角川e文庫    明日への追跡 [#地から2字上げ]光瀬 龍   目 次  1 転校生  2 二人目のぎせい者  3 おとずれてきた礼子  4 奇妙な日誌  5 ほのおの渦  6 過去にひそむもの  7 探 索  8 七里が浜へ  9 人ではないもの?  10 芙由子は消えた  11 その罐は……  12 決戦、そして人間でないもの   あとがきにかえて     1 転校生  二、三日降りつづいた雨もあがって、|今《け》|朝《さ》はあかるい陽射しが教室いっぱいにみなぎっている。スモッグも洗い流されたのか、久しぶりに見る青空だ。すっかり葉の落ちた校庭の|樹《き》|々《ぎ》のこずえをとおして、遠い高速道路を走る自動車が赤や白の小さな|甲虫《かぶとむし》のように見える。ときどきキラッと光る。 「いい天気だなあ。だけど明日から中間テストだなんてよ。ちくしょう!」  |松《まつ》|宮《みや》がいまいましそうにつぶやいて、窓外の遠い風景に目を走らせた。 「……前後輪、ディスク・ブレーキでよ。もちろんウィンカーつきさ……風速計がついているんだ。スピード・メーターと、こう二つならんでいてな……そりゃやっぱりディスク・ブレーキさ……そしたら、おめえ、あの雨じゃねえか」  新型のサイクリング用自転車を買ってもらったらしい、五郎の威勢のよい声が聞こえる。 「なあ、|落《おち》|合《あい》くん。テストが終わったらサイクリングにでも行くか」  後ろの席から|西《にし》|田《だ》が落合|基《もとい》の肩をたたいた。 「ああ、行ってもいいよ」  基はけずっていた鉛筆のしんの粉をふっと吹き飛ばした。 「だれ、さそう?」  西田は早くもメンバーの物色をはじめた。 「おれと落合くんと、|鈴《すず》|木《き》くんか、松宮、行くかい?」  西田は松宮の背をつついた。 「どこへ?」 「サイクリングだ。おまえも行け。これで四人だ」 「このまえ、|浦《うら》|川《かわ》さんが連れていってくれって言ってたぜ」  松宮|健《けん》|二《じ》は少し離れた廊下側に近い席にいる浦川|礼《れい》|子《こ》の方をあごでしゃくった。 「そりゃいいや」  西田が口笛でも吹きそうな声を出した。  そのとき、それまでだまって話を聞いていたらしい、基のとなりの席の|椿《つばき》|芙《ふ》|由《ゆ》|子《こ》が顔を上げた。 「礼子さん、自転車に乗れるの?」  少し意地の悪い言い方だった。 「乗れるんじゃねえのか? サイクリングに連れていってくれっていうくらいだから」 「へえ。じゃ、あたしも連れてってよ」  芙由子は大きな目で西田を見すえた。笑っていない目にある感情がむき出しになっていて、西田は思わずうろたえた。 「そ、そりゃ、かまわねえよ。お、おれは」 「そ、じゃきめた」 「おい、西田。女はよせよ」  基は顔をしかめた。 「あら! どうして?」  ひたいにかかる前髪をはらって芙由子がいどむように体を起こした。 「どうしてって。体力がちがうしよ。トイレだのなんだのって困っちまうんだよ」  基はなるべく芙由子の方は見ないようにして言った。 「そんなことで迷惑はかけません! ご心配なく。なにさ!」  芙由子がさらに言いつづけようとしたとき、教室のとびらが開いた。担任の|草《くさ》|野《の》先生がはいってきた。 「あれ? 一時間目は数学だぜ」 「いいよ、いいよ。国語のほうが」  とつぜんの変更か。国語のほうが数学よりもいい。みなはほくそ笑んで数学の教科書をしまって国語をとり出そうとした。 「そのまま、そのまま」  教壇に立った草野先生はみなを制した。 「あわてるな。一時間目は数学だぞ。変更はない」 「なあんだ」 「けっ!」 「転校生を紹介する」 「ひょう! 転校生だとよ」 「みろみろ。あいつだ」 「なんでえ。男か!」  草野先生はひとりの少年を自分のかたわらに立たせた。 「名前は|竹《たけ》|下《した》|清《せい》|治《じ》。今日からクラスのメンバーのひとりになる。わからないことがあったらみんなで教えてやってくれ」  背後の黒板にチョークで名を書いた。それを横目で見て、竹下清治は照れくさそうにぴょこりと頭をさげた。学級委員の|北《きた》|島《じま》が拍手すると、クラスの全員がそれにつづいた。すると竹下清治はまた頭をさげた。 「席は……西田のとなりがあいていたな。あそこへすわりなさい。西田、めんどうみてやれ」 「はあい」  みなの注目のうちに竹下清治は教室を縦断して基の後ろの西田の席までやってきた。色が浅黒く、笑うと白い歯が目立った。のばしかけた髪がうまくねないでばさばさと立ち上がっている。転校生の経験のない者にはこうした場合の気持ちはわからないだろう。竹下清治も照れくさいのをなんともしまらない薄笑いでごまかしながら、その顔を基や芙由子や松宮たちのひとりひとりに向け、それからいすを引いておさまった。 「よし。それでは静かに」  草野先生が教壇をおりると、間髪を入れずに数学の山下先生がはいってきた。 「この天気のよいのに数学かよ!」  西田が肩を落とした。  翌日から中間テストがはじまった。  三日間にわたって八科目。一日目は英語と理科の第一分野、それに地理。もういい天気もサイクリングもない。二日目、歴史と国語と理科の第二分野。三日目、数学と音楽。この数学と音楽というのがいがいにむずかしい。 「なにも中間テストに八科目もやることはねえじゃねえかよな」 「でも期末テストだけじゃ、失敗したら困るじゃない。それっきりよ」  二学期ともなれば、小学校時代のムードも|薄《うす》れて中学校の勉強のむずかしさがしだいに身にしみてくる。 「ああ! おれ、もうやんなっちゃったよ!」  だれかのもらす溜息が、そのままわが身のなげきの声でもあった。  それでもようやくテストが終わった。  クラブの集会があるとかいう西田や松宮を残して、基は教室を出た。たまらない解放感で心がおどった。昇降口で靴をはいていると、混雑の中から芙由子があらわれた。 「落合さん」 「あ?」  芙由子はまだ用事があるらしく、かばんも持たずに手ぶらで上ばきをはいたままだ。 「この間のサイクリングの話ね。あれ、ほんとうに行くの?」 「と、思う」  芙由子はだれかに押しのけられてよろめき、基のからだにぶつかった。 「いたい!」  芙由子のからだからかすかによい|匂《にお》いがただよった。芙由子は半歩ほど|退《しりぞ》いただけで声をひそめた。 「浦川さんも行くの?」 「だろう。たぶん」  芙由子は一瞬、ためらいの色を浮かべたがすぐ思いきったように口を開いた。 「浦川さん、さそうのよしなさいよ」 「ど、どうしてさ」 「どうしてって……わたし、あの人どうも好きじゃないんだ」 「きみが好きじゃないっていったってさ」  芙由子は口ごもった。 「なんて言うかなあ……その……」 「だから女ってきらいなんだ。言ったろう。女は連れて行かないって」 「ちがうのよ! なんだか気になるんだなあ、あたし。あなた、浦川さんにあんまり近寄らないほうがいいわよ」 「へんなこと言うなよ!」  基はだんだん腹が立ってきた。 「なんだい! おれがまるで……」 「怒らないで! あたし、なんとなくこわいのよ」 「ふざけるな!」  二人の背後を通り過ぎた同級生たちが、基に向かって片目を閉じた。 「いよう! ご両人、はでにおやりですな」  |女相撲《おんなずもう》というあだ名のある、|小《こ》|池《いけ》|静《しず》|子《こ》が太いうでで汗をふくまねをし、通って行った。 「秋だというのにお熱いこと」  基はそこへ芙由子を置き去りにしたまま出口へ向かった。むしょうに腹が立った。クラスの連中に言わせると、なんとなく基と芙由子はできている[#「できている」に傍点]というのだ。そのうわさに芙由子はまんざらでもないようだったが、 「冗談じゃない!」  基はいつもふんぜんとして否定した。それでは|嫌《きら》いか? と聞かれればあながちそうでもないのだが、二人の仲がわけありなどと言われては、たとえ好きであっても嫌いと突っ張りたくなる。 「ばかやろう! 西田のやつ」  礼子がサイクリングにいっしょに行きたいと言っていたと聞かされたとたんにホイホイうれしそうな顔しやがって! 上級生の二年生や三年生の男子の間でも、浦川礼子の名は広く知られていた。新聞部の|田《た》|島《じま》が言うにはミス|汐《しお》|見《み》が|丘《おか》といえば他の中学の者でも知っているということだった。そのミス汐見が丘というのは、礼子が転校してくる以前には芙由子にたてまつられていたものだった。礼子は一学期のなかば頃、鎌倉から転校してきたのだった。それ以来、椿芙由子はその礼子に対して、おりにふれて|烈《はげ》しい敵対心を燃やしつづけてきたのだった。 「落合くん、落合くん!」  校門へ向かって校庭をいそぐ基の背後から声が追ってきた。ふりかえると同級生の|鈴《すず》|木《き》|五《ご》|郎《ろう》だった。かれは急ぎ足に追いついてきた。 「落合くん。ちょっとおれの話を聞いてくれないか」 「話?」  五郎の目に、これまで見たことのない真剣な光がやどっていた。二人は校庭のすみのベンチへ向かった。 「すまない。何か予定があるんじゃないか」 「いや。予定なんかねえよ」  校庭のすみの花壇には、菊が美しく咲き乱れている。園芸部の作った池に秋の風がさざ波をえがいていた。 「……テストのときにな、うしろからだれかのぞきこむんだよ。おれ、思わずぱっとかくしたんだ。それでそれからそっと後ろを見たんだがだれもいないんだ。おれの後ろは|加《か》|藤《とう》だよ。でも加藤じゃないんだ。おれ、気の迷いかなと思ってまた書き出したんだよ。そうしたらまただれか後ろからのぞきこむじゃないか。でも、やっぱりだれもいないんだ」 「おめえ、つかれてたんじゃねえか?」  五郎は強く首をふった。 「つかれるほど勉強なんかするかよ! それにな、落合くん。おれのテスト見たってしようがねえよな。もっとできるやつのを見るんならよ……」  基はうなった。そうだとは言えない。だが五郎の成績はあきらかに下のほうから数えたほうが早い。五郎の言うとおり答案用紙を見るなら学級委員の北島か椿芙由子、あるいは浦川礼子あたりのものを見るのなら話はわかるが……。 「落合くん。夢じゃないぜ。おれ、そのうちに気がついたんだけどな、そいつ、転校生の竹下なんだよ」  五郎の声がかすかにふるえた。 「竹下あ?」 「竹下なんだよ」 「でも、あいつの席はおれのななめ後ろだ。おまえの席とはだいぶ離れているじゃねえか!」 「だからおれも妙だと思うんだ」 「大丈夫か? おめえ」  基は指で自分のひたいをたたいた。 「落合くん。おれ、なんだか薄気味悪くってよ。黒い人影がすうっとのぞきこんできてな。おれが頭を上げるとまたすうっと後へさがって、ふりかえって見るとだれもいねえんだ。こんなことってあるかい?」 「それが転校生の竹下清治だったっていうのは、よけいおかしいじゃねえか」  五郎は太い息を|吐《は》いた。どうも見かけ以上におびえているようだ。 「ま、気を落ちつけろや。それから、おめえ今の話、あんまり人に話さねえほうがいいぜ」 「ああ」  基は立ち上がった。  翌日の朝、基は少し早めに家を出た。途中、鈴木五郎の家に寄っていっしょに学校へ行こうと思ったのだった。 「元気をつけてやらなければな」  |真《まっ》|昼《ぴる》|間《ま》からゆうれいなどにおどかされているようでは、なんともしようがない。  おもてから声をかけると、へんじがあって玄関から五郎が出て来た。寝不足なのか、まぶしい朝の光に目をしばたたきながら、基の前に歩み寄って来た。 「おれ、今日、学校休むよ」 「休む? どうして?」  五郎は妙におどおどと周囲をうかがった。 「おれ、ゆうべあんまり眠っていないんだ。頭が痛いし、なんだかふらふらするよ」  心なしかほおがやつれ、顔色も悪い。 「どうしたんだよ? からだのぐあいでも悪いのか?」 「いやな夢ばっかり見てなあ。落合くん。おれがうとうとっとすると、黒い人影があらわれてな、おれの秘密をしゃべったから殺すっていうんだよ。そこではっと目がさめるんだが、眠ろうとするとまたあらわれるんだよ。そしておれのこと殺す、というんだ」  こいつはいよいよあたま[#「あたま」に傍点]にきちまった、と基は思った。 「落合くん。その黒い人影というのはどうも竹下清治だったような気がするんだ。いや、ぜったいにあいつだ。竹下清治だ」 「五郎、そう深刻に考えるな。おまえかぜでもひいてきっと熱があるんだよ。医者に見てもらえよ」  五郎は耳をかそうともしなかった。 「おれはかぜなんか引いちゃいないよ。夢かどうかはわからないが、これは作り話じゃないんだ」 「わかったよ。学校の帰りに寄ってみるよ。それじゃ、あばよ」  基は五郎の家の前を離れた。 「先生に言っておいてくれ。学校の帰りに寄ってくれよ」  五郎は妙に心細そうに手を上げた。基はかばんをかかえると走り出した。  先生には五郎がかぜで休むとだけ言い、クラスのだれにも五郎の見たという夢の話はしなかった。竹下清治ももとより少しも変わったところはない。西田ともうちとけて話し合っている。椿芙由子はその日、一日じゅう、基とは口をきかなかった。  六時間が終わってみなが帰る用意をしはじめたとき、担任の草野先生が沈痛な顔つきで教室へはいってきた。けわしい目をしている。 「みな静かに! 今、知らせがあったのだが、鈴木が死んだ」  先生はくちびるをゆがめて声をのんだ。 「五郎が!」 「鈴木さんが? 死んだ?」  みなは|茫《ぼう》|然《ぜん》となって手を止めた。 「今日、からだのぐあいが悪くて学校を休んでいたのだが、午後、気分がよくなったので運動しようと思って自転車で家を出たそうだ。そして家の近くの三丁目の四つ角でトラックにぶつかった。はねとばされてほとんど即死だったようだ」  女子の連中の間からすすり泣きの声がもれた。芙由子も白いハンカチで顔をおさえていた。 「五郎が死んだなんて、ほんとうに思えねえな」  西田が怒ったような声で言った。 「五郎のやつ、この間も新しく買ってもらったサイクリング用の自転車の話をあんなにうれしそうにしていたのになあ」 「そんな自転車、買ってもらわなかったら死ななかったかもしれないわね」 「三丁目の四つ角っていうのはあぶねえんだ。あそこ、よく事故が起きるんだよ」  基の耳には友人たちの話し声もまったくはいらなかった。五郎は親友のひとりだったし、まるで自分が子分ででもあるかのように基を立て、いろいろな相談事などをもちこんできたものだった。 「五郎はおれに夢の話をした。そして竹下清治が夢にあらわれて殺すと言ったという。五郎の死は偶然だろうか? それとも夢の内容となにかの結びつきがあるのだろうか?」  基の頭の奥底にえたいのしれぬ疑惑と不安がわき上がった。  学校の帰りに五郎の家へ寄ってみたが、五郎の家族の悲しみは見ていることができなかった。まだ|祭《さい》|壇《だん》の飾りつけも進んでいないあわただしさの中で、とりあえずがくぶちに入れてすえられた五郎の写真が、元気そうに笑っているのがやりきれない思いだった。  翌々日が五郎の葬式だった。クラスの全員が焼香した。  中間テストが終わった解放感も、とつぜんの五郎の死でまったく予想もしなかったさわぎの中で消えてしまった。  教室には静かな秋の日が充満していたが、ぽっかりあいた五郎の席が妙にわびしい。転校生の竹下清治ももうすっかりクラスにとけこんで、基や健二たちのグループに加わっていた。  基も五郎の見たという夢の話は忘れるともなく忘れてしまっていた。     2 二人目のぎせい者  もうあと二、三日で十月も終わる。十一月には文化祭がある。文化祭が終わると運動会だ。学校の中はその準備でしだいに活気づいてきた。  そんなある日の夕方だった。 「基、クラスの北島さんよ」  おかあさんの声で玄関に出てみると、学級委員の北島が立っていた。北島とはグループもちがうし、あまり話したこともない。めずらしい訪問客だった。 「ちょっと話があるんだが」 「あがれよ」  基は北島を自分の部屋へまねき入れた。 「ええと、そこへ腰かけてくれ」  大きな木製の工具箱を椅子がわりにすすめた。北島は床いっぱいに散乱している本や岩石標本やステレオの部品や作りかけのラジオなどの間を|爪《つま》|先《さ》き立ちで歩いて工具箱に腰をおろした。基は積み重ねた百科事典の上へ尻をすえた。  この部屋のありさまは、秀才の北島には、はなはだ勝手のちがうもののようだった。  しきりに部屋の内部をあちこちとながめ回している。それは何かたいへん重要なことを話し出そうとしてためらっているようにも感じられた。 「話って何だい?」  基は水を向けた。 「うん。笑わないでくれよな。それにこの話、だれにもしないでくれよ。おれ、親にも言ってないんだ」 「ああ」  北島は眼鏡の奥の小さな目をしょぼしょぼさせた。 「おれ、竹下に殺されるかもしれない」  ぽつりと言った。 「なんだって?」  同じせりふを先日死んだ五郎の口から聞かされたばかりだった。 「転校生の竹下清治に殺されるんじゃないかという気がするんだ。おれ」 「どうして?」 「落合くん。きみは竹下と仲がいいらしいから、一度聞いてみたいと思って来たんだが、あいつはどんなやつなんだい?」 「どんなやつって、べつに……」 「おれ、三晩つづけて夢を見たんだ。竹下がおれの寝ている部屋へはいってきて、おれを殺すっていうんだ」 「どうして?」 「おれの秘密を知ったからだって言うんだ。おれは呼吸ができなくなってもうれつにもがいたんだ。そうしたらはっと目がさめた」 「竹下か……」 「そうだ。おれはもしかするとやつに殺される!」  北島はわなわなとふるえていた。静かな秋の夜だった。窓の外ではこおろぎがしきりに鳴いていた。 「どう思う?」  北島のくちびるから荒い呼吸がもれていた。基はかかえたひざの上にあごをのせて目をとじた。北島の迫ってくるような心の動きがひしひしと感じられる。 「な、落合くん」 「さあな。おれには何とも言えないが、きみは竹下清治に何かうらみでも受けるようなことをしたおぼえがあるのか?」  北島は強く首をふった。 「それがないんだ。まったく。グループもちがうし、クラブ活動の説明や|日直《にっちょく》のことなどで二、三回話したぐらいだよ。それだってていねいに説明してやったんだからな」  北島はおそろしく不満そうにくちびるをゆがめた。 「北島、きみの夢の中で竹下清治はきみに『おれの秘密を知ったからだ』と言ったんだな」 「ああ」 「何か、やつの秘密を知っているのか?」 「とんでもない」 「妙だな」  死んだ鈴木五郎がなんと言った? まぼろしの竹下清治が五郎の答案をのぞきこみ、のぞかれた五郎がそれをおれに告げたから——告げたから殺す、と。 「北島。死んだ五郎から竹下清治について何か聞かされたことはなかったかい?」 「なにもない」  そうだろうな。北島と五郎の関係は北島と竹下清治の関係以上に希薄だったはずだ。 「わかったよ。おれ、明日にでも竹下清治に会ってそれとなく話してみるよ。やつがきみに何の敵意も持っていないということがはっきりすればいいわけだな」 「ああ。おれ、自分で聞くのも妙だし困っていたんだ。たのむよ」  北島は気弱そうに肩をすぼめた。  北島を玄関へ送り出して、基はふたたび自分の部屋へもどった。積み上げた百科事典に腰をおろすと、無意識なびんぼうゆすりがわいてくる。  ——いったいこれはどういうことなのだろう? 鈴木五郎も北島も頭がへんになっちまったのだろうか? なぜあのように竹下清治におびえるのだろう?  ——五郎の死はただの偶然だったのだろうか? 眠れなくて頭が痛く、いらいらするという不調なからだがまねいた不幸な交通事故だったのだろうか? それとも五郎がうったえていたように、竹下清治が何かのかたちで五郎の死に関係していたのではなかったろうか? 『おれ、竹下に殺されるかもしれない』  基の耳に北島の声がよみがえった。 『転校生の、竹下清治に殺されるんじゃないかという気がするんだ。おれ』  北島の声が耳の奥底でまたふるえた。  基ははじかれたように立ち上がった。まだそう遠くへは行っていないだろう。基は玄関をとび出した。 「基! どこへ行くの?」  おかあさんの声が追いかけてきたが、基はへんじもしないで夜の道を走った。北島の家は中学に近い東町の二丁目の裏だ。バス通りをこえるまでは道は一本しかない。しかし北島の姿を見出すことはできなかった。家から走りつづけてきた基より先に、バス通りをこえてしまうはずはない。 「よそへ寄ったのかな」  基は公衆電話のボックスにはいった。そのときになって基は北島に何を言えばよいのか、考えをまとめていなかったことに気づいてうろたえた。まさか、五郎のこともあるから自動車には気をつけろ、とか、建物の下を歩くときは上から物が落ちてこないか注意しろなどとは言えない。そんなことを言ったらますます北島はおびえるだろう。ただ、身辺にはじゅうぶん注意して、ケリがつくまでは学校も休んで家に引きこもっていろ、というようなことを言いたいのだった。  それをうまく伝える言葉をさがしているうちに北島の家へ電話がつながってしまった。 「……北島でございますが」  北島のお姉さんらしい。 「もしもし、同級生の|落合基《おちあいもとい》ですが北島くん、いますか?」 「あ、落合さんですね。あら、弟、あなたの家へ行くと言って出かけましたのよ」 「ああ、それじゃいいんです」  北島はやはりどこかへ寄ったらしい。基はいま来た道をもどった。  時計が午後九時を打った。  基は英語の単語帳を机の上にほうり出すと大きなあくびをした。 「あああ。こんなもの、二百も三百もよくおぼえられるもんだよ!」  椿芙由子や浦川礼子や北島などはもう三百も暗記しているそうだ。いつか見た北島の単語帳にはまだ教科書にも出ていない単語までびっしりと書きこまれていた。そのへんが秀才とナミ[#「ナミ」に傍点]以下のちがいなのだろう。 「ふん! ばっかやろう」  基は自分とは無縁な才能の所有者たちに向かって、心の中で深刻なあいさつを送った。そのとき、茶の間で電話のベルが鳴った。ベルの音はすぐ中断され、電話に出ているおかあさんの声が切れ切れにつたわってきた。やがて足音がいそいで来た。 「基、芙由子さんよ」  なんだろう? いまごろ。 「もしもし。おれだよ」 「落合さん。たいへんよ。北島くんが……」  声がつまってごくりとつばをのみこむ|気《け》|配《はい》がつたわってきた。 「北島がどうしたって? おい!」 「北島さんが死んだわ! |氷《ひ》|川《かわ》橋から下の東名高速へ落ちたんだって」 「氷川橋から落ちた?」 「警察では自殺じゃないかって言っているんだって」 「自殺? まさか」 「さっき北島さんの家から電話がかかって来たのよ」 「いまどこにいるんだ?」 「松宮さんの家」 「よし。おれもすぐ行く」  基はおかあさんにかんたんに事情を話すと家をとび出した。  松宮の家には芙由子だけでなく、西田|信《のぶ》|夫《お》や体育委員の小池静子、クラスはちがうが同じ一年の新聞部員の田島などが暗い顔をそろえていた。椿芙由子が北島の家からの電話で聞いたところによると、 「……北島さんは落合さんの家へ行くって家を出たそうよ。何かひどく考えこんでいたようだって。夕飯もあんまり食べないんで、家の人たちはからだでも悪いんじゃないかって心配したんだけれども何も言わなかったそうよ」 「たしかにおれの所へ来た。二十分ほど話をして帰った。おれ、北島が帰ってから急に思い出したことがあってかれのあとを追いかけたんだが、見つからなかったんだ」 「そのころ、氷川橋の方へ向かっていたのね」  学校の前のバス道路を南へ二キロメートルほど進むと、左の林の中にこのあたりでは名所になっている氷川神社がある。その前方三百メートルほどの所で道路はゆるやかな登り坂となり間もなく陸橋となってその下を東名高速道路が走っている。 「その手すりを乗りこえて東名にとびおりたんだって」  芙由子は大きな目にいっぱいなみだをためていた。みなだまってうなだれていた。  松宮の家に基の家から電話がかかってきた。警官がたずねてきているという。北島が基を訪れると言って自分の家を出たことは、家族の者から警察に伝えられたようだ。そこで警察は基からくわしい事情や思い当たるふしについて聞きたいとのことだった。 「おれ、ちょっと行ってくる」  基は立ち上がった。 「落合くん。うるさく聞かれるぜ。かくごして行けよ」  玄関まで送って出た松宮が元気づけるように基の背を軽くたたいた。基と入れちがいに浦川礼子がやってきた。 「北島さん、自殺したんですって?」  礼子の澄んだ声がうれいにかげっていた。  礼子の声と松宮の声が重なり合って家の中に消えて行くのを背後に、基は走り出した。 「……きみの家を出てからどこかへ寄り道するとは言っていなかった?」  初老の警官はお茶をすすって型通りの質問をした。 「ええ。何も言いませんでしたよ」 「ええと……その北島という子は学校の文化祭の運営についてたいへん心配していた。と、こうなんだね」  警官は基のうそを信用していた。もとより基の言葉にうたがいをさしはさむ余地もないだろう。 「運営委員は気苦労が多いから。全体のまとめ役だからね」 「ふだんから気が弱い子だったと母親も言っていたが……かわいそうなことをした」  警官はどっこいしょ、と立ち上がった。 「家を出てから氷川橋へ行くまでどこにいたんですか?」  基がたずねた。 「さあ、それはよくわからないが、氷川橋から投身したのが午後八時三十分頃だから、一時間半ぐらい橋のふきんでもさまよっていたのだろう」  警官は基の背後にすわっている基の両親に敬礼すると戸外へ出て行った。 「基。おまえも気をつけなさいよ。いろいろなクラブや委員会などに首をつっこんでいるでしょう。自分の力にあまることだってあるんですからね。やたらに何でも引き受けるんじゃないのよ」  まったく母親というものは、どんなことでもこごとのたねにするもんだ。 「かわいそうだね、ぐらいのこと、言いなよ!」  基は言い捨てて自分の部屋へもどった。     3 おとずれてきた礼子  翌日の学校は、北島の自殺の話でもちきりだった。講堂で特別朝礼があり、校長先生から〈傷つきやすい青春〉という、いたって要領を得ないだらだらと長いだけの話を聞かされ、教室に帰ってからは討論会ということで、みなで〈青春〉だの〈責任感〉だのをテーマにディスカッションをさせられた。そしてさいごに体育委員の小池静子の「私たちは北島さんのこころざしをりっぱに受けついで勉強やスポーツに若い心を燃やしましょう!」というなみだながらの発言で幕となった。すすり泣きが教室を満たした。  しかし基はまったく別なことを考えていた。  男子と女子からひとりずつえらばれている学級委員だが、北島が死んだので代って選挙のときに次点だった梅島がくり上がって新しい学級委員になった。さらに先生|方《がた》の会議で、委員になった生徒の苦労を少しでも軽くするようにと、これまで学級委員が兼ねていた文化祭の実行委員を学級委員とは別に組織することになった、ということで新しく実行委員がえらばれることになった。選挙の結果は基がほとんどの票を集めた。 「おれ、じたいするよ。最初に言うべきだったんだろうが、おれがえらばれるだろうとは思っていなかったものだからだまっていたんだが、おれ、ちょっとわけがあってできないんだ。たのむ!」  基はみなの前で必死に頭をさげつづけた。 「ひきょうだぞ!」 「いまさら、なんだよ。男らしくねえぞ!」 「そうよ! 北島さんのことを思ったら、じたいなんかできないはずよ」  さんざんだった。 「すまん。|坊《ぼう》|主《ず》になれ、と言うんならおれ坊主になるよ。頭、くりくりにすってくるからよ。たのむ。じたいさせてくれ」  ふだんの基とはまるでちがう。みなも首をかしげたりたがいに顔を見あわせたり、基の心の内をおしはかりかねていた。まあ、そうまで言うならしょうがねえや、という空気になり、基はようやくじたいを認められた。 「どうしたの? 落合さん」  休み時間に芙由子があきれたようにたずねた。 「ま、いいからいいから」 「ちょっとみそこなったわね」 「おおいにみそこなってくれや」 「ばかみたい! すまん、おれボーズになるよ。アタマくりくりにするよだってさ!」 