角川e文庫    |寛《かん》|永《えい》|無明剣《むみょうけん》 [#地から2字上げ]光瀬 龍   目 次  一   |品《しな》|川《がわ》|弘明院《ぐみょういん》  二   乱 刃  三   |柳生《やぎゅう》来たる  四   柳生一族  五   |丹《たん》|阿《あ》|弥《み》|由《ゆ》|紀《き》  六   町にひそむもの  七   襲 撃  八   さざれ石  九   政商の動き、あわただし  十   背後の影  十一  忍 び  十二  暗 闇  十三  |春日局《かすがのつぼね》  十四  お|丁字《ちょうじ》長屋  十五  血戦村松立場  十六  焼打ち  十七  月 光  十八  稲葉佐渡守  十九  |紅《ぐ》 |蓮《れん》  二十  おれん  二十一 円二郎占い  二十二 江戸討入り  二十三 庄田喜左衛門  二十四 青の魚  二十五 舟宿のおかみ  二十六 時間局  二十七 審判の時  二十八 寛永御前試合  二十九 無明の敵  三十  決 戦   あとがき   角川文庫版あとがき     一 |品《しな》|川《がわ》|弘明院《ぐみょういん》  右がわは|烏森《からすもり》から|芝《しば》|赤《あか》|羽《ばね》にかけての広大な埋立地で、工事は七分どおり仕上っていたが、なお海ぎわでは昼夜をわかたぬ作業が進められていた。かつてははるかな沖合であったあたりに幾十ものかがり火が燃え、すき[#「すき」に傍点]やくわ[#「くわ」に傍点]をふるったりもっこ[#「もっこ」に傍点]をかついだり、また土をつめた大きな竹かごを背につけた馬やそれを引く人影などが小さな人形のように動き回っているのが遠くのぞまれた。  ときおり海の方から|汐《しお》の香をふくんだ風がわたってくると、工事場の|喧《けん》|騒《そう》がいやにはっきりとどいてきた。  左がわは二、三年前まではさびしい漁村であり、干魚をならべた棚や、塩を焼くかまどなどが設けられていたものだが、今では漁民の家もろともそれらはすっかり取り払われ、かわって大名や大身の旗本の屋敷の建築がはじめられていて、林立する柱やかけわたされた高い|梁《はり》がくらい夜空に浮き上って見えていた。  時刻はもう真夜中に近い。低い空をよたかが鳴きながら飛び過ぎていった。 「もうそろそろはじまってもよい|頃《ころ》だが。手ぬかりはなかったであろうな」  さっきから落ち着かなく、かぶっている|塗《ぬ》り|籠《ご》めの|陣《じん》|笠《がさ》の緒をしめなおしたり、腰骨に当っている大刀をしきりに据えかえたりしていた|与《よ》|力《りき》の|大橋喜重郎《おおはしきじゅうろう》が見えるはずもないくらやみの奥へのび上った。 「はっ」  少し離れて地面に片ひざをついてひかえている何人かの同心の一人が気負った調子でこたえた。 「見にゆかせよう」  大橋喜重郎がたまりかねたようにふり向いた。その声にはっきりと今夜の大役をあずかった初老の与力の焦慮があらわれていた。 「のう」  |六《ろく》|波《は》|羅《ら》|蜜《み》たすくはそれを軽くおしとどめた。 「いや。もうしばらく待ったがよい」  なにもあわてることはない。たすくは大刀のさやのつば元近くはまっている平打ちのかんざしをぬきとると、いつものくせでそれを片方のてのひらに軽く打ちすえた。  そのぴたっ、ぴたっという音に喜重郎はたちまちかんの強い声を向けた。 「やめい! それを聞くといらいらするわ。お|主《ぬし》はいつものように半分ひょうげた心でおる」  たすくは肩をすくめたが、手の動きだけはそのままに、 「これはしたり。ひょうげたような、とは。これでもお役大事と精いっぱいでござる」  喜重郎の感情が爆発寸前まで高まった。 「それ、その言いようよ。|六《ろく》|波《は》|羅《ら》|蜜《み》|氏《うじ》! お主は|松平伊豆守《まつだいらいずのかみ》さまご|差《さ》|配《はい》にて|北《きた》|町《まち》奉行所出仕と思えば、わしもこれまでやかましいことは言わなんだ。それをよいことになんぞ! しょせんお主は奉行所与力と申しても|客《まろ》|人《うど》。このお役目にも身が入ろうわけもないわ。かまわぬ、|去《い》んでよいぞ」 「まあまあ大橋|氏《うじ》、時が時なればここはこらえられませい。六波羅蜜どのもそのへんのところはご遠慮あってしかるべし」  今夜の|出役《しゅつやく》二番与力の|村上茂十郎《むらかみもじゅうろう》があわてて割って入った。部下の同心たちの前で上役の与力たちにいさかいをおこされたのではまるで面目がたたないと思ったのであろう。 「今夜の捕物は近ごろにない大がかりなもの。手落ちがあってはならぬ。ご両者も構えてごゆだんなさらぬよう」  出役二番とあって、大橋喜重郎に一歩、格はゆずるが、五十歳を半ば越した老練な古参与力の村上茂十郎の言葉に、大橋喜重郎も舌打ちをくれただけでおし黙った。もともとたすく[#「たすく」に傍点]にも喜重郎を笑い者にしてやろうなどという気持ちがあったわけではない。かねてから家柄と多少の才能を鼻にかけて他人を|見《み》|下《くだ》すきらいのある喜重郎だが、茂十郎の言うように今夜の捕物はかなり重要な事件だった。たすくも喜重郎に手がらをたてさせてやりたいと思う。まして自分が|老中《ろうじゅう》、松平伊豆守|信《のぶ》|綱《つな》の特命によって|勘定頭《かんじょうがしら》支配諸国産物|吟《ぎん》|味《み》|方《かた》与力よりこの江戸北町奉行所へ与力格|添《そえ》|役《やく》出向として|出《で》|張《ば》ってきている以上、大橋喜重郎に協力するのは当然のことであった。  諸国産物吟味方はいわば机の上の仕事であった。これは全国各藩の特産物とその生産量を監視すると同時に、江戸に出荷され、また上納されるそれらの特産物の品質検査から市場の監視、課税に至るいっさいを取り扱う機関であった。その職員である吟味方与力が急転して江戸町奉行所づめとなるにはそれなりの理由もあった。年々膨張してゆく機構に人手が追いつけないでいるということもあったが、たすくの場合には諸国の事情に精通しているというのがその一つであろう。  数年来、幕府は単なる火つけ盗賊改めの活動だけでは処理しきれないやっかいな事件に頭をなやませていた。  今夜もその一つだった。 「北町お奉行、神尾永勝さまもいたくご心痛とのことじゃ」  村上茂十郎がだめ押しのようにつぶやいた。たすくはこの実直な老人が気の毒になった。たすくは手のかんざしを大刀のさやにもどした。  |闇《やみ》の奥は物音一つなく、いつまでも静まりかえっていた。 「知らせた者でもあって逃亡したのであろうか」  喜重郎が腹の底からうめくように言った。 「もうしばらくようすをみるといたしましょう。なにせ、|石《いし》|川《かわ》|修《しゅ》|理《り》といえば|豊《とよ》|臣《とみ》家縁故につらなる者としてもっとも重きをなす人物。慎重のうちにも慎重を期さねばなりませぬ」 「たかが浪人の分際で|徳《とく》|川《がわ》家に弓を引くとはなんたるおろか者め! 徳川もすでにご三代さま。なにを血迷って今さら豊臣家の再興であろうか!」           *  |家《いえ》|康《やす》逝いて十八年。三代将軍|家《いえ》|光《みつ》のもとに幕府の基礎もようやく固まり、|諸《しょ》|法《はっ》|度《と》の改訂、|外《と》|様《ざま》大名への支配権の確立、内外諸機構の整備など有力な政策の遂行に大きな成果を収め、急速に幕藩体制の仕上げがなされてゆく、時に|寛《かん》|永《えい》十一年であった。  しかしそうした繁栄を約束された建設の時代が、|元《げん》|和《な》元年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してからまだ十九年にしかならぬことを考えると、そこにもう一つの側面が浮き上ってくる。  大坂夏の陣で一応反幕勢力の中心である豊臣家は消滅したものの、その豊臣家を表面に押し出した陰の勢力である西国、九州の外様大名たちが末期の豊臣家に優るとも劣らない経済的、軍事的な実力を有していることは新興徳川幕府の存立を根底からくつがえすような事態を生むかもしれない危険をたえずはらんでいた。天下は回り持ちの観念がまだまだ外様大名たちの間ではごくふつうに浸透していたし、風雲をのぞむ浪人武士団は大量失業者としてちまたにあふれていた。いずれはふたたび争乱の時代がくる、というのが、当時の武士社会の一般通念であった。  そうした時代を反映して、このころ江戸、京坂地方に頻発するのが反幕陰謀事件であった。単に反幕陰謀事件といってもこれにもさまざまあり、外様大名弾圧、改易、取りつぶしに対抗して所管高級官僚の暗殺を企図するものもあれば、西国豪商らの江戸経済に対する陰に陽にしつようにくりかえされる妨害工作もあり、また何者が発したとも知れぬ町人の間の流言飛語もあり、その対策に幕府は多くのエネルギーを|割《さ》かなければならなかった。幕府はそれら反幕活動の記録をことごとく公式の記録から意識的に抹殺してしまい、そのため後の世ではその|全《ぜん》|貌《ぼう》をつかむことはおよそ困難になってしまったが、それでもなお一部の社寺の記録、資料にうかがい知ることができる。  そうした時代の背景をぬきにして、寛永十四年におこった|島《しま》|原《ばら》の乱、|慶《けい》|安《あん》四年の|由井正雪《ゆいしょうせつ》の|謀《む》|反《ほん》、ひいては|元《げん》|禄《ろく》十四年の|浅《あさ》|野《の》浪人の|吉《き》|良《ら》家討入り、そして徳川時代を通じてついに全国に絶えることのなかった|土《ど》|一《いっ》|揆《き》の本質を考えることはできない。そこに流れているものは、後世の人々が観念的に受け止めているほど徳川勢力は確固とした安定勢力として存在していたようなものではなく、機会があればいつでもお仕着せの秩序を踏み破り、幕府の統制を無力にしてしまうような潜在的雰囲気が底流にあったのである。  |小《こ》|西《にし》浪人石川修理が老中襲撃の意図をもって江戸に潜入したとの報がひそかに京都所司代より幕閣にもたらされたのは三月も終りに近い頃だった。それから必死の探索一か月。ようやくかれら一味の潜伏場所をつきとめたのは、京都からの情報の告げるかれらの決行期日を、あと二日のちにひかえた四月五日だった。  小西|行《ゆき》|長《なが》の端に連なる石川修理はとくに武勇で聞えた武士ではなかった。江戸町奉行の与力たちにはむしろ奇異な感のするほど、新しい名前であり、その意味で無名だったといってよい。しかし幕府上層部はその名に極めて緊張した。石川修理は小西行長のかくれた勘定奉行というよりも、西国勢力と|堺《さかい》、大坂の豪商たちを直結するパイプともいうべき存在だった。たすく[#「たすく」に傍点]の知るかぎりでも大坂の油商、|和泉《い ず み》|屋《や》|弥《や》|四《し》|郎《ろう》、|安《あ》|芸《き》の|柴《しば》|富《とみ》|助《すけ》|三《さぶ》|郎《ろう》、長崎の|長《は》|谷《せ》|川《がわ》|左《さ》|兵《へ》|衛《え》また|越《えち》|後《ご》の|篠《しの》|之《の》|井《い》|屋《や》|早《そう》|武《む》|庵《あん》など、名代の政商たちがかれの要請さえあれば、その請われるだけの金銀や物資を呈上したといわれる。その石川修理は大坂夏の陣には大坂城内にあったが落城と同時に姿をかくし、その消息は一時、完全に江戸|表《おもて》へは絶たれていた。しかし近年、その名がふたたび西国、|島《しま》|津《づ》や|細《ほそ》|川《かわ》、|毛《もう》|利《り》、|黒《くろ》|田《だ》などの大藩の経済的な動きの中に聞えはじめたのだった。  その石川修理が幕閣高官の襲撃を企図して江戸に上ってきたとなるとそのかげにある問題は極めて複雑だった。もとより石川修理が刀をふるって高官たちの登城の行列やその邸に切り込むはずはない。よほど|手《て》|練《だ》れの兵法者を養い、大胆細密な計画を練って事をおこすに違いがないのだった。食いつめ浪人を金でやとって、ただおめき切り込ませるようなものではない。襲撃の手順から逃走経路、江戸からの撤退にいたるまで寸分のすきもなく仕組まれていることなのだ。当然、計画をたてるに当っての|厖《ぼう》|大《だい》な費用は石川修理個人が出しているのではない。どこかの強大な組織がそれをまかなっているのであろうことは疑う余地がなかった。  必ず決行いぜんに捕えよ!  厳命は飛んだ。  もしかれらの襲撃が成功し、一味の者たちが無事に逃げおおせたとしたら、かれらを助ける組織の勢力の強大さがいやでも天下に表明されることになる。もちろんそれだけで徳川幕府が動揺するわけもないが、現在幕府の強力に推進しようとしている多くの政策が強いブレーキを受けることはたしかであった。それは間接的に外様の勢力を天下に再認識させるだけの意味はあった。そして大坂・堺の豪商たちの政治的発言力は幕閣の内部深く、新たな浸透を見ることになるはずであった。     二 乱 刃 「もう待ちきれぬ。これ以上いたずらに時を過してはいかなる変事をもたらすやもしれぬ。村上氏、|誰《だれ》ぞ見にやれ!」  大橋喜重郎が強い声で言った。これ以上喜重郎をおさえるのはかえってよくない結果を生むと思ったか、村上茂十郎はひかえている同心の列に向って声高く言った。 「五番手より|作《さく》|兵《べ》|衛《え》、|京三郎《きょうざぶろう》、行け。即刻、弘明院へ突入せよ。こう伝えよ」  二人のかけ去る足音がゆくての闇に消えたとき、その方角からとつぜん、物の壊れる音と絶叫がわきおこった。 「おお! 村上氏、はじまったぞ!」  喜重郎が全身でさけんだ。  物音はさらにはげしくなり、刀身の打ち合う重い金属的なひびきまで聞えてきた。 「よし! |高《たか》|張《はり》に灯を入れ、高く掲げよ。御用|提灯《ちょうちん》にも灯をともせ!」  茂十郎が興奮と|安《あん》|堵《ど》の入り混った声で同心たちにさけんだ。  幾つもの高張ちょうちんにいっせいに灯がともされ、周囲はにわかに明るくなった。同心たちの手にする『御用』と書かれた弓張ちょうちんにも火が入り、急に光と人影があわただしく動きだした。あわてて手元が狂ったとみえ、幾つかのちょうちんが燃え上り、それを踏み消す人影が入り乱れた。  ちょうちんの灯影はざっと見ただけでは数えきれぬほどだった。建築中の屋敷の|梁《はり》の上にも幾つか上っていたし、はるか左へ遠く離れた|山《さん》|王《のう》へんの高台にもほたる火のようにちらついていた。  石川修理の一味のかくれひそんでいる弘明院は前方の|桜井雅楽頭《さくらいうたのかみ》の上屋敷建築場のむこうだった。その方角のごく近い空が急に真赤に染まったと思うと百千の花火が夜空にはじけた。つづいて鈍い爆発の音が夜気をふるわせた。 「しまった! 地雷火を使いおったぞ」  喜重郎が声をふるわせた。一味の者たちを捕えるどころか蓄積されてあった物資や重要手がかりもろとも吹っ飛ばしてしまうことになる。それでは完全に任務を果したことにはならない。 「ぐずぐずしおってこのありさまじゃ! 何をしておったのか|木《き》|戸《ど》|田《た》|文《ぶん》|五《ご》|郎《ろう》は!」  与力三番出役の木戸田文五郎は、直接踏込組の指揮をあずかっているのだった。  火災はいよいよはげしくなった。 「ええい! ここにこうしておっても気ばかり焦るわ、まいろう!」  みながいちどにどっと立った。 「よし。五番手は右に二十|間《けん》ほどに開け! 六番手は左へ二段に。見落しなきよう、ゆるりと進め!」  今夜、大橋喜重郎のひきいる手勢は同心四十名。それを六つに分け、北と南から弘明院を遠巻きにした。北側からは木戸田文五郎のひきいる同心二十名が先手となって踏み込み、その外周を、脱出してくる一味の者を網にさらうように喜重郎のひきいる本隊が布陣していた。ほかに同心にふぞくする奉行所直属の小者が二、三十名。今夜の捕物には町方の目明し連は除かれていた。  おびただしい大小のちょうちんは波を打って動きはじめた。 「なかなか手ごわいやから[#「やから」に傍点]とみえるのう」  喜重郎の足が早くなった。ゆるりと進めといってもそこは人情で、しだいに足が早くなり、しまいには全員が足を宙に走り出した。 「落ち着け! 落ち着け! ぬかるまいぞ!」  茂十郎が声をからして同心たちをおし止める。  火災はいよいよはげしくなった。吹き上る火の粉は河の流れのように頭上をおおって飛んでゆく。遠く近く半鐘が鳴りはじめた。切られた者の悲鳴がすぐそこに聞えた。  そのときだった。ふいに前方のくらがりではげしい人の動きがわき起った。刀と刀の打ち合い、ふれあう音が鼓膜を突き刺したかと思うと、絶叫と悲鳴がおり重なり、足音が乱れた。 「やるな!」 「こなくそっ!」  けもののかみ合うようなさけび声がもつれ、人の体の倒れる重い音がつづいた。 「や、なにごとだ」  みなの足が地ずりに止った。  その一瞬に黒い旋風がたたきつけてきた。与力たちの前に居た何人かの同心の体が横ざまにねじれると、ざっと生臭い液体がしぶきのように与力たちの頭上から降りかかってきた。鳥のさけぶような絶叫とともに喜重郎が抜刀するのが火光の中にちら、と見えた。同心たちが手にした六尺棒や十手をふりかぶり、打ちおろし、それが四方にはじき飛ばされるのがいやにゆっくりと目に映った。火光を|虹《にじ》のようにはねかえして大刀がはしってきた。たすくの右手は無意識に大刀のつかにかかっていた。横なぐりにおそってきた強烈な一撃を右上にすり上げ、つぎの一瞬に刀のつか頭を握っている左手のひじから先におどりこみ、|刃《やいば》を回して電光のように相手の体に一撃をくれた。どこかを斬ったと思った、とたんに相手はすでに一間も飛び離れていた。その体がまだ体勢のきまらぬうちにたすくも一間の距離を飛んでいた。思いがけない反撃に相手は非常な危険をさとったらしい。手にした刀をたすくの顔に投げつけ、たすくが身をひねってそれをかわす間に体を丸めて逃走に移った。追いすがろうとするたすくの体に|他《ほか》の敵の白刃が風をまいておそいかかってきた。つば元でかみ合った二本の長剣が歯の浮くようなひびきを上げてきしんだ。一呼吸の間もなくたすくは地を|蹴《け》って背後へ飛びさがった。混乱の中で一人を相手に切り結ぶことは愚かだった。 「御用だ!」 「御用! 御用!」  十手をふりかざして同心たちがなだれこんできた。十手と刀がふれあい、肉と骨の断たれる音とともにたすくの前にすでに魂を失った二人の同心の体が血を噴水のように|撒《ま》き|散《ち》らしながらのめりこんできた。たすくはその体を右につきのけ、左に蹴たおしておいて前へおどり出た。 「神妙になされよ! これは北町奉行神尾永勝さま配下、与力六波羅蜜たすく。それほどの手練れ、おそらく名のある兵法者とみた。されば思い切りが肝要にござるぞ」  やや呼吸は乱れていたが、落ち着いた声音がもどってきた。 「おう。お主が六波羅蜜たすくどのか。江戸にその名の手練れありと聞いた。今は追わるる身なればわが名を名乗ること、かなわぬを許されよ。いでや!」  大ぶりに八双にかまえた姿がおそるべき技量をひめていた。たすくは長剣を高々とふりかぶった。  すでに完全にどうてんしている同心たちが二人を取り囲んだ。 「御用! 御用!」 「神妙に|縛《ばく》につけい!」  六尺棒が空間を飛んで二人の足もとに落ちた。 「ええい! 手を引けい!」  たすくは舌打ちしてさけんだ。そのわずかな気息の乱れに敵の白刃がすさまじいうなりを生じてななめに大気を裂いてはしってきた。 「なむさんっ!」  たすくはそれに対して全身で打って出た。頭上から振りおろす長剣にわずかに敵にまさる加速度と打撃力があるとみてのすて身の突撃だった。たすくの着衣のどこかが大きく切り裂かれ、同時にたすくの長剣は相手の白刃を高く宙に飛ばしていた。さらに一歩、深く踏み込もうとしたたすくの体にぶち当るようにもう一人の男の影が立ちふさがった。 「こい! 幕府の犬め!」  すさまじい剛剣だった。たすくは二歩、三歩と後退した。 「うぬが六波羅蜜たすくか! くたばれ!」  なんの構えもなく、片手なぐりにたたきつけてくる太刀さばきには面も向けられぬような殺気が噴いていた。 「こい! 江戸の町与力風情の……」  いきなり横に飛び、二人をおし包むように六尺棒をななめに構えていた同心の円陣の一角を左右に切り倒した。おどりこもうとしたたすくの顔前に早くも切先をぴたりと当てる。一見粗雑なようでありながらおそろしく精妙な剣さばきだった。 「へろへろ剣法におれの剣が受けられるものなら受けてみろ!」  息も変えずに大口を開けて言う。  とつぜん周囲の同心の円陣がどっとくずれた。血に染った二人の武士が切りこんできた。逃げまどう同心たちとおそいかかる同心たちが二人を囲んで全く別々な動きの渦を作った。その|間《かん》|隙《げき》を縫ってたすくは突進した。長剣を地ずりにかまえたまま、すべるように二間の距離をつめ、敵の大刀が動きを起す一瞬、自分の手にした長剣を顔面に投げつけた。にやりと敵が笑った。たすくの投げた長剣は、重さを持たぬもののようにはじかれて足もとの大地に突きささった。たすくはすかさず腰の小刀をぬき放って第二撃を飛ばした。それを大きくはじき飛ばす敵の剛剣がまだ円弧を|曳《ひ》いているうちにたすくの体は敵の胸もとへおどりこんでいた。右手が|閃《ひらめ》くと敵の短刀をぬきざま、それを敵の|脇《わき》|腹《ばら》に突き立てようとした。敵が大きくわめいて右手に握った刀のつかで必死にそれを防ごうとする。ふり切ろうとする敵の力を利用してたすくは電光のように飛び離れ、同時に大地に突き立っている自分の長剣をぬき取っていた。 「見たか!」  据え物切りのように、これ以上の正確さは得られようもない力点と打撃力で敵の左肩から右わきへ断ち割った。おびただしい血汐と|臓《ぞう》|腑《ふ》を噴き出しながら、それでもまだ立っている敵の体のわきをすりぬけて走った。  |火《か》|焔《えん》と混乱の中で捕物陣は完全に統制を失っていた。何人捕えたものやら、それとも一人も捕えることができなかったものやら、まるで見当もつかなかった。おそらくは一味の主力、勢ぞろいした手練れの兵法者たちが全く偶然に捕物陣の本営の位置に脱出してきたものとみえた。たすくはかれらの三人か四人と刃を交したと思った。総勢はそれに数倍するのかもしれなかった。あたり一面に同心や手先たちが血に染ってうめき、のたうち、地面は血のりでぬるぬるしていた。たすくはなお火焔を背に、かれらが逃れ去った方向へ走った。小さな掘割が埋立地ともとの海岸の境にくらい水をたたえていた。それに沿ったまばらな松林の一角で剣の打ち合うひびきが聞えた。かけつけてみると三、四個の人影が他の一人を松の根かたに追いつめたところだった。二度、三度、はがねが触れあって火花を散らし、松の根かたに|這《は》いつくばった一人がどこかを斬られたようだった。 「どうした」  ためしに声をかけると、追いつめていた方の人影がいっせいに飛びのいた。 「ろ、ろくはらみうじ! わ、わしだ。お、おおはしきじゅうろうだ」  松の根かたで切り伏せられようとしていた一人が悲鳴のようにさけんだ。 「大橋どのか。またなんでこのような所まで」  たすくは無雑作に松の根方へ進んで喜重郎を支え起した。喜重郎の体はひどい血の臭いがした。 「傷は?」 「た、たいしたことはない。あ、あやういところであった」  大橋喜重郎は全身であえいでいた。 「乱刃に深追いは大禁物。心得られい」  語尾はすでに二間の距離をへだてていた。そのあとを追って三本の大刀が夜気を笛のように鳴らせて迫ってきた。たすくは三人が燃え上る夜空を背に受けるようにたくみに位置をかえながら後へ後へと退いた。四本の刀が目に見えぬ早さで複雑な曲線を描き、からみ合ってとびのいた。それを待っていたかのように三人のうちの一人が腹の底からしぼり出すようなうめき声とともにけもののように突進してきた。まともに受けてはどんな剛刀でもつば元からおれてしまうであろう。たすくはかかとで地を蹴っていっきに後へとんだ。しぜんに三人とたすくの距離が開いた。それがかれらのねらいだったらしい。三人は身をひるがえすともうその足音は闇の奥へかけこんでいた。  たすくは苦笑いをもらすと大橋喜重郎のかたわらに歩み寄り、そのうでをつかんで引き起した。 「|痛《つ》つつつつ! 痛い、痛い。手荒くいたすな。うっ、これ!」 「大丈夫、死にはせん。それより大橋どの、早くもどらねば」  たすくは意地悪くせきたてた。     三 |柳生《やぎゅう》来たる  弘明院は裏の物置一棟だけを残して山門から本堂にいたるまでことごとく焼け落ち、何一つ一味の手がかりは残っていなかった。ただ数十個の新品と思われる|矢《や》|尻《じり》の焼けさびたものが灰の中から発見されただけであった。鉄砲、火なわの類はすでにどこかへ持ち出されたあととみえ、それらを収めてあったらしい頑丈な木箱が幾つか黒焦げになって見出された。数年来廃寺だったために、この一、二か月ほどの人の出入や院内外のようすなどについては誰にたずねようもなかった。  焼跡には厳重な竹矢来が結ばれ、かけつけてきた応援の同心たちは集ってくる物見高い弥次馬を声をからして追い払っていた。  同心たちの死傷者を調べ、打込み前後のようすから結着にいたるまでの各自の記憶にもとづいた調書を作り、一味の刀術の技量について感想を記し、いっさいをかなりの量の報告書にまとめ終るまでには完全に一日を要した。思いのほかの捕物陣の崩れようだった。大橋喜重郎は左肩と背中に浅手。左すねにこれはやや骨までかかる切傷一か所。村上茂十郎は右足首|捻《ねん》|挫《ざ》。三番出役与力の木戸田文五郎は右腰に浅手。左手指二本切り落された。同心に三名の即死者が出ている。深手を負ったる者二名。浅手は二十三名。他に手先に深手二名。一味かたにはたすくの切り倒した一名。他は不明。一味に関係ありやに思われる町人風の男一名を逮捕した。 「全く面目もござらぬ」  右足首に分厚くほうたいを巻いた村上茂十郎がその右足を前に出して尻をたたみに落し、痛そうに|眉《まゆ》をしかめた。左手に巻いた布を首に回して釣った木戸田文五郎がまだ興奮のさめない顔をしきりにぬぐった。あから顔のひたいにもほおにも暑苦しい汗が浮いてくる。二人の体からはねり薬の|匂《にお》いが立ち上った。 「神尾永勝さまにもひどくご心痛のごようす。いそぎ登城なされたとのことじゃ」  たすくはもうつめたくなった茶をがぶりと|呑《の》み|干《ほ》した。食いかけのおりづめ弁当が机のわきに放り出してある。 「|貴《き》|殿《でん》にはいかいご面倒をおかけ申した。大橋どのをはじめ、われら三人不覚をとり、あとの始末までごやっかいをおかけ申す」  茂十郎も文五郎も低く頭をたれた。 「なんの。|書《かき》|役《やく》の仕事で、わしはただ口ぞえをしているだけ。お気にかけられるな」  茂十郎も文五郎も昨夜以来、たすくに対する見方をすっかり改めたようであった。 「貴殿のおうでまえには感服つかまつった。まこと、うわさにたがわぬものであった」  たすくは筆を持った手を打ちふった。 「うわさなどとそのような! |冗《てん》|談《ごう》はいけませぬ」 「いや、てんごうなどではない。こんごともよしなにおねがいいたす」  若い同心が甘酒を運んできた。その匂いが薬の匂いを消して忘れていた疲労を思い出させた。  夕方から雨が降り出した。たすくは下城してきた北町奉行神尾永勝にその跡しまつについて茂十郎や文五郎とうちそろって中間報告をおこない、なお興奮のさめやらぬ奉行所をあとにした。さすがにひどく疲れていた。  ふだんは馬だが、今日は大役果しての雨の帰宅ではあり、奉行所では|駕《か》|籠《ご》を出してくれた。  町奉行所与力の邸は|八丁堀《はっちょうぼり》にあたえられているが、たすくは勘定方からの出向ではあり、邸はそのまま|四《よつ》|谷《や》|塩《しお》町であった。  |砂《さ》|土《ど》|原《はら》から|長延寺《ちょうえんじ》町へぬける|榎《えのき》地蔵のあたりで雨は本降りになった。駕籠をかついでいる|仲間《ちゅうげん》のわらじが水を吸って足音が重くなる。  後にしたがって足をいそがせていた若党の|誠《せい》|之《の》|助《すけ》が急に駕籠わきへ寄ってきた。 「だんなさま」  声をひそめて言った。 「あとをつけてまいる者があるようです」 「つけてくると?」 「他に通行人もあることとて、最初は気にもいたしませなんだが、砂土原へ入るあたりより、見えかくれとなり、あきらかにだんなさまのお駕籠をつけてまいりますもようにござりまする」  誠之助の声は緊張にふるえていた。  何者だろう? この雨の夜、つけてくるからにはあきらかに北町奉行所与力、六波羅蜜たすくの駕籠と知ってのことだ。あの弘明院から逃亡した一味の者が|復讐《ふくしゅう》をくわだててのことだろうか? まさか。たすくは心の中で強く首をふった。かれらがそのような危険なまねをするはずがなかった。個人的な復讐や一時の感情にかられての反撃などおこなうわけがない。それに六波羅蜜たすくと知って襲うからにはそれなりの理由がなければならなかった。  たすくはしばらくの間、駕籠の動きに身をゆだねていたが、やがてそっと駕籠の戸を開いた。 「誠之助。このつぎの|辻《つじ》を曲ったらわしは駕籠をおりる。おまえたちはそのまま、まっすぐゆけ」 「だんなさま。私もおともつかまつりましょう」 「無用!」  誠之助がかさねて何か言いかけたが、たすくは駕籠の戸をぴしりとしめた。  駕籠が四つ辻を曲ると同時にたすくは雨の路上に降り立った。 「ゆけ!」  追い立てるように駕籠を去らせると、たすくは角のめし屋と思われる店の板びさしの下に身をかくした。  待つほどもなく水たまりを踏んで幾つかの足音が近づいてきた。 「足ごしらえがよいようだな」  たすくは胸の中でつぶやいた。ぞうりではなく厚い武者わらじをはいている。  物かげにひそんでいるたすくの目の前を黒い人影がいそぎ足に通り過ぎてゆく。刀のこじりを引きつけぎみに落し、皆、手いっぱいの間隔をとっているのはこれは|闇《やみ》|夜《よ》の切りあいに|馴《な》れた者たちとみた。  最後の一人が通り過ぎるのを待ってたすくは路上へ出た。 「わしに用か!」  追ってきた者たちの足はぴたりと止った。 「動くな!」  たすくの声音は氷のように|冴《さ》えた。 「指の一本、首のすじ一つ動かしただけでもおまえたちの中から死人が出る」  たすくはゆっくりとぞうりをぬいで雨の路上に|裸足《はだし》になった。その気配が追ってきた者たちを石のように凝らせた。 「いかなるしさいあってわしを追ってきたか。言え!」  かれらは息をつめたまま口を開こうともしなかった。 「北町奉行所与力。六波羅蜜たすくと知って……」  とつぜん、最後尾の一人がおそろしく|強靭《きょうじん》な弾性をこめて体をひねると、白刃が雨滴を切ってうなった。同時にたすくの右手が腰へひらめいた。三分の二ほどさやばしったたすくの長剣のみねに、下から切り上げてきた敵の大刀が火花を散らして激突した。  一瞬、左へすりぬける敵の左肩から背すじを電光のように切り下げる。そのまま、左手をつかからはなして右手をいっぱいにのばし、片手なぐりに右うしろの敵をなぎ上げた。骨を断ち切った手ごたえとともに、かなり重い物がどさりと雨の路上に落ちた。たすくは瞬間、それが刀を持ったままの右手であろうと思った。 「……つけてまいったのか」  敵の影は四つ、すでに半円に開いて白刃をかまえていた。 「動くな、と申したはずだ。さあ、こたえるか、それとも一命を棄てたいか、二つに一つ。早くえらべ」  かれらはひとことも発せず、降りしきる雨の中で、光のような殺気を放っていた。 「はっ!」  声にならない気合とともに、左の一人が弾丸のように飛びこんできた。それを左方に打ち払おうとしてたすくが動きかけたその一瞬に、右はしの一人がすさまじい突きを入れてきた。たすくは水たまりをけちらして背後へ飛びすさった。見事な攻撃だった。左の一人は当然、自分が切られることは承知の上でふみこんでくる。それに対してたすくが動いたとたんに、右はしの一人が正確な未来位置に必殺の打撃を送ってくる。これは予想以上にきびしい訓練を積んだ者たちだった。だからこそ最初、一瞬のうちに自分たちの戦力の三分の一を失いながらも確固たる攻撃をおこなってきたのだ。 「ようし! 命がいらないというのならば、来い!」  たすくは高々と長剣をふりかぶった。つかをにぎった両の手をひたいの上にかざす。目に入る雨をその手でよけながら、たすくは一歩、一歩、前へ進んだ。敵の半円形の白刃の放列の中へ踏みこむ。中央の二人にかすかな動揺が生れる。 「来い!」  そのたすくの声にさそわれて、中の二人が地をけった。  水しぶきが上り、三本の刀がからみ合い、二度、赤い火花が散った。一人は前にくずれ落ち、一人は後にのけぞった。たすくの左手には敵の腰から引きぬいた小刀があった。 「あとの二人、いちどにこい」  二人になってもなお攻撃の意図を棄てようとしない。 「おまえたち二人も必ず死ぬ。それでは立ち帰っての報告は誰がする? 他の者を討つのなればいざ知らず、この六波羅蜜たすくを討ち果すつもりなればもうちと手だてがいるのう。そう申していたと|宗《むね》|矩《のり》に伝えい」  たすくはこぶしをかえして長剣を回すと、つば音高くさやに収めた。残された二人は急速に戦意を失うと、けものの走るように雨の奥へかけ去った。たすくはその足音に耳をかたむけていたが、やがて静かに乱闘の場を離れた。ようすをうかがっていたらしい二、三軒の家からけたたましく雨戸を閉ざす音が聞えた。  ——柳生の者がなぜ、おれを?  たすくは太い息を吐いた。切り棄てた四人はあきらかに柳生道場の高弟であり、いずれ名のある手練れにちがいなかった。     四 柳生一族  |大和《やまと》、|柾《まさ》|木《き》坂に在る柳生|十兵衛三厳《じゅうべえみつよし》は父、将軍指南役|但《たじ》|馬《まの》|守《かみ》宗矩の命を受け、諸国探索の網を張っていることはそれを知る者の間にはかくれもなき事実であった。  大和柳生の庄にその剣名を持していた藩祖|石舟斎宗厳《せきしゅうさいむねよし》は、家康の懇望によって将軍指南役を受けたとき、嫡男|新《しん》|二《じ》|郎《ろう》|厳《よし》|勝《かつ》をおいて二男である宗矩を将軍指南役として江戸にさし出した。新二郎厳勝、病弱なりとして若隠居させ、ただちに厳勝の子、石舟斎には孫にあたる|兵庫介利厳《ひょうごのすけとしよし》に柳生流すなわち|新《しん》|陰《かげ》流正統二世を継がせた。  ふつうならば将軍家指南役という剣士にとっては最高の栄誉を本家のものとせず、いわば分家の宗矩に継がせたのはまことに奇異な感がするが、石舟斎にとってはすでに将軍指南役という職が何を意味するかは十分に承知しているところであった。  果して新将軍指南役を拝命した但馬守宗矩はその子十兵衛三厳に大和、柾木坂に門弟三千をようする広壮な道場を開かしめた。石舟斎子飼いの高弟|庄田《しょうだ》|喜《き》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》の子、|孫《まご》|七《しち》|兵《べ》|衛《え》。当代、柳生の庄第一の使い手と称されながらついに生涯、柳生の庄より一歩も出なかったといわれる|影《かげ》|山《やま》|幽《ゆう》|山《ざん》。兵庫介|利《とし》|厳《よし》の四剣の一人といわれた|鳥《とり》|飼《かい》|三《さぶ》|郎《ろう》|次《じ》。また新二郎厳勝の乳兄弟であり小太刀の達人といわれた柳生|藤《とう》|六《ろく》|正《まさ》|直《なお》ら、柳生流一門の精鋭を集めて道場首座に据え、これにひそかに江戸表でえらばれ、柳生に下った手練れを配した。その盛況は本家である兵庫介利厳の新陰流正統二世の道場を圧したという。  しかしその柳生の盛名は実は世をくらます仮の姿といえた。  将軍指南役として但馬守宗矩の他に、さらに|小《お》|野《の》派一刀流の小野|治《じ》|郎《ろう》|右衛《え》|門《もん》|忠《ただ》|明《あき》がえらばれ、これは直接、江戸城内の道場に立って将軍の剣を指南するにおよんで但馬守宗矩は本来の任務についた。  すなわち但馬守宗矩は将軍直属の秘密情報機関の長官であった。  それは幕閣を構成するいかなる役職にも含まれていない。大名を監察する大目付、旗本を統制する若年寄は職掌の中に厳として存在していたが、それらはいずれも提出された報告書や資料にもとづいて判断し裁決するだけで直接情報の収集にあたる現場の機関を持たなかった。そのために若年寄支配のもとに設けられたのが|黒《くろ》|鍬《くわ》であり、御庭番とも言われる御休息庭之者であり、鳥見組といわれる|諜者《ちょうじゃ》組織であった。いわゆる|伊《い》|賀《が》者、|甲《こう》|賀《が》者と俗称される同心たちの集団であった。しかしこれとておおいに問題があった。それはこれらの機関が若年寄支配によるものであり、幕政初期のひんぴんたる首脳陣の交代によってそれらの組織がひどい影響を受け、活動がとどこおりがちになるばかりでなく、首脳の交代とともに機密の|漏《ろう》|洩《えい》するおそれが多分にあった。同時にそうした組織の|脆弱《ぜいじゃく》さが老中たち幕閣中枢部の保身にもなり、またつねに重要な問題点を把握していられるということにもつながっていた。  それをきらった将軍家光は柳営にかくれもない勢力を持つ|春日局《かすがのつぼね》と図ってついに将軍直属の秘密情報機関の設置にとりかかった。幕政のいかなる役職ともかかわりなく、また側近としての煩雑さもなく、情実人事とのかかわりもないものといえば、将軍指南役いがいにはいなかった。当代ならぶものもない大和、柳生の庄の新陰流の一門がえらばれたのにはそうした理由があった。  但馬守宗矩は城内|吹《ふき》|上《あげ》近くに設けられた将軍御道場で毎日|午《うま》の刻より|一《いっ》|刻《とき》、将軍家光の剣の御指南をつかまつった。もとより何人といえども道場に近づくことを禁じられた。ただ、ときに将軍御|乳母《めのと》、春日局がおはげみうかがい[#「おはげみうかがい」に傍点]と称して道場に入るのみであった。その但馬守宗矩のもとに十兵衛三厳があり、さらにその幕下には庄田孫七兵衛以下の名だたる精鋭があった。そしてもし、柳生、柾木坂の十兵衛三厳の道場の奥をうかがう者があったとすれば、三厳をはじめとする孫七兵衛ら高弟、および重鎮、上席ら剣士たちの席が全く冷えきっていることを知ったであろう。師範代柳生藤六正直が道場をとりしきり、三千の門弟にはいささかの疑念もなく、|竹刀《しない》の音にあけくれていた。将軍家御流儀として天下のお|留流《とめりゅう》は他流試合を厳しく禁じられていた。それゆえ師範代柳生藤六正直を打ち破るような諸国回国の修行者などもただ見学を許されるのみで、十兵衛三厳の永い不在にも柳生道場の看板にはほんのわずかの|危《き》|惧《ぐ》も生じなかった。  将軍直属の秘密情報機関の網はこうして日本全国のすみずみにまで|張《は》り|回《めぐ》らされたのであった。  そうした但馬守宗矩の動きは当然、幕閣首脳の極めて警戒するところとなった。しかし職制にかかわることではなし、そもそもその組織の存在については公言するのさえはばかられるようなものであってみれば、宿老たちにとってはまことに気にさわるものではあったが、実際上は見て見ぬふりをするほかはなかった。  このころ、人々は柳生但馬守宗矩と松平伊豆守信綱との確執についてうわさしあった。松平伊豆守は将軍直属の秘密情報機関を一剣門が握ることには大反対であり、同時にそれは将軍乳母春日局の強い支持を受け、幕閣の手のおよばない存在であることをおおいに不服としていると言われた。世の剣客はこの問題については二通りの解釈を持っていた。一つは剣は結局政道につらなるとする気鋭の青年層の思想であり、今一つは剣は道なりとする古来の剣客の剣に寄せる思考であった。  いずれにせよ柳営における柳生但馬守宗矩の登場を知った各藩は極度のおそれをもってその風聞を受け止めた。  ここにも、いまだ動揺をつづける幕府創業の苦悩がひそんでいたのだった。  ——なぜ柳生の者たちがおれをおそってきたのだろう?  たすくが松平伊豆守のいわば腹心と知ってのこととしても、六人もの刺客を送って暗殺を企図するほどたすくの存在が宗矩の邪魔になっているはずはなかった。むしろ宗矩の活動を妨害する者があるとすれば、それは老中の|阿《あ》|部《べ》|忠《ただ》|秋《あき》であり|堀《ほっ》|田《た》|正《まさ》|盛《もり》であり、京都所司代の|板《いた》|倉《くら》|重《しげ》|宗《むね》であるはずであった。松平伊豆守の手の者、六波羅蜜たすくを討つべく襲ってきたものであれば、これは全く別な目的いがいにはあり得なかった。  ——まさか宗矩が幕府転覆の陰謀一味に味方するわけもないが……。  たすくの眉はくらくかげった。     五 |丹《たん》|阿《あ》|弥《み》|由《ゆ》|紀《き》  翌日は|午《ひる》頃から雲が切れ、やがてぬぐったような快晴になった。樹々の緑も洗われたようにあざやかな色をとりもどし、町家の板ぶきのひさしからは白い水蒸気が立ち上っていた。陽の当る板壁や垣根に、みの[#「みの」に傍点]や笠がかけならべて干してある。品川へんはとくに雨が強く、ところによっては水が出たという話もあった。  たすくは昨日、仕残した書類を整理し終ると、早目に奉行所を出た。|牛《うし》|込《ごめ》|見《み》|附《つけ》で馬を棄て、若党の誠之助一人を伴って|揚《あげ》|場《ば》町の|長福寺《ちょうふくじ》小路にある|研《とぎ》|師《し》の丹阿弥|与《よ》|一《いち》|兵《べ》|衛《え》の店をおとずれた。 「いらっしゃいませ」  店の板敷に手をつかえた与一兵衛にたすくは無言でうなずくと奥に通ずるのれんをくぐった。若党の誠之助は店の左右に目を配ると客をよそおって店のかまちにななめに腰をおろした。  誠之助は主人のたすくの仕事について、もちろんくわしくは知らないが、それがかなり秘密を要するものであり、危険をともなうものであることを察していて、つねにどうすればよいかを心得ているようであった。  与一兵衛の家は、おもての店の間口は狭いが家全体は奥へ長くのびていた。茶室の庭めかしてしつらえられた露地に沿った廊下をたすくは奥へ向った。  廊下に面してならんでいる幾つかの部屋の前を通ったが、どの部屋も目にしみるような真白な障子を閉めきっていて、内部には全く人のいる気配はなかった。  いつものように、もっとも奥まった部屋の障子を引きあける。ふいにあざやかな色彩がたすくの目にとびこんできた。  弦月のように|刎《は》ねた眉があがり、ふたえまぶたの大きな目がたすくを見上げてこぼれるような笑みをたたえた。 「お役目、ごくろうさまにござりました」  両手をつかえると着物のえりから、細いうなじと背中につづくすきとおるような肌がのぞいた。 「たいそうな捕物であったとか。お店にまいるおさむらいさまが申しておりました」  たすくは腰の長剣をぬきとるとどかりとたたみの上に置いた。それをすぐたもとにからんで床の間の刀かけへ運ぼうとするのに、 「いや、よい。由紀。そうしておけ」  いつものことだった。  由紀はこの家の主、与一兵衛の長女で二十一歳になる。与一兵衛の三人の子供のうち、息子の|佐《さ》|太《た》|郎《ろう》は京都の|公《く》|家《げ》研師|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》の弟子となって家を離れていた。妹娘の|千《ち》|輪《わ》はたすくのおとずれる日は与一兵衛の女房とともに必ず他出している。  由紀はいったんかかえ上げたたすくの刀をふたたびもとにもどした。 「ここではお心使いは無用と申しますのに」 「因果なつとめよ」  由紀はすらりと立って奥のふすまを開いた。隣室に敷きつめられた|緋《ひ》|色《いろ》の夜具がたすくの目にしみた。ふすまのむこう側から、由紀の帯を解く衣ずれの音が聞えた。たすくは髪にさしていた細い針をぬくと、閉めきった障子のあわせ目にななめに刺した。ついで|足《た》|袋《び》をぬぐと双方のこはぜを接してふすまの前に置いた。たすくはほんのわずかの間、庭や隣室、天井などにするどい神経を凝らしたが、やがて小刀だけさげてふすまを開いて奥の部屋へ入った。 「あれ」  こちらへ背を向けて、長じゅばんの下の腰のものをとりかけていた由紀は身をちぢめてはずしたそれを前へかくした。  たすくのうでの中で由紀は大きくあえいだ。由紀からさそいこむように夜具にくずれ落ち、手足をからめた。たすくは長い時間をかけて由紀の体を責めた。身をよじり、のたうつうちに素肌にまとった長じゅばんは左右に大きく開いて豊かな乳房やなめらかな腹、太いももなどがあらわになった。かすかに青い静脈のすけて見える下腹にくちびるをつけると、由紀はついにそれまでこらえていたさけびをもらした。髪がくずれるのもかまわず、由紀は思うさま大胆な姿態をとって幾度ものけぞった。たすくはいっきにのぼりつめそうになるのをこらえながら、湯を噴いたように|濡《ぬ》れている由紀の体を刺しつらぬいた。  たすくが放出するたびに高くはね上げた由紀の白い足がはげしくけいれんし、太いももにくっきりとあらわれた筋が濃い|陰《いん》|翳《えい》を浮べた。由紀のにぎりしめた手の中で、するどい音をたてて夜具の布地が引き裂け、やがて由紀は細いのど笛を反らしてがっくりと落ちた。  たすくは締めつけていた由紀の体を離すとさすがに息を荒くして体を横たえた。しばらくすると、死んだように動かなかった由紀がようやくゆっくりと体を起した。たすくの視線を感じて絶え入りそうに身をひねると、よじれた長じゅばんで肌をかくして夜具からすべり出た。そっとももの間に紙をはさむとすそ前をからげるように持って部屋から出ていった。たすくも濡れた夜具から出て衣服をまとうと隣の部屋へ移った。  足袋をはき、由紀の手で障子の桟に移されている長い針をふたたび自分のまげのつけ根にもどした。  もとの座にもどると由紀が部屋へ入ってきた。すでに髪をなおし、着物も帯もかえていた。ほおに血がのぼり、まなざしがいきいきとしていた。たすくの後に回って着物のえりをなおした。やわらかな指がたすくの首すじにふれた。 「あちらに|御《ご》|膳《ぜん》のおしたくができましたそうにございます」 「すまない。いつも」  店に近い別間に酒の用意ができていた。 「あじ、少し小ぶりですけど、おいしゅうございました」 「おまえも飲め」  由紀は左手で軽くそでをささえて|盃《さかずき》を受けた。呑み干すが正直、うまそうな顔ではない。たすくもそれ以上にはすすめず、あじを裂いた。 「きのう奉行所からのもどり道でおそってきた者があった」  由紀の眉がかすかにくもった。 「六人。柳生流をよく使うなかなかの者たちであった」 「十兵衛三厳さまの手の者でございますか?」 「おそらくそうだろう」 「|解《げ》せませぬ。なぜ柳生が動いたのか」  たすくは口もとに運んだ盃の中に視線を当てた。 「このたすくをねらう以上、そこにあきらかな理由があるはず。由紀、このこと伊豆守さまに伝えてくれ」 「あい」  下ばたらきの老婆が新しい酒を運んできた。それを境の障子で受けてもどった由紀が何かを思い出したように視線を上げた。 「きのう、|鷹匠《たかじょう》町の目明しの|耕《こう》|助《すけ》が来て申しておりましたが、こおろぎ橋のお道場に旅のおさむらいさまがお泊りになっていたそうにございます」  盃を持ったたすくの手が止った。 「こおろぎ橋の道場というと、|中《なか》|野《の》|玄《げん》|斎《さい》。|鹿《か》|島《しま》|神《しん》|刀《とう》流だな」  鷹匠町から|左《さ》|内《ない》町へぬけるこおろぎ橋のたもとに|備中《びっちゅう》浪人と称する中野玄斎の道場があり、かなり栄えていた。したがって諸国|行《あん》|脚《ぎゃ》の剣客たちが泊ってゆくのも決してめずらしくない。それをことさらに目明しの耕助が報じてきたというからには、何かそこに不審なものを感じたからにちがいない。 「耕助は?」 「その後、あきらかになったところを持って今夜、日が暮れてから知らせにまいるそうにございます」 「よし。その結果はただちにおれの所に知らせてくれ。誠之助をおいてゆこう」 「耕助は走らせなくてよろしゅうございますか」 「あれはかなり人に知られている男ゆえ、よくない」 「|矢《や》の|倉《くら》へんに住む|長吉《ちょうきち》という若い男のうわさ、ご存知でしょうか?」 「いや」 「大坂勢の江戸討入りをまのあたり見たとかいう」 「ほう、それは……」 「|小《こ》|石《いし》|川《かわ》|下《しも》|矢《や》|来《らい》に近ごろ名を知られます|円《えん》|二《じ》|郎《ろう》とか申す|占師《うらないし》の家であったそうにござります。それはもう評判で。でもお|上《かみ》のきついおしかりもあって長吉はその後すっかりしょげておるとか」 「大坂勢の討入りとは?」 「豊臣方が、お江戸へ攻めこまれ、江戸城も落城寸前であったそうな。長吉は決して夢や幻ではなく、二つの目でしかと見たと申して言い張り、いちじは、となり近所の者たちもおそれて近づかなかったとか。目明しの耕助が、長吉のようすを見にいってきたそうにございます」  たすくはさかずきをくちびるに当てたまま視線を遊ばせた。 「気になる話だな、矢来の円二郎占いの家でか?」 「そのように聞きました」 「そのうわさ、心にとどめておいてくれ」 「あい」 「おまえもじゅうぶん気をくばれよ」  頃あいを見はからったか、由紀の父親の与一兵衛が障子の外から声をかけた。 「ごきげんよろしゅうございます」 「おお、はいれ。由紀、与一兵衛にも酒を」 「ごめんくださいませ」  与一兵衛はひざをすって前へ出た。  酒をつぐ由紀を与一兵衛はいとおしそうに見つめた。ふつう娘は十六、七で|嫁《かた》づいてゆくものを、二十一になるまでおもてむきは独りで居ながら、|妾《めかけ》奉公ともつかず情婦ともつかぬ由紀のたすくとのつながりが、この年老いた父親にはなかなか口惜しくも合点のゆかぬものであった。しかしたすくは四百石をいただく旗本で、町人の言ういわゆる殿様であり、与一兵衛からすれば娘の由紀が正式に|嫁《とつ》げるような相手ではなかった。それと今ひとつ、近ごろ与一兵衛にはたすくと由紀の関係がただ情事だけとは思えなくなってきたことだった。たすくが、なにごとか極めて重要な捜査にしたがっているらしいことはすでに娘の由紀の言葉の裏からも感じられたし、娘の由紀自体がそのたすくの活動にかなり力を加えているようであった。由紀がたすくと、与一兵衛には想像もできぬような内容のご政道向きの会話を交しているのを耳にしたこともあった。また隣町に住む目明しの耕助などが夜ふけて人目をしのぶようにやって来て娘になにごとか告げて去ったり、りっぱな武士が刀の研をたのみに来たかと思うと、にわかに娘の由紀を招いて、二人だけでひそかに長い間、話しこんでいったこともあった。  それに娘の由紀から出る金の潤沢さも異様だった。もちろんそれはたすくから与えられたものであろうことは与一兵衛にも容易に想像はついたが、これまで刀の研師として職人気質のひと筋を押し通してきた与一兵衛には、肌寒くなるような金額だった。それが娘の体に支払われる金子ではなく、全く事情を異にしたいわばお上の秘密のご用金がはたらいているのではないか、と気づいたときはすでに娘の由紀は父親の与一兵衛には全く手のとどかない所へいってしまっていた。  実は与一兵衛にとって由紀は実の娘ではなかった。由紀がまだ|乳《ち》|呑《のみ》|児《ご》のころ、京都のある高家のすじよりたってのねがいとして養女にしたものであった。すでにその頃、嫡男の佐太郎も娘のおくみも在ったのだが、与一兵衛は二人の姉として由紀をそだてることにしたのだった。そのことはおそらく由紀は知らないはずであった。 「息子の、佐太郎と申したな。元気でやっているか」 「へい」  与一兵衛は両手で盃を受けて飲み干した。 「殿様のおかげをもちまして、私ども町の研師風情には思いもかけませぬ本阿弥宗家の|直《じき》|弟《で》|子《し》になれるなどと、全く夢のようでございます。佐太郎めもことのほか精進のようす、これもひとえに殿様のお力ぞえによるもの、と先日、人をへまして申しよこしましてござります」 「そんなにいわれてはかえって困る。与一兵衛も体をいたわって商売にはげめよ」 「ありがとうござります」  たすくが与一兵衛の店を出たときはすでに夜もかなりふけていた。  四谷塩町の邸へ帰ると、用人の|喜《き》|兵《へ》|衛《え》に誠之助がおくれて帰ることを告げ、夜具をのべさせるとそのままの姿で倒れこんだ。にわかに深い疲労がわき上ってきた。     六 町にひそむもの  そのままの姿でどのくらい眠っていただろうか。 「とのさま。もうし、とのさま」  やわらかい女の声音がかなり離れたところから聞えた。こころよいうたたねの中で、それにこたえる気もなくただ耳の端でとらえていた。 「とのさま。おめざめくださりませ」  その言葉のどこかにひびく甘い調子が、とつぜん聞き馴れた抑揚とかさなってたすくは無意識に上体を起した。|燭台《しょくだい》の光のゆらめきを受けて白いうなじと紫色の矢がすりの着物、高く矢の字に結んだ帯が目にとびこんできた。 「|綾《あや》|乃《の》か」  由紀かと思った、という言葉は口の中だった。  小間使いの綾乃はたすくが起き上ったのを見ると、部屋の入口近くまであとずさって手をつかえた。 「誠之助、立ち帰りましてお目通りを願っておりまする」  綾乃は今夜の|宿直《とのい》番らしかった。夜間は古い家臣といえども、直接主人の居間や寝室を訪れることはできない。宿直番を通じてまずゆるしを得なければならない。 「誠之助が帰ったか。よし、すぐ通せ」  綾乃と入れちがいに若党の誠之助が入ってきた。 「由紀さまよりの御伝言にござりまする。目明しの耕助の調べたところによりますと、中野玄斎の道場にお泊りになっておられたご浪人の名は|松《まつ》|本《もと》|三《さん》|右衛《え》|門《もん》。鹿島神刀流の使い手にて中野玄斎の古い友人の一人。西国からこのたび江戸見物のため東上いたし、しばらく滞在いたしたものとのことにござります」  それだけのことならば目明しの耕助が昼夜張りこんで監視するほどのこともない。江戸の道場ならどこでも、二人や三人はそのような人物がころがりこんでいるはずだった。  それをなぜ由紀はことさらに追及するのだろう? 中野玄斎と松本三右衛門なる西国浪人の結びつきのいったいどこが由紀の疑惑を招いたのだろうか?  たすくは濃い眉を寄せて誠之助のもたらした報告を胸の中で問いかえした。 「よい。ごくろうだった。さがってよいぞ」  誠之助の動きにつれて燭台のほのおは大きく動き、影がゆれた。  ——中野玄斎と松本三右衛門か。  たすくはしばらくの間、燭台のほのおを見つめていたが、やがて隣室へと立った。ひかえの間に作られた十畳の部屋をなおして何段もの棚を設け、戸棚をしつらえて書庫に使っている。奉行所から借り出してきた書類や、自分でまとめた捜査資料などがひもで結ばれ、あるいは袋に収められ、装丁されてきちんと整理されている。たすくは戸棚を開けると分厚い一冊をとり出した。 「……|下《した》|谷《や》|広《ひろ》|小《こう》|路《じ》。|遠州掛川松《えんしゅうかけがわまつ》が|谷《や》生れ。神道無念流免許。師範代、|山《やま》|崎《ざき》|恵《けい》|助《すけ》。以下門弟七十五名。妻子なし。  |佐《さ》|々《さ》|木《き》|千《ち》|代《よ》|吉《きち》。|下《した》|谷《や》|黒《くろ》|門《もん》町。|陸中田村《りくちゅうたむら》藩江戸づめにて百二十石。隠居して同地に道場を開く。不破古流。門弟十八名。嫡男同苗|多《た》|一《いち》|郎《ろう》、師範代をつとめる。  |木《き》|戸《ど》|田《た》|太《た》|郎《ろう》|次《じ》|郎《ろう》。|浅《あさ》|草《くさ》|花《はな》|川《かわ》|戸《ど》。|肥《ひ》|後《ご》|加《か》|藤《とう》浪人。|浅草寺侍所《せんそうじさむらいどころ》。鹿島神道流。門弟数不詳。|山《さん》|内《ない》|縁故《ゆ か り》の者にのみ教授。妻子なし。  |小《お》|高《だか》|双《そう》|知《ち》|斎《さい》……」  それは当時江戸に開かれている剣術指南の道場のひかえだった。大坂夏の陣からまだ十九年、江戸をはじめ各地に存在する武術指南所の数は極めて多かった。しかもこの頃は江戸の中期以後と異なり、格別流儀の印可を得ていなくてもいくらでも人に教えることのできた時代であった。他流試合などを申しこまれても自由にことわることができたし、またそれに敗れたからといって看板をはずさなければならないなどということもなかった。総じて教える者も多かったし習いたい者も多かった時代である。  たすくはゆっくりと行を追っていった。  ——これだ!  たすくは灯心をかきたてた。 「中野玄斎。鹿島神刀流免許。|淡《あわ》|路《じ》|洲《す》|本《もと》。|池《いけ》|田《だ》浪人。池田家中にあって兵法を講じ、また旗奉行として千五百石を受く。なお……」  細い字で書きこみがあった。これは先年、たすくが諸国吟味方にあった頃、書役見習の若侍の余暇に作らせたものだが、その男が資料に不審を感じたものらしい。 「……鹿島神刀流を称するも、|鞍《くら》|馬《ま》古流の趣きあり。なお知る者ありて切りおぼえの刀法なりと。|慶長之役《けいちょうのえき》の名ある武者ならんか」  たすくの目が書き込みに吸いつけられた。  鹿島神刀流というのは鹿島大神宮の神官たちの間でおこった剣法で関東から東国一円にかけてかなり人気のある流派であり、新陰流が江戸を中心に急激に広まる以前は、剣術を学ぶ者は一度はこの鹿島神刀流の門をたたいたものであった。それだけに江戸で道場を開くには鹿島神刀流は便利であった。  ——鞍馬古流のおもむきあり、か。  中野玄斎はあるいは鞍馬古流の剣技を修めているのかもしれなかった。この流派は京都に興り、今は昔ほどではないがそれでも西国にはかなり広まっているものだ。しかしこれは武具をつけての|捕《とっ》|手《て》術、つまり組打ちの法に近いものだ。 「切りおぼえの刀法なり」  戦場で切りおぼえにおぼえた実用的な剣技であると見る者もいる。それでも相当に腕の立つ者なら見よう見まねの鞍馬古流をよそおうこともできるだろうし、また鹿島神刀流を称してそれらしいことを教えることもできるであろう。本来の鹿島神刀流との相違を言いたてる者があらわれても、自分の考え、自分で編み出した変化|技《わざ》であるといってしまえばそれまでのことだ。