角川e文庫    東キャナル文書 [#地から2字上げ]光瀬龍   目 次  東キャナル文書   1 すべてゆききする光や風に   2 イグルー   3 死んだ海   4 舟 出   5 準星 スフェクス3   6 廃墟またはクリフコナツC3  アマゾン砂漠  |火星人の道《マーシャン・ロード》 ㈵  |火星人の道《マーシャン・ロード》 ㈼ 調査局のバラード     東キャナル文書  ——五メートル望遠鏡によってそのスペクトルを分析した結果、その波長が3C273では数百オングストロームも、3C48では一〇〇〇オングストローム以上も赤い方にずれていることが判明した。  これの意味するところは、第一の可能性はこれらが中性子星のような非常に高密度の天体であるということである。一般相対論によると、重力場から飛び出す光は重力に抗して仕事をするわけだから、エネルギーが減って赤い方にずれるはずである。もっともふつうの星ではこのずれはあまりにもわずかで観測することはできない。平均密度が数十万という白色わい星でやっと観測できるていどである。それだから何百オングストロームもずれるとなるとこれはよほど密度が大きく重力が強くなくてはならない。たとえば質量が太陽と同じで半径が一〇キロメートルというような超高密度で原子核までつぶれた中性子星のようなものでなくてはならない。あるいは太陽と同じ大きさで質量が二〇万倍もある超大質量の天体ということになる。  しかし準星のスペクトルを調べた結果などから、中性子星のようなものでは説明できないことが明らかにされた。また、超大質量の天体は内部の構造が不安定で存在しないと考えられているのである—— [#地から1字上げ]小尾信弥著    [#地から1字上げ]「宇宙の科学」より      1 すべてゆききする光や風に  砂が飛ぶ。羽毛のように軽やかに砂が飛ぶ。飛んだ砂は風の描いた風紋を押しぬぐうように片端から消し去り、砂丘のいただきをかすめて広漠とひろがる砂の海に|紗《しゃ》の薄幕を張った。  砂丘の間のせまい谷間を、ひとしきり風がどよもしてゆくとき、〈|幽《か》|霊《れ》〉は哀しそうに色さめた。風に吹き千切られた声がふたたびたそがれの谷間によみがえるまでには、ふだんならいやになるほど待たなければならないのだが、なぜか今日は風の絶え間ときそうように〈|幽《か》|霊《れ》〉の声も高くなった。 [#ここから2字下げ] ……閉じられた扉の|鍵《かぎ》は|錆《さ》びついている。 だから神はとまどい。 その指にはほのおの矢とあふれる時ばかり。 くりかえし、くりかえしかなでられる楽曲を 耳ふたする思いで聞いたとて いつか帰る道もあろうというもの。 昨日や明日。すべてゆききする光や風に おまえをゆだねたとて いつか遠く旅立つ舟もあろうというもの ………… [#ここで字下げ終わり]  ニベは流砂の中から自分の体を引き出した。もう三十秒もこのままにしていたら、完全に砂に|埋《うま》ってしまうだろう。そうなってからでは|這《は》い出るにも容易ではなかった。ニベは砂を払い落すと、これもほとんどひざの下まで砂に没して立っている〈|幽《か》|霊《れ》〉に手をふった。 「今日はよく|唄《うた》うじゃないか。それにこれまでいちども聞いたことのないもんくだものな」 〈|幽《か》|霊《れ》〉にはその声が聞えているのかどうか、ほとんど気まぐれとしか見えない唐突さで、ふっと姿が消えた。 「なあ、|原住民《マーシャン》よ! いつかその言葉の意味を教えてくれよ。せっかくいろいろな唄を聞かせてもらっても言葉を知らないとまるで風の音とかわらないよ」  ニベは耳をかたむけた。  ……いつか遠く旅立つ舟もあろうというもの 「おまえたちもずいぶん長い間、この天体を支配してきたわけだ。一万年? 十万年? それとも百万年か? そして結局、|誰《だれ》もいなくなった。|原住民《マーシャン》よ! 原住民の〈|幽霊《マーシャン》〉よ! 旅立つ舟もあろうというもの、とはなんとも悲しそうではないか」  いつの間にか〈|幽《か》|霊《れ》〉はニベのうしろにあらわれていた。暗い表情のうしろに赤紫色のくまどりのように遠い夕映えが沈んでいた。 「いつか遠く旅立つ舟もあろうというもの。か」  ニベは足もとの砂の中からわずかに粗面をのぞかせている露岩に片足をあずけた。その置かれた足で、わずかに風の角度が変ったのか、足もとの砂はみるみる細い砂煙になって吹き飛び、小さな岩塊と思われたものは半円形の金属の薄板となって砂上にあらわれ出た。ニベは風と砂にさからって視線を上げた。  砂丘の間から北につらなる平原を望むことができた。暗い紅色のたそがれを背景に、巨大なガントリー・クレーンと、それに抱かれた何隻もの宇宙船が、葉や枝を失った枯木の林のようにそびえていた。遠い地平線に頭をもたげている奇怪な形象はこの平原から飛び立ち、またこの平原に帰ってくるたくさんの宇宙船を導くためのレーダー・アンテナだった。  ニベは足もとの薄い金属板を|蹴《け》った。それは音もなく舞い上り、重さを持たないもののようにひるがえるとたちまち視野の外へ去った。風はほとんど一年中、その空港の方角から吹き渡っては北の低地へぬけてゆく。飛び去った金属板はその風にのっておそらく空港から吹き送られてきたものであろう。ガントリー・クレーンに抱かれてゼロ・アワーを待ちつづけている宇宙船から|剥《は》げ落ちた何かの部分、あるいは|外《がい》|鈑《はん》かもしれなかった。砂の海は間もなく|宇宙空港《スペース・ポート》の縁辺に達しようとしていた。かつてはそこに絶え間なく押し寄せる砂の前進をくい止める高圧のスプリンクラーがバリケードのように何層にも設けられていたものだが今ではそれを記憶している者すら無いだろう。砂はやがて|宇宙空港《スペース・ポート》のフィンガーに達し、それからそんなに遠くないうちに厚い砂の層がすべてをおおいかくしてしまうだろう。 「なあ。〈|幽霊《おまえたち》〉よ。あれがいつか遠く旅立つ舟、だよ。いつか、遠く、な。その日をああして待っているのさ」  ニベは〈|幽《か》|霊《れ》〉にもそれを見るようにうながした。しかし〈|幽《か》|霊《れ》〉は遠い風の音に耳をかたむけるように低く頭を垂れ、おし黙った。ニベは自分の口調にこもったあざけりに首をすくめた。なにも笑うことはなかった。いつか遠く旅立つことを夢見ているのは〈|幽霊《か れ ら》〉だけではなかった。ひとしく〈|幽霊《か れ ら》〉も、ニベたちも、朽ち果てた宇宙船の林も、そして失われようとする歴史も、いつかここより遠く旅立つことを願いつづけてきたのだ。おしなべて|形《けい》|骸《がい》だけがここにあった。太陽系を開発し、さらに広大な宇宙へひろがっていった者たちはすでにその思い出さえもとどめていなかったし、かつて光速を追い求め、また時のエネルギーさえも手中にしようとした人々の勇気や努力や知恵さえ、吹き飛ぶ砂におおいかくされて消えた。  すべては終ったのだ——少なくとも、この地に関する限り、いかなる物語も生れはしないのだろう。なにも笑うことはなかった。  陽が砂丘のかげに沈むと谷間は急速に夜の|闇《やみ》につつまれた。もう〈|幽《か》|霊《れ》〉を彼自身の安息所へもどしてやらなければならない。ニベは砂を払って立ち上った。ニベがそこにいるかぎり、〈|幽《か》|霊《れ》〉は決して地下の安息所へは帰ってゆかなかった。何が〈|幽《か》|霊《れ》〉を地下から呼びさまし、何がふたたび〈|幽《か》|霊《れ》〉を地下へ送り帰すのかニベには見当もつかなかった。おそらく踏板のようなものがかくされていて、それを踏むことによって地下の安息所のとびらが開くのではあるまいかと思った。ニベはいつものように三十メートルほど歩いてからふりかえった。もう〈|幽《か》|霊《れ》〉の姿は無かった。  ニベが〈|幽《か》|霊《れ》〉を発見してからもうずいぶん長い年月がたっていた。東キャナル市の|廃《はい》|墟《きょ》のあちこちに〈|幽霊《か れ ら》〉があらわれるという話は古くからあった。スウエイ渓谷の|決《けっ》|潰《かい》したダムの残骸の上で|逢《あ》ったという者もいたし、市内ハダム街の医療センター跡の廃墟で見たという者もいた。最初のうちはそれは極度に恐れられ、夜はむろんのこと昼間でさえ市街を出歩くのがためらわれるほどだった。しかしやがて〈|幽霊《か れ ら》〉はいたる所にあらわれ出はするものの、そのふきんをさまようだけでことさらに危害を加えるものではないということがわかって皆は胸をなでおろした。それがいったいどういうものであるのか、東キャナル市の廃墟とどのようなつながりがあるのか誰も知らなかったし何ひとつ記録も残されていなかった。東キャナル市の住民たちのコピーであろうことは十分に想像できた。おおかたは軽装備の|気 密 服《バキューム・スーツ》と思われる頭頂から|爪《つま》|先《さき》まで一体となった薄い被服で身を包み、顔面の部分だけが|濃藍色《のうらんしょく》の仮面でおおわれていた。それはサングラスであったのだろうが、その下の顔面はのぞき見ることもできなかった。  今では東キャナル市内に〈|幽霊《か れ ら》〉の出現場所は数十か所を数えていたが、それがすべて同一人物とは考えられなかった。どうやら〈|幽霊《か れ ら》〉の一人一人について出現するそれぞれの場所がきまっているようだった。ニベが〈|幽《か》|霊《れ》〉に出会ったのは輸送車の部品になるような金属片をさがしに|宇宙空港《スペース・ポート》の廃墟に近いアルシオーネ丘陵の谷間に足をのばした時だった。その谷間はあの争乱の時代に、|宇宙空港《スペース・ポート》の補給物資を秘匿したとつたえられている場所だった。個人用の輪送車の修理や部品の補給は自分でおこなわなければならなかった。廃墟を探し歩き、|宇宙空港《スペース・ポート》のフィンガーをたずね回って適当な物を手にすることができなければ輸送車一台を棄てることになる。ニベは疲れた足を引きずって市街をくまなく歩き回り、市を取り巻く広漠たる砂漠の奥深くまで踏み込んだ。  ようやく真赤に錆びたコンバーターと流砂で白銀のように磨かれたフルカンを見つけ出した時、〈|幽《か》|霊《れ》〉はそこに立っていた。灰白色のスーツと濃藍色の仮面とはニベの姿と生き写しほどによく似ていたが、その彼の体を透して、砂漠の果てになかば没したフォボスが黄褐色の残光を放っていた。 〈|幽《か》|霊《れ》〉がニベを認めたかどうかはっきりしなかった。しかし〈|幽《か》|霊《れ》〉はニベが移動するに従って前になり先になりまといつくようにあらわれては消え、消えてはまたあらわれた。ニベの自制心が恐怖をおさえつけるのに成功し、ニベはそれまで何度も話に聞いてはいたが、実際に見るのはこれがはじめての〈|幽霊《か れ ら》〉に|対《むか》い合った。始めは〈|幽《か》|霊《れ》〉が何か語りかけているのかと思い、それを聞き取ろうと全身の神経を耳に集中したがそうではなかった。〈|幽《か》|霊《れ》〉はひとりつぶやいていた。  …………  昨日や明日。すべてゆききする光や風に  おまえをゆだねたとて  いつか……  なんど問いかえしても、その意味はニベの理解し得るところではなかった。  昨日や明日。すべてゆききする光や風に  おまえをゆだねたとて  …………  ニベは|呪《じゅ》|文《もん》のように口の中でくりかえすと息を切らせてそこを離れた。  奇異な想いが翌日、ふたたびそこへニベを運んだ。〈|幽《か》|霊《れ》〉はニベを待っていたかのように姿をあらわした。  …………  いつか遠く旅立つ舟もあろうというもの  そう願いながら東キャナル市の市民たちは消えていったのだろう。  いつか遠く旅立つ……  その時、ニベははじめて親近感に近い感情を、その光と影の織成す〈|幽霊《か れ ら》〉に抱いたのだった。  だが、いったい、すべてゆききする光や風とは何のことだろう? また、神の指にはほのおの矢とあふれる時ばかり、とは何を意味するのか? ニベはおそらくそれは東キャナル市の遭遇したなんらかのでき事と関係があるのではないかと思った。遠いあの争乱の日と夜々。語り伝えられた多くの悲劇と破壊の中に消えていった多くの人々や宇宙船とかかわりがあるのだろうと思った。  夜になると気温は急速にさがりはじめた。このアマゾン砂漠のはずれでは深夜の気温はマイナス三十度にも達するのだった。      2 イグルー [#ここから3字下げ] 東キャナル市——いつ|頃《ごろ》誰がそう呼びはじめたのか。記録にも残っていない。しかし大部分の人々は〈アマゾン砂漠〉の西北にひろがる〈シレーンの海〉にそそぐ〈東の|運河《キャナル》〉からそう呼んだのだと思っている。 [#ここで字下げ終わり]  縦横にひび割れ、波のように起伏をつらねる舗装道路はキャタピラーから大きな鉄片をむしり取った。震動がいちだんと烈しくなった。夜になって風は静まったとはいえ、ただよう砂の|微《み》|塵《じん》はサーチライトの光を受け止めてかがやく淡褐色の光環を浮かべていた。  ニベは輸送車の速度を落した。修理材料の不足はささやかな故障でさえ輸送車一台を廃物にしてしまうかもしれなかった。  十字路を左へ曲った。記念の銘板をとどめている奇妙な形の鉄塔を過ぎると道路はにわかに幅をひろげてやがて広大な広場となった。あるかないかの夜の風に、霧のように砂の微塵が流れ去ると、広場の一角を占める壮麗な白亜の|伽《が》|藍《らん》が幻のようにあらわれた。砂嵐の去ったあとの|鋼《はがね》のように澄んだ夜空にまたたく星々の光が絶壁のような壁面に照り映え、金属とガラスの交錯する無数の空間にきらめいた。東キャナル市政庁だった。かつて人類が太陽系を支配した頃、そしてさらに遠いはるかな星々をめざして旅立ち、経回り、足跡を残し、やむことのない開発をくわだてていたその頃の、これは巨大な星間文明のかなめだった東キャナル市政庁だった。ニベはいつでも、その白亜の大階段の前を通るとき、形容し難い感慨にとらわれた。人類は実はこうなるのを最初からわかっていたのではないだろうか? それ故にこそ砂嵐に耐え、極寒に耐え、誰もいなくなってからさえも幾百世紀にわたってそこに確固たる存在を続けるような建造物をうちたてたのではないだろうか? もしそうだとすればこれこそ死とその予感の|記念塔《モニュメント》にほかならなかった。  壁面を飾る何層もの窓も、気密ガラスを失って|弾《だん》|痕《こん》のように妙にひっそりとならんでいた。そのとなりが、地球、火星、金星の提携になる三星連合の事務局ビルだった。地球をしのぐほど強大になった火星や金星の植民地を、ついに独立した経営機構とみなし、それらを合して強力な経済力のもとで太陽系全域の開発にのり出した三星連合は事実上、東キャナル市があってのことだった。地球の地中海沿岸地方の古代の神殿に形を借りたといわれるその平たい建物は、今は巨大な列柱の間を砂で埋めていた。それらの建造物に相対して広場の一方を押えるのは地球連邦の外交的出先機関や、金星のビーナス・クリーク、月面のルナ・シティの代表機関などを収めた大ドームだった。それにつづく幾つかの行政府のビルやハウス。さらに木星人たちの代表のために設けられたホール。それらはみな生誕と死、栄光と敗北、そして背反する昨日と明日をふくんで星空にそびえ立ち、砂にまみれて悲傷の|翳《かげ》となり終えていた。  なんということだ。  ニベは首をふると強くアクセルを踏んだ。輸送車は変速機のうなりをまき散らしながら舗装道路をばく進していった。こんな所に長くいることはよした方がよい。ニベの目には武器を手に手に木星人のためのホールの|傾斜道《スロープ》をかけ上ってゆく東キャナル市の市民たちの群れが見えるような気がした。それが太陽系文明の崩壊の最初の兆候と気づく者もなく、やがていつ果てるともない戦いは、幾十の都市や植民地を砂の海や氷河に還元し、それからついに回復することのない疲弊への道程がはじまったのだった。ニベはそれらのできごとを昨日のことのように記憶していた。記憶すること以外にできることは何もなかったからでもある。  その昔の市民の居住区は東キャナル市の西のはずれ、オーサ門と呼ばれた結晶片岩の巨大な岩塊よりさらに西北の外郭を形造っていた。そのオーサ門こそまだ東キャナル市が開発都市としての機能も規模も持たなかった頃、ごく少数の探検隊員たちによるトリデが設けられていた場所だった。  原子力発電所を中心にした古代の都市の心臓部はまだ生きていて、新しい住人たちにとぼしいながらも熱や光を供給しつづけていた。  ニベは輸送車の前頭を大きく回して崩れ落ちた城壁の背後へ回りこんでいった。  暗黒の夜空に照明弾を射ち上げたように青白い光源が浮かんでいた。その光に照らし出された広場は水底のようにつめたく重く沈んでいた。光源の上部にとりつけられた反射傘は地上にほぼ直径二百メートルもの光圏を作り出していた。その光圏の中にたがいに寄りそうように幾つかのイグルーがならんでいた。アサウの村だった。 「ニベ、またアルシオーネの谷間に行ってきたのか?」  村のなかまの一人、タギが声をかけた。 「ああ」 「おまえ〈|幽《や》|霊《つ》〉が好きだな。いったいあの薄気味の悪いもののどこが良いんだ?」  タギは自分の顔の前で指をひらひらと動かした。それはいつもかれのする魔除けのしぐさだった。ニベは黙って自分のイグルーへ足を運んだ。 「ズンガガの南の村で、〈|幽《や》|霊《つ》〉の言葉の意味を考え過ぎて気の狂った者がいるそうだ」 「気が狂った?」 「手押車にあるだけの食料を積んで。その村には輸送車はなかったらしい。手押車しかなかったのだな。その手押車に食料を積みこんでどっかへ行ってしまったそうだ」 「どこへ?」 「さあな。〈|幽《や》|霊《つ》〉にひっぱられていったんじゃないかな」  そこでタギはもう一度指をひらめかせた。  ニベはタギをその場に残してイグルーへ入った。プラスチックと液体ガラスの二重構造の|円《えん》|錐《すい》体は、マイナス三十度Cの真冬のきびしい寒さや、太陽の強烈な放射線から十分に身を防いでくれたし、唯一の食料源である酵素菌の胞子を貯蔵するのにもうってつけだった。  プラスチックのハッチを開くと薄暗い照明がともった。直径五メートル円錐体の内部はニベひとりには広過ぎるほどだった。市内の廃墟から見つけてきた大きな金属|鑵《かん》にプラスチックの薄板をふたがわりに当て、その内側にこれはどのイグルーでも最高の貴重品ともいうべき熱電球をぶらさげていた。金属鑵の中には大きな土塊のような色と形を持った地衣類のペリセリウムがかすかに白い粉をふいて収まっていた。熱電球によって保温されているそれは、ニベたちにとっては食料でもあり、繊維の供給源でもあり、その外皮は時には強じんな被服ともなった。岩塩を溶かした薄い塩水に浸して口にふくむとき、ペリセリウムのひときれはまたとない美味な食物だった。だからどのイグルーにも地衣類の栽培用の器と岩塩を入れた容器は必ずあった。持ち物といえば一年を通じて体から離したことのない防寒用のコートと|瓦《が》|礫《れき》の廃墟を歩き回るための靴、そしてサングラス。ただそれだけ。それらは各自が工夫をこらしたものだ。村全体としての財産はもちろんイグルー数個分の量はあった。しかしそれらの使用と時期は村の委員会の厳重な管理のもとにあった。  イグルーのドアがたたかれた。 「会議は定刻にはじまる。今夜は委員会の予定だったが大集会に切りかえた」  村の役員の一人だった。ニベはもう眠るつもりで床に寝袋をひろげていたが大集会が開かれるとあっては行かないわけにはいかなかった。村の集会に出席することがこの村に住む者の守らなければならない義務のひとつだった。  大集会の会場に当てられているプラスチック・パネルの平たい小屋は|宇宙空港《スペース・ポート》の修理工場から運んできたものだった。ニベが集会所のドアをくぐった時にはすでに村の全員が顔をそろえていた。ふだんなら電力や飲料水の消費量をしらべ、つぎの十二日間の割当をきめるだけの小委員会であるはずなのに、なぜ急に予告もなしに大集会に切りかえられたのか誰の顔にも濃い不安がただよっていた。大集会は村にとってなんらかの災厄の到来を意味していた。大集会それ自体は村の総意を必要とする時はいつでも開かれる性質のものだったが、実際には長老たちの判断に余る時のほかは開かれたことがなかった。 「いったいどうしたんだ? 何かあったのか? 早くはじめろ!」 「さあ、はじめてくれ!」  村の者たちは口々にさけんだ。その声につり出されるように長老のシクが壁ぎわに進み出た。  シリコンのカーテンウォールを裁断したすばらしいコートをまとっていた。 「静かに! 急に集ってもらったのはなるべく早く提案したかったからだ。明日から明後日にかけてはクワール平原のむこうへ偵察に向う者たちもいることだしな」  シクは言葉を切って腰をのばした。 「われわれは長い間、東キャナル文書についてしらべてきた」  長老は今夜の大集会の立役者である提案者席に片手をのばした。そこには東キャナル文書解読小委員会といういかめしい名前の委員会のメンバーたちがひとかたまりに集っていた。 「最近どうにか一部の解読に成功した。その内容を公開すると同時に、それについて解読小委員会と長老会議の意見ものべて皆の判断をまちたい」  シクは壁の前を離れた。いつもそうなのだ。だいたい東キャナル文書なるものも、村の者たちはそれがおよそ二百年ほど前、市政庁の廃墟の中で偶然に発見され、以来村に保管されているということぐらいしか知らされていなかった。なぜそれが重要な文書なのか、なぜその解読に一生けんめいにならなければならないのか説明されてもいなかった。皆はあらためてたがいに顔を見あわせた。 「待ってくれ。大集会を開くというからこれは何かよくないことが起ったにちがいないと思ってかけつけてきたんだ。おれは明日は陽の昇らぬうちに出発してクワールのむこうへ偵察に行くんだ。もう眠らなくてはならない。その問題はどうもおれとは関係がなさそうな気がするし、たとえ聞いてもおれには何のことだかわかるまい。おれは帰らせてくれ」  シレルが立ち上った。半数近い者たちが強くうなずいてシレルにつづいて立ち上った。シクはいそぎ足でふたたび壁の前にもどった。 「いや。これは村の者ぜんぶの問題なのだ。実に重大な問題だ。いそいで会議を進めるから聞いてくれ」  シクが退くと代って東キャナル文書解読小委員会のメンバーがどやどやと壁の前を占めた。東キャナル文書なるものの解読を唯一の仕事とし労働などには決して顔を出さない者たちだった。いつの間にか、その小委員会は村の指導者集団である長老会議と村での最高権威を分け合っていた。 「東キャナル文書解読小委員会を代表して説明する」  盲目のセノが灰色の目を皆の背後の壁の上方あたりに据えて口を開いた。その声はしわがれてよく聞きとり難かったが、この村でたった一人の認定書記の資格を持っている男らしく、たたみこむような説得力を持っていた。 「……これはその原本で四千三百六十四チャンネル・トラックのテープになっている。周波数は……」  おびただしい数字がそのあとにつづいた。シレルは全身に怒りをみなぎらせて腰を浮かせた。 「村全体の問題というのを先に片づけてくれ!」  セノはシレルの叫びを耳にも入れなかった。 「……東キャナル市がなぜ滅亡したのか、その原因を追究することにわれわれはあらゆる努力をそそいだ。東キャナル市はエネルギーの枯渇でもなく、悪疫の流行でもなく、また地震や砂嵐や放射能などでない、何かわれわれの知らない原因で滅亡したのだ」 「だからどうしたというのだ? 東キャナル市が廃墟になったからといってその原因をつき止めてもとのようにしてやるほどわれわれはお人好しではあるまい」 「……われわれはどうやら真相と思われるある事実にゆき当った。それは」 「それは?」 「われわれの言葉にはない。ビーナス・クリークやルナ・シティでは準星と呼んでいたある種の天体のことだ」 「クワールというのはビーナス・クリークやルナ・シティではシレーンの海と呼んでいた果てしもない砂の海のことだぞ!」 「東キャナル市はある時、とつぜん滅亡した。その頃すでに地球政庁は火星や金星などに対して平等の発言力を失っていたから当然東キャナル市の問題については傍観する以外になかったのだ。地球は老い、自然環境は破壊しつくされ、地下資源はほとんど失われ、もはやよみがえりの機会は永遠に喪失したかに思われた。東キャナル市の悲劇の遠い原因はそこにあった」  視力の無いセノの灰色の目が何ものかを見ようとするかのようにひくひくと動いた。 「かわりにクワールへ行ってきてくれよ!」 「まあ、聞け」 「行ってきてくれるっていうんだな」 「聞け!」  セノの顔は苦渋に満ちていた。 「クワールへは行かなくてもよいかもしれぬ。われわれは遠くへ、ずっと遠くへ旅をしなければならぬかもしれぬ」  長老たちは解読小委員会と村の皆の間をおどおどと視線を泳がせた。 「そのわけを話せ!」 「……われわれはここにとどまって近い将来に亡びるか、それともなんとかしてここから脱出してゆくか二つにひとつしかない。ここにとどまって亡びることは簡単だが、それではわれわれの栄光ある歴史の継承者がいなくなってしまう。そして亡びへの道は実はつねにもっとも苦痛に満ちているのだ。この砂に埋もれて、こんどこそほんとうに死者のうちに加えられたいと思う者はここに残るのもよいだろう」 「ずっと遠くへ旅をしなければならぬかもしれぬ、と言ったな?」 「われわれの文明がなぜこの火星で亡びてしまったのか? われわれの祖先が取りかえしのつかない大きな失敗をしたものならばそれがどのようなものであったかをつまびらかにしてふたたびあやまちをおかさないようにしなければならないし、滅亡の原因が祖先たちの失敗によるものでなく、宇宙的規模における災厄のような避け難いものであったのなら、それはなおのこと事実を極めて少しでもそれらの災厄からの危険を少なくするようにしなければならないからだ。東キャナル文書にわれわれの知りたいそうしたことのすべてが記されてあるのだ」 「それでそこへ行くのか?」  人垣のうしろから誰かの声が跳ねてきた。 「しらべるにはそこへ行くのがいちばん手取り早い」  おれたちはいやだ。わしたちはごめんだ。というつぶやきがわき起った。 「そこで本題に入る——」  セノがみなの動揺をおさえるように両手を大きくひろげた。  凍てつく星空を一瞬に切り裂いて大きな流れ星が飛んだ。流れ星は低く低く砂丘をかすめて遠くキンメリア人の海のむこうへ消えていった。      3 死んだ海 [#ここから3字下げ] ——それは砂になって天に舞った。 [#ここで字下げ終わり]  夜明け頃から吹きはじめた砂嵐は昼頃になってかつてなかったほどのすさまじさで東キャナル市をおしつつんだ。アマゾン砂漠から何千匹もの巨大な蛇のようにのたうちながら砂の海を突っ走ってきた砂煙は、つなみのように東キャナル市を呑みこみ、おおいかぶさってきた。すべての建造物は大波のようにゆれ、ひび割れた舗装は枯葉をまき散らしたように乱れ飛んだ。市政庁の比類ない列柱がガラス細工のように崩れ落ち、濃藍色の天にまでとどくばかりにそそり立つ城壁が薄紙のように引き裂かれた。 「いそげ! あまり時間がないぞ」  輸送隊を指揮するエドが落着きなく体をおってはしきりに運転席の時計をのぞきこんだ。 「エド。向い風がひどくて全然速力が出ないんだ。少し遠回りでも風の横側へ出た方がいい」  コントローラーをにぎっているタギが悲鳴のようにさけんだ。 「だめだ。そんなことをしていたら方向がわからなくなってしまうぞ。いっきに突っ走るんだ」  タギはくちびるをゆがめた。瞬間風速八十メートルから百メートルを越すこの強い風にさからって進むには、輸送車の|出力《パ ワ ー》はあわれなほど小さかった。ニベは風に吹き飛ばされないように車体のへりをにぎりしめて後につづく隊列をうかがった。横なぐりの滝のような厚い砂の壁の中に、あざやかな赤色の|回転灯《フラッシュ》がひらめいた。 「ついてきているか?」  タギが声をふりしぼった。 「二台、いや三台だ」 「三台? ほかに見えないか?」 「見えない。三台だけだ」  エドがたまりかねたようにタギの手からコントローラーをうばった。アクセルが歯の浮くようなひびきを発した。 「エド! モーターが焼けてしまうぞ! 回転数を落すんだ!」 「うるさい! この砂嵐の中でぐずぐずしていると助からないぞ。モーターが焼けることよりも自分の生命のなくなることの方を心配しろ!」  二十五台の輸送車は今やちりぢりになって砂嵐と苦闘していた。砂鉄の嵐とも言われる砂嵐の中ではレーダーもコンパスもまったく役に立たない。ただコントローラーをにぎる者の方向感覚だけがたよりだった。 「エド。この砂嵐の中でモーターが止ったらおしまいだぞ。いいからここはおれにまかせて後の車を誘導してくれ!」  タギがエドの手からコントローラーをうばいかえした。タギの語勢に押されたか、エドはだまって運転席をあけると車体の後部へ移っていった。  どっといちだんとすさまじい風がたたきつけてきた。輸送車はずるずるとあともどった。モーターががらがらとひどい音を立てた。 「タギ! 風下へ回れ。このままではやられるぞ!」  片方のキャタピラーで爆煙のように砂をはねとばして車体は急回転した。暗黒の中で赤い|閃《せん》|光《こう》がはげしくゆれながら反行してゆくのを見た。 「こんなことで出発できるのかな?」  ニベはエドがしたようにダッシュ・ボードの下に頭を突っ込んで時計を見た。丸いガラスの表面に黄褐色の砂が厚く|貼《は》りついていた。 「月齢の関係でどうしても今夜中に出発しなければならないのだそうだ」  タギがフロントガラスにひたいを押し当てて前を見つめながら言った。 「出発すると言ったってなあ。タギ。おまえは宇宙船に乗ったことはあるのか?」  タギはちらと視線をニベの上にもどした。 「宇宙船に? おれがか? あるわけないだろう。だいいちこの火星から宇宙船が飛び出すのは何万年ぶりとかいうことだ」 「そんなことで宇宙船を操縦することなどできるのか?」 「委員会の連中の間には宇宙船の操縦や電子頭脳のあつかい方が伝承となってつたわっているのだそうだ」 「しかし予定していた物資が手に入らなかったら出発も見合わせなければならないだろう」  風を斜側方から受けて後へ流すために、輸送車は生きかえったようにスピードを回復しはじめた。 「東キャナル市にだって役に立ちそうな物はもうほとんど残ってはいない。それでも積みこむ予定よりも十四万トンも不足しているそうじゃないか」 「しかし重要物資はあらかた集ったしあとはむこうへ着いてから補給すれば間に合うのだろう」  タギはかなりニュースにくわしかった。 「それで今日出発するというわけか」  サーチライトの|光《こう》|芒《ぼう》の中に砂の幕の間からまっかに錆びた、ガントリー・クレーンがちらとあらわれてたちまち消えた。 「|宇宙空港《スペース・ポート》を横切ってアルシオーネの南谷へ出よう。そこから西へ向えばシンシアの低地まで一直線の下りだ」  タギがニベの耳に口を押しあててさけんだ。  アマゾン砂漠の南西の一部を区切るシレーンの海にのぞむ無名の入江一帯が東キャナル市の|宇宙空港《スペース・ポート》だった。その入江の西にゆるやかな起伏をつらねるアルシオーネ丘陵。その丘陵地帯は浅い断層谷によって四つの部分に分けられていた。その南谷が洪積平野となって扇状にひろがる先がシンシア低地。東キャナル市の人々はここをダムになぞらえてシンシア遊水池と呼んでいた。 「よし。この谷間をぬければ大丈夫だ。助かったぞ! エド、エド! 後続車はどうなった?」  タギはコントローラーをにぎったまま上体をひねった。 「たいへんだ! エドがいなくなったぞ。風で吹き飛ばされたにちがいない!」 「ふり落したのではないか?」  もしそうだとすれば風下へ回ろうとして車体に強いひねりを与えたときだろう。 「さがしにもどろう!」 「いや、まて。この砂嵐の中では来た道をさがすのさえ不可能だ。エドを見つけ出すのはとうてい無理だ。それより少しも早く基地へ行こう」  タギはコントローラーをにぎる手に力をこめた。 「ニベ。助かる者なら助かるし、助からぬ者ならばどのような方法をとっても助からないのだ。それよりもわれわれが一時も早く帰り着くことだ」 「だが、タギ」 「さがしたければおまえだけ行くがよい。おれは行かない」  タギは宣告を下すようにあごをつき出した。  吹きつのる風はいよいよたたきつけてくるような打撃をふるいはじめた。先程まで一団になっていた後続車も完全に姿を消してしまった。 「コースは大丈夫か? とんでもない方向へ突っ走っているんじゃないだろうな」 「まあこんなものだろう。何しろコンパスがこれだからな」  ニベがのぞきこむと、メーターボードにとりつけられた円形の大きなコンパスの針はくるくるとめまぐるしく回転していた。 「出発までに間に合わないとえらいことになる。もう二度とここを離れることができる機会はこないぜ」  風が息をするたびに吹き飛ぶ砂の密度が変り、時々谷間の両側になだらかに起伏する砂の丘陵が影絵のようにあらわれた。ニベにはこの火星の土地を離れるということがどうしても実感をともなわなかった。そんなことがかりにできるとしても当然のように何か突発事件が起って計画がだめになってしまうにちがいないと思った。計画自体がだめになるのでなければ、できごとは自分の上に起って、自分だけが砂嵐の吹き荒れるこの砂の海にひとり取り残されることになるのだろうと思った。そう思う方が気が休まる。ニベはくちびるの端だけで笑った。この乾いてつめたい風景がもう見られなくなるというのか! この|苛《か》|酷《こく》な、それでいて唯一の大自然とほんとうに|訣《けつ》|別《べつ》するというのか! 「ようし、ニベ。コースはまちがいなかった。これでひと安心だぜ」  タギが胸の底から声をしぼり出した。それだけしか考えていなかった者のしみるような安心感だった。タギの心に応えるかのように砂煙はいたる所で千切れてその間から赤茶けた弱い陽射しがのぞきはじめた。輸送車は右に左にはげしくゆれながら砂丘の間を走りぬけようとしていた。そこはニベにとって鮮明な記憶に残る地形だった。 「止めてくれ!」 「なんだって?」 「止めてくれ!」 「どうするんだ?」 「いいから止めるんだ」  輸送車のキャタピラーが逆回転して一瞬、大波のように砂をまきかえした。その砂の波をくぐってニベは車上から跳んだ。 〈|幽《か》|霊《れ》〉が立っていた。 「おれは遠い所へ行くことになった。この火星から飛び出してゆくのだ。宇宙船でな」 〈|幽《か》|霊《れ》〉にはその意味がわかるのか、いつも哀しげな表情に、あるかげりが動いたようだった。 「おまえを連れてゆくことにした」  砂の下に〈|幽《か》|霊《れ》〉のあらわれ出るための何かのしかけのようなものがかくされているにちがいない。二、三度そのようなことを耳にしたことがある。原住民たちの儀式のひとつだったのかもしれない。 「タギ! 輸送車でこのあたりを浅く掘ってみてくれないか」  タギは運転席からのび上った。 「ここを掘る? こんな所に何があるんだ?」 「いいから掘れよ。早くしないと出発に間に合わなくなると言ったのはおまえだろう」 「だから何を掘るんだ」 「掘れ!」  タギは黙って運転席に尻を落すとやにわに輸送車を発進させた。車体の後部におりたたまれていたスクレーパーが怒りを発したさそりの尾剣のように伸び出した。その先端があやうくニベのひたいをつらぬくところだった。 「浅く掘ってくれ」 「わかってる!」  輸送車がぱっと砂煙につつまれた。タギの怒りがそのままスクレーパーで目的の物体を引き千切ってしまわなければよいがと思ったが、タギは意外に慎重に作業を進めていた。幅五メートル、深さ二メートルで砂中をまさぐりながら三百メートルの距離をゆっくりと往復した。  やがてタギがさけんだ。 「何かあったぞ。警報器が鳴っている。ニベ、見てみろ!」  輸送車の車体の後部に、小山のように盛り上った砂の間から長さ一メートルほどの透明のカプセルがのぞいていた。カプセルの内部には幾重にも重なった微細な格子と、銀色に光る大きなコイルが収められていた。 「これだ! これにちがいない」  ニベはそれを砂の中から引きずり出した。〈|幽《か》|霊《れ》〉がニベのかたわらを通ってカプセルに近づいた。格子の層が一瞬、青白い光を放った。〈|幽《か》|霊《れ》〉はいよいよすきとおってやがてカプセルの内部に消えていった。 「おまえそれをどうするつもりだ?」  タギの声がおかしいほどふるえていた。ニベはそれには答えず、輸送車の荷台にカプセルを移した。  ニベはカプセルをかかえて垂直に近いガントリー・クレーンの階段をよじ登っていった。それはごくわずか、手足を動かすタイミングをあやまっただけで、体は階段を離れ、数十メートル下方の地面にたたきつけられてしまう危険な作業だった。どよめく砂嵐の中で発進を告げるブザーが鳴りつづけていた。 「もう少しだ。がんばれ」  誰かがニベのうでを上から引き上げていた。烈風が吹き過ぎてゆくたびに、軽金属の階段はまるでバネのように震えた。上方からするどい絶叫とともに人の体が落下してきた。軽金属の階段のどこかにぶつかってもんどりうち、階段にとりついているなかまの二、三人にぶつかってかれらをそこから引き剥がし、はらい落した。絶叫がおり重なってはるかな大地へひとかたまりになって落ちていった。 「私物を持ちこんではいけないと言ったはずだぞ!」  強い力が上からニベのかかえているカプセルを奪い取ろうとした。ニベは奪われまいとしてかかえている両手に力をこめた。体が大きくちゅうに浮いた。落下の感覚が|炸《さく》|裂《れつ》したとたんに、夢中でのばした片手が階段の手すりをつかんでいた。カプセルを奪い取ろうとした手は目標を失って完全に平衡を失い、おそろしく大きな人影が声もなくニベの頭をかすめて墜落していった。 「入れ! いそいで!」  もうそこは|舷門《ハ ッ チ》だった。地上から見ると細い小骨のように突き出たクレーンも、ここから見るとほとんど頭上のなまり色の空をおおうほど大きかった。  |舷門《ハ ッ チ》をくぐると、せまいプラットホームの上に、数個の人影があわただしく動いていた。そこから、円筒型のトンネルが上下に垂直にはしっていた。そのトンネルの側壁に縦にならんだオレンジ色の照明灯が底知れぬ井戸をのぞいたような虚無感をただよわせていた。 「名前は?」 「長老シクのひきいるフセウ村のニベだ」  別な一人がすばやく手にしたメモと照合した。 「長老シクのひきいるフセウのニベは第九船倉が持ち場だ」 「もうこれで終りか? ハッチをしめろ!」 「キュトがいないぞ」 「さっきまでおれたちといっしょに作業をしていたじゃないか」 「船外へ出たようすもないな」 「出ていなければよい。さあ、しめろ!」  重い気密ハッチを閉じるモーターのひびきがトンネルに反響した。キュトと呼ばれるのはニベのカプセルを払いのけようとして地上に落ちていった男にちがいない。しかしニベはそれは言わなかった。 「その第九船倉というのはどこだ?」  ニベはひとりこんなせまい張り出しに残されたのではかなわないと思った。 「今リフトが上ってくるからそれに乗って9というサインのついているプラットホームで降りるんだ」  ふり向きもしないで一人が言った。言われて見ると、ニベの今立っている所には4というサインがともっていた。  間もなくリフトが上がってきた。皆がそれに乗り移るとかなりの速さで上昇しはじめた。ニベはかれらの眼が自分のかかえているカプセルにそそがれるたびに首すじのあたりが硬ばるのをおさえようがなかった。しかしなぜかかれらはたずねようともとがめようともしなかった。|舷門《ハ ッ チ》のしまった今となっては、そんなことはもうどうでもよかったのかもしれない。オレンジ色の照明の下で見るかれらの顔にはひとつとして見おぼえのあるものはなかった。      4 舟 出 [#ここから3字下げ] ここより出でて帰り来たるものなし。その墓を知らず、人々ただ|未《いま》だしと言う。 [#ここで字下げ終わり]  東キャナル市の西のはずれ、オーサ門のほとりにイグルーを置く長老シクのひきいるフセウの村。アマゾン砂漠の東、ユリシーズの谷にのぞむプロテウス・ポイントの、認定書記バグのひきいるアサウの村。そしてそれより遠く北へミメサ|三《さん》|叉《さ》|路《ろ》に近く、長老アオのひきいるフィールの村。赤道をはるかに北へ越えてムンマス|氷崖《ひょうがい》に近く、無名のカールに沿ってイグルーを配したバツの村。さらに北緯七十五度、永遠の凍土にとぼしい火をともす法務官アヌイの一族。それだけがこの計画に参加した村のすべてだった。その五つの村でも、宇宙の旅への恐怖や長い旅に耐えられない病いの床にある者などほぼ半数が参加をこばんだ。総勢三百八人。それだけが新天地を求めるもののすべてだった。村の数はたがいに連絡をとり合っているものだけで十四。その他に七か所あるといわれていた。フセウ村の長老シクと、認定書記バグはそれらの村のすべてに呼びかけたが応答もなかった。しかし情深い二人は、計画通りに事が進んだ暁にはもう一度かれらに加わるよう誘うつもりだった。長い長い間、極寒に耐え、孤独と静寂の中で不断のおそれと飢餓に苦しみながら生きつづけてきたそれら村のものたちには、容易に長老シクたちの計画を信じることができないのも無理はなかった。どうしてかれらが、自分たちの自由になる宇宙船——しかも十五万トン級の大型宇宙船八隻も——を持っていると思えるだろうか。宇宙船どころか、砂嵐の中を走る強力な輸送車でさえもはや夢物語に近くなっているのが現状だった。|宇宙空港《スペース・ポート》の廃墟の地下百二十メートルの格納庫にモスボールされていた大型宇宙船六隻を発見したとき、この計画が始まったと言ってよい。