 「そんなことか。ま、小川家だけでなく、近所にあまりふれまわるのはよくない」 「ふれまわったりはいたしませぬ」  富子は、ちょっとむきになった。小五郎は相手にせず書斎に引っ込んだが、何かいやな予感がした。園江とのあの夜のことが、いつも心に残っている。  落ちつかないままに、読書したり、たまに明倫館の道場へ行き、若い待たちに剣術の稽古をつけたりした。小五郎が練兵館の塾頭であったということは、すでに城下になりひびいており、剣術だけでなく、ひとかどの人物として、畏敬の目がそそがれてもいるのだった。しかし、江戸藩邸の大検使を辞めて帰国した彼に、新しい役はすぐにまわってこなかった。機会を失ったのではないかと少しは不安も感じているころ、意外な客が、小五郎をおとずれてきた。  ──村田蔵六。  七カ月ぶりの再会だった。最初は江戸で会った。前の年の六月で、蕃書調所にいる蔵六を、小五郎がたずねて行ったのである。そのときは久坂玄瑞も同行した。玄瑞は、蔵六が江戸で開いていた鳩居堂で、西洋兵学を習ったことがあり、いわば師弟の間柄である。  蔵六について学べと久坂に指示したのは吉田松陰だった。そして小五郎が久坂と共に、蔵六をおとずれて、あることを相談したのも、松陰と関係がある。  小五郎は、村田蔵六という長州人が、蘭学の大家で、宇和島藩に仕官し、さらに幕府の蕃書調所に出仕して、高禄をはんでいることを、そのとき知った。 「長州にもえらい人物がいたものです」  小五郎は、誇らしげに、それこそふれまわったものだった。江戸で蔵六に相談したあることとは、日本海にうかぶ竹島開拓についてだった。蔵六は、そのことで小五郎を萩までたずねてきたという。  こんにち日本人が竹島と呼んでいる島とは違う。明治以前は、|鬱陵《ウルルン》島のことを竹島、現在の竹島は松島とよばれていた。鬱陵島は日本海にうかぶ面積七二・九平方キロの火山島で、あきらかに朝鮮半島に帰属する島である。古来、海賊や漁民の根拠地として使われてはきたが、開拓は困難とされていた。幕末にいたって、この島の開拓を、日本人で最初に言いだしたのは興膳昌蔵という人物だが、領土の認識がなかったための、いわば空論にひとしいものだった。  昌蔵は、萩毛利の分家長府藩の典医で、出身は山城国といわれている。安政のはじめ昌蔵の父が家族をつれて旅行の途次、下関の宿で偶然、天然痘患者を診療したことから、長府藩に乞われ、そのまま一家で長府に住みついた。父子ともに長崎で西洋医学を修めており、蘭方医として優遇されたが、典医といっても嘱託身分であり、正規に召し抱えられたものではない。  昌蔵は、医師としてよりも、理財家らしい資質をもっていて、いわば奇人に類する男だった。何か蓄財に対する野心を抱いてもいる。それは、興膳家が、江戸初期の長崎代官として朱印船をも経営し、巨万の富を築いた末次興善の子孫だと誇称することからきている。  昌蔵は竹島に目をつけた。そこには良好な木材が多く、その沿岸は豊富な漁場でもあるので、開拓して長州藩の収入をはかったらどうかと、昌蔵は考えた。藩が乗り出せば、企画者としての彼に役がまわってくるだろうという打算もある。  昌蔵が、そのことを相談する相手として吉田松陰を選んだのは、なかなかの慧眼というべきだった。松陰は大乗気で、「幕府の許可を得て、この島を開拓すれば、他日、わが藩の遠略に役立つであろう」と、桂小五郎にあてた手紙を、江戸に行く久坂玄瑞に託した。  小五郎は蕃書調所にいた村田蔵六の協力を得て、まず幕府の大目付久貝因幡守に、この件を上申した。皮肉なことに、この因幡守は、後日吉田松陰を評定所で取り調べた役人のひとりである。竹島問題を持ちこまれた因幡守は、大目付の立場で判断できないと、勘定奉行山口丹波守に回した。勘定奉行のところで、検討しているのかどうか、それきり何も言ってこないまま、一年以上過ぎている。  蔵六が小五郎を訪問してきたのは、安政六年の春で、用件というのは、やはり竹島開拓について、その後の経過を報告するためだった。  小五郎は、蔵六を客間の上座に据えて、丁重に頭を下げた。周防|鋳銭司《すぜんじ》の百姓医者といわれた蔵六も、今は幕府に仕官した蘭学者であり、それなりの格式を帯びた人物として、萩城下ヘあらわれたのである。 「幕府が、やっと返事をくれましたよ。一年間も考えたあげくということでもないでしょうがね」  蔵六は、小五郎があまりにもへりくだっているので、照れくさいのか、まくしたてるように説明をはじめた。  竹島開拓の件は、老中久世大和守まで書類がのぼり、一応の判断が示された。趣旨はわかったので、とにかく長州藩から正式な請願書が出れば、検討しようというのであった。 「これだけのことに一年かかったのです。幕府という組織は、錆びついた器械みたいなもので、もはやどうしようもありませんね」 (おや?)と、小五郎は思う。幕府に召し抱えられて、喜んでいるはずの男が、幕府の悪口を、さりげなく言っているのだ。 「わが藩にしても同じことかもしれませんよ」 「いや、長州は違うようです。人材がいる。たとえば吉田松陰先生、あのかたは今どうしておられます」 「それが困っているのです。獄中です」 「え、まだ、獄中ですか」  ──大頭、広額、双眉濃、大耳。  異相といわれる蔵六がおどろくと、ひどく大仰に見える。 「村田先生は、同郷の士でありますから、かくさずに申し上げますが……」  と、小五郎は「同郷の士」という部分に力を入れ、松陰が再投獄される経過を、簡単に説明した。もっとも間部詮勝の暗殺計画など、具体的な事実はぼかし、狂気じみた時勢論が、藩の重投たちを刺激したのだということにした。 「それは危険だ。梅田雲浜はじめ次々に幕政批判の人たちが縛についています。適塾で私と同門の橋本左内も捕えられました。はじめは将軍継嗣問題の余波と思っていたが、どうやらそれだけではないようです」 「江戸も住みづらくなりそうですね」 「京都も大変でしょう。これは容易ならぬ時代ですな。私はそういう政治むきのことには、疎いほうですが、そのくらいの空気はわかる。このことは江戸へ帰っても喋りませんが、松陰先生も気をつけられないと、こういう話は広がるものですから。一度、幕府の取り調べを受けた人はなおさらです。ま、そんなところです」  蔵六は、話を打ち切るように、席を立った。これから鋳銭司の自宅へ帰り、宇和島をまわって、江戸へ出る。療養の名目で休暇をとったのだという。帰国すると、まっすぐ小五郎のところへきたらしい。  竹島開拓に関する老中の回答を報告するための、つまりは長州藩の用件を抱えて、わざわざ帰国したのだろうかと、小五郎は、やや怪訝な表情だった。  翌日、竹島開拓の正式な願書を、幕府に提出するように、小五郎は藩の|行相府《こうしようふ》へ進言した。事は急に動きはじめたかに見えたが、それから間もなく、この問題は打ち切りにするという藩の決定が小五郎に伝えられる。  竹島を日本の領土とみるべきかどうかに疑問があり、また本土から遠隔の小島だから、費用をかけて開発しても採算は立たないのではないかとのことで、行相府の会議の席上、あっさりにぎりつぶされてしまった。長州藩は、妥当な判断を下している。  小五郎にしてみれば、正直なところ、蔵六がたずねてくるまで、竹島のことなど忘れてしまっていた。もともとそれほど気乗りしていたわけでもない。松陰から指示され、ひとまず手を打ってみたという程度のことだ。蔵六にしても、この計画に大賛成で積極的に推進させようと意欲したのではないのである。ただ引き受けた以上、最後まで決着させようとする律義さで動いていたようなものだが、ひとつには長州藩の仕事だという意識もあったにちがいない。このことは、しかしまだ小五郎の気づかない蔵六のひそかな打算だった。  竹島開拓は、結局、興膳昌蔵と吉田松陰という二人の変った人物にふりまわされたかたちで立ち消えになったが、小五郎と蔵六を結びつけるきっかけをつくる役割を果たしたといえる。  興膳昌蔵は、大いに不満だったらしく、長州藩の無気力さを|詰《なじ》っていたが、それから約四年後には、世を去った。殺されたのである。長府沖に近づいてきたイギリス船に石炭を売ろうとしたのを、奇兵隊に見つけられた。みんなが攘夷でいきりたっている時勢も目に入らない軽はずみな行為ではあるが、いずれは外国と交易が始まるのだと先を読みすぎたための奇行ではあった。奇兵隊の暴れ者に昌蔵が斬殺されたのは、文久三年六月だった。──  蔵六が、萩に小五郎をたずねてから、昌蔵が殺されるまでの四年間に、世の中は激しく変動した。まずは大獄の嵐が吹き荒れた。  蔵六から警告されて、小五郎は松陰の言動にいちだんと不安を覚えるようになった。獄に入ってからも、門弟たちを使って、さまざまな政治行動を展開しようと焦っているのだった。  野山獄では自由に読み書きできるし、面会も許される。それが松陰を余計に駆りたてるのである。  江戸から久坂玄瑞が帰ってきた。  彼は、帰国するとき、高杉晋作からも、松陰のことをくれぐれもよろしくと頼まれている。高杉・久坂といえば、松下村塾の双璧といわれた俊才で、これも師ゆずりの過激者として知られているが、この当時は、まだ冷静な目をそなえていた。長州藩そのものがまだ討幕思想などとは無縁のころである。  松陰が老中間部を大砲で吹っとばそうと騒いだとき、高杉・久坂はあわてて、小五郎に手紙を出している。とり鎮めてくれというのだった。二人は、松陰に対しても、時期が悪いという理由で、計画に賛同できない旨をはっきり告げた。松陰は、その手紙を、獄中で受け取った。そして、錯乱状態におちいるのである。弟子にそむかれた怒りとかなしみで、食事を断ち、餓死しようとさえした。母親の滝にさとされて、それは思いとどまったが、絶望的な言辞をつらねた手紙を、獄中から出しはじめた。絶交状のようなものである。  門人や友人のほうから、松陰と絶交した者もいる。吉田栄太郎がそうだった。杉家の隣りに住んでいる足軽の子だが、のちに士分に引きあげられる。池田屋に新撰組が斬り込んだとき、闘死した吉田稔麿である。彼は、間部暗殺計画一件いらい、最後まで松陰と師弟の関係を断った。  松陰の親友という立場にいる来原良蔵などは「松陰こそ功業をむさぼるものだ」と罵声を浴びせるほどの激しい絶交宣言だった。それは、ますます松陰を嘆き狂わせた。そんな良蔵のやり方を聞いたとき、小五郎は眉をひそめた。気持はわかるが、友人としては思いやりがなさすぎるのではないかという気がする。  良蔵が赤の他人なら、そうした人間もいるのかと、いくぶんは|疎《うと》ましい気持でながめるだけかもしれない。良蔵が、自分の妹婿であるという事実に、小五郎はあらためて苦痛を覚えた。妹のハルが哀れに思えるから、彼に対する嫌悪感をできるだけ抑えようとしている。それが苦痛なのだ。  松陰と絶交する者もいるが、逆に同情して、師を慰めようとする人たちも少なくはなかった。彼らはいろいろな情報を松陰に知らせてやる。松陰も次第に落ち着きをとりもどすかに見えたが、そうなればなったで、獄中からの言論活動は活発になる。言論だけでなく、実践行動をともなう。自分は動けないから、近づいてくる門弟にそれを指令するのである。  松陰の新しい計画は「伏見要駕策」の実現だった。これは大高又次郎(播磨)・平島武二郎(備中)という二人の志士が、ひそかに萩をおとずれ、伝えて行ったものである。藩主毛利慶親が、参勤のため東上する途中を待ち伏せ、その|駕籠《かご》を伏見に停めて京都へみちびき、三条実美・大原三位ら反幕派の公卿と会わせ、長州藩を討幕の陣営に引き込もうという計画である。また長州にその気があれば、大原三位が萩に西下して、いつの日にか討幕の旗揚げをしてもよいという。  長州は、しかしこの計画を持ってきた大高たちに玄関払いをくわせた。妄想だというのである。大高は、立ち去る前に、そのことを入江杉蔵に話した。杉蔵が、それを獄中の松陰に報告する。 「結構な計画ではないか、藩がやらなければ、有志の士で実行すればよい」  松陰は、さっそく大原三位にあてて手紙を書き、杉蔵にそれを届けろと命じた。  杉蔵は長男で、老母の面倒をみる責任がある。そこで養子に出ている弟の野村和作が代わりに行くことになった。ところが、これは兄弟の母親が、岡部富太郎に話したことから、露見してしまった。岡部は村塾の同窓生なので、母親も気を許したのだろう。しかし、この無謀な行動を岡部は見逃せなかったのである。  藩政府も肝を冷やしながら、杉蔵と和作を投獄してしまった。幕府にわかったら、藩そのものが、どんな目に遭わされるかわかったものではない。 (何とかしなければなるまい)  小五郎は、ある決意を抱いて、久坂玄瑞をたずねた。 「松陰先生の過激な言動をやめさせないと、いずれ後悔することになるまいか。先生にとっても、わが藩にとっても、とりかえしのつかない事態をまねく」  小五郎は、久坂玄瑞と会うなり、叱るような調子で、めずらしくまくしたてた。玄瑞は、松陰の妹|文《ふみ》の夫である。義弟なら何とかしろといった意味をこめている。 「高杉にも頼まれて、きのう野山獄にたずねたのですが、ちょっと手がつけられません」 「面会したり、手紙を出したりするからいかんのだ。しばらく交際を断って、一人静かな獄中生活を送ってもらうようにすべきだ」 「絶交するのですか」 「一時的にでも、それは仕方がないだろう。このことは、私からの意見として、君から梅太郎さんに頼んでくれんか」  梅太郎──松陰の実兄(のちの杉民治)である。結局、梅太郎が、肉親として、松陰に接近しようとする人々を説得し、当分の間交わりをひかえるように手を打つことになった。 「ちょっと|酷《むご》い話ですね」  玄瑞が言ったことが、いつまでも小五郎の耳に残った。(桂という男、冷酷な奴だな)と、そんな響きがある。理屈はわかっていても、梅太郎だって同じことを考えているかもしれない。 「やむを得んではないか」  小五郎は、自宅の二階に寝そべり、天井をながめながら、ひとりごちた。新緑の光が、まぶしく部屋にさしこんでいる。  松陰のことで、玄瑞や梅太郎らと走りまわっていたこの数日、撃剣の稽古もやめているのに、ひどく疲労を覚えた。胃腸の調子がまた悪くなっている。  その日、同じ江戸屋横丁に住んでいる蘭方医の青木|周弼《しゆうすけ》に診察してもらうと、温泉にでもつかって、しばらく静養したらどうかとすすめられた。藩政府から召し出される様子もみえないので、このさい|深川《ふかわ》の湯治場に行こうかと考えた。現在の湯本温泉である。  五月十三日、直目付の長井|雅楽《うた》が、いやな命令をさずけられて、江戸から帰ってきた。幕府の評定所から、江戸藩邸に届けられた吉田寅次郎の召喚状を、雅楽はたずさえている。翌十四日の午後、杉梅太郎が、その命令を野山獄にいる弟の松陰に告げた。十日後の出発である。  松陰は、意外なほど落ち着いていた。小五郎がとった一時的な絶交の措置は、それなりの効果があったわけで、獄中の松陰は、読書に励んだり、眠りをむさぼる日々が続くこともあった。そんなとき、突然、江戸送りの命令である。面会をさしひかえていた門弟たちは、あわただしく野山獄に駆けつけ、松陰と別れを惜しんだ。  何のために江戸へ呼び出されるのかわからない。まさか死刑になるなどとは思えなかったが、だれの胸にも、かすかに不吉な予感はうごめいていたのだろう。久坂玄瑞の発案で、門下生のうち、かつて画家志望だった松浦松洞が、松陰の肖像画を描いた。小五郎が、野山獄をおとずれたとき、松洞は、その五枚目を描いているところだった。松陰は身じろぎもせず、正座の姿勢をたもっていたが、小五郎を見ると、ほんのりと微笑をおくってきた。思わずほっとする。  だが、次の瞬間、小五郎は、その場の雰囲気に、何かぞっとするものを感じ、松陰に返していた自分の笑い顔が、|強《こわ》ばっていくのをどうしようもなかった。皆が、無意識のうちに、松陰の死の準備をしているように見えたからである。 「それは危険だ」  と言った村田蔵六の言葉が、不意に思い出された。死を嗅ぎわける動物的な本能が、小五郎にはあったのではないかと思われる場面が、それからのち何度かある。  二十五日早朝、松陰は、腰縄を打たれて護送駕籠の人となった。駕籠は、梅雨にけむる萩城下を、しのぶように出て行った。  小五郎が、江戸詰めを命じられて萩を発ったのは、松陰東送から四カ月後の安政六年九月十五日だった。江戸へ着いたのは、十月十一日である。  その間、松陰は評定所での取り調べで、間部詮勝暗殺計画を自白し、不利な立場に追いやられていた。すでに九月末には、安島帯刀に切腹、茅根伊予介、鵜飼吉左衛門に死罪、鵜飼幸吉に獄門と、水戸関係者への断罪がおこなわれている。小五郎が江戸に着く四日前の十月七日には、橋本左内、頼三樹三郎、飯泉喜内の三人がそれぞれ死罪を申し渡された。安政大獄の犠牲者が次々と刑場に消える陰惨な日々である。  せいぜい遠島ぐらいだろうと楽観していた松陰も、橋本左内らの処刑を知ってからは、どうやら死をのがれそうにないという気配を悟ったようだ。 「桂さん、松陰先生のこと、よろしゅう頼みます」  高杉晋作が、浮かぬ顔で、小五郎の前に立ったのは、十月十七日である。旅支度をしている。 「帰るのかね、萩へ」 「帰らされるのですよ」  いかにも不服そうに、アバタ面をしかめてみせた。小五郎と入れ替りに江戸へ出てきた晋作は、幕府の昌平黌で学び、剣術は、練兵館に通っていた。萩では新陰流の内藤作兵衛に習っていたから、小五郎と同じ道を歩んでいる。松陰を師と仰ぐ立場も同じである。  獄中の松陰の求めに応じて、晋作は金品を送りつづけた。きわだって松陰に接近しようとしている晋作のことが、江戸藩邸でそれとなく噂にのぼっている矢先の帰国命令である。父の小忠太が手を打ったにちがいない。  間部暗殺計画に反対した晋作は、松陰から罵声を浴びせかけられるような手紙をもらっている。師にそむいたことに対する、せめてもの償いというつもりもあったのだろう。晋作は、江戸へ送られてきた松陰を待ちかまえていたように、献身的な配慮をめぐらした。松陰の彼に対する気持は、とっくにほぐれている。突然の帰国命令に、晋作はおどろいたが、松陰の落胆も大きかった。 「この災厄にあっているとき、君が江戸にいてくれることは非常に幸せであった。君の厚情は忘れない。急にご帰国とは残念でならない」  松陰から惜別の手紙を受けとった晋作は、心を湿らしながら、小五郎に後事を託して、江戸を出て行った。松陰の処刑は、晋作が郷里へ向かう旅の間に実施されるのである。──  松陰への後ろめたさを感じているのは、小五郎にしても同じだった。萩の野山獄にいるころの松陰の言動が激しく、落ち着かせるために門弟たちとの交流を断ち切るようにしたのは、小五郎だということになっている。 「忠義と申すものは、鬼の留守の間に茶にして呑むようなものでなし。……桂は僕の無二の同志友だが、先夜、此の談に及ぶことができなかった。今もって残念に思っている。……」  小五郎を非難する手紙を、松陰はだれかれとなく出している。 「桂へ左のように伝えて下さい。桂小五郎よ、君は長州藩のために身を投げるつもりだと、先日僕の前で豪語した。しかし国事は傍観して済むものではないことを考えておくがいい。時を待つか、|諫死《かんし》するか、それしかないのだ。僕は諫死する道を選ぶ。……この手紙は、桂に見せてもらうつもりだったが、書いているうちにその気がなくなった。読みおわったら、焼き捨てて下さい」  これは岡部富太郎に与えた手紙である。直接、憤懣をぶつけるのではなく、間接的に人を通じて自分を責めてくる松陰のやり方に、小五郎はひどく苦痛を感じているのだった。  高杉晋作は、江戸にいる間、松陰の面倒を見、感謝されることで、ある程度、負担を救われる思いで萩に帰って行ったことだろう。  小五郎は、松陰の怒りや失望をかい、接触の機会もなく、心の整理がつかないまま、十月二十七日を迎えた。  その日、評定所で松陰に対する死罪申し渡しがおこなわれたとき、長州藩の公用人小幡高政が立会った。小五郎は、藩邸に帰ってきた小幡の口から、その様子を聞いた。 「実に立派でした。態度は従容として、いさぎよくということに尽きる」 「何か言いのこされませんでしたか」 「私にむかい微笑をふくんで一礼されただけですが、評定所のくぐり戸を出るとき、朗々と吟じられた詩が辞世と思われます。忘れないうちにと、ここに書きとめておきました」  小幡は、懐紙を取り出して見せた。     吾今国の為に死す     死して君親にそむかず     悠々たり天地の事     鑑照明神にあり 「このとき、幕府の役人たちは、まだ席に着いたままでした。粛然として、襟を正すかのように、耳を傾けていたようです。肺腑をえぐられる、そんな思いでした」  護卒たちも、制止するのを忘れて、呆然と突っ立っていたが、松陰の朗誦が終って、はじめてわれにかえり、狼狽しながら駕籠に入るようにうながしたという。  評定所は現在の千代田区丸の内一丁目、永楽ビルから工業倶楽部の建物あたりにあった。松陰の身柄は、ここから伝馬町に移される。伝馬町は、大伝馬、小伝馬、南伝馬と分れる。牢のあった場所は、小伝馬町で、現在の中央区日本橋小伝馬町一丁目にあたる。小伝馬町交差点の近くにある十思公園の一隅に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」という松陰の辞世を彫った記念碑が建てられている。  この辞世は、松陰が牢内で書いた『留魂録』の冒頭に掲げられている歌だ。『留魂録』は二通作成され、一通は行方不明になった。松陰はそういう事故を予想して、あとの一通を同囚の沼崎吉五郎に託した。明治九年に赦免されるまで、それは吉五郎が大切に匿し持っていたのである。だから「身はたとひ……」の歌を、処刑当時、人々は知らずにいたと思われる。評定所で、小幡高政が聞いた漢詩を辞世として、小五郎は聞いたのだ。  評定所から小伝馬町の牢に移された松陰は、すぐに牢内の斬り場(処刑場)で首を打たれた。正午までには、すべてが終っていた。 「松陰先生の遺体はどうなるのかな」  小五郎は、そばにいた尾寺新之丞に話しかけた。松下村塾の出身である。後年、奇兵隊で活躍、維新後は内務省に入り、やがて伊勢神宮の神官をつとめた。 「下げ渡してもらうように頼んでみましょう」  新之丞が、しごく簡単に言う。彼は高杉晋作と共に獄中の松陰に差し入れなどするうちに、小伝馬牢の獄卒金六という者とも顔なじみになっている。またあの男に、いくらかの金をにぎらせれば、うまく取りはからってくれるだろうと考えているようだった。金六から牢役人に話したが、思うようには、ことが運ばなかった。 「桂さん、どうしたものでしょうか」  尾寺と飯田正伯が、顔をそろえて、麻布の下屋敷にいる小五郎をたずねてきたのは、処刑の翌日である。飯田も同じく松陰門下の一人、この男は、万延元年七月、浦賀の富豪を襲って軍用金を調達しようとして捕えられ、二年後に獄死している。 「獄卒など通じるから、かえってむつかしいかもしれん。やはり牢役人にかけあい、金も直接渡したほうがよいのではないか」  と小五郎は、あらためて五両ばかりを尾寺に渡した。 「あす二十九日の午すぎ、|小塚原《こづかつぱら》の|回向《えこう》院で遺体を渡す約束をしてくれました」  夜になって、飯田が伝えてきた。  打ちあわせ通り、小五郎は藩邸から伊藤利助と二人で回向院に行き、待っていると、尾寺と飯田が大きな|甕《かめ》と墓標にする自然石を積んだ荷車をひいてきた。  回向院は、荒川区南千住に現存する。小塚原刑場での処刑者を埋葬するため寛文七年(一六六七)に建立された寺である。小伝馬町の牢で処刑された遺体も、約五キロばかり離れたこの回向院に運ばれる。  役人があらわれ、境内の西北の一隅にあるワラ小屋に四人を案内した。すでに粗末な棺桶がひとつ据えてあった。 「吉田|氏《うじ》の死体です」  役人がゆびさすと、尾寺新之丞が、走り寄ってその蓋をとった。首と胴の離れた人間の遺体が、無造作に投げこまれている。全裸にされていた。衣服は、刑場で死人を扱う「小屋者」たちの手で剥ぎ取るのが習慣である。彼らの役得ともいえる。  どす黒く血に汚れた首は、まさしく松陰だった。 「先生!」  尾寺が、泣き声で首を取り出し、乱れた髪を束ねた。小五郎は、汲んできた水をそそぎ、松陰の顔や身体を丁重にぬぐい清めた。伊藤が、杓の柄を折り、それを芯にして、首と胴をつなごうとすると、 「重罪大の死体は、後日検視があるかもしれぬ。首をつないだことがわかると、拙者らが咎められるので、そのままにしておいてくれぬか」  役人は申し訳なさそうに言い、四人が頷くのを確めてから、足音をしのばせるように立ち去った。  小五郎は|襦袢《じゆばん》を、飯田は下衣を脱いで、松陰に着せ、伊藤は帯を解いてそれを結んだ。「おれの着物は、汚れたままじゃ。先生が迷惑がられるじゃろうから、やめておく」  尾寺は、そう言いながら、松陰の首を抱くようにして、小五郎たちが働くのを見ている。ようやく衣類にくるまれた松陰の胴体を、小五郎がかかえあげ、甕の中におさめた。まるで子供のような松陰の軽い体重に、強い衝撃を覚えて、思わず小五郎は「ああ」と声を洩らした。  首を納め、甕の蓋をすると、四人は、あわてた動きで、それを小屋から運び出し、荷車に載せると、墓地へ急いだ。橋本左内の墓の左隣りに穴を堀り、甕を埋めて土をかぶせ、石を据えた。しばらくは無言のまま、その前にたたずんでいる。松陰の体重の、あまりにも軽すぎる感触が、いつまでも小五郎の手の中にのこった。それは、人の命のはかなさにおどろくということではない。そのような矮小な肉体しか持ち得ない人間が抱く巨大な思想のふしぎさに打たれたということであろう。幕府が怖れたのは、松陰のその思想にほかならなかった。 「独立|不覊《ふき》三千年の大日本、一朝人の|覊縛《きばく》を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。|那波列翁《ナポレオン》を起してフレーヘード(オランダ語で自由の意)を唱へねば腹悶|医《いや》し難し。……今の幕府も諸侯も最早、酔人なれば扶持の|術《すべ》なし。|草莽崛起《そうもうくつき》の人を望む外頼みなし」  絶叫に近い同志への呼びかけである。 「草莽崛起か」  小五郎は、ふと呟く。松陰の望みは、在野の人々、さらには民衆へ託されたが、「草莽もまた力なし」と嘆いている。 (問題は、もうここまで進展しているのか)  小五郎には、今さらそんな思いもある。新しい知識と技術を求めて飛びまわっている彼の頭上を、吹き過ぎようとしていた安政大獄の嵐は、最後に思いがけなく松陰の刑死というひときわ猛々しいツメ跡を身辺にのこして、ようやく遠ざかろうとしていた。  大老井伊直弼が、水戸浪士を中心とする暗殺団の手にかかり、降り積った春の雪に果てたのは、万延元年(一八六〇)三月三日であった。吉田松陰が、処刑されて四カ月後のことである。ひとつの嵐がおさまったあと、こんどは逆の方向から新しく猛々しい疾風がつのりはじめている。それは、すでに小五郎の足下をもすくいかねない風速で吹きおころうとしていた。  幕末の暗殺事件は、井伊直弼の殺害によって、狂気の火を点じたように続発する。暗殺とは、政治的な目的を遂げるための非合法かつ陰惨な手段だが、ほとんどは無意味に終っている。それは現代にも通ずる不毛のテロ行為である。しかし、この大老井伊の暗殺だけは、きわめて稀な例外といえる結果をもたらしたとする見方もある。井伊という人物の独裁者としての色彩が、あまりにも濃厚だったせいであろう。  井伊直弼は、幕末における大型政治家の一人にはちがいないが、しょせんは徳川幕府に限定される小世界の視野を超えるほどの人物ではなかった。徳川家即国家という錯誤した政治認識に躍った能吏でしかない。その能吏の自己過信のために、おびただしい有為の人材が、この世から消された。一徳川家のための犠牲としては大きすぎた。  恐怖政治を推進した井伊の死によって、果して情勢は動いたとみるべきだろうか。それはそうではないのかもしれない。つまり安政大獄を頂点とする幕府の暴力に対する反作用の激発によって、情況はわずかに切り拓かれたと理解すべきものであろう。少なくとも長州藩においてはそうであった。  小五郎たちが、松陰の遺体を回向院に埋葬したあと、さらに「松陰二十一回猛士」「吉田寅次郎行年三十歳」などを刻んだ墓標があらためて建てられた。この費用は二十両ばかりかかった。それは重役周布政之助の配慮により、藩の公金でまかなわれた。松陰の死を惜しむ藩の意志が、そこに覗いている。  回向院に建てられた松陰をはじめとする志士の墓が、墓府の手で打ち壊されたということを間もなく小五郎は耳にした。すでに思想家個人と幕府の問題ではなくなっている。長州と幕府の対立関係に事態が発展して行くのを、小五郎は敏感に意識したのである。  小五郎とは別に、高杉晋作や久坂玄瑞ら松陰の門下生を中心とする若者の幕府に対する憤激も、長州藩の深部の意志につながっていた。遠く関ヶ原役の遺恨など持ち出すまでもなく、外様大名として中央から疎外された毛利氏の屈折した思いが二世紀以上にわたって蓄積されている。西南雄藩の一つとして擡頭しつつある長州は、たしかに幕府への対立者であった。  しかし、藩内には多様な考え方が、なお存在する。このころから少しずつ動き始めた「航海遠略策」もそれである。幕府と朝廷との確執が深刻化した情況を打開しようとする方策として示されたものだ。その内容は、要するに公武合体、つまり幕府と朝廷との間をとりもって国内の紛争を鎮めようとする妥協案にほかならなかった。これに対して、非妥協の立場をかためる人々もいる。小五郎は、いつかその先頭に立つ人物であった。  小五郎の危機感は、はじめ外国にむかうものだった。砲術や軍艦建造に寄せる彼の関心は、ペリー来航いらい、あきらかに外敵から身を守るための、いわば衝動的な反応だったといえる。  吉田松陰を通じて、安政大獄を身近に体験したことで、小五郎の徳川幕府への認識は急変した。彼の危機感は、幕府へ居直ったのである。それは以前から、彼の中で徐々に育っていた幕府への不信感でもあった。たとえば嘉永六年、大森海岸に警備出動した長州藩に、米艦が去るやいなや撤兵を命じてきたときがそうである。他藩に江戸湾の情況をさぐらせたくないという幕府の意向に、むしろあきれたものだった。 「国を守ることより、徳川家の安泰を願うとはな、命運すでに見えたりということか」  斎藤弥九郎が、吐き捨てるように言ったことが、まだ小五郎の記憶に新しい。今、小五郎の胸中にうごめいているのは、日本という国家にとって、幕府の存在は有害であるとする、かなり明確な論理であった。   航海遠略策  長州藩の軍艦丙辰丸が江戸品川沖に着いたのは、万延元年六月の下旬だった。  小五郎にとって、丙辰丸は何となくなつかしい船である。その建造に直接たずさわることはしなかったが、船匠高崎伝蔵を伊豆から招いたりするなど、ずいぶんと骨を折っている。いわば生みの親といってもよいだろう。小五郎はしかし、すでに軍艦を日本人の手で造ることに見切りをつけてしまっている。前年五月、長州藩は第二隻目の自家製軍艦庚申丸の建造に着手した。丙辰丸とまったく同じ帆船である。  