「なんとでも言え」 「そういうことはね、さきに坊主になってから言うのよ。ほら、このとおりですって言えばりっぱよ。できもしないくせに」 「へえ。まったくそのとおりで」  へらへら笑うばかりで無抵抗の基に、芙由子は本気になって腹をたてはじめた。 「あなたって自分のことしか考えない人ね。自分のわがままのためにはどんなみっともないことでもへいきでするのね」 「ああ、そうだよ」 「しらない!」 「へえ。知らなかったかい」  芙由子はもう二度とふり向こうとしなかった。  北島の葬式も悲しみのうちに終わった。鈴木五郎の死から幾日もたたないうちに北島の姿が教室から消え、クラスは重苦しい悲しみにつつまれて元気な笑い声も消えてしまった。その悲しみの中で、文化祭にクラス全体で参加する計画だけが着々と進められていった。  北島の葬式が終わって十日ほどたった日曜日、とつぜん椿芙由子が浦川礼子をともなって基をおとずれてきた。 「落合さん。熱帯魚の飼い方の本を持っていたでしょう。礼子さんね、その本借りたいんだって。いっしょに行ってくれって言うのよ」  芙由子は後ろに立っている礼子を見かえって言った。 「熱帯魚の本? ああ。あるよ。上がれよ」  基は二人を自分の部屋へ通した。芙由子は何回も来たことがあるが礼子ははじめてだ。基は大いそぎで鉱物標本や工具箱や新聞の切りぬきの山をおしのけ、二人のためのすわり場所を作ったが、おしのけたあとにあらわれたわたのようなほこりに、あわててまたそこへ美術全集を積み上げ、中身のないテレビの外箱を移して二人をかけさせた。 「こういうお部屋ってすてきね。知的じゃない」  礼子はそう言ってめずらしそうに部屋の中を見回した。 「知的かしらね。これが」  芙由子が肩をすくめた。 「落合さんの頭の中にもこういういろいろな知識がつめこまれているんでしょうね。きっと」  礼子は壁にはられたステレオ・オーディオ装置の配線図をじっと見つめていた。芙由子は足もとの切手のコレクション・ブックをひろい上げてぱらぱらとめくった。  こうして二人ならんでいると、基の部屋に二つの大きな花が開いているようだった。新聞部の田島は礼子が転校してきてミス汐見が丘中学は芙由子から礼子へ移ったというが、そうとも思えない。色白の礼子に浅黒い芙由子。切れ長のひとえまぶたの礼子にふたえまぶたの芙由子。おさげの礼子にショート・カットの芙由子。優雅で日本的な礼子にトロピカルな芙由子。つまるところ好みの問題なのだろう。田島は礼子のようなタイプが好きなのだ。 「なによ。ひとのことじろじろ見て」  芙由子が、つんとして顔をそむけた。  ——てやんでえ! 見られてりゃうれしいくせによ。不愉快そうなポーズしてやがんの。  いつもならここで全面衝突になるところだが、いまは礼子がいるから基の胸の中でどなっただけだった。  二人は一時間ほどして帰って行った。基はたいせつにしている熱帯魚の飼い方の本と、もう一冊、これも魚の飼育法の本を礼子に貸した。これまで誰にも貸したことのない本だったが。  二人の帰ったあと、部屋にはかすかに甘い香料の匂いがただよっていた。基は急に薄暗くなったような自分の部屋に腰をおろしてFMラジオのスイッチをひねった。強烈なリズムが流れ出した。いつもならのめりこんでゆけるハイノートが妙にわずらわしい。スイッチを切るとえたいのしれぬ悲哀の感情が胸にひろがった。  翌日は雨だった。放課後、秋の社会科見学の場所をどこにするかについて話し合いがあり、それが終わって家に帰ったときは五時を回っていた。基が自分の部屋のテレビの上でおやつのトーストをほおばっていると、新聞部の田島がおとずれてきた。田島は興奮していた。 「落合くん。今日おれのカバンの中にこんな手紙がはいっていたんだ。読んでみろよ」  田島はポケットから一枚の紙片をとり出した。それはノートを破り取ったものだった。 〈鈴木や北島の死の原因についてきみに話したいことがある。今夜、八時、南公園のひょうたん池の石橋へ来てくれ〉  それだけ書いてあった。差し出し人の名前も書いてない。 「落合くん。おれ、どうもあの二人の死には何か共通した原因があるんじゃないかと思っていたんだ。誰かそれを知っているやつがいるんだ」  田島は目をかがやかせた。 「誰だろう? これ書いたやつは?」  田島はこともなげに言った。 「なあに、それは今夜八時にわかるよ。それよりも、鈴木や北島の死の原因はいったい何だろう? おれは何かとんでもない事件がからんでいるような気がするんだ」  新聞部だけに田島は想像を|飛《ひ》|躍《やく》させた。 「田島。きみも何か知っているのか?」  田島は一瞬、口ごもったが、 「きみのクラスの転校生の竹下清治な、あいつに関して二、三、妙な話を聞いたことがある」  基はぎょっとした。五郎や北島が基に告げた話の内容がすでにクラスにひろがっていたのか? もちろんそれは基の口からではない。かれらの死後、家族の口から語られたものか、そうでないとすれば、五郎や北島が基のほかにも誰かにしゃべったのだろう。 「竹下清治のやつ、北島に〈ぶっ殺してやる〉って言ったんだってよ。転校生のくせにふてえやつだ。北島はそれですっかりおびえちまったらしい」  田島の話の内容はそんなふうに変形していた。夢の中にあらわれて、ということではないらしい。基がもっともひっかかっているのは、竹下清治が五郎や北島の夢の中[#「夢の中」に傍点]にあらわれて、ということなのだ。  ——竹下清治があらわれてから、妙なことが起こり過ぎる……  そのいくつかのできごとをひとつにつらぬいているのは奇妙に非現実的な人や心の動きだった。それがほんとうはただの偶然の積み重なりに過ぎず、平明な日常生活の中の見せかけだけの異常さなのか、それとも、それらの一連のできごとの裏に、実際におそろしい何かがかくされていて、そのごく一部分がたまたま五郎や北島の死という形であらわれ出てきたものなのか、基にはその見きわめはまだつかなかった。 「じゃ、わかったら真っ先に知らせる。公園の帰りに寄るよ」  田島は張り切って帰っていった。  静かな部屋に、夜の雨の音だけが聞こえていた。基は自分の心がしだいに大きく波立ってくるのを感じた。それはあらしがしだいに強まってくるのに似ていた。不安でのどがむしょうにかわいた。宿題も手につかない。本を読んでも文字が目にはいらない。時計はすでに七時半をさしていた。基はとうとうたまりかねて立ち上がった。 「だめだ! 田島! 行っちゃいけない!」  やはり止めるべきだった。基は部屋を走り出て茶の間の電話機にとびついた。  ダイヤルの回るのがもどかしい。|焦《こ》げるようないらだちの中で芙由子の声がようやく聞こえてきた。 「おれだ。田島があぶない。南公園のひょうたん池の石橋まですぐ来てくれ! 西田の家は公園の近くだ。電話してあいつを呼べ」  たたきつけるように電話機を置くと、基はかさもささずに家を走り出た。つめたい雨が正面から吹きつけてきた。  昭和三十年代の終わりまでアメリカ軍の軍事|施《し》|設《せつ》があり、市に返還されてからも長い間、立入禁止の鉄条網に囲まれたまま放置されていた広大なあき地が、二、三年前、大がかりな造成工事によってグランドやプール、花壇、サイクリング・ロードなどの完備したりっぱな市民公園に生まれ変わった。市の中心部の市役所や地方裁判所、市立病院、市立図書館などのある中央公園に対して、新しい公園は南公園と名づけられた。その南公園の一角に大きなひょうたん池があり、なだらかな|円《えん》|弧《こ》を描いた石の橋がかけられている。  基は走った。正面から吹きつけてくるつめたい雨はみるみるうちに|上《うわ》|着《ぎ》にしみ通り、ズボンをぬらしてシャツもろとも肌にべったりとはりついた。バスケットシューズで後ろへはね上げたどろ水が、たえず自分の後頭部や背中をたたく。  おこられるぜ! また。 『洗濯する者の身にもなってごらんよ!』  母親のとがった声が聞こえるような気がしたが、いまはそれどころではない。  歩いて二十分の距離を八分で走った。公園の入口にたどり着いたときには基は全身で呼吸をしていた。 「もうひといきだ!」  ひょうたん池まで息もたえだえにがんばる。  雨にけむる青い|水《すい》|銀《ぎん》|灯《とう》の光の輪の中に、石橋がゆるやかなカーブをえがいている。その石橋のたもとに一個の黒い人影が立っていた。 「田島! 田島か?」  基は声をふりしぼった。 「落合くんか? どうしたんだ? かさもささないでさ」  のんびりした声がかえってきた。  ああ、間に合ってよかった! 基はそこへすわりこんでしまいたくなるのを必死にこらえた。 「手紙の差し出し人はまだ来ないんだな?」 「ああ。きみもそれをたしかめたいのか」  いっしょに待とうじゃないか。田島はそう言って自分がさしていたかさを基にさしかけてきた。 「おい。誰か来たぜ」  田島が基のひじを|小《こ》|突《づ》いた。透明なビニールがさが、水銀灯の光を通して張った骨だけが浮き上がって見えた。紺のレインコートに白のレインシューズは、それが誰なのかたしかめるまでもなかった。同じクラスの椿芙由子だった。 「落合さん。どうしたの? 田島さんがあぶないって、いったいなあに?」  田島がふしんそうに基の顔を見かえした。 「ぼくがどうかしたのかい?」 「そ、それが……」  基はなんと説明したらよいのやら、とっさに言葉にできなかった。 「あら! 西田さんよ」芙由子が言った。  ブホッ、ブホッ、ブホッ……。  異様な音がするのは西田のゴム長の特徴だった。 「おうい! なにごとだよ。おれんち、しまいの時間でいそがしいんだぜ」  西田の家はそば屋だ。店員を早く休ませるために午後八時というと、おもてののれんをしまいこむらしい。西田もどんぶり洗いなどに追い立てられるのだそうだ。  芙由子と西田、それに当の田島は今や基のじゅうぶんな説明を求めて、基に視線を集中した。 「ちょっ、ちょっとまってくれ。もうすぐ田島をここに呼び出したやつが来るはずだ」 「田島さんをここへよび出したって、それ、どういうこと?」  あ、つめたい! かさからたれたしずくがえり首にはいったらしい。芙由子は立てたレインコートの|襟《えり》|首《くび》をすくめた。 「だから待ってくれよ。もうすぐ来るんだ」 「誰が呼び出したんだ? この雨の中をよ!」 「そうだ田島。あの手紙をふたりに見せてやれよ」  基はそのほうが|手《てっ》|取《と》り早いだろうと思った。 「あれ、おれ、家へおいてきたよ」  しかたがない。基は田島が受け取った奇妙な手紙の内容について芙由子と西田にかいつまんで説明した。 「へえ! でも、そいつはどうしてそれを話すのに、こんな所に田島を呼び出さなくてはならないんだろう?」 「いたずらではないかしら? 田島さんが新聞部員なものだから、ニュースをえさにからかってやろうとしたのよ」 「そのへんの暗がりにかくれていて、こっちを見てくすくす笑っている、というわけか!」  基はくちびるをかんだ。 「ちがうんだ! そんなんじゃねえ! これには何か深いわけがあるんだ」  そう言い切るのにじゅうぶんな、なんの証拠があるわけでもない。しかし基には奇妙な確信があった。  ——これはわなだ。田島は絶対に誰かによってわなにかけられるところだったんだ。 「お! 見ろ! 竹下清治だ」  西田がほおを|硬《こわ》ばらせてさけんだ。芙由子の目におびえのかげがはしった。 「そうか。手紙を書いたのは竹下だったのか!」  田島がすべて|合《が》|点《てん》がいったようにひとりうなずいた。 「やつは、何か白状する気なんだ!」  田島は思いがけないニュースが手にはいると思ったのか、調子づいて目をかがやかせた。 「いいか、三人とも。おれがいいというまでそばに来るなよ。それからふたりにたのむ。田島を守ってくれ。おれの身に何かおこってもかまわずにここからのがれてくれ。いいな!」  三人がいっせいに何か言いかけるのにもかまわず、基はぱっと田島のかさの下から走り出た。ひょうたん池の岸に沿ってのびる遊歩道を、いまこちらへ向かっていそぎ足にやってくるのは、たしかに竹下清治だった。水銀灯の強い光をかさをかたむけてさえぎり、かけ寄ってゆく基の姿を逆光の中に見さだめようとしている。基は吹きつけてくる雨をついて走った。その基のからだをさけようとして遊歩道のかたわらに身をひいた竹下清治のかさの下に、基はおどりこんだ。同時にかさを持っている清治の右の手首と上着のえりもとをむずとつかんだ。 「清治!」  基は突進してきた|惰力《だりょく》をそのままに、清治のからだを五歩、六歩と押しまくった。 「な、なにをするんだ! こいつ! はなせ!」  竹下清治はこのとつぜんの奇襲攻撃に立ち直るよゆうもなくずるずると池の水ぎわまで後退した。ふたりは水ぎわではげしくもみ合った。もみ合っているうちに、バランスがくずれて水ぎわに押しつめられているのは基のほうになった。 「おれのことを呼び出してやみうちにしようってのか! 汐見が丘中学のやつら、みんなきたねえぞ! なんだ、転校生だと思ってばかにしやがって!」  竹下清治は目をつり上げた。強烈な打撃が基のチン(あご)をねらってきた。基はあやうく左にかわして清治のからだにワン・ツーをたたきこんだ。たたきこんだつもりだったが、水たまりに足をとられて基は大きくすべった。  水けむりを上げて横ざまに倒れた基の足が清治のすねをけり上げた結果になり、ふたりはどろ水の中でおりかさなった。何がどうなっているのかわからないままに、ふたりは両手両足をつかってつかみ合い、たたき合い、けとばしあった。ふたりはけもののようにうめき、のみこんだどろ水を霧のように吹き出した。 「このやろう!」 「くらえ!」  基はようやくつかむことができた清治の頭を力いっぱい水たまりの中におさえつけた。清治は苦しがってガバガバと全身で水をはねとばした。それがどこでどう入れかわるのか、一瞬ののちにはこんどは基がそうされているのだった。 「やめなさいよ! やめなさいってば!」 「おい! やめろ! やめろ!」  基は自分の背中や頭に、清治から加えられるものとはちがう強い痛みを感じて、思わず清治のからだをつかんでいた手をゆるめた。その後頭部へまた、ガン! ときた。 「いてててて……」  痛みで完全にわれにかえった。 「なにしやがるんだ! 芙由子!」  からだを起こすと、芙由子が太い竹竿を頭上にふりかぶっていた。 「それはこっちの言うことよ! やい! 基。ひとをこの雨ん中にひっぱり出したのは、そのけんかを見せるためか!」 「な・に・お・お!」  基はぺっとつばを吐いた。 「おい、落合くん。いったいこれはどうしたわけだ? わけをきこうじゃないか。ふたりの間の決闘ならそれはふたりだけの問題だよ。おれたちは関係ないんだからな」  西田が怒りをおさえた調子で言った。竹下清治がどろだらけの見るもむざんな姿で立ち上がった。基は自分も同じような姿になっているのだろうと思った。 「椿さんや西田くんもかれのなかまか? そうだろうな。おれを待ち伏せしたんだから。ごていねいに、田島くんがだいじな話があるといって待っている、なんて電話をかけてきたのは椿さん、きみだものな」  竹下清治はくやしそうに言い放った。 「なんですって?」 「ま、いいさ。むりにちゅうさいのふりなんぞすることはないんだよ。わかってんだ」  竹下清治は芙由子を思いきりけいべつの目で見すえると、みなに背を向けて歩みさろうとした。 「んまあ!」  こんどは芙由子が追いつめられた猫のように総毛立った。 「まて! 清治!」 「なるほど。女の声でそう言ったんだな。ふうん。椿芙由子ですってか!」 「そうなんだ。北島くんと鈴木くんの死について大きな謎が残されている。転校生のきみなら解けるんじゃないかと思う、と言っていたと言うんだ。ぼくもそれならどうして田島くんがじかに電話をかけてこないのかな、とふしぎには思ったんだけれどもね」  芙由子の家だった。風呂にはいってよごれを落とした基と清治は芙由子の兄の下着を借りて着こんだ。基の家へは|上《うわ》|着《ぎ》やズボンを持ってきてくれるように先ほど電話したのだが、それはまだとどいていなかった。 「すると、誰かがきみを南公園に呼び出した。他人の名前を使って。なぜだろう?」  西田が太いうでを組んでじっと考えこんだ。 「北島に〈ぶっ殺してやる〉と言ったなんてひどいぬれぎぬだぜ。転校してきてまだ何日もたっていないおれが、なぜ北島をぶっ殺さなければならないんだ」  竹下清治は、基のパンチを受けたほおの青あざを痛そうになでた。 「だが、竹下。鈴木や北島が死ぬ前に言っていた、きみに関するまぼろしや夢のことはどうなんだ?」  それはかれらの単なる心の乱れ、気のまよいだったのだろうか? それとも謎の真の焦点がそこにあるのだろうか? 竹下清治は首をふった。 「わからない。どうもその点がよくわからない」 「こういうことは考えられないか?」  基はふと心にわいたうたがいを口にのぼらせた。 「誰かが、竹下をおとしいれようとしているんじゃないだろうか?」 「おとしいれようとして?」  芙由子が|天井《てんじょう》に近い空間の一点にうつろな視線を当てたままつぶやいた。 「鈴木と北島は一種の|催眠術《さいみんじゅつ》にかけられていたとしよう。そしてこのふたりは殺されたのだとする……」 「ふたりが殺された?」  田島がからだをのり出した。 「そこで今日のことだ。田島は公園に呼びだされた。竹下も。もし田島が公園で死んでいたとする。うたがいは誰にかかる?」 「まちがいなくおれだ」  竹下清治がうめいた。 「そうだ。そして田島はもしかしたら、あの場所で死体になっていたんだ」 「おいおい! やめてくれよ!」  田島は悲鳴を上げた。 「田島の受けとった手紙。公園へやって来た竹下。そして田島の死体。これだけそろえば竹下は完全にわなにかかったことになる」 「落合くん! やめてくれよ。えんぎでもない」  田島は顔の前で手のひらを打ちふった。 「でも、落合くん。その意見は、鈴木と北島が催眠術にかけられていて、しかも殺された、という二つの点、それから今夜田島が殺されていて、そしてその場へやって来た竹下くんが容疑者にされるというもう二つの点、つまり合計四つの〈もしも〉で成り立っているわけだ。これはちょっと乱暴すぎる仮定じゃないかな」  西田が牛のように太い声でうなった。西田はいつでも客観的な見方をし、冷静な発言をする。 「たしかにそうだ。そう言われれば反論のしようもない。なにも証拠があるわけじゃないんだ」  しかし……基にはその証拠もない、もしもの連続のただの仮定が、しだいに動かしがたい事実のあとづけのように思えてくるのだった。これまでに起こった一連の事件はすべて竹下清治という焦点でひとつに結ばれている。まぼろしであろうと夢であろうと、また、たとえ差し出し人不明の手紙や声の主のさだかでない電話であろうと、そこに必ずあらわれてくるのは竹下清治の名であった。  ——これには三とおりの意味がある。  一、竹下清治がなにごとかたくらんでいるのではないだろうか?  二、竹下清治をわなにかけようとしているかげの人物がいるのか?  三、ほんとうは全部、なんの関係もないばらばらのできごとではないのだろうか?  基は心の中で組み立ててはほどき、ほどいては組み立てた。  一では、どうも竹下清治という人物が、なにかをくわだてているようなあやしい者とも思えなかった。たいへん気の良い、さっぱりしたやつだ。姿をかくして人のテストをのぞき見をするような|化《ばけ》|物《もの》とは思えない。やつは自分でも知らないうちに被害者にされてしまったようだ。  二では、なんのために、竹下清治をわなにかけようとするのか? それはかげの人物と清治だけの問題なのか? 個人的なうらみごとにしては妙に工作が|緻《ち》|密《みつ》で計画的ではないか。いろいろな人物をまきこむ必要が果たしてあるのだろうか?  三では、これも完全に棄て切るわけにはいかない。万事、こういうことのほうが多いのだ。野次馬根性がなんでもないことをとんでもない悲劇に仕立ててしまうことはよくある。 「どうしたの? 落合くん。すっかりだまりこんじゃってさ」  芙由子が心配そうに基の顔をのぞきこんだ。 「あ、いや。ちょっと考えこんでいたものだから」  基は取ってつけたように笑った。基の家から着がえがとどいた。茶の間で芙由子の母親と笑いさざめいている基の母親の声が聞こえる。 「今日はもう時間もおそいし、また明日集まろうや。おれも少し考えてみる」  西田の声に、みなわれにかえったように表情を動かした。  謎はいちだんと深まったが、基がただひとつ、収穫を得たと思ったのは、竹下清治という人間についてよく知ることができたことだった。かれとは親友になれそうだった。 「今日は悪かった。いきなりなぐりかかったりして」  基は清治に手をさしのべた。 「いや。あの場合、誰だっておれをうたがうのは当たり前さ。気にするなよ」  清治は白い歯を見せて笑った。     4 奇妙な日誌  三日ほど過ぎた夕方だった。とつぜん、死んだ鈴木五郎の母親がたずねてきた。打ちしおれた姿で、とりとめのないくりごとをもらしていたが、やがて気を取りなおして一冊のノートをとり出して、基の前に置いた。 「これ、五郎の日記帳なんですが、なんだか妙なことがいろいろ書いてあるので……おとうさんに相談して落合くんに読んでもらったら、ということになったので持ってきてみました」  五郎の母親は鼻水をすすり上げた。 「妙なことが書いてある?」  基はノートを取り上げた。パラパラとめくってみる。ずぼらだった五郎にしては思いもかけず、きちょう面に日記をつけている。 「ええ、やっぱり、頭が少しへんになっていたんでしょうかねえ? かわいそうなことをしました」  五郎の母親はハンカチを顔に押し当てた。 「妙なことが書いてあるって、どこですか?」 「どこだったですかねえ。書いてあるんですよ。ほんとうに」  哀しみに心をうばわれている母親は、うつろな声でくりかえすだけだった。基はノートに目を当てた。 〈九月二十一日。土曜日。今日、放課後、浦川礼子が落合くんの家へ行ったことがあるか、と聞いた。あると言ったら落合くんの部屋の内部のことをあれこれうるさく聞くのだ。なぜだとおれが聞いたら答えないで、直径五センチメートル、高さ三センチメートルぐらいの|罐《かん》の形を示して、そんなものを落合くんが持っていないか? と聞くのだ。おれは知らない、と言ってやった。すると浦川礼子は、自分がそんなことを聞いたことは誰にもないしょにしておいてくれとたのむんだ。浦川礼子はきれいだけれどもへんなやつだ〉 〈九月二十五日。水曜日。夕方、浦川礼子が来た。数学の宿題の答えを見せてもらう。これで|明《あ》|日《す》の数学はOKだ。前へ出て行って黒板に答えを書く、というのはたまらないよ。浦川が小さなカメラを置いていった。ピーナツぐらいのやつだ。これで落合くんの部屋の内部の写真をうつしてきてくれと言う。どんなに暗いときでも写るカメラだそうだ。おれはそんなスパイみたいなことはいやだから、わけを話してくれと言ったんだが、あとでわかる、悪いことではない、と言うばかりだ。それでもおれが聞くと、浦川は文化祭に個人参加で出すのだと言った。他人のプライバシーをおかすようなものは問題になりそうだ。おれはちょっとびくびくしている〉 〈九月二十六日。木曜日。放課後、落合くんの家へ行って来た。浦川礼子の希望どおり、落合くんの部屋の四方の壁と天井、床の六方向の写真をうつしてやった。シャッターを切る音もしない。全体を指ではさんでちょっと力を加えるだけでよい。すばらしいカメラだ。落合くんも気がつかなかった。帰りに浦川の家へ回ってカメラをかえす。英語の単語帳を借りてきた〉  基は頭をかかえた。頭のしんがずきんずきんと痛んだ。鈴木五郎の母親がいつ帰ったのか、少しも気がつかなかった。 〈十月二日。水曜日。浦川にもう一度、落合くんの部屋の写真をとってきてくれとたのまれた。浦川は北島にも何かたのんでいるようだ。美人で頭のよいやつのやることはよくわからない〉  ………………………… 「これは!」  乱暴に消した数行に、基の目が吸いつけられた。 〈……浦川はこのことを竹下清治に気づかれないように注意してくれ、と言った。なぜだと聞いたら竹下清治も同じようなアイデアで個人参加するらしいと言っていた。いろいろ気になる。落合くんにうちあけて相談してみようかとも思っている〉  どうにかそう読みとることができた。  基はノートを手にしたまま、しばらくの間、ぼうぜんとしていた。いったいこれはどういうことなのだろうか?  ——浦川礼子がおれの部屋の内部を写真にとる? なんのために?  ——あのころ、五郎がよく、おれの家に来たが、そのためだったのか!  ——気がつかなかったな。五郎がそんなカメラで写真をとっていたなんて! 「でも、なぜだ? 浦川礼子がなぜおれの部屋の写真が必要なんだ?」  基はうめいた。 「どうしたの? 基。何かあったの?」  心配そうにのぞきこむ母親をその場に残して、基はロボットのような足どりで、自分の部屋へもどっていった。  ——文化祭に個人参加のため、というのはうそだ。今年は個人参加は中止したんだ。自治会の掲示板にはり出してあるのは浦川礼子だって鈴木五郎だって知っていたはずだ。鈴木五郎は知らなくとも、学級委員の浦川礼子は承知している。個人参加というのは単なる口実に過ぎないのだ。  ——たぶん、五郎は浦川礼子がうそをついていることに気がついたにちがいない。その五郎を、礼子は宿題のノートを見せたり、単語帳を貸したりすることをえさにして釣ったんだ。  そういえば、あのころ、五郎のやつ、それまでになく宿題はやってくるし教室でもよくこたえるし、みんな、五郎のやつ、ばかに張り切っているな、なんて思ったものだった。  ——五郎! おまえ!  基は胸にこみ上げてきた熱いものをぐっとのみこんだ。  クラスで成績がドンじりだった鈴木五郎はいつもそのことを気にやんでいた。しかし五郎は、英語の教科書にあらわれてくる新しい単語を、そのつど克明に単語帳に書きこんでいったり、ひとつの計算問題でも、いろいろな解き方をすべてしらべてきたりするような能力も積極さも持っていなかった。 「おれだって同じことさ。そんなことを気にすることはなかったんだ。五郎!」  ——それを利用しやがって! 礼子のやつ。ゆるせねえ!  勉強はきらいだったが人の|好《よ》い、陽気な五郎をうまくだまして、なにごとかをたくらんだ礼子——なぜ? なぜだ?  基は、それまでまったく気づかなかった灰色の謎が、まるで毒の霧でもわき起こるように足もとから渦まいて立ち上がってくるような気がした。  基はたんねんに五郎の日記をしらべてみた。しかしそのほかにはふしんな箇所はない。妙な部分は九月二十一日と九月二十六日。それに十月二日の三か所だけだった。十月二日にたのまれて、そのあと五郎がいつ基を訪れてきたか、基の記憶はさだかでなかった。一週間に二、三回は顔を出す五郎だ。あるいはたのまれた翌日にでもやって来ていたのかもしれない。五郎の日記にはそのことは書いてなかった。その後はもう浦川礼子の名は出てこない。もういっさいが終わったかのように五郎の単調な、しかし明快な毎日の記録がつづき、十月十八日にサイクリング用の自転車を買ってもらい、そして十月二十四日で日記は終わっている。翌日の夕方、五郎はトラックとぶつかったのだ。 「竹下清治のまぼろしを見たなんて、五郎のやつめ、良心がとがめたもんだから見当ちがいなことでびくびくしていやがったんだよ」  基は思わずにやりと笑った。そのとたんにガキッと心にひっかかってきたものがあった。基はもう一度、五郎の日記帳をめくった。 〈浦川はこのことを竹下清治に気づかれないように注意してくれ、と言った……〉  竹下清治に気づかれないように注意してくれとは何のことだろう? なぜこんなところにとつぜん竹下清治の名前が出てくるんだ?  ——なにかある! 五郎や北島をおびやかした竹下清治のまぼろしと、そのまぼろしに追われたようなふたりの死。不可解な浦川礼子の行動と、その礼子がなぜかきわめて警戒しているらしい竹下清治。幾層にも重なり、何重にももつれ合った謎の焦点に竹下清治がやはり存在している。やつは何者なのだ。そして浦川礼子とはいったいどんなつながりがあるんだ? 