角川e文庫    歌麿さま参る [#地から2字上げ]光瀬龍   目 次  関ケ原始末  三浦縦横斎異聞  ペニシリン一六一一大江戸プラス  勝軍明王まいる  紺屋町御用聞異聞    |歌《う》|麿《た》さま参る     関ケ原始末      1  昨夜からの豪雨は、今朝になっても少しもおとろえを見せない。厚い雨脚に押しつつまれたこの盆地の底から、水けむりにかすむ周囲の屋根を見上げるとき、物みなすべて水底にあるかの如く見えた。  銃声と喚声が入り乱れ、ひとつになってつなみのように盆地全体をゆり動かしていた。時おり、何かの拍子に一人だけの悲鳴や絶叫がいやにはっきりと聞こえることがある。  水幕の中から、まぼろしのように数騎の騎馬武者の姿があらわれ、どろ水を|蹴《け》|立《た》てて疾駆してゆく。ふいにそれがふた手に分れ、からみ合いぶつかり合った。|長槍《ちょうそう》と太刀が|噛《か》み合って歯の浮くようなひびきを発した。たちまち一人の武者が落馬し、他はあらわれたときと同じように、ふたたび|篠《しの》つく雨の中へ駆けこんでいった。  馬から落ちた武士は、苦痛にうめきながら、のたうつようにどろの中を|這《は》った。這った跡が、赤い帯をのべたように染っている。  盲めっぽうに這いずっているのかと思ったがそうではなく、その武士は松の根方に立っている|半《はん》|蔵《ぞう》を目指して這い寄ってくるのだった。その顔から完全に生気が失われている。なまり色に|翳《かげ》った目を、重たげに見開き、必死にくちびるを動かす。  はて、やっかいな。  半蔵は顔をしかめた。戦場で情は無用だった。しかもこのような乱軍の中で、いちいち|臨終《い ま わ》の言葉など聞いてやるひまもないし、心のゆとりもない。  やれやれ。さいごの言葉を遺したいのは、こちらの方よ。  半蔵はつぶやいた。  傷ついた武士は、もうそこまで這ってきた。半蔵に向かってさしのべた手が虚空をつかんだ。 「たのむ……」  たしかにそう言っている。その口から、くわっと血の塊が吐き出された。 「そこなご仁。たのむ……」  半蔵は小さく舌打ちをくれると、二、三歩足を運んで、その武士のかたわらに身をかがめた。 「なんじゃ?」  胴丸の|脇《わき》が突き壊され、そこから間欠的に血があふれ出てくる。 「たのむ。わしを|三州池鯉鮒《さんしゅうちりふ》まで運んでくれ」  半蔵は自分の耳の聞きちがいかと思った。 「どこへ運べだと?」 「池鯉鮒だ」 「お主をか?」 「そうだ。たのむ」  血とどろにまみれたその武士は、残った力をふりしぼって半蔵の足首をとらえた。 「きっと悪いようにはせぬ。|扶《ふ》|持《ち》か、黄金か、思いのままになるだろう」  助かりたい一心から、こんなときには|誰《だれ》でも同じようなことを口にする。だが、この武士の言葉には、異様な執念があった。だいいち、わざわざ三州池鯉鮒まで運んでくれ、というのが、玉の緒にすがろうとする者の言葉らしくなかった。“死にたくない”“助けてくれ”と言えば尋常だが。 「無理だ。その傷では三州どころか、|垂《たる》|井《い》までもおぼつかないぞ。言え。何か言い残したいことがあったら聞こう」  半蔵は|瀕《ひん》|死《し》の武士に足首をあずけたまま、その耳に口を寄せた。 「たのむ。運んでくれ」  その目にはげしい焦燥が浮かんだ。呼吸が|咳《せ》きこむように断続した。もう長いことはないだろう。  しかたがない。のりかかった舟だった。 「わかった。運んでやろう」  かかえ起して背に負った。もう何もかも終りで、こんなところにまだ自分のやることが残っていた、というのがふしぎだった。 「かたじけない。お主の名は?」  |服《はっ》|部《とり》半蔵、  と、名乗ろうとして、ぐっと|呑《の》みこんだ。  この事態のもとで、|徳《とく》|川《がわ》旗本としてのおのれの名をあかすことは危険だったし、その必要もなかった。 「服部……|作《さく》|左衛《え》|門《もん》だ」 「御味方か?」  御味方か? とたずねられても、相手がどちら側なのか見当がつかない。池鯉鮒まで運んでいってくれ、と言ったとて、それが|三《み》|河《かわ》縁故すなわち徳川方とはかぎらない。臨終の際に誰かに会いたくなったものであろう。関東方でも大坂方でも、名のある者もそうでない者も、一族が手分けして東と西に分れ、故意に敵味方となって戦っているのが実情だった。天下分目の戦いともなると、一族が根絶やしにならぬようとの当然の配慮だった。 「そうだ。味方だ」  半蔵はうなずいた。  傷ついた武士は、安心したのか、半蔵の肩にがっくりと体重をかけた。 「しっかりしろ! お主の名を聞いておこう」  脇腹を小突いた。 「|名《な》|張《ばり》の|申《さる》じゃ」 「名張の? すると、|猿《さる》|飛《とび》という」 「そんなふうに言われている」 「そうか! お主が猿飛か」  半蔵の胸の中をつめたいものがはしった。  |真田左衛門尉幸村《さなださえもんのじょうゆきむら》の郎党の一人に、|乱《らっ》|破《ぱ》をとくいとする名張の猿飛という者のあることは、用忍を事とし、|透《すっ》|破《ぱ》、乱破に従う者たちの間では以前から知られていた。  代々真田家では、小身の故をもって強兵を養うことができぬまま、出自の|如何《い か ん》を問わず、天文、地象、また諸国の事情などに通じている者を広く召しかかえ、計略をもって戦うことを骨子とした。それは十分、成功したようだった。|由《ゆ》|利《り》|鎌《かま》|之《の》|助《すけ》、|海《うん》|野《の》|六《ろく》|郎《ろう》、名張の申などを中心とする幸村子飼の郎党たちは、他家の家臣たちには類を見ない特殊な戦力を生み出していた。  半蔵も、猿飛と称されるこの男に会うのは、今がはじめてだったが、そのおそろしい技量については、すでに耳にたこができるほど聞かされていた。実際、それは聞きしに勝るものと思われた。もともと乱破などというものは、そのはたらきは決して表にあらわれるものではない。乱破にゆすぶられてひどい目にあった相手方でも、それをおおやけにするはずはないので、その被害が人の耳目に触れるような場合でも、実情はそれに何倍かするようなありさまだった。  真田の郎党たちの間でも、名張の申は諸家の間の|斡《あっ》|旋《せん》や調停に|長《た》け、内部事情などに精通していた。暗殺や放火などをとくいとする由利鎌之助、築城や水利などを専らとする海野六郎などと異なって、申は多年、京、大坂にあって活動をつづけていた。  半蔵は、申を刺してしまいたい欲望をおさえるのに苦心した。今なら完全に申の息の根を止めることができる。腰の脇差に、何度か手が動きかけた。西軍の勝利の何十分の一、何百分の一かは、かれの手柄でもあるはずであった。  いや。まて! 申が|何《な》|故《ぜ》、三州池鯉鮒へ行きたがっているのか、もし申が命長らえてそこへたどり着けるならば、それははっきりする。やつの生命を奪うのは、それからでも遅くはない。  半蔵はおのれに言いきかせた。申が何故、瀕死の身を敵地である池鯉鮒へ運ばなければならないのか? そこに何か大きな理由があるはずだった。半蔵の、忍び者の血が騒いだ。  半蔵は申を背に、豪雨と血とどろの戦場を一歩、一歩、あとにした。 「まてまて! どこへ行く」  道路に沿った竹垣がばりばりと押し破られ、数人の武士たちがおどり出してきた。  抜身をひっさげ、わらわらと半蔵をとり囲んだ。 「名乗れい!」  全身から幽鬼のように血の|匂《にお》いを発散させている。みな、切り取った耳や削ぎ落した鼻を|紐《ひも》に通して首や腰にぶら下げている。乱戦の中では、せっかく討ち取った敵の首でも、提げているわけにはいかない。そこで耳や鼻で代用する。のちの証拠というわけである。  そんなのを三つも四つも提げているのもいる。それが半蔵に太刀を突きつけた。 「名乗らねば、|斬《き》る!」  しかたなく半蔵は口を開いた。 「服部作左衛門。|宇《う》|喜《き》|多《た》|秀《ひで》|家《いえ》さま、御陣場借の者だ」  言ってからひやりとした。かれらが宇喜多家の家臣だったら万事休すだった。 「宇喜多どの御陣場借とな? して、その背なる人物は?」 「おれの知り人で、真田どのの旗本。名張の申じゃ」  首のかわりに切り取った耳や鼻を持ち歩いているなどは、これはあきらかに勝ち戦さの側の風態である。戦功をかき集めるのに忙しいのだ。負けた方は、首など提げていったところで、もはや一文の稼ぎにもならないから、そんな物には目もくれない。  かれらは、あきらかに大坂方である。真田の郎党、名張の申の名を持ち出せば信用するであろうと思った。 「真田の家中で、音に聞えたあの用忍の頭か!」 「おう。あの猿飛どのか! 手傷を負われてか」  果して、かれらは形をやわらげ、痛ましそうに半蔵の背をのぞきこんだ。 「服部作左衛門とやら」  さっきから、半蔵につめたい視線を注いでいたかれらの頭領株の男が、手にした太刀で、半蔵が足を向けていた方角を指し示した。 「これをゆけば上野から二叉だ。なぜ東へ向う?」  しまった! 半蔵は胸の中でうめいた。だが、さりげなく、おう! とその方向に視線をはせた。 「いや! これは、これは! あやういところで教えてもらったのう。さっぱり方向が分らなくなってしまって、難渋しておったところじゃ」  ほっとしたように言う。 「来い! われらが陣屋へ|案《あ》|内《ない》いたそう」 「お志はありがたいが、お主ら、首を狩るにいそがしかろう。おれにかまわず、|去《い》んでくれい」  半蔵は固辞するふりをした。われらが陣屋などへ連れてゆかれたら、えらいことになる。 「かまわぬ。来い!」 「ぼちぼち行くからよい。さ、去ね。去んでくれ」 「来いと言うに、それとも、作左衛門。われが一緒では、困ることでもあるのか?」 「…………」 「わしは|大《おお》|谷《たに》|吉《よし》|継《つぐ》さま旗本長松備中守寄子にて、この上野道をあずかる|今泉加藤次《いまいずみかとうじ》という者だ。よく覚えておけ。服部作左衛門とは偽りの名であろう。|甲冑《かっちゅう》を脱ぎ棄てたは、土民の中にまぎれこむ心算であったにちがいない。陣屋へ引き立ててせんぎしてくれるわ!」 「それは迷惑」 「それ!」  加藤次の部下は、半蔵にたぶらかされたと知って、殺気を噴き上げてつめ寄ってきた。 「おのれ! 名張の申どのをどこへ連れ去ろうとするぞ!」 「行きがけの駄賃と思うてか! そうはさせぬわえ」  一人が半蔵の背から申の体をもぎ取った。もう一人が半蔵に縄を打とうとする。その一瞬に、半蔵が跳躍した。  加藤次の部下の一人が、血けむりを高く噴き上げるのと、半蔵の手に脇差がひらめくのとが同時だった。半蔵は右に跳び、さらに左へ身をひるがえした。刀身がからみ合い、赤い雨滴を飛ばした。  豪雨の中のせまい山道である。打ち合いはほとんど一対一だった。加藤次とその部下は、思いがけない獲物を前にして焦った。 「かまわん! 斬り棄てい!」  手捕りがむりと見たか、加藤次は満面に朱をみなぎらせてさけんだ。敵の一人が水しぶきを上げて突込んできた。間髪に体を反らせてかわす。足がすべった。そこへ別な敵の大刀が風をまいて降ってきた。|鋼《はがね》と鋼が噛み合い、火花が散った。手がしびれた。もう一度。半蔵の手から刀が落ちた。どろの中を、手負いのけもののように這い回る半蔵を、加藤次たちはおめきさけびながら追いつめ、追い回した。  そのとき、かれらの背後に、とつぜん喚声が上った。それは人のさけびというよりも断末魔のけものか、地獄の幽鬼のさけびとしか思えなかった。三十人はあろうかと思われる武士の一団が、真黒になって足もちゅうに飛んできた。満足に甲冑をつけたものなど一人もいなかった。乱髪は雨に洗われ、体中、血とどろで練り固められ、中には片腕のない者や体に矢が突き刺さったままの者もいた。  加藤次たちが、この新しい獲物の出現に態勢をたてなおそうとしたときには、かれらはすでに|怒《ど》|濤《とう》のように加藤次たちを|呑《の》みこんでいた。二、三か所で人の動きが乱れた。刀の打ち合う音が一、二度聞えただけで、退却する兵の一隊はたちまち、通過していった。あとには加藤次やかれの部下たちの体が、人の形をとどめぬまでにさまを変えて横たわっていた。また一団があらわれ、つぎの一団がつづいた。一人の兵がどろだらけの馬じるしを引きずっていた。|彦《ひこ》|根《ね》の兵らしかった。  敗残の兵たちが走りぬけてから、しばらくたって、どろ田のような土がむくりと動いた。目鼻につまったどろを|掻《か》き落し、のどをふさいでいるどろを吐き出すと、周囲をうかがった。顔面を雨が洗い、服部半蔵の顔になった。  半蔵は半ばどろに埋っている一個の死体を引きずり出した。もうだめだろうと思ったが、まだかすかに息があった。  半蔵はふたたび申の体を背負った。  いちだんと雨がはげしくなってきた。  半蔵は、東へ向ってよろぼい歩みはじめた。      2  慶長五年七月十七日。|近江《お う み》|佐《さ》|和《わ》|山《やま》の|石《いし》|田《だ》|三《みつ》|成《なり》は、|徳《とく》|川《がわ》|家《いえ》|康《やす》に対する十三か条の弾劾文を作り、諸大名に送った。事実上の宣戦布告であった。  かれに|与《くみ》する者、|越《えち》|前《ぜん》|敦《つる》|賀《が》の城主大谷吉継、西国の雄|毛《もう》|利《り》|輝《てる》|元《もと》、同じく宇喜多秀家らを中心に、大坂方奉行|長《な》|束《つか》|正《まさ》|家《いえ》、|前《まえ》|田《だ》|玄《げん》|以《い》、|戸《と》|田《だ》|重《しげ》|政《まさ》、|小《こ》|西《にし》|行《ゆき》|長《なが》、|島《しま》|左《さ》|近《こん》、|平《ひら》|塚《つか》|為《ため》|広《ひろ》、さらに|脇《わき》|坂《さか》|安《やす》|治《はる》、|朽《くつ》|木《き》|元《もと》|綱《つな》、|小《お》|川《がわ》|裕《ひろ》|忠《ただ》、|小《こ》|早《ばや》|川《かわ》|秀《ひで》|秋《あき》ら、かねて大坂恩顧の大名たちが、反徳川の旗のもとに結集した。加えて|会《あい》|津《づ》の|上《うえ》|杉《すぎ》|景《かげ》|勝《かつ》、|常陸《ひ た ち》の|佐《さ》|竹《たけ》|義《よし》|宣《のぶ》、|信州《しんしゅう》の|真《さな》|田《だ》|昌《まさ》|幸《ゆき》、岐阜の|織《お》|田《だ》|秀《ひで》|信《のぶ》、九州の|大《おお》|友《とも》|義《よし》|統《むね》らがそれぞれ国元で三成に呼応した。  大坂に結集した兵力は、総勢九万四千といわれた。  西軍は七月十九日以来、|鳥《とり》|居《い》|元《もと》|忠《ただ》の守る伏見城を包囲攻撃していたが、八月一日、ついにこれを攻略した。  石田三成は自信満々だった。  慶長三年八月十八日四更。|秀《ひで》|吉《よし》は六十三歳をもって伏見城にその生を終えた。 「秀より事、なりたち候やうに、此かきつけ候しゆとしてたのみ申候、なに事も、此ほかにおもひのこす事なく候 かしく  返々、秀より事たのみ申候、五人のしゆたのみ申侯/\、いさい五人の物に申わたし候、なこりおしく候。以上」  いとけないわが子を思う情愛烈々たるその遺書を前に、五人のしゆ、すなわち、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の五人の大老たちは、はなはだ|憮《ぶ》|然《ぜん》たる面持ちで、それぞれに他の四人の胸の内を推し量っていた。  実のところ、|豊《ほう》|太《たい》|閤《こう》の遺言を守り、たがいに手をたずさえて豊臣体制を維持してゆこうなどという考えは、この五人の誰にもなかった。しばしば徳川恩顧だの豊臣恩顧だのというが、それは現体制を維持しようとする時の権力の造語に過ぎない。戦国の気風なお濃く残る慶長、元和の頃にあっては、天下は奪うものであり、機いたって勇躍掌につばきしたというのが、かれらのいつわらぬ心境であった。  それはつねに武家政権の本質的性格であった。  慶長三年八月の時点で、|秀《ひで》|頼《より》が秀吉の跡を継いで天下に号令するのを当然とし、理にかなったものと考えた大名が果していただろうか? 秀吉に対しては、同時代人として、苦労をともにしたなかまとして、それなりの尊敬もあり愛情もあったのであろう。複雑な思惑や将来の布石にからんでのはげしい暗闘があっても、秀吉が存命中は、秀吉の家臣団として、秀吉をもり立てることにいささかもやぶさかでなかった。  だが、その秀吉がいなくなると、事情は一変する。戦国を生きぬいてきた大名たちにとって、秀頼とはいったい何なのか? その反省はむしろ大坂城内奥深き所においてなされなければならないものであった。  秀頼をして天下に号令せしむるなどと考えた人物は、おそらく秀頼の母、|淀《よど》|君《ぎみ》ただ一人ぐらいではなかったろうか?  秀頼を天下人に戴こうとすることと、反徳川とは全く別なことなのだ。石田三成のもとに結集した大名たちは、べつに秀吉の遺言を守り、秀頼を|棟梁《とうりょう》に戴こうとして兵を挙げたわけではない。  いうならば、みなそれぞれ天下はほしいのだが、自分一人でそれをやれる実力はなく、何となくたがいにけん制し合って機をうかがっているところへ、そうしたなあなあのムードを打ちこわすように一人の実力者がのり出してきたものだから、それに対する反感が同志的結合をもたらしたのだ。一方では、新しい指導者を待ち望む者や、挙兵組に反感を持つ者、また日和見をきめこむ者などが、果断な実力者の傘の下に入った。これも人気である。実際、関東における家康の自国経営の成功ぶりが、その人気の素地を成していたことはいなめない。この時期において、宇喜多も毛利も、前田も、細川も、黒田も、自国の経営には問題が山積みし、中央政界に往来するどころではなかった。  こうして秀吉亡きあと、五大老による合議政治は、いつの間にか家康と他の四人との合議政治となった。しかし五大老の一人である前田利家の死後、跡を継いで大老となったその子利長では、もはや何程の力も持たなかった。急速に崩壊し、弱体化してゆく反徳川勢力を再度結集し、今のうちに家康の出鼻をくじき、一挙に中央政界から蹴落すには、もはや武力衝突しかない、と考えたのは、反徳川の最右翼であり、徳川政権下にあってはもはや大名としての存在を許されないであろう石田三成の思考の当然到達するところであった。  石田三成とて、一時の感情にかられての行動ではない。そこに策士として十分な計算と成りゆきへの読みがあったにちがいない。だが、そこにかれの墓穴があった。  かれは伏見城攻略後の八月六日、真田昌幸に手紙を送っているが、その中で、“家康が上方まで攻め上ってくるについても、道筋に当る面々も、上方から家康について下っていった者たちも、よもや二十年来の太閤の御恩を、わずか一年ばかりの家康との間柄におきかえはすまい”云々とのべている。  これは三成の、昌幸に対するただ宣伝や激励ばかりではあるまい。かれ自身、かなり本気になってそう思っていたようだ。三成ばかりではない。大坂方では淀君はじめ|大《おお》|野《の》|治《はる》|長《なが》、宇喜多秀家、奉行の長束正家、前田玄以などもみなそうだった。このあたりに、三成や治長、秀家などの西軍幹部が、果してどれだけ当時の武士たちのものの考え方を理解し、把握していたのか、まことに疑わしいものがある。治長は能役者出身といわれるが、プロの軍人としての体験はほとんど無かったであろう。石田三成とて、元来が経済官僚である。宇喜多秀家も武将としては三流である。戦国の荒波を生命を張ってくぐりぬけてきた経験も度胸もかれらにはなかったのであろう。それが女の浅知恵のひとつになったのだからたまらない。  三成挙兵の報に、家康は七月二十一日、江戸を出発。二十五日、下野小山で諸将を集めて会議を開いた。この席において、|福《ふく》|島《しま》|正《まさ》|則《のり》をはじめ、|山内一豊《やまのうちかずとよ》、|池《いけ》|田《だ》|輝《てる》|政《まさ》、|黒《くろ》|田《だ》|長《なが》|政《まさ》、|堀《ほり》|尾《お》|忠《ただ》|氏《うじ》、|加《か》|藤《とう》|嘉《よし》|明《あき》、|藤《とう》|堂《どう》|高《たか》|虎《とら》、|京極高知《きょうごくたかとも》ら、いわゆる豊臣恩顧の大名たちは、進んで盟約し、家康の手足となって働くことをちかった。これより先に|細《ほそ》|川《かわ》|忠《ただ》|興《おき》、|浅《あさ》|野《の》|幸《よし》|長《なが》らはすでに家康に忠誠をちかっていた。福島正則と池田輝政は先鋒をうけたまわった。関ケ原に至る進路は、家康のために完全に解放された。  かつて秀吉につかえ、かれの|股《こ》|肱《こう》としてはたらいた武将たちも、今は自分の将来を誰に托すべきかは多年の経験とカンで承知していた。武士の世界に恩だの義理だのは通用しない。そんなものは、武士道などというものが云々される徳川中期以後のことである。生命のやり取りが出世の手段である武士の世界では、恩だの義理だの言っていたのでは、生命が幾つあってもたりはしない。ここのところは、慶長、元和という時代を考えるとき、もっともたいせつなことである。  別な言い方をすれば、義理だの人情だの豊臣恩顧だのという考え方は、当時の武士社会にあっては非常にざん新なものだったのであろう。たしかにそれは町人道徳の面からは理解しやすかった。しかし、若い時から汗水たらし、傷だらけになって、がつがつ一城の主にまでこぎつけた多くの武将たちにとって、江戸や大坂の町人的発想などとうてい理解し難いものであった。ことに豊臣恩顧といわれる大名たちの多くはほとんど目に文字がない。そんなひまなどなかったし、必要ある時は|祐《ゆう》|筆《ひつ》がそれを果してくれたから、さして不便でもなかったのだろう。太閤秀吉でさえ、残っている手紙は誤字だらけのひどいものである。一応ちゃんとした手紙を残しているのは、石田三成、宇喜多秀家、前田利家などである。このことは、戦国以来の武士の生活やものの考え方と密接なつながりがある。  かくて、石田三成の当初のもくろみは、雨に|濡《ぬ》れた土の壁のようにもろくも崩壊していった。  それでもなお、戦端を開いてみなければ、最後の結果はわからなかった。慶長五年九月十五日、午前八時頃にはじまった関ケ原の戦いは、戦いがはじまってしばらくたっても、なお、戦局の|帰《き》|趨《すう》は判然としなかった。実際に戦いを開始する前に、政略的に一方的な打撃をこうむり、ほとんど分が無し、と見られながら、なお戦いの結果が判然としないというあたりに、|烏《う》|合《ごう》の衆とはいいながら、西軍の実力というものが感じられる。その力闘ぶりも、大坂の陣などとは比べものにならない。天下分目の戦いといわれるゆえんである。  東に南宮山、北に相川山、南に松尾山、西に近江国境の山々をひかえ、連なる尾根に囲まれた関ケ原の盆地は、天然の要害であり、とくに東国から京へ向かおうとする軍勢を防ぐには、はなはだ有利な場所であった。  盆地の底を、密集隊形で西へ進む東軍に対し、西軍は周辺の高地から、さか落しに突撃をくりかえした。  東軍はぬけがけをいましめ、いましめ、|槍《やり》ぶすまを作って西軍の突撃を撃退した。再三の攻撃によって、その槍ぶすまも各所で寸断され、ついに乱戦となる。そして双方兵をひいたときには、なお生き残っている者は数えるほどしかいない。つづいて第二軍が押し出してくる。ふたたび、|凄《せい》|絶《ぜつ》な白兵戦がくりひろげられる。攻める方も守る方も、あらん限りの力をふりしぼって、押し返しては退き、退いては押す。両軍とも、つぎつぎと新手をくり出して、一歩も退かずに戦った。  戦いが始ってから、すでに四時間が過ぎているのだが、勝利はなお、どちらのものとも判定しがたかった。      3 「ええい! 金吾はまだか」  家康は床を踏み鳴らした。声は上ずり、血の気を失った顔面は一面に脂汗を浮かせていた。眼は正気を失ったもののように浮動した。 「は。まだ……」  家康の背後にひかえていた旗本|山《やま》|口《ぐち》|直《なお》|友《とも》が、気もそぞろに平伏した。 「心変りしてか!」  家康は胸の奥底からうめき声をしぼり出した。  ここは南宮山の|山《さん》|麓《ろく》、|桃配《ももくばり》山とよばれる小高い丘を背にした東軍の本営だった。  雄叫び、怒号、銃声、馬のいななき、それに何ともいえぬ物音などがひとつになり、この関ケ原の盆地にあふれ、周囲の山々にこだましていた。そのため桃配山は、今にもくつがえってしまうのではないかと思われた。 「金吾は何をしている!」  家康は幼な子のように|爪《つめ》を|噛《か》んで、おりの中のけもののようにうろうろと歩き回った。爪を噛むのは、困ったときの家康のくせだった。 「直友!」  ついにがまんの糸が切れたかのように家康はこぶしを握りしめてさけんだ。 「直友。金吾めに種子が島を射ち込め!」 「なんと?」 「いそぎ下知せよ。金吾めに思い知らせてくれよう。今をおいてはやつめの働き場所はない。射て! 射ちこめい! 金吾めのひょろひょろ腰になまり玉をぶちこんでやれい!」  山口直友は横っ飛びに幕舎を走り出ていった。  金吾中納言|小《こ》|早《ばや》|川《かわ》|秀《ひで》|秋《あき》は、すでにひと月も前から、こっそりと家康に通じていた。西軍が関ケ原に布陣するや、ただちに密使を家康のもとへ送り、時期のよろしい時を見はかり、一挙に西軍へかかり申すべし、と伝えてあった。もっとも効果のある裏切りをやろうというわけだ。  だが、戦況はいまだどちらの側に有利とも判断つかなかった。裏切り者にとっては、もっとも難かしい状況だった。下手に裏切って、もし加担した方が敗れたりしたら、それこそ元も子もなくなる。小早川秀秋がちゅうちょしたのも無理はなかった。  時刻は|午《うま》の刻を過ぎていた。  西軍の中核ともいうべき大谷刑部吉継の部隊は、朝からの血戦で、すでにその兵力の半数近くを失っていたが、士気はなお少しもおとろえていなかった。|癩《らい》を病み、視力を失うとともに、歩行もかなわなくなっていた大谷吉継は、白絹で顔を包み、|輿《こし》に乗って|采《さい》|配《はい》をふるっていた。だが、雨はいよいよはげしく大部隊の指揮が思うにまかせなくなったことを憂い、一挙に東軍の中央へ突入することを決意した。盆地はすねまで没するでいねいと化していた。動きがとれないのは盆地の底にある東軍の方がより深刻だった。 「押して押して、押しまくれ! |退《ひ》いてはならぬ。後詰も行け。|賄番《まかないばん》も行け、馬屋番も行け。軍夫にはまさかり持たせよ。まさかり無くば|薪《まき》ざっぽう持たせい。このひと押しで家康公の|首級《みしるし》をちょうだいせよ!」  吉継は病いでつぶれた声でさけんだ。  ならんで陣を張る|木《きの》|下《した》|頼《より》|継《つぐ》、戸田重政、宇喜多秀家らのもとへ伝騎が走った。  えい、おう! えい、おう! えい、えい、えい!  雄たけびとともに、大谷軍が動き出した。まだこんなに生き残っていたのか、と思うほど、真黒になって押し出してきた。その数、二千八百。  この大谷軍の前進に呼応して、木下隊、戸田隊、宇喜多隊も、予備の一兵も残すところなく手負いの者まで起き上って、行けや、行けや、とばかりにひた押しにかかった。それを見て、場所的に知らせを受けなかった島左近や|蒲《がも》|生《う》郷舎の隊までもが、おくれてなるかと突撃に移った。  真白な水幕の合間からそれを目にした東軍の福島正則、|田《た》|中《なか》|吉《よし》|政《まさ》、細川忠興の隊では、生き残った兵が血どろにすべる刀のつかを雨で洗い、騎馬隊の突入を防ぐために陣前に設けた竹矢来を一挙に取り払った。もはや|退《ひ》いて体を休める場所の必要はなかった。 「それ! 今が今生の別れぞ!」 「退くな。一歩も引くなよ!」  藤堂高虎、京極高知、|本《ほん》|多《だ》|広《ひろ》|家《いえ》の隊も、ぞくぞくと姿をあらわして槍ぶすまを張った。いよいよ決戦だった。ここで一歩でも退いた方が、自軍の総大将の本営まで敵の突入を許すことになる。  今や戦局は大きく動きはじめた。だが、家康のもとへも、三成のもとへも、事態の急変を告げる報告はとどいていなかった。藤堂高虎が家康のもとへ走らせた伝騎は、どろに脚を奪われ、|血《ち》|糊《のり》に滑って、おびえて走らなかった。大谷吉継は、この時点でもはや三成に計ろうとはしなかった。吉継の目から見るとき、戦場のかけひきに関しては、三成はしょせん素人である。三成に計ることによって吉継は戦機を失いたくなかった。  大谷隊や宇喜多隊、戸田隊、木下隊を先頭とする西軍主力は、どろをはね上げ、しぶきをまき、疾風のように走っていた。東軍の散兵線まで、あとわずか数間の距離に迫っていた。 「今だ、それ!」  藤堂隊の侍大将|岩村豊前守義兼《いわむらぶぜんのかみよしかね》が、自ら四尺余の太刀をふりかざして突撃に移った。 「遅れるな!」  藤堂勢が、どっとおめいて立ち上った。  突撃には突撃をもってぶつける。白兵戦の極意だった。  うおう! 人の声とも思えぬ喚声が低くたれた雨雲にこだまし、六千の兵の足もとでは大地が|地《じ》|震《なえ》の如くゆらめいた。  そのときだった。  松尾山の方角にあたって、すさまじいいっせい射撃の銃声がとどろいた。 「なんとしたぞ!」 「こは、いかに!」  いぶかるひまもなく、雨あられと飛んでくる弾丸に、小早川秀秋の兵は、ばたばたと射ち倒された。 「敵だ!」  敵だ、敵だの声に、たちまち全軍浮き足だった。  おどろいたのは大将の小早川秀秋だった。東軍とはひそかに、しかも完全に話し合いがついている。ここぞと思う時を見はからって味方である西軍に襲いかかるつもりでいた。その後、多少状況が変って、このまま東軍に寝返ってよいものかどうか、微妙な状態になってきてはいるが、まさかここで東軍から鉄砲をあびせられようとは思っていなかった。家康としてはさいそくのつもりが、秀秋にとっては家康が自分を信用していないせいだ、と考えた。 「お|館《やかた》。種子が島は東軍先鋒の福島どの陣場からでござりまするぞ!」  硝煙の中を物見がかけもどってきた。  実は福島正則も失策を犯していた。家康の命令は、秀秋の陣へ向って、二、三発、おどしをつかまつれ、というものであったが、何しろ乱戦の中でのことである。二、三発つかまつるの意はどこかへ消え飛んでしまい、正則の陣営ではやはり秀秋は東軍へ寝返ることはやめたのであろうということになってしまった。そうなれば、誰はばからぬ一斉射撃である。正則の幕僚たちは当然のことと思った。  秀秋は、手にした軍扇を足もとの地べたへたたきつけてさけんだ。 「そうか! そうまでおれを疑うのか。こうなれば武士の意地よ。おのれを信ぜぬ者になどて生命を棄てることやある!」  いでや!  秀秋は顔面に朱を注いだ。  全軍突撃せよ。  小早川隊は松尾山もゆらぐばかりの|鯨《と》|波《き》の声を上げ、雨にけむる山腹をかけ下った。小早川隊はこの時まで一兵も損じていない。この新鋭部隊の戦線参加は敵味方の耳目を奪った。かねて秀秋内通の事を知っていた東軍の大名たちは、ほっと胸をなでおろした。これで勝ったと思った。西軍の方でも、秀秋の陣地が銃撃を|喰《く》っているのは見ていたから、当然、これは東軍を撃つために行動を起したのだと判断した。  事実は西軍にとってはなはだ満足すべきものになった。  松尾山の山腹を、白刃をひらめかせてかけおりてきた小早川隊三千は、そのまま火のような勢いで東軍の|先《せん》|鋒《ぽう》、福島隊の側面へ突っ込んでいった。  新しい激闘の渦が巻き起った。  小早川秀秋とともに、東軍に寝返る手はずになっていた小川祐忠、|赤《あか》|座《ざ》|直《なお》|保《やす》、|脇《わき》|坂《さか》|安《やす》|治《はる》らは、困惑の極に達したが、今はもう秀秋の意図をたしかめているひまはなく、ひかれるように小早川隊の後から、東軍の側面になだれこんでいった。  もともと、かれらが東軍に寝返ることを計画に入れて、かれらに側面をさらして進出してきた東軍であった。つづいて、寝返り予定組だった|吉《きっ》|川《かわ》|広《ひろ》|家《いえ》、|安《あん》|国《こく》|寺《じ》|恵《え》|瓊《けい》らが動いた。東軍の戦線は、東西一里の間で四分五裂となった。  |井《い》|伊《い》|直《なお》|政《まさ》、|本《ほん》|多《だ》|忠《ただ》|勝《かつ》ら、家康旗本が必死の反撃をくり返すうちに、家康の本営は野上から垂井へと後退した。|寺《てら》|沢《さわ》|広《ひろ》|家《いえ》、|生《い》|駒《こま》|一《かず》|政《まさ》、|古《ふる》|田《た》|重《しげ》|勝《かつ》ら、東軍の勇将は乱軍のうちに倒れ、藤堂高虎、浅野幸長らは深傷を負って戦線を離れた。垂井から|境野《さかいの》にいたる往還で松平忠吉が討たれた。  西軍は果敢な追撃に移った。  未の刻、低く垂れこめた雲が切れ、血とどろの戦場に虹がかかった。      4  |大《おお》|垣《がき》から東へ向う街道は、どれも人と馬でいっぱいだった。騎馬隊が行く、鉄砲隊が行く。徒歩組が通る。だれもかれも血とどろで顔形の区別もつかない。曲って|鞘《さや》に入らなくなった刀を肩にかついでゆく者がある。柄を両断され、短かくなった奇妙な槍を|杖《つえ》についてゆくやつがいる。何か食いながら行く者。へたくそな歌を|唄《うた》いながら行く者。殺気立ってはいるが、勝ちに乗じた余裕もある。どうやら西軍はこのまま|清《きよ》|洲《す》まで押してゆくらしい。岡崎には家康の旗本|小《お》|笠《がさ》|原《わら》|秀《ひで》|政《まさ》があって東軍の敗兵を収容しているという情報が流れていた。西軍は退却する東軍の背に接するようにして岡崎へ入ってしまいたいらしい。  名張の申は、半蔵の背でうめきつづけた。 「しっかりしろ。どこかで馬を手に入れるからな。そうすれば池鯉鮒までほんのひと息だ」  実際、傷ついた申を背負って歩くのでは、池鯉鮒どころか、清洲までたどり着けるかどうかもわからない。  陽が落ちてから、街道わきの林の中に申をかくし、半蔵は馬を探しに出た。街道をそれて、山のふもとを巻く間道で獲物を待った。路傍の朽木に腰をおろし、追撃に疲れた足を休めるふりをしてようすをうかがっていると、一騎の騎馬武者がやってきた。一人の若党が松明をふりかざして従っている。幸い、前後半町ほどの間に人影はなかった。  半蔵はいったん、やり過しておいて木のかげから飛び出した。  背後から跳躍し、一撃で郎従の背から胸へ脇差をつらぬき通した。松明がちゅうに飛んだ。それがまだ地に落ちぬうちに、半蔵は馬背に飛び移っていた。馬上の武士を背後からかかえ上げ、地面へ投げ落した。鎖でも投げ出したように甲冑が重いひびきを発した。半蔵は馬腹を蹴って、周囲の雑草に燃えひろがったほのおを飛び越えた。地上に転んだ二個の人影は、びくりとも動かなかった。  半蔵は馬を|曳《ひ》いて林に入った。  熊笹の繁みの中に、申が体を丸めて横たわっていた。近づいていっても動かない。  死んだのかな?  火縄に火をつけ、そのほのかな明りを寄せてのぞきこむ。顔が死人の色になっている。  両手が何かをしっかりと抱いている。  はて?  手首をつかんでのけてみると、双の腕の下に、黒い箱のようなものがのぞいた。  なんじゃい?  手にとってみると、五寸に三寸ほどの黒い平たい箱だった。大きさの割に妙な実質感があった。表面に、|螺《ら》|鈿《でん》細工のような精巧な模様がある。そして|貝《ばい》の殻のようなものがならんでいた。  よほど大切な品に違いない。何が入っているのだろう?  半蔵はその箱をこじあけようとした。しかし、指先にどんなに力をこめても、箱は二つにはならなかった。  おかしいな?  そこで指でまさぐってみたが、やはり合わせ目はないようだった。  半蔵の胸に、急に欲が|湧《わ》いた。このような箱を、半蔵はかつてパードレの館で見たことがあった。組木細工というものだと教えられたが、|鍵《かぎ》がなくとも、他人にはあけることができぬというその仕組は、貴重な物をおさめるにはうってつけだった。 「名張の申め。何か、よほど高価な物を手に入れたらしいな。この死ぎわの執念はどうじゃ!」  半蔵は、その箱を石の上に置き、何度も、何度も、脇差の柄頭でたたいた。  ふと、つめたい殺気が首筋を吹いて流れた。半蔵は本能的に前方へ跳んだ。地に足が着くと同時に抜刀し、ふり向いた。  今まで半蔵がいた所に、申が仁王立ちになっていた。|炬《たいまつ》のような目が半蔵をねめつけていた。 「これやい! 何をするぞ。お主、盗賊か!」  全身に深傷を負って、死人の如く打ち倒れていたとは思えない気迫だった。 「違う。違う! お主、もはや息絶えたのかと思うての。何やら大事そうに抱えている故、然るべく届けて進ぜようと思うたまでのこと」  襲いかかって来るかな、と思ったが、申は黙ってそれをふところへ押しこんだ。その場へ崩れ落ちるようにうずくまると、ふたたび高くうめきはじめた。 「よほど大切なものらしいの」  半蔵は、自分の背後で馬にゆられている申にたずねた。 「もうあれについては聞くな。人、それぞれ話したくないことはある」  申は苦痛にうめきながらも、その箱のことになると、別人のようなきびしい口調で説明を拒んだ。 「いや。なにせ美しい物だ。よほどの名匠の手になるものであろう。どこぞの姫君の手まわりの品ででもあろうか?」 「くどいぞ」 「いいではないか。何も奪おうなどというわけではなし」  申はそれ以上、何をたずねても答えなかった。時おり休息する時も、申はその箱を手から離さなかった。  翌日、名古屋を過ぎて、夕刻、池鯉鮒へ入った。      5  池鯉鮒はごったがえしていた。東軍はどうにかこうにか|有《あり》|松《まつ》から|挙《ころ》|母《も》へかけて、防衛線を引くことができたらしい。池鯉鮒は|伊《だ》|達《て》|政《まさ》|宗《むね》、|秋《あき》|田《た》|盛《もり》|季《すえ》の部隊で充満していた。新しい部隊が、つぎつぎと東から到着していたが、どの顔も、思いがけぬ東軍敗北の報におびえ、|隊《たい》|伍《ご》もとかく乱れがちだった。 「しっかりしろ。池鯉鮒へ着いたぞ。どこへ連れてゆけばよいのだ?」  半蔵の背にとりすがるようにして、荒い息を吐いている名張の申は、半蔵の声に、|萎《な》えた腕を上げた。 「あの四つ辻を右に曲れ。川があって橋がかかっているが、橋を渡らずに、川に沿って左へ行け」  半蔵は言われたとおりに馬を進めた。  川幅は広くはないが、水量の豊かな流れがあった。土橋がかかっている。川に沿ってのびている道へ曲りこむと、川に面して|娼家《しょうか》が傾いた軒をつらねていた。さすがに遊客の姿はなく、近づく戦火を恐れて、どの店も固く板戸を立て回していた。 「その三軒目の家だ」  申の声には、|安《あん》|堵《ど》のひびきがあった。  半蔵はその家の前に馬を止め、固く閉ざされている板戸をたたいた。  どこからか誰かにのぞかれているような気がしたが、たしかめることができないでいるうちに、板戸がそっと開かれた。男が顔を出した。やせた顔色の悪い男だった。  半蔵が名張の申を連れてきたことを告げると、終りまで聞かぬうちに男は家の外へ走り出てきた。 「…………!」  何かさけんだ。どこの土地の言葉なのか、半蔵にはまるで理解できなかった。 「…………」  申がそれに答えた。男は申を馬の背からおろし、家の中へ運びこんだ。そのとき、半蔵は申のふところの中にあった物が、男の手にしっかりとにぎられているのを見た。  名張の申は、重傷の身をおして、あの箱をここまで運びおえたのだ。  そのとき、先程の男が家の中からあらわれ、半蔵の足もとに幾つかの小粒を投げた。それきり、半蔵など見向きもせず、板戸をぴしゃりとしめた。  くそ! 礼のひと言も言ったらどうだ!  半蔵の胸に血が上った。それで決心がついた。一度は、手に入れたいと思ったあの小箱だった。相手の態度に心がきまった。 「名張の申よ。おめえも生命を張ってのことだったのだろうが、それも終った。あとはおめえの責任じゃなかんべえ。その箱、おいらがもらったぜ!」  半蔵はくちびるをゆがめてつぶやいた。  馬に乗って、いったんその家の前を離れ、半町ほど行ってから馬を降り、家の裏へ走った。土の荒壁があちこち崩れ落ち、そこへ板やむしろが当ててある。