角川e文庫    作戦NACL [#地から2字上げ]光瀬龍   目 次  1 修学旅行の帰り  2 戦いははじまった  3 襲 う  4 やみの中の声  5 奇妙な宇宙船との戦い  6 よみがえった記憶  7 はるかな夜の空から  8 やつは、ふたたびあらわれた  9 決 戦     1 修学旅行の帰り  新学期最大の楽しみだった修学旅行はあと何時間かで終わろうとしていた。  四日前の早朝、東京駅をたって奈良、京都をめぐってきたことなど、まるで昨日一日の間のできごとでしかないように思えた。  みんなの胸の奥底には、疲労と同時にいまや|歓《かん》|楽《らく》のつきようとする虚脱感が重く沈んでいた。そのものがなしさとわが家へ帰れるといううれしさが入り混じって、みんなそわそわと落ち着かなかった。  そんな騒ぎも気にならず、ぐっすり眠りこんでいる者もあった。大阪発二十三時二十三分、品川着九時三十四分の急行“銀河51号”は真夜中の東海道を東へ向かって走っていた。  行きはよいよい、帰りは怖いで、行きは新幹線によるわずか四時間の旅だったが、帰りはちょっとつらいことになった。しかし、みながそれでいいと決めたのだからしかたがない。  同時に、そのことが|尚《ただし》たちを恐ろしい事件にまきこんでいくことになったのだった。 「よく眠れるなあ、うらやましいよ」  |村《むら》|上《かみ》尚は|鎌《かま》|首《くび》をもたげて、眠りこんでいる友だちの顔をのぞきこんだ。尚はふだんはとても寝つきがよいのだが、列車のなかなどではどうもだめだった。無理に眠ろうとすればするほど、列車の震動が気になったりするのだった。いまも尚は、窓のふちに頭を寄せて生あくびをこらえていた。睡眠不足で頭が痛かった。 「おれ、便所へ行ってくるよ」  隣にすわっていた|田《た》|中《なか》|明《あき》|夫《お》が立ち上がった。 「おれ、眠らないとどうも腹の調子が変になるんだ」 「だまって行ってこいよ。きたないやつだな」  前にすわっている|武《たけ》|田《だ》|次《じ》|郎《ろう》が顔をしかめた。明夫はぺろりと舌を出すと通路へ出ていった。  よし、こんどこそ眠るぞ……尚は腕を組むと目を閉じた。           * 「……なあ、どうも、おれ背中がぞくぞくするみたい……じゃないか」 「……夢でもみたんじゃないかい?……そうだ。きっとそうだよ……」  明夫と次郎がさかんに何かいい合っていた。  ……やかましいなあ。せっかく人が眠りはじめたというのに。  尚は窓ぎわへぐいとからだをねじ向けると、さらに眠りに没入しようとした。いったん遠のいた眠りがふたたびとっぷりと尚をおしつつみはじめた。尚の全身から力がぬけていった。 「な、尚君、ちょっと話があるんだ。起きてくれよ」  尚の肩は、ぐいとこづかれた。 「尚君!」  ……うるさいなあ! 少しは寝ている者のことを考えたらどうだ。もう一度からだをゆすぶられて、尚は完全に眠りから引きはがされた。 「尚君、あのな……」 「なんだ、明夫か。いつ便所からもどったんだ」 「便所なんか、三十分も前にもどってきてらあ。それより、どうもふにおちないことがあるんだ」 「ふにおちない? 気どったいいかたするなよ」 「寝起きがわるいね、このひと。まあ聞けよ」 「ふん。|三《み》|輪《わ》さんがおまえの顔を見て、赤くなったとでもいうのかい」  三輪|陽《よう》|子《こ》は、尚たち三年C組の生活委員だ。前髪のよくにあう、目の大きな陽子は男子の生徒たちのあこがれを一身に集めていた。尚のグループでもことに明夫が陽子のたいへんな崇拝者だった。そのため明夫はみんなからさんざん冷やかされどうしだったが、いっこうにこたえないようだった。 「毒のあるいいかたをするねえ。ちがうんだよ」  次郎が引き取った。声を落として、 「明夫が隣の車の便所へ行ったんだってさ。そしたら」 「隣の車の便所?」  明夫が口をとがらした。 「だって便所へはいってたら、あそこへ電燈がつくだろう。長いことはいってたらみんなにわかっちゃうもんな。やだよ」  車内の向こうはしに、だいだい色の小さな|標示燈《ひょうじとう》がついていた。 「まあいい。それで?」 「隣の車にもどこかの中学生が乗っているんだ。それがどうも妙なふんいきだったというんだ」 「妙なふんいき?」  あとを受けて、明夫がからだを乗り出した。 「みんなきちんと腰かけているんだな。かたくなったみたいに。寝てる者なんかひとりもいないんだ。からだをこうしてな」  明夫はぐっと背すじをのばした。 「ぎょうぎがいいんだな」 「ぎょうぎがいいっていう感じじゃないなあ。うまくいえないが、全然くたびれたというようすがないんだ。そしてしゃべっている者もいないんだ。しいんとしてんだよ」 「おれたちと違うな」 「わかっちゃいねえんだな。つまりその連中、ロボットか人形みたいなんだ。それにみんな同じような顔をしているんだよ」 「目が二つあってか」 「ああ泣きたいよ。おれは」 「尚君な、それで彼がその連中のことを見たら、みんな一度にさっと、彼に視線を集中したというんだ」 「そうなんだよ。おれ、なんとなく背中が寒くなっちまってな。だって、五十人からの人間が合図もなしにいっせいに、まったく同じ行動をするなんていうことがあるだろうか」 「しかし、たいくつしているところを明夫みたいなのが通ったら、だれだって見るだろう」 「それが、ただ見るというんじゃないよ。冷たい目でじっと見るんだよ。何の表情もない顔でさ。まるで人間でないものに見つめられているような気がしたよ」  尚はこのへんからとうとう眠りに落ちこんでしまった。明夫や次郎が話しかけるのも、もはや尚の眠りのさまたげにはならなかった。上着のえりのバッジがにぶく光っていた。生活委員を示すその緑色があざやかだった。  明夫と次郎はまだ小首をかしげていた。その|幾《いく》つか向こうの座席では、陽子がこれも眠れないのか雑誌をひろげていた。ポニー・テールのほつれ毛が、細いうなじに乱れていた。  列車はいよいよ速度を上げて、東海道を|驀《ばく》|進《しん》していった。           *  “しながわ……しながわ……” 「さあ、忘れものをしないように。こら、先をあらそうんじゃない。ひとりずつ、ひとりずつ」  |鈴《すず》|木《き》先生が声を張りあげた。  朝の光がプラットホームにまぶしかった。空気はさわやかだったが、寝不足の頭ははっきりしない。