小五郎は反対だった。大金をかけて幼稚な軍艦を造るより、外国製の蒸気船を買って、それを武装したほうが、ずっと役に立つ。いや、それでなければ目下の急に備える戦力とはなり得ないのだと考えている。  こんなとき小五郎は、正面から建造に異論をさしはさむことはしなかった。それが完成してしばらく経ったころ、上書を提出した。蒸気船も必要だから、それを外国から購入するように進言し、ついでに新式小銃が長崎あたりで入手できるようだから買っておくべきだと強調した。さらにもう一つ、小銃による洋式調練を藩士にほどこすようにとの意見も書き加えている。  そのころ、長州藩の軍制は、神器陣といわれる古めかしい戦闘法にもとづいていた。これでも戦国時代と変らない軍制を、天保年間いらい新しくしたつもりである。  神器陣は、大砲を中心に据え、その左右に銃隊をおき、後方に剣槍隊を配備した陣形をとる。大砲と小銃で一斉射撃をおこない、その硝煙をくぐって抜刀隊と槍隊が、崩れる敵陣へ突っ込むというものである。小銃という武器を積極的に組み入れたところが新しいといえばいえる。しかし、武士たちは、銃を持つことを嫌った。飛び道具は、足軽の役目で、武士たる者はあくまでも剣槍をふるって勇ましく戦うものだという古い観念から抜けきれない。そこでこの陣形に藩主から「神器陣」と名づけてもらい、かろうじて武士たちの抵抗をのぞいたといういきさつがある。  江川太郎左衛門に小銃術を、また手塚律蔵の又新塾で英語を学ぶかたわら洋式調練を少しばかりかじっただけの小五郎の目にも、神器陣などという軍制が、いかに旧式なものであるかははっきりわかるのである。  これを新時代にふさわしい内容に切り換えるためには、専門家を必要とした。小五郎は、はじめ自分が知識を身につけて、西洋兵学者になることを真剣に考えたのだ。しかし江戸における数年間の彼の行動は、あれこれと手さぐりするだけに終っている。すべては中途半端に、新知識の表皮をなでたにすぎない。小五郎も、そのことを自覚していた。つまりは、みずから専門家となり技術者となる目的を放棄しているのである。  丙辰丸建造のとき、船匠高崎伝蔵を|招聘《しようへい》したように、西洋兵学にくわしい軍事専門家を長州につれてくればよいのだった。どうやら自分の役柄は、そのようなことであるらしいと小五郎は思いはじめている。その軍事専門家として、彼は最初、又新塾の手塚律蔵を考えていた。しかし、律蔵という人物は、傲岸な性格で、他への批判的言辞が目立つ。新知識を持つ人の目には、旧態から脱しきれない世間がいらだたしくもうつるのだろうが、そればかりでもないという気がする。  そんなとき、村田蔵六が、急に小五郎へ接近してきた。律蔵とは対照的な印象を与えられる蔵六に、小五郎は強い関心を覚え、長州藩への仕官をすすめると、意外なほど簡単に承諾した。宇和島藩に百石で召し抱えられていた人物が、わずか二十五俵の待遇で承知してくれた。それが四月のことである。  丙辰丸が萩から六十日の航海を終って江戸へ入ったころ、蔵六は、すでに桜田藩邸で兵書の講義をしていた。 「村田先生」  と小五郎は、蔵六のことをうやうやしく呼ぶ。 「はい」  蔵六は、別に照れるでもなく、また尊大とも見えない自然な感じで答えるのである。もともと医者だから、そういう尊称にはなれているのだろう。  小五郎が、皆の前で、多少わざとらしく蔵六を引き立てるのは、藩士たちへの思惑もある。何しろ蔵六は周防の百姓である。遺されている幕末の戸籍帳を見ると村田家は「本百姓、田畑数三反六畝五歩」とある。蔵六の父孝益は、勘場(代官所)付きの医者だが、身分は要するに百姓でしかないのだ。 (たかが百姓あがり)  そのような目で蔵六を見ている藩士も少なくない。いずれその非凡な学才に気づけば、彼らの態度も変ってくるにちがいないが、当分は心ない軽蔑の視線にさらされることは覚悟しておかねばなるまい。そう思って、小五郎はことさら「村田先生」を連発する。蔵六は超然として、表情を動かさない。 「藩の軍艦が入りました。見に行きませんか、村田先生」 「はい、お供いたします」  と気軽に立ち上がった。  丙辰丸は、品川沖に小さく浮かんでいた。 「あれでは、戦争もできません。萩からここまで六十日かかっております」  と小五郎は船をゆびさしながら言った。 「練習船と思えばよいでしょう」  蔵六は、相変らず無表情に、沖をながめて、呟くように答えた。小舟が近づいている。やがて三人の侍が上陸してきた。その中の頑丈なからだつきの男が、艦長の松島剛蔵である。性格も激しい。藩内急進派の一人で、のちアメリカ商船に攘夷の第一弾を撃ちこんだ庚申丸の艦長は剛蔵である。元治元年(一八六四)、藩内保守派の手で投獄され、斬首の刑に処せられる。  蔵六を、小五郎から紹介され、軽く一礼したが、いきなり腹立たしい声を剛蔵はあげた。 「桂さん、高杉に会われましたか」 「藩邸に来たとは聞いたが、まだ会うちょりません」 「海軍修業などと、大騒ぎしながら、もう軍艦は嫌だとぬかして、勝手に下船してしまいました」  高杉晋作のことである。航海中、ひどい船酔いに悩んだ彼は、性にあわないなどと言って、艦長の許可も得ないまま丙辰丸を離れたらしい。 「他の者へのしめしがつかない。やかましく言うて下さい」  剛蔵がしきりに憤懣を洩らしていると、 「では私はこれで」  と蔵六は、さっさとその場から立ち去った。 「愛敬のない男ですな」  自分のことを忘れて、剛蔵は、遠くなって行く蔵六の後姿を見ながら言う。 (村田先生も、長州の変な連中にとりかこまれて、胆をつぶしていることだろう)  小五郎は苦笑しているが、その蔵六にしても、変っていないわけではない。蔵六の実力を、まだ藩の者は十分に知らない。彼を仕官させるためには、重役たちを口説くのにかなり苦心した。本人もあのような待遇で、よく承知してくれるものだと、小五郎も内心おどろいているのだ。  蔵六にしてみれば、いかに優遇されても十万石の宇和島藩ではどれほどの働きもできないことを知っている。やはり西南雄藩のひとつとして、ペリー来航いらいにわかに脚光を浴びている三十六万九千石の長州で、活躍の舞台が与えられるものならそのほうに生甲斐を感じるのだ。それに何といっても長州は蔵六の故郷である。また幕府の蕃書調所で、本に埋れてくらすよりは、自分の知識を実際に役立てる場がほしい。禄高だけを比較してはおれないのである。進んで小五郎に接近し、長州藩に仕官する道を選んだところに、村田蔵六という人物の並々ならぬ志があった。  しかし、蔵六の出番は、この時期、まだ回ってこなかった。 「桂さん、一人会ってもらいたい人物がいるのですが……」  松島剛蔵が、急にあらたまって言った。声を低めているところをみると、ただごとではなさそうだった。 「水戸藩の|西丸帯刀《さいまるたてわき》という男、気概に富み、有為の才ありと聞き、きのう会って話してみましたが、なかなか面白い。むこうも桂さんに会いたいと言うちょります」  剛蔵に帯刀を引き合わせたのは、肥前藩の草場又三という者である。剛蔵と又三は幕府の昌平黌で学んだころ知りあい、以後交際をかさねている。 「草場も西丸も尊王攘夷の志士であります」  剛蔵は、小五郎の耳もとで、ささやくように、そんなことを言った。 「水戸の西丸帯刀、一度その名を聞いたことはあるが……」 「でしょう。一見旧知のごとく、互いにその志を語り、時事を談じましたが、痛快でした。幕府に対して、何かたくらんでいるようです」  剛蔵の話は、次第に不穏な内容に入って行く。井伊大老を暗殺したあと、さらに続いて水戸藩の者が過激な行動に出ようとしているというのだ。 「会いましょう」  小五郎は、決意したように、剛蔵に横顔を向けたまま頷いた。 「そうですか、では明日にでも場所を連絡しましょう」  明るい声を出して、剛蔵は少し離れて待たせていた二人を連れ、小五郎の前からいなくなった。  漠然とした危険にむかって、一歩踏み出した気持である。かつて覚えたことのない不安が、小五郎の胸に充満していく。 (水戸の連中は、次に何をしようというのだろう)  それは、まだ、小五郎にとって、好奇心程度のものだが、彼らの行動に関心を持つこと自体、すでに危険を冒しているという自覚があった。  三日後、下谷の料亭|鳥八十《とりやそ》で、小五郎は西丸帯刀に会った。剛蔵がいった通り気さくな人柄で、議論好きだが、嫌味はない。  その夜は、剣術や学問の話をしながら、酒を飲んだ。久しぶりの痛飲だった。別れぎわに、帯刀が言った。 「桂さん、水戸と長州の提携について、少々こみいった話をしたいが同意願えますか」 「望むところです」 「場所は料亭などでないほうがよい。壁に耳ありと申しますからな」 「丙辰丸なら海の上だ。大声で語り合えますぞ」  そばにいた松島剛蔵が、すかさず切り出し、七月二十二日、そこで密議をこらすことに決めてしまった。  約束の日、水戸藩からは西丸帯刀のほか越惣太郎、岩間金平、園部源吉の三人が丙辰丸にやってきた。長州側は、小五郎と剛蔵が席に着いた。 「われらの志は、当面破約攘夷に尽きる!」  発言は、水戸藩士たちのそのような熱弁に終始した感じだった。剛蔵は大きく頷いてばかりいる。小五郎は、腕を組んで静かに聞いているが、剛蔵のようには頷かなかった。 「洋夷どもを追い出すには、まず幕政を改革しなければならん」  帯刀が言った。 (改革か)  ふと、小五郎は首をかしげる。  水戸を脱藩した浪士たちの過激な行動の精神的背景は、水戸学におかれているといってよい。朱子学を中心に国学、神道を総合した水戸学は藤田東湖、会沢正志斎らによって完成された。これが水戸の尊王攘夷論を生み出している。しかし、水戸学は基本的には討幕論にまで踏みきれず、やや観念論的で、最終段階でそのエネルギーを失ってしまっている。つまり長州藩にあって歴史的に反幕意識が潜在しているのにくらべ、水戸藩にはそれがない。むしろ、水戸の御老公といわれた徳川光圀に象徴されるような、尊王は説いても、一方では親徳川幕府という底流から脱け出せないためであろう。  西丸帯刀たちの唱える「破約攘夷」とは、幕府が朝廷に無断で結んだ条約を破棄して、外国を撃つという直線的な論理だ。そのためには、日本に駐在している外人を襲って恐怖を抱かせ、一方では開国を進める幕府の要人を除いて、幕政の方向を改めさせようというのであった。言うことは過激だが、幕府機構そのものは温存しようとする限り、現状改革にしかすぎない。  小五郎は、幕府の存在そのものに疑いをもちはじめている。幕府は日本という国家のために有害無用のものだとする立場からは、幕政改革などなまぬるいとしかいえないのだ。しかし、この時点で、討幕という目標や方法が小五郎の中に確立されているわけではないから、しょせんは腕を組んで水戸藩士たちの激論に耳を傾けているばかりだった。 「破約攘夷」についても、小五郎はやはり首をかしげる立場にいる。長州藩内にも、それを主張する者が少なくない。久坂玄瑞らがそうである。現実の問題として不可能であり、もし幕府がそれを実行したとすれば、戦争になるだろう。惨敗して清国と同じ運命をたどることになりかねない。  むしろ外国には進んで国を開き、彼らの文明を吸収して、新しい力を身につけ、やがて欧米諸国と対等に交わる。これは吉田松陰の考え方でもある。小五郎はしかし、今それを口にすれば、攘夷派から猛攻撃を受けることを知っているので胸にしまいこみ、とにかく軍艦や小銃を外国から買うようにとだけ藩に進言しつづけた。みんなは、それを外国に備えるものだと思っている。軍備の近代化を主張する小五郎の仮想敵は、幕府そのものである。── 「桂さん。われわればかりに喋らせんで、何か意見を吐いてもらいたい」  西丸帯刀が、やっと気づいたように、小五郎の沈黙を|詰《なじ》った。 「いちいちごもっともな所論に惑心しております」  ここで論争することもないと思って、そんな儀礼的なことを言ってしまった。 「役割は二つある」と帯刀が力をこめて小五郎に向きなおった。「行動を起こして幕府を混乱におとしいれること、その混乱に乗じ、またそれを収拾するかにみせて幕政を改めさせること、つまり成破いずれかだ。成をとるか、破を選ぶか、これはまず長州側で決めてもらいたい。長州が破を受け持つというなら、水戸は成の役割に付く。いかに」  そう言われて、小五郎はすぐには返事をしなかった。過激な行動に走る破をとるつもりはまったくない。だからといって、成をと言ってしまえば、水戸と一対となって政治行動を開始することになる。成破いずれかを決める前に、このような盟約の是非を考えなければと思ったのである。 「どうです」  と、帯刀が、小五郎の返事をうながした。 (こんなつもりではなかった)  正直なところ、小五郎は当惑していた。しかし、水戸側の四人の気魄に押されて、もう逃げようはなかった。 「では、成を引き受けましょう」 「よし、それで決まった。水戸は身命を賭して、破を遂行するでありましょう」  それから酒になった。 「われわれだけの盟約では、まだ水戸藩と長州藩が、本当に手を結んだことにはなりませんな」  小五郎は、この会合が個人的な集まりであり、自分が藩を代表してものを言ったのではないことを念のためはっきりさせておきたかった。 「たしかにその通りです」と、帯刀は頷いた。「そこで考えたのだが、尊藩の手元役周布政之助殿、また直目付長井雅楽殿、これはなかなかの人物と聞いている。この方々と弊藩の武田耕雲斎を一度会談させ、手をにぎらせたら、両藩の意思は疏通する。いかがですか」 「考えておきます」  慎重に小五郎は答えて、今は萩にいるはずの長井雅楽の秀麗な顔を思いうかべた。そのころ雅楽が、小五郎の意見とは正反対の論策を練っていることは、むろん知らない。  長井雅楽という人物がいる。  押し出しのよい堂々たる体躯、しかも好男子だ。「美丈夫」などといわれ、萩城下の婦人たちは、ひそかにあこがれの視線を彼に送ったものである。  三百石の長井家に生まれたが、四歳のとき父の病死で家督を継いだので、家禄を半減され、百五十石となった。これはのち三百石に加増されている。学問、武術に長じ、その上雄弁家である。十九歳のとき藩主慶親の小姓役、三十二歳で|奥番頭《おくばんがしら》と順調に出世し、直目付となったのは、三十七歳の安政五年十月だった。小五郎が、江戸藩邸の大検使を辞めて、萩へ帰ったころである。  ──何かやりそうな男。  そんなふうに見られていた。彼の名は、藩外にもそれとなく行きわたっている。たとえば水戸藩の西丸帯刀にしても、周布政之助に並ぶ人物として長井雅楽を記憶しており、武田耕雲斎と会わせたい意向を、丙辰丸会談のとき小五郎にもらしたほどだ。尊王攘夷の陣営で、いずれは大きく一役かうものと水戸の者も考えていたのであろう。ところが、長井雅楽が一躍その名をはせたのは、尊攘派を逆なでするような論策を掲げたことによってである。 「航海遠略策」という。  雅楽が、これを藩主に示したのは、小五郎が丙辰丸で西丸らと�成破�の密約を結んだ翌年つまり文久元年のことである。幕府が勅許を得ずに、諸外国と条約を結んだということで、攘夷論はたちまち燃えあがった。幕府を敵視することにも直接つながり、とくに安政大獄いらい世論は騒然とした高まりをみせている。これへの対応策として、幕府が推進しようとしているのが、公武合体論である。朝廷と幕府が合体して手を結べば、尊王攘夷論は追及のホコ先を失うだろうという便宜的な考え方だ。  皇女|和宮《かずのみや》降嫁問題が表面化したのも、そのためである。孝明天皇の妹和宮と将軍家茂を結婚させようとする画策がおこなわれていることを知って、尊攘派はますます怒りをつのらせた。  そんなとき、長井雅楽は、朝廷と幕府の確執をまとめる方法として、公武合体を骨子とする航海遠略策を起草し、これをもって中央政情の周旋に、長州藩が乗り出すようにと藩主を説得した。要するに雅楽がいうのは、諸外国との接触は避けられない現実であるから、この外交に対処するためには、まず国内の動揺をおさめ国論統一をはからねばならぬ。それには朝廷と幕府が融和し、進んで開国し海外に目を開くことが国の発展の基となる、といった趣旨である。  長井雅楽の説明は、あの弁舌のさわやかさも手伝って、藩主をはじめ周布政之助までが感服し、同調を示したので、航海遠略策は、にわかに長州の藩論となった。これで政情を収拾することができれば、長州藩は中央における主導権をにぎれるかもしれないという期待もある。 「桂さん、どう思いますか」  憤懣やるかたないといった表情で、久坂玄瑞が言う。 「困ったことになった」  小五郎にしても思いは同じである。第一、水戸藩の連中をはじめ尊攘派の人々に顔むけできないという気持が先に立つ。  航海遠略策は、幕府にテコ入れし、その立場を正当化させるだけのものではないかという非難が強くあがっている。降嫁問題にはふれていないが、側面からそれを推進させる役目を持ち、同時に、尊攘運動の足をひっぱることにほかならない。これが尊攘運動の先頭に立とうとしている長州から出されたということで、志士たちからの失望の声も大きいのだった。 「航海遠略策をつぶすには、長井を殺すしかない、長州人がやらなければ、われわれがやると、水戸の者が言うちょります」  久坂玄瑞が、思いつめた表情で小五郎に告げた。 「殺すことはあるまい」  小五郎は、たしなめるように、玄瑞を見た。 「このままでは、水戸が承知しませんよ」 「長井さんには、失脚してもらいます」 「できますか、そんなこと」 「手は打ってある」 「ほう……」  信じられないという素振りで、玄瑞はしばらく小五郎の顔をうかがっていたが、軽く頷いてから立ち去った。 「桂さんは慎重すぎる」  と若い藩士たちが、陰で批評しているのを、小五郎は知っていた。 「軽挙妄動して情況が思うように動かせると考えるのが間違いだ。慎重に策をめぐらしてこそ目的は達せられる」  口癖のように、小五郎はそれを言い、久坂たちの言動をいましめている。彼らも一応頷くのだが、それでも小五郎の細心ぶりには、若者らしい反発を覚えるようだった。いずれにしても、今のところ水戸の者ほどに過激な行動をおこそうとする気配はない。  ところが、そのように安心もしてもいられない人物が一人、江戸にやってきた。高杉晋作である。  前年、海軍修業で江戸へ出てきた晋作は、軍艦は性に合わないといって丙辰丸を乗り捨て、帰国していた。萩でしばらく読書などしているうちに、世子定広の小姓役を命じられ、再び江戸へ姿をあらわしたのである。  晋作は退屈しているようだった。松下村塾で同窓だった久坂玄瑞らが、いっぱし活動家として、政治問題を論じ、動きまわっているのを、このころの晋作はまだ横目でながめる姿勢をとりつづけた。 「なにとぞ大いなることは致しくれるな」  などと父親の小忠太から言われ、政治運動には加わらないようにつとめてもいるようだった。  松陰が処刑された直後、周布政之助にあてて、「この仇きっと討たずにはおかない」といった手紙を出したりしているが、その後結婚もして、まずは静かな日々を送っている。  父親からの制約もあるが、晋作にしてみれば、議論は苦手だし、そんな仲間に入って行く気持がおこらなかったというのが真実かもしれない。持前の覇気を衝き動かす何かに行きあたらないまま、一人退屈している、そんな状態だろう。  その晋作が突然、躍り出るように、ある役目をかって、仲間うちから注目を浴びたのは、江戸へ出て一カ月もたたない文久元年八月のことである。久坂玄瑞たちが、大いに長井雅楽を批判し、航海遠略策をつぶさなければならぬと口角泡をとばしているところへ、フラリと晋作があらわれた。 「長井を|殺《や》ればよいのだろう。水戸の手をかりることはないではないか。僕にまかせろ」  こともなげに晋作が言う。気を抜かれたように、その場にいた者は押し黙ってしまった。  晋作は本当に長井雅楽暗殺をやるつもりだったらしい。彼が書いた『初番手行日誌』の八月十七日の項に「この頃、大議論起こる。委曲胸中にあり」と記入している。 「高杉晋作が暴発しようとしている」といううわさは、すぐ小五郎の耳に入った。「まずいな」と小五郎は思う。すぐに周布政之助に相談した。晋作を江戸から遠ざけてしまおうというのであった。 「あれが喜びそうなことがありますよ」  政之助が笑いながら言った。たまたま幕府の船が清国の上海に行くことになり、各藩からの乗船希望者を募っているので、これに長州藩を代表して、晋作を乗せようということになった。前々から海外に出たいというのは、彼の念願だったから、小五郎や政之助が思った通り、とびついてきた。長井暗殺のことは、ケロリと忘れたような顔をしている。  高杉晋作の上海行きが決まってから、長井雅楽の暗殺計画などは、けしとんでしまった。しかし、航海遠略策に対する不満の声は、いぜんとして高まりつつある。  幕府との下打ち合わせのため江戸へ出てきた長井雅楽は、これといって危険を感ずることもなく前後して萩へ帰って行った。  遠略策について、一度反対の意向を、小五郎は雅楽に伝えてみたが、ほとんど反応がなかった。正面から反対論を吹きかけるだけの立場に、小五郎はいないのである。この当時、彼は来原良蔵のあとを継いで江戸藩邸の有備館舎長の職にあるが、相手は何といっても直目付だ。身分の上では歯が立たない。 (|搦手《からめて》で行くしかないな)  小五郎は、まず周布政之助の説得にとりかかる。萩にいて、雅楽の説明を聴いたときは、即座に賛同したが、江戸の騒然とした情勢に接してみると、政之助は急に首をかしげはじめた。 「あんたの言う通りかもしれんな」 「遠略策など、幕府の思うつぼですよ」 「しかし藩公は大乗気で、近く京都へ乗りこみ、江戸にもやってこられるつもりだ。遠略策をひっさげてな」 「何とかなりませんか。このままだと久坂たちも黙っていないでしょう。高杉はいなくなっても、まだ暴れ者は大勢おります」 「そこを桂君の力で、何とか取り鎮めてもらいたい」 「やってはみますが、何しろ、水戸の連中があの通りですから……」 「それは、あんたにも一半の責任がある。水長密約の件、私も聞いた。思いきったことをしたものだな」  政之助は、小五郎をいっしゅん睨んだが、それ以上難詰するようなことは言わなかった。  五月には|高輪《たかなわ》東禅寺においたイギリスの仮公使館を水戸浪士が襲い、館員二人を傷つけている。公使オールコックは、かろうじて助かった。あの盟約にもとづく�破�の役割を、彼らは着々と実行に移しているのだ。 「長州は何をしておる。約束の履行どころか、公武合体の手助けとは……」  水戸の志士たちの罵声に似た声を、小五郎は何度か耳にした。老中筆頭安藤対馬守信正の暗殺計画を、西丸帯刀から打ち明けられ、それに反対したときもそうだった。安藤信正が単独で皇女和宮降嫁を、強引に推進しているという見方そのものにも、小五郎は疑問を抱いている。彼が老中筆頭という立場で、この問題の責任を負っていることはわかるが、要するにこれは幕府の意志である。安藤一人を殺しておさまるものでもないのだ。  安藤の暗殺を、水戸の志士たちがとなえはじめたのは、文久元年の初秋で、高杉晋作が長井雅楽を殺すと言明したころに一致している。和宮降嫁は、公武合体策の主題ともいえるもので、幕権回復をはかる一大政略結婚である。幕府の申し人れを孝明天皇はいったん拒絶したが、岩倉具視の建策でついに実現のはこびとなった。  安藤をねらう人々は、この計画を、宇都宮藩の儒者で攘夷主義の大橋|訥庵《とつあん》にはかった。訥庵は、はじめ反対だったが、十一月になってようやくその盟主の位置についた。ところが、同志の妻の口から計画が洩れ、訥庵は幕府に捕えられてしまう。  安藤信正の警護は厳重となり、江戸城への往復は、駕籠のまわりを屈強の侍三十人がとりかこむというものものしさである。  年があけて文久二年(一八六二)一月早々、皇女和宮と将軍家茂の婚儀は、尊攘派からの激しい非難を浴びながら無事とりおこなわれた。  和宮降嫁から間もなくの一月十四日朝、江戸桜田藩邸にいる小五郎をたずねて、一人の男があらわれた。練兵館から使いにきた細谷というものですと取り次ぎの者に名乗ったらしいが、会ってみると水戸藩の平山兵介である。彼はすでに浪士となっている。  ただならぬ用件だということは、一見してわかった。  平山兵介の、精悍な顔がやや蒼ざめている。 「明日、決行します」  と、小五郎の耳もとにささやいた。 「そうですか」小五郎は、頷いて「集まったのですね」と静かに言った。護衛の多い安藤を襲うには、人数が足りない。応援の者を斡旋してもらいたいと、前に西丸帯刀から頼まれたとき、小五郎は拒否した。出すとすれば、長州藩から人を選ばなければならない。それでなくとも反対の立場をとっている安藤の暗殺に、長州から刺客を送るわけにはいかない。水戸側もそれは諦めたようだった。 「何人です」 「七人」 「無茶だ」  と、思わず声が大きくなった。 「ま、見ていて下さい。それより、事後のことお願い申す」  水戸が�破�を実行すれば、そのあとを受けて長州は�成�を遂げなければならない。この場合の成とは、安藤信正の暗殺が、どのような目的でおこなわれたかを、天下に広めることである。これは断れなかった。 「承知した」 「では、これにて……」  今生の別れという意味か、兵介は、深々と一礼して帰って行った。  水戸浪士ら六人が、登城する安藤信正を坂下門外に襲ったのは、その翌朝である。兵介は七人と言ったが、実際に参加したのは六人だった。彼らは一挺の鉄砲を用意し、安藤の駕籠をねらって一発撃ちこんだが、的をはずれた。銃声のために、護衛の兵士たちの態勢を整えさせる結果となった。  腕に覚えのある三十余人に対して、水戸浪士平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、それに下野の志士河野顕三、越後の川本杜太郎のわずか六人である。  乱闘のうちに、たちまち五人は斬り伏せられ、兵介だけが、かろうじて駕籠に肉薄し、安藤の背中に一刀を浴びせた。兵介は、門内に逃げこむ安藤を追ったが、斬りきざまれて即死した。  暗殺は、失敗だった。しかし、重傷を負った安藤信正は、三カ月後、老中を辞職したので、結果的には成功といえなくもない。  これがいわゆる坂下門外の変である。小五郎が、騒ぎのことを藩邸で聞いたのは、その日の午すぎだった。藩主慶親、長井雅楽も江戸へやってきており、互いに眉をひそめながら、水戸浪士たちの過激な行動を非難している。周布政之助は、黙っていた。 「長州からの参加者がなかったのが何よりだった」  雅楽が、それとなく小五郎に視線をやりながら言う。 「桂がいるので、その点は大丈夫ですよ」  政之助は呟いて、小五郎のほうを見た。笑っている。多分皮肉のつもりである。 「桂君は、知っていたのではないか」  雅楽が、問いつめるような口調で言うのは、水長密約のことを彼も察知しているのだろう。 「まったく存じよらぬことであります」  小五郎はとぼけてみせたが、いちまつの不安はある。このままでは済むまいという気がするのだ。予感があたり、小五郎をたずねて水戸浪士河辺佐治右衛門が藩邸にやってきたのは、それから間もなくのことであった。 (今となって、何をのこのこやってくるのだ)  舌打ちしたい思いで、小五郎は河辺を有備館の講堂に通した。変名を内田万之助という。小五郎とは初対面だった。 「桂さんですか、お願いがござる」  いきなり両手をついた。 「まあ、手をお上げなさい。ご用件とは何でありますか」 「ここで割腹させていただきたい」  河辺は、小刻みに体をふるわせているようだった。  小五郎は、まったく当惑している。というよりも、河辺の無分別に内心、怒りを覚えていた。  水戸の西丸帯刀らと「成破の盟約」はしたが、あくまでも密約である。「破」の行動をおこす水戸藩の者も、その結果を藩におよぼさないために脱藩して、士籍を放棄し、浪士となっている。西丸は背後で指揮しているのだが、徹頭徹尾その正体を表面にあらわさないのである。水戸藩の安泰を強く心がけているのだ。浪士たちも、それは承知しているはずだった。  今、河辺佐治右衛門という安藤信正暗殺団の片われが、公然、長州藩邸に小五郎をたずねてくるなど狂気の沙汰というべきである。この暗殺計画に桂小五郎が関係していたと幕府が認定すれば、それは小五郎ひとりの問題ではなく、長州藩にどのような災厄をおよぼすかわかったものではない。  浪人者が面会を求めてきていると聞いたとき、小五郎はそれと察して、居留守を使い、追い返そうとした。河辺は、待つといい、ついに六ツ時(午後六時)ごろになっても、通された有備館の講堂に居すわっているのだった。 (何も言わず帰ってくれ、用件があれば、外から密書でもよこしてくれればよいではないか)  そればかりを祈っていたが、河辺は強引に動かないのである。仕方なく、小五郎が講堂に顔を出すと、いきなり切腹させてくれ、である。 「拙者、決行の時刻に遅れたのです。坂下門に駆けつけたとき、事はすでに終っておりました。これは、|斬奸状《ざんかんじよう》です。貴殿にお預け申す」  河辺は、|懐《ふところ》から、一通の巻紙を取り出した。小五郎は、すぐにひろげて読んだ。井伊大老暗殺の動機から説きおこし、安藤信正の奸謀は、その井伊にも過ぎるものだと、前段で述べている。そして皇妹和宮降嫁のことは、表面朝廷の意思でおこなわれたように装い、公武合体の姿を示しているが、実は奸謀威力をもって皇女を強奪したのと同様である。もし朝廷がこれに同意しない場合は、天皇の位を剥奪すべく、ひそかに廃帝の古例を、国文学者に命じて調査させた。言語道断であり、これは将軍家を不義におとしいれ、万世の後まで悪逆の汚名を流さしめるものだ……。  安藤閣老の罪状を列挙した長文の斬奸状である。すべてを安藤個人の罪に帰し、徳川幕府そのものを容認する調子は、やはり水戸の考え方だ、と小五郎は思う。 「その斬奸状は、安藤を襲った者が、みんな同文のものを懐にしていたはずですが、幕吏ににぎりつぶされてしまったようです。なにとぞ貴殿の力で世に出していただきたい。成破の盟約なれば……」 「承知した」  これは引き受けねばなるまいと、小五郎は何度も頷いた。 「では、拙者のつとめは果たしましたので、同志のあとを追います。介錯をお願いしたい」  河辺は、今にも小刀を抜く気配を見せる。 「お待ちなさい」  あわてて小五郎は、彼を制した。ここで切腹されてたまるか、まるで嫌がらせではないかと、息をつめて、 「何も死に急ぐことはないでしょう。これからなすべき仕事は、山ほどありましょうに」  いろいろ言葉をならべて、何とか思いとどまらせようと懸命に説得するのだが、すでに覚悟を決めているらしく、まるで耳をかそうとしないのである。 「酒肴を用意しております。まあ酒でも飲んで、ゆっくりお考えになるがよろしかろう」「酒ですか、では今生の別れにいただきます」  河辺が微笑しながら、それに応じたので、ひとまずほっとして、小五郎は引きさがった。大急ぎで酒の用意をと思っていると、伊藤俊輔が、外出先から帰ってきた。 「どうかしたのですか」  と、俊輔は声を低めて近づいてきた。  