光瀬 龍 所《ところ》は何処《いずこ》、水師営《すいしえい》   SF〈西郷隆盛と日露戦争〉 明治十年二月十日。東京日日新聞付録。  道路の説なれども、去る八日の夜に鹿児島の私学校の生徒が二百人ばかり、不意に県庁へ押し寄せたりければ、宿直の官員は暫《しば》らくの間防ぎたれども、身に寸鉄を帯《おび》ず、私学校党は悉《ことごと》く刀剣《とうけん》を携《たずさ》へて撃入《うちい》りたることなれば防ぐに術《すべ》なく、即死怪我人《そくしけがにん》等も有りて、終《つい》に暴徒の為《ため》に乗り取られたりと言へども、是《これ》は全くの付会《ふかい》の説ならんと思はる、併《しか》し猶《なお》よく探訪して、確報を得ば記すべし。○また同県の士族は、本城を根拠《こんきよ》となし、国境の口々へ出て要害を固め、内外の旅人も一切通行を許さずと言へり。 明治十年二月二十日。東京日日新聞。  鹿児島県の暴徒も最《も》はや反跡《はんせき》を顕《あら》はし、兵器を携《たずさ》へて熊本県へ乱入したる由《よし》にて終に征討《せいとう》の大令を仰出《おおせいだ》され、昨日左のお達し有りたり。 官院省使東京府  鹿児島県下暴徒兵器ヲ携ヘ、熊本県下ヘ乱入反跡|顕然《けんぜん》ニ付征討 |被 仰 出《おおせいだされ》、有栖川二品《ありすがわにほん》親王へ征討|総督《そうとく》 |被 仰 付《おおせつけられ》 候《そうろう》 旨《むね》、本日|行在所《あんざいしよ》ヨリ電報|有之《これあり》候条、此旨《このむね》 為心得《こころえのため》 相達候事。  但《ただし》本文暴徒各地方ヘ遁逃《とんとう》候|哉《や》モ |難 計《はかりがたき》 ニ付、管内|取締《とりしまり》ノ儀《ぎ》同所ニ於《おい》テ使府県ヘ|被 相 達《あいたつせられ》候旨ニ候事   明治十年二月十九日      右大臣 岩倉具視《いわくらともみ》 明治十年二月二十四日。東京|曙《あけぼの》新聞。  賊兵《ぞくへい》今日熊本近く進む、鎮台兵《ちんだいへい》は厳重に籠城《ろうじよう》せり、市中人家昨日より七分焼けたり。(右二月二十二日午後三時三十分|久留米《くるめ》発信)○鹿児島|賊徒《ぞくと》肥後国堺《ひごくにざかい》より二手に分れ、一手は本道より一手は間道《かんどう》より進み八代《やつしろ》にて一に合す。○昨二十一日午前十一時熊本城下にて開戦、其後《そのご》の模様分らず。(右二件長崎より二月二十二日午後六時二十五分発信) 明治十年二月二十八日。東京日日新聞。  熊本城に嬰守《えいしゆ》せる軍勢は、司令長官|谷《たに》少将、参謀《さんぼう》長 |樺山中佐《かばやまちゆうさ》、参謀|児玉少佐《こだましようさ》、歩兵十三連隊、砲兵《ほうへい》第六大隊二小隊(大砲《たいほう》八十二門)この外に工兵一小隊半にて、総員三千余人にて是《これ》に綿貫《わたぬき》少警視が引率したる警部|巡査《じゆんさ》が七百余人なり。尤《もつと》も熊本城は始《はじめ》より籠城《ろうじよう》の軍略に決し、米塩など十分に用意したれば三、四十日籠城の兵糧《ひようろう》には差支なき由。 明治十年三月二日。東京日日新聞。  行在所《あんざいしよ》達第四号〔各官庁へ〕鹿児島県へ左|之《の》通相達候条為 |心 得 此 旨《こころえのためこのむね》 相達候事。   明治十年二月 廿《にじゆう》 五日      太政《だじよう》大臣 三条実美《さんじようさねとみ》 鹿児島県  其県士族陸軍大将正三位|西郷隆盛《さいごうたかもり》、陸軍少将正五位|桐野利秋《きりのとしあき》、陸軍少将正五位|篠原国幹《しのはらくにもと》徒党ヲ集合シ、悖乱《はいらん》ノ挙動ニ及《および》候ニ付、官位|被褫《はがれ》候条、此旨《このむね》相達候事。 明治十年三月二十日。東京|曙《あけぼの》新聞。  十五日午前五時|田原坂《たばるざか》の賊正面|右翼《うよく》より襲来《しゆうらい》す。正面の賊は一時の激戦《げきせん》にて打払《うちはら》ひたれども、右翼の賊のために一の砲塁《ほうるい》を奪《うば》はれ、午後五時再びこれを復し、また午後七時|頃《ごろ》より正面の賊数百名|抜刀《ばつとう》にて我|胸壁内《きようへきない》に進入す、頗《すこぶ》る苦戦、一時間を経て賊|大抵《たいてい》討死し遁《のが》るるもの僅《わずか》に数名のみ本日賊の死傷実に巨多《きよた》、全く死もの狂《ぐる》ひの景状なり。故にますます備へを厳にして即時進撃《そくじしんげき》の覚悟《かくご》なり。(去る十六日午後十一時久留米発電報) 明治十年四月四日。郵便報知新聞。  戦地直報第七回、犬養毅《いぬかいつよし》郵送。○前報に田原坂の樹木《じゆもく》は一|丈毎《じようご》とに銃丸《じゆうがん》を打ち込まざるはなしと記したるが、官兵の費消する数を聞くに、田原|二俣《ふたまた》等の戦には、一日|概数《がいすう》 廿《にじゆう》 五万発(スナイドル銃)に下《く》だらず、其《そ》の尤も多き日は 卅《さんじゆう》 五万発より四十万発に及《およ》び、大砲《たいほう》は十二門にて千発以上を打発《うちはつ》したりと。  ○廿日《はつか》の役に獲《え》たる賊《ぞく》の会計部が所持する手帳(一中隊だけの手帳と思はる)に、三月十二日|頃《ごろ》には人力車賃一里に付十銭を与《あた》へ、十五、六日に至りては八銭、十八、九日は山鹿《やまが》より植木|迄《まで》五里程の道程にて僅《わず》かに十銭を与へしと記しありたり、是《こ》れにても賊徒が金穀《きんこく》に乏《とぼ》しきを知るに足らん。 明治十年四月六日。郵便報知新聞。  戦地直報第九回。犬養毅郵送。○昨今|田原坂《たばるざか》は死屍爛臭《ししらんしゆう》の気鼻を撲《う》ち、掩《おお》はざれば頭脳へ迄薫《までくん》じ一歩も進み難き程なり。 明治十年五月三十一日。東京日日新聞。  卅《さんじゆう》 日熊本より電報。昨 廿《にじゆう》 九日午前第三時より竹田|攻撃《こうげき》、賊嶮《ぞくけん》に拠《よ》り防戦、我が軍|猛烈《もうれつ》にして賊|遂《つい》に守る能《あた》はず、器械|弾薬死骸《だんやくしがい》を捨て走る。時に第七時なり。賊ヲガタ街道を指《さし》て逃《のが》る。攻撃|偵察《ていさつ》を出し之《これ》を尾撃《びげき》す。 明治十年七月二十八日。東京日日新聞。  西郷隆盛は曩《さき》に熊本を囲み、川尻《かわじり》に在《あ》りし時に早くも軍機の熟せざりしを察して屠腹《とふく》せんとせしを、桐野利秋が固くこれを止めしに依《よ》りて漸《よう》やく思ひ止《とどま》りしが、其後《そのの》ちも度々《たびたび》屠腹せんとする気色《けわい》あるゆゑ、若《も》しや去《さ》る事のありては大変なりとて、西郷の傍《かたわら》には常に六、七人の屈竟《くつきよう》なる隊員を付け置きて看護せしむるよし西海新聞に見えたり。 明治十年九月七日。東京日日新聞。  鹿児島へ襲来《しゆうらい》せし賊兵は、昨今|城山《しろやま》の元私学校辺に屯集《とんしゆう》せし趣《おもむき》、昨日午前鹿児島河村より其筋《そのすじ》へ電報ありたるよし。 明治十年九月二十五日。東京日日新聞。  九月 廿《にじゆう》 四日午前十時十分着、鹿児島|東伏見《ひがしふしみ》少将よりの電報に、今朝四時我手一中隊諸旅団と共に攻撃《こうげき》し、四時半我手城山に登る、賊《ぞく》大敗五時すぎ諸口|砲声止《ほうせいや》む。最後の一戦思ひしより易《やす》し。手負《ておい》八、九名|即死《そくし》なし委細は跡《あと》より。(右同日午前八時二十五分|田《た》ノ浦《うら》発)。○同日午前九時三十分田ノ浦発同十時五十分着、鹿児島県官石丸より、小石川砲兵本廠《こいしかわほうへいほんしよう》第一課への電報(伊藤工部卿《いとうこうぶきよう》より御届けに相成る)に、只今《ただいま》賊の根拠《こんきよ》を陥《おとしい》れ西郷、桐野、村田《むらた》戦死せり。 明治十年九月二十六日。郵便報知新聞。  第六十八号。○九州地方賊徒平定候 趣《おもむき》、本月二十四日|征討総督《せいとうそうとく》 二品熾仁《にほんたるひと》親王ヨリ電報ヲ以テ奏聞|有之《これあり》候条|此旨《このむね》布告候事。明治十年九月二十五日、太政大臣三条実美。     1  十一月も終りに近い頃《ころ》の初雪が根雪になり、そのまま十二月に入って東京の町々は白|皚々《がいがい》たる雪景色になった。  あわただしく年の瀬《せ》が迫《せま》って、いつもの年のように雪を見ながら煤掃《すすは》きがおこなわれ、鳶《とび》の若い衆連中が雪を掻《か》いて門松を立てて回った。残った仕事に追い立てられるように、番頭や小僧《こぞう》が頭も肩《かた》も眉《まゆ》も雪で真白にして小走りに行き交《か》った。その吐《は》く息が陸蒸気《おかじようき》の湯気のように荒々《あらあら》しかった。  今年もあと一日というその大晦日《おおみそか》、朝のうち、今日はいくらか寒さがゆるんだかと思っていたら、午頃《ひるごろ》からにわかに強い南風が吹き出した。  屋根の上に二尺ばかり積っていた雪がどさりどさりと落ち出し、家の北側の吹き溜《だま》りが融《と》けはじめ、たちまちあたり一帯が泥田《どろた》になった。  隠居《いんきよ》は炬燵《こたつ》から這《は》い出し、物売りは頬被《ほおかぶ》りを取って汗《あせ》をぬぐった。 「これで正月が来れば、こりゃあ言うことはねえや。だいいち炭はいらねえ、綿入れもいらねえ。湯なんかわかさねえでも、水飲んですむわな」  裏長屋では、これこそ天の恵《めぐ》みと喜び合った。  だが、古老たちはひとしく首を傾《かし》げた。 「こんな大晦日《おおみそか》なんて。おめえ、あるもんじゃねえ。まるで四月の陽気じゃねえか。なんか悪《わる》いことでも起きなきゃいいが」 「おう。火の用心はしっかりやんなよ。子供は外へ出すな。今日は大晦日だから早く戸締《とじま》りをするわけにもいくめえが、用が終ったら早く戸締りをしちまいな」 「雪のあとのこの陽気だ。こんな時には地震《じしん》が心配《しんぺえ》だよ。大晦日だから早寝《はやね》する奴《やつ》もいめえが、|元 朝 詣《がんちようまいり》もちょっとべえひかえて気いつけてろやい」  気温はぐんぐん上り、夕方|頃《ごろ》には頭上をおおっていた厚い雪雲も北へ流れ去って、血のような紅《あか》い夕映《ゆうば》えが東京の空を染めた。  上野の山も、千代田の城も、麻布《あざぶ》、青山へんの山々もみな紅《あか》く燃えていた。その夕映えを背景に、遠く近くの寺院の大屋根や町々の火見櫓《ひのみやぐら》がくっきりと浮かび上って見えた。  真紅《しんく》の夕焼けは、時に紫紺《しこん》や黄金色を交え、業火《ごうか》のようにはためき、展張した。その多彩《たさい》な色彩《しきさい》の中に、車軸《しやじく》の如《ごと》く旋転《せんてん》する幾《いく》十条もの光があった。  人々は顔を見合わせ、不安なまなざしを交し合ったが、すぐ、あと数時間しか残されていない今年の、その大晦日のあわただしさの中に引きもどされ、呑《の》みこまれてゆくのだった。  やがて、東の空からせり上ってきた夜の闇《やみ》が、さしもの鮮烈《せんれつ》な夕映えを西の彼方《かなた》に追いやると、西南の空低く、青白い、大きな星が輝《かが》やいているのが望見された。  それは、どの星よりも光り輝やいていた。天狼星《シリウス》の三倍も四倍も明るいその星が、いつ頃《ごろ》からあらわれたのか、誰《だれ》も知らなかった。九月頃からだという者もあれば、いや夜桜《よざくら》を見に行った時にはすでに光っていたという者もいた。  誰《だれ》いうとなく、その星は不吉な星だとされ、天変地異の兆《きざ》しといわれるようになった。やがてその星は戦乱の予兆を告げる『将軍星』だとされ、今では誰もが、その星を『西郷星』と呼ぶようになった。  明治五年。征韓論《せいかんろん》に敗《やぶ》れた西郷隆盛が野《や》に下ると、かねてから西郷に私淑《ししゆく》していた者たちは官を辞し、職を抛《なげう》ち、続々と鹿児島へ下った。  三百年の長きにわたって君臨した徳川幕府を崩壊《ほうかい》させ、明治の新政府をうち建てた薩長《さつちよう》勢力だったが、位人臣《くらいじんしん》を極めた元勲《げんくん》たちとは別に、薩摩《さつま》出身でも時流に乗れなかったり、むくわれるところ甚《はなは》だ薄《うす》かった者たちは多勢いた。軽輩《けいはい》連中は特にそうだったといえる。一陽来復とばかりに郷党の先輩《せんぱい》を頼《たよ》って一家をあげて東京へ上ってきてはみたものの、予想していたことや約束《やくそく》されていたこととははなはだ異なった処遇《しよぐう》に失望する者も多かった。それがさまざまな悲喜劇を生んだ。今さら鹿児島へ帰ることができない者たちにとって、それははげしい怒《いか》りに変った。  志が得られず、官を辞して郷里へ引揚げる西郷の姿は屈辱《くつじよく》と失意のおのれとひとつに重なるものであった。加えて西郷の人柄《ひとがら》の魅力《みりよく》が、彼らの心を大きくつかんでいた。  西郷は故郷鹿児島へ帰ると、郷党の若者を集めて私学校を作った。私学校は歩兵学校と砲兵《ほうへい》学校を合わせたようなもので、有力な軍事学校だった。  西郷の人気と薩摩壮丁《さつまそうてい》の尖鋭《せんえい》的な闘志《とうし》は、時の大久保《おおくぼ》政府を不安のどん底に陥《おとしい》れた。遠く九州から伝わってくる噂《うわさ》は、大動乱の兆しを示すものばかりだった。  西郷が攻《せ》めて来るぞ。  西郷がまた攻めて来るぞ。  東京の市民にとっては、いつの間にか日本全土を討幕の渦《うず》にわき立たせて、あっというまに錦旗《きんき》のもとに大江戸《おおえど》を開城させた西郷の名は、まさに悪夢《あくむ》の存在であった。  その西郷が、ふたたび東京を占領《せんりよう》するためにやって来る!  この前は勝海舟《かつかいしゆう》の努力のたまものとかで、江戸が灰になることだけはまぬがれたが、今度は西郷の相手は大久保|利通《としみち》であり、彼に対しては西郷ももはや容赦《ようしや》はしないであろうと思われた。  西郷の人気は、東京の人々の間でも絶大なものだったが、薩摩の人間どうしの仲違《なかたが》いで東京の人間がとばっちりを受けるのはがまんがならなかった。  人々は不安の中で、事態の推移を見つめていた。  夜毎、『西郷星』は人々の目に、その明るさを増しつつあった。  三原市之進《みはらいちのしん》は、軒下《のきした》から七輪《しちりん》を引きずり出すと粗朶《そだ》を折って突込《つつこ》んだ。粗朶は湿《しめ》っていて、やたらに煙《けむり》ばかり立って手こずらせたが、やがてぱっと火がついた。  土鍋《どなべ》をのせた。ふっとうするのを待って、わずかに残っていた黒|味噌《みそ》を溶《と》かしこんだ。  それから足元の手ぬぐいの包みをほどくと、八寸ほどもある緋鯉《ひごい》があらわれた。泥《どろ》だらけなのを、ざっと洗って丸のまま土鍋《どなべ》にほうりこんだ。  昼間、屋根の雪おろしに頼《たの》まれて行った本郷《ほんごう》のある屋敷《やしき》の泉水からくすねてきたものだった。この暖かさで雪おろしの必要はなくなり、入るはずの日当が入らなくなったのは痛手だったが、そのかわり、手に入れた鯉《こい》は、何日ぶりかでぜいたくな菜《さい》を味わわせてくれることになった。  土鍋のふたを取ると、薄《うす》い味噌汁《みそしる》の中で、鯉は生きているように旋転《せんてん》していた。  釜《かま》の中で凍《こお》りついたように固くなっている朝の残り飯を丼《どんぶり》に掻《か》き移し、それに熱い汁をぶっかけた。  市之進はがつがつと食った。煮崩《にくず》れた鯉を頭から尾の端《はし》まで、骨ごと噛《か》みしめた。久しぶりの魚の味が、五臓六|腑《ぷ》に沁《し》みわたるようだった。口の中の骨を、土間にぷっぷっと吐《は》き散らした。 「ああ、美味《うま》い」  なみだが出るようだった。  足音が長屋の間の路地へ入ってきた。気にも止めずにいると、その足音が市之進の住《すま》いの前で止った。 「三原さん。帰っているかね」  油障子の外で聞き馴《な》れた声がした。  警視庁|邏卒《らそつ》の加藤谷権十郎《かとうやごんじゆうろう》だった。  市之進は思わず土間に吐《は》き散らした鯉の小骨に目を走らせた。  加藤谷は第三大区と聞いていた。本郷とは方角が違《ちが》う。鯉|泥棒《どろぼう》が発覚したとしても、彼が逮捕《たいほ》にやって来るはずはなかった。この上野|御徒町《おかちまち》の裏長屋|界隈《かいわい》を受持っているのは元|黒羽藩士《くろばねはんし》だという老人だった。  立って行って障子をあけると、制服だが手ぶらの加藤谷の大きな黒い影《かげ》が入口をふさいでいた。勤務中はいつも手にしたり小脇《こわき》にかいこんでいる六尺棒がないということは、召捕《めしと》りに来たのではないということだった。 「妙《みよう》な大晦日《おおみそか》じゃ。貧乏人《びんぼうにん》にはこたえられんが、これで寒さがぶり返してきたら、その時は大変だぞ」 「おぬし。そんなことをわざわざ言いにきたのか」  加藤谷権十郎は旧|会津藩士《あいづはんし》で、その頃《ころ》はたがいに口をきいたこともない間柄《あいだがら》だったが、ある時、偶然《ぐうぜん》に町で顔を合わせ、それ以来、加藤谷は懐《なつか》しがって何くれとなく市之進の面倒《めんどう》を見てきた。 「三原さん。これを見てくれ。いや。灯《あか》りがなくては今見るわけにはいかんな。明日、明るくなったら読んでくれ」  加藤谷は、制服のポケットから一枚の紙を取り出し、音を立ててひろげた。 「なんだ? それは」 「警視庁では、こんど警官隊を大募集《だいぼしゆう》することになった。大募集といっても、十|把《ぱ》ひとからげの、誰《だれ》でもよいというものではない。特に剣客《けんきやく》。野《や》にひそむ一流の手練《てだ》れを募集するのだ」  加藤谷の言葉には異様な熱がこもっていた。 「なぜだ?」 「三原さん。これは大きな声では言えないが、上の方では、薩摩《さつま》との一戦は避《さ》けられぬと見ているようだ。熊本には谷干城《たにたてき》少将のひきいる熊本|鎮台《ちんだい》がひかえてはいるが、もし戦端《せんたん》が開かれるとなると、鎮台の精兵とはいえ、悲しいかな百姓《ひやくしよう》町人からなる徴集《ちようしゆう》兵士だ。私学校党の精鋭《せいえい》や示現流《じげんりゆう》の達人が雲の如く群がる薩摩隼人《さつまはやと》には歯が立つまい。そこで警視|総監《そうかん》川路《かわじ》閣下においては剣《けん》を把《と》っては自信のある旧各藩《かくはん》の剣客《けんきやく》たちを特別な警官隊として組織し、薩摩を打破らんとの計略を立てられた」 「おぬしも行くのか?」 「わしも行くことになるだろう。だが、わしはその特別の警官隊には入ることはできない。わしの腕《うで》はおぬしも知っていよう」  加藤谷権十郎は、旧会津藩では勘定方《かんじようかた》下役として物産|吟味方《ぎんみかた》助役をつとめていた。特産物に明るい商工事務官といったところだった。 「三原さん。その警官隊は、やがて抜刀隊《ばつとうたい》と名づけられるらしい。いかにも剣客の隊らしいではないか。三原さん。ぜひ、あんたにこれに加わってほしい」 「抜刀隊か。名だけは勇ましい」 「三原さん。実は川路閣下も内々でおっしゃっておられる。会津の剣客《けんきやく》にとっては、絶好の復讐《ふくしゆう》の機会ではないか、と。三原さん。あんたは一刀流の使い手だ。わしらに代って会津の復讐をとげてくれ」 「会津の復讐か」  二人の間に沈黙《ちんもく》がきた。  加藤谷権十郎が十|石《こく》三人|扶持《ぶち》の軽輩《けいはい》なら、市之進もまた八石二人扶持の御土居番《おどいばん》と呼ばれる警護番士だった。大小をたばさんではいるが、正式には脇差《わきざし》一本に六尺棒といういでたちで、城内のあちこちで警備の見張りに立っている。  江戸開城を肯《がえん》じなかった東北|諸藩《しよはん》は同盟を結んで薩長軍《さつちようぐん》との決戦にのり出した。  奥羽越《おううえつ》を戦場にした戊辰《ぼしん》の役《えき》は最後に会津の地に鉄火の洪水《こうずい》となってなだれこんだ。  会津は焦土《しようど》と化し、会津の武士たちの屍《かばね》は山となり、血は流れて河となった。少年も娘《むすめ》たちも白刃《はくじん》を取り、数をたのむ異境の兵に蹂躙《じゆうりん》されていった。武士たちばかりでなく、町人や百姓《ひやくしよう》たちも戦火の中に傷つき家族や財産を失う者もその数が知れなかった。  官軍を相手に、これほど烈《はげ》しく戦った藩《はん》は他になかった。会津藩が徳川家の、当時最も有力な親藩《しんぱん》であったというだけではなく、急変する政治情勢に対する抵抗《ていこう》が、会津人の胸にあったからでもあろう。昨日までは、親藩だの譜代《ふだい》だのといっていながら、薩長《さつちよう》の側に与《くみ》するを有利とみるや、たちまち掌《てのひら》を返したように勤王討幕をとなえる諸藩の、ただただ保身だけを考える退嬰《たいえい》的な行動が耐《た》えられなかった。それは京都守護の任を負い、蛤御門《はまぐりごもん》の戦いなどで、時代の動きに直接|接触《せつしよく》してきた会津武士たちの、流血の犠牲《ぎせい》によって得た政治哲学でもあり、姿勢でもあった。のっぴきならない情況《じようきよう》の中で、選択《せんたく》を許されない決着でもあり、決意であった。  その結果は悲惨《ひさん》であり、戊辰《ぼしん》の役《えき》後、生き残った会津|藩士《はんし》四千余名は、朝敵の名の下に、遠く下北《しもきた》の地へ送られた。斗南《となみ》藩と名を変えた彼らの、流離《りゆうり》の生活は苦難を極めた。会津の地は豊饒《ほうじよう》である。下北の地は寒風と塩気を含《ふく》んだ砂地と、丈《たけ》の低い樹木以外は何もなかった。  それでも、市之進や権十郎はその苦難からまぬがれることができた。  彼らの如《ごと》き微禄《びろく》ともいえないような軽輩《けいはい》は、窮乏覚悟《きゆうぼうかくご》の斗南藩《となみはん》からは、藩士《はんし》として認めてもらえず、参加するには及《およ》ばない、という達しを受けたからであった。一人でも藩士を減らそうとする苦肉の策であると同時に、朝敵の汚名《おめい》から逃《のが》れて、好きな所へ行って少しでも楽に暮《くら》せたら、という温情があったのであろう。  市之進も権十郎もすでに東京と名を変えた江戸へ出てきた。  この間まで幕府のお膝元《ひざもと》だっただけにさすがに東京では、会津出身だからといって朝敵呼ばわりする者はいなかった。だが、新政府に勤めるのは、極めて難かしかった。およそ官とつながりのある会社や大商店、学校なども、体《てい》よく断わられた。会津出身者でも、お構いなしといわれたのは兵士と警官だけだった。一年ほど学校の小使を勤めたあげく、権十郎は東京警視庁の警官、といっても最下級の邏卒《らそつ》に応募《おうぼ》し、採用された。その給料は、一人の生活もまかない難いほど安いものだった。  だが警官の制服を身につけているだけで、その何倍もの袖《そで》の下が入ってきた。それが、五百人の邏卒の生活を実質的に支えているのだった。 「三原さん。わしなぞ、もう会津の魂《たましい》など腐《くさ》ってどこかへ行ってしまったよ。わしには会津の復讐《ふくしゆう》を口にする資格もない」  権十郎は口ごもった。 「そんなことはない。加藤谷さん。おたがいに、口には出せない苦労をなめてきたんだ。信ずるところを行えばいい」  権十郎は老母や女房《にようぼう》子供をかかえている。薩長《さつちよう》の新政府に尻尾《しつぽ》を振《ふ》ってその警備人を勤めていたとしても、誰《だれ》がそれを責めることができるだろうか。 「加藤谷さん。こうしている間も、時代はどんどん移ろってゆくのさ。今さら、昔《むかし》のことにこだわっていたとて、どうなるものでもない」 「三原さん。あんたは戊辰《ぼしん》の復讐《ふくしゆう》はする気がないと」 「加藤谷さん。わしはあの日|女房《にようぼう》と子供を失ってしまった。官軍の弾丸《だんがん》にやられたのか、それとも会津の弾丸だったのか、会津が悲惨《ひさん》な目にあったのは官軍によってだから戊辰の復讐でも何でもいいだろうさ。だが、わしの女房や子供の生命を奪《うば》ったのは誰《だれ》なんだ? わしは誰に復讐すればいいのだ? それもこれもひっくるめて戊辰の復讐というには、わしはもう疲《つか》れたよ。なんだか、もう遠い夢《ゆめ》だったような気がする。城下の町々が焼ける煙《けむり》や斬《き》り合いの響《ひび》きが、この間までまぶたの裏や耳の底にきざみつけられていたのに、なぜか、この四、五日、すっかり消えてしまった。加藤谷さん。わしはもう会津という言葉から、その言葉の意味するものから、解き放してもらいたいのだよ」 「三原さん。それはいかん。それは違《ちが》う。あんたは、いや、わしらはどこにいても、何をしていても会津|者《もん》なんじゃ。たとえ、微禄者《びろくもの》の軽輩《けいはい》でも、会津の武士ではないか」  加藤谷は声をふりしぼった。  その時、路地をはさんだ向いの長屋の窓が開いた。 「おう。会津だか薩摩《さつま》だか知らねえが、どっか、ほかへ行ってやってくんねえか。おれたちゃあ、元日だろうが何だろうが、夜が明けたら稼《かせ》ぎに行かなきゃなんねえ貧乏人《びんぼうにん》なんだぜ。やかましくて眠《ねむ》れやしねえ」 「なにっ!」  権十郎が気息を荒《あ》らげた。市之進はその腕《うで》をつかんで引きもどした。 「加藤谷さん。警視隊のことは考えておく。明日、返事をする。何しろ、ここはこういう所だ。すまないが、今夜はこのくらいにしてくれ」  加藤谷権十郎は、募集《ぼしゆう》の広告を置くと、黙々《もくもく》と帰っていった。  ひさしから落ちる雪融《ゆきど》けの滴《しずく》が、夜の闇《やみ》の中に間断なく聞えていた。  まるで春の宵《よい》のような、なまあたたかい風が路地を吹き抜《ぬ》けていった。  灯油を買うかねなどあったこともないし、いつもはもう寝《ね》るしかないのだが、今夜はなぜか頭は冴《さ》えきってとても眠《ねむ》れそうもなかった。  市之進は足駄《あしだ》を突《つ》っかけると外へ出た。  長屋でも、一、二|軒《けん》は灯をともしている所があり、障子にほんのりと灯影《ほかげ》が動いていた。世間|並《なみ》に年が越《こ》せるのであろう。  こわれた木戸を通って表通りへ出た。  屋号を書いた提灯《ちようちん》が幾《いく》つも通って行く。かけ取りに急ぐ商人たちであろう。  道端《みちばた》の稲荷《いなり》の祠《ほこら》の石垣《いしがき》に、わずかに雪が融《と》け残っていた。それをすくって口に入れると、ほこり臭《くさ》い冷たさが舌にしみた。言い知れぬ悲哀《ひあい》が胸にひろがった。 「…………!」  声にならない裂帛《れつぱく》の気合いをほとばしらせ、市之進は腰《こし》をひねった。右手がひるがえると、目に見えない抜《ぬ》き打ちが、夜の闇《やみ》を切り裂《さ》いた。     2  昨日の夜から降り出した雨は、今朝になってから激《はげ》しい風さえ加えて、滝《たき》のように田原坂《たばるざか》の草野を打ちたたいた。  風がどよめいて吹き渡《わた》ってゆくと、雨脚《あまあし》は白い水幕となってひるがえった。その水幕を衝《つ》いて、怒号《どごう》や喚声《かんせい》や、白刃《はくじん》のからみ合う歯の浮くような響《ひび》きが交錯《こうさく》した。とつぜん、そのいっさいを掻《か》き消すように、小銃《しようじゆう》の一斉射撃《いつせいしやげき》の轟音《ごうおん》が天地をゆさぶった。その響きが消えたあとには天地の間にはただ雨と風の音しかない。だが、それもつかの間、地の底から湧《わ》き起るような吶喊《とつかん》の雄《お》たけびがふたたび風と雨の音を呑《の》みこんでしまう。馬のいななき。斬《き》られた者の絶叫《ぜつきよう》。罵声《ばせい》、怒声《どせい》、悲鳴が渦巻《うずま》く。  三原市之進は大刀を振《ふ》りかぶって、無我夢中《むがむちゆう》で、ただ、ただ前へ出た。 「おのれ! 官兵」  水しぶきとともに、薩摩《さつま》の兵士が躍《おど》りこんできた。長剣《ちようけん》の分厚い刀身を八双《はつそう》に構え、火の玉のように突進《とつしん》してきた。顔の半分が朱《しゆ》に染り、目が完全に釣《つ》り上っている。  もう、よけるひまもとびのくひまもなかった。  市之進は大刀の柄《つか》を両手で握《にぎ》りしめると、体ごと一本棒になって突込《つつこ》んだ。 「チェエストウ!」  疾風《しつぷう》のように太刀風《たちかぜ》が襲《おそ》ってきた。敵の気合いを自分のひたいのあたりで聞いた。敵の血か自分の血か、湯のように熱いものを頭からかぶった。  気がついた時、泥田《どろた》の中に敵と折り重なって倒《たお》れていた。自分の大刀が、敵の胸に、刀身の中程まで突《つ》き刺《さ》さっていた。 「なかごめどん。やられもしたか。おんしのかたきはおいどんがとる」  泣くようなさけび声が頭上で聞えた。次の敵が市之進の背に刀を振《ふ》りおろそうとしていた。  自分の刀を抜《ぬ》き取っているひまはなかった。横にころがって逃《に》げ、のめってくる相手の足へしがみついた。 「おのれ! 放せ、こやつ」  相手は握《にぎ》った大刀の柄頭《つかがしら》で、市之進の頭や背中をめちゃめちゃに撃《う》ち据《す》えた。意識が薄《うす》れかかった。いつの間にか市之進が上になっていた。相手の右の手首を握《にぎ》り、刀身を返して刃《やいば》を喉元《のどもと》へ押しつけていった。必死にもがくのを構わず刀身の背に自分の体重をあずけた。  下から赤い噴水《ふんすい》が噴《ふ》き上ってきた。筋肉を押し切ってゆく柔軟《じゆうなん》な抵抗《ていこう》が急に止った。刀身が頸骨《けいこつ》に喰《く》い込んだのだった。  市之進は全身をばねにして横に跳《と》んだ。市之進の体のあった位置を正確に槍《やり》が貫いた。槍は市之進の代りに、半ば首を断たれた薩兵《さつぺい》の、まだ鮮血《せんけつ》を噴き上げている体に突《つ》き立った。  市之進は跳《は》ね起き、腰《こし》の鞘《さや》を抜き取ると、それを振《ふ》りかざして突撃《とつげき》した。右も左も薩兵だった。どうかすると、とつぜん、目の前に抜刀隊《ばつとうたい》の隊士が立ちふさがったりした。目印しに、袖《そで》に赤い布片を結びつけていたが、それも血と泥《どろ》でほとんど見分けがつかなくなっていた。一度は、二、三合打ち合ってから気がついてあやうく双方《そうほう》で刀を引いた。  立ちふさがる敵の姿がとだえた。  市之進は、銃弾《じゆうだん》で枝葉を失い、樹幹だけになった松の根元に腰《こし》をおろした。緊張《きんちよう》と疲労《ひろう》で目がくらむようだった。心臓が胸の外にあるかのように、その烈《はげ》しい動きが直接、制服の裏に伝わってきた。黒の詰《つ》め襟服《えりふく》の、黒い鉄釦《ぼたん》はなぜかことごとく失われていて、皮帯《バンド》から抜《ぬ》け出た上衣《うわぎ》は半纏《はんてん》のようにひるがえっていた。薩軍《さつぐん》は鉄菱《てつびし》を撒《ま》いているという噂《うわさ》があり、二足重ねて履《は》いていた草鞋《わらじ》もいつの間にか足から脱《だつ》して、裸足《はだし》になっていた。腰のあたりを浅く斬《き》られていたが、すでに血は止っていた。  市之進は地に腹這《はらば》いになり、無数の足跡《あしあと》でこねくりかえされた泥田《どろた》の溜水《たまりみず》に口をつけてすすりこんだ。  気持ちが落着いてくるとひどく寒かった。洋袴《ズボン》の一方が、血糊《ちのり》でべたべたしていたが、それはことによったら返り血ではなく、腰《こし》の傷から流れ出した自分の血かもしれなかった。  ここで死ぬのかな、とちらと思ったが、少しも恐《おそ》ろしくなかった。ただ早く楽になりたいと思った。  戦況《せんきよう》がどうなっているのか、全くわからなかった。市之進の所属する東京警視庁の抜刀隊《ばつとうたい》第三組は、ほとんど全滅《ぜんめつ》したのであろうと思われた。隊長の小警部|大木助三郎《おおきすけさぶろう》が銃弾《じゆうだん》で倒《たお》れたのは見ていた。乱戦の中で、抜刀隊は散り散りになってしまっていた。  加藤谷権十郎も、この雨と泥《どろ》と血の中で、もう死んでいるのかもしれなかった。  官兵は徴兵《ちようへい》された兵士であり、そのほとんどが町人であり百姓《ひやくしよう》出身者だったから、当然|剣術《けんじゆつ》にはうとかった。そのためばかりでもなく、官軍は専ら銃撃戦《じゆうげきせん》に頼《たよ》った。銃も新式だったし、弾丸《だんがん》も豊富だった。従ってその火力は敵も味方も驚嘆《きようたん》するほどだった。それに歯ぎしりした薩軍《さつぐん》は、斬込隊《きりこみたい》を編成して官軍|陣地《じんち》に嵐《あらし》のような突撃《とつげき》を敢行《かんこう》した。そうなると官兵は全く抵抗《ていこう》することができず、うろたえて逃《に》げ回るばかりだった。薩軍《さつぐん》はその性質上、全軍ほとんどが士族であり、程度の差はあれ、皆《みな》、刀技は習得していた。ことに薩摩藩《さつまはん》伝統の示現流《じげんりゆう》の使い手は多く、斬込隊《きりこみたい》は勇猛《ゆうもう》でその戦いぶりは凄絶《せいぜつ》を極めた。それに対するには官軍の側にも剣戟隊《けんげきたい》が必要だった。だが官兵にそれを要求することは不可能だった。そこで生れたのが東京警視庁の抜刀隊《ばつとうたい》だった。彼らは官兵の歩兵と異なり、一流一派の剣客《けんきやく》たちだったから、十分に薩軍の斬込隊に対応することができた。  士族は巷《ちまた》にあふれてはいたが、早くから官軍に与《くみ》し、新政府の一翼《いちよく》をになっていた藩《はん》の藩士たちは、すでに、中央の官員とまではゆかなくとも、それぞれに県庁に出仕したり、郡役所に席を得たりしていたから、たとえ腕《うで》におぼえはあろうとも、今さら薩摩|鎮圧《ちんあつ》の為《ため》の抜刀隊《ばつとうたい》などに加わるはずもなかった。特に時流に乗った連中であれば、ようやくにしてつかんだ出世の糸を手離《てばな》すことは家族を始め親戚《しんせき》や縁者《えんじや》たちも承知しなかった。  従って、抜刀隊の隊士のほとんどが旧|佐幕《さばく》に属する藩《はん》の出身者であった。中には、一藩の武術|師範《しはん》級の名人達人が、一般《いつぱん》の隊士として参加していた。  薩摩《さつま》の斬込隊《きりこみたい》も、官軍の抜刀隊も、銃火《じゆうか》の前にはもろかった。薩軍《さつぐん》は弾薬《だんやく》には最初から不足していたが、官軍は湯水のように惜《お》し気もなく弾薬を消費した。その弾幕《だんまく》の前に、薩摩の斬込隊はしだいに力を失っていった。  雨がやや小降りになった。視界がひろがると、段々畑を乗り越《こ》え乗り越え、たくさんの馬や人が墨絵《すみえ》のように低地へ低地へと移動して行くのが見えた。反対の方角へ視線を回すと、そこでは同じような集団が、逆の方向へひた押しに押して行くのが見られた。どちらかが官軍であり、どちらかが薩軍であった。  銃声《じゆうせい》は間断なく聞えていたが、こちらへは弾丸《だんがん》は飛んでこなかった。  金峰山《きんぽうざん》の右手につづく二の岳《たけ》、さらにその右の三の岳。そしてその手前の半高山などが、しだいに姿をあらわしてきた。植木《うえき》の集落は眼下の霧《きり》の中であろう。  ふいに吶喊《とつかん》の声が小雨を震《ふる》わせた。  深く垂れた霧の中から、数十名の壮士《そうし》が突撃《とつげき》してくる。振《ふ》りかざした白刃《はくじん》が穂《ほ》のようにゆれ動いていた。それに応ずるかのように、反対の方向からも数十名の一隊が走り出てきた。こちらは黒服に黒|洋袴《ズボン》。東京警視庁の抜刀隊《ばつとうたい》だった。  双方《そうほう》は丁度、市之進が休んでいる一本松のあたりでぶつかり合うことになる。  市之進は、できればこの場から立ち去りたいものだと思ったが、事態はもうその余裕《よゆう》を与《あた》えなかった。  先頭を走っていた者たちは早くも斬《き》り結んでいた。激突《げきとつ》の輪はみるみるひろがり、たちまち市之進を包みこんだ。松の根元に腰《こし》をおろしている市之進を目にした薩兵《さつぺい》が、泥《どろ》を蹴立《けた》てて殺到《さつとう》してきた。  市之進はそれまで握《にぎ》っていた鞘《さや》を棄《す》て、足元に泥にまみれて投げ棄てられている誰《だれ》のものともしれぬ大刀をひろい上げた。刃《は》が鋸《のこぎり》のようになっていた。ひと振《ふ》りして泥《どろ》を払《ふる》い落した手元に、凄《すさ》まじい斬撃《ざんげき》が襲《おそ》ってきた。火の出るような示現流《じげんりゆう》の初太刀だった。市之進は体を弓のように反らせてわずかにかわした。その動きをそのまま旋転《せんてん》させ、右|斜《なな》めから左下へ、流星のように薙《な》ぎ払《はら》った。手応《てごた》えがない。流れてゆく大刀を、踏《ふ》みこみながら松葉返しに、ぴらと返してすくい上げた。血と臓物を撒《ま》き散らしながら転倒《てんとう》する薩兵《さつぺい》の体を飛び越《こ》えて、市之進はまた走り出した。闘争《とうそう》の渦《うず》に巻きこまれてしまうと、傷の痛みも、寒さも、虚脱感《きよだつかん》もすべて消え失《う》せた。  何回かころび、ころんでは跳《は》ね起きて走った。泥が目に入り、視野が薄《うす》れた。烈《はげ》しい銃声《じゆうせい》が周囲からたたきつけていた。雨滴《うてき》が飛散し、足元の泥水の中に、小さなおそろしく質量のある物が絶えず突《つ》き刺《さ》さっては斜《なな》めに飛沫《しぶき》を上げていた。  自分が狙撃《そげき》されているのに気づいて、市之進は泥水の中に身を投げた。射《う》ち倒《たお》したと思ったのか、狙撃は止《や》んだ。  周囲は官兵や薩兵の戦死体で埋《うま》っていた。薩兵は銃弾《じゆうだん》で倒《たお》され、官兵は斬撃《ざんげき》を受けていた。  ここがどのあたりなのか、まるで見当がつかなかった。田原坂《たばるざか》を、山鹿《やまが》から植木へ向ってのびる街道めざして駆《か》け下ったような気がするが、ことによったら逆に駆け上ったのかもしれない。薩軍《さつぐん》の防衛線を破るどころか、逆に官軍は田原坂を追い上げられ、敗走したのかもしれない。  市之進は亀《かめ》の子のように首をのばして周囲の様子をうかがい、それから体を起した。  こねかえされた泥《どろ》は、血を含《ふく》んで銹色《さびいろ》になっていた。  かたわらに黒洋服に黒|洋袴《ズボン》の戦死体があった。サーベルをつり、腰《こし》に弾薬箱《だんやくばこ》をつけていた。東京警視庁の隊士だった。持っているはずの小銃《しようじゆう》は、どこかに吹っ飛んでしまっていた。肩《かた》から背にかけてひどい傷が口を開いていた。  はっと胸を突《つ》かれたような気がした。その戦死体の、泥の中に横向けに伏《ふ》せた顔をのぞきこんだ。詰《つ》め襟服《えりふく》の襟をつかんで引き起した。 「おぬし!」  加藤谷権十郎だった。剣術《けんじゆつ》の方は駄目《だめ》だと言っていたのが、東京警視庁の隊士として、薩摩《さつま》へ来ているのは知っていた。だが、それは第一線の勤務ではなく、あくまで賊《ぞく》平定後の治安維持《ちあんいじ》や宣撫《せんぶ》工作の任務とされ、加藤谷権十郎もそのつもりでいるようだった。 「それが、小銃《しようじゆう》持たされて前線へかり出されたのか。ばかな。おぬしなど戦死するにきまっているではないか」  いきどおりに似たものが胸を烈《はげ》しく突《つ》き上げ、市之進はたまらず舌打ちをくり返した。  女房《にようぼう》と何人もの子供をかかえて、最下級の邏卒《らそつ》として、雨の日も風の日も、東京の町を歩き回っていた、好人物の権十郎の姿が、せつなく思い出された。  市之進は、その場へふたたび権十郎の遺体を横たえると、右方の林へ向って進んだ。  両軍の戦死者の死体が、ある所では密集して、ある所では広く間をおいて散乱していた。おそらく、この場所が今日最大の激戦地《げきせんち》だったのであろう。  抜刀隊《ばつとうたい》の隊士の戦死体が十数個、投げ棄《す》てられたように倒《たお》れていた。  その数人の顔は、はっきり見おぼえがあった。元会津|藩士《はんし》だった。その中の一人は、御馬廻《おうままわ》りで二百石を取っていた竹井十兵衛《たけいじゆうべえ》だった。竹井十兵衛は斗南藩《となみはん》へ行ったはずだった。こんな所で、抜刀隊に加わって泥《どろ》まみれになって生命を落してよい人物ではなかった。  斗南藩へは行かなかったのだろうか。それとも脱走《だつそう》でもして、抜刀隊に加わったのだろうか。市之進は深いわけのありそうな竹井十兵衛の遺体に両手を合わせた。誰《だれ》も彼も、背負いきれない程の苦悩《くのう》を背負い、人に言えない秘密を抱《いだ》いて流浪《るろう》しているのだった。生き残った会津の武士たちは、皆《みな》、因縁《いんねん》の糸に引かれるように、この薩摩《さつま》の地に集《つど》ってきているのだった。薩摩を恨《うら》む者も、恨まない者も、白刃《はくじん》が白刃を招くが如《ごと》く、死者が生者を招き寄せるが如く、この田原坂《たばるざか》の雨と霧《きり》と泥《どろ》の中へ、いっさいを吸引しているのだった。     3  もう夕暮《ゆうぐ》れが近いのであろう。霧《きり》にかすんだ林の中は、手元が見えないほど薄暗《うすぐら》かった。重く濡《ぬ》れた下草を押し分けて踏《ふ》み込んでいった。林の中は少しずつ上りになっていた。  とつぜん、下草の中から人影《ひとかげ》がわき上った。 「敵か、味方か」  噛《か》みつくように誰何《すいか》してくる。 「つまらぬたずねかたをするな。そうたずねられて、敵だと答える者がいるものかよ」  市之進は皮肉に笑った。 「おう。きゃつは邏卒《らそつ》の抜刀隊《ばつとうたい》じゃ。このうっか者《もん》。切っちくれん」 「逃《にが》すな。逃すな。必ず切れ」 「わしがつかまつろう。待っちょれ」  口々に罵声《ばせい》を発しながら、抜《ぬ》きつれた。  彼らは必死の面持ちで、前と左右の三方から市之進につめ寄ってきた。あと二人ほど、市之進の退路を断つように背後に回った。  八双《はつそう》に構えて、じりじりと間合《まあい》をつめてきながら、彼らはちら、ちらと自分たちの背後をうかがっていた。  何か、彼らの背後には、彼らの闘志《とうし》を阻害《そがい》するようなものがあるらしい。  市之進は、青眼《せいがん》に構えながら、彼らの背後をひそかにうかがった。  林の奥《おく》の、樹幹の間に、幾《いく》つかの人影《ひとかげ》が動いていた。あわただしいその動きは、戦いの場とはやや異なったものだった。  何をしているのだろう?  そう思ったとたんに、それを察したかのように、とつぜん右方の敵が突進《とつしん》してきた。  怪鳥《けちよう》のようなさけびが林の中の空気を震《ふる》わせ、下草の露《つゆ》を振《ふ》り払《はら》った。  市之進は背後へ跳《と》んだ。一気に、右と左に切って落す。切り込んできた敵を左に泳がせ、敵の虚《きよ》を衝《つ》いて円陣《えんじん》の外へ逃《のが》れ走った。 「追え!」 「いや。追わずともええ」 「ほかにもまだおらぬか、そのへんを探せ」  そんな声が交錯《こうさく》した。  市之進は下草の中に身を伏《ふ》せ、息を殺していた。  あわただしい足音と、殺気立った叫《さけ》びが近くなったり遠くなったりした。  下草の茂《しげ》みの中に、さまざまな品物が散乱していた。手に触《ふ》れたそれに目を移した。  泥《どろ》に汚《よご》れた数枚の紙幣《しへい》だった。西郷札《さいごうさつ》と呼ばれる札だった。またおびただしい量の西郷札やびた銭が下草の根株の間や枝葉にはさまって雨に濡《ぬ》れていた。  薩兵《さつぺい》の足音は遠のいた。  市之進は下草の間を這《は》った。地図や書類の束《たば》や帳面《ちようめん》が投げ棄《す》てられていた。輪胴《りんどう》の抜《ぬ》けた短銃《たんじゆう》が落ちていた。  上半身を朱《あけ》に染めた薩兵《さつぺい》が倒《たお》れていた。自らを弾丸《だんがん》で射《う》ち貫いたらしい。  木の間に天幕が張られていた。椅子《いす》が一、二|脚《きやく》、横倒《よこだお》しになっていた。机の代りであろうか、木箱《きばこ》が置かれていた。  薩軍の前線指揮所ででもあったのだろうか。周囲の情況《じようきよう》は、ここがあわただしく放棄《ほうき》されたことを示していた。  市之進は自分がいつのまにか薩軍《さつぐん》の本営のあった付近へ迷いこんでしまっていたのを知った。  鯨波《とき》の声と一斉射撃《いつせいしやげき》の銃声《じゆうせい》は左手の方角から絶えずわき起っていた。それは遠くなったり近くなったりした。  敵の戦線内へ迷いこんでいるのだとすれば極めて危険だった。また、味方の戦線の後方に取り残されたのだとすれば、これは軍法会議ものだった。敵前|逃亡《とうぼう》と見なされても言いのがれはできない。  市之進は周囲に目を配りながら、林の外へ向った。敵にも警戒《けいかい》しなければならなかったが、味方に発見されるのも今、自分が置かれている情況《じようきよう》がわからないうちは危険だった。  林のうしろは赤土の崖《がけ》だった。林と崖の間に、傾《かたむ》きかけた小さな小屋と崩《くず》れた炭焼きがまがあった。  とつぜん、その小屋の中から数人の人影《ひとかげ》があらわれた。  彼らは抜《ぬ》き放った白刃《はくじん》を手にし、あるいは洋式の短筒《たんづつ》を構えていた。市之進は樹幹に貼《は》りついた。面も向けられぬような緊迫感《きんぱくかん》が彼らを包んでいた。彼らに発見されたら、おそらく生きてこの場を去ることはできないであろう。  市之進は樹幹に体を押しつけて息を殺した。  彼らはひとことも発せず、足音を忍《しの》ばせて市之進の目の前を通り過ぎていった。  壮士《そうし》たちに囲まれた、彼らの中心と思われる人物が目の前を過ぎるとき、市之進は思わずさけび声を上げそうになった。  その人物は周囲を囲む者たちの、ほとんど二倍はあろうかと思われる胴回《どうまわ》りと頭ひとつ抜《ぬ》きん出た背丈《せたけ》の所有者だった。短く刈《か》ったごま塩の頭髪《とうはつ》と、濃《こ》く太い眉《まゆ》。大きな双眼《そうがん》と厚いくちびるが極めて特徴《とくちよう》的だった。  汚《よご》れた軍服に蓑《みの》をつけ、市之進の目の前で、汚れた手ぬぐいでほおかぶりをした。  その人物は、西郷隆盛その人に違《ちが》いなかった。  呆然《ぼうぜん》と見送る市之進の前を、彼らは黙々《もくもく》と遠ざかってゆき、樹林の間に見えなくなった。  どれほどの時間がたったのか、われにかえった時、周囲はふたたび烈《はげ》しい雨に包まれていた。  雨音を破って、まだ銃声《じゆうせい》が鳴り響《ひび》いていた。  林の中へ足音がなだれこんできた。  人声が市之進を取り囲んだ。 「おう。おぬし。見たことがある。抜刀隊《ばつとうたい》の者だな。怪我《けが》をしたか。大丈夫《だいじようぶ》か?」  陸軍歩兵の若い士官が声をかけてきた。 「賊《ぞく》は総崩《そうくず》れじゃ。このあたりに賊の本営があったというが、どこか知らぬか?」  市之進は頭を振《ふ》った。さっき目にしたものを告げるのはためらわれた。この士官は市之進がなぜ追わなかったのか問い質《ただ》すであろう。 「われわれと一緒《いつしよ》に来るなり、後方へ下るかどちらでも好きにしろ。ただし、残兵がまだ多勢いるから一人でいては危険だ」  それだけ言い残すと、士官は兵士を引き連れて走り去った。  市之進は彼らのやって来た方向へもどった。  鉛《なまり》のような疲労《ひろう》が全身によどんでいた。  この日、田原坂《たばるざか》の薩軍《さつぐん》は一か月余におよぶ抵抗線《ていこうせん》を放棄《ほうき》し、東方へ撤退《てつたい》した。  田原坂を守り通すことができなかったのは、薩軍にとって完全に勝機を失ったことを意味した。  明治十年二月二十二日。熊本城を囲んだ薩軍は烈《はげ》しい攻城戦《こうじようせん》を展開した。  薩軍《さつぐん》としては、谷干城《たにたてき》のあずかる熊本|鎮台《ちんだい》が、必ずしも自分たちの進路をさえぎるとは思っていなかったようだ。また、さえぎったとしても、鎧袖《がいしゆう》一触《いつしよく》で突破《とつぱ》できると思っていたようだった。士族たちにとっては、徴兵《ちようへい》による素人《しろうと》兵士など、何程のこともできないと判断していたようだ。これも無理もないことで、前年に起った神風連《じんぷうれん》の乱では、鎮台兵《ちんだいへい》はさんざんの有様で、多数の死傷者を出した。熊本鎮台の司令官少将谷|干城《たてき》も、そのへんのところは十分承知もし、憂慮《ゆうりよ》していたところでもあったらしく、兵力こそ三千三百と少ないが、小銃《しようじゆう》は当時新式のスナイドル銃やスペンサー銃を備え、その弾薬《だんやく》も二百万発に達した。薩軍の銃は旧式なエンピール銃だった。弾薬は全体で百五十万発を用意したといわれるが、補給輸送能力が官軍と比較《ひかく》にならぬ程|劣悪《れつあく》で、弾丸《だんがん》を集中的に湯水のように使う官軍の弾幕《だんまく》にとうていついてゆけなかった。  熊本城の包囲戦は結局物量の戦いとなった。城兵はけっして城から打って出ようとせず、ひたすら強力な陣地《じんち》から薩軍をねらい射《う》ちにした。  熊本鎮台が粘《ねば》っているうちに、官軍の増援《ぞうえん》部隊である第一旅団と第二旅団が博多《はかた》に上陸し、急速に南下してきた。  官軍は鎮台《ちんだい》、増援《ぞうえん》合わせて八千であり、薩軍《さつぐん》は一万五千だったが、熊本城を陥《おと》せないまま、この増援軍と戦うのは薩軍としては全く計画の外だった。  強襲《きようしゆう》をのみ頼《たの》み、白兵戦《はくへいせん》で鎮台をほうむり得ると考えていた桐野利秋、篠原国幹《しのはらくにもと》以下の猛将《もうしよう》たちの自信に、はじめて動揺《どうよう》が生じた。  砲煙弾雨《ほうえんだんう》のうちに、ついに二月二十七日、薩軍は熊本城の包囲を解き、田原坂《たばるざか》へ退いたのだった。  田原坂の戦いとひと口に言うが、戦線は熊本市|郊外《こうがい》から、東北方三十キロメートルの山鹿《やまが》にまで達する長大なものであった。  この段階で、薩軍は何となく、わなにはめられたように守勢に回ってゆく。近代的|装備《そうび》を欠いたゲリラ的な壮士軍《そうしぐん》にとっては、勝機はただ攻勢《こうせい》だけにある。薩軍は熊本城を抜《ぬ》くことができないまま、官軍の二個旅団の南下|進撃《しんげき》を阻止《そし》する形になってしまった。これでは消耗自滅《しようもうじめつ》は時の問題である。だが薩軍は粘《ねば》りに粘った。だが官軍も自己戦力をよく承知していて、無理な強襲はできるだけ避《さ》けた。薩軍は不得意な射撃戦《しやげきせん》に引き込まれ、官軍は自らは能力のない白兵戦を強要された。  だが東京の政府は、内乱が長びくことをひどく恐《おそ》れ、何が何でも、薩軍《さつぐん》を打ち破ることを命じた。だが、田原坂《たばるざか》を力|攻《ぜ》めにすることは避《さ》けるべきだった。  明治十年三月十九日。黒田《くろだ》中将のひきいる別働第一、第二、第三、第四旅団合計一万名を八代《やつしろ》の南方に上陸させ、北から田原坂を守る薩軍の背後を衝《つ》かせた。薩軍がこの可能性を考えなかったのは、奇妙《きみよう》である。腹背に敵を受けたばかりでなく、この一連の作戦によって薩軍は故郷であり、最大の根拠《こんきよ》地である鹿児島を失ってしまった。  田原坂を放棄《ほうき》した薩軍はもはや帰るべき場所もないまま、宮崎県南部から鹿児島県北東部の山中にたてこもることになった。  この頃《ころ》から、薩軍は見るも無惨《むざん》に崩壊《ほうかい》してゆく。官軍への投降や、脱走《だつそう》が頻発《ひんぱつ》するようになる。西郷隆盛個人に対する憧憬《どうけい》の思いよりも、敗戦の惨《みじ》めさが、さしもの薩摩隼人《さつまはやと》の心をも冷えさせたのであろう。  それを知ってか、西郷隆盛は八月十五日、ついに薩軍《さつぐん》の解散を命じた。この時、兵力はすでに三千名に減っていた。  西郷隆盛は、泣いてあとにすがる私学校党の壮士《そうし》六百名に守られて可愛岳《えのだけ》を踏破《とうは》して、故郷鹿児島を望む城山へ到着《とうちやく》した。  薩軍の解散によって、西郷の行方を探索《たんさく》していた官軍は、思いがけない西郷の出現に驚愕《きようがく》した。  死場所を求めての城山|帰還《きかん》と知っていても、この段階でなお官軍は二万以上の大兵力で城山を囲んだ。その為《ため》、あらためて西郷軍に参加しようと思う壮士たちも、城山に近づくことさえできなかった。  九月二十四日。ついに官軍は総攻撃《そうこうげき》を開始した。  最後の戦いはまことにあっけなく、官軍が攻撃の火ぶたを切ってから、四時間ほどで城山は完全に官軍の占領《せんりよう》するところとなった。  西郷隆盛が自害したのは午前七時|頃《ごろ》であったといわれる。     4  新橋|停車場《ステンシヨン》の正面|玄関《げんかん》から、金色の房付肩章《ふさつきけんしよう》に肋骨《ろつこつ》の黒|羅紗《ラシヤ》の制服に身を固めた駅長が歩み出てきた。赤筋の入った洋袴《ズボン》に銀のサーベルが映えた。  駅長はサーベルの柄《つか》をぐっと握《にぎ》りしめると、背後につき従っている駅長の助《すけ》をふりかえり、あごをしゃくった。  皮帯《バンド》を締《し》めた助《すけ》は、駅長に一礼すると、停車場前の広場へ向って胸を張った。 「当新橋|停車場《ステンシヨン》を午後一時に発車する横浜行旅客|普通《ふつう》列車に乗車を希望する者は、直《ただち》に必要な手続きをなし、プラットホームに参入せよ。手続きは乗車許可証の購入をもって終了《しゆうりよう》する。乗車許可証は、下等客は必ず乗車以前に購入すること。上等客は乗車後にてもよろしゅうござる」  駅長の助の大音声《だいおんじよう》は、駅前広場を行き交う鉄道馬車やトテ馬車、人力車などのかもし出す騒音《そうおん》や、人々の下駄《げた》の音や話し声を圧してひびきわたった。  おそらく彼は御一新《ごいつしん》以前はどこかの藩《はん》の歩兵の伍長《ごちよう》か組頭《くみがしら》ででもあったのだろうか。号令をかけなれている声だった。  その声に衝《つ》き動かされたかのように、駅舎の周囲でたむろしていた旅行者たちがいっせいに動き出した。  社員や番頭あるいは下僚《かりよう》を使って、すでに切符《きつぷ》を購入してある上等客たちは、わざと悠々《ゆうゆう》たる足取りで玄関《げんかん》へ向う。これからその面倒《めんどう》な手続きとやらをなさなければならない下等客は、わけもわからず、乗車券発売窓口とかかれたカウンテルへ殺到《さつとう》した。  駅舎の外のプラットホームへ、一号機関車に引かれた小さなマッチ箱《ばこ》のような木造客車が入ってきた。  緑色のボイラーやサイドタンクを、金色で縁取《ふちど》りした機関車は、そのサイドタンクの側面にバルカン・ファンドリー社の楕円《だえん》形の大きなマークも誇《ほこ》らしげに、高く高く汽笛《きてき》を吹き鳴らした。  プラットホーム寄りの木柵《もくさく》には、すでに一時間も前から陸蒸気《おかじようき》見物の連中が人垣《ひとがき》を作っていたが、入ってきた列車にいっせいに歓声を上げた。  列車の発着を見るために、毎日何十人もの大人や子供が新橋|停車場《ステンシヨン》の周囲や鉄道線路の両側の木柵《もくさく》に取りすがっている。中には弁当持参の者もいる。その群集の間を物売りが声を枯《か》らして縫《ぬ》って回る。  その新橋停車場前の広場に面した開化|寿司《ずし》の土間も、陸蒸気見物の連中が出ていってしまうと汐《しお》の退《ひ》いたように静かになった。 「陸蒸気のめずらしい田舎《いなか》っぺえどもがこう押しかけてきちゃあたまらねえな。せっかくいきのいい寿司がふやけちまわあ。おい、ねえさん。茶、いっぺえくんねえ」  職人の親方らしい威勢《いせい》のいい親爺《おやじ》が、店の小女《こおんな》に声をかけた。  寿司といっても、今の握《にぎ》り寿司ではなく、江戸期そのままの押し寿司だった。上等の米で炊《た》いた飯を酢《す》で引締《ひきし》め、その上に鯵《あじ》の薄《うす》い切身をのせ、木製の形《かた》で押し固めた押し寿司は、官員や会社員と呼ばれるようになった番頭連中、それに商店のあるじ連などにもてはやされた。洋食屋に入るには勇気がないし、そば屋では安直過ぎるという人たちには格好の御馳走《ごちそう》だった。  小女が客の前に置かれた湯呑《ゆのみ》に茶を注《つ》ぎ足して回る。  三原市之進の前の湯呑にも茶がいっぱいに注がれた。  市之進は煙管《キセル》入れから煙管を抜《ぬ》くと粉をつめた。  一服つけていると、軍服を着た数人の兵士たちがどやどやと入ってきた。竹橋《たけばし》あたりからやって来たのだろう。黒|羅紗《ラシヤ》の制服に黄色の伍長《ごちよう》の肩章《けんしよう》をつけている。 「ああ。見た。見た。とうとう陸蒸気《おかじようき》というものを見たな。これで満期除隊したら、郷里のやつらにいいみやげ話ができたというものだ」 「ふうむ。ここが斎藤《さいとう》士官候補生どのがしきりに誉《ほ》めておった押し寿司屋《ずしや》か。よろしい。ひとつ試してみるとするか」 「親爺《おやじ》。ここの押し寿司はひとつなんぼか? 高価なものではちと困る。なにしろ、わしらは見る通りの砲兵《ほうへい》下士じゃ」 「稲荷《いなり》寿司の押し寿司ちゅうものはなかとか? 稲荷寿司ならばどのようなものかわかっちょるけんに安心じゃが」  口々に言いたい放題のことを言う。無邪気《むじやき》な下士たちだった。 「うちの売り物は鯵《あじ》の押し寿司じゃ。ひとつ二|厘《りん》。ちと高いと思うかもしれんが、味は格別じゃ。兵隊さんじゃから勉強しておく」  調理場につづく小窓から、あるじの勘五郎《かんごろう》が顔をのぞかせた。  巡査《じゆんさ》の給料が一円に満たなかった頃《ころ》の二厘である。ぜいたくな食べ物ではあった。 「よし、一丁|握《にぎ》ってくれ」 「まてまて。一人二個。ええな。一人二個ずつだぞ」  下士たちは相談し合った。 「かしこまりやした。ちょいとお待ちを」  勘五郎の顔が引込んで待つほどもなく、浅い小桶《こおけ》に入れた押し寿司《ずし》が運ばれてきた。  下士たちは歓声を上げた。  気に入ったところへ、ふところがあたたかかったらしく、彼らはさらに一人二個ずつ奮発した。  傍若無人《ぼうじやくぶじん》に、にぎやかに食っている。  一番先に食い終ったやつが、茶をすすりながら妻楊子《つまようじ》に手をのばした。 「のう。西郷さんがロシヤにおるという話、しっとるか。みんな」  もう食い終った者も、まだ食っている者もうなずいた。 「ああ、知っているとも。西南戦争で、城山で自害した西郷先生が、実は死なずにいてひそかにロシヤに渡《わた》り、ロシヤ政府にかくまわれているという話だろう」 「おれも聞いた。栗山《くりやま》一等下士が営外から買ってきた新聞に出ておったぞ。なんでも西郷さんは、薩摩《さつま》の若者をむなしく死地に陥《おとしい》れた今の大久保政府を必ず覆滅《ふくめつ》してやると言っておるそうではないか」 「斎藤士官候補生どのの話では、西郷先生は、すでにロシヤの陸軍大将になられ、何個師団もの兵を指揮しておられるそうな。今、ペテルスブルグという町に大邸宅《だいていたく》をもっておられるというぞ」 「ロシヤの大砲《たいほう》はすごいらしいぞ。弾丸《だんがん》の大きさは子供の頭ほどもあり、しかも、先がとがっていてねらった所をはずさぬそうだ。一発|射《う》っても、砲車《ほうしや》はびくとも動かぬのでたてつづけに二十発でも三十発でも射てるということだ」 「そりゃあたいしたもんだ。わが竹橋《たけばし》連隊の弥助砲《やすけほう》は、一発射ちゃガアラガラ。二発射ちゃあガアラガラだ。そのたんびにねらいをつけ直しだ。それじゃとても太刀打《たちう》ちはできんぞ」 「西郷さんはその大砲を持って攻《せ》めて来るんか。そりゃ太政大臣大久保公も、とてもかなわんな」 「西郷さんはいつ攻めてくるのかな?」 「おれたちは西郷さんとやるのか?」 「ロシヤ軍とやって勝てるのかえ?」  彼らの話し声が、真直《まつすぐ》に市之進の耳に届いてくる。  彼らばかりではなく、東京中が、いや日本中がその話題で持ちきりだった。  西郷隆盛が城山で死なず、ロシヤに渡《わた》って再起を計っているという話にはおそろしく説得力があった。いかにもありそうなことだった。西郷隆盛の運命に同情的な者も、政府の立場をおのれの立場とする者も、ひとしくそれがいつか現実に起るかもしれぬと考えていた。そうあって欲しいという気持ちもあったのかもしれない。  英雄を愛する心は、敵も味方もひとしく抱《いだ》いていたのだった。 「兵隊さん。兵隊さん」  いつ来たのか、兵隊たちの卓《たく》の隣《となり》の卓に座を占《し》めていたザンギリ頭に盲縞《めくらじま》の男が、体の向きを変え、兵隊たちの話に割って入った。 「今の話なんだがね、わしが聞いた話では、北陸のあたりには、西郷さんのひきいるロシヤ軍の上陸を今や遅《おそ》しと待ち受け、いざその時には西郷さんの先導をつとめようと、旗印まで作って待機している民軍組織がもう幾《いく》つもできているそうな」 「ふうむ。そりゃ、やはり私学校の残党かのう」 「いや。必ずしもそうではないだろう。大久保政府にうらみを持つ者や、もう一度政体を作り直そうと考える者や、その他世に入れられない不満分子などが集ったものだろうよ」  盲縞の着物の男は深くうなずいた。 「兵隊さん。兵隊さんたちはそうなった時は、まず西郷さんの軍と戦わなければならねえお人たちなんだが、いってえ、そこのところは本心はどうなんですい?」  