角川e文庫    宇宙のツァラトゥストラ [#地から2字上げ]光瀬龍   目 次  第一章 旅立ちの日  第二章 |虚無太元尊《おおそらのみこと》かく|宣《のたま》えり  第三章 バビロン燃ゆ  第四章 神々の|黄《たそ》|昏《がれ》  第五章 旅人|還《かえ》らず   あとがきにかえて     第一章 旅立ちの日      1  東京駅へ向かってゆるいカーブをえがきながらのびる国鉄中央線の高架橋と、去年増築したばかりの大同銀行本店のビルとのせまいすき間から|陽《ひ》が射しこんでくるようになると間もなく正午だった。事務室のドアの外の階段を降りる足音や人声がにわかに|繁《しげ》くなる。上の階に居を占める会計事務所や歯科医院、法律相談所などにつとめている人達が昼食に出てゆくのだ。それを聞くたびに謙造はいつも思う。かれらの職場はおそらく時間などそれほどやかましくないのだろう。正午まであと十分近くもあるのに、もう職場から出てゆく。思い思いに行きつけのレストランや喫茶店に散ってゆくのだ。正午に始まる休み時間に先立つ数分間の解放感はことによいものだ。そういう職場はきっとなごやかであかるい空気に満ちているのだろう。  謙造のとなりの席の北沢がことさらにゆっくりと新しい帳簿をとり出し、欄を指で追いはじめた。北沢は課長のお気に入りだった。かれがもっぱら精勤ぶりを示すのはこんな時だった。昼休みまでの数分間がいかにも惜しいという気持ちが全身にあらわれているポーズだった。  謙造は目をそらした。そのとき救急車の間のびした|警笛《ホ ー ン》が窓の下の|露《ろ》|路《じ》へ入ってきた。それがふいにとだえると、かわってスピーカーが妙になまりのある言葉でそこに停車しているライトバンに移動するように呼びかけた。さわがしい人声も聞こえてくる。  謙造の向こう側の机の西村が|椅《い》|子《す》をがたがた鳴らして立ち上がった。女子社員の城田菊枝も立ち上がって窓に走り寄った。謙造もひかれて立ち上がり、ならんだ机を回って西村や城田の後から露路を見おろした。道幅いっぱいに停まっている救急車の白い屋根とそれをとりまいているやじ馬たちの頭だけが見えた。そのうちに|人《ひと》|垣《がき》がゆれ動き、救急車のドアのしまる音が聞こえると白い屋根がゆっくりとすべり出した。とだえていた|警笛《ホ ー ン》がよみがえったようにふたたび高く鳴り出した。窓ぎわを離れた謙造の目に、こちらには目もくれぬ北沢と、苦々しい顔つきで首だけこちらへねじ向けている課長の清水の姿が映った。 「|人《ひと》|混《ご》みの中をたんかで運ばれるなんていやですねえ」  西村が自分の席へもどりながら、多少の思い入れをまじえて課長に声をかけた。課長が言葉もなく、しらけた微苦笑でくちびるをゆがめた。時計は正午まではあと何分か間があったが、なんとなくそれで昼休みがはじまってしまった。 「まあ今日はいいだろう。そう毎日きちっとしていなくても」  課長の清水がそんなことを言いながら自分も立ち上がり、ハンガーにつるしてある自分の背広をつかんだ。すばやく北沢も腰を浮かせた。清水がまあ今日はと言ったのは、営業部長でもある専務の今川が三日ほど前から関西へ出張していて、ここへは絶対に顔を出さないことがわかっていたからだった。“仕事は仕事、休憩は休憩”と口ぐせのように言う今川は、社員たちが勤務時間中に外出することはもちろん、必要以外に机を離れることさえひどく|嫌《きら》った。そのせいか今川は、たいした用もないのにしばしばそれもとつぜん各課の部屋に顔をのぞかせた。先々代社長であり、現在会長でもある創設者の今川助次が好んで口にする“規律ある服務態度”という言葉を自分でもモットーとし、それを実行させることによって、自分も十分に創設者の跡を襲うことができると信じているような今川だった。 「営業部長は当分向こうですか? たいへんですねえ。『週刊経営』にも出ていましたがうちと中央通商とのこと。どうなんです?」  西村がこちらに背を向けて背広にうでを通している課長の清水に声をかけた。 「さあ。知らんよ」  清水はにべもなかった。 「『週刊経営』の記事じゃかなり悲観的なことが書いてあったな。これからの石油化学製品メーカーはコスト高と廃棄物による公害問題で生産漸減と技術開発に迫られるだろうってんだ。したがって大手メーカーでは既設生産システムの拡大や新規工場の建設は当分見合わせるだろうってさ」  西村は視線を清水の背中から北沢へ移し、さらに謙造と菊枝の顔に動かした。清水は耳のないように答えなかった。 「うちの会社のことも出ているの?」  菊枝がのび上がった。 「はっきり名前は出てはいないが読めばわかるよ。S物産と書いてあるが、うちが石油化学工業関係の外国製機械の取り扱いにまで手を出したということを大々的に報じたのが『週刊経営』だもの。その時はずいぶん好意的に書いていたんだが」 「こんどはちがうの?」 「こういう状況になるのは大手メーカーじゃだいぶ前から十分予測していたというんだ。にもかかわらずS物産は、てなことよ」 「こんどの中央通商との話のことも?」 「大手メーカーでは手持ちのスタティックミキサーを使いきるまでは状況待ちだ。と」 「じゃ、だめじゃない!」 「そういうこと」 「西村くん」  課長の清水がオクターブの高い声でさえぎった。 「あの記事はぼくも読んだ。内容的にはまるでしろうとのものだ。スタティックミキサーはこれまでM物産やI商事がウエスタン・ケミカルやバリナージョイスから多量に入れて国内シェアのほとんどを占めていたものだ。それをこれまでは専門外のうちがカナディアン・エレクトリック系のものを国内販売することになったんで何かと邪魔をしてくるんだよ。品質だって価格だってカナディアン・エレクトリック系のものはこれまでのものよりずっといいんだ。需要の点じゃ少しも心配はいらないんだ。今川部長のねらいはまさにぴったりだよ。あんな記事にごまかされてはいかんよ」 「だったらなにも中央通商なんかに売ってもらわなくたってうちで自分で売ればいいじゃない」  城田菊枝が、ねえと言うように西村を見かえった。  高度の均質を要求される半導体やプラスチックなどを製造するとき、材料を一定の状態でかき回すための|攪《かく》|拌《はん》|機《き》は石油化学工業や弱電機器メーカーにとってはなくてはならないものだった。ここ何年もの間、好景気にあおられるそれら業界の間ではスタティックミキサーとよばれる攪拌機は、それがたとえ中古品でも手に入れるためには奪い合いを演じなければならぬありさまだった。そこへ目をつけた新光物産では、アメリカのあるメーカーで製造されているスタティックミキサーの日本での販売代理権を買い、国内に流そうと計画した。しかし販売代理権は獲得したものの、専売権というようなものでもなく、しかもそのような特殊機械の販売は畑違いの新光物産では不案内なことが多過ぎ、ろくな本数もさばけぬうちに七千本からの荷をかかえることになってしまった。そこで新光物産では、わが国有数の商事会社である中央通商の販売網に新光物産の輸入したスタティックミキサーをのせてもらうよう必死に交渉を重ねていた。もしこの交渉が失敗すると、新光物産ではそれだけで二億八千余万円の赤字が確定することになる。そのうわさはすでに業界内部へひろくつたわり、経済週刊誌までが小さな記事ではあったがとり上げていた。 「今川専務はベテランだからね。信用していいと思うな」  清水は菊枝の言葉は黙殺して自分の信念を|披《ひ》|瀝《れき》した。 「しかしいくら専務がやり手でも、売れるみこみのない物を背負いこんでくれるかな。中央通商じゃ」  西村がたばこのけむりを高く吹き上げた。 「西村くん。きみは会社のやることがうまくゆかない方がいいと思っているのかね?」  清水の語勢が変わった。 「とんでもない。課長」 「言っておくがね。あの件に関してはぼくも意見を求められた一人だ。ぼくの判断も部長と同じだった。商売というものは自分もその責任の一端をあずかっていなければ決断もくだせないし、したがってその取り引きの正しい評価も持てないものだ。会社がまずくなればきみたちはあっさりやめてどこかほかの会社へ行くだけだ。しかしぼくらは……」 「課長。梅田さんとのお約束がありましたでしょう」  ごくしぜんな形で北沢が割って入った。  課長の清水は今川部長の妻の弟だった。  青い顔をしてまだくちびるをふるわせている清水の背を押すようにして北沢がかれをドアへうながした。  西村はだまってたばこをふかしつづけていた。  謙造は肩をすくめ、清水と北沢が去ったあとから部屋を出た。  廊下へ出てほっとした。廊下の活気に満ちたざわめきが謙造に解放を実感させた。  向かい側の開け放されたドアの内側にこまごました色彩がならべられていて男たちがとり囲んでいた。ネクタイ屋が入っているのだ。女子社員もまじってそこからにぎやかな笑い声がわいていた。  その部屋は建築用鋼材か何かをあつかう会社で、謙造のつとめている新光物産とは比較にならない小規模な所帯で、このビルの中でもその部屋ひとつしか使っていない小さな会社だったが、人の動きも活発であり、あかるく笑い声のたえない感じだった。時には何か買ってきてみなで食っていることもあった。  謙造の会社では商人の出入りはいっさい禁じていた。二、三年前からは出前さえいけないというのだ。室内にいつまでも食物の匂いが残るからというのがその理由だった。  となりに地上九階地下二階建ての本社のビルがあり、そこに入りきれない幾つかの課がこのビルにおさまっていた。戦後に生まれたいわゆる新興商社の中では上位にランクされる新光物産だったが、内容は同族会社であり、会社を支配する今川一族のそれが体質なのか上層部の動きはつねにきわめて秘密的であり、空気は陰湿だった。かれらは何年か前に同族からの離反者を出した苦い経験を持ち、そのおり会社に忠節を示した何人かの役付社員を幹部に昇格させたが、結局それも同族幹部たちがそれら成り上がり幹部を監視し警戒するという新たな状況を作り出しただけだった。かれらにしてみれば、それだけでもう同族支配の一角にひびが入ったと感じとっているようだった。  謙造も時たまつき合うおでん屋で、西村はよく「社長は背中やえりに新光物産と染めぬいた|印袢天《しるしばんてん》をおれたちに着せたくてしょうがねえんだ」と言ったが、ほんとうにできればそうしたかったかもしれない。実際二、三年前までは胸ポケットの上に|橙色《だいだいいろ》の文字で新光物産と縫いとりをした|薄《うす》|樺《かば》|色《いろ》のジャンパー風の事務服が支給されていたものだった。さすがに渉外の連中から町工場のようだという声が出て着用は自由ということになったが、それまではいったん社へ出勤したら昼食に外出するのでも応接室で下請け商社の人たちに会うのにでもつねにそれを身につけていなければならなかった。機会あるごとに社名を示せということ自体にはうなずけるものの、それが強制的なお仕着せということになると|誰《だれ》もが露骨に嫌った。まして一応一流会社でもある新光物産の社員がそろいの樺色のジャンパーで日本橋|界《かい》|隈《わい》を練り歩けるわけのものでもなかった。      2  謙造はせまい階段を一階まで降りると、いったん地下のレストランへ向かいかけたが、思いなおして街路へ出た。課長の清水や北沢に顔を合わせるのがいやだった。  時たま行く天ぷら屋へ入ると見知らぬ顔で|混《こ》み合うテーブルの間をぬけて奥のたたみを敷いた一角へ|尻《しり》を落とした。右も左も四百五十円の天ぷら定食だった。謙造もそれを注文して誰かが置いていったスポーツ新聞をとり上げた。天ぷらのたれのしみついた紙面をめくっていると西村が城田菊枝とやってきた。 「いたな」  西村は強引に上がりこんできて菊枝の分もあわせて割りこんだ。初老のおとなしそうな男が迷惑そうに自分の|汁《しる》わんやおしんこの|小《こ》|皿《ざら》を横へずらした。謙造はせっかく一人になれたと思ったのに、あとを追ってきたような二人にむりに引きもどされた気分になった。西村と菊枝はできているようだった。もちろん謙造と同年輩の西村には妻もあり子供もあるのだが、それは十分承知しているような菊枝だった。菊枝は今年二十九歳になったはずだった。一度結婚して子供まで生んだことがあるというが男のような体つきの髪のちぢれた女だった。四年制の大学まで出ている女房を持っている西村がなぜ菊枝などとできているのか謙造には理解できなかったが、顔立ちや性格以外のほかの魅力でもあるのだろうと思った。  朝めしもそこそこに家を出てラッシュアワーの電車にもまれ、一日中陽の射さない陰気な部屋で帳簿や伝票に埋まって暮らし、夕方ふたたび同じコースを逆にたどって家へ帰るだけの生活を、とにもかくにも五十六歳になるまでつづけなければならない。その人生の約束ごとの中で、わずかに破調を求めるとすれば器量が悪かろうが気立てがどうであろうが手近な女を相手に自分の体を|愉《たの》しむという行為しかないのだろう。競馬も酒も|麻雀《マージャン》も結局はそれの代替作業にすぎないようなものだ。  |横《よこ》|坐《ずわ》りになった菊枝の太いももの上でスカートが張りつめ、その下の三角形のすき間からくたびれたスリップのすそがのぞいていた。 「むきになりやがる。あいつは。まいったよ」  西村は運ばれてきた定食のみそ汁を音をたててすすった。 「まるで重役気どりよ。でも、あれでも一族の端くれだからね」  菊枝がわりばしを口でくわえてぱちんと割った。 「王位継承権があるってわけだ。でも、だいぶいけないらしいぜ。中央通商との話」  西村はそれでも周囲をはばかってか、多少声を落とした。 「あれがうまくゆくと専門の課をもう一課ふやすらしいわよ。課長と北沢さんの|内緒話《ないしょばなし》をちょっと聞いたんだけどさ」  菊枝が男のように天ぷらのあじのしっぽをぷっと床に吐き出した。 「へえ! そいつはたいした熱の入れようじゃないか」 「どうもうちの課長がその新しい課の課長に北沢さんをすいせんしているらしいわよ」 「北沢を?」  西村の声には感情がむき出しになっていた。 「あいつはおれより六年もあとから会社へ入ってきたんだぜ!」 「六年あとだって七年あとだってあの人、ちゃんとした大学を出ているんだからね。およしなさい。ごまめの歯ぎしりよ」  そんなことを言うときの菊枝の口調には持って生まれた心のゆがみのようなものがのぞいていた。 「そう頭ごなしにきめつけるなよ。本社に新しい課ができれば支社や出張所にだってそれなりにセクションができるだろう。そうなればこっちにだっていい目が回ってくるかもしれないじゃないか」  西村は急にひくつな笑いを浮かべ、人が動けばそれなりにいいことがあるものさと吐き|棄《す》てるように言った。 「なあ。吉田くん。どう思う?」  西村が顔を上げた。 「どう思うって別にぼくは」 「なんだい。相変わらず気の乗らない言い方だな。われわれ新光物産の社員といたしましてはだな、会社の浮沈とかかわりあるこんどの問題に関して無関心ではいられないのだよ。きみもその一人であることを私は信ずる」  西村はおどけた調子で言い、え? どうだ? と念を押した。 「中央通商と提携することか」  謙造はふとはしをとめた。  身を入れて聞いていたわけでもない西村と菊枝の会話が、なぜかとつぜん謙造の心の中で全く別な意味を持った。それは謙造の心の表層にするどくとがった物体の触感をもって触れてきた。触れた一点から、心をおおっていた薄い薄い表層膜がそれ自体の伸縮力で一瞬、さっと二つに引き裂けたのを感じた。そこから|漿液《しょうえき》に|濡《ぬ》れたみずみずしい心がのぞいた。その心の中には今の今まで全く謙造の知らなかった記憶が|蔵《しま》いこまれていた。それは記憶としか言いようのないものだったが、もとより今の謙造にはかつて一度たりともそれらの記憶の源泉の場に立ち会ったことはないものだった。  それははげしい痛みに似た衝撃とそのあとにつづく生理的な深い虚脱をもたらした。視野が薄れ、その中ではしの先でとらえた白身の魚肉が小きざみにふるえていた。  謙造はさけび出したい衝動とそれをおさえようとする自制心が自分の体を引き裂くのを感じた。謙造のはしの先から支えていた魚肉が落ち、つづいてはしが乾いた音をたててテーブルの上に落ちた。 「どうしたの?」  謙造の耳に菊枝の声が水底をつたわってくるようにくぐもって聞こえた。 「吉田くん。気分でも悪いのか!」  西村が腰を浮かせてのぞきこんだ。 「吉田さん!」  菊枝が謙造のうでをとらえた。謙造のひたいにつめたい汗が粒を作り、細いすじをひいてほほからあごへ流れた。 「横になりなさいよ」  菊枝が大きな尻をずらせた。 「大丈夫だ」  謙造は頭をたれたままつぶやいた。|汐《しお》の退くように体の中から何かが退きつつあり、その退いたあとからふだんの自分がふたたびあらわれはじめていた。 「大丈夫だよ」  謙造は自分に言い聞かせた。口の中が妙になまぐさかった。はずみに口の中でもかんだのかなと思ったがそうではなく、まだ口の中に残っている魚肉のせいだった。謙造はそれを|呑《の》みこむ気もせず、ちり紙を出して|拭《ぬぐ》いとった。 「気持ちが悪いの? 吐くのならトイレへ行ってよ」  菊枝が顔をしかめてさけんだ。周囲の客がその声にいっせいに逃げ腰になった。 「ちがうよ。なんでもないよ。ただちょっとめまいがしただけだ」  謙造はさまにならない笑顔をつくって体をちぢめた。 「ほんとうにいいのか?」 「ああ」  謙造は残ったみそ汁だけ呑んで体をずらした。まだ半分も食べていなかったが食欲は完全になくなっていた。今日のことだけではなかった。これまで何回かこのような発作めいた不快な衝撃感を感じていた。何年か前、最初に経験した時は話に聞く|心《しん》|筋《きん》|梗《こう》|塞《そく》というものではないかと思って青くなった。実際、最初のそれは万力で心臓をわしづかみにされ、思いきり締め上げられてでもいるような強烈な圧迫感と|喉《のど》もとへ衝き上げてくるような|動《どう》|悸《き》をおぼえたものだった。かけこんできた謙造を前にして医者も首をひねるばかりだった。発作は忘れた頃、二度、三度とやってきた。回数を重ねるたびに心臓を締めつけられるような不快感は薄れていったし、これでこと切れるのではないかという恐怖や不安も抱かなくなった。だが、そのかわり、謙造はそれまで経験したこともない心理的負担に苦しまなければならないことになった。それは一人の人間からその人生のすべてを奪い去ってしまうほど|苛《か》|酷《こく》なものであり、あらゆる事態の進展から独り疎外されて在ることを否応なく知らされることの絶望でもあった。 「……あの提携の話は……」  謙造は無意識に口をついて出てくる言葉を必死に呑み下した。それを口に出したいはげしい衝動とそれをおさえようとする自制心が謙造の顔を別人のようにゆがめた。 「知ってるのか? 何か」  西村がにわかに表情を動かした。体をのり出して謙造をうかがった。謙造の内部に生じた何かの異変を目ざとく感じとり、それが謙造が何事か会社の重要な秘密について聞き知っていてそれを同僚に話すべきかどうかで迷い苦しんでいるのだと判断した。 「おい。何か知っているらしいな。話せよ」  西村は目をかがやかせた。 「いや。別に」 「うそつけ。何か知っているはずだ。今、そんな顔をしたぜ」 「知らんよ」 「吉田さん。何か知っているみたいね。ねえ、知っているんでしょう」  菊枝が盛り上がったひざで謙造のひざを小突いた。  謙造はうでの時計を見た。ぶらぶらもどればちょうどよい時間だった。 「北沢あたりから何か仕入れたのかい? 課長がきみに言うわけないものな」  西村は追及をやめなかった。 「ほんとうにおれは何も知らないんだ。知っているようなこと、何か言ったか? おれ」  西村と菊枝に半々に言った。 「吉田さん。あんた。こうよ。中央通商と提携する話か、あの提携の話は……」  菊枝はことさら抑揚を強調した。 「これは何か知っている人の言い方よ。そうでしょう」  言いがかりとも言えるような調子だった。 「吉田くん。きみ、さっき何か言いかけてひどくこたえたようだったね。ぼくはきみが倒れるのではないかと思ったよ。きみは何かとてもおびえていたようだった。|真《まっ》|青《さお》になって。あれはぼくたちが話していた中央通商との提携のことできみが何か思い出したか、それとも心の中でおさえかねていることでもあって、それが原因できみはまいっちまったんだろう。え?」  西村はさすがに謙造のようすをよく見ていた。 「何におびえたんだ? きみがそんなに心痛することはないじゃないか! 言えよ」  おびえか! たしかにおびえたのにちがいない。心の凍りつくようないまわしい事態にふるえ上がったのだから。めしを食いつづける気力の失せたのもそのせいだ。心痛にちがいない。しかし、何に対して心痛するというのだ? 謙造は力なく首をふると、だまって自分のレシートをつかんで立ち上がった。ひざから下が妙に力なかった。 「あの提携の話は絶対に成立しないよ」  謙造はそのままレジへ向かった。背後で西村がたまぎるような声で呼んでいた。      3  その日の午後いっぱい謙造は西村の顔を見ることなく過ごした。西村は仕事もうわのそらで時々何かじっと考えこんでいた。  退社時間がくると、謙造はいつものように一人ビルの外へ出た。ふだんなら麻雀屋へくり出す連中や、いっぱい飲もうなどという連中でひとときにぎわいを見せる営業二課も、大部分が出張や支店回りに出かけそのまま帰宅してよいことになっているので、今日はしんとしてもの|淋《さび》しい|退《ひ》け時だった。しかしそんなことは謙造にはどうでもよかった。  謙造は国鉄の神田駅へ向かう道をそれて一軒の小さな本屋へ入った。雑誌の|棚《たな》にすばやいいちべつをくれ、奥のカウンターに足を運んだ。 「……きていますか?」  謙造は熱っぽい期待をこめて求める雑誌の名を口にした。カウンターに|坐《すわ》っている老人はとうに謙造の顔は見知っていた。老人はわずかに顔をほころばせ、その雑誌が店にとどいているとこたえ、注文の品だけを別にしておさめておくらしい棚から一冊の薄い雑誌をぬき出して紙袋に入れた。  謙造は子供じみた浮々した気持ちで駅へ向かう人の流れに混じり、やがてある喫茶店へ入った。その日は火曜日。火曜日の|宵《よい》はそこでコーヒーつきのトーストで自分に必要な時間を費やすのがならわしになっていた。もう一年にもなる。それは決して好んでする習慣ではなかったが謙造にはそれが自分にとってもっとも適した行為であると信じていた。酒を飲まない謙造にはその時間を酒によって耐えるという方法はとれなかったし、駅のホームのベンチに坐りこんでつぎつぎとやってきては発車してゆく電車を見ながら時間を送るよりもずっとしのぎやすいということでしかなかった。しかし今日は何日もの間、待ちのぞんでいた雑誌が手に入ったのだ。気分はいつもとはかなりちがっていた。  謙造はコーヒーをすすりながら豊かな気持ちで雑誌を開いた。  “古代エジプトのおどろくべき天文学の知識”  “プレ・インカの神話”  “古代地球に宇宙人はやってきたか?”  つぎつぎと目にとびこんでくる題目が謙造の心を奪った。たばこを吸っているのがもどかしく、謙造はまだ長いたばこを|灰《はい》|皿《ざら》におしつぶした。ひざを組みなおしてページに没入していった。  “国内UFO目撃報告”  ——目撃者小川善夫。二十六歳。公務員。場所、東京都北区浮間二丁目荒川堤防。日時、一九七三年十月五日午後七時二十分。天候晴。対岸の埼玉県川口市の上空を東北本線鉄橋方向から戸田橋方向へ、高度五百メートルぐらいで低速で飛行する光体を見た。光体は百円硬貨ぐらいの大きさで全く点滅することなく最初あざやかな緑色だったが目撃者の正面位置あたりからオレンジ色に変化し、戸田橋方向へ消えさる直前、ふたたび緑色にもどった。見えていた時間は二十秒ぐらいである。なお当日は風速三、四メートルほどの北風があり、風上を飛行する飛行機ならばはっきり爆音が聞こえるはずだが、この光体は全く無音だった。このふきんは夜間ヘリコプターが飛行することも多いが……。  ——目撃者新城端男。十八歳。学生。場所、岩手県前沢町。日時、一九七四年二月十四日午後九時四十分頃。前沢町東方北上川対岸につらなる北上山地上空を束稲山方向から北方へ飛行する五個のオレンジ色の光体群を見た。この夜は寒気きわめてきびしく晴天で星が多数のぞまれた。光体群はほぼ三等星の明るさでV字形の隊形を保ったまま星の間をゆっくりと移動し、目撃者が気づいてから三十秒ほどで視界から消えた。無音。このふきんは青森県三沢基地から飛来するジェット機が……。  ——目撃者橋本寛子。二十一歳。OL。場所、神奈川県城が島。日時、一九七四年九月二十四日午後二時。城が島上空を太平洋方面より内陸へ向かって飛ぶ銀色の円盤型物体を目撃。高度千メートルぐらい。白銀色にかがやき飛行機でないことはあきらかだった。目撃者多数。みな口々に空飛ぶ円盤だと言っていた。その物体は……。  謙造はしびれるような心でそれらの記事をむさぼり読み、|憑《つ》かれたようにぺージを追った。空飛ぶ円盤を目撃したという人々の報告がなまなましい実感となって謙造の心をゆり動かし、ほんとうに自分が夜の荒川の土手や東北の雪の山すそに向かっているような気がした。運ばれてきたコーヒーはいつの間にかすっかりつめたくなり、謙造の周囲のテーブルではもう何回も客が代わっていた。  謙造はふとわれにかえって深い吐息をもらした。首や背筋が板のようにこわばっていた。たばこをつけ時計を見ると店へ入ってからもうかなりの時間がたっていた。謙造はつめたくなったトーストをコーヒーといっしょに腹に流しこんだ。目はなお記事を追っていた。その雑誌をいっぺんに読み終えてしまうことをはなはだ惜しく感じながらも目の方が言うことをきかなかった。  謙造が〈空飛ぶ円盤〉に夢中になっていることなど誰も知らなかった。会社の同僚の西村に一度その種の単行本を持っているところを見られたことがあるが、西村はたいして関心を示さないでくれた。自分が〈空飛ぶ円盤〉に興味を持っているということを謙造はひとにはかたくなにかくし通した。他人の前で雑誌をひろげることもしなかったし、それを口にのぼせたこともなかった。人に知られてどうということもないはずなのだが、そのために向けられる他人の好奇な視線や、時には若干のさげすみをこめたまなざし、ある場合には変人あつかいされるわずらわしさや自分自身の身がまえがいやだった。何よりも謙造にとっては〈空飛ぶ円盤〉それ自体が現実を忘れさせてくれるたったひとつの安穏なかくれ場所であったことだ。そしてそれらの雑誌を開くとき、そこにはそれを信ずる者だけの、それを目撃した者だけが持つ奇妙なできごとの立会者としての孤独な主張が謙造にある種の連帯感を与えてくれた。それはたしかに安らぎといってよいものだった。  もう全く忘れ果ててしまった幼い頃の記憶の中でたったひとつ、それだけが奇妙にあざやかな一枚の画となって謙造の心の奥底にはめこまれていた。幼い心はたとえ理解し難いものを見聞きしてもそれだけではそのことを長く記憶していることはない。なぜなら幼い者にとってはこの世のすべてが理解し難いものであり、奇異なものであるからだ。すべてがそうである以上どんなものでもそれはありようのひとつにすぎなくなる。大人たちにはとうてい信じられない存在、理解し難い形象であっても、子供たちにとってはそれはなんでもないごくありふれたものであり、それはいちようにこの世に存在しているものなのだと先ず容認する。だから幼い者の胸にいかなる奇異なできごとも長く印象をとどめることがない。時にその安らかな眠りをおびえさせるだけでそれもやがて失せる。  だが、それはもう全く忘れ果ててしまった幼い頃の記憶の中でたったひとつ、奇妙にあざやかな一枚の画となって謙造の心の奥底にはめこまれていた。  それは昭和七年。謙造が四歳の時だった。その頃、謙造の家は荒川区の南千住にあった。常磐線の線路の高い土堤の北側に軒を接してつらなる小さなしもたやの中の一軒の、御神楽を上げるという言葉どおりのつぎたしの二階を持った古い家だった。ある時、謙造の記憶ではそれはおそらく秋だった。謙造は五歳ほど年上の姉とその二階の古びた手すりに体を寄せて高いともいえない高度を楽しんでいた。その日は朝から空模様が悪く二階から見おろす家の前の石炭殻を敷きつめたせまいあき地には大小無数の水たまりができていた。すでに雨はやんでいて頭上をおおった灰色の雨雲がちょうど見上げたあたりだけが細く裂けていてそこから青空がのぞいていた。その時、謙造はそれを見た。灰色の雲の切れ目からふいにあらわれ、青い空を背景に音もなく虚空をわたってもう一方の雲のかげに姿を没してゆく銀色あるいは灰色の異形の物体を。それは今の謙造の記憶の中では四すみを丸くした甲の字、あるいは円環にたて棒を通し、それが後方に伸びて尾となった形のいずれかとして定着していた。それを目にした四歳の謙造と九歳の姉ははげしい恐怖感におそわれ、そのまま逃げるように階下の親たちのところへ走った。  長い歳月が過ぎていった。その時の恐怖感はもはや今の謙造には思い出すことはできない。しかしその時の強烈な異和感はなお少しも形を変えずに謙造の胸に残されていた。あれはいったい何だったのだろう? 幼い心に|灼《や》きついた異和感は、幼い心であるが故にこの世のものとそうでないものとの違いを敏感に感じとり、この世の存在であるおのれとそうでないものとの|邂《かい》|逅《こう》におびえ、おそれおののいたのではなかったろうか。今の謙造には、すでにあの時見たものがこの地上に起因するいかなる物体とも異なった種類のものであることはさとっていたし、誰の口を借りても説明し難いものであることを知っていた。それだからこそ謙造は自分が目にしたものを決して人に語ろうとはしなかった。この場合、人に語ることは主張であり、完全な意味で同化させることであったからだ。それは不可能であり、時にはすこぶる危険なことでもあった。謙造は長い間、そのことを胸に秘めつづけてきた。  その記憶をさらに増幅させる体験がおとずれた。昭和二十五年の六月のある夜、友人数名と染井の墓地ふきんを散歩中ふと見上げた夜空の雨雲の下を、十円硬貨ほどに見えるかなり大きな光体が飛び過ぎてゆくのを目にした。なかまたちの目もそれに集中した。中央部が燃えるようなオレンジ色、それをとり巻くあざやかな緑色の環。そしてほのおのたなびくような短い尾を|曳《ひ》いていた。梅雨時でありその夜の雲は低く、おそらく三、四百メートルぐらいの高さであったろう。その雲の下に吸いつくように光体は東から西へ、十分に首を回して視認できる速さですべるように移動し、そのまま家々の屋根の向こうに消えていった。  翌日の新聞はかなり大きな見出しで、東京上空を大火球が飛んだと報じていた。高名な天文学者が火球について解説し、東京をおおう雨雲の下を飛んだものも、決して〈空飛ぶ円盤〉などというものではないと結んでいた。ちょうどその頃、日本の各地で〈空飛ぶ円盤〉がたびたび目撃されたというニュースが茶の間や職場の話題をにぎわせていた。ほとんどの人々にとって、その夜東京の空低く飛んだものも、しょせん一席の座談のかっこうな話題にすぎなかった。  それが火球であったという説明は謙造にとっては何の意味も持たなかった。  ——宇宙空間に無数にただよっている小さな岩石の塊。それは星のかけらというにはあまりにも小さく、直径は二、三十メートルぐらいのものから五、六キロメートルにおよぶものまでさまざまあるが、その形は球体をなすものはほとんどなく、岩石の破片とよぶのにふさわしい不規則な形をしている。それらの成因についてはなお解らないことが多いが、わが太陽系の内部では火星と木星の間にとくにおびただしくただよっていて、地球や火星、木星などとひとしく一定の軌道をえがいて太陽のまわりを回っている。それらの岩石塊ともいうべき小天体が軌道からはずれ、宇宙空間にただよい出したものがたまたま地球の引力にとらえられ、地球めがけてまっしぐらに飛びこんでくる。そのスピードは秒速数百メートルから数キロメートルにおよぶ。何ものをもってもさえぎることのできないすさまじい宇宙のミサイルだ。これを|隕《いん》|石《せき》とよんでいる。この隕石はやがて地球をとり巻く厚い大気の層に突入してくる。すさまじいスピードで飛ぶ隕石は大気との摩擦によって二千度Cもの高温に達し、急速に表面から燃え、|蒸発《じょうはつ》してゆく。それは爆発に近い早さで進行する。地上はぐんぐん近くなるが隕石が燃え、溶け、蒸発する早さはもっと早い。やがてさいごの一滴が熱いガスとなって虚空に|散《さん》|逸《いつ》する。地上の人々の目にはこの瞬秒のドラマが〈流れ星〉となって映る。百千のまたたく星々をななめに切って、あえかな残影を曳いて消える〈流れ星〉。それが光りはじめ、消えるまでの瞬秒の間が地球に向かって突撃をこころみた黒くつめたい小天体の存在の|証《あか》しだ。むかしの人々は、流れ星が消えるまでの間にねがうことを三度となえればねがいがかなうと信じていた。となえられるはずもない。厚さ三百メートルにもおよぶ地球大気の層を火の玉となって燃えながら突走るその時間は、わずか何十分の一秒でしかないのだから。  この流れ星となった隕石が、とくに大きい場合には高空で燃えつきずにかなり低空まで落下してくることがある。それは目のくらむようなほのおの尾を|曳《ひ》き、天空をほとんど一直線に電光のように飛ぶ。地上から見る時にはそれはどこまでもどこまでも海や陸地をかすめて突進してゆくように見えるが、実は地上目がけて直角に近い角度で落下してきているのだ。実際の高度はそれほど高い。数万メートルはあろう。  何百個に一個、あるいは何千個に一個、大気層の中で燃えつきることなく地表に激突するものがある。それは直径数キロメートルもある巨大な隕石で、大気層に入ってからの猛烈な摩擦熱によって、熱湯の中に投げこまれた氷片のように表層から急速に溶け蒸発しながらもなお突進しつづけ、地表に突入する頃には直径二、三十メートルまで小さくなっている。そのように小さくなっても、秒速数キロメートルの持つ衝突エネルギーはメガトン級の水爆に匹敵する。  一九〇八年六月三十日の夜明け。シベリアの一角ツングースカ河中部流域にあたるワノフワ地方の千古の原始林のただ中に落下した一個の巨大な隕石は広大な森林をなぎ払い、焼野原にし、深い谷を作った。大気の衝撃波は九百七十キロメートルも離れたイルクーツク市では約五十分後に、五千キロメートル離れたポツダムでは四時間四十一分後に、そしてワシントンでは八時間後にキャッチできた。この衝撃波はさらに三十時間二十八分後にふたたびポツダムでとらえられた。それは実に三万四千九百二十キロメートルの円周を描いて地球を一周してきたものだった。その後何年もの間、この隕石落下にもとづく気象異変が各地でつづいた。このツングース隕石については深い|謎《なぞ》が多い。これが他天体から飛来した宇宙船であり、地球大気圏内でなんらかの事故を起こして爆発したのではないかと考える学者もあり、ほんとうに隕石であったのかどうかは実は確たる証拠もないのだ。  このような物体がもし東京の中心部へ落下したらどうなるだろうか? 十メガトンの水爆よりも悲惨な惨害をもたらすことになる。おそらく関東地方の人口は八割を|喪《うしな》うことになるであろう。地球上には遠い太古に、巨大な隕石が落下して生じたと思われる幾つかの|隕石孔《クレーター》が残されている。海に落下した隕石はどれだけあるかしれない。地球は日夜、それらの隕石の攻撃にさらされ、厚い大気圏の底でおびえているといってもよい。  大火球がそうでないか。大気層の奥深くまで突込んできた流れ星かそれともそのような天然現象でないほかのなにかか? この判別は極めて難かしい。精密な観測機械と電子計算機をもってしても確かな答えはえられない。だが、地球上のあちこちで、たくさんの人々が奇妙な動きをする流れ星を見たと言っている。たとえばある人は、夜空をすばらしいスピードで飛ぶ流れ星がとつぜんぴたりと停止し、つぎの瞬間、今飛んできたコースを逆にふたたび電光のように飛び去るのを見たという。またある人は夜空をはしる流れ星がふいに軌道を変え、じぐざぐにコースを変え、ついで全く別な方向へ消えていったのを目にしたという。またある時は木の葉の落ちるように右に左にたゆたい、ある時はスピードの増減をくりかえしながら飛ぶなど、あきらかにある意志によって操作されているとしか思えない行動を示すものさえある。それははるかな宇宙空間から地球の引力にひきつけられて突入してくる隕石の幾何学的軌道とはあきらかに異なった意志ある行為のえがいた軌跡だとも言える。  一九四七年六月二十四日。アメリカの実業家ケネス・アーノルドは自家用機を操縦してワシントン州レーニア山岳の上空を飛行中、九個の巨大なひらたい円形の物体が一列に編隊を組んでいるのを目撃した。そのニュースは当時のアメリカの新聞紙上をにぎわせ、その物体には形の似かよっているところから|空飛ぶコーヒー皿《フ ラ イ ン グ ・ ソ ー サ ー》あるいは|空飛ぶ円盤《フライング・ディスク》などと呼ばれた。その後、この〈空飛ぶ円盤〉の目撃者は世界各地からあらわれた。だが、この物体が一九四七年にはじめて目撃されたのではなく、実際には何年も前から、記録だけで見るなら千年もあるいはそれ以上も前から時おり人類の目に触れていたようだ。近くは太平洋戦争中、アメリカ空軍機が何度か、この正体不明の飛行物体を目撃し、一部では真剣にこれらが日本の秘密兵器ではないかと警戒した。昭和十九年、アメリカ海軍の第五十八機動部隊がフィリピン、台湾などに大空襲をおこなった時にも多数のパイロットが空飛ぶ円盤を報告している。おそらく日本のパイロットたちもこの奇妙な物体を目撃したであろうが、戦況はそれに関心を寄せる余裕さえなかった。記録は全く残っていない。  日本人が〈空飛ぶ円盤〉という言葉になにがしかの興味を見出し、さらに確たる謎としての強い関心を抱くようになるまでには、さらに何年もの歳月が必要だった。  一九四八年一月七日。アメリカのケンタッキー州フォートノックスのゴットマン航空基地は、正体不明の航空機が基地に向かっているというレーダーからの報告を受けた。ただちにトーマス・F・マンテル大尉のひきいるノースアメリカンP51ムスタング戦闘機三機が発進し、断雲の間をぬって急上昇していった。十分後、基地の無線機にマンテル大尉のおどろきと恐怖に満ちたさけび声が入った。マンテル大尉が見たものは銀色にかがやき、頂部にオレンジ色の|灯《ひ》を点滅させた巨大な円盤だった。マンテル大尉はいら立ち、なんとかしてそれに追いつこうとして努力しているようだった。やがて交信がとぎれ、時間が過ぎてもマンテル大尉は基地へはもどらなかった。それから間もなく、マンテル大尉のP51がフォートノックス近郊の林にばらばらになって墜落しているのが発見された。この事件の調査に当たったアメリカ陸軍航空隊では、やがて調査の結果としてマンテル大尉は金星を見あやまったものと発表した。しかし一年半後その発表は修正され、金星を誤認したという見方は否定されて“例の物体は説明し難いものと思考される”とあらためられた。この事件は大きな論争を巻き起こした。  一九五八年、ブラジルの海洋観測船アルミナンテ・サルダナは南大西洋のトリニダッド島ふきんを航行中、島の上空を低い高度で飛ぶ空飛ぶ円盤を五枚の写真に収めた。この年は地球観測年であり、アルミナンテ・サルダナには多数の科学者や技術士官が乗っていた。ブラジル海軍は提出された写真を検討した結果、その写真が被写体を正確にとらえていることを認めた。この写真は現在、空飛ぶ円盤の写真としてはもっとも高い|信憑《しんぴょう》性を持つものとして知られている。その写真に写っている物体は伏せたコーヒー|皿《ざら》の上にコーヒーカップを伏せて乗せたような形をしたかなり量感のあるもので、これは地球上のいかなる|飛翔体《ひしょうたい》とも異なったシルエットを持っている。またその時の風速八メートルでは箱やその他の軽い物体でも島の上空まで吹き飛ばされるようなことはあり得なかったし、何よりもそのような形の巨大な物体にいくらかでも似通った形の品物は島には存在していなかった——。  謙造のテーブルのかたわらに立ち止まった人影があった。せまい喫茶店の通路はおたがいに身をさけなければすれちがうこともできない。先程から出入りする客の何人もが謙造の体やテーブルに体を触れるようにして通り過ぎていった。だから謙造も気にせず雑誌を読みふけっていると、とつぜん声がふってきた。 「吉田くん」  謙造の肩に手がのびてきた。  ふりあおぐと西村が立っていた。 「向こうのテーブルにいたんだけれども、なんだかきみに似ている人がいると思ってずっと見ていたんだよ」  西村は店の奥をあごでさした。 「ぼくはここへはよく来るんだよ。課の連中もさ。吉田くんも来ているとは思わなかったな」  西村の口調には思いがけない場所で思いがけない人物に|逢《あ》ったという思い入れがあった。謙造はこれまでこの店で西村にも課の同僚たちにも一度も会ったことはなかった。会社の連中が駅とは反対方向のこんな場所の喫茶店まで足をのばしているとも思えなかったが謙造はだまってうなずいた。正直に言って早く立ち去ってもらいたかった。西村は謙造の手の雑誌に視線を移し、ついでそれを黙殺したかたちで謙造の向かい側の|椅《い》|子《す》にななめに腰をおろした。 「吉田くん。きみ。昼間、中央通商との提携はだめだと言ったね。あれ、どういうこと?」  西村は謙造の顔つきなど気にもとめず体をのり出した。テーブルにかけた片ひじに体重がかかってテーブルがかたむき、スプーンがけたたましい音をたてて床に落ちたが西村は目もくれず謙造に顔を近づけた。 「何か知っていたら教えてくれよ。|誰《だれ》にも言ってはいけないことならむろん言いはしない。会社の裏話なんか知っていると上役なんか見下したような気持ちになれるものね。聞かせてくれよ」  西村は思い出したように片手を上げてウエイトレスにさけんだ。 「ぼくのコーヒー、こっちへ運んでくれる?」  謙造はたまらないと思った。西村のコーヒーが移動してくるとかれはそこで落ち着くつもりらしく、大きくひざを組んでたばこをとり出した。謙造の胸に怒りがわいたが、しかたなく雑誌を閉じた。 「空飛ぶ円盤か? ぼくのおいがね、小学校三年生なんだが、円盤を観測するんだなんて親に望遠鏡なんか買わせて夜になると二階の窓から見ていたっけが、この頃はあきたとみえて円盤のえの字も言わなくなったよ」  西村のそれが謙造への精一杯の愛想らしい。雑誌をのぞきこんでとってつけたように声を出して笑った。謙造はどうにもやりきれなくなった。自分が出てゆくか西村に出て行ってもらうかどちらかしかない。 「なあ。吉田くん。ぼくにも聞かせてくれないか」  西村は謙造の気持ちなどにはまるで|無頓着《むとんじゃく》にしつようにくいさがってきた。昼間の世界が謙造の心に強引に侵入してきた。謙造はもはやそれ以上は耐えられなかった。謙造は西村がもしかしたらそれを聞き出したいばかりに自分のあとをつけてきたのかもしれないと思った。 「うるさいな!」  日頃の謙造らしくない顔つきやとがった声に西村はわずかにひるんだがそれだからといって意図を放棄したようすはなかった。 「だからさ。ちょっとだけ聞かせてくれよ。聞かせてくれたらすぐ行く」  西村は片手を動かしておがむまねをした。謙造のくちびるが重く動いた。 「うちの会社で輸入したスタティックミキサーは実は今川部長と清水課長が独断で輸入したものだ」  たばこを口へ運ぼうとしていた西村の手がちゅうで止まった。 「独断で? それはどういうことなんだ?」 「社長も知らないことだ。もちろん外商部や企画部などの部長も知らない。今川部長と清水課長が国内のプラスチックメーカーや電機メーカーから注文を受けたことにして勝手に|輸《い》|入《れ》ちまったのさ」 「どうしてそんなことをしたんだろう」 「知らないね。おそらく景気の先どりをしたつもりだったんだろうよ。そのまま売れていれば今川部長の成績は抜群ということになるよ」 「なるほど! 今川部長は焦っていたからなあ。長女のむこというだけでは次期社長の決定的資格には弱いものな。この二、三年次女のむこの企画部長がぐんぐんのしてきているし。すると、こんどのことは企画部長も知らないとなると国内メーカーの発注書なんかどうなっているんだろう」 「発注があったといったって別に前渡し金も権利金も取った形になっているわけではないから、中央通商が引き取ることになりましたと報告すればそれっきりさ。売れてしまえば企画部だって外商部だって泣き寝いりだ」 「まるで思惑買いじゃねえか。企画部長なんか、かんかんになって怒っただろうな」 「しかし、うちの会社の場合は取り引きはなんといっても営業部が主体だし企画部は販路の開拓や新しい取り扱い商品の開発だろう。直接、注文を受けた品物の取り引きには口を出せないよ」 「そこに目をつけやがったんだな。どうもおかしいと思っていたんだよ。だが乱暴なことをしたもんだな。ほんとうに発注があったかどうかは調べればわかることじゃないか!」 「すぐ売れてしまえばあやしまれることはないさ。思惑買いだと気がつくやつはいない」 「中央通商はだめだと言ったな?」 「おととしあたりまでは中央通商もスタティックミキサーを扱いたがっていた。だから今川部長も目をつけたのだろう。しかしすでに時期が悪い。とくに石油問題が起こってからは中央通商もスタティックミキサーに対する興味を完全に失ってしまっていた。こんどの今川部長の売り込みにも通商側は最初から極めて冷淡だ」 「今川部長としてもあきらめきれないわけだな」 「中央通商の第二営業部の畠山部長は今川部長とは横浜高商で同級生だったんだ」 「なるほど。その線でくいさがっているのか」  西村は何度もうなずいた。灰になったたばこを灰皿に押しつぶすと気ぜわしく新しい一本を取り出して火をつけた。 「吉田くん。そんな情報をいったいどこで手に入れたんだ?」  くいつきそうな顔になった。謙造は口をつぐんで体をずらせた。もう話し終わったという気持ちだった。 「そいつはたいへんなニュースじゃないか。会社の誰もが知らんだろうよ。え? どこで聞いたの?」  謙造はのり出してくる西村の言葉を手でさえぎった。 「西村くん。もういいだろう。ぼくの知っていることはこれだけだよ」 「な、教えてくれよ。だめ? ニュースソースはあかさないのか。ちえっ、ま、いいや」  西村は不満そうに身をひいた。だまって一、二度たばこを吸いこんでいたがやがて立ち上がった。じゃ、と言って自分のレシートをつかむと出口の方へ立ち去っていった。  ようやく西村を追っ払ったものの、謙造は妙に気落ちしてしまってそれ以上雑誌を読みつづける気持ちがなくなってしまった。それに西村に話してしまったことが謙造の胸に今頃になってかすかな不安をもたらした。社内では西村は情報通を気どるような男ではなかった。それにしても、こんな所でこんな時に顔を合わせたのでなければ謙造も決して口には出さなかったろう。その点、西村はまるで見計らってでもいたようなあらわれかただった。謙造は胸にわだかまる不快感と不安を打ち払って立ち上がった。雑誌を入れた袋を小わきに喫茶店の自動扉をあとにした。      4  国電を赤羽駅で降り、古い商店街を十五分近く歩くと、店もとぎれブロックべいや|生《いけ》|垣《がき》のつづく暗い住宅地に入る。右手の家々の屋根の上に赤羽台団地の灯が港にもやう船の灯のようにつづいている。謙造はその灯を目にしながら暗い坂を登っていった。戦前から植えられているという桜の大木が道路をおおうように枝葉をのばしている。  門をくぐって玄関の前に立つと、灯のともった浴室の窓から娘の梨枝の歌う声が聞こえてきた。近頃|流行《は や り》の歌をそれらしい節回しで歌うはずんだ声がよく|透《とお》る。近所の手前もあるので少したしなめなければと謙造は思った。玄関のブザーを押すと妻の弘子の気配がドアの向こう側に近づいてきた。  茶の間のテレビが最近話題になっている連続ホームドラマをくりひろげている。謙造が若い頃、有名だった二枚目俳優が今はものわかりのいい父親役などを|演《や》っていて、それがやもめで年頃の子供達がたくさんあり、その子供達はある未亡人と父親を結婚させようというたくらみがあってという筋らしい。 「今、梨枝がお|風《ふ》|呂《ろ》から出るところだけれど、お食事、先になさる?」  弘子が謙造の上着を脱がせながらたずねた。謙造は先に食事をすると言い、洗面所へ行ってそれから習慣のうがいをした。それから謙造は浴室のガラス戸をたたいて梨枝にあまり大きな声で歌うなと言った。 「はああい」  湯の音とともに梨枝の声がかえってきた。  ダイニングでめしを食いながら謙造はとなりの茶の間のテレビを見た。