基は呼吸さえ忘れたように、じっと思いをこらしてしのびよる|暗《くら》|闇《やみ》をみつめていた。 「……だけど……浦川さんが……なんで?」  芙由子の部屋だった。ピアノの円い回転椅子に腰をおろした芙由子は、右へ左へからだを回しながら五郎の日記に読みふけっていたが、信じられない、というように何度も首をふった。 「おれだってここに書かれていることがほんとうかどうか信じられないんだ。浦川礼子がさ、人を使って他人の部屋の中をやさがしさせるなんてよ。文化祭の個人参加なんてのはまるっきりうそさ。そんなうそをついてまでやる以上、こいつはほんとうのことなんだぜ。何か大きなわけがあるんだ。五郎が日記にうそを書くわけはないし、頭がおかしくなってありもしないことを書いたとも思えないし……」  基は、敷きつめられたカーペットの上をけもののように歩き回った。 「浦川さんが頭がおかしくなって、死んだ鈴木さんに妙なことをいろいろたのんだとも考えられるけども」  芙由子が口ごもった。 「うん。それはおれも考えてみた。しかし彼女が頭がおかしくなっているとも見えないし」 「そうねえ。でも……」  芙由子はGパンのひざを深くかかえこみ、その上にあごをのせた。基には毎日教室で顔を合わせている浦川礼子が気が変になっているとはどうも考えにくい。およそそういうこととは縁のなさそうな、いつも冴えかえっている礼子の頭脳なのだ。だが、それは見かけだけなのかもしれない。むしばまれている心を外からのぞくことはむずかしい。 「ああ、おれのほうが変になりそうだよ」  基はどさりと床に腰をおろした。その基の体重を、厚いカーペットが音もなく吸収した。 「こわいわねえ」  いつも教室で顔を合わせている仲のよいクラスメートが、なかまのひとりを使ってひそかに自分の部屋の内部のようすをさぐらせていた、というまったく思いがけない事実が、基や芙由子に人間の心の中のえたいのしれない、ぶきみな暗黒の部分の存在をいやおうもなく告げていた。 「浦川さんがなあ!」  基にはそれがやりきれなかった。あの聡明で美しい浦川礼子にそんな秘密があるとはいたましすぎる。基の言葉に芙由子は目だけを動かした。 「なによ! 悲しそうな声、出して」 「でも、こういうのって病気なんだろうと思うな。みじめだよ」  芙由子のふたえまぶたの大きな目が、室内の空間の一点をじっと見つめていた。 「まってよ。落合くん。ここに書かれているのはほんとうのことなんだって言ったのは落合くんよ。何か大きなわけがあるんだって、あなたさっき言ったばかりじゃない。落合くん、美人が心の|病《やま》いにむしばまれているって考えるのはロマンチックでいいけれどさ、ここはちょっと現実問題として考えたほうがいいんじゃない?」  さいごのほうは、かなり意地の悪い言い方になった。 「そりゃ、ま、そうだが……」 「落合くん。この日記にある罐みたいなものってなんなの?」  芙由子の言葉は、基の心を浦川礼子から|強《ごう》|引《いん》に引き離すようにくいついてきた。 「そ、それがわからないんだ。直径五センチメートル、高さ三センチメートルぐらいの罐なんておれの部屋にたくさんあるよ。小さなネジや、部品や、ワックスなんかはいっているのさ。たなにいくらでもならんでいるよ」 「写真をうつすというのがわからないなあ。だって似たような罐がいくつもあるとすれば写真で見ただけじゃわからないでしょう。それをどうして写真にうつすのかしら?」 「いっそのこと、浦川礼子に聞いてみようか? なんのまねだって?」  基の言葉に芙由子は|眉《まゆ》をしかめた。 「わけを言うぐらいなら、死んだ鈴木さんにやらせるわけがないじゃない」 「その罐みたいなものが、浦川にとってはよほどだいじなものとみえるな」 「なにかしら?」 「何もそんなことしなくたって、そう言ってくれればやるのになあ」 「落合くん。もうひとつ考えられるのは、その小さな罐みたいなものを落合くんが持っていると思いこんでいるだけなのかもしれない、ということよ」 「ほんとうはほかの誰かが持っているのにかい?」 「そうよ」 「でも、なんだろう? その罐は? 中によほど|金《かね》|目《め》のものでもはいっているのかな? でっかいダイヤモンドでもはいっているんじゃないかな」  芙由子はそれには答えず、なにごとかじっと考えこんでいた。  時計が八時を打った。遠くの方から電気機関車の澄んだもの哀しい警笛の音が聞こえてきた。それにつづいて貨物列車の重々しいひびきがゆっくりとつたわってくる。いつもこの時刻、この市街を通過してゆく長い長い貨物列車だった。 「じゃ、おれ、帰る」基は立ち上がった。 「私も今夜ひと晩、よく考えてみるわ」  玄関のドアをあけると、つめたい|霧《きり》|雨《さめ》が顔をぬらした。 「あら。降っているのね。かさ、持ってゆきなさいよ」  芙由子はいつも自分が使っている、透明なビニールの雨傘を基に手わたした。 「落合くんも気をつけたほうがいいわよ」 「気をつける? 何を?」 「あなたもねらわれているかもしれないからね」 「よせよ! おどかすなよ」  しまるドアのすき間から、芙由子の目が暗い|稲《いな》|妻《づま》のように光った。  芙由子の家のある高台から町の目ぬき通りへ道は大きくカーブしながらゆるい傾斜でくだってゆく。町の中心部に、近頃、東京から進出してきたデパートの大きなビルがまるで光の島のようにそびえていた。  その最上階がボーリング場になっていて、そこはとくにあかるくかがやいている。  その光が、霧雨にぬれたビニールのかさをとおして、いくつもの十字形のハイライトをつくっていた。  そのかさをかたむけていそぐ基の胸に、電光のようにひらめいたものがあった。 「浦川礼子は北島にも何かたのんだらしい。北島はそのことを何かに書き残していないだろうか?」  きちょうめんな北島のことだ。日記でなくとも、メモか何か残している可能性はおおいにある。基は公衆電話のボックスにとびこんだ。電話に出たのは北島のお姉さんだった。声に聞きおぼえがある。  基はひや汗をかきながら遠まわしに日記があったら見せてくれるように言った。 「……そういうわけで、クラスで文集を出そうっていっているんです。そこでぜひ北島くんの日記を……」  へたなうそをじょうずにつなぎ、なんとか前後のつじつまを合わせてほんとうらしくたのみこんだ。 「まあ、そうですか。文集を出すんですか。ちょっと待ってくださいね。弟のだいじにしていたものはみんなまとめて箱にしまってありますのよ。今、見てきますから」  北島のお姉さんの声はなみだでくもった。  ——かんべんしてくれ。北島のお姉さん。借りたいわけを話したら、かえって貸してくれないかもしれないからな。  基はいらいらしながら待ちつづけた。電話が切れてしまったのではないかと思われるころ、電話口に北島のお姉さんの声がよみがえった。 「おまたせしました。ありましたわ。弟の日記が」  ——しめた!  基はこれからその日記帳を借りにゆくと言って電話を切った。昼間なら基たちの中学校の鉄筋コンクリート四階建のモダーンな校舎が間近に見える東町二丁目の裏通り、静かな住宅街を基はいそいだ。北島のお姉さんは二、三冊の薄いノートを茶色の四角な紙袋に入れて待っていた。顔を合わせるのはひどく心苦しい。基はだまって頭をさげただけで紙袋を受けとり、外へ出た。  霧のような雨はいぜんとして音もなく家々の屋根をぬらし、行きかう自動車のへッドライトをにじませていた。  基は家へ帰るまでがまんしきれなくなった。あかるい街路灯の丸い光の輪の下に立ち止まって、紙袋から黒い表紙の日記帳をとり出した。北島の性格がよくあらわれている、きちんとした四角な文字がページをぎっしりと埋めている。それも終わりに近い九月。基は一ページ一ページ、たんねんに目を通していった。しかし基が期待しているようなことは何も書いてなかった。生徒会のこと、文化祭のこと、それにクラスのその日のできごとについての簡単な感想などが、ありし日の北島の姿をくっきりと浮かび上がらせていた。 「だめだ! 何も書いてない」  もう一度読みかえしたが同じことだった。  袋の中には日記帳のほかに薄いノートが二冊、一冊はメモ帳だった。友人の電話番号や、懸賞を出した日づけなどが雑然と書きこまれている。それにも注意を引かれるようなことは何もない。残る一冊は表紙にカバーをかけた国語のノートだった。北島のお姉さんがまちがえて入れたのかと思ったが、よく見ると後ろの方に詩が書かれている。北島が作った詩らしい。文集を作ると言ったので、北島のお姉さんはそのノートもいっしょによこしたらしい。基は心がうずいた。 (ごめんなさい。北島のお姉さん。うそを言ってこんなの借りたりして。北島。かんべんしてくれよな)  基は日記帳やノートを袋におしこむと、また霧雨の中を歩き出した。  ——北島の方は浦川礼子とは何の関係もなかったようだ。五郎だってはっきり浦川礼子が北島にもたのんだ、とは書いていないのだからな。  北島の日記帳の線はくずれた。基は妙に気落ちして、雨を吸ったバスケットシューズさえいやに重く感じられる。  家に帰りついてもなんとなくからだじゅうから力がぬけたような気がして、基は自分の部屋に閉じこもった。  このままでは北島の日記をかえすわけにもゆかない。 「文集を作るって言っちまったんだからな」  こうなればクラスにはかって、ほんとうに文集を作るようにおし進めてゆかなければならない。 「やれやれ。おれはいつも自分で言っちまったことを実行しなければいけないようになるんだからなあ」  北島のためにはそれは進んでやりたいことなのだが、提案したあげくのまとめ役が、基自身にまわってくることはわかっていた。  基はふたたび紙袋から北島の日記帳をとり出した。さっき道端で立ち読みしたせいであろう。日記帳はじっとり湿っていた。 「あ、いけねえ。夢中で読んでいたから気がつかなかったが。乾かさなければ」  霧のような雨はわずかな風にも巻かれて、雨がさのかげの日記帳の表紙を濡らし、書かれた文字のところどころをみにくくにじませていた。濡れたままを袋に入れてつかんできたのがさらにまずかった。基は三冊のノートを机の上にひろげた。 「あっ、いけねえ」  国語のノートにかけられた薄緑色のカバーが、濡れた部分のおれめからちぎれてぱらりと落ちた。 「あとでセロテープでつないでおけばいいや。なにしろ遺品だからな。原形にもどしてかえさなければ」  基はカバーのちぎれた部分をひろい上げて、そっとノートのわきにひろげた。その、手のひらほどの大きさの、べったり濡れた紙片の裏側にこまかな文字がならんでいた。 「ああ、インクがにじんじゃったなあ!」  裏に書かれた文字が、おもて側ににじみ出てしまったのだ。水気を吸って、べっとりと木の葉のように机の表面にはりついている紙片に、顔をしかめていた基の目がにわかに吸い寄せられた。  水に濡れて、にじんだりうすれたりしている小さな文字が、みるみるはっきりとした意味をもって、基の網膜に火花を散らした。 「な、なんだ? これは?………」  基はいそいで製図用の強力なスポットライトを運んできた。回転式のうでをまわして、書かれている文字に百ワットの光を当てた。 〈……九月三十日のことだ。放課後、体育館の裏を通ったら浦川さんがごみを棄てに来ていた。そこでおれに相談があるという。聞いてみると、一年生の転校生があったらA組には入れないようにしてもらおう、と言うのだ。それは間もなく文化祭だが、転校生がはいってくるとクラスの団結がうまくゆかなくなるし、転校生ひとりのためにみなが気を使うし、ぐあいの悪いことばかりだから、当分の間、わがクラスでは転校生はシャットアウトしようと熱心に言う。  おれはいま、クラスは四十七人で奇数で不便だからもうひとり、はいってくればいろいろやりやすくなるのだが、と思っていたのだが、浦川さんの言う文化祭の点では同感だったので、まあいいだろうと答えておいた。  浦川さんはさっそくそれを担任の草野先生に申し入れると言うから、おれは、それは一応、ホーム・ルームでみなにはかるかクラス委員たちで検討してからのほうがいいのではないか、と言った。浦川さんはなぜかかなり不満のようすだった。浦川さんはそれを言いたくておれが通るのを待っていたのかもしれない。  十月五日。ふたたびその件で浦川さんから要求された。おれはなぜそう転校生を気にするのか? 近く転校してくるやつでもいるのか? とたずねた。するとかの女は、十月の|二《は》|十《つ》|日《か》|頃《ごろ》、ひとり転校してくる、と言った。知っている人なのかと聞いたが答えなかった。クラス委員会議で浦川さんの提案を検討したが、転校生をしめ出すのは非民主的だという小池さんの意見が支持多く、浦川提案は却下。  十月|二《は》|十《つ》|日《か》。草野先生に呼ばれて職員室へいくと、昨日、浦川さんがひとりで、A組に転校生を入れないでほしい、とたのみに来たそうだ。  おれは非常にふんがいした。クラス委員会議で受け入れるという線を確認したはずなのに。  いつもの浦川さんらしくない。しかしおれはそのことはクラスの誰にも話さなかった。しかしなぜあのように浦川さんは新しい転校生を拒否するのだ?  十月二十一日。ほんとうに転校生がやって来た。竹下清治。鎌倉の|七《しち》|里《り》が|浜《はま》中学から。おれは、ふと思い出して昼休みのとき、浦川さんにたずねた。  浦川さんも鎌倉の七里が浜中学からの転校生なのだ。みなは忘れているらしいが、おれはPTA名簿を作ったばかりだからよくおぼえている。  同じ一年どうしなら知っているかもしれないと思った。それを聞いたときの浦川さんの表情をおれは長く忘れないだろう。おそろしい顔をした。  きれいな顔はおそろしい顔につながる。かの女は一瞬のうちに表情をもとにもどしたが、おれはてんであせってしまった。何かある。絶対に何かある! 知られては困るような何か重大な秘密を浦川さんは持っている。それはおれの直感的な確信だった。おれは……〉  基は胸の奥底から息を吐き出した。何かえたいのしれぬ秘密が、浦川礼子にも、竹下清治にも暗いかげろうのようにゆらめいているのだ。  基はふたたび水ににじんだ文字に顔を寄せた。  奇妙なできごとが、今、全貌をあらわして基を呑みこもうとしていた。 〈十一月三日……〉  北島が基を訪れてきたその前日。つまり北島の死の前日の日記だった。 〈……おれはいま、竹下清治と浦川礼子のふたりに深いうたがいをいだいている。何がうたがわしいのか、じつはおれにもよくわからない。  しかしふたりは、ふたりにしかわからないなにごとか大きな謎の部分を持っていて、それがふたりの不可解な行動の原因になっているような気がする。  おれはきょう、鎌倉の七里が浜中学へ電話をかけてみた。適当なうそをつくのにひや汗をかきながら。浦川礼子は六月一日に東京へ転校した、と担任だった先生が言っていた。汐見が丘中学へは六月三日に転入学している。  竹下清治は十月十日に七里が浜中学をやめている。汐見が丘中学へは十月二十一日にはいってきた。  問題はそのあとだ。浦川礼子はその七里が浜中学へは、五月一日づけで入学してきたのだ。竹下清治は同じく五月八日に、七里が浜中学へ入学してきたという。まるで浦川礼子のあとを竹下清治がずっと追い回している感じだ。  もうひとつわからないことがあった。ふたりとも『入学』したのであって『転校』してきたのではないそうだ。もちろん、おれたちのクラスでも、山下さんのように小学校六年の三学期から病気になり中学校の入学式にも出られず五月一日にはじめて中学へはいってきた者もあるから、これだけで妙だとは言えないが、ふたりとも、というのは偶然の一致だろうか?  さらにおれが気になったのはふたりとも、どこの小学校を卒業したのか、よくわからない、ことだ。そんなことってあるだろうか? 小学校から中学校へ入学するためには、それに必要な書類だってあるだろう。義務教育だから書類がちゃんとしていなくとも入れてしまうのだろうか? たぶんそうなのかもしれない。毎年たくさんの一年生がはいってくるのだ。ひとりやふたり、出身学校がはっきりしないのがいても、いちいち気にしてはいられないのかもしれない。  七里が浜中学のころのふたりの住所は、東四丁目五番地と東六丁目一二一番地だ。そこに住みながら、どうやら地元の小学校を出たのではないらしい。  おれはもっともっと聞きたいことがあったのだが、電話に出た担任の先生が、おれをうたがいはじめた。おれはいそいで礼を言って電話を切った。  おれはなんだか、他人の秘密に深入りし過ぎたような気がしてならない。おれにはこれらのことが、ただの偶然や何でもないことのようにはとても思えない。何かある。絶対に何かある。これはおれの確信だ。誰にも言えない、おれだけの確信だ。電話だ。階下でお姉さんがおれを呼んでいる。誰からだろう?……〉  そこで日記は終わっていた。 「北島。きみはここまでさぐっていたのか。さすがはきみだ。北島、なぜ生きている間にひとこと、おれに相談してくれなかったんだ……」  基は文字のにじんだ日記帳から顔を上げて、がっくりと肩を落とした。北島のするどい頭脳は、あきらかに竹下清治と浦川礼子の身辺にただようえたいのしれないぶきみな秘密を感じとり、その|分《ぶん》|析《せき》にとりかかっていた。 「そのためにやつは殺されたんだ」  基はくちびるをかみしめた。その判断はあまりに独断的だろうか? 人に言ったら、おまえはミステリーの読み過ぎだよ、と笑うかもしれない。  ——北島は、ごく単純なことを、むりに謎めいたこととしてとらえ、なんでもないことに何か重大な秘密がかくされているように考えたりしていたのとはちがう。北島はクラスでもずばぬけた頭脳の持ち主だったし、おれと異なり、たいへん理性的な人間だった。  その北島が、誰も気がつかない国語のノートのカバーの裏に、このようなことを書いておくからには、やつは何か重大な危険を感じていたにちがいない。  しかも、書いておくということは、自分だけのメモとしてだけでなく、誰かに読んでもらいたいという、無意識の願望があったからだろう。やつはあきらかに、自分の身におそろしい危険が迫っていることを感じていたのだ。  基は長いこと、文字のにじんだ日記帳を見つめていた。  ——見ていろ! 北島。おれはかならず、きみにかわってこの謎を解きあかしてやるからな。  それは、えたいのしれぬなにものかへの挑戦であり、五郎や北島たちをおそった奇妙な〈死〉の手を、わが身の上にむかえうつ戦いののろしだった。     5 ほのおの渦  翌日はきのうとはうってかわった上天気だった。しかも土曜日。心が浮き浮きしてくる。四時間めが終わるのを待ち受けて、基は芙由子と西田信夫、松宮健二を、そっと校舎の裏の日だまりにさそい出した。 「聞いてくれ」  基はきのう、北島の日記帳やノートを借りてきたことを告げ、ノートのカバーの裏に書かれていた重大な記録についてかいつまんで話した。 「ちょっとここで待っていてくれ。いま、それを持ってくるから。カバンの中に入れてあるんだ」  基はみなをそこに残して、校舎の中へとってかえした。  そのときだった。  急に廊下のゆくてがさわがしくなった。遠くの教室のほうで、何人かの叫び声が入り乱れて聞こえた。 「なんだろう?」  ふだんのさわぎとはちがう。はげしくガラスのわれる音がした。とつぜん、廊下の窓の外を黒いけむりがもうっと渦まいて流れた。 「火事だ!」 「火事だぞう!」 「理科室が火事だあ!」  廊下にならんだ教室からどやどやとみんながあふれ出してきた。 「校庭へ出ろ!」 「東校舎から外へ出ろ!」  先生たちが声をからして叫んでいる。 「しまった!」  基はけむりがたちこめた廊下を突進した。基たちの教室は東校舎の二階だった。  パチパチ! バアン! バリバリ!  物のはじける音、くずれ落ちるひびきなどが、高く聞こえはじめた。廊下にどっと黒いけむりが吹きこんでくる。化学薬品や新建材などの燃えるにおいが、鼻やのどを突きさした。基はハンケチで口や鼻をおおって、けむりの下をくぐりぬけた。  ごおう——、バリバリ!  階段の上に、まっかなほのおが荒れくるっている。基は階段をかけあがろうとして熱風にあおられ、顔をおおって床にうずくまった。 「あつつつ……」  階段をあがることはもはや不可能だった。 「北島のノートを……北島のノートを持ち出さなければ!」  髪もまゆげも焼けこげる、熱とけむりの中で基はあえいだ。北島のノートを持ち出さなければ必要な手がかりが失われてしまう。 「ちくしょう! なんとかして……うわあ、あつつつつ!」  五、六段かけのぼっては、ずり落ち、四、五段はいあがってはころげ落ちた。  バリバリ! ドシーン!  基の目の前に、ほのおにつつまれたはりが落ちてきた。基はからだをひねってあやうくとびのいた。そのとたんに、|濃《こ》いけむりを胸いっぱいに吸いこんでしまった。 「ううっ! げっ!……」  基はのどをつき破ってほとばしり出るようなせきに、からだを折ってころげまわった。頭の奥に|錐《きり》をさしとおされるような苦痛がはしり、基は水からあげられた魚のように、口をぱくぱくさせてもだえた。いくら息をしても、胸の中に少しも空気がはいってこないのだ。基は自分ののどや胸をかきむしった。基は自分が底なしのふちにぐんぐん引きこまれてゆくような気がした。 「たすけてくれ!」  必死に叫んだが、わずかにくちびるが動いただけだった。  落ちる! 落ちる!  基は急速に薄れてゆく意識の中で、両手をのばして暗黒の空間をまさぐった。手にふれる何物もなかった。基は、果てしのない空間を無限に落下してゆく恐怖に気を失った。  トッ……トッ……トッ……トッ  どこだろう? ここは?  すべてのものの形や色が、霧をとおして見るようにぼんやりとかすんでいた。  トッ……トッ……トッ……トッ  なんだろう? あの音は?  どこかで人の話し声がする。なんだか自分のことを言っているような気がするが、どうもよく聞きとれない。  トッ……トッ……トッ……トッ  からだを動かしたとたんに、うでにするどい痛みがはしった。顔の上に、何かひどく重い物がのっている。 「どかしてくれ! 重い」  基は叫んだ。また、うでに|刺《さ》すような痛みがはしった。顔だけでなく、からだぜんたいがまるで石になってしまったように、ぴくりとも動かなかった。  トッ……トッ……トッ……トッ  気がつくと、それは基自身の心臓の音だった。 「気がついたようです」  ふいに頭のそばで、女性の声がした。 「血圧をはかって」 「はい」  基のうでがしめつけられた。 「おれは……おれはどうしたんだ?」  基ははね起きようとした。しかし基がからだを動かすより早く、基は何人かの手でしっかりとおさえつけられた。 「どうしたんだ。おれは!」 「酸素マスクをはずして」  男性の声がした。基の顔を圧迫していた物がとりのぞかれ、そのとたんに、基はからだぜんたいがふいに軽くなって、本来の体重にもどったような気がした。 「さ、静かにして。もうだいじょうぶですよ」  やさしい声がした。  白い天井や壁。自分をとり囲んでいる|白衣姿《はくいすがた》の人々。自分のかたわらにすえられている支柱につるされた太いガラスびん。そのびんから自分のうでまでのびているビニール管などが、いっぺんに目にとびこんできた。 「基! 基! 気がついたかい。おかあさんだよ」  頭の上に、とつぜんおかあさんの顔があらわれた。おかあさんは、これまで基が見たこともないきびしい顔をしていた。 「あ、おかあさん」 「ああ。よかったねえ」  おかあさんの顔がゆがむと、目から大きななみだがあふれた。おかあさんの顔が引っ込むと、かわって白衣の男の顔がのぞきこんだ。 「顔色がよくなりましたね。もうだいじょうぶだ」  その声に、周囲の人々の間にほっとした空気が流れた。基のうでに、何回もするどい痛みが突き刺さった。それが注射をされているのだとわかったとき、とつぜん、すべての記憶がよみがえってきた。 「そうだ! 学校の火事で……おれ……」 「だいじょうぶよ。手足にちょっと|火傷《や け ど》をしただけ」  注射をしたうでをもんでいた看護婦さんが笑顔を向けた。 「学校はどうなったろう?」 「ここからもよく見えたわよ。中学、半分ぐらい燃えちゃったんだって。学校のとなりのアパートは全焼よ。大さわぎだったわ」  看護婦さんは、基の一方のうでに刺さったままだった太いリンゲル注射の針をぬき、そこへ大きなばんそうこうをはると、からになったリンゲル液の大きなガラスびんや支柱をかかえて病室を出ていった。 「おかあさん」  基は首をもたげた。 「なんだい?」  おかあさんが顔をよせた。 「おれ、気を失ったままだったのか?」 「そうよ。もう十二時間にもなるわよ」 「十二時間もか!」  基は全身の力をぬいてやわらかなベッドにしずみこんだ。まだ頭の底がにぶく痛んだ。目もひりひりとしみるように痛む。ごおう! と吹きつけてきたあのすさまじい熱風のあおりが、まだ全身に残っているようだった。 「おれ、眠いや。とても眠いや」  基はつぶやいた。 「眠りなさい。ぐっすりと」  毛布の背や足のほうを軽くたたいて、からだにおしつけてくれるおかあさんの手に、たまらない安心感を感じながら、基は深い眠りに落ちていった。  つぎの日から、クラスのみんながつぎつぎと見舞いにあらわれた。  みんなの話によると、火元は消防署の調べでは、理科室の薬品だなふきんということだった。しかし土曜日は、朝から理科室はまったく使われていないし、ふだんはドアに|鍵《かぎ》がかけられているのではいることはできない。理科の先生もはいっていないので謎の出火として警察が捜査しているという。  火はみるみるうちに、基たちのクラスの教室をふくむ東校舎ぜんたいに燃えひろがり、学校の敷地に隣接する木造アパートに燃えうつり、そのころから急に強く吹き出した風にあおられて、さらに二、三軒の家を焼いて、一時間後にようやく|鎮《ちん》|火《か》したそうだ。  風が西風だったので、コの字形の校舎の東の一角が失われただけなのが、みなにとっては不幸中のさいわいだった。 「おれたちの教室は職員室のとなりの会議室だよ。たまらねえよ。そうだろ。となりは職員室だ。ちょっとさわいでいると、さかいのドアがあいて先生がどなりこんでくるんだよ」  松宮がうんざりしたように首をふった。 「おれたちは家庭科室だよ。ミシンがたくさん置いてあるだろう。家庭科の時間で女のやつらがミシン使うときはよ、おれたちは校庭で体育だよ。だからしょっちゅう体育よ!」  新聞部の田島は、かえってそれを喜んでいる口ぶりだった。 「写真を一枚とらしてもらうぜ」  田島はカバンからカメラをとり出すと、なれた手つきでストロボをパッ、パッ、と光らせた。 「いまさら校舎の焼け跡の写真でもないだろうからな」  新聞部の田島にとってはうでの見せどころというわけだ。すっかりいきいきしている。  三日めには、病院の中を自由に歩けるほどに回復した。うでや足の火傷はたいしたことはなかったが、かなりひどい一酸化炭素中毒で、いちじは後遺症などの心配もあったらしい。まだ頭のしんが、ときどきにぶく痛むこともあるが、|吐《はき》|気《け》もしないし血圧も正常だ。明日あたり退院してもよいだろうということだった。  その日の夕方、芙由子がひとりでやってきた。基は芙由子を、南面の廊下に接して設けられたガラス張りのサンルームへさそった。昼間は日なたぼっこを楽しむ軽症患者や、患者と語らう見舞客などでにぎわっているサンルームも、早い夕食の終わったいまは、患者たちはみな病室におさまってサンルームは静まりかえっていた。  暖房のきいた病院内の空気にすっかりくもったサンルームのガラスを手でおしぬぐうと、夕暮れにしずむ相模平野が薄ずみ色の一枚の絵のように、眼下にひろがった。たくさんの灯が美しい。東名高速道路をゆきかう自動車のテールランプが、真紅の流星のように遠く美しい。 「とうとう手をのばしてきたわね」  芙由子があかるい灯の海に目を当てながらつぶやいた。 「北島のノートも燃えてしまった」 「でも、あなたがぶじでよかったわよ。ノートとあなたと、両方をいちどにねらったねらいははずれたわけね」 「火が出たときは風なんかなかったし、昼間のことだ。