光瀬 龍 墓碑銘二〇〇七年 目 次  晴の海一九七九年  同業者  墓碑銘二〇〇七年  氷霧二〇一五年  幹線水路二〇六一年  宇宙救助隊二一八〇年  標位星二一九七年  スーラ二二九一年  戦場二二四一年  では次の問題  不良品  連邦三八一二年  カビリア四〇一六年  晴の海一九七九年  ビイイイイイイ……  ひびきわたる警急ブザーに、そのもち場もち場にあって、十人の眼は、一瞬、宙を見すえ、つぎにくる命令を待ちかまえた。  警急ブザーの音は、いつ聞いてもいやなものだ。水の流れるようなかすかな雑音が、かたずをのむ静寂をいよいよ深いものにする。 「全員、ヘルメットをかぶれ!」  おやじ——月面探検隊≪日本隊≫隊長兼オーロラ号|艇長《ていちよう》、末田博士——の野太い声が流れ出した。月面着陸一時間前である。  私は座席から立ち上がると、ロッカーからヘルメットをかかえおろした。ついでに木崎のもとり出してわたしてやった。  木崎は顔をしかめてそれを受けとり、これからしばらくのあいだ、自分の頭を入れておく強化プラスチックのその大きなボールを、コツコツとたたいた。 「西瓜《すいか》を買うんじゃないんだぜ。たたいたってわかりゃしないよ」  私は木崎の手からヘルメットをとりあげると、彼の頭にスポンとかぶせた。透明なヘルメットの中で、彼がわめいた。  特殊ジッパーでヘルメットを宇宙服の肩に縫いつける。そしてその肩にエア・タンクをのせ、無線電話機をはめこみ、救急用の水タンクを結びつけ、信号弾ケースをさしこんだ。その上にザイルや、投光器やら、その他の数えきれぬほどの小道具をしばりつけ、最後に、月人どもの首をちょん切るのに使う、刃渡り三十センチもある両刃のナイフを、横についた輪にさし通した。木崎の姿はまるで小山のようになった。 「よし!」  私は木崎の肩をたたいた。木崎はヘルメットの中で、ちょっと真剣な顔を取り戻し、酸素吸入器のコックをたしかめ、無線電話のソケットをかたくひねりこんだ。  つぎは私の番だった。ヘルメットに頭を入れると、もう背中にはドスン、ドスンと荷物を積みあげられるショックがきた。両手両足をフルに使って、バックルをしめ、フックをかけ、それらをたちまち、我が身の一部にしてゆく。木崎が前へ回ってきて、私のヘルメットの前に指を一本、つき出して見せた。OKのサインであった。通気窓を閉じてコックをひねると、ヘルメットの中にオゾンの臭いが充満した。  酸素OK、つぎに無線電話のイヤホーンのスイッチを入れた。ツーンと耳が鳴って木崎のドラ声がとびこんできた。 「……じゃないか、おれが月人ならばお前の……」  私はいそいでスイッチを切った。私は木崎のべルトをひっぱって、座席におとしこんだ。  これで月面到着まで何もすることがなくなった。たとえあったとしても、この第四船室は、ふくれあがった私と木崎とで、もはや身動きもならない超満員であった。 「本船は、あと五分で接地する。接地二分後に、ブザーを短く三度鳴らす。これは異常なしだから、ただちに予定どおり、行動開始だ。長く鳴るときは警急信号だから、別命があるまで、その位置を離れるな。それでは無線電話とエアをオンにしろ。……元気でゆこう!」  私たちは、なんとなく顔を見合わせた。そしておたがいに、相手の目がいやに自分の目をのぞきこんでいるのに気づいてあわてて目をそらした。  スイッチの入った無線電話の中に、みんなの声が、いっぺんにがやがやと湧きはじめた。 「花村さん、お手やわらかにたのむよ。おれはエレベーターに弱いんだ。なにしろおれのおふくろはデパートのエレベーターの中で、産気づいたんでね」  第一操縦士の花村に誰かどなっていた。 「生まれおちたというのはそのことだな」  誰かの声がそれにかぶさった。 「静かに。以後、私語を禁ずる」  おやじのウシのような声が、騒ぎに終止符をうった。みなの声は潮が退くように遠くなり、やがて完全な静寂がきた。  だれでも未知の世界が怖ろしいのだ。この五分間こそ、生きて再び地球へもどれるか、それとも、永遠に酷寒と焦熱をくりかえす月面のどこかに屍《しかばね》をさらすことになるかのさかい目であった。つぎの瞬間、足もとの床が裂けて、そこからどっと暗黒の真空がはいりこんでくるのではないか、という恐怖は今、すべての隊員たちをうちひしいでいた。いかにも快活そうにやりとりされる冗談は、迫ってくる死の恐怖から、わずかでも目をそらそうとする絶望的な努力にほかならなかった。  五時間とも、五十時間とも感じられる五分間が過ぎた。やがて、強力なオレオ緩衝装置のゆっくりした震動が、尻の下から伝わってきた。  それから長い長い二分が過ぎた。ブザーが短く三度鳴った。私と木崎は同時に立ち上がって、もろにぶつかった。  最初に目に入ったのは、はるか下方をゆっくりと動いてゆく、ギラギラと輝く大きな光の輪であった。暗黒の中で、それは痛いほど目にしみた。つづいてまた一つ、後を追うようにななめにすべってゆく。  オーロラ号の投光器が放つ、十万燭光の照明であった。大気のまったくないこの月面では、光は途中の暗黒の空間をすどおりして、ぶつかったものだけを輝かせるのだ。散乱することもなく、したがって光芒《こうぼう》を曳《ひ》くこともない。投光器の回転につれて、その光の輪は月面をゆっくりと動いていった。動いたあとは、再び塗りつぶしたような暗黒に閉ざされた。  見上げれば、幾千億の星々が暗黒の空を埋めている。そして、その天の一方に、巨大な淡青色のボールが浮かんでいた。その表面には、ところどころ白い薄膜がかかり、その間をぬって、ひときわ輝く部分があった。それはまったく重さを持たぬもののように、中空にかかっていた。その地球に向いた岩盤や、オーロラ号の金属の肌は、ほのかに青い光をたたえていた。アース・ライト——地球光であった。 「見ろ! 地球だ」 「あそこから来たんだぞ。おれたちは」  私も木崎もうっとりと立ちつくした。  呼吸をするたびに、ヘルメットの後から微細な白い粉が噴き出した。絶対零度に近い夜の酷寒は、吐き出した息をヘルメットの外に放出するとたんに、ふくまれている水蒸気を、乾いて微細な氷の粒子にしてしまう。半透明の白い粉は、投光器の光の中で虹を曳いた。 「利根と木崎は、石田と南山を援護しろ」  ヘルメットの中でおやじがわめいた。われにかえった私はラッタルにすがりついた。そのはるか下方を先行する石田と南山の姿が、別の投光器の作る光の輪の中に、小さく見えていた。木崎が私に続いた。私たちはオーロラ号のきりたった絶壁のような船体に沿って、降りていった。  月世界探検隊・日本隊は今、一九七九年八月の夜を、冷たく凍りついた月世界でむかえたのであった。  だが残念なことには、この月世界に最初にやってきたのは実はわれわれではない。一九七八年春、ソビエトの探検隊を乗せたソビエッキー・ソユーズ号は、このオーロラ号と同じ≪|晴の海《マーレ・セレニタテイス》≫のはるか北東の裂溝《クレヴアス》地帯に、着陸していた。ついで同じ年の秋、アメリカの探検船スターズ・アンド・アメリカン号は、これも同じ東のはずれに着陸していた。  しかし、彼らは着陸しただけであった。  ソビエト隊は、地球に向かって着陸五分前を報じたのみで、消息を絶った。アメリカ隊は、着陸と同時に活動を開始した。彼らは偵察車《ていさつしや》を駆って、周囲をひとわたり調査し、若干の興味あるデータを伝えた。しかし突然、通信を絶った。通信の途絶える直前、彼らの驚きにみちた言葉が、地球人の耳をうった。 「ペナントが崩れている!」  それきり彼らは永遠に沈黙したのであった。  そうした悲報をまえにして、日本隊は慎重に慎重をかさねて、準備を整えた。月面への着陸地点は、先のソビエト隊、アメリカ隊が消息を絶った地点からわずかにそれてえらばれた。着陸地点の大幅な変更がおこなわれなかったのは、できるかぎり、両隊の遭難原因を究めたかったのと、あの不思議な通信『ペナントが崩れている』という意味を調べたかったからである。  ペナントとは恐らく二十年前、ソビエトの宇宙研究家たちによって、≪|晴の海《マーレ・セレニタテイス》≫にうちこまれたペナントを指しているのであろうと思われた。アメリカ隊は、そのペナントの落下地点近くに着陸したのだった。おそらくその偵察隊はペナントを確認したのだろう。そして同時に、そこに何ごとか異常を発見したのだ。——崩れているとはいったいどういうことなのか? またそれとアメリカ隊、その前のソビエト隊の遭難とは、何か関係があるのか? 人々の論議がそこに集中した。  日本隊は世界の注目を浴びた。その任務は重大であった。  オーロラ号から、クレーンの長い腕がつき出て、偵察車や工作車、基地建設用の金属パネル、さまざまな器材をおさめたコンテナーなどを、つぎつぎとおろしはじめた。  戦場のような騒ぎがはじまった。なにしろ月の引力は地球引力の六分の一しかない。引力の変化には、慣れているはずの宇宙人たちでも、軽量化した体での作業には、想像以上の当惑とわずらわしさとをともなった。それはまるで、できそこないのカンガルーだった。ちょっと走れば、一足とびに六メートルもとんでしまって、たちまち目的の場所を通り過ぎてしまう。重い物を持ちあげようとすると、力があまって転倒してしまう。よけそこなって正面衝突したり、そうかと思うと、注意したつもりでかえって手が届かなかったり、さんざんなていたらくであった。 「なあ、利根。おれはつくづくネアンデルタールの子孫なんだということを痛感したよ」 「なにしろあたしたちは、洪積世《こうせきせい》以来、ずーっとあちらにおりましたもので」  オーロラ号から何十本もの電線が引き出され、無数の照明灯が、平原に一枚の大きな青白いカーペットを敷いたように光を落としていた。充電を終わった工作車は、岩盤をならしてそこにシェルターの建設を開始した。三重の防護壁をもつ長さ二十メートル、高さ五メートルのカマボコ型の小屋二棟は、われわれの休養室、研究室、機械室、電源室をはじめ、工作場、倉庫等この月世界でのあらゆる用途にあてられるはずであった。  われわれは青白い光の中を泳ぎ回って、時のたつのも忘れていた。仕事はやたらにあった。一人がいくつもの仕事をかかえてその完了を焦っていた。あらかじめきめられていただんどりはいつのまにか崩れて、臨機応変だけが、今や最良の計画になっていた。予定のとおりに作業が進んでいるものやらいないものやらまったく心細いかぎりだったが、しかしおやじの怒声が聞こえないところをみると、どうやらすべては、順調にいっているらしかった。  夜明け近くになって、すべての作業はほとんど完了した。その頃になって、私はようやく、とうとう月へやって来たのだ、という実感を抱いた。 「四時間ほど休養する。オーロラ号には松尾君が当直にあたる。木元君と石田君は私の所へ残れ。解散」  われわれは追われるカンガルーのようにとびはねて、今完成したばかりのシェルターにもぐりこんだ。  私は泥のように眠った。寝苦しさの中で何か怖ろしい夢を見た。 「各班は計画どおりの偵察コースを巡航、観測、資料の収集をおこなう。途中は充分に気をつけてくれ。南山君と西田君は地球へ送信の準備をしてくれたまえ。杉田君は偵察各班との連絡にあたる。木元君は私のそばに残れ。以上」  おやじはきびきびと命令を下した。私と木崎は第一班。一号車を使うのだ。私は、すでに用意した観測器材を収めた大きなコンテナーをかついで、車へ走った。シェルターのむこうに三台の偵察車が、ひらたくつぶれた鼻づらをそろえていた。この車は連節式に三つの部分からなっていた。先頭の部分が操縦室であり、その後部がせまいキャビンになっている。中央の部分が動力室で、超強力なバッテリーで駆動される四個のモーターが収められている。これで四本のキャタピラを回転させるのである。最後部の車体の上には、カタツムリの殻のような円い金属の筒が、とりつけられていた。この内部には、太陽電池がまきこまれている。車体の最先端から三本の長いパイプが突き出して、そこにドーナツ型の裂溝《クレヴアス》発見用レーダーが備えつけられていた。  赤、白、黄にそれぞれ塗られていた。白く塗られているのが一号車であった。  私が操縦席につくと、木崎が隣に坐《すわ》った。  ヘッドライトを点滅させて発進の合図をおくり、スターターを踏む。木崎が二号車、三号車と連絡を交すのを聞きながら、私はすぐ変針してコースを東へとった。視野のはずれに、他の偵察車の高いアンテナの先の表示灯が、真紅のルビーのように輝いて右へそれていった。  ふりかえると、オーロラ号が絶対の暗黒の中に輝く幻のようにそびえ立っていた。それがふと、私に、飛び立ってきた北海道のロケット基地の夜景を、灼《や》きつくように思い出させた。  私たちは、時速二十キロでまっすぐ針路をたもった。レーダーは暗闇の底から忠実に裂溝《クレヴアス》を探しだした。平原は幅十センチ、深さ一メートルほどの裂溝《クレヴアス》が、ほとんど五メートルおきぐらいに現れた。それはちょうど、日照り続きにひび割れた田んぼによく似ていた。レーダー・コントロールを受けるオートパイロットは、確実にそれらをのりこえ、あるいは迂回《うかい》して車を進めた。  私と木崎は時々、車をとめて地表のパサパサに乾いた細塵をかきあつめたり、岩石の露頭から、標本を削りとったりした。自動描記装置は宇宙線を観測し、赤外線望遠カメラは周囲の平原をはるかにそのレンズに捕らえつづけた。  コースの半分を回り終わった頃、操縦席の計器板に赤ランプがともった。偵察車の速力が急におちた。ゆっくりと右に変針し、それからいそがしく左にコースを変え、そしてとまった。すぐにちょっと後進し、再び左へ左へとまわりこんでゆく。 「やっこさん、コースを決めかねているな」  木崎がイヤホーンの中で舌うちした。偵察車はとうとう停車した。オートパイロットが、ついにその任務を放棄したのだ。もはやこれ以上、前へ進めないというのだ。  操縦席からとび降りてみると、ヘッドライトの光の中に大|裂溝《クレヴアス》が断層を開いていた。幅は約百メートル、深さは五百メートル以上もあるだろうか。強力な投光器の光も絶壁の岩盤をむなしくなで回すだけで、何もみえなかった。 「どうする? 利根」 「これを越えてゆくことはできないなあ。しかたがない。こいつに沿ってしばらく行ってみようよ。そうしてバックだ。木崎、位置を測定してくれ」  木崎は、六分儀《ろくぶんぎ》を使って観測を始めた。私は、再びオートパイロットのスイッチを入れた。 「ようし、出発だ」  力強いモーターの震動が車体を震わせて、私はギアをローからセカンドに切りかえた。  その時だった。突然、おそろしい絶叫がイヤホーンを震わせた。つづいて何ごとか、狂気のように呼びかけるもう一人の声が継続して聞こえた。  私は車を急停止させ、身動きもせずに耳をすました。それきり、もう何も聞こえてこなかった。 「どうしたんだ?」 「誰だ?」 「何かあったのか?」  イヤホーンの中は、口々にたずね合う声でにわかに騒然となった。 「各班は現在地と異常の有無を報告せよ」  しばらくして、おやじの声がその中にまじっていやに遠く聞こえた。 「第一班 利根、木崎。現在地はAコース上第四定点より東へ二十一度、三百二十三メートルの地点。無名の大|裂溝《クレヴアス》に沿ってコースを変更。目下停車中。その他異常なし」 「第二班 花村、石田。現在地、Bコース上第五定点近傍マイナス二○九。異常なし」  そして第三班は応答がなかった。  おやじと副隊長木元とのあいだで、あわただしいやりとりが交された。その奥で、みなのひそひそとささやく声が、潮騒のように重なって聞こえた。 「みんな、黙って聞け!」  おやじのおし殺した低い声が、みんなの息をつまらせた。  その時、息も絶え絶えな呼びかけが、イヤホーンから洩れてきた。 「こちら松尾、こちら松尾、……森田のエア・タンクが破裂した。いや、くさって穴があいた。……森田は死んだ。おれの装具の金具が全部……助けてくれ!」  語尾は細い悲鳴に変わって、荒い息づかいがそれに続いた。それきりふっつりと何も聞こえなくなった。 「第一班はただちに第三班の想定現在位置に急行せよ。第二班は急いで基地へもどれ、全員非常警戒態勢をとれ!」 「了解」  木崎は六分儀でもう一度、星空をねめ回し、計算板と首っ引きで、第三班の位置を測定した。私は偵察車を急ターンさせた。 「いったいどうしたんだろう?」 「エア・タンクに穴があくなんていうことがあるのか?」 「背中がむずむずするよ」 「利根、これはいよいよ月人が現れたんだぞ」  木崎は冗談をとばしながらも、そっと腰のベルトの信号弾ケースを点検していた。たしかに信号弾の噴き出すナトリウムの焔は、未知の敵に対しても、かなりの効果を与えるだろうと思われた。  四時間後、われわれは三班の想定位置に到達した。月面緯度プラス三十度、月面経度零度、≪|晴の海《マーレ・セレニタテイス》≫の東であった。南北に大|裂溝《クレヴアス》が平原をまっ二つに切り裂き、はるか南方の≪|危の海《マーレ・クリシウム》≫につづく小丘陵が、ほのかな地球光を受けて結晶のように碧《あお》く光っていた。  この日の最初の太陽の光が、ほとんど真横から平原を射つらぬいた。平原は、たちまち白銀の焔のように、ギラギラと照り輝いた。わずかな起伏が曳くひらたいぬばたまの闇は、この時、無数の醜いしわになって浮き上がった。遠近感のないその風景は、まるで片目で見るように頼りなかった。  宇宙服の自動温度調節装置は、いつのまにか暖房から冷房にきりかわっていた。  私は双眼鏡に濃いフィルターをかけて、平原を見わたした。ここでは円弧を描く地平線は三キロのかなたにある。 「あそこだ! 木崎、左へ三十度」  木崎はうなずいてハンドルを回し、増速した。大|裂溝《クレヴアス》のまっ黒な割れ目のこちら側、細長く伸びた暗黒にまぎれて、一台の偵察車がとまっていた。 「松尾! 松尾! 合図しろ」  木崎がどなった。目のくらむような荒涼たる陽の光の中に小さな人影が立ちあがった。必死にこちらに走ってくるその手足の動きが、いやに人形じみて見えた。松尾はまるで生きているようには見えなかった。彼は全身で喘《あえ》いでいた。 「……森田は死んだ。エア・タンクが破裂したんだ……森田は、森田は……」 「うるさい! 落ち着け」  木崎の割れ鐘のような声は、逆上した松尾をわれにかえらせるのに充分だった。しかし、私のイヤホーンはしばらくのあいだ、キィーンという雑音を残した。  私は、松尾を後部キャビンに横たえた。彼のエア・タンクにパイプを結んで、少量の炭酸ガスに催眠ガスを混ぜて流しこんでやった。松尾はすぐ眠ってしまった。まず、極度に興奮した脳や神経を休めることだ。そうしておいて、私と木崎は周囲に細心の注意を払って前進した。  森田の死体があった。正しくいえば、少し前までは、たぶん森田であったものがあった。ボロボロに裂けた宇宙服。くだけた無線電話機、小道具。そうしたものに混ざって、白い肉片や薄赤い臓器の細片があたり一面に飛び散っていた。それはすでに陽光に焼かれて、干物の魚のようにちぢんでいた。私は思わず目をそらした。  木崎は落ちていたエア・タンクをひろいあげた。それには朽ち果てたように大小幾つかの穴があいていた。 「おい、見ろ。これはいったい、どうしたことなんだろう。まるでボロボロに腐蝕しているじゃないか」  二人は茫然として顔を見合わせた。  この合金は、月面の夜の酷寒に変質してしまったのだろうか? あるいは、どんな金属でもたちまち腐蝕させてしまうような未知の物質にぶつかったのか? それとも想像もつかない何かの敵に襲われたのだろうか?  木崎はこの状況をこまかに報告した。みなは声も立てずに聞いているらしかった。 「一班ただちに現場を離れよ。エア・タンクは持ち帰れ。遺体収容はあらためておこなう」  木崎は森田のエア・タンクを三号車の荷台にのせて、その操縦席についた。後ろから絶えず何ものかに追われているような気がして、私は偵察車をとばした。基地にたどりつくと、みなは異様にゆがんだ面もちで、ばらばらと駆け集まってきた。エア・タンクは、ただちに金属学者の杉田の手で、第一シェルターの中の研究室に運びこまれた。  おやじは眉の間に深いしわを寄せてむっつりとおし黙っていた。みなはヘルメットの中で目ばかり光らせて落ち着かなくおやじの回りをとり囲んでいた。二十分ほどして研究室のドアが開いて、杉田が走り出てきた。 「隊長、実に不思議です。このエア・タンクは鉄六十一パーセント、ニッケル三十二パーセント、アルミニウム七パーセントのMK鋼なのですが、電導性によるイオン反応を検査したところ、鉄とニッケルの大部分が、ほとんど消失しています。アルミニウムが残っているだけです」 「そんなことがあるのか?」 「ふつうの腐蝕ではありません。一種の元素転換とでも言いましょうか。とにかく空中へぬけてしまったとしか、考えようがありません」 「…………」 「隊長、これはわれわれにとって、きわめて危険な現象です」 「よし、杉田君は西田君とともに、この現象をひとつ徹底的に調べてくれ。当直は花村君と石田君。南山君は状況をできるだけくわしく地球へ送ってくれ。他の者は第二シェルターで待機」  おやじの声に、みなは足どりも重く、歩きはじめた。 「隊長、偵察車のキャタピラが!」  ぎょっとしてふり向くと、鼻づらをならべている三台の偵察車の前で、花村が手足をふり回して皆を呼んでいた。かけ集まってみると、彼は喰い入るようなひとみで、三号車のキャタピラをのぞきこんでいた。磨きあげられたハイ・マンガンスチールのところどころが、くろぐろとしみがついたように変色していた。しかもそれは、乾いた砂に水がしみこむように、じりじりとひろがってゆく。 「なんだろう、これは?」 「どうしたんだろう?」  しさいに調べてみると、キャタピラだけでなく、車体の側面や動力部のカバーなどにも、飛沫がとんだように現れ出ていた。そしてやはり急速にひろがりつつあった。 「みんな! オーロラ号に入れ。エア・ロックで各自のエア・タンク、その他金属部分を点検するんだ。急げ!」  おやじの顔はヘルメットの中でひきつった。われわれは先をあらそって、オーロラ号に走った。今にも、自分の背負ったエア・タンクがみるみる乾いた粘土細工のようにボロボロになってゆき、どっとエアを噴き出して、真空の中に五体がくだけ散るのではないかと思われた。それは恐怖というには、あまりにも絶望的であった。  私がまだオーロラ号のエア・ロックに入らぬうちに、後方からすさまじい打撃が襲ってきた。私はまりのようにころがった。息の止まるような苦痛が、かえって失われようとする意識をつなぎとめた。体を起こすと頭がふらふらして、私はまた崩折れてしまった。 「大丈夫か、利根?」  おやじの声に気をとりなおして再び立ちあがる。 「どうしたんだ、月人どもの空襲か?」 「ばか! 後ろを見るんだ」  ふりかえってみると、二棟のシェルターは影も形もなかった。かけつけてみると、めちゃめちゃになった機材の散乱する中に、シェルターの側板のパネルが、紙のようにめくれ、吹きちぎれていた。その一部は、さっきの偵察車のキャタピラのように、くろぐろと変色していた。杉田と西田の姿は、もとよりどこにもなかった。森田のエア・タンクと同じように、シェルターの金属パネルはボロボロになってくずれたのだ。そして内部に空気を放出する超高圧の大型エア・タンクも、同じように朽ち果て、破裂したのだろう。  私は烈しい目まいを感じた。私はついにそこで気を失ったらしい。  われに返ったときは、オーロラ号の操縦室の片すみに横たえられていた。暗い照明灯の下で、おやじと木崎と石田とがひたいを集めてしきりに何ごとか相談していた。一方の壁には松尾がぐったりと寄りかかっていた。 「おう、利根、気がついたか」  私はこの異常なできごとの最中に、気を失ったりしたのが恥ずかしかった。下からどやどやと三、四人がかけあがってきた。 「隊長、第三エア・ロックにしみが現れています」  凍るような沈黙が操縦室を支配した。あの正体不明の腐蝕がオーロラ号の船腹を這いのぼり、やがてこの操縦室にも達するであろう。それはゆっくりと、だが確実な死をもたらすのだ。いや、それより先に、下から這いのぼってくる腐蝕はオーロラ号の巨大な船体に、このままの姿勢をゆるすだろうか。ボロボロになった部分から折れて、なだれのように崩れおちるすさまじい光景が、私の目にありありと浮かんだ。私だけではない。この時、この操縦室にあっただれもが考えたことは、それであったろう。 「南山君、地球へSOSをうて」おやじの目は追いつめられた虎のように光った。「みんな。最後まで希望を棄てるな」  最後まで希望を棄てるな。この言葉が不思議に、私の気もちをしゃんと立ちなおらせた。さっきから気になっていたことが、この時はっきりと心の中に形づくられた。 「船倉に鉱物用の電子顕微鏡がある。それにミクロトームも。あれでひとつ腐蝕した金属のプレパラートを作ってみるよ。間にあうかどうかわからんがやってみよう。ここでじっと坐っているよりいいだろう」 「それじゃ、利根。タンクははずして予備エア・タンクからシリコン・パイプでつないでゆけ。そのほうが少しは安全だろう。送気ポンプはおれが監視していよう」 「それはありがたい。それから二人ばかり手を貸してくれ。電子顕微鏡を組み立てるのを手伝ってほしいんだ」  石田と花村が立ち上がった。三人は背中のエア・ポンプの代わりに、長い送気パイプを曳いて潜水夫のような姿で船倉へ降っていった。  運び出した電子顕微鏡のパーツを、まだ自動温度調節装置のはたらいている第二機械室のデッキに組み立てた。太陽電池から電力をひき出してミクロトームを回転させることにした。ミクロトームの刃はめまぐるしく動いて、シェルターのパネルを、カンナで削るように薄く削りとっていった。その薄片を雲母のスライドカバーで受ける。二百枚のプレパラートを作りあげるのに三時間を要した。  プレパラートは、つぎつぎと電子顕微鏡の拡大視界にさらされていった。 「利根、いそげ。電子顕微鏡の基台にしみが現れてきたぞ」  花村が後ろから声をかけたが、私は気にもとめなかった。二十枚……三十枚……四十枚、周囲はいやに静かだった。すべての物音も絶え、かたわらに立つ花村や石田の動きも消えた。プレパラートをとりかえるとき、ふと見ると、電子顕微鏡の基台はいちめんに濡れたように黒い光沢を放っていた。上の方にもそれは現れていた。プレパラートをそろえる石田の背中には無線電話機がついていなかった。肩のとめ金だけが、黒く変色しているだけであった。電話機は床に落ちてゆがんでいた。私のもおそらくそうなっていることであろう。さっきからの完全な静寂はそのせいだったのだ。われわれはついに耳を失った。新しい恐怖が衝動的に胸につきあがってきた。私はそれに必死に耐えて、電子顕微鏡のハンドルを回した。  その時だった。私がそれを見つけ出したのは。それこそ私の求めるものであった。私はカメラのシャッターを押し続けた。  やがて視野が急速に曇りはじめた。腐蝕が鏡胴におよんで、そのゆがみがついに結像を不可能にしてしまったのだ。  もう少し、もう少し時間があったら、そうすればもっとはっきりした結論が出るのだが……。  私は二人をうながしてデッキから退却した。 「どうだった? 何かわかったか?」 「隊長、嫌気性バクテリアの一種です。しかも鉄バクテリアによく似ています」 「鉄バクテリア?」 「地球上でも鉄や鉛、硫黄などの中で生活するバクテリアが知られています。しかも彼らの中にはマイナス百度の低温にも百五十度ぐらいの高熱にも耐えられるものがいるのです。これらのバクテリアは酸素を嫌うのです。この月面上のものはその強力なやつだろうと思います。コロニーを発見して撮影しました」 「バクテリアか!」 「あの大|裂溝《クレヴアス》の奥底が、バクテリアの大集落だったのでしょう。あの谷底には、まだたぶん幾らかの凍結した水が残っているかもしれません。あるいは結晶水かもしれない。そして金属鉱床の露頭もあるでしょう。その付近にソビエトのペナントが落ち、アメリカ隊もソビエト隊もやって来た。それがあのバクテリアのコロニーにたいへんな刺激を与えたに違いありません。彼らは猛烈に繁殖し、つぎの機会を待っていたのです」 「…………」 「森田は不幸でした。足もとから舞いあがった細塵の中に鉄バクテリアが混ざり、彼のエア・タンクの上に落ちたのです。また、その地帯を走りまわった偵察車のキャタピラもたちまち、バクテリアの寄生を受けたのです」 「すると奴らは、金属以外の物質には寄生しないんだな」 「たぶんしないと思います。代謝系が違いますから。しかし人体内にはヘモグロビンの含有する鉄がありますから、体内に入れないように厳重に注意しなければなりません」 「利根、なんとか方法はないか?」 「隊長、こちらから逆襲する方法もないではありません。一番よいのは酸素を放出することです。嫌気性バクテリアは酸素にあうと死んでしまいます。しかし今はこんなぜいたくな戦法は不可能だし……しかし腐蝕された金属パネルを検査すると、表面のシリコン化合物は完全に残されています。彼らはシリコンは好まないらしい。だからすべての金属の表面にシリコンの薄膜を張るという案はどうです?」 「よし木崎、建築用の三価のシリコンのドラム鑵《かん》は、シェルターに運びこんでしまったのか?」 「いや、まだです。船倉にいれたままになっています」 「よし、急いでそれをここへ運んでくれ。スプレーガンも忘れるなよ」  皆はとび出していった。  さっそく、まだ腐蝕されていない器材類が一ヶ所に集められ、それに向かってスプレーガンがシリコン溶液の霧を噴き出しはじめた。霧はすぐに透明な薄膜になって器材の表面をおおった。みなも、完全に装具をとりつけ、それからシリコンの霧を頭から浴びた。無線電話機とエア・タンクはとくに厚くその表面をおおい、薄膜と本体との間に酸素を噴きこんだ。それはまるでくらげのようにふわふわ、ぶよぶよとふくれた。 「みんな外へ出よう。オーロラ号が倒れるかもしれない」 「なにしろ下のほうからボロボロになってくるんだからな。いつまでも、こう立っていてはくれないだろう」 「さしあたって必要な器材だけは持ってゆこう」 「南山君、急いで地球に通信してくれ。オーロラ号を見棄てるとな」  おやじの声はかすかに曇っていた。  南山は通信席にうずくまった。  木崎は手回し発電機をかついだ。花村は食料品の入った箱を、木元は医療品を、石田は予備のエア・タンクと六分儀を、隊長は携帯用のおりたたみ式シェルターをそれぞれ背負った。  通信席から南山が中腰で立ち上がって叫んだ。 「隊長、ノルウェー隊がわれわれの救援に来るそうです。本格的な月面探検はあきらめて、救援のために急ぎ出発するそうです」 「そうか。ノルウェー隊か」  皆の顔が輝いた。  われわれは立ち上がった。たとえオーロラ号を失い、地上基地のシェルターをすべて破壊されても、まだ、一人用の携帯用小型シェルターがある。なんとか交代に使用すれば、そして食料を節約し、予備のエア・タンクを上手に使ってゆけば、地球からの救援隊がやってくるまでは生きぬいてゆくことができるだろう。ノルウェー隊、あのヴァイキングの子孫たちは必ず、われわれを救い出してくれるだろう。もはやわれわれは恐れなかった。  タラップを降りると、船体外壁の腐蝕は、もう半ばまで這い上ってきていた。見おろすと、ま昼の月面がパノラマのように拡がっていた。平原は果てしなく輝いて、遠く環状山《クレーター》が一つ見えていた。その内側がなぜか、青くキラキラと陽光を反射していた。その荒涼たる不毛の平原。ひび割れたように縦横に走る裂溝《クレヴアス》。あの裂溝《クレヴアス》の奥底に奇妙な生きものの集団がある。真空を生活の場にし、金属を唯一の栄養源にする彼ら!  だが、これは決して異様な世界ではなかった。苛酷な自然環境と闘い、それに順応して生き続けてゆく果敢な生物たちの、これは舞台であった。そうした生物たちの生きようとする烈しい意志が、暗い爪跡のような裂溝《クレヴアス》から、焔のようにめらめらと立ちのぼるかと思われた。  私はかすかに足もとがふらつくのを感じた。 「いそげ! 倒れるぞ」  絶叫がはしった。  オーロラ号はゆっくりと傾きはじめた。  もはやラッタルにすがって、降りているひまがなかった。皆は二十メートル下方の月面めがけてばらばらととび降りた。いかに重力の少ない月面でも骨にこたえる衝撃だった。手足を曲げ、体を丸めて、ごろごろと転がった。 「走れ、離れるんだ」  声にはげまされて激痛をこらえて私は必死に走った。私のかたわらを、木崎がこれも息せききって走っていた。  ふり向くと、松尾をかき抱いたおやじが、背を低めて追いついてきた。私はかわって松尾を背に負い、歯をくいしばって走った。  オーロラ号を支える巨大な脚がくねくねと折れ曲がり、噴射管が地についた。尾端が大きくゆがむと、オーロラ号は横ざまに平原に倒れた。巨体は水で濡れたようにくろぐろと光った。それは一匹の大きなクジラだった。  一瞬、目もくらむ閃光が噴いた。  窪地にとびこんで身を伏せる私の眼に、輝く幾千億の星々と幻のように青い地球が、ちらりと見えた。  同業者 「次の方、どうぞ……」  このひとことが俺の客達に与える効果を、俺はよく知っていた。ある者は深くうなだれ、ある者はいらいらとやたらに身じろぎをし、またある者は彫像のようにとりすまして……そうしたそれぞれの姿勢を固守して居ならぶ客達の間にかすかな波紋が生じ、その中から、ようやく自分の番が回って来た客が異様な動揺を顔に見せておどおどと立ち上がり、俺の事務机の前に腰をおろす。それは四十がらみのやせて小さな男だった。 「相手の名前と住所を」 「わ、わたしの上役でしてね。ふだんからどうも、それがあの……」 「相手の名前と住所を」  彼は急に素早い手つきで、胸のポケットから紙片をぬきとって机の上に置くと、書かれた名前と住所を何度も指でおさえつけ、息をはずませた。あらためて恐怖が彼をおそってきたらしい。ズボンの尻から分厚い封筒をぬき出すとそれを投げるように置き、後をも見ずに出ていった。うす緑色の封筒に入ったそれをつかみ上げて俺はくず籠へほうりこみ、それから呼んだ。 「次の方、どうぞ……」  軽やかな足音がして、こまごまとした色彩が前に立った。高いがん丈な事務机からわずかに肩から上しか現れない。小柄な少女だった。 「相手の名前と住所を」 「ドロシー・マクマレイ。レイク・サイド一九八」  少女はていねいにひもで十字にしばったうすい紙包みを机の上にすべらせると、ちょっと頭を下げた。その時少女の姿は完全に机のかげに入ってしまった。 「次の方、どうぞ……」 「いやあ、これでわたしもほっとしました。もっともこちらへうかがうまではこれでもずい分考えあぐねましてね。しかし一度決心してしまえばさっぱりしたもんですなあ」  くびれたあごに未だ若い者をしのぐ健康さを見せている老紳士はそう言って愉快そうに笑った。それはほんとうに愉快そうな笑いだった。 「相手の名前と住所を……」 「ええと、名前はハリー・ボーダー。住所はキンケイド・ホテルの四〇九号室です。よろしくたのみます」  書類用の封筒を二つに折ったものをそっと机のすみにのせると、会釈して静かに部屋を出ていった。かすかに高級な男性クリームの香が流れた。 「今日はこれまで。明日来て下さい」  客達は俺の声につられるように無抵抗に立ち上がり、一団となって、そろそろと階段の方へ動いていった。扉をしめ、机の上にのっている紙包みを破いて数枚の紙幣をぬき出し、残りの札束を窓の外へほうり出した。 「俺にはこんなに金は必要ないんだ」  客達の去った室内は急にガランとして、戸外より早く冷えびえとしたたそがれが訪れていた。扉の傍の長椅子には、客達の残していった執念が未だ消えもやらで、黒々とこびりついているかのようだった。  今日の受け付けは七人。これから夜更けまでの間には充分なしとげられる仕事だった。私は机のひき出しから厚い帳簿をとり出して今日の客の注文を書き記し、日づけを入れて再びしまいこんだ。あと数頁でこの帳簿も使い終わる。新しいのを買って来なければならない。既に幾十冊の帳簿が背後の壁面を埋めていた。風のかげんか、高架鉄道をゆくサベナ急行の警笛がすぐ近くに聞こえる。扉に鍵をかけ、俺は階段をくだっていった。街は深い霧に包まれて、ゆき交うヘッドライトが、水底にゆれ動く集魚灯のように光輪を重ねていた。 「……セントラル停車場、信号指揮所主任、レイ・バトラー、か」  たどたどしく書かれた紙片を、俺はライターの光でかろうじて、そう読みとった。今日、五人目の客の注文だ。セントラル停車場までは車で十分とかからない。操車場をまたぐ長い陸橋をわたると、もうそこは停車場前の広場だ。  アーチ形の正面玄関に車をとめると、俺は広大な構内に入っていった。大きな旅行鞄を提げた男。ショルダー・バッグを肩に颯爽と歩む若い女。はしゃぐ子供の群れ。列車の着発を告げるスピーカーの声が高い丸天井から湧いて被いかぶさるようにひろがってゆく。そうした混雑をすりぬけて俺は停車場ビル五階の廊下に立った。俺をおろしたリフトがたちまち上へ去ってゆくのを見とどけて俺は広い廊下を右に曲がった。無数の部屋の中で業務は進行中だった。「信号指揮所」と厚い金属のドアの上にサインがきらめいていた。  ドアは重かった。壁面に此のセントラル停車場全域の路線をあらわした無数のランプが点滅し、次から次へと入って来ては出てゆく列車にサインを送っていた。忙しく立ちはたらく男女の中から、俺は主任とおぼしき男をえらび出した。男は鋭い眉根を寄せて、短いが如何にも適切な指示を部下達に与えていた。それはたしかにこの重要な部門をあずかる主任らしく、自信にあふれ、堂々としていた。俺は男に近づいてたずねた。 「主任のレイ・バトラーさんですね」  男は不審そうに俺を見つめて、それからゆっくりとうなずいた。  俺の拳銃が火を噴いた。男はなおしばらくそのまま立っていたが、やがてゆっくりと床にひざをついていった。俺は再び重いドアを押し廊下へ出た。依然として無数の部屋部屋では業務が続けられていた。 「次はレイク・サイド一九八か」  そこは高級住宅街だった。木立の奥深くに山荘風の邸宅がいつもひっそりと静まりかえっているところだ。低い生垣に沿って車はゆっくりと滑っていった。ヘッドライトの光圏の中に深い影を織りなして、カラマツの林が断続する。白いアーチの前で車を停めた。砂利を踏みしだいて玄関に立った。くろぐろとそびえる豪壮な邸宅の何処からか、談笑がかすかに洩れ聞こえていた。ブザーを押す。カチリ、とドアのノブが回って一人の若い女が顔を出した。 「何方様でいらっしゃいますか」 「ドロシー・マクマレイ様は御在宅でいらっしゃいましょうか。夜分おそくうかがいまして失礼致しますが、私はこういう者でございますが」  女中に名刺をわたして言った。女中は引っ込んでいった。しばらくすると静かな足音がして玄関に中年の女が現れた。その手にぶらさがるようにして小さな少女がまとわりついている。それは今日の六番目の、あの小さな客であった。 「ドロシー・マクマレイ様でいらっしゃいますか」 「ええわたし、ドロシーよ」  その言葉の終わらぬうちに嵐のような掃射が襲った。女は蜂の巣のように撃ちぬかれて床にころがった。千切れて飛んだ肉片はきな臭い煙を発していた。少女は無邪気に笑った。  ドアを後ろ手に閉めて、俺は四〇九号室の前を離れた。無人の廊下は真昼のように明るい。その廊下に敷かれた真紅の絨毯《じゆうたん》に一歩、足を踏み出した時、俺は恐ろしい危険を感じて息を呑んだ。  何ものかが、じっと静かに俺をねらっている……得体の知れぬ不気味な殺意が、水のようにひたひたと俺を包んでみなぎってくる。殺し屋だ。精妙な手腕を秘めた殺し屋に違いなかった。彼はすぐむこうの壁のへこみにひそんで、俺が絶好の射点に立つのをやもりのように待っているらしい。  俺は壁に背をおしつけたまま、じりじりと後退した。後退しながら素早く腰のベルトから拳銃を引きぬいて、カチリと安全装置をはずした。その音を待っていたかのように、黒い影がふわりと躍り出て反対側の壁にはりついた。同時にさび色の焔がパッ、パッときらめいて銃弾が俺の回りの空気を裂いた。ドアの把手が手に触れた。今、出て来たばかりの四〇九号室だ。蹴り開けると室内へころがり込み、照明のスイッチを切った。  暗い部屋の奥に、壁を背にして立ち、やがてさしのぞくであろう敵を待った。三十秒。まだ現れない。部屋の一隅に倒れたままのハリー・ボーダー氏の大きな体が見える。一分。まだ現れない。焦るな。ここで焦ったらそれこそ相手の思う壺にはまってしまう。一分三十秒。速射にそなえて予備弾倉を、そっと床にならべる。二分。たまらなく水がのみたい。動くな。動いてはいけない。わずかな身動きによって生まれる心のすき間をねらって弾丸は飛んで来るものだ。  三分……遂に敵はドアのむこうに立ったらしい。厚い絨毯を踏んで、音もなく、動くともなく移動して来た敵は、遂に数メートルの先に立ったようだ。来るぞ! 俺はまりのようにころがった。とたんにドア越しの一撃が疾風のように襲って来た。一分間一千二百発。自動銃《ハンドマシン》の弾道をかいくぐって横へ飛びながら、同じくドア越しに乱射を送った。第二撃が襲って来た。俺は再び、びんしょうに動いてもとの位置にとって返し、予備弾倉をつめかえると、洋服だんすのかげにはりついた。室内には硝煙の匂いがたちこめ、壁や床は既に無数の弾痕でささらのようになっていた。  第三撃は、部屋の片隅から片隅へ、なめるような掃射だった。キィーンという反跳弾の音が頭にひびいた。ミシンのようにドアをうちぬくその火点めがけて、俺は瞬時に全弾を送り込み、さらに弾倉を取りかえて猛射を加えた。飛んで来る弾道が急に乱れると、ばったり射撃がやんだ。絨毯の上に金属の器具が落ちる音がかすかに聞こえ、ついで、壁をすって崩れおれてゆく衣ずれが聞こえた。勝負は終わったのだ。しかし俺は拳銃をかまえたままなおしばらく動かずにいた。しいんとした静寂が、すべてを包んだ。  俺はゆっくりとドアの外に出た。一人の男が、ぼうきれのように床の上に投げ出されていた。俺の乱射を浴びて上半身は原形をとどめぬまでに撃ちくだかれ、そのかたわらに自動銃が未だ銃口から薄青い煙をゆらめかせていた。そのぶざまな肉塊からあふれ出る血は真紅の絨毯をみるみるうちにじっとりと重く湿らせていった。  血だ……生あたたかいその匂いが、突然、俺にそれまで忘れていた奈落のような孤独と不安を噴きあがらせた。  俺の客達と俺の獲物達は全く血というものを持っていなかったからだ。  俺の銃弾を浴びる時、彼らの体はオイルを撒《ま》きちらしプラスチックの細片を吹き飛ばした。  床を流れる真紅の血が、生命の最後の燃焼を意味するような、そんな色彩と匂いを忘れて俺は久しい。  あの遠い過去の或る日、人間を文明の王座からおいおとし、しかもその体の形や生活のことごとくを人間の模倣に徹しきれた彼らに、唯一つの出来得なかったことは彼ら相互間の殺し合いであった。彼らにはその機能が無かったのだ。意志だけあって行い得ない彼ら。その性能のすき間におもねって、俺のように生き残った少数の人間はどうやら息をついて来た。この仕事は、残存生物にはうってつけの賤業だったかもしれない。客達の希望に従うことに、俺はなんの心の痛みも感じはしなかった。それにとうに俺は彼らに対する復讐など放棄してしまっていた。俺はひたすら獲物に向かって突進した。  そして今、俺は残された人間の一人に出逢った。彼は俺を消すことを客に頼まれ、今夜此処にやって来たのだ。だが彼は、俺が人間の一人であることは当然知っていた筈だ。何故なら俺と彼は同業者だからだ。  孤独か。孤独ではない哀しみか。いや哀しみなどともちがう。  しかし、どうでもよいことだった。もう……  墓碑銘二〇〇七年  最初に目覚めた時、厚い二重窓のむこうに、巨大な宇宙船が怪鳥のような脚を張って基地のドーム群すれすれに高度を下げて進入してくるのが見えた。血のような残照の中に、横腹の緑色のマークが、一瞬、あざやかに目にうつった。ブレーキ・ロケットを噴きながら、その大きな影は、ゆっくりと視野のはずれに沈みこんでいった。  二度目に目覚めたときは、窓の外は烈しい砂嵐だった。基地をおし包んだ微細な赤い砂は、渦巻いて生きもののようにしきりにガラス窓を這った。時計はつねに今日の陽の高いことを示していたが、いつやむともない砂嵐は、室内にまだ深い夜を閉じこめていた。  覚めきれない眠りがよどんで、不快ななまあくびをかみ殺しながらトジは身を起こした。  のろのろとベッドをおりると、テーブルの上に投げ出してあるユニフォームに腕をとおして、煙草《たばこ》に火をつけた。紫色の煙がひろがると室内の空気がにわかに活気づく。その気配に、ベッドの下から一匹の大きな砂トカゲが這《は》い出してきて、トジの肩にとびついた。 「おう、ペンペン、腹がへったろう。今えさをやるから待っていろよ」  トジは煙草を持ちかえると、もう何年もの間、起居をともにしている、この唯一の友人ともいうべき砂トカゲの銀色の鱗をまとったその肩や背を撫でてやった。ペンペンは小さな舌を焔のように出した。トジは立って部屋のすみから小さな鑵《かん》を手にしてくると、なかみの幾らかをテーブルの上に撒《ま》きひろげた。ペンペンは音もなくひらりと身をひるがえしてテーブルにとびうつると、干し固められた小さな甲虫を、その舌でかたはしからなめとった。  トジはベッドに体を投げ出すと、一本の煙草をながいことかかって灰にした。  砂嵐はいぜんとして少しも衰えをみせなかった。  トジがこの基地にやってきてもう五日になろうとしていた。≪|虹の海≫基地で連絡用小型ロケット操縦士をしていた彼は、突然、宇宙省の呼び出しを受け、第十三宇宙ステーションヘの急行を命ぜられた。そして中継基地であるここまでやって来たのだった。しかし、ここから先の定期便がつかまえられぬままに、たまらなく退屈な時間を送りつつあった。  第十三宇宙ステーションにはどんな任務が彼を待っているかはだいたい想像ができた。  そこは、これまで幾多の宇宙探検隊を送り出したことで有名なステーションであった。いずれ新しい探検隊の一員として、どこか未知の空間へ旅立たせられるであろう。かくれるようにして≪|虹の海≫基地で小型ロケットを操縦していたのが、結局はまた呼びもどされて困難な仕事を与えられるはめになるのはわかっていた。しかしトジにはなんの感慨も湧かなかった。しょせん、死以外に宇宙パイロットを現役から退かせるものはないのだった。トジは胸いっぱいに吸いこんだ煙を、ゆっくりと輪にして吐いた。ペンペンのガラス玉のような目がその煙の輪を追ってゆっくりと動いた。と、そのペンペンが急に尾をピンとそらし、肢をふんばって烈しい警戒と闘志をみせた。細い舌が目にもとまらずひらめいた。  ドアがノックされた。 「入れ」  トジは、唇をゆがめて煙を吐き出しながら言った。腕をのばしてペンペンをおさえる。  ドアが開いて、宇宙省のユニフォームの若い男がはいってきた。  天井の蛍光灯もかすむ煙草の煙に、男は眉をひそめた。それでも右手をあげて形どおりの敬礼をすると、トジに言った。 「ミスター・トジ。基地司令がおよびです」  トジは無言で起きなおると、煙草を床に落として靴で踏みつけた。男は露骨に眉をしかめた。宇宙パイロットはその職務上また保健上禁酒禁煙は常識である。それにもかかわらず、彼はつねに十数個の吸殻をリノリウムの床に投げ棄てていた。ユニフォームの男はなかばあきれ、なかばいきどおりの非難をこめた視線を、トジにあびせた。彼があの高名な宇宙パイロットであるとはどうしても思えなかった。第一次火星探検にはじまって第二次木星探検に至る九回の遠征に参加しその功績は、三個の太陽功労章、四個の銀星綬章などに輝く名スペース・パイロット、トジその人であるとはどうしても信じ難かった。  トジはペンペンを横抱きにすると大股に部屋を出た。ハッチを幾つか通り過ぎると、円筒型の回廊へ出る。行き交う基地の人々は、この砂トカゲを抱いた大男を奇異のひとみで見かえった。彼がトジであることは誰も知っていた。  司令室と書かれたスチール・ドアを押して入った。長いテーブルを囲んでいる数人の中から、やせた長身の中年の男が立ち上がってトジをさし招いた。 「やあ、ミスター・トジ。たいへんお待たせしましたね。明日の三便で行っていただきます。この二ヶ月ばかり第十三宇宙ステーション行きの人員や貨物が輻湊《ふくそう》していましてね。たいへんご迷惑をおかけしました」 「いや。何年ぶりかでほんとうにゆっくり休みましたよ」  実際にその時、トジは、これまで求めて休息というものを持たなかった何年間かを思い浮かべた。広漠たる宇宙航路を、絶えず何ものかに追われるようにかりたてられてきたその年月。それはトジにとって重大な意味を持った年月であった。  トジは声に出して笑った。そのトジの笑いにあわせて、温厚な司令は意味なくほほえんで、書類のつづりをさしのべた。 「これが乗船許可書のひとそろいです。すべて手つづきは終わっていますから、これはこのままお持ちになっていてください。それからこちらのかた達も、明日の三便で第十三宇宙ステーションに行かれるのですよ」  テーブルを囲んでいた人々があらためてトジに会釈した。ベテラン技術者らしい鋭い風貌の銀髪の老人。宇宙船パイロットらしいたくましい青年。医務員のバッジをつけた女。注がれるそれらの視線を軽くかわしてトジは小腰をかがめ、書類を無造作にズボンの尻ポケットに押しこんで部屋を去ろうとした。その後ろ姿に、 「ミスター・トジ。握手をしていただけませんか」  一人の青年が立ち上がって、遠慮深げに緊張した声をかけた。 「握手?」 「ミスター・トジ。あなたのお名前は、われわれ宇宙船パイロットの仲間ではあまりにも有名です。私はあなたにあやかりたい」  それはこれまでに何十回となく聞かされた言葉であった。そしてほんとうにその言葉に酔えた時もあった。彼だけを残して、仲間のすべてが死に絶えた宇宙船をあやつって、荒廃した星を去るとき、わずかに彼を支えたものは、たしかにその言葉であった。 「あやかりたい? おれにか」  彼が拒否するひまもなく、青年は進み寄って彼の右手をとってしっかりと握りしめた。テーブルの一団から拍手が湧いた。 「私は第十三宇宙ステーション勤務を命ぜられて≪ダイモス≫基地からやってきた二等宙航士サイ・リーブスです。ミスター・トジも第十三宇宙ステーションへいらっしゃるのだそうですが、どうかよろしくお願いします」  青年はきびきびとそう言って、あらためてトジの手を強く握った。  こんな時に言うべき言葉はたった一つしかないことを、トジは知っていた。 「こちらこそ。まあがんばってください」  トジはゆったりと笑って、青年の手を握りかえした。青年は興奮にほおを紅潮させた。トジは静かにドアをあけて回廊へ出た。  心も顔も握手した手も石のようだった。 「ペンペン、砂漠へ帰りたいか? え、あの赤い砂漠へ」  砂トカゲの目に光が丸くうつっていた。  彼の居室のある第五セクションの食堂は、ドームの地下四階にあった。食堂に行く時だけはペンペンは部屋へ置き去りにする。彼のあとを追おうとして、ペンペンは滑るように床を這ったが、一歩おそくその鼻先でドアがしまると、しばらくは石像のように動かないが、やがて思いなおしたようにもどって、ベッドの下の暗がりに身をひそめる。  