年かさの下士がそれを受けた。 「わしらは兵隊じゃから、お上《かみ》の命令には絶対服従じゃ。自分の一存で鉄砲《てつぽう》一発|射《う》つことも許されん。西郷さんの軍であろうとそうでなかろうと、わしらは戦わねばならん」  胸を張った。 「それはそうでやしょうが。しかし、人間の本心はそういつまでもかくし通せるわけではござんせん。ことに戦況《せんきよう》がはっきりしなくなるてえと、ほんとうの考えで動きたくなるものですて。ところが、竹橋の兵隊|屋敷《やしき》にゃ、そういう民軍ができているという話を耳にしましたが、どうなんで?」 「いや知らぬぞ」 「なけりゃ、作ってみたらどうなんです? なに、何事も竹橋の歩兵連隊でさ」 「民軍はちと無理じゃろう。いろいろな者がおるで」 「いえね。それが、こうなんですわ……」  盲縞《めくらじま》の男は声をひそめ、身をのり出した。  市之進はためらった。  兵隊たちの顔に強い興味の色があふれ出したのを見て、このまま放置することの危険を感じた。  市之進は煙管《キセル》をしまうと立ち上った。     5  市之進は男のうしろから近寄って肩《かた》をたたいた。 「そのくらいにしておけ。ちょっと来て……」  くれんかとしまいまで言わぬうちに、男は横っとびに跳《と》んだ。男の右手がひらめいて、何かが市之進の顔面に飛んできた。  反射的に顔をそむけた。背後の壁《かべ》に質量のある小さな物体がはげしい勢いでめりこんだ。  男は市之進の腕《うで》の下をくぐって外へ飛び出した。  一瞬遅《いつしゆんおく》れて市之進も店の外へ走り出た。  男は体を丸めて数間《すうけん》先を走っていた。  市之進は、このまま見逃《みのが》そうかと思ったが、先程の手練《しゆれん》を思い出して、猛然《もうぜん》と追った。  男が投げた物は鉄菱《てつびし》に違《ちが》いなかった。  鉄菱は大人の親指ほどの大きさの鉄塊《てつかい》で、二、三本の鋭《するど》い突起《とつき》がある。熟練の投擲者《とうてきしや》によれば容易に人の生命を奪《うば》う恐《おそ》ろしい武器だった。昔《むかし》から伊賀者《いがもの》や甲賀忍者《こうがにんじや》などをはじめ忍《しの》びの者のとくいとする武器だった。  その異様な武器による反撃《はんげき》が、市之進の強い興味を引いた。  男が何者であろうとそんなことは実際はどうでもよかった。ただその異様な敵の正体が知りたいという欲望だけだった。  男は新橋|停車場《ステンシヨン》前の広場のすみを、ななめに汐留《しおどめ》の方へ突走《つつぱし》った。 「まて!」  市之進は追った。  陸蒸気《おかじようき》のかん高い汽笛《きてき》の響《ひび》きが広場を震《ふる》わせた。発車であろう。  見送りの者も弥次馬《やじうま》も目はすべて発車してゆく列車に集中していた。広場を走る二人の男に注意を向ける者はいなかった。  男は鉄道作業区と書かれた一|画《かく》の小屋の間を走り抜《ぬ》け、目の前をさえぎる木柵《もくさく》に飛びついた。  その時、列車がやってきた。  先頭の機関車の、美しい緑色と、磨《みが》きぬかれた真鍮《しんちゆう》が、何本もの棒《ロツド》や弁のめまぐるしい動きとともに、圧倒《あつとう》的に迫《せま》ってきた。 「あぶないぞ! おりろ」  市之進はさけんだ。  シュワッ、シュワッ、シュワッ、シュワッ。  噴出《ふんしゆつ》する蒸気が昇《のぼ》り龍《りゆう》のように渦巻《うずま》き、木柵《もくさく》も電柱も信号機も呑《の》み込む。  市之進は地面にひれ伏《ふ》した。  巨大《きよだい》な動輪が目の前を旋転《せんてん》していった。  大地が波のようにゆれ、異様な地響《じひび》きが腹や胸から入りこみ、全身をもみくちゃにした。  わあああ! 歓声が頭上を通過してゆく。  機関車に続く客車の窓という窓から乗客の興奮した顔が突《つ》き出し、自失したように外を見つめている。  ガタンゴトン。ガタンゴトン。ガタンゴトン。  小さな車体にとりつけられた二|軸《じく》の車輪は短尺の短いレールの継目《つぎめ》を、めまぐるしく乗り越《こ》えてゆく。車内の騒音《そうおん》と震動《しんどう》は大変なものだろう。  騒音の嵐《あらし》が遠ざかってゆくと、市之進はわれにかえって体を起した。  着衣のほこりを払《はら》いながら視線を上げて、はっとした。  木柵《もくさく》の下に、さっきの男が倒《たお》れていた。  木柵に取りすがったところで列車がやってきたのだった。列車に触《ふ》れたはずはなかった。 「おい」  市之進は男を抱《だ》き起した。男は死んでいるようだった。 「射《う》たれたな!」  弾丸《たま》が当ったのに違《ちが》いない。市之進は経験的にそう確信した。どこからか狙撃《そげき》したのだ。  市之進は男をそこに横たえ、木柵へ走った。木柵のむこうには左右に長く線路がのびているばかりだった。線路のむこう側は、工部省の何かの施設《しせつ》の煉瓦塀《れんがべい》がつづいていた。  こちら側の右も左も作業区の小屋で、窓は板戸でふさがれていた。その小屋の裏まで行ってみた。鉄道の枕木《まくらぎ》が井桁《いげた》に積み上げられていた。柳《やなぎ》が一本植えられているほかは人影《ひとかげ》もなかった。  もどってきて市之進は思わず息を呑《の》んだ。  今までそこに横たわっていた男の死体が消えていた。  極めて短かい時間、市之進はそこに立っていた。  それから一気に木柵《もくさく》まで走り、左右をたしかめ、ふたたび小屋の裏へ走った。  人一人いなかった。  元の場所へもどった。  やはり死体はなかった。  市之進は今度は歩いて木柵まで行った。それから小屋の裏をのぞいた。閉《とざ》された窓に手をかけたが、釘《くぎ》づけされているらしく、びくとも動かなかった。  死体の倒《たお》れていた位置から木柵まで二|間《けん》。そこから小屋の裏まで三間。合わせて約十メートルの距離《きより》であった。  ほんのわずかの間死体に背を向けていたとしても、わずか十メートルの距離である。気づかれず死体をかついで逃げられる距離ではなかった。しかも、逃げることができる方向には市之進がいたのだ。  木柵の目は、大人がくぐり抜《ぬ》けることは不可能だし、死体を先に木柵のむこう側に投げこんでおいて跳《と》び越《こ》えたとしても、死体をかついで走る者の姿は、線路の上のすぐそこになければならない。  真昼の空地《あきち》で、死体は煙《けむり》のように消えてしまったのだ。  夢《ゆめ》を見たのだろうか?  まさか!  市之進はひたいを濡《ぬ》らしている不快なあぶら汗《あせ》をてのひらで押しぬぐった。  市之進は作業区の木戸口から外へ出た。  足が雲を踏《ふ》んでいるように頼《たよ》りなかった。  見もしないものを見たような気がしたのだろうか?  市之進ははげしい不安を感じた。  あの西南戦争で、何回かつまずき、転倒《てんとう》した時には強く頭を打ったこともあった。  そのせいだろうか?  なんだか頭のしんがズキズキと痛くなってきた。  作業区に続く鉄道用地に西洋ポンプがあった。  市之進はその鉄製の柄《え》を握《にぎ》って強く上下させた。  ポンプの口から冷たい水がほとばしった。市之進はその下へ頭をさしこんだ。 「ああ。つめたい」  市之進はうめいた。心が鎮静《ちんせい》してきた。  夢《ゆめ》でも幻《まぼろし》でもなかった。盲縞《めくらじま》の男をここまで追いかけてきたのも事実なら、男の死体が消えてしまったのも事実だった。  市之進はもう一度、先程の場所へもどってみた。  木柵《もくさく》と小屋に囲まれたせまい空地には、白い陽光が降りそそいでいるばかりだった。  腕木《うでぎ》信号機がカタリと落ちた。  市之進は寿司屋《すしや》へもどった。  かかり合いを恐《おそ》れたか、先程の兵隊たちは一人もいなかった。 「どうしたね? 急に飛び出していったから食い逃げかと思ったぜ」  親爺《おやじ》の勘五郎が安心したように片目をつぶって見せた。  市之進は調理場との境ののれんを頭で分けた。 「ちょっとすまねえ。おいら、こういうもんだが」  首から胸元にのぞいているさらしの間へのびている白い紐《ひも》をたぐった。さらしの間から下足札《げそくふだ》のような木札《きふだ》が引き出された。 「警視庁の密行|探偵《たんてい》だ。これ見な。鑑札《かんさつ》だ。こんな身なりしているから疑う者もいるんでな。特にこのような鑑札を下されておるのだ。分るか。警視|総監《そうかん》川路|聖謨《としあきら》閣下の名とその下に朱印があるじゃろうが」  親爺《おやじ》は木札をためつすがめつながめた。 「密行探偵かね。そりゃあごくろうさまなこった」  本気とも皮肉ともつかぬ調子で言った。 「ところで、さっき逃《に》げた男の飯代はどなたが払《はら》ってくださるんで? こうなりゃ、まずはその警視総監閣下かね。それとも密行探偵の先生かね?」 「おいらが払うよ。なんぼだ?」  市之進は財布を取り出した。自分の分も合わせて一銭銅貨を飯台《はんだい》の上に置いた。 「はいよ。いただきやした」  親爺は銅貨を軽くひたいの前にかざすと、市之進の所から見えないかね箱《ばこ》にチャリンとほうりこんだ。 「親爺《おやじ》。さっき、おいらが追いかけていった男、な」 「へえ」 「いつも来るやつか?」 「いつもじゃねえが、そうさなあ、ひと月にいっぺんか二へんぐらい来たよ」 「どこのやつか知らないかね」 「さあ。おれは客とは話をしないからね。ただ、言葉には訛《なまり》はなかったな。江戸者だろうか」 「何の商売だえ?」 「さあ。いつも手ぶらだったぜ。陸蒸気《おかじようき》を見物に来たんじゃねえかな」 「ほかに何か気がついたことはねえかな」 「悪い奴《やつ》なのかえ?」 「ちと油断のならねえ奴だ」 「どうした? 逃《に》げられたのかえ?」 「ああ」  市之進は鑑札《かんさつ》をさらしの間に押しこむと店の外へ出た。  停車場《ステンシヨン》から、見送人たちがぞろぞろと吐《は》き出されてくる。色とりどりの日傘《ひがさ》が美しい。  市之進はその人々の間に入った。  男を追ったのもほんとうのできごとだったし、男が死体となって倒《たお》れていたのも事実だった。  あの男はどこから射《う》たれたのだろう?  市之進のまぶたに、木柵《もくさく》や小屋が浮かび上ってきた。  だが、射たれたとしても、銃声《じゆうせい》らしい音は聞いていなかった。  射ったとしたら、通り過ぎていった列車の窓からだった。  そんなことができるだろうか? それも、射った人物は、男があの場所へ逃《に》げてゆくであろうことなど全く知らないのだから、それは全く偶発《ぐうはつ》的な犯行に違《ちが》いなかった。  だが——市之進の心はもう一度|旋転《せんてん》した。  いくらにぎやかに歓声が上っていたとはいえ、列車の窓から短筒《たんづつ》をぶっぱなしたのでは、乗っている者は誰《だれ》でも気がつくだろう。 「これは列車の窓から射《う》ったのではないぞ」  どの方向から弾丸《たま》が飛んできたのか、今からでは調べようがなかった。  そこで市之進は目撃《もくげき》したもうひとつの情景にぶち当り思わずさけび声を上げた。 「あの死体は消えてしまったのだ!」  市之進はにわかに落着きなく周囲の人の流れに視線をめぐらせた。  自分の頭の中を誰《だれ》かにのぞき見でもされたような気がして気恥《きはず》かしかった。  もう死体のことは考えまいとした。  だがだめだった。何歩も進まないうちに、頭の中は完全に死体に奪《うば》われてしまっていた。  市之進は途方《とほう》にくれた。  こんなことを警視庁に帰って上司に報告などできなかった。  市之進は西南戦争での田原坂《たばるざか》の激戦《げきせん》で活躍《かつやく》を上司に認められ、戦争が終ってから警視庁|巡査《じゆんさ》に勧誘《かんゆう》された。  西南戦争が終ってみると、それまでかたくなに心に抱《いだ》いていた薩長《さつちよう》勢力に対する恨《うら》みはすっぽりと抜《ぬ》け落ちてしまっていた。どうでもよくなっていたのかもしれない。私学校党の隊士たちを何人か斬《き》り棄《す》てたが、その単純極まりない所作《しよさ》が、市之進の内部に充満《じゆうまん》していたものをいつの間にか体外へ追い出してしまったのであろう。  市之進はなりゆきに身をまかせるつもりで警視庁巡査のなかま入りをした。  なぜか私服の密行|刑事《けいじ》の任務を与《あた》えられた。  制服を着て、隊伍《たいご》を組んで巡回《じゆんかい》する邏卒《らそつ》よりも、密行|探偵《たんてい》の方が性に合った。  武士としての特権を失った武士たちは、格好の再就職の場として警官をえらんだ。  武術と体力を必要とする警官の仕事は、誰《だれ》でもよいというわけでもなく、当然のことながら禄《ろく》を離《はな》れた士族が適任とされた。  だが、文明開化の潮流に乗り切れず、さらに身分制度の崩壊《ほうかい》によって被害者《ひがいしや》意識を増幅《ぞうふく》された旧士族出身の警官たちは、民衆に対して横暴を極めた。それがせめてもの彼らの時代に対する抵抗《ていこう》だったのであろうか。  士族の自己満足をかなえてくれる制服であったから、それを着用できる者は、官軍側に立った旧藩《きゆうはん》の士族が優先した。朝敵である会津出身の市之進が、制服組からはずされたのも当然だったのかもしれない。  ちなみに、捜査《そうさ》専従者が昇進《しようしん》試験を受けにくい現行制度も、この頃《ごろ》の思想の遺物だといわれている。     6  旧江戸城|日比谷御門《ひびやごもん》内といえば、御一新《ごいつしん》前までは、酒井《さかい》、久世《くぜ》、堀《ほり》、安藤《あんどう》、松平《まつだいら》などという大名の屋敷《やしき》が何十|棟《とう》も宏壮《こうそう》な結構を連ねていたものだったが、大政|奉還《ほうかん》が成り、幕府が崩壊《ほうかい》するや、薩長《さつちよう》政府が真先におこなったのは江戸城の内ぶところを固める大名|屋敷《やしき》の撤去《てつきよ》だった。  江戸開府以来、幕府は江戸城の周囲に大名の江戸屋敷を設けさせ、そこに大名の家族を住まわせた。人質政策と、江戸が戦場になった場合の、江戸城の外郭陣地《がいかくじんち》にするための二重の意味があった。ことに後者はどこの城下町でもふつうに見ることができる屋敷配置ではあったが、江戸城となると規模が違《ちが》った。江戸に無血入城した官軍ではあったが、万一の場合を考えると、とうていそのままには放置しておき難い要害であった。  大名屋敷の撤去はおどろくほどの早さで進み、三、四年後には、今の宮城|外苑《がいえん》と呼ばれるあたりは、灯影《ほかげ》ひとつ見えない荒蕪地《こうぶち》になってしまった。  白砂青松《はくさせいしよう》の、塵《ちり》ひとつとどめぬ屋敷町のむこうに、江戸城の白壁《しろかべ》がくっきりと映えた景観は見るも無惨《むざん》に変貌《へんぼう》し、これまでは人々の目に触《ふ》れることもなかった江戸城の石垣《いしがき》が、今は薄汚《うすよご》れてあらわになっているのだった。  大名屋敷は取り壊《こわ》され、材木や杭《くい》などはどこかへ運び去られても、庭園の泉水や銘木《めいぼく》はそのまま残されて荒《あ》れるにまかせ、草が生い繁《しげ》り、荒廃《こうはい》の極みであったといわれる。  そこへ天皇を移したのだから、京都から天皇につき従ってきた公卿《くげ》たちは、天皇を押し籠《こ》めたといって怒《おこ》ったのも無理はない。  もともと町造りだの都市の美観だのということには知識も感覚もない政府の高官たちだったが、山岡鉄舟《やまおかてつしゆう》や渋沢栄一《しぶさわえいいち》らの進言を入れ、元大名|屋敷跡《やしきあと》の見わたす限りの荒地《あれち》に松《まつ》を植えることにした。だが、全部に植えるだけの熱心さもなく、またもともとこちらの方が目的だったのか、東側の半分を岩崎弥太郎《いわさきやたろう》に払《はら》い下げた。世人はそこを三菱《みつびし》が原と呼んだ。松林を作った部分が今の皇居|外苑《がいえん》であり、三菱が原が今の丸の内のビル街である。  明治十三年ともなると、三菱が原の方にはすでに幾棟《いくとう》かの西洋館が建っていた。煉瓦造《れんがづく》りの、青銅|葺《ぶ》きの瀟洒《しようしや》なそれらのビルは、東京の人々の目を奪《うば》った。  それに反して松林の方は全く駄目《だめ》だった。  松もろくに根づかず、草は人の背丈《せたけ》を没《ぼつ》するほどだった。  荒《あ》れ果てた江戸城は、しかるべく修理も行ったが、この二重橋前の荒涼《こうりよう》たるありさまは、外国の大公使すら眉《まゆ》をひそめるほどだった。  明治政府は西洋式の警察制度を整えると同時に、首都東京の警察司令部として、警視庁を設け、その庁舎をこの荒れ果てた小松原にえらんだ。  松のまばらな貧しい松林にはあかるい陽射《ひざ》しが躍《おど》っていた。風が吹き過ぎてゆくと、穂《ほ》を出すにはまだ間のあるすすきの群落が、いっせいに葉裏をひるがえした。  東京警視庁と雄渾《ゆうこん》な文字で記された門札《もんさつ》がかけられた石の柱の前に、六尺棒を構えた邏卒《らそつ》が仁王《におう》立ちになっていた。 「どこへ行く」  立哨《りつしよう》の邏卒は横柄《おうへい》な態度で市之進を呼び止めた。  市之進が取り出した鑑札《かんさつ》を、邏卒はいやしめるような目つきで見やり、あごをしゃくった。 「よし、通れ」  木造二階建ての西洋館は、ガラス窓の飾《かざ》りも目新しく、また全体を茶色に塗《ぬ》ったペンキの色もまだなまなましく、ずっとむこうの千代田の城と、はなはだ釣《つ》り合わない景観を示していた。  一階の北側の奥《おく》が刑事探偵部《けいじたんていぶ》だった。  がらんとした刑事|部屋《べや》では、旧|平藩士《たいらはんし》の安藤次郎《あんどうじろう》が床《ゆか》に男を引き据《す》え、調書を取っていた。戊辰《ぼしん》戦争で最後まで官軍に抵抗《ていこう》して没落《ぼつらく》した平藩出身のこの男は、同僚《どうりよう》にこれまでただ一度も笑顔を見せたことはなかった。床に引据えられている男が、顔を上げて何か言った。それまで無表情だった安藤のほお骨の突《つ》き出た顔に急に激《はげ》しいものが動き、安藤はものも言わずに足を上げて男の顔を蹴《け》った。男は床に転倒《てんとう》し、そのまま動かなくなった。安藤は机の上の書類に向き直った。  市之進は給仕の運んできた冷えた茶をのどに流しこんだ。  何|匹《びき》もの蠅《はえ》がうるさく飛び回っていた。 「三原市之進はおるか」  二等|巡査《じゆんさ》の川辺《かわべ》が入口から声をかけた。  市之進が立ち上ると、川辺は右手の指を立てて上階を示した。 「刑事《けいじ》部長どのがお呼びじゃ」  刑事部長といえば雲の上の存在である。刑事部長にじきじき呼び出されることなど、一生の警視庁づとめでおそらく一度でもあることではないであろう。  市之進は腰《こし》の手ぬぐいで顔をぬぐうと二階へ上っていった。  二階の幹部連中の部屋《へや》のならんだ一角に、刑事部長の部屋があった。  ノックすると答えがあった。  扉《とびら》を開くと、四畳半《よじようはん》程の部屋にテーブルを置き、その向うに、これは時おり見かける長山《ながやま》参事官の度の強い眼鏡をかけた細い顔があった。  市之進が来意を告げると、長山は立っていってもうひとつ奥《おく》の扉を開いた。扉の内側でうなずく声がした。  十|畳敷《じようじき》ほどの広い立派な部屋で、正面に堡塁《ほうるい》かと思われるような大きなテーブルが据《す》えられていた。だがそこには人影《ひとかげ》はなく、右の方の、皮張りの長椅子《ながいす》に、二人の人物が身を埋《うず》めていた。  一人は顔だけは見知っている刑事《けいじ》部長の山崎太郎丸《やまざきたろうまる》だった。  もう一人は入口に背を向けているので、誰《だれ》であるのか全くわからなかった。 「二等|巡査《じゆんさ》。三原市之進であります」  直立不動の姿勢で名乗った。  山崎刑事部長の双眼《そうがん》が火矢のように市之進の顔に注《そそ》がれた。 「三原。おまえは今日、新橋|停車場《ステンシヨン》の付近で何か変ったことを見なかったか?」  寸毫《すんごう》のためらいもいつわりも許さぬ圧倒《あつとう》的な意志を含《ふく》んでいた。  市之進は辛《かろ》うじて踏《ふ》みとどまった。心の奥底《おくそこ》で市之進を制するものがあった。 「変ったことというものも見ておりませんが、どのようなことでありますか?」  市之進はとっさに探りを入れた。  山崎|刑事《けいじ》部長はちょっと気勢を殺《そ》がれたような顔になった。 「いや。どのようなこと、というのでもないが。見なかったのか? これは妙《みよう》だというようなことを」 「見ておりません。本日は新橋|停車場《ステンシヨン》周辺を密行しておりましたが、別に不審者《ふしんしや》というものもなく、ただ今、帰庁いたしたところであります」 「見たら見たと報告せいよ。何もかくすことはないのだからな。おまえは一等|巡査昇進《じゆんさしようしん》も近いし、そうなれば庁内勤務だからな」 「ありがとうございます」 「ほんとうに見ていないのだな」 「見ておりません」  山崎部長刑事はふと口調を変えた。 「おまえが不穏《ふおん》分子を追跡《ついせき》し、鉄道作業局構内へ追いこんだのを見ておった密行|探偵《たんてい》がおる」 「ああ。それでありましたら、不穏分子であるかどうかは知りませんが、私は掏摸《すり》と思《おぼ》しき男を発見、神妙《しんみよう》にするよう命じましたが、男は逃走《とうそう》いたし、鉄道作業局構内へ逃《に》げこみました。私は追跡《ついせき》いたしましたが、取り逃《にが》しました。まことに相すみませぬ」 「そうか。三原。こちらにいらっしゃるおかたは勝《かつ》先生である。特に引見を賜《たま》わる」  山崎|刑事《けいじ》部長は自ら姿勢を正した。 「東京警視庁二等|巡査《じゆんさ》。元会津|藩《はん》士族、三原市之進であります」  勝先生と呼ばれた男は、はじめて市之進に目を向けた。  年齢《とし》の頃《ころ》は五十|歳《さい》ぐらい。七三に分けたザンギリ頭に、金色のつるの縁《ふち》なし眼鏡をかけていた。その眼鏡のかげの大きな目が日本人|離《ばな》れがしていた。細面の顔に、頭の鉢《はち》が開いていて不釣《ふつ》り合いに大きく、すばしこそうな目の動きとともに、この男が崩壊《ほうかい》してゆく幕府をたった一人で支えたのも、もっともなことと思われた。 「勝だよ。そう固くなるな。お役目、ごくろうさん。こんど酒の相手でもしてくれよ」  勝海舟は、気楽に言い放つと、もういいというように手を振《ふ》った。  市之進は一礼すると踵《きびす》を返した。 「山崎君。三原さんの一等巡査への昇進《しようしん》の件、早く取りはからってはどうかね。あの人は二等巡査にしておくなんて惜《お》しい人物だよ」  勝の大きな声が市之進のあとを追いかけてきた。  市之進は階段を下りても、刑事《けいじ》部屋へはもどらず、裏口へ向った。  考えなければならないことが山のようにあるような気がした。  裏口の扉《とびら》が開いていて、そのむこうに松林が見えた。  とつぜん、市之進は自分が誰《だれ》かに見られているのを感じた。  周囲を見回したが、もちろん人影《ひとかげ》もなかった。  市之進は廊下《ろうか》のはずれにある便所に入った。  便所は下級職員用であり、汚《よご》れて臭気《しゆうき》もひどかったが、市之進は扉《とびら》のかげに体をすくめて立っていた。  アンモニアが目にしみるのをこらえながら、次に何かが起るのを待っていた。  表立って政府の顕官《けんかん》に座ることこそしなかったが、旧幕勢力の代表として政府内外に隠然《いんぜん》たる影響力《えいきようりよく》を持ち、宮中へも繁《しげ》く出入りするといわれる勝海舟は、同じ元朝敵とはいっても、市之進などとは全く別な世界の人間だった。  その勝海舟がいったい何の用があって、この警視庁の一室にあらわれたのだろうか。  そして、山崎|刑事《けいじ》部長か、勝海舟か、それともその二人ともが、新橋の鉄道作業局構内での奇妙《きみよう》な死体消失事件についてなんらかの関心を持っているようだった。  だが、合点がいかないのは、作業局構内のあの場所では、死体と市之進のほかには誰《だれ》もいなかったにもかかわらず、山崎も勝も、その事件を知っているらしいということだった。市之進が気がつかなかった所に誰《だれ》かがいて、目撃《もくげき》したことを早馬かなにかでただちにここへ通報すれば、二人とも知ることができるのかもしれない。だが、山崎|刑事《けいじ》部長はどうせここにいるからよいとして、勝海舟が丁度来合わせていたのならばともかく、間に合うはずがなかった。  さらに気になることは、彼らは、市之進がそのできごとを目撃したかしないかをたいへん気にしている様子だった。気にしているということは、目撃されることを恐《おそ》れているからである。だから山崎は昇進《しようしん》の可能性を餌《えさ》に、事実を聞き出そうとしたのだ。  そのことに、どのような意味があるのか、その意味を知っているのは、山崎刑事部長よりも勝海舟の方であろう。  誰かに見られているという感じはまだ消えていなかった。  そのような気持ちになったのは始めてだった。  奇妙《きみよう》な不安が、たえず胸の内側から彼を衝《つ》き上げた。  せまい便所の中の、頭の中まで蒸されるような暑苦しさも、目にしみるアンモニアも、ほとんど感官から去っていった。  市之進はこれ以上ここにいてはいけないと思った。  おそろしい危険が迫《せま》っているような気がした。  市之進は便所の奥《おく》へ移動した。すみの窓の桟《さん》が一か所、はずれている所があった。  朝顔に足をかけ、窓からのり出した。着物のどこかが釘《くぎ》にひっかかり裂《さ》ける音がした。そのまま体を半回転させて地に跳《と》んだ。  市之進は羽目板《はめいた》に沿って歩き、物置の裏へ出た。  警視庁の建物の周囲は植込みを配した広い庭になっていて、その外側は人の背の高さほどの土堤《どて》が作られていた。土堤の上は生垣《いけがき》だった。  裏門を大八車を引いた男たちが出てゆく。市之進は彼らのうしろについた。  大八車の一団は祝田橋《いわいだばし》を渡《わた》ると、巴町《ともえちよう》の通りへ向った。市之進は左へ曲った。  誰《だれ》かに見られているという感じはもう消えていた。  死体が消えたのを見たか見ないか、それを確かめたいに違《ちが》いない勝らは、これからの市之進の行動でそれを判断しようとかかっているのかもしれない。  もし、見たとわかったら、いったい彼らはどうするつもりなのだろうか? 見た、見られたという事実をかくすために、かれらは市之進の抹殺《まつさつ》をはかるのだろうか?  市之進はおそらくそうであろうと思った。  彼らにとって、かげに存在する事実を知られたか知られなかったかなどということは問題ではなく、でき事を見られたというそのことが問題なのであろう。  上の方の人間というのは、いつもそうだった。  市之進には、旧幕派の代表であり、元朝敵の総大将でありながら、平然として薩長《さつちよう》出身の高官と交わり、宮中|顧問官《こもんかん》などになって天皇の側《そば》近くつかえている勝海舟などという人間が、時代を超《こ》えたとほうもない怪物《かいぶつ》のように思えた。  市之進は、新橋へ出た。  すでに陽《ひ》はかなり傾《かたむ》いていたが、新橋|停車場《ステンシヨン》前の人出は少しも衰《おとろ》えていなかった。  市之進は鉄道作業局の構内へ入った。  そこで新しい客車が完成したらしく、塗装《とそう》も美々《びび》しい客車が一台押し出されてきた。  市之進はそれをやり過し、昼間、男を追いつめた広場に足を踏《ふ》み入れた。  橙色《だいだいいろ》の陽射《ひざ》しが、小屋の板壁《いたかべ》を染めていた。  ヒグラシの声が高く低く聞えてくる。  何の異常も発見されなかった。昼間の異常事の痕跡《こんせき》すら残されていない乾《かわ》いた空地を、市之進は重い足を引きずって歩いた。  品川の方向から機関車の汽笛《きてき》の音が聞えてきた。  信号機の腕《うで》がカタリと落ちた。  とつぜん、市之進は背後に何者かの気配を感じた。  ふりかえると、そこに異様なものが立っていた。     7  そこに一人の西洋人が立っていた。  市之進には外国人の年齢《ねんれい》などまるで推測もできなかったが、老人でもなく、さりとて若い青年でもなく、その中間ぐらいかと思われた。  真中から分けた赤茶色の髪《かみ》は、獅子《しし》のたてがみのように、耳から首筋の後まで豊かな波を描《えが》いていた。目も鼻も口も大きく、全体に造作のしっかりしたたくましい大きな顔は女のように色が白く、淡《あわ》い碧眼《へきがん》が茫《ぼう》と見開かれていた。鼻下の整えられた髭《ひげ》が、その顔をことさらに立派なものにしていた。  その西洋人の着ているものが異様だった。  十徳《じつとく》のような形のものを、裾《すそ》を地に曳《ひ》きずるように、だらしなく羽織《はお》っている。ただ、それが白装束《しろしようぞく》のように純白だった。その白い上っ張りの下から、黒|塗《ぬ》りの高価そうな靴《くつ》の先がのぞいていた。  市之進は自分が夢《ゆめ》でも見ているかのような気がした。  それは、その西洋人の全身が靄《もや》にでも包まれたように、ぼうと薄《うす》れて見えることだった。肩《かた》から腕《うで》にかけては、背後の煉瓦造《れんがづく》りの倉庫の一部が透《す》けて見えていた。  市之進は、この西洋人はおそらく、鉄道作業局の御傭《おやと》いの外人技師であろうと思った。そうでなければ、こんな場所に西洋人がいるわけがない。なんだか体が透《す》き通っているように見えるのも、自分たちにはわからない、外国の何かの舎密学《ケミストリイ》のせいであろうと思った。  茫然《ぼうぜん》と見つめているうちに、西洋人の姿は急速に明確になってきた。  視線が動き、そこに棒立ちになっている市之進をとらえ、不審《ふしん》そうに眉《まゆ》をひそめた。  その後に、また一人西洋人があらわれた。  後の一人は部下か使用人らしく、腰《こし》を折るようにして、先の男につき従っている。  その時、材料置場の入口から、これは日本人の、洋服姿の男が二人、急ぎ足にあらわれた。そこに立っている二人の西洋人を目にするや、低い喜びの声を上げて駈《か》け寄ってきた。 「そやつは何だ?」 「しまった! 見られたか」  激《はげ》しい調子の声音《こわね》が、彼らの口からもれた。  二人の西洋人のうち、頭《かしら》らしいのが、甲高《かんだか》い声で鳥のように何かしゃべった。  日本人の顔が引きつっている。 「ここはわれわれにおまかせください」  彼らの顔には、ある種の決意がみなぎっていた。  お連れするんだ。  あちらへ……  アインシュタイン教授を……  息をはずませた言葉の断片が市之進の耳に飛びこんできた。  市之進は何事か、おそろしい危険が自分の身に迫《せま》っているのを感じた。  一瞬《いつしゆん》ののちに破滅《はめつ》が襲《おそ》ってくるかもしれない。  市之進は本能的に身を翻《ひるがえ》して走り出した。  一気に木柵《もくさく》を飛び越《こ》え、鉄道線路を横切って走った。  視野の端《はし》を虹《にじ》のような光彩《こうさい》が走った。市之進は信号小屋と保線小屋の間をくぐり抜《ぬ》けて鉄道|敷地《しきち》の外へ逃《のが》れ出た。  後をふり返ったが追って来る者の姿はなかった。  だが、市之進の心は恐怖《きようふ》に締《し》めつけられた。  彼らは決して追尾《ついび》をゆるめないであろうという確信めいたものが、市之進の足を急がせた。  彼らは徹底的に追ってくるに違《ちが》いない。  政府|御傭《おやと》いの外国人と、それに仕える日本人とあっては、これまでも政府の権力を背景に横暴の限りをつくしたといってよい。それも鉄道作業局や製鉄所、造船所の外国人技師は、明治政府の産業近代化と富国強兵策の尖兵《せんぺい》として極めて優遇《ゆうぐう》されたから、彼らの周囲には国辱《こくじよく》的なエピソードが多い。  市之進が追われるけもののようにそう毛立っているのも、彼らにとっては警視庁の密行|探偵《たんてい》の一人や二人|抹殺《まつさつ》することなぞ、夏の蚊《か》をてのひらで打ちたたくよりも造作ないことであることを知っているからであった。  彼らは警視庁へも手を回してくるであろう。  たいへんなものを相手にしてしまった。強い悔恨《かいこん》がともすれば市之進の足をもつれさせた。  芝《しば》 桜川町《さくらがわちよう》まで足を運んできて、蕎麦屋《そばや》の暖簾《のれん》をくぐった。  冷麦《ひやむぎ》をあつらえて汗《あせ》をぬぐっていると、ようやく呼吸が通常《つね》の状態にもどって来た。 「やつら。何をしていやがったんだ? あんな所で」  市之進があの場にいたということが、彼らの大変な計算|違《ちが》いであり、そのゆえに市之進の抹殺《まつさつ》を図るなど、よほど重大な事件に違いなかった。  市之進の胸から恐怖心《きようふしん》が薄《うす》れ、それに代って勃然《ぼつぜん》と密行|探偵《たんてい》としての意地が頭をもたげてきた。 「大きな疑獄《ぎごく》事件かもしれんな」  まずそれしか考えられなかった。そうでなくても、政府の高官や上級官員と各種業者との悪どい結びつきがさまざまに取沙汰《とりざた》されている。とくに鉄道作業局のように、機関車から客車、貨車、レール、信号機の果てに至るまで外国から買い込んでいる状態では、その支払《しはらい》条件や値段のきめ方などで、その役に当っている者は、巨大《きよだい》な利権を得ることができる。  市之進は運ばれてきた冷麦を口に運びながら、彼らへの再度の接近を考えていた。  まず鉄道作業局|御傭《おやと》いの外国人技師と彼らのあずかっている仕事の内容を知る必要があった。  それは簡単に調べることができる。同時に彼らと部署をひとつにしている日本人の職員の名前も明らかになるであろう。 「ようし!」  ぴしりと箸《はし》を折った。  盆《ぼん》の上に代金を置いて立ち上った。  店の外を、大八車を引いて回漕店《かいそうてん》の男たちが通り過ぎていった。青海波《せいがいは》に千鳥を配した柄《がら》の印袢天《しるしばんてん》にたくましい体を包んだ男たちは、帯の後へはさんだ手鉤《てかぎ》もものものしく巴町《ともえちよう》の角へ曲ってゆく。 「ごちそうさん。うまかったぜ」  店の小女にそう言って暖簾《のれん》をくぐった。  その時、大八車がおそろしい勢いで突込《つつこ》んできた。  反射的に市之進の体はちゅうに跳《と》んでいた。  その足の下を、からの大八車が地ひびきを上げて通り過ぎ、蕎麦屋《そばや》の店先へ突入《とつにゆう》した。  柱が折れ、廂《ひさし》がぐわらぐわらと崩《くず》れ落ちた。壁《かべ》が落ち、ほこりが濛《もう》と立ち上った。  釜場《かまば》から赤い焔《ほのお》の舌がのびた。  市之進はほこりの雲の下をかいくぐって表の往還《おうかん》へ逃《のが》れ出た。  左足のふくらはぎに熱鉄を押し当てられたような激痛《げきつう》が走った。短い手鉤《てかぎ》が突《つ》き刺《さ》さっていた。  身をかがめてそれを引き抜《ぬ》いたとたんに、肩《かた》にずしりと重い物がぶつかった。足元に落ちたのは手鉤だった。幸い柄《え》の方がぶつかったらしい。続いてまたひとつ飛んできた。夢中《むちゆう》で頭をかたむけて耳すれすれにかわした。 「なにをしやがる」  手鉤を構えた印袢天《しるしばんてん》の男たちが、市之進を押しつつむように進んできた。  市之進はひそかに胸の中で舌打ちした。  武器は何もなかった。探偵《たんてい》は密行|捜査《そうさ》の任務に就く時は、よくふところに、町奉行所《まちぶぎようしよ》以来の十手をしのばせたり、短筒《たんづつ》をかくし持ったりすることがあるが、市之進はこれまで、武器を持ったことはなかった。  右から男の一人が突込《つつこ》んできた。ふりおろした手鉤《てかぎ》が空気を切った。無意識に身を沈《しず》めたとたんに、背後から頭の上を男が跳《と》び越《こ》えた。斜《なな》めにすり上げた手鉤《てかぎ》が、市之進の着衣の肩口《かたぐち》を大きく切り裂いた。  市之進は、折れた梁《はり》の間から、手頃《てごろ》な長さの棍棒《こんぼう》をつかみとった。棍棒が旋転《せんてん》するたびに、何丁もの手鉤がちゅうに舞《ま》い上り、男たちの胸元をかすめて飛んだ。 「けんかだ! けんかだ!」 「けんかじゃねえ。捕物《とりもの》だ」 「火事だ」 「人殺し!」  大騒動《おおそうどう》になった。人々が駈《か》け集って来、彼らと印袢天《しるしばんてん》の男たちとの間でも闘争《とうそう》が始まった。怒声《どせい》と悲鳴が渦巻《うずま》き、土煙《つちけむり》に血《ち》飛沫《しぶき》が混った。  市之進はすきをうかがっては後退した。  路上や隣接《りんせつ》する路地などで入り乱れて戦っている者たちは数十名にものぼっていたが、印袢天の男たちが、自分を唯一《ゆいいつ》の目標としていることはあきらかだった。  市之進はこんな所で生命を落してはたまらないと思った。  右から左から手鉤《てかぎ》をふるって襲《おそ》ってくる男たちを打ち払《はら》い、なぐり払い、脱出路《だつしゆつろ》を求めて走った。  蕎麦屋《そばや》は階下から二階まで余す所なく火に包まれていた。火は隣《となり》の大きな店屋に燃え移り、渦巻《うずま》く黒煙《こくえん》は町内一円を夜のように閉《とざ》していく。 「何者だ。おまえたちは。おれが警視庁|巡査《じゆんさ》と知ってのことか」  さけんだが、彼らは口を閉したまま、攻撃《こうげき》はいよいよ激《はげ》しくなった。 「そうか。知っているというわけだな。いい覚悟《かくご》だ。それならこっちも手加減なくやれるってもんだぜ」  市之進はてのひらにつばを吐《は》いた。  棍棒《こんぼう》がうなりを生じて手鉤《てかぎ》の男たちを襲《おそ》った。頭蓋骨《ずがいこつ》の砕《くだ》ける音や筋肉が打ちすえられる音が、左右からほとんど同時に聞え、二人の男がぼろ布のように地に伏《ふ》した。だが男たちは勇敢《ゆうかん》に市之進に肉薄《にくはく》した。さらに一人が紅ほおずきのようになってのけぞり、もう一人、泳ぐようにのめって地面に這《は》った。  手鉤の男たちは、それにもひるまず、市之進の行く手をはばんで、けもののように跳《と》びかかってきた。 「どうあってもおれを亡き者にしてえというわけだな。そうか! 読めたぞ。あの異人とそのなかまのやつらの差し金だな。おまえたちは刺客《しきやく》か。こいつは笑わせるぜ」  乱刃《らんじん》の上に火のついた柱や羽目板などがばらばらと落ちてきた。  猛焔《もうえん》に包まれた蕎麦屋《そばや》が焼け落ちる。 「逃《に》げろ!」  群衆がクモの子を散らすように逃《に》げた。  かけつけてきた消防団も警官隊も、火の滝《たき》に背を向けて走った。  逃げ走る群衆の間を縫《ぬ》って手鉤《てかぎ》の男たちは、市之進の周囲に集ってきた。  数名の男が、前後から市之進に組みついてきた。さらに、三、四名が市之進の手足にしがみついた。 「離《はな》せ! こいつめ」  市之進は必死に力をふりしぼった。だが手足はびくとも動かなかった。  その上に、家の骨組みの形をした火の塊《かたまり》がどっとなだれ落ちてきた。  新しい火の海が八方にひろがった。  もうだめか! 市之進は全身の力を抜《ぬ》いた。何がどうなっているのか、全くわからなかったが、何者かが自分の生命をねらっているということだけは確実だった。  会津の戦いに続く熊本の激戦《げきせん》の記憶《きおく》が走馬灯《そうまとう》のように市之進の頭の中に通り過ぎた。意識が薄《うす》れた。薄れてゆく意識の中で、彼は自分の体が、誰《だれ》かの手によって運ばれてゆくのを感じていた。     8  朝から降り出した雪は、夜に入って烈《はげ》しい吹雪《ふぶき》となった。  ガス灯の回りの赤い光の輪の中を、あとからあとから際限もなく雪片が通過してゆく。  右も左も、前も後も、ただ純白の夜だった。  その雪の幕《とばり》のむこうから、馬橇《ばそり》の鈴《すず》の音が聞えてきた。賑《にぎ》やかに高くなる。  馬の猛々《たけだけ》しい吐息《といき》と馬具の皮や唐銅《からかね》の鳴るせわしないきしみや響《ひび》きが街角を回っていった。キャビンにとりつけられた角灯の光が、複雑な動きで踊《おど》っていた。  馬橇はピョートル大帝《たいてい》通りに面した豪壮《ごうそう》な館《やかた》の前で止った。  馬橇の到着《とうちやく》はすでに知らされていたらしく、館の玄関《げんかん》の廂《ひさし》の下から、十数個の人影《ひとかげ》が走り出てきた。カンテラと松明《たいまつ》の光が入り乱れた。  馬車の扉《とびら》が開き、客が下りた。  ただちに差掛傘《さしかけがさ》がうやうやしくさしかけられ、その下を客は玄関へ向った。  大理石の円柱の前で、羽根飾《はねかざ》りの軍帽《ぐんぼう》の士官が不動の姿勢をとってさけんだ。 「|客 将 軍 西 郷 閣 下《ゴステイーヌイ・ゼネラール・サイゴウ》」  輝《かが》やくシャンデリアの下に、訪問客が入ってきた。  一メートル八十はあろうと思われる岩のような巨体《きよたい》を、ロシヤ|帝国《ていこく》陸軍中将の制服に包み、黄金の太刀《たち》を佩《は》いたその人は、薩摩《さつま》の生んだ英雄、西郷隆盛その人であった。  肩《かた》から腰《こし》へかけた紺《こん》と白の綬《じゆ》は、ピョートル大帝《たいてい》一等|勲章《くんしよう》であり、左右の胸を飾《かざ》るのはアレキサンドル勲章をはじめ、スラブ名誉《めいよ》勲章、コサック大騎兵《だいきへい》章などロシヤ軍人最高の名誉を飾る勲章だった。紺青《こんじよう》の上着に赤条《あかすじ》の入った黄色のズボン。その膝《ひざ》の下までおおったスパッツは、皇帝《こうてい》ニコライ二世の皇后から贈《おく》られた白貂《しろてん》の毛皮だった。 「西郷閣下。よくぞおいでくださった。光栄に思いますぞ」  玄関《げんかん》に続く大広間に、悠容迫《ゆうようせま》らぬ足取りであらわれたのは、ロシヤ|帝国《ていこく》陸軍のアレクセイ・ニコライウイッチ・クロパトキン大将だった。  西郷とクロパトキンはしっかりと手を握《にぎ》り合った。 「ゼネラール・サイゴウ。貴方《あなた》はロシヤ軍人以上にロシヤ軍人だ」 「有難う。だが、それ以上に私は日本陸軍の軍人である」  西郷は白い歯を見せた。 「よろしい。実によろしい」  クロパトキンは何回もうなずいて握りしめた手を打ちふった。 「西郷閣下に私の戦友を紹介《しようかい》しよう」  クロパトキン大将は、西郷の手を離《はな》して、自分の後に立っている軍人たちをふりかえった。 「オスカー・カシミロウイッチ・グリッペンベルグ陸軍大将」  長身|赤髭《あかひげ》の将軍はカチリと踵《かかと》を引いて挙手の礼をした。  西郷はにこやかに答礼した。 「ニコライ・ペトロウイッチ・リネウイッチ陸軍中将」  ひたいがぼんのくぼまでひと続きになっているのに対し、鼻下の太い八字|髭《ひげ》から、密生した顎髭《あごひげ》が対照的だった。  リネウイッチ中将は気難かしげな面持ちで握手《あくしゆ》の腕《うで》をさしのべた。 「よろしく」 「こちらこそ」  西郷は彼独特の邪気《じやき》のない笑顔で応《こた》えた。 「ロシヤ帝国男爵《ていこくだんしやく》。アナトール・ミハイロウイッチ・ステッセル中将」  ステッセル中将は七尺はあろうかと思われる長身に幅《はば》広の肩《かた》と厚い胸が釣《つ》り合って、格闘技《かくとうぎ》の選手のようなたくましい体つきをしていた。鼻下の漆黒《しつこく》の髭《ひげ》が、ふたえまぶたの円い目とそぐわない。 「ステッセル中将は皇帝陛下とは遠い縁《えん》続きで、しかも陛下のたいへんなお気に入りなのじゃ」  クロパトキン将軍は、揶揄《やゆ》とも皮肉ともとれる言い方をした。 「ことにその精力的な顔が、宮中の女官どもには、ても、こたえられぬものとみえる」 「この口の悪い男はロシヤ|帝国《ていこく》陸軍中将、コンスタンチン・ニコラエウイッチ・スミルノフである」  灰色の八字髭を左右にぴんとはねたスミルノフ中将は無帽《むぼう》のこめかみに白い手袋《てぶくろ》の手を当てて敬礼した。  さらに、顔の下半分を扇形《おうぎがた》の少し大き過ぎると思われる口髭でおおった陸軍少将ロマン・インドロウイッチ・コンドラチェンコが紹介された。  クロパトキン将軍は、数歩|退《さが》ってひかえている大佐《たいさ》、中佐《ちゆうさ》クラスの将校を引き合わせた。  西郷隆盛は、一人一人に親しげに手をさしのべていたが、名前も階級もとても覚えきれるものではなかった。  三十分もかかってようやく挨拶《あいさつ》が終ると、一同は小憩《しようけい》の間へ案内された。  ここではクロパトキン将軍の家族が出てきて西郷に挨拶した。  長女はすでに陸軍|騎兵大尉《きへいたいい》の夫を得ている。次女のタチアナのけむったような美しさが西郷の心をとらえた。 「|姫さん。美しいごたある《カーク・ヴイ・クラシーヴア・クニヤージナ》」  西郷は法螺貝《ほらがい》の鳴るような声で言うと、タチアナの、レースの手袋《てぶくろ》に包まれた手を取ってひたいに押し戴《いただ》いた。  タチアナは透《す》き通ったようなほおに血の色を浮かせて、舞《ま》うように会釈《えしやく》した。  執事《しつじ》が入ってきて合図した。クロパトキン将軍は皆を客殿《きやくでん》へ案内した。  百|畳敷《じようじき》ほどの豪壮《ごうそう》な大宴会場《だいえんかいじよう》の中央に、テーブルが据《す》えられ、クロパトキン将軍と西郷が対《むか》い合い、他の将軍たちは両側に居|並《なら》んだ。  数十人の白服の少年給仕が、隊列を作ってあらわれた。  それを露払《つゆはら》いに、十数人の料理人を従えた料理長が入ってきた。  小頭《こがしら》格の料理人が、今日の料理のメニューを主人と客たちの前に配り、僧正《そうじよう》のような料理長が威厳《いげん》のこもった口調で説明をはじめた。  西郷には半分も解《わか》らなかったが、今日の料理の主体は南方のカスピ海に面した温暖なアストラカン地方で獲《と》れる渡《わた》り鴨《がも》の手羽肉を、ワラキア産の葡萄酒《ぶどうしゆ》に浸《ひた》し、それを牛の上等の脂《あぶら》で炒《いた》めたものだという。それから貝だの魚だのいろいろと説明があり、最後に彼は、背後の料理人の一人から酒壺《さけつぼ》を受け取り、そのレーベルを一同に示した。それがあたかも自分の提供品であるかのように、もったいぶった説明があり、客たちはまたそれが礼儀《れいぎ》であるかのようにやんやと声を出して合点し、拍手《はくしゆ》した。  豪華《ごうか》な、長い宴会《えんかい》だった。将軍たちは鴨の骨や魚の小骨などを、口中から床《ゆか》へ、ぷっ、ぷっと吐《は》き出した。  給仕人が酒をすすめるたびに客たちは酒盃《しゆはい》に残っている酒をさっと床《ゆか》にあけた。  床は足首まで埋《う》まるような多彩《たさい》なペルシア絨緞《じゆうたん》が敷《し》きつめられていた。  西郷はよく食べ、よく飲んだ。口中の骨はポケットからハンカチーフを出し、それに包んでポケットへおさめた。  三時間もかけてようやく食事が終り、それから別室へ移ってシガレットが振舞《ふるま》われた。 「さて、それでは西郷閣下をおむかえしての、極東における最近の軍事情勢に関する検討会をもよおすことにいたそう」  それが今日の会合の目的のはずなのに、時計はすでに午後七時を指そうとしていた。  そして極東における最近の軍事情勢に関する検討会なるものは、実は満州《まんしゆう》における日本軍との戦いの幕あけをいつにするかをきめる事実上の戦略会議であった。  館《やかた》の奥《おく》の二階の会議室が今宵《こよい》の会場だった。  壮麗《そうれい》なシャンデリアの輝《かが》やく下の、大理石と紫檀《したん》で造られた大テーブルを囲んだ将星たちは打ちくつろいで浮き浮きとしていた。  だが、ここには戦費を勘案《かんあん》する大蔵大臣ウイッテも、内務大臣のビアチェスラブ・コンスタンチン・プレーベも、知日家で知られた外務大臣のニコライ・ラムスドルフ伯爵《はくしやく》も、また皇帝のこよないお気に入りである退役|大尉《たいい》の国務大臣ベゾブラゾフらの姿もなかった。  何よりも、皇帝ニコライ二世の姿もなく、ロシヤ陸軍の最高首脳の出席もなかった。  西郷隆盛は太い眉《まゆ》を寄せ、吐息《といき》をもらした。  ロシヤ陸軍の最高司令官は皇帝ニコライ二世自身であり、海軍も同様だった。驚《おどろ》いたことに、最高司令官を補佐《ほさ》する参謀《さんぼう》総長も皇帝自身であった。陸軍にも海軍にも高級参謀は数多くいるが、彼らはすべて皇族か貴族であり、名誉職《めいよしよく》であって真に参謀としての能力は問うところではなかった。最高司令官である皇帝が彼らを参謀《さんぼう》として召集したことなど一度もなかった。  陸軍大臣も海軍大臣も、皇帝が身内の誰《だれ》かに与《あた》える肩書《かたがき》だけのポストになっていたし、軍の組織も編成もすべて皇帝ニコライ二世の胸の内で決定された。つまり兵馬の権は皇帝の手に全く握《にぎ》られていた。  それも皇帝自身が軍事に関心を持ち、軍の組織に精通しているならば、単純にしてかつ極めて強力な指揮系統といえるだろう。この時期のロシヤにとってはなはだ不幸だったことは、皇帝ニコライ二世は、軍事に関しては全くの素人《しろうと》であり、しかも何の関心も抱《いだ》かなかったということにあった。  これから始まろうとする日本との大戦争は、ロシヤ陸軍極東軍総司令官、アレクセイ・ニコライウイッチ・クロパトキン大将にすべてゆだねられていた。  ロシヤ皇帝にとって、極東における戦争は、実はロシヤ全体の問題ではなく、単に遠い遠い極東での問題でしかなかったのだ。  だからこそ、この席の最高軍事責任者が、クロパトキン将軍だったのである。 「クロパトキン閣下。これは御国《おくに》の軍隊の組織に基づくものだからして、小輩《しようはい》の如《ごと》きがとやかく言うべき筋合いはないが、ロシヤ|帝国《ていこく》は、極東における戦争を、少し軽く考えてはおりませぬか」  西郷は低くしわぶきをもらすと、一同の上に大きな目を向けた。 「と、いわれると?」  グリッペンベルグ大将が、かぎ煙草《たばこ》を鼻孔《びこう》に押し当てながらたずねた。 「クロパトキン閣下。これは失礼な言い方に取られるかもしれぬが、御容赦《ごようしや》下さい。閣下。閣下は極東軍総司令官であられる。この極東軍総司令官の職権は極東におけるロシヤ陸軍の指揮権に限られると小輩は理解しております」 「いかにも」 「しかしながら、小輩の見るところ、その極東軍総司令官が、ロシヤ帝国の命運にかかわる大戦争全体の計画を立て、指揮を取られるように印象を受けておりますが、これは如何《いかが》なものでありましょうか」  西郷の質問に、ステッセル将軍が答えた。 「西郷閣下。閣下の感じ取りになられたことはまことに正しい。そのとおりなのです。クロパトキン将軍は、単に極東における一小|戦闘《せんとう》の指揮を取られるだけではない。ロシヤ大陸軍全体を掌握《しようあく》しておられるのです。皇帝《こうてい》陛下のクロパトキン将軍に寄せられる信頼《しんらい》は絶大です。われわれは今ここで、ロシヤ全体の軍事問題について協議しようとしているのです」  ステッセル将軍は、さとすように言った。  彼はクロパトキン将軍の、大ファンであり、ほとんど弟子か子分といった関係だった。  西郷はたなびくパイプ煙草《たばこ》の煙《けむり》の底から、居ならぶ将軍たちに憐《あわ》れみと、同情のこもったまなざしを注《そそ》いだ。  彼らは近代軍隊というものが、よく解っていないようだった。解っていないだけではなく、彼らには自分たちが職業軍人だという自覚すらないのではあるまいかと思われた。  このロシヤ|帝国《ていこく》においては、軍隊は名実ともに皇帝の私兵であり、その軍隊は幾《いく》つかの地区を担当する司令官の指揮のもとにゆだねられていた。その司令官たちをまとめる機関や組織などというものはなく、司令官たちはそれぞれに皇帝ニコライ二世の指揮を受けていた。 「閣下。これは小輩《しようはい》の老婆心《ろうばしん》から出た心配でありまするゆえ、もし御不快に感じられることがあれば御容赦《ごようしや》願いたい。たとえば、クリミヤ半島地区の司令官が、隣接《りんせつ》するウクライナ軍管区の司令官に戦術的な援助《えんじよ》を求めようとした場合に、臨機応変に判断を下し得るいわば前線司令部の如《ごと》きものがあれば、戦況《せんきよう》の急変にも柔軟《じゆうなん》に応ずることが可能でありましょう。それをいちいち皇帝陛下のもとまで上申していたのでは、甚《はなは》だ非能率的でありまっしょう。ことに戦乱が輻湊《ふくそう》し、通信が乱れてくると、現在のような指揮形態では、流動する戦機に追いつくことができません。この点について、クロパトキン閣下はどのようにお考えになりますか?」  西郷の質問に、クロパトキン将軍は苦しそうに返事をためらった。  またしてもステッセル中将が身をのり出した。 「西郷閣下。その心配は御無用に願いたい。失礼ながら、日本のような小国では、動員できる兵力もわが国と比べて取るに足らぬような小兵力であり、全軍を一手に集めて戦わねばならぬであろうが、ロシヤ|帝国《ていこく》は広大である。一軍管区内の兵力が、日本の全兵力に匹敵《ひつてき》するであろう。従って、いかなる事態でも一軍管区の内で処理することができる。隣接《りんせつ》する軍管区に援助《えんじよ》を乞《こ》う必要がない」  ステッセル中将は、何をわかりきったことを言うのか、というように、西郷を見据《みす》え、それからおもむろに、顔を正面へ向けた。  西郷は何の感情も色にあらわすことなく、黙《だま》ってうなずいた。  どうもこのステッセルという男は頭が悪いようだ。  規模の大小にかかわりなく、問題は指揮と用兵の本質であり現実だった。  もし、戦局急を告げる時に、唯一《ゆいいつ》の最高指揮官である皇帝の身に、もしものことでもあったら、次代の皇帝が即位《そくい》するまで、誰《だれ》が戦争の最高指導者となるのだろうか? それは摂政《せつしよう》や皇太子がいるからよいというものではない。皇帝の身にどのような変化が起ろうとも、戦争の指導を行い得る複数の人間から成る機関を平和時から設置しておかなければならないであろう。  それが皇帝《ツアー》の好むところではないのかもしれない。  皇帝親率というのは、平時やとくに勝ち戦さの時には、皇帝がほしいままに大兵力を動かすことができるのでそれなりに意味はあろうが、いったん敗勢になると、処理しきれなくなる。つまり、勝っている時は、勢いにのっているだけに、軍制に欠陥《けつかん》があってもそれによる損害は形になってあらわれてはこない。だが、敗勢は一人の人間で支え切れるものではない。ロシヤに攻《せ》めこんだナポレオンが敗れたのもそれである。 「よろしいかな。よろしければ、作戦の検討に移りたいが」  クロパトキン将軍が西郷の顔をうかがった。  西郷は黙《だま》ってミルク茶のカップを取り上げた。カップの中の小さな波紋《はもん》に、シャンデリアの光彩《こうさい》が激《はげ》しくゆらめいていた。  西郷がロシヤ軍を理解するにつれ、日本との戦いにおける勝利の獲得《かくとく》は、ほんの少しずつ難かしさを加えていったが、まだまだ現実の範疇《はんちゆう》にあった。     9  日清《につしん》戦争によって朝鮮《ちようせん》半島を手に入れた日本は、続いてそのほこ先を、現在の中国の東北地方である満州《まんしゆう》へ向けてきた。  日清戦争の戦後処理は、ロシヤ、ドイツ、フランスの干渉《かんしよう》によって、はからずも次の戦争を約束《やくそく》させる結果となった。  ロシヤは、日本が遼東《りようとう》半島や旅順《りよじゆん》を領土として併合《へいごう》しないように、あらゆる努力を傾注《けいちゆう》した。  極東におけるロシヤの巨大《きよだい》な軍事力を背景にした主張に、大国|清国《しんこく》を相手の戦いに疲《つか》れきった日本は、とうてい対抗《たいこう》できる力なぞ残していなかった。日本は小国の悲哀《ひあい》を噛《か》みしめなければならなかった。三国の干渉に対し、日本はイギリスの助力を大きく期待したが、イギリスはそれに対して熱意のある回答は示さなかった。  実際のところ、イギリスにとって、極東で自己の権益を守るために、また後日の為《ため》に役に立つことならば動きもしようが、日清戦争後の日本に対してイギリスは非常に警戒《けいかい》的になっていた。イギリス人は、急速に伸長する日本の勢力に、ある種の不安を感じ取っていた。それに加えて、イギリス経済界は、極東の小国に対するイギリス政府の必要以上の同情が、ヨーロッパでの大国ロシヤとの無用な摩擦を生むことを嫌《きら》っていた。  清国は三国の提案に基づき、遼東《りようとう》半島と旅順をあきらめた日本に対し、大幅《おおはば》に増額された賠償金《ばいしようきん》を支払《しはら》うことを肯定《こうてい》した。日清《につしん》戦争で日本が使った戦費二億三千二百六十万円に対し、賠償金の総額は四十七億円に達した。  経済の破綻《はたん》に苦しんでいた日本はそれによって息を吹き返し、日本はその巨額《きよがく》の賠償金によって、英国に有力な戦艦《せんかん》をつぎつぎに発注した。商売だから今度はイギリスも積極的にサービスする。  日本人はそれを日本に対する後押しと解釈して喜び勇んだ。イギリスは、日本がロシヤと戦って勝てるとは思っていなかったであろう。だが、現金を持っている客だから、金が続く間は、大いに好意を見せたというところだ。またイギリスにしてみれば、日本との戦いでロシヤが消耗《しようもう》し、傷ついてくれれば、これは願ってもないことで、自らの手を汚《よご》さずに、大きな利を占《し》めたことになる。  日本の熱狂《ねつきよう》的な戦争準備に、ドイツもフランスも、深い危惧《きぐ》の念を見せたが、当の相手であるロシヤはのんびりしたものだった。ドイツやフランスは多少の恫喝《どうかつ》をしてみたものの、極東のはるかかなたで何が起ろうと、政治家たちはほとんど関心がなかった。  日本人にとって、当時、国の方針は個人の生活の指針でもあった。  皇帝ニコライ二世は、絶対君主として、政府の立法、司法、行政と経済、軍事、警察など、あらゆる組織と機能のすべてを統轄《とうかつ》していたが、それらのすべてに責任を持つには、彼は少し非力に過ぎたし、彼自身の運命もかなり苛酷《かこく》なものだった。  全く不思議な話だが、この時代のロシヤには総理大臣というものはいなかったのだ。つまり彼の内閣は彼の軍事組織が最高司令官を欠くように、総理大臣を欠いていたのだった。それだけでなく、閣議というものがなかった。各大臣は必要な時に皇帝に呼び出され、命令を受けるのだった。しかもその命令はおおむね思いつきであり、皇帝のその日の気分によって相反するような命令が頻発《ひんぱつ》されるのだから、大臣もどこまで真剣《しんけん》に動いたらよいのかわからないし、下手《へた》に動いて失敗するよりも、動かない方が得策であった。  なおいけないことに、高級役人も高級軍人もすべて皇族か貴族の出身であり、彼らの失う物はあまりにも多かった。皇帝《ツアー》は、その日の気分次第で、同じ程度の罪に対し、極めて軽重の差のある断罪を下した。何事かを成して賞讃《しようさん》されるよりも、失敗して生命や財産を失う危険の方を避《さ》けるのは、この時代の貴族の常識だった。  西郷は今そのことを思って、また少し彼らの勝利が遠のいたのを感じた。 「皇帝陛下はどうしておられる?」  西郷は話題を変えた。  リネウイッチ中将が、わずかに肩《かた》をすくめた。 「本日は冬宮で、国務大臣ベゾブラゾフを招いて舞踏会《ぶとうかい》じゃ」  他の将軍たちは鼻白んだ。  ペテルブルグのネバ川に沿った二キロメートルもの区間にわたって、壮麗《そうれい》な威容《いよう》を示す冬宮は、皇帝《ツアー》のたいへんお気に入りの場所だった。  皇帝《ツアー》は毎日のように、客を招いては宴会《えんかい》と舞踏会に明け暮れていた。客は外国の使節から役務の年季をつとめ上げた貴族や将軍、あるいは博士たちや著名な芸術家など、さまざまだった。すばらしい御馳走《ごちそう》と高価な酒のあとで、お定まりの舞踏会だった。貴族の姫君《ひめぎみ》たちはみな美しく、舞踏会の常連である士官学校の生徒たちとよく釣《つ》り合っていた。  その時、鈍《にぶ》い爆音《ばくおん》が壁《かべ》や床《ゆか》を震《ふる》わせて伝わってきた。  シャンデリアが大きく揺《ゆ》れ、黄金の飾《かざ》り板が澄《す》んだ響《ひび》きを発した。 「爆発音《ばくはつおん》のようだが」  クロパトキン将軍がテーブルの上の呼鈴《よびりん》を取り上げて振《ふ》った。  また聞えた。今度のは前よりも低かったが、かすかな地響きをともなっていた。  扉《とびら》が開いて、騎兵大尉《きへいたいい》の制服を着た青年将校が入ってきた。クロパトキン将軍の長女の婿《むこ》らしかった。  将軍が何かささやくと、大尉は足早に出ていった。 「様子を見にやらせました」  将軍がそう言っているうちに大尉《たいい》がもどってきた。 「内務大臣プレーベ卿《きよう》の館《やかた》に爆弾《ばくだん》を投げこんだ者がおります」  声がおさえきれずに震《ふる》えていた。  一座は大きく動揺《どうよう》した。  クロパトキン将軍が立ち上った。  会議室を横切り、隣室《りんしつ》へ入っていった。カーテンの環《かん》が鳴った。 「おう。煙《けむり》が上っておる。