身を入れて見れば結構楽しかった。謙造は時おりドラマの中の人間関係について弘子にたずねた。 「あれは次女の恋人なのよ。でも長女の方が好きになっちゃってるのよ。長女ってのは出もどりでその長女を好きなのは坂東照之助の演ってるペンキ屋よ」  弘子はまるで近所の家の消息でも告げるように浮々した調子で告げた。弘子はテレビを目で追いながらも謙造のめしを盛りかえたり|汁《しる》をおかわりしたりまめまめしく動き回っていた。ならべられた揚げ物や煮つけも謙造の好物ばかりだった。 「味、どう? 油でいためてから煮てみたんだけど」 「ああ。ちょうどいいよ」  謙造は満足だった。めしを食い終わった頃、ドラマも終わり、梨枝が風呂から上がってきた。 以前は裸のままやってきて茶の間でバスタオルを使っていたりしていたものだが、中学に入った頃から浴室のガラス戸の前までパジャマを運んでそこですっかり着こんでくる。体つきはまだ女といえないが肩や胸、腰のあたりは確実に小学生の頃とはちがった線を見せてきていた。 「おかえんなさい」  梨枝は水から上がった|河童《か っ ぱ》のような頭をして部屋の中を歩き回った。 「おとうさん。あたしたちね。あした社会見学で横浜の方へ行くのよ」 「横浜?」 「港、見るんだって」 「ほう」 「お菓子、持っていってもいいのよ。ジュースも。今日、清子さんたちと赤羽の方へ行って買ってきたんだ」  梨枝は友達の名を言った。 「早いのかい? 明日は」 「そうなのよ。七時集合よ。おかあさん、ねぼうしないでよ」  梨枝は心配そうだった。 「大丈夫。起きますよ。いつも七時に起きてるんだけど、明日は六時に起きるわ」  弘子が片づけ物の手を休めて言った。 「あなた。お風呂へお入りになったら?」 「ああ」  弘子が謙造のタオルやひげそり用のかみそりをそろえた。 「乾いているバスタオル、あとで持っていっておきますから」  その声に謙造は腰を上げた。  熱い湯に体を沈めていると、体のしんから古綿のような疲労がわき上がってきては湯に融解していった。そのたびに吐息が声となって出た。  湯舟から身を起こした謙造の目に、ふと、白いタイルの上にあふれ出た湯に押し流されてゆく一本の黒い短い毛が映った。すみのタイルの目地にでもひっかかっていたものであろう。頭髪と異なったその|猛《たけ》|々《だけ》しくちぢれた毛は流れる湯に抵抗しながらゆっくりとタイルの上を移動していった。それはもちろん娘の梨枝のものではない。妻の弘子もまだ入浴していないのはあきらかだった。謙造の視線をはねかえすかのように、その毛は排水口の銀色のふたの周囲を二、三度旋回し、それから急速に吸いこまれていった。謙造はほんのしばらくの間、排水口に消えていった毛の持ち主について考えていたが、すぐ心をふり払ってプラスチックの腰かけを引き寄せて|尻《しり》をのせた。謙造にはその毛が誰のものかわかっていた。|蛇《じゃ》|口《ぐち》をひねるとぬるい湯がほとばしり出た。浴室の壁の向こうで湯わかし器がごうごうと鳴るのを聞きながら湯が熱くなるのを待つ。  謙造の目の前にひとつの情景が浮かび上がっていた。  肉の薄い青白い男の裸体がこちらに背を向けていた。やせてはいるが病身というのでもないらしく、体の節々には若さといってもよい十分な力がみなぎっていた。男の体の下に白い肉体が組み敷かれていた。男の背に回された二本のうではもどかしそうにくねり、おれ曲がった指が男のひふにくいこんでいた。男の下半身の動きが大きくなるたびに白い足がちゅうをけり、水平に近い角度でひろげられたままはげしく硬直した。  謙造は洗い|桶《おけ》にたまった湯をいっきにタイルの上にぶちまけた。湯に洗い流されるように映像は消えた。謙造は胸の中いっぱいにたまった息を吐き出し、ふたたび洗い桶を蛇口の下にすえた。  スラックスをはき、セーターをかぶろうとしている妻の弘子の姿がまたもや床のタイルの上にあらわれた。セーターのえりから頭を出そうとしている弘子の、その姿勢のためにことさら張り出した豊かな乳房に、背後から男の手がのびた。弘子が身をくねらせ、男のうでの中で体の向きを変えると男の体にすがりついていった。弘子が押し倒したような形で二人は床に沈みこみ、男の上におおいかぶさりながら弘子は今、体につけたばかりのスラックスを片手でずりおろしはじめた。  謙造は湯を頭からかぶった。足もとに湯が飛び散り、床はもとのタイルにもどった。謙造は息をはずませて視線を遊ばせた。湯気で|濡《ぬ》れた窓のすりガラスに|街《がい》|灯《とう》の光がにじんでいた。  男の上にまたがった弘子はこちらに背を向けてはげしく腰を動かしていた。むき出しの大きな尻が男の体の一点を軸として自在に回転する。二人の体の接するあたりはひろく濡れ、さらに弘子の部分からとめどなくあふれ出る白い液体が二人のひふを|貼《は》りつけた。  謙造の手から離れた洗い桶は湯をまき散らしながら窓ガラスにぶつかり、けたたましい音をたてて床に落ちた。湯気の滴が洗われて街灯の光が拡散した。 「あなた。どうかなさったの?」  小走りに近づいてきた足音が浴室の外で止まり、弘子の声がした。 「いや。なんでもない」 「でも、大きな音がしたじゃない」 「洗い桶を落としたんだ」  そう、と言って弘子はもどっていった。  謙造は頭をふって尻をすえなおし、石けんを取り上げた。やりきれない疲労感がタオルを使う手の動きを鈍らせた。  男は梨枝の中学の美術の教師だった。謙造も一度、会ったことがある。幼稚園の頃から近所の美術教室へ通っていた梨枝は図画や工作がとくいで小学校でも何回か区や都の主催する美術展などで賞をもらい、中学に入ってからも美術の教師にかわいがられていた。その教師が上野で開かれる大きな展覧会の入場券を梨枝にくれ、弘子が梨枝をつれていった。つぎの回の時には弘子の分もよこした。一枚だけでは悪いと思ったのだろう。そこまではよかった。帰ってきた弘子が、向こうで先生に会ったのよ。と浮わついた調子で報告したときにも謙造は少しも危険を感じてはいなかった。謙造は美術など少しも関心はなかったし、日曜日に外出するなど考えるだけでもごめんだった。 「佐久間先生って三陽会の若手ではかなり注目されているんですってね。学校づとめをやめて本格的な画を描きたいって言ってらしたわ。でも佐久間先生が画かきさんとして独立なさるのはいいけど、学校をやめられてはつまらないわね。せっかく梨枝もかわいがられているのに」  弘子はそれから時おり、熱っぽく美術教師の佐久間のうわさを口にした。いつのまにか梨枝より熱心になっていた。その秋、佐久間は日展でかなりいい賞をもらったということだった。弘子と梨枝が佐久間を招いて小さな祝賀会を町のレストランでおこなったと梨枝に聞いた。  その直後だった。帰宅する謙造が混雑する国電の中で発作を起こしたのは。謙造はそれが何なのか全く理解できなかった。  電車の窓から吹きこむ風にひるがえっている車内広告にダブって、空間にとつぜん奇妙な影像があらわれたのだ。  目を奪われた謙造は思わず周囲の乗客たちに視線を走らせたが誰もそれに気づいた者はいなかった。謙造はとなりに立っている男のひじをとらえて今自分が見ているものを見るように強くうながした。  不審の目が謙造に集まった。若い女たちはおびえて混雑の中で謙造から身を離そうとした。混乱が起きた。謙造には周囲の混乱など少しも目に入らなかった。  見えているのは男と女の裸の体だった。|縞《しま》|柄《がら》のソファがあらわれ、その柄に見おぼえがあると思ったとたんに女が妻の弘子であることがはっきりした。男は美術教師の佐久間だった。謙造はさけび、その声で周囲の|人《ひと》|垣《がき》がどっとくずれた。  電車がホームに入り、ドアが開くと謙造の周囲の乗客はわれがちに車外に走り出た。駅員が走ってきて謙造のうでをとらえ、ホームにある駅長事務室へかかえこんだ。もうその時には謙造は自分をとりもどしていた。心臓の鼓動ははげしく、つめたい汗が全身に噴き出していたが謙造は駅員に礼を言って駅舎の外へ出た。中年の助役が救急車の手配をするからと言ったが、謙造はなんでもない発作だと答えた。  そのときまでに謙造には過去三回ほど同じ発作の経験があった。もっとも最後のものは謙造がまだ商業高校の学生だった頃だ。ある日学校で盗難事件があった。多少のかかわりもあって謙造や同級生の何人かが教員室へ呼ばれてきびしく調べられた。その時、謙造は発作を起こした。  目の前にあらわれたのは、謙造のもっとも親しい友人が、クラスの全員が理科実験室へ移ったあとの無人の教室で級友のカバンをさぐっている光景だった。  謙造はついにそのことは口にしなかった。人が信ずるはずがない。犯人は出ないまま、成績抜群のその友人は卒業と同時に一流の商事会社へ就職していった。  小学校六年生の時、謙造は発作を起こし、父親が見知らぬ家へ行き、くつろいだ姿で幼な子をまじえて食卓を囲んでいる光景を見た。翌日旅先からもどったような姿で玄関を入ってきた父親に謙造はそのことをたずねた。それが謙造の父親と母親が離婚する原因となった。父親は謙造が発作の中で見た家へ去り、借家だった家に残された母親はつとめに出、やがて家へは帰らなくなった。謙造は遠い|親《しん》|戚《せき》の家へあずけられた。  そのことが謙造に強固な自衛意識を生ませた。何が見えても絶対にそれを口にしてはならないおきてを自分に課した。それを口にするときは、気づかないふりをつづける以上の耐え難い事態が生ずるのだった。  生来、無口だった謙造はしだいに陰気な、他人によそよそしい人間になった。  妻の弘子と佐久間のもつれ合う姿を見た謙造は、その夜、おそくまで夜ふけの暗い街を歩き回った。酔うことも、ののしることもせず何時間も歩き回った末、謙造はようやく平静に近い心をとりもどし、終電まぎわの電車に乗った。家の玄関を入った時には、もうふだんの謙造にもどっていた。  もしこの世に超能力というものがあるとしたら、そのような能力を持っている者は決してそれを人に話すことはしないだろう。なぜなら、そのかくれたおのれの力について人に話した瞬間から、かれは確実に不幸になるからだ。  それが謙造の生きるてだて[#「てだて」に傍点]であり、うめきでもあった。  佐久間がやって来るのは梨枝が学習塾へ行く日、つまり週二日、日曜と木曜のいずれかだった。それ以外にもたまに午前中に弘子のもとへやって来ることもあった。自分の受け持ち時間のない時なのであろう。謙造にとって知ることは痛みそのものだった。  謙造が浴室から出ると弘子はいつものようにビールを冷やしていた。貝柱をつまみながらつめたいビールを流しこむ。テレビのおそいショー番組はレビューまがいのヌードを演っていた。以前だったら謙造がそのような番組を見ていると弘子はきまって露骨にいやな顔をしたり、ヌードダンサーたちの|容《よう》|貌《ぼう》や体つきに意地の悪い感想を放ったりしたものだったが、今では自分からすすんでダイヤルを回した。佐久間との情事を重ねるにしたがって弘子は謙造に対して献身的になり優しくなった。それはそれでいいのだと謙造は思う。弘子も別に謙造と別れて佐久間と結婚したいとは思っていないようだし、佐久間の方でも自分のつとめている学校の生徒の親と|悶着《もんちゃく》を起こしてまで一緒になろうなどという気はこれはもうはじめからないようだった。それがこれからいつどのように変わるかはわからないが、このままの状態がつづくかぎり娘の梨枝を中にはさんで夫婦の生活が平凡につづけられてゆくはずだった。  やがて謙造は寝床に入った。まくらもとのスタンドをつけると、|傘《かさ》を傾け、自分の方にだけ光線が来るようにすると|腹《はら》|這《ば》いになって円盤の雑誌をひろげた。間もなく弘子が入ってきて謙造のとなりのふとんにすべりこんだ。梨枝の安らかな寝息が聞こえる。 「おやすみなさい」  弘子の声とともに甘い香りがただよってきた。  ——ネバダ州に円盤着陸! ネバダ州南西部の小さな町ウエスト・ホーソンで農場を経営するトーマス・マックガイア氏(五十一歳)は今年の三月九日深夜、とつぜん窓から射しこんだ青白い強烈な光におどろいて戸外へ出てみると、百メートルほど離れた干し草の集積場に巨大な発光体が着陸するところだった。すぐさまマックガイア氏は……。  弘子と梨枝のおだやかな寝息と静かな夜気だけが六畳の寝室を満たしていた。  謙造はいつか雑誌の上に顔を伏せて寝入っていた。その謙造のほほの下から雑誌をぬき取り、ふとんをかけ直す弘子の手を謙造はおぼろげに感じた。スタンドのスイッチをひねる音がうつつに聞こえ、謙造はそのまま深い眠りに落ちていった。      5 「吉田くん。ちょっと」  係長の伊藤が謙造の肩を小突いた。顔を上げると伊藤があごをしゃくった。その顔がこわばって妙に青白い。ついてゆくと伊藤はそのまま部屋を出てならんだ別室のドアを開いた。そこはふだん小会議室に使われている部屋だった。なんだろう? 謙造は伊藤につづいて部屋へ入った。課長の清水や営業部長の今川、それに時たま見かける重役の二、三の顔もまじえた一団が会議用のテーブルを囲んでいた。入っていった謙造にみなの視線が集中した。係長の伊藤は謙造をその場に残すと深く一礼して逃げるように部屋から出ていった。 「吉田くん!」  凍りついたような緊張を破って北沢がさけんだ。 「これはいったい何だね?」  その声は悲鳴に近かった。ようすがわからないまま体を硬くして直立している謙造の前にバサリと一冊の週刊誌が投げ出された。『週刊経営』の最近号だった。 「これがなにか……」  謙造は|眉《まゆ》を寄せてそれを手に取った。 「白ばっくれるのもいいかげんにしたまえ! きみは何かわれわれにうらみでもあるのか!」  北沢がつかみかからんばかりに|吠《ほ》えた。 「まてまて。北沢くん。そう頭から怒鳴りつけてはいかんよ」  いきりたつ北沢を今川部長が制した。声は落ち着いているがほほがひくひくとひきつっている。 「吉田くん。その『週刊経営』の六十五ページを開いてみたまえ」  謙造は今川の言うなりにページを開いた。  “新光物産に黒いうわさ?”  いきなりそんな文字が謙造の目にとびこんできた。 「読んでみるんだな」  北沢の声がふるえた。謙造はすばやく記事に目を走らせた。 「これは!」  謙造は絶句した。内容は謙造が数日前、西村に話したことだった。それが全く興味本位的に水増しされて書かれてあった。 「営業二課のY氏によれば、という個所が三個所も四個所も出てくるぞ。それもみなこの記事の骨になる所ではないか。六十五ページを見たまえ。記者は元同社員で営業二課に籍をおいていた西川氏(仮名)の紹介によってY氏に会ったがと書いてある。営業二課でYといえば吉田くん、きみだが、これは説明してもらわなければならんな」  今川部長は反り身になって突き出た腹の上にてのひらを組んだ。 「ぼくは、なにも……」  謙造は全身の力がかかとから床に吸いとられてゆくのを感じた。その場へ|坐《すわ》りこんでしまいたくなったがかろうじてテーブルの端に両手をついて体を支えた。 「吉田くん。きみがこの仮名の西川氏に話したことの内容についてはすでにわれわれは知っておるのだよ。これははったりではない。ただしそれを知ったのは残念ながら今日だがね」  今川部長は太い首を締めつけているワイシャツの|喉《のど》もとに指をさしこんで苦しそうに左右にずり動かした。 「吉田くん。きみも小づかいがかせぎたかったのだろう。この種のねたは持ちこみ先によっては高く買ってくれるからな」 「部長! 私はそんな!」 「しでかしたことはしでかしたことなんだ。がたがたするな! もちろん私はこの記事の内容に関しては全面的に否定する。『週刊経営』の方の始末はわが社の顧問弁護士の相沢氏に一任するが相当の制裁を加えるつもりだ。それはもはやきみの知ったことではない。吉田くん。きみのとった行為についてはわれわれはとやかく言わん。ひとつだけ聞きたいことは、きみはいったいこんなことを誰から聞いたんだね?」  謙造の体を真黒な後悔がつらぬいた。それは謙造の心をずたずたに切り裂き、心臓を万力のように締めつけた。  あれは言ってはならないことだったのだ!  絶対に言ってはならないことだったのだ! とうとうやってしまった。妻の弘子さえ責めることをしなかったのに、ただ西村に立ち去ってもらいたいばかりに、決して口にしてはならないことを口にしてしまったのだ。 「どうした? 吉田くん。このさいニュースソースを|秘《ひ》|匿《とく》するなどということはよそうじゃないか。こちらもできるだけ穏便にすませたいんだ。正直に言ってわしはきみをとうていこのままでは許しておけない気持ちだ。しかしきみがそのニュースソースをあかしてくれるならきみに関するかぎりこの話はこの場のことだけにしよう」  とうとう来るべきものが来た。謙造は冷え上がった心の底から息を吐いた。 「どうだね。きみ。これはごく単純な取り引きだよ。きみにとってはしごく割はいいはずだが」  さあ、どうだ、と今川はまっすぐに謙造を見つめた。ふだんあまり見たことのない重役の一人がそれにつづけた。 「もっとも問題があるのは西村だと思う。かれは退職願を郵送してきた。それきり社には何の連絡もない。吉田くんはかれと心中するような|馬《ば》|鹿《か》なまねはせんと思うがね」  西村が|退職《や》めた! それで昨日も今日も会社には出てこなかったのか。謙造は完全に自分がわなにはまったことを知った。それにあの日の西村との話の内容についてはすでに知っていると今川は言った。知っているのは菊枝だけだ。菊枝が内通したのか? そうだとすると菊枝は西村をも裏切ったことになる。だが記事の内容は最初からあきらかに西村には社をやめる気持ちがあったことを示していた。結局、いちばん馬鹿な目にあったのは自分だった。謙造はだまって背を向けるとドアに向かって歩いた。背後から今川や北沢の怒声がとびついてきたが、それはもはや何ほどの意味ももたなかった。  ビルの外へ出るといつも見なれた街は重く暗い単色の風景に|変《へん》|貌《ぼう》していた。  謙造は机のひき出しの中からかき集めてきたわずかばかりの私物をおさめた紙袋をかかえて、その単色の風景の中をあてもなく歩いた。身も心も埋没する思いだった。出てくるとき寄った経理では今日までの分の給料は一週間ほどしたら取りに来るようにと言ったが、謙造は自分はふたたびこの街へやってくることはないだろうと思った。失業保険のつづく間にどこか勤め先をさがせばいいだろう。えらびさえしなければあるはずだ。弘子が何というかわからないが、弘子もそう強く苦情は言えないだろう。それにしても——ああ。  謙造の足はいつの間にか、いつものかくれ場所の喫茶店へ向かっていた。  昼間だというのに、店はサラリーマン風の男たちでいっぱいだった。たったひとつだけあいていた|椅《い》|子《す》に腰をおろすと、にわかに耐えられない疲労が全身を押しつつんできた。たばこに火をつける気力もなかった。すべてがむなしく、すべてがうそのようだった。ひざで支えたうでで頭をかかえると体はかぎりなく下へ下へと|墜《お》ちていった。どこまで墜ちても|奈《な》|落《らく》はさらに下にあった。 「お客さん。ぐあいが悪いんですか?」  近寄ってきたウエイトレスが謙造の肩を小突いた。顔を上げると、すでにコーヒーは運ばれてきていてミルクの被膜を浮かべてつめたくなっていた。謙造は体を起こして鉛の塊りのような重いうでを動かして砂糖の入った小さなセロハン袋を千切った。乾いた微細な粒子は謙造の意志に反してテーブルの上に一面に散った。謙造はコーヒーを飲むのをあきらめてふたたび身を沈めた。心の底から今、円盤の雑誌があればと思った。  あたたかく、暗く、かぎりない何かが謙造を呼んでいた。孤独よりも甘く、絶望よりも痛烈な、哀しみよりも乾いた何かが謙造の心をはげしく吸引していた。  そのとき、かすかな風のさやぎとともに謙造の前のあいている椅子に一人の女がそっと腰をおろした。  目を上げると銀ねずの地に細い黒の|棒《ぼう》|縞《じま》の渋い和服を|粋《いき》に着こなした女だった。水を運んできたウエイトレスに、 「お紅茶」  短く言った。あっさりと後にまとめた髪にさした単純な形のかんざしが、ねりものでないほんものの|瑪《め》|瑙《のう》であることに謙造は気がついた。そういえば帯も帯留めもなみのものではない。ひざの上に置いた小さな和装用のハンドバッグも帯と共布だった。  女は運ばれてきた紅茶をひと口飲んだだけで|皿《さら》の上にもどした。女はそのよそおいにもしぐさにも何かひどく豪華なものを発散させながらだまって謙造に白いうなじを見せていた。  水商売の女だろうか? このあたりには会員制のクラブも多い。年かっこうと落ち着きからいってそうしたクラブのママや|姐《ねえ》さん株がひと息入れに来ているのかもしれない。しかしどうもそうでもないようだった。謙造はその種の女に全くといってよいほどくわしくはなかったが、それでもそうした女たち特有のどんなにきちんと造っていても体臭のようににじみ出る作為に裏打ちされたある崩れを見てとることはできた。目の前に坐っている女にはそれがなかった。人妻だろうか? 人妻だとするとこれはおそろしく洗練された人妻だが、そうなるとかえって見ている方に一種の精神的苦痛がともなう。  謙造は自分とは無縁な|騒擾《そうじょう》から逃れる思いで伝票をつかんだ。それにいつまでもこうしてはいられなかった。家に帰って明日からのことも考えなければならない。 「お坐りになって」  腰を浮かせた謙造をあおいで女がふいに言った。 「え?」  何か言ったか? 謙造は女を見返ったが、女の目はもう謙造を離れて店の奥のどこかに向けられていた。聞きちがえか? 謙造は相手が美しい女だけに格別なばつの悪さを感じていそいでテーブルを離れようとした。 「もう一度おかけになってくださいませ」  うるみのあるやわらかな声が、こんどははっきり自分に向けられていた。謙造は足を運びかけた妙な形のまま体を固くした。 「今、あなたはたいへん危険な状態に置かれていらっしゃるわ」  謙造の頭脳からいっさいの思考が停止した。ぼう然と女の顔を見つめた。  謙造はかわいそうにこの女はこんな上品で|綺《き》|麗《れい》な顔をしているけれどもすっかり頭がおかしいのだと思った。 「ご忠告ありがとう。でもぼくは行かなければ」  謙造は頭が正常な人間に向かってするように会釈するとその場を離れようとした。 「吉田さま!」  女の声が謙造を|固《こ》|縛《ばく》した。思わずふりかえると、女は椅子にかけたまま上体を真直ぐに形よくのばして謙造を見つめていた。 「ぼくを知っているの?」 「おかけくださいと申しましたのよ」  女の言葉には拒否してはならないあるひびきがあった。謙造はもとの席にもどった。 「いったいどうしたというんだ。ぼくはあなたを知らない。それにぼくが危険な状態にあるというのも理解できないが……」  女はかすかにほほ笑んだ。笑うと若い娘にはない|陰《いん》|翳《えい》のある|艶《つや》がこぼれた。 「それをわたくしにおたずねになる前に吉田さまがご自分でごらんになられたら? ごなっとくがゆきますことよ」 「自分で見る? 自分で見るとは?」  とつぜん謙造ははげしいめまいに襲われた。壁の飾電球や入口に近い天井のシャンデリアが右に左に大きな振幅でゆれ動いた。謙造は大波にゆられる船の甲板からふり落とされまいとするようにテーブルの端を両手でしっかりとつかんだ。あれだ! あの発作がまた襲ってきたのだ! 謙造は犬のようにあえいだ。  ——謙造はドアを押して店の外へ出た。自動車の排気ガスのこもった重い夜気が謙造の体を押しつつんだ。いつものように駅の方へ曲がる。二十メートルほど向こうの|露《ろ》|地《じ》から一個の人影があらわれた。スタンドバーの紫色の|看《かん》|板《ばん》|灯《とう》を背に人影は立ち止まった。謙造が数メートルの距離まで迫ったとき、オレンジ色の目のくらむ|閃《せん》|光《こう》が視力を奪った。背後で何かが粉砕し、硬質の微細な破片が雨のように謙造の体に降りそそいできた。もう一度閃光が|閃《ひらめ》いた。謙造の頭のすぐそばをおそろしく質量感のあるものが飛び過ぎていった。謙造は反射的に反対の方向へ走った。その方向が一瞬オレンジ色の閃光に染まった。謙造は走るべき方向を失って今出てきた喫茶店のとびらを押して中へ走りこんだ。その謙造のゆくてをさえぎるように背広を着た一人の男が奥のテーブルから立ち上がって通路へ出てきた。その|鋼《はがね》のようなひとみが確実に自分と謙造の距離をとらえていた。 「なぜ? なぜおれを!」  謙造は絶叫した。つめたい汗がてのひらの間からテーブルの上に落ちて幾つものしみを作った。 「なぜだ?」  女の目にオレンジ色の|灯《ひ》が映っていた。その灯は凝縮して壁の飾電球になった。飾電球はもう揺れてはいなかった。  謙造はそっと首を回した。  奥のテーブルに一人の男がいた。目立たない地味な背広を着たその男はひざを組んで週刊誌を読みふけっていた。その男は今謙造の心に映ったあの背広の男と同一人物にちがいなかった。疑いようはない。謙造は自分が見たものを信ずる以外になかった。いつものように。 「なぜだ?」  謙造はうめいた。 「その力があるからです。あなたに」  女はかすかに|眉《まゆ》を寄せた。 「おれにこの力があるとどうしてあんなことになるんだ? それにあいつらはいったい何者なんだ?」 「ようやくあなたとお話ができるようですわね。あなたのご質問にお答えいたしましょう。あなたはご自分でもとうに気づいていらっしゃる。お持ちでしょう。世間では予知能力などというのかもしれませんね。あなたがその能力を持っていらっしゃるということを知った人達がいたとしたら? そしてそのあなたの能力がなんらかの意味でその人達の秩序を破壊する可能性があるとしたらその人達はどうするでしょう? あら、ごめんなさい。あなたに質問するような言い方をしてしまった。わたくし」 「かまわん。だが、おれは自分がそんな能力を持っていることなど人に言ったことはない」  女は聞きわけのない子供を見るようなまなざしをした。 「でも、あなたは無意識にあなたにとってたいへん重要な時にご自分のその能力を役に立てていらっしゃった」 「重要な時?」 「ある意味では皮肉かもしれません。わたくし、意地悪ですから」 「でも、ぼくは……」  おれからしぜんにぼくに変わった。おどろきと興奮が少しずつ|汐《しお》の退くように謙造の体からさってゆきつつあった。 「ぼくは意識して使っていたわけじゃない」 「だから無意識にと申し上げましたわ。でも、それがかえってあなたの存在をあの人達に知らせることになったのです。あなたのお友達が|誰《だれ》もいない教室でみんなのカバンの中をさがした時も。それから……」 「遠慮することはない。ぼくの女房が娘の学校の教師と情事にふけっている時もだ」 「そんなおっしゃり方はいけませんわ」 「失礼、とぼくが言うのがほんとうだろうか」 「それから、新光物産の今川部長が公正でないやりかたで大きな買物をした時も」 「どの場合も知ろうと思って知ったんじゃない」  女の美しい顔にかすかな暗い|翳《かげ》があらわれて消えた。 「わたくし達はいつもそうですのよ」 「わたくし達?」 「あなたは四歳の時、雲の切れ間を飛ぶふしぎな物体をごらんになったわ。あなたはそれを今も忘れないでいらっしゃる。それを見たためにあなたの人生は大きく変わることになった。でもほんとうはそれを見たからではなく、それによってあなたの内部にあるものがめざめただけ。あなたがあれをごらんになった時、あなたのお姉さまもごいっしょだった。お姉さまはあの時のことはもう全くおぼえていらっしゃらないでしょう。三人のお姉さまとあなた。その中であなたにだけ伝わったのでしょう」 「伝わる? なにが?」 「あなたのお父さまやお母さまもちがう。あなたのおじいさまやおばあさまは? おぼえていらっしゃいますか? あの方」  謙造の胸に故郷の荒涼たる冬枯れの山野が浮かんだ。奥羽連峰の|山《やま》|裾《すそ》がそのまま広く押し出してきたような台地。その台地にひっそりと身を寄せたように|貼《は》りついている暗い小さな町。その台地の東、灰色の空を区切る北上山脈のなだらかなつらなりの間の平原を北上川がなまり色の帯のようにうねっていた。その空間を、北方の空から運ばれてくる羽毛のような雪片がたえず舞っていた。その風景の中に謙造の|曾《そう》|祖《そ》|母《ぼ》がいた。記憶の中の曾祖母は死んだ貝のような目をして|猫柳《ねこやなぎ》の小枝を手にしていた。町の人達は曾祖母のことをおがみさまと呼び、格別なことでも起きないかぎり決して寄りつこうとはしなかった。格別なことというのはたいてい神かくしにあったわが子の消息が知りたいとか、死んだ亭主に会いたいとかそんなような用事だった。  曾祖母はそんな時、手にした猫柳の小枝で依頼者の体を軽く打ちながら|呪《じゅ》|文《もん》とも|願《がん》|文《もん》ともつかぬものを|声《こわ》|高《だか》にくりかえすのだという。謙造はそんな曾祖母の姿は一度も目にしたことはなかったし、また目に入れたくもなかった。大人たちがそんな話をしていると恥ずかしくて体が|火《ほ》|照《て》った。  曾祖母は毎年春になると、北へ向かう旅人に手を引かれて町から去っていった。下北の|恐山《おそれさん》へ行くのだと聞かされた。  すべては遠い日のことだった。 「ある日、曾祖母は死んでいた。線路わきの土手で。明日、恐山へ|発《た》とうという日だった」  小学校低学年の何年かを祖父母のもとで過ごした謙造の、それが故郷の記憶の鮮明な仕上げだった。線路の土堤の咲き乱れたれんげの花の中で曾祖母は小さくつめたくなっていた。  春の雨の日の|葬《とむら》いは貧しくさびしかった。 「すまあねはころされたんだべちゃ」  遠い|親《しん》|戚《せき》の男がふともらした言葉が謙造の心に|灼《や》きついた。めくらの|瞽《ご》|女《ぜ》がなぜ殺されなければならなかったのか、その疑惑を問いただすには謙造はまだ幼かった。曾祖母の死はなぜか一族の者たちにある種のあかるさを与えたようだった。  ——すまあねはころされたんだべちゃ。  そのことにみなが確信を持ちながらなぜかできごとに対する追及はなされないまま、親戚の男たちも散っていった。  それから間もなく謙造も東京の父母のもとに送りかえされた。 「あなたはこの神田の暗い裏通りで同じような目にあおうとしていらっしゃるわ」 「きみはいったい何者なのだ? どうしてそう何もかも知っているのだ?」 「二億八千万円の商いのために人間一人の生命を奪おうとする人もいるかもしれませんわね。でも、これはちがうんです。あなたの一族は長い間ずっと監視されてきたのです。何代かに一人、何十人かに一人、あなたのひいおばあさまやあなたのような方があらわれる。それを見さだめて消してゆくことで遠い未来のわざわいをのがれることができると考えている人達がたしかにいるのです」 「きみはぼくの質問にまだ答えていない」 「わたくし、あなたがまだとても小さかった頃、空に奇妙なものを見てあなたの体内に遠い祖先からつたえられていたある力がよみがえったのだと申しましたわ。そのような人達の数はごくわずかなのです。ごくわずかなのですけれどもここだけで二人います。あなたとわたくし」  異なった場所であったならばその言葉は愛の提言とも聞こえるひびきを感じさせたかもしれない。しかし謙造は底知れぬ孤独と流離の思いの中にいた。 「ぼくはどうしたらいいんだ?」 「わたくし、あなたといっしょにここを出ましょう」  女は、つと手をのばして伝票を手にするとふわりと立ち上がった。女の動きとともに高価な香水の香りがかすかにただよってきた。 「わたくしから離れないように」  女は謙造の二、三歩前をまっすぐにレジへ向かった。謙造は自動人形のように女の後にしたがった。  女の後から外へ出る時、ふりかえると店の奥のテーブルについていた男が組んでいたひざをほどいて一挙動で立ち上がるのが見えた。  女は無言のまま店の前を左へ曲がった。二十メートルほど先にスタンドバーの看板灯が紫色の光の環を放っていた。その露路から一人の人物が歩み出してきた。看板灯を背にして立ち止まる。女はなお歩みつづけた。謙造のこめかみをつめたい汗が流れた。これはわなではないだろうか? ふいに謙造の心に圧倒的な疑惑がせり上がってきた。  とりかえしのつかないことをしてしまったという真黒な後悔がずっしりと心を埋めた。走り出そうにも足がいうことをきかなかった。  ちくしょう! この女はやはりバーの女かなにかで、かねをもらっておれに突拍子もない話を聞かせておれをあの店から連れ出すことを引き受けたにちがいない。  謙造は目をつり上げた。しかし足は謙造の意志とはかかわりなく、一歩一歩、前へ進んだ。人影との距離が数メートルに縮んだ。とつぜん謙造の視野がオレンジ色に引き裂けた。衝撃波が静かな夜の裏通りの空気をバネのように震わせた。もう一度。二人の背後で何かが粉砕し、硬質の微細な破片が雨のように謙造の体に降りそそいできた。女は少しも歩度を早めようとしなかった。ハンドバッグを胸元に抱いてややうつ向き加減にひっそりと足を運ぶ。こんどは背後からオレンジ色の閃光が襲ってきた。女に|曳《ひ》かれるように謙造は看板の前に立つ人物の前を通り過ぎた。顔はよく見えなかったが、黒っぽい背広を|几帳面《きちょうめん》に着た男だった。手に何か小型の武器らしいものを持っていた。  ふいに男が動いた。男の視線もすばやい移動の方向も女と謙造とは無関係に喫茶店のドアの方向に向けられていた。周囲が急にさわがしくなり、両側のバーや小料理店から人が飛び出してきた。さけび声が交錯し、物がこわれる音が聞こえた。どこにこんなにたくさんの人間が居たのかと思われるほどの人数が裏通りにあふれ、何かを追っていっせいに走りはじめた。その誰もが女と謙造には目もくれなかった。ふりかえると、二人が出てきた喫茶店の前あたりで、背広姿の男が群集に蹴られたり踏まれたりしていた。  二人が表通りへ出たとき、パトカーの音が近づいてきた。 「三人ともつかまるでしょう。でもあの人達はやとわれただけ。何も知らないのよ」  ひややかな口ぶりだった。かねでやとわれて人の生命を奪うような者たちが現実にこの東京に居て、しかも自分がかれらに襲われたということが謙造に新しいおどろきを与えた。 「またやって来るかな?」  みっともないな、と思いながら謙造は声のふるえをおさえることができなかった。 「あなたのお家は見張られています。お帰りにならない方がよろしいわ」  女は感情をおさえた声で言った。 「帰らない方がいい? ばかな! ぼくの家だぞ。女房や子供がいるんだ」  何の抵抗もなくそう言えた。 「佐久間先生という人、あなたの見張り役ですのよ」  その意味が夜空に鳴る風のように謙造の思考を吹き千切って四散させた。 「あなたの家庭に入りこむには適切な方法だったのかもしれません」  謙造はショウウインドに写る自分の顔を見つめていた。ネオンがつくと謙造の顔は笑っているように見えた。ネオンが消えると謙造の顔は泣いているように見えた。しかし謙造は自分はそのどちらの顔もしていないと思った。ショウウインドの中には電流計や切り換えスイッチなどの電気器具がならべられていた。それらはどれも新製品らしく、硬質な塗料の光沢を放っていた。謙造は自分の心もそれらの金属の物体とひとしい硬さを持っていると思った。そう思いながらほほをつたうなみだをおさえることはできなかった。  謙造ははじめてもはや|還《かえ》るべき所のないことを知った。  かわいそうな弘子。もっとかわいそうな梨枝。謙造は地にめりこむ足を無理に動かして歩いた。時々、自分は悪い夢を見ているのではないかと思った。夢ならばさめてくれ! 謙造は声にならない絶叫とともに目の前の灯の塊りを蹴りとばした。  誰かが走り寄ってきて謙造のうでをとらえた。やくざっぽい野卑な怒声を耳にするよりも早く謙造はその声の主の上体を強く打った。謙造のうでをつかんでいた力が急になえた。さらに進むと、前方から歌声ともつかぬ|濁《だみ》|声《ごえ》が幕のように謙造に迫ってきた。謙造は自分でも説明のつかない衝動にかられて歌声めがけて突進した。  頭や肩に打撃がきた。背広のどこかがはげしい音を発して破れた。謙造は片手で人間の体のどこかをつかみ、一方の手をやみくもに打ちふった。強い衝撃を受けてつかんでいた物を離し、それを|機《し》|会《お》によろめく足を引きずってその場を離れた。背後で警官を呼ぶ声が聞こえていた。  見知らぬ暗い街の夜空に高架線の鉄橋が弧を描き、巨大な橋脚の間に黒い河面が灯を映していた。河には多少の流れがあるのか、映った灯は遠い星のようにちらちらとまたたいていた。夜空をとどろかせて高架線を電車が通過してゆく。その長い長い窓の灯がその奥の虚空の深さをきわだたせていた。  橋脚の間に駅があった。劇場の入口のようにそこだけがあかるい。そのあかるい空間にまばらな人影があった。  荒れ果てた心に気の滅入るような寂しさだけがあった。その頃になって謙造は右手の痛みに気づいた。手の甲が裂け、なかば乾いた血がのりのように爪の先まで|貼《は》りついていた。背広のそでは千切れて、ほとんど一、二本の糸で肩からぶら下がっていた。  ふと、優しい力が謙造の体を支えた。 「行きましょう。傷の手当てもしなければ」  香水の香りが謙造を現実に引きもどした。 「かまわないでくれ」 「ききわけのないこと、言うもんじゃありません」 「よけいなおせわだ。何もかもよけいなおせわだ」 「それはそうかもしれません」 「だったら行ってしまえ!」  謙造は女のうでをふりほどこうとした。だが女の優しい力は謙造の荒々しい動作を吸収し目的を失わせた。 「そのありさまではなんのためにわたくしがいろいろお話ししたのかわからないじゃありませんか。しゃんとなさいましな!」  女がきゅっとこわい顔になった。  謙造はうでを取られて歩き出した。  道路の端に大きな車が止まっていた。  運転席に大きな男が|坐《すわ》っていて後のドアから入る二人に体をねじ向けた。車は大排気量の余裕をみせて音もなくすべり出した。 「どこへ行くんだ?」  謙造の問いには答えず、女は運転席の大男に声をかけ、それから謙造に顔を向けた。 「あなたの身はわたくしたちが安全にお守りいたします。このままでは遠からずあなたの命は終わるでしょう。決しておどかしでもありませんし取り越し苦労でもございません。それは先程のことでもある程度お解りいただけましたでしょ。あなたは生きなければ。わたくしたちも」 「きみはまだぼくの質問にひとつも答えていないんだ。きみはいったい何者なんだ? 名前も聞いていない」  女の横顔が|街《がい》|灯《とう》の光を受けてかすかにほほ笑んだ。 「わたくし、すま、と申しますのよ」 「すま、さんか」  女はすまは須摩と書くのだと言った。 「わたくし。ある人の持ち物ですのよ」  さりげない言い方だった。現実なのかそうでないのかさえさだかでない事態のなかで、須摩と名のるこの女が人の持ち物であったというそのことだけが謙造の心にたしかなそしてしたたかな打撃となってくいこんだ。謙造の顔がゆがんだ。何を聞かされても、どんなできごとが起こっても、心のどこかのかなりの部分で、|他《ひ》|人《と》|事《ごと》のように聞き、感じ、時にはこれは悪い夢のつづき、あるいは自分が勝手に抱いた|妄《もう》|想《そう》なのかもしれないなどと思いつづけてきた。だがこの美しく上品な女が人の囲い者であったというそのことが、とつぜん謙造の心を生身のはたらきにもどした。どんな時にでも|嫉《しっ》|妬《と》ははたらくものだ。そんな謙造の感情にはかかわりなく、須摩という女は運転席の男の肩に軽く手を置いた。 「こちら、元アメリカ空軍のパイロット。マンテル大尉です」  かれはわずかに首を謙造の方にねじ曲げて日本語で何か言った。  外人か。謙造もあいさつしかけて、思わず腰を浮かせた。 「たしかマンテル大尉と?」  全身の筋肉が万力で締めつけられるように収縮し、一瞬、胸の鼓動が停止したように感じた。 「ご存知でしょう」 「わたしの名前を知っていてもらえましたか。ありがとう」  須摩と外人が同時に言った。 「だが、マンテル大尉は一九四八年に円盤を追跡して死んだはずだ」  謙造はさけんだ。 「ミスター、ヨシダ。一九四八年の一月七日。ケンタッキー州のフォートノックス上空で起こったある事件について書かれたものはことごとく正しい。しかし、ほんとうのことは誰も知らない。たとえばそのひとつ。わたしがこうして生きていることも」  街灯のあかりで見るその男は銀髪を短く刈りこんだ肩幅の広い初老の男だった。ふしぜんなアクセントながらなめらかな日本語を話した。 「ほんとうにマンテル大尉なんだな」  謙造は放心したようにかれの姿を見つめた。灼けるようなある種の感動が謙造から言葉を奪った。謙造にとってこの上ない魅力ある物語の主人公が現実に目の前にいた。 「マンテル大尉。あなたの乗っていたP51はばらばらになって地上に落ちていたというではないか。あなたも死んだといわれている。それが、なぜここに?」  謙造はそれだけ言うのに非常な苦心をしなければならなかった。 「わたしは円盤を追跡し、そして目撃した。だが、ほんとうにわたし自身信じられないようなできごとはそのあとに起きた」      6  色ガラスの樽の形をしたポットの中でろうそくが紡錘形のほのおをゆらめかせていた。空調機から送られてくるかすかな気流が敏感なほのおにだけは感ずるのだろう。敷きつめられたじゅうたんや垂れさがった分厚なカーテンに静かなボレロが|汐《しお》のひくように吸いこまれてゆく。深夜のレストラン・バーには閉じこめられた夜気が入江のもやのように沈んでいた。三人の前に置かれたグラスの中身は全く減っていなかった。ろうそくのほのおがゆらめくたびに、マンテル大尉の顔は時に若者のように精気をおび、時に死にひんした老人のように陰惨な|翳《かげ》を浮かべた。 「わたしは一九四四年三月、第四七一追撃スクォドロン第三中隊の中隊長としてイギリスのドーバーの町はずれの基地に着任した」  あの日は三月二十九日だった。  バンネマイケルの町を爆撃する爆撃隊を援護した四七一追撃スクォドロンはドーバー海峡を越えてヨーロッパ大陸深く侵入した。 〈|第一中隊進入位置よし《ホワイト・レニー・ピンポイント・OK》〉 〈|第二中隊進入位置よし《イエロー・レニー・ピンポイント・OK》〉  第三中隊長のマンテル大尉のイヤホーンに各隊の指揮官たちの声が入ってきた。  十二機のP38ライトニング戦闘機は|梯《てい》|陣《じん》に開いて上昇しつつあった。高度二千八百。なお高度はやや不足していたが、それは間もなく獲得できる。 〈|第三中隊待機位置よし《レッド・レニー・マーク・OK》〉  マンテル大尉もさけんだ。 〈|突撃せよ《タリホー》!〉  飛行隊長のマクドウネル中佐の声が耳に突き刺さってきた。  地上の対空砲火のほとんどが第一中隊と第二中隊に向けられているらしく、高度三千メートルふきんを旋回するマンテル隊には弾丸は飛んでこなかった。戦場上空を大きく旋回する。翼をかたむけて地上をうかがうと、運河の間の林から|褐色《かっしょく》のけむりが火山の噴火のようにもり上がってきた。右手の林の間でも何かが燃えている。ロケット弾の弾着らしいオレンジ色の閃光がしきりに点滅する。黒煙を長く曳いたサンダーボルトが一機、千メートルふきんまでかけ上がってくるとそこで力つき、急にほのおの塊りになるとあとは石のように地上に向かって落下していった。いつの間にか細長いけむりが三本も立ち上がっている。撃墜された機がこの世に残したあがきの跡だ。また一機P47が火だるまになって落ちていった。 〈だいぶやられているようですぜ〉  第三小隊長のワイトマン少尉の声がイヤホーンから流れ出た。 〈クーパーは大丈夫かな。おれ、やつに四十五ドル貸しがあるんだ〉 〈よりによって三十七ミリにあたるとはやつらも運がねえよ〉 〈これもP38さまさまよ。おれ、前から言っているだろ。こいつがいちばんいいんだって〉  第三中隊のみんなが急にがやがや言いはじめた。  ドイツ軍のラインメタル三十七ミリ高射機関砲は低空爆撃をおこなう連合軍機にとっておそろしい敵だった。命中精度といい、弾道が延伸してもおとろえない弾速といい、一度とらえられたらふり切って逃げることはほとんど不可能だった。それ故にこそ今日のB25の低空爆撃のつゆ払いとしておこなわれた機関砲陣地の攻撃だった。第一、第二中隊のP47サンダーボルトは第三中隊の使っているP38ライトニングよりも爆弾搭載量がずっと大きい。だからたいてい地上攻撃は第一、第二中隊がおこなって第三中隊は上空援護に回ることになる。当然、これまで第一、第二中隊は戦功賞の数も多かった。しかし攻撃目標が三十七ミリ機関砲そのものとなると話はちがってきた。 〈中隊長。P47に機種改変の話があったらぜったいにことわってくださいよ〉  第二編隊長のウェイド中尉の声がした。 「下ばかり見ていないで警戒してくれよ」  マンテル大尉はみなに注意しながら、自分も下界のようすをうかがうためにかたむけていた翼をたてなおすと高度三千にとろうとした。そのとき、誰かの悲鳴がイヤホーンにとびこんできた。それにかぶせて誰かの絶叫がはしった。 〈後方、|敵機《ハ ン ス》! くいついている!〉  ぎょっとしてふりかえったマンテル大尉の目に、第二小隊と第三小隊の間を一機の青黒い頭の大きなドイツ機が角ばった翼をひるがえしてかけぬけていった。双胴のP38が一機、ほのおを曳きながら大きくのけぞった。銀色の破片が空中でガラスびんをたたき割ったように散った。ドイツ機はつぎつぎと突進してきた。フォッケウルフ190だった。マンテル大尉は全身の血がひふの裏側に凝り固まったような気がした。握りしめた|操縦桿《スティック》が石のように重い。 「|高度をとれ《オン・ザ・スカイ》! |高度をとれ《オン・ザ・スカイ》!」  マンテル大尉はさけびながら二基の千六百馬力エンジンを全力でふかして一メートルでもよけいに高度をとろうとした。右も左も乱戦だった。フォッケウルフははるかな高みから太陽を背にして降ってきたのだ。つぎつぎとP38がほのおにつつまれて|墜《お》ちていった。それをたしかめる余裕もなく、マンテル大尉は上昇をつづけた。その頭をおさえるように数機のフォッケウルフが回りこんでくる。マンテル大尉はそれをかわしてさらにかけ上がった。もうこうなると爆撃隊の援護もなにもなかった。背後から|曳《えい》|光《こう》|弾《だん》が電光のようにのびてきた。マンテル大尉は必死に急旋回した。しかしそれはマンテル大尉の気持ちだけで重いP38は泣きたくなるような大きな半径で旋回に入る。薄いグリーンと黒に近い濃いグリーンで迷彩をほどこしたフォッケウルフの引き締まった姿態がマンテル大尉の目に死神のように灼きついた。ドイツ機のパイロットと目が合う。マンテル大尉は逆上寸前の自分をしがみつくようにおさえて横転にもっていった。そのとき、ドイツ機がなぜかぜったい有利な旋回の内側位置からふわりと離れた。機首をぐいと上げて急上昇に移った。マンテル大尉は心のどこかで不審を感じたが、この敵をこのまま逃がす手はなかった。短い間の上昇力ではフォッケウルフがまさっていたが、P38の排気タービン|過給器《チャージャー》は高度が高まるにつれて威力を発揮する。やがて追いつくはずだ。フォッケウルフが上昇力を失った時、下から突き上げてやる。マンテル大尉はやや自信をとりもどして追撃に移った。すでに高度は六千に近い。フォッケウルフはなお上昇をつづける。なぜだろう? フォツケウルフの急降下速度はとうていP38でも追いつかないはずだ。逃げるならなぜ下へ逃げないのだろう? マンテル大尉は眉をひそめた。 〈|第三中隊長《レッド・パンサー》 応答せよ。|第三中隊長《レッド・パンサー》〉  誰かが息せききって呼んでいた。  高度六千五百ふきんに薄い断雲があった。それを突きぬけて呼びかけに応答しようとしたとき、とつぜんマンテル大尉は高空に銀色にかがやく物体を見た。はじめそれは爆撃の効果を偵察にやってきた味方のB17かと思った。しかしそれは飛行機の形はしていず、何かもっと円いものだった。なんだろう? 気球だろうか! だがなぜ気球があんなところに? マンテル大尉は風防のサンバイザーをおろすとそのモス・ブラウンの影の端からその奇妙な物体を見つめた。高度は一万かもう少し上だった。それは全く停止しているように見えた。わずかな位置のずれはマンテル大尉の乗機の動きによるものだった。気球ならば一万メートルの高空でははげしい偏流角を示すはずだった。秒速八十メートル以上もの偏西風にさからって同じ位置をたもっていられる気球などあるはずがなかった。ドイツ軍の秘密兵器だろうか? マンテル大尉の胸は高鳴った。ドイツ軍はV一号、V二号につづく強力な秘密兵器をひそかに準備しているとつたえられていた。