各地に散在する村の総力を結集すべく呼びかけたシクの誘いに応じたフィールの村に、墜落した宇宙船のかなり原形をとどめた残骸が保存されているのを知って長老シクは自分の計画をさらに大規模なものにした。その頃、〈東キャナル文書〉の解読がにわかに期待された。ようやく結集した五つの村の技術者たちによってそれまでの七隻にひとしい性能を持った宇宙船が建造された。この一隻の宇宙船を建造することによって五つの村はそれまで営々とたくわえてきた力を費消しつくした。伝えられた知識だけをたよりに自動旋盤を造り、溶接用電極を製造し、さがし集めてきたチタニウム・ステンレスのパネルを板金加工した。みじめな苦しい作業はやがて一個のぶざまな形象を作り出した。これだけは十分な器材を用いて核反応炉を組立て、ぶざまな円筒の一方にはめこんだ。  二年ののちに、八隻の宇宙船を四隻ずつ束ねて前後二つの群れに結び、そしてその群れを縦につらぬく船体をとりつけ、乗組員と貨物のための保護部分となした。  出発の日時は慎重に決定された。そして発進の時刻がきまった時には参加できないのを喜ぶ者たちがさらにふえていた。参加する者たちの半数は、その複合船体でどこか遠い他の天体へ移住することを熱心に提唱したが、他の半数は自分たちの故郷を棄てさることができなかった。  位相差空間航法用の電子頭脳と|重力場推進《フィールド・ドライブ》ユニットが偉大な祖先の遺産のすべてだった。  発進を告げる警急ブザーがけたたましく鳴りひびいた。この瞬間、重力分力か消去カプセルの中にうずくまって誰もが参加したことを心の底から悔んでいた。あのすさまじい砂嵐と、日没とともにやってくるきびしい寒さ。それに年毎にとぼしくなる生活物資と単調な食事。しかしそれでもなお宇宙空間に待ち受けているであろうおそろしい破滅と予知される不安とほとんどのぞみのない帰還への哀惜の思いにくらべれば、むしろ天国だった。 「ああ。祖先の霊よ。願わくばわれらを守り、|永《えい》|劫《ごう》の安住の地へわれらを導き給え。われらはわれらのみ生きるにあらず。必ずや新しい町を作り、ひとときこの地にあずけ置く病人、老人のなかまたちを引き取りにくるであろう。あるいはわれわれの町に真に回復させることができるなんらかのてだてを得ていずれ近いうちにまたもどってこよう。祖先の霊よ。これは脱出ではない。新しい生命を得る為のきびしく遠い旅だ。極めて危険であり、成功するかどうかはわれわれの努力だけではきめ難いものがある。それ故にこそ祖先の霊よ、どうかわれわれを守ってほしい」  長老シクはふるえる手をにぎりしめて祈った。この時になってはじめてかれの胸に、果してこの計画そのものに間違いがなかったかどうかがまっくろな疑惑となって胸の奥の奥底を塗りつぶした。   ──────────────── [#ここから3字下げ]  ——東キャナル市工務局ならびに物理学研究所は、この『01310型磁場発生装置』の実用化にはおおいに難色を示し、宇宙省もまた早急に使用上の規制を検討するという態度で情勢の変化を待つことになった。『01310型磁場発生装置』はA七型実験回路を基礎として開発されたもので、恒星間飛行のための亜空間形成用磁場としてはもっともすぐれた性能を持つといわれている。これに対して、一部には船体構造や航法装置、電子装備をはじめとする船体側の多くの問題、さらにそうした磁場空間による|亜空間飛行《オーバー・ドライブ》の人体に与える生理的影響などの研究が平行して進展していない今、この新しい推力発生方式が今後の宇宙開発に大きなひずみを与える原因になりかねないとして警告の声も出ている。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](東キャナル文書 VOL2 P二七五)   ────────────────   ──────────────── [#ここから3字下げ]  ——東キャナル市政庁は四一一〇条令をもって木星経由大圏航路の東キャナル市宇宙空港への寄港に大幅な制限を加えることになった。これによって辺境大圏航路はすべて市政庁の制圧下に入ることになり、これからの火星植民都市群の連合態勢に予測し難い底流を生ずることになった。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](東キャナル文書 VOL3 P五一八)   ────────────────   ──────────────── [#ここから3字下げ]  ——物理学研究所は『01310型磁場発生装置』を十数基組み合わせることにより、極めて強力な磁場による閉鎖空間を作ることに成功した。なおこの記録は九一八特殊条令Bにもとづき、公開されることなくファイル七九RR一六に収録された。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](東キャナル文書 VOL3 P七三九)   ────────────────   ──────────────── [#ここから3字下げ]  ——この巨大な開発都市の未来の方向を二分する二つのシステムがそれぞれ成長しつつある。ひとつは〈クルーガー12〉システムであり、もうひとつは〈クリフコナツC3〉システムである。人類はその未来をこの巨大なシステムのいずれかにかけねばならない。これは不安の象徴である。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](東キャナル文書 VOL4 P一六)   ────────────────  長老アオはほとんど全文を暗記するほど|脳《のう》|裡《り》に収めた東キャナル文書を、呪文のようにとなえつづけていた。      5 準星 スフェクス3 [#ここから3字下げ] |汝《なんじ》、いずこより来たる—— [#ここで字下げ終わり]  息を吐くたびに、胸の奥底から|灼熱《しゃくねつ》のなまりがせり上がってくるようなはげしい|嘔《おう》|吐《と》感がニベを攻めたてていた。そのたびにニベはえびのように体を曲げ、両手をにぎりしめてのたうち回った。すでに胃の中のものは洗いざらい吐きつくし、わずかに淡緑色の液体がくちびるの端に流れ出るのみだった。頭全体が割れるように痛み、ことに後頭部からひたいにかけてするどい|矢《や》|尻《じり》でも食いこんでいるかのように激痛がはしった。ニベは何回となく気を失い、そのたびに自分が少しずつ確実に死へ近づいていることを知った。  出発以来、すでにどれくらいの時間が過ぎていったのか見当もつかなかった。百年か、五百年か、あるいは千年、一万年にもおよんでいるのかもしれなかった。ニベは何百トンもの重さと感じられる自分の体を引きずってカプセルから床にころがり出た。  淡い照明の下で、他の二個のカプセルは砕けて飛び散っていた。カプセルを床にとめた鋼鉄のとめ金がおれたらしい。おそらく二個のカプセルは広い船倉の内部をあちこちと飛び回りころげ回ってついにこなごなになってしまったのであろう。ひとつのカプセルの内側に、褐色の枯草のようなものが干からびてこびりついていた。それが何であるのかニベにはたしかめなくともわかっていた。二つのカプセルは同じ村のクエとサムナーであり、おそらくそれはクエのカプセルであろうと思われた。するとその干からびた物体はクエの死体にちがいない。くだけたカプセルの破片の裏側では、代謝調節装置のものと思われる小型電子頭脳のサーボが事故発生を知らせるパイロットランプを点滅させていた。そのパイロットランプがともりはじめてからもうどれくらいの時間を経過したのか、サーボだけが忠実にもはやその必要もない任務を果していた。  ニベはこのままでは自分もクエやサムナーと同じ運命をたどることになると思った。  どこをどうたどったか、いつ終るともしれない頭痛と嘔吐感との苦闘のまっただ中でニベはようやく自分が明るい部屋の入口に立っていることを知った。ともすれば暗黒の奈落に落ちかかる意識をかりたてかりたてニベは室内へよろめきながら進んだ。薄紙が一枚一枚はがれるように周囲のようすがあきらかになってきた。  そこは操縦室だった。暗黒の壁の前に数名の男たちが石になったように立ちつくしていた。かれらに背を向けて、おびただしいメーターやスイッチのならんでいるパネルについている男たちだけが生きていることを証明するかのように時おり上体を動かし、わずかに身をひねってはスイッチ・パネルに手をのばしていた。  暗黒の壁の前に立っている人々の中に、村の長老シクの姿があった。ニベは残っている力をふりしぼってシクの背後に近づいた。 「長老。クエとサムナーは死んだぞ。どうなったのだ? われわれの旅は?」  誰もふり向こうともしなかった。 「コース。グリーンF」  とつぜん長老シクがさけんだ。 〈コース。グリーンF〉  前方の壁面から投げかえすように声がもどってきた。 「現在の高度を維持せよ」 〈現在の高度を維持する〉 「長老! クエとサムナーが死んだ。おれもひどい頭痛がする。吐き気もとまらない。なんとかならないだろうか」 「二七三秒後に再突入」 〈二七三秒後に再突入〉 「長老!」  シクははじめてふり向いた。 「ニベか。ちょうどよいところへ来た。おまえ、向うのパネルの右から三番目の|座席《シ ー ト》に着け」 「長老!」 「さあ、早くしろ!」  長老シクの言葉は火のようにするどかった。ニベは自動人形のように向きを変えた。 〈秒読みはコード七三。四・三八一〇メガサイクルで継続中〉 「確認した」 〈現在の高度九七八九三二。降下率八・一〉  暗黒の壁の前に立っている一団が急に風に吹かれたように動揺した。長老シクのほおがひくひくと引きつった。  ニベはとなりに座っている男に首をのばした。 「いったいどうしたというのだ?」  その男はうるんだような青い目を見開いてニベを見つめた。その目は焦点を失っているようだった。 「目的地へ……目的地へ着いたのだ」 「目的地へ着いた?」 「準星スフェクス3だ」 「準星? それが目的地だというのか?」  ニベも準星についてそれがどんなものであるのか全く知らないわけではなかった。祖先の遺産の中に|厖《ぼう》|大《だい》な天文学的知識があり、その中に準星というものもかなりの量でふくまれてはいた。そのことごとくをそらんじているわけではなかったが、それでも目的の星がその準星のひとつであることは意外だった。 「なぜだ?」 「スフェクス3と呼ばれる準星がわれわれの祖先のたどった運命と深いつながりがあるのだそうだ」 「誰が言った」 「おまえ、知らないのか? 東キャナル文書に出ていたのだよ」  とつぜん、すさまじい震動がおそってきた。天井の照明灯がたたきこわすように片端からくだけ散った。あらゆる物がなだれのように床をすべりはじめた。となりに座っていた男は悲鳴を上げてニベに両手をのばしたがすでに二人の距離は遠く離れてしまっていた。ニベはメーターボードに全身の重さをあずけて踏みとどまった。暗黒の中で広大な壁面に多彩な光の矢がめまぐるしく飛び交っていた。そのかがやきに照らし出される操縦室は一瞬、一瞬、万華鏡のように色と形を変えた。その壁面を見つめているうちに、その部分が操縦室の一方の壁にはめこまれた巨大なテレビスクリーンであることに気がついた。あらゆる色彩とかがやきの乱舞はその中心から目にもとまらぬほどの速さでわき出していた。それはあたかも、暗黒の中から光のトンネルの中へ走りこんだように見えた。光の矢はあざやかな波紋となっていちだんとかがやきを強め、今はテレビスクリーンのほとんど全面にひろがっていた。ふたたびすさまじい震動が船体をつらぬいた。天井も床も歯の浮くようなひびきをあげてきしんだ。今にもばらばらに分解してしまうかと思われた。テレビスクリーンの光の波紋はみるみるうちに収縮してふたたびもとのようなわき出る光の矢の束となった。スクリーンの四周から深い暗黒が中心へ向ってせり出しはじめた。それは最初そうであったように、夜の闇よりも暗く、すべての色彩を失ったあとの黒よりも暗く、ニベがこれまでただの一度も見たことのない虚しい翳の部分だった。広大なテレビスクリーンはほとんど暗黒に塗りこめられ、巨大な宇宙船は未知の方角へ向って石のように落下していった。 「ああ、やはりだめか! 祖先の地はわれわれをこばむ」  ふいに背後で人の気配がした。ふり向くとフィールの村の指導者のアオだった。 「あぶない! 手を離すな!」  ニベがさけぶひまもなく、アオはつかんでいたハンドレールを離してずるずるとすべり落ちてきた。ニベは片手をのばしてアオの体をつかんだ。操縦室の一角で滝のように火花が飛び散った。青白いほのおがかたむいた床をはしった。ニベはアオの体を片手で支えながら自分から急傾斜の床にすべり出た。方向に見当をつけてずるずると落ちてゆくとやがてねらいどおりにメーターボードにぶつかって止った。ニベはかすかな非常灯の光をたよりに、アオの体を座席のひとつに据えた。 「しっかりしてくれ! このままではおれたちは死ぬ。この機械をどうやったらいいのか教えてくれ」  アオは絶望の吐息をふるわせるばかりだった。ニベはその口もとに平手打ちを加えた。 「さあ、言うんだ!」  もう二、三回くらわせた。アオはにわかに上体をたてなおした。 「わ、わかった。二番目の席の右前にある大きなダイヤルを右へ止るまで回してから左手前のケースの中の三列のスイッチを全部切れ。つぎにこの座席の正面にある三個のレバーを入力にして待て」  ニベはすばやく動いた。アオの言うとおりに座席から座席へ飛び移り、手さぐりでスイッチをさがした。アオの記憶にも二、三、はっきりしない点もあったが、いずれも致命的な間違いともならず、ニベは操作を進めていった。  やがて暗黒のテレビスクリーンにふたたびかがやく光の矢があらわれはじめ、しだいにそれが拡大してまた眼をうばうような多彩な光の波紋となってゆれ動いた。 「長老アオ。いったいこの光はなんだ?」  アオはしばらく光の乱舞を見つめていたが、それがどうやら安心できる状態になったとみえてニベの問いにうなずいた。 「準星というものは実はたいへん大きな重力を持っている天体なのだ。あまり重力が大きいために、準星をとり巻く空間がゆがんでしまい、そのため、中心にある準星本体の天体から出た光はその空間のゆがみに沿ってはしりつづける結果、球の内側を無限に走りつづけるのと同じことになり、光はその空間から外へ出ることができない。さっき見たか? テレビスクリーンがまっくらだったろう。あれは空間内部の光を全く外に出さない準星をながめると、あのように宇宙空間にそこだけ穴があいたようにまっくろに映るのだ。われわれは今、めざす準星スフェクス3にたいへん接近している。そのため、テレビスクリーンには準星の重力によって閉ざされた空間がいっぱいに投射されているのだ」  スクリーンの光の渦は今や完全に肉眼でとらえた光や色彩と同じものになっていた。 「この光は何か、と聞いたな。ええと、おまえの名は?」 「長老シクの村フセウのニベだ」 「ニベか。よし、ニベ、さっきのケースの中のスイッチを全部入れろ」  ニベは先ほどとは異る場所としか思えないようなスクリーンのまぶしい光に照らし出されたメーターボードの上を身軽に動いた。 「ニベ、この光はわれわれが準星の封鎖した空間の中へ無事に進入できたことの証拠だ」 「長老アオ。そんな重力の大きな空間の中へ入ったらおしつぶされてしまうか、重力源の天体に引き寄せられてそこへぶつかってしまうんじゃないのか?」  アオは首をふった。 「この宇宙船には重力場発生装置を備えている。外部の重力とひとしい重力を作り出すことによってこのような特殊重力場の中でもふつうに行動できるのだ。頭痛や嘔吐感はなおったか?」  ニベは忘れていた頭痛を思い出した。 「いや、まだ少し残っている」 「それはこの重力に適応すれば完全になおる。まあ、|馴《な》れるまで二、三日はかかるだろう」  そのとき、テレビスクリーンに、|熔《と》けた金属が凝結するように何かの形象が固まりはじめた。  テレビスクリーンはみるみる洗われたように透明になっていった。その中心からかがやく無数の星々が銀の流砂のようにあらわれてきた。あらわれ出てきた星々はスクリーンの縁辺へ向ってゆっくりと移動し、やがて音もなくスクリーンの外へ流れ出ていった。 「宇宙船はとうとう境界空域を突破して閉鎖空間の内部に進入したぞ」  アオがかすれ声でつぶやいた。スクリーンを見つめるひとみが|憑《つ》かれたように光った。 「ここが閉鎖空間の内部なのか?」 「とうとうやってきたぞ!」 「やってきたって、ここが目的の場所か?」  ニベはアオの肩をわしづかみにして力いっぱいゆすぶった。 「おい! これからどこへ行こうというのだ?」  アオはスクリーンを見つめたまま声だけニベに向けた。 「目的地は重力場の方向線だ。すでに航法装置にセットしてある。間もなく着くぞ」  スクリーンの中を、白熱の光球がゆっくりと横切ってゆく。もっとも近づいた時には直径は一メートル近くにもなった。すさまじい光の放射の奥底に、さざ波のようにゆれ動くガス流が一瞬明滅した。 「恒星だ」  水素核融合反応の巨大なるつぼはおびただしい光と熱と放射線をまき散らしながら視界の外へ移ろっていった。 「長老アオよ。われわれの祖先はなぜこのような広大な閉鎖空間を作ったのだ。あんなにたくさんの星を封じこめていったい何をするつもりだったのだ?」 「ニベ。祖先の意図はまことに計り難い。この閉鎖空間は直径約十一光年。内部に二個の恒星と八個の惑星をふくんでいる」 「まて。アオ。この空間にはわずかに十個の天体しか存在していないのか? スクリーンに映っているあのたくさんの星々は?」 「わからぬ。あるいは封鎖されている空間なるがゆえにわずか二個の惑星でも何千個にも見えるのかもしれない。封鎖された空間内では光は外へ出ることができず、その空間内を不規則なコースで走り回るしかない。その光が描く無数の恒星の映像があれだ」 「そのことが祖先の目的だったとも思えないが」 「東キャナル文書はそれについてこう伝えている」  アオがひとりうなずいて体をのり出したとき、警報器がけたたましく鳴りひびいた。 「ニベ。目的地の惑星に近づいたのかもしれぬ。しらべてみろ」  スクリーンの中天、濃藍色の虚空を背景に、青緑色のかがやく巨大な球体が急速に接近しつつあった。 「長老アオ! あれは」 「二番目の座席の前にある方位盤のスイッチを入れてくれ」  そのスイッチを押すと、テレビスクリーンの表面に複雑にからみ合った曲線や直線があらわれた。それが右左にめまぐるしくすべったかと思うと、縦軸と横軸の交点に巨大な球体はぴたりと停止した。 「見ろ! あれが東キャナル文書にはっきりと記されている祖先の地、惑星スフェクス3だ」  長老アオはそのとがった顔に宗教的法悦をみなぎらせた。 「ああ、とうとうやってきたぞ!」  その声は少年のようにふるえていた。 〈二十分後にスフェクス3に着陸する。生存者は名前を指令室へ報告せよ。二十分後にスフェクス3に着陸する。生存者は——〉  スピーカーの電子音が何の感情の変化や動揺も持たない人語を流しはじめた。航法用電子頭脳はいよいよ最後のコースをたどりはじめた。  生存者の報告が入りはじめた。ニベはその数を追っていった。 「十八……十九……二十……二十一……」  二十一がさいごだった。生存者は極めてわずかだった。その中にはムンマスの長老バツや、アサウの村長バグ、さらにはタギやアヌイなどもいた。 「一人でも目的地へ着ければ、と思っていたが、二十一名もいるのか! これは大成功だ!」  アオは|嬉《うれ》しそうに幾度もうなずいた。火星を離れる時は、有力な村の、その支え手たちをほとんど網羅していた。かれらのほとんどが遠征のぎせいとなり、わずか二十一名が目的地へ着陸しようとしていることについての指揮者たちの自責の言葉や悲しみはとうてい聞くすべもなかった。  夜明けだった。遠い地平線があざやかな緑色に染まり、その部分からのびた何本もの太い緑の光の矢が天頂近くまでとどいていた。その天の頂きからもう一方の地平線の側へやや下ったあたりまでは血のような暗い赤、そしてその先は天と地の境によどむ深い闇につながっていた。緑色の光かがやく空は、これから昇る太陽の前駆であろう。そして緑色の太陽と闇との間には血の色のたそがれの地帯が移ろってゆくのであろう。  巨大な宇宙船も、それを支える大きく四方へ張り出した支持架も、その下にならんだ二十一人の遠征隊員たちも、ひとしく塗り分けたような緑と赤そして深い夜の色に染まっていた。濃密な大気は肺や気管に粘りつき、わずかに手足を動かすにも|溶《と》けたクリームのように描く渦が目に見えるような気がした。 「これからの計画について説明しよう。われわれのめざす目標は東キャナル文書によれば東経一九度三二分。北緯七度四分。もうひとつは西経一四一度二八分。南緯八一度三分にある。現在の位置は東経六五度四分北緯四〇度一六分だ。人数を二つに分け、ロート・ダイン二機に分乗しよう。一つは私が一つはムンマスのバツが指揮をとる。これから私のグループはロート・ダインを運び出して整備する。バツのグループは食料や武器などをおろしてくれ」  長老アオは言い終って皆を二つのグループに分けはじめた。  陽が昇るにつれて空も地表も皆の体もあざやかな緑色に変った。出発準備が終った頃には、直径一メートルほどにも見える大きな太陽が緑色のほのおの塊のように低い空にかがやいていた。 「おれは以前、アサウの村のシドに聞いたことがある。どこか遠い所に緑色の太陽のかがやく惑星があるのだ、と。そしてその惑星には二人の神がいてたがいに憎しみあい、この世の亡びる時まで戦い合うさだめなのだとな。ああ、もしやそれがこの惑星ではないだろうか? ニベ。どう思う?」  ダウが体をすくめてニベの耳もとでささやいた。 「こうも言っていた。その神は大昔にはたくさんの兵士をひきいていた。しかし今では二人の神だけしか残っていない」 「ダウ。そのシドとかいう男はどうしている?」 「死んだよ。とうに。今では埋めた場所をおぼえている者もいなくなった」 「惜しいことをした」 「何が?」  ダウがふしんそうに身を引いてたずねた。  そのとき、誰かがするどくさけんだ。作業に追われている者たちは一瞬、手を休めて顔を見あわせた。またさけび声が聞えた。皆はいっせいに立ち上った。  重い大気を引き裂くような爆発音がけたたましく鳴りひびいた。 「あれは!」  宇宙船のそびえ立つ丘陵は、東と南がかなり急な|崖《がけ》となってはるかな平原につらなっていた。その平原は雨でも降っているのか、時おり薄い羽毛のような影におおわれた。北から西へかけてはしだいに高さを低め、ゆるやかな傾斜の広大なひろがりが遠い緑の雲の中にとけこんでいた。その高原を平たい甲虫のような物体がかなりの速度で動いていた。ふいにその物体の一部分からオレンジ色の|閃《せん》|光《こう》が噴き出した。それがつぎつぎと連鎖反応のようにすべての物体につたわっていった。数えきれないほどのかがやく小さな火の玉が列を作って平原の上をわたってきた。ある距離まで近づくとそれからはおそろしい速さになって頭上を飛び越えていった。同時にすさまじいひびきが大気をたたいた。気がつくとするどい口笛のような短い澄んだ音が周囲をつつんでいた。とつぜん背後にそびえる宇宙船の外鈑に火花が咲いて通り過ぎた。何か全く未知な種類のおそろしい危険に取り囲まれているようであった。それでもかれらが行動を起すまでにはさらに十数秒を必要とした。実際に危険が現実のものとなったのは、|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ちつくしていたなかまの三、四人が声もなくのけぞり、崩れ落ちてからだった。緑色の血液が飛び散った。  ニベは本能的にロート・ダインのハッチへ向って走った。もうその時には皆がハッチへおり重なって殺到していた。混乱の中でいつハッチが閉じられ、いつエンジンがかかったのかもわからなかった。もう一機のロート・ダインが爆発してばらばらに飛び散った。火の海の中で機体が浮き、爆煙をくぐって急上昇に移った。無数の火の玉が突き上げるように追いすがってきた。その時には閃光をひらめかせる奇妙な物体の最初のひとつがそびえる宇宙船の直下へ走りこんできていた。 「長老アオ! あれはなんだろう?」  皆は窓にひたいを押しつけて地上を這い回っている影を見つめた。 「おそらくあれは装甲車というものだろう」 「装甲車?」 「古代の兵器のひとつで、火薬によって、それ自体は推進力を持たない爆発物を発射する砲という武器を備えている。今の爆発とその前の一連の炸裂音はあれはたしかにその砲にちがいない」 「長老アオ。われわれの祖先とどのような関係があるのだろう?」 「わからん」  故郷を離れた祖先が、この惑星スフェクス3に新たな天地を見出したものならば、かれらの故郷の東キャナル市の歴史にも無かったような装甲車という死にささげる為の道具を造り出したのはなぜだろう? このスフェクス3は実はかれらの期待とは裏腹な武器と不信とそしてもっとも誠実でないものが渦を巻いているいまわしい場所であったのか? 東キャナル市を棄てた結果がこれか? 「けがをした者はいないか?」  アオの声に皆はにわかに我にかえって体をふるわせた。誰の胸にもその頃になってはじめて純粋な恐怖がひろがりつつあった。  生存者は八名。地上で数名が倒れるのを目にしていたから爆破されたロート・ダインには七、八人乗っていたことになる。ムンマスの長老バツが手足にひどい火傷を負って倒れていた。  装甲車を運転する者たちが、丘にそびえ立つ宇宙船を放置しておくはずがない。もしそうだとすれば、もはや永久に東キャナル市へ帰る道は絶たれたのだ。絶望が皆の口から言葉を奪い、つぎの|手段《て だ て》を考える気力を失わせてしまっていた。 「最初の計画どおりにやってゆく以外にない。結局それが生きる方法だろう」  長老アオはくちびるをかんで言葉を切った。  八名の生存者を乗せたロート・ダインは濃密な大気をかき分けて泳ぐように飛びつづけた。高度二千メートル。眼下の平原は大洋のように果てしなくつづき、ロート・ダインの影がすばらしい速さで動いていた。しかしいつまでたっても、町らしいものも、道路らしいものも見えなかった。 「長老、人の住んでいるらしいようすが何一つないが、いったいどこにいるのだろう?」 「地下都市を作っているのではないかな」  生存者の中に加わっていたタギがつぶやいた。 「あと八時間はかかる。交代で見張りを立てて他の者は眠るとしよう」  |重力座席《カプセル》に身を埋めると、たちまち泥のような疲労と眠りがおそってきた。  どのくらい眠ったのか、ニベはとつぜん深い眠りから引きもどされた。ニベは自分の上半身をおおって固定されているはずのプラスチックのカバーが、風にあおられるようにはげしい音をたてて開いたり閉じたりしているのに気がついた。ニベは無意識にうでをのばして内側の金具を引き寄せようとしてそのまま頭から転落した。硬いものに背中をおしつけた形で垂直に近い傾斜を数メートルすべって激突した。全身をはしる激痛でニベは確実に目覚めた。ロート・ダインが飛行中なのか、着陸しているのか、それとも墜落しつつあるのか、予測し難い異常なできごとが起ったにちがいなかった。ニベは体の痛みをこらえて這いずった。機体のどこかに穴があいているとみえ、そこからあざやかな緑色の光の滝が流れこんでいた。ロート・ダインはどうやら機首を下にほとんどまっさかさまに大地に突込んだものらしい。内部はめちゃめちゃになっていた。強化プラスチックの外鈑は紙のように引き裂かれてまくれ上り、縦通材があめのようにおれ曲ってうねっていた。ニベは散乱した機材の間をくぐって破孔から外部へのがれ出た。  暗緑色の空から植物の液汁のような緑色の雨がしとしとと降っていた。その雨の奥から異様な物音がつたわってきた。それはあたかも数十万トンもの巨大な宇宙船がローラーでおしひしがれるような、あるいはまた広大な鋼鉄の都が自らの重量に耐えきれなくなってとつぜん崩壊をはじめたかのようなすさまじいきしみとそのあとにつづく|轟《ごう》|音《おん》だった。大地がゆらゆらとゆれ、大気は烈風のなごりをとどめてめまぐるしく密度をかえつつあった。  ニベは地鳴りのようにつたわってくる異様な物音が聞えてくる方角へ向って雨の中を歩きはじめた。自分のおかれている状況が何かわかるだろうと思った。  雨はいよいよはげしく、顔面をおおう放射線よけのサングラスをはじくように打ちたたいた。  およそ二時間ほど歩いたと思われる頃、ニベは周囲に濃い水蒸気が立ちこめているのに気がついた。それははげしく渦まき、強い雨足の下を低く低く這って拡散しつつあった。一メートル先も見えない緑色の濃い霧の中で大地や大気はごうごうと鳴動していた。やがて緑色の水蒸気の雲の間から淡い陽光が落ちてきた。地表はねじ曲った金属や引き千切れそり返った強化ガラスの破片などでおおわれていた。それはよほど高熱によって|灼《や》かれたらしくどれも表面は融けてよじれた縄のように固まっていた。それらの、平原をおおいつくした破片の間からところどころ地表が露出していた。その部分はほとんどコークス状に変質し、はげしい雨を吸って海綿のようにふくれ上がっていた。すさまじいひびきはもうすぐそばで聞えていた。ニベは憑かれたようにいそいだ。雲の切れ間から思いがけない近さに太陽がのぞいた。 「あっ! あれは」  とつぜん目の前にえたいの知れぬ巨大な物体があらわれた。いたる所から爆煙のような水蒸気を噴き出し、その噴出音は噴火口のようにあらゆる物体を共振させた。  それはなかば溶融し、なかば焼け落ちた巨大な物体だった。それは傷つき|瀕《ひん》|死《し》の苦痛にあえぐ未知の大動物のように緑色の水蒸気や強い雨足の中にうずくまっていた。 「いったいこれは何だろう?」  ニベは頭上にそびえる奇妙な物体を、長い間見つめていた。その表面にくねくねとおれ曲り、そりかえった鉄ばしごがのびているのに気がついた。ニベはそれを伝ってよじ登ればもしかしたらこの物体のはたらきなり構造なりを知る手がかりに行き当るかもしれないと思った。ニベは鉄ばしごにとりすがった。 「まて!」  とつぜん、ニベの背後から強く呼び止める声があった。 「それを上ることはきわめて危険だ」  ふり向くと、ムンマスの長老バツだった。 「長老バツ! 無事だったのか。助かったのはおれだけかと思っていた。あとの者はどうした?」  バツは黙って首をふった。長老の名にふさわしく、高齢な者の多い村の指導者の中でもバツはことに年老いていた。正確な年は誰も知らなかったが、第二次統合戦争を経験しているともうわさされていた。それだとすると二千年にもなる。それがふしぎでないほど長老バツは年老いて小さくまた透徹した精神力の持ち主でもあった。 「おれたち二人だけになってしまったのか!」  ニベはうめいた。 「ニベ、東キャナル文書にこう書いてある。   ──────────────── [#ここから3字下げ]  ——スフェクス3における自然環境管理の問題はこれによって全面的に解決されることになった。これは惑星開発のテスト・ケースとして今後おおいに比較対照されることであろう。〈クルーガー12〉はその性格上、ある種の不可侵性を具備しており、二十世紀末期に観念的にのみ存在した『|母なる神《マザー・マシン》』なるものの発展的現実化であり、近い将来、全般的に人類の未来を託し得る高度な管理能力を持ち得るであろう。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ](東キャナル文書 VOL5 Pア一一九)   ────────────────  この文書にもあるように、これは一種の巨大な電子頭脳だ。『|母なる神《マザー・マシン》』という言葉は知っているだろう」 「たしか、あらゆる面にわたって人類のせわをする電子頭脳と聞いているが」 「そうだ。自然環境や健康、イデン、また社会、経済組織にいたるまで広く管理する巨大なシステムだ」 「それがどうして?」 「この地をえらんだ開拓者たちが、最初に建設したものがこの〈クルーガー12〉だったのだ。そして天気や気温、湿度をととのえ、自然環境を改造し、さらに自分たちの肉体を改造して名実ともにこの地を新天地にしていったのだろう」 「長老バツ。その電子頭脳がなぜこのようなありさまになったのだろう? これは強烈な爆発によるものではないだろうか」 「おそらく、核融合だろう、この雨もな」 「なぜだろう?」 「わからん。ニベ、この位置が東経一九度三二分。北緯七度四分だ。もう一か所、西経一四一度二八分。南緯八一度三分の位置に行ってみよう。何かわかるかもしれない」  長老バツはニベに背中を向けると足早に歩きはじめた。ニベは息を切らしてかれのあとを追った。 「さあ、用意ができたら出発するぞ。二分後にエンジン始動だ」  長老アオが大きく手をふった。  直径一メートルほどにも見える巨大な太陽が緑色のほのおの塊のように低い空にかがやいていた。空も地表も皆の体もあざやかな緑色に塗りつぶされた。  二機のロート・ダインはラム・ジェットの爆音をはずませて濃密な大気に浮いた。 「長老バツ! これはいったいどうしたことだ? この丘でわれわれは装甲車の群れにとり囲まれて……」  ニベは絶句した。これは疲れの果ての悪い夢のつづきなのだろうと思った。 「ニベ! しっかりしろ。医療部員を呼ぼうか?」  ダウやタギが心配そうにニベをのぞきこんだ。 「生きていたのか!」 「しっかりしてくれ。おれたちは死にはしないよ」 「装甲車とは何のことだ?」  ニベは頭をかかえてうずくまった。ダウたちの言葉を信じたらよいのか、それとも自分の経験を信じたらよいのか、どちらが現実におこったことなのかニベには判断もつかなかった。装甲車の攻撃で一機のロート・ダインが破壊されたことも、〈クルーガー12〉の近くで墜落したロート・ダインからかれ一人が這い出たことも、また、そこで長老バツに出逢ったことも、さらにはあの巨大な電子頭脳〈クルーガー12〉の残骸も、すべてひとときの幻だったというのだろうか? そんなことがあるだろうか? 「そんなことがあってたまるか!」  ニベははね起きた。皆の手が周囲からのびてきてかれをもとのように床におし倒した。      6 廃墟またはクリフコナツC3 [#ここから3字下げ] そはぬば玉の闇なれば人、出でて言う。|遠祖《とおきみおや》の魂は帰りぬ、と。 [#ここで字下げ終わり] 『目標二時二十分。コースに入る。二、三、四。フラップ!』 『目標二時二十分。コースに入る。二、三、四。フラップ!』  操縦室の応酬がラウド・スピーカーにのってそのまま船倉まで流れてきた。機体はゆるやかに傾いて高度を下げはじめた。 「よせ! 引きかえそう。これ以上近づいては危険だ!」  ニベはさけんだ。その手を足を、皆がしっかりとおさえつけていた。 「ほんとうなんだ。火星に引きかえそう。われわれの祖先はここで亡んだのだ。ここにはもう何も残ってはいない」 「しっかりしろ。ニベ!」  機体の下部から着陸用の車輪がのび出す軽いショックがつたわってきた。機体が傾斜をさらにましたとたん、床を通して接地のバウンドが突き上げてきた。 「着いたぞ!」  期待と不安にみちた声がわいた。 『現在位置を知らせる。西経一四一度二八分。南緯八一度三分だ。各自、方向探知機の基点に記入せよ』  長老バツの声がスピーカーから流れ出た。皆はニベの周囲から離れてハッチへかけ寄った。器材をおろすためのウインチがカラカラと回りはじめ、船倉の奥からパレットに乗った輸送車がすべり出てきた。 『タギとダウは武器を持って先行しろ。目下、レーダー、|集音器《ソーナー》ともに異常なし。サーチライト照射はじめ。照明弾発射、ハッチ開け!』  音もなくハッチが開き、深緑色の壁のような空の一部が見えた。濃い大気を半透明のガラスのようにかがやかせてサーチライトの太い光芒が通り過ぎた。一瞬、その緑を青白く染め変えたのは照明弾の閃光であろう。一人、また一人、なかまたちは背を丸め、足音をしのばせてハッチの踏板をわたって船外へ消えていった。操縦室の長老たちもすでにかれらのあとを追ったのか、ラウド・スピーカーからは水の流れるようなかすかなノイズが聞えているばかりだった。  心を喪わせるような静寂があたりを支配していた。ニベは唯一の持ち物である〈|幽《か》|霊《れ》〉のカプセルを苦心して機体から運び出した。皆の目をぬすんでこっそり運びこんでおいた〈|幽《か》|霊《れ》〉のカプセルはおびただしい器材の下積みになってしまっていた。  ニベはもう二度とこのロート・ダインには帰ることができないだろうという予感に追い立てられた。ニベはカプセルを背負うと皆のあとを追った。皆はよほどいそいで進んだものとみえ、足音も話し声も聞えてこなかった。  心を喪わせるような静寂があたりを支配していた。 「おうい!」  ニベはさけんでから耳をすませた。こたえもなかったし、また何の物音も聞えてこなかった。 「おうい!」  濃密な水蒸気がいっさいの音を吸収してしまうのだろうか。時刻は今が午後一時を示していたが、時計が正確かどうかはまるで確信がなかった。だが夜でない証拠には周囲は濃緑色の霧につつまれて十メートル先の見通しもきかなかったが、その霧のはるか上にはあきらかにかがやく巨大な太陽が昇っていることが知られた。それにしてもこの静けさはどうだ。 「おうい!」  声だけがむなしく消えていった。ニベはカプセルを背負ってひとり緑色の深い霧の中を進んだ。この世界に、たった一人だけとり残されたような気がした。 「おうい!」  皆はどこへ行ってしまったのだ? どんなに霧が深くても、道に迷うような所でもないし、声がとどかなくなるほど遠方まで行ってしまったわけでもあるまい。ニベははじめて、自分がこの広漠とひろがる未知の世界にただ一人取り残されてしまったことをさとった。耐え難い孤独がニベの胸を突き刺した。だがニベにはこうなるのが最初からわかっていたような気がした。 「出てきてくれ!」  ニベはさけんだ。皆がどこへどうなってしまったのか知ることもできなかったし、これがあるいは決してさめることのない悪夢の一部分であったにしても、それをたしかめるてだてはニベにはなかった。今はそこがそうだと教えられた地点まではいずってでも行くしかないのだった。 「出てきてくれ!」  ニベは最初、皆のあとを追って歩きはじめたときの方角をけんめいにたどっていった。 「出てきてくれ!」  遠い星のどこかの無人の砂漠で音もなく砂がくずれた。そこにたたずむ影は二度と還らない時に浸って風の音を哀しみの唄とする。その滅びに至る道は始めもまた終りもなくそこにたたずむ影は過ぎ去っていったものの形骸に溶けて惑星の歴史を閉じる。 〈|幽《か》|霊《れ》〉はそこにいた。  緑色の霧は〈|幽《か》|霊《れ》〉の体を通ってしきりに渦巻き流れた。その霧に呑まれるように淡く薄れ、ふたたびはっきりとあらわれ出ては銀色の偏光の中で輪郭を失った。 「よく来てくれた」  ニベは涙ぐんだ。濃い霧の間から落ちる細い陽射しの束が、天地を支える列柱のようにそびえていた。静かだった。静けさだけが、この空漠とした世界の唯一の存在のあかしであるかのようにニベには思えた。 「いったいこの土地はおれとどのようなつながりがあるのだろう?」  応えはなかった。 「おれはほんとうはこの土地とは何の関係もないもののような気がするのだ。直感的にそう思うのだ。おれはほんとうは間違えてここへ来てしまったのではないだろうか?」 〈|幽《か》|霊《れ》〉は少しの間、ニベの顔を見つめた。 「よし。あなたに見せたいものがある」 〈|幽《か》|霊《れ》〉はニベに透明な背を見せて歩きはじめた。ニベは〈|幽《か》|霊《れ》〉の声を聞いたのはそれがはじめてだった。考えてみればこれまで〈|幽《か》|霊《れ》〉と話をしたことは一度もなかったのだ。  ニベはうなずいて〈|幽《か》|霊《れ》〉にしたがった。  平原はしだいに高さを増しつつあるようだった。あるかないかの傾斜をそれでも確かに踏んで、やがてかれは周囲にさえぎるものもない大気のひろがりを感じた。とつぜん、ニベは足もとの大地が金属であることに気がついた。ニベは金属で作られた人工の山のいただきを想像した。 「見たまえ」  霧の中で〈|幽《か》|霊《れ》〉の声がした。眠りからさめるように濃い緑色の霧の中にしだいにはっきりと形をなしてくる異様な物体があった。それはあきらかに金属の山であり、ニベの立っている場所はその長く|曳《ひ》いた山すその一部だった。 「これはなんだ?」  ニベは今見ているものが、むかしの惑星開発者たちの手になる造形だったにしてもいったい今の自分とどのような関係があるのだろうかと思った。初期宇宙開発時代にはこのような記念物や多少とも故郷の風景に似せた人工の山や谷はめずらしい建設物ではなかったのだ。〈|幽《か》|霊《れ》〉はニベの不安や動揺を宇宙開発者に特有なヒステリーととらえたのだろう。〈|幽《か》|霊《れ》〉は濃藍色の大きな|放射能よけ《サ ン ・ グ ラ ス》におおわれた顔を山のいただきに向けた。 「偉大な|祖《そ》|宗《そう》よ。懐かしさで胸がいっぱいだ。はからずもはるばるやってきた……」 〈|幽《か》|霊《れ》〉は頭を垂れ、暗然と生ける者に告げるように言った。 「なにこれが祖宗? われわれのか?」  ニベは目の前にそびえる山とそれに向って再会の思いを語る〈|幽《か》|霊《れ》〉をこもごも見た。 「そうだ、われわれの偉大な祖先の心が宿っている。われわれはそう思っているのだ」  それも歴史の一部に違いない。ニベの知らない遠い遠い時代のことだった。 「これと、おれのたずねたいこととどう結びつけて考えたらよいのだ? おれにはよくわからないのだが」  ニベはできの悪い生徒が教師にたずねるようにやり場のない自己嫌悪に攻められながら〈|幽《か》|霊《れ》〉にたずねた。〈|幽《か》|霊《れ》〉はだまってあごをしゃくった。