足音を忍ばせて半周したが、家の内部をうかがえるだけのすき間はない。小さな家なのに、しんと静まりかえって、内部からは何の物音も聞えてはこなかった。屋根は低く、屋根裏部屋があるとは思えない。  思いきって脇差をぬいた。切先を土壁にあてがってそっとえぐる。何回かつづけているうちに、すぽっ[#「すぽっ」に傍点]とぬけた。屋内をのぞきこむ。  ほこりだらけの床板の上に、板戸をもれる陽射がななめに|縞《しま》|模《も》|様《よう》を描いていた。人の気配はなかった。畳なら八枚ほどは敷ける板の間がひとつ、ほかに小部屋と、広い土間を持った勝手と。それだけだった。家の大きさと、部屋の大きさ構造から見て、かくし部屋などがあるとは思えない。  どこへ行ったのだろう?  半蔵の胸に深い疑惑が湧いた。  あの二人が、この家を出て、どこかへ行ったとは考えられない。家を出たものなら、必ず半蔵の目にとまるはずであった。  二人がこの家の中にいることはまちがいはない。それをたしかめることが、とりもなおさず、あの小箱の所在をたしかめることでもあった。  半蔵は行動を開始した。脇差で荒壁を突き崩す。このような作業は手馴れたものだった。それでも音を殺してやるのは手間がかかる。汗が半蔵のほおを条を引いて流れた。  やがて一尺四方の穴があいた。半蔵は影のようにすべりこんだ。  土ほこりを厚くかぶった床板は、|根《ね》|太《だ》もゆるみ、一歩、足を運ぶごとに高くきしんだ。半蔵はいつでも抜刀できるように、右手を脇差の柄にかけ、一歩、一歩、進んだ。しかし家の中には誰もいなかった。  そんなはずはない!  半蔵はこんどは大胆に、家の中を調べて回った。 「これは?」  ほこりだらけの床の片すみに、一枚だけほこりをかぶっていない床板があった。 「そうか! 地下蔵か!」  そっとその床板をはがした。急な段々が、床下の|闇《やみ》に向かってのびていた。周囲の壁はがん丈に|漆《しっ》|喰《くい》で固めてある。階段を下りきったところに、分厚い板戸があった。内部から人声がもれてくる。半蔵は脇差をぬいた。そっと板戸に手をかけると、板戸には錠がおろされていないことがわかった。  板戸を引きあけたとたんに、どんなおとしあなが待ち受けているかわからないが、今はそれを心配している余裕はなかった。  半蔵は大きく息を吸いこむと、板戸を引きあけた。  目のくらむような光が、半蔵を押しつつんできた。その光は、低い天井からつるされたビイドロ玉から発しているようだった。  一瞬、惑乱が襲ってきたが、半蔵は必死にこらえて、脇差をふりかぶり、その光の下に躍りこんだ。三人の人物がいた。その一人は名張りの申だった。申の膝の前に、あの黒い小箱があった。先程顔をのぞかせた男が、何かさけびながら立ち上ってきた。  半蔵はまっこうから脇差をふりおろした。血しぶきをかいくぐって、半蔵は名張の申の前に置かれている物体へとびついた。  申がおどりかかってきた。これが、あの人に知られた申か、と思われるほど非力であり、闘技には素人だった。  半蔵は申の腕を逆手に取ると、壁にたたきつけた。  小箱をかかえて、階段をかけあがろうとしたとき、いきなり足首をつかまれ、引き落された。申がのしかかってきた。二人はたがいに小箱を奪われまいとしてもみ合った。  螺鈿の模様の上を指がすべり、貝殻のような突起に力が加わった。  |頭《ず》|蓋《がい》の奥で、閃光が|炸《さく》|裂《れつ》した。  しがみついてくる申の体を突き放したとたんに、周囲は暗黒の闇に閉された。      6  にごった空を背景に、巨大な建物が林のように立ちならんでいた。それがただの城壁や礎石のようなものでなく、石造の住居であるらしい。壁面にならんだ無数の四角い穴に、これもたくさんの人影が動いていた。  その石の建物の間を縫ってかけわたされた橋の上を、長大な四角い物体が、すさまじいひびきをまき散しながら渡っていった。さらに路上を埋めているのは、牛鬼に|銅《から》|鉄《がね》を着せたような、四肢が車の形をしているけものとも物とも思えない異様な形象のむれだった。  とつぜんそれがいっせいに半蔵めがけて突進してきた。何をどう判断し、理解するひまもなく、半蔵は手にした脇差を片手青眼に構えた。圧倒的な恐怖が、半蔵の心の臓を|鷲《わし》づかみにした。  気息も絶えるような|轟《ごう》|音《おん》と地ひびきの中でけたたましく号笛が鳴った。半蔵に向かって突進してきた牛鬼は、右に左に飛び交い、|咆《ほう》|哮《こう》した。体の側面に人の顔が突き出し、半蔵に向かって屈辱的な|罵《ば》|声《せい》を浴びせた。どうやら、その牛鬼は、人とひとつ体を共用しているものらしい。 「おのれ! |外《げ》|道《どう》!」  半蔵は、その忌わしい生き物の前に身をおどらせた。 「ばかやろう! 車道と歩道の区別もつかねえのか!」  ボヤボヤするな!  半蔵は右に跳び、左に跳んだ。何度かに一度、脇差が牛鬼の体を打ち、火花が飛んだ。牛鬼はその巨体の下に、半蔵をまきこもうとするらしい。しかし、あとから、あとから、際限もなくあらわれるのに、半蔵に体をかわされると、それきり、追跡をあきらめ、風をまいて逃げ去ってしまう。 「来い!」  半蔵はやや自信がよみがえってきた。半蔵もまだ牛鬼を一頭も仕止めてはいないが、少なくとも、攻撃を避けることはできる。  |兜《かぶと》の鉢だけをかぶった男が二、三人、半蔵めがけてかけ寄ってきた。かれらは手に、短かい木の棒を握っていた。小具足術か十手術を使うらしい。鉢兜が純白なのが妙に現実離れしていた。かれらの姿からは、異国のパードレを連想することができた。 「…………」  するどい声がはしった。 「さあ。生命のいらぬやつから来い!」  ふしぎな静寂が流れた。何十頭、何百頭の牛鬼が、大地にうずくまり、半蔵に向かって頭をそろえ、巨眼をならべて、事態の変化をうかがっていた。  だめか!  半蔵の胸に暗い絶望が湧いた。  ここで死ぬのか?  しかし、この場の情景は、子供の頃から聞かされてきた地獄の様相と同じものだった。  なぜ、こんな所に自分がいるのか、全く見当もつかなかった。やはりここは死の世界なのであろうと思った。  白い鉢兜をかぶった男たちが、前後左右からいなごのように半蔵にとびついてきたとき、もう一個の人影が飛鳥のように躍りこんできた。 「早く、来るのよ!」  やわらかいが強い力で、きき腕をとられ、半蔵は走った。二、三度、男たちの短棒が半蔵の肩や腰を打ったが、ふり向く余裕とてなく、半蔵は引きずられるように走った。  大小の石造の建物がどこまでもつづいていた。動物の|遠《とお》|吠《ぼ》えとも悲鳴とも異なるかん高い断続音が、たえ間なく、遠く近く聞えていた。四つ辻を曲ったとき、辻のはずれを、その正体と覚しいものが赤い閃光を明滅させながら走り過ぎていった。  半蔵はほとんど正気を失いつつも、階段を下ってゆくのを感じていた。  ここにも分厚い木の扉があり、薄暗い光の下に、数人の男たちがたむろしていた。 「どうだった?」 「うまくいったわ」 「弱ったことになった。この武士は服部半蔵とかいったな。この世界を見てしまったろう。記憶を消す以外にない」 「殺すなよ。殺してはまずい。どんな理由にせよ、過去の時代の人間を傷つけたり殺したりすると、必ず後の時代になんらかの影響があらわれてくるはずだ。この男、おまえの先祖かもしれないのだからな」 「どうやって記憶を消す? かれにとってこれは強烈な体験だ。ありきたりのことでは記憶は消えないぜ」 「かれはすでに、タイム・マシンに強い関心を持っている。これ以上、興味を持たれてはやっかいだ」  半蔵のことについて、何か熱心に相談している。自分が論議の焦点になっているのを、半蔵は他人事のように聞いていた。  天井からつるされたビイドロ玉から発する光が、かれらの顔を、この頃、上方で流行している猿楽の役者のように|隈《くま》どっていた。  いったい、この連中は何だろうか? 話のようすでは、いろいろな時代へ、自由に行けるらしいが——  そのうちに相談がまとまったらしく、一座の中から一人、立ち上ってきた。 「さあ、こちらへ来て」  別室へともなわれた。  深い静寂が、水底のようによどんでいた。  部屋のすみに低い台があり、そこに夜具がのべられていた。  半蔵をともなってきた者は、その台のかたわらに立つと、やにわにまとっている衣服を脱ぎ棄てた。豊かな乳房があらわれ、白い腹やたくましい|太《ふと》|腿《もも》が半蔵の目を奪った。  身のこなしや、ぶっきらぼうな物言いから、男だとばかり思っていたが、これは思いもかけぬ成熟した女だった。  女はしなやかな腕で半蔵にからみつくと、半蔵の衣服を|剥《は》ぎにかかった。 「よせ! よさんか!」  半蔵はうろたえ、女の手をふりほどいたが、気も動転している半蔵は、女の腕の中でみるみるたくましい裸身をさらけ出していった。 「こ、これ! 何をするぞ。離せ!」  相手が女であり、今、自分に何を求めようとしているのかは十分に察しがついた。しかし、このような状況のもとで、半蔵の生理は発動するわけもなく、むしろ男の手から逃れようとする処女の如くにおびえ上り、色を喪っていた。 「半蔵さま。何をそのようにうろたえあそばす。おれが嫌いかえ?」  女はひたいにかかる黒髪をかき上げ、怨みのこもったまなざしで半蔵を見上げた。身も魂も吸いこまれそうな目の色だった。  女は白い腕を重そうにもたげると、半蔵の腰にすがりついてきた。 「こ、これ!」  腰を引くひまもなく、半蔵のものは女の朱いくちびるにふくまれた。  もちろん、半蔵とてそんなことははじめてではない。だが、今は、もしかしたら、|喰《く》い千切られるのではないか、という恐怖の方がはるかに先行した。 「何者だ! ここはどこだ? あれはおまえたちのなかまか?」  女は半蔵のものからくちびるを離し、機嫌を悪くしたように細い|眉《まゆ》を寄せた。 「半蔵さま。|冗《てん》|談《ごう》もほどほどになさらぬと許しませぬぞえ」 「|冗《てん》|談《ごう》はそちらの方ではないか! あの石造の家といい、銅鉄の牛鬼といい、いったいあれは何だ? とても、この世のものとは思えぬが。おれは夢でも見ているのだろうか」  女は赤子でもなだめるように、やさしく半蔵の体に細い指を|這《は》わせた。 「半蔵さまは、きつう疲れておじゃる。もう心配ない。さ、心おきなく遊びなされ」 「まて。ここはどこだ? 先ずそれを聞こう」 「はて? 本気か? 半蔵さま」 「おうよ!」 「ここは池鯉鮒のこおろぎ橋たもと。端から数えて、ひい、ふう、みいの三軒目。茶店じんすけさ。おれはこのあたりでいちばんの売れっ子、じんすけおかかえの、すて、だよう」 「なに? 池鯉鮒の? はて。こおろぎ橋のたもと、とな……なんと?」 「半蔵さまたった今、血だらけどろだらけになって、ころがりこんできたところでねえか。それでも、先ず、このすてを抱きてえとは、うれしいことを言っておくれだねえ」 「いや。ちがうぞ。それはちがう! あの家は廃屋同様だった。  じんすけもおすてもいるものか! おれは床下の階段を発見した。下りてみると地下蔵だった。中に、そうだ! 申がいた。それと、あの男と! 申はどこへ行った!」  半蔵は急に鮮明になった記憶の中でそう毛立った。  これはおとしあなだった。幻術の|手《て》|練《だ》れが設けた|陥《かん》|穽《せい》だった。 「おのれ! よくも!」 「半蔵さま。気をたしかに。何か悪い夢でも見たようじゃ。|酒《ささ》を喰いすぎてか、それとも|毒《ぶす》きのこにでも当ってか? ここはたしかに池鯉鮒のじんすけ店よ。ほれ。しっかりせ! ほれ、ほれ……」  おすてとなのる女は、半蔵のものを、たくみに、はげしくしごきはじめた。 「ここは池鯉鮒じゃ。ここは池鯉鮒じゃ。おれはおすて。おまえの|馴《な》|染《じみ》じゃ」  おすては唄うようにくりかえすと、すばやく半蔵の|膝《ひざ》にまたがった。おすては、張り裂けんばかりに怒張している半蔵のものを、もどかしそうに自分の手でみちびくと、当てがいざま|尻《しり》を落してきた。|水《すい》|蜜《みつ》を押しつぶすような音がそこから聞えた。  おすては目を釣り上げ、歯をくいしばってしがみついてきた。すての門が、掌を握りしめるようにしぼり上った。  半蔵も今は|溺《おぼ》れこんで、女の腰を両手で支えてはずみをつけてやった。 「半蔵さま……半蔵さま……」  女が絶息し、弓のように反りかえった。たまらず、半蔵も放った。  薄紙のはげるように徐々に知覚がもどってきた。  床に敷かれた荒むしろや、その上に脱ぎ散らされた女の小袖などが目に飛びこんできた。低い|屏風《びょうぶ》のむこうで、女のうめき声が聞えた。屏風がずれ動き、その陰からからみ合った男の足と女の足がのぞき、またかくれた。  半蔵はのろのろと体を起した。  心の中に、大きく脱落した部分があり、その前後では記憶はつながらなかった。  名張の申にたのまれて、この池鯉鮒まで連れてきてやった。そして、申の言うがままに、この娼家へ上り……そこから先は奇妙にあいまいだった。  白い河原や、土橋の上を、たくさんの落武者たちが、切れ目なく続いていった。中には甲冑も武器も、新しい一隊が混っていたが、みな一様に足取りも重く、疲れ果てていた。 「もうじき西軍がやって来るよ。おまえも早く逃げた方がいい」  おすてが、こうがいで頭髪の間を、がりがりと掻いた。 「西軍はどこまで来ている?」  おすては、首をのばし、となりの座敷へどなった。そこが帳場のような部屋になっているらしい。じんすけと呼ばれる主人らしい小男が、火のない囲炉裏の前に座っていた。じんすけはおすての問いに、半里ぐらいまで迫っているようだ、と答えた。 「さ、ほら!」  おすては、半蔵の衣服を投げてよこした。高熱に浮かされたような、耐えられぬほどの虚脱感に|喘《あえ》ぎながら、半蔵はそれに腕を通した。なにか、とんでもない目にあったような気がした。  おすては手早く小袖をまとい、体に帯を巻きつけた。そのとき、おすての体から、黒い小さな箱が落ちた。おすては何気なく、それをひろい上げ、ふところにねじこんだ。  一瞬、半蔵の頭の中で、|灼熱《しゃくねつ》の閃光がはしった。あらゆる記憶が、いっぺんによみがえってきた。  すべてはその箱からはじまったのだった。  半蔵は魚のように身をひるがえすと、その箱にとびついた。おすてが、じんすけが、屏風のむこうの男女が、どっと立ち上った。  半蔵は小箱を手に、土間へ跳躍した。 「まて!」 「だまされんぞ! この箱だ。名張の申が持っていたのは、たしかにこの箱だ。これは何だ? 説明しろ!」 「半蔵! それをかえせ。いたずらに手を触れると、たいへんなことになる」  おすてがさけんだ。じんすけのほおから血の気が失せた。 「この模様は何だ? それにこの取手はよ?」 「触れるな! 半蔵。それをかえしてくれ。かねならのぞみのままにやる」 「のぞみのままだと? おまえら、いったい何者だ?」  じんすけが、やせこけた黒い顔を引きつらせた。 「半蔵。落着け。それはただの箱だ。おまえがふしぎに思うようなものではない」 「じんすけ、とかいったな。おれがここの地下蔵で、もみ合ったとき、この取手に指が触れた。取手が回った。そのとたんに、おれは見たこともない所にいた。石造の家や、わだちで走る牛鬼。ビイドロ玉の出す光。あれは夢じゃねえ。たしかにこの目で見たものだ。あれはどこだ? |天《てん》|竺《じく》か? 南蛮か? それとも、あれは地獄の底の|冥《めい》|府《ふ》とやらか?」  じりじりと迫ってくる包囲の中で、半蔵はつめたく笑った。 「これか? この取手をひねると、またあの世界へ行けるのか? それとも、これか? いや。こいつかな」  半蔵はじんすけたちを焦らすように、頭上に小箱をかざしてみせた。  声にならない絶叫がもれた。 「半蔵。たのむ。その取手から指を離してくれ。ほんとうのことを言おう。わしたちは、この時代から何千年もたった世界から来ているのだ。歴史の変化に異変が起きぬよう、見張るためだ。いや。そんなことを言ってもわかるまい。とにかく、その箱は、わしたちの組織にとってたいへん大切なものだ。その取手から指を離せ。その取手が回ると、今、あるこの世界のなりゆきは逆になってしまうのだ」 「なんだと?」 「ほんとだ。おまえにわかるように説明すれば、たとえば家康の子孫が歴史のにない手になるようなことが起きるのだ」 「…………」  半蔵の顔から、表情が消えた。  天地をどよめかせる豪雨の中で、血とどろにまみれて、逃げ回った恐怖と絶望が、吐き気がするような痛みでよみがえってきた。 「かね? かねだと? ふざけるな。ここではしたがねなんぞもらって何になる。それよりも、おれは勝ち戦さの側で将軍家旗本をつとめることにするよ」  怒声と絶叫の中で、どっと人が動いた。  一瞬、早く、半蔵は取手を回した。      7  うおう! 人の声とも思えぬ喚声が、低くたれこめて雨雲にこだまし、六千の兵の足もとでは大地が|地《じ》|震《なえ》の如くゆらめいた。  そのときだった。  松尾山の方角にあたって、すさまじいいっせい射撃の銃声がとどろいた。 「お館、お館! 福島正則どの御陣より射ちかけてまいりました」  物見が陣幕のかげにひざまずいた。 「お館」 小早川秀秋の家老、|飯《いい》|野《の》|大《だい》|膳《ぜん》が秀秋にとりすがるようににじり寄った。 「いざ、ご決心の程を。大御所さま。御催促にござりまするぞ」 「よし。大膳。かねての手はずどおりに運ベ!」 水幕にけむる松尾山の中腹を、秀秋の部隊が、壁が動くように突進しはじめた。 その先端が大谷吉継の側面に喰いこんだ。 それに勢いを得た東軍は、息をもつけぬ雨の中を、ただひたすらに押していった。 その中に、服部半蔵もいた。     三浦縦横斎異聞      1  慶安三年秋、三代将軍|家《いえ》|光《みつ》は、|惣《そう》|目《め》|付《つけ》|柳生《やぎゅう》|但《たじ》|馬《まの》|守《かみ》|宗《むね》|矩《のり》を召し、武技奨励のため、野にある優れた剣人を各藩に推挙せしむるように命じた。  大坂の役終ってすでに三十余年。徳川政権もようやく安定し、強固な幕藩体制のもとで各藩は領国の経営に本格的に取組まなければならなくなっていた。関ケ原以後の、膨脹しきった軍事予算に苦しみ、疲弊した経済を建て直すために、各藩は競って軍縮の方向をたどっていた。そうでなくてさえ、大坂の役以後、おびただしい浪人が|巷《ちまた》にあふれていた。かつて|一《いち》|番《ばん》|槍《やり》、大将首を誇っていた戦場往来の剛の者達も、もはやその輝かしい経歴だけでは、再仕官はとうてい望み難かった。この浪人対策がひとつの大きな問題となり、つねに徳川幕府を根底から衝き上げ、|由井正雪《ゆいしょうせつ》の変や|赤穂《あ こ う》|義《ぎ》|士《し》問題などを生み出し、やがては各藩に対する幕府の統制に大きなひびを入らせるようになり、効果的な対策を何ら見出せぬまま、幕末へとなだれ込んでゆくことになるのだが、これはまた別の話だ。  寛永から正保、慶安へと移ってゆくこの軍縮期の中で、特に顕著なのは兵法の発達である。戦場切り覚えの刀術ではなく、屋内の操刀を加味した精妙な剣技の発達は、軍縮時代にあって、少数精鋭主義の名のもとにおおいに各藩の人員整理による経営合理化に役立った。世に聞えた剣客は、おおむねこの時代に輩出している。また新陰流、一刀流、天然理心流、念流、鹿島神当流など、いわゆる有名流派のほかに、一人一流ともいうべき諸流が雨後の|筍《たけのこ》の如く起った。言いかえれば、戦場での働きなどはどうでも、剣術で飯が食える世の中になったのだ。  ところが世の中がそうなってみると、優れた剣客を藩士としてかかえている藩は意外に少なかった。戦場往来数知れず、千軍万馬の中に育ったとはいえ譜代の家臣たちはすでに老骨となっている。二代目、三代目は戦場を踏んだ経験も無いから、切り覚えの刀術を言ったところで話にならない。そこで各藩ともしきりに武芸指南役を求めた。  柳生但馬守宗矩は家光から惣目付としてその命を受けたわけではない。惣目付という職種は老中所管の諸役人の非違を検断し、法令の伝達、殿中大名座席の事などを扱った。後の大目付である。この時宗矩は一方では将軍家光の武芸指南役でもあったから、その任をまかされたのであろう。  宗矩は早速、関東一円の武芸者にその趣旨を伝えた。この慶安三年の召状は八通出されたというが、これで見て意外に実力のある武芸者というものは少ないものだ。この宗矩の名による召状は、寛文の末頃まで六回ほど出されている。これが誤って将軍台覧試合として伝えられ、張扇によって花々しく脚色され、やがて〈寛永御前試合〉となるのだ。      2  慶安三年も終りに近い十一月十日。  江戸城内南馬場の白砂を踏んで相対する二人の剣客があった。  一人は年齢二十七、八歳。長身|白《はく》|皙《せき》。|漆《しっ》|黒《こく》の総髪にきりりと締めた白鉢巻には、金の縫取りで〈天〉の一字。|葡《ぶ》|萄《どう》|色《いろ》の|裁《たつ》|着《つ》けに浅黄色の染皮の|袖《そで》|無《な》し羽織を一着なし、三尺八寸におよぶ|黒《くろ》|樫《かし》の木刀を頭上高く振りかぶっていた。  彼は根津権現裏に天地神明流の道場を開いている|三浦縦横斎重国《みうらじゅうおうさいしげくに》だった。彼の祖父は|藤《とう》|堂《どう》家に仕えて名があったといわれているが、父の|清《せい》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》|国《くに》|吉《よし》の代では浪人していた。縦横斎重国は幼名|虎《とら》|太《た》|郎《ろう》。剣には|天《てん》|稟《ぴん》の才能があり、|芝巴《しばともえ》町に道場を開いている一刀流の|石《いし》|田《だ》|孫《まご》|四《し》|郎《ろう》について、十九歳の時、免許を得たが、師にあきたらず、諸国|廻《かい》|国《こく》の修業に出、熊野権現社に|参《さん》|籠《ろう》すること七十日、遂に開眼して一派を開き、天地神明流と称した。  この三浦縦横斎は実に強かった。寛永九年、|名《な》|護《ご》|屋《や》で二階堂平法を使って名人とうたわれた|松《まつ》|山《やま》|主水《もんど》|大《だい》|吉《きち》と手合わせして三本の中、二本まで取っている。また|願立《がんりゅう》流|松林左馬助《まつばやしさまのすけ》永吉とは三本の中、一本取って一本引き分け、三本目は左馬助が辞退した。二階堂平法といい、願立流といい、新陰流や一刀流のような、いわゆる大手と違って、松山主水や松林左馬助などが独力で編み出し、また、流祖の作に工夫を凝らし加えたものだから、当時実用第一といわれ無敵を誇っていた。その二階堂平法と願立流に勝ったのだからたいへんな評判だった。  その三浦縦横斎重国に対する武芸者は、すでに初老を過ぎた風采の上らない小男で、薄くなりかかった汚れた髪を、|観《かん》|世《ぜ》|縒《よ》りで小さなまげに結んでいた。手足も小さく、|金壺眼《かなつぼまなこ》のまぶたを、神経質にたえずひくひくとけいれんさせていた。  この男、|鈴《すず》|木《き》|清《せい》|兵《べ》|衛《え》|邦《くに》|教《のり》。本所割下水に道場を構え、門弟三千をようし、|松平越中守定信《まつだいらえっちゅうのかみさだのぶ》、|酒《さか》|井《い》|雅楽《うたの》|頭《かみ》なども熱心な門弟だった。 「いでや!」  三浦縦横斎はやや高めの|八《はっ》|双《そう》。天地神明流では大威徳の構えという。鈴木清兵衛は青眼。 「ううむ!」  清兵衛は無言の気合で受けた。縦横斎は、木刀を高々と構えて、ずい、と出た。相手が打ち込んできたら、それを左に払いざま、いっきに右の小手を取ろうという心算だった。|斬《ざん》|撃《げき》としてはもっとも基本的な形なのだが、この形どおりの攻めを誰も防ぐことができなかった。それほど縦横斎の木刀の動きは速かった。単に速いだけではなく、ぴしり、と打ちこむその力点の正確さと、打撃力は、どんな剛の者でもたちまち木刀を取り落すほどすさまじいものだった。 「それ! それ! それ!」  縦横斎は、人もなげなかけ声とともに、前へ、前へと押し出した。 「ううむ。ううむ。ううむ!」  鈴木清兵衛は、|雪《せっ》|隠《ちん》で力むようなうなり声を発すると、これも、ずい、ずい、ずい、と前へ出てきた。  その足の運びが縦横斎の動きとは全く無関係に、すこぶる気ままだった。  ほぼ一尺の歩幅でずいと出る。つぎの一尺を小刻みの数歩に分けて踊るように踏む。そしてつぎの一歩は大きく前へ出す。その目まぐるしい、まるであやつりのような動きが、縦横斎の目を|眩《げん》|惑《わく》した。鈴木清兵衛の足さばきに気を取られた一瞬、縦横斎は心理的に守勢となった。はっと思った時、もう清兵衛の木刀の先端は縦横斎の両眼の間へ迫ってきた。縦横斎は大きく背後へ跳んだ。 「おうりゃあ!」  かれはふたたび、木刀を高々と八双に掲げた。こんどこそ仕止めなければ、と思った。  清兵衛はふたたび前進を開始した。大きく一歩、出、それからほとんど足踏みにひとしく数歩、そしてまた一歩。その規則的ともいえばいえるし、不規則的といえば全くそのような変幻自在な足取りに、縦横斎はたまらない焦燥を感じた。気にするまいと思ったが駄目だった。どうしても相手の目を引きつけずにはおかないような動的な吸引力があった。 「おのれ!」  縦横斎は目をつぶって首を振った。清兵衛の足の運びから放射してくる異和感を、頭から払いのけようとした。  目を開けた時、清兵衛の木刀はすでに縦横斎の鼻柱に触れるばかりに迫っていた。 「しゃっ!」  縦横斎は、手の木刀を大きく横に振った。どうくぐったのか、清兵衛の体は、すでに縦横斎の振った木刀の描いた円弧の内側に入っていた。清兵衛の木刀はしたたかに縦横斎の肩口を打った。縦横斎はあお向けに砂の上に倒れた。 「見たか! |神武尺獲《じんむしゃくとり》流!」  鈴木清兵衛が高くさけんだ。  この鈴木清兵衛邦教という人は、もともと柔術出身で、その頃、起倒流の名人といわれた|滝《たき》|野《の》|遊《ゆう》|軒《けん》の高弟であり、本格的に剣術を始めたのは中年になってからだった。柔術家らしく、剣を執っての闘いでも、運足ということをもっとも重視し、つねに一尺の間合に迫ることを考え、苦心の末、幻妙な足運びを案出し、神武尺獲流と名づけた。かれの弟子、松平越中守定信が後年案出した新|甲《こう》|乙《おつ》流は、この神武尺獲流をさらに発達、洗練させたものである。  当時、神武尺獲流の足運びは、幻術とまでいわれ、剣客たちに嫌がられたものだった。  三浦縦横斎の不運は、当日、立ち合う瞬間まで、自分の相手が鈴木清兵衛であることを知らなかったことだった。  だいたい、この柳生宗矩|肝《きも》|煎《い》りの招請試合は一種の資格試験のようなもので、試合をする相手が誰であり、得物は何を使うのかなどということは全く知らされない。いわばほんとうの実力テストである。  三浦縦横斎重国は、無念の涙を|呑《の》んで退出した。      3  試合が終って半月ほどの間は、縦横斎は毎日、悶々として過した。もとより負けた縦横斎にはあれきり何の知らせもなかったが、鈴木清兵衛には藤堂家から指南役として召抱えの話があったが、清兵衛はすでに大名、大身旗本の入門者が多く、国表での常時出仕は困難なので、清兵衛自身は辞退し、代って|代《だい》|稽《げい》|古《こ》をつとめる|三《さえ》|枝《ぐさ》|鎮《ちん》|四《し》|郎《ろう》をさし出したということであった。何しろ名誉なことであり、世の剣客たちにはもったいないようなうらやましい話だった。  そんなある日、縦横斎の内弟子、|横《よこ》|山《やま》|四《よ》|方《も》|次《じ》|郎《ろう》という者が、町のうわさ話を聞いてきた。 「先生。鈴木清兵衛どのの御息女というのは、たいへんな美形だそうでございますな」 「ほう」 「いや。その|嬋《せん》|娟《けん》にして|窈窕《ようちょう》たること、正に男子をして奮起発励せしむるに足ると申しますようで」 「さりとはまた大ぎょうな」 「先生。もっぱらのうわさでございます。それがまだ婚約者もきまっていないとかで、鈴木先生の道場は、ために入門者が引きもきらずというのが実情らしゅうございます」 「ばかを申せ」  縦横斎は笑って取り合わなかった。縦横斎の道場とて、その繁盛は決して清兵衛のそれに劣ることはないが、何にしてもむこうは若者の入門者が多いと聞いている。あるいは、横山の言うようなことがあるのかもしれなかった。それならそれでもいいではないか。縦横斎は、横山のしたり顔が腹立たしかった。 「それが先生」  横山はこくりとつばを飲みこんで、ひざを進めた。 「鈴木先生は、多紀どのと申さるそのご息女を、ご自分よりも腕の立つ若い武芸者に|娶《めあわ》せたいと考えているごようすで。先生、こんなことをお話しては私めがお|叱《しか》りをこうむるかもしれませんが、実は、鈴木先生は、内々では先生をお目当になさっていたようすで……」 「なんと?」 「いや。ほんとうに。佐賀藩上屋敷の|菊《きく》|池《ち》|伝《でん》|七《しち》|郎《ろう》が、鈴木先生の道場の物書き役をつとめている友人に聞いたとかで」  菊池伝七郎というのは、もう何年も縦横斎の道場に通ってきている男で、長い江戸づめで顔も広い。 「横山! つまらぬことを申すな!」  縦横斎の女のような白い顔に血が上った。 「お目当になさっていようといまいと、それはあの試合の日までのことだ! おまえはわしに恥を思い出させるためにそのような話をしておるのか!」  横山は平ぐものように這いつくばった。  横山の話は、縦横斎の胸の傷をえぐるに十分だった。縦横斎とて名うての剣客だった。鈴木清兵衛の実力はとうに聞き知っているし、かげながら尊敬もしていた。|技《わざ》で負けたのも、未熟のゆえだと思えばあきらめもつく。後日また、という気持ちも湧く。だが、あの日以後、何かの意味なり形なりで、清兵衛の心に縦横斎に対してある区切りがつくのかと思うと、妙にやりきれなかった。負けた、という事実があらためて実感された。  その日、一日中、縦横斎は不愉快だった。  それから数日後のことだった。  縦横斎は、宇都宮藩上屋敷へ出稽古におもむいた。その帰り道、|上《うえ》|野《の》|広《ひろ》|小《こう》|路《じ》を通りかかったところ、向うからやってくる女を混えた一団があった。上野広小路は、この頃から、商家軒をつらね、反物、小間物、絵草子などの店も多く、|両国《りょうごく》広小路にならぶにぎわいを呈していた。女連れの一団の中に、二、三人の武士もあり、かれらは縦横斎の顔を見知っているとみえ、女たちに何かささやくと、一同は縦横斎に|鄭重《ていちょう》に辞儀をして、通り過ぎていった。  かれらの中に、一人のたいへん美しい娘がいるのが縦横斎の目に|灼《や》きついた。 「どなたのご身内かな?」  縦横斎は供をしていた横山にたずねた。 「先生。あの方々は鈴木清兵衛先生の御身内衆です。いちだんと美しい娘御がおりましたでしょう。あれがこの間、お話した鈴木先生の御息女でございますよ」 「ふうむ。なるほど」  横山の言ったあれがそうか! 縦横斎は、名状し難い気持ちに襲われた。はからずもまた敗北の傷手を思い出させられはしたが、それにもまして、娘の美しさが縦横斎の胸を灼いた。この年齢に至るまで、かれはまだ女を知らなかった。剣技だけが楽しみの明け暮れだった。  この瞬間に、縦横斎の人生に大きな転換がもたらされた。その日から、かれの|懊《おう》|悩《のう》は別なものに変化した。多紀という名が忘れられなくなってしまった。一日中、頭の中をかの女の美しい|容《よう》|貌《ぼう》が占領している。縦横斎の稽古はにわかにきびしくなった。ふだんから稽古はきびしい方だったが、全く手心というものを加えなくなった。それは縦横斎がおのれ自身に対する戒告でもあったのだが、そんなことではとうてい胸のほのおは消せるものではない。 「そうだ。鈴木清兵衛先生に再度の御手合わせを願おう」  縦横斎は自分の思いつきにひざを打った。早速、願い書を柳生但馬守宗矩のもとに提出した。  柳生宗矩とて、武芸奨励のこと故、否応はない。ましていったんは敗れた者が自分から二度目の試合を願い出ることはほとんどない。縦横斎としても、再度、清兵衛に敗れるようなことがあっては、今度は道場の浮沈に関係してくる。一度だけの試合の結果ではまだほんとうの優劣はわからないが、二度敗れたとあっては、これは実力を問われる。それだけに柳生宗矩も、この試合に興味を持った。 「わしは参籠して工夫を練ってまいる」  旅姿を整えた縦横斎が、内弟子たちを前にしてそう言ったのは、清兵衛との試合が十二月二十六日と決った日だった。 「して、先生には、どちらの御社へ御参籠なさいますか?」 「|相州鎌倉《そうしゅうかまくら》に、|御霊《ごりょう》神社たる霊顕あらたかなる社のおわす。祭神は鎌倉|権《ごん》|五《ご》|郎《ろう》|景《かげ》|政《まさ》なる武勇の士。まことの|軍《いくさ》神じゃ。わしは三七二十一日が間、その社前にあってひたすらかの、尺獲流を打ち破る工夫を凝らそうと思う」  弟子たちは、師の苦心を思いやって、えりを正し、身じろぎもしなかった。  縦横斎は供も連れずただ一人、発足していった。      4  |相模国《さがみのくに》鎌倉、御霊神社。祭神は鎌倉権五郎景政。応徳二年。後三年の役に|源義家《みなもとのよしいえ》に従って弱冠十六歳の身で奥州に戦い、敵将|鳥《とり》|海《みの》|三《さぶ》|郎《ろう》の強弓で右眼を射抜かれたが、矢はそのままに奮戦をつづけ、ややあって後方へ退いたが、友人の|三《み》|浦《うら》|半《はん》|太《た》|郎《ろう》|為《ため》|次《つぐ》がその矢を抜こうとして景政の顔を|毛《け》|沓《ぐつ》で踏んだところ、景政は、武士の面に土足をかけるとは何事ぞ。この上もなき恥辱なりと大いに怒った。為次は謝ることしきり、|鄭重《ていちょう》に矢を抜き取ったというたいへんな武勇の持ち主だった。  その景政の武勇にあやかるべく、鎌倉武士たちはかれを神として祭った。  今日でも、|長《は》|谷《せ》から|極《ごく》|楽《らく》|寺《じ》|坂《ざか》切通しにかかるあたりの北側、江の電の線路に近く、|汐《しお》|風《かぜ》をさえぎる緑濃い|崖《がけ》を背負って鎮座してまします。晩秋の頃など、日あたりのよい境内は、子供たちの声でいっぱいだ。  三浦縦横斎重国が、この神社へやってきたのは、もう明日から十二月という日だった。葉を落した雑木林に囲まれて、小さな社はさびさびと静まりかえっていた。海はそう遠くはない。耳を澄ますと、海鳴りの音がごうごうと聞えていた。|百《も》|舌《ず》がけたたましく鳴くと、落日が相模の空を紅く染めた。  社の背後に迫った崖に、参籠の人々が利用するらしい洞穴ともいえぬ浅い|窪《くぼ》みが幾つかあった。縦横斎はそのうちの一つに、持ってきたむしろやわずかばかりの荷物をほうりこむと、早速、社の前にぬかずいた。  縦横斎は、おのれの武運長久と、新しい刀術の案出、ことに鈴木清兵衛の尺獲の運足を破る気息と技法の確立を、ひたすら祭神に願った。  縦横斎の祈りの言葉が、高く低く迫ってくる夕闇の中を流れた。  一刻ばかり祈りに祈ると、縦横斎は木刀をつかんで立ち上った。素振り千回。終ってふたたび社前にひれ伏す。祈り終って素振り二千回。流れる汗は雨のように周囲の枯草の上に飛び散った。  こうして夜明け近くまで祈りと素振りをくりかえし、白々明けとともに洞穴に入って、けもののように丸くなって眠った。  朝陽が、社の板壁にあかるく映える頃、早くも縦横斎は社前に立つ。今日も祈りで始まる。そして素振り三千回。そして祈念。終って、かれは、手にした四尺近い木刀を八双に構えた。まどろみの中で考えたことの試みだった。かれの木刀はうなり、右に左に、枯草を払って目にも止らず動いた。陽が中天にさしかかるまでかれは寸秒も休まず動きつづけな。  水とわずかばかりの干飯を腹に収めたのち、かれはふたたび木刀を手に社前に立った。昼前のこころみにどうも納得のいかないところがあった。  夜に入っても、かれは止めなかった。かれの姿は夜の|怪物《もののけ》のように飛び跳ね、風のように走った。  最初の七日七夜が過ぎた。かれはなお四尺におよぶ木刀を、まるで重さを持たぬもののようにふり回した。その|蛤刃《はまぐりば》の木刀は軟らかい草の葉を、鋭利な刃物で切るように断ち切った。かれの祈りの言葉は、雷鳴のように木々をゆさぶった。だが、この七日七夜の終り、かれは小石につまずいて足指の|生《なま》|爪《づめ》をはがした。  つぎの七日七夜が過ぎた。かれの声はようやくしわがれて、祈りの言葉もしかと聞きとり難いほどになった。蛤刃の木刀は、もはや草の葉を断つことはできなかった。だが、この七日七夜の終り、かれは斬撃にひとつの工夫を得た。それは相手の小手を上から打つのではなく、逆に下から上へ擦り上げるようにして打つことだった。かれは大いに喜んだ。あとは、いかに尺獲流の足さばきの|先《せん》を得るか。  つぎの七日七夜は、|憑《つ》かれたように進退のかけひきの考案に終始した。歩いては止り、止っては歩く。円を描き、あるいはかにのように横に這い、また|蛙《かえる》のように跳んだ。どうすれば、あの尺獲虫の動きを封じることができるのか、かれは迷い苦しんだ。夢ともうつつともつかぬ昼が来、夜が訪れた。かれの目の前には、つねにあの奇妙な動きで、ひた押しに押してくる清兵衛の木剣だけがちらついていた。それは圧倒的な幻影となってかれを悪夢のように打ちのめした。  すでに二十一日目の夜が来ていた。間もなく月が出る。月が出れば、三七二十一日の参籠は終るのだった。だが、かれにはまだ神の啓示は訪れていなかった。  ああ、だめだ。どうしても尺獲流を打ち破ることはできないのか!  縦横斎は|蓬《ほう》|髪《はつ》をかきむしってくやしなみだにくれた。      5  大きな流れ星が飛んだ。それは月に似て円く、月よりもはるかに大きかった。流れ星は明るい|橙色《だいだいいろ》で緑色の光環を帯び、わずかに短い尾を|曳《ひ》いていた。それは急速に高度を下げ、社の背後の山々の|稜線《りょうせん》をかすめると、まっすぐ社の上空に近づいてきた。夜空にそびえる高い雑木林の|梢《こずえ》をすれすれに飛び越えると、社の背後に降下してきた。かすかな音響が夜の静寂を弦のように震わせた。  縦横斎は、かすむ|眼《まなこ》でこの異変をとらえ、思わず、われを忘れて地に平伏した。 「やあ。ても有難し。祭神の、わが祈りに感応し給いしか、あれなるは、まこと|御《み》|霊《たま》の降臨あそばされ給いしならむ、|疾《と》く、われに神技の一端を御教示賜わるべし」  かれは社前に這い進み、声をふりしぼって祈り始めた。もう何も見えなかった。何も聞えなかった。 「ここに拝したてまつる|軍《いくさ》神、鎌倉権五郎景政之命。請い願わくんば、なにとぞ、なにとぞ、鈴木清兵衛が尺獲流打太刀に勝る神妙の術をわれに与え給え! 南無、鎌倉権五郎景政之命」  縦横斎は必死だった。 〈縦横斎。縦横斎〉  誰かが、しきりにかれの名を呼んでいた。  縦横斎は、はっとわれにかえった。  その声は、|幽《ゆう》|冥《めい》の境から聞えてくるように沈々たる夜気を伝って、かれの胸にひびいてきた。  社の内部から、青白い光が洩れ出し、周囲の闇をほの明るく染めていた。  その光の中から、異形の姿がゆらめき出した。頭部は|毬《まり》の如く、あくまでも円い。|沓《くつ》と手甲の如き物で被われた手足は異様に大きく、平滑な胴部を被う|戦《せん》|袍《ぽう》とおぼしい衣服ともども、|白《しろ》|銀《がね》の光沢を放っていた。  縦横斎は|驚愕《きょうがく》し、ついで六尺の余もとびすさって地にひたいを押しつけた。かれの体を電撃のようなものが走りぬけた。 「三浦縦横斎重国にござりまする。命様には、私めの願いを|嘉《よみ》し給い、御降臨下されましたることはただ、ただ、|恐懼《きょうく》の極みにござりまする。なにとぞ、なにとぞ、私めの切なる願いをお聞き下さりまして、神妙の技を御教示下さりませ」  縦横斎は|滂《ぼう》|沱《だ》と流れるなみだを禁ずることができなかった。 〈縦横斎。|汝《なんじ》の武徳を賞でて余の意、あるところを伝えん。汝、その修業極まれり。而して汝が技、汝が分にて極まれり〉  縦横斎は目の前が真暗になった。