発見だって早かったんだろう? ところが火はどんどん燃えひろがって、消防自動車がやって来たときには、東校舎ぜんたいが火につつまれていたっていうじゃないか。まるでガソリンでもかけたみたいによく燃えていたそうだね」 「警察も消防署も、ただの火事ではないってみているらしいわ」  ふたりは黙ってうなずき合った。 「おれがノートをとりに火の回っている教室へもどるだろうというねらいははずれたようだが……」 「なぜかしら? やろうと思えば落合さんをあやつって、燃えている教室の中へとびこませるぐらいのことはやったはずよ」 「おれは階段をのぼることができなかった」 「あなたは、東校舎と用務員室の間の水道タンクの下に倒れていたんだって」 「逃げようとするおれの気持ちのほうが、やつらの力より強かったというわけか」  芙由子は一面に水滴でおおわれたガラス窓を、指でなぞっていた。 「じゃ、また来るわ。気をつけてね」  芙由子はうでの時計にちらっと目をはしらせると別れを告げた。その大きな目に、ふとくらいかげが浮かんだ。何か言いかけて思いとどまり、そのまま基の前を離れた。  基はなおその場にたたずんで、もうすっかり夜のとばりにつつまれた下界を見おろしていた。  基はふと目をさました。薄暗い非常灯に切りかえた病室の内部が、深い海の底のように暗く、陰気に静まりかえっていた。  からだが汗にぬれていて不快だった。何かおそろしい夢を見ていたようだった。夢の内容は目がさめたとたんに忘れてしまったが、自分の背後に何かえたいのしれぬぶきみなものが立っていて、基がそれを見ようとしてからだを回すと、それもいっしょにぐるりと回ってしまってまた背後に立ち、どうしてもそれをたしかめることができないという夢だった。  基はベッドからおり、乾いたタオルでからだをふくと、べッドの下のバッグから着がえのパジャマをひっぱり出し、うでを通した。シーツも汗でぬれていたが、それはその上に乾いたバスタオルを敷いてがまんすることにした。  時計を見ると午前二時だった。ふたたびべッドにもぐりこもうとして、基は思わずからだの中の血が|凍《こお》りついたような気がした。  部屋の中に誰かいるのだ!  ベッドは四つ。基のほかには盲腸の手術をしたという青年がふたり。|腎《じん》|臓《ぞう》がよくないという老人がひとりだ。それぞれべッドで寝息をたてている。寝入っているかれらのほかに、もうひとり、誰かいる!  声が聞こえたわけでもない。呼吸が感じられたわけでもない。体温でもなく|鼓《こ》|動《どう》でもない。耳やひふで感じられる音やけはいでもない。人間の感覚や知覚では受けとめられないような何かの|兆候《ちょうこう》が、部屋の中にもう一個の人間が存在することを告げていた。  基はからだの中をつらぬく恐怖を必死にこらえた。毛布を頭から引きかぶろうとする自分の意思を歯をくいしばっておさえ、思いきってふりむいた。  それはいた!  カーテンをたらした窓の薄あかりを背景に、それはまぼろしのように立っていた。 「誰だ!」  基は叫んだが、のどは乾ききって舌が思うように動かなかった。  まぼろしのような人影はゆっくりと窓ぎわを離れ、音もなく基のベッドへ歩み寄ってくる。  一歩、二歩、部屋の中央につるされた蛍光灯の淡い非常灯が落とすほの暗い光の輪の中に、ふしぎな黒い|蝶《ちょう》のような優雅とも思えるしぐさではいってきた。 「浦川さんじゃないか! な、なにしに、ここへ!」  礼子は美しい目に、なんの感情もあらわれていないかすかな微笑をたたえて、ひた、と基を見つめた。  ベッドの上の基は自分のからだが重くつめたい石になってしまったような気がした。 「な、なにか用か!」  えたいの知れぬ恐怖が基の胸をしめつけた。  ——おれは……おれは、やつに殺されるかもしれない。五郎や北島のように。くそ!  基は犬のようにあえいだ。 〈落合さん。あなたに……〉  ふいに礼子がうたうように言った。何の物音も聞こえない夜ふけの静けさの中に、礼子のうるんだような声が目に見えない|水《すい》|紋《もん》のようにゆれ動いた。 〈……ぜひ教えてもらいたいことがあるの〉  基は毛布の端をにぎりしめて必死に気を落ち着かせようとした。 「教えてもらいたいこと? な、なんのことだ? それは」  ことばにならないほど声ははげしくふるえた。無理にふるえをおさえつけようとすると、胸の奥底からひどいはき気がこみ上げてきた。 〈落合さん、あなた、小さな罐を持っているでしょう。このぐらいの〉  礼子は、つ、と右手を上げると親指と人さし指で三センチメートルほどの幅を示した。 〈高さがこれぐらいで、直径五センチメートルほどの罐よ〉  基は胸の中でうめいた。  ——そんな罐なら、おれの部屋にはいくつだってあるんだ。ほしければどれでも持ってゆけばいいじゃねえか! 〈あなた、知っているでしょう? 持っているはずよ。かえして〉  礼子の目が|黒《こく》|曜《よう》|石《せき》のようにかがやいた。その目には抵抗し難いふしぎな美しさがあった。 〈かえしてほしいの〉  うったえるように言う。 「だからさ、おれ、そんな罐なんか知らねえよ! おれが持っているのは薬のあき罐やペーストの罐やワックスの罐なんかだぜ。小さなビスや虫ピンや鉱物標本が入れてあるんだ。どれのことだか言えよ。ほしければやるよ!」  礼子は静かに首をふった。 〈かえしてほしいの〉 「だから言ったじゃねえか!」 〈かえしてほしいの〉 「おれの部屋へ行って好きなのを持ってゆけ!」 〈かえして……〉  礼子の眉の間に、怒りとも悲しみともつかぬ|淡《あわ》いかげが浮かんだ。それきり口を閉じてじっと視線を基の顔にあてたまま、音もなく窓辺へしりぞいていった。 「まて! まってくれ!」  たずねたいことは山ほどあった。いまをおいてはそれを聞きだす時は永久にこないのではないかと思われた。 「まってくれ! 浦川さん!」  基はベッドからとび降りた。暗い床が急速に基の目の前に迫ってきた。うでをのばして、せり上がってくる床を受け止めようとしたが、うではまったく基の意思にしたがわなかった。基のからだはひどい音をたてて床へ激突した。  同じ病室の青年と老人が、まくら元のインターフォンであわただしく看護婦を呼んでいる声が、遠い世界のできごとのように基の耳に聞こえてきた。そのつぎに聞こえてきたのは看護婦たちが小走りに病室へはいってくる足音だった。  それから半月あまりがすぎた。基のからだもようやく以前の体調をとりもどした。医者のことばによると、退院間ぎわのあの夜、とつぜん異常な興奮状態におちいってべッドから落ちるほどの惑乱を生じた原因が、どうしてもつかめないので、これからも十分に注意するようにとのことだった。あの夜のできごとについては基は医者にも両親たちにも話していなかった。こっそり芙由子にうちあけただけだった。医者に話したら、それこそこんどは神経科の病棟へ送られてしまうだろう。  医者は首をかしげながら、何回も基の脳波を調べたり頭部のX線写真を写したりしていたが、基はそれをむだと知りつつだまって検査を受け通した。事実はそんなところにないことは基だけが知っていた。     6 過去にひそむもの  二学期も間もなく終わろうとしていた。校舎の焼け跡にプレハブの簡易校舎が急造され、各クラスともいちおう、それぞれの教室におさまった。しかし理科の実験器具も体育のとび箱やマットも、無いものや数の不足しているものだらけだ。それをおさめていた理科準備室や体育用具置場は、焼けた校舎にあったからすべて灰になってしまっていた。  混乱の中で二学期の期末テストもいつとはなしに終わってしまった。ことしの冬休みは三年生だけをのぞいて特別に十二月の十五日ころから始まることになった。焼けた校舎の再建築と|残《ざん》|骸《がい》が積み重ねられたままになっている校庭の整備をするためだそうだ。基は期末テストの成績はさんざんだった。その前日、病院から退院してきたのだから。  基は家にカバンを置くと、ふたたび家を後にした。夕方のつめたい風が、立てたコートのえりからからだにしみこむ。基はポケットにつっこんだ両手をかたくにぎりしめた。意味もなくからだが小きざみにふるえた。二度と生きて帰れない決死隊になったような気がした。バス通りを横切って、町のまんなかを流れる姫川のコンクリートの橋をわたった。町のネオンを映した暗い|河《かわ》|面《も》に冬の風が笛のように鳴り、そのたびに水に映ったネオンの光は美しく乱れた。  橋をわたって大通りを十五分ほど歩き、右に曲がると静かな住宅街だった。石やレンガベいがつづき、それをおおうように庭の木々が枝をひろげ、その奥に広壮な家々がひっそりと静まりかえっている。時おり高級な乗用車が余裕のあるエンジンの音も低く通ってゆく。  |九条院《くじょういん》八番地……七番地……六番地。 「あ、ここだ!」  基は息をつめた。鉄のとびらをはめた大きな石の門に|浦《うら》|川《かわ》|大《だい》|造《ぞう》という表札がかかっている。ここが浦川礼子の家なのだ!  基は大きく息を吸うと、鉄のとびらのわきのくぐり戸を開いた。天然石の大きな|踏《ふみ》|石《いし》が奥へつづいている。たけの高い|針《しん》|葉《よう》|樹《じゅ》の植えこみにさえぎられて、家全体のようすをうかがうことはできなかった。踏石をたどってゆくと西洋風のりっぱな玄関に行きあたった。呼び|鈴《りん》を押すと、だいぶたってから分厚いステンドグラスの奥に人影が動いた。ドアが重々しく開いて顔をのぞかせたのは若い女だった。 「汐見が丘中学一年の落合基ですが、礼子さんいらっしゃいますか?」  ひと口に言った。 「あ、お嬢さまのお友だちですか。ちょっとおまちください」  若い女は顔をひっこめた。  ——お嬢さん、か! ふん!  若い女はおそらくお手伝いさんであろう。こんなりっぱな邸に住み、お手伝いさんなどをやとっているこの家の生活に、基はなんとはなしに敵意めいたものをいだいた。間もなく足音が近づいてきて、ふたたびドアが開いた。 「いらっしゃいませ」  もの静かな|声《こわ》|音《ね》とともに、三十五、六歳の和服姿の品のよい女の人が姿をあらわした。  ——浦川礼子のおかあさんだ! とてもよく似ている! 「礼子さんの同級生の落合基です」  基はからだをかたくしてもう一度名乗った。これまでただ一度も礼子に両親がいることなど考えたこともなかった。いてあたりまえなのだ。これまで、奇妙なできごとの、そのなりゆきだけに気を取られて礼子の両親や、その両親と礼子との生活のことなど、思いおよばなかったというのは大きな手落ちだった。 「よく礼子がおうわさしてますのよ。一日に一回は落合さんのこと、話してますわ」  やさしい声で小さく笑った。基の全身から、それまではりつめていたものが、みるみるぬけ出していった。基はやり場のない気持ちをもてあまして、やたらにコートのボタンをいじった。 「せっかくいらしてくださったのに、礼子、親戚の家に呼ばれて出かけたんですの。あす、日曜日でしょう。一晩泊まってくるんですって」  礼子の母親はすまなそうに言った。基はだまって頭をさげた。 「何かご用がありましたら、うかがっておきましょう」 「いえ。いいんです」  基はもう一度、頭をさげ、ドアの前を離れた。なんだかひどく疲れていた。橋をわたる時、二度と生きて帰れないような気がしたのがうそのようで、気ばった自分が妙にこっけいだった。踏石をつたって門へともどる途中で、植えこみのすき間からうかがうと、まだ雨戸をしめていないベランダの大きなガラス戸ごしに、明るいシャンデリヤがかがやき、カラーテレビのあざやかな色彩の動きが目にはいった。おそらくそこが居間なのであろう。礼子の母親の姿がちらと見えてまた別室へ歩み去っていった。  基は門を出て肩をすくめて歩いた。大いそぎで考えなければならないことがたくさんあるようだった。  基は橋のたもとの中華ソバ屋へはいってラーメンを食べた。食べながらまだ考えつづけていた。ラーメンの味はあまりよくわからなかった。食べ終わって公衆電話で芙由子に電話をかけた。十円で話せる時間は短い。基は十円硬貨を三枚使って公衆電話のボックスを出た。 「あの……じつは……」  ふたたび礼子の家をおとずれた基は玄関の中へはいってドアを|後手《うしろで》でしめた。ひそかな決意だった。このまま引きさがることはできない。 「なんでしょうか?」  礼子の母親は礼子と同じ切れ長の美しい目を不審そうにしばたたいた。 「あの………ぼく、クラスの名簿を作る係りなんですが、浦川さんの出身の小学校がどこかわからないもんで……先生ももう帰ってしまったし、いそぐものだから聞きにきたんです」  考えぬいたうそだった。クラスの名簿を作ろうと思っていたことだけはほんとうだ。 「あら、そうですか。礼子の卒業した小学校は……鎌倉ですのよ」 「鎌倉のどこですか?」 「七里が浜……七里が浜小学校ですよ」 「そこから七里が浜中学にはいったのですね」 「ええ、そうよ」 「東京へ引っ越してきたんですね」 「……そうなの」  礼子の母親の顔に、ふとある感情が動いた。 「七里が浜中学から送られてきた転校のための書類に、出身小学校の名前が記入されていないと先生が言っていました」  基は思いきってそこまで言った。  礼子の母は何も答えなかった。そのとき、おそらくまったく別なことを考えていたのだろう。ぼんやりと基の背後の空間に視線を投げていた。 「たぶん小学校のほうで中学に書類を送り忘れたのでしょう」  基のことばはなおむなしく礼子の母親のからだを通りすぎてしまった。これ以上くいさがることはもはや不可能だった。 「ぼく、帰ります」  基は深く頭をさげるとドアを開いた。つめたい冬の夜風が、ごおう、と木々の|梢《こずえ》をゆらしていた。ドアをしめようとしたとき、礼子の母親が動いた。 「あ、ちょっとお待ちになって!」  白い|足《た》|袋《び》のまま、いそいで玄関の敷台から下のタイルばりの土間へ降りて、基がしめようとするドアをおしとどめた。 「あの、礼子のことでちょっとおたずねしたいことがあるんですけれど、お上がりになっていただけません?」  その目が必死に何かをうったえかけていた。基はだまってふたたび玄関にはいった。  豪華な応接間だった。大理石造りの大きなマントルピースには石炭こそ燃えていないが、青銅の飾りのついた古典的な大きなガスストーブが赤いほのおをゆらめかせていた。マントルピースの上の|象《ぞう》|牙《げ》の置時計、ゴルフの競技会で優勝したものらしいたくさんの優勝杯や記念の|楯《たて》。応接室の一角は大きな黒いグランドピアノで占められていた。敷きつめられたやわらかなじゅうたんは基の足首まで埋まるほどだった。  基はすすめられるままにソファのひとつに腰をおろした。ふわあっと尻が床に着くのではないかと思われるほどからだが沈みこんだ。 「……あの子、学校でみなさんとうまくやっておりますかしら?」  礼子の母親の声には深いうれいがこめられていた。 「うまくやっているって……べつに」  基はことばをにごした。基の胸の奥底にははげしい警戒心が動いていた。相手は礼子の母親なのだ。気を許してはいけない。気を許してはいけない。基は自分に何度も言い聞かせた。状況はいつ急転するかわからないのだ。だいいち、この家にいま、ほんとうに礼子がいないのかどうかさえわからないのだ。もしかしたら、この応接室から奥へ通ずるドアの向こう側で、こっそりと基のようすをうかがっているかもしれないのだ。基はそのドアへかけよって向こう側をたしかめてみたい衝動にかられた。 「落合さんには、あの子、親しくしていただいているようですから打ちあけてお話しするんですけれども、あの子、何か大きな心配ごとでもあるんじゃないかと思うんですけれど」  礼子の母親は声をつまらせた。 「心配ごと? どうしてそう思うんですか?」  礼子の母親はおくれ毛を指の先でかき上げながら口ごもった。 「心当たりは何もないんですけれども……なにか、こう……」  基は|粘《ねば》り強く出方を待った。もう少しようすを見よう。にぎりしめた手のひらに汗がにじんできた。 「時々、ぼうっとして私が何か言ってもぜんぜん耳にはいらなかったり、何かわからぬことを口走ったりすることがあるんですのよ。部屋に閉じこもったきり長い間、出てこないこともあって、そのような時などのぞいてみると、部屋のまんなかに、お地蔵さんみたいに突っ立っていたりするんですよ」  礼子の母親は肩を落として息を吐いた。 「病気ではないんですか?」 「他の方には、お話ししないでくださいね。七里が浜の中学に入学する時、県立病院の神経科へつれて行ったことがあるんです。何日間か入院しましてね、くわしく精密検査を受けたんですけれども、けっきょく、お医者さんにもわからないそうなんです。ノイローゼだろうということだったんですが……」 「でも、勉強のほうはよくできるけれども」 「小学校の時から成績はよかったんです。でも、近ごろのあの子、人が変わったみたいですわ」 「いつごろからですか?」 「七里が浜中学からこちらの学校へ移ってきたのも、おとうさんがヨーロッパから帰ってきて横浜に貿易会社を作ったのを機会に、いっそ環境を変えたら、あの子のためにもいいんじゃないかということでこちらに移ってきたんですのよ。あの子の変わりように気がついたのは、そう……あの子が小学校の六年生のなかばぐらいのころだったかしら」 「そうですか……」 「感じやすい年ごろだから、そっとしてあるんですけれども、あなたがたからみておかしなところもなく、学校でもうまくやっているのなら、心配することもないのかもしれませんけれども……」  基が経験したこと、死んだ北島や五郎が礼子に抱いた不安やおそれを話したならば、この母親はいったいどうするだろう。基は話題を変えた。 「竹下清治くんはごぞんじですか? たしか礼子さんと同じ七里が浜中学から転校してきたんですが……」  礼子の母は首をふった。 「いいえ、そのかたは知りませんわ。礼子のお友だちなんですの?」 「いや、ただ礼子さんと同じころ転校してきたから聞いてみただけです」 「どうか、礼子のこと、よろしくお願いしますね。ひとりっ子で|甘《あま》やかせて育てた上に神経質な子なので、いろいろお気にさわることもあるかと思いますが……」  礼子の母はていねいに頭をさげた。  暗い空に、星がちぎれそうにまたたいていた。つめたい風が吹きすぎてゆくたびに、裸になった樹々の梢が右に左にはげしくゆれた。門を出ると、石べいのかげから一つの人影が離れて街路灯の光の輪の中にすべり出てきた。まぶかにかぶったフードの中から、ふたえまぶたの大きな目がすばやく動いて基をとらえ、さらに基の背後の門の奥にそそがれ、ふたたび基の顔にもどってはじめて、にっと笑った。 「どうだった?」  芙由子だった。緊張で声がかすれている。基はだまっておもて通りのほうへあごをしゃくった。  ふたりは喫茶店のテーブルをはさんでむかい合っていた。壁にはめこまれたスピーカーからラテンのゆるやかなメロディーが流れ落ちてくる。  そのボンゴのうったえるようなリズムに耳をかたむけていた芙由子が、思い出したようにレモンを浮かべた紅茶のカップをくちびるにはこんだ。 「……だから小学校六年生のころに、なにかあったんじゃないかと思うんだ。それがショックになって時々、人が変わっちまったようになるんじゃないだろうか」  芙由子は紅茶のカップごしに大きな目で基のことばを受けとめていた。 「私、北島さんや鈴木さんのことから考えて、浦川さんには、なにか人を動かすことができる、ある力があるような気がするのよ」 「人を動かす力?」 「人をあやつる、と言ったらいいかな。催眠術とはちがうかもしれないし……なんと言ったらいいのかな……」 「テレパシーとか|念《ねん》|力《りき》とかいうやつかい?」 「ちょっと空想じみるけれども、なんとなく、そのようなものね」  あの病室にあらわれた礼子は、たしかに現実のものとも、まぼろしの姿とも言いがたかった。もし礼子が、なんらかの力で、自分の姿を基の頭に映し出して見せたものだとすれば——基はぞっとする思いだった。 「考えられることだ。信じにくいけれども……考えられることだよ」  基は深くうでを組んだ。 「礼子さんのおかあさんの話では、小学校の六年生のころからそうなったというんでしょう。だからそのころ、そういう力がそなわったものとも思えるわね。それと、なにか小さな罐をさがす、という目的もよ」 「すると、きみはその目的のために、あの力がそなわった、と言うのかい?」 「どちらが先かはわからないわね。ただ別なものでないことだけはたしかでしょうね」 「罐をさがす、というのが妄想によるものではないだろうか?」 「ね、その罐をさがすためには、あのふしぎな能力が必要なんじゃない? 目的と能力が同時に浦川さんに与えられたのではないかしら?」 「与えられた?」 「その小さな罐というのが、彼女自身のものだとは、考えにくいわね。かえして、というのがそもそも妙なことばだし……それとも、落合くん、あなたほんとに礼子さんから何かだいじなものを借りていて、それをかえしていないんじゃないでしょうね」  芙由子はふいにことばの調子をかえて山猫のような目で下から見上げた。 「ふだんから浦川さんのこと、言いすぎるもの」 「おいおい、よしてくれよ。おれはそんな」 「女の|執念《しゅうねん》て、こわいんだから」  芙由子は一人前の女のようなことを言って小さな赤い舌を出した。 「脱線するなよ。おれは何もあいつにうらまれるようなこと、しちゃいねえよ」 「でも、好きでしょう」 「好きも嫌いもあるもんか。あいつはおれをねらっているかもしれねえんだ」 「よろしい。それでは話をつづけましょう」  芙由子はとりすました顔になった。礼子のことで芙由子にくいさがられるとすぐむきになる基を、芙由子は楽しんでいるようだった。 「しかし、まだ、もうひとつ、竹下清治とのことが残っているんだ」 「落合くん。浦川さんが七里が浜に住んでいたころ、何があったのか、行ってしらべてみたらどうかしら?」  ——そうだ! そうすれば何か新しい事実がつかめるかもしれない。基は目をかがやかせた。  学校の裏から相模鉄道の線路までの間が西町。その西町は|表《おもて》と|裏《うら》にわかれていた。|西町表《にしまちおもて》と呼ばれる方は大きなスーパー・マーケットを中心に商店がたちならび、市内|循環《じゅんかん》バスも通っていて活気にみちた商店街だった。それに対して|西《にし》|町《まち》|裏《うら》は何年か前までは畑や水田だった所で、そこを埋め、地ならししていまでは倉庫や小さな木造アパートなどがすき間もなくぎっしりたっている。その間にはさまっている民家も体をすくめたように細く低く、ほとんど陽もはいらずに昼間から電灯をともしていた。建物と建物の間は、どこも人ひとりがからだを横にしてようやく通りぬけることができるほどのせまい露地になっていた。そんな所を大きなドブネズミが走りまわっていた。 「西町裏五三番地の七か……」  いったいどんな順序で番地をつけたものか、とつぜん数字が百台にとんだり、思いがけない所で|表《おもて》何番地という番地があらわれたりして目的の五三番地を発見したときにはいがいに時間がたっていた。 「まいったなあ! 五三番地の二のほ[#「ほ」に傍点]か!」  五三番地が十八に分かれているらしい。それぞれがさらに『い』号とか『あ』号、『か』号などに細分されているのだ。その細分されているひとつひとつの面積がたたみ十じょうか十二じょう分の大きさだ。そこに|間《ま》|口《ぐち》の大きさも、形も同じ小さな家が密集しているのだ。基は重い足を引きずり、その一軒一軒の表札をのぞいてまわった。  すでに陽は沈んで低い軒先には夕闇がただよいはじめていた。家にいれば、そろそろ夕めしが待ちきれなくなる時間だ。それに今日は家にカバンを投げこんだだけですぐとび出してきたのだから、おやつにはなにもありついていない。 「せっかく五三番地までたどりついたんだからなあ! もうひとふんばりだ!」  五三番地の五の、あ。五三番地の五のお、五三番地の六の、あ。五三番地の……少しずつつめてゆく。 「ここだ!」  五三番地の七。クラス名簿にはここまでしかなかったのだ。七がさらに『あ』から『く』までの八軒に分かれていようとは思わなかった。玄関の|格《こう》|子《し》|戸《ど》の片すみに、ボール紙にへたくそな字で〈佐々木〉とだけ書かれた手作りの表札が貼りつけられている。これは名簿のとおりだった。つまり竹下清治の住所は、五三番地の七、佐々木|方《かた》になっていた。  格子戸の内部をのぞきこむと薄暗い電球がともっているのが見えた。戸を開いて声をかけると、しばらくして髪をばさばさにして、汚れたセーターをだらしなく着た中年の女が顔を出した。 「だあれ?」  もの|憂《う》い声だった。 「竹下清治くん、いますか?」  女は夕闇のこい玄関の薄明りに、基をすかして見るように上体をかがめた。 「ああ、清治? あの子、いないわ」  まったく関心のないいい方だった。 「ぼく、中学校の同級生の落合基だけれども、学校のことでちょっと急用があるんですが」 「帰ってきたらそう言っとくわ」  基はくいさがった。 「ゆく先がわかりますか? ぼく、そこへ行ってもいいんだけれど……」 「ほんとはそうしてくれたほうがこっちは助かるんだけどね。でも、出かけたさき、わからないのよ」  投げやりな|口調《くちょう》だった。 「困ったなあ」 「アルバイトかなんかしているんじゃないかしら? 学校から帰ってくるとまたすぐ出かけるのよ。夜は十時近くならないと帰ってこないよ。食事なんかどうしているのかね」 「おかあさんじゃないんですか?」  基はさぐりを入れた。 「私が? とんでもない! あずかっているだけよ! あずかっているといったって、ここで|寝《ね》|泊《と》まりしているだけよ。うちで食べさせているわけじゃないんだからね」  女にはそのことがひどく腹立たしいようであった。 「あの……竹下くんは両親はいないんですか?」 「出かせぎかなにかしているんじゃないのかい? |季《き》|節《せつ》|労《ろう》|務《む》|者《しゃ》かもしれないよ。このへんには多いんだよ。夫婦で出かせぎに行くあいだ、よそへ子どもをあずけるの」 「竹下くんの両親とは知りあいですか?」 「ちがうよ」 「竹下くんをあずかっているというから」  女は乾いた声で笑った。 「うちのひとが|飯《はん》|場《ば》のだれかにたのまれたんだってさ。あずかるならあずかるでちゃんとかね取ってあずかればいいんだよ。いくら机ひとつだのふとん一枚だのっていったところで、へやを使うのにはかわりないんだからね。このへんだって三じょうのへや、貸せば五千円はとれるんだからね……」  基はだまって玄関の外へ出て格子戸をしめた。目の前にくろぐろとそびえる倉庫のあいだから、土手の上を走る相模鉄道の急行電車の窓の光が急流のように流れてすぐ見えなくなった。  近くに製材工場でもあるのだろう。歯の浮くようなかん高いうなりが聞こえてくる。基は重い心をだいてその一角を離れた。たまたまふれた竹下清治とかれをめぐる環境に、基は自分には想像もつかないある人生の断面をのぞき見た思いだった。  竹下清治は出かせぎに行った両親とわかれて、見も知らぬ家にあずけられている。そこでの生活が、かれにとっていたましいものであることはあの家で女に聞いた言葉からでもじゅうぶんにうかがうことができる。あの家で食事をとらせてもらうという約束にはなっていないらしい。  かれは学校から帰るとどこかへアルバイトに出かけ、それによって得たかねで食べているのだ。  夜おそく帰ってきても、かれのためにストーブやこたつが用意されているわけもない。  つめたいからだでつめたいふとんにもぐりこみ、ふるえながら眠りにおちるのだ。  朝は朝で、自分で目をさまして、固くなったパンを水でのどに流しこんで学校へかけつけてくるのだろう。基はそのような清治がたまらなく気の毒になった。  これからは進んでかれに近づき、何か困っていることや相談ごとがあったら力になってやらなければいけないと思った。 「ふうん。なるほど」  芙由子はなにごとか、考えているらしい。電話機の奥の声がふっととぎれた。 「もしもし。けっきょく、それだけしかわからないんだ。その家の女の人も竹下清治についてくわしいことは何も知らないようだ。