重い荷物をさげて、ぞろぞろ地下道への階段をくだる。  そのみんなの姿に向かって鈴木先生がカメラをかまえた。鈴木先生はカメラが得意だ。新型のストロボがとりつけてある。カメラをちょっとななめにかまえてシャッターを押した。カチャッ、シャッターはかすかに鳴ったが、どうしたわけかストロボは光らなかった。ふだんならみんなはここで奇声を発したりするのだが、さすがにこの朝は、鈴木先生を横目で見ながらもくもくと通りぬける。 「あれ! おかしいな。電池がだめになっているぞ」  ストロボの電池のケースをとり出した鈴木先生が、驚きの声をあげた。入れて間もない新しい電池がすっかりだめになっているらしい。鈴木先生は首をひねった。  改札口を出て駅前の広場にならび、簡単な注意を聞いて、ここで解散になる。女子の多くは家から迎えがきていた。 「尚さん、うちのお店の車に乗ってゆかない?」  優しい声が尚を呼びとめた。ふり向かなくともその声はわかる。三輪陽子の明るい笑い顔があった。 「ちぇっ、おもしろくねえぞ。おれはくさった」  明夫がひたいを押さえよろめくまねをした。次郎はだまって肩をすくめた。 「ありがとう。でも、おれは明夫や次郎といっしょに電車で帰るから」 「あら、ふたりともどうぞ。気がつかなかったわけじゃないのよ」 「ああ、おれは悲しい。尚君がいなければ、おれはさそってもらえなかったんだ」 「じゃ、乗せていってもらおうか」  陽子はうれしそうにうなずき、広場の向こうに止まっている青いワゴンに手をふった。四つのヘッド・ライトを朝の光にきらめかせて長い車体がすべってきた。運転しているのは陽子の兄だった。尚は陽子の兄とは顔見知りだった。 「おはようございます。乗せてってください」 「疲れただろう。荷物はうしろへ置くといい」  陽子の兄は親切な人だった。  陽子はさらに同級生の|島《しま》|田《だ》|昭《あき》|子《こ》も連れてきた。みんな、家が近かった。  車はタイヤの音も軽快に大通りへ走り出た。  明夫が思い出したようにいった。 「あの隣の車に乗っていた中学生の団体はどうしたろう?」 「ああ、あれか。あれならおれたちのあとから降りたようだったな。ちっとも変わったところはなかったな。ふつうの中学生じゃないか」  明夫は首をふった。 「いや、違う。おれはあのときの感じを忘れないよ。人間らしさが全然ないんだ。金属的ふんいきだった、あれは」 「なあに? なんのお話?」  陽子がたずねた。 「どうもまともな話じゃないんだよ」 「尚君! なにもここでおれを冷やかさなくたっていいじゃないか」 「ごめん、ごめん。それじゃ明夫の名誉のために話そう。陽子さん、実はこういう話なんだ」  尚と次郎は、昨夜の明夫の体験をかいつまんで陽子に話した。陽子は熱心に耳をかたむけていた。明夫は満足げにしていた。 「ふうん。なんだかこわいお話ね。でも、その人たち、ほんとうに何だったのかしら」  尚はだまって苦笑した。明夫はしかつめらしい顔になってあごをさすった。 「あ、そうだ。さっき駅のプラットホームで、私たちの乗ってきた列車の中でアイスクリームを売っていた人たちが話していたわ。何両めかの車を通ったら、持っていたアイス・ボックスの中のアイスクリームが全部溶けてしまっているんですって」 「アイスクリームがみんな溶けていた? それは何両めだったんだろう?」  次郎が考え深そうにたずねた。 「ええ、と。三両め、だったかな。そうだ。四両めのお客さんに売ろうとして箱のふたをあけたら、全部溶けてドロドロになっていたといってたわ。だから三両めよ。その次が私たちの乗っていた車ですもの」 「尚君、三両めといやあ、あのふしぎな連中の車だよ!」 「でもふしぎだなあ。箱の中のアイスクリームが全部溶けるなんて、売る人だってずいぶん熱かったんじゃないかしら」 「さあ、私もちらと、耳にしただけだから」 「尚君、鈴木先生のストロボの電池がだめになっていた、というのはどうしたわけだろう?」 「わからん。まったくわからん。使いもしないのに、短時間で電池がなくなるわけはないんだが」  車は|戸《と》|越《ごし》|銀《ぎん》|座《ざ》をぬけ、|目《め》|蒲《かま》線の|武蔵《む さ し》|小《こ》|山《やま》にはいった。  尚たちの学校はその武蔵小山の駅の南にある。 「まず家に帰って眠ることだよ」           *  |渋《しぶ》|谷《や》駅前の交差点は自動車の流れが絶え間ない。おびただしい数のタクシー、トラック、それにマイカー族。その中を巨大なバスの群れが小さな車の流れを押しのけるようにつづいてゆく。高架線を突進する|山手《やまのて》線のあざやかな緑色が中空を横切る。修学旅行の一団を満載したバスが、ゆっくりと十字路を回りこんでゆく。信号が赤から緑に変わり、せき止められていたいっぽうの車の群れがいっせいに動き出す。  その中に一台のタンク・ローリーがあった。銀色の長大なタンクの横腹に〈日本特殊ブタノール〉と赤い文字で書かれている。スマートな矢印のマークが車体に映えていた。『危険』と染めぬかれた黄色の小旗が風にはためいていた。シュッ、シュッとエアブレーキをふかして猛然と十字路をわたってゆく。  突然、目もくらむ|閃《せん》|光《こう》が大気をつんざいた。まっ赤な炎が一瞬、広場のすべてをのみこんでつなみのようにひろがった。おそろしい爆風が広場をかこむビルをうちのめした。くだけたタンク・ローリーの破片がキラキラと光りながら紙くずのように舞い散った。後につづいていたトラックがふわりと浮き上がって、重さをもたないかのように腹をかえした。  広場はたちまち悲鳴と助けを求める声でうずを巻いた。まだ建物はごうごうとどよめきかえし、窓ガラスの破片が吹雪のように広場に降りそそぎ、おびただしい負傷者が金属とガラスの破片の中でうめいていた。  やがて広場の周辺には、東京中の救急車が集められたのではないかと思われるほど白一色の車で埋められた。かけつけてきた消防車もたちまち負傷者の輸送に動員された。新聞社のヘリコプターが円を描いて|旋《せん》|回《かい》をつづけていた。  渋谷駅前にいたるすべての道路はただちに閉鎖された。渋谷駅前を通過する車は、遠く|三《さん》|軒《げん》|茶《ぢゃ》|屋《や》、|代《よ》|々《よ》|木《ぎ》、|五《ご》|反《たん》|田《だ》、|四《よつ》|谷《や》あたりから|迂《う》|回《かい》しなければならなかった。  