目の前にそびえる金属の山は、とつぜん輪郭を失い無数の立方体や円筒球、線輪などをありとあらゆる方向から組み合わせ、とりつけた巨大な電子装置の塊に|変《へん》|貌《ぼう》した。  とつぜんニベの目の前に果てもなくひろがる砂の海があらわれた。はげしい砂嵐の中に巨大な|城邑《じょうゆう》がそびえていた。砂は幾度も幾度も城邑を呑みつくし、砂の海の底へおしこもうとしたが、そのつど城邑は奇跡のようによみがえり、そのたびに大きくなっていった。ガラスの宇宙船が飛び交い、放射能に灼かれた星々はふっとうし、融け合い、ガスを失って軽石のようにおびただしい気泡の跡を残し、やがてサリサリとくだけて砂の上に砂となって積もった。  数十隻、数百隻よりなる船団がこの街から出発していった。人々ははるばる旅をしてこの街に集り、宇宙船を操り、あるいは客となってさらにここから去っていった。かれらは太陽系の中だけでなく、さらに遠く、数光年、十数光年のかなたにまで出かけて行った。数えきれないほどの新しい集落や基地が出現し、あるものは巨大な宇宙都市へあるものはいつとはなく消滅していった。長い長い時が過ぎ、この都市は二つの大きな戦争を経験した。金星の熱砂に、木星のメタンの海に、|冥《めい》|王《おう》|星《せい》の碧玉の氷崖に核融合の閃光がひらめき、幾つかの都市が煮えたぎるるつぼとなって失われたが、戦いが終ってみると都市の数は逆にずっとふえていた。  さらに長い時が過ぎ、この都市は太陽系の中心として、また太陽系文明の中心としてこれまでになかった繁栄を示していた。人類には限りない未来が約束されていた。  砂は軽い羽毛のように飛び、砂漠の上を砂煙だけが長く長くたなびいていた。砂煙のひとつは小さな竜巻となってニベの立つ砂丘へ向って進んできたが、力およばずやがて|陽《かげ》|炎《ろう》のように消えた。 「ちがう! こうではなかった」  何が違うのか、何がこうではなかったのかニベにはよくわからなかったが、はるばるここまで求めてきたものが決してそれではないことが本能的にニベには了解できた。〈|幽《か》|霊《れ》〉が痛ましそうにニベを見つめた。そしてうでを上げてふたたび目の前の平原を指した。  地下と空中にのびる超空間的な構成で都市は成長しつつあった。都市をおおうドームはほとんどこの惑星の表面のなかばに達しようとしていた。長い時が過ぎ、都市はその空間の中にたがいにもう一方をふくむ二つの都市に変貌しつつあった。ドーム内の気象や社会機構の管理はむろんのこと、遠くない将来にはそれぞれ異った時間さえ持つようになるだろうと言われていた。都市はやがて二つの管理機構を持つに至った。〈クルーガー12〉はより東キャナル市的であり〈クリフコナツC3〉はより地球的であった。一つの電子頭脳が東キャナル市の歴史を反映し、または地球人的発想を原点としても、実はその違いは地球語と東キャナル市公用語ほどの相違もないのだった。しかしそのわずかな違いが、未来への理解を全く異ったものにしてしまったことについて人類はその最初のテストに敗れ去ったと言える。  見棄てられた街に、かつて人類が故郷の地球から移し植えたモウコジャコウソウCの貧しい群落が平たい薄い葉をひろげ、ひび割れたコンクリートとさびた金属、飛散したガラスやプラスチックを淡褐色の葉かげでおおった。やがてそれも砂の海に呑みこまれていった。はげしい砂嵐に、砂の海が動き去ったあとに、ふたたびその姿をあらわした東キャナル市はすでに古代の廃墟となっていた。  惑星スフェクス3は〈クルーガー12〉と〈クリフコナツC3〉の新しいそして決定的な闘争の場として登場した。あまり長くない時間的経過ののちに、あるいはここよりさらに旅立ち、あるいは破壊に呑みこまれ、人々の姿は急速に少なくなっていった。やがて人類の影を絶った惑星スフェクス3の緑色の大気を引き裂いて原子の閃光が咲き、すべては終った。 〈クリフコナツC3〉は荒涼たる光年の空間を、強大な重力場で封鎖した。その記憶巣の中の|厖《ぼう》|大《だい》な資料はそうすることを教えていた。それによって惑星スフェクス3は永久に平穏を持続できるはずであった。惑星スフェクス3をふくむ十六光年の空間は、あたかもそれ自体が、一個の超重力星として巨大な質量を持ち、周囲の空間をゆがめ、内部の光を永劫に閉じこめたまま存在することになった。なぜ? 何の為に? ここで問いかけは原点にもどることになる。 「おれにはもう考える力がない。教えてくれ。このような歴史のどこにおれたちがいたのだ?」 〈|幽《か》|霊《れ》〉はゆっくりと歩を移しながら言葉をさがしているようだった。やがて顔を上げた。 「なぜ過去の形で聞く?」 「なぜ?」 「このような歴史のどこにおれたちがいたのか? と聞いたな」  ニベは自然に自分の口をついて出た言葉に少しの抵抗も感じてはいなかった。 「いたのか、と。おまえ自身、自分たちを過去の存在としてとらえているからだろう。少なくとも潜在意識ではそうだ。言おう。たしかにおまえたちは過去の存在だった。遠い遠い過去の、記されない栄光の歴史がおまえたちにはあった」 〈|幽《か》|霊《れ》〉は告発するようにするどく言った。 「もう一度見たまえ」  ——淡褐色のシダ類が繊細な羽毛のような複葉をひるがえしていた。白い綿毛がひるがえるたびに百千の波紋が輪をひろげてゆくような音にならない音響が平原にひろがっていった。濃藍色の空に、白銀の飛行雲が長く長くのびていた。その先端の微細な点刻が時おり青玉のようにかがやいた。だいぶたってから、すさまじい衝撃波が大地をうちたたいてきた。平原は爆煙のような砂煙につつまれ、淡褐色のシダ類はぼろきれのように吹き千切られて飛散した。  ——奇妙な形のうでがのろのろと砂の上を移動してはカプセルを砂に埋めて回った。東に低いクレーターがむかしの爆裂火口の傷跡をとどめて残照に白く光っていた。うでは力無く動き、息が切れたように停った。いつの日にか、この砂から出て砂漠にのぞんだ栄光の都に還ることができるであろう。その日までたとえ幾万年、幾百万年の歳月をへようとも、いつかは必ずこの砂の中の眠りよりさめる日がくるであろう。  前よりも低く、また宇宙船が一隻、平原の上空を飛び過ぎていった。かれらの最初の船が、はるか北方の谷間に着陸してからもう何年かがたち、恐れていた日がとうとう来ようとしていた。かれらの大きな宇宙船が、遠い西の砂漠につぎつぎと降りつつあった。かれらは十数回の偵察にもかかわらず、幾つかのイグルーの集落にも、淡褐色のシダ類の群落にも全く興味を示さなかった。それがなぜなのか、もうきわめるよゆうはなかった。〈火星人〉たちはかれらが去るであろう遠いやがての日を待ついがいにないことを知った。   ──────────────── 「われわれの祖先はこうして火星の地を踏んだ。ただ不毛の砂漠が荒涼とつづいているだけの火星にな。われわれの祖先はその砂漠にアマゾン砂漠と名づけ、やがてその一角に東キャナル市が生れた。そして長い年月がたって、われわれの祖先はふたたび宇宙へ旅立った。そのひとつがこの惑星スフェクス3だ。わかったかね」  友よ、と〈|幽《か》|霊《れ》〉は言った。 「火星はふたたびおまえたちの手にかえった」 〈|幽《か》|霊《れ》〉はほほ笑んだ。 「〈火星人〉よ。火星に帰ったらこんどこそなかまを皆、呼びさまして、太古のような〈火星人〉のイグルーをたてるがいい。おそらく地球人が火星をおとずれることは二度とあるまい」  緑色の霧は渦まいて巨大な電子頭脳とその前に立つ〈|幽《か》|霊《れ》〉をおしつつんだ。いつしか〈|幽《か》|霊《れ》〉の声はその電子頭脳の内部から流れ出ていた。〈|幽《か》|霊《れ》〉には自分たちの世界の所産との出会いがあった。しかし〈火星人〉には、砂漠や氷崖そして凍土や、永劫の静寂に包まれた故郷は百千の星々と失われた時のかなたにあった。   ──────────────── [#ここから3字下げ]  ———————  東キャナル文書の意味するところは、その解読の時期とともにいまだに多くの論議をかもし出している。九八一八—二四—二四—七年、それまでの多くの解読文の統合的意見として  一、東キャナル市は惑星スフェクス3に新しい開発都市を設けた。または移住をおこなった。  二、この新しい開発計画は〈クリフコナツC3〉と呼ばれる複合型の電子頭脳によって推進された。  三、開発の結果については多くの解読書は悲観的な記述に触れている。それは開発計画そのものの失敗か、または電子頭脳〈クリフコナツC3〉の欠陥であろうと考えられている。開発計画の終息は同時に東キャナル市の|終焉《しゅうえん》を意味していた。  四、その後、惑星スフェクス3に対する異った種類の計画が幾つかこころみられたが、その結果については全く記されていない。  ここでつねに問題になるのが〈火星人〉の存在である。東キャナル文書の真疑が問われるのは実にこの〈火星人〉に関する記述のゆえである。科学的に〈火星人〉の存在が否定されてすでに久しいにもかかわらず、これまで〈火星人〉の存在を説明づけようとする資料が断片的に提出されている。他の記録に基づくところの〈都市資料〉すなわち東キャナル市、ビーナス・クリーク、|浮游都市《プランクトン・シティ》などに残る一連の古記録にも異生物との接触を意味するものと思われる文章がふくまれている。今日この異生物は太陽系以外の他天体生物ではなかったかという解釈がなされているが、これらの記録からしてもかつて〈火星人〉が存在したのではなかろうか、とする意見も強い。その〈火星人〉がかつてのかれらの栄光の地、アマゾン砂漠の地下に眠りつづけ、かれらの亡び去ったあとに建設された地球人の東キャナル市の、そのまた廃墟にあらわれ出るという話は|比《ひ》|喩《ゆ》に過ぎると思われる。しかし文明の盛衰はつねに書かれざる多くの、それゆえに極めて貴重な挿話を残してゆく。その中に実はもっとも重要な歴史の部分がかくされているのである。その部分に〈火星人〉が入っているかどうか、東キャナル文書はアマゾン砂漠の砂嵐の奥からある解答をもたらそうとしている——   ——————— [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]ユイ・アフテングリ著   [#地から2字上げ]星間文明史 第四九巻 [#地から2字上げ]第一五章    [#地から1字上げ]〈火星人〉より   ────────────────     アマゾン砂漠   間もなく、また乾いてつめたい砂嵐の季節がやってくる。ここでは地球のような四季はない。砂嵐の季節かそうでないかだけだ。この四、五日、空は急激に色を深め、凍りついたような青藍色に、掃いたようなかすかな翳を加えはじめた。はげしい砂嵐の前兆の高層大気の乱れが、この惑星のはるか高空までただよっている微細な砂塵をひととき吹き払って、かすかに宇宙の|深《しん》|淵《えん》の色をのぞかせたのだ。時にはふだんは見ることができない遠い星のまたたきまで見せることがある。そのような夜、気温はマイナス六十度Cまで降る。砂嵐は間もなく、この老いた街をつつむだろう。   昨日はなお夕映えの残る夜空にオーロラが燃えた。|稀《き》|薄《はく》な大気とその大気に浮かぶ微塵に散乱する多彩な夕映えの華やかさと|淋《さび》しさを血の色に染めかえ、オーロラは音もなく夜空にはためいた。   北の夜空に燃えるオーロラは、これも、間もなくやってくる砂嵐の季節のたしかな前触れのひとつだった。   地球の人々が黄雲とよぶ砂嵐は、ここでは三か月か四か月の間つづく。一日のうち、一、二回、ごく短い間、息をつく時があるが、それ以外はすさまじい砂嵐は昼夜の別なく街をおしつつみ、砂漠をどよもして吹きすさんでいる。キンメリア人の海につづくアマゾン砂漠。風はその砂漠。風はその砂の海の果てにのびるオリオーネ山脈の|風蝕《ふうしょく》尾根を越えて砂の海をわたり、シンシア遊水池とよばれる幾つかの広大な盆地を砂塵の下に埋めつくしてこの東キャナル市にぶつかってくる。オリオーネ山脈の西斜面を形成するアルマ古成層の風蝕砂岩は、けむりのような微細な風塵となってあらゆる建築物の換気口を襲い、フィルターのミクロンの大きさの繊維をくぐりぬけ、室内に侵入する。また、二重、三重のエアロックを苦もなく通って、いつの間にか回廊に幅広い縞模様を描いている。とめ忘れたり、防塵カバーをほどこすのを忘れた機器類のボール・ベアリングや、ロータリースイッチやスライド・バルブは最初の二十四時間の間はほとんど使い物にならなくなる。さらに砂は電線の被覆を削り、コンピューターの内部にまで入りこんで絶縁を不良にし、テープを磨耗させた。休みなく作業をつづけるサンド・スイーパーでさえも、しばしば運転不能におちいった。砂を洗い流すために貴重な水が使われ、ただでさえ少ない貯水量は急激に減少していった。その水を回収するための大規模な|濾《ろ》|過《か》装置は市の消費電力の四〇%にもおよぶありさまだった。   砂嵐が吹きすさぶ間、人々は屋内に閉じこもり、地下通路で結ばれた範囲内だけでそれぞれの生活圏とした。|宇宙空港《スペース・ポート》も、砂嵐の季節は完全に閉鎖されていた。巨大な宇宙船でさえ、この砂嵐を突破することは極めて危険だったし、まして地上車などでは百メートルも進むことは難しかった。何よりも、方向探知機を持たないかぎり、来た道をもどることは不可能だった。   長い長い砂嵐の季節がようやく終ると、人々はそのトーチカから這い出して、砂に埋もれた廃墟のような自分たちの街を掘り出す。二本のメイン・ストリートが交叉する市の中央の|記念広場《ユエ・サーカス》がなだらかにつづく長大な砂丘に変っていたり、西方の砂漠への起点であるミメサ三叉路が厚さ数メートルもの砂の層の下になっているのを、ふたたび自分たちの街の存在の証しとしてとりもどさなければならないのだった。   その長くきびしい砂嵐が、間もなくこの東キャナル市におとずれようとしていた。      1  そんなある日、私は|記念広場《ユエ・サーカス》へ足を運んだ。直径百メートルほどのほぼ円形の石だたみの広場は、遠い太陽の弱光をあびて異境の静寂につつまれていた。敷きつめられた石の間から一面に小さな軍配形の胞子体をつけたキャナルジャコウソウがのび出し、そのため広場全体が|亀《きっ》|甲《こう》形の模様タイルをはめこんだように見えた。その微細な地衣類はいつもきまって砂嵐の季節の前のごく短い期間に成長し、砂嵐を利用して胞子を飛ばし、そのまま枯死してしまうのだった。私の足もとからその熟しきった胞子が褐色の薄いけむりのように舞い上り、石だたみにもつれるように、私の前へ前へとたなびいていった。|広場《サーカス》の中央に、この街の象徴ともいえるひとつの銅像がそびえていた。四角なコンクリートの台座も、ほぼ等身大の人像も、多年の砂嵐に磨滅し、風化して、それが造られた頃のおそらくは偉容あふれていたであろう像容ももはやさだかではなくなっていた。それがいったい誰の銅像で、何を記念して造られたものなのかも今では知る人もない。この東キャナル市の初代の市長の像だともいわれているし、またこの街の建設に力をつくした人々の努力をたたえて建立されたものだともいう。またある人は、広場の中央に何か飾らなければならないからただ造ってそこへ据えたにすぎないものだなどともいう。その証拠には顕彰のいわれを記した銘板すら打たれていないではないか、と。しかし、街の人々にとっては、それが誰の像であろうと、何を記念したものであろうとそんなことはどうでもよいことだった。つまり、まるで関心がなかったのだ。無理もない。東キャナル市建設の苦難の時代はすでに遠い過去のものとなり、幾多の物語は初期宇宙開発時代の伝説として消え去りつつあった。人々にとっては過去の苦難の記憶よりも、現在のきびしく、苛酷な自然の中でいかに生存をつづけてゆくかに努力をかたむけていたからだ。  銅像の周囲にはコンクリート製の幾つかのベンチがならべられていた。東キャナル市の建設時代には、たくさんの技術者や作業員たちが、そこでひとときのくつろぎを楽しんだのかもしれない。そのときには面貌の刻みも深い巨大な銅の彫刻はかれらのなぐさめともなり、心の支えともなったのであろう。足もとの石だたみも今のように地衣類の亀甲を配して波を打ったものではなかったはずだ。  今は——  私の足はいつものように銅像に向った。だが私とてべつだんその銅像が気に入っていたわけではない。私が必要としているのは銅像ではなくその周囲のベンチだった。  東キャナル市をとりまく広漠たる砂漠は太陽の位置によって刻々とその色を変える。色を変えるといってももとの色は褐色か灰色の二色でしかないのだが、実はほとんど色ともいえないような淡い黄褐色からけむったような|砂黄色《サンド・イエロー》、さらに褐色がかった灰色から黒に近い暗灰色まで、変化の見分けもつけ難いような微妙な色調をあらわす。太陽が中天に高い今は、街も砂漠も、銅像もベンチも、そのベンチにうずくまる人も、おしなべてけむったような淡い黄褐色ただひと色だった。それは黄変して画像も不鮮明になった古い古い写真と少しも変らない風景だった。モノカラーの風景の中では、人の心もいろどりを持ち得ようもない。ベンチにうずくまった人影は、私の気配にも顔を上げようとしなかった。 「もうじき砂嵐がくるな。けさはジャクサルテス大河床の南に、大きな砂竜巻がふたつもあらわれたそうだ」  私の言葉に、かれはかすかにうなずいた。 「さっき信号所の連中が引き揚げてきたよ」  |宇宙空港《スペース・ポート》の貧しい付属施設のひとつである方位信号所は、ジャクサルテス大河床にのぞむ砂丘の上にあり、砂嵐の季節にはそこは無人になる。 「あの信号所も、むかしは……」  かれはうつろなまなざしを、建物の間から見える遠い砂漠に投げた。 「むかしは砂嵐の季節になるからといって無人にしてしまうということはなかったぜ」  吐き棄てる言葉には、重く沈んだ怒りと嘆きがあった。 「むかしとちがって、今は方位信号所も無人ステーションがやってゆけるのさ」  私は言ってしまってからひやりとした。かすかな悔いがわいた。かれはゆっくりと首をふった。 「それはちがうな。あんたは旅行者だし、むかしのことは知らん。無人ステーションでやってゆけるかゆけないかじゃねえ」  わかるか? かれは遠い砂漠から私の顔に視線を移した。その右の目がなまり色に濁っている。それはかれの顔面の右半分のひどい凍傷の跡と関連がある。かれがまだ現役の|宇宙技術者《ス ペ ー ス ・ マ ン》だった頃、金星の熱砂漠で遭難したなかまを救出するとき、両手に重傷を負ったかれがやむなく、顔面で冷却装置を押して運んだために受けたものだという。 「……今のやつらは、砂嵐の中で何か月もの間、暮すなんてことができねえのさ」  私はかれのとなりへそっと腰をおろした。 「今のやつらは、砂嵐がくるというと、みんなさっさと街へ帰ってきて、地下室の中でじっと息をひそめて砂嵐の終るのを待っているだけなんだ。なあ、おれがこの東キャナル市へはじめて|宇宙船《ふ ね》を着けたときには、おめえ、砂嵐のさいちゅうだったぜ。ものすごい砂嵐だった。しかし、おれはちゃんと|宇宙船《ふ ね》を着けたし、|空港《ポ ー ト》のやつらも砂嵐の中で晴れている日とおんなじに仕事をしてたぜ。それが今ではどうだ?」  私はかれがそうしていたように、だまって遠い砂漠に目を当てた。はるかな地平線はかすかにけむっているようだった。 「あんたならやっただろうな」  私は別についしょうではなく、そう言った。元、|省型《スタンダード》および|多用途型《ゼネラル・パーパス》宇宙船運用責任A級有資格者つまり元|船長《キャプテン》、それも外航用大型宇宙船の|船長《キャプテン》だったこの老ウルイなら、たしかにそれをやったであろう。そして地上にはかれの作業を可能ならしめる多数のベテランのスペース・マンたちがいたはずであった。かれらにとって、たしかにすさまじい砂嵐もその作業を中止させるような障害にはならなかったであろう。それに何よりも、この東キャナル市がかれらの勇気と技術を必要としていたのだ。絶えざる緊張と不安、生と死の微妙なバランス。はげしかった戦いの日々は今はもうここにはない。舞台は遠く、太陽系の辺境へと移っていってしまった。冥王星や、さらに遠隔の軌道を回る幾つかの人工惑星では今も多くのスペース・マンたちがその生命や情熱や技術を暗黒の宇宙空間になげうち、燃焼しつくしていた。かつて、若き日のウルイたちも、ここでそれをやったのだ。 「地球から調査団がやってきたよ」  私は話題を変えた。かれはだまって肩をすくめた。 「西の尾根の調査というふれこみだが、ほんとうの目的はどうやら東キャナル文書がほんとうに存在するものかどうかをあきらかにしたいらしい」 「存在するものかどうかをあきらかにしたい。か! ふん! やつらにそんなことができるものか」  かれは肩をそびやかせた。 「どうなんだ? 東キャナル文書というのは、ほんとうに存在しているのか?」  私はたずねた。  東キャナル文書という名をこの東キャナル市で耳にしてすでに久しい。三十年ほど前に、私が二度目に街を訪れたときに、ふとしたきっかけで知り合った一人の退役スペース・マンの口からそれを聞いた。以来、三度、四度とこの街にやってくるたびに必ずどこかでその名を耳にした。それは退役スペース・マンたちの口から語られるとき、ことに深い意味を持つようだった。私の知るかぎり、それはアマゾン砂漠の西に果てしなくつづくオリオーネ山脈の|鞍《あん》|部《ぶ》のひとつをこえて、さらに山脈の向う側の、まだ人類が一度も足を踏み入れたことのない永劫の荒野へとつづいている無名の谷間、退役スペース・マンたちがひとしく『|火星人の道《マーシャン・ロード》』と呼んでいる|崩《が》れ石だらけの荒れ果てた谷間と関係があるようだった。遠いむかし、古代の火星人たちはこの谷間をたどって西の荒野へしりぞいていったのだと退役スペース・マンたちは言う。かれらたちにとっては、それは一つの信仰ですらあった。遠いむかし——それは千万年もむかしのことだろうか。伝説というにはあまりにも古く、信ずるにはたとえようもなく稀薄だった。 「あんたは『のろし台』のことを知っているかね?」  老ウルイがふと顔を上げた。 「『のろし台』とは何だね?」  はじめて聞く言葉だった。 「『|火星人の道《マーシャン・ロード》』が尾根の西側でいったん小さな盆地に出る。盆地というよりも、『|火星人の道《マーシャン・ロード》』自体がそこでいったん広くなったという方がぴったりするだろう。その小さな盆地の一方は高くけわしい崖になっていて、その崖に突き出た岩棚の上に『のろし台』がある」 「のろし台といっても、そんな所になんの必要があって……」  老ウルイは声もなく笑った。 「もちろん、そんな所に人間がのろし台を作るわけがねえじゃねえか!」 「それはのろし台なのか? ほんとうに」 「さあな。おれたちがかってにそう呼んでいるだけさ。しっくいでかためた四角な台みてえなものだよ。そいつが高いがけの上にでんとのっかっているのよ」 「しっくいでかためた?」 「ああ。コンクリートとはちょっとちがうようだな。ドリルでも歯が立たねえようなかたい物だ」  私の心ははげしく震えた。これまで誰も語ろうとしなかったことを、かれは私に告げているのだ。 「人間が造ったものでないとすると、いったいなにものが造ったんだ?」 「地球だったら先住民族の遺跡だなんて言うだろうな」 「だが、ここは火星だ。先住民族などいないじゃないか!」 「そう言うだろうと思っていたよ」 「そうじゃないというのか?」 「あんた、火星人のことを聞いたことがあるか?」 「むかし、本で読んだ」 「そんなことじゃねえ。この街でさ」  私は慎重に言葉をえらんだ。せっかく何事か告げようとしている老ウルイの機嫌を損じたくはない。 「……西の山のどこかに古い遺跡があると聞いたが」 「それを信じているやつは少ない。それを見たやつとなるともっと少ない」 「あんたは見たのか? それを」  老ウルイは銅像の周囲に鳴る風の音に耳を傾けていた。 「あんなふうに風がひゅうひゅう鳴っていたぜ。その山腹の斜面全体が、何かガラスのこまかいかけらのようなものでできた|崩《が》れ石で一面におおわれていて、谷の底もそいつで埋っていた。風が吹くたびに、それがキラキラ光って飛ぶんだ。あそこはさびしい所だぜ。いやになるほどさびしい所だぜ」 「それが火星人の遺跡か?」 「おそらく何千万年もたつんだろう。あそこは砂嵐も来ねえ」 「どうして今まで調査隊が入ってゆかなかったんだ?」  老ウルイは砂の上にぺっとつばを吐いた。 「誰が調査隊なんぞ入りこませるものかよ! それに信ずる者も少なかったしな」 「そうだろうな。火星人だの遺跡だのと言われても、おれ自身とても信じられないものな」 「そうだろう。おれだって長いこと、あれは夢の中のできごとだったのだと思いつづけてきたくらいだ。しかし、この頃になって、あれはやはり現実のことだったんだという確信を持つようになった」  かれの言葉の後半分は自分自身に向って語られているようだった。 「あんたは……」  東キャナル文書のことを言いかけたようだったが……言いかけたとき、背後で私の名を呼ぶ声がした。  ふりかえると、広報部の青年が停車した地上車から半身をのり出していた。 「調査隊のキタ教授がお待ちです」 「会議は終ったのか?」 「いや。まだつづけられていますが、一時間ほど休憩になりましたので、その間に教授がお会いしたいそうです」  私は老ウルイの肩に手を置くと、すぐ立ち上った。 「その話、もっと聞きたい。明日、またここへ来る」  私は青年の運転する地上車にもぐりこんだ。座席を払うと、乾いた砂塵が火山灰のように舞い上った。運転席の青年はいそいでゴーグルをおろした。      2  休憩室に当てられた小会議室のひとつでキタは私を待っていた。今朝、|宇宙空港《スペース・ポート》で肩をたたき合った私たちは、ふたたび固く手を握り合った。 「こんな所で三十年ぶりに会おうとは思わなかったよ」  キタは今朝と同じことを言って、握った手にくりかえし力をこめた。  キタと私は地球のある大学で机をならべたクラス・メートだった。ことによったら、何年かののちには私とかれがふたつの講座をそれぞれ分担することになったかもしれない。しかしある理由でそうはならなくて私は研究生活とそのほかのすべてをも放棄して、今の生活にのめりこみ、|沈《ちん》|溺《でき》してしまっていた。 「予算を獲得するためにオリオーネ山脈の地質調査という名目にしたのだが、それは五年前に調査報告が出ているだろう。宇宙省の地質調査局を納得させるのに苦労したよ」  かれは聞きなれない人名と難しい論文の題目をあげていたずらっぽく笑った。そんなところはむかしのかれと少しも変っていなかった。ややひたいが後退し、耳の上あたりに少し白いものが混っているほかは、スポーツマンらしいきびきびした動作も、口調にあふれる|冴《さ》えも、天才をうたわれた青年時代と全く同じだった。加えて責任ある地位にある者のきびしさと自信が目に見えない重みを与えていた。 「きみのことはときどき耳にしていたけれども……ここへはよく来ているんだってね」  職業らしい職業についていない今の私に対する|幾《いく》|許《ばく》かの気兼ねと、好奇心が言葉の端にうかがえた。 「ああ。ここの退役スペース・マンたちと妙にうまがあってな。かれらの話を聞くのは楽しいぜ」 「かれらのことについてきみが書いたものを二、三、読んだよ」 「ありがとう」  私は率直に礼を言った。 「きみ。大学へもどる気はないか? どこか、研究所へせわしてもいいよ。何か役に立ちたい」  かれは真剣にそう言った。むかしから私には親切な男だった。私の心にふと翳が落ちた。かれの親切と無類の明朗さが、いぜんとしてむかしと少しも変っていないことと、私の書いたものを読んだという口の下で、私が自ら棄てた場所へ、私がもどることをすすめている、その素通しの心の動きが、忘れていたむかしをやりきれなく思い出させた。 「あいつはどうしている?」  私はすばやく気持を変え、共通の友人の消息に話題を移した。かれはやつぎばやに友人たちの名を上げ、消息を語ってたちまち私の胸をかれらの思い出で満たしてしまった。 「……あいつら、ぼくが火星人をさがしに行くんだと言ったら、吸盤で吸いつかれるな、なんて言うんだよ」  かれは体をゆすって笑った。 「ところで、きみ。きみはここの人たちの間でかなり顔が広いようだが、『東キャナル文書』というものを知っているかい?」  キタは笑いをおさめると声をひそめた。 「耳にしたことはある」 「何だね? それは。文書というからには文字で書かれたものなのだろうが、まさか、火星人がいたとは思えないし、もし、そんな文書が存在するとすれば、どうせ地球人の書いたものか、誰かのいたずらだろうと思うが……一部ではかなり信じられているらしいな」 「何を信じているんだ?」 「火星人の存在をさ。いや、かつてこの火星に火星人が存在した、ということを証拠だてて確信している連中がいるようだね」  かなり調べてきているようだった。 「退役スペース・マンたちはそう信じている。しかし、それはかれらの夢さ。かれらの願望が作り出した伝説さ」 「しかし、オリオーネ山脈の向う側には火星人の遺跡があるというじゃないか」  キタの目が異常な情熱をたたえてキラキラと光っていた。 「もし、それが事実だとしたら、これはたいへんな発見だよ。最初の報告者としての栄誉をぜひにないたいものだ」  キタの声はかすかにふるえていた。 「最初の発見者としての栄誉か……」 「そうだよ。きみ。ぼくは最近、宇宙文化史の方まで手をのばしているんだ。もし、今度の調査の結果が、思いがけない方向にまとまれば、ぼくは宇宙文化史の講座を開くことができるだろう」  新しい講座の創設者になるということが、学者にとってどんなに名誉なことであり、自尊心を満足させることであるかはわからないではない。研究者にとって、|斬《ざん》|新《しん》な、それでいて他人が手がけていないテーマなどそう有るものではない。キタが東キャナル市の一部でささやかれている奇妙な遺構について確かめようとしたとしても別にそれをとっぴなこととしてせめることはできないだろう。だが、私の心は曇った。 「予算も豊富だし、それに東キャナル市の市政庁も十分に協力してくれることになった」  実際、今日の連絡会にも、市政庁側から車輛関係や通信関係、それに補給関係の技術者や責任者が多数出席しているようだ。これまでの地質調査などとは異ったかなり大規模な計画らしい。  キタの助手らしい男が、ふたたび会議が始まることをしらせにきた。 「それじゃ、またあとで。あ、それから、今度の西の尾根の調査にはきみも参加してくれるんだろうな。メンバーに加えておくから」  キタは人なつっこい笑顔を浮かべると、助手のあとからあわただしく部屋を出ていった。  私は心の底に|溜《たま》っていたものを深い吐息に混えて吐き出した。 「変っていませんでしょう? むかしと。かれ」  とつぜん、私の背後で声がした。ふり向かなくとも、反射的にそれが誰の声であるかわかった。一瞬の動揺をおさえて頭を回らせた私の目に、二十年前の想い出の根幹が立っていた。 「あなたのお書きになったもの。私、ぜんぶ読んでいますのよ」  おれに対する感情をかの女はひとことで言った。 「それは、どうも」  そのあとにつづく適当な言葉を私は見つけ出すのにひそかに苦しんだ。しかしかの女の方が私よりずっと明快だった。 「あなたはここへは時々、いらっしゃっているようね。私は地球を離れたことは一度もないのよ。ほんとうに一度は来てみたかったわ」 「なかなか活躍しているようだね。ここの図書室にも地質学会報が送られてくるんだ。毎号のようにミセス・キタの|論文《レポート》が載っているようだ」  私は別にミセス・キタというところに力をこめたわけでもないし、意味を持たせたわけでもない。しかしかの女の顔が曇った。 「嫌味はおっしゃらないで。悲しいわ」  もうすんだことではないか、という批難のひびきがこめられていた。 「嫌味だなんてとられては困る。ただ、そう印刷されているからそう言ったまでだ」  私も少々あわてて言った。 「私の名はシャナです。今も変りないわ」  私がその名を呼んだ頃、もちろんかの女はミセス・キタではなかった。 「率直に喜んでいるんだよ。それはわかっているはずじゃないか」  私はつとめて自分の心をいたわりながら言った。 「ええ。そうなのよ。わかっているつもりなんだけれども。やっぱり、ちょっとうしろめたいのかな」  シャナは小さく笑った。その笑い声も、目もとで笑う笑いも、むかしと少しも変らなかった。そういえば髪をぜんぶすき上げて、頭頂近くでまげのように結んだ髪形もあの頃と変っていない。ただ、あの頃と違っているのは、いつもまげにさしていた鉛筆が、今は銀の飾り止めに変っているぐらいだった。 「かれ、あなたに西の尾根の調査に参加してもらいたいらしいんだけれども、あなた、いやならいいのよ。ことわったって」  かの女は気もちを変えるように早口に言った。 「あなた。火星人のこと、書いていたでしょう。あれはスペース・マンたちの夢なんだって。火星人はかれらの心の中にだけたしかに存在しているんだって」 「ああ」 「砂漠の西の尾根には何か人類のものでない建築物の遺跡があるというでしょう。あなたはそのような場所に調査隊などが入りこむのはいやでしょう?」  たしかにかの女は私の書いたものを読んでいるらしい。 「かれ、強引なんだから! なんでも自分できめて。それが人も喜ぶことなんだと思っているのよ」  三十年前、かれはその当時起った大学の変革期に乗じて、高評だった講座を二つに分けることを提唱し、教育者にはたらきかけて強引にそれを実現化した。その講座は極めて特色のあるものだったから、当然、二つに分けられたうちのひとつは他の大学なり研究機関なりに移設されるものと考えてそれに期待した者も多かった。しかし、かれは計画が実現するとなると、二つの講座を手もとに据え置いてしまった。かれの提唱に協力し、反対者たちを説得して回った私の立場は無惨なものだった。学界の実力者であるキタに対する批難は陰湿に形を変えて私に集中した。以来、私は大学とか研究機関とか名のつく組織には足を近づけてはいない。そのこと自体は私にとってはどうということはない。私はそれによってかえって自由な世界を得ることができたのだから。 「連邦地質研究所の主任研究員の補充名簿に名が載ったそうじゃないか」  私とかの女の間に共通する話題といったら、もはやそのようなことしかない。 「あの研究所もかれが作ったものだからね」  シャナは首をすくめた。 「誰が作ったものだっていいじゃないか。今では第一級の研究機関だ。地球連邦直属の研究所だからな」  その主任研究員ともなると研究者としては最高の名誉とはたらき場所を与えられたことになる。それだけにその補充名簿に書き加えられるだけでもたいへんなことだった。 「その補充員だって、ほとんどかれの講座の出身者かそうでなければかれのシンパよ」 「そんな言い方はよせ!」  キタはあのとき、スタッフの一人にシャナをも要求した。かの女の才能がキタにとっては心底、必要だったのだ。だが、その結果がキタはかの女の心や体まで占めることになった。ミセス・キタとなったシャナは、才能を花さかせ、キタの名前が出るところにはつねにかの女の名前もならんでいた。  それからの長い歳月は、どうやら私の上だけに流れていったようだ。 「ごめんなさい。なんだか、私、あなたの機嫌をそこねるようなことばかり言っているみたい。わかってくださる? 私、とても平静じゃいられないのよ」  それは私だって同じことだ。しかし私の心のひだには、すでに乾いた軽い砂が厚く積もっていた。それはふだんは私自身、少しも感じてはいないのだが、こうして地球から来た人々や、その地球でのむかしのできごとを想い出すとき、とても耐えられない重さになって私をよろめかせた。 「今、何を書いていらっしゃるの?」  シャナは私にとりすがるようにして私の顔をのぞきこんだ。そんなしぐさにも私の胸ははなはだ痛んだ。 「何も書いていないよ。毎日、砂漠をながめて暮しているだけだ」  ほんとうだった。それをどうとったのか、シャナのひとみが傷ましそうに翳った。 「会議に出なくてはいけないんだろう。そろそろ失礼する」  私は立ち去る|汐《しお》|時《どき》だと思った。  私がかの女に背を向けてドアの方へ足を踏み出したとき、とつぜん、シャナは私の体をすりぬけて前へ走った。ドアの前に立ちふさがり、すばやく後手でドアをロックした。 「リュウ!」  それまでかの女を支えていた何かが音をたてて崩壊してゆくのが感じられた。かの女のうるんだ大きな目は、私の体を透明なもののように見透して私の背後の空間を見つめていた。そのひとみは過ぎ去った歳月とともに消えたものをむなしく求めてはげしくさまよった。  かの女は私に向って一歩、踏み出し、それからゆっくりと床に崩れおちた。かの女の頭が床に落ちるまでに私はかの女を抱き止め、壁ぎわのソファへ運んだ。  私が人を呼ぼうとして立ち上ろうとすると、かの女は私の上体に両うでをからめてきた。  かの女の体は、むかしとは別人のように変っていた。豊かな性の|堆《たい》|積《せき》が体のすみずみまで浸透し、自ら招く喜悦の深さにかの女はとめどなく|溺《おぼ》れた。むかしはひたすらにとりすがり、しがみついてくるだけだったのに。  私はすべての力を喪い、かの女の体から離れた。かの女は豊かな白い肌を惜しげもなくさらしてもの憂げに私の手をとり、私をソファに引きもどした。私とかの女とは無意味なささやきを交した。かの女の汗に|濡《ぬ》れた裸の肩に、ほどけた長い髪がまつわりついていた。私はむかし、そうしたように一本一本、指でつまんでなでつけてやった。そうしているとむかしと少しも変らなかった。やがてかの女は脱ぎ棄てたものをまた身につけはじめた。上等な下着類が豊かな肉体をしだいにおおってゆくのを見ているうちに、私はそれをふたたび引き剥がしたい欲望が猛然とわき上ってきた。そのときかの女がふり向いた。そのつややかな笑いに私は胸を衝かれた。 「あなた。東キャナル文書ってごぞんじでしょう」  予期しない言葉がかの女のくちびるから出た。私はとっさに答える言葉を見出せず衝動的にうなずいた。 「そう。オリオーネ山脈の向う側のある盆地に、古い遺跡があるんですってね。その遺跡のあるあたりはガラス質のようなこまかい破片でおおわれているそうじゃない?」 「よく知っているな」  おそらく私は愚鈍な顔つきをしていたにちがいない。 「東キャナル文書はそこで発見されたと言われているわ」  たしかに退役スペース・マンたちはそう言っている。しかし、かの女がそこまで調べているのにはおどろかされた。 「よくそこまで調べたものだ」 「やはり計画を立てる以上、あらゆる情報を手に入れる必要があるわ。でも、簡単なことだったわ。退役宇宙技術者の一人を再就職させるという条件で、この東キャナル市で語られているいろいろなうわさを集めて提供してもらったのよ」  私の胸の中を、ひどく苦く熱いものがつらぬいていった。いくら情報が欲しいからといって、退役スペース・マンを再就職のえさで釣るのはひどすぎる。それに、西の山の遺跡も、東キャナル文書も、退役スペース・マンたちにとっては他の何物によっても代えることのできない夢であったはずだ。それは二度と宇宙に飛び出すことのかなわぬかれらにとって、かれらと未知の世界を結ぶ唯一のきずなだった。亡びたものを傷む心は、自分たちの喪われた過去の栄光を傷む心とひとしかった。  その心を買ったというのか。 「だれだ? そいつは?」 「さあ。私は知らないわ。市政庁の厚生部の誰かにやってもらったらしいわ。厚生部の人というのは、退役スペース・マンなんかといつも接触しているんでしょう?」  私はその男が憎かった。 「リュウ。実はおねがいがあるの」  シャナは鏡の前で髪を直していた。その鏡の中でかの女のくちびると視線が動いていた。 「あなたのお友だちに老ウルイと呼ばれている人がいるでしょう?」  そこまで調べたのか! 私は今さらながらキタの手腕におどろかされた。もちろん、かれの地位と実力をもってすれば、宇宙省を通じて東キャナル市政庁の一職員を意のままに動かすことぐらい何でもないだろう。  シャナは鏡の中からまっすぐに私に視線を当てた。 「東キャナル文書はその老ウルイという男がかくし持っているらしいの。リュウ。私たち、あなたにおねがいがあるの。その東キャナル文書を手に入れていただけない? さもなければ、こんどの計画にその人も同行するようにはかってほしいの」 「なぜ?」  鏡の中のシャナはいよいよ美しかった。 「その遺跡が東キャナル文書の存在と密接な関係があるらしいと報告されているわ。老ウルイという人がもし東キャナル文書を持っていたとしても、容易に手離さないと思うの。その人たちの気持はよくわかるわ。だけど、キタは手荒なことをしても手に入れるっていうのよ」 「手荒なこと?」 「学術会議が接収するというわけね。そうなると市政庁の保安局が動くでしょうね。私はそんなことはしたくないのよ。それであなたにおねがいしたいの」  身じたくを終ったかの女は、私のかたわらにふわりと腰をおろした。 「キタがそうするように言ったのか?」  かの女はほほ笑んだ。私の心からすべてをうばうような笑いだった。 「いいえ。私が思ったのよ」  砂をまく風の音が聞えていた。  地下深いここで砂漠をわたる風の音が聞えるわけはない。耳をすますとそれは私の胸の中を吹き過ぎてゆくのだった。  砂漠の果ての夜空が赤く燃えていた。多彩な赤い光の幕はたえ間なくゆらめき、移ろっては星々を呑みこみ、波紋のように幾重もの光環をひろげていった。オーロラだった。間もなく砂嵐の季節がやってくることを告げるオーロラだった。だが、地上とはきびしく隔絶されたこの部屋でオーロラが見えるはずはない。