そんなペンペンの姿を心に浮かべながら、トジはリフトを出た。何番目かの気密扉をくぐるとそこはひろびろとした食堂だった。たくさんの勤務員がテーブルについていた。にぎやかな話し声とふれ合う食器の音が食堂いっぱいに反響していた。  トジが入ってきたのを見て近くの者は首をのばした。 「あれがトジか!」 「功労章を七つも持っているんだぞ。タフな男だな」 「ほら、見とれていないでバターをよこせ。しかし彼の評判はあまりよくないぞ。遠征が大失敗に終わった時、いつも帰ってくるのは彼一人だけじゃないか。いくら事故でも一人ぐらい仲間を助けてもどったらどうなんだ」 「彼だけが命からがら帰れたんだろうよ」 「それなら他の者だって帰って来られるわけだろ。いつももどってくるのは彼だけじゃないか」 「お前、トジに恨みでもあるのか」 「そういうわけじゃないが……」  トジは空席を見つけて腰をおろした。ベルトコンベアーの運んでくる食器の幾つかを取りおろした。トジはその時ふとどこからか自分に注がれる灼けるような視線を感じた。 「…………」  人に見られることになれている。だが、いつもの好奇と憧憬の混ざったそれとは、これは違う。たくさんの人数がこの基地にやってきては出てゆく。もとよりその中にトジの知った人物はいないはずだった。見さだめるのもおっくうだった。そのまま顔もあげずに食事をはじめた。隣では技術部員のバッジをつけた一団が、話に花を咲かせていた。その会話のはしばしがトジの耳にとどいてきた。 「帰ってきて知らされたら怒るだろうな」 「もし必要なら絶対に、のちのちまで本人には知らせないようにすることだってできるのさ」 「……たしかにそれは良い方法だよ。探検の第一段階である高空からの偵察だけの場合なら、ことにそのほうが経済的だし、万一の時の人的損害が少なくてすむ」  笑声が湧き、それから難解な数字がやりとりされ、彼らの食事ははかどらないもようだった。  定期航路の宇宙船パイロットの連中が飲み物の容器を手にしてやってきて、トジをとりまいて乾盃さわぎをはじめた。幾つかのコップを持たされ、何人かにかわるがわる握手させられた。トジは食事を早々にきりあげて、席を立った。その時トジはまたしても自分に注がれる烈しい視線を感じた。トジは頭を回して、その視線を受けとめた。雑然とならんだ人々の頭の間から、はっきりとこちらに顔を向けている一人の女があった。色の白いのがくっきりと印象的だった。まったく見知らぬ顔だった。  トジはそのまま、再び見かえることもなく食堂を出た。  自室のドアの間に立って開閉用ペダルを踏もうとした時、背後から近づく足音を聞いた。  足音は小走りにそしてひそやかにトジの背に迫った。 「トジさんでいらっしゃいますね」  ふりむくと、さっき食堂の混雑の中からトジを見つめていたあの女だった。大きな目がひたとトジの顔に向けられていた。 「そう……何かご用?」  女の右手がつと動いた。小型の無反動銃の銃口が、無表情にトジに向けられていた。 「誰だ、お前は?」 「私の夫はあなたに殺されたわ」 「殺された? おれにか」  トジは、ああ、また、と思った。  女は答えず、猫のような敏捷《びんしよう》な肢体に殺意をほとばしらせた。無反動銃の安全装置がカチリとおちた。  いけない、この女はほんとうにおれを射つ気だ。トジの皮膚を冷たいものが走った。 「待て! わけを聞こう。おれにはおぼえがない」 「そらぞらしい」  女の小さな唇から侮蔑《ぶべつ》の言葉が吐かれた。 「私の夫の名はセン・エイサニ。第二次木星探検隊で死にました。あなたに見棄てられてね」  トジは暗い目つきで女を見た。 「ああ、エイサニ……だがそれは違う。もう助けることは不可能だったんだ」 「あとからいいわけはいくらでも言えるわ。あなたはいつでも仲間を棄てて自分だけは帰って来た。第一次木星探検隊のときも、その前の金星での何度かの探検のときも。帰って来るのはいつもあなただけじゃないの」  トジはじりじりとあとずさりした。 「私の夫はどんな所で死んだのでしょう。私の夫だけじゃないわ。あなたといっしょに行ったみんなは……悪人、死ね!」  女の指に力がこもった。 「待て、早まるな。聞け。あのときおれには、病気にかかった者を助けるよりも、その病気を地球に持ちこまないようにしなければならなかった。たとえ親友でも見棄てる以外に方法がなかったのだ」  ——茫漠《ぼうばく》とひろがるメタンの海。その銅色の波がしらは、夜明けの烈風に千切れて霧のように飛んでいた。トジはただ一人、必死にマジック・ハンドをあやつっていた。マジック・ハンドは生き物のように動き回って、彼の仲間たちをつぎつぎと船室から引きずり出しては、荒れ狂うメタンの海に投げ落とした。変わり果てた仲間たち、なりそこないのさなぎのように変わり果てた仲間たち。何が原因なのか見当もつかなかった。  もう息の絶えてしまった者も、まだ息のある者も、今は宇宙船の外へ投げ棄ててしまうことだけが、この恐るべき疾病を地球にもたらさないようにする、たった一つの方法であった。そしてトジが、仲間の死体のもっともひどい炎症を起こしている部分を切りとって作った一個の固定標本をかろうじて地球に持ち帰ることのできる、たった一つの方法であった。彼だけはまだ健康であった。彼だけはどうしても生きて帰らねばならなかった。  あの時、エイサニはまだ呼吸だけはしていた。エイサニ!—— 「金星の時だってそうだ」  トジはうめくように言った。  ——宇宙船の外鈑《がいはん》もとろけるような白熱の水蒸気。次第に狂躁状態を強めてくる仲間たち。そしてついに操縦室を破壊しはじめた主席操縦士を手はじめに、全員を射殺してしまわなければならなかったあの結末。残されたトジはただ一人、それでも生きて帰らねばならなかった。  突然、トジの心に耐え難いほど悲しみがおそってきた。今こそただ一人、ロケットに乗って飛びたちたかった。あの荒涼たる空間だけに心をみたしてくれる何かが、そしてそこだけに彼を理解してくれる何かがあるような気がした。 「帰ってくれ。邪魔だ!」  トジは言い棄てて足をかえし、ドア・ペダルを踏んだ。ドアはさっと開いて走りよってくるペンペンの姿がちらりと見えた。 「逃げるの! トジ」  女は叫ぶよりも早く無反動銃の引金をしぼった。一瞬、現実にたちかえったトジはまりのように転がった。空気が絹を裂くように鳴った。ころがるトジのあとを弾道が追っていった。トジは傷ついたけもののようにはね起きざま、テーブルの上の鑵をつかみとって女に投げつけた。ペンペンのえさははねかえる鑵から床に散った。時ならぬ饗宴《きようえん》にペンペンは身をふるわせて突進した。女の無反動銃がペンペンにむかってほとばしるよりも早く、トジは風のように女に体当たりをくわせた。女は手ごたえもなくはねとばされて壁にぶつかった。 「ペンペンを射つとしょうちしないぞ」  トジの声は怒りに震えた。彼の太い腕に女はかるがるとつるし上げられた。トジが腕を動かすたびに、女の頭はがくがくとゆれた。 「いいか、よく聞け。帰ってきた者も帰ってこられなかった者も、みんな自分の名において責任を果たした。エイサニは船の外へ投げ棄てられるとき笑っていた。たしかに静かに笑っていた。おれにはエイサニの心がよくわかる。エイサニもおれの気もちがよくわかっていたんだ。ちくしょう! 奴らのためにも、おれは絶対にかえってこなければならなかったんだ。奴らの最期は、終焉《しゆうえん》の地はおれだけが知っているんだ。おれは奴らの墓碑銘なんだ」  トジのひとみは底知れぬ深い淵のように暗く光った。女は顔をあげて焔のような視線でトジの言葉をはねかえした。 「さあ、警務部をお呼びなさい。あなたがなんと言おうと私の夫は帰らないわ。名誉がなに? 友情がなに? それともあなたに夫を失った女の気持ちがわかるとでも言うの」  女はつかまれた肩をぐいとふりきった。 「私はこれから何度でもあなたをねらうわ。私はスペース・オペレーターの資格をとって、この基地を希望して、配属されてきたんだわ。いつかあなたもこの基地へ来るだろうと思ってね」  着崩れた上衣のえりもとから、白い首すじと肩の奥がのぞいていた。その透きとおるような白さが、トジの怒りを、ぐいとねじ向け、どろどろしたものが、身内に破裂した。彼の右手がひらめいて、女のほおが痛烈に鳴った。床にたたきつけられた女は、子供のように歯をくいしばっていた。  トジはそのとき見た。  白い壁に、つめたい床に、星のように彼を見つめる幾十の目があった。その目はまばたきもせず黙ってトジに注がれていた。それはかつて彼が見棄ててきた多くの仲間たちの妻や子供の目だった。そこには身もこおるような拒否だけがあった。彼らが生きてこの世にある限り、決してトジのことは忘れないだろう。つねにただ一人で帰ってくる男。もどらなかった男たちの残された妻や子にとっては、それは釈明も許さない罪悪なのか。彼らが愚かなのではない。赤い砂漠や、青いかすかな太陽や、無限の空間や、それらを理解させることは難しい。ましてそこは、時に人殺しですら至高の美徳となり得る世界なのだ。どう説明する?  トジは顔をゆがめて笑った。なにかの言葉が、なにかのふるまいが、かつてそれほどのはたらきをしたことがあったろうか。トジはとめどなく笑った。もし他に聞く者があれば、その笑いの凄愴《せいそう》なひびきに思わず耳をふさいだろう。  トジは氷のような目つきで女を見た。  居室のドアをカチリと閉め、トジは背をもたせかけると深い息を吐いた。滅失の想いがトジを立っているのも困難にした。ズボンのポケットからくしゃくしゃになった煙草をひっぱり出して火をつけた。 「ペンペン、おどろいたろうなあ」  砂トカゲは影のように床を走った。そこはまことに砂漠だった。さえぎるものもない荒涼たる、赤い不毛の砂漠だった。  つぎの日、トジは第十三宇宙ステーションへわたった。  そこは騒然たる活気に満ちていた。回廊にまでうず高く積み上げられた資材、モーターのうなりと鳴りひびくホイッスル。幅広のベルトにスパナやペンチやガイガー・チューブなどをさしこみ、ヘルメットを背にはね上げていそがしく行き来する作業員たち。そのあわただしさと奇妙な荒っぽさは、これはまさしく前進基地特有のものであった。その渦の中に立ってトジはひさしぶりに身内から湧きあがってくる興奮をおぼえた。こここそ彼ら宇宙パイロットたちの母港であり故郷であった。  幾十隻、幾百の宇宙船がここから出発した。そしてそのうちの半数はここへ帰ることを夢みつつ、冷たく暗い空間に永遠に消えていった。トジの過去における何度かの探検行も、すべてこの基地から出発し幾千万キロを飛んでまたここへ帰ってきたのだ。ここへ帰ってくるために、時には彼一人で数えきれぬほどの障害をのりこえ、さまよい続けてきたのだった。それ故にこそ、ここにはかつてふり切ったはずのたくさんの想い出が生きていた。  トジは、その過去のいくつかの日と同じように、大股に回廊を歩き司令室のドアをノックした。 「よう、来たな。相変わらずで結構だ。坐れ」  基地司令のニン・ハイ博士が大きな坊主頭をもたげて、顔をほころばせた。トジは黙って、テーブルの端に腰をおろした。  ハイ博士はトジを上から下へ、下から上へとなめるように観察してから言った。 「トジは今でも酒を飲むか」 「あれば飲む」  博士はテーブルの下からプラスチックの容器とグラスをとり出して、トジのそばに押しやった。 「規則違反だがまあいい。飲め」 「あんたは?」 「おれはいい。一人で飲め」  トジは薄緑色のグラスを傾けた。 「これもか」  博士は平たい煙草のパックをほうった。トジは空いている片手で受けとめると、器用に一本を引きぬいて火をつけた。 「いやにサービスするじゃないか」 「ふん。お前が来ると知って用意したんだ」 「ところで何か大きな探検計画があるんだそうだが、おれが呼ばれたのもそれか?」 「お前の腕はたしかだからな……その妙ちきりんなものがお前のペットか?」  トジの腕を離れた砂トカゲは、心地悪そうにそろそろとテーブルの上を歩いた。  博士は顔をしかめて砂トカゲを見ていたが、ふと表情を変えて言った。 「トジ。パイロットなどやめて結婚しろ。可愛い女の子とでも世帯を持て。ん?」 「よけいなおせわだ」  博士はこのひどく気むずかしい、そして少し傲慢《ごうまん》なところのある青年が妙に気にいっていた。博士がこの第十三宇宙ステーションの司令になって以来、この青年は何回もどこからともなくよばれてきては探検隊に加わって、博士の見送るなかを、遠い冷たく暗い空間に向かって旅立っていった。そしていつもほとんどただ一人で帰ってきた。帰ってくるたびに、青年は少しずつ無口になり笑わなくなった。そしてある時、彼が宇宙省の正規の要員の籍を離れて月のどこか基地で内航用小型ロケットのパイロットの職についたことを聞いた。博士にはなぜだかそれがわかるような気がした。 「トジ。こんどの任務はむずかしい。こんどだけはお前も帰ってこられるかどうかわからん。くわしいことはあとで話すが」  トジは黙ってからになったグラスをくるくると回した。 「トジ。一時間後に参加者全員集合だ。だが、トジ。お前、もし気が進まないなら……今そう言ってくれ」  トジは立ち上がった。幅広い肩がドアのところでくるりとむきをかえ、指をちょっとあげてあいさつするとニヤリと笑って外へ出ていった。 「トジ!」  博士の顔は暗くかげった。トジの消えていったドアをにらんで博士は胸にこもった言葉を石のようにのみくだした。  第三次木星探検隊隊長バルガ博士は皆の上に視線を走らせさらに言葉をついだ。 「……以上の研究班の提出資料を検討した結果、われわれはつぎの方法をとることにした。すなわち、航行中はB型冷凍冬眠法を用いることにした。出発三十二時間前に全員冬眠に入る。いいか。まず出発して八十八時間二十七分三十秒たって第一当直のニールセンが任務につく。その時の本船の位置は」  バルガ隊長は壁の昼光スクリーンの航星図の上に座標を作って矢印のサインを動かしていった。  全航程を七つのセクションに分け、隊員のそれぞれが各セクションを分担する。冬眠シリンダーの中の隊員は、あらかじめセットされた覚醒装置によって目覚め、船内のあらゆる装置の点検をし、航路を修正し、全員の健康状態を監視する。そして任務が終わったら再び冬眠に入る。こうして次々に任務は受けつがれてゆくのだった。したがって全員が顔をそろえるということは、一度もないわけである。こうした方法は本来、目的地へ到着するまでの間の健康保持のために考えられたものであり、航法用電子頭脳、内部機構調整用電子頭脳などの発達にともない、広く応用されるようになった。今度の第三次木星探検でも、航路の算定や宇宙船の操縦管理、観測機器の操作などはことごとく電子頭脳が行い、隊員たちはそれらの機構の監視だけを行えばよいのであった。とくに今度の場合は、木星に着陸せずに高空からのみ偵察観測を行うのであるから全員が顔をそろえる必要はなかった。  トジは第四セクション、つまり木星周回コースがわり当てられた。このセクションは、特にあらゆる機構が、なかでも観測装置がフルに作動する時期であり、また肉眼による木星観察も重要な仕事の一つになっていた。そのため、もっとも有能な人物をこのセクションに配さねばならなかった。その点トジの配置は誰にもうなずけるものがあった。  隊長バルガ博士をはじめとして、第一機関士のハービット、第二機関士のオサリバン、電装員ユウマ、電子機器管理士のタムラ、それに医務部よりシャーフェ、そしてトジ、の七名が探検隊の顔ぶれであった。  隊長のバルガ博士は、これまで学者としてよりも、むしろ実際に探検隊をひきいて宇宙空間に幾多の業績をあげていた。彼の言葉は聞きとれぬほど低くかすれていた。半年ほど前に火星基地での事故によって声帯を傷つけ、いまだに回復しきっていないということであった。第一機関士のハービットも、第二機関士のオサリバンも、宇宙探検には経験の深い男たちだった。隊員のうちただ一人の女性である電装員のユウマは、二十歳を過ぎたばかりの色の浅黒い娘だった。彫りの深い顔立ちと容貌を特徴づける白目の多い大きな目は、彼女の民族の血を示していた。彼女はトジを紹介されたとき、彼をまじまじと見つめ、それからうやうやしく一風変わったあいさつをした。それは彼女の国に古くから伝わる、民族的な英雄に対する儀礼の一つと思われた。トジは古風な、真実味のあふれたそのあいさつが嬉しかった。トジの心の中にほのぼのとした優しいものが流れて去った。  出発前の打ち合わせは、トジにとってはつねに最大にわずらわしいものの一つだった。航星図やグラフやプログラムの分厚な束。そこにたてられたどんな計画も予定も、たった一度の小さな突発事故によってたちまち狂わせられてしまう。最後に支離滅裂になって残るのは、ただ一つ度胸と勘だけであった。荒涼たる未知の空間と精密機械群の中にあって、それだけが身を守るすべてであることを、トジは痛いほど知っていた。まことの自信と孤独と忍耐だけがスペース・パイロットを支えるすべてであることを、トジはひとごとのように思った。  翌日、トジはペンペンを抱いて、ハイ博士の居室をおとずれた。冷眠室へ入るまでまだ数時間あった。 「博士、ペンペンを火星に送りかえしてほしい」  トジは砂トカゲを博士のテーブルの上におろした。砂トカゲはくわっと口を開いて赤い舌をひらめかせ、しきりに落ち着かなく周囲をうかがった。 「送りかえす? どうして。こんなによくお前になついているんじゃないか」 「だから砂漠へかえすんだ。ペンペンはおれ以外の誰にもなつかない。おれがいなくなったら、誰がせわするんだ」 「それだったら、お前が帰ってくるまでこの基地であずかっておこう」 「博士、おれが帰ってくることができるならな。だが、またここへ帰ってくるつもりでは、とても出てゆかれないものだよ。そのときこそペンペンは誰がせわするんだ」 「お前のことだ。帰ってくるさ」 「なに!」 「おれの言うことをいちいち気にするな。お前らしくもない。だがこれだって馴らすのにはずいぶんたいへんだったろうが」 「ああ。でも火星の動物や植物は違った環境に馴れやすいんだと、生物管理員が言ってた」  博士はテーブルの上の定規をとって、ペンペンの前へさし出した。ペンペンは首をのばしてそれをうかがい、それから急いでトジの腕の中にかくれこんだ。 「そういうことをしてはいかん。これは驚きやすいんだからな」 「よし、それでは早速手配しよう。だがお前が出発するまでは送り出せんがなあ」 「それはいい。たしかにたのんだぞ」  博士はどこかへ電話をかけると、間もなく作業員の一人が大きな軽金属の鑵をかかえて部屋へ入ってきた。 「ああそれでよかろう。トジ、その奇体なイキモノをこれに入れろよ。ちゃんと空気穴まである。えさは何をやればいいんだ?」  トジはペンペンを抱きあげると頭のほうから鑵に押しこんだ。ペンペンは少しもがいたが、すぐするすると中へ這いこんだ。ふたのとめ金をカチリとしめつけると、トジはポケットからえさの入った鑵をとり出して、机の上へおいた。 「一日一回、ひとつかみずつやってくれ。こいつは水は飲めません」  博士はうなずいて作業員をふり向いた。 「おい、これを輸送部へ運んでくれ。このえさの鑵もだ。くわしいことはあとで指示するが、静かなところへそっとして置いておくように」  作業員はペンペンの入った鑵を肩に背負った。小さな空気穴からペンペンの呼吸するかすかなさやぎが洩れていた。 「待て!」  トジは突然、腰を浮かして、大きな声で出てゆく作業員を呼びとめた。  ペンペン! こんどの探検に参加するのを断ろうか。そしてどこかの小基地でペンペンといっしょに暮らそうか。ペンペンを棄ててまで探検に参加して、いったい楽しいのか? ペンペン、ゆくな!  トジは子供のように両手をさしのべた。  博士の大きな手がやさしくトジの肩をたたいた。トジは我にかえってぼんやりと再び腰をおろした。 「行け」  作業員は静かに出ていった。  七時間後、全員は冷凍冬眠用のまゆ型シリンダーの中にあった。この金属の円筒は、眠り続ける隊員たちをその宇宙航路の途上のあらゆる危険から守りとおすのであった。シリンダーは探検船≪ダイアドD≫に積みこまれた。≪ダイアドD≫は、省船MK九八号を特殊用途のために改造した四千トン級宇宙船であった。最新型のアライド・バッジ方式熱交換機をポッドに収めて側面にぶらさげたこの形式は、長距離の遠征に用いて極めて経済的であると思われた。  厚い防護壁に包まれた船室の金属パイプの棚の上にならべられたシリンダーは、以後、電子頭脳があらゆる管理をするのだった。炭酸ガス吸収装置、塩分濃度調節装置、代謝調整装置などのさまざまなパイプや電線などが直結され、かすかな異変にもただちに処置がとられるようになっていた。  眠りに入る時、トジは浅い夢を見た。後から見知らぬ女に呼びとめられる。ふり向くとニン・ハイ博士が眉をしかめて立っていた。だがトジの予期していたのは、あの色の浅黒い彫りの深い顔だちの娘であった。トジはひどく落胆した。「博士、ペンペンはどうした?」博士はもう居なかった。「博士、ペンペンはどうした? ペンペンはどうした? ペンペンは」トジは声に出してたずねながら奈落のような深い眠りに落ちていった。  定刻。≪ダイアドD≫は白光を噴いて第十三宇宙ステーションを離れた。それは闇黒の空に輝く千億の星々の間を縫って、なお見つめる人々の目に長く長くうつっていた。レーダーは≪ダイアドD≫を追って、その巨大な傘をゆっくりと傾けていった。≪ダイアドD≫から絶えまなく送ってくる電波は、すべての機構が百パーセントの正確さをもって、活動していることを告げていた。  長い時間が過ぎていった。≪ダイアドD≫は一個の天体と化して暗黒の虚空を突進していった。テレビ・カメラは星々の位置を正確にとらえ、電子頭脳はそれをもととして≪ダイアドD≫のコースを、その一瞬一瞬に修正していった。  長い長い時間が過ぎていった。  突然、トジは烈しいショックに目覚めた。なかば麻痺状態のもうろうとした意識の中で、おそろしい嘔吐感《おうとかん》が渦巻いた。その五体を引き裂いて、ふたたび強烈なショックがはしった。  トジの眠りは生皮をひきはぐるように身内から分離していった。トジは夢中でシリンダーのカバーをすべらせて、ころがり出るように床におり立った。引き裂かれるような苦痛が全身をおそった。トジは身をかがめると思いきり吐いた。しかし胃の中からは何も出てこなかった。わずかな胃液が床にとび散っただけだったが、それでもいくらか気分はよくなった。耳の中で凄まじい音響が轟きわたっていた。必死の思いで頭をふり、注意をそれに集中してみると、それは以外にも船室内に鳴り響いている警急装置のブザーであった。  ぎょっとして身を起こしたトジの目に、壁面を埋める無数のパイロット・ランプが狂気のように点滅をくりかえしているのがとびこんできた。あらゆる装置が警報を発していた。  突発事故だ。何か思いもかけない重大な事故が突発したのだ。そのため電子頭脳はシリンダーに眠る乗組員たちの非常覚醒回路をいれたのだ。瞬間的に冬眠からよみがえらせる非常覚醒はしばしば大きな危険をともなう。とくに急激に上昇する体温は、代謝機能を回復不能にまで混乱におとしいれ、時にはそのまま死をもたらす。  トジは脂汗にまみれて操縦席へ走った。  床には、電子頭脳から急流のように吐き出されてくる報告が、もつれて散乱していた。それを片手ですくい上げて、かすむ視線をあてた。  反応炉《パイル》に制禦がかかりすぎて、制禦板《コントロール・パネル》が作動していない。  それだけを読みとって、トジは本能的に燃料注入ハンドルを力いっぱい回しはじめた。  このままでは推力不足のまま≪ダイアドD≫は一個の流星となって木星へ突っ込んでしまうだろう。一秒も早く推力を最大までパワー・アップしなければならない。とりあえず予備燃料まで投入して推力をかせぎながら、トジは針路の確保につとめた。 「みんな! 早く部署についてくれ、隊長《キヤツプ》、ここはどこだ。位置を出してくれ、早く」  トジはふり向くよゆうもなく怒鳴った。  トジに今欲しいのは人手だった。かなうものなら百人の。だがこの≪ダイアドD≫には七人しかいなかった。その七人が百二十秒の間に百人分のはたらきをしなければならない。トジの顔は焦燥にひきゆがんだ。 「いつまでぐずぐずしているんだ。早くしろ!」  トジは舌うちして航路算定装置《コーサー》の非常回路を、操縦席へ切りかえた。前面のスクリーンに灯がともった。波紋のような輝線が躍って≪ダイアドD≫のコースを示すカーブが浮かびあがってきた。それをのぞきこんだトジは、のどの奥で悲鳴をあげた。  ≪ダイアドD≫はすでに正しいコースから六十万キロも離脱してしまっていた。それだけではない。故障したポッド側を内にして、大きな円コースをたどりつつあった。  これではコースの確保もなにもない。円軌道を増速してもいたずらに燃料を浪費して、ついには帰航不能になるだけであった。トジは必死になって、今まわし終わったばかりのハンドルを逆転していった。今のうちに故障をなおしてコースをセットしなければ。それにしてもみんなどうしたんだ! 「なにしているんだ! こんなところで死にたいのか!」  操縦席からふりかえって叫んだ。  そのトジの目に、無人の船室がいやにがらんと見えていた。シリンダーからは誰も出てきていなかった。覚醒装置の故障か? それともすでに六人とも、冬眠管理機構の故障で死んでしまったのか? トジは操縦席からとびおりるのももどかしく冬眠管理電子頭脳の前へ走った。七つのパイロット・ランプのうち六つがオレンジ色の灯をともしていた。消えている一つはトジのシリンダーであった。トジはメーター・ポッドにかじりついた。  一号シリンダーはハービット。体温六・三度C。脈搏二・二。塩分濃度四・三七K。VR吸収率〇・九二その他異常なし。二号シリンダーはタムラ。これも異常なし。三号シリンダーはユウマ。異常なし。つぎつぎと目を走らせるどれにもトジのおそれたなんの異常もあらわれていなかった。  トジはてのひらで汗をぬぐった。  おそらく非常覚醒装置になんらかの故障があって、他の六人には警報が伝わらなかったものと思われた。  だが、いまは全員に一刻も早く目覚めてもらわねばならない。故障はどこだ? 「こうなるまでに何とかできなかったのか、ボロ機械め!」  トジの胸に、にわかに烈しい怒りが湧きあがった。  かすかな兆候のうちに事故の発生を知り、迅速に処置を講じてゆくのが電子頭脳の保全回路であった。制禦板の故障にしろ、非常覚醒装置の故障にしろ、それがはっきり現れるかなり前から、保全回路の探査装置にキャッチされていたはずであった。たとえ真の突発事故であったとしても、二段の保全回路がはたらくようになっているのだ。 「まさか電子頭脳がおかしくなっているわけじゃないだろうな」  トジは報告テープの束を目の前にかざした。そこには、電子頭脳の活動ぶりが克明に報告されていた。たしかにそれは事故の発生を数時間前に探知していた。だが、それから先の報告は混乱していた。回路の選択は適正を欠いて修正をくり返し、そしてトジが覚醒に至る直前には、完全に支離滅裂となっていた。非常覚醒装置も幾度か入れられては、その都度エラーサーが追いかけるように打ち消していた。 「電子頭脳までぐずぐずしていやがる」  トジは報告テープを手荒くたぐっていった。  制禦板の故障は、外鈑のひずみによる支持架の取りつけ角度の変化によるものだった。報告テープによると、外鈑が三十センチほど内側へくぼみ、それにともなって制禦板の回転軸を受ける支持架がねじれてシャフトをおさえつけてしまっているのだった。おそらく制禦板の作動モーメントに支持架が耐えきれなかったのだろう。  それに対して電子頭脳は、いくつかの対策をこころみていた。そのどれもが成功の可能性のうすいものだった。 「なんで早くみなを起こさないんだ。今ごろになって」  たしかに電子頭脳の機構管理に、大きな錯誤があったようだった。それは挿入されている基本データに何か重大なあやまりがあったことを意味していた。  操縦席にもどったトジは追いつめられたけもののように肩で息をした。  もはや、六人の助力を得ることはできなかった。彼らが目覚めたら、まず本格的な修理にかかろうという計画も、駄目になってしまった。  彼らを覚醒させる手段を他にトジは知らなかった。  ≪ダイアドD≫はしだいに強い揺動《ヨーイング》の兆候を示しはじめた。あきらかに木星の衛星カリストの影響と思われた。≪ダイアドD≫の針路は、最初にトジの予想したものよりずっと木星に近づいたものになっていた。そして航路算定装置は、つぎの一時間にカリストの引力圏を双曲線カーブを描いて通過するコースをはじき出していた。  それは現在の推力不足の状態では脱出はとうてい、望み得なかった。そのままのコースを維持してゆけば、自然落下十一日にして衛星オイローパか木星本体へ突入することになる。もちろん軟着陸は可能だが、≪ダイアドD≫には着陸の用意は何もなされていなかったし、離陸のための装置はもとよりなかった。今は着陸はすなわち死を意味していた。  トジは心の底からすぐれたクルーがほしいと思った。いま一人の機関士がいれば、電装員がいれば、このような苦境をくぐりぬけることはトジにはさして難事ではなかった。  重力調整装置の赤ランプがついた。引力圏に入ったのだ。トジは船内重力調整装置のスイッチを押した。烈しい揺動がおさまれば、あとは自然落下があるのみだった。未知のコースに入った航路修正装置はしきりに警報を鳴らし続けていた。≪ダイアドD≫が地表に激突する瞬間まで、それは危急をうったえて鳴り続けるのだろう。それは≪ダイアドD≫がトジにうったえる悲鳴のように聞こえた。  トジは意を決してカリストヘのコースをとった。エンジンに点火すると、オートパイロットを航路修正装置に直結した。トジは推力不足のまま、カリストヘの軟着陸を行うことにした。燃料を無駄に使うことは絶対に許されなかった。このままカリストヘ着陸して制禦板を修理し、離陸をはかることが唯一の活路であった。  木星軟着の経験はすでにあった。そのときに比して、条件は良くもなかったし悪くもなかった。 「コチラ第三次木星探検船≪ダイアドD≫エンジン故障。カリストニ不時着スル。全員無事ナルモ事態ハ極メテ危急。コチラ第三次木星探検船≪ダイアドD≫」  トジはスクリーンにカリストをとらえた。  青灰色に輝く巨大な球体が幻のようにかかっていた。直径五千百八十キロ。ほとんど火星にひとしい大きさを持つこの木星の衛星は濃密な大気をまとって、重さをもたないもののように暗黒の空間に浮かんでいた。カリストのはるかむこうに銀緑色の焔のように輝く衛星イオが点滴となっていた。そしてさらに他の二個の小衛星が、スクリーンの端に光っていた。  それはトジにとっておそるべき陥穽《かんせい》であった。過去の幾度かの探検には、その青灰色の天地の中で危うく死という高価な代償を払わされるところであった。多くの仲間がそこで倒れた。貴重な観測機器は石のように投げ棄てられ、時には宇宙船でさえ、木箱より無造作に置き棄てられた。それは際限もなく犠牲を呑みこむ幻の淵であった。  トジは、何度か、その死の淵からたった一人で浮き上がり、仲間たちの遺品—無形の遺品たる記憶だけを抱いて、脱出して来たのだった。  そこへ再びゆく。もとより望んでゆくのではないが、六人の仲間たちの命を助けるためには、千に一つの機会をも逃してはならなかった。  トジは細心に落下速度を調整した。カリストは刻々と大きくなりその位置を変えてきた。  今しばらくの努力だった。着陸に成功したら、まず第一に非常覚醒装置の故障個所を発見し、六人の仲間に目覚めてもらう。そして一方では混乱した電子頭脳を調整して正常な活動を回復する。それはおそらく複雑な操作と相当な時間を要する仕事だが、やってできないことではなかった。またそれ以外にトジがこの難関から脱け出す道はなかった。  トジは二個の原子力エンジンを交互にはたらかせてつとめて楕円軌道を保持しながら、カリストの大気圏に≪ダイアドD≫を滑りこませていった。ブレーキ・ロケットが間断なく咆哮《ほうこう》した。航路修正装置は濃密な大気の底をまさぐって≪ダイアドD≫の着陸点を求めていった。高度八万三千メートル。≪ダイアドD≫の外の外鈑は、大気との摩擦によって火花を散らした。冷房装置は全力運転にかかっていた。≪ダイアドD≫の船体はごうごうと震動していた。トジは手早く宇宙服を着こみ、カートリッジのような食糧や水のケースを腰のベルトにずらりとはめこんだ。携帯無電機を背負った。大型のフラッシュライトを肩からつった。もし修理が不能で救助の到着を待たなければならない場合、自分の所在をしめすためにこれらの道具は絶対に不可欠だった。最後にヘルメットをかぶってエア・ロックを開いた。  その間にも≪ダイアドD≫はぐんぐん高度を下げていった。レーダーに地表がうつりはじめた。メタンの大気はおそろしい粘着性をもって≪ダイアドD≫をさえぎった。ほとんど八十パーセントに近いアンモニアの気団が検出された。高度一万二千メートル。もう水中をくぐってゆく魚雷のようだった。側方にロケットを噴かして、≪ダイアドD≫を垂直に立てた。そのまま、まっすぐに降下してゆく船体は今にもくだけるばかりに烈しく震動した。床も外鈑もメーター・パネルもびりびりと鳴っていた。船の外はおそらく地獄のような嵐だろう。スクリーンは一面、矢のように千切れ飛ぶ分厚い雲におおわれていた。  高度四千。トジは右手で力いっぱいスイッチを押した。ブレーキ・ロケットの咆哮がぴたりと止む。一瞬、左手は主エンジンを最大に噴かした。降下速度ゼロ、どうんと衝撃が突きあげてきた。そのままぐうっと大きく傾いて静止した。  気がついた時、トジは船倉へ下りるラッタルの途中にぶら下がるようにしてひっかかっていた。照明が消えて、非常用の微光灯だけが小さな星のように光っていた。体を起こしてみると、操縦席の床が紙のように裂けて、彼を下へ落としたものらしかった。肩のフラッシュライトをオーバータイムにして点灯した。彼のひっかかっているところから下は、巨大なトンネルのように口を開いていた。その第一機械室の中身はどこかへ消えてしまっていた。さらにその下の動力室は影も形もなかった。濃霧のようなメタンの大気が光の輪の中を渦まいて流れこんできた。「しまった!」  トジは曲がったラッタルを必死にかけのぼった。  冬眠管理電子頭脳のパイロット・ランプはすべて死魚の目のように光を失っていた。今、シリンダーに流入しているのは酷寒とメタンの暴風であった。トジは、シリンダーの置かれているところまで這いずっていった。スチール・パイプの棚は倒れ、六個のシリンダーは支持架をはなれて散乱していた。二号シリンダーが中ほどから二つに折れていた。「タムラ!」  トジは息をのんで震える光芒をあてた。のぞきこむシリンダーの内部にタムラの姿はなく、何か精密な電子器材の一部と思われるものがそこからのぞいていた。トジはシリンダーの内部をつつむプラスチックの薄膜をばりばりと引きはがした。もつれた糸のような細い電路、増幅器、冷却装置、継電器、一目でわかるこれは小型の電子頭脳であった。トジは後ろにころがっている四号シリンダーにとびついてそれをこじあけてみた。これも内部におさまっているのは小型の電子頭脳であった。一号も五号も六号も、どれにも彼の仲間の姿はなく、今は動力を絶たれた電子頭脳が、つぶれた臓腑のように冷たくおさまっているだけであった。それが正確に脈搏を、体温を、VR吸収度を、あたかも人体からの収録のようにトジの目の前にうち出して見せたのだ。  非常覚醒の回路が入れられても、誰も目覚めてこないはずであった。隊長のバルガも、ハービットも、タムラも、あのユウマも、誰一人としてこの≪ダイアドD≫に乗っていはしなかったのだ。シリンダーの内部に眠り続ける彼らがいると思えばこそ、必死に船をあやつり、恐怖や不安と闘いながらここまで持ちこたえてきたというのに。  トジは床にひざまずいて喘いだ。事態の全容がつかめないのがたまらなくもどかしかった。 「これは何かの実験だったのだ。さもなければ非常に新しい探検の方法だったのだ。だが、計画者の誰が、こんなかたちでの失敗を考えられただろう」 「この探検が成功して帰ったら、おれはただ一人で木星まで行ってきたのだなどとは、一生気づかないだろう。そしてバルガ隊長をはじめ彼らは、また基地の集会室かどこかで何くわぬ顔で、おれと話を合わせるのだろう。生死をともにした仲間として」  トジの胸に、不意にあの中継基地の第五セクションの食堂での隣席での会話が思い出された。 『探検の第一段階である高空からの偵察だけなら、そのほうが手軽で経済的だし、万一の時の人的損害が少なくてすむ』 『帰って来て知らされたら怒るだろうな』 『のちのちまで本人に知らせないようにできる』  その時、突然トジはあの電子頭脳の混乱の原因に思いあたった。  電子頭脳は制禦板の故障を発見して、ただちに修復操作にかかったのだ。だがその作業は電子頭脳には不可能なことだった。支持架のゆがみをなおすには鈑金工作を必要とした。そのため乗組員に非常覚醒回路を入れた。  だが回路に故障はないのに、シリンダーは沈黙したままである。あるいは六個のシリンダーには最初からの回路がなかったのか。電子頭脳の基本データには≪ダイアドD≫の乗組員は七人となっていたに違いない。そこから混乱がはじまったのだ。指令と修正は交錯していたずらに報告テープはもつれて山を積み、回復の機会は空しく失われたのだ。  ざまをみろ! トジはのろのろと立ち上がった。エア・ロックを通ってデッキヘ出た。  凄まじい烈風が正面からトジをおそった。かろうじてデッキのハンド・レールに体をささえた。今は昼か夜かわからなかったが、水底のような薄明が視野を被う深い霧の奥にあった。大気は泥のように重かった。  目もくらむような閃光が天地を裂いてはしった。落雷であった。  トジはメタンの滴をはねとばしながら地表へ降り立った。そこはボーキサイトの露頭とおぼしい岩盤だった。濃い大気の底で、ライトは散乱して足もとまでもとどかなかった。  ほとんど手探りで岩盤に沿って五十メートルほども進んだとき、再び強烈な閃光が大気を紫色に染めた。後方≪ダイアドD≫のそびえ立つあたりに、暗いオレンジ色の光の幕がはためいた。それはしだいに太くなっていった。落雷によって、≪ダイアドD≫に爆発がおきたらしかった。  トジのほおにかすかな笑いが浮かんで消えた。幻の彼の同行者、バルガ隊長やハービットやユウマの最期であった。そして三度目の木星探検計画は今、メタンの大気の底で崩壊しつつあった。  救助船は来るだろうか。もし来たとしても、この厚い大気の底にかくされているただ一人の遭難者を見つけ出すことができるだろうか。トジはそれがほとんど望み得ないことを知っていた。  風がいちだんと強くなった。トジは岩盤にしがみついて風をよけた。その背に腕に足にメタンの霧は冷たく滴をむすんだ。トジはいつかこういう日がくるのを、前から知っていたような気がした。  トジの心からはこの時、エイサニや自分に銃を向けて立ったその妻のことや、数々の探検行に死んでいった仲間たちやその家族、つきない恨みや哀しみのまなざしが消えていった。すべては遥かに遠かった。トジは頭をふった。  帰るのだ。何とかしてここから帰るのだ。その困難の度はこれまでの幾度かの遭難に比すべくもなかったが、しかし今度も帰らねばならなかった。今度だけは誰のためでもなかった。  おのれの墓碑銘はおのれのためにだけ記される。そして死は、トジの心からなお遠かった。  氷霧二〇一五年  なお一つ、ここに木星での或る物語がある。  これまでに人々によって語られてきた多くの物語と同じように、ここでも背景をなすものはひとしく暗黒と虚無、不毛と死であり、かつ、それらを絢爛と彩るものもまた、宇宙開拓者たちの、あの強烈で孤独な精神であることに変わりはない。  満天の星空をあおぐ時、われわれのなえしぼんだ心を再び活気あるものたらしめ、忘れかけた過去の栄光の一つ一つを胸の内によびもどすものこそ、それら無名の英雄たちが、かつて百千の星の光にたくした尽きない夢のかずかずである。  とはいえ、語ればそれはまことに惨たる敗退の連続でもあった。幾多の人命も、おびただしい器材も、底なしの淵に呑みこまれるように際限もなく消えていった。いつか空しい失敗の積み重ねの果てにようやく一つの成功が生まれ、人類の宇宙への幾歩めかが印される。その輝かしい成果は記録をかざるが、それを聞く人々の胸に失敗の苦渋は宿りはしない。それはただ苛酷な自然との闘いに敗れ、一度は辺境に切り拓いた基地をなげうって、ついに後退せざるを得なかった開拓者たちだけが、ひとり永いこと忘れずにいるだけだ。  つねに星から星へ宇宙船はひっそりとわたっていった。還ってこなかったものはどこでどうなってしまったものかむろん誰も知るはずもない。  パイロットたちの屍が朽ち果ててしまったのちまでも、あるいはそのメーターは何かを指し示していたかもしれない。あやつる者もないままに、その機器類はなおしばらくは忠実にその任を果たしていたかもしれない。  だが、時がすべてを無に帰していったのだ。     *  また突風がまともにぶつかったのだろう。外鈑は巨獣が爪をとぐような音をたててきしみ、床は大きく傾きはじめた。そのままかぎりなく一方へ傾きをましてゆく。そこが吹きだまりのように壁ぎわに集まっていた空箱や紙くず、道具箱や工具などがしだいにすべりはじめる。床の傾きが深まるにつれて、それらは先をあらそうようになだれ動いた。やがて床は傾いたままいったん静止し、こんどは逆の方向へゆっくりと傾きはじめる。それはふたたびかぎりなく静かに静かに傾き続ける。またいろいろな品物が床の上をざらざら、ごろごろともどってゆくのだった。  猛烈な嵐は、この木星のメタンの海をどよもしてもう七十日もつづいていた。  濃密な大気は最大瞬間風速百七十メートルの烈風となり、青銅色の重い波頭を横なぐりにたたきつけてくるアンモニアの雨は、渦まくしぶきとなって気圏と水圏の境さえなくしてしまった。  間断ない電光と落雷は、その荒れ狂う空と海とを引き裂いた。  木星開発基地は、メタンの海の軟泥状の浅瀬に、重錘を深く埋めて浮いているのだった。そのハイ・シリコン製の巨大なシリンダーは風波にもてあそばれて時には中空にほうりあげられ、時には波の下深く没した。  衛星オイローパ上にある中央基地を起点とする開発航路は閉鎖され、木星本土上にあったすべての宇宙船は大気圏外に避難した。補給は完全に停止して、前進基地はそのストックされていた物資をもって嵐のおさまるのを待たなければならなくなった。しかし嵐はいつまで待ってもおとろえをみせなかった。  基地にストックされていた物資にはかぎりがある。深刻な飢餓がやってきた。  中央基地は何隻もの緊急補給船を出動させて、嵐の中の開発基地に救援物資を送りこもうとしたが、補給船は分厚い雲層の外側でいたずらに進入の機会を待つばかりであった。  ビイ——食事を告げるブザーが皆の耳に熱鉄のようにひびいた。一日一度の食事だけを心の支えとして生き続けている六人だった。彼らははじかれたように立ち上がると息を荒くして電子レンジの回りをかこんだ。  当直のミカミが黙々と食器を皆の前におし出した。その食器のなかには、魚肉蛋白粉《フイツシユ・パウダー》を水でこねて焼いた、直径二センチほどのボールが二個だけ。それに別にそえられたプラスチックの小さなコップの底に、濃縮ジュースが一センチたらず注がれていた。  五人はそれぞれすばやく、目を他人の食器の中のものの大きさにはしらせ、噴き出さんばかりの憤懣《ふんまん》を顔にみなぎらせて、自分の食器を引きよせるのだった。  当直のミカミは信号拳銃《シグナル・ガン》をななめにかまえて、目を光らせて立っていた。他人の食器の中のものと自分のそれとをくらべて苦情を言うことは、絶対に禁じられていた。もし、その禁を犯す者があったら、その場で射殺してよいことに、すでに六人の間でとりきめがあった。 「ミカミ。もんく言いたくないけれど、おれのフィッシュ・ボールを見ろよ。ひどいじゃねえか」 「ベン。言うな。おれの計量はたしかだ」 「食事のことでつべこべ言っちゃいけないことはわかっているよ。でも、ミカミよく見ろ。これを」  皆がのぞきこむと、ベンのフィッシュ・ボールのはしがつぶれて欠けていた。 「ミカミ。この欠けたぶんをくれよな、たのむ」 「ベン。欠けているんじゃない。焼くとちゅうでそこだけふくれなかったんだ。形が小さいだけで重さはかわらないよ。もう黙れ」 「重さがかわらない? うそつけ。これだけ大きさがちがっていたら重さだって違うはずだ。ミカミ、いいから計ってみろ」 「おい、いいかげんにしろよ」 「計ってみて重さが違っていたら、これから五日間、お前の食物をおれにまわすんだ」  ベンの目に狡猾《こうかつ》な色が流れた。  勝てばベンは、五日ぶんの食物を手にすることができるのだと聞いて、皆の顔に奇妙な動揺がうかんだ。 「さあ、やれ」  ベンがぐっと体をのり出したとたんに、ミカミの信号拳銃《シグナル・ガン》がすさまじい火を噴いた。眼底を灼きつくすような光の輪が開き、幾千の火の粉が金色の吹雪となって散った。耳も目もしばらくは役にたたなかった。気がついた時は皆の手にしていた食器はふきとび、プラスチックのコップは紙くずのように部屋のすみにころげていた。馴れたとはいえ、二・六倍に達する木星の重力は、疲れ衰えた彼らの体力にはひどい重荷になった。皆は泣き声をあげてよつん這いになると、のろのろところげたボールをさがしはじめた。 「おい、それはおれのだ。かえせ」 「ばか言え! これはおれのボールだ。お前はそっちをさがせ」 「ちくしょう。さあ、口にいれたものを出すんだ」  ベンの黒焦げの死体はながながと床にのびていた。 「オサリバン! ライトを消せ」  ヒノは叫んだ。一瞬、暗黒になった室内でとまどった声が入り乱れた。  足をひきずってヒノは私室にもどった。足が重いのは、重力のためだけではなかった。基地司令の彼だけが私室をもっていた。座席《シート》に身をおとすと目を閉じた。ひとくちも食べないうちにあの騒ぎだった。たまらない空腹感にヒノはあえいだ。  インターフォンのスイッチを入れると、ヒノはオサリバンをよんだ。オサリバンはすぐやってきた。 「ベンの遺体を乾燥粉末にして、フィッシュ・パウダーにまぜろ。そして明日から、ボールをすこし大きくして、数もふやしてやれ」  オサリバンは静かな目で黙ってうなずいた。 「また吹きはじめたな」  ヒノは座席《シート》に深く身を埋めて、傾きに身をまかせた。もう身動きもできないほど重い疲れが、彼を襲ってきた。 「起きてくれ、キャップ!」  はげしくゆすぶられてヒノは現実によみがえった。立ちあがろうとしてもひざから下に力が入らず、老人のようによろめいた。ヒノの体は大きな手で支えられた。オサリバンだった。 「キャップ。ケインが食物をぜんぶ出せと言って酸素発生装置の前に立っているんだ。非常に危険だ。すぐ来てくれ」 「武器を持っているのか」 「まずいことにあの信号拳銃《シグナル・ガン》をもち出した」 「よし、ゆこう」  二人は回廊を飢えと重力とに耐えて走った。ほんの数十歩の距離なのに、二人とも目のくらむような息苦しさに足もとがおぼつかなかった。操作室のドアは開け放されて、強い光が洩れていた。ふだんは電源の消耗をおそれて、点灯を禁じている大型の照明灯がついているらしかった。二人が室内におどりこむと、その強烈な光をあびて、部屋の中央に仁王立ちになっていた一人の男が、ビクと動いた。ケインだった。右手にかまえた信号拳銃《シグナル・ガン》は、まっすぐに壁面の酸素発生装置をねらっていた。 「来たな。キャップ。さあ、ここに食物を運ばせろ」 「ケイン。どうしたんだ。しっかりしろ」 「うるさい! キャップ。おれに言われたとおりにするんだ」 「ケイン。食物といったって、残っている量はお前だって知っているだろ」 「さっき、オサリバンがパウダーを鑵にあけているのを見た。ずいぶんあるじゃねえか。持って来い。あれを」 「どうするんだ?」 「食うんだ。おれは腹いっぱい食って死ぬんだ。どうせ死ぬなら」 「馬鹿なことを言うな、ケイン。あれは皆のものだ」 「ぐずぐず言ってると、酸素発生装置をふっとばすぞ。そうしたらお前ら、食物だけじゃない。酸素までなくなってしまうぞ。いいのか」  オサリバンが静かにケインの左側へ回りこむように位置を動かしていった。目ざとく気づいたケインの拳銃がぐいと発生装置の電路パイプに向けられた。 「動くな! オサリバン」  ケインの声音にひそむ冷たい殺気に皆は石のように立ちつくした。 「さあ、十数えるうちに持ってくるんだ。一……二……三……四……」 「よし、やる。食物を全部」  ヒノは叫んだ。ケインは汚れた歯をむいた。部屋から出ていったオサリバンはすぐ大きな鑵をかかえてもどってきた。 「よし、ここへ持ってこい」  ケインは床に置かれた鑵のふたをはねのけると、凄い目つきになった。  鑵には淡褐色の粉《パウダー》が八分目ほど入っていた。ケインは片手ですくいとるとほおばった。淡褐色のそのパウダーは、おがくずのように床に散った。 「おい、ジュースも持ってくるんだ」  濃縮ビタミン・ジュースの二リットル・タンクがさし出された。ケインはその栓を口でひねりとるとごくごくとのどに流しこんだ。またパウダーを口にほうりこむ。 「くそっ、ケイン、お前だけに食わせるものか」  機関士のショウが泣くような絶叫とともに、弾丸のようにとび出した。ひろげたその両手がケインの体に触れると見えた瞬間、信号拳銃《シグナル・ガン》の噴き出す火の柱はショウの体を包んだ。そのケインの手もとをめがけて、オサリバンの体がおどりこんでいった。 「オサリバンは定時観測をやってくれ。ミカミはここを整理してくれ。おれは機器の点検をやろう」  三人は、たとえようもない滅失の想いを抱いて仕事についた。誰もが影のように黙々と動き、深い静寂だけがすべてを包んでいた。  酸素発生装置と、飲料水製造装置がなんの故障もなくはたらきつづけていることが、唯一の救いだった。それにパウダーはまだだいぶあった。人員が半分に減ったということは、残された者の命は倍にのびるということだった。 「キャップ! 天候が回復してきたようだ。見ろ、これを」  気象データを整理していたオサリバンが突然、立ち上がって叫んだ。ヒノもミカミも一瞬、そそけだつ思いでオサリバンのうわずった声を聴いた。狂気か? 「キャップ。大気中のイオンが急速に減っている。現在、瞬間最大風速は百三十メートルにたっしているが、平均風速は七十メートル前後に安定している。……どうした? なんでそんなにおれの顔を見ているんだ」  ヒノもミカミも苦く笑った。なにごとも状況悪化のきざしと考えてしまう本能的な警戒心が心に痛かった。 「よし、オサリバン。ひきつづいて観測しろ」  それから数分後だった。通信機の受信指示ランプに灯が入り、スピーカーからひどい雑音が流れ出した。ミカミが通信機にとびついてけんめいに調整をはじめた。 「……コチラ補給船CC二七……大渦流ハ西北へ……赤道地帯ノ周期的……本船ノコースハ東南東……ヨリ進入開始……ナオ第八次調査……ナラビニ……警戒ヲ要スルモ……二七号コチラ……」 「ミカミ、意味は?」 