伊藤俊輔は|中間《ちゆうげん》の子だが、松下村塾で松陰に学び、その推薦もあって、山県など他の塾生と共に、いくらかはましな役に付いている。 「利助(村塾当時の名)は、周旋家になるであろう」  と、松陰は伊藤の政治家としての素質を見抜き、将来を予言している。明治まで生き残った志士の群れから、ひとりとび抜けて、初代内閣総理大臣となり|老獪《ろうかい》な手腕を発揮するようになるとまでは松陰も考えなかっただろうが、そのころすでにひとかどの人材とは見られていた。  文久二年のこの当時、俊輔は、小五郎の御手付役をつとめていた。いわば走り使いのような仕事だが、|目端《めはし》の利く男なので、小五郎も何かと重宝しているようだった。 (よいところに帰ってきてくれた)  そんな思いである。小五郎は、手短かにいきさつを話して、 「うまく慰撫して、追い払えないものかね。ここで切腹でもされたら、厄介なことになる」 「おまかせ下さい」  俊輔は、気軽に引き受けて、間もなく講義室にいる河辺佐治右衛門のところへ酒肴を運び、得意の弁舌をふるいはじめた。  近くの部屋で小五郎が様子をうかがっていると、俊輔がやってきた。 「どうもさっぱりわかりませんな。思いとどまるのかどうか、とにかく酒だけは飲んでいます」 「もうしばらく、つとめてみてくれんか」  そんなことを話していると、遠くで、突然、河辺らしい声がひびいた。 「ああ愉快、愉快!」  と、怒鳴っているように聞こえた。 「酔うちょるのか」 「そうらしいです」  言いながら、二人で、ゆっくり講義室のほうに、歩いて行くと、どうも呻き声に変っているようである。あわてて戸を引きあけると、一面血の海の中に、河辺が伏せて、もがいている。小五郎と俊輔が、呆然と立ちつくして、自決したその男を見下していると、河辺の動きは、しだいに緩慢となり、やがて絶命したようだった。  見事な最期というべきであろう。河辺佐治右衛門というこの水戸の浪士は、腹を一文字に掻き切った小刀を持ちなおし、首を右から左へ刺しつらぬいた姿勢で、のめるように前へ倒れていた。右手はなお小刀の|柄《つか》をかたくにぎったままだが、左手の指は畳に噴きこぼれた血のりをつかむように、苦悶の表情をのこして硬直している。 「こまったことになりましたなあ」  小五郎が言いたいことを、俊輔が、はっきりロに出した。 「公儀に届け出ねばなるまい」 「死体を、内々に埋葬できませんか」  俊輔が言うと、小五郎は静かに首を横に振った。 「この屋敷内に、われわれ二人だけなら、それもできる。しかし、大勢の者が知る以上、かならず外に洩れるとみなければなるまい。すると、あとが面倒だ」 「届けても面倒でしょう。坂下門のできごとと、桂さんの関係を問いつめてきますよ」 「勝手に逃げこんできたのだと、言い通すしかあるまい。あっさり届け出ることで、疑いは薄れる。伊藤君もそのつもりで……」 「承知いたしました」  俊輔が、身をひるがえすようにして去ると、そのあとは、まるで快いばかりの速度で処理されていく。  小五郎と俊輔が、北町奉行所に呼び出されたのは、その翌日である。奉行と目付役の立会いで、取り調べが始まった。老中を襲撃した一味と長州藩とのつながりを解明できるというので、奉行所は色めきたっているようだった。 「私は外出から帰ったばかりで、何も知らない。自殺直後の現場を見ただけだ」  俊輔はとぼけ、小五郎も河辺なる人物は初対面であり、来訪の目的もわからないと、徹底的に追及をかわした。  河辺佐治右衛門と小五郎が、互いに面識がなかったことは事実であり、奉行も追及のしようがない。  暗殺団と長州藩とのつながりについては、何の証拠もなく、奉行は気負いたつばかりで、責めあぐんだかたちだった。小五郎と俊輔は、夕刻、解放されて桜田藩邸に帰ってきた。なお取り調べのむきがあるので、追って再出頭を命ずるというのだから、やはりあきらめてはいないらしい。藩邸では一応幕府への気兼ねもあって、二人を自室に監禁することになった。  北町奉行所から、二度目の呼び出しがかかったのは、二月六日だった。その朝、直目付の長井雅楽が、小五郎の部屋にやってきた。 「行くのかね」  雅楽が、立ったまま、おだやかな口調で言う。 「行かぬわけには参らないでしょう」  小五郎の目には、あきらかに敵意がうかんでいる。公武合体に|与《くみ》する航海遠略策の立案者に対する反発が、小五郎の胸中で、日増しに高まっているのだ。 「こまったことをしてくれたものだ」 「私と関係がないのは、奉行所で述べた通りです」 「そうかな」  雅楽は、皮肉めいて笑い、 「きょうは病気ということにして、伊藤だけを出頭させたらどうか」 「別に怖れる必要もありませんが……」  と言いながら、小五郎は、内心ほっとしている。奉行所が水長密約の一件を、どこからか嗅ぎつけたとしたら、知らぬ存ぜぬで、押し通せないかもしれないという不安もあった。あのとき小五郎は松島剛蔵と連署した誓紙を、西丸帯刀に渡しているのである。西丸の手許から、それが外に出ることはあるまいと信じているが、折にふれて、ちょっと気にはなっていたのだ。  北町奉行所には、結局、伊藤俊輔だけが、監視役につきそわれて出かけて行った。たとい拷問にかけられても、俊輔はじっさい何も知らない。それにこの男なら、のらりくらりと切り抜けてくれるだろうという安心があった。俊輔が奉行所へ行ったあとも、雅楽は、小五郎の部屋へ残った。 「桂君が身に覚えのないことだと言い張っても、どこでどう奉行の罠にはまらないでもない。吉田寅次郎の例がある。それを怖れているのだ」  雅楽は、ねちねちした言い方をする。 (まさか! 自決しろとすすめているのではあるまいな)  小五郎は、急に身構える気持で、 「では、どうせよと言われるのです」  と、雅楽の白くつややかな顔を睨んだ。 「奉行の取り調べを打ち切るように、幕府へかけあってみようと思っている」 「できますか、そのようなこと」 「今なら、できる」  雅楽が、ニヤリと笑った。 (そうか、航海遠略策……)  小五郎は、やっとそれに気がついた。雅楽の創案にもとづいて長州が進めているこの公武合体策を、幕府は大歓迎しているのだ。当然、長井雅楽という人物の受けもよいはずであった。小五郎たちを責めあげて、長州藩の心証をそこねるより、寛容をほどこしておくほうが賢明という判断を幕府の要人たちが示すであろうと雅楽はみている。それに、彼としては、ここで小五郎に恩を売っておきたいのだ。航海遠略策に反対をとなえる藩内勢力の先頭にいると思われる桂小五郎を懐柔するひとつの機会が、この水戸浪士切腹事件でもあった。 「とにかく幕府には手を打ってみる。桂君とは、落着のあとで、ゆっくり話したいこともあります」 「………」  小五郎は、このさい雅楽に言いたいことがあふれそうになるのを、かろうじて押しころした。  長井雅楽は、航海遠略策について、幕府との接触を終り、三月には京都へのぼることにしている。  小五郎たちの反対をしりぞけて、この公武合体策は、着々と軌道に乗るかに見えた。しかも水戸浪士河辺佐治右衛門の切腹事件によって、小五郎は身動きできない状態に追いこまれてしまっている。腹立たしさは、つのるばかりだ。  そんなとき、三月十八日になって、事件の取り調べが急に打ち切られ、幕府の目付から、小五郎と俊輔を|譴責《けんせき》処分にするという裁定がくだったのである。河辺佐治右衛門を「一人手放し差し置き、取計方承りに留守方へ罷り越し候故、既に跡にて右の者自殺に及び候儀に至り候段、右始末不埒に付き、|急度《きつと》叱り置く」というのであった。  いずれにしても、坂下門外の変には、まったくふれない軽い処分である。長井雅楽が、京都へ出発する前、老中本多美濃守に会い、小五郎たちの取り調べを中止するように工作したのだ。航海遠略策の推進を条件とした取り引きであった。  藩内からも、責任追及の声は出なかった。河辺の訪問直後、小五郎がそのことを藩邸の上役に報告していたからである。慎重な措置と、雅楽のとりなしが功を奏した。これに小五郎が恩義を感じて、遠略策を妨害しないだろうと期待したのは、能吏らしくもない長井雅楽の誤算といわなければならない。  自由をとりもどした小五郎は、まず俊輔を使って、河辺から渡された斬奸状の写しを、ひそかに攘夷志士の間にばら撒いた。これは「成破の盟約」に従う最初の行動といえた。  安藤老中を襲うにあたって浪士たちが拳げた罪状は、たちまち世間に流布され、一般人の間からも憤激の声があがりはじめた。とくに廃帝の事例を調査させたという事項に対する世論がきびしく、これはやがて孝明天皇の耳にも達し、公武合体策の足を大きくすくうことになった。傷が癒えて、再び登城した安藤信正に対する視線は、幕閣内部からもつめたく、四月、ついに彼は老中を辞職せざるを得なかった。  このような情況は、長井雅楽を中心として進めている長州藩の航海遠略策にも微妙な影響を与えることになったのである。はじめ雅楽は、一月に上京する予定だったのが、坂下門外の変で、二カ月も遅れてしまった。つまり時機を失したということかもしれない。  京に入った雅楽は、岩倉具視をはじめ公卿の間を、得意の雄弁で説きまわった。しかしすでに|蹉跌《さてつ》のきざしは、濃厚に浮きあがっていたのだ。小五郎や久坂玄瑞ら長州内部からの猛反対は人の知るところであり、重役の周布政之助までが、遠略策の放棄を藩主に進言しようと動いている。京に集まった尊攘志士たちも、むろん反対論をとなえ、薩摩の西郷吉兵衛(隆盛)も雅楽のことを「大奸物」と呼んで非難していた。薩摩の場合は、長州藩が京都で勢力を張ること自体への反感をむき出しにしているのだった。  幕府の京都所司代酒井忠義までが「惜しいかな、時機すでに遅れたり」と、雅楽の活動を横目に見るという始未だ。やがて薩摩藩主茂久(忠義)の父島津久光の上洛によって、長州藩の公武周旋は、決定的に終止符を打つのである。久光が千人の武装兵をつれて、海路大坂についたのは、四月十日だった。  小五郎は、周布政之助の後押しで京へむかった。五月末である。在京中の世子定広に会い、さらに定広の命を受けて、入京する藩主慶親を中津川駅(岐阜県)に迎え、容易ならぬ京の情勢を告げて、航海遠略策の取り下げを訴えた。  藩主が、京都屋敷で、家老の益田弾正のほか周布政之助、桂小五郎を呼び、遠略策の放棄を伝え、あらためて尊王攘夷の議を決したのは七月六日である。政情は、複雑に、めまぐるしく急展開しようとしていた。小五郎の活動の舞台は、ここから京都へ移る。 [#改ページ] 第四章 謀臣への道   寺田屋の変  小五郎が京都へむかったのは、文久二年五月末だったが、それは伏見で、ある異常な事件が発生した一カ月後のことである。  ──寺田屋の変。  これを語るには、まず薩摩藩の�|国父《こくふ》�島津久光について説明しておかなくてはならない。薩摩と長州の関係も、そのあたりから明らかになってくるだろう。  先代藩主|斉彬《なりあきら》の異母弟である久光は、父斉興の死後、斉彬との家督争いに敗れた。しかし、斉彬は藩主の座を、久光の子忠義にゆずると遺言して死んだので、久光は国父となり、幕末薩摩藩の実権をにぎることができた。襲封当時、忠義がまだ十九歳だったので、久光は事実上の藩主として、その独裁者的な性格を発揮したのである。薩摩が、長州を敵にまわし、維新の戦列に遅れ馳せとなったのは、この保守的な独裁者のためだといってもよい。  長州が本州の最西端なら、薩摩は九州の最南端に位置している。共に幕府の権力機構から疎外された外様大名である。藩政改革の成功によって、力をつけているところも共通している。辺境にある雄藩の中央志向が、長州にも薩摩にもうごめいており、ペリー来航いらいの動揺する政情が、両藩の登場をうながした。  長州藩が、長井雅楽の創案による航海遠略策をもって、公武周旋に動き出し、一躍脚光を浴びようとしているころ、薩摩も似たような公武合体策を掲げて中央へ乗り込もうとしていたのである。薩長のライバル関係は、これからおよそ三年間つづき、火花を散らすことになる。  長井雅楽の京都における周旋に、ようやく挫折のきざしがみえはじめたころ、久光は海路千人の武装兵をひきつれて、大坂へ上陸し、つづいて入京してきた。このものものしい久光の登場を、人々は尊王攘夷から、さらに討幕の先頭に立つ決意の表現だと理解したのである。長州藩の公武周旋は、急速に色あせたものとなった。  久光の意図は、討幕などではなかったのだ。長州の航海遠略策は、朝廷を説得して、幕府に妥協させるかたちでの合体である。それに対して、薩摩の場合は、朝廷のもつ古代的権威を背景とする雄藩の力を示して幕政を改革し、薩摩も幕府機構の中に入って行こうという野心を抱いている。そのような公武合体をめざしているのだった。だから久光は、武装兵をもって薩摩の力を誇示し、江戸へ乗り込む前に、いったん京都をめざしたのだ。  長井雅楽が、失意をかみしめながら京を離れ、江戸へむかったのは文久二年四月十四日である。入れ替りに、その前日、島津久光は、伏見の薩摩藩邸に入った。  薩摩の志士でさえ、久光の目的を尊王討幕と誤解している者がいた。薩摩藩士有馬新七らは、長州の久坂玄瑞をはじめ諸藩の志士と結んで、過激な尊攘運動を進めようとしていたが、久光の上京と聞いて、さらにふるいたった。  久光は、西郷吉兵衛に命じ、これら過激な者たちに軽挙をつつしむように説得させるつもりだった。久光より先に薩摩を出発した吉兵衛は、下関で待つようにいわれていた。ところが、下関についた吉兵衛は、大坂方面に志士たちが集結しているとの噂を聞いた。彼らは久光の上京を手ぐすねひいて待ち構えているという。独断で、吉兵衛は大坂へ走った。  これを怒った久光は、大坂へ上陸すると、ただちに吉兵衛を薩摩に送り返し、遠島処分にしてしまう。  大坂にいる薩摩藩士や諸藩の浪士たちを藩邸に集め、命を受けない限りみだりに動かぬようきびしい注意を与えて、久光は伏見に入り、三日後の四月十六日、入洛した。即日、近衛忠房・中山忠能ら公卿に会って、皇威振興・公武合体・幕政改革の目的を述べた。朝廷は、久光を歓迎する意向にかたむき、薩摩は、長州に代わって、にわかに京都の主役となる。  事件は、その十日後に伏見の宿でおこった。  久光の意図が、要するに公武合体でしかなかったことに、はじめて気づいた志士たちは、大いに失望した。  そのころ大坂の薩摩藩邸には、数十人の過激な尊攘家が収容されていた。行き場のない彼らに、寄宿を許しているのは、激発を監視するためでもある。  それら志士の中で、最も行動的な人物といえば、元中山家の家士田中河内介であろう。それに岡藩の|小河《おごう》弥右衛門がいる。河内介は、弥右衛門や薩摩藩士の有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮助らに呼びかけた。 「今は猶予すべきときでない。まず関白九条尚忠・所司代酒井忠義を斬って、討幕の義挙に先駆しようではないか」  まったく暴発というほかはないのだが、河内介としては、自分たちが起てば、長州の久坂玄瑞らも呼応するだろうという目算がある。有馬新七らも賛同の意思を見せた。  この動きは、京都にいる久光の耳にも入った。彼は、侍士奈良原喜左衛門(清)・海江田武次を大坂にやり、さらに大久保一蔵(利通)を派遣して、妄動をつつしむように命じた。河内介は、表面でそれに従うそぶりをみせたが、なおひそかに計画を進めている。  そんなところに、|真木《まき》|和泉《いずみ》が九州から大坂にのぼってきた。久留米水天宮の神官だった和泉もまた狂信的な尊攘家である。河内介の計画を知って、たちまち参加しようと申し出た。志士たちの興奮は、すでに押えがたい状態にまでのぼりつめ、彼らが薩摩藩邸を脱走したのは、四月二十三日の夜であった。  まず有馬新七・橋口壮助・柴山愛次郎のほか西郷信吾(従道)・大山弥助(巌)・篠原冬一郎・三島弥兵衛ら薩摩藩士をはじめとする二十余人が、四艘の船に分乗し、これに兵器・火薬を積み込んで大坂を発し、淀川をのぼって伏見に向かった。少しおくれて田中河内介・真木和泉ら十数人も船でそのあとを追い、伏見の旅館寺田屋伊助方に入った。さらにおくれて小河弥右衛門ら二十余人も大坂を発ち、伏見へむかう。  志士たちの大坂藩邸脱出の報は、その日の夕刻、京都薩摩屋敷に達した。久光は、おどろいて有馬新七と親しい奈良原喜八郎(繁)・大山格之助(綱良)ら九人の剣客を選んで伏見に急がせた。新七らを鎮撫して連れ帰るように、もし従わないときは上意討ちにせよとの命をさずけられた一行は、京から伏見への夜路を走り、三更過ぎ(午前一時ごろ)三十石船の船着場に近い寺田屋に着いた。  この寺田屋は、現在も伏見の同じ場所で、旅館業をつづけている。建物も当時のままで、坂本竜馬が襲われたとき(ここでは脱出している)刺客が斬りつけた刀痕を刻む柱も遺っている。幕末激動の一舞台となったこの船宿の歴史が古びた屋内に、今もなまなましくただようのである。  階下の台所に近く、薄暗い部屋は、黒光りする板の間で、いかにも惨劇のおこなわれた往時を想起させる。喜八郎らが、新七・愛次郎・壮助・田中謙助(盛明)の四人とむかいあったのは、この板張りであろう。  君命を伝えたが、四人の決意はかたい。今はこれまでと、刺客の道島五郎兵衛は、 「上意!」  と大声を発し、抜き打ちに謙助の眉間に斬りつけた。ここから乱闘は開始されたのである。  階下の別室にいた真木和泉は、伏見奉行所の手の者が来襲したかとはじめ思ったが、薩摩藩士同士の闘争とわかって、呆然見守るばかりだった。 「……前堂忽ち|擾《さわ》がしく、声有つて|啼《な》くが如し。予等|以為《おもえ》らく、幕吏来るかと。声いよいよ高し。之を|窺《うかが》ふ。皆白刃を挺して|相闘《やいば》ふ。刃相撃つて火を発す。其の光、|電《いなずま》の如し」  このときの情景を語る真木和泉の日記である。  有馬新七は、斬り合いのさなか刀が折れた。刺客の道島五郎兵衛を壁に押しつけ、 「おいごと刺せ!」  と絶叫した。  物音に気づいて乱闘の現場に出てきた橋口壮助の弟吉之丞は、道島五郎兵衛を板壁に押しつけ、自分と一緒に刺せと叫んでいる有馬新七を発見した。  吉之丞は、いわれる通り、抜刀するなり走り寄って、新七の背中から、五郎兵衛を串刺しにした。両人とも即死である。  二階から三人降りてきたが、下で待ち構えた大山格之助に次々と斬られ、闘いはようやく一段落した。  全身に血を浴びた喜八郎は、傍観していた田中河内介と真木和泉をうながして二階へ上がって行く。  そこにいる薩摩藩士たちに、あらためて君命を伝え、共に京都の藩邸に同行するようにすすめたが、ここで割腹しようという者と、あくまで斬り死にしようという者に意見は分かれた。  河内介と和泉が、義挙は一時中止する旨を告げ、君命に従うように説いたので、結局全員が喜八郎らについて京都の薩摩藩邸に入ることになった。  この夜の闘争で、刺客のうちの一人道島五郎兵衛が死んだ。志士の側では、有馬新七ら六人が闘死、田中謙助・森山新五左衛門の両人が重傷を負い、翌日伏見藩邸で切腹した。  京都藩邸に入った残りの志士たちのうち、西郷信吾ら二十余人の薩摩藩士が船で国許へ送り返された。  諸藩の志士は、それぞれの藩に引き渡されたが、田中河内介父子、河内介の甥千葉郁太郎その他二人をあわせた五人は、身を寄せるところがなかったので、藩士たちと一緒に鹿児島へ送られた。河内介をのぞいた四人は、寺田屋での乱闘のとき居合わせなかった人たちで、小河弥右衛門と共に、大坂から伏見へ最後にやってきた一団に入っていた。彼らが寺田屋へ着いたとき、すでに騒ぎは終っていたのである。京都藩邸に入る志士たちにまじって身柄を拘束され、鹿児島送りとなったのだが、悲劇はまずその船内で始まった。  船が播磨灘を航行中、河内介父子は護送役の薩摩藩士に斬殺され、死体は海へ投じられた。干葉郁太郎ら三人は日向国細島港で、同じく藩士に殺された。  河内介を過激派の煽動者として抹殺すべく命令をくだしたのは、久光か、あるいはその意を体した大久保一蔵であろうといわれるが真相はさだかでない。  河内介の殺害について、薩摩藩は後年になっても極秘にし、決してその事実を明かさなかった。維新の功藩といわれるようになってからは、なおさら悔いがのこっただろう。しかし、その秘密は、だれの口からともなく伝わって行き、やがてほとんどの者が知るようになった。  明治二年のことである。明治天皇が、功臣たちを禁中に招き、陪食を賜るという一日があった。三条・岩倉・西郷・大久保、そして木戸孝允となった小五郎もそれに出席した。息づまる一瞬が、小五郎の前で演じられたのは、明治帝のある御下問に関してであった。 「朕は幼少のころ、侍従の中山忠光と共に、よく中山邸に行ったものである。そこで中山家の家士田中河内介という者にいたく世話をかけた。だれか河内介のその後を知る者はおらぬか」  沈黙がただよった。そのとき、末席のほうから、ようやく声を出した者がいる。新政府の参与をつとめる|小河一敏《おごうかずとし》だった。寺田屋の変に岡藩士として参加した小河弥右衛門である。 「田中河内介は、寺田屋の変後、一子磋磨介と共に、鹿児島へ送られる船中で、薩摩藩士のために斬殺されました」  小河は、そう言ったのち、鋭い目で、上座にいる大久保利道を睨んだ。 「哀れなことであった」  明治帝の一言を聴きながら、大久保は、顔面蒼白となり、うつむいてしまった。  小河はその後、長州出身の参議広沢真臣暗殺の嫌疑をうけて、鳥取に二年間も幽閉された。彼が官途を断たれたのは、大久保の恨みをかったからだという。──  暗いしこりをのこす寺田屋事件がおこったあの当時、小五郎はまだ江戸にいた。長井雅楽の航海遠略策を粉砕すべく、京都へのぼる準備を急いでいるころのできごとであった。  寺田屋で過激派の志士を鎮圧した島津久光は、その持論として掲げている公武合体を進めようと、積極的に朝廷へ働きかけた。  久光はさっそく幕府の老中|久世広周《くぜひろちか》を京都へ呼びつけるように上奏した。幕政改革を指示するためである。間もなく広周の上洛をうながす朝命が下される。  このような朝廷の幕府に対する高姿勢は、久光の公武合体策が、天皇の権威を背景として、雄藩の実力により幕政に介入しようとする内容からきている。  幕府は、決して喜ばなかった。それに、無位無官の久光が、武装兵を擁して入洛し、朝廷に取り入っているのを快く思ってはいなかったのだ。さらに久光が傲岸な態度で幕政に発言しようとする言動を非難する声が、幕閣の間からもあがっている。  老中久世広周の上京命令が、事実上、島津久光の意志によるものだと解した幕府は、その朝命を無視した。そこで朝廷は、大原三位(重徳)を勅使として江戸へさしむけ、改革の命を将軍に伝えることにした。久光はみずから勅使の輔佐役を買って出るのである。  勅使大原三位が、久光以下千人の薩摩兵を従えて京都を出発したのは、五月二十二日だった。  朝廷が幕府に要求する改革は多方面にわたっているが、この段階で中心となったのは一橋慶喜を将軍の後見役に登庸せよというものである。慶喜は、現将軍家茂と、かつて将軍職を争った人物である。薩摩をふくむ雄藩連合の幕政改革に理解を示す慶喜の後見役就任に、老中たちは難色をみせた。  大原三位は、竜ノ口の|伝奏《てんそう》屋敷を宿舎としている。そこへ老中の脇坂安宅・板倉勝静を、たびたび招き寄せては、この問題を打診したが、よい返事をしない。  三位に随従している薩摩藩士は慣激し、脇坂・板倉の二人を斬ると騒ぎはじめた。一橋慶喜をかつぐ薩摩側の意向が、露骨にあらわれている。二人の老中は、恫喝におびえながら、慶喜の将軍後見役就任に努力すると約束させられてしまった。  そんなこともあって、ついに幕府は、一橋慶喜を後見役に、松平慶永(春嶽)を政事総裁職にするのをはじめ、謹んで朝旨を奉ずるという姿勢を勅使大原三位に回答した。  一応の目的を達した島津久光は、意気揚々と帰国の途に着いた。その途中、横浜近くの|生麦《なまむぎ》を久光の行列が通りかかったとき、思いがけぬ事件が発生した。  馬に乗ったまま行列を横切ったイギリス人四人のうち、一人が薩摩藩士に斬殺され、二人が重傷を負わされるという有名な生麦事件である。これは排外思想にもとづく計画的なものではなく、行列を乱した者を無礼打ちにするという大名の慣習を実行したにすぎない。しかし、相手が異人であったために、尊攘志士たちは、薩摩の攘夷行動として拍手を惜しまなかった。やがてこれは薩英戦争に発展し、ヨーロッパ近代兵器による戦火の初の洗礼を、薩摩は受けることになるのである。  島津久光は、上京した直後に寺田屋の変を、そして帰国するときには生麦事件をひきおこすという血なまぐさい話題をふりまいて、ひとまずは鹿児島へ去って行った。  ところで、久光が京都から江戸へむかうのと前後して、長州藩の世子定広が入洛した。追うようにして、五月末、桂小五郎も京へやってきた。  薩摩の体臭が、濃厚にただよう京都の情勢をみつめながら、小五郎は、まず定広を説得する。つまり航海遠略策の放棄をすすめ、定広の賛同を得て、中山道をのぼってくる藩主慶親を迎えるべく小五郎が中津川駅に走ったことは前に述べた。  公武合体の藩論を、反幕的な尊王攘夷に切り換えた長州藩の猛運動が始まる。久光のいなくなった京都での新たな長州の巻き返しは、小五郎を軸として展開されるのである。   正藩連合  小五郎が|右筆《ゆうひつ》に任ぜられたのは、文久二年七月十四日であった。  長州が航海遠略策の藩論を放棄し、京都で「攘夷奉勅」の方針をあらためて確定したころである。このとき小五郎は、三十歳。長井雅楽を失脚させ、藩主に遠略策を捨てさせる政治工作には、久坂玄瑞らも激しく動いたが、やはり最終的には小五郎の藩主説得が実を結んだといってよい。  いつの間にか、小五郎は藩政の中枢に参画していたが、役職の上からは、江戸藩邸での有備館舎長といった程度のものでしかなかった。その小五郎に、当役(江戸家老)配下の右筆役を与えたということは、藩がようやく彼の存在を重視せざるを得なくなった情勢を物語っている。  当時の当役は家老益田弾正(|親施《ちかのぶ》)、用談役井上小豊後、手元役周布政之助、用所役来島又兵衛、直目付は長井雅楽が罷免されたあと、毛利|登人《のぼる》が就き、さらに高杉晋作の父小忠太が就任した。これに右筆役を加えた藩主側近の権力集団が当役座で、普通には行相府と雅称された。  長州藩の行政組織は、この行相府と並んで、国相府と呼ばれる当職座があった。当職が国家老である。国相府は、常時萩にあって藩内の行政にあたるが、行相府は参勤交代など藩主の動きに従って移動する。  行相府の権勢は、従来さほどのものではなかったが、天保の藩政改革いらい、しだいに力を持ちはじめた。とくにペリー来航を機に、藩の対外的な活動が積極化してからは、行相府の重みはいちだんと増してきた。大組士以上の藩士の進退や藩主の決裁を必要とする事項は、ほとんど行相府を経由したので、国相府をしのぐ権力機関となったのである。  島津久光のような独裁者とは対照的に、�そうせい侯�などといわれ、あまり自我を押し通すことのない藩主慶親の代になって、側近の権勢が、にわかに増大したといえなくもない。  行相府の中でも、当役は大身の家老がつとめるが、これは置物にひとしい場合が多く、鷹揚に構えている。当役座の中心となって、権限をにぎったのは、右筆であった。下級武士から実力でたたきあげた能吏が、この役に就いただけに、彼らはその辣腕を存分に発揮した。実権を手中におさめたのも当然の成り行きだった。  天保の改革いらい、藩内には、政策意見を異にする二つの派閥がある。村田清風につながる周布政之助と、坪井九右衛門と結ぶ椋梨藤太が、その中心人物である。  藩政改革という目的は一つだが、方法論において両者は対立する。急進的な改革をめざす清風は、目的のために、藩民の統制を強化した。清風の死後は、政之助がそれを受け継ぎ、思想的には松陰を理解し、松下村塾出身者の過激論にもある程度の支持を与えた。坪井および椋梨は、統制をきびしくするだけでは改革の実をあげることができない、民心をつかむのが大事だとする。「俗論にさからわず」という考え方だ。急進派は、椋梨たちを�俗論党�とよぶ。俗論派の人々は、藩の安泰のためにも、幕府と事を構えるのを極度に嫌った。いわば保守派である。  この両派による政権争奪が激化したのは、ペリー来航直後の安政年間からである。いずれが実権をにぎっていたかは、行相府の右筆にだれが就任しているかを見ればわかる。つまり周布政之助と椋梨藤太が、暗闘をかさねながら、めまぐるしく、右筆の職を交代してきたのである。  しかし、安政五年(一八五八)ごろまで、行相府の顔ぶれは、両派からほぼ同数が出て、勢力の均衡を保っていた。椋梨派が一斉に影を消したのは、安政六年からで、以後文久二年までは、ほとんど周布政之助のひとり舞台といった観がある。  政之助の腹心ともいうべき小五郎の右筆就任によって、藩主の側近は、反幕的な急進勢力でかたまったことになる。 「急進」と「過激」とは、その概念にある一線を画しているといわなければならない。  たとえば文久二年七月当時の行相府に名をつらねている桂小五郎と来島又兵衛の違いのようなものである。  幕府の存在に否定的で、藩の路線を尊王攘夷論にかため、時代の流れに長州を突出させようとする小五郎は、たしかに藩内急進派の指導的立場にいる。  しかし、小五郎はきわめて慎重に事をはこび、もっぱら政治的に動くことにより、目的を達成しようとする。幕府に奉勅の意思があるなら、将軍みずから京都へやってきて、天皇の前にそれを披瀝すべきだと小五郎は考え、そのことを公卿たちに吹きこむ。それは朝廷の幕府に対する要求に盛りこまれ、やがて実現するのである。  そのような幕府に対する不敵な面魂を持つ反面では、柔和な身のこなしで、必要な限りでの対人関係を保っている。小五郎の急進論は、その柔軟性にくるまれて、強引に、しかし徐々に時間をかけて着実に展開された。  それにくらべると、来島又兵衛などは、根からの武骨者で、いかにも前時代的な豪傑然とした武士であった。眼前の情況を、論理的に分析して動くというような性格の持主ではない。単純に過激に行動する荒武者でしかなかった。  行相府の用所役とは、矢倉方の延長で、会計事務に似た仕事をする。又兵衛がその役に就いた事実によって彼が経理の才腕に長じていたという意外な一面を知ることができる。この時期、切迫した局面に、藩が追いこまれることはないから、又兵衛もおとなしく勤めに精を出している。彼がにわかに過激論をふりかざして、武装兵を動かし、そのために長州藩の危機を招いたのは、二年後のことであった。  過激論者として知られる人物がもう一人いる。久坂玄瑞だ。この人はしかし、又兵衛ほどの熱血と単純さで同類視できない。情況を判断する冷静な目もそなえているが、とにかく徹底的な攘夷論をとなえた一人だ。それも理屈抜きの外国嫌いだから、文字通り素朴な攘夷主義者だった。  文久二年のころになると、「攘夷」は、ペリー来航当時とはかなり違った内容で叫ばれていた。つまり外国を撃つという本来の意義をはなれて、勅許なしに外国と条的を結んだ幕府を突きあげる政治的手段としての撰夷である。  