あとは本人に直接聞いてみるしかないが、ちょっとそれもできないよな」 「浦川さんは竹下さんが転校してくるのをたいへんこばんでいたっていうでしょう。死んだ北島さんが日記に書き残したように、ふたりのあいだには何か重大なつながりがあるのよ」 「もしもし。でも、現在のふたりの生活というか家庭環境というか、つまり身のまわりがあまりにちがいすぎるんだよ。竹下清治は、生活のために両親とわかれて、ひとりでがんばっているけなげなやつだよ」 「もしもし。おセンチになっちゃだめよ。竹下さんの家が経済的に苦しんでいるのかどうかをしらべに行ったんじゃないでしょう。あなた」  基はぐっとつまった。 「あたりまえだ」 「落合くん。あなた、だいじなことをひとつ見落としているわよ」 「だいじなことを見落としている?」 「ええ」 「なんだい? それは」  芙由子はふたたび口をつぐんだが、すぐにもとのはなやかな声にもどった。 「じゃ、明日、バイバイ」 「なんだい? 見落としたことって? おい、もしもし! あ、切れちまった」  窓から見る暗い夜空に、わずかな星がまたたいていた。明日も晴れそうだった。     7 |探《たん》 |索《さく》  つぎの日、芙由子は学校へ出てこなかった。 「どうしたんだろう? |風《か》|邪《ぜ》でもひいたのかな?」  芙由子が学校を休むというのはめずらしい。今年の春、インフルエンザが大流行してクラスのほとんど全員が寝こんでしまったときも、芙由子だけは、せきひとつせずにピンピンしていた。小学校を卒業するとき|皆勤賞《かいきんしょう》をもらったのは芙由子ひとりだけだったという。その芙由子が学校を休んだというのはこれはクラスの話題だった。 「あいつもどうやら人なみだったわけだ」 「成績が一番でしかも皆勤だなんて、女のくせにかわいげがねえよな」 「おれ、お見舞にいってやろうかな。花かなんか持ってさ。感激しちゃって、あなた好き! なんて言ってくれねえかな。ちきしょう!」 「ばかやろう! おまえが行ったらもっと熱が出るよ」 「そうだ! おまえがうつしたんだ。おまえ先週、風邪をひいたなんて言っていたろう!」  みんながてんでに言いたいほうだいのことを言っているのをよそに、基はひそかに胸を痛めていた。よほどのことがないかぎり、学校を休むような芙由子ではない。きのうも風邪をひいたようなようすはなかった。もしや、何か変わったことでもあったのではないだろうか? ちら、と北島や五郎のことが頭に浮かんだ。基はあわてて|不《ふ》|吉《きつ》な想像を打ち消した。  授業が終ると、基はその日開かれることになっていた生徒会の委員会やクラブ活動のミーティングをかたっぱしからことわり、欠席を連絡するとカバンをかかえて校門をとび出した。いちもくさんに芙由子の家へかけつけた。 「あら、あの子ね。今日どこかへ出かけましたよ」  玄関へ顔を出した芙由子の母親がちょっと困ったような顔をした。  どういうわけか、芙由子はあまりおかあさんには似ていない。目などはそっくりなのだが。芙由子のおかあさんの話には、おかあさんの妹、つまり芙由子の叔母さんというのがたいへん美しい人で、芙由子はその叔母さんによく似ているのだという。口の悪い西田や松宮はトビタカだという。基は、芙由子のおかあさんよりも自分のおかあさんの方がよっぽどきれいだと思っている。しかし芙由子のおかあさんは親切で、話好きで、にぎやかなことが大好きという無類の好人物だ。 「どこをうろついているのかしら? 学校をずる休みしたりして……」  たいして心配しているようすもない。芙由子も、浦川や竹下たちのことは何も話していないのかもしれない。  芙由子の母親はのんきな人だ。芙由子のずる休みなどあまり気にもしていないようだ。それだけ芙由子は信頼されているのかもしれない。 「いつ頃帰るかわかりませんか?」 「さあ。何も言っていなかったからねえ」  それ以上、何も聞き出しようもない。基はしかたなく芙由子の家を後にした。芙由子がいったいどこへ行ってしまったのか、さがす方法もなかった。ただ、誰かにつれさられたのではなく、自分でどこかへ出かけたらしいということがわずかに安心できることだった。  基は家へ帰っても落着かない時間をいらいらと過した。もしかしたら芙由子から電話がかかってくるかもしれない。うっかり外へも出られない。時間は刻々と過ぎてゆく。もう外は薄暗くなってきた。芙由子の家へ電話をかけてみたが、まだ帰っていないという。基はしだいに心配になってきた。自分から出かけたといっても、何しろ相手はえたいのしれぬふしぎな能力を持っている存在だ。北島や五郎の例もある、芙由子に催眠術のような強い暗示を与えて外へさそい出したということも考えられる。 「しまった! 今ごろ、芙由子は……」  基の全身の血が逆流した。  こうしてはいられない! とりあえず、西田と松宮に連絡しようと思った。電話の前までかけつけた時、玄関のブザーが鳴った。 「基。玄関に出てちょうだい。今、手がはなせないから」  台所からおかあさんがさけんだ。|揚《あげ》|物《もの》をしている音がジュウジュウ聞こえる。 「くそ! だれだ。今ごろ!」  基は舌打ちして電話機の前を離れ、玄関のたたきにおりた。  ドアのノブを回すと、ドアは向う側から開かれ、芙由子の顔がのぞいた。 「つ、椿さん!」  基はしばらくの間、口もきけなかった。 「どうしたのよ? 落合くん。おあがりくださいぐらい言ったらどうなの!」 「いや。おれは、もう……きみは……」  殺されているかもしれないと思っていたとは言えない。基はへどもどして口ごもった。 「何かあったの?」  芙由子が眉をひそめた。 「何かあったもへちまもあるか!」  基は自分のもどかしさと、芙由子の顔を見た安心感がかさなって、思わず芙由子をどなりつけた。 「んまあ!」  たちまち芙由子も眉をつり上げた。 「ひとの顔をみたとたんに、なにもどならなくたっていいじゃない!」 「うるさい! 今頃までどこをうろうろしていたんだ」 「うろうろとはなによ!」 「うろうろじゃねえか! 学校、ずる休みなんかしてよ!」 「ふん、だ。あたしがずる休みしようとしまいとあんたに関係ないわよ!」 「ばか!」 「ばかですって!」 「ああ、ばかだ。大ばかだ!」 「言ったわね!」  芙由子の怒りが爆発しかけたとき、台所から基のおかあさんがとんできた。 「どうしたんです! いったい」 「おばさん。落合くんたらちょっとへんなのよ。わたしの顔をみたらいきなりどなるのよ。ひとりで怒っているの」  芙由子が基のおかあさんにうったえた。 「基! なんです!」 「…………」  基には、もとより説明できるような理由もない。 「さ、芙由子さん。上がってくださいな。基、お部屋にいらっしゃい」  おかあさんはいそがしそうにふたたび台所にもどっていった。 「ありがとう」  芙由子は基の言葉もまたず、さっさと上がりこんだ。そのまま、自分から先に基の部屋へ入った。基は急に笑顔を作るわけにもゆかず、ふてくされた顔で芙由子の後から自分の部屋へ入った。芙由子は足の踏み場もなくとり散らかされたこの部屋の、たったひとつの椅子である中身のないテレビに腰をおろした。 「落合くんにごくろうさまぐらいのことは言ってもらわなければね」  芙由子はGパンのひざを組んでうそぶいた。 「な、なんでよ?」 「あたし、今日一日、学校休んで何してきたと思う?」 「知るもんか!」 「まあ、お聞き」  芙由子はもったいぶった手つきでポケットから赤い小さな手帳を取り出した。 「|佐々木豊《ささきゆたか》。二十九歳。|松《まつ》|田《だ》|工《こう》|務《む》|店《てん》第一労務班勤務。現住所。西町裏五三番地の七の〈か〉。これ、誰か知っているでしょう?」  芙由子はいがいなことを言いはじめた。 「それは竹下清治がいる家だろう。西町裏五三番地の七の〈か〉というのはずいぶんさがしたぜ」  ふん! それがどうしたってんだ! 基は肩をすくめた。基のたいどにはかまわず、芙由子は言葉をつないだ。 「この佐々木豊という人は、一昨年秋から今年の秋まで、ずっと神奈川県鎌倉市の七里が浜にある松田工務店の作業所に行っていたそうよ。それは松田工務店が七里が浜に十何軒分かの建築の下請けを引受けたので、何人かの大工さんたちが作業所、つまり飯場ね、そこへ住みこみで仕事をしていたんだって」 「大きなこと言いやがって、そんなことを調べてきたのか? それがどうしたってんだ!」 「まあいいからだまって。十月十一日、佐々木さんは七里が浜の飯場から西町裏のあの家へ引き上げてきたのよ。引き上げてきたのは作業が終わったからです。そして自宅へ帰ってきた佐々木さんは、ひとりの中学生を連れてきたのよ」 「…………」 「佐々木さんの奥さんには、ふだんせわになっている人の子供を一時、あずかることになった、と言ったんですって。そして汐見が丘中学へ転入学の手つづきをとったそうよ。佐々木さんの奥さんは、家もせまいし、経済的に楽でないのに中学生ひとりあずかるのも大変だと思って、いろいろ佐々木さんに相談したけれども、佐々木さんはただ、あずかるんだ、家へ置くんだの一点ばりだったんですって」 「ふうん……」  基はいつの間にか芙由子の話に引きこまれてしまっていた。 「奥さんは困って、工務店のなかまのひとりにそれとなく聞いてみたんだって。そうしたら、その男の子は佐々木さんがせわになった人の子供でもなんでもなく、なかまのひとりに押しつけられたものだったんだって」 「それはどういうことなんだ?」 「それがね、佐々木さんの奥さんが言うには、くわしいことを聞こうとしてもなんだか言いたがらないんだって。妙にびくびくしているんだそうよ。佐々木さんの奥さんは家へ帰ってきてから佐々木さんを問いつめたら、こんどはまるで気が違ったようになって奥さんをぶったり蹴ったりするんだって。そして、これからその子についてよそへ行って何か調べようとしたり、言い|触《ふ》らしたりするようなことがあったら奥さんを殺すっておどかしたそうよ」 「……ふうん!……」 「奥さんもこわくなったし、薄気味が悪くなったんで、今ではそっとしてあるんだって」 「それは竹下清治にあやつられているんじゃないかな」 「私もそう思うのよ。それから、奥さん、こう言っていたわ。結局、竹下さんは食事は外でするし、ただ、あの部屋で寝るだけで、何を聞いてもへんじもしないし、この頃では奥さんの方から話しかけることもなかったんだって。その食事の費用も学校に持って行くおかねも、どこでどうしているのか、ぜんぜんわからないんだって」 「かねか! どんなに生活費を節約したって三度のめしやノート代、給食費、PTA会費、遠足費用の積立などでずいぶんいるよなあ」 「いったい、やつはどこから来たんだろう?」 「それなのよ! あたしがわざわざ一日つぶして調べ回った目的は」 「なにかわかったか?」 「あたし、松田工務店へ行って、七里が浜の作業場で佐々木さんといっしょだった人に会ったの」 「へえ! やるじゃねえか!」 「その人は|森《もり》|元《もと》という人なんだけれども、佐々木さんはその人と、もうひとり、|竹《たけ》|下《した》という人と三人でひとつの部屋に寝泊まりしていたんだって」 「ふむ」 「森元という人がいうには、どうも最初に竹下清治さんを連れてきたのはその竹下という人だったらしいわ。それを佐々木さんが引き受けたんだって。森元という人も、作業場の班長も佐々木さんをとめたんだって。そんな子を引き取ったってたいへんだからって。警察にまかせればいいって強くすすめたそうよ。でもだめだったんだってさ」 「いったい、その竹下という人はどこで竹下清治をひろってきたんだろう?」 「その竹下という人は、そんなことがあってから何日かたって、急につとめ先を変わるからといって松田工務店をやめて、郷里の関西の方へ帰ってしまったんだって」 「なんだか妙だなあ」 「森元という人も、その竹下という男が竹下清治さんを作業場につれてきたことについては、何かくわしいことを知っているらしいんだけれども、言いたがらないみたい」 「まさか|誘《ゆう》|拐《かい》してきたのではないだろうな」 「落合くん。こうは考えられない?………」  芙由子は組んだひざの上にひじをつき、あごを支えた。 「……竹下清治さんはある目的でその竹下という男に近づいた。ところがその人では目的にそわないのでこんどは佐々木さんにのりかえた。佐々木さんは竹下清治さんの言いなりに、というか、あやつられるままに竹下清治さんをつれてこの町に帰ってきた……」 「その目的というのは?」 「汐見が丘中学に入ることだったんじゃないかしら?」 「汐見が丘中学に入ること?」 「そう。森元という人は関西の出身だし、住まいを持っていた人ではなかったから竹下清治さんには役に立たなかったんじゃないかしら? その点佐々木さんは奥さんもいて、西町裏に住んでいるんだものね。佐々木さんなら竹下清治さんの保護者として竹下清治さんを汐見が丘中学へ転入学させることもできるじゃない」  基は声もなく深い考えに沈んだ。竹下清治とあの佐々木という家の結びつきを考えると、たしかにそれ以外にはありそうもなかった。佐々木という松田工務店につとめるひとりの男は、竹下清治が汐見が丘中学に転入学するために最大限に活躍したのだ。どこからやってきたのかもしれぬひとりのえたいの知れぬ少年が、中学校に生徒として入りこむためにはそれだけの計画が必要なのだろう。 「みんな、あやつられたんだ」 「おそらくそうでしょう。作業場の人たちも、七里が浜中学の先生も、およそ竹下清治さんの周囲の人間のすべてが」 「竹下清治はまず七里が浜中学へ入り、それから汐見が丘中学へ移ってきた」 「浦川さんを追ってね」 「そうなると、竹下清治という名前だってあやしいものだ。その竹下という人の名前を借りて、竹下清治なんて名乗っているような気がするな。やつはいったい何のために、どこからやって来たんだろう?」  二人の間に重い沈黙が流れた。深い謎が厚い壁となって二人の前に立ちふさがっていた。その壁は急速に厚さを増して二人を押しつつみ、おそろしい重さで二人を押しつぶしてしまうようだった。 「基! 起きなさい! 学校に遅刻しますよ!」  おかあさんの声に、基は重いまぶたを開いた。時計を見ると八時半だ。学校は八時四十五分に始まる。基はあわてて押入れの中段からとび降りた。基は押入れの中にふとんを敷いてべッドがわりにしている。いそいで服を着るとカバンをかかえて玄関へとび出した。 「なんでもっと早く起こしてくれないんだ!」  台所に向かってどなった。 「なに言っているんですよ! 何回も起こしたじゃないの! 自分のせいです!」  おかあさんの声がはねかえってきた。もうやり合っているひまはない。 「あ、いけねえ! 工作の道具を忘れた」  今日は工作の時間は木工だった。本立てを作ることになっている。 「どやされるところだったぜ!」  いったんひっかけた運動靴をふりとばすと、基はどかどかと自分の部屋へかけもどった。 「ええと。道具箱、道具箱、と……」  道具箱は積み重ねた鉱物標本箱の上にのっている。基はそれに手をのばした。道具箱をとり上げたとき、ふと、基はなんとなくふだんとはちがうものを感じた。  なんだろう?……  道具箱をとり上げた手が止まった。  何が気になるのか自分でもわからなかったが、何かがひどく気になるのだ。  基は落着かないひとみをあわただしく動かした。鉱物標本箱、組み立てかけたままほうり出してあるステレオ・アンプ、積み重ねた美術全集、切手のスクラップ・ブック、椅子がわりのテレビ、地球儀、そしてプラモデルをならべた棚に本箱。  そうだ。やっぱりそうだ!  基は道具箱をそっと、もとの場所にもどした。こんどは丹念に部屋の中、全体に視線を回す。 「誰か、さわりやがった!」  部屋の中のすべての物に、誰かが手を触れた|痕《こん》|跡《せき》がほんのかすかに、だがはっきりと残されていた。それは別に置かれた品物が動いていたり、位置を変えたりしているのではない。誰かの指の跡がついたりしているのでもない。しかし、基の目には、それらのすべてが基以外の誰かの手で、触れられ、あるいは目に見えないほどほんのわずか、位置を変えられているのがはっきりと見て取れるのだった。あるいは基の心が読みとったのかもしれない。  基は日頃から、自分の部屋の内部のいっさいの品物には、おかあさんにでさえ手を触れることを許さなかった。乱雑ぶりを見かねたおかあさんが掃除をしようとすると、基は烈火のように怒ったし、一時は自分で|南京錠《なんきんじょう》を買ってきて、自分が学校へ行っている間は部屋にかぎをかけておいたほどだ。  部屋の中は掃除をした形跡はまったくない。美術全集のわきの灰色の綿のようなほこりも一週間前と同じだし、天井からつるしてあるエンジン機からたれさがった長いくもの|巣《す》もひと月前と変わらない。  それに…… 「おれがゆうべ寝るまではちゃんとなっていたんだ」  すると……眠っている間に誰かが、この部屋に入ってきて? 「くそ!」  固く戸締りのしてある家の中へ、けむりのように入ってきて、寝ている基に気づかれずにそっと、この部屋の中のすべての品物を調べることができるようなやつがいるだろうか?  いる!  基は声もなくくちびるをかみしめた。  やりやがったな! 怒りがつき上げてきた。  基はテレビの上に腰を落とした。やりきれない敗北感がなまりのように胸を閉ざした。  とうとうやつはこの部屋にやってきたのだ。そしておれの眠っている間に、この部屋から求める物をさがし出していったのだ。  いったい、それは何だったのだろう?  それが何であるのか、おれはとうとう知ることができなかった……。  完全な敗北だった。基はひざの間で頭をかかえた。  そのとき、基はかすかな気配を心に感じた。それはあるかないかの風のように基の心を吹き過ぎていったかすかなさやぎだったが、静かな|水《みの》|面《も》にさざ波をきざむように、基の心にほんのわずかだがあるはっきりした波紋をえがいてゆれ動いた。  ——誰かいる!  基は息をころして全身の神経をとぎすました。目には見えないし、足音すら聞こえないが、たしかに何者かの気配が室内にひっそりとしずんでいた。  ——なぜだ? なぜ、やつは立ち去らずにここにいるんだ?  基は頭をかかえた姿勢のままでじっとようすをうかがった。  ——なぜだろう? さんざんさがし回ってたずね当てたはずじゃないか?  何者かの気配も少しも動かない。部屋のすみずみまでまるで自分の体や心のように知りつくした人間でなければ、この部屋の中に姿の見えない何者かがひそんでいるなどとは、とうてい感じとることはできないだろう。  十分。二十分。基は動かなかった。状態はいぜんとしてつづく。  とつぜん、基はあることに気がついた。  そうだ!  なぜ、やつはこの部屋を立ち去らないのか。そのわけはひとつしかない。やつはさんざんさがし回ったが結局、さがしているものは見つからなかったのだ。だから部屋をさがされたことを知ったおれが、どう動くか、そっと監視しているのだ!  基の胸はふくれ上がった。  ようし! まだ五分五分だぞ!  基は立ち上がってふたたび道具箱を手にした。それを持って部屋を出た。 「あら! まだいたの!」  物音を耳にして台所から出てきたおかあさんの顔が、みるみるけわしくなった。 「ちょっとだいじなさがし物があったんでね。どうせ一時間目は自習なのさ」  軽くかわして玄関のドアをあけた。 「ちょっと、ちょっと、基。おまえ、ゆうべ台所やお茶の間、いじったかい?」  声が追いかけてきた。 「いや。どうして?」 「どうしてってこともないけど。ゆうべ、私が片づけたときとちょっとちがっているからさ。コーヒーカップなんか、きちんとならべて置いたのに、ごちゃごちゃになっているし、救急箱の中の薬なんかもひっくりかえしてあるからさ」 「おれ、知らないよ。たぶん、どろぼうでも入ったんだろうよ」  言いすてて基は外へ出た。  あれだけのすごい能力を持ったやつのことだ。何のあとも残さずに|家《や》さがしすることぐらい何でもないことだろう。それを、ほんのわずかにそれとわかるほどの形跡を残しておくなどとは、まったくおそろしいやり方だった。  基はいそぎ足でおもて通りへ出た。郵便局の角を回ったとき、三〇メートルほど先のたばこ屋の角からセーラー服を着た女子中学生がひとり、通りを学校の方へ横断してゆくのが見えた。浦川礼子だった。  たばこ屋の角の横丁はまっすぐ行けば、ゆるく左に曲って、今基がやってきた道と同様、基の家のある一角に出る。 「やっぱりそうだったか!」  基はひとり、うなずいた。  一時間目の国語の時間はもう終わって休み時間になっていた。教室へ入ると浦川礼子はすでに自分の席で、周囲の友人たちと何かにぎやかに話していた。そっと西田に聞いてみると、基が教室へ入る五分前ぐらいにやって来たという。今朝は頭が痛くて、などと言っていたそうだ。  昼休みに基は芙由子と西田、松宮、それに田島を体育館の裏にそっと呼び出した。今朝のできごとを報告すると、みなは深刻な顔で考えこんでしまった。 「すみずみまでさがして見つけ出せなかったところをみると、それはきみの家にはないんじゃないかな」  西田が首をひねった。 「やつが何か感ちがいをしているというわけか?」  松宮が給食のソーセージをまだくちゃくちゃかみながらうたがわしそうに言った。 「田島、竹下清治のことでその後、何か耳にしたことはないか?」  新聞部の田島は学校中のニュースについては知らないことはない。何年何組の誰それの家に子犬が生まれて、もらい手をさがしているだとか、何年何組の誰それの姉さんが来週日曜日に結婚式だとか、用務員のおっさんがこんど何十万円の定期預金に入ったとか、およそ知らないことはない。 「おまえの情報網に何かひっかからないか?」 「なにもないなあ」  基は自分や芙由子が調べた竹下清治に関する、調査結果をみなに説明した。  西田や松宮は何度もうなった。 「なるほど。そいつは妙だな」 「やっぱり最初にらんだとおり、竹下清治は危険人物だぜ。今のところ浦川礼子の方があやしいが、やつだって浦川礼子におとらねえおそろしいやつだ」  ところが田島はたいしておどろかなかった。 「なあんだ。そんなことならおれに聞いてくれればよかったのによ! 竹下清治の下宿している佐々木っていう家の人がつとめている松田工務店ていうの、おれ、知ってんだ。ほら、理科室を火事のあとで新築したとき、松田工務店が工事したんだよ。竹下清治はそんとき、放課後なんか佐々木っていう人のけつにくっついて工事場をうろうろしていたぜ。その人の家族みたいなもんだから、工事場のやつらももんく言わなかったんだろうな。まるで作業員みたいにして歩き回っていたぜ」 「おい! それ、ほんとうか!」  基は目をむいた。 「ああ。落合くんはあの頃、病院に入っていたから見なかったろうけれども」 「そうか! 竹下清治は理科室の火事場の跡をさがしていたにちがいない」 「火事場の跡?」 「そうだ。かれは理科室に何かかくされていたのではないかと思ったんだ」 「浦川礼子が基くんの家にかくされていると思っている何かを、やつは理科室にかくされているのではないかと思ったわけだ」 「まてよ。やつは出火原因を調べていたのではないかな? あの火事の原因は消防署の調べでは|漏《ろう》|電《でん》だったというけれども、おれはどうもそうは思えないんだ」  基はみなの顔を見回した。 「と、いうと?」 「あのとき、おれの回りからいきなり火が燃え上がったんだ。天井とか壁とかからじゃない。まわりの空気がいっぺんに火になっちまったんだ。あれは漏電なんかじゃない」 「放火だというのか?」 「放火なんていうなまやさしいもんじゃねえ。まわりが一瞬に火になっちまったんだからな」  基はそのおそろしさを思い出して思わず身ぶるいした。 「SFによく出てくる熱線銃というのがあるだろう。ああいうものとちがうのかい?」  松宮が拳銃をにぎったような手つきをしてたずねた。その声が妙にかすれている。 「そうかもしれないなあ。あっというまにぱあっと燃え上がったんだ」 「すると、基くん。その何だかえたいの知れないものを、浦川礼子と竹下清治の二人がさがしているというわけなんだな。そして二人ともまだ発見できないでいる……」 「たぶんそうだろう」 「だが、そのためにおれたちの友だちが二人とも命を失った。こいつは許せない」 「そうだ。おれたちはどうしてもこの事件の真相をつきとめなければならないんだ」 「基くん。これはどうも七里が浜を調べてみる必要がありそうだぜ。そこで何かあったんだ」 「おれもそう思う」 「調べてみよう」 「あさっての日曜日、おれと椿さんとで七里が浜へ調べに行ってこようと思うんだ」 「なんだい! おれたちはのけ者かよ」  西田と松宮それに田島が口をとがらせた。 「いや。そうじゃないんだ。きみたちにはぜひやってもらいたいことがあるんだ」 「どんなことだい?」 「おれたちが七里が浜へ調べに行ったということがもしかれらの耳に入ったら、これはかならず妨害してくると思うんだ。きみたちにはかれらを|牽《けん》|制《せい》してほしいんだ」 「なるほど」 「松宮。きみは竹下清治のところへ遊びにでもいいし、ノートを借りるんでもいい。とにかくやつの動きを封じてくれ」 「そうか。よし。ちょうどあさっての日曜日は、おやじもおふくろも親戚の家の結婚式に招かれて行くことになっている。おれは家へ竹下清治をよぼう。おれのプラモデルのコレクションでも見せて一日中、引きつけておくよ」 「OK。西田。きみには浦川礼子をたのむ」 「よしきた。文集の原稿の整理でもたのむとするか」 「田島。すまないがきみは一日中、きみの家にいてくれないか。何かあったらきみの家に電話をかける」 「いちばんつまらない役だな」 「いちばん重要な役だよ。通信センターなんだからな」 「電話の前で一日中、待ちぼうけ、てなことになりそうだな」 「そうなってくれればこっちも助かるんだが……」 「このことは誰にも言っちゃだめよ。浦川さんや竹下さんの耳に入ったらめんどうなことになるから」  芙由子が心配そうに言った。やがて午後の授業の始まりを告げるベルがひびいた。 「じゃ、たのむぜ。みんな」  五人はたがいにうなずき合ってその場を離れた。     8 七里が浜へ  横浜行の電車はこんでいた。久しぶりに晴れ上がった日曜日とあって、家族づれが多い。ゴルフバッグを肩にした一団や、クラス会らしいにぎやかなグループもいる。横浜でふたりは|横《よこ》|須《す》|賀《か》|線《せん》に乗りかえた。車内にはいよいよレジャーのふんいきがみなぎってきた。鎌倉で降りると高いホームの下の小さな電車がふたりを待っていた。  おもちゃのような小さな二両連結の電車はふたりをおろすと枯草におおわれた丘のすそをまわって走り去っていった。駅とは名ばかりの、待合所のさしかけ屋根をのせた短いプラットホームが一本あるきりの、|江《え》の|電《でん》、七里が浜駅を出ると、強い汐風がふたりの息をうばった。そのプラットホームを抱きかかえるように、数軒の家が身をよせ合っている。  どの家も汐風と砂で色あせ、窓はほとんど雨戸や厚いカーテンで閉ざされている。その数軒の家のはずれが|行《ゆき》|合《あい》|川《がわ》。鎌倉時代に幕府は|日《にち》|蓮《れん》を捕えて|竜口《たつのくち》で処刑しようとした。ところが首切役人のふり上げた刀に|雷《かみなり》が落ち、日蓮はあやういところを助かった。それを幕府につたえる役人がここまでやってきたとき、反対側の鎌倉の方から日蓮の|助《じょ》|命《めい》をつたえる役人の早馬が走ってきてふたりはここですれちがったとつたえられている。以来、この川を行合川と呼ぶようになったという。川にかけられたコンクリートの橋の上からのぞむと、右方、一〇〇メートルほどの距離をへだてて、砂浜に相模湾の白波がくだけている。汐しぶきがけむりのように長く丘の斜面をはい、行合川に沿って左方に奥深くひろがる谷あいまで霧のように流れこんでいた。その谷の斜面から右手の丘陵地帯にかけて、赤い屋根や青い屋根、白い壁、ガラス張りなどの家々がたちならび、荒涼とした砂浜とは対照的な風景を作り出していた。  何年か前に、赤松の林やすすきのおいしげった|嶺《みね》が|原《はら》と呼ばれる低い山なみを切りくずし、ひなだんのようにならして作られた新しい住宅地だった。  