警官隊は何をやっておるのか」  ステッセル将軍が立ち上り、ついで他の将軍たちが席を離《はな》れ、隣室へぞろぞろ入って行った。  その部屋《へや》はクロパトキン将軍の私用の喫煙室《きつえんしつ》のようだった。  分厚いカーテンが払《はら》われ、雪のモスクワの市街が白い毛布を敷《し》きつめたように望まれた。  視界の右の外れ近くに、濃《こ》い黒煙《こくえん》が立ち上っていた。  一同は折り重なるようにして煙の下をのぞきこんだ。  城のような複雑なシルエットを持った屋敷《やしき》があり、雪が滑《すべ》り落ちてむき出しになった青銅の屋根の下から、真赤な火焔《かえん》が噴《ふ》き出していた。  雪の中を何人かの男たちが走っていた。彼らの手から錆色《さびいろ》の閃光《せんこう》がはためき、銃声《じゆうせい》が伝わってきた。 「ニヒリストの襲撃《しゆうげき》ですな。これはいかん。将軍。この館《やかた》の警備は万全ですかな」  グリッペンベルグ将軍がおびえたように周囲を見回した。  内務大臣のプレーベは、今年になってから秘密警察アクラナをこれまでの三倍にも増強するとともに、彼らに臨機応変の発砲《はつぽう》権限を与《あた》え、学生や労働者の政治活動の弾圧《だんあつ》にのり出した。  小説家のツルゲーネフが、ニヒリストと名づけた学生運動家たちは、早速プレーベと皇帝のアクラナの第一の目標となった。  キエフやペテルブルグやハリコフや、あるいはクリミヤやウクライナなどのいたる所で激《はげ》しく渦巻《うずま》いている農民|一揆《いつき》を支援《しえん》する学生たちは、教師や親の忠告や叱責《しつせき》に反抗《はんこう》して髪《かみ》を長く伸《の》ばし、口髭《くちひげ》をたくわえ、街頭に出て隊伍《たいご》を組んで押し歩いた。彼らはいっさいの権威《けんい》や専制を否定し、その手段として破壊《はかい》と暗殺を声高に提唱し、警官隊や軍隊と真正面から衝突《しようとつ》した。流血の騒動《そうどう》があちこちでくりひろげられた。  枯野《かれの》の野火のように抵抗《ていこう》運動はとめどもなくひろがっていった。  ペテルブルグでは皇帝暗殺計画が発覚し、犯人と目された学生やその後援者《こうえんしや》数十人が略式裁判で死刑《しけい》にされた。  造船所や製鉄所、軍服の縫製《ほうせい》工場などではいつ終るともないストライキが続けられていた。  農民も工場労働者も、食う物はおろか、暖を取る為《ため》の薪《まき》一本ないありさまだった。  吹雪《ふぶき》はいよいよ古都を白一色で包み、凍死者《とうししや》や餓死者《がししや》は取り片づける者もないまま雪に埋《う》もれていった。  この頃《ころ》、カール・マルクスは、フレデリック・エンゲルスにあてた短い手紙の中で、�革命の時期は思ったより早くやってくると思う。われわれは強力な手段を今や手中にしている�と記している。  皇帝ニコライ二世の戴冠式《たいかんしき》は、彼と彼の人民とを決定的に裂《さ》いてしまった。  皇帝夫妻は戴冠式の翌日、祝賀行事のひとつである国民|謁見《えつけん》の場である、モスクワ郊外《こうがい》のハディンカ牧場へ出かけた。そこはふだんは軍隊の演習場に使われていて、見わたすかぎりの草原がひろがっていた。  皇帝はその場に集る国民への贈《おく》り物として、キャンデーをつめたブリキ製の酒盃《しゆはい》を用意した。  人々は夜のうちから何千人も集って、贈り物が配られる時刻が来るのを待ちわびていた。その半数が子供だったのが不幸だった。  夜が明け、広場の中央に積み上げられた贈り物の山があきらかになってくるにつれ、誰《だれ》の胸にも、そこに集った人間の数の方が、贈り物の数よりもはるかに多いのではないか、という不安がわいてきた。  とつぜん、群集の中から、贈り物が積んである台へ向って走り出したものがあった。とまどったように数人が続き、ついで、数千人がどっと動いた。  群集の整理と皇帝の警護の為《ため》にコサック騎兵《きへい》の一隊が広場の周辺に配置されていた。  群集の暴走に、コサック騎兵の隊長は抜刀《ばつとう》して、彼らの阻止《そし》を命じた。  何十人が鉄蹄《てつてい》にかけられたかわからない。コサック騎兵が阻止の為の突撃《とつげき》を開始した時、群集の先頭を走っていた者たちがつまずいて倒《たお》れた。何十人かが倒れ、その上に何百人かが折り重なった。贈り物を積み上げた台は崩《くず》れ落ち、さらにその上に何千体もの人間の体が積み重なった。  死者や負傷者がすべて運び去られたのは、その日の太陽が広野の西の野末に沈《しず》む頃《ころ》だった。  血の海の中に、ぼろ布のような衣類の切れ端《はし》と、数えきれぬほどの、安物のキャンデーとブリキの酒盃《しゆはい》がころがっていた。  このハディンカ牧場は、現在のモスクワ空港である。先年、私はモスクワ空港に立ってこの事件を思い起した。颯々《さつさつ》と渡《わた》る風に、過ぎた日の歴史のひとこまが、目に浮かぶようであった。  ニコライ二世はこのできごとによる死者の家族に数十万ルーブルを贈《おく》って慰《なぐさ》めたが、その分配の実際がどうであったのか、報告も記録もないという。  この事件で親や子供を失った人々は、後年、皇帝処刑《ツアーしよけい》の報に、ハディンカ牧場の方へ向いて頭を垂れ、涙《なみだ》を流したという。  クロパトキン将軍たちが元の座にもどった時、座を離《はな》れなかったのは西郷隆盛ただ一人だったことを知った。  心地悪そうに自分の席にもどった将軍たちの一人一人に、大きな目を向けた西郷は、独り言のように言った。 「こんなことで戦争をしても勝てるのかな」  その言葉は盤石《ばんじやく》の重さで将軍たちの心を押しひしいだ。  沈黙《ちんもく》が流れた。  五分もたったかと思われる頃《ころ》、クロパトキン将軍が、明るい声音で答えた。 「だからこそ、戦争をするのだ。今、国民は国内の問題に神経質になり過ぎている。このへんで、ひとつ国外のことに目を向けなければ、彼らは窒息《ちつそく》してしまうだろう。戦争は国内世論を統一し、国民の団結を計るにはもっともよい方法だ」  彼自身の信念であろう。力がこもっていた。  コンドラチェンコ少将が大きくうなずいた。 「極東に動員できる日本の兵力は、われわれの三分の一以下であります。彼らは、遼東《りようとう》半島からほんのわずか北進するだけで息切れがしてしまうでしょう。それに、海軍は断然強い。日本海軍は開戦と同時に完膚《かんぷ》なきまでに、打ちたたかれるでしょう。そうなったら、戦艦《せんかん》による日本列島の封鎖《ふうさ》です。日本人は弾丸《だんがん》に当って死ぬのではなく、食う物が何もなくなって餓《う》え死するのです」  西郷の大きな目に、暗い光が宿った。 「もし、この戦いに敗れたら、あなた方は、真の意味で、帰るべき国を失うのですぞ」  また爆発《ばくはつ》の音がひびいてきた。どこかでガラスの割れる音がした。  これで、日本と戦って勝つことができるのだろうか。  西郷は胸の中でつぶやいた。     10  明治三十六年。  四月八日。ロシヤの第二次満州|撤兵《てつぺい》は、この日をもって期限とされたが、実行されることなく、かえって二月|頃《ごろ》より続々と満州に大兵力を送りこんできた。  四月二十四日。撤兵を促《うなが》す清国《しんこく》に対し、ロシヤは撤兵の条件として七か条の要求を示した。その要求に対して清国が同意を与《あた》えることが不可能なことは、最初から明らかであった。  四月二十八日。清国政府はロシヤに対し、撤兵の条件として示された要求を拒絶《きよぜつ》するとともに、強く撤兵の履行《りこう》を求めた。  六月一日。東京|帝国《ていこく》大学教授|戸水寛人《とみずひろと》博士ら七人の博士は、連名で桂《かつら》内閣に対し、対ロシヤ強硬《きようこう》政策を進言した。これが新聞で報道されるや、朝野《ちようや》は対ロシヤ開戦の気勢に酔《よ》い、国内世論は一気に尖鋭化《せんえいか》した。  六月二十三日。明治天皇は元老と関係大臣を召集し、御前《ごぜん》会議を開き、対ロシヤ強硬路線を確認した。  七月二十五日。ロシヤはさらに戦略的規模の兵力を満州に集中し、旅順|要塞《ようさい》の補強と拡張に精力的な努力を傾注《けいちゆう》した。満州から撤兵の意志がないことはすでに明らかであった。  八月九日。東京で頭山満《とうやまみつる》、神鞭知常《こうむちともつね》らによって対露《たいろ》同志会大会が開かれた。政府に対し、対ロシヤ外交の開戦も辞さない強い姿勢での強硬外交の推進を迫《せま》った。会場を埋《う》めた老若男女は万雷の拍手《はくしゆ》と喚声《かんせい》と熱涙《ねつるい》をもって応《こた》え、あたかも大ロシヤ帝国を呑《の》むが如《ごと》くであった。  九月十日。対ロシヤ開戦論は、日本全国を湧《わ》き立たせ、日露戦争はほとんど既定《きてい》の事実化した観があった。  十月八日。在満ロシヤ軍の第三次|撤兵《てつぺい》の期限はこの日だった。しかしロシヤ軍はその後も続々と南下しつつあった。  十月十二日。これまで非戦論をとなえてきた『万朝報《よろずちようほう》』も、この日の社説をもって開戦論に転向した。これによって、わが国のジャーナリズムはことごとく開戦論派と、なった。  十一月十五日。『万朝報』が開戦論に転向したため、同社を去った幸徳秋水《こうとくしゆうすい》、堺利彦《さかいとしひこ》は『平民新聞』を発刊。怒濤《どとう》のような開戦論に対し、果敢《かかん》に反戦論を展開した。  十二月五日。第十九回|帝国《ていこく》議会が召集された。これが最後の議会になるであろうという予測は誰《だれ》の胸にもあった。而《しか》してこの日、衆議院は解散を命じられた。挙国|一致《いつち》、あげて戦争に集中する為《ため》であった。  国会の機能が停止してしまっては、もはや国はひとつのレールの上を走るほかはなかった。  十二月二十六日。ロシヤ皇帝ニコライ二世は極東の各軍管区に対し動員令を発し、臨戦態勢に入るよう命じた。  極東における情勢は最悪の事態をむかえることとなった。  こうして、一触即発《いつしよくそくはつ》の状態で、年が変り、明治三十七年となった。  一月八日。わが国の内田駐清公使《うちだちゆうしんこうし》は、清国に対し、ロシヤとの開戦の近いことを通告した。  一月二十一日。朝鮮《ちようせん》は厳正中立を宣言した。だが、極東における軍事大国である日露《にちろ》の間にあって、その宣言は悲壮《ひそう》であったがわが国における反戦論と同じく、戦いを望む者たちの耳にはとらえられることはなかった。  一月二十八日。政府は銀行家を召集し、時局を説明し、経済界の協力を要請《ようせい》した。  財界人の動きもあわただしく、製鉄所、機械工場をはじめ、すべての軍需《ぐんじゆ》産業はフル操業を開始した。もっとも、軍需産業を根幹とする企業の拡張と生産増強はすでに数年前から日露《にちろ》開戦に備えて強力に推し進められていた。  二月四日。元老|伊藤博文《いとうひろぶみ》、山県有朋《やまがたありとも》、松方正義《まつかたまさよし》、大山巌《おおやまいわお》、井上馨《いのうえかおる》、桂太郎《かつらたろう》、山本権兵衛《やまもとごんのひようえ》、曾禰荒助《そねあらすけ》、寺内正毅《てらうちまさたけ》、小村寿太郎《こむらじゆたろう》の各大臣は、宮中において御前会議を開いた。大蔵大臣曾禰荒助は戦時財政について深刻な不安があることをうったえたが、日露開戦以外に時局解決の道なしとして、伊藤博文が明治天皇に結論を上奏し、ついに開戦の大方針が決定した。  二月五日、ロシヤとの国交断絶を通告した。     11  一九〇三年。明治三十六年。ペテルブルグの冬は近来になくきびしかった。  十月の中頃《なかごろ》から吹雪《ふぶき》は休みなくこの古い都を押し包んだ。  十一月二日。ニコライ二世は冬宮に、多くの博士たちを招いて酒宴《しゆえん》を張っていた。丁度、電気学会と医学会の年次大会がペテルブルグの雷帝《らいてい》記念講堂で開催されていた。ニコライ二世自身はおよそ学術に関する興味など全くなかった。だが博士たちをはべらせることの体裁の良さだけはよくわきまえていた。ニコライ二世はパーティの間中、しごく機嫌《きげん》よく博士たちの間を遊弋《ゆうよく》し、博士たちの業績などを聞いて回った。博士たちは、皇帝の、知識レベルが、初等学校を卒業した程度であることを知り、おのれの研究の説明におおいにとまどった。  大広間の片隅《かたすみ》に、美しく着飾《きかざ》った女性たちによって花のような輪が作られていた。そこからは、たえず嬌声《きようせい》がわき起っていた。  大輪の花が移動するように、フロアを横切ってやって来たのは皇后アレキサンドラだった。  さすがに花の輪は崩《くず》れて皇后を迎《むか》えた。ゆれ動く女性たちの間から、ちらと巨大《きよだい》な坊主《ぼうず》頭が見え、それから岩のような体躯《たいく》がのっそりと立ち上った。  フロックコートに純白の絹のシャツで身を包んではいるが、その顔貌《がんぼう》と体躯は、この大広間を埋《うず》めている将軍や大臣、貴族たちのものとは全く異なっていた。 「|客 将 軍 西 郷 閣 下《ゴステイーヌイ・ゼネラール・サイゴウ》、パーティはいかがですか。お気に召しましたか」  アレキサンドラ皇后は、その笑顔で実質的に大ロシヤ|帝国《ていこく》を支配しているといわれる美しい笑みを浮かべた。  西郷が手にした酒盃《しゆはい》をテーブルにもどそうとすると、かたわらの女性がそれを受け取り、テーブルに置かないで自分の胸元に支えた。周囲の女性たちの間から揶揄《やゆ》と非難の嬌声がわいた。 「ソフィアさま。あなたお一人で西郷閣下のお世話をなさるなど、私たち、許しませんことよ」 「そうですとも。たとえあなたがミハエル大公|殿下《でんか》のお姫《ひめ》さまでも、ここでは皆《みな》、平等なのですからね」  女たちは笑い崩《くず》れた。 「にぎやかなこと」  アレキサンドラ皇后は、孔雀《くじやく》のように胸を張った。  西郷は皇后の手を戴《いただ》き、絹の手袋《てぶくろ》の甲《こう》にそっとくちびるを触《ふ》れた。 「皇后陛下には、いつも美しくあらせられます」  西郷は美しい人工の花でも賞《め》ずるように、遠慮《えんりよ》深げに皇后の衣装《いしよう》に視線を動かした。 「日本の女性は美しいですか?」 「小輩《しようはい》には、どこの国の女性よりも日本の女性が美しく思われまっする」  まあ! 周囲の女性たちがざわめいた。 「にくらしいけれども、まことに正直なお言葉。私、かえって感激《かんげき》いたしました」  アレキサンドラ皇后が、自分の衣装を飾《かざ》っている濃赤のバラを一輪|抜《ぬ》き取ると、西郷のフロックコートの胸のポケットにさした。  西郷の巨躯《きよく》に、長身ではあるが細身の皇后の体はかき抱《いだ》かれるように見えた。  周囲の女性たちは不満そうな声を洩《も》らした。  オーケストラの楽の音が潮《うしお》のようにわき起った。 「さあさあ。皆《みな》も楽しく踊《おど》りましょう。閣下、私と……」  アレキサンドラ皇后は、西郷の腕《うで》を取ると、女性たちの輪を破って大広間の中央を目指して歩んだ。 「いや。どうも困り申した。小輩《しようはい》はダンスなどというものは、とんと、その」  西郷は子供のように体をすくめた。 「何をそのようにためらっておられるのです? さあ。皇后に、恥《はじ》をかかせるものではありませんよ」  アレキサンドラ皇后は笑いを含《ふく》めて西郷を叱《しか》った。 「それでは、ごめんをこうむって、一番相つとめまする」  西郷はその太い腕でアレキサンドラ皇后の体を抱くと、まるで重さを持たぬもののように舞《ま》い始めた。  ゆるやかなワルツの旋律《せんりつ》が大広間を満たした。  西郷のステップには、この国の第一等の踊り手にもおとらぬ軽妙《けいみよう》な動きとリズムがあった。  踊《おど》りには自信のある貴公子や青年将校たちも、しばし、呆然《ぼうぜん》と西郷の描《えが》き出す流麗《りゆうれい》な線と動きに目を当てつづけていた。  アレキサンドラ皇后は陶然《とうぜん》としてわが身を西郷の腕《うで》にあずけ、羽毛のように回され、動かされ、運ばれていった。  女性たちは口々に嫉妬《しつと》の言葉を吐《は》き、つぎこそ自分と思い、曲が早く終るように祈《いの》っていた。  その時、一人の侍従が入ってきて、皇帝の耳にささやいた。  皇帝がうなずき、侍従が去ると、すぐ一人の、これも正装《せいそう》した小男が入ってきた。  小男は皇帝のかたわらの椅子《いす》に腰《こし》をおろすと、皇帝の耳に口を寄せた。  それを目にした高官や将軍連は、いちように眉《まゆ》をひそめ、目をそらした。 「ふん。大尉《たいい》めが!」 「利権屋の徒輩《やから》が、大きな顔しくさって」  中には皇帝の耳にまで届くような大声で言い放つ者さえいた。  貴族の女性たちの中にも、あきらかな軽侮《けいぶ》の笑いを浮かべる者もいた。  その、それとない、だが、誰《だれ》の目にも映る異様な空気が、踊《おど》っている西郷にさえ強く感じられた。大きくターンするたびに、その男の姿が視界の端《はし》に見えていた。  楽曲が終って、西郷が皇后を長椅子《デイヴアン》まで送ってゆくと、白いカラーの皇帝付きの小姓《こしよう》が待っていた。 「陛下がお召しになっておられます」  ニコライ二世ははなはだ機嫌《きげん》よく西郷をさし招いた。  西郷が歩み寄るのを待ちかねるように、皇帝は自分のかたわらの小男の肘《ひじ》を取って、体ごとその男を西郷の方へ向けた。 「客将軍。彼は国務大臣ベゾブラゾフじゃ。余の私的な経済|顧問《こもん》を兼ねておる。特に極東における彼の経済的なもくろみが、日本との開戦を余に決意させたのじゃ」  皇帝は銀の洋刀《サーベル》の柄頭《つかがしら》に両手を重ね、胸を反《そ》らした。  西郷は皇帝の言葉に思わず耳をそばだてたが、顔だけはにこやかにほほ笑んでベゾブラゾフ国務大臣に手をさしのべた。  ベゾブラゾフの手は小さく、乾《かわ》いて妙《みよう》に冷たかった。  ベゾブラゾフは、なお皇帝に用談したいことがあるらしく、西郷には素っ気ない態度で、いらいらしていた。  西郷は皇帝とベゾブラゾフに会釈《えしやく》してその場を離《はな》れた。  柱の下にクロパトキン大将が参謀肩章《さんぼうけんしよう》をつけた長身の中佐《ちゆうさ》と話しこんでいた。  西郷は二人に近づいた。  クロパトキン将軍は、その中佐が、ロシヤ陸軍参謀本部|幕僚《ばくりよう》のマドリトフ中佐であると紹介した。 「閣下。ちと物をおうかがいいたしたいのでござるが」 「客将軍。なんなりと。マドリトフ中佐は私の腹心の部下ゆえ、お気兼《きがね》は無用じゃ」  西郷は声をひそめた。 「国務大臣でベゾブラゾフ閣下に対する皇帝陛下のご信任は極めて篤《あつ》いものと拝察し申したが、国務大臣閣下の、極東におけるお働きとはどのようなことでありますか? おさしつかえなくばお聞かせ下さい」 「おう。そのこと。そのこと。なに、さしつかえもへちまもあるものか。あの利権屋|大尉《たいい》どのは、国まで売りかねん男だ」 「何のことでごわすか?」 「ベゾブラゾフは、元陸軍|砲兵《ほうへい》大尉なのだが、軍人よりも商人に向いた男でのう。彼は清国《しんこく》の、鴨緑江《おうりよつこう》流域の木材に目をつけ、その有用性を皇帝陛下に説いて、その伐採権《ばつさいけん》を手に入れたのだ。もちろん伐採権そのものは陛下のものであるが、ベゾブラゾフはその執行官《しつこうかん》として関東州に極めて大きな権力を得ることができたのだ」  それは西郷も噂《うわさ》としては耳にしていた。鴨緑江流域というからには、その地域は清国内つまり満州側のみに限定されることなく、かなり広く朝鮮《ちようせん》側へも喰《く》いこんでいるようだった。清国と朝鮮との国境は鴨緑江であったが、実際的には朝鮮政府の弱体から鴨緑江の南岸地区まで、ロシヤ人の木材取引業者や炭鉱業者は自由に手をのばしていた。黒竜江《こくりゆうこう》から松花江《しようかこう》、さらに鴨緑江地方の、シラビソやカラマツ、スギなどを主とした北方針葉樹林は、ほとんど手つかずの原始林であり、それを伐採して大連《たいれん》から積み出すことができれば、それはたちまち、巨万《きよまん》の富をロシヤにもたらすことになるのを夙《つと》にイギリス経済界やドイツ大蔵省筋は指摘《してき》し、警戒《けいかい》していた。  当然、日本もロシヤの意図するところは察知していたが、日本政府は、ロシヤの目的は満州から関東州にかけての直接|占領《せんりよう》であり、木材や炭田、鉄鉱などの産業開発も、まず満州を手に入れてからのことであろうと思っていた。それはまことに日本的発想であり、事態は日本政府が考えているよりもはるかに早く、現実的に進行していたのだった。 「ベゾブラゾフは、極めて潤沢《じゆんたく》な資金を持って満州へ向ったのじゃ。むろん、それは陛下のお手元金であり、公金であるが、二百万ルーブルという大金じゃ。このかねは、関東州|総督《そうとく》アレクセーエフの日常的なやり方を大きく狂《くる》わせるものだった。それはそうだろう。ベゾブラゾフが、陛下の御為《おんため》と称して自分の計画を順調に推し進める為にバラ撤《ま》いたかねで、関東州総督の施策《しさく》はめちゃめちゃだ。そればかりではない。私が提唱し、軍幹部もあらかた同意していた満州からの第一次|撤兵《てつぺい》、第二次撤兵をご破算にしたのも、皇帝陛下直率の特使ベゾブラゾフの、陛下へ送った秘密電報によるものなのだ。全くもってけしからん話だ。やつは実は鴨緑江流域の、やつが言うところの木材利権開発事業に使うために、退役軍人の一部隊を召集したいと陛下に上申したのだ。やつも軍人だ。軍人をそんな苦力《クーリー》のかわりに使えるものかどうかわかりそうなものではないか。わが陸軍の長老であるミハイル・イワノウィッチ・ドラゴミロウ大将閣下がおおいに憤激《ふんげき》なされ、陛下に苦情を申し上げた。ま、それでベゾブラゾフめの計画は沙汰《さた》やみになったが、やつめ、次に考えたのが、日本との開戦だ。戦争が起れば、これは当然のこととして兵隊を使える。なんと狐《きつね》のように頭のよいやつではないか」  クロパトキン将軍は、床《ゆか》につばを吐《は》きかねない剣幕《けんまく》だった。  西郷は言葉を失って、ハンカチでそっとひたいの汗《あせ》をぬぐった。酔《よ》いが強く回りはじめていた。 「すると……つまり、その、なんでござるかな。日本との戦争は、御国《おくに》にとって大変であり、多くの兵士の生命を失い、また御国の名誉《めいよ》を傷つけることになるかもしれぬという危惧《きぐ》は全くないというのでごわすか。問題はあくまで、満州における木材を積み出す為《ため》の人手の確保にあるということでありますのか」  クロパトキン将軍は大きくうなずいた。 「それゆえに、われわれは腹を立てておるのだ。日本との戦いは、半年もあれば片づこうが、そのあとでベゾブラゾフ大尉《たいい》どのにこき使われて材木運びでは、これはていのいいシベリヤ流刑《りゆうけい》じゃよ」  マドリトフ中佐《ちゆうさ》も、しきりにうなずいた。 「客将軍。ベゾブラゾフの木材会社は、今や極東における大ロシヤ|帝国《ていこく》そのものとなっているのです。この木材会社は、かのインドにおけるイギリスの東インド会社の小型判となっております。ベゾブラゾフの目的とするところも、おそらくそれでありましょうし、陛下もそれはおおいにお認めになっておられるところでしょう。この動きには、ベゾブラゾフの反対党である大蔵大臣のウィッテ公も、内務大臣ビアチェスラブ・コンスタンチン・プレーベ卿《きよう》も、もはや抗《こう》することはできぬ状態であります。陛下は満州の木材には、たいへん執心《しゆうしん》しておられますし、このところ帝室《ていしつ》の出費は莫大《ばくだい》であり、有力な財源を必要としているといわれておりますから」 「将軍。それに参謀《さんぼう》どのも、日本との戦争は、満州において御国《おくに》の人士が直面しているさまざまな問題を一挙に解決するための絶好の手段とお考えなのか」 「違《ちが》うかな」  西郷は酒盃《しゆはい》に映《うつ》る豪華《ごうか》なシャンデリアのきらめきに目を細めた。  大帝国《だいていこく》ロシヤにとって、日本との戦争はどうやら、満州から関東州を併合《へいごう》し、不凍港大連《ふとうこうたいれん》を極東の海の玄関《げんかん》口とする計画を既定《きてい》の事実として現実化するための、やむなくおこなう些細《ささい》な手続きにしか過ぎないもののようであった。  日本との戦争を危険なものと感じ、彼らの計画が、極めて虫の好いペーパー・プランであり、きびしい賭《か》けであると理解している者は一人もいなかった。 「将軍。日本には、敵を知る者はおのれを知る。ということわざがあり申す。ロシヤ帝国はたしかに世界一の大国です。だが、極東はあまりにも遠い。まるで遠征《えんせい》ではありもさんか。兵力が同数で士気も同じなら、輜重《しちよう》輸送の短くてすむ方が勝つのは、古来、戦さの道理でごわす。戦うなら戦うで、もそっと研究ばなさっては如何《いかが》。材木屋は材木屋で結構でごわす。問題は日本との戦いは、商人どうしの利権がどうのこうのというのではござらん。もし日本軍に満州を取られでもしたら、皆さん、如何なさるおつもりじゃ」  西郷の言葉に、二人は顔をそむけた。不愉快《ふゆかい》だったのであろう。  だが、この時、二人の胸に、ふとかすかな疑惑《ぎわく》が生じた。それは、この客将軍が言うように、もしかしたら、自分たちは日本の国力や軍隊に関して、大きな誤解を抱《いだ》いているのではないだろうか、という不安だった。  マドリトフ中佐《ちゆうさ》は、参謀《さんぼう》本部の上級将校用の回報が、このところ、毎号、日本の兵器の特集を行っていることを思い起した。  それには、日本軍が最近、配備しはじめたという七サンチ速射砲《そくしやほう》や、三六式無線通信機、二号機械|水雷《すいらい》などの記事が詳細《しようさい》に報告されていた。七サンチ速射砲は、ロシヤ軍のクルップ式|野砲《やほう》の三倍の発射速度を持っていたし、三六式無線機はマルコーニ式を改良した国産品ということであった。ロシヤ軍はマキシム式|機関銃《きかんじゆう》をすでに大量配備していたが、日本軍はホッチキス式を少数配備しているだけだった。  艦隊《かんたい》も個艦《こかん》の性能は極めて優秀《ゆうしゆう》であり、加えて日に夜をついだ演練に、その士気はすこぶる高いという。  もしや、という思いは、極東通と称される人々の誰《だれ》の胸にもあったが、それを人に先んじて言い出すことのむくいの深刻さと、イギリスやドイツでさえ恐《おそ》れを抱《いだ》く大ロシヤ|帝国《ていこく》が、まさか、地図の上でもすぐにそれとは弁じ難い極東の一小国に不覚を取るとは思えない常識的安心感が、思考を停止させた。  動脈硬化《どうみやくこうか》におちいった老大国の、危険極まりない現実がそこにあった。  西郷は澄《す》んだ若い女の声が、何回か自分の名を呼ぶのに気づいて、われにかえった。  かたわらに、クロパトキン将軍の愛娘《まなむすめ》のタチアナが立っていた。  けむったような眉《まゆ》を、かすかに不審《ふしん》そうに寄せていた。 「将軍《ゼネラール》。どうなさいました? 私、三回もお声をかけました」 「いや。これはどうも失礼ばいたしもした」  西郷はタチアナの手をとってくちびるに当てた。絹の手袋《てぶくろ》からは、西郷の嗅《か》いだこともない芳香《ほうこう》がただよってきた。 「客将軍。娘《むすめ》があなたとダンスを踊《おど》るのだといってだだをこねましてな。もう、わからずやで」  クロパトキン将軍は、かわゆくてたまらぬように、愛娘を押し出した。 「それは恐縮でごわす。小輩《しようはい》の方からぜひともお願いしたいものであります」  西郷はタチアナの腕《うで》をとってフロアへ出た。  たちまちワルツの渦《うず》の中へ溶《と》けこんでいった。  二、三曲続けて踊ると、タチアナの白い蘭《らん》のようなほおに、うっすらと血の気が浮かんだ。  西郷はタチアナを大広間に隣接《りんせつ》する喫茶室《きつさしつ》へともなった。  宮廷《きゆうてい》用に、特にダージリンから運ばれてくるという特製の紅茶が、西郷の舌を和《なご》ませた。 「日本との戦争が始まるのですか?」  タチアナは、紅茶のカップをささえて、そっとたずねた。 「そのようであります」 「父は先年、日本へ特使として派遣《はけん》されました」 「そうでごわしたな」  クロパトキン大将は、一九〇三年。つまり明治三十六年、ペテルブルグから急遽《きゆうきよ》シベリヤに旅行し、ウラジオストックから満州地方の実情を視察した。それが終ると、クロパトキン大将は、日本へ渡《わた》った。個人の資格ではあったが国賓《こくひん》の待遇《たいぐう》を受け、東京で桂《かつら》首相と二度にわたって会談した。  クロパトキン大将は、シベリヤで、ロシヤ軍の戦備が全く整っていないこと。シベリヤや関東州におけるロシヤの行政官や軍人、民間人たちの意志統一が全くなされていず、現地の清国《しんこく》人や朝鮮《ちようせん》人からも怨嗟《えんさ》の的になっていることなどを目《ま》の当りにした。これではとても日本と戦争などできた状態ではない。  つづいて日本へ渡った大将が目にしたものは、ロシヤ討《う》つべし、とて煮《に》えたぎるようにわき立っている日本国民だった。  驚《おどろ》いたことに、ロシヤの政治的要職にある人物で直接、日本国内の対露《たいろ》感情や、朝鮮、関東州に対する日本政府の執念《しゆうねん》に触《ふ》れた者は、これまでに皆無《かいむ》だったことだ。  それに、日清《につしん》戦争で日本が清国から獲得《かくとく》した遼東《りようとう》半島を、清国に強引に返還《へんかん》させた三国の干渉が、日本人をどれだけ怒《おこ》らせて復讐《ふくしゆう》の念にかり立てたかほとんど認識もないことだった。  ロシヤ皇帝にとって、極東はあまりにも遠国であるばかりでなく、彼の外務大臣でさえ、なぜ日本がこのようにエキサイトしているのか理解に苦しんでいるありさまだった。  日本側は陸軍大臣|寺内正毅《てらうちまさたけ》大将が主任接待係となり、多くの少壮《しようそう》将校を接待係にすえ、積極的に日本各地を案内した。  クロパトキン大将も極めて有能な将軍だった。  ロシヤは今ここで日本と絶対に戦争するべきでないことをさとった。  だが、時の勢いは、もはやとうてい避《さ》けられないところまできていた。     12  タチアナは出窓に寄って、窓外に視線を遊ばせていた。  雪はやみ、雲間から削《そ》ぎ取ったような月がのぞいていた。  古い都は夜と雪の中に息をひそめていた。ガス灯の青い光が、街角の雪を照らし出していた。  オーケストラの楽の音が、波音のように聞えてくる。 「さあ。それでは小輩《しようはい》が御館《おやかた》まで送ってまいりましょう」  西郷はタチアナの肘《ひじ》にそっと触《ふ》れた。 「将軍」  体でふり向いたタチアナのひとみは、サファイヤのように、うるんで輝《かが》やいていた。 「ブリスコウイカの泉を見に行きませんか」  言ってから顔を伏《ふ》せた。大きな仕事を果したあとのような虚脱《きよだつ》が、タチアナの両の肩《かた》を心もち閉《とざ》した。  街の南のはずれに、たくさんの水鳥の集る大きな池があった。ニコライ二世はその風景がおおいに気に入り、その池の中に高い噴水《ふんすい》を設けた。冬になると、噴水の水は凍《こお》って、水晶《すいしよう》の柱のようにそびえ、風雪で折し曲げられ、裁ち落された氷片やつららが複雑な電光形のオブジェを造り出した。そのため人々はそこを|電 光《ブリスコウイカ》の池と呼んだ。 「もう夜も更《ふ》け申した。明日になさってはいかが? 父君もご心配なされましょう」 「いや!」  タチアナは低くさけんだ。 「将軍。私が頼《たの》んでいるのですよ。そんな!」  西郷は思わず周囲を見回した。大きな双眼《そうがん》に、はげしい当惑《とうわく》と少しばかりの恐怖《きようふ》の色が浮かんでいた。 「それでは馬車の用意をさせまっしょう」  西郷は宮廷《きゆうてい》内の召使《めしつか》いを呼ぼうとして手をたたいた。 「だめ。私の馬車でまいりましょう」  タチアナは西郷の腕《うで》をとらえると、ドアへ向って西郷の体を押した。  西郷の馬車は高官用であり、馭者《ぎよしや》一人と添乗《てんじよう》の従者が二人ついている。タチアナはそれを嫌《きら》ったのであろう。  玄関《げんかん》へ出ると、すでに打ち合わせてあったのか、一台の軽駕《スパイダー》が鈴《すず》の音も軽く寄せてきた。  玄関で送迎《そうげい》の係をつとめる小姓《こしよう》が、馬車のドアを開いた。  二人がせまい車内に入ると、年老いた馭者《ぎよしや》は黙《だま》って鞭《むち》を振《ふ》った。老馭者は、二人には全く耳目を向けようとしなかった。  タチアナは、ラッコの幅《はば》広い毛皮で、二人の体をおおった。彼女の着ているものを通して、体温が西郷の体に伝わってきた。  座席の前の、ダッシュボードともいうべき所に造りつけられた小さな石炭ストーブが、心も体も解き放つようなやわらかい熱を放射していた。  タチアナは室内|洋灯《ランプ》の焔《ほのお》を小さくすると、ラッコの毛皮を、二人のあごまで引き上げた。  気がついた時、西郷の手は、タチアナのやわらかな小さな手にみちびかれ、ローブデコルテの、深く刳《えぐ》られた胸元に置かれていた。  タチアナは火のように熱い吐息《といき》を洩《も》らし、焦《こ》がれてうながした。西郷の手が、ためらいながらも、彼女の豊かな胸の膨《ふく》らみの上に移動した時、タチアナは、われを失ったように、体のあちこちを引締《ひきし》めている紐《ひも》や、ホックをはずしはじめた。     13  明治三十七年二月六日の早朝。連合|艦隊《かんたい》司令長官|東郷平八郎《とうごうへいはちろう》は、旗艦三笠《きかんみかさ》の広い幕僚室《ばくりようしつ》に集った四十人の、艦隊《かんたい》司令官や各艦長の前に、不動の姿勢で屹立《きつりつ》した。  おだやかな目で、参集した一同を見回し、それから、いつもの、重い口調で、ゆっくりと言葉を発した。 「本日、軍令部から、ロシヤとの外交関係が断絶され、わが国はただ今から自由な行動を取るとの報知がありました。宣戦の勅語《ちよくご》が下されましたので拝読いたします」  この瞬間《しゆんかん》、日露《にちろ》の戦いの幕は切って落されたのだった。  佐世保《させぼ》に在港しているあらゆる艦艇《かんてい》から、万歳《ばんざい》、万歳! の声が爆発《ばくはつ》した。それは艦艇ばかりではなく、すべての陸海の軍の施設《しせつ》から、民間の会社、学校、さらには、畑や磯浜《いそはま》、山腹の伐採所《ばつさいしよ》など、ありとあらゆる場所からわき起り、天地をどよもしてひろがっていった。  それは、日清《につしん》戦争が終ってからこれまでの十年間、すべての日本人の心を暗く閉し、頭を重くおさえつけてきたものからの完全な解放を意味していた。耐《た》えに耐えていたものが、ついにほとばしり出たのだった。  勅語の拝読が終り、短いが極めて充実《じゆうじつ》した会議が終ると、艦隊は直ちに出動準備にとりかかった。出動準備といっても、実際にはすでにこの二、三日の間にすべて終っていた。艦内《かんない》のあらゆる可燃物はすべて陸揚げされ、弾薬《だんやく》、石炭は満載《まんさい》され、砲員《ほういん》は砲側《ほうそく》に、主計や軍楽隊はソロバンや楽器を棄《す》てて救護隊に改編され、ハンモックは固縛《こばく》されて重要部分の弾片《だんぺん》よけに使われていた。あとは鑵《かま》の蒸気圧を上げ、錨《いかり》を抜《ぬ》くだけである。  二月の佐世保の海はなかなか明るくならない。午前六時。何千という市民が、提灯《ちようちん》を振《ふ》って海岸につめかけてきた。  凍《こお》りつくような寒風が波止場《はとば》や海岸通りを吹き荒《あ》れていたが、寒さを感じた者は誰《だれ》もいなかった。  誰が命じ、誰が音頭を取るというものではなかったが、連合艦隊が出動してゆくぞ、というニュースは人から人に伝わり、提灯《ちようちん》の灯の波は人々の熱い願いとなって揺《ゆ》れ動いた。  汽艇《ランチ》に分乗した佐世保|鎮守府《ちんじゆふ》軍楽隊が、軍艦行進曲《ぐんかんマーチ》を演奏しながら、湾内を回った。  人々の興奮はいやが上にも燃え上り、男も女も、ほおを伝い流れる涙《なみだ》をぬぐいもせず、手を振《ふ》り続けた。  日本人が、真底から『敵』なるものを意識し、石にかじりついても勝たなければならぬと、おのれの心に誓《ちか》って一丸となって戦ったのは、この日露《にちろ》戦争と、文永《ぶんえい》、弘安《こうあん》の役《えき》の、ただ二回だけではなかったかと思う。  完全に燃焼した状態で戦いに臨むなどということは、一国の長い歴史の中でもそうたびたびあることではない。  太平洋戦争がはじまった時、小学校六年生だった私などでも、まず心に閃《ひらめ》いたのは、勝てるのかな? という不安だった。それは、すでに昭和十二年から始っていた日中戦争——当時は支那《しな》事変といった——が、勝っている勝っているといいながら、ベトナム戦争以上の泥沼《どろぬま》戦争で、いっこうにらちがあかないばかりでなく、日本国内はあらゆる物資が不足してきていた。子供心にも、こんな状態で戦争を始めても大丈夫《だいじようぶ》なのかな、という危惧《きぐ》があった。それに周囲の大人たちは、はなはださめた調子で「蒋介石《しようかいせき》一人でさえもて余しているのに、今度はルーズベルトやチャーチルともやる気かよ」とか、「兵隊に取られても、要領よくやっていれば大丈夫だよ」とか、薄《うす》ら寒くなるようなことを言っていたものだった。  子供心に、そんな大人たちの発言に非常に反撥《はんぱつ》を覚えたものだったが、私が中学二、三年生になって、工場動員などに行って、軍需《ぐんじゆ》工場などの様子や、そこで働いている工員や出入りしている軍人たちのふるまいや能力などを見ていると、噂《うわさ》となって伝わってくる戦局の実状なども合わさって、私自身、この戦争はこりゃもう駄目《だめ》だ、などと思うようになった。挙国|一致《いつち》も、国民精神総動員もへちまもあったものではなかった。『鬼畜《きちく》米英』だの『討ちてし止《や》まん』などというスローガンばかりが空転していた。  日露《にちろ》戦争を迎《むか》える当時の日本人は、ロシヤ人を『露助《ろすけ》』と呼んで敵愾心《てきがいしん》を燃やしていた。日本人の一人一人が彼らが自分の敵であることを確認していた。明治の日本人は、ロシヤを破らなければ、逆にロシヤが朝鮮《ちようせん》から日本列島へ侵入《しんにゆう》してくるであろうということを確信していた。実際、当時の列強の植民地拡大、市場|獲得《かくとく》という国際戦略に裏打ちされた世界情勢から考えれば当然であった。  太平洋戦争は、ABCD包囲|陣《じん》と名づけられたアメリカ、イギリス、中国、オランダという連合国の形成する日本包囲陣を突《つ》き破り、日本が生き抜《ぬ》くためにやむなく行う戦争だなどと説明されても、少しも実感がともなわなかった昭和十六年とは大変な違《ちが》いだった。  明治三十七年二月六日。連合|艦隊《かんたい》は佐世保を抜錨《ばつびよう》。旅順港へ向った。  旅順港には、ロシヤの太平洋|艦隊《かんたい》が待機していた。  第一戦艦戦隊『ポルタワ』型三|隻《せき》。  第二戦艦戦隊『ペレスウェート』型二隻。『レトヴィザン』。計三隻。  装甲巡洋艦《そうこうじゆんようかん》戦隊。一等巡洋艦『アスコリード』、『ワリヤーグ』、『パルラーダ』型二隻。計四隻。  小型巡洋艦戦隊。『バヤリン』、『ノーウィック』、『ガイダマク』、『フェードニック』計四隻。  三百五十トン級外洋型|駆逐艦《くちくかん》二十一隻。  この陣容《じんよう》は、日本の連合艦隊の全容にほぼ匹敵《ひつてき》する。  緒戦《しよせん》の制海権|争奪戦《そうだつせん》に日本側がもし敗れるようなことがあれば、朝鮮|海峡《かいきよう》の航行すら不可能になるし、とうてい満州出兵など実現できたものではない。逆に日本は、長い日本列島のどこへ上陸して来るかもわからないロシヤ軍に対して、ほとんど防衛力さえ持っていなかった。  もしロシヤが自分たちの太平洋艦隊に、日本艦隊の撃滅《げきめつ》を期待し、制海権を賭《か》けて海上決戦を企図してきたら、緒戦において日露《にちろ》戦争はどうなってしまったかわからない。しかし、この重大な任務を与《あた》えられるべき太平洋|艦隊《かんたい》の指揮権は、実はシベリヤ総督《そうとく》が握《にぎ》っているのだった。実際の作戦はシベリヤ総督|幕僚部《ばくりようぶ》が立案する。しかも、ロシヤには、陸軍と同じように、海軍の最高司令部というものはなかった。ロシヤ海軍としての総合的な戦略を立てるのは、建前にしろ実質にしろ、ロシヤ皇帝その人しかいないのだから驚《おどろ》くほかはない。およそ近代海軍としての組織の片鱗《へんりん》もなかったのだ。  かくてシベリヤ総督は、彼の太平洋艦隊は決戦を避《さ》け、やがて本国から送られてくる増援《ぞうえん》部隊をまって、おもむろに日本艦隊に挑戦《ちようせん》するという作戦を立てた。つまり艦隊の温存策である。  日本列島と朝鮮半島の間を遮断《しやだん》しさえすれば、日本は手も足も出ないというこの時期に、この作戦は何ともひど過ぎる。今の防衛大学の一年生だってこんな作戦は立てないだろう。  彼らは、もうひとつ大きなあやまちをおかす。  それは、温存するならするで徹底《てつてい》的にそうすればよいものを、旅順港口でしきりに、ロシヤ|艦隊《かんたい》引出しを計る日本艦隊の挑発《ちようはつ》にむざむざとのって出動し、新鋭戦艦《しんえいせんかん》『ツエザレウィッチ』、同じく戦艦『レトヴィザン』、さらに一等巡洋艦一隻を失ってしまったことだった。後日、さらに旗艦《きかん》『ペトロパウロスク』を提督《ていとく》マカロフ中将もろとも失っている。以後、太平洋艦隊は旅順を陸上から占領《せんりよう》されるまで、湾内《わんない》にとどまった。艦隊が陸上から砲撃《ほうげき》を喰《くら》って、脱出《だつしゆつ》もできぬまま壊滅《かいめつ》するという悲劇は古今の海戦史に類を見ない。  一方、瓜生外吉《うりゆうそときち》少将のひきいる四隻の巡洋艦は、朝鮮半島西岸の仁川《じんせん》沖で、ロシヤ艦隊の巡洋艦と砲艦《ほうかん》を撃沈《げきちん》した。  完全に制海権を得た日本側は、朝鮮半島に陸続と大軍を揚陸しはじめた。  ただ、戦略の基本的ルールにのっとって行動したのは、ウラジオストックにあった巡洋艦隊だった。彼らの意図した日本の輸送船|狩《が》りは、日本の大本営に、長い間にわたって苦悩《くのう》とそのようなことをしてはならない大事な時期に|艦隊《かんたい》兵力の分割という二つの打撃《だげき》を与《あた》え続けた。  朝鮮半島に上陸した黒木為《くろきためもと》大将のひきいる第一軍は快足で北上し、五月一日、ついに鴨緑江《おうりよくこう》を渡《わた》り満州に入った。五月五日には奥保鞏《おくやすかた》大将のひきいる第二軍は、遼東《りようとう》半島に上陸を開始した。  六月六日には、乃木希典《のぎまれすけ》中将のひきいる第三軍が同じく遼東半島に上陸した。  遼東半島の金州と南山をめぐって大激戦《だいげきせん》が続けられていたが五月二十六日。ついにロシヤ軍は壊滅《かいめつ》、北方へ退却した。この敗戦によって旅順は孤立《こりつ》するはめになった。ロシヤ軍は重大な戦局に、大軍をもって、得利寺《とくりじ》、瓦房店《がぼうてん》という二つの地点で、大規模な反撃《はんげき》作戦を行ってきたが、烈《はげ》しい戦いの末、撃退《げきたい》された。これによって、旅順の孤立化は決定的なものになった。     14  極東における戦闘《せんとう》がどうなっているのか、誰《だれ》も気にする者はいなかった。  皇帝のもとへは、連日報告が届いているのだろうが、皇帝もそれを発表することもしないし、何かを気にかけている様子もなかった。  クロパトキン大将は、二月のある日、特別列車でペテルブルグを出発して極東へ向った。  月給十万ルーブル。乗馬十二頭。挽馬《ばんば》十八頭分の馬糧《ばりよう》手当。モスクワ市から贈《おく》られた軍馬一頭、それにたくさんの貴族なかまや軍人なかまから贈られた記帳しきれないほどの、さまざまな高価な餞別《せんべつ》が、ロシヤ出征《しゆつせい》軍司令官として新しく彼が受け取った報酬《ほうしゆう》だった。  西郷は停車場までクロパトキン将軍を送った。  クロパトキン将軍は、晴の日なのに、暗い表情で、時おり深い吐息《といき》を洩《も》らした。 「客将軍。そう遠くないうちに、ロシヤは貴方《あなた》の助力を乞《こ》わなければならなくなるだろう。来てくれるかね? 極東へ」  西郷は降りしきる雪を、太い眉毛《まゆげ》に受けて微笑《びしよう》した。 「その時が来ればね」 「日本軍と戦ってくれるかね? 貴方にとって辛《つら》い仕事ではないかね」 「御国《おくに》は、母国から追われた小輩《しようはい》をかくまってくれた。再三にわたる日本政府の引渡《ひきわた》し要求を拒《こば》んでくれた。それに報ゆるのは、亡命者として当然だと思うが」  クロパトキン大将は、西郷の手をしっかりと握《にぎ》りしめた。  豪華《ごうか》な特等車だけを連結した特別列車が入ってきた。  クロパトキン将軍の直率する極東軍司令部は、総勢四百八十五名という大世帯だった。  西郷は、混雑するプラットホームに、やりきれない視線を投げた。  いつものことながら、戦争というものを、軍隊というものを、どう考えているのかまるでわからないロシヤ軍だった。  全員が乗車し終るまでに四時間を要した。あらかじめ車輛《しやりよう》の割当てや、座席の割当てなどをしておくなどということは全くやらないようだった。  おそらく野戦部隊の列車輸送も同様であろう。何師団もの兵力を、急いで運ばなければならないなどという時には、いったいどうするのだろうか?  西郷は黙《だま》ってクロパトキン将軍の手を握《にぎ》り返した。  きびしい寒さの中で、機関車の吐《は》く蒸気が、煙幕《えんまく》のようにひろがって古都の雪景色をおおいかくしていった。     15  昨日一日中降り続けた雨は、今朝になっても止《や》まず、午《ひる》過ぎにようやく雲が高くなったかに見え、視野が広まった。  どろうん。どろろん。ろんろんろん。  どろどろうん。うんうん。  日本軍の野砲《やほう》が間断なく咆《ほ》えはじめ、頭上をおおう雨雲となだらかに連なる丘陵《きゆうりよう》の間に、こだまが長く尾を曳《ひ》いた。  それに応《こた》え、ロシヤ軍の野砲も火を噴《ふ》いた。だが、この南山の戦線では、日本軍の火砲《かほう》の量はロシヤ軍のそれをはるかに上回っていた。加えて日本軍の速射砲《そくしやほう》は一分間に六発から八発の砲弾《ほうだん》を発射した。それに対し、ロシヤ軍のクルップ野砲は一分間に二発しか射《う》てなかった。  ロシヤ軍の防禦陣地《ぼうぎよじんち》に黒煙《こくえん》と土砂の柱が林立した。鉄条網《てつじようもう》や土嚢《どのう》が吹き飛び、松丸太《まつまるた》の銃眼《じゆうがん》が跳《は》ね上った。  日本軍は物量に物を言わせ、射って射って射ちまくった。  ロシヤ軍の急造陣地はみるみる崩壊《ほうかい》し、塹壕《ざんごう》にかくれひそんでいたロシヤ兵は朱《あけ》に染って打ち倒《たお》れた。 「日本軍の野砲《やほう》をたたいてくれ!」 「味方の砲兵《ほうへい》は何をしているんだ!」  前線の大隊長や中隊長から、悲痛な要請《ようせい》がひっきりなしに後方の司令部に届いた。  だが、ロシヤ軍の野砲よりも日本軍の野砲の方が射程|距離《きより》が千メートルも長かった。射程距離五千メートルのクルップ野砲は、完全に日本砲兵にアウト・レンジされていた。日本軍の野砲をたたくどころか、逆にロシヤ軍の野砲は一門、また一門と沈黙《ちんもく》していった。  砲煙《ほうえん》がまだ濡《ぬ》れている南山の山麓《さんろく》に渦巻《うずま》き、早くもロシヤ軍は総崩《くず》れの様相を呈してきた。  その激《はげ》しい砲声《ほうせい》を圧して日本軍の突撃喇叭《とつげきラツパ》が喨々《りようりよう》と鳴りひびいた。  それまで、天地をどよもしていた砲声《ほうせい》がぴたりと止んだ。  虚脱《きよだつ》したような静寂《せいじやく》が天地をおしつつんだ。 「吶喊《とつかん》!」  うおおっ! それまで地に這《は》いつくばって匍匐《ほふく》前進を続けていた第一、第三、第四師団の三個大隊四千五百の兵は、大地を蹴《け》って突撃《とつげき》に移った。  しゃにむに斜面《しやめん》をかけ上る。  ロシヤ軍が、日本軍の猛砲撃《もうほうげき》にじっと耐《た》えて待ち望んでいた一瞬《いつしゆん》がやって来た。  何千発もの砲弾《ほうだん》によって掘《ほ》りかえされ、吹き飛ばされ、赤土をむき出しにして山容も改ったかと思われていた南山の斜面に、ぽかり、ぽかりと銃眼《じゆうがん》が開いた。銃眼からマキシム機関銃《きかんじゆう》の銃口《じゆうこう》がのぞいた。  タタタ……タタタ……  すさまじい掃射《そうしや》が襲《おそ》ってきた。  斜面を上方から小さな土煙《つちけむり》が連続して走ってきたと思ったとたんに、日本軍の兵士は将棋倒《しようぎだお》しに射《う》ち倒された。 「ひるむな!」 「突込《つつこ》め!」 「突撃!」  小隊長はサーベルをふり上げてさけんだ。  次の瞬間《しゆんかん》に、彼らも大地に横たわっていた。  ロシヤ軍のマキシム機関銃は、二十分間の射撃《しやげき》で、完全に日本軍の攻撃《こうげき》第一波を喰《く》い止めた。  マキシム機関銃は口径七・六二ミリ。水冷式で一分間に六百発を発射することができた。ロシヤ軍は一個中隊に六丁ずつ配置し、この防禦線《ぼうぎよせん》には合計七十二丁を集中していた。一分間に六百発といっても、それは銃身《じゆうしん》の焼損も考えず、また弾薬《だんやく》ベルトが切れ目なしにつながっているとしての計算上のことだから、実際には、射ちまくったとしてもその七割、四百二十発程度であろう。それにしても二十分間の発射|弾数《だんすう》は、故障銃《こしようじゆう》や目標視認のためのロス・タイムをさしひいても厖大《ぼうだい》な量に上る。はじめて機関銃というものに接した日本軍兵士の驚《おどろ》きは大変なものだったであろう。  第二軍軍司令官|奥《おく》大将は戦場間近の肖金山《しようきんざん》に自分の司令部を前進させた。  戦死者の死体を収容する余裕《よゆう》もなく、ただちに第二回攻撃の喇叭《ラツパ》が鳴りひびいた。  ふたたび日本軍|野砲《やほう》の砲撃《ほうげき》がはじまった。  ロシヤ軍の陣地は爆煙《ばくえん》に包まれた。  だが、日本軍の砲撃《ほうげき》にはややとまどいが感じられた。それはロシヤ軍の機関銃陣地《きかんじゆうじんち》の前には日本軍の戦死体が無数に散乱していて、うっかりすると、ロシヤ軍の機関銃陣地もろとも、それらの戦死体をも吹き飛ばしかねなかったからだった。  そのためらいが砲撃効果をかなり減殺《げんさい》した。それでも砲撃は三十分間続けられた。  今度はロシヤ軍の野砲《やほう》も、防禦戦《ぼうぎよせん》の成功に勇気づけられたか、塹壕陣地《ざんごうじんち》の背後まで前進してきた。極東軍第五|砲兵《ほうへい》連隊第一大隊は、日本軍砲兵の弾幕下《だんまくか》に前進した。  砲煙《ほうえん》が消えやらぬ二分後に、日本軍歩兵は果敢《かかん》な突撃《とつげき》を行った。  日本の兵士も、第一回目のように猪突猛進《ちよとつもうしん》するだけでなく、跳躍《ちようやく》前進しつつ、わずかな窪《くぼ》みを見つけては身を伏せ、烈しい小銃《しようじゆう》射撃《しやげき》を加えた。  機関銃の咆哮《ほうこう》と豆を炒《い》るような小銃の一斉《いつせい》射撃。吶喊《とつかん》の雄たけびと絶叫《ぜつきよう》、悲鳴がひとつに交錯《こうさく》し、目はくらみ、耳は聞えなくなった。日本軍は一隊がたおれれば次の一隊をくり出し、その一隊がことごとく地に横たわると見るやさらに次の一隊に突撃《とつげき》を命じ、休むひまもなく攻《せ》め立てた。実際、ロシヤ軍の損害もまた目をおおうばかりだった。戦闘《せんとう》が始まって一時間後に、機関銃の三分の一は失われていた。  断ち切られた鉄条網《てつじようもう》をくぐりぬけ、ようやく機関銃|陣地《じんち》の真下にまで達した日本軍兵士は、次の一瞬《いつしゆん》、五体がばらばらになって飛び散った。ロシヤ軍の地雷原《じらいげん》だった。  かくて日本軍の攻撃《こうげき》はまたしても失敗した。  軍司令部は暗澹《あんたん》たる空気に包まれた。  実は、日露《にちろ》戦争における日本軍大本営には戦争の終末に至るまで、基本戦略というものはなかった。  中心になるべき構想に、満州中央部|奉天《ほうてん》付近においてロシヤ極東軍主力を捕捉壊滅《ほそくかいめつ》する。そのための背後の固めに遼東《りようとう》半島の完全|占領《せんりよう》と補給基地としての大連港の確保。というこの二つがあるだけだった。  これでは軍事専門家でなくとも妙《みよう》に思う。極東軍をたたくといっても、極東軍なるものはたとえ一回たたいたとしても、それで消滅《しようめつ》してしまうものではない。本国から幾《いく》らでも送られてくる。それを次々にほうむることができたとしても、それでは決定的な勝利は望むことはできない。長駆《ちようく》万里。はるかに露国《ろこく》の首都を占領《せんりよう》するまで攻《せ》め込んでゆかなければならないが、当時の日本にはそんな国力などあるはずもなかった。遼東《りようとう》半島の占領も大連港の確保も、戦術であって戦略ではない。  それゆえ、日本政府は最初から、ある程度の勝利を得たところで、第三国に和解を斡旋《あつせん》してもらうつもりだった。もしその第三国、日本が期待していたのはアメリカだったが、そのアメリカが斡旋を拒否《きよひ》するとか、ロシヤが和解を拒《こば》んで大軍を派遣《はけん》してきたら、日本はどうなっていたかわからない。日露《にちろ》戦争はまことに危険極まりない賭《か》けだった。  太平洋戦争もそうだが、日本軍は南方資源地帯を占領し、確保するというだけで、その先がどうなるのかという見込みも判断も立てていなかった。海軍は、本国から渡洋遠征《とようえんせい》してくるアメリカ|艦隊《かんたい》を南洋諸島付近で邀撃《ようげき》し、壊滅《かいめつ》させる腹づもりだったが、これもロシヤ極東軍と同じで、たたいてもたたいてもあとからあとからやってきたら、どうしようもない。結局そのようになった。当時の日本に、アメリカ大陸まで進攻《しんこう》する力がない以上、太平洋戦争の窮極《きゆうきよく》的勝利は最初から望み得ないものだった。  軍人の頭の構造は実に不思議なものだ。  日露戦争も太平洋戦争も、その基本構想の欠陥《けつかん》ぶりは少しも変っていないのだ。しかも太平洋戦争では、日露戦争の時のように、有力な第三国の仲介《ちゆうかい》というのは考えられない情況《じようきよう》だったから問題は深刻だった。  大本営は明治三十七年五月十三日、奥大将のひきいる第二軍に対し、『大連から金州半島を占領《せんりよう》し、大連|湾《わん》に根拠地《こんきよち》を設定するとともに旅順|孤立《こりつ》を強化すべし』という訓令を発しようとしたが、逆に、奥軍司令官から『十五日、軍主力をもって金州に向う』という打電があったので訓令は見合わせた。  十五日というのは遅《おく》れ、実際には二十三日。攻撃《こうげき》待機線に配備|完了《かんりよう》し、二十四日。払暁《ふつぎよう》から敵陣地《てきじんち》に接近を開始。二十五日。攻撃準備完了。二十六日。砲撃《ほうげき》開始とともに歩兵前進と全軍|突撃《とつげき》という展開になった。  損害は第二軍軍司令部や大本営の予想をはるかに上回っていた。ロシヤ軍の抵抗《ていこう》も烈《はげ》しいであろうことは覚悟《かくご》していたことだが、戦力誤認も甚《はなは》だしかった。  ロシヤ軍に対する過小評価は、将軍から一兵卒に至るまで汚染《おせん》の如《ごと》く浸透《しんとう》していた。  機関銃《きかんじゆう》の威力《いりよく》については知っていても、それを正しく兵士たちに教えようとしなかった。 「露助《ろすけ》の射《う》つヘロヘロ弾丸《だま》など当るものか」といえば、皆《みな》それで納得《なつとく》した。  日本軍が突撃をかければ、ロシヤ兵は泣きさけびながら逃《に》げ回る、と誰《だれ》でもが信じていた。   土嚢《つちぶくろ》 十重《とえ》に二十重《はたえ》に つみかさね   屋上《やのうえ》を おおふ土さへ 厚ければ   わが送る 榴霰弾《りゆうさんだん》の 甲斐《かい》もなく   敵は猶《なお》 散兵壕《さんぺいごう》を 棄《す》てざりき   剰《あまつさ》へ 嚢《ふくろ》の隙《すき》の 射眼より   打出す 小銃《こづつ》にまじる 機関砲《きかんほう》   一卒進めば一卒|僵《たお》れ 隊《たい》伍進めば隊伍僵る   隊長も 流石《さすが》ためらふ 折しもあれ   一騎《き》あり 肖金山上《しようきんさんじよう》より 駆歩《くほ》し来《きた》る   命令は 突撃《とつげき》とこそ 聞えけれ   師団師団に伝へ 旅団|聯隊《れんたい》に伝ふ   隊長は 士気今いかにと うかがひぬ     第二軍軍医部長 森鴎外《もりおうがい》『うた日記』より      明治三十七年五月二十七日|於 南 山《なんざんにおいて》  南山の中腹から見おろす戦場は硝煙《しようえん》と土煙《つちけむり》におおわれ、たえ間ない閃光《せんこう》がはためき走った。  ロシヤ軍の機関銃《きかんじゆう》のひびきと、日本軍兵士の雄《お》たけびは、つなみのように遼東《りようとう》半島の一角をゆり動かした。 「西郷将軍。あれ、あのように日本軍の兵士が射《う》ち倒《たお》されてゆきます。将軍の御国《おくに》の兵士ではありませんか。将軍はあれをごらんになって、如何思召《いかがおぼしめ》しますかな」  ロシヤ軍|陣地《じんち》内の塹壕《ざんごう》に身をひそませ、眼下の戦場をうかがう各国の観戦武官たちだった。  岩のように身動きもせず、戦場を見つめる西郷にたずねたのは、イギリス陸軍歩兵|少佐《しようさ》ウインストン・チャーチルだった。あごの張った顔に、意地悪そうな目が光っていた。 「胸が痛むことでごわす。東洋には�一将|功《こう》成って万骨枯《ばんこつか》る�という言葉がありもうす。将たる者、帝王《ていおう》たる者、その言葉を深く肝《きも》に銘《めい》じ、事にのぞまなければなりまっせん」 「将軍は、人形のように射ち倒されてゆく日本軍兵士を見て、日本軍指揮官の能力の問題であるとお思いになりませんか?」 「ロシヤ軍も、なかなか勇敢《ゆうかん》でごわす」  西郷は、この小生意気な英国士官の質問をさりげなくかわした。この英国士官は、母国を棄《す》てた亡命将軍に、あえてもっとも辛辣《しんらつ》な精神的|攻撃《こうげき》をかけようとしているのだった。  ロシヤ軍の予備軍二個大隊が斜面《しやめん》をかけ下っていった。  日本軍の第三次攻撃はようやく力つきようとしていた。突撃《とつげき》してきた約三個大隊の兵はあらかた戦死体となってロシヤ軍陣地の前に横たわっていた。  すでに陽《ひ》は地平線にかかろうとしていた。  ロシヤ軍は、南山の中腹に六十サンチの探照灯を三基も引き上げてあった。照明|弾《だん》の用意も豊富だった。日本軍の夜襲《やしゆう》は全く不可能だろう。  陽が全く没《ぼつ》してしまえば、日本軍の攻撃はもはや挫折《ざせつ》という烙印《らくいん》をおされる。  日本軍、南山の攻撃に失敗す、というニュースは世界中をかけめぐるだろう。  そのニュースは、日本がアメリカやヨーロッパで募集《ぼしゆう》計画を進めている戦時債券の信用を失墜《しつつい》せしめるだろう。  ロシヤ極東軍総司令官クロパトキン将軍がねらっているのも実はそこにあった。 ≪南山を死守せよ≫  それはロシヤ皇帝ニコライ二世の命令であったが、皇帝はそんなことなどわかるはずもなかった。  西郷は暗澹《あんたん》たる思いで視線を回《めぐ》らせた。  チャーチル少佐《しようさ》がふたたびたずねた。 「将軍。日本軍が今、この南山を陥《おと》すためには、どのような作戦を立てるべきでしょうか?」  西郷は大きな目をチャーチル少佐の顔に当てた。ちら、とやさしいひとみになった。 「日本軍の攻撃《こうげき》は、ほとんどこの南山の正面に加えられているので、ロシヤ軍の関心も当然、防禦線《ぼうぎよせん》中央に向けられているようでごわす。日本軍は今、ロシヤ軍|左翼《さよく》を、海上から軍艦《ぐんかん》の大砲《たいほう》で砲撃《ほうげき》するとともに舟艇《しゆうてい》機動をもって有力なる一隊をロシヤ軍防禦線後方に上陸せしめるか、あるいは海岸に沿って南下させるべきでありまっしょう。ほう。今、引き潮でありまするなあ。これは兵を海に入れても押し渡るべきであります」  初夏の華麗《かれい》な夕焼けに渤海湾《ぼつかいわん》は、血のように染っていた。  弧《こ》を描《えが》いてのびる半島の海岸線に沿って、幅広く、暗色の帯があらわれていた。潮が引いた砂浜だった。 「うむ?」  西郷の目が大きく見開かれた。  天も水も真紅に染った海上に、点々と舟の影《かげ》があらわれた。  それは白波を立てて海岸へ向ってくる。  とつぜん、舟影《しゆうえい》に強烈《きようれつ》な閃光《せんこう》が開いた。  すさまじい砲声《ほうせい》がとどろいた。  舟は全部で四|隻《せき》あり、それが急速に軍艦《ぐんかん》のシルエットになった。  