小五郎においても、それに近い攘夷だが、彼の場合は、さらに開明的な志向をただよわせている。新しい外国の文明を先取りしようという意欲を秘めている点では、すでに旧時代の攘夷論を脱してしまっていた。  だが、素朴な攘夷論を叫ぶ人たちも少なくはなかったのだ。久坂玄瑞が、その先頭を走っている。玄瑞が攘夷にはやり立つのは、その外国嫌いからだけでなく、そうせざるを得ない立場もあった。  江戸で航海遠略策をふりかざし、公武合体を進めるべく動いた長州藩主が、京都へ入ったとたんに、それを放棄するには、それなりの事情があった。しかし、幕府の目にも、尊攘志士たちの側からも、いかにも節操のない変身ぶりである。この調子だといつまた変節しないとも限らないと見られ、長州藩への不信の念はぬぐいがたい。  長州藩が本当に「奉勅攘夷」の藩論を確定したのなら、そのことを身を以て立証してみせる必要があった。それはあながち玄瑞ひとりの立場ではなく、素朴な攘夷実行に、みずからを追いやらなければならない長州藩の宿命ともいえるものであった。  玄瑞はその血祭りとして、失脚して帰国する長井雅楽の暗殺をくわだてた。公武合体の遠略策を立案した雅楽を、長州人の手で始末し、まず尊攘の|証《あかし》にというのだ。雅楽自身もその気配を察して、道を変えたので、玄瑞の計画は、不発におわった。  そんな緊張した京都へ、今一人の過激な男があらわれた。上海から帰ってきた高杉晋作である。 「断然、|割拠《かつきよ》あるのみだ」  およそ八カ月ぶりに、姿を見せた高杉晋作は、京都屋敷のだれかれをつかまえ、興奮したロ調でぶちまくった。  晋作が長崎へ帰港したのは、小五郎が右筆に就任したのと同じ日の七月十四日である。江戸へ行けという藩命をもらって、東上の途中、京都へ立ち寄ったのが八月二十三日だった。  理路整然と話を組み立てて人を説得することの下手な晋作は、いたずらに心の|昂《たかぶ》りをまき散らすだけで、割拠論などという飛躍した結論をぶっつけても共感する者は、ほとんどいないのだ。それで、晋作はますますいらだつのである。 「桂さん、軍艦を買いましょう、軍艦を」  小五郎のところへ来たときも、第一声がそれであった。 「私も、そのことは前々から藩に建言している」 「買わないでしょう。国相府の年寄どもには、わからんのですよ、今、わが藩が、また日本という国がどんな情況におかれているかが……。財布のひもを締めておけばよいとばかり考えてやがる。まったく話にならん」  大口をあけてわめくと、晋作の馬面といわれる顔が、ますます長く見える。しかし、上海へ出発する前より、ぐっと引き締まった精悍さもうかんでいる。 「もう少し、順序だてて話したらどうかね。怒鳴るばかりでは、よくわからん」  笑いながら、小五郎が言うと、身ぶるいする仕種で、晋作は体を乗り出した。 「長崎へ帰ったら、ちょうどオランダの商人が蒸気船を売りたいと言うちょると聞いて、買おうと約束したのです。藩政府へ代金を払うように手紙をやると、駄目だと一蹴されました。清国の現状を詳しく説明しても、あの連中には、まるで通じない」 「清国の様子はどうでした」 「異人に踏み荒らされ、上海などは、まるでイギリス人やオランダ人の町です」  晋作は、アヘン戦争後、半植民地化した清国の現状を、その目でたしかめてきた。腐敗した清朝政府に不満を抱く民衆の蜂起、いわゆる太平天国の乱のさ中である。この内乱の鎮圧を清国が外国に依頼したため、好機とばかり欧米列強の軍隊が、上海を拠点にどっと上陸した。  清朝政府の無気力な姿勢が、徳川幕府とかさなって見えるのである。自分の祖国も、このような運命にさらされているのではないか。晋作の対外危機感と幕府への不信感は、この上海渡航によって、一時にかきたてられた。  船で、薩摩の五代才助と親しくなった。のちの五代友厚である。彼は乗船者の枠がないので、水夫になって使節船千歳丸にもぐりこんでいたが、その目的は上海航路の踏査であった。五代と話していると、独自に藩の実力をたくわえるべく着々と手を打っている薩摩の雄図を、身近に感じた。晋作が、突然思いついたように、割拠論をとなえはじめたのは、上海の異様な環境に身をおきながら、五代才助から聞いた薩摩の体制に触発されたともいえる。  かつて戦国時代、群雄は中央の権力から離れて、それぞれの地に割拠し、独立したひとつの小国家をなした。国力を養い、やがて天下に号令すべく、野心に燃えた群雄の生き方、それを長州藩にあてはめようというのが、晋作の割拠論である。  公武の、周旋のと、江戸や京都をうろつくのはやめるべきだ。藩主は参勤交代など返上して、江戸を引き払え。京都にもとどまる必要がない。長州人は、よろしく長州へ帰り、割拠体制をかためよう。──  晋作のいうような割拠は、やはり現実から飛躍した意見として、だれも真剣に耳をかそうとしないのだった。 「高杉君のその割拠論に、大筋において賛成する」 「ああ、桂さん、わかってくれますか」 「私の割拠論は、少し違う」 「どう違うのです」  晋作の笑いが、また引っこんだ。  小五郎が考えていることも、割拠論だが、晋作のいうような長州単独で孤立するやり方ではない。  幕府を対極として、これに桔抗する力を想定しているところは共通する。だから「大筋において賛成」と小五郎は言ったのだ。長州藩一個の力で、幕府権力に立ちむかうのを、幻想だとみる小五郎は、雄藩の連合による割拠を夢みている。これもたしかに夢のような割拠論ではあった。  雄藩とは、長州であり、薩摩、土佐である。長州を中心に、九州・四国の有力大名を結束させれば、幕府おそるるに足らずだ。 「絵に画いた餅ですな」  晋作は嘲笑するように言って、小五郎の前から立ち去った。彼は江戸へ行く。江戸で、また長州割拠を説くつもりだろう。 「画餅に似たりか」  小五郎は、ひとりごちながら、立ち上がった。薩摩の誤解をとかなければと思っている。久光が京都から居なくなるのを見はからったように、長州藩主が入洛して奉勅攘夷の新しい藩論を押しまくっている。変節した長州の抜けがけとして、薩摩は怒っているだろう。ここに至る事情を薩摩に理解させておく必要があった。薩摩との提携は、雄藩連合をめざす小五郎にとっての最大の課題だったのだ。  小五郎は、老臣の中村九郎兵衛と周布政之助を説いて、そのころ京都にいた薩摩藩士藤井良節に会った。長州の立場を釈明し、近く世子定広と島津久光の会談の機会を持ちたい旨を伝えた。江戸へ行く藤井にそのことを託し、久光との間をとりなしてもらいたいというのである。  藤井は了解して京都を離れたが、そのころすでに久光は帰国の準備をしており、定広との会談は不可能な状態にあった。  小五郎の薩長外交関係に対する努力もむなしく、その後薩摩は、長州への露骨な敵意を抱くようになる。京都での長州勢力が拡大されることへの嫉視もある。  薩摩は、会津と結び、幕府側に立って長州藩に強い圧力をかけるようになった。薩長提携という小五郎の意図は、早くも崩れた。  小五郎は、土佐藩に希望をつないだ。そこには土佐勤王党の武市瑞山(半平太)がいる。江戸の桃井春蔵の道場で、彼を遠くから見た記憶が小五郎にはあった。瑞山はその後、土佐へ帰り、勤王党を組織した。公武合体派の吉田東洋を暗殺して、勤王党は大いにふるった。  しかし、藩主の山内容堂は、かならずしも尊攘の志を抱く大名ではなかった。やがて、勤王党への大弾圧を始め、瑞山も投獄されてしまう。土佐との提携も望めなくなった。  それでも小五郎は、長州藩独自の割拠にふみきれず、やはり複数藩の連合体制に固執した。小五郎は「正藩連合」という。正義の藩が連合して、幕府・会津・薩摩・越前が結ぶ巨大な勢力に対抗しようというのであった。戦略としては正しいが、これも結局は�画餅�におわってしまった。  小五郎がいう正藩とは、安芸・津和野・対馬・因幡・備前の各藩である。会津・薩摩などによる幕府側の連合に批判的な藩ではあるが、これらを結集してひとつの勢力をなそうというのも、実現困難なことである。ついには諦めなければならなくなった。  小五郎は、ようやく高杉のいう長州割拠が正しいと考えるようになるのだが、そこに到達するまでには、なお多くの曲折を経なければならなかった。謀臣の道を歩みはじめた小五郎の慎重な政治活動は、長州が京都での一時的な主役にのしあがるまで果敢につづけられるのである。  そうしたすべての努力が、水泡に帰すときは、意外に早くおとずれた。翌文久三年(一八六三)の八月におこった京都政変がそれである。堺町門の変ともいわれる。  晋作の長州割拠は、それから現実のものとなるのだが、小五郎が最初に抱いた雄藩連合も、決して画餅ではなかったのだ。それが倒幕の決定的な力を発揮するのは、謀臣柱小五郎が、京都で苦悩していたころから、四年後のことであった。   黒船を撃て  文久二年七月、小五郎は、周布政之助、山田亦介と共に、学習院用掛を命じられた。学習院というのは、天保十三年に皇族や公卿の学問所として設けられた施設で、御所の近くにあった。現在東京にある学習院の前身といってよいが、幕末のこの当時は、学問所ではなくなっている。朝廷と諸藩との交渉の場にあてられていた。  公武合体策を放棄し、急速に、一方的に朝廷への接近をはじめた長州藩が、学習院用掛に、敏腕の藩士をさしむけようとしたのは当然であろう。山田亦介は、長州藩天保改革の功労者村田清風の甥で、吉田松陰に長沼流兵学を授けた軍学者である。このころから重要な役職につき、急進派の一人として、椋梨藤太らの俗論派に対抗した。のち元治元年十一月、野山獄で処刑される。  この山田亦介と小五郎が、江戸へむかったのは、八月の初旬である。そのころ江戸に滞在していた勅使大原三位との接触が主な目的だった。  小五郎が江戸へ着いて、十日余り経った八月二十九日、藩邸内で一人の男が切腹した。  ──来原良蔵。  小五郎の妹ハルの夫である。  驚かなかったといえば嘘になるが、良蔵という人物がたどりつくべき悲惨な結末を以前からかすかに予感していたような自覚が、小五郎の心の隅に影を落としていた。  どことなく粗暴さをのぞかせる良蔵の体臭に嫌悪を感じながらも、妹ハルヘの愛情と相殺し、いわば我慢してきた小五郎が、ひそかに良蔵を許せないと思っていたのは、彼の吉田松陰に対する義絶の姿勢であった。松陰が間部詮勝の暗殺を言いはじめたとき、良蔵は、罵声を浴びせて立ち去ったまま、ついに許そうとしなかった。自他共にみとめた年来の親友を、死後においてさえ憎みつづけているかのような良蔵に、小五郎は、暗い狂気を見る思いだった。  その良蔵が、小五郎の敵として立ちふさがったのは、航海遠略策をめぐって、藩内の賛否がわいたころである。良蔵は、長井雅楽を強力に支持して、小五郎や久坂玄瑞らこれに反対する者たちを痛烈に攻撃したものだ。  ところが、雅楽が失脚し、長州藩が攘夷に傾くと、良蔵は、こんどは異人を斬るといきまいて、横浜の外人居留地にむかった。小五郎や波多野金吾(広沢真臣)らが引きとめても聞かず、世子定広の命を受けた井上聞多らの阻止もふりきって藩邸を飛び出したのである。結局、品川あたりで、竹内正兵衛らが良蔵を呼びとめ、引きずるようにして藩邸につれ帰った。  定広に叱責され、泣きながら行動を思いとどまった良蔵は、その翌朝、切腹して果てた。遺書を残している。 「これまで忠義と思ってやったことが、すべて不忠不義となった今、割腹してこの罪を謝したい」  長井雅楽の尻馬に乗り、幕府におもねる公武合体を推進しようとした良蔵にとって、異人を斬ろうとしたのは、自己批判を表現したものであったのだろう。  その行動を押しとどめられ、藩邸に彼がつれ戻されたとき、一部の人は、それが跳ねあがり者の狂言ではないかと疑った。良蔵が、自分の熱誠を、|証《あかし》する方法は、もはや割腹しかなかったということかもしれない。今さらのように良蔵への|憐憫《れんびん》が走るのだが遺児をかかえて悲嘆にくれるであろうハルの姿を想像して、さらに小五郎の胸は痛んだ。  それにしても来原良蔵の狂気じみたふるまいを、いちがいには|嗤《わら》えないという立場に、長州藩自体がおかれている。長州にしても、航海遠略策を捨て、奉勅攘夷を叫ぶ以上は、それこそ素朴な攘夷行動を、身をもって示す必要にせまられているのだ。  その攘夷実行は、良蔵が自殺した四カ月後、長州藩の若者たちによるイギリス公使館焼き打ちから始まった。  江戸品川御殿山に新築中だったイギリス公使館は、完工して引き渡すばかりになっていた。高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多、伊藤俊輔ら十三人の若者が、これに火を放ったのは、文久二年十二月十二日の夜である。  十三人のうち十二人が長州人、あと一人は他藩人だが、いずれにしても、この公使館焼き打ちが、長州藩関係者による最初の実力行動であった。  攘夷とはいうものの、無人の|館《やかた》だから、イギリス側に実害はなく、これが国際問題に発展することはなかった。この事件で、意外とされるところは、放火した彼らが、あえて名乗りをあげなかった点である。  個人をねらうテロリズムの場合は、斬奸状などを用意して、その趣旨と手を下した者を明らかにすることが多い。そこには、いくらかの自己顕示欲ものぞいている。悪くいえば、売名を感じさせもする。  イギリス公使館の焼き打ちが、長州藩の奉勅攘夷の|証《あかし》としておこなわれたのなら、火をつけたのはわれわれだと声明するはずである。ところが、それらを一切かくしていたというのは、この事件がそのような計算によって実行されたのではないことを物語っている。つまり示威行動としてではなく、長州の若者たちが、みずからを果敢な行為の中に駆りたてるための、いわば儀式めいたものであったとも考えられよう。  行動を開始したのは、この若者の群れだけではなかった。焼き打ち事件を契機としたかのように、長州藩そのものが狂気の渦に巻きこまれて行くのである。──  焼き打ちのあった翌日、夕刻になって藩邸にふらりと帰ってきた伊藤俊輔を、小五郎は呼びとめた。 「高杉君はどうしました」 「さあ、まだ土蔵相模に居つづけちょるんでしょう。私はこの二、三日、高杉さんの顔を見ておりません」  俊輔は、とぼけている。土蔵相模というのは、品川の妓楼で、彼らの溜り場みたいになっている。御殿山に近いところで、焼き打ちのときは、この妓楼が足場になった。 「やったのだろう、公使館を」  小五郎は、少しばかり無理をして笑顔をつくりながら言った。 「公使館ですか、何のことだかわかりませんな」  俊輔は、精一杯まじめな表情でうそぶいている。 「まあ、白状せよと言うつもりはないが、一同の者に伝えてもらいたい。幕府の詮議が始まると、江戸は危険だ。捕えられでもすると、藩に迷惑をおよぼすかもしれん。立ち退くがよいのだ」 「そういう人間に会うことがあれば伝えましょう」 「伊藤君は、年明け早々、私と京都へ行くことになります」 「京都ですか……」  と、俊輔は、正直に喜悦をあらわした。 「高杉君もつれて行きます」  小五郎は、連中を江戸にとどまらせていると、この先何をしでかすかわからないという不安があるのだ。玄瑞もおいてはおけないな、と思う。外人殺傷事件でもおこされると事だ。  イギリス公使館が焼き打ちされたと聞いたとき、小五郎は、やはり慌てた。下手人が晋作や玄瑞一派であることは、その直前、藩邸内での彼らの挙動からいっても容易に想像できた。今、動き出してはまずいという気持が小五郎にはあった。彼は、まだ正藩連合に望みを託しているのである。長州が独走したのでは、ますます情況が困難になるばかりだ。しかし、もうすでに長州全体が、走り出そうとする気配を、一方では強く感じてもいた。 「どうやら、長州だけで割拠しなければならぬ方向に動きはじめているのかもしれません」  そのころ、小五郎は、松島剛蔵にそんな意味の手紙を出している  小五郎が、ひそかに覚悟していた情況が、一挙におとずれてきた。  ──文久三年(一八六三)五月十日。  長州藩の運命が、大きく屈折する日だが、それは幕末の日本史が、外国の砲火の洗礼を浴びて驚愕し、攘夷の意義を失う契機となった重大事件発生の日でもあった。  この当時、京都朝廷における長州藩の勢力は、最高潮に達していた。薩摩、会津などを押えた長州の|独擅《どくせん》場を助けているのは、三条実美をはじめとする急進派公卿である。  破約攘夷(条約を破棄して攘夷を断行せよ)、即今攘夷(ただちに外国を打ち払え)を幕府にせまる朝廷の高姿勢な態度は、そのまま背後から糸をひく長州藩の意向を代弁するものともいえた。  このあたり小五郎にとっては、やや苦しいところである。  孝明天皇は、討幕など考えている人ではなかったが、かなり徹底した攘夷主義者であり、外国嫌いであった。外国との折衝に、皇室がまったく無縁の存在におかれていた歴史的経緯からもきている。七百年間にわたる武家政治の中で、いわば御所内にとじこめられた歴代の天皇が、異国というものへ恐怖に近い感情を抱かれたとしても無理からぬことだったろう。  後年のことだが、明治天皇にイギリス公使パークスが拝謁したときの模様を、通訳官だったアーネスト・サトウが『一外交官の見た明治維新』の中に書いている。彼は、年若い明治帝の何となくおどおどした様子を描写した。太平洋戦争以前の翻訳書では、この部分が伏字になっていたものである。孝明帝にしても、外国に対するきびしい拒絶の姿勢には、宿命ともいうべき古くからの皇室の体質がひそんでいたとみてよいだろう。一国の元首を、外国から遠ざけた武家政治のもたらした結果が、攘夷論の原点となって、幕府を苦しめるというのも皮肉なことであった。  朝廷に勢力を張るかぎりにおいて、長州は攘夷のメッカとなる道を選ばざるを得ないのだ。藩の謀臣として京都に活躍する小五郎は、本来直接行動を好まぬ政治家である。文字通りの即今攘夷が実現することを願うつもりはなかった。外国に対抗する十分な戦力のない今、即今攘夷は、単に心構えであり、標語であってよいのである。  だから、朝廷の強い要求に折れて、幕府がしぶしぶ攘夷期限を文久三年五月十日とすることを奏上したときも、その内容が「外国の襲撃を受けたなら打ち払え」という受動的なものになっていることを、小五郎はよしとした。  襲われれば抵抗する。これは当然であり、あらためて幕府から特別の指示を受ける必要はないのである。つまり幕府が、攘夷期限を五月十日と布令したことに、積極的な意味を理解しようとする長州藩内の一群がいる。  京都にいた久坂玄瑞らは、浪士をふくむ数十人の戦闘集団を組織して、下関へ走った。長州藩の攘夷実行が始まるとすれば、すでに国際航路の情況を呈している関門海峡が舞台になると見たからである。  下関をめざしたのは、この浪士隊だけではない。長州藩そのものが、そこを戦場に見立てて、準備にとりかかった。幕府が五月十日の攘夷期限を奏上したのは、四月二十一日である。  およそ二十日間で、前田・壇ノ浦の主力砲台を中心に、長府から彦島にいたる東西の海岸線をかためるというのは、とても不可能なことであった。  萩からは藩兵六百五十人が出動し、五月九日の夜までには、下関の寺院や劇場にしつらえられた宿舎に入った。長府など支藩の兵士もあわせて、およそ千人の戦闘部隊が下関への集結を完了したころ、砲台の築造工事はまだ終っていなかった。  そして、五月十日の午後を迎えるのである。  その日、朝から雨が降っていた。梅雨である。  砲台築造工事は、雨の中でもつづけられ、午後になった。夕刻近く、対岸の門司田野浦沖に一隻の黒船が錨をおろしたのを、見張りの兵が発見した。すでに据え付けのおわっている大砲から、空砲を一発撃って知らせたので、下関の町は、たちまち緊張でふくれあがった。  藩兵の指揮官としてきている馬関総奉行毛利能登は、まず偵察の者をさしむけた。その藩兵が乗った小舟が、外国船におそるおそる近づいたのは、まだいくらかは明るみの残っているころだ。  マストにひるがえっているのは、星条旗であった。ペンブローク号というアメリカの商船である。舟から声をかけると、意外にも日本人が舷側から顔を出した。ヤスゾウという長崎の浪人者で、通訳がわりに便乗しているらしい。  彼の説明によると、ペンブローク号の船長は、神奈川奉行浅野伊賀守から長崎奉行にあてた書状をたずさえている。七日に横浜を出帆し、瀬戸内海から関門海峡を抜けて長崎へ寄り、それから上海へ行くのだという。  ちょうど海峡の潮が逆に流れているので、潮待ちしているところだ。ペンブロークは、そのまま夜まで錨をおろした。攻撃されるとは、夢にも思っていなかったにちがいない。  陸では、久坂玄瑞のひきいる浪士隊が、攘夷の血祭りにしようと騒ぎはじめた。彼らは細江町の光明寺を宿所としているので光明寺党とよばれた。正規の藩兵からはみ出た別働隊であり、最も過激な攘夷主義者の群れである。  総奉行の毛利能登は、眉をひそめながら考えこんでいた。異船とはいえ、公儀の書状を持った船を攻撃するのは不法ではないかと、命令をひかえているのだ。もしかすると、国の運命を左右するかもしれない攘夷の第一弾を発射するには、さすがに決断が重すぎた。能登はこのとき六十七歳だった。 「能登、いまだ戦意を決せず」と、いきりたった光明寺党は、総奉行の下知も待たずに、亀山八幡宮の境内に築いたばかりの砲台にかけつけ、いまにも海峡にむかって発砲せんばかりの気配を示した。  しかし、当時のその大砲では、とうてい田野浦沖にいるペンブロークに弾は届かないのである。やはり軍艦で攻撃するほかに手はないとわかったところへ、三田尻(防府市)に行っていた長州藩の軍艦庚申丸が港へ入ってきた。光明寺党の面々は、庚申丸へかけつけた。  庚申丸の艦長は、松島剛蔵である。玄瑞とは顔見知りの仲だが、剛蔵も総奉行の命令ではないのだから、さすがにためらった。 「老ぼれの総奉行にはかまわず、やってしまおうではないか。ぐずぐずしちょるとアメリカ船は逃げてしまうぞ」  玄瑞は興奮した声で、剛蔵をせきたてるのである。そのまわりを、肩怒らせた光明寺党の浪士たちが取りまいている。ついに剛蔵は決意した。庚申丸だけでなく、先に入港していた|癸亥《きがい》丸も同調する。  二隻の長州軍艦が出撃したのは、五月十一日の未明であった。光明寺党の中から選ばれた決死の者が乗り組み、いぜんとして田野浦沖に碇泊しているペンブローク号に近づいたころ、亀山砲台から轟然、海にむかって合図の一発が撃ち放たれた。攘夷の、というよりも狂気の第一弾である。つづいて庚申・癸亥両艦の二十四ポンド短加農砲も火を噴いた。  ペンブローク号は、払暁出航の予定で、煙突から黒煙や火の粉を吐き散らしていたから、梅雨の降りしきる暗い海上では、好都合な目標となった。  このとき両艦から撃った弾丸は十二発で、うち三発がペンブローク号に命中し、わずかだが損傷を与えた。ペンブローク号も自衛のために積んでいた砲で数発応戦したが、ちょうど出航準備をしていたので、すぐに錨を上げて、周防灘の方面へ逃げ出した。  下関での米船砲撃の報を、小五郎は、京都藩邸で聞いた。  五月二十三日には、つづいてフランスの軍艦キャンシャン号を、二十六日にはオランダ軍艦メデューサ号を砲撃している。 「撃退した」  というのである。攻撃してくれば、これを打ち払えと幕府は布令したのだが、長州藩のこの攘夷行動は、通りかかった外国船を一方的に砲撃しただけだ。 (まずいな)  小五郎は、内心うかぬ顔で戦勝気分にわく国許からの報告を聞いていたが、この情況を予測できなかったわけではない。こうなれば、行きつくところまで行くしかないという覚悟も、ひそかにかためながら、三条実美ほか急進派公卿との接触などで忙しい日々をおくっている。このような行動に出た以上、長州藩を孤立させないようにと気を配っているのである。何となく綱渡りしているような気持もあった。  六月一日には、まず米船砲撃に対する褒勅が、朝廷から出され、長州藩の地位はたちまちはねあがった。薩摩にかわって、長州が京都での勢力を占めるようになった理由は、もう一つある。  ちょうど下関でフランス軍艦を砲撃する三日前の五月二十日夜、京都で暗殺事件が発生した。急進派公卿の一人、|姉小路公知《あねがこうじきんとも》が、宮中から退出の途中、|朔平門《さくへいもん》外で何者かのために斬殺された。  下手人は不明だったが、現場に落ちていた刀から、薩摩の田中新兵衛に疑いがむけられた。新兵衛は、�人斬り新兵衛�の異名をとり、佐幕派の暗殺に示現流の腕をふるった男である。刀を証拠に追及されると、一言の弁明もなく、いきなりその刀を引き取って自分の腹に突き立て絶命した。真相はわからずじまいだが、そのときは新兵衛が罪をみとめて自殺したものと解釈され、薩摩の立場はきわめて悪くなった。  この事件で、薩摩藩は御所警衛の任務を解かれ、新しく長州藩は堺町門の警衛につくことになった。薩長の立場は、まったく逆転したのである。薩摩を敵にまわすまいとする小五郎の努力は、水泡に帰したかたちとなり、むしろあきらかな対立者の位置にこの雄藩を追いやろうとしている。  幕府と薩摩、そして会津の結束は、ますます堅く、長州の独走態勢に激しい視線をそそぐ中で、攘夷親征運動も一応は軌道に乗ったかに見えた。  ──攘夷親征。  京都における尊攘激派の勢力が絶頂に達したとき、この計画は実現に動き出した。文字通りにとれば、攘夷行動を天皇の直接指揮下におこうとするものだ。表むきには、天皇の大和行幸、そして攘夷祈願の名目による神武天皇陵の参拝などを盛りこんでいる。その狙いは、幕府の違勅を天下にさらし、ひいては討幕の機運に火をつけようというのであった。三条実美をはじめ急進派公卿によって、天皇の大和行幸は、確実におこなわれる見通しとなった。  ところが、いかにも順調に進むかに思われた下関の攘夷戦は、オランダ艦攻撃以後、惨めな敗北に見舞われる局面を迎えつつあった。  まず六月一日、つまり長州藩の米船砲撃に対する褒勅が下ったその日、皮肉にもアメリカの軍艦ワイオミング号が、下関を襲った。去る五月十日の米船ペンブローク号砲撃への報復としてやってきたのだ。不意をつかれた下関の各海岸砲台は、大慌てで応戦したが、ほとんど役にたたないのである。海上では庚申・|壬戌《じんじゆつ》・癸亥の三艦が、ワイオミングを迎え撃った。これも劣勢で、たちまち二隻は撃沈され、一隻が大破した。  六月五日には、フランス軍艦のタンクレード、セミラミスの二隻が、報復のため下関を襲撃した。セミラミスは、フランス東洋艦隊の旗艦で、大砲三十五門を搭載した堂々たる戦艦である。  二隻のフランス軍艦は、二時間にわたって主力の壇ノ浦・前田砲台に砲火を浴びせて沈黙させたあと、陸戦隊の上陸作戦に移った。  長州兵は小銃や弓をもって上陸しようとするフランス兵を狙い撃った。セミラミス号からの掩護砲撃は激しく、海岸を守る長州兵も必死に戦ったので、上陸兵は一時後退したが、新しい兵員の応援を得て再び押しかえし、ついに砲台近くまでせまった。  何しろ長州兵が持っている旧式の鉄砲や弓では抗すべくもない。砲台は二百五十人ばかりのフランス兵に占領された。彼らは、三隊に分れて前田の村落を襲い、三十三戸の民家を焼き尽し、本陣の慈雲寺に入って武器や経典を奪い、本堂に火を放った。  砲台では火薬庫をひらいて火薬や弾丸を海中に捨て、大砲には火門に鉄釘を打って使用不能とし、砲架をこわして、夕刻、全員両艦に引き揚げて行った。  目的を達した旗艦セミラミス号はすぐに出帆、瀬戸内海から紀淡海峡を通り九日、横浜に入った。タンクレード号は、艦腹に穴をあけられ、マストも傷ついたので、門司側に移り、その修理に二日をかけた。門司は、対岸の小倉藩領である。小笠原氏は譜代大名だから、反長州を決めこんでおり、下関が外国軍に襲われるのを、小気味よさそうに見物していたのだ。  すでに軍艦を失った長州は、目の前にいる黒船を攻撃することもできず、敗北にうちしおれるばかりだった。タンクレード号は、七日に錨をあげ、横浜についたのは十一日である。これで文久三年五月十一日未明から、六月五日夕刻にいたる五度の攘夷戦は、惨澹たる結果をのこして終った。  十年間の|暇《いとま》を許され、萩郊外の松本に静かな日々をおくっていた高杉晋作は、下関で戦争が始まったことを聞いても動こうとしなかった。上海で欧米の軍隊を見てきた彼は、攘夷実行の無謀を知っていたにちがいない。  その晋作が藩主に呼び出され、対策を一任されて下関にやってきたのは、フランス軍艦による襲撃の翌日、六月六日のことである。晋作の発案によって、民衆を駆り集めた奇兵隊がこの日誕生する。奇兵隊につづいて多くの諸隊も組織された。  黒船の再来に備えた奇兵隊や諸隊だが、その後およそ一年間、外国軍艦との戦いはなかった。その間に、京都の情勢もめまぐるしく急変するのである。  村田蔵六が京都藩邸にあらわれたのは、下関の敗報が届いてから一カ月ばかり経ったころだ。 「村田先生、外国が再び襲ってきた場合、奇兵隊でもちこたえられましょうか」  と、小五郎は、さっそく訊ねた。 「奇兵隊の意気壮とするも、精神力だけでは戦えません。とうてい駄目です」  蔵六は、すまして答える。 「外国の連合艦隊が、大挙して下関を襲うという風説も流れております」 「大戦争ですな」 「長州は滅びるのではありませんか」 「そんなことはないでしょう」  と蔵六は、わずかに笑って、小五郎の目を覗くようにして、抑揚のないいつもの口調で言った。 「戦いは水際で終ります」 「………」 「私が、外国兵の指揮官なら、奥地まで攻めこんで、長州全土を占領しようなどとは考えぬということです」 「水際で精一杯戦って、それから和議を進め……」 「というより降伏ですな」 「降伏して、攘夷を捨てる、それから……」 「開国でしょう。そして、新しい武器を買いこむ。それから先のことは、私などの考えるところではありません」  そこまで言って、蔵六は、はじめて大声で笑った。 「外国といえば、あの五人どうしていることか」 「まだ船の中でしょう」  井上聞多、伊藤俊輔ら五人が、ロンドンをめざして横浜を発ったのは、五月十一日である。それはペンブローク号砲撃の当日だった。  ロンドンに秘密留学した五人とは、井上聞多、伊藤俊輔、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉である。  最初に洋行を発意したのは井上聞多だが、彼にそれを思い立たせたのは外国嫌いの久坂玄瑞であったという皮肉ないきさつがある。  前年十二月、江戸でイギリス公使館を焼き打ちしたあと、久坂玄瑞は、山県半蔵と共に信州松代に足をむけた。佐久間象山に会うためである。象山を長州藩に招き、砲台の築造、巨砲の鋳造を指導させようというのだが、拒絶された。松代藩士である象山が、簡単に長州の招聘に応じられるはずもなかった。しきりに黒船を撃つといきまく玄瑞に、象山は言った。 「わが国にはまだ鋭利な武器もなく、堅牢な軍艦もなく、したがって沿海の防備はきわめて不完全である。これで外国と戦端を開いても、とうてい勝算の見込みはない。いま巨砲を鋳造し、洋式軍艦を製造することは、たしかに急務にはちがいないが、海外万国の大勢を観察するに、彼らは互いに貿易をおこない、有無相通じながら自国の富強をはかっている。