剣術各流派が固苦しい形式にこだわり、伝家の刀術として全く硬化してしまう時代はまだ来ていなかった。  ——慶長之役の名ある武者ならんか、とのう  これがひどく気になった。  ——淡路、池田というと豊臣家縁故のゆえをもって廃絶された池田|忠《ただ》|雄《かつ》だな。大坂冬の陣では|天《てん》|満《ま》川から出て|東横堀《ひがしよこぼり》川の|松平忠明《まつだいらただあき》、|稲《いな》|葉《ば》|典《のり》|通《みち》の布陣の間に割りこんで陣を敷いたものの、いっこうに兵を動かさなかったというので、家康公の怒りにふれたという大名だが……。  それは名目に過ぎなかった。十万石に満たない淡路の池田忠雄の戦力が実際にどれほどの役割を果すものか知れない。しかし豊臣家に深いかかわりのある外様大名をとりつぶすのにはどんな理由でもよかった。池田忠雄には加えて世継ぎをめぐっての内紛もあった。しかしこの池田家には戦場に明るい剛雄の者が多かった。池田家廃絶ののちにかれらがどこへ散っていったのかは記録になかった。しかし、ここにそれらしいものが一つ見出された。  中野玄斎とは仮の名にちがいなかった。本名を知れば、ああ、あれが、と思い当る者も多い高名な武士にちがいなかった。 「それが身過ぎ世過ぎのために、鹿島神刀流などを称して町道場を開き、細々と暮しているのか」  気の毒なことだ。たすくはふと感慨にとらわれた。主家と運命をともにして妻子とともに路頭に迷い、|巷《こう》|間《かん》に消えていったさむらいたちがどれほどいたろうか。江戸にあふれる貧窮の浪人たちも皆、かつては主家の柱石だったろうに。  ——さむらいなどと、おろかなものよ!  たすくは分厚い記録を閉じるともとの棚に収めた。  立ちかけてはっと気づいた。思わず苦笑が浮かんだ。  これでは何もならなかった。中野玄斎が池田浪人であると分っただけでは別にどうということはない。それを言いたくて由紀が知らせてきたわけではあるまい。  ——中野玄斎と松本三右衛門とはそもそも何者なのか?  本来のたすくに立ちかえって思考をもとにもどした。  ——もしや?  たすくの胸の奥底に捜査員の本能としてのくらい思考の影がわいた。どのように疑うことも許される、人に知られぬ汚れた思考だった。  ——中野玄斎がもし池田浪人でないとすればどうなんだ?  鹿島神刀流をなのり、鞍馬古流をよそおい、戦場ならいおぼえの剣技を見せ、細々と町道場を開いているその意図はなんだろう? 暮しのためか?  自分一人暮してゆくためなら、なにもそうしてまで町道場などを開いていることはないだろう。剣を持つしか生活の糧を得る道がないのならば、寺侍をしてでも食ってゆけるはずだ。  仕官の道を得るためか?  剣技で仕官をしようとして道場を開き、多数の門弟を得て高名をはせ、仕官の道を開くことはこれはよくあることだった。しかしそのためにはその剣技はかなり人に認められなければならない。柳生流とはいかぬまでも、新陰流や一刀流、|中条《ちゅうじょう》流、|東《とう》|軍《ぐん》流など当代人気のある流派の印可を所持していなければならないであろう。中野玄斎というあまり聞かぬ名では剣技による仕官はまず不可能であろう。  自分の道場を持ちたかったからか?  そういう者もたしかにいる。自分の道場を持つことを念願とし、それを出世と考え、修業をかさねている若者も多い。しかしこれは、一流に秀でてはじめて可能なことであり、何流とも知れぬ剣技をふるいながら道場が持ちたかったからでは痴愚にひとしい。人はただの棒ふりと笑うだけだ。  今一つ。出生のわからぬ剣をふるいながらもそのわざ抜群にすぐれ、人に請われるままに道場を開いている場合がある。たとえば江戸、下谷|車坂《くるまざか》の|江《え》|上《がみ》|一《いち》|伝《でん》|斎《さい》などがそうだ。この人、|相模《さがみ》の|愛《あい》|甲《こう》郡に生れ、|乱《らっ》|破《ぱ》の法を学びのちに|田《た》|村《むら》家に仕えたこともあるが今は浪人して町道場を開き、多くの門弟をかかえている。実力を認められたかたちである。しかしこの人もついに自流を|不《ふ》|破《わ》|一《いっ》|刀《とう》流ととなえている。  ——中野玄斎はいったいどれなのだろうか?  たすくは無名の剣客、中野玄斎の存在が急に深い|謎《なぞ》につつまれたものに思えてきた。  ——一度、会ってみるか。  あわよくば松本三右衛門なる旅のさむらいにも。  たすくはつぶやいて戸棚の前を離れた。     七 襲 撃  |手燭《てしょく》を持った小間使いの綾乃が先に立ち、たすくは寝室へ向った。  廊下を仕切る分厚い杉戸の向うが形ばかりの『奥』になっている。大名屋敷ならばそこから先は男子禁制の、ここはお錠口というところだ。鈴を鳴らして主君の寝所入りを告げるのだろうが、与力の邸ではそこから奥は私的な区画であることを示すだけで、用人や家士なども意のままに通る。以前は|田《た》|安《やす》家に仕えたかなり身分の高い武士の邸であったという。そのため木口などもぜいたくなものを用い、結構も粋をこらしていた。しかしたすくが入ってからは使用人の数も少なく、開けない部屋も多かったのであちこちに壁の|剥《は》げ|落《お》ちたところやふすまの破れも目立ち、無人の荒廃に似た気配さえあった。用人の喜兵衛が何度改装を申し出てもたすくはいっこうに受けつけなかった。出向の与力格ではまたいつ|役《やく》|向《むき》の変るやもしれず、そのたびにまた邸が変り、改築ばかりしていては金がかかってやりきれぬというのがたすくの言い分だった。 「おめしかえなされませ」  綾乃がさしだす白無地の寝衣に着かえるとたすくは夜具の上に手足を投げ出した。体のしんから深い疲労がわき上ってきた。 「ああ、つかれた。おれもとしだな」  たすくが脱ぎすてた衣類をかかえていったん出ていった綾乃が、たすくが明朝身につける衣類を収めた|乱箱《みだればこ》をささげて入ってきた。下帯から小袖、足袋にいたるまでいっさい新しいものに着がえるのがたすくの長い間の習慣だった。乱箱を部屋のすみに置き、綾乃は手をつかえた。 「ごゆるりとおやすみくだされませ」  夜気が動くように音もなくひっそりと部屋から出てゆこうとする。  灯皿のほのお[#「ほのお」に傍点]が虫のようにかすかに鳴った。 「綾乃」  ふすまに手をかけた綾乃は体の動きを止めてたたみに手をつかえた。 「綾乃、ここへ来い」  わずかに前へ出る綾乃に、 「ここへ」  たすくはふとんの上の体をずらして自分のわきをあけた。  綾乃は一瞬、息をつめて体を固くした。手をたたみにつかえて深く頭をたれたままの白いえり足が陶器のように冴えた。 「来いと申すに」  はげしい困惑と|羞恥《しゅうち》に耐えかねて綾乃がふすまへ逃れようと身を動かしかけた。ひじをついて半身を起したたすくの右手が綾乃のたもとをとらえた。 「あれ、とのさま」  そのままいっきにひきよせた。綾乃はたすくの胸に手を突張って必死にのがれようとした。その力ともいえないような力でいくらたすくの胸をうちたたいても綾乃の体に回されたたすくのうではびくともしなかった。小さなくちびるがふるえて声にならない悲鳴がもれた。帯がほどかれ、何本ものひもが解かれてゆくと綾乃は胸をおさえて虫のように体を丸めた。そのうでを胸から引き剥がして肩から着物をはずし、ねじり上げた手先から脱ぎとった。みごとな背中がむき出しになった。濃い陰翳をおびた背すじがくっきりと浮き上った。 「おゆるしを……」  ぬきとった着物をたすくはふとんの足もとの方へ投げた。長じゅばんや肌着まで重ねたままの着物は重くひろがって|蝶《ちょう》のようにたたみの上にあざやかな色彩をまき散らした。たきこめた香のかおりと綾乃の体の甘い匂いがひろがった。真紅の腰のものをむしりとると、ひきしまった二つの大きなもり上りがあらわれた。たすくの目が急に人が変ったように|兇暴《きょうぼう》な光をおびた。綾乃の細い足首をくびれるほど強くにぎると思いきり両足をおし開いた。そのまま頭の方へおし上げるとまだ男をむかえ入れたことのない綾乃のくぼみが灯を受けた。綾乃がせきをきったように泣き声を上げた。その白い足の間にたすくの体がのしかかった。  とつぜん、部屋の空気が笛のようにするどく鳴った。 「うっ!」  たすくの顔はゆがんだ。異様なひびきは耳の鼓膜をつらぬいて頭のしんへ|錐《きり》のように突き刺さった。呼吸が止り、みるみる心臓が張り裂けそうにはげしくおどった。たすくは綾乃の足首をつかんでいた手をほどくと耳をおさえて体を折った。胸の奥底から口へあふれてきたものをおさえようとしておさえきれず、ふとんの上へ吐き出した。|飛《ひ》|沫《まつ》が顔や手に飛び散ったが、さけるよゆうもなく、たすくは何度も何度も吐いた。そのあい間にたすくは全身の力をふりしぼって息を吸いこもうとしたが、少しも空気は入って来ず、かえって胃の腑からあふれたものがのどにつまってたすくは目をつり上げてむせんだ。急速に意識がかすんできた。真黒な絶望が濁ったたすくの頭の中にひろがった。 「とのさま! とのさま!」  誰かが必死にさけんでいた。うつろな心の中で、誰かが自分の右手に重く長いものをにぎらせようとしているのを感じた。消えかかる意識の底でそれが刀だとわかった瞬間、たすくは無意識にそれをにぎりしめ、ひじとひじをつかってばねのように跳んだ。たたみに足がつかぬうちに片手はすでにたたみにひろがっている綾乃の着物をすくい上げていた。それを大きく打ちふり、水車のように回すと綾乃の着物はたちまち一本の棒のようによじれてのびた。  たすくは歯をくいしばって残る力のすべてをうでにこめた。たすくの体を中心に、紫の風車は部屋の空気を切ってひゅうひゅうと鳴った。しだいにたすくの耳から鼓膜を突き破って脳髄を突き刺してくる異様なひびきが遠のいていった。たすくの肺にふたたび空気が流れこみ、その強烈な味にたすくの肺が|灼《や》け、その瞬間にたすくのすべてがよみがえった。  たすくはしめきったふすまに向って突進した。着物をふり回すたすくのうでの回転が落ちるとそのすき間からあの異様なひびきがくぐりぬけてきた。つぅーん! とはしる痛みにたすくは猛然とうでを回した。弧をえがいて回る着物の端がふすまにふれ、鋭利な刃物で切断されたように二つに断ち切られたふすまが廊下にたおれ落ちた。それをとびこえてたすくは廊下におどり出た。  廊下には異様な青い光がみちあふれ、柱も天井も奇妙にゆがんで見えた。音源は廊下の奥と思われた。たすくは青い光の中を影のように走った。すでに音は消えていたが、敵は逃げたとは思えなかった。廊下のはずれは突き当りで右と左に廊下はのびている。右は裏玄関へ、左は台所だ。  そのとき、右の角から銀色にかがやく一団の雲が流れ出た。それは突き当りの壁の前を横切って左へ、台所の方へ向うと見えてにわかに向きを変え、たすくへ向っておそろしい早さで飛んできた。それがたすくの体を包みこむよりわずかに早くたすくは廊下の板敷に身を投げた。そののびた足先より指一本ほどのうしろに、|磯《いそ》|波《なみ》がくだけるように幅広くざっとなにかが撒かれた。幾百千に飛び散ったしぶきの一つがたすくの顔の前にはねた。  たすくの全身から血がひいた。それは微細な銀の針だった。無意識に足をちぢめたたすくの目に、廊下の板敷から壁をおおって一面に突き立った銀色の針が映った。目に見えぬような微細な針はそれをまともに受けたらあっというまに銀色の毛皮をかぶったようなむくろと化してしまう。  それにもましておそろしいのは姿をひそめている敵の力量だった。針を飛ばすことはそんなに難かしい術ではない。しかしそれが飛びながら方向を変えて目標を襲うとなるとこれはもはや並の力量ではない。たすくは壁を背にしてかにのように横這いに曲り角に迫った。青い光はこの世のものならぬ|翳《かげ》を曳いていた。たすくは体を丸めてまりのように廊下にころがった。ころがりながら手にした刀を右へ向う廊下の奥へ飛ばした。廊下の奥ですさまじい火花が|炸《さく》|裂《れつ》し、天井や廊下にみなぎっていた青い光は一瞬、消えて|暗《くら》|闇《やみ》となった。たすくははね起きて走った。裏玄関がほの暗い長方形を描いている。そこをくぐるのは極めて危険だったが、もはやちゅうちょしているひまはなかった。弾丸のようにかけぬける。その玄関の外側の壁にはりついて、たしかに敵の気配があった。たすくは夜鳥のように飛んで植込の石|燈《どう》|籠《ろう》のかげに身を伏せた。  庭の高い|梢《こずえ》でふくろうが鳴いていた。夜気が|凝《こご》って虚空から降るような、胸にしみこむ声だった。敵の気配もほんのわずかも動かない。  ふくろうがまた鳴いた。ずっと鳴きつづけていたのか、それとも今鳴きはじめたのか、たすくはその声に耳を傾けた。ふくろうは二羽で鳴き交しているようだった。よく聞くと一羽の声はやや調子が急であり、もう一方の声はわずかに遠く、隣家の庭の梢に位置するようであった。  泉水の|鯉《こい》がはねる水音が繁みのむこうから聞えてきた。泉水の鯉がなにかに獲られると掃除番の|老《ろう》|爺《や》が言っていたが、あのふくろうかも知れないと思った。暗い泉水の水面にひろがってゆく波紋がたすくの目に見えるような気がした。  敵の気配はまだ動かない。先に動いた方が自ら死を招くことになるのだ。  ふくろうが鳴き、また鯉がはねた。  そのひろがる波紋をどこまでも追いかけてゆくと心は肉体から離れ、いつか幻のように希薄になってゆく。遠いかなたで波紋が消えたとき、そこまでさまよい出ていた心は急速にとり残された肉体にたちもどってくる。  敵の気配は闇の中にともすれば溶けこんでゆくかと思われた。  またふくろうが鳴き、かすかに泉水の鯉がはねた。凝結した一点から幾重もの波紋が生れ、この屋敷も、たすく自身も、夜そのものさえも大きく呑みこんで天地の果に誘った。波紋が消えていっさいが現実に|立《た》ち|還《かえ》るとき、たすくはかすかな悔いと苦痛を感じた。そのまま波紋のゆらめきの消え去るかなたまで、二度と帰らぬ脱出をこころみたくてならなかった。現実にもどるおのれがむしょうに|苛《いら》|立《だ》たしく、哀しかった。  ふくろうが鳴いた。その声は夜の静寂の中に遠雷のようにとどろいた。泉水の鯉はそれにおどろいたのか、水音はもう聞えなかった。もう一度ふくろうが鳴いたとき、たすくは知った。  たゆたいひろがる夜のふくらみの中に、石のように|醒《さ》めた一点があった。それは波紋の動きにあわせてあるいはゆらめき、あるいははしり、時には影のようにひそんで急速に迫ってくるなにものかの気配だった。  たすくは犬のようにあえいだ。たすくの心はなお肉体の外にあった。  早く! 早く! 焼けるような焦燥の中で、希薄な心と現実の肉体はかみあわぬろくろのようにきしんだ。過ぎてゆく一瞬、一瞬が凍るような死の予感だった。手も足も鉛のように重く、彫りつけたもののように心は新しい事態の危急を受けつけようとしなかった。全身の力をふりしぼってたすくは頭をもたげた。それだけの作業にたすくのひたいはつめたい汗にまみれた。汗がほおをつたい、あごから着物のえりやひざにしたたったとき、たすくはようやく現実の力をとりもどした。  またふくろうが鳴いた。その声はもうたすくの心をそれ、いつものふくろうの声となってさびしく虚空に消えていった。  たすくは低くさけんだ。 「来い!」     八 さざれ石  ひと呼吸ほどおいて、それに応ずるように闇の中で声がした。 「みごとだ、六波羅蜜どの」  その声はどこから聞えてくるのか、たすくには全く見当もつかなかった。裏玄関の外の壁にはりついていると思った敵の気配はすでに消えていた。それはあるいは虚構であり、あるいはたすくの心に投げられた幻影かもしれなかった。今、敵はこの闇の中に在ることをはっきり示していた。 「この夜ふけ、それを言いたいがためにやってきたのか」 「六波羅蜜どのはかねてより無類の術者と聞いていたが、さこそと感服いたした。六波羅蜜どの。おおせのようにそれを告げんがために参上いたしたのではござらぬ。実はお主と取引きがしたい」  声の主はたすくの反応を待つようにそこでちょっと言葉を区切った。 「取引き? なんの?」 「まずは聞かれい」  声の主は少しも変らぬ調子で言った。若いとも年とっているとも、さだめ難い奇妙な音声だった。 「聞いたとてどうしようもないが」 「幕府の転覆をくわだて、豊家の再興をはかりつつある徒輩がある」  庭の梢か、床下か、それとも屋根の上かあるいは地中か、その声の発する所をなんとかしてつかみたいと思ったが、首を回すにつれてその声は夜の闇の中に自在に動いた。 「そうしたことか! もうよい。幕府の転覆の豊家の再興のと、これまで何度耳にしてきたことか! この夜ふけそうして忍んでまいってなかなかの手練れぶりを見せたはたいした執念じゃが、聞きあきた。早く|去《い》ね! やくたいもない」  声の調子がわずかに変化した。 「聞きあきた、とな。六波羅蜜どの、それが柳生十兵衛三厳、和泉屋弥四郎堺会所と関係あり、と申しても聞きあきたか」 「十兵衛三厳が和泉屋弥四郎と?」 「ほれ、そのように聞きとがめるわ」 「なかなか!」 「|薩《さつ》|摩《ま》の|伊集院《いじゅういん》|六《ろく》|太《た》|郎《ろう》。|寺《てら》|西《にし》|吉《きち》|次《じ》|郎《ろう》の両名が先日、和泉屋弥四郎の堺会所にて十兵衛三厳と会見いたした。十兵衛三厳に従うは柳生藤六正直、鳥飼三郎次の両名」  薩摩の伊集院六太郎といえば、藩公ですら師の礼をとるといわれた知恵者であり、御一統様と呼ばれる藩公親類の上席であった。寺西吉次郎なる人物についてはたすくは知らなかった。 「誰が誰と会おうと、どうしてそれが幕府転覆、豊家再興とつながるのだ。そのような相談をいたしました、と十兵衛三厳や伊集院六太郎が言ったのか」  声はわずかに笑った。 「そこまで明かしてしまっては取引きにならぬ。六波羅蜜どの。こちらは手を見せ申した。つぎには」 「やめろ。なにを聞いてもお主の満足するようにはならぬぞ。なぜなら、どこの誰とも知らぬ者とえたいの知れぬ取引きの約束などできると思ってか!」 「こちらの名前は失礼ながらゆるされたい。六波羅蜜どの。取引きとはすなわち」  声はにわかに強い調子になった。 「さざれ石をいただきたし」 「なに?」 「取引きと申しておる。あれはお主には全く不用なるもの。ぜひおかえしねがいたい」 「なんだ? そのさざれなんとやらは」 「これはなさけなき申しようかな。そこまでかくされずともよかろう」 「いや、まて、まて。これはかくしごとでも何でもない。そのようなものいっこうに知らぬぞ。もう一度、言うてくれい、なんと?」 「さざれ石。これにはあるいわれありて、われら多年、探し求めてまいりし物。このたび、はからずもお主の手にわたりたることが判明いたし、夜分を省みず参上いたしたしだいでござる」  たすくはつづける言葉もなくなかば|呆《ぼう》|然《ぜん》と声の語る意味を考えていた。いくら口の中でさざれ石、とつぶやいてみても心当りはさらになかった。 「いかに、六波羅蜜どの。かさねて申し上ぐるが、この物、われらにては多年、人手と|費《つい》えを重ねて探し求めてまいったものでござる。されば、お主にとってもけっして損にはならぬ交換のための条件として、幕府に対してよからぬ企てを抱く徒輩についての詳しい情報を提供いたそう、とこう申しておる」 「われらと申したが、そもいかなるお人の集りか? またなぜ玄関から堂々と入ってこられぬのだ? それにふいにあのように攻めかかるとはまことにもって無礼の極み」  ひびくようにこたえがかえってきた。 「名を名乗ってもせんないこと。それにわしが名乗っても、お主にはそれを確かめるすべもない。また、このことは、お主とわしの間だけのこととして話を進めた方がよい。玄関からたずねれば、いつなんという者がお主をおとずれてきたか、とりつぎの者が知ることになろう。余人が入りこんでくることは、いかなる意味でも避けたいのだ。それに、うそいつわりでない証拠にわがうでのほどもお見せ申した。勝手な申しよう、と思われるであろうが、曲げて聞きとどけていただきたい」 「わかった。それでは重ねて今一度言おう。そのような品、一度も見たこともないし、また持ったこともない。なにかのまちがいであろう。早々に引きあげられたがよい」  たすくはつめたく言い棄てた。 「六波羅蜜どの。それではやむをえぬ。刀にかけてもちょうだいいたす」  声にみるみるすさまじい殺気がこめられた。 「ほう。命にかえても、だと? おもしろい。さあ、どこからでもまいられい。ありもせぬ物をどのようにすればわたせるものか見たいものだ」  たすくはひややかに笑った。どこに姿をひそませているのか、このままではうかがうすべもない。なんとかして相手の心を動揺させ、その幻妙な忍びの術を自ら崩させるいがいになかった。果してこちらの意図にのってそのまま攻撃に転じてくるか。たすくははげしい期待を心の底におし沈めて訪れてくる好機を待った。耐えられないほどゆっくりと時間がたっていった。ひそんでいる場所さえあきらかでない。しかもその戦いの技能さえおしはかることもできない未知の敵の第一撃をじっと待っていることの苦痛は容易なことではない。しかしたすくは彫像のように身動きもせずに待ちつづけた。  これは敵にとってあきらかに失敗だった。これまでの奇襲による優位を自ら投げすて、たすくに完全に|防《ぼう》|禦《ぎょ》の態勢をとらせてしまったことになる。たすくは手に何の武器も待っていなかったが、これからの闘いには自信があった。すぐれた術者にとっては武器の有る無しは問題ではなかった。たすくも同様だった。  果して敵は再度の戦いを展開するだけの余力は残っていなかったらしい。闇にただよう気配はやがて音もなく煙のように消えていった。たすくにもまた、それをどこまでも追いつめるだけの気力はなかった。  たすくはそのままの姿勢で長い間、動かなかった。  奇妙な音響でたすくの心を惑乱させ、数千本の細い針を自在にあやつって必殺のわなをかけ、さらに庭の梢に鳴くふくろうの声にまぎれてたすくの体の自由をうばい、肉迫してきた敵の技量はまさに無気味な死、そのものだった。そのどれもが、これまでたすくが経験した忍びの者たちとの戦いとは異なっていた。  甲賀や伊賀などの忍びの者たちが、ときに正気を失い、幻覚をもよおさせるような特殊な薬品を用いるとか、煙を送るとかいわれているが、それらはすべて忍びの活動をことさらに幻妙不思議なものと思わせるためのものであり、また忍びのはたらきに実際以上の恐怖を抱いた戦国期の武士たちの間から生れた風説であった。たすくの知るかぎり、事実にもとづいた例もなければ、かれらの間にそのような|術《わざ》があろうとも考えられなかった。  なにものだろう? さざれ石とやらがほしいと言っていたようだが……。  さざれ石。それはこれまで一度も耳にしたことのないことばだった。どんなものなのだろうか? それは。  生命のやりとりをしてまで手に入れたいとねがうからには、それは何かの工芸品としても想像を越えた逸品であろうことは容易にうなずけた。  しかしそれがどうしておれの手にあるなどと思ったのだろう?  あのような攻撃をかけてくるからにはよほどその判断に自信があってのことなのであろう。  もう一つひどく気になることがあった。  薩摩の伊集院六太郎と寺西吉次郎の両名が柳生十兵衛三厳らと会見いたした、とか言ったようだったが……。  それに和泉屋弥四郎が一枚加わっているとすると……。  そのころになってようやく屋敷の内部で人声がわき上り、雨戸がくりあけられて灯が庭へ流れ出した。その灯の中で、家士たちがあわてふためいて裸足のまま庭にとびおりるのが見えた。  ——和泉屋弥四郎が加わっていた、か。  和泉屋弥四郎は京都の大きな油商だった。弥四郎の祖父、|三《さぶ》|郎《ろう》|太《た》が家康につかえて功があり、二代将軍|秀《ひで》|忠《ただ》より|油方《あぶらかた》差配免許の墨付を得て西国一円の油類の売買をとりしきってきた男だった。菜種油も|桐《とう》|油《ゆ》も魚油も、およそ油と名のつくものはこの和泉屋の認可がなければ一滴たりとも動かすことはできないなどと言われたものだった。  その和泉屋が……。  これはよくない兆候だった。そこになにごとか新しい危険の芽が生れつつあるようだった。     九 政商の動き、あわただし  徳川家康亡きあと二代将軍秀忠は創世期の幕閣政治に極めて大きな発言力を有した経済人グループを権力の中枢から遠ざけることに多大の努力を払った。創業期の首長の個人的な信任によって権力の中心部に位した者たちが、ようやく整備されてきた新しい政治機構の中ではむしろ機構の円滑な運営のさまたげになることがしばしばある。徳川幕府創業に際してその経済的基盤の建設に大きな功績を残した豪商グループ、すなわち外国貿易について建策差配を行い、長崎奉行をあずかった長谷川左兵衛。河川行政に高い手腕を示し、同時に朱印船貿易に活躍した|角倉了以《すみのくらりょうい》。銀貨の鋳造をおこなった|湯《ゆ》|浅《あさ》|作《さく》|兵《べ》|衛《え》。また幕府の呉服方をつとめ、黄金の鋳造にも名の高かった|茶《ちゃ》|屋《や》|四《し》|郎《ろう》|次《じ》|郎《ろう》、同じく|後藤庄三郎《ごとうしょうざぶろう》らは、新興政治勢力たる新官僚機構の前にその政治的地位を失っていた。これは賢明な改革だったと言える。  誕生なお日の浅い新政権が、これら経済界の有力グループによってその鼻面を引き回される危険は誰の胸にも予測されていたところだった。こうして徳川幕府の政策は三代将軍家光の代になってもなお強力に推し進められていた。  寛永十一年四月一日、家康より|万鍛冶《よろずかじ》差配の免許を与えられ同時に銅銭鋳造の計画にあずかってより西国の総鍛冶方をうけたまわってきた安芸の柴富助三郎が隠居おおせつけられ、五月には秀忠側近の一人として京都所司代に出入りしていた|葛《か》|西《さい》|万《まん》|兵《べ》|衛《え》が暇を出された。そしてつぎには勘定頭付油方御用をつとめる大坂の油商和泉屋弥四郎の御役停止の|沙《さ》|汰《た》であった。これで家康以来の豪商グループの政治中枢部からのしめ出しはほぼ終了した。  しかし政界から退潮いちじるしいとはいえ、それで屋台骨のゆらぐような商人たちでもなく、それぞれの業界にあってはいぜんとして強力な地盤と発言力を有していた。それがなお幕府のたび重なる経済官僚機構の再編成とその政策の実施面の上で陰に陽に多大の影響を持ちつづけていたし、それがひいてはさまざまな形で幕府に対する巻き返しの形であらわれてくるのもいわばなりゆきでもあった。  その一つが、堺、大坂の豪商グループが西国の大藩の幾つかと手を結び、藩財政の整備に多くの力を貸し与えているという事実であった。西国の大藩は軒なみ、海外との密貿易をおこなって巨額の利潤を得ていることは実は幕府とて知らないわけではなかったが、徳川家三代をへた寛永期にあってもなお、西国大藩に対する潜在的威圧感と、その忠誠の度合に対する疑惑や不信感をぬぐいきれずにいるのだった。たとえば薩摩の島津であり|阿《あ》|波《わ》の|蜂《はち》|須《す》|賀《か》であり、|長《なが》|門《と》の毛利、|筑《ちく》|前《ぜん》の黒田、|肥《ひ》|前《ぜん》の|鍋《なべ》|島《しま》などおしなべて海外密貿易のさかんな所であり、その財力は幕府の極めて警戒するものであった。とくに薩摩の島津には過敏過ぎる程の注意を払っていた。この頃ようやく安定した統一政権としての実力を持ちながらも、これら大藩に対して積極的な統制策をおし進めることができなかったのは、幕府内外の諸事情が大坂陣以後の第二次統一戦争を行い得ない限界に達していたことと、幕府首脳の間にこれら諸藩をもってしても反幕統一戦線を結成することは現状では不可能であるという客観的情勢分析がなりたっていたからでもあった。  しかしそうした幕府の基本的態度の裏には、西国外様大名のかくれた実力に対する不安があったことはいなめなく、それだけに堺・大坂の豪商グループとの接近は忌避すべき悪材料であった。中央政界から豪商グループを排除するという基本政策は歴史的に時宜を得たものではあるにせよ、ひとしく経済界の硬化を招いたことはこの時期に|於《お》ける新政権の重大な試練の一つであるとも言えた。  そこへ最近、京都所司代から新たに幕府を苛立たせるような情報が流れこんできた。 “豊家再興を志す徒輩が大坂の豪商に接近を図っている”  慶長十九年豊臣家の滅亡以来、この種の情報に幕府は免疫化してしまっているとはいえ、寛永三年従二位権大納言|忠《ただ》|長《なが》の改易処刑のことがあってからはふたたび極めて神経質になってきていた。たとえそれがどのように真実味の薄いものにせよ、そうしたうわさそのものの発生がなお幕政の不安定さを意味している。しかもそうしたうわさが発生のつど、西国の大藩や堺、大坂などの豪商グループが登場してくることは幕府としてはいかにもやりきれないことであった。それをいちいちまに受けて神経質な動きを見せてはかえって幕府の失態をほくそ笑んでいるような外様大藩の乗ずるところとなるし、放置しておくにはうわさの性質は危険なものであった。元和元年より数えてまだ二十年ほどしかたっていず、世間にはまだ天下は回り持ちと考えている連中がたくさんいた。それ故に幕府は事あるごとに大藩に対しては懐柔と改易、豪商グループに対しては陰性な弾圧と威丈高な|恫《どう》|喝《かつ》がくりかえし加えられた。           *  和泉屋弥四郎と薩摩の重臣がひそかに会合をおこなったというのはこれはいわば自然だ。しかしそこに幕府の最高秘密情報機関の長官である柳生十兵衛三厳が同席していたとなると理解を越えたものがそこにある。両者の接近はとても考えられるものではなかったし、またそうした風聞すらたすくの耳には入ってこなかった。そこには高度な機密が秘められている。 「とのさま、おけがはござりませなんだか」 「忍んでまいったのはなにものにござりましょうや」  口々に息せききってたずねる家士たちの言葉を受け流してたすくは家の中へ入った。  廊下の壁や板敷に無数に突き立っている微細な針をすべてぬきとり、箱に収めて書斎に運んだ。  つめたい水で体をぬぐうとたすくはふたたび寝室へもどった。部屋はすでに片づけられ、たすくの|嘔《おう》|吐《と》物で汚れた寝具は新しいものにかえられていた。  明日たすくが着るものまですっかり変えたらしい。乱箱をささげて部屋へ入ってきた綾乃は人形のように表情を殺していた。 「綾乃」  乱箱をつねの位置にすえて、綾乃はふだんと少しもかわりなく静かにたたみに指をつかえた。 「綾乃、さきほどのことはゆるせ。おどろいたであろうが、くせものの近くにあるを察し、すきをあたえてまねきよせようと、心ないことを承知でいたしたことであった。ゆるしてくれ」  たすくは|腹《はら》|這《ば》いになったふとんの上で小さく頭をさげた。 「よい。さがってゆるりと休め」  ごろりと体をかえしてまくらに頭をつけた。庭に警戒の人数が出たらしい。誠之助が誰かと話す声が庭の踏石をわたっていった。  部屋を出てゆくはずの綾乃の気配がいつまでたっても動かない。 「どうした?」  たすくはまくらの上で視線を動かした。  乱箱のかたわらで綾乃はうなだれていた。わずかに肩がふるえているのは声をしのんで泣いているようだった。 「どうした? 綾乃」  たすくは上半身を起した。たすくの声に綾乃はかえって深く体をおった。たたみにこぼれているたもとをひろって顔におし当てた。 「だまっていてはわからぬ」  綾乃ののどからおさえきれぬしのび泣きの声がもれた。  |女《おな》|子《ご》の泣くのはかなわぬ。ええいめんどうな——。 「|去《い》ね!」  言いかけたときふいに綾乃が顔を上げた。灯影に遠く、その表情は見さだめ難かったが全身に必死な感情が炸裂した。 「とのさま!」  口をついて出たさけびが瞬間的に勇気にかわったように綾乃は全身でにじり寄った。 「とのさま! おなさけをいただきとう存じまする」  |憑《つ》かれたようなまなざしがはげしい羞恥に燃えていた。 「なんと?」 「とのさまはおなごの心をそのようなものにおぼしめしていられまするのか」  綾乃の体からこれまで全くたすくの気づかなかったみずみずしい色気がもやのように立ち上っていた。 「綾乃!」 「とのさま。綾乃もおなごにござりまする。忍びをひきよせるためのてだてであったとは思いとうござりませぬものを」 「まあ、まて」 「うらめしゅうぞんじまする」  綾乃は消え入りそうに身をよじった。  たすくはなにかうまいことを言おうと思ったが適当な言葉がみつからぬまま絶句した。 「とのさま、おなさけをいただきとうございまする。そうでないと、綾乃は、綾乃は」 「綾乃がどうした」  綾乃の内から|衝《つ》き|上《あ》げる心の火がくちびるをついて出た。 「綾乃は死んでしまいます!」  ふいに立ち上った綾乃はもすそをひるがえすとふすまに手をかけた。その大きな目からなみだがほとばしった。たすくは、このまま部屋から出したら綾乃はおそらくほんとうに死ぬであろうと思った。 「まて!」  たすくははね起きると綾乃の帯をつかんで引きもどした。わずかに開きかけたふすまを後手にしめると綾乃を部屋の中央に突き放した。綾乃は大輪の花が落ちるようにたたみにくずれた。  もはやこうなってはとるべき方法は一つしかないようだった。  たすくは燭台の灯を吹き消すと綾乃の体を組み敷いた。たすくの厚い胸の下で、苦痛の声をもらすまいとして綾乃は必死に自分の指に歯をたてていた。     十 背後の影  翌朝、奉行所へ出仕すると、与力|控《ひかえ》の間は品川弘明院に集った謀反の徒の|首《しゅ》|魁《かい》、石川修理が|矢《や》|口《ぐち》郷ふきんで警戒中の|小山田備中守《おやまだびっちゅうのかみ》の手の者にからめとられたというしらせでにぎわっていた。同時に修理と行動をともにしていた幹部四人のうち二人が斬られ、二人が捕えられたという。 「しかし、石川修理が捕えられても、きゃつはおそらく背後の真の主謀者については口を割るまいのう」  |瀬《せ》|田《た》|三《さぶ》|郎《ろう》|四《し》|郎《ろう》があごをささえて深い息を吐いた。 「京都の和泉屋弥四郎か、あるいは越後の篠之井屋早武庵あたりが糸を引いているのであろうか。かれらとは古い|結《けち》|縁《えん》のあることゆえのう」  木戸田文五郎がほうたいを巻いた左手をかかえてくやしそうにくちびるを曲げた。 「和泉屋や越後の早武庵を野放しにいたしておくことがよろしくない。そうそうにひっとらえていっさいを白状させればよろしいと思うのだが。|上《うえ》つ|方《かた》の考えはがてんがゆかぬわ」  年輩の|松《まつ》|田《だ》|耕《こう》|右衛《え》|門《もん》が声を荒げてたしなめた。 「木戸田|氏《うじ》。そのようなことを大きな声で申されては一同が迷惑いたす。すべてはお|上《かみ》のなされようじゃ。われらは御用大事に専念いたせばそれでよろしいのだ。政治向きのことに口を出すのはよろしくない」  皆は松田耕右衛門の言葉ににわかに白けた面もちで口を閉ざした。わざと音たてて茶をすする者もいる。  そこへ表からあわただしく控の間へかけこんできた者があった。 「今、しらせが入った。京都所司代の板倉重宗さまが浪人におそわれたそうな」 「なに! 浪人に」  みながそれぞれの姿勢で体を|硬《こわ》ばらせた。 「さいわい、警固のものが半数を切り伏せ、残りは逃亡したそうだ。所司代さまにはごぶじとのこと」 「西国浪人ばらでもあろうか」 「品川弘明院にかくれひそんでいたやからと東西呼応していっせいに蜂起する予定ではなかったかと|表《おもて》では申しておった」 「するとやはり京、大坂、堺などの大|商《あき》|人《んど》あたりが力を貸しているのかもしれぬな」 「主謀者の名は?」 「そこまではまだしらせがきていないらしい」 「ここまでくれば、もはや和泉屋も越後の早武庵も野放しにしておく手はないのう」  先ほど、松田耕右衛門からたしなめられた話題にたちかえった。しかしこんどは耕右衛門ははげしい表情を動かしただけでなにも言わなかった。 「どうも近頃あちこちでお上に弓ひく者どもや、百姓|一《いっ》|揆《き》などと称して代官にたてつく者どもが増えているようだ。これはやはり背後でかれらをあやつる大がかりな組織があると考えた方がよいのではあるまいかのう」  瀬田三郎四郎がひざをのり出して言った。 「だが瀬田氏。背後にあってあやつるとなれば、当然、謀反のための軍資金、また一揆のためのあれこれの援助が必要。それがなせるのはこれはかなり余力のある大藩が、それも幾つか集ってでもなければできぬ相談ではないかな」 「だから和泉屋などの徳川家のなされかたを心よく思っていない大商人があやしいと言うのだ」  それがもっとも可能性はある。 「しかし、それら大商人の家に入っている諜者の報告によれば、金の動き、人の動きにまず目立った変化はないそうだ。それに大政商といえども兵を使わずしてはしょせん天下を動かすわけにはまいらぬ。この投資は極めて高価につくぞ」 「なにかある。必ずなにかある」  木戸田文五郎がつぶやいた。それを耳にしたたすくの目が人知れずにわかに光った。 「なにかある、とは?」 「そうよのう。こうもみなの口に大商人らの名前が出るということは、かれらの動きにそう疑わせるものがあるからであろう。六波羅蜜どの。火のない所に煙はたたぬと言うではないか」  松田耕右衛門がその言葉に強くうなずいた。 「わしもそう思う。このさい、島津や細川、毛利、黒田などの大藩とかかわりのある豪商どもをいっきに粛正いたし、幕府のきびしい統制のもとにおくことが肝要だ。|下《しも》|々《じも》の口にまでかれらの名が出るようになっては、これは天下にしめしがつかぬ」 「しかしうわさばかりではっきりした証拠もないのではないか」 「証拠などいくらでも作れる」 「まことに関係ありとすれば、大藩が承知すまい。必ずや横車をおすであろう」 「また知らぬ存ぜぬで押し通すことも考えられよう」 「いずれにせよ。きめ手がないのう」  新しい茶がつがれ、香ばしいかおりが部屋にひろがった。 「六波羅蜜さま。お奉行さまがお呼びでございます」  当番の若い同心が廊下にひざをついた。 「お奉行さまが? 今まいる」  たすくは帯をしめ直し、着物のすそを払って立ち上った。  長い廊下を奥へ進むと、泉水に|青《あお》|笹《ざさ》を配した中庭に面して奉行、神尾永勝の休息の間があった。二十畳ほどの広壮な座敷の外側に、これもりっぱな|備《びん》|後《ご》表のたたみを敷きつめた廊下がはしっている。たすくはそこへひざまずいた。 「与力格。六波羅蜜たすく。参りましてござりまする」  永勝の近習がたすくの来たことを告げる。 「|御《おん》|前《まえ》に」  うながされてたすくは座敷に入り、小腰をかがめて永勝の前に進んだ。 「近う寄れ。六波羅蜜」  神尾永勝は肥満した体をゆるがせてのり出した。もり上ったひざをきゅうくつそうにずらせてせわしく首すじの汗をふいた。 「どうも汗っかきでかなわん。六波羅蜜。おまえを招いたのはほかでもない」  汗をぬぐった手ぬぐいを裏をかえして折りなおし、こんどは胸もとにおしこんだ。見るからにあつ苦しい老人だった。 「のう。諸国の事情に精通いたし、かつまた世情を見るに極めて敏なりとて、とくに松平伊豆守さまお声がかりにて当奉行所につめることに相なったおまえのことだ」 「おそれいりまする」  永勝は手ぬぐいをひざのかたわらへすてると急に声をひそめた。 「近頃、徳川家に弓を引くがごとき徒輩のしきりにあらわれ、また諸方で一揆の打ちこわしのと、なにやら世情の騒然となってまいった感が深い。徳川家も|東照《とうしょう》権現さまよりご三代、基礎もようやくゆるぎなきにいたったものの、なおかたときもゆだんはならぬ」 「はっ……」  たすくは上体を折って永勝の言葉にこたえた。 「まだまだ乱世に寄せる期待は大きい。これは九州・西国の外様系大藩のみにあらず、藩財政窮迫の小藩においてもそれは同様に家運隆昌の絶好機とひそかにうかがいおるもあろう」  それは永勝の言葉をまつまでもない。 「あやうい。あやうい。品川弘明院の謀反の一味の|頭《かしら》、石川修理の名を聞いたとき、わしは背すじがつめとうなったわ。やつは|関《せき》が|原《はら》の戦いに敗れ首をうたれた|石《いし》|田《だ》|三《みつ》|成《なり》にたとえられる切れ者じゃ。天性の陰謀家、策師じゃよ。世間にはまだまだかくれた石川修理がおる。のう六波羅蜜」  たすくはだまって永勝の言葉に耳をかたむけていた。 「昨今、しきりに耳にいたす陰謀徒輩の活動を思うとき、わしはどうもこれらがたがいになんらかのつながりをもつのではないか。あるいはかれらの背後にあってこれを一つに|統《す》べるものがあるのではなかろうか、そのように思われてならぬのであるが、六波羅蜜、そちはどう思うか?」  たすくの目が人知れず|燐《りん》|光《こう》のような光を発した。しかし顔は伏せたまま視線だけをやや上げてたすくはこたえた。 「おそれながら申しあげます。私めのとぼしい知識ではとてもお奉行さまのご明察には及びもつきませぬはもとよりのことにござりまするが、やはり西国の大藩と大坂、堺などの大商人との結合がもっとも警戒いたすべきことかと思われます」  永勝は耳のないような顔をしていたが、たすくの言葉の終るのを待たずに、小山のようなひざをぐいと動かすとたすくに顔を近づけた。 「六波羅蜜。現在、捜査の要路にある者なれば誰でもそう言うわ。わしが申しておるのは、六波羅蜜、そちはどう思うか、ということなのだ」  たすくは一度、ひたいがたたみにふれるほど低く頭をさげたが、ふたたび頭をもたげたときに前と同じこたえがたすくの口から出た。 「——やはり西国の大藩と大坂、堺などの大商人が結託いたしますことが——」  永勝はもうよいというように手を小さくふった。ふきげんそうに窓の外に目を遊ばせた。  二人の間に気まずい沈黙が流れた。たすくはそのまま沈黙を守っていたが、やがて視線を永勝の上にもどした。 「お奉行さま。先ほど、陰謀徒輩の背後にあって、これを一つに統べる者があるのではなかろうか、とのおおせにございましたが、なぜそのようにお考えあそばされたのか、お聞かせねがえませぬか」 「そうよのう」  永勝は深く息を吸った。 「六波羅蜜。謀反というものは|先《ま》ず血盟の同士が一つ心に結ばれることが肝要なるはいうまでもない。つぎに必要なることは人心を|収攬《しゅうらん》すること。そしてそれには説伏のほかに多額の費用がかかろう。時には人は|道《こと》|理《わり》よりも利益によって動く。機にのぞんで多くの金子を用いることもはかりごとの一つであろう。したがって六波羅蜜。昨今、しきりに聞く謀反徒輩の動きを支えおる軍資金は、これはあるいはよほど有力なすじから流れ出ていると考えられるが」 「お奉行さま。それゆえ、西国の大藩、政商らのかげの力がひそむかと考えられまするが」  永勝は首をふった。 「もうよい。六波羅蜜。さがってよい」 「おそれながらお奉行さま。ひとつお教えくださりませ」  永勝は興味を失ったまなざしをたすくに向けた。 「どのようなことじゃ」 「お奉行さまは西国の大藩、また政商どもではない、とお考えでござりますか」 「うむ」  永勝はしばらく沈黙していたが、やがて低くせき払いをして強い視線でたすくをとらえた。 「わしにはどうも大藩や政商などとは思えぬのだ。もっと政治の要路に近いあたり、という感が強いのだが」  たすくはその場へひたいをすりつけるように平伏した。 「お奉行さま。そのようなことを私めのごとき軽輩におもらしなされてはなりませぬ」 「なんと六波羅蜜。聞かせよと申すから聞かせたまでじゃ」 「恐れ入りました。なれどお奉行さま。それはなにごとかはっきりしたあかしでもござりましてか」 「ない」  警戒しているな、とたすくは思った。それならおたがいさまだ。 「だがのう、六波羅蜜」  永勝はたすくの気を引くように言った。 「豊臣回復に果して真の意味があろうか。そうではあるまい。それに名を借りるか、あるいはそれをよそおって全く異なるところの画策を成すかそのどちらかであろう。いずれにしろ、今日の政治の中心にあってこそその画策も成りやすきものよ。よく遠国の大藩や政商の成し得べきことではない」 「ははっ」 「わかるか。今日の陰謀徒輩の意図するところは、決して大軍を持って江戸へ攻め上ろうとすることではないのだ。徳川家に対して天下分け目の決戦をいどもうなどとするのではなく、政治の要路にある者たちを襲い、自分たちの手に幕府の実権を握ろうとするのが目的なのじゃ。したがってこれは幕閣の内部、あるいは柳営にごく近きところに焦点になる人物がおる、ということじゃよ」  永勝は言いすてて巨大な体をゆすって立ち上った。たすくはあらためて体を低めた。  永勝が部屋を出ていってからも、しばらくの間、たすくはその場を動かなかった。  ——柳営にごく近い所に焦点になる人物がいる?  ——何者だろう。それは。  たすくの胸に永勝の言葉がしこりのように残った。  さらにまた、  ——奉行がなぜあのようなことをおれに言ったのだろう?  うたがえばいくらでもうたがうことができる。永勝はなにかはっきりした証拠をにぎっていて、それを追究するきっかけを欲している、とも思えるし、また、たすくのかくれた上司ともいうべき松平伊豆守に自分の言ったことが伝わるであろうことをあらかじめ予測して言っているのかもしれなかった。いずれにせよ永勝は柳営に近い所、すなわち幕閣の最上層部にひとつの疑惑を抱いているのだ。  ——たしかに奉行は何か知っているのだ。  たすくはひとりうなずいてゆっくりと立ち上った。  ——奉行の身辺を洗ってみる必要がありそうだ。  たすくは胸の中でつぶやいて廊下へすべり出た。     十一 忍 び  神尾永勝は祖を遠く|三《み》|浦《うら》氏に発し、源家、|北条《ほうじょう》氏につかえ、神尾|志《し》|摩《まの》|守《かみ》|太《たい》|悟《ご》の代に|小《お》|田《だ》|原《わら》を囲んだ秀吉に|降《くだ》り、のち徳川家康に属して|駿《すん》|府《ぷ》へ下った。以来篤厚誠実の臣として譜代の中にあって重きをなしてきた家柄であった。|武州《ぶしゅう》|野《の》|火《び》|止《どめ》、|越《えち》|後《ご》|田《た》|口《ぐち》、|上総《か ず さ》|姉《あね》が|崎《さき》、|武蔵府中《むさしふちゅう》在などに計一万八百石を領していた。|四《よつ》|谷《や》|見《み》|附《つけ》内|西《にし》|窪《くぼ》に邸があり、ここから奉行所へ出仕していた。 「よいか、|大《だい》|六《ろく》。もう一度言うぞ」  たすくは部屋のすみにひかえた二人の男に交互に視線を当てた。庭に面して開け放たれた障子からは、初夏の陽光にあふれた庭の緑が目に痛いほどまぶしく流れこんでくる。遠く、|飯《いい》|倉《くら》あたりの森で鳴く郭公鳥の声が聞えてくる。明るい戸外から目をうつせば、室内は真の闇にひとしかった。しばらくたつとようやく目が馴れて、部屋のすみにうずくまる|保《ほう》|谷《や》大六、|大《だい》|七《しち》の姿があきらかになってくる。  武蔵国保谷にあって、古くは|天正《てんしょう》年間より開墾に従事し、水路を開き、|太《おお》|田《た》氏、|川《かわ》|越《ごえ》氏、|飯《はん》|能《のう》氏などに米麦などを提供するとともに、また|児《こ》|玉《だま》党に属して自らも兵を養ってきた保谷氏は家康による江戸開府に際し、土地その他一切の生産力を献上し、それにかわって関東郡代伊那氏の下にあって永代百石、保谷代官手代をまかされた。このころ、開祖より七代目にあたるといわれる保谷|三《さぶ》|郎《ろう》|義《よし》|高《たか》は|神《かん》|田《だ》|美《み》|土《と》|代《しろ》に漬物、乾野菜、馬糧などの|大《おお》|店《だな》を設け、江戸城をはじめとする各大名邸、藩邸などへ供給していた。九男子あり、長男の|太《た》|郎《ろう》義高は保谷の代官所に、二男|貞《てい》|吉《きち》、三男|春《はる》|満《みつ》は他家に養子となり、四男は出家して|木《き》|曾《そ》に、五男は武州|忍《おし》の松平につかえて六百五十石、馬回り役。六男、七男はそれぞれ大六、大七を名乗っていた。長男と五男が正妻との間の子供であり、二男、三男はおちかという妾の間にできたものである。四男は養子として引きとったものであるともいわれ、大六、大七は出入りの植木職人の娘を|側《そば》|女《め》として生ませたものであった。  大六、大七の兄弟は早くから保谷の土地を離れて|秩《ちち》|父《ぶ》、川越、高崎などを転々し、このころ、|八州見廻下役《はっしゅうみまわりしたやく》をつとめていた。これは正式の役名ではなく、大六、大七はともに同心|並《なみ》という格で今でいう調査・統計をあつかっていた。このころでいうそれはつまり情報活動と同じ意味であり、時には隠密を使ったものである。 〈保谷大六、大七、諸国産物吟味方|御扱《おあつかい》となる〉と『保谷氏事跡記』にあるが、これが六波羅蜜たすくとの結びつきである。           * 「まず、町奉行神尾永勝が、徳川家に弓を引く大がかりな陰謀について内偵を進めている、といううわさを流せ」  大六はわずかにうなずいた。 「これは大目付の耳に入るほどにやるがよい。方法はまかせる」  大六はきれいにはげ上った鉢の開いた頭に、わずかに残った頭髪を形ばかりのまげに結んでいた。おかしいほど離れた二つの小さな目が、なんの感情も浮べずに、まぶしい外光に向けられている。 「つぎに、神尾永勝が柳営に近いところに、幕府転覆を企図しつつある人物、二、三名を探知したもようだ、とこれは大七」  大七が無言でこたえた。 「大七、このうわさは|供《とも》|待《まち》部屋を中心に、御役部屋あたりに流すがよい」  たすくは手文庫から紙づつみを二つとり出すと二人の手前に押しやった。 「金子の入用の場合は丹阿弥の方へ言ってくれ。それからおれは明日から永勝の身辺を監視する。二人とも仕事が終りしだい、来てくれ」  二人はそろってたたみに手をつかえた。 「よし、さっそくたのむ」  二人は音もなく立ち上ると影のように廊下へ出ていった。おそらく衣装部屋で衣服をかえ、変装して出てゆくのであろう。  二人はおそらく江戸城内にまぎれこみ、今夜のうちにもうわさを流しはじめるであろう。そのあと、何がどう動くか? そこにたすくのねらいがあった。  翌日は雨。つぎの日の午前中までつづいた雨は夕方になってようやく上った。まだ雨雲が低く垂れさがり、飯倉や|青《あお》|山《やま》あたりの小高い丘陵は時おり雨雲の薄幕につつまれてかすんでいた。その空もようのせいで、いつもより夕闇が早くせまってきた。  たすくは笠をはずしたが、みの[#「みの」に傍点]はつけたままで中玄関にまわった。用人の|倉《くら》|橋《はし》|小《こ》|太《だ》|夫《ゆう》に取つぎをたのんだ。用人がもどってきて、四角張って殿は今、御所用中であらせられるによって、しばらく待つように、と言った。おおかた入浴か晩めしであろう。もとより永勝にとってつごうの悪い時間であろうことを計算してやって来たのだ。たすくはかかえてきた二、三の書類をさし出し、「ご|被《ひ》|見《けん》を」と言った。永勝がまだ奉行所にいるうちに|南豊島《みなみとしま》郡名主|寄《より》|合《あい》から回ってきた|板《いた》|橋《ばし》から|土《ど》|支《し》|田《だ》にかけての新田開発の工事の参考資料を貸し出してほしいという申請書だった。たすくはそれをおさえておいて永勝邸をおとずれる口実に使った。 「急なご決裁をおねがいいたしまするのか」  用人がたずねた。 「いや。ただ、本日のうちにお目にかければそれで結構」 「かしこまりました。おりを見ておとりつぎいたすであろう」  たすくは一礼して立ち上った。 「|夕《ゆう》|餉《げ》をいかが?」  用人が急に自前の表情にもどって言った。用人の倉橋とは顔なじみだ。 「いただこう」  この時代には、役向きで主筋をおとずれたような者にはめし時であれば必ず食事を供するものとされていた。実際には役向きであろうとそうでなかろうと、その時間に同じ屋根の下にある者には相応に食事を出すのが習慣のようになっていた。したがってひとかどの門を張っている家の台所は、食事どきともなるとかなりの人数が|食膳《しょくぜん》につくことになる。食客というのは本来その意味である。  たすくが台所へまわってみるとすでに三十個ほど食膳がならび、半数ほどに人がついて中にいそぎの用事のある者とみえ、食べはじめている者もあった。円座のしつらえてある数個は上級の家来衆。それにつづく十数個はおそ番、あるいは宿直の者であろう。たすくはどこへ|坐《すわ》ったらよいのか、台所番の中年の家士にたずねた。かれはたすきをはずし、ていちょうにあちらへ、と言った。そこは台所より一段高くなった十畳ほどの部屋で、四つの敷物が用意されていた。部屋のかかりの若い家士がその一つをすすめ、台所へ立っていって声高く部屋へ膳を運ぶようにうながした。敷物が四つ用意されているところを見ると、他にもここで食事を供されるような客がいるらしい。たすくはほんとうは、このような別室で食うよりも、めしや汁のにおいや湯気に満ち、食客たちのにぎやかな談笑や下女たちのあわただしい動きの中で食う方がよかった。よほどそう言おうかと思っているうちに膳が運ばれてきてしまった。若い家士がひざに手を置いてかしこまって、「召し上り下さいませ」と言う。たすくも、片手をたたみにすべらせて「ちそうになる」と言った。  膳の上にはさより[#「さより」に傍点]の塩焼、お|頭《かしら》付一尾。はす[#「はす」に傍点]と竹の子の煮つけに木の芽|味《み》|噌《そ》をそえたもの一皿。ふろ吹きの厚く切ったもの三つを一皿。たくあん、長めのものを三つに切って木皿に。それに昆布茶が|天《てん》|目《もく》風の茶わんに湯気をたてている。これは武家の来客の膳に必ず昆布と|勝《かち》|栗《ぐり》をつけたものが、近来、簡略になったゆえと、一つは昆布茶が賞味されはじめたからでもあった。なかなか結構な膳であり、たすくはめしを二度もおかわりした。最後に熱い茶と、薄く切ったういろう[#「ういろう」に傍点]が出た。若い家士が、殿様が|尾《お》|張《わり》公よりいただいたものであると言った。  たすくがそれを口に運んでいるとき、奥の廊下を伝って二、三人の足音が近づいてきた。若い家士は立っていって廊下側の障子を開き、新たな客をみちびき入れた。たすくは手のういろう[#「ういろう」に傍点]の皿を下に置き、心もち頭をさげて、 「お先にいただきました」  とあいさつした。 「いや、かまわれな。われわれもこれからいただきます」  さびをふくんだ静かな声音だった。あとの二人はだまったまま頭をさげた。たすくはそれとなく観察すると、あいさつをかえしたのは四十をなかば過ぎたかと思われるりっぱな武士だった。衣服も、一本だけおびているわきざしも銀のすかし彫のつばに|白《しろ》|鮫《ざめ》ざやのこしらえが|豪《ごう》|奢《しゃ》だった。太い眉にややつり上ったまなじりが|容《よう》|貌《ぼう》を実際以上にきついものにしているが、なかなか練れた感じの柔和な男だった。  他の二人は従者ではないらしいが同輩ともいい難い。終始、白鮫ざやに遠慮しているそぶりだ。一人は若く陽に|灼《や》けて筋骨などもたくましく、兵法に近ごろ自信を得たのであろう、|武《ぶ》|張《ば》った心がみなぎっている。もう一人は年齢のつまびらかでない小肥りの男だった。武士というよりも|商《あき》|人《んど》といった方が似つかわしい妙にいんぎんな感じの男だった。あるいは実際にどこかの大名に経済的な才能をかわれて出仕してでもいるのか、これも服装はりっぱだった。  ——かれらは永勝のなになのだろう?  たすくはこの三人に強い興味をいだいたが、あまりじろじろ観察するわけにもいかない。ういろう[#「ういろう」に傍点]を食べ、茶を呑み干したところで席を立った。 「お先にごめん」  こんどもへんじをしたのは最初の男だった。 「こちらこそ」  たすくはふたたび台所へ出て、若い家士に見送られ土間へ降りた。台所ではにぎやかに食事が進んでいる。壁の|釘《くぎ》にならべかけておいたみの[#「みの」に傍点]を取ってかかえて戸外へ出る。台所の板戸がしまったのを見てたすくは中庭へ通ずる露地へすべりこんだ。左側が|武者溜《むしゃだまり》の作りになっている。戦時には武装兵のつめ所になる所だが、むろん今では形だけのものだ。たすくはとびらをそっと開いた。長屋の仕切り壁をつらぬいたような構造のこの建物は物置に使われていた。たすくはうず高く積み上げられた炭だわらやかますの間ですばやく着物をぬいだ。下にはすでに忍びの着込みはできている。脱いだものを丸め、腰にさしてきた大刀まがいの竹光を三つにおって着物といっしょに固くしばった。日頃愛用のわきざしを腰におとす。ぬいだものを炭だわらのかげの奥深くおしこんだ。  高い天井裏に忍びこむのに手間はかからなかった。すぐ母屋の屋根にうつり、十数枚の|瓦《かわら》をそっとおこして屋根板を破り、体をくぐらせておいて下から瓦をもとのようにしっかりとならべる。  暗黒の中を、たすくはそろそろと進んだ。太いはりが迷路のようにつづいている。外から見ても広大な屋敷であり、母屋の屋根は城のようにそびえているが、こうして内部からうかがうとその広大さと複雑さにはおどろくばかりだった。それでも何分かののちにはたすくは永勝の居間の天井裏にひそむことができた。  天井裏板から屋根板までの間はおよそ五メートルもある。そしてその間を横材が二層にはしっている。そしてその間をたてに、無数の縦通材がつないでいた。水平に組まれた材木は幅が十センチメートルもある。体の平衡をよくとれば人間一人、横たわることができる。たすくは横材からそっと、天井板の上へおりた。天井板そのものは厚さが一センチメートル近い分厚いものだが、それでも直接、板の上にのることはできない。裏からは見えないはり[#「はり」に傍点]の上に足をのせる。この屋根の天井は一部をのぞいては|格天井《ごうてんじょう》になっているだけにつごうがよい。  たすくはいつでも急激な動作に移れるように右の足先にやや体重をかけてうずくまった。腰にさげた|鹿《しか》|皮《がわ》の道具袋から小さな三つ目錐をとりだすと、静かに天井板に小さな穴をあけた。目をおし当てて見ると、真下よりやや左にそれて神尾永勝の姿があった。かれと対座しているのは用人の倉橋小太夫であった。