これ以上いくら修業し、研究を積んでも、もう上達は望めないと言うのだ。 〈かの鈴木清兵衛邦教なる者、天賦の才あり。工夫によってこれを敗ること能わず〉 「命様!」  縦横斎は悲鳴のようにさけんだ。それでは三七二十一日の参籠はどうなるのだ? 〈されど、汝の願いも黙し難し。縦横斎、眼を閉じよ。試合が終るまで、その眼を開いてはならぬ。また、加えて言う。試合が終るまで物を言うことなかれ。この二つを固く守り、違えることなくんば、われ、汝に勝利を与えん。いかに縦横斎〉  かれは全身に燃え上るような喜びにつつまれながらひしと目を閉じ、くちびるを引き結んで、黙って、何回も何回も拝伏した。  固く閉じたまぶたの裏に、なぜか、祭神の姿がまぼろしのように映っていた。その白銀の|豪《ごう》|奢《しゃ》な戦袍からは、たえず陽炎のような光彩が立ち上り、ゆらめいていた。縦横斎は、鎌倉権五郎景政之命の御霊は、なぜあのような異形な御姿をして居られるのであろうか、と思った。御霊は、縦横斎のまぶたの裏で、かれに背を向け、社の内部へ引籠っていった。その背後に、二、三本の、細長い白銀の棒がゆらゆらとゆれていた。  周囲はふたたび、深い夜の闇にたちかえった。  盲と唖になって帰ってきた縦横斎を見て、弟子たちは驚き、なげき悲しんだ。だが、縦横斎は誰の目にも、大きな変容をとげたことをうかがわせた。縦横斎はもはやただの一度も木剣を手にせず、一日中、悠然と微笑をふくんで道場の上座に着座したきり動かなかった。      6  年の瀬もおしつまった十二月二十六日。場所は|音《おと》|羽《わ》、鉄砲練場の一角。方二十間の|幔《まん》|幕《まく》で囲われた御砂敷で対戦は行なわれた。ここは相撲練場にも当てられる所である。この日は朝から身を切るような北風が吹き荒れていたが、抜けるような晴天だった。柳生但馬守宗矩、|後《ご》|藤《とう》|田《だ》|信《しな》|濃《のの》|守《かみ》|秋《あき》|広《ひろ》、|正田越中守長成《しょうだえっちゅうのかみながのり》らが着座すると、試合は開始された。この日手合わせは三番あり、三浦縦横斎重国と鈴木清兵衛邦教の試合は最後だった。  太鼓の音とともに、東から進み出た縦横斎は、愛用の黒樫の四尺の木剣を握って立った。西の清兵衛は、これもふだん使い馴れた赤樫に赤銅の帯をまいた木剣。二人は形どおり、検分役席に一礼し、それからおもむろに|対《むか》い合った。  縦横斎は、前回と同じように、やや高めの八双。清兵衛は青眼。ともに水のように静かに、岩のように動かなかった。ひと呼吸、ふた呼吸。 「ううむ!」  満身の気合を、たたきつけ、動いたのは清兵衛だった。つ、つ、つ、と進んでぴたりと止る。それから小刻みに足を運んで、同じ距離だけ進む。そして一転して、ふたたび大きく歩を運ぶ。得意の尺獲流運足だった。  縦横斎は動かない。四尺の木剣を、下段に低く構え、|鋒《ほう》|子《し》は軽く砂に触れている。 「うおい!」  清兵衛は、よどみなく、ひた押しに押す。誰の目にも、縦横斎の身は風前の灯だった。縦横斎がにわか盲になったことは誰もが知っていた。おまけに口も利けなくなったらしい。後藤田信濃守も、正田越中守も、この試合に対する興味は最初から持っていなかった。ただ、柳生但馬守宗矩の両眼だけは、異様に鋭い光を放っていた。 「はっ!」  鈴木清兵衛はついに、四尺の間合に縦横斎をとらえた。清兵衛の全身が膨れ上った。清兵衛は地を蹴って躍った。 「たああああ!」  赤樫の木剣が電光のように閃いた。縦横斎の|眉《み》|間《けん》へ飛ぶ。その一瞬、縦横斎の木剣がぴら、と返った。刃を下に、低く下段につけられていた黒樫の木剣が刃を上へ向けるとすさまじい速さで打ち上げられた。伸びきった清兵衛の右の手首が、びいんとしびれ、清兵衛の木剣はかれの手を離れて高く飛んだ。 「ま、まいった!」  清兵衛は手首をおさえて砂上に折敷いた。 「勝負あった。それまで!」  審判役の後藤田信濃守がさっと白扇をかざした。  縦横斎はぼう然と立ちつくしていた。自分では全く意識しない不思議な力が自分の手を動かし、間合を読み、斬撃の判断を与えていたことを知った。それこそあの御霊神社の祭神の加護にほかならなかった。  柳生但馬守宗矩が、自分に向って何か言っているのが聞えた。それに応えようとして、縦横斎は初めて自分が目を開くことができず、全く口をきくことができない身になっていることを知った。  縦横斎は名誉を得た。多少の曲折はあったものの、鈴木清兵衛の美しい娘、多紀を手に入れることもできた。かれの道場はいよいよ栄え、大名、大身旗本たちの弟子入りする者、相ついだ。  だが、かれは終生、あの夜、鎌倉の御霊神社で体験したことを告げることはなかった。ただ、晩年、ひそかに書き残したものが、かれの死後発見されている。  御霊神社に近い長谷寺末院常智院の僧、|如《じょ》|安《あん》は、慶安三年十二月二十六日深更。|腰《こし》|越《ごえ》よりの帰途、御霊神社境内ふきんを通りかかったところ、社の背後の枯野に、異様な光り物の浮遊しあるを傍見。見守るうちに社より、異形の人影二、三個、現れ出でかの光り物中に入ると見るや、雷火の如き火、発して空中高く飛揚し、流れ星と化して失せにけり。と、この僧、常智院事録に記している。なお、翌朝、光り物を見た場所へ行ってみると、枯草に、さしわたし十間ほどの円環のような焼跡が印されていたという。  この頃、全国で光り物が見られ、神明飛び給う、として飛神明信仰がすこぶる盛んになった。     ペニシリン一六一一大江戸プラス      1  午前十一時五十五分。あと五分で昼めしになる。発送係はこの五分の間に出荷をすませようとするし、受取る方の問屋のトラックはなるべく引きのばして昼めしにくいこませようとするし、おたがいにそれを知っていてずうずうしさのやりとりになる。 「なあ、早田さんよ。こんどの第六レースは四—五か、二—五だぜ。おも馬場ならぜったいだ。あんたはどう張るね」  |小網町《こあみちょう》から来たライトバンの若い男が発送係の早田の背をたたいてもちかけた。 「早くしてくれよ。おれたちはあんたたちとちがって昼めしにくいこんだからってその分だけあとへのばすわけにはゆかないんだぜ」  早田が鼻の頭にしわを寄せてあごをしゃくった。 「二—五は大きいぜ。この分じゃ日曜は雨かもしれねえ。万馬券といくぜ」  ライトバンはかかえていた大きなダンボール箱を車の尻におしこんだ。 「ええと、ひい、ふう、みい、よお、と。もう一箱だな」 「これに判をおしてくれ」 「そういそがせるなよ。早田さん。あのな……」  ライトバンが思い入れたっぷりに声を低めた。 「マルノシンオーはまだ風邪っ気がぬけていねえんだとよ。おれ、きゅう舎の関係すじから聞いたんだ」  ついに早田がひっかかった。 「ほんとうか? それ」 「あんただからおしえたんじゃねえか。きゅう舎は大反対したらしいんだが、馬主がどうしても出してえんだとよ。サンセット盃に出たとなれば地方での人気はまだまだ厚いものな」 「地方での人気?」 「そうなんだよ。マルノシンオーは今年かぎりで中央から退くらしいんだ」 「おい! ちょっとまてよ。どうしてあの馬が中央から退くんだよ?」 「誰にも言いっこなしだよ。あのな……」  おれはそっと出荷場を離れた。時計の針はちょうど正午を指している。おれは出荷伝票を窓口の|平《へい》さんにあずけて、車洗場を兼ねたコンクリートのたたきのすみの水道栓をひねった。汚れた手を洗っていると、同じ出荷係の鈴木がおれを呼びに来た。 「係長が来いってよ」  そのまま外へ出ていった。  一階の事務室へ入ってゆくと係長の木下が|眉《まゆ》の間にたてじわをきざんで仕送帳をめくっていた。火のついていないたばこがくちびるからぶらさがっている。その前に立つと係長は|鎌《かま》|首《くび》をもち上げた。くぼんだ|眼《がん》|窩《か》から眼球がやや突出している。けわしい眉の下からその眼がへびのようにおれをねめ上げた。 「平石! きのうの大西商店の出荷伝票はどうした?」  おれは息の根が止ったような気がした。 「ま、窓口に出しておきましたが……」 「出荷場からは回ってきていないんだ」 「いえ。たしかに窓口に出しましたが」 「回ってきていないよ! なんなら、おまえ、自分でしらべてみるか」  係長は出荷場から送られてくる伝票のとじをばさりとおれの前に投げ出した。 「す、すみません。でも、たしかに窓口に出したんですが」 「倉田くんは受取らなかったと言っている。事実、倉田くんの出荷ひかえにもおまえのあつかった大西商店の伝票を受けつけたという記帳はない」 「平さんが見落したのでは……」  係長のくちびるがへの字になった。ぐいと上体をそらして大きくひざを組んだ。 「倉田くんをここへ呼ぼうか!」 「ぼ、ぼくはかまいませんが……」 「平石! 大西商店の伝票はな、ぼくのところへとどいているんだよ。だが倉田くんからではない。管理室の青山くんからだ。夕方、そうじしている時に出荷場のすみにごみといっしょに落ちていたそうだ」 「そうでしたか! すみません」 「そうでしたか、ですむと思うのか! 窓口に出したというが、ただ出しただけではいかんとあれほど言っているのにまだわからないのか! 倉田くんが確認するまで窓口を離れてはいかん! 風で飛んだり、他のものとまぎれてしまったりして倉田くんの手もとにわたらないことになるのだ。注意しろ!」  係長はできの悪い生徒に業を煮やした教師のように、口汚なくおれをののしった。 「おまえ一人の為に、出荷係全体の仕事がとどこおることになるのだ。おまえはもっと簡単な仕事の方が向いているんじゃないのか! もっともこれより簡単な仕事があればだが!」  出荷係の事務室に机をならべている連中はあらかた昼めしを食いに外へ出てしまっていた。ただ一人残っている係長次席の竹島老人がこれもひどく難かしい顔をしてしきりに歯をすすっていた。 「係長さん。すると伝票番号を打ち直さなければなりませんな」  竹島老人はわざと言う。 「そうなんだよ。竹島くん。午前の分、全部だ」  えたりとばかり係長はうなずいた。 「私がやりましょう。木村くんにもう一度やらせるのもかわいそうだから。なにしろ午後いっぱいかかるからね」  竹島老人はしわ首をのばして、おれの前に投げ出されている出荷伝票を引きよせた。 「すみません」  おれは係長と竹島老人にたてつづけに頭をさげた。 「これからはしっかりやりたまえ。みんなもかげで言っとるぞ」  自分の言葉の切れ味を楽しむようにさいごのひとことをゆっくりとつけ加えた。  おれは事務室を出た。しっぱいだった。思うまいとしてもやはり気は滅入る。管理室へ回るとおれのたのんだラーメンがとうにつめたくなってのびていた。管理室のとなりの納品車関係の休憩所へラーメンを運んだ。出荷係といってもおれは事務の方ではなくて倉庫の勤務だから事務室に机がない。そのため三人いる倉庫のなかまは管理室をたまりにしていたのだが、住込の用務員ともいうべき管理係の青山夫婦が管理室をたまりにされては困ると言い出しておれたちはしかたなく納品車の休憩所へ移った。とたんにあの二人は外で昼めしを食うようになった。 「平石さん! あんた、しっかりしなよ。係長さん、怒ってたよ」  青山の婆さんが平家がにのような|面《つら》を出した。 「すみません」 「すみません、すみませんって、自分でしゃんとしなきゃあ。あたしが見つけなかったら伝票はごみといっしょになって棄てられちまうところだったよ」 「うっかりしていたよ」 「平さんがなくしたんじゃないかってうたがわれるんだよ。人の迷惑も考えなきゃ」  平さんは青山夫婦の親せきなのだ。 「あ、それから、ラーメン、管理室へとどけさせるの、やめとくれよ。あそこは会社の大事なかぎをたくさんあずかっているんだからね。出前なんかにずかずか出入りされちゃ困るよ。なんかあったら私たちが責任とらされるんだからね」  青山の婆さんはガラス戸をぴしゃりとしめて出ていった。  てやんでえ! はしがぴしり、とおれた。  ふいに戸が開いて竹島老人が顔をのぞかせた。 「おい。電話だ」 「電話? ぼくにですか?」  おれはラーメンのどんぶりを置いた。 「ぼくにですかって、ここには平石というのはおまえだけだろう。電話はたしか、平石とかいう人を出してくれと言ったようだが」  おれは竹島老人の細い体のわきをすりぬけて事務室へ走った。  事務室にはまだ係長がいた。係長は指の間にたばこをはさんだまま、じっとおれを見ている。おれは部屋のすみの机の上に置かれている受話器をとり上げた。 「もしもし」 「山下紙工商会の平石さんですか?」  聞きおぼえのない男の声が受話器から流れ出した。 「はい。そうです」 「今、何時何分でしょうか?」 「はあ?」 「今、何時何分でしょうか?」  とつぜんのことでおれは頭にかっと血が上った。 「あ、あ、あの、今、十二時三十一分です」  とたんに男の声は幾つかの数字をならべたてた。 「は、はい。わかりました」  おれはへどもどして受話器をもどした。いそいで事務室を出ようとすると、待っていたように係長の声がとびついてきた。 「平石! 私用の電話はすべて管理室を使え! あっちへかけさせるんだ。ここの電話を私用でふさいでいては仕事にさしつかえるぞ。メーカーでも問屋でも昼休みの時間に電話をかけることが多いんだ。そのくらいのことがわからんのか。だからおまえは……」  おれはポケットに手を入れた。指先の感触だけで、ダイヤルを回した——      2  窓の外を国電が走り過ぎるたびに、部屋は破砕機にでもかけられたようにびりびりと震動した。ベニヤ板張りの天井も壁も|剥《は》げ落ちそうにたわむ。部屋のすみに積み上げられたあじの干物の箱がしだいにずれてくる。以前は窓を開くと、すぐそこに|浜離宮《はまりきゅう》の美しい森や、|芝《しば》|浦《うら》の海につづく掘割の水面などが見えたのだが、今では窓をふさぐように迫って設けられた高架線の橋脚で、この部屋は完全に外界の風景としゃ断されてしまっていた。そうなるとこの部屋は階下の干物の|匂《にお》いがやたらにこもるようになった。部屋のすみに投げすててある週刊誌を手にとって、おれはこの家の|主《あるじ》を待った。少しも面白くないへたくそなマンガと、外国の古雑誌から盗用したかと思われるおそろしく不鮮明なヌードをめくっていると、階段がぎしぎしと鳴って、聞きおぼえのある足音がドアの前に立った。 「待たせてすまん。上ってこようと思ったら急に判コがほしいなんて言いやがって」  この家の|主《あるじ》、海産物、干物卸商西金商店のおやじ、西田金二郎だった。どさりとあぐらをかくと床がゆさゆさとゆれた。苦しそうにベルトをゆるめるとしぜんにズボンのチャックがさがってその間からワイシャツにつつまれた腹がせり出した。  おれはもとの位置に週刊誌をほうった。 「支局から指令があった。四五分局に一人、応援を出してくれというのだ。四五分局の管内で何か事件が起ったらしい」  おやじは歯の間をすすった。太い指で歯の間にはさまったものをとり出そうとする。 「大雅のしなちくは筋ばってていけねえや」 「あの管内はよく事件がおきるな」 「ろうよ……りらいのれんかんきは……もごりごみやゆいのよ……」  時間密航者にとっては、ゆり動いている時代というものはまたとないかくれみのなのだ。 「それで?」 「おまえに行って……おっ、とれた」  おやじはしなちくの端をぷっと床に吹き飛ばした。 「もらおうと思ってな」 「おれが」 「ああ」 「今すぐか?」 「そうだ」 「めし、食ってくりゃよかったな」 「大雅へ電話かけてやろうか? あそこのタンメンはうまいぜ」 「でも、ここで食ってたら誰か上ってきたら困るだろう」 「なあに。下で食えよ。店じゃ見かけねえ顔でも気にしねえよ」  おれはおやじの後から階段をおりた。西金商店はいつもにぎやかだ。小売店やスーパー、生協などの軽トラやライトバンが店の前を占拠して若い衆が出たり入ったりしている。 「あ、おやじさん。目白の|旭《あさひ》スーパーの先付手形のことは聞いていますか?」  この店の営業主任格の中年の男が机から上体をのり出した。 「聞いている。しょうがねえなあ。現金ていうからまけてやったんだ。よく話、聞いてみろ」 「はい。それから根岸の鈴木商店の貝柱一等三箱の代金は一割引でしたね」 「ああ。あそこはうちからだけ入れているんだ。うちで切れている時もほかからとらねえんだよ。サービスしな」  営業主任は机にかぶさった。 「おい! |常《つね》!」 「へい!」  作業服の上から西金商店と染めぬいた前だれをしめた若い男がのび上った。 「大雅に電話してくれ。タンメンひとつ」  おれは店のすみに置かれた来客のためのものらしい汚れたソファに腰をおろした。スプリングがはずむと、たたみいわしの破片がはね上った。 「この上へ積みやがったな」  おやじはそのたたみいわしのかけらを指でつまむと口の中へほうりこんでくちゃくちゃかんだ。  店の前の車の間をぬって、おどるような足どりで若い女が入ってきた。緑色の腰きりの上っぱりの胸がぐっと張っている。 「ただいまあ」  目ざとくおやじを見つけて近寄ってきた。この店につとめている女の子で、たしか啓子といった。 「社長。信金の方は了解したといっていました。それから近江屋さんは荷で勘弁していただけないか、と言っていました。あとでお電話するそうです」 「ごくろうさん」  この店でおやじを社長と呼ぶのはこの女の子だけだ。だからおやじもたいへん気に入っている。それにこの店に来る前までどこかの銀行につとめていたとかで、物腰もていねいだし、他の店や銀行、信用組合などの窓口とのやりとりにもなれているので重用されている。啓子はおれに軽く会釈すると離れていった。 「いい子だ」 「うん。この間、店でころんでな」  ミニスカートからすんなりとのびた足のひざ下に白いほうたいが巻かれている。薄いストッキングの下のほうたいがひどく肉感的におれの眼にしみた。 「なんだ。その目つきは!」  おやじがにたりと笑った。 「手、つけたんじゃねえだろうな」  おれは言ってやった。おやじはけろりとして太い眉をさげた。 「ま、おりを見て小当りに当ってみようと思っているんだ。近頃の若い娘はわかんねえが、どうだい、あれ、|生娘《きむすめ》じゃあんめえ?」 「本人に聞いてみればいちばんはっきりするだろうな」 「男と寝てるよ。あれ」 「そうとも見えねえが」 「いや。おれは貝柱の|干《ほ》せぐええと、女の初ものは見てわかるんだ」 「貝柱一等三箱の代金がただにならねえように気をつけろ」 「けっ!」  その時、啓子がさけんだ。 「タンメンたのんだの、どなたあ」  おやじがソファのスプリングをきしませた。 「おう! ここへ持ってきてくれ!」  啓子は盆にタンメンのどんぶりと茶をついだ茶わんを二つのせて運んできた。 「おまたせしました」  笑うと白い歯がこぼれる。左のほおに指で押したような深いえくぼが入った。おれははしを割ってどんぶりにくらいついた。 「四五分局の主任によろしく言ってくれ」 「ああ」 「じゃ、おれ、向うへ行くからな。食ったら行ってくれ。こっちへも連絡してくれよ。店の電話にかけてくれればいい」 「ああ」  おやじはズボンをひっぱり上げるとベルトをきつくしめた。誰が見ても海産物、干物卸商西金商店のおやじにしか見えない。かれが『時間監視局』一九一支局の四五分局主任 ウラノ。認識番号CC八八○一と知っている者は、かれの部下であるおれをふくむ五名の局員だけなのだ。そしてこの西金商店そのものがすなわち四五分局であることも。  おれはタンメンを食い終ると、人に気づかれぬようそっと階段下のトイレに入った。      3  地の底のような深い暗黒がおれをおしつつんだ。一瞬、おれはタイム・マシンが故障したのではないかと思った。はげしい恐怖がおれの胸底から脳天へ衝き上り、おれは夢中で手首に巻いたタイム・マシンのダイヤルをまさぐった。  ここはどこだ?  脱出できるだろうか?  指はダイヤルをまさぐりながら、足は本能的に|爪《つま》|先《さき》で周囲の床をまさぐっていた。  床は板張りだった。 「動くな!」  とつぜん、するどい声が|暗《くら》|闇《やみ》の奥からはしった。それが恐慌一歩手前のおれを現実に引きもどした。さらに床が板張りと知っておれの心はみるみる|汐《しお》をひくように冷静になっていった。タイム・マシンの故障にせよ何にせよ、ここは現実の世界の一部にちがいない。 「認識番号を言え!」  おれは全身が風船のようにふくらんだかと思った。 「認識番号を言え」  気がつくと塗りつぶしたような暗黒のところどころに、ほのかに小さな灯がともっている。あきらかに電子装置のパイロット・ランプだ。 「五秒以内に認識番号を言わなければ射殺する」  声とともに、カチッとかすかな金属音が聞えた。つづいて二度、もう一度、さらに一度、少なくとも数丁の武器がおれをねらっているらしい。赤外線暗視装置やXレイ・レーダーなどでおれの動きはまばたきまでかれらにはわかっているはずだ。 「まってくれ! 言う」  おれはあわてて認識番号をさけんだ。数秒たって暗闇の奥にオレンジ色の小さな灯がともった。声紋の照合OKを示すサインだった。いつものことながら、緊張をともなう一瞬だった。これが合わないとえらいことになる。ことに今はまかりまちがえばこの暗闇の中で確実に生命を落すことになる。 「よし。ライトをつけろ」  天井からやわらかな光の滝が降ってきた。 「おどろかせてすまない。ここは今、非常態勢についているので、警戒をきびしくしている」  声とともに、枯木のようにやせた老人がつえをついて光の下に歩み出てきた。白髪を小さなまげに結び、渋い着物の上に、茶無地のそでなし羽織をかさねている。金持ちの隠居といった身なりだ。 「わしがこの四三分局の主任、シエイだ。ある事件を調査しているのだが、手不足での。支局に他の分局から応援をよこしてくれるようにたのんだのじゃよ。ごくろう、ごくろう。おい! みんな、テーブルの回りに集ってくれ」  主任の言葉に、部屋のあちこちからぞろぞろと人影があらわれた。  部屋の一方の壁は、無数のメーターやダイヤル、パイロット・ランプなどでおおわれている。数十万年、数百万年を越えて遠い時代のなかまたちと交信できる強力な通信装置だ。反対側の壁には青緑色の線描であらわされた精密な地図が幻のように浮き上っていた。分局としての機能は、わが四五分局をはるかに上回るだろう。おやじの言葉をまたずとも、たしかに時代の変換期は時間密航者にとってもぐりこみやすく、よいかくれ場所になる。それを追う時間局の側も、なみの設備や機能ではつとまらない。 「紹介しよう。こちらからユイ。つぎがサジ……」  もちろん、みなはじめて見る顔だ。それになんとも奇妙ないでたちだ。かれらがおれに向って認識番号をのべて自己紹介をする間、おれはあごのしまりも忘れてかれらの姿を見つめていた。ユイはすり切れた紺の木綿のどんぶり腹がけ。もとは白かったのだろうが、今は灰色に変って、しかもつぎはぎだらけのこれも木綿の|股《もも》|引《ひき》。かかとがのらない尻切れぞうり。どんぶりの上から三尺帯を巻いてそれに短い鉄棒をさしている。サジの方は腰きりのよれよれのあわせになわとも帯ともつかぬものをふた巻きほどして、その着物の下から、まるでソースで煮しめたような汚れたふんどしがのぞいている。針金を植えつけたような粗毛がふんどしのかげからのび出てひろがり、ももからすねをおおっている。ひざから下は板のようにかぱかぱになった|脚《きゃ》|絆《はん》、木の根のような大きな足ははきもの無しだ。 「そのつぎがトラバス。それからイナノだ……」  トラバスは汚れた頭髪がほとんど耳をかくすほど垂れさがり、ぼろに近い衣をまとっている。大きな|数《じゅ》|珠《ず》を首にかけ、ふちがほつれて幾重にもずれている|網《あ》|代《じろ》|傘《がさ》をかかえていた。どこから見ても|乞《こ》|食《じき》坊主だ。イナノは二十四、五歳ぐらい。陽やけした顔に安|白《おし》|粉《ろい》を塗りたくり、だらしなくくつろげたえり元から乳房のふくらみがのぞいている。しんの|萎《な》えた帯を不精巻きに締め、これだけは真新しい手ぬぐいを帯の|脇《わき》にちょっとはさんでいる。むしろをかかえているところをみると、イナノは|夜《よ》|鷹《たか》らしかった。 「どうした?」  主任の声におれはわれにかえった。さし出されている手をあわてて片端からにぎりかえした。 「ほかにトロイとフィフがいるが、今、任務についている。あとで紹介しよう。それでは事件の内容を説明してくれ。ユイ」  主任がどんぶりにあごをしゃくった。 「それでは説明します。今日は太陽系標準時、A2項一六一一年第八一日。この時空域の一般的地方標準時である太陰暦にしたがえば三月二十二日です。以下、暦法、時刻はすべてそれにしたがいます」  おれは時計は合わせなかった。どうせ外界へ出るのに腕時計などしていられない。 「九日前の三月十三日、パトロール中のトロイが、|神《かん》|田《だ》|鎌《かま》|倉《くら》|河《が》|岸《し》に近い地蔵木戸地割先の土橋ぎわのごみすて場でペニシリンの未使用のアンプルを発見しました」 「ペニシリン!」 「そうなんだ」  主任が眉の間に深いたてじわを寄せた。 「アンプルを支局へ送って分析を求めた結果、一九四三年にアメリカで製造されたものであることが判明しました」 「ちょっと待ってくれ」  おれはユイの言葉をおさえた。 「一九四三年というと、おれのいる四五分局とも関係がある。こいつはたいへんなミスをしでかしたぞ」  おれはとんで帰っておやじにこのことを告げたくなった。おやじのはげ頭を流れる汗が見えるようだった。 「いや、まて。ペニシリンがどのような経緯でここで発見されるようなことになったのか、まだわかっていないのだ」  主任は極めて平静であり、また現実的であった。 「この江戸のどこかに時間密航者が潜伏しているのか、それとも通過してゆくとちゅうで棄てたものか、それもまだはっきりしていない。これは同時に四五分局にとっても言えることだ。ペニシリンは一九四〇年代以前の時代へ密航しようとする者には必需品だからな。盗んでいったのかもしれない」  そうであってくれればよい。主任の言葉はおれの耳に最大級のなぐさめとなってひびいた。 「しかし、棄てていったというのも解せないな」 「わしも未使用というのが少し気になっておるんじゃ」 「運び屋か?」 「さあな」 「パトロール中に発見したというのは?」 「トロイは乞食に変装してたえずごみすて場をしらべている」  われながら愚劣な質問だった。|塵《じん》|芥《かい》処理の発達していない時代の監視には、つねにごみすて場をマークするというのが極めて効果のある方法だった。時として、息もつまるような悪臭を発する汚物の山の中から、時間密航者の存在を示す思いがけない手がかりを発見することがある。たとえば、時間局が開設されて以来、最大の事件と言われた一四〇三年のカラブリア王妃事件も、コルドバの裏通りのごみすて場で発見された懐中電灯用の三ボルト豆球のさびた口金がそもそもの発端ではなかったか。七二年の東京などでは、そうしたすばらしい方法はもはや夢物語になってしまっている。 「わかった。主任。それでおれの仕事は?」 「うむ。今、われわれはこの江戸のどこかに時間密航者が潜伏しているものとみて、捜査している。アンプルが発見された場所を中心に、鎌倉河岸周辺のパトロールを強化している。つぎに、アンプルが他のごみと混り合っていた状態を分析して、棄てたものの職業、家族構成、生活程度、そしていつ棄てられたものかの割り出しをいそいでいる。きみの見解は?」 「まだ、なんとも……ただ、なぜ使わないペニシリンを棄てたのか、それがちょっとひっかかるなあ」  トラバスがころものそでを払った。ひどい臭気がむっとわき起った。サジがふところへ手をつっこんでしきりにわき腹のあたりをぼりぼりとかいている。そのうちに手を引き出したかと思うと、白いごま粒のような小さな虫をテーブルの端でおしつぶした。ぴちっと虫の体が張り裂ける音がした。おれもなんとなく体中がかゆくなってきた。どうもえらい所へ来たものだ。しかしみな、それに全く|馴《な》れきってしまっている。 「一九四三年といえば第二次世界大戦の末期だ。軍隊や民間の医療施設などから横流しされたペニシリンはどれだけあったかわからないぞ。とても追跡調査しきれるものではない。しかし支局には調査を依頼しておいた」  主任はお手上げのかっこうだ。誰だってそうだろう。その前後二、三年の間に生産されたペニシリンのアンプルの数はおそらく天文学的数字に上るはずだ。 「おれは何をやる?」 「よし。きみは遊軍として自由に捜査してもらおう。アシスタントにイナノをつける」  ミーティングが終ると、主任とイナノ、そしておれの三人を残して、みなは影のように部屋を出ていった。おれはイナノにみちびかれて別なドアから出た。そこは変装室だった。三人の技術員がおれを待ち受けていた。 「睡眠学習を先にしましょう。ポッドに入ってください」  言葉、風俗、慣習などこの時代の人間になりきるための作業だ。おれはポッドに横たわった。透明風防のようなふたが閉じられるのまではおぼえていたが、たちまち意識を失った。眼覚めた時は八分たっていた。  慣習や言語形態を全く異にする時空域での場合には三十分から一時間近く要することもある。 「いそぐということですから、基本的なことだけにとどめて、あとはあなたの知識にまかせましょう」  技術員はポッドから|這《は》い出るおれに手をかしながら言った。おれの知識か。おれの知識など何の役に立つだろう? 時代小説、チャンバラ小説、映画、テレビなどから得たまるで知識などとはいえないようなしろものだ。おれはさらに何本かの注射を打たれて放免された。 「あなたの捜査方針に合わせて変装してもらいます」  イナノが言った。 「そうだなあ。浪人にでも造ってもらおうか」  侍なら多少無理も通るだろう、とおれは思った。その方が捜査もやりやすいはずだ。  五分後、おれは鏡に映っているおれ自身の姿に悲鳴を上げた。 「な、なんだい! これは!」  技術員がいぶかしそうに鏡に映っているおれとほんもののおれを半々に見た。 「侍ですが……」 「これがか!」  頭髪は五年も|風《ふ》|呂《ろ》へ入らなかったように汚れ、ぼうぼうとのびて|櫛《くし》の歯どころか指も通らないだろう。それを頭の後で細いわらで束ね、背中へ垂している。着ているものといえば、あちこちが引き千切れている鎖かたびらを素肌に着て、腹には汗とあぶらで厚紙のようになった赤ん坊のおしめどころか雑巾にさえならないような汚ない古布を腹巻がわりに巻いている。その下はもっこふんどしというやつ。幅だけはいやに広いが、布地がくたびれきっているからだらりと下って横からかんじんな物が丸見えだ。はおっているものは元はあわせだったのだろうが、今は裏がすっかりとれてしまっているので実質はひとえの|小《こ》|袖《そで》。たっつけをはくもののこととて腰きりなのだが、そのたっつけはない。帯とも馬のたづなともつかぬものをふた巻きにして締め、それに火打石の入った袋をつるしている。 「刀はこれ」  さし出された刀というのがまたおそろしく長いもので、妙なことに刀身に両側から細い板を当て、ひもでしばってある。 「さ、さむらいかよ。これが?」  山賊でもこれほどひどいかっこうはしていないだろう。 「これでよいでしょう」  技術員は満足したようにおのれの作業の成果をながめやった。イナノがくすりと笑った。イナノはいつの間にか|茶汲女《ちゃくみおんな》の容姿に変っていた。 「それから、刀は腰にささずこのひもでななめに背中へ背負います」  技術員が刀をおれの背中に押しつけた。おれは悪魔に魅入られたように、わきから回されたひもを胸の前で結んだ。言葉にもならないなさけない姿だった。おやじが見たら手をたたいて喜ぶだろう。 「くそっ!」 「は?」 「こっちのことだ」 「町へ出るとわかりますが……」  イナノがとりなすように言った。 「慶長の役からまだ六年しかたっていないので、旧豊臣方の浪人たちや、その後、改易になった大名の家臣たちがあふれているんです。そのさむらいたちだけでなく、町人や百姓たちも、内心ではこれで世の中がおさまったとは思っていません。いずれまた戦いがあって徳川の天下がくつがえるだろうと思っています。幕府の内部組織があらためられたり、いろいろな布令が出て民生が急速に安定に向っているように見えますが、それは形だけのこと。実際はみんなが事が起きるのを待っているようなものなのです。だから武士たちの気性も荒いし、戦場をかけ回った時の姿のままで江戸の往来を歩き回っているようなありさまです。大坂方の敗残兵だというのをかくそうともしないしね。残兵狩りがきびしいというのはそう言わないと勝者の権威にかかわるからなのでしょうけれども、実際にはさいごまで戦ったつわものだというのを看板にしなければ新しい就職できないもの」 「そうかなあ。でも、武士は羽織はかまで大小を腰に、威儀を正していたものと思っていたが」  イナノはおかしそうに笑った。 「それは江戸時代も中期以後でしょう。さむらいがつとめ人になってからよ。それでもつとめが終って家へ帰って来るとずいぶんひどいかっこうでいたらしいけれどもね」 「でも、この刀はひど過ぎるぜ」 「あのね、戦場では刀のさやはじゃまだから棄ててしまうのよ。だからあとは板を当てておいたり、布でつつんだりするの。それはまた戦場で自分はこんなにはたらきました、というデモンストレーションでもあるわけよ」 「そうか。巌流島で宮本武蔵と試合をした佐々木小次郎が自分の刀のさやを投げ棄てた、というのもそれか」 「そうでしょうね。だいいち、刀をさむらいの魂だなんてぜんぜん思っちゃいないのよ。戦場へ行く時、ふところのあったかいのは刀を五、六本買ってなわでしばってかついで行ったり、刀が買えないのは棒を持ったり、|竹《たけ》|槍《やり》を持ったりして行ったのよ。人の刀を盗んで使うなんて平気だったらしいわ。そもそも百姓もできないし、商売するには元手もないし、何かを作るような技術も持っていないしというようなのがさむらいになったんだもの。生活のためだからきびしいわよ。武士の魂だの武士道だの言っていたのはずっと上の方の人たちだけよ。それも本気でそんなことを言っていたのかどうか」 「そういうものかなあ」 「あなたは新規召かかえの口をさがしている浪人というわけよ。それに、うでにおぼえの戦場生き残りのスタイルで徳川様御直参目当て、というところ」 「なるほど」 「そういうのが結局就職できなくて|町奴《まちやっこ》になってゆくのよ。ほら、|幡随院長兵衛《ばんずいいんちょうべえ》っていう人がいたでしょう。あれはもともとお寺や神社に力仕事をするための人を世話する斡旋業だったのだけれども、それがだんだん大名や旗本に人足や臨時の|御《お》|小《こ》|者《もの》を紹介する職業紹介所に変っていったのよ。そういったいわば日やといの臨時職員でも刀のふり回しかたぐらいは知っていなければならなかったのね。幡随院長兵衛の手下の|唐《とう》|犬《けん》|権《ごん》|兵《べ》|衛《え》や|夢《ゆめ》|野《の》|市《いち》|郎《ろ》|兵《べ》|衛《え》という人たちもほんとうは元はれっきとしたさむらいだったのよ」  おれはイナノに背をおされて部屋から出た。 「あなたはそうね、五十石ぐらいをねらっているわけよ。ほんとうはまだ、さむらいの間では貫目取りの呼び方がふつうなんだけれども、めんどうだから石高でいいわ」 「なんだその貫目取りというのは?」 「徳川幕府ができるまでは、さむらいの給料はお米の時価であらわしていたのよ。五十貫文とか、二百五十貫頂戴などというの。それが徳川の天下になって給料は知行で与えられるようになってからは百五十石とか、二百五十石とかお米のとれ高で言うようにあらためられたの」 「五十石というと、どの程度のさむらいなんだ?」 「かなりいい方よ。この時代では|歩《ほ》|卒《そつ》十七、八人をあずかる身ね」 「へえ!」  暗い小さな部屋を横切り、重い板戸に手をかけた。イナノの声の調子があらたまり、かすかに緊張した。 「外へ出ます。注意してください」  外にはやわらかな秋の陽射しがみなぎっていた。染めたような青い空に、真白な千切れ雲が浮かんでいる。その空の澄みきった美しさにおれはおどろいた。おれのいる東京とはまるっきりちがう。一度行ったことのある中生代の白堊紀の空の青さを思い出させる。  ふりかえって見ると、おれが今出てきたのは大きな白壁の土蔵だった。幾つもならんだ土蔵のむこうに、|勾《こう》|配《ばい》のゆるやかな板屋根が見える。 「あれが母屋。つまり回船問屋、美濃屋藤五郎のすまいです」 「美濃屋藤五郎?」 「この四三分局の主任ですよ」  イナノはふいにしなを作って|仇《あだ》っぽく笑った。 「ど、どうしたんだよ? 急に」 「どこで誰が見ているかわからないわよ」  イナノがささやいた。そうか。もうはじまっているんだ。おれもにわかに肩をそびやかせた。      4  町は活気にみちていた。新興都市らしく、いたる所で建築がおこなわれている。ほとんどが間口三メートル、奥行五メートルほどのいっぺん|嵐《あらし》でもきたら吹き飛びそうなインスタント住居で、その家の前に板を敷いてそこへあらゆる品物をならべて売っている。魚、野菜、まき、雑穀、そしてやたらに古着屋と刀剣・武具屋が多い。古着の中には豪華な縫い取りのあるうちかけや小袖、錦織りのはかまなどが混っている。 「あれは落ちぶれた大名や京都の堂上|公《く》|卿《げ》などから出たものでしょう」  イナノが眼で指した。刀剣屋の店先の、なわでからげた十数本の槍の中に、ひときわ目立った|螺《ら》|鈿《でん》の柄の業物がある。 「|剥《はぎ》|取《と》りの品でしょうね。たぶん」 「なんだ? その剥取りというのは?」 「戦場で戦死した武士のよろいや武器を盗んできて売るんです。あの槍は相当な身分の武将のものよ」  あき地で馬のせり売りをやっている。そのまわりに、おれのような姿の男たちがむらがっている。あちこちで共同井戸を掘っている。男や女が総出で土を掘り、もっこをかついでいる。まだ専門の井戸掘り人足というのはいないらしい。その土をおもて道路へ運び出して平らにならしている。その赤土が乾いて舞い上り、|馬《ば》|糞《ふん》といっしょになって目や鼻にようしゃなくとびこんでくる。  馬に乗ったさむらいが通る。これはおれの知っているさむらいの服装だった。黒の野ばかまに茶の無地に同じ色の皮でふち取りしたそでなし羽織。黒ざやの大小を腰に、黒足袋に武者わらじ。供の足軽を二人はさみ箱をかついだ仲間一人。おれはなんとなく安心した。かれならば、おれが時代小説のさし絵などで見たさむらいの姿に同じ。しかしもうひとつしっくりこないところもある。たとえば髪形だが、さかやきをずっとすり上げ、たぶさを太目にとったいわゆるちょんまげではなく、ただ髪を後頭部でひもで結んであとはただ背中へ垂らしただけなのだ。その点は今のおれと同じだ。 「あの頭がいけねえな」  思わずつぶやいたのが耳に入ったか、イナノが低い声で言った。 「ちょんまげではかぶとがかぶりにくいのよ。かれ、実戦型をてらっているのかしら、でも過渡期なんでしょうね。旗本ではさすがにあの髪形は少なくなってきているわ」  そうだろう。旗本八万騎がポニー・テールではさまにならない。  神田鎌倉河岸に近い地蔵木戸地割というのは、江戸城|竹《たけ》|橋《ばし》|口《ぐち》|駒《こま》|留《ど》めの北、妙正寺川にそそぐ掘割の南岸だった。この頃はまだ神田川という呼び方は無かったようだ。大坂の役後の江戸城の拡張整備工事と、その外周を占める重臣、上級家臣団の邸、組長屋の建築工事で戦場のようなさわぎだった。石工がいそがしく立ちはたらいている。おれたちはその間を縫って掘割にかかった土橋へいそいだ。イナノの姿にさかんに野卑な野次が飛ぶ。 「なんでえ、なんでえ! 昼間っから見せつけてくれんなよ!」 「|姐《あね》コ、姐コ。なま乾きであんべえよくねかべ! ふいてやっからこっちさあベ!」 「そういえばなんだか粘つくような音が聞えると思ったよ。おめえが歩くたんびに聞えるんだなあ」  どっと笑いが上った。女の連れがさむらいだろうがなんだろうが少しも気にかけるそぶりもない。 「あれで腹を立てたらたいへんよ。あの連中はみんなこれまでに二人や三人は殺してるのよ。