ひとみをこらすと、それはリノリウムを張りつめた壁面に映える照明灯の光だった。  私は立ち上った。私たちはなごやかに別れのあいさつを交し合い、後日を期待する約束を交し合った。部屋の外へ出ると、廊下には連絡会議のあわただしい熱気と緊張がみなぎっていた。市政庁の職員の|制服《ユニフォーム》をまとった一団が巻いた地図や分厚いファイルをかかえて会議場のドアに吸いこまれていった。  とうに忘れていたむかしが、形を変え、七千八百万キロメートルの距離をこえて私のあとを追ってきたことに私はたまらなくやりきれなかった。あの乾いてつめたい砂の海や心にしみる風の音、また暗い夜空に燃えるオーロラのかがやきも、しょせん私の世界のものではなかったのだ。ここでは私は異境の人であり、遠い砂漠の果てに夢をつなぐ人々のなかまにはなり得ないのだ。  私はひどく疲れていた。      3  翌日、私は広場の銅像の下のベンチにうずくまっていた。風はたえず私の周囲で口笛のように鳴っていた。広場に開いた道路のひとつから、荷台に防砂用のおおいをかけた地上車の列があらわれ、別な道路に吸いこまれていった。……七台……八台……十一台……十二台……それらの地上車の前頭部には学術会議の使用車を示すマークが貼られていた。調査隊の出発準備は急速に進められているようだった。東キャナル市内はどこでもその話でもちきりだった。砂嵐をむかえて閉鎖される|宇宙空港《スペース・ポート》気象観測所の勤務員も多数、動かされているというし、ふだんはあまり仕事のない建設作業員まであらかたかり出されていた。オリオーネ山脈越えの新しい輸送路を建設し、器材や物資を砂嵐がやって来ないうちに山脈の向う側へ輸送してしまい、砂嵐の危険のない遺跡の谷間で三か月の間、大規模な発掘作業をおこなうということだった。そのために東キャナル市の地下格納庫の中で久しい間眠っていた原子力ジャンボーや超大型のパワー・シャベルが引き出され、地球から運ばれてきたロート・ダインが組み立てられ、砂漠の上で試験飛行がつづけられていた。ベンチに腰かけている私の目に、その一機が市街のはずれを低く旋回しているのが写った。風に吹き飛ばされてその爆音は私の耳まではとどかない。双胴型のロート・ダインは四つのローターを光らせながら奇妙な昆虫のように、音もなく旋回をつづけていた。  この計画に対して、退役スペース・マンたちがどのような反応を示しているか知りたかったが、私はかれらの溜りへ近づくのがおそろしかった。  私はこの東キャナル市を舞台にして書いた幾つかの物語の中で、何回か『東キャナル文書』を登場させたことがある。むろんそれは物語のいろどりとしてであり、退役スペース・マンたちのつきない夢の象徴としてであった。私はそれによって、この火星の砂漠のどこかに、かつて火星人が存在していたことを示す証しが残されていることを強調したつもりもなく、『東キャナル文書』が、人類の文明が最初に手にするかもしれぬ他天体生物からの贈り物であるなどとうったえたおぼえもなかった。しかし結果は、それがこの街で、ごく少数の人々にのみ存在が信じられ、語りつがれてきたものを、現実の存在として引き出し、地球に持ち去ろうとする行為に加担することになってしまった。私がこれまでなかまだと思ってきた退役スペース・マンたちは、もう私を容れようとはしないだろう。老ウルイはいったい何と言うだろうか。そういえば今日はこの広場には、いつも顔をそろえるかれらの姿が一人も見えない。それは私がここに座っているからだ。かれらは私を避けているのだ。  私はつとめてキタとシャナに顔を合わせるのを避けていたが、翌々日、広報部のテレビ局が私に画面への登場を要請してきた。西の尾根の遺跡に関する報道特別番組だという。私はていよくことわった。しかし、かれらは翌日ふたたび私に電話をかけてきた。この企画は市政庁上層部の推進しているものであり、ぜひ協力してほしいということだった。私はにべもなく電話を切った。その夜、テレビのブラウン管の中で、キタは多くの科学者や技術者を左右に配して、遺跡に関する調査が人類の文明にいかに大きな影響をもたらすかについて熱弁をふるっていた。そのあと、かれは何枚かの地図や図版を示して、遺跡に対する自己の見解をひろうし、さらに緻密な計画の全容を誰の目にもあきらかなように説明した。想像していた以上に大がかりなもののようだった。どうやらそれは地球連邦の宇宙開発計画を政策的に側面援護しようとする連邦学術会議のいつもの動きのひとつであるらしい。シーンが変ると、平行してならべられたテーブルに向い合って座った調査団側と、市政庁側の役人との間で、いかにも演出らしいやりとりがおこなわれた。地球連邦が宇宙省の予算の中から、相当な額をこの遺跡の保護と管理のために東キャナル市に寄託したことを感謝する言葉がしかつめらしく語られ、またそのための人件費や施設費の増加をカバーするための特別助成を考慮してほしいという要求が持ち出され、それに対して、キタに従ってきた男たちの一人が、それは連邦政府内で十分に検討されていると答えた。テーブルの上にのっている四角い山形の名札には、かれが科学者ではなく、連邦政府の予算関係の高官であることを示す肩書が付せられていた。すべてはなれ合いのショーであり、調査計画そのものが連邦のまことしやかなポーズであった。連邦の無能な為政者たちは、解決困難な問題を山のようにかかえ、その終末的状況から人々の目をそらせるため、この二、三年、相ついで無謀とも思われる字宙開発計画を幾つか発表し、その推進に狂奔していた。しかし、連邦経済の慢性的疲弊はもはやそのような方法ではどう救いようもなかった。もともと宇宙開発というのは極めて回収のおそい投資だった。投資の効果があらわれるまでに早くて百年、二百年の年月を必要とする。たとえば遠い惑星に鉱物資源を求めるために巨大な船団を送り、採鉱施設、製錬所、粗製品を生み出すための加工プラントを建設し、さらに作業員のための安全な居住区を作り、そしてようやく生産された粗製品を地球へ向って積み出す。地球へとどいた一トンのH型鋼材が、いったい幾らにつくものか想像することさえ困難だ。積貨量十万トンの省型汎用|貨物船《カーゴ》三十隻よりなる宇宙船団を木星、地球間に一往復させるだけで、誘導施設、航路警戒組織、通信網、整備に必要な全機関などの運用費、電力などもふくめて、連邦の一年分の教育関係予算をはるかにオーバーするのだ。採算がとれるだけの船団を新たに編成するために、大型宇宙船を大量に建造するとなれば、これはもはや単なる投資と収益の問題ではなくなってくる。したがって連邦の宇宙開発計画は、長期にわたる戦略的展望に立って立案されたものではなかった。小規模な開発計画を乱発し、それによって宇宙開発産業を中心に電子、宇宙造船、機器、合成化学などの各産業を過熱させようというかげのねらいがあった。連邦は真の宇宙開発計画に対する熱意はとうに失っていた。  だが、キタは言うであろう。たとえどう利用されようとも、それによって研究が進められ、多額の研究予算が与えられればそれで結構だ。と。  私はテレビの前を離れようとした。そのとき、キタの声が流れ出た。 「……その〈東キャナル文書〉は、ある退役スペース・マンがひそかに所持していると伝えられ、かれとつねに親しく接触している私の古い友人の一人が、かれに全面的な協力をあおぐべく工作中です。したがって〈東キャナル文書〉も、もしそれがほんとうに実在するものならば、遠からずわれわれの前にその内容をあきらかにするはずです……」  なんだって? 私は棒立ちになった。私の聞きちがいではなかった。かれは別の質問者に対して、それと同じ意味の言葉でもう一度、答えていた。  じょうだんじゃない! 誰がそんなことをするものか!  私は自分の口が耳まで裂けたような気がした。私は手近な電話でテレビ局を呼び出し、キタにつなぐように言った。しかし、スタジオにいるキタを電話に出すことはできないという返事だった。  私は回廊にとび出した。エスカレーターの動きを待ちきれず、それを踏み鳴らしてかけ上り、かけ下った。|走 路《ベルト・ウェイ》を二つほど乗りかえ、私は機関車のようにテレビ局のロビーへ走りこんだ。チャンネルはひとつだし、スタジオも三つしかない。私は通りかかった職員に調査団の出演しているスタジオを聞いた。かれは私が時間に遅れてかけつけてきた出演者だとでも思ったのだろう。私のうでをとるようにしてスタジオの前まで案内してくれた。その私を白いヘルメットをかぶった二、三人の警保局の局員がさえぎった。 「出演者ですか?」 「いや。ちがう」 「どんなご用ですか?」  私はキタに先程の発言の内容を訂正してほしいためにやって来たことを告げた。かれらは顔を見合わせた。 「すみません。それでは先ずプロデューサーとスタジオ責任者に会ってください。あなたがいきなりスタジオに入ることはできません」  二人が赤ランプのともったドアの前に立ちふさがり、一人が奥へ走った。私はいらいらしながら待った。早くしなければ番組は終ってしまう。終らないうちに、ぜひともこの番組の中で訂正させないかぎり、私の気持は晴れそうにないし、またそうすることが私の義務でもあった。 「おい。早くその責任者とやらを連れてこい!」  男たちは困惑したように、廊下の奥をうかがった。スタジオ責任者なる者を呼びに走った男はまだもどって来るようすもなかった。時間はどんどんたってゆく。スタジオのドアの赤ランプが消えた。 「しまった!」  放送が終ったのだ。私は警保局の男を左右につきのけ、ドアにとびついた。真昼のようにかがやく光の滝の中で、今、七、八人の人影が|椅《い》|子《す》から立ち上ったところだった。テレビ・カメラが太いコードを引きずってスタジオのすみに後退してゆく。とうに出番が終ってスタジオのすみにかたまっていた一団が、真先にぞろぞろとドアの方へ移動してきた。その中にシャナの姿があるのが私の目に痛いほどしみた。私はその人々を左右にはねとばす勢いで今、椅子から立ち上った男たちの前へ突進した。 「キタ!」  それまで自制していた怒りがたあいなく爆発した。 「さっきの発言はどういうことだ? 〈東キャナル文書〉を手に入れるために古い友人が工作中だと? おれはきみにそんな約束をしたおぼえもないし、そんなことをするつもりもない。取り消してもらおう!」  みなの視線が頭上のライトよりもはげしく私に集中した。キタは私と相対する位置で、言葉を忘れたかのように棒立ちになった。 「キタ! きみがこの火星で何を調査しようともかまわん。きみの仕事なんだからな。ただ、この火星の砂漠に最後の安住の地を見出している人々の夢をこわすようなことだけはやめてくれ! それが宇宙開発といったいどのような関係が……」 「いったいどうしたんです? 勝手に入って来られては困りますな」  誰かが合図し、スタジオのすみから作業員がばらばらととび出してきて私をさえぎった。 「出てください! 出てください!」 「カメラはもうストップしているんだろうな?」 「モニター! 確認してくれ!」 「警保局員! 何をしているんだ!」  私は男たちを押しもどし、うでに取りすがった男を引きずって足を進めた。 「取り消せ! キタ!」  キタを背後にかばうように、学者|面《づら》の男が緊張でくちびるをふるわせながらかすれ声でさけんだ。 「きさま! 先生に失礼なことを言うとしょうちしないぞ! 出てゆけ!」  私は両手でその男の肩をつかむと投げ棄てた。男は頭から床に落ち、なめらかな床をまるで肩でスケートでもするかのように遠く滑っていった。空気は一変した。かけつけてきた警保局の男たちは本気で腰の警棒をぬいた。市政庁の役人がおよび腰でさけんだ。 「何か言いたいことがあるなら聞いてやろうと思ったが、暴力をふるうようではだめだ。つまみ出せ!」 「逮捕しろ! 逮捕しろ!」  周囲から声がとんだ。それに勇気づけられたらしい。キタが胸を張った。 「きみ! きみは何か感ちがいしているね。ぼくはきみの名前などひとことも言ったおぼえはないね」 「つまらない言いのがれをするな! 私の古い友人の一人が、かれに全面的な協力をあおぐべく工作中です、と言ったじゃないか!」  キタはくちびるをゆがめた。 「ことわっておくが、私の古い友人はきみだけじゃないんだよ。現にここにもたくさん居る」  キタは呼吸も忘れたように私とキタのやりとりを見つめているかれの部下やなかまたちを見やった。かれらはいっせいにうなずいた。あの部屋でのシャナの言葉が私の胸に爆発ガスのようにふくれ上ったが、私がそれを口にすることはできなかった。私は敗北をさとった。 「いいかね。きみ。宇宙開発や惑星調査というのはおとぎ話ではないのだ。退役スペース・マンの夢だかなんだか知らんが、これは情緒の問題ではないのだよ。ある惑星にかつて生物が存在していたかどうかはこれは純然たる科学の問題なのだ。きみに協力してもらう必要はない」  かれの言葉が終らぬうちに、私は警保局員の手で、スタジオから引き出された。 「教授。〈東キャナル文書〉をかくし持っているという男を把握しておく必要がありますな」  私の背後で性急な声が聞えた。 「連行したまえ」  市政庁の役人が命じていた。廊下に押し出された私の体を突きとばすように、警保局員の白いヘルメットが走り出ていった。  私はとっさに左右から羽交いじめにされているうでをふりほどいた。つかみかかってくる手をかいくぐり、警棒をかわして私は廊下を走った。乱れた足音とさけび声がつづいてきた。廊下の曲り角でもみ合い、さらにテレビ局のゲイトでもつれ合い、一、二度、目のくらむような警棒の打撃を受けたが、私も二、三人の男を床に這わせ、かれらをふりきった。エレベーターをのりかえ、エスカレーターをのりついで私は必死に走った。  老ウルイをかれらの手におとさないことだけが私に残されたかれに対する唯一の友情の証しだった。  しかし二十分もたつと、すべてのエレベーターやエスカレーター、|走路《ベ ル ト》などには警保局員の目が光っていた。白と黒に塗り分けられた警保局のミニ・モーターカーがパトロールしはじめた。こんなことは私が東キャナル市を訪れるようになってからはじめてのことだった。市政庁としては、宇宙省そのものともいえる調査団にいいところを見せたいのだろう。 「おいおい。そんなかっこうで歩いていちゃあいけねえよ。着がえなよ」  とつぜん、私の耳もとでささやく声がした。ふりかえると|空港《ポ ー ト》作業員の|制服《ユニフォーム》を着た見知らぬ男だった。私はふだん愛用しているシリコン・レザーのジャンパーを着ていた。こんな姿で街を歩いているのは外来者しかいない。私は言われるままにジャンパーをぬいだが、その下の|格子縞《チェック》のシャツではさらにごまかしようがない。 「これを着な」  かれはすばやく自分の作業服をぬいだ。かれの|制服《ユニフォーム》でもあるオレンジ色の作業服はぴったりだった。 「あんたは?」 「おれはこのかっこうでも、すんませんですんじまう」  かれは汚れたシャツの胸元をひっぱってにやりと笑った。 「身分証明書はポケットに入ってら」 「すまない。あとで必ずかえす」  私はかれの顔を記憶にとどめようとした。いがいにその顔は老いの翳が濃かった。ほおは|削《そ》げ、首には無数の深いしわが刻みこまれていた。 「おれはこの間まで宿泊所にいたんだよ」  だからさ。というようにかれはうなずいた。宿泊所というのは退役スペース・マンたちのいわば収容所だった。むかしはスペース・マンたちはそこでつぎの航海までの間、休養し、乗船命令を待ち、出入のはげしいなかまたちと旧交をあたため合ったものだという。そして宿泊所を出入するかれらは、誰もが、名誉や勇気や、背負いきれない|賞讃《しょうさん》を身におびて、正視し難いような|悽《せい》|愴《そう》なある花やかさを|撒《ま》き散らしていたものだとその頃を知っている者たちはいう。  私は背を丸めてかれの前を離れた。  途中で見つけたダストシュートにぬいだジャンパーをほうりこんだ。  宿泊所は市の四つに分れたブロックの、西の部分のもっとも地表に近い一画にあった。  私は二回ほど検問にひっかかったが、いずれも|空港《ポ ー ト》作業員の|制服《ユニフォーム》と身分証明書のおかげで難なくそこを突破できた。もともと警保局員はこんなことには馴れていないのだ。  地上の|宇宙空港《スペース・ポート》から直接のびた|傾斜路《ランプ》の両側が、かつての宿泊所の全域だった。しかし今はそれらの大部分は建設部の資材倉庫になっていて、わずかにせまい二区画が退役スペース・マンたちの収容所に当てられていた。高架橋のように空間をななめに切って頭上に迫る|傾斜路《ランプ》の下に、宿泊所の四角なドアがほら穴のように開いていた。その前に赤い回転灯をかがやかせたミニ・モーターカーがとまっていた。ここから入ることはできない。私は老ウルイの身がはなはだ気がかりだったが、いったん、その場を離れて|傾斜路《ランプ》を上へたどった。むかしはスペース・マンを満載した人員輸送車が巨体をゆるがせてゆききしたであろう|傾斜路《ランプ》も、今は厚く砂塵におおわれて、私の足は砂丘を上るように一歩ごとにずり落ちた。  |傾斜路《ランプ》が地上にあらわれ出る所は、巨大な船倉のようなゲイトになっていた。それ自体が二重のエア・ロックになっている。それがさいごに開閉されてからもうどれぐらいの年月がたったことだろうか? 閉ざされたきり、動力も断たれているはずだった。私はそのゲイトの外側に設けられた細い階段を上った。まっすぐに、五十メートルも上ると、絶壁のような壁面に小さなドアがあった。そのドアから入ると、中は人間二人がやっと入れるほどの|円筒《シリンダー》型の小部屋になっていて、その奥にもさらにハッチがあった。その奥にまた同じような区画があり、その一端のドアを開くと、そこはトーチカの内部のようながらんとした部屋になっていた。実は私は、退役スペース・マンのなかまたちと何度かこの道を通っている。|傾斜路《ランプ》のゲイト管理所の作業用ハッチだった。ゲイトと同じように二重のエア・ロックが設けられているが、こちらの方は機械駆動だったらしく、断たれた動力とは関係なくいつでも利用できた。宿泊所の退役スペース・マンたちは地上へ出るのに遠いゲイトへ回るのをめんどうがって、このひそかな|間《かん》|道《どう》を愛用していた。ほんとうは地上へのすべての出入口は市の管理部によって厳重に管理されているはずなのだが、現実にはそれも名目だけになっていた。  いったん地上へ出た私は、巨大な水道タンクのようにそびえ立っている通風口から逆に地下の市街へもどった。むかしは、地下市街の空気の、濾過しきれない汚濁成分を強制的に排出するのに使われたそうだが、市民のほとんどが軽度の人工器官移植手術と、適応訓練を受けている今の地中都市では、地上が放射能におかされた時でもないかぎりこのような大がかりな装置は不用になってしまっていた。トンネルのような通風口の内部には、点検用のケーブルカーのレールや、桟道のような細い|踏 板《プラットホーム》が縦横に走っていた。私はそれを伝って宿泊所の中に入った。  私はそっと退役スペース・マンたちの溜りをのぞいた。薄暗い電灯の下で、見知った顔がテーブルを囲んでカードをやっていた。 「よお! どうした? 調査団の連中と何かやらかしたんだって?」 「おい。警保局の連中が中をうろつき回っているぞ。早くかくれろ!」 「入口は見張られているだろう。どこから入ってきたんだ?」  かれらは口々に低い声でさけんだ。 「やつらは老ウルイをつれてゆこうとしているんだ。やつに知らせなければ!」 「警保局の連中、そんなことを言っていたぜ。それから、あんたも引っくくるんだと」 「老ウルイはどこにいる?」  かれらの一人が首をすくめた。 「あんたに教えていいのかな?」 「なに!」 「さっきのテレビ。見たぜ」 「あれは!」 「調査団の団長はあんたのむかしのなかまだそうじゃねえか」 「おれとはすむ世界がまるでちがってしまった」 「なんでもいいが、地球のやつらは地球のやつらだけで勝手にやってくれ。おれたちを巻きぞえにすることだけはごめんだぜ」  かれはこれまで何回も、私に現役だった頃の思い出話や、むかし東キャナル市で起ったいろいろなできごとについて語ってくれた男だった。しかし今はそのことについてかれと言い争っているひまはない。 「どこだ? どこにいる? 老ウルイは」  他の男たちもだまって首をふった。  私はその場を離れた。誰にたずねても同じだった。かれらにしてみれば、私を警保局員の手に引きわたさないことだけがせめてもの好意というところなのだろう。私はむなしく地上にもどった。警保局がやっきになって捜索しているところをみると、老ウルイはまだかれらの手中には落ちていないのだろう。かれらの目的は私を捕えることよりも、老ウルイを捕えることにあるはずだった。老ウルイはどこにひそんでいるのだろう? 私はもう一度、宿泊所へもどろうかと思った。こうなったら自力で探し出すほかはない。そのとき、私の胸に、ちらとひらめいたものがあった。私は地下へもどらず、トーチカの外へ出た。  たそがれの|宇宙空港《スペース・ポート》が|茫《ぼう》|漠《ばく》と目の前にひろがった。はなやかな残照のわずかな名残りが、西の地平線を低く、低く、ひとすじ、糸のように真紅に染めていた。その方向から、あるかないかの風が砂漠をわたり、スペース・ポートのフィンガーをこえて東キャナル市へと吹きわたっていった。どこへ向って出発するのか、一隻の宇宙船がガントリー・クレーンに支えられてあわただしく出航準備に追われているのが、遠く、|投光器《スポットライト》に浮き上がって見えていた。私は空港管制所の明るい建物をかわして、その奥の暗い市街へ入っていった。東キャナル市はその大部分を地下に埋めている。地上の建築物といっては、ほとんど建設や科学調査、観測などの非住居施設だった。たとえて言えばそれらは地上に据えられた幾つかの巨大な箱だった。雑然とならんだそれらは、濃い闇の中に遠い古代の墳墓のように静まりかえっていた。私はそれらの間をぬって市の中央広場へ向った。  水銀灯の青白い光の中に、銅像の影が長くのびていた。求める人影はいつものベンチに在った。かれはいつものように、遠い砂漠の方向に顔を向けていた。しかし、いつもとちがって、その方向には砂漠にかわって暗い夜の闇がひろがっていた。ここに居ると思った、という私の声にも、いつものようにかれは顔を動かさなかった。 「逃げた方がいい。やつらはかならずここへもやってくるぞ」  私は間をおいて何度か同じことを言った。 「どこへ逃げても同じことだ」  何度目かに、かれははじめて上体を動かした。 「それではやつらに力を貸すのか?」 「さあな」 「やつらはあんたから〈東キャナル文書〉について聞き出そうとしている。おそらくそれは徹底的にやるだろう。いいのか、それで」  老ウルイはしばらくの間、だまってかすかな風の音に耳をかたむけていた。 「東キャナル文書、か」  風の音にもまごうつぶやきだった。 「そうだ。それをさがし出して内容をしらべるのがやつらの目的なんだ」  老ウルイは小さく笑った。風の音よりも低く、乾いた笑いだった。 「さがし出してしらべるってか!」 「それが目的なんだ」 「さがし出してしらべるってかよ!」 「そのために来たんだ」 「おれから聞き出すことなど、なにもないさ」 「あんたは〈東キャナル文書〉を持っているという評判だ」 「おれはそんなものは持っちゃいないよ」 「でも、宿泊所では、みなそう言っていた。あんたが〈東キャナル文書〉の唯一人の所有者だって」  老ウルイは静かに立ち上った。 「所有者? ばかな! あれは誰かが所有できるなどというものではない。だいいち、人間には関係ないことだ」 「老ウルイ。あれは、と言ったな。あんたは知っているのだな? やはり」 「みなのうわさはぜんぶうそというわけではない。知っているんだな、と聞かれれば、知っているとしか答えようはない。だからおれは、あれは人間に関係のないものだと言うのだ」 「逃げてくれよ。せまいとはいえ、これだけの街だ。やつらもそう長くは居ない。やつらが帰ってしまったら、市政庁もあんたを追い回す必要がなくなるだろう」  老ウルイはコートの両うでの砂を払った。 「そう思うかね。あんたの友達はそんなにあきらめのいい男かな?」  私は言葉につまった。老ウルイの言うとおりなのだ。キタは〈東キャナル文書〉を手に入れるまで、絶対にあきらめないだろうし、唯一の手がかりである老ウルイを追いつづけるだろう。  青灰色のフォボスが地平線に半分ほど姿をあらわした。銅像の肩や、老ウルイのひたいがほのかに青く染まった。かれはゆっくり私から離れていった。 「リュウ。もう会うこともないだろう。元気でな」  ふり向いたほおひげが銀色に光った。  ——どこへ行くんだ? 私は問いかけて声を呑んだ。それを私はたずねることはできなかった。私が調査団と全く無縁であり、私自身かれらに憎悪を燃やしていることを証拠だてるものは何もなかった。どこへ行くのだ? それをたずねたら、逃げることをすすめた私の真意は無意味なものになってしまう。だまって見送ることだけが、私がさいごまで老ウルイの味方であったことの唯一の証しなのだ。  ほとんど呼吸さえ忘れて私は立ち去ってゆく老ウルイの影を見つめていた。私にとって、おそろしく貴重なものが一秒、一秒、遠ざかりつつあった。それは二度と私がめぐり合うことのできないものだった。私はあぶら汗を流しながら耐えた。長い長い時間が過ぎていった。フォボスにかわってダイモスが、錆色の光をもの言わぬ銅像の肩に投げかけていた。どのくらい私はそこに立っていたのか、われにかえったとき、  老ウルイが私の前にいた。 「リュウ。あんたに見せてやりたいものがある」  地平線低くかかったダイモスを背にした老ウルイの体は、錆色の光に縁取られていた。 「もどってきたのか?」 「〈東キャナル文書〉というものがどんなものか知りたいだろう?」 「もどってきたのか?」 「見せてやろう。来い」  老ウルイは私に背を見せると、先程と同じようにふたたび砂漠に足を向けた。 「まて! 老ウルイ。どこへ行くんだ!」  私は見えないロープで曳かれるようにかれの影を追った。 「逃げるんだ! なぜもどってきた!」 「見せてやろう。来るんだ」 「老ウルイ!」  私は前にのめった。いったん体がちゅうに浮き、それからはげしい勢いで石だたみにたたきつけられた。体の周囲で砂が舞い上るのが感じられ、その砂はたちまち私の鼻やのどにいっぱいにつまった。私の意識は砂にまみれて稀薄になっていった。      4  谷はそこで二つに分れていた。二つに分れた左の谷は、削ぎ落したような絶壁の下を回りこんでゆくての闇に溶けこんでいた。しかしその谷がこの尾根を越え、はるかかなたに海のようにひろがる未知の平原につづいていることはあきらかだった。右の谷は頭上の尾根に平行に、山腹を割ってどこまでもつづいていた。谷の両側はほぼ百メートルはあろうかと思われる切り立った断崖だった。その断崖は尾根側の方がやや高い。その高さはどこまで進んでも変らなかった。谷の幅を変えないことによってもあきらかだった。どうやらこの谷は、遠いむかし、尾根に平行に、山腹に生じた巨大な断層らしく思われた。どこかにフォボスが出ているらしい。右手にそびえる高い尾根のいただきが|燐青色《りんせいしょく》に濡れていた。私の足もとで岩がくだけ、乾いた骨のように鳴った。とつぜん、周囲の風景が一変した。  それまでほとんど垂直に切り立っていた両側の崖は、上方へ向ってやや開いていた。そのかなり急な斜面から、私の立つ谷底へかけて、滝のように流れ落ちるものがあった。それはつぎの瞬間、私の立つこの谷底まで到達して私を呑みこみ、谷を埋めつくしてしまうだろうと思った。私は山腹をどよもし、尾根をふるわせる|轟《ごう》|音《おん》を聞いたような気がした。しかしいつまでたっても、その風景は少しも動かなかった。何の物音も聞えなかった。ただ、星空に映える白い崖と、千古の静寂につつまれた夜の闇だけがあった。  私の足の下で、地表をおおった砕石は薄い氷のようにくだけ、とび散った。その乾いたひびきが暗い谷間にこだました。私はつめたい汗にまみれて周囲をうかがった。その音が誰かの耳に聞えてしまったのではないかと思った。ひふの毛穴がゆるんでゆくように、神経が|弛《し》|緩《かん》し、そっと一歩を踏み出した。  夜はかぎりなく傾いていった。      5  |船橋《ブリッジ》に集った八人の姿は、赤外線灯の垂れ幕の下で真紅の|焔《フレーム》のようにかがやき、ひるがえった。その真紅のゆらめきの中で、航法装置の|星 儀《アストログラム》がまぼろしのような白銀の環を浮かべていた。  ——予定どおり作業がすすめられるのか?——  委員会の執事兼認定書記のアサウが、誰もが気にしていることを真先に口にのぼせた。  ——状況は全く妙なことになっているが、見とおしはどうなんだ?——  ——委員会ではわれわれの報告をどう理解しているのかな?——  |神《じん》|祇《ぎ》|官《かん》|補《ほ》のフィールや|車《しゃ》|師《し》のフセウが、老いの声にうれいをみなぎらせた。 「認定書記の質問だが、この決定はなおしばらく待った方がよいと思う。と、いうのはわれわれ乗組員、およびこの|宇宙船《ふ ね》にはなにひとつ重大な事故は起ってはいないからだ。たしかに妙なできごとが頻発している。しかし、われわれの任務のひとつには……」  私の言葉の意味することと、かれらの考えていたこととは違うようだ。かれらの不満が陽炎のように多重の映像を放って音もなくゆらめいた。 「なぜこのようなことがおこるのか、しらべることもふくまれている。それは当初の目的にはもちろん入ってはいなかったが……」  アサウが私の言葉をさえぎった。  ——神祇官は、この数日、われわれをおびやかしているできごとは、われわれの本来の惑星調査活動の|範疇《はんちゅう》にふくまれる性質のものだ、と考えているのだな。—— 「そのとおりだ。算台のバツの報告では、われわれの|宇宙船《ふ ね》が第三惑星の衛星軌道に進入すると間もなく、われわれが体験した奇妙なできごとが発生しはじめたというし、それは、十八時間前に、抵抗板の故障でいち時、衛星軌道から脱出し、その後まもなくふたたび衛星軌道に進入した時にも確認された」  ——つまり、神祇官はこの現象は第三惑星に関係がある、というのだな。—— 「関係があるかどうかはわからない。しかし、第三惑星に接近することによって生起するらしい、ということだけは言えそうだ」  ——委員会ではどのように考えているのだろうか?—— 「|車《しゃ》|師《し》の質問には私も答えかねる」  私は老パイロットのフセウの、波紋のような輪郭を見つめた。 「われわれが失敗すれば、第二の調査船、それもだめなら第三の調査船が送り出されるだけだ。われわれも今から、引きかえすことはできる。みなの気持しだいだ」  八人の乗組員たちは、たがいになかまの心をさぐり合った。不気味なのは誰も同じだった。 「ここできめよう。引きあげるか、それとも着陸するか……」  誰も、なにも言わなかった。  そのとき、|船橋《ブリッジ》の内部にあふれた赤外線灯の真紅の光が、陽が翳るように薄れた。|星 儀《アストログラム》の銀環が生命を枯渇したかのように光彩を失って、金属とガラスの地肌の色にもどった。八人の体から陽炎のように立ちのぼり、ゆらめいていた生命の|焔《ほのお》も、にわかに力を失って収縮し、破れた旗のように力なくたれ下った。不安と恐怖が、かれらの生命の焔をいよいよ暗色に塗りつぶした。 「落ち着け!」  私はさけんだ。 「そのまま! |車《しゃ》|師《し》は操縦席につけ。神祇官補は|星 儀《アストログラム》を監視しろ!」  操縦装置と航法装置さえ確保しておけば、なにが起ってもなんとかなる。フセウとフィールが、なかまから離れて、それぞれの持ち場へ走った。 「静かに! 体力をむだに消耗するな!」  赤外線灯の不調の原因がつかめないうちはむだな体力の消費は極力、さけねばならない。フセウが操縦席におさまり、フィールが航法装置の|星 儀《アストログラム》のかたわらに立った。そのとき、私は見た。 「いいか、神祇官補。何があっても、そこを動いてはいけない。この際、恐怖はもっともおそろしい敵だ」  フィールを勇気づけておいてから、みなに言った。 「よく見てくれ。神祇官補が二人いる。右側がほんものの神祇官補だ」  |星 儀《アストログラム》の右側に、神祇官補のフィールが緊張と恐怖に体を石のように|硬《こわ》|張《ば》らせて立っていた。|星 儀《アストログラム》の透明の球形ドームに当てた左手がこまかにふるえているのが、私の所からでもよく見えた。 「いいか。|星 儀《アストログラム》に手をかけていないのが〈にせもの〉だぞ。それ以外に区別はつかない。認定書記、目をはなすな!」  |船橋《ブリッジ》の内部に〈にせもの〉があらわれたのははじめてだった。これまで、何回か、船内に乗組員たちの〈にせもの〉——それはたしかに、にせものとしか言いようがなかった。認定書記のアサウや、車師のフセウ、あるいは算台のバツ、機工公のフタム、その誰の場合でも、ほとんど本人と区別がつかなかった。それはほんの一瞬、長くても二、三秒の間、周囲のなかまたちの目にふれ、そのあと、たちまちけむりのように薄れ、消えていった。ただ、それだけのことだ。別に何の被害も生じることはないのだが、せまい宇宙船の中で、それはたとえようもなくぶきみだった。  ——神祇官! |星 儀《アストログラム》もあらわれてきたぞ!  絶叫が私の|頭《ず》|蓋《がい》に突きささってきた。にせものはフィールだけではなかった。にせもののフィールが、なにかによりかかるようにのばした左手のその先に、うっすらと、しだいに濃く、やがて実在のそれと全く見分けがつかない大きさや形、色合いを見せてあらわれてきたのは|星 儀《アストログラム》だった。  まぼろしだろうか? それとも未知の光学現象だろうか? われわれは身動きもせずに見つめた。少しでも動いたらさいご、それは一瞬にして消えてしまうであろうことはわかっていた。そのために、これまで調べようにも調べることができないでいたのだ。  なんとかして、あれに触れることができないだろうか? 私は歯ぎしりした。  とつぜん、算台のバツが風のように動いた。|星 儀《アストログラム》までの十数歩の距離を、かれはいっきに跳んだ。暗い赤外線灯の下を、かれの熱放射が燐光のように長い尾を曳いた。つぎの瞬間、かれの褐色の|躯《く》|幹《かん》は、|星 儀《アストログラム》の巨大な透明ドームに貼りついていた。かれの長い手足と、細い胴体の作る黒い影が、にせものの|星 儀《アストログラム》の経緯盤の上に落ちた。ほとんど同時に、かれの体は何もない床の上にあった。にせもののフィールと|星 儀《アストログラム》はまぼろしのように消えていた。赤外線灯がにわかに光輝をとりもどし、みなの体から放射される体温がふたたび幾重もの|縞《しま》模様と白銀の焔を描き出した。  ——神祇官! あれは物体だ。まぼろしや光学現象ではない。あれは確実に存在していた!——  バツが、床に落ちた姿勢のままでさけんだ。確信に満ちていた。  ——しかし、あれは消えた。目の前でな。あんな物体があるだろうか?——  フセウが疑惑の声をあげた。  ——それに、あの、にせもののフィールはどうだ? あれも現実の存在だったといえるのか?——  天象主任のタベがフセウの心象のかげからたずねた。  算台バツは赤外線灯の光の中で焔のように渦巻いた。  ——あの神祇官補も実在だと思う。なぜなら、あの|星 儀《アストログラム》の感触は、まさに私の神経組織の正常な活動による所産だからだ。その|星 儀《アストログラム》と存在の条件を同じくする神祇官補もまた、実在といわなければならないだろう——  みなはおしだまった。計算学の最高権威に贈られる算台という名誉の称号の所持者であるというだけでなく、バツの冷静な観察力と、探検家としての豊富な体験と業績には信頼するところが大きかった。 「算台。あれが現実の存在だった、というきみの実感を信じよう。ただ、なぜ、あのような現象がおきるのか、説明できたら聞かせてくれ」  私はみなにかわって言った。  ——それはわからない、神祇官。このできごとが、やがて来るであろうなんらかの事態の前ぶれであろうことはまちがいないだろう。神祇官。われわれは想像もできないようなできごとに直面しているのかもしれない。このまま進んだら、ことによったらわれわれは一人も生きて還ることはできないかもしれない。どうするかは、神祇官にまかせようではないか——  二時間後、われわれの宇宙船〈クワク・ワ・タキテス〉はもっとも内側の衛星軌道まで高度を下げた。これより降下すると、もはや軌道飛行ではなくなる。 「算台。三十分後に着陸針路初発位置に到達する。算定結果を神祇官補に送れ。天象主任は着陸地点の気象と地形を。|車《しゃ》|師《し》は現態勢を維持、認定書記は私を補佐する……」  夕焼けに染まった砂漠に祭壇を組んで、星々の運行をうらない、星雲の光芒に種族の運命を読みとった遠い古代の神祇官の栄光と責任が、私の胸によみがえってきた。長い時が過ぎ去って、今は、私たち神祇官は、たくさんの乗組員を指図して宇宙船をあやつり、宇宙航路を開き、惑星を探察して回っている。その栄光と責任は、そのむかしの神祇官にまさるとも劣るものではない。それに、われわれは重大な問題にぶつかっていた。  エレベーター・チューブの透明な壁ごしに、灰褐色の石ころだらけの平原が広漠とひろがっているのが見通せた。平原はわずかに右に傾斜していて、その先にかなり広い水面が光っていた。その水面は、進入コースの途中で、目標としてチェックしたもののようだった。そうだとすると、水面のむこうにひろがる大荒原は、この惑星の赤道地方までつづいているものだ。神祇官補のフィールが着陸地点をみなの地図にマークした。天象主任のタベが観測器材を背負って私の後についた。  エレベーター・チューブの透明ドアが開き、私はフィール、タベ、そしてアサウの三人をしたがえて、荒れ果てたこの惑星に最初の一歩を踏み出した。  ——異常ないか?  フィールの声がやや上ずっている。車師のフセウの顔が電話機にあらわれた。おどろいたことには、フセウはまだ装具をつけたまま|操縦席《パイロット・シート》におさまったままだった。  ——フセウ。何かあったら、おれたちをおいて逃げ出すつもりか——  フィールがとがった耳のあたりで両手をひらひらさせた。それは、かれらの種族に共通な、からかいのサインらしい。フセウの顔が濃い赤褐色に変った。かれらの種族は、からかわれることを極端に嫌う。  静かにすかさず、私はかれらを制した。ふだんはほとんど気持の動揺を見せたことのないかれらが、今はかなりまいっているようだった。わずかの刺激にでもいら立って神経をすりへらしている。タベがすばやく計測装置にあらわれた結果を船内のバツに送った。  ——大気成分の七六%が二酸化炭素。二一%がチッ素。少量の一酸化炭素、亜硫酸ガス……酸素がほとんどない。  ——この惑星には、まだ二酸化炭素を必要とする生物もあらわれていないようだ——  アサウがほっとしたように周囲を見わたした。二酸化炭素を必要とする生物が存在していないのならば、大気中には酸素もできていないだろうし、その酸素を必要とする生物が存在するようになるまでには…… 「何年ぐらいかかる?」  算台のバツの声がもどってきた。  ——この惑星は誕生してから、まだ十億年ぐらいしかたっていないようだ。しかし、そろそろ生命の発生を可能にする化学的変化がこの惑星全域にわたって始まっているようだ—— 「わかった。ここでは宇宙船ほどもある大きな昆虫や、われわれぐらいの大きさのバクテリアなどに出会う心配はないわけだ」  ——まあ、十分に気をつけてくれ——  バツの声が沈んだ。宇宙船ほどの大きさの昆虫や、われわれぐらいの大きさのバクテリアなどにぶつかるぐらいなら、むしろその方がよい。  湖へ向って四人はゆっくりと進んでいった。  湖はおそろしいほど澄んでいた。強い陽射しが、深い湖の底の白い岩石まで照らしている。いかなる種類の微生物もまだ存在していないこの世界では、湖や沼や、海さえもがその水は濾過水のように澄明で硬かった。タベが水質検査をはじめた。われわれ三人はその間に湖を見おろす北側の丘に上った。西の地平線にわれわれを運んできた宇宙船が巨大な塔のようにそびえていた。南方の地平線と空の接する部分には、長く山脈の影がのびていた。その山脈の上に二か所、東の地平線に一か所、褐色のけむりが薄雲のようにたなびいていた。 「あれだな。着陸コースの途中で両側に見えた火山は?」  認定書記のアサウがコンパスを持って、遠いけむりにひとみをこらした。かれの大きな環状眼が、強い陽射しに収縮し、|瞳《どう》|孔《こう》がぽっちりと小さな穴になった。  ——そうだ。南方の山脈は、かなり大規模な造山活動が今もさかんにつづけられていることを示している。おそらく、この平原は太古の海だったにちがいない—— 「アサウ。北を偵察しよう。本船に連絡してヘリコプターを出発させろ。すべて打合わせどおりにやるようにつたえろ」  この濃密な大気なら、あやぶまれていたヘリコプターの使用も大丈夫だった。五分ほどすると、遠い宇宙船の船腹から、小さな|有《ゆう》|翅《し》昆虫のようなヘリコプターが飛び出すのが見えた。  湖の周辺ではタベが主役だった。水質。土壌成分。大気成分とその分圧。予想雨量。生命体の発見など、タベの調査はあらゆる方面にわたっていた。アサウもフィールも、私も、かれの作業のてつだいに没頭した。一時間ほど過ぎた。  とつぜん、アサウがさけんだ。  ——神祇官! あれを見ろ!——  アサウの指す北の空低く、一機のヘリコプターが風に吹き飛ばされる小さな昆虫のように必死に飛んでいた。 「どうしたんだ? 認定書記、すぐヘリコプターに連絡しろ!」  ——神祇官! ほら! もう一機いる——  私は思わず息をのんだ。偵察用ヘリコプターの、三百メートルほど後方に、形も大きさも全く変らないもう一機のヘリコプターが、やはり風にもまれる小さな昆虫のように、右に左に機体をひねりながら飛んでいた。  ——神祇官! にせものだ! あれは偵察用ヘリコプターのにせものだ! 出たんだ。また、出たんだ!——  フィールの声がかすれた。 「認定書記! ヘリコプターに連絡。あわてるな。ただちに着陸せよ」  アサウの声で落ち着いたか、ヘリコプターは速度を落してゆっくり旋回し、宇宙船のかたわらに着陸した。それを追って、もう一機のヘリコプターも着陸する。  私はいそいで宇宙船に残っているメンバーと、ヘリコプターの乗組員とで、あとから着陸したヘリコプターをとらえるように指示した。宇宙船やヘリコプターからとび出したかれらが、砂をけたてて今着陸したばかりのにせもののヘリコプターへ向って走ってゆくのが豆粒のように見えた。  われわれがかけつけた時には騒ぎはあらかた静まっていたが、バツやフタムたちは熱線銃をにぎったままだった。万一の用心のために一基だけ搭載してきた熱線砲まで引き出してある。わけを聞くまでもなかった。着陸した二機のヘリコプターはマークからナンバーまで全く見分けがつかない。似ているというよりもこれは同じものだった。  ——神祇官! あいつを見てくれ!——  機工公のフタムが顔を引きつらせた。  砂の上に二人の男が立っていた。一人はフタム。もう一人は車師補のイルだった。これまでは、たとえあらわれても、長つづきせず、すぐ消えてしまった。しかし、今はもう、消え去ることなく、実在の人間としてこのように存在していられるということは、これらのにせものを作り出すなにかの装置から極めて近い距離にあるせいであろう。私のかたわらでフタムとイルが今にも泣き出しそうに顔をゆがめていた。たずねるまでもなかった。 「認定書記! かれらの体を調べろ! 神祇官補と機工公はあのヘリコプターを調べるんだ。車師と天象主任には撮影してきたフィルムをたのむ。車師補! 落ち着いて答えてくれ」  結果は、 (1)にせもののヘリコプターは、予想したとおり、内部の構造から材質まで、本船に搭載してきたヘリコプターと全く同じものだった。 (2)そのヘリコプターに乗っていた二人の人物も、またフタムとイルとに、同一だった。内臓器官、神経系、血液その他、どの部分をとってみても、フタムとイルそのものに変らなかった。かれらの細胞組織はあきらかに生きていた。しかし、かれらに注入された知識は皆無に近い。つまり知識や個人的な記憶の複製は不可能だったようだ。 (3)フタムたちが撮影してきたフィルムには、はるか北方の荒れ果てた平原に、奇妙な建築物がそびえ立っているのが写されていた。フタムは塔であるといい、イルは宇宙船ではないかと思うといった。  私はこれまでの結果を長文の報告にまとめて本部へ打電させた。本部では、きっと、われわれがみな頭がおかしくなってしまったと思うだろう。この第三惑星に生物が存在しているというのでさえ、おかしいのに、それがなかまと外観、内容とも寸分たがわぬ生物というのだから、報告する側のわれわれ自身、自分の頭を疑いたくなる。  ——神祇官。その建築物というのを調べてみようではないか。この第三惑星にはまだ生命体が出現していないのだから、それはおそらく、この惑星のものではあるまい——  車師のフセウの言葉にみなは強くうなずいた。  ——たとえヘリコプターがあらわれ、われわれがふた組できようとも、それで別に危害が加えられたというわけではないのだから、まあ、これ以上、状況が悪化するということもないだろう。この事態の報告は第三惑星そのものの調査報告よりもはるかに重要だ——  算台のバツが私に同意を求めた。  しかし私の胸にかすかな不安がわいた。それはこの数日、責めさいなまれていた恐怖や不安とは、本質的に異った、ある根源的な、なにかに対する不安だった。なぜか、その不安の理由は私の心の中にすでにはめこまれ、固く封印されてあるのだった。しかし、私はバツに同意した。  早速、出発の準備にとりかかった。船腹を開いて、搭載してきた数台の地上車をクレーンで地上におろした。通信器材や食料、小型動力炉などを積みこみ、まだ陽の高いうちに北方の地平線めざした。宇宙船にはフィールとタベが残った。  その夜は平原で三時間ほどの仮眠をとっただけで、ひたすら北へ向った。巨大な衛星が昇り、青いつめたい光が平原を海のように染めた。けむりのように砂塵を曳いて走る地上車の列も、その青い光の中に溶けこみ、時には完全に姿を失った。  夜があけ、平原の果てに故郷で見るよりもあきらかにひと回り大きな太陽が昇った。先頭を走るフタムの車から、レーダーがゆくてに何かをとらえたと知らせてきた。最後尾のフセウの車から、ヘリコプターが朝のオレンジ色の大気の中へ舞い上った。つづいて、後続する車のレーダーにもつぎつぎと反応が入りはじめた。  陽がかなり高くなった頃、われわれは地平線にそびえる異様な物体を、はっきり肉眼でとらえることができた。正午すぎ、われわれはその巨大な物体の下まで車を近づけることができた。それが何であるかは、すでに誰の目にもあきらかだった。  ものを言う者もいなかった。誰もが、錯乱におちいろうとする自分を必死につなぎとめていた。正常な意識を支え切ることだけが、生きてこの惑星を脱出し得る唯一のてだてだった。どれぐらいそうしていたことか。私はようやくよみがえってきた自分自身に、熱線銃をつきつける思いでさけんだ。 「内部を調査する!」  私は目の前にそびえる宇宙船〈クワク・ワ・タキテス〉の船腹に突き出しているエレベーター・チューブへ向った。  ——やめてくれ! 神祇官。引き上げよう——  ——神祇官! 調査する必要はないだろう。わかっているはずだ!——  フタムとフセウが絶叫した。若いイルはほとんど正気を失っているようだった。アサウとバツがすがるように私を見つめていた。私は強くうなずいた。 「来い!」  船内に入るまでもない。誰の胸にも、おそれが渦巻いていた。ほんものと寸分たがわない宇宙船〈クワク・ワ・タキテス〉の船内には、自分が、なかまが、同じようにスクラムを組んでわれわれをむかえようとしているはずだった。われわれが武器を手にしたらかれらもまた武器を手にして、われわれを待っているであろう。かれらは、われわれの分身であり、われわれそのものだった。  私はエレベーター・チューブのドアを開いた。私はイルのうでを支え、アサウとバツがフタムとフセウに肩を貸していた。〈クワク・ワ・タキテス〉の見馴れた船内通路に、青白い照明灯が幾何学的な影を投げかけていた。その船内通路の角を回って、ふいに数人の人影があらわれた。もつれるようにこちらに向ってくる。その先頭にいるのは、  イルのうでを支えた私だった!  どこをどう走ったのか、気がついたときは、われわれは地上車のかたわらに打ち倒れていた。誰の顔も死人とかわらなかった。  バツがしきりに私をなぐさめてくれた。私が真先に逃げ出したのか、と思ったらそうではないようだった。それだけが救いだった。しかしこのまま退却することはできない。私は三時間後に、再度船内に入ることを告げた。  陽はすでに大きく西の空にかたむいていた。ねっとりと重い大気がまるで流動物のように平原を流れ、宇宙船をつつんで渦巻き、真赤な太陽の方へわたっていった。この濃厚な大気につつまれ、大きな熱い太陽からたえずエネルギーの補給を受けているこの惑星は、生物の活躍の舞台にはうってつけだった。ここだったら、われわれも赤外線灯などのやっかいにならずにすむ。われわれは遠く小さい太陽からは十分に得にくい熱や光を、赤外線灯から得ることによって解決した。解決したつもりだったのだ。赤外線灯の赤い光の幕は、われわれの生命の象徴でもあった。 「ここへ移住するべきだ!」  アサウが妙な顔をしてふり向いた。  ——なにか言ったか!—— 「いや」  ——神祇官。すこし休め。つかれているんだ——  私に向けられたアサウの顔がとつぜんはげしくひきつった。かれの環状眼は、太陽に向けられているにかかわらず、眼球いっぱいに拡大された。その目は私の肩ごしに遠い背後を見つめていた。  夕焼けにはまだ多少間のある平原に、影を落して地上車がならんでいた。そのかたわらの土砂が噴水のように高く吹き上った。その土けむりの下から、巨大な|爬虫類《はちゅうるい》のように姿をあらわしたのは地上車だった。そのナセルやキャノピーから土や小石が滝のように落下すると、地中からせり上がってきた地上車は、われわれが乗ってきたもののとなりへ一列にならんだ。砂けむりが風に吹き散らされると、永遠の静寂がひろがった。 「認定書記! |宇宙船《ふ ね》から土木機械を運んでくるんだ。ここを掘りかえしてみよう。この下に何かある!」  四十八時間後に作業がはじまった。二基の小型動力炉がその作業をごく短いものにした。そうでなかったら、われわれは何年もの間、この荒れ果てた平原で作業をつづけなければならなかったろう。  七十時間後、平原に直径五百メートル、深さ百メートルほどの巨大なクレーターが出現した。そのクレーターを掘り下げるために、この砂上に生れた宇宙船も、地上車も、遠く移動させ、または爆破しなければならなかった。  やがて、光の柱のように降りそそぐ投光器の光芒の中で、クレーターの底に巨大な物体が姿をあらわした。自動パワー・シャベルがそれをたんねんに掘り出すのを、われわれはクレーターのふちにならんでだまって見つめていた。  はじめ私はそれを電子頭脳かと思った。私は算台のバツをともなってクレーターの底へ降りていった。クム・シデカイ古生層後期の破砕岩に類似した|肌《き》|理《め》の粗い変成岩層の間に、それは埋没していた。地すべりによって地の底へ引きずりこまれた古代のとりで、とでも言えばもっとも似つかわしいかもしれない。それほど大きかった。その土台に当る部分に、たくさんの器具や、人の形をしたものが土まみれになって散乱していた。そのどれもが作りかけのように不完全だった。  ——神祇官。なんだろう? あれは?—— 「算台。この物体はおそらく複製装置ではないかと思う。それも、見本と全く変らないものを幾つでも作り出すことができる装置だ」  ——神祇官。いったい、これはどこの、なにものが作ったのだろう? どうして、この第三惑星にこのようなものがあるのだろうか?—— 「わからない。この惑星にはまだ生物は存在していない。そしてこの物体はわれわれやわれわれの祖先の手によって造られたものでもない。と、すれば、算台……」  ——他の惑星から運びこまれたもの、だというのか?—— 「このような物体が、なぜ、ここに、と考えるよりも、このようなものが、第四惑星にも、第五惑星にも、ひろく太陽系一円にばらまかれていると考えた方が現実的だろうよ。この物体は、ある距離まで近づいてきた他の物体を、何かの方法でさぐり、その結果にもとづいてそれと同じものを作り出すはたらきがあるんだ。これは物質を複製し、再生する装置だ」  ——神祇官。ここへこの装置を運びこんだものは、いったい何を複製するつもりだったんだろう?——  答えはひとつしかなかった。この惑星に、やがて確実に足を踏み入れるにちがいない高度な知能を備えた見本とは…… 「この惑星に、われわれと同じタイプの生物をふやしたかったのだろうよ」  ——何億年も待つことはできなかった、というわけか—— 「バツ!」  私は職名を呼ばずに、直接名前を呼ぶことが慣習上、もっともさけねばならない非礼な行為であることも忘れてさけんだ。 「私たちも、また、そうだったとは考えられないか!」  ——神祇官。われわれもどこかの生物の複製だと? 神祇官。もしそうだとして、なぜ、そんなことをするのだろう? そのことに、いったいどんな意味があるのだろう?—— 「算台。このような装置を手に入れた文明は、いったいどうなると思う? 私はここを掘ったのは、いや、この惑星へやってきたことが、そのまま、第四惑星の高等生物であるわれわれ全体の運命だったのだと思うよ。これはおそろしい実験かもしれない。さあ、これを持って帰るんだ。もう、あとへもどることはできない」  流れ星が飛んだ。天頂から地平線まで長い長い残映がしばらくの間、消えずに残った。      6  何の物音も聞えなかった。ただ、星空に映える白い崖と、千古の静寂につつまれた夜の闇だけがあった。私の足の下で、地表をおおった砕石は薄い氷のようにくだけ、とび散った。その乾いたひびきが暗い谷間にこだました。  私は名を呼んだ。  私は名を呼んだ。 「おしえてくれ! 老ウルイ!」  銅像の肩や台座に鳴る風と、その風に吹き送られる砂のかすかな音だけが、聞えるもののすべてだった。 「おしえてくれ!」  ——東キャナル文書におさめられているたくさんの物語の中のひとつだ。忘れてしまえ、リュウ。この谷に地球の人間がやってくることもないだろうさ。十億年という時間は、そう短いものじゃないぜ……  ふと、老ウルイの声が聞えたような気がした。  しかし、それも、そら耳だったにちがいない。風はいよいよはげしく、私自身の声さえ、さらっていった。 「おしえてくれ! フィール! タベ! フタムやフセウ。バツも! そうだ。認定書記、アサウ! どこへ行った?」  私は心に灼きついたなかまの名を呼んだ。見たこともない白い崖と、その谷にそびえる奇妙な廃墟は、もしかしたら、かれらと何か関係があるのではないだろうか? 「みんな! どこへ行った?」  星が飛んだ。  間もなく砂嵐の季節がこようとしていた。白い崖も、遠いむかしのなかまたちの記憶も埋めつくす砂嵐が、間もなくこの街をおとずれようとしていた。     |火星人の道《マーシャン・ロード》 ㈵ [#ここから3字下げ] ゆき交う 人々よ 漂泊の影に くらい波紋に宿る過去の|堆《たい》|積《せき》の  ランターンを かかげ—— [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]善六・キクカワ [#地付き]詩集 序章より [#ここから1字下げ]  暗いオレンジ色の太陽が遠いオリオーネ山脈のなだらかな|稜線《りょうせん》にかかると|稀《き》|薄《はく》な大気は|陽《かげ》|炎《ろう》のようにかすかにふるえる。風だ。やがて来る夜の先触れの風が、広漠たるアマゾン砂漠をはるばるとわたってくるのだ。そのあるかないかのわずかな風に追われて  砂が走る。砂が走る。  まるで重さをもたない乾いて軽い砂が幾すじも幾すじもけむりのように走る。時に|紗《しゃ》のようにひるがえり、あるいは竜巻のように渦まいて天まで|這《は》い上り。走る。走る。それは風の影だ。眼に見えない風が、ほんのひととき、走る砂におのれの姿を|托《たく》して存在を主張しているのだろう。そうでもしなければ、ここではゆらめく一枚の木の葉もないし、流れる千切れ雲ひとつないからだ。|誰《だれ》に見せようと? 人間にか? 火星人の目の前をも、風はやはりこうして砂をまいて吹き過ぎていったのだろうか?  砂の動いたあとに、思いがけなく黄褐色の小さな葉をつけた地衣類の群落があらわれてくる。硬い表皮と粗い毛につつまれ、髪の毛のような細い根を砂粒にからませて必死に地表にしがみついているそれら地衣類は、長い一生の間に、水というものを吸ったことがあるのだろうか? 新しい葉をつけることもなく、実を結ぶこともなく、ひたすらに意志だけを結集し。何のために?  砂が飛ぶ。砂が飛ぶ。飛んできた砂はみるみる地衣類の群落をふたたび厚くおおいかくし、さらに長く長く尾を|曳《ひ》いて遠い地平線へとかけぬけてゆく。  その方角が『|火星人の道《マーシャン・ロード》』だった。 [#ここで字下げ終わり]      1  さわやかな風が吹きわたってゆくたびに、開け放された窓から黄ばんだ木の葉が舞いこんで、ならんでいる人々の間を|蝶《ちょう》のようにひるがえっていった。  今は秋九月。窓から見える空は染めたように|碧《あお》く、白い千切れ雲が浮いていた。 「……あなたがたの偉大な功績に対し、全人類は最大の賛辞と、つきることのない拍手を送るものであります。かつて人類ははなはだ原始的な一個の人工天体を宇宙空間に送り出した。おりしも世界は、全地球的な規模の経済的……」  正面の高い台の上に立った一人の人物は、おびただしいテレビ・カメラとマイクロフォンの前で、孤独な戦いを演じていた。それはいかにかれが名誉というものを重んじ、人間の努力というものを信じているかということを、かれ自身とかれの前に置かれている電子的無機物のむれに説明し、説得しようとしているかのように見えた。事実、その時、かれは地球上の全人類に向ってうったえていたのでもあった。  今は秋九月。窓から見える空は染めたように碧く、白い千切れ雲が浮いていた。  さわやかな風が吹きわたってゆくたびに、開け放された窓から黄ばんだ木の葉が舞いこんで、ならんでいる人々の間を蝶のようにひるがえっていった。  どこかで死の|匂《にお》いがする。  ならんでいる人々と、それを囲むさらに十倍以上の数の人々は、背をまっすぐにのばし、にこやかなほほ笑みを浮かべてこのひとときを形作っていた。 「……今や人類は宇宙に向って力強く足を踏み出しています。開発の前線は遠く木星にまでおよび、十四か所の根幹的施設と百二十九か所の開発のための基地ならびに天体観測拠点は、人類に明日の文明をもたらす強力なブルドーザーの役目を果しつつあります。すなわち、月から送られて来る多量のウラン鉱。同じく金星のボーキサイト、プラチナ、すぐれた集光性を持つ結晶性炭素化合物。また木星の衛星上に設けられた化学工業プラント。火星の宇宙開発ステーション等、どれひとつをとってみても、人類の文明を飛躍的に向上させ、世界経済への安定剤として多大の……」  自信と威厳は単にかれの口調に有るだけではなく、この時まことに人類そのものの上に在った。  濃藍色の夜がくると、もはや砂はほんのわずかな動きもとめ、凝結した夜気に耐える。一秒が億兆年の一部分なら、夜は明けぬも明けないも同じことだ。火星人は海の|唄《うた》を歌っただろうか? 旅立ちの唄を。一秒が億兆年の一部分なら、砂に埋める夢があってもいい、とは誰が言う?  なぜ? 「これから久しきにわたって、子供たちはあなたがたをたたえた詩を口ずさみ、女たちはあなたがたの姿を刻んだ|浮彫《レリーフ》をみがきつづけるでしょう」  久しきにわたって? なぜ永遠に、と言わないのだ?  死の匂いがする。木の葉はあとからあとから舞いこんでは、壮大な円天井の下をまるで意志あるもののように|浮《ふ》|游《ゆう》して回った。どこかで秋の鳥が鳴いている。人々はうっとりとほほ笑みながら、拍手するきっかけを待っている。 「私たちは、あなたがたのことを、子供たちに話してやることができるのをたいへんうれしく思います。それは私たちの夫や兄弟、子供たちの……」  女の白い顔が窓の外の碧い空に向いたとき、そのほおをなみだがつたうのが見えた。  夜明け近い|頃《ころ》、ほんのわずか砂の上に霜が降りた。それは微細な氷の結晶で、たちまちけむりのように消え、あとには霜よりも白い砂の海がまぼろしのようにひろがった。とけた霜は砂の下の地衣類までとどくはずもない。  ファンファーレが高く鳴りひびき、一人の小がらな老人がならんでいる人々の前へ進んできた。数歩、歩いては立ち止り、立ち止っては歩き出す。老人の後には何十人もの男や女がつづいていた。老人は立ち止るたびに、ならんでいる一人一人に手をさしのべた。長官の後にしたがっている男の一人は分厚い名簿を手にしていた。 「……かれは金属材料の真空中における特殊ゼイ性破壊の原因究明と対策の実用化で、惑星上の半永久的施設の建設に多大の貢献をいたしました」 「ごくろうだった」  長官は肉が落ち、しみだらけの手をのばした。手をさしのべられた男は、機械人形のような動作で長官の手をにぎりかえした。 「今はどこに勤務しているね?」 「金星の第七パイロット・ファームで冷却システムの管理をしています」  長官は何度も大きくうなずいた。 「あの熱あらしは非常に危険なものだ。充分に注意してくれたまえ」 「はい。しかしパイロット・ファームはシステム作業ですから地上に出ることもありません」 「基地の安全はたもたれているかね?」 「危険は全くありません。施設内の環境も地球とほとんど変りありません」  長官は満足そうに、背後に立つもう一人の男のささげ持ったトレイに手をのばした。その上には銀色のメダルが山盛りに積み上げられていた。長官は慎重な手つきでそのひとつをとり上げた。メダルは何か花の形をしていて、その上部に小さな環があり、一個のピンがとりつけられていた。かれはそれを右手の指にはさむと、パイロット・ファームの管理官の胸にとめた。 「しっかりやってくれたまえ」 「ありがとうございます。長官」  二人はふたたび固く手を握りあった。長官のほとんど骨だけの冷えた手と、管理官のまるでピアニストのような整った形の長い指とは共通の義務と信念を伝えあって軽くうちふられた。散兵線を死守する兵士をはげますそれではなく、また、命をあずける|証《あか》しでもなく、ある|酩《めい》|酊《てい》だけがそれぞれの作業と意識を選択から遠く置いていた。なみいる人たちは、今日何十度目かの感動をあらためて味わっていた。  長官はゆらりと移動した。 「……かれは三十年にわたって十八個の|航路標識《ポイント》を管理し、その間、第二大圏航路における航法誘導上の幾つかの問題を解決して安全航法に多大の貢献をいたしました」 「ごくろうだった」  長官はメダルをとり上げた。朝からの式典で老齢の長官はかなり疲労していた。実際、立ったり、座ったり、草稿を読みながら同時にテレビ・カメラに眼をすえ、そして今は一人一人の前に立ち止っては声をかけ、握手をしてメダルをわたす。それはいつ終るとも知れぬ耐え難い苦痛とそれに耐える忍耐力を必要とする作業だった。 「今はどこに勤務しているのかね?」 「宇宙技術センターの付属カレッジで教務主任をつとめております」 「優秀な技術者を育ててくれたまえ。きみのような」 「ありがとうございます」  長官はかれの手を握り、胸にメダルをとめてやり、それからもう一度、しかしこんどはやや事務的に手を握ってかれの前を離れた。  栄誉を受けるべき人々の列は、長官の前にまだ長くつづいていた。その先は遠く遠く、かなたの白亜の壁に小さく融けこんでいた。そこへたどり着くまでには気の遠くなるような時間が必要であろうと思われた。  長官の後には何十人もの男や女たちがつづいていた。かれらは長官が移動して行ったあとを襲って、同じように手を握り、ねぎらいとはげましの言葉を送ってはゆるやかな大河のように動いていった。 「宇宙省、火星局次長の……です。おめでとう」 「連合・宇宙委員会主席事務局員の……です。ごくろうでした」 「連邦準備委員の……です。私、今日はほんとうの感激というものを知りましたのよ」  かぐわしい言葉と、はなやかな微笑の渦が、栄誉に酔った人々の胸にさらに豊かな味わいを与えた。高官たちの制服を飾るたくさんのメダルや略章、それに今日の式典の、それが例年の慣習となっている女性高官たちの思い思いに好みを凝らしたドレスが、豪華な交響となって、いならんでいる人々をおしつつんでいった。 「おい。フサ。つぎはおまえの番だぞ」  背後からかいぞえ役のハルがささやいた。フサはわれにかえって胸を張った。首すじから後頭部にかけて、|錐《きり》でももみこまれるように痛かった。心臓の鼓動もひどく早かった。理由はわかっている。大気中の酸素分圧が高過ぎるせいだ。しかしこれ以上、調節は不可能だった。腰にとりつけた|代謝調節装置《メ タ ポ ラ イ ザ ー》はすでに全開になっていた。今ではほとんど見られなくなっている旧い|型《タイプ》のその装置は、気温が十六・五度C以上になると目に見えて機能が低下してくる。フサは犬のように口を開いて、体内にこもった熱を吐き出した。目を上げると、フサの頭上で高大な円天井が奇妙にゆがんでゆっくりと回転していた。 「……東キャナル市在住。元A級宙航士フサです。宇宙省所属宇宙技術者として八十年にわたる勤務の間に、太陽系外探察計画に参加すること七回。太陽系内惑星探察計画に加わること十八回という記録の持ち主であり、宇宙開発史上に……」  誰かが、何かの記録を読み上げていた。その乾いた無機質の声が、高く、低く、波のような単調な起伏でフサの耳にとどいてきた。 「なるほど……ほう……そうかね。ふむ……」  もうひとつの声が、すぐ近くで聞えていた。フサはそれをたしかめようと思ったがひどくおっくうだった。 「フサ! どうした? 長官だ」  背後から強い力で小突かれて、フサは稀薄になった意識を引きしぼった。小がらな長官がフサの前に立っていた。 「ごくろうだった。何か不自由なことがあったらいつでもそう言ってくれたまえ。できるだけ希望にそうようにするから」  老人はあらためてフサの全身に、ある感情のこめられた視線をはわせた。それはフサのよく知っている目だった。フサは見かえすともなく老人の視線を受け止めた。老人はさりげなく目をそらせ、背後のトレイからメダルをとり上げた。これまで何十回かくりかえしてきた|手《て》|馴《な》れた手つきでピンを指にはさむと、長官はフサの前に歩み寄った。そのままメダルをフサの胸にとめようとして、長官はにわかにはげしい困惑の表情を浮かべた。|空《くう》にささげられたメダルがこきざみにふるえた。 「おい!」  老人は宇宙省の役人をふりかえってあごをしゃくった。役人もすぐには気がつかなかったらしい。老人が指にはさんだままのピンと、かすかに朱を浮かべた老人の顔を交互に見くらべていた。 「これではとめられんじゃないか!」  老人はそれがおのれの失態であるかのように低くさけんだ。役人は棒立ちになった。  幾十の眼が、裸のままのフサの上体に注がれた。  人工心肺を収め、代謝調節装置の熱交換組織を埋めこんだ胸は厚い人工ひふでおおわれ、人工心肺を駆動する|超小型《マイクロ》モーターとその電源の水銀電池をセットした背中はガラスファイバーの保護膜で閉じられていた。それらはもともと熱風吹き荒れる金星の熱あらしの中でも、メタンの大気が渦巻く木星のジェットストリームの中でも、簡単な装具をつけただけで船外の作業ができるように造られた体だった。  宇宙省の役人はおろおろとつけ加えた。 「長官。かれらは衣服を必要としないのです。ことにこのたびはかれらの、サイボーグとしての身体的形状もおおかたのお目にかけ、かれらの……」 「そんなこと、わかっておる!」  老人は激した声で言った。 「これ。これだ。このままでは胸にとめられまいが!」  たしかに裸の胸にピンでメダルをとめるわけにはいかない。  役人はうろたえた。こうした事態を生んだ当の責任者は誰なのか、そのことだけが頭に浮かんだすべてだった。 「は、これはどうもゆきとどきませんで」  役人は救いを求めるように周囲に視線を泳がせた。老人はいらいらしたように手のメダルをうちふった。後につづく人の列から一本のひもが送られてきた。何に使われていたひもなのか、ひもはところどころ、黒く汚れていた。役人はそれを真新しいハンカチで二、三度しごいてふき取り、長官の手から受けとったメダルの環に通した。 「早くせい!」  老人は役人の手もとに憎しみのこもったまなざしを投げると、つい、とフサの前を離れてとなりに立っている者の前へ移っていった。  役人は完全に上気していた。かれはのび上がってひもを通したメダルをフサの首にかけた。ひもは短く、メダルはフサのあごに触れんばかりだった。 「サイボーグか!」 「これがそうか」  朝から続いている長くたいくつな儀式にあきあきしていた人々には、ほんのちょっとしたできごとでさえ、ひどく新鮮に、印象深く感じられるものだ。裸の胸にピンを刺すわけにはいかない。そのことが、にわかにみなの目をフサの体に集中させ、あらためてここに立っている一人のサイボーグの肉体の意味について多過ぎるほどの感想をいだかせた。  ——胸にピンを刺したら、やはり血が出るのだろうか?  ——金属と肉とはどんなふうにつながっているのだろうか?  ——体内に収められているさまざまな器具は、どんな異物感をあたえるのだろうか?  自分の肉体の上に想像するそれは決して愉しいものではない。流れ出る血の毒々しいまでの赤さや、切り開かれた筋肉層の淡紅色のぬめぬめした光沢などが、それを実際に見たはずもないのに頭の中にずっしりした現実感をともなって浮かんでくる。さらに、そうした生きている器官や組織の間に硬い金属や電子器具を埋めこまれるというなまなましい受身の苦痛のやりきれなさが、かれらの胸に陰惨な恐怖を与えた。それはひどく|猥《わい》|雑《ざつ》なことであり、野蛮なことだった。しかしそれを|滑《こっ》|稽《けい》に転化してしまえば逃げることは容易であり、他人の事として苦痛は感じないですむ。  この|栄《はえ》ある儀式に、裸体で参加している男——裸の胸にメダルをとめることができずに、ひもで首からつるしている男。転化するには、それだけのきっかけがあれば充分だった。女たちの間で、小さな忍び笑いがもれた。  かれらは救われたのだ。  あら、かわいい。そんな意味のささやきがもれ、それを合図にしたかのように人々の列はざわざわとフサの前を動いていった。表彰者に送られるはずの握手は完全に忘れられた。 「おい。気にするなよ」  ハルが太い息を吐いた。  なんということはないのだ。係の役人が、誰の胸にもピンでメダルをとめられるのだと思いこんでいたまでのことだ。ひもでメダルを首からつるしたとて、どうということはないのだ。流れるような儀式が、わずかな失態で、ほんのひとときとどこおったとしても、それはもとよりフサのせいでもなければ長官のせいでもない。汚れたひもでメダルを首にかけてやったとしても誰も笑う者はいないだろう。だが、そんなことを嫌う者もいるだろうし、こっけいと感じる者もいるだろう。やはりメダルはピンで上着の胸にとめるものなのだろう。  フサはかすかに哀しかった。  列のさいごの一人がフサの前を通り過ぎていった。かれはふと足を止めると、向きを変え、フサの前に歩み寄ってきた。フサの足もとを、木の葉がくるくると回って走りぬけていった。まぶたを持たない二つの大きな目が、じっとフサを見つめていた。その目は、燈台のレンズのように、周囲から同心円を描いて階段のように厚さを増した透明な角膜でおおわれていた。その同心円の中央に、小さくフサの姿が写っていた。 「火星人じゃないか」  フサはこれまでただ一度も火星人など見たこともなかったが、たぶんこれは火星人であろうと思った。フサはひたいの汗をてのひらでぬぐった。その指先から汗の滴がたれて床に幾つもの小さなしみを作った。火星人はやって来た時と同じように、また足音もなくフサの前を離れると、人々のあとを追って歩み去った。フサはどろが崩れるようにゆっくりと床に沈みこんでいった。  気がついた時、フサはベッドに横たえられていた。薄緑色に塗られた壁や天井が、間接照明の下で若葉のようにやわらかく目に映った。体を動かすと黒い人影がのぞきこんだ。 「目がさめたか?」  ハルだった。 「おれ、どうしたんだ?」  ハルはスイッチをひねって部屋を明るくした。 「いや。眠っていただけだ。だいぶ疲れたようだな。脳貧血を起したんだ」  フサはベッドの上に体を起した。 「火星人に|逢《あ》ったんだ」 「火星人に? そいつは面白い夢を見たものだ」 「夢じゃない。長官たちの行列のいちばん後にいた」 「そいつも制服を着てメダルをつけていたかい?」 「体はどうだったろう? おれは……おれは目だけしか見なかった」 「それはさぞかしでかい目だったんだろうよ」  フサはベッドをおりた。 「もう行っていいんだろうな?」 「ああ。目がさめたらそのまま出ていっていいと医務員が言っていた」 「宿舎へ帰る」  ハルはちらと時計に目を走らせた。 「フサ。記念ホールで祝賀パーティが開かれている。体の調子が良かったらちょっと出席してくれるといいんだが」  東キャナル市の民生局の役人として、フサをともなってここへやって来たハルには、フサの介ぞえ役だけでなく、フサをできるだけ公式の会合に出席させることによって、東キャナル市の民生局がかかえた退役宇宙技術者の生活保護に関する多くの問題について地球の宇宙開発委員会や現場機関である宇宙省に深い認識を抱いてもらうというひとつの役目があった。 「気分が良かったらでいいんだが。表彰式だって終ったことだしな」 「大丈夫だ。出席する」 「そうか。そうしてくれると助かる」  フサは部屋のドアを開いた。 「フサ。おれは宇宙開発委員会にいるむかしのなかまに会ってきたい。もう会えないかもしれないし」 「むかしのなかま?」 「ああ。ルナ・シティの航路管制局にいた時の同僚だ」 「行って来いよ。パーティが終ったらおれは宿舎に帰っているから」  フサはハルと別れて回廊を奥へ進んだ。ハルの、もう会えないかもしれないし、という言葉が耳に残った。ハルがふたたび地球を訪れることなど、ほんとうにもうないだろう。民生局の退役宇宙技術者厚生係などが、地球に出張するなどということは、何十年に一度あるかないかのことだった。 「会ってこいよ。ハル。むかしのなかまに」  フサは胸の中でつぶやいた。  回廊の突き当りが記念ホールだった。何列にもならべられたテーブルの両側には、今日表彰された者たちや、宇宙開発委員会や宇宙省のそれぞれの高官たちが座を占めていた。はるかかなたの壁面に設けられた高い壇の上では、市民の代表と思われる人物が、大ぎょうな身ぶりで話しつづけていた。テーブルの上にはおびただしい数の皿や鉢がならべられ、それに触れる食品の金属的なひびきと、にぎやかな話し声が広大なホールに充満していた。  入っていったフサの姿を見て、ホールの係員がとんできた。名のるまでもない。 「こちらへどうぞ」  席がきまっているらしかった。ならべられたテーブルの間をぬって、係員はどこまでも進んだ。  そのあとにつづくフサの背に、人々の目が集中した。 「宇宙探検にずいぶん活躍した人なんですってね」 「あのスタイルはもっとも初期のサイボーグだよ。今、大圏航路のパイロットなどではたらいているサイボーグは全く見分けがつかないものな」 「それに宇宙船や開発技術そのものが発達して宇宙開発そのものに危険がなくなったから別にサイボーグでなくともよいわけだ」 「それはそうだ。ある時期以後、しばらくの間、宇宙開発が停滞していたのは、それが、命を張らなければできない作業だというおそるべき前近代的な性格を持っていたからだ。そうではないか。真の意味での宇宙開発に必要なものは、おおぜいのごくふつうの板金工や配管工、溶接技術者や空調技術者などであって荒くれ宇宙船乗りではないのだ」 「全くそのとおりだ。技術者や作業員、それに医者などがみな宇宙パイロットとしての適性があるとは思えないし、事実はむしろ逆の場合の方がはるかに多いわけだ。そのような宇宙パイロットとしては全く不適格な人たちで推し進められる宇宙開発こそがほんとうの宇宙開発なのだ」 「人命の安全、第一ね」 「そうだよ。少しでも危険が残っているうちは生身の人間は決して入れない。あらゆる方法を使ってその危険を取り除いて、それから人間が踏みこむ。この態度が必要だったんだ」 「委員会の第三次方針案でそれがうち出されてからほとんど人命事故は無くなったな」 「ああ。危険な計画は予審の段階ですべてチェックされるか廃案にされてしまうかするので、実現可能な計画しかたてられなくなったのだ。実際、それまでの宇宙探検などというものはひどかったよ。成功したものは十回に一回ぐらいではないかな。最初には成功しても、第二次調査隊が失敗したり、それを救援するために向った宇宙船がそのままゆくえ不明になったり、あれでは幾つ命があってもたりはしないな」 「それに経済的に引き合わんよ。|厖《ぼう》|大《だい》な予算を湯水のように使って結局、何も得るところ無し、というのが当り前のようになっていたものな」 「全くだ。命知らずどもにまかせていたのでは破産だよ。字宙開発というのはビジネスだからな。ヒロイズムの問題ではないのだ」 「何光年もの距離をひと飛びに飛べるような推進装置を開発するよりも、無重力空間での荷役装置を開発する方がどれだけ有意義かわからんよ」 「それに気がついた第三次方針案は、宇宙開発の歴史を書き変えるほどの意味があったというわけだ」 「その頃の遺物なのね。あの人は」  さまざまな声や言葉が、どこまでもフサを追ってきた。その言葉の持つ意味は、これはまさしく歴史的事実だった。耳をおおったとて、あるいは言葉の主を見返ったとてその事実がどう変るものでもなかった。フサは機械的に足を運んだ。 「ここです。どうぞ」  係員が立ち止って|椅《い》|子《す》を引いた。その席は宇宙開発委員会の幹部たちのテーブルからよく見える位置を占めていた。 「これは?」  フサの前に、長い口のついた一個の吸飲みが置かれていた。そのガラス製の透明な球体の中には濃褐色の液体が満たされていた。 「はい。吸飲みをお使いになるということでしたので……」 「誰が言った? そんなこと!」  係員は当惑した表情で吸飲みの位置を動かした。そっと横へずらし、またもとの場所へすえた。 「東キャナル市民生局の方からの指示があったものですから」  ハルか! 吸飲みを使って見せろというのか! サイボーグは食事のしかたまでふつうの人間とはちがうのだ、ということを委員会の幹部たちに見せてやれというのか! 「おれはふつうに食事をするんだぜ。だが、ま、いい。そこへ置いておけ」  フサは椅子に腰を落した。むしょうに腹が立った。何もそこまで演出することはないだろう。ひとを何だと思っているんだ! あの小役人め! 退役サイボーグの福利更生を計るために委員会に刺激を与えるということと、フサが吸飲みを使って見せるということとは何の関係もないはずだった。ふと、気づくとかれとテーブルを同じくする人たちの目はひとしく、かれと、かれの前に置かれた丸い吸飲みに集中していた。その人たちの間から、ひとつ向うのテーブルについている委員会の幹部たちの何人かの目もそそがれていた。いつか怒りも薄れていた。フサは吸飲みをとり上げた。長くわん曲している吸口をくわえてゆっくりと中の液体をすすった。周囲から声の無い嘆声が|湧《わ》いた。液体は炭酸の刺すような味を舌に残した。人々はもう一度あらためてフサと吸飲みにある感情のこもった視線を当て、それから徐々に自分たちの食事と会話へもどっていった。  かれはなるべく目立たぬように背を丸めて静かに椅子をずらし、そっと立ち上った。テーブルの間をぬって出口へ向った。係員が近づいて来た。 「何かご用でしたら私が代って……」 「いや。いいんだ。宿舎へ帰る」  フサは係員を押しとどめてドアを開いた。      2  記念ホールを出ると、さわやかな夜の風が火照った肌にこころよかった。高い石段を降り、その下に設けられている警備員のつめ所へ立ち寄った。 「第八居住区のB3ブロックへ行きたいんだが」  警備員の一人が地図を書いてくれた。それをたよりにフサはホールの前から|走路《ベ ル ト》に乗った。宿舎へ帰る気はなかった。  張力の衰えた|走路《ベ ル ト》は転輪にのるたびに不快な震動を生んだ。片側二走線ずつの|走路《ベ ル ト》の、中央の二本はだいぶ前から停止したままになっているらしく、枯れた木の葉やごみが散乱していた。投光器の投げる円い光の輪の中を通りぬけるたびに、落葉の裏が銀色に光った。時おり、思いがけぬ高みにかがやく窓の列があらわれては後へ遠ざかっていった。連邦政庁エリアともいえるこの一画には、一晩中灯の消えぬビルも多いのであろう。はじめはフサ一人だけだった|走路《ベ ル ト》も、しだいに人影が多くなって来た。小さなかけ声とともに一人の男がフサの後にとび乗ってきた。男は手にさげたカバンからおりたたまれた小さな金属板をとり出すと、それを器用に組み立てて椅子を作り、腰をおろした。フサも|走路《ベ ル ト》に腰をおろした。しかしそれはとてもがまんできるようなことではなかった。 「じかに座ったんじゃとてもだめだよ。あんた。こういうものを使わなくてはな」  男が首をふった。 「椅子ぐらい置いたっていいのにな」  フサはまだ|尻《しり》から腰へごろごろと不快な震動が伝わってくるような気がした。 「いや。むかしは椅子がとりつけられていたんだよ。プラスチックの透明なすてきなやつがな。だが、しばらくたつうちにだんだんこわれてきた。それを修理するよりもこわれる方が多かったかもしれん。それで|市《シティ》は|業《ごう》をにやしてとうとう椅子をぜんぶ取っ払っちまったのよ」 「真ん中は使わないのか?」 「電力の節約だとよ。あんたは旅行者か?」 「東キャナル市から来た」 「妙ななりをしているな」 「むかし宇宙空間ではたらいていた。退役宇宙技術者だよ」 「ふうん。なんだかしらないが人間の体にもいろいろあるものだな。ところであっちの景気はどうだい?」 「景気?」 「暮しむきはどうだい?」 「さあな。暮しなんて言葉を耳にしなくなってからずいぶん長いことになるぜ」 「今でも宇宙探検なんてやっているのかい?」 「いや。ほとんどやっていない」 「へえ! そりゃまたなぜだ? ついこの間まではやれ|冥《めい》|王《おう》|星《せい》がどうだとか、アルタイルだかなんだかがどうしたとかいって大さわぎしていたじゃねえか」 「もう五十年も前のことだぜ」 「そうかね! そりゃ結構なこった。あんたの前だが、あんなくだらねえことでおれたちの稼ぎを吸い上げられちゃたまらねえよ。全くの話が」 「下らないこと?」 「ま、気にするなよ。つい言っちまっただけだ。人は誰でもてめえの職業にはプライドがあるからな。職業っていうよりも生き方にだよな。とくにあんたたち宇宙技術者ときたらそいつのかたまりみてえなもんだからな」 「気にしちゃいないさ。