何枚かの書類を|点検《チェック》して末尾に署名をほどこしている。  時間はゆっくりとたっていった。家の中の人の動きもようやく静まってゆく。台所だけがまだ今日の仕事を仕上げていないのだった。大|釜《がま》の重いふたが閉じられる音や多数の皿、小鉢が触れあうひびき、明日の朝のしたくか、ほうちょうが小きざみにまないたを打つ音などが遠い一つの騒音になって暗い空間を伝ってくる。裏と表とを境するあたりには、天井を伝ってしのびこむ者を防ぐための|逆《さか》|茂《も》|木《ぎ》が設けられているが、音を防ぐことはできない。  たすくは自分の計画には自信があった。大六と大七を使って城中に放った流言が、反応をうむとすれば、今夜あたりが危険だった。  もし神尾永勝がもらした危惧が事実にもとづくものならば、流言をおそれた者は当然永勝を抹殺しようとするであろう。それがまことに柳営の奥深いところにひそんでいるものならば必ずやその方法をとるはずだ。事をかまえて隠居させ、あるいは左遷させても口をふさいだことにはならない。直接的な抹殺こそ、かれらの存在と計画をまっとうさせるためのもっとも具体的な方法であることは容易に想像できた。  果して今夜、あらわれるかどうか? たすくは全身の神経を針のようにとがらせて周囲の闇にとけこんでいた。     十二 暗 闇  夜もだいぶふけてきた。天井の空間を伝わってくる台所の物音もすっかり静まった。  永勝は寝所へ移った。廊下を奥へ進んだ周囲をあき部屋に囲まれた十二畳ほどの部屋だった。たすくは音もなく移動した。ふたたび三つ目錐で針で突いたような小|孔《あな》をうがって見おろした。  部屋の中央に、絹の豪華な夜具を敷いて今永勝が横たわったところだった。腰元が二人。一人がすでにととのえられている枕もとの懐紙、水さしなどの位置をもう一度正し、一人が永勝の体に薄い夏夜具をかけてやった。部屋のすみの香炉から除虫菊の蚊やりの煙がまっすぐ糸のように立ちのぼっている。  二人の腰元が部屋から出てゆくと、かわって反対側のふすまが静かに開いた。ふすまのかげにそろえてつかねた白い指がちら、と見え、その前を通って純白の寝着をまとった女性がすべるように部屋に入ってきた。  永勝から遠く離れた位置に坐って何か言い、しとやかにあいさつした。  その瞬間からたすくの神経は緊張した。  永勝は七、八年前に夫人の|柾《まさ》の方を失って以来、二人の側女をおいていた。一人はお桂といい、|神《かん》|田《だ》|小《お》|川《がわ》町の薬種問屋の娘、もう一人は|妙《たえ》の方といい、下級武士の娘だったが稲葉|佐《さ》|渡《どの》|守《かみ》の養女として永勝のもとへ入ったものだった。  部屋にあらわれた女は妙の方であろうと思った。なぜならお桂さまは当年十九歳と聞いていたからだった。妙の方は二十五歳。永勝のもとへ入ってすでに六年。|濃《のう》|艶《えん》な姿態と容貌の持ち主として永勝の夜の生活を占めているとひそかにうわさされていた。  まず、正体の不明な敵はこの妙の方を刺客として利用するかもしれない。たすくは一方ではとぎすまされた神経をこの部屋の周囲にまんべんなくそそがなければならぬと同時に、これから永勝と夜をともにしようとする一人の女性の動きに最大限の注意を払わなければならなかった。  ふすまが閉じられると妙の方は永勝のそばににじり寄った。永勝は夜具の上に上半身を起して妙の方の手をとり引き寄せた。妙の方は大輪の|芍薬《しゃくやく》の花がくずれるように自分から永勝のかたわらに体を横たえた。白い細帯やひもが何本も解かれて夜具の外に長くのびた。永勝の手さばきはなかなかあざやかであり、妙の方もそれに習熟していた。永勝の老人らしいやや肉の落ちた茶色の背中に、妙の方の白いうでがからんだ。永勝の頭の下で妙の方の黒髪が右に左にへびのようにうねり、形のよい白い足が切なそうにふるえた。 「ん?」  たすくの神経が針のようにとがった。どこかでかすかに人の動く気配がした。  ——どこだ? 動け、もう一度。  それにこたえるようにまたかすかに動いた。  たすくは苦笑をこらえた。永勝の部屋の四方は、それにつづく十畳ほどの無人の用心部屋になっている。そしてその外側がさらに四つの部屋となり、境のふすまは開け放たれて一部屋に二人ずつの宿直の家士がつめている。北側にひかえている二人の若い家士が、妙の方の|嬌声《きょうせい》にがまんしきれぬ|好色心《すきごころ》をかり立てられたらしく、そっと敷居ぎわまでにじり寄ったのだった。他の宿直番も多かれ少なかれ動揺をきたしている。こうした緊張が生れていることはたすくにとっては有利だった。宿直の者たちの関心が永勝の部屋に集中している間は少なくとも外部から永勝の部屋にしのびこむことは不可能だ。その間を利用してたすくは母家の天井裏を一応巡回して見た。とくに異常はなかった。用人部屋、供まち部屋、仲間部屋、客間、茶室、仏間、刀部屋、それぞれに灯も消え、戸閉りもきびしく静まりかえっている。  一巡して永勝の部屋の天井までもどると、かすかに人声が聞えてくる。穴に目を当ててみると、腰元たちが体液で濡れた夜具や寝衣をとりかえているところだった。別に設けられたしとねの上に、全裸の永勝と妙の方が場所を移し、永勝の手はもう二度目のたのしみをはじめていた。腰元たちはいささかもそれに動ずるそぶりもなく、永勝や妙の方も人の目を意識することもなく、二人だけのたのしみにふけっていた。たすくはふと、これまでにいだいたことのない妙に人臭い好感を永勝に感じた。  腰元たちが去り、部屋にはふたたび永勝と妙の方だけが残された。  妙の方の細い金属的な声がしだいに高くなった。宿直の若い家士たちがふたたび身じろぎをはじめた。  妙の方の細い体が、上からおおいかぶさっている永勝の体をはねとばさんばかりに大きく反りかえった。二人の体はもつれ合って厚い夜具からたたみの上にずり落ちた。そのとき、いっせいに宿直のさむらいたちが動いた。たすくが体を起すのと同時に、八人の宿直番は用心部屋を走りぬけて永勝の寝所に乱入した。八本の大刀が|燭台《しょくだい》の灯をはねかえして銀蛇のように光った。  ——しまった!  たすくは全身の血がどっと頭に噴き上るのを感じた。たすくは足音を忍ばせて天井裏をけもののように走った。永勝の怒声と絶叫が屋敷の内部をふるわせた。今は永勝を助けているひまなどなかった。この屋敷のどこかに、八人の宿直の家士たちの心をあやつっている者がひそんでいるはずだった。若い家士が永勝の寝所ににじり寄ったのは妙の方のよろこびの声のせいではなかったのだ。かれの家士としての本能的な心のはたらきと、なにものかにほどこされた暗示による機械的な衝動とがすさまじい|葛《かっ》|藤《とう》を演じていたのだ。ついに暗示による衝動が勝ち、かれらは盲目となって永勝斬殺の行動に出たのだ。  ——くそっ! どこに!  残された時間はほとんどなかった。暗殺成功を知った敵はすでに屋敷の外へのがれ出ようとしているだろう。たすくはいっきに母屋の屋根にのぼった。頭上は降るような星空だった。西の空に星がまばらなのは低く雲がかかっているのだろう。屋根になかばおおわれた足もとの暗い庭にふいに人のさけび声と足音が入り乱れた。刃の打ち合うひびきが夜の静けさを切り裂いた。母屋から離れの茶屋にわたる石だたみのほとりに設けられた常夜灯が、くらい|橙色《だいだいいろ》の小さな光環をえがいていた。そのかげに、ちらと人影が動いたような気がした。そこは軒下の喧騒からはずっと離れている。  たすくは腰をかがめると瓦をふんで走った。傾斜の強い大屋根を深く腰をおって走り降り、十分に勢いをつけておいて軒先から飛んだ。手足をちぢめて石のように風を切り、常夜灯の真上で急に手足をひろげた。それが急激な抵抗になって南天のしげみにどさりと落ちた。落ちながら腰のわきざしをぬき放つ。姿勢を立てなおさぬうちに疾風のように白刃が襲ってきた。たすくは南天の枝をかき分けてけもののように這って逃れた。ふたたびすさまじい一撃が襲ってきた。たすくは南天のしげみもろとも片手なぐりに背後の闇を切り払った。おびただしい小さな葉と小枝がちゅうに舞い、かすかに血の匂いがした。たすくは三メートルほどの距離をいっきに飛んで泉水のほとりの石のかげに身をひそめた。そこからは常夜灯の灯影を背に、動くものの影はひと目で入る。  ——いた!  たすくは石のかげからおどり出るとまげの根本にさしていたかんざしを飛ばした。それを刀で払う金属の澄んだひびきがまだ消えぬうちにたすくは突撃に移った。たすくよりもやや高みにあった敵は足場の不利をさとって背後に逃れようとした。たすくの手が敵の帯をつかんだ。敵はつかまれながらたすくを引きずって走った。たすくも引き止めようとはせず、いっしょに走った。小高い築山をこえると、さざんか[#「さざんか」に傍点]のしげみがあり、そのむこうは土塀だった。その下まで呼吸を合わせるように走った二人はふいに飛び離れた。  土塀の下に二つの人影が立っていた。たすくの追ってきた男はその人影の中に立ちまじった。 「六波羅蜜たすくか! よくわかったのう」  さびをふくんだ静かな声音がこの場の荒々しく緊張した夜気にそぐわなかった。 「なにものだ? とたずねたとて、言うはずもないな。こりゃ、言わせるようにするしかない、と見た」 「できるか」  声はおだやかに笑いをふくんでいた。 「さあ、な」 「六波羅蜜。おまえにちとたずねたいことがあるが」 「これはおどろいた。泥棒が追銭を要求するとはな」 「と、申しても言うはずもないのう。されば言わせるようにするしかない、と見たが」 「できるか」 「やってみねばわからぬ」 「おれもそう思う」  相手の三人は、中央の一人をそこに残してぱっと左右へ飛んだ。 「のがさぬ!」 「これはこれは」  たすくはさびをふくんだもの静かな声音をどこかで聞いたことがあるような気がした。それがどこで聞いたものか、記憶の表面がつかえていてなかなか思いつかない。たすくの眉が寄った。その焦燥を気おくれととったか、右に開いた一人がとつぜん火のような攻撃をかけてきた。たすくは半身に開いて手のわきざしを右から左へ大きくふった。|鋼《はがね》と鋼のこすれ合う歯の浮くようなひびきがたすくの鼓膜を突き刺した。よろめいて流れる敵の背に十分に切り下げることのできるよゆうを見た。敵がどっと動いた。たすくはさか手に握ったわきざしを右に左に回した。  乱刃の中で敵の一人がしだいに気息の乱れてゆくのをたすくは感じた。それは先ほど、たすくが常夜灯のかげでかんざしを手裏剣がわりに使って一撃を加えた敵だった。たすくはその敵に攻めを集中した。他の二人は必死にそれをさまたげようとする。  とつぜん、たすくを包囲する三つの影の背後から風のようにもう一つの黒い影がおどりこんできた。左右の手に白刃をひらめかせて走りぬけながら同時に両側の敵にすさまじい突きを入れた。敵は瞬間、体をひねって突きをかわし、走りぬける人影を通した。  ——大六か!  入れちがいにたすくは飛んでめざす敵の正面に立ちふさがった。のどからもれる空気が笛のように鳴った。たすくは敵の左肩から右わきへ、十二分の力点をたもって切り下げた。何本かの|肋《ろっ》|骨《こつ》を断ち切る重い手ごたえがこぶしから肩までつたわった。小刀だから深くはないが、それでも|胸腔《きょうこう》に達した傷口から血と肺臓が吹き出した。なまあたたかい血霧をくぐってたすくは|頭《かしら》とおぼしい敵に殺到していった。一人を倒されたことに戦いの不利をさとったか、残る二人は浮き足だった。  四本の白刃がからみあってとび離れ、ふたたびからみあった。もう一度とび離れたとき、頭と思われる敵は土塀の上に位置をかえていた。そのとき、たすくはようやく、その敵がこの家の台所に接した部屋で、夕飯を供されたとき、同席した三人の客のうち主だった一人であったことを思い出した。  ——くそっ! あのときから潜入していたのか!  たすくは自分のうかつさにくちびるをかみしめた。自分がやっていることを、敵がしないはずはないのだ。 「追え!」  大六はしげみをくぐって消えた。他の方向に走ろうとするもう一人の敵にたすくは全体重をあずけてのしかかった。下から指をそろえて突き上げてくるのをびしびし封じながらその指をとらえて逆にねじ上げた。指の骨が乾いた音をたてておれた。たすくは右手を敵のあごにまわしてぐいと力をこめた。がく、とあごがはずれて奇妙なうめき声がもれた。これで敵は舌をかむこともできないし、万一、歯の間に毒物をひそませていても用いることはできなくなった。 「大七!」  たすくは低く呼んだ。近くの葉のしげみをくぐって大七が走り寄ってきた。 「殺さぬように責めろ」  敵は観念したのか、逃走の意志を失ったようだった。大七がぐいと引き立てた。苦痛のうめきをもらすのを大七は猫の子をつるすように着物のえりをつかんで引きずり上げた。そのまま暗い木かげに姿を消してゆくのをたしかめてたすくは屋敷の内部にもどった。  家の中は大混乱の状態だった。永勝の寝所は血の海だった。豪奢な夜具も青だたみも朱で染めたようにかわり、その中に全裸の永勝が手足を投げ出して倒れている。致命傷は背から胸へ通った一刀で、十センチほど切先を見せて灯をはねかえしていた。妙の方は少し離れてうつ伏せに体を投げ出している。腹でもえぐられたのか、永勝の倒れている所から長く腸を引きずっている。  ——ぶざまな!  たすくはつぶやいて目をそむけた。切られた方も切られた方なら、切った方も切った方だった。切られた方は襲撃者に一刀でもむくゆるどころか、実は寝所の内部に刀など置いていなかったのだ。無抵抗に切られるのも当り前だ。切った方はこれは|生《いき》|胴《どう》一つ試したこともないような青侍だから、ぶざまともなんともいいようがない。八人で襲ってめった切りにしなければならなかったほどのうでだ。しかも一人は相手の体に刺さった刀をぬくこともできずに逃亡を企てたものであろう。  となりの部屋に、永勝を襲った若い家士の一人がうずくまっている。体のどこからかはげしく血を吹き出している。そのそばに|手《て》|槍《やり》を持った用人の倉橋小太夫が放心したようにわなわなとふるえて立っている。さすがに用人の小太夫はとっさの機転で一人を手槍で突き伏せたものの、同時に|動《どう》|顛《てん》してしまったものとみえた。庭で一人が手足をしばられてころがされていた。三、四人の仲間が興奮して木刀でめったやたらに打ちたたいている。しばられている若い家士はたたかれながら必死に声をふりしぼってなにごとかうったえていた。  たすくは屋根から裏庭へ飛びおり、隣家との境の|築《つい》|地《じ》塀をおどりこえて永勝の屋敷をあとにした。     十三 |春日局《かすがのつぼね》  つぎの日の夕方、大七がやってきた。取次ぎの誠之助がたすくの前から退こうとすると大七はもう敷居ぎわにひかえていた。 「入れ」  大七は猫のように足音もなくたすくの前に進んだ。 「二、三、相わかりましてございます」 「なんと?」 「六波羅蜜さま。ちと解しかねるふしもござる」  大七の声は妙にためらいがちだった。 「ふむ。と、申すと?」 「されば。永勝さま襲撃の犯人は……」 「犯人は?」 「春日局さまの命によったもののごとく思われます」 「なに? 春日局?」 「そのように吐きましてござる。あの三人は|目《もく》|代《だい》と称する男を|首《しゅ》|魁《かい》に、一人は|小《こ》|竹《たけ》、捕えましたる男は|喜《き》|三《さぶ》|郎《ろう》と申し、目代なる男が春日局さまの手の者にて、他の二人は目代にやとわれたる者のようにございます」 「やとわれた?」 「伊賀あたりの小者かと」 「春日局がなにゆえ永勝を襲ったのであろう? いや、それよりも、永勝の陰謀追及を春日局がおそれるというのはなにゆえであろうか」 「六波羅蜜さま。順序で申さば、これは春日局さまが陰謀の中枢なりということではござるまいか」 「そういうことになる」 「兄大六からはまだなにも申してはござらなんだか?」 「うむ。しかし、きゃつのことゆえ、心配はしていないが」 「春日局さまが徳川家に対して陰謀を企てるというのはまことに|面《めん》|妖《よう》でござりますなあ」 「目代というのは何者であろうか? 忍びにも聞かぬ名だが」 「それがしの考えを申し上げてよろしゅうございますか」 「おう、何なりと聞かせてくれい。いちいちかたくるしい物いいするな」 「は。目代なる人物。どうも柳生ではないか、と思われまするが」 「なに! 柳生だと」  たすくは脳天を一撃されたような気がした。たしかにあの目代と言われる男は卓越した忍びの者であった。しかも、伊賀や甲賀の忍びを陰とするならば、永勝邸襲撃はあきらかに陽であり、伊賀や甲賀の忍びには全く見られない強引さと、成果を上げさえすれば跡を残すことなど|歯《し》|牙《が》にもかけぬといったふうなある大ざっぱなところがあった。これはあきらかに武家の生み出した忍びであり、柳生の忍びであった。 「あの男、柳生の!」  と、すればそれは十兵衛三厳いがいにない。  たすくは、世にかくれもない柳生の実力第一と称される十兵衛三厳と剣をとってまみえたことに、しびれるような感慨を抱いた。おそろしい相手であり、やはり|類《たぐい》まれな兵法者であることにまちがいはなかった。あの乱刃の中ではたすくが押し勝ちだったが、これが一人対一人での対決ならば結果はわからないと思った。たすくは自分の剣技が人にずばぬけていることは知っていたが、十兵衛三厳と互角に戦えるとは思っていなかった。それだけにあの夜の対戦の結果は満足だった。 「六波羅蜜さま。これは春日局さまの身辺をさぐってみなければなりませぬな」  大七がうでをこまねいて言った。 「大六の報告を待って考えよう」  大七は一礼した。 「それではあちらの部屋におりまするで」  するすると敷居ぎわまですべった。 「大七、あの男、どうした?」  大七はわずかに首をふった。 「葬りましてございます」  そのまま廊下へ出ていった。 「えらい線を見つけ出してきたのう」  たすくは肩を落してあごをなでた。  春日局は徳川家光の乳母で名は|福《ふく》。父は|斎《さい》|藤《とう》|利《とし》|三《みつ》。母は稲葉|通《みち》|明《あき》の娘である。福は稲葉佐渡守|正《まさ》|成《なり》にとついだが、慶長九年、二代将軍秀忠に家光が生れると同時に召し出され、家光の乳母となった。秀忠の継嗣に家光を立てるについては、家光の弟である|国《くに》|千《ち》|代《よ》、のちの大納言|忠《ただ》|直《なお》を擁立する一派との間にはげしい暗闘を戦いぬき、ついに家光を継嗣となさしめた功績は絶大であり、これがために大奥に誰ならぶ者のない権勢をふるった。なかなか|毀《き》|誉《よ》|褒《ほう》|貶《へん》の多い人物であり、ことに家光の乳母として出仕する際、稲葉佐渡守正成はそれに反対し、幕府は稲葉佐渡守に多額の加増を与えようとして拒否され、のち稲葉佐渡守は局を離縁した。  この間の事情には極めて複雑なものがあると伝えられ、その翳の濃い一面は、局の父、斎藤利三が|織《お》|田《だ》|信《のぶ》|長《なが》に攻め亡ぼされた|美《み》|濃《の》の斎藤一門ではあり、その際の|先《せん》|手《て》をうけたまわったのが徳川家康であったことから、多くの想像が生れたのだとも言える。しかし、なぜそのような環境を持つ者を、秀忠の嫡子の乳母にえらんだのか、世人は理解に苦しんだ。あの用心深い家康が、決してみのがすことのないような問題であったはずだ。  ——柳生と春日局の組合わせ自体は無理ではない。今日、柳営を動かす権勢といえば外には柳生但馬守宗矩。内には春日局。この組合わせはむしろ平凡とも言える。しかし、それがなぜ永勝抹殺に動いたのか、だ。  その永勝が反幕府の陰謀について深く内偵をはじめた。といううわさをまいたのはたすく自身である。その虚言をすらおそれるようななにかをこの柳生、春日局の線が持っているということは、これは極めて重大な意味を持つものと考えてよい。 「なにかある! 絶対になにかある!」  たすくは手をたたいた。ふすまが開いて誠之助が顔を出した。 「大七を呼べ」  誠之助にかわってふたたび大七が姿をあらわした。 「大七」 「は」 「これは難しい役目だ」 「難しい、はよけいでござりましょう」 「稲葉佐渡守に会え」 「はい」 「六波羅蜜たすくに化けてゆけ」  大七は無言で、強い視線をたすくの胸のあたりに注いだ。 「いっさい、まかせる」 「それでは、ごめんくださりませ」  となりの町へ買物にでもゆくような無雑作なそぶりで大七はさがっていった。  たすくはそれから丸一日、眠りつづけた。  翌日の夜おそく、大六が帰ってきた。たすくは風呂に入っていたが、早々に部屋へもどった。内心、待ちわびていた大六の帰りだった。  大六はおどろくほど|憔悴《しょうすい》していた。全身ほこりと固った血のりで見るかげもない。たすくは誠之助に強い果実酒を運ばせて大六につがせた。大六はそれをのどを鳴らして呑み干した。ようやく大六の顔に生気がよみがえってきた。太い息を吐いて大六が居ずまいを正した。 「おそくなりました」 「けがはないか」 「命に別条はござりません」  めずらしく白い歯を出して笑った。たすくはひざを進めた。 「して、かれは何者?」  大六は声をひそめた。 「もはやご承知とは存ずるが、柳生十兵衛三厳どのにござる」 「やはりのう」 「ひとつ小耳にはさんだことがおじゃる」 「なんと?」 「矢の倉の|火《ひ》|伏《ぶせ》|地《ち》に長吉という若いひとり者がおり、こやつが妙な目にあったと申します」 「妙な目、とは?」 「どうもやくたいのない話で」 「申してみよ」 「十日ほど前のことでござりますそうな。この長吉め、矢来下の円二郎とか申す占師のところへ行ったそうにござります」 「矢来下の円二郎?」  それは由紀が言っていた名前と同じだった。 「ご存知で?」 「聞いたことがある」 「なかなかよく見る占師だそうにござりますな。この長吉、若い者のくせに何を占ってもらうつもりか、矢来下に出むいてのことでござる」 「気をもたせるな!」 「たいへんな繁盛ぶりで昼前いっぱい待たされたあげく、昼めしあとは八つ時まで休憩とのことで、長吉め、円二郎の屋敷の裏庭などをそぞろ歩きをしていたと」 「ふむ」 「これからあとがいささか眉つばものかと思われます」 「おまえの話はどうも……」 「いやいや別してお聞きなされませ。この長吉め、江戸城の落城を見たと申す」 「なんだと?」 「大坂勢の総攻めをはっきり二つの目で見たと申しおるそうな」 「夢か、幻か?」 「本人はまこと、この世のこととおぼえたとしきりに申しおるとのこと」  それも由紀の言っていたことだ。たすくは組んだうでにあごを埋めた。由紀や大六兄弟の情報にほとんど間違いはない。問題はその長吉の申立ての内容だ。これは直接たすく自身が当ってみるほかはあるまい。 「よし、ほかには?」 「十兵衛三厳どのには|日《に》|本《ほん》|橋《ばし》|小《こ》|網《あみ》町の和泉屋弥四郎方に滞在いたしております。したがうは庄田喜左衛門、柳生藤六正直、鳥飼三郎次、|佐《さ》|々《さ》|木《き》|巌流《がんりゅう》などの面々」 「柳生の精鋭を網羅したのう」 「は。新二郎厳勝どのの四高弟の一、柳生藤六正直。一尺五寸の小太刀を使っては飛鳥のごとしと申されますな。同じく兵庫介利厳どのの四剣中の最高峯にて利厳どのにも時には三本に二本も打ちまいらせるという鳥飼三郎次。これは強うござる。|富《と》|田《だ》流を学びのち、庄田喜左衛門について柳生流をきわめ、新二郎厳勝どのに推挙ありし佐々木巌流。おそろしい剣でおじゃるそうな」  この佐々木巌流というのが、ずっとのちになって講談のたねとなり、|宮《みや》|本《もと》|武《む》|蔵《さし》と|舟《ふな》|島《しま》で決闘して敗れたことになった。もとより、この佐々木巌流なる人物は宮本武蔵と刀をあわせたことなど一度もないし、だいいち、同年代に生きていたとは思えない。おたがいに名前を聞いたこともないであろう。温厚篤実、当時の武芸者にはめずらしく書画を愛し、のち柳生と別れて二男一女ある後家と結婚して駿府の在にすみ、晩年を全うした。 「なにゆえの来府であろうか?」 「柳生但馬守宗矩どのの動きと関係がありましょうな」 「その宗矩の動きがよくつかめぬのだ」 「なにか大きく動いていますな。世人が知ればきもを冷やすようなことが考えられ、計画がおし進められているような気がいたしてなりませぬが」 「大七めは宗矩と春日局の結びつきをしきりに警戒しておった。宗矩、春日局、そして十兵衛三厳配下の手練れ。この一団の動きが核心じゃのう」 「そして弥四郎にござる」 「この際、政商らの動きなどどうでもよい。大六、誰ぞ、お前の手の者で、多少|利《き》きたる者、二、三名を政商らの動向の察知に当らせ、おまえたちはもっぱらおれと動け」 「は!」  大六をひかえの間にさげさせて、たすくはひとりうでをこまねいた。  宗矩、春日局、十兵衛三厳の線と、円二郎なる占師。これはみな一つの線につらなっているような気がする。神尾永勝暗殺ということでかれらの性格がにわかにはっきりしてきた。永勝は極めて重要なある情報をつかんでいたのだ。それが何であったのか、今は知る由もないが、生前、かれがたすくに|洩《も》らした口ぶりではあきらかに反幕陰謀にかかわる情報であったことはたしかである。それ故にこそ、十兵衛三厳自身が永勝の口を封ずるために出てきたのだ。  そもそもこれまで、幕府の権力を背後にあって暗に一手に収めていると思われる宗矩、春日局の二人が、さらにそれ以上をねらうとすればそれはいったい何なのか? 将軍の座をねらったところでどうなるものでもない。すでに時代は|足《あし》|利《かが》でもないし戦国でもない。ひとくちに将軍の権威といったところで、すでに創世期をへて一応の安定を見てはいるが、いわば全国の大名たちの協調的平和ムードに便乗しているだけの話と言ってしまっても過言ではない。将軍職そのものの性格が極めて|脆弱《ぜいじゃく》なものにかわってきてしまっている。 「宗矩、春日局らは、いったい何を考えているのだろう?」  そこにもっとも大きな謎があった。  たすくはひじをまくらに、ごろりと横になった。  ——それにもう一つ。さざれ石とはなんだろう? そしてそれをさがし求めてやってきた男は?  それは宗矩や春日局らとは全く関係のないもののようであった。実際にはたすくの心の奥底にもっとも深い謎と不安を投げかけているのは、そのさざれ石という言葉であり、それを求めてやってきたあのおそるべき術者であった。かれにはおよそいかなる種類の法則も論理もあてはめることができないような奇妙な非現実的な部分があった。それはたすくがもう一つ、早急にたしかめたいことと、どこかでつながっているような気がした。     十四 お|丁字《ちょうじ》長屋  |本《ほん》|所《じょ》うまやのわたしから矢の倉へかけての新開地はここ一年ほどの間に急激に民家が建ちならび、火伏の空地をのぞいて真新しい板ぶきの屋根が埋めつくし、どこへいっても木の香や土壁の匂いがただよっていた。それらの民家のほとんどが二十間長屋といわれる長い、うなぎの寝床のような棟割長屋で、住人の多くは土木工事に従う日やといの人足や大工、左官などの下働きの者たちだった。  江戸は日増しに大きくなり、住人は急速にふえ、そのため普請、作事の労役は人手不足になやみ、高額の給金にありつける、といううわさを信じて西国や東北、北陸などから|蟻《あり》のように集ってきた一旗組や夜逃げ同様に故地を棄てた|喰《く》いつめの|水《みず》|呑《のみ》百姓などがその大部分であった。高額の給金がもらえるといううわさはたしかにほんとうだったが、しかしそれは経験者のことであり、なんの技能ももたない下働きの者などでは、先ずその日の食にありつけるだけという生活であった。  踏台がわりにあき|樽《だる》を積んでその上にのび上り、板びさしに干魚をならべている女があった。たすくはその下に歩み寄った。 「よ、このあたりに|相模《さがみ》の方から出てきている長吉というのを知らねえかね?」  女は干魚をならべる手を休めてたすくを見おろした。服装は貧しいが目鼻立ちのはっきりした女だった。|鉄《おは》|漿《ぐろ》がはげてところどころ白い歯がこぼれている。いっそ真白な歯だったら器量がひきたつだろうに、とたすくは思った。 「さあ、長吉ねえ」 「若い男だが」 「長吉ちゅう名はいくらでもあるのとちがうか?」 「いくらでもある?」 「ああ、おらたちとこでは長吉ちゅう名は、えんぎがええといって男の半分は長吉という名前だよ」 「でも、ここは江戸だ。おまえの村の者がみんなで移り住んできたわけでもあるめえ」  たすくの言葉に女はにわかにけわしい目でたすくをにらみすえた。大川から吹きわたってくる風に、その赤茶けて油気を失った毛髪がさか立った。たすくは女を背にそこを離れた。女は横を向いてぺっ! とつばを吐いた。 「ふん! これだから江戸者は好かねえよ。長吉は知っているが、誰がこんなやつに教えてやるものかね」  聞えよがしに言った。たすくはまた樽の下に足をかえして小腰をかがめた。 「すまねえ、ねえさん。悪気があって言ったんじゃねえんだ。今朝からずうっとさがしまわっていたもんで、ついつい気が立っちまってね。かんべんしてくれろ」  たすくは腹がけから|巾着《きんちゃく》を引き出すと小粒をむき出しのまま女にさし出した。 「これでかんざしでも買ってくれよ。|汐《しお》町の小間物屋にねえさんに似あいそうな赤玉のかんざしがあったっけ」  女はばつの悪そうな顔でためらっていたが、 「よ、ねえさん。ほら」  と言うと、とうとう手をのばした。いったん受け取るとうってかわって笑顔になった。笑うと急に目もとに|愛嬌《あいきょう》があらわれて男好きのする顔立ちになった。 「こんなことしてくれなくたっていいんだよう。長吉をさがしているんだと言ったねえ。長吉というのはあの、ほら、真昼間、あやかし[#「あやかし」に傍点]にとりつかれたという若い男だろう?」  女は声を低めてちら、と周囲に目をはしらせた。どうやらそれは禁句になっているらしい。 「そうだ。その長吉だよ」 「全く近ごろは妙なことがあるねえ。これ、もらっとくよ」  女は手にした小粒を帯の間にはさんだ。身をひねって樽の上からとびおりた。すそ前が大きくわれ、片足がひざのずっと上まで露出した。顔や手に似ず、いがいに白く豊かなももをしていた。 「長吉はね。あそこの——」  言いかけて女は自分の|下《か》|肢《し》にそそがれたたすくの目に気がついて言葉を切り、着物のすそを指先でなおした。 「いやだねえ。この人は。とんだものを見せちまった。おまえさん、ひとり者かえ?」  女の目にふと全く別な色が動いた。 「ああ。ひとりだ」 「そうかい。ちょっと来なよ。一服していったら?」  女はすばやい身のこなしで障子をあけると家へ入った。 「来なったら!」  たすくは妙なことになってきたと思った。 「長吉のことが気になってよ。居る所を教えてくれな」 「おしえる、おしえるともさ。だけどおまえはいい体をしているねえ。ま、ちょっと入ったら」  女はたすくのうでをぐいと引いた。思わず一歩土間へよろめきこんだたすくの背後で障子が音高くしまった。 「な、なんですえ?」 「いいじゃないのさ! あんただって若いんだろ。あたしゃほんとうは亭主持ち。でも、もう二十日も亭主の顔など見ていないのさ」  土間には干魚の匂いがみち、からになった木箱がうず高く積まれていた。土間の土の上にはおびただしい魚のうろこが散っていた。軒端にならべてある干魚から考えると漁師なのだろうか? いや、この家のたたずまいは漁師の家ではない。すると? 「|商《あき》|売《ない》で|上《かみ》|方《がた》へでも行きなさったのかい?」 「らちもない。品川の宿はずれの|白《おし》|粉《ろい》っ首の所だよう」  女は吐き棄てるように言った。 「なあに、そのうち帰ってくるさ。|網正《あみしょう》の|子《こ》|方《かた》の鑑札が切れるで」  網正というのは|大《おお》|森《もり》から品川にかけての海産物加工の大元じめで、この女の亭主もその鑑札を受けて干魚をさばいているらしい。  女は土間につづいた部屋にたすくを引きずりあげると、裏の台所から冷や酒を茶わんについで持ってきた。 「さあ、きゅうっとやんなよ」  しかたなくたすくは茶わんをかたむけた。その間に女はすばやく薄いふとんをのべた。  たすくが酒を呑み干すのと同時に、女の手がたすくの下半身にのびてきた。その手を払おうとしたたすくはとつぜん、自分の体の一部が火がついたかのように熱くなったのを感じた。 「な、なにか呑ませたな!」  たすくは衣服の上からもはっきりとそれとわかる強固な突出にひどくろうばいした。なんとかして充血を解こうとしたが、体はたすくの意志とは全く関係なしに動いていた。欲望が全くないのにかかわらず、機能だけが最大にはたらこうとする苦しさにたすくはあぶら汗を流してうめいた。  女が何か言ったようだった。たすくの心に一瞬、はげしい危機感が渦まいたが、それだけでは自分自身を支えきれなかった。  たすくは女の肩を抱いた。もう一度、女が何か言ったようだった。たすくは女ともつれ合うように床にころがった。帯、ひもを解くひまももどかしく、すそを引き剥いでたすくは女にのしかかった。最初の放出は女の繁みを|貼《は》りつかせただけだった。女は身もだえしてたすくに手をそえみちびき入れるとはげしく体を動かしはじめた。女の体が微妙に収縮した。たすくは必死にこらえて女を責めつづけた。その忍耐が極限に達したとき、たすくはとつぜん背後に人の気配を感じた。同時につめたい鋼が首すじにふれた。 「おい! きさま、なぜ長吉をさがしているのだ?」  おし殺した声が頭上から降ってきた。たすくはくちびるをゆがめた。いきなり強い力でえりがみをつかまれる。ずるずると引きずり上げられた。怒張したままでまきちらした液体がむき出しの女の白い腹の上に重い音をたてて落ちた。 「言え! 長吉をさがしているわけを」 「はなせ! はなせ!」  たすくは首をちぢめて両手をふりまわした。背後には三、四人いるらしい。そのうちの一人が足を上げて女の体を小突いた。 「お|浜《はま》! もういい。こいつ、本気になりやがった」  女は低くうめいてうつろな目を開き、それからのろのろと起き上った。 「くそっ! はなせったら。なんでえ、女もぐるか。どうりでばかに話がうますぎると思ったぜ」 「やい。きさまはどこのどいつだ」  前へ回ってきた男がたすくの両ほおを打ちすえた。 「へん! おいらあな、|越《えち》|前《ぜん》|堀《ぼり》の|留《とめ》|吉《きち》ってんだ。長吉には七十文の貸しがあるんだ。なんだよ、いきなりうしろから首をしめるってのは!」 「貸しだと?」 「そうよ、ばくちの借金はその場ばらい、それができなければ、女房、子供を質においてもかえすが当り前だ。それをまあ、大目にみて貸してやったらこんどはどうだ。いつまでたってもかえさねえ。長吉を見つけだしなんとしてでも取りたてるんだ。わかったかい! わかったらその手を離すんだ。この! この、手を! ちくしょう!」  たすくはえりがみをつかんでいる手に|爪《つめ》をたてて引きむしった。 「|痛《つ》つつつつ!」  たすくは土間にほうり出された。 「おい、長吉、こっちへ来な!」  たすくは思わず胸の中で舌打ちした。長吉がこの場にあらわれたのでは、たすくの言う作り話はたちまちうその皮をはがされる。 「へえ」  一人の青い顔をしたやせた若い男がおずおずと土間へ入ってきた。 「長吉! おめえ、この男にばくちの借りがあるのか?」  長吉と呼ばれた男は腰をかがめて首をのばし、たすくをのぞきこんだ。たすくは思わず顔をそらした。そのまげがぐいと引かれてたすくの首は長吉の方へねじまげられた。 「よく見ろ。越前堀の留吉だとよ」  長吉は腰をそらして頭をふった。 「うそだ! こんな男、おれは知らねえ」 「そうか。はなっからくせえと思っていたんだ」  たすくはまげをにぎっている男の手首を強く払った。立ち上りざまに右手をのばして長吉の胸ぐらをつかんだ。 「このやろう! 借金をふみたおすつもりか! 七十文に利子をつけてかえしやがれ!」  引き寄せておいて目にも止らず両方のほおげたに平手打ちをくわえた。長吉の頭はぐらぐらとゆれた。周囲の男たちがいっせいに動いた。たすくは長吉の体をつき放すと壁を背にして仁王立ちになった。 「てめえら、長吉の仲間か! 七十文の借金をふみたおす片棒かつぎに長吉から幾らずつもらったえ! へん! てめえらのような半ちくたあわけがちがうぜ。見そこなうな、このいなかっぺえのたからっぺえ! 越前堀かいわいじゃあちったあ知られたがえん[#「がえん」に傍点]あがりの留吉だぜ。命のいらねえやつから、さあ、きな!」  ふところに呑んでいた|匕《あい》|首《くち》をぎらりとぬいた。長吉は悲鳴を上げて床を這って出口へ逃げた。男たちはちら、と目を見交した。 「やけにいせいがいいじゃねえか。じゃ、おめえ、ほんとうに長吉に七十文、貸したというんだな!」  たすくはさっと匕首をさか手に持ちなおした。 「やい! こうなっちゃもう七十文はどうだっていいんだ。のしをつけて長吉にくれてやらあ。そのかわりてめえらが相手だ。よくもおいらの|面《つら》に泥をぬってくれたな」  男たちの顔に一瞬、当惑の表情が浮んだ。後の一人が何か小声でささやいた。たすくの正面にいた漁師風の男が構えを解くと、両手を泳がせた。 「いや。よくわかった。すまねえ。腹がおさまるめえが、かんにんしてくれろ。すっかり長吉の言うことを信用しちまったおれたちがまるでいけねえ。このとおりだ」  男は両手をひざまでたらして頭を低くたれた。他の男たちもそれにならった。たすくもあまり突張り過ぎることの不利を感じた。ちっ! と舌打ちをみせて、 「そう頭をさげられちゃあ、引くほかねえ。胸くそ悪くてしょうがねえが、おいらも男だ。わびるってのを押すわけにゃいかねえ。七十文、どぶにすてたと思えば、かんにんもできらあ」 「あ、その七十文はわびのしるしにおれたちが出そうじゃねえか。な、気は心よ、受けてくれ」 「冗談じゃねえや! いったん、のしをつけて長吉にくれてやると言ったんだ。受けとれるかよ」  漁師風の男がひたいに手を当てて首をすくめた。 「いやあ。気のきかねえことを言っちまった。じゃ、こうしよう。おれたちもこのままじゃなんとも引込みもつかねえ。なにか、こう、おれたちでできるおわびのしるしでもねえもんかねえ。留吉っつあん」  たすくはにやりと笑った。 「そうまで言ってくれるんなら、なあ、おい。おいら、その女にのっかってもう少しでいいとこまでゆくところだったんだ。そうしたらおめえたちが不粋にへえりこんできやがって、おいら、とんだおあずけ犬よ。おめえらがどうあってもおわびのしるしをみせてえってんなら、その女ともう一度やらせろや。どうだえ!」  男たちはにわかに表情をゆるめて、おう、それはいい、とか、そいつはうめえ手だ、とか口々に言った。  漁師風の男が座敷のすみで体をちぢめている女をふりかえった。 「おい! お浜! 越前堀の留吉っつぁんがおめえともう一度、寝てえと言いなさる、しっかりつとめてさし上げるんだ」  女は全身でうなずいた。 「じゃ、留吉っつぁん。おれたちはこれで消えさせてもらうぜ。お浜はいい体だ。しっぽりやってくんねえ」  男たちはぞろぞろと土間を出ていった。最後の男が障子をしめて足音が遠ざかってゆくと、たすくははじめてほっと肩を落した。背すじをつめたい汗が伝うのがはっきりと感じられた。  たすくは足音が完全に消えるのを待って障子にしんばり棒をかった。裏口もしっかりと閉じてお浜に近づいた。 「ねえさん。さあ、やりなおしだ。こっちへ来ねえな」  たすくは女のわきに手を回すと部屋の真中へ引き出した。女を横たえるとふところへ手を入れた。 「ねえさんはほんとに男がほれる体をしているぜ」  女はすでに興奮が退いて妙におどおどしていた。たすくは方法をかえた。巾着から小粒を数個とり出すと女の手に握らせた。 「ねえさんもとんだことだったなあ。まあいい。むりに抱こうとは言わねえ。ところでねえさん。長吉の家を教えてくれねえか。いや、もう長吉がどうっていうことはねえんだ。ただ、念のために聞いておきたいのよ」  女はもの憂く体を起した。 「長吉の家かえ」 「ああ。長吉の家だ」 「この先のめし屋の裏のお丁字長屋だよ」 「そうか。じゃおれはこれでけえる」 「そうかえ」  女は多少、情の残るまなざしでたすくを見上げた。 「ああ。そうだ、もう一つ聞かしてくれ、さっきのこわい兄さんたちはあれはどこの人だえ?」 「さっきの人?」  女は愚鈍な目つきになった。 「お丁字長屋の人じゃないかねえ」 「そのお丁字長屋の差配は誰だえ?」 「知らないねえ。なんでも上方から出てきた人だとかいう話だけれども」 「な、ねえさん。長吉はなんだかへんな目にあったってじゃねえか。ほら、徳川さんが負けて江戸に豊臣がたが|入《へえ》りこんできているのを見たとかいう」 「ああ、あのこと」 「そうけえ、やっぱし、そんなこと、あったのけえ?」 「評判になったっけねえ。ほんとだか、どうだか」  その長吉をさがしている者がやってきたというだけで、そのお丁字長屋に住むとかいう男たちがなんで長吉をさがしている者をとらえようとしたのだろう? 「さっきの男たちや長吉は何かのなかまかえ!」 「そうじゃねえよ。|弥《や》|吉《きち》たちはいつもいっしょだが、長吉はちがうね」 「弥吉?」 「おまえにあやまっていたのよ」 「あいつか」 「弥吉の|商売《しょうべえ》は?」  女の目に警戒の色が動いた。 「おまえ、|目《め》|明《あか》しかえ?」 「うんにゃ。とびよ」 「いろいろ聞くからちょっと気になったよ」 「それじゃ、またな」  そろそろ汐時だった。  たすくは戸外へ出た。  教えられるままにゆくと小さなめし屋があり、店のおもての地面にじかに敷いたむしろに腰をおろして三、四人の行商人風の男たちがめしを食っていた。めし屋の羽目板沿いに奥へ入る露地があり、のぞくと二棟の棟割長屋と、間の空地に井戸が見えた。通りぬけはできないらしい。昼間の探察はむりだ。  たすくはやぞうを組むと足早にめし屋の前を離れた。  そのとき、露地の奥でさけび声がした。たすくがふりかえると、むしろの上でめしを食っていた男たちもはしを動かすのを止めて声のした方へ腰を浮かしたところだった。また誰かさけび、露地の奥で足音が乱れた。 「……が殺されてるよう!」  たすくはとっさに走り出していた。  左側の長屋の一番奥の戸口に何人かこの長屋の住人が寄り集って内部をのぞきこんでいた。たすくはめし屋から走ってきた男たちに混ってのび上った。  ひと間しかない座敷の真中に一人の男があお向けに倒れていた。たたみにもふすまにも血がとび散っていた。踏みこんでいった男たちが声をふりしぼった。 「ひと|太《た》|刀《ち》でやられてら!」 「こいつはひでえや」  急に強い血の匂いがあふれ出てきた。めし屋から走ってきた男の一人が口をおさえ、妙な声を出して体をおった。そばに居たものたちは口をおさえ、あわててとびのいた。  ——口を封じられたな。  たすくは胸の中でつぶやいた。|殺《や》ったのは先ず十中八、九、弥吉たちだろう。これで長吉はなにごとか極めて重大な秘密を抱いていたことがあきらかになった。そして長吉の生命をうばうことによって、その秘密を守り通すことのできたものたちがいるのだ。  たすくはそっとその場を離れた。弥吉たちが露地を入ってくるのが見えた。たすくは裏へまわって板べいをのりこえ、材木置場へとびおりた。  どうやら弥吉たちはたすくに気がつかなかったようだった。へい越しにようやく大きくなった長屋のさわぎが聞えてくる。たすくは積まれている材木の間をぬってそのさわぎから遠のいていった。材木置場を出てしばらく歩くと、掘割へ出た。このあたりを埋め立てるとき、碁盤の目のように埋め残された海面だった。今ではほとんど海へ注ぐ排水路になっている。その掘割の岸で魚を釣っている老人がいた。たすくは釣を見るふりをよそおい、手ぬぐいをかぶると老人から少し離れ、ひざをかかえてうずくまった。陽光をはねかえしてまぶしくゆれる水面に、何という名か、笹の葉の形の小さな魚が無数に群れ泳いでいた。魚影は老人の垂らした糸の回りにもむらがっている。  目だけをその魚の群れにあててたすくは、今見てきたことについてもう一度、心をかたむけた。  大坂方が攻め入ってくる幻を見た、という長吉に探査の手が迫った、と見るや何ものかが長吉の命をうばった。それまではずいぶんと人々の間でひそかに評判にもなり、当然、長吉の上には|町《まち》|方《かた》の威圧がおよんだことであろう。しかしそれにもかかわらずこれまで長吉の身に直接、危害が加えられたということはないようだった。それがたすくが接近してきたとたんに長吉が口を封じられるというのは偶然にしてはうまく適合し過ぎている。  ——町方の探察とおれの接近を区別したのはなぜか?  本来ならば、目明しがやってくる方がはるかに危険なはずであった。  ——弥吉と呼ばれる男を頭に持つあの連中はおれの正体を知っているようだ!  知っていればこそ、長吉の口をごういんにふさぐ必要があったのであろう。  それは極めて重大なある意味を持っている。  たすくは自分が求める敵のすぐそばまで近づいたことを知った。     十五 血戦村松立場  たすくはいったん大川端を離れて|村《むら》|松《まつ》|立《たて》|場《ば》と呼ばれる大川の渡し人足の住む集落へ入った。大川をこえて江戸に入るおびただしい荷を主にあつかう村松人足は、組を作っての丸がかえが多く、ふところのあたたかいのが聞えていた。したがってかれらを相手の物売りもさかんに立場に入りこみ、その繁盛と騒々しさは周囲の|馬《ば》|喰《くろ》町などとはまた異なった特有な雰囲気をかもし出していた。渡し人足は裸一つが元手の商売であり、夏冬通してひざ上までの木綿の胴着一枚が身上であり、家や着るものなどにはあえて関心を示さないという気風があった。それに加えて日銭には事欠かず、結局はそれはおおむね食うことに向けられた。かれらの間には酒を|呑《の》んで川に入ると中風になる、という|禁忌《タ ブ ー》があり、それは比較的守られていたようだ。 「ええ、ごめんなすって。ええ、ごめんなすって」  たすくは筋肉の塊が動き回っているような男たちの間を、肩をすぼめ、小腰をかがめて縫っていった。たすくは図ぬけてたくましい方ではなかったが、それでも並の男とくらべれば、やはり兵法できたえた者特有の|鋼《はがね》のような引きしまった|体《たい》|躯《く》の持ち主だった。そのたすくがまるで少年のように見える。人足たちはこの部落に入ってくる人足いがいのすべての男たちを小馬鹿にしていた。裸一つが資本の世界では、その体がかれらより見劣りする者はすでに人格を失っているのだった。たすくの前に、三、四人のことに偉大な肉体を持った男たちがこちらへ背中を向けて道をふさいでいた。何か|串《くし》にさしたものを食っている。たすくは男たちのわきをくぐりぬけようとしたがさすがにそれはむりだった。 「ええ、すんません。通してやってくんちぇ」  たすくは男の腰をそっと押した。押された男はふり向いて鼻の先でたすくを見おろした。 「なんだ、おめえは?」  ひどい口臭が吹きつけてきた。 「通してやってくんちぇ」 「なんだと聞いているんだよ。おめえは」  たすくはひざをおった。 「へえ、古着屋の手つだいでごぜえます。おかげさんをもちまして品切れとなりましたので、ひとっぱしり店まで品物をとりにかけてゆくところで。へえ」 「古着屋か! 通れ!」  男はのそりと動くと、たすくが通れるだけのすき間を開いた。たすくは体をななめに、男たちの間をくぐりぬけた。そのとたんに足払いがかかってきた。たすくは反射的にとびのいたが一瞬、自分から地面にころがった。こんなところで足払いをかわして見せたりしては古着屋の手つだいと言ったのがかえってうたがいのもとになる。地面にころがったたすくに、男たちは満足したらしく、食い物の入っている口を大きく開けて笑った。 「古着屋! ここへ入ってきてこずるいもうけなど考えるなよ」  男の一人が手にした串をたすくに投げつけた。 「へえへえ、それはもうようくわかっております」  たすくはひたいを地面にこすりつけた。男たちはすでにたすくに興味を失ってしまっていた。|這《は》いつくばるたすくには視線も向けずに、歩き出していた。全く降ってわいた災難とはこのことだった。たすくは苦笑いをもらして立ち上った。かれらが小商人と聞いて急にいたずら心をおこしたのは決して理由のないことではない。金はあるが才覚というものをもたない川越人足たちに、|日《ひ》|頃《ごろ》、そうした商人たちがどんなに小ずるいやり方で商いを進めているか、今の一事でも容易にうかがうことができた。  ——古着屋だなどと言うのではなかったな。  たすくはすそのほこりを払って歩き出した。 「|兄《あん》さん、見ていましたえ。ほんににくたらしい人足。のう」  すい、と横に付いてきた|夜《よ》|鷹《たか》があった。手ぬぐいを流しにかぶり、ゆるく巻いたござをかかえている。濃くはいた白粉の香がふわりと立ち上った。 「遊びなんしょ。え、あたいがなぐさめてやろ」  江戸の言葉と西国のなまりが一つに溶け合ってたすくの耳にささやいた。流れ流れてこの江戸までたどりついたのであろう。これも新興江戸をめざしてやってきた一旗組の底辺にちがいなかった。 「おっとっとっと。ねえさん、寄っちゃいけねえ。この人足町でほかの男が夜鷹でも抱いちゃなんねえのさ。離れてくれ」 「大丈夫だってば! それにねえ、あたい、ちょいと体をこわしてね。病み上りなもんだから、人足野郎の荒い扱いがしんどくてねえ。いいじゃないか。かせがせておくれなね」  女は弱々しく笑った。そういえば肩のあたりがやけに薄い感じだった。おそらく病み上りというのはうそで、ほんとうは日ましに病が進んでいるところなのだろう。 「ま、いいってことよ。またにすらあ」  たすくはおしつけてくる女から体を離した。かわいそうだったがたとえわずかの銭でも恵んでやることはかえって女のためにならない。体を売らずにただ銭を恵まれたのを|他《ほか》の女たちが知ったら、どのような制裁を加えるかしれたものではない。それがこの種の女たちのおきてだった。  食物屋でにぎわっている一角を通り過ぎ、横丁を曲ると人足会所がある。会所といっても間口一間、奥行二間ほどの番小屋仕立ての掘立小屋だった。油障子の破れ目から内部をのぞくと一人の老人が灯皿を引き寄せて帳簿をめくっていた。 「|藤《とう》|助《すけ》! 藤助!」  たすくはそっと呼んだ。呼ばれた老人は帳簿から首をもたげ、それからそっと灯皿の灯を吹き消した。たすくは油障子を細目に開いて体をすべりこませた。藤助は立ってきて外のようすをうかがっていたが、障子を閉めて太いしんばり棒をかった。 「どうだ? なにかわかったか?」  藤助は|暗《くら》|闇《やみ》の中で声をひそめた。 「柳生の連中がなぜ六波羅蜜さまをおそったのか、これはかいもくつかめませぬ。もとより人違いではないはず、町奉行所づめの六波羅蜜さまを討つ目的は、はて、とんと見当もつきませぬ。さまざまな知らせの中から、これはと思うものすら見出せぬありさまにて」 「これほど手をつくしてなお何の手がかりも得られぬとすれば、こりゃ、まるで見当ちがいの探索かもしれぬて」 「と、おっしゃいますと?」 「藤助。おれは柳生の襲撃もふくめて一連の事件をすべて反徳川の陰謀と見ていたが、あるいはそれはまちがいであるのかもしれぬ」 「はて?」 「ことによれば、反徳川の陰謀のかげにかくれてそれとは全く異なるくわだてが進んでいるのではあるまいか。そのようなけねんもある」  藤助はふいに口をつぐんだ。たすくは小屋に近づいてくる気配でもしたのかと思ったが、そうではなく、藤助はなにごとか考えあぐねているようだった。 「いかがいたしたぞ。藤助」  藤助はなおしばらくおしだまっていたが、やがて口を開いた。 「六波羅蜜さま。少し気がかりなことがございます。明日、夕刻までおまちねがいとうございます」 「いいぞ、今の場合、どのような知らせでもありがたい。たのむぞ」 「かしこまりました」  入ってきたときと同じようにたすくは音もなく小屋をすべり出た。  藤助は伊賀者出身の元御庭番だった。|服《はっ》|部《とり》|半《はん》|蔵《ぞう》の後流が幕府の不興を買って退転したおり、連座のかどで放逐されたのをたすくがひそかに養ってかくれ|諜者《ちょうじゃ》としてこの東の江戸の関門近くにひそませたものであった。  |誰《だれ》も注意を払う者のないのを見さだめてから、たすくは露地を出た。  結局、あの品川弘明院の捕物以来、捜査は少しも進展していない。かえって新しい|謎《なぞ》がつぎつぎとあらわれてきただけだった。  たすくは裏道から裏道をたどっていった。足を運びながらも、思いは自然に深い疑惑の深奥に結ばれてゆく。  頻発する反幕陰謀も結局は弘明院の石川修理に象徴されるような豊臣浪人やそれに類似した性格を持つ浪人集団の投機的武装|蜂《ほう》|起《き》に過ぎないものなのか。それともまたかげに反幕連合勢力があって幕府の孤立化をねらう大規模な計画がひそかに進められているのか。いまだに見当もつかない状態であった。また、全くその意図の不明なたすくに対する襲撃事件が相ついで二度。一つは柳生流をよくする剣士団によるもの。もう一つは正体不明の忍びによるもの。そして後者は『さざれ石』なるものをしつように要求していった。  ——おれが反幕陰謀を捜査していることを知って、おれの捜査を妨害するための襲撃ならば、柳生はすなわちどこかの線で反幕陰謀に連なるとみなければならぬ。しかしこれは現在の柳生の位置と立場からすればあまりにもとっぴな考えと言わねばならないが……。  胸の中でつぶやきながらたすくの|眉《まゆ》はくもった。  ——しかし、あの声はぬかしおった。薩摩の重臣どもが十兵衛三厳らと会見したと。  それは充分に警戒してよいことだ。それに常識的に考えてありえそうもないことが実はもっともおこりやすいことなのかもしれない。  ——それにしても『さざれ石』とはなんのことだろう?  さざれ石とは?  もう一度、胸の中でつぶやいたとき、村松立場と新堀を境する水神の森に道はつきていた。  人の身長ほどの高さの石垣が立場の地内と水神の社の神域を区切っていた。道はその石垣につき当ってつきるが、そこから左右へ、人の踏跡に近い小道が石垣に沿ってのびている。その道をたどるよりも石垣を越えて神域をつっきった方が|松《まつ》が|枝《え》町へは近い。そこから矢の倉へは一本道だった。  そのとき、たすくは湿った夜風の中にかすかにあるかないかの殺気がただようのを感じた。最初は気のせいかと思った。しかしそれは気のせいなどではなく、あきらかに五十メートル以内に殺意の発源点がひそんでいた。おそらくはおさえきれないわずかな気息の動きであろう。無に近いまでにおさえた殺意がそれでもかすかにゆれ動いていた。  たすくは立ち止ってその殺意の放射してくる位置を、はっきりとたしかめたい衝動に必死に耐えた。この地内で鉄砲を使うとは考えられなかった。うかつに鉄砲や火を使うことは、へたをすると六百人の川越人足を相手にしなければならなくなる。そんな危険をおかさなくとも、鉄砲で襲う気ならば他にどこでもある。たすくを待ち受ける襲撃者は飛道具でない。ごくふつうに刀か槍、せいぜい手裏剣を用いるであろうとたすくは判断した。だが同時にそれはよほどの|手《て》|練《だ》れであることを意味していた。  今はもう避けることも退くこともならなかった。敵の術中におちいることは百も承知だったが、ここは常法通り、まっすぐに、ひたすら歩を進めることいがいに道はなかった。待ち受ける相手は、たすくが|白《はく》|兵《へい》距離に入るいぜんに攻撃に移らねば待ち受けていた意味がない。そのかぎりにおいては敵は自由に攻撃発動位置をえらぶことができる。しかしその反面、たすくには直線距離五十メートルの間のどこかで必ず敵は動くという確信があった。動いたその瞬間に、もはやそれはひそんでいる敵ではなくなる。そうなればもう状態は五分と五分だった。しかし敵に近づけば近づくほど危険は増大することになる。  一歩、一歩、たすくは進んだ。足を進めながらたすくはどうしても意力を集中できないことに総毛立つようないらだちを感じた。ゆくてにかくれひそむ敵が、どうして自分がここに在ることを、そしてこの道をたどるであろうことを知ったのか? それが第一の疑惑だった。これはどうしても矢の倉の新開地からずっとつけてきたとしか考えられない。途中、何度も周囲に気を配り、その間、かなりの距離が全く無人であることさえあった。それなのに尾行をふり切ることができなかったとすれば、敵のその技量こそおそるべきものと言わざるを得ない。  もう一つ、たまらなく気がかりなことは、これはもう当然、藤助の存在が知られてしまっているということだった。藤助は無事だろうか? 敵は必ず藤助からこちらの情報組織と目的を聞き出そうとして責めにかかるにちがいない。藤助はたすくの情報網の末端組織であり、組織の構成については全く知らないのだが、敵がようやくそれを認めるにいたったときは、藤助の体はもはや人の姿をしていないであろう。 「くそっ!」  たすくのひたいをつめたい汗が流れた。ひどく気がかりなことを抱きながら強敵と戦うことは無謀というよりも万に一つの勝利もおぼつかない。しかも待ち受けているかぎり、敵には戦うためのすべての条件が|完《かん》|璧《ぺき》に整えられているといってよい。たすくは胸の奥底からこみ上げてくる恐怖に必死に耐えた。  一歩、一歩、距離は三十メートルまでに迫った。  背後の集落からはにぎやかな|喧《けん》|騒《そう》が|汐《しお》|騒《さい》のように聞えてくる。風にのって|濁《だみ》|声《ごえ》が急におどろくほど近く聞えてくる。  ——よし!  つぎに背後から風が来た瞬間、たすくは体を丸めて弾丸のように走った。姿の見えぬ敵の殺気がにわかに動いた。二十メートルほどむこうで水神の石垣が切れてそこから先は竹垣にかわっている。そのあたりにふいに一個の人影が動いた。とつぜん走り出したたすくの動きの変化が、一瞬の差で攻撃に出ようとしていた敵の出鼻をおさえた結果になった。今、一歩というところでとつぜん急激な接近に移った相手に応ずるには、距離はすでにつまり過ぎていた。  水のように冷静だった敵の戦機が大きく動揺したのをたすくは感じた。人影は右手に電光のようにさやばしらせた大刀を大きく八双にかまえ、ついで頭上に高々とふりかぶり、ついでたすくにつられるようにかれも走り出した。