わが国だけが孤立して攘夷をなすがごときは、まったく無謀といわなければならない……」  尊大な象山としては、かなり親切に玄瑞を教えさとしたものである。イギリス公使館を焼き打ちして、心を|昂《たかぶ》らせている玄瑞は、憤然として松代を去り、京都へ入った。  三条河原町の旅宿池田屋にいる玄瑞のところをたずねたのが井上聞多だ。玄瑞は、象山のことばを、そのまま聞多に告げた。 「なるほど、攘夷は無謀だな」  聞多がしきりに感心しているので、玄瑞は不興な表情で、 「即今攘夷あるのみだ」  と畳をたたいた。 「海外万国の大勢か……」  聞多は、ひとり頷きながら池田屋を出て藩邸に帰ると、山尾庸三に、そのことを話す。庸三は、やはり焼き打ちのときの同志である。 「断然、外国に遊学すべきだと思うがどうか」  聞多は、玄瑞の前を去って、藩邸へ帰る途中、ひとり決心していたらしい。庸三も賛成した。 「ちょっと萩へ帰って、藩公に相談してみる」  慶親の小姓役をつとめたことのある聞多は、気軽に思いたって、翌日京都を出て行った。 「そんなことを、私に直接願い出るのはよくない」  慶親は、そのように答えた。  これは婉曲な同意である。長州の若者が五人、イギリスヘ留学する計画は、このようにして実現した。  横浜にいるイギリス領事ガワルとの交渉には、最初山尾庸三があたった。ガワルは承諾したが、五年間の滞在費として一人千両を必要とするという。これに対して藩から支給された金は六百両にしかすぎない。庸三は困惑して、一応出なおすことにし、聞多にそれを報告した。 「男子がいったん志を立て、四千五千の金のために、それを果たせないというのも残念ではないか」  聞多は、ただちにガワルのところへ行き、五千両は必ず調達するので渡航のことを頼むと言い、自分の大刀を抜いて差し出した。 「これは武士の魂です。これをあなたに預け、誓いの証拠とする」  このあたりは、井上という人物の迫力というものであろう。山尾庸三にない強靭な意志力が浮き出ている。ロンドンに留学した庸三は、明治三年に帰朝した。新知識として迎えられたことは当然で、横須賀精錬所の創設に働き、のちに法制局長官などをつとめたが、晩年は閑職につき、政界人として活躍することはなかった。  そうした庸三にくらべると、聞多には政治家としての体質が色濃く流れている。このときの五千両の金策にも、それは発揮された。  江戸藩邸の穴蔵金として一万両がたくわえられていることを、聞多は知っていたのである。この金は藩の兵器購入の準備金だった。聞多は、それを狙った。 「横浜出発前に出したらしい五人連署の手紙をもらいましたよ。五千両の金策には、村田先生もお骨折りのようでしたな」  小五郎は、そう言って、村田蔵六の表情をうかがった。 「多少、出過ぎたことをしたかと思うちょります」  蔵六は、謹厳な顔をつくって低頭した。 「いや、あれでよかったのです。井上君たちも、後始末のことは、くれぐれも頼むと、毛利登人、楢崎弥八郎、それに周布さんと私にあてた書簡を残して行きました。村田先生に迷惑がかからぬようにと、かなり気を使っておりました。大丈夫です、周布さんも了承しましたから」  五千両の調達は、藩邸の穴蔵金一万両をあてにして、長州藩の御用商人から借り出したものだが、証文は留守居役ということで村田蔵六が書いた。 「彼らの書状、お見せしましょう」  小五郎は、聞多たちからの手紙を取り出して、蔵六に渡した。 「面白いことを言うちょりますな」  読みながら、蔵六は笑っている。 「定メテ、コレマデ放蕩無頼生ノコト故、又モ誤リ候ハンカト、御疑心モ有之候ハント愧ジ奉リ候、最早確乎トシテ不動候故、万々御安心是レ祈リ候……」  五人のうち三人までは、半年前イギリス公使館の焼き打ちに加わった連中である。井上、伊藤、山尾がそうだ。 「公使館を焼いたちゅうことは、むろん隠しておるのでしょうな」と小五郎。 「それは言えんでしょう」  蔵六は、まだ読んでいる。二千宇におよぶ長文の手紙である。 「……形ノ上デハ不正ノ大金ヲ押シ借リ、不届千万ノ至リ、心事快クハ毛頭存ジ寄ラズ候得ドモ……右ノ策ノ外手段コレナク、実ニ上へ対シ、政府ヲ偽リ侮リ、法典ヲ犯シ、罪ハ万死ニ当リ候得ドモ……」  これで見ると、五千両は、借り出したとはいえ、相当に不正な手段であったという意識を抱いているようだった。  書き終ってから、さらに「二白」として付け加えているのは、やはり金のことだった。 「幾重モ金ノ義ハ不正ノ|廉《かど》恐レ入リ候得ドモ、飲食ナドニ遣ヒ候訳ニテモコレナク、是モ不様ヨケレバ生キタル器械ヲ買ヒ候様オボシ召サレ、御緩容願ヒ奉リ候、以上」  蔵六は、その部分を呟くように、声を出して読み、 「生きたる器械を買ったと思えとは、うがったことを書いちょりますなあ」  いかにも感心したという面持で、頷いている。 「生きたる器械ですか」  小五郎も、いまさらそのことばの面白さを思った。 「あの者たちが帰るのは、五年先か、そのころ長州はどうなっておりますかね」 「さあ、桂さんにわからないことが、私などにわかるはずもありません」と、蔵六は無愛想に答え、思い出したように言った。 「連合艦隊の来襲があるとすれば、できるだけの海防をしておかなくてはなりませんな」 「襲われるのは、下関だけと限らんでしょう」 「三田尻なども危いとみなければなりますまい。いや、これは私の郷里の近くだから、そう言うのではありませんが……」 「わかります。一度、帰国されますか」 「命令とあればいつでも」  村田蔵六は、間もなく帰国し、手当防禦事務用掛、三田尻砲台所見合、装条銃打方陣法規則取調などを命じられるのである。ようやく蔵六の出番だった。  結成された奇兵隊や諸隊も、訓練に精出しているという。外国と戦わなければならぬ者と、外国に留学する者と、これも長州の多彩な生きざまというべきである。 (欧州か、私も行きたい)  小五郎の目が、ふと、遠くを見ようとしているのを、蔵六は気づかない。 [#改ページ] 第五章 花と銃弾   京洛の恋  小五郎の、恋について語ろう。  まずは、その舞台を見なければならない。在京中の小五郎が、よく出入りしたという|三本木《さんぼんぎ》を筆者がたずねたのは、何となく埃っぽい京の町なかを歩くと、わずかに汗ばんでくる初夏のころであった。  三本木は、上京区の丸太町橋と荒神橋に挾まれたあたり、河原町に沿った細長い町である。東側の屋並の裏は、鴨川べりだ。  表通りからは、目隠しされたような町だった。 「三本木は、この奥どっせ」  と教えられ、路地を入って行くと、すぐに家の板壁に突きあたった。迷路みたいな感じだが、よく見ると、そこから道が左右に分れ、二本の町筋が、平行してまっすぐに走っている。その両側に、こぢんまりした木造二階建ての、ほとんど同じ造りの家が、肩を寄せあうように立てこんでいる。  人影もまばらで、今は静かな住宅街にちがいないが、どことなくナマメカシイ気配が遺っていて、やはり普通の町ではないことを思わせる。脂粉が剥げ落ちて、素顔をあらわした小づくりな老妓といった感触である。  三本木は昔、遊廓街だった。江戸中期の宝永年間に店開きしたのだが、ここは長い間、非公認の遊里で、公儀に目こぼししてもらっていた地域だ。  幕府に公許されていた京都の遊廓は、島原だけである。このほかに多くの群小遊里があったが、祇園・二条新地・北野・七条新地の四カ所は、五年ないし十年毎の申請で、准公許となった。  そうした遊里の公許が、一挙に拡大されたのは安政四年(一八五七)で、前記四カ所のほか八坂新地・下河原そして三本木なども公然妓楼の営業を許可された。  しかし、遊女たちは、すべて島原の「人別」に属し、島原の差配を受ける。稼ぎの中から、口銭を島原に上納するという規則も新しく決められた。  ペリー来航以後の安政年間から、京都の流動人口が、急激にふえはじめた。諸大名の出入りや志士たちの往来が激しくなり、必然的に紅灯街はこれまでになく賑わい、遊女の数もふえていくのである。公許の拡大は、野放しになりがちな非公認の遊里を集約して、新しく管理統制しようという風俗政策によるものであろう。  遊廓街の中には、遊女を|抱《かか》える妓楼とは別に茶屋がある。引手茶屋とか出会茶屋といわれ、妓楼に遊ぶ客が、その前にいったんここへ入って、遊女を呼び、酒盛りをする。その宴席を賑やかにする女性が、三味線師匠などとも呼ばれる芸者である。美貌の芸者を目当てに、茶屋遊びにふける男たちも少なくはなかった。  茶屋や妓楼は、男女の色ごとをくりひろげる場所だから、隣部屋と隔絶した個室が完備している。幕末、志士たちが密議をこらすにもってこいの施設でもあった。あるいはそれをロ実にして、欲望のはけ口を求め、刹那的な享楽にふける者も多かった。  安政四年の風俗改革、というより京の色里が一斉に花開いたその年、小五郎は江戸にいた。このころ、すでに志士たちの活動が京都でさかんだった。  安政四年六月、水戸と関係の深い勤王家、安達清風(鳥取藩士)は、梅田雲浜・月性(周防の勤王僧)・頼三樹三郎らと酒を飲み、遊廓に遊んだことを日記に書き遺しているが、 「国事ヲ妓楼ニ議スル、誠ニ至愚ノ事」  などと反省もしている。しかし、色里が恰好の会合場所であることには違いなかった。後ろめたい思いをしながらも、安達は、京都藩邸の留守居役になると、連日連夜妓楼や茶屋に出入りし「疲倦また|極《きわみ》なり」と、妙な悲鳴をあげている。  京都屋敷の要職に就いた者が、遊里の常連であり、上客であった事実は、いちいちそのような例を挙げるまでもないだろう。今に変らぬ宴会政治が、京洛の|巷《ちまた》に展開される幕末の一光景であった。  京都藩邸にあって、外交に奔走する桂小五郎もまた、京の色町に、足しげく通ったことである。小五郎自身、そうした空気が嫌いなほうではないのだ。  三本木には、竹田藩が京屋敷をおいた。御所が近いから、付近には公卿の下屋敷も多く、また遊里もあるので、志士たちがよく集まってきた。  三本木の遊里に出入りするのは志士だけでなく、各藩の侍たちもやってきた。夏などは、夕刻、四条河原で納涼のひとときをすごし、それから近くの料亭で酒を飲み、酔った勢いで祇園へ、二条新地に属する|先斗《ぽんと》町、斎藤町へ、少し歩いて三本木へと繰り込むのである。  謀議をこらすための密会場所ともなる。小五郎もよく三本木を使ったが、会津藩や薩摩の連中も利用した。京の遊里はどこへ行っても呉越同舟で、のんびり遊んでいるように見えても、決して油断はしていなかった。  やがて小五郎が直面する堺町門の変は、会津と薩摩が組んだ長州追い落としのクーデターだが、この陰謀は三本木で練られた。「三本木の会議」という。薩摩藩の高崎佐太郎が、三本木に登楼した公用局の会津藩士を訪ねて、密談したからである。  小五郎が京都の遊里にあらわれたのは、文久二年の秋ごろからであった。その年七月、小五郎は周布政之助、中村九郎兵衛らと共に、他藩との交渉の任に当れという命令を受けた。長州藩が航海遠略策を放棄する直前のことである。  攘夷の藩論が確定してからは、さらに外交の仕事がふえた。対馬藩士大島友之允や薩摩藩士高崎佐太郎と会い、土佐藩士平井収二郎とつきあうといったように連日他藩人との接触がつづく。やはり酒になる。祇園へ行き、島原に登楼して、遊びとも仕事ともつかぬ時間をすごすのが日課のようになった時期もある。  新撰組が市中取り締まりを命じられて京の町をのし歩くようになってからは、島原を敬遠した。新撰組の連中は、多人数で押しかける。小規模な妓楼や茶屋ではさばけないので彼らの溜まり場は、いつか島原になった。  文久三年の春、小五郎は、伊藤俊輔をつれ、はじめて三本木の吉田屋で酒を飲んだ。俊輔もこの道は好きな男で、江戸にいるころ品川の女郎屋でずいぶん遊んでもきているのだ。  吉田屋は、東三本木の北の端あたりで、現在も建物が遺り、大和屋という旅館になっている。その大和屋の玄関近くに、古い吉田屋の看板が、無造作にかけてある。何となく邪魔っけに扱われている感じだが、|篆刻《てんこく》をほどこした立派なしろもので、埃をかぶった古色があのころからの歳月を、なつかしくただよわせている。  やはり「旅館」と彫ってあるから、当時も妓楼ではなかったらしい。今でいう割烹旅館のたぐいであろう。  三本木の通りからはそれほど大きく見えないが、鴨川べりに回って、裏から眺めると、かなり目立つ建物である。古びた三階建ての屋根を、高々と空に突きあげている。  大和屋の裏は、鴨川に沿って緑地化され、舗装された散策路が走っているが、幕末の吉田屋時代は、低く雑草の生い茂る荒れた河原だったにちがいない。新撰組に踏みこまれた小五郎が、吉田屋の抜け道を通って脱出したのもこの河原である。  新撰組が、遊里をうかがって浪士狩りに動きだしたのは、文久三年八月の政変以後だから、小五郎が足をはこんだその年の春ごろは、まだ三本木もおだやかな紅灯街だった。  伊藤俊輔と吉田屋で酒を飲んだとき、その席に呼んだ芸者は幾松といった。二代目で、義母が同じ源氏名を使っていた。三本木に住む自前芸者だが、どことなく素人くさいところがある。それまでに小五郎が接した多くの色里の女性とは、ひどく違って見えたのだろう。記憶にのこったのか、その後もしばしば宴席に幾松を呼ぶようになった。  俊輔には、隠れるようにして、一人で三本木にあらわれ、この芸者を相手に酒を飲むこともある。小五郎は美男子だから、色町でもそれなりに女から注目されたが、|馴染《なじみ》の芸者ができたのは、これが初めてである。  ──ふしぎな芸者。  などともいわれた。幾松は、色白で、目鼻立ちのひきしまった、美貌というより聡明な感じの顔つきをしている。小五郎と会った文久三年、二十一歳だった。  三本木へ舞妓として出たのは安政三年だから、かれこれ七年近くこの世界にいるくせに、素人じみたにおいがとれない。もともとは武家の娘だという意識も手伝ってか、笑った表情の奥から、いつも気位をにじませているので、芸者としては隙がなさすぎる。それでも客席に出て、たまに酔うと、豊満な姿態を少しばかり崩して、人が変ったような色気をただよわせ、何人かの男を知っている過去を、不意にのぞかせもした。  日ごろは身持ちが堅いことで通っており、ひとつにはそれが魅力で、結構売れているようだった。機会あれば陥落させてやろうという男共も多いわけだが、小五郎にしても、そんな男の中の一人ではあった。しかし、幾松の前に出ると、妙に四角ばって、浮いた気分になれないのである。 (やはり、ふしぎな芸者だな)  と、小五郎は思った。いわば普通の町家の女性を前にしているようで、どことなく気づまりだし、自然に無口になった。それまでの遊びとは、まったく勝手がちがうのである。幾松にしても、芸者らしくふるまえない空気を感じている。 「侍の家に生まれたのかね」  ある夜、小五郎がたずねた。たびたび顔をあわせているうちには、しんみりと幾松に身の上話をさせるほどの親しみもわいているが、この二人の間では、むしろそんな話題がふさわしいくらいのものだったろう。 「へえ、父は若狭小浜の酒井家につかえる|木咲《きざき》市兵衛という武家どした」  口調は重いが、多少は誇らしげに、素姓をあかした。  木咲市兵衛は、奉行所の右筆をつとめていたが、嘉永元年に発生した百姓一揆の責任をとらされて閉門を命じられた。それいらい鬱病にとりつかれ、ついに失踪するにいたった。つくづく宮仕えが嫌になったのかもしれない。  男四人、女三人という子供をかかえて、妻のすみは、路頭に迷った。結局、子供たちは親戚が引き取り、二女の|計子《かずこ》つまり幾松は、すみの実家に落ちついた。十歳のときである。  市兵衛が京都にいることがわかり、妻のすみはすぐにそれを追った。父母恋しさのあまり、計子はひとりで若狭から京都へ走った。道に迷って泣いているところを、親切な魚屋に拾われ、無事市兵衛夫婦のもとに送りとどけられたという。幾松の勝気な性格は、幼少のこのころから、すでにあらわれている。  市兵衛は手内職で生計を立てていたが、そのうち病気がちとなり、その日の暮らしにも困るようになった。結局、計子は養女に出る。  九条家の諸太夫であった人物の次男で、難波恒次郎という人が、夫婦の間に子が無いので、しきりに子供をさがしていると聞いてあたってみた。女の子をほしがっているという。さっそく恒次郎の妻がやってきて、話がまとまった。  五年ばかり経って、市兵衛が重病に伏せるようになると、ほかにあてもないので、すみは医薬代を難波家に借りに行く。度重なると、恒次郎もいい顔をしないのは当然で、この家もあまり楽な生活ではなかったのだ。家格があるといっても、恒次郎は次男坊で、大した財産もないのに、遊びくらしているような男だった。三本木の芸者を|落籍《ひか》したのが、そのときの妻である。これが初代の幾松だ。  花柳界の経験のあるこの養母は、二代目幾松として、計子を舞妓に仕立てあげ三本木に出した。実の父母と、養父母と、二軒の生活が、少女の肩に重くのしかかってきたのである。それは七年後の今も続いているのだが、芸者の稼ぎも悪くはないから、何とか支えている。 「ご苦労だな」  小五郎は、呟きながら、冷えた酒をロにふくんだ。  小五郎は、裕福な医者の家に生まれ、生活苦の経験が、まったくない。これまでも薄幸な人たちの話を聞くことはよくあったが、何か遠い世界のことのように思えて、あまり深刻にはなれなかったものだ。  ところがこのときは、少しちがっていた。小五郎はひどく胸を打たれたのである。それは、悲惨な身の上話を、淡々と語る人が、美しく着飾った芸者であるという異様な雰囲気に、思わず引き込まれたということかもしれない。  京都にいる幕府や藩の高官、あるいは志士たちが、いわば夜な夜な|徘徊《はいかい》している色里の、華やかな光の中に働く女たちのだれもが、不幸な影をひきずって、生きているのだ。  ほかに女性との交渉を求むべくもない漂泊の生活をつづける志士たちは、遊里に身をおく、不幸な女人と愛情関係を結んだ。そして多くの志士は、動乱の中に燃え尽きてしまうのである。  明治まで生き残り、新政府の高位高官にのしあがった元志士の令夫人として、幸せな日常を送れた花柳界出身の女性もまた少ない。幾松は、その数少ない女の一人となるめぐまれた出会いを小五郎と持ったのだが、この時期、二人が夫婦として結びつくまでには、なおいくらかの時間を経なければならなかった。 「桂様は、萩に奥方がおいやすのどすなあ」  と幾松が、言った。笑っている。 「もう、何年も会うちょらん。実家に帰ってしまったらしいから、離縁みたいなものだな」  これは嘘ではなかった。富子は、小五郎の留守宅を守っている義兄和田文譲の未亡人とも折り合いが悪く、家を出てしまっている。江戸、京都と他国に長居したまま、まるで帰国しない小五郎にも責任がないとはいえない。  人にすすめられた何となく気の進まない結婚の、予想された破局ではあった。富子の饒舌に当初から辟易した記憶もあり、正直なところほっとした気持だが、哀れさもあって、いくぶんは後ろめたかった。 「お子はおいやすのどすか」 「ない」と鋭く答え、小五郎はその勢いに乗ったように、「あんたに、私の子を生ませたい」とまじめな顔で言った。 「きつい冗談どすなあ」  と、幾松は笑った。初めて見せる艶然とした笑い顔である。  その夜、幾松はめずらしく酔いつぶれ、小五郎と同じ床に入った。酔いにまぎれて、からだを与えたということにしたかったのだろうが、女体は燃えながら、激しく小五郎を求めつづけた。  彼が江戸いらいしばしば経験した遊女との空疎な行為とは、あきらかに違った充足感と、しびれるような歓喜が、そこにはあった。肉体と精神の関わりが、普通の社会と手続きの違う花柳界での、男と女のできごとというべきだろうか。小五郎の恋は、幾松の肌を所有したその日から、始まるのである。  それまで意識の底に押しかくしていたものが、急激に浮きあがってきたということかもしれない。まるで|初心《うぶ》な少年のように、小五郎は、幾松のことを思い、胸を疼かせるのだった。  このことは、まだ伊藤俊輔にも打ち明けていなかったが、その俊輔もどうやら幾松に執心で、時折、座敷をかけているという。遊びにかけては、小五郎などより|上手《うわて》で、万事あけっぴろげな俊輔が、小五郎に言ったことからわかったのである。 「桂さん、昨夜、清水の坂下にある|曙《あけぼの》ちゅう茶屋へ幾松を呼んで、今夜こそはと口説いてみたが、あっさり振られてしまいましたよ。あれは、旦那でもおるのでしょうか。歯が立ちません」 「………」 「しかし、あんな女には、なおさら闘志がわきますな」  と、|狡猾《こうかつ》そうな顔をゆがめて笑っている。 「伊藤君、それについて頼みがある」  小五郎は、かすかに赤面しながら、俊輔の耳もとにささやいた。 「幾松は、私のことを何か言っていなかったかね」 「いや別に、何も言うちょりませんよ」 「そうか」  小五郎は、少し肩を落とした。 「桂さん……」と、伊藤俊輔が頓狂な声をあげて、小五郎を睨み、一瞬、意味ありげな笑顔をつくる。そして、やや狼狽した口調で喋りはじめた。 「へえ、そうでしたか、これは知らんかった。僕としたことが……。あやうく桂さんと鞘あてするところでしたな。もっとも桂さんにかなうわけもないが……。まるで関心のない顔をしちょられるものだから、いかんのですよ……。それで、頼みとは何でしょうか」 「幾松を口説いてくれんか、私のために」 「まだ、そんな段階ですか」 「いや、そのことはともかく、幾松を|落籍《ひか》せたいのだ」 「あたってみられたのですか」 「このところ忙しくて、会う暇がない」 「幾松には、やねこい(厄介な)養い親がついとるのをご存知でしょうな」 「そうらしいが、まずは幾松の気持だ」 「わかりました。あまり嬉しくない役目じゃが、置きみやげと思って、ひとふんばりしてみますか」  俊輔のロンドン留学が決まっているころである。それについては、小五郎もかなり骨折ってやっている。俊輔としても断れないところだろう。  二、三日すると、悲観的な報告をもってやってきた。 「なかなかウンと言いませんな」 「私を嫌だというのか」 「いや、惚れちょるそうです。ぬけぬけと白状しよりました」  わざとらしく憮然とした顔で、俊輔は、幾松の返事を、小五郎に伝えた。 「足を洗うわけにはいかぬ、養父母の生活もあるし、実の親の面倒もみなければならん、いかに桂さんでも二軒をひっかぶる気持はないだろうと……」 「その覚悟はできておる」 「桂さんなら金のことは大丈夫だと言うたのですが、やはり芸者はやめぬの一点ばりです」 「そんならそれで、よいのだ」 「むろんそのことも言うてやったのです。芸者をつづけるのは構わぬ、桂さんを旦那にすればよいのだと。すると、決まった人を持つと売れなくなる、それでは困る、第一、難波夫婦が承知すまいと……。思うた以上に頑固な女子ですよ」 「やはり高望みだったかな」 「そんなことはありませんよ。れっきとした長州武士が、京の芸者一人や二人、囲えなくてどうします。しかし、あの幾松は番外ですよ。家の事情も事情ですし」 「私は、妻にしてもよいと思うちょるのだ」 「ほう」  と、俊輔は、しんじつ驚いたという表情で、無遠慮に、小五郎を、しばらく|凝視《みつ》めた。 「それほどのものですか」 「おかしいかね」 「とんでもない」と、俊輔は、坐りなおした。「僕は桂さんという人は、女に心を乱すような人間ではないと考えちょりました。冷酷で、慎重で……。いやこれは失礼なことを申し上げました」 「伊藤君、重い任務につきながら、このような女のことに夢中になる私は不謹慎な藩士だと思うかね」 「そういうところが、桂さんらしいのです。不謹慎とはいえませんよ。この道ばかりは」  こんどはニヤニヤ笑っている。少しばかり調子づいた俊輔に、いつもなら不快感をもよおすところだが、このときばかりは、小五郎も決して平静ではなかった。  もう一度あたってみると、俊輔は、間もなく立ち去った。  攘夷親征運動で、三条実美はじめ急進派公卿の抱きこみに、小五郎は相変らず飛びまわっている。  そんな忙しいあけくれの中で、小五郎は、時折、ふっと幾松のことを思いえがいた。胸の底が、かすかに疼くのである。 (これが恋か)  彼は、自分の情事に、俊輔が多分に好奇の目をかがやかせながら介入している、つまりは介入させていることに、かなりの羞恥を感じていた。  しかしその俊輔は、彼なりに動いてくれているようで、ロンドン行きのため横浜にむけて発つ日に迫られながらも、せっせと三本木に足を運んでいる。 「そんなこと、桂はんご自身のおロから聞きとおす」  などと幾松からはねつけられたりもするのだが、俊輔はいっこうにひるまない。独特の押しの強さで、ねばりにねばり、ついに陥落させてしまった。幾松の養父母にあたる難波夫婦は、案の定しぶったが、何とか説き伏せた。 「あの人を、芸者にするために養女にしたのではないでしょう」  俊輔は、両人の痛いところを衝いて、多少は|威《おど》し文句も並べたらしい。 「桂さん、あとはあんじょうおやりになることです」  笑いながら、俊輔は、横浜をめざして出京した。  とにかく、このようにして、幾松は、小五郎ひとりのものになった。彼女は、そのまま芸者をつづけるという。男たちの酒の席に、幾松がはべるのは、小五郎にとって愉快なことではないが、別の面で、彼女の役割を期待できた。  情報の入手である。幾松は、いろいろな座敷に出て行く。幕府の役人や各藩の重だった顔ぶれ、また新撰組の宴会に呼ばれることもある。三本木には、政治色の強い酒席が多く、女たちの前で重大な話をしないまでも、酔って互いに口走ることから、意外な情報を耳にしないとも限るまい。集まった顔ぶれを知るだけでもよいのだ。  それに幾松は、三本木だけでなく、祇園の茶屋をはじめ、あちこちから座敷がかかってくる。いわば小五郎の私的な間諜として働くことも可能だった。  あれほど頑固な拒絶を示しながら、小五郎を旦那に決めると、幾松は献身的な愛情を彼にそそぎはじめた。  幾松にそのような任務を与えることもあって、二人の関係が外部に知られないように、最大の努力を払った。小五郎は藩邸の仕事もあるので、密会ともいえる幾松との|逢瀬《おうせ》を楽しむ機会は、たまにしかない。  小五郎は、会うたびに、当面する情勢を、くわしく幾松に教えこんだ。客の片言隻語から、その内容をつかむ判断力を養おうとしているのだ。遊里に働く女たちのほとんどは、政治むきのことに無知であり、客も気を許しているのが普通である。三本木の芸者幾松が、各藩の動向から、攘夷親征などという男性社会の泡立つ情況に、鋭い触角をのばしていようなどとは、だれも気のつかないことであった。  激しい政争の舞台となった京都で結ばれた一組の男女は、無粋な情報集めなどということで、さめた時間をすごしたが、それもまた愛の行為のひとつといえた。しかし、どのようなかたちであれ、恋する者同士の甘い生活の持続を許さない事態は、小五郎が予想していたよりも早くやってきた。それは、暗躍にあけくれていた京の政情が、いきなり、きな臭い闘争の場に一変する日である。  この二、三日、新撰組の連中が、遊里にまったく姿をあらわさないこと、市中見回りもせず、急に鎮まりかえっているということを、小五郎が幾松から聞いたのは、文久三年八月十六日であった。  京の町は、昼間照りつけられて残暑にうだっても、日が落ちると、どことなく秋めいた気配がただよっていた。  三本木の幾松の家に小五郎が行ったのは、それとなく艶文めいた手紙で呼び出されたからである。緊急のばあいは、そうするという約束だったから、小五郎は日の暮れるのを待って駆けつけた。  まず無気味に沈黙した新撰組の動向である。これは以前から、小五郎にいわれて、幾松も神経を使っていることだ。 「今さら引き揚げるちゅうことはないから、別の任務についたと考えるべきだろうな」 「別の任務どすか」 「それがわからん」 「もうひとつ、十三日の夜のことどす」  十三日と聞いて、小五郎は、うつむいていた顔をあげた。その夜、三本木の茶屋で会津藩士と薩摩藩士が会合している。会津藩士が飲んでいるところへ、薩摩の者が押しかけたようなかたちで話が始まったという。座敷にいた芸者たちは、すべて締め出され、会合は長時間にわたった。  薩摩側の一人は、高崎と名乗っていた。 「高崎佐太郎だ」  うめくように、小五郎が言った。薩摩の謀臣である。その彼が、十三日の夜、会津との接触を持った。攘夷親征の議が決定して、天皇の大和行幸の勅が下ったのが、十三日なのである。  長州藩の独走を喜ばないばかりか、尊攘運動に歯止めをしようとあせる会津や薩摩が、攘夷親征をくつがえそうと画策することは十分に考えられることだった。  市中警備の名目で、尊攘派の動きを牽制する新撰組は、会津藩主松平|容保《かたもり》の支配に属している。  小五郎は、何か不吉な予感にかられて、幾松の家からすぐ藩邸へ引き返した。 「どう思いますか」  周布政之助に言うと、 「少々騒いでも、詔勅が出ておるのだ。二十七日の行幸は動くまいが、念のためあすにでも|吉川《きつかわ》様の耳には入れておくことにするか」  と、楽観している。それは、政之助だけではない。ほとんどの人たちが、ここまできて朝議がひっくりかえるなどはあり得ないと考えていたのである。  藩主慶親の名代として、京都へ出ている岩国の領主吉川|経幹《つねまさ》は、小松谷の正林寺にいる。その経幹のもとに、少しばかり怪しい動きがあると、藩邸からの使いが走ったのは、十七日の午後であった。経幹としては、それを知ったからといってどう打つべき手もない。 「まずは桂小五郎の杞憂にすぎないものであろうがと、周布殿も申されております」  と使者はつけ加えた。  その日、小五郎は、三条実美をたずねて、同じことを申し述べたが、 「桂殿も苦労性と見ゆる。二十七日、|鳳輦《ほうれん》(天皇の乗物)は、間違いなく大和へ進みましょうに」  と、笑うだけである。  尊攘派による攘夷親征運動は、すべて計画通り進んでいると、思われていた。すくなくとも小五郎をのぞいて、それを疑う者はいなかったのだ。京都朝廷における長州藩の勢力が絶頂に達したときである。  ひそかに参内した佐幕派の中川宮が、攘夷親征などというものが天下の争乱をひきおこすことを訴え、孝明天皇を説き伏せて、それを中止にこぎつけたのは、十七日深更から十八日未明にかけてのことだった。薩摩の高崎佐太郎、会津の秋月悌次郎が「三本木の会議」の結果を、中川宮に告げ、動かすことに成功したのである。  会津・淀・薩摩の武装兵力は、かねての手筈通り、御所を囲む九門内に入り、門を閉ざして配置についた。新撰組も近藤勇以下隊士全員が、派手な制服姿で、警備陣にまじっている。  夜明けまでには、尊攘派一掃の実力行使を決行する態勢が整った。そんなことも知らず、三条実美も、吉川経幹も、小五郎も、むろん深い眠りのなかにいた。  文久三年八月十八日の寅の刻(午前五時)、御所の方角から、轟然一発、砲声が鳴りひびくのを京都の人たちは聴いた。  それは三条御池通りの長州藩邸にも、重い響きを伝えてきた。奇異な感じは抱いたにしても、それが長州追い落としの態勢が、すべて整ったという、合図の号砲であることまではわかるよしもなかった。  