「大渦流ハ西北方ニ位置ヲ変エタ。コノ渦流ハ赤道地方ニ周期的ニ発生スル渦流ノ非常ニ大型ノモノガ——ええと——何カノ原因デ、テイタイシタモノデアル。本船ハ東南東ヨリ基地ニ接近スル。時間ハ不明。本船ニハ第八次調査隊ガ乗船シアリ。天候ハ好転シツツアルモナオ厳重ナ警戒ヲ要ス。——とまあ、こんな意味です。キャップ」  見交す三人の顔に、燃えるような生色がよみがえった。しかしそれは笑いにもならない暗い暗い喜びだった。オサリバンが黙ってヒノの肩を軽くたたいた。ミカミは体中の力がぬけたように椅子に腰をおとした。言葉など出ようはずもなかった。 「オサリバン。五十分後に航路指示装置《コーサー》を発動させろ。ミカミは交換部品の一覧表を作製してくれ」 「第八次調査隊が来るとかいったな。今頃になってまた調査隊を送りこんでくるなんて、木星開発委員会もどうかしてやしないか」 「ベースがここだけを残してすべて撤収された今では、当時とは比較にならず調査は困難になっている。それなのにまた第八次調査隊をよこすなんて、まるでみすみす殺しにやるようなもんだ」 「キャップ。これまでの調査隊で、生きて帰って来た者は、一人もいなかったですね。それだけじゃない。遺体の収容すらも、今では絶望視されている。帰る道がわからなくなったわけでもないだろうし。これまで収録したデータの中にそんな予想もつかないような危険をうむ何かがありましたか。キャップ。これはあるいは自然環境以外の、何かおそるべき原因がひそんでいるのだと思いますよ」 「たしかに外の暗闇の奥にだって、ここ以上の危険はないような気がするがね」  分厚い雲層の下の暗黒のメタンの海は、本格的な基地の建設を容易に許さなかった。人類がなんとかこの濃密な大気の底にもぐりこんで橋頭堡らしきものを設けてからでさえ、周辺のほんのわずかな自然環境しか知ることができなかった。  絶えまなく降りそそぐアンモニアの雨は、それにうたれる金属をみるみるうちに腐蝕させてしまった。ここでは観測器材も基地建設用のパネルも、宇宙船でさえもが金属を使用することができなかった。そして烈しい空電と間断ない落雷は通信装置をほとんど常時、麻痺させていた。  ハイ・シリコン製の巨大なシリンダーは荒れ狂うメタンの海に浮かんだものの、探検隊はそこに閉じこもったまま一歩も外へ出られなかった。シリンダーは『浮遊基地《プランクトン・ベース》』と呼ばれた。  ベースはそのランチャーから電子頭脳に操作される自動観測装置を収めた数個の有線ミサイルを、半径三十キロの円周上に発射した。  その自動観測所からは、大気温度、大気成分、密度、風向、風速などをはじめとするあらゆる自然現象をおくってきた。それは整理されてただちに衛星オイーローパ上の中央基地へ送られる。こうしてその地域の観測が終われば、自動観測所はさらに六十キロの円周上に前進配置されるのだった。  プランクトン・ベースはつぎつぎと増設され、その自動観測所の網の目はようやく広範な地域を被いはじめた。  暗黒の嵐の奥はすこしずつあらわにされていった。  最初の調査隊が編成され、水陸両用車をつらねて出発していった時から、木星の開発は第二の段階にはいるかと思われた。しかし三時間後、連絡は絶え、それきり全員はかえらなかった。第二次調査隊は、第一次調査隊の遺体収容をも兼ねて、それからひと月後、前に倍する人員と車輛《しやりよう》を以て敢行されたが、予定の日を過ぎても遂に帰還する者なく、やがて全員遭難と認められた。  中央基地はこれに屈せず、つづいて第三次、第四次の調査隊を木星上に送りこんだ。失敗に失敗をくりかえして、それが第七次調査隊の上におよんだ時、ついに調査の中止を求める声が木星上の基地側からおこった。  ——木星の自然環境はそのあらましをデータにとらえたぐらいでは、まだまだ直接、人類が踏みこんでゆけるような容易なものではない。現にたび重なる調査隊の遭難の原因すらさぐり得ないではないか。このさい、調査を一時中止してもっと根本的な方法を考えろ——  基地側の声はさすがに慎重であり、厳しかった。  木星開発委員会はこれまでの損耗の大きさに憂慮して、早速、木星面の実地調査の中止を中央基地に命じ、あわせて大部分の『プランクトン・ベース』の撤収をもはかった。  一度は荒涼たるメタンの海に開発の手がかりをしるした人々もつぎつぎとここを離れて去っていった。今は後退あるのみだった。  あとにはヒノをキャップとする『第九プランクトン・ベース』だけが継続観測を目的として残されていたのだ。  補給船CC二七号は航路指示装置《コーサー》の誘導にしたがって東南東から接近してきた。  八百万燭光の投光器はメタンの海の暗闇を射し貫いた。  スクリーンには、まだ残る烈風に波頭を吹きとばされる暗い海が、光芒のとどくかぎり広漠とひろがっていた。およそ陸地の影一つなく、永遠に陽の射すことのない荒涼たる死の世界だった。時おり厚い雨足が、音もなく横なぐりに視野をおおって、通り過ぎていった。濃密なアンモニアの大気の中でそれはねっとりと重く見えた。  雨の切れ目に、中空にキラリと光るものがあった。それはみるみる大きくなり、三角の翼を張った宇宙船の姿になって高度を下げてきた。 「来たぞ! ミカミとオサリバン。ボートとクレーンの用意だ」  ヒノは無線電話機《トーキー》にむかった。 「こちらヒノ。こちらヒノ。CC二七号へ、収容用意よし。着水後緩速にて接近せよ。ボートの指示を待て」  宇宙船はゆっくりと着水した。飛沫《ひまつ》もたてず、どっぷりと船腹を半ば沈めて滑ってきた。  遠い遠い北の空が紅く光った。落雷だろう。  荷揚げが急速にはじまった。投光器の光芒が交錯し、小さな人影が入り乱れた。  宇宙船はふたたび暗い空に消えていった。補給物資はベース内のいたる所に山積みされて足の踏み場もなかった。  血色のよい顔と、がんじょうな体躯にエネルギーをみなぎらせた第八次調査隊員たちは、どやどやと現れた。それはまことに新鋭と呼ぶにふさわしかった。隊長のシュウはまだ若い長身の男だった。その語るところによれば、こんどの第八次調査隊は、これまでの失敗の原因を綜合的《そうごうてき》に考えた上、新装備をもって新たに火星の外惑星環境研究所で編成されたものとのことであった。  パッケージからとり出して床にならべられた彼らの装具類に、ヒノたちは目を奪われた。  これまで見たこともないような器具がいろいろとあった。超小型電子頭脳《ミニ・ヘツド》と携帯用原子炉《ハンド・マツチ》がおどろくほど広範囲に実用化されていた。宇宙探検用の機器類はどんどん改良されているようであった。  ヒノたちの胸には驚き以上に、宇宙技術者として身内に灼けるような羨望があった。 「ほう、それはなんだね」 「これか? これは携帯用《ハンド》レーザーだが、ここにはないのか」 「ない。はじめて見た」  しげしげとのぞきこむオサリバンを見る隊員の顔に、かすかに軽蔑の色が浮かんで消えた。  オサリバンは携帯用レーザーの上に身をかがめて、なお子供のように根ほり葉ほり尋ねた。そしてそれにあきたらず、その金属の肌にそっと手を触れていた。  嵐は去った。幾十日ぶりに好天がおとずれてきた。気温マイナス百六十七度。瞬間最大風速七十メートル。  太陽をうかがい見ることもできぬ永劫の暗黒の中で、分厚い大気は粘液のように重くねっとりと渦をまいた。凍結したアンモニアの微細な氷片は濃密な霧となって波の上を低く低く這った。時おり烈風が吹き過ぎてゆく時だけ、暗冥の天も地も、水煙となって千切れ飛んだ。  これでもたしかに好天だった。いつやむともなく荒れ続けた木星の自然も、どうやら平穏をとりもどしたようだった。  シュウ隊長は、天候回復の機を得て、その浅黒い削いだようなほおに、ワシのような目を光らせた。  シュウ隊長の計画は、二十名の隊員を二群に分け、一つは直接偵察隊として先行させ、一つは補給設営を担当する支援隊として続行させるというものだった。途中五十キロごとに『プランクトン・ベース』を設けて非常用の物資を備え、万一の場合の後退に万全を期する。そして強力な投光器を備えた有翼ロケットを絶えず上空に飛ばして、地上のレーダーとともに進路の警戒にあてる。酸素発生装置、飲料水製造装置など基地を離れて遠く五ヶ月の作戦行動に耐えられるほどの重装備をととのえた。それは過去七回の調査隊とは比較にならない強力なものであった。  十二輛の偵察車、二輛の工作車は、投光器の強烈な光の束を浴びてメタンの海に浮いた。それは銀色の奇妙な動物の群れのように濡れてならんでいた。氷霧が影のように流れうごいてすべてを包むと、投光器の光も淡くにじんで輝きをうしない、しぼんでゆく。そしてそれが流れ去ると、光芒は瞬間、水面を矢のように伸びて、偵察車の群れはいぶし銀の波の間から姿を現すのだった。 �視界八キロ� �状況よし� �出発�  シグナルがゆっくりと回って十二輛の車輛はその鼻づらを沖へ向けた。 「成功を祈る」  第九ベースのシグナルは行路の平安を祈って白灯を高く揚げた。  調査隊の去ったあとは、風も絶え、霧雨だけが光芒にしらじらと浮きあがった。  残された者の胸にやりきれない寂寥感がひろがった。 「ミカミ。偵察ミサイルで調査隊を追跡させてくれ。むこうも照明ミサイルを使っているようだから、視覚追尾でいこう」 「OK」  スクリーンを偵察ミサイルのテレビ周波数にセットした。  まもなく、ハレーションの描く輝線の波紋がうすれてゆくと、暗黒の視野の中ほどにぼんやりと長く長く尾を曳く水脈が浮かび上がってきた。ダイヤルを回してピントを合わせるとそれは一列になって南下を続ける偵察車の群れであった。その前方にもう一群があった。 「コチラ第九ベース。コチラ第九ベース。貴下上空ニワレノ偵察ミサイルアリ。哨戒中」 「コチラ調査隊。協力ヲ感謝スル」  調査隊は針路を南西に深くとっていよいよその速度をあげていった。  そのまま四時間が過ぎた。そろそろ調査隊を追尾中のミサイルに燃料を補給しなければならない。空中補給用のタンカー・ミサイルの用意を命じようとしてヒノが口を開きかけたとき、スクリーンの前に席をしめていた当直のオサリバンが叫んだ。 「キャップ。第八次調査隊に何か混乱がおきた」 「混乱?」  ヒノもミカミもスクリーンにかじりついた。視野はぼんやりと明るかった。そのたそがれのような薄明の中に、ちりぢりに隊列を乱して動いている偵察車が小石をまいたように見えた。 「あの光は?」 「視野外遠くにもう一個、照明ミサイルがあるんだ。偵察車の一台は爆発した。おそらく原子力エンジンのオーバーだろう」 「位置は?」 「基地の東南東微東六。距離三百二十キロ」 「そうとうスピードを出したな」  そのとき、通信機から必死なかぼそいあえぎが洩れてかすれ声になった。 「……コチラ調査隊、隊員ノ多クガ突然ニ狂躁状態ニオチイッタ……車外ニ転落セル者多数……原因不明……救助ヲ……救助ヲ……救助……」  声は絶えた。 「キャップ、これはえらいことになったぞ」 「やはり何かあるんだ。オサリバン、どう思う?」 「何か放射線じゃないだろうか。神経障害だ」 「おれもそう思う」 「おれはなんでもいい」 「防ぐ方法は?」 「ええと、まてよ。ちくしょう。あ、そうだ。ソルニウム塩の複合鉛のストックがあったな。とりあえずあれを液体にして全身に吹きつけてみよう。少しひふに炎症を起こすかもしれんがこのさいだ。がまんしよう。そして宇宙服の上からも吹きつける。これでたいていの放射線なら防げるだろう」 「よし、それでゆこう。ミカミはオサリバンを手つだえ。おれは車を用意する」  二人は部屋をとび出した。ヒノはラッタルを船倉へと下った。 「さあ、みんな裸になるんだ」  液状の原子炉外鈑塗装用ソルニウム塩化複合鉛が、噴霧器のタンクにみたされた。  塗装を終わった三人の体は、まるで白銀に輝くロボットだった。ぴりぴりと肌を刺す強い刺激があったが、がまんできないほどではなかった。すばやく宇宙服にもぐりこみ、さらにその上から分厚くあびる。 「よし、できた。さあゆこう」  三人はエア・ロックに入った。  あるいはもう二度とここへは帰って来られないのではないか。そんな考えが、チラとヒノの胸をかすめた。六人の基地員が今では半分の三人に減ってしまっていた。こうしてこのまま、この基地も全滅するのかもしれない。それもしかたがないことだ。ヒノは頭をふって車へとびうつった。  原子力エンジンがうなり出して、三人の乗った工作車はすべるようにスタートした。  工作車の水かき式のキャタピラは、メタンの海を真白に泡立たせて突進した。飛沫は霧氷となって虹を曳いた。車体の後尾につき出たクレーンのグリップが大きくゆれていた。  遭難現場はもう近かった。 「大気中に相当量の水素イオンが検出されます」 「これはやはり何か放射線の照射によるものだろう」 「放射線だとして、いったいそれがどこからくるんだ」  照明ミサイルは、まだ大きな円を描いて旋回していた。その下の暗い海面のどこにも、偵察車の影はなかった。漂流物とて何一つない。 「偵察車はどこかへつっぱしってしまったとみえる。これから捜索してもおいつくまい」  ヒノは、キャノピーのシリコングラスにひたいをおしつけて、暗い海を見た。  そのとき、ふいに全身に灼けるようないら立たしさをおぼえた。目的を持たない強烈な衝動が身内から爆発するように湧きあがった。ヒノの顔は蒼白になってひたいから冷たい汗がふき出した。ヒノは全身で呼吸しながら、両手でしっかりと座席《シート》のふちをつかんだ。手を離せば何をはじめるか、自分でも見当がつかなかった。  第八次調査隊がこうむった悲劇の原因はこれだった。原因不明の突発的狂躁。メタンの海へとびこむという狂的行動はいずれもこの正体不明の内的衝動によるものだったのだ。  あきらかにこれは何ものかのする心理的攻撃だった。ソルニウム塩化鉛が、果たしてその攻撃をどれだけ防ぐことができるのかは、極めて不安だ。  しかし不安の波はただ一度で消えていった。潮のひくように恐怖が消えていくと、全身は氷のように冷たかった。 「大丈夫か? 二人とも。これはたしかに神経に加えられる一種の刺激だ。これで調査隊はひとたまりもなくやられたんだ」 「キャップ、付近を偵察しましょう。何か発見できるかもしれない。ミカミ、磁力線探知機を海中に入れろ。キャップは誘導してください。私は放射線検出機をもちます」 「OK」  三人はまだ灰色の顔を見合わせてそれぞれの座席についた。  工作車はゆるいカーブを描いて、速度を落とした。燃料をつかい果たした照明ミサイルは、しだいに高度をさげると、翼を傾けて低く波の上をかすめ、やがてずぼっと波間に消えた。あとには工作車の投光器だけが、長く長く光芒を曳いた。何もない。ただ波また波のひろがりだった。 「磁力線感度三。針路左へ八。距離一万メートル以上。目標は大きい」 「β線類似の放射線あり。照度強し。方向針路左ヘ八。距離不明。警戒を要す」  二人の声が重なった。 「よし、接近するぞ。磁力線探知機標示位置を一航過。有線テレビ・アイを投下してたしかめる」  やはり何か得体の知れぬものが、このメタンの海の波の下にひそんでいたのだ。そのものの発する放射線が神経を犯し多数の探検隊員が命を落としたのだ。  ヒノの操縦する工作車は雲のようなしぶきを曳いて急旋回し、突進にかかった。オサリバンがテレビ・アイをクレーンで甲板にひきあげた。 「投下用意……いいか、それ!」  アイ・ボックスは水柱をはねあげてすぐ見えなくなった。コードがぐんぐんのびる。水中照明弾がやつぎばやにうちこまれ、工作車はジグザグにウェーキを曳いて離脱にかかった。周囲の海面が華麗なすり硝子のように輝いた。三人はスクリーンにしがみついた。  ヒノは両舷後進全速をかけて、工作車を停止させた。  スクリーンに巨大なひらたいものが斜めにかたむいて映っていた。 「見ろ!」  それは泥性のメタンの浅瀬だった。そのものは巨体の半分を軟泥に埋め、浅い角度で突っ立っていた。水深三十メートル、その物体のもちあがった一端は水面下五、六メートルのところにあった。 「……宇宙船だ」  しばらくして誰かが言った。 「引き揚げよう。あれを」  その言葉が実感としてはたらくまでに、さらにまたしばらくたった。 「あそこへ沈んだまま動けないでいるところをみると、飛行用のエネルギーが枯渇したのかもしれない。それにわれわれの接近をここまで許したということは、さっきの方法以外に攻撃手段を持たないのだとみてよかろう。思いきって引き揚げてみよう。この工作車は全力運転で十三万六千馬力をだすことができる。この木星の重力でもあのくらいのものなら引き出せるだろう。もっともあれが、見かけよりもずっと重いものだったら、これは失敗だが」  ヒノは、そのまま息をひそめたように、工作車を漂流させた。  磁力線探知機、テレビ・カメラ、水中聴音機、微水圧計などのピケット・ラインは、その間、どんなかすかな異常の兆候をもにがすまいと、見えない触手の網を張った。青白い緊張が過ぎていった。 「二十分たった。なんの変化もないようだ。このまま一挙に前進、接近しよう。ミカミはクレーンの用意、オサリバンは警戒配備についてくれ。いいか、何が起きてもおれから離れるなよ。ゆくぞ!」  ヒノは全速で工作車をとばした。時速百キロ。烈風は湧き立つ飛沫を乱雲のように後へ流した。宇宙船の沈没位置の手前、二百メートルから半速に移り、ついでいっぱいに後進をひく。また一ダースほどの水中照明弾をうちこんだ。工作車は滝のように波を蹴って、急停止した。 「それ! ミカミ、クレーンだ」  クレーンはマジック・ハンドにあやつられてゆっくりと海中におりていった。スクリーンの奥で、クレーンの先端のグリップが宇宙船の縁をしっかりとつかんで固定した。 「クレーン、OK」  ヒノは力いっぱいレバーをひいた。十三万六千馬力のエンジンは咆哮した。キャタピラは多足類のあがきのように水を掻いた。車体は悲鳴をあげてきしんだ。 「くそっ、だめか」  氷霧は密雲のようにひろがった。海面は津波のようにごうごうと湧きたった。工作車はつんのめるように突進した。それはゆっくりと浮き上がってきた。  強烈な照明をあびて輝く氷霧の間から、それはその巨大な姿をあらわした。直径約三十メートル。高さは中央部で約十メートル。不規則な楕円形をしてその縁はゆるやかな波をみせている。  三人は、息をつめ、身じろぎもせずにそれに吸いつけられた。それは奇妙な感動だった。太古の人間が、生まれてはじめて海を見、山火事を見、火山の噴火を見た時の本能的なおそれと通ずるものだった。それは恐怖以前のものだった。 「これはどこから来たんだろう?」  ミカミが全身からしぼり出すように言った。 「わからん。太陽系内ではないだろう。多分」  ヒノはようやくわれにかえって、太い息を吐いた。 「停めて調べてみよう。それによってこれからの方針をきめる」  速度がおちるのを待ってクレーンをはずした。工作車を回して宇宙船の周囲を徐行した。詳細に観察すると、外鈑の表面は腐蝕による微細な粗粒に被われ、朽ちた貝殻のような外観を示していた。数ヶ所に破孔とおぼしい大小の孔があり、円頂部近くの楕円形のハッチ様のものが開いたままになっていた。 「ここに沈んでからだいぶたっているらしいが、あとで金属の材質をしらべてみれば、腐蝕の程度で、それがわかるだろう」 「二万年ぐらいたっているのではないかな」 「キャップ。放射線探知機によれば、まだ内部に活動しているエネルギーがあるようだ。あのβ線類似の放射線も、このエネルギーに関係がありそうだ」 「内部へ入ってみよう」  三人は、ロープ投射器によって張られたロープを手がかりに、宇宙船に這いのぼった。  円頂に立つと、それはこの海に浮かぶ孤島のようだった。 「オサリバン、排水ポンプをたのむ」  工作車のエンジンからとり出された動力は排水ポンプに結ばれ、その吸い上げノズルの先端は上部の破孔にさしこまれた。メタンの急流が、滝のように金属の肌を洗って流れ落ちた。  暗い洞窟のような破孔の奥には、何ものの気配もなかった。棺を持ち去られたあとの古代の墓のように、非情な暗闇だけがあった。ヒノはそろそろと破孔から内部へ身を入れた。投光器の目のくらむ光が船内の暗闇を切り裂いた。  得体の知れぬ機器類。何かの導管らしいパイプの束。繊維質のケーブル。光と闇が交錯して、それらをどぎつく浮き上がらせた。  この巨大な船体を内部から支える骨組みはまったくなかった。完全な応力外被構造と思われた。機器類はすべて、その外被から内側へ突き出た支持架によって支えられていた。 「キャップ、歩廊《プラツト・ホーム》やラッタルが一つもない。この船の連中はどうして船内を歩いたのだろう?」 「自身で歩き回らなくとも、点検や修理ができるようななにか装置があるのかもしれない」 「キャップ、ずっと下の方をごらんなさい。冷房装置のフィンのようなものがありますが、あのかげから大きな球体がのぞいているでしょう。あのへんがこの船のちょうど中央部だろうと思われます。キャップ、あの球は船室ではありませんか?」 「相当に大きなものだな。あるいは船室かもしれない。行こう」  三人はパイプを伝わり、機器から機器へとび移っておりていった。それはあたかも、地下施設の工事現場へ入ってゆくのに似ていた。体を支える手がかりもないような壁面では、ロープを体にまいて下った。  それは巨大なスチール・パイプのジャングルだった。三人は影から影をつたい、しだいに下方に見える大球体に近づいていった。船内の下半分は浸水し、黒い水がうろこのような光の縞を描いていた。 「おいっ、あれは?」  おし殺したオサリバンの声にヒノは思わず身をかくした。はるか頭上の、さっき通ってきたあたりに青白い灯がともった。 「いるんだ。乗ってきたやつらが」  オサリバンがかすれた声でささやいた。  ヒノは投光器のスイッチをひねった。一瞬、三人は完全な盲目となり、一センチ先もわからぬ深い暗黒がとりまいた。その暗黒の中で、頭上の青い灯は燃えるような輝きをました。はげしくはずむ息が闇の中で燃えていた。  ミカミが赤外線望遠鏡を目にあてて身をのり出した。しきりにようすをうかがっていたが、影のようにすべり出した。キラ、と暗黒のどこかがきらめいた。  絶叫がはしって下へ落ちていった。あちこちにぶつかりはねかえる音が長い間ひびき、やがて消えた。  ヒノもオサリバンも石のように動かなかった。  灯も消えて深い静寂がやってきた。一分が一年とも感じられた。なんの物音もしなかったし、二人とも口を開こうともしなかった。  ヒノは唇をかんでうずくまっていた。このなかば荒廃した宇宙船。メタンの海に傾き没したまま、外殻は腐蝕してあちこちに破孔を生じ、ここでむなしく過ぎた時の長さを示していた。おそらく救援は望み得なかったのであろう。その長い年月を、彼らはいったいどうやって耐えてきたのだろうか。この荒涼たる世界で二代、三代と生き代わり、死に代わり、この船を守り続けてきたのだろうか? それとも卓抜した冬眠装置でも備えているのだろうか? ヒノは暗闇の底にひそむおそろしい敵を、満身に感じていた。ヒノは静かに身をおこした。宇宙服の工具バッグからダイナマイトをぬき出した。投光器のスイッチを押した。強烈な光芒は真下を指した。光と影の境に円弧を見せる球体へ、ヒノは点火栓をたたいたダイナマイトを落としこんだ。投光器を消して這いつくばる。  青白色の光の輪が幾重にも開いた。それは巨大な波紋のようにひろがりゆれ動いた。青白色からやがてくらいオレンジ色になり、かげろうのようにゆらめいて消えた。リチウム原子の光の波が消えたあとに、崩壊する機器類の金属音がなだれのようにどよめいた。裂け落ちるパイプの発する澄んだ金属音、重量のある金属塊の轟音、これらが一つになって消えるまでに長いことかかった。  ヒノは立って投光器をうちふった。足下に見える機器類はゆがみ裂けて半ばおちかかっていた。幾千本のパイプはもつれてたれさがり、つるのように揺れていた。中央の大球体はななめにその位置をかえていた。支持架でもゆがんだのであろう。 「オサリバン! さあゆこう」  ヒノにうながされてオサリバンは蒼白な顔をあげた。  たれ下がったパイプをつたって大球体に近づいた。上半部は汚白色に変色し、側面に長い亀裂を生じていた。リチウム原子弾の猛烈な爆圧をまともに受けたらしい。  ヒノはオサリバンをふりかえり、その亀裂に体を入れた。内部は直径五メートルほどの船室になっていた。ここも荒廃はひどかった。一方の壁面を奇妙なメーター類が埋め、一方には四個の卵型の大きなポッドが置き棄てられていた。中央にかたむきはずれたスクリーンがつぶれた目のように灰色に光っていた。  生物の気配はどこにもなかった。何ものかがかつてここを占めていたことがあったにせよ、それは遠い遠い過去に違いなかった。あるとき、彼らははるかな旅をしてこの木星までやって来た。あるいはここへ来ることがその目的ではなかったのかもしれない。その長い行路の途中で何事か重大な理由によって、コースにもっとも近かったこの木星へ不時着したものかもしれなかった。 「オサリバン、この宇宙船の自己防衛機構について簡単に調べてくれ。とくにあのβ線放射がどんな機構によって活動したものかを」 「よし」  オサリバンは出ていった。  メーターボードは船内のどこかに収められた電子頭脳が、さきほどの彼の投じたリチウム原子弾によって破壊もされずに、まだはたらき続けていることを示していた。そしてその電子頭脳のセットアームは、動力が核融合反応にもとづくことを教えていた。  オサリバンの声が無線電話機《トーキー》に入ってきた。 「キャップ、炭酸ガス検出装置を発見した。送電が絶たれているが非常に優秀なものだ」 「オサリバン。探検隊の接近を探知したのはその炭酸ガス検出装置ではないかと思う」 「β線放射装置は、さっきわれわれが通ってきた円頂部付近のドームの内部にあった。キャップの言うとおり、炭酸ガス検出装置との間に同調機構《シンクロ・サービス》があるようだ。それから、さっきミカミがやられたのはミサイルらしい。ランチャーが一基あった」 「オサリバン、もし彼らがまだ生きていて、この宇宙船が完全だったら、これはわれわれにとっておそろしい相手だったな」  ヒノたちは、宇宙船を曳行して帰ろうとした。だが曳行はけっきょく失敗に終わった。木星重力はとうていこの巨大な宇宙船の曳行を許さなかったのだ。  宇宙船は二人の目の前でふたたび暗いメタンの海に消えていった。爆煙のような気泡は、いつまでもいつまでもつづいた。  報告を受けた宇宙省はその重大性におどろき、しばらくの間、一般への公表を厳重に禁止した。他天体生物の存在の確証は、この年代になってもなお人々にとって安らかならぬ想いを抱かせるものであったからだ。  動員された専門家の一団は、この報告を詳細に検討したが、ヒノやオサリバンが知り得た以上のことをそこからさらにくみとることはできなかった。宇宙省はヒノとオサリバンに詳細な説明を求めて、地球帰還を指令してきた。二人は特別便で急ぎ木星を離れた。出発の日、二人は宇宙船のデッキに立ってふたたび荒れはじめた氷霧の海をあかずながめた。吹き千切れる波頭の下のどこかに沈んでいるなにものかの勇気の残骸に、自分たちの終焉の姿を重ねて想った。それは不思議に静かなひとときだった。     *  この物語はこれで終わっている。過去のあるとき、どこからかやって来てただ一度、人類の前にその来訪の痕跡を示したのみで再び永遠に消えていったこの生物は、その後、なんの記録にも登場してこない。彼らの乗ってきた宇宙船は、今日でもなお木星上のどこかのメタン軟泥の堆積の下に埋もれているのだが、探し出すには多くの困難がともなうだろう。  おそらく、彼らは太陽系をめざしてやって来たものではないだろう。あるいは彼らは、炭酸ガスの無い世界に棲んで、炭酸ガスを吐き、β線などの放射線によって壊滅的打撃をうける神経の広範な平面分布を有する生物を目標として、その故郷を出発してきたものであったろう。  もし彼らが、地球にやってきたとしたら、彼らの炭酸ガス検出装置は狂ったように警報を発し続けるだろう。  何十年、何百年、彼らはここで、いかにこの荒涼たる自然と闘い、決して来ないであろう救援隊を待ちつづけてきたことだろうか。長い長いその努力もついにむくわれなかったのだ。ある日、彼らはこの部屋から出ていった。そしてふたたびここへはもどらなかったのだ。あとはただ、乗員を守るシステムだけが、長い長い歳月を耐えてきた。核反応炉が、電子頭脳が、炭酸ガス検出装置が、自己保存能力にすがって生き続けてきたのだ。すでに守るべきなにものもないのに、メタンの海と永劫をきそうつもりだったのか。  思うに、彼らにさしのべられる救助の手はなかったのだ。おそらく、彼らがここにあることを遠く離れた彼らの仲間たちは、ついに知ることもなく終わったのだ。  宇宙パイロットは、しばしば、その終焉の地を誰に知られることもない。どこで、どんなふうにして死んでいったのかは人に知られるはずもない。  この奇妙な宇宙船の乗員たちも、彼らがどんな形をしており、どんな考えを持った生物であったかはまったく不明であり、果たしてわれわれの友となるべき者たちだったのか、それとも彼らの失敗を心から喜ばなければならないおそるべき敵だったのか、それは遂に知り得ようもない。彼らもまた、その終わりには食料の欠乏になやみ、けもののような心で一人、また一人と倒れていったのだろうか。  ともあれ、彼らもまた宇宙パイロットの運命のままに、人知れず異郷に果てたのだ。ひそかに、彼らの失敗を喜ぶ気もちがたしかにわれわれの心の中にある。しかし今、われわれは彼らをさして『英雄』と呼ぶにやぶさかでない。  彼らが廃墟のような宇宙船の中で、その最期のときになにを考え、なにを知ったかはむしろわれわれ自身の心に聞いたほうがよい。  ヒノとオサリバンの名は、その後も幾度か記録にあらわれる。ヒノは最後に土星の第四次探検隊に参加し、遭難者の中に名をつらねている。オサリバンはなお幾つかの記録に名を見出すが、冥王星外周探検計画に従って去って以来、消息を絶った。その計画もまた、すでに周知のごとく惨憺《さんたん》たる失敗に終わったのだが。  幹線水路二〇六一年  タリム盆地——あのシルク・ロードにまつわる物語は忘れさられてすでに久しい。ここを通って東へ、あるいは西へ送られたたくさんの絹や宝玉。珍奇な動物や美しいどれいたち。剽悍《ひようかん》をもって鳴ったラクダ隊や、小さなウマにまたがって騎射をよくした素朴な兵士たち。城邑《じようゆう》には人々のざわめきと物をひさぐ声。空はあくまでも青く、時として砂嵐がこの千里の荒野を捲いて過ぎていった。  そして興亡は流砂の崩れるのに似てそれよりもかすかであり、またそれよりもたしかだった。  いつか人々から物語は去った。三千年の歳月は長かった。それは実に長かった。  タリム内海——南は昆崙《こんろん》山脈の奥深い山ふところをひたし、北は天山山脈の切りたった山腹を呑み、西はパミール高原の大傾斜に風波を寄せかえした。  東は、天山山麓のウルムチにはじまり、トルファンをへて、ハミから甘粛におよぶ帯のようにのびた大延堤が、天にもまがう陸と水とを区分していた。  事実上、タリム内海を生みだしたこのゴビ延堤造成の大工事が完成したのは、二〇一五年の夏であった。一九八〇年代の終わりにソビエト・ユニオンの手によってはじめられ、やがて国連が受けつぎ、そしてアジア連合がそれをしあげた。  タリム河と呼ばれるこの地方第一の長流がこの内海のもととなった。そして昆崙山脈や天山山脈、カラコルム、ヒマラヤのふところを埋める千古の大雪渓に、原子力の熱が放たれた。その融けた水は、ごうごうと水煙をあげて谷あいをくだった。やがて幾千の水系は集まり、設けられた誘導水路に渦まき、長大な地下水路を震撼させた。その水は怒濤のようにタリム盆地に注ぎこんだ。  カスピ海の一・八倍の面積をもち最大深度四百二十メートルのこの広漠たる人工の海はこうして誕生した。  たたえられた水は、ここからさらに幾十の地下水路でもって吐き出された。それはゴビ砂漠からケルレンの荒野をうるおし、また遠くキルギスの草野からシベリア内陸の針葉樹林帯《タイガー》や凍土地帯《ツンドラ》まで豊かに流れこんでいった。  別な面では同時に、北極の氷海に対する積極的な改造計画が進んでいた。  季節的に北から吹いてくる、あの冷たい乾いた風が吹かなくなった。そしてアジア内陸に生まれたタリム内海の厖大な水が気温調節の役割を果たした。  時がそれに加担した。  往年のゴビ砂漠はすばらしい緑地に変貌した。大農場は日ごとにその面積をましていった。  タリム内海から発した水路は、網の目のようにこの北アジアの地下をくぐりぬけていた。これこそ新しい道であった。絹以上のもの、宝玉以上のもの、植物のためには水を運び、人類のためには豊かな自然を造り出すこれこそ、新しいシルク・ロードであった。  そして、あのむかしのシルク・ロードにはラクダにまたがった精悍な守備隊があったように、ここにも、知る人もなく黙々と地下水路を守る水路監視員があった。     *  その日もゴビ草原は快晴だった。前夜の雨は夜明けとともにやんで、平原の西の山脈には白い雨雲がきれぎれにまつわりついていたが、それもしだいにうすく消えていった。なだらかな起伏をみせて波のようにつづく丘陵を覆ったモウコジャコウソウの短いとがった葉に、水滴がふちどりになって光っていた。風は北からはるかにわたってきた。草原は白い葉裏をひるがえしていっせいになびき伏した。  その丘陵のかげのゆるやかな窪地に、東幹線水路監視事務所はあった。  そこでは今、数台の電話器のベルがひっきりなしに鳴り響いていた。  四人の男が電話器のまわりにひたいを集めていた。一方の壁面を埋める水路自動監視装置には、赤や青のパイロット・ランプがめまぐるしく点滅していた。それはこの大草原の地下をはしる≪東幹線水路≫が、その水系全域からの要求に応じて、厖大な量の水を的確に送り続けていることを示していた。「東幹線水路、異常なし」をつげるオレンジ色のサインが静かにまたたいていた。  しかし、男たちの顔は困惑にくもっていた。所長のカジは受話器を耳にあてて、かみつくようにどなっていた。 「しっかり目をさましてくれよ。ゆうべの夢のつづきなら、またこんどにしてくれ。ああ、そのとおりだ。異常なしだ」  ガチャンと電話を切った。とたんにまた高々とベルが鳴った。 「もしもし、こちら、東幹線水路監視事務所です。なに? いや違う。そんなことはない」  あらあらしく受話器を置く手で別のをとりあげる。 「こちら東幹線水路監視事務所。水が、ふむ、水が停まっている? もういいかげんにしてくれよ。みんなおれたちにうらみでもあるのか。水が停まっている、水が停まっているって。今朝は電話につきっきりだよ。そう、そうだよ。東幹線水路異常なしだ」 「もしもし、東幹線水路監視事務所ですが、そちらは? D四〇三配水管理局、で、水が流れていない。K一七二水路がかれてしまった。故障じゃないか。しらないね、そんなこと。どこかに故障があるなら、とうにこっちから連絡しているよ」 「B九〇八配水管理局、緊急停水なら事前に連絡しろ? 連絡しませんでしたかね? もう配水はやめだって。経常費がかさばるんでこんなことはもうやめだって、さっき連合政府の放送があったでしょ。あんた聞かなかったのかね」  言い棄てると、カジは受話器を机の上に投げ出した。その言葉とは反対に、彼のひたいは冷たいあぶら汗に濡れていた。彼はそのまま受話器を手にとろうともせずに椅子に腰をおろした。顔をしかめて、 「みんな。いったいこれをどう思う?」 「所長! 水路に水が流れていないなんて、そんなことが実際にありますか。とても考えられん」 「私もそう思います、所長。自動監視装置だってあのとおり完全に作動しているんですからね」  四人はあらためて、壁面の自動監視装置をふりかえった。フリー・シリーズ方式電子頭脳によって操作されるこの監視装置は、全水系の末端のすみずみに至るまでの、あらゆる気象条件、気温や湿度、風向や風速、また地形や土質、そしてそこに成育する植物群落全体の水の蒸散量まで、精密に算出して、それにもとづく送水量の変化を刻々に告げているのだった。  それは、今もおそるべき忠実さでその仕事を果たしつつあった。パイロット・ランプは星々のようにきらめいて点滅していた。  すべては�東幹線水路異常なし�のはずであった。 「所長。監視装置の故障ということはないでしょうね?」  四人のうちで一番年かさのスーが考え深い口調で言った。 「うん。それはまあ、今のところ考えなくてもよいのじゃないかな」 「と、すると配水事務所からの報告を……」 「そうだ。ここでは水路に異常はない。ところが各配水事務所では水が停まっているという。この二つがどちらも事実とすれば、答えはただ一つ。水路のどこかで水が消えてしまったということだ」  三人は言葉もなく顔を見合わせた。 「水路のパイプのつぎ目がはずれたか、あるいはパイプに穴でもあいたのか、おそらくそんなことで多量の漏水があるのだろう」 「局地的断層地震か何かがあって、パイプが折損したというわけですね。しかし……」 「まあ、今のところそうとしか考えられない」  カジは目をほそめて、窓の外のまぶしい陽の光に顔を向けた。せまい谷間の草原には、風が吹きぬけていた。波うつ緑の中に、名も知れぬ小さな花が、ひとにぎりほどむらがって咲いていた。その花も、風のまにまに、はげしくゆれ動いていた。  カジはいまの自分の言葉が、なんの意味もないことを知っていた。どんなに烈しい断層地震があって、パイプがまったく折れてくいちがったとしても、水路をながれるあの多量の水が、そこから先はストップしてしまうなどということはない。水は黄土質の土壌に浸透して進み、折損部分から再びパイプの中へ流れこむ。半分の水はパイプから逃げても、残りの水は自己の水圧でもっとも流入しやすい空間である巨大なパイプの中へ入りこむはずであった。それに折損事故などで水の抵抗がすこしでもふえたら、あの多量の水は、たちまちパイプにあふれて逆流してくる。タリム内海の東幹線水路取入口の流入水量にたちまち変化があらわれてくるはずであった。さらには、自動監視装置はパイプに関するどんなささいな事故も報告していない。  結論はただ一つ。東幹線水路に異常はないのだ。  水路に関するこれまでのあらゆる事故とその原因が、カジの脳裡をひらめいて過ぎた。しかし、そのどれにもあてはまらないこれは奇妙な事故であった。  カジは、うっそりと視線を三人の上にもどした。 「ニックとカシムは東幹線水路を一応あたってみろ。どこで水がなくなっているのか発見するんだ。スーは問い合わせをまとめて断水地区を確認してくれ」  年の若いニックが首をかしげた。 「所長。水路に水が流れていないなんてそんなことがあるものかね、いったい。水路を調査するよりも彼らの頭《どたま》の中を調査したほうが早いんじゃないですか?」 「おれもそう思うんだが、こうほうぼうから問い合わせがくるんじゃ、やっぱりしらべてみなければな」 「これは今夜はよほど用心しないと、ここが目のかたきにされて切りこまれるぞ」 「ニック。お前がみんな飲んじまったんじゃないかってね」  ニックとカシムは、ユニフォームのジッパーを引きあげ、紫外線よけのコンタクト・サングラスを目にはめこむと部屋を出ていった。スーは電話器を自動《オート・》選択《セレクト・》集計装置《カウンター》に接続してからテープ・レコーダーのスイッチを入れた。相かわらず電話はひっきりなしにかかってきた。 「こちらR五〇一配水管理局。断水中」 「B七〇五配水管理局。断水」 「断水中。給水開始時刻を知らせよ。K九〇八配水管理局」  スーの顔はしだいに青ざめた。カジはあごをしゃくった。 「ただ今調査中」、「ただ今調査中」、「ただ今調査中」  事務所の裏でごうごうと爆音が湧きおこった。ニックとカシムの乗ったヴィトールが三角の翼をきらめかせて、トビのように上昇していった。 「スー。|全アジア水系管制部《トーキヨー》に電話しろ。簡単に状況を説明しておけ」  ヴィトールは急旋回してパイプ埋設地区の上空に出た。大洋のように大草原がひろがっていた。陽炎のゆらめく緑の上を、小さな三角の黒い影が矢のようにはしっていた。高度を下げて、埋設されているパイプの位置を示す水路指示標《ポイント》の上に機をあやつってゆく。コントローラーのスイッチを入れると、指示標《ポイント》からの電波がビーコンとなってヴィトールをただしくパイプ上空にセットした。こうして指示標《ポイント》から指示標《ポイント》へと機は飛び続けてゆけるのだった。磁気探知機がはたらき出した。地表下二十メートルに埋設されているパイプと、その中を流れる水のありさまを、高度百メートルを飛び続ける機内のスクリーンにうつし出していた。スクリーンを見つめるカシムの目はけもののように光った。  自動集計装置は一時間後に第一次集計結果を吐き出した。それによれば、東幹線水路から分岐する九千七百本の配水分路が、ことごとく断水しているということであった。  この九千七百の配水分路は、さらに数万本の支水路に分かれ、その先は網の目のような毛細管となって、あるいは地下をはしり、あるいは地下を流れていつか水蒸気となって気化してゆくのである。  東幹線水路が断水してしまうということは、東は沿海州沿岸からベーリング海峡、エニセイ河、オビ河上流のシベリア内陸旧凍土地帯、また旧中国の大陸および内陸自然環境改造地区のすべてが、改造以前の水的環境の形態にもどってしまうことを意味している。  原因の追及を急がなければならない。カジは唇をかんだ。ニックたちからはまだ何の連絡もなかった。  ヴィトールはキリク河上流を東に向かっていた。ここからわずかに北へ機首をふる。スクリーンにはいぜんとして、たださざなみのように輝線が現れては消えてゆくだけであった。  二人とも全く無言のままであった。重大な任務が二人を極度に緊張させていた。  さらに機首を北へひねる。地下の水路はここで大きく迂曲しているのだった。ここから南側一帯の花崗岩層の露頭を避けたものと思われた。それからは、ヴィトールはびくともその針路を動かさなかった。馬力を落としたジェット・エンジンの静かな音だけが、二人の耳に単調な響きを伝えてくるだけであった。  深い沈黙だけがキャノピーを占領していた。  遠くアルタイ山脈が影絵のようにかすかに浮かびあがってきた。  その時、突然カシムが叫んだ。 「ニック! 今の地点をもう一度飛びなおしてくれ!」  ヴィトールは金切り声をあげて垂直旋回した。そして五百メートルほど手前からもう一度、水路上に針路をセットした。 「もうちょっと速度を落とせ、もうちょっと」  カシムは中腰になってスクリーンにしがみついた。 「ここだ、ニック! よし、もう一度飛べ」  ヴィトールの三角翼は草原の陽炎を切ってすべった。 「接地だ、ニック。速度を落として左に回れ、そのまま、そのまま、フラップよし、車輪よし、まっすぐにおろせ」  ヴィトールは離着陸用の垂直エンジンをゆっくりとふかして、まっすぐ陽炎の中へ沈んでいった。カシムのしがみついているスクリーンには、さざ波のゆれ動くような輝線が消えて、ただパイプのりんかくだけを示す淡い緑の輝きだけがはしっていた。——パイプの内部には水がないのだった。その地点から先は、水はふっつりと絶えているのだった。     *  カジの持つ非常灯の光の中で、水路の内部は巨大な廃墟のようだった。水ごけも付着していない灰色の壁が果てしもなく続き、その先は暗闇の中に消えていた。三人の足音だけがすさまじく反響した。 「所長、これでまた水が流れはじめたらわれわれはいったいどうなるんですか?」  ニックの心細そうな声がカジのヘルメットの中のイヤホーンに流れこんできた。 「ニック。だからさっき言ったろう。体を動かしたりしてはいかん。力をぬいて自然に流されてゆくんだ。酸素や栄養剤は充分にある。そうなったら、地上のカシムが連絡してくれるから、どこかの指示標《ポイント》の点検孔をあけてすくい上げてくれるよ」 「ニック。その時は耐圧装置のボタンを押すのをわすれるなよ」  スーがかすかに笑った。しかし、カジにしてもスーにしても、ニックのその恐怖を笑ってすごすわけにはいかなかった。いかに耐圧服に身を固めていても、酸素や栄養剤は充分であっても、この暗黒の巨大な水路を、みんなとはぐれてたった一人で流されてゆくことを考えると、吐き気をもよおすような恐怖にじいんと身をしめられるのだった。 「さあ、黙って歩こう。耳をすますんだ」  三人は黙々と歩いた。カシムが機上で発見した消失地点まであとわずか数分であった。 「おい、みんな、あれを見ろ!」  非常灯を高くかかげてカシムが叫んだ。水路のゆくてに、非常灯の強い光を受けて水晶のように輝く壁があった。  三人は細心の注意をはらってそろそろとその壁に近づいていった。壁と水路の壁面との間にはまったくすき間がなく、非常灯を動かすたびにその壁面は鏡のようにまぶしく光を反射して輝いた。  三人は声もなく立ちすくんだ。 「なんだろう? これは」  スーがかすれ声でつぶやいた。  ニックがふらふらと近づいて壁に手をのばした。 「あぶない! 触るな、ニック」  カジはとっさに飛びついてニックを引きもどした。足を踏みすべらして横ざまに倒れるニックには目もくれず、カジはうなった。 「これは水だ! スー、これは水路を流れる水の断面だよ」  スーの顔にはおそれがみなぎっていた。 「ここから先、水はどこへいっているんだろう」 「わからん。しかし、水はここまで流れてきているんだ」  カジは腰のベルトからスパナーをぬき出すと、その水の壁めがけてほうり投げた。スパナーは水にぶつかった瞬間、下におちて乾いた音をたてた。  事態は|全アジア水系管制部《トーキヨー》と東幹線《ペ》水路監《キ》視本部《ン》へ、暗号無電をもって通報された。人心の動揺をおそれたトーキョー側では、緊急工事のため、しばらくの間、断水すると発表した。ペキンの付属研究所からは数十名の技術者が急派されて来て調査にあたったが、何の結論もつかめずにむなしく引き揚げた。トーキョー側の内部には、早くも新水路建設の声もささやかれていた。ぺキン側は非難の矢面に立たされた。そしてもっとも苦境におちいったのは、東幹線水路監視事務所であった。  そうしたある日、谷間に飛来したヴィトールによって、一個のコンテナーが監視事務所に運びこまれた。さっそく開かれた荷物の中から現れた一個の銀色の小さな円筒を前にしてカジは言った。 「これは強力な発振機だ。外被はチタンとマンガンの合金でできている。特定のパターンを持つサインを、約一千時間、送信できる。これを水路に流しこむんだ。水といっしょにこれもどこかへ消えてゆくだろう。そこから先は方位測定器にまかせるんだ」  聞く三人の目に、にわかに新しい期待があらわれた。  円筒はヴィトールによってタリム内海に運ばれ、東幹線水路取入口へまっしぐらに吸いこまれていった。同時に回路が閉じられ、パターン八三K・サイン波が流れはじめた。  カジの依頼によって、十ヶ所の天文台や研究所、大学の巨大なアンテナが、この通信をキャッチするべくネットをはった。  それきり円筒は消えてしまった。  パターン八三K・サイン波などどこからも送られてこなかった。  カジの胸に暗い絶望感が宿りはじめた。  トーキョーの人工降雨局は、その全力をあげてアジア内陸に活動を集中した。アジア連合の鉱山局は手もちの原子力工作班を総動員して数千個所に深層|鑿井《さくせい》を開始した。  アルタイ山脈南側の台地から、オオバコ類群落に乾燥性萎縮赤斑病が発生したとの報告を口火として、ゴビ大草原東部一帯にモウコジャコウソウの新芽枯死の報告がとびこみ、ついでオルホン同北岸地帯を偵察中の航空機から、黄土性の小砂嵐を望見したとのニュースが入って、トーキョーは深刻な空気に包まれた。  カジの耳を疑わせるニュースが、突然、ブラジリアから入った。 「当地ノブラジリア大学物理学教室、トーマス・コダイ博士ハ最近、天王星ト海王星ノ軌道ノホボ中間ノ空間カラ送ラレテクル奇妙ナ電波ヲ傍受シタ。ソレハ現在ナオ、キャッチサレツツアル。ソノパターンヲ解析シタ博士ハ、ソノ偏向度ヲ特殊ナ磁場空間ヲ通過シタ結果ト考エ、R項ヲ除外シテノ基本形ハ、パターン八三Kニ極メテ近似シタサイン波ト断定シタ。コレハ先日、貴下ガ探察実験ニ用イタパターント同型ノモノデハナイカト考エル」  末尾に詳細な計算資料が貼付されていた。  カジは息もとまる想いでそれを読んだ。しばらくは椅子から立ち上がれなかった。  彼の�水�は、彼の手のおよびもつかない遥かの空間に逃れ去っているのだった。その遠い未知の空間に、満々とたたえられている青い水を、彼は目前に見る思いがした。  ネパールの五百インチ望遠鏡、ラパスの三百インチ望遠鏡、パロマーの二百インチ望遠鏡が、カジの要請でその空間をまさぐった。しかし、そこには何の異常も認められなかった。  また探察用ロケットの一隊は流星のようにその地点に急行した。発信位置は確認されたが、そこには何ものも存在しなかった。旋回するロケットの船腹は幾度かその位置を切って過ぎたが、発信は止まなかったし、もちろん、ロケットにも何の異常もなかった。 「所長、発振機はほんとうに存在していなかったのでしょうか?」 「スー、おれも今それを考えていたところなんだが、発振機はやはりあそこにあるんだろうよ。すくなくともあの近くにな」     *  スポット・ライトの光芒の中で、輸送機《カーゴ》からクレーンでつりおろされる異様な銀色の球体を見て、ニックは目をみはった。 「スー、あれは何だ?」  スーも話には聞いていたが、はじめて見る実体にすくなからぬ驚きの色をかくせなかった。 「あれは深海用の潜水球だよ。実は、おれもはじめて見たんだ」 「潜水球? そんなものをどうするんだ」 「ニック、所長からまだ話がなかったかもしれないが、最後の手段として、深海用の潜水球を使ってあの水路を流れてゆこうというわけなんだよ。そうすれば、発振機の流れついたところへたどりつけるだろう」 「それはどこなんだ?」 「それをさがしに行くんじゃないか」 「ふうん。で、それには、スー、お前も行くのか?」 「うん。所長とおれと二人でだ」 「おれとカシムはのけ者か?」 「のけ者というわけじゃないが、ニック、もしかしたら、帰ることができないかもしれない」 「と、言いながらお前は行くんじゃないか。ははあ、わかった。お前、年かさをいいことに所長にとりいったな」 「おいおい、ニック」 「うるさい! お前が水道屋ならおれだって水道屋だ。お前が行けるところにおれが行けないというなら、おれは水道屋じゃないというんだな。こらっ、スー!」 「大きい声出すなよ。所長んとこへ行って言え」 「よし。行ってくる。もし駄目だと言うなら、みてろ。今夜のうちにあのボールをドリルで穴だらけにしてやるから」  ニックは憤然として歩み去った。  ハイ・モリブデン・チタンスチールにシリコン表面仕上げをほどこしたその球体は、小天体のような重量感と万華鏡のような複雑な光沢を放って、夜の草原に置かれていた。深海用潜水球を改造して作られたこの特殊探察球は、宇宙空間にほうり出されても、また二百G以上の加速のもとにおかれても、内部の人間にはなんらの影響を与えることのないように装備がほどこされてあった。しかし、深海用の潜水球ともっとも異なった点は、これはライフ・ワイヤーと連絡用電話を欠くことにあった。