走り寄ってくる敵をむかえうつには自分も走り寄るしかない。そのすれちがいの一瞬にどちらが先に相手に打撃を与えるかで、勝負がきまるのだ。たすくは素手。相手の手には大刀があった。たすくはそれを勝機は五分五分とよんだ。今はもう武器があるか無いかなどということはたいした問題ではなかった。  たすくは目の前に相手のくらい二つの目が迫ったのを見た。その目の上から、はげしく空気を切って糸のような円弧が降ってくる。その下をくぐって体をおった。遠い灯の反射をキラ、と|曳《ひ》いて第二撃がほとんど水平に空間をないできた。ちゅうにとんだたすくのかかとがぞうりを離れ、一瞬、そのわらぞうりの後半分が切り飛ばされた。第三撃がおそってくる直前にたすくは敵の体のどこかをつかんだ。敵の左手がさか手に小刀をぬくのがわかった。敵は大刀をすてて、たすくのうでをとらえ、左手の小刀を回して低くたすくの体をねらってきた。たすくは相手の小手を封じながら強烈なひざけりを入れた。敵の体はふわりととんでたすくの攻撃圏からのがれた。たすくはひととびに敵の体に迫った。敵はさらに後へとび、手にした小刀を片手青眼にかまえた。敵は乱れた呼吸をおさえて反撃の機会をねらった。立ち直るすきを与えず、たすくはおどりこんで敵の手首を打った。敵の手から離れた小刀はたすくの手に移っていた。 「いかに! 庄田喜左衛門!」  柳生石舟斎の高弟、庄田喜左衛門はこのとき、六十八歳。なお壮者をしのぐ体力と石舟斎直伝の剣の|冴《さ》えは同じく石舟斎高弟の一人、|木《き》|村《むら》|助《すけ》|九《く》|郎《ろう》とともに全国の剣士の間に聞えていた。  たすくは手にした小刀を喜左衛門の耳の下に突き立てようとした。  そのとき、とつぜん、たすくの背後からすさまじい殺気がおそってきた。  たすくは庄田喜左衛門の体をそこに突き放すと、とっさに地をけって飛びさがった。つづいておそってくるであろう強烈な攻撃を予期してたすくは地に伏した。息を殺して敵の気配をさぐる。新たな敵は二十メートルほど前方のやや右手に巨人のように立っていた。すさまじい殺気は、|灼熱《しゃくねつ》のほのおのようにたすくの顔面を吹いてくる。おそろしい敵だった。この闇の奥に立ちふさがる新たな敵はとうてい庄田喜左衛門などのおよびもつかぬ精強な闘争力をひめていた。柳生十兵衛三厳だろうか? いや、かれともちがうようだ。十兵衛三厳の技量についてはすでに知っている。神尾永勝がおそわれた夜に、たすくは十兵衛三厳と戦っている。その結果はたすくにとっては充分に計り得る技量だったし、三厳の戦力の限界も推測することができた。  この敵はちがう。その闘争力は単なる刀槍のわざをはるかにこえていた。  ——何者?  たすくは地に伏したまま|四《し》|肢《し》に全身の力をこめて、いつでも敵の攻撃に応ずることのできるかまえを持続しつつ戦機の動くのを待った。過ぎてゆく一秒一秒が耐えられぬ緊張との戦いであった。  ——何者だろうか?  その緊張の中で山のように静まりかえり、たすくの動揺と|破《は》|綻《たん》をうかがっているおそろしい自信は、きら星のごとく剣豪、名人、上手をかかえている柳生の陣営でもこれはずばぬけた力量の持ち主であった。  柳生十兵衛三厳でないとすれば、新二郎厳勝、しかしかれは病弱のゆえもあり、剣技は兄宗矩におとらぬと言われながらもその実力は論外というところ。兵庫介利厳は新陰流二世を継いで尾張徳川家にある。身軽に出歩くことのかなわぬ地位ではあり、これは除いて考えた方がよい。加えて、かれの実力は自分よりかなり劣るものとたすくは判断した。  あとは総帥、柳生但馬守宗矩。  ——しかし、かれはこのように迫力に富んだ技量の持ち主なのだろうか?  たすくは口の中でつぶやいた。闇の奥にひそむ敵は、これまでたすくが一度も遭遇したことのないわざと、知恵を持った人物だった。|巷《こう》|間《かん》、伝え聞く宗矩はたしかに名人の名にあたいしようが、どちらかといえばむしろ政治家に属するはたらきの場とタイプを持った人物である。その剣の技量はおそらく十兵衛三厳以下と思われる。と、すればそれはたすくの力で充分に倒し得る相手である。  ——新たに柳生に属した剣客だろうか? それにしてもいったい誰だろう?  すぐれた剣客というのは剣技を売りものの世界ではその名が知れわたっている。かくれた名人、上手というものは実際にはあるものではない。  たすくは静かに息を吐いた。これ以上ここにとどまることは不利であった。力量の知れぬ相手と雌雄を決しなければならないさし迫った土壇場ではない。もし敵が攻撃をかけてくるならば、それはそのときのことだ。  たすくはゆっくりと立ち上った。静かに着物のすそのどろを払って敵に背を向けた。なに気なく足を踏み出す。おそろしい緊迫の一瞬だった。生死はその一瞬の境目にあった。  そのとき、 「またれよ」  それまで石像のように立ちつくしていた庄田喜左衛門がゆらりと動いた。 「六波羅蜜どの、しばらく」  たすくは足を止めた。 「なにか」 「うわさどおりの、おそろしいうでだのう。これでは柳生子飼いの剣士|輩《ばら》も、手もなく切り伏せられたのもまことに当然であったわ」  庄田喜左衛門の声には、永く柳生の栄光を守りつづけてきた老人の耐え難い苦悩と詠嘆があった。 「お|主《ぬし》、それを言うためにおれを呼び止めたのか」  たすくは背を向けたまま小さく笑った。庄田喜左衛門は長く息を吐いた。 「柳生に名ある剣客は多いが、お主ほどの術者は居らなんだ。思えば石舟斎さまいらい、ずいぶんと久しい間、まことの手練れというを見ておらなかったわ」  それは老人のくりごとというにはあまりにも悲痛な述懐といきどおりにみちていた。 「庄田喜左衛門、言うことはそれだけか」  庄田喜左衛門はふいに笑った。たすくは最初かれが泣いているのかと思ったが、そうではなかった。のどの奥からしぼり出すような乾いた笑いは、奇妙な鳥の鳴声のように、むなしく夜の静寂に吸いこまれていった。たすくには、喜左衛門の老いのしわの深いのど首が、はげしく打ちふるえるのが見えるような気がした。ふいに喜左衛門は笑いを止めた。 「六波羅蜜どの」  くらい声音だった。 「六波羅蜜どの。お主、われわれの仲間に入らぬか?」  これしか言いようがないというような唐突な言い方の中に、喜左衛門のすがるようなひたむきなひびきがこめられていた。 「仲間にだと? 喜左衛門、一族や子飼いのうでじまんどもに見切りをつけたとか!」  喜左衛門は声を呑んだ。 「それもいいが、高いぞ。おれは」 「|冗《てん》|談《ごう》を言っているのではない」 「ふん! 柳生の庄のとれ高の半分もいただこうかよ。ことわっておくが、おれも、ざれごとを言っているのではないぞ」  喜左衛門が思いつめたように言った。 「六波羅蜜どの。お主、長吉なる男の命をうばったのは、われわれのしわざと思うておるのであろうが、それはちがう!」  たすくははじめて喜左衛門に向って体を回した。 「われわれも長吉なる男の言動には深い関心を払っていた。お主と同様、ひそかに接近をはかった矢先、長吉はなにものかに倒された。もとよりそれは長吉の見聞したなにごとかを知られては、はなはだ困る誰かがそれをなしたと言ってよいだろう」 「喜左衛門、それではおまえたちがやったのではないという説明にはなっていないな。いったい何のためにおまえたちは長吉の言動に深い関心を払っていたのだ?」  喜左衛門が口ごもった。 「それは今、わしの口から説明し難い。のう、六波羅蜜どの。われわれの仲間に入ってくれぬか。もちろんちかって悪いようにはせぬ。即答せよとは言わぬ。考えてくれい。人の世のためじゃ」  たすくはふたたび喜左衛門に背を向け、歩き出した。 「喜左衛門。長く生き過ぎた、というのはまさにおまえのための言葉だぞ」  たすくはもう二度とふりかえろうとはしなかった。  ——長吉を殺したのがやつらでないとすると、それではいったい誰なのだ? 柳生、春日局らが神尾永勝を暗殺したことはすでにあきらかだ。これが反幕陰謀の計画がもれるのを未然に防いだものであることもはっきりしている。すると長吉を倒して口を封じた者は、もう一つ、他のすじの者、ということになるが——。  闇の奥にあらわれた敵も、庄田喜左衛門もその闇に融けたようにいつまでも動かなかった。     十六 焼打ち  立場の集落を|迂《う》|回《かい》してお清め堀から|両国《りょうごく》へ出た。あとをつけてくる者はないようだった。両国の|与《よ》|三《さぶ》|郎《ろう》小路から|下《した》|谷《や》|練《ねり》|塀《べい》町にかかるころ、遠く半鐘の音が聞えた。すでに夜ふけの町のあちこちで板戸を開く音がつづき、声高な話声が静かな夜を破った。 「どこだ? 火の元は」 「見えねえなあ。番太のやつ、ねぼけているんじゃねえか!」  江戸の人々は火事には異常なほど敏感だ。ひとたび火が出れば、|木《こっ》|片《ぱ》とかやぶきの掘立小屋がほとんどの町並は、あっというまに灰になってしまうのだから無理もない。  |本《ほん》|郷《ごう》|湯《ゆ》|島《しま》の|内《ない》|藤《とう》|志《し》|摩《まの》|守《かみ》の上屋敷の角までやってきたとき、西の夜空が赤く染っているのが見えた。 「四谷へんらしいのう」 「さっき石田|氏《うじ》が帰ってきて、なんでも塩町へんにおしこみが入ったそうだ」  内藤の門のくぐりが開いていて、若い家士たちが石段の上にならんで火の色を見つめていた。  ——塩町だと?  たすくはかすかな胸さわぎを感じた。内藤の門を行き過ぎてから|尻《しり》を|端《は》しょって走り出した。  見附を通って佐土倉にかかるころから町の人々は総出で屋根へのぼり、軒端を埋めていた。もう火はすぐそこに見えていて、金の砂をほうり投げたような無数の火の粉が河の流れのように頭上をおおって舞い狂っていた。 「火の元はどこだね?」  たすくは職人風の若い男にたずねた。 「六波羅蜜さまとおっしゃる旗本の屋敷だ」  声の終らぬうちにたすくは疾風のように走った。  |弁《べん》|天《てん》池に流れこむ小川にかかる木橋をわたるとたすくの屋敷の裏側に出る。そこは高い石垣になっているが、そこをよじ登ればおもて側に回るよりもはるかに早く屋敷内へ入ることができる。その石垣の上に深い竹やぶがあった。その竹やぶのむこうの高い屋根は真赤なほのおにつつまれていた。 「くそ!」  たすくは石垣のわずかなへこみに指をかけ、いっきによじ登った。すでに竹やぶにも火が回ったとみえ、けたたましくはねはじめた。すでに離れの一角は焼け落ちたらしい。まだ火のとどいていない木かげをかけぬけて中庭へ走った。建物はすべてほのおにつつまれ、熱風が燃える木片や戸障子まで巻き上げてゆく。 「あっ!」  たすくはそこに横たわっていたやわらかな物に足をとられて思わずよろめいた。強い血の匂いがした。火光の中で顔を寄せてみるとそれは用人の喜兵衛だった。 「どうした!」  抱きおこしてみるとすでに息が絶えていた。肩先から背中にかけて割られている。右手ににぎりしめているわきざしの中ほどから先端が|失《う》せている。たすくは喜兵衛の死体をそこに横たえると火の粉をくぐって走った。隣家の旗本の邸からかけつけてきたらしい若い侍や仲間たちが|水《みず》|桶《おけ》を手に走り回る姿が影絵のように明滅した。  家の中へ入ることなど全く不可能だった。 「六波羅蜜さま!」  吹きつけてくる火の粉の中から人影がかけ寄った。右手にさげた抜身のわきざしが赤い火光をはねかえして黄金のように一瞬かがやいた。 「由紀か!」 「誠之助どのが急を報じなされ、私がかけつけてまいりましたときはすでに火の海。なお、お庭にひそんでおりました賊、一名は切り伏せましたけれども、他はことごとく逃げ散りましてございます」 「何名ぐらいおったか?」 「私が目にいたしましたは五名」  たすくは由紀をかばって火の粉の降ってこない風上の木立に退いた。 「くわしく聞かせてくれ」 「綾乃さまをおすくいしてございます。あちらに」 「よし」  表門に近い馬つなぎ小屋に綾乃と下男の|老《ろう》|爺《や》がふるえていた。 「誠之助は?」 「長福寺小路にて果てましてござります」 「そうか」  たすくにつかえてまだ一年ほどにしかなっていなかった誠之助の|稚《いとけ》なさをとどめた面影がたすくの胸をかすめた。|飯《はん》|能《のう》の郷士の息子で、人づてをたのんで江戸に上ってきたのだった。たすくもやがてはしかるべき旗本の家士に推挙してやろうと思っていたのだった。 「綾乃。くわしく聞かせてくれ」 「申しわけござりませぬ。気がつきましたるときはすでにお邸うちは火の海にて」 「うむ。それで?」 「誠之助どの、喜兵衛どのは刀をとって賊と切り結んでおられました。喜兵衛どのは綾乃をここへかくまってくだされましたが、そのあとのことはくわしく存じませぬ」  綾乃は低くうなだれた。 「|朴《ぼく》|平《へい》はなにか知っているか?」  下男の老爺はまだ歯の根もあわぬほどふるえていた。 「と、と、戸締りに、い、いろう[#「いろう」に傍点]はございませなんだ。火、火の方が早うござりました。わ、私めが井戸端へ出たときには、お部屋の方で切合いの音が聞えておりましたでごぜえます」 「|宿直《とのい》は?」 「今夜は誠之助さまにございました」  綾乃がこたえた。 「賊はふいに殿様の寝所近くにあらわれましたもようにござります」 「はて?」 「失火、盗賊のおし入るにまかせました罪、申し開きのしようもござりませぬ」  綾乃は床にひれ伏した。朴平は涙声でなにやらつぶやいて|這《は》いつくばった。とうてい誠之助や喜兵衛たちの手におえるような敵ではなかったのだ。  ようやくほのおがおとろえてきた。二人の子分をともなってかけつけてきた目明しの耕助が、隣家から借りてきた衣装に大小をおび、急ごしらえの侍姿で、消火のために押し破られた門の前に立ってつめかけてくる見舞客の応対をはじめた。そのころになって大七が全身に湯をあびたように汗だらけになって息を切らしてかけこんできた。 「六波羅蜜さま! おけがはござりませぬか!」  これまでただの一度もうろたえたところを見せたことのない大七が紙のように顔色を|喪《うしな》っている。 「おう、大七! このようなありさまだ」 「|巣《す》|鴨《がも》村へんまで出向いておりまして危急に間にあいませず、大七、一生の不覚でござりました」 「言うな、言うな。大七。夜討ちを受くるもこれ戦いのつね」  大七は大きな体をいよいよちぢめた。 「誠之助どのも喜兵衛どのも、賊をむかえ討って無念の最期。私めがおりましたなれば、せめてどちらかでも命を棄てずにすんだやもしれず……」 「もうよい。大七。すべては時の運よ。あまり気にするな」  大七はうなだれたまま顔をふいた。  かけつけてきた役人も、切合いがおこなわれたと知るとにわかに慎重な態度になった。 「大七。役人にこう言え。隣家より類焼いたし、家屋焼亡、火傷を負いたる者、二名。とな」 「ははっ」  町奉行所客与力、元諸国産物吟味方、ことに松平伊豆守手の者と、かくれたうわさも高い六波羅蜜たすくの邸が全焼し、切合いもおこなわれたらしいとなるとこれは触らない方が安全だ。隣家より類焼などと言われてもそうでないことは誰の目にもあきらかだが、類焼となれば後も違ってくるし、書類の照合など形の上だけのことになる。大七のあいさつで役人たちはかえってほっとした。焼跡警備の一人だけを残して早々に引き上げていった。  たすくは下男の老爺に多額の金を与えて、|世《せ》|田《たが》|谷《や》在で百姓をしているという息子夫婦のもとにひとまず身を寄せてもらうことにした。たすくのもとを離れることをがんとして聞き入れなかったが、ふたたび邸を設けたらば必ず呼ぶというたすくの言葉でどうやら納得した。耕助の子分二人をつけてたすくは夜明けを待たずに発足させた。  綾乃は由紀の家にかくまうことにした。綾乃は人質にねらわれる可能性が充分にある。綾乃を由紀の家にかくまうという話には由紀の顔に強い不満の表情が動いたが、たすくは黙殺した。  相当、高性能の火薬を用いたとみえて家屋はほとんど完全に灰になってしまっている。運ぶものとて何もない。たすくはただちに由紀と綾乃、それに大七の三人をともなって|揚《あげ》|場《ば》町の長福寺小路、|研《とぎ》|師《し》丹阿弥与一兵衛の家へといそいだ。  揚場町の|筋違《すじちがい》から長福寺小路へ入る|辻《つじ》までやってきたとき、先頭を歩いていた大七がとつぜん立ち止った。 「あれ、ごらんなされませ!」  するどく緊張した大七の言葉に、いっせいに動いた三人の視線は長福寺小路の入口の両側にかかげられた〈御用〉のちょうちんに釘づけになった。三人は同時に走り出していた。わけのわからぬ綾乃がそれでもけん命に三人の後につづいた。不吉な予感が三人の胸に猛然と頭をもたげてきた。たすくはくちびるをかんで走った。御用ちょうちんが立つと同時にきびしい人払いになったとみえて小路の入口に立っているやじ馬はいなかった。 「止りませい! 止りませい!」  鉢巻のむすび目をひたいの中央で末広がりに左右へはね上げ、尻端しょりに手甲きゃはんもものものしい町方の者が、両側からぐいと六尺棒をさし出した。 「これより先、入ることはなんねえ」 「止りませい」  大七が進み出た。 「わしは江戸町奉行与力六波羅蜜たすくさま組下。保谷大七である。お|上《かみ》になおご不審の点あり、かかわり合いの者、三名を引き具してまいったのだ」  町方の顔にろうばいの色がはしった。 「それはそれはごくろうさまにござります。ささ、お通りくださいませ」  侍姿をしているのは大七だけだ。たすくは長吉の長屋をさぐりに出たままの姿、髪形だからこれはどう名乗ったとて町方はかえってあやしむだけであろう。  長福寺小路は右側が長福寺山内を囲む低い土塀。左側に寺領の借家がならんでいるが、どれも固く板戸を閉ざして息をひそめている。ご用ちょうちんの小路を固めているときに寝静まっているわけもない。  由紀の家の前に三、四個の灯がゆれていた。よほどかけ出したいのをこらえて、いそぎ足で近づいた。ここでも大七が前と同じことを言う。真先に家の中へかけこんだ由紀の悲鳴とも泣き声ともつかぬ絶叫が三人の耳を突き刺した。町方の目もかまわず、三人はあとからとびこんだ。  灯はともっていたが、暗い家の中には|汐《しお》の香に似た血汐の臭いでいっぱいだった。与一兵衛の仕事場にむしろをかぶった三個の死体がならんでいた。その一つにとりすがって由紀は泣きくずれていた。仕事場の内部は足の踏み場もないほど荒らされ、ところどころ壁土や羽目板まで|引《ひ》き|剥《は》がされ、突き崩されている。奥の部屋は天井坂もはね上げられ、たたみも一枚一枚裏がえしてある。よほど熱心にさがしたものとみえる。ことに由紀の部屋は衣装だんすや小物入れの引出しまですべて床にほうり出され、美しい|小《こ》|袖《そで》や帯が踏みにじられていた。帯などはところどころ縫目がほどいてある。  大七は小路東の番小屋へ係の同心を呼びにやらせた。  小者をしたがえた同心ははなはだ不機嫌な面もちでやってきたが、侍姿の大七を見てそれでも形だけは立ち止ってあいさつした。 「|常回《じょうまわり》同心、|天《てん》|童《どう》|啓《けい》|四《し》|郎《ろう》である。事変|出来《しゅったい》により|出《で》|張《ば》っておる。そこもとは?」  常回というのは|巡回《パトロール》を主任務とする外勤巡査であり、この時代にあってはおおむね同心一人に小者三人ほどふぞくし、それに同心と私的|連《れん》|繋《けい》のある目明し、一、二人がその子分と呼ばれる若い衆をしたがえて同行した。そうした小集団が当時の江戸市内を六つに分けて常時巡回していた。当時の社会的情勢と市民の数から考えて果してこれで充分な防犯警備の役が果せたのかどうか疑わしいが、一方には町家の五人組制度や町役人の組織もあり、自治意識ともからみ合って犯罪はかなり未然に防がれていたとも思われる。しかしこうした警備態勢の対象にならない無宿者や浪人、とくに武家などの手になる犯罪や無法行動に対しては無力であり、それに対して江戸八里四方無宿者おかまいや浪人打放ち令などで強制的に江戸退去を図るより方法がなかったことは衆知の事実である。その取締りの必要から、火つけ盗賊改めという別組織が生れたのである。 「お役目ごくろうに存ずる。それがしは……」  大七はおり目正しく同心に腰をかがめた。 「天童どの、実は」  いぶかしげな啓四郎に大七は顔を寄せた。 「あれなるは奉行所与力格にて、とくにお上のある筋のご用をうけたまわる六波羅蜜たすくさまにござる。同行されるご婦人もご同様なるお役目がらの方々。この家の異変も他にもれてははなはだお上の面目を失う仕儀と相なる。心してお取扱いなされるがよい」  天童啓四郎は大七の言葉にだまってうなずいた。 「天童どの。こちらへ。六波羅蜜たすくさまにお引き合せいたす」  天童の説明でわかったことによると、この家の襲撃はたすくの邸の襲撃が終った頃におこなわれている。戸締りのきびしい店の板戸を開けさせることができたのは、おそらく家人の、とくにたすくか由紀の名を使ったものと思われる。そして与一兵衛とかれの妻、由紀の妹の三人を斬殺したあと、徹底的に家探しをしている。異変に気がついたのはたすくの邸の火災に、近くの縁者の家の安否を気づかっておもむく途中の町人が通りかかり、開かれたままの板戸と強い血の臭いに不審を感じて店をのぞきこんだのが最初の発見であったという。おりから緊急巡回中の常回同心の一行がかけつけ、捜査がはじまったのだという。  襲撃者は何の手がかりも残していなかった。  親たちの死体にとりすがって由紀はただ泣くばかりだった。その由紀を、たすくは暗然と見守るだけであった。もともと、たすくが由紀をこの仕事に引き込むことをしなかったならば、この夜の悲劇は起らなかったものなのだ。たすくが由紀を自分の配下同様にはたらかせることについては、たすくには充分な意味もありたすくにはやむをえないものであった。それがこうした悲劇を招く結果になるであろうことは実は予測されなかったわけではない。しかし敵の出ようはいがいに早かった。たすくが由紀や由紀の親たちの安全をはかるよりも早く敵は襲ってきた。  由紀を倒すためではない。何かをさがし求めてやってきたのだ。何かを……それが何であるかはおれにはわかっている。かれらはとうとう直接行動にうったえてきたのだ。おれに挑んで求めることが困難と知るや、おれの周辺に破壊的な追及の手をひろげはじめた。〈さざれ石〉——かれらが求めているのはそれなのだ。〈さざれ石〉とはいったい何だろう? それほどまでにしてかれらが探し求める〈さざれ石〉とはいったい何なのか?  たすくは自分がその〈さざれ石〉なるものを窮めなければならなくなったことを心にきざみつけられるように感じた。それが今ははげしい悲嘆にくれている由紀に対するつとめであると思った。そうすることで由紀の悲しみが幾らかでもいやされるとは思わなかったが、少くとも自分の心の負担は多少でも除かれるにちがいなかった。  ——だが、いったいその〈さざれ石〉なるものを、どこで、どのように探したらよいのだろう?  ——そもそも、それは物なのか? それとも何かの事象のことなのか?  ——そうだ! いつかあのえたいの知れぬ侵入者は、それがおれの所へ送られてきているはずだ、と言った。そうしてみればその〈さざれ石〉なるものは物にちがいない。だがおれはそのような物を人から送られたことはない。  ——かれの言葉によれば、それは誰かがおれに送るはずの物なのだ。誰が? なぜ? そしてそれをおれが受け取っていないのはどうして?  たすくは鉛のように心の奥底に沈んでくる、くらいうたがいにひとり声もなく耐えた。それはとらえようもない遠いかなたから、波のうねりのようにしだいに高まりつつ近づき、たすくの胸の奥底にどっとなだれこんできては現実的な重量感をともなってあとからあとから積み重なっていった。それがついにたすくの体をおしつぶすばかりに重くなって、たすくは思わず立ち上った。  たすくは大七にあと始末を命じ、天童啓四郎にはとくにこの家の警戒を厳重にするようにうながした。敵は再度、ここをおそってくる可能性があった。〈さざれ石〉なるものを、たすくが持っていないことを証明して見せることができない以上、敵は何度でもおそってくるはずであった。  翌朝、与一兵衛の属していた|研《とぎ》|座《ざ》の男たちが集って葬儀の仕度にかかった。長福寺小路の住人たちも多く集ったが、小路の木戸口をおさえ、またこの家に出入する人々にするどいまなざしを浴びせる啓四郎配下の手先や目明したちは、ただでさえ沈んだ人たちの心をいよいよおびえさせ滅入らせた。  ひつぎの出るころに、垂れこめた空から霧のような雨が降ってきた。たすくは与一兵衛の店の軒先に立って黒くつづいてゆく葬列を見送った。その職人風に結んだ髪にも、|盲縞《めくらじま》のひとえの肩にも、霧雨は小さな滴を結んでいた。列の後を、侍姿の大七と借着の|絽《ろ》の羽織を四角に着た耕助が少しおくれてついていった。     十七 月 光  厚くおい繁った庭の樹々の|梢《こずえ》で、ひぐらしが鳴き交していた。西側に大きな土蔵があるせいでこの庭は夕暮が早い。樹々の梢の間からのぞく空は、夕焼けがまだ明るく華やかな色彩をのべているのに、庭の植込のかげにはもう|薄《うす》|闇《やみ》がただよっていた。こうもりがひっきりなしに明るい夕映えの中に舞い上っては弧を|画《えが》いてふたたび薄闇の中へとってかえす。そのあたりは昼間から太い蚊柱の立つところだった。  その植込のむこうの黒板塀の外で子供たちのさわぐ声がひとしきり高くなった。その声に背を向けてたすくはひじまくらをかって横になった。あるかないかの風で、蚊やりのけむりがゆるく渦まいてななめに上ってゆく。  ここは小石川|柳《やなぎ》町|祥天《しょうてん》に近い商家の離家だった。  もとは隠居所だったという古雅な感じの八畳間だったが、今はここで寝起きしている二人の若い女の匂いが花やかに壁や障子にしみついていた。|衣《い》|桁《こう》や衣紋かけには由紀や綾乃のゆかたや帯がしどけなく色彩をまき散らしていた。  たすくは由紀のものらしい絵草子を足の指の間にはさんで引き寄せた。手にとってみると|鎌《かま》|倉《くら》八幡宮の縁起を記したものであった。母屋からでも借りてきたものであろう。開くと銀色の|紙《し》|魚《み》が走り出た。たたみに落ちた紙魚はすばやく動いてすぐどこかへ見えなくなった。由紀も借りてきたものの、開く気もなくて投げすてておいたものであろう。たすくも一、二枚絵をかえして見てふたたびもとにもどした。  庭伝いに母屋へ通ずる踏石に足音が聞えて、風呂をもらいに行っていた綾乃が帰ってきた。すそを軽くおさえて縁にのぼると、ゆかたのすそからこぼれる白い素足の小さな指が夕闇の中に玉のように動いた。湯上りの肌がさわやかな風に匂った。 「いいお湯でございました。とのさまにもおすすめしとうございますが、もらい湯ではそうもまいりませぬのね」  たすくは手まくらのまま思いきり体をのばした。 「おれはかまわぬ。それより、どうだ? ここの居心地は」  綾乃はたすくの|下《し》|手《も》に回ってきちんと坐った。 「はい、お心遣いかたじけのうございます。由紀さまにもそれはよくしていただきまして」  たすくは目を閉じたまま、もうしばらくここでしんぼうしてくれるようにと言った。 「とのさま」  綾乃の声がわずかに変化した。 「なんだ?」 「綾乃は由紀さまのことはとうに承知しておりました」 「何を言いだすのかと思えば」  綾乃のひざが動いた。 「綾乃は由紀さまと同じようにとは申しませぬ。綾乃はもともと腰元。由紀さまとはちがう」  たすくは綾乃の言葉をおさえた。 「そのとのさまや腰元だが。一応の格式ゆえそなたを腰元として使い、また、人にそう呼ばるるままにとのさまなどと。おれは本来、一介の浪人もの。体一つがもとでのなりわいよ。とのさまはやめにしろ。それから腰元もいらぬ。だいいち、住む邸もないこのありさまだ」  その言葉を綾乃はたちまち自分流に解釈した。みるみる声が切迫した感情につき上げられた。 「綾乃が邪魔ならそうおっしゃってくださいませ。何も知らぬげにこうして由紀さまとひとつ部屋で暮していてはもの笑いのたねになりましょう。綾乃にも、綾乃にも!」  途中から泣き声になった。  たすくは起きなおって、はだかった胸を平手でたたいた。 「綾乃、そなた、勘違いいたしておる」 「いいえ! 勘違いなどいたしておりませぬ。綾乃はつい身分も忘れてお言葉に甘え過ぎました。綾乃も一度はおなさけをいただきました身。それだけを守って生きる覚悟はございますものを」  たすくは言葉を|喪《うしな》って綾乃から目をそらした。悔恨というほどのこともなかったが、ただあの夜のとっさの行動が思わぬ余後を|曳《ひ》いてしまったことに当惑と失敗感がわいた。 「綾乃はつろうございます」  あの夜と同じことを言う。 「綾乃、そのようなことを言っているのではない。今はそなたを危険から守ることしかおれは考えていないのだ。もうしばらく、ここで由紀と仲良く暮してくれ」 「綾乃がいやだと申しましたならば?」  綾乃に関するかぎり、たすくにとってその言葉は|驚愕《きょうがく》すべきものだった。矢の字に結んだ帯さえ重たげな細腰と、ひたむきなものを見つめる稚ないまなざしを持った綾乃しか知らなかったたすくには、そこに一人前の女を見出すにはかなりの努力を必要とした。 「切る」  その投げやりな言い方に自分でも救われ難い気がした。 「切りますのか」 「もしそなたが敵に捕われでもしたら、そのために他の者の間に、出ずともよいぎせいが出ることになるやもしれぬ。そのおそれがあるゆえ、切る」 「綾乃は捕われてもかまいませぬ。命など惜しくはない。見殺しになさいませ。そうすれば他の方々の間にも、ぎせいなど出たりはいたしませぬ」  綾乃の論理は急速にそれてゆく。 「綾乃」  たすくは声を落した。 「知りませぬ」  綾乃はとつぜん本来の年齢にかえった。 「切りはせぬ。だからここにいろ」  綾乃は石のようにおし黙った。たすくは立ち上ろうとした。これ以上ここにとどまっていてはいけないような気がした。  そのとき、たすくよりも早く綾乃が動いた。ゆかたのそでがひるがえると、上体の重みをそのままたすくにぶつけてきた。よけるひまもなく、たすくは綾乃とかさなって倒れた。綾乃は言葉にならない言葉をくちびるにのぼせながら一途にたすくの胸に顔を埋めてきた。えりがくずれ、身もだえするうちに白い胸があらわになった。綾乃は自分でえりを大きく引きあけると乳房をぬき出してたすくの胸に押しつけた。  それからかなりの時がたった。たすくは綾乃のたえだえな気息の中に、開け放されたままの障子のかげにひっそりと息づいている気配を感じた。 「由紀か」  身じろぎもなかったが、かすかにうなずくのがたすくには感じられた。  たすくの声に綾乃は反射的に起きなおった。視線のさだまらぬ|眼《め》が、かくれ場所でもさがすようにはげしくうろたえた。 「由紀さまか! ああ、なんとしよう」 「由紀入れ」  気配が固くなった。 「いやじゃ!」  綾乃がさけんだ。 「入れ!」  わずかにためらったが、やがて由紀は音もなく動いた。まだほの明るい庭を後に、由紀は障子のかげからあらわれて黒い影となって敷居に近く手をついた。綾乃はたすくの体から飛び離れて、おそろしいけものからでも避けるようにたすくのかげに伏せた。 「|去《い》ね! 由紀さま、去ね!」  由紀は困惑してひざを浮かせたままたすくのつぎの言葉を待った。 「いや!」  綾乃が悲鳴のようにさけんだ。 「由紀、脱げ」  たすくの言葉に綾乃は一瞬、石のように硬くなった。  片ひざをついたまま、無言の由紀の手の動きの中で帯がしゅっと鳴った。  庭の樹々の葉の間からもれる月光が縁先にまでのびていた。梢を風がわたるたびに無数の波紋になってゆれ動いた。その光と|翳《かげ》のゆらめきの中で由紀の白い体がうねった。風が強くなったのか、樹々の梢がいっせいになびいて縁先に落ちる|光《こう》|斑《はん》がはげしく明滅した。たすくの背に回されていた由紀の手がふと別な力を加えた。たすくの耳もとに寄せたくちびるがわずかに動いた。 「六波羅蜜さま、何かが!」  とつぜん庭の樹々の枝のおれる音が高くひびき、葉がざわざわとゆれた。鳴きすだいていた虫の声がぴたりとやんだ。たすくと由紀は一瞬、跳び離れて部屋のすみの壁にはりついた。同時にかなりの重さを持つ物体がどさりと踏石の上に落ちた。風にのって強い血の臭いが充満した。静けさの中で忘れていたように綾乃がしゃくり上げ、かすかに身じろぎした。 「綾乃、動くな」  たすくは声をしのばせた。  部屋のすみで低くこおろぎが鳴きだした。それはしだいに高く、障子の方へ移動してゆく。しばらくしてそれにさそわれるように庭の虫がふたたび鳴きはじめた。薄い羽をひろげたうまおいが月の光の中をいやにゆっくりと横切り、かすかな音を立てて障子に止った。こおろぎが鳴きやむと、いつの間にかきちんと着物をまとい帯までしめた由紀の姿が立ち上った。もう一度、由紀のくちびるからこおろぎの鳴声が流れ出て止むと、由紀はすばやく庭のあちこちにすばやく視線をはしらせた。虫の声は前にも増して汐騒のように高まっている。  由紀は踏石の上にぼろ布の塊のように投げ出されている物に向ってそろそろと進んだ。はげしい血の臭いにたもとを口もとに押し当てて腰をかがめてのぞきこんだ。由紀の動きが凝固し、それから声をひそめてたすくを呼んだ。  たすくがおりてゆくと、由紀はくらい声でささやいた。 「大七どのが」  たすくは奥歯をかみしめた。 「灯をつけろ」  由紀の持ってきた灯を寄せた。大七とは見分がつきがたいほど|変《へん》|貌《ぼう》している。着衣は千切れた海草のようにたれさがり、その破れ目からのぞいた肌は黒紫色に変っている。片目がつぶれていたが、それは死後、何かにぶつかったためであろう。無数のすり傷や浅い切り傷があったがそれはどれも致命傷ではなく、おそらくは全身的強打と体力の限界をはるかにこえた消耗による絶息と思われた。 「大七どのには?」 「春日局前夫、稲葉佐渡守のもとへまいったのだ。おれに変装してな。春日局が柳営へ登る前後のことを聞き出しに行ったのだが」 「するとこのありさまは」 「柳生が早くも察知したか、あるいは稲葉佐渡守自身がかれらに加担しているのか、どちらかだろう」  たすくは以前、大七であったものに深く頭を垂れた。たすくが立ち上ると、ひざまずいて手を合わせていた由紀が顔を上げた。 「六波羅蜜さま。こうして大七どのがおそわれたところを見ますと、稲葉佐渡守さまは大七どのになにごとかお話なされたのではございませぬか? そうでなければ、大七どのを|殺《あや》める必要もございませぬし、そのままそっと帰すのが得策のはず」  たすくはうなずいた。 「そうだ。稲葉佐渡は柳生に組しておらず、なにごとかを大七に打ちあけた。しかしそうなると稲葉佐渡も今頃はこの世の者ではなくなっておろう」 「そのように思われます。なれど六波羅蜜さま」  ゆらめく灯に由紀の眼が大七の死体にそそがれた。 「大七どのはみすみす敵に討たるるままになっているお方ではございませぬ。稲葉佐渡守さまよりお聞きになったことを、どこかに書きしるしておかれたと思いまするが」 「いったんどこかに身をひそませ、それを記してから帰路についたものであれば、だが」 「大七どのは八州見回り下役であられたお方、|隠《おん》|密《みつ》の作法をこころえておられましたはず」 「しらべてみよう。由紀、このことを兄大六に至急伝えたい。手くばりをたのむ。それから、そなた、綾乃をともなって耕助の家へ行ってくれ」 「何か」 「いや、もうここもあぶない。耕助の家なら若い者も居るし安全だ」  しぶる由紀をいそがせて追い立てた。二人が出ていってからたすくは大七の死体を家の中へかつぎこんだ。ふとんを敷いて血の汚れを防ぎ、大七の体をしらべにかかった。大刀はさやごと失われていた。小刀はさやだけ残っている。それをぬきとって二つに割ってみたが中からは何も出てこなかった。血とどろでべったりと汚れた頭髪を解きほぐしてみたが、何もあらわれない。口の中、|鼻《び》|腔《こう》、|肛《こう》|門《もん》、耳の中などたんねんにしらべてみたが、それらしいものも出てこない。報告の重大性と切迫する危急の中で考えられるてだてはふつう、消化されにくいものにつつんでのみ下すということがある。 「胃の|腑《ふ》を開いてみるか!」  そう思ったとき、たすくは大七の左手の親指の|爪《つめ》が暗紫色に変色しているのに気がついた。目を寄せてみると、爪に細い毛髪がまいてある。 「これか!」  たすくは爪にまいた毛髪を|小《こ》|柄《づか》で断ち切った。親指の爪がぱくりと開いた。開いた爪の裏側に血に汚れた四角にたたんだ小さな紙片がはりついていた。のがれられぬと知った大七は自分で親指の爪をはがし、そこへ用意していた報告書をはさんで爪の上から毛髪で巻いておいたのだ。大七を倒した敵もそのかくし場所には気がつかなかったのであろう。  たすくは血で固くはりついた紙片を針先でたんねんに引きのばした。それをこうしたことに使うために手に入れたぎやまんの盃の横腹にはりつけ、灯にかざして天眼鏡を寄せた。 〈いなばの妻 ふくは先ねん しんでいる かすがはべつ人であるといなば けいかいきびし〉  それだけだった。それだけ書くのがせいいっぱいだったのであろう。たすくはそれを二つに引き裂くと灯に近づけた。小さな紙片はすぐわずかばかりの灰になって舞い上った。  たすくは戸棚から酒の入った徳利をとり出すと、|湯《ゆ》|呑《の》みにうつした。それを手に縁先に出た。月の光は今や湖のごとく冴えわたっていた。たすくはあおむくと湯呑みの酒をひと息で呑み干した。ふたたび湯呑みに酒をみたすと、ほんのわずかの間、ゆれる酒の|面《おもて》に目を当てていた。薄い|飴《あめ》|色《いろ》の液体に月の光が溶けていた。たすくは声もなく手にした湯呑みを庭の踏石に投げつけた。     十八 稲葉佐渡守  おとといの夜から降り出した雨が今日の昼を過ぎても、いつやむともなく降りつづいている。道を行く人の傘もみの[#「みの」に傍点]も端しょった着物のすそも|濡《ぬ》れそぼれてもう一度、梅雨がもどってきたようなうっとうしい空模様だった。  |不《しの》|忍《ばず》池に流れこむ堀があふれて泥田になっている|根《ね》|津《づ》村|八《や》|重《え》|垣《がき》を西に避けて|動《どう》|坂《ざか》から|駒《こま》|込《ごめ》に入った。このあたりは|石《いし》|工《く》の作業場が多い。近ごろでは大身というほどでもない中級程度の旗本や商人の家でも庭に見事な石|燈《どう》|籠《ろう》や名石を飾るようになっているし、またそれが流行だなどともいわれる。もともと、寺社に石細工を納めていたこのあたりの石工たちも、この新しい要求にすこぶる忙しくなっているらしい。人手をふやし、小屋も新しくしてにぎやかにやっている。  それを横目で見て、たすくと大六は|地《じ》|蔵《ぞう》|堂《どう》|二《に》|本《ほん》|榎《えのき》を曲って稲葉佐渡守の下屋敷の前へ出た。  白しっくいの土塀はところどころ|剥《はく》|落《らく》し、上にのった|瓦《かわら》もあちこちがずり落ち、丈高い雑草が雨に打たれて伏しなびいている。門扉も固く閉され、もう永いこと開かれたこともないようだった。  たすくと大六は広大な屋敷のまわりを一周した。他に二つの通用門があったが、そのどれもが錠がかかっている。たった一つだけ、商人が出入りするための小商人口と呼ばれる台所門だけが開いた。大六を外部の警戒に残してたすくはくぐりを入った。  庭内の荒廃ぶりもひどかった。くぐりから勝手口までわずかに踏跡らしく雑草が左右に分れている。枯松が茶褐色の枝を崩れた|建《けん》|仁《にん》|寺《じ》|垣《がき》の上にのばしていた。  台所の入口に立って二、三度呼ばうと、だいぶたってから奥から足音が近づいてきた。手をひざに、深く腰をおったたすくの頭上で小窓がきしんだ。 「なにものだ?」  気短かな声が降ってきた。 「へえ、へえ」  たすくはさらに体をおった。 「板橋、|小《あ》|豆《ず》|沢《さわ》在に住む百姓、|梅《うめ》|吉《きち》めにございます。とのさまにはなんと申し上げますか、とんでもねえご災難とお聞きいたしまして」  たすくは腰の手ぬぐいを顔におし当てた。涙と鼻汁をぬぐい、声をつまらせた。 「なに!」 「とるものもとりあえず、こうしてかけつけてめえりやした。おかげさまをもちまして、小豆沢の百姓総代なんと言われてこうしておりますのも、ひとえにとのさまのご恩の……」 「だまれ、だまれ! 梅吉とか申したのう。ちと待て」  小窓の声が引っ込んで厚い板戸がおし開かれた。内部の薄暗がりから一人の老人がきびしい表情で半身をのぞかせた。 「これ、梅吉とやら」 「へ、へい」 「わしはお|側《そば》用人じゃが」 「これは、これは」  たすくがふたたびくどくどと言いはじめるのを老人は両手でおしとどめた。 「これやい、梅吉」  声が|炸《さく》|裂《れつ》寸前の感情をおし殺している。 「なんだ? とのさまがご災難だと?」  たすくは愚鈍な表情を浮べて雨に濡れる敷石にひざをついた。 「おそれ多いことでござります」 「愚なことを申すな! そのようなことはない。まことにはばかり多いことじゃ。無礼の段、すておけぬ!」 「お、おゆるしくださりませ。す、すると、とのさまにはおつつがなく……」 「あたり前じゃ!」 「ひゃあ、ありがてえ!」  老人の声がとぎれた。切りかかってくるかな、と思ったがそうではなかった。そっと視線を上げると、老人は無惨な表情でじっと軒端の雨を見つめていた。 「それではさっそく立ち帰って、このことを皆の衆にも伝えて喜ばせてやるでごぜえます。皆もなんぼ喜ぶことだか!」  たすくは一礼してあとずさった。 「まて、梅吉。誰が申したのだ。そのようなこと」 「へ、へい。相すみませんでございます」 「いや、いや、|叱《しか》っておるのではない。何者かがそのようなことをおまえたちに触れ歩いたとでも言うのか」 「お仲間衆のお顔はとんと存じませぬ。今朝方早く、お仲間がお一人、見えまして、と、とのさま不慮のご災難などと……ごかんべん下さいまし」  老人はたすくに目をすえて首をひねった。 「そうか。のう、梅吉」 「へ」 「そのようなこと、かりそめにも口にすなよ。ご公儀に聞えなば何とするぞ! みなの者にもかたく申しつたえい」  たすくはひたいがひざにつくほど深く頭をさげてから台所を離れた。一瞬、するどい殺気がたすくをおそってきたが、すぐ消えていった。  たすくはふたたび小商人口をくぐって外へ出た。 「いかがで?」  大六が物かげからあらわれてそっとささやいた。 「稲葉佐渡は死んでいるな」 「やはり」 「うむ。側用人が出てきたが、あれは|塚《つか》|本《もと》|治《じ》|五《ご》|郎《ろう》という子飼いの郎党上りよ。台所口へやつがあらわれるようでは他の小者や使用人はみなとうにひまが出たということになるな」 「その側用人は稲葉佐渡守変死の原因を知っておりましょうか?」 「おそらく知るまい。稲葉佐渡は大七をおれだと思って話したのであろうし、その場合は当然、人払いをしていたであろう」 「使用人がいなくなったのはいつごろからでござろうか」 「しらべてみよう。板橋小豆沢には稲葉佐渡の飛地四十五石がある。いかにごく近い所の所領とはいえ、旗本の側用人が百姓総代の顔を見知っているはずがない。おれが総代の梅吉だと言ってもうたがうそぶりもなかった。もっとも、一、二回、切ろうとしたがな。あれは百姓の扱いなどまるで知らぬふるまいよ。そうだな。|瓜《うり》、なすびの上納以後のことだとおれは見る」 「すると、半月ほど前にはまだ係の者もおったということでございますな」  所領地の夏物の収穫物の上納金はどこでもつい最近納入されている。それまで側用人の治五郎ができるはずはないからそのころまでいた係がその仕事をしたのであろう。そうでなければ、そのためにとくに人をやとってきたのであろう。 「稲葉佐渡は自らさとっていたのであろう」  悲劇の人物であった。  近くの石工の家で稲葉佐渡の屋敷に出入りしていた魚屋の|一《いち》|次《じ》という男が|沼袋《ぬまぶくろ》に引きこもっているということを聞き出したたすくは、大六をともなってさらに足をのばした。  巣鴨村から|葦《あし》のおいしげった|池袋《いけぶくろ》郷の沼地を通り、|中《なか》|井《い》の|帝釈院《たいしゃくいん》の森を通って沼袋に入ったときはすでに雨の日は暮れて、雑木林のかげにひっそりとかたまっている農家の屋根から、夕げの白い煙が雨の中に立ち上っていた。  沼袋という地名からも知れるように、このあたりも沼の多い所だった。近年その沼を埋めて田にしたてていたが、腰を没する深田であり、二、三日も雨が降りつづくと、たちまち一面の沼となった。今も濃い夕もやの中に、広い水面が白くひろがっているのがのぞまれた。盛土をしてやや高くなった道の両側は田とも沼とも知れぬ、一面の浮草を浮かべた水面が、かなり水位を高めている。土橋の下には濁流が渦まいていた。その橋にも水面にも雑木林にも雨は降りそそいでいた。大きな白い鳥が雑木林から舞い立って遠い水面へ向ってゆっくりと旋回していった。  一次の家はすぐわかった。半農半商というかまえで、土間には幾つかのかますや木箱などが積まれ、粗末なざるやかご。ちょっとした|鍛《か》|冶《じ》もやるとみえてすみの方には|金《かな》|床《とこ》にふいごなども置かれていた。  片側だけ開いた油障子の奥の暗がりに、小さな灯が動いていた。たすくはかぶっていた|笠《かさ》をとると一歩、店の中へ入った。 「ごめんよ」  奥で人の気配が動いた。 「ごめんよ」 「なんだえ」  灯が大きくゆらぐと、一人の男が土間に近く体をあらわした。 「一次さん、ですかえ?」 「誰だえ?」  たすくは声をひそめた。 「おれはある筋のだんなの下ではたらいている目明しの|倉《くら》|吉《きち》ってもんだが、信用してくれていい。おもてにいるのは、おれの代人の大六ってやつだ。ちょっとおめえさんにたずねてえことがあって四谷からやってきた。ま、この日暮れがた、えれえ迷惑なこたあ重々、しょうちの上でひとつ聞いてやってくんねえ」 「おいら、一次だが、するとなんですかえ、おいらに何か知らねえがお役目の上でのたずねごとがおあんなさると」  たすくはうなずいた。 「そのとおりだ。一次さん」 「それじゃ、こうっと、そうだ。その箱にかけたらいい。代人さんにも入ってもらった方がいいんじゃねえか。この雨だ」 「それじゃ、そうさせてもらおうかねえ。おう、大六、|入《へえ》れや。かけさせてもらえ」  大六も入ってきてこれは入口近くの木箱に腰をおろした。この家の外を見張れる位置だ。 「で、そのご用というのは?」 「さっそくだが、一次さん。おめえさん、稲葉佐渡守さんの邸に魚や貝を入れていなすったそうな」 「ああ」 「その稲葉佐渡守さんの邸の使用人たちがみな、いっせいにひまをとったか、お払い箱になったか今じゃ用人さんだけになっちまった。これは妙だ。そのわけを知りてえのだが」  みるみる一次の呼吸が不規則に早くなった。目に見えない青白い緊張が火花のように一次の体から発散して、暗く湿った土間をいっぱいにみたした。 「さあ、そ、それはおいらにはなんとも」  一次は熱いものにでもさわったように顔の前で両手をふった。 「倉吉さん、とかいったねえ。ご用の筋だか何だか、おめえさん、めっそうもねえよ。なんで旗本の大身のとのさまのお邸のことがおいらたちにわかるものかよ!」  たすくはゆっくり首をふった。 「いや、一次さん、おめえさん、きっとそう言うにちげえねえと、この大六とも途中、話しながら来たのよ。来たっちゃ、おめえ、四谷からだよ。この雨ん中をよ。たのむからいい話を聞かせてくれろ。え、一次さん」  たすくは大六をふりかえった。 「なあ」 「そうともよ。倉吉親分だって目星もねえものをはるばると来なすったわけでもねえんだ」  一次は体をふるわせて低くさけんだ。 「知らねえってば! 知らねえものをいってえ何が話せるんだ。|帰《けえ》ってくれ、さ、帰ってくれれ!」  一次はわくわくとあごを鳴らした。 「一次さん。おめえさん、ふるえていんなさるねえ。そんなに腹を立てなすったのかい? それとも何かおっかねえことでもあんなさるのかい?」  大六がへびのように一次を見すえた。 「一次さん、おめえさん、おかみさんは?」 「女房は死んだよ」 「そうか。もうだいぶたつのかね?」 「おととし」 「奥には誰か?」 「いや、おいらだけだ」 「な、おめえさんがしゃべったなんて決して言いやしねえ。それでも安心ならねえなら、お上の力でどこでもいい、おめえさんのここなら安全という場所までこっそり送り届けてもやろう」 「やくたいもねえ!」  大六がふいにかま首をもたげた。 「一次さんよ。おめえさん。けっこう景気よく|店《たな》を張っていんなさった。それがなんでこんな草深え所で、そう言っちゃなんだが、こう、しがねえ|田舎《いなか》|店《みせ》を張っていなさるのか、おれにゃどうもげせねえ。ちょっとしらべさせてもらったが別に商いで失敗があったようすもねえ。あれだけの店をすてて|逃《ふ》けるにゃ、一次さん、これあよほどの事があったと、にらむが、そのへんのことはどうだえ?」  一次は立ち上っては坐り、坐ったかと思えば立ち上った。はげしい動揺が一次を完全にとりこにしていた。 「知るものか!」 「なあ、ここへ来たくて移ってきたのかえ? この土地がおめえさんの商売に向いているとでも思ったのかえ?」 「もう|帰《けえ》ってくれ!」 「|人《にん》|別《べつ》、移すだけでもてえへんだったろう?」  一次は|執《しつ》|拗《よう》に追い迫る猟犬に、追いつめられるけもののように総毛立った。 「おめえさんがた、どうあってもおれをしばってゆこうと言うわけだな」 「そんなふうにとられちゃ、せっかくの好意もむだになっちまうぜ。おれたちはおめえさんを助けてやろうと思っているのだ」 「助ける!」 「そうよ。考えてもみねえな。おめえさん、そうして逃げかくれしていてしめえまで逃げ|終《おお》せるつもりかえ。いやさ、逃げ終せると思っているのかえ?」  一次はその言葉に足もとをつかれたように急に身を固くした。それをのがさずに大六が立ち上って一次のかたわらに腰をおろして顔を寄せた。 「なあ、一次さん。倉吉親分は格別の筋から特別のご用をうけたまわっていなさる。お旗本のお家の中のことなど、町方の者が扱うのがおかしいと思いなさるだろうが、そこのところが格別の筋のご用のなみでねえしょうこ[#「しょうこ」に傍点]よ。一次さん。これは実はとんでもねえ捕物とかかわりがあることなのだ。わかるかえ、お上に弓を引くやつらとおめえさんがつながりがあると、八丁堀の旦那方やお上の係役所は見ていなさるのだ」  一次はほおを引きつらせた。 「ち、ちがう! そ、そんな謀反みてえなこととなにもつながりはねえ」 「そうだろうともさ! だからそれをはっきり申し開きをしねえと、おめえさんの立場はだんだん悪くなる」 「そうかなあ」 「すこうしわかってきたようだな」  雨が強くなってきた。風さえ加わって油障子を打つ雨の音が波の音のように高くなったり低くなったりした。雨風の音が低くなると遠くで鳴く|蛙《かえる》の声がいやにはっきりと聞えてきた。大六が誰に聞かせるでもない声音で言った。 「稲葉佐渡守の奥方ふくはもう十七年も前に駿府で死んでいる。その後、稲葉佐渡守の奥方、ふくと名乗る女が柳営に入って春日局となった。稲葉佐渡は隠居同然の身となり、今ではほとんど忘れられた存在となっている。その稲葉佐渡は最近、すべての使用人を解雇した。そして、稲葉佐渡自身も暗殺された。邸に出入りしていた商人たちも多く町を去り、その行方は不明である」  一次が引きつった声でなにかさけび、大六のかたわらから体を離した。 「お、おめえたちは目、目明しじゃねえな!」  大六が静かにそれをさえぎった。 「そんなことは口にしねえ方がいい」  大六が、ふっ、と笑いを呑んだ。一次はすくみ上った。 「お、おいらの知っていることはこれだけだ。あのお邸に出入りしていた|角《すみ》屋さんも、|上総《かずさ》屋さんも言っていたが、あの家にゃ、ときどき妙なことがあった」 「どんな?」 「おおぜいのお客があるとみえて、魚でも野菜でもたくさんお買上げになる日があるんだ。だいたい大身のおさむれえの家じゃ、ご家族、ご家来衆ややとい人の数によって毎日お納めする品数はきまっているんだ。とくにご注文のあった品物のほかは月ぎめのように、先ず変えることはねえもんだ。それが稲葉佐渡守さんのお邸じゃ買うときはどかっと、買わねえときは一つも買わねえ。だからおいらたちはかげでそう言ったもんよ、買わねえときはいってえ何食っているんだろうって」  一次は言ってしまってから、たすくと大六の顔をちらっとうかがった。いったん口に出すと、こんな|辺《へん》|鄙《ぴ》な所へかくれひそんでいなければならない怒りや|憤《ふん》|懣《まん》がせきを切ったように流れ出た。 「それだけじゃねえんだ。そのお客が来たのを見た者は誰もいねえんだ。そりゃあのあたりのことだ。今日は|祥雲寺《しょううんじ》さん、あの土地でいちばんのお寺さんよ。今日は祥雲寺さんで誰それさまの法要があって何人ぐらい人が集ったの、|有川山城守《ありかわやましろのかみ》さんのお邸にお客さんが何人あるの、すぐに話になってひろまっちまうのよ。とくに|商《あき》|人《んど》は敏感だなあ。それが稲葉佐渡守さんのお邸へくるお客は誰も見た者がいねえ。おいらも|鯛《たい》のお|頭《かしら》つきの飛切り上等を一度に十五枚も納めたことがあるぜ。一枚は稲葉佐渡守さんの分としても十四枚はお客の分だぜ。あんなものはご家来衆ややとい人の食うものじゃねえ」 「つづけろ」 「お客が十四人。だがそのお客がたが来たのは誰も見ていねえんだ。知っていなさると思うが、あのお邸の表ご門は永いこと開けたことはねえし、二つある通用門もそうだ。これは敷石やとびらの|蝶番《ちょうつがい》のくされぐあいを見てもわからあな。あのお邸の出入口はお台所口しかねえんだ。お台所口というのは商人の目の光っているところよ。ふしぎだねえ、どこから出入りしているんだろう」  一次はこれまで胸につかえていたもののすべてを吐き出すように早口にまくし立てた。 「いつごろからだね?」  たすくがたずねた。 「いつごろからだろうかなあ? おいらがあの土地に店を出して七年になるが、それからすぐそんなうわさを人がしはじめたようだった」 「まだあるか」 「うん、あれも話しとくか」 「なんだ」 「呉服ものの|伊《い》|勢《せ》屋さんが言っていたが、時々、あつらえの衣装をまとめて納めることがあるんだとよ。おさむらいのつくり、七人分とか、町人仕立て、十人分とか。なんだろうね、これ?」 「さあ。わからねえな。それで一次さんよ、あのお邸じゃごみの始末はどうしているんだえ?」 「ごみの始末てえと?」 「台所のごみや古道具はどうしているのかな」 「さあな、庭に穴でも掘って焼いたり、埋めたりしているんだろうな。ふつうお道具の|類《たぐい》は古道具屋へお払いになるんだが、あのお邸じゃそれもねえなあ」  たすくはひざを進めた。 「それで一次さん。この土地へ移ってきたわけを聞かせてもらおうか」 「そのことよ。ええと。十日ほど前の朝、まだ暗いうちに稲葉佐渡守さんのご用人という年とったおさむらいが店へ見えて、この土地を離れてくれねえか、という急なお話だ。なんでもお邸のうちにごたごたがあって、それがひいては春日局さまのおつとめにも累をおよぼしかねない、ということなんだ。お邸に出入りの商人衆もお役人にきついおしらべを受けることになるという。さっぱりわけがわからないが立退きについては二百両ずつ出すという。他の土地へ移って以後、お邸に出入りしていたということを絶対に他言しないという約束で二百両、別にしたく金を五十両。それであの土地を二年間だけ離れていてくれ、という。おれたちにゃ目のくらむような金だ。それだけあればこれまでの店も、信用も投げすてて他の土地へ移ってもたっぷりおつりがくらあ。角屋は品川へんへ、伊勢屋は小網町へ。上総屋は入りむこだけに相当|悶着《もんちゃく》があったようだが、お上ににらまれるとあっちゃあ意地を張ってあの土地で頑張っていてもしようがねえ、これも一時、房総の方へ移ることになった。他にも二、三軒あったぜ」 「この土地は自分でさがしたのか」 「いや。ここへ移るようにと言われてな。店も商いの品物もちゃんと用意してあったぜ」  一次はあごで土間に置かれたかますや木箱を指した。 「角屋も伊勢屋も指示された土地へ移ったのだろうな。おそらく上総屋もな」  たすくは立ち上って首すじから胸もとの汗をぬぐった。 「一次さん。おまえさん。どこかほかの土地へ移った方がいいような気がするがどうだえ?」 「また移るのか?」 「この土地は稲葉佐渡守の手の者が見つけてくれたのだろう。おまえさんはやつらにたえず見張られていると考えていい。その土地で、もし秘密をばらしたことがわかってみろ。これだ」  たすくは指をそろえた手を水平にのどに当てて見せた。 「や、やめてくれ! 冗談じゃねえや。だからおいらこんなことを言うのはいやだったんだ!」  大六が引きとった。 「だからおれたちが助けてやろうと言っているのだ。おまえさんがしゃべっても、しゃべらなくても、なりゆきがこうなってはいずれは消される。今のうちにここを立ち退くことだ。いいな」 「おれたちが安全な所まで送ってやるよ」  一次はしだいに落着きを失ってきた。 「な、そ、その、なんだ、おいらが罪におとされるようなことはないのかね。だいじょうぶかね?」 「それはたしかに受け合う。おい、大六、ちょっと耳を貸せ」  たすくと大六は一次から離れて声をひそめた。 「この村をどう思う?」 「やつらと関係があると思う。上総屋も角屋もやつらのふところで飼われているのだ。一次は見張られているでしょう。おそらくわれわれも」 「一次を連れ出すのは相当むずかしいぞ」 「なあに、出てきてみろってんだ」  大六は吐きすてるように言った。 「すぐしたくをさせよう」  大六は油障子のかげから雨の闇に耳をすませた。もう蛙の声も聞えなかった。     十九 |紅《ぐ》 |蓮《れん》 「六波羅蜜さま。わしはちょっと村をひとまわりしてまいります」 「くるときよりも水はひろがったろう。もはや豊島へぬける道は方々で断ち切られて自由に逃げ道をえらぶことはできまい。南へくだれば一里ほどで|甲州《こうしゅう》街道に出るはず。