基と芙由子は江の電の踏み切りをわたり、砂けむりの舞う道を住宅地へ向かった。行合川の谷から右へ曲がって急な坂を上がる。坂の途中から、一面に白く波立っている海面と、汐けむりにかすむ江の島をひと目で見わたすことができた。住宅地へはいってしまうと、家がたちならんでいるせいか、丘の上であるにもかかわらず風も弱く、南向きの陽だまりは春めいてぽかぽかとあたたかい。早咲きの水仙が黄色い花を開いていた。 「東三丁目か」 「もうちょっと奥だと思うわ。ほら、見てごらんなさい。海に近い方から一丁目、二丁目となっているもの」  芙由子がポケットから鎌倉市の地図をひっぱり出して開いた。この住宅地全体が何丁目かに分かれているが、南が海に面し東、西、北の三方を一線につらなる|稜線《りょうせん》でかこまれている小さな|扇状地《せんじょうち》のような場所だ。何丁目と言っても、たて、横とも道路二、三本分しかない。丘の上のゴルフ場へ行くのだろう。後部席にゴルフバッグを押しこんだスポーツ・カーがタイヤをきしませながら坂を上がっていった。 「あ、東四丁目だぜ」 「ここは十二番地だから……十一……十……九……八、と」  |大《おお》|谷《や》|石《いし》を積んだ石垣に沿って番地が少なくなってゆく。 「ここだ!」  東四丁目五番地。|金《かな》|網《あみ》の垣根の内側にサンゴ樹や椿が枝葉をしげらせ、山小屋風の|勾《こう》|配《ばい》の深い大きな屋根がそびえていた。コンクリートの門の柱にとりつけられた四角な|門《もん》|灯《とう》に|沢《さわ》|田《だ》|吉《きち》|次《じ》|郎《ろう》と書かれている。浦川礼子の家が|引《ひっ》|越《こ》したあとにはいった人であろう。金網ごしに内部をうかがう。  ウウウウ! ワンワンワン!  とつぜん子牛のように大きなコリーが植えこみのあいだから走り出てきた。  ウウウ! バウウ!  金網の垣根に太い足をかけ、いまにも垣根をとびこえてふたりの頭上におそいかかってくるかと思われた。  ワンワンワン!  キャン、キャン、キャン!  となり近所の犬までいっせいにほえはじめた。太い声、かん高い声、シェパードやドーベルマンの威圧するような野太い声やテリアやスピッツの高音部の|鍵《キ》|盤《ー》を乱打しているような声が入り混ってすさまじい交響になり、通る人もない静かな真昼の住宅街にこだました。窓をあける音もする。へいの内側では人の声も聞こえた。ふたりはあわててその場を離れた。 「ああ、おどろいた。うっかりまごまごしていると、どろぼうかなにかとまちがえられるぜ」  二、三軒先の十字路を足ばやにまがり、その先の十字路をさらに左にまがった。 「なんだか悪いことをしているみたいな気持ちだなあ。なんだか人に見られているような気がするよ」 「そのうち、パトカーがくるかもよ。へんな中学生がひとの家をうかがっているなんて一一〇番したりしてさ」 「心細くなってきたな」 「あ! 落合くん。見て!」  芙由子がとつぜん立ち止まった。 「ここ、東六丁目一二一番地よ」  |道《みち》|端《ばた》の電柱に、青地に白文字をぬき出した番地表示板が打ちつけられていた。 「すると、この家かな?」  ブロックベいについてゆくと、鉄格子をはめた門があった。近ごろ、流行している鉄骨プレハブの近代的な角張った二階建ての家だった。まだ新しい。二階の窓も一階のベランダも軽快なシャッターで完全に閉ざされている。 「るすかな?」 「空き家じゃないかしら? 家のまわりに何もないし、庭だって枯草でいっぱいじゃない!」  そう言われてよく見れば、たしかに家の周囲には植木鉢ひとつ物干竿一本おいていない。いくらきちんと片づいていても、人が住んでいれば何かそれを告げるものがおかれたりすえられたりしているものだ。それに、かつては美しい芝生におおわれていたらしい庭も、一面に枯草におおわれていた。 「ここが竹下清治が住んでいた家か!」  表札が出ていないので、現在ここがだれの所有になっているのかわからない。基は門のドアのノブをまわした。かぎがかかっているだろうと思ったが、門はきしみながら開いた。  玄関のドアは固く閉じている。家の周囲をひとまわりした。やはりこの家はもう長い間空き家になっているらしい。玄関の石だたみにも、勝手口の窓の|桟《さん》にも、閉じられたシャッターの間にも枯葉や土ぼこりがつもり、くもの巣には去年のものであろう、ひからびた昆虫の死体が風にゆれていた。台所の流しに面した張り出し窓のガラス戸の上半分が透明ガラスになっている。基は窓の桟にとびついて全身の力をうでにこめてからだを引きずり上げた。広い台所の内部はがらんとして何もなかった。白い壁と白い天井にくもの糸がたれているばかりだった。 「この家は、一回も人が住んだことがないんじゃないかい?」  地上にとびおりた基は首をひねった。見れば見るほど、完成して注文主に引きわたされたまま、住む人もなくそのまま放置されているような気がしてならない。 「しかし、竹下清治は去年の五月八日から十月十日までは、たしかにこの家にいたはずだ」  そのとき芙由子が小さくさけんだ。 「なんだい?」 「ほら! 落合くん。あの家……」  この家の裏庭は金網の垣根でとなりの家の庭と接している。植えこみのむこうにそびえている山小屋の急勾配の大きな屋根は……。 「東四丁目五番地と東六丁目一二一番地とは裏でつながっていたんだ!」  家二軒分の敷地をはさんで平行している二本の道路に、それぞれの門が設けられているので、町名が異なっていても少しも不自然に思わなかったが、じつは裏で庭つづきになっていたのだ。 「浦川礼子と竹下清治の家が庭つづきになっていた、とするとこれはどういう意味を持っているのかな?」 「竹下さんが五月八日に七里が浜中学へ転校してきて、浦川さんが六月一日に東京へ転校してゆくまでの、約二十二、三日のあいだふたりはここで顔を合わせる可能性があったわけね」 「竹下清治が越してきたので、浦川礼子は逃げていったとも考えられるぜ」  ふたりの胸に、身動きせずに金網ごしにじっととなりの家をうかがっている竹下清治の姿が浮かび上がってきた。そこにどのようなできごとが謎を秘めているのか、ふたりにはいまのところ、おしはかることもできなかった。 「たしかにこの家はでき上がったままで放置されているんだよ。人が住んだ形跡がない。しかし竹下清治のもとの住所はここなんだ。つまり、竹下清治が、七里が浜中学校へ入るために必要な住所だ。おそらく、松田工務店の飯場があった場所だろう」  もしそうだとして、その竹下清治と浦川礼子のあいだにいったいどのようなつながりがあったのだろう?  さぐればさぐるほど新しい謎がつぎつぎにあらわれてくる。それはまるでアリじごくのように、近づいてきた人間の心をとらえ、深みに引きずりこんでゆくような気がした。 「いま、午前十一時だ。手わけしてやろう。正午に、ほら、マーケットのそばに喫茶店があったろう。あそこで落ち合おう」 「いいわ」 「気をつけろよ」 「犬にかみつかれないようにね」  基と芙由子はその家の門の前で右と左にわかれた。基は何軒かの商店がならんでいる商店街というよりも公園とよんだほうが似つかわしい明るい広場へはいっていった。そこにめざす店があった。さっき遠くの方から見て、そうではないかと思っていたのだが、来てみると思ったとおりやはり本屋だった。基は店の前でしばらく待った。やがて中学生らしい少年がスポーツ自転車に乗ってやってきた。店へはいって雑誌を買った。ふたたび自転車にまたがろうとするところへ基が歩み寄った。 「きみ、七里が浜中学の生徒かい?」  自転車の少年は、けげんなまなざしを向けた。 「ああ」 「きみ、竹下清治って知ってる?」 「何年生?」 「いま一年。でも今年の十月に東京へ転校したんだ」 「一年か! それじゃおれしらねえや。おれ二年だもん」 「このへんで一年の人、知らないかな?」 「ええ、と。あ、ほら。あそこのてんぷら屋の前でローラースケートやっているやついるだろ。あれ、一年だ」 「そうか。ありがとう」  基は礼を言って少年の前を離れた。  ゴロゴロゴロゴロ……  ガガーッ  石だたみからひどい音がする。 「きみ、七里が浜中学の一年?」  こんどは慎重に声をかけた。 「そうだよ」 「ちょっとおしえてもらいたいことがあるんだけれど」 「なんだい?」  ゴロゴロゴロゴロ……  ガガーッ  いったんむこうの方まで走っていったかと思うと、またもどってきた。そこをつかまえてたずねる。 「竹下清治って、知っているかい?」 「竹下あ?」 「今年の十月、東京へ転校した竹下清治だよ」  少年は足を止めて首をかしげていた。 「浦川礼子、知ってる?」  礼子の名前を耳にしたとたんに、少年は表情を大きく動かした。 「竹下ってのはよくおぼえていないが、浦川ならよく知ってるよ! そうだ! 竹下も思い出した。竹下清治だろ? 浜へ打ち上げられていたやつだ! あいつ、学校へは二、三日しか出てこねえんだ。これだったんだよ!」  少年は自分の耳の上で指をくるくるとまわしてみせた。  少年はそれだけ言うと、ふたたび勢いをつけて走りはじめた。 「おい! ちょっと、ちょっとまってくれ!」  基は必死に少年のあとを追って走った。 「その、浜へ打ち上げられていたっていうのはどういうことなんだい? おしえてくれよ」  ゴロゴロゴロゴロ……  ガガーッ  ローラースケートの車輪が石だたみになりひびく。少年がふりかえってなにかさけんだが、よく聞きとれない。 「おうい! 竹下清治のこと、おしえてくれよう!」  ゴロゴロゴロ……  ガラガラ、ガーッ 「ボート屋の……聞いてみろよ。|稲《いな》|村《むら》が|崎《さき》の……それと|駐在《ちゅうざい》の|熊《くま》|谷《がや》っていうおまわりさんだよ……わからねえよ……」  声がちぎれると少年は急な坂道を鉄砲だまのようにくだっていった。  稲村が崎の貸ボート屋のなんとかさんに聞いてみろ、というのだろう。それと駐在所の熊谷さんというおまわりさんがよく知っているということらしい。  基は公衆電話のボックスへはいった。そなえつけの電話番号帳を開いて貸ボートという欄をさがす。海岸だからさだめしたくさんの貸ボート屋があるのだろうと思ったが、稲村が崎には一軒しかなかった。電話をかけると、汐風に|錆《さ》びたような老人の声が流れて出てきた。 「もしもし、あのう……竹下清治くんを助けてくれたボート屋さんですか?」  妙なたずねかただが、ほかに聞きようがない。 「なに? だれを助けたって?」 「いえ。そうじゃありません。ほら、浜に打ち上げられていた少年を助けたことがあるでしょう?」 「浜に打ち上げられていた?……少年、と……ああ! うんうん。そういえばそんなことがあったなあ。あれは浜じゃねえよ。稲村が崎の下に大きな|洞《ほら》|穴《あな》があってな。波は打ちこんではこねえんだがその洞穴の中にたおれていたのよ。流されてきて打ち上げられたんじゃねえよ」  気むずかしい老人らしく、きちょうめんにまず基の言葉を訂正した。 「洞穴の中にたおれていたんですか! へえ! あ、もしもしぼく、竹下清治くんの友だちなんですが、そのときの話をくわしく聞かせてもらいたいんです」 「竹下清治というと、ああ、そうか。あの野郎っこだったな」 「ええ、そうです」 「いまどうしてる、え?」 「ぼくと同じ中学にいるんです」 「中学に? ほう! するとなおったのか?」 「なにがですか?」 「ほれ、なんとか言ったな。きおくなんとかってやつよ」 「|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》ですか?」 「そうよ。それそれ」 「へえ! 記憶喪失だったんですか!」 「なにもおぼえていやがらねえんだ。竹下清治っていうんだって、おめえ、ほんとうの名前だかどうだかわかりゃしねえよ」 「でも、自分でそう名乗ったんでしょう?」 「いや、シャツに書いてあったのよ、シャツに」 「シャツに書いてあった?」 「と、言うんだがな」 「だれが?」 「おめえ、なんでそんなこと聞くんだ? あの野郎っこの友だちだとすると、警察ってわけじゃねえな」  貸ボート屋のおじいさんの声には、にわかにはげしい警戒のひびきがわいた。 「もしもし! すみませんが、これからそちらへうかがいますから、そのときのようすをくわしくおしえてくれませんか」  基は電話機にしがみついた。ようやく求めるいとぐちがほんのわずかに姿をあらわしてきたのだ。  この線をたぐることができなかったら、ことの真相を知ることはもはや不可能だろう。 「もしもし! もしもし! ぼく、竹下清治くんの同級生の落合基という者です。わけがあって竹下清治くんのことをしらべているんですが……」  基の言葉にこもる異様な熱気に興味を抱いたのか、それともくいさがる熱意に負けたのか、貸ボート屋のおじいさんはついに基に訪ねてくるようにいった。     9 人ではないもの? 「……そうだよ。あれは桜が咲いていたから四月の三、四日ごろだったなあ。  ドライブに来た若い衆がかけこんできてな。稲村が崎の下の洞窟の中で子どもが倒れていると言うんだ。  おれは風呂から出てもう寝ようと思っていたんだが、しかたがねえから行ってみたさ。そうしたらあの野郎っこよ。虫の息で倒れていやがった」  貸ボート屋のおじいさんは、背中を丸めて石油ストーブに手をかざした。 「記憶喪失だったんですか?」 「そういうのかな。ありゃっ、てんでふぬけみてえになっていてな、なに聞いても答えるもんじゃねえ」 「…………」 「駐在の熊谷さんに電話して来てもらってな。近所の医者へ運んだよ。あの野郎っこは妙なやつだったぜ」 「服装はどんな?」 「なあに、おめえたちとおんなじだあな。Gパンていうのか? |木《も》|綿《めん》のカパカパしてる細いズボンはいてよ。ジャンパー着てたぜ」 「けがをしていませんでしたか?」 「けがはしていないようだったな」 「家族もわからなかったんですか?」  おじいさんはたばこに火をつけ、むらさき色のけむりをふうっと吐き出した。そのけむりがストーブから立ち上がる熱気流にのみこまれ、きりもみになって散乱した。打ち寄せる波の音がコンクリートの土間をふるわせていた。 「それがな。七里が浜の東四丁目で仕事をしていた建設労務者が名乗り出てな、弟なんだと」 「建設労務者?」 「飯場があったんだよ。おれも会ったんだがな。竹下という男だった」 「竹下あ?」 「知ってるのけ?」 「知らないよ。おじいさん、それでその竹下という男が竹下清治のことを弟だと言ったんですか?」 「そうだよ。|郷《く》|里《に》から出て来るという連絡はあったんだけれども来ねえから心配していたんだとよ。駐在の熊谷さんも一応、郷里の警察にでも照会してみようかなんて言ってたんだけれど、まあ兄貴なら問題ねえだろうってんで引きわたしたわけよ」 「にいさんだという証拠は?」 「証拠なんてものはねえが。だがよ、頭のおかしい行き倒れを弟ですと、うそついてまで引き取るもの好きがいると思うか? おめえ」 「そりゃ、ま、そうだ」 「野郎っこを飯場から中学に通わせたそうだ」 「その飯場はどこだったんですか?」 「七里が浜東六丁目一二一番地だったかな」 「あそこだ!」 「知っているのか?」 「竹下清治のここでの住所になっているんだ。学校の書類もそうなっている」 「そこに飯場があったんだよ。そこを現住所にして中学へはいったんだろう」 「そうか! やっぱり! だが……ぐうぜんにしてはでき過ぎているなあ。引き取られたさきの飯場が浦川礼子の家の裏だったなんて!」 「なんだね? それは?」  基は口をつぐんだ。これまでのできごとのいっさいをうちあけて協力を求めるべきなのだろうか? これまでは絶対に他人には話さなかった。しかしこのおじいさんからこれ以上多くのことを聞き出すには事情を説明しなければならないだろう。基は思いきってこれまでのさまざまなできごとをかいつまんでおじいさんに話した。 「……なるほど。|最《は》|初《な》っからそう言えば力を貸してやったのによ」  貸ボート屋のおじいさんは、基からいっさいの事情を聞くと深くうなずいた。 「あの野郎っことははじめっから何か因縁があるとみえる。そうだ、おれもどうもふにおちねえと思っていたよ。飯場の竹下ってやつな。ちょっととろいやつなんだよ。馬鹿ってわけじゃねえんだろうが、なんだか目なんかもとろん、としていてな。そいつがあの野郎っこを弟だなんて申し出るのが妙じゃねえか?」  基はその言葉に胸をえぐられたような気がした。  ——竹下清治が……その少年が、飯場の竹下という男をあやつって引き取りに来させたとしたら? そしてそれ以後、竹下清治と名乗ることになった? 住む場所は浦川礼子の住んでいた家の裏の飯場。そして…… 「おじいさん。浦川という家、知っている?」 「いまいろいろ話を聞いているうちに思い出したことが幾つかあるが、その浦川という家の娘は、たしか頭がおかしくなって家族ともども東京へ移ったとかいう家だな」 「そうだ。おじいさんなんでも知っているんだねえ!」  基は半分おせじを言った。とたんにおじいさんにじろりとにらまれた。 「年寄りをおだてるもんじゃねえ! 知ってるも知ってねえもあるもんか。おれはこの土地でもう七十年近く生活しているんだぞ」 「すみません」 「その浦川の娘が頭がへんになったというのがな、おめえ、稲村が崎の下の洞窟で妙なものを見たせいなんだそうだ」 「なんだって?」 「洞窟のそばで貝をひろっていたら洞窟の奥から人が出て来たっていうんだな」 「でも、その洞窟にはだれでもはいれるんでしょうか?」 「最初見たときはだれもいなかったんだと。それが貝をひろってひょいとふりかえったら洞窟の奥から出て来たというんだな」 「だれが?」 「人じゃねえもんだそうだ」 「…………」  おじいさんはふいに鳥のような声で笑った。歯のぬけた口からもれる汐でかれた笑い声は、土間をゆるがせる波の音よりも高く基の耳をうった。 「宇宙人だとよ! 宇宙人だと。おめえは若えから宇宙人というものはどんなものだか知っているだろう。おれたちにゃあてんでちんぷんかんぷんだけれどもよ」 「宇宙人? まさか!」 「なあに。おれが言ったんじゃねえ。浦川の家の娘っこが言ったことだ」  目の前を閉ざす厚い壁に一点、小さな穴があいたような気がした。そこからのぞきこめば、穴の向こう側の真相をすべてうかがい知ることができるのだ。 「おじいさん! それで浦川礼子はどうしたんだ?」 「その宇宙人とかいうやつがよ、自分のからだの中へはいってしまったといってさわぐわけよ。救急車で医者へ運ばれていったが、ひどいノイローゼにかかっていたようだ。かわいそうに」 「どうしてそんなにくわしく知っているんですか?」 「洞穴の前に倒れていたのよ。アベックが見つけておれの所へ知らせに来たんだ。浦川の家の娘っこだというのはすぐにわかった。まあ、これは問題なく親に引き取られていったよ」 「……宇宙人が乗り移った、か!」  基は腕の時計を見た。いつの間にか芙由子と約束した時間を三十分も過ぎていた。 「しまった!」  基はあわてて立ち上がった。芙由子をつれてまたやってくると言って小屋の外へ走り出た。芙由子は待ちわびているにちがいない。基は息せききって走った。  ハワイ風の装飾をほどこした喫茶店の内部にはゆるやかなハワイアンのメロディーが流れていた。長いカウンターにいならんでいるのは常連たちとみえ、あかるい話し声がはずんでいる。 「おかしいな。どうしたんだろう?」  約束の時間はとうに過ぎてしまった。いま午後一時。  芙由子のことだからねばり強くくいさがっているのだろう。とうに飲みほしたコーヒーのカップを前に、基は大きなガラス窓の外の歩道に顔を向けつづけていた。そめたように青い空にトビが輪をかいて舞っている。海からの風にのって、羽をひろげたまま空中に停止したかと思うと、つぎの一瞬、|体《たい》をかたむけて急降下に移る。思いきり突込んでゆくその前方に、もう一羽のトビがこれはのんびりと羽を打ちふって上昇にかかっていた。  二羽のトビがもつれ合い、バランスを失って落ちかかったがすぐ飛び離れて一羽は高空へかけもどり、一羽はなにごともなかったようにふたたび上昇を始めた。高い空へ逃げたトビは、もう一度さか落としに突込みはじめる。狙われたトビはちょっと迷惑そうに方向を変えると家々の屋根に影を落として低空を銀色に光る海の方へ逃れていった。  ピーヒョロヒョロ。トビの鳴き声が分厚いガラス窓のむこうから聞こえてきた。基はトビがけんかをしているのかと思ったがどうもそうではないようだった。——上の方からちょっかいをかけたのはたぶんオスにちがいない。海の方へ逃げていったのはメスだろう。 「どうしたんだろう? 芙由子のやつ!」  急に心がはげしくいら立って基はじっとしていられなくなった。芙由子があちこち調べるのに手間取っているとすれば、三十分や四十分の遅刻を気にしてこの約束の場所を離れることはかえって新しい手ちがいをまねくおそれがある。しかし、もしいま芙由子の身の上に何か大きな危険が迫っているとしたら——  しかしそれとていったいどこをさがしたらよいのだろう。いつのまにか灰色の雲が空のなかばをおおい、家々の屋根やその背後の丘の稜線が暗くかげった。雲の間からもれた陽光が光の柱のように海を金色にそめていた。もうトビの姿もない。基はにわかにはげしい不安におそわれた。 「なにかおきたにちがいない!」  基は思わず腰を浮かせた。基のくちびるをついて出た声に、カウンターに向かっていた客たちが頭を回して基に視線を投げ、それから自分たちどうしで顔を見あわせて首をすくめた。  基はかねを払って店を出た。芙由子は浦川礼子のかつての同級生をさがし出して礼子の身辺に起こったできごとについて聞き出すことになっていた。だからこの丘の上の住宅街のどこかにいるはずだった。そう広くもない場所だ。さがすのは容易だろう。だが、約束のこの場所を離れてはいけない、という強い|抑《よく》|制《せい》もはたらいていた。 「ああ、どうしたらいいだろう!」  基はふたたび喫茶店へもどると、店の女の人に芙由子の|顔形《かおかたち》をのべて伝言をたのんだ。  基はさきほど見た、浦川礼子が住んでいた家の前へもどった。  芙由子の姿はどこにも見当たらない。基はくぐり戸を開いて門内へはいった。まえと同じように犬がはげしくほえだした。しかしこんどはかまわずに玄関に進んだ。ブザーを押すと二十歳ぐらいの若い女性があらわれた。 「あの……すみませんが、一時間ぐらい前に浦川礼子という人のことを聞きに中学生の女のやつ……ええと、女の子が来ませんでしたか?」  基の|唐《とう》|突《とつ》な質問に目を丸くしたが、すぐうなずいた。 「ええ、一時間ぐらいまえに見えられましたよ」 「どこかへ行くっていっていませんでしたか?」 「さあ。なんとも聞いていないわよ」  それ以上何をたずねることがあろう。基はあいさつもそこそこに退却した。 「きょうはなんだか妙なのがつぎつぎに来るわね。おかあさん! 門のかぎをしめておきましょうね!」  基の背後から声が飛んできた。すさまじい犬の声に追われながら、基は足ばやにそこを離れたが、もはや行くべきあてもなかった。 「よし、もうこうなったらしかたがない。一軒一軒のぞきこむつもりで歩くんだ」  海の方角からのびてくる道路と、それに直角に交差する道路が|碁《ご》|盤《ばん》の目のように規則的にはしっている街を、基は南から北へ、北から東へ、息を切らせて歩き回った。基の脚力ならくまなく歩きまわっても二時間とはかからない。しかしどの街路も家もしいんと静まりかえり、あやしい人影もないし、芙由子の悲鳴らしいものも聞こえてこない。 「いったいどうなってしまったんだろう?」  もしやと思って二回ほど喫茶店へもどってみたが、まったく現われないという。もう一度東四丁目五番地、礼子が住んでいた家の前まで行ってみたが、どう見てもこの家にあやしい点はないようだった。門のわきのガレージにはハードトップのマイカーと子ども用のスポーツ自転車。芝生の庭の一角には砂場があり、おもちゃの赤いバケツと怪獣がほうり出してある。基はまた喫茶店へもどった。芙由子は来ていなかった。  時計の針はもう午後四時に近い。空のなかばをおおった雲は、夕暮れがくるのをずっと早めているようだった。 「ああ、いったいどうしたらいいんだろう」  基は喫茶店に近い歩道のベンチに腰をおろして頭をかかえていた。このまま芙由子がゆくえ不明になってしまったら、いったい自分はどうしたらいいんだろう? 警察で徹底的に調べられるだろうし、そうなったらすべてがあからさまになる。五郎や北島たちの死も、浦川礼子や竹下清治に関する奇妙なうわさや事実。そしてふたりでこの七里が浜の町まで礼子や竹下の過去を求めてやってきたことも。だがそんなことはいい。むしろ警察が興味を持って調査してくれるなら、かえって大かんげいだ。問題はそんなことではない。  芙由子がゆくえ不明になったと知ったら、芙由子の両親はどんなに心配するだろうか。芙由子の両親になんといってわびたらよいだろうか。それを思うと心が鉄の|万《まん》|力《りき》でしめつけられるようだった。もうこれ以上ぐずぐずしていることはできない。基は立ち上がった。  そのときだった。一〇〇メートルほどむこうのアカシヤの並木道を足早やに遠去かってゆく一個の人影があった。「あっ! あれは……」その後姿は見まちがえるはずもなかった。「浦川礼子だ!」だが、どうして彼女がここに? 基は棒立ちになってその後姿を見送っていた。何秒かたって、基は急に夢からさめたようにわれにかえった。無意識に走り出していた。浦川礼子の姿は並木道のどこにもなかった。どこへ行ったのだろう? 基は犬のようにあえいで走ってはもどり、もどっては走った。幻だろうか? おれは夢を見たのだろうか? 基は歯をくいしばった。いや、そうじゃない。幻や夢じゃない。たしかに浦川礼子の姿だった。その浦川礼子がここにあらわれたとすると、芙由子がゆくえ不明になったこととつながりがあるにちがいない。基の背すじをつめたい汗がつたわった。  静かな住宅街は悪夢のような風景に一変していた。  基は公衆電話にとびこんだ。  電話機の奥から西田の声がとびついてきた。基が何も言わぬうちから西田は呼吸も荒くわめきたてた。 「電話がくるの待っていたんだ! こっちからは連絡がとれないしよ。落合くん。やられたよ。出しぬかれたよ! 竹下清治のやつ、おれの家からふといなくなっちまったんだ。おれ、やつをおれの家につれてきて昼めしも食わせて引きとめていたんだがな、便所へ行ってくるなんて言っておれの部屋から出ていってそのままどろんと消えちまいやがった。おれのおふくろも家から出てゆくのは気がつかなかったっていうんだ。やつはきっときみたちのあとを追って行ったにちがいない」 「西田! こっちもえらいことになった」 「まてよ。落合くん。まだあるんだ。浦川礼子もいなくなった。今、ここに松宮もいるんだが、松宮もうまくごまかされた。松宮にかわるよ」 「いいから! 西田! おれの言うことを聞いてくれ。椿さんが……椿さんがたいへんなことになった」 「どうしたんだよ? 落着いて話せ!」  持っている十円硬貨は数枚だった。基はしだいに上ずってくる自分の声を必死におさえつけて芙由子の姿が消えたことを告げた。 「来てくれ! 田島にも連絡して三人ともすぐ来てくれ!」  基はすがりつくようにさけんだ。  電話ボックスから出ると、空も海も赤く夕陽に染まっていた。     10 芙由子は消えた  基はさらに一軒一軒、家の中をのぞきこむように歩きまわった。たそがれどきのひとときはどの家もなぜかにぎやかだ。子どもの声やテレビの音。ステレオのひびき、浴槽に水をはる音。やがて終わろうとする一日の総決算の音なのだろう。  基はまるで夢遊病者のように歩きまわった。どこからか芙由子の悲鳴が聞こえてきはしないか、どこからか芙由子が走り出してきはしないか、基は耳をすませ、たえず四方に目をくばりながら歩いた。それがおそらくまったくむだな作業であろうことはよくわかっていたが、とてもじっとしてはいられなかった。  長い長い時間が過ぎた。もう陽はとっぷりと暮れて、都会では見られないようなたくさんの星が暗い空にかがやきはじめた。風はしだいにつめたくなってきた。