いっぺん戦いが起きればたちまち足軽にでもなって出かけてゆく連中よ」  掘割にかかった土橋のかたわらに大きなごみ棄て場があった。ありとあらゆるごみが山のように棄ててある。無いのは人間の死体ぐらいだろう。あるいはそれとてごみの山を掘りかえしたら出てくるかもしれない。  ここではたらいている職人や人足の身元を一人一人洗うことはほとんど不可能に近い。 「ここでは毎日、百人近いけが人が出ているわ。トラバスやサジ、フィフはそのけが人を洗っているわ。ペニシリンを使っている医者がいるのではないか、と考えているの」  あり得ることだ。 「医者の名簿はあるのか?」 「ええ。作事奉行支配、つまり軍医あつかいでここへ出入りしている医師は全部で十八名。その見習いが三十三名。けが人が家へ帰って医者にかかるということはないから、さし当ってねらいは十八名です」  この工事に関係している職人、人足は江戸市中に家族のいる者でもみな|本《ほん》|郷《ごう》や|四《よつ》|谷《や》などに設けられている小屋に寝泊りしている。つまり飯場住いだ。 「トラバスたちの調査の現状では見込はどうだ?」 「さあね。一回目はオール白だったの。今洗い直しているところよ」  よほど見落しでもないかぎり、結果は同じだろう。 「自分で使うつもりで持っていたものを落した。それをひろった者がここへ棄てた、とも考えられる」 「ユイがその説なのよ。でも私は反対だな。ペニシリンのアンプルだけ落した、というのはおかしいわ。たとえば財布に入れておいたものならば財布ごと落すわけでしょう。金だけぬいてあとは棄てるなら財布だって落ちていなければ。トロイの調査では財布はどこにも落ちていなかった。ひろった財布はそのまま持っているのは危険だもの。もし見つかったらたちまちばっさりよ」 「でも、同じ形や模様の財布はたくさんあるだろう。何とでも言いのがれはできるんじゃないかな」 「ねえ。あなたのいる時代とはちがうのよ。財布でもなんでも手作りなのよ。同じ物が二つとはないと言ってもよいでしょうね。それと、周囲がすぐ気づいてうるさいわね。今まで持っていなかったような物を急に持つとまわりがなんか言うわ」 「人の物を奪ったり、盗んだりにはそれほどやかましくはないんだろう?」 「なかまうちでそれをやったらだめね。同じ作事場で〈めしを食っている〉人間としての妙に強い連帯感があるのよ。かれらには」 「なるほど」  なに者だろう? ここへペニシリンのアンプルを棄てにきた者は? おれはその時点へタイム・マシンで飛んでみたくてたまらなかった。しかしそれは非常に危険だった。それをやったら、時間密航者に、ここにタイム・マシンを持っている者がいる、と教えてしまうことになる。タイム・マシンがはたらいた時に放射される超重力波は、近くにあるタイム・マシンに、ちょうどレーダーの敵味方識別装置に似た信号を与えてしまうのだ。それはまた、同時に同じ地点に二人の人物が出現するという破滅的機会をも避けさせることになるのだが。  使わずに棄てた——そのことがおれの心にくいこんで離れない。そのことに、何か重大な手がかりがひそんでいる。それは確信に近いものだった。 「どう? 何かつかめた?」 「さあ、行くか」  現場はひととおり目におさめた。ここにはすでに聞いた以上のことは秘められていないようだった。  おれたちは、戦場のような|喧《けん》|騒《そう》の作事場をつぎつぎと通りぬけてふたたび木戸口へもどった。小引出しの引手をかたかたと鳴らしながら定斎屋が通る。雑木の小枝を束ねた|焚《たき》|付《つ》けをかついだ芝売りが行く。大八車を引いた手間取り。昼間から赤い顔をした仲間。いずれも|陽《ひ》|灼《や》けした顔やうでから土の匂いがぷんぷんと立ち上るようだ。関東の在から上ってきた一旗組であろう。  おれは堀留に近い御膳町はずれの木賃宿に上った。このあたりから東は|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》、南は八丁堀、|新富町《しんとみちょう》から入舟地割にかけて大規模な埋立作業がおこなわれている。これは海から攻められた場合、直接、江戸城の城壁にとりつかれるのを防ぐための防衛縦深をひろげる意図のもとにはじめられた工事だが、これがやがて京橋、|築《つき》|地《じ》、明石、|湊《みなと》などの町々になってゆくのだ。|佃島《つくだじま》や|霊《れい》|岸《がん》|島《じま》などはまだ名のとおりの葦の生いしげった洲と呼んだ方がふさわしい低い島だった。八丁堀ふきんもようやく埋立後の整地が終り、八丁堀御長屋と称する江戸町奉行所寄子、つまり下級吏員向の住宅の建設がはじめられている。後年、八丁堀同心で代表される一画だが、これは東京都職員用の公務員住宅といったところだ。八丁堀同心のすべてが警察職務に従事していたわけではなく、多くの下級武士たちが、交代で奉行所につとめる町役人とともに江戸町奉行所にあって、人頭、各種鑑札の発行、水利、商品監察、公共土木、施療などの現場実務に従っていた。それが組織化されてゆくのはずっとあとのことだ。  おれは二階の破れ障子を開き、長い間そのたとえようもないそうぞうしさと、荒々しさと、野卑と、けものじみたエネルギーと、底ぬけの明るさをながめおろしていた。ここには新興開発都市の持つあらゆる人間臭さと、期待と、欲深さがあった。これにくらべれば、|鹿《か》|島《しま》や、|新《しん》|成《なり》|田《た》空港周辺、新幹線停車予定都市のから景気の良さなど比較にもならない。 「おさむれえ。その障子、しめてくんねえか。夕風はまだ肌にしみらあ」  ふりかえると行商人らしい男が薄いあわせのえりをかきあわせて、開かれている障子にあごをしゃくった。 「おお。これは気がつかなかった。すまん」  おれはいそいで障子をしめた。さむらいに向ってずいぶん無礼な口のききようだが、イナノの言うように、この時代の江戸ではこれがふつうなのかもしれない。 「おさむれえは仕官の口さがしかい?」  男はおれの頭のてっぺんから爪先までの遠慮のない視線を上下させた。 「ああ。なかなか思うような所がない」 「おれも五、六年前まで西の方で仕官していたんだが、江戸へ行けば|商人《あきんど》でも食えると聞いて、刀を棄ててやって来たんだ。ここでは結構、物をひさいで暮してゆけるぜ」  おまえもそうしろという口ぶりだ。 「ほう! おまえはもとはさむらいか。どこの大名につかえていたんだ?」 「大名なんていうようなものじゃねえ。戦さがなくなればとても食ってゆけねえような小せえ国だ。大坂夏の陣でうまい攻め口に当らなかったのが不運のはじまりだったなあ。後づめの後づめ、大坂方の足軽一人、見かけねえうちに戦いは終りよ。殿様も御恩賞にあずかるわけでもねえし、もちろんおれたちも加増どころのさわぎじゃねえ。本領|安《あん》|堵《ど》まではいいがそのうちに国がえときた。表高は二万石ほど多かったが実質はそれまでより八千石ほど減った。新田開発成就のおりはあらためて加増ということで家臣一同|丁戴分《ちょうだいぶん》から八つに一つ御借上ときたもんだ。これでいってえどうやって食ってゆくね。そうでなくてさえ大坂攻めにはみんな、ないしょで金貸しから借りているんだ。殿様のためもあらあ、刀のひとふり槍の柄一本もよけいに持ってゆきてえやな。それがこのありさまだ。新参はむろん譜代からもしばらくのおひま丁戴の願いがうんと出たぜ。しばらくのおひまといっても、他国へ行って仕官しようという腹だ。重臣たちもそれは承知してらあ。かえって口ベらしができたというものだ。早速おゆるしが出て、そうよな、百人ぐれえが逃散同様で走り出たぜ。越後中将様、藤堂様、池田様、井伊様などが新規御召かかえをやっていたもので、かなりの人数が仕官できた。おれはいっそ徳川様旗本と思って江戸へ出て来たんだが、江戸へ来てみれば、なにもかけずり回ってさむれえの仕官の口をさがすことはないものな。|商《あき》|人《んど》になってかえって気が楽だ」 「そういうものかな」 「そうよ。それにしても、殿様が攻め口のいい所にありつかなかったばっかりにえらい苦労をしたぜ。おれたちは」  それだからこそ、生命を長らえて江戸で小商人でもやっていられるのではないか。天下分目の戦いが終ってから新たに家臣をつのるというのは、実はいかに多くの戦死者を出しているかがわかる。  おれは頃あいを見て階下へ降り、酒を買ってきた。男にすすめ、おれも飲んだ。  つぎの日、おれは一日中、江戸の市中を歩き回った。何も収穫はなかった。分局との定時連絡では、トラバスやユイたちも停滞しているらしい。  つぎの日は午後から雨になった。江戸の市中はいたる所泥の海となった。埋立地や工事中の切通し、江戸城拡張工事現場などから飛んできた赤土や砂ほこりが雨に流され、こねまわされ、ひざ下まで没するほどのありさまだ。それでも人の動きは変らない。材木を積んだ大八車を、十数人で前を引き、後を押し、まるで泥人形のようになって通ってゆく。馬の背に山のように荷物を積み、その馬も、それを引く者も、色も形も異なるほど泥で塗りたくられ、おめきさけびながら押しわたってゆく。男もいれば女もいる。子供もいる。あらゆる方言や奇異なかけ声、意味の不明な呼び声、怒声などがひとつになって、わあわあ、がやがやと江戸の市中にあふれている。おれもかれらのなかま入りをして雨しぶきと泥の海の中へさまよい出た。しかし五分ともたなかった。おれは腹の底までずぶぬれになり、冷え上ってほうほうのていでもとの木賃宿へ退却した。裏の井戸で頭から水をかぶり、ふんどしひとつになって二階へ上った。なるほどこれでは羽織もはかまもびんつけ油もあったものではない。草もち売りが来ていた。越後から来たという織物商人と|馬《ばく》|喰《ろう》が二人。座頭が一人。江戸へ上って来たこうじ職人が一人。それとおれの六人が雨に降り込められたなかまだった。西国逃散の浪人上りは朝からあきないに出ていた。おれはみなに草もちを一個ずつふるまった。 「……地蔵木戸地割の作事場で水門をあけたら|死《し》|骸《がい》が流れ出てな。それが堀へ出ねえであふれた水といっしょに紀州様の御作事同心の小屋へ流れこんでよ。いや、えらいさわぎだった。それが青んぶくれの死骸でよ」  草もち売りの男が、身ぶり手ぶりよろしく切り出した。それがおれの心のどこかにひっかかった。 「地蔵木戸地割だって?」 「ああ。竹橋口駒留めのよ。土橋の|下《しも》に水門があるだろう。朝からの雨で水があふれてな。それで水門を上げたら、水門の一丁ほど|下《しも》で堀を止めてあったからいけねえやな」 「その死骸というのは身元はわかったのか?」  草もち売りはけげんな顔をした。 「行倒れでもさがしていたのか? おさむれえは」  とっさにおれはうなずいた。 「ああ。同郷の者でな。酒に酔って作事小屋からぬけ出してそれきり行方しれずになったやつがいるんだ」 「それじゃ違うな。係りの役人が扱いの医者に見せたところ、|西《にし》|窪《くぼ》|見《み》|付《つけ》ぎわに住む同じ医者なかまの|本多秋庵《ほんだしゅうあん》とわかった」 「本多秋庵?」 「やっぱり知っている人け?」 「いや、ちがう。それで、その本多秋庵という医者はなんで堀に沈んでいたんだ?」 「やられていたのよ。ばっさりとな」 「やられていた?」 「小金を持っていたそうだからな」 「そいつは作事方と関係があるのか?」 「もと小西行長様にかわいがられていたとかで御作事奉行支配からは除かれていたそうだ。うでの立つ医者だったそうだが」 「沈んでいたのか……」 「どうした? おめえがやったのか?」  草もち売りは急にしげしげとおれを見た。「ふところに銭は無かったと。どうだ。もう少し買わねえか」  小金を持った医者のふところの中身がそのままおれに移ったかのように、草もち売りはおれの胸のあたりに視線を当てた。 「どうだい? みんなにもう三つずつもおごりなよ」 「ばかやろう! おれがやったんじゃねえや」  おれは機嫌を悪くしたふりをして立ち上った。後でどっと笑い声が上った。おれはみなからは見えない物かげに移ってイナノを呼び出した。      5  翌朝、イナノがやって来た。雨はもう止んでいたが、泥田のような街路は変らない。イナノは着物のすそをひざの上までたくし上げ、白いももをちらちらさせながらはだしで泥の中をこいでゆく。 「よお! 泥かぶり観音!」 「なあに。お連れのお刀でほじくってもらわあ」  たちまち行きずりの声がとぶ。 「なにさ! お江戸じゃね、泥だらけのなすびなんざ売り物にもなりませんようだ!」  イナノもふりむきざまにあびせる。その時代の人間になりきるというのも楽ではない。  西窪見付は、おれの駐在している時代では港区|西久保巴《にしくぼともえ》町と名前が変っている。同じ明舟、桜川、城山、広、さらに|葺《ふき》|手《で》、|琴《こと》|平《ひら》などを合わせて江戸城の最終外郭防衛線の西の拠点を占めている。行ってみるとここも江戸城拡張工事の余波がおよんでいて、開府以来、雑然と立ちならんでいた掘立小屋のような家屋がさかんに取りこわされている。このあたりは壮大な大名屋敷が立ちならぶらしい。民家は芝から|高《たか》|輪《なわ》、品川へと追い立てられたかっこうになっている。その西窪見付の西の雑木林にかくれた一角に、十数戸の家が身を寄せ合うように取りこわしをまぬがれて残っていた。その一軒にイナノが入っていった。二十分ほどしてもどってきたが、その顔が明るい。 「どうだった?」 「本多秋庵はかなりの名の通った医者だったらしいわ。患者も裕福な家の者が多く、高禄の武士の家にも出入りしていたそうよ」 「最近、何か変ったようすはなかったのか?」 「|鮫《さめ》|島《じま》|新《しん》|九《く》|郎《ろう》という旗本の家へ出入りしていたのだけれども、最近、出入りを止められてたいへん怒っていたそうよ」 「出入りを止められた?」 「本多秋庵の家というのはすでに取りこわされているんです。秋庵は高輪に家を見つけて引越すことになっていたんだそうです。家財道具はもう運んでしまって、薬箱だけを近所にあずけて、この|界《かい》|隈《わい》の患者回りをやっていたらしいわ。それでいよいよ明日は完全に高輪へ移るという前の晩に、鮫島新九郎のやり方がどうしても気にくわない、もんくのひとつも言ってやりたいからといって出かけたそうです。それきり現れないので、あずかっている薬箱を持って高輪の家をさがして行ってみようかと思っていたところだったんですって」 「その話はたしかだろうか?」 「私が今のぞいた家のお婆さんというのが、秋庵の家のめしたきをしていたのだそうです。秋庵は芸州の人で家族もなく、近所でいろいろ世話をしていたのだそうです。評判はいいようね」 「鮫島新九郎の家をさぐってみよう」  おれたちは海岸へ出て|塩《しお》|釜《がま》神社の門前町へ入った。板ぶき屋根に石をのせた低い家並がどろをかぶってつらなっている。家々の敷居に近い方を高く、道路の中央が低くなっているためにそこが排水溝になって水がたまっている。道路をはさんで一方の側の家の前から反対側の家の前へ、薄板がわたしてある。それがまるですのこ張りの道路のように見える。そこを人がわたるたびに板がしなって高く泥水がはねる。そばにいる者にはたいへんな迷惑だが、いっこうに気にするようすもない。イナノは一軒の店へ入っていった。つづいておれも入るとそこは|武《ぶ》|鑑《かん》屋だった。イナノは武鑑を一冊買うと、上りかまちに腰をおろした。ぱらぱらとめくっていたが、 「あった、あった。ええと。鮫島新九郎藤原信行。幼名市次郎。雪山と号す。二千五百石取りね。御先手三番組組頭か。先代新八郎長行は甲州石和の地侍でかなりの勢力を持っていたようね。安藤重信の手をへて次子新九郎信行を出仕させ、旗本に組入れられた、とあるわ。それから、と。三男ありか。長子新十郎孝行は千二百石で御先手三番組に属す。なんだ。おやじといっしょか。ざっとこんなところね」  イナノは武鑑から顔を上げた。 「その鮫島新九郎と本多秋庵の関係はなんだろう?」 「さぐってみましょう」 「鮫島新九郎の家はどこだ?」  イナノは店の奥に向ってのび上った。 「御旗本の鮫島新九郎様の家はどこだえ?」  水っぱなをたらした馬面がのぞいた。 「鮫島新九郎? さあてね。御係はよ?」 「御先手三番組組頭」 「鮫島新九郎という名前は知らないが、御先手三番組の組屋敷なら上野|御《お》|徒《かち》町よ。組頭もその中に住んでいるはずだな」  武鑑屋の主人だけにくわしい。おれたちは門前町を離れて上野へ向った。日比谷の入江に沿って、銀座の設けられた埋立地をぬけ、江戸城南大手の石垣の下をするようにして京橋口木戸へ入った。台風でもきたらこのあたりは一面に汐をかぶる所だ。しかし江戸城で南北に分断された形に拡大したこの頃の江戸では、日比谷から四谷を通って飯田へ|迂《う》|回《かい》する山あり、谷ありのコースはめんどうとばかりに、みな、海沿いの湿地と埋立地を通って芝から日本橋、神田方面へ直行する。そのため、|葦《あし》におおわれた海沿いの湿地や、赤土をむき出した埋立地はいつの間にかメインストリートになってしまった。行き交う男や女、荷物を山のように積み上げた牛車。大八車。すき、くわをかついだ土工のむれ。馬に乗ったさむらい。物売りなど、ちょっとした町の祭りの人出ほどのにぎわいだ。人々が踏みならしてできた自然の街道の両側には板をならべて食物屋まで出ている。おれたちはそうした店のひとつに寄って粟もちと大根の煮つけで昼食をとった。  本郷の山から上野の山へつづくだらだらの尾根づたいに進み、湯島へんから下って|不忍《しのばず》の沼地へ出た。満々とひろがる水面にのぞむ低い水田や畑地をぬけると、ここも新開地で板ぶき屋根に丸太の柱、土壁にむしろを下げたひっつぶれたような小さな家が立ちならんでいる。その間に本建築の大きな家がそびえている。普請場から聞える|槌《つち》の音がにぎやかだ。往還を進むと、|木《もく》|柵《さく》が結んであり、その奥が御先手組御長屋。番士も何も立っていない木戸を通って中へ入る。おれと大差のない服装の武士がやってきたので組頭の家を聞くと、立ちならんだ御長屋のむこうのこれはやや結構に手を加えた一戸建ての家があった。この家だけ生垣が回してある。自然の|藪《やぶ》を垣の内にとりこんだ庭の繁みごしに家の中をのぞきこんだが、中のようすは何もわからない。裏へ回ると、勝手口に接して中庭へ通ずる小さな門があった。その奥が主家とは別棟になっている|仲間《ちゅうげん》部屋らしい。手甲、脚絆に|半纏姿《はんてんすがた》の若い仲間が箱をかついであらわれた。おれはその男に近づいた。 「これ。ちとたずねるが」 「へ」 「組頭殿の御身内でどなたか、ふせっておられると聞いて、もしそれがまことであれば御見舞いに参上いたさねばならんと思って、かく参ったしだいであるが、いかがであろうか?」  おれはせいぜい武張ってたずねた。 「いや。われは組頭殿を通じ、新規御召かかえを願っている者だ。ここで礼を欠いては願いの筋もあやうくなることゆえ」  おれはふところから小粒を出して仲間の手ににぎらせた。これは不注意なほどの金高だったが、仲間はおれがこの仕官の口に懸命にすがりついているとみたらしい。 「これは滅法な下されよう。ありがたくいただきます。おたずねのことでおじゃるが、実は」  仲間は声をひそめた。 「御長男様がふとしたいさかいから同輩と果し合いをなされての。幸い、間に立ったお人があって大事に至らず、双方刀を納めたものの、御長男様には|高《たか》|股《もも》に深傷を負われて一時は殿様はじめ、御身内の方々もこれまでと思われたほど。ところが御医師の手当がよろしかったせいか、その後はめきめきと快方に向われ、みなみな様もほっと|安《あん》|堵《ど》いたしました」 「おう。それはそれは!」 「しっかり御内聞のことゆえ、よしなに御願いいたしまする」 「おう。わかっている。わかっている」 「それではごめんなさいまし」  仲間は小腰をかがめて行こうとした。おれは急に思いついたふりをして呼び止めた。 「いや。これはついでながら、うかがいたいが、それほどの名医、どこのどなたじゃな」 「上野、市兵衛小路の御医師、秋山有心殿と聞いております」 「ほう。秋山有心殿とな。ありがとうござった」  翌日、おれたちは上野、市兵衛小路へ向った。|秋《あき》|葉《ば》の|原《はら》に近いと聞いて出かけたが、いがいにも寺ひとつへだてて昨日歩いた御先手組御長屋の柵内がのぞまれた。市兵衛小路ふきんは埋立地や新開地とちがって、本格的な造りの商家が立ちならんでいた。通行人に聞くと秋山有心の家はすぐわかった。今日は町娘に扮したイナノが早速、聞込みにかかった。その間におれはもう一度、御先手組組頭、鮫島新九郎の家で起ったできごとについて洗い直した。昼頃、おれたちは不忍の池に近い広小路木戸口の茶屋で落ち合った。 「ね、秋山有心の家に泥棒が入ったんだって! どう、このニュース」 「なんだって? それはいつのことだ?」 「本多秋庵が鮫島新九郎の家へ行くと言って出た夜よ」  おれは頭の中で、何かが音を立てて組み合わさるのを感じた。 「何を盗まれたんだ?」 「秘伝の高貴薬が盗まれたそうよ」  イナノの目がきらきらと光っている。 「おれの方でもひとつわかったことがあるぞ。新九郎の息子の傷に使った薬は、秋山有心が持って来たものではなく、鮫島家秘蔵の薬を使い、有心はただ縫合などをしただけらしい。新九郎はその薬に関しては有心に固く口止めをし、多額の謝礼を払ったようだ。鮫島の家に古くからいるという女中に金をつかませたら、誇り顔に薬のことをしゃべった」 「すると、新九郎と有心と秋庵の関係は?」 「新九郎の秘伝薬を中心にして考えるとどうなる?」 「結びつく可能性は五分五分ね」  一、重傷の新十郎の生命を救ったといわれる秘伝薬とは何か?  一、有心の家に泥棒が入り、秘伝の高貴薬が盗まれた。  一、その夜、かつて新九郎の家に出入りしていた秋庵が殺された。その近くにペニシリンのアンプルが落ちていた。 「ペニシリンのアンプルは新九郎の家から出て、有心の家へ、そして秋庵のふところへ移った、と考えられないか?」 「すると、秋庵を殺したのは……」 「有心か。盗まれたペニシリンをとりかえそうとしたのだろう。有心の家と秋庵の殺された地点、秋庵の家の三点を結びつければうなずけなくはない。時間的にも合う。それに秋庵の殺された場所は、西窪へぬけるには絶好の近道だ。それにあそこはけんかさわぎがあっても起き出る者もいないだろうし。しかし秋庵は殺したものの、アンプルは発見できなかった」 「アンプルが無くなったのを新九郎は気がつかないのかしら?」 「なんだって?」 「有心は新九郎から使うように与えられたアンプルを幾つか、こっそり持ち出したんじゃないかしら?」  おれは思わず立ち上った。 「来い! イナノ」  おれたちは分局へ飛んで帰った。いそいで捜査会議が開かれた。おれたちの持ち帰った材料をもとに、幾つかの仮定が組み立てられては解体され、解体されては練り上げられた。そして、ひとつの作戦が打ち立てられた。サジはいそいで甲州へ発った。  夕方、ユイたちが町に散っていった。その夜は久しぶりにおれは分局の片すみでぐっすりと眠った。  翌日、夕方ごろ起き出しておれは上野、市兵衛小路へ向った。その頃御徒町界隈では有心の家に泥棒が入って秘蔵の高貴薬が盗まれかけたといううわさがしきりにささやかれていた。  ふきんをぶらぶらして時間をつぶし、午後八時ごろになってからおれはこっそりと秋山有心の家の裏木戸から忍びこんだ。いったん屋根に上り、天窓のかまちに油を流してきしみを殺し、そっと押し開けて台所の床へとび降りた。奥の部屋で何か調べ物をしていた有心も、八時半頃には寝についた。灯は貴重品だ。午後九時ともなれば町は全く人通りが絶え、何の物音も聞えない。犬の|遠《とお》|吠《ぼ》えだけが妙に|淋《さび》しくひびく。おれは有心の寝ている部屋につづく廊下のはずれの板壁に体をはりつけてじっと待ちつづけた。一時間。二時間。夜回りの打つ拍子木の乾いた音が遠く、むなしい余韻を引く。もう午前一時を過ぎたろう。おれは待った。  とつぜん、それまで重くよどんでいた廊下の空気がかすかにそよいだ。有心の部屋の前に、一個の人影がまぼろしのようにあらわれた。人影はしばらくの間、影のように動かなかったが、やがてそっと障子をあけると、右手ににぎった小さな物体の先端を部屋の内部へさし入れた。そのとき、おれははじめて動いた。 「動くな! 時間密航者!」  おれがさけぶと同時に、かれは身をひるがえした。一瞬、ざっ! と空気が鳴った。おれは雨戸を|蹴《け》り破って頭から庭へころげ出た。おれの上にふわりと倒れかかってきた雨戸に、一面に短い銀の針が突きささっていた。ふたたび空気がはためいた。おれは雨戸をはねのけると、一動作でもとの廊下にもどった。床に|貼《は》りついて|超 音 波 銃《スーパーソニック・ガン》をぬいた。射角をしぼり過ぎていたためにビームが糸のようにほそくなってかれの体すれすれに走っても効果が生じない。おれは左手をそえてレバーを操作したがあわてているのでうまく調節できない。しまった! やつはタイム・マシンをセットしている。つぎはスイッチだ。早く! 逃げられてしまうぞ! おれは火のような焦燥にかられた。おれは夢中で引金を引いた。引きながらビームを拡散させる。思いきって九十度まで広げた。効果範囲は前面いっぱいに広がったがやつの神経に与える衝撃はぐっと弱まった。しかしやつの指はしびれタイム・マシンの微妙な調節が不可能になった。 「抵抗すると射殺するぞ!」  やつが低く何かさけんだ。すばやく右手が動いた。小さな物体が空気を切って飛んできた。おれはその下をかいくぐってふたたび庭へ跳んだ。白熱の|閃《せん》|光《こう》が夜の闇を引き裂き、爆風がおれた柱やくずれた壁を吹き上げた。みるみる屋根ががっくりと傾いた。二度。三度。板ぶきの屋根が火の粉をまき散らしながら暗い夜空をたこのように舞った。|手榴弾《てりゅうだん》だった。燃え上るほのおの中から秋山有心がけもののようなさけびを上げて走り出てきた。その髪も着ているものも、ほのおにつつまれている。もうひとつの人影が火光を背に、庭から街路へ逃れようとしている。おれはそれをソニック・ビームにとらえながら走った。やつにタイム・マシンを操作させてしまったらおれたちの負けだ。 「まて! 鮫島新九郎!」  やつは走りながらタイム・マシンをセットしようとするが、指がしびれているので思うようにダイヤルを回すことができない。おれは|超 音 波 銃《スーパーソニック・ガン》を投げ棄てるとやつの背にタックルした。やつはタイム・マシンをあきらめると、電光のように|脇《わき》|差《ざし》を引きぬいた。一瞬、早く、おれのタックルがきまって、おれとやつの体はひとつになって地面にころがった。二人の力が同じ方向にはたらいておれたちは上になり下になり、とめどなく回転して庭木の根元にどしんとぶつかった。息が止まるかと思った。おれのわずかな力のゆるみに、やつは脇差を逆手ににぎりなおすと、するどく下から突き上げてきた。おれはこうもりのように飛び離れた。やつは脇差を片手青眼にかまえるとたったひと足でおれのふところにすべりこんできた。おれの胸もとを、刀風をうならせて脇差の刀身がかすめた。おそろしい使い手だった。やつは完全に鮫島新九郎になりきっている。ただ姿、形を似せてすりかわっただけでなく、ほんものの鮫島新九郎と同じように剣の修業も積んだものとみえる。御先手三番組組頭としてほんもの以上に力量を発揮してきたのだろう。こういうのがいちばんやっかいなのだ。時間密航者としてもっとも時間局泣かせのしろものだ。  有心の家は完全に火につつまれた。かけ集ってくる人々のさけび声が高く低く聞える。 「火事だぞう!」 「切り合いだ、切り合いだ!」 「いや。押し込みらしいぞ!」 「取りおさえろ!」  刀や棒切れなどを持った人影がばらばらと庭へとびこんできた。この時代の人々は後の世の、ただの火事場の弥次馬というわけにはいかない。切り合いと見れば思わぬ楽しみとばかりに自分も刀をふるってその切り合いに加わろうという連中ばかりだ。  ちくしょう! 情況はますますやつに有利になってきた。おれは焦った。はげしい動きで、|超 音 波 銃《スーパーソニック・ガン》による指のしびれがとれたのだろう。やつの左手がすばやく腰のタイム・マシンにすべった。 「逃がすものか!」  おれは体を丸めて突進した。おれの眼の前から、やつの姿がけむりのように消えた。おれもいそいでタイム・マシンのスイッチを入れた。超重力波の残存干渉がかすかな空間のゆがみを残している。おれはそれに指数を合わせた。 「取りおさえろ!」 「やっちまえ」  荒々しい声がおれにとびかかってきた。ふりおろされた丸太がおれの体に激突する一瞬、おれはスタートした。  青白い光の玉が幾つも空中に浮かんでいた。淡い光の幕が、暗い天と地を単色に染め上げ、その間を無数の小さな火球が入り乱れて飛び交っていた。前方ではげしい閃光がはためき、大きな樹木が破片を散らしながらゆっくりと倒れていった。ふたたび閃光が走り、その光の中で幾つかの大きなテントが爆風にあおられて怪鳥のように夜空に舞い上った。そのときになって、はじめておれはごうごうと耳を打つすさまじい音響に気がついた。大地が大波のようにゆれる。おれの周囲を、するどい口笛のような音響があとからあとから通り過ぎた。  ちゅ、ちゅん、ちゅいーん!  ダダダダ、ダダダ……  はげしい機銃掃射だった。おれは血が凍りつく思いで走った。足がもつれて思うように動かない。弾丸は確実におれを追ってくる。おれは積み上げられた木箱のかげに這いこんだ。弾丸に削り取られた木くずが飛び散った。砲声や銃声が渦巻き、手榴弾の|炸《さく》|裂《れつ》|音《おん》がたえまなく大気をふるわせた。 「ここはどこだろう?」  おれはそっと首をのばした。照明弾の青白い光の中に、テントの屋根に描かれた大きな赤十字のマークが見えた。そのテントの中から、負傷者を背負った兵士たちが走り出てくる。アメリカ兵だった。 「切りこみだ! ジャップの切りこみだぞ」 「いそげ! 海岸まで退却だ!」  そうか! 一九四三年頃の南太平洋のどこかの島。今は太平洋戦争のさなかなのだ。  燃え上るテントを背景に、負傷者を背負って走る兵士たちの姿が、影絵のようにつづいた。ここは前線に近い野戦救護所なのだ。そのとき、燃え上るテントに向って走る一個の人影を見た。 「やつだ!」  おれも弾丸のように走った。やつが何をねらっているのか、おれにはよくわかった。ペニシリンだ。燃え上るテントの中からペニシリンを盗み出してまたどこかの時代へ高飛びしようとしているのだ。おれは散乱している器材の中から短機関銃をすくい上げた。 「止れ! 鮫島新九郎!」  もういっこくのゆうよもならない。おれは引金を引いた。銃身がおどってやつはたたきつけられたように大地に倒れた。おれは引金に指をかけたまま近づいた。やつはまだ息があった。 「おれたちが町に流したうわさによって、おまえはペニシリンが有心によって盗まれたことに気がついた。そしてわなにかかった。新九郎の息子たちに化けたおまえのなかまたちも、今頃は捕えられたはずだ。うまく化けおおせたつもりだったろうが、甲州在地の鮫島新九郎は家康の江戸開府以前に死んでいるのだ。長男の新十郎は出家して武州児玉で寺の住職になっていたよ。本多秋庵という医者が、有心の家からペニシリンを盗み出し、有心に追われて切られた。その時、ペニシリンをごみすて場にすてたのよ。それを時間局のパトロールが発見した、というわけだ」  時間密航者の顔がゆがんだ。なまじペニシリンなど持ち出さなければ鮫島新九郎とその一族として歴史の中に溶けこんでゆけたものを。  新しい銃声がわき起り、おれの周囲に弾丸が雨のように飛んできた。 「突込め!」 「突撃!」  けもののような喚声がどっとわき上った。銃剣をきらめかせて日本兵が突込んできた。おれは新九郎に化けた時間密航者に銃弾をあびせた。血と肉片が飛び散った。おれをめがけて何人かの日本兵が突進してくる。 「さあ、早く」  背後からイナノの声がおれをせき立てた。その手の|超 音 波 銃《スーパーソニック・ガン》が蜂の羽音のようなかすかな音響をまき散らした。棒立ちになった日本兵の手から銃剣が地に落ちた。その間に、おれたちは一九四三年の南太平洋の戦場を離れた。  分局にはすでに全員が帰ってきていた。新九郎の息子をよそおっていた時間密航者のなかまたちはすべて捕えられ、すでに支局に送られていた。 「秋山有心がペニシリンに気がついたのは医者として当然だが、それをこっそり手に入れようとさえしなければ、かれらの存在は知られなかったかもしれない」  主任が深い息を吐いた。 「おれたちの方からやつらに先制攻撃をかけることはできないんだからなあ。いつも後手後手なんだ」  ユイが肩をすくめた。 「いや。時間密航者はいつでも潜入はできるが、いつかは必ずその存在の|痕《こん》|跡《せき》を示すものだ。われわれはじっとそれを待っていればいいんだよ」 「じっとね」  乞食姿のフィフが汚ない手ぬぐいをかぶりなおした。 「さあ、またはじめるか」  おれも帰らなければ。おれはみなに別れを告げた。 「さよなら」  イナノが小さく手をふった。 「……いつもこごとばかり言われているんだ。少し自分で気をつけたまえ」  係長は短くなったたばこをぐいと灰皿にねじりつけた。おれはそっと事務室のドアを開いた。格納庫のような薄暗い出荷場の奥から見えるおもての街路が焼付オーバーなカラー写真のようにどぎつい鮮明さでおれの眼にしみた。 「おう。もう十二時半だ。竹島くん。めし食いに行こうか」  係長の声が聞えた。 「さようでございますね。十二時三十一分ですか。まいりましょうか」  さあ、また出荷場の仕事がおれを待っている。 「平石さあん! ラーメンのおかね! 忘れちゃだめじゃないか」 こっちでは青山の婆さんが声を荒げていた。     勝軍明王まいる      1  この|羽衣《はごろも》横町|界《かい》|隈《わい》をシマにしている菊川一家の若い衆が錠をかけた細長い通箱をさげて顔を出した。 「おばんです」 「あら。もうそんな時間!」  敏子はサラミソーセージを盛りつけていたはしを止めて、若い衆が半開きにしたままの店の格子戸の外に目を放った。さっきまで、店のむかいのせまい駐車場にならんだ車の窓を紅く染めていた夕焼けはうそのように消えて、それにかわって、私鉄の高架線のガードの下の安キャバレーのネオンがアコーデオンのようにのびちぢみしていた。  敏子はカウンターの端の胃散の|罐《かん》の中から百円硬貨をとり出すと、通箱のふたの、|相《そう》|馬《ま》とへたくそな字で書かれた仕切りの落し口から中へ落しこんだ。羽衣横町は一間幅の露地をはさんで片側十五軒の|店《たな》がならんでいる。そのすべてがあいまい屋じみた一杯飲屋なのだが、二、三年前から菊川一家がとりしきるようになり、毎日、夕方の六時頃になると中を三十に仕切った細長い通箱が回ってくるようになった。 「|姐《あね》さん」 「なんだい?」  若い衆がわずかにあらたまった口調で何か言いかけたときはしからすべったソーセージがカウンターの板の上をころがった。若い衆の視線が無邪気にそれを追った。 「あ、とまった。落ちるかと思った」 「何言ってるんだよ。あらたまってなんだい?」 「ええとね。来月から仕切り代が百五十円になりますから」 「百五十円に! ねえ、ちょっと。いいかげんにしなよ! こんな小さいあきないでひと月に四千五百円もとられてどうなるってのさ! かってにそんな仕切り代が百五十円になりますなんて言ったってだめだよ」  敏子はソーセージのしるしのついたはしを若い衆の鼻先につきつけた。 「そんなこと、おれに言ったって。姐さん……」  若い衆は仕切り箱をかかえてたじたじと後退した。 「帰ってノブにそう言いな。それにあいさつが気にくわないね。仕切り代を値上げするなんていう口上はね、場代集めの三ン下に言わせるようなことじゃないよ! 組長のノブが自分で言って回ることだよ。|肝《きも》|煎《いり》の安二郎|爺《と》っさんは何をやっているんだろうねえ。菊川一家も落ちぶれたもんだ」 「すんません。帰ってそう言います」 「ほんとだよ!」  敏子は持ったはしをかえすと、結い上げた髪にさしこんで頭の地肌をガリガリとかいた。 「あとで代紋が回るって言ってたんだけどね」  若い衆はほんとうに逃げ出したくなったようだ。 「いいよ。もう」 「それじゃ。どうも」  風をくらって走り出ようとする。 「待ちな!」  ぴたりときまって若い衆は反射的にあやうい姿勢で静止した。 「いいから食べてゆきなよ。恵ちゃん、ごはん盛って」  後半は店の女の子に言う。 「ああおどろいた」  若い衆はほっとしたように、小腰をかがめてカウンターのうしろの二階に通じる階段の下へ回った。 「菊川組のお手当じゃ、あんたなんか三食、インスタントラーメンなんじゃないのかい」  実情もそれに近いのかもしれない。敏子が時々食べさせるどんぶりめしを、若い衆はいつも心待ちにしているようだった。恵子が納豆をときはじめた。その手がはずんでいる。恵子はこの若い衆が好きなのかもしれない。 「敏ちゃん。もう五、六本つけて」  店の奥の畳敷きに上りこんでいる常連の中本が徳利の首をつまんで高く上げてふった。雑誌の編集者の間ではかなり顔の売れている男らしい。かれ自身も編集長かそれに準ずる役職についているらしく、あいつのほんやくはどうもうま過ぎていかんね、などとよく言っている。今日も何人かのなかまを引き具してまだ明るいうちからやっている。 「敏ちゃん! ちょっと来ないか」  気やすく呼ぶ。常連がもっとも生き生きして見えるときだ。 「はい! 今すぐまいりますう」  胸の中で舌打ちをくれ、敏子は数本の徳利に手早く酒をそそぎこんだ。 「へえ! 敏ちゃん、見直したねえ」  カウンターに|貼《は》りついて一人で飲んでいた不動産屋の島田がよだれのたれそうな顔で敏子を見つめた。 「あら。なにをでしょう?」  敏子は恵子に|燗《かん》のついた徳利を中本の卓へ運ばせた。不動産屋の島田は完全にはげ上った頭頂まで酔いに彩られていた。 「佳いねえ。こたえたよ。こたえました。あのたんか。菊川組といえば敏ちゃん、うちの若いやつだって道で出会うのをいやがるよ。それをたんかきっておどかすなんぞ、いや、ぞくぞくっとするねえ」  島田はうでをのばして|猪《ちょ》|口《こ》に酒をついでいる敏子の手をにぎった。 「いや。こぼれますう」 「ね、敏ちゃん。あたし、城南興業の代貸やっている若い|者《もん》、知っているのさ。なんだったらここ、のぞかせるよ。菊川組なんかにいばらせておくことないよ。ねえ」  島田はそう言いながら厚いてのひらを敏子の袖口の奥へすべらせてきた。口を動かしながら手は別人のようにむだなく敏子の二のうでをまさぐる。 「電話屋さん。ホタルの弓ちゃんに言うわよ」  きゅっとにらんで島田の手から逃れる。島田は今の不動産屋をはじめる前、駅前で小さな電話の取引店をやっていた。その頃の島田のみっともないほどのしわい生活を知っている者は少ない。あっちこっちに今でも消えない不義理を残している。敏子も一、二度ならず顔をつぶされている。島田は聞えないふりをしてさりげなく手をひっこめた。駅裏のアルサロ〈ホタル〉の弓子を囲っていることもこの界隈では知っている者は知っている。 「でも、ほんとはドキドキなのよ。こわいもん。ほら、ね」  敏子はカウンターに上体をのりだすとすばやく島田の一方の手をとると自分の和服の胸のふくらみに軽く当ててやった。島田の表情が好き者らしく大きく動いたときは、もう、つ、と島田の前を離れていた。何もかれに恥をかかせることはない。よく金を使ってくれる客だ。こんなサービスは元がかからないし第一ききめが大きい。島田はご満悦でスルメを裂いている。  そのとき、二、三人の客が入ってきた。連れではないらしく別々に|椅《い》|子《す》を占める。 「いよう!」「やあ!」  奥の中本や電話屋の島田までが会釈を交し合う。常連のイラストレーターとカメラマンだ。敏子は戸棚からかれらのボトルをとり出した。  ボロロン! 入口でギターが鳴った。 「こんばんは! 一曲いかがですか?」  流しの藤原が青年らしくない|翳《かげ》りのあるまなざしで店の客に腰をおった。 「あら! めずらしい。|場所《し ょ ば》かえたって聞いていたわよ」  恵子が|嬉《うれ》しそうにのび上った。 