それより東へ向えば|内藤新宿《ないとうしんじゅく》まで夜明けには行きつく。大六、この村から南へ出る道をさがせ」 「かしこまりました」 「おぬしがもどるまで、おれは一次とともにこの家にとどまっている。危急の場合は南へのがれるからそのつもりでいてくれ」  大六は影のように雨の中へ消えていった。 「一次、たいせつなものだけしっかりと身につけておけ。それから何か武器を持つといいな」  一次は大きな木製の弁当箱とわずかばかりの手回りの品を|背負《しょい》袋に入れて背からわきの下へ回して結んだ。その弁当箱に、二百五十両が入っているのだろう。ずっしりと重そうだった。それから一次は戸棚から布につつんだ二本のほうちょうを取り出すと布につつんだままの一本をふところに入れ、細身の出刃ぼうちょうをかたわらに置いた。 「誰に気がねなくこれが使いてえよ。おいらは魚屋なんだからなあ」  一次は太い息を吐いた。 「灯を消せ」  灯血の灯が消えると屋内は真の闇になった。 「土間のすみにでもかくれていろ。動くなよ。大六がもどってきたらすぐ出発する。おれが走れといったらまっすぐ南へ走るんだ。いいな」  闇の中で一次が妙な声でこたえた。生きた心地もないらしい。 「だ、だいじょうぶですかい? おいら、こ、こんなこと生れてはじめてなもんだから」 「ああ、性根をしっかりすえておれの言うとおりにしていれば必ず助かる」  助かる、という言葉がかえって一次の恐怖心をあおり立てたらしい。とつぜん一次はするどくさけぶと障子の外の闇に向って走り出ようとした。 「落着け」  たすくはとっさに足払いで一次を土間に転倒させ、引き起しておいて両ほおを張った。憑きものが落ちたように一次は静かになり、かますのかげに打ち倒れた。  大六が出ていってからかなりの時間がたった。雨は相かわらず降りつづいている。  ——ん?  たすくは体を起した。雨の音の中に足音が聞えたような気がした。立っていって障子の破れから外をのぞいたが、はげしい雨の音のほかには一メートル先も見えない闇だった。耳のせいかも知れない。そう思ってふたたび木箱に腰をおろした。  そのとき、どこかで女の声が聞えた。たすくはその場を動かず、全身の神経を耳に集めた。雨はわらぶきの屋根をしとどに濡らし、羽目板を打ちたたいて降りしぶいていた。家の裏手でかすかな物音がした。ここへ入るとき目にした家の裏は人ひとりが通れるほどの幅を残して、そのむこうは浮草を一面に浮かべた沼がひろがっていた。その沼の岸べを通って裏へ回りこむか、あるいは田舟でも使ってじかに家の裏へ上るかしないかぎり、この家の後へ入ることはできない。しかしこの雨の暗闇の中でそれもかなり難しいことだ。  また聞えた。金具の触れあうような澄んだひびきだった。たすくは一次の耳に口を寄せた。 「裏の出口は戸じまりはしてあるか?」  一次の声はひくひくとおびえた。よく聞きとれない声でしんばり棒がかってあると言った。それがはずされるまでなお少しのひまがあるだろう。おそらく裏と表の両方からいっきに突入してくるだろう。しかしこの暗闇の中では必ずそこに遅速が生ずるはずだった。その速い方をまず倒し、その方向に逃げるのが待ち受ける者の常識だった。あるいは速い方の機先を制して遅い方に切りかかるかだ。  ふたたび雨の音の中で女のするどくさけぶ声が聞えた。こんどははっきりたすくの耳にとどいた。 「悲鳴のようだが?」  たすくは足音をしのばせて障子の破れ目に顔を寄せた。  暗い雨の奥が幅広く真赤ににじんでいた。みるみる高くひろがってゆく。  その方角から火のはぜる音やさけび声、物の打ち合う音などが一つになって急に高く聞えてきた。 「火事だ!」  かなり大きな家が燃えているらしい。たすくはこの状況に当惑した。火は大六がつけたものかもしれなかった。もしそうだとすると大六の身に危急が迫っているのかもしれなかった。大六のしわざでないとすれば脱出にはまたとない機会だった。だが南への道は完全に火で断たれたことになる。火光を負って北へ逃れることははなはだしく危険だった。  そのとき、家の前の道路を地ひびきたてて数頭の馬が走りぬけた。金具の触れあう音がまるで鎖でも飛んでゆくように聞えた。つづいてまた一頭、ひと呼吸ほどおいてこんどはかなりの数の|馬《ば》|蹄《てい》が路上にたまった雨水をけちらして通過した。  たすくにも判断をゆるさないような事態が生じているらしかった。  たすくは障子をおし開いて外へ出た。強い雨足が体の前面に吹きつけてきた。火の手は南の空一帯にひろがり、雨の中を火の粉が無数の金粉のように渦巻いて飛んでいる。  ——これは?  たすくの|眉《まゆ》が迫った。燃える夜空の下からどっと|鯨《と》|波《き》の声が聞えてきた。それとともに新しい絶叫がわき上り、あとは汐騒のような騒音が強い雨音を圧してひろがった。刀と刀の打ち合う歯の浮くような金属音と、切られた者らしい悲鳴がはっきりと聞えてきた。  たすくは雨の中を走り出した。頭上で短く空気が鳴った。二度、道とまちがえて沼田に落ちこんだ。一度はかなり深く、はまりこんだ下半身を引きぬくのに骨をおった。  村へ走りこむと、そこから見える数軒の家はことごとくほのおを吹き出していた。水たまりの中に幾つも人の形をしたものが横たわっている。流れ出た血のためか、燃えるほのおを映してか、水たまりはどれも朱を流したように染っていた。  血まみれになっている男や女、老人や若者の死体をとびこえてさらに進んだ。村は寝込みをおそわれたらしく、襲撃者の意のままにじゅうりんされたらしい。  立木の幹に深く矢が突き刺さっている。たすくはそれをぬきとって火光にかざした。茶褐色の濃淡の縞を配した鷹の羽に黒うるしをかけた軸の中程に金泥で小さな紋章を浮かせた凝った造りの矢だった。その紋章に目を当てたたすくは思わず息を呑んだ。それを手に、さらに進むと体に二、三本の矢を突立てて倒れている男があった。目を寄せて見ると、これも同じ矢だった。たすくは下帯までずぶ濡れの体に、熱い汗が噴き出してくるのを感じた。たすくは手の矢を、帯のうしろにさした。  襲撃者は村の一軒一軒に火を放ち、ほのおと煙に追われて戸外へまろび出てくる人々をつぎつぎと射倒し、さらに槍や刀の|餌《え》|食《じき》にしたものと思われた。  たすくは燃える村をひと回りしたが、生きている人間の姿はどこにもなかった。  ——おそってきた者たちはいったいどこへかくれてしまったのだろう?  村の戸数十七戸。一戸あたりの家族を平均六人としても約百人。実際にはそれよりもやや多いであろう。それだけの人数を短時間のうちにほうむるには、少なくとも三十人の|戦《いくさ》上手が必要であろう。たすくが火の手や悲鳴を聞いてから村にかけつけるまでほんのわずかな時間しかたっていない。その短い時間の間にいったいどこへ消え失せたのだろうか。村のむこう端に達すると、雨の中を遠い半鐘の音がつたわってきた。隣接する|井《い》|荻《おぎ》や|高《こう》|円《えん》|寺《じ》寺領の村々がこの火に気づいたらしい。やがて人々がかけつけてくるだろう。そうなってはいよいよ脱出が難しくなる。たすくはふたたび燃える村を横切って暗い雨の中を走った。 「一次さん、いるか!」 「へい、いってえ、どうしたわけなんで」  たすくの声に一次は生きかえったように物かげから体を起した。 「村は焼かれて連中はあらかた殺されたようだ。今のうちに逃げ出そう」 「みの[#「みの」に傍点]が裏にありやす」 「それはいい」  一次は土間につづく奥の部屋を横切って台所へ走った。  ふいに一次のさけび声ともう一つするどい悲鳴、つづいて重い物が羽目板にぶつかるひびきが一度におこった。みの[#「みの」に傍点]をふり回しているらしいばさばさという音が大きな鳥でもひそんでいたのかと思わせるようだった。 「だんな! だ、だんな!」  たすくが灯皿に灯を入れた。それをてのひらでかこって台所をのぞいた。  台所の板戸に背をつけて、一人の女が目と歯をむき出していた。着物も髪もひどく乱れて、千切れたみの[#「みの」に傍点]のわらくずがあちこちにひっかかっている。恐怖で夢中になった一次が手にしたみの[#「みの」に傍点]で打ちすえたものらしい。その一次は台所の板敷に尻を落してこれも口を大きく開いたまま、まだあごをがくがくとふるわせていた。 「しっかりしろ!」  たすくは一次の着物のえりをつかんで引き起した。とたんに腰とあごが入ってふたたび一次はみの[#「みの」に傍点]をふり回して女に飛びかかった。 「こ、このやろう!」 「まてまて!」  たすくは一次を引きもどした。 「女! ここへしのびこんだわけは?」  女ははげしい敵意を白い目に浮かべて、ぺっ! とつばを吐いた。 「村は焼かれて、住人たちの多くは死んだようだ。おまえも村の者か?」  女は耳のないような顔でたすくと一次にけもののような視線を向けつづけた。 「女! おれは実は江戸町奉行所のお係りの|陰《かげ》の者だ。おまえに危害を加えるものではない。安心してよい。わかるな」  女はおしだまったままだった。 「このままではいずれおまえも殺される。この男といっしょに今夜のうちに安全な所へ移してやる」 「だ、だんな! この女はおれの命をねらってやってきたのとちがいますかえ?」  一次が上ずった声を上げた。 「そうとも思えない。もしそうならおれが村へ行っている間にやれたはずだ。それにおまえさんにみの[#「みの」に傍点]で打たれてすくんじまったじゃないか。とてもおまえさんの命をねらってやってきたとは思えないよ」 「さ、さようですか?」 「女、おまえは村が焼かれる前に、ぬけ出してここにかくれていたな。なぜだ? どうしておまえに村がおそわれるということがわかった? 誰かがおしえてくれたのか?」  女はおしだまったままだった。 「それはいい、あとで聞こう。とにかく早くここをぬけ出さないとえらいことになる」  たすくは女に近づいて女のうでに触れた。女はするどくさけんで身を引いた。 「女、おれといっしょに来るんだ。ここにとどまっているかぎり、おまえの命はないぞ」  その言葉の終らぬうちに、女は身をひるがえして裏口の板戸をおし開いて走り出ようとした。それよりも早くたすくが動いた。女ががくりと崩れ落ちるのを支えてたすくはかかえ上げた。女は子供のように軽かった。 「一次さん、おくれないようについて来なせえ」  たすくは水辺について走った。村の火はようやく下火になり、暗い紅色が周囲の闇におしせばめられていた。その火を背にするように道をとって走った。途中、北の方からかけつけてくる人の群れを二度、やり過した。|江《え》|古《ご》|田《た》か|中《なか》|村《むら》へんの者であろう。木かげに身をひそめたたすくたちの目の前を、幾つものちょうちんの灯がゆれながら走り過ぎていった。  |妙正寺《みょうしょうじ》川に沿って東へ向い|落《おち》|合《あい》の谷に入った。|目《め》|白《じろ》の森から|戸《と》|山《やま》の原をへて|渋《しぶ》|谷《や》、|青《あお》|山《やま》の山々につらなる丘陵が妙正寺川によって断ち切られたせまいはざまであった。——現在ではこの丘陵の端を国鉄|山手《やまのて》線が南北にゆるい弧を描いて走り、妙正寺川の谷を、|西《せい》|武《ぶ》鉄道新宿線が川に沿って西へ向っている。——  このあたりまでくるとようやくたすくの緊張もとけた。東の空はしだいに明るい色を加えてくる。雨もしだいに小降りになって一次の顔にも生気がよみがえってきた。  たすくは戸山の調馬番所の役人をたたき起して身分を名乗り、町かごを用意させ、女をおしこむと四谷鷹匠町の目明し、耕助の家へいそがせた。     二十 おれん 「さ、これを飲んで力をつけなよ」  耕助の女房のおちかが、いっぱいによそった甘酒のわんを女の手に持たせた。 「おまえさん、名前はなんというんだえ?」  女はのどを鳴らして甘酒を飲み干した。 「もう一ぱい、どうだえ?」  女はほっと息を吐いてうなずいた。 「おまえさん、名はなんというのさ?」 「おれん」 「おれんちゃんかね。その汚れた着物をかえなくてはねえ。その前に行水、使いなよ。え?」  それまでだまって見ていたたすくが手を上げておちかを押しとどめた。 「ちょっと待ってくれ。その前にこの娘さんに聞きてえことがあるんだ」 「着がえさせてからにした方がいいんじゃないかねえ」 「おちか! だまってろい! ご用のすじだぞ」  耕助が鋭い口調で叱った。おちかは台所へ退却していった。 「おれんさん、といいなすったねえ。これはだいじなことだからようく心してこたえてくれ。ここにいるのはみんなおれと一つ心だから|心《しん》|配《ぺえ》はいらねえ」  おれんはおびえたようにわずかに身をひいた。 「なあに、気を楽にして聞いてくれや。おれんさん、おめえ、一次さんの家に、そう、おれはおめえがどこからか逃げてきてかくれていた、とにらんでいるんだが、図星じゃねえか?」  おれんははげしい動揺を顔に浮かべてたすくから目をそらせた。 「おれんさん」  おれんの背後から由紀がそっとうながした。 「あなたを助ける方法をみんなで考えるの」  おれんは後から小突かれたようにふりかえった。 「助ける?」 「そうなの。そしてね、おれんさん。それはたくさんの人を助けることになるかもしれないのよ。さ、だから言って」  おれんはたすくと由紀の顔を等分に見つめ、それから耕助に視線を移した。耕助もふだん見せたことのない笑顔など作ってうなずいた。 「なあ、おれんさん。ちがうかい?」  おれんはようやく重い口を開いた。 「わたい、あの村へつれてゆかれたんだよ」 「ふうん。それはいつのことだえ?」 「半月ぐれえ前だ」 「それまではどこにいたのよ」 「わたい、|宇《う》|都《つの》|宮《みや》の在で子守していたんだ」 「連れていったというと、かどわかしかね?」 「かどわかしというわけでもねえ。わたいのやっかいになっていた家に金、払ったと言っていた」 「連れていったやつがか?」 「うん。男だったよ。二人いたが」 「それで?」 「あの村の|平《へい》|作《さく》という家にあずけられた。この村から絶対に出ちゃならねえと言われた。でも、わたい、なんだかとてもこわくて、逃げ出そうと思っていたんだ」 「なあ、おれんさん。ここんとこがだいじなところだが、おまえ、どうしてあの家に逃げこんだんだい?」  おれんは耕助の後にひかえている一次に首をのばした。 「村の世話役のとっつぁんが話しているのを耳にしたんだ。それで誰かまた連れてこられたなって思ったんだ」 「村の連中は百姓だろう?」 「どうかなあ。畑や田んぼに出てゆくようすはなかったようだ」 「ゆんべのようすはどうだった?」  話しているうちに、しだいに心がほぐれてきたものとみえ、おれんは進んで説明するようになった。 「それがな、まだ明るいうちから、戸じまりなどしちまってさ。世話役の家へ集っていたようだった。みんな|心《しん》|配《ぺえ》そうな顔をしてよ。わたい、そのすきにぬけ出してあのあんさんの家の裏にかくれこんでいたのさ」 「ほかに何かかわったことはなかったか?」 「畑仕事もしねえで、何やっていたのかな! そうだ! それからあの村には子供が一人もいねえんだ。おとなばっかりよ。あれもへんだったなあ。あとは……うん、ときどき、どこからかえらい人がくるようだった」 「えらい人?」 「とのさまとか言っていたよ」 「あの村はおめえも知っているようにゆんべぺろりと焼けちまった。焼けたわけは聞いても知らねえだろうなあ」 「うん」  おれんはそれを知らなかったことが自分の責任であるかのように首をたれた。 「ま、それはいい。それじゃおれんさん、むこうで汚れを落して休みな。なんでも食いてえものがあったらここの|姐《あね》さんにそう言って出してもらいな」  耕助が大声でおちかを呼んだ。  一次には耕助の子分を二人、護衛につけて町の銭湯へ出してやった。  二人を退座させてから三人はひたいを集めた。 「由紀、耕助、これまでのところであきらかになったところが三つある。すなわち……一つは春日局、柳生一族の線、これは柳生の剣士を動員して行動していると思われる。本来、柳生も春日局も、柳営内部での動きにはかなり自由なところがあるゆえ、かなり思いきったことを画策し、実行するだけの力を持っている。おそるべき勢力だ。今一つこれも極めて幻妙、|摩《ま》|訶《か》不思議な力を持つ|輩《やから》だ。かれらの意図はその正体と同様に全く不明だ。首領の何者なるやも知れず、また人数のほどもあきらかでない。柳生とは全く別個の集団であると思われるうえに、柳生一味とは|相《あい》|容《い》れないものと推測される充分な理由がある」 「その理由とはどのような?」  由紀がたずねた。 「それはあとでのべよう」  たすくは言葉をついだ。  ——このあとの輩だが、かれらは何物かをさがし求めているらしい。〈さざれ石〉なる物をおれが持っていると勘違いしている。  そこでたすくはこれまで耕助にも由紀にも話していなかったいつかの夜の奇妙な襲撃について説明した。 「警戒すべきはこの敵だ。かれらについておれは何一つ知らぬ。しかしかれらはおれのことも、柳生の動きについても逐一、承知しているふしがある。かれらの求める〈さざれ石〉なる物が、どのようなものであるのか想像することもかなわぬが、これはよほど重大な内容を持ったものにちがいない。最初、わかっていることは三つ、と言ったが、最後の一つは、かれらの能力のおそるべきことを示しているのだ」  由紀も耕助も緊張した面もちでたすくの言葉に耳をかたむけた。 「沼袋のあの村は柳生のかくれ|家《が》、あるいはそれに類するものではなかったかとおれは思う。稲葉佐渡守の邸に出入りしていた魚屋の一次をおしこめ同様にしておいたのも、かれらの秘密の匂いを一次がかぎつけていたためか、考えようによっては、また、それを何かに利用するつもりであったのだろう。他の出入りの商人たちも、すでに殺されているか、あるいは一次のように、かれらだけが知っている理由で、どこかにまだ生かされておろう。  あの村を襲ったのは、おれは〈さざれ石〉を求めおる連中のしわざであろうと確信している。かれらはそれをあるいは柳生がひそかに所持しているのではないか、とも思っているのであろう。あの瞬時にして村人たちをほうむった手ぎわといい、|退《ひ》きの早さといい、あれはたしかに〈さざれ石〉の一党よ。それにしてもどこへ消え去ったのか、おれがかけつけた時はまだ死体から流れ出る血は固まっていなかった。馬を使っていっきにおそったものなら、たとえあの雨の中でもひづめの音もしようし、跡もあろう。それにあの雨の中では馬も自由になるまい。あふれ水で道は断たれてもいるから騎馬隊の動きはことさらに不便だ。まことに妙だ」  耕助が口をはさんだ。 「すると、柳生、春日局の組は幕府に対する陰謀。その〈さざれ石〉の組はその柳生、春日局の組とも戦いながらそのえたいの知れぬ石をさがしている、と、こういうわけでござんすかえ?」  たすくはうでをこまねいた。 「どうもそれだけではないような気がするんだが。かれらの動きの裏にはなにか想像もつかないようなものがひそんでいるような気がする。それが何であるのか、今はおれ自身にもよくつかめていないのだが」  たすくの眼が暗く|翳《かげ》った。 「殺された長吉が円二郎とかいう|占師《うらないし》に見せられたという江戸討入りの幻は、あれはどうなんで?」  耕助があごをつまんでいた手をひざへもどして体をのり出した。 「それよ。たしかめねばならぬことの一つがそれ。おれと由紀でやろう。今一つは、あのおれんという女の身もとだ。耕助、そいつをたのむ」 「へい」 「村松立場にいる藤助というおれの諜者を知っているな?」 「へい」 「あるいは殺されているかもしれない。やつの安否をたしかめ、もし生きているならば使ってくれ。それから保谷大六というおれの手の者に会ったら、そのまま江戸におれと伝えろ。わかったことがあったらおれかまたは直接、松平伊豆守さままで伝えてくれ。六波羅蜜たすくの手の者、といえばたとえ夜中でもお目どおりがかなうようになっている」 「へ、へい」 「おちかと綾乃、おれん、一次をどこか安全な所へかくまうとよいな。このままではいずれここも危険になる」 「さ、さようでございますか!」 「板橋の宿より一里半、|赤《あか》|羽《ばね》郷に|岩《いわ》|淵《ぶち》という部落がある。大川の上手になるが。その村にもと|青《せい》|岸《がん》|寺《じ》と呼ばれた廃寺がある。源平の終りごろの建立になるとかいうが、ひどい荒れようだ。そこがよい」 「岩淵の青岸寺でございますな」  なぜそんな遠方のしかもひどい荒寺だというそこまで行かなければならないのか、耕助には解しかねるようだったが、問いかえすことはひかえたようだった。 「なるべく早い方がいいぞ」 「かしこまりました」 「いっさいが終ったらおまえもそこへ行け。だがその場所は誰にも言うな」 「へい」 「おれんについてしらべた結果を、もし松平伊豆守さまにご報告申し上げる場合は、そのこともあわせ申し上げたほうがよい」  と、いうことは、そのときにはもうおれはそこを守ってやることができぬようになっているからだ、と言ってたすくは笑った。  耕助の顔から血の気が引いた。なにか言いかけたが、そのまま視線を伏せた。どうせたずねたとて説明するようなたすくでもないし、また、自分の知らなければならないことではないような気がしたからだった。 「それじゃ、由紀、したくしろ」 「はい」  由紀もだまって立ち上った。矢来下の円二郎占いの家へ行くのであろうことはわかっていたが、たすくの口調ではどうやらそこはおそるべき死の|陥《かん》|穽《せい》が待ちかまえているものと思われた。しかしふしぎに由紀には恐怖はわかなかった。たすくといっしょならば、いつどこで死んでもよい覚悟だけはすでにできていた。由紀はいつもよりいくらかきつい顔で隣室で帯をしめなおした。     二十一 円二郎占い  |音《おと》|羽《わ》から内藤新宿へぬける往還が小石川|伝《でん》|通《ずう》|院《いん》からくだってくる|四曲《よまがり》|坂《ざか》|切《きり》|通《どお》しとぶつかるあたりが矢来下。このふきんは江戸城外郭を形作る深い森や木立が多かった。もともと西からの騎馬隊の突撃をさけるために、手を入れずに残されたものだが、今ではその大部分は寺社領や|落《おち》|合《あい》、|大《おお》|窪《くぼ》、遠くは池袋へんの百姓、植木職の入る所となっていた。思いがけぬ所に梅園や植木畑があり、武家屋敷や大商人からの注文も絶えないとみえ、南に向いた|崖《がけ》を背負って休み茶屋などが店を開いていたりなどした。  ここもそうした茶店の一つで、南に向ってつつじの段々畑がゆるい傾斜をひろげていた。その傾斜の底を妙正寺川がへびのようにうねっている。水かさがましているとみえ、両岸が白く泡をかんでいる。対岸は|鶴《つる》|巻《まき》へんの高台だった。  茶店の老爺がはこんできたしぶい茶をひと息で飲み干すと、たすくは強い西日に目を細めた。 「な、とっさん。このあたりに円二郎という占師がいるそうだが、どこだえ?」  老爺はもどりかけた足を止めた。 「なんだか、とてもよく見るってじゃねえか。おれもひとつ、やってもらおうと思ってな」  たすくは首に巻いた手ぬぐいをほどいて首すじから胸前をぬぐった。 「円二郎という名前は知らないが、この先になんだかとてもよく当るという占師がいるということは聞いているなあ」  老爺は眉を寄せてわざとらしく奥歯を吸った。なぜか、円二郎なる占師はこの老爺の心底にあまりよい印象を与えていないのではないか、とたすくは思った。 「おれは|指《さし》|物《もの》|師《し》だけどよ。どうもこのごろ、仕事のことやなにかが裏目、裏目と出てしようがねえんだ。いっそもう今年は自分で仕事はとらねえで下職をやろうかとさえ思っているくれえよ。だけど、こいつが……」  たすくはかたわらの由紀をあごでしゃくった。 「矢来にいい占いがいるからみてもらってからにしな、と言うもんだから出てきたわけなのよ」  老爺は耳のないような顔をして聞いていたが、 「まあ、気のすむことなら行ってみなよ。だがなあ、いろいろと評判もあるようだから、気をつけな」 「なんでえ、とっさん。奥歯にもののはさまったような言いかたじゃねえか。なにかえ、その円二郎占いはよくねえとでも?」  老爺は首をふった。 「いや、占いにはもともといいもわるいもねえ。そんなことじゃなくてよ。でもせっかく遠くから来なすって、どこからだえ?」 「神田の|見《み》|附《つけ》へんだ」 「そんな遠くから来た人に悪い話聞かせてよしねえと言うのも気がとがめらあな」  たすくは気を悪くした顔をした。 「おや、そうけえ。江戸もこのへんじゃなんでも臭えものにゃふたってわけかえ。ま、いいってことよ。そういやあ|肥《こえ》臭え、ああ臭えや。おい、おゆき、行こうぜ」  たすくは茶代をほうり出すと立ち上った。由紀もつづいて立ち上ると、茶店の老爺は小さく舌打ちして向きなおった。 「まちな。この土地もんが土地の評判|悪《わり》いものをかくし立てしようとしているのだととられちゃ、こいつは|心《しん》|外《げえ》だぜ。な、|若《わけ》え|衆《し》」 「ふん、なに言うんだか! じじい」 「円二郎とかいう占いはこの先の|幸《こう》|吉《きち》という植木屋の離れにいるぜ。行くがいいや。だがその占いはこの土地のもんじゃねえぜ。なんでおいらがかくし立てすることなどあるもんか! 幸吉植木屋も家だけ残して世田谷在に引っ込んでいる。そのあとにはいったやつらもこの土地のもんじゃねえよ。若い|衆《し》、そこじゃなんだかたぶらかしがあるとよ。人は言ってるぜ。気をつけろとはそこのことよ!」 「たぶらかし?」 「とにかく用心にこしたこたあねえ」 「たぶらかしって、どんな?」 「くわしくは知らねえけれども、なんだかありもしねえことが、目の前にあらわれてくるんだとよ。まるでほんとうのことみてえにな」  たすくは真顔になって感に絶えたように言う。 「へえ! そいつはえれえ|行者《ぎょうじゃ》さまだぜ。用心するなんておめえ、もってえねえじゃねえか」 「まあ、なにごとも信心だからな。行ってみるがいいや。だが混んでるぜ、ずいぶん遠くから占ってもらいにくるようだで」 「そうかい。ありがとうよ」  たすくは由紀をつれて茶店を出た。  言われたとおりに進むと、低い生垣を|回《めぐら》した広い植木畑が見えてきた。このあたりのこととて、いずれそれらは武家屋敷や豪商たちの邸宅の庭を飾る銘木であろうが、今は手入れもなされていないとみえ、枝はのび放題に葉をひろげ、地面は丈高い雑草におおわれていた。その植木畑の奥の竹やぶのかげに高大なわらぶき屋根が見えた。生垣に沿って回ってゆくと、二本の巨木を配しただけの簡単な門があり、そこからずっと奥まって大きなかぶき門が設けられていた。この屋根はいぜんは名のある郷士のものででもあったのだろう。植木屋はおそらくその子孫であろうか。  そのかぶき門までは道はすっかりふみ固められている。相当な数の人間が出入りしたのだろう。  たすくと由紀が入ってゆくと、町人風の男が門を出てくるところだった。たすくはその男に声をかけた。 「占師さんのおすまいはここでござんすかえ」  町人風の男は足を止めて小腰をかがめた。 「はい。見ておもらいなさるのか」 「へえ、うわさを聞いて神田の方からやってめえりやしたよ」 「それはけっこう、けっこう。今日はちょうど見てくださる日だから、いいとき来なすった。まだ何人か待っていなさるが早く行かれるといい」 「ありがとさんで」  たすくは男とわかれてかぶき門をくぐった。門を入ると、長くのばしたうちつけのひさしの下に受付けがあった。目の鋭い色の浅黒い|精《せい》|悍《かん》な目つきの男が小窓のむこうからのぞいた。たすくは来意を告げた。その男一人だと思ったら受付けの中からもう一人男があらわれてたすくたちをみちびいた。かぶき門から|主《おも》|屋《や》の玄関まで、長く踏石が敷いてある。たすくたちはその途中からそれて屋敷の側方へ案内されていった。そこに最近になって造作したと思われる木の香も新しい玄関があった。  案内がかわって待合室に通された。十畳ほどの部屋に七、八人の男や女がひっそりと順番を待っていた。暗い面もちで低い声で話し合っているのは同じ種類のなやみをいだいている者たちであろうか。  たすくと由紀はみなの後に、壁を背にして坐った。一人が、二、三十分ほどかかるようであった。隣に坐っている男にそれとなく聞いてみると、ふりの客やごく一般的な|失《う》せ|物《もの》や造作の方位に関することは円二郎の弟子の|孫《まご》|市《いち》|兵《べ》|衛《え》というのが受け持っているらしかった。円二郎はまだ四十歳を少し過ぎたかと思われる年齢で、|那《な》|智《ち》の行者あがりだという。上方でおおいに名を上げ、昨年江戸にやってきてしばらくの間、|牛《うし》|込《ごめ》の古寺を借りて占師の看板を張っていたということであった。  あくびをかみしめながら待つこと久しく、ようやくたすくが呼ばれたときはもう|陽《ひ》はすっかりななめになっていた。 「神田の|勢《せい》|二《じ》|郎《ろう》さん。どうぞ」  たすくは由紀をうながして立ち上った。 「神田の勢二郎でごぜえます。こいつは女房のおすてで」 「こちらへ」  五十歳を過ぎたと思われるつるのようにやせた男が奥へ案内した。長い廊下を右に左に曲って進んだ。厚い杉戸のしまっている一室の前で男はたすくをひかえさせた。 「神田の勢二郎と申す」  ひと呼吸あって室内からおもおもしい男の声がもれてきた。 「入ってよい」  案内の男が杉戸をおし開くと、一瞬、真紅の光が室内からほとばしり出て薄暗い廊下を赤々と照し出した。たすくはとっさに顔を伏せた。おそれいったそぶりで実は目がくらむのをふせぐ。 「お入りください」  案内の男がうながした。  たすくは由紀をかばうように背後にしたがえてひざでにじり寄った。杉の皮の燃える匂いが鼻を刺した。 「勢二郎とやら」  そっと顔を上げると、広さ二十畳ほどの板敷で、正面に高く祭壇を設け、しめなわを張りめぐらし、|榊《さかき》の枝が祭壇の奥を視線からさえぎるように飾られている。その祭壇の前に切られた大きな炉の中に、うず高く積み上げられた白木の小枝が、二メートルもあるほのおを吹き上げている。舞い上る煙や灰は、はるか頭上の屋根裏からのび下っている巨大な煙道に吸いこまれていた。その炉のこちら側に、円座を敷いて白衣の人影が背を見せている。 「勢二郎とやら」  それが孫市兵衛という弟子なのであろう。 「へ、へえ」 「うらなうすじは」  さびのきいたよく通る声だった。 「へい、よろしくおねがいいたします」 「うむ。して、どのようなことかな」 「へい。わっしゃあ、親代々の指物師でごぜえやすが、このところ妙にけちがつきやして、へえ。この春は納めた品物がまだ代金をいただかねえうちにだんなが亡くなり、つづいて残された方々は家をたたんで国元へおかえりになるとのことで因果をふくめられて品はおかえしになったし、また、出入りの下職は二人も病気で仕事はだめになる、またこのたびは|芸州《げいしゅう》さまの下屋敷のごふしんにお声がかかったかと思うと、なんでもお国おもての大水とかでごふしんおとりやめというありさまで、このままでは下職をかかえて今年の冬は越せねえ。いっそこのへんでわっしもくらがえして下職になっちまった方が気持ちもさっぱりすると思いやしてねえ。だが、親代々の指物師の看板も、わっしの代でおろしたとあっちゃ、おてんとうさまに顔向けもなんねえ。どうしたらよいかとこのへんのところそればっかりでさ。そこんところをひとつおねがいしてえんで」  たすくは床にひたいをこすりつけた。 「よしよし。見て進ぜよう。えとうは?」 「へい。たつでごぜえやす」 「おかみさんは?」 「こいつはさるでやがんで」  孫市兵衛はひざの上に置いてあった榊の小枝をとり上げた。口の中で|呪《じゅ》|文《もん》をとなえはじめた。しだいに両ひじを強くはり、ささげた榊をひたいに高くかかげた。榊の枝をひとふりすると、炉のわきに積み上げてある白木の小枝をわしづかみにすると火の中へ投げ入れた。どっと灰かぐらが立つ。孫市兵衛のとなえる呪文の声がしだいに高くなった。右へ左へ榊の小枝をうちふる。なにやら感応があったのか、孫市兵衛はとつぜん、榊の枝をその場へ投げすててがっくりとうつ伏せにのめった。 「ど、どうなさったんで!」  たすくが腰を浮かせると、背後にひかえていた案内の男が手にした扇子でたすくを制した。 「しっ!」  孫市兵衛は伏したままではげしく肩で息をしていたが、やがてゆっくりと体を起した。 「勢二郎とやら」 「へへっ」  孫市兵衛は意識を失っているとも覚めているともつかぬ奇妙な声音でたすくに呼びかけた。 「納めた品物がかえされる仕儀に相成ったと申したようだが」  口調までがかわっていた。たすくは孫市兵衛はむかしは武士だったのではないかと思った。 「へい」 「それはどのような品物であったか?」  予期していなかった問いかけが一瞬、たすくの心を動揺させた。 「へ、へい」 「どのような品物であったかとおたずねになっておられる」  背後からつつかれた。扇の先でつついたものだろうが、そこから奇妙な衝動が波紋のようにたすくの全身にひろがった。にわかに心臓がおそろしい早さで打ちはじめた。たすくはたたみに両手をついて全身であえいだ。犬のようにたれた舌の先から|唾《だ》|液《えき》が板敷に音をたてて落ちた。頭のしんが深い霧でつつまれたかのようにいっさいの思考が失われ、はげしい|酩《めい》|酊《てい》がたすくを坐っていることもむずかしくさせていった。たすくは立ち上ろうとしたが全身が石のように重く、たたみにつかえた指一本動かすことができなかった。つめたい汗が背や胸を糸のようにつたうのがいやにはっきりと感じられた。 「さ、おこたえを」  うながす声とともに、さらにはげしい衝動がたすくの心奥からつき上げてきた。たすくは熱病のようにわななきながら無意識にこたえた。 「さ、さざれ石と申しました」  ひどい力仕事のあとのように全身から力がぬけ去っていった。たすくは板敷の上に上体を投げ出した。板敷のつめたさがこころよかった。 「さざれ石はいまどこにある?」  孫市兵衛の声が天から降ってきた。 「知らぬ。そのようなこと」 「知らぬはずはない。今どこにある?」 「ほんとうだ。私はさざれ石などというものはみたこともない」  孫市兵衛の声がわずかに変化した。 「六波羅蜜どの。今さらかくしだては無用であろうぞ。おぬしがさざれ石を所持しておられることは、われわれはすでに確認いたしておるのだ」 「なにをばかな! 知らぬものは知らぬし、持っておらぬものは持っていない」 「言うたがよい」 「私がそれを持っていることを確認した、と言ったな。それなら勝手に持っていったらよいではないか。私は知らぬと言っているいじょう、それは私のものではないのだから遠慮はいらぬぞ」 「六波羅蜜どの。ありていに言えば、おぬしが持っていることはわかっているのだが、それがどこへかくされているのかまではわからぬのだ。そこでおしえてほしい。どこへさざれ石をかくしたか、をだ」  たすくは板敷に倒れ伏したままで声をふりしぼった。 「そのようなこと、知らぬわ!」  孫市兵衛はわずかに笑ったようだった。 「手間をかけるのう。六波羅蜜どのは。やむをえぬ。あれ、見られるがよい」  たすくは言われるままに石のように重い頭を無理に動かしてあおぎ見た。  はじめそれはただの一個の映像として視覚にとどめるだけでそれが意味を持った形象として判断されなかった。 「わかるか、あれが」  孫市兵衛の声は氷のようにつめたくなった。たすくは必死に目をこらした。眼球の奥に|錐《きり》を刺すように痛みがはしった。 「見えるだろう」  急にその物体がはっきりと目にうつった。 「あれは!」 「このようなことはしたくないのだが」 「あれは」 「そう。丹阿弥由紀どのじゃよ」  着衣をすべて引き剥がされた由紀が四肢をひろげて壁に貼りつけられていた。円い乳房やすきとおるようななめらかな下腹、その下腹の厚みのあるふくらみをおおった漆黒色の繁み。そして暗紅色の肉のひだが裂けるほどおし開かれた太いももなど、たすくだけが触れ、目にすることができるものがあますところなくあらわになっていた。  事態がたすくの|脳《のう》|裡《り》にしみこむまでにはさらに何呼吸かの間を要した。 「六波羅蜜どの。今さらご説明申し上ぐるまでもなかろう。まことに|定法《じょうほう》どおり。これよりあの由紀どのを責めることになる。これはあくまでおぬしの判断に待つことゆえ、しかとごらんになられるがよい」  たすくは全身の力をうでにこめて上体を起した。 「きさまはいつぞやの夜、おれの家をおそったやつだな。こんな所にひそんでいたのか」 「かまえてごゆだんめされぬがよい。こうなっては無用な抵抗はなされぬことだ」 「だれだ、きさまは! 名を名乗れ!」 「なかなか!」  たすくははげしい怒りにのどがつまった。 「さ、さざれ石などと! たわごとを! ほんとうはなにが目的なのだ。言え!」 「それそれ。そのさざれ石でござるよ」  孫市兵衛は親しい友人に語りかけるように笑いさえふくんでいた。 「きさま。女を責めるなどと、それでも武士か!」 「なにをおっしゃる。わたしは武士ではない。占師じゃよ。しがない町人じゃ。それでももこれでももない」  たすくはひざをついて立ち上ろうとしたがもはやそれ以上、体を起して保っていることはできなかった。思わずひざを動かして由紀のそばににじり寄ろうとして横ざまに床に崩れ落ちた。 「それ!」  孫市兵衛が部屋の一方に顔を向けてさけんだ。部屋の空気が短くふるえて、炉のほのおの上を一本の短い矢が飛んだ。思わず目を閉じたたすくの耳に、柔軟な湿ったものに矢の突き刺さる音が低く聞えた。おし殺した悲鳴がたすくの耳に熱鉄を当てた。 「さざれ石はどこに?」 「知らぬわ! おろかな!」  ふたたび孫市兵衛が低くさけんだ。矢羽根が風を切り、由紀の体のどこかで鈍い音がした。悲鳴は聞えず、苦痛に耐えるすさまじい歯ぎしりだけがたすくの脳天をつらぬいた。 「ええい! やめぬか! そのようなことしか考えられぬのか、ばかものめ!」 「さざれ石のかくし場所をうかがっておるのだ。われらの決心のほどもそろそろわかってよいはず」 「おのれ!」  孫市兵衛はなんの感情もあらわさぬ声で短く命じた。矢風がほのおを千切り、由紀の体が平手打ちを受けたように鳴った。由紀のうめき声が長く尾を曳いた。 「どうかな、六波羅蜜どの」 「思うようにするがよい。知らぬものをどうこたえるすべがあろう。うつけ者めら!」  第四の矢が飛んだ。たすくはようやく、自分が完全に死地に追いつめられたことを知った。  占師円二郎が何者なのかつきとめるために、かえってかれのもうけた陥穽におちた自分がたまらなく腹立たしかった。いっさいはたすくを|誘《おび》き寄せるために仕組まれたものにちがいなかった。たすくがここをめざしてやってくることを、事前に察知することなど、その気になればたやすいことなのだ。  たすくの心に真の恐怖がわいたのは、自分がほんとうに〈さざれ石〉なるものを全く知らないことをどのように力説しても、相手はまるで信用しないという事実だった。由紀を責めつづければやがてたすくはそのかくし場所を自白するであろうと思いこんでいることだ。由紀の死は今やのがれるすべもなかった。  孫市兵衛はいぜんとして氷のような冷静な声音で言った。 「六波羅蜜どの。まあ、ごらんなされい。由紀どのこそつろうござる」  見まいとする目が耐えきれずに由紀の上にはしった。たすくの全身から血がひいた。  半弓の短い矢が左右の白い豊かな太ももに褐色の矢羽根だけを見せて埋っていた。つらぬき出た矢尻は壁まで突き通っているのだろう。さらに両うでに二本。深く埋った矢の軸のまわりからあざやかな血がにじみ出て糸を引きはじめていた。  がっくりと落した顔からは苦痛はうかがうことはできなかったが、いっぱいに引きのばされたうでや足の筋肉はこまかくけいれんしていた。 「これまでの矢傷では命までは別条ない。だがつぎの矢はそうはゆかぬぞ。六波羅蜜どの。これはざれごとではないし、わしもそれほどよゆうあるわけでもない」 「そのようなものは持っていない。信じてくれ」 「人より贈られた品があろう」 「そんなこといちいちおぼえていられるか! 用人に聞け、用人に!」 「さざれ石を贈られたはず」 「知るものか!」  孫市兵衛のほおが|硬《こわ》|張《ば》った。右手が目に見えぬほどに動いた。  半弓のかん高い弦音が鳴りひびき、たすくの目の前を三分の一ほど切りつめた矢がかすめた。矢は線を引いたように飛び、鋭く|削《そ》ぎ|落《おと》した先端が由紀のへその下に突き刺さった。矢はそのまま矢羽根の中ほどまで腹の中にめりこんだ。それまで苦痛に耐えていた由紀があごをのけぞらせて息をしぼり出した。  たすくは孫市兵衛の顔に視線を移した。陽に焼け、土の匂いを発散する素朴で小心な百姓の顔がそこにあった。はじめて心にとめて見る孫市兵衛の顔だった。 「誰だ、おまえは?」  その顔に向ってたすくはささやいた。 「さざれ石はどこにある?」  孫市兵衛もひたと、たすくを見かえした。  苦痛にもだえる由紀のすすり泣きがたすくの目からいっさいの感情を消した。 「誰だ? おまえは」  たすくの全身にどす黒い殺意が燃え上った。石のように重い手をのろのろと動かしてたすくは目の前の孫市兵衛の着物のえりをつかんだ。孫市兵衛の顔にひどい恐怖が浮んだ。 「殺してやるぞ」  たすくは|凄《すご》い笑いをもらして孫市兵衛にささやいた。 「な、なにをする。こ、これ! はなせ!」  えりをつかんでいた両手を首に回した。 「わなにかけたつもりだろうが、そうはいかぬ。ほれ!」  たすくは孫市兵衛ののど笛の両わきに親指を押し当てるとぐいとしめつけた。孫市兵衛は必死に何かさけぼうとしたがただ口を開閉しただけだった。たすくがうでに力をこめると、孫市兵衛ののどの奥が荒々しく鳴った。 「六波羅蜜さま! 六波羅蜜さま!」  孫市兵衛ののどもとをしめつけるたすくのうでにとつぜんやわらかな体重がかかった。 「いかがなされましたぞ! この者はただの占師かと存じますが」  たすくのうでにとりすがった由紀が声をふりしぼった。 「六波羅蜜さま! お離しくださりませ!」  孫市兵衛と由紀とたすくは一つになって板敷をころがった。ころがったはずみに体のどこかをひどく打ちつけ、それがとつぜん、たすくを現実に引きもどした。急速に何かがたすくの五体から離れていった。今はもうふつうの作男の|顔《がん》|貌《ぼう》にかえったかいぞえの男を|蹴《け》|倒《たお》してたすくは廊下へおどり出た。長い廊下のむこうを孫市兵衛が裂けた衣装を長く引きずって、ころがるように走っていた。  たすくも走った。孫市兵衛が悲鳴のようにするどくさけんだ。廊下の中程の障子が開いて、これも神主のような衣を着た男が、けげんそうに走る二人を見た。孫市兵衛がまた何かさけび、神官の服装の男があわてふためいて腰におびた短刀をぬいた。おぼつかない手つきで走り寄るたすくに切りかかろうとするのを、由紀の手から|銀《ぎん》|閃《せん》となって飛んだ手裏剣が正面からとらえた。大きく開いた口の中で手裏剣の藤巻きのつかがふるえ、あふれ出た鮮血が霧となって散った。孫市兵衛は廊下のつきあたりの板戸をおし開いてころげこんだ。つづいてたすくが、由紀が、おどりこんで飛鳥のように左右に分れた。  薄暗い部屋の中に灯もともさず、三十人近い人影が円く座を占めていた。その中央に、|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》をいただき、白いひたたれをまとった男が、手にへい[#「へい」に傍点]をささげ持って立っていた。細くのばしたひげがくちびるの両端に垂れていた。眉も薄く、目も細く、とがった肩には体よりもむしろ心の病いを持っているかのように見えた。 「円二郎とはきさまか?」  たすくの声は部屋をゆるがせた。 「おれは六波羅蜜たすくだ。さあ、来やがれ! こんどはおれがきさまの体に聞く番だ!」  白いひたたれの男はかすかに表情を動かした。手にしたへい[#「へい」に傍点]を大きく一旋した。     二十二 江戸討入り  矢来から内藤新宿、四谷へんにかけて人家という人家はことごとく|火《か》|焔《えん》につつまれていた。すでに火は大木戸も越えたとみえて、ずっと東にも高い火の手が上り、舞い上る火の粉は大江戸の空を埋めつくしていた。町筋の裏手に火が回り、暗い家並の軒下からいっせいに白い煙を吹き出した。みるみるそれが墨のような煙にかわると、家全体が生きもののようにゆらいでどっとほのおを吐き出す。それまで暗かった街は一瞬、真紅の火光に照らし出された。何かがつづけざまにはね、わらぶきの屋根はひとたまりもなく無数の火の小片となってなだれ落ちる。火のついた板戸が|木《こっ》|片《ぱ》のようにちゅうに舞い、ほのおで作ったような家財が道路の中央までころがり出た。  たすくは由紀の手を引いて走った。北へ向えば脱出路があるかと思ったが、やがてそれも難しくなった。巣鴨、|大《おお》|塚《つか》村へんの空が幅広く赤く染まりはじめた。  風は|灼《や》かれるように熱かった。由紀のたもとやすその一部に幾つも焼け焦げができていた。たすくは着ていた着物を脱ぐと、天水桶に半分ほど残っていた水にひたして由紀の頭からかぶせた。 「煙を吸うなよ。煙が流れてきたら息を止めろ。苦しくともがまんするのだ」  口もとをおおったたもとのかげで由紀の乾いた目がたすくの顔を見つめていた。  たすくは惑乱する心を必死におさえた。目の前の異変は目や耳でとらえることはできても、心でそれを理解することはとうてい不可能だった。感覚と理性がたがいにその領域をはげしくおかしあって、それがたすくの五体と意識をときに破滅寸前まで引き裂いた。かえって由紀の方が冷静だった。由紀の心にはたすくと生死をともにすることだけしかなく、目の前の異変はただ現実的に受けとめてゆくことだけのことであった。  |護《ご》|国《こく》寺の山につづく丘陵を背に負って|小《こ》|日向《ひなた》から|清《し》|水《みず》|窪《くぼ》の村がつづいている。村といってもこのへんは裕福な百姓が多く、瓦屋根、白壁の家々が庭林の奥にそびえている。火もそこまでは迫っていなかった。どうやらここでしのげそうな気がした。たすくは由紀の手を引いてそれらの家の一軒の庭へ入っていった。ひどくのどがかわいていた。暗い庭のすみのはねつるべでのどをうるおしたたすくが、さらに食物を求めようとして戸障子の開け放たれたままの屋内をうかがったとき、とつぜん、おもての道から馬のひづめの音がひびいてきた。  ふりかえったたすくの目に、夜空を赤く染める火光に、くっきりと黒い影となって異様な姿の人影があらわれた。体のどこかがきらりと火光を反射し、四角な羽のように張った両肩からつき出た太いうでがいっぱいに|手《た》|綱《づな》を引きしぼった。 「なにものぞ!」  たすくがもっとよく見ようと火光に手をかざしたとき、人影は馬腹をあおって馬を飛ばせてきた。長さ二間にあまる長槍が電光のようにひらめいた。今まで馬体のかげになって気がつかなかった。たすくの背すじにはじめてつめたいものがはしった。 「そこで何をいたしておるのか!」  頭上から槍の柄がふりおろされてくるのと、たすくの目の前を馬の太い腹がかけ過ぎるのとが同時だった。疾風のように走り過ぎると、さして広くもない縁近い庭のすみでたくみに馬首を回すや、後にひいた槍の柄を高く、穂先を低くななめにぴたりとたすくにすえた。 「本陣に近きあたりを|徘《はい》|徊《かい》いたしおるあやしきやつ。名乗れい!」  たすくは暗い縁側を背後に、槍先をかわしていつでも屋内に跳べるように身がまえた。 「まて! これはなにごとだ!」  思わず口をついて出たさむらい言葉が相手の疑惑を決定的なものにした。 「これは|雑《ぞう》|人《にん》|輩《ばら》にあらずと見た! よし、槍先につらぬいても引っ立てる!」  人影は馬腹をあおるとなだれのように馬を寄せてきた。たすくはその馬の鼻先をかすめて槍の穂先とは反対側に飛んだ。 「しゃっ!」  穂先を大きくはね上げて馬の平首をかわし、槍をたすくの側に回そうとする。その体中で鎖のような物音がわき起った。そのときになってたすくははじめて馬上の人物が|鎧《よろい》に身を固めているのに気がついた。馬腹をあおるたびに草ずりが重い葉片のように開いた。 「どうしたのだ、いったい!」  たすくが声を張り上げるそのすきに、鎧を着た武士はすばやくたすくを攻撃側面にとらえた。しかし三度目の突撃ともなるとたすくには充分に余裕があった。ひらめく槍先を背後に流すと赤銅の千段巻をつかんで馬体に沿って走った。手前に引いてはいかなる剛力といえども人馬ひとつになった力にかなうわけがない。走りながらたすくは槍を手綱に、馬をあやつって大きく回した。鎧武者はもうそれ以上、槍を握っていることの危険に耐えられなくなった。槍を離さぬかぎり太刀はぬけない。長槍はたすくの手に移った。いったん十メートルほど突っ走った鎧武者は腰の太刀を引きぬいた。 「なかなか! みごとなるおうでまえ。さだめし名あるもののふとお見受けいたす。かく申すそれがしは、このたびの江戸お討入りに甲州路口総大将をつとめらるる|木《き》|村《むら》|長《なが》|門《との》|守《かみ》|重《しげ》|成《なり》公が組下、|佐々木内膳匠《ささきないぜんのしょう》手の者にて、おこがましきながら、あれぞ剛の者よ、などといささか人の口の端にものぼることもあり、これは天童啓四郎にござる。いでや!」  その言葉がたすくの耳になにがしかの意味を伝えるまでにはある時間を要した。 「な、なんと、江戸お討入りとはなんのことだ?」  棒のように立ちつくしたたすくを見て、気おくれしたととったか。その天童啓四郎と名乗る鎧武者は右手の太刀を大きくふりかぶった。 「名乗られい!」 「木、木村長門守は大坂夏の陣で討死いたしたはず!」 「名乗らねばこのまま討ち取り申すぞ! あっぱれなるおはたらきと思えばこそ、それがしより名乗り上げたるを。性根は失せたか!」 「まて! まってくれい! いくさ、のように思われるが、いったい何があったのだ?」  たすくは泳ぐように前へ出た。 「ちっ! 狂うてか!」 「まて、まて。ひどい火事だ。それにお主は鎧など着ているようだが、どうしたことなのだ、教えてくれ!」  天童啓四郎はさけんだ。 「ご本陣近くまで忍びこみ、見とがめられるや気のふれたまねなどしくさる! 急に生命が惜しくなったものと見えるのう。おろかしや!」 「ちがう! て、て、天童啓四郎どの、と申されたな。どうもわからぬのだ。お、お主がいきなり突きかかってまいったゆえ、おれも夢中でお相手つかまつったが、鎧を召されておるごようすといい、またこのひどい火の手といい、いったいいかなるしだいでござるか?」  天童啓四郎はたすくをじっと見守っていたが、なにを感じとったか、ふりかぶっていた太刀をつば音高くさやに収めた。 「ゆけい! これ以上ここにとどまっているときはそのそっ首、打ち落すぞ!」  おそろしい目つきで吐いてすてるように言った。啓四郎はたすくがほんとうに少し気がふれているとでも思ったのであろう。そしてそのような男に自分の槍をうばわれたことが極めて腹立たしかったにちがいない。たすくは啓四郎の足もとへ槍を投げた。  落ちた槍が重い音をひびかせた。家の裏で木の枝がおれる音が聞えた。馬からとび降りて槍をひろい上げた啓四郎が、そのままの姿勢で音の聞えた方をうかがった。また物音が聞え、無人の暗い屋敷の内部に、波のくだけるような音がわきおこった。啓四郎が馬上に這い上ろうとして右手の長槍がどこかにつかえ、馬腹でもがいているのが見えた。  暗い屋敷の内部からどっと人の群れがおし出されてきた。手に手にふり回す刀が、黒い大きな塊から無数に生じた銀色の剛毛のようにたすくの目に映った。一団になって縁側から庭にとび降りると、群れは一人一人に分解しておめきさけびながら天童啓四郎めがけておそいかかった。すでに馬に乗る余裕を失った啓四郎はやむなく馬をすてて地上で槍をかまえた。すさまじい悲鳴と打撃音がからみ合った。 「おのれ! こなくそっ!」  天童啓四郎の絶望的なさけびがたすくの耳をうった。  一時も早くこの場をのがれなければならないという気持ちと、多勢を相手に勝味のない戦いを強要されている啓四郎を見殺しにすることの後めたさが、たすくのつぎの行動を鈍らせた。  乱闘はしだいに庭の一角に移っていった。追いつめられてゆく天童啓四郎の生命はあともう幾ばくもないようであった。たすくは泳ぐような足どりで乱闘の渦に近寄った。そこでいったん足を止め、さらにためらったものの、つぎに起した行動は風よりも早かった。天童啓四郎を|十《と》|重《え》|二《は》|十《た》|重《え》に囲んでいる人垣の尻についていた一人の後腰にやにわに片足をかけ、両手で腰の刀をさやごと引きぬいた。おびにまいた|下《さげ》|緒《お》が引き千切れ、男はけもののようにさけんだ。人垣がくずれ、血走った目とむき出された歯がたすくに向きなおった。そのときにはたすくはすでに人垣の中におどりこんでいた。  鎧を着ている相手には方法は一つしかない。たすくは顔面をねらって刀をふりまわした。ほおを切り裂かれ、鼻やくちびるを断ち割られた敵が奇妙なうめきを上げてのけぞった。乱戦の中では鎧ははなはだしく動きを制約する。たすくは右に左に刀を回し、存分に切りまくった。生命をうばうまでにはいたらないが、かなりの手傷を負わせることができた。とくに顔面に与える傷は心理的に動揺をもたらす。敵はいっせいに後退した。人垣が崩れたあとに天童啓四郎がぼろきれのように倒れていた。鎧に身を固めているために見た目ほど手傷はひどくないようだった。  そのとき、門から庭へなだれこんできたもう一団の武士たちがあった。 「夜討ちぞ!」 「なあに、将を失った野良犬づれ! 一人も逃さず討ってとれ!」  天童啓四郎をおそった武士たちをおしつつむようにとりかこんだ。 「おのれ、恩を|仇《あだ》でかえす徳川の犬ざむらいめ!」  すさまじい切りあいがはじまった。赤い火光の中でより|紅《あか》い血が飛び、切り落された手や足が重い音をたてて地に落ちた。死者や負傷者から流れ出た血はどろと混じってこねまわされ、けちらされ、庭はどろ沼のようにずるずるとすべった。なま臭い匂いがあたりに立ちこめた。  たすくは乱刃の中からそろそろと身を退いた。死人のような顔の由紀の手をひいて屋敷の裏へ回った。頭が割れるように痛かった。痛みは両方の耳の後から脳髄をつらぬき、胃の|腑《ふ》へさがって断続的にはげしい|嘔《おう》|吐《と》感をもたらした。  たすくには目の前の現実がただ生理的な恐怖の凝集に過ぎなかった。 「いったい、どうしたことなのだ?」  たすくは惑乱するおのれに問いかけた。 「六波羅蜜さま! しっかりしてください!」  由紀の声がはるか遠くから聞えてきた。それにこたえるだけの気力は失われようとしていた。 「六波羅蜜さま! 早くここから逃げ出さなくては。間もなく、どちらかの兵がまいりましょう。ここにいては見つけ出されてしまいます」  由紀の声は上ずってはいたが、状況を的確にとらえた理性がはたらいていた。  たすくはそえてくる由紀の手を払って立ち上った。さっきから心の中にわき立っている疑惑をはっきりと心の表層に押し出した。 「由紀、なにやら妙だ。心の中にわだかまるこの、目の前のできごとを信じ難い心はなんだろう。由紀、目の前の在りようは一つなのに、われもひとも、今一つの在りようがあったような気がしてならぬ。まるで心の中にもう一つの心があるような!」 「六波羅蜜さま、さ、まいりましょう」  数歩、行ってたすくは凝然と足を止めた。 「由紀、おれたちはいったいどこへ行くつもりだったのだ?」  由紀は首をふった。 「さあ、私は存じませぬ」 「どこへ行く」 「まいりましょう」 「どこへ」  たすくは足を止めたまま頭上の赤い空に目を当てた。 「たしかめなければならぬことがある」 「なにを?」  たすくは体をかえして今のがれてきた屋敷の庭へもどろうとした。 「六波羅蜜さま! 今もどっては危険でございます!」  とりすがる由紀の手をふりきってたすくは走った。  戦いは一方の圧倒的な勝利に終ろうとしていた。あとからかけこんできた兵たちは数も多く、充分に休養もとり、勝機についていた。|怒《ど》|濤《とう》のように切りこんできた一隊も切り伏せられ、追いつめられ、その半数はすでに|屍《しかばね》を庭上にさらしていた。たすくはすばやく目を走らせた。天童啓四郎は庭石に身を寄せて全身で息を吐いている。たすくは植込をつたって啓四郎に近づいた。 「天童啓四郎どの!」  声をひそめて呼びかけた。 「なんぞ!」  天童啓四郎は血のりで汚れた顔を上げて声の主をさがした。 「ここじゃ。天童啓四郎どの。最前、お主と手合せいたした者にござる」  天童啓四郎はばねのように立ち上った。右手が腰の太刀のつかにはしった。 「いや、そのまま、そのまま! 天童どの、実は」  天童啓四郎はゆだんなくたすくの動きに目を光らせた。 「それがしは六波羅蜜たすくと申す。お主に危害を加える者ではない。先ほどはやむなくお主とやいばを交えたが、もとより他意はない。お主にひとつたずねたいことがある」  たすくは天童啓四郎が身を寄せていた庭石に両手をついて身をのり出した。首をさしのべている形なので危険この上もないが、それで天童啓四郎はやや体の力をゆるめてたすくの言葉を耳に入れる気になったようだ。 「妙な男じゃのう。お主は。見たところ町人のようじゃが、なんだそのたずねたいことというのは?」  天童啓四郎は太刀のつかから手を離した。 「お主、佐々木内膳匠の家来になる前は、誰ぞ関東ゆかりの家中ではなかったか?」  天童啓四郎はいぶかしそうにたすくの言葉を聞いていたが、 「|私事《わたくしごと》はこの場のかかわりではござらぬが、おたずねとあらばおこたえいたす。それがしの主人、佐々木内膳匠はかの関が原の戦いにて小西行長どのの軍門に降り、駿府の戦い以後、あらためて木村重成公に仕えてござる。それがしは若年にて|存《ぞん》|念《ねん》申さぬが、父、天童|作《さく》|太《た》|郎《ろう》|由《よし》|重《しげ》の跡を継ぎ、佐々木内膳匠旗本をつとめてござる」  すると天童啓四郎父子が二代にわたってつかえる佐々木内膳匠が関東方から大坂方へ移籍したために、この天童啓四郎は大坂方の武士の一人として江戸攻めに加わっているのだ。 「いや、それで分明いたした。それがしの知人で天童と申さるる|仁《じん》あり。