発砲《はつぽう》の閃光がたてつづけにひらめき、砲声が轟々《ごうごう》と海を圧してどよめいた。  俵《たわら》のように大きな砲弾《ほうだん》が、空中に薄《うす》い青黒い煙《けむり》の尾を曳《ひ》いて飛んでくる。  日本海軍の砲艦《ほうかん》『赤城《あかぎ》』以下四|隻《せき》の遊撃《ゆうげき》部隊だった。  搭載《とうさい》している砲は、八サンチ砲クラスの旧式砲だったが、思いもしなかったこの艦砲射撃《かんぽうしやげき》に、その砲弾はロシヤ軍兵士らの目には、俵やドラム缶《かん》ぐらいの大きさに見えたという。旧式砲といえども、口径は同じでも艦砲は野戦砲よりもはるかに射程|距離《きより》は長いし、命中率もよい。十数門の艦砲は、防禦《ぼうぎよ》の成功にほっとしているロシヤ軍の側面に十分過ぎる銃火《じゆうか》を浴《あ》びせた。  その時、第四師団長|小川又次《おがわまたじ》は、今や大きく干上《ひあが》った海岸の砂浜が目に入った。 「第四師団各連隊は海岸を前進せよ」  艦砲射撃に任じた四隻の砲艦と、第四師団の間には何の連携《れんけい》も打合わせもなかったことがこの場合、かえって大きく幸いした。乱戦の中では、計画された手順を追うことだけに精いっぱいで、とても効果あるタイミングをつかむことは難かしい。  真先に砂浜へ走ったのは、日本軍の最|右翼《うよく》にあった第八連隊第一中隊だった。 「進め! 進め!」  中隊長の尾田源太郎大尉《おだげんたろうたいい》は、サーベルを頭上でふり回しながら中隊の先頭を突進《とつしん》した。  つづいて第三中隊、第二中隊と動いた。  兵士たちは真黒になって砂浜を走った。  後続の中隊は砂浜を走るのを待っていられず、腰《こし》まで海水に浸《ひた》って押し渡《わた》った。  ロシヤ軍はぎょうてんした。  南下してくる日本軍に向って縦深陣地《じゆうしんじんち》はできているが、海岸の方向へは機関銃座《きかんじゆうざ》ひとつ設けられていなかった。  急報を受けたロシヤ軍司令部は、東シベリヤ狙撃兵《そげきへい》第五連隊連隊長ニコライ・アレクサンドロウィッチ・トレチャコフ大佐《たいさ》に、西海岸に至急移動するように命じた。だが、すでに事態は急速に流動化していた。  西海岸の情況《じようきよう》は、南山のロシヤ軍兵士のすべてが目にしているのだからたまらない。このままでは、日本軍はロシヤ軍防衛線の背後へ回りこみ、南山のロシヤ軍は日本軍によって完全に包囲されるのではないか、という不安が、ロシヤ兵を浮足立たせた。  旅順|要塞《ようさい》司令官の、アナトール・ミハイロウィッチ・ステッセル中将は、その不安をもっと強烈《きようれつ》に、そして具体的に感じていた。  もし、南山防衛線が破れ、遼東《りようとう》半島のロシヤ軍が総崩《そうくず》れになり、主力を失うようなことになったら、ただでさえ兵力の足りない旅順守備隊が全く弱体化してしまう。もし南山の防衛線が破られるようだったら、なるべく兵力を損耗《そんもう》しないうちに陣地《じんち》を放棄《ほうき》して旅順まで後退してほしいと考えていた。ステッセル中将はそれを総司令官のクロパトキン将軍に要請《ようせい》したばかりだった。クロパトキン将軍は、ステッセル中将を烈《はげ》しく叱《しか》りつけた。そんな弱腰《よわごし》では、勝てる戦いも負けてしまう。クロパトキン将軍は旅順要塞を確保するだけでなく遼東半島全体を日本軍に渡《わた》したくなかった。ステッセル将軍は旅順のことしか考えていなかった。  誰《だれ》にとっても、恐《おそ》れていた事態がやってきた。     16  観戦武官の塹壕《ざんごう》へ伝令がやって来た。 「ただちに後方へ下ってください」  伝令の騎兵は、馬上からそれだけさけぶと、たちまち馬腹をあおって駈《か》け去った。  観戦武官係のラボーチキン大尉《たいい》は色を喪《うしな》って、一同を追い立てるように行通壕を後方へ急がせた。  ごく近い所で怒声《どせい》と絶叫《ぜつきよう》と悲鳴が交錯《こうさく》した。それが聞き馴《な》れない言葉、おそらく日本語であることが、観戦武官たちに、ロシヤ軍の崩壊《ほうかい》以上に早い日本軍の急追をうなずかせた。ラボーチキン大尉《たいい》は目を釣《つ》り上げて一同を急がせた。  それに対してぶつぶつ文句を言う武官もいた。ロシヤ軍がどうなろうとも、第三国の観戦武官たちは別に捕虜《ほりよ》になるわけでもなんでもない。なにも敗軍の兵といっしょになって走る必要はない。  だがラボーチキン大尉は承知しなかった。観戦武官を敵の保護にゆだねてしまったとあっては、それこそ世界中の物笑いのたねとなるであろうし、何よりもロシヤ軍の敗北の実態があからさまになってしまう。 「いそいでください! お願いです。いそいでください!」  大尉は泣かんばかりにさけびつづけた。  西郷の世話係のステファン・ペトロウィッチ・カラス中尉《ちゆうい》は責任感に目もくらむような思いで、西郷のうしろからついていった。  日本兵の突撃《とつげき》の雄たけびは、もはやすぐ背後に迫《せま》っていたが、西郷は少しもあわてる気色《けしき》もなく、まるで散策にでも出てきたような足どりで、ゆったりと体を運んでいった。  カラス中尉の手には、大きなコルト自動|拳銃《けんじゆう》があった。  日本軍は西郷を捕《とら》えたら本国へ連れもどし、裁判にかけるであろう。今の西郷は国賊《こくぞく》というわけだから、第一級の国事犯としておそらく死刑《しけい》に処せられるであろう。それは、亡命した西郷を保護する立場にあるロシヤとしては、世界に対して国辱《こくじよく》的な失策である。  カラス中尉はそのことを思い、今、もし日本兵が追いつくか、行く手をさえぎるようなことでも起きたら、その場で西郷を射ち殺そうと思っていた。西郷も、本国へ送りかえされて罪人として処刑《しよけい》されるよりも、その方をえらぶであろうと思われた。  それにしても西郷の足は遅《おそ》い。  ことによったら、西郷は、この地で日本兵の手にかかって一命を終ることをのぞんでいるのかもしれなかった。 「させないぞ! そんなことはさせないぞ」  カラス中尉《ちゆうい》はさけんだ。  とつぜん、ゆくての雑木林から剣付鉄砲《けんつきでつぽう》を構えた日本兵が飛び出してきた。つづいて一人。もう一人。  カラス中尉は何かさけぶと腕《うで》を回し、コルト拳銃《けんじゆう》を日本兵へ向けた。 「やめんさい!」  西郷が腕をのばし、カラス中尉の手首を打った。自動拳銃は重い音を立てて足もとに落ちた。 「中尉。相手は三人じゃ。一人を射《う》ち殺しても、おはんも射たれる。それでは何にもならぬではないか。ここはおいどんにまかせたらよか」  西郷はカラス中尉を自分の背後へ退《しりぞ》け、日本兵に向き直った。 「わしは西郷じゃ」  日本兵の顔は驚《おどろ》きと恐怖《きようふ》にゆがんだ。 「射つなり、捕《とら》えるなり勝手にせい」  西郷は悠容《ゆうよう》とほほ笑んだ。  日本兵はこの世のものでないものを目にしたかのように、血の気を失ってあとじさった。  とつぜん、一人の兵士が直立不動の姿勢をとってさけんだ。 「歩兵第八連隊第二中隊一等卒|大月作左衛門《おおつきさくざえもん》であります」  反射的にあとの二人も石のように固くなった。 「自分も同じく第二中隊の一等卒|牧田二郎三郎《まきたじろさぶろう》であります」 「二等卒|岩城半助《いわきはんすけ》であります」  西郷は大きくうなずいた。 「皆《みな》、御国《おくに》の為《ため》に御苦労でごわす。おいどんは、御国の為にロシヤと戦うことはできもさんが、おはんらの武運長久ば祈《いの》っておりもうす」 「敬礼!」  三人の兵士は、電気に打たれたように捧《ささ》げ銃《つつ》の礼をとった。  西郷も挙手の礼を返した。 「それから、このロシヤの将校は見のがしてやってくださらんか。おいどんの従兵でごわす。たのみもす」  三人はいよいよ固くなり、声高く応諾《おうだく》の意志を表明した。 「それでは、ごめん」  西郷は岩がゆらぐように歩き出した。呆然《ぼうぜん》とこの場のなりゆきを見つめていたカラス中尉《ちゆうい》が、夢《ゆめ》からさめたように小走りに西郷のあとを追った。  ついに南山は陥《お》ちた。日が完全に没《ぼつ》する頃《ころ》、ロシヤ軍は南山を棄《す》て、南へ南へと敗走した。時に午後七時三十分であった。日本軍の戦死傷四千三百八十六。ひとつの丘《おか》の奪取《だつしゆ》に、これほどの損害を出したことは、太平洋戦争でもなかった。  遼東《りようとう》半島のもっともせまい所にある南山を失った結果、ロシヤ軍は、遼東半島|先端《せんたん》の旅順|要塞《ようさい》を中心とした地域と、満州の沙河《さが》、奉天方面と、大きく二分される結果となった。  クロパトキン総司令官としては、緒戦《しよせん》ではある程度|戦況《せんきよう》が混沌《こんとん》とするぐらいは予想もし、覚悟《かくご》もしていたが、ちょっと大きな負け戦さだった。満州南部に日本軍が進出するのが早過ぎた。  クロパトキン大将の計画の根本は、日本軍をできるだけ満州の内陸部に誘《さそ》いこみ、補給線ののびたところで決戦に持ちこむというものだった。同時に海軍は黄海や朝鮮|海峡《かいきよう》を制圧して日本の輸送路を断ち切る。満州の日本軍が壊滅《かいめつ》すれば日本政府は必ず和平交渉《こうしよう》にうったえてくるであろうから、頃《ころ》を見はからって交渉のテーブルに着く、というのが、ロシヤの将軍連の一致《いつち》した意見だった。     17  旅順の市内はごったがえしていた。  日本軍がもう郊外《こうがい》まで迫《せま》っているとか、日本軍に味方している馬賊《ばぞく》の大集団が、市の周囲を取り巻いているとか、まことしやかに噂《うわさ》する者がいて、いよいよ混乱をあおっていた。すると軍警がやってきて、それは日本軍の放った便衣隊《べんいたい》だといい、さらに市民たちの不安に火をつけた。  遼東《りようとう》半島の戦いで一敗地《いつぱいち》にまみれたロシヤ兵は続々と旅順へ逃《に》げこんできた。  旅順は四万五千人の兵士でふくれ上った。  極東|総督府《そうとくふ》の白亜《はくあ》のビルの三階に、広さ二百|畳敷《じようじき》といわれる舞踏場《ボール・ルーム》があった。  軍の組織や機関が、正規の二倍にも三倍にもふえた今は、ありとあらゆる場所が司令部や連隊本部や将校宿舎になった。総督府のこの舞踏場にも、何十という机やベッドが持ちこまれ、ついたてやカーテンで仕切られた粗末《そまつ》な本部や司令部に、ほおをひきつらせた連隊長や副官たちがあわただしく出たり入ったりしていた。  四階の総督大会議室では、将軍たちが大テーブルを囲んでいた。その中に西郷の顔もあった。  正面の壁《かべ》にかかげられた皇帝の肖像画《しようぞうが》を背にした総督エフゲネ・イワノウイッチ・アレクセーエフは、眉《まゆ》の間に深いたてじわを寄せ、口をへの字に結んでおし黙《だま》っていた。彼は極めて不機嫌《ふきげん》だった。  ふだん大言壮語《たいげんそうご》ばかりしている軍人どもが、こうも簡単に日本軍に打ち破られ、遼東半島どころか満州の中央部まで踏《ふ》みにじられるようなはめになろうとは、彼自身、これまで考えたこともないことだった。  しかも、今、将軍たちは、彼の理解し難い専門用語を使って、彼を全くのけ者にして、作戦計画を立てようとしているのだった。  ステッセル中将は、手にしたむちで背後の壁《かべ》に貼《は》られた旅順周辺の大地図を指し示した。 「東アジア第十五工兵連隊は全力を挙げ、旅順周辺の丘陵《きゆうりよう》の中腹に、多数のほら穴を造ってもらいたい。それは日本軍の砲撃《ほうげき》から戦闘員《せんとういん》を守る最後のとりでになるだろう。もちろん、武器、弾薬《だんやく》、食糧もすべてそのほら穴に移す。それから大隊の一部を割《さ》き、要塞《ようさい》に備えつけてある火砲《かほう》のうち、海の方を向いているものは至急、旅順の外側へも向けられるように工事してもらいたい」 「将軍。お話し中ではありますが、それは指揮権の乱用というものであります。旅順要塞司令官は小生でありますぞ」  スミルノフ中将が、灰色の八字ひげを震《ふる》わせてステッセル将軍をねめつけた。 「そんなことはわかっておる。が、建制《けんせい》を考えてみよ。わしは満州軍司令官じゃ。旅順|要塞《ようさい》司令官は満州軍司令官に隷属《れいぞく》する。今や満州軍の負担する主戦場はこの旅順である。すなわち満州軍司令官のわしが、この旅順の戦いを指揮する。それが何で指揮権の乱用か」  ステッセル将軍のこめかみに太い筋が膨《ふく》れ上った。 「それはそれで結構。ですが、この旅順の戦闘《せんとう》を直接指揮するのは、要塞司令官たるこの小生であります。それが建制でありましょう」 「スミルノフ中将。それは違《ちが》う——」  不毛な議論がいつ終るともなく続いた。  それがどう結論づけられるでもなく、紛糾《ふんきゆう》は他の将軍や高級将校たちの上へ飛火していった。ロマン・インドロウィッチ・コンドラチェンコ少将は、旅順周辺の陸上防衛の司令官だったが、旅順要塞を除いて、野戦軍を展開させることができるような地域はもうなかったのだが、軍だけは、要塞守備隊とは別にまだ存在していたから始末が悪い。 「東シベリヤ第四、第七師団に付属する砲兵《ほうへい》部隊は、野戦軍として当然、シベリヤ第三軍団の砲兵指揮官コルチャック少将の指揮下にあるわけでありますが、旅順へ撤退《てつたい》してきた関係上、要塞《ようさい》砲兵指揮官の指揮を受けることになると言われましたが、それは第三軍団に通告ずみでありますか?」  やせた背の高い砲兵大佐が、スミルノフ中将にしつこく喰《く》い下った。スミルノフがまだそれをしていないことを知っているのだ。 「もし、将軍閣下の司令部を通してそれをやっていただけないものならば、われわれ、第三軍団の砲兵隊は、これから全軍砲を曳《ひ》いて日本軍|占領《せんりよう》地域を突破《とつぱ》し、奉天方面に向います」  できもしないことを、声高く主張した。砲兵隊はどこでも引っぱりだこだから、鼻息が荒《あら》かった。  実際、旅順周辺地区での砲兵部隊の行動は、旅順地区野戦部隊司令官は関係なく、要塞司令官が指揮することになっていたから、要塞の外で野戦が行なわれるとしたら、野戦部隊は砲兵なしに戦わなければならないことになる。このような矛盾《むじゆん》はまだまだあった。旅順におけるロシヤ軍の組織ぐらい混乱を極め、秩序《ちつじよ》を欠いていた軍組織は、世界の近代戦史でもその例を見ない。  この席に列座しているただ一人の海軍軍人である旅順|艦隊《かんたい》司令官兼|巡洋艦《じゆんようかん》≪バヤーン≫の艦長《かんちよう》ロバート・ニコライウィッチ・バイレン少将は、すでに軍艦二|隻《せき》分の備砲《びほう》二百八十四門を陸揚げし、またその乗組員を陸戦隊として上陸させていたが、その指揮は自分はとらないと言い出した。 「私は艦に残らなければならない」  彼は胸を張った。だが彼の真意は、陸上での要塞攻防戦《ようさいこうぼうせん》など、考えただけでも鳥肌《とりはだ》が立つものだった。いざ旅順があぶなくなったら、兵装《へいそう》をおろしてかなり軽くなり、それだけ速力が出るようになった巡洋艦≪バヤーン≫で、旅順を脱出《だつしゆつ》するつもりだった。  アレクセーエフ総督《そうとく》はますます気もちが暗くなってきた。このような連中と籠城戦《ろうじようせん》を行なうはめになったのが、何としてもくやしく、不快でならなかった。この会議が始まるまでは、会議が終了《しゆうりよう》したところで、皇帝からあずけられている勲章《くんしよう》の授与式《じゆよしき》をおこなうつもりでいたが、もうその気持ちはすっかり失《う》せていた。その勲章の中で、もっとも価値あるものを、自分だけがもらっておこうと思った。それだけが、この総督が軍人たちにできるたったひとつの復讐《ふくしゆう》だった。  西郷は終始、沈黙《ちんもく》し瞑目《めいもく》したままだった。  西郷がロシヤの為《ため》に心配したことは、すべて確実に、かつ急速に現実のものになりつつあった。 「客将軍。何か御忠告のひとつもたまわりたいものだが」  スミルノフ中将が西郷に声をかけた。  アレクセーエフ総督がそれをさえぎった。 「いや。それはいかん。西郷閣下はロシヤの軍籍《ぐんせき》にはないお人じゃ。この席は、大ロシヤ軍の最高戦争指導会議じゃ。客将軍といえども、他国の人間に発言を許すわけにはいかない」  二、三人が舌打ちした。スミルノフ中将も鼻白んで黙《だま》ってしまった。  コンドラチェンコ少将が体をねじ向けた。 「西郷閣下は専門家でいらっしゃる。会議としての発言ではなく、参考意見をうかがうというのならばよろしかろう。西郷閣下。何かひとつ、お聞かせ下さい」  西郷は大きな目を見開き、軽くせき払《ばら》いをしてから口を開いた。 「旅順市内から非|戦闘員《せんとういん》を避難《ひなん》させては如何《いかが》でごわすかな。大連ば無傷と聞いております。日本軍に連絡《れんらく》をばなし、大連にでも送ったらよいのではないかと思います」 「それは、また、なぜですかな?」 「非戦闘員をかかえておっては、市街戦もできもさんぞ」  将軍たちはあっと思った。旅順|要塞《ようさい》にたてこもることは考えていたが、市内での市街戦というのは誰《だれ》も考えてもいなかった。市街戦は最後の段階である。日本軍がロシヤ軍の防衛線を突破《とつぱ》し、市内になだれこんできてからのことだ。だが、そこまでやれるのだろうか。 「やめたまえ。何を言っておるのか。市街戦などと縁起《えんぎ》の悪いことを言うな」  総督《そうとく》がかん高い声でさけんだ。  日本軍は着実に前進し、八月に入って、乃木《のぎ》中将のひきいる第三軍は旅順を囲む丘陵《きゆうりよう》地帯の山すそに布陣《ふじん》を完了《かんりよう》した。  旅順の市街は、旧市街と新市街に分れていたが、その二つを囲んで完全に半円形の防禦陣地《ぼうぎよじんち》ができ上っていた。大規模なものでは白銀山北|砲台《ほうだい》。東鶏冠山《ひがしけいかんざん》南、北|堡塁《ほうるい》。盤竜山《ばんりゆうざん》堡塁。松樹山《しようじゆざん》堡塁。鉢巻山《はちまきやま》堡塁。一戸《いちのへ》堡塁。二百三高地などは激戦《げきせん》中の激戦で知られている。堡塁はすべて厚さ二メートルもあるコンクリートで固めてあり、市内とは反対側、つまり外側へ向っている斜面《しやめん》は、鉄条網《てつじようもう》が十重《とえ》、二十重《はたえ》に設けられ、それを越《こ》すと地雷原《じらいげん》であった。その地雷原を突破《とつぱ》し、堡塁にとりついたとすると、それは高さ三メートル余の、取りつく手がかりもない垂直の壁《かべ》になっている。その城壁《じようへき》のようなコンクリート壁を、かりに乗り越《こ》えたとすると、とたんに、そこは深さ七メートルに達する深い壕《ごう》に転落してしまう。壕の底には、逆茂木《さかもぎ》や鉄条網《てつじようもう》あるいは槍《やり》が植えられていて、落ちてきた者は、串刺《くしざ》しになってしまう。その壕の内側の壁面《へきめん》に当る両側部分には、カポニエールと呼ばれるコンクリートで固められた二階建ての兵舎兼待機所があり、壕の底に落下しても運良く助かった兵士は、この両側のカポニエールから弾丸《だんがん》の雨を喰《くら》って蜂《はち》の巣《す》になってしまう。  機関銃座《きかんじゆうざ》小銃《しようじゆう》の銃眼《じゆうがん》は全く死角を持たなかった。  建設に要したのは七年の歳月《さいげつ》と、千五百万ルーブルの巨費《きよひ》であり、三十万|樽《たる》のセメントであった。  旅順を回る丘陵《きゆうりよう》はすべて丈《たけ》低い雑草でおおわれ、斜面《しやめん》を這《は》い上ってくる攻撃軍《こうげきぐん》の兵士が姿をかくすべき樹木や岩塊《がんかい》ひとつなかった。それらは、ロシヤ軍の手ですべて取り除かれていたからである。  実は、日本の作戦の中には、旅順|攻略《こうりやく》というプログラムはなかった。  海軍から大本営に対して、湾外《わんがい》から旅順港内にひそんでいるロシヤの軍艦《ぐんかん》や、造船所を砲撃《ほうげき》するための、観測所を、丘陵の一角に設けてほしいという要請《ようせい》があった。海軍としては、旅順湾の奥《おく》深くひそんでいるロシヤの東洋|艦隊《かんたい》の残存部隊を撃滅《げきめつ》さえできれば、後顧《こうこ》の憂《うれ》いなく、来攻《らいこう》するバルチック艦隊をむかえうつことができるという腹だった。海軍としては、海軍基地としての旅順港にはほとんど魅力《みりよく》を感じていなかった。  旅順の全面攻略を具体的に作戦にのせたのは満州軍総司令官|元帥大山巌《げんすいおおやまいわお》だとも、参謀《さんぼう》総長の児玉源太郎《こだまげんたろう》だったともいわれる。  もっとも、旅順をめぐる要塞《ようさい》地帯の中で、ただ一か所だけの攻略が可能かどうか。たとえ占領《せんりよう》したとしても、そこに設けた弾着《だんちやく》観測所が、果して周囲からの砲撃《ほうげき》とロシヤ軍の奪回《だつかい》作戦に耐《た》えられるものかどうかはなはだ疑わしい。結局、それは全面攻略以外にはないのではあるまいかとも思われる。  連日の雨だった。八月十六日。明治天皇は旅順市内の非戦闘員《せんとういん》を救出するように第三軍に覚え書を発した。  乃木中将はこれを投降勧告書に作りかえてロシヤ軍に送った。  翌日、ステッセル中将は、怒《いか》り心頭に発した体《てい》で拒絶《きよぜつ》してきた。  これによって旅順市内の非戦闘員は完全に避難《ひなん》の道を絶たれた。  雨は八月十七日の夜に上った。  第三軍は自信満々、いよいよ旅順|攻撃《こうげき》にとりかかった。  時に明治三十七年八月十九日であった。  ロシヤ軍の士気は極めて高かった。  遼東《りようとう》半島では、日本軍によって意外な敗北をこうむったとはいえ、それは単なる緒戦《しよせん》のつまずきであり、ロシヤ軍も、日本軍の戦力を十分に評価していなかったというおとし穴もあった。  だが、もう日本軍の実力については深く認識し得たし、どこが弱点かもわかっていた。  何よりも、旅順|要塞《ようさい》の鉄壁《てつぺき》がロシヤ兵を心強くさせた。  来攻《らいこう》する日本軍は一万五千。守るロシヤ軍は四万二千。これでは勝負にならない。  八月十九日の朝。西郷はカポニエールを出て松樹山|堡塁《ほうるい》へ上った。  金州旅順街道の両側に設けられた日本軍|砲兵陣地《ほうへいじんち》から、さかんに発砲《はつぽう》の閃光《せんこう》がひらめいていた。  戦闘《せんとう》は東鶏冠山から大案子山堡塁にかけて全面で火ぶたが切られた。  西郷はトーチカの銃眼《じゆうがん》から双眼鏡《そうがんきよう》で見おろした。  一木一草もない斜面《しやめん》を、無数の日本兵が蟻《あり》のように這《は》い上ってくる。  周囲のロシヤ軍|銃座《じゆうざ》がいっせいに火を吹いた。  銃声《じゆうせい》は天地を圧した。  マキシム機銃《きじゆう》が、間断なくうなり、銃座の周囲に打殻の山をきずいていった。  日本兵は豆人形のように斜面をころげ落ちていった。  あとから、あとから、わき出ては斜面《しやめん》を上ってくる。  ロシヤ軍の兵士たちはくわえ煙草《たばこ》で引金を引き続けた。  日本軍がかくれているふもとの谷間から、堡塁《ほうるい》のある丘《おか》の頂きまで、百メートルから百五十メートルある。何のしゃへい物もない斜面を、しかもロシヤ軍があらかじめ距離《きより》を計っているいわば彼らの手馴《てな》れた射場を、体ひとつでかけ上るのだから、途中《とちゆう》で射《う》ち倒《たお》されないのは奇跡《きせき》に近い。実際、奇跡は一回も起らなかった。  西郷は、くわえ煙草で機関銃《きかんじゆう》を操作しているロシヤ兵に歩み寄ると、無言で、そのくちびるから煙草をむしり取り、床《ゆか》に投げ棄《す》てて靴《くつ》で踏《ふ》みにじった。  煙草を吸っていた他の兵士は恐《おそ》れて、自分から煙草を棄てた。     18  七番街|皇帝《ツアー》通りに、赤|煉瓦《れんが》のゴシック風建築の威容《いよう》を誇《ほこ》る総督府《そうとくふ》の屋上から望む西方の丘陵《きゆうりよう》の頂上は、茶褐色《ちやかつしよく》の雲とも煙《けむり》ともつかぬ幅《はば》広いベールに包まれていた。  その方角から、たえ間ない砲声《ほうせい》と銃声《じゆうせい》が遠雷《えんらい》のように市街の上にひろがり、おおいかぶさってきた。  それは二十四時間、昼も夜も休みなく鳴り響《ひび》き、半島のこの一角の要塞《ようさい》都市を打ち震《ふる》わせた。  総督府の大会議室に設けられた≪旅順防衛司令部≫は、日本軍の攻撃《こうげき》が始められてから最初の三、四日は陰鬱《いんうつ》な空気に包まれていたが、十日を過ぎた今は、やや明るい空気をとりもどしていた。笑い声さえ聞かれるようになった。  防衛の自信が生れてきたのだった。  必死にくり返される日本軍の攻撃も、外郭《がいかく》防衛陣地にかすり傷をつけることもできなかった。  ロシヤ軍は満州の各地に敗残兵となって取り残されているロシヤ軍部隊から、機関銃《きかんじゆう》や小銃《しようじゆう》を狩《か》り集め、それを中国人の輸送隊によってひそかに旅順へ運びこんだ。それを知った日本海軍は、旅順|湾《わん》に入ろうとするジャンクを片端《かたはし》から臨検したが、夜の暗闇《くらやみ》にまぎれて、島かげを縫《ぬ》って密行するジャンクのむれを臨検しそのすべてを拿捕《だほ》するのは容易なことではなかった。  明治三十七年十月十五日。ロシヤのバルチック|艦隊《かんたい》は『第二太平洋艦隊』と名を変え、リバウ軍港を出港した。  海軍大将ジノウィ・ペトロウィッチ・ロジェストウェンスキーは、将旗を旗艦《きかん》『クニヤージ・スワロフ』の檣頭《しようとう》高く掲《かか》げ、四十|隻《せき》の艨艟《もうどう》をひきいてバルチック海の荒波《あらなみ》を蹴立《けた》てて大遠征《だいえんせい》の途《と》についた。  旗艦『スワロフ』以下『ボロジノ』『アレクサンドル三世』『アリヨール』『オスラービヤ』『シソイ・ウエリーキー』『ナワリリン』より成る戦艦《せんかん》戦隊。装甲巡洋艦《そうこうじゆんようかん》『アドミラル・ナヒモフ』また新鋭《しんえい》の有力な巡洋艦『ジェムチューグ』『オーロラ』『イズムルード』、旧式ではあるが十分任務には耐《た》え得る『ドミトリー・ドンスコイ』『スウエトラーナ』。さらに排水量《はいすいりよう》三百五十トン級の水雷艇《すいらいてい》九|隻《せき》。これらが戦闘力《せんとうりよく》の中心であり、これらにさらに多くの輸送艦や工作艦、砕氷艦《さいひようかん》をはじめ、食料・真水|運搬船《うんぱんせん》や曳船《えいせん》、病院船など多数が従っていた。  ヨーロッパから回航されるこのバルチック|艦隊《かんたい》は、東郷平八郎のひきいる日本海軍の連合艦隊と、内容的にはほぼ匹敵《ひつてき》していた。連合艦隊は、戦艦の数こそバルチック艦隊に劣《おと》っていたものの、装甲《そうこう》巡洋艦を中心とした高速部隊がすぐれており、ことに日本近海における迎撃戦《げいげきせん》のことではあり、駆逐艦《くちくかん》や水雷艇の全力を動員できるのが強味だった。  このバルチック艦隊が、日本海軍の抵抗《ていこう》を排除《はいじよ》して、ウラジオストックあるいは旅順に入港したら、その瞬間《しゆんかん》に、日露《にちろ》の戦いはロシヤ軍の勝利が決定的になってしまう。これだけの兵力で朝鮮|海峡《かいきよう》を遮断《しやだん》して、満州の日本陸軍に対する補給線を断ち、一方では日本列島の沿岸に進出して陸上に砲撃《ほうげき》を加えたら、日本は生産力と輸送力の両方を失って急速な崩壊《ほうかい》は必至だった。  実はこれと全く構想を同じくする対日戦略が、太平洋戦争の時、アメリカ軍によって進められた。その結果は、歴史が示している。  ゆえに、バルチック|艦隊《かんたい》の迎撃《げいげき》の帰趨《きすう》が直接、日本の命運を左右することになるのだった。  そのバルチック艦隊の東洋来航は、来年の五月末と目されていた。  旅順|要塞《ようさい》はそれまでがんばればよい。  防衛司令部も何とか守り通す自信はあった。  間諜《かんちよう》からの報告によれば、日本の大本営はバルチック艦隊の東洋来航を来年一月下旬と考えているということであった。  それが日本の大本営を火のような焦燥《しようそう》におとし入れた。  日本の海軍はバルチック艦隊を迎《むか》え撃《う》つ為《ため》に、総力を上げて連合艦隊の整備にかかっていたが、それには旅順の海軍|工廠《こうしよう》がのどから手が出るほど欲しかった。東郷平八郎はバルチック|艦隊《かんたい》がウラジオストックに向うコースを、太平洋側に二コース、日本海側に一コース考えていた。日本海側コースはもちろん対馬《つしま》海峡を通る。東郷はひそかにこの日本海側コースを確信していた。それは、はるばるヨーロッパから回航されてくる大遠征《だいえんせい》部隊は、とくに自らの戦力に自信を持つ場合は、与《あた》えられた幾《いく》つかのコースの内、最短|距離《きより》のコースをえらぶに違《ちが》いないという確信であった。  朝鮮半島の南端《なんたん》、鎮海湾《ちんかいわん》を泊地《はくち》に、バルチック艦隊を待ち受けている日本の連合艦隊を遠くかわして、日本列島の太平洋側を北上してウラジオストックへ向えばよかったのではないか、という戦評は、実は当時の戦略思想や艦隊の運用思想などを無視した非現実的な論評である。バルチック艦隊は、もっとも現実的な、そして提督《ていとく》なら誰《だれ》でも選ぶコースを選んだだけのことであった。  東郷もそれを知っていたからこそ、旅順の艦船《かんせん》修理|施設《しせつ》をぜひとも手に入れたいと思ったのだった。  ただ、東郷は日本|艦隊《かんたい》の練度や、指揮官の能力から、バルチック艦隊の来攻《らいこう》を来年一月末|頃《ごろ》と踏《ふ》んだのだった。この四か月の誤差が、旅順|攻囲《こうい》の日本陸軍を、必要以上に追い立て、死地へ走らせたのだった。  日本の大本営は、バルチック艦隊の来攻を明年一月末と予定し、そのためには、旅順の占領《せんりよう》を絶対に今年の八月末までに終らせることが必要だと考えていた。旅順を攻略《こうりやく》しても、ロシヤ軍は造船所や海軍|工廠《こうしよう》を徹底《てつてい》的に破壊《はかい》するであろうし、その修理のために一か月を予定していた。それから連合艦隊の艦艇《かんてい》を入渠《にゆうきよ》させるのだ。それでも四か月の余裕《よゆう》があった。日本の大本営は当初、旅順の攻囲戦は一か月で終るだろうと考えていた。  局面は少しずつロシヤ軍に有利になっていった。  日本軍は満州では後退するロシヤ軍に誘《さそ》われ、奥地《おくち》へ奥地へと戦略なき前進を続けていた。彼らの補給線は、前線が奉天付近まで進んだあたりでその能力は喪《うしな》われるだろうと思われた。それはイギリスやアメリカ、フランスなどの軍事専門家たちも同様な見方をしていた。  旅順の攻囲《こうい》は固かったし、野戦で失われた兵力は少なくはなかったが、戦略的にロシヤ軍は決して敗れてはいなかった。  日本の大本営は濃《こ》い憂慮《ゆうりよ》に包まれていた。  勝った、勝った、の戦勝気分に酔《よ》い痴《し》れる国民の知らぬところで、大本営の将軍や参謀《さんぼう》たちは頭をかかえていた。  乃木のひきいる第三軍に当然、有形無形の圧力が加えられた。  第一次|総攻撃《そうこうげき》に手ひどい失敗を味わった乃木は、それまでのやみくもな突撃《とつげき》戦法に変えるに、正攻法《せいこうほう》の攻城戦《こうじようせん》を取ることを決心した。させられたといった方がよい。  九月一日。軍命令として正式に正攻法による戦闘推進《せんとうすいしん》が下令された。  正攻法とは何かというと、味方の防禦線《ぼうぎよせん》から塹壕《ざんごう》や坑道《トンネル》を掘《ほ》り進めていって、ロシヤ軍の陣地《じんち》に接近できるだけ接近し、そこから地上へ躍《おど》り出て突撃《とつげき》するという方法だった。それとて結局最終部分は突撃だが、敵弾《てきだん》に身をさらす距離《きより》は三十メートルから五十メートルである。急な傾斜《けいしや》をかけ上ってゆくのとは大違《おおちが》いである。  日本軍は早速アリのようにトンネルを掘り始めた。  だが、その間にも、ふもとからする突撃戦法は中止しない。坑道を掘る作業をロシヤ軍にさとられまいとする欺瞞《ぎまん》工作だが、それで生命を棄《す》てる兵士たちはたまったものではなかった。  大案子山|堡塁《ほうるい》から二百三高地まで、直線距離にしてほぼ千五百メートル。二百三高地の北隣《どなり》の老虎溝山《ろうここうざん》。そのさらに北の南山坡山《なんざんはざん》の三つの丘陵《きゆうりよう》が、突出陣地《とつしゆつじんち》の形に張り出していた。  北方の水師営《すいしえい》の町まで、金州旅順街道がのびているはずだが、夕闇《ゆうやみ》の濃《こ》いこの時刻にはそれと見定めることは不可能だった。  西郷は双眼鏡《そうがんきよう》を回《めぐ》らせた。  水師営から二百三高地の丘陵群にかけて、無数の灯が動いていた。右へ向うものもあれば左へ移動するものもある。何の秩序もなくゆれ動いているかのように見えるが、よく見ていると、その動きには一定の動きとくりかえしがあった。 「客将軍。日本軍|陣地《じんち》では、四、五日前からあのような動きがあらわれております。夜はあの灯の動きでそれと分るのですが、むろん昼間も行なわれているものと思われます」  西部地区防衛司令官ニコライ・アレクサンドロウイッチ・トレチャコフ大佐《たいさ》が、手にした指揮棒で、遠い日本軍戦線を指し示した。  西郷は黙《だま》っていつまでも双眼鏡を目に当てていた。  夜の幕《とばり》が旅順をめぐる壮大な風景を押し包んでゆくと、戦場を吹き渡《わた》る風もにわかに腥《なまぐさ》くなる。  とつぜん、ロシヤ軍の陣地の一角から、目のくらむような光の矢がほとばしった。サーチライトだった。  つづいて一本。もう一本。強烈《きようれつ》な光の束《たば》はなめるように眼下の斜面《しやめん》に旋転《せんてん》した。  その光の中に、斜面を這《は》い上ってくる無数の黒影《こくえい》が浮き上った。 「敵襲《てきしゆう》!」 「敵襲!」 「各個に射撃《しやげき》!」 「休息中の中隊も陣地《じんち》へもどれ」 「弾薬《だんやく》輸送班、待機せよ」  さけび声が入り乱れた。  たちまち機関銃《きかんじゆう》が吠《ほ》え出した。つづいて嵐《あらし》のような小銃《しようじゆう》の一斉射撃《いつせいしやげき》がはじまった。 「来るぞ。来るぞ! これは、今夜は総攻撃《そうこうげき》だぞ」 「二千。いや三千はいるだろう」 「なあに。また皆殺《みなごろ》しにしてやるぞ」  最初のうちは、日本軍の強襲《きようしゆう》には本能的な恐怖《きようふ》を抱《いだ》いたが、この頃《ごろ》では射撃訓練ででもあるかのような落着きと自信に満ち、小銃の引金を引く指も、すっかり馴《な》れていた。  日本兵は射《う》たれても射たれても丘《おか》の斜面《しやめん》をかけ上ってきた。  サーチライトの光圏《こうけん》の中に入って、二十メートル走る者はまだよい方だった。大多数はサーチライトの光の中に入ったとたんに、後へのけぞり倒《たお》れ、二度と起き上らない。  サーチライトの光の中に、ロシヤ軍の陣地《じんち》から三百メートル離《はな》れた所に打ちこまれている杭《くい》が照らし出されていた。それは横にほぼ五十メートルの間隔《かんかく》をおいて何本も山腹に打ちこまれていた。  ロシヤ軍の兵士は銃《じゆう》の照尺《しようしやく》を距離《きより》三百メートルに固定し、引金だけ引けばよいようにしていた。  烈《はげ》しい弾幕《だんまく》を突《つ》きぬけ、一人また一人とかけ上ってくる。 「照明|弾《だん》!」  誰《だれ》かがさけび、隣《となり》の塹壕《ざんごう》から照明弾が射ち上げられた。  かけ上ってくる日本軍の兵士の姿が、くっきりと浮かび上った。  射点を変えた機関銃《きかんじゆう》の弾道《だんどう》がのびていった。  日本兵はのけぞり、のめり、たちまち地に伏《ふ》した。絶叫《ぜつきよう》と悲鳴がロシヤ兵の耳を衝《つ》いた。  日本軍の突撃《とつげき》ラッパが、軽快な旋律《せんりつ》をかなで、それが虚《むな》しく夜空に消えていった。  日本軍の夜襲《やしゆう》は夜明けとともに終った。  ロシヤ兵は疲《つか》れた体を堡塁《ほうるい》の底に横たえ、運ばれてきた熱いスープやロシヤ紅茶にも見向きもせず、泥《どろ》のように眠《ねむ》りに落ちた。  夜明けの薄明《はくめい》の中に堡塁の前面の斜面《しやめん》は、一面に黒布を敷《し》きつめたように見えた。  夜が明け放たれると、その黒一色の斜面のあちこちが力無くうごめいているのが目に入ってきた。  その頃《ころ》になって、うめき声や泣き声が汐騒《しおさい》のように丘の上のロシヤ軍|陣地《じんち》まで届いてきた。  丘のふもとの日本軍陣地から、いつもの朝の聞き馴《な》れたラッパの音が聞えてきた。  それが休戦ラッパであることはすでにロシヤ軍に通報されていた。  ラッパが終ると、赤十字の旗を掲《かか》げた丸腰《まるごし》の日本兵の一隊が丘《おか》の斜面《しやめん》をゆっくりと上ってきた。衛生兵だった。  彼らはまだ息のある負傷兵を担架《たんか》に載《の》せ、あるいは二人で頭と足をかかえ、背負ったり抱《だ》いたりして運んでいった。  黒一色に見えたのは黒い軍服を着ている日本軍の戦死傷者であり、多数の負傷兵が運び去られると、そのあとには、あちこちに山腹の赤茶けた地肌《じはだ》がのぞいていた。  衛生隊負傷者救出作業が終ると、そのあとからこれも丸腰の歩兵や工兵の集団がぞろぞろ上ってきた。  戦死者の収容がはじまった。衛生隊と異なり、こちらは収容すべき戦死体の数も多く、加えて兵士たちにとっても極めて意気の上らぬ作業のことではあり、作業は遅々《ちち》として進まなかった。  その間はロシヤ軍も休んでいられることではあり、黙《だま》って見ていた。  陽《ひ》が高くなった頃《ころ》、ようやく戦死体収容の作業は終った。  日本軍の兵士たちが、鈍《にぶ》い動きで彼らの陣地《じんち》へ吸いこまれてゆくと、そこから一人の日本軍将校があらわれ、山頂のロシヤ軍陣地へ向って軍帽《ぐんぼう》を振《ふ》った。  感謝の表明と同時に戦闘《せんとう》再開の合図でもあった。  ロシヤ軍はのそのそと陣地へもどった。  だが、さすがに日本軍も夜襲《やしゆう》に次ぐ白昼の強襲《きようしゆう》は力続かなかった。 「今夜の夜襲まではゆっくり休むことができそうだ」 「それにしても、よくあきらめないものだな。もう一万人くらい死んでいるだろうに」 「いや。一万じゃすむまい。一万五千ぐらいにはなるだろう」  ロシヤ兵は、熱いボルシチに舌つづみを打ち、愚《おろ》かとしか言いようのない日本軍の力|攻《ぜ》めに、皮肉な笑いをこぼすのだった。  その夜も、日没《にちぼつ》とともにまた日本軍の夜襲がはじまった。  西郷はその夜も堡塁《ほうるい》の銃眼《じゆうがん》から、日本軍の陣地《じんち》へ双眼鏡《そうがんきよう》を向け続けていた。  丘《おか》の斜面《しやめん》は、サーチライトの光芒《こうぼう》と赤熱の幾千《いくせん》幾万の弾道《だんどう》と、絶叫《ぜつきよう》と喚声《かんせい》。突撃《とつげき》ラッパの音などで充満《じゆうまん》していたが、西郷の目は、それよりもはるかかなたの日本軍陣地に向けられていた。  そこには、いつもの夜と同じように、おびただしい灯がともされ、ゆれ動いていた。 「何をしているのだろう?」  西郷の太い眉《まゆ》に、この男にはめずらしい濃《こ》い疑惑《ぎわく》の色がただよっていた。  その夜の日本軍の夜襲《やしゆう》は、千五百の戦死体を残して終了《しゆうりよう》した。 「トレチャコフ大佐《たいさ》。練達の偵察兵《ていさつへい》を一人、出してくださらんか」  西郷は背後に立っているトレチャコフ大佐をふりかえった。 「偵察兵でありますか」 「日本軍の陣地《じんち》内で何が行なわれているのか、様子をうかがってきてもらいたい」  トレチャコフ大佐《たいさ》の命により早速、一人の軍曹《ぐんそう》が呼び出された。シベリヤ第一軍団第三特別工兵大隊に属するステファン・スミルノフ・ステイア軍曹は、職業軍人として築城教育を受けた有能な下士官だった。  なぜ工兵下士官が選ばれたのかというと、トレチャコフ大佐は、西郷の言葉の中に、日本軍の陣地《じんち》内で、なんらかの土木作業がおこなわれているのではないだろうか、という不審《ふしん》のひびきを感じ取ったからだった。トレチャコフ大佐は、西郷の意をむかえること、あたかも腹心の部下の如《ごと》くであったといわれるが、このステイア軍曹の選出こそ、旅順を回《めぐ》る攻防戦《こうぼうせん》の中での、最も劇的な、かつかくれた光彩《こうさい》であった。  ステイア軍曹は、小柄《こがら》なウクライナ人だったから、トレチャコフの司令部が入手していた日本軍の軍服が、それほどおかしくなく体に合った。  堡塁《ほうるい》をすべり出たステイア軍曹は、丘の斜面《しやめん》をおおっている日本軍の死体にまぎれながら、這《は》い進んでいった。  正面を避《さ》け、日本軍の塹壕《ざんごう》を縫《ぬ》い、北大案子山と二百三高地の間の窪地《くぼち》へたどり着くまでに、二時間を要した。  そこから望む日本軍の陣地《じんち》は、数十基の篝火《かがりび》に、赤々と照らし出されていた。  半裸《はんら》になった日本軍の兵士たちが、大きく膨《ふく》らんだアンペラの袋《ふくろ》を背負い、足を引きずりながら目の前を通り過ぎていった。馬に曳《ひ》かれた箱車《はこぐるま》がやってきた。兵士たちはすぐ右方の火光の中に袋の中の何かを棄《す》て、足取りも軽々と今来た方へもどって行った。その往復の列が何本もできていた。  ステイア軍曹は、影《かげ》から影を伝って移動した。  兵士たちが棄てているのは多量の赤土だった。  ステイア軍曹の足に汚《よご》れた包帯がからみついた。  軍曹はその包帯を手にすると素早く自分の頭から顔に巻きつけた。彼の明るい褐色《かつしよく》の頭髪《とうはつ》と、バラ色の顔がその下にかくされた。  彼は頭部の包帯の上に軍帽《ぐんぼう》を載《の》せた。  彼は慎重《しんちよう》に足を運び、兵士たちの動きの発源点となっている個所が見える位置まで進んだ。  篝火《かがりび》の火光の中に、太い材木で組まれた木戸口のようなものがあった。目を据《す》えると、それは鉱山などの坑口《こうぐち》のように見えた。  兵士たちはそこからアリのように、あとからあとからあらわれた。出て来る兵士たちは皆《みな》、大きな袋《ふくろ》をかついでいた。  工兵|軍曹《ぐんそう》であるステイア偵察兵《ていさつへい》は、そこで何が行なわれているのか、一瞬《いつしゆん》にして悟《さと》った。  彼はやって来た時と同じように、ふたたび夜の闇《やみ》にまぎれ、影《かげ》に身を溶《と》かして味方の陣地《じんち》へ帰り着いた。 「なるほど。なるほど。坑道《トンネル》戦術に出もしたか。どうもあの灯の動きには、ただごとでない活気を感じたが」  西郷はステイア軍曹の報告に、牛の如《ごと》くうめいた。 「なかなか天晴《あつぱ》れな作戦じゃ。そうあるべきじゃ。あの突撃《とつげき》はあまりに無策過ぎる」  西郷はステイア軍曹《ぐんそう》の報告をステッセル総司令官のもとへ届けさせた。  ステッセル将軍の軽駕《スパイダー》が北大案子山|堡塁《ほうるい》へあたふたと走りこんできたのは、それから二十分もたたない頃《ころ》だった。  ステッセル将軍は、顔面|蒼白《そうはく》となっていた。指揮棒を持つ手が、とめどなく震《ふる》えていた。 「客将軍。日本軍が坑道《トンネル》戦術をとったというのはほんとうかな。どこまで掘《ほ》り進めておるのか? こ、ここが今にも、ドカンとやられるのではないか?」  声まで上《うわ》ずっていた。 「来るかもしれもさんぞ。ドカアンと」  西郷は両手をひろげて高くかかげた。  ステッセル将軍はほとんど色を喪《うしな》った。 「どうしたら、どうしたらいいのじゃ。客将軍」  ステッセル将軍は西郷の腕《うで》にとりすがらんばかりだった。 「対策を立てる前に、ステイア軍曹をもう一度、小輩《しようはい》のところへよこしてくだされ」 「軍曹《ぐんそう》などどこにでもいる。誰《だれ》でもよいから適当に使いたまえ。して、その軍曹に何をさせようというのじゃ?」 「これは誰にでもできるという任務ではありもさんぞ。ステイア軍曹に頼《たの》みもそ」 「勝手にするがよかろう。それで、一体何をさせるのかね?」 「その答えは軍曹が持って来よるでごわしょう」  それから数分後、ステイア軍曹が西郷の前に立った。 「手練《てだ》れの部下を何人か連れて行ったらよか。何を調べるかちゅうと……」  その夜も暁《あかつき》に近く、東の空の闇《やみ》が心なしか水色を帯びてきたかと思われる頃《ころ》、ステイア軍曹が、三、四名の部下とともに北大案子山の堡塁《ほうるい》へ帰ってきた。  そこには、西郷をはじめ、ステッセル将軍、コンドラチェンコ少将、スミルノフ中将、トレチャコフ大佐《たいさ》など、旅順防衛軍の幹部たちが顔をそろえていた。 「おう。ご苦労。ご苦労。さあ、聞かせてもらおうか」  西郷はポケットからロシヤ煙草《たばこ》を取り出すと、軍曹《ぐんそう》と彼の部下たちに一本ずつ分け与《あた》え、一人一人|燐寸《マツチ》をすってやった。  兵士たちは目を丸くした。彼らが将軍たちからそのようなことをしてもらったことなど、これまでただの一度もなかった。 「客将軍……」  軍曹は一、二服、吸いつけた煙草をていねいに消してハンカチにくるんでポケットへ収めると姿勢を正した。 「坑道《トンネル》は四本。日本語の解る者を二名連れて行きましたが、坑道の二本はあきらかに二百三高地を目指しております。あとの二本はわかりませんが、日本兵の会話の中に、大案子山という言葉が頻々《ひんぴん》と出てきたそうであります」 「そうあるべきじゃ」 「運び出された土の量から考えまして、一日に五メートルは掘《ほ》り進んでいます。その中の一本は十メートルを越《こ》すやに思われます。おそらく土質が軟《やわ》らかいゆえでありましょう」 「それはどの方向へのびておるか?」 「こちらへ向っていると思われます。客将軍。この旅順を囲む丘陵《きゆうりよう》地帯は、比較《ひかく》的軟らかく、もろい石灰岩層から成っております」  西郷は深くうなずいた。  軍曹たちを下らせると、西郷はステッセルに作戦会議を招集するように申し入れた。 「我輩《わがはい》は作戦会議など必要ないと思うんじゃが」  ステッセルは不機嫌《ふきげん》になった。貴族出身のこの将軍は、上司のクロパトキン将軍がそうであるように、独断専行こそが司令官たるものの行為《こうい》であると思いこんでいた。作戦などはすべて司令官の胸の中だけできめることであり、部下の将軍、隊長たちは、それを至上命令として将棋《しようぎ》の駒《こま》の如《ごと》く動けばそれで十分に使命を果したことになるときめつけていた。 「将軍。事は重大ですぞ。敵の坑道《トンネル》戦術に対し、どう防ぐか、ご存じか?」  西郷の言葉に、ステッセルはもう口を開こうとはしなかった。  日本軍の夜襲《やしゆう》の終った大案子山の山腹に、夜明けの薄明《はくめい》がただよっていた。  将軍たちは大案子山|堡塁《ほうるい》の、カポニエールの中の士官用休息室を仮の作戦会議室にあてた。  西郷をのぞく将軍たちの目は血走り、しきりにのどの渇《かわ》きをうったえては、ワインや羊乳酒を運ばせた。  西郷は黒板を運ばせ、それにチョークで巧みに坑道の構造図を描《えが》いた。     19  坑道は高さも幅《はば》もほぼ二メートルあった。もっと規模の小さい方が能率はよかったが、大柄《おおがら》のロシヤ兵ではこれでもせまいほどだった。坑道《トンネル》の中央に、篠竹《しのだけ》の茎を割って編んだアンペラで作られたベルト・コンベアーが帯のようにのたうち動いていた。 「ノゲイ」 「ノウゲイ!」 「ノゲイ」 「ノウゲイ!」  地の底から地霊《ちれい》がおめき吠《ほ》えるようなさけびが絶えずわき上ってきた。  アンペラのベルト・コンベアーは、ほぼ十メートルごとに区切られ、そこで段差をつけて次のコンベアーに接続されていた。その区切りの所に大きな轆轤《ろくろ》が据《す》えつけられていた。コンベアーをはさんでその左右の曲軸《クランク》に取りつけられた把手《とつて》を、数人のロシヤ兵が力の限り回していた。たくましい半裸《はんら》の胸も背も、泥《どろ》と汗《あせ》にまみれていた。  坑道の奥《おく》で掘《ほ》り取られた土は、コンベアーであとからあとから運び出されてくる。 「ノウゲイ!」 「ノオゲエ!」  敵将の名にあらん限りの憎《にく》しみと力を籠《こ》め、回しに回す。  彼らも西郷の巨体《きよたい》を通す時は、クランクを回す手を休めなければならなかった。  角灯《カンテラ》の灯がゆらゆらと明暗を吐《は》き出していた。  西郷は軍服を脱《ぬ》いでシャツに乗馬ズボン。地下足袋《じかたび》を用い、鳥打帽《とりうちぼう》で頭部を保護していた。  坑道《トンネル》はすでに五百メートルものびていた。  当時の坑道|掘進《くつしん》速度は、ひとえに掘《ほ》った泥《どろ》を坑道の外へ運び出す早さに影響《えいきよう》された。それは現代でも変らないのだが、広範《こうはん》な動力の利用が、迅速《じんそく》な排土《はいど》作業を、当り前のように錯覚《さつかく》させているだけである。  ロシヤ軍の幹部の中で西郷の計画したベルト・コンベアーによる排土作業を理解できたのはトレチャコフ大佐《たいさ》だけだった。あとはステッセル将軍はもとより、秀才をもって聞えたコンドラチェンコ少将やヴェテラン、スミルノフ中将も、敵坑道戦術に対しては味方も坑道を掘り進めるのを最良の策とするという西郷の説明にただ首をひねるばかりだった。  西郷はようやく坑道《トンネル》の先端部《せんたんぶ》に達した。  そこは畳《たたみ》を三枚|敷《し》きつめたほどのせまい空所になっていた。  角灯《カンテラ》が生むまぼろしのようなほの明りの中に、三、四名の兵士がうずくまっていた。  西郷の姿に、一人の兵士が立ち上った。 「ステイア軍曹《ぐんそう》であります」 「おはんもご苦労なことじゃ。いったい、どんな様子でごわすか」  ステイア軍曹は、首にかけていたゴム管をはずし、西郷にさし出した。  西郷は二本のゴム管の端《はし》を両耳にさし入れた。そのゴム管の先端はひとつに合して金属に変り朝顔の花のように開いていた。  西郷は巨体《きよたい》を折り曲げると、新しい掘削面《くつさくめん》をさらけ出している坑道の壁《かべ》に、ゴム管の先端部を押し当てた。  西郷は息を押し殺し、目を閉じた。  ……コツ、コツ……コツ……  ゴム管を通して、かすかな物音が伝わってきた。  それは大磐石《だいばんじやく》の下の、深い深い地の底から、次第に音を弱めて、ようやく届いてきたかのような地のきしみだった。 「音の聞えてくる方向は?」 「わが坑道《トンネル》の進行方向の左前方三十度であります」 「音源までの距離《きより》は?」 「三十メートルほどかと思います」 「このままだと、この坑道と平行することになるかな?」 「ぶつかることはないと思います」 「よか。軍曹《ぐんそう》。なお観測を続けてくれ。それからベルト・コンベアーは止めてくれ。作業の兵士はその場で待機。大きな声を出さぬよう注意してくれ」  コンドラチェンコ少将やトレチャコフ大佐《たいさ》がようやく顔を見せた。二人ともポンプのように息をはずませていた。  西郷は二人に地底から伝わってくる音を聞かせた。 「あれは日本軍が坑道《トンネル》を掘《ほ》り進めておる音でごわす。あの坑道がこれと平行した時を見すまし、その横腹へ急遽《きゆうきよ》掘り進める。そして爆薬《ばくやく》をしかける。敵の坑道戦術を防ぐにはこれしかござらん」  トレチャコフ大佐《たいさ》は感に打たれたようにうなずいた。 「客将軍は実に博識でおわしますなあ。こうした戦法はすでにどちらかでご体験なさりましたのか?」 「いや。日本では古来、堅固《けんご》な城攻《しろぜ》めには坑道を掘り進めて、爆薬で石垣《いしがき》を崩《くず》すなどという方法はよくこころみられたものじゃ。小輩《しようはい》も熊本城|攻略《こうりやく》に、坑道戦術を用いたが、丁度雨季での。ちと難渋《なんじゆう》いたしたでごわす」  西郷と二人の指揮官はふたたび長い坑道をもどった。  大案子山|北麓《ほくろく》の坑道出口から地上へ出ると、硝煙臭《しようえんくさ》い夜風が、ここちよく全身を包んだ。  その夜の闇《やみ》を砲声《ほうせい》と銃声《じゆうせい》が引き裂《さ》き、震《ふる》わせていた。  そこから見る大案子山西側|斜面《しやめん》は荒《あ》れ狂《くる》う鉄火の渦《うず》だった。  西郷は泥《どろ》だらけのシャツを脱《ぬ》ぎ棄《す》てると、ロシヤ軍兵士の従兵にあずけておいた自分の軍服を裸《はだか》の体にまとうと、馬で大案子山|堡塁《ほうるい》へかけ上った。  これまでにない激《はげ》しい日本軍の夜襲《やしゆう》だった。  堡塁を守るロシヤ軍も、今夜は堅固《けんご》な防禦陣地《ぼうぎよじんち》に頼《たよ》りきったいつもの安逸《あんいつ》な心は消し飛んでいた。  マキシム機関銃《きかんじゆう》は、間断なく吠《ほ》え続け、銃身《じゆうしん》を冷やす冷却筒《れいきやくとう》の中の水はふっとうして真白な水蒸気を噴《ふ》き上げていた。薬莢《やつきよう》は雨のように周囲に飛び散った。  日本兵は射《う》たれても射たれても、突撃《とつげき》して、ロシヤ軍はついに手榴弾《てりゆうだん》を使いはじめた。手榴弾の投擲距離《とうてききより》まで日本兵が接近してきたのはこの夜が始めてだった。  ロシヤ軍の手榴弾の炸裂《さくれつ》の閃光《せんこう》の中に、吹き飛ばされる日本兵の姿が、くっきりと浮かび上った。  とつぜん、西郷の足元に、どさりと落下したものがあった。  硝煙《しようえん》の匂《にお》いが強く鼻を刺《さ》した。赤い小さなほのおが勢いよく炸《は》ぜた。  ロシヤ軍の兵士がそれに跳《と》びついた。すばやくそれをつかみ上げると、堡塁の外の、日本軍へ向って投げた。下方の斜面《しやめん》で爆発《ばくはつ》の閃光《せんこう》とごう音がわいた。 「日本軍の手榴弾《てりゆうだん》は、口火に火をつけて投げるという旧式なものですから、投げこまれても落着いていれば十分投げ返すことができます」  若い少尉《しようい》が肩《かた》をそびやかせて言った。  また一発飛びこんできた。それも投げ返された。  サーチライトの光芒《こうぼう》の中に、よじ上ってくる日本兵の姿がアリのように望まれた。  とつぜん、西郷の胸に火のような怒《いか》りが燃え上った。 「なんたることぞ。乃木は坑道戦術をさとられまいとして夜襲《やしゆう》をかけさせておるのか! これでは兵士があまりにかわいそうではないか」  万に一つも成功する見込みの立たない夜間強襲《きようしゆう》を執拗《しつよう》にくり返す意図は、掘《ほ》り進めつつある坑道《トンネル》を、ロシヤ軍の目からいんぺいするためのてだてに過ぎなかったのだ。  西郷の胸に、これまで写真でしか見たことのない一人の、やせた小男の将軍の顔が浮かび上ってきた。  西郷は、自分がその長州出身の陸軍大将をいかに嫌《きら》い、軽蔑《けいべつ》しているかをさとった。  西郷はその将軍だけではなく、陸軍きっての長老山県有朋《やまがたありとも》も満州軍総司令官の大山巌も満州軍総|参謀《さんぼう》長の児玉源太郎も大嫌いだった。  薩長《さつちよう》政府と人は呼ぶが、実際には大久保・伊藤連立政権であり、その政府を支える陸軍は長州によって独占《どくせん》されていた。薩摩《さつま》は海軍をあずけられ、態《てい》よく陸上から追い出されてしまった。海上にあっては政治にかかわりを持つことは不可能だったし、逆に政府にとっては海軍の主張には、それが国防に関することならば無条件に容《い》れておけばよかった。薩摩人は、とくに西南戦争以来、中央からは影《かげ》が薄《うす》れ、長州出身要人は薩人《さつじん》にかわってかつての幕臣や会津出身者を重用するありさまだった。  遠い日の無念の思いが、少しも褪《あ》せることなく、西郷の胸によみがえってきた。  一将功成って万骨|枯《か》るとはこのことであった。  長州の将軍は綺羅《きら》を張って故国へ還《かえ》ることもできようが、旅順の山野を血で染めた兵士たちの骨は誰《だれ》が抱《だ》いて凱旋《がいせん》するのか。 「断じて、将軍たちを還《かえ》すことはできん」  西郷は長く長くうめいた。  十時間後、ロシヤ軍の坑道《トンネル》は日本軍の坑道にあと一メートルにまで迫《せま》った。  ロシヤ軍工兵は掘鑿《くつさく》作業兵を後方に下げると、たがいの坑道を隔《へだ》てる岩盤《がんばん》に二百キロの爆薬《ばくやく》をしかけた。  坑道の先端部《せんたんぶ》から五十メートルの後方に土嚢《どのう》で隔壁《かくへき》が設けられ、その背後に突撃隊《とつげきたい》二個中隊がひそんでいた。  電気信管が火花を飛ばし、爆薬は大地を震《ふる》わせた。  崩《くず》れ落ちる瓦礫《がれき》がまだ坑道の中に百千の雷鳴《らいめい》のようにとどろき、跳《は》ね回っている中を、突撃隊は突進《とつしん》した。大破孔《だいはこう》から日本軍の坑道《トンネル》に突入《とつにゆう》したロシヤ軍の突撃隊は、何が起ったかもわからず呆然《ぼうぜん》としている日本軍の工兵を打ち倒《たお》しつつ、坑道の出口へ走った。  とつぜん、坑道の出口から飛び出してきたロシヤ兵に、地下の異変を知って作業場に集っていた日本軍工兵はぎょうてんした。  銃《じゆう》を手にするひまもなかったし、そもそも土工作業中のこととて、身近に銃など置いていなかった。  たちまち建物には火が放たれ、日本兵は逃《に》げまどうばかりだった。 「ウラー!」 「ウラー」 「ノウゲイ!」 「ノゲイ」  ロシヤ兵の吶喊《とつかん》の雄たけびだけが周囲を圧した。  大案子山の堡塁《ほうるい》からはるかにそれを見おろしていた西郷の、体内をとつぜん電撃《でんげき》のようなものが走った。  西郷はほとんど無意識にさけんだ。 「信号兵! 全軍に伝令。堡塁を出て突撃せよ!」  信号兵は短い間、きょとんとしていたがすぐ意味をさとって、勇躍して走り去った。  信号弾が夜空めがけてかけ上り、あちこちで突撃ラッパが鳴り出した。  とつぜんの、思いもかけない命令に、一瞬戸惑ったロシヤ兵も、つぎの瞬間には銃を握って堡塁から躍り出していた。  彼らも、いかに堅固であろうとも、堡塁に立て籠《こも》っての日夜を問わぬ防戦一方の戦いには、かなり意気消沈していた。  そこへ、とつぜんの突撃命令だった。  日本軍の陣地で何か騒動が起っているらしいのは、夜空を焼く火焔《かえん》やけたたましい銃声、叫喚などでわかっていたが、それに続いて突撃命令が与えられるとは誰も思っていなかった。  かれらは勇躍し、真黒になって北大案子山の斜面をかけ下った。  サーチライトと照明弾の光芒が交錯し、射ち出した日本軍の小銃の発射光が、心細げに明滅した。  夜襲の準備に忙殺されていた日本軍は、立ち直るひまもなかった。散発的な抵抗もたちまち突撃の怒濤《どとう》に呑みこまれた。  日本軍は組織的抵抗力を失って潰走《かいそう》した。 「全軍。引き上げろ」  北大案子山堡塁から紫色の信号弾が打ち上げられた。 「伝令。全軍突撃を中止。ただちに元の位置へもどれと伝えろ」  数十騎の伝令が飛んだ。  ロシヤ軍はふたたび真黒になって斜面を上ってきた。  その頃になって日本軍戦線背後の野砲陣地が猛然と射ち出した。  砲弾は大案子山の斜面をかけ上ってゆくロシヤ軍兵士のむれの中につづけざまに火柱を噴き上げた。  引き上げ命令を伝えてから、全軍が堡塁《ほうるい》にもどり終えるまで一時間を要した。  心配していた日本軍の追撃《ついげき》はなかったし、追尾|砲撃《ほうげき》によって百名ほどの戦死傷は出したものの、反撃《はんげき》は大成功だった。  ロシヤ軍の堡塁はすっかり意気が上った。  旅順防衛軍は奮《ふる》い立ち、生きかえったようになった。  サイゴー。サイゴー。の声は全軍に偉大《いだい》な神をたたえるかのようにとどろいた。 「客将軍! いったい何の真似《まね》をしてくれたのだ。この旅順の防衛司令官はわしだ。このステッセルだ。きみは軍法会議だ。きみの所業は皇帝陛下に報告する」  ステッセル将軍は蒼白《そうはく》になったほおから滝《たき》のような汗《あせ》をしたたらせて西郷につめよった。 「いや。まことにすまんことでごわした。何と申したらよいか、ここだと思ったとたんに、自分でも思いがけず声が飛び出してしまいました」  西郷は叱《しか》られた子供のように体を縮めた。 「けっして将軍をないがしろにしたわけでも小輩《しようはい》が防衛司令官になったと思ったわけでもありもさん。全く無意識にやったことでごわす。あやまりもす。あやまりもす」  西郷はいよいよ小さくなった。  ステッセル将軍は軍会報を通じて西郷を軍法会議に付すると発表した。  それに対して、士官や兵士たちから激《はげ》しい不満が生じた。  これまでは堡塁《ほうるい》に閉じこもって防戦一方だったものが、日本軍に対する反撃《はんげき》で、旅順の防衛だけでなく、遼東《りようとう》半島での勝利さえ期待できるような情況《じようきよう》が生れたことが、ステッセルの戦闘《せんとう》指導に、果然絶望を感じさせた。 「ほんとうは軍法会議など必要ないんじゃ。