「へい。ちょっと大阪の方へ行っていました。ママ。しばらくです」  藤原が半身を浅くひねった。  敏子はアイスピックとグラスを無言で恵子の手におしつけ、無意識にタオルで手をぬぐった。恵子がけげんそうにちらと敏子を見た。敏子は髪に手を当て、それからコップに半分ほど水を飲んだ。これもまったく意味なく鏡をのぞき、それから思い出したように千円札を一枚、藤原の手ににぎらせた。 「ちょっと何か|唄《うた》って。今夜はちょっと景気をつけてよ」 「ママさん。すみません」  藤原はギターをかかえなおした。 “あのこわあ、あのこわあ、ひとりいたびいいい、きりのはとばにのこしたあ、しろいまふらあわあ……”  藤原のバイブレーションをきかせすぎた鼻声がせまい店内にひろがった。敏子はそっと移動して階段下のトイレにすべりこんだ。新建材で張った壁を通して藤原の声がよく聞える。敏子は目を閉じてその旋律に心をゆだねた。その旋律は約束されたひとつの意味を持っていた。敏子は左手の指を飾っている大きなトルコ石を一方へ強く回した。      2  その日、武州豊島郡羽沢郷ドンド橋ぎわの、|蓮《れん》|華《げ》|草《そう》の花が一面に敷きつめたように咲いている草原に、近在八か村の村人たちがひしめいてこれからはじめられる勝軍明王奉納武術大会を今やおそしと待ちかまえていた。羽沢の東にひろがる|江《え》|古《ご》|田《た》の神領で有名な|浅《せん》|間《げん》|社《しゃ》の末社で、神官の岸氏の一族が別当をつとめているいわば|一小祠《いちしょうし》に過ぎないこの勝軍明王に、奉納武術大会というのも少し大げさな話だし、八か村の村人が熱心につめかけているというのも、他郷の者から見たらはなはだ異様に見えることだろう。奉納武術大会などというものは少くとも農村でおこなわれるものではないし、武士以外の者、とくに農民が武器を持つことを極端に嫌うお上の方でもそう簡単にさし許すという性質のものではなかった。 「さあ、そろそろやっぺか!」 「ええと。大庄屋さま。頭取さま。年寄株さま、と……みんなそろったかな」 「|打《うち》|物《もの》|衆《し》はええかや!」 「おうよ」  五人組|束格《つかね》からえらばれた数人の|肝《きも》|煎《いり》役が大汗をかいてとび回っている。定刻をわずかに過ぎていた。すでに昨夜のうちに勝軍明王の祭りはすませているので、特別な儀式もなく奉納試合はすぐ始められる。それでも別当の中|禰《ね》|宜《ぎ》岸作左衛門が形どおり印を結んで|陀《だ》|羅《ら》|尼《に》を唱えた。群集の間から波のように「南無阿弥陀仏……」の声がわいた。それが終るのが待ちきれないように竹塚の仁太郎が立ち上った。年寄株筆頭として|石神井《しゃくじい》川正窪に広大な田畑を持っている。 「さあ、大庄屋さま、頭取さま。みなの衆もおまちかねだ。肝煎! はじめてくれ」  仁太郎の声に場内はどよめいた。  肝煎の羽根木の松造がおそろしいほど緊張した顔で進み出た。手にした経木を顔の前にささげ、経木に書かれた文字を必死に目で追う。 「一番手は一本松の加助と氷川前のねい太」  それぞれの村落の連中に背中や腰を小突かれながらおし出されてきた二人の若い衆は、肝煎の牛造の手から長さ三尺ほどの丸太を手わたされると、いきなりそれでたたき合いをはじめた。武道の心得などまるでないらしい。ただめったやたらに丸太棒をふり回す。とてもあぶなくて見ていられたものではない。おりを見計っていたように松造が二人の間に割って入る。二本の丸太がぶんぶんうなって飛び交う中に体をのり入れるのだから試合をする当人たちよりも松造の方がはるかに危険だ。 「よし。それまで! この一番は勝ち負けなし。肝煎役にてあずかります!」どっと喚声が上った。 「つぎ! 榎本新田の小吉と小竹の金助」  二番手に出てきてこれは青竹を|槍《やり》に見たててたがいに突き合いからめ合う。十数合くりかえしたところでふたたび松造が進み出た。 「それまで! この勝負、肝煎役あずかり!」  そのつぎに出てきた二人は、これは唐金巻きはまぐり刃の木刀などをふり回して一応、手すじのあるところを見せ、|終《しま》いは先の二番と同じように勝負なしの引き分けということで汗をふきふき退場した。  こうして四人目まではとんとんと進み、残る一番は両軍の大将による試合となった。 「口上つかまつります。口上つかまつりまあす!」  松造が手にした経木をふってさけんだ。 「ええ。大庄屋さま。頭取さま。年寄株さま。ご一統さまにも、むこう一年承知してくれろ! かまえてこの一番|違《たが》いあっちゃなんねえ。勝軍明王奉納試合この一番の勝者に、浅間さま御神域内、滝山、小竹山内御|柴《しば》|刈《かり》の事、免許相なる。くれぐれも心得てくだされ」  松造の声が終らぬうちに、おおう——というどよめきが羽根沢のあかるい谷間をゆり動かした。 「さあ! 今年こそは小竹の柴そだはおらっちにもらわねばなんねえぞ」 「今年は滝山も小竹もよく小枝がしげってるで、去年の倍に売れるぞ」  八か村の庄屋たちも無言のうちにはげしい敵意をあらわにしてひざに置いたこぶしをにぎりしめた。大庄屋の中村郷の弥吉は、つるのようにやせた肩を張り、この一番の試合の結果が招くものをその一身に引き受けようとしていた。どちらが勝とうと、大庄屋の弥吉の肩の重荷が消えるはずはないのだった。 「うわあ——」 「うおう——」 「がんばれよう!」 「柴そだ、わたすでねえぞう!」 「うわう——」  年寄株筆頭の正窪の仁太郎は思わず胸もとに合掌した手に|眉《み》|間《けん》をおしつけた。 「南無、三宝荒神勝軍明王さま。なにとぞ正窪郷へ御柴刈のことおたのみもうす」  仁太郎だけでなく、この時、八か村の村|長《おさ》たる庄屋の誰もが、今年こそは浅間社神域の柴そだ伐採の|入《いり》|会《あい》|権《けん》を手に入れることを願っていた。  このあたりは、石神井三宝寺池を源流とする石神井川が大きく|蛇《だ》|行《こう》しつつ西から東へ向う|肥《ひ》|沃《よく》、湿じゅんな土地だった。元来、大消費地である江戸を間近にひかえて、陸稲、麦、野菜の生産でいたって内福といわれた村々だったが、ここ四、五年の間、例年の事となってしまった寒冷と虫害のために大きな打撃を受け、とくにこの二、三年は八か村の総社たる浅間神社の神域の雑木の下枝をおろし、それをそだとして落合、池袋、目白方面の武家下屋敷、町家などへ売り出す収入にたよりきっているありさまだった。広大な浅間社御領のうち、小竹山、滝山と呼ばれる尾根につづく谷あいのゆるやかな南面は樹木の密度も濃く、枝もよくしげり、そだにしても火もちもよく火力も強いので武家屋敷などでは上そだとして歓迎された。伐採の権利は八か村を上組四か村、下組四か村に分けて各一年ずつ。しかし年ごとによる交代ではなく、奉納試合の勝者に引出物として贈られるという形になっていた。それは遠く江戸開府にさかのぼるしきたりといわれ、豊島氏が長くとりしきり、配下の旗本に与えられたものと伝えられていた。当時から一種の救荒政策としておこなわれたものであろう。それは伐採権を八か村に分与せずに、四か村にのみ集中し、細分化を恐れた点にもうかがうことができる。誰かが生き残ることをねらった荒削りな乱世の風である。 「おう! 出てきたぞ、出てきたぞ!」 「いよう! これは強そうだぞい!」 「がんばれよう!」  蓮華野をとり囲んだ広大な円陣の壁がわらわらと二か所で切れると、二人の武士があらわれ出た。  松造が全身の力をのど笛にこめてさけんだ。 「上組、|大《おお》|室《むろ》浜之進どん! 下組、田原彦四郎どん!」  大室浜之進は年齢四十歳前後、胸は厚く、もり上った肩につづく首は異様なまでに太い。乱髪を後頭部で束ねて背に垂らし、刺子のけい古着の上に撃剣胴をつけ、手に四尺に余る黒がしの木刀をさげていた。 「たのんだぜ! 大室さまあ! 柴そだ、下組にわたしちゃなんねえだ。一発ぶちこんでくれい!」 「おおむろさまあ。おおむろさまあ」  うわう、うわうう、とわきかえる。  田原彦四郎。二、三年前に流れてきて羽根沢に|棲《す》みついた浪人者だ。年は三十なかばか。かなりくたびれた黒の紋服に折目のすりきれたはかまをすそ短く着け、白の鉢巻に総髪。武具らしいものは何ひとつおびず、ただ長さ三尺八寸の竹づえを右手についていた。ななめに顔を伏せ、|爪《つま》|先《さき》でまさぐるようにすり足で浜之進めざしてうかがい寄る。 「でえじょうぶかあ! おさむれえさま! 目が見えなくなったつうでねえかよ!」 「御|参《さん》|籠《ろう》中に目が見えなくなったって? ええのかやあ! 柴そだ、かかってるでよお、なみのやっとうの試合とはちがうんだからなあ、やめた方がいいんじゃねえか?」 「田原さまがやめたってかわりのさむれえはいねえんだからな。やらせろ、やらせろ! 万にひとつってこともあらあ」  どうも下組の意気は上らない。田原彦四郎、実はこのところ、にわかに視力を失っていた。世話役の馬治の話によれば、勝ちを祈って勝軍明王裏のドロ滝に打たれておこもりをしていた田原彦四郎は、四日前の早朝、とつぜん失明したという。同時に言葉をも喪い、生れもつかぬ体となってしまった。しかしその時から彦四郎は全く別人のように変ってしまった。盲で唖になった彦四郎はとつぜんふってわいたその不幸な一瞬を境いとして、どうやら剣の存念を会得したようだった。彦四郎係りの世話役の馬治にはそれがなんとなくわかるのだが下組四か村の村人にはそれはいささか納得しがたいものだった。しかしもう試合の日は迫っている。今さら新しいさむらいなど鐘、太鼓でさがしたとて見つけられるものではない。 「でえじょうぶそうだからまかしてみたら」  という馬治の言葉にたよるしかない。だいたい柴そだの伐採権がかかった試合だから出てくれ、などと言われて出てくれるようなさむらいなど居るわけがない。もちろん村民の武術に長じた者で争うのがたて前だろうが、村の生活がかかっているとなれば、専門家に依頼した方が手取り早い。当村在住の浪人というふれこみがこっそりと江戸市中からうでの立つ浪人をやとってくる。十人のうち九人までは目を三角にして拒絶するが、小才の利く者は、八か村の総社のそれも由緒ある奉納試合に出場した、という実績がおのれの就職運動にいささか為になるのではないかと思って引き受ける。内実が柴そだの伐採権のやり取りにあると分っても、一両の礼金で先ずつとめ上げてしまう。万一、勝とうものなら四か村持ち寄りの臨時予算でむこう一年間の生活は完全に保証されている。それに今年は、|浅《せん》|間《げん》|社《しゃ》の方から試合の勝者は警護番士として召しかかえるという達示がきていたから二人の浪人は村人以上にふるい立っていた。浅間社に番士として召しかかえられるということは、それがたとえ最下級神官のさらに心得格に過ぎないものであっても、内福の大神社であってみれば貧乏旗本などの家士になるよりはずっと安定した割のよい就職だった。 「あああ! これで柴そだは上組へ行っちまったぜ! ついてねえなあ」 「今年の冬はいつにねえきびしい冬になりそうだぜ」  下組四か村の村人たちは大きく肩を落してうなだれた。まさに入会権はかれらの手を離れようとしていた。 「それい!」  ぱあん! と拍子木が鳴った。二人の剣士はたがいに吸いつけられるように、つ、つ、つ、つ、とすべり寄った。 「てやあっ!」 「おおう!」  大室浜之進はいくらか一刀流の心得があるとみえ、ややこぶしさがりの右青眼。田原彦四郎はつえがわりの青竹を、右足前にななめに突き出した。怪鳥のようなさけび声が二人ののどからほとばしり、二つの体はおそろしい勢いでぶつかった。一瞬にとび離れ、ふたたびぶつかり合った。おびただしい量の草の葉が千切れてとび散り、つぎの一瞬に一人がのけぞり、一人が|空《くう》をさぐるような手つきで息をこらして立っていた。  勝負はついた。どっと喚声が上り、勝った組はおどり上った。 「下組だ! 下組が勝ったぞう!」 「柴そだはおらたちのものだ!」  手ぬぐいがとぶ。帯がとぶ。ぼろぼろの|半《はん》|纏《てん》がひるがえる。どろだらけのわらじがちゅうを舞う。下組四か村の誰もが、にわかめくらで唖の彦四郎が勝つとは思っていなかっただけに、もうたいへんなさわぎだ。  そのときだった。一人の女が風のように試合場へ走りこんできた。女は、まだ自分の勝利が信じられないのか、ぼう然と突っ立ったままでいる彦四郎に走り寄り、その上体にかじりついた。 「ああ! おまいさん! こ、こんな体になっちまって! め、め、目が見えないんだって? 口がきけなくなっちまったんだって? とんだことをしておくれだねえ。おまいさんたらあ!」  牛のような泣き声を放つと彦四郎の体をおそろしい力でゆすぶった。彦四郎のひょろ長い体は人形のようにがくがくとゆれた。 「あうあう、あうあう!」  彦四郎が盲いた目を見開いて幼児のように奇声を発した。それを耳にしたとたんに女の顔つきが|凄《すさ》まじく変化した。 「ちきしょう! てめえたち! なにが奉納試合だい。勝ったからって何がうれしいんだい! うちの人の目や口はどうなるんだよ! ちきしょう、ちきしょう! そうだ。勝軍明王に参籠したらこうなったんじゃないか。あの、勝軍明王のやつ! くそっ、どうするか見ていろ!」  女は三白眼をむき出すと、体をひるがえして走り出した。洗ったこともないような赤茶けた髪を、形ばかり頭の後でまとめているが、ひどいちぢれ毛で、まとめきれぬはえぎわが、正面から風を受けて|紅《ぐ》|蓮《れん》のほのおのように逆毛立った。 「ええい! どけどけ! このぬけ作ども」  黄色い|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》の間から腐れ|胡瓜《きゅうり》のような舌を垂らし、なみだとも汗ともつかない液体でぐしょぐしょに|濡《ぬ》れた顔を突き出して突込んでこられては誰でもわっと道をあけたくなる。 「だれだ、だれだ。あの女は?」 「どうしたんだ? いったい?」 「田原さまの女らしいな?」 「まさか!」 「三、四日前から田原さまのところにころがりこんでいる女だ」 「だって言ってたじゃねえか。うちの人の目や口をどうしてくれるんだって」 「そう言やあ勝軍明王のやつ、どうするか見ていろ、なんてどなっていたぞ」 「もったいねえことを!」 「おい。こりゃてえへんだ! あの女、勝軍明王さまに何すっかわかんねえぞ!」 「行ってみろ! 行ってみろ!」  女を知っている者も知らない者もみないっせいに走り出した。ふってわいたようなこのできごとに柴山の伐採権の獲得も何もあったものではない。それに負けた方の組にしてみれば、何かを口実にもう一回勝負しなおしなどということにもってゆきたい腹もある。 「行ってみろ、行ってみろ!」 「それ行け!」  大庄屋も頭取も、肝煎役もみな尻をからげてわれがちに走り出した。 「おうおう、おうおう!」  あとにたった一人、取り残された彦四郎がつなみのように走り去ってゆく人々の足音へ、哀しそうにのど首をのばしていた。      3 「中村郷弥吉。かしこくも当浅間社御神域内、滝山、小竹山中御下枝払い御役目、過日相きまりたるにもかかわらず、今日なお御つとめ無きはいかなる事由によるものか。山中御下枝払いの事は、氏子八か村に対するかしこくも有難き御神意のあらわれたもうところ。このままになお打過ぎる時は、はなはだしく神意を犯したてまつる事に相なる。これ、まことに言語道断……」  |大《だい》|禰《ね》|宜《ぎ》|橘《たちばな》|横《よこ》|倉《くら》|麻《ま》|呂《ろ》こと岸太郎次郎は平ぐものように平伏している大庄屋の背中をにらみすえた。 「な、なんとも申しわけありません。さっそく手配いたしまして明日からでも」  弥吉はひたいの汗をてのひらでおしぬぐった。 「のう。大庄屋どの」  中禰宜の岸作左衛門が大口のひざをぐいとのり出した。白扇を口もとに当てて、大禰宜に遠慮するそぶりを見せながら思い入れたっぷりに、 「御下枝払い組当番のとりきめに不満があるというのであれば、大庄屋どの。それ、きめ直しということもあろうではないか。なんなら大禰宜さまにお願いいたして御託宣を下されてもよい」  柴そだの売上げの三割は、御供物料として禰宜寄合へ納めることになっている。しかし近年からそれは直接、禰宜寄合の諸掛に消費することがかれらの間の暗黙の慣習になっていた。つまり大禰宜から下司人に至る御一流のこの時季の手当になるのだった。  中禰宜の作左衛門はこの近辺の出身のこととて弥吉とも長いつき合いがある。そのへんのところはうまくやってくれよという口ぶりだ。 「へへっ」  弥吉もふだん親しい仲の作左衛門であっても、ここでは威勢第二の中禰宜だ。はげ上ったひたいを板敷にこすりつける。  年寄株筆頭の正窪の仁太郎の家へいそぐ弥吉の足はなまりのように重かった。仁太郎の家には八か村の村長たる庄屋と、上組、下組の頭取、各村の年寄株たちが集まっている。浅間社からの再三の伐採作業のとくそくにもかかわらず、今日まで作業を始められずにいるその原因を徹底的に究明し、村人たちの気もちを新しくして作業に向けさせようというのが今日の寄合のねらいだった。  低い丘陵がそのままの傾斜で石神井川の河原になり変ってゆくきわの雑木林のかげに仁太郎の家があった。河原から上ってくる女がいた。たも網とびくを持っている。近づいて来たのを見ると田原彦四郎の女のすてだった。弥吉を認めると道の端へ寄ってかぶっていた手ぬぐいを取り、ていねいに腰をかがめた。 「おこんにちさまでござります」  弥吉はすてが手にしているびくに目をとめた。 「おう。田原さまがところの女ご衆じゃな。なにかとれたかな?」  のぞいたびくの中に、男のてのひらほどのふなが三尾、銀灰色の腹を光らせていた。 「田原さまもせっかくの勝負に勝たれたというのに柴そだの切り出しがさっぱり始まらんでえらい気の毒しておるのう」  勝った方を警護番士に採用するという話も、彦四郎が盲目になり、また口もきけないということがわかると立消えになった。そのかわり、彦四郎がこの地にとどまるかぎり、柴そだの売上げから年二両の御苦労金が彦四郎におくられることになった。 「はあ?」  女はいぶかしそうに|眉《まゆ》を寄せた。 「柴そだの切り出しとはなんのこって? それがうちの人とどんな関係があるんです?」  弥吉はうるさそうに自分のえり首をはらった。アブでもつきまとっているのだろう。 「ま、いいや。おまえたちに柴そだ切り出しのことをわからせようと思ったら、一日かかっちまうわ! 田原さまをよく見てやんなよ」  そのまま、もう後をも見ずに仁太郎の家の庭へ入った。 「まったくふしぎなことがあるもんだ。どいつもこいつも御柴刈りのこたあ、きれいさっぱりと忘れちまっている。あんなに夢中になっていやがったのに」  弥吉はぺっとつばを吐いた。八か村の村人の誰一人として浅間社御神域内、滝山、小竹山中の下枝伐採のことをおぼえている者はいない。おぼえているのは今、この仁太郎の家に集っている八か村の元締連中だけなのだ。 「どうだった? 弥吉どん。首尾はよ!」  縁先に腰をおろした弥吉の姿に、部屋の中から待ちあぐねていた庄屋たちが走り出てきた。 「だめだ。きつい達示だ。なんとか伐採をはじめねえことには引込がつかなくなってきたで」 「そうだろうなあ。あの日以来、村の連中は御柴刈りの事はきれいさっぱりと忘れちまいましたなんて言えねえもんな。おれたちだってはなはとても信じられねえことだったでよお」 「こいつあ、神罰だ。そうよ。神罰だ。おらだが、あんまり欲こいたもんで、浅間さまあ罰くれただよ」  みなはほおをこわばらせてうなだれた。神罰としか思えなかった。八か村の村人の頭の中からその部分だけがすっぽりぬけたように柴そだ取りに関するいっさいの記憶が完全に失せていた。だから伐採作業を始めるようにうながしても、ただ顔を見あわせるだけで、その意味が理解できないのだ。 「庄屋さん。そら、なんのことだな? 御神域の下枝をおろすなんて、そんなことしたらたちまちばちが当るでねえかよ!」 「いきなり木切りに行けって言われたって何のことだかわからねえよ。それにおらだにゃ畑仕事があるでよ。まんつ、人割りすっぺよ」 「へえ! 浅間さまが下枝おろしておらだによこすのかよ! 売る? どこへよ?」 「そんなこと、聞いたことねえよ。庄屋さんや頭取さんは夢でも見たんじゃねえか? 柴そだ切って売ってくるなんてよ!」 「まさか! 上組と下組に分れて権利争いの試合したと? 勝軍明王奉納試合の日に? こいつあおどろいた! 庄屋さん、庄屋さん! おめえさん、気イたしかか?」 「のう。みなの|衆《し》。なんの因果か、どんな罪とがでこうむった神罰かは知らんが、こうなってはもはやどうしようもない。村の衆に思い出してもらうよりも、禰宜さまの方から御達示を出してもらってあらためて申し聞かせて御役を果すというあんべえにしてもらうべえよ」 「それがいいかもしんねえ。こんなことってあるもんじゃねえ。八か村の村の|衆《し》のみんなが御柴刈りの事をすっぱり忘れっちまうなんてよ。こいつあ、なんかの|流行《は や り》病いかもしんね」  庄屋たちは深く組んだうでにあごをのせて胸の底から息を吐き出した。 「気の毒なこった。柴そだについちゃ、村の|衆《し》は毎年毎年心配のしつづけだったのでのう。頭のしんでは忘れたくなったんじゃよ。忘れたくなあ」  年寄株たちもがっくりと肩を落してうつろな声を出した。  弥吉は心をふるい立たせてみずから声を張り上げた。 「そこでだ。このままでは大禰宜さまから重ねておしかりを受けるばかりでなく、この上いかなる御神罰をこうむるやもしれぬ。村の|衆《し》が思い出せぬなら思い出せぬでよい。新しい御達示を出していただいて|最《は》|初《な》っからやり直しといくべ。な」  衆議一決した。      4  浅間社大禰宜から御達示に、八か村の村人たちは半信半疑ながらおおいに喜んだ。神域ともいうべき山内の樹木の下枝を伐採して自由に売ってもよいというのだ。もちろんいやだなどという者は一人もいない。御達示につづいて大庄屋、中村の弥助は八か村の|村《むら》|長《おさ》の合議の結果として八か村を上、下二組に分け、選手を出して勝軍明王奉納試合をおこない、その勝者に先ず伐採権が与えられるとの告文をはり出した。 「ひえ! 奉納試合かよ。奉納試合ならこの間やったばかりでねえか?」 「いや。あれとは別に一番勝負できめるんだと」 「誰出すべえ? 誰も剣術など知らねえでよ」  大さわぎになった。ざっと見積っても上そだ千把。下そだ三千把はあろう。春秋二度にわたってだから一か村に七両は入ることになる。上組四か村。下組四か村。こうなると武術の専門家にたのむしかない。上組は大室浜之進に目をつけた。下組は人を探して|世《せ》|田《た》|谷《がや》へんまで話を持ってあるいたが、柴そだ伐採権の争奪をかけての武術試合など、まともな武士ののってくる話ではない。  そんな時だった。下組頭取、加助の家へすてがやって来た。後にこのあたりでは見かけたことのない牛のような男をしたがえている。 「頭取さん。下組の戦い手はまだきまっちゃいねえんだべ。こいつあおれの弟だ。ほれ、|前《めえ》え出ろ」  すては背後の男を加助の前へ押し出した。  ぶおう! 男の鼻から呼吸音ともうめきともつかぬひびきが|洩《も》れた。先ず加助の目を奪ったのは肉のこぶで固めたようなうでの太さや首すじのがん丈さと、|石《いし》|臼《うす》のような腰のすわりだった。あかとほこりにまみれ、頭髪など生れてからくしけずったこともないのだろう。唐金を合わせたような分厚いくちびるの間から時おりのぞく前歯は常人のてのひらほどの大きさがあった。 「お、おめえの弟だってか?」  加助は一、二歩あとじさった。巨大な顔にふさわしく、目も鼻も大きく、しかもそれが奇妙にふぞろいで、ただ人の顔にするためにだけそこへつけたといった感じだった。 「おめえの弟だってか!」 「ふな治っていうだ」  ふおう! おう。  たとえようのない愚鈍さ。人でないものの発するぶきみな異和感。面も向けられぬすさまじい残忍さなどが加助の体を正面からとらえ、かれの心を凍らせた。 「こいつを試合に出してくれや。頭取さん」  加助はわくわくと体をふるわせた。 「なあ。村の衆はみんな忘れちまったが、おれはおぼえているぞ。おぼえているとも! うちの人はあの試合に勝とうとして勝軍明王さまに願をかけた。試合にゃ勝ったがめくらの唖んぼになっちまった。おれはうらみがある。この試合にゃおれの弟に出て勝ってもらわにゃなんねえ!」  すては鬼のような形相になった。 「わかったか! 頭取さんよ!」 「わかったよ、わかったよ。でけえ声出すな」  加助はおろおろと両手を前でうちふった。  渡りに舟だった。はじめは見たこともない他所者などに大事な勝負をまかせることにためらいを感じていた者たちも、すてにつれられて村を歩いているふな治をひと目見た者は、かれを試合に出すことに大乗気になった。ふな治の姿を目にした幼な子はおそれおののいて火のついたように泣き出し、犬猫はけたたましい悲鳴を発して逃げまどった。 「すての弟だとよ。|相模《さがみ》の方で人足をやっていたのをすてがいそいで呼びかえしたんだと」 「ふうん! それでいかつい体をしているんだな。でもよ、あの|面《つら》は人の一人や二人は|殺《や》ったことのある面つきだぜ」 「身内にゃ持ちたくねえ人間だな」 「ま、試合が終ったらなるべく早く村を出ていってもらうことだ」 「あの化物なら大室浜之進もかなうめえよ。それにな、あの大室浜之進というさむれえはほんとうはあんまり剣術がとくいじゃないらしいからのう」 「そりゃよかった!」 「試合が終ったら金でもくれて追い出すべえよ。すてにもあのめくらでおしのさむれえにもさっさと出て行ってもらうべ」  そのふな治をともなってすてが浅間社の禰宜屋敷へやって来た。 「弟のやつが勝軍明王さまに参籠してえんだと。禰宜さま、おねげえしますだ」  小禰宜の甚三|爺《と》っさんが中禰宜の作左衛門に伝えた。末社の扱いは作左衛門にまかされている。作左衛門も、ふな治が試合の当日まで勝軍明王のほこらにおこもりしているならそれにこしたことはないと思った。こんな男に村の中をうろつかれていては何となく物騒だ。 「参籠願いのすじ、殊勝なり」  甚三爺っさんは歯のない口で、そう中禰宜さまの御言葉をまるうつしにつたえて、あとはふっきれない|痰《たん》をふっきろうとして怪鳥のようなから|咳《ぜき》をぶった。  ふな治が勝軍明王に参籠したと聞いた村人たちはなんとなくほっとし、また村のためにそれほど試合に一生懸命になってくれるのならもう少し親しくしてやればよかったなどとも思った。      5  滝山から小竹の谷あいを北へくだり、|小《こ》|茂《も》|根《ね》とよばれる赤松林の美しい丘のふもとをめぐると視界は急に開けて|葦《あし》のおいしげった湿地へ出る。もうそこは長雨のあとなどは石神井川の水面の一部になる所だ。  今、丑の刻。暗い夜空をひと声、よたかの声がわたってゆく。葦原の一角が、ことに|闇《やみ》が深いのは川霧がわいてきたらしい。そのあたりが本流だろう。なんの物音も聞えてこない。さっきまで地虫が鳴いていたがそれももう聞えない。闇の中で時だけが動くともなく動いてゆく。  また、よたかが鳴いた。かすかな夜風が霧を運んでことさらな闇がいつしか葦原一帯にひろがっていた。  ほこらの入口につるされた|御《ご》|幣《へい》がかさこそと朽葉の落ちるような音をたてた。  ふな治はのっそりと動いた。太い指をぶきように動かして火打石をたたき、付木の小さなほのおをろうそくに移した。赤い小さな光輪がにわかに成長してほこらの中の闇を押しかえした。昼間と少しも変らないほこらの内部がかれの目に入った。内部の広さはたたみ六畳敷ほどもあるだろう。むろんたたみなどなく、ほこりや朽葉の厚く積った板敷の床はところどころ朽ちて大小の穴があいていた。ほこらは奥の半分はがけにえぐられた天然のほら穴を利用し、外へ向った半分が小やしろ風に作られていた。ふな治はろうそくをかたむけて、ろうを床にたらしてそこへろうそくを立てた。奥の板壁に、六本のうでを持った勝軍明王のおそろしく稚拙な画像を描いた絵馬がうちつけられていた。その下にこれはまだ緑色が残っている|榊《さかき》の枝が二、三本、板壁のわれ目を利用してさしこんである。おそらくここで参籠した彦四郎が奉幣したものだろう。ふな治は板壁に沿ってゆっくりと内部を一巡した。それからとびらもなく、開け放たれたままの入口から外をうかがった。多少とも灯に|馴《な》れた目では外の闇は全く視力を失ったにひとしい。ふな治は朽ちた階段をきしませて外へ降り立った。ほこらの背後の樹々のしげみが巨大な暗黒の量感でのしかかってくる。昼の間は遠くかすかに聞えていた石神井川の水音も、霧にはばまれているのか、いくら耳をそばだててもいっこうに聞えてこなかった。ふな治は体を回し、ふたたびほこらの中にとってかえした。ふな治の足が床板をきしませるたびに、床の上のろうそくの灯ははげしくゆれ動いた。ふな治はそのろうそくの前に、どさりと腰をおろした。もり上った肩の間にしだいに頭がたれてゆく。  そのとき、ふな治の耳に、かすかに、かすかに、水の流れる音とも羽虫の|翅《はね》のさやぎともつかぬ物音が伝わってきた。絶えるかと思えばまた聞え、聞えるかと思えばふと絶えてはふたたび耳の底にわき上った。  ふな治は頭を起した。最初、そら耳かと思ったがそうではなかった。それはほこらの外から聞えてくるかと思うとふいに耳もとでふるえ、思わず身を引いてひとみをこらすとそれはとびはなれるようにふたたびほこらの外で聞えていた。ふな治は大きな手で耳をおさえた。音はやはり聞えていた。それは耳から聞えるのではなく、自分の胸の内側で鳴っているのだと知ったとたんに、それははっきりと意味を持った。 〈ふな治……おまえはふな治だな〉  ふな治は愚鈍な顔つきで周囲をねめ回した。 「ああ。おれはふな治だ」 〈勝ちたいか。試合に〉 「勝ちてえ」 〈勝たせてやろう〉 「ほんとうか!」 〈ほんとうだ。やくそくしよう〉 「ありがてえ。勝軍明王さまさまだ」 〈そのまえにひとつこたえろ〉 「なんだ?」 〈おまえはだれだ?〉 「だれだって……おれはふな治だ」 〈おまえの正体だ。おまえはこのほこらをさぐりに来たのだろう〉 「さぐる? このほこらをか? なんでよ?」  しばらくの間、声が遠のいた。ろうそくがチ、チ、チ、チと鳴いた。 〈ふな治。妙だな〉  声がもどってきた。 「なにがだ?」 〈おまえの心は空白だ。おまえのおろかでうつろな心しか感じとれぬ。おまえはこのほこらをさぐりに来たものだとばかり思っていたが……〉 「ばかこくでねえよ! 勝軍明王さま。ここには何かさぐられると困るようなことでもあるのかね」 〈田原彦四郎というさむらいは参籠と称して実はこのほこらをさぐりに来た。そのためかれは目と言葉だけでなく、いっさいの記憶を失った。わしが消したのだ。それをさとったすてという女は村人たちともどもここへ踏みこんできた。わしは村人たちの心から御柴刈りだのその権利をめぐる奉納試合などという知識や記憶をすべて消してやった。しかし、あのすてという女はなかなか手ごわい。あの女の心からは奉納試合のさわぎの記憶は消えておらぬようだ〉  声にははげしい怒りと不安がみなぎっていた。  ふな治は大きな頭をふった。 「勝軍明王さまは人間に腹を立てなさるだかね。声まで人間がしゃべるのとちっとも変らねえ。そうだ。お姿をひと目おがませてくだせえ」 〈姿か。ふな治。勝軍明王の姿をひと目でも見たら、その目はただちにつぶれるぞ〉  ふな治は幼な子のように声を張り上げた。 「なあに! 人の見られねえものを見るんだ。目なんぞつぶれたって惜しいこっちゃねえ」 〈そうか。ここはわしのかくれがだ。ここに人がやってくることは困る。おまえののぞみはかなえてやる。どちらが勝つにしろ、当分ここへは誰もやってくるまい。それでよかろう。すてという女はあとでゆっくり始末することにしよう〉  半分はひとりごとのようだった。 「ああ! ありがてえこった!」  ふな治は居ずまいをただした。 〈ふな治。見るがいい〉  とつぜん、奥の板壁が勝軍明王の絵馬もろとも二つに割けた。目のくらむような光がほとばしり、その光の中から影のように一個の人影が浮き出した。  上衣と下衣がひとつづきになった見なれぬ装束は、ひざ下までのびた長い靴とともに魚類のうろこのような銀青色にかがやいていた。その肩の上に、村の百姓たちの顔とはまるでちがった皮膚の薄い繊細な、病身とも思える男の顔がのっていた。 「ひゃあ! おめえさんが勝軍明王さまか!」  男は病んでいるようなほおを引きつらせた。どうやら笑ったものらしい。 〈そうだ。わしは勝軍明王だ。ふな治。わしの姿をよく見ろ〉  ふな治は中腰でじりじりと後退した。 〈ふな治。よいか〉  男は手にした奇妙な物体を体の前に突き出した。その物体の前面には浅い皿のような|円《まる》|板《いた》がとりつけられていた。男の指が動くとその物体が虫の鳴くような音をたてはじめた。 〈おまえは勝つ……おまえは勝つ……おまえは勝つ……おまえは……〉  男はふな治の|頭《ず》|蓋《がい》の深奥に吹きこむような低い声でゆっくりとくりかえした。´  ジイジイジイジイジイ……  おまえは勝つ、おまえは勝つ、おまえは勝つ  吹きこまれた自信が闘争力に転換されるというのか。男の手にした円板はほとんどふな治の顔面に吸いつくばかりに迫ってきた。 〈おまえは勝つ……勝ったあとですべてを忘れるのだ。試合のことも。ここへ来たことも。もちろん、わしと会ったことも〉  ジイジイジイジイジイジイ……  ふっと音がやんだ。男は皿のような円板をふな治の顔からはずした。ふな治の暗い目が|洞《どう》くつのようにあらぬ方を見つめていた。唐金のようなくちびるがややだらしなくゆがんで、ひとすじのよだれがもれ出しているのは、すでに言葉を失った|痴《ち》|呆《ほう》の証拠とも思われた。  男はふな治の背に手をかけ、ほこらの外に体を向けさせようとした。 「出てゆけ。朝までそのへんをうろついていろ」  ぐいと押した。しかしふな治の体はびくとも動かなかった。 「これは?」  ふな治の目や鼻や口が大きく動いた。人とも思えない異相がゆがむととつぜんケタケタと笑った。 「それだけか?」  男は声にならないさけびを上げると、ふな治の前をとび離れ、あわてて手にした物体をいそがしくしらべまわした。それが故障して機能を失ったとでも思ったようだ。ふな治は小山のように進んだ。 「失敗だったな。勝軍明王さまよ。このほこらに時間密航者がひそんでいることはだいぶ前からわかっていたんだよ」 「なに! き、きさま!」 「その超音波発振器も人間の大脳にはききめがあるだろうが、あいにく、おれはなま身の体じゃねえ。わかるかい? おれの頭の中に入っているのは……」 「くそ!」  男は銀青色の衣服のどこからかいきなり小型の武器をぬき出した。深紅色の|閃《せん》|光《こう》がひらめき、ふな治の体の前面が火につつまれた。ふな治はたいまつのように燃えるうでをのばして男の体をとらえようとした。男は悲鳴を上げてそのうでの下をかいくぐってほこらの奥へ逃れた。それを追うふな治の体はもう巨大なほのおの塊になっていた。ほこらの奥の地下蔵のような一室に奇妙な装置がかくされていた。その透明なおおいをはね上げ、男が座席にころがりこんだとき、ふな治の体がナパーム弾のようにのしかかってきた。男の絶叫が火の海の中に消えた。  すさまじい|轟《ごう》|音《おん》に深夜の眠りをうち破られた村人たちはいっせいに戸外に走り出た。石神井の流れの方角に当って太い火柱が天をこがしていた。  勝軍明王さまのほこらに|雷《らい》さまが落ちたぞ。  勝軍明王さまのたたりだぞ!  誰言うともなく村人たちは体をすくめてそうささやき合った。  その夜から、ふな治の姿は村から消えた。ふしぎなことに、すても田原彦四郎の二人もいなくなっていた。村人たちはその三人は何かおそろしい理由で勝軍明王の神罰を受けたのだろうと思った。           * 「ごくろうさん」  敏子は藤原の手にビールのコップをわたした。敏子のくちびるがかすかに、すばやく動いた。 〈……あのロボットはよくできていたわね。駐在員の|彦四郎《ひ  こ》さんはけがをするし、応援にかけつけた私も村の人たちといっしょに記憶を失ったことになっているからろくに動けないし困っていたのよ。ロボットなら催眠術にひっかかることもないしね。藤原ちゃんの作戦勝ちよ……〉  藤原はボロロンとギターをかき鳴らした。 「じゃ、ママさん。またよろしく」  時間局員の藤原は小粋に肩をひねるとのれんをくぐっていった。 「静かな村だったよ。私もあんな所で暮してみたいねえ」  敏子はつぶやいた。あの石神井の葦のおいしげった薄暗い谷間にいつの時代から、何の理由でのがれてきたのか、ひっそりと暮していた時間密航者がなんとなくうらやましかった。 「どうしたんだい? ママ。ぼんやりしてさ」 カウンターの客の一人がひやかした。 「どうもしないけど、ちょっと思い出したことがあったもんで」  敏子は商売用の微笑にもどって言った。 「おいおい。おやすくないぜ。何を思い出したんだい?」  客も遊び用の声を張り上げた。 「すてという女のことさ」  敏子はちょろっと舌を出した。  遠くから藤原のつまびくギターの音が流れてきた。     紺屋町御用聞異聞      1 [#ここから2字下げ]  おれの報告の結果が、今日あたりはあらわれるだろうと思った。この数十年というもの事件らしい事件もなかったせいもあり、おれはかなり張切ってしかも慎重過ぎるほど慎重に調査をかさねてまとめ上げた報告書だった。本部の神経もさぞやぴりぴりしたことだろう。実際、百年に一度ぐらいは何か事件が起ってくれないことにはたいくつ極まる|分局勤務《ピケット・マン》などつとまるものではない。それに、事件が起らぬかぎり、本部に連絡をとることはかたく禁じられているから何事もなく平穏無事に過ぎている間は、何だか自分がなかまから忘れられてしまったような気がしてくる。時には時間局そのものがもうどうにかなってしまい、組織も自分の知らぬうちに解散してしまって、自分一人だけが今居る時代に取り残されてしまったのではないだろうか、などという不安や焦立ちも生じてくる。調査局の発足当時は、そうした救われ難い孤独による精神的|打撃《ダ メ ジ》で失われる局員の数がたいへん多かったというのもうなずける。今でも一人一人の調査局員の内部での事情は変らないのだろうが、脱落者がぐんと少なくなったのは、むかしにくらべれば事件がはるかに多くなったせいもある。それは時間局設置の趣旨から言えば悲しむべきことだったのだろうが、おれたちからすればおおいに結構なことだった。おれはこまかい用事は前日のうちにすませて、その日は朝から手ぐすね引いて、そして妙に落着かない気もちで知らせのくるのを待っていた。予期していたとおり、それは昼頃きた——。 [#ここで字下げ終わり]  八丁堀もずっと南にはずれた|亀《かめ》|島《じま》|新《しん》|田《でん》に近いお長屋の、それもかげ口でお|端《は》|下《した》長屋と呼ばれている一角に御係同心、平岡永之進を訪れると、北乗物町の御用聞、作次郎も来ていた。作次郎は、おや、というように腰を浮かせた。延次は腰の手ぬぐいをぬいて二、三度足袋の裏をはたきつけると座敷へ上った。延次は、これは? と親指を突き出してみせた。作次郎はだまって奥の部屋をあごで指し示した。持ち前の牛のような三白眼が延次の顔に動いていた。 「何の御用だろうな?」  あいさつ代りに延次が口を切った。年期は半歳も差の無い同輩どうしだったが、作次郎はふだんからなかまのうちでも気難し屋で通っている。いっしょの御つとめはどうも気ぶっせいな相手だった。 「見たところ、おれたちだけのようだが」  作次郎は強く歯の間をすすった。 「なにか聞いているかえ?」  延次は自分から下手に出て作次郎を立てることにした。 「そんなこと知るもんか! だんながお話しなさるだろうよ」  作次郎は鼻の頭にしわを寄せた。 「ちげえねえ」  延次は作次郎のとなりにひざをならべた。  そのとき廊下をどかどかと踏んで同心の平岡永之進が入ってきた。 「わざわざ二人を呼んだのはほかでもねえ」  すそ前を割ってどさりとあぐらをかいた。 「へえ」  作次郎が呼吸を受けた。 