お主とどことなく顔形が似ているような気がいたしたゆえ、なつかしく思い申した。それではごめん」  自分でも何を言っているのかよくわからなかった。たすくは、つとその場を離れた。 「あ、いや、またれい! 六波羅蜜どのと申されたな。今、ひとたび手合せせん!」  その声を背後にたすくは走った。 「そうか、そうだったのか!」  走りながらたすくはうめいた。  これまで心のどこかでかすかに形を結んでは消え、消えては形となっていた恐怖と疑惑が、とつぜんはっきりした輪郭でふくれ上った。たすくの脳髄は電撃を受けてしびれたようにいっさいの思考を停止した。 「六波羅蜜さま! 六波羅蜜さま! いかがなされましたぞ!」  由紀がその胸にすがりついた。 「六波羅蜜さま!」  たすくは|痴《ち》|呆《ほう》のように由紀を見た。 「由紀! おれは!」  つづく言葉はなかった。言葉はあったとしてもそれは語り得ようもない。絶句したたすくを由紀は不安のみなぎったまなざしで見つめた。その視線を受けかねてたすくは顔をそむけた。 「おれはおまえと別れねばならない」  たすくはひと息に言った。由紀の体が一瞬、石のように硬くなった。 「な、なぜでございます!」 「か、かならずむかえにくる。そ、それまで待っていてくれ!」  由紀はふいにものも言わずたすくにおどりかかってきた。たすくは由紀の体の重みを支えきれずに大きくよろめいた。 「六波羅蜜さま! いかようなこともおおせくだされませ! でも、別れるのだけはいや!」  由紀はこれまでみせたこともない強い力でたすくの体にうでをまわした。 「由紀! 今説明しているひまはない。わかってくれ! おまえをすてるのではない。しばらく別れているだけだ」 「いや! これまでもしばらくの間お会いしないときもあった。でも、別れているなどというのではなかった。それを、どうして今」  たすくは何とかして由紀の体を引き離そうとしたが、由紀はいよいよ固く締めつけてきた。 「由紀。おまえ、おれの言うことが聞けぬのか」 「はい! 聞けませぬ」 「ちっ!」  たすくは由紀の手首を強く打った。由紀は小さくさけんで力をゆるめた。そのまま、自分でうでをほどくと絶望的なひとみでたすくを見つめた。 「それほどに!」  かみしめたくちびるから細い血の糸がすじを引いた。由紀は帯の間にかくし持っていた短刀を引きぬいた。きらりと|刃《やいば》をかえすと、逆手ににぎった短刀を左の胸に突き立てた。 「ばか!」  たすくがおどりこむ間に、由紀は短刀のつかをにぎった両手に力をこめていた。うでを引きはがそうとするたすくに、由紀はひざまずいて背を丸め、全身の力で刀を自分の体におしこんだ。あふれ出た血が地面に音たててしたたった。やっとの思いでたすくは由紀のにぎっている短刀のつかに指がとどいた。左うでを曲げて由紀の胸にあてがい、右手に力をこめて由紀がにぎりしめたままの短刀を引きぬいた。血が|飛《ひ》|沫《まつ》になってたすくの顔や胸に飛んだ。苦痛にもだえる由紀をおさえつけ、血を吸って|濡《ぬれ》|紙《がみ》のように貼りついている着物の胸元をおしひろげた。左の乳房の乳首の上に血の噴き出してくる小さな裂目があった。たすくは自分の片そでを引き千切ると傷に押し当てた。由紀の手元が狂ったか、とっさの判断をあやまったか、傷は急所をそれている。出血はひどいが短刀の切先は乳房の組織をつらぬいてはいるが、胸腔にはとどいていないものと思われた。しかしこのままでは急速な出血と苦痛による消耗で絶命はまぬがれ難い。  たすくの顔にはじめて絶望的な苦悩がはしった。それはまだ、たすくを知る誰もが目にしたことのない陰惨な翳りだった。たすくは人とは思えない目の色で、刻々と生命の灯を弱めてゆく由紀を見おろしていた。  たすくは自分が今どうしなければならないか熟知していた。またそれは他の方法で代り得るというものでは絶対に無かった。しかしたすくは、とらなければならぬ方法をとらなかった。           *  由紀の体からしたたる血はみるみるたたみを朱に染めていった。広間を埋めていた三十人ほどの人々は夢からさめたようにどっと立ち上った。 「円二郎! なに者だ! きさま」  白装ぞくの円二郎はふりかぶったままの斟の下から、たすくに火のような視線を向けた。 「お、おまえは!」 「おう! きさまの考えているとおりでよかろう。さあ、名のれい!」  円二郎の顔から百姓上りの占師の表情が消えた。針のように細められた目が部屋の中の張り裂けるような緊張を吸いとった。 「おれは|平《ひら》|賀《が》|源《げん》|内《ない》というものだ」  その声が終らぬうちに源内の右手が目にも止らず動いた。すさまじい閃光と炸裂をくぐってたすくは跳躍した。源内の追跡をのがれて、たすくは底知れぬ深淵へ落ちていった。  たすくは今はっきりと自分の心にこれまで固くかけられていた|鍵《かぎ》がはずされたことを感じた。  たすくは自分が何者なのか、そして自分は何をしなければならないのかはっきりとさとった。そして同時に、自分の敵もまた自分と同じような存在であることを知った。     二十三 庄田喜左衛門  江戸城|桜田《さくらだ》門から芝、|巴見附《ともえみつけ》にくだってくる|御《お》|旗《はた》|道《みち》の左、大筒奉行の番屋の後一帯が柳生但馬守宗矩の上屋敷だった。このあたりは万がいち、品川から山王にかけての防衛線が崩れた場合の最終防禦線になる所で、ここを突破されたあとはいっきに桜田門内まで突入されることになる。そのため、設けられた邸の一つ一つが極めて堅固な城塞ともいうべき結構を持っている。柳生の邸はその中でもひときわ目立った存在である。大筒番屋を出城としてそのかげに全容をかくし、御旗道に沿って長く南北にのびた高い白壁は、この道を進む敵に間断ない銃撃と切込みによる打撃を与えるだろう。  たすくは大筒番屋の裏木戸のかげにうずくまった。番屋にやってきた主人に供してきた小者の形だ。たすくはそこからななめ前方に見える柳生家の通用門をじっとうかがっていた。家士や商人がしきりに出入りしている。  三十分ほどそうしてようすをうかがっていたたすくは、そっと立ち上った。柳生の門からあらわれた一人の仲間をそっと手まねきした。いぶかしそうに寄ってくるのをものかげにさそい入れた。白い目に角を立てて、 「なんだよ!」  渋紙色の顔に粗いあごひげがすさんだ心象をむき出しに見せている。たすくはすかさず一両小判をその男の手ににぎらせた。男は言葉を忘れたように、自分の手にあるものを見つめた。 「ちょっとお願いのすじがありやしてね」  男はたすくの言葉も耳に入らないらしい。無理もない。この頃、仲間の給料は年二両、池田家で三両出して口入れ屋から苦情が出たほどだ。 「ねえ。|兄《あん》さん」 「う、ああ、な、なんだよ」  男は全くうわの空だ。 「おねがいのすじがあるんで」 「ああ、そうか、そうかい。いいってことよ。なんだい、そのねがいってのは?」  男はかえせ、と言われるのをおそれるかのようにしっかりと小判をにぎりしめた。 「|兄《あん》さんは柳生さまのお仲間だねえ」 「ああ、そうだよ」 「庄田喜左衛門さまをご存知かね」 「ああ、ようくご存知だ」 「うん。それはありがてえ、その庄田さまにつたえてほしいことがあるんだよ」 「どんなことだね?」 「六波羅蜜がこの間の庄田さまのおっしゃったことを考えてもいい、とそう言っていたと伝えてほしいのだ。そして大筒番屋の前で待っている、ともあわせ申し上げてくれ」  男は口の中で言われたとおりのことをつぶやいていたが、急に強い警戒心を浮かべた。 「なんでじかに行かねえんだ?」 「庄田さまに内々での話なんでな」  男はまだ何か言いたそうに口をとがらせたが、手にしている一両と、柳生家の家士筆頭ともいうべき庄田喜左衛門を平気で門外に呼び出すような男にへたにさからわない方がけんめいであると思ったか、そのままたすくに背を向けるとふたたび門内に入っていった。それから長い時間がたった。たすくがほとんど一両小判をあきらめかけたとき、柳生家の通用門から周囲をはばかるように小走りに出てきた人影があった。たすくはその足もとへ小石をほうった。たすくは小さく合図すると番屋の木戸口を離れて庄田喜左衛門を木かげにいざなった。庄田喜左衛門は肉の落ちたほおにひどい苦渋の色をみなぎらせていた。肩の肉もすっかり薄くなっている。たすくの顔を見るとその表情がさらに陰惨に翳った。 「おう、六波羅蜜か」 「庄田喜左衛門。そのお主のやつれようはどうだ」  喜左衛門は無言で周囲に鋭い視線をはしらせた。 「どうだ。喜左衛門、その胸につかえていることをおれに話してくれぬか」  喜左衛門は小がらな体からたけだけしい闘志を噴き出した。 「なにをほざく! 小しゃくな」  たすくはゆっくりと首をふった。 「喜左衛門。おれはお主とてんごうを言うためにやって来たのではない。お主にはよくわかっているはずだ。な」 「六波羅蜜、そのようなたわけを言うためにわしを呼び出したのか」 「喜左衛門。心を落ち着けておれの言うことを聞いてくれ。のう。柳生はお主のようく知っている柳生ではなくなってしまった。そうだな」  喜左衛門は火のような目でたすくをにらみすえた。 「そうだな。喜左衛門。徳川の|藩《はん》|屏《ぺい》たる柳生はこの頃、いったい何をやっているのだ。いいか、喜左衛門。おまえも感づいていようがおれは大公儀の隠密だ。その公儀の隠密にかぎ回られて何か困ることをしているのかえ。おれは柳生には手ひどくおそわれている。同じ公儀の諸国吟味をあずかる柳生がおれをおそうには何か深い事情があるにちがいない。なあ、喜左衛門。その胸に手を当てて考えて見なよ。柳生がおとりつぶしになってみな、おめえは、いや、お主、石舟斎さまに何とおわびするえ?」  最後のひとことが切札になった。喜左衛門の顔はみるみる泥の塊のようになった。どこが目か鼻かわからないようなくしゃくしゃな顔になるとくるりとたすくに背を向けた。その肩が小さくふるえていた。喜左衛門は泣いているようであった。 「そうかい。喜左衛門。それが柳生に庄田喜左衛門あり、と言われた男のすることかえ。石舟斎さまもとんだ弟子をもったものよ。木村助九郎は早く石舟斎さまのもとを出ちまって、かえってよかったかもしれねえや」  喜左衛門はとつぜん体を回してたすくに向きなおった。切りかかってくるかな、と思ったがそうではなかった。喜左衛門の顔には幽鬼のような、ふた目とは見られないすさまじい執念が目のまわりや小鼻のあたりに、くまになってわき上っていた。今にもそこからひふを破ってどす黒い血が噴き出してくるのではないかと思われた。 「六波羅蜜!」  たすくはそのすさまじい意志を正面から受け止めた。さすがに一時期の柳生を背負っていた男だけに、完全に燃焼しつくした意力はたすくの心をゆらめかせるほどだった。これで切りかかられたら果して受けられるかどうか、たすくはつめたい動揺を感じた。 「六波羅蜜。言おう。しかしこれを言ったらわしは必ず殺されるだろう。だが、今のお主のひとことでおれはもう気持ちの張りを失った。もう生きていとうもない。六波羅蜜。柳生はもう終ったのだ。柳生の剣はしょせん、石舟斎さまで終りだったのだ」  喜左衛門はひん死の病人のようにうめいた。 「それはまたなぜ?」 「六波羅蜜。わしの知るかぎり、宗矩さまは、但馬守さまは、あれは宗矩さまではない。十兵衛三厳さまもそうだ。江戸在府の御一族さまの中にも、どうしてもわしはうなずけない方々がおられる」 「喜左衛門。くわしく聞かせてくれ」  喜左衛門はしばらくの間、じっと目を閉じていたが、やがて深く息を吐くと別人のように冷えたひとみをたすくに向けた。ひとみを向けただけで実際に見てはいなかったのかもしれない。 「過ぐる二月九日。みぞれまじりの雨風のはげしい日でござった。柳生の庄にあったわしはいそぎ出仕するようお使いを受け、お|館《やかた》に参上いたすと思いもかけず、但馬守宗矩さま、十兵衛三厳さま、兵庫介利厳さまが居られ、わしは驚愕いたした。但馬守さまは江戸を離れられることは別してお難しいはず、また兵庫介さまにも尾張大納言家におつかえいたす身、このおふたかたが柳生の庄にお帰りあるとすれば、この庄田喜左衛門の耳に入らぬはずはないものを、そのときはただ不審に思ったのみで、それをおうかがいいたすなどはできぬことでござった」 「なるほど」  庄田喜左衛門の口調にはしだいに老人のくりごとのくどさが加わってきた。 「御一統さまのほかに、柳生藤六正直、鳥飼三郎次、佐々木巌流などの面々もひかえておられ、そこで宗矩さまよりお話があった」 「なんと?」 「近ごろ江戸には豊臣浪人を中心とする諸国浪人、および事あれかしと願う政商らの結びつきたる反幕府勢力が殊さらに台頭いたし、幕閣においてはその探索を但馬守さまの手に一任いたし、それについては十兵衛さま、兵庫介さまをはじめ、藤六、鳥飼、佐々木、それにわしも加わりごく内々に江戸|御《ご》|番《ばん》を作り、即日、東上いたした」  庄田喜左衛門がいかに柳生の庄、柱石の人物とはいえ、その不自然さに疑念は持っても問いただすことはとうていかなわぬところであったろう。 「但馬守さまは変りなかったか?」 「うむ。とくにはのう」 「新二郎厳勝はよ」 「終始、沈黙しておられまいた」  二月九日ごろ、但馬守宗矩や兵庫介利厳がそれぞれの任地にあったかどうか、調べれば簡単にわかることだ。庄田喜左衛門やその他柳生の子飼いはだましたり無理やりに納得させたりはできても、他の者に対してはまるで説得力を持たない説明ではないか。 「喜左衛門。お主がいくら田舎ざむらいでも将軍家指南役や尾張大納言師範役が、そんなに簡単に任地を離れて帰郷したりできるものかどうか、考えなかったわけではあるまい」  喜左衛門は苦い苦い想いをかみしめているようだった。 「宗矩や利厳は供回りを連れていたか?」 「いやお忍びで参られたと申され……」 「それみろ! 二人とも、万石の扱いを受けているのだぞ。供回りの一人もつけずに柳生くんだりまで行けると思ってか!」 「六波羅蜜。わしとて不審に思わなかったわけではない」 「まあ、それはわかるが、それで、江戸へ着いてからのことで何かあるか? 合点のゆかぬことが」 「六波羅蜜。すべて話しておこう。江戸へ入ってより判明いたしたことは、わしらの仕事はお上に対して陰謀を企てるやからの探察ではなかった」 「すると、宗矩などは最初から真の江戸入りの目的はかくしていたわけか」 「人さがしであったよ」 「人さがし」 「お主、|小《こ》|清《し》|水《みず》|麗《れい》|子《こ》なるおなごを存じておるか?」 「小清水麗子? はて?」 「|千《せん》|姫《ひめ》と|坂《さか》|崎《ざき》|出《で》|羽《わの》|守《かみ》の間にできた娘だという」  たすくは喜左衛門をおしとどめた。 「ちょっと待ってくれ。千姫と坂崎出羽守との間はいろいろと|取《とり》|沙《ざ》|汰《た》されてはいるが、交情があったとは考えられまい」 「いや。それがあったらしいのう。それについては但馬守さまには確証をつかんでおられたようじゃ。われわれは日夜、その小清水麗子なる|女性《にょしょう》を|探《たず》ね|回《まわ》った」 「その小清水麗子なる娘を、なぜそのように柳生一門を上げて探ね回る必要があったのだ?」 「そこまでは知らぬ。わしは、お主はそこまで知っておるかと思っていた」  たすくは最初、庄田喜左衛門がいつわりをのべているのかと思った。たすくの誘いにのるとみせて、逆にたすくの知っていることを聞き出そうとしているのかとも思ったが、この誠実無比な素朴な老人に、そのようなかけ引きは考えられなかった。 「いや。知らなかった」  まだ半信半疑だった。柳生一門がなにごとかしきりに画策していることはわかっていたが、喜左衛門の言うところとは全く異なった方向にのみ、かれらの動きの目的を考えていた。すると、かれらは反幕陰謀にもその探察にも何の関係も無いのか? たすくは言葉もなく喜左衛門の顔を見つめていた。 「もし、それがほんとうだとすると、おれはたいへんな無駄なことをしていたことになる」  たすくは思わずつぶやいた。 「六波羅蜜。その小清水麗子を発見したのだ」 「なんだって!」 「かねてより探索中のところ、春日局さまが|日《にっ》|光《こう》代参に事よせ、宇都宮の在の庄家で育てられていた小清水麗子を見出し、ただちに十兵衛さま藤六正直が沼袋のさる村に移したのだ」 「やはり春日局もか! して、その村とは?」 「ところが、六波羅蜜。その夜、村は奇妙な騎馬武者の一団におそわれての、村は焼亡し、その騒動の中で小清水麗子はふたたび行きかたしれずになってしまった」  たすくはさけび出したくなるのを必死にこらえた。 「六波羅蜜。実はわれわれに対抗する妙な男があってな。これがなかなかの術者でのう。但馬守さまをはじめ、|上《うえ》の方々には正体はわかっていたらしいが、かれがおそってきたものと思われる」 「それは平賀源内という男だ」 「ほう、お主、知っておったのか。平賀源内のう、わしは知らぬ」  ——そうか。  とつぜんたすくの胸に目のくらむようにひらめいたものがあった。  ——あの村は、平賀源内がこの地にあらわした大坂勢によってじゅうりんされたのだ。そして村を焼き払い、柳生の秘密の根拠地に打撃を与えたと知るや、ただちに兵を消してしまったのだ……。  ——あるいは、平賀源内はあの村を、いちじ大坂勢の占拠する場所にしたのかもしれない……。  ——平賀源内にとってはおそらく柳生一門は憎悪の焦点なのであろう。なぜか?—— 「六波羅蜜、六波羅蜜、いかがいたしたのだ」  喜左衛門がたすくの顔をのぞきこんだ。 「う? ああ、いや、ちょっと思い当ることがあったのでな」 「六波羅蜜。あの春日局という|女性《にょしょう》もまた不可思議なる点が多い。六波羅蜜、春日局はあれは別人じゃよ。お福どのではない。そのへんのことは稲葉佐渡守にあたってみるとよい」 「そうだろう。但馬守宗矩も十兵衛三厳も、また新二郎厳勝、兵庫介利厳もみな顔形は当人のものだが、なかみはまるで違う別人よ。あるいは人と言ってよいか、どうか……」  喜左衛門は言葉もなくうなだれた。 「春日局もまた別人であろう。稲葉佐渡守の周囲を見ればそれは想像がつくわ。佐渡守はよく今日まで生きてこられたものよ。よほど強い意志がなければ口を閉ざして生きつづけてくることは難しかったであろうよ」 「六波羅蜜。石舟斎さまはのう、わしに宗矩、厳勝をたのむとおおせられてじゃ。そのわしがのう。六波羅蜜。宗矩さま、十兵衛さまそして厳勝さま、利厳さま、今、いったいいずれにおわすのか!」  たすくは喜左衛門の肩に片手を置いた。 「喜左衛門。もうそのことは考えるな。人知れず命をうばわれたのでもあろうか。せめて|冥《めい》|福《ふく》などいのってやれい」 「しかし、六波羅蜜!」 「喜左衛門、宗矩などに化けおったのは、お主には想像もつかぬようなてあいよ。宗矩がいかに剣の巧者であってもとうてい歯の立つような相手ではない。おれにも勝てるかどうか自信はない」 「六波羅蜜。お主はいったい何者なのだ。以前から何やらただびとではないものを感じてはいたが」  たすくは薄く笑った。 「やつらもすでに気づいているであろうから言ってもかまわぬが、おれもやつらと同じようなものよ」  喜左衛門が夢でも見ているような顔つきになった。  そのとき、たすくは電光のようにおそってくる殺気を感じた。 「あぶない!」  喜左衛門の体をどんと突きとばしてたすくは殺気のおそってくる方向に走った。身を低めて影のように走るたすくの背すれすれに空気が白く裂けた。大筒番屋の屋根から一個の人影が跳躍した。 「逃げるか!」  その跳躍の方向へたすくも大きく跳んだ。逃げると思った敵はいがいにもたすくの顔前に突進してきた。腰だめに構えた黒く細長い筒の先端から音もなくさび色の閃光が噴いて出た。大気がすさまじい衝撃波にどよめき、たすくの体の左右を絹を引き裂くような鋭いひびきを曳いて弾丸がかすめた。  一瞬、たすくは足をちぢめてちゅうに飛んだ。その足の下を黒い風のように敵が走り過ぎた。身をひねってさらに射ち上げようとして大きく回した銃身の上に、たすくの体が石のように落下した。敵の武器はすでにたすくの手に移っていた。体をひるがえしてさらにおどりかかろうとする敵の体に押しつけるようにしてたすくは発射ボタンを押した。不愉快な震動とともに|消音器《サイレンサー》の銃口からほとばしった短いほのおが敵の体をなめ、銃口を押しつけた反対側の背中から、おびただしい肉片が血けむりとともに噴き出した。たすくはほとんど二つに千切れそうな死体を番屋の裏の|窪《くぼ》|地《ち》の深いしげみに投げこんだ。一瞬の死闘に誰も気がついた者はいないようだった。地面に|撒《ま》き|散《ち》らされた|血《ち》|汐《しお》もおびただしい肉片も、はげしい|陽《ひ》|射《ざ》しに間もなく変色し、乾いてしまうであろう。やがて死体の放つ臭気に人が気づく頃には、ここで何がおこなわれたのかうかがい知るすべもなくなっているだろう。 「こんなものを使いやがって!」  たすくは手にした武器を番屋の白壁に沿って設けられた用水堀に投げこんだ。防火を目的として掘られたその池は、先ず相当の長い年月、そこにあることだろう。そして底のどぶ泥を天日にさらすことはないはずだった。  たすくは|消音器《サイレンサー》をとりつけた|短機関銃《サブ・マシンガン》が沈んだ水面にほんのしばらくの間、目をそそいでいたが、周囲になおなんの異状もないのをたしかめると庄田喜左衛門のもとへかけもどった。庄田喜左衛門は番屋の木戸口にもたれてあえいでいた。胸と腹に弾丸を受け、すでに顔色はなまり色に変っていた。 「しっかりしろ! 喜左衛門。おまえをねらった奴はおれが仕止めた」  喜左衛門はすでに目が見えないようだった。 「六波羅蜜。深川に|市《いち》|川《かわ》という舟宿がある。聞えるか、六波羅蜜!」  聴力も失われているのだろう。聞えないのは自分の方なのだ。たすくは喜左衛門を抱き起した。 「市川という舟宿のおかみが……」  そのあとは口の中だった。 「ええい! しっかりせい! 喜左衛門」 「六波羅蜜。舟宿の……」  喜左衛門はふいにしっかりと体を起した。 「柳生邸の門はどの方向だ」 「柳生の?」 「目が見えぬ。六波羅蜜、わしの体を門の方向に向けてくれい」 「喜左衛門、おぬし、これでもまだ柳生に帰るつもりか」  喜左衛門は抱きとめようとするたすくの手をふり払った。 「六波羅蜜。わしの息のあるうちにたのむ」  たすくは喜左衛門の体を門の方へ向けてやった。 「ここからまっすぐ、正面が柳生の門よ」 「かたじけない。六波羅蜜。お主とさいごに話ができてよかった。お主は何者か知らぬがいい奴だ」 「どうしてもゆくのか」  喜左衛門の顔にはじめて深い悲哀が浮んだ。 「わしは柳生の人間だから柳生の門内で死にたい。ほんとうは大和の柳生の庄で死にたかったが……」  喜左衛門はよろりと歩み出た。そのまま道のなかばまでおのれの影を踏むような足どりで歩みつづけていったが、やがて人形が倒れるように地面に横たわった。  たすくは喜左衛門に背を向けて歩き出した。しばらく行ってからふりかえると、喜左衛門は柳生の門へ向って虫のように這っていた。這い進む喜左衛門の前に、柳生の門はなお遠かった。     二十四 青の魚  川魚料理|魚《うお》|銀《ぎん》の舟寄せを過ぎると、|上《うえ》|杉《すぎ》屋|小《こ》|七《しち》|兵《べ》|衛《え》の大川の寮。その先で二十間堀は急に幅をひろげて大川に出る。このあたりは|柳橋《やなぎばし》の川筋のほぼ中ほどのこととて、両岸は鳴物、弦歌のざわめきで満ちている。石垣の上に枝を垂らした柳のかげには、酔いにまぎれて客にうらみごとの一つも言おうという粋な|艶姿《あですがた》も見える。|猪《ちょ》|牙《き》|舟《ぶね》もたがいに|舷《ふなべり》を遠くさけて、ろの音もしのびやかにすれちがってゆく。遊びもこれから佳境に入ろうとするひとときだ。  今その二十間堀を|松《まつ》|前《まえ》|河《が》|岸《し》の方からゆっくりとくだってくる一隻の猪牙舟があった。低い仮屋根に四方を障子囲いに造り、その障子は開け放って青すだれに深く垂れこめている。船頭もなかなかの巧者でわずかな腰のひねりだけでろの音もなくすべってくる。長く|曳《ひ》いた|水《み》|脈《お》に両岸の灯が|綾《あや》を織ってゆらめいた。|三《み》|筋《すじ》|交《かい》舟番所の前を大きく迂回[#「迂回」に傍点]した猪牙舟はほの白く水面をひろげる大川に漕ぎ出していった。  ひき汐とみえ、くだり舟は早い。へさきにともした灯が星が流れるように迫ってくるかと思うとふなべりをざぶざぶとゆすって通り過ぎてゆく。 「今夜は|上《かみ》にもずいぶんと出ているで気をつけなあ」 「おいよう」  船頭どうしが声をかけあう。  さすがに大川は風がある。猪牙舟の青すだれがはたはたと鳴った。  そのとき、全く灯を消した小舟が一そう、二そうとゆくての川面にあらわれた。とまをかぶせた低いふなべりは|闇《やみ》にまぎれて流木かともまごう。 「あぶねえな! 灯をつけろい!」  言葉のなかばから船頭がのび上った。|笹《ささ》|舟《ぶね》のような黒い影は左右にわかれた。その間にもう一そういる。三方から猪牙舟をとりかこむようにろの音もせわしなく近づいてくる。 「だんな! なんだか妙ですぜ」  船頭がろを押す動きを手首にかえて青すだれの内に声をかけた。青すだれがそっと持ち上げられた。 「な、なにをしやがんでえ!」  船頭がさけんだ。左右にわかれていた舟が急に接近してきた。それと同時に正面の一そうは進路をおさえてのしかけてくる。 「てめえら!」  はさみこんできた左右の小舟のとまがおし上げられると、二、三人の人影がおどり出た。 「出てこい! 六波羅蜜たすく!」  声が終らぬうちに、とつぜん、一個の人影の手もとから、目もくらむ深青色の光の矢がほとばしった。一瞬それは猪牙舟の船頭の体に吸いこまれた。船頭の体のあったところにひとかかえほどもある白熱した火の玉がうまれた。それはごく短い間そこにとどまっていたが、すぐゆっくりと|川《かわ》|面《も》に落ちこんでいった。熱湯の|飛《ひ》|沫《まつ》が高く上り、火の玉の落ちた川面は真白な蒸気を噴き上げた。火の玉は水を煮えたぎらせながら水中深く沈んでいった。 「どうした! 六波羅蜜!」  絶対的な優位と自信にみちた声が川面をはしった。 「こんどはその舟を火の玉にかえてやろう。舟もろとも川底へ沈むか? それともあきらめていさぎよく出てくるか? どうなと好きにせい!」  とるべき方法はすぐに思いつかなかった。川にとびこんで泳いで逃げることは不可能だった。しゃにむに接近して切りこむことは敵が許すはずもない。 「六波羅蜜! 十かぞえるうちに出てこなければそれまでだ。いいか、ひとうつ!」  小きざみのろの音はゆっくりと近づいてくる。 「ふたあつ……みっつ……よっつ」  その声にしだいに殺気がみなぎってきた。 「いつつ……むっつう……ななあつ……」  敵はほんとうにやる気だ。ただのおどかしではない。ここでたすくの命をうばってもかまわないという判断がある。たすくは非常な危険を感じた。 「やっつ!……」  たすくはくちびるをゆがめてすだれをはね上げた。 「出る!」  ここのつ、という声が断たれ、 「よし、静かに出てへさき近く立て。こちらの問うことにつつみかくすことなくこたえよ」  たすくはへさきに立った。|上《かみ》|手《て》と左右のふなべりに近く、三そうのとま舟が|漕《こ》ぎ|寄《よ》せている。|下《しも》|手《て》があいているのは、三そうから火線を集中しやすくするためだろう。他に二そう、やや離れたところに浮木のように見える。 「六波羅蜜たすく。おまえの真の役目について聞きたい」  |左《さ》|舷《げん》のとま舟から声がした。 「おれの役目? 江戸北町奉行お支配。諸国産物吟味方与力格、というところだ」 「そんなことを聞いておるのではない!」  右舷の舟からたたきつけるように言った。 「役目は何か、と聞くから言ったのだ!」 「真の役目、と申しておるのがわからんか」 「だから、それが」  なんとかして時間をかせぐしかない。時間をかせいだとて、どうなるものでもなかったが、本能的にかれは事態の決定を引きのばそうとした。 「命がいらぬとみえる」 「六波羅蜜、松平伊豆とおまえの関係は?」 「関係もへちまもない。おれは以前、老中別手お支配で諸国……」  とつぜん、目もくらむ|閃《せん》|光《こう》がたすくの立つふなべりの上の水面に突き刺さった。おそろしい勢いで大気がふくれ上り、たすくの乗った猪牙舟はあやうく舟底をかえすばかりにつき上げられた。たすくは両手でふなべりにしがみついた。その頭にも背中にも熱湯が降りそそいだ。 「熱つっ!」  白熱した水蒸気が団雲となってせり上ってゆくのが、たすくの目に悪夢のように映った。ふなべりをつかんだ手のひじから手首までのひふ[#「ひふ」に傍点]がべろりとむけてたれさがっていた。熱湯で焼けただれたうでは全くしびれていたが、奇妙に痛みは感じなかった。 「六波羅蜜。熱湯につかってくたくたに煮られるのもよいだろう」 「かまわぬ。やれ!」  別な声がした。  たすくはついに自分の運命がつきたことを知った。死ぬことはすこしもおそろしくなかった。二度と|還《かえ》ることなく消えていった多くの仲間たちも、人知れずこうして命を落していったのだろうと思うと、心が水のように澄んでいった。たすくはなお木の葉のようにゆれる舟板に足を踏まえてさけんだ。 「さあ、やるがいい!」  そのとき、とつぜん頭の奥底で|誰《だれ》かの声がした。  死に向ってとぎ澄まされていたたすくの思念が無意識に方向をかえてその声を真向からとらえた。 「な、なにものだ!」  もう一度聞えたとき、それは聞きおぼえのあるはっきりした声になった。 「六波羅蜜。あるふあ、あおのうお!」  その言葉はたすくの体を電撃のようにつらぬいた。  たすくは顔を上げて四周を見た。暗い川面は死のように固着していた。たすくの舟をとりまく小舟はその死に漂着する不安の形象のようになかば夜に埋没していた。 「アルファ、青の魚!」  たすくはすばやく髪にさした|小《こ》|柄《づか》をぬきとった。つかがしらの白銀の円環を親指で強く押すと|籐《とう》で巻いたつかが幾つかの同じような円環に変った。たすくはすだれの中にとびこんだ。先ほどまで自分の|坐《すわ》っていた座ぶとんの上に、黒い小さな武器がのっていた。たすくはそれをつかみとると小柄の円環を押した。 「出てこい! 六波羅蜜たすく!」  声が終らぬうちに、とつぜん、一個の人影の手もとから、目もくらむ深青色の光の矢がほとばしった。一瞬それは猪牙舟の船頭の体に吸いこまれた。船頭の体のあったところにひとかかえほどもある白熱した火の玉がうまれた。それはごく短い間そこにとどまっていたが、すぐゆっくりと川面に落ちこんでいった。熱湯の飛沫が高く上り、火の玉の落ちた川面は真白な蒸気を噴き上げた。火の玉は水を煮えたぎらせながら水中深く沈んでいった。それは数瞬前の大川の川面だった。  たすくは漕ぎ寄せてくるとま舟の一そうにねらいをさだめて引金をしぼった。  銃口からくらいオレンジ色の波紋が脈動のようにひろがった。それは幻のように明滅しながらとま舟をつつんだ。そのあたりに目に見えない閃光がひらめいたような気がした。  異なった方向からふたたび深青色の火線がはしってきたが、それはほとんどねらいもさだかでないようだった。ふたたびたすくの銃口が幻影のようなかすかなオレンジ色の光波を描いた。  そのあと、暗い夜の川面に静けさがひろがった。  すさまじいエネルギーの波に|灼《や》けただれた大気も水も、すでにいつもの夜の大川にもどっていた。猪牙舟も、それを追うとま舟の影もなかった。川面をいろどる|凄《せい》|惨《さん》な戦いを見た者は川上にも、両岸にも多いはずであった。しかしその記憶はすでにかれらの心からは全く消えてしまっていた。なぜならこのとき、かれらは自分の経験した時間の一部を消し去られていたのだった。 「船頭さん、すまねえが舟をもどしてくれ、急な用事を忘れていた」  たすくは青すだれのかげから声をかけた。 「もどるのかね」 「すまないねえ。なに、手間賃は払うよ」  船頭はろをいそがしくかえしてへさきを回しはじめた。 「手間賃なんてそんな。せっかくの舟遊びを用事じゃしょうがねえな」  船頭は気の毒そうに言った。顔なじみの男だから不服も言わないが、漕ぎ出したばかりの舟をもどすのはげん[#「げん」に傍点]が悪いといっていやがる者が多い。  ほんとうはこれから大川へ出て火だるまになるはずの船頭なのだが、それを知っているわけもない。実際にはすでに水につつまれて川面へ落ち、それからもう一度、それが再現され、つまり二度、死んでいる船頭だ。  |舟《ふな》|宿《やど》、市川の舟着場にもどるとたすくは奥へ通った。 「おや、いかがなさいました」  市川のおかみが帳場のかげから立ち上った。 「急用を思い出してな。すまねえが、おかみ、|辻《つじ》かごを呼んでくれ」 「はいはい、いそがしいかたですねえ」  女中の一人を外へ走らせた。 「それで、お相手さんはよろしいんですか?」  たすくは途中で一人、客を乗せて舟遊びをする、と言ってあったのだ。 「それよ、もう一人、客を呼ぶんだ」 「あれ、まあ」  おかみはあきれたようにそでで口もとをおおった。|粋《いき》にぬいたえりからのぞく肌が、近ごろ脂をおびてひどくなまめかしい。昨年、この舟宿の主人だった亭主を失ってから、女手一つで大勢の若い衆や女中を指図して、いぜんにかわらず盛大に店をつづけている。  いつの間に言いつけたのか、女中が|膳《ぜん》に|銚子《ちょうし》と小料理をのせて運んできた。 「|紀州屋《きしゅうや》さん、かごがくるまでお口よごしに」  喜左衛門が倒れてから、はやくもひと月がたとうとしていた。  たすくはここでは紀州屋と名のっていた。おかみがつぐ|盃《さかずき》を、たすくはのどを鳴らしてあおった。酒が体中にしみこんでゆくようだった。たちまち一本の徳利をからにしてたすくは、ようやくいつもの自分がたちかえってきたような気がした。しかしそれに気づけば、立ちかえってきた自分はもはやいつもの自分ではなかった。 「あるふあ、あおのうお、か」  たすくは盃ごしにつぶやいた。 「なにか?」  おかみがいつものくせで、|艶《つや》のある視線を上目づかいに動かした。 「いや。なんでもない」  アルファ、青の魚。それは今までのたすくから本来のたすくに立ちかえることを意味する言葉だった。たすくをいっさいの時代的制約から時の流れの大河の中に解き放って、ほんとうのたすくに立ちもどる時の来たことを告げるそれは|緊急警報《スクランブル》だった。今こそ、たすくは自由だった。  アルファ、青の魚。 「おかごがまいりました」  女中が入口からのぞいた。たすくは腰を上げた。おかみの白い指先がそっとたすくのうでをとらえた。たすくは気づかないふりをして土間をぬけて外へ出た。もう二度とこの軒灯ほのかな大川端の夜のたたずまいの中に帰ってくることはできないかも知れなかった。そればかりではなく、これまで見知った多くの人々、また、名も知らず、言葉を交すこともなかった江戸八百八町の人々にも、もう二度と会うことはかなわぬのかも知れなかった。  たすくは笹の葉のゆれる門口に置かれた町かごに体を入れた。 「だんな。どちらへ」 「|御《お》|徒《か》|士《ち》町、|青《あお》|石《いし》|横《よこ》町へ行ってくれ」 「ほい。がってんのすけ!」  息杖をとん、とついて立ち上った。 「垂れをおろしてくれねえか」 「へい」  かごの屋根にはね上げてある垂れをおろして体をかくす。 「早いおかえりでございますね」  前棒をかついでいる男が腰で調子をとりながら声をかけてきた。 「ああ、ちょっと忘れていた用事を思い出してなあ」  舟宿市川には常入のかご屋だから、この二人はたすくも顔なじみだった。 「与作。市川のおかみは、たしか|下《しも》|総《うさ》の人だったな」  前棒の与作は呼吸をあわせながら、 「いんや。下総じゃねえな。たしか……」  たすくも一度聞いたことがある。だがそれは下総ではなかった。 「|上総《かずさ》だったかな?」  上総でもないのだ。それを思い出せぬまま、たすくはうわついた調子でつけたした。 「いつ見てもいい女だねえ。おいら、ちょっとほの字だよ」  |後《あ》|棒《と》の|忠太郎《ちゅうたろう》が間のびした声で言った。 「だんなはようすがいいからねえ。あのおかみさんはだんなを無くしてからというもの、全く男っ気ぬきでやってきたものなあ。だんながその気なら、あんがい落ちるかもしんねえぜ」 「そうだ! 思い出したぜ。だんな、おかみさんは|美《み》|濃《の》の人だぜ」 「美濃?」 「生れは美濃だが、早くからこっちへ出てきたという話だ」 「美濃ねえ」 「生家はもとはさむれえだというが、それはどんなもんかねえ」  忠太郎が口をはさんだ。 「ほんとうらしいぜ。江戸へ出てきたのが慶長の九年頃だって聞いたぜ。家がらがいいんだとよ。たしか、おう、そうだ加藤とか斎藤とかというさむれえだって話だ」  たすくは垂れの間から顔をのぞかせた。 「与作に忠太郎、おいらほんとうにどじ[#「どじ」に傍点]だねえ。さっき用事を思い出して、と言ったが、考えてみりゃあ、こんなにおそくなっちゃだめだ。行くのはやめだよ」  行足がとんとん、と鈍くなった。 「へえ」 「酒手ははずむから、また市川へもどってくれや。飲みなおしだ」 「そうですか、じゃ、もどしますぜ」 「ああ、そうしてくれ」  かごがわずかに横にふれて与作が回りこんでゆく。 「だんな。市川のおかみさんの話のあとは、かごをもどしてくれ、でやすか。さてはこれから口説いた上でしっぽりぬれようというこんたんで?」 「おいおい、客にそう恥をかかせていいのかい。まあ忠太郎の話がほんとだとすれば、あのおかみさんは美濃の人、おいらも実は美濃の生れよ。どうだえ、美濃生れどうしとなりゃあ、これはいっぺえさしつさされつ飲みたくもなろうという寸法じゃねえか」 「てへっ! 美濃どうしとは泣かせるでねえか! |石《いし》|童《どう》|丸《まる》はみのを着てえ、か。だんなも口はうまそうだから」 「さあ、そうとわかったらいそいでくんな」 「ほい」 「ぐるっと回して、とうん! と出てくんな」 「はいっ!」  与作と忠太郎は呼吸を合せて右と左に飛び交うようにかごを回した。せまい町中でかごを回すのは年期がいるとされていた。乗っている客をふりまわすことなく、かごを水平に一回転させるのは見た目にもみごとな足さばきであり、これができるようになれば、かごかきとして兄い分になれたといわれる。  かごがもと来た方へいそぎはじめたとき、二つの黒い影が横丁へすべりこむのを、たすくは垂れの間からすばやく見てとった。あきらかにたすくのあとをつけてきたものにちがいない。しばらく進んでからそっとうかがうと、黒い人影はふたたびあとをつけてきていた。  ——敵はかなり焦りはじめている。  たすくはたばこ入れをぬきとると、きざんだたばこの粉の下から小さな練土の玉をとり出した。親指の先ほどの乾いて重い練り玉の一か所を強く押すと、たすくはそれをかごの外へ落した。  出てきたばかりの舟宿、市川へもどるとたすくは多過ぎるほどの鳥目を与えて二人を帰した。 「あら、紀州屋さん」  格子戸の開く音に走り出てきた女中は、たすくの姿に目を見張った。たすくは女中の体をおしのけるように奥へ通った。  帳場に坐っていたおかみが、たすくの足音に顔を上げ、そこに立っているたすくの視線にぶつかって思わず腰を浮かせた。一瞬、その|眉《まゆ》にははげしい警戒の色が流れた。 「ど、どうなさいました?」  たすくはそこへどかりと腰をすえた。 「やっぱりやめたよ。おかみ、ここで飲むことにした」  おかみは急にとってつけたような笑いを浮べた。 「まあまあ、紀州屋さん、いそがしいこと。でも、うれしゅうございますよ。やっぱりここで飲むことにしたなんて。ねえ」  おかみは大げさとも思える身のこなしで奥へ向って声を張り上げた。 「おつた! お銚子と何かみつくろって……お部屋はそうね、えの間がいい」  酔客の一団が階段をおりてきた。おかみは小さく口の中で舌打ちをすると、客を送るために立ち上った。 「さ、紀州屋さん。ゆっくり飲んでいってくださいましね。あとで私もごいっしょに」  たすくは女中にみちびかれて階段を上った。  二十間堀に面した部屋は、生きかえるような川風が吹きぬけていた。堀を大川へ漕ぎ出してゆく遊び舟のろの音がたたみからわき出てくるようだ。となりの部屋からは三味線に合わせて|唄《うた》うしぶい声が聞えてくる。今夜は客がたてこんでいるらしい。近頃は舟を漕ぎ出して川の上で遊んだあと、座敷へ上ってゆっくりと飲みなおす客がふえている。江戸の遊びもかなり手がこんできた。ようやく開府以来の殺ばつな空気が薄くなってきたせいなのだろう。たすくはひとり盃を口に運んだ。  一時間ほどたったころ、となりの客が帰っていった。それが合図であるかのように、にわかに廊下や階段で酔客の足音やざれ言が聞えはじめた。 「またおいでなさいまし」 「お待ち申しておりますよ」  呼ばれていたらしい芸者や、女中の声がにぎやかにからむ。やがて器をとりかたづける女中の足音が足しげくゆき交うと、舟宿市川の内部は急速に夜ふけの静寂を濃くしはじめた。階下の軒端にせまった堀の水が石垣を洗うかすかな音がはい上ってくる。  たすくはくちびるに当てた盃をそっと膳の上にもどした。  遠い遠いどこかで、かすかに動くものの気配があった。それは想像もつかないようなある距離と隔絶された位置から、それだけはあきらかにはっきりと指向された意志を持ってたすくに近づいてきていた。  たすくは髪にさしていた小柄をぬくと目釘をはずし、|鯉《こい》|口《ぐち》をしめている|唐《から》|金《がね》の円環をぬきとると、それを円形に押し開いて左の中指にはめた。近頃、長崎から渡来する舶載の指輪に似ていないこともない。たすくは分解したままの小柄を、縁側から目の下の暗い掘割の水面へ向って|投《な》げ|棄《す》てた。     二十五 舟宿のおかみ  たすくがふたたび盃をとり上げたとき、 「おまたせしました」  障子の外でおかみの声がした。  階段を上る足音も、廊下を近づいてくる足音もたすくは耳にしていなかった。 「さ、お入りよ。待つ身はつらいとはよく言ったものだ。さあ、さあ」  たすくは音をたてて盃を置くと腰をのばして障子を開いた。おかみが|匂《にお》うような笑顔でひざから入ってきた。 「ねずみに引かれやしないかと、それは心配でござんしたのさ。まあ、今日はいつになくお客がたてこんで」 「入った、入った。さあ、ゆっくり飲もうじゃないか」  おかみは運んできた銚子を膳のわきに置いた。 「おひとつ」 「まずひとつゆこう」  たすくは膳の上の盃をすかさずおかみの手にあずけると銚子の底をふった。おかみの表情に変化はない。銚子をふって底に沈んでいる毒物を浮き上らせ、つぎかえした盃で相手の命をうばう方法もある。  おかみは白いのどをあお向けて盃を飲み干した。その盃をかえそうとしてさしのべたうでを、たすくはとらえてぐいと引きよせた。ふいをつかれたおかみは本能的に身を引いた。その動きに合わせてたすくはたたみをすべった。のがれようとしたおかみが片ひざをたてたときには、たすくはすでにおかみの両手首を背後からとらえて高くねじ上げていた。 「痛い、痛っ! な、なにをするのさ!」 「わかっているだろう。おかみ、おまえさんの体がほしいのさ」  おかみは必死に身をよじって両手を解きほぐそうとした。 「そ、それならなにも乱暴しなくたって、わかっているじゃないか。いやだねえ」  その声にはっきりと安堵のひびきがあるのをたすくは聞きのがさなかった。たすくはすばやくおかみの帯をほどくとそれで両うでをしばり上げた。 「放しておくれよ!」  たすくの手はおかみの着ているものを左右におし開いた。二つのみごとな隆起があらわになった。胴を巻いている腰布のひもに手がかかったとき、おかみは全身の力をあずけてたすくにぶつかってきた。たすくはその体をたたみに突き倒しながら腰をおおっている布をはぎ取った。おかみが、ひっと悲鳴を上げた。おかみはようやく急迫した事態をさとったらしい。その目にはげしい恐怖が浮んだ。  おかみはくちびるをゆがめ、たすくの知らぬ言葉で何か低くさけんだ。 「静かにしろ。じたばたすると見苦しいぞ。おれのきくことにすなおにこたえればよし、こたえぬとあらば、その先は言わぬでもわかっているだろう」 「い、いったいどうしたというんだよ。ええい、気でもちがったかえ」 「とんでもねえ。なあ、おかみ。おれはさっき大川で妙な奴らにおそわれたのよ。妙な奴らにな」 「それがいったいどうしたというのさ!」 「いいか、ようく聞けよ。おれがこの舟宿を出たのを知っているのは、おかみ、おめえだけだ。おれは船頭が舟を漕ぎ出して舟番所の前にさしかかってから行先を言ったんだ。あとは女中にも言ってやしねえ。ところが妙な奴らはそのずっと上手でおれが近づくのを待っていやがった」 「知るものかえ!」 「舟のすだれはおろしたきりよ。舟着場から舟に乗るまでは、それは誰かに見られたかもしれねえが、それじゃ待ち伏せのてだてにはならねえぜ。おれがあそこを通るってことを知っているとすれば、おかみ、おめえだけだ」 「知らないよ! そんなこと」  たすくのうでの中でもがきまわったために、着ているものは両肩からすべり落ち、おかみの豊かな白い体は明るい灯の下にむき出しになった。高く突き出した乳房、厚みのある腰、円柱のような太いもも。へその下まではい上った黒いしげみ。それは女体の機能と形態を最大限にそなえていた。 「よし、言わねえとなれば」  たすくはしばり上げたおかみの両うでを高くねじ上げた。おかみの口からおしころした苦痛のうめきがもれた。 「肩の骨がおれるぜ」 「言うよ! 言うよう!」  おかみがえびのように体をおってさけんだ。 「お、おどかされたんだよ! うちに火をつけるって」  たすくは力をゆるめた。 「は、話すからうでをほどいておくれよ。うでがおれそうだよ」  たすくは帯をほどいてやった。 「話しな!」  おかみは自由になった両うでを痛そうにさすっていたが、やにわにとびのくと自分の右手を両足の間にさしこんだ。  たすくの待っていた一瞬だった。たすくの手を離れた銚子がおかみのひたいを打った。目がくらんだか、後へ大きくよろめいて壁を背にしたおかみは、ずり落ちながらなお右手を奥深くさしこもうとした。たすくはその右手を引きぬいた。たたみにねじ伏せておいて両足を引き裂くようにおし開いた。もものつけ根のせまい|空《くう》|隙《げき》は生娘よりもすべすべしていた。あるかないかのひだが透きとおるような|翳《かげ》を作っている。たすくは濃いしげみをいっきにはぎ取った。その下からあらわれてきたひふは大理石のように白い。形ばかりの|小《こ》|孔《あな》から指一本でそれをとり出すのは相当に骨のおれる作業だった。  おかみは死んだように手足を投げ出していた。たすくはぬきとったそれを灯にかざした。  直径二センチメートル。ガラスでもなく、強化プラスチックでもない。おそらく未知の透明物質であろう。内部に髪の毛よりも微細な銀色の|線輪《コ イ ル》や砂粒よりも小さな球体や円筒を組み合せた精巧な機構がすき間もなくつめこまれていた。球体の表面には|爪《つめ》がひっかかるほどのわずかな突起があった。それを動かしてみるとその透明な球体全体は外殻と内殻との二重の構造になっていることがわかった。  うたがいようもなくそれは時間や空間を自由に制約することのできる|装置《マ シ ン》だった。それを見つめるたすくの目にはげしい色が浮んだ。たすくのひたいはしだいにつめたく|濡《ぬ》れてきた。 「われわれよりもはるかに進歩した技術だ。おそらく西暦七十世紀あたりだろうか」  予想したよりもはるかにすぐれた敵であった。たすくは容易ならぬ事態がおのれの前に立ちふさがっていることに耐えられないほどの不安を感じた。  たすくはその透明な球体に収められた精巧な|装置《マ シ ン》を胴巻の間におしこんだ。 「おい! まずはっきりこたえてもらおうか。おまえは柳生但馬守宗矩と名のっている男のグループの一人だな」  おかみは全く感情のない目でたすくを見上げた。 「いくら精巧なマシンを造ることができても、それだけでは何もならない。見ろよ! おまえの体を。おまえの時代ではもはや性交などということは古代史の中の小さな挿話に過ぎないのだろう。だが、この時代にやってくるつもりなら、なぜその体を造りなおしてからこなかったのだ? その体でおれと寝なければならぬ必要がおこったときにはどうするつもりだったのだ。ええ?」  おかみはむき出しになった下半身を投げ出したまま、ひとことも口を開こうとしなかった。たすくは自分の言葉が理解されるはずもないことを感じた。なんの結びつきもなしに大七のぼろきれのような死体がはっきりと目によみがえってきた。荒々しい憎悪がたすくの顔を別人のように変えた。  その下肢をおしひろげ、たすくがのしかかったとき、はじめはそれがいかなる行為を意味するのかわからなかったらしいおかみも、とつぜん、たすくの体重が自分の体の一点に集中されてくるにおよんでおそろしい悲鳴を上げた。たすくはおかみの着物のそでを引き千切るとのけぞって大きく開いた口の中へおしこんだ。おかみの白い顔は苦痛でゆがんだ。七十世紀では退化までとはいかないが、数十世代にもわたって用いられたことのないそれは、すでにたすくを収め難いほどに未発達の状態になっているのであろう。おかみの体は強烈な痛みに耐えかねてばねのように反りかえった。 「おい! よく聞け。春日局に入れかわったのはおまえだな! 稲葉佐渡守の妻、お福を人知れず殺害し、そのあとに入れかわった」  たすくはおかみの顔をねじむけて耳もとでさけんだ。そうでもしなければ苦痛に息もたえだえのおかみには聞きとることもできないだろう。 「ちがうか! おまえが春日局になりかわり、一方では仲間たちが柳生の一族に化け、そうして内外から小清水麗子という娘の所在を探索した。そうだろう? 言え!」  おかみは苦痛にもだえながらも答をこばんだ。たすくは腰に力をこめた。ただの一度も卵子を着床させたことのない、薄紙で包まれたような軟い内臓は没入し展張しきって鮮血を噴き出した。引き裂かれる苦痛と死の恐怖は閉ざされた口と肺をまりのようにふくらませた。  このような荒々しく粗野な拷問などかれらには想像もつかなかったことであろう。かれらにとっては、たとえ強制的にせよ情報を得るのに相手の肉体に圧力をかけるなどということはおそろしく旧式なやりかたにちがいない。相手の体に全く手を触れることなしに、その大脳から、持てる知識や情報のすべてを抽出するぐらいかれらにとってはたやすいことであった。したがってそうした方法に対する対抗策はおそらく|完《かん》|璧《ぺき》であろう。だが今、ここでかれらの一人が加えられている拷問はそうした対抗策などではいかんともなし難いものなのだ。 「言わねばこのまま殺す!」  二、三回たすくの腰が荒々しく動いた。おかみはひん死の動物のようにうめいた。その目に絶望的な敗北感があふれた。はじめてたすくの意に従おうとする意志が動いた。たすくはおかみの口の中から着物のそでを引き出した。 「言え!」  おかみはあごを動かすための悲惨な努力をはじめた。 「われわれは小清水麗子を抹殺しなければならない……」 「なぜ?」 「……人類が……人類が滅亡する」 「人類が滅亡する?」  おかみは深く息を引いた。 「つづけろ!」 「……六波羅蜜たすく。おまえが時間局員であることはわれわれもよく知っている。六波羅蜜、八八七六年に何が起きるか、おまえが知らないはずは……ない」  たすくは一瞬、はげしく動揺した。  ——八八七六年? そこでいったい何が起きるというのだ? 人類の破滅だなどと!  だが今、ここでそれをたずねるわけにはいかなかった。 「それで?」 「……滅亡を前にして、何とかしてそれを回避しようとこころみない者があろうか。たとえそれが亡びにいたる必然性を内包していたとしても……」  たすくはおかみの体から離れて立ち上った。 「すると、おまえたちはその八八七六年からやってきた、というわけか!」 「それに近い時代からな。八八七六年におこるある事件と、あの小清水麗子の間に深いつながりがあるのだ」 「ばかな!」  おかみは苦痛に顔をゆがめて上体を起した。 「六波羅蜜。われわれの活動の妨害はゆるさぬ。おまえたちこそ手を引け!」 「ふざけるな!」  おかみは鋼玉のように光る眼でたすくを見つめた。 「六波羅蜜、人類を亡ぼすものこそおまえたち時間局員ではないか。未来の破滅がこの歴史の中に必然性としてふくまれていることがはっきりしている以上、この歴史そのものを、破滅の要因が投げこまれた時点までさかのぼってそれ以後の歴史を作りなおすのがいちばんよいやりかたではないか。それをおまえたちは……」 「さあ、立て! おれといっしょに来るんだ」 「どこへ」 「どこへだと? おまえ、今自分の口で言ったろう。おれは時間局員だ」  とつぜん、室内の空気が|弓《ゆ》|弦《づる》のようにするどく鳴った。たすくは体をひねって窓へ飛んだ。廊下に面して閉ざされていた障子が一瞬のうちに骨だけ残して無数の紙片となって吹雪のように舞い散った。砂壁の表面が砂けむりを上げて崩れ落ちた。全身に針が刺さるような痛みがわいた。超音波銃だった。毎秒数十万サイクルの振動波は、すべての物体にすさまじい共鳴を起し、崩壊させてしまう。まともに浴びたら神経細胞が壊滅して即死はまぬがれ難い。すべてのかすがいが飛び、くぎがぬけ落ち、みるみる天井が落下してくる。たすくは体を丸めると目の下の暗い堀の水面へ体をおどらせた。おかみの笑い声があとを追って聞えてくるような気がした。     二十六 時間局  落下の慣性をそのまま推力に移してたすくはいっきに水底まで沈んでいった。肺の中の空気をしぼり出して残った浮力もすてると水底に腹をすってひたすら|四《し》|肢《し》を動かした。堀の中ほどで急角度に向きをかえ、舟宿市川からいくらも離れていない石垣の根にとりついた。|水《みず》|苔《ごけ》でぬるぬるする石の間に指を入れて体をささえる。その腕の間を、かなり大きな魚が身をくねらせてゆくのが感じられた。頭の奥底がなまりのわくでもはめたように鈍く感覚を失ってきた。全身が空気を求めておそろしい渇きをうったえている。それにほんのわずかでも負けたら、たちまち|厖《ぼう》|大《だい》な量の水がどっと肺に流れこんできて破裂させてしまうだろう。たすくは少しずつ体を動かして石垣に沿って体を浮かせていった。少しでも急激に体を動かしたら肺はひとりでにふくらんで瞬間の死をまねくだろう。  長く苦しい作業の果に、たすくの顔はようやく水面にのぞいた。たすくは両手で鼻と口をおさえ、わずかに作ったすき間から少しずつ空気を吸いこんだ。みるみるたすくの全身は新鮮な空気に洗われて燃えるように熱くなった。水音を殺して石垣を|這《は》い|上《あが》った。二軒ほど間をおいて市川の凝った造りのひさしが黒い影になってのびていた。その二階の灯は消えている。おかみはどうしたろうか? たすくは暗い二階にひとみをこらしたが、そこには何の気配も感じられなかった。しかし今ごろはかれらの探索の手は江戸八百八町のすみずみまでおよんでいることだろう。たすくは闇に身をひそめて水に濡れた着物をしぼった。 「六波羅蜜……六波羅蜜……」  そのとき、闇のどこかでたすくの名を呼ぶ声が聞えた。 「伊豆守さまか」  闇の中からその闇の一部が分裂したかのように一個の黒い人影があらわれた。 「大丈夫か?」 「なんの! これしき」  伊豆守は全身を包んだ黒衣をするりと脱いだ。その下にも同じような忍びの衣装をつけている。伊豆守は脱いだものをたすくにわたした。 「早く着ろ!」  帯を固くしめて水にぬれた熱線銃をふところにねじこんだ。 「行くぞ!」  風のように音もなく走る伊豆守についてたすくも走った。  途中、大塚の小さな墓地で短い休息をとっただけでひた走りに走った。二人が赤羽郷にさしかかったときは、東の空にほのかな暁の色がさしはじめていた。森も木立も丘も、すべて墨をぼかしたようなつめたい水色に閉されていた。  |田《た》|端《ばた》、駒込から|中《なか》|里《ざと》、|稲《いな》|付《つけ》へとつづいてきた山々が、いったん|崖《がけ》となって終り、|荒《あら》川の川風をさえぎる浮間や袋の丘陵地帯と向き合っているその間の谷間が岩淵の村だった。このあたりの山々は|材《ざい》|木《き》が多く、十数戸の家々も内福とみえて高大なわらぶき屋根の軒も深い。遠く近く鶏の鳴声が未明の静けさを破って聞えてくる。二人はその村をかけぬけると、村を眼下に見おろす|諏《す》|訪《わ》神社の森の石段をのぼった。境内をそれてうっそうと木々のしげる斜面をすべり降りる。岩肌をつたう|湧《ゆう》|水《すい》に体をぬらしながらまわりこんでゆくと、深い雑木の木立の中にかたむきくずれかかった荒寺があった。息をひそめて周囲のようすをうかがった。危険の気配はない。  二人は下草のしげみをかき分けて本堂の前へ降りていった。  本堂の内部は厚くつもったほこりと垂れさがったくもの巣の幕におおわれ、ここがもう永い間、人に見棄てられたままであることを物語っていた。伊豆守は小形の|投光器《スポット・ライト》をとり出すと、それとは見分けがたいほど朽ち果てた|須《しゅ》|弥《み》|壇《だん》の下を照らした。短く点滅をくりかえすと、ふいに須弥壇の下の床がゆっくりと横にすべり出した。一メートル四方の暗い穴が開くと、|投光器《スポット・ライト》の光の輪の中に一人の男の顔が浮かんだ。その顔にたすくは見覚えがない。  階段をおりてさらに分厚なハッチをくぐると、そこは十メートル四方ほどの明るい部屋だった。壁を埋める無数のパイロット・ランプがあらしのように点滅し、光の矢を流している。数十個のリールが右に左に、緩急さまざまの回転をつづけていた。 「六波羅蜜。B三二一支局から応援に来てもらったT|0《ゼロ》T|0《ゼロ》—三一号だ。コード・ネームはクレイだ」 「B一六三四移動局・駐在員KC四四。コード・ネーム、ロクハラミだ。よろしく」 「あなたの名前は分局長からよく聞かされていた。クレイだ」  二人はがっしりと手をにぎり合った。  たすくは視線を周囲になげた。 「耕助たちはどうした?」  クレイは、すでに部屋の奥へ通った伊豆守の背にあごをしゃくった。 「ボスの指令で、一九七〇駐在員のところへ送った。ここには医療設備もないのでな」 「よし。