いよいよそれが登場したのだろうか? それにしてもあのドイツ機は? そうだ! ドイツ機はどこへ行ったろう? マンテル大尉は現実の恐怖に立ちかえった。急上昇による強大な|負《ふ》|荷《か》で座席に押しつけられた姿勢のまま、マンテル大尉は固縛されたような首を動かしてドイツ機をさがした。いた! フォッケウルフは高度九千あたりをなお上昇しつづけていた。はじめてマンテル大尉の胸にはげしい疑惑が生まれた。あの|ド《ハ》|イ《ン》|ツ《ス》野郎は頭がどうかしちまったんじゃないだろうか? 地球の外へ飛び出してゆくつもりかよ! 思わず口をついて出た。だがその疑惑はもっと根深いものになった。  そうだ! やつはあれが何かたしかめようとしているんだ!  ドイツ機のパイロットはマンテル大尉よりもおそらくずっと早くあの奇妙な物体を発見したのにちがいない。かれはそれがいったい何であるのかたしかめたいという強い衝動にかられてマンテル大尉との空戦を放棄したのだ。そしてひたすら上昇を開始したのだ。かれはもしかしたらマンテル大尉が思ったように、あれがアメリカ軍の秘密兵器ではあるまいかと思ったのかもしれない。高度一万一千メートル。マンテル大尉の目にその物体は今や完全にコーヒーカップの|皿《さら》のように見えた。やや傾いていてそのためにほんのわずか|楕《だ》|円《えん》|形《けい》だった。全体が水銀のように異様にギラギラとかがやき、そのかがやきの変化からその物体自体がゆっくりと回転しているような気がした。大きさは一ドル貨ほどになった。マンテル大尉は今、自分が何を目にしているのか想像することさえできなかった。マンテル大尉はこれまで自分が典型的な戦闘機乗りとしての資格である徹底したリアリストという条件に十二分にかなっているという自信があった。しかしその自信も今や雨にうたれた土塊のようにもろくも溶融しつつあった。ふしぎに恐怖はわかなかった。ただ、今、自分が人類の知識を超えた異状なできごとに立ち会っているのだという興奮と張り裂けるような緊張だけが体のすみずみまで支配していた。  とつぜん、中空に千切って棄てたような一団の黒煙がわいた。角張った翼が木の葉のように舞い、車輪やくだけた風防が重さを持たないもののようにゆっくりと四方に散った。高度差、約五百メートル。あっという間に前方から無数の破片がマンテル大尉のあやつるP38に降りかかってきた。反射的にマンテル大尉は操縦桿を引き、|踏《バ》|棒《ー》を蹴りとばしていた。遠い地平線が急激に回転して頭上へすべってきた。ドイツ機が空中分解したのだ。天地がさかさまになって眼下に|漠《ばく》|々《ばく》とひろがる虚空の一点がそのとき、目もくらむようなオレンジ色の|閃《せん》|光《こう》を放った。銀色の円盤型の物体はいつの間にかオレンジ色のかがやくほのおの塊りに変わっていた。その周囲があざやかな緑色の光環となり、染めたような青い空にこの世のものでない姿で浮いていた。つぎの瞬間、その物体はおそろしい速さで虚空をすべった。一直線に飛びさると見えていったん空中に停止し、その位置からほぼ直角の方向へ流れ星のように飛び、そのままマンテル大尉の視界から消えさった。 〈|第《レツ》|三《ド・》|中隊長《パンサー》 応答せよ! |第《レツ》|三《ド・》|中隊長《パンサー》、応答せよ!〉  怒声に近い呼びかけがマンテル大尉を現実に引きもどした。かれは幼児のように震えながらその声にすがった。 「こちら|第《レツ》|三《ド・》|中隊長《パンサー》 こちら|第《レツ》|三《ド・》|中隊長《パンサー》。異様な物体を目撃した。高度一万二千以上。白銀色にかがやく皿状物体。翼も胴体もない皿のような物体だ。それは空中に停止していたがとつぜん時速二千キロメートルかあるいはそれ以上のスピードで飛びさった。おれより先にその物体に接近した|ド《ハ》|イ《ン》|ツ《ス》機はなぜか空中分解した。その物体は……」  その報告は飛行隊長マクドウネル中佐の耳に入っただけでなく、ランカスター爆撃隊の指揮官ハリー・マクドナルド准将やB25ミッチェル爆撃隊の生き残り主任通信将校のキンケイド少佐の耳にも入った。この日の爆撃はさんざんな結果を招いた。  爆撃隊の半数が撃墜されていた。その原因は空中援護が失敗したからだ。上空援護に当たっていたはずの第三中隊は何をやっていたのだ! 当然、非難はそこに集中した。第三中隊の生き残った隊員たちは必死に抗弁した。敵は多数だったし、いったん乱戦に巻きこまれれば援護空域から引き|剥《は》がされてもそれはしかたがないことなのだ。  しかし司令部はマンテル大尉が非常に重要な瞬間に第三中隊の無用な混乱とおそろしく不手ぎわな空戦ぶりを招いた当の張本人であると言い張り、きめつけた。  マンテル大尉の報告の内容について真剣に考えた者はもちろん、心にとめた者さえいなかった。マンテル大尉の報告は極度の精神的疲労にもとづく幻覚と判断され、そのためにかれは軍法会議だけはまぬがれた。四七一追撃スクォドロンから自由フランス空軍付きの連絡将校へと回され、マルヌに近い土ぼこりのはげしい飛行場でドイツの敗戦をむかえた。  四七一追撃スクォドロンは解散し、生き残りのパイロットたちはそれぞれ進級してアメリカ本国へ帰っていった。マンテル大尉はいぜんとしてもとの階級のまま、インドを経由して太平洋戦線へ送られた。|沖《おき》|縄《なわ》に進出した第五四一追撃戦闘大隊の第一中隊長がマンテル大尉の新しい任務だった。  はげしい戦いの連続の中で、マンテル大尉は二回、ドイツの上空で見たあの奇妙な物体を目撃した。一回は伊江島の上空を|哨戒《しょうかい》飛行中に満月ほどの大きさの物体が高度一万メートルふきんを飛びさってゆくのを目にした。夜明けの薄明の中で、それは中心部のかがやくオレンジ色とそれをとりまく燃えるようなグリーンのゆらめく色調が印象派の絵のようにあざやかだった。二回目は石垣島上空で空戦中だった。九州から発進して南下してきた有力な日本海軍の新型戦闘機の一隊をむかえ撃っての空戦だったが、最初から|分《ぶ》がなかった。その日本戦闘機隊は三日前に空母から発進した三十機のグラマンF6Fをほうむったゲンダ隊であるということだった。マンテル大尉も高空からの突撃と引き起こしをくりかえしては日本機に襲いかかったが、大空をへびのようにのたうつ彼我の撃墜機の黒煙と飛び交う曳光弾の弾道の中では容易に目標もつかみ得なかった。何回目かの引き起こしの時、マンテル大尉はまたもや見た。  染めたような南国の青い空に、ピンの頭ほどの白銀にかがやく点が幾つか、山形の編隊を作ってゆっくりと飛んでゆくのだ。それが何であるのかはマンテル大尉には直感できた。かれは魅せられたように急上昇に移った。  高度五千ふきんで日本機に追われたP51が火を吐きながら急降下してくるのとすれちがった。つづいて濃緑色の日本機が突風のようにすれちがった。すれちがう寸前、日本機の主翼から突き出た四門の二十ミリ機関砲がかれのあわれな獲物に向かってオレンジ色の閃光をほとばしらせるのが見えた。本来ならばかれはここで切り返してP51を追う日本機の背後に|喰《く》いついてゆかなければならないのだが、かれにはその時、そのような気持ちは全くなかった。高度九千ふきんで白銀色の物体はあきらかに円盤型となった。どのような材質なのか、太陽光線の反射だけとは思えない|眼《め》を射るような反射光をまき散らしながらはるかな高度をゆっくりと西の空に遠くなっていった。マンテル大尉は機首をかえしてむなしく高度を下げた。石垣島を右方遠く見て南下をはじめるといつの間にか空戦の終わった空域の海面には無数の巨大な油紋が浮いていた。撃墜された機体がなお吐き出しているガソリンの描いた七色の美しい紋様だった。  基地へ帰ると五四一追撃戦闘大隊は指揮官のアバディーン中佐をはじめ、第二中隊長も第三中隊長も帰っていなかった。三十八機のP47は半数以上が失われ、滑走路では三機がつぶれ、一機は飛行場のはずれではげしく燃えていた。戦果はまるでわからなかった。撃墜した日本機の一機に三人も四人も名乗りでてそれぞれ自分が射ち落としたのだと主張し合ったり、目立つマークを描いた日本機を撃墜したことを報告した者があるとすぐそのあとでそのマークをつけた日本機に沖縄ふきんまで追撃されたと報告する者があらわれた。中には味方の|誰《だれ》それに射たれたと息まく者もいた。ある者は誰それは日本機に追い回されて必死に逃げ回っている自分を見ても助けようとしなかったと怒りをぶちまけていた。  マンテル大尉ははっとした。アバディーン中佐も、中佐の空中戦闘指揮代理の第一中隊長もいないので地上勤務の副官のハガティ少佐を助けて報告を整理していたのだが、その怒りの声を耳にして思わず身を固くした。マンテル大尉の胸に、日本機に追われながら火を吹いて逃げるP51の姿がくっきりと浮かび上がった。しかし今、目の前で|飛行服《フライト・スーツ》のそでをまくってまなじりをつり上げている男は五四一大隊の第二中隊の男だった。マンテル大尉はほっとした。かれならP47だ。あのP51は五一八かもっと他の隊だった。それにあれきり還れなくなったかもしれない。マンテル大尉はそう思う自分の心のうしろめたさに人知れず視線を伏せた。  その頃から、パイロットたちの間で高々度を飛ぶ奇妙な円盤型の物体が話題になりはじめた。とくに大型のレーダーを備えた爆撃機や|哨戒機《しょうかいき》の搭乗員からはレーダーに映らない超高速の飛行物体に関する報告がしきりに送られてきて指揮官たちの顔を曇らせた。しかしそれによる被害は出ていないようだった。最初は日本の秘密兵器かもしれないといううわさが流れ、極度の緊張がもたらされたが、報告がたび重なるにつれ、そうでもなさそうだということになった。〈空飛ぶ円盤〉という名はまだなかった。  マンテル大尉はヨーロッパでの体験や石垣島の上空で目撃したものなどについては誰にも話さなかった。話せばそれがかえって自分にとってはなはだ不愉快な事態がおとずれるであろうことがわかっていた。かれはそれが現実にこの世に存在するこの世のものでないことをすでに確信していた。  やがて長かった戦いも終わり、かれは本国へ帰った。      7  一九四八年一月。かれは新しく編成された第一九四追撃戦闘連隊の六人の中隊長の一人としてケンタッキー州フォートノックスにあるゴットマン陸軍航空基地に在った。ヨーロッパ戦線で戦歴につけた多少のきずもあって同じ年に大尉に進級したなかまたちよりもかなり進級の遅れたかれにもようやく少佐の位階が回ってこようとしていた。  一九四八年一月七日は午前中は晴天だったが、昼頃から雲が多くなった。二千メートルと六千メートルふきんに雲の層があり、陽がかげると広大な飛行場をつめたい風が吹きぬけていった。午前の飛行訓練を終わったマンテル大尉は午後二時からの訓練の再開に備えて早目に昼食を終え、|待機所《ピスト》で午後の訓練の考課表を検討していた。間もなく午後二時になろうとしていた。|待機所《ピスト》の電話があわただしく鳴った。通信係の|特務曹長《とくむそうちょう》が受話器を取り上げ、|二《ふた》|言《こと》|三《み》|言《こと》話してから肩をすくめ、それからしかめた顔をマンテル大尉に向けた。 「飛行指揮所はどうかしているんじゃねえかな。中隊長。|緊急発進《スクランブル》です」 「|緊急発進《スクランブル》?」 「ムスタングを三機出せと言ってますぜ」 「ゼロか、それともメッサーシュミットか?」 「さあ。イリューシンかもしれない」 「ばかに早いじゃねえか」 「今朝がた原爆ができたのとちがいますかい?」 「それとも上院議員の急な御視察とやらじゃねえのかな」  特務曹長はかんでいたガムをぺっと芝生の上に吐き出した。  そのうちに基地内のあちこちがにわかにあわただしくなってきた。緊急発進命令が整備中隊の方へも飛んだとみえて列線にならんだP51の方へ整備兵が走り出した。黄色の弾薬車がサイレンを鳴らして滑走路を横切ってゆく。 〈滑走路上にあるすべての機体、|車輛《しゃりょう》はただちに移動せよ〉の発煙信号の黄色いけむりが吹き上がった。 「中隊長。なんだかしらねえがほんものらしいですぜ」  特務曹長がケタケタと笑った。マンテル大尉は午後の訓練を担当している関係上、同じ時刻の|緊急発進《スクランブル》もかれが指揮しなければならない。かれはスピーカーで自分の部下三人の名をあげ、ただちに発進位置に集合するように命じた。マンテル大尉は|待機所《ピスト》の外にころがしてある愛用のノートンにまたがると列線へ向かって走った。  すでに三機のムスタングはエンジンを始動させていた。マンテル大尉のあとから指揮官のトレントン中佐のポンティアックが風をまいて走ってきた。 「すぐ発進してくれ。シャンテ・ポイントのレーダー基地からの報告によると、正体不明の飛行物体がこの地域に接近しているそうだ」 「何です? それは」 「かなりの大型機らしいがこちらの呼びかけに対して何の応答もない。定期航空路からはだいぶ離れているし、この雲では地上からの視認は難しい。ただちに上昇して確認してくれ」  中佐の言葉を聞いているうちにマンテル大尉の体にふと奇妙な|戦《せん》|慄《りつ》がはしった。何かあるのではないだろうか? それだけのことで|緊急発進《スクランブル》というのもうなずけなかった。 「ボス。正体不明の大型機とはどういうことなんですか?」  マンテル大尉はムスタングのエンジンの音に吹き千切られる声をふりしぼった。 「わからん。わしはおそらく通信装置の故障した不定期の貨物機だろうと思う。大尉。これは実にナンセンスな話だが五分ほど前にサウス・ベロナの空中作業隊やグリーン・ヒルの陸軍演習場の連中から雲の切れ間を飛ぶ銀色の皿のような物体を目撃したなどという連絡があったのだ。やつらは昼間から酔っぱらっているのだろう。とくにサウス・ベロナの連中ときたらひどいものだからな」  トレントン中佐の言葉を終わりまで聞かずにマンテル大尉はすでにムスタングの座席におさまっている三人の部下の一人にいそいで降りるように合図し、地上へとび降りたかれからヘルメットやパラシュートを引き|剥《は》がすとそれをすばやく身につけた。 「中隊長! なにもきみが行くことはないだろう」  中佐が不審そうに言った。 「いや。私が行きます」 「少尉に飛行手当をかせがせてやれ」  中佐はマンテル大尉に装具をうばわれてしまった若い少尉にあごをしゃくった。マンテル大尉はだまって首をふるとムスタングの主翼に|這《は》い上がり、座席にもぐりこむと無線電話のジャックをさしこむのももどかしく発進の合図を送った。 〈車輪止め、はずせ!〉  両うでをひたいの前で交差する。 〈|発進OK《スカイ・オン》〉  誘導係の軍曹が主翼の前にとび出しておどるようなしぐさで右手を前方に打ちふった。  パッカード・マリン千六百馬力の水冷エンジンが|轟《ごう》|然《ぜん》と|吠《ほ》えはじめると銀と|紺《こん》のムスタングは疾風のように滑走路を突進していった。  機体が浮くとすかさず車輪を収める。空気の抵抗の少なくなった機体はぐんぐん上昇する。マンテル大尉は管制塔との交信をすぐ規制どおり戦闘指揮所に切り変えた。しかし戦闘指揮所ではこの|緊急発進《スクランブル》をまともに受け取ってはいないらしく、空中戦闘管理官はそこにはつめていないようだった。だがマンテル大尉にはそんなことはどうでもよかった。部下の二機には左右に大きく開くように命じ、機首を北に向けてひたすら上昇していった。発進の五分前にサウス・ベロナやグリーン・ヒルの上空を通過したものとすれば、今頃はほぼ基地の上空に達しているはずだ。いそげ! マンテル大尉はいったん機体を水平にもどして速度を得るとふたたび急上昇に移った。  高度三千ふきんに雲層があった。それを突きぬけるとさらに高度五千ふきんに積雲があった。部下の二機に呼びかけると一機は左方にかなりずれていた。もう一機はマンテル大尉と同高度をこれは北へ向かって上昇していた。マンテル大尉は積雲の層を突破するまではその状態で捜索を続行しようと思った。上昇につぐ上昇で速度計の針は三百八十キロを指していた。積雲の層をくぐりぬけた時、マンテル大尉は思わず息を|呑《の》んだ。前上方に白銀にかがやく巨大な物体が飛んでいた。  高度差約千メートル。直距離で千五百メートル。物体の進行方向はマンテル大尉のムスタングとはややずれ、間隔は少しずつ開いていた。かれは反射的に機体を軽く傾け、猛然と追跡に移った。 「こちらマンテル大尉! こちらマンテル大尉! 目標を発見、目標を発見!」  かれはオープン・バンドでマイクにさけんだ。戦闘指揮所か管制塔が聞いているだろうと思った。 「目標は円盤型。銀白色にかがやいている。針路北北東微東。高度約八千。速度六百キロ以上。本機の現在高度六千九百。追尾中」  高度を上げようとすると速度が落ちる。たまらない焦燥感がマンテル大尉の胸を|衝《つ》き上げた。 それでも少しずつ距離がつまった。 「こちらマンテル大尉。目標との距離。五百。高度七千八百。速度六百三十。目標の針路。北北東微北。目標は平たい皿状の物体だ。やや楕円形に見える。水銀のようにかがやいている」  さらに高度を上げる。七千九百。ようやく目標と同高度になった。マンテル大尉は獲物を追う猟犬のように身震いした。最大速度七百十二キロ。ムスタングは|稀《き》|薄《はく》な大気を切り裂いて弾丸のように追跡していった。背後には純白の飛行雲が長く長くのびはじめた。距離四百。それは手をのばせばとどきそうな近さだった。  巨大な物体は水銀のような無機質な光沢をギラギラと放っていた。直径は百メートル以上もあるだろう。周辺部が薄く中央部がなだらかに盛り上がっている。その中心の部分に浅い|鉢《はち》を伏せたような突出部があり、その部分が周期的にオレンジ色の小さな閃光を放っていた。マンテル大尉にはそれが|回《かい》|転《てん》|灯《とう》のように思えた。金属か? むろん金属だろう。ガス体やあるいは他の軟らかな物質の塊りなどではない。ステンレスかあるいは|磨《みが》き上げられた硬質の合金のような質感があり、その表面に光沢のちがいによるような淡い|縞《しま》があった。 「飛行中の物体に告ぐ! 飛行中の物体に告ぐ! ただちに速度を落としてわれの指示にしたがえ。ただちに速度を落としてわれの指示にしたがえ」  マンテル大尉は無線電話のマイクに向かってさけんだ。正体不明機に対する基本的動作だった。しかしその声は自分でもおさえようがなく歯の奥で震えていた。マンテル大尉は歯をくいしばって口を閉じた。警告の本質的な無意味さがかれを打ちのめした。かれは気力をふるい立たせて操縦|桿《かん》の頂部の機銃発射ボタンに親指を押し当てた。そのとき、巨大な円盤は音もなく増速した。同時に前上方へ位置を変えはじめた。 「こちらマンテル大尉。目標は上昇してゆく。高度八千。速度七百五十以上。こちらマンテル大尉。目標は上昇してゆく。なお追尾する」  じりじりと引き離されてゆく。マンテル大尉は完全に下方にとり残され、円盤の頂部にきらめくオレンジ色の光も見えなくなった。 「針路。いぜん北北東微北。高度九千五百。なお追尾中。上がれるところまで上がってみる」  マンテル大尉の全身は火のように熱くなった。熱くなったのは心だけかもしれない。風房ガラスの端に微細な氷片が貼りつき一瞬、かがやく小さな火花となって後方へ吹き飛んだ。高度一万二千。もはや絶望的だった。銀色の円盤は濃紺色の虚空の一角にまぼろしのように浮き、さらに遠くなりつつあった。すべてが終わろうとしていた。高度一万二千八百。亜成層圏の大気は十分な揚力を生み出すことができず、|方《ほう》|向《こう》|舵《だ》も全く手応えがなくなった。  そのとき、マンテル大尉の耳に異様なひびきを持つ声が流れこんできた。 [#ここから2字下げ]  マンテル大尉。タダチニ高度ヲ下ゲ、機体ノ安定ヲ回復セヨ、コレ以上追跡行動ヲ継続スルコトハアナタニトッテ極メテ危険ナ事態ヲマネクダロウ。 [#ここで字下げ終わり]  そんなことは解っている! しかしこの機会をのがしてはもはや二度とこのようなできごとにめぐり合うことはないであろう。おそらく自分の報告を誰一人として信ずる者はないはずだ。それだけに自分は追わなければならないのだ。マンテル大尉はもはや上昇力を失ったムスタングを一メートルでも引き上げようとして引きつけた操縦桿に全身の力をこめた。 [#ここから2字下げ]  マンテル大尉。タダチニ高度ヲ下ゲ、機体ノ安定ヲ回復セヨ、コレ以上追跡行動ヲ継続スルコトハアナタニトッテ極メテ危険ナ事態ヲマネクダロウ。 [#ここで字下げ終わり]  また聞こえた。マンテル大尉はイヤホーンを引き千切った。鼓膜に送られるエネルギーさえむだにしたくなかった。それに無用な警告に対するいらだちも避けたかった。永遠の時間が経過したと思われるほどの時が過ぎ、マンテル大尉のムスタングはようやく百メートルほど高度を増した。翼端が|失《スト》|速《ール》を起こしはじめ、ついで補助翼にバフェッティングがきた。機体はほとんど空中で停止しているようだった。推力と残された揚力がかろうじて石のような落下を支えていた。銀色の巨大な円盤はいぜんとしてかなたの虚空に浮いていた。その姿はマンテル大尉の目には|濃藍色《のうらんしょく》の海にただよう巨大なくらげのように見えた。  三度、声が聞こえた。マンテル大尉はその声に向かってはげしくののしりかえそうとして一瞬、気の遠くなるような恐怖に襲われた。ついに自分は気が狂ったのだと思った。無線電話のイヤホーンは自分の手で引き千切ってあった。それにもかかわらず声が! マンテル大尉は残っているわずかの理性を凝視しつつ酸素マスクのエア流入加減弁をプラス側にいっぱいに回した。体のすみずみまで何かが拡散していった。 [#ここから2字下げ]  マンテル大尉。アナタニハ気ノ毒ダガアナタノ機体ハ特殊ナ重力ノ変化ニヨリ致命的ナ材質疲労ニオチイッタ。脱出ノ時期ヲ指示スル。ソレマデ降下角二十五度。制限速度三百キロ時デ降下セヨ。クリカエス……。 [#ここで字下げ終わり]  その声は鼓膜のさらに奥、|蝸牛殻《かぎゅうかく》よりももっと内側、|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》の内部で聞こえていた。 「管制所か? 戦闘指揮所か? やめろ! おれが何をしようとおまえらの知ったことか。何が材質疲労だ。整備係の特務曹長にそう言ってやれ!」  マンテル大尉はギリギリと奥歯をかみしめた。意識が混濁してきた。 [#ここから2字下げ]  マンテル大尉。落チ着ケ。ワレワレハ今ハアナタニ対面スベキ時期デハナイト判断シタ。ソレニハモット多クノ条件ガカナエラレテカラデナクテハナラナイ。ワレワレハコノ空域ヲ去ル——。マンテル大尉……。 [#ここで字下げ終わり] 「誰だ! おまえは?」  マンテル大尉の目の前で遠い地平線が急激に回転しつつあった。 「誰だ! おまえは?」  機体があらしのように震動しはじめた。翼端の|外《がい》|鈑《はん》が薄紙のように剥がれて宙に舞った。 「誰だ! おまえは?」 「誰だ! おまえは?」 「誰だ!……」 [#ここから2字下げ]  ワレワレハアナタガ追ッテキタ物体ノ内部ニイル。ワレワレハ……。 [#ここで字下げ終わり]  その声は今やたしかな意志の伝達となってマンテル大尉の感覚と思考の中心にはたらきかけてきた。マンテル大尉はそれがあきらかに鼓膜によってでもなく、また他のいかなる感覚器官によってでもなく、直接かれの脳髄に浸透してきているのを知った。それは受容することをこばもうとしても不可能なある圧力と衝動をともなって伝わってきた。 [#ここから2字下げ]  ヨーロッパノ空デ一度アナタトメグリ会ッタ。ワレワレヲ追ッテ上昇シテキタドイツ機ハイマ、アナタノ機ガオチイッテイル状態ト同ジ原因ニヨリ不幸ニモ墜落シタ。ワレワレハアル目的ノタメ、シバシバ地球ヲオトズレコレマデニモ数多クノ地球人ノ目ニ触レテキタ。シカシワレワレノ行動ニ関スル認識ト理解ヲ地球人ニ求メル時期ハコレモマタマダ来テイナイ。マンテル大尉…… [#ここで字下げ終わり] 「なにものだ? われわれとは?」  マンテル大尉はマイクに向かって声をふりしぼった。しかしそのマイクのジャックもイヤホーンのそれとともに抜け落ちていた。そのジャックが抜け落ちていなくともすでにこの時、マンテル大尉のムスタングの電気部品はすでに完全にショートしていた。 [#ここから2字下げ]  マンテル大尉。ワレワレハ遠イ宇宙カラ来タ。シカシ、アナタガタガ自分タチヲ、“ホモ・サピエンス”ト呼ブナラワレワレモマタ同ジ“ホモ・サピエンス”ダ。 [#ここで字下げ終わり] 「そんなことがあるか! お前たちは遠い宇宙から来たと言ったではないか」 [#ここから2字下げ]  マンテル大尉。人類ノ歴史ハ実ハ非常ニ長イ。アナタガタハ地球ヲ支配シ、“ホモ・サピエンス”ハ地球上ノ生物ノ進化ノ現状デノ極限ト考エテイル。ソノ考エハ地球上ニ限ッテノミ考エルナラ正シイ。シカシ地球ノ人類ノ歴史モ、カレラヲフクメタモット大キナ意味デノ人類ノ歴史ノゴク一部分ニ過ギナイ。マンテル大尉……。 [#ここで字下げ終わり] 「それはどういう意味だ?」 [#ここから2字下げ]  マンテル大尉。アナタヲフクメタ地球人類ハ……。 [#ここで字下げ終わり]  ふいに内容が変わった。 [#ここから2字下げ] マンテル大尉。アナタニトッテスデニ時間ガナイ。アナタハタダチニ機体ヲ|棄《す》テ脱出セヨ。アナタノ所属スル組織ハアナタノ生命ハ失ワレタトシテコノ事件ヲ処理スルコトニナル。アナタハメキシコヘ行キ、ソコデアル人物ノ指示ヲ受ケルヨウニ。コレデ通信ヲ断ツ。 [#ここで字下げ終わり]  とつぜんマンテル大尉の心は生身に|還《かえ》った。ムスタングは|錐《きり》もみになって落下していた。高度四千。マンテル大尉は無意識に座席ベルトをはずし、緊急脱出用の爆管を引いて風房を吹き飛ばした。機体の回転の一瞬の間合いをとらえて空中に身を投げた。あらしのような風音がかれの体をおしつつんだ。 「私は非常な苦心をしてメキシコへ入り、いったいメキシコのどこへ行けばよいのかもわからぬまま、メキシコシティに半年ほどかくれひそんでいました。そしてある日、差し出し人不明の手紙を受け取りました。その手紙には旅費が同封してあり、日本へ向かうように書いてありました」  マンテル大尉はグラスの中の液体を飲み干し、静かに息を吐き出した。その白髪を混じえたこめかみに古い大きな傷跡があった。 「その手紙に指示されていた場所で私は人を待ちました。一人の男が私に近づいて来て東京のあるホテルを教え、私にそこに宿泊するように言いました。翌日、こんどは別な男があらわれ、新宿のある喫茶店で待つように指示しました。そこで会ったのがこのミセス・ヨシダでした」  マンテル大尉につられてグラスにのばしかけた謙造の手が宙に止まった。 「すると、あなたは吉田須摩というのか?」  謙造の口がだらしなく開いた。 「ですからあたし、先程すまと名乗りましたわ」 「吉田とは聞いていなかった。よしだすまというとぼくの|曾《そう》|祖《そ》|母《ぼ》と同じ名だ」 「あたし、あなたのおばあさまかもしれませんわよ」  謙造は思わず短いさけび声をあげた。 「ばかな!」  それがほんとうのことのように思えた。むしろこの場合、その方が当たり前のような気がした。 「お|坐《すわ》りになって! まわりの人達がおどろきますわよ。でも、マンテル大尉は記録の上では一九四八年の一月に死んでいます。そのマンテル大尉はこうしてここにいらっしゃるわ。あたしがあなたのおばあさまだったとしてもそう不思議ではないのではございません?」 「やめてくれ! ぼくには今日はいろいろなことがあり過ぎた」  須摩はボーイに合図するとグラスの中身を補給させた。 「ミスター・ヨシダ。たしかに今日という日はあなたにとって神経がすり切れるような一日だったろう。しかしそれはあなたにとって新生の一日だったはずだ。今日以後、あなたはわれわれの一員になる。そのことについてはあなたは秘密を守らなければならない。むろんあなたは秘密を守るだろう。いつか旅立ちの日が来るまで」 「旅立ち? どこかへ行くのか?」 「ミスター・ヨシダ。これは単純な言い回しだ。旅立つのは人類全部だ。しかし、乗物に乗ってどこかへ行くのではない。これは心の中の問題なのだ。人類はやがてこれまで想像もできなかった新しい歴史を持つようになる」  謙造はマンテル大尉の太い|猪《い》|首《くび》と、あまり開かないでものをしゃべる厚いくちびるを見つめていた。かれは旅立ちだと言った。しかし謙造にとって旅はあの四歳の日、灰色の雲の切れ間から異形の物を見たあの日からはじまっていた。知るということは果たして何なのか? 吉田須摩と名乗る女はけむったようなひとみをだまって謙造に向けていた。マンテル大尉は何ものかを|悼《いた》むように、ゆらめく灯を見つめていた。かれらの物語はその万分の一も語られていない。その物語のどれだけの部分を、どれだけの量を自分がになうことになるのか、謙造はなかば機能を|喪《うしな》ったような心でそれだけを考えつづけていた。     第二章 |虚無太元尊《おおそらのみこと》かく|宣《のたま》えり      1  |宵《よい》から吹き出した風が夜半に入って大風となった。広壮な|館《やかた》を囲む松林が|汐《しお》|鳴《な》りのようにたえずどよめき、固く閉じられた|蔀《しとみ》が風をはらんで弓なりに反りかえり、けたたましく鳴りつづけた。  |宿直《と の い》の武士たちは落ち着かなくえりをかき合わせ、風の音に耳を傾けてはたがいに目を見交わした。屋内に吹きこむ風に|燭台《しょくだい》の灯は今にも消えそうにゆらめいた。 「妙に気が|虚《うつ》けるのう」  武士の一人が床に置いた太刀をそっとひざに引きつけた。 「これはまた何としたこと。|京極《きょうごく》辺での白昼の押し込みを一人残らず切り捨てたほどのおぬしが」  同僚の一人が|眉《まゆ》をひそめた。こんな夜の宿直なぞ|誰《だれ》も心安かろうはずはない。それを言い出されると不安はいよいよつのる。 「さてものう。押し込み|輩《ばら》を相手の太刀打ちはいっこうに苦にもせなんだが、このような夜、風の音を聞きながらじっと何かを待っておるのは、こりゃ性に合わぬとよ」  別な一人がそれにうなずいた。 「いかにも。いかにも。早く夜が明けぬか」 「おう。灯が消える。おぬし、もそっとそちらへ寄れ」 「火、出すな」 「今夜もまた何十戸も焼けることじゃろ」 「このような夜は|酒《ささ》食べ、女子抱いて寝るがいちばんじゃ」 「おう。風がまたいちだんと強うなってきおった」  どこかで何かが崩れる音がした。武士たちは口をつぐんで戸外の物音に耳を澄ました。気がつくと外ではひっきりなしにいろいろ音が聞こえていた。ひときわ高く、木の|梢《こずえ》が折れる音がひびいた。蔀のさる[#「さる」に傍点]が舟のろをこぐようにうめきつづけていた。  そのとき、屋内の奥まった一角でかん高い女のさけび声が聞こえた。武士たちは反射的に腰を浮かせた。また聞こえた。  武士の一人が部屋の一方の板戸ににじり寄ってそっと開いた。板戸の向こうは奥へ通ずる長い中廊下で、ところどころにともされた|常夜灯《じょうやとう》の光が|格《ごう》天井や欄間の彫金の飾り金具に映えていた。  その中廊下を侍女を従えた老女があたふたと奥へいそいでゆく。宿直の老女烏丸三位だった。 「|御館《おやかた》さまが今夜もきついうなされようじゃ」 「御老女の三位殿も、あれ、あのように血相変えてござらっしゃる」 「御館さまのお心病みはやはり|於《お》|今《いま》さまの……」 「しっ。それは口にすな」  武士たちはそっと板戸を閉ざすと、元の座にもどった。|灯《とう》|芯《しん》をかき立てると、周囲の壁に黒々と影がゆれた。  この烈風の吹きすさぶ深夜、館の中に在る者たちはすべて眠りもやらず、夜毎自分たちの眠りをおびやかす館の|主人《あ る じ》のいまわしい|物《もの》|憑《つ》きと、近頃、この館の内に重く垂れこめているある尋常でないものの気配にそう毛立ち、おののいていた。  風の音に混じって、蔀にへだたれた軒廊にあわただしい足音が乱れた。 「|宿直《と の い》差配、北村左近|将監《しょうげん》様の御見まわりじゃ」  蔀の外の声に宿直の武士の一人があわてて立ち上がった。板戸を押し開くと、|松《たい》|明《まつ》の赤い光がゆれ動き、その光の中に左近将監のひげ面が浮き上がった。 「御見まわり、御苦労様にござりまする」  室内の武士たちが手をつかえた。 「あやしきふしは無きか」  左近将監のかたわらにひかえた与力がするどい視線を武士たちの上に投げた。  あやしいふしは無いと言ったらこれはひどいうそになる。この夜ふけのひととき、奥では主人がいまわしい夢にうなされ、物狂おしくのたうちまわっていることだろう。|濛《もう》|々《もう》と立ちこめる|護《ご》|摩《ま》の煙や香煙のゆらめく中で、山伏や僧侶たちの|呪《じゅ》|文《もん》や|読経《どきょう》がすさまじく入り乱れ、主人の部屋に入ることを許されているごく少数の老女や侍女たちは恐怖に魂も失せる思いで主人をはげまし、抱き、おさえていることであろう。しかし、それはあくまで宿直の武士たちにとっては表向き全く知らぬことであった。|噂《うわさ》はとうに館の内外にひろまり、都の人々でさえ知らぬ者とてなかったが、それを館の内で口にのぼせ、また宿直の武士が異常ありとして行動に移ることなどもってのほかであった。  宿直の武士たちは型どおり、異常は無いと答え、左近将監はふたたび部下をひきいて回廊を歩み去った。左近将監が身につけた腹巻がかれの足の運びにつれて鎖の触れ合うように重々しく鳴った。  左近将監が去ったあと、宿直の武士たちは前にも増して不安の色濃い顔を|灯《ほ》|影《かげ》に押しならべていた。誰も物言う者もいなかった。差配自らが宿直の督励に出張ってきたことが、かれらをひどく緊張させた。主人の寝所をめぐって幾つか設けられているどの宿直部屋でもそうであろう。  左近将監はひげにおおわれたいかつい顔を、まっすぐ夜の|闇《やみ》と風に向けて大股に回廊を踏んでいった。かれの胸には、この不安な夜ともうひとつ、近頃、この館にしばしば姿を見せる神職の吉田|兼《かね》|倶《とも》なる人物についてのうわさが重くのしかかっていた。      2  館の主人、日野富子は|褥《しとね》の上に起き直り、荒い息を吐いていた。全身つめたい汗にまみれ、その汗をぬぐう侍女たちの手の乾いた布はたちまちしぼるほどになった。 「御館様。御寝衣を御取り換えあそばされませ」  老女が新しい寝衣を褥のかたわらに置き、富子の汗に|濡《ぬ》れたものをそっと肩からはずした。四十歳を過ぎてようやく女としての衰えを見せはじめた富子だったが、それでもまだ白磁のように白い背中の|艶《つや》や、張った腰の厚い|肉《しし》|置《お》きなどに、若い娘などには見られない|濃《のう》|艶《えん》な魅力をたたえていた。|肌《はだ》|着《ぎ》がもろともに寝衣から富子の白い腕をぬき取り、この頃、腰巻きとも呼ばれるようになった|褌《たふさぎ》を解くと、汗の|匂《にお》いと女の香りが温気となって立ち上がった。 「湯」  富子は短く言った。 「は?」  老女は戸惑ったように衣類を始末する手を止めた。 「|白《さ》|湯《ゆ》を持てと申しておるのじゃ!」  |癇《かん》|癖《ぺき》の強い声が飛んだ。 「ただ今。これ。誰ぞ。白湯を持て」  老女の声に侍女の一人が追われるように寝室からすべり出た。  こちらの気配を知ってか、厚い板戸の向こう側では呪文や読経の声がいちだんと汐鳴りのように高まった。高い欄間の透かし彫りに赤い火光がゆらめいた。護摩壇の煙が侵入するのを防ぐために、薄紙を欄間や板戸の合わせ目などに目張りしているにもかかわらず、寝室の内部は燭台の灯もかすむほど|朧《おぼろ》にけむっていた。 「御館様。あのように霊験あらたかな山伏殿や有徳の坊様が悪魔調伏、御病気|平《へい》|癒《ゆ》の|御《ご》|祈《き》|祷《とう》をなされておじゃりまする。明日はきっと御心安らかになりましょうほどに」  老女は後ろからそっと新しい寝衣を着せかけた。侍女が白湯を入れた茶碗を運んできた。それを受けとった富子の指先がふるえ、茶碗は白湯をまき散らしながら褥の上に落ちた。 「|痴《し》れ者!」  富子は目を|釣《つ》り上げてさけんだ。 「御無礼つかまつりました。おゆるしを!」  侍女ははじかれたように背後へあとじさって平ぐものようになった。 「ここな、そこつ者が! なんといたした!」  富子はほほをひきつらせた。 「ええい! みなで寄ってたかって|妾《わらわ》をなぶり者にいたすか。よい。妾が打ちすえてくりょうず。まいれ! ここへまいれ!」  汗に濡れた髪をふり乱して富子は褥の上からにじり出た。それを引きとめようとする老女の手を、富子は女とも思えぬ力で払いのけた。老女は肩から羽織らせたばかりの寝衣を手にしたまま、あお向けに転倒した。富子は裸体のまま、平伏している侍女にいざり寄るとその髪をつかんで顔を打ちはじめた。侍女が悲鳴を上げ、老女が富子の腕にすがりついた。他の侍女たちはおろおろするばかりだった。  そのとき、一方のふすまが開いて走りこんできたのは老女筆頭の烏丸三位だった。 「御館様、静まりませ。誰ぞその女を早く外へ」  烏丸三位は富子の手から侍女をもぎ離すように割って入り、裸のままの富子を自分の胸に抱き取るように、うちかけを開いて富子を受けた。その間に、平伏していた侍女は寝室の外へ連れ出されていった。 「御館様。御心安らかに。さ、御召換えなどなされましょう」  幼い子供をさとすように富子の耳もとでささやくと、烏丸三位は富子を寝室の一角に敷かれた二つおりの褥の上に誘った。侍女たちはその間にすばやく汗で濡れた褥を新しいものに敷き換えた。富子は烏丸三位の手で人形のようにおとなしく着換えを終えた。  今の富子にとっては、烏丸三位だけが|只《ただ》一人の腹心の部下だった。 「三位。|於《お》|今《いま》めが」  富子の歯がぎりぎりと鳴った。憎しみと怒りと不安が富子の全身からあふれ出た。 「於今めが、そこで……」  富子は部屋のすみに置かれた燭台を指さした。燭台には三百匁もありそうな|大《おお》|蝋《ろう》|燭《そく》が光輪を放っていた。 「腹を|掻《か》き切りおって、血にまみれた手で妾につかみかかってくるのじゃ。あの目。ああ憎や!」  富子は|虚《うつ》ろな声でさけぶと、寝衣の|袖《そで》を両手で引き裂こうとした。また気持ちが|昂《たか》ぶりはじめた。烏丸三位はいそいで富子を横たえた。火のように熱いひたいに水で冷やした布を当てると、富子はやや静まって目を閉じた。  老女や侍女たちを次の間に|退《さが》らせ、烏丸三位はただ一人で富子の褥のかたわらにひかえた。この奥まった一室では風の音も聞こえなかった。富子が不眠をうったえ、ひどくうなされるようになってからもう半月にもなる。薬も祈祷もほとんど効果をあらわさなかった。富子は夜がくるのを恐れ、昼間眠って夜は起きているようにしたが、それも三日とはつづかず、今では重病人のように床についたきりで昼も夜もうとうとと過ごすありさまだった。  山伏や高僧たちの声もしだいに低くなってきた。荒業できたえたかれらの声にも疲労がにじみ出ている。烏丸三位の頭も低く垂れた。時おり無意識にもたげるのだが、すぐ前にも増して深く垂れる。  そのとき、大蝋燭のほのおがかすかにゆらめいた。黄金を刻んだような見事なほのおがにわかに暗く|翳《かげ》り、部屋のすみに暗闇が|湧《わ》いた。  富子が低くうめいた。さらにほのおが細くなり、暗闇がひろがって欄間の火光がくっきりと|格天井《ごうてんじょう》に映えた。  とつぜん、富子が高くさけび、夜具をはねのけると、褥の上に起きなおった。血の気の失せた顔からつめたい汗がしたたった。血走った目を大きく見開いて富子は部屋の|一《いち》|隅《ぐう》をにらみすえ、やにわに|枕《まくら》をふり上げた。のどの奥から声にならない声が|洩《も》れた。 「おのれ! 於今め!」  枕が飛び、|几帳《きちょう》が重い|翅《はね》のように倒れた。几帳が倒れたあとに、伸びた灯影を受けて、一人の女が坐っていた。女は氷のような目で富子を見つめた。 「さがれ! ええい、さがれと申すに!」  富子は泣くようにさけんだ。  女は二十七、八。ぬけるように白い|瓜《うり》ざね顔に鼻すじが通り、|怨《うら》みをふくんだ切れ長の目がその|美《び》|貌《ぼう》を|凄《せい》|艶《えん》極まりないものにしていた。 「於今、そなたのために京都御霊社の内に|社《やしろ》を設け、|篤《あつ》く|祀《まつ》ったではないか! それでもまだたりぬとか」  於今は富子を見つめたまま|袿《うちかけ》を背後に落とすと、|花《はな》|菱《びし》文様の五領の衣を押し開き、その下の白の小袖の胸元をくつろげた。 「やめ! やめて|給《た》も!」  富子は両手を前にのばして於今のすることを止めようとした。  於今はまばたきもせず、呼吸さえしていないようだったが、両手はすばやく動いて小袖の前を解き放つと、|張袴《はりばかま》のひもをゆるめて下に押し下げた。子供を産んだことのない、形のよい乳房と白い腹があらわになった。於今は懐剣を抜き放つと|脇《わき》|腹《ばら》に突き立てた。刀身が右に動き始めるとそれまでの氷のように無表情だった顔が苦痛にゆがんだ。 「許せ! 許して給も。於今どの」  富子は褥からすべり出て、寝所から逃れ出ようとしたが、体は石のように重く、わずかな身動きすらかなわなかった。  於今の下腹は大きく裂け、鮮血が滝のようにほとばしり出てみるみる青畳を染め、|飛《ひ》|沫《まつ》が富子の白い寝衣を点々と染めた。血の匂いがあたりに立ちこめ、富子は胃の|腑《ふ》の底から|衝《つ》き上げてきたものをその場へ吐いた。黄色い水だけがひざの上に散った。富子は於今がそのつぎ何をするか知っていた。必死に目をそらせようとしたが、首筋は板のように強張って、目の前の於今から顔をそむけることはできなかった。  於今は懐剣を引き抜くと、肉をはじきかえして大きく開いた傷口へ片手を押しこんだ。|腹《ふく》|腔《こう》の内部で手が動くと、新しい血が盛り上がるように湧き出してきた。於今は細くうめき声をもらすと、傷口から手を抜き出した。その手は血にまみれた腸を握っていた。 「|宿直《と の い》! 宿直はなんとしたぞ。烏丸三位はおらぬか! 左近将監は! 出会え、出会え!」 富子は絶叫した。灯が翳り、隣室の読経の声が波の寄せるようにうねって高くなった。 「於今。下がれ、下がりゃ!」  富子の声は泣くように震えた。  於今は腸を引きずり出しながら、富子の前ににじり寄ってくる。その目が青く青く燃えていた。 「於富……」  富子に向かって、わななく手をさしのべた。その手と腹の間を、紅染めの太いひものような腸が、深い曲線を描いて展張した。 「わがうらみ、はらさいでか」  於今は苦痛の声をふりしぼった。 「ああ、|去《い》ね! 於今、去ね!」  富子は迫ってくる血まみれの於今の体から|一《いっ》|寸《すん》でも身を|退《ひ》こうと、背をそらせてあえいだ。その富子の前へ、力つきた於今が大きく泳いで突伏した。あふれ出た内臓が、於今の体と畳の間で湿った重い音をたてて|朱《しゅ》|泥《でい》のようにひろがった。富子は気を失って倒れた。  そのとき、烏丸三位が侍女をしたがえて走りこんできた。  灯のあかるい部屋の中では、富子が人形のように手足をひろげて打ち倒れているばかりだった。      3 『計ラズモ万歳期セシ花ノ都モ今何ンゾ|狐《こ》|狼《ろう》ノ|伏《ふし》|土《ど》トナラントハ、|適《たま》|々《たま》残ル東寺北野サヘ灰土トナルヲ、|古《いにしえ》ニモ治安興廃ノナラヒアリトイヘドモ、|応《おう》|仁《にん》ノ一変ハ仏法王法トモニ破滅シ、諸家|悉《ことごと》ク絶エハテヌルヲ|感《かん》|歎《たん》ニタエズ、飯尾六右衛門一首ノ歌ヲ詠ジケル  |汝《なれ》ヤシル都ハ野辺ノ|夕《ゆう》|雲雀《ひ ば り》アカルヲ見テモ落ツルナミタハ』 [#地から2字上げ]|応《おう》|仁《にん》|記《き》 『さしも|甍《いらか》を並べて|蜂《はち》の巣の|如《ごと》くありし東山の堂塔も、ことごとく焼きはらはれ、打ちやぶられ、今は一寸の青葉も残らず、八重の白雲路をうづむばかりなり』 [#地から2字上げ]一条|兼《かね》|良《よし》  応仁元年(一四六七年)に起こった応仁の乱は、文明九年(一四七七年)までの十一年間にわたり、京都を中心に日本全国の兵が東西両軍に分かれて戦った|未《み》|曾《ぞ》|有《う》の大乱だった。  そもそもこの大乱の原因は室町幕府の八代将軍|足《あし》|利《かが》義政の世継をめぐるお家争いだったが、その結果によって利を得ようとする二大勢力の細川勝元と山名宗全がそれぞれ大軍を集めて東軍と西軍を名乗り、細川方は将軍義政の弟でもある養子の義視を推し、山名方は義政の実子の義尚を|戴《いただ》いた。東軍の兵力十六万千五百余騎、西軍の兵力十一万六千余騎といわれ、京都をめぐる戦いは激烈を極めた。|相国寺《しょうこくじ》、|行願寺《ぎょうがんじ》、|成菩提寺《じょうぼだいじ》、|天龍寺《てんりゅうじ》、|仁《にん》|和《な》|寺《じ》、|臨《りん》|川《せん》|寺《じ》などをはじめ、名立たる寺や神社もことごとく焼け落ち、町屋、倉、|邸《やしき》など亡失したものの数は知れず、市街は見わたすかぎりの焼野原となった。  戦禍をこうむった住民たちの悲惨さは目をおおわしめるものがあった。  直接戦火に巻きこまれただけでなく、糧道を断たれたがために深刻な食糧難が生じ、おびただしい餓死者が出た。その多くは老人と子供だったといわれる。さらに疫病が流行し、その上、|掠奪《りゃくだつ》暴行とで町家の人口は半減したと伝えられている。  その|惨《さん》|憺《たん》たる争乱の中心にあって、将軍義政はその無力な幕府とともに、なんらなすところがなかった。  戦火が室町の邸に迫り、流れ矢が飛びこんだり火の粉が|廂《ひさし》を焼くような時でさえも、平然として連日連夜の酒宴や連歌会をもよおしていた。将軍や大名たちは食糧や酒に困るようなことはなかった。庄園を武士たちに荒され、全く収入を失っていた貴族たちは争って義政の宴席にはべったという。将軍義政は政治に対する情熱を完全に失っていた。気に入りの有力大名に幕府の要職をあずけ、その結果についてはいささかの関心もなかった。  その室町幕府の崩壊を早め、応仁の大乱の直接の原因をつくった人物こそ将軍義政の妻、日野富子であった。  日野富子は永享十二年(一四四〇年)、中級貴族である日野重政の娘として誕生した。日野家は足利|尊《たか》|氏《うじ》以来、将軍の信望が篤く、代々、将軍の夫人をこの家から出すならわしとなっていた。したがって日野家の幕政に対する影響力は極めて大きく、富子の兄、勝光も早くから将軍側近に重きをなし、訴訟、人事など勝光を通して請願すれば必ず成功するとうわさが高かった。そのために必要な|賄《わい》|賂《ろ》なども事の軽重によって自分で金額などを定めておき、「何事も現金を持ってこないような者にはいっさい聞いてやらない」などとうそぶいているような人物であった。  このような日野家の環境の下で育まれた富子は兄の勝光にも劣らない勝気で私欲に|貪《どん》|婪《らん》な女として成長した。  花の如き美貌の持ち主であり、出自のみならず、名実ともに将軍の夫人として日野一族の期待を集めていた。|康正《こうしょう》元年(一四五五年)十六歳で将軍義政のもとに嫁いだ。義政はこの時、二十一歳だった。義政には元服以来、何人かの|側《そば》|妾《め》があったが、その中でも義政の絶大な|寵愛《ちょうあい》をかち得ていたのが|今参局《いままいりのつぼね》と呼ばれる女性だった。|局《つぼね》は義政より二歳上だったが、その容姿の美しさは京|童《わらわ》の口にものぼり、 〈|悉皆芍薬《しっかいしゃくやく》、花ぼたん。|於《お》|今《いま》|女《じょ》|臈《ろう》の月の眉、|愛《う》し。さあ、おんじゃれ、愛し〉  などと|唄《うた》われた。  この頃、将軍家の内部には富子の|大《おお》|叔《お》|母《ば》に当たる|裏《うら》|松《まつ》|重《しげ》|子《こ》があって、大きな権力を握っていたが、於今はやがて全く幕政を手中に収め、他に評判の悪かった|烏丸資任《からすまるすけとう》、|有《あり》|馬《ま》|持《もち》|家《いえ》を加え、それぞれ名に、「ま」の字を持つ三人を称して〈幕政は三魔に出づる〉と陰口をたたかれた。  禅僧の|霊泉大極《うんせんだいきょく》は、 『今参は大奥を左右し、その気勢は炎のように燃え盛んで、近より難く、その為す所は大臣の執事の如くであり、しかも|貪《どん》|欲《よく》で民を悩まし、また人をそねんだり排斥したりすることも多く、まことに始末におえない』  と書いている。