ただ、パターン八三K・サイン波をもってする簡単なモールス信号だけが唯一の連絡方法であった。それも話すだけで聞くことはできなかった。ブラジリア大学コダイ博士の研究も、まだそれを応用した受信器を製作する段階にまで達していなかったし、また、それを待ってもいられなかった。  三日後、カジは三人をしたがえて探察球に乗りこんだ。宇宙服を着て球内に入ると、身動きもできなかった。さまざまな機械類の間に辛うじて設けられたシートに体をセットすると、それはまるで、初期の宇宙探検実験時代のあのロケット弾頭の内部のようすによく似ていた。 「カシム、生きてるか? お前みたいなでっかい奴はさだめし難渋していることだろう。まあ、しんぼうしろよ」  水陸両用ヴィトールは東幹線水路取入口近くに着水し、その機腹から探察球をほうり出した。水にぶつかるかすかなショックがシートに伝わってきた。 「気をつけろよ。みんな」  カジの言葉の消えぬうちに、探察球は暗黒の水路に突入した。周囲はごうごうとどよめく水また水であった。 「あと十秒で消失点だ」  おし殺したようなスーの声がささやいた。     *  身動きするたびに、なんの抵抗もなくずるずると体がすべった。きゅうくつな姿勢をなおそうとして、自由のきく左手を使って無理やりに半身を起こした。そのとたんに地についた手がずるりと滑って再びうつむけに崩れおれた。 「いったいどうしたわけだ。これは?」  カジは苦心惨憺して再び体を起こし、今度はうまく立ち上がった。見わたすかぎり一面の泥濘であった。泥は足首を深く埋め、倒れていた時まみれた泥は、厚く半身を被って冷たかった。  カジは顔についた泥を指で掻き落として大きく息を吐いた。  一本の木も、一本の草もなく、わずかな起伏もなかった。それは原始の陸地に似て、動くものの影とてない荒涼たる不毛の湿原であった。 「今は夕方だろうか?」  カジは刺すように痛む首を無理にねじ向けて空をふりあおいだ。  暮色のような薄明が天地を包んでいた。日の光はどこにもなく、わずかな星の光ものぞめなかった。ただ薄明と泥濘だけがこの世界のすべてであった。  カジは身も凍るような孤独を感じた。  ——こうしてはいられない。歩かなければ——  カジは胸の中でつぶやくと一歩、一歩、おぼつかぬ力をふりしぼって泥の海をわたっていった。カジの心の中には何もなかった。ただ前へ進むことだけだった。泥の中から、右足をぬき、左足をぬき、右足をぬき、左足をぬき、ただ機械的に足だけが動いた。右手がやけに重かった。見たこともない得体の知れぬ武器を、右手に提げていることにもカジは気がつかなかった。  二度目にカジが我にかえったときは、崩れ落ちた大石壁の下であった。コンクリートではない。触れれば手の切れるような鋭い光沢と砕面をもったその半透明な長大な壁の下で、カジは子供のように背を丸めてうずくまっていた。おそろしい疲労と空腹が彼を内部からつき上げた。  顔をあげると、薄明の空の下に壮大な市街がひろがっていた。  カジは這うように体を動かしていった。  胸苦しくなって、上衣の胸を開こうとして彼は突然、自分の服装がまったくかわってしまっていることに気づいた。宇宙服でもなく、水路監視員の制服《ユニフオーム》でもなく、薄緑色のひふのように、体にぴったりした服を身につけていた。靴もちがう。アルミニウムのような軽い金属でできた靴など、これまでカジが一度も身につけたことのないものであった。カジは右手に提げたものを見た。長さ五十センチほどの円筒で、一端に銃把《じゆうは》のような握りと、レバーのような金具がついていた。他端は放熱器のように蜂巣型に開いていた。  すべてカジの知らないものであった。カジは右手の金属筒をほうり出し、そこへしゃがみこんだ。  津波のように、一度にどっと記憶がよみがえってきた。緑一色の大草原。東幹線水路。そして監視事務所。スーにカシムにニック。  カジは気の狂ったように立ち上がった。 「どうしたんだ。みんなは?」  カジは絶叫した。  ——おれはいったいこんな所で何をしているんだ——  ——おれは水を探しに来たんだ。そうだ、あの水路を通って。ここはどこだ、ここは——  錯乱しかかる心を必死に押さえながら、崩れ落ちた石壁をながめやり、茫々と灰色にひろがる異様な都市を見た。  カジは瀕死のけもののように、石壁についてのろのろと進んだ。  すでにどれだけの時間が去って行ったのか、どれだけの距離を歩き続け、さまよい続けたのか、カジにはたしかな記憶もなかった。  かるい金属の靴もぬぎ棄て、肌にぴったりした服も破り棄て、裸に近い姿でカジは街角から街角へとわたっていった。  街路をはさむビルの壁は断崖のようにそそり立ち、遠く化石の林のようにそびえていた。耳をすましても物音一つしなかった。  何に使われていたものか、数十本の巨大な鉄塔が真赤にさびてそそり立っていた。  街路には置き棄てられた車一つなく、走り過ぎる小動物や虫の影すらなかった。  そよとの風も動かず、湿った大気だけが薄明の市街によどんでいた。  廃墟だった。これは見棄てられてすでに久しい廃墟だった。  のこる金属類はことごとく赤いさびをふき、街路の石畳には、微細な塵が過ぎていった時の長さをとどめて厚く積もっていた。  広大な廃墟のどこにも、生物の存在する気配もなかった。この市街を作り、ビルを建て、生活していた生物たちは、かつてのある時、なんらかの理由で、この都市を見棄てて去ったのだ。あるいはすべて死滅してしまったのかもしれなかった。  無人の十字路を曲がると再び水が現れた。水は幅広い浅い流れを作って、荒廃した石畳を洗っていた。  カジは冷たい水に足首までひたして、流れにさからっていった。  水かさはしだいに増していった。街路の幅がせまくなっているところでは、水は急流のように音たてて流れていた。  崩れたビルの土台をのりこえて、そのむこうの広場へ出たとき、カジは遠くかすかなどよめきを聞いた。彼は横にとんでビルの壁に背を押しつけ、息をとめて周囲をうかがった。しかし、なにものの気配もなかった。かすかなどよめきは広場の左、水の流れてくる方向から伝わってくるのだった。間断なく機械の回るような、あるいは火山の火口のふちに立って聞く深い地底のうなりにそれは似ていた。  カジはそろそろと前進を開始した。その音の源を探れば、現在、自分のおかれているこの世界のようすが何かわかるかもしれないと思った。  進むにつれてそれははっきり音となってカジの耳をうった。裸の足に地響きが伝わってきた。  この荒れ果てた廃墟に、まだ動いている装置があるのだろうか? カジは痛む足も忘れて走った。もし、まだ生き残っている生物が現れてくるならそれでもよかった。  窓のない巨大なビルがそびえていた。地をうつ響きはそこから生じてくるものと思われた。その下部に開いた二、三の入り口から、水は太い滝となって噴き出していた。それだけではない。ビルの壁面にはしる数本の太い亀裂からも、水は厚い水幕となってほとばしり出ていた。薄明の市街に、水だけがいやにしらじらと、奇妙な生物のようにおどっていた。  水のふき出していない入り口が一つだけあった。カジはそれに向かって突進した。崩れ落ちたシャッターを踏みこえて、その奥の暗闇に目をすえた。目が馴れるにつれて内部のありさまが入ってきた。  中央に設置された見上げるばかりに巨大な大円筒の中ほどから、太い水の柱がどうどうと噴いて出ていた。飛沫は霧のようにビルの内部に立ちこめていた。 「給水ポンプらしいな」  大円筒の下に、とれて落ちたらしい直径二十メートルもあるような太いパイプが半ば水没していた。カジはさらによく観察しようとして二、三歩進みかけ、突然あることに気づいてぎょっとなった。 「あれだけの水量の水をどこから取り入れるんだ」  その大円筒は数本の支持架で床からささえられていた。床との間には二メートル以上もの間隔があった。外部からこの大円筒に導かれるパイプは一本も見あたらなかった。 「製水装置だろうか?」  しかし、それにしても、この廃墟の中でなぜこの装置だけが動き続けているのか。また原動力はどこからとりいれているのだろう。  ふりあおぐと、高い壁面の中層のデッキからラッタルが大円筒の上部にさしかけられていた。彼はその中層につづくランニング・ボードをよじのぼった。  大円筒の内部は、まったく未知の精密機械群の集積であった。とぼしい光の中で、カジはこれらの装置の一部に、これまで見たことも聞いたこともないような超高圧の電流を使用しているのを発見した。そしてそれは強力な磁場発生装置に結びついていた。水はその装置の下から水しぶきをあげて、どうどうと吐き出されてくるのだった。  水は、ビルの広大な床にあふれ、おもての街路へおちてゆく、そして河のように流れひたしてゆくのだった。カジはあの泥濘の荒野をおもいかえした。廃墟を流れる水は市外へ出、今もあの荒涼たる不毛の平原にその水面をひろげつつあるのだろう。噴き出す水音だけが死に絶えた静寂の中にすさまじい響きをあげていた。  カジは顔をゆがめて足もとを流れる水を見た。巨大な塔の中の装置が、東幹線水路から水を奪っていることはもはや疑いようもなかった。  ゴビ草原から去った水は、彼の足もとを流れていた。  カジはビルの外へ出た。はげしい目まいをおさえて、彼は周囲の廃墟をながめわたした。都市は死滅してから、すくなくとも二百年は経過しているものと思われた。赤くさび朽ちた鉄塔や、崩れ落ちたビル。街路を被って積もった細塵。それはもう再びここへもどってくるいかなる生物もないことを示していた。  だが、カジには、ゴビ草原の地下水路を、探察球に乗って出発して以来の経験時間では、まだ一月ぐらいしかたっていないはずであった。それはカジの胸の中でかなりはっきりしていた。  二百年と一月——水が失われて、おれがここへ来てから、この世界では二百年たち、ある文明が栄えそして滅びていったというのか——  ——幹線水路から水を奪ったのは、この世界では二百年も前のことだったのか?——  ——おれはこの一月、いや二百年、この世界で何をしていたのだろう?——  なにもかもわからなかった。いっしょにやってきた他の三人はどこへいってしまったのか。なぜ自分はあんな服装をして見馴れぬ武器を持ってただ一人でさまよっていたのか。そして、この都市ではこの水を何に使ったのだろうか。これだけのことをした連中だ。おそらく水も何かの原料か、あるいは想像もつかないような何かに使ったのかもしれない。  市街の廃墟は戦争の結果なのだろうか。ここには何ごとか、悲劇的な結末、おそるべき破滅のにおいがした。  カジにはするべきことが一つあった。カジはおもての街路から、さっき置き棄ててきた武器をひろいあげてもどった。銃把らしいところを右手に握り、筒先をビルの白堊の壁面に向けてレバーをしぼった。筒先から目もくらむような青い細い光がはしった。それはたそがれのような薄明の中で、非現実的な色どりを放った。ビルの壁に瞬間、無数の亀裂がはしった。それはみるみる傷口をひろげ、内部の大円筒がむき出しになった。それもやがてゆっくりと傾いていった。水は煮えたぎり、濃い蒸気となって消えた。  ほんとうの静寂がやってきた。無人の廃墟に響きわたっていた音は今絶えた。  カジはあてもなくそこを離れた。  それはゴビ平原をあとにすることだった。ビルの中の大円筒の内部の装置の何かが、あのゴビ草原とつながっていたのだ。しかし、それは自分の手で破壊してしまった。もはや帰る道はないのだった。 「スー、カシム、ニック!」  カジはたまらなく懐しく三人の名を呼んだ。声は廃墟にむなしく響いた。  これまで、遠く宇宙にのり出し、ついに還って来なかったたくさんの男たち。彼らもみな、自分のように、同僚に知られることもなく、友人にみとられることもなく、その終焉の時や地さえ、不明のまま永遠に消えていってしまったのではないか。  カジははじめて笑った。それは苦しい笑いだったが、もはやなにものも心にかからない笑いだった。  そうなのだ。  水路監視員の仕事は地味で、誰にも知られないのだった。それは決して知られることがないのだった。  カジは足をひきずって廃墟の街路へ出た。  宇宙救助隊二一八〇年  記念碑といえば、たいていは明るくひろびろとした広場の中央にあって、緑の芝生や色とりどりの花壇に囲まれ、子供たちやたくさんの鳩によって顕彰されているものだが……  これは違う。この巨大な褐鉄鉱の原鉱をたち割ってつくられた高さ三メートル、横十メートルの長方形の記念碑は、砂嵐のあとの血のような夕焼けの中では奇妙に古びて赤さび色に染まり、また青藍色の冷たく乾いた夜の中に沈んでは荒れ果てた廃墟のように見えた。  ここ、火星をおとずれ、あるいはここを経由してさらに外周の惑星への旅を続けてゆく人たちも、その想い出のために一度は、この東キャナル市を見おろす丘陵の中腹にある記念碑の前に立った。そして申し合わせたように皆、いささかのおそれを面《おもて》に浮かべるのだった。  それは誰しも、自分だけはこれらの人のやっかいにはなりたくないものだ、という本能的な感情にもとづくものであった。  ≪|宇宙救助隊《スペース・レスキユ−・サービス》記念碑≫表にはただそれだけ。裏には≪建立二二〇八≫とのみあった。なんの碑誌ひとつ記されてもいず、また、レリーフひとつ彫りこまれてもいなかった。ありきたりの名誉や賞讃は彼らにとってふさわしくなかったし、その凜々《りり》しい姿を彫りこもうという当初の計画も、誰かの意見で沙汰やみになってしまった。結局、巨大な褐鉄鉱の粗面は、多年、細塵に磨かれて、今は鏡のように太陽の光を反射し、夜は幾千の星々を映した。  惑星間航路が開設以来、≪宇宙救助隊≫によって、どれだけ多くの宇宙船があやうく難破をまぬかれ、あるいは不運にも遭難した宇宙船から人命が救出されてきたかは、ここに説明するまでもない。それはすべての人々が知っている。その輝かしい功績は人々の口から口へと伝えられ、古い話はすでに伝説化されている。そして若い娘たちや、勇気にたいするいきいきとした感動を失わない少年たちの胸に、変わらぬかぎりないあこがれを抱かせるのだった。  だが、どの都市の、どの植民地の人々も、偉大な功績をあげつつある宇宙救助隊員の姿を見た者はいなかった。なぜなら、≪宇宙救助隊≫は人跡未踏の冷たく暗い荒涼たる空間がその活躍舞台だからなのである。  これはその≪宇宙救助隊≫の数多いエピソードの一つである。     *  地球政府惑星開発局所属貨物船ブルー・リンクス号は、外周定期二十一便の航程の最後の部分に入ろうとしていた。木星の衛星ガニメデにある木星開発基地の一つ、J七は進入コースヘの誘導を開始していた。自動操縦装置《オート・パイロツト》はその電波を正確にキャッチし、速度通信機《テレマーク》からの『点火《フアイヤー》』のサインを今か今かと待っていた。四十秒後には、慣性航路を脱するための最初の噴射がはじまるはずであった。  噴射は四個の熱核エンジンのうち、二個を使って四秒間おこなわれ、つぎの二秒間に全力運転、そしてさらに二十秒間の六十パーセント推進によって、ブルー・リンクス号は木星大気の表層に到達できるのであった。  ブルー・リンクス号は開発局標準型船で、雑貨を中心としたコンテナー貨物船であり、別に四十人分の座席も設備されてあった。アライド・バッジ方式熱交換機をポッドに収めて胴体側面にぶら下げた形は、この頃ではいささか旧式に類するが、定期航路につかう場合、その経済性はなかなか見棄てたものではなかった。二十一便、つまり、ルナ・ベースを発し、火星の東キャナル市ポートからS一七人工惑星を経由して木星のJ四基地にいたるコースを、ブルー・リンクス号はこれまで、一回の事故にぶつかることもなく運航回数をかさねてきたのであった。  木星に散在する十一の開発基地に送りこまれるたくさんの貨物と、四十名の技術者たちを、その満船重量ぎりぎりにまで呑みこんだブルー・リンクス号は、今や木星をへだたる九百キロの空間を弾丸のように突進しつつあった。  船長フォーリー・ルカスは、メーター・パネルにはめこまれたスクリーンにちらりと目を走らせた。そこには衛星ガニメデの赤褐色の巨大な半球形が、スクリーンのほとんど三分の二を占めていた。そのどこかにJ七基地があるはずであった。サイン・ボードの赤灯が緑に変わった。ルカスは機関室への高声機に向かってどなった。 「点火!」  最初の不幸はこのときにやってきた。  ブルー・リンクス号の巨体は身震いするように震動した。その一撃は後部から前部へむかってかけぬけていった。  ルカスはしばらく身動きもしないで、その通り過ぎてゆく震動に耳をかたむけた。遠くの方で冷却器のエア・コンプレッサーがリズミカルに鳴っているだけで、なんの物音も聞こえてこなかった。  ルカスは直感的に、なにごとか重大な事故が発生したことをさとった。 「第一航宙士、船長室へ、第二航宙士は操縦系統の点検、機関長は船長に連絡をとれ。聞こえるか? 第一航宙士、至急船長室へ、第二航宙士は……」 「船長! 第三、第四ノズルが破壊しました。本船は所定のコースをはずれてすべっています」 「ノズルが! 君は第三航宙士のシマだな。機関室に連絡をとって破損の状況を調査してくれ。それから全般的な被害を報告させろ」 「了解、船長」  それきり再び深い静寂がやってきた。あいかわらず遠くの方でエア・コンプレッサーのリズミカルな音が響いているだけだった。  ルカスはいたたまれない焦燥の中で、ヘルメットのジッパーを閉じた。緊急事態に必要な装具のすべてを身につけ、なお、じっと耳をすます。船長である自分が、この室を動くことができないのがたまらなくもどかしかった。  ほうぼうから狂ったように電話が入りはじめたのは、それから五分もたってからだった。  事故のりんかくはようやくはっきりしてきた。アライド・バッジ方式二次熱交換機の冷却器のパイプのうちの一本が脆性破壊を生じ、おそろしい熱がいっぺんに第三、第四噴射機構に流れたらしい。キャパシティをはるかにオーバーした噴射機構はその自動制禦能力を失って、自らを噴きとばしたらしい。報告を受けるルカスのひたいは冷たい汗に濡れた。  これでブルー・リンクス号は、直進することがまったくできなくなってしまった。残った第一、第二のロケットを発火させれば、ブルー・リンクス号は大きな円を描いて空間を永遠に飛び続けるだけだ。  幸いなことに搭載《とうさい》している貨物と、四十名の乗客に被害はなかった。だが、第一航宙士と第二航宙士、それと機関長、第三、第四噴射機構を担当していた七名の機関部員はその命を失った。彼らの勤務位置は事故発生場所にあまりにも近すぎていたのだった。     *  地球標準時十八時二十七分を二秒過ぎたとき、外部ブロック中央無電局の緊急警報器のブザーが金切り声をあげた。一瞬、あらゆる受信は自動的に閉鎖されて、その緊急通信の告げる内容を他へ流すべく待機した。猛烈な雑音が入りはじめた。 「……コチラ、定期二十一便、ブルー・リンクス、救助ヲ乞ウ。救助ヲ乞ウ。本船ノ現在位置、B座標Xイコール二○八・九七一〇、Yイコール九九八・三〇一八、Zイコール七七一・○○八二。J四への進入慣性コース上ニ於テ熱交換機ノ事故発生。第三、第四ノズル爆発。本船ハコースヲ失ッテ漂流中。船内ニ放射能の漏洩アリ。至急救助ヲ乞ウ。コチラ、ブルー・リンクス、コチラ、ブルー・リンクス、救助ヲ乞ウ」  その座標近傍のすべての宇宙船はチェックされた。しかしそのどれもが小型の雑用船であり、ブルー・リンクス号に接近してそれを救助できる設備をもったものはいなかった。  木星のJ四、J七、J一一の各基地の司令は、その所属する工作船にブルー・リンクス号の救出を命じた。たしかに工作船のもつ能力は充分にその任務を果たすであろうと思われた。卵形、ハイ・チタンステンレスの銀色の工作船は、イオン・ロケットの白熱の焔を曳いて基地を離れた。  ブルー・リンクス号の指示する座標点を追って、三隻の工作船は流星のように暗黒の空間をおちていった。衛星オイローパがゆっくりとその位置を変えていった。  やがてレーダーにブルー・リンクス号が光のしみとなって映りはじめた。  三隻の工作船は獲物を追う猟犬のように、大きく散開して接近していった。  レーダー同調航路選択装置《フル・シンクロコーサー》は、工作船をぴたりとブルー・リンクス号に平行させた。舷間距離二十メートル。まるでボルトで固定したかのようにその位置を変えなかった。二隻が左右から、一隻はまうえから、傷ついた仲間をかばうように被いつつみこんでいった。  サーチライトが輝き工作船のハッチが開かれ、工作員がいなごのようにとび出す。背中の携帯ロケットを噴かしながらブルー・リンクス号にとりついてゆく。見るまに、十数本のワイヤーが三隻の工作船とブルー・リンクス号の間に張られた。一時間後に、左の側面に平行する工作船からケーブルカーのレールがのび、ブルー・リンクス号の船腹に開いたハッチに熔接された。たくさんのバケットがムカデの足のようにぞろぞろとくり出された。調子は上々だ。ブルー・リンクス号の全員と重要貨物のほとんどを三隻の工作船に移し変え、それからブルー・リンクス号の本格的な修理に移る手はずであった。  工作員たちはケーブルカーのレールに鳥のようにならんで足もとを流れるバスケットの列を見下ろしていた。  背後には銀灰色に輝く巨大な木星が、ほとんど中天の半分をおおって浮かんでいた。淡い赤褐色の横縞がその厖大《ぼうだい》な球体に多少のいろどりをあたえていた。  このとき、第二の不幸がかれらをおそった。  ブルー・リンクス号の第三ノズルから長くのびた裂け目は、上部に平行した工作船の下にあった。裂け目から投射されるγ線は工作船の下腹に収められているレーダー同調航路選択装置を狂わせるに充分な熱をもっていた。工作船はゆっくりとブルー・リンクス号にかみついていった。衝撃《シヨツク》、回路形成《スイツチ》、点火《フアイヤー》が数十分の一秒でやってきた。  沈黙していた第一、第二ノズルが目もくらむ白光を噴いた。折れ曲がった第四ノズルが吹き飛んで、工作船を下からつき上げた。肋材《ろくざい》の一本が音もなくレールの上の工作員をなぎ払った。彼らは人形のように手足をのばして虚空に消え去った。  ブルー・リンクス号は暗黒の空間にむかって突進を再開した。三隻の工作船はワイヤーに結ばれてきりきりと回転した。その工作船の銀色の船腹を、ブルー・リンクス号の破片は紙のように貫いていった。     *  ≪宇宙救助隊司令部≫は、木星と土星のほぼ中間に楕円軌道をもつ人工惑星S一〇〇一におかれていた。直径二百キロにみたぬこの非鉄金属でできた小天体の冷たく硬い地表の下に司令室を中心とした施設群が放射状にもうけられていた。  司令室の中央には巨大なボールのような方位盤がおかれ、壁面にはめこまれた電子頭脳からの集中制禦を受けていた。  司令室は、はるかに助けを求める難破船の微弱な呼び声をキャッチし得る、強力な通信装置と、遭難船の必要未来位置をおそろしい精密さで算定する方位盤とが、その中核であった。  数名の通信員が二十四時間、その通信装置のまわりに席をしめていた。  司令室には地球の夜明けのような薄明がただよっていた。その淡い光は天井に近い壁の高みから投げかけられていた。壁そのものが発光しているのであった。そのほかには、この部屋にはなんの照明装置もなかった。勤務員はすべて、その夜明けまぢかい薄明のようなうすあかりの中で、深海魚のようにうごかなかった。彼らは息もしていないかのように身じろぎもしなかった。そうして長い時間がたってゆくのだった。  ふと、長大な通信機の列の一方に席をしめた通信員の左手が動いて上部のスイッチに触れた。スピーカーから遠い声が流れ出した。 「宇宙救助隊司令部へ、宇宙救助隊司令部へ、コチラJ七、コチラJ七、遭難船アリ、遭難船アリ。中型貨客船、木星近傍ニテ航路ヲ逸脱、J四、J七、J一一各基地ヨリ収容ニ向カッタ工作船三隻トトモニ漂流中。至急出動ヲ乞ウ。現在位置、B座標Xイコール二○〇・九九七一、Yイコール九九三・〇〇二三、Zイコール六〇八・七七八一。ハヤマ・ゴッドフレイ双曲線底点切線マイナス三ノ軌跡ヲ描ク航路ヲ示シツツアリ。宇宙救助隊司令部へ、宇宙救助隊司令部へ、コチラJ七、コチラJ七……」  ハマナ司令はコンパートメントのインターフォンに向かって肉声発振器のスイッチを押した。 「こちら司令。救助B班は七十秒後に発進せよ。座標は三秒ごとに送信する。基地とのコンタクトに注意せよ」  巨大な噴水塔のように地表に突き立っているエア・ポートのカタパルトの下に、救助B班十四名が集合したのは発進四十秒前であった。皆はどかどかと救難艇にのりこんだ。  艇長サライ・ソネはシートに身を埋めてきびしい顔つきになった。 「準備はいいか?」 「動力室、発進準備よし!」 「通信室よろしい」  発進準備を告げる声があわただしくぶつかり合った。 「航路算定、OK」 「管制室、早く出ないと機械がさびつくヨ!」 「ようし、出発だ!」  ソネはカタパルトに発射のサインを送った。ボルトの一本一本にいたるまでばらばらに分解してしまうようなものすごい衝撃が救難艇D八号をつきとばした。原子力カタパルトは瞬間的に一万四千メートルの高度にD号を押し上げた。つぎの一瞬には蒼白に輝く光子ロケットが暗黒を切り裂いた。 「艇長《キヤツプ》、難破船は定期船といいましたな。すると死傷者がたくさんでているんじゃないかな。うまく救出できるといいが」  落ち着いた声がソネのイヤホーンに流れてきた。レーダー員のサイ・フィルポだった。 「そこで我が隊員はまたふえるというわけだ」 「シャノン! 言いにくいことをいう奴だ。気をつけてものを言え」 「りきむなよ。わかっているくせに」  ソネは顔をしかめた。 「シャノンもフレスコも黙れ」  イヤホーンは息をのんだように静まりかえった。ソネはひとことぴしりといってやりたかったが、うまい言葉がみつからなかったし、そんなことで艇長の自分が腹を立てるのもおとなげないような気がして、それきり口を閉じた。サイ・フィルポにたいする返事もつぎほを失ってそれきりになってしまった。  遭難船の人々が、すべて満足な体でいるようにとねがいながら、実際に彼らが五体そろった健全な肉体をそこなうことなく、地球に還ってゆくのを見ると、隊員の誰もが異常なたかぶりを感ずるのは事実だった。  その時、レーダー席のブラスの声がはしった。 「艇長《キヤツプ》、目標が見え出した。距離九百五十キロ。だいぶ算定針路からずれている」 「ブラス。艇の予定針路上の破片に注意しろ」 「OK」 「モリ。照明ミサイルを発射しろ」  ソネは全速を命じた。照明ミサイルは焔の尾を曳いて大きな円弧を描き、D号の針路を横切っていった。  暗黒の空間にぽつりと青い灯がともった。とたんにゆくての暗黒の空間の思いがけない近いところにひょっこりとブルー・リンクス号の姿が浮きあがった。三十万ワットの強力な光も、宇宙空間ではなんの光芒も曳かなかった。ただその光の針路にあたる物体だけを非現実的な鮮明さで浮きあがらせるだけであった。  ブルー・リンクス号の巨腹の後部に、ちぎれたノズルが司令塔のようにそびえていた。横に長い亀裂がぱっくりと開いている。D八号は速度を落としてゆっくりとまわりこんでいった。 「工作船はどこにいるんだ」  テレビ・アイがせわしなく回転した。 「艇長《キヤツプ》、あそこだ。貨客船の左上」  照明ミサイルの光圈のはずれ近くに、銀色に光る二つの点があった。さらにその下方に一隻。そしてその光点とブルー・リンクスの間の空間には、さまざまな器材が点々と浮遊していた。だがそれはそこにじっと動かずに浮いているわけではなかった。すべて時速六千二百キロでこの空間を疾走しているのであった。  十四名はくいいるようにその情景を見つめた。もうずいぶんこうした光景には馴れているはずなのに、このとき、誰の胸にも耐え難い嫌悪感がこみあげてきていた。それは強烈な自己嫌悪に通ずるものであった。馴れの問題ではなかった。 「それではモリとフィルポは配置にのこっていてくれ。ブラス、ケイズ、チャンの三人はおれといっしょにブルー・リンクス号へ行って生存者を調査する。シャノンとゼム、イズミとフレスコ、リーとタイジは工作船の状況を調査しろ。サウナーとモリソンは連絡があったらすぐ出動してくれ。その前にもうすこし艇をリンクスに寄せよう。モリ、八度左へ、第六前進微速。もうちょい、もう——ちょい。よし。それでは気をつけてゆこう」  ソネは三人をつれてハッチのふちを蹴って外部の空間へ跳び出した。慣性でそのまま前へ出る。背中の携帯ロケットを噴かしてぐるりと回転した。 「みんなそろったか、ゆくぞ」  四人は一団となってアフターバーナーの尾を曳いていった。  シャノンたち四人はD八号上部のコブから三隻の小型連絡艇を引き出して組み立てていた。  近くで見るブルー・リンクス号は惨憺たる姿であった。とくに後部がひどかった。第三、第四ノズルの破裂の結果、瞬間的に生じた大きなひずみは、太い尾部を切り裂いて、外鈑をはじきとばし、骨組みが骸骨のように露出していた。 「うわあ、これはひどい」 「これでは生存者はいないだろう」 「いや、わからん。この型の宇宙船は操縦室と客室の構造がおそろしく丈夫にできているんだ。だから安全性は極めて高いんだ。内部へ入ってみよう」 「艇長《キヤツプ》、あそこから入りましょう」  第二ノズルのすぐ前の影になった部分に大きな破孔がくろぐろと開いていた。  四人のヘルメットのスポットライトがどす黒く変色したブルー・リンクス号の巨腹に白斑になっておどっていた。  ソネは腕の緩衝器を巧みに使って大円筒のような外鈑をつたっていった。  破孔の内部は暗黒だった。もとの形をまったく留めないまでに破壊しつくされた中に、熱交換機——すくなくとも一度はその形をとったことがあると思われる複雑な金属の山が融けかかって崩れていた。その一つ一つに足場を求めてソネは進んだ。つぶれたハッチがゆくてを阻んでいた。ソネは腰にとりつけた作業用具箱からトーチ・ランプをとり出してハッチを焼き切った。それから先はトーチ・ランプのやっかいにならなくては一歩も進めなかった。 「ブラスとケイズはこのラッタルをのぼってB甲板から客室《キヤビン》の様子を見ろ。おれたちはこちらのC甲板から見る」  四人は二手に別れて進んだ。貨物室にはコンテナーがなだれ落ちてひしゃげていた。さまざまな器材が、それこそまったく足の踏み場もなく散乱していた。 「艇長《キヤツプ》! 客室《キヤビン》の外殻に達しました。内部に反応があります。生存者があるようです。外殻には亀裂もないし、ボルトのゆるんだところもありません」 「そうか。ブラス、内部の状況を詳細に聞きとれ」  ソネの声は緊張にとがった。しばらくしてまたブラスの声がもどってきた。 「連絡します、艇長《キヤツプ》。乗客四十名中、ショックによる全身打撲で重傷二、軽傷十一、他は無事です。酸素は炭酸ガス吸収装置が好調なので、内部の高圧タンクであと二十時間はもつと言っています。搭乗員《とうじよういん》二十三名中、機関長、第一、第二航宙士、機関部員七名、電装員三名、貨物員二名、以上十五名死亡、負傷者は客室《キヤビン》に収容したそうです」 「そうか。それではブラス。艇にのこっているモリソンを呼んで客室《キヤビン》を船体からとり出すんだ。船体は放棄してしまうんだ」 「貨物はどうします?」 「外鈑をひっぱがしてつかえるものだけを外へほうり出すんだ。一ヶ所に集めてワイヤーで結び、加速するんだ。慣性コースを木星近傍にとっておいて基地の船にひろわせるという手はどうだ」 「いいでしょう。それでは客室《キヤビン》を掘り出すほうからはじめましょう」 「モリソンに携帯用原子力発電機《マツチ》をもってこさせて、それにハンマーをとりつけるといい」 「そうしましょう」  工作船にむかったフレスコからサインが入った。 「艇長《キヤツプ》、こりゃひどい。連中はまるで単細胞になっていますよ」 「駄目か」 「こちらはシャノン。生存者三名。ゼムが運びます。あとは死体収容も不可能だ」 「船はどうしますか?」 「それも加速して慣性コースを飛ばしてやろう。しばらくそのままにしておけ」 「了解」  声が絶えると死のような静寂がよみがえってくる。幾千の星々の下で、もはや人間をまもる力を失った金属の屑山だけが、なお円を描いて頭上を飛び続ける照明ミサイルの光圈の中で奇妙な明暗の縞模様を織りなしていた。ソネは自分の胸の鼓動がおそろしく早くなっているのにこのとき気づいた。腕の代謝計《メタポリツク・メーター》を見ると銀色の針が七百を指して震えている。彼の正常な代謝常数は五百八十である。この状態では体温三十九度C、脈搏百八十を意味している。ソネは腰のベルトにとりつけた代謝調節装置《メタポライサー》の切り換えスイッチを押した。左肩に埋めこんだ調節装置がはたらき出し、ゆっくりと鼓動が静まっていった。凄惨な遭難船の情景が無意識のうちにひどいショックを与えているらしかった。記憶消去装置が必要だな——ソネはちらっと考えた。 「艇長《キヤツプ》、こちらタイジだ。工作船の搭乗員の数が足りない。外部で作業中にほうり出された人間がいるらしい」 「何人ぐらいだ?」 「二十名から二十五名のあいだだろう」 「わかった。タイジ。いそいで撒布区域を推定、探索しろ」  ソネは外鈑の破孔から外へ出た。数個の照明ミサイルがあるいは高くあるいは低く旋回していた。携帯用原子力発電機《マツチ》はすでに活動していて、それに直結されたハンマーが外鈑をうす紙のようにひきはがしていた。ひきはがされた外鈑が、中空におり重なってただよっていた。トーチ・ランプが肋材を焼き切ってゆく。 「艇長《キヤツプ》、それじゃ貨物を引き出すぜ。ええと、どこへ集めるかな。左七十三度、鯨座βへ向かってほうり出すよ。もう一人ほしいなあ」 「フィルポを呼べ」 「よしきた」 「艇長《キヤツプ》、めんどうなことになった。キャビンはあと一対の支持架を解きはなせばとり出せるんだが、これが、ハイメタル・シリコンなんだ。ハンマーもトーチ・ランプもうけつけない。無理にひきはがしてはがせないことはないんだが客室《キヤビン》の外殻がちぎれてしまうおそれがあるし。弱った」 「いってみよう」  ソネは背中のロケットを噴かして前部に回った。ブラスとモリソンが暗黒の穴の奥にスポットライトを向けていた。ソネがかがみこむとブラスが顔をあげた。その目は血走っていた。 「艇長《キヤツプ》、あの支持架の後ろにボルトがあるんだ。それをはずせば受材をつけただけで客室《キヤビン》を引き出せるんだが、手がとどかない。ちくしょう! 手がもう少し長ければなあ」 「パイプの先にペンチをとりつけてやってみたんだが、とてもこんな複雑な操作はできやしない。マジック・ハンドでもむずかしいや」 「長い手かあ。こんな時のためにこんどはなんがい長い手の奴を隊員にしておくんだなあ」 「よし、それじゃおれの手をはずして使おう。この中で手のはずれるのはおれだけだ」 「艇長《キヤツプ》の手を!」 「そうだ。おれの両手をはずして、右手に左手を直結するんだ。左の手首ははずして誘導神経を右手の腕のつけ根の誘導神経につなぐ。骨はステンレスだから簡単なユニバーサルジョイントで結合できる。それをパイプの先にくくりつけるんだ。神経は三・七ボルトのR型微電流刺激で作動する。ペンチを握ってボルトを回すぐらいのことはできるだろう。それで足りなければ足もだ」  ブラスとモリソンは顔を見合わせた。 「早くしろ! だがその前におれの体をワイヤーでどこかへとめておいてくれよ。慣性がついたらこんどは自分ではとめられないんだからな」  ブラスは腰から細いワイヤーの束をはずしてソネの腰に巻いた。一端を肋材《ろくざい》の一部に結びつける。  ソネは外鈑の上に腰をおろして、長いパイプの先にくくりつけられた自分の腕が、ゆらゆらとゆれながら穴の奥にさしこまれてゆくのをスポットライトの光の中で、ぼんやりと見つめていた。  彼が最初に両腕を失ったのは金星のDD基地建設の時だった。それ以来、人工細胞とステンレスの骨、シリコンの皮膚に、これだけはほんものの神経を埋めこんだ腕が彼の用を果たしてきた。その後、ある救助作業に従って足をも失った。その時、代謝系は根本的に改造され、宇宙空間で活動するために不要な器官はとりはずされ、新しく必要な器官がとりつけられた。あとには、真の彼だけが残った。絶対に変えられないもの。決して他のものではとり換えることのできないものだけがソネには残った。彼は満天の星屑の下で皮肉に笑った。  外鈑の上に横たわったソネの耳に、チャンの声が入ってきた。 「艇長《キヤツプ》、こちらタイジ。聞こえますか?」 「もっと小さい声で言え」 「はねとばされた乗組員を発見しました。二十四人がほとんど半径五百メートルの撒布圈で慣性コースを突進中です。一ヶ所にあつまっていたところをはねとばされたものらしいです。各自のライフ・ロープは工作船の船尾のフックにまとめて結ばれていましたが、大きな破片がこのフックを船尾から削りとってしまったらしいです」 「それでそんなに撒布度が小さいわけだな」 「そうらしいです」 「死んでるか?」 「失神していますが、大きな負傷はないようです。内臓破壊をおこしているかどうか」 「よし、みんな連れもどせ」 「OK、艇長《キヤツプ》」 「こちらフィルポ。貨物をワイヤーでつなぎました。加速して送り出しますがコースを指示してください」 「いいか、メモしてくれ。B座標Xイコール二○四・八六一二、Yイコール八〇三・四六五一、Zイコール六〇七・〇〇二〇、ハヤマ・ゴッドフレイ双曲線底点揺動プラス八の切線上にコースをとれ。フィルポ、J四基地に連絡しろ」 「わかりました」 「艇長《キヤツプ》! さきに報告した工作船搭乗員二十四名の付近空域で破壊度の強い死体、十一体を発見しました。どうしますか?」 「手でも足でもまだ使えそうなものは収容しろ」 「了解、人形屋の旦那」  ソネは不自由に足を動かして半身をおこした。ブルー・リンクス号の残骸の上に白銀に輝く客室《キヤビン》が巨大なまゆのようにせり上がってきた。ソネの腕を使ってボルトをとりはずした支持架が、おれ曲がったつののように張り出していた。その巨大なまゆの側面にチャンたち四人の姿が青白く、かぼそく頼りなげにとりすがっていた。 「モリ、こちら艇長。D八号の作業をしやすいようにもっと寄せろ。客室《キヤビン》を後につなぐ。チャンに連絡をとれ」  ソネのイヤホーンに、モリとチャンがうちあわせる声がいそがしく流れこんできた。D八号は丸い尻をこちらに見せてゆっくりと接近してきた。注意してやってくれ、モリ。ここで失敗したらこれまでの努力がなんの意味もなくなるし、おれたちは全滅するんだ。D八号の後進速度が少し早すぎるようだ。もっとブレーキをかけろ!——ソネはあえいでおそろしい緊張に手をにぎりしめた。その手の無いことはすっかり忘れていた。D八号が客室《キヤビン》に正面からのしかかった。ソネは目をつぶった。 「オーライ、オーライ、モリ。ぴったりだ」 「どうだ。おれの言ったとおり客室《キヤビン》との距離二メートル三十センチだ。基地へもどったら五十クレジット忘れるなよ。四人とも」  ソネの不安と焦燥とはまったく無縁の会話がイヤホーンから洩れてきた。ソネは我にかえって苦笑した。ソネのもっとも心痛したことが、彼らにとってはいくばくかの賭け金がとれるかとれないかだけの興味にすぎなかったのだ。ソネの苦笑いはやがて哄笑にかわった。星空を受けてソネは笑い続けた。 「……右手十六。左手十九。内臓A群のみ十四組。同じくB群八組。C群二組。ほかに大脳だけ四。肝臓二。眼球三十二を単独に収容しました。パッケージがせまいから艇にかえって移しかえます」 「ごくろうだった。それでは急ぎ帰還してくれたまえ」  工作船の調査にあたっていた六名は、それぞれ任務を果たして帰途についた。こちらのほうは船の破損がひどく、かろうじて生き残った乗組員、これとてショックで失神しているのだが、なんとかもとの健康にもどり得るだろう——を収容しそのほかに人体改修用としてまだまだ使える肉体の部分品をも収容して引き揚げてくる。ブルー・リンクス号の客室《キヤビン》はD八号の尾部と、数本の肋材《ろくざい》を使って完全に固定された。 「つまり、トレラーバスというやつだ」  モリソンの声がした。  ソネは基地の医療部を呼び出した。負傷者の状況を知らせ、収容した肉体の部品を報告して凍結コンテナーを用意するように要請した。  ソネはブラスとチャンにかつがれてD八号の内部にもどった。両手のないソネに、みんなはいやに親切だった。  しばらくしてタイジやリーたちがもどってきた。彼らがもどってくるとにわかに、にぎやかになった。二十四人の工作船乗組員を収めたステンレス・コンテナーを後部の船倉に搭載した。フレスコの背負ってきた気密小型コンテナーにはハイ・リンゲル氏液がみたされ、シリコンの袋に分けていれられた内臓や、手や足が宝石のようにゆれていた。  そっと二重ぶたがとられて皆はめずらしいものでも見るようにかわるがわるのぞきこんだ。手や、足や、または肝臓や、あわいピンク色のそれは、自分たちにはないものであった。それがないためについに地球へ帰ることを断念してしまった者もあった。その、リンゲル氏液の中にかすかにゆれ動いているものこそ、人間のあかしであり、地球を故郷と呼べる者の資格であった。  宇宙救助隊員がふえるということは、実は重大な悲劇ではないか。二重ぶたは、開けられた時のように再びそっと閉じられた。閉じられてもなお、皆はそこを見つめていた。 「さあ、出発だ。みんななにをぼんやりしているんだ」  ソネの声に、皆は急にわれにかえって照れくさそうににやっとした。どやどやと立ちあがってそれぞれの席につく。 (いいんだよ。これで。おれだって大脳と二つの眼球、それに肝臓だってもとからのおれのものだ。これだけあれば立派な人間さ)  ソネは両腕のない体をまっすぐにのばして叫んだ。 「点火《フアイヤー》!」  標位星二一九七年  フェリー・ロケットの裂けるような咆哮《ほうこう》があたりの空気をどよもし、窓ガラスは今にも割れるかとばかりにふるえた。人工衛星上の大型宇宙船発着場へむかうのであろう。特徴のあるかん高いその爆音は、しだいに斜め上空に移り、急速に小さくなっていった。  老ノヤは背を丸め、耳を傾けてふかぶかとそれに聞きいった。その音にほれこんでいるかのように、真剣で厳しい顔色であった。実際にそれはノヤにとって、多年おのれを形づくってきた、ある何ものかと共鳴する響きであった。それは少年時代から青年時代にかけての無惨と栄光の軋轢《あつれき》を、そして中年以後の孤独と自信のいがみ合いをもたらした。そこには平安はなかったが満足はあった。それは虚空に身をおく者の揺籃の唄でもあり、挽歌でもあった。  音が完全にきこえなくなると、ノヤはほっと深い息を吐いた。酔いに似た軽いたかぶりが、彼を落ち着かなくさせた。 「キャプテン・ノヤ。どうぞ」  壁のインターフォンから流れ出る声に、ノヤは腰を浮かした。むかい側のドアの上に彼をうながすオレンジ色のランプがしきりに明滅していた。そこは宇宙省の火星分局人事課長室だった。ノヤは唇をかむとまっすぐ進み、ドアをノックした。  人事課長のサイガはノヤを見るとソファから身を起こした。如才ない笑いを浮かべながら、 「やあ、キャプテン。しばらくでした。お元気でしたか」 「課長さん、なんで私が呼び出しをうけたかわかっているんですよ。しかし、この前も言ったように、私はごめんこうむりますよ」 「まあまあ、キャプテン、まずくつろいでください。ジデース酒の冷たいのなぞいかがですか」 「私はあんな飲み物など嫌いだよ。それよりか課長さん。今、宇宙ステーションや開発基地で一番不足しているのは、中年過ぎの技術者なのですよ。それはたしかに最新の宇宙技術の教育を受けて来た者よりも、技能的には劣りますよ。しかしね、この世界で必要なことは最新の技術じゃないんだよ。もちろん基本的な技術レベルは絶対必要だが、現在、致命的な不足は指導者なんですよ」 「キャプテン。お説はこの前の時もよくうけたまわった。全くそのとおりだ。だが今日の問題はキャプテン、あなた個人のことなんだ」 「私に退職しろというんでしょう。退職して地球へ帰って地上の車の運転でもやれというんでしょう。おことわりだね。第一、私には、地球には誰一人として知っている者はいないしね」 「キャプテン。あなたの実績と人格には、省上層部も深い敬意を払っている。だがこのへんで後進に道を開いてやったらどうかね」 「私のあとをいったい誰がやれる。どうだね、あなたやらんかね」 「キャプテン!」 「課長さん。私は今年百十九歳だ。もう二十年は宇宙空間ではたらけると思うよ。これまでに得た私の経験は、まだ充分に吐き尽くされていないのさ」 「私は強制退職の権限をゆだねられて来ているんだがね」 「それがどうしたね。この宇宙空間で、私を押さえつけて、無理やりに地球行きのロケットの中へおしこもうなどと、いったい誰がやるかね。なんなら今すぐに、あなたの部下にでも命じてごらんよ」 「キャプテン、たのむよ。私の言うことにも耳をかしたまえ。省では高年退職者に対する優遇には、特に気をつかっているのだ。なんならあなたの場合には、特例として東キャナル市に定住を認めてもいいと言っているんだよ。そしてこの分局内にポストを与えるというんだ。人に惜しまれているうちに、身を落ちつけることだ」 「それはそろそろあなたが考えておくべきことだね」 「あなたの態度は、上部に報告する必要がありそうだ」 「報告でもなんでもしたまえ。私は死の瞬間まで、たとえ老衰で星とサーチライトの区別がつかなくなっても宇宙技術者だ。火薬ロケットの操縦を知っている者が、今いったい何人いる? 三段ロケットなどという怪物を誰が記憶しているかね? みんな私の仲間がやったことだよ。私は彼らの延長なのさ。彼らは私なんだよ。私はもう二度とあなたの呼び出しには応じないだろう」 「困ったなあ、キャプテン。どうも……よし、それじゃこうしよう。私は省への報告は今回は保留しておこう。もう一年待つ。もう一年たったら私の言うことを聞いてくれ。な、そうしよう。その間に君も考えを整理しておいてくれたまえ。どうだ」 「どうなとかってに。それでは私はこれで失礼する」  ノヤは冷たく言い棄てると部屋を後にした。もう二度と人事課の呼び出しには応じないつもりだった。それには——ノヤはちょっと悲しかった。もう二度と、この火星東キャナル市を訪れることもないだろうその寂しさが、潮のひくように怒りと興奮の去ってゆくしらじらとした胸に、波紋を描いた。あの建設時代の活気の渦、一人消え、二人消え、ついには彼だけを残してかえることのなかった仲間たち。ノヤは一人老い、過去と絶たれて今追われようとしていた。  風はかすかに西より流れ、夕映えは騒音の中で血のように紅く、彼の標位星≪アレキサンドリア七≫は、遥かな荒涼たる不毛の中に在るのだった。     *  遠方監視器についていたダムが体をかたむけ、インターフォンに口を寄せた。 「〈夢の海号〉がコースに入ってくる」  管制室の片すみにデッキチェアをならべて、いぎたなくたむろしていた数人が、どやどや立ち上がった。 「上り三便か。やれやれ、これでどうやら今日もおしまいだな」 「まだ近距離線《ローカル・ナンバー》があるぞ」 「あれはお前一人でやれよ。おれたちみんなで起きていることはないよ」 「ふん。そうキャップに言ってやろうか」  壁面を埋める無数のメーターやパイロット・ランプに灯がともり、せわしく点滅しはじめた。 「〈夢の海号〉規定コースに入りました。誘導をはじめます」  航路修正指示装置《フル・シンクロコーサー》から透きとおるような優しい声が、唄うように皆のイヤホーンに流れこんできた。 「OK、お嬢さん」  電装員のソンのドラ声が重なった。 「上り三便〈夢の海号〉へ上り三便〈夢の海号〉へ。こちら標位星≪アレキサンドリア七≫、こちら標位星≪アレキサンドリア七≫。これよりあなたを誘導します。異常の有無をお知らせください。……それでは私のサインを追跡してください……少しマイナスに偏位しているようです……修正してください……そのまま……そのまま……慣性重心がわずかに流れています。もう少し……はい、そのまま……現在のコースを直進してください……」 「お嬢さん、たのんまっせ」  皆の目は喰いつくように、刻々に送られるコース指示レーザーのサインを監視していた。今、≪アレキサンドリア七≫のコース修正指示装置は〈夢の海号〉の航路追跡装置にはたらきかけて、遥かな暗黒の空間を流星のようにかすめてゆくその巨大な宇宙船を規定コースに正しくのせていった。  その口調にこもる甘い響きに、聞く者は遠く在る妻や娘、あるいは誰ともない未知の美しい娘たちのことを、心に浮かべるのだった。宇宙船の航路修正装置に送られる数字や符号のられつだけのサインのほかに、実際に航法上役に立つことはあまりなかったが、音声通信を乗員あてに送ることには、心理的に非常な効果があった。絶えず破滅と隣合わせている長い荒涼たるその航路の途中で、満天の星くずのどこからかささやきかけてくる美しい声音は、疲れ果てた心を、ひとときかぎりなく優しいものにした。  その声の主がどこの誰なのか、≪アレキサンドリア七≫の勤務者たちも当初、ずいぶん真剣に気にして、中にはメーカーである工務部のサイナン工場まで問い合わせた者もあったが、これはついにいろいろな事情であかされなかった。こうして『声』は皆の仲間になり、共通の恋人になった。  標位星≪アレキサンドリア七≫の分担する地球・木星間航路第四分コースは、火星と木星のほぼ中間に位する長大な空域だった。  地球・木星間航路といっても、正確には月面〈晴の海市〉空港に発して、第五人工惑星≪ジムサ・コロニー≫を経由、火星〈東キャナル市〉ポートから、これも人工惑星である≪サライナ九市星≫中継で木星第七基地にいたる大圏航路であった。二千二百年代になって木星の開発がすすむにつれて、この航路は、地球政府によって第一級航路に指定され、七個の標位星を配して、航路の安全に備えた。  標位星のレーザーは、その分担コース上を掃いて、航行する宇宙船に限りない指標を与えた。直径五百メートルの金属と強化プラスチックの車輪型の標位星は、ゆっくりと回転しながら、暗黒の空間に奇妙な巨大な指輪のように浮かんでいた。  荒れ狂う暗夜の海上に、一すじの光を投げかけて、難航する船を岩礁から守る孤島の燈台のように、ここには永遠の隔絶だけがあった。  十人の勤務員は昼夜の別なく航路を守った。もとよりここには昼夜の別はない。決してまたたくことのない幾千億の星々と、地球から見た満月のほとんど十倍はあろうかと思われる巨大ないぶし銀の木星、そして、時にくっきりと弦月の輝きを見せる火星が、そのすべてであった。  ここから見る木星は、暗黒の海に浮かぶ巨大なクラゲの傘のようだった。わずかに偏平につぶれたそれは、まるで半透明で質量をもたないかのようだった。厚くとりまくアンモニアの嵐は、遠い太陽の光を灼けたはがねのようにはねかえして銀白色に輝いていた。  ≪アレキサンドリア七≫の、木星に向いた面はその木星光を受けてかすかな水銀色の光輝を放っていた。  最初の木星調査船が渦まく大気の底にもぐりこみ、軟泥状のメタンの海に木の葉のように浮かんでから、もう二十年にもなるというのに、その後の開発は遅々として進まなかった。