二人ともこちらへ来てくれ」  分局長の松平伊豆守が二人を呼んだ。三人は部屋のすみのテーブルを囲んだ。 「われわれの総合調査の結果と、|時 間 監 視 局 本 部《タイム・パトロール・アンド・インテリジェンス・サービス》の資料にもとづく状況はこうだ」  |時間監視局《T・P・I・S》——五九六一年。当時、月面の晴の海にあった『時空間物理学研究所』は時間と空間の|制《せい》|禦《ぎょ》に関する一つの新しい理論をうちたてた。それはすでに五百年も前から地味な幾つかの実験を通じて一部には知られていたのだが、晴の海の科学者たちはそれを現実的な一個の電子装置に結集させた。これは歴史にとって、人類にとって極めて重大なニュースであった。  猫の首につける鈴と同様で、ひとたびそれがなされてしまえばもはや危険は危険でなくなるし、好奇心や利害関係だけがそこにひそむ決定的な破壊をも容易に受け入れさせてしまう。自由な時空間制禦を拘束する法的処置がまだととのわぬうちに、最初の|制禦機《コントローラー》が出現したことは、そのあと長い混乱と文明の崩壊すら予測されかねない破壊とをもたらしたのであった。  初期の時空制禦機——タイム・マシンを用いて時間旅行者たちはわれがちに過去や未来へわたって手を触れてはならない多くの事物を破壊し、また自分たちの時代へ持ち帰った。勝手気ままにクロマニヨン人に一九〇〇年代の自転車を与えたり、シーザーの暗殺者たちに自動|拳銃《けんじゅう》を提供したりした。またある者たちは集団でオリンポスの山へ観光旅行におもむき、多数の善良なギリシアの人々に精神的なダメジを与えたり、幼稚ないたずら心から中生代の巨大な恐竜をアレキサンドリアの図書館の中庭に現出させたりした。かれらにしてみればまことにたわいのないこうした一連の行為が、文明の発達——正しい歴史の進歩にひどいゆがみを与える結果になったのは当然であった。  こうした事態をいつまでも放置しておくことは、やがて確実に人類の破壊をまねくことになる。日一日と危機は増大していった。  五九〇〇年代も終りに近いあるとき、人類はついに『時空間制禦』を一つの権威ある機関の手にゆだねることに決した。もはや論議も思考実験も人類には許されていなかった。こうして『|時間監視局《T・P・I・S》』は生れた。  時間監視局——略して時間局は一億年単位ごとに置かれた総局とそれに属する一千万年ごとの支局、さらにそれに属する分局や移動局よりなっている。たすくは西暦一六二八年から一六四八年の間を担当する|時代《コ ー ド》|駐在員《アンカー》だった。|駐在員《アンカー》は全くその時代の人間になりきって生活していなければならない。周囲の誰もが、その人物が時間局員であるなどとは気がつくはずもないし、またいささかでもうたがいを持たせてはならない。時代駐在員はしばしば結婚し、子供までもうけている場合もあるが、家族とて自分の夫や父が時間局員であるなどとはつゆほども知らない。  時間局員は、あらゆる時代から厳選され、集められた男女をきびしい訓練をかさねてさらにふるいにかけ、さまざまな時代に配置されてゆくのだが、たすくのようにその時代の人間から現地採用的に局員として採用されることもあった。  かれら時間局員は、時間局員になったその瞬間から、ごく一般的な意味でもはや人類ではなくなる。人類でなくなるというのは、かれらにはもはや『死』がなくなるからである。生れ育ち、そしてやがて死をむかえるというのが人類のひとしく生に関する|定形《パターン》であるのなら、かれら時間局員にはそうした不可避的な生命の発展の方向というものはない。  かれらの好みの肉体の状態をほとんど半永久的にとどめておく医学的処理がなされる。駐在員の場合は周囲の人々と同じように年月の経過にともなった肉体的変化は与えられているが、ある時点まで達すると|駐在員《アンカー》は引揚げられ、時間的な生理学的処理を受け、ふたたび他の時代へ投入されることになる。したがってかれらにはふつうの人々との間の人間関係の結解には鉄のような意志と任務への自覚が絶対的な必要条件となる。一部の人々はこの時間局員の置かれたあまりにも非人間的な状態にはげしい批難を加えたが、時間を越えて行動するものに、時間的制約の情緒的産物である人間性を|云《うん》|々《ぬん》してみてもはじまらないのだった。かくてかれらはかぎりない時の流れに同化していったのだった。 「柳生一族、春日局などになりかわった連中は八七二一年からやってきたのだ」  伊豆守の言葉にたすくは体をのり出した。 「舟宿市川のおかみは八八七六年に人類は滅亡すると言った。伊豆守さま。八八七六年にいったい何があるのですか!」  伊豆守はあごをかみしめてたすくに向きなおった。組んでいたうでをほどくと、テーブルにひじをついて口を開いた。  壁に設けられた厖大な電子装置のどこかで短くブザーが鳴った。クレイがすばやく立って行った。 「たすくは駐在員としての訓練教程を受けただけだから八八七六年の終末項については知らないと思う」 「終末項?」 「たすく。八八七六年に人類はある理由で絶滅する。これはすでに時間監視局本部でも確認したことなのだ。八七二一年から潜入してきた連中も当然、それを知っていてその対策に必死になっているのだろう」 「分局長。人類が滅亡するとわかっていて時間局としては傍観しているのですか!」  伊豆守は静かに首をふった。 「まて、たすく。おまえの言うのももっともだが、そのまえに人類がなぜ滅亡などという事態をむかえねばならないのか、それをよく知っておかねばならん」 「滅亡の原因は?」 「三〇〇〇年代のなかばにすでにその兆候はあらわれたと言ってよい。ただ当時は誰もがそれには気がついていなかった。しかし一部の超心理学者たちはくりかえし警告はしていた。後年、タイム・マシンが出現して人類ははじめて滅亡への必然性を発見したと言えるだろう」 「分局長! いったいどのような理由で?」  松平伊豆守は眼をちゅうに遊ばせていたが、やがてたすくの顔に視線をもどした。 「たすく、八○○○年代の人類のありさまを見せてやろう。そこでどうしなければいけないかは、おまえが自分で考えるんだ」  たすくは一瞬、くい入るように伊豆守の目の奥を見つめた。それから自分自身にうなずいた。 「行きましょう」  そのときクレイがたちもどって手にした長いテープを分局長の伊豆守にさし出した。それを読む伊豆守の眼がけわしくかがやいた。 「なにか?」 「ついにやつらが決戦をいどんできた」 「決戦を?」 「柳生但馬守宗矩の名で高札をかかげたぞ。名目は柳営での御前試合だ。たすく、おまえの名が入っている。これは、あきらかにわれわれに対する挑戦だ」 「御前試合とは考えたな」 「松平伊豆守手の者、六波羅蜜たすく、とあっては、たすく不参加あるいは敗北の場合、わしの失脚はまぬがれぬな。実にたくみなさそい出しよ。だが、たすく、そのことはあとだ。行くぞ」  二人は立ち上った。           *  とつぜん、すさまじい光が|眼《め》の前に|炸《さく》|裂《れつ》した。それはすべての物体を一瞬に灼きつくし、この世から影という影をうばいさってかがやきわたった。たすくは思わず両手を眼に当てた。しかし光はそれによって少しもさえぎられることはなかった。たすくはさらに強く両手を眼におし当てた。白熱のかがやきに、たすくの眼球はついに乾ききって網膜が薄片となって|剥《はく》|落《らく》した。 「眼が!」  たすくは視力を全く失うことの恐怖に打ちのめされた。 「眼が見えない!」  しかし、たすくの周囲でおどり回り、かがやきはじける光の炸裂は少しも弱められなかった。視力は失われていない! 眼球はとうに灼け崩れてしまったはずなのに! たすくは心の中でさけんだ。とつぜん、たすくはその眼におし当てているはずの自分の手がなくなっていることに気づいた。無い! ないのはそれだけではない。うでも、肩も、それにつづく胸も、体全体が、自分の体のすべてがないのだ! 「これは!」  自分の存在は無に帰してしまったのか、と思った。これが死というものなのだろうか、心のどこかでそれを冷静に見つめながら、一方では錯乱に向って石のように転落していった。 「どうした? たすく」  ふいに耳もとで|聞《き》き|馴《な》れた声がした。その声が急速にたすくを現実に呼びもどした。 「あ、伊豆守さま!」 「伊豆守さまもないものだ。しっかりしろ! おまえ、耐時間|遡《そ》|行《こう》訓練は忘れたのか?」  たすくは必死に思考力をかき立てた。 「忘れてはいないけれども、やはり」 「神経的に打撃は受ける。その打撃が後遺症にならぬように、われわれは訓練を受けたのではないか」 「そうでした」 「〇・三秒ほど止まる。座標はA。Yイコール九一六・二三〇。Xイコール七〇〇四・三二五。Zイコール○・○○八。誤差許容範囲マイナス八。|時代《コ ー ド》一六五七・BO一一八。T二〇・四三・〇三。時計を合せる。八……七……六……五……四……三……二……一……|○《ゼロ》」  |○《ゼロ》! の声とともに周囲は暗黒に閉された。その暗黒の奥底からつなみのような地ひびきがうねり起ってきた。ゆっくりと、おそろしくゆっくりと、暗いほとんどかがやきのないオレンジ色の山々が幻のように浮んできた。周囲は決して暗黒ではないことがわかってきた。眼を灼く強烈な白熱の光の渦の中から、どうやら現実の光学的世界へもどったようであった。眼が馴れるにつれてそれは昼の世界とまごうばかりに鮮烈に眼に映ってきた。  暗いオレンジ色の山なみと思われたものは高い夜空を焼く真紅のほのおだった。  天にもとどくような巨大なほのおのかたまりになって燃え狂っているのは、小石川鷹匠町一帯と思われた。その右につづく小石川柳町へのくだり坂は、すでに幾重にもほのおの壁にさえぎられ、そのむこうの|白《はく》|山《さん》|御《ご》|殿《てん》町へんのまだ火をかぶっていない木立の暗がりへの逃道を完全にふさいでいた。聞く者の心を引き裂くようなすさまじい悲鳴や絶叫は、その柳町へのくだり坂で渦巻いていた。ほのおのかがやきに照らし出されてうごめいている人々の数はおよそ三千人にもなるだろうか。背後からは伝通院の広壮な|伽《が》|藍《らん》を|呑《の》みつくした厚い火の壁が迫りつつあった。逃げまどう人々の生命も、もうあと何分ともたないであろう。  はるか南の空も一面に火の色に染まっていた。北と北東、駒込から田端、動坂にかけての空はかがやく黄金色の|波《は》|濤《とう》だった。吹雪のように舞い狂うおびただしい火の粉が、つぎつぎと新しい火焔の渦を作り出し、それがみるみるうちに四方にひろがってひとつづきの広大な火の海となった。注水作業も破壊作業ももはや全く行われていないようであり、江戸八百八町の町人たちはただ火に追われる虫のように逃げ回るだけであった。 「明日の夜ふけまでに死者十万七千四十六人がでる」  松平伊豆守は暗然としてつぶやいた。  この夜、つまり|明《めい》|暦《れき》三年一月十八日。本郷|丸《まる》|山《やま》町の|本妙《ほんみょう》寺から出火し、翌十九日朝八時までに日本橋から深川、本所へんへと延焼。それが燃えさかっているうちに十二時ごろ、小石川伝通院前、鷹匠町から出火、北は駒込より|根《ね》|岸《ぎし》へ、南は|芝《しば》、|三《み》|田《た》へ。ところがその夜、七時、|麹《こうじ》町から三度目の出火があり、これは江戸城から城をとりまく多くの大名屋敷を総なめにして二十日朝にいたり、全く燃えるものがなくなって自然鎮火。この三方向からの時を違えた火の手により、大名屋敷五百。旗本屋敷七百七十、寺社三百、蔵九千、橋六十、四百町。片町八百町、亡失という凄惨な地獄図絵を現出した。いわゆるふりそで火事だった。 「たすく。西暦一六五七年一月一八日二〇時四三分。ポイント1。二〇時四九分三〇秒の本妙寺の境内の東のすみに駐在員が六部の姿で立っている。誤差許容範囲マイナス八だから肉眼で三秒ほどは認められるだろう」 「すると、その駐在員はつねにほのおの中に立っているわけですか?」 「時間旅行者の眼から見ればそう見えるだろうな」 「なぜわざわざそのような危険な場所にいるのだろう。もっと安全な所を|駐在地《アンカーポイント》にえらんだらよいのに」 「たすく。もし未来か、あるいは極めてまれに過去から時間旅行者がまぎれこんでくるとすれば、ふりそで火事で大混乱をおこしている江戸など絶好の場ではないか」  伊豆守は猛火につつまれている丸山本妙寺の方角に強い視線をそそいだ。その火の海になった境内の東のすみに、火の粉を払いながら影のように立っている白衣の六部の姿が見えるような気がした。実際、どこの|時代《コ ー ド》にあっても|駐在員《アンカー》というのは楽ではなかった。 「出発する。時計合わせ!」 「マイナス八……七……六……五……」  たすくのタイム・マシンの時空圏が伊豆守のタイム・マシンの時空圏を包摂してゆく。これがほんのわずかずれていたら、もうそれだけで二度と出会うことは不可能になる。一秒前、一秒あとでもそれは数千年、数万年をへだてたことにひとしい。厳密にいうならば小数点以下、無限にゼロをつづけたのちの一秒あとであっても、あとから来た者にはその背中さえ見ることはできないのだ。だから時間潜入者はその間を影のように縫ってゆく。一瞬、あらわれて消えた人影はいったい未来へ向って去ったのか、それとも過去の方向へ去っていったのか、見当もつかない。それを追う時間局員はただ完備された情報網の|触手《ネットワーク》にえものがかかることをねがうだけなのだ。その情報網の触手こそ、たすくのような|時代《コ ー ド》|駐在員《アンカー》の任務だった。 「……四……三……二……一……○」 「OK!」  一瞬、たすくの視野はふたたびすさまじい光の渦でいっぱいになった。明るさの異なったさまざまな光のはためきにつれて、たすくの眼球はさまざまな|疼《とう》|痛《つう》のほのおを噴いた。しかしこんどはその強烈な衝撃にもやや神経が馴れを感じてきたようだった。たすくはつめたい汗にまみれてはげしい戦慄に耐えた。 「座標A。Yイコール九一八・三五二。Xイコール七〇一〇・四三三。Zイコール九・九八三。|時代《コ ー ド》一九四五、BO三一〇・TO二・三二・〇」 「コード一九四五。BO三一〇。TO二・三二・〇。OK」  眼の前の幻のような姿をあらわした市街はなお噴火山のように火柱を噴き上げ、噴き上げ、|瓦《が》|礫《れき》の山に還元しつつあった。夜空は赤熱し、その上にそびえるぶきみな積乱雲は高く高く一万メートルにも達していた。はげしい上昇気流は烈風となって燃え狂うほのおを、一瞬に一キロメートルも先まで吹き送った。  ビルも、橋も、停車場も、道路も、ガスタンクも巨大な火の塊、火の河となっていた。まだほのおの|急湍《きゅうたん》のおよばない街角や広場には、ひとにぎりほどの人々が右に左に逃げまどっているのがわずかに望見されたが、それとてあと何秒ぐらいそうしていられるのか、おそらく一片の骨炭を残して消え去るのはもう決められたことなのだった。厚く市街の上空をおおった黒煙の下を、真紅の火光に映えて、銀色の大型機が魚のようにあとからあとから通り過ぎていった。その腹の下に無数の小さな火が生れ、みるみるそれが何千という火の粉となってゆっくりと、燃える街にかぶさっていった。  燃えている街もすでに燃えてしまった街も、新たな発火源をむかえてさらに新しい火の海を現出してゆく。飛び過ぎてゆく火の鳥は幻想的というにはあまりにも凄惨な美しさを持っていたし、その下の火の海は地獄と呼ぶにはあまりにも非情な風景であった。  アメリカ空軍のB29爆撃機百五十機が東京に|焼夷弾《しょういだん》攻撃を加えた夜だ。死者、行方不明者あわせて十万人といわれているが、その詳細はついにわからなかった。  たすくは首をふった。人類の思考錯誤のもっとも大きな一つだった。 「行くぞ!」  伊豆守がたすくをうながした。  何の前触れもなく、白熱の光輝が炸裂した。強烈な光の渦はどこか空間の一点からほとばしり出ては無限にひろがって、やがて宇宙のひろがりに還元してしまう。その間の一秒の何千分の一という短い時間がたすくには永遠とも思える耐え難い苦痛の狂騒だった。しかしたすくはこんどは前よりもなおそれに馴れることができた。 「座標A。Yイコール九一九・九八一。Xイコール一○三〇四・二二〇。Zイコール一一・三四七。コード三〇一〇。B九三。T〇三・四五・二〇」 「コード三〇一〇。B九三。T〇三・四五・二〇。OK」  とつぜん、目の前に百数十層の高層ビルが林立した。ガラスと金属の長方形の建築はその間を縦横に縫う高速道路の複雑な曲線とともに非現実的に幾何学模様を描いていた。その市街のあちこちに、円筒形の巨大な塔がそびえている。  人口二千八百万を有するトーキョウはその半分を地下深く収めていた。平面的なひろがりの中にいったんはその機能を喪失した巨大都市は、おのれ自身を球状に収縮させることによって蘇生した。それは地表面を赤道面として地上と地下に同心円的に配置された機能別エリアの複合体だった。地上部分に生産、通信、輸送などの機能を持つ区画を置き、行政、保安、居住に関するいっさいの施設を地下に収めた。居住区画を地下に置くのは環境保全にはすぐれた方法であった。  染めたような青い空を、一機のダイナ・ソアが白い飛行雲を曳きながら上昇していった。はるかな高空を衛星となって漂泊しているのであろう宇宙船へ向って、ダイナ・ソアは一隻のハシケとなってみるみる銀色の微細な点となってやがて青い空の一角へ消えていった。 「二〇〇〇年代の後半はいわゆる二千年紀文明と呼ばれる石油・原子力複合文明型の絶頂期にあたっている。地球型文明とか在来型文明とかいろいろな呼びかたがあるが、歴史的必然性を持った科学の発達が文明の発達そのものであった時代だ。しかしそのかげでは創造的精神の没落とか人間性の壊滅とかがきびしくさけばれている時代でもあるのだ。それともう一つ。月や火星、金星などの植民都市が地球の政治的拘束を離れて経済的に独立しようとする動きが活発になってきている。これはこののち、地球にとって極めて重大な問題となってゆくのだ。さあ、わたしたちはもう行かなければならん」  たすくはこの時代に強い興味をおぼえたが、しかし今はここに長くとどまっていることはできない。 「……四……三……二……一……」  たすくはタイム・マシンのスイッチを押した。 「|○《ゼロ》!」  西暦三〇一〇年の東京は炸裂する光の渦の中に消えた。 「座標A。Yイコール二一九・六六九。Xイコール九三九五・〇〇三。Zイコール一四・八七三。コード五八六三。B三〇二。T〇八・五三・一四」  五八六三年も終りに近いある朝だった。濃い灰色の雲が厚く荒涼とひろがる平原をおおっていた。東の地平線に近く、帯のように細く長い雲の切れ目からさらに上空の淡紅色の朝焼けの|巻雲《シーラス》がのぞいていた。その周辺だけが血がにじんだように赤をおびているほかは、たそがれの薄明ともまごう翳の世界だった。地上には樹木一本なく、地を走る生きものの影さえなかった。 「伊豆守さま。これは!」 「五五〇〇年以後、月や火星、金星などの植民地と、地球本国との経済的あつれきは解決不能なまでにエスカレートした。慢性的紛争が続いて地球の経済的疲労は致命的になってきた。五七〇〇年代の終りに、東京をはじめ幾つかの都市は、どこから発射されたものかわからぬミサイルによって攻撃され、地上部分を失った。同時に半径三百キロメートルの地域は荒廃した」 「日本列島に住んでいた人々はどうなったのですか?」 「このミサイル攻撃以前に当時、列島に在った八十七個所の都市は完全に地下都市化していたし、地上部分の喪失もそれほど大きな損害にはならなかったと思う。産業や行政面はすでに市街の奥深くに移されていたし」 「地球全体の生産はどうなっていますか?」 「地球全体は八つの自治州に分けられ、それぞれ独立採算による完全な自給自足体制になっている。実際には生産量と人口の微妙なバランスの上に成り立っていると考えてよいのだろう。時間局のA5局がもっとも注意を払っているのがこの時代なのだ」 「座標A。コード六〇二一。B〇八。T二一・三五・二一」 「コード六〇二一……」  たすくの眼の前に広漠とひろがるなまり色の海があった。はげしい風に波頭は吹き千切られ、煙のような|汐《しお》しぶきとなって長くたなびいていた。うねりは時に高く、低くたれこめた雲までとどくかと思われたし、またうねりの谷間では、かぎりなくかたむいては底知れぬ海底まで落ちこんでゆくかとも思われた。空を飛ぶ海鳥一羽の影もなく、波間を泳ぐ一匹の魚の姿もなかった。 「位置はかわらないのに東京はどうなってしまったのですか?」 「五八二一年、日本列島の太平洋岸で非常に大きな地震があって、むかし関東平野と呼ばれていた平坦部が全く水没してしまったのだ」 「関東平野が!」 「そうだ。関東平野だけでなく、太平洋岸の洪積世地層よりなる平野部では五メートルから三十メートルも沈降した所がある」 「東京の市街は?」 「記録によると十年間にわたっての最大級の地震が二十回ほどつづき、その間に関東平野に在った市街は山間地帯に移動したようだが、それでも死者は三十万人と言われている。たすく、五八○○年代にはここへ来てはならんぞ」 「五八二一年にそのような災害がおこることがわかっていて時間局はなぜそれをあらかじめ防ぐことをしないのですか!」 「たすく。その答はあとでしよう」  たすくは光の乱舞の中に幻のようにうすれてゆくなまり色の荒涼たる海原を見つめていた。人類が営々ときずき上げた巨大な文明も大自然の力の前にいかにもろく、またはかないものなのか。科学ははるか遠いむかしにすでに自然を征服し、それを統制下においたと極めて自信ありげに表明していたはずではないか! それは単なる自己満足、うぬぼれ、|欺《ぎ》|瞞《まん》にすぎなかったのか? 「欺瞞だ。人類は災疫を未然に知りながら避けることもできないではないか! なんのために」  吹き荒れ、渦巻いては百千の火花となって飛び散る光のはためきの中でつぶやいた。  松平伊豆守が眉を寄せた。 「たすく、独善的な判断は、時間局員にとっては全く不必要だ。今われわれが直面しているのは情緒の問題ではないぞ」  それはたすくにも十分過ぎるほどわかっていた。しかし歴史的必然性に巨大科学が参画し得ないでいることもまた事実なのだ。 「タイム・マシンなどといっても結局は人類の終末がいつ、どのような形でやってくるものなのかを漠然ととらえるだけのものにすぎないではないか! 診断がどのように正確であっても、それだけで病いはなおせるものではない」 「たすく。なにをおそれているのだ」 「おそれているわけではない」 「見ろ! これを」  伊豆守がタイム・マシンのダイヤルをわずかに回した。 「座標A。コード八七二一、B一〇。T〇九・〇三・五八……」 「コード八七二一」  人類滅亡の時まで、あとわずかに一五五年。最後の審判がくだされる前夜は今、影画のようにたすくの前に姿をあらわした。     二十七 審判の時 「ここは?」 「ふたたび東京だ。しかし今は|海上都市《セ    ル》九九と名がかわっている。名がかわっているだけではなく、もはやむかしの東京ではなくなっている。市街ですらない。五八二一地震によって陥没した関東平野に巨大な支柱を設けてその上に都市を建設したのがこのセル九九という街だ」  二人は半透明の強化ガラスを敷きつめた長い回廊を奥へ進んだ。回廊の両側には銀色の金属のドアがかぎりなくつづいている。床に分厚くつもったほこりが二人の足もとから煙のように舞い上った。二人の通ったあとにはふたすじの足跡が長くつづいているが、前方の床にはロープ一本引きずったあともなかった。壮大な市街には歩む人の気配もなく、なんの物音も聞えなかった。 「住人たちはどこにいるのです?」 「ああ、すぐわかる」  回廊は縦横に|交《こう》|叉《さ》し、上下にはしるリフトや|自動走路《ドライブ・ベルト》で結ばれていた。しかしそのリフトも、またかつては住人たちの日常の交通機関であったであろうその動く道路も、厚いほこりにまみれてすでに数十年もの間、全く停止しているようであった。回廊を曲ると、天井や壁面を巨大な|管《パイプ》の束がはしっている一画に出た。その一本のつぎ目からはげしく水が噴き出している。噴き出した水は壁から床をつたい、幅広い流れとなってリフトの開口部から滝のように落ちていた。 「飲料水の配管らしいな」 「修理しないのでしょうか?」 「住人たちは|個 室《コンパートメント》に閉じこもったまま外へ出ようとしないのだ」 「なぜ?」  伊豆守は答えなかった。飲料水の|管《パイプ》よりもはるかに大型の管を指さした。 「あれが食料の配給用管だ。食料は液体だ。栄養学的に完全に調合された液体食料が|自動配給機構《フル・オート・サービス》によって各|個 室《コンパートメント》に配給されるようになっている。室温の調節もすべて集中的にセンターがおこなうようになっているのだ」 「そこまで完備された都市がこのように廃墟にひとしいというのはなぜだろう?」 「管理センターへ行ってみよう。それはこの|管《パイプ》をつたってゆけばよい」  二人は巨大な|管《パイプ》に沿って無人の回廊を進んだ。幾つかの十字路をわたり、赤く|錆《さ》びついたエスカレーターをのぼり、かかとからほこりの雲を曳いて進んだ。  やがて回廊はT字型に行き止りになった。片側はドア一つない平滑な壁面がゆるいカーブを見せてどこまでもつづいている。回廊は巨大な円筒型のホールの外側を巻いているようであった。 「この内部が集中管理センターなのだ」 「どうやって入るのですか?」 「これは完全に密封されているのだ。出口も入口もない」  伊豆守はたすくに背後にさがっているように言い、熱線銃を取り出した。銃口から淡いオレンジ色の光の環が噴き出し、音もなくゆるい放物線を描いて壁面に吸いこまれた。一瞬、平滑な壁面はまぶしい光を放って赤熱した。氷の壁が溶けるようにみるみる、大きな穴があいた。すさまじい蒸気のゆらめきの奥に巨大な動物の内臓のように複雑な電子装置の山が見えた。 「動くな!」  伊豆守がさけんだ。体を動かしかけたたすくは石のように筋肉をちぢめた。  回廊の天井の一部が音もなく割れ、奇妙におれ曲ったノズルがたれさがった。深青色の光の網が投げるように回廊いっぱいにひろがった。二人に踏み散らされ、舞い上った濃密なほこりはとつぜん、無数の微細な火の粉となって吹雪のように渦巻いた。ノズルはゆっくりと回転しながら青い舌を吐きつづけた。空気が刺すようなオゾンの匂いに満ちた。しつような掃射をくりかえすと、ノズルはふたたび天井に引っ込んでいった。  たすくはつめたい汗をおしぬぐった。 「これは!」 「センターに備えられた自動防禦装置だ。なにものも給水、食料生産、配給、電力などの総合センターには立入ることができないようになっているのだ」  伊豆守はたすくのひじをとらえて歩き出した。  回廊はいぜんとして何の物音もなく、両側の|個 室《コンパートメント》のドアは厚い装甲のように閉じられたままだった。かつては真昼のように美しくかがやいていたであろう|発 光 材《エレクトロ・ルミネッセンス》で張られた壁も天井も剥落し、垂れさがり、そのあとは腐蝕したように変色してみにくい荒廃をさらしていた。  ほとんど垂直に近い急角度で設けられた長いエスカレーターが地の底まで通じているかのようにのびていた。二人はその目のくらむような|勾《こう》|配《ばい》を降っていった。何によって破壊されたものか、途中の壁に直径二十メートルもの大きな破孔が開いていた。そこは幾十もの階層の間の中空で、眼下に下層の巨大な|円《えん》|蓋《がい》がひろがり、はるかに遠い空の下になまり色の海が見えた。海は時おり白い波頭を描いたが、そこを走る一隻の船の影もなかった。名も知れぬ大きな鳥が一羽、雲の切れ端のかげからあらわれ、翼をひるがえしてすぐ見えなくなった。 「鳥がいる!」 「見たか。人類はここへくるまでの過程で、あらゆる動物を|亡《ほろ》ぼしてしまった。海には魚一匹いないし、陸上にも虫一匹いない。しかし、いつごろからか、あの大きな鳥だけが荒廃した陸地で繁殖しているのだ。おそらく放射能による突然変異だろう。見たこともない鳥だ。片目のものだの三本足のものだの、奇形が多い不安定な種類だが。わずかに残った数種類の植物を餌にしているようだ」  たすくはそこに、胸からぬぐい去ろうとしてもそれのかなわぬ真昼の悪夢を感じた。地球を完全に征服した人類は、人類いがいのいかなる種類の|他《ほか》の生物の存在も許さないのだ。その結果、今ここにこうして残るものは、破滅をむかえようとしているおのれ自身と、突然変異の結果、地上に現われ出た名も無い鳥のみになってしまっている。それをもし進化の結果と呼ぶなら、ここに至るまでの進化の道程はおしなべて破滅への必然の過程に過ぎなかったのか。 「おれは時間局員なんていやになったよ」  たすくのつぶやきにふりかえりもせずに伊豆守はいよいよ足を早めた。  厚いコンクリートの壁が回廊の一方を固めていた。継目ひとつなく、強化ガラスのように平滑なその壁は、手で触れただけではどのくらい厚いものか見当もつかなかった。その壁に向って伊豆守は熱線銃の引金をしぼった。出力を最大に上げた熱線銃は奇妙なうなりを発した。コンクリートの壁も回廊の床も天井も、伊豆守の体もくらいオレンジ色に染まった。コンクリートの厚い壁がしだいに白く変色しはじめた。その中央部から細い亀裂が八方へのびた。急速にそれがひろがったかと思うと微細な粉末になって砂のように崩壊がはじまった。ほこりと砂煙が回廊にたちこめ、オレンジ色の光輝は陽がかげったように薄れた。いったん照射をやめた伊豆守はほこりが沈まるのを待ってふたたび強烈な熱線の打撃を加えた。すさまじい|轟《ごう》|音《おん》とともに、コンクリート壁は長さ数十メートルにわたって崩れ落ちた。 「たすく、コンクリートの破片を投げこんでみろ」  たすくは言われたままに、ひとかかえもある破片を、崩れ落ちた壁の内部へ投げこんだ。目のくらむ閃光がはしり、おそろしい勢いでふくれ上った空気の壁が二人を床に打ちたおした。回廊全体がごうごうとどよめいた。数千万ボルトの放電だった。 「コンクリートの壁の内部に強力な電磁波の|障壁《バリヤー》が張られているのだ。これはいかなるものでも突破は不可能だ」 「中には何があるんですか?」 「来い」  伊豆守はタイム・マシンのダイヤルを回した。 「どこへ?」 「あの中へだ」 「でも、今、いかなるものでも突破は不可能だと……」 「おい。わしたちは時間局員だよ。すべての時空内に入ることができるはずではなかったかね」 「しかし、あの電磁バリヤーをどうやってくぐりぬけるのですか?」 「たすく、もう一度破片を投げろ。強大なエネルギーがそれに集中している間に、つまり一億分の一秒の間にゆうゆうと通過できる」  伊豆守はこまかい数字を上げてたすくのタイム・マシンを自分の装置に同調させた。  たすくは足もとの大きな破片を頭上にさし上げた。 「それ!」  一瞬、天井も床も、崩れ落ちたコンクリート壁も消え、二人は巨大な暗黒の洞くつの内部にいた。  伊豆守の携帯用の投光器が周囲の闇に回った。その光芒の中に小山のような巨大な物体がそびえていた。その下に歩み寄ると上部はあおぎ見ることも困難なほど高かった。はしご一つなく、点検用の|歩 廊《プラット・ホーム》さえない。パイロット・ランプの点滅もない巨大なその金属の塊は暗黒と静寂を凝集させていた。 「これは!」 「この都市の|中央電子頭脳《セントラル・コンピューター》だ。すべての生産を管理し、行政を一手に握り、民生から保安まで、あらゆる企画と実施がゆだねられている最高権力中枢だ。二〇〇〇年紀の国家三つぐらいを一度に経営できる能力がある」  伊豆守の声が、こだまとなって広大なホールに交錯した。  そのとき、消えてゆくこだまの中から一つの声がわき出た。その声は底知れぬ井戸の奥からひびいてくるように、太く乾いて奇妙な反響を曳いていた。 〈ジカンキョクイン。ムダナコトダ。ヤメタガイイ〉  誰かいる! たすくは無意識に床に身をおどらせた。全身の神経を声の所在に集中する。  伊豆守の|投光器《スポットライト》が消えて周囲は完全な暗黒に閉されていた。  何者だ! たすくの胸に徐々につめたい恐怖がひろがってきた。 〈タイム・リョコウシャガ、モウナンカイトナク、ココヘヤッテキタ。セカイノシュウマツガココニアル、トシテナ〉  闇の中で伊豆守の声がそれにこたえた。 「ここには無いのか」 〈アルハズガナイ。コレハヒトツノケッカニスギナイ〉  伊豆守の声音にわずかな|嘲笑《ちょうしょう》がこめられていた。 「これは結果ではない。ほんとうは一つの過程に過ぎないのだ。その過程に過ぎない一つの現象をなぜ結果にしてしまったのだ? しかし今、それをおまえにたずねてもしかたがないし、責めたとて意味はない。おまえはもともと現象の分析にはすぐれた能力を持っているが、与えられている記憶の範囲内でしか適応性の無いのが最大の欠陥だった。もともと、おまえを作った人間はそれだけのことしか期待しなかったからでもあるが」  闇の中の声にはなんの感情も反応もなかった。 〈ソレハチガウ。ジカンキョクイン。ニンゲンハ、ジブンタチニトッテ、ツゴウノヨイノウリョクシカ、ワタシニアタエナカッタ。マッタクアタラシイジタイガオコッテ、シカモソレガ、ハメツテキナケッカヲマネクト、ワカッテイテモ、ソレヲショリスルコトハ、ワタシニハユルサレテイナイノダ。ナゼナラ、イカナルモンダイデモ、ソノショリニハ、カナラズタショウノキケンヤ、シッパイガトモナウモノダカラダ〉 「電子頭脳に失敗があるのか」 〈ワタシニ、シッパイハナイ。ショリハワタシガスルノデハナク、ケッキョクハ、ニンゲンガ、ジブンジシンデ、スルノデハナイカ〉 「もっともだ。しかし三〇〇〇年からの余裕があったろう。その間ただ傍観していただけなのか」 〈カンチガイシテハイケナイ。ジカンキョクイン。ワタシハデンシズノウダ。テイオウデハナイ。ニンゲンノコウドウノパターンニ、アルヘンカガオキタカラトイッテ、ソレガタダチニ、アクザイリョウトシテ、ワタシノカイロヲ、シゲキスルトハ、カギラナイ〉 「電子頭脳も結局は神ではなかった、というわけだな」 〈カミニスルモシナイモ、ニンゲンノカンガエヒトツダ〉  深い沈黙がきた。|永《えい》|劫《ごう》の暗黒と静けさの中で、もはや伊豆守も電子頭脳も語るべき言葉もないようだった。 「たすく、ゆくぞ」  闇の中で投光器がふたたび人の世の明るさをとりもどした。  二人は破孔を通って回廊へ出た。 「|中央電子頭脳《セントラル・コンピューター》は三〇〇〇年もの間、人類のせわをしてきたのだが」 「伊豆守さま。いったい人類はどのようなことをしでかしたというのですか」 「そう。さいごにそれを見てもらおう」  どこともしれぬ長い回廊の一画で二人は立ち止った。伊豆守は熱線銃を手にすると一つの|個 室《コンパートメント》の前に立った。一瞬オレンジ色の閃光がひらめいたかと思うと、分厚な金属のドアはゆらめく蒸気となって消え失せた。  内部は古びた|洞《どう》|窟《くつ》のように暗く、かすかにオゾンの匂いがした。伊豆守が|投光器《スポットライト》をさし向けた。十メートル四方ほどの四角な空間の奥に奇妙な物体が動いていた。  それは巨大な卵によく似ていた。長径が二メートル半。表面は強化プラスチックか、ファイバーグラス、あるいはそれに似た未知の物質だった。卵と異なるところは、床に接して二対のこれは金属と思われる肢があった。その他には表面に、二、三個の突起がのぞいているだけで、どちらが前なのか後なのか見当もつかなかった。  二人が室内に踏みこんでゆくと、その奇妙な物体は恐慌状態を示して下端の二対の肢をぶざまに動かして部屋のすみにしりぞいた。 「こ、これは!」 「たすく。これがこの時代の人間だよ」 「これが人間ですか!」 「ああ、これが人間だ。だがな、この卵のようなものが人間ではないぞ。これは殻なのだ。|殻《シェルター》だよ」 「|殻《シェルター》?」 「この中に入っているのだ。この中に閉じこもって決して出ようとしないのだ」 「なぜ?」 「たすく。かれがなぜあのようにおびえていると思う? われわれがとつぜんのちん入者だからか?」  伊豆守は部屋のすみにぴったりとうずくまっている殻に近づいた。  とつぜん、すさまじいさけびが殻からもれた。それはうたがいようもない人間の声だった。 「やめろ! やめてくれ! |殻《シェルター》に手を触れるな。ここから出ていってくれ!」  たすくはそのさけびに顔をゆがめた。 「やめろって何を?」  伊豆守はけわしい目をたすくに向けた。 「わしは今、この|殻《シェルター》を破ろうとしたのだ。内部にいる奴はわしのその意図を知った」 「意図を知った?」 「そうだ、わしが考えたことをな」 「するとかれらは!」 「わかったか。かれらは人の心を読みとることができるのだ」 「するとこの八七二一年の人間たちはみな人の心を」 「たがいにな。すでに三〇〇〇年代からその兆候があった。八〇〇〇年代に至ってそれはついに人類にとって致命的な負担になったのだ」 「しかし、どうしてそれを有効に役立たせることをしないで」 「誰でもそう思う。かれらも実際にはさまざまな方法を講じて、その超能力を組織的に役立たせようとした。だが、たすく、たがいに人の心を読みとることができるということは、文明の進歩になんの役にもたたなかった。そこから生れてきたものは便宜的な妥協と協力、そして最終的には意見の一致だけだ。やがてぬるま湯にひたるような文明の停滞が来た。人々はついにある防護シェルターに閉じこもることによっておのれの思念を外部から読まれることを防ごうとした。それは同時に外部から他人の思念が入ってくることもさまたげることができる。かれらはあのシェルターの中で絶対の平穏と孤独を楽しんでいるのだ。これはこの街だけではなく、世界のすべての土地でおこっていることなのだ。もう社会は崩壊し、分解し、人類は二度と団結することなく、滅亡への道をころげ落ちてゆくだけだ」  ——そうだったのか!  たすくは暗然と声を呑んだ。言葉を使わずにどんな遠距離にいる相手とも意志を通じ合える超能力が、結局は自分たちを亡ぼしてしまうことになるのだ。人間の本来の社会の構造はそのような意志伝達の方法とは全く無関係なものなのだ。これまでに全くなかった新しい構成要素が一つ持ちこまれただけで、たちまち平衡を失ってしまうほど、実は脆弱なものなのだ。崩壊する早さは適応する早さを何層倍か上回る。 「だからといって……くそっ!」  とつぜん、たすくの胸に向け場のないはげしい怒りがわき上ってきた。たすくは熱線銃をぬき出すとシェルターに銃口を向けた。 「まて! たすく」  伊豆守の声よりも早く、たすくの背後で何者かがさけんだ。 「ヤメテクダサイ!」  ふり向いた二人の眼に、小さな人影が立っていた。  身長一メートル三十センチほど。背が低いだけでなく、手足も子供のように小さく、繊細な容ぼうが極めて特徴的だった。 「誰だ!」  伊豆守の投光器の|光《こう》|芒《ぼう》に顔をそむけてその人影はするどく言った。 「ヤメテクダサイ。ソノシェルターニハ、ヒトガハイッテイマス。アナタガタハ、サツジンガモクテキナノデスカ?」 「殺人が目的だと?」 「アナタガタジカンキョクインハ、タイヘンドクゼンテキダ。キワメテセイキュウニ、ケツロンヲクダシタガル」 「誰だ! おまえは」 「ワタシハNN四四九。イッパンシミンダ。ジカンキョクイン。アナタノイケンハタダシイ。ハンロンノヨチハナイ」 「NN四四九! おまえはなぜシェルターに入らないのだ?」  たすくはゆだんなく熱線銃をかまえたままでするどくたずねた。 「アルグループガ、コウシタジタイヲ、テッテイテキニカイケツスルタメニハ、コノヨウナ、フタンノオオキナノウリョクヲモッタジンブツガ、レキシノナカニアラワレルイゼンニ、サカノボッテ、ソノジンブツヲケシサリ、ノウリョクノコンゲンヲタッテ、ソコカラセカイヲツクリナオスコトヲカンガエ、カコニムカッテ、シュッパツシテイッタ。ジカンキョクイン。アナタガタハ、オソラクカレラヲタンチシタロウ。カコヲツクリナオスナドトハ、タイヘンオロカナコトダ。ソノジテンカラ、ゲンザイニイタルマデノナガイレキシノナカノ、サマザマナブンメイヤ、ヒトノイノチハ、ドウナル。スベテ、ムニナッテシマウ」  NN四四九と名のる人物は言葉を切って、伊豆守とたすくにこもごも視線を向けた。小さな二つの目は水のように透きとおってそこからは何の感情の動きも|汲《く》みとることは不可能だった。 「おまえはなぜシェルターに入らないのだ?」 「シェルターニハイルコトデモ、マタレキシヲツクリカエルコトデモ、ドチラモジタイノカイケツニハナラナイ。コノハメツテキナジタイヲキリヌケルニハ、タダヒトツ、ワレワレガジブンノチカラデタイショシテユクダケダトオモウガ」 「全くそのとおりだ」  伊豆守が大きくうなずいた。 「今からでも決しておそくはない。NN四四九」 「ワレワレハナントカヤリヌクダロウ」 「われわれ?」 「ジツハ、カナリノカズノナカマガ、チツジョヲトリモドスタメニ、カツドウヲハジメテイル」 「他人に自分の心のすみずみまで知られることをいやがらないのか」 「ソレニタエテ、アタラシイモノノカンガエカタヲ、ツチカッテユクノダ」 「秩序を回復するためにはずいぶん長い期間が必要だろう」 「ナガイナガイネンゲツガナ。シカシ、シェルターニトジコモッテ、イッサイノコミュニケーションヲタッテ、ウズクマッテイルヨリハ、ヨイダロウ」 「呼吸をして食うだけの生活だったからな」 「ハッセンネンダイニナッテカラ、マッタク、セイショクハ、オコナワレテイナイ。コノママデハ、チキュウカラ、ニンゲンノスガタハ、キエテシマウ」  たすくは自分でも気のつかぬうちに熱線銃をふところに収めてしまっていた。 「だが、歴史を変えるために過去へ向かったグループはどうなる?」 「かれらに企図を放棄させねばならぬぞ」  NN四四九の顔がかげった。 「ソノタメニ、カコノジダイカラテキトウナジンブツヲヒトリエランダ。カレハ、サキニシュッパツシタグループヲオッテイッタ。シカシ……」 「しかし?」 「アノグループヲフウジコメルタメノ、アタラシイブキヲオクッタノダガ、トドカナカッタソウダ」 「とどかなかったって?」 「カレハ、ソノブキヲサガスタメニ、イッショウケンメイニナッテイル」 「わかった。NN四四九。われわれも時間局員として十分に協力しよう」  NN四四九は小さな目をかがやかせた。 「タノム。ワレワレノチカラダケデハ、オオキナレキシノナガレハ、ウゴカシガタイ」 「わかった」  伊豆守は幅広い背中を向けると歩き出した。 「たすく、ゆこう、もうあまり時間がない。きゃつらも手ぐすねをひいておろう」  長い長いエスカレーターからのぞんだ荒涼たる灰色の風景をもう一度たすくは見たいと思った。  西暦八○○○年の世界の、全く人の気配を絶った回廊の静寂に立って、たすくは奇妙な孤独と不安に胸をしめつけられるような気がした。もう二度とおとずれることもないであろうこの世界は、これからの自分の眠り難い夜々の夢に、幾十度となくあらわれてくるにちがいないと思った。それは悲哀の感情をともなってしばらくの間、たすくをたまらなくやりきれなくさせた。  焼け落ちた屋根も柱も、葉のない枝だけを骨のようにのばした黒焦げの樹木もまだ取かたづけられることなく放置されていた。水の枯れた泉水にはくだけた壁土や木の葉が厚くつもっている。焼討ちをかけられたあの夜のことが、たすくにはもうはるかな遠い日のことのような気がしてならなかった。襲撃者を相手に切死した誠之助や喜兵衛、それに大七のことなどがしきりに思い出されてならない。  しかし今は感傷にひたっているひまはなかった。たすくはうず高く積った|残《ざん》|骸《がい》の自分の居室跡と思われる所を注意深く掘りおこし、|瓦《かわら》をとりのぞき材木を片寄せていった。  水をかけられて固く凝固した灰をつきくずす作業をつづけてゆくうちにさがし求めていた物が指に触れた。 「これだ! たぶん」  それは日ごろたすくが愛用していたすずりだった。去年、西国のある商人が舶載の名石を得たといってたすくのもとへおくってきたものであった。|賄賂《まいない》のおもむきもあったが、手にとってみるとその質感といい、石の肌の沈潜した色あいといいたいへん気に入ったのでそのまま愛用している品物であった。この一、二年の間、ことさらに手に入れたものといえばこれしかない。 「これが〈さざれ石〉にちがいない!」  たすくはそれをふところにするとわが邸の焼跡を離れた。  鷹匠町から南へ左内町へぬけるせまい往還に、|信《しな》|濃《の》町へんの下水を集めて神田川へ落す一間ほどの幅の小流があった。そこにかかる土橋を土地の者が呼んでこおろぎ橋。その橋のたもとが備中池田の浪人、中野玄斎の道場だった。しもた家を改造したまずしい道場だ。油障子を閉めた玄関でたすくは声をかけた。声は奥までとどいているはずなのに誰も出てこない。 「おたのみ申す。中野玄斎先生。六波羅蜜たすくでござる」  思いきって名を告げてみたがこたえはない。 「いないのか?」  そう思ったとき、奥でかすかに人の動く気配がした。 「中野玄斎先生。おそらく平賀源内どの。六波羅蜜たすくが別してお話し申し上げたい儀がござってまいった」  いぜんとして声はない。しかし屋内の静けさにはそのまま立ち去り難い異常さがあった。たすくはそっと油障子を開いて板敷に足を踏み入れた。急に強い血の匂いが動いた。たすくは道場へとびこんだ。あまり広くない道場の床の中央に中野玄斎が倒れていた。その下半身が無惨に黒焦げになっている。たすくはそっと抱き起した。玄斎はまだかすかに息があった。その手に熱線銃が握られていた。熱線銃のエネルギー標示灯が赤くかがやいている。エネルギーは枯渇したのだ。  襲撃者はおそらく試合をのぞむ武芸者をよそおってこの道場の床に立ったのだ。 「玄斎、実は平賀源内。そうであろう」  玄斎の視点のさだまらぬ眼がうつろに動いた。 「〈さざれ石〉を持ってまいったよ」  玄斎のなまり色の顔に、ぴく、とかすかにある表情があらわれて消えた。 「聞えるか。送りかたに無理があったのだろう。どこの誰ともわからぬ者の手にとどけられ、それからめぐりめぐって、ようやくおまえの手に今わたったわけだ。のう玄斎。おれはおまえの敵ではない。どちらかといえば味方だったのだ。この〈さざれ石〉は放射能物質を封じこめてあるのだろう。その熱線銃のエネルギーだ」  たすくは〈さざれ石〉を源内の手ににぎらせた。 「源内、ひとつ教えてくれ。松本三右衛門はなにものだ?」 「石川……修理だ……かれらの活動を援助し、柳生や春日局たちを……刺激しようとしたのだ……」  平賀源内の中野玄斎は、ながい間さがしつづけた〈さざれ石〉を手にするとがっくりとくずれ落ちた。たすくはその体をさぐって、|印《いん》|籠《ろう》の中にしこまれたタイム・マシンをとり出した。柳生一族の精鋭にとりかわった強敵を相手に、ただ一人、必死の戦いをくりひろげた奇人の科学者は戦い敗れて消えたのだった。  大坂勢をくり出して沼袋の柳生の前進基地を奪い、あるいは江戸の人心を|攪《かく》|乱《らん》して柳生の正体をあばこうとしたり、その戦いぶりはまことにめざましかったが、しょせん強大な組織に対する個人の挑戦の限界はいがいに早くひとつの結末を生み出した。  たすくは一礼して立ち上った。源内の動きがなかったならば、たすくも柳生一族の活動を知るのがもっとおくれたことであろう。 「きっと仇はとってやるぞ」  たすくは静かに油障子をしめると真昼の往還へ出た。     二十八 寛永御前試合  寛永御前試合が果して実際におこなわれたのか、それともおこなわれなかったのかは多くの史家の間で論議されてきた。むかしから講談や剣豪物語などでは寛永御前試合は事実としておこなわれたものとして|巷《こう》|間《かん》にそれを伝えてきた。  その論拠といえば、 『——寛永十一年九月二十二日、将軍家光は各地より兵法者を選し、江戸城吹上庭前にその試合するをみた。世に寛永の御前試合という——』  と伝えた文書が残っていることである。そしてそれに関連があると思われる他の記録には日時をやや異にして九名の兵法者がこの試合にのぞんだと記されている。また他の記録では寛永十二年の同じく秋、築城、軍略、陣中作法までもふくめた兵法に関する論判が江戸城内においてとりおこなわれた、ともある。  これに対し、寛永御前試合は全くの虚構であるとする説もあり、これは『徳川実紀』の、 『——寛永十一年九月二十二日、将軍家光、日光|参廟《さんびょう》のこと——』  という資料の上にたって強力である。  江戸と日光と、ほとんど時を同じくして、二つの場所に一人の人物があらわれるのであるから、当然、どちらかがうそということになる。公式な資料を資料として優先させる史家は、この日、家光日光参詣をあげて、御前試合を講釈師が張扇からたたき出した|巷《こう》|説《せつ》の最たるものなり、とした。  問題はそれではおさまらない。記録された日時、場所、またそれを記録した大物を異にして寛永御前試合に関する文書があちこちに散見するのはいかがなものか。なによりもそうした文書を興味本位に作ったり、虚偽の記録を作成したりする必要性がないこの時代のことだ。日時、参加者の氏名、誤記程度のことはあったにせよ、記録の内容まで全く虚構であるとは常識として考えられない。  これは実際に寛永十一年九月のある日、場所は江戸城内、おそらく吹上御苑。参加者は数名。十名より多くはない。試合は二日にわたっておこなわれたのかもしれない。という範囲で実際に催されたのだろう。  古文書の伝えるところ、審判は小野治郎衛門|忠《ただ》|常《つね》。忠常はこの年二十九歳。一刀流をきわめて小野派を称し、柳生但馬守宗矩とともに将軍家光の指南役をつとめていた。いま一人は備中の老剣客、|芳《は》|賀《が》|一《いっ》|心《しん》|斎《さい》、このとき|齢《よわい》七十六歳を数えていたが、濃茶の木綿の筒そでにねずみ色のかるさん[#「かるさん」に傍点]をはき、刀はおびず手折ったさざん花の枝を軍配がわりに手にしたという。  ある資料によれば、  |大《たい》|捨《しゃ》流 |菅《すが》|沼《ぬま》|新《しん》|八《ぱち》|郎《ろう》 |馬《ま》|庭《にわ》|念《ねん》流 |樋《ひ》|口《ぐち》某  |関《せき》|口《ぐち》流 関口|弥《や》|太《た》|郎《ろう》 |少林《しょうりん》 |佐川蟠竜軒《さがわはんりょうけん》  |竹《たけ》|内《うち》流 |大《おお》|類《るい》|三《さん》|四《し》|郎《ろう》 |楠《くすのき》流捕物 |中《なか》|西《にし》|新《しん》|佐《ざ》|衛《え》|門《もん》  中条流 |雑《さい》|賀《が》出羽守 |吉《よし》|岡《おか》流 くま村百姓 |甚《じん》|衛《え》|門《もん》 他、二名。  とある。  大捨流とは体捨流ともいい、その意は文字に示されているように、|体《たい》をすてて打つ、ということにある。肥後|球《く》|磨《ま》郡|人《ひと》|吉《よし》の人、|丸《まる》|目《め》|蔵《くら》|人《んど》の創流になる。丸目蔵人はもと北面の武士。|上泉《かみいずみ》伊勢守に剣の開眼を得て諸国を回り、のちに大捨流を興し、門弟三千と言われた。大捨流は時勢のおもむくところしだいにおとろえ、寛永時には菅沼新八郎のみ残っている。この大捨流はもともと戦場での剣技を説いたものであり、小具足、組打ち術に近いものである。  関口流の柔術は著名であり、弥太郎を名乗る流祖は実は遠く山名につかえていた。したがってこの寛永の試合にのぞんだ弥太郎は三代目か四代目であろう。佐川蟠竜軒は講談でおなじみだが、くわしいことはよくわかっていない。|対馬《つしま》の人といわれ、もしかしたら朝鮮か中国あたりから渡来していた人物ではないかとも思われる。  竹内流は小具足のわざとして名高い。小具足術とは戦場で小具足をつけての戦いで、とくに組打ちを中心わざとするわけではないが、後年、火つけ盗賊改め役などの武士はそのわざを必須とした。楠流捕物も同じく組打ち。竹内流でもそうだったが、槍、鉄棒、さすまた、からくさり、なわ、十手、などを用いた。  中条流は新陰流、一刀流などが流布する以前はたいへん人気のあった刀術で、備中の剣聖、|鐘《かね》|捲《まき》|自《じ》|斎《さい》の手になる。巌流佐々木|小《こ》|次《じ》|郎《ろう》などもこの門から出た人である。  吉岡流は古流京八流の一つ。吉岡|憲《けん》|法《ぽう》の創案になる小太刀の術。小太刀の刀術といっても必ずしも小刀や脇差を使っての打合いというわけでもなく、要するに屋内での操剣を主眼とした。これは京都を戦場にする戦いは、しばしば市街戦であったからでもある。  これらの姓名が上下二段に書かれているところをみると、あるいは上段が勝者で下段が敗者であるともとれるが、実は寛永期に入ると、よほどのことでもないかぎり、真剣による試合はおこなわれていないし、将軍臨席の試合で、たとえ木刀をもってしても打合いがおこなわれたとは考え難い。それは三代将軍家光の時代とはいえ、まだまだえものをとった兵法者をその身辺近くまで寄せるようなことはなかったはずなのである。しかも諸国の専門的兵法者のなかばは関が原浪人あるいは大坂浪人の経験者であり、またかれらを祖としている。かれらの技術がすぐれていればいるほどかれらの持つ危険性は増大する。その意味からも寛永御前試合はおこなわれなかったとする人もあるが、この方が記録による否定よりも何がしかの真実味をおびている。  この寛永御前試合における実際は、おそらく当時の慣例として型を見せるにとどまったことであろう。木刀あるいはその他のえものを使う場合でも決して相手の体を打つことなく、場合によってはしかける方と受ける方が、その位置を遠く離しておこなわれるというようなこともあったろうし、また、型によるわざの進行が演出されていた可能性もおおいにあり得る。実はそのような試合がすでに戦国初期におこなわれている。  寛永御前試合に出場した名誉の兵法者の顔ぶれを見ると、いがいに剣士が少ないことと、今日、あまりその名を知られていない人物が多いことに気がつく。この顔ぶれは伝えられる文書によってはそれぞれにやや異なり、当然、流派にも違いを生じてくるのだが、そのいずれにも菅沼新八郎、関口弥太郎、佐川蟠竜軒——これは佐川蟠竜斎と伝えているものもあり、別人説もあるが——の三名の名は記載されている。ずっと後代になって講釈師の口で語られるようになると、柳生流や円明流、はては|日《へ》|置《き》流の弓まであらわれてくる。登場人物も柳生宗矩から宮本武蔵、|荒《あら》|木《き》|又《また》|右衛《え》|門《もん》、ひどいもので|猿《さる》|飛《とび》|佐《さ》|助《すけ》から|岩《いわ》|見《み》|重太郎《いわみじゅうたろう》まで登場することになる。時代の異なることなど眼中になかったらしい。  剣聖と称されるようないわゆる有名剣士が登場していないという点に極めて興味がある。職業軍人としていわば必須技術ともいえる戦場での操剣法に、精神修養的意味を加え、それがさらに哲学的理論に装飾されて剣術なるものにまで発展をとげていったとはいいながら、それが武士としての就職の条件にどれほどの効果を持ったものかいささか疑いを容れる余地が残る。  当時、まず一藩の指南役というのが最高の就職だが、それとて二百五十石からせいぜい三百石も与えられればよい方である。剣技だけで千石得るということは徳川三百年の間に皆無であったと言える。それだからこそ一流の祖ともなれば、一生、歯をくいしばって浪人で通した者が多かったのである。かれらが百石や二百石で就職したのではようやく戦乱の時代が去って、兵法者の社会的位置がしだいに低下しているときに、自ら権威を放棄することになる。このことは、剣聖とたたえられ、名人、達人と称される兵法者が、現実にはいかに社会的にはなはだ不遇な存在であり、また同時にかれらに対する社会的評価が低いものであったことを端的に物語っている。  こうした事情はかれらに共通の利害関係を生ぜしめ、先に述べたような他流の者との試合などはつとめてさけるという一種の同業者集団の自衛意識をつくり出していったとも考えられるのである。  こうした周囲の情勢のもとに、寛永御前試合はまさしく寛永十一年九月二十二日に挙行されたのである。場所は記録に示されてあるごとく江戸城内吹上の御苑。参加したのは前記八名。他二名。この二名についてある文書はただあいまいに新陰流、某。十手術、某とのみ伝え、またある文書では刀術、氏名不詳として扱っている。他の八名が流派も姓名もつまびらかに記録されているのに、なぜこの二人だけをあたかも削除するがごとく、その姓名が伏せられているのか。そこになにごとかある重大な事情が伏在しているのではあるまいかという深い疑念を抱かせるのである。  昭和二十年三月十日夜、大空襲によって壊滅した東京下町の|北《きた》|川《がわ》家に保存されていた文書には、この二名の名があきらかにされていたという。すなわち、八名の者につづく二名は、柳生流、柳生十兵衛三厳。十手術、六波羅蜜たすく、である。  これまでに至った経緯を考えれば柳生十兵衛三厳ではなく、柳生但馬守宗矩その人でなければならないのだが、宗矩が実際に試合をおこなうはずもなく、またその名をあげることを遠慮したのかもしれないし、あるいは柳生一族の他の誰かであったのかもしれない。  その日、九月二十二日。朝からもよおされていた試合はとどこおりなく回を進めて、中条流、雑賀出羽守。吉岡流、くま村百姓、甚衛門の試合ははげしい白兵の応酬の末、引き分けとなり、雑賀出羽守には|備《び》|前《ぜん》|長《なが》|光《みつ》の|業《わざ》物、甚衛門には紋服に銀十枚が、それぞれ与えられ休けいとなった。  おりから|陽《ひ》は吹上の広大な庭につづく松林の上に沈みつつあった。踏み散らされた白砂を掃き清める御庭番|御《お》|小《こ》|人《びと》の長い影が、描いたように伸びていた。松林の上を、二、三羽の白さぎが海の方向へ飛びさっていった。  白砂を敷きつめた試合場に面した吹上御殿の広縁へ上る階段の下にひかえていた芳賀一心斎は朝からにぎっていた軍配がわりのさざん花の小枝をすてると、落ち着かなく立ち上った。少し前から妙に気になることがあった。それが何なのか、一心斎もおのれの胸に問うてもはっきりとこたえることができないものではあったが、それは七十六歳の今日までついぞ経験したことのない奇妙な不安と危機感だった。それは強敵に|対《たい》|峙《じ》したときの恐怖や緊張ともちがうし、おのれを待ち受ける敵のひそむ|暗《くら》|闇《やみ》へ踏みこんでゆくときの救いのない期待とも異なっていた。