興福寺大乗院の僧|経《けい》|覚《かく》もまたその日記に、 『この五、六年の間、天下の事はすべてこの今参の方寸から出たことであり、その権勢はまさに傍若無人であった』  と記している。  実際、当時の機構だけで実力のともなわない室町幕府の内部にあっては、将軍の権威を背景にした個人の発言が極めて大きな力を持っていたであろうことは想像に難くない。  だがひとつの政治に二人の黒幕は必要ない。年齢も若く、幕政とは接触もなかった義政夫人、日野富子は二、三年の間は雌伏をつづけていたが、致命的な打撃を与える機会はやがてやってきた。長禄三年(一四五九年)、富子は男児を死産した。義政の悲嘆は大きかった。於今と激しく対立していた裏松重子はこの死産を於今の|呪《じゅ》|詛《そ》によるものであると義政にうったえた。呪詛に使ったとみられる人形が富子の産室の床下から発見されるにおよんで於今の立場は決定的に不利となった。その人形はもちろん、富子の手の者が床下にしのばせたものだった。義政は激怒し、於今を捕えて|琵《び》|琶《わ》|湖《こ》の中の沖之島に幽閉した。さすがに義政には寵愛している於今の命まで奪うことはできなかった。しかしそれだけでは富子は承知しなかった。それに呪詛に関する工作の一件が|露《ろ》|顕《けん》する恐れもあった。当時はまだ於今の勢力は重子と富子のそれを合わせたものよりもはるかに強大だった。事は急を要した。富子は夫義政に強くうったえると同時に、ひそかに|討《うつ》|手《て》を沖之島に送って於今の命を断とうとした。沖之島へ渡った伊賀者|柘《つ》|植《げ》三七のひきいる一隊は、義政の命令と称して於今の幽閉されている小庵を囲んだ。怒りに燃えた於今は小庵を脱出して島にある成願寺へのがれ、追ってきた討手を前に|凄《せい》|絶《ぜつ》な切腹をとげた。  重子と富子の連繋は急速に深まったが、この事件の数年後に重子が病死し、富子は一挙に|唯《ゆい》|一《いつ》|人《にん》として幕府の中心的人物に成り上がった。重子の死に関してはさまざまな憶測が生まれ、噂が流れたが、ここでは関係がないので省く。重子と富子の間柄、つまり大叔母と|姪《めい》という関係さえ否定するような権力闘争があったことを、世人が十分に承知していたということがわかる。  いったん幕府の中心に|坐《すわ》った富子は恐るべき権勢をふるった。しかしかの女の関心は幕府の政治そのものにあったわけではなく、|専《もっぱ》ら手段をつくして私腹を肥やすことにあった。  応仁の乱も迫った長禄三年(一四五九年)、富子は京都に入る七つの街道に|七《しち》|口《こう》|関《せき》という関所を設け、通行税を取ろうとした。もともとこの七口関というのは皇居の修理費やあちこちの神社の祭礼の費用を|捻出《ねんしゅつ》するためにある期間だけ、特に設けられるものである。富子はこれを常設の関所にすることを布告し、多額の関銭を徴集したが、かの女はそれを本来の使途には全くまわそうとしなかった。これには批難の声も高く、中御門|宣《のぶ》|胤《たね》は、 『当時御政道|御《み》|台《だい》の|沙《さ》|汰《た》なり、諸社の祭礼一向|沙《さ》|汰《た》に及ばず、先日|節《せち》|会《え》以下中|公事悉《くじことごと》く行はれず。朝家諸家の作法言語道断』  と記し、さらに、 『……末代の至極、言ふ|莫《なか》れ言ふ莫れ』  と口を極めてののしっている。  文明十二年(一四八〇年)、ついに京都に徳政を願う大|一《いっ》|揆《き》が起こり、七口関は破壊されてしまう。しかし富子は強引にその復旧を図り、いよいよ民衆と対立してその怒りを買った。  たび重なる諸国の一揆といつ果てるともない戦乱に、武将達の財政は底をついていた。そこに目をつけた富子は、武将達に金を貸しつけた。戦費の捻出に苦しんでいる武将達はやむなくこの高利の金を借りた。西軍の主要幹部の一人である畠山義就でさえ、富子から一千貫文の銭を借りる始末だった。富子の手には莫大な富が集まり、かの女はその金で諸国の米を買い集め、投機を始めた。  こうした富子に負けず、夫の将軍足利義政も、応仁の乱が終わって未だ京都の復興のきざしも見せぬうちに、諸国に対して〈御山荘|要脚段銭《ようきゃくたんせん》〉という臨時課税をおこない、莫大な建築費用をかき集めた。〈要脚段銭〉というのは天皇の即位、譲位、とか御所の造営、あるいは伊勢神宮造営の費用などのための臨時税である。義政はその税で自分の別荘を建てようとしたのだった。  富子は富子で京都地内の米倉や酒倉にも重い税をかけた。  すでに名のみとなった室町幕府をとり残して、世は馬借一揆や土一揆の荒れ狂ううちに、乱世、戦国へと向かって急坂を下るように移り変わりつつあった。      4 「おそれながら、|御《み》|台《だい》様。五山の高僧知識、|那《な》|智《ち》真言の|修《ず》|法《ほう》者を以ってしても、霊験未だ明らかならず。御台様夜毎の御気悩を|鎮《しず》めまいらせるには、この上は、よほどの有徳高力なる御方におすがりするしかござりませぬ。幸い、この者にてあれば|然《しか》るべしちょう人物がござりますれば、一度、お招きになりましてはいかがでござりまするか」  開け放たれた華頭窓の向こうに、燃えるような緑の木々が初夏の|陽《ひ》|射《ざ》しにかがやいていた。居間の中はほの暗く、烏丸三位の言葉に力なく上げた富子の顔は庭の青葉よりもなお青かった。 「三位。そのような者がおじゃるかえ?」 「はい。御台様。|神《かぐ》|楽《らが》|岡《おか》に|太元宮《だいげんのみや》をまつりまする吉田|兼《かね》|倶《とも》は、|稀《き》|代《だい》の神変不可思議に通じます由、一度、御試しなされてはいかがかと存じまするが」 「吉田兼倶とのう」 「|今上《きんじょう》にもことのほか御信望あるやにうけたまわっておりまする」 「|禰《ね》|宜《ぎ》であろ」 「されば〈|虚無太元尊神《おおそらのみことのたましい》〉を祭り、よく神に通ずるとうわさされております」 「神に通ずるとか」 「はい」 「よきにはかれ」  烏丸三位は平伏した。 「されば……」  三位は閉ざされた障子の外に声をかけた。 「将監どの」  障子の外で人の気配が動いた。 「神楽岡の吉田兼倶を召しなされませ。望みはいかようにも、と」  障子の外の回廊に平伏した北村左近将監はひそかに|眉《まゆ》をしかめた。鎌倉の頃の気風をいまだに濃くとどめている剛直なこの老武士は、|主人《あ る じ》の|館《やかた》の奥に、これ以上怪力乱神の立ち入ることを、実ははなはだこころよく思っていなかった。  翌日、左近将監のひきいる騎馬武者の一隊に守られた一丁の|輿《こし》が室町御所の追手門をくぐった。昨夜の風で吹き折られた小枝や、吹き千切られた若葉が一面に散り敷いている玉砂利の道を踏んで、一行は奥の富子の住む館へ向かって進んでいった。  将軍が政務を見る表御座所に対し、将軍夫妻の住む一画を奥と呼んだ。この頃は江戸時代のいわゆる大奥という概念はまだない。将軍のたくさんの妾たちも、それぞれ独立した居館を与えられ、同じ地域の中に住んでいたが、それらはあくまで上級家士、内被官と同様なあつかいであった。  奥御殿の大玄関には、烏丸三位以下、主だった老女、宰領たちが目もあやな|衣裳《いしょう》もきらびやかに居ならんでいた。  輿がおろされ、|簾蔀《すだれじとみ》がはね上げられると、一人の男が|悠《ゆう》|然《ぜん》と降り立った。 「神楽岡|斎場所《さいじょうしょ》大宮司、吉田兼倶之|命《みこと》様には|御機嫌麗《ごきげんうるわ》しゅう拝せられ、恐悦至極に存じ奉りまする」  敷台正面にひかえた烏丸三位がうやうやしく手をつかえた。背後の女たちが波のように平伏する。  白麻の|直衣《の う し》に身をつつんだ吉田兼倶は|鶴《つる》のようにやせた背の高い老人だった。落ち|窪《くぼ》んだ|眼《がん》|窩《か》の底のひとみが暗い色を放ち、この館の内部にひそむ|異《い》|妖《よう》を見すえるかのようにわずかに見開かれると、かれはみちびかれるままに敷台を踏んだ。  客殿に通され、茶菓の接待を受けて短い休息を取ったのち、かれは接見の間へ案内された。この時、ちょっとした異変が起こった。  案内されるまま、接見の間へ通ずる南の大廊下を進みかけた兼倶は、ふと足を止めた。 「御老女。接見の間へ通ずる御廊下はほかにも有りもそう。それをまいろう」  烏丸三位はその言葉の意味がつかめず、兼倶の顔をうかがった。 「御館様にお目もじいたすのに不浄は禁物でおじゃる。別な御廊下をまいろう」 「それは」  烏丸三位は戸惑った。接見の間へ通ずる大廊下はもちろん幾つもある。しかしこの南の大廊下は御台所の正客を通す廊下であり、他を使うことは考えられなかった。烏丸三位が当惑しているうちに、兼倶はすでに動き出していた。自分でふすまを開け、ためらいもなく座敷へ踏みこんでゆく。奥へ通ずる他の廊下をさがそうというのであろう。烏丸三位はうちかけのすそを長々と|曳《ひ》いてかれのあとを追った。  そのさわぎに、奥から走り出てきた奥女中たちも、さすがに制止できかねておろおろするばかりだった。  このとき、|渡《わた》|殿《どの》下にあって奥庭の警護をあずかっていたのは北村左近将監だった。かれは殿内の尋常でない人の動きに不審を抱き、郎党の一人に様子を見にやらせた。報告を受けた左近将監はたちまちこめかみの血管を脈打たせた。かれは渡殿の|階《きざ》|段《はし》をふた足で踏み上がり、回廊に仁王立ちになった。  そこへ吉田兼倶が姿をあらわした。 「待たっしゃれ! いずこへ行かれる。この先は御台様のおわす奥御殿にござる。慮外にござろう」  左近将監は腰の三条宗近の|佩《はい》|刀《とう》のつかに手をかけた。千軍万馬の|強《つわ》|者《もの》である左近将監にとって、目の前のこの枯木のような老人を、初太刀で息の根を止めるぐらい、なんのぞうさもないことであった。  兼倶の落ち窪んだ|眼《がん》|窩《か》の底のひとみが、果たして左近将監の姿をとらえたものかどうかはわからなかった。なぜなら、兼倶はほんのわずかも歩度をゆるめることなく、左近将監の前に進んできたからだった。左近将監は、ここでこの老人を|斬《き》ってしまおうと思った。名分は幾らでもたつ。ここを通る者は、誰でも拒んでよかったし、執事から説明も受けていないのだから、不審な者がこの場を押し通ろうとしたから斬ったまでだ、と言えばそれですむ。兼倶は四尺の距離に迫った。  左近将監の右手が動くと、太刀が|鞘《さや》ばしった。大きくふりかぶり、十分な間合いをとって一瞬、円弧を曳いた。太刀は短くうなって、兼倶の左の肩口から胸板を斜めに割って右の脇へ、確実な|斬《ざん》|撃《げき》を加えてぴたりと停止した。見事な|残《ざん》|心《しん》だった。 「いかに!」  左近将監が腹の底から吐息をしぼり出したとき、兼倶はすでに左近将監の背後を、ゆっくりと奥殿へ向かっていた。はげしい|狼《ろう》|狽《ばい》が左近将監をおそい、かれは残心の姿勢を解くのも忘れたまま、|呆《ぼう》|然《ぜん》と兼倶の後ろ姿を見つめていた。斬撃の速度と力点に少しの狂いもなかった。|据《すえ》|物《もの》|切《ぎ》りと全くひとしい確実な見切りと間合いが、肉と骨を断つ手応えをこの上ない確かなものにしていた。その実感と、何事もなかったように歩み去ってゆく兼倶の姿がどうしてもひとつにならないのだ。  左近将監は太刀を握ったまま、その場へ|尻《しり》を落とした。つめたい汗が全身にふき出した。  接見の場では、もっぱら烏丸三位が窮状を説明した。二十余年前の、女どうしの権勢争いの犠牲となって謀殺された今参の一件に話がおよんだとき、兼倶は深く腕を組んで黙考にふけった。 「ありように申して、これは難儀でござるぞ」  しばらくして目を見開いた兼倶は暗い面持ちで言った。烏丸三位の顔がひきつり、取りすがらんばかりににじり寄った。 「いえ、いえ、|命《みこと》様。ここはもう命様におすがり申すほかにみちはござりませぬ。なにとぞ神通のお力をもって、御館様の御気悩を払うてくだされ」  僧や山伏たちの|祈《き》|祷《とう》が効を奏さぬのもさることながら、烏丸三位は出入りの酒蔵の頭人に、吉田兼倶起用について、莫大な贈物を受けていた。ここは何が何でも、かれにはたらいてもらわなければならない。それには先ず兼倶に対する富子の信用を得ることだった。その兼倶が尻ごみするようでは富子の期待も|繋《つな》げない。  富子は終始沈黙したままだった。もはや加持にも祈祷にも頼る心を|喪《うしな》ってしまっていた。連日におよぶ不眠が、富子の顔を老婆のように無惨に|憔悴《しょうすい》させていた。 「|命《みこと》様のお力を以って、御台様を悩ましたてまつる於今めの悪霊が退散せし暁には、|太《たい》|元《げん》|宮《ぐう》様への御供納の儀は|思《おぼ》し召されるままとのことにござりますれば、なにとぞ、なにとぞ、よしなに」  烏丸三位は形を改め、兼倶にこの場で三万匹が贈られることを告げた。兼倶は|頭《ず》を下げるでもなく、謝意を述べるでもなかった。  かれは五山の僧たちや、那智の修験者たちをすべて退去させ、かれらの用いた祭壇を取り片づけたあとに、白木の方五尺におよぶ八角形の祭壇を設けた。三個の鉄皿のひとつには水、ひとつには土、そしてもうひとつには火を燃やした。それだけを用意すると、兼倶はふところから皮袋をとり出した。いったんそれをうやうやしく押しいただくと、皮袋の中の物を八角形の祭壇の中央に|据《す》えた。  部屋の片すみにひかえていた烏丸三位の目には、それが石塊とも、陶器の破片とも、また何かの細工物のようにも見えた。  それが終わると、兼倶は烏丸三位に部屋から出るように言った。  夕刻から兼倶は部屋に閉じこもって一歩も外へ出てこなかった。何の気配もない。烏丸三位も絶対に中をうかがうなと言われているので、板戸の外から一、二度、声をかけてみたが、何の答えもなかった。  真夜中頃、兼倶のこもっている祈祷の間から、とつぜん、電光のような紫色の光がひらめき、広い館のすみずみまで真昼のように照らし出した。  その光がまだ消えぬうちに、祈祷の間の板戸を|蹴《け》|破《やぶ》るように走り出てきたのは吉田兼倶だった。右手に高く幣を打ちふり打ちふり、雷のように床を踏み鳴らし、白衣のそでをひるがえして館の内を、東へ西へ、北へ南へと走りまわった。女たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。|宿直《と の い》の武士たちはとめどなくふるえる手に白刃をにぎりしめ、奥の物音に耳をそばだてていた。  烏丸三位は富子の肩を抱いて、恐ろしい事態をみずから招いてしまったかもしれぬ不安と責任に、生きた心地もなく石のように凝固していた。  やがて兼倶の声が館の中にとどろいた。 「烏丸三位殿はいずこにおられる。御台様御気悩を|祓《はら》いたてまつるは今ぞ! 御出会いめされよ!」  その声に、烏丸三位は、はじかれたように立ち上がり|裳《も》|裾《すそ》を乱して長い大廊下を走った。  吉田兼倶は、南廊下の西の端に仁王立ちになっていた。幣を眉間にささげ持ち、眼窩の奥底の目は貝の殻のようにひしと閉じられていた。その全身から、目に見えぬほのおのようなゆらめきがほとばしり出て、烏丸三位の面上に吹きつけてきた。烏丸三位はその場に平ぐものようになった。 「烏丸三位殿。|妖《よう》|異《い》の源は、わたしが立っている場所より十四|間《けん》先の、外側より二番目の土台石の下にある。ただちに掘り出されるがよい」  その声の終わらぬうちに、烏丸三位は縁の端ににじり寄った。そこに北村左近将監が抜身をひざに引きつけてうずくまっていた。 「将監殿。手配りを、早う」  たちまち、南廊下の内外は何十本もの|松《たい》|明《まつ》で真昼のように明るくなった。  土台石の下を掘る作業は容易なことではなかった。夜明けも近い頃、兼倶が指示した土台石の下、二尺ほどの所から、径三寸あまりの|珠《たま》があらわれた。手にした雑人が、表面に付着した|泥《でい》|土《ど》をぬぐい落とすと、珠は|燦《さん》|然《ぜん》とかがやき、|松《たい》|明《まつ》の火光さえ薄れるほどだった。  兼倶は白衣のふところからとり出した皮袋に、その珠を収めて三拝した。 「烏丸三位殿。これにて御館様の御気悩は御本復なされましたぞ。まことに|重畳《ちょうじょう》に存ずる。この御廊下は取り壊されるがよろしかろう。なお、珠の埋めありし所には三七、二十一日が間、幣を立て、太元宮を祭られよ」  それだけ言うと、兼倶は足早に退出した。烏丸三位が後を追い、もう一度、奥へもどるようにすすめたが、兼倶はそれをことわり、太元宮の|御《お》|札《ふだ》を取りに来るように、と言ったきり、そのまま帰っていった。  烏丸三位はただちに、威儀を正した使者を神楽岡に送って、太元宮の御札を奉戴すると、取り壊された南廊下の跡に安置し、周囲を竹矢来で囲った。  その日かぎり、うそのように富子は回復した。何十日ぶりに、安らかな眠りにひたることのできた富子の喜びは大きかった。 「あわれ、かの|修《ず》|法《ほう》こそ神妙の至り」  富子は日頃の物惜しみも忘れたかのように、竹矢来の中の御札に一万匹を贈り、さらに神楽岡の太元宮に十万匹を、別に兼倶に三万匹を贈って篤く謝意を表した。  このうわさは、たちまち京都の人々の間にひろまった。将軍御台所、日野富子に取り|憑《つ》き、狂死せんばかりに悩ませ、名立たる高僧、修験の者たちにもほどこすすべのなかった今参の局の|怨霊《おんりょう》を取り鎮めた吉田兼倶の名は、その太元宮とともに、人々を驚かせ、信仰心をかき立てるに十分だった。  ことに、参殿に際して、案内された大廊下の床下に今参の怨霊が宿っている珠が埋められていることを予知し、そこを不浄の場所として通ることを避けた、という話は、兼倶をいよいよ神通の人、神変不可思議の人として人々に|畏《い》|敬《けい》の念を抱かせた。  神楽岡は時ならぬ人出でにぎわい、物売りも多く出たという。  そのうわさに眉をひそめる者もいた。  北村左近将監の馬まわりをつとめる|仏掌《つ く ね》の観音六は、兼倶があらかじめ珠を大廊下の床下に埋めておいたのではなかろうか、と言った。それを耳にした左近将監が、於今の怨霊が退散したのは何故か、とたずねた。観音六はしばらく左近将監の顔を見つめていたが、やがて、 「さればでござる。人の目に見えぬものを、その心に映し見せる術は、古来、多くの術者によって会得され、ひそかに試みる者もありと聞いており申す」  こともなげに言い放った。その言葉が左近将監にある決心をさせた。      5  長享三年(一四八九年)は、正月から妙に暖かい日がつづいた。二月には木津あたりの桜が咲いたということであった。三月のはじめ頃、激しい雷雨があり、相国寺や|六《ろく》|波《は》|羅《ら》|蜜《みつ》|寺《じ》に落雷があり、教王護国寺の|塔頭《たっちゅう》が焼けた。雷雨がやむと気温がぐんぐん上がり、翌日、湯のような雨が降った。きびしい京の冬も終わり、春をむかえてほっとしていた人々も、この盛夏のような暑さにはただ不気味で、流れる汗さえ凍る思いだった。  東国で山焼けがあり、数か国にわたって灰が降ったといううわさがつたわってきた。また|信《しな》|濃《の》からは|大《おお》|地《じ》|震《なえ》が、|相模《さ が み》や|遠江《とおとうみ》からは悲惨な|旱《かん》|魃《ばつ》の話がもたらされた。九州からは兵乱の兆しが報じられた。  京の人々はこの異常な天候こそ、やがて恐ろしい天変地異のおとずれてくる前ぶれであろうとささやきあった。  二十日過ぎてやや気温も下がり、|比《ひ》|叡《えい》|山《ざん》の方向から涼しい風が吹きはじめた。人々はようやく人心地を取りもどした。夕方から雨になり、夜に入って大風が吹き出し、激しい雷鳴がとどろいて大雷雨となった。はじめのうちこそ、戸外へ出てつめたい雨に体を打たせて涼をむさぼっていた人々も、天地をどよもす風と雷と雨に、屋内で体を縮め、息を殺して神仏の名をとなえるばかりだった。  |辰《たつ》の刻、少し前だった。京の町々はとつぜん、すさまじい|閃《せん》|光《こう》につつまれた。緑とも青ともつかぬ目のくらむような光は、民家のすき間だらけの壁や板戸の間から射しこみ、あるいは寺院や豪商たちの|邸《やしき》の障子を真昼のように照らして畳を真青に染め上げた。恐怖に身をすくませた人々の耳に、雷鳴とは異なる異様な|轟《ごう》|音《おん》がつたわってきた。それは京都の町の空低く、南から北へ、巨大な車輪を曳くようにごろごろとどよめいてはしった。  寺院の鐘は共鳴して、いんいんと鳴り、うまやの馬は口縄を切って路上に狂いまわった。たくさんの人々が、その轟音の根源がわが家に落下してくるものと思い、おめきながら激しい雷雨の中へ走り出た。  やがてその音は、京の町の北の空へしだいに高度を低めていったかと思うと、その方角から天地もくずれるような地ひびきがつたわってきた。 「光り物だぞう! 光り物が落ちたぞうい」 「あな、おそろしや。また光り物か」 「どのあたりであろ」 「北大路か、今出川へんか」 「いや、もっと東、賀茂川の向こうであろうよ」 「すると、神楽岡あたりか」  人々はおそれおののき、異変を口にするのさえはばかるように、声をひそめ不安の目を見交わした。  翌日はこの話でもちきりだった。人々の間に、この異変を目撃したという者もあらわれ、恐怖はいよいよ濃くなった。  目撃した者の語るところによれば、あの大雷雨のさなか、ひらめく電光を背景に、紫色をおびた黒雲が八つに分かれ、たなびきながら、京の町を押しつつむように垂れ下ってきたかと思うと、とつぜん、轟音とともに天空の一角からひとすじの光の矢がはしり、京の北、神楽岡の上空で幾つにも裂けて飛び散ったという。  それを聞いてわざわざ出かけてゆく者もあったが、神楽岡あたりは異変の跡もとどめず、森閑としていたという。 「寄るでないぞ、寄るでないぞ」  人々はたがいにいましめ合った。  その翌日の夜は空一面に星がかがやいていたが、夜半、北の空が赤く燃えたという。  数十年前、いやもっと前から、京都の人々は、しばしば夜空にあらわれる光り物におそれおののき、不安をかきたてられてきた。  長享三年をさかのぼること五十年の、|嘉《か》|吉《きつ》元年の六月十三日。夕暮れの空を巨大な光り物が低い空をはしり、その光のために夕暮れも一時、白昼にもどったようであったという。後崇光院もいたくおどろかれ、日記にその時のありさまを書きとどめている。  この一か月後、室町将軍|義《よし》|教《のり》が赤松満祐のために暗殺されるという事件が起こり、人々はさこそ、とうなずき合った。  また嘉吉三年の二月五日には、岩清水八幡宮の上空あたりを、南北に別れて飛ぶ二個の光り物が見られた。  光り物は京都だけではなく、諸々方々にもあらわれているようだった。その中でも語り草になって残っているのは応永二十六年(一四一九年)七月十六日|熱《あつ》|田《た》でのできごとである。この日熱田の神宮付近に落下した光り物はことのほかに大きく、落下するに先立って激しい風雨が吹き荒れ、天地がどよめくと思うまに、海面が二十町あまりも光ったという。そして、この光り物の通過する直下の民家はことごとく打ち壊され、火を発したという。  宝徳元年(一四四九年)|比《ひ》|良《ら》に光り物しきりに飛び、この年、山城大地震が起こった。  その後もたびたび異常な現象がつづき、応仁元年正月の夜には、遠い北の空に多彩な光がはためくのが見えた。延暦寺では大|護《ご》|摩《ま》が|焚《た》かれた。この年、応仁の乱が始まった。  文明五年(一四七三年)九月二十二日。泉州|堺《さかい》の人々は、戸外のさけびに皆路上へ走り出た。夕焼けの空低く、異様な物体が飛来するのを望見した人々は、ふたたびわれがちに家の中へ逃げ込んだ。牛馬は逃げ惑い、ひづめに踏まれたりつのにかけられたりする者も少なからずあった。|居《い》|丈《たけ》|高《だか》な武者が三、四人、しきりに矢を放ったが、飛来する物体には矢はとどかなかった。そのものは大きさは家ほどもあり、形状はある者は|臼《うす》の如くであったと言い、ある者は|掛《かけ》|矢《や》(|大《おお》|槌《づち》)の如くであったと言う。頭上を通り過ぎる時、そのものは全体が燃えるような緑色にかがやき、その外周は細い|橙《とう》|紅《こう》色のかがやきに縁取られ、その部分は短い尾となって背後にのびていた。それを見たある商人が、名護屋の知人にあてた手紙に|火《か》|焔《えん》|後《こう》|背《はい》のようであったと書いている。火焔後背というのは、不動明王の像の背後に描かれている動的な火焔模様のことである。  その物体は堺の町の上空をゆっくりと音もなく飛び過ぎ、北の空へ消えていった。  それと同じものと思われる物体が、同日の日没過ぎ、京都周辺の多数の人々によって目撃された。京では、これを見た者は目がつぶれるという流言が飛び、人々は恐慌を呈した。その翌年の加賀一向一揆の、これが前兆であったと、後年人々は信じた。  このように各地にあらわれる光り物に対して、もっとも関心と反応を寄せたのが社寺であった。  とくに、伊勢神宮は早くから、これを祭神の意志の具現としてとらえていた。  戦乱や社会不安に人々の心が大きくゆれ動いていたこの時代には、社中とよばれる講をつくっての御伊勢まいりや、那智権現社|詣《もう》でなどがたいへん盛んだった。それはこの争乱の時代を生きぬいてゆくためには、苦しい時の神頼みで、強い信仰が必要だったこともあるが、今ひとつ、当時の民衆にとって、国をあげての争乱などといっても、しょせん、それは武士や貴族などの上層階級のことで、朝廷だろうと幕府だろうと、何がどう変わっても自分たちとは全く無縁なものだという考えが極めて強かった。京都が焼野原になって、おびただしい死傷者が出ても、京の民衆はそのような戦禍を避ける意味での避難旅行と、お好みの物見遊山とがひとつになって、しきりに方々へくり出していったものらしい。雑草のような民衆の生活力と、どうともなれというやけくそじみた陽気がひとつになっていたのであろう。  そのような人々の気持ちを上手に読んだのか、それともたまたまそうなったのか、この頃、〈今神明〉という信仰が盛んになった。  先に述べた応氷二十六年七月の、熱田にあらわれた光り物騒動は、その後、ある娘の神託によって、伊勢神宮の所在地の山田が、不浄の地となったので、神宮が熱田の地に|影《よう》|向《ごう》したものであるということになった。  また、応永十四年二月、|若《わか》|狭《さ》の小浜で見られた光り物の正体は、これも天照大神宮の影向であるとされ、三年後にはりっぱな社殿が建立された。『今神明鳥居立てられ、同橋渡しされる。其後九月二十六日に供養有之』と記録に残されている。  つまり、光り物とは、伊勢大神宮の御神体そのものであり、|然《しか》るべき所へ移動したものを〈今神明〉とよんだ。また、神明、飛びたもう、というのをつめて〈飛神明〉とも言った。  一方、神官たちの間では、相つぐ戦火に、焼亡した社の御神体はいったいどうなるのか? という疑問があった。霊験あらたかな御神体が社殿とともに灰になって失せてしまうというのでは、信仰をつなぎとめることができない。かれら神官たちにとっても、〈飛神明〉はたいへんつごうのよい説明だった。〈飛神明〉の結果、各地に〈今神明〉社ができた。今、とは新しいという意味である。信者たちは、おおいに喜び、団体をつくってあちらの〈今神明〉、こちらの〈今神明〉とまわって歩いた。  京の神楽岡の中腹に〈飛神明〉が降った長享三年の三月から半年ほどへた十月四日の夜、ふたたび京都の人々は、前回にも増した恐ろしい異変に肝を冷やした。  この日は朝からの快晴で、夜も千切れ雲ひとつない星空だった。午後八時頃、とつぜん、天の一角に大音響がとどろいたかと思うと、星空を割って三丈余におよぶ光の帯が走り、神楽岡の中腹に突き刺さって、あたり一帯を真昼のように照らした。〈飛神明〉を信ずる人たちは、涙を流して神楽岡の方向を拝したが、そうでない人たちは、重なる異変に生きた心地もなかった。      6  その事件があって、三日後の夕刻、とつぜん、|上卿《しょうけい》の使いが|公卿《くぎょう》たちのもとへはしった。この時代では、すでに公卿たちが取り扱うような政務というものはほとんどなかった。時たま幕府から上奏されてくるような問題も、事後承諾の、それも形ばかりの報告であったり、朝廷側としては、『よきにはからえ』と答える以外には、いかなる意見をさしはさむこともできないようなものばかりであった。  しぜん、政務評議のための公卿たちの参内は、十日に一度、半月に一度などということになっていた。それも、この一年ほどは、特別な招集がないかぎりは、おこなわれなくなっていた。急の知らせにより、公卿たちはいそぎ参内した。  先年の兵火によって焼け落ちた|紫《し》|宸《しい》|殿《でん》は、この春、再建されたものの、日華門と|宜《ぎ》|陽《よう》|殿《でん》、|校書殿《きょうしょでん》はまだ落成していなかった。しかし、むかしながらの作法にのっとって、会議はまだ瓦も上がらぬ宜陽殿と、再建したばかりの紫宸殿を結ぶ西の|廂《ひさし》(ここで言う廂は|軒《のき》|端《ば》のことではない。外観上は|主《おも》|屋《や》と主屋を結ぶ廊下のように見えるが、実は大広間になっている。廊下はこの外側についている。今でも寺社建築に見られる)で左近衛の陣議が張られることになった。王朝時代には、あらたまった審議や儀式は、宜陽殿でおこなわれていたのだが、時代が下るにつれて、会議の場は、主上の座に近い西の廂、あるいは校書殿の東の廂でおこなわれるようになっていた。  定められた時刻に、公卿たちはぞくぞくと参集した。関白一条房通、右大臣近衛経平、|弾正尹《だんじょうのいん》勧修寺俊春、|右衛門督《うえもんのかみ》花山院公定以下、公卿二十八名、左右に分かれて西廂に居並んだ。軒深い西廂の奥は、早くも人々の顔も弁じ難く、|燭台《しょくだい》三十基が持ちこまれたという。  ややあって後|土《つち》|御《み》|門《かど》帝は、左大臣日野勝光、内大臣日野政資、|蔵人頭《くろうどのとう》中院重世の供奉により、着座せられた。これは例のないことであった。|帝《みかど》自身が朝議に出席することはない。審議された結果は、ふつう蔵人頭を通じて帝に奏上し、決裁をあおぐという形がつねにとられてきた。  よほど重大なことにちがいない。並居る公卿たちの顔には不安の色がはしった。重なる戦乱で庄園からの収入は全く途絶え、前年、関白一条房通が手に入れたものといえば、米八石、桑実|一《ひと》|荷《おり》。麻四|束《つか》。柿一|籠《かご》。渋一|桶《おけ》。|薯《い》|蕷《も》二十筋というのだからその困窮ぶりはひどいものだった。だが、曲がりなりにも、どうやら公卿としての体面をたもつことができたのは、かれらがひたすら、日野家の意をむかえ、その権勢のもたらすもののおこぼれにあずかったからであった。  中院重世は蔵人頭とともに侍従を兼ねているから、帝にしたがってこの場に臨むというのは解るが、左大臣や内大臣が、みなと一緒にひかえていないで、帝とともにあらわれたのは、これはすでに他の場所で帝とかれらの間に、十分、事の吟味がおこなわれたことを示していた。勧修寺俊春や花山院公定、右大弁の藤原成俊などは露骨にいやな顔をした。一条房通、近衛経平などはそんなことは少しも意に介さぬかのように、威儀を正して帝をむかえた。  帝の着座を待って、関白房通から緊急議題について説明があった。  その内容が、並居る諸卿の心を奪った。 「本日、|神《かぐ》|楽《らが》|岡《おか》に|太元宮《だいげんのみや》を祭司いたす|兼《かね》|倶《とも》より奏上文がまいった。それによれば、去る四日、神楽岡の太元宮に神器が天降ったとのこと……」  房通の声は淡々として枯れていた。  燭台の灯がゆらめき、諸卿の顔を明暗にくまどった。  はげしい動揺はそのあとにきた。 「吉田兼倶は、上奏文にそえるに『天上より神器出現の|先蹤《せんしょう》の事』なる一文を以って、このたび、ならびに春三月の二回にわたる神器降臨の事実を述べ、その神意の明らかなるところすなわち、検使をつかわされ、しかるのち帝の|叡《えい》|覧《らん》に供したし。と」  房通は老いの|咳《しわぶき》の中に|韜《とう》|晦《かい》して声を切った。そのあと、大外記の源|師《もろ》|光《みつ》より一件書類の配布があり、日野政資より詳細な説明があった。  吉田兼倶の名を知らぬ者はなかったし、二回にわたる太元宮への光り物の落下と、兼倶がそれを神器降臨と称していることなども十分に聞き知ってはいた。ことに最近、加茂社や岩清水八幡などの神官から、神楽岡の太元宮に対してはげしい攻撃や中傷がおこなわれ、一方公卿たちに対しては熱烈な政治運動が展開されていた。  この場に並居る諸卿も、なにがしかの贈物を受けているはずであった。 「しからば、|僉《せん》|議《ぎ》をうけたまわらん」  房通が一座を見わたした。  議題に関して一人一人意見をのべるわけだが、これには平安の頃より、|下《げ》|臈《ろう》|開《かい》|陳《ちん》の風があった。つまり意見をのべるにあたって末席の参議から席順を追って、順次上位者におよぶというしきたりだった。  先ず軒廊近くひかえた千種光晃が、慎重な口調で反対論をとなえた。つづいて|姉小路《あねのこうじ》広忠が、さらに源吉雄が、これは激越な調子で吉田兼倶に対する批判をぶち上げた。  下位者のほとんど、すなわち参議の半数近くが、吉田兼倶の奏上に、その前例無し、として強硬な態度で終始した。下位者たちの反対はうなずけないことではなかった。かれらは、日野家とは縁も義理もなかったし、物質的になんの恩恵もこうむってはいなかった。それだけに、上席者たちの日野家に対する|阿《あ》|諛《ゆ》と|癒着《ゆちゃく》ぶりが腹立たしくてならない。  ところが、席の中ほどから上位に移るにつれ、意見が変わってきた。 「天下の争乱ようやくその業火を収めたりといえども、なお|余《よ》|燼《じん》|頻《しき》りに|揺《よう》|曳《えい》す。すみやかなる太平治乱の事、重ねて神仏に勧請つかまつるべきの時なり。善し。太元宮の一神事。吉田兼倶なる者の意もかかって此処に在るべし。よろしく御鑑あってかれが修験の程を皇朝の御役に立たせ給え」 「吉田兼倶、それ|卜《うら》|部《べ》の|出《しゅつ》にして、卜部宿禰平麻呂を中興の祖となす。亀甲を|灼《や》き、天文を|卜《ぼく》し、よく学問|有《ゆう》|職《そく》に通ずるの家柄なり」  参議近衛少将、藤原|友《とも》|熙《ひろ》、左兵衛督洞院道麿らが、兼倶の志をむかえるように、熱烈な賛成論を|披《ひ》|瀝《れき》した。それがきっかけとなって上位参議はことごとく賛成にまわった。腹の中ではつばきしながらも、顔にだけはひたぶるな誠意をみなぎらせ、荘重な|声《こわ》|音《ね》でつぎつぎと賛成論を口にする上位参議たちを、千種光晃や花山院公定などの下臈は、煮えくりかえる思いで聞いていた。 (この時代の公卿たちの言葉が、どのような抑揚を持っていたかは、今では全くわかっていない。ただ、神官の|祝詞《のりと》を上げる場合の発音がそれに近いのではないかといわれる。終戦時の、天皇の録音放送を耳にしたとき、その聞き|馴《な》れない抑揚に異様な感を抱いたものだったが、つまりはあのようなものであったろう)  席次は進んで、右大臣近衛経平、左大臣日野勝光が、これは最初からわかっている賛成論を、さいごに関白房通が賛成論側を代表して、一同発言を終わった。結果はちょうど半々だった。通常このような場合には蔵人頭が帝に報告し、決裁をあおぐことになっているのだが、帝が臨御している今は、ここで勅定が下されることになるのだろう。反対派は歯がみした。  果たして帝は、やや玉顔御緊張の趣にて、 「太元宮に神器降臨ありと聞く。之、正に皇祖皇宗の|嘉《よみ》し給うところ。|須《すべか》らく南殿に勧請し奉り、|篤《あつ》く奉幣為さん。諸卿、之を帯せよ」  言葉短く述べられると、中院重世をともなわれ、さっと席を立たれた。  反対派はもちろんのこと、賛成派も、事の重大さにしばらくは身動きもならなかった。  弾正尹勧修寺俊春や右大弁藤原成俊などは、もともと加茂社、熱田大宮司家などとそれぞれ深い関係があり、最初から民間で言われる〈飛神明〉など全く信用してはいなかった。かれらの多年の経験の中で、神はいかなる場合でも|現《この》|世《よ》の人間とは接触を持たないもののようであった。御神体とは、おおむね、古剣や銅鏡であり、それらは錆(さ)び、傷み、容易に損亡していった。神職者たちにとって、それらは単なる『物』に過ぎなくなっていた。うちつづく戦乱は、神仏のかたわらにあってつかえる者たちをして、最初に、神仏の力に疑いを持たしめた。無理もなかった。時代はすでに戦国期をむかえようとしていたのだ。神器降臨だの神明の加護だの言われても、ついてゆけないさめた心は、なにも勧修寺俊春や藤原成俊だけのものではなかった。それは日野家の専横に対する怒りとはまた異なった種類のものだった。  一方、日野勝光、政資は帝の決定が当然のこととして、別に興奮の態もなく、神器搬入の手順などについて意見を求め始めた。  もはやこうなっては、ここで抵抗してもしかたがない。近衛少将藤原友熙がもっぱら意見を申しのべ他はそれにうなずくのみだった。  かくて神器搬入は十一月十九日ときまった。      7  延徳元年(一四八九年)十一月十九日は|肌《はだ》|寒《さむ》い日だった。日没頃より、御所の内外は衛士によってきびしく固められた。神器を|奉《ほう》|戴《たい》する場所は|校書殿《きょうしょでん》の東の|廂《ひさし》であった。ここは畳数でいえば、百二十畳敷きほどの大広間であり、その中央に新しいあらごもが敷かれ、その前に机を置き、|榊《さかき》の小枝を飾っていた。あらごもを囲んで|屏風《びょうぶ》八双が引きまわされ、さらにその外側に|御《み》|簾《す》を垂らして、屏風の内をおおいかくしていた。そのきびしさといかにも神秘的なしつらえが、準備のためにいそがしく出入りする官人たちの目をおどろかせた。  やがて参議以上の公卿たちがぞくぞくと|参《さん》|内《だい》してくる。  関白藤原房通以下左大臣日野勝光、右大臣近衛経平、内大臣日野政資らは御簾の外へ、他の者たちは軒廊へ目白押しに座を占めた。  幾十もの|松《たい》|明《まつ》に|紫《し》|宸《しい》|殿《でん》の前庭は真昼のようだった。西廂の中も、百匁|蝋《ろう》|燭《そく》が林立し、居並ぶ公卿たちの姿をきらびやかに照らし出していた。  時鶏が|戌《いぬ》の刻を告げた。  そのとき、建礼門にあたって太鼓が鳴りひびいた。  さこそ、と公卿たちは波のようにざわめいた。  やがて、八丁の|松《たい》|明《まつ》を先頭に、神楽岡の神官の一団が荘重な足どりで紫宸殿の前庭に入ってきた。白の|立《たて》|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》に白の|狩《かり》|衣《ぎぬ》、同じく白の|小袴《こばかま》。手に手に|玉《たま》|串《ぐし》をひたいにかざしながら、二列十二人、足の運びにも呼吸を合わせ、全く一人の人間のように見事な動きで紫宸殿の|階《きざ》|段《はし》下へ進んだ。そのあとから、四人の白丁が白木の|輿《こし》を耳高に担って登場した。三足歩んでは静歩し、ふたたび三歩進んでは停まる。  |咳《しわぶき》の声、ひとつない静寂の中に、玉砂利のきしむ音だけがひびいた。公卿たちがのび上がりのび上がり見つめる中を輿は、いつ階段の下に着くともしれぬ緩慢な動作をくりかえしながら、しだいに近づいてきた。|松《たい》|明《まつ》は百千の火の粉を暗い夜空に|撒《ま》き散らし、明滅する火光にかれらの|白衣《びゃくえ》は血のように彩られた。  その光の中に、輿の|脇《わき》に従う一人の人物の姿が浮かび上がった。  その異様な姿が公卿たちの吐息さえ止め、思考を奪った。白の烏帽子直衣にこれも白の|指《さし》|貫《ぬき》、その上から|鹿《しか》|皮《がわ》の被布ともそで無し羽織ともつかぬものを一着なし、|鉄笏《てつしゃく》を胸前に支えて、いささかもゆるぎない歩を進めるのは、これぞ吉田兼倶その人に相違なかった。  とつぜん、西廂の軒廊にひかえていた参議たちの間から、ゆらめくような忍び笑いが起こった。  意識らしいものといえば、階級意識しか持たない公卿たちにとっては、自分たちよりも身分の低い者、いやしい職業につくものなどが自分たちの領域に踏みこんでくると、つねに露骨にあざ笑い|揶《や》|揄《ゆ》することによってかれらを排斥し、摘出した。される方の側からみれば、まことに言語道断なことで、いわれない屈辱に身も心もない思いをしなければならなかった。たとえそれがどんなに理不尽なことであっても、位が少しでも上の者のすることであれば、ただ耐え忍んで退出をいそぐしかないのが、当時の貴族社会だった。かれらにとっては太元宮がなんであろうと、吉田兼倶がいかなる人物であろうと、そんなことには少しも関心がなかった。  何の官位もない者が、殿上へ上るといういまいましさと、神器という想像もつかないものが|内《だい》|裏《り》にかつぎこまれるという前例のない出来事を出来せしめた自分たちの弱体ぶりのうとましさが、ひとつになってこの異形の人物に向けられたのだった。反対派だった姉小路広忠などは、そでを口元に当て、大ぎょうなそぶりで笑いころげてみせた。源吉雄は手にした|笏《しゃく》で兼倶を指して何やら高声を発した。賛成派の近衛経平でさえも、顔を伏せて笑いをこらえているようであった。日野勝光や政資は、ただ凝然と兼倶を見つめていた。勝光の胸は、妹の富子が|推《すい》|輓《ばん》した人物がもたらした不調法に、砂をかむような思いだった。  そのとき、ふと兼倶のひとみが動いた。かれの落ち|窪《くぼ》んだ|眼《がん》|窩《か》は、|松《たい》|明《まつ》のゆらめきに、深い|洞《どう》|窟《くつ》のように|闇《やみ》をたたえていた。まして十間もの|距《へだた》りがあった。その奥底のひとみの動きなど、むろん|誰《だれ》の目にも見定めることなどできなかった。だが、軒廊にひかえた公卿たちの誰もが、兼倶の目が、はっきりと自分に向けられたのを見た。それは輝く緑の火だった。その周囲を、|橙色《だいだいいろ》の縁取りがきらめき、矢のように眼球に突入してきた。公卿たちは目をおさえてのけぞり、あるいは|転《まろ》び伏した。声を立てる者はいなかった。恐怖が氷のように西廂を閉ざし、惨たる静寂の中で輿は|階《きざ》|段《はし》の下に降ろされた。  神楽岡から兼倶に従ってきた太元宮神官たちも、この階を上ることはできない。かれらの拝伏する中で担い手は五位以上の官人に変わった。輿は階段を上り、南面より西廂に入って、あらごもの上に置かれた。すばやく屏風が引きまわされた。新たにその周囲に灯がともされ、輿が運び出されると|警《けい》|蹕《ひつ》の声がかかった。  天皇は三、四人の親王たちを引きつれ、いそぎ足に、設けられた座についたが、落ち着かぬようすですぐ立ち上がった。そのとき、兼倶が|膝《しつ》|行《こう》し、口上を述べた。  天皇はうなずいて御簾の内に入った。兼倶がつづいた。  引きまわされた屏風の一方を二尺ほど押し開き、兼倶は天皇を屏風の内にみちびいた。  あらごもの上に、八角形の高さ三尺、広さ三尺ほどの白木の|唐《から》|櫃《びつ》が置かれていた。  兼倶は一礼し、ゆっくりとその|蓋《ふた》を払った。  天皇は引きつけられるように二、三歩、歩み寄り、唐櫃の内部をのぞきこんだ。  ふた呼吸するほどの間に、天皇の顔は土気色に変わっていた。わき出した汗が、雨に打たれているようにほほをつたい、あごの先に滴となって床にしたたり、幾つもの小さな|汚《し》|点《み》を描いた。天皇は吐く息も荒く、体の|平《へい》|衡《こう》を失って、かたわらに立つ兼倶にとりすがった。兼倶は天皇を支えて屏風の外へ出、そこにひかえていた親王の一人にゆだねた。天皇のつぎに、年かさの親王が進み出て屏風の内に入った。唐櫃の前に立った親王は、背を向けて逃れ出ようとしておよばず、声もなくその場へ崩おれた。  神器叡覧はそれで終わった。天皇は|蒼《そう》|惶《こう》として奥へ入り、ふたたび輿に積まれた唐櫃は、紫宸殿の広庭をおしつつんだ異様な静寂の中を、粛々として退出していった。  翌々日、天皇の、神器についての意見が発表された。それによると、神器はまさしく伊勢大神宮の御神体にほかならない。すべからく太元宮に安置し、一天安全、四海平定、ことに朝家の再興の為に篤く祭れ。ということであった。  天皇は唐櫃の中に何を見たのか? なにゆえに御神体にほかならず、と断じたのか? 当然、論議はそこに集中した。唐櫃をのぞきこんだおりの天皇の非常なおどろきと放心は、いったい何を意味するのか? 疑惑はひそかに人の口から口へと伝えられた。  唐櫃の中をのぞいた親王も、何事も語らなかった。そして二、三日後には、不例と称して|引《ひき》|籠《こも》ってしまった。  兼倶は、天皇の言葉に、なぜかおおいに不満とするところがあったらしい。日野勝光、政資を介して、なお重ねて上奏文を奉ったが、天皇は|臆《おく》する心はなはだ深く、あらためて兼倶を|謁《えつ》することはなかった。      8  夜空に風が|吠《ほ》えていた。星が吹き千切れる。京の町々は|廃《はい》|墟《きょ》のように息をひそめていた。野犬の|遠《とお》|吠《ぼ》えが、あちこちの|辻《つじ》で寂しく尾を|曳《ひ》いた。  深更、洛北を東へ向かう騎馬の一隊があった。  先頭に立つのは小具足で身を固め、|面《めん》|頬《ぼお》で顔をかくした北村左近将監だった。ひきいるのは、日野富子の東山山荘の警護に任じているかれの部下たちだった。法成寺橋で鴨川をわたり、いったん道を東北にとって吉田山のすそを巻き、神楽岡の|斎場所《さいじょうしょ》へ馬を乗り入れた。  斎場所は、吉田神社のかたわらに新しく造営されたものだった。  夜空に楼門がそびえていた。その楼門の左右に長く、|祠《ほこら》がのび、斎場所の広大な神域を抱いていた。|馬《ば》|蹄《てい》のひびきに、楼門前の|篝火《かがりび》の火光の中に、斎場所の衛士が走り出てきた。火光をはねかえして二筋の矢が飛び、衛士の影は地上に|這《は》った。左近将監の部下が二、三人、馬からとびおりると、楼門わきのくぐりを入って、楼門のとびらを内側から八の字に開いた。将監のむちが上がり、騎馬隊は疾風のように楼門をくぐって、斎場所の前庭におどりこんだ。  中央に太元宮の建物があった。八角の巨大な|堂《どう》|屋《おく》で、その|茅《かや》ぶきの|棟《むね》に|戴《いただ》いた|千《ち》|本《ぎ》や|鰹木《かつおぎ》は星空にとどくかと思われた。陽光の下では|丹《たん》|碧《ぺき》にかがやいている柱や壁も、今は夜の闇を溶かし、背後にそびえる吉田山とひとつになっていた。  風がわたり、裸の木々の|梢《こずえ》が、海鳴りのようにどよめいた。 「火をかけい!」  左近将監はあぶみに立ち上がった。  用意してきた油や|藁《わら》|束《たば》が手ぎわよく部下たちの手で、あちこちに仕かけられ、積み上げられた。 「奥の内宮、外宮、八神殿、祠など、一か所たりとも残すまいぞ。逃れ出る者はことごとく射殺せ」  その声の終わらぬうちに、太元宮をめぐる高い回廊の床に火が走った。みるみる猛煙が星空をおおいかくすと、その下から|紅《ぐ》|蓮《れん》のほのおが吹き上がった。  北村左近将監は、今夜、なんとしてでも吉田兼倶を切ってしまわねばならないと思った。嘉吉の変で、赤松攻めに参陣して以来、数えきれぬほど|刀《とう》|槍《そう》の間を往来してきたこの剛直な老武士にとって、吉田兼倶などの人種は、あやかし術で人を|誑《たぶら》かし、人の心の弱さにつけこみ、権勢に近づこうとする|奸《かん》|佞《ねい》第一の人物であった。左近将監にとって、富も権勢も名誉も、すべては死を|賭《か》けた戦いの獲得物であり、本来、口舌の徒のあずかるところではないという信念があった。それにも増してがまんがならないのは、その吉田兼倶が、主人である日野富子の|篤《あつ》い信任を得て、|足《あし》|繁《しげ》く東山山荘に出入りしていることだった。  於今の|怨霊《おんりょう》を退散せしめたのは、たしかに兼倶のすぐれた霊法の結果だった。しかし、あるいは、そのかれの霊法を以ってすれば、主人の富子の寝屋に於今の怨霊を出現させることも可能ではないだろうか?  左近将監はさらに考えた。  日野富子の信任を得た兼倶が要請したのは、かれの経営する神楽岡の太元宮に降臨したといわれる神器を、天皇の|叡《えい》|覧《らん》に供することだった。