仕方がない。だが、即刻死刑《そつこくしけい》にしてやる」  怒鳴《どな》っているステッセル将軍の声が、彼の公室からもれてきたという。  それが兵士の口から口へと伝えられ、二時間後には、旅順防衛軍のすべての兵士が激昂《げつこう》していた。  ようやく陽《ひ》が高くなった頃《ころ》、旅順市政庁ビルの前に、三々五々《さんさんごご》、兵士たちが集り始めた。ステッセルの副官のタツ・フハナンチ中尉《ちゆうい》が、玄関《げんかん》から出てきて、兵士たちに塹壕《ざんごう》へもどるようにさけんだ。  ブー。ブー。  口をとがらせた兵士たちからいっせいに不満の大合唱がわいた。  フハナンチ中尉は、士官学校を卒業したばかりの血気に富んだ、また軍の組織と秩序《ちつじよ》を何よりも大切にする青年だった。  中尉は腰《こし》の皮サックから大形の回転式|拳銃《けんじゆう》を取り出した。  中尉はただ一人だったし、建物の中から心配そうに見つめる老練な下士官たちの制止もとうてい及《およ》ばなかった。  中尉の拳銃が火を噴《ふ》き、兵士の一人が倒《たお》れた。  集っていた兵士たちは建物に殺到《さつとう》した。  手榴弾《てりゆうだん》が炸裂《さくれつ》し、ガラスが飛散した。  兵士たちがステッセル中将の公室に達しないうちに、彼らの前に立ちふさがったのは、コンスタンチン・ニコラエフ・スミルノフ中将だった。  彼は老顔に苦悩《くのう》の翳《かげ》を濃《こ》く浮かべ、兵士たちに向って両|腕《うで》をひろげた。兵士たちに好感がもたれていた中将は、兵士たちの代表と話し合うことに同意した。  建物の前に集った兵士たちは、彼らの要求をまとめ、中将の前にやって来た。 「旅順防衛の指揮は、客将軍サイゴーに一任すること。また、要塞《ようさい》に立て籠《こも》っていたのではいつまでたっても勝利はおぼつかないから、機を見て野戦に打って出るべし。兵士の食事、衣服、日用品などの給与《きゆうよ》が非常に悪くなっているからただちに改善すること。それらの物資は十分な量が保管されているはずである」  スミルノフ中将は最初の要求項目だけは保留しておいて、あとの要求には全面的に応諾《おうだく》と理解を示した。  ステッセル中将は、スミルノフ中将の言葉に卒倒《そつとう》せんばかりに驚《おどろ》き、怒《おこ》った。サーベルの柄《つか》にのばした手を、トレチャコフ大佐《たいさ》と一等書記のクリステンセンが前後から押えた。  怒《いか》り狂《くる》うステッセル中将は、スミルノフ中将の階級を剥奪《はくだつ》し、戦いが終るまで重営倉に処すると息まいた。  業《ごう》を煮やした兵士たちが騒《さわ》ぎ始め、手榴弾《てりゆうだん》の炸裂音《さくれつおん》がたて続けにビル街を震《ふる》わせた。  ステッセル中将は私室へ走りこみ、寝台《しんだい》に身を投げると、羽根ぶとんを頭からかぶった。ふとんがひくひくと動き、悲痛な泣き声がもれてきた。  スミルノフ中将は、その場をトレチャコフ大佐にまかせると、兵士たちの前にもどった。  兵士たちは満足し、面を輝《かが》やかせて持ち場へもどっていった。  スミルノフ中将は緊急《きんきゆう》指揮官会議を招集した。  ステッセル中将は急病という理由で欠席した。スミルノフ中将は旅順|要塞《ようさい》司令官の立場から、客将軍サイゴー・キチノスケを臨時に遼東《りようとう》軍司令官に委嘱《いしよく》することを発表した。  高級将校たちの誰《だれ》もが異存がなかった。  西郷は大案子山|堡塁《ほうるい》に自分の司令部を置いた。  彼はこの堡塁と、その西北に連なる二百三高地の攻防《こうぼう》こそ、旅順要塞全体の命運を支配するものととらえていた。  西郷は、第二線|防禦陣地《ぼうぎよじんち》である東方の北斗山砲台《ほくとさんほうだい》と一望台砲台から兵力を引き抜《ぬ》き、一個大隊を編成し、それと予備の一個大隊を併《あわ》せ、遊撃《ゆうげき》部隊を作った。南山から後退してきて旅順市内へ入ったシベリヤ第二|騎兵《きへい》集団第五|騎射《タチヤンカ》大隊が、馬を棄《す》て、堡塁に分属させられていたのを呼び返し、元の騎兵隊にもどした。  五日後、日本軍は頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》すべく、猛烈《もうれつ》な夜襲《やしゆう》をかけてきた。  北方の最前線の椅子山《いすさん》堡塁や松樹山堡塁にはついに日章旗がひるがえった。つづいて二竜山堡塁が陥落《かんらく》した。  旅順|要塞《ようさい》は、包囲されて以来、はじめて重大な局面をむかえた。  西郷のもとに危機を伝える伝令が櫛《くし》の歯を引くように届いた。西方の西太陽溝堡塁も日本軍の手に落ちた。  厖大《ぼうだい》な損害を全くかえりみない凄絶《せいぜつ》な攻撃《こうげき》には、その夜のうちに戦いの帰趨《きすう》を決めてしまおうという決意が、はっきりと感じられた。 「将軍。わが軍は各所で苦戦しています。どうか、指示を与えてください」  スミルノフ中将はおろおろと西郷に声をかけた。  西郷は答えなかった。  東北方のロシヤ軍堡塁で大爆発《だいばくはつ》が起った。弾薬庫《だんやくこ》に砲弾《ほうだん》が命中したのであろう。  五分が過ぎ、さらに十分がたった。 「東鶏冠山堡塁が占領《せんりよう》されました。日本軍は旧市街へ向って進撃《しんげき》しています!」  血だらけの伝令が西郷の足元に這《は》ってきた。 「副官。赤竜《せきりゆう》の信号|弾《だん》。一発!」  西郷は大きく右手を振《ふ》った。  背後のレイス少佐《しようさ》が信号|拳銃《けんじゆう》を高く掲《かか》げた。真赤な信号弾が長い長い尾を曳《ひ》いて夜空へかけ上っていった。  とつぜん、金州・旅順街道の方向に、つなみのような喚声《かんせい》と大地を震《ふる》わせる蹄鉄《ていてつ》の響《ひびき》がわき起った。  第二騎兵集団第五|騎射《タチヤンカ》大隊のコサック騎兵《きへい》五百騎の猛襲《もうしゆう》だった。  それに続くのは新編成第一|遊撃《ゆうげき》大隊だった。  騎射《タチヤンカ》隊は機関銃《きかんじゆう》を載《の》せた軽駕《スパイダー》を中心とする快足|攻撃《こうげき》部隊であり、現代のヘリボーンに匹敵《ひつてき》する神出|鬼没《きぼつ》の攻撃力《こうげきりよく》だった。  それまで、息をこらして命令を待っていたコサック騎兵は街道上を水師営に向ってひたすら突進《とつしん》した。  遊撃大隊は街道上から西へそれ、旅順|丘陵《きゆうりよう》のふもとを二百三高地へ向って日本軍の陣地《じんち》を蹂躙《じゆうりん》しつつ進撃《しんげき》した。 「副官。白竜《はくりゆう》。一発!」  西郷の号令一下、目もくらむ白熱の信号|弾《だん》が夜空に咲いた。 「全軍|突撃《とつげき》せよ!」 「ウラー」 「ウラー!」  ロシヤ軍の兵士は我がちに堡塁《ほうるい》を躍《おど》り出た。よじ上って来る者と、かけ下る者では勢いが違《ちが》っている。激突《げきとつ》の結果は最初からあきらかであった。  午前二時。コサック騎兵《きへい》集団は水師営に突入《とつにゆう》した。  二百三高地の斜面《しやめん》に取りついていた日本軍第十一師団の第二十二連隊、第四十四連隊は、とつぜん背後からロシヤ軍の攻撃《こうげき》を受け、多数の損害を出して西方へ逃《のが》れた。  椅子山堡塁、一望台堡塁は奪回《だつかい》され、旧市街突入を計った日本軍の一隊は後続を断たれ、燕子山鎮《えんしさんちん》付近でロシヤ軍に投降した。  たがいに連絡《れんらく》のないまま、必死に戦っていた日本軍各隊も、事態の変化に不審《ふしん》を抱《いだ》きはじめた。戦線は全く連携《れんけい》を欠き、連隊長たちは司令部が沈黙《ちんもく》しきっているのに不安を感じた。  第三軍司令部が潰滅《かいめつ》し、乃木が捕《とら》えられたという報が、どこからともなく流れてきて、全軍の士気をくじいた。すでに統制のある戦いは不可能になっていた。  夜明けを待たず、日本軍は汐《しお》の退くように退却《たいきやく》しはじめた。だがロシヤ軍によって水師営を押えられ、北方への退路を失った日本軍は、東と西へ、あてもなく流れていった。  背後に予備兵力を持たない日本軍は、最前線を突《つ》き崩《くず》されると、南山、金州方面に至るまでがらあきだった。  陽《ひ》が高くなる頃《ころ》、西郷は全ロシヤ軍に停止を命じるとともに、捕虜《ほりよ》になった乃木を通じて日本軍に降伏《こうふく》を勧告した。将を失った日本軍は各所で武器を棄《す》てた。  ロシヤ軍に負けたのではなく、西郷の軍門に降ったのだという思いが幾《いく》らか彼らの心の負担を軽くしていた。  一九〇五年。明治三十八年。一月二日。午前十一時。水師営の村はずれにある一|軒《けん》の貧しい農家で、日本軍第三軍は正式にロシヤ軍旅順守備隊の軍門に降った。  その農家の庭には一本の高い棗《なつめ》の木が枝を張っていた。その木の下に鶏小屋《とりごや》があり、汚《よご》れた鶏が数羽、時おりいさかい事を起してはけたたましいさけび声を上げていた。  その家には老爺《ろうや》が一人、生活を続けていた。戦禍《せんか》を避《さ》け、家族は北の村へ避難《ひなん》させているという。  老爺は湯をわかし、西郷が運ばせたグラスにシナ茶《ちや》を注《つ》ぎ、両軍の代表の前に配った。  乃木は軍帽《ぐんぼう》を失ったらしく、汚れた胡麻塩《ごましお》頭をむき出しのまま、中央の席に着いた。その顔は汗《あせ》とも涙《なみだ》ともつかぬもので濡《ぬ》れていた。  西郷は黙《だま》って巻《まき》煙草《たばこ》をさし出し、マッチをすってやった。 「兵隊を指揮するというのは、おたがいに辛《つら》いことでごわす」  西郷の言葉に、乃木は顔をくしゃくしゃにした。 「乃木さん。下士官と兵隊は戦時|捕虜《ほりよ》として抑留《よくりゆう》します。将校は本国|送還《そうかん》か捕虜か、どちらでも希望するようにしまっしょう。武器その他の装具《そうぐ》はすべてロシヤ軍に引き渡《わた》していただく。傷病兵は重症《じゆうしよう》以外は、これも本人の気持ち次第できめていただくことにしまっしょう。これでいかがでごわすか」  乃木は暗澹《あんたん》たる顔で、だが折目だけは正しく一礼した。 「西郷さんの温情に感謝いたします。一緒《いつしよ》に戦うことができなかったのが、かえすがえすも残念です」 「明治天皇様によろしくお伝えください。それと今ひとつ。小輩《しようはい》は征韓論《せいかんろん》を提唱したことになっておるようだが、それは違《ちが》います。小輩は、日本は朝鮮、シナと固く手を握《にぎ》り、さらにシベリヤのロシヤ人。そしてフィリピン、馬来《マレー》、越南《えつなん》、インドなどと、ひとつの盟約のもとに結束《けつそく》し、一国の利害などに別してこだわらず、足りぬところを補い合って、共に栄えることを夢《ゆめ》見、政治の根本理念とするものでごわす。どうか西郷の真意を、御国《おくに》に伝えてください」  西郷は火のような熱意をこめて語った。 「必ず伝えることをお約束《やくそく》します」  乃木は手をのばし、西郷はその手を固く握《にぎ》りしめた。  旅順|湾《わん》からの冷たい風が、枯骨《ここつ》のような棗《なつめ》の枝に笛《ふえ》のように鳴った。  その風に乗って、勝利に酔《よ》ったロシヤ兵の唄声《うたごえ》が地を擦《こす》るように届いてきた。  西郷と乃木と、勝敗を分った二人の将軍はこれからの多難なおのれの命運に思いをはせ、その風の音と兵士の唄に耳を傾《かたむ》けた。  二人の将軍は棗の木の下に立って、記念写真を撮《と》った。     20  高度九千メートルから見おろすオホーツク海は、果てしなくひろがる一枚の瑠璃《るり》の板だった。  陸も海もかなり風があり、海面は波頭が風に飛んで汐《しお》しぶきが視界をおおい、水平線さえさだかではなかったが、この高空では、下界はすでに異世界であった。  ブザーが鳴った。 「|二 分 後 に 北 緯 五 十 度 線 を 越 え る《プライドウート・ピヤチイデシヤト・グラードス・ノルド・ザ・ピヤーチ・ミヌートイ》」  航空士《ナビゲーター》のオリ・プハーカ中尉《ちゆうい》の声がインターフォンから流れ出した。 「二時の方向、北知床岬《テルペニエみさき》。現在の気速五百二十八キロメートル時」  機長のポリス・グリンカ大佐《たいさ》は、機長席の目視用|突出窓《バブル》にひたいを押しつけた。  右舷《うげん》遠く、時計の文字板の二時の方向に、影絵《かげえ》のように、岬の長い稜線《りようせん》が這《は》っていた。  樺太《サハリン》の北知床岬《しれとこみさき》であり、間もなく前方に千島列島の得撫《ウルツプ》、択捉《エトロフ》などの島|影《かげ》があらわれてくるであろう。  その方角の水平線上に幾《いく》つもの白い雲の塊《かたまり》が浮かんでいた。  機長席の前方のコンソールにいっせいに無数の小さな灯がともった。  オレンジ色の灯のむれは電波兵器関係。赤は動力系統。緑は操縦系統。青は非常管制システム。縦横整然と配列された何百個の灯の中に、欠けているものはただのひとつもない。 「第一|戦闘《せんとう》作業用意よし」  グリンカ大佐《たいさ》はコンソールの灯の海を一瞥《いちべつ》すると、灯の下のスイッチを押した。  機内の各部署から戦闘作業の用意が完了《かんりよう》したことを告げるサインに諒解《りようかい》のマークを送ると、機長席に身を沈《しず》めた。 「ただ今、北緯五十度線を通過。高度一万一千に上昇《じようしよう》」  航空士《ナビゲーター》の声とともに、グリンカ大佐の愛機≪チャイカ≫は自動的に戦闘《せんとう》状態に入った。  いつものことながら、ほんのわずか、機内に緊張感《きんちようかん》が流れた。 ≪チャイカ≫は全幅《ぜんぷく》四十八・五メートル。全長四十七・五メートル。総重量百六十トンを越《こ》す巨体《きよたい》を、一万四千七百九十五馬力のエンジン四基で、まるで戦闘機のように軽快に空中に浮かべていた。  このツポレフTU95の、巨大《きよだい》な胴体《どうたい》の内部は、おびただしい種類の電子兵器と、その操作盤《コンソール》で充満《じゆうまん》していた。高さ八メートルもある垂直|尾翼《びよく》の中でさえ、各種のアンテナが押しこめられ、引き回され、整備のため腕《うで》をさしこむのでさえ困難なほどだといわれていた。  一万二千六百九十キロメートルの長大な航続|距離《きより》を確保するための燃料は、主翼《しゆよく》や胴体を形作る骨組のパイプの中にさえつめられていた。 「D3を感知した。感度良好。D5を感知した。異常なし」  レーダー手からにわかに報告が入りはじめた。  ウルップ、エトロフの線にさしかかると、いつもいそがしくなる。  D3は日本の北海道の稚内《わつかない》。D5は下北《しもきた》半島の恐山《おそれやま》の航空自衛隊の長距離警戒《ちようきよりけいかい》レーダーである。 「D4。感知。D8感知」  つぎつぎとレーダーの触手《しよくしゆ》が≪チャイカ≫を捕《とら》えてゆく。 ≪チャイカ≫に乗り込んでいる三十人の電子技術者たちの戦いがはじまった。  彼らは、日本のレーダーの電波を逆探知機で捕えると、それをコンピューターで分析《ぶんせき》し、レーダーの能力と、レーダー網《もう》の構成。その運用の状態などを詳細《しようさい》に調べ上げてゆく。新型のレーダーがあらわれれば、たちどころに感知できるし、それも目的のひとつだった。  日本列島の沿岸は、自衛隊のレーダーですっぽりと、網《あみ》をかぶせたようにおおわれている。だが、もし戦争が起った時は、爆撃機《ばくげきき》やミサイルは、その網の中へ突《つ》っこんでゆかなければならない。それでは損害ばかり大きくて戦果はほとんど望むことはできないであろう。そのため、爆撃機やミサイルで攻撃《こうげき》をおこなう直前に、強力な電波を発射して、相手のレーダーを攪乱《ジヤミング》するとか、あるいはにせの目標物を与《あた》えて注意をそらし、その合間に進入を果すとか、秘術をつくさなければならない。  日本のレーダー網《もう》の弱点を発見するために、ソビエトの空軍や海軍航空隊は、定期的に電子|偵察機《ていさつき》を日本列島周辺に飛ばせていた。  彼らもアメリカ空軍も、それを≪|東 京 急 行《トーキョー・エクスプレス》≫と呼んでいた。  一時間後、≪チャイカ≫は青森県|八戸《はちのへ》市の東方洋上百五十キロメートルの海上を南下しつつあった。 「H1。距離《きより》百十。高度九千。急速に接近中。H2。H3。後続」 「H1。エリザベト。異常なし。H2。H3。同じ」  MMディスクから聞きおぼえのある声が入ってきた。そのディスクの主任はヴィタリ・ポプロフ大尉《たいい》だった。クリミヤ半島にある海軍電子戦学校の主任課程を去年卒業して配属されたばかりの俊鋭《しゆんえい》だった。 「H1、H2、H3。接近する」  Hは日本の迎撃戦闘機《げいげきせんとうき》で、F15を指している。エリザベトはF15が搭載《とうさい》しているレーダーで、異常なしというのは、これまで知られている型式と変らないということだった。  Hは合計三機。急|上昇《じようしよう》してくるようだ。 ≪東京急行≫に対する日本の戦闘機のいやがらせは回を重ねるごとに激《はげ》しくなっていた。電子|偵察《ていさつ》であろうとなんであろうと、公海上のことだから、何も戦闘機を飛び出させて示威《しい》行動を取らせる必要などないはずだ。だが、それがかえって≪東京急行≫にとって、日本の航空自衛隊の警急発進《スクランブル》能力を測定させる手がかりになっているのは皮肉だった。 「D12。感知。異常なし。D16。感知。異常なし……」  秋田県の男鹿《おが》半島のレーダーや、宮城県の金華山《きんかざん》のレーダーが入りはじめた。  グリンカ大佐《たいさ》は、キャノピーに顔を寄せた。  鋼《はがね》のような濃藍色《のうらんしよく》の空が、まばゆく、暗く頭上にひろがっていた。  白銀の矢羽根のような物体が、音もなく後方から前方へ飛び抜《ぬ》けていった。≪チャイカ≫の巨大《きよだい》な銀翼《ぎんよく》の反射で、F15の翼《つばさ》や胴体《どうたい》の下面が照り映えた。赤い日の丸がくっきりと大佐の目に写った。  距離《きより》は千メートルほどだろうか。超《ちよう》高速機どうしでは、これは極めて危険なニア・ミスだった。  グリンカ機長は操縦士に、日本機に気を取られてこれ以上日本列島沿岸に接近しないように注意した。  副機長のアレキサンドル・レチカロフ少佐《しようさ》が、操縦室の隔壁《かくへき》の小窓を開いて顔をのぞかせた。握《にぎ》ったこぶしを突《つ》き出した。  グリンカ機長は、ちょっと考えてからうなずいた。  レチカロフ副機長の顔が引込むと、機内に警急ブザーの音が鳴り響《ひび》いた。 「戦闘《せんとう》用意。火器、配備につけ」  レチカロフ少佐の声がきびきびと躍《おど》った。 ≪チャイカ≫は、尾端《びたん》に二十三ミリの二連装機関砲《にれんそうきかんほう》を備えていた。日本機の接近を機会に、砲手《ほうしゆ》のジオルギー・コスティレフ曹長《そうちよう》に射撃《しやげき》訓練をさせるのがねらいだった。レチカロフ少佐《しようさ》は、機上射撃の専門家でもあった。  訓練のついでに、日本機に操砲《そうほう》の確かさを見せてやるのも一興だった。  装備《そうび》している二十三ミリ機関砲は、一門が一分間に一千発の弾丸《だんがん》を発射する。初速九百メートル秒のすぐれた機関砲だった。二門で二千発の弾雨《だんう》は、接近してくる超《ちよう》音速の戦闘機には死の陥穽《かんせい》だった。  レチカロフ少佐が、コスティレフ曹長に注意を加えている声が、とぎれとぎれにインターフォンからもれてきた。  その時、とつぜん、誰《だれ》のものともわからぬ絶叫《ぜつきよう》がインターフォンからほとばしり出た。  二、三人の声がそれにおり重なった。 「機長! F15ではありません」 「ミグだ」 「ミグではない。日本機のマークがついているぞ」 「強制着陸を命じている」 「機長! 緊急《きんきゆう》事態です」  グリンカ機長は、自分の耳がどうかなってしまったのかと思った。耳でなければ頭だった。  強制着陸と緊急事態という言葉だけが灼熱《しやくねつ》のように胸に飛びこんできた。  グリンカ機長はレチカロフ少佐《しようさ》を呼び出そうとしたが、回線が切れているようだった。 「機長。戦闘機《せんとうき》が攻撃《こうげき》してきます」  とつぜん、オリ・プハーカ中尉《ちゆうい》の声が聞えた。語尾が激《はげ》しく震《ふる》えていた。 「副操縦士《コ・パイ》。欺瞞《チヤフ》紙を撒《ま》け。MMディスク。情況《じようきよう》を報告しろ」  戦闘機の攻撃をかわすために、空中にアルミの箔《はく》を撒いてレーダーを惑乱《わくらん》させる。  ふいに機体が大きく傾《かたむ》いた。床《ゆか》が三十度近く傾斜《けいしや》した。床も天井《てんじよう》もミシミシと鳴った。こんな大型機では体験したこともない急旋回《きゆうせんかい》だった。  キャノピーの外の、広大な視界の片すみを、白熱の火の玉がかすめていった。  機体はいったん水平になり、ついで反対方向に大きく傾《かたむ》いた。 「機長! 基地との連絡《れんらく》がとれません。着陸しますか。離脱《りだつ》しますか?」  戦闘統制官のアレクセイ・ステパネンコ少佐《しようさ》がロッククライミングでもしているような形で這《は》い寄ってきた。 「離脱だ。離脱だ。低空へ逃《に》げるんだ」  グリンカ機長はさけんだ。  これまで機内では一度も耳にしたことのないすさまじい連続音が鳴りひびいていた。 「なんだ? あれは」 「機尾の機関砲《きかんほう》です」  ステパネンコ少佐のひたいから流れ出た血が、床《ゆか》に点々と赤い汚点《おてん》を印した。  機内に煙《けむり》が充満《じゆうまん》してきた。  グリンカ機長は、ステパネンコ少佐をかかえて操縦室に入った。  主操縦士の姿がなく、副操縦士のリューリカ少佐《しようさ》だけが操縦転輪を握《にぎ》っていた。  キャノピーの前面に、白く泡《あわ》立った海面がひろがっていた。 「機長。海面に不時着水します」  通信士の悲鳴が鼓膜《こまく》を刺《さ》した。 「通信士。基地へ通信。�われ、国籍《こくせき》不明機の攻撃《こうげき》を受ける。飛行不能。海面へ不時着する�以上」 ≪チャイカ≫の飛び立ってきたオホーツク海軍区海軍航空隊マガダン基地ははるかかなただった。≪チャイカ≫自体無線|封止《ふうし》を行ない、電波攪乱《ジヤミング》の渦《うず》の中心に存在している今、傷ついた機体から放たれた警急電波が、基地に届くかどうか、極めて心細い状態だった。 「機長! 海上至近|距離《きより》に艦影《かんえい》!」  機腹をこするように、真白な海面が背後へ流れてゆく。  とつぜん、前方に大きな艦影が迫《せま》ってきた。  グリンカ機長は本能的に身を縮めた。  すさまじい衝撃《しようげき》がたたきつけてきた。  意識が消える前の一瞬《いつしゆん》、操縦席から前の部分と、胴体《どうたい》の両脇《りようわき》に長くのびている主翼《しゆよく》がなくなっているのが目に飛びこんできた。  腕《うで》に、何回も何回も灼《や》けるような疼痛《とうつう》がわいた。  その痛みがはっきり痛みとして頭蓋《ずがい》の中で炸裂《さくれつ》した時、グリンカ機長は深い水底から浮かび上るように、ぽっかりとわれにかえった。  幾《いく》つもの顔が自分をのぞきこんでいた。  白い天井《てんじよう》と白い壁《かべ》の一部が見えた。 「…………」  誰《だれ》かが何か言った。  もう一度言い、ふいにそれが訛《なまり》の多いロシヤ語になった。 「どこか痛い所があったら言いなさい」  グリンカ大佐《たいさ》は、跳《は》ね起きようとしてうめいた。  体中に火がついたような気がした。 「静かに。生命に別条ないが、絶対安静の必要があります」  周囲を外国の言葉が飛び交っていた。 「どこだ? ここは」  グリンカ機長はさけんだ。 「落着いてください。本艦《ほんかん》は日本共和国|軍艦《ぐんかん》、崑崙《こんろん》です」 「うそをつけ。日本は軍艦ではない。自衛艦《じえいかん》というのだろう。それに、崑崙などという自衛艦は聞いたことがない」  グリンカ大佐《たいさ》は、日本の海上自衛隊の艦艇《かんてい》の形と要目・性能はことごとく暗記していた。それはソビエト海軍航空隊、哨戒《しようかい》・偵察隊《ていさつたい》の士官としては必須《ひつす》の知識であった。  グリンカ大佐を取り囲む人たちの間に、水の動くような動揺《どうよう》がわいた。  また腕《うで》に何本かの注射が打たれた。  グリンカ大佐は、深い眠《ねむ》りに落ちた。  その次に目覚めた時は、周囲には誰《だれ》もいなかった。  清潔で完備した病室には、グリンカ大佐のほかに横たわっている者はいなかった。  隣《となり》の部屋《へや》から、かすかにガラス器具の触《ふ》れ合う音がする。  グリンカ大佐はそっとベッドから起き出した。肋骨《ろつこつ》にひびでも入っているのか、呼吸するたびに、圧倒《あつとう》的な鈍痛《どんつう》が上半身全体に走った。  グリンカ大佐は、ドアに向って体を運んだ。一歩、一歩が、呼吸が絶えるのではないかと思われた。不思議に死の恐怖《きようふ》はなかった。  ドアのハンドルに手をかけたが、それから先がどうしても力が入らなかった。両手をそえ、必死に体を浮かせてハンドルを回した。  ゆっくりハンドルが回り、彼の体重を受けてドアが音もなく開いた。  鉛色《なまりいろ》の海が茫漠《ぼうばく》とひろがっていた。  明け方なのか、それとも夕方なのかも定かでなく、空と海はひとつに連なっていた。  グリンカ大佐は思わず息を呑《の》んだ。  飛行艇《ひこうてい》から翼《つばさ》を取り去ったような、奇怪《きかい》なシルエットを持った船が、斜《なな》め前方をすばらしいスピードで先行していた。  その巨体《きよたい》が大佐《たいさ》の目を奪《うば》った。十万トンもあろうか。しかも、その船底が完全に水面上に浮いているのに気がついた時、グリンカ大佐はふたたび意識を失った。     21  夜明けとともに訪れてくる霧《きり》のような雨が、南から北へ、ウルング河を越《こ》えてアルタイ山脈の方向へ去ってゆくと、天山《テンシヤン》山脈は大空に描《えが》かれた壁画《へきが》のように、くっきりと中空に浮かび上ってくる。  ズンガリア高原の朝だった。  瑪納斯湖《マナスこ》の南岸で野営していた中国人民解放軍|新疆《シンチヤン》ウイグル方面軍二百二十七師団第五十一|機甲《きこう》連隊の第三大隊は午前五時に出発準備を完了し、段列を伴《ともな》って西方へ進軍を開始する予定だった。  高徳欽《こうとくきん》少校の指揮する八〇式軽戦車第二小隊は、本隊から三十分先発して本隊の進路を啓開《けいかい》する任務が与《あた》えられていた。  その日の最初の陽光が、広漠《こうばく》たる砂漠《さばく》をほとんど真横から照らしはじめた。砂の海の、ほんのわずかな起伏《きふく》が、波のような翳《かげ》となって折り重なっていた。 「全軍。われに続け」  高少校は砲塔《ほうとう》から身をのり出して、手の黄色い三角の小旗を打ち振《ふ》った。  ディーゼル・エンジンの重い咆哮《ほうこう》がわき起り、キャタピラーが猛然《もうぜん》と砂を捲《ま》き上げた。  天山の北斜面《しやめん》を水源とする瑪納斯《マナス》河の白い河原を横切り、|※[#木へん+聖]柳《タマリスク》の林の中を進んだ。名も知れぬ鳥がしきりにさえずっていた。  |※柳《タマリスク》の林が切れると、粗《あら》い石塊《せつかい》が散り敷《し》いている荒蕪地《こうぶち》がひろがっていた。  瑪納斯湖の西に克拉瑪依《カラマイ》の城邑《じようゆう》があるはずだったが、低い丘陵《きゆうりよう》のつらなるそこからは望むべくもなかった。  タルバガタイ山脈の前衛ともいうべき、なだらかな丘陵《きゆうりよう》が、しだいに迫《せま》ってきて荒蕪地がせばめられてきた。  高少校は地図をひろげた。  軍用地図に示されている中ソ国境までは、わずか十数キロメートルの距離《きより》である。  何年か前までは、このあたりまでしばしばソビエト軍の偵察隊《ていさつたい》が入りこんできた。何回か烈《はげ》しい射《う》ち合いもあった。  ソビエト軍との武力衝突《しようとつ》は、その時代その時代の、中ソ両国の外交姿勢を反映して、頻発《ひんぱつ》したり、あるいは全くなかったりしていた。今は雪融《ゆきど》けといわれる状態なので、中ソ国境をめぐる紛争《ふんそう》は全く起っていなかった。  だからこそ、国境間近で戦車隊が演習などをやっていられるのだった。しかしそうかといって、あまり国境に近づくことは危険だった。ソビエトの監視兵《かんしへい》を無用に刺激《しげき》することは避《さ》けなければならない。 「班中尉《はんちゆうい》。反転。本隊に合流する」  操縦席の班中尉に声をかけておいて、背後をふりかえった。各車との間隔《かんかく》、百メートル。朝の光を汚《よご》して砂けむりが煙幕《えんまく》のように長く長くのびていた。  ふいに最後尾の四号車が右に頭を振《ふ》った。縦列から大きくそれてゆく。  一号車でさえまだ反転にかかっていなかった。  訓練とはいえ、無線は封止《ふうし》されている。  四号車の奇異《きい》な行動に気がついた二号車、三号車の車長たちも、砲塔《ほうとう》の天蓋《てんがい》から身をのり出して見つめていた。  とつぜん、高少校のイヤフォンから、四号車の車長の林上尉《りんじようい》の声が飛び出した。 「中隊長。右方の谷間に戦車が見えます」  高少校は舌打ちをくれた。訓練中とはいえ命令を無視して勝手に無線封止を破るのは軍法会議ものだった。  高少校が叱責《しつせき》の言葉を探しているうちに、つづいて三号車のさけび声が飛びこんできた。 「こちら三号車。われわれからも見えます。三|輛《りよう》、四輛。いや、もっといます」  高少校ももはや叱責の言葉などえらんでいることはできなくなった。 「班中尉。四号車の位置へいそげ!」  ほとんど這地旋回《しやちせんかい》で急ターンすると、四号車を追った。  右方、五百メートルほどの所に、広く浅い谷が口を開いていた。四号車はその谷の入口に近づいていた。 「四号車。ただちに原位置へもどれ。勝手に中隊を離《はな》れるな」  高少校はさけんだ。彼が戦車隊へ入ってからこんなことははじめてだった。これは完全に軍規|違反《いはん》である。  谷間に砂けむりが巻き上り、低い|※[#木へん+聖]柳《タマリスク》とスナチガヤの丈《たけ》低い群落を押し分けて、巨大《きよだい》なサイのようなものがあらわれた。  濃《こ》いネズミ色の車体から、長大な砲身《ほうしん》が突《つ》き出していた。その先端《せんたん》は奇妙《きみよう》な形に膨《ふく》らんでいた。 「これは大変だ。ソビエトの新型戦車があらわれたぞ!」  高少校は砲手《ほうしゆ》の陽曹長《ようそうちよう》の肩《かた》をなぐりつけた。 「成形炸薬弾《せいけいさくやくだん》。一バースト。装填《そうてん》。照準開始」  陽曹長がほおを引きつらせた。 「中隊長。連隊長の許可なしに射撃《しやげき》してもよろしいのですか?」 「射撃用意が先だ。いそげ!」  高少校はマイクを手に、さけんだ。 「錦五《チンウー》。錦五《チンウー》。緊急《きんきゆう》報告」  暗号名錦五の連隊本部は全く沈黙《ちんもく》していた。 「中隊長。連隊本部に何か異状があったのかもしれません。わが車の通信機は故障していません」  班|中尉《ちゆうい》がふりかえって自分のヘルメットをたたいた。完全な状態を示す合図だった。  一瞬《いつしゆん》、視野が真紅《しんく》に染った。  丘も谷も砂漠《さばく》も、天も、真紅に染った。  それがうそのように消え、視界はすべての色を失った。  三号車と四号車は大きな火の玉になっていた。  なにがどうなったのか、見当もつかなかった。  ずしいん——  車体が鳴動した。  一パック五発の八〇ミリ戦車|砲弾《ほうだん》のバースト射撃《しやげき》だった。  丘《おか》の入口に五つの火柱が噴《ふ》き上った。  操縦席のハッチを押し開き、班|中尉《ちゆうい》が車外へころがり出た。つづいて陽曹長《そうちよう》が跳《と》んだ。 「中隊長! 早く脱出《だつしゆつ》してください」 「あれはメーザー・ガンです」  二人のさけび声に、高少校も足を縮めて跳躍《ちようやく》した。  ふたたび周囲が真紅に染った。  その光輝《こうき》の中で一号車が奇妙《きみよう》にゆがんで見えた。  第五十一|機甲《きこう》連隊の第三大隊は、西方の丘陵《きゆうりよう》地帯に、砂煙《すなけむり》と異なる黒い煙《けむり》が高く立ち昇《のぼ》るのを望見し、最大速度で急行するとともに、遊撃《ゆうげき》飛機隊の回転翅機《ヘリコプター》に来援《らいえん》を要請《ようせい》した。  谷間は、|※柳《タマリスク》もスナチガヤも無惨《むざん》に黒焦《くろこ》げになり、焼野原のあちこちに、かつて戦車だったものの、半ば溶融《ようゆう》した鉄塊《てつかい》が横たわっていた。  窪地《くぼち》にかくれひそんでいた高少校や陽曹長《そうちよう》が救出され、事態はますます混迷化した。  強回転翅機《アタツク・ヘリ》の編隊が谷間を縫《ぬ》って捜索《そうさく》を開始した。  第三大隊長|周《しゆう》上校は、ジープで丘《おか》をかけ上り、頂きに立って双眼鏡《そうがんきよう》を目に当てた。  大隊本部に直属する八三式|戦闘《せんとう》戦車が、一二五ミリの長大な砲身《ほうしん》をふり立てて、谷間をパトロールしていた。  低い丘陵《きゆうりよう》のかげから、ふいにヘリコプターが飛び出してきてはまたかくれこんでいった。  周上校はとつぜん背後から誰《だれ》かに突《つ》き飛ばされ、よろめいてあやうく双眼鏡を取り落しそうになった。  無礼な! ふり向くと、副官や本部付の若い将校たちが折り重なるようにして自分に背を向けていた。  無礼をあやまるでもなく、何事だ!  周上校は顔に血を上らせて、自分の前に立っている副官の孫上尉《そんじようい》の腕《うで》をとらえた。孫上尉はそれでもふり向こうとしなかった。  周上校は孫上尉の上膊部《じようはくぶ》を強く握《にぎ》って前へ押し出した。まず、彼らの心をそれほどにとらえているものを自分の目でたしかめてみようと思った。  丘《おか》のふもとに、数台の八三式戦車が停車していた。  そのむれの前に、一台の小さな装甲車《そうこうしや》が止っていた。  戦車とその装甲車の間に、十数個の人影《ひとかげ》があった。  彼らは何事か言い争っていた。  一台の小さな装甲車と大きな戦車のむれとでは、風景の中での存在感も、実質的な戦闘力《せんとうりよく》もまるで比較《ひかく》にも何もならないはずなのに、そこでは奇妙《きみよう》に釣《つ》り合い、また小さな物が、大きなもののむれを圧倒《あつとう》しているかのように見えた。  周上校は副官たちには目もくれず、自分のジープへ向って走った。  はじめてわれにかえった副官たちが周上校を追って走り出した時には、ジープはもう丘の中腹をかけ下っていた。  真黒に陽《ひ》に灼《や》けた小柄《こがら》な兵士が三人、石像のように立っていた。  彼らはつばのない椀《わん》のようなヘルメットに、耐熱服《たいねつふく》のような銀褐色《ぎんかつしよく》の奇妙《きみよう》なコートをまとっていた。ヘルメットには顔面をおおう透明《とうめい》な面頬《マスク》が取りつけられ、上方へはね上げてあった。  周上校はヘルメットの下の無表情な顔に目を据《す》えた。  彼らの顔には、周上校の胸のどこかに灼《や》きついている記憶《きおく》があった。  視線が彼らのヘルメットのひたいの部分に刻まれた星印をとらえた。  周上校がまだ五、六|歳《さい》の時の記憶だった。  村へ入ってきた外国の兵隊が、家を焼き、豚や羊をさらっていった。村人も何人か死んだ。一家全部が殺された家もあった。  その時やって来た兵隊は東洋鬼《トンヤンキ》と呼ばれる日本兵であったことを、しばらくたってから大人に教えられた。  その時の兵士たちの面《つら》つきと、今目の前に立っている奇妙《きみよう》な男たちの顔は極めて類似していた。印象がぴったりと重なった。 「おまえたちは日本兵か?」  周上校は無意識にたずねた。 「われわれはアジア連合、東アジア陸軍を構成する日本共和国軍だ。おまえたちは、何者だ。ただちに地区司令部へ連行する」  一人が流暢《りゆうちよう》な中国語で言い放った。  みなは顔を見合わせた。 「アジア連合だと? 何だ? それは。見たところ、装甲車《そうこうしや》などを所有しているようだが、この国境地帯にそんな武装《ぶそう》グループがあるとは知らなかった。これは容易ならぬことだ」  周上校はかたわらの部下にあごをしゃくった。 「彼らを逮捕《たいほ》しろ」  戦車から降りていた下士官や兵たちがどっと動いた。  見たところ、民兵以上に武器を整えた彼ら武装《ぶそう》勢力を相手にしている方が、たいくつな訓練よりもずっと面白そうだった。  そのあとがどうなったのか、何日たっても周上校には全く思い出すことができなかった。  シベリヤ軍管区司令部は、マガダン基地の海軍航空隊第一二一戦略|偵察《ていさつ》部隊のツポレフTU95の遭遇《そうぐう》した事件を単なる事故として処理し、モスクワの統合|参謀《さんぼう》本部へは通報しなかった。  軍管区司令官としては当然の行為《こうい》かもしれなかった。  TU95の機長ポリス・グリンカ大佐《たいさ》とほか数人の生存者の証言は抹殺《まつさつ》された。  波荒《あら》い三陸沖の洋上をゴムボートで漂流《ひようりゆう》中の彼らを救い上げた日本の漁船≪第八海神丸≫の船長は、救出した時、大佐たちは飢《う》えや負傷でとても生きのびるのは不可能であろうと思われたと語った。  十数日間、生死の境をさまよった彼らが、ようやく話すことができるようになった時、彼らの語ったことの内容は、とても正気とは思えないようなものだった。  彼らを収容したソビエトの哨戒艇《しようかいてい》の艇長《ていちよう》と、基地の司令官は、いずこへか配置がえになった。  グリンカ大佐《たいさ》らの体験は幻覚《げんかく》と判断された。  現実の体験であることを終始主張したグリンカ大佐らも、自分たちが救助された時、ゴムボートで漂流《ひようりゆう》していたという事実が説明つかず、結局|沈黙《ちんもく》せざるを得なかった。  だが、ウラジオストックのタス通信支局がこのニュースに興味を抱《いだ》き、モスクワへ打電した。  ズンガリア地区司令官|丁林芝《ジンリンチー》上将から極秘の報告を受け取った北京《ペキン》の人民解放軍司令部は、調査を解放軍中央情報処に命じた。  周上校や高少校をはじめとする多くの将兵の体験は詳細《しようさい》に記録され、中央へ送られた。  体験した人間の数も多く、口裏を合わせたたぐいの法螺話《ほらばなし》とはとうてい思えない現実的な内容が、情報処員らを苦しめた。  結局ここでも、事件は彼らの幻覚《げんかく》であろうと結論された。  幻覚が時間的にどのくらいの長さ続いたものなのか正確に知ることはできなかったが、彼らの語るところによれば、約一時間ほどかと思われた。  何よりもそれを幻覚と断定できるのは、彼らがふとわれにかえった時、そのような武装《ぶそう》グループの姿はどこにもなく、いつものズンガリアの、静かな山あいの荒蕪地《こうぶち》がひろがっているばかりだったという説明だった。  だが、焼けただれた荒蕪地と、三台の軽戦車の残骸《ざんがい》だけは説明がつかなかった。調査員は、それはなんらかの原因にもとづく砲弾《ほうだん》の誘爆《ゆうばく》であろうと結論づけた。  周上校は予備役に回され、高少校は東北地方の歩兵学校の教官に任じられた。陽曹長《そうちよう》も退役し、解放軍|応援組《おうえんぐみ》の書記補になった。     22  表通りで地下鉄の工事が始ってから、もう一年になる。工事がどれほど進んだのか知らないが、町をゆるがす大音響《だいおんきよう》と騒音《そうおん》は少しも変らない。  近頃《ちかごろ》では昼も夜も工事を行なっているので、自動車の渋滞《じゆうたい》は一日中絶えることなく続いている。工事区間の一車線を、上り下りで通過するのだから、見ていると車の列はほとんど動いていないような気がする。  それゆえ、このへんの地理を知っている車が横丁へ入ってくる。車がようやくすれ違《ちが》うことができるせまい道路へ、トラックやマイクロバスが強引に乗り入れてくるから横丁の店屋などでは今にも軒先《のきさき》の日除けをひっかけられるのではないか、看板をこわされるのではないかと戦々|恐々《きようきよう》としている。  今も大きなトラックが入ってきた。  ディーゼル・エンジンの重々しい回転音がせまい横丁を震《ふる》わせる。  店の中の棚《たな》や柱や天井《てんじよう》までもが、ギシギシ、ギシギシと鳴った。  棚の上の、巻ぞろいの古い医学雑誌の束《たば》が少しずつせり出してくるようだった。  元《げん》は帳場と呼んでいる畳《たたみ》一枚分の板敷《いたじ》きから下りてサンダルをひっかけ、棚の下へ行って手をのばし、古雑誌の束を奥《おく》へ押しもどした。  表通りで地下鉄工事が始ってからというもの、いくら表のガラス戸を閉め切っていても、いつも、店の中をうっすらと土ぼこりが舞《ま》っていた。床《ゆか》に積み上げた雑誌や棚の書籍《しよせき》が、ふかふかとほこりをかぶり、主人《あるじ》の元でさえ触《ふ》れるのを避《さ》けたくなるような有様となっていた。  店の表でトラックが止った。  重いアイドリングで、店が震え、ガラス戸が鳴る。 「何をやっているんだよ。店の前でトラックなんぞ止めてくれるなよ」  元は汚《よご》れたガラス戸越しに外をうかがった。  その時、ガラス戸が開かれ、一人の男が店に入ってきた。  作業服に、頭頂が平らな円い作業|帽《ぼう》をかぶっている。 「こういうもの……」  男は大きなポケットから一枚の紙片を取り出した。 「めずらしいものだから、古本屋が買ってくれるんじゃねえかって友達が言うもんだからよ。ここ、古本屋だろ」  男は、今気がついたように店の中を見回し、自分の判断を確かめるかのように、元にたずねた。その顔に後悔《こうかい》の色が浮かんでいた。 「見てのとおりの古本屋ですよ。で、何か売ろうってのかい?」  男はもう仕方がないと思ったか、手にしたものを元の前にさし出した。  一枚の古い絵葉書だった。  今と違《ちが》って明治・大正期には、絵葉書はごく普通《ふつう》に使われていた。≪御大典《ごたいてん》記念≫とか≪大博覧会記念≫とか、世上話題になるようなもよおしものでもあれば、その光景を描写《びようしや》した絵葉書が必ず売り出され、それがまた飛ぶように売れたものだった。  テレビも記録映画も、またグラフ雑誌もない時代には、絵葉書が唯一《ゆいいつ》の視覚的な情報手段だった。 「どれどれ、これは≪日露《にちろ》戦争記念絵葉書≫というやつかな」  元は、拙劣《せつれつ》な印刷技術の、しかも古びて画面もさだかでないその古絵葉書を、表からの外光にかざした。 「よほどめずらしいものででもなければ一枚ではちょっと引き取れないよ」  古絵葉書一枚でも、とんでもない値段のつくものがないでもない。しかし、そのようなものはめったにない。元も、二、三年前に、明治|中頃《なかごろ》に発行された≪東京|監獄《かんごく》縦覧≫という十二枚組を手に入れ、かなり良い値でさばいたことがあった。そういうものは好事家《こうずか》に回すとおおいに喜ばれるのだ。またその手のものは意外と組枚数がそろっていて、しかも汚《よご》れていないものが多い。≪東京|監獄《かんごく》≫内部の光景では、まず葉書として人に出すわけにはいくまい。  古絵葉書に視線を投げた元のほおが硬《かた》くなった。  ガラス戸に歩み寄り、画面を見つめた。  頭蓋《ずがい》の深奥《しんおう》をかすかな目まいが通り過ぎた。  未使用のものである。裏のすみに発行所や画面の説明が記されていた。 「東京、風雅堂《ふうがどう》発売。日露《にちろ》戦争記念絵葉書。『水師営に於《お》ける日露両軍将星記念|撮影《さつえい》』」  元は大きく息を吸いこみ、吐《は》いた。  激《はげ》しい動揺《どうよう》を押しかくし、何気ないふうをよそおって男を見返った。 「これ一枚?」 「そうなんだ」 「これ、どうしたの?」 「おれのじいさんが絵葉書を集めていたらしいんだ。それが戦争の時全部焼けちまって無くなったんだが、じいさんの妹なんかがもらっていたやつは残ったんだ」  男は面倒臭《めんどうくさ》そうに答えた。 「この組写真があるといいんだが」 「ねえんだ。これ一枚」  男は残念そうに舌打ちした。 「しようがないな。せっかく来てくれたんだ。このぐらいだな」  元は指を一本出した。男の顔が輝《かが》やいた。 「一万円か!」 「そうじゃないよ」 「なんだ。百円か」  男は空気の抜《ぬ》けた風船のようにしぼんだ。 「いや。その中間」  男はやや生き返った。 「ま、いいや。おいといたってしようがねえもん」 「色つけてやるよ」  元は別に百円玉を五つ、そえて出した。  男は相好《そうごう》を崩《くず》して店を出て行った。  エンジンの音が鳴り響《ひび》き、トラックが店の前から動き出していった。  元はすぐ表のガラス戸に鍵《かぎ》をかけ、カーテンを引いた。  帳場に続く奥《おく》の居間の四畳半《よじようはん》の電灯をともした。ルーペを取り出して手の絵葉書に当てた。  中国大陸のどこかの貧しい農家だった。傾《かたむ》いた屋根を背後に、十人ほどの軍人たちがカメラに向ってならんでいた。  あきらかに明治期の日本軍人と、帝政《ていせい》時代のロシヤ陸軍の将星たちと思われた。  中央の二人が両軍の代表らしい。  日本陸軍の方は、黒い軍服に白いズボン。円《まる》い軍帽《ぐんぼう》に白いあごひげの老人が力無く肩《かた》を落した感じで、うつろな目を正面に向けていた。  その隣《となり》にならんでいる人物が元の思考力を奪《うば》った。  帝政ロシヤ陸軍の軍服に、巨躯《きよく》を包み、短く刈《か》った坊主《ぼうず》頭と太い眉《まゆ》。二重《ふたえ》まぶたの大きな目。その威風《いふう》あたりを払《はら》う人物は、どう見ても西郷隆盛その人であった。  かたわらの大木の枝が、彼らの上に濃《こ》い影《かげ》を落していた。棗《なつめ》の木であろう。  元は店へ下り、棚《たな》のすみから、ほこりにまみれた一冊の古い写真帳を取り出してきた。  ほこりを吹くと表紙に≪日露《にちろ》戦争記念大写真|帖《ちよう》≫と金文字で刷り込まれている。  そのページをめくってゆくと、終りに近く一枚の写真が収められている。  貧しい民家の前に、何人かの将軍たちがならんでいる。中央には乃木大将とステッセル中将がならび、彼らの頭上に棗の大木が枝葉をひろげていた。  写真の下に説明がある。 ≪旅順開城の約|成《な》って相見る日露《にちろ》の両将軍。右、乃木|希典《まれすけ》大将。左、ステッセル中将≫  とあった。  その写真を、絵葉書の写真と比べてみる。  構図も、二人の背後にならんでいる将校たちの顔触《かおぶ》れも変らなかった。繁《しげ》っている棗の枝葉の角度も、陰翳《いんえい》も同じだった。  ただ明確に異なっているのは、正面に掛けている二人の人物だった。  乃木大将とステッセル中将とでは、あきらかに乃木は昂然《こうぜん》と顔を上げ、ステッセル中将はおさえ難い想《おも》いを顔に浮かべていた。  西郷隆盛と乃木希典とでは、乃木は喪神《そうしん》している態《てい》であった。  元は電話機を取り上げた。 「もしもし。新田書泉堂《につたしよせんどう》さん? 元です。二階堂《にかいどう》。ああ。栄治《えいじ》くん。ちょっと教えてもらいたいことがあって……」  世田谷の古書店新田書泉堂は、曾祖父《そうそふ》の代からの古書店として知られていた。今の主人の新田栄治は絵葉書の研究家としても有名だった。 「明治年間に、東京に風雅堂《ふうがどう》という絵葉書の発行所があったの?」 「ちょっと待った。調べてみるから」 「いったん切ろうか?」 「いや。そのままでいいよ。すぐわかるから」  待つほどもなく栄治の若々しい声が電話機にもどってきた。 「ある、ある。神田区|東紅梅町《ひがしこうばいちよう》。これは今の万世橋と連雀町《れんじやくちよう》のすぐ西側だ。絵葉書だけでなく、芝居《しばい》や芸能関係の雑誌なども扱《あつか》っていたようだね」 「風雅堂《ふうがどう》から日露《にちろ》戦争の記念絵葉書などは売り出されていないの?」 「それはあるだろうよ。何しろ、東京でも大阪でも何十種類も売り出されたようだからね」 「それ見たことある?」 「風雅堂の日露戦争記念絵葉書かい? あるよ」 「水師営での、乃木大将とステッセルの会見の写真の、見た?」 「見たよ。有名な写真だものな」 「その写真の絵葉書で妙《みよう》に感じたことなんかなかった?」 「妙に感じたこと? どんなこと?」 「ほら、パロディとか。乃木とステッセルのかわりに他の人の顔をはめこむとか」 「それは見たことがないよ。そんなの、無かったんじゃないかな。今と違《ちが》って、その頃《ころ》はそんなことをやると不真面目《ふまじめ》だと批判されたろうからね」  栄治の声の調子がふと変った。 「そうだ。風雅堂《ふうがどう》のことで思い出したことがある。大正の終り頃《ごろ》のことだけれども風雅堂から売り出された日露《にちろ》戦争ものの中に、≪日本海の海戦で沈《しず》みゆく戦艦三笠《せんかんみかさ》≫というのがあって問題になったというのが、当時の新聞記事にあるそうだ」 「三笠は火薬庫の爆発《ばくはつ》か何かで、一回|沈《しず》んでいるだろう。その時の写真ではないのかい?」 「三笠が沈んだのは日露戦争が終ってからだからね。日本海海戦ではない」 「その絵葉書はもちろん事実ではなかったわけだね」 「海軍の退役軍人たちが最初に騒《さわ》ぎ出したらしいが、それが妙《みよう》なことに、風雅堂ではそんな絵葉書など売り出したことがないというし、その三笠|沈没《ちんぼつ》のシーンは絵ではなくて、当時の写真技術者が調べたところほんとうの写真らしいというし、大分話題になったようだが、結局あいまいになってしまったらしい」 「その絵葉書は現存していないだろうか?」 「まずだめだろうな。風雅堂でも、自分の所の看板に傷がつくからというので、買い集めて焼き棄《す》てたそうだ。どうかしたの? きみの所でも絵葉書をあつかうようになったのか?」 「そうじゃないんだ。客が持ちこんできた絵葉書があってね」 「めずらしいものなのか? ぜひ見せてほしいな」 「いや。持って帰ってしまった。一見《いちげん》の客でね」  元は礼を言って電話を切った。  買い取った絵葉書については何も教えられるところはなかったが、新田書泉堂の主人は、極めて重大なことを口にしていた。 ≪日本海海戦で沈没《ちんぼつ》した戦艦三笠《せんかんみかさ》≫という絵葉書があったというのだ。  それと、今手にしている西郷と乃木の記念写真が、何かつながりがあるのではないだろうか?  元は電話が切れてからも、受話器をかけるのも忘れ、手元の絵葉書を見つめていた。  元はその絵葉書を自分用の本箱《ほんばこ》のひき出しの奥《おく》にしまいこんだ。  考えなければならないことや、しなければならないことがたくさんあるようだったが、何から手をつけたらよいのか、思い惑《まど》った。 「思文堂《しぶんどう》さん! 思文堂さん!」  表のガラス戸を激《はげ》しくたたく音がした。 「回覧板だよ」  聞きおぼえのある隣《となり》の酒屋の親父《おやじ》だった。     23  ガラス戸をあけると、隣の酒屋|三河屋《みかわや》の親父が顔をのぞかせた。 「この回覧板だけどよお、工事の車が通るのに邪魔《じやま》になるから軒下《のきした》に物を置くなってんだが、おれたちは道路|占有《せんゆう》許可を取ってんだよな。工事場からとやかく言われるおぼえはねえんだ」  冬瓜《とうがん》に眼鼻というのだろうか。血色の良い円顔《まるがお》に不満の色をみなぎらせて回覧板を突《つ》き出した。 「土ぼこりがたまらないよ。戸をしめていたんじゃ客は入りづらいだろうが、店が汚《よご》れてどうにもならないよ」  元も肩《かた》をすくめた。 「二、三日前、あのドシン、ドシンてスチーム・ハンマーでよ、ワインのびんが二十本も棚《たな》から落ちてえらい損しちまったぜ」 「弁償《べんしよう》してもらえばいいじゃないか」 「行ったさ。工事場の事務所へよ。そしたら、スチーム・ハンマーの震動《しんどう》でそうなったのかどうかわからないなんて言いやがるのさ。腹が立ってなあ、よっぽどぶんなぐってやろうかと思ったが、それやっちゃ、こっちの負けだしよ。そういう事故を見込んで、町の商店会に寄付してあるってんだ。商店会に寄付してもらったからって、こちとらの損害が消えてなくなるわけじゃねえしよ。なあ」  三河屋は言いつのった。 「商店会の旅行の足し前になるんだろうよ」 「冗談《じようだん》じゃねえや」  三河屋は鼻の頭に汗《あせ》を浮かべて、表の工事を見返った。 「地下鉄の駅ができたところで、おれんとこみてえな古本屋には何の関係もねえや」  元は三河屋に相《あい》づちを打ちながら回覧板に留められた広報用紙の片すみの記名|欄《らん》に、読んだということを示す署名を入れた。それを見た三河屋が、背を見せてガラス戸へもどった。  二人は外へ出ると右左に別れた。  元は隣《となり》のハンコ屋へ回覧板を届けると店にもどった。  そのとき、電話が鳴った。 「あ、元さん。かもめです」  受話器を取ると明るい声が流れ出た。 「ちょっと元さんに見てもらいたいものがあるの。これから行きたいんだけれども、元さん、居るのたしかめてからにしようと思って」 「居るよ。こっちにも見せたいものがあるんだ。今、どこ?」 「桜台《さくらだい》の駅」  ここから歩いて十分ほどの距離《きより》にある私鉄の駅だった。 「じゃ、すぐ来てくれ」  元は受話器をもどすと、本箱《ほんばこ》の前にもどった。  ひき出しをあけ、奥から絵葉書を取り出そうとした。  元の眉《まゆ》が翳《かげ》った。もう一度中をよく見た。元は頭を上げ、帳場の方をうかがったが、自分の記憶《きおく》のたしかめに、もう一度、ひき出しの中に手を入れた。ひき出しの中には、古書店の組合の名簿《めいぼ》や古書のカタログなどが入っている。元はそれらのページの間をたんねんに開いた。  念のために、隣《となり》のひき出しをぬいた。だがこちらの方は日常使う文房具《ぶんぼうぐ》や店のゴム印などがおさめられているので、間違《まちが》えるということはない。  元は短い間、うつろな視線を、ひき抜《ぬ》いたひき出しに当てていた。  絵葉書はなくなっていた。  元は立ち上り、帳場へ足を運んだ。そこにあるはずもない。店の表のガラス戸近くまで行ってみたが、本箱《ほんばこ》のひき出しに入れたという記憶《きおく》は確かになるばかりだった。  ガラス戸が開いて、若い娘《むすめ》が入ってきた。 「どうしたの? 元さん。そんな所に座って」 「…………」  元は積み上げた雑誌の上に据《す》えた尻《しり》を動かそうともせずに、長くうめいた。 「どうしたの?」  ふだん、積んである雑誌や本の上などに物を置いたりすると、ひどく怒《おこ》る元だったが、あろうことか、今日はその上に自分が腰《こし》をおろしている。 「かもめちゃん」 「大丈夫《だいじようぶ》? なんだかお化《ば》けでも見たような顔をしているじゃない」 「それならまだいいんだが」 「なによ? もったいぶらないで話しなさいよ」 「奥《おく》へ来いよ」  元は腰《こし》を上げた。バランスを失った雑誌の山は床《ゆか》になだれ落ちた。  それをふり向きもしないのが、日頃《ひごろ》の元には全くそぐわず、かもめの目に異様に映った。  元の語る言葉に、最初のうちは冷やかし半分に聞いていたかもめの顔もしだいに硬張《こわば》ってきた。  浅黒い顔がやや蒼褪《あおざ》め、ふたえまぶたの大きな目が、かすかなおびえをたたえて見開かれた。 「元さん。これを見て」  かもめは手にしたレコード・ジャケットから一枚の写真を取り出した。  それは週刊誌ほどの大きさで、写真集のようなものから一枚だけ破り取ったもののように、片すみが裂《さ》けていた。 「新幹線の写真じゃないか。それがどうかしたのか?」  元は不審《ふしん》そうにその写真を見つめた。 「もっとよく見て!」  画面のほぼ中央を縦に割って、レールが直線にのびていた。そのレールの上に、長く白く輝《かが》やいて置かれているのは新幹線の車体に違《ちが》いなかった。もっともそれはすばらしいスピードで突走《つつぱし》っているのであろう。  それはとくにめずらしくもない低空から写した航空写真だった。  ふと元の目がその写真に吸いつけられた。画面の右上のすみに、白い、円形とも多角形ともつかない建物のようなものが幾《いく》つか写っていた。それからわずかに離《はな》れた所に、無数の白い点がむらがっている。  建物のようなものは、上面に何本かの綱《つな》を這《は》わせ、また周囲の地表にのばしてそこでしっかりと留めているもののようだった。 「これは包《パオ》じゃねえか? 蒙古人《もうこじん》の」  元もかもめも、蒙古地方の人々の住む、絨緞《じゆうたん》のような厚い毛織物で造られたテントの写真を見たことがあった。 「そして、砂をまいたような白い点々は、これは羊だぜ!」 「あたしもそう思うの。だけど、それ、新幹線の電車でしょう。シベリヤ鉄道じゃないわ」 「ここに文字らしいものが見えるぞ。引きのばしてみよう」  元は戸棚《とだな》からルーペを取り出した。  車体の上をなめるようにルーペを動かした。 「この車体の横っ腹のここに、ほら、下の方にモハ九九二七八と書いてあるのがかろうじて読める。モハは電動車の記号だろう。九九か九九二が型式番号だ。これはやはり日本の列車だよ」 「でも、この沿線風景は日本じゃないわ」  二人は顔を見合わせた。 「元さんが手に入れたその絵葉書とこの写真、どこかでつながっていると思わない?」 「まだあるんだ。新田書泉堂が言っていたが、古いもので≪日本海海戦で沈《しず》みゆく戦艦三笠《せんかんみかさ》≫という絵葉書があったそうだ」 「元さん。これはただ事ではないわよ」 「かもめちゃん。この写真、どこで手に入れたんだね?」 「神保町《じんぼうちよう》の本屋」 「何という店?」 「新撰堂《しんせんどう》」 「表通りと鈴蘭《すずらん》通りの間の路地にある店だな」 「そう。古いグラフ雑誌なんか売っている店よ。今日、学校の帰りに神保町へ回って、なんとなくその店へ入ったのよ。そうしたら、≪開けゆくシベリヤ≫というグラフがあったの」 「そのグラフの一ページを破り取ってきたというわけか」 「そう」 「発行所はどこだった? 見なかったろうな」 「そこにぬかりはありませんて。東京新報社っていうところよ」 「新撰堂《しんせんどう》へ電話をかけて、そのグラフを押えよう」  電話番号はすぐわかった。  新撰堂とは全く縁《えん》がないし、なまじ同業者であると名乗らない方がよい。そこでかもめがかけることにした。 「あの。さっき、お店で見てきたんですけれども、≪開けゆくシベリヤ≫というグラフ、ほしいんですが、これから行きますから、取っておいてくださいな」  新撰堂の主人は困惑《こんわく》したような声で答えた。 「ああ。あのグラフですか。申しわけありませんが、出てしまいました」 「あら。売れちゃったの?」 「はい。十分ほど前に売れてしまいました」  かもめが握《にぎ》っている受話器に耳を寄せていた元が思わず舌打ちをもらした。  かもめは電話を切った。 「どうするの?」 「とにかく、その店へ行ってみよう」  元は深い息を吐《は》いた。     24  神田、神保町。軒《のき》を連ねた古本屋街に灯《ひ》がともった。  店から店へと流れ移ってゆく人たちの足が心もち早くなったようだ。古本屋街のにぎわいも、昔日《せきじつ》の面影《おもかげ》はないとはいうものの、どの店も求める本を探す客たちで充満《じゆうまん》している。  表通りと、それに平行してのびる裏通りの鈴蘭通《すずらんどお》りとを結ぶ何本もの路地の一本に新撰堂《しんせんどう》古書店が店を開いていた。  店構えは元の店とあまり違《ちが》わない。積み上げた本がほこりをかぶっているのも、店のあるじがやる気がなさそうなのも、元の店と似かよっていた。  明治や大正期に刊行されたグラフ、写真帳などが目玉商品らしく、表のガラス戸にも、新しく入荷したものらしい外国の写真帳の名を記した紙が何枚も貼《は》り出されていた。 「ねえ。私が欲しかったグラフだけど、どこから手に入れたの?」  かもめの問いに、新撰堂の主人はつめたい視線を動かした。度の強い近眼鏡の奥《おく》の小さな目が、かもめの頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで見上げ、見下した。 「手放した人のことはお話しできないんですよ」  剣突《けんつく》でも喰《く》わせるように言った。鼻でも悪いのか、鼻の奥がクフ、クフと鳴った。 「お願い。教えて、実は……」  かもめはとっさに口実を考えた。 「あたし、大学の歴史研究会の委員なんですけれど、秋の文化祭の研究テーマで困っているんです。それで、あのグラフを持っていたような人に、当時のことをいろいろ聞いてみたら面白いんじゃないかなって思ったものだから」  演技力にはかなり自信があった。  世間知らずと多少の図々《ずうずう》しさをないまぜにした体《てい》で臆面《おくめん》もなく述べ立てた。  どうかしら? というように、にっこり笑ってみせた。  新撰堂《しんせんどう》の主人の、取りつく島もないような様子に、かすかな変化が生じた。 