昼間は聞こえなかった波の音が夜の|暗《くら》|闇《やみ》のむこうからごうごうとつたわってくる。  小さな電灯のついた江の電の七里が浜の駅は、取り残されたようにわびしく夜の汐風に吹きさらされていた。二両連結の電車の後部から三人の少年がホームにとびおりた。 「やあ!」 「おう!」  西田と松宮と田島だった。基はなみだが出るほどうれしかった。たったひとりで知らない町をさまよっていたみじめな気持ちが氷がとけるように消えていった。 「椿さんがいなくなったって?」 「手がかりはないのか?」  三人はこれまであまり見せたことのない真剣な表情でたずねた。基はこれまでの経過を手短かに説明しながら、ふたりを丘の上の住宅街にともなっていった。 「落合くん、おれ、椿さんの家へ寄って、きみからの電話の内容をそのままつたえておいた。椿さんのおかあさんが警察へ捜索願いを出すといっていた。椿さんのおとうさんや兄さんはあとからくる。八時にこのホームで落ち合うことになっている」  西田が汐風に乱れた髪をかき上げながらいった。 「五郎や北島のことも、浦川さんや竹下清治のことも警察が信用するかな? いくらこれまでの事情をくわしく話したって別に事実としての犯罪の証拠があるわけでもなし、椿さんのことにしたってゆうかいされたかもしれないというおそれはじゅうぶんにあるけれども、だれに? ということになると警察がなっとくしてくれるような相手じゃないものな……」  日ごろ、推理小説のファンである西田は深く眉根を寄せて息をはいた。 「西田、すると……」  小がらな松宮が背の高い西田をふりあおいだ。 「椿さんをさがすのには警察はたのみにならないということだ。そうだろう? 七里が浜へピクニックに行ったきり家へ帰って来ません、では警察としても|探《さが》しようもないものな」 「落合くん。どうする?」  松宮がコートの肩をすくめた。 「おれたちはおれたちでなんとかやるんだ」  基は歯をくいしばった。 「椿さんは、ねらわれていたんじゃねえだろうな」  松宮がだれもが考えていたことを口にした。 「やめろ!」  基は思わずさけんだ。五郎の死にはじまり、つづいて北島も生命をうばわれ、そして田島や基はあやういところで死のわなからのがれた。五人めの目標が芙由子だったとしても少しもふしぎではない。そしてその襲撃の日がきょうだったとしても……  基のひたいからつめたい汗が流れた。  手わけしてしらべたいところだが、このうえの危険をさけて四人ひと組で行動することにした。まず目標を、  一、芙由子は七里が浜の駅から電車に乗ったのではないだろうか?  二、住宅街から自動車に乗ったのではないだろうか?  このふたつの点にしぼった。一については江の電のホームの下に一軒の|八《や》|百《お》|屋《や》があった。低いホームだし垣根もへいもないので、ホームの上にいる人物は店先からはよく見える。しかし聞きこみは失敗だった。〈わりと美人でGパンにゆったりしたコートを着た中学生の女の子〉が電車に乗りませんでしたか? などと聞いても、まともなへんじがかえってくるはずがない。ダイコン一本買うわけではなし、なぐられないのがまだしもだった。二は、まったくだれにたずねようもなかった。 「ちくしょう! 警察だってここから手をつけはじめるにちがいないんだ」  中学生四人が聞いてまわるのと、警官が警察手帳を見せてまわるのとではまるで比較にならない。四人は駅のそばのラーメン屋で腹をみたした。 「おれは椿さんはまだここにいると思うんだ。どこかの家に監禁されているような気がするな」 「おれは電車や自動車には乗っていないと思うんだ。だってそうだろう。なにもほかの場所へつれ出す必要はないんだものな。五郎や北島がやられたときだってみろよ。やろうと思えばその場でばっさりやれるんだ。死体がねえところをみると生きているんだよ」  西田は明快な口調でいったが、基は耳をふさぎたくなった。ラーメン屋のおじさんがカウンターから顔をのぞかせた。 「なんだかぶっそうな話をしているねえ」 「あ、そうだ!」  田島がのび上がった。 「おじさん! こういう子、見なかった?」  田島は芙由子の服装や容貌などを説明した。 「さあ……ひとりか? ふたりか?」 「ひとりだよ」  そのとき、とつぜん、基の胸の奥底に電光のようにひらめいたものがあった。それは一瞬、基の心にしびれるような衝撃をあたえて消え去ったが、そのあとにやりきれない確信がなまりのように残った。基は首を横にふった。声が少しふるえた。 「ふたりだ。もうひとりは色が白くて髪はおさげだ」  西田と松宮と田島が声もなくからだをすくめた。 「ふたりづれの女の子か? そういえば、マルイチ建設の飯場に|出《で》|前《まえ》したとき、そんなの見たなあ」 「見た?」 「ひとりのことしかいわねえから思い出せなかったぜ。そうだよ! ふたりづれだよ。色の白いおさげと、海の方へ行ったぜ。なんだい? 死体がねえところを見ると生きているてえのは?」 「いや、なんでもないんだ。それよりおじさん、どのへんで見たの?」  二〇〇メートルほど離れた所に道路工事の飯場があり、その前を通って海岸沿いの自動車道路をわたり、波の打ちよせる七里が浜の長い長い砂浜の方へおりていったという。四人は残ったラーメンを息をもつがずに腹へ流しこむとかねをはらうのももどかしく外へとび出した。 「浦川礼子だ! 浦川礼子が芙由子をさそい出したんだ」  基の心臓ははり|裂《さ》けそうに鳴った。 「気に入らねえな! 気に入らねえぜ。浦川礼子があらわれたとなると、これは……ちくしょう! さっき松宮が言ったことがほんとうのことになりそうだぜ!」  基はうめいた。芙由子が姿を消してからすでに八時間にもなる。浦川礼子は芙由子を海岸へ連れ出し、それからどうしたのだろう? あたたかい日曜日の砂浜とはいえ、夏とはちがってそんなに人が出ているわけではない。 「人間ひとり、砂に埋めるには十五分もあればだいじょうぶだろうな」  田島がつぶやいた。 「なあ、催眠術にかけたやつを海の深い方へ向かってどんどん歩かせるというのはできるのかい?」 「催眠術というよりも、人間の心を自由にあやつることができるやつなら、可能だろうな」  西田と松宮の話を聞いているうちに基はたえられなくなってきた。 「やめろ! ふたりとも! まるで悪い方へ悪い方へと考えたがっているみたいじゃないか!」 「そういうわけではないが、落合くん、こいつは最悪の事態を考えておいたほうがいいかもしれねえよ」 「とにかく浜をさがそう」  四人は高いコンクリートの防波堤の階段をくだって砂浜へおりた。白い波が暗い砂浜にまぼろしの巨大な花のように開いた。波が荒い。汐がひきはじめているとみえ、砂の上にはまだ海水でぬれた海草がべったりとはりついていた。四人は暗い砂浜と海面に交互に目をそそぎながら砂を踏んでいった。 「これは?」  ふと松宮がからだをおって、砂の上に手をのばした。 「見ろ! これ!」  松宮の口から悲鳴ともうめきともつかぬ声がほとばしった。その手に砂にまみれたコートがあった。フードやボタンがわりのウキのような形の木製のとめ具に見おぼえがあった。 「芙由子のコートだ!」  その背中がするどい刃物で切り|裂《さ》いたように、二〇センチメートルほどの長さにななめに断ち割られていた。  四人は汐風に飛ぶ砂に目や鼻をおそわれながら、長い砂浜をあてどもなく探し回った。しかしどこにももう手がかりらしいものはなかった。西田はしきりに、砂が掘りかえされた跡がないかどうかさがしている。松宮は|夜《よ》|目《め》にも白い波におおわれた暗い海面に目をすえて何か浮いているものはないかと注意している。基はたまらなくなって必死に芙由子の名を呼んだ。呼んでいる間は、まだ芙由子がどこかで生きているにちがいないという気持ちがわいた。基の口の中は砂だらけになり、汐風でのどが傷つき声も出なくなった。 「落合くん。まもなく八時だ。椿さんの家の人たちがやって来る。七里が浜の駅へ行こう」  西田が基のひじをとらえた。基は芙由子の家族に顔を合わせるのがたまらなかった。何と言ったらよいのだろう? なぐられるかもしれない。なぐられるぐらいならまだよい。何と言ってわびたらよいのだろう。芙由子は両親や兄にそれはそれはかわいがられ、めぐまれた生活を送ってきた。もしこんなことで芙由子の生命が終わるものとしたら、芙由子の家族の嘆きはたとえようもないだろう。その責任はすべて基自身にあった。  暗い、ひとけのないホームに電車がすべりこんでくるのを、基は死刑の宣告を待つような気持ちで見つめた。人影がいくつかホームに降りた。そのあとから降りた一団の中に、芙由子の両親や兄の姿があった。 「おれのおやじもいっしょだ!」  基はうめいた。とうとう逃れられない一瞬がやってきた。 「すみません」  基は芙由子の両親の前に走り寄って深く頭をさげた。 「基! いったいどうしたんだ! わけを話してみろ」  基のおとうさんの声が基の耳をガン! と打った。もうかくしようがない。基はこれまでのことを口ごもりながら説明しはじめた。半分も話さぬうちに、 「もういい!」  基のおとうさんは声をふるわせてさけんだ。 「まったくすまないことです。このばかのために……」  そのときのおとうさんの顔を基はその後もながく忘れることができなかった。ハイキングに出かけてきて事故にあったとか、散歩に出かけてきてゆくえ不明になったなどというのだったらまだ頭のさげようもある。ところがあやしいまぼろしだの人の心を自由にあやつることができる奇妙な転校生だのと、そんなことでよその家の娘を危険におとしいれるなどと! 基のおとうさんの目はあきらかにそう言い、その顔はみじめにゆがんでいた。基のおとうさんは何度も深く頭をさげた。出先から帰ってそのままここへ来たのだろう。心の疲れだけではなく全身の疲労が頭をさげる動作にもありありとあらわれていた。 「ま、そんなことよりも、まず芙由子を探しましょう。基くんたちもたのむよ」  芙由子のおとうさんはかえって基のおとうさんをなぐさめるように言って、みなを押しやるように手をひろげた。いつもはのんびりしてほがらかな芙由子のおかあさんもうなだれたきり顔も上げない。 「|弘《ひろし》は加藤くんといっしょに駐在所へ行って警官にわけを話してくれ」  芙由子のおとうさんが芙由子の兄の大学生の弘と、ジャンパーを着た若い青年に指図した。芙由子の兄さんは寒そうに首をすくめて、青年と二人で出かけていった。芙由子の両親と基のおとうさん。それに基たちの七人はふたたび浜へ出た。  まもなく、白いヘルメットをかぶった警官がバイクに乗ってやって来た。芙由子のおとうさんは警官に“娘の芙由子が友だちとハイキングに来たのだが、はぐれて姿が見えなくなってしまった”と説明した。警官は基に向きなおってくどい質問をあびせかけた。まぶかにかぶったヘルメットの下から鋭い視線が基の全身に突きささってきた。 「……すると、きみたちはこの七里が浜周辺を見るのにわざわざ別々に行動したというわけか? なぜいっしょに歩こうとしなかったのかね?」  警官の声には強い疑いがこもっていた。 「それは……おれは山が切り開かれて住宅地になってゆくようすが見たかったし、芙由子さんは海を見たいというものだから……」 「それにしたって、きみ。ここはそう広くはない所だ。きみの見たい所を見てから海へ行くということもできたはずじゃないか?」 「……でも、結局、時間をきめて落ち合うことにして別々な行動をとったんだ」 「その子はほんとうに砂浜へ行ったのかね?」 「行ったよ」 「どうして行ったといえる? 砂浜にいるのを見たのかね?」 「いや。そうじゃないけれども」  警官の言葉はいよいよきびしくなった。 「ここへ来てから二人でけんかなどしなかったかね?」  基に対するつぎからつぎへの警官の質問に、たまりかねたように芙由子のおとうさんが割って入った。 「どうしたものでしょうかな? 波うちぎわを歩いていて波にさらわれたものとすれば、少し沖をさがすとかなんとか……」  警官は芙由子のおとうさんの言葉をさえぎった。 「どうかね? なかたがいするようなことはなかったかね?」 「ありませんよ! けんかなんてするわけがない!」  基は声をとがらせた。 「ちょっと。おまわりさん。まあ基くんの方に落度はないようだから、芙由子の捜索の方をひとつ」  芙由子のおとうさんがいらいらしたようすで言いつのった。それで警官も基に対するきびしい質問のほこをややゆるめたようだった。 「いや。この前もあったんですよ。アベックで鎌倉の史跡見学に来た学生が、途中でけんかをしましてね。ガール・フレンドを突きとばしたところがあいにくそこが防波堤だったものでその女の子が海に落ちましてね。男の方は落ちた所は砂だろうと思ってさっさと行ってしまったというんですがね。女の方は|溺《でき》|死《し》寸前で助けられたんですが、この頃の若い連中ときたら何をしでかすかわからないんだから!」  芙由子の両親はそれを聞いてなんともいえない表情で基を見た。基はあわててさけんだ。 「まさか! おれがそんなことをするものか!」  警官は芙由子の両親に、一応鎌倉警察署に捜索願いを出すようにと言った。 「この状況ではまだ何ともいえないので、夜のことではあるし、海面の捜索は|明《あ》|日《す》になったら漁業組合にも連絡してやってみましょう。パトロールにも連絡しておきます。それよりも、友だち関係を当たってみた方がよいと思いますよ。案外そっちの方に手がかりがあるんじゃないかな」  警官はそう言って芙由子の両親への連絡場所を手帳に書きとり、またバイクに乗って帰っていった。  もう午後十時を過ぎている。これ以上さがし回ってもどうにもならないので、芙由子の家族と基のおとうさんは近くのホテルへ泊まることになった。基たち四人は家へ帰るように言われてその場から追い立てられた。  おとなたちから解放されて四人は心の底からほっとした。 「さあ、これからほんとうの捜索だぞ!」 「いいか。今夜は徹夜のかくごだ」 「まず、どうする?」 「あのじいさんの所へもう一度行ってみよう。何かわかるはずだ」 「よし!」  四人は稲村が崎の貸ボート小屋へいそいだ。ボート小屋のとびらは固く閉ざされ、内部には誰もいなかった。 「じいさん家へ帰ったんだ」 「どこだろう? 家は?」  砂浜に沿ってはしる海岸道路をこえた向こう側にあるドライブインで聞いてみると、おじいさんの家は歩いて数分の山ぎわにあるということだった。教えられたとおり、山ぎわに沿って歩き、細い川についてせまい谷あいの道に入るとあかあかと電灯をともした家があった。人影があわただしく出たり入ったりしている。四人を追いぬいてその家へ入ってゆこうとするひとりの男があった。呼び止めてたずねるとそこが貸ボート屋のおじいさんの家だった。基はふと胸さわぎを感じた。 「何かあったんですか?」 「じいさん、死んだんだよ」 「死んだ? おじいさんが?」 「ああ」 「だって、ひる会ったとき元気だったよ」 「夕方になっても小屋から帰ってこないんで孫がむかえに行ったら小屋の中に倒れていたんだ。もうつめたくなっていたとよ。|脳卒中《のうそっちゅう》じゃねえかって話だ」  男は言い棄てて家の中へ姿を消した。四人は棒立ちになったままだった。 「三人目の犠牲者だ……」  しばらくして西田がつぶやいた。もしかしたら四人目かもしれなかった。しかし、そうは言いたくなかった。 「基くん。浦川礼子の姿を見たと言ったな。やつだ。きっとやつのしわざだ」 「そうでなければ竹下清治だ」  四人は背を丸め、黙々とせまい谷あいを後にした。戦いは今や|後《ご》|手《て》から後手へと回ってばかりいた。 「あのおじいさんが死んだとなると、もう竹下清治が浜で発見された時のことをおぼえている人はいなくなったわけか」 「いや、いる! 最初にかけつけたのはボート小屋のおじいさんと駐在所の熊谷巡査だといっていた」 「よし、その人だ」  四人は駐在所へいそいだ。  赤い電灯のともった駐在所には、さっきバイクでやって来た警官がひとり、寒そうにストーブにあたっていた。 「あの、熊谷さん、いますか?」 「おっ、さっきの四人だね。どうした?」 「ええ、まだ見つからないんですが。その……熊谷さんに会いたいんですが」 「熊谷さんに? どうして?」  警官はいぶかしそうに四人を見つめた。 「芙由子さんはその人のことを知っていたそうで、もしかしたら会いたくなって来たのではないかと思って」  基の口から駐在所へ来るまでの間に考えついたうそがすらすらと出た。ほんとうのことを言ったらまたどんなことになるかわからない。 「熊谷さんはいないよ」 「いない? どこかへ行ったんですか?」 「いや。熊谷さんは|亡《な》くなったよ」 「亡くなった?」 「去年の、五月だったかな。パトロール中に交通事故で亡くなったよ」  四人は|雷《かみなり》に打たれたように棒立ちになった。 「そんな!」 「私は熊谷さんの後任で来たんだよ」  四人は言葉もなく駐在所の前を離れた。 「ああ、それからその子はここへは来なかったよ」  警官の声を背に、四人は黙々と今来た道をもどった。 「最初の犠牲者だったんだ」  松宮がのどの奥から声をしぼり出した。 「去年の五月といえば、竹下清治が浜で発見された頃だ。本格的に警察が調べはじめるとやっかいだから口を封じたんだ」 「交通事故だなんて! くそ!」 「基くん。これで完全に当時のことを知っている者はいなくなったぜ。どうする?」 「こうなったらしかたがない。あの貸ボート屋のおじいさんの家へ行ってみよう。家族が何か知っているかもしれない」  せっかくたぐり寄せた糸はぷつんと切れてしまったのだ。誰かがその切れた糸の向こう端を持っているはずだ。その人をさがし出すのは極めて難かしいことだが、もはや残っている方法はそれしかなかった。     11 その罐は……  貸ボート屋のおじいさんの家は今夜は|通《つ》|夜《や》らしい。祭壇が設けられ、|読経《どきょう》の声が聞こえ、線香の匂いが庭まで流れ出てきた。四人は入口の土間へ入った。そこに陣取って酒を飲んでいる二、三人の青年たちに申し出ると、そのまま祭壇の前に案内された。集まっていた人たちは皆いちように見知らぬ少年たちに奇異のまなざしを向けた。四人は祭壇に飾られた白い|棺《ひつぎ》に手をあわせた。|焼香《しょうこう》を終わってふたたび土間へもどり、青年のひとりに誰か家族を呼んで来てほしいと言った。 「家族? 誰でもいいのか?」  青年は基たちを頭のてっぺんから爪先までじろじろとながめた。 「ええ。おれたち、あることを調べにおじいさんをたずねて来たんです。そうしたら亡くなっておられたので、もしかしたらおれたちの知りたいことを家族の人たちも知っているのではないかと思って……」 「誰でもいいっていうのなら。死んだのはおれのじいさんだよ」  青年は太い指で自分の胸を指した。 「そいつは助かった! じゃ教えてください……」 「どんなことだよ」  青年も興味を持ったらしい。不良っぽい荒々しい感じの青年だが根は親切らしい。 「去年、おじいさんが浜で助けたという男の子のことなんだけれど……」 「ああ。あいつか。おれんちに一週間ぐれえいたんだ」 「えっ! ここにいたんですか?」 「そうだよ。じいさんがつれてきたんだ。医者に見せても何でもねえって言うし、ただ、やつは頭がいかれているらしくて、自分の名前もおぼえていねえんだ」 「竹下清治っていうんだ」 「そいつは飯場の竹下っていう男が引き取りに来てわかったんだ。そいつの弟だってわけだ」 「ああ。そのことはおじいさんに聞いたよ」 「何が聞きてえんだ?」 「何かさがしているようなようすはなかった? 人とか物とかさ」 「何を聞いてもぽかんとしていやがったなあ、あいつ。飯場の竹下って男の顔だっておぼえていねえんだ。兄貴だっていうのによ」 「その竹下っていう人、ほんとうは兄貴じゃないらしいんだよ」 「なんだって?」 「兄貴っていうことにして連れていったらしいんだ」 「へえ! どうもおかしいと思っていたよ。兄貴じゃねえのか」 「弟ということにして竹下清治だなんて言ったんだよ」 「どうしてそんなことしたんだろうな。まてよ。もしかしたら飯場じゃ人手がたりねえんでそいつを連れていってはたらかせているのかもしれねえな。よくいるんだ。そういう労務者集めが! ふてえやつだ」  青年は勝手にそうきめてひとりで怒りはじめた。ほんとうのことを説明してもとても理解してくれそうにないからかえってその方がつごうがよい。 「おれたち、その竹下清治をさがしているんだよ。竹下清治はかわいそうに頭がちょっといかれているものだから、ひとりで電車に乗って遠出したまま迷子になっちまったんだ」  西田がまことしやかに言った。 「そうか。そいつは気の毒だ」 「それで、竹下清治は何かさがしているようなことを言っていなかった?」 「そうよなあ……妙なやつで。まあ頭がおかしいんじゃしょうがねえが、家へ来てからも、夜、昼かまわず家のまわりをうろうろしやがったり、浜へ出てすててあるジュースの罐なんかひろい集めてきやがったりしてな。薄気味の悪いやつだったぜ」  ジュースの罐を! ここでも罐だった。  基はさけび出したいのを必死にこらえた。切れた糸の端をふたたびつかんだような気がした。 「その罐をどうしたんだろう?」 「どうもしねえよ。なんか調べるようなふりをしてはまた片っ端からすてちまうのよ」 「罐か!」  青年がふと何か思い出したように声の調子を変えた。 「そうだ。罐といえば、おめえたちよ。こんなことがあったぜ。もう十年ぐらい前のことだ。おれがまだ中学一年の頃だ」  よほど印象に残っているらしい。青年の声は真剣だった。 「稲村が崎の洞窟の中によ、倒れている男がいたんだ」 「…………」 「どこの誰なのかもわからねえ。身なりのよくねえ若い男だった。救急車が来たときにはもう死んでいた。死因もわからずじまいだったんだが、心臓まひじゃねえかなんて警察じゃ言っていたな」 「…………」 「この男が妙な罐を持っていたんだ。そうだなあ、直径が五センチメートル、高さが三センチメートルぐらいだったかな」 「浦川礼子がさがしている罐もその大きさだ!」 「浦川礼子ってやつは知らねえが、その男が、つまりもう死体になっていたんだが、救急車で運ばれていってからそこに落ちていたのに気がついたんだ。ふたもなんにもねえ。罐というよりも鉄の|塊《かたまり》みてえにつぎ目もハンダのあともねえつるっとしたものよ。でも鉄じゃねえな。持った感じはやけに軽いんだ」 「その罐、どうしましたか?」 「警察じゃその罐のことなんか知らねえしよ。おれ、家へ持ってきてそのへんにころがしておいたんだが、いつの間にかなくなっちまったよ。くず屋にでも売っちまったんじゃねえかな。古いリヤカーだのこわれたテレビだのあき罐だのまとめて売ったから」 「基くん。その罐じゃないだろうか? 浦川礼子がさがしている罐は。そうだよ。きっとそうだよ!」  松宮の声がふるえた。それにしても十年も前のことなのだ。十年も前にくず屋に売られた一個の罐のゆくえなど、いったいどうやって知ることができるだろう? 浦川礼子も竹下清治もその罐をさがし求め、あてどもなく追いつづけているのだろうか?  家の中から青年を呼ぶ声がした。 「あの竹下清治ってやつ。洞窟の中で倒れていた男と何か関係があるんじゃねえのか?」  青年は家の中へもどろうとした。 「あ、もうひとつ聞きたいんだけれど。浦川礼子っていう女の子は知りませんか?」 「そんなやつは知らねえな」 「七里が浜に住んでいたんだけど、その稲村が崎の洞窟から人間が出てきたのを見てから頭がおかしくなったっていうんだ」 「じいさんだったら知っていたかもしれねえがおれは聞いてねえや。あの洞窟はいろんなうわさがあってよ。まぼろしを見たっていうやつもいるし、幽霊を見たっていうやつもいるし、何かあるんだぜ、ありゃ」  青年はジャンパーの肩をゆすると家の方へもどって行った。 「ありがとう。いろいろ参考になったよ」  基はかれの後ろ姿に礼を言って三人をうながして暗い道へ出た。 「あれだけ知っていてよくやられなかったものだ」  西田が深い息を吐いた。 「孫が知っているとは気がつかなかったんだろうよ」 「基くん。こうなったらその洞窟へ行ってみよう! 何かわかるかもしれない」 「行ってみよう。ただ心配しているよりはいい」  西田の声に力がこもった。 「ああ。それしかないな」  基もうなずいた。この事件のはじまりのようなものはうっすらとわかってきた。十年前、断崖の下の洞窟の中に倒れていたひとりの男。その男が持っていた一個の奇妙な罐。それはやがてくず屋の手にわたって失われ、そうして十年たって、ひとりの少女がその罐をさがしはじめた。その少女にはどうやら人間でないもの[#「人間でないもの」に傍点]がのり移っているようだ。さらにもうひとり、竹下清治という少年があらわれ、同じように行動しはじめた。かれはあきらかに少女——浦川礼子の行動を監視し、追跡している。その間に四人の人間が奇妙な死をとげていた。もしかしたらすでに五人になっているかもしれない。かれらが何を探し、何を求めようとも、それはかれらの間の問題だった。しかしそのために何人もの人間が生命を失うはめにおちいったとなると、それはもはやかれらの間だけの問題ではなかった。 「必ず結着をつけてやるぞ!」  基の胸にはげしい怒りがわき上がってきた。 「きっとかたきを取ってやるぞ!」  芙由子のかたきを! そう思ってからあわてて打ち消した。えんぎでもない。芙由子は絶対に死んではいない! 基は胸の奥底にわだかまるまっ黒な不安を必死に打ち消した。  強い風の|吐《と》|息《いき》の合間にも霧のような水滴が吹きつけてきた。汐しぶきとばかり思っていたが、どうやら雨が降り出したらしい。  ときたま海沿いにのびる観光道路を走ってゆく自動車のヘッドライトが、サーチライトのように長い光芒をひいて、一瞬暗い海面を浮き上がらせた。 「だれかいるぞ!」  とつぜん松宮が、暗黒の砂浜のむこうを指さしてさけんだ。 「え? どこに?」 「ほら! あそこだ!」  基は懐中電灯の光をふり向けた。  しかしどこにも人影など見当たらなかった。 「だれもいないぜ」 「いや。たしかにいた。あれは……あれは竹下清治だ!」 「なんだと?」 「でも、おれにはそんな人影なんかぜんぜん見えなかったよ」 「竹下清治だ。ぜったいに竹下清治だ」  松宮は自信をこめて言いはった。しかし基と西田と田島は人影などまったく見ていない。西田は松宮が指さした方向へ走って行ったが、すぐもどってきた。 「だれもいないぜ。そんなに早く海岸道路までは行けないし、まさか海へとびこむわけはないものな」 「いや、おれはたしかに見たんだ」  四人はいちようにからだのしんからつめたくなるようなぶきみな思いに閉ざされた。実際に目に見えても見えなくても、竹下清治がここにあらわれる可能性はじゅうぶんにあった。浦川礼子も、基も芙由子も、西田や松宮、田島も、こんどの事件に関係のある人物はすべてここに集まっていた。あとひとり、竹下清治がやってくれば役者はぜんぶそろうのだ。その竹下清治があらわれないほうがむしろふしぎなのだ。 「みんな。ゆだんするなよ。はじまるぜ、いよいよ」 「おれたちはずっと見張られているような気がするよ」  松宮が不安そうに周囲を見回した。 「おれが三人を呼んだのも、やつらの思うつぼだったのかもしれない。いまならやつらのことを知っている人間を、ぜんぶひとまとめにやっつけることができるものな」  基が吐きすてるように言った。 「考えようによっては、そうするように落合くんがあやつられたのかもしれないぜ」  田島が言った。その言葉が基の胸に強いショックをあたえた。もしかしたら、しらずしらずのあいだに浦川礼子や竹下清治によってあやつられているのかもしれなかった。そのとき、ふいに基ははげしい目まいに襲われた。思わず手をのばして松宮のうでにとりすがろうとしたが、松宮も全身の力をぬいて基にもたれかかってきた。二人はもつれ合って砂の上に倒れた。「おい!どうしたんだ。しっかりしろよ!」西田の声が遠い所から聞こえた。 「さあ、みんな。小屋へ行こう」貸ボート屋のおじいさんの声に四人はわれにかえってあとにしたがった。  石油ストーブのほのおがあかるくかがやき、小屋の中の空気があたたまってくると、それまで四人の心を重苦しく塗りこめていた不安や恐怖はみるみる薄れ、消えていった。  