「おめえたちに特別な御用をつとめてもらいてえと思ってな」  平岡同心は東組五十人の同心のうち名札は末席に近いが、柔和な人柄とものわかりの良さで御用聞連に人望があった。年齢は四十歳を二つ三つ過ぎたところか。十数年前に妻を喪ったとかで、家族も無い気楽な独り身だった。気さくに|湯《ゆ》|呑《のみ》茶わんに|白《さ》|湯《ゆ》をついで二人に出した。 「食いなよ」  良い色につけ上ったお新香の鉢をすすめた。 「|橘《たちばな》町の長崎屋幸助のせがれの幸吉、知っているだろう?」 「へえ。幸助糸屋が死んでからのれんをおろして居食いしてやがる幸吉でやしょう?」 「そうだ。その幸吉を洗ってもらいてえのよ」  延次も作次郎もあわてて手をふった。 「だんな! それはいけませんや。橘町は|桶《おけ》|屋《や》のなわ張り内だ」 「だんな、よくご存知のはずじゃあ……」  平岡は手を上げて二人を制した。 「そんなこたあわかってら。ところがこの件じゃ桶屋は顔を知られているからまずいんだ。話はつけてある。おめえら、|出《で》|張《ば》れ」  常回り同心、平岡永之進の御見回り道筋に当る美倉、西福田、紺屋、北乗物、富山、松下あたりから富沢、橘、久松、浪花にかけて十手をあずかる御用聞は四人いた。紺屋町の延次、北乗物町の作次郎、それから松下町の金兵衛、飛んで浪花町の万吉だ。橘町は万吉のなわ張り。金兵衛は軽い中風に倒れてなわ張りは延次がめんどうを見ている。四人ともざっかけ無い仲だ。 「桶屋さえ承知なら」  万吉は御用聞のかたわら桶屋もやっている。 「よし、と。そこでだ。先ごろまで日本橋の本石町に|本《もと》|店《みせ》を持ち、長崎や大坂に出店を持って広く商いをしていた長崎屋幸助が卒中で死んだあと、せがれの幸吉が親類縁者の反対を押し切って店を閉め、商いからすべて手を引いた」 「病弱につき、ということでやしたな」 「うむ。主だった番頭、使用人、縁者たちにはまあ過不足ねえ程に手当は出したそうだ」 「それが、何か……」 「そこまではどうってこたあねえが、問題はそのあとだ。橘町に家を買って移り住んだ幸吉にどうもよくねえうわさがある」 「と、言うと?」 「女をかかえて客を取らせているらしい」 「女を? |鑑札《おゆるし》はあるんですかい」 「ばかやろう! 鑑札はお定め地内だけじゃねえか。おめえらしくもねえことを言いやがる」  鑑札を受けての女宿はこのころ吉原、品川、板橋、内藤新宿その他四か所ときまっている。 「一両だと」  作次郎は蛙のつぶれたような声を出した。 「松の位の太夫だって買えらあ! ど、どういうしかけだね、そりゃ。だんな」  一両も取るとなればそのへんの|無《も》|鑑《ぐ》|札《り》の女とはわけがちがう。 「御係の役宅に投文があったんだ。御係の上田様もうらみか何かのいたずらだろうとおっしゃってはいるが、ま、もぐりということでおれにさし紙が回ってきた。おれの御係地内のことだしよ。何だか妙な話だが、解けりゃ手がらのひとつにもなろうことだし、おめえら、手つだってくれ」 「へえ。そりゃ、もう」  所の同心に付いているということで威勢もきく町の御用聞稼業だ。二人とも如才ない。 「|大《おお》|店《だな》の白ねずみや助平隠居相手に秘密の組織を作ってやってんじゃねえか、という上田様御加役の話だ。ま、ちょぼちょぼやってくれ」 「かしこまりました。で、だんなとしては何か|方策《てだて》でも?」  作次郎がひざに置いた手をたたみにすべらせて半身になった。 「方策はおめいたちにまかせるが、先ず一丁、おめえたちの一人が隠居はむりだから白ねずみにでも化けてようすをさぐって来いや」  へえ。と言ってから作次郎はちら、と思案を顔に浮かばせた。 「なんでえ、その面あ! わかってるよ。一両は御用が終ればちゃんとお上からお取扱い費用としておさげわたしにならあ」  平岡は笑いとばした。作次郎はどぎまぎして言葉を失った。 「いえ、そんな……」 「わけじゃあなかったのかい? でも一両だぜ。だから二人はだめだ。ようすをさぐるのは一人にしてくれ」  一両か! 延次も首をすくめた。御用聞の心がけとして、いつでも二、三日の御用旅をまかなえるぐらいのたくわえはしてあるものの、ようすをうかがうだけの一両はちょっと痛い。 「ようがす。さっそくもぐりこみやす」 「でも、だんな。いきなり行って大丈夫なんですかい? |紹《ひ》|介《き》はいらねえんで?」 「わたりはつけておいた。今戸の菊半の|者《もん》ということにしてあら」  平岡は無造作に言った。 「菊半? なんですい? そりゃ」 「ばかだなあ。いいかげんな名前よ。仕出し屋かなんぞにしておけ」  それから三人でこまかいうちあわせをした。作次郎の方が見栄えがよかろうということで客に化けることになった。 「おい。どんな味だったか、あとでおしえろよ」  平岡は煙草を勢いよくぽん、と打ちつけた。 「今戸の菊半だけで大丈夫ですか? 突込んで聞かれたら何と?」  延次は平岡と作次郎に半々にたずねた。 「聞きゃしねえよ。そんなこと」  平岡がてのひらに受けたお新香を口にほうりこんだ。      2 [#ここから2字下げ]  翌日、おれは作次郎と連れだって橘町へ出向いた。 [#ここで字下げ終わり]  橘町の西半分はもと|小笠原備中守《おがさわらびっちゅうのかみ》様の屋敷跡を、お上があらためて町屋敷地としておさげわたしになったものとかで、敷地内は比較的区画整理がゆきとどいて新家が多い。青蓮寺の土塀に沿った小さな堀川に面して元長崎屋のせがれ幸吉の家があった。堀川にかけられた一間ほどの橋をわたるとすぐ格子戸。流れの早い水面に猫柳や南天の小枝が影を落しているという寸法だ。|妾宅《しょうたく》造りのような粋な構えではないが、小さいながら奥に長い結構の良い家だ。大店の、小金をためた出世番頭などが家を一軒持ったなどというあれだ。 「おう。ここだ」 「紺屋町の。ほんとうはおれはこんな役目いっち|嫌《きれ》えなんだ。おめえ、しっかりさぐってくれろよ」  作次郎は苦虫をかみつぶしたような顔で言った。 「そんなことはわかっているよ」 「だんなもだんなならお係の与力の上田様も上田様だ。ただのうわさじゃねえのかい。いちいち投文なんぞ真に受けて|無《も》|鑑《ぐ》|札《り》をしらべにおれたちが出向くことはねえやな」 「今さらそんなこと言ったって」 「紺屋町の。こんなお役目は願い下げにしてえな。ほんとに」 「だんなのおためもあることだ。ま、たのむぜ」  作次郎はむっつりした顔で小橋をわたって行った。その後姿は、作次郎の出入りする商家のだんなのものを借りてきたというしぶいこしらえがよく似合って好き者の若だんなといったところだ。延次は足早にそこを離れて裏の露地口へ回った。夕暮れにはまだ半時もある頃のこととて、裏口からの出入りは人にあやしまれない。延次は勝手口に近づくと見せて物置のかげに身を寄せた。家の中からは何の物音も聞えてこない。平岡同心の話では、この家には幸吉のほかに通いのめしたきの老婆が一人いるだけで、洗濯、掃除は長崎屋の元の使用人らしい下女が時間ぎめで来ているようだった。静かなこの界隈とはいえ、不用心なことだった。またそれだけに何か|理《わ》|由《け》有りという感じもする。延次は物置のかげからすべり出て勝手口の引戸に手をかけた。|鍵《かぎ》がかかっていたのでやむなく明りとりの天窓を押し開いてしのびこんだ。露地を人が通ったらまる見えになるところだったが、幸い誰にも見られたようすはなかった。 [#ここから2字下げ]  おれははめこみの戸棚の中段を足場に、天井板をずらすともぐりこんだ。厚くほこりをかぶった|梁《はり》を踏んで奥へ移動した。ふた座敷分ほど進むと屋根裏の空間いっぱいに忍び止めの桟が打ってある。携帯用の投光器をつけて見ると桟は新しく、最近打ちつけたものだ。消音器つきの|電動鋸《でんどうのこぎり》で体が入るほどの幅で桟を切り落す。柱の配置から見て真下は四畳半の部屋。そのむこうが六畳間ふたつ。そのどちらかに作次郎がいるはずだ。おれはそっと天井板に三つ目|錐《ぎり》で小さな穴をあけ、超広角の偵察アイを押しつけた。プリズムに映し出された光景は予想されたとおりだった。平岡だんながねたましがるのも当然だ。  ほの暗い|行《あん》|灯《どん》の光の中に素裸であお向けに横たわっている男がいた。作次郎だった。一瞬、おれは、殺られたかな、とどきっとした。だがやつの腰にこれも素裸の女がまたがっているのでほっとした。茶色と白の肌の取り合わせがひどくなまなましい感じをおれに与えた。そり返った女の乳房が高く突き出し、女が腰をはげしく動かすたびに結い上げた髪がずるずるとほどけてゆく。そのうちに作次郎の|眉《まゆ》や目がふた目と見られぬ形相で釣り上った。くいしばったあごがゆがむ。女は自分の腹に|爪《つめ》を立てて身をよじった。心配になるほど作次郎の緊縮がつづいた。ものの三分間もそうした状態がつづいていただろうか。やがて作次郎の顔がふぬけのように弛緩した。おれはとなりの部屋の上に移動した。  となりの部屋のすみに、|寝《ね》|棺《かん》と見まちがえるような白い長い箱が置かれていた。ふたが開いていたが中はからだった。部屋のすみに用だんすがひとつ。それを背負うように長火鉢が置かれ、そこに一人の男が坐っていた。じだらくな形で絵草紙などをめくっている。部屋数は全部で四つ。あとは二畳の|納《なん》|戸《ど》ぐらいだろう。そのとき、となりの部屋で作次郎の話し声が聞えはじめた。おれはいそいで退却した。あれで終りかと思ったらもうひともみしたらしい。作次郎が出てきたときはそれから一時間はたっていた。  作次郎は足腰も立たぬほどの疲れようだった。吐く息も苦しそうにひたいの汗をふいた。 [#ここで字下げ終わり]  外へ出るともうすっかり陽が傾いていた。青蓮寺の鐘が|佳《うつく》しい余韻を曳いて鳴りひびいた。葉を落したいちょうの大木が夕焼空にくっきりと浮かび上っている。 「どうだったえ?」 「いやあ、たまらねえ。すすきの穂でしごかれるってのか、竹輪はめこまれるってのかおめえ。あんな道具立てははじめてだぜ。おりゃあ」  作次郎は女のあの部分についてのあらいざらいのほめ言葉をならべた。それがひと区切りついたところで延次は作次郎にたずねた。 「それでおめえ、なにか妙なことはなかったのかい?」 「妙なこと?」 「お役目忘れちゃいけねえぜ」  作次郎は首をすくめた。 「そうよなあ。妙なこと、か。そうだ。そう言えば、おれ、ことがすんでからとなりの部屋へ顔を出したんだ。幸吉にあいさつして行こうと思ってな。女はおれよりほんのひと足先にとなりの部屋へもどって行った。裸のままでよ。そこから出て来たときも裸だったんだ。ところがおれがその部屋へ入って行ったときには女の姿はなかったぜ。あれ変だな。あの部屋からまた別な部屋へ移るだけのひまはなかったろうし、だいいち戸障子の開く音はしなかったもんな」 「その部屋で何か変ったものは見なかったか?」 「紺屋町の。がん箱みてえな物がひとつありやがったぜ!」 「女はかわやへ行ったとも考えられるぜ」 「いや。それはちがうなあ。あの家のかわやは入口に|近《ちけ》え方にあるんだ。それにな、女はおれのいた部屋に裸で|入《へえ》って来たんだ。どこで着物脱いだんだ? ほかの部屋で脱いでそれから幸吉の部屋を通って来たんだろうか? おれの見たかぎり、幸吉の部屋には脱いだ着物はなかったし、だからといって脱ぎすててあった着物をかかえて押し入れにもぐりこんだとも思えねえや」  作次郎はおとがいをえりに埋めて首をひねった。延次は作次郎を胸元に引きつけて声を落した。 「北乗物町の。女はがん箱に|入《へえ》ったとは考げられねえかい?」  作次郎はぎょっとしたように体を硬張らせた。 「め、めっそうもねえ! つるかめ、つるかめ。紺屋町の。ひでえこと言うじゃねえか!」 「でも、おめえ。何か思い当ることがあるんじゃねえかい?」  作次郎は肩をすくめてはげしく首をふった。延次はくいさがった。 「お役目だぜ。これは。北乗物町の」 「いやだよう! おれは|最初《はなっ》から乗り気じゃなかったんだ」 「言いなよ。え」  作次郎は観念したように口を切った。 「あの女、心の臓が打ってねえようだった」 「心の臓が?」 「ああ。おれの勘ちげえかもしれねえよ。紺屋町の。|内《うち》|股《また》のつけ根んとこにひくひく脈を打ってる所があるじゃねえかよ」 「血の筋だろう?」 「女が夢中になり出すとな、そいつがことさらにひくひく、ひくひくしやがってな。おれはさぐってみるんだ。こたえられねえから」 「おめえ、妙な趣味を持っていやがんだな」 「ばかやろ。おめえが聞いたから言ってんじゃねえかよ」 「それで?」 「あの女。それが感じられねえんだ」 「でも、からみ合いのぐあいによって感じられねえこともあるんじゃねえのかい?」 「いんや。女が上になってこう、そりかえった時なんかいっちわかるのよ」 [#ここから2字下げ]  おれは作次郎をつれてきてよかったと思った。これはおれの調査にもなかったことだ。 [#ここで字下げ終わり] 「やっぱりがん箱か!」 「紺屋町の。化物話はごめんだぜ!」      3  延次と作次郎が平岡同心の長屋へたどり着くと、平岡は待ちかねたように居間から首をのばした。出された|白《さ》|湯《ゆ》が腹にしみる。 「どうだったい?」  二人はこもごも観て来たことをのべた。さいごに作次郎が女の脈が感じられなかったこと、延次が幸吉の部屋にあった棺箱のような箱についてふれた時、平岡があごをさすってうなった。 「どうも妙な事件だなあ。それで、作よ、一両で高かったかい安かったかい?」 「へえ。何だかただ事でねえ気配を感じた今となっちゃあいちげえに何とも言えねえが、あの女だけについて言やあ高かあねえ。そう思います」 「やはり一両出してもまた抱きたくなるしろものだ、とこういうんだな」 「へえ。くらいつきてえほどの上玉でそれに床ぶりがいいや。めっぽういいや」  遊びなれた作次郎が感にたえたように言うのだからたしかにそうなのだろう。 「でも一両ってのは高えなあ」  延次は顔をしかめた。 「品物買うのとちがってあと味の問題だからなあ。本人がいいと思やそれでいいのかもしれねえや」  平岡同心がなかなか解ったことを言う。作次郎はまだ疲れが残っているのか、がっくりと肩を落した。 「ところでこっちも二、三わかったことがある。聞きねえ……」  調べがついただけでも、日本橋、神田、上野界隈にかなり幸吉の客が多い。〆めて七十名ほどがあきらかになっている。ことごとくが常連であり、三、四日に一度ぐらいの割合で順番が回ってきているようだ。  男たちの相手をする女は一人。ふたごの姉妹とも思えない。  反物屋、小間物屋、髪結など、どの線から当っても幸吉の家に女気はない。 「……と、いうわけだ」  平岡は煙管をぽん、とはたいた。 「だんな! それじゃまるで化物だ」  作次郎が胸前で小さく手をふった。 「一人の女がそんなにつとめられるわけがねえ。こも抱きの一等かせぎが八人だって言いやすぜ」 「一両だからなあ。回すようなわけにゃあいくめえ」 「女っ気がねえというのがひっかかるなあ」  延次がつぶやいた。それを待っていたかのように平岡が背後から一冊の書物をとり出した。 「いいか。ちょっと読むぜ。  洋人邪法とあらあ。こうだ。  西洋人本国の|皮《ひ》|帛《はく》を以つて|裸[#「裸」は底本ではUnicode="#81DD"]婦《はだかおんな》を製す。長短人のごとし。これを|匣中《こうちゅう》に秘し、旅途幽亭|無聊《ぶりょう》の時、|匣《はこ》より出し捧げ上げ気を吹けば、|忽《こつ》|然《ぜん》として|肥《ひ》|沢《たく》|通《つう》|躰《たい》、真の人のごとし。抱きて|衾中《きんちゅう》に擁すに、|双《そう》|手《しゅ》|交《こう》|頸《けい》、両脚|勾《こう》|欄《らん》、己が意のごとし。これを出路美人と|号《なづ》く。|一《いっ》|躯《く》の価銀一流と。一流は十二両を云ふと……」  平岡は書物をばさりと伏せた。 「|黒《こく》|甜《てん》|瑣《さ》|語《ご》三編の三にこう書いてあるんだ。どう思う? おめえたち」  作次郎が太い息を吐いた。 「それだ! それにちげえねえ」  作次郎が感に耐えないもののようにうなった。平岡同心が満足そうにうなずいた。 「そうだよ。え、そうだよう。おめえこれにひっかかったんだ。幸吉の親父、幸助は長崎でその妙な人形を手に入れやがったんだ。息子の幸吉は親父に似ねえとんだできそこない。死んだ親父の遺した物の中にそいつを発見してやつなりに算段した、とこういうわけだ」 「なあるほど」  作次郎は何度も合点した。 「で、だんな。これからあとはどうしますえ?」  平岡同心は気ぜわしく煙管を動かした。 「ようし。ここまでわかればあとはおれの方でやる。おめえたちもこれ以上、人のなわ張りじゃ動きにくかろう」  お小者を使って|捕《と》ろうというのだろう。 「それじゃ、おれたちは御用ずみで」 「ごくろうだった」  作次郎が先に腰を上げ、二人は外に出た。町はもうすっかり夜の|闇《やみ》につつまれ、家々の奥から赤っぽい灯の色が洩れてくる。その灯影で家族がより集ってめしを食っているのが見える家もあった。 「お、|蓮《は》|根《す》なんぞ食ってやがら。豪気なもんだぜ」  作次郎があたりはばからぬ声を出した。とたんに延次も腹の力がぬけ落ちたような空腹を感じた。 「北乗物町の。おめえ、どう思う」  延次は作次郎を|蓮《は》|根《す》から引きもどした。 「そうよなあ。平岡のだんなはああ言ったがなあ。紺屋町の。おれはあの女はぜったい人形なんかじゃねえと思うよ。ほんものの女だよ」 「でも、脈が感じられねえとか、箱ん中へ|入《へえ》ったんじゃねえかと最初言ったなおめえだぜ」 「おめえが何か変ったことがなかったか、と言うもんだからおれもその気になっちまったんだが、どうもねえ、あれはほんものの女だよ。いい味だったぜ。ほんとによ」  作次郎は首をふった。 「平岡のだんなはなんであんな本を引っぱり出したんだろう?」 「紺屋町の。もしかしたらそういうことにして片づけたかったんじゃねえかな? 銭とって人形を抱かせたって罪にゃなるめえ。まてよ。何かひっかかるかな?」 「風俗を乱したとかなんとかこじつけることはできるだろうな。でも|無《も》|鑑《ぐ》|札《り》よりは軽いさ。無鑑札はおめえ、へたすりゃ遠島だ。客が人形と知っていて抱いたとなりゃこいつはせいぜい手鎖三十日か軽けりゃおしかりですむわな」 「平岡のだんな。つかまされたんじゃねえかな。おれたちがしらべた結果、人形とわかったなんてことにしてえんじゃねえのか。そう言えばあとはこっちでやる、なんて言ってたじゃねえか」  どうやらそのへんが筋と思える。店はたたんだとは言え、長崎屋の名前と金の力なら平岡同心ぐらい丸めこむのは雑作もない、というのがほんとうのところだ。  二人は急に力落ちして空腹と疲労が体のしんを突き上げはじめた。 「やれやれ。何だか、こう、がっくりしちまったぜ。でも北乗物町の。おめえだけはいい目みたんだからうらやましいみてえなもんだよ」 「思い出すなあ。くそっ! ああ、もう一回やりたくなったぜ。決着のつかねえうちにもう一丁行ってくっかなあ」  作次郎はなかば本気だった。 「よしねえ。よしねえ。そんなところへ御役衆に踏みこまれてみねえな。おめえまで|捕《と》られちまうぜ。十手が泣かあ」  そこで二人は別れてそれぞれの家に帰った。 [#ここから2字下げ]  平岡同心が果して事件をどう扱うつもりなのか、おれはちょっと心配だった。長崎屋の息子の幸吉から八丁堀筋へ多額なおめこぼし金が動いているとも考えられる。タイム・パトロールマンにとって忘れてならないのは時代によって異なる社会習慣やその時代の人々が法を施行するにあたっての表裏におよぶ技術的特徴を十分に把握することだった。だからあるいは平岡同心は上役か、本人の何らかの利益関係によって事件を事件として扱わずにうやむやにしてしまう可能性もおおいにあった。そうかといっておれが強引に火をつけるわけにはいかない。そんなことをしたら、タイム・パトロールマンであるおれの存在自体がこの時代をそこなってしまうことになりかねない。あくまでかれらの手でこの事件を解決させる以外にはない。  そんなことをしきりに考えているうちに、おれは眠りに入ってしまった。  だが、翌朝、事件は意外な方向から展開していった。 [#ここで字下げ終わり]      4 「おい紺屋町の! 紺屋町の! 起きてくれや。てえへんなことがおこった」  入りっ|端《ぱな》の板敷をどんどんと打つひびきがまくらからじかに延次の頭の中へ伝わってきた。反射的にはね起きると、朝の明るい戸外の光を背景に、御用聞なかまの浪花町の万吉がじれったそうに立っていた。 「ど、どうしたえ?」 「作次郎が|殺《や》られた! 今、平岡のだんなからいそぎ知らせがあった。いっしょに来ねえな」 「作次郎が? 作次郎が殺られたって?」 「そうともよ」  延次は髪はそのままに、寝巻の古ゆかたをこれ一枚きりのあわせに着がえると、帯を結ぶのもあわただしく外へ出た。 「どこでよ?」 「橘町の青蓮寺裏の堀川へつんのめっていたのを朝帰りの手代が引きずり上げた。背中に突き傷ふたか所。ううもすうもなかったろうということだ」 「ちくしょう! 作次郎の体はどこへ?」 「橘町|下《しも》の番小屋へ運んであるとよ」  延次は万吉の後から走った。  番小屋の前は黒山の人だった。それをかき分けて中へ飛びこむ。こもをかけられた戸板がじかに土間に置かれていた。線香の|匂《にお》いと血の匂いが混って鼻の奥を刺激した。番太の寝泊りするたたみ敷きの部分に、御係同心の平岡がすでに出張っていた。万吉の子分たちが湯をわかしたり、茶わんに水を入れて作次郎の頭の所に飾ったりまめまめしく立ちはたらいている。今は小屋の中にまで入りこんできている野次馬達を外に押し出して曲障子をしめきり、自然に捜査会議になった。しかし手がかりは全くない。物盗りとは考えられず、けんかの果とも思えない。何よりも背後からぶっすりというのは、これは作次郎がよほどゆだんでもしていないかぎりできることではない。結局、うらみではないか、という意見に落着いた。作次郎は以前から十手風を吹かせ過ぎる嫌いがあった。とが人への責めもきつくなる。当然、作次郎に深いうらみを持つ者もいるはずだった。 「よし。ここ二、三年の間に作次郎が手がけた奴らとそのかかり合いを総洗いに洗え!」  平岡同心がくちびるをゆがめて言った。 「黒門町の弥十や聖天下の佐兵衛。下谷の久助などにも言っておく。御用聞が殺られたんだ。みんな力を合わせてやってもらおう」  平岡もよほどくやしいとみえた。 「御係の上田様には今日おれから申し上げるが、今かかっている御用は格別いそぎのものをのぞいてこの一件が片づくまでしばらくおいてもらう」 「へえ」 「明日の晩、来てくれ。弥十たちも呼ぶ」  二人は追い立てられるように町へ出た。作次郎の使っていた|諜者《ちょうじゃ》の家へ回るという万吉と別れて延次は一人歩いた。 [#ここから2字下げ]  おれはタイム・マシンを使って、昨夜作次郎が殺された時間の橘町青蓮寺裏へ飛んでみたくてたまらなかった。実際、その衝動をおさえるのにたいへんな努力を必要とした。現場へ行ってみさえすれば犯人を見つけ出すことは雑作もないことだ。しかし分局の駐在員はよほどのことがないかぎり、タイム・マシンを使用することは禁じられていた。今の段階ではそのよほどのことに該当するかどうか自信がなかった。もし時間密航者が近くにかくれひそんでいる場合、駐在員がタイム・マシンを使ったらそれはすなわち密航者にここに駐在員あり、とアドバルーンを上げてみせたも同じことになる。おれは肌身離さず持ち歩いている成田山のお守袋の中にかくしこんであるタイム・マシンを握りしめて歯がみした。おれは御用聞の延次として行動する以外にしかたがなかった。 [#ここで字下げ終わり]  自然に足が橘町へ向いた。幸吉の家の前を通行人にまぎれて三、四回行き来したが、家の中は静まりかえって何の変化も見せていない。延次はめし屋へ入った。ふろふきとひじきでゆっくりとめしを食った。その間にしだいに考えが固まってきた。作次郎殺しの下手人さがしの線から幸吉の身辺へ迫ることはどうやら無意味に思われた。証拠を残しておくほど愚かな相手ではないだろう。いずれにしろ作次郎は何かを見たのだ。それはそのために作次郎が生命を取られるほど重大な意味を持つものだったのだ。 [#ここから2字下げ]  しかし、作次郎には見ることができてもおれにはできない。それからおれは夕方まで足を棒にして上野や浅草を歩き回った。もし誰かに監視されているとしたら家へ帰ってひと休みしているなどというのは非常に危険だった。御用聞らしく過さなければならないだいじな一日だった。 [#ここで字下げ終わり]  夕方から雨が降りはじめ、板びさしを打つ雨の音がしだいにはげしくなり、長屋の露地はたちまちどぶ川になった。 「延次さん。|将棋《しょうぎ》さしにこないかね」  壁一枚へだてたとなりの易者の石堂が声をかけてきた。 「今日はさんざん歩き回ってなあ。えれえくたびれた。もう寝るよ。今夜はよすよ」  延次はあくびを混えながらことわった。ふとんを敷き、眠っているようにつくろってから延次は|蓑《みの》を着、|行《あん》|灯《どん》の灯を吹き消してから傘を持ってそっと外へすべり出た。  平岡同心の家へ寄ったが、灯が消えて真暗だった。となりの森下なにがしという同心の家の戸をたたき、出てきた|婆《ばばあ》女中に「御用聞の紺屋町の延次という者だが、明朝までに自分の消息がなかったら平岡のだんなにぜひ橘町へお出向き願いたい」と言っていたという伝言をたのんだ。 「御用聞の延次、さんだね」  女中はぬけた歯の間から息を|洩《も》らした。手燭のほのおにつばきがとんだ。 「いそぎの御用なもんでよろしくお願いしますよ」  それから橘町へ向った。人通りのない暗い路上に雨が|刷《は》|毛《け》ではいたように白い。  幸吉の家の裏木戸をおおうようにたれさがった|青《あお》|桐《ぎり》の葉が雨をばちばちとはじいている。物置小屋の屋根から台所の屋根に上り、|蓑《みの》を着たまま天窓をそっと押し開いた。えり元に結んだ蓑のひもをほどいて、蓑がうまく開いた天窓をおおうようにひろげておいて延次は下方の板敷にとび降りた。蓑にさえぎられて雨は吹きこんでこない。しばらく闇の中の気配に全身の注意をそそぐ。台所からふた間ほど離れた座敷の方から、かすかに人声がもれてくる。延次は幸吉の声は知らない。あるいは客かもしれなかった。そのとき、この家の奥まったどこかで男の低いうめき声が聞えた。妙に張りのある力のこもったうめきがどのような状態のものであるか延次にはすぐ合点がいった。 「営業中でやがら」  延次は胸の中でつぶやいて台所の境の障子の敷居に|椀《わん》でくんできた水を流しこんだ。わずかな手ごたえで障子が開いた。足の裏にひとしく体重をかけるように足を運んでとなりの座敷へ移った。こんな時のためにいつも着物のえりに刺してある針でふすまに小さな穴をあけ、中をうかがった。 [#ここから2字下げ]  魚眼プリズムの広大な円弧の中央に一人の女が坐っていた。その横顔の美しさがおれの眼に|灼《や》きついた。大きくぬいた衣紋からのぞく肌が練絹のようにつややかだ。それに帯をしめたあたりから腰にかけてがなんともいえぬ色気がある。その女と向い合っているのが幸吉だろう。三十歳ぐらいの眼つきのするどいやせた男だった。意地の強そうなやや張ったあごや、着物のそで口からのぞく筋肉質の太いうでなど、長崎屋ののれんを棄てたどら息子とは見えない。  そのとき、別室でひときわ男のうめき声が高まった。幸吉と女はその声のくる方へちら、と眼を上げた。 「ああ、きゅうくつだ」  ふいに女は綺麗に結い上げた頭髪に手をかけてすっぽりと脱いだ。かつらだった。頭をふると、かつら下地がほどけて明るい褐色の髪がはらりと垂れさがった。女は手早く帯をほどくと着ているものをむしり取って全裸になった。  やっぱりそうだった!  全裸と見えたのは、極めて薄いハイ・シリコン製のタイツだった。これに似たものはタイム・パトロールマン訓練学校の資料室で見たことがある。 「おまえはいいよ。どうせ人前には出ないのだから。おれはたまらん。こいつを脱ぐわけにはいかないからな」  幸吉は自分の頭を指さした。それでも小びんに手を当て、わずかに上へずらした。幸吉のひたいにぱっくりと割れ目が生じ、そこからこれも褐色の頭髪の渦がのぞいた。 「何か起きるとすれば今夜あたりだ。十分に注意していろよ」  幸吉は女にきびしい声で言った。 [#ここで字下げ終わり]  延次はそこからそろそろと後退した。  忍びは退きが難しい。相手の気息に合わせて進み近づくのは比較的容易だが、しりぞく時は一歩ごとに相手の気配がつかみにくくなる。台所まで退いた延次は天井裏にもぐりこんだ。梁をつたって例の座敷の真上に移動する。昨日あけた穴の上にのせておいた木片をそっとどけた。 「あっ」  眼の下で、一人の男がはげしく動いていた。あお向けになった体のあらゆる筋肉が生き物のように盛り上り、節くれだって影を造った。男の両手は自分の下半身にまたがっている見えない女の腰をしっかりと支えていた。男はけもののように歯がみすると、|屹《きつ》|立《りつ》した|陰《いん》|茎《けい》から天井にまでとどくかと思われるほどはげしく白い粘液を噴き出した。  男の幻想の中に在る相手の女は、あきらかにとなりの座敷の、ハイ・シリコン製のタイツに身を包んだ女にちがいない。  だが、まてよ——延次は暗闇の中で眉を寄せた。  作次郎はたしかに女とやっていた。今、下に横たわっている男のように、幻覚の中で女を抱いているのとはちがって、たしかに女とからみ合っていた。するとあの時は、あの女はほんとうに作次郎と寝たのだろうか? あるいはそうかもしれない。女も疲れるだろうし、気の乗らない時もあるだろうから。 [#ここから2字下げ]  だが、まてよ——おれは急に体のしんから冷え上るような気がした。もしあのとき、作次郎もほんとうに女とやっていなかったとしたらどうなるだろう? 実際にいもしない女がいるように見えるのなら、作次郎だけでなく、おれの目にもそう映りはしないだろうか? するとやつらはおれにもしかけてきたのにちがいない。  おれをタイム・パトロールマンと知ってか?  わなだ! [#ここで字下げ終わり]      5  延次は梁の上をねずみのように走った。忍び防ぎの破れ目をくぐりぬけ、台所の天井へ夢中で走った。開いたままの天井板がぼんやりと暗い口をあけていた。そこへ足からいっきにとびこんだ。  目や鼻がひどいほこりでふさがれた。手さぐりで昨日、切り開いた破れをさがす。頭からもぐりこむ。まだ誰も延次に気がついていないようだった。延次は梁の上をねずみのように走った。開いたままの天井板が、ぼんやりと四角な口をあけていた。そこへ足からいっきにとびこんだ。  厚いほこりが舞い上り、目や鼻がもうっとふさがれた。手は無意識に忍び防ぎの破孔をまさぐった。頭からもぐりこむ。着物のどこかがびりびりと引き裂けた。延次は体を丸めて梁の上をねずみのように走った。開いたままの天井板がぼんやりと暗い口をあけている。延次はひと思いに足からおどりこんだ。 「いけねえ」  延次はその奇妙なくりかえしが現実のものでないことを混濁した意識の底でさとった。わずかに残された手指の感触が、痛いほど天井板に開いた口の縁を握りしめていることに気づいたのだ。延次は鉛のように重く感じられる体をむりに動かして天井から飛びおりた。ひどい衝撃がかえって延次の意識を現実にひきもどした。あきらかに心理攻撃だった。  超音波銃だろうか?  延次は帯にはさんだ十手を引きぬくと台所の障子を蹴やぶり、ふすまを押し倒して突進した。十手に仕込んだ中性子銃の安全装置を開くと座敷におどりこんだ。 「御用だ!」  延次の突入を予期していたもののように、幸吉と女は羽のように音もなく右と左に別れて壁を背にして立った。 「動くな! おまえたちは時間密航者だろう」  延次はゆだんのない眼を交互に二人にそそいだ。  幸吉がにやりと笑った。 「いつ来るかと思ったが、ようやく来たな」 「うるせえ! そうか。やはりおまえたちだったのだな。やってもいねえ女をやっているように思わせて高え金をふんだくりやがったのは!」  延次は中性子銃をぴたりと幸吉に向けた。 「おっと待て。延次。そいつはやめな。おれの顔を見忘れたわけじゃねえだろう」  幸吉は壁ぎわを動いて行灯の光に自分の顔をさらした。その顔は作次郎のものだった。 「作次郎!」  延次は自分の頭がどうかしてしまったのではないかと思った。 「生きていたのか!」 「おれは最初から生きているよ」 「くそっ! おめえら。おれをめくらましにかけやがったな。それに、女の体がどうのこうのぬかしやがって」 「それでますますおまえは深みにはまった。自分からな。延次。いや。タイム・パトロールマン。おまえが見たものはみんなおまえの頭の中にだけ生じたいわば幻想に過ぎない。作次郎は殺られもしていないし、幸吉は長崎屋の息子でもない」 「なんだって? 気でも触れたか!」 「おい。後を見ろ」  ぎょっとしてふり向いた延次の眼に、退路をふさぐように平岡同心が立っていた。 「だ、だんな!」 「静かにしろ」  女の視線がちら、と平岡の方へ動いた。延次はそこにわずかにすきができたのを感じた。延次は追いつめられたけもののように全身の力をこめて跳躍した。ふりかぶった十手が大きく風を切ってうなった。 「とまれ! 駐在員」  平岡が影のように動いて延次と女の間に割って入った。 「検閲はこれまでだ。駐在員」 「なに?」 「検閲はこれまでだ、と言ったのだ」 「検閲だと!」  延次は思わず棒立ちになった。 [#ここから2字下げ]  しまった! おれは頭を鉄棒でがん! となぐられたような気がした。検閲という言葉がおれの頭の中で火花を散らして猛烈に回転した。 [#ここで字下げ終わり] 「私は第七総局の監察官、ヌ四四一Bだ。これは監察員、ル八九C。おまえが作次郎として知っている男は同じく監察員、CR七〇二だ。どうした。駐在員……」  おれはぼう然と平岡の顔を見つめていた。二人の監察員はなお任務のつづきであるかのようにおれの顔に氷のような視線を当てつづけていた。 「検閲か!……検閲」  何年か、何十年かに一度、本部から駐在員の勤務状態や組織の活動ぶりを査察する為に、監察官が送りこまれてくるのだということは訓練学校時代から話には聞いていた。しかし多くの場合、監察官の潜行は非常にたくみに行なわれるために、駐在員はそれとは気がつかず終ってしまうのだとも聞かされていた。そしてきわめて運の悪い駐在員が、かれらのしかけたテストにはまりこんで失態をさらすことになるのだと。その監察官のテストが、おのれ自身の上に加えられようとは! 「……駐在員。楽にしてよし! どうした? 聞いているのか? この場で批評をするのはあまり適当ではないと思うが。駐在員。極めて注意力に欠けているぞ。私が監察官だということに気がつかなかったのは無理もないとしても、おまえはなぜ幸吉を時間旅行者だと思ったのだ。誰かがおまえにそう信じこませたのだ、とは思わなかったのか! また、おまえは私である平岡同心がおまえにだけこの仕事をやらせようとしたことを少しも疑ってみなかった。他の御用聞なかまがこのことをほんとうに平岡同心から聞かされていたのかどうかさえ一度も確かめてみようとはしなかった。幸吉の身元を自分の手で洗おうともしなかったし、平岡がほんとうに上役の上田からこの件の捜査を命じられたものであるかどうかも確かめていない。それに……」 [#ここから2字下げ]  ちくしょう! そんなことを言ったって!  まるで訓練学校の教官みたいにつべこべ言いやがる! 全く口調まで同じだ。ここは学校じゃないんだぜ。そう身の回りに起ることのすべてに疑念を持って気を張っていることなんて実際にできることじゃないんだぜ! [#ここで字下げ終わり] 「……おまえは多くを語り過ぎる。言葉にこそ出してはいないが。頭の中でだ。駐在員。私も、それからこの二人の監察員もテレパシーが使える。その為の特別教育を受けているのだ。おまえは忘れているな。タイム・パトロールマンは自分の思考を|制《せい》|禦《ぎょ》し、抑制して特定の持続したパターンに顕化させてはならないということを。テレパシー能力を持った時間密航者に対する警戒が必要だからだ。ところがおまえの頭の中は、自分はタイム・パトロールマンであるという意識でいっぱいではないか!」  延次は全身の力が腰からひざへ、ひざからかかとへ、そして床へと汐の引くようにぬけてゆくのを感じた。 「だからここにパトロールマンがいるというのがいっぺんに分った。そしておまえは私たちのテレパシーにいっぺんにひっかかってありもしない幻想にふり回された。私たちでよかった。もしそうでなかったら、おまえの生命はすでに無くなっているところだ。このことは考課表に記入しておかなければならん」  二人の監察員の眼に、わずかにあわれみの色が浮かんだ。 「別命があるまで勤務にもどっているように」  昨日まで作次郎と呼ばれていた男が監察官のあとを引き取って言った。  それから三人の姿は霧がかかったように急速に薄れ、やがて完全に消え去った。 「別命があるまで……」  作次郎の声がまだ耳に残っていた。 [#ここから2字下げ]  どうしておれはあの男の死体をたしかめてみなかったのだろう。 [#ここで字下げ終わり]  それが悔やまれた。平岡同心も作次郎もいずれは|失《しっ》|踪《そう》ということになるのだろうが、それもうやむやにされるのがおさだまりだった。こんなところにかれらの入りこんでくるところがあったのだ。 [#ここから2字下げ]  十年もつき合っていたのに! [#ここで字下げ終わり]  しかし十年などという歳月は、タイム・パトロールマンにとっては時間などというものに値いしないほどの一瞬の間なのだ。  打ちしおれた延次の眼に、大江戸の夜が海のように漠々とひろがっていた。犬の遠ぼえが長く長く尾を|曳《ひ》いてつたわってきた。     |歌《う》|麿《た》さま参る [#ここから5字下げ]   |笙子夜噺《しょうこよばなし》 [#ここで字下げ終わり]      1  その男が店に入ってきたときも、かもめはすぐ、あ、なにか売りにきた人だわ。と思った。  何か売りにきた者、買いにきた者、そのどちらでもない者のちがいは、店に入ってきたときにいっぺんでわかる。  店に入ってきたその男は、長さ一メートルほどの細長い重そうな風呂敷包みを手にしていた。  その足取りがひやかしの客とちがう。男の手にした包みが、外国のコインや|金鵄勲章《きんしくんしょう》などをならべたほこりだらけの、だがこの店でたったひとつのガラスの飾り戸棚にごつんごつんと当った。飾り戸棚の中の銀製の小さな仏像がごろりと倒れた。かもめは口の中で小さく舌打ちした。  品物を売りにくる客は誰でも妙に気張って肩ひじをいからせている。売りにくる以上、たいていはかねに困ってのことだろうが、それを見すかされまいとするのか、それともこれから傷つけられようとするプライドの自衛本能か、いやに感じが悪い。  その男も、かもめが帳場と呼んでいる店の奥のせまい畳敷の前にまっすぐ進んでくると、台の上に手の包みをどかりと置いた。刀らしかった。 「これ、幾らで引取る?」  意識した横柄さで言う。 「刀ですか?」 「古くからわが家に伝わる名刀だ」  男はひと息に言うと、もう|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みをほどきにかかった。横柄な口調とは裏腹に、その手つきはかなり焦立っている。風呂敷をほどくと、中は新聞紙で何重にも包んである。それをがさがさと破ると中から大きな刀があらわれた。 「|元《げん》さあん!」  かもめは奥へ向ってさけんだ。  奥でなにかやっていた元が、目かくしの短いのれんを頭で割って、のそりとあらわれた。 「お客さんが刀を売りたいんですって」  かもめが動いて座をあけた。 「古くから家に伝わっている刀だ」  客の男はもう一度言った。刀を売りにくる者はたいていそう言う。  元はあまり興味なさそうに、台の上に置かれた刀を取り上げた。  |柄《つか》は|鮫《さめ》|皮《がわ》、|鐔《つば》は鉄の分厚い丸鐔。|鞘《さや》は|黒漆《くろうるし》でところどころ傷がついて|剥《は》げている。実用一点ばりとはいえ、粗末な造りだ。