この大爆発のニュースは、テレビやラジオでただちに全都に流された。たくさんのやじ馬が広場のまわりに集まった。しかし間もなく、やじ馬たちは不安な面もちで潮の引くように去っていった。だれいうともなく、飛散したタンク・ローリーの破片から強い放射能が検出された、といううわさがささやかれはじめたからであった。  その日の夕刊は、はじめて大爆発の全容を伝えていた。それによるとこの大事故の原因となった〈日本特殊ブタノール〉のタンク・ローリーをはじめ、十台におよぶトラックや乗用車が壊滅し、三十台に近い自動車が大破したり炎上したりしていた。  広場周辺のビルの壁はあらかたくずれ落ち、窓ガラスの割れたものは何万枚か見当もつかなかった。交差点の中心近くは、プールのような大きな穴があいて、|舗《ほ》|装《そう》のコンクリートには太いひび割れが縦横に走っていた。  死亡者はタンク・ローリーの運転手をはじめ歩行者など十五名におよんだ。中でも運転手の死体はばらばらに吹き飛び、ようやく事件の三日後になって、爆心地から三百メートルも離れたビルの屋上から、左手のひじから先だけが発見されただけだった。負傷者は千名を突破していた。その大部分は飛散したガラスの破片によるものだった。  夕刊を開いた者は、さらに驚かなければならなかった。  “埼玉県、|大《おお》|宮《みや》市の郊外で大爆発!  水田、吹き飛ぶ。原因不明の怪事故”  “宇都宮市外の山林で原因不明の爆発! 山火事発生”  どの新聞もセンセーショナルな見出しで、奇妙な爆発事件の発生を伝えていた。 〈……大宮市、宇都宮市の事件も、ともに現場には家屋もなく、爆発物を放置してあった形跡もなく、警察当局も首をかしげている。なお、爆発のあった直前に、同所付近の街道を通過した修学旅行らしい一団を乗せた大型バスを見たという者もあり、あるいはこれが何か関係があるのではないかと現地では調査している……〉           *  尚の家の電話がけたたましく鳴った。電話に出ている母の声が廊下をすべってきた。電話は尚にだった。旅行の疲れはまだからだのしんに重くよどんでいたが、尚は小走りに電話機の前に立った。 「ああ、もしもし、尚君?」 「明夫か」 「きょうの夕刊、読んだろ、すげえな渋谷駅前の爆発」 「まったく、このごろはいくつ命があったってたまらないな」 「な、尚君。新聞に出てたけど、修学旅行らしい一団の乗ったバスが何か関係しているんじゃないかってあったね。あれ、もしかしたら、おれたちの隣の車に乗っていた例の連中じゃないだろうか?」 「おいおい、まだそんなことをいっているのかい?」 「まあ聞けよ。連中、品川からバスに乗ったとして、渋谷へ出て、それから|戸《と》|田《だ》橋を渡り、大宮から宇都宮へ出る。あの爆発のあった時間と一致するじゃないか」 「しかし」 「まだあるんだ。新聞に小さく出ているんだが、午前中、五反田と|板《いた》|橋《ばし》で三十分ぐらいずつの停電があった。それから宇都宮の手前の|栗《くり》|橋《はし》と|石《いし》|橋《ばし》でも。これはみんな道すじだぜ。おれ、地図でよく調べてみたんだ。バスで通過してゆくとして時間的にもぴったり合うんだよ」 「だけど、どうしてそれとあの連中を結びつけたんだよ。ただの思いつきじゃないか」 「尚君。あの連中から受けた印象を、おれはおそらく一生忘れないよ。根拠が薄弱だっていわれるだろうけど、おれには何となくこれはただごとじゃないって気がするんだよ」  明夫のいつにない熱っぽい口調に、尚はあまりつれない返事をするのも気の毒になってきた。 「なるほど。それで?」 「おれたちで調査してみないか? 次郎もさそって」 「調査か。しかし、たいへんだぜ」 「いや、おれ、手順は考えてみた。まず、東京中の観光バスの会社に電話をかけて、あの朝、品川駅から修学旅行の団体を乗せたかどうか聞いてみるんだ」  こうしてこののち、人々の胸にながく恐怖の記憶を残すことになった奇妙な事件は、渋谷駅前の目のくらむ閃光とともにはじまり、その夜の尚と明夫の間の電話で、静かに戦いの幕は上げられたのだった。     2 戦いははじまった 「なるほど、それはいい考えだ。都内のバス会社の営業所にあたってみればわかるな」 「な、尚君だってそう思うだろ」 「明夫にしては上できだよ」 「ちぇっ。それじゃさっそく、あしたからかかろうぜ」 「しようがない。明夫の熱意にこたえて協力するとしよう」 「恩着せがましいこと、いうなよ」  電話の向こうでくしゃくしゃに顔をしかめている明夫が、目に見えるようだった。 「尚君が、うんといってくれれば、次郎はいやとはいわないよ。それでね、尚君。あしたの九時、僕の家へ集合でどうだい」  尚がうん、といったのが、明夫にはよほどうれしかったとみえて、ことばがはずんだ。 「いいけども、電話を使うんだから、明夫の家の、お店のじゃまになっては悪いよ」 「いや、それならかまわないんだ。あしたは定休日なんだよ」  明夫の家は大きな酒屋だった。 「よし、それではあしたの朝、九時に行く」  電話を切ってから、尚の胸に奇妙な興奮が残った。明夫と話している間は、冷やかし半分だったが、受話器を置いてひとりになって考えてみると、まったく妙なことで妙な事件にかかわりを生じてきたものだという、かすかな不安と期待が胸の奥底にわいた。明夫の予感が、はたして当たっているかいないか? もし当たっていたとしたら、尚の胸の不安は急に色濃くひろがってきた。 「……もしもし、調べてみましたけれども、昨日の午前十時ごろには品川駅への配車はありませんでした……」  次郎が肩をすくめた。 「お次は|都《と》|南《なん》交通バス。三八一の一七一七だ」 「……いや、うちでは昨日の午前中は品川方面への配車はしていません……」 「くそ! 次は|北《ほく》|武《ぶ》バス、こいつはどうだろう。二五一の三四二七」 「……品川駅へは午後三時に二台回しているんだけれども、午前中はないですな……」  またか! 三人は受話器を置くたびに、張りつめた気持ちが少しずつくじけてゆくのを感じていた。尚はくちびるをかんだ。次は|京《けい》|葉《よう》観光バスだ…… 「調査の第一歩から気を落としちゃだめだ」  期待をはずされるたびに尚の胸には、はたしてこんなことで捜せるのだろうか? 捜し当てたところで明夫のいうように、ほんとうに怪しい連中なのだろうか? しらじらと興ざめてくるような疑惑がわだかまった。 