だからいつものように夜が明けると、一団の長州兵は隊列をつくって、御所の堺町門に出勤した。そこが長州藩に与えられた警備位置であった。堺町門は、御所の南門建礼門に通ずる正門であり、これを警固していることも、長州の朝廷内における優遇された地位を物語っていた。  ところが、この堺町門には、すでに会津・薩摩の兵が、武装して立ちはだかり、長州兵の入門をさえぎった。朔平門事件で、失脚したはずの薩摩兵が、そこにいるのもおかしなことで、まるで夢を見ているような気持だった。  長州兵を指揮していた藩士飯田竹次郎は、すぐに藩邸に使いを走らせ、禁中で非常のことが発生したことを知らせた。  長州兵たちが呆然と門前に立っていると、中から執事の鳥山三河介が姿をあらわして、朝廷の沙汰を読みあげた。 「堺町警備の儀思召しを以て、只今より免ぜられ候。尚追つて沙汰ありなされ候まで、屋敷へ引き退るべく勅諚候事」  三河介は、読みあげると、さっさといなくなった。長州兵は、それでもなお会・薩の兵たちと睨みあったまま、その場を動かない。今にも撃ちあいが始まるかもしれないという険悪な空気が、早朝の堺町門周辺にみなぎった。  暁の砲声と人馬のただならぬ往来にめざめた尊攘派の公卿たちは、急いで御所にかけつけたが、これも参内を阻止された。むなしく引き返した彼らは、その足で長州藩邸にやってきた。 「桂さん、あんたの言う通りじゃったな。われらのぬかりであった」  周布政之助が、暗い表情をつくり、腕を組んでいる。長州の清末藩主毛利讃岐守や家老の益田右衛門介らも、すこぶる憂鬱な顔をして、奥の部屋に公卿たちと無言で向かいあっているはずであった。  藩主名代の吉川経幹は、四百人の岩国兵をひきいて、堺町門にかけつけたという。そうした現地の報告を聞くと、小五郎は、眉をひそめながら、政之助に言った。 「発砲など致さぬよう、きびしくお命じ下さるよう、清末様や益田ご家老様に申し上げて下さい」 「吉川様なら大丈夫であろう」  相変らず楽天的なことを言っている政之助に、小五郎は少し腹が立つ。しかし、小五郎も動転しているのだった。生まれて初めて味わう深い挫折感だが、それは彼だけではなかっただろう。  政之助が言ったように、吉川経幹は、岩国兵や本藩の兵をあわせて千人ばかりの軽挙をいましめ、会津・薩摩兵たちの前から移動させた。さらに、これらの兵を導いて、堺町門のそばの関白鷹司邸の裏門から邸内へ入った。  経幹の依頼に応じて、関白は参内し、三条実美らのために周旋しようとしたが、もはやどうなるものでもなかった。追い打ちをかけるように長州兵の京都退去の命が出る。不穏な空気が、長州兵の間で高まった。経幹が、小柄な体を汗ばませて、必死になだめているところへ、藩邸から三条実美ら七卿をはじめ家老益田右衛門介・桂小五郎・久坂玄瑞・来島又兵衛・真木和泉といった人々が駆けつけてきた。  そのころから雨になった。雨は翌日まで降りつづき、七人の公卿を先頭に、千人の長州兵たちは、小五郎らわずかに京都に残る人々に送られて、濡れながら長州へ落ちて行った。  八・一八政変あるいは堺町門の変ともいわれる。この佐幕派によるクーデターの成功によって、長州藩はたちまち苦境に追いやられた。  小五郎と幾松が演ずる京洛の恋も、この先、燃えくるめきながら、苦難の道をたどることになるのだ。   池田屋騒動  ──てんころぼし  などと京の人は言う。真夏の陽に照りつけられて、暑気のはげしい日々がつづいている。  元治元年(一八六四)六月のはじめ京都の長州屋敷は、その暑さに耐えるかのように、ひっそりとしていた。前年の政変いらい、藩兵もひきあげているので、留守居役の桂小五郎と乃美織江を筆頭に、わずかな人間が起居しているだけだ。藩主や要職の藩士がいないので、他藩出身の志士も自由に出入りしてトグロをまくようになった。肥後の宮部鼎蔵も、新撰組の追及を避けて、長州藩邸に身をひそめている。不文律だが藩邸には治外法権が与えられ、新撰組や、守護職、所司代など幕府の手は内部まで及ばない。  この長州藩京都屋敷は、高瀬川のすぐそばの三条河原町御地通りにあった。二条橋に至る約四千坪(一万三千二百平方メートル)の広大な敷地を持っていた。今ではその一部に京都ホテルが建っていて、屋敷の跡を示す小さな標柱のほか、当時をしのぶものは何もない。南側に、道ひとつ隔てて、対馬藩邸があったが、この跡地には御地通りの広い近代的な街路が走っている。──  静かな藩邸内では、少しでも異常な動きがあると、すぐに気配が伝わっていくのだ。乃美織江は、それに気づいた。 「桂さん、何かあるのですか」 「いや、別に……」  と小五郎はとぼけてみせたが、どうもただごとではなさそうだと思った織江は、時山直八に事情をさぐるように命じた。直八は松下村塾に学んだ男で、のち奇兵隊参謀となり、戊辰戦争の|小千谷《おじや》朝日山の戦いで壮烈な戦死をとげた。この当時は、穏健派の志士として活動していた。  直八は、村塾で一緒だった杉山松助を問いつめた。両人とも軽輩の出身で、前年士分に昇格したばかりだ。 「古高俊太郎が、新撰組に捕えられたのは、知っちょるじゃろう」と、観念したように、松助は打ち明けた。「新撰組の屯所を襲って、古高を救出しようと、宮部さんが言い出したのだ。それで六月五日に、在京の者が池田屋に集まり、打ち合わせることになっちょる」 「三条河原町の池田屋か」  直八は、大柄な体をひとゆすりして、思わず声を荒立てた。 「無茶だ。五日といえば|祇園宵山《ぎおんよいやま》ではないか」 「かえって混雑にまぎれてよいだろうと言うのじゃが、どうかのう」  松助は、落ち着いている。 「桂さんは、知っちょるのか」 「例によって、慎重論ではあるが……」  松助がいうように、小五郎は、宮部鼎蔵からその計画を打ち明けられたとき、消極的な返事しかしていない。 「桂さん、あんたは在京の志士の統領ともいうべき立場にいる。みんなの信頼にこたえてもらいたい」  鼎蔵は、そんなことを言った。たしかに、長州藩の桂小五郎は、志士たちの尊敬をあつめ、しかも頼りにされている。鼎蔵なども指導的地位にはまつりあげられているが、肥後の浪士でしかない。小五郎は、長州という雄藩の要職にあり、尊攘派の重鎮として、もはや反幕勢力にとって欠かせない存在である。  鼎蔵らが言い出した古高俊太郎の身柄奪取計画を聞いたとき、小五郎は即座に反対したかったのだが、なかなかそうも出来ないのだ。露骨に異論をとなえれば、志士たちは、小五郎の因循さを責めにかかるだろう。それは長州藩への失望をも意味している。  政変いらい苦境に立たされている藩の京都での勢力を、わずかに支えているのは、在京の各藩志士たちであるともいえた。彼らの感情を逆なでするような言動もつつしまなければならない。小五郎は、とにかく池田屋の集会にだけは出るつもりだった。 「桂さん、留守居役のあんたまでが、軽挙に荷担するのですか」  六月三日の夜、同役の乃美織江が、怒気もあらわに、小五郎を睨みつけた。 「何のことか、とんとわかりませんな」  小五郎は、乃美織江の詰問を冷ややかにかわした。彼を説得して説得できないわけでもない。しかし、二人の留守居役が同意して、公式にことを運びたくないのだ。内々でおさめたい。池田屋の会合には、乃美に内密で自分がのりこみ、過激な行動が、かえって不利な結果をまねくのではないかと、理を尽して訴えるつもりである。  池田屋には、長州側からも何人かが出席して、志士たちとの提携に対する意欲だけは見せておきたい。そのために、小五郎のほか吉田稔麿・有吉熊次郎・杉山松助らが藩邸から出かける手筈にしている。 「新撰組屯所の襲撃は、何とか思いとどまるように話をもっていくので、君も頼む」  小五郎は、吉田稔麿に方針を打ち明けた。邸内には宮部鼎蔵や松田重助ら他藩の志士もいるので、乃美のほか彼らにも悟られないように密談をかさねた。  古高俊太郎の身柄奪取を、最も積極的にとなえているのは鼎蔵である。 「桂さんの意見には賛成ですが、長州は同志を見殺しにするのかと、宮部さんはわめくでしょうな」 「おそらく……。しかし、宮部さんが、成功を度外視して、この計画を進めているのは、許せないという気もするのだ。自分の気持は済むだろうが、大勢の命を危険にさらしてまで、やり遂げなければならんこととは思えない」  めずらしく小五郎は、鼎蔵を非難した。吉田松陰が親友とも師とも仰いだ、この肥後の志士を、小五郎は、藩邸内でも丁重に遇している。だが、内心鼎蔵のことを、おぞましく思わないでもない。四十五歳、大言壮語型の鼎蔵は、いわばこの時代においても、すでに古いタイプの志士に属している。が、心服している者も多く、影響力もばかにはならない。  ところで、志士の中心的人物の一人古高俊太郎が、新撰組に捕えられたのは、鼎蔵の不注意からであった。京都に出てきた彼は、下僕をつれて、西木屋町で割木屋(薪炭商)を営んでいた桝屋喜右衛門の家にころがりこんだ。この喜右衛門が、実は古高の仮の姿である。  六月一日の|午《ひる》すぎ、鼎蔵は、下僕の忠蔵を南禅寺|塔頭《たつちゆう》の天授庵におかれている肥後藩宿陣へ使いに出した。  怪しいと睨んで、新撰組隊士は帰って行く忠蔵を尾行し、志士のアジトになっていた桝屋喜右衛門の店をつきとめて踏みこんだ。鼎蔵は外出中で難をのがれたが、喜右衛門こと古高は、|壬生《みぶ》の新撰組屯所へ引き立てられたのである。  つまり古高の逮捕は、宮部鼎蔵の失策といえる。彼はそれに責任を感じているのだ。だから屯所を襲って、古高の身柄を奪い取ろうというのだった。  新撰組の背後には、会津藩が取り仕切る守護職をはじめ所司代など、たちどころに三千の幕兵を動員できるほどの大きな武力がひかえている。仮に古高俊太郎を奪取できたとしても、そのあとはどうなるのだ。京都市中に潜伏して、わずかな命脈をたもっている尊攘派は、根こそぎ壊滅させられるだろう。少なくともその口実を与えることになる。  鼎蔵の思慮のなさを、声を大にして小五郎はなじりたいのだが、今は尊攘派を分裂させたくない。苦しい立場である。 「古高俊太郎を、見殺しにするのかと、やはり責めるでしょうな」  もう一度、吉田稔麿が、それを言った。 「やむを得んだろう。古高さんには気の毒だが」 「そうですか」  稔麿は、低く呟いたが、憮然とした顔をしている。 「私をつめたい男だと思うかね」 「いやなに、このさい、仕方のないことでしょう」  気持を見すかされたように、稔麿は、あわてて答えた。 「桂さん、桂さんはおらぬか」  遠くから、そのとき乃美織江のけたたましい声が流れてきた。その思いつめた響きに、小五郎と稔麿は、いっしゅん無言で耳をすました。 「本日より御門|留《ど》めにいたしたいが、異存はありませんな」  と、乃美織江が、激しい口調で言う。 「それがよろしかろう」  小五郎は、微笑を泛べながら、あっさり同意した。  御門留めとは、禁足令である。 (そのほうが、好都合だ)  小五郎は、それを織江が独断で決めてくれたことを、むしろ喜んでいる。宮部鼎蔵も、長州藩の消極的な姿勢について、小五郎を責めるわけにはいかないだろう。  六月五日の当日を迎えた。  八坂神社の氏子祭りである祇園祭りは、現代では七月一日から二十九日まで催される。十七日が山鉾巡行、前日の十六日が祇園宵山で、この両日、祭りは最高潮に達する。旧暦のころは、六月五日が宵山だが、暑いさかりという季節は一致している。  五日の夕刻になると、地田屋の集会に参加する者は、ひそかに藩邸を脱出した。宮部鼎蔵たちは、三条実美卿に関わる重大な用件で外出すると説明し、堂々と出かけて行った。長州関係の者は、見えすいた嘘もつけないので、黙って裏門から抜け出し、三条河原町の繁華街にむかった。藩邸から池田屋までは、ほんのわずかな距離しかない。今でいえば京都ホテルから、池田屋跡のレストラン(「ケンタッキー」などというきわめて今様な店に建てかえられている)まで、高瀬川沿いに歩いて、五分ばかりである。  小五郎が池田屋の二階をのぞいたのは五ツ刻(午後八時)ごろだった。宮部鼎蔵は、どこかに寄り道しているらしく、まだあらわれていなかった。十数人が顔をつきあわせて、雑談にふけっている。  見渡すと、吉田稔麿・有吉熊次郎・杉山松助ら、藩邸から来ているはずのかれらもいない。長州人としては、市中に潜伏している広岡浪秀や佐伯|稜威雄《いずお》が、町人姿でやってきていた。そのほかは、すべて他藩人で、見なれない者ばかりだ。 「桂さん、われら有志の者が力を合わせれば、京都は間もなく回復しますよ」  と一人が、胴間声で言った。知らない顔だった。 「うむ」  小五郎は、軽く頷いたが、彼らが身につけているこうした夜郎自大の調子を、どうしても好きになれない。 「始まるまで、まだ当分かかりそうだね、私はちょっと出てきます」  言い残して、小五郎は足早に階段を降り、薄暗い池田屋の土間のタタキを踏んで外へ出た。  酒を飲む気にもなれない。自然に近くの対馬屋敷に足がむいた。対馬藩の内紛に介入したり、文久元年、ロシヤ艦に占拠された経験をもつ対馬藩の海防費について奔走するなど、小五郎と対馬の宗氏とはかなり親密な間柄にある。とくに大島友之允とは気を許したつきあいを続けていた。  友之允は外出中だった。待たせてもらうと、小五郎はいつも来なれている屋敷へあがりこみ、通された部屋でごろりと横になった。あれこれ考えているうちに、先程池田屋に早々と集まっていた志士たちの中の、見知らぬ何人かが、妙に気になりはじめた。 (間諜がいるのではないか)  小五郎はふとそんなことも思う。じっさい、これまでも秘密としていることが、必ずといってよいくらい洩れてしまうのだった。小人数の会合が、よく新撰組に襲われている。だれかが密告しないかぎり、感づかれるはずはないと思うようなことまで、敵に知られている。素姓のわからない浪士の中に、密偵がまぎれこんでいても、決して不思議ではないのであった。 (きょうの会合も、おそらく嗅ぎつけられている)  何もかもが不用意で、無謀な冒険的行為を押しつけようとする宮部鼎蔵を、ののしりたくなった。  小五郎は、ほんの少し眠ったと、自分では思った。本当は一刻(二時間)余りにも及んだのだ。彼が浅い眠りからさめたのは、大島友之允が帰ってきた気配を、部屋の外に感じたからである。 「桂さん、大変だ」  友之允は、血相を変えていた。 「池田屋が襲われています」  友之允は突っ立ったまま、悲痛な声をあげた。 「新撰組ですか」  小五郎も慌てて立ち上がる。 「斬りこんだのは、新撰組の奴らだが、守護職の手の者が、ぎっしり池田屋の周りをかためております。道という道は、会津の提灯で埋まったようです。一足おそかったら、私もこの藩邸には戻れなかったでしょう」 「………」 「桂さん、もう動けない。このままここにいることです。それにしても、私はてっきり桂さんもやられたかと思いましたよ。よかった。大体、あんなところに、大勢で集まるなど、無謀すぎる。まさか、桂さんの計画ではあるまいとは思っておりましたが……」 「行くつもりだった。私も。しかし気がすすまず、何となく、ぐずぐずしておったのです」  小五郎は、この数日の経緯を説明して、 「だが、襲われるという確信はなかったのです。不安だといって、引き止めたのでは、また慎重居士だなどと笑われますからね」  そう言いながら、吉田稔麿や有吉熊次郎、杉山松助らの顔を思いうかべた。 (やはり行かせるのではなかった)  後ろめたい気持で、小五郎が名前をあげている彼らのうち、無事脱出したのは、有吉熊次郎だけである。ほかにも何人かは危機を切り抜けて、近くの長州藩邸に逃げこんだが、重だった人々では、すべて闘死するか捕えられた。宮部鼎蔵、吉田稔麿ら六人が即死、あと二十数名は力尽きて縄をかけられ、傷ついてあとで絶命した者もいる。  杉山松助も、深手を負って死んだ犠牲者の一人だが、彼の場合は、集会に出席していなかったのに、急を聞いてあとで駆けつける途中、幕兵の手にかかった。  松助は、時山直八から監視されて、結局、藩邸を抜け出す機会を失った。いらいらしながら、自室で読書していると、二更(午後十時)を過ぎたころ、志士の一人が血だらけになって藩邸にとびこんできた。土佐藩足軽出身の|野老《ところ》|山《やま》吾吉郎である。彼は、池田屋が新撰組に襲われていることを告げ、間もなく絶命した。ひきつづいて、何人かが死地をのがれて、逃げ帰ってくる。  松助は、槍を持って、藩邸を走り出た。死闘を演じている同志の救援におもむいたのである。しかし、高瀬川沿いに何ほども行かないうち、会津兵にさえぎられ、ここで大勢を相手に戦わなければならなかった。側面から打ちこんできた者のために松助は、右腕を斬りおとされ、なお槍をふるいながら、血路を開いて、再び藩邸に立ち戻った。 「御門、非常お差し留め! 幕兵が邸内に押し入ろうとしちょります」  それだけを叫んで、意識を失った。逃走者の探索を理由に、守護職の兵が大挙して長州藩邸に乱入しかねないことを警告するために、松助は気力をふるいおこして駆け帰ったが、出血多量で間もなく息を引きとった。  長州藩邸は、その夜かたく門を閉ざし、以後は一切人を受けつけなかった。逃がれてきた志士で、門をあけてもらえず、行き場を失って、門前に自決する者もいた。  大島友之允に引きとめられ、小五郎は用心のため翌六日は一日中、対馬藩邸にとどまり夜になるのを待って、藩邸に帰った。 「桂さん、無事でしたか。あんたも打ち殺されたという者もいたので、それを国許に知らせたが、すぐに訂正の飛脚を出しましょう」  乃美織江はじめ藩邸の者は、ひどく喜んでくれたが、どうしようもなく、後味は悪い。  杉山松助は、槍をかかえて飛び出す前に「桂さんたちが危い」と叫んだという。肩を落とし悄然とした姿勢で、小五郎は、そんな報告に耳を傾けるばかりだった。  おびただしい流血の末に、元治元年六月五日の池田屋事件は終った。   禁門の変  京で池田屋事件が発生したころ、萩では高杉晋作が脱藩の罪で、野山獄に投げこまれていた。  その年一月、晋作は京都にやってきている。事実上、脱藩のかたちで上京した彼を迎えて、小五郎はひどくおどろいた。無謀な行為にあきれもしたのだが、それより晋作から聞いた国許のただならぬ空気に仰天したのである。  武装兵をひきいて京に押しよせようと来島又兵衛がいきまいているというのだ。遊撃隊五百人を掌握して、三田尻に本営を構え、いつでも海路上京できる態勢を整えているという。  晋作は、藩主の命を受けて、来島又兵衛の暴発を抑えるべく三田尻に行った。 「晋作、お前は新規百六十石をもらって、そんなにうれしいか。帰って禄を後生大事に守っていろ」  と、又兵衛に嘲笑された晋作は、そのまま復命もせず、京都へ走った。よほど自尊心を傷つけられた末の彼らしい出奔だったが、京の情況をたしかめるためと、ひとつには小五郎にそうした藩内の様子を報告したかったのだろう。 「あのじじいめ!」  と、久坂玄瑞がわめくように言った。又兵衛は、その年四十八歳で、ふたまわりも年下の玄瑞らは、陰で又兵衛のことをそう呼んでいたが、日ごろはいくぶん好意を抱いての、いわば愛称である。しかし、こうなると多分に憎しみと軽蔑をこめてのものでしかない。  筑後出身の神官で、志士として活躍している真木和泉は五十一歳だが、この男も又兵衛と一緒になって京都進発を叫んでいるという。  小五郎はもちろん、晋作や玄瑞ら若い者が冷静に京都の情勢を見守っているというとき、分別ざかりであるはずの�年寄連中�が激情をもてあまして、暴発しようとするのもおかしなことであった。年とって、気が短くなっているということかもしれない。  前年八月十八日の政変いらい、長州藩は、朝廷に対して『奉勅始末書』をはじめ、失脚を回復するための嘆願をこころみているが、すべてにぎりつぶされてしまっている。尊王攘夷の先頭を走り、最も誠実に尽していたつもりが、まったく唐突に、朝廷から一顧だにされない立場に追いやられている。いかにも心外なこの情況は、|膠着《こうちやく》してしまって、いつ回復するかわからない。来島又兵衛らは、そのいらだちを武力進発論にぶっつけようとしているのだ。  さっそく|自棄《やけ》酒に酔い痴れている晋作をなだめるようにして、久坂玄瑞は長州へ帰った。武装兵を入京させるなど愚挙以外のなにものでもないことをよく説明しようというのだった。  帰国するとすぐ晋作は脱藩の罪で野山獄に入れられ、玄瑞はひとまず京都の事情を話して、京へ引き返してきたが、またあわただしく帰国した。この時点で、玄瑞の考え方は、大きく変化している。それは進発論への傾斜である。  京都には将軍家茂を残し、長州を敵視する島津久光や松平慶永が国許へ帰っている。この隙に、長州藩から世子定広が上京して、朝廷に愁訴すればよいというのである。定広は、当然、兵をひきつれることになるだろう。玄瑞は、小五郎の反対をふりきって帰国し、一途な行動を開始した。来島又兵衛も真木和泉も、待ち構えていたように、再び進発論をかざして、色めきたった。  高杉晋作が獄中にあるとき、激発しようとする彼らに抵抗できる人物といえば周布政之助ひとりだった。しかし政之助だけの力では、すでに及ぶべくもない。彼が、酔って馬をとばし、野山獄に高杉晋作をたずねたのは、五月五日である。抜刀して獄吏をおどし、馬上のまま獄の庭に乱入するという不法を犯しての面会だった。政之助のこの行動は、不可解というほかはない。  六月二十日、政之助は、藩政府から|逼塞《ひつそく》を命じられた。進発論者が、それを口実として政之助を遠ざけたというのだが、藩内の大勢にサジを投げた彼の作為的なおこないともとれる。  池田屋の変報が、長州に届いたのもその日であった。  事態は、小五郎がおそれていた方向にむかって、急速に流れはじめた。  小五郎や晋作と同じく、京都進発をあれだけ反対し、慎重に動いていたはずの久坂玄瑞が、帰国して世子の上京をとなえはじめているのだ。定広もようやく重い腰をあげようとしていた。  そんなところに池田屋の変報である。又兵衛ら強硬論者の興奮は、その極に達したといってよい。京都藩邸からの第一報は不正確で、桂小五郎までが新撰組に「打ち殺され」たことになっている。  益田親施・国司信濃・福原越後の三家老は、藩主から軍令状を受け、それぞれ数百人の兵をひきいて出発し、七月十三日前後には京都周辺に集結した。浪士隊もふくめて、長州軍の総数は約二千である。  京都には、毛利定広が三万の大軍を擁して押しよせてくるという噂がひろがり、幕府および諸藩の藩兵もこれに対抗すべく京への集結を開始した。  澄んだ炎熱の空が、京都の町をおおっている。長州藩邸は、無気味に鎮まりかえっていた。七月十八日朝、留守居役の乃美織江は、長州兵撤退の朝命を受け、天竜寺に屯営している長州軍にそれを伝え、説得もしたが、まるで反応なく、むなしく引き揚げてきた。 「もうどうにもならん。ここで成り行きを見守るしかありませんな」  と、織江は投げやりな口調で、小五郎に言った。小五郎も留守居役だから、藩邸に|籠《こも》るべきだったかもしれない。 「私は、因州屋敷へ行きます」 「因州もこうなっては動かんでしょう」  もう悪あがきはやめたがよいといわぬばかりに、織江は答えたが、別に反対もしなかった。  藩士小倉右衛門介はじめ浪士もふくめて八十人ばかりが、小五郎に従うという。夕刻から邸内で訣別の宴を張った。残る者も出る者も、悲壮な覚悟をかためていた。  夜になって、小五郎はそれらの士卒をひきい因州藩邸に押しかけた。因州池田屋敷は、御所の西にあたる西堀川通りにあり、筑前の黒田屋敷に隣接している。  非常の場合、因州藩は、有栖川宮を擁し、長州に同調して天皇の御前を守るという約束を、かねて小五郎はとりつけている。これも彼のとなえる正藩連合構想のひとつだった。  高杉晋作は、それを画餅だと嗤ったことがある。たしかに実り薄いもののように思われ、小五郎もあきらめかけたのだが、池田屋の変後、急に新しい希望を見出した。因州と備前の両池田藩、それに芸州藩を合わせた三藩が、池田屋事件に関して京都守護職の横暴を批判したからである。 (まだ味方はいるのだ)  と、小五郎は思い、この三藩に伊予|大洲《おおず》・津和野の両藩を加えて、長州と連合させ、薩摩・会津・越前・宇和島の四藩連合に対抗しようという構想を、再びよみがえらせた。  小五郎の感触では、因州藩が最も積極的な姿勢を見せている。長州藩兵の京都出兵が阻止できない今となっては、因州藩を説きつけ、さらに各藩の支持を得て、少しでも有利にことを運ぶしかないと考えたのだ。だが、小五郎の期待は、見事に裏切られた。因州は言を左右にして、藩兵の出動を拒むのである。長州の出兵を無謀とみる彼らが、逃げ腰になるのは当然ともいえた。  小五郎の正藩連合構想が、しょせん夢でしかないことを、あらためて証明したような結果となった。じっさいこの時期における小五郎の正藩連合工作は、ほとんど徒労にひとしいものであった。小五郎が、一方で高杉がいうような長州独自の割拠態勢を考えはじめていたのは、正藩連合が実現不可能だとひそかな絶望を抱いていたということであろう。  それでもなお小五郎は執念深く、むなしい正藩連合の夢を追いつづけ、そして裏切られてしまうのだ。──  小五郎たちが、因州藩邸にねばっているうちに翌十九日の暁を迎えた。御所の方角から、砲声が響きはじめたのは、そのころからである。 「これは、どうしたことか」  戦端がひらかれたと知って、因州藩士は、急に小五郎を責めはじめた。 「この暴発に荷担せよといわれるのか」  長州軍は、御所の蛤門に近づいて、いきなり発砲を始めたという。小五郎との約束を実行できない弱味で、のらりくらりと逃げを打っていた因州藩は、同調できない理由を、やっとみつけたというふうに、威丈高になった。 「今日のことは、貴藩との約束があっての決断であります」と小五郎は答えたが、これは嘘である。京都出兵は、だれをもあてにしない言拳げだ。見放された長州藩の孤独な怒りの爆発であり、結果への冷静な見通しを欠いた狂拳でしかない。 「ことここに至っては、貴藩、何ぞたのむに足らんや、桂がそのように申して去ったと、皆様にお伝え下さい」  捨てゼリフとも聴こえる小五郎の言葉だが、それは日和見的な小藩を相手にした正藩連合などというはかない構想への訣別の辞でもあった。  因州屋敷を出た小五郎たちは、賀茂神社に走った。天皇が賀茂社に難を避けられると聞いたからである。そこで天皇に直訴するつもりだと小五郎は言う。  数刻を待ったが、それらしい気配はない。八十人ばかりの者は、これから蛤門付近に戦っている長州軍に合流して、死のうではないかと口々に叫びはじめた。 「行きたい者は行くがよかろう。私はここであくまでも|鳳輦《ほうれん》を待つ」  小五郎はあくまでもとどまる決意を見せた。激しい論議がひとしきりあったが、その間にも御所のほうから、砲声が|殷々《いんいん》とこだまするのである。  結論が出た。全員が戦列に加わるべく、ここを去るというのであった。それでも小五郎は、ついに動かなかった。深い根をおろしたように、彼は突ったったまま走って行く人々の後姿を見送った。戦場をくぐり抜けて、鳳輦が、賀茂社にやってこないであろうことは、すでにわかっている。そう判断したからこそ、彼らは味方の戦陣に駆けつけたのだ。  長州軍に数倍する幕軍が、御所を守っているはずである。その中には、すぐれた装備と屈強をもって鳴る薩摩の藩兵もいる。御所にむかって、十分には発砲できない長州軍が、集中砲火を浴びている光景を、小五郎は痛々しく思いえがいた。  先程、ここを走り去るとき、皮肉な視線を小五郎に注いで行った者がいないわけではない。しかし、死を決した彼らのほとんどは、もう小五郎を貴めたりはしなかったであろう。むしろ、嘲笑を覚悟して、一人だけとどまるもまた勇気の要る行為であることに理解を示した上で、敢然と死地にむかったといえるかもしれない。 (私は、今死ぬ気になれないと、なぜ正直に言わなかったのだろう)  と小五郎は悔いた。鳳輦を待つなどと言い訳じみた理由を押し通した自分に、彼はやはり嫌悪を感じていた。  もう午を過ぎていた。朝から何も食べていないのに、まるで空腹を覚えなかった。砲声は、時におとろえることもあるが、急に重なりあって、激しい交戦の模様を思わせた。眩しすぎる炎天の下で、朝からの死闘が、なお続いているのだ。  小五郎は、そのようにして、一刻ばかり、自分に耐えていたが、突然、砲声の響く方向に走りはじめた。小五郎のからだが、勝手に蛤門をめざしている。干からび熱せられた路上を、躍るように滑るおのれの短い影を踏んでいると、解き放された気持と絶望の入り混じった奇妙な爽快感があった。  砲声は、その途中でやんだ。蛤門にたどりついたが、敵味方の死骸があちこちに転がっているだけで、まったく人影がない。堺町門のほうでは、しきりに銃声がしていた。  小五郎は、門内に入り、禁裏南門の前の有栖川宮邸をめざした。そのとき、越前兵らしい五、六人が、御花畠から飛びだしてきた。立ちどまって、抜刀し、呼吸を整えながら、小五郎は、彼らを待った。  幕兵は、獲物をみつけると、足の早いのが先頭に立ち、ほぼ一列縦隊になって、白刃をきらめかせながら駆け寄ってきた。  小五郎は、|八双《はつそう》に構えなおし、近づく敵にむかって、突進した。最初の男が斬りこんでくる。軽くかわし、後からきた者の刀がすかさず頭上にふりおろされるのを、物打ちあたりで受けたが、すさまじい手ごたえだった。  力まかせに打ちあうのが特色とされた練兵館道場での稽古が、この初めての実戦にも役立ち、小五郎に存分の技を発揮させることになった。  三人目の幕兵も、さして剣術の心得があるふうにはみえなかった。 (斬れるな)  と思ったが、へたに一人を斬りさげると、その隙をねらって背後からやられるおそれがあるので、もっぱら敵の刀を受けとめ、斬り払いながら、前へ前へと走りつづけた。いつか仙洞御所の近くまできていた。そこでも長州兵と幕兵との死闘が演じられており、その中を縫うようにして、戦いながら、無我夢中で東へ走った。  後日、小五郎が対馬藩の大島友之允にあてた手紙に、それからの模様を語らせよう。 「……別にも薩人か何か争闘致し、大混雑にて、いかなる次第にて有之候か、赤面ながら自分にもとくと見定めも無之、ここを前途とのみ相励み、計らずも仙洞御所の横に出で候へば、敵味方相混じ、鷹様(鷹司邸)は満殿火に相成り候由の様子、からき事にて、仙洞御所の後より出で候ところ、とみに発砲も相止み、近辺満火にて、街道も相分ちがたく、紛雑至極……」  御所のまわりの民家は燃えあがり、中に隠れていた長州兵が飛び出してくるのを、幕兵が待ち構えて襲いかかる光景もみられた。残兵掃蕩のため、幕軍が民家に火をかけたのである。  多くは傷ついた長州兵の群れが、火の中を、退路を西に求めて敗走する。これは山崎の陣営をめざしているのか、あるいは遠い長州にむかおうとする本能的な方向感覚だったのだろう。  炎天下の、まさしく地獄図絵を目の裏に焼きつけながら、小五郎は、東へ走った。そのことが彼の命を救ったのかもしれない。小五郎は、東の藩邸を、そして意識の深いところで、愛人幾松のいる方向をめざしていたともいえる。  御所周辺の民家はまったく無人と化し、強烈な陽光の中に、死の町がひそまりかえっている。