「アイデアだと思ったんだけどなあ。ねえ、本屋さん。それじゃ取引きしましょうよ」 「取引き?」 「あたしの行っている大学の日本文学科や社会学科の研究室を紹介《しようかい》するわ。あたしのおじが学長をしているの」  新撰堂の主人の目が、ひどくなまなましい光を宿した。 「どこの大学?」 「セ、セント・マリアンヌ女子大よ」 「あそこは有名校だ」 「こんど、日本一の大学図書館を建てるんです。本をそろえるために古書店に五軒ぐらい入ってもらいたいんだっておじが言っていたわ」 「あんた名刺《めいし》持っている? 学生だから名刺なんて、ないだろうな」 「名刺は持っていないわ。名前、書きましょう。電話番号も」  あるじはメモ用紙とボールペンをさし出した。  稲村《いなむら》かもめ、  北区|赤羽台《あかばねだい》二丁目四番地。  TEL(九〇〇)七一一八。 「はい」  あるじは眼鏡に押しつけるようにして読んでいた。 「明日でも電話ちょうだい。学校でおじを紹介《しようかい》するわ。さ、教えて。あのグラフを売った人」 「口止めされているんだ」 「教えてくれないの?」 「だめだね」  かもめは胸の中で舌打ちした。  あるじはにやりと笑った。笑うと酷薄《こくはく》な表情になった。 「姉ちゃん。さっき自分で取引きだって言ったろう」 「そのつもりよ」 「取引きに応じようじゃないか。ちょっと上りなさい」 「どこへ?」 「二階」  あるじは立ち上ると店のたたきへ下り、表のガラス戸を閉ざすと鍵《かぎ》の音をさせた。  あるじはかもめのかたわらへもどってくると、肩《かた》を小突《こづ》いた。 「ほれ。上りな」  言葉づかいが急にぞんざいになった。  帳場の奥《おく》がすぐ階段だった。階段の後方に茶の間らしい座敷《ざしき》があった。暗い電灯がともっている。  廃屋《はいおく》のような湿《しめ》った匂《にお》いがよどんでいた。  かもめは背を押されるままに階段を上った。  あるじは、かもめの背の感触《かんしよく》を楽しむように、しきりに、当てている手の位置を変えた。  階段を上ると、六|畳《じよう》ほどの座敷《ざしき》があった。  薄《うす》い万年床《まんねんどこ》が敷《し》いてあった。  吸殻《すいがら》でいっぱいになった灰皿《はいざら》や、いつ使ったものともしれぬ小皿や湯呑《ゆのみ》が散乱していた。  壁《かべ》には冬物のジャンパーやセーターなどがひっかかっていた。  あるじはかもめを万年床《まんねんどこ》へ追い立てた。 「脱《ぬ》ぎな」  あごでしゃくると、自分もベルトをゆるめて、ズボンを床《ゆか》へ落した。 「わかったわ。じゃ、前に教えてよ。それからじゃなくちゃいや」  かもめは泣き出しそうな顔を作って言った。 「脱ぎなって言ってんだぜ」  あるじはいきなりかもめの腕《うで》を捉《とら》えた。  ぴしゃっともぐゎんともつかない衝撃《しようげき》がほおへ来た。  腕をつかまれていなかったら、かもめの体は部屋《へや》のすみまで吹っ飛んだかもしれない。続けてもう一発、こんどは反対側の右ほおに、さらに一発、左のほおに炸裂《さくれつ》した。  一瞬《いつしゆん》、気が遠くなった。何がどうなったのかわからぬうちに、かもめはふとんの上に尻《しり》から落ちた。  ふとんが氷のようにつめたかった。それではじめて、自分がいつの間にか下半身が裸《はだか》にされてしまっていることに気づいた。  計画が全く失敗していた。  男の体重がのしかかってきた。かもめは本気になって暴れはじめた。 「だめ。だめえ! ばかあ!」  両手が押えられ、たちまち両足の間に男の体が割りこんできた。足を閉じるどころか、逆に水平になるほどひろげられてしまった。 「元さん! 元さあん!」  かもめは必死にさけんだ。  かもめの部分に、硬《かた》いものが押し入ってきた。  その時、かもめの体は頭の方へ強い力で曳《ひ》かれた。むき出しになった尻が、つめたいふとんの上を擦《こす》り、畳《たたみ》の上に落ちた。  かもめの脇《わき》の下に回された太い腕《うで》があり、その上に元の顔があった。  かもめは泣き声を上げた。 「早くしまえよ。なんてかっこうだ」  元のからかいの声を浴びながら、かもめは下着を探して這《は》いずり回った。  腕《うで》の中からかもめに逃《に》げられてしまったのも気づかないらしく、新撰堂《しんせんどう》のあるじは、息を荒《あ》らげて激《はげ》しく体を動かしていた。  とつぜん彼はけもののようにうめくと、ふとんの上に多量の白濁《はくだく》した液をぶち撒《ま》けた。 「ほれ。また出番だぜ」 「もう、いや。元さん。タイミングが悪いのよ。あたし、もう駄目《だめ》かと思ったわ」 「何が駄目なものか。さあ、早くやれ」  かもめは放心したように中腰《ちゆうごし》になって肩《かた》で息をしているこの家のあるじに近寄った。 「もういいでしょう。教えてよ」 「これからも時々遊びに来いよ。いいな」 「ええ」 「教えてやるよ。板橋《いたばし》区の大豆沢《だいずさわ》町の塩沢伸助《しおさわしんすけ》という人だ」  元とかもめは目でうなずき合った。  元はあるじの前にかがみこんだ。  ポケットからライターを取り出し、ガスのほのおをあるじの目の前にかざした。 「いいな。ようく見るんだ。おれたちが来たことも、おまえがしたことも、全部きれいに忘れるんだ」  元は静かにほのおを小さくしてゆくと、ふっと消し、立ち上った。 「早く出よう」  二人は影《かげ》のようにすべり出た。  かもめは帳場の小机の上の、メモ用紙を取り上げると丸めてポケットに入れた。 「最初からおとなしく教えればいいのに」 「分不相応の欲を出しちゃいけないという教訓かな」 「元さん、時々|爺臭《じじくさ》いお説教を垂れるようになったね。この頃《ごろ》」  かもめが舌を出した。     25  車の交通量の激《はげ》しい中仙道《なかせんどう》の、大豆沢の信号を右に曲ると、表通りの騒音《そうおん》がにわかに遠くなる。 「大豆沢町って、一丁目から三丁目まであるんじゃないか。これじゃ、ただ、塩沢伸助という家を探したってわからないのよ」  だが交番で聞くと、それらしい家はすぐわかった。  厚く繁《しげ》った庭木に囲まれた古い家だった。  門も古びて、踏《ふ》み石には苔《こけ》がはえていた。  玄関《げんかん》のブザーを押すと、家の奥《おく》で人の気配が動いた。勘違《かんちが》いだったかな、と思う頃《ころ》になって、ようやく玄関に忍《しの》びやかに足音が近づいてきた。 「どなたですか?」  とびらの内側の声に、鋭《するど》い警戒心《けいかいしん》が籠《こ》められていた。そのとびらのマジック・アイから、目に見えない視線が放射されてくる。 「あの、すみません。練馬《ねりま》で古本屋をやっている二階堂という者ですが、ちょっとおうかがいしたいことがあってまいりました」  元はドアに向って頭を下げた。 「どんな御用でしょうか?」  何を用心しているのだろうか?  もう陽は高くなっているというのに、縁側《えんがわ》も窓も、固く雨戸が閉《とざ》されている。 「こちらで、≪開けゆくシベリヤ≫というグラフを古書店にお払《はら》いになりましたね。そのことでちょっとおうかがいしたいんですが」  女の声が予期していたかのように数オクターブはね上った。 「知りませんよ! そんなこと。あのグラフにいったい何があったっていうんですか。いいかげんにしてください。警察を呼びますよ!」  元は面喰《めんくら》った。 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。何があったのか知りませんが、私は古本屋です。あのグラフが大変めずらしいものだから、私の店にも、もしやいただけたらと思ってうかがっただけなのですが」 「ですから知らないって言ってるでしょう」  声の主は出てきた時とは反対に、足音も荒《あら》く奥《おく》へ引っ込んでいった。  家のどこかで、女の高い声が聞えた。 「元さん。ほんとうに電話しているようよ。行きましょう」  二人は門の外へ出た。 「あのグラフで何かひどい目に会ったらしいな。だいぶおびえているようだ」  赤い閃光《せんこう》を回転させてパトカーがやって来た。  塩沢家の門の前へ停《とま》ると、制服の警官が門内へ入っていった。  元は隣《となり》の家から顔をのぞかせた中年の女性にたずねた。 「こちらのお宅で何かあったようですね」  自分の知っていることを人に話したくてたまらないらしいその女は、たちまち乗ってきた。 「もう、うるさくてたまらないの。一日に五回も六回もパトカーを呼ぶんですもの」 「どうしたんですか?」 「どろぼうが入ったって言うのよ。それがそうじゃないの。被害妄想《ひがいもうそう》よ。ばかみたい」 「被害妄想ねえ」 「昔《むかし》は大金持ちだったかもしれないけれども、今はただの失業者じゃないの。売り食いよ。何もツンツンして威張《いば》ることないのよ」  なかなか手きびしい。  どうやら塩沢家は近所とうまくいっていないらしい。  門内から警官があらわれた。不機嫌《ふきげん》そうな顔でパトカーに乗り込むと走り去った。 「どうする? 元さん」 「これは手ごわい相手だな」  だが、どうしても直接会って問い質《ただ》さなければならない。  二人が立ち去り難い思いで立っていると、ふたたびパトカーがやってきた。  私服をまじえた四、五人の警官が門内へ駈《か》けこんでいった。 「遅《おく》れてきた分だけ張り切ってみせるのかしらね」 「しっ。でかい声を出すな」  どこかで物がこわれるような音が聞えた。  かもめの顔から笑いが消えた。  元が、音が聞えてきた塩沢家の門に視線を投げた。  二人同時に走り出した。  塩沢家の門を入ると、玄関《げんかん》へ進まず、庭へ回った。  庭は雑草がおい繁《しげ》り、手入れが全くなされていない樹木がいたずらに枝葉をひろげていた。  その庭に面した雨戸が一枚開かれていた。その雨戸が、この家に住む者の意志であけられたものでない証拠《しようこ》には、その雨戸は地面に落ちていた。  今度ははっきりと家の中から女の悲鳴が聞えてきた。  二、三人の警官が家の中から木箱《きばこ》を運び出してきた。  その中から本を取り出し、一冊一冊調べている。調べては庭に放り出す。また奥《おく》から運んできた。 「ゆくぞ!」  元は庭を横切って彼らの前へ進んだ。  彼らが顔を上げ、何かさけんだ。  元は腕《うで》をのばし、一人の制服の上衣《うわぎ》のすそをとらえ、縁側《えんがわ》から引きずり落した。もう一人は腰《こし》の拳銃《けんじゆう》に手をかけた。元の靴《くつ》の先が彼の脇腹《わきばら》にめりこみ、彼は薄暗《うすぐら》い屋内へ倒《たお》れこんだ。その体をもう一度、蹴《け》り上げておいて家の奥へ突進《とつしん》した。  奥に古めかしい書斎《しよさい》があり、天井《てんじよう》まで届くような大きな書棚《しよだな》が壁《かべ》をおおっていた。  警官姿の男たちが、その書棚の中の本を引きずり出しては、床《ゆか》の上の段ボール箱《ばこ》に落しこんでいた。また壁に沿って置かれたロッカーの中を調べている者もいた。  その部屋《へや》のすみにうずくまっているのが、さっきの声の主であろう。四十|歳《さい》ぐらいの女だった。手足を縮めねずみのように震《ふる》えている。 「おい、おまえたち。誰《だれ》に頼《たの》まれてこんなまねをしているんだ?」  元の声に、彼らは機械人形のようにいっせいに顔を向けた。その顔を恐怖《きようふ》と絶望がどす黒く隈取《くまど》った。 「おまえたち。ほんものの警官が帰ったあとでやって来たのは上出来だった。こっちもあぶなくだまされるところだったよ。ひとつだけ教えておいてやろうか。おまえたちの乗ってきた車だよ。あの型式の車はパトカーに使われていないんだよ。制服でごまかせても、パトカーではごまかせないのかい」  元のたんかに、皆《みな》、凍《こお》りついたように動かなかった。 「誰に頼まれてきた? 言え!」  元がさけんだ。  彼らがいっせいに動いた。だがその動きはバラバラであり、全く統一を欠いていた。  元は彼らの中へ躍《おど》りこんだ。彼らの中をかけ抜《ぬ》けながら、右へ、左へ、拳《こぶし》を突《つ》き出し、あるいは蹴《け》り上げた。  帽子《ぼうし》が飛び、警官の制服が引き千切《ちぎ》れたあとに、肩《かた》まで届く長髪《ちようはつ》や、刺青《いれずみ》をほどこした腕《うで》などがあらわれた。 「逃《に》げろ!」  一人が逃げると、彼らは崩壊《ほうかい》した。  腕を折られた者も、足をくじいた者も、先を争って庭へ跳《と》び下りた。  その中の一人を引き倒《たお》し、蹴《け》りつけると長くのびた。  他の者たちは元の手を逃《のが》れ、門の外でタイヤのきしむ音とともに猛烈《もうれつ》なスピードで車の走り去る音がした。  元は気を失っている男のえりをつかんで屋内へ引きずり上げ、平手打ちを加えた。  虚《うつ》ろな視線とともに男は意識をとりもどした。 「この家の家探《やさが》しを誰《だれ》に頼《たの》まれた?」  男は急にもがきだした。 「知らないよ。おれ、バイトなんだよ。日当がいいからって聞いたもんだから」 「誰《だれ》にやとわれたんだ?」 「やとい主なんて知らないよ。おれ友達に誘《さそ》われて来たんだから」 「おまえ。今のその立場で、そんな説明で通ると思っているのか」  元は男のほおを張り飛ばした。男のほおが二十回以上、ほとんど切れ目なしに鳴り続けた。  男はなみだと血よだれでぐしゃぐしゃになった顔を、がっくりとのけぞらせた。 「どうだ? 言う気になったか」 「てめえら。ぶっ殺してやるぞ」  男は息も絶え絶えにうめいた。 「あら。ぜんぜんわかってないじゃない。だめねえ。そんなことでは」  かもめは室内を見回した。求めるものがそこにないのを知ると、部屋《へや》の外へ出ていったが、すぐアイロンを手にもどってきた。かもめは床《ゆか》に尻《しり》もちをつき、壁《かべ》に背をもたせかけて喘《あえ》いでいる男の前へ、進んだ。コードをのばし、壁のコンセントにさしこんだ。 「元さん。この人の手足を縛《しば》ってよ」  そうしておいて、あお向けに横たえた男の顔の上に、かもめはアイロンをのせた。 「いいこと。もう一度聞くわよ。誰《だれ》に頼《たの》まれたの?」 「うるせえ! 殺したければ殺せ!」  男は兇悪《きようあく》な顔になった。 「おれだって、二人|殺《や》ってるんだ! 殺されるのがこわくって極道《ごくどう》やっていられるかってんだ」  かもめの手元でアイロンのスイッチがカチリと鳴った。  男の体が硬直《こうちよく》した。  元は、部屋《へや》のすみで放心したようにうずくまっている女を隣室《りんしつ》にともない、ソファにかけさせた。 「驚《おどろ》いたでしょう。もう大丈夫《だいじようぶ》ですよ。ぼくらはただの古本屋ですから」  元は台所からウイスキーを見つけてくると、水で薄《うす》く割って女に飲ませた。 「ところで、これが御縁《ごえん》ということで、私にひとつ教えていただきたいのですが」 「なんでしょう?」  女は少し落着きをとりもどしたようだった。 「あのグラフをお売りになったのは塩沢伸助さんですか?」 「ええ。私の父です。去年死んだんです。それで蔵書を売ったんです。その中にあのグラフも入っていたんですよ」 「塩沢さんは、あのグラフをどこで買ったのか、おわかりにならないでしょうね」 「なにしろ何十年も前のことですから」  調査の糸はここで断たれた。買った本人が生きていれば、何か思い出してくれることがあるかもしれないが、その希望は今や完全に失われた。 「ほかにもあのような本はありませんでしたか?」 「父は大学で外交史を教えていましたからそちらの方の本ばっかりで。あのグラフも、参考書か何かのつもりで買ったものなのではないでしょうか」 「そうでしたか。いや、貴重なものなので私も欲を出してこちらまでお邪魔《じやま》しましたが、あんな連中をおっぱらうことができて、よかった」 「そんなに貴重なものだったんですか? 泥棒《どろぼう》してまで手に入れたいというような」 「貴重といっても、古文書ではありませんから、値段にしたって、手が後ろに回るのを覚悟《かくご》で泥棒に入ってでも欲しいというほどのこともないはずですがね」 「わけがわからず薄気味《うすきみ》悪いですわ」  さっきから、隣室《りんしつ》で胸の悪くなるような悲鳴や絶叫《ぜつきよう》がしている。  それが弱々しい泣き声に変った。  隣室との境のドアが開き、かもめがのぞいた。 「元さん。練馬区の羽沢《はざわ》東の三河屋《みかわや》っていう酒屋知っている?」 「羽沢東? 三河屋? かもめちゃん。それはおれの家の隣《となり》の酒屋だぜ」 「そこの親父《おやじ》だ」  元にはその意味がよくわからなかった。かもめがもどかしそうに言った。 「そこの親父」 「三河屋の親父がどうかしたのか?」 「この連中をやとったんだ」 「あの親父が、なんで? なあ。にせ警官やにせパトカーを使ってまでなんでこの家に押し込まなければならなかったんだろう。目的はあのグラフだったのか?」 「すっかり白状したわよ」  何をどう考えたらよいのか、全く見当がつかなかった。  なにごとか、途方《とほう》もないできごとが起り、進行しつつあるという不安や恐怖《きようふ》が、元の心を万力《まんりき》のように締《し》めつけた。 「元さん。私たち、もうここから出ましょうよ」  かもめの声にはっとわれにかえった。  絵葉書が紛失《ふんしつ》したのも、三河屋の出現と何か関係があるかもしれない。 「三河屋がやって来た時、なくなったんだ」 「なんのこと?」 「出よう。歩きながら話す」  二人は別れを告げて玄関《げんかん》へ出た。 「連中ももう来ないでしょう。警察には黙《だま》っていた方がいいかもしれません。もしかすると、あなたも調べられたりするかもしれませんから」 「もうたくさん。残っている父の蔵書の始末がついたら、私、引っ越《こ》しますわ。この家もいや」 「この男は、かついでいって、どこかへ放り出しておきますから。あとのことはご心配なく」  元は男の体を引きずって門へ向った。途中《とちゆう》で警官の制服を剥《は》ぎ取った。  門の外へ出ると、人通りのないのを見計らって、男の体を電信柱のかげに横たえた。真赤な顔は誰《だれ》が見ても酔《よ》っぱらいだ。  二人はタクシーで元の店へもどった。  重い疲労《ひろう》が石のように二人にのしかかってきた。 「おれたちの手に負えなくなったんじゃないかな」 「報告が遅《おく》れるとどやされるわよ」  二人は顔を見合わせ、それから同時に首をすくめた。     26  その女が店に入ってきたとき、間口にくらべて奥《おく》行きの深い薄暗《うすぐら》い三河屋の店の中が、急に明るくなったような気がした。  店にいた二人の女客が、一人はかねを払《はら》う手を休め、一人はワインをえらぶ手を止め、入ってきた女客に視線を注いだ。  ひどく背が高いような気がしたが、実際には、ほっそりとした体つきとすきの無い着付けのせいだったのかもしれない。帯も着ているものも、おそろしくかねのかかったものであることを二人の女客は本能的に認めた。頭のうしろに無造作に丸めた髪《かみ》に、玉のついたかんざしがさしこまれていた。  女は高貴な銀色の花のように、ゆっくりと店の奥へ足を運んだ。 「へい。いらっしゃい」  この店のあるじ石黒亀太郎《いしぐろかめたろう》、つまり酒屋三河屋のあるじは、客の姿に反射的ともいえるしぐさでもみ手をした。 「何をさし上げましょう」  三河屋亀太郎は、胸の中で首をかしげた。このあたりでは全く見かけない客だった。  どこの奥《おく》さんだろう?  女客たちはこの見知らぬ存在に、激《はげ》しい興味とそこはかとない敵意を感じた。  釣銭《つりせん》を二百円も多く渡《わた》してしまった店員は芸能人かもしれないと思った。彼は前に一度、店の休日の日に出かけた六本木で、有名な女優を見たことがあった。こんな女がこの世にいるのかと思った。その時の感じと似ていた。  その客は、親父《おやじ》と店員と二人の女客の視線を浴びながら、洋酒の棚《たな》の前に立ち止っていたが、やがてこの店で最高の値段のコニャックを指して、 「これ」  と言った。細く白い指先が美しくしなった。否応なく視線が吸い寄せられた。  包ませたコニャックを抱《だ》いて、女は店を出て、左の方へ向って行く。  三河屋は考えるともなく店の外へ出た。  軒下《のきした》に出してある箱台《はこだい》に、雑然と載《の》せてある安物の国産ワインのびんをならべかえながら、目は去ってゆく女の姿を探した。  道路に女の姿はなかった。  どこへ入ったんだろう?  距離《きより》にして二十メートル足らずである。  買った品物から考えてみやげ物だった。  そのとき、とつぜん彼の前に人影《ひとかげ》が立ちふさがった。  時計が二つ打った。  消防自動車のサイレンの音が、あらしのように近づいてきた。  何十台もの消防自動車の、遠近さまざまなサイレンのひびきが空気を、街を、人々の心を震《ふる》わせた。  機動隊の輸送車の列が街路をふさぎ、鎮圧服《ちんあつふく》とヘルメットに身を固めた機動隊員があわただしく散ってゆく。  無数のヘリコプターがむれ鳥のように旋回《せんかい》している。新聞社や警視庁、消防庁のヘリコプターのほかに、濃緑色《のうりよくしよく》の自衛隊の武装《ぶそう》ヘリが混っているのが地上の人々の目を射た。  一キロメートルも離《はな》れた所に非常線が張られ、いっさいの交通はそこで遮断《しやだん》されていた。  もちろん、新聞記者たちもそこからは一歩も入ることができなかった。 「なぜ取材させないのかね。いったい何があったんだ?」 「射撃《しやげき》事件があったということは、もう都民はみんな知っているんだ。報道させないと都民はますます不安になるぜ」 「これは言論の自由に対する明確な弾圧《だんあつ》だよ。絶対に告訴《こくそ》してやるぞ」  機動隊のジュラルミンの楯《たて》が造るバリケードの前では、かけつけてきた新聞記者たちの怒声《どせい》が渦巻《うずま》いた。 「電話で取材しよう」  気がついた一人が、商店に飛びこんだ。どこの家でもよい。バリケードで包囲された地域の中の家に電話をかけて様子を聞き出そうとした。  だが、せっかくの思いつきも何の役にも立たなかった。  電話は完全に不通になっていた。 「時限|爆弾《ばくだん》か?」 「銀行|強盗《ごうとう》が人質を取って立てこもったらしい」 「細菌《さいきん》爆弾だそうだ」 「放射能だってよ」  さまざまな噂《うわさ》と憶測《おくそく》が入り乱れ、飛び交っていた。  火は表通りの商店街をなめはじめていた。  数十本の水柱の抛物線《ほうぶつせん》の華麗《かれい》な虹《にじ》のむこうで真紅のほのおが渦巻《うずま》き、黒煙《こくえん》が陽光をさえぎって街の上空をおおってゆく。 「南小学校へ避難《ひなん》してください。家財は守りますから貴重品だけを持って避難してください」  警察の広報車がひっきりなしにさけんでいる。  ここは風上だから避難する必要はないのだが、なぜか、警察は住民を一刻も早くこの地域から他へ移したいらしい。 「さあ。早く!」  警察官に追い立てられ、追い立てられ住民たちは南小学校へ向って小走りに急いだ。  かもめは、十二号室と書かれたドアをそっとたたいた。 「だあれ?」 「一階に住んでいるの。ちょっとあけていい?」 「いいわよ」  ドアをあけると、窓ぎわに立っていた自分と同じぐらいの年齢《ねんれい》の若い女がふりかえった。 「どうしたの? この騒《さわ》ぎ。小学校へ避難してくれって言ってるけど……」 「あんた。知らなかったの?」 「ずっとお昼寝《ひるね》してたもんだから。なんだか騒々《そうぞう》しいんで目がさめたら、このありさまじゃないの」 「のん気な人ね。大変なのよ」 「なあに? あんまりおどかさないでよ」 「あたし、見てたんだ。隣《となり》のフラミンゴ寮《りよう》の二階で……」 「フラミンゴ寮?」 「隣のよ」 「なに、それ? そんなものあったっけ?」 「あんた。いつからここに入っているの?」 「先月からよ」 「フラミンゴ寮を知らないのかね。フラミンゴ・プロのタレント寮さ」 「ああ。そうか」  近年芸能界に君臨するフラミンゴ・プロダクションは、所属する若手芸能人を、自らの経営するマンションを寮と称してそこに全員収容している。かかえているタレントに、芸能記者を容易に近づけまいとするこのやり方は、それなりに効果があったが、一方で寮内《りようない》での、若いタレントたちの無軌道《むきどう》な生活ぶりが、かえって世間の批判の目を浴びたりもしていた。  つねにはなやかなゴシップに包まれているフラミンゴ寮だった。  かもめもそれを知らなかったわけではない。だが、この木造のボロアパートの隣《となり》にそびえるマンションが、そのフラミンゴ寮であるとは知らなかった。 「その中庭に出たんだよ」 「出た? お化けか何か?」 「違《ちが》うよ。あんたって変ってるね。お化けだって! そんなもの出るわけないだろ」 「だから、何が出たのさ?」 「兵隊」 「…………」 「ヘルメットっていうの? あれ。かぶってさ。鉄砲《てつぽう》かな、ピストルかな。持ってんのよ。それで射《う》っちゃってね。すごかったよ」 「ほんとうに射ったの?」 「そうよ! すごかったよ。バァーッちゃってさ」  幼児の説明のようでさっぱり要領を得ないが、せかしたらもっとわけがわからなくなるだろう。 「ふうん。見たかったな。どこだって? 見せてね」  かもめはこの部屋《へや》の住人が何も言わないうちに靴《くつ》をぬいで上りこんだ。窓ぎわに進んで、外界に目を向けた。  隣《となり》にクリーム色のしゃれたマンションがあった。こちらに向けて口を開いた中庭に、全身|茶褐色《ちやかつしよく》の大きな人影《ひとかげ》が動いていた。十数人いるだろう。腕《うで》に小さな機関銃《きかんじゆう》のような武器をかかえている。ジェット機のパイロットのようなヘルメットで頭部を包んでいる。その前面の透明《とうめい》の部分から、薄紅色の顔がのぞいていた。あきらかに日本人ではなかった。  彼らは、非常な驚《おどろ》きと恐怖《きようふ》に包まれているらしく、背中を合わせた一団となって移動していた。  とつぜん、彼らは立ち止った。手にした銃《じゆう》がいっせいにある方向に向けられた。  銃が火を噴《ふ》き、銃声《じゆうせい》がごうごうとどよめいた。  手榴弾《てりゆうだん》が爆発《ばくはつ》し、中庭に面して駐《とま》っていた車が火の玉になった。 「逃《に》げよう! あの変な連中こっちへ来るよ」  こちらの木造アパートの壁《かべ》に、ひどい音をたてて何かがぶつかってきた。  ガラスが割れ、壁がくずれ落ちた。 「うそじゃないだろ。兵隊が出てきたんだよ。それが妙《みよう》なんだ。何もない所から出てきたんだからね」 「これじゃ、取材させられないわけだ」  アパートの裏で激《はげ》しい銃声が響《ひび》いた。  乱れた足音がアパートの前を、後を走る。  アパートの中へ警官隊が走りこんできた。 「早く避難《ひなん》しろ!」 「住民の半分ぐらい残っているようだ」 「ぎせいが出るのもやむをえんだろう」  そんな声が聞えた。  かもめは裏口から外へ出た。  表通りからアパートの裏庭へかけて、地下鉄工事がひろがってきている。敷《し》きつめられた鉄板がはねのけられ、地下のトンネルの一部がのぞいていた。  組み合わされた鉄骨やパネルの間から、人影《ひとかげ》がわき出てきた。  ヘルメットと銃《じゆう》で武装《ぶそう》した彼らは、あとからあとから地上にあらわれてきた。  かもめは路地から路地をつたって逃《に》げた。もはやほんの一刻もぐずぐずしてはいられなかった。目にしたものを元に告げ、これからの手段《てだて》を考えなければならなかった。 「————!」  とつぜん、奇妙《きみよう》な音声が背後から飛びついてきた。  ふりかえると、茶褐色《ちやかつしよく》のひふのような衣服に身を包んだ人影が立っていた。  頭部は何かをかぶっているのか、体とひとつづきの衣服で包まれているが、顔に当る部分は透明《とうめい》な窓になっていた。その中にあるものはたぶん顔であろう。 「————!」  もう一度さけんだ。  鳥のさけび声とも、電子的な音響《おんきよう》ともつかぬ異様な音声だった。  かもめは身をひるがえしてせまい路地に飛びこんだ。  視界が真青《まつさお》に染まり、周囲のコンクリートの壁《かべ》や路面が白熱した。  かもめは走った。  もう一度、周囲が真青に輝《かが》やいた。  ビルの地下室への階段に身を躍《おど》らせた。  そのまま奥《おく》へ走り、せまい通路をたどって闇《やみ》の中に身をひそめた。  機械油の匂《にお》いが、湿《しめ》った空気とひとつになってかもめの体を包んだ。  そこは機械室らしかった。  ビルの中の人々はすべて逃《に》げ出したのであろう。機械室の中の装置《そうち》は、ことごとく停《とま》っていた。機械の温度が下るにつれて発するかすかなきしみ音と、時おり聞える水滴《すいてき》の音だけが、耳に入るすべてだった。  発電用のディーゼル・エンジンらしい大きな鋼鉄《こうてつ》の塊《かたまり》のかげに、かもめは小さなけもののように貼《は》りついた。  二分。三分……五分。  何の物音も聞えなかった。  闇《やみ》に目が馴《な》れてくると、あけ放された機械室の入口だけが、長方形にぼんやりと浮かび上って見えた。 「あたしのことなんか追いかけたってしようがないものね」  彼らの無差別な破壊《はかい》と殺戮《さつりく》の行為《こうい》にとっては、一人の若い女など逃《に》げようがかくれようがかまったことではないのだろう。  かもめはゆっくりと体を起した。  立ち上ろうとして、体が凍《こお》りついた。  ほのあかるい入口に、濃《こ》い影《かげ》がまぼろしのように立っていた。  かもめはほんのわずかも動かなかった。呼吸さえ止める。  入口からは内部は完全に暗黒であろう。姿を見分けることは不可能である。  それがかもめをやや落着かせた。  だが、彼らが暗視|装置《そうち》を備えていないとは限らない。  影は一歩また一歩、入ってきた。  かもめは、のどから出そうになる悲鳴を必死におさえた。  それはもののけのように、足音もなく、モーターのかたわらを進み、配電盤《はいでんばん》の前を通って一歩一歩、かもめに近づいてきた。  それはかもめの前に立った。  衣《きぬ》ずれにも似たかすかな足音と、それが生き物であることを示す体温の気配が、かもめの前を通り過ぎていった。  手に提げた武器の一端《いつたん》が、ごつ、とかもめの肩《かた》に当った。  かもめは失神するかと思った。  人影《ひとかげ》は機械室の中を一巡《いちじゆん》し、こんどは壁《かべ》の下を通って入口へ向い、やって来た時と同じように、ふいに消え去った。  かもめは、膝《ひざ》から下が完全に消失してしまったような気がした。立っているのも困難で床《ゆか》に尻《しり》を落し、それから横になった。 「もう大丈夫《だいじようぶ》だ」  立ち上り、機械室の入口から出た。  そこに立っていた。  透明《とうめい》な面部の奥《おく》の、二つの眼が、ひたとかもめをとらえていた。  かもめは反射的に後へ跳《と》んだ。機械室の中へころがりこむのとほとんど同時に、周囲は青い閃光《せんこう》に包まれた。  壁や柱や天井《てんじよう》まで、紙や材木のように燃え出した。  モーターがほのおの塊《かたまり》となった。  かもめはせまい機械室の中を逃《に》げ回った。だが入口はひとつしかなかった。  たちまち灼熱《しやくねつ》のほのおの渦《うず》はかもめの体を押し包んだ。 「たすけて! おねえさん!」  かもめはさけんだ。  ふいにかもめは、自分の体に、目に見えない軽い布のようなものがおおいかぶさってくるのを感じた。  やさしい、だが強い力が背に加わるのを感じ、かもめはそれに身をゆだねて足を運んでいった。  前も、右も、左も、燃え狂《くる》うほのおの壁《かべ》だった。  とつぜん、それが後方へ退《ひ》いた。機械室から運び出されたという安堵感《あんどかん》が全身を鉛《なまり》のように重くした。  背後で、ほんの一瞬《いつしゆん》、闘争《とうそう》の気配が感じられたが、すぐ静かになった。燃え狂うほのおだけが地下室をどよもした。  かもめは階段を押し上げられ、とん、と路上へ突《つ》き放された。 「おねえさん!」  ふりかえると笙子《しようこ》が立っていた。  この地獄《じごく》のような大異変の中で、いつもと少しも変らず、彼女の周囲だけは、何事も生じてはいないかのように、静謐《せいひつ》と清冽《せいれつ》をおびてそこに立っていた。  猛火《もうか》の中をくぐり抜《ぬ》けてきたにもかかわらず、彼女の美しく結い上げた髪《かみ》にも、豪華《ごうか》な衣服や帯にも、ほんのわずかな焼け焦《こ》げの跡《あと》もなかった。 「元さんを連れて私のお店へ行きましょう」  笙子はかもめをうながして裏通りへ入った。  街は地震《じしん》と津波と大火が一度にやって来たかのように、ほのおと地ひびきと騒音《そうおん》につつまれていた。その中で、人のさけび声や銃声《じゆうせい》が入り乱れ、ひとつになって渦巻《うずま》いた。  黒煙《こくえん》が街の空低くおおい、みるみる濃密《のうみつ》となって四方にひろがっていった。  パトカーや消防自動車のむれが、その騒乱《そうらん》の中へ突《つ》っ込んでいった。  かけつけてきた警官隊は、何がどうなっているのか見当もつかぬまま、路上に倒《たお》れ、傷ついていった。  茶褐色《ちやかつしよく》の、ひふのような衣服で身を包んだ兵士たちは、火と煙《けむり》をくぐって、まだ踏《ふ》みとどまっている人や逃《に》げ遅《おく》れた人々を狩《か》り立てていった。  機動隊がやって来た。彼らは機敏《きびん》に展開し、バリケードを設けて戦闘《せんとう》体勢に入ったが、結局そこまでだった。  都内で異変が起っているらしいという噂《うわさ》はたちまち首都圏一円にひろがった。  新聞社やテレビ局のヘリコプターが飛び交い、新聞記者は情報源を求めて破壊《はかい》と殺戮《さつりく》の中を走り回ったが、事態の真相を知っている者は誰《だれ》もいなかった。  その間に厳しい報道管制が敷《し》かれ、警官隊によって射殺された取材記者もいた。  百メートルほどむこうの銀行のビルが、あらゆる窓からほのおを噴《ふ》いて熔鉱炉《ようこうろ》のように燃え盛《さか》っていたが、ついに道路に崩《くず》れ落ちた。すさまじいほのおの奔流《ほんりゆう》が街を呑《の》みこんだ。そのほのおと煙《けむり》の中から、都心のビル街が見えかくれしていた。  車でごったがえす東京駅前を通り過ぎ、銀座へ入ると、そこへはまだ破壊《はかい》も火の手も届いていなかった。  だが、どのビルの窓にも人の顔がおり重なり、神田方面の街の空を厚くおおう黒煙《こくえん》を見つめていた。  そこからも、煙《けむり》の周囲をむれ鳥のように乱舞《らんぶ》するヘリコプターを見ることができたし、時おり煙を破ってひらめく火柱を望見することができた。  どのオフィスも商店もレストランも、テレビの前は人で埋《うま》っていた。  買物客や、多少の商用で出てきていた人たちは、あたふたと帰っていった。  銀座の表通りもあちこちで閉鎖《へいさ》され、自衛隊のトラックや警察の装甲車《そうこうしや》が何列もうずくまっていた。  災禍《さいか》のおよばない所では、この騒《さわ》ぎも格好の話題であり、この上ない刺激《しげき》に過ぎなかった。  たそがれが迫《せま》り、陽《ひ》が沈《しず》むと、東京の空は真紅に染った。     27  銀座の裏通りは、その夜は奇妙《きみよう》な混濁《こんだく》を見せていた。  いつもの夜と変らぬネオンの灯の海のきらめきに、酔客《すいきやく》のさんざめく一角があると思えば、固くシャッターを閉ざして全く人の気配も絶え果てた横丁もあった。  ここからは、なお北の空近く赤々と夜空を染めるほのおも見えない。ことに地下室にでももぐろうものなら、なあに明日になればすべて解決しているのさ、という安易でたくましい日常が支配しているのだった。  銀座七丁目の裏通り。パリ伝来の高名なフランス料理店と、江戸時代から続いているという和製小物の老舗《しにせ》とにはさまれて『青龍堂《せいりゆうどう》古美術店』があった。  太平洋戦争で銀座一帯が空襲《くうしゆう》で焼野原になるまでは、いかにも老舗らしい豪壮《ごうそう》な建築で、分厚い屋根|瓦《がわら》の一枚一枚に、あるいは店の中程を貫く尺五の大黒柱にも、時代の年輪が刻みこまれていたものだったが、現在のそれは、地上七階のビルにさま変りしている。その一階におさまっているのが『青龍堂《せいりゆうどう》』であり、右隣《どなり》のフランス料理店も左隣の小間物屋も、実際にはそれぞれのビルにおさまっているのだった。  今夜はそのどちらもシャッターをおろしてひっそりと暗闇《くらやみ》に沈《しず》んでいるが、『青龍堂古美術店』だけは、半分ほどおろしたシャッターの下から、明るい店内の光があふれ出していた。その前に止った車から、三つの人影《ひとかげ》が降り立った。  開かれたガラス戸の内側に人影が動いて、シャッターが巻き上げられ、ガラス戸が開いて三人の姿を呑《の》みこんだ。  シャッターが完全に下りると、店内の灯もさえぎられ、あとは街路灯の光だけの暗い街にもどった。  店内の照明がつぎつぎに消えてゆくと、壁《かべ》に沿ってならべられている甲冑《かつちゆう》が、まるで人が身につけているかのように、陰翳《いんえい》と重量感を見せた。  古代の中国のものと思われる大きな青銅の壺《つぼ》や、古めかしい大理石の獅子《しし》の彫像《ちようぞう》などが、歴史を秘めてしいんと静まりかえっていた。 『青龍堂《せいりゆうどう》古美術店』といえば、古美術愛好家や研究者の間では昔《むかし》からよく知られた店だった。とくにこの店の、古美術品に対する鑑定《かんてい》の確かさは、専門の大学や研究所にもまさるといわれていた。 「おねえさん。笙子《しようこ》おねえさん」  息のはずんだかもめのバッグが、陳列台《ちんれつだい》の上の青磁《せいじ》の花瓶《かびん》に触《ふ》れ、危険な音響《おんきよう》がわいた。 「かもめちゃん。こわさないでね。それ、高価《たか》いのよ」  ふりかえった笙子が、めっ、とたしなめた。  この店の主人、青龍寺《せいりゆうじ》笙子だった。 「おねえさん。この騒《さわ》ぎの中でも商売のこと、忘れないのね。それに、ここにいる誰《だれ》もが、笙子おねえさんが古道具屋さんだって思ってなんかいないんですからね」  かもめが下くちびるを突《つ》き出した。 「かもめちゃん。だめよ。そんなことを言っていては。私たちはどんな時でも、この世界にもぐりこんでいるんだっていうことを忘れちゃだめ」 「そのための商売意識ですか。ん、もう!」  店の奥《おく》に事務室があった。  幾《いく》つかの机がならんでいる。一人の老人があらわれて皆《みな》をむかえた。  事務室の奥にもうひとつとびらがあった。  それを入ると、そこはこの店の主人の居室だった。  正面の壁《かべ》に掲《かか》げられているのは、雪舟《せつしゆう》の描《えが》く雪の枯野《かれの》であり、飾《かざ》り棚《だな》に胡座《こざ》しているのは雲慶《うんけい》造るところの大日如来像《だいにちによらいぞう》だった。それだけでも国宝級の美術品である。 「倉敷《くらしき》で源三位頼政《げんざんみよりまさ》の直筆《じきひつ》の手紙が発見されたというので見に行くつもりだったのよ。今日。でも、それどころではなくなったわ」  老人がお茶を運んできた。黙《だま》って三人の前に茶碗《ちやわん》を置き、そのまま、一座の端《はし》に座った。 「元さんやかもめちゃんに連絡《れんらく》しておこうと思っていたのだけれども、一週間ほど前、総局から通報があったのです。一八七〇年|頃《ごろ》から、時間|軸《じく》に不規則な乱れがあらわれているというのです」 「おねえさん。それは時間旅行者だわ! 何かたくらんでいるのよ」 「支局長。それであの絵葉書のことも納得ゆきます」  元は支局長という堅《かた》苦しい呼び方をした。  老人が膝《ひざ》をのり出した。 「皆《みな》さんもご承知のように時間|監視局《かんしきよく》は、近年、古生代と中生代を強化する必要を感じ、各支局から何名かずつヴェテランを引き抜《ぬ》きましてな。その結果、わが支局でも一八五〇年から一九二〇年代担当者が欠員になっておりました。どうやらそこを突《つ》かれたような感じがしますな。これはなかなか手強《てごわ》い相手ですぞ」 「先生。元さんの説明によると、元さんの店の隣《となり》の三河屋の主人というのが、どうも元さんを最初からマークしていたのではないかと思われるの。大豆沢の塩沢という家の写真帳に目をつけたのも、神保町の新撰堂《しんせんどう》へあらわれたのも、皆《みな》、元さんたちの先へ先へと回っているの。私の周囲に時間密行者が立ち回った形跡《けいせき》はないから、彼らは今のところ、元さんしかつかんでいないと思うのよ。先生。三河屋の身の回りを調べてください」  先生と呼ばれた老人は黙《だま》ってうなずいた。 「先生はこの間まで区役所の戸籍《こせき》係だったんだから、戸籍を調べるのはお手のものよね」  かもめが冷やかした。 「そう。私は千代田区の区役所に、二十五年いましたからな。こういうのを忍者《にんじや》の方では草《くさ》というんだそうですな」  老人は乾いた声で笑った。  時間|監視局《かんしきよく》はあらゆる所に監視員を置いていた。  二〇〇〇年代の終り頃《ごろ》、それまで純粋《じゆんすい》に数理上でのこととされ、また試行|錯誤《さくご》のくり返しに過ぎなかった≪超《ちよう》光速理論≫がにわかにメカニズム化されるようになり、現実的意味を持ち始めた。  アインシュタインの相対性原理は、この世界にあっては、いかなる方法をもってしても光の速さ以上の速力を出すことが不可能であることを教えている。  一秒間に約三十万キロメートルもの距離《きより》を走る光の速さに、限りなく近づけることはできる。それは推力の問題である。しかし、ある乗物、たとえば宇宙船がぐんぐんスピードを上げしだいに光の速さに近づいてゆくに従い、その宇宙船の内部を流れる時間は、しだいにゆっくりと経過するようになる。つまり時のたつのがおそくなるのだ。そして宇宙船の速さが光の速さに達した時、その船内の時間はついに止ってしまう。時間が止ってしまうということは、物事のあらゆる変化が停止してしまうということである。変化が停《とま》るということは、生物にとって死を意味することではない。もちろん、今のままの生でもない。  宇宙船のスピードが光の速さに達したとたんに、船内で、その時、手を上げていた人は上げたまま、息を吸いこんだ人は吸いこんだ状態のまま、未来|永劫《えいごう》にわたってそのままの状態でいるのだ。当人たちはそうなってしまったことは少しも感じない。すべて、これはその宇宙船の外から見ている人だけにわかることなのである。  光速に達したところで時間が停止するものだとすれば、光速を超《こ》えれば、今度は時間は逆に流れ出すのではないかと考えられた。  時間が逆に流れるというのは、先に結果があり、あとからその原因が来るということである。  時間旅行の難かしさはそこにある。  もうひとつ、時間旅行がほとんど不可能であろうと思われる理由のひとつに、時間旅行者による過去の破壊《はかい》の問題がある。  時間旅行者が、古生代へ行き、そこで両生類を一|匹《ぴき》、踏《ふ》みつぶしたとする。動物の進化は、両生類、は虫類、哺乳《ほにゆう》類という道すじをたどるから、ことによったら、時間旅行者が踏みつぶした古生代のカエルが、その後のは虫類への進化の引き金になっていた個体かもしれない。時間旅行者の不注意な一歩によって、地球の動物の歴史が大きく変るかもしれない。このことは動物の進化だけではなく、すべてのことについていえることである。石塊《せつかい》を一個動かしただけで、その後の世界は全く別なものになりかねない。  タイム・マシンが実用されるようになった時、もっとも警戒《けいかい》しなければならないのは、過去の歴史に対する介入《かいにゆう》である。  歴史学者にとって、それはとうてい耐《た》えられない誘惑《ゆうわく》であろう。別な可能性の世界を造ることができるのだ。条件をほんのわずか変えることによって、無限の可能性をテストすることができるのだ。それはもはや想像のもしもの世界ではない。  それを恐《おそ》れた人類は、三〇〇〇年代に入って時間|監視局《かんしきよく》という組織を設けた。  時間監視局は、過去の時代のいたる所に見張《ウオツチマン》を置いた。タイム・パトロールマンという。  彼らは、時の流れの中にあらわれる微妙《びみよう》な乱れを感知し、時間密行者の潜入《せんにゆう》を察知してその企図《きと》を粉砕《ふんさい》するのが任務だった。  時間|監視局《かんしきよく》はきびしい法律を設け、タイム・マシンを悪用する者には酷《こく》と思われるような制裁を加えることを約束《やくそく》した。  時間局員たちは、配置された時代の生活に全く溶《と》けこんでいた。  二階堂元は古本屋を営む青年であり、かもめが、学生ともOLともつかない遊び好きの若い娘《むすめ》としてしか人の目に写らないのも、彼らが時間局員として一九八〇年代の東京の生活に完全に埋没《まいぼつ》していたからだった。  彼らの棟梁《とうりよう》の笙子《しようこ》も、その鑑識眼《かんしきがん》の確かさと、商売の腕《うで》の良さで、古美術商の間では知らない者のない存在だった。  実は古美術商とか古本屋はタイム・パトロールマンが仕事をしやすい職業だった。  時間密行者が無意識に残していった品物や、不注意の結果もたらされた切絵図や心覚え帳などが、人手をへて古文書としてもたらされることもあるし、極端《きよくたん》な場合には、時間密行者が浮世絵《うきよえ》や刀剣《とうけん》などを運んで来て現代で売りさばく場合もある。昔《むかし》の画家の、これまで全く知られていなかった作品がとつぜん発見されたり、破棄《はき》されたとされている作品が完全な状態のまま古美術商のもとに持ちこまれてきた時など、タイム・パトロールマンがもっとも緊張《きんちよう》する時だった。  写楽《しやらく》や雪舟の作品、古いところでは後醍醐《ごだいご》天皇の宸筆《しんぴつ》などがきびしく警戒《けいかい》された。  どんな所に時間密行者がもぐりこみ、ひそんでいるかわからなかった。逆にタイム・パトロールマンの存在が探知されているかもしれなかった。  それが今度は、彼らの側から、明確な挑戦《ちようせん》がおこなわれてきたのだった。     28  日比谷《ひびや》、祝田《いわいだ》あたりから八方に首を回《めぐ》らすと、東京の町々はあたかも大火災に取り囲まれているかのように、茶褐色《ちやかつしよく》の煙《けむり》で屏風《びようぶ》のように囲まれていた。  その煙はあるいは入道雲のように高く高くそびえ立つかと思うと、時には低く低くたなびいた。風の向きが変ると、それは空を褐色に汚《よご》して日比谷あたりまで伸展《しんてん》してくる。すると、微細《びさい》な砂塵《さじん》が火山灰のように音もなく降ってくるのだった。道路もお堀《ほり》の水面も、電車の線路も、たちまち黄褐色《おうかつしよく》の砂塵でおおわれる。  はじめのうちは、火事かと思ってうろたえた東京市民の誰《だれ》もが今ではそれが大がかりな土木作業だということを知っていた。  北は遠く、赤羽、稲付《いなつけ》から板橋、池袋《いけぶくろ》へんの丘陵《きゆうりよう》地帯。西は早稲田《わせだ》、戸塚《とつか》。南は高輪《たかなわ》、白金《しろかね》あたり。そして市内は青山、広尾《ひろお》あたりの山々が掘《ほ》り崩《くず》され、その土が何百台何千台という牛車や大八車によって運ばれ、築地《つきじ》の海を埋《う》め立てているのだった。 「おい。そこの女。立ち止ってはいかん。行きんしゃい!」  立哨《りつしよう》の兵士が、銃剣《じゆうけん》の先をしゃくって二人を追い立てた。  ロシヤ式というのだそうだが、上着もズボンも、緑色の混った土色の軍服を着ている。カーキー色というのだそうだ。軍帽《ぐんぼう》も同じ色で上部が張り、赤い鉢巻《はちまき》のついた丸帽《まるぼう》で、なかなか小粋《こいき》なものだった。  日露《にちろ》戦争以前の、黒ずくめで脚絆《きやはん》だけが白の、烏《からす》と呼ばれた兵卒の服装《ふくそう》よりもずっと近代的だった。 「さあ、行きましょう」  女はうしろにしたがう小女《こおんな》をうながして歩き出した。  串巻《くしま》きに小紋《こもん》。磨《みが》き上げたような白い素足の、紅を差した指が黒塗《ぬ》りの駒下駄《こまげた》に仇《あだ》っぽかった。 「早く行けい! 女」  警備の兵士が噛《か》みつきそうな顔で吠《ほ》えた。 「はい、はい。申しわけありません。ささ、おまえもいそいで」  小女は胸にかかえている風呂敷《ふろしき》包みに顔をかくして舌を出した。 「なにさ! あの威張《いば》りよう」  兵士がふり向いた。 「これ。女。何か申したか」  主人の女が腰《こし》をひねって会釈《えしやく》した。 「おゆるしくださいませ。田舎者《いなかもの》でございますので、お聞き苦しゅうございましたでしょう。かもめ。さっさと歩きなさい」  その柳腰《やなぎごし》に目を据《す》えていた兵士はあわてて目をそらした。 「そう邪険《じやけん》にせんでもええ。それ、おびえておるではないか」 「ごめんくださいませ」 「うむ。間もなく、西郷閣下が登庁に相成るゆえ、警戒《けいかい》をきびしくいたしておるのじゃ。悪く思わんでくれ」  兵士はしまりのない愛想笑いをもらした。 「めっそうもない。わかっておりますのさ。それではまた」  媚《こび》をふくんだ流し目をくれて、笙子《しようこ》はその場を離《はな》れた。 「おねえさん。西郷閣下が登庁と言ったわよ。ちょっと見て行きましょうよ」 「向う側に行きましょう」  日比谷通りをはさんで、緑|濃《こ》い松林がお堀《ほり》への視界をさえぎるように左右に続いていた。その松林の上に江戸城の出丸の白壁《しらかべ》がくっきりと威容《いよう》を見せていた。  その松林に、こちらを向いて、もうかなりの人数の見物人が集っていた。日の丸の小旗が何本も打ち振《ふ》られている。  二人は道路を横断し、彼らの中に加わった。  そこから見る正面の建物はまことに壮麗《そうれい》だった。  中央にロシヤ正教寺院風の、円屋根の大ドームと尖塔《せんとう》を備えた地上五階建ての主屋の部分に、翼《つばさ》をひろげた鵬《おおとり》のように、左右に三階建ての部分がのびている。  全体が赤|煉瓦《れんが》できずき上げられ、正面|玄関《げんかん》は大|破風《はふ》も列柱も、白|珊瑚《さんご》のような大理石で貼《は》りつめられていた。  何百という窓には飾《かざ》り彫刻《ちようこく》をほどこし、透明《とうめい》な板ガラスがはめこんである。その窓ガラスの枚数は、東京市全市で使われている窓ガラスの枚数を上回るというのだからものすごい。 「ねえ。すばらしいもんじゃござんせんか。スエズ運河からこっちじゃあ、インドのイギリス人総督《そうとく》の官舎とこれとは、一、二をあらそう建物だそうでやんすな」  どこにでもいる知ったかぶりが、周囲によく聞えるように、大声を張り上げている。  そこへ乗合自動車《バス》がやってきて、お上《のぼ》りさんらしい一団がどやどやと降りてきた。中には金色の縁取《ふちど》りのある大判の日章旗を二人がかりでふり回している者たちもいる。  群集はしだいにふくれ上り、五百人ほどに達した。  見物人のむれの前にも横にも、何人もの警備の警官が立った。  やがてどこかで高らかにラッパが鳴りひびいた。  新橋の方からやってきた数輛《すうりよう》の自動車の列が、日比谷公園の角を曲ると、群集の待っている一角へと進んできた。  たちまち喚声《かんせい》がわき上った。 「万歳《ばんざい》! 万歳!」 「西郷閣下万歳!」 「東亜日本大国万歳!」  旗の波がゆれにゆれた。  羽織はかまの壮漢《そうかん》が一人、群集の中から走り出てきて路上にぴたりと正座すると、朗々《ろうろう》と漢詩を吟《ぎん》じはじめた。  だが、その声はわきかえる喚呼《かんこ》の声にかき消され呑《の》みこまれ、気の毒ながら誰《だれ》の耳にも聞えなかった。それでも壮漢はいささかも動ずることなく、背をまっすぐにのばし、瞑目《めいもく》したまま吟じつづけた。  先頭の車は護衛のためのものらしく、フロックコートに身を包んではいるが、いずれも目つきの鋭《するど》いたくましい健児たちが乗りこんでいた。  つぎの車はオープンカーで、車上には優に他の者の倍はあろうかという巨漢《きよかん》が、悠然《ゆうぜん》とおさまっていた。  太い眉《まゆ》。人を射るような大きな目。短く刈《か》りこんだ頭髪《とうはつ》。そして奇異《きい》なことに着古した袷《あわせ》に巨体《きよたい》を包み、これも古びた兵児帯《へこおび》を無造作に腹に巻いていた。  車が停《とま》ると、巨漢は建物の方へ降りず、群衆がつめかけている側のドアを開いて降り立った。  巨漢は大きく右手をふった。 「西郷閣下だ! 西郷閣下だ!」  群衆の興奮は最高潮に達した。  巨漢はもう一度手をふると、綺羅星《きらほし》の如《ごと》き文武百官をひきいて、正面の大階段を上っていった。 「どうだい。あの気さくなご様子は。東亜日本大国の総理大臣が西郷南洲先生とくるんだから嬉《うれ》しくなっちまうじゃねえか」  江戸っ子が、西郷隆盛をまるで自分たちのなかまかなんぞのように言って胸を張った。  その西郷隆盛の姿が、東亜日本大国の政務|之《の》庁の大玄関《だいげんかん》の中に消えても、群衆はなお去りがてに立ちつくしていた。  日比谷公園から南へ下り、外濠《そとぼり》にかけられた数寄屋橋《すきやばし》を渡《わた》ると、築地《つきじ》の方へ向って右側が元数寄屋一丁目。左側が西紺屋町《にしこんやちよう》。弥左衛門町《やざえもんちよう》。そして鎗屋町《やりやちよう》。銀座四丁目と続く。右側は尾張町《おわりちよう》新地。この十字路が現在の銀座四丁目の十字路である。  この時代にはまだ銀座通りは浅草や上野|広小路《ひろこうじ》などにくらべると場末の繁華街《はんかがい》だった。  お店《たな》の用事で出てきたらしい番頭や丁稚《でつち》が、風呂敷《ふろしき》包みを背負ったりかついだりしてあわただしく行き交う。荷物を山のように積み上げ、その上から屋号と商標を染めぬいたゆたんをかけた大八車を威勢《いせい》よく引いてゆく一団がある。フロックコートに身を固め、皮靴《かわぐつ》を鳴らし、ステッキがわりの洋傘《ようがさ》を打ちふり打ちふり行くのは、弁護士先生であろうか。  洋刀《サーベル》をがちゃがちゃいわせて巡査《じゆんさ》が巡邏《じゆんら》している。  その四丁目の十字路に面して制札場《せいさつば》があった。  そこに屏風《びようぶ》のように薄板《うすいた》を立てならべて、それに図表や絵解きを貼《は》り、こわれた兵器類をならべた展示場が設けられていた。  その前に人だかりができていた。  二人はその前に足を止めた。 「なあに? これ」 「しっ! 大きな声で言うんじゃないの。まわりの人たちに聞えたらあやしまれるわよ」  笙子《しようこ》は声を忍《しの》ばせてかもめをたしなめた。 『日露《にちろ》大戦争と東亜日本大国の建国街頭展覧会』  一、日本とロシヤの戦い。戦闘《せんとう》の経緯《けいい》。  地図と不鮮明《ふせんめい》な写真を、数だけはうんざりするほど多量に使って、日露戦争の概要《がいよう》が説明されていた。  陸上での大きな戦いは、奉天の大会戦と、戦争全体の帰趨《きすう》を決定づけた旅順の攻囲戦《こういせん》だった。  西郷隆盛にひきいられた旅順防衛軍は、勇戦|奮闘《ふんとう》。乃木大将の指揮する第三軍二万の執拗《しつよう》な突撃戦《とつげきせん》を撃退《げきたい》して、遂《つい》に旅順を守り通した。  二、日本海大海戦におけるロシヤのバルチック|艦隊《かんたい》の大勝利。  これは旅順が陥落《かんらく》しなかったため、当初から旅順を基地としていたロシヤの太平洋艦隊が、しばしば日本列島周辺海域に出現し、日本の連合艦隊をけん制したために、日本艦隊はバルチック艦隊に対する十分な出師《すいし》準備をすることができないまま、決戦をむかえざるをえなかったためであった。  結局、旅順防衛軍のはたらきこそ、日露《にちろ》戦争における勝利をもたらしたものである。  奉天の大会戦は日本軍の勝利だったが、日本軍はすでに日本海の海上補給路を断たれていたからそれ以上の作戦能力はなく、このあと軍をあげて講和へと傾《かたむ》いていった。  三、日本政府の一部の強硬《きようこう》な反対もあったが、明治三十八年九月一日、西郷隆盛はロシヤ|帝国《ていこく》陸軍大将の資格をもってロシヤ満州軍をひきいて新潟港に上陸した。 �西郷隆盛君は二日、急遽《きゆうきよ》上京。参内して明治天皇に拝謁《はいえつ》を乞《こ》い、天皇に所信を披瀝《ひれき》したてまつった。  翌日。午後一時。西郷隆盛君は前日に引き続きふたたび参内《さんだい》。今回は一時間ほどで退出。ただちに近衛《このえ》師団司令部|貴賓室《きひんしつ》にて重大発表をおこなった。  それによると  一、ロシヤ|帝国《ていこく》のシベリヤ大陸、エニセイ川より東北地域。沿海州全域。満州。朝鮮半島。日本列島をすべて合わせひとつになし、≪東亜大国≫を建国する。  二、それぞれの地域的国名は、≪東亜日本大国≫、≪東亜朝鮮大国≫、≪東亜|沿海州《サハリン》大国≫のように称する。  三、東亜大国の宗主は日本の天皇をもってする。  四、宗主国の首都は東京へ置く。  五、可及的速《かきゆうてきすみ》やかに憲法を公布する。  以上の如《ごと》くであり、国内は鼎《かなえ》のわくが如く動揺《どうよう》した�  東京|万朝報《よろずちようほう》は以上のように報じた。  笙子《しようこ》もかもめも、心の中でうなるばかりだった。  東京に進駐《しんちゆう》して来た西郷隆盛は、ただちに明治政府の解体に手を着けた。  大久保利通、伊藤博文、山県有朋らの重臣たちはあるいは監禁《かんきん》され、あるいは進駐軍公安部隊によって逮捕《たいほ》されるなどして、事実上政府を形造っていた薩長閥《さつちようばつ》は完全に追放された。その影響《えいきよう》は全国に波及《はきゆう》し、地方政治からも薩長閥とその与党《よとう》を追放したのだった。  それに対し、熱海《あたみ》の別邸《べつてい》に軟禁《なんきん》されていた大久保利通は、新聞紙上に�西郷|復讐鬼論《ふくしゆうきろん》�を発表した。それにより、大久保利通は東京へ連行され断罪されることになった。その報を受けた大久保利通は従容《しようよう》と車中の人となったが、すでに覚悟《かくご》していたものとみえ、監視《かんし》の警官の目を盗《ぬす》んで舌を噛《か》み切り、自殺した。  山県有朋は進んで協力する姿勢を見せていたので、彼は満州へ送られ旧日本軍の建て直しに力をかすことになった。  東亜日本大国の出現に、もっとも驚《おどろ》いたのは戦勝国であるはずのロシヤ|帝国《ていこく》そのものだった。  日本列島全土を占領《せんりよう》するという気持ちは、最初から皇帝《ツアー》にはなかったが、それでも北海道の稚内《わつかない》。小樽《おたる》。網走《あばしり》。釧路《くしろ》。函館《はこだて》。それに新潟。下関。長崎の八つの港は百年間の租借《そしやく》。満州の完全ロシヤ領化。ロシヤの管理下での朝鮮の独立。中国大陸における日本の各種の権益の肩《かた》代り。そして巨額《きよがく》の賠償金《ばいしようきん》などを要求する予定だった。  そのための皇帝|顧問官《こもんかん》が現地視察に出発するという矢先だった。  日本列島を占領こそしないが、ある期間ロシヤ軍を駐留《ちゆうりゆう》させる必要は感じていた。皇帝はそれらの直接的な計画と指揮は、西郷隆盛にまかせきっていた。  西郷の個人的な復讐《ふくしゆう》が行なわれるかもしれないが、そのことによって西郷をロシヤに引きつけておくことができるならば、それはそれでかまわないと思っていた。それに、西郷の私的感情によって日本人が恨《うら》みを抱《いだ》くとすれば、それは西郷に対してなされるのであり、皇帝《ツアー》はあくまで安全でいられるという計算がはたらいてもいた。  西郷はウラジオストックや沿海州にある軍団や師団の司令官たちを旅順に招き、会談を続けていたが、自ら二個師団をひきいて黒竜江省ふきんの、ロシヤ極東軍サハリン軍管区第四十八|砲兵《ほうへい》師団を討ち、これを解隊させた。  西郷は歩兵二十三個師団。騎兵《きへい》七個師団。砲兵三個師団。それに二十個大隊の工兵。三十七個独立中隊のマキシム機関銃《きかんじゆう》隊と、タチャンカと呼ばれる挽曳《ばんえい》機動の機関砲《きかんほう》隊。それに通信隊や輜重《しちよう》隊、軍医部などからなる厖大《ぼうだい》な後方|支援《しえん》部隊を持っていた。  西郷が東亜日本大国の独立、建国を世界に向って宣言した時、皇帝はモスクワの宮殿で宮廷《きゆうてい》の博士による朝の進講を受けていたところだった。進講といっても、ほとんど聞いていない。手足の爪《つめ》を磨《みが》かせながら、女官たちと談笑にふけっているのだった。  その朝の進講は≪古代イングランドにおけるキリスト教≫という題目だった。  西郷反逆の報告は、進講が終るのを待って皇帝のもとに届けられたが、皇帝はほとんど耳もかさなかった。  事態を憂《うれ》えた宮廷顧問官《きゆうていこもんかん》が、独断で口頭によって再度報告したが、皇帝はわかったというようにうなずくのみであったという。  