「明夫、もうよそうや。きっとどこか地方のバスなんだよ。とても捜せないよ」  次郎ははきすてるようにいうと、店の板敷きにごろりと横になった。そんな次郎を力づけるように、明夫はこづいた。 「よし、今度こそ。つばめバスだ。五四五の二七一九」 「明夫、その会社は都内の遊覧バスの会社だよ。宇都宮のほうまでは行かないだろう」  明夫にかわって、尚が受話器を握った。 「……昨日の午前十時、品川駅へは、ええと、うちでは出ていませんね。そうだなあ、ちょっと待ってくださいよ」  さらに何かを調べているらしく、受話器を置く音がコトリと、伝わってきた。尚の目がきらりと光った。一分ほどして、 「ああ、もしもし、二、三日前にね、午前十時に品川駅へ大型バス一台回してほしいというお客さんがあったんですがね、ごしょうちのとおり、うちの会社は遊覧専門ですからね、お引き受けできないからといって、別の会社をお世話してあげたんです。あるいはそれじゃないかな」 「あ、それかもしれない。もしもし、その会社の名は?」 「ええと、タイガー観光というんですよ」 「そうか! 観光会社のバスだったんだ」 「電話番号は三八一の一八一八ですよ。かけてごらんなさい」  礼をいうのももどかしく、尚は電話を切った。 「明夫! 次郎! どうやら軌道へ乗ったようだぞ」  三人の目は、にわかに意欲的にかがやきはじめた。 「……ああ、その団体さんね。それならたしかにうちであつかいましたよ」 「すみませんが、ちょっと教えてください。あの連中は品川からどこへ行ったんですか?」 「あの団体は、浦和から大宮、宇都宮を経由して|御《ご》|前《ぜん》|山《やま》の下を通って|東《とう》|海《かい》村へ行きました」 「東海村? あの原子力発電所のある所ですか?」 「それから|水《み》|戸《と》街道を南下して、夜また東京へ帰ってきて……」 「東京へ? 帰ってきている? ふーうん」 「あなたはあの団体と関係があるおかたですか?」 「いや、そうじゃないけれども、ちょっと調べていることがあるものですから」  タイガー観光の社員は、急に緊張したように声を落とした。 「調べる? すると何かやはり」 「やはり? 何がやはりなんです?」 「いえ、何でもございません。ただ、どうも、その、失礼いたしました」  何かある? 尚の胸に一瞬ひらめくものがあった。 「もしもし、もう一つうかがいたいんですけれど、そのバスの運転手さんに会いたいんですが」  電話の向こうでは、ひどくうろたえる気配があった。 「あ、それでしたら営業所のほうへどうぞ」  電話は切れた。尚は受話器を握ったまま、なお今のことばを胸の中でくり返していた。何かあったんだ。たしかに何か起こったんだ。調べているといったとたんに、あの男のことばのひびきは、微妙な変化をみせた。  明夫も次郎もへんに黙りこくって、机の上の黒い電話機に目を当てていた。  電話番号帳を捜してみると、タイガー観光KK営業所は渋谷の|道《どう》|玄《げん》坂を上がり切ったあたりのようだった。無言で三人は立ち上がった。           *  タイガー観光の営業所は、最近建ったばかりのスマートなビルの一階にあった。そのビルに接した空き地に、淡青色の大型バスが数台ならんでいた。そのうちの一台が、昨日、あの奇妙な一団を乗せて東海村までの往復を走ったものに違いない。  受付で来意を告げると、女子社員のひとりが三人をそこに待たせて、外から中年の男を連れてきた。 「……まったく薄気味の悪い連中さ。品川駅から乗って夕方おそくまた東京に着いて降りるまでに、たったいっぺんもしゃべらないんだ。それがどうも口がきけないのではないらしいんだなあ。なんだね。あれは?」 「先生はいませんでしたか?」  明夫は、ときどきメモをとっていた。その万年筆の動きがひどく|敏捷《びんしょう》だった。 「ひとりいたよ。男のまだ若い先生だったが、この人も何もいわないねえ」 「何しに東海村へ行ったんだろう?」 「さあ。まるでわからないよ」 「めしなんか食べていましたか?」  これは日ごろ、食べる、という作業には非凡なわざを発揮する次郎が、思わず出した質問だ。 「めしなんぞ一口も食わない。めしだけではない。水だって一滴も飲まないんだ」 「運転手さん、そのほかに何かふしぎだと思われるようなことがありましたか」  尚が、注意深い視線を運転手の顔にそそいでたずねた。 「ん、ふしぎなことねえ。いや、実はそれが一つだけあるんだよ。これを|表沙汰《おもてざた》にされると困るんだよ。ぜったいに人にいわないでくれよ。ほんとうはだれにもいいたくないんだが、あんまりふしぎだから話してみよう」  三人はからだを乗り出した。 「東海村の原子力研究所を左に見て、街道を五十キロメートルのスピードで走っていたかな。急におれは気が遠くなった。ふうっと、まるで引き込まれるように何もわからなくなったんだ。気がついたら三十分たっていたんだが、その間、おれはバスを運転しつづけていたんだ。気がついてからぞっとしたね。よく事故を起こさなかったもんだ」 「眠くなったの?」 「いや、眠くなったんじゃないね。とても気持ちがよくなっちまったんだ」  尚と明夫の目がカチリと合った。 「催眠ガスだろうか?」 「サイミンガス? なんだねそれは? あ、それからおれは気を失っていたとしか考えられないが、その三十分の間、車掌もやっぱり正気を失っていたそうだよ」 「車掌さんも? その人はいま、いますか?」 「いや、乗車勤務で、きょうは朝からいないんだが」 「ふうん。それじゃ最後に一つ。その連中は東京のどこに泊まっているの?」 「上野のヒル・サイド・ホテルで降ろしたがね」 「ありがとう。とても参考になりました」  三人はとってつけたように頭をさげると、タイガー観光の営業所を飛び出した。そのあとを運転手はあっけにとられたように見送っていた。  三人の考えは、語り出さないうちにもう一致していた。 「地下鉄で一直線だ!」  三人は、道玄坂をほとんど飛ぶようにかけ下った。           *  ヒル・サイド・ホテルはなかなか見つからなかった。道ゆく人に聞いても首をかしげるばかりだし、パトロールの警官に聞いても、いっこうに要領を得なかった。  親切な人が旅館組合の事務所を教えてくれた。そこへ行って聞いてみると、ヒル・サイド・ホテルは上野公園のちょうど裏手になっていた。  