おびただしい物資と、よりすぐった人員が注ぎこまれ、空しく払われた犠牲も決して少なくはなかった。だが、木星の環境は容易に人類の進出を許すようなものではなかった。幾つかの悲劇が生まれ、英雄神話にも似たエピソードが語られていったが、甘美な幻想的伝説とははるかにへだたっていた。そこでは失敗と死とは、つねに人々の右側の席にいたからであった。  ≪アレキサンドリア七≫は木星を看ていた。傍観か無関心だけが、この位置を占めるものの勇気であった。 「……それでは十四秒後に二三・〇に増速してください。同時にコース座標三二に変針します。では、マイナス八、七、六、……三、二、一、ゼロ……コースよろしい。偏位角よろしい。異常なし……異常なし。前途の平安をいのります。こちら≪アレキサンドリア七≫、さようなら」  声がふっと消えた。〈夢の海号〉は加速の白光を噴きながら、みるみる千億の星くずの中に消えていった。  そのとき既に、隣接する第六|哨区《しようく》《アレキサンドリア六》のレーザーは、確実に〈夢の海号〉をとらえてそのコースに誘導をはじめていた。こうして哨区から哨区へ、宇宙船は手わたされ、送りつけられてゆくのだった。 「さようなら、か。ちくしょう。感じを出してやがら」 「サヨウナラア」 「気味の悪い声を出すな。そのほうがよっぽどこたえるぞ」 「さあ、今のうちに食事にするか」  当直のダムだけを残して、皆はわらわらと席を立った。  グルーパーが自動調理機のスイッチを押した。ジューサーの丸孔が開いて、プラスチックのコップに入った強化ジュースが一列になって出てきた。皆がいっせいに手をのばした。 「キャップはまだ眠っているのかな」  二、三人がコンパートメントのスチールのドアを気づかわしげにのびあがってうかがったとき、ドアが開いてノヤが現れた。 「さあ、キャップ」  ノヤの顔には、旅の疲れを示すかげりが、まだ色濃く残っていた。ノヤは大きな体を運んで皆の間に割りこんだ。 「どうでした? 東キャナル市では」 「また退職勧告さ。年よりはもう使えないそうだ」 「それでキャップはなんと言ってやったんです?」 「退職金の代わりに太陽をくれと言ってやった」 「そしたら」 「来年くれるそうだよ」 「へえ、あのオテント様がキャップのものになるんですか。キャップ、そうしたらどうか私にも日光浴をさせてくださいネ。意地悪しないで」 「よし。その固形紅茶をとってくれ。ミナミ」 「ほい。キャップ、あなたがはじめて宇宙勤務につかれた頃は、食物はみんなこの固形紅茶のような錠剤だったのですか?」 「そうだよ。栄養価を圧縮してしまうというわけでね。しかし、それは人間の体というものをろくに知りもしない奴らが勝手に考え出したしろものだったのさ」 「と、いうと?」 「何かを噛んで食べたい、歯ごたえのある物を食べたいという本能的欲求だけは、訓練や計算だけではどうにもならなかった。みんな一種のノイローゼになってしまってね。おい、その野菜を、ん、あ、そんなにいらん。で、しまいには食事の時にプラスチックの薄片を口に入れて、噛んで呑みこむ真似をする者まででてきたよ。とどのつまりは今のように形だけはふつうの食物にもどったのさ」 「ぶるぶる。そうなったら、まずおれなんか、まっ先にまいってるな」 「宇宙空間では、食事をするということは非常に重要な娯楽の一つなんだよ。それを数粒の丸薬でまにあわせようなどと、現実無視も甚だしいね」 「だいたい役人と学者の考えることはよく似ているね」  突然、壁面のいっかくに並んだメーター群が赤い灯をつけた。ダムの声がインターフォンからはしり出た。 「キャップ、遭難船です!」 「ようし、全員配置につけ」  みなは手にした食器をテーブルに置くと、身をひるがえして走った。 「どこの船だかしらんが、気のきかない奴らだ。今食事中だからちょっと待てと言え」 「ふしぎだな、ダムが当直に立つと、どうしてこう忙しいんだ。もうあいつに当直をやらせるのは止そうよ」  フェルガの呼び出しが皆の口を閉じた。 「こちら標位星≪アレキサンドリア七≫、こちら標位星≪アレキサンドリア七≫、A座標三五より四二へ接近中の小型船へ。連絡せよ。連絡せよ。こちら≪アレキサンドリア七≫」  応答はひどい雑音で聞きとりにくかった。 「標位星≪アレキサンドリア七≫へ。こちら宇宙省鉱山局所属|鉱石運搬船《バケツト》〈MK一八〉。本船はエンジンに故障あり漂流中。エンジン型式はアライド・バッジ方式による熱交換型。急ぎ修理中なるも、若干の工具に不足あり。援助をこう。こちら鉱山局所属バケット〈MK一八〉」 「工具の種類を」 「金属切断用クローム電極八個。純水製造機一セット急送されたし」 「わかった。当方の欲しいものは芝刈り機だ」 「ただ今の意味、不明。くりかえされよ」 「あほう!」 「フェルガ、クローム電極はあるとして、純水製造機なんてあるかい」 「キャップ。倉庫に予備があるはずです」 「それではエイブルとシングは、荷物をまとめてカプセルに入れ、外へほうり出せ。慣性コースは航路修正装置にまかせろ」 「OK」 「キャップ。小型船一隻、A座標一八より進入します」 「航行通告Bの一九一一。≪サライナ九市星≫所属小型|貨物船《カーゴ》。コースは同星より木星DD三基地に至るB座標○七。積み荷は建設資材および弱電機材」  マシュウが航行通告のフィルムを読みあげた。 「不定期船だな。それでは連絡をとって誘導してくれ。あまり強力な通信能力はないと思うから、サービスは万全を期してくれ」 「はい、キャップ」 「B座標○七を航行中の小型カーゴへ。B座標○七を航行中の小型カーゴへ。こちら標位星≪アレキサンドリア七≫。あなたのコースを誘導します。聞こえますか、聞こえますか。こちら標位星≪アレキサンドリア七≫」 「聞こえますか。こちら≪アレキサンドリア七≫。ご返事ください」 「お嬢さん、じりじりしてきたぞ」 「おかしいな、通信装置が故障しているのかな」 「あ、キャップ、受信サインが来ています。すると発信装置の故障なのか」 「そうかもしれん。すると航路修正装置は働いているだろうから、おい、お嬢さん、かまわん、誘導を続けろ!」 「小型カーゴへ。小型カーゴへ。これよりあなたを誘導します。現在のあなたの位置は……」 「キャップ、たぶん送信機の故障か何かだろうとは思いますが、もし全システムの機能障害だとすると、あのクラスの船ではちょっと自力航行が難しいんじゃないかと思います。行ってたしかめてみようと思いますが」 「そうだな、それなら確かだ。で、グルーパー、誰をやろうか?」 「私とマシュウ、フェルガ、ミナミで行ってきましょう」 「それではごくろうだが、たのむ」  四人はうなずき合って装具室へ消えた。 「ソン。二号艇の発進用意。キューターは航路修正装置のB回路で誘導してくれ」  まもなく四人は完全装備の小山のような姿でもどってきた。 「それでは行ってきます」  グルーパーを先頭に四人はリフトにおさまった。四人の声にソンやキューターの声がかさなって、がやがやとイヤホーンの奥ににぎやかに聞こえていた。  やがて発進を告げるキューターの声が響いて、イヤホーンの中は一瞬、いっさいの物音がとだえた。  テレビスクリーンの中に、きらめく焔が残映を曳いてはしった。それの消えたあとには、前にもまして輝く星の雲だった。  カーゴとの連絡も終わった航路修正装置は黙りかえって、ただパイロット・ランプだけが静かに吐息をするように明滅をくりかえすだけだった。ノヤはコンパートメントにひっこみ、キューターだけがたくましい後ろ姿を見せて、B回路操作シートについていた。ダムがしばらくの間、鉱山局のバケットに送ったカプセルのコースをたしかめていたが、異常もないとみえて室外に出ていった。必要のない照明はすべて消えた。次の当直にあたっているキムは、すみのデッキチェアに身を埋めて目を閉じた。あわただしかった一日も、どうやら終わろうとしていた。グルーパーたちが帰ってくるまで六時間はあるだろう。つぎの通過船までは四時間、そのあと木星にむかう船団が三つも予定されている。明日はいそがしいぞ、キムはチェアの背を低くたおして大きく息を吐いた。  眠りにおちてゆく直前、「キャップは退職したらどうするんだろう」老キャプテンの身のふりかたがふと、心に暗い影を落としたが、それもたちまち消えていった。  スポットライトを浴びて石のように動かないキューターだけが、水底のような静寂の中に、一人目覚めていた。     * 「全員退去まであと六十分。すべての部所は最後の点検にかかれ」  ヘルメットのイヤホーンの中で、作業班長ガイアのさびた声がひときわ高く響いた。  高い鉄塔の上にいる者も、地下深い工事場にいる者も、ひとしく自分の時計に目をはしらせた。各自の作業はほとんど終わっているにもかかわらず、思い出せば、しのこした作業はまだまだどっさりあった。  早くもすべての仕上げと点検を終わって、地上車に鈴なりになって引き揚げてゆく連中もあった。また一方では、これから取りつけるのか、巨大な器材をレッカーに積みこんで、あわただしくリフトに乗りこんでゆく一群もあった。  連絡用の小型地上車はネズミのように走り回り、ゆき交う作業員は、地上をはうクモの巣のような電線にともすれば足をとられた。  やぐらの上にならべられた投光器は、五百万燭光の光輝を、その戦場のような騒ぎの上に投げかけていたが、この大気のない天体の上ではその凄まじい光輝も、ただギラギラと目もくらむ光圏を地上に描くだけであった。散乱光のない世界では光の進路にある物体だけを浮き上がらせ、その背後の影は深淵につらなる永遠の闇であった。  浮き上がる光の輪の中を影のように作業員は走った。 「班長、そろそろボートのほうへおいでになってください」  部下の一人が、彼のかたわらに寄ってうながした。 「いや、まだ」  彼は時計に目をはしらせ、作業指揮所にあてている地上車から結晶片岩の岩盤に降り立った。 「引き揚げを終わったグループからどんどん乗船させろ。発進は予定どおり二十一時だ」 「OK」  彼はそれきり口を閉じた。口を開いていると、さいげんもなくとりとめのないことをしゃべり出しそうな気がした。絶えず誰かと話していなくてはいられないような不安と焦燥が彼の胸には渦まいていた。だが、全作業の指揮者として、それは絶対に顔や態度に現してはならないものだった。  ——大丈夫さ。作業は完全に進んでいるのだし、成功は疑いない。何もびくびくすることはないさ——  彼は自分の心の中で嘲笑ったが、心はいっこうに平らにならなかった。彼とて、施設技術者として宇宙空間での作業に従うようになってから、もう四十年にもなる。そのうち半分は、工事責任者として、自信ある仕事を片づけてきたのだった。ところが、この天体での作業だけは、これまでの彼の成果も自信も何の意味もなさなかった。ひとり彼だけではない。いま、彼のもとで作業に従事しているすべての人間は彼同様、心の底に重苦しい不安と焦燥を抱いているのだった。  五年の歳月と莫大な資材をかたむけたこの工事、『ジャクサルテスB移動計画』は今、最後の段階に入ろうとしているのだった。そしてそれが成功するかどうかは、あと一時間二十分ののちに迫っていた。  宇宙省は二一九二年、木星開発計画を発表すると同時に、その開発の中心基地として、火星と木星の間の空間の深みに無数の小石を撒いたように散在する小惑星群に目を向けた。慎重な調査の結果、えらばれたのは≪ジャクサルテスB≫、直径四キロの小天体であった。これを木星の近傍十六万二千キロの位置に移動して、木星の周囲を公転させ、木星上の各開発基地の総合根拠地としようというものであった。こうした方法は、木星の衛星に基地を開設したり、人工衛星を組み立てたりするやりかたと異なり、手近な所でほぼ完成に近いまでに作業を進め得るという利点があった。  ガイアを司令とする作業班は、着々と工事を進めた。原子力ブルドーザーの群れは凍結した岩盤を爆破し、切り開き、百基の核融合反応炉を埋めこんでいった。その巨大な噴射口は噴火山の群れのように地表に開いていた。その反応炉は、やがて木星の開発基地に移される予定であった。居住区の基礎工事や、生産工場にあてられる地下数層の施設などは、すでに完成し、精度を要求されない機械類などは、搬入を終わってすえつけられていた。  すべての工程は完了した。あとは無事に発進して予定コースを進み、定点にセットできるかどうかにかかっていた。  発進とコース上の誘導は、宇宙船からなされる。その宇宙省用船〈MK一〇七〉はすでに頭上の星空のどこかで待機しているはずであった。  時間は一秒、また一秒と冷酷な決定の時を刻んでいた。彼は石像のように立ちつくしていた。  黄色の宇宙作業服の電装員が一団になって、小山のような自動高速遮断機を曳いて通っていった。 「どうだね。仕事は片づいたか」 「班長、万事OKです」  彼らは自信にあふれた口調で答えると、背後の闇に溶けこんでいった。彼らのヘルメットの頂の赤外線暗視装置のビーマーが、角のようにキラッと光った。 「各作業部へ、各作業部へ、全員ポートに集合せよ。全員ポートに集合せよ」  数十台の地上車はいっせいにエンジンの始動を開始した。作業員の群れは一団、また一団と地上に現れた。重要な器材はつぎつぎと地上車に積載されていった。大部分の資材はこのまま放置して、移動後の工事の完成に使われる。ただ精密機械類だけは、発進時とブレーキ・ロケット作動時の衝撃をおそれて、すべて取り外され、宇宙船に収容されることになっていた。  施設のすみずみまで投光器が輝き、引き揚げる作業員の足もとを照らした。赤い作業服の基礎工程員の群れに、白い作業服の力作員の群れが続き、黄色の電装員たちのあとから青の原子力工作員たちが続いた。彼らは戦い終わって戦場を去る兵士たちのように、胸を張り、大股に歩いた。ここでの彼らの任務は完全に果たされたのだった。彼らのヘルメットは無数のかき傷やすり傷で、ほとんど半透明になってしまっていたし、背負った無線電話機《トーキー》は、アンテナも折れ曲がりつぶれていた。 「収容を終わった地上車から出発しろ」  キャタピラが岩盤を噛んで、数台の地上車がスタートした。つぎつぎと列を離れ、暗闇の中に吸いこまれてゆく。 「班長。お乗りください。そろそろ出発しましょう」  運転席の若い男が叫ぶように言った。 「うん。やってくれたまえ」  彼はシートにおさまりながらもう一度、ふりかえった。煌々たる照明の中で、まだたくさんの作業員が動き回っているのが見えた。最後の点検をしている警備員であろう。その姿がいやにくっきりとパノラマのように彼の目に灼きついた。  定刻、数十隻の宇宙船は≪ジャクサルテスB≫の急造ポートを離れた。船団は流星雨のように小惑星帯をかすめていった。  省船〈MK一〇七〉はゆっくりと≪ジャクサルテスB≫の予定針路に進出していった。  その船内では秒読みがはじまっていた。すべての人類の目や耳はこの空間に集中していた。 「……五、……四……三……二……一……ゼロ」  音もなく回路が閉じた。  原子の火の柱は一キロの長さにも達した。  すべてを微塵にうちくだくような烈しい震動が、今は無人の≪ジャクサルテスB≫をおし包んだ。 「省船〈MK一〇七〉より木星開発委員会へ。≪ジャクサルテスB≫発進せり。≪ジャクサルテスB≫発進せり。計画は順調。現在すべて異常なし」     * 「おうい、みんな、起きろ!」  ダムがべッドルームに飛び込んできて、顔中を口にしてわめいた。 「うるさい。気でもふれたか」  ベッドで眠っていた者たちは頭をかかえて寝がえりをうった。 「おい、≪ジャクサルテスB≫が発進に成功したぞ」 「ほんとか!」  皆はベッドからはね起きた。 「今〈MK一〇七〉が開発委員会に打電しているのを傍受した」 「そうか、とうとうやったか」  ひとしく息をのんだそのひとみに、ふとしいんとした色が浮かんだ。遠い小惑星帯のどこかで、血のにじむような労苦の果てに、ようやく一つの成果を得た仲間たちのことがたまらない羨望となってこの時、皆の胸の内をかすめて通ったのだった。宇宙技術者なら誰でもが未知の世界に踏みこむことをこそ志す。危険や死よりもなお強く彼らを動かすものは、まだ記録されていない平原であり、人類の足跡を印さない辺境の星空であった。宇宙航路の安全をはかる現在の仕事に、絶大な誇りを抱いているとはいえ、彼らのねがうところは、ひそかに未知の深淵であったことにうそはない。 「≪ジャクサルテスB≫のコースはうちの哨区をちょっと横切っているはずだが、出現はいつ頃だね」 「だいたい百九十二時間後になります。B座標八二から七八へYイコール二一・四一の切線を描いて通過します」 「木星の開発基地の連中は喜ぶだろうなあ。これまでは何があっても滞空連絡船以外には頼れなかったんですからね」 「これからは人員交代も楽だし、器材の補給も簡単だな」  語尾にかくしえない淋しさがこもっていた。  船の送り迎えに忙しい毎日だった。定期航路はもちろんのこと船団もひっきりなしにこの航路を上下した。≪ジャクサルテスB≫の発進成功以来、木星開発はにわかに活発化してきたようだった。  航路修正指示装置は今日も唄うようにささやきつづけていた。その前にデッキチェアをすえて耳を傾けていたノヤに、ソンが眉をひそめて身を寄せた。 「キャップ、≪ジャクサルテスB≫が変針しているようです」 「変針?」 「〈MK一〇七〉が開発委員会に暗号で最優先通信を打電しているのをキャッチしました。ひまだったものですからミナミと二人で電子頭脳に解読させてみたところ、≪ジャクサルテスB≫がしだいに揺動《ヨーイング》を起こしているというのです」 「原因は?」 「わかりませんが、おそらく発進後に地殻内に共鳴点が生じて、重力の釣り合いが変わったんじゃありませんか。例のスギウラ・ハンドレページ理論ですよ」 「そういう事態も一部では懸念されていたようだったが。やはり……」  見交す二人の顔は深く翳《かげ》った。  ≪ジャクサルテスB≫揺動《ヨーイング》の兆候に、宇宙省技術局はその擁する技術陣の精鋭をひそかに動員して宇宙船〈MK一〇七〉に在るガイアのもとに急派した。ニュースは極秘に付された。まだ技術的欠陥を公表する時期ではない。回復に全力を注ぐべきであるとの判断からであった。莫大な費用と幾多の人命の損失によってあがなえるものはただ一つ、曲がりなりにも計画の成功以外にはなかったのだ。  揺動《ヨーイング》はソンが予想したように、発進後に地殻内に生じた共鳴点による重力のアンバランスが原因だった。この点については事前に充分に計算され、対策はとられていたのだが、おそらく地殻走査にもれた不整合地層があったのであろうという結論であった。ただちに噴射装置がコントロールされ、推力の方向が操作されたが、一度生じた共鳴点は、それから先の針路を修正のきかないほど複雑、自由なものにしてしまった。 「ブレーキ・ロケットに点火しろ!」  ガイアはついにほほをゆがめて絶叫した。彼はやり直しを決意した。やり直しにはまた何年かを要するが、このまま徒に手を加えていよいよ失敗の度を深めるよりも、ここはむしろいさぎよく出直すのだ。彼のひたいは冷たい汗に濡れていた。  結果的にはこのブレーキ・ロケットがいけなかった。揺動《ヨーイング》の回転モーメントはこれによってさらに加わった。≪ジャクサルテスB≫はついに予定コースを滑って自由軌道を突進しはじめた。 「航行中の全宇宙船に告ぐ。航行中の全宇宙船に告ぐ。これからの省航路局情報に注意せよ。これからの省航路局情報に注意せよ」 「キャップ。〈MK一〇七〉の傍電です。だいぶあわてているようです」 「どれ。≪ジャクサルテスB≫の現在予定針路座標三二、マイナス六・五、これはだいぶ偏位しているな。これではちょっと回復できないんじゃないかな」 「キャップ! ≪ジャクサルテスB≫の予想針路が出ました。これを見てください」 「A座標三二・八五から三五へ。そのときマイナス一三・八一。おい、このコースだとまっすぐにこの哨区へ突っ込んでくるぞ」 「そうなんです。キャップ、これはえらいことになりましたよ。でもこの≪アレキサンドリア七≫からはかなりずれていますが」  その時、マシュウが紙片を持って叫んだ。 「キャップ! 火星から水爆ミサイルを発射しました」 「水爆ミサイル!」 「予想針路の偏位がマイナスの方に大きく傾いています。現在のコースを延長すると地球と月のほぼ中間を通過することになります。今後もっと偏位すると……」  地球政府は、ついに事態の全容を公表すると同時に地球全域に対して、万一の場合の非常災害対策を発令した。もちろん≪ジャクサルテスB≫と衝突したとしても、地球そのものが破壊飛散するようなことはないが、相当広範囲にわたって破壊的大災害はまぬがれ得ないことと思われた。  大都市からの住民の疎開が急がれた。鉱山、大トンネルは開放され、山間のせまい谷あいに運びこまれた非常用の物資は、わらをもつかむ苦肉の策だった。人心の動揺はおおうべくもなかった。武装兵を満載したロートダインは戦場のように飛び交った。  地球からの無電は宇宙間にある人々の心を暗く蝕んだ。局地的な掠奪暴行が、人々のすべてに及ばなかったことはむしろ奇蹟といってよかった。人々はあるいはおとずれるかもしれぬ破壊の時を、辛抱強く待った。  相ついで傍受される〈MK一〇七〉の無電はついに暗号からふつうの平文に変わって、コースを変えて突進する≪ジャクサルテスB≫の状況を刻々と伝えていた。コースをそらそうとして火星から発射された水爆ミサイルも命中したものやらしなかったものやら、その後の様子は皆目不明だった。 「噴射装置は、もう作動していないだろうから、慣性モーメントをどうやって消すかだな。おい、そのコース予想図を借せ」  ノヤはグラフをつかむと、ゆっくり立ち上がってコンパートメントに消えた。  不安のうちに五時間が過ぎた。≪ジャクサルテスB≫は、地球・木星間航路を斜めにきって、ついに≪アレキサンドリア七≫に正面からいどみかかってきた。警急ブザーが耳をうって鳴り響いた。 「キャップ、退避命令です」  グルーパーがいやに静かな声で言った。 「とうとう来たか。二十分後に退去する。みんな用意はいいか」 「OK、キャップ」 「地球がぶっこわれてしまって、おれたちが生き残ったとてしようがないじゃないですか。キャップ」 「漂流のあげくが、どうせおだぶつならここにいようよ。おれはこの目でその≪ジャクサルテスB≫という奴を見てみたいよ」 「とんでもねえ工事をしやがって、そいつらたたき殺してやるぞ」 「いいから黙れ。地球はこわれはせん。ではそろそろポート・デッキに出ようか」  ノヤを先頭に皆はぞろぞろとデッキに向かった。  デッキのカタパルトには、三隻の小型連絡艇がずんぐりした姿をのせていた。皆はタラップをよじ登った。完全装備で小さなタラップを登るのには努力がいった。これで≪ジャクサルテスB≫の突進を避け、隣接する哨区の≪アレキサンドリア六≫の連絡艇に救助してもらう予定だった。噴射装置のサインが青から赤に変わった。ノヤの乗る一号艇をのぞいて、他の二隻のキャノピーは閉じられた。 「さあ、それでは行くか」  ノヤは一号艇の白銀の胴体にさしかけられたタラップに足をかけた。なにげなく体をのばして両手で開いているキャノピーをどんとしめた。何か叫んでいるミナミとフェルガの顔を尻目に、ノヤはタラップからとび降りてカタパルトの基台の発進スイッチを押した。ミナミがあわてて操縦席のカタパルト遠隔管制装置の応急用押しボタンに手をのばしたが、一瞬おくれた。爆光とともに三隻の小艇はキラッと輝いて中空にほうり出された。自動的に噴射装置が焔を噴いた。 「キャップ! キャップ! どうしたんだ。乗りおくれたのか。キャッチするから飛び出せ」 「なんだ? キャップがどうかしたのか」 「おい、何かあったのか」  ノヤのイヤホーンに、口々に叫び合う声が入りみだれてとびこんできた。ノヤはヘルメットからイヤホーンをもぎとった。急に深い静寂がノヤをおし包んだ。  デッキのハッチにかぎをかけると、ノヤは急いで司令室にとってかえした。そこにはまだ、皆の残していった気配が消えずに残っていた。ノヤはわずかにほほ笑んで、標位位置修正用の熱核反応装置の操作ダイヤルをフルマークまでまわした。そして航路修正指示装置の回路だけを残して、他のすべての電源回路を断ってしまった。 「これでよし、と。最終速度二十八・一九キロ秒は得られるだろう。あとはコースの確保だけだ。お嬢さんたのむよ」  ノヤは航路修正指示装置のシートに腰をおろした。 「みんな、追い出したようで悪く思うなよ。こうでもしなかったらみんなおれの言うことを聞こうともしないだろうからな。みんなは先が長い。おれは何しろ来年は退職するんだからな」  ノヤはあの宇宙省の人事課長の顔を思い浮かべて白い歯を見せた。  ノヤは≪アレキサンドリア七≫のコースを、接近してくる≪ジャクサルテスB≫にセットした。相対速度六十三・四一キロ秒。彼の計算では、この衝撃で≪ジャクサルテスB≫はA座標四二に変針し、火星の軌道を横切って、以後遠く地球をそれて、冥王星の外へ針路をとってゆくはずであった。 「≪ジャクサルテスB≫≪ジャクサルテスB≫ご返事ください。こちら≪アレキサンドリア七≫。これよりあなたを誘導します。そのまま直進してください。そのまま直進してください……」  航路修正指示装置は≪ジャクサルテスB≫と接触を開始した。 「お嬢さん、と、皆は呼んだっけね。あんたが誘導しているのは実はこの私なんだよ。あんたにはわからんだろうが」  ノヤは茫漠とした心を抱いて、シートの背に頭をもたせかけた。はるばるとようやくここまで来た想いだった。  航路修正指示装置に仕組んだ声が、もう数十年前にノヤのもとを去っていった彼の妻の声だったことはとうとう誰にも語らずじまいだった。何年間もの宇宙勤務から解かれて、地球にもどった彼に、妻の去った理由を語って聞かせる者は誰もいなかった。以来彼は地球にもどらなかった。  その長かった歳月も今終わろうとしていた。 「こちら≪アレキサンドリア七≫……ご返事ください……ご返事ください……ご返事ください」  スーラ二二九一年  第二次統合戦争のあとの長い混乱期をへて、人類は、戦争のために一度は見棄てた宇宙植民地へ、再びそのたくましい足をのばしはじめた。  かつて、経営の費用莫大なり、との理由で宇宙政府に放棄された都市や植民地は、すでにおおむね荒廃し、死都と化してしまっていたが、それでも幾つかの都市や基地が、人類の再来のために残留した保安要員によって確保され、維持されていた。  それらの基地へむかって、新しい任務をもった調査船はつぎつぎと発進していった。  宇宙植民地再建委員会をはじめとして、すべての人類は首を長くしてその報告を待った。  やがてニュースが届きはじめた。ある基地では、保安要員が三倍にもふえていて、到着した調査船を歓呼してむかえたし、またある都市は厚く流沙に埋もれて、その位置さえよくわからなかった。  調査船のなかには、「到着」の連絡を送ったまま、消息を絶ってしまったものもあった。  そこで調査船の乗組員たちの見たものが、いったい何であったかは、なお長い間の謎であった。やがて定期航路が再開され、人々が眠りから覚めたばかりの都市の街路を踏んだとき、そこに見出したものは多くのドラマであった。  人間世界のさいはてを照らす青白い小さな太陽と、それにふさわしい物語の数々は、それを聞く宇宙開発者たちの胸にある種の感慨をうえつけた。  それは、すでに還る所をうしなった者たちの、ひそかに抱く茫漠たる郷愁ともいえた。  それは神話のはじまりであった。  ともあれ、二二九一年は希望と混乱の年であった。     * 「コースヲ指示セヨ、コースヲ指示セヨ、コチラ調査船『ギャラクシイN』コースヲ指示セヨ……」  高度百三十キロ。暗黒の空にかがやく星々を背に、遠来の調査船は白光を曳きながら衛星軌道を突進した。  惑星『スーラ四』は幻のように弦月の肌をくっきりと浮かびあがらせていた。そこには今はすむものもいない往古の植民都市バルガ・シティと、それを守る残留基地とが『ギャラクシイN』の到来を待っているはずであった。事実、調査船の接近を知った残留基地は、喜びにあふれるように強力な誘導電波を送ってきた。それをたぐって、『ギャラクシイN』は一本の光の矢となって、荒涼たる不毛の空間をはるかにわたってきたのだった。  しかし、どうしたことか、『ギャラクシイN』が『スーラ四』の引力圏に入ってまもなく、その誘導電波はまったく突然、ふっと絶えたきり完全に沈黙してしまった。 「応答セヨ、応答セヨ、コチラ『ギャラクシイN』……」  よびかけもむなしく、いつまで待ってもそこからの答えはなかった。 「船長《キヤツプ》、おかしいですね。連絡がふっつり絶えてしまうなんて」  航宙士のセキが低い声で言って、船長のリ・ケイの顔に視線を走らせた。ケイ船長は慎重な目つきでちょっと考えていたが、 「よし、このまま降下しよう。コースをえらびたまえ」  セキは黙ってうなずいた。レーダー同調航路選択装置《フル・シンクロ・コーサー》がはたらき出し、『ギャラクシイN』はごうごうとブレーキ・ロケットを噴きながら、ゆっくりと沈みこんでいった。  銀白色から黄白色に、そして灰白色へと光輝をうしないつつ、夕暮れの地表がしだいにせりあがってきた。やがておびただしい条痕をまとった大地が、急流のように眼下を流れた。  はげしい接地のショックが去って、乗員たちがその重力座席から身を起こしたときには、早くもレーダーはおりたたまれた触手をのばして、地平線のかなたをまさぐり、テレビ・カメラは鎌首をもたげて四方をうかがい、そしてバクテリア探知器が貪欲に地上をかぎまわった。 「OK、OK、OK」  安全を告げるサインは輝いた。 「なるほど、なんにもいねえ」  スクリーンをのぞきこんでいた通信士のエマーソンが、しぶい顔をして席を立った。皆はかわるがわるのぞきこんだ。  そこには、見わたすかぎり動くものの影とてない、荒涼たる平原があった。薄暮は間近く迫り、濃紺の空にはばらまいたような星がさびしく光っていた。どこにも都市らしいものも、基地らしいものの姿もなく、エンジンをとめた船内の静寂は、そのままこの世界の静寂につながっていた。 「集まれ!」  十二人の乗員はケイ船長を半円形にとりかこんだ。 「残留基地より南へ七十キロの地点に、バルガ・シティがある。これは、荒廃の程度によっては目標になるかもしれないが、期待はできない。偵察ロケットを飛ばして周囲の状況をたしかめると同時に、残留基地との連絡をはかろう。連絡がとれなくても、調査は明日の夜明けを待とう。エマーソンは再建委員会あての電文を用意してくれ。それでは予定のとおり行動にうつってくれ。解散」  ケイ船長のきびきびした声が終わるや、皆はたちまち、コマネズミのように動きだした。  船体の一部からリフト・チューブがのび地表にとどいた。操機長のシュミットを先頭に、皆は地表に降り立った。  黄褐色の重い砂は、潮のひいた砂浜のようにキシキシと鳴った。  そそり立つ船体の上部から、白煙とともに偵察ロケットが飛びだしキラリと光って夕暮れの南の空へ小さくなっていった。  ケイ船長はヘルメットを背にはねあげ、鋭い目を細めて四方を見わたした。 「あのへんに投光器を置こう。それから貨物をそこに。キャンプはあそこがいい」  三脚柱が組み立てられ、巨大な投光器が設置された。キャンプでの動力源である携帯用原子力発電機が活動をはじめた。残留基地むけの貨物が整理されて山積みされる。おりたたみパネルの居住施設を中心としたキャンプは、みるみるうちにできあがっていった。  すべての準備がととのった時には、夜はふかぶかと、そそり立つ『ギャラクシイN』とその脚下のキャンプとを包んでいた。  風はあるかないかほどかすかにたえず西から吹いていた。  ケイ船長は十二名のクルーを二つに分けて、一つはシュミットを長にしてキャンプにとどめ、一つは自分が直接に指揮して船内に入った。  船内では、セキが偵察ロケットから送られてくる映像を一心にのぞきこんでいた。  セキは入ってきたケイ船長に顔をあげて言った。 「本船の西南西微西五度、九十キロの地点に都市らしきものの廃墟があります。大きさからみてバルガ・シティらしい。しかしその周辺をさがしても残留基地らしいものは見あたりません。それから本船の東北百三十キロのところに、建造物らしいものがあります」 「建造物?」 「偵察ロケットをもどしてみましょう」  セキは制禦板《コントローラー》のダイヤルを回して言った。  スクリーンには暗黒の大地がひろがっていた。その果ては幾千の星くずと一線を画して接し、なだらかに傾斜していた。そのまま右へ流れてゆく。 「ほら、あそこに灯が見えるでしょう」  後ろからのぞきこんでいるケイ船長にセキが身をねじるようにして指し示した。そこには暗闇の中に幾つかの小さな灯がまたたいていた。オレンジ色のその灯は、切れた首飾りのように断続して、ほぼ円形につらなっていた。 「なんだろう?」 「赤外線スコープで見るとあの周囲に何かヤグラのようなものが見えるのです」  スイッチを入れると暗い画面が、ふいに深海の底のような色調で浮かびあがった。そこにはあきらかに、そびえる幾つかの鉄柱とわくのようなものが認められた。 「残留基地とはだいぶ位置が違うし、灯のついているところをみると、放棄されたものではないようだ。新しく設けられた基地なのだろうか。しかし、基地だとすれば偵察ロケットの音は聞こえているだろうから、何か反応はありそうなものだが」 「合図らしいものもありません」 「本格的な調査は明日にしよう。一応警戒だけは厳重にしておこう。残留基地といっても百五十年からたっているのだ。何が出てくるかわからないからな。あとの警戒は電子頭脳にまかせて、君も休息したまえ」 「それでは偵察ロケットをもどします」  セキはなれた手つきでダイヤルを回していった。  たとえ危険を感じても、あらかじめそれを回避するなり、対処する手段を用意するなりということがいかになされ難いことか、もしこの時、胸に湧いた疑惑を深く追及していたならば、とセキはのちになって幾度かはげしくほぞをかむのだった。  調査船もキャンプも深い眠りにおちていった。どれくらい眠ったろうか。 「起きろ!」  肩のあたりをはげしくゆすぶられてセキはどかんと現実によびもどされた。さめきらないもうろうとした目の前に、ケイ船長の緊張にひきしまった顔があった。 「警報が鳴っている。何かが近づいて来る」  セキはベッドからとびおりると、脱ぎすてておいた上衣をひっつかんで、ケイ船長とともに、レーダーのスクリーンをのぞきこんだ。  青緑色の輝線があわただしくおどって、スクリーンの端に消えてゆくと、あとに近づいてくる何ものかの映像を描いていた。 「何だろう? これは」 「残留基地の者が我々の着陸場所を知って、連絡にやって来たのかもしれないな」  インターフォンから、第一観測士の若いキムの嬉しげな声が響いてきた。キャンプに居る者たちも同じようにどよめいた。 「まて! みんな。残留基地からの連絡にしては少し妙だ。もうすこし様子を見よう。とりあえず非常配置についてくれ。船長《キヤツプ》、目標はわれわれをとりかこむようにそろそろと近づいてくる。まるで獲物をねらってでもいるようだ」  セキの声が皆の心を凍らせた。 「見ろ!」  たしかにそのものは獲物をねらう山イヌのように、遠く囲んだ円陣をじりじりとしぼってきつつあった。それは長いこと待ちに待った獲物を前にして、酷烈な悪意の生み出した正確無比な檻穽《かんせい》であった。 「現在位置、本船より十三キロ。ゆっくりとむかって来る。八キロに接近したら投光器で照射して、テレビカメラで見よう」  セキはスクリーンから目をはなさずにケイ船長をうながした。 「よし、セキ、そうしよう。ヘンダーソンは投光器へ指示しろ」  やがて不気味な静寂の中で、セキの声がはしった。 「隊長《キヤツプ》! 目標の距離、八キロ」 「ヘンダーソン、投光器をつけろ!」  二百万燭光の目もくらむ光芒が、果てしない夜の平原を射し貫いた。  わずかに起伏を見せる地表の影から影へ、ウサギのようにかくれ走って接近してくる幾つかの小さな姿があった。 「おう、あれだ」 「どこだ」 「どこにいる?」  強烈な光の束のかげに入って、その奥はしかと見さだめがたい。皆がひとみをこらすうちに、突然、くらいオレンジ色の火の玉が、はるかかなたの闇のなかにぽっかりと浮いた。それは急速に弧を描いて近づいてくると、投光器の鉄柱にぶつかって幾千の火花となって砕け散った。その火花のなかに投光器がゆっくりと傾いていった。一瞬、闇がすべてを包んだ。明るさになれた目はこのときまったく盲になった。  気がついた時は、地上に積み上げた貨物が燃えていた。居住施設が燃えていた。地上車が燃えていた。『ギャラクシイN』の周囲は一面に火の海だった。 「みんな出て戦え!」  ケイ船長の声が、嵐のような火災と破壊の音の中で、皆の耳をうった。  セキは非常用エア・ロックの扉を押し放って仁王立ちになり、熱線銃のひきがねをひきづめにひいた。どこをねらったらよいのか見当もつかなかったが、深青色の火矢で虚空をなぐと、そのあたりの大気がかすかに青く光った。誰かが何か叫び続けていたがよく聞きとれなかった。  いつか静寂がよみがえった。ずいぶん長い時間が経過したようだったが、ほんの一分たらずの間のことだったのかもしれない。セキは我にかえってかまえたままの熱線銃をおろした。  地上の施設や貨物はあらかた燃えつきて、曲がりくねったパネルや崩れた残骸がまだ立ちのぼる焔に照らし出されていた。「全員リフト下に集合」ケイ船長の声に、皆は急に生きかえったようにひたいの冷たい汗をぬぐった。  二人欠けていた。一人は整備士のヒル。一人は電測士のコバであった。  緊急用の照明灯の下で、警戒隊と整備隊が編成された。警戒隊は岩塩質の砂を踏んで進出し、『ギャラクシイN』を中心に、半径五百メートルの赤外線遮断装置によるピケット・ラインを設けた。整備隊は残骸のとりかたづけを開始した。焼け残った地上車が走りまわり、レッカーが動いてそりかえったパネルをひき起こした。その下から消火器を手にしたヒルの黒焦げの死体が発見された。しかしコバの死体はどこにもなかった。 「私が最後に彼の姿を見たのは熱線銃をかまえて突撃するところでした。目標も見えないのに接近しては危険だと思って、とめたのですが、聞こえないようでした」  隊員の一人が語る言葉に、皆はただ黙ってうなだれた。 「残留基地の人間がわれわれのおとずれをこばんで、襲ってきたのだろうか」 「しかし、あのコースの誘導電波を送ってきたことから考えれば、それほど悪意をもっていたと思えないが」 「われわれを途中で妨害することはできないから、到着を待って襲ってきたのではないだろうか」  さまざまな意見が出されたが、もとより誰も自分の意見に自信はなかった。  皆は砂をほってヒルを埋めた。もり上がった土まんじゅうの上に、彼が最後まで手にしていた消火器を置いたとき、皆の頬をはじめてとめどなく涙が流れた。  シュミットがひくく口笛を吹いた。�ロボット小父さんグローデル�それはもう二、三年ほど前に木星の基地などでだいぶ流行したメロディだった。ヒルは好んでそれを口にした。軽快なそのメロディはしかし哀しげに沈んで震えた。  長かった夜があけて、遠い青白い小さな太陽が平原によわよわしい光を投げかけてきた。その光は焼けただれ燃え崩れた惨憺たるキャンプの残骸を照らし、そしてその地上の惨状を踏まえて塔のようにそびえる『ギャラクシイN』の銀白の肌に映え、新しい墓標の影を長く曳いた。それは不思議に静かな夜明けだった。  ケイ船長はけわしい眉を寄せて皆をよび集めた。皆の背中の携帯無電の長いアンテナが、ゆらゆらと揺れた。船長が口を開こうとしたとき、レーダーの警報が、あわただしく鳴った。 「集合はあとまわし。ただちに配置についてくれ。いいか、どんなことがあっても危険は避けるように」  皆はバラバラと走った。  レーダーは、北の方から高速で接近してくる物体を追跡していた。やがてそれは地平線に姿をあらわした。それは猛烈な速力で砂漠をとばしてくる。舞いあがる砂煙が航跡のようにどこまでも続いていた。ときおり、キャノピーがキラリと光った。 「船長《キヤツプ》、地上車ですね。なんだろう。いったい?」 「ゆだんできないぞ。あやしげな行動をとるようならかまわん。攻撃だ」 「昨夜の結果を調査にきたのではないかな」  その地上車はいよいよ接近し、昨夜設けたピケット・ラインの付近まできてピタリと止まった。 「コチラ残留基地ノ連絡員ルーク。『ギャラクシイN』応答ヲコウ。コチラ残留基地ノ連絡員ルーク。『ギャラクシイN』応答ヲコウ」  無電があわただしく叫びはじめた。「なにが応答をこうだ。ふざけやがって。もうちょっとこっちへ寄ってみろ。消しとばしてやるぞ」  シュミットが腰のベルトから熱線銃をひきぬいた。 「くそう! 生かしちゃ帰さねえぞ」  ヘンダーソンが落ちていた金属のパイプをひろって握りしめながら、つばを吐いた。  ケイ船長が、殺気立った皆を制して、送話器をとりあげた。 「こちら調査船『ギャラクシイN』船長リ・ケイ。本船は昨夜、正体不明の敵の襲撃を受け、地上施設に若干の被害を生じた。貴下はこれについて説明し得るか」  ただちに返事がもどってきた。 「ソノ事件ニ関シ、重要ナ報告ガアリマス。ワガ残留基地デモ現在、同様ナ危険ニサラサレテイマス。基地ハ既ニ遠距離通信能力ヲ失イ、直接、貴下ト連絡ヲトルコトガ不可能ニナッテイマス」 「なぜだ」 「詳細ハノチニ話シマスガ、残留基地カラ離脱シタ一部ノ保安要員ノ反乱デス」 「保安要員が何で反乱をおこしたのだ」 「彼ラハ第三度サイボーグナノデス」 「第三度サイボーグ?」 「コンナ言葉ハ、ハジメテオ聞キニナルコトト思イマスガ、『スーラ四』デハコレマデ、保安要員ヲ三ツノクラスニ分ケテキタノデス。ツマリ第一度グループハ両手、両足、耳、一部ノ皮フナドヲ人工器官ニ改修シタモノデ、モットモ軽度ノサイボーグ化グループデス。第二度グループハ内臓器官系ヲ交換シタ者タチデス。ソシテ第三度グループハモットモ高度ニサイボーグ化シタモノデ、脳、脊髄、ナドノ神経系ヲ人工ノモノニトリカエテイマス。  保安要員ハ、今デハコノ三ツノグループノドレカニ属シテイルノデス。ナニシロ百五十年モノ間、ワレワレニハ人員ノ補充モ交代モ全クナカッタノデス」 「そうした大規模な人体改造手術は、いつ頃からおこなわれたのかね」 「五十年ホド前デス。ソノ頃、基地全体ノ精神的、肉体的ノ老化ガ極限ニ達シタノデス」 「反乱について説明しろ」 「最初ノ摩擦ハ第一度ノグループト第三度ノグループノ間ニ生ジマシタ。第一度ノ者ハ、改造後モ外観ハホトンド変化シマセン。コレニ対シ第三度デハ当人ノ原形ヲ全クトドメテイマセン。トクニ大脳ヲ人工脳ニ交換シタ者デハ、充分ナ事前調整ニモカカワラズ、ソノ肉体的記憶ノ上デ多クノ混乱ガアリ、基地内デノ他ノグループトノ共同生活ニサエ、支障ヲキタスホドデシタ。トコロガコノ第三度グループノホウガ作業能力ハハルカニ高イノデス。コウシタ第一度ノ人間的ナ面、第三度ノ持ツ高度ナ作業能力、コレガヤガテ同ジ作業班ニアッテハコトゴトニ拮抗《きつこう》シ合ウコトニナッタノデス」 「そして仲間われか」 「第二度グループハ長ク中立ヲ守ッテイマシタガ、コレモヤガテ程度ノ軽重ニヨッテ第一度ノ側ニツクモノト、第三度ノ側ニツクモノニ分裂シマシタ。コウシテ基地ハ完全ニ二分シタノデス」 「それと昨夜の事件との結びつきは」 「第三度グループノ襲撃ダッタノデス」 「なぜ本船が彼らにねらわれるんだ」 「彼ラハ、アナタ方ノ目ヤ内臓ヤ大脳ガホシイノデス」  シュミットが悲鳴をあげた。 「おいおい、おれたちは部品屋じゃないんだぜ。お前らを救援に来たんじゃないか」 「よしっ、赤外線遮断装置をストップしろ。そしてあの地上車を誘導しろ」  ケイ船長の声にばらばらと三、四人がとび出していった。  地上車は滑るように入ってきた。エア・クッションがとまって車体が砂の上にめりこむように安着すると、上部のキャノピーがはねあがって一人の男が降りてきた。 「ルークです。ケイ船長はどちらですか」  緑色の制服らしいものを着こんだその男は忙しそうに船長をたずねた。 「わたしがリ・ケイだが」 「あ、ケイ船長ですか。わたくしは残留基地から派遣されました連絡員ルークです」 「ごくろう。説明を聞いてここの状況に全く驚いているのだが、基地ではこれに対して何か対策をたててはいるのだろうが、指導者は誰かね?」 「サイゴット博士です。最初から第一度グループの指導者だったのですが、いまでは基地全体の司令をつとめておられます」 「第三度グループはどこにいるのかね」 「バルガ・シティの西北百キロの地点に地下基地を設けています」 「彼らにも連絡をつけたいものだが」  ルークはしばらく考えてから、口ごもるように、 「おそらく不可能と思いますが。われわれもこれまで、何度もこころみては失敗しているのです」 「しかし、百五十年ぶりに地球から来た人間の呼びかけだ。聞いてくれるだろう」  ルークの顔に烈しいいきどおりの色がはしった。 「彼らは、今では人類や地球などになんの関心も持っていないのです。彼らは完全にこの『スーラ四』の自然に合わせて自己を改造したのです。彼らの住む所はこの『スーラ四』以外にありません。彼らは今では完全にこの惑星の生物になってしまいました。還るべき故郷の星など今はないのです」 「地球政府へは連絡したのか」 「しました。最初の事件が発生したときの報告は届いたかどうか不明ですが、その後も幾度か第九人工惑星のエズラ基地経由で打電しています」 「エズラ基地が? 委員会ではわれわれの出発にあたっても何も言っていなかった。それではその報告のどれもが、地球政府まで届いていないんだな。こう宇宙の開発地域がひろがってしまうと、辺境からの通信が中央まで伝達されるためには厖大な機構が必要になってくる。そのためかえって麻痺してしまったり、重要な通信を見落としてしまったりするのだ」  ケイ船長の胸に、この時さらに遠隔の地に残されている幾つかの残留基地の名が、電光のように明滅して通り過ぎた。  セキがたずねた。 「残留要員には女もいたはずだな」 「今は一人もいない。子供も」  シュミットが肩をすくめた。 「やれやれ、はるばる来てみりゃロボットまがいの化け物とチャンバラかい。どうもおれはそんな気がしたぜ」 「シュミット!」  セキは目で制した。シュミットはあわてて口を閉じた。 「シュミット。地上車を用意しろ」  ケイ船長がきびしい口調で言った。  ケイ船長はセキをルークから離れたところにさそって、ささやいた。 「彼の言うことを百パーセント信用するわけではないが、だいたい真相とみていいんじゃないかと思う。おれは半数を連れて基地へ行ってみよう。半分はエマーソンに指揮をとらせてここへ残そう。お前はおれといっしょに来い」  セキはうなずいてエマーソンをよんだ。  ただちに勤務表が作成された。 「セキ、シュミット、カムデン、マーカム、ヘンダーソンの五人はおれといっしょに基地へ行く。トベラ、サカイ、ベナベナ、キムはエマーソンの指揮で本船にのこれ。出発は十分後」  地球から持ってきた基地むけの貨物が燃えてしまった今では、基地へ行く準備も簡単だ。  居残る者の顔に浮かぶかすかな不安の色を見て、ケイ船長はくりかえし万全の注意をうながした。  ルークの地上車に、シュミットの操縦する地上車がつづいた。砂煙を曳いて去ってゆく二台の地上車を見送って、残された五人は『ギャラクシイN』の下に立って、いつまでも手をふり続けた。その姿はいかにもたよりなげに砂の海のむこうに見えていた。  サイゴット博士は、銀髪長身のいかにも科学者らしい中年の男だった。放射能灼けのどす黒い削いだようなほおに、人を射すくめるようにけいけいと光る目が、多年隔絶された辺境に生きる者だけが持つ、孤独で強固な意志を示していた。博士はケイ船長に手をさしのべた。 「われわれはあなたがたのご到着を、日夜待ちこがれておりました」  博士の手は氷のように冷たく硬かった。ケイ船長は一瞬、身内をはしる不快さをいささかも顔に出すまいとして闘った。メラニタイド・シリコン製の皮ふの感触は、船長にとって決してはじめてのものではないのだが、そのつど覚える不快さは、決して馴れや思いやりなどでおさえ得るものではなかった。船長は思わず早口になった。 「さっき詳細な説明を聞いて実に驚きました。高度にサイボーグ化した者の、地球人に対する敵愾心《てきがいしん》と非協力に対しては、われわれもおおいに考え善処してゆかねばならぬでしょう。博士のこんごのご指導を、よろしくお願いします」  皆は博士を囲んで席についた。間接照明がソフトな影を落としていた。 「博士、まずおたずねしたいが、第三度グループの連中は、自分たちを人類以外の別な種族として考えているのですか」 「いや、自分たちは人類である、という確信を抱いている。いかに内部組織が非生物的な機構に交換されても、大脳が残っている限り、たとえそれが電子頭脳によって一部補助を受けるような部分脳であってものこされた自由意志に基づく人格は、『地球法基本のB三号』によって擁護されねばなりません」 「大脳の入れ換えをおこなった場合はどうなるのです?」 「新しい人格が形成されたわけです。移し変えられる大脳の全般的思考体系域に関係のうすい私的記憶は、記憶消去によって抹殺してしまい、新しい人格に必要なものだけが移されてゆくわけです。それには厳重な管理が必要ですね。そうでないと、深刻な不幸が生じます」 「すると二人の人間が死んで一人の人間が生まれてくるわけですね」 「時には一人の人間から二人も三人も作り出すことができるのですよ」  カムデンが横から口をはさんだ。 「おれがお前でお前がおれか、おれがお前でないとすりゃお前はおれでないわけか。こりゃいよいよごめんこうむりたいね。船長《キヤツプ》」 「静かにしろ、カム。それで博士、第三度グループはすでにそうなっているわけですね」 「ん、まあそうです」 「彼らがわれわれの肉体を非常に欲しがっているということでしたが、それなら地球から、今のものよりもっと高性能な人工細胞や器官をとりよせたらよいでしょう」 「この星の人類はもはやこの星でしか生きる能力がないのだ、ということをよく理解してください。すべての代謝系はもちろんのこと、思考体系にいたるまで非常に特殊化しています。船長、地球人は彼らを指して畸形《きけい》だ化け物だというに違いありませんよ。地球古代史に現れるあの奇妙な種族差別という感情をごらんなさい。そうでなくてさえ、特殊型は一般型によって圧迫されるのです」 「地球はあなたがたの偉大な功績をけっして忘れないでしょう」 「船長。だからといって第三度グループの連中を、地球社会の中へ放してやれるものだろうか。第三度グループにこれからできることはただ一つ、地球社会との完全な絶縁しかないのです」  この偉大な指導者の胸にどんな感慨が流れたものか、このとき博士の顔は暗くゆがんだ。 「基地司令。用意ができました」  作業員の一人が入って来て博士に告げた。 「それでは具体的方策はまたのちほどご相談するとして、皆さんの宿舎の準備が整ったようですから、ひとまずそちらでお休みください。食事を運ばせます」  皆は解放された思いで、博士に礼をのべると立ち上がった。  宿舎は基地の一角に設けられたドームの一つがあてられていた。