皇帝が、とつぜん真剣《しんけん》に極東の情況《じようきよう》について陸軍大臣に下問したのは、報告があってから実に六十時間後であった。  皇帝は烈《はげ》しく怒《いか》り、外務大臣や陸、海軍大臣。大蔵大臣などをつぎつぎと呼び寄せては頭ごなしに叱《しか》りつけた。商務大臣などは、皇帝が手にしたミルク入りのコップを投げつけられるありさまだった。  皇帝は大動員令を発した。  ただちに極東|遠征軍《えんせいぐん》の編成が発表された。  だが、ロシヤ帝国《ていこく》陸軍の精鋭《せいえい》は、その九割までが極東に派遣《はけん》されていた。と、いうことはその時点では彼らは、ことごとく西郷の指揮下にあって新しい国造りの礎石《そせき》となっていたのだった。  そのロシヤ陸軍と、はなはだしく消耗《しようもう》してはいたが、三十五万の日本軍が、西郷の下でひとつの軍隊に生れかわった。海軍も同様だった。  事態があきらかになってくるにつれ、皇帝は絶望的になっていった。  皇帝の手の中には、西郷と戦い、彼の首を首都まで運んで来てくれるような将軍は一人もいなかった。また急ごしらえの軍団でどうなるものでもなかった。皇帝は、浮浪者《ふろうしや》や老人、病身による兵役|免除者《めんじよしや》なども強制的に狩《か》り集め、それで一個師団分の人員を集めて極東へ送り出した。  皇帝はイギリスやドイツ、フランス、アメリカなどへもうったえ、西郷の国に経済的制裁を加えようとした。だが、この段階では、ロシヤ皇帝よりも西郷の方がすべての点で信用があったといえよう。イギリスやフランスは、すすんで西郷に経済|援助《えんじよ》を申し入れた。ドイツだけが、西郷の行為《こうい》をヨーロッパ的信義に対する海賊《かいぞく》的裏切り行為だと批難したが、結局|沈黙《ちんもく》する以外になかった。  皇帝の命令を受けたザ・バイカル軍管区のラジャシュチイ少将のひきいる三万五千の兵は長駆《ちようく》満州へ攻《せ》めこんだが、日本の奉天守備隊と満系|馬賊《ばぞく》、この頃《ごろ》ようやく編成|成《な》って配備された新東亜国陸軍の連合軍によって打ち破られた。  青島《チンタオ》にあったドイツ太平洋|艦隊《かんたい》の装甲巡洋艦《そうこうじゆんようかん》二|隻《せき》と軽巡洋艦二隻は駆逐艦《くちくかん》三隻をともなって朝鮮海峡に出現し、元ロシヤ海軍の装甲巡洋艦ドミトリー・ドンスコイ、元日本海軍の通報艦|竜田《たつた》などを撃沈《げきちん》し、商船数隻、漁船十二隻などを撃沈、掠奪《りやくだつ》などをくりかえしたが、大局的には何の効果も生み出さず、イギリスの仲裁もあってドイツ艦隊はヨーロッパへ帰った。  西郷は日本海を内海として性格づけ、他国の艦船の往来にはその都度、海峡管理部に届け出る必要があることを公告した。  西郷は東亜、日本大国の首相の地位に着くことを発表した。  そして天皇は国家の象徴《しようちよう》として、政治的な言動があってはならないこと。  日本国それ自体の政治社会形態は、現状を維持《いじ》する。  東亜大国は連邦制《れんぽうせい》や連合制ではなく、あくまでもひとつの政治単位である。  笙子《しようこ》とかもめの目は、喰《く》い入るように展示された解説を追っていた。 「支局長。あまり熱心に読んでいるとあやしまれますよ」  ふいに耳もとで誰《だれ》かがささやいた。  ふりかえると、元が立っていた。  木綿のシャツに丼腹掛《どんぶりはらがけ》。首に汚《よご》れた手ぬぐいを巻いている。頭も顔も泥《どろ》やほこりで、まるで地の底から這《は》い上ってでも来たようだ。 「元さん。汚ないわねえ」 「東京|湾埋立《わんうめた》て工事のもっこ運びさ。一日中もっこかついで青山と品川の海の間を行ったり来たりだ」 「ごくろうさんね」  笙子がほほ笑んだ。 「支局長。この先の団子屋《だんごや》で待っています。この展示場は、皆《みな》見あきているんですよ。今|頃《ごろ》、前に立って口をあいて読んでいたりしては、目立つじゃありませんか。あぶねえ。あぶねえ」  それだけ言うと、元はいそぎ足に離《はな》れて行った。 「そういえばそうね。私としたことがこれは不注意だったわ」  笙子はかもめをうながし、展示場から歩道へ出た。  そっと周囲に目を走らせたが、笙子たちに不審《ふしん》の目を向けている者はいなかった。  いそぎ足に百メートルほど進むと、三十間堀《さんじつけんぼり》一丁目の角に、腰かけ茶屋風の店があり、だんごと書かれた旗が垂れ下っていた。  現在の町なみから言えば、昭和通りからほんのわずか銀座四丁目へ近づいたあたりになる。  店の表は土間になっている。明るい陽射《ひざ》しの下から屋内に入ると、物の形もよくわからない。  土間にならべられている縁台《えんだい》のひとつに腰《こし》をおろす。  薄暗《うすぐら》い店の奥《おく》から元さんが出てきた。 「この格好でだんご屋というのも妙《みよう》なんですが、ここだと人の目に触《ふ》れないから」  笙子は店の小女にだんごと茶を注文した。  かもめは早速喰《く》いついた。 「支局長。これをちょっと見てください」  元は腹掛《はらが》けの丼《どんぶり》から一枚の写真を取り出した。ポラロイド写真だった。  公園のような所を、二人の男が歩いている。  一人は日本人で一人はあきらかに外国人である。 「それを引きのばしたのがこれなんです」  二人の人物だけを部分のばしにしたものを取り出した。  今度は顔がよくわかる。  正面に写っているのは立派な顔をした恰幅《かつぷく》のよい紳士《しんし》だった。 「それ、誰《だれ》だかわかりますか?」 「この真ん中にいる人、勝海舟じゃないかしら?」 「やはりそうですか。そして、この外国人は誰でしょうか?」 「たいへんよい質問です。でも、その顔、おぼえていませんか?」  元はその写真に見入った。 「アインシュタイン博士ですよ」 「相対性原理の?」 「そうです。そのアインシュタイン博士ですよ」  元は思わず息を呑《の》んだ。  事態は思ってもいなかった方向へひそかに、だが確実に動いているようだった。  想像もできないおそろしい敵をむかえ撃《う》つ野のけもののように、元はそう毛《け》立った。     29  稲付《いなつけ》の高台から見おろす赤羽の村々は、緑一色の敷物《しきもの》を敷《し》きつめたような水田がひろがっていた。  その水田のむこうに、荒川《あらかわ》の長大な流れが、空の色を映して帯のようにくりのべられていた。  丘《おか》の下は岩淵《いわぶち》の宿場町で、その家並みと丘の崖《がけ》下の間を、まだ日本鉄道と呼ばれていた東北本線の鉄路が、真直、北へのびていた。  丘の頂きに、その昔《むかし》、太田道灌《おおたどうかん》の築いた砦跡《とりであと》といわれる稲付城跡があった。城跡といっても、そこにはひなびた寺が建てられていた。  鬱蒼《うつそう》と樹木に包まれた丘全体が寺域なのであろう。深い林の中の道をたどってゆくと、思いがけない所に、小さな祠《ほこら》があったりした。  急に視界がひろがった。林はそこで終り、足もとは雑草のおい繁《しげ》った急な斜面《しやめん》になっていた。  眼下は広く浅い谷になっていて、谷の底を流れる小さな川の両側に集落があった。  対岸の高台の上は広い平地になっていた。  木造二階建ての、小学校の校舎のような建物が、幾棟《いくとう》もつらなっていた。講堂のような大きな建物や倉庫らしい何棟もひとつづきになったものもある。  それら建物の間を、たくさんの人影《ひとかげ》があわただしく動き回っていた。  元は双眼鏡《そうがんきよう》を目に当てた。  建物の間をゆききしているのは褐色《かつしよく》の軍服を着た兵士たちだった。  建物のならんでいる一角のむこうには、広大な草原がひろがっていた。  その草原を、放牧された馬のように、かなり早い速力で走っている物体があった。草や木の枝でカモフラージュされているので、シルエットをつかむことができなかった。それは五十近くあった。  それらがいっせいに方向を変え、双眼鏡に側面をさらした。円形の砲塔《ほうとう》と、そこから突《つ》き出した長大な砲身《ほうしん》が目に飛びこんできた。戦車だった。  風向きが変り、エンジンの音が海鳴りのようにとどろき、丘陵《きゆうりよう》地帯の静かな空気を震《ふる》わせた。  戦車隊の見事な集団走行は、戦車兵たちが昨日今日戦車をあずけられた新兵ではないことを示していた。  元はポケットから地図を取り出した。町で買ってきたものだった。  地図の上方。荒川に沿った高台のあちこちに軍用地の記号が記されていた。その記号の下に、第一戦車師団司令部とあり、それにならべて戦車隊演習地とある。さらにそれに接して重砲《じゆうほう》連隊だの工兵連隊だのと、多数の部隊の所在が書かれていた。  首都東京の北の郊外《こうがい》は、おびただしい兵力の駐屯《ちゆうとん》する軍事要地になっていた。  地図をたたむと、貼《は》りつけた表紙が表に出てきた。 ≪東亜十三年五月。東京市神田区神保町。真堂文《ぶんしんどう》発行≫という文字が元の目にしみこんできた。  東亜十三年は大正七年であった。  大正七年に、すでに大規模な戦車隊が造られていた。  西郷ひきいる東亜大国の、恐《おそ》るべき富国強兵策であった。  風にのって、鈍《にぶ》い爆音《ばくおん》がぶるぶると伝わってきた。  兵舎の上空に、複葉機があらわれた。ゆっくりと旋回《せんかい》する。張線だらけの、大きな車輪を突《つ》き出した見るからに空気|抵抗《ていこう》の大きそうな機体は、それでも翼《つばさ》をふって戦車隊の上へ降下してゆく。とても急降下|爆撃《ばくげき》などとは言い難いが、空襲《くうしゆう》には違《ちが》いない。  地上の戦車隊は、飛行機の突進《とつしん》を避《さ》け、くもの子を散らしたように散開する。  空陸一帯の猛訓練《もうくんれん》といったところだ。  元は林の中へもどった。  ふいに、近い所で木の枝が折れる音がした。  元はとっさに草むらに身を伏《ふ》せた。  下草のしげみを踏み分ける足音がして、数人の兵士があらわれた。彼らは着剣《ちやつけん》した銃《じゆう》を持ち、先頭の一人が手に大きな拳銃《けんじゆう》を握《にぎ》っている。拳銃を握っているのは下士官らしい。鬼瓦《おにがわら》のような顔つきの大兵《たいひよう》肥満の男だった。 「かくれてもだめだ。出てこい!」  下士官がさけんだ。 「いるのはわかっているんだ。あきらめて出てこい!」  下士官が手をふると兵士たちは、横にならんで銃剣《じゆうけん》で草むらをなぎ払《はら》いはじめた。  元はくちびるを噛《か》んだ。気がつかないうちに、警戒《けいかい》の哨兵《しようへい》の目に触《ふ》れたのだろう。  兵士たちは急速に近づいてくる。元はじりじりと後退した。  林の中は風がない。草むらの動きは不自然だった。 「あそこだ。いたぞ!」  元は林の中を走った。 「止れ! 射《う》ち殺すぞ!」  大砲《たいほう》のような音がして、下士官の拳銃《けんじゆう》が火を噴《ふ》いた。  元の耳のそばを弾丸《だんがん》がかすめ、前方の木の皮がはじけ、白い樹幹に小さな黒い穴があいた。  また一発飛んできた。  元は木の間を縫《ぬ》って走った。 「各個に射《う》て!」  下士官の声が聞えた。  何丁《ちよう》かの銃《じゆう》がいっせいに火を噴《ふ》き、樹木に当って跳《は》ね返り、空にそれてゆく弾丸《だんがん》が、元の体を押し包んだ。  ふいに林が切れ、そこから先は急な崖《がけ》になった。赤土の肌《はだ》を露出《ろしゆつ》した急崖《きゆうがい》は、かけ下りることは不可能だった。跳《と》び下りることは、翼《つばさ》でもない限り、とうていできないことだった。 「いたぞ。いたぞ。弾丸を喰《くら》ってくたばるのがいいか、そこから飛び下りてくたばるのがいいか、好きなようにしろ」  下士官がにくにくしげにさけんだ。 「間諜《かんちよう》は発見しだい射殺してよいことになっている。覚悟《かくご》はいいか。五つ数えたら射つぞ。それ、ヒトオツ。フタアツ……」  残忍《ざんにん》な笑いを浮かべた下士官は、あわれなウサギをいたぶる狡猾《こうかつ》なキツネのように、元の動きをうかがった。 「ミッツゥ……ヨッツウ……イツツウ……射《う》て!」  元は両足を縮め、ちゅうに跳《と》んだ。  風を切って落下しながら、ポケットの中で握《にぎ》りしめていたものに力を加えた。指を押し当てている部分をすばやく押しては離《はな》し、離しては押した。  崖下《がけした》の大地が目の前いっぱいに突《つ》き上ってきた。     30  空の色を映した長大な水路の両側に、さえぎるものもなく、黄褐色《おうかつしよく》の砂漠《さばく》がひろがっていた。  陽炎《かげろう》は大気の壁《かべ》となって、四方の風景をほとんど不透明《ふとうめい》にし、形を喪《うしな》わせていた。  その陽炎の底に、かすかにうごめくものがあった。  どろうん。どろどろうん。  陽炎のむこうの、地の果てで、やむことなく、砲声《ほうせい》が怠惰《たいだ》に鳴り響《ひび》いていた。  とつぜん、ジェット機の爆音《ばくおん》がななめに天空を横切り、陽炎《かげろう》の奥底《おくそこ》のどこかで、すさまじい地ひびきがわいた。  もう一度。ジェット機の金切り声が頭上の大気を切り裂《さ》き、爆発音《ばくはつおん》とともに大地は波のようにゆれた。  陽炎の底にうごめく物体は、しだいにその形象をはっきりさせながら、水路に近づいてきた。  厚い陽炎の波の下をくぐりぬけると、それはたちまち眼の前に迫《せま》って、巨大《きよだい》な戦車になった。  平たくつぶれた戦車は、長大な戦車|砲《ほう》をふりかざして、砂漠《さばく》の砂をまき上げて突進《とつしん》した。  陽炎の中から、ほのおの尾を曳《ひ》いて、魚雷《ぎよらい》のような物体が飛んできた。  それは水路をかすめ、水面すれすれに戦車隊めがけて突《つ》っ込んできた。ミサイルだった。  たてつづけにすさまじい爆発《ばくはつ》が大気を焼き、確実に十数台の戦車がくず鉄と化した。  火柱と砂煙《すなけむり》の間をくぐり、戦車はつぎつぎと水面に走りこんだ。  数十台の戦車が水煙《みずけむり》を上げて水没《すいぼつ》すると、目標を失ったミサイルは、むなしく数十本の砂と火焔《かえん》の柱を吹き上げた。  水路の対岸に新しい火焔が渦巻《うずま》いた。  水路の底に身をかくした戦車のむれは、そのまま水底を突《つ》っ走って、ぞくぞくと対岸に上陸した。 ≪東亜大国アフリカ派遣軍《はけんぐん》第五|機甲《きこう》師団は東亜三十九年三月五日。スエズ運河を突破《とつぱ》。カイロ市まで二十キロメートルの地点に進出せり。欧州《おうしゆう》連合軍の抵抗《ていこう》は極めて激《はげ》しく、わが軍も相当の損害を被《こうむ》りたるも、作戦に支障なし。くりかえす……≫  スエズ運河に面したバルラの町はごった返していた。  運河を渡《わた》って西進する東亜大国の機甲部隊は、後方に幾《いく》つもの被占領《ひせんりよう》地帯を置き去りにしていった。  それらの地域は、多数の難民と逃《に》げこんできた欧州同盟軍の敗残兵やゲリラ部隊、それに戦争と全く関係のない盗賊団《とうぞくだん》などであふれていた。 「東亜大国軍のパトロール隊があらわれたぞ」 「もう町に入りこんでいるらしい」 「明日から総攻撃《そうこうげき》がはじまるぞ」  誰《だれ》が言ったとも知れぬ噂《うわさ》がひろまると、町にひしめいている連中は、脱出路《だつしゆつろ》を探して右往左往した。  町は昔ながらの城壁《じようへき》を回らせていたが、爆撃《ばくげき》によって崩壊《ほうかい》した破孔《はこう》は、修復するでもなく、バリケードを設けるでもなく、放置されていた。パトロール隊であろうと戦車隊であろうと、そこから自由に侵入《しんにゆう》することができた。  夜になると、四方の空は紅く染っていた。周囲はことごとく侵攻軍《しんこうぐん》のキャタピラーや砲火《ほうか》によって完全に制圧されていた。 ≪……独立|狙撃兵《そげきへい》第八大隊はバルラに進入。同地に在る敵の敗残兵を殲滅《せんめつ》せよ……≫  ハンディ・トーキーから、ひっきりなしに荒々《あらあら》しい声が飛び出してくる。  かもめは難民の間をくぐって裏通りへ出た。崩《くず》れ落ちた建物で埋《う》められた石畳《いしだたみ》の街路に、照明|弾《だん》の青い光が降っていた。  間もなく、東亜大国の歩兵部隊が町に入ってくるだろう。そうなったら、おそるべき殺戮《さつりく》が始まる。東亜大国の軍隊は、戦場に居残っている人間は、非|戦闘員《せんとういん》であろうが避難民《ひなんみん》であろうが、容赦《ようしや》なく皆《みな》殺しにした。戦場に居残っていること自体が、諜報《ちようほう》活動やゲリラを意味すると断定している彼らは、いかなる哀訴《あいそ》にも耳を傾《かたむ》けなかった。それはかつてのジンギス汗《かん》やフビライ汗の西方|遠征《えんせい》と異なるところはなかった。  城壁《じようへき》の外で銃声《じゆうせい》がとどろいた。  街の中から、つなみのように悲鳴や怒声《どせい》がわき起った。 「ようし。こうなったら、東亜大国のやつめら、一人でも多くぶっ殺して冥土《めいど》への道連れにしてやるぞ!」 「蹴破《けやぶ》って脱出《だつしゆつ》するんだ。城壁の外へ出ちまえば、この闇《やみ》だ。どこへ逃《に》げたかわかりゃしねえ」 「やっつけるんだ。逆に皆殺《みなごろ》しにしてやれ」  彼らは追いつめられたけもののように、絶望的に気負い立った。 「いいか、一人残らず武器を持って守備|陣地《じんち》につけ。女も子供もだ。年寄りはひきずってゆけ!」 「そんなに武器があるものか」 「銃《じゆう》のないやつは石でもぶつけるんだ。シャベルでも鋤《すき》でもいい。それもなければ棒切れでもいい。持たせろ!」  敗残兵やゲリラたちは、狂気《きようき》のようにかけずり回って、物置や戸棚《とだな》の奥《おく》にひそんでいた女や子供や老人を引きずり出した。彼らは、無力な人々に、武器ともいえぬような武器を持たせて、町を囲む城壁《じようへき》のかげに追い立てた。足腰《あしこし》の立たない何人もの老人が射《う》ち殺された。武器を執《と》ることを拒《こば》んだ女たちが、銃弾《じゆうだん》を浴びて崩《くず》おれた。 「さあ。ぐずぐずするな」  かもめの手に、旧式な自動|小銃《しようじゆう》が押しつけられた。 「ほれ」  膝《ひざ》の前に、二、三個の弾倉《だんそう》が投げ出された。 「早く行け!」  大きな靴《くつ》でいきなり肩《かた》を蹴飛《けと》ばされ、かもめはあお向けに打ち倒《たお》れた。  欧州連合軍の制服は血とどろで汚《よご》れ、階級章など引き千切《ちぎ》れていた。肩で火のような息を吐《は》き、目が完全に釣《つ》り上っていた。手にした拳銃《けんじゆう》の黒い銃口《じゆうこう》がかもめの顔面に向けられていた。  あぶない! 恐怖《きようふ》で理性を失っているこの兵士は、つぎの瞬間《しゆんかん》、衝動《しようどう》的に引金を引くかもしれない。かもめは弾倉をひろうと立ち上った。 「ついて来い」  兵士は満足そうに走り出した。そのあとをついて、かもめは数メートル走り、すぐせまい路地に飛びこんだ。迷路のような路地を右に左に曲り、低い石塀《いしべい》を跳《と》び越《こ》えると、地下室の階段をかけ下りた。  物かげにひそんでいると、三十分ほどしてすさまじい震動《しんどう》が伝わってきた。それは絶え間なく地下室を震《ふる》わせ、地震《じしん》のようにどよめいた。  天井《てんじよう》が崩《くず》れ、どっと落ちてきた。このままでは生き埋《う》めになってしまう。  かもめはなだれ落ちてくる天井や壁《かべ》の破片を肩《かた》や背中に受けながら、階段を這《は》い上った。  階段の上にあったはずの家が無くなっていた。階段の上り口が、地上にぽっかりとあらわになっていた。  見回す視野のすべてが黒煙《こくえん》と火柱におおわれていた。  かもめは家と家の間を、体を横にして通り過ぎた。  ふいに人影《ひとかげ》が動いた。  腰だめに構えた短機関銃《たんきかんじゆう》が、火を吹いた。かもめは横ざまに地に跳《と》んだ。  欧州連合軍の将校だった。腕《うで》に巻いた布に血がしみ、こめかみあたりから流れ出た血が肩《かた》に伝わり、褐色《かつしよく》に固まっていた。  かもめは石壁《いしかべ》の破片をひろうと、投げつけた。腕に当り、彼は手にしていた銃《じゆう》を落した。かもめは跳躍《ちようやく》すると男よりも一瞬《いつしゆん》早く銃を手にした。 「私はこの町の者です。兵隊ではないわ」  将校は事態が呑《の》みこめないのか、呆然《ぼうぜん》とかもめの手に渡《わた》った銃を見つめていたが、かもめの言葉がようやく耳に入ったとみえ、うつろな目を上げた。 「ここから逃《に》げ出さなければ。様子はどうなっているの?」 「東亜大国軍は町に入っている。アメリカ兵だが」 「アメリカ兵が東亜大国軍に入っているの?」 「知らないのか。両洋アメリカ連邦《れんぽう》は東亜大国に降伏《こうふく》して軍事同盟を結んだのだ。東亜大国のアフリカ進攻軍《しんこうぐん》の半分はアメリカ軍だぜ」  将校はくやしそうにくちびるをゆがめた。 「欧州《おうしゆう》連合軍はどうなったの?」 「何も知らんのだな。カスピ海東方地区の会戦とペルシャ|湾《わん》の戦いと、二度も大敗北を喫《きつ》したのだ。アフリカ進攻の次はヨーロッパ本土への進入だ。欧州連合軍には、もう東亜大国の遠征軍《えんせいぐん》を喰《く》い止めるだけの兵力も武器も残ってはいない」 「東亜大国ってのは、すごいんだね」 「世界はすべて東亜大国のものになるだろう。それをさまたげる力は、もはや他のいずこの国も民族も持っていない」 「とにかくここから逃《に》げ出しましょう」 「おまえは妙《みよう》な娘《むすめ》だな。東洋人のようだが」 「かもめという名よ」 「リッケンバッカー中佐《ちゆうさ》だ。英国王立第五|機甲《きこう》兵団に所属する第七……」 「いいから早く来るのよ」  小さな町だったが、家も道路も石塀《いしべい》も、すべて天然の岩石を漆喰《しつくい》で固めたものだったから、立て籠《こも》った兵士や住民たちの数は、討伐隊《とうばつたい》の兵力の半分も無かったが、容易に占領《せんりよう》を許さなかった。  家の一|軒《けん》一軒をめぐって激《はげ》しい攻防戦《こうぼうせん》が展開していた。立ちこめる黒煙《こくえん》の下を、敵味方が入り乱れて走り、射《う》ち合った。  巨大《きよだい》な戦車が、石塀を押し倒《たお》して町へ侵入《しんにゆう》してきた。  東亜大国の陣太鼓《じんだいこ》のような真紅のマークを描《えが》いた砲塔《ほうとう》に、小さな星条旗が掲《かか》げられていた。 「くそっ! 東洋の黄色い猿《さる》どもの手先になりおって。だから、わしはアメリカ人など信用できなかったのだ」  リッケンバッカー中佐《ちゆうさ》は、ぺっとつばを吐《は》くと、腰《こし》のベルトにつるしていた手榴弾《てりゆうだん》をふりかぶると、戦車に投げつけた。とめるひまもなかった。  距離《きより》が近過ぎ、手榴弾は戦車の水滴《すいてき》形の車体を滑《すべ》って地に落ちた。キャタピラーに巻きこまれてようやく爆発《ばくはつ》した。戦車は疾風《しつぷう》のように走り過ぎた。  爆発の衝撃《しようげき》は車内にも伝わったか、数十メートル走って停車した。砲塔《ほうとう》のハッチを開いて兵士が顔をのぞかせた。不審《ふしん》そうに身をのり出し、車体の下部に点検の目を投げた。  リッケンバッカー中佐が物かげから走り出て、戦車の上の兵士に自動|小銃《しようじゆう》の乱射を浴びせかけた。  小口径の銃弾《じゆうだん》が装甲鈑《そうこうばん》に雨のように跳《は》ね返り、兵士は朱《あけ》に染ったぼろ布となって地上へころげ落ちた。 「ばか! そんなことをして何になるの」  かもめは中佐《ちゆうさ》の戦闘服《せんとうふく》のえりをつかむと地上へ引きずり倒《たお》した。  戦車の砲塔《ほうとう》がすばやく回転した。 「逃《に》げるのよ!」  かもめはなかば崩《くず》れ落ちた家のかげへ走りこんだ。背後で家が崩れ落ち、爆煙《ばくえん》と土煙《つちけむり》が渦巻《うずま》いた。  なかまを射《う》ち殺された怒《いか》りで、戦車隊はこの地区の殲滅《せんめつ》にかかったようだった。  家を一|軒《けん》一軒ねらい射ちにし、ひそんでいた住民がたまりかねて走り出ると、一人も逃さず射ち倒《たお》した。  かもめは必死に走った。中佐もかもめに従って逃げ走った。その顔は土気色になっていた。復讐《ふくしゆう》の気持ちに代って、恐怖《きようふ》が彼を支配していた。  崩れ落ちた家の瓦礫《がれき》の下から、女や子供たちの死体が、血とほこりにまみれてのぞいていた。  何が燃えているのか、石の残骸《ざんがい》の下から真赤なほのおが噴《ふ》き出していた。 「もう駄目《だめ》だ。この町から脱出《だつしゆつ》することなど不可能だ。だが、おれたちには降伏《こうふく》などあり得ないんだ。降伏したって殺されるんだ。ああ、神さま。助けてください」  リッケンバッカー中佐《ちゆうさ》は石畳《いしだたみ》にうずくまり、さけんだ。  崩《くず》れた石塀《いしべい》のむこうに、たくさんの死体が横たわっているのが見えた。中佐の言うように、処刑《しよけい》された町の人々であろうか。  もはや銃声《じゆうせい》の音も間遠になっていた。あらかた射殺されてしまったのであろう。  東亜大国軍は、任務|完了《かんりよう》とともに、この廃墟《はいきよ》の町を棄《す》てて去ってゆくのであろう。あとには何物も残らない。数年後には廃墟はすべて砂に埋《う》もれ、やがて広漠《こうばく》たる砂漠《さばく》と化し、ここにかつて町が存在したという証拠《しようこ》さえ失われ、完全に歴史や地図の上から消えてゆくのであろう。 「ひどいことするなあ。人間が人間の歴史を抹殺《まつさつ》するなんて」  おごりたかぶった人間の考えがゆきつくところであろう。 「ね、東亜大国の連中、みんな出ていくんじゃない? かくれていれば大丈夫《だいじようぶ》よ。夜になったら脱出《だつしゆつ》しましょう」 「脱出するといったところで、何か乗物でもあるかね。この砂漠を歩いて渡《わた》ることはできない」  中佐《ちゆうさ》は頭をかかえた。 「何か探せばあるわ」 「ほんとうに脱出できると思うのか? きみは」 「できるわ」 「私を連れていってくれるかね」 「連れてゆくわ」 「きみはどこへ行くんだ?」 「どこって……」 「そこへ私を連れて行ってくれるか?」 「どこへ行くか、べつにきめていないわ」 「いや。きまっているのだろう」 「きめていないわ」 「きみがきめなくたって、きまっているはずだ」 「何を言っているの」  とつぜん、かもめははげしい危険が迫《せま》っているのを感じた。かもめはじりじりと後退した。リッケンバッカー中佐《ちゆうさ》は、膝《ひざ》の間にかかえこんだ頭をそのままに、石のように動かなかった。  これはわなだった。ねらったえものを、けっして逃《にが》すことなく網《あみ》の中に追いこむ完璧《かんぺき》なわなだった。 「タイム・マシンに指を触《ふ》れるな。|時 間 局 員《タイム・パトロールマン》よ。無駄《むだ》な抵抗《ていこう》さえしなければ、生き永らえる可能性は十分にある」  リッケンバッカー中佐は、うずくまった姿勢のまま、ささやき続けた。 「いいか。もう一度言うからよく理解してほしい。この町の住民はすべて抹殺《まつさつ》された。ここで生き残っているのはおまえだけだ。どこへかくれてもだめだ。この町は時空的に完全に封鎖《ふうさ》されている。おまえは捕《とら》われたのだ」  崩《くず》れた石塀《いしべい》のかげから、無数のヘルメットや銃口《じゆうこう》がようすをうかがっていた。 「かもめとかいったな。そのまま、ゆっくり歩け!」  背後から声が飛んできた。  かもめは、タイム・マシンに指がのびようとする誘惑《ゆうわく》に必死に耐《た》え、一歩一歩、足を運んだ。 「そうだ。言うことを聞けば命は助けてやるぞ。おまえのタイム・マシンには重力場発生|装置《そうち》の照準がついている。おまえがタイム・マシンを操作した瞬間《しゆんかん》にそのタイム・マシンは破壊《はかい》され、おまえはどことも知れぬ過去へ、永遠に送りこまれてしまうのだ。誰《だれ》もおまえを発見できないし、何者もおまえを助け出すことはできないのだ」  タイム・パトロールマンなら誰でも、心の凍《こお》るような恐怖《きようふ》を招く想像であり現実だった。人類が未《いま》だあらわれ出ない、遠い太古の時代へ、たった一人投げこまれ、そこで生き続けなければならなくなった人間の孤独《こどく》と恐怖は、つねに、タイム・パトロールマンたちの夜の眠《ねむ》りの中に忍《しの》びこんでくる悪夢《あくむ》だった。  かもめは抵抗《ていこう》を放棄《ほうき》した。タイム・マシンを取り上げられ、未知の過去のどこかへ投げこまれたりしたら、救出される望みはほとんど無い。それは死の世界にひとしかった。まず、今は生きて機を見て現状報告をすることだった。  世界各国の目と耳は日本の首都における奇妙《きみよう》なできごとに集中していた。  全く説明のつかない現象を前に、政府は国民の誰《だれ》もが信用できないようなコメントを発表し、お茶を濁《にご》そうとした。だが新聞やテレビなどが、またカメラを持った多数の人々が現場をフィルムに収めている以上、事実認識ははるかに多方面にわたり、確実だった。  政府は苦渋《くじゆう》に満ちた語調で、反体制派の過激武装《かげきぶそう》勢力と表現したが、それはかえって政府の立場を悪くしただけだった。  発表の内容は再三|訂正《ていせい》されたが、真実とは全く異なったものだった。  ついに政府は沈黙《ちんもく》し、あとは週刊誌や雑誌などの、想像力を刺激《しげき》する憶測《おくそく》だけが、話題を奪《うば》った。 ≪パン・ユーロピアンエアライン。東京発シンガポール経由ローマ行第七便。EAA三七二三一号機よりシンガポール航空管制塔《A・C・C》へ。本機は、十月五日。午前七時三十二分。マラッカ海峡《かいきよう》上空七千五百メートルにおいて、国籍《こくせき》不明機に攻撃《こうげき》された。該国籍《がいこくせき》不明機は高速のデルタ翼機《よくき》にしてミサイル二発を発射した≫ ≪アメリカ太平洋|艦隊《かんたい》第七八任務部隊第三空母戦隊。レキシントンより太平洋艦隊司令部へ。十月六日。二一○七。フィリピン東方海上において国籍不明の武装《ぶそう》勢力によるミサイル攻撃を受けた。飛来したミサイルは三発。うち一発は護衛艦《ごえいかん》マサチューセッツに命中。同艦《どうかん》は小破した。目下、同海域は第七八任務部隊の監視下《かんしか》に置かれている≫ ≪USSR・防空軍。キエフ防空管区第四三高射師団。四二一機動火力大隊より管区防空司令部へ。八日。○七〇八。キエフ地区上空に侵入《しんにゆう》せる国籍《こくせき》不明機を攻撃《こうげき》した。当該機《とうがいき》はキエフ北方地区へ墜落した》 ≪USSR。キエフ軍管区憲軍司令部より陸軍|総参謀長《そうさんぼうちよう》へ極秘電。キエフ防空管区内に撃墜《げきつい》された国籍《こくせき》不明機から落下傘脱出《らつかさんだつしゆつ》したパイロットは憲軍司令部に収容された。該パイロットは『東亜日本大国』軍人と称している≫ ≪USSR・国防軍司令官より人民委員会・軍事委員会へ。極秘電。キエフ軍管区内にて逮捕せるパイロットの所持品(複数)に『東亜日本大国』と記入しある物品あり。墜落機の残骸《ざんがい》の銘板《めいばん》にも同様の刻印あり≫ 「報道官。軍の発表では『東亜日本大国』を名乗る武装《ぶそう》政治勢力とありますが、武装勢力というような組織でジェット戦闘機《せんとうき》やミサイルを保有することが可能ですか? また、日本からの報道では、三百名以上の歩兵とよべるような強力な部隊だったそうです。世界各地で『東亜日本大国』を名乗る軍隊が活動しているようですが、仮に武装《ぶそう》勢力として、思想関係、背後関係について説明してください」 「まだわかっておりません」 「サンフランシスコ・イブニング・ニュースです。報道官。その武装勢力は、どこから武器を入手したのですか? それはわかるはずです」 「まだ報告されていません」 「ニューヨーク・タイムスです。報道官。これは極めて憂慮《ゆうりよ》すべき事態であるとはいえませんか。一部では、今回の事件は、日本の再軍備勢力が一挙に表面にあらわれてきたものではないかと危惧《きぐ》されています。彼ら武装勢力が『日本』を名乗る以上、彼らは日本の利益の為《ため》に行動していると考えるのが自然ではありませんか?」 「それに関して私には答えることのできる権限はありません」 「シカゴ・トリビュンです。この件に関して日本政府に説明を求める必要があるとは思いませんか?」 「ノーコメントです」 ≪香港《ホンコン》大公報。十月二十八日。  日本政府は極めて苦境に立たされている。『東亜日本大国』を名乗る武装《ぶそう》勢力が、日本のかくれた軍隊であるという観測が少しも突飛《とつぴ》なものに感じられない事態の中で、日本の新聞も真相をつかみ得ないでいるもどかしさにあふれている。中国や韓国《かんこく》および東南アジアの、第二次大戦において日本の占領国《せんりようこく》として苦難をなめた国々においては、あきらかに不快と困却《こんきやく》をかくし得ないでいる。アメリカ政府は一両日中にも非公式に日本政府に説明を求めるであろうと伝えられている≫ ≪シンガポール、大同書館発行。『文芸総覧』十一月号|所載《しよさい》記事。  先般来《せんぱんらい》、日本国内に端《たん》を発した某《ぼう》武装勢力による武闘《ぶとう》事件は、その後西太平洋をはじめ世界各地にひろがっているが、本誌編集部は、この武装《ぶそう》勢力は単なる思想的|過激派《かげきは》とか、日本がひそかに養っていた不正規軍などというものではなく、常識的または現在の科学上の論理性では認められないような異質的物理的存在ではないかと考えるものである。  ここで当編集部は、現代のSFにおける有力なテーマともいうべき、『異次元』あるいは『タイム・マシン』の意味を考えてみたいと思う。叡智《えいち》と学識に富み、すぐれた卓見《たつけん》の所有者であるところの本誌の読者には、わが言わんとするところはすでに明らかになっているであろうが、当編集部は、今般《こんぱん》の事件は、異次元からの侵入《しんにゆう》と断じていささかも臆《おく》するところの無いものである。  この事件は極めて複雑かつ深刻な様相を呈《てい》している。当該《とうがい》政府や国民ばかりでなく、世界各国がひとつになって事に当らなければ、おそらく人類の存亡にかかわる破滅《はめつ》的事態を招くであろう。重ねて言う。この事件は断じて一武装勢力などの引き起したものではない。速《すみ》やかにその正体を把握《はあく》し、確実に効果的な対応策をほどこさない限り、人類は誕生《たんじよう》以来、最大にして深刻なる打撃《だげき》を受けるであろう≫  シンガポールの大同書館発行の雑誌『文芸総覧』十一月号の巻頭編集部論文は、一部に大きな反響《はんきよう》をもたらした。 『文芸総覧』誌は、純然たる文学雑誌というわけではなく、大衆読物雑誌——ただしかなり上品だったが、科学トピックスや教養記事などにもページを割《さ》いていたこともあり、シンガポールの知識階級の人士たちにもおおいに読まれていた。かねてSFにも興味を寄せ、隔月《かくげつ》に一本ぐらいは短編を掲載《けいさい》していた編集部は、ここに至って俄然《がぜん》、独自のSF的見解をひっさげて一大キャンペーンを展開したのであった。  編集長マーティン・楊《ヤン》は同誌おかかえの科学評論家マイケル・ワリナーをともなって東京へ向った。  マーティン・楊《ヤン》は東京において精力的な調査活動をおこなった。その結果が、彼に大きな自信を与《あた》えたらしい。マーティン・楊は、日本の大新聞を始め、世界の主な通信社に自分の見解を発表しようとしたが、なぜかこれは日本の政府筋からの申し入れによって延期された。  マーティン・楊《ヤン》は、日本を始め、事件の発生している当該国《とうがいこく》が、自分の調査活動に対して妨害《ぼうがい》的行為《こうい》に出るのみならず、国外退去を命ずるが如《ごと》き態度を取っていると語り、大いに批判した。  日本の二、三の新聞およびSF雑誌は積極的に彼に接触《せつしよく》し、彼のユニークかつ大胆《だいたん》な説を紹介《しようかい》し、特集もした。  今回の事件が、幾《いく》つかの面において、異次元の存在を感知させ得るものであること。また、事件の性質が極めて危険なものであることを予感させるという彼の主張は説得力を有し、事件は急速に不気味な真相を見せはじめた感がある。 |週 間 星 港《シンガポール・ウイークリー》提供記事  どこの飲屋街も、その話でもちきりだった。  上役の悪口も、競馬の予想も、職場のOLたちの品定めも、全く興味を失った。 「異次元なんて、なんだ、そんなもの。そんなもの、誰《だれ》か見たのかよ。証拠《しようこ》があるなら持ってきて見せてみろってんだ」 「武装《ぶそう》勢力なんて、おかしいよ。そんなの。いったい、日本のどこにそんなミサイルや戦車まで備えているグループがあるかってんだよ。何か妙《みよう》なことをやっていれば必ず隣《となり》から追及されるのはわかりきったことだ。あれは異次元から来たんだよ。絶対そうだよ」 「異次元なんて無《ね》えったら」 「有るんだよ」  そのへんから雲行きがあやしくなり、ついに大立回りとなる。  政府がいくら否定しても、国民の口に戸を立てることはできない。  だが、秩序《ちつじよ》を守る側からすれば、異次元からの侵略《しんりやく》などということはけっして認めてはならぬことだった。白を黒と言い張っても、事件を現実世界の中に封《ふう》じ籠《こ》めておかなければならなかった。  あの日以来、地下鉄の工事は完全にストップしていた。  だが、大きなブルドーザーや巨大《きよだい》なクレーンは放置され、道路の幅《はば》は一車線にせばめられたままなので、車の渋滞《じゆうたい》は数キロメートルにも達している。工事場は立入り禁止になっていて、人影《ひとかげ》もなく、道路には交通整理の係員すらいなかった。  工事場の周辺の家が十数|軒《けん》も焼け、あるいは爆破《ばくは》されたが、検証がくりかえされているため、まだ立入禁止の非常線が解けていない。 「いや。たまらないね。ほこりと灰で店の中はさんざんだよ。いくら朝|掃除《そうじ》しても夕方になると元通りだからいやになるよ」  隣《となり》の酒屋の、三河屋の親爺《おやじ》が入って来た。  人の好さそうな赤ら顔に、深刻に眉《まゆ》をしかめる。 「全くだね」  元はうなずいた。 「うちはここと違《ちが》って店の表をしめておくわけにいかないからねえ」 「ほこりが入るわけだ」 「そうなんだ」  三河屋はくくれたあごを引いて相槌《あいづち》を打った。 「ところで、何の用?」 「そうそう。それなんだけどね……」  三河屋の親爺は、円い顔を大きな手でつるりとなでると、身をのり出した。 「なんだい? この間のあの騒《さわ》ぎ。ちらっと耳にしたんだけどさ、異次元から攻《せ》めこんできたんだとかってさ。そんなことってあるのかね? 異次元って、ほら、よくSFっての、あの手の映画なんかによくあるじゃない。信じられる? 元さん。おれ、やんなっちゃったね。もう。そんなへんなものが、ほんとうにあるってことになったら、世の中の秩序《ちつじよ》はいったいどうなるの? 元さん。信じられる? どう思う?」  店の奥《おく》の、元が帳場と呼んでいる二|畳敷《じようじき》の上りかまちに腰《こし》をおろして、元の顔をのぞきこんだ。  元の全身をつめたい緊張《きんちよう》がつらぬいた。次にどのような事態が生ずるのか、全く見当がつかなかった。  元は三河屋の真意がつかめないまま、微笑《びしよう》を浮かべながら、息を殺していた。  真意はあきらかだった。  敵は今や真正面から戦いを挑《いど》んできたのだ。 「どう思うって聞かれたって何とも言えないよ。異次元なんていわれても、よくわからない」 「そうかい。元さんでもわからないかな」  三河屋の顔からは微笑が消えなかった。 「おれはそういうの、弱いからなあ」 「どうだか」  円い顔に目尻《めじり》の垂れ下った細い目が、日頃《ひごろ》福々しい人柄《ひとがら》をよくあらわしていたものだったが、今、その細い目が、厚いまぶたのかげで冷たい光を放っていた。  その時、机の上の電話が鳴った。  ベルの響《ひび》きは元の体の深奥《しんおう》を突《つ》き刺《さ》した。 「どうしたね? 電話に出ないのかね」  三河屋があごをしゃくった。 「出ますよ」  元は思わずうろたえて電話機に手をのばした。 「もしもし……」 「いいかね。一度しか言わないからよく聞くように」 「ど、どなたですか? 何のご用?」 「おまえたちのなかまの一人をあずかっている。なかまの生命がどうのこうのなどということではないことぐらいわかっているはずだ。いいか。動くなよ。おまえたちの組織全体に関係する問題だ。おまえは二十四時間|監視《かんし》されている」 「まて! もっとくわしく……」  電話は切れた。  三河屋がのそりと立ち上った。 「受話器をかけなさいよ」  気がつくと、固く受話器を握《にぎ》りしめたままだった。  元は受話器を元へもどした。 「元さん。そういうわけだ。わかったかね。電話の内容が理解されないと困るから、わしがわざわざ来たわけさ。ま、隣《となり》どうしなんだから、うまくやろうや」  三河屋はいつものように、気軽に言うと、肩《かた》ごしに小さく手をふると店から出て行った。  かなり長い間、元は彫像《ちようぞう》のように動かなかった。  完全な敗北だった。  三河屋の親爺《おやじ》が、時間犯罪と関係しているのではないかという疑いは非常に濃《こ》かったが、時間局としては十分な証拠《しようこ》固めもできていなかった。その虚《きよ》を衝《つ》いて、敵は極めて巧妙《こうみよう》な反撃戦《はんげきせん》を展開している。  敵は、かもめ一人を手に入れただけで、意図した作戦のすべての点と位置において明白な勝利を手中にしたのだ。  かもめ一人の生命など、この作戦全体から見れば取るにたらぬほど微小《びしよう》な物であった。だが脅威《きようい》はそんなところにはなかった。  もし、元たちが抵抗《ていこう》すれば時間犯罪者たちは、かもめの存在を利用して、時間局なる組織の存在を公表する挙に出るであろう。  未来から派遣《はけん》されてきている時間監視員《タイム・パトロールマン》が自分たちの身近にいたと知ったら、人々は驚《おどろ》くとともに極めて不快な感情におちいるであろう。同時に、時間局はその存在をあばかれたことで、永くその機能を失うであろう。とくに、タイム・マシンの存在を知った現実世界は、今までとは全く異なった価値判断に基づいて動くようになるだろう。それは恐《おそ》るべき恐慌《きようこう》である。  彼らはそれを知っている。社会を崩壊《ほうかい》させ時間局を破滅《はめつ》させるような打撃《だげき》の性質と意味を知り過ぎるほど知っていた。  元はのろのろと電話機に手をのばした。  受話器を握《にぎ》ろうとし、気づいて手を離《はな》した。電話は完全に盗聴《とうちよう》されているはずだった。  元は立ち上った。  店のガラス戸に手をかけようとして思わず棒立ちになった。  動いてはいけない!  元の胸の中でさけぶ声があった。  元は、帳場へもどった。今は、敵の神経を刺激《しげき》することはつとめて避《さ》けなくてはならなかった。  動くな、の重い響《ひび》きはそこにかかってもいた。  元は帳場に腰《こし》をおろし、いつものように、顔を街路へ向けた。売れない古本屋の主人の顔つきにもどって、彫像《ちようぞう》のように動かなかった。  屈辱《くつじよく》で体中が煮《に》えたぎるようだった。  時間局が創立されて以来、初めて受ける打撃《だげき》だった。いつかは遭遇《そうぐう》するかもしれない強力な敵と、今出会いしかも自分がその当事者になっているという思いが元を締《し》め上げた。  焦《あせ》ってはならない。焦ってはならない。  必死に自分に言い聞かせた。  時間犯罪者たちの目は、一瞬《いつしゆん》たりとも離《はな》れることなく、自分に注がれているのを、元は強烈《きようれつ》な痛みとともに認識していた。  痛みは責任のもたらすものであり、孤独《こどく》の恐怖《きようふ》であった。  どうやって笙子《しようこ》に知らせようか?  それだけ考えているうちに昼飯時になった。だが元は座り続けた。  夕方になり、夜がやって来た。  元は店に灯をともした。  朝から何も食べていないのに、全く空腹は感じなかった。  どうしたらいいだろうか?  とにかく、かもめを奪《うば》いかえすことだった。かもめさえ取り返したら、時間犯罪者などたちまちのうちに始末してやる!  元は一人うめいた。  午後六時|頃《ごろ》、電話がかかってきた。  受話器を取ると、笙子の声が流れ出てきた。 「元さん。かもめちゃんに用があるんだけど、どこにいるか知らない?」  元は受話器を握《にぎ》りしめた。 「支局長。かもめちゃんの家にいませんか?」  笙子は声を呑《の》んだ。     31 「……家にいませんか?」  それは、その家に住む者の身に危険が迫《せま》っていることを意味する暗号だった。 「そ。それじゃこちらで探してみます」  笙子はそっと受話器を置いた。 「二一八紀における時間犯罪は、現在極めて憂慮《ゆうりよ》すべき事態となっている。中央|暦算《れきさん》センターの分析《ぶんせき》によると、許容される時間は、あと十六時間である」  大広間に、円形に配置された大テーブルについている十数個の人影《ひとかげ》は、寂《せき》として声もなかった。 「御承知《ごしようち》のとおり、時間の進行による歴史的および社会学的変化、ならびに生物学的変化にはある時点を超《こ》えると、タイム・マシンによる正確な逆行操作によっても、発源位置ならびに状態にもどすことが不可能という不可逆点がある」  人々がうなずく気配が伝わってきた。  空間それ自体が発するほのかな薄明《はくめい》だけが、この広壮《こうそう》なホールを海のように浮かび上らせていた。 「原因は二一八紀担当責任者からの報告によってすでにあきらかである」  大テーブルの一角で、立ち上った人影《ひとかげ》があった。  夜明けの薄明のような光が、急速に集中すると、スポットライトとなって立ち上った人物をとらえた。  笙子だった。 「二一八紀担当者からの発言がある」  それまでの声が絶えた。笙子の視線が、居ならんだ人影の上を、ゆっくりと回った。 「事態の説明は、今から五秒後に、各委員の元へ直接送る」  笙子が唇《くちびる》を閉ざし、数秒がたった。 「以上のとおりだ。事態は、ただ今主席委員から発言があったように、極めて悪い状態だし、なお流動的だ。だが、すでに対応策は立てられている。十五時間五十五分の余裕《よゆう》を与《あた》えて欲しい」 「委員たちの意見は?」  ほんのわずか、人々の気配が動いたようだったが、すぐ静まり返った。 「異議はない。二一八紀担当者にまかせる」 「感謝する」  ふっと笙子の姿は消え、スポットライトは溶暗《ようあん》してもとの薄明《はくめい》にかえった。 「緊急《きんきゆう》会議はこれで終る」  声とともに、大テーブルも、それを囲む人々の姿も、大広間も、一瞬《いつしゆん》に消え、あとにはただ空漠《くうばく》とひろがる薄明だけが残った。  だが、もしその場に人がいて眼《め》を凝《こ》らしたならば、その空漠たる空間の中央に、異形な形象が浮いているのを見ることができたかもしれない。  それはおよそ人の知恵《ちえ》の所産とははなはだしく異なり、夢魔《むま》の造り出した不安の象徴《しようちよう》のように揺曳《ようえい》していた。  それが、さまざまな時間や次元を超《こ》えてそれらをひとつの認識帯に結びつける転換装置《てんかんそうち》であろうことは容易に想像がついた。  その装置の意味するものは、時間と空間、つまりひろがりも位置も消し去った原始の存在だった。  午後八時。東京はとぼしい照明の下で、草深い田舎町《いなかまち》のように逼塞《ひつそく》していた。  異次元からの侵略《しんりやく》がおこなわれているのだという噂《うわさ》を信じている者と、全く信じていない者の数は、後者の方がはるかに多かったが、社会不安は急速に進行し、ほとんど爆発《ばくはつ》寸前の状態になっていた。  だが政府は何の説明もしなかった。  ただそこはよくしたもので、いかなる事態になろうとも、経済原則がそこなわれることなく、金もうけが成り立つ以上、それにのっとった生活を決して崩《くず》さない多くの人々が存在する。真の意味で、日常生活を崩さないのはそのような人々だった。辛《かろ》うじて社会の崩壊《ほうかい》を防いでいるのは彼らだったといえる。  笙子は店で、かさ張ったりとくに重い美術品などを運ぶのに使う中型トラックを運転して元の古本屋へ向った。  表通りも裏通りも渋滞《じゆうたい》していた。十メートル移動するのに一時間近くかけ、車の列は這《は》うように進んだ。笙子にとっては注文したように都合が良かった。  裏通りへ入ってから二時間ほどかけて、笙子のトラックは元の店の前へたどり着いた。  その時、前方で騒《さわ》ぎが起った。いら立った運転者たちの間でついに暴力|沙汰《ざた》がはじまったようだ。警笛《けいてき》と怒声《どせい》が渦巻《うずま》き、列の後部から走って来てその騒動《そうどう》の渦に加わる者もいる。  自衛隊や警官隊が交通整理に当っているはずだが、その姿は混乱の中に埋没《まいぼつ》して所在もわからない。  笙子はダッシュボードの中から信号|拳銃《けんじゆう》を取り出した。カートリッジを装填《そうてん》すると、車の窓から、前方の低い空めがけて発射した。  赤竜《せきりゆう》の信号|弾《だん》は騒擾《そうじよう》と混乱の頭上をジグザグに走った。混乱はたちまち暴動になった。車の列の前方で火柱が突《つ》っ立ち、みるみる火焔《かえん》が路上にひろがった。巨大《きよだい》な火の塊《かたまり》になったトラックの荷台から、何が炸《は》ぜているのか、無数の火玉が八方に飛び散った。  笙子は運転台から跳《と》び降りた。家と家の間をすり抜《ぬ》けて、元の家の裏口のガラス戸をたたいた。  顔を出した元に合図すると、笙子は裏の路地を伝って隣《となり》の三河屋の背後へ回った。  火災になったらしい。屋根のむこうの夜空が幅《はば》広く真赤に染りはじめた。車の燃料タンクに火が入ったか、二度、三度、爆発音《ばくはつおん》が町をゆるがせ、商店街は火の海になった。  あちこちの家から人影《ひとかげ》が飛び出してきた。まだ避難《ひなん》しないで家に閉じこもっていたものらしい。 「早く逃《に》げろ!」  元がさけんだ。  三河屋の窓があいた。 「まずいな。こっちへ火が来る」  顔をのぞかせた三河屋の親爺《おやじ》が、室内にいる者をふりかえって言った。 「……避難《ひなん》の用意だけはしておけよ。なあに、この家が燃えはじめてからだって……よし。そうしろ」  雨のように火の粉が降ってきた。  三河屋の倉庫がくすぶりはじめた。三河屋の親爺《おやじ》は窓から身をのり出した。  その窓の下へ笙子が身を寄せていった。  元が裏口から突風《とつぷう》のように躍《おど》りこんだ。  室内にいたのは、元もよく知っている三河屋の店員だった。  彼はポケットから黒い武器を取り出すと、その先端《せんたん》を元にさし向けた。元の靴先《くつさき》が、男の顎《あご》を蹴《け》り上げた。男の体はのけぞって背後の壁《かべ》に激突《げきとつ》した。その手から武器がちゅうに飛んだ。それを受けとめるや、元は窓へ走った。  三河屋の親爺は笙子の手を逃《のが》れようとして一瞬《いつしゆん》バランスを失った。そこへ元が体を丸めて突《つ》っ込んだ。  二人はもつれ合ってまりのようにころがった。元の当身が二発、三発と重苦しく命中した。三河屋の親爺は苦痛で顔をゆがめながら、左の手首に巻いた太い金属製のベルトに右手をそえた。  笙子の手がひらめき、髪《かみ》にさした櫛《くし》が飛んだ。三河屋の手首に櫛が喰《く》い込み、血が飛び散った。  元が躍《おど》りこみ、三河屋の両腕《りよううで》をとらえた。  笙子が三河屋の口の中へ布をねじこんだ。  元が腕をねじ上げると、三河屋はけもののようにうめいた。  三河屋が手首に巻いていた金属の帯は、笙子の手に移った。 「時間局の標準型のタイム・マシンを馴《な》れない者でも使いこなせるようにつまみやダイヤルなどを大きく改造したもののようね。首謀者《しゆぼうしや》の名前など聞いたって答えもしないだろうね」 「吐《は》かせますか」 「それより、かもめちゃんを探して」 「こいつはどうします?」 「これを取り上げてしまえばただの人よ。縛《しば》り上げてそこへ転がしておきなさい」  元は三河屋を縛り上げると、屋内の捜索《そうさく》にかかった。  だが、かもめの姿はどこからも発見されなかった。 「どこかへ飛ばしてしまったのでしょうか?」  元の顔が引きつった。  笙子は冷やかに三河屋を見すえた。 「おたがいにいらいらしているのだからね。聞かれたら素直に、てきぱきと答えてくださいね」  三河屋はおそろしい目つきで笙子をにらみつけた。  元が三河屋をそこへ引きすえた。 「三河屋さん。まず、かもめちゃんをどこへかくしたのか、それから答えていただきましょうか」  三河屋は顔をそむけ、肩《かた》をそびやかせた。 「ねえ、三河屋さん……」  笙子はもう一度たずねた。  三河屋は耳のないような顔をして黙殺《もくさつ》した。 「このやろう!」  元が三河屋の胸倉を締《し》め上げた。 「だめよ。元さん。そんなことで音《ね》を上げるお人じゃないわ」 「三河屋さん。これ、あなたが体につけていたタイム・マシンよ。元さん。これ、三河屋さんの足に巻いてちょうだい」 「ほいきた」  元はそれを三河屋の左の足首に巻きつけた。 「な、なにをするんだ」  三河屋はにわかに顔に不安の色を浮かべた。 「これから五つ数えるわ。その間に、私を満足させる答えが得られなかったら、あなたを、遠い太古へ、そうですね、三億年ぐらい昔《むかし》の世界へ送りこんでしまいます。もちろんタイム・マシンはこわしてしまうわ。三億年前というと、当然ですけど、人類はまだ影《かげ》も形もありませんわよ。そこであなたはたった一人で一生過すんです。わかりますね」  三河屋は蒼白《そうはく》な顔につめたい汗《あせ》の玉を一面に浮かべていた。だが、必死に胸を張るとうそぶいた。 「ふん。助けに来てくれるさ。なかまが」 「さあ。それはどうかしら。あなたが、ここから三億年前の世界に送りこまれるのを目撃《もくげき》している人は誰《だれ》もいないはずよ。誰が助けに行くものですか」  笙子《しようこ》はひややかに笑った。 「タ、タイム・マシンなんぞ、修理できるさ」  三河屋の声はおさえようもなく震《ふる》えていた。 「おあいにくさま。タイム・マシンを修理することはできないの。なぜかというと、タイム・マシンには時限|爆弾《ばくだん》をしかけておくわ」 「子供だましみてえなことを言うな」 「元さん。それでは、タイム・マシンをセットして。セルフタイマーで五秒にね。時限爆弾の信管は八秒後にセットしてください。むこうへ着いたら、三秒後に爆発《ばくはつ》よ。大丈夫《だいじようぶ》。爆破|装置《そうち》はとても小さいからあなたの足首まで吹き飛ばしてしまうということはないわ」 「支局長。準備できました」  元が三河屋の足のタイム・マシンに、豆粒《まめつぶ》ほどの大きさの物体をとりつけた。 「セルフタイマーを入れて」 「言うなら今のうちだぞ。三河屋」 「一……二……三……」 「やめろ! こんなこと、やめろ!」 「……四……五」  三河屋の体は一瞬《いつしゆん》、室内から消えた。  三河屋が引きすえられていた空間が、かすかに青く光ったような気がした。     32  雨とも霧《きり》ともつかぬ微細《びさい》な水滴《すいてき》の幕《とばり》が、まぼろしのように視界を曇《くも》らせていた。  大気は重く湿《しめ》ってよどみ、気温はぬるい湯のようだった。  上衣《うわぎ》もズボンも、水気を吸って膨《ふく》れ、ひふに貼《は》りつき、体を締《し》めつけた。  大地は陸とも沼《ぬま》とも区別がつかず、煙霧《えんむ》の中にかすんでいた。視界がやや明るく、ひろがると、右前方に大きな林があらわれた。  足を引きずって進んで行くと、林は目の前に迫《せま》ってきた。  それはこれまで見たこともない異様な植物の大群落だった。  それは、春の野原に姿をあらわすつくしのような形の植物だった。だが、高さは二十メートルを越《こ》し、直径は、三メートルに達する巨大《きよだい》なものだった。  目の前にひろがる巨大な大原生林は、地球上のいかなる種類の森林とも異なっていた。青黒い幹には、魚の鱗《うろこ》のような模様がすき間もなく刻みつけられていたし、垂直にのびた太い幹から輪のように突《つ》き出した枝は、およそ葉のような形のものは一枚もつけていなかった。  それは化石となって産出する鱗木《りんぼく》とか封印木《ふういんぼく》とか呼ばれる種類の、原始的なシダ植物だった。  とつぜん、沼《ぬま》の水面が波立った。静かな水面に波紋《はもん》がひろがり、その中心部から、ひとかかえもあるような浮木が浮き上った。  それは先端《せんたん》が二つに裂《さ》けると、内部の鮮紅色《せんこうしよく》が周囲のモノトーンの風景をおそろしく平凡《へいぼん》なものにした。  その巨大《きよだい》な口には、人間の大人の親指ほどもある鋭《するど》い歯がならんでいた。  巨大な頭部に続く牛のような胴体《どうたい》があらわれ、さらに体長の半分ほどの、太いが短い尾が水面にあらわれた。  全長は三メートルに満たないが、その形態は、恐竜《きようりゆう》などよりもずっと原始的で不細工なものだった。  シダ類の原生林から、太い竹竿《たけざお》のようなものが空中へ浮かび出た。畳《たたみ》一枚はあろうかと思われるほどの透明《とうめい》な四枚の翅《はね》を、その大きさの割にはひらひらとめまぐるしくはばたきながら、沼《ぬま》の水面低く旋回《せんかい》した。体長二メートル余りの巨大なトンボだった。大きな複眼が、何を写しているのか、時おり、きらと光った。  水面に巨大なトンボの影《かげ》が落ちた。  一瞬《いつしゆん》、高く飛沫《しぶき》が上り、うずくまっていた動物が跳躍《ちようやく》した。  巨大なトンボはその顎《あご》に捕《とら》えられ、大きな頭がぽろりと水面に落ちた。  四枚の翅《はね》を水面に吐《は》き出したそれが、はじめて水ぎわに立っている三河屋に気づいた。  真赤な口を開くと、水面を蹴立《けた》てて岸へ向ってきた。  三河屋はほとんど思考力を失ったまま、ぼんやりと眼前に迫《せま》る異形を見つめていた。  それが、二、三メートル前方まで突進《とつしん》してきたとき、とつぜん三河屋の体は激《はげ》しく突《つ》き飛ばされた。  転倒《てんとう》した三河屋のかたわらを、異形の動物は地ひびきを立てて通り過ぎていった。 ≪……三河屋さん。住み心地はいかがですか?≫  ふいに三河屋の耳元で甘《あま》くささやく声が聞えた。  三河屋はうつろなまなざしで周囲を見回した。  何者の姿もなかった。 ≪三河屋さん。あれはカコープスという動物ですよ。かえるの親戚《しんせき》ね。ほら、ほら、早く逃《に》げないと食べられてしまうわ≫  三河屋は首を回した。  いったん通り過ぎたカコープスは、不器用に体を回すと、ふたたび、猛然《もうぜん》と突進《とつしん》してきた。  三河屋は全く自分のもののようでない手足を無理に動かして走った。 ≪水ぎわを走っていたら追いつかれてしまうわよ。林の中へ逃《に》げこんだらいいんじゃないかしら……≫  おかしそうに小さく笑った。  三河屋はシダ植物の原生林へ向って走りはじめた。  おそろしい夢《ゆめ》を見ているような気がした。けっしてさめることのないおぞましい夢を見続けているような気がした。気が狂《くる》わないのが不思議だった。  目の前の事実がまだ半ば信じられなくて、覚醒《かくせい》することを願いつつ耐《た》えているせいかもしれなかった。  三河屋はシダ植物の原生林の中へ走りこんだ。  巨大《きよだい》なカコープスは、林立する太い樹幹にさまたげられて、林の中へ入ってくることはできなかった。  三河屋は地面に体を投げ出した。  火のような息を吐《は》いた。  ふいに原生林の中の、地面をおおっているシダ類がガサガサとゆれ動いた。 「うわっ!」  三河屋はとび上った。  シダの葉かげから、茶褐色《ちやかつしよく》の、長い二本のむちのようなものがのぞいていた。  ひくひく、ぴくぴく。  まさぐるようにさしのべられてくる。  三河屋は膝《ひざ》から下が失《う》せてしまったような気がした。  葉かげから茶色の、ひらたい座ぶとんのようなものが音もなくするすると進み出てきた。  茶褐色のつやつやした背中。機敏《きびん》に動く六本の脚《あし》。それは体長一メートルに近い巨大《きよだい》なゴキブリだった。  ガラス玉のような複眼が、三河屋の体を見つめた。大顎《おおあご》が二、三度、大きく開いたり閉じたりした。  長い触角《しよつかく》の先端《せんたん》が、三河屋の体に触《ふ》れた。 「寄るな! 寄るな!」  三河屋はさけんだ。足元の石をつかむと、ゴキブリに向って必死に投げつけた。そのひとつが、つやつやした背中にぶつかって乾いた音をたてた。  ゴキブリなどの直翅《ちよくし》類は、トンボ類やカゲロウなどの脈翅《みやくし》類とともに昆虫としての歴史は極めて古い。海中で生活していた節足動物の中のあるものが、海退時代の大陸の海岸地方で次第に陸上生活に移行していった。