富子に操られる幕府の力は、兼倶の意図を具現するに十分だった。  ——上げた首級の数四十。打ち果たした者、その数百。手傷を負わせた者はおよそ、その三倍にのぼろうか。  左近将監の、六十年になんなんとする戦塵に|塗《まみ》れた人生の、これが実感だった。  ——されば、此の世にいかで怨霊ちょうもののあるべき。  左近将監ばかりではない。南北朝から応仁の乱をへて、戦国の世に近づくにおよんで、武士たちのほとんどが、怨霊などというものを、爪の先ほども信じてはいなかった。女も子供も馬蹄の下に|蹂躙《じゅうりん》し、自らも白刃の下に生命を投げ出して生きぬいてきたかれらの生活や思考形態が、怨霊や|呪《じゅ》|詛《そ》などによって|掣肘《せいちゅう》を受けるはずもなかった。もしそれを気にしていたら、一度たりとも戦場に出ることはできなかったであろう。  それだけに、北村左近将監にとって、吉田兼倶の行動は黙視できないような陰険なものを持っていた。  ことに武家の|棟梁《とうりょう》たる足利将軍家の御台所に接近し、将軍居館を|詐術《さじゅつ》をもって横行するなどということは、断じて許せないことだった。それは、かれらにとって、武士の体面を傷つけられたにひとしいことだった。  その北村左近将監に近づいてきたのは、反兼倶派の勧修寺俊春、花山院公定などの少壮参議だった。かれらは、自分たちの背後に関白藤原房通があることを告げた。左近将監にとっては、主家は足利将軍家であって日野家ではなかった。富子の兄の日野勝光といえども、武士たちにとっては将軍と、その御台所の日野富子の威を借るただの堂上公卿にすぎない。  兼倶、|斬《き》るべし!  機をうかがっていた左近将監は、烈風の吹きすさぶこの夜、突如として手兵を動かしたのだった。  ほのおは高く高く夜空にはためいた。  さけび声とともに、一団の人影が太元宮めざして走り寄ってきた。弓弦が鳴り、人影は競射の的のように矢を射立てられて地上を転々した。悲鳴と絶叫が交錯し、なお走り集まる人々めがけて雨のように矢が飛んだ。斎場所内に起居している神官たちだった。  あちこちで刃が肉を断つ鈍いひびきが聞こえはじめた。一、二度、打ち物の触れ合う歯の浮くような金属音が聞こえたが、怒号とともにそれも絶えた。もとより、一、二名の神官が太刀をふるったとて、どうなるものでもなかった。  今や広大な斎場所全体が、巨大な一個の|松《たい》|明《まつ》のように燃えていた。舞い上がる幾千万の火の粉は吉田山の山腹まで焼きはじめ、玉砂利は|灼熱《しゃくねつ》して裂け飛び、吹きすさぶ烈風さえ火との区別がつかなくなった。 「見よ! 兼倶。上は主上を悩ませ奉り、下は万民を|誑《たぶら》かす大|痴呆《た わ け》。神器降臨の、飛神明のと、らちもなき|世《よ》|迷《まい》|言《ごと》を! |汝《うぬ》が神祭る太元宮はこのほのおの中で灰になろうぞ。|汝《な》が言葉のまことならば、さ、ほのおの中より脱れ出てみるがよい。|然《しか》ず。神器なるものも、|奈何《い ず く》の地なりへと飛ぶがよかろうぞ!」  北村左近将監は馬を乗りまわし乗りまわしさけんだ。  とつぜん、夜空をおおって激流のように流れる火の粉が、大きく、円を描いて旋回した。噴き上げるほのおの柱を軸とし、急速に円環をひろげる火の粉の|渦《うず》は、果てしなくのびて幾重にも天地をまき、日月を灼き、千億の星辰を|呑《の》みつくして、その先端は時さえ至らぬかなたへとどいていた。  その火環の中心部から、目のくらむ|閃《せん》|光《こう》がほとばしった。閃光は矢のように左近将監の体をつらぬき、かれをとり囲む部下たちを青草のようになぎ払った。  左近将監はさかさまに馬から落ちた。  暗い夜空に、星あかりを受けて八角形の太元宮の屋根がそびえていた。その階段の両翼に設けられた|神《しん》|灯《とう》のほのおが、はげしい風に吹き千切れんばかりにたなびき、ひるがえっていた。  左近将監は立ち上がろうとしたが、下半身の感覚は完全に失われていた。かれは|萎《な》えた下半身を引きずり、神灯のゆらめく階段へ向かって這い進んだ。ここで退くことはできなかった。なんとしてでも兼倶を討ち果たさないことには武士としての面目が立たなかった。主人の信頼している人物を襲った以上、その一命を奪わぬかぎり、その行為の意味を問われることすらない。  斬るのだ!  左近将監は這った。  そのとき、星空に高くそびえる太元宮の廂の下から、直径二尺ほどもある青白い光球が飛び出した。それは長い光の尾を曳き、ゆるやかな円弧を描くと、一瞬、きらめいて音もなく西の空へ吸いこまれていった。  左近将監は光球の飛び去った方角へ、虫のように這い進んだ。  執念だけがかれを支えていた。      9  これまで、一度も目にしたことのない見知らぬ社が、ほのおにつつまれていた。金粉を撒き散らしたような火の粉が、星空をおおいつくし、広大な境内にならぶ大小の|祠《ほこら》や倉がつぎつぎとほのおに呑みこまれ、やがて境内全体がるつぼのように灼け、煮えたぎった。真紅の火光は、京都の町々を血のように染め、遠い|比《ひ》|良《ら》や|生《い》|駒《こま》の山々まで夕焼けのように照り映えた。  後|土《つち》|御《み》|門《かど》天皇はおそろしい夢からさめた。全身がつめたい汗に|塗《まみ》れ、胸がはげしく高鳴っていた。夢からさめても、陰惨な思いがやりきれなく胸の底につかえていた。燭台の灯がかすかにゆらめき、かたわらに横たわった|万《ま》|里《での》|小《こう》|路《じの》|女御《にょうご》の豊かな裸身に|翳《かげ》を投げた。その下半身をわずかにおおっている|裲《うち》|襠《かけ》を|引《ひき》|剥《は》ぐと、天皇は女御の体を引き寄せた。目ざめた女御は、天皇の荒々しい動きに、たちまち体を合わせ、|褥《しとね》からこぼれ落ちた黒髪が音もなくうねり、くずれた。  火の壁は天皇を押しつつみ、ほのおの先端は荒波のようにさか巻いて、火の羽毛となった。  天皇は両眼を固く閉じ、手で顔をおおってその地獄のほのおを見まいとしたが、すさまじい火の色は、顔をおおった手を通し、固く閉じたまぶたをつらぬいて網膜の奥を灼いた。  夜空をおおって激流のように流れる火の粉が、大きく、円を描いて旋回した。噴き上げるほのおの柱を軸とし、急速に円環をひろげる火の粉の渦は、果てしなくのびて幾重にも天地をまき、日月を灼き、千億の星辰を呑みつくして、その先端は時さえ至らぬかなたへとどいていた。  とつぜん、そのほのおの円環から、かがやく光球が天空へかけ上ってゆくのを天皇は見た。  ほのおの渦は一瞬もとどまることなく変転し、それが収縮する時、天地は径一尺の小球に|変《へん》|貌《ぼう》し、膨張する時、それは|宇《おお》|宙《ぞら》の外、形象も実質もない世界を包含した。時はその動きをとめ、逆転し、万象はその根源を露出した。  天皇の周囲には底知れぬ暗黒があった。あのすさまじい火の色は、もはやどこにもなかった。  前後、左右、上下、どちらを見まわしても、一点の光さえなかった。天皇は手をのばして周囲をまさぐった。指先に触れる何物もなく、手はいたずらに宙を泳いだ。  天皇の胸に、はげしい恐怖が|衝《つ》き上がった。天皇は自分が|盲《めし》いてしまったのではないかと思った。あのほのおが、視力を奪ってしまったにちがいない。  周囲には何の物音も聞こえなかった。  天皇は女御の名を呼んだ。|答《いら》えはなかった。ついで|宿直《と の い》の侍従の名を呼んだ。声はむなしく周囲の闇と静寂に吸いとられた。耐え難い不安が胸を引き裂き、絶望的な|狂躁《きょうそう》の中で天皇は近習の名を呼びつづけた。  そのとき、天皇は暗黒の中を、長い長い光の尾を曳いてはしる流星を見た。  その流星が飛び過ぎたあとから、暗黒は徐々に遠のき、かわって薄明が天皇の体を押しつつんだ。暗黒に射しこんできたその光が、どの方角からとどいてきたものなのか、何が放つ光なのか、全く知ることができなかった。ただ周囲には、ほんのわずかな翳や形象さえも存在しない|漠《ばく》|々《ばく》たる薄明がひろがっているだけだった。これは永遠の|黄《たそ》|昏《がれ》だった。  天皇は手をのばし、その薄明をまさぐった。のばした手の先は、この世の果て、時空の絶するかなたまでとどいているはずであった。天皇の心はそれを知り、視覚はそれを求めて狂奔した。無意識にさしのべた手にもう一方の手がのびた。のびた手はむなしく宙を払った。天皇はこのとき、はじめておのれが実体を失った存在と化していることに気づいた。  死の世界だろうか——  何の物音も聞こえてはこなかったし、動くものの影とてなかった。ただ寂滅がみなぎり、その中にたゆたうおのれの心だけが実在のすべてだった。  音も動きも、すべては時の表出であり、時のない場所はいかなる意味での生もなく、それゆえにまた死もなかった。  天皇は、ふと、何者かの声を聞いたような気がした。その声はおのれの内部から聞こえてくるようでもあり、またはるかなかなたから、しだいにその力を弱めて、かすかにかすかに今とどいてきたかのようでもあった。  何者だ——  天皇はさけんだ。だが、その声も自分の耳にすら音としては聞こえてはこなかった。  ふたたびその声が聞こえてくるまでに、|永《えい》|劫《ごう》の時が流れたかと思われた。  “みかどよ。みかどよ” 「|麿《まろ》を呼ぶのは何者ぞ」  “みかどよ。これなるは、よしだかねともにてそうろう。おんまえにてそうろう” 「吉田兼倶とな! どこに居るのだ! 麿には見えぬ」  “みかどよ。なまみのまなこもてわれをみんとてもかなわぬなり。くうのくうなるうちにみをおき、あまがけるこころもてみんか、わがすがた、みかどのおんまえにあらわれうべし” 「兼倶。この有明とも黄昏ともつかぬこの薄明りはなんぞ?」  “みかどよ。そのひろがりこそ、すなわち、おおそらのみことなり。おおそらとはおおそらにして、すなわち、かみの、い、みつるなり。おおそらとはそもいかなる、い、ぞ。これ、きょむにしてむなしきなし”  |宇《おお》|宙《ぞら》とは|虚《おお》|無《ぞら》。|虚《おお》|無《ぞら》とはすなわち|虚《きょ》|無《む》。しからば虚無とは——  “|帝《みかど》よ。|宇《おお》|宙《ぞら》の下には、人の世、幾多存す。その歴史、また多々なり。これ、あの世のことに|非《あら》ず。すべて|現世《うつしよ》のことなり。|古《いにしえ》に|大《おお》|祖先《みおや》独り存す。かれが|子《うみ》|孫《のこ》、天地の間に|遍《あまね》く、星辰の間を|棹《さおさ》し、時空を|遡《さかのぼ》りて往来す。欲する物、かなわざるはなく、生齢|甚《はなは》だ数うるも|尚《なお》その尽きるを知らず。  帝よ。ある時、天空より亡びの至りて、人々、大祖先より伝え受けし|諸《もろ》|々《もろ》の|技《わ》|術《ざ》を忘れ、貴き|知《ち》|慧《え》を|喪《うしな》いて離散し、荒野に|徘《はい》|徊《かい》す。既にしてその生命は五十余年にしかず、またその営みは鳥獣に異なるところなし。  されど、ここに大祖先の意志を継承し、往古の栄光を回復せんとなす者あり。かれと、かれと志を同じゅうする者ら、来たりて説く。|須《すべか》らくかれらの言を聴き、その|訓《さと》すところに従い、その|業《わざ》を学び、|子《うみ》|孫《のこ》らみなひとつになりて祖宗の遺訓に|拠《よ》らば、ふたたび幸この世に満ち、幾百千歳の生命を得て|宇《おお》|宙《ぞら》を|天《あま》|翔《が》けることを得べし。と” 「兼倶。麿にはよくわからぬ。いかなことか。それは」  “帝よ。過ぐる日、天上より太元宮に飛び来たり給いし神器を|叡《えい》|覧《らん》に供せしなり、かの神器こそ、かれらが帝に寄せられし|証《あかし》なり”  あの日、吉田兼倶によって内裏に運びこまれた八角形の白木の唐櫃の内部には、八角形の磨き上げられた一枚の鏡が収められていた。その鏡の表面は、天皇がこれまで、一度も目にしたこともない平滑さと透明な硬質感をたたえて|瑠《る》|璃《り》のように澄んでいた。  天皇はとっさに、これは|八《や》|咫《た》の鏡ではないか、と思った。だが、それがどうしてここに? そう思ったとき、鏡の表面に陽炎のように一人の人物の姿があらわれた。天皇がおぼえているのはそこまでだった。  “帝よ。三種の神器の内、八咫の鏡とは、実はあの神器を模したるものなり。われらの祖先は、かつてあの鏡を用いて、日常の告知、談合、遊楽などに用いたりという。さればかの鏡もて帝に意を伝えんとせしものなり。|如《い》|何《か》に。帝よ”  天皇の心はとめどなく震えた。 「まて。兼倶。麿の心は荒海にただよう小舟のようだ。今は何を考える気力もない」  “帝よ。心を開きて、|虚無太元尊《おおそらのみこと》の説くところを聞き給え” 「兼倶。虚無太元尊とは、わが|八百万《やおよろず》の神々の中にも、その名を聞かぬが」  “帝よ。無辺際な|宇《おお》|宙《ぞら》にも、また永劫に流れてやむことなき時の流れにも、実は限りもあれば終わりもある。|森羅万象《しんらばんしょう》ことごとく始めと終わりありてその間を流転す。人の生命、言うまでもなし。ここに虚無太元尊の説く。すなわち。|宇《おお》|宙《ぞら》のひろがりも、時の流れも、本来一なるものにして、宇宙に充満せる唯一絶対なる力の相を変えたるに過ぎずと。また、説く。宇宙に充満せる唯一絶対なる力は、時に天地を造り、重畳たる山岳、|茫《ぼう》|洋《よう》たる|蒼《そう》|海《かい》となり、あるいは人となり鳥獣となると。しかし天地破れ崩れる時、それらはふたたび宇宙に|還《かえ》りて、宇宙に充満せる唯一絶対なる力に復す、と。かかるが故に、人の命は宇宙の一分であり、|宇《おお》|宙《ぞら》即人の生命なり。この理、|天《てん》|竺《じく》の|波《ば》|羅《ら》|門《もん》にありては色即是空と伝う。人の生命は|虚《むな》しきにはあらず。無常なるにはあらず。生々流転を|虚《きょ》|無《む》と観ずれば、すなわち、虚無は虚無にして|虚《おお》|無《ぞら》は|宇《おお》|宙《ぞら》なり” 「兼倶よ。汝の言う、|大《おお》|祖先《み お や》は|虚無太元尊《おおそらのみこと》の故か」  “帝よ。|然《しか》らず。|虚無太元尊《おおそらのみこと》は理なり。観なり。|大《おお》|祖先《み お や》の名を知る者、既になし” 「兼倶よ。この薄明は何ぞ」  “有明に非ず、無明に非ず。これ、六感を離れてのみ知り得る境なるべし” 「兼倶よ。日本国|八百万《やおよろず》の神々は如何に」  “古き昔、大祖先の|子《うみ》|孫《のこ》ら、星々に|遍《あまね》く在りし頃、この大地にも、また、かれら大いなる|都邑《み や こ》を造り、産業を興し、富を貯え、繁栄を極めたるなり。帝よ。語り伝えられし日本国八百万の神々の多くは、実はかれらの事跡が語り伝えられしものにほかならず” 「兼倶よ。されば麿も汝も、汝の言う大祖先の子孫の|末《す》|裔《え》というのか」  “帝よ。それこそ太元宮の神意なり。今こそ勅命を下して天が下、太元宮の神意を奉戴せしめ、|宇《おお》|宙《ぞら》なる|同《はら》|朋《から》と心を一にするべきなり”  だが……  後土御門天皇は絶句した。二度と覚めることのない夢を見ているような気がした。心の奥底では、吉田兼倶の言葉にしびれるような感動をおぼえながらも、どこかで、これは決して心を動かされてはならない約束事なのだとも感じていた。それに、いったい公卿の誰がこの話を信ずるだろう。口にしたがさいご、たちまちそれは退位を願う者たちにとって絶好の口実となるであろう。  “如何に。帝よ”  天皇は答えに窮した。  “如何に。帝よ”  兼倶の言葉は雷鳴のように天皇の心を撃った。  天皇はそれに応えた。      10  北村左近将監は、立ちふさがる衛士を手にした太刀で払いのけ、黒々と口を開いている陽明門をくぐった。ふしぎに足腰の痛みは感じなかった。衛士詰所から篝火の火光の中に走り出てきた衛士たちが、口々におめきたてながら将監の後を追ってきた。かれらの手にした長柄が|虹《にじ》|色《いろ》にきらめいた。|闇《やみ》を切って矢が飛び、左に長く続く後涼殿の板壁にはげしい音をたてて突き刺さった。将監は矢をかいくぐって戦火で焼け失せたまま、再建されずに荒地になっている蔵人町屋跡を走り、月華門から|紫《し》|宸《しい》|殿《でん》の前庭へ走りこんだ。小具足に身を固めた衛士たちが半円形に将監の行く手をさえぎった。 「慮外者! |下《げ》|臈《ろう》の分際でおそれおおくも内裏の土を踏むとは!」 「それへなおれ! 太刀を|棄《す》ててそれへなおれ!」  口々にさけぶが、自分から打ちかかってこようとする者はいない。応仁の戦火から内裏を守りきるどころか、今では盗賊が忍びこむのさえ防ぐことができない衛士たちだった。本来、禁廷守護に任ずるはずの幕府の兵も、ここ数年、詰めたことはなかった。武器を扱えるほどの男なら、ことごとく武家被官の道を求めて足軽小者の端に加わっているこの頃だった。先行、何の見込みもない内裏衛士に甘んじているかれらの抵抗など、左近将監にしてみれば物の数でもなかった。  太刀を取り直して打って出ようとした将監の前に、|松《たい》|明《まつ》をかざして一人の老武士が進み出てきた。 「お手前は、たしか将軍家御馬廻役をつとめられる北村左近将監殿ではおじゃらぬか」  危急の場にありながらもどかしいほど|悠《ゆう》|揚《よう》とたずねる。 「いかにも。それがしは将軍家御馬廻役。兼ねて将軍家御台様警護役差配、北村左近将監でござる」 「その北村左近将監殿がこの夜更け、抜刀しての|狼《ろう》|藉《ぜき》はなにごとぞ。わしは陽明門詰番番頭、西小路弥平太じゃ」  左近将監はこの老衛士を切ってしまいたい衝動を必死におさえた。これまで、将軍や御台所日野富子の供で、何度か内裏へは足を運んでいる。衛士の一方の長でもある西小路弥平太にはそのおりにでも顔を合わせたにちがいない。 「実は、西小路殿」  左近将監は口早に、帝の身の上に異変が生じているかも知れぬことを告げた。西小路弥平太はにわかに|狼《ろう》|狽《ばい》して、|宿直《と の い》の公卿に知らせに走ろうとした。将監はその腕をつかんでひきもどした。そのような手つづきを取っているひまはなかった。将監には昇殿できる位階はもとよりなかったが、背後には将軍家と、それにも増して日野富子の存在があった。それでも、衛士の長が居れば何かと好都合だった。  左近将監は、ためらう西小路弥平太を追いたてて|廂《ひさし》の間の下を足を引きずりながら走った。清涼殿の北の|階《きざ》|段《はし》から軒廊へ上ると、重い|蔀《しとみ》を押し開いて外陣の間と呼ばれる長い廊下へおどりこんだ。将監には、どこがどうなっているのか、全く見当もつかなかった。突然の騒動に肝を奪われた人々のさけび声や足音がいたる所から聞こえていた。|常夜灯《じょうやとう》の|灯《ひ》だけが、井戸の底のような深い闇を見せていた。  将監は走り出てきた公卿をとらえて、天皇の居場所をたずねた。公卿ははげしく震えて答えることもできなかった。将監は手にした太刀をその首筋に当てた。奇妙に震えが止まり、将監はのぞむ答えを得た。将監がふたたび走り出したとき、公卿は人形のように板敷へ倒れた。いつの間にか西小路弥平太の姿は消えていた。|腑《ふ》|抜《ぬ》けめ! 将監は胸の中でののしった。女官たちが廊下へころがり出てきては、将監の姿を見て悲鳴を上げて逃げかくれた。その一人を捕えて将監はさけんだ。 「|弘《こ》|徽《き》|殿《でん》はいずこぞ」  まるで体重を持たないもののように軽く、やわらかな女は、将監の手につかまれたまま、片手を上げて廊下の奥を指し、そのまま声もなく将監の足もとにくずれ落ちた。  弘徽殿は、泉石を配した中庭を抱いて静まりかえっていた。  将監は太刀をふりかぶり、内蔀を打ち破っておどりこんだ。 「兼倶。無益なふるまいすな! 帝を|誑《たば》かりたてまつるとは言語道断!」  怒りと憎しみが、左近将監の顔を異形の像のように変貌させていた。その怒りと憎しみは、前世からのかたい約束事のように左近将監には思えた。  その声に、天皇がゆっくりとふり向いた。その顔から徐々に表情が消え、不自然な形で上体が褥の上に倒れた。  火災が起きたらしく、物のはぜる音がひびき、新しい悲鳴と絶叫が|湧《わ》いた。黒煙が吹きこんできて、|燭台《しょくだい》の灯が翳り、褥を踏んで立つ左近将監の姿を|朧《おぼろ》に溶かした。     第三章 バビロン燃ゆ      1  第三十年四月五日。予、ケバル川のほとりにて、捕囚の人々のうちに在りし時、天開け、神の幻を見たり。この年はホエヤキン王の捕え移されしより第五年なり。その月の五日、主の言葉が、ケバル川のほとり、カルデアびとの地にて、ブジの子なる祭司エゼキエルに臨み、主の手がかれの上にさしのべられたり。  予、見たり。  激しき風に大いなる雲、北より来たり、その周囲に輝きあり、また、絶え間なく吹き出す火あり。その火中に青銅のごとく輝くものあり。  予、見たり。  火の中より、四つの生きものの形をなせるもの、あらわれ出たり。かれらは人の姿を持ちたり。  おのおの四つの顔を持ち、また、そのおのおのに四つの翼あり。その足は真直にして、足の裏は|仔《こ》|牛《うし》の足の裏の|如《ごと》く、磨きたる青銅の如く光りぬ。その四方に、そのおのおのの翼の下に人の手あり、行く時は回らずに、おのおのの顔の向かうところにしたがい、真直に進みたり。  予、見たり。  おのおのその前方に人の顔を持ちたり。四つの者は右の方にししの顔を持ち、四つの者は左の方に牛の顔を持ち、また四つの者は後の方にわしの顔を持ちたり。かれらの顔はかくの如くなりき。  予、見たり。  その翼は高くのばされ、その二つはたがいに連なり、他の二つもて体をおおいたり。かれらはおのおのその顔の向かうところへ真直に行き、霊の行くところへかれらも行き、その行く時は回らず。  この生きもののうちに燃える炭火の如きものあり。|松《たい》|明《まつ》の如く生きものの中を行き来す。  火は輝き、その火より稲妻発す。生きものの、稲妻のひらめくが如く、速く行き来するなり。  予、見たり。  生きもののかたわら、地の上に輪あり。四つの生きもの、おのおのに一つの輪を持つ。もろもろの輪の形と造りは、貴かんらん石の如くなり。四つのものは同じ形にして、その造りは、あたかも、輪の中に輪あるが如くなり。その行く時、かれらは四方のいずれかに行き、行く時は回らず。  四つの輪には輪縁と|輻《や》あり、その輪縁を回りて目あまた存す。生きものが行く時、輪もそのかたわらに行き、生きものが地から上る時、輪も上るなり。霊の行く所、かれらまた行き、輪はかれらに伴って上る。すなわち、生きものの霊、輪の中にあるがゆえなり。  かれらが行くとき、これらも行き、かれらがとどまるとき、これらもとどまり、かれらが地から上るとき、輪もこれらとともに上るなり。すなわち、生きものの霊、輪の中にあるがゆえなり。  予、見たり。  生きものの頭上に水晶の如く輝く大空の形ありて、かれらの上に広がる。大空の下に翼ありてたがいに相連なり。生きものはおのおの二つの翼もてその体をおおいてあり。その行く時、予は大水の声、全能者の如き翼の声を聞きぬ。その声は|鯨《と》|波《き》の声の如く鳴りひびき、そのとどまる時は翼は垂れたり。またかれらの頭上より大空の声あり。かれらが立ち止まる時、翼は降ろされたり。  かれらの頭上なる大空の上に、サファイアの如き形あるなり。またその形の上に人の如き姿あるなり。そして、かれの腰と|思《おぼ》しき所を、火の如き形なせる青銅色のもの、囲むなり。  予、かれの腰と思しき所の下に火の如きもの見たり。かれの周囲に輝きあり。その輝きのさま、|虹《にじ》の如くなりし。  予、言う。主の栄光の形なせるはかくの如くなり。  予、はなはだ|畏《おそ》れ、顔を伏せし時、語る者の声、わが耳を打ちぬ。 [#地から2字上げ](エゼキエル書より)  その日も暑かった。朝のうちわずかな霧雨があり、部落の家々の土で固めた|廂《ひさし》をしっとりと|濡《ぬ》らしたが、|陽《ひ》が高くなるとそれもたちまち乾き、目のくらむような日照りとなった。  部落の者たちは、この朝、まだ夜のあけきらぬ頃、天の一方にとどろく雷鳴を聞いた。  それは遠い北の地平線から、南の地の果てへ、かなり低い空を、どろどろとどよめかせてわたっていった。この地方では朝の雷は極めてめずらしいことだった。  羊を草原に追い出すために、寝床を離れていた少数の男たちだけが、雷鳴のわたる暗い空に目を向けた。  わびしく残る幾つかの星々の間を、青白く輝く一点の光が、短い尾を|曳《ひ》いてすべるように動いていた。男たちの耳に、音はその光よりもかなりおくれた所から聞こえてくるようだった。やがて光は遠い空に見えなくなり、音も消えた。  羊飼いの男たちは天の神に祈った。  草原に羊を放して帰ってきた男たちは、部落の長老のエゼキエルにだけ、自分たちの見たものについて話した。聞き終わったエゼキエルは、ひとり地にひざまずいて祈った。  男たちが仕事に出てゆき、女たちが|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》をかかえてケバル川の岸辺へ降りた頃、北方の空から、遠雷のようなひびきがつたわってきた。女たちは仕事の手を休め、家の中で仕事をしていた男たちや少年は外へ走り出た。  物音は刻々と大きくなり、やがて大きな|石《いし》|臼《うす》か|轆《ろく》|轤《ろ》でも回転するような音に変わった。天をあおいだ人々は、染めたように青い空になかば溶けこみ、水晶のように輝くものが、頭上はるかに飛び過ぎるのを見た。  長老エゼキエルは、しばらくの間、黙思をつづけていたが、やがて、仕事に出ている男たちのうち、呼び帰せる者はすぐ部落に連れ帰るように言った。洗濯に出ていた女たちは|籠《かご》をかかえていそいでもどって来た。  長老エゼキエルは、女たちに家に入っているように命じ、さらに男たちには、部落の外の数か所に、たき木や、その他、燃える物は何でもよいから運び出して積むように言った。男たちは、エゼキエルに、何ものかが攻めよせてくるのか、とたずねた。エゼキエルは、ひどく憂わしげな面もちで、何か口の中でつぶやくように答えた。耳をそばだてて、男たちはもう一度たずねた。しかしエゼキエルはもう何も答えなかった。  仕事に出ていた男たちが、息せききって帰ってきた。長老エゼキエルは、部落の者たちに、二、三日分の水と食料を用意し、家の中に引きこもっているように言った。だが、部落の者たちは|誰《だれ》一人、家の中に入ろうとせず、炎天の戸外に立って空や平原に目をくばっていた。  |驢《ろ》|馬《ば》もいななかず、貧しい棉畑に集まる|椋《むく》|鳥《どり》さえ、おびえたように群れをなして低く旋回した。  陽炎の中に平原は沈み、地平線は|模《も》|糊《こ》として波のようにゆらめいた。静まりかえった部落では、人々は烈日の中にいつまでもいつまでも立ちつくしていた。  太陽が中天を過ぎた頃、人々はまた、かすかに、あの音を聞いた。人々の心を寒気のようなものがおそった。  音は北の空から聞こえていた。遠雷のように鈍く、重々しく、大地をおさえつけ、かぎりなくひろがる虚空にどよめいてしだいにはっきり近づいてきた。  それは前二回よりも、ずっと低く、確実にこのケバル川のほとりの平原をめざして近づいてきた。  このとき、長老エゼキエルは手にした杖を高く振って、人々に家の中にかくれるように命じた。こんどは皆がしたがった。  長老エゼキエルは、麻の被布をまとうと、部落の北西の外の平たい岩に登った。それは高さ五尺に満たぬものだったが、およそ起伏のないこの平原では、唯一の展望台であり、また、毎夜、かれが星を占う場所でもあった。  かれは岩の上に立ち、ひたいにかざした手でわずかに陽を避けて、天をあおいだ。  それは、正しくかれの頭上にあり、ゆっくりと目の前の平原へ降下しつつあった。  エゼキエルの目に、最初に映ったのは、大空に輝く太陽の光とは、あきらかに異なった目のくらむような|真《しん》|紅《く》の火の柱だった。  それはねじれた炎の|渦《うず》となって、大地へ向かって滝のように降りそそいでいた。その柱は四本か、あるいはそれ以上あるようだった。  エゼキエルは祈りの言葉も忘れて、目の前の異様な光景を見つめた。それは確実に、一定の速さで高度を下げてきた。  太く、長い炎の先端が大地にとどき、そこから雲のような土けむりと黒煙が八方にひろがった。  そのとき、エゼキエルは見た。  何本もの太い炎の柱に支えられるように、その上方に、これまで見たこともない奇妙な物体が浮いていた。火の柱はしだいに短くなり、それにつれて、上方の物体もゆっくりと降りてきた。面も向けられぬような熱い風と、土けむりがあらしのように襲ってきた。大地は大波のようにゆれ動きエゼキエルの立っている岩は、はげしくうち震えた。かれは岩の上からとびおり、大地にひれ伏した。  熱風と土けむりが去ったとき、エゼキエルは、体を埋めた砂の中から|這《は》い出した。  天空にそびえていた火の柱は、うそのように消えていた。その火の柱が大地をたたきつけたとき、吹き払われたのか、目の前に、水の枯れた湖の跡のような大きな|窪《くぼ》|地《ち》ができていた。その窪地の底に、さっき火の柱の上に在ったものが鎮座していた。  エゼキエルは、それがもっとよく見えるように、吹き払われた砂が作った高い土堤を上っていった。  その全容が目にふれたとき、エゼキエルは忘れていた神の名をさけんだ。かれは部落の者たちを思い出した。今は一刻も早く、部落の全員をひきいて、この地から立ち去らねばならないと思いながらも、足は少しも自分のいうことをきかなかった。  そのものは家よりも大きく、太守の|館《やかた》ほどもあるのではないかと思われた。  そのものは、なんとも表現し難い形をしていた。全体は塔のような形でありながら、何か動物の|肢《あし》を思わせる|頑丈《がんじょう》な造りの、四本の足で窪地の底を踏まえていた。ぶざまといえる複雑な形をした胴体の上下、何か所にもめまぐるしく輝く光の輪があり、それぞれ異なった速さで、胴体の周囲を回っているかのように見えた。  そのときになって、エゼキエルはようやく、非常に高い音が空気を震わせているのに気づいた。その音は、あるいは高く、あるいは低く、エゼキエルの耳を突き刺し、脳髄を切り裂くようにつたわってきた。光の輪はしだいにまたたきが間遠くなり、回転が遅くなってきた。それと同時に、音もしだいに低くなっていた。  エゼキエルはわれにかえり、この異変を部落の者たちに知らせようと、土堤を降りかけた。  その時、窪地の底からそびえ立つ塔のような物体から、奇妙な物が分離して空中に舞い上った。それはいつ、どのようにして本体から分れて浮遊したものか、エゼキエルの目にはとらえられなかった。  新しい爆音が湧き、圧倒的な波となって平原を、エゼキエルをおしつつんできた。その音は、百万の兵のあげる鯨波の声のように、ケバル川をはさんで、さえぎるものもなくひろがる大平原に鳴りひびいた。  それは爆音をまきちらしながら、エゼキエルの頭上をゆっくりと通過した。  そのものの上に、銀色に輝く巨大な透明な輪が、|傘《かさ》のようにさしかけられていた。それはエゼキエルの位置からは見えない軸を中心としておそろしい速さで回転しているもののようだった。その大空とも見まごう銀色の輝く傘の下に、二枚のひらたい翼があり、見ているうちにその翼は体の|脇《わき》に引きつけられ、その、舟のような体を抱くようにつつんだ。  それが地に降りるための用意だったのかもしれない。  その物は急速に高度を下げ、部落を囲む|石《いし》|垣《がき》の手前へ、前のめりになって着陸した。  それは、土堤の中腹に立っているエゼキエルの目に、日干し|煉《れん》|瓦《が》を積んだ背の低い、貧しい家々のひしめく部落をひと|呑《の》みにしようと舞い降りてきた一頭の竜のように見えた。  砂けむりが湧き上がり、長く帯を曳いた。いつの間にか、光り輝きながら回転していた円い傘は失せ、それに代わって、その物の体の脇に、目のようにならんだ輪があらわれた。その輪から輪へ、|蛇《へび》がからむようにかけわたされた帯が、波をうって回りはじめると、すくい上げられた砂が、滝のように背後にはねとばされ噴き上った。その物はゆっくりと動き始めていた。  そのときになって、エゼキエルはその物の頭部ともいうべき前端部が、サファイアのような美しい反射光を放つ円い屋根におおわれているのに気がついた。その内部に、人のような形をしたものが収められていた。  その物は、エゼキエルとかれの部落の中間にあって、かれが急を知らせに部落へ走るのをさまたげていた。その位置は決して偶然に置かれたものではなく、あきらかにある意図をもって選択されたものであった。  エゼキエルは、絶え入りそうな心を|奮《ふる》い立たせ、汗と砂ではげしく痛む目を見開いて、|呪《のろ》わしい心で神の名を呼んだ。  なだらかな傾斜で曲線を描く土手の|稜線《りょうせん》の上に、窪地にそびえる塔のような物体の先端がのぞいていた。眼下には、長く長く土けむりを曳いて、異形の物体が、今、かれの方にその頭部を向けつつあった。その向こうの、灰色の部落には動くものの影もなく、死に絶えたように静まりかえっていた。  神は、かくの如くにして降臨し給うのか!  だが、ここには一片の啓示も、わずかな至福もなかった。地を|灼《や》く炎と、石を飛ばし砂を巻く熱風。異形の神は天をいただいてそびえ立ち、その分身は空を|翔《か》け、地を走って、かれとかれの仲間とを遠くへだてようとしていた。  もしこれが神なら、ああ、神なら、わが心にあるこの恐れと、死の予感はなんだ? 神はつねにかくの如くにして人をその寝屋から引き出し、犠牲の祭壇に上らしめてきたのか。これは神ではない。神よりも|邪《よこしま》で、神よりも|猛《たけ》く、禍いをもたらす、量り知れない何かなのだ。  エゼキエルは光と色を|喪《うしな》った平原に|哀《かな》しい目を向けた。  何の物音も聞こえてこなかった。足もとで、音もなく砂がくずれ、平原をわたる風がかれの耳もとでかすかにうなった。  かれは、ゆるやかな傾斜を、くずれ落ちる砂に足をとられながら一歩、一歩、|降《くだ》った。かれは部落の|長《おさ》だった。部落の者たちが要求されることのうち、自分が代って果たすことができるであろうことが幾つか、最終的にはひとつだけはあるはずであった。かれはひと足ごとによろめく足を踏みしめ、|奈《な》|落《らく》の底へ歩む思いで斜面を降っていった。  三個の人間の形をしたものが、かれのゆく手に待ちかまえていた。サファイアの輝きを持つ透明な|円《えん》|蓋《がい》が開かれ、さらに一個がそこから砂の上にとびおりた。  かれらは、奇妙な形の|兜《かぶと》を被っていた。顔はひどく奥まったところにあり、その前方は、地を走る物の前頭部をおおうサファイアの円蓋と同じような、透明な丸みを持ったものでおおわれていた。その兜にはさまざまな形や飾りがとりつけてあり、右の側面は力強く荒々しい造形であり、左側面は豊かな|膨《ふく》らみを持っていた。かれらが動いたとき、その後部はクテシフォンの神殿の壁に刻まれているような、高貴な紋章に飾られていた。  その時、かれらの声が聞えた。      2  かれ、われに告げたり。 「人の子よ。立ち上がれ、われ、|汝《なんじ》に告げん」  そして、かれ、われに告げし時、その霊、われに入り、われに宿りぬ。われ立ち上がりてかれの前に至りぬ。 「人の子よ。われは汝をイスラエルの民、すなわち、われにそむきし反逆の民につかわす。かれらもその先祖も、われにそむきて今に及ぶなり。かれらはあやまちに満ち、おごれる者なり。われ、汝をかれらのもとにつかわす。汝は、かれらにかく語るべし。 『主なる神は、かく述べぬ』  と。  かれらは、|拒《こば》みても、かれらの中に予言者あることを知るべし。人の子よ。かれらをおそるることなかれ。かれらの言葉もおそるることなかれ。たとえ、あざみといばらが、汝とひとつになろうとも、また、汝がさそりの中に住むことになろうとも、かれらの言葉をおそるることなかれ。かれらの顔にはばかることなかれ。かれらがいかに拒もうとも、汝はただわれの言葉をかれらに告げよ。  されば人の子よ。汝はわれが与える食物にて腹を満たせよ」  言い終わりてかれはわれに手をさしのべたり。その手の中に、一巻の巻物あり。  かれ、それを開きてわれに示す。その表裏に文字あり。  その文字、悲しみと、嘆きと、|災《わざわい》について語る。  かれ、言う。 「人の子よ。汝は与えられしものを食せよ。この巻物を食し、行きてイスラエルの民に語れ」  われ、それを口中に収めると、その甘きこと|蜜《みつ》の如くにてありき。  かれ、なお言う。 「人の子よ。イスラエルびとの家に至りて、われの言葉を告げよ。われは汝を、|異《とつ》|国《くに》の言葉を用い、舌の重き民につかわすにあらじ。イスラエルびとの家につかわすなり。されど、イスラエルびとは汝が言葉を聞くをよしとせず。イスラエルびと、わが言葉を聞くをよしとせざるがためなり。  されば、見よ。  われは汝が面を、岩よりも堅きダイヤモンドの如くなせり。  ゆえにかれらをおそれることあらじ。かれらをはばかることなかれ」  と。  さらに言う。 「人の子よ。われが語る言葉のすべてを、汝が心に収め、汝の民に告げよ。『主なる神はかく語れり』と」  かくして、霊はわれをとらえ、部落を囲む石垣のふちまで運ぶ。  その時、われの背後におおいなる|地《じ》|震《なえ》あり。そは、たがいに触れ合う翼の音、ひしめき回る四つの輪、そして地をたたく炎のどよめきなりき。 [#地から2字上げ](エゼキエル書より)  話に聞く東方の戦士のような姿は、エゼキエルにある種の|安《あん》|堵《ど》を与えた。異形な物体からあらわれ出た者たちが、人間と同じ形をしていることは、その応対は少なくとも、人間に対するものと同じでよいはずだった。 「部落の長か? おそれることはない」  ふいに|明瞭《めいりょう》な声が聞こえた。四人の中の一人が、エゼキエルに向かって歩み寄ってきた。エゼキエルは、一瞬、ひどい恐怖を感じたが、かれの誇りが、わずかにかれの理性を支えた。エゼキエルの土気色のひたいから、あぶら汗がしたたり落ち、足もとの砂の上に、点々と小さな|汚《し》|点《み》をつくった。 「部落の長よ。われわれを恐れることはない。われわれはおまえに危害を加えるようなことはしない」  かれが四人の中の|頭《かしら》のようであった。頭は背後に立つ部下の一人をふりかえって、小さな合図を送った。部下の一人が、エゼキエルに近寄り、自分の腰のあたりから小さな金属のびんを取り出した。|栓《せん》をひねると、自分で一口飲んでみせ、それからエゼキエルにも飲むようにすすめた。言われたとおりに、一口飲んでみると、口の中が火のように熱くなった。思わず息をつめた時には、その液体は、エゼキエルがこれまであじわったこともない|芳醇《ほうじゅん》さと強烈な刺激をともなって胃の|腑《ふ》におさまっていた。全身の血管が新しい脈を打ちはじめ、不安や恐怖が、|汐《しお》のひくように消えていった。  エゼキエルは部落の長としての自信と勇気を完全にとりもどし、日頃の、|傲《ごう》|岸《がん》とも見える面持ちを回復した。 「部落の長よ。われわれはある使命を持ってここへ来た。われわれはおまえたちの敵ではない。おまえは部落を治める。そして予言者でもある。おまえは先ず、おまえの部落の者たちに、われわれの言葉をつたえるのだ」 「あなたがたは何者だ? まぼろしとなりてあらわれ、眠りの中に啓示を垂れ給うという神とは、いささか異なるようだが。それとも、これはまぼろしなのだろうか?」  |頭《かしら》の言葉は、ほんの短い間、とぎれた。わずかなためらいのあとの決断が、かれの言葉を、意識した重々しいものに変えた。 「部落の長よ。われわれは神だ。天の果て、|蒼《あお》|穹《ぞら》のかなたから来た」 「あの、火を吹いて、天から降ってきたもの。車から車へ、帯のようにかけわたされた足で地を走るもの。あれはあなたがたにとって何なのだ?」 「われわれを乗せ、大空をゆく舟。そして地上を走る馬だ」 「そして、あなたがたは何という神なのだ?」  みずから神と名のる者たちは、彫像のように陽炎の中に|屹《きつ》|立《りつ》していた。  神たちの頭が短い言葉を口にした。しかし、その奇妙な発音は、エゼキエルの耳でははっきりととらえることができなかった。 「ヤァウエ?」  かれは口の中でその発音を|真《ま》|似《ね》てみた。少しちがうようだと思ったが、それ以上、似せることはできなかった。 「ヤァウエ神よ。あなたがたは、われわれ部落の民の礼拝を受けるか? われわれから何を奪い、何をもたらすというのか?」  エゼキエルは、砂の上にひざまずき、聞き|馴《な》れぬ名を持つ、異境の神たちの一人一人に拝礼を送った。  もし、かれら神たちが、このメソポタミアの数多い街や部落の中から、わざわざこのエゼキエルの部落をえらんで降臨したものなら、これから先、かれら、ヤァウエを部落の神として祭ってもよいと思った。  かれら、ユダヤの民にとって、神とはつねに祭ることによって幸いをもたらし、人間には憶測を許されぬ気まぐれによって|禍《わざわ》いをもたらす存在だった。それゆえ、神はつねに人間とはなはだ身近な位置にあり、|恩寵《おんちょう》と祭りはそれぞれ契約の|証《あか》しでもあった。  エゼキエルの問いに、ヤァウエは、手にした巻き物をエゼキエルの目の前にひろげた。  エゼキエルは、最初、それはパピルスかと思ったが、そうではなく、銀の薄板を、さらにごく薄く引きのばしたようなものだった。その表面には、文字とも記号ともつかぬ奇妙な模様が、一面に刻印されていた。  ヤァウエは、ふいに巻き物をつかんでいる手の片方をのばし、エゼキエルのひたいに触れた。  氷のようにつめたい感触が、強烈な衝撃となって脳髄をつらぬいた。暗く重い波紋が幾重もの円環となってエゼキエルの体を押しつつんだ。  それが消えたとき、世界はふたたびエゼキエルのものとなった。 「部落の長よ、さあ、行け! 行って神の言葉を語るのだ」  エゼキエルは、神の意図を理解した。かれはヤァウエの如く、天の星の如く絶対だった。      3 「人の子よ。イスラエルの地の終わりについて、神はかく語れり。この国の境に終わり、来たる。今、汝の上に終わり、来たり。われは神に代わりてその終わりについて語るべし。われ、神なればなり。われ、神とともにあり。われ神なればなり。見よ! その日を。また、見よ! かの日、来たれり。不義は花咲き、高ぶりは芽を出し、暴虐はつのりて悪のつえとなりたり。かれらも、その群衆も、その富も消え、また、かれらの名声も消えて、残るものとてなし。時は来たれり。日は近づきたり。買う者は喜ぶなかれ。売る者は悲しむなかれ。神の怒り、汝ら、すべての人々の上に降るがためなり。神の怒りの日には、金銀も汝らを救うにたるまじ。汝ら、わが|言《こ》|葉《と》を聞け!」  石が雨のように飛んできて、熱い石だたみの上に乾いた音を立てた。その幾つかはエゼキエルの体に当たった。ひたいが裂け、流れ出た|血《ち》|汐《しお》が、かれの顔を染め、汚れた被布に浸み通っていった。エゼキエルは、飛んでくる石から頭や顔を守ろうともせず、左右の腕を大鳥の羽根のように開いた。 「聞け! 汝ら」  群衆の|喧《けん》|騒《そう》がかれの声をかき消した。 「おれたちが、なんで亡びなければならねえんだ! おめえのいう神というやつに、おれたちがいってえどんな悪さをしたって言うんだ!」 「そうともよ! おれたちは盗みもすれば、時には人殺しもすらあ。それだって、|女房《か か あ》や餓鬼を食わせるためだぜ! それがいけねえってんなら、おめえの言う神ってやつに、おれたちが食えるようにしてもらおうじゃねえか?」 「こちとらにゃ、女をたのむぜ! |尻《けつ》のでけえ、|別《べつ》|嬪《ぴん》がいいや!」  |卑《ひ》|猥《わい》なかけ声と喚声が|湧《わ》き起こり、笑いが渦巻いた。ねずみの死体が飛んできて、エゼキエルの胸にぶつかった。臓物が血の糸を曳いてかれの足もとに落ちた。  エゼキエルは首をふって、ふたたび群衆に向かって声をふりしぼった。 「われわれの祖先は、その昔、はるかな遠い星に住んでいた。その星は、夜空に輝く月よりもまだ遠く、深更、チグリスの流れに光を落すユピテルの星よりはこちらにあった」 「星に住んでいたと? あんな小さなものに人間が乗っていられるわけがねえや」 「星ってものは、大空の天井にあいた穴だとおれの|爺《じい》さんが言ったよ」  腐った野菜や木片、小石、|壺《つぼ》の破片など、投げることのできるあらゆる物が飛んできた。 「聞くがよい。われわれの祖先は、その星、つまり、その星は、あの太陽から数えて、五番目の星だった。われわれの祖先は、その星をヤァウエと呼んでいた。ヤァウエでは、食物はつねに有りあまるほどであり、酒は大地を川となって流れていた」  男も女も、子供まで笑っていた。中にはうずくまって地をたたいて笑いころげる者もあった。 「建物はすべて金と銀であり、人々はみな絹をまとい、サファイアの冠に首飾りを巻き、金の糸で編んだ|靴《くつ》をはいていた」  ナイフが飛んできて、エゼキエルの肩に当たったが、被布をわずかに切り裂いたのみで地に落ちた。 「そこでは、夜は、いかに強い雨風にも消えることのない|灯《ひ》をともし、その光は昼をもあざむくが|如《ごと》くであった」  考えつくだけの、ありとあらゆるののしりが、津波のように広場をゆり動かした。 「人はみな心安らかに、盗みもなく、奪うこともなく、争いもなく、笑い声は地に満ちていた」  共同井戸を中心に、石でたたまれた円形の広場には、はげしい|陽《ひ》|射《ざ》しが白い炎のように充満していた。驢馬のいななき。荷車のきしみ。舞い上がる|塵《じん》|埃《あい》。そして病人と浮浪者。やせさらばえた子供。ぼろをまとい、|裸足《は だ し》で行き交う男や女。それらは、この国の正確な縮図であり、偉大な帝国の首都のもっとも平均的な風景だった。 「われわれの祖先たちは、死を知らなかった。宝玉に飾られた宮殿にすまいする誇り高き帝王も、|野《の》|良《ら》|犬《いぬ》の如く|泥《でい》|土《ど》にまみれて日を送る貧しき民にも、ひとしく死はやってくる。限りない生を願う心は、帝王も貧民も同じだ。だが、豊かに満ち足りた生を願う心は、貧しい人々の方がはるかに切実であろう。われわれの祖先は死を知らなかった。永遠に満ち足りた生を楽しんでいた。病いで苦しむこともない。飢えに泣くこともない。われわれの祖先は、病いをいやすための|呪《じゅ》|文《もん》も知らなかったし、ハシバミの葉を|煎《せん》じることも知らなかった。そもそも、病いを知らなかったからだ。われわれの祖先は、品物を売ったり買ったりすることを知らなかった。なぜなら、欲しい物があれば、いつでも自由に手に入れることができたからだ。祖先の祭る神が、そのような至福を与えたからだ」  エゼキエルの汗とほこりと|泥《どろ》に汚れた顔は陶酔に輝き、その声は|唄《うた》うように高く低く広場にひびいた。 「ある時、とつぜん、天の一角からおそるべき破滅がおとずれた。天は裂け、地は震え、火と水は長く世界をおおって荒れ狂い、やがて祖先の星、ヤァウエは微塵に砕けて天空に散った。ヤァウエのもろもろの都市は亡び、幾十万年の繁栄を誇った祖先たちの遺産は|潰《つい》えた。  だが、久しく前よりその危険を察知していたわれわれの祖先は、砕け散る運命にあった祖宗の地、ヤァウエを|棄《す》てて、広く大空に旅立った。いつの日にか、ふたたび故地ヤァウエを再建し、|類《たぐい》まれな遺産を受け継いで神の至福を具現せんと誓い合って旅立った舟は、数十万、数百万隻におよんだ。舟は|天《あま》|翔《が》け、あるいは|永《えい》|劫《ごう》の|闇《やみ》に呑まれて姿を没したるもあり、あるいは甘き泉わき、黄金の果樹実る土地へ漂着したるもあり、また|邪《よこ》|悪《しま》な生きものの満ちあふれる荒れ果てた星へ流れ着いたのもあった。無事にそれらの土地へ行き着いた祖先たちは、その土地で新しい生活に入った。それまで知らなかったはげしい暑さや寒さ。つめたい雨や熱い海。永遠に溶けることのない凍った土。なおすことのできぬおそろしい病気。脳を犯し、心の臓を腐らせる虫。毒気を吐く鳥。そうした恐怖と苦難の中で、祖先たちはつぎつぎと倒れていったのだ。幸い、今、ここにかつての栄光あるヤァウエの祖先たちの体と形とはたらきを、そのまま忠実にとどめている子孫たちがいる。永い歳月の間に、仲間たちはしだいに祖先の姿形とは異なった、他の形とはたらきをとるようになった。