疲れた足を引きずって、三人がそのホテルへたどりついたときには、もう陽はすっかり西へ傾いていた。赤く染まった西の高台には、上野公園の深い森が黒いシルエットになって浮かんでいた。 「なんだいこれは。ヒル・サイド・ホテルなんていうから、どんなりっぱな建物かと思っていたら、まるで木賃宿じゃないか」  モルタル二階建の薄よごれた建物は窓も小さく、その窓もところどころガラスが破れてボール紙でふさいであった。  それでも玄関のわきに、 〈学生様、商人様御宿、大衆料金奉仕〉  という看板が、れいれいしくぶら下がっているところをみると、修学旅行などの団体をおもに泊めるホテルらしい。 「きたねえホテルだなあ。なあ、この間おれたちが奈良や京都で泊まった宿屋のほうがずっときれいだな」 「もしおれたちがこんな所へ泊まらせられるんじゃ、やだよな」  三人はへんなところで優越感を抱いた。 「連中、ゆうべここへ泊まったんだろう。まだいるのかしら」 「聞いてみようよ」  三人は玄関に立った。奥から年とった女が出てきた。 「あの、ちょっとうかがいますが、ゆうべこちらへ泊まった学生の団体はまだいますか?」  女は、けげんそうな顔で、三人を等分に見た。 「いえ、あの団体さんなら、けさ早く出発しましたよ」 「しまった! おばさん、連中、どこへ行ったかわかりませんか?」 「知らないね。あんたたち、あの仲間かい?」  女のことばに、にわかにとげが出てきた。 「ううん違うよ。ちょっと、用事があったものだから」  明夫が|下《した》|手《で》に出た。 「それはお気の毒でしたね」  もう取りつくしまもなかった。三人はげっそりと肩を落として外へ出た。 「ゆうべ、あのホテルで何かあったんだぜ。あの団体をいやに警戒していたもんな」 「でも、どこへ行ってしまったんだろう」 「これで手がかりは断たれたわけか。残念だなあ」  三人は当てもなく上野公園への坂をのぼって行った。  その夜、尚はなかなか寝つかれなかった。一日中歩き回った疲労が、まだ消え残る修学旅行の疲労と重なって、いたずらに目がさえた。しきりに寝返りをうっては、眠りにつこうとしていた。  時計はもうとうに一時を過ぎていた。家の外の道路を走る自動車もしだいに間遠くなりはじめた。半ば目ざめているような苦しい浅い眠りが、ようやく尚をとらえた。           *  Ru、Ru、RuRRRRR  i、i、i、iiii…………  Wan、Wan、Wan、WanWanWan……  遠い海鳴りのようなかすかなざわめきが、浅い眠りをゆり動かした。はじめは遠く遠くかすかに、しだいにはっきりと、尚の耳の奥底に共鳴箱のようにひろがってきた。 「ああ、うるさいな!」  尚は口の中でつぶやくと、寝返りをうって頭をかかえた。  i、i、i、iiii…………  Saaaaaa………………  尚は、ふと、頭をもたげてやみを見つめた。水底のような静寂の中に、何かが見えた。それは青白いかげろうのようにゆらめいて、すぐ見えなくなった。 「だれだ!」  尚は声を低めて叫んだ。青白い半透明のほのおのようなものが、へやの中をめまぐるしく飛びかっていた。へや全体が奇妙な光に照らし出され、尚の顔も手も染めたように青かった。  そのかげろうのようにうつろうものが、へやの中央で|凝集《ぎょうしゅう》した。 「だれだ! おまえは」  尚は身を固くして現れ出てくるものを待った。  そこに幾十の目があった。木の葉のようなりんかくの幾十の目が、まっすぐに尚を見つめていた。その目に、尚の心ははげしく吸引された。  ……ナゼ、ワレワレヲオウノダ。ナゼ、ワレワレヲオウノダ。ナゼ、ワレワレヲ……  ……ワレワレヲタズネモトメタトコロデ、ワレワレハソコニハイナイ。オウノヲヤメヨ……  声にならないことばが、切り裂くように尚の心に飛んできた。それは水面にひろがる波紋のように、尚の心に同心円を描いてひろがっていった。 「なぜだ? おまえたちはいったい何者なんだ?」  ……ソレニコタエテモ、オソラクリカイシエナイダロウ。コレイジョウ、ワレワレニセッキンスルト、キケンダ…… 「きけん?」  ……シブヤエキマエノ、バクハツジコヲシッテイルダロウ。ワレワレニツイテ、シリスギテイタモノガ、アノジケンデシンダ…… 「なに! するとあれは、おまえたちのことをくわしく知っていた者を消すために、そのひとりの人間を殺すだけで、あんなに大きな事故を起こしたというわけか?」  それには答えず、たくさんの目はにわかにするどい光を放った。 「答えろ! だれだ? おまえは」  尚はこのとき、突然、このやみの中に浮き上がっている無数の目が、実はたったひとり、あるいはたった一匹のものではあるまいか、そんな疑惑がわいてきたのだった。 「どこからきたんだ?」  ……ズット、トオイトコロダ…… 「火星あたりか?」  ……イヤ…… 「太陽系の外か?」  ……チガウ…… 「じゃ、太陽系内のどこかだな」  イイカ、モウイチドダケイウ。コレイジョウキョウミヲモツト、キワメテキケンダ……           *  尚ははね起きて、その目玉の群れに向かって突進しようとした。ばねのようにひざを曲げ一瞬の攻撃に移ろうとして、へやの中の|暗《くら》|闇《やみ》に気づいた。青いかげろうのゆらめきも、その向こうに浮いていた無数の目も、幻のように消えてしまった。  耳をすましても、何の物音も聞こえてこなかった。いくら耳をかたむけても、あの遠い|潮《しお》|騒《さい》のようなけはいは、完全に絶えてしまっていた。  尚は長い間、|呆《ぼう》|然《ぜん》とやみの中でからだを起こしていた。廊下のすみで何かがけたたましく鳴っていた。 「うるさいなあ」  夢うつつでつぶやいた。そのひびきが急にやんで、母が何かいっているのが、夜の空気を伝ってきた。 「あっ! 電話だったんだ」  母の足音が小走りに、尚のへやへ向かってきた。 「尚さん、尚さん! ちょっと起きなさい。明夫さんの家から電話なんだけど、明夫さんがいま、ふいに起き出すとふらふらと外へ出て行ってしまったんですって。尚さん聞こえた?」  尚の顔から血の気がぬけていった。     3 襲 う  尚ははね起きて電話へ走った。電話の奥では明夫の母親の声がうわずってかすれていた。 「どうしたんでしょうか? 家へ帰ってきてから、ぶつぶつひとりごとをいったりして、どうもようすがへんだとは思っていたのですが。