ベッドルームをはじめシャワー室、トイレ、食堂などが完備していた。 「君、すまないが食事を早く頼む。実は今朝からまだ何も食っていないんだ」  室内を整理していた作業員にマーカムが声をかけた。  作業員は急いで出ていった。  それきりいつまでたっても、食事は運ばれてこなかった。  待ちに待った食事が運ばれてきたのは、それから二時間もたってからだった。小型の運搬車から運びおろされるたくさんの皿やカップに、シュミットもマーカムも喚声をあげた。  テーブルに着いて最初の食物を口に入れたとき、皆の顔に奇妙な色がはしった。  セキは一度、口に入れた食物を掌に吐き出して眉をひそめた。 「なんだ、これは?」  それはゼリーのようにプルプルしたもので、合成蛋白質を油性香料で加工したものと思われたが、口に入れるとなんとも形容のできない味がした。かみしめるとさくさくと歯あたりのよい感じだったが実際にはちっともかみ切れていなかった。 「うへえ、これなら石油を飲んだほうがまだましだ!」  マーカムは、口にふくんだスープをくわっと床に吐き出した。  皆は皿の上に盛られた食物のひとつひとつを検討してみたが、美味といえるものは何一つなかった。美味だけでなく、これはすべて食物としての本質的な何かに欠けていた。それはすべて、原料の一次的加工物としかいえないようなしろものだった。 「船長《キヤツプ》、これは彼らの冗談なのでしょうか。それともこの基地ではこんなものを食っているのでしょうか?」 「よし、おれがかけ合ってこよう」  シュミットは憤然と席を立っていった。その遠ざかる足音を聞きながら、ケイ船長は黙念と腕を組んでいた。 「船長。彼らは食物というものを知らないんじゃありませんか」  ヘンダーソンがぽつりと言った。皆はぎょっとして彼の顔を見つめた。 「今おれもそれを考えていたところなんだ。これはたしかに合成蛋白質や合成脂肪を原料にはしているようだ。だが味や硬さや軟らかさがまるでめちゃめちゃだ。つまり食物としての形態になっていない。あわてて食物というものを調べて作った試作品という感じだな」  皆は石のように沈黙して、テーブルのうえの食物を見つめた。  ——この基地の者たちは食物はとらないのか?  ——なぜ?  ——とるとすればどんな形で?  セキはおそろしい疑惑に息をのんだ。  ——この星の人類は、もはやこの星でしか生きる能力がないのです。すべての代謝系は非常に特殊化し……  サイゴット博士の言葉が遠く耳の奥で繰り返されていた。  突然、荒々しくドアが開いて、数名の作業員がとびこんできた。手にした熱線銃が青黒く光った。皆は声にならない声をあげて総立ちになった。 「皆さん。お食事中をたいへん失礼ですが、急いで待避していただきます。第三度グループが総攻撃をおこなってきました。彼らの目標はあなたがたの奪回です。ここは危険ですから安全な所へご案内いたします。さあ」  うながす声のあいまに、遠くのほうでもののはぜる音やけたたましい爆発音が、高く低く聞こえてきた。船長とセキはちら、と目を見交した。言葉を交すひまもなかった。作業員につられるように六人は、一団になって小走りに外へ出た。基地内の数ヶ所から高く火の手があがっていた。焔に照らし出されて基地のさまざまな施設が、不思議な幾何模様のように影絵となって浮かび上がって見えた。周囲にはあらゆる物音がしていた。その一角に、地面に水平にきらめいて乱れる青い火の帯があった。熱線の描く輝跡であった。皆はそれを避けて懸命に走った。 「ここから地下室へ入ります。注意して私につづいてください」  作業員の一人が叫んだ。地下室への入り口はゆるやかなエスカレーターになっていた。セキはいつのまにか最後尾になり一人の作業員ともつれ合うように入り口に足を踏みこんだ時、目もくらむ閃光と横なぐりの爆風にたたきつけられた。  急速に気の遠くなってゆくセキの上に、ドサリと重いものが落下してきた。セキはそのショックににわかに我をとりもどした。地を這う火焔の中に、入り乱れる人影があった。灯の消えて暗黒のほら穴のような地下室への入り口におどりこもうとして、セキはかたわらにうち倒れている作業員を見た。 「おい! しっかりしろ」  セキは彼の足をつかんで入り口にひきずりこんだ。何かが飛んできて天井に烈しい音をたてた。さらにひきずると、その作業員の体はなんの抵抗もなしにごろりとあおむけになった。その胸はひらたくつぶれていた。 「あ、やられたか」  セキは作業員の死体はそのままにして地下室へもぐりこもうとした。  火焔がふたたび高くあがった。その火光の中で、セキは作業員の死体にものすごい目を向けた。胸はつぶれて裂けていた。セキは腰のベルトからナイフをぬき出すとその傷口に突っこんだ。力いっぱい上にはねあげた。ビュッと肉の切れる音がして胴体が裂けた。セキはナイフを離すと、両手で切り口を押し開いた。人工筋肉の層の下にハイ・シリコンや軽金属のパイプがもつれ、精巧な人工心肺がまだ微弱な活動を続けていた。セキのナイフはさらに目まぐるしくおどって、死体の頭皮をはいでいった。軽金属パネルの頭骨が現れ、それをたたき破ると薄い被膜に包まれた超小型の電子頭脳が露出した。そしてそれと直結したシリコン容器の中に、コンパクトに整形された大脳が入っていた。  セキの顔は蒼白だった。ルークやサイゴット博士の言葉では、この基地の人々は、すべて第一度の軽度サイボーグであり、手や足のような部分だけが人工のものに代えられているだけのはずであった。それ故にこそ、非人間化の進んだ第三度グループとは、互いに宿命的ともいうべき相容れない摩擦を生じたのではないか。  だがこの死体は!  この基地の者たちも、第三度サイボーグなのか? そしてやはり地球からやってきた新鮮な内臓器官を手に入れたいのだろうか? 今襲って来ているあれらは、いったい何ものなのか?  セキはその灰白色の柔らかい物体と電子頭脳とを踏みにじった。金属の破片はねばねばした大脳の細片の汚ない白色にまみれて、もはや何物とも見わけがつかなかった。  すでに地下室へ入ってしまった仲間たちの安否が、突然、セキの胸を烈しい不安と焦燥におとしこんだ。  暗闇の中のエスカレーターの速さに足もとが乱れて、セキは宙に浮いて転倒した。 「待て、船長《キヤツプ》。行くな。船長《キヤツプ》、船長《キヤツプ》、船長《キヤツプ》!」  セキは気を失った。     *  セキは声をあわせて歌った。�ロボット小父さんグローデル�よし、もう一回だ。どうした、もうやめてしまうのか。おれも歌うぞ。口を動かしてセキは突然現実にひきもどされた。スポットライトが水底のような沈静した青で、部屋の内部を照らし出していた。半身を起こすと、とたんに鈍い痛みが全身にはしった。それとともに、あらゆる記憶が一度にどっともどってきた。 「——船長はどうしたろう。ヘンダーソンは、そうだ、『ギャラクシイN』は?」  ベッドからすべりおりたとき、セキは思わず子供のように声をあげた。また�ロボット小父さんグローデル�の歌声が耳にとびこんできたのだ。 「シュミットだ。シュミットもここにいるのだ」  歌声はドアの外をゆっくりと動いていった。セキは走ってドアを引きあけた。 「シュミット! おれだ」  ひょろりと高い後ろ姿がのろのろとふりかえった。頭と首にスポンジを厚くまいている。 「あ、シュミットじゃない。失礼した。そうだ、君、シュミットやケイ船長に会いたいのだが、どこにいるか教えてくれませんか」  男はうつろなまなざしをセキの顔にあてた。血の気のない顔の筋肉がかすかに動いた。 「……ゼギガ、ゼギガ、ゴンナドゴロデナニヲジデイダンダ。ゼギ……ゼギ……」  男はふらりとセキに近づいた。両の腕が力なくさしのべられた。 「誰だ、お前は! そんなことより言え、船長《キヤツプ》はどこにいるんだ」 「ゼギ、オレダ、オレダヨ、ゼギ、……班長、高液圧整流機が回転数の……ゼギ……回転数の、ゼギ……回転数の、回転数の、回転ズウノ……」  男は必死になって口を動かした。その言葉はみるみる狂人のように混乱した。二種類の声音と口調が入り混じって語尾はうわ言のようにもつれかすれた。 「はっきり言え!」  セキはとっていたえりを離すや、男の頬に烈しい平手打ちをくわせた。さえた音が静かな回廊にこだまして、男は床にたたきつけられた。  そのとき、後ろからどやどやと人が近づいてきた。 「ああ、こんな所にいた」 「すみません。なにかしでかしましたか」  かけつけてきた人々は、セキと男の間に割って入った。彼らは倒れている男をかかえあげると、引きずるようにもと来たほうへいそいで立ち去った。 「……ゼギ……ゼギ……ドゴヘイッダ……」  引きずられてゆく男のつぶやきが、セキの耳に熱鉄のように熱く残った。  セキは病室へ連れもどされた。男は精神異常者だということであった。  ドアがしまって室内に再び深い静寂がもどってきた。白一色の室内にエア・コンディショナーのかすかな響きだけが聞こえていた。  セキの胸は嵐のように騒いだ。  あの精神異常者だという作業員が示した、口調の突然の混乱と、なにごとかうったえるような悲痛なそぶり、口ずさんでいたあの歌、そして高液圧整流機の回転数がどうしたとかいう、これだけははっきりした言葉。これらはすべて、二つの異質なものの雑然たる混合ではなかったか。彼の頭脳にはあの時、二つの世界が渦巻いていたのだ。一つは『ギャラクシイN』で代表される世界であり、一つは『スーラ四』で代表される世界なのだ。この二つの混合を盛ったあの男は、それでは誰なのか!  セキは立ちあがって廊下へ出た。人影もない廊下が、はるかむこうまでまっすぐに続いていた。その両側には頑丈なスチールのドアがならんでいた。セキははやる胸をおさえて耳をすまし、ゆっくりと歩いた。探し求める歌声はもはやどこからも聞こえてこなかった。頭は割れるように痛かった。なにから先に考えたらよいのか見当もつかなかった。混濁した頭の中で、なにごとか予測しがたい不気味なものが迫りつつあることだけを感じていた。  セキは無人の廊下を進んで広いホールヘ出た。そこには作業員が忙しげにゆききしていた。  ——先ず、サイゴット博士に会おう。それにしてもこの基地へ来てからいったい何日になるのだろう——  セキはむこうからやってくる作業員にたずねようとして、近づいていった。 「おい、君。サイゴット博士の部屋は……」  突然、セキの腕が横あいからグイと引かれ、セキはそのまま強い力で左へ押さえられていった。セキの呼び止めた作業員は、立ち止まったままぼんやりと見送っていた。  セキの横にならんだ男は口早にささやいた。 「おちついて聞いてください。この基地は第三度サイボーグのものなのです。サイゴット博士も人工脳髄の持ち主です。彼らは実に巧妙にあなたがたを手にいれたのです」  セキは顔中が口になるのを感じた。 「誰だ! お前は」  とびのいて身がまえた。 「声を出さないでください。さりげなく歩くのです。ここで気づかれたらおしまいだ。あなたは彼らに厳重に監視されているのです。私はこれまで何度かあなたに近づこうとしては成功しなかったのです」 「お前は誰だ」 「新基地の秘密工作員コンウェイです。『ギャラクシイN』がこの基地に収容されたのを知って指導部がわたくしたち秘密工作員を潜入させたのです」 「しらなかった。まったくしらなかった」  セキはうめいた。支えられてよろめきながら歩いた。 「船長《キヤツプ》はどうしたろう。ヘンダーソンは」 「ヘンダーソンはすでにわれわれの手に収容しました」 「そうか! ヘンダーソンが。それはよかった。船長《キヤツプ》やシュミットは?」 「セキ、それはあとにしましょう」 「おい、コンウェイ、このことについて何か重要な手がかりを持つらしい作業員に会った。精神異常者だということだったが。何かある。おれはもどる」 「セキ、それはすでにわれわれの手で調査しました」 「調査した? で、その結果は、おい、結果はどうだったんだ」 「まっすぐ向いて歩いてください。まわりで見ています。セキ、あの患者は、あれは実はシュミットの脳の一部を移植した者だったのです」 「脳を? シュミットの脳をか!」  セキはコンウェイに導かれるままに、夢遊病者のような足どりで進んだ。 「他のかたがたにはたいへんお気の毒なことをしました。わたしたちもなんとかして、あなたがたと連絡をつけたいと思って努力したのだが、そのつど不成功でした」  ヴァン司令はふかぶかと頭を垂れた。司令のもの静かなもの腰と、深い慈愛にみちたまなざしとは、ようやくセキに人間らしい落ち着きと思慮をとりもどさせた。  司令の説明によると、第三度グループとの爆発的衝突を恐れた第一グループは、彼の指揮のもとに残留基地の西に、あらたに地下施設を建設して、移ってきたとのことであった。  セキが砂漠の夜に見た光芒は、この基地のものであった。『ギャラクシイN』の来航を知ってからは、両者の争いは頂点に達し、とくにサイゴット博士の指導する第三度グループは、熱狂的に活動を開始したという。そしてこの基地の第一度グループを制してすでに幾人かの調査隊員の肉体を手に入れるのに成功したのだった。  セキはあの地下室入り口で解体した作業員について語り、未完成の食物について説明した。食物の話を聞くと、ヴァン司令の顔は緊張し身をのり出して耳を傾けた。  この基地内ではゆきかう作業員の姿やにぎやかな談笑などのいっさいが、すべて人間世界のものであった。個々の感情や個性のかもし出す、ある雑然たる無統制がここにはあった。セキはこれこそ人間のものなのだと思った。いかに精巧に改造しても生身の人間——たとえ手足が人工のものであったとしても、大脳までサイボーグ化した者との間では、あるはっきりした違いがあらわれるはずであった。  それを見定めることができないほど、すでに人間世界から隔絶されてしまったのか。セキはこのとき、ひさしく忘れていた地球の生活を、たまらなく懐しく思い出した。荒涼たる世界にあって想うとき、それは果てしない夢のようにセキの胸を熱くゆり動かした。  念いりに調理されたらしい食事はたまらなく美味だった。  セキは与えられた個室のベッドに横たわってどろのように眠った。  全身に響きわたる警急ブザーに、セキははね起きた。反射的に衣服をまとってドアを開いた。  五、六人の作業員が廊下を走ってきて、ドアの前に立った。 「室内に入っていてください。第三度グループの工作員が、潜入したもようです。あなたを奪いかえそうとしているのです」  セキは室内に押しもどされた。基地内は騒然として人々のかけ回る足音があわただしく聞こえていた。どこかでしきりにホイッスルが鳴っていた。状況はかいもくわからなかった。  突然、廊下の一方に短い怒声がはしり、もののぶつかり合う音が二、三度ひくく響いた。足音が乱れた。  セキは室外の音に耳をこらした。物音は今やあたりいったいからわき起こっていた。 「来るか! この部屋へ」  セキの身内に猛然と闘志がわいた。軽金属製の椅子を右手にかまえて、ドアのかたわらに身を寄せた。  もう一度、叫声がはしってドアの外は急に静かになった。セキは身をかがめて突入してくるかもしれぬ敵に備えた。  ドアが蹴破られるように開いて一人の作業員がころがりこんできた。足を踏みしめきれずにそのまま床にのめった。作業員の制服がずたずたに裂け、あふれる血でぐっしょりと濡れていた。  男の顔をのぞきこんだセキは棒立ちになった。 「船長《キヤツプ》じゃないか! どうしたんだ。その傷は」  セキはとりすがって必死に叫んだ。ケイ船長は鉛色の顔をようやくもたげてあえいだ。 「セキ、ようやく会えたな。この基地は、この基地はサイボーグのものだ。それも第三度サイボーグのな」 「船長《キヤツプ》! おれにはわからん、教えてくれ」  セキの声は悲鳴に近かった。 「セキ、この惑星にはおれ達の体をほしい奴らしかいないのだ。『ギャラクシイN』の連中も、シュミットも、ヘンダーソンも、みんな奴らの体を改造するために使われた。セキ、ここには反目し合う二つのサイボーグ群しかないのだ。生きた新鮮な器官や筋肉や脳という貴重な材料を手に入れるために、彼らの争いは頂点に達したのだ」 「船長《キヤツプ》、しっかりしろ、さあおれにつかまれ」 「セキ、お前だけはなんとかしてここから脱出しろ。そして地球からの救援を待て」 「なに言う。船長《キヤツプ》、おれにつかまれ。いっしょに行くんだ」  そのとき、壁のインターフォンが叫んだ。 「セキ、工作員の誘惑にのってはいけない。彼らにだまされるな。彼らの能力は優秀だ。彼らは君の感情を巧妙に利用しようとしている。工作員がケイ船長をよそおうのがまさしくそれだ。ケイ船長はすでに彼らの手によって解体されてしまった。セキ、注意せよ」  セキは思わずケイ船長の体から手を離した。烈しい惑乱がセキの体をわなわなとふるわせた。  インターフォンの声はまだ続いていた。 「セキ、君を砂漠に連れ出そうとする工作員の言葉に従ってはならない。これはおとし穴だ。われわれは君を肉体改造のための部分品にしてしまいたくない。理性をたもて、セキ」  ケイ船長はもはや死の迫った顔をセキに向け、うつろな視線でセキを探し求め、何か言いたそうに口を動かしてそのまま床に崩れおちた。その断末魔の唇がこの世のものとも思われず悲痛にゆがんだ。  近づいてくる足音が、廊下にいり乱れて聞こえていた。  戦場二二四一年  通信機のパイロット・ランプにオレンジ色の灯がともり、壁の高声器に水のさやぐような音が入りだした。彼は体をねじって耳を傾け、そこから流れ出る声を待った。 「こちら司令部。敵は第八十九戦区を北上。パンバハ鹹湖《かんこ》西方より第九十戦区に近接中。第九十戦区トーチカはこれと接触しだい、ただちに攻撃せよ。こちら司令部。敵は第八十九戦区を北上——」  あわただしくくりかえす声を聞き流して、彼は一方の手ですべてのルーム・ライトのスイッチを切り、同時に一方でテレビスクリーンのスイッチを入れた。  いよいよやってきたのだ。敵は。  しかし彼は何の表情も動かさずにスクリーンを見つめた。  薄明の中で壁面に点滅する無数のパイロット・ランプが、にわかに満天の星のように輝きはじめた。スクリーンには金緑色の波紋が同心円を描いて湧き上がり、それが奥底にかぎりなく小さく消えてゆくと、そこからこのトーチカをとりまく平原が蜃気楼のように浮かび上がってきた。  わずかな起伏が波のようなうねりを見せてはるかにつらなり、団雲の影がその平原のところどころを暗く這っていた。貧しい針葉樹林が、細い一線を画してその丘陵のふちに伸びていた。北アジアの大平原であった。雲と大地とが一つにかすむあたりに、レナ河があるはずであったが、ここからは見えなかった。  彼はゆっくりとスクリーンの視野を回していった。  東の中空にふたすじの飛行雲が長く長く伸びていた。それは西へ向かって細く鋭くとがっていた。オホーツク海あたりから発射されたミサイルであろうと思われた。はるかな南に、頂の崩れかかった巨大なキノコ雲が絵のように動かなかった。  彼の第九十戦区の防禦線の前方、第八十九戦区の一角から、濃い褐色の煙が太い柱となって立ち昇っていた。それは平原をわたる風に流されて、彼の占める地区の上へ、幅広い幕となってひろがりつつあった。第八十九トーチカが炎上しているものと思われた。  それだけを目に収めると、電子頭脳にサインを送って、まず地下サイロに収めてある十六基のミサイル・ランチャーを地上に掲げた。  つぎに、広茫とひろがる平原の地表の下に埋設されている、原子力地雷網の安全装置を解かせ、いつでも火網を構成し得るように用意した。  味方の機動部隊と連絡をとる必要があったが、それはどこにいるのか最初から皆目不明だった。  その後の敵情はさっぱりわからなかった。彼は偵察ミサイルに捜索回路をつないだ。  偵察ミサイルはアフターバーナーの白光を曳いて、上昇していった。そのまま弧を描いて反転、高度三千メートルで第八十九戦区の上空にすべりこんでいった。スクリーンの中で大地は目まぐるしく旋回した。ぐんぐん大地が迫り、機体の傾きに従って、地平線が天を指した。褐色の荒れ果てた土肌が急流のようにはしった。火山の爆裂火口のように無惨に裂けた大孔が無数に現れてきた。ミサイルが雨のように降りそそいだのだろう。  突然、黒煙が厚い雲のようにスクリーンの視野をさえぎった。その煙の間から、火焔につつまれた第八十九トーチカが一瞬、チラと見えた。  トーチカは奮戦していた。絶望的な様相のもとに、なお四方にミサイルの火の矢を飛ばし、火焔放射機から吐き出されるドス黒い長い焔の舌が、奇妙なヘビのように、周囲の放射能で灼けただれた土の上をなめずっていた。  敵は?  いた。  苦戦するトーチカを遠巻きに、数個の半球形の小さなドームのようなものが、虫のように動いていた。  全アフリカ連合の戦車隊であった。  彼はそれをもっとよく観察しようとしたが、煙と焔にさまたげられてよく見定めることができなかった。彼はコントロール・ダイヤルを大きく回して、偵察ミサイルを垂直旋回にいれた。テレビ・アイを広角に換えたとき、音もなくスクリーンから映像が消えた。金緑色の走査線だけがさざなみを描いてゆれ動いた。偵察ミサイルが撃墜されたのだ。やむなく彼は再びスクリーンを地上のテレビ・アイにもどした。地上から見ると、前方の煙はほとんど全天をおおっていよいよ厚く垂れこめつつあった。そのために平原は陽の翳ったようにどんよりと暗く沈んでいた。  彼はひどく困惑した。この煙は今後の彼の戦闘をはなはだしく不利にする。この視界をふさがれた北方から、敵は煙の流れの下に身をかくして接近してくるはずであった。  彼は落ち着かなくスクリーンをのぞきこんだ。ダイヤルはあてもなく右へ左へと回された。視野はただうろうろと平原を移ろった。  その時、戦区の南方、第八十八戦区と第八十九戦区の間の丘陵の鞍部に、一団の地上車の群れが現れた。それは長い砂塵を曳いて、点々と一列になった。退却してゆく味方の輸送部隊らしかった。その褐色の砂塵は高く昇って、流れる黒煙と一つになった。視野はいよいよ、せばめられてきた。  彼はもう一度頭をたれて、熱心にスクリーンをのぞきこんだ。そのままの姿勢でしばらくそうしていたが、やがて右手がミサイル発射装置のボタンをまさぐった。躊躇《ちゆうちよ》なく指に力がこめられた。  ランチャーは十四個のミサイルをつるべ射ちに発射した。  地平線に目のくらむ閃光がはしった。それは一瞬、光の幕となって、白日の下の平原をまっ青に染めた。そのあとには、輸送部隊の影も形もなかった。まだ消え残る砂塵が、ゆっくりと稜線に沿って流れていった。  つぎの一斉射撃は燃える第八十九トーチカヘ低空から突っ込んだ。天も地も青く染まり、焔も煙もいっさいが消えていた。煙の薄く流れ去ったあとの視界には、なんのさえぎるものもなかった。視野の邪魔になるものはすべてなぎはらってしまって、彼は満足だった。 「これでよし」  彼ははじめてわずかに姿勢を崩した。そのまま彼は待った。  突然、警急装置がけたたましく鳴りだした。電子頭脳のパイロット・ランプが、嵐に吹き千切れる星々のように、目にもとまらず点滅した。ミサイルだ。針路ゼロ、まっすぐこちらへ向かってくる。  彼はスクリーンを吸いつくように見つめたまま身動きもしなかった。  電子頭脳のあやつるランチャーはアンチミサイル・ミサイルをやつぎばやに発射しはじめた。軽い衝撃がコンクリートの床をかすかに震動させた。  スクリーンに映る北方の空に、強烈な閃光が間断なくひらめいた。  警急装置はぴたりと沈黙にかえった。水底のような静けさが彼をおしつつんだ。そのまま彼は彫像のように動かなかった。十数秒後に第二撃がやってくることはわかっていた。  再び警急装置がわめきだした。またパイロット・ランプが生きもののように騒然と点滅をくりかえした。アンチミサイル・ミサイルを射ち出す衝撃が断続した。  警急装置の鳴りやんだあとの深い沈黙は、つぎの十数秒間の生存を約束していた。  平原には、攻めるものの姿もなければ、守るものの姿もなかった。互いに憎み合う意志もなければ、必ず相手をしとめなければならないという決意もなかった。正確に。ただ正確に。分秒の流れに身をゆだねて、昆虫のように手を動かし足を動かしてゆけば、ダイヤルはまわり、回路は造られてゆくのだった。そのつどそのつどの手順をあやまらないことが、戦いのすべてであった。それ以外に身を守るてだてはなかった。自らの身を守ろうとする気持ちがないわけではなかった。しかし彼には自らを守ることは先ずここに在ることだった。それが彼の任務だったからだ。  彼の見えないところで、彼を倒そうとするミサイルはことごとく爆破されて地に墜ち、おびただしい破片を撒きちらした。  やがて敵のミサイルの発射位置が判明した。  彼はランチャーに攻撃を命じた。二十メートルにおよぶ魚形の物体は大気をどよもして突進していった。その吐き出した噴煙がこの平原の一角に薄雲のようにたなびいた。  ようやく傾いた午後の陽ざしが、丘陵の影をくっきりときわだたせる頃、最初の一撃が彼を襲った。地の底から揺りあげるような震動にトーチカの厚いコンクリートとハイ・マンガンスチールの天井がみるみる二つに裂けた。そこから海のように青い空がふかぶかとのぞいた。トーチカの上を被っていた厚い土層は、どこかに吹き飛んでしまっているのだった。壁面のメーターボードが猛烈な焔を噴き出した。彼は自動消火装置のボタンを押した。炭酸ガス噴出装置のノズルが笛のような音を発しはじめた。つづいてやってくるであろう第二撃のために、彼はアンチミサイル・ミサイルの濃密射線を張った。OK、手順に狂いはない。スクリーンには稜線をゆっくりとこちらに近づいてくる半球形の戦車の姿があった。地雷原の上だった。彼はキーに手を伸ばした。そのとき警急装置が狂ったように鳴り響いた。その赤い指針がみるみるゼロに重なった。彼は一瞬とまどった。アンチミサイル・ミサイルが撃ち洩らした敵ミサイルか?  引き裂くような閃光が彼の眼底を灼いた。  彼の体はくだけたメーターボードとともに床にころがった。折れ曲がったパイプが彼の体を烈しく打った。金属パネルの頭蓋の中で、記憶補償装置の二次回路が熔融して小さな滴を結んだ。  彼はのろのろと起き上がった。天井の破孔からこぼれる陽ざしは、床に積もったコンクリートの破片の上に斜めにおちていた。その光の縞の中に砂塵が渦まいていた。  壁面の中央の電子頭脳は、焼け崩れた屑鉄の山になっていた。スクリーンは眼球を失った眼窩のように、うつろに開いていた。  アンチミサイルのネットワークをくぐりぬけてきたミサイルの一撃は、今やこのトーチカをただの土むろに化してしまった。  ——そうだ、ぐずぐずしてはいられない——だが、すべての電子兵器は完全に使用不能になっていた。彼はウエポン・パッケージの中からハンドミサイルをつかんで、山崩れのようなトーチカの壁をよじのぼった。  いつか外は烈しい風が吹いていた。砂塵の幕が視界を被って動いていた。その砂塵の中に、半球形の戦車が幻のようにゆがんで見えた。  陽が翳って、周囲は水底のようにくろずんだ。何をするべきか、彼にはよくわかっていた。  彼は腕を回して背中をまさぐった。小さな円筒が手に触れた。彼はそれを取りはずすと、片手に握って土の上を這いだした。  半球形のあれをまず片づけることだった。  ——ああ、ライトが欲しいな——  しかし、それはこちらの姿を発見されるおそれがあるのでのぞむことはできなかった。  彼の体の下から、こまかい泥が煙のように湧き立った。もう少しだ。あと五十メートル。  四十メートル。またスノーボールがいちだんと烈しくなった。彼は円筒の安全装置をはずした。おそろしい疲労で手足が思うように動かなかった。  ——ちくしょう! もう少しだ。もう少しで奴らに思いしらせてやることができる。見ろ!——  彼は大きく右手を回した。円筒は重さをもたないもののように、ふわりと彼の手を離れた…… 「鉱区長! 鉱区長! しっかりしてくれ。やったぞ。成功だ」  目を開けるのも苦痛なほどの疲労が、彼の体に錘のように沈んでいた。鋭い痛みが腕の一点を貫き、そこからなまあたたかい波が全身にひろがった。彼は目を開いた。スポットライトの中におり重なった人影が、彼をのぞきこんでいた。 「鉱区長。監督官ルームは完全に破壊しました。鉱区管理局に対するわれわれの声明はすでに有線電話で通告しました」  彼の胸にかすかな喜びが湧いた。彼は半身を起こして周囲を見回した。  厚いコンクリートと金属の壁に囲まれた二十メートルほどの円筒型の鉱区員|待機所《ピスト》が、ライトの光にいやにがらんとして目に映った。二十個ほどの簡易ベッドが、一方の壁面に沿って積み上げられていた。それと幾つかの道具箱。スクリーンの四角な筒。ここにあるものはただそれだけだった。床に積もった軟泥は足音を埋めるばかりだった。軟泥は道具箱の上にもスクリーンの上にも、積み重ねられたベッドの上にも、青黒い薄い層を作っていた。窓の一つもない、二重ハッチのこの待機所《ピスト》に軟泥が流れこんでくるのは、その壁面の無数の破孔のせいだった。  ここニホン海溝九千メートルの海底には、氷のように冷たい水がほとんど半流動体のようによどんで動かなかった。スノーボールだけが音もなく雪のように降り続けていた。  第百二十九海底鉱区は、その海溝のふちのそそり立つ断崖の端れにあやうくひっかかったように設けられていた。永劫の暗黒の中で、彼らはウラニウムを掘り続けていた。ここには昼もなければ夜もなかった。四時間交代の勤務のほかは、彼らはこの待機所《ピスト》に倒れて、泥のように眠った。待機所《ピスト》の圧力調整装置《サーボ》はいつか故障して、それ以来、彼らは内圧をつねにフルにしておかねばならなくなった。眠る時でさえ、代謝調節機構は緊張を緩めることができなかった。  ——成功したと言ったっけな。しかし奴らはこんなことでおれたちの要求を容れるだろうか—— 「ほかの鉱区のようすはどうだ?」 「目下連絡をとっていますが、第七十二、第三百四十一、第七十七鉱区はわれわれに同調すると言ってきました」  ——ただそれだけか。たかが三つや四つの鉱区がストライキを起こしても、奴らにどれだけの効果があるだろうか—— 「鉱区長。リフトチューブが停止しました。上ではさぞかし大騒ぎでしょう」  ——上か。上は今頃は夏の初めだ。青い草や木や、太陽は目もあけていられないくらいだろう。あの時、のぼった塔はなんといったっけ。あの頃は体が軽かった—— 「鉱区長。どうしたんです? どこか工合が悪いのですか?」 「いや、ただちょっと目まいがしたんだ」  ——高いところから下を見おろした感じというものはよいものだ。高いところ、いや、まて、どうしておれは高いところの感じなんて知っているんだ。あの塔にのぼったからか? 違う。もっと、もっと高いところだ。どこだったんだ。それは? 海溝の崖の上のようだったが、それとも違う。いつ——? 「知っているわけはないじゃないか。馬鹿な」 「鉱区長! どうしたんです? なにを知っているというんですか」 「いや、すまん。ひとりごとだ。みな集まっているか、どうやらおれの襲撃は成功したらしいから、これで管理局の奴らも少しは考えるだろう」  彼はつとめて元気よく立ち上がった。その足もとから軟泥が渦まいて湧き立った。  この日を、第百二十九鉱区員はどんなに待ち焦がれていたかしれなかった。苦悶は絶望となり、絶望はそのまま死につらなっていた。開坑当時、五十名以上だった鉱区員も、今ではわずかに二十名に減ってしまっていた。五年間しかたっていなかった。管理局に対するたびたびの抗議は、まったく無視されていた。最初、一日、二百トンだった原鉱採掘量は今では七百トンになってしまっていた。それに使用する原子力パワー・シャベルは四台から六台にふえたに過ぎない。労働時間を増す以外に増産をはかるてだてはなかった。否やをいえば容赦なく生活物資の供給が停止された。 「鉱区長の足もそろそろ交換しないといけませんね。関節にだいぶ腐蝕がきている」 「それよりお前の鰓《えら》を取り換えなければ。このストライキが終わったら早速部品を送ってもらうから、それまで待っていろよ」  彼は部下の一人の鰓を傷ましそうに見た。その男の背の二個の人工鰓は、水中酸素吸収装置のフィンがなかばつぶれて海水が還流しなくなっているのだった。  ——これではまるで魚以下だ。鰓をつけられて耐圧服を着たまま脱ぐこともできず、手足のひれは爬虫類《はちゆうるい》のようにみにくい。これが奴らのおれたちに対する待遇なのか? 特別職である海底拡区員に対する優遇というのはこんなことだったのか? この待機所《ピスト》、この待機所《ピスト》だって沈没船よりまだひどい。そうだ。いつだったか、沈没船の中でこなごなにくだけた人間を見たことがあった。手足は千切れ、内臓は噴き出してみじめな死体だった。あの手足が欲しいものだ。あの内臓も、いや体全部だ——  ——沈没船の中だったろうか? 沈没船の中であんな死体があるわけはない。まっ暗だった。そしていやに頼りなかった。  あれはいつだったろう—— 「鉱区長。ビタミン・カプセルです」  部下の一人が機械のようにぎごちない動作で、小さな金属チューブをさし出した。彼はそれを受けとると、腕の水密注入栓に押し当てた。こころよい刺激が脳髄の奥でうずいた。 「さあ、みなも少し休んでくれ。休んで情報を待とう」  彼は部下が用意してくれたベッドにあお向けに倒れた。部下の一人が背の鰓を横にずらしてくれた。彼はもう動くこともできなかった。  リフトチューブを伝って海面に出、海底鉱区管理局へ攻めこもうと息まく部下を制して、先ず監督官ルームを説得し、その後に管理局へ厳重抗議をするという彼の意見は、監督官ルームを爆破して、管理局への示威にするというものに変えられてしまったのだった。  激昂する部下たちをなだめる方法はそれしかなかった。そして彼は、その監督官ルームの爆破を、自らかって出たのだった。監督官ルームヘの鉱区員の接近は厳禁されていた。彼なら、たとえ発見されても、なんとか言いのがれることはできた。監督官ルームは七千メートルの深度をたもって、潜航停止している深海用潜水工作船であった。彼は爆破に成功した。すさまじい水圧の嵐から無事逃れて、待機所《ピスト》にたどりついた彼は、しかしひどい疲労でうち倒れたのだった。 「休めよ。みんな。おい」  彼は頭をもたげて部下たちに声をかけた。部下たちはあるいは床に腰をおろし、あるいは壁によりかかり、ライトの描く光圈の中で青い幻のように見えた。それは石のように動かず流水のよどみの凝った青い、荒涼たる幻であった。  ふと、彼は異様な水圧を感じて頭を回らした。それは遠い遠いどこからか水を伝って、彼の感官に不快なきしみを残して消えた。みなははね起きてヘルメットの両側の水中耳をそばだてた。それはもう二度と聞こえてこなかった。 「なんだろう?」 「海底地震か?」  右手のない一人が、片手で体を支えて起きあがりながら言った。 「あれはたしかに爆雷の音だ」 「なに? 爆雷?」 「そうだ。おれはまえに聞いたことがある。あれは爆雷の音だ。それもたくさんの爆雷が一度に爆発したんだ」  彼はゆっくりとベッドから降りた。爆雷の音だというのはたしかにうなずけた。 「とすると今の方角は第七十七鉱区より西のほうだ。K七海底谷の奥あたりになる。第七十二鉱区、第三百四十一鉱区の付近だ」 「鉱区長。するとあのへんの鉱区が爆雷攻撃を受けているというわけですか」 「誰か様子を見てこい。少しでも危険を感じたらすぐもどってこいよ。絶対に無理してはいかん」  彼の言葉のおわるのも待たず、五、六人がとび出していった。開いたままのハッチをくぐってその姿はすぐ暗黒に呑まれて消えた。  ゴウー。たたきつけてくるような震動がみなの足もとをすくった。待機所《ピスト》は吹き飛ばされそうに揺れ動いた。みなは床に倒れ伏して、必死に鰓と水中耳を手で被った。舞い上がる軟泥で、スポットライトの光も薄れた。  ようやく水圧が正常にもどると、みなははね起きた。 「鉱区長! ベカが死んでる」  一人の男の体がみなの動きにつれて、床の上をなんの抵抗もなしにすべった。鰓は二つともはずれてそばに転がっていた。 「内臓破裂だろう。くそっ」  一人が泣くような声でわめいた。  そのとき、奇妙な声がみなの水中耳に響いてきた。それは地の底から届いてくるようにいやに遠く聞こえてきた。  ≪第百二十九鉱区員ニ告ゲル。コチラハ管理局。無駄ナ抵抗ハヤメロ。第七十二、第三百四十一、第七十七鉱区員ハ警告ニ従ワナカッタタメニ爆雷攻撃ニヨッテ全滅シタ。第百二十九鉱区員ハ、全員リフトチューブ下ニ集合シテ、指示ヲ待テ。第百二十九鉱区員ニ告ゲル。コチラハ管理局。無駄ナ抵抗ハヤメロ——≫  数人が鰓からおびただしい気泡をまきちらして、われ先に出ていった。その手に作業用リチウム原子弾のパックがつかまれているのを見て、彼は思わず後を追おうとしたが、体がいうことをきかなかった。残った者は陰惨な絶望に立ちつくした。  ≪アト二分デ爆雷攻撃ヲ開始スル。死ニタイノカ、コノ海溝ノ底デ——≫ 「行こう」  彼はつぶやいて力なくハッチへ向かって歩いた。部下が後にしたがった。ヘルメット・ライトが暗黒の水を切り裂いた。足は重かった。それは千トンもあるかと思われた。  鉱石運搬用のリフトチューブの上方に、巨大な原子力潜水艦の影があった。リフトチューブのサーチライトに照らし出されて、それは一匹の大きな魚のように見えた。  連絡艇が彼の部下たちの立っているチューブの基台のそばへゆっくりと近づいてきた。  ≪ハッチカラ一人ズツ入レ。携帯品ガアレバ全部ソコヘ棄テロ≫  水中マイクが厳しい声音を伝えてきた。せまいエア・ロックをくぐると、そこには管理局警備隊の制服《ユニフオーム》をまとった男たちが、冷たく光る短針銃をかまえて立っていた。 「一人ずつならべ! 魚類!」  蜂の巣型の銃口が、ならんだみなの顔をなめて動いていった。  地上は夜だった。内圧修正装置や代謝調節機構は自動的に調整を続けていたが、それでもみなは、割れるような頭痛と胸の底からしぼり上げるような嘔吐感に、冷たい脂汗を流してうめいた。久しぶりに吸いこんだ大気のために、肺はふくれあがったまま、横隔膜も裂けんばかりに押しつけた。眼球はふくれてまぶたを閉じることもできなかった。医務部員が荒々しい手つきで注射をして回った。シリンダーの中の液体が体の中に浸透するにしたがって、呼吸は楽になった。まぶたはようやく重く閉じられた。医務部員の手によってヘルメットがはずされ、耐圧服が切り裂かれた。鰓や水中耳は鋭利なメスで切り取られ、傷口は簡単に接着された。 「これでよいだろう。輸送車を回してくれ。こいつらの希望をかなえてやるんだ」  笑声が周囲におきた。彼はその笑声にうっすらと目を開けた。刺すように痛む目に涙があふれた。  あれほど待ちのぞんだ大気も、ねっとりとなまぬるく不愉快だった。肺の中までべとつくような気がして、彼は顔をしかめた。涙が耳のわきへ冷たく流れた。  夏なんだな。彼は口に出して言ったが、声にはならなかった。  彼らを乗せた輸送車は、防波堤沿いの石畳の上を、烈しく揺れながら走り出した。巨大なクレーンや銀色のオイル・タンクや鉄塔やらが、雑然と防波堤のはずれにそびえていた。真上から照りつける太陽は、地上車の車体を触れられぬほどに熱し、荷台に立ったままの一団の囚人たちの青白い皮膚に、たちまち火ぶくれを作った。  防波堤が切れてチラと紺青の海が見えた。急にそのときだけ、さわやかな海風が吹き過ぎた。みなはどっと荷台の端に集まった。少しでも多く海を見ようとした。  ——暗黒と動かない水。間断ない原子力パワー・シャベルの震動。あそこには時の流れはなかった。永遠の暗黒は、それすら失ったものにとっては、あまりにも貴重過ぎる。破孔だらけの待機所《ピスト》にも、半分つぶれかけた簡易べッドにも自ら閉じこもるに足る静寂と平安があった。求めてここへ来たのではなかったか。それが何かに似ていたからだ。いや似ていると思ったからだ。待遇の改善? 違う。ほんとうは違うのだ。それは皆の心に聞いてみるがよい。あんなものではなかったのさ。決してあんなものではなかったのさ。みな心の底から待遇を改善して欲しいと願った。だが、もっと心の奥底では、そんなことではどうにもならない異質の何かを感じていたのさ。異質の何か? なんだそれは? もういい。もう終わったんだ。おれは大気を呼吸しているじゃないか——  彼はしいんとした魚のような目で、白日の街路を見た。そびえ立つビルの谷間は、強烈な白と冥暗の影が錯綜する化石の林だった。高架回廊の巨大なアーチをくぐったとき、突然、輸送車は急停車した。みなは一塊になって床にほうり出された。電撃のような激痛が彼の体内を貫いた。そのため、むしろ気を失うことなくすんだのかもしれない。彼はハンドレールにすがって、ようやく上体をもたげた。倒れた拍子に何かにうちつけたか、右の目は全く視力を失っていた。かすむ片目の視野の中を、半球形のひらたい地上車がえんえんとつらなって、輸送車を追い越していった。気がつくとその金属的な騒音は耳の中いっぱいに反響しているのだった。  彼は無意識に誰に聞くともなしにたずねた。 「なんだ、あれは?」  警乗の警備隊員の一人が、彼の声を耳にして顔を向けた。 「戦車だ」 「戦車! なんのためのパレードかね?」 「なんのため? お前ら知らないのか? 無理もないや。魚にゃわかるまい。戦争だよ。戦争が始まっているんだよ」  みなの間に動揺がわいた。 「さわぐな! おしえてやろう。第二次統合戦争だよ」 「——統合戦争?」 「そうだ。アジア同盟と全アフリカ連合とだ」 「なぜ戦うんだ?」  その隊員は唇をゆがめると、吐き棄てるように言った。 「アメリカ大陸の所属をめぐって対立したんだ」  ——なんという遠さだろう。それは生きていることすら疑わせる。存在とは隔絶の意識の別名なのか——  戦車の列は、あとからあとから際限もなく続いた。そのなめらかな円蓋に、ビルの谷間におちる陽光は時おり白い虹を曳いた。  目的の場所に着いたのは、たそがれの薄明が、市街を幻影のように被いかくしはじめた頃だった。輸送車は非常ライトの光芒をきらめかせて誘導路を突進し、ある巨大なビルの内部へ吸いこまれていった。 「さあ、降りるんだ」  みなは一列になって地上車から降りた。そこには一団の男たちが待っていた。壮大な構内には他にゆき交う人影もなく、ただ煌々《こうこう》たる照明が真昼のように輝いているのみであった。そこには、ふと人の心を凍らせるようななにかがあった。 「ここはどこだ?」 「第三十一病院だ。ここでお前たちは手術を受けるんだ」 「手術?」 「そうだ。地上で生活したいというのが、そもそもお前たちの希望だったんじゃないのか。だからその希望をかなえてやるんだよ」  その時、彼の心に烈しい疑惑と異様な恐怖がはしった。なにかこれから予想もしていなかった処置が、自分たちの身に加えられることを直観した。 「待て、おれたちは正当な裁判を受ける資格がある。たとえ第一級|擾乱罪《じようらんざい》だとしてもだ」 「もちろん裁判は受けさせてやるよ。いつだっていい。まずここで必要な手術を受けるんだ」  ——海底鉱区員に対する地上の人間たちのあのいわれのない蔑視。サイボーグが通常人よりもはるかに高い作業能力を持っているということだけで抱く、火のような敵意。それが今、われわれの深奥の願望をかなえようという。しかも地上の人間たちにとって、もっとも許し難い海底鉱山の爆破を企図した、重罪犯であるわれわれにだ。この面も向けられないような烈しい作意はなんだ?—— 「手術をするなら、裁判を受けてからにしてくれ!」  隊員の一人が待っていた男たちに手を振って合図した。男たちは大股に近寄ってきた。その胸に医務部員のバッジが光っていた。麻酔銃が冷たくさしのべられた。 「待ってくれ! 撃つな」  麻酔銃の軽快な発射音が重なった——  ——海溝の既に砂漠の地衣類がはえているんだと思ったら、深海性の海綿だった。まるで胞子のように白く光っていた。地衣類というものは寂しいものさ。砂漠が綺麗すぎるせいなんだ——  彼は手を伸ばして砂をつかもうとした。地衣類を手にとろうとした。いくらこころみても無駄だった。指の先には固いコンクリートの冷たさだけがあった。  ——地衣類! そうだ地衣類。でも、もうおそい、助けてくれ、シイダ!——  彼の体はずるずると落ちた。際限もなくずるずると陥ちた。  彼は両手を突っ張ってなおずり落ちる体を支えた。……  ……薄紙がひきはがれるようにようやく意識がもどってきた。もどってくる意識は苦痛に喘いだ。無理に頭をねじ曲げて周囲をうかがった。いつか夜になっていた。崩れ落ちた壁面の一角が、赤い光に照り映えていた。その光は時おり烈しくはためいた。気がつくと彼は、トーチカの内部に頭から落ちこんでいるのだった。何かの爆発音が断続して聞こえた。彼は崩れた斜面をゆっくり這いのぼった。右手に猛焔を噴きあげて、戦車が停止していた。灼熱した外被は、赤銅色に輝いて、さかんに小さな誘爆を起こしていた。その火花に照らし出されて、そのむこうにもう一台の戦車が、影絵のようにくっきりと、その輪郭を見せていた。敵は前進を中止していた。  ここで夜明けを待つつもりなのか、それとも物資の補給でもやっているのか。彼はそろそろと床におりた。先ほどの肉薄攻撃が果たして成功したものやら成功しなかったものやら不明だったが、彼はもはや立って歩けないほど疲労していた。見定めるのもおっくうだった。  それにしても——彼は壁に寄りかかって暴風のように襲ってくる混迷と戦った。  これまで感じたこともない不思議な不安が彼の心を震わせた。打撃によって受けた苦痛だけではない。もっと、もっと奥深いところから、暗黒の陥穽がのぞいていた。それはおのれの未知の部分からささやきかけてくる何かだった。それはしだいに火のような焦燥となって、身内につき上げてきた。その暗黒の部分に何かがあった。  ——倒れていたあいだの夢だったのか? 冷たく暗い水だった。あそこはどこなのだろう。海底なんとかいったな。何をするところなんだろう? そこは。工場かもしれない。たぶん大きな工場か何かだろう。だがそこがおれといったい何の関係があるのだ——  分厚い思考の壁の前で彼は崩おれた。  思考回路は、これまで扱ったこともない荷電にオーバーヒートした。代わって彼の肩に埋めこまれた二次電子頭脳が、消えかかる彼の意識を必死に支え始めた。  彼は再び行動を開始した。停止している敵の戦車群に攻撃を加えることだけが彼の使命だった。暗い海の記憶も、海溝の底の作業場も悪夢のように消えていった。不安も焦燥もない。完全に彼自身、第九十戦区に還元した。ハンドミサイルをつかんで彼は影のように走った。  火光のかげから青白い光球がゆるいカーブを曳いて飛んできた。彼は地に伏した。敵の警戒線は早くも彼の姿をとらえたのだ。後方に太い火柱が立った。土砂を頭や肩に浴びながら、彼は黒いシルエット目がけてミサイルを放った。また光球が空気を裂いてくる。彼は大地に身を投げてそのままごろごろところがった。近接戦用のミサイルは、目標を失って急角度に旋回すると、後方に消え去った。  彼のハンドミサイルは、確実に敵影に吸いこまれていった。新しい火の手があがった。百千の星屑のように火の粉が渦まいた。その時、飛んできた金属塊が彼の肩の二次電子頭脳をうち砕いた。彼の顔から一瞬、すべての表情が消えた。彼は痴呆のように、舞い上がる火の粉を見た……  ……赤い火光と思ったものは、実は灼熱して熔融しかかった熱交換機の絶縁パイプだった。その不気味な輝きは、この原子力エンジンがあともうわずかな時間で、その機能を喪うことを示していた。コントロールを失った原子力エンジンは、その収めた燃料のことごとくを一挙にエネルギーに変えようとするだろう。  残された時間は三分しかなかった。 「バーマン! 切断機をもってきてエンジン支持架を全部焼き切れ。エルライは外鈑をはずすんだ。シイダは曳船《タグ・ボート》を寄せろ。こいつをワイヤーで曳船につなぐんだ。急げ、みんな」  貨物船三〇の銀色の巨体は見上げるばかりだった。重タンバー・ステンレスの外鈑がはたして三分でとりはずせるか? 原子力切断機の高熱を以てしても、エンジン支持架がそう簡単に焼き切れるだろうか? しかしそれしか方法はなかった。  急ぐんだ! 自動代謝調節機構のセーブもきかないのか、彼の心臓は耐え難い程に鼓動を早め、肺は圧縮機のように喘いだ。  月=火星間航路の貨物船DD三〇のエンジンが故障し、修理不能、全員退船の報が入るや、火星東キャナル市航路管理局は≪遭難船処理班≫を急行させて、DD三〇の域外投棄を命じたのだった。残骸が航路上に飛散すると、今後のおそるべき障害となる危険性があったのだ。  太陽系外への慣性投棄がもっとも安全な方法であった。  DD三〇の巨体は≪処理班≫の持つ小型|曳船《タグ・ボート》ではどうにもならなかった。エンジン部分だけを切り離して、曳船《タグ・ボート》に連結する以外になかった。  彼は焦慮に身ぶるいした。  原子力切断機の白熱した光が、DD三〇の巨大な船腹に目もくらむばかりに輝いた。  一分たった。鏡のように磨き上げられた外鈑に黒いすじが現れた。そのすじはしだいに太くはっきりした裂け目になってゆく。 「がんばれ、もう少しだ」  彼はしだいに変質してくる絶縁パイプの電気抵抗をチェックしながら、息を呑んだ。 「あと一分三十秒ぐらいだ」  曳船《タグ・ボート》がゆっくり接近してきた。その上方の空間に曳船を無線誘導しているシイダの姿が、星のように白く光って小さく動いていた。  そのまま船腹のかげになって、彼からは見えなくなった。 「切断作業のほうはどうだ?」 「OK、キャップ。今エンジンをワイヤーにつないだところだ」  バーマンの声が彼のイヤホーンに流れこんできた。 「あと一分だ! 三十秒たったらすべての作業を放棄、退避する」  シイダとエルライの声が入り乱れてやりとりされ、やがてまた彼の目に曳船《タグ・ボート》がゆっくり見えはじめてきた。 「OK、OK、キャップ。どうやらエンジンをひっぱり出した。このまま加速するぞ」  シイダの声がいやに遠くの方から聞こえた。 「あと四十秒だ。曳船全進強速《タグ・フル・ア・ヘツド》!」  あと四十秒。その間に航路を離脱してくれればいい。シイダの腕一つだ。  ——この任務が終わったら、この仕事をやめよう。おれの老朽化した体ではもう無理だ。内臓器官を交換し、部品を更新してもなお心の奥底に残る重い疲労感はなくなりはしない。もうずいぶん永いこと宇宙勤務についたものだ。あの永い年月—— 「現在位置を離れろ!」 「成功だ。キャップ。曳船《タグ・ボート》は左三十度B七。秒速二九・五四。加速中」  曳船は灼熱した原子力エンジンを曳いて、遥かに満天の星屑の中へとけこんでいった。  ——航路管理局の壁に≪退職・休養スペース・マンのための養護エリア≫というポスターが貼ってあったな。地球で何か軽作業をするものらしいが、あそこへでもゆくか—— 「キャップ! シイダが重傷です。大至急艇にもどってください」  エルライの叫びが彼の鼓膜に突きささった。 「なに、シイダが。どうしたんだ!」 「破片が体にぶつかった。意識不明だ。今バーマンが応急手当て中だが、なにしろ」 「よし、今行く」  また一人犠牲者が出た。くしの歯が欠けるように、一人また一人と戦列から消えてゆく。荒涼たる空間に身を浮かべて。  ——もしシイダが再起不能なら、二人で地球へ行こうか。おれの生まれた土地へあいつを案内してやろうか。あの丘陵をふちどる針葉樹の林。風の冷たさに驚くだろう——  シイダは連絡艇の床に声もなく横たわっていた。右半身がほとんど原形をとどめぬまでにつぶれていた。血液還流モーターがリズミカルにクランクを回していた。 「医務部に連絡しろ。救難艇とランデブーするんだ」  エルライがメーザー・シグナルのダイヤルをまわしはじめた。  暗いレンガ色の火星は針路の前方、暗黒の空間に巨大な気球のように浮かんでいた。あわい不規則なまだらが陰影のようにその表面に散っていた。衛星フォボスが円弧のかげにかくれようとしていた。連絡艇の外鈑は火星光《マース・ライト》を反射して、かすかに暗紅色に光った。 「キャップ。地球には全アフリカ連合とアジア同盟と二つの政府があるんだそうですね。キャップの出身はどっちですか?」  バーマンがポツリと言った。  ——この男、おれの考えていたことを知っているんだろうか? 地球に二つの政府があることはおれも聞いている。だが、それがおれの故郷となんの関係があるんだ。おれの知っているのは、あのいやにひんやりした風だけなのさ。おれが帰るとすればそこだけだ。そこだけなんだ—— 「さあ、どっちかな。おれの生まれたところは北アジアの奥地なんだが」 「そうですか。地球出身はキャップとシイダの二人だけですね。シイダはなんでもアフリカとか言ってたが、アフリカなんて、おかしな名だな」  ——そうか。シイダはアフリカの生まれか。いつだったかアフリカのスペース・ポートヘ寄航したことがあったな。ニアサ湖というところだった。素晴らしい原子力発電所があったっけ—— 「キャップは地球へ帰りたいと思うことがありますか」  ——≪退職・休養スペース・マンのための養護エリア≫か。綺麗なポスターだった—— 「私はルナ・シティで生まれたんですよ。地球へは一回行ったけど、あまり好きじゃないな」  ——≪退職・休養スペース・マンのための養護エリア≫か—— 「キャップ。シイダもあの負傷ではたとえなおっても、もうスペース・マンとしては駄目なんじゃないかな」  ——≪退職・休養のための≫か。アフリカにもあるんだろう——  彼はこの時、はっきりと地球へ帰ろうと思った。火星の暗いレンガ色が、なぜか彼の気もちを固めさせたのだった。  バーマンも黙って火星を見つめていた。しかしその心に今なにがあるのかは、彼にはわからなかった……  ……黒いシルエットはゆっくりと動きはじめた。暗いオレンジ色の火の幕を背景に、それは奇妙な動物が這い出すのに似ていた。  何かがまた烈しく彼の体にあたった。彼はたわいなくよろめき倒れた。敵の戦車は右側面に回りこもうとしていた。彼の執拗な抵抗に徹底的な攻撃を意図したらしい。  彼はじりじりと後退した。トーチカまで後退すればまだ使える武器があった。周囲一面火の海だった。彼の後を追って太い火柱が噴き上がった。強烈な爆風に、焔も土も石も千切れて吹き飛んだ。彼は爆裂孔から爆裂孔へ影のようによろめき走った。その姿を赤外線スコープでとらえた敵は、無反動砲の火網を張った。  命中の衝撃で彼の体は土塊のようにたたきつけられた。左手がひじの先から無くなっていた。無意識に跳ね起きた彼の体をまた一弾がつらぬいていった。記憶補償装置の一次回路が千切れて傷口からとび出した。  彼はトーチカの中にころがり落ちた。  ウエポン・パッケージはさっきのままにそこにあった。彼は無反動砲をつかむと、それを胸に抱いて崩れた斜面を這いずってのぼった。  ——まだ戦えるぞ。おれは。おれの任務はこの戦区を守ることなのだ。あいつらをここでしとめるんだ。おれはまだ——  彼は残った片手で苦心して、弾丸をこめた。  引き金を曳いた。  ——しとめなければ、あいつらを。ああ、暗い。どうしてこんなに暗いのだろう。そうか、ここは海溝の底だものな。サーチライトをつけたいのだが、やつらに発見されてしまう。地衣類なんかここにあるわけがないじゃないか。地衣類というものは寂しいものだ——  片手で弾丸をこめるのは難しい。  引き金を曳いた。  ——それにしても勇敢な敵だ。やつらもなんとかしてここを突破したいと思っているのだろう。海溝の底は冷たいからな。支持架を先ニとりハズすんダ。ソウ。よし、いいゾ。ソのママ曳船ヲ進メルンだ。この男にはおれの考えていることがわかるのか? おれは北、北、北アジアの、曳船ヲマエに出スんだ。シイダ。オマエノウデハタシカダカラナ。オマエハアフリカニカエルノカ。シイダ、シイダシイダ!——  引き金を引いた。  ——病院へ入れるまえに正当な裁判を受けさせてくれ。海底鉱区員の待遇を改善してもらいたいのだ。なんのための手術だ。おれは、おれは。そうだ! あのポスターだ。≪退職・休養スペース・マンのための養護エリア≫地球での軽作業。海底鉱区員。≪退職・休養スペース・マンのための養護エリア≫——  なかなか弾丸が入らない。  ——たしかにスペース・サイボーグを深海で使うのは頭のよい考えだ。そして戦争に使うのはもっとよい考えだ。結局おれたちには、帰るべきところはなかったというわけか——  無反動砲をずり上げて焔のむこうにねらいをつけた。だが彼は、その腕にかかえているのが無反動砲でなくて、ただの折れ曲がった金属パイプであることに気づかなかった。  彼は虚ろな目で弾丸をこめ、そして引き金を引いた。  敵の一人がひらりと戦車からとび降りるのが見えた。銃をかまえて突進してきた。背中の長いアンテナがゆらゆらと揺れていた。その透明な球形ヘルメットの中の顔を見て、彼は無意識のうちに地上へおどり出ていた。 「シイダ! シイダじゃないか。おれだ。お前もやはりアフリカに帰ってきていたのか」  銃口が青い閃光を噴いた。彼は朽ち木のように倒れた。その手を離れた金属パイプが、土の上で乾いた音をたてた。  では次の問題 「それでは次の問題」  私はオート・イラーサーのスイッチを押した。壁の昼光スクリーンいっぱいに書き散らされた数式や図表はたちまち、もやもやと消えていった。それに代わって新しい問題が浮かびあがってきた。  ——バクテリアの増殖率はどのようにあらわせるか——  八人の生徒たちの視線はその文字に吸いついた。ついで、それぞれの机の上の電子計算機に、ぽっと灯がともった。  私は彼らの大脳活動を監視するために、脳波をキャッチする陰極線オシログラフのダイヤルを回し、代謝効果表示装置《メタボライザー》をフル・スイッチにして生徒たちが問題の答えを作り出すのを待った。  オシログラフの八つのメーターは、彼らの大脳活動が健全に、かつ、その能力を最大に発揮しつつあることを示して微妙に震えていた。  メタボライザーはその大脳活動を支える全身的代謝体系の変化を刻々と表示していった。  私はそれらのメーター類に慎重に目を走らせながら、なお黙って待った。 「できました」  セキヤマが右手をあげた。計算を終わった電子計算機は灯を消した。四十秒たっていた。 「ぼくもできました」  つづいてモリカワが手をあげた。やがて、つぎつぎと手があがり、最後に残ったヤマグチだけが、まだ首をかしげている。 「それではセキヤマ。スクリーンに答えを書いてもらおうか」  セキヤマは机の端にあるボタンを押した。すべり出たスクリーン描記装置のピアノのようなキーに両手をあてた。  スクリーンがさっと淡青色に変わった。セキヤマの答えが、スクリーンに濃淡色の文字で描かれていった。  これを積分すると  Nt =Noektao となる。  Nt は t 時間を過ぎた時の個体数。  No は最初の個体数。e はナピエル対数の底。k は定数。  t は時間。o は一定の環境の中の栄養の量。  その栄養の量はつねに消耗するから  この式は  したがって  ≪Lo+≫だから  これに……  ≪なかなかよくわかるようだ。代謝系のほうは好調だし≫  セキヤマはスクリーンの上に長い式を書いていった。  みなはスクリーンと計算機とに、こもごも目を走らせて、自分の答えと照合しては検討している。 「みんなわかったかな。今の式はフィルムにおさめておくように」  みなの机にとりつけられているポラロイドカメラがひとしきり、カチ、カチ、とシャッターを鳴らした。 「次の問題だ。今の式によって、一定面積内でのバクテリアの密度効果を求めてごらん」  ふたたび、八台の電子計算機に灯がともった。  こんどは時間がかかる。計算機へのデータの投入が難しいのだろう。一分を経過しても誰も手をあげない。  脳波のパルスは彼らの大脳の活動が極限にまで高められていることを示していた。  そのとき、六番目のメタボライザーのメーターの内部にオレンジ色のパイロットランプがともった。大脳の活動の低下が、代謝系の一定の変化にアンバランスをもたらしたのだ。オカダが学習にあきてきたのだ。見ると姿勢がすこし崩れている。オカダはほかの七人にくらべると、生物学の成績がよくない。それに数学的能力がやや劣るのだ。そのかわり、彼は語学のほうでは天才的なひらめきを持っているのだが。  私はオカダに注意をはらった。どうもいけない。  私は刺激ボタンを押した。  私の坐っている教壇——むかしで言えばだが——つまりモニター・ルームの右に触手のようにつき出たアンテナから、オカダのかぶっている学習用ヘルメットのアンテナに指令がとんだ。  オカダは、ごく軽い電撃を受けて顔をしかめた。 「オカダ、なまけていてはいかん!」  私は無線の個人用インターフォンでどなりつけた。 「なまけていると、こんどはもっと強い電撃を加えるぞ」  オカダは私を見て泣きそうになった。だが、気をとりなおして、また姿勢をただした。  こんども、一番早く手をあげたのはセキヤマだった。正確な答えであった。できなかった者には、その答えをポラロイドカメラにおさめさせた。 「よし、それではこれで生物の授業を終わる」  私はそう言って、スクリーンのスイッチを切った。生徒たちは、にわかにわれにかえったような顔でどやどやと立ちあがった。  彼らは八歳、今年の十二月にはいよいよ、この小学校も卒業である。五歳の一月にはじめて親たちのもとを離れて学校という集団生活にほうりこまれ、語学、数学、自然科学、一般社会などの基礎的知識とともに、完全な合宿生活の中で、協同と犠牲という二つの精神的支柱をたたきこまれてきた彼らであった。四年間の小学校生活につづいて、さらにこれからの四年間の中学での生活が待っている。そこでは彼らは、適性と希望によって分類され、宇宙物理学や工業管理学や、あるいは行政学などのおびただしい数の専攻にわかれてゆく。そして十二歳で中学を卒業した彼らは、さらに適性と希望にもとづいた厳重な審査を受けて、あるいは大学におくりこまれ、あるいは社会要員として現業部門に配属されることになる。  二十世紀に、もっともすぐれた教育方式とされていた、れいの六、三、三、四制は今では教育学史のマイクロ・ブックの中の一セクションに伝えられているのみである。  そしてまた、当時まじめに考えられていた二十一世紀の教育技術、あの——子供は学校へ行かずにその家庭にあってテレビを見ながら学習をするようになる——という意見は、遂に実現しなかった。なぜなら、この宇宙時代は、その家庭で個々に勉強し生活したような閉鎖的、非組織的な精神構造を持った子供は、まったく不必要だったからである。  二十一世紀は強烈な個性や、天才的直観がしごとをする時代ではないのだ。要請されるものは、あらゆる意味における一般的情緒の安定性である。それにしたがって子供たちの生活の記録は集録され、整理され、その活動の方向を指示してゆかなければならなかった。教育省の中央管制室には、一人一人の子供たちの詳細な基本データを呑みこんだ電子計算機があり、各学校から十二時間おきに送られている加算データをそれに加えて、その日の指導上の反省すべき点と、明日の指導方針がうち出されるのであった。そして、それはただちに、各学校へ送られた。その教育省の中央管制室の電子計算機こそ、二十一世紀にあっては真の教師といえた。それはまことに厳しく、また慈愛にみちた教師であった。  休み時間が終わって、つぎは体育の授業であった。  私はカードを照合して八人の生徒たちの学習コースを指示した。 「セキヤマとモリカワは、重力調整室で無重力状態の中での壁面下降をくりかえして練習する」  二人はうなずいて教室を出ていった。 「オカダは遠心装置による三半規管の遮蔽《しやへい》トレーニング」 「またかあ。あれをやると頭が痛くなるし、それに胃もへんになるんだ」 「頭と胃がつながっている証拠だ。早く行け!」  オカダは首をすくめると走り去った。 「ヤマグチとニシノは筋肉の基本的屈伸をやれ。三十一号スプリング・ベースを使ってよい」 「はい」  私は、八人の生徒にそれぞれのテーマを与えて、実習室へ行かせた。実習室では、体育担当の教育助手が、彼らの実際的な指導をおこなうのだった。  私は、回路を遠方観察用に切りかえて、実習室のモニター・ルームに接続した。  実習室でさかんに準備運動をしている彼らの代謝系の変動が、八つのメーターにさざ波のようにゆれ動いていた。  ビーッ。ブザーが鳴って、私の目の前の計器板に小さな孔があいた。パイロットランプが輝くと、その孔から八枚のうすい金属片が吐き出されて受け皿に落ちた。その金属片の表面には、刻んだような浅い丸い穴がたくさんあいていた。教育省の中央管制室から送られてきた指導用データであった。  私はそれをとりあげると、きちんとそろえて私の胴体にあいているデータ挿入孔に押しこんだ。  不良品  午前中は雲一つなく晴れ上がっていた空が、午後になるとしだいに雨雲におおわれてやがてしのつく雨となった。  その雨をついて南天満山からうって出た宇喜多秀家の部隊一万八千は一団となって、関の明神前に陣を布いていた福島正則、京極高次の陣に突入した。社の森を中心に何段も楯をならべて奥深い陣地をきずいていた福島・京極勢はすかさず鉄砲隊をくり出して突撃してくる敵の先鋒に一斉射撃を加えた。銃声はごうごうと野面にこだました。突撃する将士は泥人形のようにうち倒されていった。しかし銃声は只の一度でやんだ。次の射撃が始まらないうちに、たなびく銃煙の間から宇喜多勢の騎馬隊は槍の穂先をそろえて疾風のように飛びこんできた。それほど突撃は早かった。福島勢は腰の太刀をぬいてその前に立ちふさがった。金属と金属のからみ合う歯の浮くような乾いた音。斬られて倒れる者の絶叫。  雨はいちだんと烈しくなった。  福島勢は京極勢を棄て、京極勢は福島勢が足手まといだった。もはやどれが敵でどれが味方だかわからなかった。おめいて斬りかかってくる者をただしているいとまはない。とにかく斬り伏せるだけであった。  東軍側はみるみる総崩れになった。  騎馬隊に続いて徒士隊《かちたい》が突入してきた。  いつか明神の社に火が回って、雨の中に渦まく黒煙は戦場をいよいよ暗くした。  天下分け目の関が原の戦いはしだいに西軍側の優勢にかたむいていった。  野も森も丘も燃えていた。東軍側は必死の防戦に体も心も鉛のように疲れてきた。  西軍側の総大将石田三成は情報によって金吾中納言秀秋の態度に強い不信を抱いていた。情報は秀秋が徳川方に対してひそかに内通のあることを伝えていた。そのため三成は腹心の大谷吉継に命じて、小早川軍の布陣する松尾山を正面に見る藤川台に千五百の警戒隊を配置させていた。  福島・京極軍の総崩れを支えるために井伊直政、朽木元綱の予備軍が投入された。新たな喚声があがり両軍の死体はみるみる泥田をおおった。だが勝ちにのった宇喜多勢の突撃は少しも鈍らなかった。  大勢は決した。右を見ても左を見ても、東軍側の死体は算を乱していた。乱刃はすでに家康の本営近くまでせまっていた。全線にわたって潮のひくような退却がはじまった。家康は残り少ない手兵をもって退路の確保にあたらせ、暗然として馬首を東へかえした。 「あとひと息だ。押せ!」  宇喜多勢は後方をかえりみるひまもなく急追に急追を続けた。  中山道を北に回った脇坂淡路守の部隊は宇喜多勢を右に見て、それとほとんど平行に進撃していた。  厚い雨足は視野をさまたげ、おりから風さえ加わって将兵たちの足をさらった。  その時だった。 「竹中隊はどうした?」 「竹中隊の姿がないぞ?」  宇喜多勢の先頭部隊の間にちょっとした混乱が生じた。それまで他隊に先鋒をゆずらず走り続けていた竹中庄司の一隊が、ふと姿を消してしまったのだった。 「なあに、おくれたのだろう。かまうな」 「おかしいな。今までおれたちの前を走っていたのだが」  そんな疑念もたちまち失せた。自分たちが先鋒となった喜びと恐怖が、こもごも彼らの胸におしひろがってきたからだ。 「みろ! あれを」 「なんだろう? あれは」  将士たちの口からいっせいに驚きの声が洩れた。  ゆくての雑木林のてまえに何かおそろしく大きなものがあった。それはゆっくりと動いていた。奇妙な泥色をしたそれは長大な一方の角をふりかざしていた。 「牛がねているんじゃないか?」 「ばかめ! あんな大きな牛があるか」  突然、天地が裂けるような音とともに、目のくらむような閃光がはしった。  百千の火の粉が宇喜多勢の上にふりかかってきた。土煙と爆煙が天地を被った。そのものの長大な角からは絶えまない閃光が噴いて出た。  宇喜多勢だけではなかった。脇坂淡路守の部隊も今は四分五裂になって逃げ迷った。その奇怪な物体は急におそろしい勢いで走りはじめた。逃げ場を失った騎馬隊は、みるみる風に吹かれる木の葉のように散った。大谷吉継の軍も、小早川秀秋の軍も、なにもかもめちゃめちゃだった。  戦場の急変はいち早く家康の耳にも届いた。突然牛のような怪物が現れて、急追してくる西軍を大混乱におとしいれたというその報に家康は黙って眉をひそめた。家康にはとうてい信じられなかった。  翌朝、まだ明けやらぬうちから探察隊は昨日の戦場に散った。そこは目を被うばかりの惨状であった。これほどひどい破壊の跡を彼らは見たことがなかった。  しかし、多くの者の口から伝えられた奇怪な「牛のごときもの」はついにどこにも発見できなかった。  家康はそれみろ、と思った。戦場にありがちな群集心理にともなう錯覚に違いない。そこで彼は戦場整理に先だって諸将にふれを出した。 「昨日の勝利は脇坂淡路守の合力、第一。小早川殿の遠慮、第二……」  かくして大阪方の運命は家康の握るところとなった。  家康の特別任務班は「牛」のことを口にする者は誰彼となく捕らえるかあるいはひそかに刺した。もう誰も「牛」のことを口にしなくなった。  慶長五年のことであった。  ——エル・アラメインの砂丘はその日も、顔も向けられぬ烈しい陽炎のゆらめきと砂塵をまく熱風に包まれていた。  ロンメル元帥の指揮するドイツ軍二千台の機甲兵団は、そのキャタピラに熱砂を踏んで進撃を開始した。  目指すアレキサンドリアはもはや目と鼻の先であった。  モントゴメリー大将は手もちの本国軍、カナダ軍、インド軍、南アフリカ連邦軍、合計十四万をこの白日の丘陵地帯に集結させた。彼の面もちは砂漠の熱気とは逆に暗くかげっていた。  ≪エル・アラメインを死守せよ≫  スエズ運河を守りぬくことは連合軍の運命を守りぬくことであった。いったんここを失えば、英国は極東からの大動脈をいっきょに断ち切られ、逆にドイツ軍はイラクからコーカサスの大油田地帯をことごとくその手に収めることになるのだった。  モントゴメリーの戦車部隊は、ドイツ軍のそれに比してあまりにも貧弱であった。アメリカ製のシャーマン中戦車は、そのいたずらな巨体と鈍重さで、とうていドイツ軍の戦車の敵とは思えなかった。  頼みの綱の空軍も、不完全な基地と、連日の砂嵐とで使用し得るものは数えるほどしかなかった。なによりも優秀なパイロットが不足していた。  しかし今は決戦を回避することはできなかった。ドイツ軍は全線にわたって動き出した。  吹きつのる砂嵐にまぎれて、ドイツ戦車は連合軍陣地に迫ってきた。  連合軍戦車は砂丘の稜線にならんで、疾走するドイツ軍戦車めがけて砲撃の火ぶたをきった。  曳光弾が雨のように入り乱れ、爆風は砂丘をえぐってみるみる地形さえ変わりはじめた。  ならんだ連合軍戦車は紙箱のように砲弾につらぬかれていった。  火と煙と砂塵が戦場を被って竜巻のようにひろがっていった。  ドイツ軍戦車の後には、兵士を満載した数百台のトラックが続いていた。  いたるところで連合軍の陣地は燃えていた。戦車は燃えていた。装甲車は燃えていた。  午後から砂嵐はいちだんとひどくなった。  そのため両軍の死闘はしばしば中断された。その間、兵士たちはタオルを顔にあて、あるいは上衣を裂いて頭からかぶるなどして背を丸め、息を殺しているのだった。その背に弾丸の破片や火の粉や砂は音をたてて降りそそいだ。  砂嵐がややおとろえを見せると戦闘は再開された。だが再開されるたびごとに連合軍の砲火は目に見えて少なくなっていった。 「日没までにアレキサンドリアへ突入せよ」  ロンメル将軍は叫んだ。  その時だった。ドイツ軍の先頭を突進する戦車隊の間に小さな動揺が生じた。 「おい、隊長車と二号車、三号車が見えないがどうしたんだ?」 「なあに、おくれたんだろう」 「おかしいな? 今まで百メートルばかり前を走っていたんだが」  操縦席でも展望孔に顔を近づけた。 「おい、あれはなんだ?」 「みろ! あれを」  砂塵の間から一団の人影がかけ寄ってくる。彼らの体の一部がキラキラと金属的な光輝を放っていた。手に手に長い棒のような物をふりかざし、顔中が口になったかと思われるくらい何ごとか叫びながら突進してくる。  連合軍側についている回教徒軍でもなかった。何よりも異様なのは彼らの身につけている金属板をつなぎ合わせたような衣服だった。  突進してくる彼らの体のところどころが、濡れたように赤いのが戦車兵たちの目を奪った。彼らの手にする棒のようなものは霧のように赤い滴をふり飛ばした。  これは狂気の集団だった。青白い狂気が焔のように噴きつけてきた。  彼らの手にする物が鮮血にまみれた白刃であることに気づいたとき、戦車兵たちの胸に本能的な恐怖がひろがった。それは何か見てはならない非常に恐ろしいものだった。 「後退! 全速」  先頭の戦車が急旋回した。砂塵が厚い幕のようにひろがった。他の戦車もわれを忘れてそれに従った。  後方の砂嵐へむかって夢中で砲弾を射ちこみながら、戦車隊はわれがちに退却を開始した。  後退してくる戦車隊と前進するトラック隊とは砂塵の中でお互いを見失い、混乱は混乱を生んだ。  ドイツ軍戦線の急変に、何がどうなったのか全くわけもわからぬままつられるように連合軍は追撃にうつった。旧式な戦車も、故障した砲も、弾丸の足りなくなってきた機関銃も、ありとあらゆる砲火は火を吹いた。  幾つも幾つも砂丘を越え砂嵐を越え、連合軍の兵士は走った。どこまで走っても焔と煙、血と砂だった。  陣地は燃え、戦車は燃え、装甲車は燃えていた。  ≪エル・アラメインでドイツ軍、敗る≫  飛電は早くも全世界に飛んだ。  ドイツ軍は遠くチュニジアまで落ちていった。その敗因を知る者は誰もいなかった。  一九四二年も終わろうとしていた。     *  薄明の中に、巨大な銀白色の球体が幻のようにならんでいた。さえぎるものもない広漠たる空間に、それは千億の星を置きかえたかのようにかすかな光輝をはなってつらなっていた。動くものの影一つなく、千古の静寂だけがそこにはあった。  ある時、その静まりかえった球体の列の間に、一つの人影が現れた。その人影はゆっくり、ゆっくり丹念に球体の列の間を動いていった。時々、ある球体の前で長いこと立ち止まった。そして手をのばしてその球体の表面にさわり、また身をかがめては何かの器具を押しあてていた。  彼は球体の内部に細心の注意を払っているのだった。  内部に送りこまれるエネルギーの流れ。物質の変化。それらがとどこおりなく進行し、転成してゆくのを監視し、調整してゆくのであった。  やがて彼の動きがぴたりと止まった。  ある球体の内部に彼の全神経が集中された。あくことない調査がくりかえされた。  はじめて彼の全身に濃い失望感があらわれた。  彼は遠いどこかへむかって低くささやきはじめた。 「コチラ、第十プラント。九百一号育成器ニ異状アリ。内部ニ大幅ナ≪時間≫ノズレヲ生ジテイル。ソノタメ計画ドオリニ成育シテイナイ。調査ノ結果、修正ハ不可能デアル。  コレハ廃棄スルカラ、スベテノエネルギー供給ヲ止メテクレ」  連邦三八一二年 「——船団PT一へ、船団PT一へ。コチラ地球・外航船専用空港コントロール・タワー、コレヨリ貴下ノ進入コースヲ指示スル。船団PT一ヘ、船団PT一ヘ——」  千億の星くずにまぎれて流星のようにはしる船団PT一は、この時、菱形の編隊を単縦陣に変えた。その巨大な円筒型の船腹に満天の星の光が白い虹のようにきらめいた。直下に、地球は空間の三分の一を占めて今、刻一刻と拡大しつつあった。  乾いた青と青灰色の濃淡の描く不規則な斑紋におおわれ、その乾いた青の部分は時おり水銀のように強烈な火を反射した。その下方は急速にミッドナイト・ブルーから奥深い暗黒の中へと溶けこんでいた。それは暗い夜の海に浮かんだ半透明の皮膚をもった巨大なクラゲのように見えた。 「コントロール・タワーへ、コントロール・タワーへ。コチラ船団PT一。編成ハ、船団所属ナンバー一、船名≪ジムサC≫船籍火星東キャナル市。ナンバー二、船名≪DD一七≫船籍キャナル市。ナンバー三、船名≪サベナ三三≫船籍木星サベナ・シティ。ナンバー四、船名≪キシロコーパ≫船籍人工惑星シル・ダリヤ。以上四隻。船団指揮者ブルベイカーハ≪ジムサC≫上ニアリ。コントロール・タワーへ。コチラ船団PT一。誘導ヲコウ——」  ブザーが鳴りひびいた。 「総員、配置につけ!」  乗組員の靴音は船内通路にあわただしく乱れた。  非常用の予備回路が開設された。二次燃料はストーカーに収められていつでもパイルに注入できるように用意された。冷却装置は全力運転を開始した。そして航路修正装置《コーサー》は電子頭脳による集中制禦を解いて半自動式にセットした。 「第一|機関室《エンジン・ルーム》、OK」 「第四ブレーキ。ロケット、OK」 「噴射管制禦《ノズル・コントロール》、OK」  インターフォンの声がいらだたしく交錯した。  船団はその長い航路の終わりの、もっとも困難な操船を必要とする着陸コースにはいったのだった。航路修正装置はこれまでの全航程をグラフをひくように正確にたどってきたのだが、その最終コースにおいて地球のコントロール・タワーはつねに、パイロットによる半自動制禦を要求してくるのだった。そのための、巨大な宇宙船の微妙な操船の困難さは宇宙船側にとって非常に大きな負担となっていた。コントロール・タワーからの指示を、あらためて航路算定機にかけ、さらに航路修正装置に監視させながら操船するというやりかたはすでに百年以上前に宇宙航路から姿を消したものだった。  ブルベイカーは主席《チーフ・》操縦士《パイロツト》のコーネルを当直にあてて自分はスクリーン・シートに身を埋めた。 「くそ! めんどうなことをやらせるもんだ。このために木星でも金星でも、地球航路のパイロットをとくに養成しなければならない始末だ」 「船長《キヤツプ》、地球側に申し入れたらどうなんですか? いつまでもこんな方法じゃわれわれはたいへんな迷惑ですよ」 「……針路Yイコール四・三七へ。偏位差に注意。OK、OK……だがな、コーネル。地球側ではわれわれの技術を信用できないというんだよ。域外着陸、つまり不時着をされることをとてもいやがっているんだ。おぼえているだろう。船団HD三二の不時着事故を」 「ああ、おととしの事件でしたね。船団全部がコースをそれて市街地に接近したために全船破壊されたというあれですね」 「コーネル。すこしマイナスにすべっているぞ。偏位差〇〇八に。もう少し、もう少し、ようし。あれだって市街地上空に接近したというだけで、船団十六隻がミサイルでたちまちこなごなにされちまった。そりゃ市街地に不時着なんかされたら大変には違いないさ。しかし誘導してやりなおしをさせればよい。なにもミサイルをぶっぱなすことはないやね。それもこれもみな、われわれの航路修正装置や電子頭脳が不完全なものだからだというんだ」 「生きた人間にやらせたほうがまだしも信用ができるというわけですね、船長《キヤツプ》」 「針路Yイコール四・三九へ。偏位差○○六、OK、OK」 「船長《キヤツプ》、そんな地球の横暴をどうしてわれわれは黙っているんですか?」 「かつて地球が一度でもわれわれの言うことを聞き入れたことがあったか?」  操縦室のドアが開いて一人の男が入ってきた。長身を包むライトグリーンのGスーツの胸に、『外周惑星連盟要員』のマークがあざやかだった。男は操縦席の背後に立った。 「どうだね、地球のようすは?」 「やあ、ミスター・ハザウェイ。もう間もなく第三減速に入ります。ごらんなさい地球を」  船長《キヤツプ》はちょっと身をずらして背後のハザウェイにスクリーンを示した。  スクリーンの下半分には、すさまじい速度で飛びぬける淡青緑色の光の縞があった。その光の縞は分厚い層をなして、さらに下方の暗色のいろどりを被っていた。暗黒の空に地平線の淡い輪郭がゆるいカーブを描いていた。 「ミスター・ハザウェイは地球には何回ぐらい来られましたか?」 「これで四回目だ。いつも不時着事故の後始末だよ」  ハザウェイは唇をゆがめて苦っぽく笑った。その笑いの底に、重い無力感があった。『外周惑星連盟』調査局の局長じきじきの調査というのは、ほんとうの名目だけで、事実は地球政府の一方的説明と戒告だけを受けて帰ってくるのであった。過去三回の地球出張がそうであったように、今度もまた連盟側の言い分は何一つ通らずに、かえって新しい規制の幾つかを負わされて追われるようにもどってくるだけであった。連盟代表部では、地球での遭難事故が発生するたびにただ形だけ、地球政府に対して報告書の提出を要請する。すると忘れた頃になって、地球政府は連盟に関係官の派遣を要求してくるのだった。こうして無意味な会談が開かれるのだった。こんどの場合も、数ヶ月前に、空港進入をあやまって、生産地区の上を低空飛行をして撃墜された宇宙船の事情聴取が、その目的であった。こんな役目は代表部の誰もが嫌った。そして最後には調査局長であるハザウェイ自身がひき受けなければならないようになっていった。  彼は部下の局員の中から、もっともすぐれた一人をえらんで同行を命じた。  地球行きの船団PT一はおりよく火星東キャナル市に集結中であった。  ハザウェイは≪ジムサC≫に、彼の部下、オズは≪サベナ三三≫にそれぞれ席をとった。 「船長《キヤツプ》、惑星間航路協定というものがあるでしょう。地球だけがそんな勝手に……」  操縦士のコーネルには忿懣《ふんまん》をおさえきれなかった。コーネルだけではない。若い宇宙技術者たちには、すべて熱い自信と希望があった。荒涼たる不毛の空間に、命をかけて生きぬいてきた者にとっては、伝統や慣習は一片の感傷以外の何ものでもなかった。  コーネルは眉をあげた。 「……偏位マイナス五、座標BB七。そのまま、そのまま。第四|噴射管《ノズル》、圧力変化分布をしらせろ。OK……もういい、コーネル。お前、本船の積載品目を言ってみろ」 「積載品目? ええと、ウラン鉱三百五十トン。食品用合成蛋白七B号三万八千五百パック、同じく九AA号原料六百二十トン。携帯用原子炉《ハンド・パイル》七千五百セット。KG繊維《フアイバー》二千本。量タンバー・ステンレス型材四百トン……」 「コーネル。われわれはその何百倍かのぼう大な物質を、これまでにほとんどただ同様にむしり取られているんだぞ。年二回、これが地球の連中がわれわれにかけた税金の一部さ」 「それを送らなかったら?」 「地球の巡洋艦隊《クルーザー》がおれたちを護送するようになるんだろうな」  継電機がカチリと鳴ってパイロット・ランプにいっせいに灯が入った。どこかでブザーが継続して鳴り続けている。  操縦席はにわかに緊張した。 「機関室へ、第三減速。第一、第二ブレーキ発動。主噴射管《メイン・ノズル》閉止。バラストA」  ブルベイカーはやつぎ早にインターフォンに向かって指令を送りこんだ。コーネルの手は、ならんだ数十個のスイッチの上を、自動ピアノのキーのように目まぐるしく走った。  ゆっくりと最初の衝撃が過ぎていった。第一、第二ブレーキ・ロケットが≪ジムサC≫の行足を軽くおしとどめた。つづいて二度目の衝撃がこんどはやや強く襲ってきた。 「ブレーキよし」  三度目のブレーキ・ロケットが火山のように咆哮した。  ≪ジムサC≫の巨体は、すさまじい震動に包まれた。あちこちで金属のきしむ歯の浮くような音が高まった。ブルベイカーは無意識に時計に目をはしらせた。あと八十五分で接地だった。  ブレーキ・ロケットは間断なく火を吐きはじめた。ブルベイカーのひたいにも、コーネルのこめかみにも、冷たい汗がにじんでいた。なお落下速度の早いのを気にするブルベイカーの怒声がインターフォンに向かってあびせられていた。 「船殻内張りの断熱材の温度を計れ! 冷却装置は予備機も使うんだ。早くしないと火だるまになるぞ」  大気との摩擦によって外鈑が灼熱しはじめたのだろう。室内温度はしだいに昇ってきた。  ブレーキ・ロケットがひときわごうごうとどよめいた。  その時、インターフォンが叫んだ。 「船長、と≪キヤツプサベナ三三キシロコーパ≫が脱落してゆきます。針路の保持が不可能らしい」  ブルベイカーの顔が一瞬、ひきゆがんだ。ダイヤルを回すのももどかしく、スクリーンの視野を急転回した。濃紺の視野に、輝く明るいオレンジ色の焔の塊が二つ、飛びこんできた。 「通信室! と≪サベナ三三キシロコーパ≫に絶えず連絡をとれ。コースの保持が困難ならいったん上昇してやりなおせと伝えろ」  光輪を負った明るい焔の塊の一つが、急に大きくなって、宇宙船の形になった。外鈑はおそろしい温度にまで昇っているのだろう。先端はまばゆい白熱に輝いていた。陽炎のゆらめきに似た熱い大気を曳きずって、それは巨大なエイのようにすべっていった。 「≪サベナ三三≫だ。ちくしょう」  ブルベイカーが呻いた。いったん姿勢を失った宇宙船は、そのまま斜め下方のスクリーンの視界の外へそれていった。 「しまった!」  ハザウェイは胸のなかで絶叫した。彼の優秀な一人の部下は、あののたうち回る宇宙船の内部にいるのだった。二人が別々の宇宙船に乗りこんだのも、万一の事故を考慮してのことだったが、そのおそれがかくもすみやかに現実になろうとは、ハザウェイもさすがに想像もしていなかった。完備した高性能な宇宙船の内部にあって、いつか忘れるともなく忘れていた宇宙航路の危険性が、ハザウェイの心の中に爆発的な恐怖と絶望感をもたらした。彼は土気色の顔をあぶら汗で光らせ、背すじを走る冷たい震えに耐えていた。  スクリーンは、脱落した二隻の宇宙船の姿を二度ととらえることはできなかった。     *  オズは暗黒の中で、手に触れた何かのパイプをつかんで必死に身を起こそうとした。床は大きく傾いて器物の床をすべる音が周囲を包んでいた。何か固いものが烈しく腰のあたりにぶつかって闇の一方へ落ちていった。  また猛烈な衝撃が闇の一方から一方へ山崩れの通るように貫いていった。オズの体は闇の中で錘《おもり》のように振りまわされた。もうどちらが上でどちらが下なのかさえ判然としなかった。ただやたらに周囲の闇がぐるぐる回った。いつのまにかつかんでいたパイプを離していた。ふうっと気が遠くなってゆく混迷の中で、その時、思いがけなく照明がともったのを感じた。気をとりなおしたオズの目に、ほそぼそとともった非常灯の赤っぽい光は、灼熱の光芒のようにまばゆくきらめいた。  赤茶けた光圈のむこうにひとかたまりになって倒れている人影があった。オズは夢中でそこまで這っていった。それはこの≪サベナ三三≫の主席操縦士《チーフ・パイロツト》と航宙士だった。主席操縦士は烈しい息づかいをしてのろのろと身を起こした。航宙士の体は石のように動かなかった。 「おい! いったいどうしたんだ。故障か?」  主席操縦士は今頃、思いがけない言葉を聞く、というように鈍いひとみをオズの顔に当てた。 「ブレーキ・ロケットのオーバーヒートらしい」 「オーバーヒート?」 「コントロール・タワーの指示がデリケート過ぎるんだ。奴ら地上車を誘導しているつもりなんじゃないかな」 「で、本船のコースはどうなっているんだ?」 「コース? どうなっているかなあ。外でも見てくれよ。間もなく……」 「間もなく、なんだ?」  主席操縦士の顔から、ふっと何かが消えた。手足は烈しくけいれんした。ガラス玉のような目を見ひらいて唇をゆがめた。 「おいっ、しっかりしろ。間もなくどうしたんだ? おい」  主席操縦士はオズの手をうるさそうにはらいのけると、かさかさに乾いた声で笑った。よだれがあごから胸まで濡らした。焦点の定まらぬひとみがオズの顔の上をさまよった。  オズは、唇をかんだ。だが、間もなく、どうなるというのだろう。救助船でも来るというのか? それとも間もなく着陸できるというのか? 何事か期待してよいことなのだろうか?  オズは暗い照明の下で、正気を失って笑い続ける男の顔に鋭い視線をあてた。間もなく、か。口の中でつぶやいた。もし救助隊が来るものならもうしばらくの間、この船内で待っていたほうがよい。オズの気持ちはようやくそこにさだまりかかった。まず現在位置をたしかめ、それからだ。だが——立ち上がったオズは一瞬、化石となったように息を呑んだ。胸の中を電光のようにかすめていったものがあった。間もなくそうだ、間もなく——突然オズは身をひるがえして走り出した。その目は絶望的な焦燥に狂気のように光った。ようやく傾斜の復原し始めた床を蹴ってオズは走った。タラップの半ばからいっきょに飛び降りると、『救命艇《ライフ・ボート》』とサインのともっているドアを押し開いてとびこんだ。ずんぐりした卵型の小型救命艇がランチャーに収まっていた。そのキャノピーに体を押しこむ。オズにはそのすべてが長い長い一瞬だった。次の瞬間は、あるいは死に直結しているかもしれなかった。間もなく——そうだった。間もなくやってくるのだった。確実な死は間もなくやってくるのだった。  小型救命艇は、小さな流星のように弧を曳いて≪サベナ三三≫の巨体から遠ざかっていった。熱しきった外鈑は目もくらむ火花を散らした。姿勢を失ってジグザグにコースを乱す≪サベナ三三≫に、青白い光球が追いついていった。ミサイルだった。     *  地上のノズルから噴き出すドライアイスの蒸気は白いベールのように《ジムサC》の船体を包んだ。飛び散る水滴は周囲一面に厚い霜を結んだ。プロミネンスのようにゆらめく熱気に変わって、みるみる外鈑に雪が結晶を結びはじめた。 「下船、OK」  ハッチが開かれると、皆は一列になって、地上へ降り立った。重力の変化で、いやに体が浮き上がるようで落ち着かなかった。何よりも酸素マスク無しに呼吸する空気の味が奇妙だった。  皆は言葉すくなく、肩をすくめてなんとなく寄り集まっていた。  さえぎるものもない広漠たる空港の平原に雲の影だけがゆっくり動いていた。その雲の影にまぎれて遠くひろがる市街が影絵のようにのぞまれた。 「コレヨリタダチニ空港オフィスデ検疫、ナラビニ短期滞留ニ関スル事務手続キヲ行イマス。乗組員ハ一号車ニ、連盟派遣員ハ二号車ニ乗ッテクダサイ」  携帯電話機《トーキー》から男の声とも女の声ともつかぬ金属的な声音が洩れてきた。 「いつのまにかこっちの波長をしらべていやがる」  見るといつのまにか百メートルほどむこうに二台の地上車が鼻をそろえていた。シリコン製の地上車は美しい甲虫のように多彩な光輝を放っていた。  車はどこからかリモート・コントロールされていた。走り出すとすぐに右と左に別れた。ハザウェイがふりかえって見ると、小さくなってゆく車のキャノピーにブルベイカーたちの頭がおしならんでやはりふりかえっていた。  地上車はサブ・ウェイへすべりこんだ。煌々と照明の輝く大トンネルを、音もなく弾丸のように突進した。行交う一台の車もなく、たたずむ人影一つ見あたらなかった。この限りなく伸びる光の帯は、外来者のために設けられた特別通路であると思われた。  そこは二十メートル四方ほどの真四角な部屋だった。窓一つなくすべて壁面は軽金属ともガラスともつかない物質で造られていた。装飾めいた物はもちろん椅子一つテーブル一つ置かれていない箱の中のような部屋の中央に立って、ハザウェイは思わず太い息を洩らした。気づくとひどい疲れだった。床の上に横たわりたいという衝動を押さえるのにおそろしい努力が必要だった。壁に映る自分の姿は疲労に喘ぎ、背をまるめて卑屈だった。死のような何分かが過ぎていった。耳をすましてもなんの物音も聞こえてこなかった。どこからか監視されているような気がしたが、かまわず床に腰をおろした。 「お待たせした。派遣員」  突然、やわらかい声がハザウェイの耳をうった。頭をあげてみると、五メートルほど先に一人の男が立っていた。  肩幅の広い長身を、見なれないダーク・グレイのコンビネーション・スーツに包み、肩に白い飾りひもをつけていた。眉が迫り、削いだようなほおに細い目がけいけいと光っていた。その目はまっすぐにハザウェイに注がれていた。 「私が地球政府主席代理クンヌイ・ハンだ」  ハザウェイは急いで立ち上がり、かろうじて自分をとりもどして答えた。 「私は、『外周惑星連盟』調査局局長、生活登録木星B七クラス、ハザウェイです。木星船籍貨物船≪アスタータ≫の遭難事故の調査にまいりました」  クンヌイ・ハンはうなずいて、 「それに関してはマイクロフィルムに事故の全容を収録させた。持ち帰って『連盟』代表部に手渡して欲しい。われわれとして再三注意をうながしていることだが、あの種の事故には重大な関心を払っている。宇宙船の着陸に関する技術的な問題について、さらに真剣な開発が望ましい。原子力宇宙船が指定コースからそれて大気圏内を巡航するようなことは、地球大気の汚染度からみて絶対に許すことはできない。われわれはその宇宙船を可及的速やかに航行不能の状態にしなければならない。やむを得ないことだ。調査局長、見たまえ」  突然、部屋の一方が広漠たる平原につらなった。高積雲の流れる紺碧の空に、河のように白く光るコンクリートがまぶしかった。そのはるか遠く、おそろしく長い鋭いものが、やや身を起こして横たわっているのが望まれた。その周囲に幾つもの鉄塔がそびえ、貨物輸送車や地上車の群れが止まったり動いたりしていた。その右手にさらに遠く、同じような物体がうずくまっていた。  スクリーンレスの立体テレビだった。おそらく壁面が投映機になっているものと思われた。細長い奇妙な物体はズーミングされてみるみる目の前いっぱいに拡大された。  長さは三百メートルもあるだろうか、鏡のように磨きあげられた外鈑に『地球連邦』のマークがあざやかだった。あきらかにイオン・ロケットと思われた。 「調査局長。新しく建造したクルーザーだよ。本年中に同じクラス四十隻が完成、艦隊に投入される予定だ。これ以上の性能を持つものはわれわれとしてもここしばらくは建造することは不可能だろう。しかしわれわれの技術グループはすでにこれらの改良型を研究しはじめているがね」 「首席代理。われわれに対する恫喝《どうかつ》ですか」 「調査局長、何を言うのだ。あのマークを見たまえ。『地球連邦』のマークをだ。われわれ地球も、君ら『外周惑星連盟』も、また『内周惑星会議』も、すべて光栄ある『地球連邦』の一員ではないか。人類の偉大な成功をさらに確固たるものにする為に、われわれは努力しなければいけない。君ら『外周惑星連盟』が物資を地球に運ぶのも、富の偏重を調整する為であることは君も承知のはずだ。全『地球連邦』の繁栄は経済的安定と不断の開発にあることは調査局長の君に言うまでもあるまい。その両者の推進力になるものは輸送船団に関するあらゆる技術の向上だ。その点で『連邦』首席も私も満足してはいない。局長」  ハザウェイの胸に、『地球連邦』という名が、かたいしこりを残した。火星でも、木星でも、その名はすでに死語と化しつつあった。おそらくは金星でも月でもそうだろう。それはたしかに人類の栄光を負った言葉だ。かつて、宇宙に人類が都市らしいものを造りはじめた頃は、『連邦』の名はその美しいひびきとともに、あらゆる力の、あらゆる行動の指針ともなった。それは宇宙時代の幼年期を意味していた。しかし、今は違う。火星の都市も、木星の植民地もすべて『連邦』のもとから巣立って三百年にもなる。今ではむしろ『連邦』は無意味な形式だけにおちいってしまっている。各惑星の経営の成功は急速に『連邦』の精神を変えてしまった。  ——なんのためのクルーザーだ?——  ハザウェイはむっつりとおし黙った。 「局長、見たまえ。オリエンタル・シティだ」  ハザウェイが目を上げてみると、クルーザーはいつのまにか消えて、そこには壮大な都市が浮かび上がっていた。地球の首都、オリエンタル・シティだった。  そびえ立つ高層ビルの群れ。それらビルを縦横に結ぶ高架回廊。地上車の群れは川の流れのように間断なくつづいていた。ロートダインがその高架回廊をくぐり、ビルの間を縫って飛ぶ。これこそ人類文化の最高の結晶だった。ハザウェイは目をそらせた。 「局長。このような市街が、火星にも、木星にも、金星にも、たくさんできなければいけない」  ハザウェイは彼の言葉がどこか間違っていると思ったが、それを考えるのは中断した。 「首席代理。ここでわれわれが提案したいことが一つあります」  ハンは向きなおった。「何かね?」 「われわれの宇宙船には電子頭脳制禦による航路修正装置が装備されています。これの使用を許していただきたい。これを使用することによって操船の困難さを排除し、コース進入を確実なものになし得ると思う。現在のタワー方式による間接誘導は極めて微妙であり、大型宇宙船の降下モーメントはそれに従いきれないのだ」 「それについてはわれわれとしては言うべきことはない。君らで処理すべき問題だ」  ハンは急に興味を失った顔つきでゆったりと歩き回った。 「誘導方式を変更する予定はありませんか」 「局長。そうした問題を討議するために、われわれは君を招いたのではない。はっきり言ってわれわれは宇宙船の誘導方式を変更する計画はない。なぜなら、現在の状況では現在の処置がもっとも妥当であるという結論をわれわれは持っているからだ」  ハザウェイはこぶしを握って体をのり出した。 「いや、それは違う。航路修正装置《コーサー》を使うかぎり、着陸事故は発生しない。すべてオートマチックな操船だからだ」  ハンは無表情な顔でそれを聞いていたが、 「不時着事故のために失われる物資は年間納入量の八・四パーセントを示している。この現実をよく理解してほしい。今はまず、宇宙船乗務員の基本的技術の向上を考えたまえ」  ハザウェイはゆっくり首をふった。その目はまっすぐにハンを見つめていた。 「首席代理、もう一つは、火星でも木星でも、その経営は非常に苦しいのです。年間二度の物資の供出は、時には致命的でさえある。その各割り当て量や回数を若干減らしてもらえないだろうか?」 「それは今後の首席の考えできまることだ」  息を呑んでつづいて言葉を吐き出そうとするハザウェイに首席代理はぶつけるように言った。 「会談は終わった。ひきとりたまえ」  ハザウェイの顔に濃い失望の色が浮かんだ。  ハザウェイはつかつかと進んで首席代理の前に立った。 「首席代理、どうかこの二つの問題点を研究してみてください」  ハザウェイは首席代理の体に手を触れるばかりに身を寄せて言った。一歩、さがる首席代理に、ハザウェイは右手を軽くのばして思わず肩をつかもうとした。ハザウェイの右手はそのまま首席代理の体の中を通りぬけた。ぎょっとして手を引いたハザウェイに、首席代理はほお笑んで言った。 「局長。この部屋には君一人しかいないのだ。さ、もどりたまえ」  ハザウェイは夢遊病者の足どりできびすを返した。  無残な敗北感が鉛のように体に重くこたえた。無意味な会談は終わった。部屋の入り口は大きく開いて彼が出るのを待っていた。一歩一歩、床を踏みしめながら、ハザウェイは煮えかえるような気もちを無理にねじ伏せようとした。  太い息を吐いたとき、急に目の前がかげるように暗くなった。疲労がどっと湧き上がった。そのまま深い昏冥《こんめい》に沈んでいった。長い鋭い宇宙の群れが見えた——クルーザー——なんか造って何にするんだ——ハザウェイはつぶやいた。つぶやいたつもりで実際は唇も動かなかった。ハザウェィはそこに倒れて眠った。  宇宙船乗員宿舎はそのまま素晴らしいホテルだった。金属とガラスで造られたこのビルの中にはあらゆるものがそろっていた。地球に関するぼう大な資料を収めた資料室。映写室。博物館そして病院、集会所その他さまざまな施設群。もし、地球を見学したいという者があっても、このビルから一歩も外へ出る必要はなかった。立体テレビが彼の足を代行するのだった。ここはつねに混雑していた。地球航路の宇宙船乗務員たち。各都市、植民地の代表部からの出張員たち。それらがいれかわりたちかわりこのビルの客となった。  ≪ジムサC≫のブルベイカー船長はじめ、四十名の乗員たちも、わずかな滞在期間をここに過ごしていた。彼らは時おり、遭難した二隻の仲間を想って胸が痛んだ。ハザウェイが過労で病院に居るという報告があった。  彼らは時おり、直接市街へ出かけたいものだと思った。しかしそれは絶対に許されなかった。彼らは完全に隔離されていたのだった。  体にかかる冷たい雨に、オズは眠りから覚めた。周囲の暗闇には、降りしきる雨の音だけが静かに聞こえていた。目覚めると同時におそってくる灼きつくようなのどの乾きに、オズは両手でのどを押さえてけもののようにうめいた。もう生つばも出なかった。その顔や手に岩を伝う雨滴がはらはらと落ちた。オズはわれにかえってはね起きた。雨だ! 水だ!  夢中で岩肌にとりすがって流れる水滴を吸った。何十時間もののどの乾きをいやすには岩を伝う水だけではたりなかった。オズは身につけている金属やプラスチックのおよそ雨水を受けるに足る器物のすべてを砂の上にならべて、たまったものを片はしから飲み干していった。  水を飲みたいだけ飲んでしまうとオズはようやくおのれをとりもどした。岩かげに入ってひざをかかえた。  降りしきる夜の雨の奥には深い静寂だけがあった。灯一つなく、千古の闇だけがひろがっていた。  ≪サベナ三三≫から脱出したオズの救命艇は、なんとか追いすがるミサイルをふりきった。なんども、細長い魚雷型の物体が頭上すれすれにかすめていった。救命艇はようやく、ゆるい起伏をみせて波のようにつらなる丘陵地帯へすべりこむことができた。帯のように砂煙を曳いて突進する救命艇の周囲に太い火柱が噴き上がった。まだすべり続ける救命艇の灼熱した外鈑を蹴ってオズは飛び降りた。ころげるように走って救命艇から遠ざかった。また、黒い影がほとんど垂直に急降下した。オズは砂の上に身を投げた。一瞬、衝撃波で目の前が真白になった。救命艇は爆煙と砂塵の中にくだけ散った。それきり攻撃はやんだ。  見わたす限り、荒漠たる砂漠だった。地平線のはるかかなたに山脈らしい影がのぞまれたが、ゆらめく陽炎にはっきり見定めることもできなかった。上空から、ちらと見た市街がそう遠くない所にあるはずだったが、それはオズの居る所からは発見できなかった。