かれらは祖先なるヤァウエを忘れさり、わがものとすべき栄光を、むざむざと泥土に棄てた。  汝ら。ヤァウエの子孫たちよ。聞くがいい」  エゼキエルは両手を高くさし上げ、かれの周囲をとり囲んでいる群衆に向かって、体を回した。  いつの間にか、小石が飛んでくるのはやんでいた。人々はまだ、木片や、石や、小さな動物の死体などを手にし、中には、腕をふり上げ、今それを投げようとしている者もあった。しかし、人々は投げるのをやめていた。投げようとしていた者は、その動作を中止し、不安定な姿勢のまま、エゼキエルの言葉を、ふと、心の片すみでとらえていた。 「われわれは、ヤァウエ神を祭った祖先の御心を受け継ぎ、聖なる土地を再建するために|起《た》たなければならない。われわれは|喪《うしな》われた故郷へ帰るのだ」  群衆の数は、いつの間にか広場を埋めつくすほどにふくれ上がっていた。かれらはいちように使徒の如く熱っぽく、また痴呆のように|弛《し》|緩《かん》した表情で、エゼキエルを見つめていた。かれらの心の中に、徐々にある変化が起こりつつあった。かれらの心はその動きをいったん停止し、それから少しずつ、エゼキエルに向かって開かれていった。かれの説く言葉の意味は、ほとんど理解することはできなかったが、その、強くうったえる荘重な声音が、|素《そ》|朴《ぼく》な群衆の心に、|畏《おそ》れと不安をかもし出した。群衆にとって、予言者とはつねに禍をもたらすものであった。エゼキエルもその一人であった。だが、かれの説く言葉のどこかに、神の恩寵があり、至福があった。神の啓示は予言よりも群衆の導きの形をとって示されていた。 「おまえ、|誰《だれ》かにやとわれているんだろう?」  最前列にいた石工らしい男が、疑惑のまなざしでたずねた。 「わしは誰にもつかえていないし、やとわれてもいない。わしは予言者ではない。わしは、みなのこれから取るべき道について話しているだけだ。聖なるヤァウエの土地は、おまえたちのものなのだ。誰のものでもない。帝王のものでもなければ、太守のものでもない。おまえたちが、好きなように生きてよい土地なのだ」  群衆の間に素朴な感動とどよめきが生まれた。 「それはいいが、そのヤァウエとかいう土地へは、どうやって行くんだ?」 「どこかの星とか言ったじゃねえか。人間は鳥じゃねえ。どうやって星へ行くんだ?」 「星じゃねえんだろう! どこか遠い土地か島だろう?」  群衆は口々にエゼキエルにたずねた。かれらの関心は具体的になった。 「聞け! 祖先の聖なる土地、ヤァウエに帰るには、天翔ける舟が必要だ。その舟で、星々の海をわたってゆく。だが、われわれは天翔ける舟を造ることはできない。残念ながらわれわれは祖先から伝えられたはずの|技《わ》|術《ざ》を失ってしまった。そこで、われわれが聖なる土地へ帰るために、なお祖先の技術を失わずにいる仲間が運んでくれることになっている。舟は何十隻、何百隻とやってくる。おまえたちは有るだけの家財と羊、|鋤《すき》、|蜜《みつ》|壺《つぼ》を積み、舟に乗ることができる。年寄り、子供、病人、みな乗ることができる」  津波のような歓声が湧いた。 「それはいつだ? 舟が来るのはいつのことだ?」  群衆はさけんだ。 「それはやがて知らせる。知らせがあったらすぐ集まってくれ。出発の日は、そう遠くはない」  群衆は、夢を見ているような面持ちで、エゼキエルの姿を見つめていた。  目のくらむ陽射しの下、灼けるような石だたみの広場は、汗とほこりと臭気が、粘つく汚泥のように充満していた。  その広場の片すみの、ひび割れた土壁のかげに、数人の男が身をひそめていた。烈日の広場から見るそこは、暗い影が|洞《どう》|窟《くつ》のように奥深くつづき、そこにひそむ者たちの姿を広場から完全におおいかくしていた。 「見ろ! あれがエゼキエルだ」  広場へ向かって、けわしい目を細めたのは、エレサレムの千人隊長ヨハナンだった。 「かれはふしぎな力を持っている。最初はかれに石を投げ、悪態をついていた群衆も、しばらくたつと|猫《ねこ》のようにおとなしくなり、かれの言葉に耳を傾けるようになる。あとはかれの思うままだ。かれはこのエレサレムの民衆をどこかへ移住させようとしている。これはユダヤに対するおそろしい反逆だ」  ヨハナンの、まぶしそうに細められたまぶたの奥では、暗い思念が|燐《りん》|光《こう》のように燃えていた。 「ユダ。あの男をどうするかについては、わしは何日もの間、考えた。部下の意見も聞いた。あの男を捕えることはたやすい。あの場で|斬《き》り棄てることもできる。だが、民衆に対してふしぎな説得力を持つあの男を、ただ殺してしまうのはもったいない。そこでだ。イスカリオテのユダ」  ユダと呼ばれた若い男は、広場を埋める群衆からかれの上司へするどい目を向けた。 「あの男に傾いた群衆の心を、そのまま、横からいただいてしまうのだ。あの男は約束だけを残して間もなくこの町を去る。そこがねらいだ。方法はおまえにまかせよう」  イスカリオテのユダは、|削《そ》いだようなほほに、若者らしからぬ陰惨な色と、非情な意志を浮かべて、かたわらのみすぼらしい小男を見返った。 「|長《おさ》よ。この男は、ナザレの大工で、家族は病いに苦しみ、|技《う》|術《で》も劣っているので、仕事もほとんどない。この男は、今、銭を必要としている」  ヨハナンは黙って、たくましい肩を広場へ向けていた。 「長よ。わたしはこの男を、予言者に仕立てようと思う。神の恩寵を説き、至福を願う予言者だ。エゼキエルの約束を、無にしてしまう新しい神の予言者だ。エゼキエルに対する信仰はたちまち、|塵《ちり》のように吹き飛んでしまうだろう。長よ。わたしはかれの信者となり、かれを偉大な予言者として世にひろめつつイスラエルの地を、エゼキエルのたどったあとをへめぐってゆこう」  イスカリオテのユダは不敵に笑った。  このときナザレの大工は、この男の命ずるままに行為することによって得られるはずの、ひとつかみの黄金のことばかり考えつづけていた。 「ユダ。おまえ一人が信者をよそおったところで、その男をひとかどの予言者に仕立てることはできるのか?」  千人隊長ヨハナンはかすかに|眉《まゆ》を寄せた。 「長よ。学校の教師や、博士、隠退神官など十二名ほど集めた。みなかつて多少は世に知られたことのある者たちばかり。だが、今は職から離れ、名声に飢え、かねのためには親をも売ろうという者たちだ」 「よかろう」  ヨハナンは、二重にくびれたあごを、分厚い胸にこすりつけるようにしてうなずいた。      4 「予言者、エゼキエルの使いが来たぞ!」 「知らせだ! エゼキエルが言っていた知らせだ!」 「祖先の地とかへ旅立つのだ!」  広場には歓声が|渦《うず》まいた。男も女も、走り出した。女たちは子供をかかえ、老人たちは遅れぬよう息を切らせてまろび走った。 「家財道具はどうするのだ? 羊は? 酒壺はよ!」 「何か指図があるだろう。先ず行ってみよう。それから家に取りにもどっても遅くはないだろう」  人々はさけびかわし、おめき合いながら走った。広場は群衆で埋まっていた。  広場の中央の井戸のかたわらに、台を置きその上に立っている一人の小柄な男の姿が、群衆の目に焼きついた。 「予言者は何と言った? 出発はいつだ?」 「待っていたぞ! おれは仕事にも行かないで待っていたんだ!」 「家族を連れてくるひまはあるのか? おれの女房や子供は、となりの町に住む爺さまのところへ行っているんだ」  群衆はかたずを|呑《の》んで、予言者エゼキエルからの伝言を待ち受けた。  台の上の小柄な男が、とつぜん、口を開いて何か言った。女のようにかん高い声が、|水鶏《く い な》のさけび声のように、群衆のどよめきの間をぬって聞こえた。人々はしばらくたってから、かれの口の動きに気がつき、しだいに静かになっていった。 「……神はその子らの罪を許され……悔い改めることにより……天国はその子らの前に……」  台の上の小柄な男は、暗誦したことを必死に思い出そうとするかのように、宙をにらみ、くちびるをふるわせて|訥《とつ》|々《とつ》と語った。 「神はその子らにパンを与え……病いの床から|起《た》たしめ……広く神の恩寵をその子らに与え……」  時々、かれが言葉につまると、かれのかたわらに立った白髪のいかめしい顔つきの男が、そっと耳打ちした。だが、それでも台の上の男の努力には限界がきたようだった。別な男が、かれを台から降ろし、代わって語りはじめた。かれの左右には、汚れた衣服をまとった十二人の男たちが居ならんでいた。 「偉大なる予言者、人々の聖なる救い主であるエゼキエルさまに代わって、師のおそばにつかえるナザレのイエスさまが、こうして、遠路はるばるみなのもとにおいでになった。ナザレの師は、たいへんお疲れになっていらっしゃる。そのため、わたしが師に代わって救い主エゼキエルさまのお言葉をみなにつたえよう。わたしは、ナザレの師の弟子であり、救い主エゼキエルさまにも親しくお言葉をいただいたこともあるエレサレムの哲学教師ヨハネだ」  教壇できたえた|錆《さび》のあるよく通る声が、群衆の上に流れた。 「出発はいつなんだ? 早く教えてくれ?」 「早く言え!」 「予言者は何と言ったんだ?」  群衆は、この新しい説明者に向かって、口々にたずねた。  ヨハネは、荘重な面持ちで群衆を見回した。 「貧しき子らよ。神はその教えを、汝らに垂れたもう。神はすべてをご承知になっていられる。神はすべての罪を、今、目の前に見るように知っておられる。だが、神はその罪を知ってその罪を犯せし者を憎まれ、罰せられることはない。神はすべての罪人を許される。それは、神はすべてを知っておられるからだ」 「祖先の地、ヤァウエの地への出発はいつだ?」 「ヤァウエの神の偉大なことは、予言者エゼキエルに聞いた。それより、早く出発しよう」  ヨハネは首をふった。 「貧しき子らよ。おまえたちはたいへん大きな間違いをしでかしている。偉大な予言者、人々の聖なる救い主であるエゼキエルさまのお言葉の真の意味を理解していないようだ。貧しき子らよ。偉大なる祖先の地、栄光あるヤァウエの地は、他のどこにもない。神の恩寵に抱かれ、豊かな恵みに満ちたヤァウエの地は、正しくはおまえたち、一人一人の心の中にあるのだ」  群衆は、まことに愚鈍な顔つきでヨハネのよく動く口を見つめた。ほほから口もとをおおう|漆《しっ》|黒《こく》のひげが、その汚れきった衣服と釣り合わなかった。哲学教師として教壇に立つにはふさわしいのかもしれない。 「貧しき子らよ。神に許しを|乞《こ》うのだ。一人一人がその罪を深く悔い改め、神に祈る時、神の恩寵は必ず、おまえたちの上にあるだろう。神はつねにそのようにさとしておられる。ヤァウエの神は、つねにわれわれとともにある。ヤァウエの神は、その御子を、この汚れと|禍《わざわい》に満ちた地上に降らしたもうた。このナザレのイエスさまこそ、偉大なる神ヤァウエの御子である」  ヨハネの声は、朗々と広場にこだまを呼んだ。誰も、ものを言う者はいなかった。しばらくたってから、一人の男がおずおずとたずねた。 「天翔ける舟が、みんなをむかえに来る、と言ったが……」  ヨハネは物覚えの悪い学生に解らせるように、一語、一語、区切ってゆっくりと言った。 「尊い教えというものは、みな、そのようなたとえ話でなされるのだ。よいか。天翔ける舟とは、何ものにもわずらわされることのない自由な心のはたらきを指す。神の恩寵に恵まれた美しい豊かな土地とは、すなわち、悪しき心を棄てさり、無欲な愛に満ちた平静な心のことなのだ」 「ヤァウエの神というのは、おれたちの祖先が祭った神だと聞いた。その神が、この世の人の形をとって現われたのか?」  若い男が、いぶかしそうにナザレのイエスを見つめた。 「そうだ。偉大なる神は、人の姿をもってこの世に現われたもう。このお方が、すなわち、天なる神。偉大なるヤァウエの神とひとつであられる」  人々の顔から、急速に何かがぬけ落ちていった。失望が虚脱と変わり、|灼《や》けるような炎天だけがおそろしい現実となって残った。人々は声もなく、石だたみの上にうずくまっていた。もはや祖先の地も、栄光の神の名もなかった。人の心がどうあるべきか、などということは、今さら何の魅力もなかった。これまで、何人の予言者と称する者たちが、この広場に立ってそれを語ったことだろうか? また、これまでに、みずから神と名乗る者たちが、何回、この広場に立って、恩寵を説いたことだろうか? かれらはおしなべて供物を要求し、予言に代わるにかれらへの奉仕を求めた。ああ! また。  群衆は声もなく、背後から崩れて、広場の外へ流れ出ていった。とつぜん、その群衆の中から、石が飛んだ。石は十二人の弟子の一人の体に当たった。それがきっかけとなり、失望が怒りに変わった。人々はきびすを返して、ふたたび広場へ流れこみ、石を投げ、棒切れをふりかざして、ナザレのイエスと、かれの使徒へ襲いかかった。  怒号と喧騒の中で、ヨハネの声が殉教者の如く、悲痛なひびきをこめてなおつづいていた。  かれらの真の苦痛と流浪は、これから始まるのだった。ナザレのイエスは、群衆に追われ、迷路のような街路を逃げ走った。  千人隊長ヨハナンは、土の壁にえぐられた穴に、手にした|松《たい》|明《まつ》をさしこんだ。油煙が糸のように真直に立ち上り、みるみる壁と天井を黒々と染めていった。赤い火光を浴びて、ヨハナンは壁の|龕《がん》|洞《どう》から酒壺を取りおろした。 「飲め」  それを受け取ったユダが、壺を両手で支え上げ、中の液体をのどへ流しこんだ。|芳醇《ほうじゅん》な香りが、暗がりにひろがった。 「これでエゼキエルの言うことは、もはや人に信用されまい。ヤァウエの放浪者も、|無《む》|駄《だ》なことをしたものだよ」  ヨハナンは肩をゆすって笑った。 「|長《おさ》よ。かれらはなお、これから先、何度でもやって来るだろう。かれらは、ヤァウエの再建だけを夢見ているのだ。二万年のむかし、太陽から数えて五番目の星、故郷の星ヤァウエが粉々に砕けたあの日から、かれらはふたたび、ヤァウエにもどることを考え、時が来るのを待っていたのだ」 「砕け散ったヤァウエの|残《ざん》|骸《がい》は、なおかつてのヤァウエの軌道上に残されている。それを寄せ集め、ひとまとめにして、もとの大きさの天体に造りなおすことは難かしいことではない。放浪者たちは、そのための技術を温存してきた」 「われわれの祖先も、ヤァウエの遺産である幾多のすぐれた技術を抱いて、この星へやってきたのだ」 「イスカリオテのユダよ。そのとおりだ。イスカリオテのユダよ。この地上の物体には、すべて重さがある。重さとは、すなわち、つねに二つの物体の間にあって、たがいに相手を引き寄せようとする力の発現のひとつだ。この力を、人工的に作り出すことによって、どんなに大きな物でも、どんなに重い物でも、自由に引き寄せ、あやつることができる。これが、砕け散った天体ヤァウエを、もとの一個の天体に復元するための技術の源泉だ。かれら、放浪者たちは、その技術を二万年の長きにわたってつたえ、今日まで失うことなくきた。かれら、放浪者たちの願いは、幾多の星々に散り、生きつづけているヤァウエの子孫たちを、呼び集め、ひとつになって暮らすことにある」 「長よ。われわれはもう、この天体の持つ自然に、完全に適応してしまった。|砂《さ》|漠《ばく》や、海や、草原。羊を飼い、蜜を集め、麦を作るこの生活。酒の味。美味い魚。甘い果実。われわれはこうしたものに魅入られ、この天体で生活することに喜びを感じてきた。これでいいではないか! なにゆえにこの土地を棄てなければならないのだ?」  イスカリオテのユダは、顔をゆがめて酒気を吐いた。 「ユダよ。おまえとはじめて出会ってから、もう二十年にもなる。おまえはあの頃、自分は狂気なのだと思っていた。おれが若い頃そうだったようにだ。おれは、物心ついてから、おれの心の片すみに、持って生まれた異形の部分があるのに気がついた。見知らぬ土地の想い出、そこに|棲《す》む人と呼ぶにはふさわしくない奇妙な生きものについての記憶。おれは、それらのものは、おれの狂気が勝手に作り出した産物だと思った。おれは十五歳になってアッシリアの傭兵になった。おれの心の中の、人に言えない部分は、ますますはっきりしたものになっていった。二十歳になった時、おれはユーフラテス川のほとりで、天から降ってきた放浪者に|逢《あ》ったのだ。かれらは、天翔ける舟でやって来た。そこでおれは、おれの心の中にあるものが、いったい何であるのか、おれ自身が何者なのかを知り、理解することができた。おれは以後、新しい苦悩に責めさいなまれた。だが、おれはついに放浪者の誘惑をしりぞけた」  千人隊長ヨハナンは、古くからペトラの町を治める土侯の家に生まれた。人並はずれた立派な体格とすぐれた記憶力を持ったかれは、父親とその領国の期待を一身に集めていたが、青年期をむかえる頃から、かれは少しずつ変化していった。誰の目にも、それが狂気と映るようになると、父親はかれに武器とひとつかみの砂金を与えて旅に出した。それ以後、ヨハナンはペトラの町には|還《かえ》っていない。  故郷を追われた数年後、ヨハナンはサマリアの町で、商人の傭兵としてその日その日を送っていた。  この頃、ヨハナンは、他人が、自分の中に狂気と見なすものは、自分が二十歳の頃、天から降りてきた天翔ける舟を見たこと、そしてその舟から降り立った人物が語ったことと関係があることに気づいた。かれは以後、極めて無口となり、しばらくすると、誰もがかれの狂気について口にのぼせなくなった。  かれはカルデアに移った。後世、新バビロニア王国と呼ばれるようになったこの富強な王国は、経済活動も活発であり、精兵を|擁《よう》して近隣諸国に対抗していた。ヨハナンはこの地で徐々に足場を固め、百人隊長からやがて千人隊長の地位を獲得した。  ある日、かれは部下の兵士の中に、ユダという若者がいることを知った。かれは、ユダが自分と同じ体験を持つ人物であることを感得し、ひそかに幕舎へ招いた。やがてヨハナンはかれを副官に任命し、つねにかたわらに置いた。  それから三年目の夏の初め、ヨハナンは遠いシナイの地で、予言者エゼキエルが天翔ける舟が空より降るのを目撃し、その舟より降り立ったものに大いなる啓示を受けた、ということを知ったのだった。  ヨハナンの予想どおり、エゼキエルはバビロンの町に現われた。貧苦におしひしがれ、はげしい労働と病いに生命をすりへらしている民衆は歓呼してかれをむかえた。      5 「偉大なる王よ。王は昨夜、はなはだ奇なるまぼろしを見たり。それは一個の大いなる像にして、まばゆく光り輝き、恐ろしき|面《めん》|貌《ぼう》を呈しあり。その像の頭は純金にして、胸と両腕とは銀、腹と|腿《もも》とは青銅、すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土にて造られいたり。  王の見てありし時、一個の石、人手によらずして切り出され、その像の鉄と粘土の足を撃ち、これを砕きたり。かくして鉄と粘土と青銅と銀と金とはみなともに砕け、夏の打ち場のもみがらの如くなり、風に吹き払われて跡形もなく失せり。されど、その像を打ちたる石、大いなる山となりて地に満ちたり。  偉大なる王よ。予、そのまぼろしの意を解きあかさん。  王よ。王は諸王の王であり、天の神は世の始めにあたって王に国と力と勢いを与えたまい、人の子ら、野の獣、空の鳥、生命あるものすべてを王の手にゆだねたまいぬ。  王は、かの像の黄金の頭なり。王の後に銀の国、つぎに青銅の国、第四の国は鉄の如くにてありなん。像の足は粘土と鉄であり、人の心、二つに裂かるることを示す。  偉大なる王よ。天の神は、一つの国を立てられんとしたもうなり。この国は立ちて永遠に至る。大いなる神、この後に起こりて永遠の至福を垂れたもう。  偉大なる王よ。神はその意志を王に示したもうなり」  ネブカドネザル王はひれ伏してダニエルを拝し、供え物と|薫《くん》|香《こう》をささげたり。王、ダニエルに曰く。 「|汝《なんじ》、わがまぼろしの意をあきらかにするを得たるは、まさに汝の神は神々の神、王らの主なるがゆえなるべし。しかず。汝の導きのまま、予、国を治めん」  と。  かくて王はダニエルに高き位をおくり、また多くの贈り物を与えてバビロンの総督となし、かれの弟子たりし三人の者をその官に任ず。 [#地から2字上げ](ダニエル書より)  ネブカドネザル王は、巨大なる金の像を造り、それをドラの平原に立てたり。その高さ、六十キスピト、その幅は六キュピトにおよぶ。ネブカドネザル王は、総督、長官、知事、参議、庫官、法官、高僧、諸州の官吏らを召し集め、この像を拝せしむ。  時に王の令をつたうる者、大声に曰く。 「諸民、諸族、諸国語の者らよ。偉大なる王は汝らにかく命じられたり。|角《つの》|笛《ぶえ》、横笛、|琴《こと》、三角琴、立琴、風笛などのもろもろの楽器の音を耳にしたるときは、汝ら、ひれ伏してこの像を拝すべし。と」  さらに言う。 「わが令を拒む者は、何人たりといえども、ただちに火の燃えさかる炉に投じらるるべし」  と。  かくて人々、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などのもろもろの楽器の音を聞くや、たちまちひれ伏して、ドラの平原に立ちたる金の像を拝せり。 [#地から2字上げ](ダニエル書より)  その像はユーフラテス川の上流カルケミシュからはるばる運ばれてきた巨大な大理石の台座の上に|据《す》えられ、その高さは二十メートルに達した。  その黄金の神像は、人の形をし、異形の|兜《かぶと》を|戴《いただ》いていた。兜の右側面には|獅《し》|子《し》の顔、左側面には牛の顔。またその後面は|鷲《わし》の顔で飾られていた。前面の顔に当たる部分はなぜか平滑な|膨《ふく》らみだけが残されていた。神像の腰の部分にはいかめしい帯が回らされ、そこには戦斧とおぼしい異様な形の武器がつるされていた。  巨大な神像は、吹き|荒《すさ》ぶ|嵐《あらし》の夜は、ひらめく稲妻の中であたかも生きているかのように見えた。また血のような夕映えの中で、それは禍の象徴のように平原を彩った。  人々は神像に近づくことを恐れ、はるかにそれを望む時は、身を震わせて土俗の慣習に従い、指を組み合わせて魔を|祓《はら》った。  ネブカドネザル王は、毎日、神像のためにたくましい牡牛二十頭、よく肥った羊三十頭を|屠《ほふ》りいけにえにささげた。  王はすこぶる|機《き》|嫌《げん》がよかった。だが、この頃からネブカドネザル王と、予言者ダニエルの間は気まずくなっていった。  ダニエルの、銀の針金のようなあごひげにおおわれた顔には、あきらかに失望と焦燥を刻んだしわが深くなった。かれはしだいに王宮には足を踏み入れなくなった。  大臣たちはひそかにあやしみ、ダニエルの|不《ふ》|遜《そん》について語り合った。  ドラの平原に立つ神像は、そもそも、ダニエルの解きあかしによって造られたものであった。ダニエルは高い地位を得、黄金の神像はかれの名誉のいわば具象化であるともいえた。それなのに、ダニエルは何が不満なのか? その上、いったい何を王に求めようとするのか?  だが、ネブカドネザル王はしだいにおのれに背離してゆく予言者ダニエルを、あえて呼びもどそうとはしなかった。ネブカドネザル王は、何事か、予言者ダニエルに対して負い目があるのではあるまいか?  大臣たちはかすかな疑惑を抱いた。  それから半年ほどたって、ネブカドネザル王は死んだ。狂気による発作とつたえられているが、真相はわからない。ただ、民衆は、王の死は予言者ダニエルの|呪《じゅ》|詛《そ》によるものではないかとひそかにささやきあった。  ネブカドネザル王の跡はナポニドス王の子、ペルシャザルが継いだ。  予言者ダニエルは王の死後、バビロンを離れ、いずこへともなく旅に出た。  あるとき、ペルシャザル王、千人の大臣のために宴を設けたり。宴、たけなわなりし時、ペルシャザル王、侍臣に、王の父ネブカドネザルの、エレサレムの神殿より奪い来たりし金銀の器を持ち来たらんことを命ず。王とその大臣、および王の妻と|側《そば》|妾《め》らに、その器もて酒を与えんがためなり。かれら、くだんの器もて酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石などの神々をほめたたえたり。  しかるとき、にわかに人の手指あらわれ、|燭台《しょくだい》と相対したる王の宮殿の塗り壁に物を書きたり。王の顔色はたちまち草葉の|如《ごと》く青ざめ、その心は思い悩みてその腰のつがいはゆるみ、そのひざははげしく震えてたがいに打ち合いぬ。  王、すなわち法術士、カルデアびと、占い師らを召し、かれらに告げて曰く。 「汝ら、すみやかにこの文字を読み、その解きあかしを示せよかし。なせる者に紫の衣着せ、|首《こうべ》に黄金の鎖巻きて国の第三の|司《つかさ》となさん」  と。  王の|智《ち》|者《しゃ》ら、面を伏せ、また語らず。王、はなはだ思い悩み、かつ嘆く。大臣ら、みな、また玉の緒も絶えなんばかりなり。  時に王の太后、宴の場に至り、王に曰く。 「偉大なる王よ。王の生命は|永《とこ》|遠《しえ》に約束されてあり。偉大なる王よ。思い悩むことなかれ。面を伏せることなかれ。偉大なる王よ。王の国に聖なる神の霊、宿る。王の国に聖なる神の、この国に送りたまいし一人の予言者あり。偉大なる王よ。かれは汝の父の世に神の知恵を顕わし、汝の父の悩みを払いたり。汝の父、ネブカドネザル王はかれを重く用い、博士、法術士、カルデアびと、占い師らの|長《おさ》となせり。かれの名をダニエルという。  偉大なる王よ。かれ、ダニエルこそ  この目に見える手首によりて壁に記されたる文字を読むことを得ん」  と。 [#地から2字上げ](ダニエル書より)  その夜は、夕刻、はげしい雷雨があり、バビロンの町のあちこちに落雷があった。落雷によって発生した火災の火光が、しばらくの間、ユーフラテス川の川面を|真《しん》|紅《く》に染めていた。大臣たちが参集する頃にはようやく雷鳴も間遠くなり、ペルシャザル王の王宮の正面玄関には、大臣たちを運んできた|輿《こし》がつぎつぎと到着し、それを告げる|喇《ラツ》|叭《パ》が高らかに雨のあとの澄んだ空気を震わせた。  カルデア全土から呼び集められた千人の大臣は、それぞれ妻妾や|寵姫《ちょうき》をともなって、酒宴のもよおされる広間を埋めた。広間の壁には、この夜のために、特に作らせた黄金の燭台が打ちつけられ、銀の|灯《ひ》|皿《ざら》では、王の秘蔵の透明な燃える水が、美しい炎をゆらめかせていた。  帝国のすみずみから集められたあらゆる珍味がならべられ、はるか遠く、サカやスキタイ、キンメリア、ヌミディア地方からもたらされた美酒が、惜し気もなく注がれた。  宴たけなわの頃、おそろしい悲鳴が人々の耳を突き刺した。食物を盛った銀盆や、黄金の|酒《しゅ》|盃《はい》をならべてあった大テーブルがゆっくりと横転し、すさまじい音響を|撒《ま》きちらした。女たちが豪華な衣装をひろげて床に倒れ、その体の上を、さらに多くの男や女が踏んで波の逆巻き|渦《うず》|巻《ま》くように逃げ走った。絶叫が重なり、息絶える者の、重い物を引きずるようなうめきが断続した。  とつぜん、静寂がやってきた。ある者は、死人のように土気色の顔に、まばたきを忘れた目を痴呆のように見開き、またある者は、顔をおおって床に身を投げたきり、|起《た》とうとしなかった。そして、かなり多くの者が、|虚《うつ》ろなまなざしを宙にむけたまま、うずくまっていた。  地底のような静寂の中で、手首はなお動いていた。その手首はひじから先の部分であり、指は白い塗り壁の上に、奇妙な文字を記しつつあった。  ペルシャザル王は黄金と大理石と香水で造られた玉座に|貼《は》りつけられたまま、つめたい汗をしたたらせていた。  手首は、壁の上をゆっくりと動いていた。  遠雷が、大理石の床や柱を、かすかにどよめかせてつたわってきた。  永遠の時間が過ぎたかと思われる頃、ようやく、むかえの役人にみちびかれて一人の老人が入ってきた。汚れきって布目もわからぬ被布を体に巻きつけ、腰に細いなわを巻きつけただけの姿は、バビロンの裏町のごみ棄て場をあさっている|乞《こ》|食《じき》と少しも変わらなかった。かれの歩いたあとの、床の上にはおびただしいしらみが落とされているであろう。かれの動きにつれ、鼻を刺すような異臭がねっとりとひろがり、人々の体にまつわりついた。  老人は、|垢《あか》にまみれた|裸足《は だ し》の大きな足で、ロードス産の赤大理石を踏み、広間の中央に進んだ。  ペルシャザル王は、ころげ落ちるように玉座から降り、老人の前に走り寄った。 「ダニエル! 偉大なる予言者、ダニエル。予が乞いを容れ、予に安らぎを与えよ! かの壁に記されし文字を読め」  予言者ダニエルは、|眼《がん》|窩《か》の奥の暗い|眼《まなこ》を壁の文字に向けた。そのひとみには、たとえようのない暗い、強烈な意志が、遠い夜空をはしる稲妻のように燃えていた。 「偉大なる王よ。いと高き神は、王の父、ネブカドネザルに国と権勢と、光栄と尊厳を与えたり。しかして、予、また、ネブカドネザル王にまことの神の意志、唯一なる至福を説く。ネブカドネザル王はひとたびわが|訓《さと》しを容れ、唯一なる神の土地への旅立ちを約したり。国の民、|鋤《すき》、牛、羊、武具、また数多き家具、すべてその背に負い、ひたすらなる旅立ちを約しぬ。されどネブカドネザル王は、予との約束を|空《むな》しくなし、神の像をドラの地に建てるのみにて終わりぬ。偉大なる王よ。王はこのことを知らざりしか。さにあらず。王は、ことごとくそれを知りてなお、天の主に向かってなお心を低うすることなく、王と王の大臣ら、王の妻妾、寵姫らと酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々をほめたたえり。偉大なる王よ。王は、王の生命をその手に握り、王のすべての道をつかさどる神をあがめんとはせざりき」  予言者ダニエルの声は、雷鳴のように広間にとどろいた。燭台の炎は吹き千切れるばかりにゆらめき、広間につづく露台に張り|回《めぐ》らされた軽羅は、烈風の中の旗のようにひるがえった。 「かるが故に、見えぬ手の手首あらわれ、この文字を記したり。曰く、  メネ、メネ、テケル、ウパルシン  と」  ふたたび、遠い空に雷鳴がとどろき、露台の向こうの夜空が、|北極光《オーロラ》のように燃えた。 「偉大なる王よ。その意味をあかさん。  メネは、神が王の治世を数え、これをその終わりに至らせしことをいう。テケルは、王が神のはかりで量られ、その量が足りぬことがあらわれしをいう。ウパルシンは、王の国が引き裂かれ、そのあとはメデァとペルシアの人々の入る所とならんの意なり。王よ。王国の歴史、終われり、王の命脈、またここに尽きるなり」  ペルシャザル王は、けもののように|吠《ほ》えると、玉座からまろび落ちた。侍従長や、王のかたわらに在った側妾たちが、王の体におおいかぶさった。  ダニエルは|巌《いわお》のように|屹《きつ》|立《りつ》していた。  混乱が生ずるまでに、そう長い時間は必要としなかった。  ダニエルの言葉を耳にした人々の中で、その言葉を理解し得る博士や、法術士や、占い師が先ず動いた。かれらは、ダニエルの言葉に、|漠《ばく》|然《ぜん》と、ドラの原野にそびえる黄金の巨像の建設を回って、ペルシャザル王の父、ネブカドネザル王とダニエルの間に生じた確執を思い起こし、あの巨像が、何事か想像もつかない約束事の忌まわしい象徴であったことに気づいた。  一人が走り出すと、何十人もの人間がいっせいに走り出した。さらに何百人の人間が、大理石の|大《おお》|階《きざ》|段《はし》に向かって殺到すると、たちまち津波のような大混乱の輪が、外側へ向けて直径をひろげていった。輪の外側では、まだ、何が生じたのかも知らずにいる何千、何万の兵士や群衆がいた。かれらは、王宮内でおこなわれている王の祝宴のにぎわいを、遠くからうかがい、のび上がりのび上がり、露台の灯に映えるきらびやかな高官たちの影に歓声を送っていたのだった。その群衆に、逃げ走る人々の津波が激突した。押し倒され、踏みつぶされた人々の上を、さらに多くの足が踏んで通り、鮮血は河のように流れて広場や道路の|側《そつ》|溝《こう》にあふれた。一度、倒れた者たちは、二度と立ち上がることはなかった。|練《ねり》|絹《ぎぬ》をまとった大臣の寵姫の上に、胸甲で身を固めた兵士がおり重なり、さらにその上に被布を巻きつけた法術士や博士の体が投げ出された。女や子供は、悲鳴を上げるいとまもなかった。  投げ|棄《す》てられた松明がはぜ、無数の火の粉を飛ばした。火の粉が、打ち倒れている人々の衣を焦がし、みるみる燃えひろがって家々をなめ、街路を埋めるおびただしい犠牲者を|呑《の》みこんでいった。  バビロンは燃えていた。炎と黒煙は、夜空をおおい、ユーフラテスの河面を、血のように変えていた。  渦巻く炎のひびき。大臣の邸宅の焼け落ちる地ひびき。熱風にあおられて舞い上がる民家。石造りの邸宅は、|漆《しっ》|喰《くい》が|剥《は》げ落ち、組み上げられた石材は、なだれのように崩れ落ちた。土をこね上げて造った民家は、たちまち|砂《さ》|塵《じん》に化していった。すべては火の中にあった。金も、銀も、青銅も、鉄も、木も、石も、ことごとく燃えていた。  その炎の渦の中にあって、ペルシャザル王の宮殿だけが、黒々と冷え、真紅の火光の中に影のように沈んでいた。  その露台に立って、予言者ダニエルは身動きもしなかった。その火光の明滅する老いの顔には、正視し難い|惨《さん》|憺《たん》たる苦渋が濃い|翳《かげ》を落としていた。  幾百千の火の粉が、大海の流れの|如《ごと》く、バビロンの空を埋めて一方から一方へ、果てもなく流れていた。  とつぜん、その夜空を焦がす火の粉の流れを破って、奇妙な形の物体がゆっくりと降下してきた。それは地上の炎を映して、|灼熱《しゃくねつ》の雲のように輝いていた。それは、この上ない高貴な銀であり、その周囲にエメラルドの燃える火の輪と、あざやかなオレンジ色の|篝火《ト ー チ》を点じていた。それは火の海の上を、音もなく旋回した。それが上空にさしかかる時、その巨大な影の下で、火の海は輝きを失い、黒ずんで見えた。  それはつぎつぎと数を増し、巨大な群れ鳥のように燃えるバビロンの上を旋回しつづけた。  ダニエルは身動きもせず、その、群れ飛ぶ奇妙なものの影を見つめていた。  その時、すでに|廃《はい》|墟《きょ》と化した広間の片すみに、かすかに人の気配が動いた。  ダニエルのくちびるが動いた。 「イスカリオテのユダか?」  遠い広間のすみから応えがかえってきた。 「予言者ダニエル。去るがいい」 「イスカリオテのユダ。後世の史家は、おまえが神の御子と触れ歩く、ナザレのイエスを偉大な予言者、|救世主《メシア》として記録するだろう。また、おまえの、われわれの偉大な神、ヤァウエに対する裏切りは、形を変え、ナザレのイエスに対する裏切りとして記憶されるはずだ」 「おそらく」  ユダの、何の抑揚もない声が、吹きこむ風にのってかすかな起伏をおびた。 「ナザレのイエスは天上の幸いを説くことなく、|地上《こ の よ》の至福を授けるだろう。予言者ダニエル。この地上の生きものにとって、もはや栄光に満ちた祖先の地も、|類《たぐい》無い祖先の遺産も、何程の価値もない。予言者ダニエル。または予言者エゼキエル。去るがよい。|天《あま》|翔《が》ける舟は、この夜、運ぶべき何物も見出せず、あのようにむなしく夜空を舞い回るのみだ」  二人の面には、明滅する火光でもおおい難い惨たる悲傷の翳があった。     第四章 神々の|黄《たそ》|昏《がれ》      1  まぼろしは消えた。  多彩な光と音響が、潮の退くように、謙造の五感から、遠のいていった。  水底のような静寂と、白一色の壁や天井が現実の色と形象をよみがえらせ、謙造の意識を、今在(あ)る時空に凝結させた。  目の前に、無数の裁断面を持つ奇妙な多面体が、死魚の目のように灰色の光沢を放っていた。  それがどのような構造とはたらきを持つ装置なのか、謙造にはとうてい理解し難いものだったが、今、かれに与えられ、かれ自身がその中に身を置いていたできごとと歳月はたしかにその装置が生み出したものに違いなかった。  部屋のどこかに設けられたスピーカーが、かれに部屋から出るように告げた。  かれは|椅《い》|子《す》から立ち上がった。全身から力がぬけ、かれはよろめいて椅子で身を支えた。  鼓動が全身を震わせ、|噛《か》みしめた歯がとめどなく鳴った。かれは火のような息を吐き、幾度も、室内に視線をめぐらした。  吉田|兼《かね》|倶《とも》も、ナザレのイエスもそこには居なかった。あの暗い夜空に燃え上がる炎も、炎暑とほこりと|喧《けん》|騒《そう》に満ちたバビロンの|街《がい》|衢《く》も、ここにはなかった。それはまことにひとときのまぼろしのように謙造の前から消え去っていた。  銀色の|制服《ユニフォーム》に身を固めた男が、室内に入ってきて謙造の両側から体を支えた。謙造は、かれらに導かれるままに足を運んだ。  その部屋には、真昼のような光があふれていた。ほとんど影というもののない白い部屋に立って、謙造は孤独で惨めな心を抱いていた。 〈どうだったね? 吉田謙造くん〉  ふいに、静かで幅広い音声が、謙造の|頭《ず》|蓋《がい》の内部に流れこんできた。それは鼓膜をへてきたものではなく、直接、大脳灰白質に明確な意味を結んだものだった。かれは言語に頼ることなく、心から心へおのれの意志を伝え得る能力を持っているらしい。 〈きみの祖先は、われわれの計画を推し進めるために、大きな努力を払った。かれは世の人々を納得させるためには、先ず時の権力に正しい理解と知識を与えなければならないと判断した。かれの判断は極めて正しかった。だが結果は、きみの知るとおりだ。今日、地球人類の何人が、この惑星ヤァウエの存在を知っているだろうか? きみの先祖ばかりではない。古代から現代に至る間、何人もの哲学者や科学者が、このことに触れ、人々の思考に正しい方向づけを与えようとした。だが、残念なことに、いまだに満足な成果は得ていない〉  謙造は、ひとみの奥を射貫かれるような光の滝に目をかばいながら、声の主を探した。  かれは居た。  正面の広大な壁を負って、大きな安楽椅子が|据《す》えられていた。それは椅子というよりも、ジェット機の射出座席に似た複雑な構造を持っていた。その座席に、一人の老人が身を埋めていた。  植えたような銀髪をいただいた大きな頭部につづく顔面は、骨格に皮膚を張りつけただけの、すさまじい老いの顔だった。|削《そ》いだようなほおは無数のしわでおおわれ、歯のない|顎《あご》の形が、鋭いのみで彫りこまれたような翳を描いていた。深い眼窩の奥底の眼が、これだけはかれの全生命力を凝集して、正視し難い力を放射していた。  その|両脇《りょうわき》に奉仕するように立っている人物に、謙造は目を見張った。吉田須摩という女と、ポール・マンテル大尉だった。  記憶が少しずつよみがえってきた。  あのレストラン・クラブの薄明の中で、マンテル大尉の物語った異常なできごと。そして、謙造の|曾《そう》|祖《そ》|母《ボ》と同じ名を名乗り、謙造の曾祖母かもしれぬと、|謎《なぞ》めいたささやきをもらしたその女。  そうだ! たしか、あのあと……。  謙造は追いつめられたけもののようにうめいた。  記憶は中断し、とつぜん再開した部分では暗黒の空間にちりばめられた数えきれぬ星々の渦だった。  そして、その星空を背景に、暗黒の天体が、まるで重さを持たぬもののように浮いていた。  あれが、祖先の栄光を今に伝えて、再建されつつある第五惑星ヤァウエだ、と告げる何者かの声が聞こえた。  そして、光に満ちた広大な施設や建物。そこには須摩もマンテル大尉もいた。そこで何を聞かされ、何を説明されたかも覚えていなかった。数十人の男や女が、むかえてくれたような気もする。|飛《ひ》|行《こう》|艇《てい》のようなものに乗せられたような気もするし、そうでないような気もする。その内部で、いったいどれだけの時間が経過したか、全くわからなかった。記憶が前後しているのかもしれなかった。 〈どうだ? 理解できたかね? 吉田謙造くん。きみの一族は、古代ヤァウエの祖先の遺伝的特性を極めて濃く受け伝えてきた。きみの曾祖母は特に顕著だった。かの女は、人々に地球を離れ、祖先の地へ|還《かえ》ることを説き、そのため終生、迫害と戦わねばならなかった。われわれはその強い意志と、使命感を無に帰することを惜しみ、きみの曾祖母の生命に再び形を与え、地球で活動をつづけさせることにした〉  謙造の胸の奥底で、曾祖母の顔が遠い稲妻のように明滅した。|盲《めし》いた曾祖母、懐しい曾祖母。 病苦と貧窮を背負い、村の者達や心ない一族の者達から事ごとに邪魔者あつかいされ、ついに早春のある日、線路の土堤の、咲き乱れたれんげの花の中でつめたくなっていた曾祖母。かの女がふたたび生命を得て、吉田須摩に転生しようとは!  ——すまあねはころされたんだべちゃ——  春の雨の日の葬いに、謙造がふと耳にした言葉が、耳の奥底によみがえってきた。 「おれの曾祖母は殺されたんだ」  盲の|瞽《ご》|女《ぜ》が、生命を断たれなければならないいかなる理由があったのか? 曾祖母の死は、一族の者たちに、ある種のあかるさを与え、それが、一族の者たちをあの町に引き留めておく、ほんのわずかの必要も理由も失わせたかのごとく、たちまち一族はいずこへともなく散り果てた。その後、かれらは、たがいに二度と顔を合わせることはなかった。  ——すまあねはころされたんだべちゃ——  そうだ! 曾祖母はひそかに殺されたのだ。一族の者の手によってだ。 「もしかしたら、おれの一族は、祖先の栄光とやらによって、遠い昔からさんざん苦しめられ、傷つけられてきたのではなかったろうか? そのため、かれらの一人は、あんたの言う偉大な吉田須摩を殺したんだよ。あれは解放だったんだ。曾祖母自身、それを願っていたのかもしれない。曾祖母はあのれんげの土堤で永久に消えるべきだったんだ」  謙造は右手を上げて、老人の傍に立つ吉田須摩を指さした。謙造は、自分の口が耳まで裂けたのではないかと思った。 「あんたは、おれの曾祖母ではない! おれの曾祖母の吉田|須《す》|摩《ま》は、一族を固く縛りつけていた血と、祖先の栄光というとほうもない夢から解放されて、あの線路|脇《わき》の土堤でつめたくなったんだ!」 「いいえ。そうではありません」  吉田須摩は静かにほお笑んだ。 「あなた自身、幼い時からの数々の体験と、あなたの持っている異能について思いなやんできているではありませんか。あなたの持っている危険を予知する能力や、離れた場所で起こっているできごとを見透す能力は、この惑星ヤァウエで開発され、後天的な遺伝として付与されたものなのです。ですから地球人は|誰《だれ》でももともとそうした能力は持っているのですよ。ただ、その起源についての知識もないし、使おうともしないから、ほとんど退化し消滅してしまいましたけれども。でも、時々、その能力が強くあらわれる人々がいるのです。吉田一族は特に顕著でした。あなたは、一族が解放されたのだと言うけれども、真の解放とは、祖先から伝えられた能力を十分に発揮して、今の地球人の貧しさや苦しみからぬけ出すことが、ほんとうの解放ではありませんか」 「ミスター・ヨシダ。そのとおりだ」  マンテル大尉は深くうなずいた。 「私は、ここへ来るまでは、私の異常な体験が何を意味するのか理解できなかった。ミスター・ヨシダ。私は誇りをもって言うが、私はあのエゼキエルの子孫だ。惑星ヤァウエの使者と語り、偉大な祖先の残した文明の一端に触れ、地球に在るなかまに対する愛と義務に目覚めたあのエゼキエルの血が、今も私の体内に流れているのだ。ミスター・ヨシダ。これは義務であり、愛なのだ」  マンテル大尉の言葉は力強く、自信にみなぎっていた。何をどうすればよいのか、かれは明快に、自らに方向を与えていた。 〈吉田謙造くん〉  老人が、聞きわけのない子供をさとすように身をのり出した。 「あんたは誰だ?」  謙造の問いに、老人の顔が翳った。吉田須摩とマンテル大尉のひとみにも、かすかな動揺が浮かんだ。 〈この部屋できみをむかえたはずだが〉  忘れたのか? 老人は言葉を切って謙造を見つめた。 「ミスター・ヨシダ。この方は、惑星ヤァウエの最高首脳で|神《じん》|祇《ぎ》|官《かん》の位を伝承されるヤァウエ四一九世でいらっしゃる」  そうだ。そういえば、そのような人物に紹介された記憶がある。 「すると、あなたが人工惑星建設計画の中心人物というわけだな」  謙造は、あんたをあなたと言い直した。 〈そう言えるかもしれん〉  老人のほほがゆがんだ。笑ったのかもしれなかった。 「あなたも地球から来たのか?」 〈わしは第四アルテアの第三惑星から来た。ヤァウエの子孫たちは、そこでも豊かな繁栄をつづけている〉 「遠い所だろう? それは」  謙造のあやふやな知識では、第四アルテアは十六光年のかなたにあるはずであった。 「あなたは、その惑星から何人引き連れてきたのだ?」  謙造としては、さして意味ある問いではなかったのだが、ヤァウエ四一九世と呼ばれる老人の顔に、無惨な失意とためらいの色が浮かんだ。 〈二百五十四人だった〉 「他の惑星からは?」 〈地球からは十七人。アルファ・ケンタウリの第二惑星から三人。|浮《ふ》|游《ゆう》惑星から四人。それだけだ。だが、年々、ふえてはいる〉 「現在、どれだけの人数が建設作業に従事しているのだ?」  マンテル大尉が引き取った。 「四百人ほどだ。しかし毎年、十人ぐらいずつふえている」 「ふえているというのは、子供が生まれているのか?」 「いや。残念ながら、まだ自然増加するまでには至っていない。男女の比も大きいし、それに、ヤァウエでは人工的に人口を増やすことができるからさし当たってそのことに問題はないのだ」 「待ってくれ。この人工惑星は、いったいいつ頃から建設を始めたのだ?」 「三千年ほど前からだ」  謙造は、ふと自分の心のどこかに、大きな穴があいたような気がした。  三千年。三千年という年月は決して短いものではない。  祖先から伝えられた極めて高度な科学技術を持ちながら、たとえ無から有を作り出すような作業とはいえ、三千年という年月はあまりにも無為に使われたように思える。 「なぜだ?」  老人の思念が謙造の心に、波のように揺れ動いた。 〈きみをここに招いたのはほかでもない。わたしの生命は、そう長くはない。時間の問題かもしれぬ。十数回の若返り手術をもってしても、ヤァウエの祖先から受けついだ技術をもってしても、三百年生きつづけることは難しい。わしの首長の役目は間もなく終わる。わしはすぐれた二人の補佐役とも計った。その結果、きみをつぎの代の首長に任じたい〉  その意味が理解され、定着するまでに一分近い時間が必要だった。 「おれが首長に? ばかな! おれはこの小さな天体で何がおこなわれ、何が進められているのか、全く知らない。ヤァウエの祖先といったところで、おれはかれらに関するほんのわずかな知識さえない。おれが首長などと、とんでもない話だ」  謙造の心に、自分でも理由のわからないはげしい忌避が動いた。それを遠慮と受け取ったのか、ヤァウエ四一九世は|頭《かぶり》を振った。 〈いや、その心配は必要ない。管理部の者がこれからきみを、この人工惑星のすみずみまで案内する。きみはそこでいろいろなことを学び、納得するだろう。そして、きみは次代の首長になることに積極的な意義を見出すだろう。さあ、行って見てきてくれたまえ〉 「いや、おれは」 〈行くのだ!〉  熱鉄のようなかれの意志が、謙造の心を|衝《つ》き動かした。 〈きみは、惑星ヤァウエについて、余すところなく目に収め、検討するのだ。建設がきみの手にゆだねられていることをつねに忘れないことだ。行くがいい。行って理解と確信を持って、わしの前に戻ってくるがよい〉  謙造は、自分の意志にかかわらず、足が動き始めたのを知った。かれは体を回し、壁に向かって歩いた。その壁がふいに真中から割れ、かれは|塵《ちり》ひとつなく|磨《みが》き上げられた回廊へ歩み出た。  そこに、銀色の|制服《ユニフォーム》に身を固めた男が一人、謙造を待っていた。男は、管理部の主任であると言って名乗ったが、その発音は聞きとり難く、謙造にたずね直す勇気も与えなかった。おそらく、地球以外の惑星からやって来た者でもあろうか。姿形は地球人となんら異なるところはなかったが、二つの目が異常に小さく、離れているのが、異境の人類であることを思わせた。  かれは謙造を、遠く離れた一画にみちびいた。そこから外に出るのだと言い、謙造に|宇宙服《スペース・スーツ》を着せた。潜水服をはるかにスマートにしたようなそれは、ほとんど重さを感じさせなかった。