小五郎を追う幕兵の姿はなかったが、必死に走りつづけた。  目に入った汗をぬぐおうとして、道のくぼみに足をとられ、小五郎は灼けた路上にもんどりうって倒れた。左の足首に激痛を覚え、しばらくは立ちあがれない。小五郎は、急に恐怖を覚えはじめた。這うようにして、そばの民家へもぐりこんだ。家財道具を運び出したのか、家の中はガランとしている。落ちついてよく見ると、どうやら空家らしかった。薄暗い奥座敷の|黴《かび》臭い床板の上に、ぐったりと体を横たえ、外の気配に耳を澄ましたが、やはり人の動きはなかった。  起きあがり、諸肌脱ぎになりながら、ふと見ると、衣服の肩のあたりが三寸ばかり斬り裂かれている。汗ばんだ肩に目をおとし、手でさわってみたが、傷はなかった。再び仰向けに寝て、目を閉じた。夢の中にいるような感じだった。  その日、御所付近から発した火災は、無風状態の町を四方に燃えひろがったが、徐々に北風がおこり、洛中の中央部にむかって猛威をふるいはじめた。翌二十日、さらに二十一日になっても燃えつづけた。  この大火によって洛中は町数八百十一、家屋二万七千五百十七、土蔵千三百十六、寺社塔頭二百五十三、諸侯屋敷四十カ所が焼けた。  北は御所付近から、南は御土居屋敷際まで、東は寺町、西は東堀川までが類焼区域に入り、下京のほとんど全域が廃墟となった。  惨敗した長州兵は、百数十人の屍体を遺して、大坂から海路逃げ帰った。  小五郎はしかし、ひとり京都へ残る。   逃げの小五郎  三本木の吉田屋に、小五郎はひそんでいる。禁門の変の五日後である。  薄暮の鴨川を眺めながら、さっきから手酌で、かなり飲んでいるのだが、酔えなかった。河原には、焼け出された人々の避難小屋が並び、終日ざわめいていた。  類焼をまぬがれたこの旅館には、にわかに泊り客も多くなって、小五郎は、臭の四畳半に閉じこもったまま|厠《かわや》に行く以外、一歩も外へ出ないようにしている。蒸暑い毎日だが、幾松がいつもそばにいるので、心はいくらか安らいだ。こんなときに、と思いながらも、奇妙な楽しさもあった。はじめて夫婦らしい時間を持ったという気もしている (頼もしい女だ)  あらためて、小五郎は幾松のことを、そう感じた。彼が、どん底に突きおとされたと知ったとき、顔色ひとつ変えないのである。自分が保護者の立場になったのを、むしろ喜ぶかのように、いきいきと動きはじめたのだ。花柳界にくらす女性の侠気というものかもしれないが、もともとそうした女だったのだと、小五郎は幾松のしっかりした心づかいをうれしく思っている。  襖の外に、人の気配がした。 「松か?」  小五郎は、刀を引き寄せて言った。 「私ですよ。大島です」  対馬藩の大島友之允である。細目に襖をあけて、友之允は大柄な体をすべりこませながら目で笑った。 「無事で何よりです」 「無事とはいえ、京には、ここ以外身を寄せるところもない。藩邸も焼けてしまい、こんどこそ長州人は一人たりとも京都にとどまることを許されないのですから、迂闊に外も出歩けません」 「長州藩邸には、乃美さんが、みずから火を放ったらしい。乃美さんはそれから西本願寺にのがれ、大坂から船で長州へ無事脱出できたとのことです。桂さんは、どうします。帰国されるのなら、対馬藩の手で、大坂まで送ることはできます」 「いや、私はこのまま潜伏したい。だれかが京の様子をつかんでいなければなりますまい。私は、今も留守居役だと思うちょります」 「それも大変ですな。ことここに至ると、われわれの藩邸にかくまうこともできませんので……」  と、友之允は、申し訳なさそうにクギを刺した。正直なところ、小五郎は、かすかにそれを期待していたのであり、幾松に命じて、友之允に来るように伝えたのもそのためだった 「いや、貴藩に迷惑のかかるようなことをお願いするつもりは毛頭ありません」  そう言いながら、小五郎はやはり失望をかくせなかった。内紛の収拾や、長州藩からの海防費援助など、対馬藩のために小五郎はずいぶん動いてやっている。恩を感じてもよいはずだったが、たしかに友之允が言うように「ことここに至」っては、下手に長州を助けて、大きな藩難を招くことを怖れる小藩の立場が理解できないわけでもなかった。変のときの因州藩の裏切りを、また小五郎は思い出した。|寂寞《せきばく》としたものが、胸のなかにひろがってくる。  長州藩兵の撃った小銃の弾丸が御所内に流れ、これが長州の立場を決定的に悪くした。挙げ足をとられたかたちで「朝敵」の烙印を押され、長州征討令が朝廷から出るのも間もなくのこととみられている。──  暗くなった部屋で、二人が腕組みしたまま黙りこくっているところへ、幾松が帰ってきた。暗くしていると、かえって怪しまれると笑いながら、幾松は行灯に灯を入れ、新しく酒を運び、友之允のために簡単な料理なども手早く整えた。まさしく小五郎の妻としての甲斐々々しいふるまいを、友之允は感じ入ったように見ている。  表面はなごやかに、酒宴が始まり、一刻ばかりが過ぎたころ、廊下を走ってくる慌しい足音が聞こえてきた。 「幾松はん、御用改めどす!」  吉田屋の女将は、激しく襖をたたいて叫び、ばたばたと走り去った。 「新撰組だな」  友之允は、刀の目釘を調べ、応戦する構えで言った。 「逃げましょうや」  小五郎は、そそくさと大刀をつかんで立ち上がり、 「松も一緒に行こう」  とうながす。 「うちは残ります。そのほうがよろしおすえ。何とかとりつくろうておきますさかい、早よ逃げておくれやす」  坐ったまま笑っているのである。 「では、いずれまた」  小五郎は、友之允の手を引くようにして、部屋の外へ消えた。吉田屋には、秘密の抜け道がつくってある。どのような目的で、それが設けられたのかはわからない。おそらくは異変の多い京の旅館が、非常の場合を想定して、そんな仕掛けを用意していたものであろう。  小五郎がいた部屋のすぐ横の廊下の板壁が、どんでん返しになっていて、そこから狭い階段が、階下の穴蔵に通じている。この穴蔵には、小さな出口があり、そこをくぐり抜けると、河原に出られるようになっている。  現在の大和屋(吉田屋)には、その秘密の階段はなくなっているが、裏にまわって、鴨川べりから近づいてみると、建物の土台の石垣にそれらしい出口があいており、朽ちた板の扉で、そこをふさいであった。  小五郎たちを送り出したあと、幾松は、膳を部屋の隅に片づけ、足音が近づいてくると、ひとり唄いながら舞いはじめた。荒々しく襖が引きあけられ、いかつい顔の男が、踏みこもうとして、あっけにとられたように、敷居の上に立ちどまった、背後に隊士の何人かが、緊張した顔をならべている。 「新撰組局長近藤勇である」  威圧する声を発したが、幾松は返事をせずに、軽やかに舞いつづけている。   二本差しでもやはらかう   祇園豆腐の二軒茶屋…… 「もはや桂小五郎は、ここにおらぬとみえる。見事だな、幾松。覚えておく」  池田屋騒動いらい、とみに凶名をあげた新撰組の巨魁は、無気味な笑顔を泛べ、しばらく幾松の踊るのを眺めていたが、意外なほどあっさりと隊士をつれて引き揚げて行った。  小五郎と幾松のことは、いつの間にか洩れてしまっていたのであろう。尾行されたのにちがいない。吉田屋も、小五郎の隠れ場所ではなくなった。  翌日、長州藩御用商人今井太郎右衛門から、幾松のところへ連絡が入った。小五郎は、二条大橋の下の乞食の群れにひそんでいるという。幾松はすぐ今井の家へ行き、夜になって、顔を|煤《すす》で汚し、下働きの女に変装した。にぎり飯など竹の皮につつんでもらい、河原の暗がりを二条橋のほうにむかった。  小五郎は、頬被りした乞食姿で、橋脚に背を凭れかけさせ、膝を抱いていたが、めざとく幾松をみつけて、 「松、ここだ」  と、低く呼んだ。しばらく無言で手をとりあい、周囲の気配をうかがった。少し離れたところにいる人の群れは、相変らず黒い影を物憂く横たえているだけである。 「二人とも、面白い恰好どすなあ」  幾松がささやき、闇の中で笑い顔をみせたが、小五郎は答えずに、包みをひらき、むさぼるように食べはじめた。前日から何も食っていないのだった。 「大島さんとは、吉田屋を出て右左に別れたままだ。私は当分ここにいるつもりだと伝えてくれんか」  声をころしているだけではない、何となく力落ちした感じの小五郎を気づかいながら、幾松はそれから四日間、今井家から毎夜二条橋に食糧をはこんだ。五日目に大島友之允がやってきた。  大島友之允は、広戸甚助という男をつれていた。但馬|出石《いずし》の商人で、対馬藩邸に出入りしている人物だが、賭博などにも手を出す遊び人みたいなところもあって、それなりに侠客肌の一面ももっている。  その明るい性格に、友之允は好意をもち日ごろから甚助を可愛がっていたので、秘密を誓わせた上で小五郎のことを打ち明けた。引き受けましょうと、甚助が言った。出石には、甚助の弟の直蔵がいる。彼に小五郎の身柄を預けようというのである。 「松のことが不安でなりません。私の行方を追及して、新撰組が松を捕えないとも限らない。あれも京から逃がしてやる手だてはないものだろうか」  と小五郎は、友之允に訴えた。 「近く、多田が船で国許へ帰る。幾松さんを対馬にかくまうというのはどうでしょう」 「対馬ですか」  小五郎は、さすがにおどろきの声をあげ、しばらく黙りこんだ。対馬はもう朝鮮に近い。絶海の孤島ともいえる辺境の地である。そんなにも遠く離ればなれになるのかと、胸が痛んだ。 「考えている暇はないでしょう」  友之允が、押えつけるように言った。 「では、多田さんによろしくお願いして下さい」  多田とは、対馬藩士多田荘蔵で、友之允の同志である。彼なら安心して任せられると、小五郎は思う。 「桂さん、とにかく急いだほうがよい。新撰組は、あんたを探し出そうと躍起になっちょるようです。橋の下にもそう長くはおれんでしょう」 「では、ひとまずここを」  と、甚助が歩き出した。小五郎の意志とは別に、周囲の力でことが運ばれていく感じだった。何となく無気力に、その動きに身をゆだねるように、小五郎は京都を脱出し、出石へむかった。元治元年七月二十四日のことである。この年、小五郎は三十二歳であった。 出石は、現在の兵庫県出石郡出石町である。京都の北西約二百キロで、もう日本海に近い。室町時代には但馬国守護だった山名氏が出石に居城を構え、江戸時代には五万八千石の仙石氏が城下町をひらいた。仙石氏は、お家騒動のため三万石に減石されている。  出石の城下は、長州でいえば、支藩の長府にほぼひとしい規模だが、現在ではそれほど多くの遺構をとどめているわけではない。復元された出石城の近く、町の本通りに面して、辰の刻の登城を知らせたという「|辰鼓櫓《しんこやぐら》」がそびえ、その周辺に家老屋敷、足軽長屋、酒倉など旧時代の建造物がわずかに遺っている。  城下は鶴山・茶臼山・有子山・入佐山など標高三百メートル内外の山々にとりまかれた盆地で、町の西南を出石川が大きく彎曲して流れている。「但馬の古都」というにふさわしい閑静な風景である。  中央部に密集した町の道幅は狭く、ぎっしりと民家が軒を並べている。そのような町の各所に、桂小五郎が点々と潜居を移して行った位置を示す碑が建てられており、それが全部で七つある。まるでちりばめられたように、小五郎の碑が目につく。  宵田町筋のそば屋の隣りにあるひときわ大きい碑には「維新史蹟/勤王志士桂小五郎再生之地」と彫ってあった。どん底に追いつめられた桂小五郎が、出石にひそみ、ここから再出発して、維新の大業完成に重要な役割をになったという意味だろう。そこには、幕府のお尋ね者になっている小五郎を暖くかくまってやった当時の出石町人の侠勇を、誇らしく物語ろうとする意図がにじみ出ているようでもある。  この碑のあるところで、小五郎は荒物屋をいとなんだ。広戸の分家ということで、広戸孝助と名乗り商人に姿を変えたのである。 「再生」までには程遠い深刻な苦悩に、小五郎が襲われたのも、この宵田町時代であった。  禁門の変で、久坂玄瑞・来島又兵衛・真木和泉といった人々が壮烈な最期をとげた。長州攘夷派の過激集団の中心で動いていた顔ぶれが、みずから起こした争乱で壊滅したのである。惜しまれる人物だが、彼らが消えたことは、以後の長州藩の進路にとって、ある意味をなしたともいえる。  小五郎が出石に着いて間もなくの八月五日、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国連合艦隊十七隻が下関を襲撃した。最後の攘夷戦である。惨敗して長州は降伏した。ここで攘夷の無謀を悟ったあとは、急速にイギリスと結びついていく。下関は事実上の開港場となった。ヨーロッパ近代兵器の密輸基地として、長州割拠の重要な役割をになうことになるのだ。  外国に接近するなど、長州藩の百八十度転換が、すんなり実現したのは、一途に素朴な攘夷論をふりかざす過激派の指導者が姿を消していたからだといってよいだろう。  最悪の事態を経過しながらも、長州藩はたびかさなる挫折から立ちなおり、討幕の目標をめざして力強い一歩を踏み出すのだ。長州に敵対していた薩摩藩も、ようやく幕府に見切りをつけ、雄藩連合の構想に賛同して、長州に歩み寄ってくる。──  小五郎のえがく理想的な情況が、徐々にひらかれようとしていた。だが、小五郎が出石に入った当時は、そのような展望もない「最悪の事態」に長州藩が包囲されているときである。  連合艦隊が大挙下関を襲撃しようとしているとの風説は、以前から流れていた。ロンドンにいた長州藩士五人のうち井上聞多と伊藤俊輔が、止戦のため急いで帰国したことを、小五郎は知らない。出石でまず耳に入ったのは、八月四日、外国艦隊の出動に便乗するかのように、幕府が諸藩に対して長州征討令を発したことであった。その翌日、連合艦隊が下関を襲い、長州軍が大敗したことを、小五郎が聞いたのは、十日以上も経ってからだった。  つづいて幕府の征長軍を迎えなければならないはずであった。小五郎は、広戸甚助に長州の情勢をさぐってくるように依頼し、村田蔵六にあてて手紙を書いた。蔵六にだけ、自分の位置を知らせておこうと思う。彼の返事しだいで身の処し方を決めようという消極的な心づもりもあった。  こんども気軽に応じて、出石を出発する甚助を送り出したあと、小五郎は、やはり気がとがめた。危険を冒しても、なぜ自分の足で長州へ帰ろうとしないのかと、みずからに問いかける声に、さいなまれているのだ。  長州藩のだれかが、京都の近くに踏みとどまっていなければならない。それが、出石に潜伏する理由だが、今となっては逃避の言い訳にすぎないではないかという気持が、ひそかに動き、 (それにしても、はるばる逃げてきたものだな)  正直、そんな思いがある。  後世、彼が�逃げの小五郎�などと、軽蔑と非難をこめていわれるのは、三つの場面に根ざしている。池田屋事件と禁門の変、そして出石への逃亡である。  しかし、池田屋を避け、禁門の変で戦闘部隊に積極的に参加しなかった小五郎を、単純に卑怯とは決めつけられないだろう。しかも、遅れ馳せではあったが、一度は乱闘の中に躍りこんでいるのである。生き残ったすべての長州人が帰国したとき、小五郎はひとり危険な京都に身をひそめようとしたのだ。  ただ小五郎にとって、一点悔いるものがあるとすれば、長州藩が存亡の危機というべき重大な局面を迎えている間の八カ月、出石で無気力に時を過ごしていたということであろう。  逃げるといえば、高杉晋作なども、よく逃げまわったものだ。彼は六度の攘夷戦でも、禁門の変でも、まったく不在の人だった。  長州藩が、狂ったように試行錯誤する過程で、いさぎよく散った人を単純な犬死というべきではないが、また生き残って、ひとつの仕事をやり遂げる人材もいなければならなかったのである。  しかし、と再び言わなくてはならない。  ──あらゆる打算を捨てて、身を投げ出し、走り過ぎていった一群の人々がいる。  京都|霊山《りようぜん》の護国神社境内には、数百基を数える維新殉難者の墓標が、緑につつまれた山の斜面に、ひっそりと建っている。長州の関係者は、その最前列に位置を与えられている。  長州人の墓のほとんどには、池田屋事件や、禁門の変の犠牲者の名が彫られているが、多くは素姓もわからない無名戦士だ。  そのような墓群をおいた霊山の頂上あたりには、木戸孝允こと桂小五郎の大きな墓石が、松子夫人つまり幾松のそれと並んで、特別扱いの|佳城《かじよう》をなしている。早く死んだ者と、生き残り、名をとげた者との対照的な結末を、皮肉に見せつけられる感じだ。  途中で斃れた人々には、それぞれに悲劇的なドラマがつきまとう。無償の行為におわったその生涯には、何はともあれ惜しみない称賛が与えられる。  生きのびた者が、とかく批判の矢を浴びるのは、後世、歴史を点検する人の史観にもよるであろう。あるいは、非情な世間の目に、栄達した人物は長く生きすぎたとうつるのであり、彼らが「報われた」余生を|完《まつと》うしたと理解されるからでもある。  動乱を無傷で泳ぎ抜くには、偶然の幸いか、さもなければ、みずから逃げるための作為をめぐらすことが必要だろう。そのようにして生きのびた者だけが、華麗な舞台に参加できるのだ。  ともあれ、逃げて、自分の出番を待つ、そんな人物の存在を、寛容にみとめるところが、今も昔も変らぬ目的集団の力学というのかもしれない。  しかし、本人にしてみれば、それを人間として不純と自覚する倫理観から逃げきることはできないのである。後年、小五郎が、池田屋事件、禁門の変への回想録で、しきりに釈明をこころみていると非難されるのだが、かならずしも強弁しているのではない。ためらいがちに回想する彼には、不純な部分への心の痛みを持ちつづけている�生き残りの志士�の姿がある。それが小五郎の繊細さでもあった。  出石を出て、長州へ帰り、再び京都へ潜入して西郷吉之助と結んだ慶応二年(一八六六)の薩長同盟から、明治二年(一八六九)の版籍奉還までのおよそ三年間は、小五郎が維新事業の指導者として、最高に力を発揮した期間だった。維新史における小五郎の役割は、そこで終ったという見方もできる。  明治になり、小五郎は、決して長く生きたわけではなかった。十年(一八七七)の西南戦争の最中、「西郷、もう大抵にせんか」とつぶやきながら死んだときが、四十五歳である。しかしながら、健康を害し、病人の顔がのぞく明治二年からの八年間は、小五郎にとって蛇足の人生だったとの感がないでもない。「木戸孝允」とならず、「志士桂小五郎」で、彼は消えていたほうがよかったのだといえば、非情にすぎるだろうか。  それにしても、小五郎には若年のころから、どことなく暗い|翳《かげ》りがあって、孤独な印象がぬぐえない。これはもともと彼が腺病質だったという生理的なものからもきているとみられる。よく胃腸をこわし、明治に入ると「脳病」による発作をおこし、足が麻痺して動けなくなるということもあった。脳疾患の通俗的総称である彼の脳病が、現代医学でのどの病名にあたるのか、そして死因となった「胸骨を病む」というのが、何にあたるのかは今となって知るよしもないにしても、とにかく小五郎がしだいに病弱となっていったことは、見逃がせないのである。  腺病質な体質に鞭打ち、剣術修業から出発して、いったんは逞しくなった小五郎が、徐々にその体力を衰えさせていく過程は、この時期あたかも長州藩の昂揚と転落の起伏にかさなるのだ。つまり京都から逃げたころの小五郎は、たしかに心身とも|窶《やつ》れ果てていた。  衰弱した身体を、出石の一隅に据えて、思い悩む小五郎。──話を、もう一度そこへかえし、ここで「再生」する彼の志士としての最後の生きざまを追わなければならない。  出石藩の仙石氏は、外様大名である。天保六年(一八三五)、藩主仙石政美の死後、嗣子がなく、政美の弟道之助が継ぐことになった。主家の支流家老仙石左京は、子小太郎を立て、反対する家臣を死罪、追放して家の乗っ取りを策した。幕府の知るところとなり、左京は獄門に処せられ、仙石家も五万八千石から三万石に減封され一件落着した。世にいう仙石騒動である。  小五郎が、出石に逃げこんだのは、そんな騒動からおよそ三十年後で、藩政は佐幕に近い路線をたどっているが、何しろ零細な小大名である。上・中・下士あわせてわずか百数十人という家臣団をかかえているだけだから、勤王とか佐幕といったところで、どのみち目立つ存在ではない。  前の年の文久三年十月、福岡藩の平野|国臣《くにおみ》らが、大和の天誅組挙兵に呼応して、但馬生野に蜂起した。幕命によって出石藩も鎮圧軍の一部として出動したが、一里行っては小休止、二里行っては大休止と、乱の終るのを待つように嫌々ながらの出兵だった。出石藩の旗印には、「無」の字が染められている。哲学的な意味は失せて、まったくの無気力な小藩としかいえなかった。  小五郎が、八カ月もの間、親幕的な出石城下に無事潜伏できたのは、ひとえにこの藩の騒ぎを嫌う家風によるもので、その無気力さは、仙石騒動の減石いらいのものだったかもしれない。  小五郎が、城下の昌念寺に一時身を寄せたのは、ここが広戸家の檀那寺だったからで、碁の好きな住職と対局を楽しむというのんびりした日をすごすこともあった。  町奉行の堀田反爾は、これも碁を好み、よく寺へやってきた。小五郎ともしばしば碁盤をかこんだのだが、別に素姓を詮索するふうでもなかった。町人を装ってはいるが、ただ者ではないことは一見してわかるはずなのに、|糺《ただ》そうとしないばかりか碁の相手までする町奉行がいたというのも出石らしい。  しかし、京都方面から幕府の密偵らしい男が、城下に入りこんでくることも多く、小五郎の身辺を嗅ぎまわる気配なので、潜居を転々と移さなくてはならなかった。昌念寺のほかは、広戸一族の家をタライ廻しにされ、時には、出石の近くの|城崎《きのさき》に隠れることもあった。城崎温泉の松本屋という旅館にひそんでいる。  山にかこまれた湯の里だが、現代では志賀直哉の小説『城の崎にて』によって広く知られ、にぎやかな温泉街をなしている。湯量が豊富で、幕末の当時でも湯治場として栄えていた。小五郎の疲れ果てた身体を休めるには恰好の場所ではあったが、やはり危険が感じられ、長くはいられなかった。  再び出石の城下に入り、広戸の家にひそんだ。京都の大島友之允に手紙を書く。 「今更書を呈し仕り候も|赧顔《たんがん》ながら、御一見下され御|裂《やぶ》り下さるべく候……」などと書き出している。八・一八政変から禁門の変にいたる長州藩の失態を恥じる気持と、意気ごんで京都での運動を進めてきた自分が、こうして逃げまわっていることへの羞恥がかさなって、卑屈な姿勢をうかがわせる表現が随所にあらわれる文面である。しかし「大割拠少しも賊令に応じざる位には無之ては相叶はず、ここは十分に御尽力仰ぎ奉り候……」と、あくまでも幕府への抵抗を語りかける。  正藩連合の夢破れた今となっては、もはや長州独自の割拠体制をかためる以外にないとしながらも、なお諸藩との連帯をめざす「大割拠」を、小五郎は叫びつづけずにはおれなかったのだ。それが彼にとって執念ともいうべき討幕実現の基本理念であり、この時点で予想もしていないが、やがては薩長同盟へのひとつの呼び水ともなったのである。  ともあれ、秋が深まるにつれて、時勢は長州にとっても最悪の方向へ転がりはじめた。連合艦隊との交戦に惨敗した長州に追い打ちをかけるべく、幕軍が広島へ集結しているという。  甚助に手紙を持たせてやった村田蔵六からは、何の音沙汰もなかった。  幕府の長州征伐軍は、十一月十八日を期して、長州藩内に総攻撃をかけるという。  すでに十二月のなかばを過ぎたのに、これといった動きは伝わってこなかった。耳をふさがれたような辺地の小城下町に、しかも隠れ棲んでいる小五郎のところへもたらされる情報に限界があるとはいえ、幕軍が長州藩領に突入したとなれば、変報が届かないはずがない。何かの理由で開戦が遅れたのだろうが、どんな情況になっているのか、まるで想像もつかなかった。 (長州へ帰れ!)  しきりに自分をうながすものがある。長州藩があとかたもなく消滅してしまった悪夢に襲われ、このままだと永久に帰国の機会を失うのではないかと、不安に怯える夜も一再ではなかった。  それでもなお、小五郎は腰をあげようとしないのである。藩政の実権は、すでに佐幕をとなえる椋梨一派ににぎられている。迂闊に帰れば、この事態を招いた責任を問われ、切腹をせまられるにきまっている。 (確たる情勢も把握できないまま帰国するわけにはいかぬ。まあそのうち、いつかは……)  漠然とした何かを待ち、萎縮した思いを抱いたまま元治二年の寒い正月を、出石の町の一隅で迎えた。  長州から帰ってきて、再び出石を出て行ったきり連絡してこない甚助は、京都で何をしているのだろう。彼への手紙は、それに対する愚痴めいた言葉から始まり、「先へ目どのつかぬ時は、実は一日も送りがたきわけに御座候間、よくよく御察し下され……」と情勢の報告を懇願するのだった。  小五郎ほどの者が、この時期、すがりつくように頼りにした人物といえば、無力な行商人広戸甚助だけであった。  長州ではたった一人居所を知らせている村田蔵六も、その後、何をしているのか、依然として音信がなく、みんなが自分を見放してしまったのではないかと、不安にもなってくる。  語りあう相手もいない。深夜ひとり筆をとって、書きつらねた孤独な文字も、寒々としている。同じ城下にいる甚助の弟直蔵にあてて書くしか、もはや手紙を出す先もないのであった。 「……トカクウキヨノアヂキナキコトヲオモヒヤリ……ヨナヨナアカシカネ、ヒタツラ行ク末コシカタノコトノミ思ヒオコシ、サムヨノ袖ヲシボリ申候……カリソメノユメトキヘタキココチカナ」  結びの言葉は、 「仮初の夢と消えたき心地かな」  と、小五郎の弱気をさらけ出した俳句になっている。  嘉永五年、江戸斎藤道場へ入ってから、京都屋敷留守居役にまで昇進した十二年間、小五郎の足跡は、その努力にふさわしく順調そのものだった。青雲の座をめざして、ようやく急坂をのぼりつめようと意欲を燃やしている矢先、思いがけぬ窮地に転落したものである。  小五郎が、その生涯にあっての最悪の情況、まさに悪夢に似た一時期を|喘《あえ》いでいるころ、長州では大事件が発生していた。  ──功山寺挙兵。  高杉晋作の蜂起である。  急進派に代わって藩政の実権をにぎった、椋梨藤太を首魁とする「俗論政府」は、幕府への謝罪という一点にしぼった方策を決め、血なまぐさい粛清に乗り出した。  まず益田親施ら三人の家老に切腹を命じ、その首級を差し出して京都出兵の非を詫び、幕府の長州征伐をまぬがれた。さらに四人の参謀を処刑したのをはじめ、急進派の人々を投獄し、斬首して反幕的な藩政の転換をはかった。家老清水清太郎の切腹、周布政之助の自決、そして井上聞多の暗殺未遂とつづく。  福岡へ亡命していた高杉晋作は、決死の覚悟で下関へ帰り、遊撃・力士の二隊およそ八十人をひきつれて長府功山寺に決起した。ためらっていた奇兵隊など諸隊も動きだして、ついに萩の俗論政府は倒れた。  尊王討幕の藩論は、これで確定した。長州は割拠の体制にむかって、大きく踏み出したのである。  幕府との対決姿勢をはっきりさせた長州藩は、当然来るべき第二次長州征伐に備えなければならなかった。  藩内には、奇兵隊はじめ諸隊の兵力が、俗論軍との内訌戦いらいさらに組織を強化して気勢をあげている。俗論軍に加わった家臣団の先鋒隊は解体され、今は新しく干城隊の名で、諸隊と同じ方向にむかっていた。総勢約四千人。  数万といわれる幕府の動員兵力に対しては、いささか心細いが、藩民を挙げての昂揚した空気が、不安を拭きとって、ひたすら戦闘意欲に燃えさかっているのだった。  洋式兵学者村田蔵六の出番である。防御掛兼兵学校用掛を命じられた蔵六の指導で、洋式による猛訓練が実施されている。これに新しい武器を持たせれば、おそらく最強の兵団が出現するだろう。  割拠体制は、着々と進むのだが、やはり|要《かなめ》になる指導者がほしいところである。俗論政府打倒の先頭に立った高杉晋作は、挙兵成功の直後、ヨーロッパに行きたいなどと言いだした。例によって気まぐれな男だが、伊藤俊輔や山県狂介をはじめとする諸隊幹部連中との意見の食い違いがあり、疎外感を覚えてのこととも思われる。晋作が小僧扱いしていた彼らも、すでに諸隊をひきいる指導的立場に成長しているのだ。晋作の奔放な言動を、無制限に許すほど従順ではなくなっている。  このさい、やはり藩主や重臣たちにも強い発言力を持ち、また干城隊、諸隊からも人望を集め得る人物が必要だった。長崎に行き武器商人のグラバーやイギリス領事ラウダから今は海外旅行などする時期ではないといさめられて帰ってきた晋作までが、強力な統率者の登場を望んだほどである。  そして、ほとんどの人々が一致して主座に推す人物といえば、やはり桂小五郎をおいて他になかった。その小五郎の潜伏場所を知っているのは、村田蔵六だけだ。これもよほど変った男で、小五郎から「貴殿にのみお知らせする」という手紙の秘密を、あくまでも守ろうとして、おいそれとは教えなかった。 「|私《ひそか》ニ御尋ネ申上ゲ候。桂小之居処ハ丹波ニテ御座候ヤ、但馬ニテ御座候ヤ、亦但馬ナレバ何村何兵衛ノ処ニ罷リ在リ候ヤ、委曲御存知ニ候ハバ、御聞カセ下サレ候様相願候」  蔵六にあてた晋作の手紙である。それでも知らぬとうそぶいていた。小五郎という主役登場の時機が熟するのを、蔵六はじっと待っているのだ。  元治二年(四月七日に慶応と改元)一月のはじめ、蔵六は長州にやってきた広戸甚助に、対馬にかくまわれている幾松を、出石の小五郎のところへつれて行くように命じた。小五郎が「夢と消えたき心地かな」などと憔悴した句をひねっているころである。  幾松が、甚助と共に出石へ入ったのは、それから一カ月後だが、小五郎が歓喜したことはいうまでもない。無粋な蔵六としては、いかにも気のきいたはからいだが、実は、それを彼に進言したのは伊藤俊輔である。甚助が小五郎の使いだということを敏感に嗅ぎつけた俊輔に、蔵六はやっと秘密を打ち明けたが、すでに呼び寄せる時がきたとの判断もあったのだろう。小五郎が、帰藩をうながす手紙を蔵六から受け取ったのは、三月に入ってからだった。  四月八日、小五郎は、幾松──というより、もう松子と呼ぶべきか──と直蔵をともなって、出石を出発した。甚助は、一足遅れて一行を追いかけた。  大坂からの船便でいったん神戸に上陸し、讃岐経由の船に乗りかえて、下関に着いたのは四月二十六日だった。下関では、村田蔵六が宿舎にしている大年寄佐甲家の旅館に落ちついた。 「施条銃がもっとほしいですな」  蔵六は、いきなり実務的な話を持ち出した。施条銃とは、ライフルを切った新式小銃のことだ。 「一万挺もあれば、幕軍などおそるるに足りません」 「集めましょう」  別人のように、小五郎は明るい顔で答えた。もう�逃げの小五郎�ではなかった。   頂上の座  小五郎が出石から帰ってきて、わずか数日を経たばかりの慶応元年四月末日、思いがけない客が、彼をたずねてきた。  ──中岡慎太郎。  土佐藩出身の志士である。庄屋の子として生まれ、やがて勤王家となる。武市半平太(瑞山)の主宰する土佐勤王党に属していたが、文久三年、武市が投獄されると、脱藩して京都へ走った。