一心斎は、この吹上の夕暮れの大気にかすかにこもる破滅の匂いから自分は疎外されていることを感じとった。  |手洗《ちょうず》からもどってきた小野治郎衛門が席につこうとしているのを目にとめると、一心斎は静かに近づいていった。 「ご指南役。番数も残る一番とは相なったが、まことにお役目、ごくろうさんにござった」  一心斎は枯骨のような体を折った。小野治郎衛門は恐縮して坐りかけていた席を立ち上った。 「いやいや、ただひとえに一心斎どのの幻妙なるご眼力におすがり申しただけのこと。それがしにとってもまたとない修業でござりました」  剣をとっては、柳生但馬守宗矩に優るとはおおかたの意見であり、また柳生のように政治にかかわることなく、剣ひとすじに生きてきた小野治郎衛門忠常にとっては、この芳賀一心斎のような剣の一途をつらぬいた老剣客に対しては、おのれの理想を具現したかのような感動と憧憬をおぼえるのだった。 「ところでご指南役。ちと、つかぬことをうかがうが、この試合にからめて何ぞご政道向きのからくりでもござるのか」 「は?」  老剣客の唐突な質問に治郎衛門はこたえに迷ってわずかに眉を寄せた。 「ご指南役。これは老人のらちもないたわごととお聞き棄てなされよ。実は先ほどからのう」 「何ぞござりましたか?」 「うむ。妙にこう、胸さわぎと申すか、周囲のことが気になってならぬでの。あるいは不穏な企てなどあってはならぬと思うておたずねいたしたまでじゃが」  老剣客の言葉に治郎衛門はそっと位置をかえた。背後にならぶ小旗本たちの耳にそれが入ることをはばかったのだ。 「さ、いっこうに聞きおよび申さぬが。しかし一心斎どのがそのようにごけねんをいだかれるとすれば、これは容易ならぬこと。はて?」  治郎衛門は立ち上ったまま、将軍の御座所から大名、旗本たちの観覧席へ目を移した。休けいのこととて、将軍御座所には深くみすが垂れこめ、内部はうかがうことはできない。その前方下段の畳を敷いた広縁の左右には、それぞれ二十数名ずつの大名たちがいながれていた。親藩の大名たちを中心に、おりから江戸在中の西国の大名たちの顔も見える。それにつづいてさらに左右に旗本席、係役人の席とつづいている。旗本席の背後には陪臣のうち、とくに武芸に関心を持つ者たちのための席が設けられていた。治郎衛門はすべて八百と数えた。かれらは一日の、まことに目ざましい闘技の数々に酔い、旗本席はもちろん、大名の席でもはげしい興奮の色が感じられた。大名たちの席では、|茶《ちゃ》|托《たく》をささげた茶坊主たちがすべるようにゆききしている。旗本席では腰元たちが、陪臣席では係役人が、これもひとときの接待に余念がない。 「間もなく将軍家が御座所にもどられるが、御両所とも、おしたくはおよろしいか」  会場とりしきりの係役人がやってきた。一心斎は治郎衛門に会釈してそこを離れた。 「いや、それがしの気の迷いでござるよ。お心にかけられるな」  治郎衛門はもう一度、そっと周囲にするどい視線をはしらせてから、しょうぎに腰をおろした。一心斎の言うような不穏な動きがあるとも思えない。徳川ふく滅をねらう大坂浪人の動きがあることは聞いているが、警戒きびしいこの江戸城内にかれらが潜入できるとは思えなかったし、また万一、忍びこめたとしても、そうそうたる剣客のなみいるこの吹上御苑でいったいどのようなことができるだろうか。治郎衛門はその無謀さのゆえにかれらは決してそのようなことはしないであろうと思った。  芳賀一心斎は審判の席にもどると、もう一度落ち着かなく周囲にちら、と視線をはせた。  あるかないかの風が吹上の庭の西を区切る松林をこえて吹きわたっていた。陽はいよいよ長く、その影を敷きつめられた白砂にのばしていた。  冷えてきたのだろうか。一心斎はそくそくと迫ってくる肌寒さに思わず首すじをすくめた。それは先程よりもなお強く感じられてくる。  ——何かある! これは何かあるのだ!  一心斎は腰にたばさんだ白扇をそっとぬきとり、それをにぎったこぶしを静かに右ひざに置いた。一心斎がそれをあつかうとき、三尺の大剣と同じはたらきをする。白扇をひざに置いた姿には針で突いたほどのすきもなかった。しかしそれでもなお一心斎の心からしぼり上げるような不安は去らなかった。かれ自身、比類ない剣技の持ち主だけにそのえたいのしれぬおそれの前に、人知れず、ひとりほとんど|恐慌《きょうこう》状態を呈していた。  かれはとつぜん、この試合はやめさせるべきだと思った。白砂の庭上、左右に遠く、引きしぼった|幔《まん》|幕《まく》のかげから二人の対決者があらわれたがさいご、すべてのたたずまいが終りになってしまうようなおそろしい事態がおこるような気がした。  一心斎の顔から生気がぬけた。立ち上ると泳ぐように小野治郎衛門の席に向って二、三歩、足を運んだ。背後にひかえていた係役人がつられるように立ち上った。 「しい!」 「しいいいいいっ」  将軍出座を知らせる警ひつの声がかかった。なみいる一同は水を打ったように静まりかえった。  その中でよろめくように歩みつづける一心斎の姿は重さを持たない影のように見えた。  ——やめさせなければ!  一心斎はうめいた。  そのとき、たすくは吹上の庭を西へ遠くはずれた広大な松林の中にいた。かなたの試合場から|汐《しお》|騒《さい》のような人のざわめきがとどいてくるような気がしたが、目を|回《めぐ》らしてみるとそれは頭上にそうそうと鳴る松風の音だった。そのほかには何の物音も聞えてはこなかった。たすくは自分の心臓の鼓動がその静寂な大気をふるわせ、どこかこの近くに身をひそめているにちがいない敵の耳にまで聞えてしまうのではないかと思った。  また風がわたり、松の小枝から茶色に枯れた葉がはらはらと舞いながら落ちてきた。  たすくは自分も松の老木に化してしまったように動かなかった。最初に動いたものが先ず無条件に勝利の機会の半分を失ってしまう。しかしそれは敵も充分知り過ぎるほど知っているはずだった。だからたすくも指一本、まつ毛ひとすじ動かさない。小枝をわたる松風になり、地上をはう長い夕陽の影にひそんでただひたすらに待つ。  試合場ではとつぜん姿を消してしまった二人をさがしあぐねておそらく混乱がおこっていることだろう。しかしそれも今のたすくにとっては全く無縁なことだった。みたび松の|梢《こずえ》の間で風が鳴った。もとで一つになった松の葉が、人の形に開いてこれはくるくると輪をえがいて落ちる。たすくは目だけ動かしてそのゆくえを追っていた。羽のように規則的に回転するそれは、いがいに安定よく、小枝の間をくぐりぬけてかなり離れた下草のしげみの間に見えなくなった。  また一つ、つづいてまた一つ。真横からの陽射しを受けて美しい明暗の光輪をえがいてななめにたすくの目の前をそれてゆく。無意識にその動きを目で追っていたたすくはとつぜん、自分が全く無防備の姿勢におちいっていたことに気づいて思わず|愕《がく》|然《ぜん》とした。  つぎからつぎへと降ってくる松葉を見つめているうちに、いつのまにか心は|空《くう》になってしまっていた。針の先で突いたほどのすきもなかった心の構えがまるでおおいをとりのぞいたように|失《う》せていた。  ふたたび松の梢に汐騒のように風が鳴った。その風のさやぎの中に、たすくははっきりと近づいてくるものの気配を聞いた。周囲の松林も草むらも、空を紅に染める夕焼けも、今やことごとくたすくの敵だった。     二十九 無明の敵  当面の敵は三人、しかしその敵は天地を支配し、自然を自由にあやつることのできるおそろしい存在だった。  とつぜん、たすくのうでに巻いた警報器が小さく鳴った。この松林に撒いた十数個の|超小型《マイクロ》レーダーが敵の接近をとらえたのだ。  右だ。右は五十メートルほどで松林が切れ、その先は明るい草原だった。見とおしのきく明るい平原から薄暗い松林の中へ攻撃を加えてくるというのはあまりにも無謀だった。敵の姿は明瞭な影になるし、林の中の暗がりにひそむたすくは発見しにくいはずであった。それを承知で強襲してくるのか! と、すれば……あぶない!  たすくは下草のしげみをくぐって走った。その頭上を、白光を噴出させながら細長い物体がうなりを曳いて飛んだ。強烈な爆風が十数本の松の古木を根こそぎ宙へはね上げた。油脂の飛沫を浴びた下草のしげみはみるみる火の海となった。細長い物体はあとからあとから飛んできた。それはしだいに正確にたすくの前後左右に落下しはじめた。小型ミサイルだった。敵は松林の中にななめに射しこむ太陽の光にミサイルをのせていた。そしてななめの陽射しを横切って走るたすくの動きを着弾点にしているのだった。たすくは追われるけもののように下草のしげみを右に左にぬいながら必死にタイム・マシンを操作した。  一瞬、ごうごうと燃え上り、渦巻くほのおも、枝葉のことごとくが火につつまれて倒れかかる老松も、すべてが凝固したように動きをとめた。舞い上る火の粉も灰も、宙づりになったように中空に静止した。たすくは真紅の氷花のようにそびえるほのおの柱の間をかけぬけた。  老松の枝の間に、長さ二メートルに近い細長いミサイルが浮んでいた。その尾端から噴き出ている推進ロケットの高熱のほのおはガラス細工のように美しくひろがって固定していた。よく見ると決して止っているのではなく、目に見えないほどの速度で進んでいるのだった。燃え上るほのおも、極めてゆっくりと動いている。倒れかかる松の大木もじりじりとかたむきを深くしていた。たすくのタイム・マシンはこの松林や周囲の平原をふくむ空間の時間をほとんど停止させてしまったのだった。 「いた!」  松林を出はずれて百メートルほど前方の草原に、石像のように立つ一個の人影があった。その手に一個のミサイルがある。たすくは右手を大きくふった。三個の八方手裏剣が流星のように飛んだ。  陽光をはねかえして飛ぶたすくの八方手裏剣が敵ののど笛に数センチの距離まで迫ったとき、敵はたすくの攻撃に気づいた。自分が停止に近い時間に封じこまれたことを知った敵はとっさにタイム・マシンの非常スイッチをたたいた。一瞬、敵の姿は草原から消えた。  たすくはくちびるをゆがめて笑った。敵が動くことこそ実はたすくの思うつぼだった。敵ののど首を切り裂くはずだった八方手裏剣はなめらかな放物線をえがいて遠い草むらに落ちた。 「残る二人は?」  たすくはたけ高い草むらに身を沈めてなお残る敵の所在に全身の神経をとぎすました。  ぐっ! とつぜん異様なうめきとともに、姿を消したはずの敵の姿が草原にあらわれ出た。そののどから血煙が高く上った。のどに突き立った八方手裏剣をむしりとるとそのまま泥のようにくずれ落ちた。 「おろかな!」  たすくは三個の八方手裏剣を、一個は一秒前の過去へ、もう一個は一秒後の未来へ放った。敵はたすくの急襲を過去へさけても、未来へのがれても、確実にその八方手裏剣に仕止められるはずであった。  まさしく敵は未来へのがれようとしたのだ。そして一秒後にその最期をあらわしたのだ。たすくは草むらからおどり出て敵の死体の上を跳んだ。手をひらめかせて敵の顔をおおった布を引きはぐ。 「兵庫介利厳か!」  そのとき、たすくの警報器がふたたび鳴った。それは数十秒先の未来に設置したレーダーからのものだった。そこには何ごとか非常な危険が待ち受けているようであった。それは数歩先に掘られてある落し穴であった。  さらにその先へ跳躍するか、それとも待ち受けている|陥《かん》|穽《せい》にみずからとびこんでゆくか——とっさにたすくは後者をえらんだ。  しかし、ただ策もなくとびこんでいったのではみずから死を招くようなものだ。  策は? ある!  たすくはいっきに一億二千万年前の過去に跳んだ。  左手に名も知れぬ大木がすき間なく枝をひろげ、深い翳を作っていた。はるか右手の地平線近く、海か湖か、細く一線を画して銀色の帯がつづいていた。深い森林からその遠い水面まで草原はゆるやかな傾斜を見せてひろがっていた。太陽は中天からややそれていたが、大気は乾いていておそろしいほど熱かった。噴き出る汗はたちまち乾いて塩の結晶はひふを板のように|硬《こわ》ばらせた。呼吸をするたびに小鼻やそれにつづくほおや上くちびるのひふがひび割れて引き裂けるような気がした。  滝のような音がさっきから聞えていた。どうやらそれは森の梢で鳴く何百、何千という|蝉《せみ》の声であった。  ふいに森のかげから小山のような物体がゆらめき出た。長い首、もり上った太い胴体、ふつりあいに短い肢、首とひとしく長い尾。それは奇妙に緩慢な動作で草原の傾斜を遠い水面に向って移動してゆく。  それはこの中生代を代表する巨大な|爬虫類《はちゅうるい》、ディプロドーカスだった。  そのとき、とつぜんすさまじい|咆《ほう》|哮《こう》が大気をどよもした。斜面をくだってゆくディプロドーカスがにわかにはげしい不安を全身に示した。長い尾がむちのようにうねった。ふたたび雷鳴のようなさけび声がとどろいた。  森かげからぶきみな姿をした巨大な動物がおどり出た。巨大な頭部をもたげて、斜面をくだってゆくディプロドーカスを見つめた。褐色のふしくれ立った筋肉のかたまりのような後肢で立ち上ると、太い尾を支えに、それは体をちぢめるといっきに十メートルもの距離をとんだ。大地がゆらめいた。体長十五メートル。体重七トン。強力なあごとするどい牙でディプロドーカスでも一撃で倒すティラノソウルスだった。逃げる草食性のディプロドーカスと、それを追って跳躍するティラノソウルスの動きで大地は地震のようにふるえた。 「さあ、来るんだ」  たすくはタイム・マシンの支配時空圏をティラノソウルスにセットした。  松林は黒煙につつまれていた。下草の火は風にのって周辺の草原にまで燃えひろがってゆく。  敵は風上に、松林の東側に待ちうけているものと思われた。まだ六秒ある。五秒、四秒、三秒、二秒、一秒。 「それっ!」  たすくは松林の東につづくすすきの穂波の中にティラノソウルスを解き放った。  中生代の草原にディプロドーカスを追っていたティラノソウルスは、とつぜんの周囲の激変にあきらかにひどく気分を害したようであった。巨大な頭部を高く上げると、顔の側面、目の下まで切れこんでいる口をいっぱいに開いてすさまじいさけびを発した。長さ十センチメートルにもおよぶするどい歯ならびが陽をはねかえした。もう一度さけぶと、ティラノソウルスは狂ったように突進を開始した。直径二メートルもある尾がすすきの群落をはねとばした。  その前方、やや左の草むらから一個の人影がおどり出た。 「あそこだな」  たすくはティラノソウルスをつつむ時空をほそくしぼってその先端を走る人影に向けて解放した。  せまい通路を走るようにティラノソウルスはたすくのめざす目標へ突進していった。人影は必死に右へ左へさけようとしたが、ティラノソウルスの走る空間はかれの背に結びつけられているのだ。ティラノソウルスはみるみる人影の背後に迫った。暗紅色のほら穴のような口がくわっと開いた。このままではもはやのがれる道はない。  そのとき、ティラノソウルスの動きが奇妙に変化した。開いた巨大な口と、ふつりあいに小さな|前《ぜん》|肢《し》がにわかにスローモーション映画のように緩慢な動作に移った。それに対してこぶのかたまりのような太い後肢と長い尾がとつぜん、ばねじかけのように目まぐるしくおどりはじめた。苦痛のさけびが変音階をともなって長く長くのびた。  みるみる巨体の中ほどで分厚なひふが引き裂け、歯の浮くような音をたてて乳白色の脂肪層や真紅の筋肉層がはじけ出した。ついで背骨のねじおれる音がひびくと、おびただしい内臓が血しぶきとともに吹き出した。ティラノソウルスの巨体は真二つに千切れてそれぞれ別個の物体のように草原をのたうちまわった。そのティラノソウルスの周囲からすさまじい竜巻が巻きおこった。数十本の老松がめりめりと引きぬかれ、すすきの群落が根こそぎ引きむしられて砂けむりとともに宙に舞った。ティラノソウルスの体は三つ四つに分断され、太い肢が、くだかれたあごが、長い腸管が、無数の残骸とともに飛び去った。  たすくは|凄《せい》|絶《ぜつ》な敵の技量につめたい汗をおしぬぐった。  たすくを待ち受けていたわなはあれだったのだ。時空をあやつって敵の体の半分をゆっくりと流れる時間の中に、もう半分を加速された時間の中に入れる。二つの異なる時間で分断された肉体はあっというまに引き裂かれてしまう。その時空不連続面はどのような厚いコンクリートでも、また鋼鉄でも断ち切ってしまうのだ。  二つの異なった時間の進行の生み出す強烈なつむじ風は鉄壁のようにたすくを襲ってきた。たすくは草原のわずかなくぼみに身を投げた。どっと吹きつけてくる風に、たすくの体が浮き上った。  雑草は網のように大地に根を張っている。それに両の手指をからめて必死にしがみついた。たたきつけている|砂《さ》|塵《じん》で目もあけていられなかった。この風の絶えた一瞬が危機だった。吹きすさぶ厚い砂塵の底にひそんでいるかぎり、たすくの所在は敵にも知られることはないだろう。しかしその一方ではたすくは完全に両手の自由は失われていた。  敵はどう出るか? たすくはあらゆる神経を大地におしつけた。  そのとき、ごうごうと吹きすさぶ烈風の中に、異様な物音を聞いた。  なんだろう? それはかすかに大地を伝ってとどろいてくる。その物音にたすくは全く聞きおぼえがなかった。それはかなりの早さでたすくの身をかくしている地点に接近しつつあった。  こうしていては危険だ! 烈風に身をさらすことも危険だったが、もっと異なった種類の未知の危険がもうすぐそこまで迫っている。たすくは思いきって雑草の根をにぎりしめていた両手を離した。頭を上げたとたんに烈風にあおられてあっというまに数メートルほど吹き送られた。伏せようとして下半身が浮き、風におされて中腰で十数メートル走った。大地にうずくまろうとするたびに体が浮き、まりのようにころがった。  しまった! たすくは全身の血が毛穴から噴き出すような気がした。烈風は大地をふるわせてつたわってくる物音の方向へたすくの体を運んでゆこうとしていた。雑草の根をつかんで体を固定しようとすれば当然、両手の自由がうばわれるし、両手を自由にすれば体はいやおうなしにまち受ける敵のわなにころげこむことになる。  風にさからうことは不可能だったが、側面にかわすことはできそうだった。近づいてくる奇妙な物音の前方をななめに横切ってさけることができるかもしれない。たすくは体を二つに折って|這《は》うように進んだ。一歩、一歩、踏み出す足に体重をかけて横なぐりの風に耐える。  その風の音の中からするどい衝撃音がとどろいた。その音の中から、風車の回るようなけたたましいひびきが急速に近づいてきたかと思うとたすくの頭上をかすめた。三十メートルほどの前方に火柱が立ち、無数の白煙の足がしだれ柳のように八方に開いた。つづいてさらに近くまた一つ。白煙の足は生きもののようにたすくの頭上にかぶさってきた。  考えるよゆうもなく、たすくは体を丸めて走った。つぎは後、つづいて前。たすくは首をねじ向け、頭上をおおって傘のようにひろがる煙の足を避けてねずみのように逃げまどった。汗が流れて目に入り開いていられなくなった。心臓がのどからとび出しそうにおどり、肺は酸素を求めてふくれ上った。 「あれは?」  刺すように痛む眼に、草原をたすくに向って突進してくる奇妙な物体が映った。それは背部のこぶのようにもり上った円蓋に長い突出を持ち、けたたましい金属音で大地をふるわせながら風のように迫ってくる。突出部が|轟《ごう》|然《ぜん》と火を噴いた。大気が笛のように鳴った。 「な、なんだ? あれは!」  たすくはぼうぜんと見つめた。いったいなんだろう。たすくは焦燥と不安にあえぎながら記憶をさがした。それにはかすかな記憶があった。なんだったろう? 時間局の駐在員としての講習を受けた中にたしかあの物体も入っていた。なんであったろう。あれは! 「そうだ!」  たすくは息をしぼり出した。  戦車だ! あれは戦車だ!  敵は二十世紀か二十一世紀から持ってきたものにちがいない。長大な戦車砲がふたたびさび色の発射焔を噴き出した。戦車はすでに二百メートルの距離に迫っていた。  とても走って逃げきれるものではない。いつの間にか風は止んでいた。砂塵は遠く吹き送られ、その中にかくれこむことも不可能だった。戦車の機銃が|吠《ほ》え、たすくの目の前の草の葉が千切れ飛び、耳のかたわらを絹を引き裂くような音を曳いて銃弾が飛んだ。弾道は完全にたすくの体をはさみ、地にひれ伏した背をすれすれにかすめて飛ぶ。機銃をさけて地に伏せれば、頭上から降ってくる|燐《りん》|弾《だん》の|灼熱《しゃくねつ》の弾片に背中を大きくさらすことになる。そして数十秒ののちには確実に鋼鉄のキャタピラーがたすくの体にのしかかってくるはずであった。今や絶体絶命だった。  たすくは恐怖と惑乱の中で必死にタイム・マシンに指を這わせた。過去へのがれることも未来に避けることも不可能だった。それはすでにたすくが用いてみせた。敵がたすくをみすみす逃すはずがない。今やこの死地を脱するには強烈な反撃しかなかった。たすくはひとすじの活路にすべてをかけた。 「よし! 一九三九年だ!」  たすくは体をかすめる弾幕の中で必死に身をよじって指の先でタイム・マシンをあやつった。苦心して座標を合せる。うまくとらえられるかどうか全く自信はなかったが、今はこれしかのがれる方法はなかった。  いったん一九三九年に合せた座標をこんどはこの松林の上空にもどす。うまく合わない。早く、早く! 気持だけが耐えられないほど上ずって指先がどうにもおさえがたくふるえる。こんどはうまくゆきそうだった。座標軸の合ったことを告げるかすかな澄んだ金属音が耳に伝ってきた。 「それ! ゆくぞ!」  ふいに松林の上空を大きな黒い影がかすめた。角張った翼をかたむけて急旋回すると、突進してくる戦車めがけてさか落しの急降下に入った。しぼったエンジンが怪鳥のようなさけびを曳いた。草原すれすれに舞い降りた機体から黒い物体がこぼれ落ち、そのまままっしぐらに戦車の砲塔へ吸いこまれてゆく。ぐいと機首を天に向けて急上昇に移った機体の断ち落したような尾翼に|かぎ十字《ハーケン・クロイツ》のマークがあざやかだった。ナチス・ドイツのユンカース八七急降下爆撃機だった。  地上は五百キロ爆弾の爆煙につつまれ、戦車は灼熱した鉄塊となって四散した。同時に敵の気配も消えた。  たすくはその場へ手足を投げ出して眠ってしまいたい衝動をむりにおさえつけて体を起した。  松林は黒煙につつまれ、その煙は草原に影を落して長くたなびいていたが、周囲はふしぎな静寂につつまれていた。急降下爆撃機の姿もすでに無い。ふたたび一九三九年の戦乱のヨーロッパの空にもどっていったのだ。パイロットは敵の戦車一台を血祭に上げたと報告するであろうし、爆弾投下直前に見た地上の様子の変化は、急降下によって増大したGの変化による一時の幻覚だと思いこんでいるであろう。  ——もう一人はどこにいる?  たすくは身をひるがえして草原を走った。椿の生垣をくぐると江戸城吹上の庭の一角につづいている。なんの物音も聞えない。たすくは吹上の庭をめぐって張られた白い幕をくぐった。  正面に設けられたさじきの奥のすだれの中に将軍家光。そのさじき下の左右のしょうぎが、今日の審判役、小野治郎衛門忠常と芳賀一心斎の席で、左右には旗本や大名たちが肩を張りひざをそろえて居ならんでいた。  空気はそよとも動かず陽射しはほんのわずかも動かない。小野治郎衛門忠常は顔を正面に向けたまま微動だにしない。なぜか、芳賀一心斎だけが立ち上って治郎衛門の方へ歩みよろうとしていた。となりに坐っている同僚に何か語りかけていたらしい旗本の一人は、わずかに右手を上げ、口を開いたまま、少し舌先がのぞいている。茶を呑みかけていた大名のくちびるからたれたひとしずくが、紡錘形の水滴となってひざの上十センチメートルのあたりでとどまっていた。  雑賀出羽守とくま村の甚衛門の試合がすんでつぎの柳生十兵衛三厳と六波羅蜜たすくの試合がはじまるまでの短い休憩であった。その休憩の時間は今や終り、呼出し役の旗本、|郡《こおり》備中守が白扇を斜に構えて立ち上ろうとしていた。  だが、今、ここでは完全に時間は停止していた。それは存在を知られまいとする時間潜入者と時間局員のたがいに設けた時間の断層だった。  ——宗矩はどこにいる?  さいごに残った敵の一人こそ柳生但馬守宗矩にちがいなかった。その正体は八七二一年の未来から潜入してきた歴史破壊グループの首謀者だ。かれは必ずこの試合場のどこかにひそんでいるにちがいなかった。緒戦で早くも二人の有力な部下を失い、松平伊豆守との結着をつけるためには、かれの勝利はこの場所でなければならないはずだった。  選手の入場口の引きしぼられた幔幕のかげでちらと気配が動いた。 「来い! 宗矩」  たすくは試合場の白砂を蹴ってさけんだ。さけぶと同時に、たすくは停止させていた時間を解き放った。  郡備中守が人形が動き出すようにふいに立ち上ってさけんだ。 「柳生流。柳生十兵衛三厳。十手術。六波羅蜜たすく!」  観衆は|磯《いそ》|波《なみ》のくだけるようにどよめいた。  芳賀一心斎はその歩みをとめて、絶望的なひとみを試合場の白砂に投げた。  郡備中守の声の終らぬうちに、幔幕のかげから一個の人影が弾丸のように突進してきた。幾十の眼の前ではいかなる時間潜入者といえども武器はこの時代のものを用いるしかない。ましてかれは十兵衛三厳としてたすくを討たなければならないのだ。 「たすく! まいるぞ!」  宗矩はたくみに十兵衛三厳に変装していた。かけ寄ってきた宗矩は手にした大刀をぬき放つと足をちぢめて宙に飛んだ。こぶしをわきに引きつけ、腰を低く低く落したたすくの顔をねらって宗矩の手から大刀のさやが飛んだ。肩をひねってそれをかわしたたすくの頭上から、間髪をいれず反りの深い大刀がうなりを上げて切りおろしてきた。毛、ひとすじほどの傷もなく、一瞬に飛びちがった二人の姿は、なみいる観覧者たちの目には|奇《き》|蹟《せき》としかうつらなかった。初太刀をかわされた宗矩は息をととのえて大刀をぴたりと正眼にかまえた。さすがに柳生十兵衛三厳をよそおい、但馬守宗矩を名乗るだけに絶妙な剣技を持っている。  たすくはひそかに嘆声をもらした。時間局員とはいえ、この時代の人間なのだからたすくが剣技にすぐれているといってもいわば当然である。しかし時間潜入者であるこの男が短時間の間によくもここまで剣技を修得できたものだ。 「うまいな」  たすくは低く言った。 「なに?」 「おぬしの剣はくろうとはだしだ。よくそこまで上達したな」  時間潜入者は|狼《おおかみ》のように眼を光らせた。 「時間局員! よくもわれわれのくわだてを邪魔したな。息の根を止めてやるから覚悟しろ!」  たすくはにやりと笑った。妙に自信がたちもどってきた。 「それそれ、そのものの言いようもまったく当代のさむらいよ。よくぞ馴れきった。だがな、もうだめだ。利厳も三厳も討ちとった。つぎはおぬしの番だ」 「くそっ!」  宗矩は火のような強烈な一撃を送ってきた。身を退くたすくを追ってさらに大きく踏みこんでくる。上段から下段へ、さらに地ずりから|燕《えん》|尾《び》へはね上げてくる。たすくは|爪《つま》|先《さき》を千鳥に踏んで電光のような切先をかわした。 「いいか! えものを持たぬ身軽な相手に向ってそう重い刀をふり回してはすぐ疲れるぞ。ほらほら、剣先が流れ出したぞ」  相手の正体がわかった今は、剣を交えての対決には充分な勝算があった。宗矩の剣の動きに目に見えぬほどの疲労が加わってきた。切りおろしてきた切先がはね上る直前、むだに大きな角度をえがいた。その間合いの乱れにたすくがすべりこんだ。宗矩の手から大刀が離れ、それをすくい取ったたすくの右手の動きがきらめく軌跡をえがいて正確に宗矩の胴をないだ。  一瞬、宗矩の姿が消えた。  宗矩の姿が消えたのを柳生の秘術と受けとったか、観覧席でどっと歓声がわいた。その声がふっととぎれた。苦戦にあえぐ敵はついに観衆の目の前でタイム・マシンを用いたのだ。目前の異常な事態をみなに気づかせてはならぬ。とっさにたすくもかれらを|時間閉鎖《タイム・アウト》した。  宗矩はどこへ消えた? 過去か? それとも未来か? 逃してはならない。徹底的に追いつめるのだ。 〈たすく、たすく!〉  着物のえりにとめた無線電話があわただしくたすくの名を呼んだ。 「たすくだ」 「わしだ」  伊豆守だった。 「時間潜入者は一九七〇・二・九。一三・二八。SG三〇ポイントふきんに在る。急行しろ」  そんな所へとんだのか! しかもSG三〇ポイントは一九七〇年駐在員の所在位置だ。そして……。  たすくはいっきにそこへ移動した。     三十 決 戦  直方体の長大な建築物が整然とならび、その側面に張り出したテラスの奥の窓の列には早くも灯がともっていた。そこからあおぎ見るせまい空は夕焼けに染まり、地上には濃い夕もやがただよっていた。  そこが団地とよばれる集団住居群であることはたすくも知っていた。建物の間の平坦な道路には子供がむらがり、買物の包みのはみ出したかごを手にした女たちがいそがしくゆききしていた。かれらの目にはたすくの姿は見えない。それでも子供たちの無心な視線が偶然にたすくの体に向けられるたびにきもを冷やした。 「SG三〇は二六号棟だったな」  そびえ立つアパートの壁面の数字がそれを教えていた。 「あれだ」  その二階、側面に開いた幾つもの階段を片端からのぞく。階段の入口に設けられた郵便受の表示を追ってゆくと、 「二二四号室。ここだ!」  たすくは階段をかけ上った。ブザーを短く押す。朱色に塗られた鉄のドアの上部に設けられたのぞき窓が開いて黒い目がのぞいた。 「B一六三四移動局駐在員。KC四四。六波羅蜜たすくだ」  声を立てずに言う。そのくちびるの動きを読んでのぞいていた目がうなずいた。ドアが開いた。 「B一九七〇移動局駐在員SG三〇ミヨシ・レイゾウだ。分局長から連絡があった。用意しろ」  短い廊下の奥が広間になっていた。ダイニング・キチンというのはこれだろうと思った。 「囲炉裏を囲んで坐るようなものだな」 「あ?」 「いや。なんでもない」  駐在員のミヨシはすでにそこに用意しておいたズボンと皮ジャンパーを投げてよこした。 「着方は知っているな」  たすくはすばやく着物をぬぎすてズボンに足を通した。身に着けた感じは忍びのたっつけ[#「たっつけ」に傍点]とそう変らなかったが、足首の部分が開いたままなのが妙にたよりなかった。それにくらべて皮ジャンパーの着心地はすばらしかった。着物よりも軽くゆったりとしていて無駄がない。 「まげはそのままでよいからこれをかぶれ」  スキー帽というものだとミヨシは言った。 「なかなか似合うぜ。とても町奉行所の与力とは見えない」  ミヨシは大きな口を開けて笑った。しかたなくたすくも笑った。この姿を見たら由紀は何と言うだろうかと思った。由紀の名を思い出したとたんに、胸が締めつけられるように痛んだ。 「どうした?」  ミヨシが笑いを収めて心配そうにたずねた。 「なんでもない。ただ」 「ただ?」 「いや。おれの知っている女にこの姿を見せたらいったい何と言うだろうかと思ったのだ」 「女?」 「もういい」  ミヨシは何かを思い出したように立ち上ると、広間につづく奥の部屋のとびらを開いた。 「由紀さん。来なさい」  ミヨシの言葉に奥の部屋で人の気配がした。  はなやかな色彩がミヨシの体のかげで動いた。 「由紀!」 「六波羅蜜さま!」  由紀はミヨシのわきをすりぬけるとたすくの体にぶつかってきた。忘れるはずもないかぐわしい由紀の吐息がたすくのほおにまつわった。体のおしつけかたも、そこから伝ってくる起伏も少しも変っていない由紀だった。 「こんな所にいたのか!」  たすくは由紀の細い体をしめつけた。  ミヨシが肩をすくめた。 「ロクハラミ。まあ、あとにしろ」  たすくは由紀の両肩に手を当ててやわらかな体を押し離した。 「傷はもういいのか?」  ミヨシがこたえた。 「局の医療センターで手当した。傷跡も残っていない。分局長の命令でここであずかっていたのだ。そっちのトラブルが収まるまでな」 「そうだったのか」  たすくはあらためて由紀の服装に目を見張った。太目の毛糸の粗い感じのセーターに、あざやかな細身のスラックス。耳の上で短くまとめた髪が、ひどく新鮮だった。その由紀の美しい目に涙が浮んだ。たすくのうでが、いったん離した由紀の体をぐいと引き寄せた。  その間にぬっとミヨシの太いうでが入った。 「あとにしろったら!」  ミヨシは事務的な口調で言い足した。 「目明しの耕助夫婦やおれん、綾乃の四人はここへ収容したのだが、何しろ全くかれらの理解を越えることなので心理的に消耗がひどく、医療センターに送った。とくに耕助の女房などは一時、錯乱状態になってな」  ミヨシは苦笑いを浮べた。 「いずれ耕助たちは記憶消去処理をほどこした上、もとの時代へ放してやる方がよいだろう」  壁のどこかで低くブザーが鳴った。つづいて音色の異なったブザーが短くひびいた。 「来たぞ。ロクハラミ。武器は?」 「熱線銃と|匕《あい》|首《くち》。それに手裏剣二個」 「これを持っていろ」  ミヨシは戸だなの中から白い小さな球をとり出し、一個をたすくにわたした。 「時空|手榴弾《しゅりゅうだん》だ。閉鎖空間を作り出す」  紙玉のように軽いそれをたすくはポケットに落しこんだ。 「由紀さん、用意はいいな?」 「ええ」  たすくはミヨシをふりかえった。 「大丈夫か?」 「もうじゅうぶんしこんである。ロクハラミ、由紀さんは今ではAクラスのうでまえだぜ」  由紀ならやれもしようが、たすくには信じられない思いだった。もっとも、ふつうの人間の一分を百年にも千年にものばして使うことのできる時間局員のことだから、何も知らない由紀に、そこまでおしえこむことも、むずかしいことではない。  ミヨシは部屋のすみに置いてあるテレビのダイヤルを回した。スクリーンを無数の走査線が走ると、画面いっぱいに駐車場がひろがった。 「見ろ! あの男」  駐車場のならんだ自動車の間から今一人の男が道路に出てきた。背広にネクタイ。黒い太ぶちの眼鏡をかけている。家路をいそぐサラリーマンとしか見えない。 「あれが?」 「柳生但馬守宗矩と名のっていたろう」 「そういえば似ている。しかし、たしかなのか?」 「さっきのブザーはタイム・マシンの探知装置だ。あの男が身につけているのだ」 「そいつは便利なしかけだ」 「試作品だがな、作動はたしかだ」 「作ったのか?」 「ああ」  ミヨシという男の底知れぬ技量に、たすくは心の中でうなった。一九七〇年代の駐在員ともなるとちがったものだと思った。  ミヨシはテレビのスクリーンを見つめたまま、かたわらの机の引出しから黒い拳銃をとり出した。銃把から弾倉をぬき出してちらと目を当てると、ふたたびもとに収め、カチンと遊底を引いた。太い|消音器《サイレンサー》を銃口にはめた。 「それでやるのか」 「使い馴れているからな」  けたたましくブザーが鳴り、テレビのスクリーンに青い光の|縞《しま》がわいた。 「来やがった。今階段の下にいる」  たすくは入口に走り出ようとした。 「まて! 出るな。やつはおまえが必ずここへ来ると思っている。由紀さんをおとりにするつもりなのだ」 「ここへ踏みこんでくるほど馬鹿ではあるまい」 「どうかな。あの服装ではなんとも言えんぞ。それに案外、一九七〇年代の駐在員などなめてかかっているかもしれない」  ミヨシはにやりと笑った。その顔がにわかにふてぶてしくなった。  入口のチャイムが鳴った。テレビのスクリーンに先ほどの男の横顔が映っている。 「おれが出るから、おまえはあそこにかくれていろ」  入口へ出る短い廊下の一端の端がせまい風呂場になっている。ミヨシはそこを指さした。  ミヨシが入口のドアのかけ金をはずした。 「ごめんください。私、新洋生命保険からまいりましたものですが、ご主人でいらっしゃいますか」  落ち着いた声音で言う。 「保険ならもう入っているから」 「さようですか。実は私どもの会社でやっております新しい様式の保険は……」 「いや、結構ですよ。うかがわなくても」 「ちょっとお手にとってごらんなさいませ」  男は手にした紙袋からおりたたんだパンフレットをとり出した。ミヨシの前にさし出す。ミヨシの手がそれを受け取ろうとした瞬間、男は手にしたパンフレットでミヨシの上体を下からなぎ上げた。パンフレットの間にはさんでいた強化プラスチックの薄板がくだけ、ミヨシは大きくのけぞった。 「しまった!」  おどり出ようとするたすくの目の前に、黒い熱線銃の銃口がつきつけられた。 「動くな! 六波羅蜜!」  時間潜入者の声に|凄《せい》|惨《さん》な殺気がこもった。危険だ! たすくは両手を肩まで上げて動くのをやめた。どこを打たれたのか、ミヨシは壁を背にずるずると崩れ落ちた。 「六波羅蜜。小清水麗子をどこへかくした?」  くそっ! とうとうきた。たすくはくちびるをかみしめた。 「小清水麗子をどこへかくした、と聞いているのだ」  熱線銃がぐいとたすくのあごを押し上げた。 「まて、宗矩。小清水麗子とは誰のことだ?」 「ふざけるな!」  熱線銃が一瞬、たすくの足もとに向けられ、青白い閃光を噴いた。たすくの足もとの床が白熱にかがやいて消え失せ、真黒に焦げたコンクリートがむき出しになった。 「いいか。つぎはおまえのひざをねらう。これはおどかしではないぞ。しゃべらせるのに手や足はいらないからな」  口だけではない。やつはきっとそうやるだろう。 「わかった。小清水麗子というのは、あのおれんという娘のことか? これはほんとうに聞いているのだ」 「知らなかったのか?」 「おれはただの駐在員だ。そこまでは聞かされていない」 「その小清水麗子をどこへかくした? 言え」 「聞いてくれ! おれは現地採用の駐在員に過ぎない。その女をどこへかくしたか知らないのだ。もっと上級に聞いてくれ」  時間潜入者の熱線銃の引金にかけた指に力がこもった。 「三つ数える。ひとつ……」 「だからおれは知らないのだと……」 「ふたあつ」 「聞いてくれ!」 「みっつ!」 「言う!」  熱線銃の銃口がたすくをうながした。 「言え!」  熱線銃の銃口がたすくをうながした。 「な、わかってくれ! おれんはミヨシがどこかへあずけたのだ。その場所はおれにはわからないのだ。ほんとうだ」 「そうか。おまえはほんとうに知らないのだな」 「ああ、おれんはたしかにミヨシが……」 「おれんという女のことなど聞いてはいない!」  時間潜行者はぴしりと言った。 「だがおれんは小清水麗子のこと……」 「そうか。なにも知らぬ人間にうろうろされてはまことにじゃまだ。消えろ!」  熱線銃の銃口がびくりと動きかけた。 「はあい!」  とつぜん、さわやかな声がひびいた。広間の中央に由紀が立っていた。 「由紀、あぶない!」  たすくは棒立ちになった。 「小、小清水麗子!」  宗矩がくいしばった歯の間からけもののようなうめきがもれた。 「ずいぶん熱心にさがしていたわね。どう? 小清水麗子さんに会った感想は?」  由紀が胸をそらせてうそぶくように言った。 「小清水!」  宗矩のひとみに狂気のような殺意が燃え上った。 「おまえのために人類は亡ぶ! おまえが千姫と坂崎出羽守の間に生れさえしなかったならば人類は超能力などを持つことはなかったのだ!」  由紀はひややかに笑った。 「八○○○年もたっても人間というものはそうおばかさんなのですか。私を殺して歴史を作りなおしたとしても、その超能力を生み出す必然性はもっとずっと昔から人類の歴史の中にあるわけじゃない! 人類の祖先のそのまた祖先から抹殺しないかぎりだめよ。いくら私が突然変異だと言っても全く偶然にあらわれ出たわけではないわ!」  突然変異といえども時空の必然性の外にあるわけではない。すべてそれはあらわれるべき要素が完全にととのえられていたからなのだ。もしそれを否定するならば、大宇宙そのものの生成変化を否定しなければならなくなる。それはとりもなおさず、おのれを抹殺することになる。歴史の必然性を見おとすことは人類そのものを見失うことになるのだ。 「死ね!」  時間潜行者は絶体絶命の矛盾の中でさけんだ。  二人の姿は同時にそこから消えた。 「ミヨシ、しっかりしろ!」  ミヨシは上体を起して頭をふった。 「やられた! どうもたよりにならない駐在員で面目ない」 「おれはこれから宗矩と由紀を追う。おまえ、大丈夫か」 「心配するな。おれもゆく。レーダーを見よう」  ミヨシは広間へもどってテレビのダイヤルをこまかく回した。 「いたぞ! 来い」  二人は部屋を出て階段をかけおりた。  すでに陽は落ち、無数の窓の灯が美しかった。時おり通る自動車の|光《こう》|芒《ぼう》が冬枯れの芝生や植込みを明るく浮き上らせた。  ミヨシは植込みをくぐって広場へかけこんだ。周囲を高層アパートに囲まれた百メートル四方の広場には青いガス燈の光をあびて無人のブランコやすべり台がさびしく静まりかえっていた。昼間はたくさんの子供たちでにぎやかなこの広場も、二月の凍りつくような夜の風の中では廃墟のように人の気配を絶っていた。 「あそこだ!」  ミヨシがささやいた。  街路燈の光がわずかにとどく広場のすみに黒い影となって由紀が彫像のように立っていた。 「やつはどこだ?」 「動くな」  ミヨシは静かに体の位置を変えた。由紀は呼吸さえしていないかのように動かない。ただこの広場の夜気の中に張り裂けるばかりに異様な緊張がみなぎっていた。  とつぜん、高い虚空の一点から目のくらむような光の投網が広場をおしつつんだ。広場の樹木の一本一本が火の塊となり、ブランコやすべり台が一瞬にとけて流れ落ちた。  たすくは目の前にそびえる七階建のアパートの屋上に移動した。眼下の広場は一面の火の海だった。その火光の中に、となりのアパートの屋上に立つ男の姿が照らし出された。 「宗矩!」  たすくは大きく跳躍した。 「柳生但馬守宗矩! 小清水麗子がお相手しよう!」  ほのおの光のとどかぬ闇の中で由紀の声がひびいた。  宗矩は屋上の端で舞を舞うように体をひねり、背をそらせて一転した。どこからかはげしい由紀の攻撃が加えられているらしかった。宗矩の姿が宙に飛ぶと、かわってそこに由紀の姿があらわれた。右手を大きく回して何かを投ずると、そのあとを追うようにひらりと宙に飛んでふたたび見えなくなった。近い所で弾丸がはね、コンクリートの破片がからからと音をたててころがった。もう一発、はげしい音をひびかせてアパートの壁面を削った。ミヨシが射撃しているらしい。  たすくは戦闘に参加したかったが、どうにも宗矩の姿が発見できない。たすくはひとりはげしい戦いから除外されて焦った。遠くで由紀が何かさけび、また、たすくの頭上を弾丸がうなりを曳いて飛んだ。 「ミヨシ! どこにいるんだ!」  たすくは声を殺してさけんだ。  ふいに周囲はもとの闇にもどった。火の海だった広場も、青いガス燈の光とブランコやすべり台だけの静けさにもどった。たすくはつめたい風の吹きすさぶ高い屋上の端に鳥のように取り残された。  火の海になった広場や弾丸に削られた壁面を、戦いながらそのつどそれが無かったことに修正しているのはミヨシにちがいなかった。駐在員として、決してそれらの傷跡を現実の世界にとどめてはならないのだった。それをはげしい戦いの最中にこまめにできるということはよほどの技量の持ち主でなくてはやれぬことだ。 「あの駐在員、気のぬけたようなやつだと思っていたがなかなかやるな」  たすくはつぶやいてひとりうなずいた。 「なにを言ってやがる。おい、ロクハラミ! あそこだ」  ふいに後から背を小突かれた。ミヨシが眼下を指さした。 「あの三階の窓だ! あの右。ベランダからダイニング・キチンに入ろうとしているのは宗矩だ。由紀さんがあそこへ追いつめた。おまえゆけ!」  終りまで聞かず、たすくは空間へ跳躍した。広場の反対側のアパートの三階。ベランダのガラスを通過してダイニング・キチンにすべりこんだのは宗矩だった。つづいてたすくもベランダから閉じられたガラス戸を通過してダイニング・キチンのとなりの部屋へ入った。子供が二人テレビを見ている。ダイニング・キチンではこの家の主婦が夕飯の用意にいそがしい。もとよりかれらは異なった時間の中にいるたすくを知ることは不可能だ。  たすくと宗矩は食卓をはさんで対峙した。 「いさぎよく縛につけ! 御用だ! 宗矩!」  御用という言葉を口にしたとたんに、たすくの胸に町奉行所与力の意識が強烈によみがえってきた。 「但馬守宗矩! 一介の奉行所与力が将軍家指南役に御用と呼ばうところをあの寛永の連中に見せてやりてえもんだよ」 「来い! 六波羅蜜!」  宗矩はいきなり二人の間にあった食卓に手をかけるとたすくへ向っておしたおした。食卓の上の鍋や食器がなだれのようにたすくの足もとに飛び散った。その食卓をおどりこえて宗矩がとびかかってきた。逆手に持った熱線銃の銃把がたすくの耳の下をねらってふりおろされた。たすくはそれを左手で払うと右で強烈な突きを入れた。宗矩の手から熱線銃が飛んだ。その銃身が|削《そ》ぎ|落《おと》したように削られている。 「ミヨシの弾丸をくらったな!」  ここにも|手《て》|練《だ》れがいる! たすくは万騎の応援を得たような気がした。  宗矩は顔をゆがめてダイニング・キチンから廊下へのがれた。熱線銃を破壊されたことで唯一の武器を失ったようであった。 「まて!」  入口へ逃げようとする宗矩の顔前に八方手裏剣が飛んだ。それが鋼鉄のドアをかみ、鼓膜を破るような音が家中にとどろきわたった。 「ちっ!」  宗矩は入口へ逃れるのをあきらめて廊下を奥へしりぞいた。廊下の右側のガラス戸の中で湯をあびる音がしている。そこへすべりこむ宗矩をたすくはすかさず追った。  風呂場ではこの家の娘が髪を洗っていた。白い背中ともり上った二つの丘が一瞬、たすくをまどわせた。そのわずかなおくれに宗矩の上半身はすでに窓の外にあった。 「逃がすものか!」  たすくは湯ぶねに踏みこんで消えかかる宗矩の足首をつかんだ。全身の力をこめて引きもどす。二人はもつれ合って娘の上に倒れこんだ。たすくは短い連続打を放って、宗矩を湯にぬれたすのこ[#「すのこ」に傍点]に這わせた。娘は目の前で戦われている死闘に気づくはずもなく、上体を起すと乳房を反らせて長い髪を後へ払った。娘のひざをついて大きく開いた足の間に宗矩の顔があった。それはこんな場合でなかったらまことに笑いをおさえ難い情景だったが、今はそれどころではなかった。必死に蹴り上げる宗矩の足がたすくの|脾《ひ》|腹《ばら》を打ち、たすくの力が弱まったすきに宗矩はふたたび戸外へのがれようとした。 「そうだ!」  たすくはミヨシからあずかった時空手榴弾を思い出した。小さなボタンを押すと戸外の闇にとんだ宗矩に向って投げつけた。  宗矩の悲鳴が短くとだえ、直径三メートルほどの淡青色の球形の空間に宗矩は閉じこめられていた。それは大きな虫を内部に収めたしゃぼん玉のように美しい幻想的なかがやきを放って浮いていた。 「しとめたな」  ミヨシがジャンパーのえりに首をすくめて中空に浮ぶ球をあおいだ。その吐く息が真白だった。 「それではおれはこれで失礼する。援護をありがとう。忘れないよ」 「ゆくのか」 「ああ。寛永御前試合の決着をつけなければならないのだ。やつの衣装をあらためて、おれも着がえて六波羅蜜たすくが十兵衛三厳を倒すところを見せなければならない」 「おたがいに楽じゃないな」 「由紀は……」 「分局長から指令が出ないうちは誰にもわたせん。おまえでもな。それから由紀でなくて小清水麗子だからな」  たすくは首をふった。 「それには気づかなかった! おれんがそうだとばかり思っていた」 「あれは偽装だ。坂崎出羽守と千姫の間に生れた娘が、おれんと名づけられたことは事実だが、その後、小清水麗子と名のった。おまえの知っているおれんは、伊豆守さまがもうけたおとり[#「おとり」に傍点]だったのだ」 「そうか! それにしてもおれも完全にひっかかったな」  たすくはだまって肩をすくめた。伊豆守の策謀ぶりが|憎《にく》|体《てい》でもあり、またこきみよくもあった。  ——さるところの娘に接近してこれを手先となせ——  その指令どおりに、由紀に近づき、ついに他人ではなくなってしまったが、小清水麗子の安全をはかるには、実際にこれ以上の方法はなかったはずだ。  ——だが、結果的には伊豆守のプログラムどおりになったとはいえ、自分と由紀の愛情にいつわりはなかった。  たすくは胸の中でつぶやいた。 「ロクハラミ。これはまだ内しょだが、小清水麗子はどこかの時代の駐在員になるらしいぞ」 「それではまたわれわれと仕事ができるな」 「よろこぶのはまだ早い。駐在員は特別な指令以外に勝手に任地を離れてはならないのだ」 「そんなこと、知っている」  それでも時間局員どうしなら、なんとでもなる。 「由紀!」  まっていて! いまいくう! 遠くから澄んだ声が聞えてきた。  凍りついたような冬の星空をななめに流星がはしって消えた。それは広漠たる時間の中をただ一人ゆききする自分たちの姿に似ているとたすくは思った。     あとがき  時代小説を書くことのたのしみのひとつは、その時代の風俗——服装や生活習慣、市井のしきたり、ものの考え方などを描き出すことにある。と、言っても実際にはこれは頭が痛くなるようなやっかいな作業なのだが。しかし、あれこれ|虫《むし》|喰《く》いだらけの古文書のたぐいをひっくりかえしていると、これまで全く知らなかったこと、気にもとめていなかったようなことが、実はその時代の生活の息吹をつたえる大事な何かであったり、また、世間も自分も、そうときめこんでいたことがほんとうは後代になってから講釈師などが張扇の先で勝手にたたき出した作りごとであったり、意外や意外、と、とまどったりおどろいたりすることが多い。  戦後、昭和三十年代に入ると、小説や映画でも時代考証ということがやかましく言われ、武家や町人などの生活や日常の諸道具、しきたりなどについて百科事典式にチェックされ、ああではなかった、こうではなかったなどときめつけられ、その結果、それぞれの時代の風俗が一種の固定観念化してしまい、そこからあやまった権威主義が生れた。問題は時代考証にあずかるえらい学者先生や時代考証家と称する人々が、どのような資料をもとにして説をとなえたか、どのような意識に立ってその時代の風俗、習慣をながめたかにある。たとえば、〈武士道〉というものが武士の|鑑《かがみ》である、という観念の下に、武士の生活を調べ、武士とはこういうものであったはずだ。こういうものであったにちがいない。という観点から取捨選択してゆくと、四角四面で肩を突張り、羽織はかまでつねに大小を横たえ、沈着悠然、日常心身の練磨をおこたらず、金銭には無欲でいささかも死をおそれず、口を開けば「さよう、しからば、それがしにござる」というような絵に描いたような武士の姿が浮び上ってくる。そしてその反面、長く|禄《ろく》を離れた浪人者などは全くこの裏返しで見るもあわれなありさまとなる。したがって町人は小ずるいもの、農民はぼろをさげた田吾作で|盗《ぬす》っ|人《と》はいつもほっかむり、御用聞、目明のたぐいは朱房の十手を腰にひっぱさみ、という類型ができ上ってくる。           *  腰きりの短い着物に手甲、|脚《きゃ》|絆《はん》。時に熊の皮を着、さなだひものような細い帯を幾重にもぐるぐる巻に腰に巻き、にぎりめしのつつみとわらじをそいつにくくりつけ、水筒の竹筒にひもを通して肩からさげ、陣刀造りの(かねがないから自分で買ったはずはない。おそらく戦場ででもひろったのだろう。もしかねがあって自分で買ったものならこんなものでなく、腰にさす式の使いやすいものを買うはずだから)長いやつをななめに|背《し》|負《よ》って、別にもう一本なたがわりの幅広の山刀を後にさしている。そして手には六尺ほどの長さの丸太ン棒。大きな足をむき出しの、なんと|裸足《はだし》だ。これが元和年間、二代将軍秀忠頃の、青雲を抱いて武者修業の旅に出る武芸者の晴れ姿なのだ。かれらはしばしば、その旅立ちに際して、氏神の社に自分の姿を写した絵馬を奉じている。あるいは一応、修業成ってどこかの大名に家臣としてつかえるようになってから、その旅立ちの日を想って郷里の神社や寺に絵馬を送っている。これで見ると、およそ当時のさむらいの旅姿——日常の服装——戦闘の服装がわかろうというものだ。かれらはこの姿で|垢《あか》にまみれ、汗だらけになり、しらみをわかし、かいせんだらけになり、京よ江戸よと歩き回ったのだ。なんのことはない。今のヒッピーだ。  よく槍一筋の家がら、などというが、こんな言い方も実はずっと後代の江戸時代も半ばになってからのもので、そもそも槍という武器は長い柄が持味なのだが、その利点が戦場までの持ち運びには逆にたいへんやっかいなことになる。だから多くの場合、槍は穂先だけを持っていって、戦場近くになってから手頃の木や竹を切ってそれに穂先をはめこんで使った。その穂先なども何個も|引縛《ひっちばっ》てかついで行ったものだという。こうなると槍一筋もへちまもあったものではない。現在、保存されている|螺《ら》|鈿《でん》造りや朱塗などという槍はそもそも実戦用ではなく、儀礼用のものだ。刀にしてもそうで、刀は武士の魂などと言うのは江戸中期以後のことで、それ以前は、刀に対して精神的な、教訓的な考えや見方など全くない。関が原や大坂の役などでも、参加する将兵たちはふところの許すかぎり、一人で何本もの刀を買い集め、それをなわでくくって小荷駄にあずけ、自分は|脇《わき》|差《ざし》一本の軽装で戦場へ向うのだ。戦場ではここぞと思う所へ抜身の刀を何本も土に突き刺しておいて、そのあたりで敵と切り結び、おれた刀をとっかえひっかえ戦うことになる。守る方はそれでよいが攻める方はすぐ刀がだめになってしまうからかなり苦しかった。だから最初から刀などに頼らず、丸太ン棒や|竹《たけ》|竿《ざお》などを手にする者も多かった。実際、戦場ではどんな名刀でも役立たない。じっくり構えて切り結ぶなどということは先ずあり得ないことだから、むしろ丸太や竹竿でぶちたたくという方がはるかに効果的でもあり実戦的だったようだ。槍なども突くよりもふり回したりたたいたりしたもののようだ。  江戸時代も安定した三代家光以後になると、武士たちもすっかり官僚化し、もう切った張ったなどの荒事とは縁遠い存在となってくる。その頃から二本差。きちんとまげを結い、おり目正しい羽織はかまなどという服装が定着してくるが、それでもこれはあくまで出仕用の、つまり官員としての制服であり、下級武士などではその礼装さえ持っていないのがふつうだった。お目見得以下の軽輩ではとくにその必要もなかったのだろう。はかまは現代でも和装の第一礼装のようなものだが、これは江戸時代でもそうだった。幕末になるとかなり変ってきて町医者の見習いなどでもはかまをつけるようになったが、元来、信望|篤《あつ》い名主さまなどでも、はかまをつけるのは、婚礼の席に出る時とか、とどこおった年貢の申し開きに代官所へまかり出る時ぐらいだった。新選組が戦闘服に大丸呉服店特製のはかまを用いて京雀をおどろかせたのも、それが華やかで粋だったからだ。このへんのところはアラン・ドロン演ずる殺し屋の、粋なダブルにトレンチコートと通ずるところがあろう。  この『寛永無明剣』は、一九六九年に立風書房から出版されたものである。     角川文庫版あとがき  私は小学生の頃から『時代小説』が大好きだった。大人の雑誌に連載されていた〈風雲将棋谷〉や夕刊の〈蛇姫様〉などを、親の目をかすめて読むのに苦労したものだった。と、いうのは、風俗小説や時代小説、探偵小説などという娯楽小説は、真面目な学生、生徒の手にするものではなく、そんなものを読んでいるのは不良の始まり、というわけで、学校でもきびしく禁じていた。  夕刊の小説を読むのは、それほど危険な作業ではなかった。門のかたわらの植込みのかげにかくれていて、郵便受に新聞が入ったと見たらすぐ飛び出していって新聞を持って物かげにかくれて小説だけ読み、あとはきちんとたたんで郵便受にもどしておけばよい。だが、親の目をかすめて雑誌を読むのは難しかった。  それでも、物置の奥に縄でからげて積んである中から、一冊一冊抜き出しては、炭だわらの上などで読むのは、この上ない楽しいことだった。物置の羽目板の高い位置に無双窓があり、それをわずかに押し開くと、細い陽射しが入りこんできて、その光の|条《すじ》の中に、微細なおびただしいほこりを浮き上らせた。雑誌に読みふけっていると、その無双窓の細いすき間に、ちらと黒い影が動き、顔を上げると、そこからイタチやスズメがのぞきこんだりしているのだった。  時おり親に見つかってはさんざんに叱られた。思うに私の母親は当時の教育ママだったのであろう。  太平洋戦争が激しくなる頃には、もう血わき肉躍るような時代小説はなくなっていて、物資不足で、ろくに発行されてもいないような雑誌や新聞には、愛国小説や軍事小説ばかりが巾をきかせていた。  戦後、大学へ入ってから私はある時期を、講義にも出ず時代小説を読むことで費したことがあった。大学の近くの区立図書館が、いかなるわけか、戦前から戦後にかけての|尨《ぼう》|大《だい》な量の大衆小説をそろえていたのだった。これは宝の山を発見したようなものだった。  やがて読むだけではあきたらず、自分でも『時代小説』を書きたいという願望を抱くようになったが、これは一朝一夕に果たされるものではなかった。  昭和三十八年。私のSFの最初の短篇集が世に出て、曲りなりにも、書くという作業の呼吸の一端が解るようになって、『時代小説』を書きたいという欲求は極めて熱くなった。  私はその願望を、純然たる『時代小説』ではなく、SFのひとつの方法としての『時代小説的SF』の形で書くことを思いついた。  この『寛永無明剣』がその試金石であった。  良くも悪しくも、元気と客気のもたらしたものであり、大方の批判には、まあまあまあと両手で押えたくなるような顔赤らむ思いがする。  これまでの私の数少ない書下し、三冊の内の一冊である。  今度、角川書店から文庫版で出版するに当っては、同書店山田和夫氏のお世話になった。感謝する次第です。 |寛《かん》|永《えい》|無明剣《むみょうけん》  |光瀬龍《みつせりゅう》 平成14年7月12日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Ryu MITSUSE 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『寛永無明剣』昭和57年7月30日初版発行