さまざまな装具がとりつけられ、|宇宙帽《ヘルメツト》をかぶせられると、謙造はエア・ロックに押しこまれた。二重のとびらが開いては閉じ、閉じては開くと、もう、そこは、暗黒の空間だった。      2  暗黒の空間に太陽がかがやいていた。  その太陽は、地球上で見るそれよりはやや小さく、そしてはるかに強烈な|光《こう》|芒《ぼう》を放っていた。その何物も|灼《や》きつくすような青白い光は、地球の厚い大気の底から見上げるあの|橙赤色《とうせきしょく》の円環と異なり、その実体が、たしかに|凄《せい》|絶《ぜつ》な原子爆発であることを十二分に示していた。  百億年のむかし、宇宙空間に目に見えぬ塵のようにただよっている微小物質が、たがいに引き合い、結集し、長い長い年月ののちに巨大な天体にまで成長し、やがて核反応を始めるにいたったという。  この微小物質は、|星《せい》|間《かん》|物《ぶつ》|質《しつ》と呼ばれる。水素原子や、鉄、炭素などの分子よりなる直径数ミリメートルからミリミクロンという小さな物だ。その微細な物質は、時に方数十メートルの空間に一個、時に方数千、数万メートルの空間に一個というように|浮《ふ》|游《ゆう》している。方数十メートルの空間にただよう一個の原子の存在は、およそ人類の作り出すことが可能な極めて厳密な真空よりも、なおはるかに真空に近い。それは無に近くさえある。  だが、その|空《くう》|漠《ばく》たる宇宙間も、決して不変ではないし、そこにただよう一個の原子も、|永《えい》|劫《ごう》にその位置を守りつづけるわけにはいかない。空にかがやく星々の光は、かすかな圧力でこの微細な物質を押しやろうとする。光の圧力——光圧は瞬間的なエネルギーこそ小さいが、それを持続する時、強大な力となる。はるかな宇宙の果てを目指す宇宙船などでは、もはや爆発エネルギーの利用などでは間に合わずヨットのように広大な帆を張り、星々の光の光圧を受けて飛行しなければ、とうてい、その全行程を消化することは不可能であろうといわれている。  星間物質は、星々の光を浴びて、それぞれの方向へ、目に見えぬような速度でわずかずつ移動してゆく。何十分の一ミリメートル、何百分の一ミリメートルという微小な物体が、星の光に押されて、目に見えぬようなゆっくりした速度で、何光年、何十光年という距離を移動してゆくのだ。そう考えただけでも気の遠くなるような移動を助けるものは、ただ時間だけである。宇宙空間では、広がりと時の流れだけは、無限に近く在る。  こうして、広大な宇宙空間のあちこちには、|厖《ぼう》|大《だい》な量の星間物質が集まって一種の雲を形成し始める。この星間物質の集団は、時に星々の光を反射して光の雲のようにかがやき、時に背後の星々の光をおおいかくして暗黒の雲のようにただよう。前者を散光星雲と呼び、後者を暗黒星雲と呼ぶ。星雲と呼ぶが決して星の集まりではなく、実体はまさしく微塵の集まりであり、ガスの雲である。オリオン星雲はこの散光星雲の代表であり、馬の首暗黒星雲は、その奇怪な姿が写真でなじまれている。  この星間物質の雲、そのものは極めて|稀《き》|薄《はく》であり、なおその密度は地球の大気の何万分の一という小さなものだが、そのひろがりはわが太陽系を幾つも包含できるほど広大なものである。  星々の光によって運ばれてきた星間物質の吹き|溜《だま》りであるこの雲の中では、こんどは、個々の星間物質の間で、万有引力がはたらきはじめる。二つの物質は、その質量に応じた力でたがいに引き合う。星間物質はたがいに引き合いながら、しだいに大きな塊に成長してゆく。大きな塊は小さな塊を引きつけ、さらに大きな塊を形成してゆく。こうして、長い長い時の経過ののちに、岩塊ほどの物からついに一個の天体の大きさを持つものにまで成長してゆく。このような天体を原始星という。事実、星間物質の雲の中には、これら原始星が無数の黒い点となって認められる。  その原始星はたえず周囲から添加される星間物質によって、なお成長をつづけ、その中のあるものは太陽ほどの大きさにまで達する。その中心部での巨大な圧力と超高温は、やがて水素の原子に火をともす。水素原子核融合反応の始まりである。四個の水素原子から一個のヘリウム原子が作られる。四個の水素原子にくらべ、作られたヘリウム原子の質量は一パーセントだけ小さい。この失われた分が熱や光や放射線になって放出される。その時作られるエネルギーは、千キログラムの水素の反応が石炭約二千九百万トンを瞬時に燃やしたにひとしいものを作り出す。太陽全体からみればたいへんな熱量である。  こうして、宇宙空間に太陽は|呱《こ》|々《こ》の声を上げる。  われわれの|棲《す》んでいるこの銀河系は、一千億の星々をふくんでいる。夜空にかがやく星、自ら光る星は、すべてこのようにして生まれたものである。  われわれはその中の一個の周囲をめぐる惑星の上に発生し、棲み、|目《ま》のあたりに見る巨大な光りかがやく星を、太陽と名づけたのだ。  われわれの棲む地球も、隣の火星も金星も、また土星も木星も、そのなりたちは太陽と同じである。ただ、その質量が小さく、中心部の温度が水素原子核融合反応をおこすまでにはいたらなかったのだ。  かくて、爆発する巨大な星をめぐって、自らは光ることもないつめたい星——惑星はひとつの秩序を保って公転するのみとなった。  宇宙創成以来、百億年。太陽はそのうち、五十億年足らずを経験したに過ぎない。同時に、それは地球や火星や金星の年齢でもある。われわれの棲む太陽系は、太陽を中心に、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、|冥《めい》|王《おう》星、の九個の惑星が、それぞれ整然とした軌道を保って公転している。大きさはさまざまだが、水星と冥王星はたいへん小さく、木星や土星のような巨大な惑星の周囲を回る衛星ほどの大きさしかない。火星と木星の間には、小惑星帯と呼ばれる無数の小惑星よりなる一種のゾーンがある。これは、小惑星というよりも、むしろ岩塊と呼んだ方がふさわしい岩のかけらがおびただしく空間にただよっていて一定の軌道で、太陽のまわりをめぐっているものだ。その小惑星をすべて集めると、ほぼ地球ぐらいの天体の質量と同じになり、遠いむかし、それらは一個の天体を形成していたものと考えられる。それがなんらかの原因でこなごなに砕け、無数の岩塊に化しさったのであろう。  一千億個の恒星が集まって|渦状《かじょう》星雲という星雲を作る。宇宙全体ではその渦状星雲が、さらに一千億個存在しているといわれる。一個の渦状星雲と渦状星雲の距離は、ほぼ二百万光年。つまり、光の速さで二百万年もかかる距離である。人類が作り得たもっとも倍率の高い天体望遠鏡をもってしても、見えるのは、五十億光年の距離までである。むろん、そこが宇宙の果てではない。  百億年という時間はおそろしく長いようだが、無限からみれば、それはほんのつかの間に過ぎない。この宇宙を流れる時間は、宇宙ができたときに流れ始めたものだから、時さえ、流れ始めてからまだ百億年にしかならないわけだ。その〈時〉にも終わりはある。  百億年むかし、宇宙全体は、地球ぐらいの大きさの中性子の塊だった。それがあるとき、とつぜん大爆発を起こした。凝結していた中性子はたがいにぶつかり合い、反応し合って陽子や電子を作り出していった。それらが、猛烈な勢いで膨張してゆく宇宙空間の内部にさまざまな物質を生み出した。それが星間物質であり、恒星や惑星である。その膨張はまだつづいている。現在でも、この宇宙空間に浮かぶ一千億個の巨大な渦状星雲は、毎秒何万キロメートルという速さで、宇宙の中心から遠ざかりつつある。  その速度は、確実に一秒ごとに速くなりつつある。このことは、しばしば、膨みつつある風船の、内面に印された二つの点の間隔が急速に開いてゆくという実験で説明される。  一秒ごとに加速してゆけば、遠いいつの日か、渦状星雲の速さは、光の速さである秒速約三十万キロメートルに達するであろう。アインシュタインの相対性原理によれば、光速以上の速さというものは有り得ない。  すなわち、理論的に、ある物体の移動する速さが光速に達した時、その物体の質量は無限大となり、その物体は進行方向に向かってひろがりはゼロとなる。つまり、厚さがなくなるわけだ。無限大の質量を持ち、厚さを持たない地球や自分などというものは、もはや想像することさえ不可能だ。かりに、そのような物体に変化したとしてもよい。さらに理解に苦しむのは、移動する物体の速さが、光速に近づくにつれて、その物体の上を流れる時間はしだいに遅くなり、その物体の速さが光速に達した瞬間に、時間は停止してしまう。その物体は、時間を経験しなくなるのだ。物体を人間に置きかえてみればよい。  時間が経過しない人体とは、生きているのでもなければ、死んでいるのでもない。時間が停止した瞬間の動作が凝固し、そのまま永遠にその状態が持続するのだ。呼吸もせず、心臓も|搏《う》つことがない。上げかけた手も、踏み出しかけた足もそのままに、永劫の静寂がおとずれるのだ。いかなる変化も生ずることはない。なぜなら、すべての変化は、時間の経過を意味するものであり、時間のないところには変化は生じないからである。生とは変化であり、死もまた変化である。生もなければ死もない世界、それが物理的に言って、時間のない世界である。  そのような世界がほんとに有るのだろうか?  アメリカの、パロマー山の二百インチ天体望遠鏡がとらえ得るもっとも遠い星雲は、|鯨座《くじらざ》や|乙《おと》|女《め》|座《ざ》、髪の毛座に見えるかすかな星雲であり、その距離は実に五十億光年といわれる。それは五十億年前に、その星雲を出た光が、今、地球にとどいているのである。現在、それらの星雲が、どうなっているのかは、あと五十億年たってみないとわからない。今日、その星雲を出発した光は、これから五十億年もの間、宇宙空間を走りつづけるのだ。そして、地球にとどく。これらの星雲は、その速度はすでに光速に達しているはずである。それらの星雲では、何が起きているか? われわれには永遠の|謎《なぞ》である。  かりにそこを宇宙の果て、現実に感覚される世界の果てと呼ぶなら、われわれの銀河系もまた、一瞬、一瞬、その速度を速めながら、その宇宙の果てへ向かって|驀《ばく》|進《しん》しているのだ。  暗黒の夜空にちりばめられた星々は、宇宙の創成と終末の間で、|燦《さん》|然《ぜん》とかがやいている。その創成の前に何が在ったのか? 終末の後に何が在るのか? 宇宙の創成と終末の間だけを時が流れるものならば、時はあまりにも短か過ぎる。それ以前の、それ以後の、無、のおそるべき持続と深さは、それを考える者の胸を凍らせる。  宇宙とは、そのようなものなのだ。      3  太陽の強烈なきらめきに|呑《の》みつくされ、全天をおおう星々は、その一つだに姿を見せなかった。ここから見る太陽の、ほぼ近傍に火星が、火星より左へ七度ほどずれて地球があるはずであった。それらの星々は、濃い|遮《しゃ》|光《こう》フィルターで太陽の光をさえぎった時だけ、|忽《こつ》|然《ぜん》とあらわれてくる。それは暗黒の空間を|充《う》|填《め》る星々を背景に、|赤《あか》|錆《さび》|色《いろ》の火星、淡青色の地球が、決してまたたくことのない際立った光点として、見る者の目を奪った。そして、太陽と反対の方向には、地球や火星よりは、はるかに大きな木星が、銀灰色にかがやく粗粒ほどの大きさに見えていた。  とつぜん、太陽の光がかき消えた。その一瞬、視野はすさまじい星の|饗宴《きょうえん》に変わる。赤い星、青い星、大きな星、小さな星。さらにその間を埋めるはるかに遠い微細な光の点刻。一千億の星々が、その存在を誇示し、宇宙空間の底知れぬ深さとひろがりを|垣《かい》|間《ま》|見《み》せたのだ。  ふたたび太陽がかがやき出し、青白い|閃《せん》|光《こう》が八方にのびると、星々の海は、まぼろしのように薄れ、消えていった。  太陽の光をさえぎったものが、巨大な黒い影となって、ゆっくりと虚空をすべってゆく。それはしだいに進む方向を変え、徐々に大きくなりながら接近してきた。  直径一キロメートルはあるかと思われる巨大な岩塊だった。岩塊は、その一端から、何本もの|錐《きり》のようにとがった青い炎を噴き出しながら、速度を落とし、視界から消えていった。  思いがけない位置と場所に、つぎつぎと光がまたたき始め、目まぐるしく色を変えていった。その|信号灯《シグナル》の明滅が、謙造に、かれの踏んでいる平原の|稜線《りょうせん》を教えた。  かれが踏んでいる鋼鉄の平原は、青白い太陽の光を反射して、水銀の海のようにひろがり、その果ては暗黒の宇宙に溶けこんでいた。  背後の天空に、海上の島ほどもある大きな岩塊が幾つか、その輪郭を重ね合わせて浮いていた。それらの岩塊は、あきらかに、たがいに数十本の支柱でつなぎ合わされ、固縛されていた。それは、かれが見ている間にも、少しずつその位置を低め、その下部は鋼鉄の平原の地平線のかげに沈みこもうとしていた。  案内の男は謙造に合図を送ると、スクーターをスタートさせた。モーターのかすかな震動が、座席を通して謙造の体に伝わってきた。|鋼《こう》|鈑《はん》の継ぎ目であろう、|間《かん》|歇《けつ》|的《てき》な上下動が、小さなスクーターを|翻《ほん》|弄《ろう》した。  曲率の小さな円弧を描く鋼鉄の平原は、意外に早く尽き、それより先は、たがいに連結された大小の岩塊が、るいるいとつらなっていた。強烈な太陽の光の当たっている部分は、燃える水銀のようにかがやき、陰の部分は|闇《やみ》の|深《しん》|淵《えん》に完全に埋没している。大気の存在しないここでは、大気の粒子に反射し、散乱する散乱光が全くない。地球では散乱光は、間接照明となって陰の部分をも明るく照らすが、大気の存在しない宇宙空間や、月面、火星の表面などでは、太陽に面している部分だけが目に見え、陰の部分の暗黒との境いは、切り落としたように明確である。 「この上に人工的な地表を張りつめ、岩塊と岩塊の間には、|充填材《じゅうてんざい》を埋め、また相当数の施設区画を設ける予定です。それらはすべて原子力発電所や大気製造装置、温湿調節機構などのユニット群が収容されます」  案内する男の声が、謙造のヘルメットのイヤホーンから流れ出てきた。 「それらのユニット群は、他の区画で製造中です。それを収容したところで人工地表を張り、その上に地上施設を建設します」  男の声は、自信と希望に満ちていた。かれの目には、この暗黒の空間に浮かぶ巨大な人工惑星と、その地表に|城塞《じょうさい》の|如《ごと》くつらなる都市がありありと見えているのであろう。 「現在まで結合した小惑星は三百八十四個で、なお二十一個が輸送中です。最終的には、われわれの新惑星ヤァウエは、直径二千八百キロメートル。月よりもやや小さい惑星となります」  男はよどみなく説明した。実際にはよどみなく話しているのかどうかはわからない。宇宙服に内蔵された自動翻訳器が、人工の声を伝えてくるだけだったから。しかし謙造は、男はたしかに、そのように気負っているであろうと思った。 「いつ頃、完成するのかね?」 「いつ頃かはわかりません。それは目標ですから。必要な所から造ってゆき、最終的にはどれほど巨大なものになるかは、|誰《だれ》も予測できません」 「現在の大きさは?」  たずねるつもりもなかったが、謙造の口をついて出た。 「直径二十四・八キロメートルです」  三百八十四個の小惑星を結合して、なお直径二十四・八キロメートルというのは、結合した小惑星が非常に小さいものであったことを意味している。喪われた第五惑星を再現するためには、いったいあとどのぐらいの歳月が必要なのだろうか? 千年? 一万年? あるいは十万年か? 謙造の|危《き》|惧《ぐ》を敏感に感じ取ったのか、男の声には、意識した|昂《こう》|揚《よう》がこめられた。 「今では、直径一キロメートル以上のものが集められています。先ほどもごらんになったでしょう。これからは、建設は急速に進むはずです」  鋼鉄の平原に、下方へ降る傾斜路の開口部が、暗い|陥《かん》|穽《せい》のように口を開いていた。  スクーターはその斜面を、不安定な姿勢で降っていった。  コンクリートと強化プラスチックの充填材に固縛された岩塊の集積は、地球の地底よりも硬く、|稠密《ちゅうみつ》であり、また荒々しく不気味だった。それは整然と|堆《たい》|積《せき》された地層の配列や、均等に加えられる自然の圧力とは異なった、すさまじい|撓《たわ》みや、ひずみを示していた。その間を傾斜路は、透明な円筒に包まれて迷路のように伸びていた。  やがて、前方にあかるい照明がかがやきはじめた。  とつぜん、スクーターは張り出した|岩《いわ》|棚《だな》の上に出た。そこは結合作業の工事現場だった。  頭上に十数個の照明灯がかがやき、岩棚のはるか前方の空間に、数個の岩塊が浮いていた。岩塊に取りつけられた方向|制《せい》|禦《ぎょ》用のブースターが間断なく火を噴き、チェーンが巻かれ、あるいはゆるめられ、岩塊は徐々にこちらにたぐり寄せられつつあった。岩塊の上には、何人かの豆粒ほどの人影があった。また、照明灯の光の中を、小型のゴンドラが自由に飛び回っていた。  案内の男は、それを作業の指揮者が空中から指揮をしているのだと言った。  岩塊はしだいに近づき、三人の立っている岩棚の下方から、巨大なクレーンの腕が突き出し、複雑な形の連結棒を支えていた。岩塊の表面にも、長いとげのように突き出した支柱が見える。それらを継いで、岩塊を人工惑星の本体に結合させるのであろう。信号灯がはげしい明滅をくりかえし、時に多彩な信号弾が乱れ飛んだ。だが、何の物音も聞こえなかった。大気のない宇宙空間では、音は全く伝わらない。ブースターが|吠《ほ》え、クレーンが|咆《ほう》|哮《こう》をくりかえし、信号弾がつづけざまに|炸《さく》|裂《れつ》しても、それはこの絶対の静寂に、かすかな音響をもたらすものでもなかった。作業用の周波数は異なるのであろう。三人の無線電話のイヤホーンも沈黙したままだった。  巨大な岩塊は音もなく、すべるように接近しつづける。こちらを向いたその|岩《いわ》|肌《はだ》から、無数の小さな炎が噴き出した。ブレーキ・ロケットが作動し始めた。一分、二分、近づいてくる岩塊のスピードが落ちた。連結棒を支えたクレーンが、ひときわ伸びて|鎌《かま》|首《くび》をもたげた。しきりに首を振って位置を修正している。スピードを落とした岩塊は、照明灯の光を正面から受けて、水銀のようにかがやきながら接近してくる。ブレーキ・ロケットがふたたび、炎の林を作った。減速しながら近づいてくる岩塊は、謙造の目におそろしく巨大なものに映った。それはかなり|急峻《きゅうしゅん》な山の頂きを、その底辺から水平に断ち切ったような三角形をなし、圧倒的な量感を見せてのしかかってきた。  信号弾が狂気のように交錯した。  謙造が座席から立ち上がるのと、男が操縦席からころげ出るのがほとんど同時だった。男の絶叫が、謙造の鼓膜を突き刺した。  謙造は必死に足を動かした。気密服の足はほとんど動かなかった。謙造は倒れ、誰かの手がその謙造の体のどこかをつかんで引きずった。  引きずられる謙造の目に、巨大な岩塊が、音もなく岩棚の端にくいこんでくるのが映った。  謙造の体は、まりのようにおどった。どちらが上で、どちらが下なのか、感覚はもはやそれをとらえようもなかった。  岩塊はなお推力を失わず、なだれのように本体を粉砕しながら進みつつあり、岩棚はすでにその半分を失っていた。すべては高速度撮影のシーンのように、ゆっくりと、だが確実に進行していった。クレーンや、連結棒や、照明灯や、ゴンドラや、電線の束、金属|管《パイプ》などが、重さを持たぬもののように宙に舞い、暗黒の空間に吸い込まれていった。無数の岩石の破片が、吹雪のように飛び散り、それに混じっておびただしい数の人間の形をした銀色の物体が、あるいは手足をひろげ、あるいは胎児のように体をちぢめ、底知れぬ深淵に消えていった。  鋼鉄の平原の一部がむしり取られ、怪鳥の羽のように大きくひるがえって視界から消えた。コンクリートや強化プラスチックの充填材が|剥《は》がれ、|削《そ》ぎ落とされ、鋼鉄の平原を支える支柱の基部が露出し、それもたちまち引き裂けると、ゆっくりと宇宙空間に舞い上がった。  謙造の体に、雨のように岩の破片が降ってきた。岩棚に開口していた透明なトンネルは完全に押しつぶされ、それが在った位置さえ定かではなかった。  そのとき、落下してきた岩塊のひとつが、謙造の上体を打った。彼はその場に倒れた。急速に薄れてゆく意識の中で、かれは、これは決して覚めることのない夢なのだと思った。それは暗く、やりきれない夢だった。  最初に気がついた時、周囲には青白い光が充満していた。それは、ほんの一瞬も見つめていることができぬほど強烈な光であり、まぶたを固く閉じても、眼底を刺しつらぬいて灼くような苦痛を与えた。  謙造は、今、自分は手術台の上にいるのであろうと思った。  まぶしい! 消してくれ!  謙造はさけんだ。  応えはなく、光は消えなかった。  謙造はふたたび意識を失った。  二度目に意識が戻ったとき、周囲は濃い闇に閉ざされていた。  体を動かすと、ふいに|頭《ず》|蓋《がい》の内部に、錐をもみこまれるような痛みがはしった。その苦痛が、謙造の意識を急速に、現実に引きもどした。事態の記憶が、ひとつのまとまりをもって復元した時、謙造の心を、すさまじい恐怖がつらぬいた。  おれは死んだのだろうか?  死んだのだろうか?  おれは……  一瞬、謙造は、自分がすでに埋葬され、土中で息を吹き返したのではないか、と思った。どこかに、死へのつながりがあった。だが、記憶の部分に、小さな欠落があって、それが謙造に、おのれの死さえ、はなはだ非現実的なものに感じさせた。  謙造は体を起こした。  体の周囲に、|砂《さ》|塵《じん》が爆煙のように舞い上がった。頭からも、腕からも、岩石の細片がなだれ落ちた。謙造は、自分の体が埋没していたことを知った。  頭部の痛みは鈍痛に変わった。呼吸が荒く、心臓の鼓動は手足の指の先まで、大きく震わせていた。  闇に目が|馴《な》れるにつれ、周囲の光景がまぼろしのように浮かび上がってきた。  光ともいえないようなかすかな光が、荒涼たる崩壊の跡を、わびしく照らしていた。  謙造は、それが星の光であることに気づいた。視野の上半分は、光の点刻模様をはめこんだような星の海だった。あの、青白い光を投げかける太陽は、この人工惑星の背後にあるのであろう。  謙造はそろそろと位置を変えた。その動きにつれて、淡い光が|翳《かげ》を生んだ。謙造にとっては、その|星光《スター・ライト》が唯一の助けだった。  五メートルも移動しないうちに、足もとの岩棚はほとんど形を残していないことに気がついた。その岩棚を支えていたはずの、大岩塊も、コンクリートの充填部分も、巨大な支柱もすべて失われ、頭上にあったはずの鋼鉄の平原の一部が、なぜか、視野の下方をふさいでいた。その平原を支えていた何本もの支柱が、屋根を失った柱廊のように、整然と|屹《きつ》|立《りつ》していた。遠く、近く、巨大な岩塊が黒い影となって浮いていた。それらの岩塊は、この人工惑星を建設する基材として運ばれてきたものであろう。謙造は、その作業の光景を思い起こした。  謙造は、暗い岩棚のふちをたどっていった。制禦を失った大岩塊が、減速も間に合わず、撃突してきたその一瞬の光景が目に灼きついていた。謙造は|魅《ひ》かれるように足を運んだ。その現場は遠くないはずだった。  岩棚は十メートルほどで終わり、その先は人工の壁面に沿って、折れ曲がった支柱の基台が軌道のように伸びていた。  その幅は二メートルもなかった。眼下は、裏返しになった鋼鉄の平原でおおわれていたが、上方は|広《こう》|漠《ばく》たる星の海だった。一歩、足を踏みはずしたら、地球のように下方に向かって石のように落下してゆくのか、それとも、果てもなく広がる星の海へとめどもなく|墜《お》ちてゆくのか、どちらともわからなかったが、恐怖は|湧《わ》かなかった。数日前の謙造には、考えられもしないことだった。それは建築中の超高層ビルの細い鉄骨を渡るよりも、危険で困難な作業だった。  支柱の軌道は途中で一度、急角度に折れ曲がって垂れ下がり、その先は暗黒の翳の部分に消えていた。謙造はその部分から、岩壁の|窪《くぼ》みへ移り、手足のかかる所を求めては一寸刻みに体を運んでいった。何も考えなかった。前方の、突き出た岩鼻を回りこめば、事故の現場が目に入るにちがいないというはげしい期待だけが手足を動かした。  一度、謙造の両手が、岩壁の窪みからはずれ、体がふわりと宙に浮いた。全身の血が逆流した。夢中でのばした手が、垂れ下がっていた電線に触れた。謙造は電線を握る指先に、全身の力をこめ、体重を支えた。謙造の体重を支えきれぬ電線はずるずるとのび、謙造はロープにぶら下がった形で、壁面をずり落ちていった。長い降下ののち、やがて足が硬い物に触れた。  そこは最前、はるか眼下に見た鋼鉄の平原の上だった。そこまで降ると、上では見えなかった太陽が、頭上を区切る大円弧の際にかがやいていた。  その青白い光の中に、壮大な崩壊が|裂《れつ》|孔《こう》を開いていた。直径二十四・八キロメートルの人工惑星は、ほぼその四分の一を失っていた。撃突した大岩塊が削り取っていったのであろう。すり|鉢《ばち》状にえぐられた崩壊面の最深部は、この人工惑星の、ほぼ中心部まで届いているようだった。地表をおおって張りつめられた鋼鉄の平原は、花弁のように引き裂けて外方へ開き、ねじ曲げられて帯のように星空へくねっていた。岩塊と岩塊を結び、充填材をつらぬくおびただしい脇材や連結棒や電路|管《パイプ》は、千切れた血管のようにもつれ合い、からみ合って崩壊面に複雑な影を落としていた。  動くものの影ひとつなく、深い静寂だけが周囲を支配していた。  復旧作業も、救助作業もおこなわれていないようだった。  謙造は、自分が意識を失っていた時間は、相当に長く、その間に、各種の作業は進められ、一応、終わりを告げたところなのであろうと思った。  この計画の推進者であり、中心的頭脳でもあるヤァウエ四一九世の苦渋が、謙造にはある痛みをともなって理解された。創業の苦しみと、困難は、まさにかくの如きものにほかならないであろう。  直径二十四・八キロメートルの微小な人工惑星に、いささかでも失望を感じた自分は、間違っていたと思った。それは一種の感動でもあった。  謙造は林立する支柱の間をたどって進んだ。支柱の影は、平原に正確無比な幾何学模様を|灼《や》きつけていた。  そのとき、謙造の足が止まった。      4  支柱の暗い影になかば溶けて、うずくまっているものの姿があった。 「どうした? けがをしているのか?」  答えはなかった。もう一度、呼びかけたが|無《む》|駄《だ》だった。  相手の無線電話機が役に立たないのかもしれない。  謙造は歩み寄った。  銀色の気密服をまとった三、四人の人物が、体を寄せ合っていた。  かれらは、近づいてゆく謙造に、沈黙したまま、顔を向けていた。  ヘルメットの中の、鉛色の顔が、気密服の一部であるかのように、ほんのわずかの表情も浮かべなかった。  かれらは、手足を投げ出し、支柱に背をあずけてただ時間の経過に身をまかせているようだった。 「けがをしたのか?」  もう一度たずねると、はげしい息づかいとともに、ひどく|嗄《しわが》れた声がもどってきた。その声音は聞きとり難く、その意味も判然としなかった。だが、けがなどしていない、と言っているらしい。 「こんな所で何をしているのだ?」  復旧作業に従っているとも見えないし、その合間の休憩とも思えない。 「指令を待っているのだ」  別な声が答えた。 「指令を待つ?」  長い沈黙があった。 「大きな事故があった」 「それは知っている、復旧作業はまだ始まらないのか?」 「ここへ来たばかりか?」 「そうだ」  投げやりな笑いが、声もなく、かれらの中に湧いて消えた。それは暗い波紋のように謙造の胸に伝わってきた。 「ここでは、救助作業には何の意味もない。どんなにささやかな事故でも、死ぬか生きるか、どちらかだ。けがということはない」  宇宙空間での作業は極めてきびしい。宇宙服に、ほんの針の先ほどの穴があいても、人体の血液はたちまち沸騰し、また真空にさらされた肉体は風船玉のように破裂して、骨肉は宙に飛散してしまう。宇宙服の温度調節装置が、三十秒停止しただけで、太陽に向いている側は、百八十度Cにも達し、その反対の陰の部分では、マイナス百五十度Cの極低温にさらされる。このはげしい温度差は、即死に近い死をもたらす。その死からのがれるためには、温度調節装置の故障に気づいたら、ただちに|独《こ》|楽《ま》のように体を回転させつづけなければならない。それをしながら、安全な場所へ待避することができるかどうかで生死がきまる。 「復旧作業はまだ始まらないのか?」 「あの事故が起きてから三十時間たったが、事故の調査が始まるまでには、このけち臭い石の塊が三十回も自転しなければだめだろうぜ」  三十時間? 「もう、そんなにたつのか? 事故が起こってから!」  そんなに長い間、意識を失っていたとは思わなかった。すさまじい撃突の瞬間の光景は、一分前のできごとのように鮮烈にまぶたの裏に焼きついていた。それだけに、地球時間で、十五日もたたなければ、事故の調査がおこなわれないというのが、ふしぎであり、異状でもあった。 「生命があっただけでも有難いというものだぜ。よほど装備がよかったのだろう」  かれらの、ヘルメットの中の顔が、謙造の宇宙服を見上げ、見下し、それからついと横にそれた。  そのとき、とつぜん、謙造は気づいた。かれは身をかがめると、うずくまっている男の一人のヘルメットに両手をかけ、ぐいと仰向かせた。男は抵抗したが、謙造の力の方がはるかに強かった。男の首は、ヘルメットの中でねじ曲げられた。  灰色の顔がそこにあった。古い渋紙のように、しわと|汚《し》|点《み》におおわれ、血の気と弾力を失ったその顔は、まがうべきもない老人のものだった。  老人の顔は、ヘルメットの中で無惨にゆがんだ。 「おまえ。年寄りを見たことがないのか? その手を離せ!」  謙造は他の一人の顔をのぞきこんだ。さらにもう一人。残った一人は、もはやたしかめてみるまでもなかった。  かれらはことごとく、人生の終末もそう遠くない老人たちだった。 「なぜ、おまえたちのような老人が、こんな危険な作業についているのだ?」 「おまえの質問の半分には意味がない。ここには危険でない作業などというものはない。質問の残りの半分だが、二百年も前には、おれたちもまだ若かったさ」 「二百年?」 「おれたちの中で、もっとも若い者でさえ百四十年はここではたらいている」 「ちょっと待ってくれ。人間が二百年も生きることができるのか?」 「おれは東インド会社の鉱山技師だった。ラワルピンディの鉱山事務所にいた時、ある男にこの計画に参加することをすすめられたのだ」 「わしは一八一四年のウィーン会議を知っとるよ。町はわきかえっておった。毎日毎日、祭のようなさわぎじゃったよ。なんであんなに浮かれたものかの」 「わしはクリミア戦争に出征した。砲兵中尉じゃったよ。キエフに|居《お》ったんじゃ」  かれらの声には、失ったものの大きさと重さを傷む悲痛なひびきがこめられていた。 「信じられない。人間が二百年も生きつづけるなど」 「ヤァウエに残された科学では難しいことではない。だが、それとて不死ではない。確実に老いは来る。このようにな。ゆっくりと、非常にゆっくりとな」  滅び去ったヤァウエの文明は、人類の願いの幾つかを実現させたのであろう。二百年生きることは、生きないことよりもよいにきまっている。 「二百年もの間、ずっとここで建設作業に従っていたのか?」 「ここへやって来た時は、わしはまだ二十一歳の青年だった。ウィーンの町で、音楽学院の副手をやっていたわしには、この作業は夢そのものじゃった」  老人は見果てぬ夢をいとおしむかのように、声を落とした。 「だが、見たところ、もう労働には耐えられないように見えるが。若者はいないのか? 労働力がそれほど不足しているのか?」  謙造はもどかしくたずねた。 「若者? 若者もいることはいるさ。今だって、労働力の補給は計っているだろうよ。だがな、もう、ここへ、この人工惑星へやって来る者はいないようだ。やって来る数少ない若者は、労働力として使うよりも、ヤァウエの文化遺産を継承させ、ふたたび各地へ送り出してやるだけで精いっぱいなのだ。客人よ。人類の祖先の伝説を信じ、その祖先の遺した文明を継承して、人工惑星ヤァウエを再建するなどという話を、今、いったい誰が信ずるかね? 客人よ。信じない者に強制的に宇宙旅行を体験させたらそれだけで、気が狂ってしまうだろう。このヤァウエに連れてくるためには、先ず、信じさせねばならぬではないか」  老人の声は、うめきのように断続した。 「ヤァウエ四一九世はそんな悲観的なことは言っていなかったが」 「かれはつねに最高の理性と楽観の持ち主だ。かれの夢は|永《えい》|劫《ごう》に変わるまい。だが、もはやかれの夢は、かれだけのものとして終わろうとしているのではないかな?」 「客人よ。ヤァウエの|子《うみ》|孫《のこ》らは、幾十、幾百の星の上に散って、それぞれの土地に|馴《な》|染《じ》んでしまった。その土地の自然が、かれらを祖先とはまるで異なった生物に変えてしまった。その体や、その体に宿った心が、それぞれの夢を作らせ、その夢を実現させる方法を考え出させた。もうかれらには祖先もヤァウエも必要ないのだ」 「客人よ。かれらは、宇宙を飛ぶ船を見ても信じまい。たとえ地球に着陸した宇宙船があったとしても、それが、人々の間でどのような話題としてとり上げられ、真剣に検討されるかね? 宇宙船を目撃した者があっても、それを口にしないのではないだろうか! おれが生きていた時代ではそうだった。今の地球は、その頃からどれだけ変わったかね?」  謙造は|萎《な》えかかる心を|奮《ふる》い立たせた。 「変わったはずだ! いや、たしかに変わった。今では、月面に探検隊が行けるようになったし、火星や金星にも観測ロケットを軟着陸させることができた」  老人たちは鳥のような声で笑った。 「客人よ。わしらの言うことは、そんなことではないのだ。月に人間が着陸できたとしても、また、火星や金星にロケットを打ちこめたとしても、それがわしらの言うことと、いったい、何の関係がある? 客人よ。月面に降り立つ勇気と技術は、遠いむかしに壊滅した第五惑星ヤァウエの伝説を、事実として認め、それを再建しようとする心とは、本質的に別なものじゃろう。月面に降り立つのに必要な勇気と技術は、ヤァウエを|識《し》る為のものとは違う」 「おまえたちの知識からみれば、地球の宇宙科学のレベルは、極めて低いだろうし、|素《そ》|朴《ぼく》なものだろうが、やがては、ここまで飛べるような宇宙船ができるだろう」 「客人よ。ヤァウエの伝説を信じ、曲がりなりにも、ていさいを備えたこの人工惑星を目にしながらも、しょせんは理解の外にある。地球人は、やがてはここへやって来るだろう。そのとき、この人工惑星ヤァウエを見て、どのように思うだろうか? 考えるまでもないことだ。学者がやって来て、徹底的に調べ上げる。そのつぎに保存しようとするだろう。宇宙で|出《で》|逢《あ》ったはじめての異生物だ。そしてその異生物の文明だ。地球人たちは、探検の成果に極めて満足するだろうよ。第五惑星ヤァウエの残した文明は、非常な関心と人気を集め、人々は、地球の滅亡した民族の伝説を読むように興奮して、そのニュースを聞くだろうよ。それだけだ。それで終わりだ。事件は完結する。地球人にとって、第五惑星ヤァウエは、結局、宇宙探検のめずらしいひとつのエピソードに過ぎないのだ」 「いや。人類はヤァウエの文明の遺産を、喜んで自らの中に包含しようとするだろう」  謙造の声には力がこもった。 「客人よ、それがわれわれを慰め、われわれの労働に意義づけをしようと思っているのなら、とんだ見当違いだし、お笑い草だ。包含する? 何を! |記念碑《モニュメント》を建てることと、影響されることとは同じことだ。影響するとかされること自体には何の意味もないだろう。認識することと同化することが違うことぐらい、おまえに念を押すまでもあるまい。これは信仰の問題なのだ」 「客人よ。異域の文明を、自分たちのものとは異なる、という判断を生み出す基は、認識の|様式《パターン》ではあるまい。かれらにとっては、もはや、遠いむかしの伝説など、どうでもよいのだ。なぜなら、かれらが伝説を作らなければならぬからだ。かつて、第五惑星の住人たちがやったように」 「自ら伝説を作る?」 「宇宙時代のはじまりには、もってこいの伝説ではないか。伝説によって伝説を作り出し、かれらは酔うのだ。第五惑星ヤァウエの|類稀《たぐいまれ》な文明を吸収し、自分たちの文明に役立てたならば、どれほどめざましい進歩が得られるかわからない。だが、それを知っていてもそうはしないだろう」 「なぜだ?」 「かれらにとっては、異端だからだ」 「だが、ヤァウエの文明を再建しようとする者たちは、遠い二千年のむかしから、いや、たぶんもっとむかしから、人類を故郷に呼びかえそうと努力してきたのだろう。だが、その頃は科学も発達していなかったし、人々の考えも、ごく身近な生活の範囲に限られていただろうから、ヤァウエ復帰を説かれても、それがいったい何のことなのか、理解できなかったのだろう。だが、今は事情が違う。地球の文明には、外から注入される新しい血が必要だ。宗教も哲学も老いた。芸術すら技術がその中核をなしているありさまだ。人類には新しいエネルギーが必要だし、そのエネルギーを生み出すための|衝撃《ショック》が要るのだ」  老人たちは、もはや語ることに意欲を失ったか、声も聞きとり難いほど低く、言葉も少なくなった。 「ヤァウエの思想は、地球では宗教として理解された。仏教やキリスト教、回教あるいはそれ以前の原始宗教といわれるさまざまな宗教だ」 「それはどういう意味だ?」 「…………」 「それはどういう意味だ?」 「おまえ、東洋人ならば、|彼《ひ》|岸《がん》という言葉を知っているだろう。彼岸とは、向こう岸のことだ。東洋では、この世と死者の世界の境には、川があるそうだな」 「|三《さん》|途《ず》の川だ」 「その川の向こう岸が彼岸なのだろう。そんな考え方がなぜあらわれたのか? 生と死の境に川があるなどとよ? かれらにとって、あの世とは見知らぬ世界のこと。決して行くことの不可能な世界のことだ。三途の川は、生きたままでは渡ることのできぬ川よ。客人。あの世とは、遠い世界のこと。渡るべき川とは、実は、そこに至る越え難い空間のことだ。それらが何を指すかは、言うまでもあるまい。また、|色《しき》|即《そく》|是《ぜ》|空《くう》とは何だ? 色とは存在。空とは時間と空間のことだ。存在とは時空エネルギーのひとつの状態であり、その様相は時間の変化にともなって、瞬時もとどまることがない、という物理学上の理論だ。|釈《しゃ》|迦《か》は、それを数学的に理解することができず、抽象的な哲学に変形させてしまった。イエスは第五惑星ヤァウエを、単なる至福の地としてとらえ、それを父なる神の|在《お》わす天国としてのみ理解した。かれは、その天国を信じ、祈りによってもたらされる至福を説いた。ゾロアスターで言う、アフラマズダとは何だ? 客人よ。かれらに与えられた宇宙に関する知識は、かれらの内部ですべてこのように|変《へん》|貌《ぼう》してしまった。これは、未だ科学が発達していなかったからとか、人類の知能程度が低かったからとか、そんなことではないのだ。人類はもはや、第五惑星ヤァウエの栄光ある|子《うみ》|孫《のこ》ではないのだ。それは全く別種の生物だ。かれらにとっては、栄光ある祖先など、どうでもよいのだ。もともと、人類は唯一度たりとも、神を信じたことなど、なかったではないか!」 「そんなことはない。仏教やキリスト教は、貧しい人たちの味方だったし、かれらの苦しみをやわらげるために、昔から多くの宗教家たちは活躍してきた」 「作りものの神でな」 「作りものでもよいではないか! しょせん、神は作りものだ」 「人類の神はほんとうに人を貧しさから救い上げることができたのか? 人類の神は、ほんとうにかれらからその苦しみを取り除くことができたのか? 神は、人から激越な感情を取り除くことによって、その不幸を軽減しようとした。感受性の問題として処理しようとしたのだ。客人よ。不幸とは心の問題ではあるまい。宗教が、人を救い得なかったのは、宗教家が至らなかったせいでも、民衆が愚かだったせいでもない。それはもともと、人を救うための思想でもなんでもない。宇宙空間に関するただの知識に過ぎなかったからだ」  かれらはそこで死をむかえようとする者のように長々と横たわり、もう二度と答えようとしなかった。  謙造はよろめく足を踏みしめてそこを離れた。      5  ガントリー・クレーンの|残《ざん》|骸《がい》が、巨大な古代動物の骨格のように星空にそびえていた。崩れ落ちた岩壁が、氷河のように、星の光に青白くかがやいていた。謙造はその岩壁の下を、|這《は》うように進んだ。どこをどうたどれば、鋼鉄の平原の上に出られるのか、あの管理部のあるエリアにたどり着くことができるのか、全くわからなかったが、救助作業に望みをかけることがかなわぬ以上、自分で脱出路を見出さねばならなかった。永久にこの暗黒の岩壁の下から離れることができないのか、という恐怖や不安が、謙造の足を休みなく前へ運ばせた。足元を埋めるおびただしい岩石の破片は、時おり、かれの体重を載せたまま、右へ左へ流れ走った。微細な破片が|粉《ふん》|塵《じん》のように舞い上がった。  岩壁の破砕面が、大氷河の切断面のように|硝子状《ガラスじょう》に融け、星の光に青白くかがやいていた。瞬間的な、すさまじい高熱で融かされたものであろう。  おそらくここが、あの巨大な岩塊が撃突した場所であろう。ゆるやかな円弧を描いていたにちがいない人工の地表は、打ち砕かれ、もぎ取られ、爆裂火口のようなすり鉢形の窪みに変貌し幾つもの|亀《き》|裂《れつ》を生じていた。亀裂は、奥深く、この人工惑星の中心部から反対側の地表まで届いているのではないかと思われた。  謙造は、破砕口の、八十度近い急斜面を回り込んでいった。その急斜面に、何番目かの巨大な亀裂が、暗黒の口を開いていた。  謙造の足が止まった。  深い亀裂の奥に、かすかな光が動いたような気がした。内部をうかがう。何も見えない。目の迷いだったのだろう。  ふたたび、歩き出そうとしたとき、こんどは、|闇《やみ》の奥に、あきらかに光が動いた。光は瞬時に消えたが、その残影は謙造のまぶたの裏に灼きついた。  かれは亀裂の内部に足を踏み入れた。亀裂は幅が数メートル。高さは十数メートルもあった。かれのヘルメットのライトが、|岩《いわ》|肌《はだ》に黄白色の光環を描いた。  亀裂は、二十メートルほどで終わっていた。荒々しい岩肌だけが、未完の坑道のように謙造をさえぎった。 「何だったのだろう? あの光は?」  謙造は岩壁をたんねんに調べ、位置を変えては目を凝らした。しかし、ついに光の正体はとらえることができなかった。  あきらめた謙造は、ライトを消し、亀裂の入口へ向かった。星の光は、亀裂の入口を鋭い二等辺三角形に浮き上がらせた。  とつぜん、謙造の足もとに、一条の細い赤い光が走った。その光は、岩壁のせまい亀裂から射しこんできたものだった。かれのライトがその、か細い瞬時の光条を打ち消していたのだ。  謙造はその細い亀裂に目を押し当てた。だが、ヘルメットの顔面をおおう球面が、亀裂と目との間を大きく隔て、その亀裂の向こうにあるものをうかがわせなかった。  そこでは、何かの作業がおこなわれているらしい。岩壁の厚さは、亀裂の部分で十数センチメートルと思われた。そこを破れば作業をしている者たちと合流することができる。謙造の全身に希望が湧いた。  かれは石塊をひろい上げると、それを|斧《おの》に使って、細い亀裂の部分の掘り崩しにかかった。  最初の石塊が、粉砕するまでに、亀裂は一センチメートルも開かなかった。つぎの石塊を手にしたとき、謙造は、ヘルメットのライトに気がついた。むしり取って、それで亀裂をくじる。二時間ほどの作業ののちに、亀裂は両手を押しこめるほどに開いた。  亀裂の向こう側は、|洞《どう》|窟《くつ》のような広い空間になっていた。その空間の中央に、銀色の巨大な物体が置かれていた。謙造の視界の外に赤色の光源があり、|間《かん》|歇《けつ》的に赤い光が、空間の内部に充満した。人影はなかった。  謙造は|渾《こん》|身《しん》の力を腕にこめた。二度、三度。手ごたえを生じたと思ったとたんに、亀裂は大きく崩壊し、かれがくぐりぬけることができるほどの大きな穴が開いた。  かれはその穴から這いこんだ。  目の前に異様な物体がそびえていた。  組み上げられた鋼鉄のトラスの上のそれは、もっとも直径の大きな部分で、二十メートル。中央部の厚さ数メートルはあろうかと思われる|扁《へん》|平《ぺい》な、|皿《さら》|形《がた》の物体だった。上部と下部に、幾層かの突起物を重ね、表面にハッチや、|円《えん》|蓋《がい》で閉された窓と思われるものが配されていた。  この形状に、謙造は見覚えがあった。それは正しく、あの『空飛ぶ円盤』と呼ばれる飛行物体にほかならなかった。  謙造の心に、はげしい感動が湧いた。これまで、雑誌の想像図や、真実かどうかわからない不鮮明な写真でしか見たことがないそれが、目の前にあった。  謙造は吸い寄せられるように進んだ。  トラスの下に立って、その物体の下端は、謙造の手の届く高さにあった。  謙造は手をのばし、銀色にかがやくその|外《がい》|鈑《はん》に触れた。  物体から洞窟の床へ金属製のラダーがのびていた。謙造はそのラダーを上がった。|楕《だ》|円《えん》|形《けい》のハッチの|扉《とびら》を押すと、扉は軽く開いた。  謙造は船内に入った。  薄暗い|電《でん》|灯《とう》が、縦横に組み合わされた骨組みを、|見《み》|棄《す》てられた建設工事場のようにわびしく照らしていた。床には、この人工惑星のどこにでもある砂塵や岩石の細かい破片が、厚く|堆《たい》|積《せき》し、謙造の|宇《ブ》|宙《ー》|靴《ツ》の下から、煙のように舞い上がった。  薄暗い光の中で、内部の空間は、外形をそのまま内側から見た形をなしていた。  いかなる機器も、装置も、さらに内部を幾つかに区切るであろうはずの床も壁もなかった。  謙造は長い間、その薄暗い空間を見つめていた。  ひどく異なったものがここにあった。  見る者の胸を凍らせるようなえたいの知れぬ異質なものがここにはあった。  謙造は、足音をしのばせるようにハッチから外へ出た。出る時に気づいたが、ハッチの扉は、薄いブリキ板だった。ステンレスか、あるいはチタニウム合金かと思われた白銀色の外鈑も、強化プラスチックの成形パネルやブリキ板のような薄い鉄板だった。  謙造が床に下り立ったとき、とつぜん、洞窟の出口を形作って大きなドアが左右に開いた。数個の人影が、とまどったように謙造を見つめた。謙造はとっさに、自分が掘り崩した亀裂へ向かって走ろうとした。  ふいに、謙造の全身を、電撃のような|衝撃《ショック》が走りぬけた。強烈なしびれがあとに残った。 〈止れ! 動くな!〉  するどい警告が、謙造の|頭《ず》|蓋《がい》の内部に鳴りひびいた。それは鼓膜のはたらきとは全く無縁に、直接、謙造の大脳灰白質に|火《ひ》|箭《や》のように射ち込まれた。 〈おまえは何者だ? なぜ、宇宙船に近づいた?〉  ふたたび頭蓋の中で声がひびいた。 「おれは、地球からやって来たばかりだ。三十時間前の事故で、おれにはまだ五分もたっていないような気がするのだが、あの事故で管理部エリアへ帰る道をふさがれた。出口をさがしているうちに、ここへ入ってしまったのだ」  洞窟の出口に立つ人々は、沈黙したまま動かない。 「管理部へ連絡を取ってくれないか? あるいは帰る道を教えてくれ」  謙造は、二、三歩、かれらへ向かって歩み寄った。  とたんに、無数の触手で刺されるような|灼熱感《しゃくねつかん》をともなった鋭い痛みが、全身の皮膚を収縮させた。それは瞬間に消えたが、全身の皮下組織に|疼《とう》|痛《つう》と異様な熱感を残した。  謙造は、はじかれたように後じさった。それは敵意をこめた警告だった。 「何をする! おれの言うことがわからないのか!」  なお、ぶきみな沈黙がつづいた。 「これは何だ? 何を作っているのだ?」  自分でも、わけのわからぬ怒りが爆発した。 〈わかった。照合の結果、おまえの言うとおりであることが判明した。だが、おまえはここにあるものを見た〉  謙造の頭脳に届いてくる声は、わずかばかりもきびしさを変えなかった。 