おれも退職したし、連邦も宇宙開発にはお見限りだしな」  |走路《ベ ル ト》がきしみながら小きざみにゆれ、男は手を後へ回しておりたたみ椅子を尻に当てたまま中腰になって体の調子をとった。 「人間を運ぶものじゃねえよ。荷物を運ぶベルトコンベアーの方がまだましというものだ」  男は動かない中央路帯へぺっとつばを吐いた。 「あんた。ここじゃ来年から子供や老人には酸素が配給になるんだぜ。配給ったって|無《た》|料《だ》っていうわけじゃねえ。一リットルが一点。一点分の酸素は千百クレジットだとよ」 「東キャナル市では人が住みはじめた時からそうだぜ」 「火星は地球とはちがうわな! ここは地球なんだぜ! え。地球なんだぜ」 「地球の人間には酸素のありがたみはわからねえだろうよ。もしかしたら永久にな」 「飲料水だってえらく不自由になってきたよ。こいつはあんた十年前から一リットル三千クレジットだ」 「なぜそんなことになったんだ?」 「きまってるじゃねえか! 水不足よ。ここ三十年ほどの間、工業用に使う水の量といったらそりゃたいへんなものだぜ。それにこれだけの人間が一日に飲む水の量だって、ええと、一回、聞いたことがあるが忘れちまった。今だって海水から真水を作っているそうだが、猛烈に電力を食ってだめなんだと」 「まあ、どうにかなるだろう。そのうちに」 「どうにかなるにきまってら!」  男は笑いとばした。しかしその笑いにはこれまでフサの聞いたことのない乾いた|翳《かげ》りがあった。 「今、|市《シティ》じゃな、でっかい水タンクを幾つも作っているんだ。降った雨を集めるためのといもさかんに作ってら。そりゃたいしたもんだぜ。網の目のようにビルからビルへさしわたされていてな。わかるかい。今に降った雨水も自分で勝手に始末しちゃいけなくなるんだ。猫ばばすると、おまえん所の屋根には五リットル降ったはずだ、なんてしぼられてな。地面にたまった水を飲むのはどうなるのかな? なにしろ一リットルが一点だからな」  フサが降りる場所が近づいてきた。 「ここで降りるのか。早く火星へ帰った方がいいぜ。あんた」  男は声だけを残して遠くなっていった。  第八居住区のB3ブロックは想像していたよりも小ぎれいな一画だった。立ちならんだ超高層アパートの窓の灯の上限は遠い星のように夜空にちりばめられていた。 「B3ブロックのK二四八一か」  ブロックの中を周回するらしい|走路《ベ ル ト》に体をゆだねて数分すると、壁面に“K” というサインを浮き出させたビルが近づいてきた。  ナンバーが二四階の八一号室を意味すると教えられなかったら、おそらく一晩中かかってもたずねる部屋をさがし当てることは不可能であったろう。フサは火星と地球をへだてる以上の距離を、ホールからここまでの小さな探索の道のりに感じた。  フサの目にとびこんできたのは壁面に沿って設けられた何段もの棚だった。そして細い通路だけを残して床を占めた幾つものテーブルがフサの足をさまたげた。棚やテーブルの上にはおびただしい数のペトリ皿やビーカーがならんでいた。それらの底にはガラスファイバーの布片が敷かれ、葉や切りはがされた樹皮や、その他あきらかに植物体の一片と思われるものが収められていた。天井の無影灯から降ってくる暗赤色の光がならんだガラス器具やその中の生物の破片を紅玉のように染めていた。 「誰だって?」  部屋のすみから人影が立ち上った。フサはのび上った。 「フサだ。『キシロコーパ』でおまえといっしょだった」 「フサ?」 「|宙航士《ナビゲーター》だった。フサだよ」  人影はいったん顕微鏡らしい大きな器具のむこうにかくれたが、ふたたびあらわれて近寄ってきた。 「ナビゲーター? で、私に何か?」 「『キシロコーパ』で惑星『コスモフォラ㈽』へ探察に行ったとき、クルーだったじゃないか。あれはひどかったな」  人影はテーブルの間の細い通路を体を横にして通りぬけ、フサの前へ移動してきた。 「何のことかどうもわからないが、誰かね?」 「あんた……その……スホーイだろう? 以前、|操機長《メカニック》だった」 「私はスホーイだが」 「それじゃ、おれをおぼえているだろう! フサだよ。ほら、『コスモフォラ㈽』で生き残ったのは、おれとおまえだけだった」  回廊の照明がななめに室内にさしこんでいた。その光圏の中まで移動してきたとき、人影の顔はフサの記憶のままのスホーイになった。 「スホーイ! やっぱりスホーイじゃないか!」  会いたかったぜ! フサは胸の中でさけんでうでをのばした。スホーイはそのうでを黙殺するかのようになお二、三歩進み、思わず体を開いたフサの前を通って廊下へ向って立った。 「私はスホーイだが。人違いではないかな? あなたの話の内容ではどうもそうとしか思えないが」  廊下へ向って言った。 「でも、おまえはおれのなかまだったスホーイにちがいないよ」  フサの言葉をまさぐるように、耳をかたむけてスホーイは体を回した。 「スホーイ。おまえ、目が!」 「私はあなたの顔を見ることができない。しかし、あなたの名前も、それからあなたの話す内容についても全く心当りがないのだ」 「スホーイ。しっかりしてくれよ!」 「ごらんのとおり、私は植物医だ。宇宙などに出たことはない」 「思い出してくれ。スホーイ。ほら、『コスモフォラ㈽』で着陸に失敗して降着装置を破壊してしまった。あれは決して|操機長《メカニック》のおまえの責任ではなかったのだ」  スホーイは視力を喪った目をフサの顔に当ててわずかに首をふった。 「それは何かの間違いでしょう。私は植物の病気について研究をはじめてからもう数十年になる。あなた、植物の病気に関心がありますか?」 「いや。その。おれは」 「そうでしょう。むりもない。ほとんどの人、いや、すべての人が、と言ってもよいでしょう。植物を救わなければいけないなどとは考えていない。おそろしいことです」 「待ってくれ。あの『コスモフォラ㈽』では……」 「植物は地球のすべての生命の根源です。そして植物自身同化作用によって無限の生命を得ています。それは個を超越することによって種属全体におのれ自身の生命をゆきわたらせていることでもある。植物こそ最高の生命の在り方なのですよ。わかりますか? しかし、人間が植物になることは不可能です。私が最初にねらったのはそれだったのだが。私は方向を変えました。私は植物の医者としてかれらに奉仕することにきめたのです」 「でも……」 「植物はすばらしい。あなた。植物だってものを考えるし、感じたり見たりそれをなかまに伝えたりできるんですよ。かれらには憎しみも怒りも悲しみもない。あるものはただ自然に同化しようとする意志だけです。だから植物は人間でも許せるんです。どんなに人間にしいたげられても、植物はひろい心でそれを許してやれるんです。なぜなら、人間も自分たちの生命の形を変えたひとつの部分であることを承知しているからですよ。そうでしょう。いずれ、そう遠くないうちにあなたも私もどこかの植物の維管束や|柵状《さくじょう》組織などの植物の体の一部分になってしまうはずだ。いいことではありませんか? われわれはほんとうの在り方にかえるのですよ。生命体として」 「そんなものかね」 「そうですとも。われわれは絶えざる生命の危険にさらされ、不安におののいている。しかしわれわれが植物に同化されたとき、そうした不安から解放され、永遠の生命の自覚を得るのです」 「スホーイ。まあ、おれの言うことも聞いてくれ」 「われわれの生命の母胎である植物をさまざまな病害から守り、病源体を駆逐してやることがわれわれの義務なのです。見てください。私の実験や研究の数々を」  スホーイは強い力でフサのうでをとらえた。 「私は現在地球上で猛威をふるっている組織|萎縮症《いしゅくしょう》について長い間研究した結果、それがテトラビリウム・ウルンプルという胞子虫の一種によって引き起されることを発見しました。この胞子虫はたいへん生活力が強くていかなる種類の薬品でも死滅させるわけにはいかない。そこで私は高周波を当てることによって分裂をさまたげることに成功しました。分裂しかけている細胞が高周波を当てただけで分裂をやめてしまうのですよ。だからふえることができない。ライフ・サイクルが完結せずに終ってしまうわけです。ごらんなさい」  スホーイはフサのうでをとったまま、机の間をぬってすみの実験台の前に案内した。スホーイはスイッチをひねって実験台の上を明るくした。そして棚から一個のペトリ皿をとりおろして実験台の上にのせた。フサをそこへ残したまま、一方の壁ぎわへいそぎ、そこから小さな車のついた机を押してもどってきた。 「はじめて公開するんですよ」  スホーイはうれしそうに笑った。かれは運んできた机の上から箱のような器具を実験台の上に移し、側面のスイッチを押した。器具の上部の平滑な部分が明るいスクリーンに変った。かれは馴れた手つきで一方の側面の小さなドアを開き、そこへペトリ皿を押しこんだ。スクリーンが暗く翳った。スクリーンと光源との間にペトリ皿が位置したのだろう。スホーイはさらに管状の器具をとり上げた。先端に小さなピーナツ・バルブがついていた。スホーイは二、三度それを点滅させると、それを静かに箱の側面におし当てた。黒い箱の表面に小さな光の輪が動いた。 「どうです? 分裂がとまったでしょう」  スホーイはほこらしげに見えない視線をフサの胸のあたりに泳がせた。 「いや。おれはこういうことは全くのしろうとだから、どうも」 「そうですか。それではもっとわかりやすい装置で説明しましょう」  スホーイは実験台を離れてふたたび部屋のすみへ体を運んでいった。フサは実験台の上の管状の器具をとり上げた。ごとりとかすかに音がした。尾端にねじぶたがついている。それを回してふたをあけ、内部をのぞきこむとなまり色の小さな円筒の底面が見えた。そのまま机の上にかたむけると、針金で結ばれた三個の小さな円筒がころがり出た。直列につながれた乾電池だった。それをもとのように筒に収めてスイッチをおすと先端の豆球がともった。フサはそれを実験台の上にそっとおくと、足音をしのばせてドアにもどった。暗い廊下をエレベーターにいそぐ間に、スホーイの部屋からかれの声が聞えた。フサを呼びかえそうとしているようだった。  アパートの入口から外へ出たとき、入ってくる一人の男にぶつかった。男は体を引いてフサを見つめた。 「あなたですか? スホーイを訪ねて来られたのは?」 「ああ」 「地区担当医務員のカルパです。民生局からスホーイに来訪者があるという連絡を受けたものですから」 「監視つきなのか? かれは」 「症状は安定していて悪化の兆候はありませんが、あまり強い刺激はよくありませんからかれに来訪者があるときには私が立ち会うことになっておりましたが、今日はちょうど急用ができておくれてしまいました」  医務員のカルパはひたいの汗をふいた。 「全く知らなかったよ。年金で生活しているとだけ思っていたものだから」 「記録によれば、この|市《シティ》に送られてきたときにはひどい状態だったようです。肉体的な衰弱にあわせて強度の精神分裂症におちいっていました。|宇宙技術者《ス ペ ー ス ・ マ ン》だったそうですが退職したとたんに、それまで耐えていた恐怖が生存をつづけることの不安という形であらわれてきたものとみえます。口もきけず、ただ暗い所にひそんで手足をちぢめて丸くなっているだけだったそうです。|市《シティ》の医務局は催眠療法でかれの記憶の大部分を消し、同時に永遠の生命への同化という願望を与えることによって生存の不安を解消させました。すりかえに成功したわけです」 「それでおれのこともおぼえていなかったのだな」 「|宇宙技術者《ス ペ ー ス ・ マ ン》だった時の記憶が完全にぬぐいさられてから、かれにはようやく心の平静さがよみがえってきたようです。かれにとっては狂気か正気かは問題ではありません。かれははじめて生命の在り方に気がついたのですから」 「それに気がついた時はすでにスペース・マンではなかった。というわけか」 「今のかれには夢がありますからね」 「それはちがう」  フサはカルパから離れて一歩、階段を降りた。 「ちがう?」 「かれには夢があったよ。ほんとうの夢が。永遠の生命がどうしたとか、最高の生命形態がどうだとか、そんなことじゃねえ。永遠の生命に自分の生きがいをあずけるなんぞ、なんで夢なものかよ。やつは死んじまった。やつに宗教は必要なかったんだ。そうだろう? 自分の夢の実態にあるときとつぜん気がついて、おそろしくてふるえ上がって口もきけなくなったとしてもそれでどうだというんだ。人間は誰でも、大き過ぎる夢に傷ついてぼろぼろになりながらもそれにしがみついてきたんじゃねえか!」  カルパは静かにさえぎった。 「これはスホーイの神経病理学的な問題なのです」 「なにもおまえたちを責めているわけじゃねえよ」 「スペース・マン。現代のような超高度に発達した文明社会では、そこで生活する者にとってはすぐれた適応性を持つということが不可欠の要素です。それは自分にとって不利なもの、必要のないものでもそれを許容することによって有利な方向に変成させてしまう能力、つまり心理的に価値転換させてしまう操作といってよいでしょう。その結果、形成された内部世界の指標がその人間の行動に一定のパターンをもたらすでしょう。その行動のパターンが外部世界に還元されてそこでふたたび抵抗にぶつかります。それはつぎの価値転換を生み、内部世界にまた影響をもたらすでしょう。こうしたたえずくりかえされるフィードバックが、あなたのいう夢を造り変えていったとしても、それは少しも不自然ではないし、むしろノーマルな心的活動といえるでしょうね」 「そんなことはわかってら」 「それなら、なぜ?」 「かれにはほんとうの夢があると思っていたんだ。おれは」 「あなたがかってにそう思いこんでいただけとちがいますか」 「そうかもしれない」 「あなたの友人のスホーイの場合は、宇宙空間での長期にわたる各種の作業に耐えられるだけの強靭な体力が、心理的なものもふくめてですが、無かったということです。それが重傷を負って職務を離れなければならなくなった時に、それまで耐えていた力がいっきょに失われてしまったのです」 「そんなことはわかってら」 「それなら、なぜ?」  四群に分れた三十二個のブースターが機関砲のように間断なく吠え立てていた。ドップラー・レーダーにシンクロしたブースターはあと残された一一六秒の間に、三度ほど傾いている着陸姿勢をたてなおさなければならなかった。しかし巨大な支持架を船腹からくり出すのに五十秒かかるから実際に残されている時間は六十秒しかなかった。その六十秒の間に姿勢を修正することができなかったら、あとは三基の支持架のサスペンションを変えることによって船体を傾けたまま接地する以外にない。それは支持架を完全に張り出してからでなければ操作はできない。そのために必要な時間を三十秒とみれば、もはやフサに残された時間はなかった。フサはわめき出したい衝動を必死におさえて、船体の姿勢を示すスクリーンの青緑色のリングを見つめた。リングはなおスクリーン上に描かれた基準線を三度それてかすかにふるえていた。 「そんなことはわかってら」 「それなら、なぜ?」  13……12……11……10……9  着陸警報機はとうに着陸地点への進入開始を告げてあわただしく赤灯を点滅させていた。ブースターの圧力指標計のうち、C群の四個が七〇を指して小きざみにふるえている。 「|機関長《エンジン》、だめか?」  |船長《キャプテン》のすがりつくような声が張りさける緊張の中でかすれた。|機関長《エンジン》のクロスが口を開くより先に、|操機長《メカニック》のスホーイがたたきつけるようにさけんだ。 「|船長《キャップ》! これ以上まてない。限界だ!」  スホーイの両手は支持架の作動レバーをにぎりしめていた。みなの眼が|船長《キャプテン》とスホーイに半々にそそがれた。あと残されている時間は|船長《キャプテン》が決断に要する秒たらずのほんのわずかな時間だけだった。スホーイのにぎっているレバーに力が加わった。 「しかし、支持架のサスペンションを変えるのはうまくゆくかな?」  そのひとことで貴重な一瞬は過ぎさった。  |船長《キャプテン》はあきらかに惑乱していた。電子頭脳の判断にゆだねられない選択の不安が決断の時期をむなしく失わせ、残された機会を二度とめぐってこないものにしてしまった。 「|宙航士《ナビゲーター》。きみの意見は?」  |船長《キャプテン》は石のように|硬《こわ》|張《ば》った顔をフサに向けた。口もとが今にも泣き出しそうに引きゆがんでいた。 「スホーイ!」  フサがさけぶと同時に、スホーイはレバーをいっきに引きしぼった。三個のパイロット・ランプがかがやき、船腹から巨大な支持架がくり出されてゆく鈍い震動がつたわってきた。スホーイの両手がコンソールの上をめまぐるしく動いた。 「第一支持架。レスポンス一二・七二。第二支持架。レスポンス一〇・六〇」  油圧ポンプの圧力可変ブレードを切り換えてゆく。 「第三支持架。レスポンス八・八〇……いや八・九……九・〇〇でやってみよう」  スホーイのほおをつたって流れる汗が、あごの先からコンソールに落ちて幾つもの小さな|汚《し》|点《み》を作った。 「大丈夫か! スホーイ」  |機関長《エンジン》のクロスが|蒼白《そうはく》な顔でスホーイの手もとを見つめた。 「くそっ! 間に合わねえ!」 「着地十秒前……九……八……七……」  クロスのさけびに|次席宙航士《コ・ナビゲーター》のフルイの声がかさなった。 「|席《シート》につけ!」  フサは|船長《キャプテン》の体を|重力席《G・シート》につきとばして自分も宙航士席へおどりこんだ。ベルトの閉じる金属的なひびきが断続した。 「五……四……三……二……一」  “|接地《タ ッ チ》!”の声は聞かれなかった。  重い衝撃が船尾から船首へどうんとつらぬいていった。油圧シリンダーがいったんその衝撃を吸収し、ゆっくりと吐き出してゆく波のような巨大な振幅を持った反動がきた。みなは凍りついたような心でその反動の行末を待った。床がわずかに傾いた。二度目の揺れでその傾きはさらに増した。三度目の波がきたとき、床はとめどなく傾きを増しはじめた。誰のものともわからぬ絶叫と悲鳴が交錯し、固くボルト締めされているはずの器機類がなだれのように床を滑った。フサの眼に、床が足もとから頭上へ、頭上から足もとへと回転した。床は、|重力席《G・シート》にあお向けになっているフサの背側にあるはずだった。一瞬、すさまじい衝撃が船体を打ちのめした。  フサが気がついた時、操縦室の内部はけむりでいっぱいになっていた。壁面からぬけ落ち、とめがねがはずれた機器類やコンソールで床は足の踏み場もなかった。スクリーンは完全にくだけ落ち、その背後にかくされていた多連装ブラウン管の基部だけが|蜂《はち》の巣のような幾何学模様をのぞかせていた。航法用電子頭脳のフロント・パネルがぱっくりと開いて、あふれ出たテープの束が床をおおう|残《ざん》|骸《がい》にもつれ、フサの手足にくもの巣のようにからんでいた。いやに静かだった。最初、フサは自分の聴力が完全に失われてしまったのだと思った。その時、誰かの声がフサの名を呼んでいた。操縦室の背後の隔壁が大きく引き裂け、向う側のエア・ロック待機室がのぞいていた。そこに人影があらわれ、またフサの名を呼んだ。フサは四肢を使って移動していった。とびらの吹き飛んだエア・ロックまで何十キロメートルもの距離があるような気がした。  さえぎるものもない平原がひろがっていた。中天に黄銅色の小さな太陽『コスモフォラ・ベータ』がかかっていた。その弱々しい光が、平原にほんのわずかな起伏の翳を浮かび上らせているほかには、平原の果てを区切るわずかな高まりさえなかった。『キシロコーパ』の長大な船体は横倒しになり、おれた支持架がひれのようにななめに中空に跳ね上がっていた。三点支持に失敗した船体は横倒しになったまま、かなりの合成推力で地上を突進したらしい。船体の後方に|航跡《ウェーキ》のように長く長くなお濃い土けむりが上がっていた。三百メートルほどむこうに、船尾からもぎ取られた巨大な反射傘の一部が奇妙なドームのように地表に伏せられていた。土けむりの中を、|剥《は》ぎ取られた外鈑の破片や反射傘の支持部分が、キラキラと光って舞っていた。 「炉が爆発しなかったのがふしぎだな」  |機関長《エンジン》のクロスが鼻や口のまわりの血をぬぐいながら肩をすくめた。 「生存者を確認しよう」  |次席宙航士《コ・ナビゲーター》のフルイがぬぎすてたヘルメットをほうり投げてフサを見かえった。かれはあの一瞬の混乱の中でヘルメットを着けたものらしかった。 「その必要はなさそうだ。どうやら生存者は操縦室にいたおれたちだけらしい」  スホーイがおれた歯とともに血の塊を吐き出した。 「おれたちのほかは全員死んだのか!」  フルイが顔をおおってうずくまった。 「支持架の緩衝装置のオイル・シリンダーが破裂して第一機械室へオイルが噴き出した。あそこにいた二人はだめだろう。発電機室は|圧《あっ》|潰《かい》したようだ。管制室にいた三人も絶望的だ」  スホーイがうめくように言った。 「きさま! よくもそう落ち着いていられるな。すべてきさまの……」  とつぜん、|船長《キャプテン》が声をふりしぼってスホーイのうでをつかんだ。二人はもつれ合って倒れた。 「クロス! |船長《キャプテン》をおさえろ!」  フサははげしくころげ回る二人の体を引き離そうとやっきになった。クロスによって抱き止められた船長はなおもけもののように体をくねらせ、クロスのうでをはねのけてスホーイにおどりかかろうとした。 「|船長《キャップ》! |船長《キャップ》! しっかりしてくれ! 今は個人の責任をうんぬんしている時ではない。|船長《キャップ》!」  フサは船長の肩をつかんで力をこめた。 「ちくしょう! だからおれはこんな|乗組員《クルー》といっしょじゃいやだと言ったんだ! もともと|乗組員《クルー》は船長がえらぶべきものだ。それを委員会のやつらは|乗組員《クルー》の人選にまで手を……」  船長はフサのうでの下で言いつのった。 「|船長《キャップ》! しっかりしろったら!」  しかし船長の眼も、打ちふるうでも、とがらせた肩も、そしてフサのうでからのがれようとするおそろしい力も、すでに正気を失ったものだった。 「スホーイ! 鎮静剤を打て」  スホーイは|宇宙服《スペース・スーツ》のひざ上の大きなポケットからプラスチックのケースをとり出した。 「鎮静剤だと? おれはしっかりしている! なんだ、きさまら。おれを病人に仕立てて自分勝手なことをしようというのか!」  とつぜん船長はスホーイをつきとばすと、自分をとり囲んでいた人垣の輪の外に走り出た。向き直ったその手に大型の自動|拳銃《けんじゅう》が握られていた。ふだんからかれが腰におびていたものだった。船内の作業のことごとくに、体の自由をそこなわれながらもかれがそれを決して体から離そうとしなかったのは、あるいはかれの本能がこの一瞬を予期していたからなのかもしれなかった。船長は無雑作に引金を引いた。ほんのわずかおくれて、フルイの手もとから|閃《せん》|光《こう》が噴いた。二つの|轟《ごう》|音《おん》は平原にとめどもなくひろがっていった。二つの死体がぼろきれのように横たわっていた。フルイの発射した信号拳銃のナトリウム|焔《えん》|弾《だん》をまっこうからあびた船長の体からはまだあかるい色のほのおが立ち昇っていた。実際には誰をねらって射ったものか、船長の発射した弾丸はクロスの顔面を半分剥ぎ取っていた。フルイは手にした信号拳銃を足もとに投げ棄てると、意味のわからぬさけび声を発して平原に走り出た。 「まて! フルイ!」  スホーイがあとを追って走り出そうとした。フサはそのうでをとらえた。 「よせ! スホーイ。生きる意志があるならここへもどってくるだろう。今は引き止めてもむだだ」  フルイは砂ネズミのように走って走って走りつづけた。その姿はやがて豆粒のように小さくなり、なおしばらくの間、黒い小さな点となって野末を動いていたが、ついに二人の視界から完全に消えた。  その頃から、平原をあるかないかの弱い風が吹きはじめた。その風にあおられて、船長の体から立ち昇るほのおがあかるさを増した。たん白質の焼けるにおいが、乾いた静かな平原にひろがった。 「偵察艇が修理できればいいが」  その無線機が使えれば、救助信号を出せるだろう。受信は不可能でも発信できさえすればよい。よほどのことがないかぎり飲料水タンクや飲料水製造装置は無傷のはずだった。 「問題は食料だが、まあ、なんとかなるだろう」  二人はだまって船長の体から立ち昇ってはためいているほのおを見つめていた。別に言葉に出す必要はなかった。  船体は放棄する以外になかった。完全につぶれた船腹をトーチ・ランプで切り開き、偵察艇を引きずり出すのにまるまる五日かかった。偵察艇はイオン・エンジンの二次加圧機とノズル内の境界層板が破壊されていた。二次加圧機の方は『キシロコーパ』の操舵用エンジンのものを取りはずしてなんとか間に合わせたが、境界層板の方はどうにもならなかった。シリコン・チタニウム、ハニカムのプレートはあったが、それを削り出す工具がなかった。偵察艇の無電機ではもっとも近い|標位星《シグナル》である人工惑星『ダリウスC』をとらえることもできない。スホーイは潰滅した『キシロコーパ』の通信室にもぐりこんだ。焼けただれ、飛散した無電機を、十分間だけ発信できるような状態にまで復元するのがかれの仕事だった。一か月の間、フサは境界層板を持たないイオン・エンジンの改造と調整に過した。テスト飛行は不可能だった。いったん離陸したら、あとは『ダリウスC』の発するサインをタカンでとらえてやみくもに飛ぶばかりだった。境界層板のないノズルが、果して二百八十七日の間、順調にエネルギーを放ちつづけることができるかどうか、これはおそろしく率の悪いかけだった。さらに一か月ほどたってスホーイの無線機が完成した。『キシロコーパ』の船倉の残骸の中から、積載してきた数個の小型の原子力発電機をひろい出し、それらの部品で一個の完全なものを作り上げた。出発は発信後二十四時間以内。そして『コスモフォラ㈽』の第一衛星軌道二周目の終りに『ダリウスC』の方位電波をとらえて加速し、あとは慣性航行に移る。『ダリウスC』の近傍で漂泊二百時間前後で人工惑星『プセヌルヌ16』からの救援船とランデブーできるはずだった。 「スホーイ。発信は明日。太陽系標準時で一三時○分から一五分までにしよう。二〇時頃には出発できるだろう」  すでに準備はととのっていた。 「何にもならなかったな。はるばるここまで来て。船はこわれるし、クルーは死ぬし」 「観測器材が残っていればなあ。おれたちの手でしらべられることだけでもしらべて帰るんだが」  実際、これだけでは太陽系によく似た惑星系を持つ『コスモフォラ・ベータ』の第三惑星『コスモフォラ㈽』は、火星に近い直径と比重を持ち、七五%の窒素と約二五%の酸素から成る大気層が存在する、というこれまでの知識を一歩も出ることができない。もちろんこの二か月の間、自記記録計がとらえた大気の温度と湿度、風速などの貧しいデータや、着陸点ふきんの土質標本などはあったが、三人の人命と巨大な宇宙船の損失から見ればあまりにもとぼしい成果だった。 「フサ。地上車で行ける所まで行ってみよう。何か収穫があるかもしれない」  スホーイが目をかがやかせて言った。 「いや。それはまずい。もうじき日が暮れる。それに明日のこともあるし」 「大丈夫だよ。地上車で六時間の行程を半径として偵察艇のタカンは入れっぱなしにしておく。これから出かけても明日の朝までには帰って来られるよ。発信は一三時だからそれまでに十分休息はとれる」  フサはおしとどめた。 「スホーイ。こういう時にはな、慎重な上にも慎重に行動しなければならん。明日になるのを体を丸めて、息をこらしてじっと待っているぐらい臆病にならなければいかんのだ。ここにいよう」  それはフサの数多い経験でもあり生きるためのけもののちえでもあった。 「しかし何も危険はないだろう。気候の急激な変化だって考えられないし、地形だってかくれたクレバスがあるとも思えないし」  スホーイは言いつのった。 「そりゃまあそうだ。だが、やめておけよ」 「どうしたというんだ? いったい。フサ。この平原をフィルムにだけは収めておこうよ。おまえだって手ぶらで帰りたくはないだろう」  フサは首をふった。 「いいんだよ、手ぶらで帰ったって。帰れる見込みが立つと、とたんに欲が出てくるもんだ。これまであっちこっちで全滅したり行方不明になった探検隊のうち、半分がそれでやられたんだと思うよ」 「いやに臆病風に吹かれたもんだな」  スホーイは鼻白んでそれきり話を打ち切った。さして唄いたくもない鼻歌を唄いながら用もない工具箱などを開きはじめた。  夜に入ってめずらしく風が出た。そりかえり、ねじ曲った宇宙船の残叱に、風は口笛のように鋭く鳴った。明日の出発を思うと、フサも寝つかれなかった。寝がえりをくりかえしているうちにいつの間にか寝入ってしまった。眠りの中に|船長《キャップ》やクロスやフルイが何回もあらわれた。フサはそのたびに、偵察艇の満載重量に自分とスホーイの重量しかいれていなかったことに気づいて愕然となってもう一度、最初から計算をやりなおすのだった。いつ終るともしれないその作業は、とつぜんすさまじい地ひびきで破られた。はね起きたフサの目に、烈風の中に、怪鳥のようにひるがえって飛び去る『キシロコーパ』の外鈑が映った。おびただしい破片や四散している器機や部品が、競争しているように平原を走っていた。散弾の掃射のような砂あらしがおそってきた。 「スホーイ! いそげ!」  フサは毛布を頭からかぶって偵察艇のキャノピーにころげこんだ。その直後、それまで二人が|寝小屋《ベッド・ハウス》に使っていた急造のイグルーが吹き飛んだ。偵察艇のノズルをビニール布で何重にも包んでおいたのがよかった。偶然にへさきが風上を向いていたのがもっとよかった。 「スホーイはどうした?」  フサの背すじをつめたい衝撃がはしった。 「やつは!」  イグルーの中にいなかった! 機敏なことではフサ以上のかれが、イグルーが吹き飛ぶまで中にとどまっていることはない。それにフサが脱出する瞬間にも内部にスホーイの気配はなかった。 「しまった!」  いそいで送信ユニットのケースを開いてみるとタカンが作動していた。 「行きやがった!」  フサが眠っているうちにかれは自分の計画を実行したのだ。  砂あらしがおとろえを見せるまでの長い時間を、フサは耐え難い不安と焦燥の中で過した。  夜明けとともに砂あらしはいくぶんおとろえを見せた。偵察艇の外へ出てしらべてみると、二台あった地上車のうち一台が姿を消していた。残った一台も車体の半分を砂に埋めている。スホーイが組み立てた大出力の発信機は無事だったが、『キシロコーパ』の船体から、はね上った支持架まで巨大なフェンスのように張りわたしたアンテナは風に引き裂かれてどこかへ飛んでしまっていた。フサのおそれていた事態が現実のものとなった。 「そううまくゆくわけはねえと思っていたんだ」  フサは残された地上車のエンジンを始動させた。スホーイの向った方向は偵察艇のタカンが示している。キャタピラーが砂を巻き上げると、まだ吹きやまない風に砂は爆煙のように舞い上った。  夜は完全に明けているのに、平原は暗色の薄幕につつまれているようにほの暗かった。昨夜からの砂あらしが大気の高層をこまかい砂塵で|充《う》|填《め》ているのだろう。単調な平原はどこまで進んでも少しも変らなかった。五時間ほど進んだ。スホーイの計画では六時間の行程でおりかえすはずだった。  間もなくそのおりかえし地点がこようとしていた。 「おかしいな。ルートからそれたのだろうか?」  地上車のコンパスに頼れば偵察艇の送る誘導電波のビームからそれて自由なコースをとることはできる。しかし惑星探検の経験の浅いスホーイがそのような冒険をするとは思えなかった。フサは地上車の操縦席の屋根に上がって双眼鏡を目に当てた。何も発見できなかった。さらに三十分ほど進み、ふたたび周囲をうかがった。さえぎるものもない砂の海だけだった。さらに三十分ほど進んだ。おりかえし地点はとうに過ぎていた。操縦席の屋根には、雲母のようなキラキラと光る微細な砂が厚く積り、|宇宙靴《ブーツ》で踏みしめるとそのままずるずると屋根の端まですべり、積荷を固縛するロープ穴のふちにかかとがひっかかってかろうじて止った。太陽『コスモフォラ・ベータ』はすでに十時の高さにまぼろしのような光輪を浮かべていた。寒い。いつもならこの時間ならば八度Cぐらいまで上がっているのに、今日はそれより二、三度は低いだろう。  その時、双眼鏡の亜鈴形の視野のすみに、目にしみるような真紅の光点が映った。地上車の非常用信号マストの先端の警報灯にちがいなかった。針路から左へ、十一時の方向だ。フサはエンジンを全開にして突進した。十五分ほど走ると、肉眼でも警報灯がはっきりと見えてきた。  わずかな起伏もなく海のようにつづいていた平原は、そこで二、三メートルの落差を持つゆるい斜面を作っていた。太古の裂溝の跡ででもあるのだろうか。斜面の前方はさらになだらかなかたむきを持つ岩石混りの荒れ果てた平原につらなっていた。その大傾斜の果てでどうなっているのか、ここが地球ならば、この地形では遠い地平線のかなたには海があるはずなのだが、この惑星には海と呼べるような大水面を持つ水量はないことはあきらかだった。もしかしたら、今フサが立っている場所は、はるかなむかしには波の打ち寄せる海岸だったのかもしれない。長い年月をかけて、水面はしだいに後退してゆき、ついにこの広漠たる視界の中から消え失せ、あとにゆるやかな大傾斜を持つ平原を残したにちがいない。フサの目に、まぼろしの海があらわれ、白い波がしらをくずして陽が翳るように薄れていった。スホーイの地上車は、そのまぼろしの海に頭部を向けて静止していた。風はまぼろしの海からわたってきて背後の砂漠へ吹きぬけていった。  フサは遠い海への想いをふりきってスホーイの地上車へ乗り移った。  スホーイはハンドルに上体をあずけて気を失っていた。 「しっかりしろ! スホーイ!」  ほおに二、三度平手打ちをくわせると、スホーイは低くうめいた。一、二本の注射を打つとスホーイはようやく生気をとりもどした。笛のようにのどを鳴らすと、スホーイはとつぜん、フサの体にしがみついてきた。 「フサ! フルイを見つけた」 「なに? フルイがいた?」  スホーイは操縦室のうしろの荷台を指した。 「いた。フルイが」 「そうか。よく見つけたな。やつはこんな所まで来ていたのか。さっそく葬ってやろう」  死体を『キシロコーパ』のかたわらに埋めるか、それともかれが最期の息を引きとったこの平原に埋めた方がよいか、フサは決心がつかなかった。 「おまえはどうしたんだ?」  スホーイは犬のようにあえいだ。ひどい熱だった。 「なんだか急に気分が悪くなって」 「こういう酸素分圧の低い所で風に吹かれるとひどく消耗するんだ。少し休め。おれはその間にフルイを埋める」  死体を運ぶよりもその方がいいだろうと思った。 「埋める? フサ。フルイは生きているんだ」  スホーイがほおを硬張らせてさけんだ。 「生きている? ばかな」 「ほんとうだ! フサ。フルイは生きているんだ」 「しっかりしろ、スホーイ。生きているものなら、なぜ荷台にのせた?」 「でも、フルイは……フルイは……」  フサは自分のうでにすがりついているスホーイの指を一本一本むしり取るようにはがした。おそろしい力だった。 「スホーイ。いいからおれのうでを離せ。うでの骨がおれちまうじゃねえか!」  さいごには指を逆におり曲げるように力をこめて引き離した。 「落ち着け! スホーイ」  フサは操縦室の上部ハッチから荷台の屋根に移った。荷台をおおう屋根には、貨物を出し入れする大きなハッチがあった。フサはそれを押し開いた。  人の形をした褐色の土塊のようなものがあった。ところどころに付着している|宇宙服《スペース・スーツ》の断片がなかったならば、それがフルイの死体であるとはとうてい思えなかった。とつぜん死体が動いた。フサの手から離れたハッチがどうんと閉じた。フサはもう一度、押し開いた。フルイの死体はねがえりを打つようにゆっくりと動いた。フサはほんの短い間、おそってくる混迷と戦った。広漠とひろがる大傾斜に目を転じ、吹きわたる風の音に耳をとめてからもう一度、荷台の死体に目を移した。死体は褐色の細い草の根のようなもので一面につつまれていた。そして、それから無数の短い柄が突き出し、その柄の大部分の先端に円い小さな穂が開いていた。フサの見ている間にも、小さな柄はあとからあとからのび出して先端に穂をつけた。無数の柄がのびようとして屈伸するたびに、フルイの死体は右に左にねがえりを打ち、手足をのばし、頭をもたげるのだった。フサは荷台に降り立ち、穂のひとつを千切り取った。糸のようにか細い組織が、何十本も束になって柄につらなっていた。穂を破ると、未成熟の青白い微細な胞子が指の間でつぶれてわずかな液汁となった。 「スホーイ。こいつはたぶんカビかキノコだろう」  根のように見えるものは菌糸であろう。フルイの死体に寄生したささやかな生命のいとなみだった。 「スホーイ。フルイは生きてやしねえよ。カビが成長するんでフルイの死体を押しころがすんだ」  フサは操縦室のハッチからのり出して、座席にうずくまっているスホーイの肩を小突いた。 「いや。ちがう! フルイは生きている。フルイは死んじゃいねえ!」  スホーイは全身でさけんだ。 「そうじゃねえってば! 見なよ。ここへ来て」 「生きている! フルイは生きているんだ!」 「スホーイ。しっかりしろよ」  フサは屋根の上から手をのばしてスホーイのえりをつかんだ。スホーイはけもののように絶叫してハンドルにしがみついた。 「フルイは生きているんだ。やつは植物になっちまったんだ。そしてこの砂漠で生きつづけるんだ!」  スホーイはどろのように座席にくずれ落ちた。  風の音だけが四周に湧き起った。砂はキャタピラーの間を吹きぬけ、露出した岩のくぼみにたまり、そして遠い平原へと吹き送られていった。  フサはフルイの死体を砂の上におろした。埋めない方がいいだろうと思った。 「それにしても豪勢なえさ[#「えさ」に傍点]を見つけたもんだよ。フルイだってそうまずくはねえはずだ。まあ、たっぷり吸って力をつけて殖えるがいいや」  この惑星に動物がいるのかどうかはわからないが、このひ弱なカビが、ふたたび動物の死体のような豊かな栄養物にめぐりあえるのは果していつのことか。百年に一度、千年に一度あることなのか。その時を夢見て、胞子も菌糸も、砂にまみれ、風に吹き飛ばされながら長い長い年月を待ちつづけるのだろう。 「おたがいに生きるってのはたいへんなことよ」  フルイを形造っていた物質の大部分は、今や褐色のカビに移ってしまっている。するとこのカビはフルイでもあるのだろう。フサは荷台のすみから飲料水のタンクをおろすと、中の水をフルイの死体にあびせた。カビが喜んでいるかどうかはわからなかったが、植物なのだから嫌うはずはないと思った。 「あばよ。フルイ」  フサは操縦席にもどってスホーイの体をおしのけ、ハンドルをにぎった。  フサのほおをはじめてなみだが流れた。 「今のかれには夢がありますからね」  それでいいじゃありませんか? 地区担当医務員は階段の上からフサの頭ごしに暗い街に眼を向けた。 「それはちがう」 「ちがう?」 「永遠の生命に自分の生きがいをあずけるなんぞ、なんで夢なものかよ。やつは植物になろうとしてなれなかったんだ。やつは死んじまった。なあ、医務員。|宇宙技術者《ス ペ ー ス ・ マ ン》だったある男はカビに変っちまって、遠い砂漠の砂の中で今でも生きつづけているぜ。おやすみ。医務員」  フサは一歩、一歩、階段をくだった。もうスホーイに会うことはないだろう。 「スペース・マン。あなたは何をしに地球へ来たのですか?」  カルパの声が追いかけてきた。 「何をしに? ことわっておくが、おれは詩人じゃない」 「あなたは自分のむかしの夢をひろいにきた。もう無縁になってしまったむかしの夢をね」 「だから?」 「あなたは火星に還るべきだ。ここにはあなたを容れる場所はない」 「それも神経病理学的診断かね」 「私は詩人ではない。そして、よりたしかにスペース・マンでもない」 「わかっているよ。おまえはスホーイのただ一人の友人だ」 「ごきげんよう。スペース・マン」  暗い夜空のどこかを超音速旅客機の遠雷のようなひびきがわたっていった。      3  ラルラの名前は誰でも知っているようだった。しかしその住居を教えてくれと言うと、皆いちように首をふった。なぜか言いたがらなかった。十何人目かの男に、ようやくある男の名を教えられ、|市《シティ》の外郭の連邦租借地区の旧倉庫エリアの管理事務所へ行くようにと言われた。  幾つもの|走路《ベ ル ト》を乗りつぎ、一時間ほどかかってたどり着いたそこは何本もの高速道路がもつれ合うように複雑な曲線を描いた巨大なインターチェンジの直下だった。灯ひとつ無い山のような倉庫群の間を進むと、明るい灯をともした管理事務所の窓が眼に入った。フサは中に入った。一人の男が簡易ベッドに寝そべって立体テレビを見ていた。 「ラルラに会いたいんだが」 「あんたは?」 「フサだ。東キャナル市の」 「ああ。さっき連絡があったな。あんたか」 「ラルラに会いたいんだが」 「だいぶほうぼうで聞いたらしいな。まああんたは重要人物だからあんたの身に危険ということもあるまいが」 「なんのことだ?」 「保安部だってすきをねらっているんだからな。どんなやつがもぐりこんでくるかわかったもんじゃねえ」 「おれのことか?」 「そうじゃねえ。あんたが中にいるのを見られたらまずいことがおこるかもしれないからな」  フサは周囲を見回した。仕事とてない管理事務所の汚れた小部屋には、ラルラとどのようなつながりがあるとも思えなかった。 「どうもよくわからないんだが。