今、おとうさんが表へ出て捜し回ったんですが、どこにも見当たらないんです」 「ぼく、行ってみます」  尚は上着に腕を通すのももどかしく自転車に飛び乗った。つかんできた腕時計を巻きつける。時計の針は二時半を少し過ぎていた。  新しくできた道路を越えると明夫の家だった。店の前に母親がおどおどと立っていた。  いったん捜しに出た父親は、付近に明夫の姿が見当たらないので、もどってきてモーターバイクに乗って、また捜しに出たという。 「明夫が出てゆくのに気づいて、すぐおとうさんが飛び出したんですよ。それなのにもう姿が見えないなんて……」  尚は黙って暗い夜ふけの町を見つめていた。心に浮かんできたある考えを必死に整理した。落ち着け、落ち着くんだ。 「おばさん。ぼく次郎君の家へ行ってきます」  尚はフルスピードで次郎の家へ向かった。次郎の家では、この夜ふけに突然、尚が訪れてきたのにおどろいたが、尚の緊張しきった顔を見ると大急ぎで次郎を起こしてきた。 「次郎、ちょっと表へ出てきてくれよ。話したいことがあるんだ」 「どうしたんだ? 何かあったのか」  尚は明夫が行方不明になったできごとをかいつまんで話した。次郎の顔は見る見るこわばった。 「そ、それはたいへんだ。じつはおれさっき、とてもふしぎな夢を見たんだ」 「何? 夢を見た?」 「うん。だれかがね、おれのことを呼ぶんだよ。そしてこい! というんだよ。なんだかはっきりしないうちに夢が終わってしまったんだが……」 「次郎おれもね、なんだか|得《え》|体《たい》の知れぬものたちからはっきりいわれた。われわれを追うのはよせ、とね」  次郎がきびしい顔つきでいった。 「尚君、それじゃ、きっと明夫はあいつらに連れ去られたんじゃないだろうか」  ふたりの目は暗闇の中で音をたてるようにぶつかった。尚は太い息を吐いた。 「おれもそう思うんだ……しかし、これはしばらく明夫のおとうさんやおかあさんには黙っているんだ。よけいな心配をかけてはいけない。ただ、次郎、おれたちを強力に援護してくれるような人がほしい。君はだれか知らないか?」  次郎は腕をこまねいた。しばらくして、 「あの人はどうかなあ。|荏《え》|原《ばら》警察署の部長刑事で、ほら、|綿《わた》|貫《ぬき》さんていう人がいたろう。いつか学校で非行少年の問題で座談会をやったときに学校へきたじゃないか」  いわれて尚は思い出した。 「そうだ! あの人に相談してみよう」 「よし、これから電話で警察にいるかどうか聞いてみて、いたらすぐゆこう」  次郎は家の中へ走りこんで行った。ものの五分もたたないうちに飛び出してきた。 「ちょうど今夜、当直でいるんだってさ、さっそく行こう」  次郎も自転車を引き出してきた。 「うちのオヤジさんに簡単にわけを話してこづかいを二千円ばかり前借りしてきたぜ。だって事としだいによっては、どこへふっとぶようになるかわからないものな」  こういう点は、尚や明夫には次郎のまねができない。何か行動を起こすにさきだって、軍資金の心配をするなどというのは次郎のもっとも次郎らしいところだ。  ふたりは深夜の町を風を切って走った。  |中《なか》|原《はら》街道に面して、荏原警察署が、こうこうと|灯《ひ》をともしていた。  昼と違って、がらんとした警察署の内部では、それでも、三、四人の警官が机に向かって書類を開いていた。尚が来意を告げると、ひとりの警官が奥へはいって行った。やがて、ワイシャツ姿のがっしりした体格の男が奥のドアを開いて現れた。 「あ、あの人がたしかに綿貫さんだよ」  綿貫部長刑事は、この深夜に訪れてきたふたりの少年に、ちょっとけげんなひとみを投げたが、それでも微笑を浮かべてふたりを事務室のあいているいすへさそった。 「何かね?」  黒い|眉《まゆ》の下から|精《せい》|悍《かん》なひとみがかがやいた。同時にそれはこれから語られるふたりのことばが、たとえどんなつまらないことでもまじめに耳を傾けようとする誠実さにあふれていた。 「じつは……」  尚が身を乗り出した。あの修学旅行の帰りの列車の中でのできごとに始まって、明夫のゆくえ不明にいたるまでのすべてが、くわしく尚の口から説明された。話の中ほどから綿貫部長刑事の顔つきが変わった。手帳をとり出してメモをとり始めた。そのえんぴつの動きがしだいに速くなる。  話し終わって尚が口を閉じると、彼は深く腕を組んで今とったメモを見つめたまま、長いこと身動きもしなかった。  しばらくして、部長刑事はやおら身を起こした。 「これはたしかにたいへんな事件だなあ。しかしね、ここでちょっと、ことわっておきたいんだが、警察ではね、何事かあきらかに犯罪が伏在しているとみなされる場合でなければ積極的には動けないんだよ。君の話でよくわかったが、どうもこの段階では全面的にわれわれが活動するということもむずかしい。明夫くんの行方についてはパトロールに連絡しておこう。それから爆発事件に関する部分はいちおう、警視庁へ情報として伝えておこう」 「それじゃ、この事件はおれたちだけで解決するしかないんですか」  尚はやや憤然としていった。 「いやいや、それでね、警察の公式活動はまだできない段階だから、私が非公式に君たちに協力しよう。さいわい、あすから三、四日休暇をとろうかと思っていたところだ」  それを聞いて尚も次郎も飛び上がった。こんな強力な援護射撃が加えられようとは思っていなかった。 「こうしよう。明朝七時、五反田駅前に集まろう。捜査の方針は(ここでちょっと綿貫部長刑事はてれくさそうに笑った)まず、彼らがどこにひそんでいるかを発見することだ。これは私が警察内部の友人たちにたのんでちょっと調べてもらえばわかることだ。団体だからな。居場所がわかったらはたしてそこに明夫君がいるかどうか実際にたしかめるんだ。そして取りもどす。あしたの動きは、できればそこまでやりたい」 「はい!」 「それから今夜はきみたちは、家の人と同じへやに寝たまえ。そして腕か足か、ロープででも動かない物に結びつけておくとよい」 「どうしてですか?」 「うん、それはね、たとえば夢遊病患者などでも、起き上がってへやから出ようとして、手か足をどこかに結んであると、それに引っぱられてそのショックでわれにかえるんだ」 「ほどいて出ませんか?」 「戸をあけるとか階段を降りるとか、ふだんやっていることは習慣化しているから無意識にできるんだね。