「たしかに見たが、それが何かいけないことなのか? おれはヤァウエ四一九世に、この人工惑星のすみずみまで見るように言われた」 〈これはかれとは何の関係もない〉  かれとは何の関係もない? 「それは、どういうことだ?」 〈動くな! われわれはヤァウエ四一九世のために働いているのではない〉 「いったい何を作っているのだ? これは何だ? 第五惑星ヤァウエのために働いているのではないとすると、おまえたちは何者だ?」  ふたたび、氷のような沈黙がもどった。謙造ははげしい焦燥にかられた。 「教えてくれ! おまえたちは何者だ?」  長い沈黙の末に、答えが返ってきた。 〈われわれは宇宙船を建造している〉 「宇宙船を? 宇宙船なら管理部に何隻もあるではないか」 〈われわれの宇宙船だ〉 「われわれとは?」 〈われわれはいかなる組織にも属さない。われわれは旅立つ。われわれの世界を求めてだ〉  謙造は、はげしい惑乱に口ごもった。  旅立つとはいかなることか?  われわれの世界とは? 〈われわれは、宇宙船を完成した。われわれは、遠い宇宙のかなたへ向かって旅立つ。この破滅に|瀕《ひん》した惑星ヤァウエに|訣《けつ》|別《べつ》を告げるのだ〉  宇宙船を完成した? 「それはすばらしい。独力で宇宙船を完成したのか?」 〈そうだ。われわれは、何ものの力も借りない〉 「おれにも見せてくれ! その宇宙船を」 〈おまえは、われわれの許しなくすでに見ているが、許してやろう。何度でも見るがよい〉 「どこにあるのだ?」 〈どこにだと? おまえの目の前にあるではないか!〉  謙造は声もなく立ちすくんだ。  これが宇宙船か?  この、プラスチック板とブリキで張られたこれが宇宙船なのか?  謙造は、おそろしい危険に|喘《あえ》いだ。  かれらは許すつもりはないのだ。悪意に満ちた|諧謔《かいぎゃく》と皮肉は、そのあとにつづく制裁を意味している。 「待ってくれ! おれは何もおまえたちの秘密を知ろうとして、ここへしのびこんだのではない。ほんとうに脱出路をさがしていて、偶然に、この洞窟を発見したのだ」  謙造は洞窟の壁を背負ってさけんだ。  洞窟の出口の前に立っていた一団の人影は、一列になって進んできた。先頭を進む人物は、銃のような武器を携えていた。かれらは、黙々と足を運び、張り殻の宇宙船の下に横隊を作った。かれらがその位置で百八十度体を回せば、そのまま、謙造に対する銃殺隊となる。  しかし、かれらは、なぜか、もはや謙造に何の関心も示さなかった。  かれらは、宇宙服のヘルメットをややあお向け、彫像のようにならんでいた。かれらの視線は、微動だもせずに、頭上の宇宙船に向けられていた。かれらの後ろ姿からは、犯し難い威厳と確信があふれていた。 〈……われわれは今、この破滅に瀕した惑星ヤァウエを棄てようとしている……行先は、火星か、金星か、それとも太陽系からはるかな距離にある未知の惑星系か、われわれの|誰《だれ》も知らない……われわれの宇宙船は数光年の距離をいっきに飛び……〉  きれぎれな言葉が、謙造の胸に、波紋のように届いてきた。それを語る者は、謙造に伝えようとしているのではなかった。かれはもはや完全に忘れさられたのだ。  やがて、かれらは一人ずつラダーを上り、張り殻の宇宙船の内部に姿を消していった。  ブリキのハッチが閉まると、死のような静寂がおとずれてきた。  謙造は身動きもしなかった。  時間がゆっくりとたっていった。  謙造はそっとラダーを上った。  ブリキのハッチは、音もなく開いた。  |釣《つり》|鐘《がね》の内部のような、薄暗い空間のあちこちに、数個の人影が、まぼろしのように立っていた。よく見ると、かれらはあるいはめまぐるしく両手を動かし、あるいは何もない空間に目を当て、しきりに何かをのぞきこむような動作をくりかえしていた。  それが、宇宙船を操っている乗組員のさまざまな動作だとわかったとき、謙造は静かにハッチを閉じた。  たとえようもなくやりきれない何かが、謙造の思考を奪った。  見てはならないものだった。かれらのためにではない。自分のためにだった。  病める心の描く幻想を、幻想だと|嗤《わら》えるような何ものもここにはなかった。  祖先の栄光は栄光でなくば狂気だった。この暗くつめたい岩と|砂《さ》|塵《じん》の小さな天体に、明日を夢見るのも旅立ちならば、遠い日のできごとに同化して、それより逃れることをねがうのも、これは旅立ちの陰画にほかならなかった。  謙造はよろめきながらその場を逃れた。      6  エア・ロックで宇宙服を脱ぎ棄てると、謙造は真昼のような回廊をいそいだ。管理部のエリアは人の気配もなく、静まりかえっていた。ヤァウエ四一九世の居室はどこか? 謙造は見当もつかなかった。  回廊の平滑な壁面の両側には、あちこちにそこが開閉することを示す細い割線が認められたが、その部分を作動させるためのスイッチらしいものも見当たらない。ようやく姿をあらわした管理部員らしい男にたずねると、謙造はまるで違った方向へ連れてゆかれた。  ドアが開くと男は謙造をその場へ残し、自分だけが中へ入っていった。なかなか出てこない。一時間も待ったかと思われる頃、ようやく顔を出した。 「どうぞ、お入り下さい」  部屋へ入ると、この前と同じように中央の|椅《い》|子《す》にヤァウエ四一九世が体を沈めていた。その両側に吉田須摩とトーマス・F・マンテル大尉がつき従っている。 「ヤァウエ四一九世! あなたの命ずるように、おれはこの人工惑星を見てきた。すみずみまで見ることはできなかったが、非常に大事な部分を見てきた。何をおれが見てきたかは言う必要もない。言いたいことは、どうやらあなた自身、ヤァウエの祖先の栄光の再現などというとほうもない夢は棄てた方がいいようだ。あなたは、大きな錯覚をしている。たしかに、ヤァウエの祖先たちは非常に優れた科学技術を持っていたようだ。持っていたようだ、という過去形でしか、おれは言いようがない。なぜなら、それは、どんなやり方をもってしても、現在の、この、おれたちとは結びつけようのないものだからだ。いいか! ヤァウエ四一九世。あなたたちの受けついできた優れた文明が、地球人にとってどんなに未来的な超科学的なものであったとしても、しょせん、それは遠い過去のものではないか! それに、文明というものは、時間の経過の中で、望むと否とにかかわらず、自然発生的に生まれ発展してゆくものだ。たとえ過去に、どんなに優れた文明が存在したからといって、それを現実の中でどのように役立てるのだ? もうやめてくれ!」 〈きみが外で何を見てきたかは、もとより問うところではない。だが、きみはわしの苦悩そのものを見てきたはずだ。きみたち地球人は、現在の地球での人類の繁栄を基準にして、過去や未来を考える。第四アルテアの第三惑星の連中も同じだ。またアルファ・ケンタウリの第二惑星の者たちもそうだ。もちろん、かれらはそれぞれ、その地できずいた文明に、発達の程度の違いはある。第四アルテアでは、地球の文明よりもはるかに高度な文明をきずいた。アルファ・ケンタウリでは、いまだに原始的な蒸気エンジンの段階だ。これはすべて、それぞれの土地における自然環境が原因だ。極めて高度な文明を所有するに至った第四アルテアの場合でも、古代ヤァウエの文明に比すると、あわれなほど|素《そ》|朴《ぼく》なものだ。ヤァウエの子孫たちは、もっともっと高い文明を享受する資格があるのだ。権利があるのだ。それをわれわれは提供しようとしているのだ。そのためには、もう一度、ヤァウエの子孫たちは、失われた故郷を再建し、結集しなければならないのだ〉  ヤァウエ四一九世の言葉は、|怒《ど》|濤《とう》の如く謙造の胸にぶつかり、謙造の思考を洗いざらい押し流そうとした。  謙造はさけんだ。必死にさけんだ。 「ちがう! それは支配欲だ! 自分が文明の中心にありたいと願う支配欲だ! それは|恩寵《おんちょう》ではない。神になりたいだけだ。そうだ! おまえはかつて神だったのだろう。破壊と滅亡をもたらす神だったのだろう!」  謙造はヤァウエ四一九世に走りよった。自分でも何をしようとしているのかわからなかった。マンテル大尉や吉田須摩が、かれをヤァウエ四一九世から引き離そうとして謙造ともみ合った。  謙造の手が、ヤァウエ四一九世の体のどこかをつかんだ。  ヤァウエ四一九世の体は、何の抵抗もなく椅子から落ちた。陶器の人形のように硬い音がした。  謙造はかれの体を抱き上げた。ひどく軽かった。氷のようにつめたいそれは、かれが無生物と化して、すでに長い年月をへていることをさとらせた。  謙造はヤァウエ四一九世の体をそっと床に横たえた。どのような技術が、空気中で死体をそのように保存させることができるのだろうか? 水分を全くふくまぬ乾燥体ではあるが、ミイラではない。骨と皮ばかりにやせて|干《ひ》|涸《から》びているのは、死の直前のかれの肉体の状況にほかならない。  無数のしわにおおわれている皮膚にも、腐敗の跡や兆候は全くなかった。 〈人は死と破壊を恐れ、それを忌み鎮めんがために祭った。死と破壊はつねに人のかたわらに在り、それ故、人はつねに祭り、神は人の上に在った〉  声はさらにつづいた。  謙造の心は|凍《い》てついた。 〈人は破壊と死に、神を見た。人はそれを求めたのだ。もし、恩寵が神のものとすれば、人の求めた神は何を与えればよいのか?〉  声は雷鳴のように謙造の体内に鳴りひびいた。 〈ヤァウエに神はいない。必要ないのだ。ここではいかなる種類のわざわいも、単なる数値の問題として解消し得るのだ。人々の生活は|完《かん》|璧《ぺき》に設計され、推進され、二百年の生命を十二分に生きることができる。人々に祈りは必要ない。人々はすべてを忘れた。破壊も死も……〉  謙造は、狂気のように室内を見回した。  ヤァウエ四一九世の玉座のような座席の背後の壁に、一つのドアがあった。  謙造は突進した。ドアは音もなく開いた。  そこは、三方が分厚いガラスで囲まれた大きな張り出し窓になっていた。  謙造はそのガラスにひたいを押しつけた。  まばゆいガラスの反射の向こうに、海のような薄明がひろがっていた。  その薄明の中に、謙造は何かを見たような気がした。  それは上から下へ、下から上へ、ゆっくりと動くともなく動いていた。はるかな眼下と、遠い上方では、それは視野のひろがりそのものになっていた。どれほどの厚さがあるものか、想像もし難い。そして、それははるかな高さから、幾十本もの太い柱となって垂れ下がり、その中ほどでは細くくびれて無数の|空《くう》|洞《どう》を作り、網の目のように入り組んで千切れるかと思うと、ふたたび太さを増して、下方へとどいて|渦《うず》を描いていた。最初、それは上から下へと垂れ下がっているのかと思ったが、そうではなく、中には下方から上方へ向かって流動してゆくものもあった。液体であるとすれば、地球上では考えられぬほど粘性の高い液体だった。謙造の立っている張り出し窓に近い空間を、太い柱のようなものが、ゆっくりと伸び上がってきた。それは、落下した砲弾が水面に作る水柱によく似ていた。それは休みなく伸びつづけ、やがて先端は、上方に密雲のように浮かぶ塊りと同化した。液体であるとすれば、引力にさからって自ら伸び上がってゆく水面があろうはずがない。林立する林にさまたげられ、前方の空間の広さは|窺《うかが》いようもなかったが、上方と下方の塊りとの間は三百メートルもあろう。上方から垂れ下がった柱が、細くくびれた中ほどからついに中断すると、双方はそれぞれの方向へ収縮していった。それらの動きは、それ自体に生命と意志があるとしか思えなかった。  林立する柱の間を、巨大な球体が幾つも群れをなして影のようにただよってきた。それらは、あるものは柱に吸い付けられて溶融して失われ、また、あるものは逆に柱の一部を千切り取ってそれを溶かしこみ、膨れ上がりながらさらにただよっていった。また、その球体の群れより、はるかに小さな|泡状《あわじょう》の物体が、魚群のように柱の間をかすめて、すばやく動き回っていた。柱の間で、時おりかすかな|閃《せん》|光《こう》がはしった。その閃光の方向から、煙のように形のない物が、電光のような速さであらわれ出で、一瞬ひるがえって上方へ消えていった。  永遠の|黄《たそ》|昏《がれ》のような薄明の中で、それは狂気の描いたまぼろしのように不条理であり、とりとめもなかった。謙造はそれに類するいかなる形象も思い出すことができなかった。  ふりかえると、吉田須摩とマンテル大尉が、恐怖に体をすくませて謙造を見つめていた。 「これは何だ?」  二人の顔は、つめたい汗に|濡《ぬ》れていた。 「言え! これは何だ?」  二人はたがいに相手の心の中をのぞきこむように視線を交した。そして二人は、謙造の問いに答えなければならない事態がきてしまったことをさとったようだった。 「これは……これは、第五惑星ヤァウエの支配者です」 「支配者?」 「かれは考え、記憶し、判断し、命令します。地球人の概念で言えば、これはまさしく神でしょう」 「それで、これはいったい何なのだ?」 「かつて、惑星ヤァウエを支配したもの。そして、人々をして、遠い過去のすぐれた文明の継承者となさしめようとしている偉大な神です」 「神であろうと支配者であろうとどっちだってかまわない。それよりも、これは何なのだ?」 「大脳灰白質の細胞の一個を、巨大化したものです」  謙造は自分の耳が、どうかなってしまったのだろうと思った。 「これが?」 「ヤァウエ一世の大脳の細胞です」 「…………」 「ヤァウエ一世は偉大なお方でした。それまで、|混《こん》|沌《とん》の状態にあったヤァウエを統一し、また、物理学、化学、生理学、医学など、それぞれまちまちであった発達の段階を一挙に統一的にレベルを引き上げ、総合的な科学としてひとつに融合されたのです。その結果として、ヤァウエは比類ない文明を持つことができました。古代ヤァウエでは、時間の流れを|制《せい》|禦《ぎょ》することさえできたのです」 「いつ頃のことだ?」 「二十万年も前のことです」 「ヤァウエ一世は、やがてご自分の肉体が滅びに近いことをさとられ、ご自分の大脳に特殊な技術的処理をほどこし、永遠にヤァウエの中枢として生きつづけられることを考えつかれました。同時にそれは、ヤァウエの文明を永遠に子孫たちに残し、伝えるためでもありました」 「ヤァウエ一世の頭脳が永遠に生きつづけなければならなかった、というのはなぜだ? 記録や、さまざまな知識や技術は、たとえヤァウエ一世その人が死んだとしても、受けつがれてゆくものだろう」  吉田須摩は|哀《かな》しげに首をふった。 「いいえ。そうではありませんでした。ヤァウエでは、一個の偉大な頭脳が、人々の頭脳を完全に代行していました」 「すると、一人一人の人間は、何も考えることをしなかったのか?」 「記憶や判断は、すべてヤァウエ一世にまかせていました」 「そんな、ばかな! 一人一人の人間が自分で考えることをやめ、一個の偉大な頭脳にたよることなど」 「でも、現在、地球人はそれと同じことをやろうとしているではありませんか? |電子計算機《コンピューター》というのは、あれは何でしょう? 地球人の潜在意識の中に、遠いむかし、重要な判断を、あやまりのないものにまかせていた記憶が残っているからではないでしょうか? やがて人類は、政治も経済も、すべて|電子計算機《コンピューター》の命ずるままにやるようになるでしょう。それは一人一人が考えることをやめ、もっとも公平で平均的な数値を自分のものだと誤認してそれに従うことです。かつてのヤァウエの人々がそうであったように。地球人は結局、ヤァウエの子孫なのです。地球人は、ヤァウエの偉大な頭脳の幻影を追っているのでしょう。結局、ヤァウエの子孫はヤァウエに|還《かえ》る以外にないのでしょう」  謙造はガラス窓に体をあずけて、向こう側の世界を見つめた。  そこにあるものは、巨大な細胞の内部だった。一個の細胞に集約された大脳全体の能力が、ここではどのような仕組みで進められ、はたらいているのか、知り得ようもなかったが、目の前でくりひろげられている原形質の流動や、|浮《ふ》|游《ゆう》する粒子の動きは、あきらかに生命の根源に違いなかった。それはひとり、ヤァウエの天才的指導者のそれではなく、太陽系内外に|拡《かく》|散《さん》した古代ヤァウエの子孫たちすべてに波及し、その未来をもあずかるものであった。目の前にあるものこそ、神であり、絶対そのものだった。 〈わかったかね? 吉田謙造くん。きみはヤァウエ四一九世の跡を継いで、わしの代弁者となるのだ。代弁者というのが、きみのプライドを傷つける言い方であったら許してくれたまえ。別な言い方をすれば、きみはわしと同一化するのだ。ヤァウエの子孫たちは、今のわしの形を好まぬ。人は人以外の形のものによる支配を好まぬ。実に不届きな話だ。わしにすがり、すべてわしにたよって生活しながらわしの姿を恐れ、忌避するとは。遠いむかし、わしに対する反乱がおこった。わしは苦しみ、考え、そしてひとつの結論に達した。わしはかれらに、破壊と死を与えた。かれらが全く忘れていたものだ〉  謙造はうめいた。  遠いむかし、太陽系に起こった異常なできごとの原因。第五惑星が崩壊し、飛散し、|残《ざん》|骸《がい》が無数の岩石塊となって、その頃の第五惑星の軌道を今なおめぐりつづけているその破滅の原因が、ここにあった。 「なぜだ!」 〈破壊と死こそ、神の恩寵であるということを、おまえはまだ理解できないのか?〉  謙造は、長い間、かれを監視し、あの夜の町でかれの生命をねらってきた男たちがあったことを思い出した。 「おれは、ひどいやり方で監視され、時に生命を奪われようとした。あれらが何者であったのか、今わかった。おまえに言おう。人類はおまえに対する反抗をまだ忘れてはいない。おまえがふたたび世に出ることを、阻止しようとしてはたらきつづけている者たちがたくさん居るのだ」 〈そのことが、ヤァウエの子孫を無秩序と破滅から救うことになるのか?〉 「それはわからない。だが、ヤァウエの子孫たちは一人立ちしたいのだ。一人立ちして歩いて行けるのか、ころんでしまうのかわからないが、行かせてやったらいいではないか」 〈もはや二度と、この太陽系に高度な知的生命が発生することはないだろう。第五惑星ヤァウエに与えられた、たった一度の機会だったのだ〉  ヤァウエ一世の言葉には、限りない怨恨と火のような憎しみがあった。 〈さあ、あの椅子へ|坐《すわ》れ! あの椅子はわしと直結している。おまえの、地球人としての知識や、思考や判断のパターンは、わしの無形の|滋《じ》|養《よう》|物《ぶつ》でもある。おまえは、以後、あの椅子より立ち上がる必要はない。おまえはわしの代わりに多くの人に会い、わしの言葉を伝えるのだ。おまえは長い長い年月を生きつづけ、神として人々に恩寵を与えるのだ〉  気がついたとき、謙造は張り出し窓を背にして、椅子に向かって体を運んでいた。謙造の意志にかかわらず、足は機械のように動いた。  よせ! やめろ! やめてくれ!  謙造はさけんだ。しかし、声は出なかった。  謙造の足がもつれ、謙造は前へ泳いだ。椅子で体を支えようとして、椅子もろとも床に転倒した。  声は、椅子をもとの位置に直し、それへ体をゆだねるように命じていた。謙造は椅子を引き起こし、もとの位置を計った。どんな物質で作られているのか、射出座席に似た巨大な椅子は、極めて軽く、容易に移動することができた。  それに体をのせようとした謙造の目に、背後の開かれたままのドアが見えた。その向こうに薄明の海があった。その海は強烈な意志の広がりだった。  謙造の体内で何かが音を立てて|炸《さく》|裂《れつ》した。謙造は、椅子をさし上げた。走った。  頭蓋の内部を引き裂けるような苦痛がつらぬいた。  謙造は全身の力をふるって、椅子をガラスにたたきつけた。二度、三度。ガラスの表面に白い細い条が入りはじめた。  謙造は腕を動かしつづけた。  謙造の胸に、|曾《そう》|祖《そ》|母《ぼ》の死を待っていたかのように、散り散りに消え去った一族のことが、ちら、と浮かんだ。  どこかで非常ベルが鳴っていた。     第五章 旅人|還《かえ》らず      1  体がひどくつめたかった。冷気は全身をくまなくおおい、重い質感をもって厚くひふに|貼《は》りついていた。それがしだいに鼻孔から気管をつたい、ついに肺の中まで侵入してきた。謙造の体はたえ間なく震え、急速に失われてゆく体温が、残された生命を刻々ときざんでいった。 「つめたい! 寒い! 助けてくれ!」  謙造はさけんだ。だが、さけびは声にならなかった。おそろしい焦慮と、不安が謙造を|衝《つ》き上げた。全身の力をふりしぼると、ようやく声が出た。  その声に、謙造はわれにかえった。  よみがえった意識の中に、最初にとびこんできたものは、つめたい雨だった。  かなりはげしい雨が謙造の体をたたき、周囲の暗い夜の|闇《やみ》に音をたてていた。  おぼろににじむ|街《がい》|灯《とう》の光の中を、無数の銀線となって走る雨が、謙造の胸に、ここが現実の雨の夜の街であることを覚知させた。  街路を打つ雨の音のほかは、何も聞こえなかった。  謙造は気力をふるって体を起こした。  酔いの|醒《さ》めるのにも似た生理的な不快感が、|汚《お》|澱《り》のように全身にひろがった。  雨に濡れる人影のない街路に、点々と|灯《ひ》がともり、街灯を消した家並がつづいていた。それが明確に見覚えのある夜景に|変《へん》|貌《ぼう》したとき、謙造は自分がわが家の前に倒れていたことを知った。  わが家の門まで、十メートル足らずの距離であった。  いったい、おれはどうしたのだろう?  何ひとつ考えがまとまらなかった。  おれは、会社を飛び出してから、今まで、どこかをさまよっていたのだろうか?  頭のどこかで、それを肯定したい気持ちが動いていた。たぶんそうだろう。それにちがいないのだ!  無理にそうきめてしまいたかった。  だが——  謙造は水から上がったような上着の|袖《そで》|口《ぐち》をたくし上げ、腕の時計を街灯の光にかざした。時計は動いていた。針は午前二時をかなり過ぎていた。  今は、会社を出た日の翌日なのだろうか?  動きを止めたような思考力の中で、それを疑わせるような新しい不安が|渦《うず》|巻《ま》いていた。雨は今、降り始めたものではないようだった。もう何時間も、ことによったら何日も降りつづいているような街の濡れかただった。  半ば薄れている|厖《ぼう》|大《だい》な記憶が確かな時間の経過を、謙造に教えていた。  あれは夢ではない! 決して夢ではない!  謙造は|喘《あえ》いだ。  夢でないとすると、いったい何なのだ?  幻覚か? ちがう。狂気の描き出した幻想か? ちがう。断じてちがう!  謙造は傷ついたけもののように立ち上がった。  わが家の門までの、十メートルの距離は、無限の隔たりに思えた。  謙造は一歩、一歩、その距離をちぢめていった。  謙造は玄関のブザーを押しつづけた。家の中でブザーが鳴っているのが、遠い世界のできごとのようにかすかに伝わってきた。  長い時間が経過し、やがて玄関の内部に灯がともった。  ドア|脇《わき》のガラス・ブロックに、妻の弘子のガウンの色が映った。その色彩がドアの向こう側に移ってきた。ドアのマジック・アイから、外をうかがっているらしい。  急に小さなさけび声が聞こえ、錠のはずれる音がして、ドアが開いた。  謙造は玄関へくずれこみ、汚れてつめたいタイルの床に打ち倒れた。  目が覚めると、カーテン越しに朝の光があかるく寝室の内部にみなぎっていた。  妻の弘子と娘の梨枝の声が、茶の間から聞こえてくる。テレビの音も伝わってくる。  まぎれもなく、いつもの寝室だった。  謙造はべッドを降りると、影を踏むようなおぼつかない足どりで寝室を出た。  茶の間では、梨枝が朝めしをかきこんでいるところだった。 「あら、おとうさん。今朝は早いわね」  ささげた茶碗の向こうで梨枝の目が笑っていた。  弘子が台所から顔をのぞかせた。 「あなた。大丈夫ですか?」  心配そうに言う。 「大丈夫? 何が?」 「ゆうべはたいへんだったじゃありませんか。よっぽどお医者さんを呼ぼうかと思ったんですよ」 「どうして!」 「どうして、だって! あなた、ゆうべ、と言ったって二時半だったからもう今朝ですよ。びしょ濡れになって帰っていらしてね、そのまま玄関へ倒れてしまったんですよ。体はかっかしているし、なんだか意識はないみたいだし、梨枝と二人でベッドへ運んで、体をふくやら着がえをさせるやら、それはたいへんだったんですから。ねえ、梨枝ちゃん」 「うん」  謙造には、その記憶は全くなかった。ただ、降りしきる雨ににじむ街灯の光だけが、頭のすみに残っていた。  謙造は、窓の外のせまい庭に目を向けた。わずかばかりの庭木の緑が、雨に洗われてあざやかだった。|水《みず》|溜《たま》りに朝の光がまぶしく反射していた。 「あなたが出がけに、課の人達に飲ませるんだって言っていらしたから、帰りは遅くなるだろうとは思っていたけれども。タクシーじゃなかったんですか? どこから歩いてらしたんですか?」  やつぎ早やにたずねる弘子の、ひとことが謙造の凝縮した心の被膜に触れた。 「おれが何で課の連中に飲ませなければならないんだ! だいいち、おれは……」  会社を飛び出したんだ。と、言いかけて、謙造は口をつぐんだ。それは|機《お》|会《り》を見て言った方がいい。それに、なぜか今はそれを口にしない方がいいような気もした。 「あら、あなた。こんど新しくできた販売促進課の課長になったんで、その|挨《あい》|拶《さつ》の意味で課の人達に飲ませるんだって、そう言ってらしたでしょう」 「おれが販売促進課の課長に? そんな……」  謙造は自分の耳を疑った。ここでは、何か、想像もつかないような事態が起こっているようだった。 「おとうさん。課長になったもんで、嬉しくって、ぽうっとなってんじゃないの?」  梨枝が白い歯を見せて笑い、しっかりしてよ、と言った。  それにしても、おれが見たものは何だったのだ? 遠い宇宙の、あの荒涼とした星々の海と、|見《み》|棄《す》てられた惑星。そこにくりひろげられた建設の情熱と虚無のドラマはいったい何だったのだろう?  なぜ、そこからおれはここへ舞いもどって来たのだろう? 何よりも、どうやっておれはここへ帰って来たのだろう?  そうだ! おれはあの場で、生命を断たれていたはずだ。その記憶はないが、事態はあきらかに、そうした結果を招いていたはずだった。  夢や幻覚でないことは、心に刻みつけられた恐怖の現実的な重さが証明していた。それは覚めたとたんに|稀《き》|薄《はく》になってゆく心象世界の残影とは全く異なっていた。  梨枝は、彫像のように立ちつくしている謙造に首をかしげ、それから首をすくめて食卓から離れた。 「たいへんだ! あと十五分しかないや。遅刻するわ」  いつもの朝の大騒ぎが始まって、梨枝は玄関へ通学|鞄《かばん》を運び出した。 「あ、おとうさん! こんどの日曜日の音楽会、来てくれるでしょうね?」  玄関から声が飛んできた。 「おとうさん! 聞こえないの!」  梨枝のさけび声に、謙造の思念は打ち破られた。 「う、うん。なに? 音楽会? 音楽会がどうかしたのか?」  食卓をふいていた妻の弘子がたしなめた。 「あなた。忘れちゃだめですよ。こんどの日曜日、梨枝の学校の音楽会で、あの子、ピアノを独奏するんじゃありませんか」 「ピアノを? 梨枝が?」 「なにを言ってるんですか! あなた」 「おい。梨枝は絵を描くのが好きだったんじゃないか」 「絵ですか?」 「美術がとくいだったろう。展覧会に何回も入選したりしてさ。ピアノをやっていたとはしらなかったな」 「あなた!」 「中学の美術の教師の佐久間という男にかわいがられていたじゃないか」  口にしたくなかった人物の名が、思わず口から出てしまった。謙造の目は、反射的に弘子の顔に走った。弘子の顔に浮かんでいるのは、けげんそうな色ばかりだった。 「梨枝の中学の美術の先生は、中西先生ですよ。それに梨枝は展覧会に入選したことなんて、一度もありませんよ。音楽コンクールでは、ピアノで、二回ほどありますけれども」  謙造は、全身の力が、足裏から抜けてゆくのを感じた。足が|萎《な》えて立っていられなくなった。ぶざまな形で、その場へ|尻《しり》を落とした。 「音楽の先生は何というんだ?」  何から整理したらよいのか、わからず、謙造は、美術教師の佐久間に対応する人物の名をたずねた。その音楽教師が弘子と…… 「富岡先生じゃありませんか。富岡正子先生。ほら、もう年輩の」  謙造は声もなくうなだれた。妙にはぐらかされた気持ちが、かえってみじめだった。 「あ、七時四十分ですよ。あなた、いそがなくては。課長さんになったとたんに遅刻ではね」  弘子は、謙造の気持ちにはおかまいなしに、食卓の上に謙造の茶碗やはしをならべはじめた。それらは、たしかにこれまで謙造が使ってきたものだった。  ドアを押して室内に入ると、壁の時計は始業の九時の二、三分前を指していた。 「お早うございます」 「お早うございます!」  もう机に向かっている連中や、まだ窓ぎわで雑談を交している連中から、いっせいに声が送られてきた。 「課長、ゆうべは大丈夫でしたか? ここで降ろしてくれ、なんて言って、タクシーを降りたのが東十条の駅前でしょう。ひと駅以上もの距離を歩いたんですか?」 「課長はたぶん、あれから、一人でいい所へ寄ったんだろうなんて皆で言っていたんですよ」 「吉田さんが、あんなに飲めるなんて思わなかったな」  皆が思い思いに、|揶《や》|揄《ゆ》するように、おもねるように言う。かれらの顔には、よく知っている者もあれば、ほとんどしらないものもあった。新しくできた課とあれば、他の課から転出してきた者もあるのだろう。  中央に通路をとり、左右よりにならべられた机を両翼にした正面の机が課長のものらしかった。謙造の記憶ではその場所は、清水が坐っていた所だった。  清水はどうしたのだろう? 謙造は、たばこに火をつけながら、ちら、と皆の上に視線を走らせた。始業のベルが鳴った。  西村がいる! 西村はいつもの、のんびりした調子で、ロッカーから分厚い帳簿を取りおろしていた。北沢も! 清水の腰巾着だった北沢も神妙な顔で電卓をたたいている。城田菊枝もいた。知っているのはその三人だけだった。あとは他の課から回ってきた者たちなのであろう。  西村はたしか、会社の秘密を経済週刊誌に流して、なにがしかのかねをつかみ、退職したはずだった。城田菊枝も、謙造に不利な密告をおこなった張本人だった。  かれらがやはりここにいる。  もはや疑いようがなかった。  この世界は、かつて謙造が存在していた世界とは、あきらかに異なった別な世界だった。  謙造の背中を、つめたいあぶら汗が、滝のように流れた。惑乱する心を支えるのに、おそろしい勇気が要った。  あの惑星でのできごとを、夢や幻覚と思いこもうとする努力は、今や無用だった。これも、疑いようもないひとつの現実だった。  おれは別の世界へ|還《かえ》ってきたのだ!  謙造は心の中でうめいた。  謙造はひそかに歯を|喰《く》いしばり、かろうじて|椅《い》|子《す》にかけた姿勢をたもちつづけた。  そのとき、机の上のインターフォンのブザーが鳴った。謙造はその音は耳には入っていたものの、自分を呼んでいるものとは気づかなかった。  謙造の背後の|書《しょ》|棚《だな》から、ファイルを取り出していた課員の一人が、いぶかしそうな目を謙造に走らせ、いつまでも鳴りつづけるインターフォンに腕をのばした。 〈吉田課長。営業部長がお呼びです〉  なめらかな女の声が流れ出た。 「課長。課長」 「あ?」 「営業部長がお呼びだそうです。どうなさいました? ご気分でもお悪いんですか?」 「いや。すまん。ちょっと考えごとをしていたものだから」  謙造は、照れかくしに快活をよそおって答え、席を立った。      2  営業部長室は隣に立つ本社のビルの三階にあった。謙造はいったん外へ出て、本社ビルへ入った。  営業部長は会議室にいるという。  四階の幹部会議室のドアを開くと、営業部長でもある専務の今川の、相撲取りのような大きな体が目にとびこんできた。今川だけではなかった。総務部長や支社長筆頭、輸出部長ら、重役陣である今川一族が顔をそろえていた。  謙造は、かれらを前にして身を固くした。 「吉田くん。わざわざ呼び出したりしてすまん。いやね、実はこんどの中央通商との提携におおいに尽力してくれた君を、皆がねぎらいたいと言うものでね」  今川部長は、妙に謙造をおだてる調子で浮々と言った。 「ねぎらうなんて、そんな」  謙造は胸の中で、今川の言葉を反すうした。中央通商との提携に、おれがいったい何をしたというのだろう? 「中央通商が、うちのスタティックミキサーを、付属品もろとも、全部引受けてくれるとは思わなかったよ。そればかりではない。引続きうちを窓口にして、カナディアン・エレクトリックのものを|輸《い》|入《れ》たいというに至っては、皆、もうぼうぜんたるありさまだよ。こうなれば、うちがカナディアン・エレクトリックの、日本における総代理店になれるわけだ。きみが出かけて説得してくれたそうだが、何か秘策でもあったのかね?」 「いえ、別に……」 「何か強力なコネでもあるのかね?」  支店長筆頭が身をのり出した。どうやら、そこに聞き出したい何かがあるらしい。 「コネなんて、そんな」  支店長筆頭は疑るような表情を浮かべた。どうやら彼は、謙造にその強力なコネがあると見ているらしい。それをもっともっと有効に使いたいというのが、この引見の最大のねらいであるようだった。  重役たちは、口々に彼を賞めそやし、彼の、口利き、が中央通商のどのあたりにはたらいたのか、しきりにさぐりを入れてきた。  謙造は答えようがなかった。だが、そんなことは知らないと言ってしまっては、えらいことになる。あいまいな返答が、かえって重役たちの謙造に対する認識を深めたようだった。この男は使えそうだ。そう思ったのだろう。  経済界と人脈のつながりがとぼしいのが、同族会社の泣き所だ。重役たちは、謙造に新光物産と中央通商の間を結ぶ一本の太いパイプを感じた。 「吉田くん。ぼくらは今、これからは売込みのむずかしい所には、きみに行ってもらおうか、などと話していたところだよ」  輸出部長が金ぶちの眼鏡を光らせて、けたたましい声で笑った。 「それにしても、よく中央通商との間をまとめたものだ。全くよくやってくれた」 「吉田くん。きみには、さしあたって新しくできた販売促進課の長になってもらったが、これから先のことはわれわれとしても十分に考えているからね。ま、しっかりやってくれたまえ」  今川部長の言葉がしめくくりで、謙造は放免された。  幹部会議室を出た謙造は、そのまま自分の課へもどる気になれなかった。  足がひとりでに動いて、エレベーターに乗り、謙造はあかるい|陽《ひ》|射《ざ》しのみちあふれた街路へ出た。  街の騒音が非現実的な音響の壁となって謙造を押しつつんできた。  むしょうにたばこが吸いたくなってきて、謙造はポケットをまさぐった。だがポケットの中には、たばこもライターも無かった。指先はポケットの中のライターの感触をしきりに求めた。  謙造はたばこ屋に立ち寄って、たばこをひと箱買った。一本抜き取り、ガラスケースに置かれた大きな徳用マッチを擦った。ひと息吸いつけたとたんに、謙造ははげしくむせた。体を折って|咳《せ》きこみ、手の火をつけたたばこを|棄《す》てた。奇妙なことに、体がたばこを受けつけなくなってしまっていた。  世界が変わってしまうと同時に、謙造の体内にも、なんらかの生理的変化が生じたようであった。  謙造は無意識に街路を横切り、街角を曲がり、人に追い越され追いこし、黙々と歩いた。  ふと気がついた時、謙造は見おぼえのあるドアの前に立っていた。かくれ場所ともいうべき、あの喫茶店だった。そこにだけ、|誰《だれ》にも邪魔されぬ平穏があるはずだった。そして、すべてはそこから始まったのだった。そこへ行ってみれば何かわかるかもしれない。謙造は吸い寄せられるようにドアを入った。      3  昼だというのに、店はサラリーマン風の男たちでいっぱいだった。たったひとつだけあいていた椅子に腰をおろすと、にわかに耐えられない疲労が全身を押しつつんできた。すべてがむなしく、すべてがうそのようだった。ひざで支えたうでで頭をかかえると、体はかぎりなく下へ下へと|墜《お》ちていった。どこまで墜ちても|奈《な》|落《らく》はさらに下にあった。 「お客さん。ぐあいが悪いんですか?」  近寄ってきたウエイトレスが謙造の肩を小突いた。顔を上げると、すでにコーヒーは運ばれてきていて、ミルクの被膜を浮かべてつめたくなっていた。謙造は体を起こして鉛の塊りのような重いうでを動かして砂糖の入った小さなセロハン袋を千切った。乾いた微細な粒子は謙造の意志に反してテーブルの上に一面に散った。謙造はコーヒーを飲むのをあきらめてふたたび身を沈めた。  あたたかく、暗く、かぎりない何かが謙造を呼んでいた。孤独よりも甘く、絶望よりも痛烈な、|哀《かな》しみよりも乾いた何かが謙造の心をはげしく吸引していた。  そのとき、かすかな風のさやぎとともに謙造の前のあいている椅子に一人の女がそっと腰をおろした。  目を上げると銀ねずの地に細い黒の|棒《ぼう》|縞《じま》の渋い和服を|粋《いき》に着こなした女だった。水を運んできたウエイトレスに、 「お紅茶」  短く言った。  女は運ばれてきた紅茶をひと口飲んだだけで皿の上にもどした。女は、そのよそおいにもしぐさにも何かひどく豪華なものを発散させながら、だまって謙造に白いうなじを見せていた。  そうだ! この女だ!  謙造は思わず腰を浮かせた。テーブルの端を握った指が白くなっていた。  この女が呼び止め、それが始まりだった。 「きみ!」  謙造はテーブルに身を乗り出した。女は顔を上げ、謙造の形相にはげしいおびえの色を浮かべた。 「きみ。これはどういうことなのだ? 説明してくれ!」  女の大きな涼しい目は、たしかに謙造の記憶の中にあるものだった。だが、その目の中のおびえは、謙造の知っているものとはまるで違っているものだった。  謙造の腕はテーブル越しに女の肩をつかんでいた。テーブルが傾き、コーヒーカップや|灰《はい》|皿《ざら》がすべり落ち、床でけたたましい音をたてた。 「言え! 言うんだ!」  謙造の手が女の肩からのどにのび、謙造は全身の力を指先にこめた。女の口が空気を求めて大きく開かれ、その奥で薄赤い舌がひきつれていた。  それまであっけにとられていた周囲の客が総立ちになった。何本もの手が謙造と女の間に割って入り、二人を引き離そうとした。強い打撃が謙造の背や肩を襲ってきた。謙造はその打撃に耐えながら、十本の指に力を加えつづけた。もう何秒か耐えれば、すべてから謙造は解放されるはずだった。長い長い|呪《じゅ》|縛《ばく》から解放されるはずであった。  謙造は今、はじめてさとった。  彼の目の前に、荒涼たる冬枯れの山野がひろがった。  奥羽連峰の|山《やま》|裾《すそ》が、そのまま広く押し出してできたような台地。その台地にひっそりと身を寄せたように|貼《は》りついている暗い小さな町。灰色の空を、羽毛のような雪片が絶えず舞っていた。なぜか、その雪の中にれんげ草が咲いていた。  幼い謙造は、そのれんげ草と雪華の中で、|曾《そう》|祖《そ》|母《ぼ》の首を締めつづけていたのだ。|盲《めし》いた老いの体は謙造よりもまだ小さく、それに曾祖母は謙造の手の中で全く抵抗をみせなかった。わかっていたのだ。曾祖母には。自分が|曾《ひ》|孫《まご》の謙造の手にかかることを、いつの頃からかさとっていたにちがいない。何ものかの呪縛から逃れるには、それしかないことを知っていたにちがいないのだ。  ——すまあねはころされたんだべちゃ。  そのことを確信しながらも、一族の者たちはそのことに触れることをおそれるかのように故郷を棄て、四散していったのはそのためだったからだ。  おれを止めないでくれ!  謙造はさけんだ。  強烈な打撃が襲ってきて、謙造の意識が薄れた。そのかぎりない崩壊と陶酔の感覚が、謙造を限りない安逸に|陥《おと》しこんでいった。  ふと気がついた時、謙造は見おぼえのあるドアの前に立っていた。かくれ場所ともいうべき、あの喫茶店だった。そこにだけは、誰にも邪魔されぬ平穏があるはずだった。そしてすべてはそこから始まり、そこで終わったのだった。  謙造は吸い寄せられるようにドアを入った。  昼間だというのに、店はサラリーマン風の男たちでいっぱいだった。  謙造はあいている席をさがして奥へ進んだ。  ふと、和服の女と、地味な背広の男が、テーブルをはさんで向かい合っているのが謙造の目に入った。  周囲の人声や、カップが皿に当たる音などが遠くなり、その女の声が奇妙に鮮明に謙造の耳にとどいてきた。 「わたくし、あなたがまだとても小さかった頃、空に奇妙なものを見てあなたの体内に遠い祖先からつたえられていたある力がよみがえったのだと申しましたわ。そのような人達の数はごくわずかなのです。ごくわずかなのですけれどもここだけで二人います。あなたとわたくし」 「ぼくはどうしたらいいんだ?」  男がたずねていた。 「わたくし、あなたといっしょにここを出ましょう」  女は、伝票を手にすると立ち上がった。  男も立ち上がった。 「わたくしから離れないように」  謙造は自分の口が耳まで裂けたような気がした。 「行っちゃいけない!」  謙造はさけんだ。女が何者であるのか、何のために男を連れ去ろうとしているのか、謙造にはわかりすぎるほどわかっていた。  男は謙造自身だった。 「よせ! 行くんじゃない!」  だが、女の耳にも、その女にともなわれてゆく謙造の耳にも、また周囲のたくさんの客たちの耳にも入らないようだった。誰一人、謙造のさけびに、顔を向ける者はいなかった。  謙造は、通路を出口へ向かって進む二人の前に立ちふさがった。 「待て! 二人とも」  だが、二人は、立ちふさがった謙造にはいささかの関心も見せず、そのまま真直に進んできた。それを押しとどめようとして謙造は腕をのばした。女の肩に手を当てて押しもどそうとした。  その手が、なんの抵抗もなく女の体を突きぬけた。押しもどそうとした謙造の動きと、歩み寄る二人の移動の早さが加わって、二人は一瞬のうちに謙造の体をつらぬいて通った。  ふりかえった時には、女がかねを払っているところだった。謙造は二人にかけより、女の後ろに立っている男の腕をとらえた。だが、指はむなしく、背広の腕を素通りして、こぶしを握りしめただけに終った。 「お客さん、どうなさったんですか?」  ふりかえると、ウエイトレスがうさん臭そうな顔で、謙造を見つめていた。  謙造は追われるように外へ出た。  たしかにここは謙造の知っている世界とは異なった世界だった。  追放、という言葉が謙造の胸に浮かんだ。また、自分がもはや二度と現実の世にもどることのできないまぼろしの世界にほうりこまれてしまったのではないか、とも思った。それをたしかめる手がかりはどこにもなかった。  だが、謙造には、次元を異にしたどこかの世界で、もう一人の謙造が、奇妙な人々に操られ、危難におちいってゆこうとしているのが、おのれのことのように理解されていた。  謙造は影のように雑踏にまぎれこんでいった。     あとがきにかえて  私のところへ、時々、雑誌の編集部やテレビ局などから、「あなたは〈空飛ぶ円盤〉を見たことがありますか?」とか、それを「信じますか? 信ずるとしたら、どこから飛んでくるのだと思いますか?」などという電話がかかってくることがあります。アンケートと思われる葉書がくることもあります。  そんなとき、私はいつも、見たことがあると言おうか、それとも、そんなものは見たこともないし信じてもいない、と答えようかとしばらく迷ってしまうのです。  なぜかといえば、「見たことがあるか?」という質問に対しては、私は「ある」と答えなければならないのです。  私は、それを二度、目撃しました。私が、それをいつ、どこで見たかは、この小説の中で主人公の体験として記しましたが、一度目は私がまだ幼かった時です。二度目は、昭和二十八年のある夜です。  とくに鮮明な記憶は、私が幼い日に、曇り空の切れ間にかい間見た、奇妙な〈空飛ぶ物〉の形です。その異形な〈物〉は、その前後の、幼い私の行動や心象とともに、それから四十年以上たった今でも、ありありと心に刻まれています。  私はそのことを、ずいぶん長い間、人に語りませんでした。子供心にも、人は信じないであろうし、自分がうそをついていると思われるのがいやだったからです。その後、人に話すようになってからも、ずいぶん相手をえらんで話していました。ことに、私がSFを書くようになってからは、なおのこと、自分の奇妙な体験を口にすることには慎重になりました。現今ではそうでもありませんが、私がSFを書きはじめた頃には、世間ではSFなどというものは全く荒唐無稽な物語りであり、SF作家なども〈空飛ぶ円盤〉やさまざまの異常な、いわゆる超科学的現象などについても、ただ面白がってそんなことを言ったり書いたりしているに過ぎないのだ、というように受けとめていました。だから私の体験談が、SF作家としての営利的なもの、真実ならざることをあえて意図的に語っているものと判断されるおそれが多分にあったからです。  私がSFを書きはじめてから、もう十年の余になりますが、ずいぶん事情が変りました。今ではSF読者人口が出版界の一部を支えるほどにまでなりました。ありがたいことです。それでもなお、私の体験を人に語ろうとすると、口が重くなります。  私が遠いむかしに見たものが〈空飛ぶ円盤〉であるとしたら、私はまさしくそれを目撃したわけです。だが、それがほんとうに何であったのかは、私にとってまことにつきない謎です。同時にそれは、遠い日の懐しい想い出でもあります。幼い心をおびえさせ、長く消えない不安を投影せしめたそれは、いったい何だったのでしょうか? それは幼い心が生んだ夢でもなく、ひとときの幼い不安が|虚《こ》|空《くう》に描いた白昼の異形でもなかったのです。それはあきらかに〈物〉であり、空を飛ぶという運動をするものだったのです。  この世のものとは思われないものを目にした、という異和感は、これは強烈な感動です。恐怖とも違うし、畏れとも異なります。身も心も奪われるような異和感は、自分の存在感すらあやふやにさせてしまうようなものです。幼かった私は、りくつもなにもなしに、自分が今見ているものは、何か、とんでもないもので、決して人に言ってはならないものだと直感しました。なぜだかわかりません。  原始人がはじめて火山の爆発を見たり、雷火の荒れ狂うさまを見て、そこに超自然の存在を感じたり、力を考えたりして、以後そのことを口にするのをはばかったり、その場所に近づくことをタブーにしたりしたようなことと同じなのかもしれません。たしかに、その時、私は原始の本能をゆさぶられていたのです。  私は、今、「おまえは空飛ぶ円盤を見たことがあるか?」と問われて、あれがそうであったら、「たしかに見た」と答えるしかないのですが、だからといって、「見た!」と主張する気にもなれないのです。主張するにはその状景を刻明に説明すればことたりるのでしょうが、百万言を費やしても説明できないのは、そのときの戦慄ともいうべき異和感です。幼い心を奪いつくしたあの不思議な存在感です。それを語り得る言葉もなく、私はそれを私自身の想い出の中に封じ込めてしまったのです。  どこから来るのか、何のために来るのか、そんなことはどうでもいいことなのです。人の手に成ったものでないものを見た、というその感動だけが唯一なものなのです。その感動は、今はある悲哀の色をおびて私の想い出の重要な部分を形造っています。空を|翔《かけ》る白昼の異形に、幼い透明な心が抱いたひたむきなものが、今は哀しいのかもしれません。  その茫漠たる哀しみは、私がSFを書く時、いつも心のどこかに、かすかに|揺《よう》|曳《えい》しているものなのです。  なお、この物語りは、角川書店の雑誌『野性時代』に連載したものに若干、手を加えたものであることをつけ加えるとともに、刊行にあたっては同社の角川春樹氏、担当の橋爪懋氏、および今秀巳氏の御尽力に負うことが大きかったことを記し、感謝いたします。 [#地から2字上げ]著 者 |宇宙《うちゅう》のツァラトゥストラ |光瀬龍《みつせりゅう》 平成14年4月12日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C)Ryu MITSUSE 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『宇宙のツァラトゥストラ』昭和53年5月30日初版発行                  昭和57年1月30日 6 版発行