おれはラルラに会いたいだけなんだ」 「連絡があったよ」 「会わせろ」  男は惜しそうに立体テレビのスイッチをひねった。それからどこかへ電話をした。 「今つれていってやる」 「なんだか、みんなでラルラの秘密を守っているようだな。何かあるのか?」 「別にラルラの秘密を守っているというわけじゃない。言わば、みんなが自分の秘密を守っている。というところかな」 「重要人物というわけか」  男は無表情に、フサの体を見上げ、見おろした。 「だが、そのかっこうじゃ目立っていけねえや。まっていろ」  男は倉庫の中へもどっていった。男はなかなか姿をあらわさなかった。逃げたのかな? フサがなかばあきらめかけた頃、男が倉庫から出てきた。 「これを着なよ!」  男は手にした丸めた布をフサにほうった。ひろげて見ると汚れた作業衣だった。 「おめえが着られるようなものを見つけるのに骨をおったぜ」  男は思ったよりも親切だった。フサは男のくれた作業衣をまとうと、男の後にしたがってせまい階段を降りていった。広大な集積所を通りぬけ、さらに貨物用リフトで何層かを降り、使われていない|赤《あか》|錆《さび》だらけの貨物用のベルトコンベアーをわたって荒廃したフロアに入った。地下格納庫のような広い一画だった。何十本もの四角い太い柱が、高い天井を支えている。その柱にとりつけられた投光器のうち、まだ幾つかがともっていて、角柱の列の間に光輪を描き出していた。二人の足音が高くこだました。 「ここも倉庫か?」 「そうだ。しかし長いこと使われていない。もともと連邦・輸送部の倉庫だったんだが戦争が終った今では地下倉庫でもないものな。管理をまかせられている|市《シティ》でももてあましているのよ」 「ラルラはこんな所で何をやっているんだ?」 「ま、すぐわかるよ」  列柱の間を通り過ぎてゆくと、がんじょうなちょうつがいを打った巨大なとびらがならんでいた。 「冷凍室のようだが」 「ああ。むかしはな」  男はひとつのとびらの前に立った。とびらのどこかにもうひとつ小さな開き戸があり、男はそこから電話器をとり出すととびらの内部と短いやりとりを交した。待つ間もなく、とびらが開いて二人は入った。内部は十メートル四方の部屋だった。左右の壁には何段もの棚が天井まで設けられ、その天井から垂れ下ったレール・ホイストのくさりが淡い照明灯の光に赤褐色のへびの死体のように力なくゆれていた。正面の壁にもうひとつドアがあった。それを開くと、青緑色の光の滝があふれ出た。ドアの内側に一人の男が立っていた。男はフサにけわしい眼を向けたが、何も言わなかった。  そこは幾つもならんだ冷蔵庫の後の冷凍機室と思われた。せまい通路の天井も壁も、おびただしい|管《チューブ》の束でおおわれ、その間からパイロット・ランプの列が死魚の目のようにのぞいていた。通路の右側の壁がとぎれると、あとからとりつけたものらしいプラスチックのドアがあった。そのドアを通して海鳴りのような重い騒音が伝わってくる。 「発電所のような音がするが」  男はだまってドアを開いてフサの背を押し、そのあとから自分も入った。  目の前に一見して何かの電子装置とわかる巨大なメカニズムがならんでいた。網の目のように入り組んだ電路パイプと機器群、冷却システムのコンプレッサーや自動変圧器の熱交換機などが空間をすき間無く埋めていた。張り出されたプラットホームをつたって半周するとガラス張りのコントロール・ルームがあった。内部へ入ると、壁面に沿って設けられたコンソールに二、三人の男が配され、パイロット・ランプのまたたきにつれてめまぐるしく両手を動かしていた。 「これはなんだ?」  よほど大規模な電子的施設の管制所にちがいない。 「ボスがお会いになるそうです」  一人の男がフサに奥のドアを指した。 「ボス? いや、待ってくれ。おれはラルラという女をさがしに来たのだが」  その返事が得られないうちに、フサはドアから押し出された。そこはさらに回廊になっていた。天井や壁にはなお電路パイプの束が縦横にはしっていたが、その天井や壁、そして床も淡いモスグリーンのプラスチック塗料で美しくコーティングされていた。案内する男は回廊に面したドアのひとつを押し開いた。 「どうぞ」  オレンジ色を基調にしたやわらかい光が海のようにフサをつつんだ。広大な壁面を形成する| 発 光 材 《エレクトロ・ルミネッセンス》は、雲のように絶え間なく流動する濃淡の光斑を描き出し、床に敷きつめられた強化ガラスを、朝焼けの湖のように燃え上らせた。その光彩の中から一個の人影がゆらりと立ち上った。 「いらっしゃい」  うるんだアルトに忘れもしない記憶があった。 「ラルラ!」 「地球へ来ているというのはニュースで見たわ。表彰されたんですってね。おめでとう」  ゆらめく多彩な光と影を踏んで、まるで重さを持たないもののようにフサの前に歩み寄ってきた。 「ここは何だ?」  壁面はゆっくりとやわらかなオレンジ色から海王星の氷原を思わせる透徹した深い藍色に変った。天井から降ってくる光は、その極地の凍った空に浮かぶ氷片をいろどるオーロラのように拡散して幾重にもひるがえった。 「フサ。ごらん。この部屋は今、私の心象を光と影でスケッチしている。あなたは数十年ぶりで私と会ったというのに、先ず、ここは何か、とたずねる」  ひるがえるオーロラの痛みにも似た青と、燃えるような緑が女の横顔に|灼《や》きついた。 「ボスがおれに会いたいとか」 「今会っているじゃないの」 「おまえが?」 「誰も話さなかったとみえるわね。それはそれで結構。たとえ私のお客とわかっていても言うはずがないわ」 「ラルラ。ここは連邦が不用になった倉庫らしいが、その内部に設けられているこの施設は連邦とは無関係なものにおれには思えるのだが」 「そのとおりよ」 「おまえはここで何をしているんだ?」 「あなたはむかしと少しも変らないわね。好奇心が強いのがあなたの良い点でもあり、悪い点でもあるわ。もっとも私にとってはそれは悪いことばかりしかもたらさなかったけれど」 「この部屋だってとほうもない金がかかっているはずだ」 「ほんのささやかな趣味よ。あなたの好奇心を満足させられるようなものではないわ」 「おまえは何か秘密の組織に属しているのか?」  ラルラは声も無く笑った。 「何に対して秘密にしなければならないか、ということね。それはかなり難しい問題だわ」  ラルラはフサのうでをとって部屋の奥へ誘った。奇妙な曲面を持ったソファが床からせり上がってきた。ラルラは自分からソファに身を埋めた。 「おかけなさいな」 「おまえのことはすぐわかった。さがし出すのは不可能だろうと思っていたのだが」 「そうね。もうあれから六十年? 七十年になるかな。ふつうなら生き死にさえわからなくなっているはずよね」 「それがすぐわかった。誰でも知っているらしい」 「今どうしているの?」 「年金で生活している。ほんとうはまだ退職してはいないのだが、仕事が回ってこなくなってから何年にもなる」 「どうして?」 「どうして? 今では太陽系内の航行ならサイボーグでなくとも|生《なま》|身《み》の体でつとまるよ。それにここ二、三十年というもの、惑星探察なんてやってないのさ」 「でも太陽系の外まで、手がとどくかぎり惑星全部しらべつくしたというわけではないんでしょう?」 「連邦は惑星開発に意味を認めないんだ。金ばかりかかるといってな」 「金星や火星はずいぶん開発が進んでいるそうじゃない」 「おれが言ってるのはそんなことじゃねえ」 「むかしと変らないわね」  ラルラはふとほほえんだ。フサの知っているむかしと少しも変らない笑顔だった。変らないのはその笑顔ばかりではなかった。東キャナル市などでは見たこともない上質のガラスファイバーで織った着衣のひだをとおしてくっきりとうかがわれる肉体は、むかしフサの知っていたものと少しも変らなかった。ラルラは音もなく立ち上った。フサの視線を満身にむかえてラルラはゆっくりと体を回した。身につけていたものが一瞬の飛沫となって床に落ちた。年齢を加えたつややかさと厚みはこれはフサの知らなかったものだった。腰や太ももの筋肉は触れれば応えるような躍動を示すだろう。首すじから背へ流れるよどみのない円みは、時にどのような姿態にも耐え得る強靭さをも秘めていた。フサの知っているラルラの体はただあたたかくてかぎりなくやわらかく、うでもももも、にぎりしめればくぼんだ筋肉をとおして、反対側の指先の硬さが感じられたほどだった。その頃のラルラと、今のラルラと、どちらがほんとうのラルラなのか、フサはかすかにめまいを感じた。 「わかったよ。あっちでもこっちでも言われた。たぶん、ほんとうなんだろうよ」 「みんなそうなんじゃない? 夢を見ている間は変らないのよ」 「おまえはどんな夢を見たんだ? その体で?」 「ほんとうはあなたにはそれを聞く資格はないのよ」 「そんなこと、わかってら」 「私を抱く?」 「この光はおまえの心象スケッチだと言ったな。おれはこの色は好かないんだ」 「ほんとうは」 「おれたちには性的能力はない」 「残酷だと思っているんでしょう?」 「おれは詩人じゃない」 「あなたはむかしの私に会いにきた。会いにきたあなたがむかしのあなたでなければ」 「残酷だと思っているんだろうな?」 「私は詩人じゃないわ。それにおたがいに手をとりあってむかしの思い出を語り合うほど若くもないわ」 「悪かったよ。どんな夢を見たか、なんて聞いて」 「いいのよ。人は時に語るために夢を見ることもあるわ」  部屋をみたす光はじょじょに|海王星の青《ネプチュニア・ブルー》から落日のような深いオレンジ色に変りつつあった。波紋のような光輝と翳が、あとからあとから天井から壁へ、壁から天井へと流れ移ろっていった。そのあえかな明暗の中からフサは羽毛のように軽い衣装をすくい上げ、ラルラの豊かな背中にはおらせた。 「フサ。むかしの私に会ってみないこと? むかしの私なら、あなたは抱くことができるはずよ」  ラルラは影のように動いて、ソファのひじかけをまさぐった。ごく短い間、かすかな震動がつたわってきた。  ふっとすべての照明が消えた。薄明の中ではじめてラルラの湿った体温と記憶に刻印された甘い体の匂いを感じた。 「むかしのおまえに会う?」  床が一面に青白い光輝を放った。 「見て」  それは床が光っているのではなく、いつの間にか完全に透明になった床を通して、足もとの広大なホールの照明が流れこんできたのだった。  直径が百メートルほどもある円形劇場を思わせる広大なホールだった。おびただしい数の男や女が同心円を描いて配置された椅子を埋めていた。 「集会か?」  そうでもないようだった。椅子に体を埋めている人々の間には何の共通した意志も目的もないようだった。 「劇場でもないようだが?」  ラルラの手がさらにひじかけのかげで動いた。とつぜん、何百人もの男や女の発するうめき声や絶叫がすさまじい音波の壁となってフサの鼓膜を突き刺した。胸の奥底からしぼり出される糸のようなか細いすすり泣き。床を踏み鳴らすひびき。たたきつけるようなののしり。あらしのような呼吸音が増幅されて部屋の空気をどよもした。さけびは高くなり低くなり、拡散と凝縮をくりかえし、のぼりつめてはとほうもない爆発となった。 「ラルラ! これはたしか連邦や|市《シティ》の管理下にあるはずだが」  ラルラのほりの深い顔に翳が濃かった。 「また。フサの心はいつも何かに縛られているのね。そうよ。これは連邦や|市《シティ》の事業のはず。でも、私がそれをやって悪いということもないはず」 「しかし、これはあきらかに犯罪行為だ」 「おばかさんね」 「秘密の組織というのはこれだったのか!」 「性交を楽しむ自由の保留だなんて、カビのはえたような古臭いりくつはよすわ。超音波で意識下にある想念を励起しながら性中枢を刺激するという方法を私は拡大させたの。あそこに見える人たちは、自由に空想を楽しんでいるわ。それぞれ自分がのぞんだ相手、それが現実の誰かであれ、勝手に空想した肉体であれ、その人を今、抱いているのよ。たくましい青年時代の自分に還ったり、美しい娘の頃にもどったりしてね」 「しかし、それは神経生理学的に危険じゃないか。無制限に体力を消耗すると聞いたが」 「でも、私のお客は承知しないのよ」 「客?」 「フサ。これだけの設備を維持してゆくのに、どれぐらいかかるかわかる?」 「ラルラ。よせ。|市《シティ》が気がつかないはずがない」  ラルラは小さく肩をすくめた。 「とうに気がついているわよ。フサ。今、あそこへ座っている客の中に|市《シティ》の保安部員が何人もいるはずよ」 「しかし、自分たちの身が危くなればいつ情報提供者になるかわからないじゃないか」 「お客さんは自分の好みのパターンをカードに作って電子頭脳の資料巣に落しこむのよ。よくあるでしょう。女の体を傷つけることによって強い快感が得られるとか、他人どうしの性交を見ることではじめて興奮するとか。そのカードが演出の|鍵《かぎ》になるわけだけれども、そのカードの中に、保安部長や連邦、民生局長のものもあると言ったらあなたおどろくかしら」 「たぶんそんなことなのだろう。それはこの設備を見ればわかる」 「さっきあなたは秘密の組織かって聞いたけれども、その意味では秘密なんてとりようよ。大きな組織であることには間違いないけれども。何十人もの技術者がはたらいているのよ」 「おまえが作ったのか?」 「私だけではないわ。今はボスと呼ばれているけれども」 「ずいぶん金になったろうな」 「もうけたか、ということ?」 「これだけの設備を維持するのはなみたいていのことじゃないはずだ」 「そうね。ある人たちにとっては危険手当というものは必要なのよ」 「そのある人たちの中には、おまえ自身も入っているのか?」  ラルラの顔に、これまで見たこともないある激しい感情があらわれて消えた。 「フサ。あなたがいつか、私のところへ来るにちがいないという確信が私にはあったわ。むかしの私をたずねてね。あなたの中にあるむかしの私よ。フサ。その時、私はどうすればいいの? 私はあなたに抱かれることはできても、あなたは私を抱くことができないじゃない! そのために、と言ったら、あなたはおれは詩人じゃないよと言うかしら?」  ラルラの体をつつむ光と影は、とつぜん|紅《ぐ》|蓮《れん》のほのおとなって渦巻き、はためいて広大な部屋を火の海と化した。  フサは女に背を向け、とびらまで進んだ。長い長い道程だった。 「あなたがいけないのよ」 「おれが?」 「なぜここへ来たの? 私はあなたを待ちつづけていた。でも、それは私だけのことで、私のその作業にあなたが加わることは少しも必要なかったわ。そうでしょう? あなたのさがし求めているものはここにはないもの」 「そうらしいな。いや、たぶんそうなのだろう」  小がらな色白の一人の娘、憂いに似た翳りを|眉《まゆ》|根《ね》にただよわせていた気弱な娘はもうどこにもいない。遠いむかしのある時、ほんの短い間、フサの生活の中にあらわれてきただけなのだ。たとえその頃のその娘と、同じ人物であったとしてもその女にいったい何の用があるだろうか? 「あなたは勝手なのよ」 「そうかもしれない。いや、たぶんそうなのだろう」 「あなたにとって想い出なんて無用じゃないの! スペース・マンにとって想い出とはいったい何なの? あなたはこんどこそ二度と地球へ帰ってくることはないと思うわ」  とびらは閉ざされた。  どこかで死の匂いがする。  今は秋九月。窓から見える空は染めたように碧く、白い千切れ雲が浮いていた。  さわやかな風が吹きわたってゆくたびに、開け放された窓から黄ばんだ木の葉が舞いこんで、ならんでいる人々の間を蝶のようにひるがえっていった。  久しきにわたって? なぜ永遠に、と言わないのだ?  どこかで死の匂いがする。      4  暗いオレンジ色の太陽が遠いオリオーネ山脈のなだらかな稜線にかかると、稀薄な大気は陽炎のようにかすかにふるえる。風だ。やがて来る夜の先触れの風が、広漠たるアマゾン砂漠をはるばるとわたってくるのだ。そのあるかないかのわずかな風に追われて  砂が走る。砂が走る。  まるで重さをもたない乾いて軽い砂が幾すじも幾すじもけむりのように走る。時に紗のようにひるがえり、あるいは竜巻のように渦まいて天まで這い上り。走る。走る。それは風の影だ。眼に見えない風が、ほんのひととき、走る砂におのれの姿を|托《たく》して存在を主張しているのだろう。そうでもしなければ、ここではゆらめく一枚の木の葉もないし、流れる千切れ雲ひとつないからだ。誰に見せようと? 人間にか? 火星人の目の前をも、風はやはりこうして砂をまいて吹き過ぎていったのだろうか?  砂の動いたあとに、思いがけなく黄褐色の小さな葉をつけた地衣類の群落があらわれてくる。硬い表皮と粗い毛につつまれ、髪の毛のような細い根を砂粒にからませて必死に地表にしがみついているそれら地衣類は、長い一生の間に、水というものを吸ったことがあるのだろうか? 新しい葉をつけることもなく、実を結ぶこともなく、ひたすらに意志だけを結集し。何のために?  砂が飛ぶ。砂が飛ぶ。飛んできた砂はみるみる地衣類の群落をふたたび厚くおおいかくし、さらに長く長く尾を曳いて遠い地平線へとかけぬけてゆく。  その方角が『|火星人の道《マーシャン・ロード》』だった。 「地球へ行ってきたんだってな。どうだった? むこうのようすは」  顔を上げるとデロイが立っていた。デロイはフサのこたえを待つでもなく、曲らない左足を苦労しており曲げ、フサのかたわらに腰をおろした。 「この四、五日、やけに足が痛んでな。人工関節がはずれているんじゃねえかと思うんだ」  デロイは悪い方の足をしきりになでさすった。 「医療部へ行ってきたらいいじゃねえか」 「痛み止めの注射を打つだけよ。役にもたたねえ退職スペース・マンの体をなおしたってしょうがねえと思っていやがるんだろう」 「なおしておけよ。また船に乗れる機会がくるかもしれない」  デロイは鳥のようにのどをそらせて笑った。 「また船に乗れるかもしれねえって? また船に乗れるかもしれねえってか?」  むせぶような笑い声が風に流れた。 「うるせえぞ」  デロイは笑いをおさめ、頭をたれて足をさする作業にもどった。 「デロイ。いいんだぜ。笑ったって」 「いや。悪かったよ。おまえなら、きっと足をなおすだろう。かならずなおしておくだろうよ。フサ。おれはもうつかれたんだ」  デロイは背後の台座に背をもたせかけた。高い台座の上に、汚白色の錆をふいた銅像が砂にまみれて立っていた。誰のものなのか、何を記念して立てたものなのか、知っている者は誰もいなかった。遠いむかし、東キャナル市には永久に記念すべき栄光の物語があったのだろう。しかし今は、その台座だけがフサたちの休息所の役割を果しているに過ぎなかった。 「この銅像な」 「ああ」 「火星人に会ったことのあるやつじゃねえかな。おれ、この頃、そんな気がするんだよ」  デロイは頭上にそびえる銅像をふりあおいだ。その肩や腰に、薄い砂けむりがまつわりついていた。 「どうして?」  デロイは遠い地平線に顔を向けた。 「この銅像は、おまえ、『|火星人の道《マーシャン・ロード》』の方を見つめているんだ。もう長いことな」  見つめているのはデロイかもしれないとフサは思った。デロイはゆっくりと視線をフサの顔にもどした。 「フサ。地球でもらってきたメダルを見せてくれ」 「そこにあるよ」  フサはあごをしゃくった。砂の上に、投げ出されたメダルが光っていた。 「これか」  デロイはメダルを眼の前にかざした。メダルの下から一枚の写真がひるがえった。 「その写真は一同で記念撮影したものだ」  デロイは呼吸も忘れたかのように写真を見つめた。片方の手からたれさがったメダルがいつまでもふりこのようにゆれていた。 「ああ。地球のやつらだ! おれと何の関係もねえ地球のやつらだ」  デロイは腹の底でうめいた。 「おまえと関係のねえやつらの写真がそんなに気に入ったか」  デロイの顔に無惨な安らぎの色が浮かんだ。 「おれの過去とかかわりのあるようなやつらの写真なんぞ見たくもねえよ。フサ。ここに写っているのは、おれにとっちゃただの地球の風景なんだよ。おう、フサ。ここにおまえがいらあ。これはおれだ。なんだかしらねえでっけえ建物の前で、名前も知らねえやつらといっしょに写っているのはもしかしたらこのおれだ」 「やるよ。その写真。よかったらそのメダルも」 「そうか。おれにくれるか!」  デロイは写真とメダルを、あお向けた顔の上にのせると、長いことじっとそうしていた。もしかしたらデロイは泣いているのかもしれなかった。  翌日も風が吹きつづけていた。昼頃フサは銅像の下に行ってみた。昨日と同じ場所にデロイが座っていた。フサを待っていたらしく、近づいてくるフサの姿を見てデロイは機械人形のように立ち上った。 「フサ。おまえにやろうと思ってな。これ」  デロイは汚れた上着のポケットから古びて色の変った紙片をとり出した。 「なんだ? それは」  デロイは慎重な手つきでそのたたまれた紙片をとり出した。 「地図だよ」 「地図?」 「ずうっと以前に手に入れたんだよ。『カサンドラ』の|船長《キャプテン》が書いたものだそうだ」 「どこの地図だ?」 「アマゾン砂漠の西。オリオーネ山脈の山すそだ。古代の河床の跡だといわれる北へのびる峡谷だ」 「『|火星人の道《マーシャン・ロード》』じゃねえか」 「ああ。そのずっと奥だ。むかし『カサンドラ』の|船長《キャプテン》はそこで火星人の|廃《はい》|墟《きょ》を見つけたのだそうだ」  デロイはフサのほかには聞く者もないのに声をひそめた。 「火星人? デロイ。火星人が存在しないということは宇宙省の例の〈|太陽系報告《ソラリア・レポート》〉ではっきりしているじゃないか」 「科学者や宇宙省の役人どもに何がわかるものかよ! 『カサンドラ』の|船長《キャプテン》はおまえ、スペース・マンだよ。おまえもおれもスペース・マンよ。どっちの言うことを信ずるんだ?」 「わかったよ」  デロイは深くうなずいた。 「そうともよ。それで、この地図をおまえにやろう。おれは自分で行って、この眼でたしかめてやろうと思って長い間、誰にも言わずにこの地図をかくし持ってきた。だがこの足じゃとてもだめだ。おまえにこれ、やるよ」  デロイはおり目から千切れそうな紙片をフサの手に押しつけた。今はめずらしい合成パルプ質の紙片に、何かの塗料で稚せつな地図が描かれていた。こまかな書きこみの大部分がもう薄れて読み取ることも難しくなっていた。  デロイは地図をフサに押しつけると、満足したように別れていった。  その夜はしきりにアマゾン砂漠に流れ星が落ちた。フサたちのような|市《シティ》の生活保護を受けている者たちの専用食堂はほとんどひと晩中開いている。かれらには明日の仕事はないし、何段にも積み重ねられたベッドのひとつだけがかれらに与えられた専有面積であり、空間であってみれば、早くからそこへ収まりたい者はいない。フサは窓口で食券と引きかえた貧しいトレイをテーブルに運んだ。薄暗い電灯の光の輪の下にデロイがいた。フサはかれのとなりに座を占めた。 「今日の昼間聞いた話だが。デロイ。あれはほんとうのことなのか?」  デロイは食物のかわりに取ったものらしい淡黄色の飲料をなめるようにすすっていた。 「火星人の廃墟のことか? おれがおまえにうそをついてどうする」 「いや。おまえがどうのこうのということじゃない。あの話がほんとうのことだと思うか、と聞いているんだ」  デロイは淡黄色の液体に映っている自分の眼をじっと見つめていた。 「ほんとうのことだといいな。フサ。ほんとうのことだと」 「ああ」  デロイはとつぜん、テーブルの端をつかむとありったけの声をふりしぼった。 「ほんとうのことさ! おれが何十年もたいせつにしてきたんだからな!」  あちこちのテーブルからたくさんの眼が集中した。 「おい! みんな。火星人はいるんだよな。そうだろう!」  みなはとまどったように眼をちゅうに遊ばせ、それからまた頭を低めて自分たちどうしの会話や、それぞれの想いの中にもどっていった。 「みんなだってそう思っているんだ。そしていつかは会えるかもしれないと思っているんだ」  デロイは淡黄色の液体の入った容器を、遠い壁に向って投げつけた。容器は意志があるもののように傾いて回りながらみなの頭上を飛んでいった。|撒《ま》き散らされた液体がはげしい点滴となってみなの上に降りかかった。 「デロイ。地図をかえしてやろうか?」  フサの言葉が聞えなかったのか、あるいは聞えないふりをしたのか、デロイはよろりと立ち上り、ならんでいるテーブルの間をぬって遠くなっていった。  フサは食堂を出ると近くにある作業部のイグルーへ向った。いつもそこに何台かの地上車が露天駐車されていた。イグルーに人はいない。フサは一台の地上車の操縦室にもぐりこんだ。アクセルを踏んで静かに発進させた。ヘッドライトを消し、モーターの回転をしぼって食堂の裏手へ近づいた。食堂につづく倉庫から飲料水の入ったポリタンクと食料パックをひとつかみかかえ上げると地上車にもどった。食堂の内部からはなかまたちの話し声がまだ聞えていた。  ハンドルを回していったん街路に乗り入れた。青白い投光器の光の中で、縦横にひび割れたコンクリートの間を|充《う》|填《め》た砂が、迷彩のような曲線模様を描き出していた。風の音のほかは何の物音も聞えない。箱のような巨大なビルも、そびえ立つドームのむれも、ひっそりと息をひそめて凍てつく夜と走る砂に耐えていた。耐えているのはビルやドームではなく、その中で眠り難い眠りに身をすくめているたくさんの人々であった。フサは地上車を道路がつきる所まで走らせた。いつしか道路は砂に埋没し、市街にともる青白い投光器のかがやきが光点をつらねたほどに小さくなった頃、フサは地上車を砂の海に向けた。地平線の果てのオリオーネ山脈まで、広漠とひろがるアマゾン砂漠だった。数時間ののちに、東キャナル市の灯は背後の砂の海のかなたに消えていった。夜明け頃。大きな流星が飛んだ。陽が昇り、フサは切れ目なくつづく砂丘のかげに地上車を止め、短い眠りをとった。昼から夜へ、夜から昼へ、フサは休む間もなく地上車を走らせた。ハンドルをにぎりながら水を飲み、固形食料のパックを開いた。一度、キャタピラーの下部転輪の間に石片がはまりこんだ時だけ、数分間、車を止めただけだった。  四日目の明け方、遠い西の地平線に影のようになだらかな山脈がつらなるのがのぞまれた。オリオーネ山脈だった。その頃から砂あらしはいちだんと烈しさを増した。絶えず前方から吹きつけてくる砂あらしに視界をふさがれ、這うように進まなければならなかった。すでに頭上に高くオリオーネ山脈の尾根がそびえているはずだったが、その一部すらもうかがうことはできなかった。しかたなく計算板の上でコースを算定しながら前進した。このあたりの風はつねに山肌から吹きおろしてくる。そして幾つかの谷間をつたって砂漠に吹き出すので、風の流れと方向をたしかめてゆけば、確実に目指す谷間へ入ることができると言われていた。  地上車が進むにつれて急速に風が弱まってきた。ヘッドライトの光の中に、イグルーほどもある岩石が無数に浮かび上った。『|火星人の道《マーシャン・ロード》』だった。その谷間は長くのび、オリオーネ山脈の|鞍《あん》|部《ぶ》のひとつをなしてさらに山脈の向う側の、まだ人類の足の踏み入っていない荒野へとつらなっていた。そのむかし、古代の火星人たちはこの道を通って西の荒野にしりぞいていったと言う。千万年もむかしのことなのかもしれない。もとより誰も知るはずもないのに、信じている者は多かった。東キャナル市を出てから七日目の夜明けに、フサはオリオーネ山脈を越えて平原に入った。すでに食料は無く、水だけがタンクの底に二センチメートルほど残っていた。灰色の砂の上に美しい風紋が刻まれ、しだいに高くなる陽がそれらから|陰《いん》|翳《えい》をうばっていった。  フサはふと自分のかたわらに誰かが座っているような気がした。フサは前方の砂の海に眼をすえて地上車を走らせつづけた。それが誰であるのか、見なくともわかっていた。 「フサ。どこへ行くつもりなの? この先に何かがあるとほんきで思っているの?」  ほんき? ほんきとは何のことだ? 価値の転換に意味をもたらし、選択を必然づけようとする一瞬のあの|酩《めい》|酊《てい》のことか? 「いいじゃないか。フサ。火星人はいるかもしれないし、いないかもしれない。それがわかる所まで行ってみろよ」  カビになって横たわっているフルイが背後の荷台から言った。 「それをたしかめたところで、おまえの何が、どう変化するというのだ?」  スホーイがつぶやいた。  そう。それをたしかめたところで、いったい何がどう変化するというのだ? 「ちがう! ラルラ。スホーイも、それからフルイも。火星人がいるかもしれない、ということがどんなに魅力的なことなのか、おまえたちにはわかっていないんだ。好奇心なんかじゃない。現実がいやになったのでもない。もちろん火星人を発見して有名になろうなんてものでもない。わかるかい? 火星人をさがし求めるおれの心の問題なのさ! おれはスペース・マンなのさ。夢を求めてさがし回るおれはスペース・マンなのさ」  まぼろしは消えた。はがねのような氷雪につつまれた海王星の平原に降り立った時も、金星の熱あらしの中でひたすら救助船を待ちわびていた時も、また、第四アルテアの千古の静寂を秘めた入江のほとりでアンテナの支柱を立てていた時も、あるものはただ生きているという実感だけだった。その実感をもう一度、さらにもう一度、味わいたいがために|憑《つ》かれたように宇宙船に乗り、くりかえしくりかえし不毛の荒野に身をさらした。  そのひたむきだった日がふたたびフサの上によみがえってこようとしていた。若かった日々。くじけることをしらなかった日々。夢と生命を引き換えても悔いないと心底から思いこんでいた。あれら栄光に満ちた日々。それらの中に今、フサはいた。フサは若者のように声を上げて笑った。  岩棚の下に朽ち果てた列柱がならんでいた。|崖《がけ》をつたってたえず流れ落ちる石塊や砂が軽石のように磨滅したアーチに乾いた音をひびかせていた。アーチの奥は白い壁でかたくふさがれていた。その壁に、|亀《き》|裂《れつ》とも文字とも思われる奇妙な線描がはしっていた。フサの手から地図が落ち、たちまち風にさらわれて高い絶壁の上方へと舞い上がっていった。  そこに火星人が立っていた。まぶたを持たない二つの大きな目がじっとフサを見つめていた。 「おまえに会ったことがある。そうだ。地球の記念ホールでだった」  フサの足もとで砂がかすかにきしんだ。  火星人はうでをのばしてフサの首にメダルをかけようとしていた。     |火星人の道《マーシャン・ロード》 ㈼ 調査局のバラード      1  大圏航路の定期船が出航してゆくと、|宇宙空港《スペース・ポート》はもとのただの砂漠に還り、東キャナル市はしばらくの間休息に入る。何年か前までは、この|宇宙空港《スペース・ポート》にも、太陽系の辺境へ向う観測船や不定期貨物船が何隻も着陸し、その巨体を栄光の記念碑のようにそびえ立たせていたものだった。それが今では、一年間を通じて、ここへ着陸する宇宙船はほとんどない。それは、建造されるごとに飛躍的に向上してゆく宇宙船の性能もさりながら、近年、急速に開発に成功した木星や土星、天王星などの基地群とそこまで延長された大圏航路によって、火星はもはや地球と太陽系辺境とを結ぶ中継基地としての意味すら失っていた。だから、大圏航路を飛ぶ宇宙船でさえ、ここでははるか高空を回る人工衛星となって数十時間仮泊するだけである。そして折り紙飛行機のような何隻かのフェリーボートが、|空港《ポ ー ト》と本船の間を往復して、貨物や人間を積みおろしする。今では、|繋《けい》|船《せん》用の巨大なタワーもガントリー・クレーンも取り払われ、フィンガーは分厚い砂の下に埋もれていた。  それでも、定期船が仮泊している間は、|空港《ポ ー ト》も東キャナル市も、忘れていた活気をとりもどす。フェリーボートが着陸するたびに、この東キャナル市を訪れて来た人々や、さまざまな組織の、中央から派遣されて来た連中がぞろぞろと吐き出される。それとたくさんな貨物。定期船が飛び立ってしまうまでの間、東キャナル市の住民たちは、なんとなく落ち着かず、仕事も手につかない。仕事のある者もない者も、用もないのに|宇宙空港《スペース・ポート》の周辺をうろうろし、フェリーボートから吐き出される人々を、日がな一日ながめて暮すのだった。  その時ばかりは、|宇宙空港《スペース・ポート》に遠い異境の空気が充満していた。それはある者にとっては懐かしい地球の人々の顔や言葉であり、またある者にとっては、未だ見ぬ辺境の荒々しい雰囲気であったりした。  このところ、みなの興味と話題は、あるひとつのことにしぼられていた。当然のことながら、フェリーボートから吐き出される人や貨物に対する好奇の目も、それに裏打ちされていた。  濃紺色の空が|色《いろ》|褪《あ》せ、あるかないかの風が、平原を西から東へ吹きわたっていった。その風に乾いた軽い砂は音もなく動き、やがて幾条も幾条も、けむりのような尾を曳いて走りはじめた。いつもきまった時間に東キャナル市を襲ってくる砂あらしだった。  スピーカーの警告が作業をせき立て、フェリーボートから降り立った人々は、追い立てられる羊のように地上車に押し込まれた。  それでも、まだ見物人たちは去らなかった。      2  その女とははじめてだったが、いい体をしていた。地球の東洋人の遺伝的特質を示す黄褐色の肌と長めの胴体、それに黒い髪と厚いまぶたを持った女は、自分の体内におさめたかれのものを軸としてまるでろくろのように腰を回し、尻を動かし、バネのように上体を屈伸させた。十何度めかの絶頂がやってきて、女は自分で乳房をかきむしりながら絶息した。女の内奥で固く膨隆した器官が男の先端をはげしく圧し、擦り、けいれんした。やがて女は、死人のようにベッドにくずれ落ちた。それが抜けるとき、|泥《でい》|濘《ねい》に埋った足を引き抜くような音がした。  あやういところを、このたびも耐えたシンヤは、腹の底から吐息をしぼり出した。さすがに疲労がよどみはじめていた。それがおびただしい汗の粒となって、厚い胸や盛り上った肩をつたい流れた。  東キャナル市の数少ない女の中に、このような体の持ち主がいたというのがふしぎな気がした。また大発見でもあった。この部屋へやってきたとき、女はC級医務員の|制服《ユニフォーム》を着ていた。シンヤは医療部にはあまり縁がなかったから、そこにかの女のような看護婦がいたことなど、これまで知らなかった。かれらがこれまで相手にしてきた女たちといえば、気象観測部や民生部、運輸部などにはたらく技術者や作業員などで、胸の薄い、体全体にふくらみにかけた男のような女たちだった。一応は欲望もありながら、ただ棒のように体を男の動きにあずけることしか知らない女たちだった。  壁のスピーカーに|汐《しお》|騒《さい》のような騒音が入った。 〈シンヤ軍曹。ただちに調査局長室へ出頭してください。シンヤ軍曹。ただちに調査局長室へ出頭してください〉  騒音の奥から、ふだん聞き馴れた声が流れ出した。かなりいら立っている。 「うるせえ!」  シンヤは、それに向って|罵《ば》|声《せい》をあびせた。  スピーカーはもう一度、同じことをくりかえすとぷつりと切れた。声がいら立っているのも当然で、すでに一時間も前から呼びつづけているのだった。 「それ、もう一丁ゆくか」  シンヤは、死んだようにベッドに体を投げ出して、笛のように息をもらしている女の後へまわり、汗に|濡《ぬ》れた量感のある腰を引き寄せた。もうろうとなっている女は、握りしめているシーツもろとも引き寄せられ、つらぬかれたとたんに、生命を吹きこまれたようにふたたびはげしく動きはじめた。  そのとき、部屋のドアが開いて、この部屋のもう一人の住人である老フサがのそりと入ってきた。削いだようなほおと、落ち|窪《くぼ》んだ|眼《がん》|窩《か》が、老いの疲れを濃く宿していた。  かれはよれよれになった|制服《ユニフォーム》の上着をぬぐと、壁の釘にひっかけ、冷蔵庫の後から、かれがウイスキーと呼んでいる自家製の飲料アルコールのびんを取り出した。 「また出たんだってよ」  アルコールを半分ほど満たしたコップに、水道の水を注ぎたしながらシンヤをふりかえった。 「また出た?」 「ああ。今度はひでえや。死人が出た。地質調査班の連中はふるえ上がっているぜ」 「冗談じゃねえや」 「シンヤ。あの『|火星人の兜《マーシャン・ヘルメット》』には、たしかに何か出るんだぜ」 「火星人の幽霊か」  シンヤは体をゆすって笑った。そのたびに、シンヤの体の上に乗っている女は内臓がしぼり出されるような声を発してのけぞった。 「いったいどんなものを見たんだ?」 「電話を受けたんだが、どうも一人一人、言うことがちがっていやがってな。結局、よくわからねえんだ」  シンヤは、動きは女にまかせて、あお向いた上体を老フサにねじ向けた。 「おめえ、たばこ、あるか?」 「おれがやらねえのは知ってるだろう。よしなよ。あれはいけねえ。見つかったらおめえ、禁固ぐらいじゃすまねえぜ」 「ふん! おめえのそのウイスキーとかいうアルコール臭え水も、たしかご禁制じゃなかったのかい」 「くそでもくらえ!」 「おれはともかく、おめえは気をつけなよ。そんなものを|飲《や》っているのが見つかったらたちまちここからほっぽり出されて、退職者センター行きだぜ」 「ちげえねえ」  老フサは肩をすくめて、コップに満たした液体をすすった。徹底的に人手が不足しているこの東キャナル市だからこそ、たとえひまな仕事とはいえ、調査局の末端に連なっていることができる老フサだった。若い頃、|宇宙船乗り《スペース・マン》の間でなりひびいた名前の持ち主であっても、それだけでは現役にとどまることは難しい。老フサと同じ年代のかつての高名な|宇宙船乗り《スペース・マン》たちの多くがすでに退職者センターと呼ばれる老人休養ホームでなすこともなく影のように生きているのだった。  シンヤはベッドの上から腕をのばし、脱ぎ棄てた自分の制服を引き寄せ、ポケットをさぐった。一本だけ残っていたくしゃくしゃなたばこを見つけ出すと、苦心してそれに火をつけた。汗がしみてそれが乾いたあとの苦くて異臭を発するそれを、シンヤは深々と吸いつけた。 「ああ。うめえ!」 「けっ! |苔《こけ》を燃したけむりなんぞくらって、そんなうめえか。ばか」 「苔なもんか! こいつはな、モウコジャコウソウCの若芽を摘んでよ、特製の乾燥機でパサパサになるまで乾かして、そいつにブドウ糖を吹きつけてまたまた三七二十一日の間、じっくりと干してな、白く粉を吹いたところでこまかく刻んだのよ。この香りがたまらねえぜ」 「なにを言ってやがんでえ! そんなことばかりやってるから局長にどやされるんだ。おめえ、こんどの配置転換じゃいよいよ倉庫行かもしれねえや」  壁のスピーカーがまたさけびはじめた。 〈シンヤ軍曹。ただちに局長室に出頭するように。シンヤ軍曹。ただちに局長室に出頭するように〉  声の調子は、かなり緊張している。 「そういえば、さっきからおめえのことを呼んでいるようだが。おめえ、何かやったのか?」  老フサは二杯目のコップを水道の蛇口の下に当てた。 「いや。地球の総局から人が来たんだとよ。例のファイルの一件よ。こっちからの報告を待っていればいいじゃねえか。わざわざ来ることはねえよ」 「そりゃ、ま、そうだな。こっちにはこっちのやり方というものがあるんだ。なにしろ総局のおえらがたときたら、なんでも形どおりおさめなけりゃ気がすまねえ。ファイルの途中がぬけていたって、どうってこたあねえじゃねえか」  老フサは、手製のエチルアルコールをぐびぐびとあおった。  シンヤの体の上で、一人でもだえ狂っていた女が、泣き声を上げはじめた。 「なんだ? その女は?」 「医療部のC級医務員らしいや。あああ。一人で楽しんでやがら。おれ、なんだか気がなくなっちまったよ」 「おめえも好きだな。どれ」  老フサは、シンヤの体の上でのけぞっている女に近づくと、女の頭をかかえて、手にしたコップを女のくちびるに当て、中の液体を女の口に流しこんだ。女は夢中でそれを飲みこんだ。とたんに女は体を折ってはげしく|咳《せ》きこみ、飲まされたものをポンプのように吐き出した。シンヤの顔が引きゆがんだ。女の内部が強烈にねじれてゆがみ、シンヤのものはおそろしい力で締めつけられた。シンヤはたまらず、それまで|撓《た》めていたものを一度に爆発させた。シンヤのくいしばった歯の間から、瀕死のけもののようなうめきがもれた。 「どうだ。がまんできねえだろう。ふん! 口ほどもねえやつだ」  虚脱したシンヤの耳に、老フサの|哄笑《こうしょう》がひびいた。  そのとき、ドアが開いた。  若い女が立っていた。      3  銀灰色の|防《ぼう》|塵《じん》コートが、シンヤの目を射た。  女は大きな澄んだ目に、おそろしく冷たい光をたたえて室内に視線を回らした。 「だ、だれだ?」  女は、見るだけのものを目におさめてから、ゆっくりと視線をシンヤの顔にもどした。  そのとき、開いたドアのかげから、調査局の青年が当惑のみなぎった顔をのぞかせた。半分逃げ腰だ。 「シンヤ軍曹。総局からおみえになられたケイ・リーミン準将です」  なんだって? シンヤは自分の耳を疑った。一瞬、室内は凝結した。つづいて、わっともげっともつかない声がシンヤののどからとび出した。シンヤは跳ね起きた。自分の上で正体を失っている女の体を払い落した。女がひどい音をたてて床に落ち、黒い髪が床に渦を巻いた。シンヤはそれには目もくれず、ズボンをひっつかんで足を通した。片足を入れ、もう一方を入れようとして|爪《つま》|先《さき》をひっかけ、ぶざまに転倒した。左肩を床にぶち当て、息が止った。ようやく起き上った。  何を考えるひまもないうちに、つめたい声が降ってきた。 「軍曹!」 「ちょっ、ちょっと待ってくれよ」  シンヤはひや汗にまみれながら、ズボンをはきなおすために奮闘した。 