おじいさんのひたいやほおにストーブの火が赤くゆらめいた。 「ああ! なにか起こりそうな夜だぜ。胸さわぎがするっていうのかな。おめえたちの話を聞いたせいかもな。みんなもようくあったまりなよ。そして何か起こるまでここで待つんだ」 「何か起こるまで?」おじいさんは深くうなずいた。 「ああ、じっと待つんだ。おめえたちがうろうろしたってどうなるもんでもねえ。いいな。こんな夜はさっさと家へ帰ってふとんの中へもぐりこむのがいちばんだが、おめえたちを残して帰るわけにもいかねえし」  近所に家があるらしい。 「いいよ。おじいさん、おれたちだけでだいじょうぶだ。冷えるとからだに毒だよ。家へ帰ってくれよ」松宮がいった。 「そうかい、それじゃそうさしてもらうか。なんせ、年だしな」  おじいさんはのそりと腰を上げた。 「いいか。おめえたち。外へ出るなよ」  おじいさんは太い息を吐くと、ガラス戸をあけて砂浜へ出ていった。 「おい! こんな所で何をやっているんだ!」  おそろしい目つきで四人をにらみすえた。 「ここのおじいさんが使っていいと言ったんだ。さっきまでここにいたんだよ。寒いからと言って家に帰った」 「そうだよ。だまって使っていたわけじゃないよ。おじいさんが入れてくれたんだ」  男は基のえり首をつかんでずるずると引きずり上げた。 「しっかりしろ! 何を言っているんだ」 「ほんとうだったら! おじいさんがストーブまでつけてくれたんだ」 「おい! 目をさませ! ここは砂浜だぞ。こんな所にひと晩いたらこごえ死んじまうぞ!」  男は基のほおにぱんぱんと平手打ちをくわせた。その痛みに基ははっとわれにかえった。 「こ、ここは!」  まっ暗な砂浜につめたい波と風が荒れ狂っていた。ボート小屋の影も形もない。 「でも、おれたち、ストーブに……」 「どこにストーブがついてるよ! おめえたち、きつねにでもつままれたんじゃねえのか!」  ごうごうとくだける波の音が、四人の心を現実に引きもどした。もとよりストーブなどどこにもない。それがあると思っていた場所を中心に、四人が円陣を作って砂の上に腰をおろし、何もない空間に両手をかざしていたのだ。 「幻覚だったんだ!」  四人は頭をかかえた。 「あれ!」  四人の周囲にはつめたい波と風と吹き飛ぶ砂のほかには何もなかった。四人をたたき起こし、幻覚から引きもどしてくれた人物の姿もどこにもなかった。 「おい! 今の人、どこへ行ったんだろう」 「あれもおれたちの幻覚だったんだろうか?」  四人は茫然と顔を見合わせた。あぶない所だった。もし、あのまま明日の朝まで砂の上にうずくまっていたらどうなったかわからない。 「おれたちに対する攻撃だ! ひとまとめにしてここでやっつけようとしたんだ」  西田の声がかすれた。 「それにしてもあぶなかったな。でも、助けられた幻覚まで見るなんてわれながらごていねいな話だ」  田島が苦く笑った。 「幽霊に助けられたみたいだな」 「まいったなあ! 幽霊を見たような気がしたよ」  西田も松宮も田島も快調な口調をよそおいながら、その声はわなわなとはげしくふるえていた。三人にとってはこの事件の本質的な部分ともいえる幻想的な恐怖にはじめてぶつかったのだ。 「ああ、おれ、なんだか吐きそうだよ」  松宮が砂の上にうずくまった。 「落合くんが病院で浦川礼子の姿を見た、と言ったろう。でもおれ、ほんとうは信用できなかったんだ。いまは信用しているよ」  西田がうめくように言った。 「しっかりしろよ」  基は松宮を抱き起こした。 「あれはおれたちがかってに作り出した幻覚だったのだろうか?」  どう考えてもわからない謎だった。ただひとつ言えることは、どうやら幻覚にしろ、まぼろしのような存在にしろ、四人の活動を助けるために、あらわれてきたような気がすることだった。 「そうだよ。きっとそうだよ。何者か、おれたちに味方するやつが、おれたちに教えたんだ」  田島は目をかがやかせた。松宮も西田もうなずいた。基もたぶんそうだろうと思った。     12 決戦、そして人間でないもの  洞窟の天井の高さは三メートル。深さは十メートルもあるだろうか。太平洋戦争の時に海軍が作った洞窟陣地だという。入口近くまで波は寄せてはくるが、洞窟の内部までは入ってはこない。  頭上には、稲村が崎の断崖がくろぐろとそびえていた。時計はすでに午前二時を指していた。洞窟はそれほど深くはないが、行き止まりのせいか風も汐も吹きこまない。洞窟の入口近くまで押し寄せる波の音は、洞窟の内部にごうごうとひびいていた。洞窟の入口近い内部の岩のくぼみで四人は息をこらしていた。いったいこれから何が始まるのか、四人には想像もつかなかった。ここまで、吸い寄せられるように来てしまった。この事件に関心を持っている者たちを|抹《まっ》|殺《さつ》するにはいまよりいいときはないだろう。 〈おれや芙由子はあやつられたのかもしれない。七里が浜へ調査に行こうなんて考えついたのも、いわばまったくとつぜんだったし、ふたりともすでにきまっていたことのように、しぜんに打ち合わせて出かけてしまったのだ〉  基の背中を氷のようにつめたいものがはしった。松宮と田島はそっと手近な石をひろい上げた。武器にするつもりらしい。西田はハンカチをこぶしに巻きつけた。メリケン代りだろう。基はズボンのベルトをぐいと引きぬいた。ズボンは腰のところでぴったりしまっているからベルトをぬき取っても落ちるようなことはない。基はバックルを握りしめると、ベルトを力いっぱい打ちふった。湿った空気を切り裂いてベルトはひゅうひゅうと鳴った。最初に笑い出したのは基だった。笑いはたちまち西田や松宮にも伝染した。 「石っころやベルトが役に立つのかなあ。相手はえたいもしれぬ超自然的存在なんだぜ」  基はどさりと腰をおろした。 「こうと知ったら、熱線銃でも研究しておくんだったなあ」 「変身できたらいいな」  西田と松宮は情なさそうにひざをかかえた。しかしその笑いが思いがけず四人の心やからだの緊張をときほぐしてくれた。さっきまではともすれば際限もなくのめりこんでゆきそうだった恐怖が、何だかすうっと遠ざかって、洞窟の中の暗闇や目の前の荒海や、自分たちをとらえている不安や恐怖をやや|他《ひ》|人《と》|事《ごと》のようにながめられるようになった。 「くそ! 出てきやがれ!」  基は洞窟の外の真夜中の荒海にむかってさけんだ。  そのときだった。  とつぜん、洞窟の中の暗闇が染めたようなあざやかな青に変わった。現実のものとは思われないその光の中に、壁面の無数のくぼみや突出が複雑なかげを浮かべて基の目に|灼《や》きついた。  洞窟の突き当たりの一枚岩の|岩《がん》|盤《ばん》の前に、まぼろしのような人影があらわれた。基は岩の床を蹴ってはね起きた。人影は急速に顔形や服装をあきらかにして、青い光の中に進み出た。 「浦川礼子!」  基はさけんだが、声は自分の耳にも聞こえなかった。歯がガチガチと鳴っていたが、止めようとしても止まらなかった。  ふだんはおさげにしている長い髪が、海草のように腰まで流れていた。  切れ長の美しい目がまばたきもせずに基を見つめていた。 「とうとうやって来たわね」  礼子のやわらかいうるんだ声が、とどろく波の音にも消されず、基の耳にとどいた。 「やっぱりわなだったんだな!」  基は岩の壁を背にしてくちびるをかみしめた。 「かえしてほしいの。あの罐」  礼子の声にはつきないうらみと悲しみがこめられていた。 「だから言ったじゃねえか! おれはそんな罐なんか知らねえって!」 「あなたにとっては何の役にもたたないものよ。意地悪をしないでかえしてちょうだい」 「意地悪だって! 冗談じゃねえや! 知らねえものは知らねえんだ」  礼子は静かに首をふった。 「落合さん。見て」  礼子が小さく右手をふった。 「あっ! 芙由子」  礼子の立っている所から二メートルほど離れた空間が円形にスポット・ライトでも当てたかのように自然の色彩をおびてあかるく浮き上がった。その中央に芙由子が顔をおおってうずくまっていた。 「芙由子! おれだ! いまたすけてやるぞ!」  基は背を丸めて突進した。青い光の中で礼子がほおをゆがめて笑ったようだった。基は岩盤の床にうずくまっている芙由子のからだにおおいかぶさるように手をのばした。 「痛ててて!」  基の両手もからだも、目の前にうずくまっている芙由子のからだを通りぬけて、床の岩盤に力いっぱい激突した。一瞬、基は気が遠くなった。 「落合さん。どうしてもあの罐をかえしてくれないなら、芙由子さんも永久にこのままの状態になってしまうわよ」 「くそっ!」  基ははね起きてもう一度、芙由子のからだにつかみかかった。こんども同じだった。 「落合さん。芙由子さんはそのとおりここにいるのよ。でも、あなたたちの世界とはちがう所にいるものだから、さわろうとしてもだめなのよ」 「ひきょうだぞ! きさま。おれはそんな罐なんか、ほんとうに知らないんだ。うそじゃない。それを芙由子をゆうかいしてまでおどし取ろうというのか。切り裂いたコートまで棄てておいて、おれをおどかしやがって!」  礼子の白い顔は、青い光の中でまったく血の気を失って見えた。 「落合さん。私のさがし求めているものが、私にとってだいじな物だということをわかってちょうだい。それに私にとってはもうあまり時間は残されていないんです」  礼子の顔には、ある決意がはっきりと浮かんでいた。 「落合さん。私はそれを手に入れることができないかぎり、私自身の努力を証明するために芙由子さんを連れてゆかなければならないわ」 「かってなことを言うな!」  基は全身の血が音を立てて逆流したような気がした。基は手にした皮のベルトを大きくふり回すと力いっぱい礼子にたたきつけた。  びゅう! 空気が引き裂け、疾風のように鋭く鳴ると皮ベルトは横ざまに礼子のからだを襲った。 「あっ!」  基の打撃はむなしくちゅうを打ち、基はふたたび肩から転倒した。しまった! 基は夢中でからだを起こした。周囲も目の中も、あらしのように飛び交う青い光で完全に閉ざされていた。基は手の皮ベルトを二度、三度とふり回した。どこに礼子がいるのか見さだめもつかなかった。つめたい汗が目に流れこみ、目をあけていることもできなくなった。  基は岩盤を背に火のような息を吐いた。心臓がのどからとび出しそうに高鳴っていた。おそらくこれが最後の攻撃になるだろう。基は手の皮ベルトを握りしめた。その皮ベルトはすでに先端の三分の一ほどがぼろぼろにちぎれていた。  見えない目で礼子の立っている位置をさぐり、全身の力を右手にこめて打ちこんだ。ビシッ! 皮ベルトの残っている部分が引きちぎれ、基の手には金属のバックルだけが残った。  基は自分が立っているのか横になっているのか、それとも空中に浮いているのかもはっきりしなかった。  目のくらむような光の波紋が渦巻いて飛び交い、鼻や口から肺の中までも飛びこんできて息をつまらせた。手も足も|鉛《なまり》のように重く、ほんのわずかも動かすことができなかった。  基は残っている力をふりしぼって手にしたバックルを投げつけようとした。 〈まて! それを投げてはいけない!〉  ふいに頭の中に氷の|錐《きり》を刺しこまれたように鋭く冷たいものが走った。それは|頭《ず》|蓋《がい》の中で|炸《さく》|裂《れつ》してひとつの言葉になった。 「投げてはいけない? なんのことだ?」  基はうめいた。 〈そのバックルを投げてはいけない!〉  ふたたび何ものかがさけんだ。基のうでは動きかけたまま|凝固《ぎょうこ》し、筋肉だけがはげしくけいれんした。基はその痛みに悲鳴を上げた。目の前に竹下清治が立っていた。  竹下清治はふだんと少しも変わらない顔で基に近づいてきた。右手を大きくふり上げたままの基に近づくと、清治はその基のうでに軽く手をふれてうでをおろさせて、基が握りしめている指を一本一本ときほぐしてバックルを自分の手におさめた。 「竹下! 竹下じゃないか!」  基は声をふりしぼった。 「竹下。そ、そのバックルを、ど、どうするんだ?」  竹下清治はいつもとまったく変わらない顔で軽くうなずいた。 「おれもさがしていたのさ」 「なんだって?」  一瞬、すさまじい|閃《せん》|光《こう》がはしった。基は眼底に|灼熱《しゃくねつ》の鉄片を押し当てられたような熱い痛みを感じた。基は両手でまぶたを押さえて、くずおれた。完全に視力を失ったまぶたの裏に、おそろしい緊張をはらんでむかい合った竹下清治と浦川礼子の姿がくっきりと映った。ふたりは永い永い間の仇敵のようににらみ合った。 〈…………!〉 〈…………!〉 〈…………!〉  浦川礼子の表情がはげしく動いた。くちびるが引きつったようにふるえた。基に背を向けている竹下清治の表情はうかがうことはできなかったが、その後ろ姿に力がこもった。ふたりはなにかはげしく言い争っているらしい。しかし基の耳にはふたりの声はまったく聞こえてこなかった。  とつぜん、礼子の姿がちゅうにおどった。暗赤色の光の輪が生きているもののように収縮し、竹下清治のからだを押しつつんだ。竹下清治もはげしく動いていた。白熱の火花が吹雪のように飛び散り、電光が巨大な|投《と》|網《あみ》のように開いて空間を押しつつんだ。竹下清治も浦川礼子も完全に実体を失い、ふたりの激突する意思だけが閃光や電撃となってぶつかり合った。  洞窟は波のようにゆれ、絶え間なく震える天井や壁から大きな岩塊がガラガラと落ちてきた。ふたりが同時に何かさけんだようだった。ふたたび、うろこ形の電光が網のように開いてすべてのものを押しつつんだ。そのとき、何か目に見えない異質なものの気配が電光のように洞窟の入口から外へ飛び去ってゆくのを感じた。礼子の悲鳴が基の鼓膜をつらぬいた。  とつぜん、周囲はもとの暗闇にかえった。 「竹下清治! おまえは浦川礼子とどんな関係があるんだ? 小さな罐だの、ベルトのバックルだの……芙由子をかえせ! ちくしょう!」  自分を除外したところで何か非常に重大なことがおこなわれているらしいことが感じられたが、それがいったいどのようなことなのか、まったく理解できないのがたまらなくもどかしく、不安だった。 「きさまら、やっぱりぐるだったんだな!」 「落合くん。事情は説明できない。説明したところでとうてい理解できないだろうし、信ずることもできないだろう」  とつぜん、竹下清治の声が基の耳に流れこんできた。その声に向かって基は手さぐりでにじり寄った。 「竹下清治! 言え!」 「落合くん。きみは十年前に、この浜で小さな罐を持った男が死んでいた、という話を聞いたはずだ。その男の持っていた罐はそれ自体がひとつのある報告書になっていた」 「報告書?」 「何の報告書であるか、などということはきみたちにはまったく関係ないことだ。これはわれわれだけの問題なのだ」  声は基の聞きなれた竹下清治のものだったが、口調とその言葉にひそむひびきはまったく別のものだった。 「われわれ、だって? おまえはだれなんだ?」 「それを説明しているひまはない。この地球の生物ではない、とだけ言っておこう。ぼくは長い間、この報告書をさがしつづけていたのだ」 「おれはそんな罐なんか知らない!」 「落合くん。浦川礼子は罐をさがしていた。だが、その罐はそれを持っていた男の手から離れて間もなく、くず屋の手に渡った。そしてたくさんのくず鉄といっしょに|炉《ろ》でとかされ、再生されて新しい金属になってふたたび世に出た。しかし、われわれは報告書をある合金の分子の配列によってつづった。その分子の配列は、この地球上のいかなる方法を使っても変えられないのだ。いったんとかされ、いなおされて形は変わっても、その合金の性質は少しもそこなわれずにもとの報告書を|形造《かたちづく》っているのだ。それが、落合くん。このきみのベルトのバックルなのさ」 「おれのベルトのバックル?」 「浦川礼子はそれに気がつかなかった。もっとも、ぼくもほんの少し前に気がついたのだが」 「浦川礼子は何者だ?」 「われわれとは別な理由でこの報告書を手に入れたがっていた仲間の一員だ」 「あの浦川礼子は……人間じゃなかったのか!」基ははげしいめまいに襲われた。 「いや。浦川礼子はきみと同じ、人類、そう、きみたちの間ではホモ・サピエンスと言うんだったな。しかし、かの女のからだを借りていたものはちがうぜ」 「竹下清治、きみも人間のからだを借りているのか?」  竹下清治はかすかに笑ったようだった。 「ぼくは最初からこのからだでやってきたのさ。浜に打ちあげられた記憶喪失の少年として、地球人の社会にまぎれこみ、浦川礼子のからだを借りているもののあとを追っていたんだ」 「北島や五郎の死も、きみたちの戦いと関係があったのか?」 「残念ながら、ぼくにはどうすることもできなかった。きみや芙由子さんを助けるぐらいがぼくに許されていることだった。浦川礼子、いや浦川礼子のからだを借りていたあいつはぼくに追われていることを知り、きみたちにぼくに対する疑いを持たせようとしていろいろ、わなを仕組んだ。テストのとき、ぼくがうしろからのぞきこんだなんて思わせたり、秘密をしゃべったから殺すなどとおどかされたと思いこませたりしてね」 「はじめからおれたちに、相談してくれればよかったんだ」 「そうもいかなかったよ。地球人は自分たちの知識の範囲外のことは、おそろしくかたくなに認めようとしないからね。だからぼくはずいぶん苦労したよ。いろいろな人たちの心をあやつって、中学へはいったり、学校の保証人になってもらったりしてさ」  竹下清治の声には想い出がこめられているようだった。 「さあ、そろそろ行かなければ」 「きみは行くのか!」 「ああ。ぼくにはまだ大きな仕事が残っているんだ。この報告書をとどけなければならないし、逃げたやつを追うという仕事が」 「竹下! きみと友達になれないのか?」 「落合くん。ぼくは二度ときみに会うことはできないだろう。これまでの友情を感謝するぜ」  ふと、声がとぎれた。 「竹下! 竹下! 竹下清治!」  基の声が洞窟の内部に、わわあああん、と反響した。その自分の声に基は、はっ、とわれにかえった。  洞窟の中には夜明けの|薄明《うすあかり》がただよい、灰色の空の下で、なまり色の海が白い牙をむき出していた。くだけた波がひいて、ほんのわずかの間、海の静けさがよみがえってくると、岩の間を吹きぬける汐風の音が高く低く口笛のように聞こえてきた。  基はひざをついてからだを起こした。自分の左右に、西田と松宮と田島がひざをかかえて背を丸めていた。深く頭を垂れ、苦しそうに寝息をたてていた。そのむこう、洞窟の突き当たりの岩壁の下に、芙由子と礼子がおり重なるように倒れていた。 「芙由子!」  基は芙由子を抱き起こした。芙由子は焦点の定まらぬ目で基を見つめた。 「浦川さん! しっかりしろ!」  基は浦川礼子の上体をかかえ起こして強くゆさぶった。礼子は低くうめいて目を開き、うつろなまなざしを洞窟の内部や外の薄暗い夜明けの海に投げた。ふいに礼子は立ち上がった。 「ここ、どこ? あら! 落合さんじゃないの! どうして私、こんな所にいるの?」礼子は悲鳴に近い声でさけんだ。 「落ち着け! わけはだんだんに話す」 「おしえて! 私、家にいたはずなのに、どうしてこんな所にいるの?」  その声に西田と松宮と田島がようやく目をさましあわてて立ち上がった。 「ど、どうした! 落合くん。おれ、いつの間にか眠っちまった!」 「みんな。安心してくれ。もう、ぜんぶ終わった」  芙由子が乱れた髪の間から不安そうに礼子をうかがった。 「もうだいじょうぶだよ。浦川さんをあやつっていたやつはもうここにはいない。おれたちには想像もつかない、どこかへ行ってしまった」  礼子は身をふるわせて芙由子にすがりついた。 「芙由子さん! 私をあやつっていたって、なんのこと?」  芙由子はやさしく礼子の肩を抱いた。 「なんでもないのよ。さ、帰りましょう。あとで落合くんがゆっくり話してくれるわ」  西田がけげんそうにたずねた。 「たしか、ここに竹下清治が来たような気がしたんだけど……おれ、夢、見たのかな……」 「竹下清治は行ってしまったよ。遠くへ。|明日《あ し た》でも追っていったんだろう。たぶん」  基は波のくだけるひびきにじっと耳をすませた。夜明けの薄明の中に見知らぬ世界へ向かって遠く去っていった竹下清治が、むしょうになつかしかった。     あとがきにかえて  最近、世界各地から「空飛ぶ円盤」があらわれたというニュースがつたわってきます。宇宙人を見たという人もいるそうです。ほんとうのことでしょうか? 面白半分にそんなことを言いふらしているだけだ、という人もいます。もしかしたらそうかもしれません。でも、百ある話のうち、千ある話のうち、もしたったひとつだけでもほんとうの話がまじっていたらどうでしょう? 事実、これはうたがいようもなくほんとうの話だと思われるニュースもあるのです。ことによったら、案外、私たちの身近に宇宙人があらわれたりしているかもしれません。私たちがそれに気がつかないでいるのかもしれません。  私自身の経験をひとつお話しましょう。  昭和十九年。私は中学二年生でした。その頃、日本はアメリカと大きな戦争をしていて、それも日ましに旗色が悪く、その年の末近くなるとアメリカのB29という大きな爆撃機が百機、百五十機という編隊で東京や大阪などを爆撃しにやってくるようになっていました。そんなある日、私のクラスに転校生が入ってきました。無口な全く目立たない少年でした。かれが何という名前だったか、ふしぎなことに私は全くおぼえていないのです。当時の同級生だった連中に聞いても私と同じようにおぼえていません。誰に聞いても“何ていったっけなあ”とか“どうしても思い出せないよ!”というばかりです。どうもただ忘れてしまったというのではなく、記憶の中のかれの名前の部分だけがまるでインク消しで消したようにポッカリとぬけているのです。  それはまるで誰かが心の中に入ってきてそっとそうしてしまったかのようなぐあいです。どうもふしぎです。ですから今はかれの名をかりにAとよんでおきます。しだいに空襲がはげしくなるにつれて、|疎《そ》|開《かい》といって東京から地方へ引越してゆく人が多くなり、私のクラスももう半分ぐらいにへっている時でしたから、そんな時にわざわざ東京の学校へ移ってくるというのも妙な話です。でもその頃の私たちにはそんなことをふしぎに思う気もちもまだなかったのです。  ある日、私はクラスの何かの用事でAの家へ行きました。おどろいたことにはAの家の中はからっぽで家具ひとつないのです。空襲のはげしい時でしたからどの家でも家の中のふすまや|障子《しょうじ》などの燃えやすい物はすべてとりはずし、家具なども不必要なものは外へ出しておくのが当り前でしたからそれは別にどうということはないのですが、そのAの家の状態は全くあき家と同じなのです。台所にはなべも茶わんもガスこんろもないのです。ただ、たたみが敷いてあるというだけの家でした。電球さえないのです。がらんとした家の中にあるものといえば、ただ壁にぶらさがったかれの帽子とカバンだけです。ふすまのはずされたおしいれの中もからっぽでふとん一枚入っていません。十一月の末でしたからかなり寒く、がらんどうの全く火の気のない薄暗い部屋で何を話したのかもうおぼえていませんが私は二十分ぐらいAと話をしました。ちょっと話がとぎれると、住む者もない家のような異様な静けさがしいんと私の胸に迫ってくるようでした。あきらかにこの家には、かれのほかに住む者はいないのです[#「かれのほかに住む者はいないのです」に傍点]。  そのときでした。とつぜん一人の少女が部屋の中へ入ってきたのです。少女は奇妙なことに乳母車を押していました。かの女はたいへん美しい顔をしていました。年齢は十三、四歳でしょうか、黒い上着と黒いモンペ(その頃は女の人たちは活動しやすいようにズボンとかゆったりしたズボンのすそをひもでくくったモンペというものをはいていました)姿で、部屋へ入ってくるとだまってAの顔を見つめていました。(その少女が押していたのがほんとうに乳母車であったのかどうか、実は私は自信がないのです。直観的にそう思っただけで実際はそんな形をした他のなにか[#「なにか」に傍点]であったのかもしれません。それに部屋の中で乳母車を押しているというのも変です)  Aは急に立ち上り、私にもうじき警戒警報(敵機が来るというしらせ)が出るから早く帰った方がよいと言いました。私は少しぼんやりしていました。私は目の前にあらわれ出た少女が信じられなかったのです。その家には今の今までAと私のほかは誰もいないことはわかっていました。それにその少女はとなりの部屋との境い目のしきいを越えてこちらの部屋へ入ってきたのですが、そのしきいから向うではたしかに見えませんでした。こちらの部屋へ入ったところで、ぱっと私の目に見えたとしか考えられませんでした。すべての考えが止ってしまったような私に、Aは早口に、 「今日この家に爆弾が落ちる。もしかしたらぼくは学校をやめることになるかもしれないから、明日、ぼくが学校へ行かなかったら先生にそう言ってくれよ」  と言いました。私はそのわけをたずねましたが、Aはひどく時間を気にしているようで私の問いにはこたえず、私を押し出すようにしてさよならと言いました。  私はたいへん心にひっかかるものを抱きながら自転車で家にむかいましたが、Aの言ったように、私がまだ家に帰り着かないうちに警報が出ました。その日の爆撃はとくにはげしく私の家の近所にも大きな爆弾が何発も落ちました。空襲が終るか終らぬうちに気になっていた私はさっそくAの家へ自転車を走らせました。  Aが言ったように、かれの家は爆弾によって完全に破壊され、くずれ落ちていました。ただちに警察や警防団の手でAの家の残骸が掘り起され、遺体の収容がはじめられました。しかし、どうしたことかAの遺体はどこからもあらわれませんでした。家のこわれかたから見て、Aの体がばらばらになって遠くへ飛び散ったとは考えられません。それに爆弾が落ちるほんの数秒前、縁側に立っているAを近所の人が見ているのです。爆弾が落ちる前にどこか遠くへ逃げていたとも思えないのです。それきりAの姿は私たちの前から完全に消えてしまったのです。となり近所の家でも、Aの家庭のことについては何ひとつ知らず、長くあき家だったその家に一週間ぐらい前から見馴れない少年が出入りしているな、と思っていたそうです。もちろんあの少女のことなど全く知りません。警察でもその家が爆撃によって破壊されたことも、その家にいた少年がゆくえ不明になってしまったことも、結局どこへ知らせることもできず、やがて連日連夜のはげしい爆撃の中でその記憶さえ急速に薄れてしまったのです。私の通っていた学校も空襲で焼け、すべての記録も書類も灰になり、担任だった先生も東京を離れ、今では誰にたずねることもできない謎になってしまいました。  いったいあの少年は何者だったのでしょう? なぜ爆弾が命中することを知っていたのでしょう? そしてあの少女は? なぜ家の中で乳母車などを押していたのでしょう? くずれ落ちた家の下から出てくるはずの二人の死体もなく、あれきり二人は永久にどこかへ消えてしまったようです。  今ではそのふきんはにぎやかな街になり、大きなマンションやスナックなどが建っています。Aの家がどこにあったのかもわからなくなりました。私はAの顔はもう忘れかかっていますがあの少女の美しい顔だけはまだはっきりおぼえています。ほんとうにあの二人はいったいどこへ消えてしまったのでしょう?  私は時々思うのです。もしかしたらあの二人はまだ中学生で、どこかの中学校にもぐりこんでいるのではないだろうか? と。私たちには想像もつかないなにかの理由か目的で。  それはもしかしたらあなたの学校かもしれず、あなたのクラスの誰かかもしれません。 [#地から2字上げ]光瀬 龍 |明《あ》|日《す》への|追《つい》|跡《せき》  |光瀬龍《みつせりゅう》 平成14年6月14日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Ryu MITSUSE 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『明日への追跡』昭和51年4月30日初版発行             昭和57年1月30日 9 版発行