ところが、足と柱をロープでつないでおくなんていうのはふだんないことだから、無意識にそれをとくなんていうことはできないんだよ」 「へえ、綿貫さんは心理学者なんだなあ」 「それではあすの朝、お待ちしています」 「ああ、じゅうぶん注意したまえよ」  ふたりは警察署の外へ出た。綿貫部長刑事の援助を受けられるようになったことは力強いことだったが、明夫の行方不明は、この事件をいよいよ底知れないものにしていった。           *  ふたりが明夫の家へもどると、もう連絡があったものとみえ、ふたりの警官が自転車に乗ってやってきていた。遠く戸越銀座から五反田、|大《おお》|岡《おか》|山《やま》、|旗《はた》の|台《だい》のほうまで捜したが、とうとう発見できなかったという。明夫の母は父にとりすがって泣いていた。 「ね、元気を出してください。あしたから綿貫さんという警察の人が明夫君を捜すのを手伝ってくれるそうです。きっと見つけ出しますから」  ふたりはかわるがわるなぐさめた。 「何かあったら私たちにいえばいいのに。何も家出することなんかないじゃないか」  明夫の母の泣き声を後ろに、ふたりはそれぞれの自宅へ帰った。次郎は父親の隣へ寝床を運んだ。尚は両足を長いテープで柱へ結んだ。もうどこかでニワトリが鳴いていた。遠くのほうから貨物列車のひびきが伝わってきた。           *  朝七時、五反田駅前は人の波だ。駅からはき出された人波は絶え間なく付近の町なみにすいとられてゆく。信号が変わるたびにトラックやオート三輪、バスや乗用車の群れが大きな川のように流れてゆく。高架線をごうごうと走り過ぎてゆく電車、ダイナミックな朝が海のようにひろがった。  その一角に、さっきから人待ち顔に停車している青いステーション・ワゴンがあった。  ハンドルを握っているのは陽子の兄、後ろの席で目を光らせているのは尚と次郎だった。  待つほどもなく現れたのは綿貫部長刑事だ。 「綿貫さーん!」 「ここですよ!」  ふたりの声に綿貫部長刑事はきょろきょろと周囲を捜した。ふたりを見つけると、手を上げた。 「いや、車できているとは思わなかったよ」 「ご紹介します。こちら、同級生の三輪陽子さんのおにいさんです。とても心配して車を提供してくださったんです」 「や、それはそれは、綿貫です。機動力が与えられたのはうれしいですね」 「尚君たちの同級生の、陽子の兄の|鉄《てつ》|也《や》と申します。どうぞよろしく」  ふたりは十年の知り合いのようにえみをかわした。  青いステーション・ワゴンはすべるように動き出した。 「けさ、報告が届いたよ。彼らは東京駅近くのツーリスト・ホテルに泊まったんだ。百三十四名だそうだ」 「百三十四名?」 「綿貫さん、彼らは最初、約五十名ぐらいだったんですよ。バス会社でもそういっていました」 「おかしいな。ふえたんだろうか?」 「彼らのきょうの予定は上野の科学博物館を見学するんだといっていたそうだ」 「科学博物館? 綿貫さん、何だかちょっと、危険な予感がしますね」  陽子の兄の鉄也はハンドルをあやつりながら、わずかに綿貫部長刑事のほうに顔を向けた。 「うん。あそこにはいろいろな機械類や装置が多いからな。何か目をつけているのかもしれん。われわれはまずツーリスト・ホテルへ行って彼らの荷物を調べてみよう。それから科学博物館へ彼らを追う」  綿貫部長刑事は精悍な横顔に闘志を見せて、皆にこれからの計画を説明した。やはり捜査の専門家だ。追及の手順をふんであわてない。 「明夫君に関する情報はまだ何もはいらない。それが心配だが……」  四人の乗った車は、品川駅前を青信号に乗じてフルスピードで通過した。           *  東京駅近くのツーリスト・ホテルでは、前夜一泊した学生服の奇妙な団体については、やはり深い疑いの目で見ていたらしい。綿貫部長刑事がそっと支配人に耳うちするとさっそく、彼らの使っているへやへ通した。 「きょうは科学博物館の見学をなさるのだと申しておりました。おへやはまだそうじもしておりませんが、どうぞおはいりください。……今夜もお泊まりになるご予定です」  彼ら百三十四名は、十名ないし十二名ずつが十一のへやに分かれて泊まっていた。四人は、ひとへやひとへや、丹念にのぞいていったが、手荷物一つとてなく、彼らの行動の目的を示すような何の手がかりもなかった。 「これ、なんだろう?」  あるへやまで回っていったとき、それまで黙って目を光らせていた尚が、へやのすみでけげんな声を上げた。 「どれ?」  みんなの目が尚の見つめているものにそそがれた。へやのすみ、たたみの合わせ目のせまいすきまに、何か|結晶《けっしょう》のようなものがキラリと光っていた。尚はそれをつめの先ではじき出し、指先でつまみ上げた。それは直径五ミリメートル、幅三ミリメートルほどのひじょうに薄い白色の透明な小片だった。 「なんだろう? これは」 「結晶のようにも見えるが」 「いや、鉱物質ではないような気がするなあ。プラスチックのような物質だよ」  尚は、それをていねいにハンケチでくるんでポケットへしまった。  ホテルの女中に聞いても、きのう、あの団体がへやへはいるまでには、たたみの間にそんな物がはさまっているのには気がつかなかったという。まして、そのように光るものならかならずそうじをするときに気づくはずだから、それはあの団体のだれかがけさまでの間に落としたのかすてたのかどちらかであろう、といっていた。 「あんがい、彼らのうちのひとりが、ゆうベプラモデルを組み立てていた、などというのと違うかい」  尚はみんなを笑わせたが、しかしその胸のうちは、しだいに大きくふくらんでくる不気味さにかすかにおののいていた。           *  ふだんの日の科学博物館の内部はじつに静かだ。広大な客室は人の気もなく、しんかんと無数の標本や機械類がならんでいるだけだ。ときおり階段のどこからか、少年の甲高い話し声が聞こえてきたりする。それがかえってこの広壮な内部の静けさをいよいよ深いものにした。  蛍光燈の明るくかがやく階段を曲がって、この電子装置を陳列してある一角へはいってきた一団があった。学生服に身をかため、張った肩とよく伸びた長身が学生というよりもむしろおとなと呼んだほうが近い。もし近くでこの集団をよく観察した者がいたとしたら、彼らがみな非常によく似た顔形を持っていることにおどろいたことだろう。彼らは終始、ひとことも口を開かなかった。黒い流れのようにはいってきた一団はだれが合図するともなく散って、陳列されてあるケースの間へと流れこんだ。 