いかにも古道具屋の店先に持ちこむにふさわしいしろものだが、鞘の上から感じられる刀身の反りの深さが、ふと元の心をとらえた。  元は左手で刀を水平に支え、右手で柄を握ると静かに鞘を払った。 「これは!……」  元は思わず絶句した。  とぎすまされた|鋼《はがね》の一点の曇りもない沈んだ|光《こう》|芒《ぼう》が元の目を射た。三尺にたりない刀身の、のびのびと描く反りはとどまるところをしらない。|鋒《きっさき》も反りに見合って小さく、薄い重ねにせまい|鎬《しのぎ》がよくつり合っている。ことに、|小乱《こみだれ》に|互《ぐ》の目、|小丁字《こちょうじ》を交えた刀文の美しさは類がなかった。そこには、見る者の魂を吸い取ってしまうようななにかがあった。  これはまさしく名刀だった。それも何十年に|一《ひと》|刀《ふり》、何百年に|一《ひと》|刀《ふり》、生み出される名刀だった。  客が何か言ったが、元の耳には入らなかった。  元は以前にこれとよく似た名刀を見たことがあるのを思い出した。  そうだ! あれは……  東京国立博物館に所蔵されている国宝の|備前国《びぜんのくに》|包《かね》|平《ひら》だった。それは源平の戦いもさかんな平安末期、治承から寿永にかけての頃の作といわれ、現存する数ある名刀の中でも最高傑作とうたわれていた。  その備前国包平と同じものがどうしてここに?  元は自分の目が信じられなかった。元は自分の心臓の音をはっきり耳にすることができた。 「銘を見せてもらいます」  かろうじてそれだけ言うと、客の答えも待たず、元は|目《め》|釘《くぎ》をはずしにかかった。そのとき、|柄《つか》を巻いた鮫皮に茶褐色のしみがあるのに気がついたが、そんなことよりも銘をたしかめたい気持ちでいっぱいだった。  |柄《つか》をはずすと幅広の|茎《なかご》があらわれた。|鎬筋《しのぎすじ》をまたいで鎬地から|平《ひら》|地《じ》へかけて、古雅な筆体で大きく、備前国包平作、と銘が彫りこまれていた。  ほとんど疑う余地がない。その銘が無くとも、これはあきらかに包平に間違いなかった。無銘の刀に後代になって銘を刻みこんで誰それの作と称することはできるが、名刀をいつわることはできない。かえって名刀であれば銘をすり落しても、誰の作であるかを言い当てることはできる。 「これをどこで手に入れましたか?」  元はわれにかえってたずねた。ひどい疲労を感じた。 「だから、わが家に古くから伝わっていたものだ」  客の男は押しかぶせるように言った。 「それにしてはよく手入れがゆきとどいていますね。曇りひとつない」  元の言葉に、男の顔色がはげしく動いた。 「家宝だからな」  しかし、昔ならばともかく、これだけの刀をつねにとぎ上げておくというのは、よほどの愛刀家か、その家にとって大切な品なのであろう。 「これを幾らで手離したいんですか」  元の心にようやく|商《あきな》いの心がもどってきた。まだ、なんだか夢を見ているような心持ちだった。  この刀が、備前包平だとしたら——先ず間違いないが——世の愛刀家や研究家の間に大きな波らんを巻き起し、国立博物館の国宝「名物大包平」と雌雄を争うことになる。いずれにせよ、価格は二千万円をくだるまい。折紙がつけばさらにその倍、ことによったら、三倍と考えてもよい。  しかし、そのことをわざわざ客に言う必要はない。客はそこまでは知らないかもしれないし、知ったとたんに欲を出すかもしれない。 「百万」  男は口にしてから、ちら、と元の顔をうかがった。 「ううん……」  元はちょっと思い入れを見せてから、 「六十万」  名刀に|出《で》|逢《あ》った興奮が、完全に古道具屋の心にすりかわった。 「六十万では安い」  男も多少、刀の知識があるようだった。  元はかたわらのそろばんを手にとって玉を動かした。別に何をはじいているわけでもない。ただのポーズだった。 「そうですね。思い切って負けて七十万でどうです? それ以上はちょっと」  男は視線をちゅうに当てていたが、決心したか、よろしいと言った。 「即金でたのむぜ」  即金と聞いて、元はあわてて腕の時計を見た。午後三時を十分以上過ぎている。 「こいつはいかん! 弱ったな。銀行はしまったし……七十万というかねは置いてないんです。ちょっと待ってください」  この機会を逃してはならなかった。ここでかねの受け渡しまでもってゆかなければ、この手の客はほかの店へ逃げられてしまう。いったん品物を持って帰ってもらって、明日、かねを持って品物を引き取りにゆく、などというわけにはいかない。  元は帳場のすみの電話機をつかんだ。いそがしくダイヤルを回す。 「もしもし! 青竜堂さんですか?」  受話器の奥から聞き|馴《な》れた声が流れてきた。 「元さんじゃない。どうしたの? あらたまって? 青竜堂さんですか、なんて」  客がそばにいるので、日頃の言葉づかいは出せない。元は用件だけをかいつまんで話した。 「これから、すぐ車で行きますからすみませんが用意しておいていただけませんか? それではよろしく」  あくまで事務的に会話を切り上げる。受話機の奥から、それをおかしがるはなやかな笑い声がつたわってきた。元はそっと受話器をもとにもどした。 「すみませんが、これからちょっと銀座までごいっしょしていただけませんか? 同業者がおりよく七十万という現金を持っておりましてね。それを回してもらうことにしました。私が運転して行きますから」  元は大いそぎで備前国包平を鞘におさめ、もとのように風呂敷に包んで男の手にもどした。 「銀座まで行くのか?」  男は警戒の色を見せた。 「銀座に『青竜堂』という画廊がありましてね。画商の間ではもっとも信用のある画廊ですが」 『青竜堂』といえば、そうそうたる大家のものしか扱わないことで有名だ。若手にとっては、『青竜堂』の息がかかったということだけで、前途が約束されたとみてよいと言われている。しかし男は『青竜堂』の名も知らないらしい。  男はためらっている。 「それではいかがですか? 大事な品物を持って知らない店の奥に入るのがおいやでしたら、『青竜堂』の近くに大きな喫茶店がありますから、私がかねを受け取ってくる間、品物を持ってそこで待っていただくというのは?」  そこまで言われて男はようやくなっとくしたようだ。  元は店の裏にとめてあるくたびれたライトバンをおもてに回した。  かもめに店をたのむと、しぶりがちな客を車に押しこんだ。      2  店へ帰ると、元はかもめに店を閉めるように言い、あかるい電灯の下で男が持ってきた備前国包平をたんねんに調べた。大きな天眼鏡で、なめるように刀を調べたが、毛で突いたほどの刃こぼれひとつない。よほど上手のとぎ師の手になるものとみえ、容易に牛、馬の骨でも断つことができるだろう。これほど十分に刃がついているものはめずらしかった。日本刀といっても今では美術品だ。実際に切れるように刃を生かしておく必要はない。その包平はまるで、今の今まで実用されていたもののようだった。先程ちょっと目についた|柄《つか》|巻《ま》きの汚れを灯にかざして見た。鐔元に近く右手の握りの部分が、薄いがかなり広く茶褐色に変色している。  あきらかに乾いた血の跡だった。刀身や鐔の汚れはぬぐい取ることができるが、柄巻きにいったんしみこんだ汚れは洗い落しても跡が残る。  元の心になにかがひっかかった。  この包平がさいごに人を斬ってから、少なくとも百年はたっているはずだ。しかし、この柄の汚れはそう古いものではない。かりに太平洋戦争の時に使われたとしても、三十年近い。だが、この汚れは三、四年前のものだ。  まてよ。やくざの斬合いということもある。  元は首をふった。  やくざの斬合いとこの備前国包平はどうみてもつながらない。それに、こう見事にとぎ上げる以上、これは刀剣専門のとぎ師の手になったものだし、それだったらこの備前国包平の存在が世に知られるはずだ。とぎ師をふくめ、一度でも刀剣師の目に触れた存在が、秘せられたまま終ることは考えられない。ずっと格が落ちる刀でさえ、どこの家にどんな刀があるか、どこの誰がなんという刀を持っているか、という知識や情報はこの商いでは欠かせないものだ。  元の眉はしだいに|翳《かげ》をおびてきた。 「どうしたの? なにかあったの?」  かもめがたずねても返事もない。  そのうちに奥のせまい台所で、かもめが油をじゅうじゅういわせはじめた。うまそうな|匂《にお》いが流れてくる。やがて、 「元さん! ごはんよ!」  かもめが呼んだ。だが元は動かない。そのうちに、のれんが割れ、かもめの顔がのぞいた。 「食べちゃうわよ」  元はそれを全く無視して、しきりに手帳をくっていたが、すぐ電話機に手をのばした。  緊張をかくして作り声になる。 「ああ、もしもし、彫美堂さん? あ、徳さんか。あのね、徳さん、この間、|武蔵《むさし》|一《いっ》|貫《かん》|斎《さい》|義《よし》|弘《ひろ》を手に入れたと言っていたね。そいつはえらい掘出物だが、それを徳さんの所へ売りに来た人の人相や服装をちょっと教えてもらいたいんだが……いや、あやしいとか何とかいう話じゃないんだよ。ええ? ああ、そう。たのむよ」  元はしきりにたのみこんでいる。品物を売りにきた人物について、ふつう同業者にでもくわしく話すことはしない。ましてそれがたいへんな掘出物ともなればなおさらのことだ。どんなことで商売に水をさされるかわからない。  それでも友達の徳さんは元のたずねることにこころよく答えてくれた。新宿で彫美堂という店を開いている徳さんは、一週間ほど前、建武の頃のこれも名刀、義弘を、店にやってきた男から手に入れたという。この義弘はこれまで銘の確実なものはなく、義弘と判断されるもののすべてが銘を磨き上げて無銘となっている。徳さんが手に入れたものはあきらかに義弘の作風でしかも銘が入っているという。元はまだ見せられていないが、さびひとつなく、無条件に二千万円の値がつくという。元が声をひそめて、備前包平を手に入れたことを言うと、徳さんはうらやましそうだったが、わがことのように喜んでくれた。 「元さんよ。これはどこかの愛刀家がそっとコレクションを放出しているんじゃねえかな。|府中《ふちゅう》の方の刀剣屋でもよ、|水《すい》|心《しん》|子《し》を手に入れたやつがいるんだと。これも一千万円以上の品らしい。だけど元さんよ、おれはこの商売をもう三十年もやっているが、国宝包平がもう一本あったなんてことも、在銘義弘があったなんてことも知らなかったよなあ。世の中はひろいもんだ」  徳さんの所へ義弘を売りに行った男は、あきらかに元の店にあらわれた男と同一人物だった。府中の刀剣屋へ水心子を持っていった男も、おそらくかれであろう。 「食べないならしまうわよ!」  また、かもめがのぞいて形のいい眉を釣り上げた。元はしかたなくのそりと立ち上った。  店につるしてある古い柱時計が九時を打った。 「明日、国立博物館に包平を持っていって鑑定をたのんでくるよ」  テレビが時代劇をはじめた。かもめがつい、と立ち上った。 「あたし、おぶに行ってくる」  そのとき電話が鳴った。      3  電話を受けとった元とかもめが銀座の画廊『青竜堂』をのぞいてみると、奥の応接室のソファに女|主人《あ る じ》の|笙子《しょうこ》が一人身を沈めていた。入っていった二人を見ると目で|椅《い》|子《す》を指して、 「おすわりよ」  と言った。それきりまたあごを着物のえりに埋めた。軽くひざを組み、|袖《そで》|口《ぐち》に両手をさしこんで胸の上に置いた姿勢のままじっと何か考えこんでいる。ふだんからすきとおるようなほおが気のせいか|蒼《あお》い。無造作に束ね上げた髪から首すじに垂れたおくれ毛が、窓から入る風にかすかにゆれていた。  元がセブンスターに火をつけ、かもめが|爪《つま》|先《さき》にひっかけたサンダルシューズで何かのリズムをとりはじめた。元のたばこが灰になり、かもめが小さなあくびをかみ殺して手の甲で口をぽんぽんとたたいたとき、ようやく笙子が顔を上げた。 「ごめんね。どうも考えがまとまらなかったものだから」  二人ともその点は馴れたものだった。いったん笙子が考えごとをはじめたらはたで何を言っても耳に入らないのだ。 「今日、三宅さんが来たのよ」  笙子は袖口から両手をぬくと上体を起した。 「熱心だこと。そのようすじゃお姉さん、だいぶ心を動かされたようね」  かもめが下くちびるを突き出した。いたずらっぽい目が下から笙子を見上げた。笙子は形のよい眉をひそめた。 「ばかおっしゃい!」  三宅はある大銀行の頭取でかれの浮世絵のコレクションは外国でも有名だった。浮世絵ばかりでなく、油絵にも興味があるとみえ、二、三年前に人の紹介でこの『青竜堂』をおとずれてからは少なくとも月に一回は必ず顔を見せていた。時々かなり値の張る買物もした。しかしどうやら目的は絵よりも笙子そのものにあるらしかった。ことわりきれずに笙子も一、二回食事につき合ったことはある。この半年ばかり三宅のボルテージは上りっぱなしのようだった。 「そうね。三宅さんて七十ぐらいでしょ。お姉さんはちょうど三十。孫だもんね。いくら三宅さんがお金持ちでもお姉さん、もったいないよ」  かもめは猫のような顔をして笑った。さしずめ海猫というところだ。 「おやめなさい。そんなことじゃないのよ」  笙子は姿勢をあらためた。 「三宅さんが|写《しゃ》|楽《らく》を手に入れたというのよ」 「写楽を?」 「そう。これまで知られていなかった絵よ」  元とかもめの顔が別な表情をたたえた。 「また新しい絵か!」 「そうなの。先月、|倉《くら》|敷《しき》で二枚。その前に|川《かわ》|越《ごえ》で一枚。|水《み》|戸《と》の井川文庫で一枚でしょう。それにこんどの三宅さんと今年になってから写楽のまだ知られていなかった作品が五枚も出てきたわけよ」  元が新しいたばこをくわえてライターをかちりと鳴らした。そのけむりに、酒場の年増ホステスどもにハンフリー・ボガードに似ているとさわがれたりするたくましい顔をふっとしかめた。 「倉敷の二枚が〈八月狂言〉と〈仁田四郎|富《ふ》|士《じの》|巻《まき》|狩《がり》〉。川越のが〈|市《いち》|川《かわ》|蝦《えび》|蔵《ぞう》の竹村定之進|其《そ》|之《の》|二《に》〉、井川文庫が〈風流深川唄〉だったですね」  元の目がそれらの絵の一枚一枚を思い浮かべているかのように細められた。 「それで、こんどの三宅さんの写楽はどんな絵なんですか?」 「中山富三郎の宮城野よ」 「〈中山富三郎の宮城野〉というのは前にもあったね」 「今度の|其《そ》|之《の》|二《に》というところじゃない?」 「見ましたか? それ」 「私は見ていないの。来週持ってくると言うんだけどね」 「本物でしょうね?」 「奈良美術大学の今庄先生の研究室で鑑定した結果、ほぼ間違いないという折紙がついたんですって」 「あそこの研究室でほぼ間違いないと言ったのなら大丈夫だ」  今庄研究室は古美術品の科学的鑑定で外国でも高く評価されている。こんどの写楽でも筆致だけでなく、紙質、絵具、版木ののみの切れなどに至るまで化学的物理的なテストが重ねられた末、結論を出したものであろう。ほぼ間違いないという慎重な結論がかえってその|信憑《しんぴょう》性を高めていた。      4  写楽の描いた絵はこれまでに百四十八種しか知られていない。  写楽は数多い江戸時代の絵師の中で、その作風の特異なこととともに、生年も没年もまたどこの何者であったのかもわからない|謎《なぞ》の人物として知られている。『浮世絵類考』によれば〈俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者なり。これは|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》役者の似顔をうつせしが、あまり真を描かんとてあらぬさまにかきなせし故、長く世に行なわれず。一両年に|而《て》止む〉とあり、多くの写楽研究家の手をへたにもかかわらず現在に至るもこれ以上のことはわかっていない。事実、写楽の描き残した絵が寛政六年五月から翌年二月までの間の江戸で上演された歌舞伎や|相撲《すもう》興行に集中的に取材されていることから考えても極めて短い間の制作活動だったようだ。  その頃の役者絵というのは、人々のアイドルであった役者たちをいかに美しく描くかということだけを目標にしていた。その役柄の|扮《ふん》|装《そう》だけでどの役者かとわかる程度で、その顔はただ|油壺《あぶらつぼ》から出たようなしんとんとろりとしたいい男でありさえすればそれでよかった。それは似顔絵と言えば言えなくもないようなものではあったが、江戸の民衆にはおおいに受けた。それはたしかに完成された様式美ではあった。その様式美に波紋を投じたのは写楽だった。写楽は役者の個性を一瞬の表情にとらえ、それを写楽自身の印象でまとめた。だから写楽の描いた役者はどれも決していい男でもないし美しくもない。むしろみにくいものさえある。しかし役になりきった一人の役者の個性あふれるいきいきとした表情が見事に描かれている。〈|大《おお》|谷《たに》|鬼《おに》|次《じ》の|奴江戸平《やっこえどへい》〉でも〈|市《いち》|川《かわ》|高《こ》|麗《ま》|蔵《ぞう》の亀屋忠兵衛と中山富三郎の梅川〉でも画面いっぱいにぴいんと張りつめた緊張は役者のある瞬間の見世場を描いて余すところがない。ことに写楽の場合、その瞬間の顔の表情と手の動きが実によい。釣り上った眉や小さな目、一文字に結んだ薄いくちびる、ゆがんだ顔などは様式化された美しさとはまるで裏腹でむしろチンケではあるのだが、それがすなわち写楽の受けた印象なのだ。その顔が生きた人間の顔であり、声をふりしぼり、舞台を踏み鳴らしている役者そのものの顔なのだ。  だがこの写楽の似顔絵は、とろりとした美しいだけの似顔絵を求める当時の大衆には当然のことながら好まれなかった。役者たちは写楽の絵にはげしい反発を感じ、中には評判を落そうとしてこのような絵を描いたのだろうと言い出す役者さえいた。一部では熱狂的な支持者もいたが、|板《はん》|元《もと》の|蔦屋重三郎《つたやじゅうざぶろう》が出版をためらうにおよんで写楽は急激に制作意欲を失ったらしく、二、三の駄作ともいうべき役者絵を最後に永久に江戸の画壇から姿を消してしまった。  美人画の|歌《うた》|麿《まろ》とならんで、役者絵の写楽といわれ、浮世絵の神髄を最高度に高めたこの写楽の絵が現代で再認識されたのは残念ながら日本ではなくてフランスやドイツ、アメリカが先だった。その印象主義的表現はフランスやアメリカの画家たちに強い影響を与えている。 「三宅さんが新発見の写楽を一堂に集めて展示しようというのよ」 「どこで?」 「ここで」 「それは呼物になるな」  これは画廊にとっても、たいへんな宣伝になる。 「三宅のおじいさん、よっぽどお姉さんに気があるのねえ。そういう展覧会って町の画廊でやるものじゃないものね」  かもめが首をすくめた。保険料や出品者への謝礼など三宅の出費はたいへんなものだろう。三宅には一文のとくもない。ただ世の愛好者のためと、笙子の画廊のためという二つの動機しかない。 「泣かせるう!」 「かもめちゃん!」  笙子が綺麗な目でかもめをきゅっとにらんだ。 「それで何か問題があるのか?」  元が笙子にたずねた。 「あなたがたにわざわざ来てもらったのは、そんな展示会のことじゃないの。実はあたしが気にしているのは、なぜ近頃、これまで未発見だった写楽の絵があちこちから出てくるのか? ということなのよ」  笙子の声が翳った。 「なるほど」 「事務所の小島くんに調べてもらったのよ。そうしたら、新発見の写楽は全部、同じ人から出ていることがわかったの」 「誰です?」 「台東区の|仲《なか》|御《お》|徒《かち》町に住む関根という人よ。でも、この人、絵とも古美術ともまるで縁のない人なの」 「誰かほかの人にたのまれたのではないかな?」 「いいえ。写楽の絵なんていうものはね、名刀と同じで、これまで知られていないものなんてないのよ。絵は知られていなくとも、なんらかの記録は残っているものなの。それに小島くんの調査では、この人から先は全くつかめないの。まるで、この人の手元に|湧《わ》き出したような感じなのよ」  小島青年の調査能力は信頼できる。 「こいつはちょっと気になるぜ」 「でしょう?」 「これはこの頃、あちこちでこれまで知られていなかった名刀が売りに出されていることと、何か関係がありそうだ。笙子ちゃん。おれの所へ包平を売りにきた男は、もしかしたらその関根という男と同一人物かもしれないぞ」 「行ってみましょうか?」 「ああ」  三人は顔を見合わせると立上った。  事務室では小島が一人、机に向って週刊誌を読んでいた。笙子は小島に何かこまごました用を言いつけたあと、事務室の奥のドアを開いた。三人がドアのむこうに吸いこまれると、ドアはぴたりととざされた。      壹 押込み忍が岡  |不忍池《しのばずのいけ》を一面におおった|蓮《はす》の葉が、大きくゆれ動き、いっせいに白い葉裏をひるがえすと、やがてさわやかな風がこちらへ吹きわたってくる。朱を溶いたような夕焼けに、本郷、小石川辺の山が、影絵のようにくっきりと浮かび上っている。 「ああ、遊んだ。|姐《ねえ》さん。今、なんどきだえ?」  水茶屋『若鶴』の、軒端近く寄せて据えた縁台で、禄造は大きく背をのばした。 「さっき寛永寺が六ツを打ちましたよ」  禄造はうなずいて、まだ残っていた徳利の酒を|盃《さかずき》にあけた。 「あら。お酒、換えましょ」 「いや。おつもりだ」  八ツ半にここへ来て、ししゃもで飲み、それから奥の座敷へ移って、かねてお目当の、この店のおしなという女と二つやり、また、この風通しのよい縁台に移って飲みなおしていたのだった。  ここへ来て気散じするつもりが、かえって妙にしこりが残った。気になることだけが、あとに残った感じだった。  上州無宿、禄造、世間では日本橋本石町糸屋仁助で通っているかれが、下谷|池端忍《いけのはたしのぶ》が岡に店を構える|地《じ》|本《ほん》問屋、|蔦《つた》|屋《や》を襲うことを計画してから、もう三か月もたっていた。その間に、蔦屋の下女から、家人や住込んでいる職人たちの寝部屋の位置や勝手口のようす、人の動き、などを聞き出していたし、出入りの大工や左官などからそれとなく聞き出した話をもとに、家の見取図も作ってあった。  もともと人の出入りの多い、はでな商売の地本問屋だから、夜がふけてもそう警戒はきびしくないだろうというのが禄造の目算だった。 「それにしてもな……」  禄造はこの道に入って古いだけに、事にあたっては臆病なほど慎重だった。 「あい?」  禄造のつぶやきに、女は上体を動かし、小首をかしげてつづく言葉を聞きとろうとした。だが、女はそれが自分に向けられたものでないと知ると、もとのようにひかえた。  禄造はこんどの仕事に、四人の手下を|按《あん》|配《ばい》していた。家の中に踏みこむのは禄造と、佐吉、加十の三人。耕助はすぐ二階を押さえる。新七は裏へ回って、逃れ出るやつをくい止めると同時に、|退《の》き口の確保だった。二十人から寝泊りしている蔦屋の世帯を相手に、四人は少なかったが、手|練《だ》れの手下どもではあったし、忍が岡という場所がら、近所の家からの応援もないであろうから、先ず十分だった。  気になるのは、蔦屋の彫師や版下職人の中に何人かの浪人上りがいることだった。仕官をあきらめた浪人の中には、器用なのがたくさんいて、この頃、人手がたりなくて困っている地本問屋の彫師や版下職人になって、いいかねを稼いでいる。蔦屋にもそんなのが何人もいる。結局ものにならなかった仕官だが、そのために身を入れて修業した剣術だけは身についている。  禄造が欲しいのは、浪人上りの職人が手向ってきた場合の押えになる人物だった。しかし、これだけは|剣《やっ》|術《とう》ができるからといって、誰でもたのめるというわけではない。元来、禄造は|強《あら》|盗《ごと》はあまり好きではなかったから、信用のできる腕っぷしの強いやつを知らない。  ——弱ったな。この|仕事《おつとめ》は見合わすか? しかし、惜しいな。禄造は財布を取り出すと、この店のきまりの茶代十六文を、縁台をおおう|絵筵《えむしろ》の上に置いた。別に一分。これは女と酒。それに料理の分だ。 「あら、|旦《だん》|那《な》。こんなにたくさん」  女がはずんだ声でしなを作った。勘定以外に女の取り分も豊富だ。 「いいってことよ」  禄造は女に見送られて店を出た。女を連れて広小路へ行ってみようかと思ったが、思い直してやめた。  池の端から三ツ橋を広小路の方へわたったとき、禄造はふと、|追《つ》けてくる者の気配を感じた。木かげをもれる常夜灯の光が、夕闇の濃くなった池の面に美しくゆれている。周囲には、夕涼みに出てきた二人連れがほとんどだ。六ツ半に近いとはいえ、日の長い今頃は仕事をしまうのも遅い。こんな所で好きな女と|逢《あい》|引《び》きをしていられるとなれば、たいてい|大《おお》|店《だな》の若旦那か、要領のいい白ねずみ。それでなければよほどのひま人だ。  禄造はそれとなく足をとめた。ゆっくりふりかえると、五、六間向うから、ふところ手に背を丸めるようにして近づいてくる人影があった。この暑いのに、ふところ手とは異様だった。禄造はとっさに、|匕《あい》|首《くち》を|呑《の》んでいるなと思った。  男はすべるように近づいてくると、胸元をさっと二つに割って両うでを抜き出した。双肌脱ぎになったゆかたが|脇《わき》にひろがると同時に、男の手に握られたものがキラリと光った。 「だ、だれだ! てめえは」  禄造は背後に跳びすさって身構えた。 「禄造! 見忘れたか。てめえに煮湯を呑まされた橋場の長吉だ。くたばれ!」  両手で匕首を構えると、だっ、と全身でぶつかってきた。禄造は身をひねってあぶないところでかわした。男は大きく流れた体をすばやくたてなおすと、ふたたび突いてきた。禄造の着物のどこかが、さりっと切り裂かれた。二人は飛びちがえ、息をもつかず男はさらに踏みこんできた。  禄造も今は必死だった。  男が名乗った橋場の長吉という名前には、まるで記憶がなかったが、もうそんなことはたしかめている余裕もなかった。男は禄造になにかよほどの恨みを抱いているらしく、刃先には面も向けられぬ殺気がこもっていた。  こんなことは、前から恐れていたことだった。  禄造はしだいに押された。もう一尺さがれば池につづく流れだった。  声を出して人を呼ぼうかと思ったが、この男が自分の正体を知っているとなると、人を呼んだためにかえって自分があぶなくなるおそれがあった。  人目を避けて、木の下草を踏んで近づいてきた二人連れがあったが、この場のありさまを目にすると、男が女を抱くようにして、走るように立ち去った。かかわり合いになりたくない連中だ。 「ま、まってくれ!」  禄造は絶体絶命だった。 「うるせえ! 今になって泣面かくんじゃねえ」  男は押し殺した声で低く言うと、最後の踏込をねらった。  そのとき、男の背後の、どうだんのしげみがゆさゆさと動き、一個の人影があらわれた。 「橋場の長吉ィ! こんな所にいやがったか!」  ふいにドスのきいた声がはしった。その声に、一瞬、長吉は態勢をあらため、あらわれ出た男に半身に開いた。 「だ、だれでえ!」 「落合の宗吉よ。島からけえってからこっち、ずうっとてめえをさがしていたんだぜ。もう、江戸にゃいねえのかと半分あきらめていたらよ、今日、思いがけなく、御徒町の聖天様の|前《めえ》でてめえの姿あ見かけたじゃねえか。それからてめえのことを|追《つ》けてこの池の端までやって来たんだ。ちょっとしたゆだんから、せっかくここまで追けてきたてめえの姿を見失っちまってよ、あっちこっちさがし回っていたところだ。これも、おおかた、てめえに|殺《や》られた鉄兄いの手引きだろうよ。野郎、かくごしやがれ!」  男の声は憎しみに満ちていた。 「落合の宗吉だと?」  長吉はひどくおどろいたようだった。 「そうよ! 忘れていたら忘れていたでかまわねえ。あの世で鉄兄いにようく思い出させてもらいな」 「おい! よせ! 宗吉。あれはちがうんだ。よせったら」  長吉は|臓《ぞう》|腑《ふ》をしぼり上げられるような声を出した。 「宗吉。鉄はおれが殺ったんじゃねえ。おれと取組み合いになって、つまずいて二人が倒れた。そんなとき鉄が石に頭を打ちつけてよ……」 「やかましいやい!」  宗吉は風のように動いた。二人の影が入れちがい、ぶつかり合っては離れ、ふたたびぶつかり合った。刃物の触れ合う音が聞え、それからこすれ合って歯の浮くような音をたてた。  ふいに長吉が絶叫した。その声が短くとぎれたのは口をおさえられたらしい。刃物が肉に突き刺さる鈍い音が、二、三度、聞え、急に静かになった。宗吉がのっそりと立ち上った。匕首が鞘に収まる音が聞えた。おそろしく場馴れのした男だった。  宗吉はそのまま歩み去ろうとした。  禄造はその一瞬に決心した。 「ちょっと待った。若い|衆《し》」  せいぜい貫禄をきかせる。 「おいらのことかい?」 「ああ、そうだ。こういう時にゃ、やっぱり有難うと言うんだろうねえ。わたしは日本橋|本石町《ほんこくちょう》に住む糸屋の仁助という|者《もん》だが……」  宗吉をともなって、ふたたび水茶屋『若鶴』にとってかえした禄造は、池に面した奥の座敷に陣取った。  宗吉は最初、ひどく警戒していたが、そのうちに、禄造がどうやらただの糸|商《あき》|人《んど》ではなさそうだと気づいたらしく、やや態度が変った。  宗吉は兄の鉄二郎と二人で、落合村から出てきて、深川八幡裏の人入れ弥左衛門の若い衆として働いていたが、橋場の長吉にうまくだまされて貯えたかねをまき上げられた上、それを責めに行った鉄二郎をなかまと刺し殺したのだという。宗吉はその仕返しに出向いたものの、長吉は居ず、なかまの二人に手傷を負わせたところを、御用聞の手に捕えられた。お調べの結果はいがいに重く、|三《み》|宅《やけ》|島《じま》送りになったという。  禄造は宗吉の話を聞きながら、これは案外掘り出し物かもしれないと思いはじめていた。  深川八幡裏の人入れ弥左衛門といえば、お寺社関係の人足を扱って、その若い衆の乱暴ぶりは聞えていた。どうせ宗吉兄弟も、そこで人の二人や三人は眠らせているにちがいない。池のほとりの暗がりでの宗吉の匕首は、そういう動きだった。 「ところで、おまえ。今は弥左衛門の方はどうなっているんだえ?」  宗吉はうまそうに酒をすすりながら首をふった。 「まあ、盃はけえした形よ。島からけえってから顔を出したら、奥から一両飛んできておれの足もとにチャリンよ。それでおしめえだあな」 「そうか。そいじゃあ、勝手な身ってわけだな」 「ああ」  禄造は一両を宗吉のひざにほうった。 「なにかうめえ話を聞かせるかもしれねえ。寝ぐらを教えときな」  御徒町の青石横丁のたたみ屋の二階にころがっているというのを聞いて、禄造は立ち上った。  十分に飲んでゆくように言って禄造は外へ出た。  こんどのことはうまくゆきそうだった。気分があかるくなった。  加十が竹筒に入れて持ってきた油を敷居に流し、雨戸を|小《こ》|柄《づか》で浮かせてそっとはずす。頭にたたきこんでおいた絵図面をたよりに、禄造は佐吉と加十をしたがえて|主人《あ る じ》の寝間へしのんだ。耕助は二階へ向う。新七は家の中へは入らず、軒下を裏へ走った。宗吉は道中差の抜身を背中へ回して、店と奥をつなぐ廊下の角へひそんだ。  どこかでしきりに犬が|吠《ほ》えている。  キョッ……キョッ……  高い空を|夜《よ》|鷹《たか》は鳴いて過ぎてゆく。  家の中はしんと静まりかえっている。時刻は九ツをだいぶ回っている。  有明行灯のほの暗い灯がゆれた。 「お助け……お助けください」  白地のゆかたに、ほどけかかった伊達巻を引きずって、女が泣き声を上げた。|主人《あ る じ》の重三郎の女房、お久だった。 「静かにしろい!」  禄造のおそろしく重しのきいた声が、お久の泣き声をぴたりとおさえた。 「出しな!」  お久は気が触れたようにはね起きると、壁ぎわの頑丈な造りの用だんすをあけにかかった。だが、手がふるえて引手をつかめない。 「どけ!」  禄造がお久をあお向けに引き倒した。 「ひっ!」  胸も、もももあらわにひっくりかえる。  ——いい体をしているじゃねえか!  佐吉や加十の目が光ったが、さすがに|手《て》|練《だ》れとみえて手を出すようなまねはしない。  金だんすから|切《きり》|餅《もち》が三つ出てきた。あとは八両とこまかいやつだ。禄造はこまかいのは残して、かねを背負袋に押しこみ、腰へくくりつけた。 「おい。切餅三つとはいただきだが、あとはどこだ?」  禄造は女の肩を足で小突いた。 「たぶん帳場の金だんすですよ。あたしゃよく知らないんですよ」 「主人の重三郎はどこだ?」 「仕事のことで川越へ行っているんですよ」 「奥にいるのはおめえだけか?」 「二階は三番番頭の周助が泊番で寝ているよ」  禄造は加十に女を縛り上げるように言い、廊下へ出た。七十五両はだいぶ収穫だった。かねを帳場の金だんすに入れたままで奥へ運ばぬとは、ふつうの商家と違って、地本問屋だけにかなり締りがないようだった。しかし、その店の金だんすも、錠はかかっているだろう。その|鍵《かぎ》は番頭があずかっているのか? 禄造はふと迷った。  今のところ、奥に賊が入ったことは誰も気づいてはいない。二階の番頭を起せば、ほかの者も目をさますだろうし、当然、騒ぎとなる。七十五両ぐらいなら、なにも手下どもを集める必要はなかった。  ええい! やるか!  禄造は佐吉と加十をふりかえって、あごをしゃくった。  そのとき、階段の上り口で妙な声が聞え、どさりと人の倒れる物音がした。  三人はぴたりと壁に|貼《は》りついた。  どかどかと階段をかけ降りてくる足音がひびき、 「どろぼうだ!」 「火事だぞう!」  絶叫がはしった。  それから先はめちゃくちゃだった。 「宗吉! 宗吉! 切っ払え、切っ払え!」  禄造は必死にさけんだ。丸太ン棒が風を切って飛んできた。|竹《たけ》|竿《ざお》がうなる。泊り込みの職人がふんどし一本で、湧くように出てきた。加十が丸太で頭を割られてつんのめった。寄ってたかって踏みつけられているのを後に、禄造は匕首をふり回しながら逃げた。佐吉が引き倒された。  禄造は夢中で|柴《しば》|垣《がき》をのり越え、走った。  いつ切られたのか、左のそでが大きく裂け、びっしょり|濡《ぬ》れていた。ひどく生臭かったが、痛みは全く感じられなかった。  七軒町の相沢志摩守の下屋敷あたりまで逃げて、気がついて腰をさぐってみると、腰に巻いていた背負袋はざっくりと口をあけ、入れておいた三個の切餅はなくなっていた。 「ちくしょう! ちくしょう!」  禄造はうめきながら走った。      弐 |事《わ》|情《け》有り人、八百八町 「どうだった?」  元はかめのふたをはねると、ひしゃくの水をがぶがぶと飲み干した。 「いや。まいったよ。二階を押さえるはずだった耕助というやつが、どじを踏みやがってさ。二階に寝ていた職人たちがみんな目をさまして階段を降りてきた。大騒ぎになって、頭目の禄造はおれのことを呼び立てるし、そのうち、おれの方に向ってくる職人もいるし、帳簿の五、六冊を調べるのがやっとだったよ」  元はねずみ色の盗み衣装をかなぐりすてて、荒い息を吐いた。 「ああ、暑い!」 「帳簿を調べたりして、あやしまれなかったろうね!」 「大丈夫だ。禄造はほんものの盗っ人だし、蔦屋でも、盗賊に混って、そうでないやつがいたとは気づいてはいない。それにしても、禄造のやつは、役に立たないなかまを引込んだものさ」  汗に濡れた元の背中を、かもめがぬぐってやる。折鶴模様の|糊《のり》のきいたゆかたが、近頃、江戸で|流行《は や り》のおさふねとよばれるつぶし島田によく似合って、見違えるような町娘になっている。 「それで、結果はどうだった?」 「それがどうも妙なんだ。蔦屋の帳場の書類棚の中から、私家絵師名鑑という帳簿を発見した。蔦屋に所属している絵師の名簿だよ。画風や人気の程度なども書いてある。だが喜多川歌麿や|勝川春潮《かつかわしゅんちょう》、|鳥文斎栄之《ちょうぶんさいえいし》などの名前はあるんだが、|東洲斎《とうしゅうさい》写楽の名は見あたらないんだ」 「ほかに帳簿はなかったの?」  かもめがたずねた。 「私家絵師名鑑というのは一冊きりだった。蔦屋はかなり大きな地本問屋だが、おかかえ絵師はそう多くはない。二冊にわたることはないだろう」 「写楽は蔦屋にはずいぶん世話になっているのだし、当然、蔦屋所属の絵師として登録されているはずよ」  流れてきた蚊やりのけむりを、うちわで軽く散らしながら笙子が首をひねった。|藍《あい》|染《ぞめ》の薄い単衣が白い肩からずり落ちそうなのが、元の目にまぶしい。 「あとは大福帳に、写楽に払った謝礼の分の記入があるはずだが、これは現金で払っていない場合もあるから、あまりあてにならない」 「写楽のもらう謝礼というと、品物だとすると反物二反か、ろうそく一箱というところかねえ」 「それは日用之品加不足帳というやつを見れば手がかりはつかめるかもしれないが、かんじんの写楽の名が蔦屋私家名鑑に載っていないとなると、ちょっとあぶないな」  笙子が体を起してすわりなおした。 「いいわ。蔦屋に出入りしている絵師の中に、写楽という人物はいない、ということがはっきりしただけでも成功よ」 「それじゃ、第二段階だ」  蔦屋の帳簿をひそかに調べるという作業は、蔦屋に押し入ることを計画していた盗賊の禄造という人物の存在を察知して、かれに接近することによって成功したが、そのようなめぐまれた条件はいつもあるとはかぎらない。  何におどろいたか、背後の山で、眠りをさまされた|蝉《せみ》がひと声高く、チイーッと鳴いた。  根津権現下の宮永町。作右衛門|店《だな》の傾いた棟割のいちばん奥が植木屋の手伝い職人、五郎吉の住いだった。  そこへこの二、三日、ほれぼれするような年増と器量よしの娘がころがりこんでいる。時おり、その二人をたずねて若い男もやってくる。五郎吉の話では、女二人は出入りしている大きな植木屋にゆかりのある人で、なんでもたいそうな|事《わ》|情《け》ありで、ちょっと身をかくすというような|按《あん》|配《ばい》であずかっているのだそうだ。  五郎吉というのが、植木屋の職人なかまでは実直で通っていて、長屋でも信用されているから、差配の吉兵衛|爺《と》っさんも気にしていない。二人は引込んだきり、あまり姿をあらわさないが、|愛嬌《あいきょう》はいい。五郎吉は、上りっぱなの板敷で寝起きして、たったひとつの六畳の間は女二人に使わせているらしい、とこれは|金《かな》|棒《ぼう》|引《ひき》のおやす婆さんの話だ。 「でも、金仏の|五《ご》|郎《ろ》|吉《き》っつあんでよかったよ」  長屋の女房連はささやき合っている。  この五郎吉の住いが、実は〈タイム・パトロールマン〉のステーションであることは、もちろん誰も知るはずがない。寛政年間の江戸をあずかる駐在員の五郎吉は、植木職人としてあちこちを|徘《はい》|徊《かい》しながら監視をつづけている。その五郎吉の、江戸八百八町に張り回らされたするどい触手にもひっかからなかったこんどの事件だった。 「五郎吉っつあんにはごくろうだったねえ」 「いや」  頭をかかえたのは、あの橋場の長吉と名乗った男だった。      参 かんざし責め  |西《にし》|久《く》|保《ぼ》|愛宕《あたご》、源助町の刀商井口屋の店先に一人の娘が入ってきた。刀屋に女客。それも若い娘はめずらしい。愛くるしい顔立ちの武家娘だった。若党が一人、店の外でひかえている。|主人《あ る じ》の甚兵衛が板敷へ出て迎えた。 「主人の甚兵衛にござります」  娘は馴れない場所にちょっととまどっているようだったが、あかるい声で、 「刀がほしいのです」  と言った。こういう客は苦手だった。 「お刀を? さて、どのような」  なんとなく、刀架にかけられたたくさんの刀に顔を向けた。 「よい刀がほしいのです。ありますか?」  これだから困るのだ。 「お刀と申しましても、おもちいになるおかたのお好み、刀の重さ、長さ、それに腰の当り工合など、いろいろでございましてな。ま、当節のことですから戦場で使ってどうのとか、馬上でふるってどうのとか、そういったことをあまり難かしくお考えになるお客さまは少のうございますが、それにしても、なかなかごめんどうなものでございますよ」  甚兵衛はそう言いながら、背後の刀架から二、三本の刀を取って娘の前に置いた。 