およその見当をつけるとオズは歩きはじめた。  太陽の位置からおしはかって、空港は市街に隣接しているものと考えられた。救命艇にたいするしつような攻撃から考えて、オズは携帯電話機で船団を呼び出すことに危険を感じた。空港へ近づくには細心の注意を払わなければならないだろうと思われた。  オズは歩き続けた。直接、大気を呼吸するという感じが奇妙だったが、馴れるにつれてかえって楽だった。携帯食糧は充分だったが、やがて水がなくなった。これまでに経験したこともないおそろしいのどの乾きがやってきた。夜の来るのが待ちどおしかった。砂の上に身を横たえてオズは不安や弧独と闘った。  砂漠に雨の降ったつぎの朝、オズは遥か北方に壮大な都市を見た。  ビルの間の谷底から見る細長い空は、ぬけるように深い青だった。昼の陽射しがしらじらと高層ビル群の高い壁に反射し、その影は夜のようにくっきりと深い黒だった。そのビルの谷間を、時おり風が吹き過ぎていった。ひび割れたコンクリートの上を、乾いた砂が波紋を描いて音もなく流れた。崩れ落ちた高架回廊が巨大なついたてのように街路をふさいで斜めにそびえ立っていた。割れ落ちたガラスの破片が砂の間から宝石のように光っていた。ビルを形造る金属はすべて厚く銹をふいて朽ち果て、プラスチックはそりかえって腐蝕していた。  これはあきらかに廃墟だった。おしよせてくる砂との戦いに敗れ、いつか砂漠の下に埋もれるべき運命だけが残されている見棄てられたここは廃墟だった。住んでいた人たちはどこかに新しい街をつくって移動していったのだろう。オズはあえぎながら足をひきずっていった。どこにも住む人の気配さえなかった。空港のある方角はどっちだろう? 立ち止まって周囲を見回したオズの目に、その時、チラと動くものの影があった。オズはぎょっと足を止めた。そこは崩れ落ちたビルの入り口だった。斜めに落ちてくる光の縞の中に、それはじっと立ってオズを見つめていた。彼はゆっくりと近づいていった。この得体の知れぬ廃墟の中に、突然あらわれた人影にふと異常なものを感じたが、今は自分の置かれている状況を知ることが先決だった。  近づいてみるとそれはまだ若い女だった。あるいはまだ十五、六歳より上ではないかもしれない。ほお骨のとび出た老婆のようなつやのない顔に、いやに白目の多い大きな目が青味をおびてキラキラ光っていた。色あせた濃い茶のコンビネーション・スーツをまとっていたが、それは原形をとどめないまでにつぎが当てられ、そこがさらに破れて木の葉のように垂れ下がっていた。破れたところからのぞいている肩や腰の皮膚は、乾いて死んだ両棲類のようにかさかさだった。 「君はここに住んでいるの?」  オズは苦心して地球標準語でたずねた。少女はオズの質問の意味が解らないのか、唖のように黙ってオズの顔を見上げていた。 「君は住んでいるのか? ここに」 「そうだ」  少女は突然、口を開いてそれだけ言った。  少女の声は、廃墟のように乾いて荒れていた。 「住んでいると言ったってこんな」  オズは首をまわして周囲を見た。また風が吹き過ぎていった。 「君の家族は? お父さんやお母さんは?」  少女は不可解な面もちで答えなかった。 「街の人たちはどこへ行った?」 「知らない」 「ここはなんという街だね? いや街だったんだねと聞いたほうがよさそうだが」 「ここはオリエンタル・シティだ」 「オリエンタル・シティ? 馬鹿な! オリエンタル・シティは『地球連邦』の首都じゃないか。おいっ、ここはどこなんだ?」 「ここはオリエンタル・シティだ」  オズはこんな少女に正しい答えを期待したことが腹立たしくなった。一刻も早く空港へたどり着かねばならない時に、時間の無駄はできなかった。オズは少女に背を向けて歩き出した。少女が何か言ったようだった。オズは歩きながらふりかえった。少女はゆらりと一歩踏み出して言った。 「待て。公安局はお前を探している。間もなく捕らえられるだろう」 「おれがか? なんで」 「お前は宇宙船の乗員だろう。宇宙船の乗員はすべて公安局が探し出して殺す」 「なぜだ?」 「よく知らない。たぶん検疫を受けないからだろう」  オズはふたたび少女の前にもどった。気の狂っている様子も見えなかった。 「ここがオリエンタル・シティだと言ったな」  オズの胸に深い疑惑が湧いた。この壮大な廃墟はなんだろう? これが廃墟でなければこれはまさに『地球連邦』の首都と呼ぶにふさわしいものだが。 「教えてくれ。オリエンタル・シティはどこに移ったんだ」 「そんなことは知らない。ほかにオリエンタル・シティがあるなどと聞いたこともないし見たこともない」  なんの抑揚もない声だった。オズは必死に頭の中を整理しようとした。 「しかし、オリエンタル・シティといえばもう何百年もの間地球の首都じゃないか。われわれの知識はうそだったのか」  オリエンタル・シティの繁栄といえば、それは人類文化最高のものと思われていた。そびえ立つ高層ビル群と地下何十層ものひろがりをもつこの金属とガラスの壮大な市街は、その電子頭脳制禦による完全な環境管理と交通機構とで、木星や火星や金星における都市造りの至高の目標にされていた。人類文化の栄光の所産であるオリエンタル・シティの実態がこの廃墟であるとはいかなるわけだ?  オズは蒼白になって立ちすくんだ。 「ここにいては公安局に見つかる。中へ入ろう」  少女は先に立って崩れ落ちたビルの内部へ入っていった。オズはその言葉に誘われるように後に従った。  崩れ落ちた壁や、つぶれた金属のパイプ類などが、外からの光にかすかに照されていた。リフトがあったのだろう。ほら穴のような口がひらいていた。少女はちょっとふりかえってそこへ消えた。見ると細い金属のタラップがかけられていた。オズは黙ってそれを降りた。  降りた所はせまい部屋になっていた。蛍光灯が雑然とした部屋を宇宙船の内部のように照らしていた。部屋の一方に垂れ下がった金属パネルの仕切りのむこうで、何かのかん高い回転音が聞こえていた。少女は壁に近く敷かれたマットに腰をおろした。オズは部屋を横ぎってパネルを除いた。幾つかの機械類がパイロット・ランプをともしていた。 「なんだね? これは」  少女はマットの上から答えた。 「水を作っている。それと発電機。エア・コンディショナーだ」  オズはひとみをこらした。中央に携帯用原子炉、それに直結する発電機、冷暖房装置、それと飲料水製造装置。オズの目はとび出さんばかりに見開かれた。体が烈しく震えるのがわかった。それらの装置の一つ一つはことごとくオズの見馴れているものだった。携帯用原子炉は木星のサベナ・シティの生産区で作られているものだったし、飲料水製造装置は火星東キャナル市近傍の工場で作られているものだった。冷暖房装置はどこで作られたものかは不明だったが、これもあきらかに宇宙船用のものを一般用に改造したものだった。それらのことごとくは『惑星連盟』の船団で地球へ運ばれている品物ではないか。オズは調査局員としてその数量までそらんじていた。 「どこで手に入れた? これは」オズの声は震えた。 「民生局が配給してくれた」  オズは烈しい目まいを感じた。かつて携帯用原子炉のようなものを何万個と納入させて、何に使うのだろうと思ったことがあった。それが地球の市民に配給されるのだなどとは夢にも思わなかった。——つまり、地球はひどい貧困に苦しんでいるのだった。その生産組織は携帯用原子炉のような構造の簡単なものさえ生産することができないほど弱体化し、市民の離れ去ったあとの都市は崩壊するにまかせ、緑地はしだいに砂漠と化してゆく。そこには豊かな生活の片鱗さえなかった。  オズは単調な回転音をあげる金属の塊に目をすえていた。 「タワーからの肉声誘導しかできなかったんだ」  巨大な宇宙船を、その装備する電子頭脳によって操船し着陸させるためには、地上の管制塔に、その宇宙船の電子頭脳に働きかける強力な電子頭脳がなければならない。空港にはそんな優秀な電子頭脳がなかったのだ。おそらく造ることも不可能だったのだろう。そのために『船団』は大きな犠牲を払い続けてきた。多くの人命が消えていった。  虚栄であった。『連邦』の、地球の、そして先人の虚栄であった。老いた者の虚栄と呼ぶには傷まし過ぎる。しかし犠牲を強いられる者にはあまりにも大きな虚偽であった。  原子炉で発電して照明し、水を作る。しかしそれはここではほら穴にろうそくをともすことに直結していた。目をおおいたくなるような原始社会がここにはあった。  オズはポケットから携帯食糧のパックを取り出すと少女の前に投げた。少女はそれをひろうと衣服のどこかへ入れた。 「空港へ行く道を教えてくれ」  少女の目が、つと動いた。小さな箱をつかむと、「上の様子を見てくる」  ひらりと立ち上がると部屋の外へ出ていった。オズはいらいらと部屋の中を歩き回った。たれ下がったカーテンの後ろに、黒い金属の箱が冷たく光っているのが見えた。カーテンをはねのけて見ると、金属の箱の正面に丸いスクリーンが窓のように光っていた。 「レーダーのスクリーンらしいが?」  オズは幾つかあるスイッチをひねった。円形スクリーンが金緑色に輝いた。旧式のものだったが精度はなかなか良いようだった。ダイヤルを回すと街路が現れた。さらに大きく回すと、スクリーンには茫々たる砂漠が現れた。 「どうするんだろう? こんなものを」  地下の穴ぐらにひそんでレーダーの触手を伸ばしあちこち網を張っている一人の少女が、何かたまらなく不気味なものに思えてきた。オズがスイッチを切ったとき、どこからか話し声が聞こえてきた。それはリフトの鉄バシゴを降ってくるものらしかった。 「ここで発見できてよかった。空港エリアに入られてからではどうにもならない」 「あのレーダーも馬鹿にならんな。これで三人目だ。あの娘、バッテリーが欲しいと言っていたからあとでとどけてやれ」  オズは壁にとんでやもりのようにはりついた。少女が外へ出る時、手にしていた小さな箱のようなものは携帯電話機《トーキー》だったのだ。  二つの大きな人影がのそりと入ってきた。その先頭に立った男の首すじにオズは満身の力をこめてこぶしを振りおろした。もう一人の男はとっさに飛びこんできた。無反動銃のおしつぶしたようなひびきが続けざまに空気を震わせた。照明が消えた。オズは体中に打撃を浴びながらハシゴをよじ登った。体のどこかをしっかりとつかまれていた。気づくと、あの少女の顔があった。その青い目は暗い焔のような憎しみをたたえていた。オズはその目へ向けて無反動銃の引き金をしぼった。  低空で旋回するロートダインのサーチライトが、なめるように地上を照らし出していった。それを避けて大きく迂回しながらオズは這っていった。公安局の追跡は急だった。オズはしだいに混濁してくる意識と闘いながら、必死に前へ前へと進んだ。闇の中に、おそろしく長い鋭いものがやや身を起こして横たわっているのが、遠くの光芒に影絵のように浮き上がって見えた。その後方にも同じようなものが黒々とうずくまっている。オズはようやく空港エリアヘたどりついたことを知った。  ロートダインはずっと後ろの方へ遠ざかっていった。  どこにも人影がないのが不思議だった。はるかな闇の奥に、ならんでいるのが地上車の列であることがわかったが、灯一つなく、死のような静寂がただよっていた。  宇宙船の胴体には『地球連邦』のマークが夜目にもあざやかにしるされていた。 「よし、これを奪って脱出だ」  オズはにやりと笑うとその巨大な影の下に入った。内部に乗員が居るかもしれないが、居れば居たときのことだと思った。静かにラッタルをのぼって開かれたハッチから内部に入った。内部はまっくらだった。オズはベルトからスポットライトをぬきとってスイッチを押した。  貨物船の船倉のようにがらんどうだった。細いトラスだけが縦横に入り組んで塗装もしていない船殻を支えていた。オズはライトをはしらせた。三百メートルもあろうかと思われるトンネルのような長いただの円筒だった。オズは走り寄って船殻をたたいた。薄いアルミニウムの板金と、合板、プラスチックなどの張り合わせが玩具のような音をたてた。  オズはぼんやりと立ったままだった。この大型の宇宙船のようなしろものが、いったい何に使われるのかオズには見当もつかなかった。  オズは外へ出た。平原をかすかに風がわたっていた。携帯電話機《トーキー》をとり出して送話器に口を当てた。これを使えば、たちまち所在を知られて公安局のロートダインが急襲してくるであろうことはわかっていたが、今は他に方法もなかった。彼には船団に連絡して『連盟』に持ち帰ってもらわなければならない数々の報告があった。 「船団PT一アルイハ調査局長ハザウェイへ。船団PT一アルイハ調査局長ハザウェイへ。コチラオズ、コチラ、オズ——」  また平原をかすかに風がわたっていった。     *  ブザーの音に、クンヌイ・ハンは書類をのぞきこんでいた顔をあげた。インターフォンから静かな声が洩れてきた。 「船団PT一ヲ大気圏外デ捕捉。二隻トモ完全ニ破壊シマシタ。生存者ナシ。ナオ、オリエンタル・シティニ潜入シタ調査員ハ公安局ガ逮捕、射殺シマシタ。以上」  ハンは背をそらせて窓外を見た。広漠たる砂漠がひろがっていた。そこに点々と動くともなく見える人影は、砂防工事に従う人々だった。  惑星開発のためのぼう大な物資の流出は、長い年月の間にこんなにも地球文明を衰弱させてしまっていた。荒廃と貧困の中で、なお地球の栄光は人類の栄光であり『連邦』の原動力であった。 「もうあと十年、この地球の荒廃ぶりを知られたくない」  ハンにとって地球は高貴であらねばならなかった。壮大な首都や、比類ない宇宙船や、豊かな生活のいっさい。地球はこれらの規範であった。  ハンはその強いまなざしをまた書類の上にもどした。  窓を鳴らして風が吹き過ぎていった。  カビリア四〇一六年  追ってきた。ここまで。  ——かぎりなく降りつづく雪だった。天も地も埋めつくし、ここでは昼と夜の区別さえ、幻のような白一色の中に失われていた。  雪は、汚点《しみ》のように暗い空から、果てしもなく湧き出ては、あとからあとから、音もなく空間を舞い落ちていった。ひととき、天地をどよもして突風が吹き過ぎると、そのときばかり、にわかに雪は、いきもののように千億の渦を描いて、狂いはしった。  ふたたび風絶えてよみがえるものは、永劫の静寂しかない。  シティの息吹きとも言うべき、あのよく一言では形容し難い複雑な、そして強烈な不協和音や、スペース・ポートでの低空で進入してくる宇宙船のあの独特な低い摩擦音。基地でのホイッスルやサイレンの乾いてかん高い叫び、ざわめき。  それらは好むと好まざるとにかかわらず、いかに人間にとって貴重なものであり、おのれをとりまくすべてとの、結合のあかしであったことか。ここでは、必死にそれらを思い出そうとしても、茫漠たる静寂の中での絶望的な幻聴としてさえ、聞こえてはこない。降る雪だけが、ここでは、ただ一つの存在であり、世界それ自体であった。すべては分厚い白の幕に被われて、そのむこうには何があるのか、知り得ようもない。降りつづく雪の奥にも、霏々《ひひ》と降りつづく雪があった。その奥にも、その奥にも。  巡視船《パトロール》は影のように雪の虚空をすべっていった。その巨大な円弧の上に、雪煙は風道を描いた。そしてデッキに立った私のヘルメットのマスクを、みるみる壁のように包み、スペース・スーツの腕や肩に白い華のようにつもった。 「ただ今、原点位置通過です」  イヤホーンがなんの抑揚もない声で私に告げた。  原点位置——それは宇宙船≪タキテス・ニグラ≫の所在位置を示している。宇宙船はたしかにこの雪の中、私の目の前に、その絶壁のような巨大な船腹をさらしているはずであった。巡視船《パトロール》はゆっくりと、その幻の≪タキテス・ニグラ≫を通過していった。  その位置、その位置こそは宇宙船≪タキテス・ニグラ≫をあやつって、シティを脱出していったカビリアとオーヒューズのかくれひそむ所でもあった。  私ははるばるとここまできた。獲物が残していったかすかな走跡を追って。それは流星の曳く残影のように、いかにもかすかなたよりない手がかりではあったが、それを辿ることによっていつかは、確実に獲物を死に追いつめることができるはずであった。私は任務を果たさなければならなかったし、またそれはつねに、それほど難しいことではなかった。  メタンの海どよめく木星の≪浮遊都市≫に、熱気流渦まく金星の≪ラルキア・シティ≫に、あるいはまた、夕映えの美しさで知られた火星≪東キャナル市≫に、これまで幾十度か獲物を追い、狩り立て、そして仕止めてきた。  着実に任務を果たすこと。それが私に与えられたすべてであり、私の所属する調査局処理班のいっさいであった。  スペース・スーツに包まれた私の体は、冷たい汗に濡れていた。顔から血のひいてゆくのがわかった。恐怖が、私の背筋を板のように硬ばらせた。デッキに出ているのは私一人だったから、腰からひざが、がくがくと震えているのを、誰にも見られずにすんだ。  私は凍ったハンドレールにかろうじて身を支えて、天地をどよもして吹きすさぶ雪嵐に顔を向けていた。  乱れた呼吸をととのえるには、激しい努力を必要とした。  恐怖と混迷がしだいに薄れてゆくと、ようやく私の心に、任務についたときのあの冷たく乾いた忘我の想いがよみがえってきた。  ただ事実を受け入れることだけだった。恐れてはいけないし、ためらってはいけなかった。時にはそれがそのまま死へのきっかけになるかもしれなかった。空白な心で事実だけを受け入れること。それだけだった。  走跡はここで終わっていた。捜索のここが終末点であった。だが、≪タキテス・ニグラ≫の影もなく、カビリアもオーヒューズもいなかった。どこかで何かが喰い違っていた。その間違いを発見して、私はそこへ肉迫してゆかなければならなかった。そこはこれまでに私の経験したことのない恐るべきあるなにかだった。異質——その言葉が一瞬、私の胸に熱鉄のように破裂した。  私は頭をめぐらして周囲にひろがる氷雪と死のような静寂をうかがった。  ここは南アメリカ大陸だという。地球の南半球のこの土地について、私は極めてわずかの知識しか持ち合わせていなかった。気象管理機構もはたらかないのか、それともはじめからなかったのか、氷雪に埋もれたこの大陸に、一つの都市も求め得ないことは知っていた。ここでは人間の存在すらその意味を失っている。文明の形骸すら、失われてすでに久しかった。  ≪タキテス・ニグラ≫は、ここへやってきたのではないのだ。カビリアもオーヒューズもここにはいないのだ。この氷雪の中にではない。ある異質の世界にとけこんでいってしまったのだ。この位置、この世界に重なるある別な世界、そこに私の獲物はのがれていったのだ。  そこも、やはりこのように荒涼たる不毛の、酷烈と静寂の世界なのだろうか。そこが死の世界であるのか、生の世界であるのか、私にはわからなかったが、私はそこへたどりつく道を見出さねばならなかった。私には、やり直しは無限に可能だったが、ただ一つの敗北も許されてはいなかった。  私は頭をふって船内に入った。巡視船《パトロール》はゆっくりと高度をとりはじめた。     *  宇宙船籍登録カード   船名 ≪タキテス・ニグラ≫   船籍 サベナ・シティ   型式 きど・パネルミラー機構光量子推進型B   用途 辺境用|多用途型貨物船《ゼネラル・カーゴ》  星間航路局航事記録FA七一九一   ≪タキテス・ニグラ≫   四〇一九年E二三。木星・土星間航路ヲ無許可航行中、消息ヲ絶ツ。以後、手ガカリナシ。   太陽系外へ慣性漂流セルモノノ如シ。H・○七、『消亡』ト認メラル。  星間航路局航事記録FA七一九九   航路観測船《ルート・オブザーバー》≪エリシア八≫ハ、木星・土星間航路ヲパトロール中、偏位角マイナス四・三一、Bコース上第三象限ヨリ第四象限へ直角ニ交ワル重力偏差面ヲ発見シタ。コレハ空間ノヒズミト解セラレ、同コースヲ航行スル船舶ハ航法装置ノ誤差ニ注意サレタイ。  調査局資料部報告K八四〇八A   航路局航事記録FA七一九九ニ報告サレテイル重力偏差面ハ、超遠距離用慣性誘導装置ノオーバーヒートニヨル『トーキーワ・こいずみ効果』ト考エラレル。スナワチ、オーバーヒートシタ強力ナ慣性誘導装置ガ空間ヲ切リ裂イテイッタ飛跡デアル。  調査局資料部報告K九〇〇二C   報告K八四〇八Aニ於ケル現象ヲ発生サセ得ル型《タイプ》ノ慣性誘導装置ヲ装備シタ宇宙船ハ、現在、≪タキテス・ニグラ≫級二万トン型辺境用|多用途型貨物船《ゼネラル・カーゴ》ノミデアル。ナオ調査ノ結果、同級全船中≪タキテス・ニグラ≫以外ニ、同時刻、木星・土星間航路上ニアリタルモノナシ。  調査局資料部報告D一八八三E   氏名 カビリア   登録番号 ○○八八   生活等級 特C   年齢 七十八歳   特記 B級精神活動変動広域帯ヲ持チ、ソレニ関スル特殊訓練ヲ受ク。心理作戦担当。     勤務地人工惑星カコープス一八ヨリ脱出・逃亡  調査局資料部報告D一八八三E—二   氏名 オーヒューズ   登録番号 ○○八八   生活等級 特C   年齢 六十一歳   特記 調査局広報部勤務。勤務地、サベナ・シティヨリ脱出・逃亡  私の手にあるのはこの七枚のカードだけだった。要は当時、自らの管理下にあった宇宙船≪タキテス・ニグラ≫をつかって、カビリアとオーヒューズの二人の特Cがシティから逃亡してしまったのだ。調査局処理班からただちにこの七枚のカードが送られてきた。方法は私の自由だった。私の任務は唯一つ。シティ逃亡の重罪犯人に対する処置、すなわち抹殺することであった。  今度の任務はこれまでになく重大であった。単なる逃亡者に対する制裁だけではない。これは調査局全体に対する統制の確立でもあった。これまで、調査局の中から逃亡者が出たことはなかったのだ。  この数年間、逃亡者の数は急角度のカーブを描いて増加していた。  はじめそれは宇宙空間ではたらく者の間に発生した。荒涼たる不毛の世界で、つねに死と隣りあって暮らす者の、ふと抱く烈しい誘惑——それは二度と覚めない休息だった。安住の地を、羽毛に包まれたような甘い休息を、狂躁的に求める一瞬の危機は、宇宙にはたらく者なら、誰でもが一度は経験することであった。それは決して死を願う心ではない。すべてを棄てて二度と覚めない休息に死をえらぼうとする者は、ここではかえって少なかった。平和と安息を求めて宇宙船のパイロットたちのある者は、シティを去って他の都市へまぎれこみ、そこで地上の職についたのだった。シティではパイロットの転職は絶対に許さなかったから。そうでなくてさえ、このころでは、高度な技術を持った宇宙勤務者は不足しがちで、その補充さえなかなか困難であった。  この、かつてない深刻な心理的動揺に驚いたシティ経営管理局は、心理作戦を担当する研究所や施行機関を動員して、この問題の解決に苦慮したが、見るべき成果もあげないうちに、やがて逃亡者は一般市民の間にも現れてきた。彼らはひそかにグループを作り、パイロットたちと手を結んで、たくみにシティを脱出していった。彼らの場合は、パイロットたちと違って、その願いはもっと素朴であり、もっとも本質的であり、ある意味ではもっとも危険であるといえた。倦怠と孤独が圧縮機のように人をしめつけるシティの、個室《コンパートメント》の生活。そこではつねに人間は組織をかたち造る細胞の無二の画一性を要求され、また同時に、単細胞生物の絶対的な孤独を強要される。大部分の市民には、家族などありはしなかったしさげてゆくべき私物など持っている者はいなかった。  永劫に輝く星と、広漠たる虚空と、全体と個と、そこではつねに人間は永遠と瞬間の間を往復する。乾いて青い人の心だけがすべてを駄目にさせてしまうのだった。そして人はそこから脱け出そうとする。脱け出してたどりつける所など、ほんとうはありはしない。ただ去りたいがために去る。永く永く忘れ去られていた不条理が、人の心にもどってきたのだった。  市民権はこれまでになく拡張され、ストックされていたさまざまな物資は、惜しげもなく市民の間に放出された。シティの生活水準は往年の≪東キャナル市≫の最盛期をしのぐものとなった。さすがに、シティを離れようとする市民の数は減った。しかしふたたびその数が増えはじめた時、もはやシティにその対策はなかった。なぐさめの言葉もすでに色あせていた。  調査局処理班が大きくクローズアップされてきたのは、その頃のことだった。シティは非常態勢下に置かれた。スペース・ポートは厳重な監視のもとに、もっとも重要な幹線航路だけを運航していた。逃亡者に対する苛酷な制裁が発令され、シティからの離脱、逃亡は第一級犯罪に指定された。すでに他の都市へ逃亡し、移住していた人々に対して、強制召喚令状が発せられた。行方不明者に対しては、きびしい捜索の手がのびた。  これは星間外交に大きな摩擦を生んだ。かねてからこうした問題に苦悩していた弱小都市群は、移住者をむかえることによって、その失われた人的資源の回復を計ろうとして、シティの要求をすげなく拒絶した。すでに逃亡者たちには市民権があたえられていた。この点に関してはわれわれの観測はあまかった。シティはいかなる場合も密入国は認めなかったし、計画的人口増加以外、成人の移住による人口増加を極端に嫌っていた。外部からシティにやってこようとする者はいなかったし、また、たとえいたとしても、域外はるかな空間から、その故郷へ送還されることになっていた。  かくて、処理班による制裁は深刻なものとなった。仕事に関して、私は考えることはすでにやめていた。私は優秀な調査局員だったし、処理班の主任でもあった。  シティ崩壊の音はまざまざと私の耳に聞こえていた。よもや処理班の手でそれを支え得るとは思わなかったが、私は正確に任務を果たさなければならなかった。  そんなある日だった。 「こちら中央交換所。サベナ・シティから。どうぞ」  インターフォンが私をうながした。  部屋の中央の空間がかすかに青みをおびて偏光した。ゆっくりと求心的に収縮してその奥がスポットライトに円く照らし出されたステージのように浮かび上がってきた。最初の光の充満がぐんぐん暗くなって、やがてこの部屋の明るさと同じになったとき、その光圈の中央に調査局長バウ・モドウの枯れ木のような長身があった。  私はソファからはね起きて敬礼を送った。 「主任。緊急命令だ。この二人を追ってもらいたい」  局長は七枚のカードを私の前にすべらせた。それはテレタイプ用紙をそのままコピーしたものだった。よほど急いだものらしい。 「この件に関しては、調査局の上層部だけしかしらない。すみやかに処置して欲しい。この回路はシールドされている。読みたまえ。質問があったら簡単に」  私はざっとカードに目をはしらせた。  カビリア。逃亡! それにオーヒューズも。私の心に烈しく何かがぶつかった。それによって私の心は縦横にひび割れた。くだけて落ちるのを、この耳で聞いたような気がした。  この二人はどちらもかつての私の部下たちだった。カビリアは特殊訓練を受けて心理作戦担当に転出し、オーヒューズはやや健康を害して広報部へ移った。何よりも私にとって記憶が深いのは、彼らの生活等級特Cの許可申請をしたのは私だった。  生活等級特C——だが私は自分だけの想いを無理にねじ伏せて顔をあげた。 「わかりました。質問はありません」  局長の落ちくぼんだ小さな目に、はじめて柔らかい光がたたえられた。もう百五十歳にもなるだろうか。そのほおは土器の肌のように粗かった。  かすかにうなずくと、そのまま局長は影のように消えていった。私は、同時電送されてきた七枚のカードを手にしたまま、いつまでもそこに立っていた。  生活等級特C——私の周囲には彼らだけだった。調査局員○○八八、カビリアのほっそりした姿が私の胸に浮かんでは消えた。青白色の制服《ユニフオーム》に、高く結んだ明るい褐色の髪がひどく印象的だった。その眼は感情をかくすには大き過ぎた。東キャナル市中央病院で生まれ、七十八歳と二ヶ月。一年前、オーヒューズとの間に対番号《ペア・ナンバー》を持った。これには非常に広範囲な特権が賦与されていた。彼らは個室を共有できたし、そのプライバシーは高度に保護されていた。それはシティの生活でもっとも恵まれ、充足した階級であるといえた。  オーヒューズもいい奴だった。異才をそろえた調査局にあっては、あまり目立たない男だったが、その地味な着実な能力については、局長も私も高く買っていた。  そのオーヒューズをカビリアがえらんだとき、調査局の半数はその意外さに驚き、半数はいかにももっともであるとした。  特C級の生活に人々は多大の関心を寄せた。しかし間もなくカビリアは転出し、オーヒューズも健康上の理由を申請して、広報部の片すみに移っていった。広報部は、心理作戦担当員ともっとも密接なつながりを持つセクションであった。ほとんど同時に、私は気の合った部下を二人までも失ったのであった。  そのカビリアとオーヒューズが、なんでシティから逃亡していったのだろうか? 彼らだったら、何の抵抗もなしにスペース・ポートから宇宙船を乗り出すことが可能であった。誰も調査局の人間に、その行動の意味をただしたりはしないはずであった。  彼らはゆうゆうとシティから脱出していったのだ——  私はわれに還って、手にある七枚のカードを見た。任務に対する本来の私が、猛然とよみがえってきた。どこかで、それをおそろしく否定する何かがあったが、私は躊躇することなく、航務部を呼び出して、巡視船《パトロール》の用意を命じた。三枚目と四枚目のカードを、航路算定装置用《コーサー》の電子頭脳の資料記号に打ちかえ、走路でスペース・ポートヘむかった。  巡視船《パトロール》は、銀白の外鈑を宝石のように輝かせて投光器の光の幕の中に浮いていた。  巡視船《パトロール》は、千億の星くずの間を突進していった。私は狩人だった。青い孤独な狩人だった。     *  氷雪の吹きすさぶ荒野をあとに、こうして私はむなしく≪サベナ・シティ≫へもどった。調査局へも顔を出さなかった。私の帰着を知った調査局は、何度もコンタクトを希望してきたが、そのつど私は≪目下緊急要務中≫のサインを送るだけで、立体テレビの回路は入れなかった。  一度の失敗をこのままにおわらせてしまいたくない私の闘志が、しだいに青白い焔となって、冷たく私の心にひろがった。私を烈しく拒絶した。あの南アメリカ大陸の氷雪のどよめきと静けさの混交。荒涼たる不毛がカビリアの笑いでなくてなんだろう。青白色の制服《ユニフオーム》と高くむすんだ明るい褐色の髪が、私の胸に明滅した。だがそれは憎しみでもなくまた怒りでもなかった。 「こちら中央交換所。心理作戦担当課長がコンタクトを希望しています」  私は身を起こした。コオシャが今頃何の用事だろう。 「OK。こちら処理班」  心理作戦担当課長のコオシャがソフトフォーカスの中から現れた。いやに白い部分の多い眼が、ひたと私に向けられた。 「処理班主任。君の耳に一つだけ入れておきたいことがある。それは」 「それは?」  体をのり出したそのとき、遠い遠いどこからか私の心につたわってくる何かがあった。それはかすかな風のさやぎに似て、また一瞬よぎる心の翳に似て、私の思念を凝らせた。  ——くなとこむやにえしこと けゆをちみのこらじんな りなるえかにめじはてりぐめへはきと かえゆのになはしりざいくしたわにみやえをちのいのそしだいげなにてのいわざわくなみしおをざわのちたやおみつおと いなしうをとこままい——  石と化した私の心の肌目に、その声なき声は水のようにひろがっていった。  何だろう? どこからだろう? 私の心のなかに何が在るのだ? おそらく狂気の一歩手前で、私はあることに気づいて、思わず立ち上がった。  それはカビリアの声だった。  はじめ、それは何かのうめきのように、意味のないリズムをくりかえして、私の心に波紋を描いた。しかし、私の心の苦悶に近い操作は、テープを逆もどしするようにそこに一つの意味ある言葉を再現した。  だが、この神文のような言葉はなんだろう。カビリアはいったいどこにいるんだろう? 「どうしました? 主任。顔色がたいへんよくないが」  コオシャが眉根を寄せてたずねた。 「いや、なんでもない」  われながらうつろな声だった。私はよほど、お前に今の声が聞こえたか、と聞いてみたかった。しかし、もしただの私の幻聴だったらと思うとうかつには聞けなかった。 「超遠距離にある群集に対して精神感応《テレパシー》で集団催眠をかける能力については、心理作戦課でも特に研究していましたからね」  超遠距離に対する精神感応《テレパシー》? 集団催眠? 特に研究していたというが、だから何なんだ? そもそもなんのことだ。  彼はカビリアの能力について何事かを私に告げていたものらしいが、実は私の耳は彼の言葉に向けられてはいなかったのだった。そのときカビリアの言葉は全く私の胸を領し、コオシャの言葉はむなしくそれていってしまったのだ。 「それでは主任」  彼は右手をあげてあいさつするとその姿は蜃気楼のように透明になっていった。ひきとめて、もう一度聞きなおすことなど、できなかった。聞いていなかったなどと、どうして言えよう。  私はそれから長いこと、身動きもしなかった。わずかな身のこなしにも心が騒いで、聞こえてくるはずの声もかき消されてしまうような気がした。  しかし、もうカビリアの声はそれきり聞こえてはこなかった。  私は調査局のネットワークを総動員して、この時刻に幻聴を聞いた者の発見・調査にあたらせた。  資料は集まってきた。疑わしいと思われるものはすべてのぞいて、残った幾つかの事例は、その当人たちを調査局に招いて深層心理試験を行った。長い時間をかけて、大脳に一度はキャッチされた記憶を少しずつ、少しずつ抽出し、分解し、言葉——記号になおしていった。  その気の遠くなるほど単調な、しかし実はおそろしく複雑で微妙な作業の果てに、ようやく一つの興味ある資料があらわれてきた。  それは一隻の小型|貨物船《カーゴ》の乗組員《クルー》たちだった。ルナ・シティから帰航の途中、ある時、乗組員《クルー》の大部分が、同時に奇妙な幻聴を聞いたという。  彼らの記憶の深層を探ったオシログラフのテープは、ほぼ三分間にわたって断続する一組の幻聴を記録していた。その三分間に、彼らの貨物船《カーゴ》は、航路観測船《ルート・オブザーバー》≪エリシア八≫の発見した空間のひずみを、右舷側へと切っていた。その左舷側にはそのとき、その位置ではるかに地球が、そして南アメリカ大陸が正対していた。  ——きやをねふ てもをしるしとりがか しいさうとまをうょちんおのみかてっい だのくゆ あさ——  ——めのちのいきしらたあ いまたしぼろほをとびとひのちまのてべす——  ——るつまてたしきにむをうごのいさっいげささにみかをきらたはのそにですはきと れのいらすたひだたにめたがるあとこのこ——  調査局員たちはこの奇妙なテープを前にしてただ首をひねるばかりだった。 「主任。音の調子からいって、何かつぶやいているような感じですが」 「おんちょうとか、かがりとか、この、ふねをやけというのはなんだろう」 「主任。この幻聴はすべて後のほうからはじまっていますがこれはどうしてでしょう」  私の胸にひらめいたものがあった。  この、ふね、というのは、あるいは≪タキテス・ニグラ≫ではないか?  私は航務局に小型|曳船《タグ・ボート》の整備を命じた。このまえのように、大きな船でないほうがむしろよかった。そしてそれに、≪タキテス・ニグラ≫級に装備されている強力な超遠距離用慣性誘導装置をとりつけるように指示した。準備OKの連絡を受けとると、私は調査局エリアを出た。  追跡者の本能が、私をいくらか浮き浮きさせた。カビリアの姿も、オーヒューズの顔も、もはや私には無縁となった。私をたまらなくひきつけるものは、ただ私の獲物だった。  サベナ・シティを構成する六つのドームが、巨大なクラゲの傘のように半透明に輝いてテレビ・スクリーンに浮かんで消えた。暗赤色の木星光をかすかな虹に曳いて、私の曳船《タグ・ボート》はまっすぐに木星・土星間航路へのった。  私は慣性誘導装置を観測船《オブザーバー》≪エリシア八≫の発見した重力偏差値に合わせた。そしてその機能を最大まで高め、なおエネルギーを送りこんだ。やがて全回路はオーバーヒートして白熱した。ダイオードのパネルコンが小さな滴となって溶融した。それをにらみながら、私はもう二度とシティへは還れないだろうと思った。カビリアたちはこれをなんと見たろう? 追われる者にとってはそれは安全を約束する道標だったのかもしれない。だが私にとってこれは還るべき橋が墜ちたにひとしかった。  偏位角マイナス四・三一の断層に沿って曳船《タグ・ボート》は流星のようにすべっていった。  星々はゆるやかにその位置を変えていった。  ——つ撃 まざきおね跳は私。たえ見にうよの像石が姿たしりそっほの色白青、にうこむの垣人るれおれ崩にうよの形人泥。たっ被にうよの霧を々人くなも音が針の銀、瞬一。たい引にめづき引を金き引、らがなし回とりるぐを体てしに軸をざひ右たいつに床は私——  凄まじい衝撃が私を、曳船《タグ・ボート》を、つらぬいた。私はつき飛ばされたように我にかえった。曳船《タグ・ボート》の操縦席は何事もなく淡いルーム・ライトが寂しくともっているだけだった。補助電子頭脳《サブ・メンター》がカチリと鳴って小さな灯をともした。  ああ、今のは夢か! 私はこわばっている体から力をぬいて、吐息を洩らした。はげしい緊張のもたらしたひとときの悪夢だろう。この頃の私にはないことだった。  しかし、なんとなく奇妙なところがあった。なお体に残る烈しい疲労は、これは現実のものだった。闘いのあとの虚脱感は夢の名残りにしてはあまりにもなまなまし過ぎた。  ふと、私は気づいて慣性誘導装置を管理する電子頭脳《メンター》のメーターをのぞきこもうとした。  ——退後は私。るいてれらけ向し指に私にぐすっまは今が杖《ケーン》たしに手の々人のそ。たきてれらめつとりじりじは垣人。たきでん運を歩とりくっゆはちた官司祭。たれぼこにうよの火が紅真の裏、てっえがるひがプーロ——  船体がびりびりと震えた。それは船体を構成する物質の分子と分子、原子と原子とが互いに烈しくぶつかり合い押しのけ合うような、深奥からの震えだった。  私はメーターボードに体を支えて眼をこらした。電子頭脳《メンター》は自己崩壊《パンク》の寸前だった。警急処置につぐ警急処置で回路はほとんど余力を失っていた。慣性誘導装置の要求に追いつけなくなったのだ。  いったいどうしたんだ? これまでこんなことは一度もなかった。私はすばやく慣性誘導装置の記録を引き出してみた。  私の曳船《タグ・ボート》は断層の上を躍っていた! いったん、断層を越えてむこう側へすべりこんだ曳船《タグ・ボート》は、次の瞬間にはこちら側へ放り出されていた。そしてふたたび、慣性誘導装置はその強固な意志を見せて跳躍していた。だが再び航跡はリード・ペーパーの上にもどっていた。  すべてが原子に還元するような衝撃が私を襲ってきた。電子頭脳《メンター》が目のくらむような焔を噴いた。その百千の火花が流星雨のように操縦席をおし包み、灼いた。騒然と点滅するパイロット・ランプのむこうに、  ——たいていま渦が火りがかく焼を天  補助電子頭脳《サブ・メンター》に回路を切り換えた。くそ! 私は非常脱出装置に『準備』を命じた。背中に負った救難信号発信機のスイッチを入れた。慣性誘導装置につづく電路が紙のようにゆがんではずれた。  ——いをれ汚いしわまいもとっも、に日たれさ福祝もとっも。たっあで葉言のい呪はてっとに私、は葉言のりのいるれ洩らか口のそ。たいてえ燃に悪憎いし烈は眼の々人——  鋭い金属音とともに、慣性誘導装置のどこかが破壊した。すべてのパイロット・ランプは裂け飛んでそこから無数の焔の舌先がのぞいていた。しかしそのメーターはついに『オーバー』を指したままだった。     *  熱風の過ぎたあとに、肌を刺す氷のような冷気が平原をわたっていった。  その物は、千古の不動をたたえて、人々を見下ろしていた。  そのはるか上に、火光もとどかぬ暗い暗い空が、永劫の拒否を塗りこめていた。  かがり火はえんえんと天を焦がしていた。火の粉が川の流れのように暗い空を飛んでいた。人々の手も、足も、顔も、その火光の中で血を浴びたように紅く輝いていた。  群集は円陣を描いてゆっくりと平原をその物にむかって行進していった。燃え狂う火の柱はその人々を焼きはらうかのように烈しくゆれはためいた。熱風がどっと人々をおし包んだ。  ——とおつみおやは とこしえなるかみをねがいて そのあるところにひざまずきぬ されどかみはそのねがいをしりぞけたまい そのてなるわざわいとけがれをばこのよにおくりたまいぬ いまだひとびとよりかみはとおければなり されどこのおわりなるひ かみはくだりたまいて—— 「カビリア! どこだ」  群集は地響きをたてて私のかたわらを通り過ぎていった。その顔はいずれも平和と充足に照り輝き、私を見ようとする者は誰もなかった。隊列の前と後には、たいまつとふねの形をした木像のようなものをささげもった老人がついていた。�かがりとあかし�とはこれのことらしかった。  いったいこの世界では何がはじまろうとしているのだろう。それがカビリアたちと何の関係があるのだ? 私の心の中ですべてはむなしくたよりなかった。  私は群集に沿って歩きはじめた。どこかでしきりにベルが鳴っていた。かがり火ははぜて私の髪を焼いた。 「カビリア! どこにいる」  突然、一人の男が列の間を縫って走り出した。大きく手をうち振りながら人々の前に立って叫んだ。 「やめろ! やめるんだ、お前たち。これはおそろしいことだ。再生などと、とんでもない。神などというものにごまかされるな。あれは、あれは……」  行列は男をかるがるとはじきとばした。  私はかけ寄って男を抱き起こした。男の衣服はずたずたに裂け、焼け焦げてたれ下がっていた。男はぜいぜいと烈しい息を洩らした。光にさらしてみると、ほおを埋める厚い銀のあごひげと、落ちくぼんだ眼とがかなりの年齢を示していた。 「むこうへゆきましょう。ここにいては踏みつぶされてしまう」  男はおそろしい力で私をふり切った。 「よけいなおせわだ。お前も祭司官の一人だな。触るな!」  男は凄い目で私を見た。 「いや、待て。私はそんなものじゃない。私にはどうも様子がよくわからないんだが、教えてもらおうと思って」 「様子がわからない? 馬鹿な! 今頃。そんなことを言ってもごまかされんぞ」 「ほんとうだ。だからもしかしたらあなたの意見にさんせいできるかもしれない。聞かせてくれ」  男は疑わしそうになお私の顔をにらんでいたが、全身の力だけはぬいた。その顔に、にわかに苦悩と疲労が翳濃く浮かんだ。 「君はこの群集がどこへむかってゆくのかは、およそ察しているだろう。そうだ。≪神の座≫へだ。今夜、神の救いが降るという。信ずるか」 「続けてください」 「グーナー教典に説かれている輪廻《りんね》だ。神は八万年ごとにここへ降って、世界を新たにするという。累積したもろもろの罪業をすべてその手に掴まれて、今夜を過ぎると、この汚濁に満ちた世界は、あの八万年前の清い素朴な天地に還っているというわけだ、知っているな?」 「あなたがさっき再生などというものはないと言ったのは」 「私はこう思うのだ。あるいはこの世界では、ほんとうに時間が輪廻しているのではないだろうか、と。この空間の性質がある時、突然に変化して、時間がある点まで進むと、そこから何千年か何万年か前までいっぺんに逆行し、そこからまた進み出すというような。環状閉鎖的時間だ。わかるか?」 「あなたの職業は?」 「私は神学者だ。グーナー物理学を専攻している」 「グーナー物理学?」 「知らないのか? グーナー教典の物理学的解明にあたるのだ。しかし、神とはこんなに精緻なものだろうか? これは神のわざではない。神以上のおそるべき何かだ。われわれを封じこめたおそるべきある何かの力なのだ」 「グーナー教はいつ頃できた?」 「遠い遠い過去のあるとき、人々の脳に宿ったんだ」 「しかし、八万年の過去にもどったとして、誰がそれを認めるのだ」 「認めるのではない。信仰だ」 「信仰ならそれでいいじゃないか」 「八万年の最後の千年。またその終わりの百年の荒廃と頽廃はどうだ。われわれはそれに倦み疲れた。まさに世界の終わりだ。これは」  男の言葉は力ないつぶやきに変わった。私は男をそこへ置き棄てて歩き出した。背後から呼びかけてくる声がしたが、もう私はふり向かなかった。  私は真紅の火雲のむこうに、それを見た。暗い空にそびえるそれはたしか永劫の神の座に値するものだった。  平原のあちこちに立ち昇るかがり火は、噴火山のようだった。何を燃やしているのか、白熱の焔の渦は凄まじい響きを発した。  その焔に焼かれる大地には、おびただしい人の群れがうずくまっていた。その群集の間から祈りの言葉は海鳴りのようにあるいは高く、あるいは低く湧き上がりひろがっていった。  ——いままことをうしない、とおつみおやたちのわざをおしみなくわざわいのてになげいだしそのいのちをえやみにわたしくいざりしはなにのゆえか ときはへめぐりてはじめにかえるなり—— 「カビリア!」  私の声はむなしく祈りの言葉の中に消えさった。  そのとき、私の心の中にうずくようなある衝動がはしった。それはすごくかすかだったが、はっきりしたひとつの意味をなして、私に呼びかけてきた。  ——とうとう来たわね いつかはやってくるだろうと思った あと十分もすれば あなたに追いつかれずにすんだのに そう 永遠にね——  幻聴ではなかった。どこからか、カビリアが私にかたりかけているのだった。 「カビリア。君をシティに連れてゆかねばならない。逃亡の罪は重い」  ——それはできないことです 「なぜ逃亡なんかしたんだ? 君たちのような特C級市民が」  ——私には 人の心が万華鏡のように見えるのよ オーヒューズにはそれができない 私もオーヒューズのようにならなければならなかった でも それをあなたがたはゆるしますか オーヒューズの心が青い一枚の絵のように見えるとき 私はオーヒューズに見えない所へいって泣いたわ  人の心が見えるなんて孤独なものよ 「君は勝手にシティの宇宙船を持ち出した」  私の言葉はいかにも馬鹿げていると思った。  ——お帰りなさい ここはあなたのくる所ではないわ ここには明日がないのよ いつだって陽は出ないわ ごらんなさい あの暗い空 「オーヒューズは?」  ——死んだわ 着陸の衝撃があの人には耐えられなかった だから 私は自分の心をめくらにする必要がなくなったわ でも私はシティには還りません オーヒューズの体は ほら あそこにあるわ 「君はグーナー教とどんな関係があるんだ」  ——私たちがここでいつまでも誰にも邪魔されずに暮らせるように 彼らに与えたのだわ 「くそ! 慣性誘導装置で閉鎖空間を作ったんだな」  ——そう かぎりないくりかえしその八万年ごとに私はここへもどってくるのよ オーヒューズも でも もう私もあの人の心はよめなくなったわ とても静かです ここでは私は神なのよ おかしいですか  この異なる世界、時が逆の方向に流れている世界。カビリアはここへかくれこもうとしている。  私は走っていた。精神感応による超遠距離にある人々に対する集団催眠、いつか聞いた言葉がまざまざとよみがえってきた。カビリアが正しいかどうか、私にもわからなかったが、とにかくカビリアを連れて帰ろうと思った。時間はあと幾らも残されていないはずだった。私は人をつきのけ、押しのけ必死に走った。  すでに平原の一角では、地にひれ伏した人々の上に、あとからやって来た人々がひれ伏し重なりつつあった。人の上に人が、その上にまた新たな隊列が静かに平然と重なっていった。  焔は旗のようにひるがえった。  私はその物の下に立った。巨大な支持架が虚しい重量を支えて大地を踏まえていた。円形劇場のように壮大な反射鏡がはるかに燃え狂う焔を受けて、るつぼのように不気味に輝いていた。  私はラッタルをかけのぼった。 「止まれ! どこへゆく」  闇の中から突き刺すような声がはしった。かすかな灯が動き、黒い人影が湧いた。短い杖《ケーン》を持っている。 「何者だ? ≪神の座≫に近づくのは。出てこい!」  護衛兵らしかった。私の短針銃は音もなくその影を縫った。  ≪タキテス・ニグラ≫の内部構造には、私は明るかった。そのまま船内通路をぬけて私は目指す司令室にとびこんだ。先ず電子頭脳《メンター》を止めなければならなかった。そうすれば自動的に慣性誘導装置も止まる。急がなければ!  もしカビリアの言うように、この世界の時間が八万年を区切って過去へ跳躍するようにしくまれたものなら、今この世界の空間に同化している私は、あとわずかで消滅してしまわなければならない。私の心に焦燥が渦まいた。  スチール・ドアを押しひらくと、私の目にとびこんできたのは、長いローブのようなものをまとった十数人の人々だった。そのむこうには床にひざまずいて頭をたれている一団があった。主だった祭司官たちと、それを補佐する人々であろうと思われた。人々の間には不思議に静かなたたずまいがあった。  その人々の頭上、壁いっぱいに巨大な電子頭脳が、満天の星のような灯を輝かせていた。 「さあ、ゆこう。カビリア」  私が言うべき言葉はこれしかなかった。  祭司官たちはゆっくりとこちらをふり向いた。  ≪神とはこんな精緻なものだろうか?≫  ≪これは神ではない。神以上のある何かおそろしい力なのだ≫  見ろ! カビリア。オーヒューズはお前にとって神ではないか。八万年ごとの、そして永劫の惨たるそのくりかえし。  うずくまっていた人々も立ちあがって人垣をつくり、じりじりと私に迫ってきた。私は一歩、一歩、退きながら、ああこれは夢なのだ、と思った。     *  ——かぎりなく降りつづく雪だった。天も地も埋めつくし、ここでは昼と夜の区別さえ、幻のような白一色の中に失われていた。  雪は汚点《しみ》のように暗い空から、果てしもなく湧き出ては、あとからあとから、音もなく空間を舞い落ちていった。ひととき天地をどよもして突風が吹き過ぎると、その時ばかり、にわかに雪は、いきもののように千億の渦を描いて、狂いはしった。  あの空間のひずみも消えていた。≪タキテス・ニグラ≫の所在位置もいまは消えていた。茫漠たるこの雪の中に、異なる世界を示すなにものの痕跡もなかった。あのとき、なぜ私があの世界からはじき出されたのか、私にはわからない。気がついた時、私はこの世界にもどっていた。雪の中に私の曳船《タグ・ボート》が半身を埋めていた。私が銃の引き金を引いたあの瞬間に、カビリアはいったい何をしたのだろう。あの世界はどうなってしまったのだろう。  しかし、もうすべてはたしかめようもなかった。あの世界に至るみちは、もはや二度と見出すことは不可能だろう。  すべて幻のように消えていた。  それとも、カビリアによって、私が自分で心に描いた幻想だったのだろうか。  あの海鳴りのような祈りの言葉も、はぜるかがり火の響きも、いまはこの静寂の中での絶望的な幻聴としてさえ聞こえてはこない。  雪と静寂だけが、ここではただ一つの存在であり、世界それ自体であった。すべては分厚い白の幕に被われて、そのむこうには何があるのか知り得ようもなかった。ただ降り続く雪の奥にも霏々と降りつづく雪があった。その奥にも、その奥にも。 角川文庫『墓碑銘二〇〇七年』昭和50年8月5日初版発行