「軍曹。上官に対する敬礼はどうしました? 私事は“休め”の許可を得てからにしなさい」  シンヤは、目に見えない白刃で、まっぷたつにされたような気がした。もうやぶれかぶれだった。なにしろ相手は連邦軍の将官だ。いったん腰のあたりまで引き上げたズボンから手を離し、直立不動の姿勢をとった。ズボンはふたたび床に落ちた。やけくそで右手を上げ、そろえた指先を右眉の上に当てた。リーミン準将は、一瞬、目のさめるようなポーズでそれを返した。  老フサが横から首をのばした。 「まあズボンぐらいはかせてやれや。姉ちゃん」 「姉ちゃんじゃありません! 準将です」 「じゃ、準将の姉ちゃん」 「あなたは……軍曹と同室居住者のフサですね。あなたは連邦軍の軍籍にはないけれども、調査局員として現在、私の監督下にあります。それにあなたは古参者として、軍曹を監督指導する立場にあるわけです」  老フサはぎょっとなって息をのんだ。 「私は一四九便でここへ着いて、局長室で三時間待ちました。局長の話では、軍曹が今資料を整理中だとのことでした。私は資料室へ行ってみましたが、資料室では、ここしばらくの間、軍曹はあらわれていないということでした。あちこち探してもらいましたが、居室ではないか、という者がいて、ここへ案内してもらったのです。軍曹。今あなたは勤務中だと聞きましたが、そうですか?」  シンヤは死にたくなった。 「フサ局員! あなたは?」  老フサは惨憺たる顔つきになった。 「まあな。そう言えばそうだが。しかし、ここじゃそう四角四面にゃいかねえこともあってな。そうなんだよ。チョボチョボやってんだ。姉ちゃん」 「姉ちゃんじゃありません!」 「おっと、準将の姉ちゃん」 「いいですか。二人とも。ここにはここなりの生活の仕方があるのでしょう。しかし、軍曹に与えられた任務は、極めて緊急かつ重要なものであったはずです。今はその任務を果すべき時間のはずです。軍曹! 軍曹が今やっていたことは、資料の調査とは何か関係のあることなのですか!」  リーミン準将の|舌《ぜっ》|鋒《ぽう》はまさに火を吐くばかりだった。  もういけない。二人はただただ身を縮めて、とつぜん襲ってきたこの災厄が、できるだけ小さな被害で終ることだけを祈るしかなかった。  うなだれている二人を見すえていたリーミン準将の目から、ふと鮮烈な光が消えた。ひどく稚ない顔になった。 「フサ。その女を帰しなさい」 「ほいきた」  老フサは、女の脱ぎ棄てた衣類を床からすくい上げると、女の腕をかかえて部屋のすみへ運んでいった。 「軍曹。服装を整えなさい」  シンヤは神妙な顔でズボンをはきなおした。どうかっこうをつけてもはじまらない。  リーミン準将は、かたわらのパイプ椅子を引きよせ、腰をおろそうとしたが、油の汚れや飲物の垂れたしみ跡、何ともしれない変色や|腐蝕《ふしょく》を目にすると、おろしかけた腰を上げた。衣服をまとった女を、ドアの外へ送り出した老フサがそれを見ると、いそいで自分のベッドから毛布を引きずりおろし、それを小さくたたんでパイプ椅子の上にのせた。それとて、腰をおろすには薄気味悪いようなしろものだった。 「さ、どうぞかけてくれや」  老フサは生れてはじめて見せるような、なんとも形容のつかない追従笑いを浮かべた。 「ありがとう」  リーミン準将は、椅子に腰をおろし、軽くひざを組んだ。銀灰色の防塵コートのすそが二つに割れ、形のよい足があらわれた。不動の姿勢をとっていたシンヤの目が動いたが、すぐもとのようにちゅうの一点をにらんだ。 「シンヤ軍曹。報告を聞きましょう」 「それが……その。まだ……」 「シンヤ軍曹。総局が文書をもって調査を命じたのは、今日からちょうど四十日前です。そうでしたね」 「そうです」  シンヤはそんなことは指おり数えてみたこともなかったが、そんなことはおくびにも出せない。そうですと答えるしかなかった。 「総局資料部のファイルから一部資料が紛失しているのがあきらかになったのが、九十日ほど前です。その資料は本文のほかに索引、整理カードそれに予備のマイクロフィルムなど、欠損部分の内容を示すあらゆる手がかりが失われていました。総局は資料の欠損部分の修復にかかると同時に、これを犯罪と断定し、調査にかかりました。その後、関係者の記憶や通信局、コンピューター室などの業務記録から、失われた資料は火星東キャナル市からのものとわかり、以後の修復作業と調査の一部をここの調査局に命じました。そうでしたね。軍曹」  言われるまでもなかった。  地球連邦の首都、オーストラリヤ大陸のメルボルンに総局を置く宇宙省調査局は、今奇妙な事件に頭をかかえていた。調査局は宇宙開発に関する厖大な調査、研究資料を保管していた。それは二つの大きな部分に分けられていた。ひとつは、宇宙空間や天体に関する純科学的な資料であり、これは各研究機関や組織から送られてくる報告を整理、保管するいわば連邦の資料保管業務であり、地球的な規模の図書館であった。もうひとつは、宇宙開発に関する行政的な資料や統計の作成と保管だった。これは宇宙省の、太陽系各地に散在する開発基地や植民都市——といっても現実には都市というようなものは存在してはいなかったが——に対する権威であり威圧となっていた。  事件はこの、前の部分に関するものだった。資料保管室のマイクロフィルムのファイルのうち、ある部分だけが失われていたのだった。精巧な空調装置をほどこし、いかなる化学的、物理的変化からもマイクロフィルムを保護できる保管室も、資料の盗難予防に対してはそれほど厳重な対策を講じていたわけではなかった。いかなる意味でも犯罪計画の対象になるようなものではなかったし、マイクロフィルム自体、特殊な装置がなければ解読できるものでもなかった。  それは何者かによって、持ち出されたものとしか考えようがなかった。それでは何のために? 「そのマイクロフィルムが何を報告したものだったのか。それを知ることが、この事件の性質を知る最大のかぎだと思うのです。軍曹」 「たしかにそうだ」  大きくうなずいたのは老フサだった。シンヤの方は、これから何を言われるのかと思うと気が気ではなく、準将の言葉にうなずくほどの気力もない。 「資料を持ち出した者についての手がかりは何かあったのかね? 姉ちゃん」 「姉ちゃんじゃありません」 「ほい。そうだったな。準将閣下。それで、どうなんだい?」 「資料部へ出入りした部外者としては、その頃、連邦医療部が定期検診のため三日間にわたって資料部へ入っています。そのさい、医療部が必要としたマイクロフィルムのファイルのすぐそばに問題のファイルのケースがあったのです」 「でも、それだけじゃ医療部の誰かがやったという証拠にはならねえだろう」 「有力な証拠が発見されました」 「へえ! どんな」 「それはともかく、今、重要なことは失われた資料の内容を正確に知ることです」 「だが、予備資料まで盗み出したというのは、ただごとじゃねえな。何かよほど知られたくない理由があったんだろうよ。そんな大事な報告をファイルしたままうっちゃっておいたのかよ。総局はなにやってんだ?」 「別にうっちゃっておいたわけでもないんでしょう。ある報告が役に立つか立たないかは、時間がたってみなければわからないこともあるんですから」 「シンヤ」  老フサはシンヤに向き直った。その目がいきいきと光っていた。いいたいくつしのぎができたというところだった。 「おめえ、何か思い出したとか言ってたじゃねえか」  くそ! よけいなことを言いやがって! シンヤは老フサをねめつけた。 「思い出したといったって、そうはっきりしたことじゃねえんだ」 「どんなことでした?」  リーミンの目がきびしくなった。 「たしか原子力発電所建設用地の第二次調査班が、『|火星人の道《マーシャン・ロード》』の奥で遭難した件に関することだったと思う。おれが報告をまとめて送ったんだ」 「軍曹。椅子にかけなさい。もう少しはっきり説明してください」  シンヤはパイプ椅子をまたいで、背もたれに両腕をのせた。 「あれは、去年の第五一日だ。地球流にいえば二月二十日だな。連邦建設省の地質調査班と測量班が『|火星人の道《マーシャン・ロード》』へ入った……」  砂あらしの吹きすさぶ広漠たるアマゾン砂漠。海のないここ火星では、それは大洋にひとしい。遠い遠い地平線から陽が昇り、はるかな地の果てに陽は沈む。旅すること数日。やがて砂の海がつきる頃、西方になだらかな丘陵があらわれてくる。砂の海は、そのあたりから|砂《さ》|礫《れき》まじりの|荒《こう》|蕪《ぶ》地となる。平原はゆるやかに高度を増し、いつとはなしに丘陵地帯となり、それよりさらに西へ進むと、つらなる|山《やま》|脈《なみ》の暗い谷間がゆく手をさえぎっている。谷間を吹き過ぎてゆく風に、山肌の斜面を砂はたえず音もなく流れ落ち、夜の酷寒と昼の紫外線に灼かれた岩壁は、縦横にひび割れてわずかな大地の震えにもなだれのように落下する。その荒れ果てた谷の奥には、人類は未だ足を踏み入れたこともない。  その、古代の河床の跡といわれるその|涸《か》れ谷は『|火星人の道《マーシャン・ロード》』とも呼ばれていた。  遠い遠いむかし、この火星に壮大な文明をきずき上げた火星人たちも、やがて亡びへの道をたどるようになり、ついに荒廃した都市を棄て、荒涼たる砂漠を越えて、その涸れ谷を西へ去ったという。かつて火星上に高等生物が存在したことはないという科学者たちの証言にもかかわらず、東キャナル市で語られる伝説は、ことに年老いたスペース・マンたちの間ではかたく信じられていた。かれらは、話題がそれにふれるや、きまって、数十年前にある探検隊が、この『|火星人の道《マーシャン・ロード》』で火星人の廃墟を発見したことがあると語った。だが、どのような記録を調べても、そのような探検隊の記事は載ってはいなかった。その探検隊に参加した者の名も伝わっていない。だが年老いたスペース・マンたちは、その廃墟に至る地図が、かれらスペース・マンたちの間に、たしかに伝わっているという。今は誰が持っているかわからないが、たしかに誰かが宝物のように秘蔵しているはずだ、と主張した。 『|火星人の道《マーシャン・ロード》』は、いつの間にか、この東キャナル市で生活する人々にとって、聖域となっていった。それは稀薄な空気と夜の酷寒、乾いた砂と不毛の平原にあって生を営む人々にとって、つきない夢と幻想でもあった。  東キャナル市首脳部は、宇宙開発の前線がしだいに太陽系辺境に前進するにしたがって、後方に取り残され、火星開発に対する地球の興味や関心が急速に薄れてゆくのを憂い、再度、宇宙開発計画の主役に登場すべく、連邦に提案したのが、東キャナル市の西方にひろがるアマゾン砂漠の開発だった。連邦はアマゾン砂漠に宇宙船の修理センターを設けることにはおおいに食指を動かした。最新型の重力場発生方式のエンジンや光子力エンジンの、地上におけるテスト場や修理工場は、地球上ではもちろん、地球以外の他の天体のどこでも、極めて否定的であり、非協力的だった。宇宙省や連邦造船局はやむを得ず、それらの修理やテストをすべて人工衛星軌道上でおこなってきたのだった。それがたとえ火星上ではあれ、地上でできるとなると、その経費の点や保安、作業員の休養などの上からどれだけ有利かわからない。  連邦は早速、調査団を東キャナル市に送りこんできた。先ず、大原子力発電所を建設するための場所をえらぶことだった。  ヘリコプターや地上車を動員してアマゾン砂漠を西へ越えた調査団は、オリオーネ山脈の涸れ谷に入った。  そこは『|火星人の道《マーシャン・ロード》』だった。 「救難信号が入って捜索隊が出かけたが、現地のようすがはっきりしないので、もう一隊出た。おれはこのあとの隊に加わった。調査団は全部で二十五名だったが、全員死んでいた。遭難の原因はどうもはっきりしなかった。現場ははげしい落石におおわれていたが、それは新しいもので、遭難後に起ったものだと思う。五台の地上車が岩壁に激突して、その衝撃で岩がくずれ落ちたのだろう。だから、それより前に、なぜ地上車が五台もそろって岩壁にぶつかるようなことになったのか、そいつが問題よ」  シンヤ軍曹は濃い眉を上げてリーミン準将を見つめた。その目に、自堕落な服装や態度とは裏腹な、刺すような光がきらめいた。 「あなたの疑いを具体的に示すような何かがありましたか?」 「いや。それがねえんだ。あの谷はたえず風が吹きおろしていて気流は極めて悪いが、地上車の運転をあやまるようなことはねえはずだ。だが、おれの見たところでは、五台の地上車は、もろに岩壁へぶつかっている。その直前に何か非常な混乱が起ったように思える。操縦者の単なる錯覚ではねえな。あれは」 「どういうことですか?」  老フサがあとを引きとった。 「あの谷にはな、幽霊が出るんだよ。姉ちゃん」 「幽霊が?」  準将は、こんどは、姉ちゃんではありません、とは言わなかった。ただ自分の耳を疑うような顔になった。ひそめた眉が淡い翳を浮かべ、半ば開いたままのくちびるから小さな白い歯がのぞいていた。  リーミン準将の顔から、じょじょにおどろきと放心の色が消えてゆくと、かの女と老フサは|仇敵《きゅうてき》のようににらみ合った。  老フサの口もとがふとゆるんだ。 「火星人の幽霊だよ」 「…………」 「この火星へ来て仕事をする以上、地球流の常識や考え方はくその役にも立たねえぜ。姉ちゃん」 「そんなことわかってます。でも、火星人の幽霊だなんて……」 「そんな! と言いてえんだろう。それが出るんだ。シンヤのやつはそいつを考えているのよ。でも、そんなことは報告書には書けねえやな」  老フサはひとりでうなずいて冷蔵庫に歩み寄った。無意識にその後から、かれの秘蔵のびんを取り出し、その中の液体をコップになみなみとついだ。それを目にしたシンヤは仰天した。必死に目で合図したが、老フサはそんなことに気づくどころではない。アルコールの匂いを部屋中にただよわせながらいつものように水道の水で薄め、目を細めてそれをのどに流しこんだ。  リーミン準将は、|惨《さん》|憺《たん》たる面持ちでそれをながめやった。 「また出たんだぜ。それがよ」 「また出た?」 「ああ。うめえ! 『|火星人の道《マーシャン・ロード》』の入口には今、地質調査隊がキャンプを張っている。遭難事故があって以来、いっぺんに谷の奥までくりこむことはやめてよ。入口ン所にベース・キャンプを作って予備調査とやらをつづけているんだが、こいつらが今日、谷の奥まで|入《へえ》ったらしい。谷の奥には『|火星人の兜《マーシャン・ヘルメット》』と呼ばれている突ン出た岩があるんだ。そこでやつらは火星人の幽霊に出くわしたんだなあ。二人がショックでおっ死に、もう一人は気が狂っちまったそうだ。怪我人も二、三人出て、やつらは命からがらベース・キャンプまで逃げ帰ってきたとよ。ばっかなやつらだ」 「どうして、ばかなんです?」 「どうしてって、あそこは人間の踏んごんで行く所じゃねえんだ」 「その火星人の幽霊というのは、どんな形をしているんですか?」 「おれは見たことがねえからよくわからねえが、なんでも、それらしい姿をしているんだと」 「それらしい姿って?」 「火星人らしいかっこさ。つまり、細っこい胴体にひょろ長い手足がついていてな。青っぽく透きとおっていて、なんか、こう、ふわふわしているんだとよ。でけえ目ン玉がついているともいうな。それが、すうっと近寄ってくるんだって話だ。だがな、姉ちゃん。ほんものの火星人を見たやつは誰もいねえんだ。だから、それが火星人の幽霊だっていわれりゃそう思うよりしょうがねえな」 「あきれたわね。なるほどねえ。そういう神経でないと、ここじゃつとまらないのね」 「そういうこと、そういうこと」 「わかったわ。それじゃ、その『|火星人の道《マーシャン・ロード》』へ行ってみましょう」 「姉ちゃん。いくんけ?」 「二人とも来てください。局長に話して準備させます。明日、七時、|空港《ポ ー ト》のコントロール・タワーで落ち合いましょう」 「姉ちゃん。腰ぬかすなよ」  老フサは鳥のような声で笑った。その笑い声の中を、リーミン準将はあらわれたときと同じように、きらめくようなものをふり撒きながら部屋を出ていった。  リーミン準将の姿が消えると、シンヤ軍曹は腹の底から吐息をしぼり出した。ひたいにねっとりとつめたいあぶら汗が浮いていた。 「ああ、おれはなんだか悪い夢を見たみてえだぜ。肝っ玉がちぢみ上ったよ」 「おっそろしいやつが来やがったな。シンヤ、これからおめえ、あいつにしぼられるぞ。だから言ったじゃねえか! 早く報告書を出せって。ぐずぐずしているから、ああいうのが来るんだ」 「人のことばっかり言うな! なんでえ、あいつの前でアルコールなんぞ飲みやがって。ぜったいあとで懲罰くうぞ。にらんでいたからな」 「ううむ。ありゃちょっとまずかったなあ。おれも飲んじまってから気がついたのよ。しまった、と思ったがもうどうにもならねえ」 「おれたちはもう首かもしれねえ」 「その前に、せいぜい『|火星人の道《マーシャン・ロード》』でおどかしてやるべえ」  二人はほくそ笑んだが、はなはだ意気は上らず、ほくそ笑んだつもりがなさけない薄笑いになった。  厖大な組織を持つ宇宙省調査局は、各方面から人的資源をあおぐと同時に、機構それ自体が、地球連邦軍との複合体的性格を持っていた。それだけに中央高官の出現は、シンヤにとってはおそるべき事態といえた。一介の軍曹にとって準将などというものはまさに神にひとしい存在だった。しかも、それが若い女ときては、もう助からない。シンヤ軍曹にとって長く暗い日が始まろうとしていた。      4  翌日、きめられた時間に、二人は装具をかついで|空港《ポ ー ト》のコントロール・タワーにおもむいた。タワーの地下に同居している輸送部の|車輛《しゃりょう》用の|傾斜路《ランプ》に、一台の地上車が引き出されていた。ふだんは蓄電池でモーターを駆動するのだが、今日は車体の後部に、銀色のボールのような小型原子力パワーユニットを搭載していた。ユニットの内部におさめられた発電機が低くうなりはじめると、キャタピラーを履いた車体は、たちまち生気を得た。  二人が近づいてゆくと、キャノピーの窓がはね上って、リーミンの顔がのぞき、二人に向って手をふった。 「遠足かなんかのつもりでいやがら! いい気なもんだ」 「今に見ていろ!」  二人は顔を見合わせてつぶやいた。ハッチから車内にもぐりこむと、輸送部の搭乗員たちがすでに座席におさまり、機器の調整に追われていた。 「長波、短波、OK。タカン誘導ねがいます。コンマ四、三、二、一、タカンOK」 「レーダー一号よし。二号よし。信号弾調整OK」 「回転計よし。電圧計よし。電流計よし。第一電路、第二電路、ともに異常なし」  広漠たる砂の海を旅する車輛にとっては、わずかな故障が悲惨な遭難の原因となる。調整は極めて慎重だった。 「出発準備OK。準将、いつでも出発できます」  やがて、腕に車長のワッペンをつけた男が、リーミンに合図した。かの女がうなずくと、車内にブザーが鳴りひびいた。モーターの回転音がにわかに高まり、地上車は砂を|蹴《け》って前進を開始した。  砂漠のかなたへ向って頭部をふると、キャタピラーに掃かれた砂が、車体の底板をざっと打った。  昼から夜へ、夜から昼へ、地上車は砂を蹴って走りつづけた。背後をふりかえると、まき上げた砂けむりが長く長く地平線の果てまでつづいていた。一度、はげしい砂あらしに遭遇し、針路を見失った。だが、砂に埋没するのを防ぐために、地上車はやみくもに走りつづけ、砂あらしが去ったときには二百キロメートルもコースをそれていた。それを回復するのにほぼ半日を要した。砂あらしが去ったあとの夜空を巨大な流星が飛んだ。遠い地平線のかなたに火柱が立つのが見え、それからしばらくたって遠雷のようなとどろきがつたわってきた。  翌日、砂の海は岩だらけの荒れ果てた平原に変り、西方になだらかな丘陵が迫ってきた。地上車は時おり岩にのり上げ、はげしくゆれた。丘陵が迫ってくると、帯電した砂の粒による電波の|攪《かく》|乱《らん》もおとろえ、通信席ではせきを切ったような交信がはじまった。  やがて地上車は岩石だらけの谷間へ入った。柱状節理の奇怪な岩壁が頭上にのしかかってくる。平原ではまだ陽が高かったのに、ここではもう|夕《ゆう》|闇《やみ》が谷あいを閉ざしていた。ヘッドライトの光の輪が、岩壁を不気味な|浮彫《レリーフ》のように浮き上らせた。谷は進むにつれてせばまり、しだいに傾斜を増し、急速に頭上が開けてきた。短い|黄《たそ》|昏《がれ》のあとの夜の闇が無数の星をちりばめ、広漠とひろがった所が無名の峠だった。地上車はがくりと頭をさげ、そこから急にスピードを増して奈落へ下ってゆく。ふたたび道の両側は、見上げるような断崖となり、道は右に左にたえ間なく屈曲しながら下りに下る。すでに『|火星人の道《マーシャン・ロード》』の深奥へ入っているのだった。 「下方に灯が見えます!」 「調査班のキャンプで合図しています!」  前方を見張っていたクルーがさけんだ。  地上車から射ち上げられた信号弾が、夜空をかけ上がっていった。  地質調査班のキャンプは、ひどく動揺していた。地上車をむかえ、キャンプの人々は|蘇《そ》|生《せい》の色を浮かべてかけ集ってきた。そのほとんどが頭に包帯を巻き、腕を|吊《つ》っていた。その顔に、忘れ難い恐怖がまだ翳を落していた。 「幽霊が出たんだってな?」  シンヤはおびえた顔をならべている作業員たちに向ってたずねた。かれらが答えるより早く、頭部に、血のにじんだ包帯を巻いた長身の男がシンヤの腕をとらえた。 「おい! いったいここではどうなっているんだ? 幽霊だかなんだか知らんが、こんな危険な場所へ、事前の調査もなしにわれわれを送りこむとは!」 「痛え! その手を離せ! この!」  シンヤは悲鳴を上げた。おそろしい力だった。男は地質調査班の班長であるビン博士だった。かれはほとんど逆上していた。 「わしの弟子が二人も死んだ。遺体を|市《シティ》へ運ぼうにも、このキャンプには砂漠をわたることができる地上車さえ配備されておらん! ここを引き払うこともできない。調査局は何をやっているんだ!」  おそろしいけんまくだった。老フサも何人もの男たちに取り囲まれて小突き回されていた。かれらにしてみれば、調査局の|制服《ユニフォーム》は怠慢と無能の象徴のように見えたのであろう。  二人につづいて、ハッチからリーミン準将が姿をあらわしたとき、奇妙な静寂がかれらを押しつつんだ。かれらは沈黙し、落着きなく視線をそらせ、肩をすくめた。ビン博士は、露骨に顔をしかめて身をひくようなそぶりを示した。  シンヤは、かれらのこの反応に興味を持った。  かれらがリーミンに示したものは嫌悪であり、恐怖であった。かれらの間で、かの女はよほど悪名高いらしい。  リーミンが足を運ぶにつれ、人垣は二つに割れた。割れた奥にビン博士が残された。 「リーミン準将! あなたはひどい人だ」 「ビン博士。お元気ですか?」 「お元気ですか、もないものだ。準将、あんたはわれわれを地質調査班の名のもとに、この『|火星人の道《マーシャン・ロード》』へ送りこんだ。アマゾン砂漠開発のための原子力発電所を建設する予備調査ということだったが、準将、こんな奥深い谷に原子力発電所を建設して、いったいどうなるのかね? そうだよ。原子力発電所建設の予備調査などであるものか!」  ビン博士は、ほおを引きつらせてリーミンにつめ寄った。 「博士。冷静になってください」 「ああ。わしは冷静だよ。だから言っているんだ。準将。このさいだから全部言わせてもらおう。あんたは、何かほかの目的があってわれわれをここへ送りこんだんだ。ここだけではない。地球だけでも二十何か所という場所に調査班を送りこんでいるじゃないか? いったい、調査局は何をやろうとしているんだ? その計画の目的もあきらかにされていないじゃないか」 「ビン博士。そのことは原子力発電所建設計画の一環として説明、了解されているはずです」 「犠牲者が出ないうちは、たてまえはたてまえとして通る。だが、すでにこのキャンプでさえ二人も生命を落した。ほかに重傷者が三人。軽傷者にいたっては全員だ。調査にともなう危険に関しては、全く説明を聞いていない」  ビン博士は怒りで青ざめたひたいに、太い血管を浮かせて言いつのった。 「わしは地球を出発する前に、コーカサスへ向った調査班が現地で遭難したという情報を耳にしている。その遭難の状態も、われわれとよく似ている。いったい、これはどうしたことなのかね。しかも、この調査計画の責任者であり推進者でもあるのは、準将、あんただっていうじゃないか!」 「ですから博士……」 「われわれは非常にふんがいしているんだ。もう協力はおことわりだ。ただちに|市《シティ》へ帰してもらおう!」  ビン博士は青白く燃える目で、リーミンをにらみつけた。不穏な緊張が周囲にみなぎった。  そのとき、とつぜん、人垣のうしろで、人もなげな哄笑が爆発した。笑い声はたっぷり一分間はつづいた。人々は張りつめた気持を|殺《そ》がれ、空虚な顔で笑い声の主をふり向いた。ようやく笑いをおさめた人物が、人垣を押しのけてそこへあらわれた。老フサだった。 「なんだよ? おめえさん。幽霊見て肝つぶしたのか?」  ビン博士は、この無礼極まる老人の出現に、怒りの言葉も忘れた。 「だ、だれだ? きみは?」 「わしは、この火星を支配しちょるフサちゅうもんだが、わしの前ではちと言葉をつつしめ。なんだか|市《シティ》へ帰りてえとかぬかしておったようだが、寝言はやめて、車から荷物をおろせ」 「な、なんだ。こいつは?」 「荷物をおろせと言ったのが聞えなかったか?」 「準将! こいつは調査局の|制服《ユニフォーム》など着ているが、病院からでもぬけ出てきたのか?」 「ビン! てめえ、それでも科学者か! 幽霊なんぞにおどかされて、キャンプをほうり出して|市《シティ》へ逃げ帰ろうってのかよ! ここは地球じゃねえんだ。幽霊だってなんだって、そんなものはどこにだって出るんだ。いちいちおったまげていてこの火星で仕事ができるか!」  おそろしく量感のある声がビン博士の|耳《じ》|朶《だ》を打った。  老フサは博士に背を向けると、ぼうぜんと突っ立っている男たちにあごをしゃくった。 「作業班長は誰だ? 前へ出ろ! 作業の手順を説明する。それ以外の者は休め。ただし、私語は禁ずる」  老フサの声がせまい谷間にひびいた。男たちは汐の退くように静まりかえった。二人の男がのろのろと前へ出てきた。 「なんだ、そのざまは! ぐずぐずするな。かけ足!」  二人の男は電撃をあびたように硬直した。つぎの瞬間、バネじかけのように走り出した。 「姉ちゃんよ。ここじゃいちいち説明したり聞いたりする必要なんかねえんだ。そんなことをしている間に生命がなくなることだってあるんだぜ! わかったかい!」  リーミン準将は、いやな顔をしてそっぽを向いた。そのかの女の前に立っているのは、往年の名パイロット、スペース・マンのフサだった。      5  谷の幅は二十メートルほどだった。両側は垂直に近い岩板で、その高さは五十メートル以上はあるだろう。谷底から十メートルほどの高さの所から、巨大な円柱状の岩が突き出し、ななめに三人の頭上を越えて、反対側の絶壁にまでとどいていた。それは崩壊した古代の神殿の大円柱を思わせ、また、両側の絶壁を無理に押し開いた巨大なかなてこのようにも見えた。この火星の、どのような地殻変動がそのような奇岩を作り出したのか、またどれほど長い間その異様な風景を保ってきたのか? 巨大な石の柱は千古の静寂を秘めて三人の頭上にかかっていた。 「あれが『|火星人の兜《マーシャン・ヘルメット》』だ。なぜそう呼ばれたのか、わからねえが、みんなそう呼ぶ。もっとも、こいつを見た者は、|市《シティ》でも数えるほどしかいねえが」  老フサは、くい入るように見つめながらつぶやいた。 「おれが聞いた話では、なんでも百五十年ぐらい前に、この谷で大地震があってな。その時、あれが押し出されたんだそうだ。それまでは先っぽの部分しか出ていなかったんだとよ。それが、とがった兜のように見えたんで『|火星人の兜《マーシャン・ヘルメット》』と呼ばれたってんだ」  リーミンの目に、ある光がやどった。 「押し出されてきた?」 「ああ。そう聞いたぜ。でも、その頃は、ここらあたりのくわしい地形調査なんぞはまだやってもいなかったろうから、記録にも残さなかったんだな」 「軍曹。あれの岩石標本を取るように、作業班に言ってください。分析の結果はすぐ知らせてほしいわね」 「あいつをぶっくだくのか?」 「できたらね?」 「なあ。この谷を切り開いて、この奥に原子力発電所を作るってのはほんとうなのか?」  シンヤがふりかえってたずねた。リーミンは聞えなかったのか、それとも聞えないふりをしたのか、くちびるを結んだまま、頭上をよぎる巨大な円柱に、じっと視線を当てていた。その目の色から、何ものもくみとることはできなかった。  何時間かののちには、谷底から高いやぐらが組み上げられ、石の円柱にさしかけられた作業台の上で、標本を削り取るための作業が始まった。やぐらの下に、携帯用の小型原子力発電機が運ばれ、作業台の上では特殊ジャンボーがうなりを上げていた。  作業は丸一日つづけられた。 「だめです。ドリルの歯が立ちません! メーザーもまるで受けつけません」  報告する作業班長の顔も手も、油と金属粉で見るかげもなかった。 「準将。あの岩石は表面から五センチメートルないし二十センチメートルまでは比較的|剥《はく》|離《り》の容易なガラス質なのですが、その下が非常に硬度の高い物質でできています」 「そのガラス質というのは?」 「おそらく石英を多量にふくむ安山岩が高熱によって溶融したものだろうと思います」  リーミンはかすかにうなずいた。しばらく考えていたが、やがて顔を上げた。 「作業班長。あの『|火星人の兜《マーシャン・ヘルメット》』をふくむ谷の側壁全体を爆破してみてください。どれぐらいの深さまで埋没しているのか、知りたいのです」 「わかりました」  作業班長はいそいで立ち去った。 「おめえさんは、あれを何だと思っているのかね?」  老フサの横顔が、早くも迫ってきた夕闇の中にひらめくメーザーの深紅色の光に明滅した。 「さあ。わかりません。あなたは何だと思っているのですか?」  老フサは首をふった。 「あんたにはわかっているだろう。そうさ。あれは火星人の墓だよ」  老フサは乾いた声で笑った。  作業台はそのままに、爆発作業は完了した。『|火星人の兜《マーシャン・ヘルメット》』を中心に、左右へ百メートルほどの岩壁を爆破することになり、小型の核爆弾二個がセットされた。爆破は明朝ときまった。  全員はキャンプへ引き揚げた。キャンプ内の幾つかのイグルーでは久しぶりに活気がよみがえった。作業員たちの笑い声や歌声も聞かれる。ビン博士は、はなはだ居心地が悪いようだった。  やがてキャンプの灯も消え、みな眠りについた。いちばん遅くまで作業に追われていた計測作業班の小屋も、ついに物音が絶えた。  三人は地上車へもぐりこんだ。リーミンは操縦室のリクライニングシートに横たわり、シンヤと老フサは荷物室にもぐりこんだ。  火星の夜の気温はマイナス三十度近くまで下る。暖房用の発電機がうなりつづける車内で、電熱毛布を頭からかぶっても、なお寒気は骨までしみこんできた。シンヤはひざをかかえた。むしょうにたばこが吸いたかったが、一本も持っていなかった。さすがに持って出ることはためらわれたのだった。それが残念だった。シンヤはおそらく老フサはアルコールの夢を見るだろうと思った。  やがて、どろのような眠りがやってきた。  誰かが何かさけんでいた。それが意識のどこかに波紋を投げたが、すぐまた、どろのような眠りがかれを引きずりこんだ。  また聞えた。こんどは、はっきりした音声となって、かれの意識の深奥にとどいてきた。シンヤは体を起した。  薄暗い車内灯の光に、ハッチから車外へとび出してゆく老フサの後姿が見えた。 「どうしたんだ?」  シンヤはなお全身に重くよどむ睡魔と戦いながらハッチから外へ出た。寒気がどっとシンヤの体をおしつつんだ。拡散していた意識が、たちまち鋼のように凝結した。  青白い照明灯の光の輪の中を、人影が走っていた。その走り方には目的や方向というものがなかった。悲鳴がわき起り、絶叫がはしった。 「軍曹! 気をつけて!」  地上車のキャノピーをはね上げて、リーミンがさけんだ。  イグルーのひとつが、火焔の塊となった。  器材置場に当てられているイグルーから、新しいさけび声や悲鳴が上った。そこからも幾つかの人影が走り出てきた。シンヤはその一人にかけより、腕をとらえた。 「おい! どうしたんだ? しっかりしろ!」 「出た! また出たんだ! 幽霊だ。火星人の幽霊だ!」  男は狂乱したようにさけんだ。 「助けてくれ!」  男はシンヤにしがみついてきた。シンヤは男を突き飛ばして走った。  器材置場の小屋のとびらはあけ放たれていた。シンヤは内部へおどりこんだ。  シンヤは息をのんだ。  薄暗い電灯の光の中を、奇妙なものが動いていた。それは水面に浮かぶ油紋のように定まった形とてなく、青とも緑ともつかぬ光をさざ波のようにきらめかせてただよっていた。風に吹かれるように、ふいに大きく流れると、かすかな線描があらわれた。何かの輪かくを形造りながら、ゆるやかに移ろい流れて壁にぶつかり、そのまま壁に溶けこんでゆくとみえてふたたび逆行し、小屋の中央にもどって、とつぜん、奇妙なもの[#「もの」に傍点]の形となった。  縁のとがった|菱《ひし》|形《がた》の大きな頭部。その下の細い円筒形の胴体と思われる部分。そこから、木の枝かと思われる細長い手足と思われるものが突き出していた。色はほとんどなく、透き通ってそのものの背後の壁が見えていた。それはけむりのように動いていったん淡く薄れ、ふたたびくっきりとあらわれ出たときは、菱形の頭部に、大きなよく光る目があった。またたかない目は、まっすぐにシンヤに向けられていた。  シンヤは逃げることも忘れ、放心したように、その近づくものを見つめていた。シンヤの全身から力がぬけた。  シンヤは器材置場のロッカーを開き、工事用メーザーガンを取り出した。熱源のパワーユニットをグリップの下にはめこむ。スイッチを押すと、超小型原子炉が作動し、小さなパイロット・ランプが赤くともった。  引金を引くと、目のくらむような深紅色の光条がほとばしり、小屋のすみに積み重ねられた観測器材に突き刺さって、|炸《さく》|裂《れつ》した。一瞬、観測器材は火の海につつまれ、|灼熱《しゃくねつ》の金属の滴を撒き散らした。シンヤは重いメーザーガンを抱いて小屋の外へ逃れた。  目の前のイグルーへ向って引金をしぼった。イグルーが火柱を上げて吹き飛び、悲鳴とともに人影がころげ出た。  シンヤはメーザーガンをかかえてかれらを追った。重いメーザーガンはシンヤの足を奪った。ちりぢりに逃げる人影をとらえることはできない。シンヤは足を止め、さらにもうひとつのイグルーを焼き払った。  青白い照明灯の光の輪の中に、地上車がうずくまっていた。それこそ最大の獲物だった。地上車の上部のキャノピーがはね上げられ、そこから銀灰色の防塵コートをまとった人影が身をのり出していた。それこそ、シンヤがねらっていた獲物だった。 「待っていたぞ! 来ることがわかっていたんだ!」  シンヤは勝ち誇ってさけんだ。メーザーガンの照準器に、正確にその人影をとらえ、引金をしぼった。  そのとき、シンヤの体をすさまじい打撃が襲った。      6  気がついたとき、最初に目にとびこんできたのは老フサのおそろしく|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔だった。体を動かすとその老フサの顔がまぼろしのように薄れ、視線が大きくゆらいだ。シンヤはうめき、頭をもとにもどした。視野が固定し老フサの顔が実体となった。そこは固い床の上であり、イグルーの内部であることがわかった。  シンヤはゆっくりと体を起した。目まいが遠のいた。 「おれは、おれはいったいどうしたのだ?」 「気がついたか。なに、たいしたことじゃねえ」 「何か騒ぎが起きたような気がするが……ここは、イグルーの中じゃねえか?」 「おめえ……なんにも覚えていねえのか? べつに脳波にも異常はねえということだったが」 「脳波にも異常がない? なんのことだ? それは」 「まあいい。それよりも、おめえに見せたいものがあるんだが。歩けるか」  老フサの肩を借りてシンヤは立ち上った。頭の奥に、かすかな痛みとしびれが残っているようだったが、意力は急速に回復してきた。  イグルーの外へ出ると、キャンプ全体の惨憺たるありさまが目に入った。 「どうしたんだ? これは!」  シンヤは棒立ちになった。 「あとで話す。歩け」  老フサは説明を避けてシンヤをいそがせた。 『|火星人の兜《マーシャン・ヘルメット》』は見知らぬ土地のように|変《へん》|貌《ぼう》していた。シンヤの胸に記憶がよみがえってきた。 「そうだ。この谷を崩して、あの円柱のような岩を取り出すんだったな」 「おぼえていたか。まるっきりばかになっちまったわけでもねえとみえる」  それまではひかえていたらしい老フサの毒舌が飛び出してきた。  巨大な大円柱のような岩は何台ものウインチによって、崩され広げられた谷の底へ曳き出されていた。その長さは五十メートル。直径五メートルに達し、まるで陸へ曳き上げられた潜水艦のように平滑な外観を持っていた。あきらかにそれは岩ではなかった。優雅ともいえる曲面につつまれ、継ぎ目や隆起の全くない巨大なその物体は、高度な知恵と作業から生れたものであることを示していた。  なおずるずると地上を移動してゆくその物体のかげからリーミンの姿があらわれた。  近づいてゆくと、かの女は黙って、曳きずられてゆく物体を指さした。  見上げるような物体の尾端に近く、大きな破孔が開いていた。  厚い外殻の内側に、銀白色の太い|管《パイプ》の束と何かの機器と思われる球体の集合物がのぞいていた。さらに透明な|鞘《さや》でつつまれた電線のような線条が、くもの巣のようにもつれて垂れ下っていた。  シンヤは飽くことなくそれを見つめた。理解を越える何かがそこに在った。  いったい、いつ頃からそれはそこに在ったのか、何者が造ったものなのか、それともどこからかやってきたものなのか? それを知る手がかりは何ひとつ無かった。解き難い疑惑がその長大な全容に凝集していた。  リーミンが手にしていた平たい粘土板のようなものを二人の前にさし出した。  手にとってみると、それはどろと砂にまみれた一枚の古い|浮彫《レリーフ》だった。 「これは?」 「崩した岩板の間から出てきたんです。これはあきらかに、あの物体のかたわらに埋められていたものです。見てごらんなさい。その絵」  それは稚拙な線描だった。  水平に引かれた直線を、ななめに切っている細長い円筒。それから波のように躍っている数本の曲線。そしてその波線にのって、彫りこまれている奇妙なもの[#「もの」に傍点]の形。見ようによって、それは菱形の頭と細長い胴体、木の枝のような手足を持つ異様な生き物の姿とも思えた。  見つめているシンヤの胸の奥に、白い閃光が|閃《ひらめ》き、そこからあの瞬間の記憶がよみがえってきた。 「おれが見たものはこれだ! 青く光って透き通っていて、ふわふわと近づいてきやがった!」 「それは、あの物体が埋っていた岩よりもはるかに新しい地層に埋っていたものです」 「すると、あれがあそこに出現してから、誰かがこれをあそこへ埋めたというのか?」 「あるいはね。|祀《まつ》るためだったかもしれないし、何かのできごとを記録するためだったかもしれません。でも、これをよく見てごらんなさい」  シンヤはもう一度、|浮彫《レリーフ》に目を当てた。描かれているものが生物であるとしたら、そのゆがんだ形や、倒れかかるような姿態は、これはあきらかに楽しさや喜びの表現ではなかった。そこに描かれているものは苦痛であり、|怨《えん》|恨《こん》であり哀傷であった。 「滅びたものたちの記録とは思えませんか」  リーミンがつぶやいた。  滅びたもの——ここが火星である以上、それは火星人なのだろうか?  すべては|謎《なぞ》であった。 「おめえはメーザーガンをふり回して、おれたちをみな殺しにしようとした。おめえはあのとき、何かにあやつられていたんだ。その力はおそらく、あの物体から放射されたんじゃねえかと思う。この谷で調査班が遭難したのも、おそらくそのせいだ。シンヤ。これは火星人がこの火星から消え去ったことと、深い関係があるにちげえねえ。あれと同じものがよ、地球にも落下していたとしたら、どうなる?」  老フサの、落ち窪んだ眼窩の底で、|鷲《わし》のような目が光った。  そこへ地上車の通信係が走ってきた。 「準将。逮捕を命じられた医療部の女は、死体となって発見されたそうです」  報告を受けるリーミンの目が暗い翳をおびた。 「女? あいつか?」  シンヤが聞きとがめた。 「軍曹。ファイルを持ち出した者は、あの女でした。私の考えでは、あの女もおそらくあやつられていたのだと思うのですが……もうそれをたしかめることはできなくなったようです」  三人は黙って、運ばれてゆく長大な物体を見つめつづけた。  サーチライトの描く光圏の外は、底知れぬ暗黒の夜だった。そこから、ひしひしと迫ってくる何ものかの気配があった。それは、これから始まろうとする悲劇を告げるかのように、三人の心をひたし、犯していった。それは長い長い物語のはじまりでもあった。 |東《ひがし》キャナル|文《ぶん》|書《しょ》  |光瀬龍《みつせりゅう》 平成14年4月12日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Ryu MITSUSE 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『東キャナル文書』昭和58年4月10日初版発行