「ぬいて見せてください」  甚兵衛は懐紙をくわえると、手近な一刀の鞘を払った。 「それはなんというお刀ですか?」 「無銘でございますが、|元《げん》|和《な》の頃の作刀でございますな」 「無銘ですか。そんなのだめです。ほかには?」  甚兵衛は恐れ入って、もう一本、引きぬいた。 「切れそうですね。これは?」 「|播磨大椽清光《はりまのだいじょうきよみつ》でございます」 「聞いたことがないですね」 「これはお嬢さま。大椽清光はこのとおり丁字乱れも美しく、切先もふくらみ豊かで全体ののびとよく釣り合ってまことに素直……」 「そのようなことをうかがっても、わかりません。わたくし」 「それでは……」 「名刀はないかしら」 「名刀でございますか?」  甚兵衛はなんだか楽しくなってきた。この娘と話していると、妙にこちらの胸まであかるくなってくる。 「兄上がこんど、関東|郡《ぐん》|代《だい》手付与力に出仕がきまりました。そのお祝いなのです」 「それはそれはおめでとうございます。関東郡代与力といえば、なかなか重いおつとめ。よろしゅうございましたなあ。さて、それではどのようなお刀がよいか」 「備前国包平というよい刀があると聞きましたが」 「包平でございますか」 「以前、わが家にもあったそうだけれども、おじいさまの代に、殿さまに献上したのだそうです。ですから、家伝来のつもりでその刀がよいと思います」  甚兵衛は残念そうに肩を落した。 「ございましたのですよ。包平が。それが十日ほど前に売れましてな。惜しいことをいたしましたなあ」  娘は顔を曇らせた。 「それでは、ええと」  娘はいかにもどこかで聞いてきたように、口の中でくりかえしてから、 「武蔵一貫斎義弘というのは?」 「や! それもございましたのですが、やはり包平を求められた方がいっしょに」  娘は悲しそうにうつ向いた。甚兵衛もうまい商いを逃がしたと思ってしぶい顔をした。  当節、関東郡代手付与力になるというのは、相当な運動をしたにちがいなかった。ことによったらなんだかんだで五百両ぐらい費っているかもしれない。娘の家はしごく内福なのであろう。郡代役人には案外そういう家が多い。それにこの娘ならば包平でも義弘でも言い値で買ったにちがいない。 「しかたがございません。わたくし、それはそのおかたにお会いして、どちらかをゆずっていただこうと思います。そのおかたはどこにおすまいの、なんとおっしゃるお武家さまでしょうか」  娘はひたむきな顔でたずねた。 「お気の毒をいたしましたなあ。よろしゅうございます。お教えいたしましょう」  甚兵衛は帳場の書物机の上から一冊のひかえ帳を持ってきた。 「お客さまのお名前はこうしてひかえさせていただいて、新規に入りました刀のご案内や、こしらえのおせわ、とぎのご相談などをうけたまわっているんでございますよ。ええと……包平と義弘をお買上げくださいましたのは、備前岡山の|一《いっ》|竿《かん》|堂《どう》|喜《き》|衛《え》|門《もん》さま。このおかたは絵草子や黄表紙、一枚絵などの大きな問屋さんで、大の刀好き。こんどは下谷忍が岡の蔦屋重三郎という板元さんをたずねて見えられたとかでね。なに、当分仕事が片づかないから江戸にいるというお話でしたから、蔦屋さんでおたずねになっちゃいかがですか」 「そうですか。ありがとうございます。それでは明日にでも、下谷の蔦屋さんというお店をたずねてうかがってみましょう」  娘は喜んで立ち上った。 「お嬢さま。そちらの方が万一不首尾でも、ほんの三、四日いただければ手前どもで必ず、お目当のお刀をお持ちいたしますのでございますから、そのときはどうかお申しつけ下さいませ」  甚兵衛も要領よくつけ加えた。 「そうします」 「それから、これはご参考までに。包平は九十両。義弘は四十五両でお売りいたしましたから」  娘は花のように笑って会釈した。甚兵衛は口惜しくてたまらなかった。この娘になら、包平は言いなりの百三十両で売れたはずだった。娘はのれんをくぐって行ってしまった。  源助町のはずれまで来たとき、うしろから追いついてきた男が、かもめを呼び止めた。 「おい。ちょっと待ちな。姉ちゃん」  ふりかえると、目つきの悪い男が、わざとらしい薄笑いを浮かべて立っていた。  茶の汚れた単衣のそでを肩までたくし上げ、だらしなくくつろげたえりもとから、素肌につけた紺のどんぶりがのぞいていた。帯に十手をさしている。 「おれは|土地《ところ》の御用聞だが、姉ちゃん、なんのためにそうして刀屋をのぞき回ってるんだえ?」  汗とほこりがひとつになった体臭がむっとかもめの鼻をおそった。 「わたくしは元関東郡代手付与力、小岩彦四郎の娘。志乃。町方にとがめられるおぼえはありません!」 「だからその元郡代与力のお嬢さまがなんで刀屋回りをしていなさるのか、それを聞いているんじゃねえか!」 「無礼な! なんですか!」 「言えねえのかえ? なんだったら定回りの且那に立会ってもらったっていいんだぜ。筋はちがうかしんねえが、定回りが出てきたとなると、こいつあちょっと無礼な、じゃすまねえぜ」 「まあ! なんということを! わたくしの兄上が、こんど父上の跡を継がれてご出仕いたすことになりました。そのお祝いのお刀をさがして……」 「女と思って下手に出ていればつけ上りやがって、そんなおためごかしがこのおれさまに通用すると思っていやがるのか! それで女のてめえがお江戸中の刀屋を回って歩いているというわけか! おめえ、なんで包平と義弘という刀ばかり追っかけていやがるんでえ!」  御用聞は獲物を見つけたおおかみのように舌なめずりをした。ぎらぎらと脂が浮いて目をそむけたくなるような酷薄な顔つきになった。  かもめの全身に鳥肌が立った。  そのとき、御用聞の体が硬直した。かれの背後に、ぴったりと寄りそっているのは若党姿の元だった。 「声を立てるな。ずぶっといくぜ」  耳もとでささやく。 「そのまま歩きな」  三人はひとかたまりになって歩き出した。  源助町から日陰町通りへぬける角に、小さな稲荷のやしろがあった。三人は人目を避けてやしろの裏へ回った。  いきなり元のげんこつが男のみぞおちへめりこんだ。吹っ飛んだところを引き起してめちゃくちゃになぐりつけた。 「おい。おまえ誰にたのまれてかぎ回っているんだ? 言え」 「な、なにしやがるんだ。おれは御用聞の松五郎ってもんだ。十手にてむかいするとどんなことになるか知っていやがるのか!」  鼻血だらけになりながら、よろよろと立ち上って十手をぬく。そこをまた砂袋でもたたくようにさんざんに打ちのめした。松五郎の顔に恐怖が浮かんだ。 「てめえ! よくも」  血よだれを流しながら|尻《しり》もちをついた。立ち上ろうとしたが、腰が言うことをきかない。 「言えよ。誰にたのまれた」 「誰にたのまれたというんじゃねえ。おれがそうにらんだんだ」  松五郎のほおがびしっと鳴った。 「うそをつけ! このやろう。おまえ、さっき|土地《ところ》の御用聞だとぬかしたじゃねえか。その土地の御用聞がなんで、おれたちがあっちこっちの刀屋を回っているなんて言えるんだ! 土地の刀屋は井口屋だけよ。おまえ、人の縄張りまで|出《で》|張《ば》って探し物かよ」 「そ、それは……」  かもめが髪にさしたかんざしを抜いた。それを松五郎の目の前へ持っていって古金色のかねの細い足をチインとはじいた。 「元さん。この御用聞の両手を思いきりねじ上げていておくれよ。今、|爪《つめ》の間にこれを突込んでやるから」 「よしきた」  元が松五郎の両腕を逆に締め上げた。 「これでいいか」 「さあ。痛いよ。でも松五郎にいさんはめっぽう口がかたいんだ。手の指十本、足の指十本。爪の間ひっかき回されたって、泣声ひとつ上げるお人じゃないよ」  ひっ! と松五郎が悲鳴を上げた。その声で、近所の者らしい二、三人の顔がのぞいたが、松五郎が何かされていると知るや、かかわり合いになるのをおそれたか、すぐ引込んだ。御用聞などというのは、ふだん恨まれているからそんなもんだ。どこかに知らせに行こうなんていう者はいやしない。 「言う! 言う! やめてくれ!」 「がまん、がまん」  かもめが憎たらしく言う。元の方がげっそりしてしまった。  松五郎の指先からあふれ出た血が、重い音をたてて地面にしたたり、みるみる青い|苔《こけ》を赤く染めた。 「おどかしたりしてすまなかった! あやまる。おれは一竿堂喜衛門とかいう絵草子屋にたのまれたんだ」 「それだけかい?」  またやる。 「痛てててて! 助けてくれ! 喜衛門は下谷忍が岡の蔦屋に居るって言っていた」 「まだ言うことはないのかい?」 「これだけだ。わけは知らねえ。おめえたちの正体を洗ってくれって言われたんだ。かねだってまだもらっちゃいねえ」  松五郎の顔はなみだでぐしょぐしょになった。  かもめは立ち上った。元は松五郎の体をどん! と蹴放した。  二人はそのまま、通りへ出た。 「おい。敵もおれたちに気がついたらしいぞ」 「いそがなければね」  二人の足は早くなった。      四 常磐津君春 「その女にほれなきゃあいい絵なんて描けるもんじゃねえよ」  それが歌麿の口ぐせだった。それがうそでないことは蔦屋重三郎はじめ、周囲の者たちの誰もがよく承知していた。  絵心を誘発されたとなると、その女がどこの誰であってもかまわず、口説きに口説く。亭主持ちであろうとどこかのお|妾《めかけ》であろうとまったく意に介さない。  だが、近頃名の高い歌麿の手によって一枚絵になるのだとわかっていても、そうそう気軽に承諾してくれる女はいない。吉原の遊女や、両国、柳橋あたりの芸者、それに人気の高い水茶屋の|茶《ちゃ》|汲《く》みなどでは、自分の方から心待ちにしているぐらいだから、これは好む時に描ける。だが、いったん、この女を、ときめてだめだった時、歌麿は人がちがったように荒れた。  今もそうだった。 「ねえ、市太郎さん。もういいかげんになせえよ。あんたの気持ちもようくわかるが、思いきりってえものもでえじだわな。それに、市太郎さん。ほれ、先だって注文しておいた、あれ、もまだできていねえじゃねえか」  蔦屋重三郎は、口もとへ運んだ盃ごしに、固い目を歌麿の顔にそそいだ。  ふだんから青白い歌麿のほおや鼻下に不精ひげが目立った。そのせいだけでなく、ほおが|翳《かげ》っているのは肉が落ちたのだろう。 「蔦屋さん。何もかもわかっているのさ。でもどうにもならねえ。笑ってくんねえ」  歌麿は弱々しく笑った。笑いが消えても、ゆがんだくちびるはそのままだった。 「弱ったねえ。おれも西京屋さんにはせっつかれているし、あんたにもいいほまち[#「ほまち」に傍点]になると思っているんだが。ま、おれの顔をつぶすようなことはしねえでくれよ」  重三郎は苦り切った。  この十日ほど、病人のようになってしまって、さっぱり絵筆を取らなくなった歌麿に、きつく|叱言《こごと》を言ってやろうと思って、この料亭の奥座敷へ呼び出したものの、どうにも手応えがなかった。  蔦屋重三郎が、北川|豊《とよ》|章《あき》というすぐれた才能の持ち主を発見したのは、版下職人が持っていた黄表紙本の挿画でだった。十八大通なんとかだとか、神変伏見稲荷のなんとかなどという五部で一文だの十冊で三文などという蔦屋などではあつかわないような粗悪な本の挿画に、重三郎は後年の歌麿を見出したのだった。その頃、豊章は島山|石《せき》|燕《えん》の弟子の末席ということで、全くうだつの上らない存在だったが、重三郎は人を介して下谷忍が岡の自宅に引取り、食をあてがって修業させた。重三郎の見込みどおり、やがてかれは別人のような絵を描きはじめた。しかし、その期間は豊章にとってもっとも苦しい一時期であり、不遇な時代だった。重三郎はかれに豊章という名を棄てさせ、本名の市太郎で通させた。  天明元年。蔦屋重三郎はその年の秋出版した黄表紙本『|身猊《みなり》大通神略縁起』の挿画を全面的にかれにまかせ、はじめて|跋《おくがき》に『画工忍岡歌麿、作者燕十、板元蔦屋重三郎』と刻んだ。これは出版前から評判の高かった本で、重三郎は市太郎に歌麿という画号を与えると同時に、この本で積極的にかれを世に売り出した。歌麿の名はたちまち世にひろがった。それから日ならずして歌麿は蔦屋のかかえ絵師として最高の人気を得るようになった。  歌麿は経済のこととなると全く|痴《ち》|呆《ほう》も同様で、遊びのかねは湯水の如くつかった。重三郎も歌麿に|乞《こ》われるままに出してやった。もちろんその幾十倍、幾百倍ものかねが歌麿によって蔦屋にもたらされたからでもある。  挿画で売り、人気が出てから一枚絵に転じた歌麿は、つぎつぎに描く美人画のどれもが大当りをとり、蔦屋でも刷るのが間に合わぬほどだった。 「ま、市太郎さん。おれもこれ以上は言わねえ。気持ちにふんぎりがついたら仕事にかかってくれ」  重三郎はだめ押しをくれると、つい、と立ち上った。暗い目を上げて何か言いかけた歌麿を手で制して、重三郎は座敷を出た。  注文は殺到している。どうにかしなければならなかった。  |下《した》|谷《や》|摩《ま》|利《り》|支《し》|天《てん》横丁へ入って左へ折れ、小さな流れに沿って一丁ほど行くと|火《ひ》の|見櫓《みやぐら》があった。その下の番太小屋で聞くと、|常《とき》|磐《わ》|津《ず》の師匠君春の家はすぐだった。このあたりは上野の|種《しゅ》|智《ち》|院《いん》の土地とかで小さいながらも一軒建ちが多く、浅草辺の商家の古番頭や儒者、寺侍などが住んでいる。隠居所や妾宅も多いようだ。その中の一軒の|門《かど》|口《ぐち》に、常磐津君春とやさしい文字で書かれた木札が出ていた。  よくふきこまれた格子戸のかたわらに、南天が小枝をのばしている。番頭の忠助に声をかけさせると、家の中で聞えていた三味線の音がやんだ。  取次の|小女《こおんな》が引込んでゆくと、すぐ|主人《あ る じ》の君春らしい女があらわれた。  ひと目見て重三郎は思わずうなった。  想像していた以上の、たいへんな美形だった。  番頭の忠助がバッタのように女に頭をさげた。 「ええ、何回も、お邪魔して、さだめしうるさいとお思いでしょうが、今日はてまえの主人蔦屋重三郎がお願いにまいりました」  ひざを深く折って、片手で重三郎を指し示した。重三郎は腹に力を入れた。  頭の中では、歌麿にどうでも仕事をさせるためには、ここ一番、押すしかない、とそのことばかりを考えていた。 「いいえね、旦那さん。わたいがずうっとおことわり申し上げているのはね、お|鳥目《ちょうもく》がどうのとか、浮名がどうのとか野暮を言ってるんじゃございませんのさ。歌麿師匠が、一枚絵にするからには、|惚《ほ》れぬいた上でなけりゃならない、とおっしゃるのはしごくごもっとも。芸の道とはそうありたいものでござんすよ。でもねえ、しがない稼業でも常磐津君春。そう言われたからといって一枚絵の|種《ね》|子《た》になりに尻尾をふって出かけられるものじゃござんせん。惚れた相手のためならば、絵具皿の前にでも立ちましょう。半日が一日でも息を凝らしてすわりもしましょう。近頃人気の歌麿のなんのと騒がれたって、わたいにはただの他人。好きでも嫌いでもない男に、惚れたのなんのと言われても、いっそ迷惑でございますのさ」  別に気負いもなければ思い上りもなかった。軽く、ちょんと紅を打っただけのくちびるから出る言葉には、一人の女のふだんの意気がうかがえるだけだった。  |櫛《くし》|巻《ま》きの横っちょに、落っこちるように水櫛一枚さしたえり足がなんとも言えず|仇《あだ》っぽい。切れ長のひとえまぶたに、まつ毛が長く反っている。三日月のような眉は、物を見つめるとき、その間にかすかな翳を浮かべた。  洗いざらしの朝顔模様のゆかたが肌になじんで、胸のふくらみを形のとおりに示していた。着くずれたえり元からそのふくらみの一部がのぞいている。その肌の白さと|肌《き》|理《め》の細かさが重三郎の目をひきつけた。君春はさりげなくえりをかき合わせた。  ——さすがは当代、女を描かせちゃ右に出る者のねえ市太郎だ。たいした玉に目をつけやがった! こいつはどうあっても、ものにしてやらなきゃなるめえよ。  重三郎は胸の中でつぶやいた。 「いいねえ! 君春師匠。その言葉、わたしの胸にずうんときたよ。わかります。わかりますともさ。でもね、わたしも地本問屋一の株のなんと言われる蔦屋ですよ。一枚絵を喜んで買って下さるお客さんが、こんどはどこの白梅か、こんどはどこのしゃくやくか、と首を長くし、うわさし合って待っていらっしゃるんだ。なにも絵師の歌麿がどうのこうのと言うんじゃねえ。あそこにこんな美形がと、おっと君春師匠がと、教えてくだすったなあお客さん方だ。ねえ、師匠。ここのところは曲げて蔦屋の一枚絵になってやっちゃもらえませんかねえ」 「ですからさ、旦那」 「このとおりだ」  蔦屋重三郎は、いきなり土間にぴたりと手をついた。 「いやですよう。そんな」 「たのむ。師匠」 「知りませんよう」 「…………」  重三郎は四角く張ったひじに、百万言の依頼をこめてすわりつづけた。      五 歌麿無惨  蔦屋の根岸の寮は、永称寺の南の赤松の林の中にあった。このあたりから三ノ輪にかけて、一望に水田がひろがっているが、そのあちこちに、|瀟洒《しょうしゃ》な寮とそれを囲む林が、海に浮かぶ大小の島のように配されていた。  それらはたいてい豪商や文人たちの別荘であり、いずれも閑寂な趣きに数奇を凝らしていた。  残暑はまだきびしく、水田や遠い雑木林は|陽《かげ》|炎《ろう》にはげしくゆれ動いていた。だが、松林を吹きぬけてくる風は、汗ばんだ肌にひんやりとこころよく、歌麿はしばらくの間は、画紙に汗の滴が落ちるおそれを忘れることができた。  かれはこれまで、夏の間はほとんど仕事を休んでいた。やむをえない場合は、涼気を求めて|相模《さがみ》の大山や箱根などへ出かけて仕事をすることもあったが、最近はそれもしなくなった。蔦屋がかれのわがままを許してくれているせいもある。  そのかれが、画紙に散る汗もいとわず絵筆を握ったのは、ただに常磐津君春の都合に負けたのだった。その都合というのがあいまいだったが、君春がそれを固執する以上、歌麿の方でおれない限り、機会はもはや永遠に来ないようであった。  今、常磐津君春は出窓の|欄《らん》|干《かん》に身を寄せて、腰から上をわずかにひねり、伏目がちな視線を歌麿の手もとにそそいでいた。  櫛巻きに目立たぬ無地の細い|笄《こうがい》。薄茶に白の|棒《ぼう》|縞《じま》の単衣に夏帯を幅広く巻き、丈長にまつわるすそからわずかに、白い爪先がのぞいている。  手にしたうちわが、今にも指の間からぬけ出して音もなくたたみの上に落ちるかと思われる。  歌麿の手にした絵筆は、画紙の上を電光のようにすべった。その動きがとつぜん止った。かれはふいごのような息を吐き、手にした絵筆を投げた。流麗な線が、君春の輪郭を見事に描き出している画紙を、かれはびりびりと引き裂いた。それを丸めて背後に投げ棄てると、ふたたび新しい画紙に向った。  髪、顔形、肩から胸、さらに腰、そして身長を受け止めるすそのひろがりにつらなる。そのほぼ中央を水平に二つに割って全体を引締める帯。と、そこまでいって、ぽっちりと汗の滴が画紙に落ちた。墨が淡くにじんだ。かれはものも言わず、紙を二つに引き千切った。  ふたたび絵筆を取る。  間もなく八ツ半になる。始めたのが|午《ひる》前の四ツ時だからもう半日になるが、その間にかれが作り出した反古はすでに二十枚にも達する。 「師匠、一服なさっちゃいかがです?」  君春がなぐさめるように言った。 「じょう談言っちゃいけねえ」  歌麿ははねかえすように、血走った視線を君春に当てた。絵筆を取直したとき、 「わたいがくたびれましたのさ」  ふいに姿勢をくずした。  歌麿はあっと思ったが、制作の緊張はその一瞬に突き崩されてしまった。  絵筆を投げ出して、がっくりと肩を落した歌麿を尻目に、君春は隣室へ引き上げた。  間もなく君春は|駕《か》|籠《ご》で摩利支天横丁へ帰っていった。  歌麿はその夜、あびるほど呑んで、ここへ連れてきていた根津八重垣の水茶屋の女、お勢以を抱いて朝まで荒れた。  翌日も約束どおり|午《ひる》前に君春がやってきた。  歌麿もやや落着いたようだったが、それでも八枚の画紙を無駄にしただけで終った。その一枚は、誰の目にも完成したとしか見えないようなすばらしい出来だったが、かれは何の未練もなくそれを破り棄てた。  つぎの日は風が強く、照ったり降ったり、むし暑いいやな天気だった。障子を閉めきった部屋の中は湿って暑く、ぬぐってもぬぐっても汗は肌をつたった。君春の体の甘いにおいが部屋に充満した。  歌麿は十数枚の仕損じを作っただけに終った。  翌日は君春は来なかった。いら立った歌麿が使いをやると、君春は不在ということだった。  歌麿は一日、酒びたりで過した。重三郎がようすを見に来て、おそろしく渋い顔で帰っていった。  つぎの日やって来た君春は、妙に浮き浮きしていた。これまでになかったほど|艶《つや》っぽくなり、|瞳《ひとみ》に光りがあった。浮き浮きしているわりに口数が少ないのも、時々、何かを思い出しているかのように気が虚ろになっているのも、歌麿にはひどく気になった。一度、気になり出すと絵筆は乱れるばかりだった。  ——男だ! 男にちがいねえ。  歌麿は全身がかっと熱くなった。  くやしくってくやしくって息がつまりそうになった。  かれは絵筆を投げ出し、両手でひざをつかむと必死に震えをこらえた。  そんなかれを、君春はちらと見たようだったが、別に何も言わない。  それがまたかれにはえらくこたえた。  短い時間が過ぎた。  歌麿は自分でも、  ああ、こんなことを言ったら負けだ、  と思いながら口走った。 「君春師匠、いや、|姐《ねえ》さん。おいら描けねえんだぜ」  え? と君春が目をしばたたいた。 「姐さん。ひでえじゃねえか」 「おや。わたいがなにか?」  歌麿は不精ひげののびた青白い顔を、苦しそうにゆがめた。 「姐さん。おいらが姐さんの絵姿を写している間は、たのむからほかのことは考えねえでいてほしいんだ」 「そりゃまた、なぜ?」 「言おう。歌麿も形なしだ。おいらはね、綺麗な女を描く時は、姿や形だけが欲しいんじゃねえんだ。その女の心も欲しいんだよ。髪も顔も、胸も手足も、それから心も、全部おれの物でなくちゃなんねえんだ。顔や体がおれの前に在ったって、心がほかへ行っちまってるんじゃ、死んでることと同じだ。おいらはがまんができねえのよ」  君春はかすかに眉根を寄せた。 「ごめんなさいよ。わたい、ちょっとほかのことを考えてたもんだから。つい、手足を動かしちまったんだろうねえ」  いたずらっぽく笑った。その笑い顔が歌麿の胸を|灼《や》いた。かれはひざを握った手に力をこめ、うったえるように上体をのり出した。 「姐さん。そんなことじゃねえんだ」 「そんなことじゃない、というと……」 「ええい。じれってえなあ。姐さん! 姐さんは誰かにほの字じゃねえのかい?」 「あら、いやですねえ、師匠」  君春はつややかに笑った。 「おいらはそうにらんだが、ちがうかい?」 「師匠。絵を描きなさるについちゃ、そんな|詮《せん》|議《ぎ》もなさるんですかえ?」 「そ、そうじゃねえけどもよう」 「おお暑い。今日はいやにむしますねえ」  君春は手にしたうちわで胸もとに軽く風を入れた。  歌麿はみじめにうつむいた。軽くあしらわれて、もう、あとをつづける言葉も気力もなかった。  つぎの日、君春はまた休んだ。  歌麿は半病人のようになって過した。  こんなことは全くはじめての経験だった。  これまで、かれの一枚絵になるというと、どんな女でも有頂天になった。芸者であれ、人妻であれ、娘であれ、誰でもが歌麿の前では、かれのことしか考えない人間になった。歌麿はとくにいい男というわけでもなく、いつも青白くやつれたほおに、不精ひげが濃く、絵具の飛び散った着物をそのまま何日も着つづけているというような男だった。ただ、手だけは女のようにきれいでしなやかだった。女たちはそんなかれを見ると、むしょうにほうっておけないような気持ちになるようだった。とくに、かれの目がいいと言う。澄んだ目だった。白い部分が、幼い子供のようにやや青味をおびて、いつも熱っぽくうるんでいた。  歌麿は制作に疲れてくると、目の前の女を抱いた。それによって女の心はますます燃え、歌麿の絵に艶を盛りこんだ。  ある両替商の女房との間のことでは、かれはその女の夫に相当な額の金子を贈って謝罪するようなはめにもなっている。当時、密通は重罪だったが、夫の方でも相手が歌麿であり、蔦屋のかげの奔走もあって、その程度ですんでいる。もっとも、歌麿と関係を結んだ芸者や水茶屋の女などは、そのことをおおいに吹聴し、そのためにたいへん人気が出たりしているくらいだから、歌麿の|目鑑《めがね》にかなったということは、女としてすこぶる|箔《はく》がついたことになる。  スターにあこがれる女性心理は昔も今も変らない。時にはスターとのスキャンダルによって美しくなり、女として成長し、それが人気の源ともなったりする。女たちにとって、歌麿は美の創造者であると同時に、甘美な夢そのものでもあった。      六 西京屋の注文  翌日、君春はひどく冷ややかだった。  歌麿が注文するとおりの姿勢を忠実にとりつづけながらも、心は完全にかれを黙殺していた。何かたずねれば愛想よく受け答えもするし、歌麿の汗みずくの努力をいたわるように、時たま投げてくる微笑みも、前にもましてつややかに|匂《にお》うようだったが、君春の心は、歌麿にはもう手の届かないところにあった。  その日の午後、蔦屋重三郎がやってきた。  重三郎は別室に歌麿を呼んだ。 「市太郎さん。もうあれから七日たった。あっちの方の仕事はどうしてくれるんだね。君春を描いたらあとはなんでも、おれの言うことを聞くから、というから、おれもいろいろやって君春をうんと言わせたんじゃないか。それが今日でいったい何日めだい。そのへんのところをわかってくれなくちゃ困るよ。なに? だめです。だめですよ。そんなこと!  西京屋さんはね、京都でいちばんという大きな地本問屋なんだ。東の蔦屋、西の西京屋といえば、市太郎さん。あんたの絵の、一の売手だということを忘れちゃ困るよ。こんなこと言いたかねえんだがね、絵師としての歌麿も、版元あってのことじゃないのかい? そりゃ、この蔦屋だって、歌麿一人にどれだけ稼がせてもらったかわからねえよ。ありがたいと思っています。だが、それはそれ、これはこれよ。はっきり言やあ、絵師はおまえ一人じゃねえんだ。仕事したくてもその|機《お》|会《り》のねえ若い上手がたくさんいるんだ。おまえの名人|気質《かたぎ》もようくわかってるんだが、おれも|商《あき》|人《んど》だ。商人なかまの顔をつぶしてまでいつまでもおまえのわがままをきいちゃあいられねえのさ」  歌麿は歯をくいしばった。  西京屋からの注文は、その“仕事したくとも|機《お》|会《り》のねえ若い上手”にやらせればいいじゃねえか!  口からとび出そうな言葉を必死に呑みこんだ。  かかえ絵師の悲しい理性だった。いったん版元を怒らせてしまったら、完全にこの世界から閉め出されてしまう。江戸ばかりでなく、京、大坂まで回状がとどいて、先ずいっさいの販路を断たれる。もちろん制作は自由だから、肉筆画を描いて、求める者に自分で売りわたすことはできる。市井にも多いし、旅回りの絵師はすべてそれだった。むしろ、版元の商売上の要求や拘束を離れて、自由な制作にうちこむには、その方がずっとよかったのだが、もともと黄表紙本の挿絵から出発し、一枚絵で名を売った歌麿には、版元を離れての自由な制作など、考えられもしなかったし、その勇気もなかった。衣食住は蔦屋まかせ、高級な顔料や絵具をふんだんに使い、どんな美人でもなびかぬ者とてなく、かれにとっては世俗の苦しみなど無縁であり、貧窮の中で草野に伏して旅し、一枚の絵にようやく一文のかねを得るなどという生活は、かれにとっては、そのまま死を意味していた。 「すみません。蔦屋さん。ほんとうにすまねえと思っているんだ。わかりました。よろしゅうございます。今日と明日。どうか、これだけ待ってやってください。あさってにゃかならず西京屋さんの分を描き上げますから」  歌麿の顔は屈辱と怒りと焦燥でどす黒く変っていた。自分がみじめでなみだが出た。こんな姿を世の中の女が見たらなんというだろう? 「わかってくれたかえ? 市太郎さんよ。おれもずいぶん野暮なことを言っちまったねえ。おれもほんとうににっちもさっちもゆかなくなっちまってねえ。まあ、気にしねえでくれろ。それじゃ、なんだね。西京屋さんの注文分は、あさっててことにしていいね。  西京屋さんは、これまでにおまえの絵を百四十八種も買ってくださった。あれはずいぶん受けているらしいよ。ま、お江戸や京、大坂じゃ、嫌う人もいるようだが、あっちこっちに、だいぶ愛好者が多いようだ。変った図柄だからねえ。おまえもあの仕事は好きじゃねえようだが、ここんところはひとつ、がまんしておくれよ。そのかわりと言っちゃなんだが、おまえ、してほしいことがあったらなんなりとそう言ってくれよ」  重三郎はやや機嫌をなおしたようだった。  京都の地本問屋西京屋は、蔦屋を通じて歌麿の一枚絵を上方一円に売りさばいていたが、とくに西京屋の販路の好みということで、きわめて特異な図柄の役者絵、大首絵などを求めてきた。蔦屋は自分の店でこれまで売り出している一枚絵に影響を与えるようなものでもないので、別にどういうこともなかったが、歌麿はおどろきもし、ひどく嫌って筆を取ることを拒んだ。だが蔦屋の言葉を拒み切れるものでもなく、全く心にそぐわない絵を描くことになった。だがそれがいがいに当り、西京屋は喜び、蔦屋は顔が立ち、歌麿も多少はなぐさめられた。百種ほどわたし、さらに五十種わたすことになっていた。その五十種もあと二種というところで歌麿の作業は中断していた。そこへさらに六十種の注文がきていた。  仕上げをいそぐ西京屋は、数日前江戸に上ってきたという。  歌麿は絶体絶命だった。自分の描きたいと思うものが、全く描けないでいるというのに、自分が描きたくないものをいそがせられるというのは、どうにもやりきれなかった。  ただそれがどこかで受けているから、というだけで、気の進まない仕事をいそがなければならない版元かかえ絵師の悲哀が刺すように身にしみた。  今日が残されたさいごの一日だった。  歌麿は|憔悴《しょうすい》しきった顔に、幽鬼のような執念をみなぎらせて画紙に向った。その破滅的な緊張も、君春の手前六尺で二つに分れ、その身を避けて放散してゆくようだった。歌麿は、自分がまるで実体のないものを相手に、独り相撲をとっているような気がした。  時間は刻々とたち、反古になった画紙が、しだいに|溜《たま》りはじめた。  ——だめだ!  かれは目の前が真暗になるような絶望に襲われた。  なにがなんでも、この女の美しさを、自分の足下に|摺伏《しょうふく》させなければならなかった。  絶望が自棄に変り、女の美を追求してやまなかった絵師の心が、とつぜん、すべてを忘れたいと願う追いつめられたけものの心に|変《へん》|貌《ぼう》した。 「姐さん!」  歌麿は画紙を蹴って立ち上った。絵筆が絵具をまき散らしながら画紙の上を転々した。  おどろいた君春が動くよりも早く、歌麿は君春を抱きすくめた。 「あれ、なにするんですよう!」 「姐さん! おいらは、もう」  薄い単衣をとおして、君春の肌の湿りと弾みが歌麿の腕に伝わってきた。 「よくも、よくも!」  かれはもう夢中だった。えりを押し開いて君春の白い豊かな乳房を引き出した。 「師匠! いけません。いけませんてば!」  手の動きを封じておいて帯をほどきにかかった。いやがる女をおさえつけておいて帯をほどくなどという経験は、これまでかれにはなかった。むがむちゅうなので手はいたずらに帯の結び目をまさぐるだけだった。  君春はよろめいて倒れ、帯を引きずって|這《は》って逃れようとした。歌麿はその帯の端をつかんで君春を引き寄せ、すそを|剥《は》ぎにかかった。画紙が引き裂け、絵具皿が飛んだ。 「師匠! 人を呼びますよ!」  君春が火のように|喘《あえ》いで、のしかかってくる歌麿を払いのけようとした。すそが開き、湯文字が割れると、太いももがちゅうを蹴った。濃い茂みが白い肌に鮮烈だった。足をかかえて乳房を押しつぶすほどに押し上げておいて、開いたそこへ自分のそりかえったものをねじこんだ。 「ちきしょう、ちきしょう」  かれがもみこむたびに、君春の腹の上に汗がしたたり落ちた。      七 一竿堂来る  そのとき、とつぜん、背後のふすまががらりと開いた。 「こ、これは!」  男の声が絶句した。 「市太郎! な、なんとしたことだ! 西京屋さんだ」  重三郎のあわてふためく声がした。  歌麿はその声にわれにかえった。  のろのろと君春の体から身を起した。君春は髪も着ているものも乱れきったまま、這って横へ逃れ、みなに背を向けて前をかき合わせた。 「蔦屋さん。これはちと話がちがうのやおまへんか。蔦屋さんのお話では、歌麿はんは今日中にわての注文の絵を、何枚か仕上げてくんなはるちゅうことやった。でも、それはもう一日待っとくれちゅうことやったから、まあ一日ぐらい急ぐことないわと思っとったんや。それでもこうしてはるばるお江戸まで来たのやさかい、いっぺん歌麿はんの仕事ぶりを見てまいろ思うて、こうしてここまで来たのんや。それがどうじゃい! 歌麿はんは絵描くどころか、こうしておなごはんと乳くり合っとる。ええ? 蔦屋さん!」  蔦屋重三郎につかみかからんばかりに声をふるわせているのは、鶴のようにやせた初老の男だった。 「ま、ま、西京屋さん。これはどうもえらいところを見せちまって。これ! 市太郎。それに君春姐さんもいったいなんだね! 男と女のことだから、まあ、こういうこともあるだろうさ。だがね、そいつあ、仕事が終ってからにしてくんなよ。君春姐さんにだって高い銭を払ってあるんだ」  君春の眉がきゅっと釣り上った。 「おや。蔦屋さん! 気のきいたようなことを言うじゃないか! 男と女のことだから、まあこういうこともあるだろうって? 冗談お言いじゃないよ。嫌がる女をむりやりおさえつけていい思いをしようとしたのはどこのどいつだい! わたいはね、そんなことをさせるためにここへよばれてきたんじゃないんだよ。いいよ! わたいはね、定回りとは親しいんだ。知ってるかい。木舟平次郎っていう同心。うったえてやる!」  君春は|凄《せい》|艶《えん》な目で重三郎をにらんだ。 「な、なんだって? 市太郎が姐さんを? そ、そいつはどうも……」  蔦屋重三郎はおろおろ声になった。どうしたらよいのか見当もつかないらしい。二人がその気になって始めたことなら、何とかこの場のとりつくろいようはあるが、歌麿がいやがる君春をおさえつけたとなると、これはやっかいだった。まして君春が、歌麿の乱暴をおもて|沙《ざ》|汰《た》にするとなると、事は大きくなる。 「ちょっと待ってくれ」  西京屋の背後に立っていた男が、蔦屋と西京屋を押しのけるように進み出た。 「歌麿さん。それとそっちの姐さん。なんだかこの場のようすが思いがけないようなことになってるらしいんで、てめえが名乗りますよ。わたしは備前岡山で黄表紙本や一枚絵を手広く商っている一竿堂喜衛門という者だが、わたしは歌麿師匠に、新趣向の役者絵や大首絵を描かせて、ずいぶん評判をとっているんだ。西国じゃ、そりゃあたいした人気だ。もっとも師匠は、蔦屋さんの手前もあり、新趣向じゃこれまでのひいき客に悪いとおっしゃっているんで、こちらの方は別に東洲斎写楽という名でやってもらっているんだがね」 「それがどうかしたんですか? ごまかさないでくださいよ」  君春の機嫌には取つく島もなかった。 「ま、しまいまで聞いてくださいよ。わたしの方としても、写楽の人気を失いたくない。そこでひとつ相談なんだが……」 「なにが相談ですよ! だいいち、東洲斎写楽なんて聞いたこともありませんよ。西国ではそんな絵師の描いたものが|流《は》|行《や》っているんですか? 聞いてみよう。わたいの家の近所に、この間備前の方から来た人がいるから」  喜衛門の顔に、ふとおびえの色がかすめた。 「流行っているよ。流行っているともさ。でもわたしはある公家からまとめて注文を受けているんで、世間にはあまり流さないようにしているがね」 「ほんとうですか?」 「だから、そのお役人に届けるというのはやめておくれよ」 「役人に届けられちゃ困るんですか?」 「困るよ。だいいち、歌麿師匠が仕事ができなくなる」  君春はふっと笑った。その笑いに、男たちは心の冷え上るようなものを感じた。 「ねえ、一竿堂さんとやら、写楽の画を、ある公家がまとめてお買上げになるというのは、うそでござんしょう?」 「なに?」 「一竿堂さんは、刀も集めていらっしゃるようですねえ。備前国包平や武蔵一貫斎義弘なんぞ、どこへお売りになりました?」  一竿堂喜衛門の顔が一瞬、土気色になった。 「蔦屋の、かかえ絵師名鑑に写楽の名がのっていないので、これはてっきり誰かの二つ名前のほまち仕事とにらんでいたのさ。気に入った仕事でも気に入らない仕事でも、当代あれだけの絵が描けるのは先ず一人。しかもその一人が、かねに苦労知らずの遊び|三《ざん》|昧《まい》。蔦屋さんのそろばんが、一竿堂さんの話に二一天作の五と、はじかないわけがないやね」 「おまえはだれだ?」 「一竿堂さん。わたいたちの目はどこにでも光っているんだよ。よりによって、駐在員のところへ備前国包平を売りにくるなんざ、お粗末だったねえ」  君春が動くより先に、一竿堂は廊下へ走り出た。君春がそのあとを追った。  ぼうぜんと立ちすくむ蔦屋重三郎と歌麿の耳に、廊下のはずれあたりで、男の絶叫がはしり、それが中断すると急にしいんとなり、それきりもう何の物音も聞えてこなかった。  ——蔦屋重三郎も歌麿も、この日のできごとについては生涯、人に語ることがなかった。ただ、重三郎の日記には〈備前岡山の一竿堂なる人物。不明にしてはばかる事多し〉とのみ記されている。  写楽落款の異色の一枚絵は、ついに百四十八種をもって終った。  常磐津君春を描いた未完の版下絵は、東京の某氏の所蔵するところとなっていたが、昭和二十年三月、戦災によって失われた。      5 「ねえ。あなたがたもよく気をつけてちょうだいよ。歴史的な事件に手を加えるとか、時間を逆行させるなどというような大きな活動はすぐ気がつくからいいけれども、時間密航者がむかしの品物を現代に運んで、ひともうけしようなんていうのはなかなか発見しにくいからね」  笙子は支えた水割りのグラスに目を当てながら言った。元もかもめも身をちぢめた。一竿堂喜衛門と名のっていた時間密航者が、たまたま元の店にあらわれなかったら、元は気づかなかったところだった。 「お姉さん。たいへんだったわね」  かもめがいたわるように言った。 「それで、その……」  元が言いかけて口ごもった。  なに? 笙子が目でたずねた。 「いや。いいんだ」 「いやね。感じわるい」 「いや。別にどうということはないんだが。いや、あるかな」 「元さんらしくないこと。はっきりなさいな」 「それじゃ聞くけど、笙子ちゃん、歌麿にさ、ほんとうにその、やられたのかい?」 「あら。そんなこと、どうだっていいじゃない」  笙子の首筋にうっすらと血が上った。それを見た元の目が兇悪になった。  笙子がなにげなく顔をそらせて、テーブルの上のアイスペールに手をのばした。 「笙子ちゃん!」  のり出した元のひざを、かもめの手がいやというほどつねり上げた。元は顔をしかめてしりぞいた。  よいの銀座の騒音が、|汐《しお》|騒《さい》のようにこの画廊の奥まった一室にもつたわってきていた。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地から2字上げ](角川書店編集部) |歌《う》|麿《た》さま|参《まい》る  |光瀬龍《みつせりゅう》 平成14年7月12日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Ryu MITSUSE 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『歌麿さま参る』昭和57年11月20日初版発行 862行 声紋の照合OKを示すサインだった。 「OK」に修正。