その中から、クモやサソリの祖先になるものや、昆虫の先祖に当る生物が出現した。四億年前から四億三千万年前|頃《ごろ》のことである。そして、それから一億年ほどたった頃には、すでに現在の昆虫のほとんどの種類は出現している。  その時代の昆虫の特長は、非常に大形のものがあったことだ。トンボでは翅《はね》をひろげた時のさしわたし、二メートルから二・五メートル。体長約二メートルという大きなものがゆうゆうと飛び回っていた。  この時代にはまだ鳥類は出現していなかったから、大きな鈍重《どんじゆう》な、トンボなどでも安全に生活することができた。  ゴキブリなどでも、現代のものとは比較《ひかく》にならない巨大《きよだい》なものが走り回っていた。  彼らは同じ頃《ころ》あらわれた大形両生類や、中生代の恐竜《きようりゆう》の先祖である原始的なは虫類の絶好の栄養源となった。だが、もしこの時代に、現代人が迷いこんだりしたら、まず、これら、凶暴《きようぼう》な昆虫《こんちゆう》たちのえさになってしまうであろうことは間違《まちが》いない。  三河屋は原生林の中を必死に走った。何回も転び、そのつど足をくじいたり、肘《ひじ》をすりむいたり、手指の爪《つめ》をはがしたりした。心臓は今にも破れるかと思われた。  いくら逃《に》げ走っても、巨大《きよだい》なゴキブリはいつも背後にいた。けんめいに逃げ走るえさを追いつめるのを楽しんでいるのかもしれない。 「た、たすけてくれ!」  三河屋はさけんだ。  石につまずいてのめった。  立ち上ろうとする三河屋の背中にゴキブリがのしかかった。前肢《まえあし》が三河屋の体をしっかりとおさえつけた。  大きな釘抜《くぎぬ》きのような大顎《おおあご》が、三河屋の首筋へ打ちおろされた。     33  激《はげ》しい打撃《だげき》がたてつづけにほおや肩《かた》を襲《おそ》ってきた。  三河屋はうめいた。死んでからもなぜこのように苦痛を感ずるのだろうか、と思った。  自然に目が開いた。  染めたような青い空と、銀色にかがやく水面が見えた。  頭上を大きなトンボの影《かげ》がかすめていった。  三河屋はとつぜん、われにかえった。  巨大《きよだい》なトンボに襲《おそ》われた恐怖《きようふ》がよみがえってきた。  三河屋はさけび、跳《は》ね起きた。その肩を強い力がおさえつけた。 「三河屋くん」  三河屋は首をねじ向けて、声の主をふりあおいだ。 「おまえは、古本屋の」 「そのとおりだ」 「ここはどこだ?」 「どこだって、見たろう。三億年前の世界さ。古生代のデボン紀のはじめ頃《ごろ》というわけだ」 「死んでいなかったのか。死んでいればよかった」  三河屋は地獄《じごく》の底から聞えてくるようなうめきをもらした。 「どうだね。三河屋さん。そろそろ、こちらの質問に答える気になったかね」 「ふざけるな!」 「そうかい。おれたちの質問に答えてくれないというのなら、おまえは全く必要のない人間だ。連れて帰ることも、助けてやることもいらない。まあ、ここでゴキブリにでも食われて死んでしまうがいいさ」  三河屋はそっぽを向いた。 「ほら。出てきたぜ」  前よりも大きなゴキブリが、こんどは二|匹《ひき》、三匹と連れ立って姿をあらわした。 「じゃ、おれはこれでサヨナラするぜ。もう会わねえよ」  元は立ち上った。 「ま、まて!」 「じゃあな」  ゴキブリが三河屋をとり囲んだ。  元の姿はもうどこにもなかった。 「助けてくれ!」  三河屋のさけび声に、ゴキブリは驚《おどろ》いたか、わずかに退いた。だが、すぐまた三河屋をとり囲んだ。 「助けてくれ!」  三河屋の体は、ゴキブリの重囲の中からずるずると引きずり出された。 「とうとう弱音を吐《は》いたな」 「お、おれも武士だ。ゴキブリなどに食われて死ぬなどというのは、武士の恥《はじ》だ」 「ほう。武士か。では名をいえ」 「名乗れぬ」 「それでは信用できない。ゴキブリにだろうとアブラムシにだろうと食われて死んでしまえ」 「やめてくれ! わかった。わかった。言う。わしは会津《あいづ》の旧臣で、元警視庁|探偵《たんてい》。三原市之進だ」 「よし。助けてやる。来い」  二人の姿は、古生代の緑|濃《こ》い原生林から消えた。     34  皇居の半蔵門《はんぞうもん》から出て四谷見附《よつやみつけ》を通り、内藤新宿《ないとうしんじゆく》へ向う往還《おうかん》の、まだ麹町《こうじまち》区の内。四谷御門へ向って右側が番町《ばんちよう》。その名のとおり、旧幕時代には旗本たちがこの地に家屋敷《いえやしき》を与《あた》えられていた。いわば戦闘《せんとう》部隊の駐屯地《ちゆうとんち》である。往還の左側は永田町《ながたちよう》、平河町《ひらかわちよう》、紀尾井町《きおいちよう》などの丘陵《きゆうりよう》地帯であった。標高こそないけれども、ふところが深く、林がおい繁《しげ》って所によっては深山の趣《おもむき》をなしていた。むろん、こちらも、旧幕時代には谷々には大名や旗本の屋敷が配され、番町側と合わせて、江戸城への西方つまり陸側からする攻撃《こうげき》に対して、強力な防衛線を形作っていた。  時代が変っても、そこには陸軍省や参謀《さんぼう》本部。諸大臣の官舎。衛戍《えいじゆ》病院。諸官庁などが置かれ、庶民《しよみん》とは縁遠《えんどお》い場所となっている。  半蔵門を出るとすぐ左側が隼《はやぶさ》 町《ちよう》。その左一帯の木立は隼山と呼ばれ、旧幕時代は定火消《じようびけし》の御役屋敷《おやくやしき》があった所である。御一新《ごいつしん》後も、旗本|能勢熊之助《のせくまのすけ》が住んでいた。今は能勢も旧所領地に引っ込み、そこには陸軍|監軍部《かんぐんぶ》が設けられている。後年の憲兵司令部である。  松林に囲まれた木造二階建の監軍部は警備の兵士を配してつねに静まりかえっていた。  その松林に沿って赤土の崖《がけ》の下を南へ進むと、雑木林の中に一|軒《けん》の西洋館が建っているのが目に入ってくる。  このあたりは特に警戒《けいかい》が厳しい。  雑木林の中の小道を、騎馬《きば》の憲軍士官が、二、三名の兵士を従え、左右に鋭《するど》い目を配りながら通っていった。その蹄《ひづめ》の音が遠ざかると、雑木林で鳴く小鳥の声がにわかに高くなった。  五分ほどたった頃《ころ》、さっきの巡邏《じゆんら》士官がまたもどってきた。そのまま道をもどるかに見えたが、手綱《たづな》をあやつって横道へそれた。その小道は林の中の西洋館へと通じていた。  騎馬《きば》の士官は玄関《げんかん》の前でひらりと馬から下りた。  玄関の両側に警備の兵士が立っていた。  二人は士官を見て敬礼した。それでも遠慮《えんりよ》がちにたずねた。 「まことに相すまぬことでありますが、これも任務でごわす。身分証明書を見せてつかあさい」 「わしは監軍部《かんぐんぶ》憲軍大隊検察第三番隊副頭取。陸軍|中尉花園大助《ちゆういはなぞのだいすけ》である」  二人の兵士は打たれたように直立不動の姿勢をとった。 「して、な、なんの御用《ごよう》でありますか」 「秘密の役目を持ってまかりこしたものである」 「館内《やかたうち》へお入りになるのでありますか?」 「そうだ」 「困りもうした。誰《だれ》も入れてはならぬとのきつい達しであります」  二人の兵士は困惑《こんわく》の表情をかくさなかった。 「なにを言うか! 官姓名《かんせいめい》を名乗り、秘密の役目でと申した。これ以上、説明することはない。また、わしをあやしいと思うなら、ただちに監軍部《かんぐんぶ》へ問い合わせるがよかろう」  花園|中尉《ちゆうい》の大喝《だいかつ》に、二人の兵士はただうろたえるばかりだった。実際どうしようもなかった。 「いや、これは申しわけなかこつでありもした。さ、お通りくだされ」 「よし」 「これも任務でありますから、ごかんべん願います。こちらの官姓名もうかがいたい」  警備の兵士は、花園中尉がともなっている二人の兵士に目を向けた。 「これはわしの部下で、陸軍憲軍|伍長《ごちよう》、北村一郎《きたむらいちろう》と同じく上等兵、西島五郎吉《にしじまごろうきち》だ。ともに秘密任務で活躍《かつやく》しておる」 「ごくろうさまであります。どうかお通りください」  花園|中尉《ちゆうい》は北村|伍長《ごちよう》と西島上等兵をともなって玄関《げんかん》を入った。  士官の制服を着た無腰《むごし》の男が不審《ふしん》そうにのぞいた。 「勝監軍《かつかんぐん》参事官に御面会いたしたい」 「中尉。勝閣下には許可を得ておるのか?」 「あります」 「しかし、わしは聞いておらんぞ。わしは官房《かんぼう》主事の榊原大尉《さかきばらたいい》だが」 「たしかめていただいた上で結構であります」 「そうか。そこで待っとれ」  大尉は首をかしげ、廊下《ろうか》を奥《おく》へ向った。  どこかで低い話し声が聞えるほかは、人の出入りする気配もない。  大尉は廊下の角を曲って見えなくなった。 「それ」  三人は足音を忍《しの》ばせて走った。  廊下の曲り角からのぞくと、大尉は奥《おく》まった一室のドアをノックしていた。  三人は走ってたちまち大尉《たいい》を取り囲んだ。  ドアを開き、大尉を押して部屋《へや》へ入った。  中央にりっぱな大テーブルをすえ、そのむこうに、紋付羽織《もんつきはおり》の、目元の涼しい男が一人、腰《こし》をおろしてこちらを見つめていた。  色の白い細おもてに、細い金ぶちの眼鏡がよく似合っていた。 「騒々《そうぞう》しいぞ。何事だ」  ややかん高い、よく透《とお》る声がぶつかってきた。 「勝監軍《かんぐん》参事官。われわれが何者であるかの説明は無用のはずだ。遅《おそ》かれ早かれ、こうなることはわかっていたはずだ。おまえが頭目と頼《たの》んでいる彼は、こんな時のことは言っていなかったのか?」 「何のことだ? 無礼者《ぶれいもの》め。大尉《たいい》。なんでこのような痴《し》れ者をわしの部屋に通したのだ!」  勝は背後の飾《かざ》り棚《だな》に置かれていた刀|掛《か》けから、柄《つか》を白い鮫皮《さめかわ》で包んだ大刀をつかんで立ち上った。 「大尉。何をしている。こやつらを捕縛《ほばく》せんか!」  花園|中尉《ちゆうい》は大尉《たいい》を部屋《へや》の中央へどんと突《つ》き飛ばした。 「大尉。そこで静かにしていろ。騒《さわ》ぐと、生きてこの部屋から出られないぞ。さて、勝参事官。われわれと一緒《いつしよ》に来てもらおうか」 「きさまら。わしをかどわかそうというのか! さては反政府の過激党《かげきとう》か。ちょこざいなやつ。狼藉者《ろうぜきもの》だぞ! 出会え、出会え!」  勝海舟は大音声でさけぶと、椅子《いす》から立ち上り、大刀を引き抜《ぬ》いた。 「来い! 反政府の過激党め。生きてこの部屋から出られないのは、おまえたちの方だぞ」  廊下《ろうか》であわただしい足音が入り乱れた。  ドアのノブがガチャガチャと鳴った。すでに内側から鍵《かぎ》がかけられていた。  ドアが今にも破れるかと思われるほど打ちたたかれた。 「閣下! 閣下! いかがあそばされましたか」 「何事でごわすか? 閣下。ここをあけてくだっさい」  勝は大刀を青眼《せいがん》に構えながら、ドアへ向ってジリジリと移動した。 「狼藉者《ろうぜきもの》だ! 反政府の過激党《かげきとう》だ。逃《の》がすなよ。絶対に逃がすなよ。建物の周囲を固めろ。銃《じゆう》も用意しろ!」  勝海舟は顔をゆがめてさけんだ。 「やや! 反政府の過激党とな。閣下。今ここをあけまするによって、今、しばらくこらえてくだされ」 「反政府の過激党とな。おのれ! 小しゃくな」  ドアの外で怒声《どせい》が渦巻《うずま》いた。  ドアの外の連中は、どうやら完全に反政府の武装《ぶそう》勢力が侵入《しんにゆう》したと思いこんだようだ。 「勝さん。なかなかプロパガンダの才能がおありだね。外の連中はどうやらわれわれを反政府の過激党だと思いこんでしまったようだね。そう思わせたいんだろう。勝さん。われわれが勝さんを時間犯罪容疑で逮捕《たいほ》に来たのだと知られては困るだろうからね」  勝は傷ついたけもののように、白刃《しらは》のかげから三人をうかがった。 「おまえたちは……」 「ぼくは二階堂元。この伍長《ごちよう》は、稲村《いなむら》かもめ。女だぜ。おっと驚《おどろ》くのはまだ早い。この上等兵は、おまえさんの部下だった旧会津|藩士《はんし》。三原市之進くんだよ」 「なに。三原? あの市之進か」  三原市之進は一歩、前へ進み、かぶっていた軍帽《ぐんぼう》を床《ゆか》にたたきつけた。 「勝先生。私はあなたという人にたいへん失望した。あなたは、家を失い、職を失って飢《う》えに苦しみ、流浪《るろう》する旧会津藩士を救済するとおっしゃった。その事業の手助けをしてほしいとおっしゃるから、私は喜んであなたの手先となった。だが、あなたは旧会津藩士救済という事業はすっかり忘れてしまわれ、私のあずかり知らぬ大計画というものに心を傾《かたむ》けていらっしゃる。私は……」 「黙《だま》れ! 市之進。その日の糧《かて》にも苦しむきさまを、警視庁の巡査《じゆんさ》にしてやったのは誰《だれ》だと思う。恩を忘れたのか」 「恩を忘れたのではない。勝先生。やがて陽《ひ》が当る時が来ると思ったからこそ、旧会津の面々も、恥《はじ》を忍《しの》んで新政府の邏卒《らそつ》に名を連ねたのだ。女房《にようぼう》子供を養わねばならぬゆえに、恥も外聞も棄《す》てて、新政府の番犬になったのだ。そして、その多くが西南戦争でむなしく屍《かばね》を九州の地にさらした。だが勝先生はその乱戦の中から西郷閣下を助け出して外国へ送られた。それも先生の大計画の一部なのであろうか。それはそれでいい。だが、約束《やくそく》の方はどうなったのだ。わしは、望んでもいない、時空が異なるとかいう別な世界へ送られ、酒屋のあるじなどして過しておった……」 「この馬鹿者《ばかもの》めが!」  とつぜん勝海舟は床《ゆか》を蹴《け》って跳躍《ちようやく》した。一瞬《いつしゆん》、青眼《せいがん》から電光のように打ってきた。  元とかもめは左右にひるがえった。  ほんのわずか、動きの遅《おく》れた三原市之進のひたいの真向から、据物斬《すえものぎ》りに斬り込んだ。完璧《かんぺき》な斬撃《ざんげき》だった。白銀の円弧《えんこ》を描《えが》いた大刀は、三原市之進のひたいから顎《あご》を断ち割り、胸板からみぞおちまで、真二つに切り割って走り抜《ぬ》けた。  勝海舟は見事な残心の姿勢で、大きく息を吐《は》いた。  そのとき、ドアがメリメリと押し破られた。  警備の兵士たちがどっとなだれこんできた。 「閣下! 過激党《かげきとう》の連中はどこへ逃《に》げましたかな?」 「閣下。おけがはありませぬか」  士官や下士が、海舟をどっと取り囲んだ。  海舟は、魂《たましい》の抜《ぬ》けたような面持ちで、茫然《ぼうぜん》と立ち騒《さわ》ぐ部下たちを見つめていた。  侵入者《しんにゆうしや》たちの姿はどこにもなかった。そればかりではなく、たしかに一刀両断したはずの三原市之進の死体さえなかった。  夢《ゆめ》を見ているような気がした。 「や、やつらは、ま、まどから逃げてゆきおった」  ようやく気を取りなおした海舟は、手にした抜身《ぬきみ》を鞘《さや》にもどした。  部下たちはたがいに顔を見合わせた。 「閣下。このお部屋《へや》には窓がございませぬが」 「はて。ドアの外にはわれわれがつめかけておりましたし……」  海舟のひたいから、つめたい汗《あせ》のしずくがしたたった。  しまった!  思わずくちびるを噛《か》んだ。  ドアから廊下《ろうか》へ出る以外に、この部屋から外へ出る方法はないのだった。それをうかつにも窓から、などと言ってしまった自分のうかつさが悔《くや》まれた。  しかも部下たちは、室内の人声や海舟の怒声《どせい》なども聞いている。それに、彼らの中には玄関《げんかん》の警備についていた兵士の顔も見えた。  三人の侵入者《しんにゆうしや》があったことは彼らもしっかりと見届けていた。  海舟は苦渋《くじゆう》にうめいた。 「閣下。御精励《ごせいれい》が過ぎるのではありませんか。お休みください」  事態を知らぬ高級士官が、海舟にいたわりの言葉をかけた。 「従兵。閣下に熱いお茶をさし上げろ。さあ、皆《みな》、退散した退散した」  部下たちは潮の退《ひ》くように部屋《へや》から出てゆく。 「あっ。榊原大尉《さかきばらたいい》どのがこんな所に!」  部屋の中を点検していた士官が、さけんだ。  部屋のすみの、ディヴァンのかげに、榊原大尉が長々とのびていた。  また騒《さわ》ぎがむし返された。  活を入れられた榊原大尉は、血相変えて立ち上った。 「やつらはどうした? あの三人組は。やつらの素っ首をひっこぬいてくれるぞ」 「いや。大尉どの。そのような者は、おらんのです」 「おらんことがあるものか! おれがやつらを、全く心ならずも、不覚にも、この、閣下のお部屋《へや》へ案内した結果こうなってしまったのだ。おれがやつらを玄関《げんかん》にとどめておいて、閣下の御《ご》意向をうかがいにまかりこしたところ、やつらはおれの背後から襲《おそ》ってきたのだ」  大尉《たいい》の言葉が決定的な証言となってしまった。  自然に皆《みな》の視線は、海舟に集中した。  海舟は紙のように蒼《あお》ざめ、棒立ちになっていた。  遠くの兵舎からもの悲しいラッパのひびきが伝わってきた。     35  海舟は部屋のすみの、客用の皮椅子《かわいす》に腰《こし》を落した。皮がきしんで海舟の体は深々と沈《しず》んだ。  海舟は手にしたウエスケのグラスを一気にあおった。灼《や》けるような刺激《しげき》が胸の中を走り、彼は火のような息を吐《は》いた。  ドアの外では、まだ不審《ふしん》の晴れぬ榊原大尉や、警備の兵士たちが、たがいに疑問を問いただす声がさわがしく聞えていた。  海舟はたて続けに強い酒をのどに流しこんだ。  酔《よ》いに代って、激《はげ》しい不安と恐怖《きようふ》が腹の底からじりじりと這《は》い上ってきた。  彼らはたしかに言った。  ——われわれが勝さんを時間犯罪容疑で逮捕《たいほ》に来たのだと知られては困るだろうからね。 「やつらは時間局の密偵《みつてい》か」  海舟はうめいた。  時間局というものについては十分に承知していたし、そこに属しているという密偵の存在についても、慎重《しんちよう》に警戒《けいかい》を払《はら》いつづけてきた。いつかは衝突《しようとつ》することがあるだろうということは覚悟《かくご》してはいたが、実際にそのことが起ってみると、血の凍《こお》るような恐怖があった。  正体の知れない強敵に囲まれたような気がした。  海舟は、話に伝えられる伊賀《いが》や甲賀《こうが》の忍者《にんじや》というものを認めなかった。呪文《じゆもん》をとなえることによって姿を消したり、他のものに化けたりするようなことが、いかなる術にせよ、人間にできるはずがないと思っていた。  だが、時間局の密偵《みつてい》は、その忍者《にんじや》のように侵入《しんにゆう》し、けむりのように去っていった。  これが術でなくてなんであろう。  海舟は、おのれの見た情景を、おのれの幻覚《げんかく》として処理するか、それとも有り得べからざる神変不可思議な術を容認するかの二者|択一《たくいつ》を迫《せま》られていた。 「こいつは夢《ゆめ》やまぼろしじゃあねえよ。現実においらの目の前で起ったことなのさ。そうだ。やつらは時間局の密偵で、とんでもねえ術を使いやがるんだ」  海舟はグラスを投げ棄《す》てると、自分のデスクに走った。  ひき出しから拳銃《けんじゆう》を取り出した。蓮根型《れんこんがた》の弾倉《だんそう》に小指の先程の弾丸《だんがん》を六発、装填《そうてん》した。  横浜の伊藤《いとう》商店から取りよせたスミス・アンド・ウエッソンのキャリバー・タイプと呼ばれるその拳銃《けんじゆう》は、かねてから海舟の自慢《じまん》の第一だった。反動も大きいがよく命中した。海舟は銃把《グリツプ》を精緻《せいち》な彫刻《ちようこく》をほどこした象牙《ぞうげ》で巻かせ、その拳銃に≪雷哮《らいこう》≫と命名して悦《えつ》に入っていた。 ≪雷哮≫を握《にぎ》りしめると、海舟の体内に、にわかに自信がよみがえってきた。  時間局の密偵《みつてい》であろうと、なんであろうと少しも恐《おそ》ろしくなくなった。 「おのれ。ちょこざいな密偵どもめ!」  海舟は拳銃を構えると、引鉄《ひきがね》をしぼった。  どううん!  すさまじい発射音とともに、天井の飾《かざ》りガス灯のギヤマンの傘《かさ》が、粉微塵《こなみじん》になって飛散した。  ドアがどんと押しあけられ、榊原|大尉《たいい》や兵士たちの顔がのぞいた。 「参事官閣下。何事でござりますか」 「またまたあらわれましたか?」  口々にさけぶ。 「退《さが》れ! 誰《だれ》が勝手に部屋《へや》に入ってよいと言ったか。無礼者《ぶれいもの》めが」  海舟は大喝《だいかつ》した。  皆《みな》は、はじめて自分たちの行為《こうい》に気がつき、潮《しお》の退《ひ》くように部屋から出ていった。  海舟は≪雷哮《らいこう》≫を帯にたばさみ、大刀を脇《わき》に引きつけた。  ドアに内側から鍵《かぎ》をかけ、重い皮椅子《かわいす》を引きずってきてドアの前にすえた。 「これでよし」  時間局の密偵《みつてい》は、また襲《おそ》ってくるであろう。その一人、三原市之進は斬《き》り棄《す》てたが、あとの二人は復仇《ふつきゆう》の念に燃えてふたたびやって来るだろう。  拳銃《けんじゆう》だけでも、やつらを打ち倒《たお》す自信は十分にあったが、もうひとつぐらいてだてを考えておこうと思った。  海舟はしばらく考えてから、部屋のすみの|物入れ《ロツカー》のとびらを開いた。  古い書類や、使わなくなった洋杖《ステツキ》などといっしょに、先月あたりまで、昼食のあとの腹ごなしのつもりでやっていた半弓が矢とともにしまいこまれていた。  海舟はそれを取り出し、ほこりを払《はら》ってから弦《つる》を張り直した。  部屋《へや》のすみに、移動式の帽子掛《ぼうしか》け兼ついたてがあった。  それをつごうのよい場所に移動してきて、距離《きより》と位置をいろいろに案配した。  これがよいと思われる位置についたてを置くと、それに半弓を結びつけた。ついたては薄板《うすいた》に、牡丹《ぼたん》と唐獅子《からじし》の透彫《すきぼ》りがほどこされたもので、半弓を結びつけるのには極めて便利だった。  半弓に矢をつがえ、ひょうと放した。ほんのわずか引きしぼっただけなのに、矢は目にも止らぬ早さで部屋の空間を横切り、反対側の壁《かべ》に突《つ》き立った。  海舟は弓に矢をつがえ、思いきりしぼった弦《げん》に丈夫《じようぶ》なひもを縛《しば》りつけた。矢の、弓に接しているところはこよりで軽く縛りつけた。  こよりならば、放たれてゆく矢はその勢いで、矢自体を弓に縛《しば》りつけたこよりを引き千切ってゆくであろう。  そうしておいて、海舟は弦《つる》に結びつけたひもを長くのばし、その先を、自分の椅子《いす》の腕木《うでぎ》に結びつけた。  そのひもを断ち切れば、しつらえられている半弓は、たちまち鋭《するど》い矢を電光のごとく発射する。 「だが、まてよ。これだけでは十分でない」  海舟はいらいらと周囲を見回していたが、ドアを開いて、そこにたむろしている兵士に発条《バネ》や縄《なわ》や工具を持ってくるように命じた。 「私たちがいたしましょう。何を作るんですか?」  兵士たちは好奇心《こうきしん》の塊《かたまり》のように海舟の前に群らがった。 「いいから早く持って来い!」  海舟の怒声《どせい》に、かれらは首を縮めた。  早速、命じた品物が届いた。  海舟はドアを閉ざすと、工作にとりかかった。  発条を床《ゆか》に固定し、それを引締《ひきし》めて縄《なわ》で固定した。  弓弦《ゆづる》を引きしぼっている縄を、発条に結びつけた。発条がのびれば、結びつけられていた縄はぴんと張って弓弦をとめている金具を引きはずす。すると矢はたちどころに、定めの位置に立っている目標を確実につらぬく。  最後に発条からのびている縄をいっぱいに床にのばし、反対側の壁《かべ》の下で釘《くぎ》を打ち、とめた。  これで完全に仕上りだった。  間もなく日が暮れる。  海舟は、敵の再度の襲撃《しゆうげき》は、おそらく夜に入ってからであろうと思われた。  敵襲《てきしゆう》と同時に灯を消すと、暗黒と化した室内では、この仕掛《しか》けは敵の目には全く見えないはずだ。恐《おそ》ろしい陥穽《かんせい》と知らずに、侵入《しんにゆう》してくる敵にとって、この一撃《いちげき》は百人の伏兵《ふくへい》に出会ったのと同じぐらいの驚愕《きようがく》と恐怖《きようふ》を与《あた》えるに違《ちが》いない。  海舟はやや緊張《きんちよう》をほどき、≪雷哮《らいこう》≫の弾丸《たま》をつめ直した。  それを手元に置き、つぎに大刀を抜《ぬ》き、刀身に鋭《するど》い目を走らせると、あざやかな手つきで鞘《さや》におさめた。 「参事官どの。副司令官閣下がおよびであります」  ドアをノックする音とともに、当番兵の声がした。  海舟は拳銃《けんじゆう》に手をのばした。  周囲にゆだんのない視線をめぐらせた。 「参事官どの。参事官どの」  そっとドアの前へ進んだ。 「当番兵はだれか?」 「北川《きたがわ》一等卒であります」  声と口調はたしかに聞きおぼえのある北川一等卒のものだった。 「廊下《ろうか》に誰《だれ》かいるか?」 「誰もおりません」  ドアの向うが静かになったところをみると、さっきの連中は解散したらしい。 「よし。ちょっとそこを離《はな》れていろ」 「は?」 「ドアの前から離《はな》れていろ」 「はい」  北川一等卒の気配が遠のいた。  海舟は拳銃《けんじゆう》を手に、ドアの鍵《かぎ》をはずしてそっと押し開いた。  薄暗《うすぐら》い廊下《ろうか》には、北川一等卒のほかは人影《ひとかげ》もない。  海舟はドアの外へすべり出ると、閉ざしたドアに鍵をかけた。  北川一等卒は海舟の手の拳銃を目にして、ほおを硬張《こわば》らせた。 「先に歩け」 「自分が閣下の前を歩くのでありますか」 「そうだ」  北川一等卒は思いがけない海舟の言葉にどぎまぎしているようすだったが、心地悪そうに歩きはじめた。 「これでよろしいのでありますか?」 「そうだ」  海舟は拳銃を体のかげにかくすようにして北川一等卒のあとに続いていった。  誰《だれ》も見ていなかったからよかったようなものの、士官に出会ったら北川一等卒がこっぴどくしぼられたところだった。参事官閣下がそうしろと言ったからだなどと言っても通るものではない。  海舟もそれは心配しないではなかったが、彼も剣客《けんきやく》である。営内規則や服務規律などよりも自分の生命の方が大切であることは幕末の争乱の頃《ころ》から肝《きも》に銘《めい》じている。  副司令官室のドアからはあかるい灯がこぼれていた。  ドアをノックすると、野太い声がひびいた。 「や、お入りください」  机の向うに、でっぷりと太った伊地知元之助《いじちもとのすけ》少将が、赤ら顔を灯にてらてらと光らせておさまりかえっていた。 「参事官どのにわざわざご足労を願っておそれ入りますな」  伊地知少将は恐縮《きようしゆく》したように、椅子《いす》を進めた。 「参事官どの。先程、貴官の部屋《へや》に暴漢が侵入《しんにゆう》したらしいという報告を受けましたが、ほんとうのことでありますかな。貴官からは何の報告もないのに、さしでがましいことをなすもいかがなことかと思い、直接調査も命じませなんだが、ここは監軍《かんぐん》司令部でござれば、不祥事《ふしようじ》があってはならん。もし、そのようなことがほんとうに生じたのであれば、貴官の胸におさめているだけでなく、公の問題にしてもらわなくてはなりませぬぞ」  伊地知少将は言葉を探し、えらびながら慎重《しんちよう》に言った。  少将は過ぐる日露《にちろ》の戦いでは、満州の地こそ踏《ふ》まなかったが、大本営の置かれた広島にあって情報部を指揮し、中国から朝鮮、満州、シベリヤにかけて千余の日探《につたん》を手足の如《ごと》く動かして、諜報《ちようほう》や破壊《はかい》工作に恐《おそ》るべき力を発揮し、ロシヤ皇帝の肝《きも》を冷やした男だった。  少将は温和な目の中に、刺《さ》すような光をキラリと光らせた。 「ご心配をおかけしてまことに相すまぬことであります。暴漢が侵入《しんにゆう》したということでありましたが、それは立哨《りつしよう》の兵の見間違《みまちが》いと思われます。彼らはかねてより小輩《しようはい》がかわいがっておる士官と下士官たちであり、本日、参謀《さんぼう》本部まで所用で参ったのを機会に、小輩を訪れてきたものであります。闘争《とうそう》と見えしものは、実は彼らは武術得意の者にて、かねて工夫の形を披露《ひろう》なしたるものであります。反対党|過激派《かげきは》の乱入などとは言語道断。きつく叱《しか》っておきました」 「いや。そのようなことであろうと思っておりましたが榊原|大尉《たいい》が、たいへん心配しておりましてのう。そううかがって安心いたしました。それでは早々にお引き取りください」  海舟はゆったりと頭を下げ、伊地知少将の前を離《はな》れた。  とつぜん、海舟の頭のどこかに、電光のようにひらめいたものがあった。 「榊原が伊地知に報告したのにちがいない。いかなる報告であれ、庁内で起った事件の調査と結果の報告は衛兵司令が副司令官に対して行うものだ。榊原が報告するなどというのは、あきらかに越権行為《えつけんこうい》だ。なぜだ? 答はひとつ。榊原はあのできごとを表|沙汰《ざた》にしたいのだ。と、いうことは、庁内におけるおれの立場を失わせ、彼らが活動しやすい情況《じようきよう》を作り出すことにあるのだ。すなわち榊原は時間局の密偵《みつてい》だ!」  海舟は背筋がつめたくなるような気がした。 「そうだったのか! やつらはこんな所にまでもぐりこんでいたのか」  海舟はくちびるをかみしめた。 「よし、先んずれば人を制すだ。向うから来る前にこっちから行くぞ!」  海舟は草の葉のように蒼《あお》ざめ、ついで満顔に朱を刷《は》き、そして震《ふる》え出した。  怒《いか》りが爆発《ばくはつ》する寸前だった。  海舟は怒りをおさえて自室にもどった。 どこかの部屋《へや》で時計がゆっくりと六つ打った。  海舟は従兵を呼んだ。 「榊原|大尉《たいい》に来るように言ってくれ」 「大尉どのは先ほどお帰りになりましたが」 「帰った?」 「はい」 「大尉の家はどこだ?」 「番町四丁目の官舎であります」 「家族は?」 「大尉どのお一人であります。ご家族はいらっしゃらないようであります」 「あやしい!」 「は?」 「いや。なんでもない」  海舟はひとり、大きくうなずいた。  あやしい。ぜったいにあやしい。  榊原大尉は時間局の密偵《みつてい》に違《ちが》いない。  海舟はうめいた。 「榊原大尉にすぐ来るように言ってくれ」  従兵はつねにない海舟の剣幕《けんまく》に、あわててとび出していった。  海舟という人は、日頃《ひごろ》、あまり物事に感動したり心を奪《うば》われたりする様子の見えない人物だったから、誰《だれ》もが、沈着《ちんちやく》、剛胆《ごうたん》と思っていたが、実際は小心に近いほど慎重《しんちよう》で、思いこみがはげしかった。自分でいったん、こうときめつけると、人が何と言おうと、事態があらたまろうと決して変えることがない。  それが海舟の長所でもあり欠点でもあった。  榊原|大尉《たいい》に協力している者は三、四人あるようだ。彼らは大尉の任務の上での部下なのか、それとも時間局の密偵《みつてい》としての部下なのか、その点が不明だった。だが、時間局の密偵と考えた方がよさそうだった。 「まとめてやっつけてやるぞ!」  海舟は武者ぶるいした。  官舎から監軍《かんぐん》司令部までは徒歩で約二十分。馬で来るとすれば十分ぐらいだ。  海舟は羽織《はおり》を脱《ぬ》ぐとたたんで椅子《いす》の上に置き、ひき出しの奥《おく》から武術練習の時に使っているたすきを取り出してかけた。  大刀を腰《こし》に落すと、勇気と自信が盛《も》り上ってきた。     36  時計の文字板に目が吸いつけられているうちにたちまち十分たってしまった。 「来るぞ!」  海舟は急に尿意《にようい》をおぼえた。  これはいかんぞ。  そう思うとよけいしたくなった。  今から便所へ行っていたりしては、万事、ぶちこわしだ。  海舟はそわそわと室内を歩き回った。  玄関《げんかん》の方で人声がした。  海舟は室外に精神を集中しようとした。だがそれもひと呼吸ぐらいの間で、すぐに尿意が先行する。  話し声が廊下《ろうか》を近づいてくる。 「あああ」  海舟は悲鳴とも嘆息《たんそく》ともつかぬ声をもらすと、部屋《へや》のすみへ飛んでいった。その一角に、七宝焼の大きな花瓶《かびん》がすえられていた。  海舟ははかまのすそを高くまくり上げると、花瓶の中へじょぼじょぼと放出した。  ここちよさに、ぶるぶるっと体が震《ふる》えた。  これをがまんして戦うなど、とてもできるものではなかった。  何回も体をゆすって、はかまのすそをおろした時、背後でドアが開いた。  ぎょっとしてふりかえると、ドアのこちら側に榊原|大尉《たいい》が立っていた。 「ややっ。おまえ。いつからそこに。ノックもせずに無礼《ぶれい》ではないか!」  海舟は見当|違《ちが》いのことで猛烈《もうれつ》に腹を立てた。  部屋の中で放尿《ほうによう》しているところを見られたという恥《は》ずかしさが、海舟の理性を完全に奪《うば》った。 「ノックいたしましたが、お答えがなかったもので。室内で気配がいたしますので、もしや昼間の如《ごと》き事件でもあってはと思い、失礼とは存じましたが、入室いたしました」  榊原大尉は、海舟のぶざまな姿を目にしたはずなのに、そのことにはいささかもそぶりを見せず、真摯《しんし》な口調で説明した。 「黙《だま》れ。黙れ! 無礼者《ぶれいもの》め。おまえ一人か。なかまはどうした?」 「なかまとは何のことでありますか?」 「こやつ。しらばくれるつもりか! わかっておるのだ」  榊原大尉は当惑《とうわく》したように、海舟を見つめた。 「参事官どの。小官にはおっしゃることの意味がわかりません。ご説明いただけませんか」 「大尉。きさま。いつからこの監軍《かんぐん》司令部へ潜入《せんにゆう》していたのだ?」 「参事官どの。小官はこの監軍司令部の官房《かんぼう》主事であります。潜入とはいかなることでありましょうか」  海舟は、どんと床《ゆか》を踏《ふ》みならした。 「つべこべとぬかすな。おい。榊原。これが見えないか」  海舟は帯にさしていた拳銃《けんじゆう》を抜《ぬ》き出すと、銃口《じゆうこう》を大尉《たいい》の顔に突《つ》きつけた。 「吐《は》け! 時間局の密偵《みつてい》め」  大尉はあんぐりと口を開いた。  その口の中へ海舟は拳銃の銃口を突《つ》っこんだ。  大尉は驚《おどろ》いて背後へ跳《と》び下った。 「なにをなさるんですか。参事官。たとえ上司であっても、ゆえのない無礼は許しませんぞ」  榊原大尉は満面に朱をみなぎらせて腰《こし》の軍刀の柄《つか》に手をかけた。 「元|二本榎藩御馬回役《にほんえのきはんおうままわりやく》にて百五十石を戴《いただ》き併《あわ》せて藩校明智館《はんこうめいちかん》において指南役をつとめる二本榎《にほんえのき》 神刀流《しんとうりゆう》 総免許皆伝《そうめんきよかいでん》、榊原|小文吾《こぶんご》 橘《たちばなの》 早成《はやなり》。たとえ勝海舟先生といえども数多《あまた》の無礼|容赦《ようしや》はしませんぞ」  腰《こし》を低く落した据物斬《すえものぎ》りのかまえで、じりじりとつめ寄った。 「きさま。上官に手むかいする気か!」  海舟はもう何が何だかわからなくなって、両手で拳銃《けんじゆう》を握《にぎ》ったまま、おろおろとあとじさった。  榊原|大尉《たいい》は完全に目が釣《つ》り上って人が変ったようになり、間合いをとって斬撃《ざんげき》の姿勢に入った。 「おい。射《う》つぞ! ほんとうに射つぞ!」  海舟は引鉄にかけた指に力をこめた。  とつぜん、榊原大尉の足が止った。  軍刀の柄《つか》を握《にぎ》りしめた手指はそのままに目も口もいっぱいに開かれた。  大尉は呼吸も止め、石のように凝結《ぎようけつ》して海舟の背後の一点を見つめた。  その顔が痴呆《ちほう》のようにゆるんだ。  居合の気合いが崩壊《ほうかい》すると、軍刀の柄を握っていた右手をのばして、あごをわくわくと動かした。 「…………!」  言葉にならない声がもれた。  大尉は、両手を前に突《つ》き出し、おそろしいものでも目にしたかのように後退した。  そのときになって、海舟ははじめて大尉の異変に気がついた。 「どうした? 大尉《たいい》」  海舟に大尉の異様な心の動きが感染し、背筋をつめたいものが走った。  ふりかえってはならない。  心の中でそう命ずる声があった。  だが、恐怖《きようふ》の源泉が自分の背後にある以上、ふりかえらないではいられない。  海舟は首をねじ向けた。  女が立っていた。  多めの、濡《ぬ》れたような黒髪《くろかみ》を櫛巻《くしま》きにして簪《かんざし》一本でとめ、銀ねずに薄茶《うすちや》の細い棒縞《ぼうじま》の着物に、渋《しぶ》い色の博多帯《はかたおび》が、ぞっとするような仇《あだ》っぽい女だった。  海舟の口からも、言葉にならない声がもれた。  今まで、この女が室内にいたはずがなかった。  どこから入ってきたのか?  混乱した頭の中で危険が渦巻《うずま》いた。  女は床《ゆか》から一尺ほどの高さのちゅうに浮いていた。 「お、おのれ! 妖怪《ようかい》」  榊原|大尉《たいい》は必死の声をふりしぼった。  女は動くともなく動いて床《ゆか》に足をつけた。 「勝さん」  女の綺麗《きれい》な声が、海舟の動きを奪《うば》った。 「なにものだ?」 「勝さん。あなたの首領のところへ案内してくださいな」 「なんだと?」  海舟は夢《ゆめ》とも現実とも思えぬ目の前のできごとから、ほんのわずか、自分の心を引き離《はな》すことができた。 「なにものだ? どこから入ってきた?」  榊原大尉はドアにしがみついて、必死にノブを回していた。うろたえきっているので、ドアを開くことができない。 「なんまんだぶ。なんまんだぶ……なんまんだぶ……」  大尉の口から、きれぎれに念仏が飛び出した。 「わしはなにもかかわりあいはないんじゃ。かかわりあいはないんじゃ。わしはおまえなぞにうらまれる筋合いはないんじゃからな……」  ようやくドアが開いた。  大尉は廊下《ろうか》へ飛び出した。 「参事官どののお部屋《へや》に幽霊《ゆうれい》が出たぞう!」  海舟は拳銃《けんじゆう》の引鉄を引いた。  何の音もしなかった。  もう一回引いた。  やはり何の音もしなかった。  海舟は床《ゆか》に拳銃を投げ棄てた。 「勝さん。安全|装置《そうち》をかけたままでは、射《う》てませんのよ」  女の声は笑いをふくんでいた。 「おのれ! 過激派《かげきは》」  勝は目にもとまらず、白刃《はくじん》を抜《ぬ》き放った。  刀を抜くと、強烈な自信がよみがえってきた。  その実、斬《き》り合いの経験は全くなかった。それでも自分は江戸でも屈指《くつし》の使い手だと思っていた。  その自信が、海舟の刀術をいがいに冴《さ》えたものにしていた。  海舟の両足は床《ゆか》を蹴《け》った。白刃《はくじん》を大上段にふりかぶると、ちゅうを飛んだ。女のまっこうから切って落す。  三尺の大剣《たいけん》が白銀の円弧《えんこ》を描《えが》き、切っ先が高い天井《てんじよう》に髪《かみ》一筋ほどに切り込んでそのまま、女の頭上にひらめいた。  女が、ゆら、と動いた。  その動きは、海舟よりもはるかにゆるやかで、舞《まい》のように優雅《ゆうが》だった。 「見たか!」  海舟は正確な斬撃《ざんげき》の力点を残心にとどめ、胸の底から息を吐《は》いた。  これまで味わったことのない異様な快感が全身を貫いた。海舟は何回も全身を震《ふる》わせた。  頭の奥底《おくそこ》がかすんだようになった。  何秒かが過ぎた。  海舟はようやく肩《かた》から力を抜《ぬ》き、左足を引きつけると同時に体を起し、右手の大刀をあざやかに回してつば音高く鞘《さや》におさめた。  倒《たお》した敵をあらためようとして体を動かした時、海舟はおのれの股間《こかん》が、なまあたたかいねばつきに富んだ液体にひたされているのに気づいた。  それはおびただしい量のおのれの精だった。 「勝さん。ちと、ご修業がたりないんじゃござんせんか」  背後から笑いをふくんだ女の声が流れてきた。  海舟はぎょうてんした。  ふりかえると、女が、子供のいたずらを見つけたような顔で笑っていた。  あの斬撃《ざんげき》をどうやってくぐり抜《ぬ》けたのだろうか?  海舟の頭のどこかを、強い疑念がかすめていったが、生理的な屈辱《くつじよく》の方がはるかに強い力で海舟の心を支配した。 「こやつ!」  海舟は剣客《けんきやく》らしからぬ罵声《ばせい》を発すると、大刀をふりかぶって、頭から激突《げきとつ》していった。花のようにひるがえって白刃《はくじん》をくぐる女を、右に左に追い回す。 「ええい。こなくそ!」 「これでもか! これでもか!」  もう剣技《けんぎ》も何もない。大刀を打ちふり打ちふり、部屋《へや》いっぱいに走り回る。  これではいかなる体力の持ち主でもたまらない。海舟はたちまち息が上ってしまって、目がくらみ、床《ゆか》にどさりと尻《しり》を落した。  女は、白刃《はくじん》をひっさげたまま壁《かべ》を背に、ひっそりと立っていた。  海舟は今まで自分が追いかけ回していたものは何だったのだろうかと思った。  女は、さっきからそこに立っていたような気がする。  自分は幻影《げんえい》を追い回して、ねずみのように走り回っていただけなのであろうか?  とつぜん、灼《や》けるような恐怖《きようふ》が衝《つ》き上げてきた。  ここで倒《たお》さなければ自分がやられる。  相手は反対党の過激派《かげきは》などではなかった。  時間局の密偵《みつてい》だった。  海舟の目がよみがえったように光った。  女は海舟がしかけた半弓のターゲットの位置に立っていた。  海舟は思わず息をはずませ、そっと視線を動かした。女の位置は確実だった。  海舟はこおどりしたい気持ちを必死におさえつけた。  あとは弓弦《ゆづる》をとめてある縄《なわ》を断ち切ることだ。そこまでの距離《きより》は約二メートル。跳躍《ちようやく》して一瞬《いつしゆん》に切断することは十分に可能だ。  だが、海舟は慎重《しんちよう》に足指を這《は》わせた。  失敗は許されなかった。  じりじりと移動する。  床《ゆか》にとめた縄の端《はし》がようやく左足の前へ移ってきた。  今だ!  海舟は右手に構えた大刀を床にたたきつけた。  両断された縄が躍《おど》った。  びいいいん!  弓弦《ゆづる》が高く鳴った。  電光のように矢が飛び出した。  距離《きより》は三|間《げん》。  一瞬《いつしゆん》のうちに、女は矢に貫かれた。 「おねえさん!」  どこかで誰《だれ》かのさけび声が聞えた。 「思い知ったか」  海舟は女にかけ寄ろうとした。  だが、まだ女は元の位置に立っていた。  矢は?  矢は弓弦を離《はな》れていた。  弓弦はゆっくりとはげしい振幅《しんぷく》をくりかえしていた。  一尺九寸の短い矢は、空間をゆっくりとすべっていた。  それは音もなく、生きているもののように、するすると女に向って近づいていった。     37  稲村かもめは、〇・一二秒の未来にいた。  電光のように一直線に飛来した矢は、笙子《しようこ》の右の、脇《わき》に近い背中に突《つ》き立った。矢の先端《せんたん》が左の胸から突出《とつしゆつ》し、鮮血《せんけつ》の滴《しずく》が花火のように飛んだ。  笙子はよろめき、右へ倒《たお》れこんでいった。  海舟の烈《はげ》しい切り込みをさばくのに気を取られ、思いがけない奇襲《きしゆう》を避《さ》ける心の余裕《よゆう》が失せた一瞬《いつしゆん》の陥穽《かんせい》だった。  かもめの右手は、反射的に左手の指にはめたタイム・マシンに飛んだ。  ほとんど無意識にキーをたたいた。  マイナス〇・一四。  事態をほんのわずかさかのぼる。  矢は弦《つる》をはなれた。  びいいいん。  弦のうなりが空気を震《ふる》わせている。 「おねえさん!」  かもめはさけんだ。  その声に笙子の全神経が急迫《きゆうはく》する危険をとらえた。  笙子の視界のすみから、短かい矢が、ゆっくりとあらわれた。  糸で曳《ひ》くように、空間を横切って、真直に移動してくる。  笙子はその光景の意味するすべてを察知した。  矢は笙子の体から一メートルの距離《きより》まで迫《せま》った。  笙子は手の白刃《はくじん》を握《にぎ》り直すと、体をひねりざま、矢を切って落した。  海舟の驚愕《きようがく》と恐怖《きようふ》が、ついに悲鳴となってその口を突《つ》き破った。 「逃《に》げるのですか? 勝さん」  海舟はもはや見栄も外聞もなかった。  ドアを蹴破《けやぶ》るように押し開くと、廊下《ろうか》へ飛び出した。 「どけ、どけ!」  海舟は驚《おどろ》いて走り出てくる士官や下士官たちを、白刃《はくじん》をふるっておどしつけ、開けた廊下《ろうか》を突《つ》っ走った。 「どうした? 何の騒《さわ》ぎだ?」  副司令官室のドアが開いて伊地知少将の顔がのぞいた。  ドアの前に立っていた一人の中尉《ちゆうい》がふりかえった。 「さあ。なんとも。気でも触《ふ》れたのかな」 「勝先生がか」 「尋常ではありませんな」 「様子を見てきてくれんか。おぬしは? 見たことのない顔だが」 「監軍部《かんぐんぶ》憲軍大隊検察第三番隊副頭取。陸軍|中尉《ちゆうい》花園大助であります」 「おおそうか。役向きのことではないが、勝先生から目を放さんでくれ」 「かしこまりました」  花園中尉はかたわらの部下をひきいて走り去った。  海舟は玄関《げんかん》から走り出ると草むらに大刀を棄《す》てた。  背を丸めると必死に走った。  監軍部《かんぐんぶ》のある隼《はやぶさ》 町《ちよう》の南側の道路を西へ向うと、華族《かぞく》女学校から閑院宮邸《かんいんのみやてい》と続き、松林を過ぎると赤坂門である。その赤坂門をくぐらず、堀《ほり》に沿って左へ曲ると木々の間に木造三階建、銅瓦《がわら》ぶきの荘重《そうちよう》な陸軍外国調査所が見えてくる。  大内山の緑に続くこのあたりは、昼でも薄暗《うすぐら》いほど樹々《きぎ》が繁《しげ》っている。  今は夜だし、ほとんど鼻をつままれてもわからないほど深い闇《やみ》だった。  赤坂見附の方角の空がぼうっとあかるい。町屋の灯が、濠《ほり》の水面に反射しているのであろう。  海舟は馴《な》れない夜道を、ころげるように走った。  青いガス灯が門柱と鉄の門扉《もんぴ》を照らし出していた。  門柱の下の哨所《しようしよ》に立っていた兵士が、走り寄ってくる海舟の姿に、棒立ちになった。 「あけろ!」  海舟の声に、兵士は門扉にかけ寄り、海舟をむかえ入れた。  海舟は玄関《げんかん》からどかどかと走りこんだ。  陸軍外国調査所は、正式には陸軍外国軍事調査所と呼ばれていた。諸外国の軍制や兵器、戦史など専門に調査する機関だった。  外国から軍事教官や顧問団《こもんだん》を招聘《しようへい》する時など、この調査所が人選に当った。武器を購入したり製作権を買ったりする場合の選択《せんたく》決定もここでおこなった。  それだけにここでは外国の高級軍人や外国商社員らが足|繁《しげ》く出入りした。 「ジョーンズ氏はいるか?」  受付からのぞいた曹長《そうちよう》があわてて頭を下げた。 「ウイリアム・ジョーンズ博士でありますか?」 「ほかにいるか? ジョーンズが」  海舟の見幕に恐《おそ》れをなして曹長《そうちよう》があたふたと廊下《ろうか》へあらわれた。  それを尻目《しりめ》に、海舟は廊下を奥《おく》へ走った。  廊下の最も奥まった所に、陸軍調査所|御傭《おやと》いのアメリカ合衆国でドクター・オブ・サイエンスの称号を戴《いただ》き、大英帝国王立学士院会員で独逸《ドイツ》国科学協会|名誉《めいよ》協会員の栄に輝《かがや》くウイリアム・ジョーンズ博士の研究室が設けられていた。  博士の部屋《へや》に入ることができるのは、陸軍の最高首脳部の何人かに限られていたし、博士が、東京市中のどこに住み、どんな暮しをしているのか、誰《だれ》一人知る者がなかった。  博士がこの調査所に入って以来、調査所周囲の警備は厳重を極め、他の、あまり重要でない幾《いく》つかの組織と研究室はこの建物から他へ移されてしまった。  すべて監軍《かんぐん》参事官勝海舟のはからいだった。  ウイリアム・ジョーンズ博士の人嫌《ひとぎら》いはまことに極端《きよくたん》であり、肝心《かんじん》の外国軍事事情に関して、参謀《さんぼう》本部などから下問があったような時でも、ほとんど文書による回答をよせた。  文明開化の興奮なおさめやらぬ時代である。博士の奇行《きこう》は、博士を想像もつかない大天才として印象づけるのに十分だった。  ある時、ウイリアム・ジョーンズ博士は、訪れてきた陸軍の高官に、マッチ箱《ばこ》ひとつぐらいの大きさで、東京全土を吹っ飛ばすことができる爆弾《ばくだん》の製造が可能であると言った。それが客の口から、たちまち陸軍の幹部連の間にひろまった。  口から出まかせを言う男、といった批判と、博士ならもしかしたら可能かもしれぬといった薄気味《うすきみ》悪さをふくんだ肯定《こうてい》とが、ひそかに話のたねとなった。  将軍達の中には、首にしようと言い出す者もあったが、今のところ、日本の軍事の最高機密のほとんどを知っているのだから、うかつに首にすると、その知識を他の国へ行ってしゃべられる恐《おそ》れがある。  それゆえ、博士はさわらぬ神にたたりなしとして、ここにたてまつられていた。  海舟は博士の研究室のドアをはげしくたたいた。 「博士! 博士! 大変なことになった」  何の応答もなかった。 「あけてくれ! 博士」  海舟は今にも、背後からあの女が忍《しの》び寄って来るのではないかと、不安にいら立った。 「博士! 時間局の密偵《みつてい》がやって来たぞ!」  海舟は声をふりしぼった。  博士の研究室には、窓がひとつもないことを海舟は知っていた。  このドア以外に、どこからも出入りはできない。  博士は不在なのだろうか?  海舟の胸に真黒な絶望がわき上ってきた。  思わず、力いっぱいドアを蹴《け》った。  そのとたんに、ドアが内側へ開いた。  海舟はドアを蹴った姿勢で室内へころげこんだ。  そこに、白い実験着に身を包んだ背の高い外国人が立っていた。 「カツサン。シュウタイデスネ。ナニゴトデスカ」  流暢《りゆうちよう》な日本語が頭の上から降ってきた。 「醜態《しゆうたい》もへちまもあるものか! 時間局の密偵《みつてい》がやって来たぞ。おれはあやうくやられるところだった」  博士は獅子《しし》のような銀髪《ぎんぱつ》を掻《か》き上げた。 「じかんきょく? かつさん。それ、だいじょうぶです」  目も鼻も口も大きな顔が、にやりと崩《くず》れた。 「大丈夫《だいじようぶ》ってなぜだ?」 「時間局の工作員など、わしは問題にもしておらん。それよりも勝さん。ここへ逃《に》げこんで来たのはまずかった」 「なぜだ?」 「連中はここがわかっただろう」 「いや。誰《だれ》も尾行してきた者はいなかった」 「尾行なぞいらない。ほら。勝さん。このようなものを付けられているではないか。失礼」  博士は海舟の肩《かた》に手をのばした。左肩から平たいマッチ箱《ばこ》ほどの黒い箱をつまみ上げた。 「なんだね? それは」 「発振器《はつしんき》だ。電波を出している。その電波の方位をさぐれば、勝さんのあとを追えるのだ。と言ってもわかるまいがね」  海舟は不思議そうにその箱を見つめた。  海舟ははじめて見る博士の実験室に、視線をめぐらせた。  室内には、家具も実験装置らしいものも、なにひとつなかった。十二|畳《じよう》ほどの広さの部屋《へや》はがらんとして、床《ゆか》には厚くほこりが積っていた。ここで博士が起居していたらしい様子は全く無かった。  博士はこの部屋からあらわれ、この部屋へ入っていった。それは海舟も何回も目撃《もくげき》している。 「博士。あなたはここにいたんじゃないんだね。どこからか来ていたのかね?」 「この世界はまだ時空的に定着していないのさ」  海舟にはその意味はよくわからなかったが、博士の言葉は氷のようにひややかに耳にひびいた。  この世界を、自分の実験の対象とは見ていても、おのれの棲《す》む世界として愛情を持って見ているのではないらしいことが、妙《みよう》に現実的に海舟の胸にこたえた。  とつぜん、博士は激《はげ》しい不安を顔に浮かべると、ポケットから奇妙《きみよう》な箱《はこ》を取り出した。  それはずっと後の世に、マイクロ・コンピューターと呼ばれた物とよく似ていた。  博士は幾《いく》つかの鍵《キー》を押した。そのひたいに汗《あせ》の小さな玉が浮かんだ。 「しまった!」 「どうした?」  海舟はおびえた。自分の力のおよばない事態が、自分を押しつぶそうとしているような気がした。 「時間局のやつら、一分後のわしの位置に何かしかけたようだぞ」 「どのようなことだ?」 「一分後のここだ。あと一分たてばそれが爆発《ばくはつ》するのだ」 「ここから逃《に》げ出せばいいではないか」 「どこへ行っても同じことだ」 「そう。そのとおりですよ」  ふいに女の声が聞えた。  博士はポケットから拳銃《けんじゆう》を取り出した。銃口《じゆうこう》が奇妙《きみよう》にふくらんでいる。 「出て来い!」  部屋《へや》のすみに、まぼろしのような人影《ひとかげ》があらわれた。 「アインシュタイン博士。謎《なぞ》に挑《いど》むのは結構ですが、いかなる意味でも人命をそこねることは許し難いことですよ」  博士のたて髪《がみ》のような銀髪《ぎんぱつ》が、さか立つかと思われた。 「時間局|如《ごと》きにわしの実験の意味が解ってたまるか!」 「解っています。神の世界に近づくには、できそこないの部分は何回でも造り直せばよいというのでしょう」 「知っているのか?」 「あなたの、一八六一年、ウィーン大学での講演で力説していらした、その意味が最近ようやくわかりました」 「わかったら手を引け!」 「アインシュタイン博士。あなたは一九一五年、一般《いつぱん》相対性原理を完成するとともに、それにともなうもうひとつの理論を、ほぼ完全に樹立なさいましたね。時間局がその事実を察知したのは三〇〇〇年代のはじめでした。すでにその頃《ころ》、博士はひそかにプライベートな時間旅行を楽しんでおられましたね。それが単なる旅行にとどまらずに、歴史改変の計画を立てられたので、時間局もついに博士にその計画を放棄《ほうき》していただかなければならなくなりました」 「本来、すべての研究は自由なのだ。時間局だかなんだか知らんが……」 「博士。間もなく一分になりますよ」  アインシュタイン博士は、さけび声を上げてタイム・マシンに指を這《は》わせた。  博士の姿は消えた。 「醜態《しゆうたい》もへちまもあるものか! 時間局の密偵《みつてい》がやって来たぞ! おれはあやうくやられるところだった」  勝海舟が、いつもの彼らしくない乱れた姿で、噛《か》みつくようにさけんだ。  博士は銀髪《ぎんぱつ》を掻《か》き上げた。 「じかんきょく? かつさん。それ、だいじょうぶ……」  言いかけて博士は口をつぐんだ。  こんな所で無駄《むだ》に時間を消費したくなかった。  時間局の組織を相手に、一人で戦うことは不利だった。  いったん姿をくらまして、態勢を整えて出直すことだった。 「実験の妨害《ぼうがい》は絶対にさせないぞ!」  博士はタイム・マシンの目盛《めもり》を、三時間ほど過去に合わせた。  何の物音も聞えなかった。  永劫《えいごう》の暗黒だけが、さえぎるものもなく漠々《ばくばく》とひろがっていた。  ほんのわずかな光のしみさえなく、動くものの気配もなかった。  ここには生命のひとかけらも無く、これからあらわれるという何の兆しも無かった。破滅《はめつ》も無く、誕生《たんじよう》も無く、生も死も無かった。  もともと、そのような世界は、そこに存在していなかったのかもしれない。  それは、タイム・マシンの造り出した過去の幻影《げんえい》だったのかもしれない。  アインシュタイン博士は、その無明の闇《やみ》の中で凝結《ぎようけつ》していた。  長い長い、ほとんど永遠に近い時の流れが過ぎていった。 「アインシュタイン博士」  あの声が聞えた。 「あなたは一九一五年、タイム・トラベルの理論を完成すると、やがてこの世界を至福千年の世界に造り直そうと計画した。あなたは現実世界の誰《だれ》もが気がつかぬうちに、あなたが気にくわない歴史の部分をこっそり造り直してしまった」  アインシュタイン博士はうめいた。 「あなたは日本の歴史のどこかで、西郷さんと出会ったのね。そして、西郷さんによる明治日本の延長上で、現実の歴史の中の日本を造り直そうとした。そのための作業の協力者として勝海舟をえらんだ。でも、いけませんよ。博士。博士がどんなにすぐれた頭脳の持ち主でも、神さまじゃないんです。神さまのまねをしてはいけません」 「不覚だった。おまえたちにしてやられるとは。なんだ? この闇《やみ》は?」 「あなたの作り出した世界の、それが過去です。私たちは、あなたの作った世界の過去をことごとく消去しました。あなたが見ているものは、永遠の無です。それ以上、踏《ふ》みこむと、あなた自身が存在しなくなってしまいますよ。その永遠の無は、今もあなたの世界を少しずつ消しぬぐいながら、一分の過去に迫《せま》ってきていますよ。わかりますね。博士。あなたはこの世界でたった二分間存在するだけなのです。あと一分五十秒です。一分四十秒。一分三十秒……」 「私に何を要求するのだ?」 「それはもう言いました。タイム・マシンを放棄《ほうき》してあなたの存在した現実世界にもどりなさい」 「ことわる!」 「あと一分二十秒です」 「わしはアインシュタインだ。相対性原理を発見したのもこのわしだ」 「そんなこと、わかってます。あと六十秒。五十秒……」  博士の手から、目のくらむような真青な光条がほとばしった。  声の聞えてくる方向をなぎ払《はら》った。  すさまじいほのおが渦巻《うずま》いて立ち上った。  アインシュタイン博士は、もとの部屋《へや》にもどった。  海舟が床《ゆか》にうずくまっていた。全身が朱《あけ》に染まっている。  三原市之進が、血に濡《ぬ》れた刀身をぬぐっていた。 「やったのか! おまえ」  アインシュタイン博士は膝《ひざ》から下の力が抜《ぬ》け、床に崩折《くずお》れた。 「おぬしもか!」  市之進は大刀をふりかぶった。 「よせ! よせ! おれは……」 「知っている。おまえのように世の中をおもちゃにするようなやつは、おれがぶった斬《ぎ》ってやる」  博士はたまらず未来へ飛んだ。  にぶい爆発音《ばくはつおん》がどこからともなく、うなりのようにとどいてきた。  一九〇五年。明治三十八年。一月二日。午前十一時。水師営の村はずれにある一|軒《けん》の貧しい農家で、ロシヤ軍旅順守備隊は日本軍第三軍の軍門に降《くだ》った。  その農家の庭には一本の高い棗《なつめ》の木が枝を張っていた。その木の下に鶏小屋《とりごや》があり、汚《よご》れた鶏が数羽、時おりいさかい事を起してはけたたましいさけび声を上げていた。  その家には老爺《ろうや》が一人、生活を続けていた。戦禍《せんか》を避《さ》け、家族は北方の村へ避難《ひなん》させたという。  その家の一室が、講和の約の場に当てられていた。  ステッセル将軍は軍帽《ぐんぼう》を失い、戦場でひろった兵士の帽子《ぼうし》をかぶっていた。その顔は汗《あせ》とも涙《なみだ》ともつかぬもので濡《ぬ》れていた。  乃木大将は通訳を通じて語った。 「閣下。下士官と兵隊は戦時|捕虜《ほりよ》として抑留《よくりゆう》します。将校は本国|送還《そうかん》か捕虜か、どちらでも希望するようにします。武器その他の装具《そうぐ》はすべて日本軍に引き渡《わた》していただく。傷病兵は重症《じゆうしよう》以外は、これも本人の気持ち次第できめていただくことにしまっしょう。これでいかがでありますか」  ステッセル将軍は暗澹《あんたん》たる顔で、だが折目だけは正しく一礼した。 「乃木閣下の温情に感謝いたします」  それから両軍の将校たちは家の外へ出ると、棗《なつめ》の木の下で記念写真を撮《と》った。  旅順|湾《わん》からの冷たい風が、枯骨《ここつ》のような棗の枝に笛《ふえ》のように鳴った。  その風に乗って、勝利に酔《よ》った日本兵の唄声《うたごえ》が地を擦《こす》るように届いてきた。  風にゆれる|※[#木へん+聖]柳《タマリスク》のかげから、記念写真を写している一団を見つめているのは、笙子《しようこ》と元、それにかもめと市之進だった。 「これでようやくもとにもどったわね」 「西郷さんも、ひっぱり出されただけでかわいそうだったわね」  笙子が皆《みな》をふりかえった。 「さあ。こんどは、アインシュタイン博士が作った世界で傷つけられた現実世界を修復しなければ。世界中の人から、この事件の記憶《きおく》をすべて消し去るのよ。誰《だれ》もおぼえていてはいけないの。さあ。行きましょう」  もう一度、風が吹き渡《わた》ってきたときには、そこにはすでに何者の姿も無かった。  この作品は、昭和58年2月カドカワノベルズで刊行されました。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 (角川書店編集部) 角川文庫『所は何処、水師営』昭和62年3月10日初版発行