翌年の禁門の変では、長州軍に加わって奮戦、鷹司邸で負傷した。敗走後は同志と長州に入り、間もなく下関を襲った四カ国連合艦隊との交戦にも加わった。  小五郎には意外な客だったが、慎太郎にとって長州は身内のようなものだ。下関竹崎の回船問屋白石正一郎邸に入り、そこで小五郎を待っているという。  竹崎の船着き場に白石邸の浜門がある。勤王商人といわれた正一郎のところには、おびただしい志士たちが出入りしたが、彼らが海から下関に忍びこむには恰好の構えだった。多田荘蔵が、松子を対馬に避難させたときも、いったん白石邸につれてきて、ここから対馬行きの船に乗せている。そのことを松子から聞いていたので、小五郎は、初対面の正一郎に会うと、まず世話になった礼を述べた。  正一郎は、人品いやしからぬ商人で、鈴木派の国学をおさめた知識人でもあった。彼の勤王思想は、国学者としての立場からとみられているが、ひとつには幕藩体制の息苦しさを感じている地方商人の変革への待望からもきているにちがいない。しかし、正一郎の経営する回船問屋小倉屋は、明治になって倒産する。奇兵隊の結成をはじめ四百人にのぼる志士たちの世話に多額の私財を投げ出したことが直接の原因だった。正一郎自身は神官として、明治十三年にその一生を終った。──  正一郎の案内で、奥まった座敷に通されると、色の浅黒い惣髪の男が待っていた。新撰組の近藤勇にも似た、やや凶暴な感じの風貌をしているこの中岡慎太郎に、小五郎は一度京都で会ったことがある。無口な人物で、この日もある重大な用務を帯びてきているにしては、はじめ多くを語らなかった。  小五郎より五つ年下の二十八歳である。今、長崎で坂本竜馬と共に、亀山社中の運営にあたっていると言った。亀山社中とは、竜馬が勝海舟から聞いた海外知識をもとに発案したカンパニーで、海援隊の前身である。汽船を動かしての商行為を目的とするが、いざというときには海軍にも早変りする。 「いざというとき、でありますか」  と、小五郎は、まだ相手の用件がわからないまま、おだやかに反問した。 「そうです、幕府と戦争になったときです」 「ほう」 「長州再征令が出ちょりましょう。いずれは戦端が開かれる」 「そのとき亀山社中の方々は、応援にかけつけて下さるわけですな」 「われわれの応援だけではどうしようもない。もっと強力な味方を欲しいと思われませんか」 「強力な味方?」 「薩摩です」 「薩摩!」  このころ長州では、薩摩のことを「薩賊」とか「薩奸」と呼んでいる。薩摩に対する烈しい憎悪が、藩内にたぎっているときだ。八・一八政変、禁門の変と、長州は薩摩から立てつづけに、煮え湯をのまされた。京都で手ひどい打撃を味わった当事者の小五郎にしてみれば、 「そんなことが……」  できるかと叫びかけて、ふと、村田蔵六の憂いにみちた、あの異相を思いうかべた。新式小銃一万挺もあれば、幕軍など怖れるに足りないといったあの顔である。裏返せば、とうてい幕軍との互角の戦いはできないという絶望とも受けとれる。即座に集めましょうとは言ったが、一万挺の小銃を入手するなど夢のような話だ。  このようなとき、薩摩と連合を組むことができれば……。それこそ�正藩連合�の最たるものではないか。 「そんなことが、できるでありましょうか」  小五郎は、言いなおした。 「薩摩は、長州再征に出兵をしぶっちょります。そこで、長州と手を結ぶこともできるのではないかと……幕府を討つには、それしかないじゃろうと……とにかく、くわしいことは坂本さんから聞いて下さい。私は、桂さんがこの件について、坂本さんと会う意志があるかどうか、たしかめにきたわけです」  中岡慎太郎は、それだけ言うと、もう腰をあげようとする。 「会うだけは会うてみたい」  小五郎は、慎重に答えた。薩摩とのいきさつも忘れて、とびつきたいような話だが、そのような姿勢は、まだ相手にも長州内部にも知られたくなかった。おそらく諸隊あたりから、真っ先に反対の声があがるだろう。 (それをいかに説得するかだ)  慎太郎が帰ったあと、小五郎は早くもそんな計算をめぐらしている自分に気づき、苦笑してしまう。 (薩摩だって、簡単には承知すまい)  坂本竜馬が、途方もない大風呂敷をひろげているようでもある。  折り返しすぐやってくると期待していた竜馬は、なかなか姿を見せなかった。どうなるかわかりもしないことをあてにするより、幕府への臨戦態勢をかためるのが先決だと、小五郎は思いはじめた。このさい頼りになるのは、村田蔵六である。幕府の大軍を迎え撃つには、蔵六の指導による洋式戦術しかないと、信仰にも似た確信を抱いている。  長州藩では、天保の改革で神器陣という洋式兵制を定めたが、大砲と小銃を一部採り入れただけで主力はやはり剣槍隊である。このように古典的な兵制を近代的に改革できる人物といえば、村田蔵六をおいて他にないのだ。 「村田先生」と小五郎は、以前のように蔵六を呼んだ。「山口の政事堂へ行き、防長二州の一和、そして民政、軍制の整理を急ぐように藩政府に建言して下さい」 「では山口ヘ行きます」  あんたは出向かないのかという顔をしたが、蔵六はすぐに下関を発った。五月四日のことである。  小五郎は、そのまま下関で待っていた。長い逃亡生活から帰国したばかりで、まだ藩主をはじめ老臣たちの意識が自分にどのように注がれているのかつかめないでいる。軽率に、顔を出したくないが、心の中では、うずうずして、|待っていた《ヽヽヽヽヽ》。  時山直八が、政事堂からの使者として小五郎を迎えにきたのは、蔵六が発って三日後の五月七日だった。蔵六の報告によるものだろうが、それは多少予期したことでもあった。  二十七日、小五郎は政事堂用掛及び国政方用談役心得に任命される。名目上の上役はいるが、実質的に藩政を切りまわす最高責任者の地位である。 (いつの間にか)  という気が自分でしないわけでもない。小五郎は、頂上の座に就いていた。しかしそこは霧につつまれたように見通しが悪く、緊迫した空気にとりまかれている。  同日村田蔵六は、用所役となり軍政専務を仰せつかる。さらに間もなく譜代の士に列し、禄高百石を給せられる。すべて小五郎の取りはからいによるものである。  かつてロンドンに行く伊藤俊輔らが、高い留学費は「生キタル器械」を買うと思ってくれと、小五郎に手紙を寄せた。蔵六もそれを読んで、面白いと感想をもらしたものだ。  今は蔵六こそが、責重な「生キタル器械」として、一藩の命運を背負い難関を突破すべく、頂上の座にいる小五郎のそばに立っていた。 「長州の強兵策は、まず新式小銃です。何としてもミニェー銃が欲しいですな」  蔵六は、しきりにそのことを小五郎に言った。いくら西洋式の銃陣稽古をやっても、千挺ばかりのゲベール銃では、どうしようもない。幕軍だって、ゲベール銃を持っているだろう。しかもそれを構えた何十倍かの幕軍を迎えるのでは、とても勝目などありはしない。 「ミニェー銃ちゅうのは、施条銃のことですね」  小五郎もいくらかの知識は持っているが、まだ見たことがない。 「こう、銃身の内部に螺旋条溝が、刻んであり、弾丸が旋回しながら飛ぶので、射程が長く、命中率が抜群です。ライフル銃ともいいます。砲身内にライフルを刻んだのがアームストロング砲で、黒船に積んじょるのがそれです。その威力は、馬関戦争のときいやというほど見せつけられちょります」  日本人にとって、弾丸といえば、大砲も銃も、球形のものであった。幕末、外国から渡ってきた銃砲は、細長い流線形の弾を使い、さらに雷管が発明され、取り扱いは、いちだんと便利になった。その上、ライフルによって性能は飛躍的に向上している。  ゲベール銃は、火縄銃より威力があるが、先込めで、ライフルもない旧式銃だ。これなら長州藩にも千挺ばかりある。 「アメリカの商人ドレイクが上海に新式銃があるというので買うつもりでしたが、やはりミニェー銃の売り物はありませんでした」  蔵六は、その年二月、廃船になった長州藩の壬戌丸を売りに、ドレイクの持船フィーパン号に曳航されて上海へ行った。船を売り、その代金で小銃を買ったらどうかとのドレイクの奨めに応じたのだが、蔵六の求める新式の施条銃は入手できなかった。わずかなゲベール銃と大砲を買ってきたにすぎない。五十人の長州兵を乗せて行き、外国兵の装備を間近に見学しただけが収穫だった。  上海渡航は、むろん藩命によるものだが、取り引きの一切は、蔵六個人の名義でやった。このことは、やがて長崎のオランダ領事から暴露され、幕府の知るところとなって、第二次長州征伐の主要な理由に挙げられた。つまり、大筋では、上海にまで兵器の密輸に行った長州藩の行為を責めるのだが、村田蔵六に対するきびしい追及もはじまるのである。もっとも蔵六が名ざしで幕府のお尋ね者になっていることを、この時点で彼はまだ知らなかった。 「長崎の青木さんが、ミニェー銃千挺ばかりを買えそうだとのことでしたので、手を打つようにいってやったのですが、どうもうまくいきません」  青木群平は、長州藩のオランダ語通詞ということで長崎にいる藩士だが、密偵の仕事をやっていた。幕府の妨害で、銃は入手できないとの報告が入っているが、百姓出の村田蔵六の命令などきけるかと露骨な反感をあらわしているともいう。  参政の山田宇右衛門のところへ、群平が蔵六の悪口を書いた手紙をしきりによこしていることを、小五郎は耳にしていた。百姓だ、武士だと、こんなときになっても|拘《こだわ》っている俗物は、群平だけではない。どうかすると、小五郎が武士の血筋でなく、医者の子からうまく幸運をつかんだのだと陰口をきく者さえいる。 (これが幕政下の藩というものの体質であろう)  と小五郎は、ひそかに不愉快となり、蔵六に目を移しながら、まして百姓医者の成りあがり者などと蔑視される彼の立場にも同情するのだが、本人は超然としている。 「村田先生、青木群平の通報にはホラが多いとも聞きますから、ミニェー銃のこともあてにされないほうがよい」 「しかし、長崎で買う以外ないわけですから、とにかく努力だけはさせます。ミニェー銃は、絶対に必要なものです」 「………」  小五郎は、目を閉じて、うなずきながら、旋回する銃弾が、空中を飛ぶさまを想像した。──  この年は|閏《うるう》で、五月が二度ある。閏五月一日、下関からの使いがきた。坂本竜馬からの面会申し入れであった。  薩長連合という大がかりな陰謀を胸に、坂本竜馬が下関にきている。小五郎は駆け出して行きたいほどの衝動にかられながらも、例によって用心深い動きをみせた。山田宇右衛門に、坂本と会ってよろしいだろうかと相談するのである。 「薩摩と手を結ぶのですか」  宇右衛門もさすがにおどろいたが、小五郎と同意見だった。やはり殿様の耳に入れておいたがよかろうということになり、|敬親《たかちか》に、それを言上した。以前慶親といっていたこの藩主は、文久三年の政変いらい、官位を剥奪され、先々代の十二代将軍家慶からもらった一字も取りあげられて、元の敬親にもどっている。 「それもよいではないか」  思った通り�そうせい侯�は、別に反対する様子もなかった。まだ決定したわけではないと念を押して、小五郎は下関へむかったが、高杉晋作と村田蔵六をさそった。蔵六は腹心ということで同席させたいが、晋作は諸隊への押えとして、会談に加えた。薩摩との提携に諸隊が抵抗するのはめにみえており、彼らを説得できるのは、晋作だけだと思っている。  白石邸に行くと、竜馬のほかに中岡慎太郎と|土方《ひじかた》楠右衛門が顔を並べていた。どちらも土佐人である。慎太郎とは対照的に陽性の竜馬は、いきなりまくしたてはじめた。  薩摩は、もう幕府に愛想がつきたらしい、手を結ぶなら今だ、亀山社中は薩摩とも密接な関係があり、薩長の和解はわれわれの努力で何とかなるだろうというのである。 「正藩連合は、かねてから桂さんの持論でしょうが。賛同していただけるものと信じでやってきた次第です」 「話しあうだけは、話しおうてもよいと思うちょります」  慎太郎に言ったのと同じ言葉を、小五郎はくり返した。 「よし、決まったぜよ。では、西郷さんを呼んでくる」 「西郷吉兵衛でありますか」 「今、薩摩を動かしちょるのは、西郷と小松・大久保ですよ」  強引に薩摩を引きずってきた独裁者島津久光の出番は、すでに失われたころである。竜馬がいうように、家老小松帯刀と組んだ西郷(この頃は吉之助を名のっている)や大久保一蔵らが、第一線に出て薩摩の新しい軌道を敷きつつある。第二次長州征伐への出兵も拒絶して、ようやく幕府への反抗姿勢をはっきりさせてきた。討幕のための薩長連合の機運は熟した、と竜馬はいう。 「ではよろしくお願い申す」  言いながら、小五郎は、晋作を見た。わずかに頷いている。諸隊の反対は、この男が何とかとり鎮めてくれるだろう。  酒になった。相変らず、竜馬は陽気に喋りまくっている。長崎の話題に移ったとき、小五郎はふと青木群平のことを思い出した。 「弊藩では今、長崎でミニェー銃を買い付けようとしちょりますが、なかなか思う通り手に入りません」 「ああ、ミニェー銃。どのくらい必要ですか」 「一万挺」 「そうですな、その半分くらいなら、イギリス商人グラバーにいうて取り寄せることはできる。二、三カ月はかかるが……」  酔った口調で、こともなげに竜馬が言うものだから、小五郎はあまり本気にしなかった。 「グラバーは、長州に武器を売れないと言うちょるではありませんか」 「それは表向きだ。例のフィーパン号事件、そうそう、ここにその張本人がおいでなさるぜよ」と、竜馬は笑って蔵六をゆびさした。黙りこんで盃をかさねていた蔵六は、ギョロリと目をあげ、竜馬を睨みつけるようにした。 「あれいらい、グラバーの商売はむつかしくなった。とくに長州との取り引きには、幕府が目を光らせちょる。しかしグラバーは、長州びいきですきに……つまりイギリスは、幕府にそっぽをむき、長州と薩摩の将来に期待しちょるということです」 「ではどうするのでありますか」 「銃は、われわれの亀山社中が、薩摩の名でグラバーから買い、それを長州に売る」  竜馬は、そう言ってから、また大声で笑った。  折り返し西郷吉之助をつれてくると言い残して、竜馬たちは帰って行った。  小五郎は、そのまま下関に滞在して、待つことにしたが、山口の政事堂からは、西郷との話しあいが終ったら至急帰山せよと、ひっきりなしの催促である。会談の成果を早く知りたいということもあるが、政事堂用掛の要職にいる小五郎に長く席をあけてもらっては困るからだろう。  山ロではとっくに西郷との話しあいは終ったものとみているようだが、十日すぎても小五郎は、ただ待っているだけだったのだ。  閏五月二十一日になって、中岡慎太郎が、一人であらわれた。 「残念ながら、西郷さんは、京へ急務とかで、船は下関へ寄らないことになりました,お待たせして申し訳ない」  慎太郎は、両手をついて、ひたすら低頭するばかりだ。  薩賊などといきりたっている長州の土を、吉之助が踏むだろうかと、多少は疑いをもっていたが、自信たっぷりの竜馬の弁舌にのせられ、小五郎は、本気で彼を待っていたのである。  禁門の変のとき、薩摩兵を指揮して、長州軍に打撃を加えた吉之助としても警戒するのは当然だったろう。それだけではあるまいが、吉之助は決断を先に延ばしたかたちで、逃げてしまった。長州ほどではないにしても、薩摩側にだって屈折した気持ははたらいており、ただちに手を結ぶのをためらったのにちがいない。  飢えた足もとを見られたような口借しさを、小五郎は味わった。十数日間も、いらいらしながら来ない相手を待っていた自分にも腹が立ってきた。 「どうせこんなことと思うちょりました」  小五郎は、やり場のない怒りを、慎太郎にむかって投げつける。 「望みがないわけではありません。次の機会をお待ち下さい」 「いや、この話はもうなかったことにしたい」 「桂さんらしくありませんな」と、慎太郎は、少し開きなおった。「正藩連合は、単なるかけ声だけでしたか」 「正藩は薩摩以外にもある。薩摩は信用できません」 「しかし、薩摩は、長州に対して相当な誠意は見せつつあります。新式小銃の件についても、もはや了解済みですぞ」  竜馬が酒席で気軽に約束した銃のことを憶えていてくれたのかと、小五郎にはそのほうがうれしかった。 「私はただ坂本さんと亀山社中におすがりしたい」 「今は何も申すまい、とにかく小銃のことは、長崎へおいでになるがよろしいでしょう」  と中岡慎太郎が立ち去ったあと、小五郎はすぐ山ロヘ帰った。西郷との会談が流れたという報告にはひどく気がひけたが、代わりに新式小銃の入手が亀山社中によって可能になったことを参政山田宇右衛門に告げ、 「ただちに長崎へ人をやって下さい」  と、せきたてた。  あれほど必要にせまられ、村田蔵六の口からも再三新式小銃の購入が建言されていたにもかかわらず、この問題が決定するまでおよそ二カ月にわたってもめ抜いたのである。  海軍局からの横やりが入ったのだ。小五郎は、小銃だけでなく、軍艦に仕立てるための汽船買い入れも併せて藩主に上申していた。銃はともかく、中古の汽船を買っても軍艦の用をなさない、浪費であると海軍局が異議を申し立てたことから、賛否にわかれて紛糾をつづけた。  では海軍局の連中は何を買えというのか。(これについては、長州関係資料の多くに「ゴムボート」とある。軍艦のかわりにゴムボートとは、理解に苦しむしろものだ。ところがある文献に「ガンボート」としているのを発見した。gunboat つまり砲艦ということだろう)  汽船を改造するのではなく、最初から軍艦として建造されたものを買えと、海軍局は主張するのだが、これは無いものねだりである。しかも陰湿な感情が入りまじっている。  汽船購入に関する海軍局の反対は、おそらく事前に相談がなかったことや、百姓医者あがりの村田蔵六が軍政専務として大きな権限を与えられたことに対する武士団の反発であろう。あるいは小五郎と蔵六が、二人して藩政を牛耳っているとする彼らの反感から出たものかもしれない。  波立つ感情が誤聞を生む。それがさらに流言となって藩内をとびかい、小銃と汽船購入は、いつまでたっても藩主の決裁が得られない。 (幕軍が襲ってこようというのに、何というざまだ)  小五郎は、辛抱づよく、紛争がおさまるのを待っている。  小五郎は、長い間、江戸や京都でくらした。役職についてからも、ほとんどの時間は、藩邸ぐらしで、いわばのびのびと活動した記憶がある。こうして国許へ帰り、要職に就くというのは、むろん初めての体験で、さまざまな場面に、おどろきをもって接することが多くあった。時に、ばかばかしいほどの情況に直面して、溜め息を洩らすことも少なくはなかったのである。  古めかしい垣の中に閉じこめられた人間の粘っこい無知さ加減は、武士階級に目立ち、たまらなく鼻につくことがある。藩とは何だろうと考えたりもするが、幕府と戦うためには、この藩というものの存在が最大限必要なのだ。小五郎は、不愉快さに耐えて、海軍局のいやがらせにも似た激論がおさまるのを、じっと待っている。  不安定に揺らぎながらも、我慢づよく情況の展開を待つということは、小五郎が身につけてきた政治家としてのしぶとさであった。繊細な、どうかすると小心なまでの心の動きと、それを抑える冷静な意志力が、彼のこんにちをもたらしたともいえた。 �頂上の座�から、小五郎の視界は、ようやくひらけてきた。つめたく未来を見つめる目になっている。  七月十八日、山田宇右衛門が、小五郎を呼んで言った。 「桂さん、汽船の件は、いろいろと誤解もあったが、何とか購入するように話をまとめますので、もう少し暇を下さらんか」  まだそんなことを言っているのかと思ったが、 「急がぬと間にあいませんよ」  とだけ答えて、退きさがった。その日、小五郎は、久しぶりに京都の対馬藩邸にいる大島友之允に手紙を書いた。 「……今日之長州も、皇国之病を治し候には、よき道具と存じ申し候」  小五郎は、すでに彼のいう皇国、つまり日本的な視野に立っている。幕府も藩も否定した国家の未来像を考えている。その幕府を倒すために、長州藩は、小五郎にとって、もはや道具にすぎないものであった。  嘉永五年、小五郎は江戸へ出て、純粋に個人的な目的で剣術を修得した。これは無名の一長州藩士にすぎなかった彼を、浮かびあがらせるのに役立った。  黒船来航の危機感にかられてからは、砲術・小銃術・造艦術から英語までも学ぼうとした。すべては長州藩という小世界への忠誠心に発したといってもよいが、それらは結局、新しい技術へのあこがれと、遊歩におわっている。  みずからが技術者になることをあきらめた小五郎は、いつか志士として政治運動に身を投じていた。しかも浪士となるのではなく、藩機構の中で、着実な昇進の道をたどってきている。頑固なまでに尊王討幕思想をつらぬいてきた彼が、曲折する情況にもまれながらも、はみ出さなかったのは、藩そのものを幕府との対決の方向へ歩ませたからである。  藩は京都で挫折したが、小五郎が但馬にひそんでいる間に、かろうじて討幕の藩論は維持された。そして今、迎えられ、藩権力の一部をにぎっている。  それは、ひとつの頂上を征服した彼の姿であった。  小五郎の前には、なお巨大な幕府権力がそびえ立っていた。小五郎のそばには、かつて彼が希求した技術を総合した「生キタル器械」村田蔵六という人物がいる。そして、そのすべてを包含した凶暴な道具としての藩が、小五郎の手中にあった。  汽船購入の問題が、全面的に解決したのは、七月二十七日のことである。  小五郎は、すぐに井上聞多と伊藤俊輔にあてて手紙を書き、小銃と共に汽船も買い入れるように指示した。  聞多と俊輔は、長崎にいる。小五郎は、十日前、独断で二人を亀山社中に送り、ひとまずミニェー銃買付けに着手させていたのである。  西郷吉之助に待ちぼうけを食わされたこともあって、小銃のことも竜馬の安請けあいではないかとの疑心はぬぐえないが、いずれにしても藩の潰滅を救う命綱は、新式小銃のほかにはないのだ。  それからおよそ一カ月、長崎からの連絡は絶えたが、八月二十六日、思いがけぬ朗報が、小五郎のもとに届いた。聞多と俊輔が、汽船三隻をつらねて、三田尻港に帰ってきたのである。  買う船は一隻だったはずだがとおどろいたが、二隻は薩摩藩が貸してくれた胡蝶丸と海門丸とわかった。小銃と弾丸は、目立たないよう両船に分載し、聞多たちは、購入した汽船ユニオン号に乗っていた。  竜馬は、約束を果たしてくれたのだった。  ミニェー銃 四千三百挺  ゲベール銃 三千挺  計七千三百挺と汽船一隻あわせて、十三万一千百両の買物である。  端緒がひらけたというのか、その後も流れこむように、小銃は入ってきた。わずかずつ、しかし連続して小銃らしい荷物が外国船から下関港に陸揚げされる様子を、対岸の門司から観察し、幕府に報知した小倉藩の文書が、おびただしく遺されている。  宝暦十三年(一七六三)いらい約百年間にわたり、長州藩は撫育金という秘密の金を蓄えてきた。明治になっても、なお百万両の残金があったというほどの巨額な隠し財源である。それを放出して、価格に糸目をつけず、新しい兵器を買いあさった。イギリスやアメリカの武器商人にとって、長州はまたとない得意先だったのである。 「ゲベール銃はもう結構ですから、ミニェー銃と、白兵戦のときのための剣銃、つまり剣付鉄砲がほしいですな。異人兵がかついでいるあれです」  蔵六は遠慮なく要求する。 「では微行論を進めましょう」  と小五郎は即座に腰をあげた。微行論とは、彼が名づけた武器密輸の陰語である。小五郎は、みずからも先頭に立って、微行論を果敢に推進した。  間もなくミニェー銃千八百挺、剣銃二千挺を買い入れた。ちなみに明治三年、戊辰戦争が終ったとき、長州藩が保有していた小銃は総計二万四千三十三挺で、そのうちミニェー銃は一万九千百十三挺、幕府や諸藩を圧倒的にしのぐ最高の数字である。慶応二年六月に始まった第二次長州征伐の幕軍迎撃戦(長州では四境戦争と呼ぶ)までには、少なくとも一万挺のミニェー銃をそろえていた。蔵六が「幕軍怖るるに足らず」と言った一万挺の施条銃は、見事に装備されていたのである。  正規の戦闘部隊は約四千。しかし幕軍が大挙藩内になだれこんできたときは、銃を執れる男たちのすべてに、この新式小銃を与えて抵抗させようという死物狂いの臨戦態勢であった。  そのようにして慶応元年が暮れようとする十二月十九日、小五郎をたずねて意外な客が、下関の白石正一郎邸にやってきた。薩摩藩士黒田了介、のちの首相黒田清隆である。このとき二十六歳。 「桂さん、おいどんと京都に行こうではごわはんか」  |磊落《らいらく》で、酔うと酒乱の癖があるといわれる了介は、いきなり小五郎に言った。 「行ってみたいが、また二条大橋の下で乞食に化けるしかありませんからね」 「薩摩藩邸にお迎えもす。そこに今、西郷どんが、待っちょられますぞ」  小五郎は、しばらく返事をせず、うつむいたままだったが、やがて顔をあげると、了介を睨みつけて、 「私の一存では決められません。政府員と相談しましょう」  と事務的な口調で答えた。京都へ行くつもりはなかった。  小五郎は、どうしても薩摩人が好きになれない。これまでの薩摩のやりロを、肚に据えかねているのは、一般の長州人以上である。出石での惨めな経験が、薩摩への恨みにもかさなっていた。  一度は坂本竜馬の熱意に説得されて、薩摩と手を結ぶことに同意し、どちらかといえば積極的な姿勢さえとった。長州藩が無防備のまま、切迫した事態に追いこまれていたからでもある。ところが、下関では西郷吉之助から、屈辱的な肩すかしを食わされてしまった。  そんなことはあったが、ミニェー銃購入に、薩摩は意外なほどの好意を示し、家老の小松帯刀はそれを運ぶのに商船二隻を動かしてくれた。いやあれは竜馬が、すべて取りはからってくれたことだと、小五郎は考えようとした。  新式小銃による装備が完了した今、幕軍は長州の独力でも迎え撃ってみせるという自信が、あえて薩長提携にとびつこうとしない小五郎の、多少は虫のよい態度にもあらわれている。  山ロヘ帰ると、一応黒田了介の来意を藩主や参政の宇右衛門らに告げ、断るつもりだと言った。了介はそのまま下関で返事を待っている。 「あの薩摩人には、退去するように通報されるがよいでしょう」  小五郎にしては、めずらしく感情的になっている。吉之助に待ちぼうけを食わされたときの憤懣を、あらためて噛みしめているのだ。そうした小五郎を、つめたく眺めている男がいる。井上聞多である。 「桂さんの気持はわかりますが、このさい薩摩と手を結ぶべきでありましょう」と、彼は藩主に言う。「小銃を買いに行ったとき、よくわかったのですが、薩摩人は誠実で、決して奸物といえる人種ではありません」  藩主から、「京都の形勢視察」の名目で、小五郎に上京の命令が出たのは、十二月二十一日である。  小五郎は、いわばしぶしぶといった表情で、二十六日、三田尻港を出発し、海路京都へむかった。黒田了介が同行し、長州藩からは三好軍太郎・品川弥二郎が小五郎に随従、元治元年いらい長州へ身を寄せている土佐藩の田中顕助(光顕)も加わった。  一行が京都の薩摩屋敷(近衛家別邸説もある)に入ったのは、翌慶応二年一月八日である。長崎から駆けつけるはずの坂本竜馬は、未だ姿を見せていなかった。  西郷吉之助は、小五郎たちを笑顔で出迎えはしたが、それだけで別にあらたまって提携の話を切り出すふうではなかった。長州側が持ちかければ、相手になろうという態度である。 (またか)と、小五郎は不機嫌になった。呼んだのは薩摩ではないかと、彼も押し黙ったまま、いたずらに日が過ぎて行き、毎日の食事だけは、えらく豪華だったが、うそ寒い屋敷に十日以上もごろごろしていた。  二十二日の朝、小五郎たちが、長州へ引き揚げようと旅支度しているところへ、坂本竜馬があたふたと到着した。 「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたちゅうのに、区々たる感情に溺れて、肚を割れんとは何事ですか!」と、竜馬は、怒りにふるえる大声で、小五郎をなじるのである。 「坂本さん、私の考えはこうです」と、小五郎は激昂する竜馬にむきなおった。「今、苦境に喘ぐ長州が、薩摩に低頭してまで、彼らを危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩がみずから手を差しのべてくれてこそ、長州藩は救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が残って幕府を討ってくれるなら、われわれに|憾《うら》みはないでありましょう」  竜馬は、一瞬、絶句したが、感動に目をうるませて「そうか、ようわかった」とうなずきながら、こんどは吉之助に対する激しい説得を開始した。必死にわめいている竜馬の姿を想像しながら、小五郎はなお旅装を解かずに待機していた。歴史的ともいうべき、薩長同盟の会談がひらかれたのは、それから間もなくのことである。  小松帯刀、坂本竜馬らの立会いのもとに会談が始まると、開口一番、小五郎は、過去長州に対してとりつづけた薩摩藩の行動を論難した。それは溜まっていたものを吐瀉するような勢いで、長州人桂小五郎の口をついて出る痛切な薩摩批判であった。虚心に手をにぎりあうために、敢えて言っておきたい、それで事が破れるのならやむを得ないという小五郎の悲壮な決意でもあった。 「ごもっともでごわす」  吉之助は、静かな声で、それしか言わなかった。  喋りつづけているうちに、小五郎は、不思議な安らぎを感じはじめていた。西郷吉之助という人物の度量の深さに、快い屈服を覚えたということかもしれない。 「幕長戦が開始されれば、薩摩は、幕府に対抗し得る兵力を京都周辺に集中し、幕府を威嚇し、朝廷に対して長州のために周旋する。やがては武力で幕府を討滅しよう。薩長互いに誠心協力することを約す」という六カ条にわたる薩長同盟の協定が成立したのは、すでに夕刻近いころである。 「桂さん、やったぜよ。これで幕府は倒したも同然だ」  いたわるように、竜馬が肩をたたいた。それは彼が伏見の寺田屋で幕吏に襲われる前日であり、河原町の仮寓で刺客のために、中岡慎太郎と共に絶命する二年前であることを、むろん予感もさせない明るい響きにみちていた。 「坂本さん、あんたのお蔭ですよ」  答えて、小五郎は与えられた部屋にひとり戻ると、障子をあけて外の空気を吸った。会談を待っているうちに引きこんだ風邪が、まだなおらないのか、ほてるように身体が熱を帯びている。寒気を、すがすがしく肌に感じながら、暮れなずむ洛中の空を見上げた。  小五郎は、そのとき疲れていたのであろう。江戸から京へ、さらに割拠する長州へとつづく十四年間の張りつめた日々の重みが、どっと覆いかぶさってくるような思いにかられ、突然の虚脱に似たまなざしになった。  小雪が、激しく舞い降りてくる。まるで花びらのように、それが美しかった。 [#地付き]〈桂 小五郎上 了〉 〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年十一月二十五日刊 初出紙  毎日新聞西部版  昭和五十二年二月一日〜九月十六日連載分 単行本  昭和五十二年十一月文藝春秋刊  (「炎と青雲─桂小五郎篇」改題)