〈メーザーの原理〉  大きな説明札のかけられたケースの前にひとりが立った。まばたきを止めた目がくい入るようにケースの中の電子装置を見つめている。十秒たち、二十秒たった。突然、何の音もなくケースのぶあついガラスに丸い穴が開いた。光も熱も発しない。ただ見えない手で瞬間に切りぬかれたように、直径五十センチメートルほどの丸い穴があいたのだ。その前に立っているひとりはゆっくりと右手をさしのべて、空間に何かを受け止めるようなしぐさをした。その右手には小さな何かの部品がつかまれていた。それをポケットに入れると、ゆっくりとその場を離れた。ケースのガラスはすでにもとにもどっていた。五十センチもあった破れ穴の跡は、すでにどこにもなかった。 〈メーザーの原理〉  陳列ケースは、何事もなかったように、乳白色の蛍光燈の下でかがやいていた。 〈テレビの構造〉  その陳列ケースの前ではひとりが、やはり、音もなく開いた穴から、ブラウン管の電子銃だけを自分の手に移した。電子銃を取り去られたブラウン管は、しかし何の異常もなく映像を映し出していた。  太陽電池、レーダー、電送写真、発電機、|偏《へん》|光《こう》装置、それらの機器類の内部からつぎつぎとさまざまな部品が抜きとられていった。しかし、奇妙なことには、部品を抜きとられたにもかかわらず、それらの機器類はまったくそのはたらきをやめなかったことだ。科学博物館のケースの中におさまっているのは、ほとんどが実物か、あるいはサイズだけを小さくした実物同様の模型である。部品の一つを取り去られてなおはたらきを続けていることなど、考えることもできないことだ。  奇妙な一団はゆっくりと移動していった。彼らは何を手に入れるべきであり、何を必要としないかをよく知っているようだった。 「見ろ! 今度は赤外線誘導装置から何か抜きとったぞ」 「あっ、また!」 「これはたしかに人間じゃない。あのガラスに穴をあけるにしてもふさぐにしても、まったく手も触れないじゃないか!」  階段の手すりにからだをかくして四人は呆然とこのようすをうかがっていた。手すりに開いた装飾の細い縦穴から、おり重なるように四人の目がのぞいていた。四人の顔色は紙のように色を失っていた。 「綿貫さん、どうしましょう」  綿貫部長刑事はうめいた。 「くそ! あきらかに現行犯だが、いま飛び出したところでかないっこないし、悪くすればわれわれは全滅だぞ」  警察官としての正義感と最大の慎重さを必要とするいまの情況が、綿貫部長刑事の胸に渦巻いた。 「三輪さん、君はこのことを博物館の責任ある人にそっと伝えてくれたまえ。われわれはなお彼らの監視をつづける」  陽子の兄はそっと、足音をしのんでそこを離れた。  そのとき、突然、一団の動きが止まった。一瞬、化石と化したような静寂がひろがった。 「三輪さん! 動くな」  綿貫部長刑事がおし殺した声で、にじり動いてゆく三輪さんをとどめた。四人の胸の鼓動がはっきりと聞きとれるほどだった。  奇妙な一団はゆっくりとからだを回し始めた。その手が静かにポケットにすべりこむ。手から手へ、抜きとった部品が送りわたされ、中央に立つひとりのもとへ集められていった。その間にも彼らは静かにからだを回していった。 「いかん! ひっこめ」 「気がついたぞ!」  二百数十の目がこのとき、ぴたり、と四人のかくれひそむ階段の手すりに向けられた。 「下へ逃げるんだ!」 「急げ」  四人は弾丸のように階段を飛び降りた。  目のくらむ閃光がコンクリートの壁面を|灼熱《しゃくねつ》に化した。目の前で鋼鉄の窓わくがくねくねと溶けて流れ落ちた。空気がきんきんと鳴り始めた。何がどうなっているのかわからなかった。四人は必死に走った。正面玄関の向こうに明るい外のしばふが光っていた。  広大な科学博物館の建物全体がごうごうとゆらめきはじめた。窓ガラスがくだけ飛び、タイルばりの壁が、がけくずれのようになだれはじめた。 「早く! 早く!」  正面玄関までのわずかな距離が、絶望的な長さに思われた。まっかな炎がうずまいて吹きつけてくる。 「熱い!」  走りながら次郎が飛び上がった。その肩を綿貫部長刑事がどやしつけた。 「さあ、走れ!」  四人がかけぬけたあとへ、どっと天井が落ちてきた。黒煙とほこりが火山の爆発のように立ちのぼった。四人は背を丸めてようやく外のしばふへ走り出た。あとも見ずに数十メートルつっぱしり、緑のしばふにうち倒れた。だれもしばらくの間はものもいえなかった。あらしのような呼吸の音だけが開いた口からもれた。 「どうなさったのですか、いったい」  背後から人声がした。無意識にふりかえった四人の目に、白い|半《はん》|袖《そで》シャツに黒い制帽の男がふしんそうなおももちで立っていた。科学博物館の警備員らしかった。 「どうしたって君! あれを見たまえ」  綿貫部長刑事がぐいと手をのばしてさし示した。 「あっ!」  傾きかかった午後のひざしをあびて、薄茶色の科学博物館の建物が静かにそびえていた。火も煙もどこにも見えなかった。正面玄関の石段を小学生の一団がぞろぞろとのぼっていく。 「こ、これはどうしたことだ!」 「火事はどうなったんだ?」  四人の顔から冷たい汗がふき出した。次郎が耳を押さえてぐらりと倒れかかった。 「次郎君! しっかりしろ」  三輪さんが次郎のからだをささえて呼んだ。 「何かあったんですか?」  警備員はきびしいまなざしで四人を見すえた。尚はぱっと起きなおって警備員に向かって叫んだ。 「いま、ぼくらは科学博物館の中で……」  そのとき、綿貫部長刑事がすばやく、尚の背をこづいた。  黙って……  綿貫部長のサインだった。尚は口をつぐんでふたたびしばふに腰を落とした。 「いや、君、私どもは怪しい者じゃない。いま、この子が気持ちが悪いというので急いで連れ出したところなんだよ」  綿貫部長刑事が落ち着いた|声《こわ》|音《ね》で警備員にいった。さすがに|貫《かん》|禄《ろく》がそのことばを信じさせたようだった。 「そうですか。いきなりあなたがたが正面玄関からかけ出してきてここへ倒れたものだから、警備員詰所にいる連中もちょっと気になりましてね。いや、それではおだいじに」  警備員は小腰をかがめると科学博物館のほうへもどって行った。それを見送ったまま、だれも無言であった。 「まったくひどいめにあったなあ」  しばらくして、綿貫部長刑事が苦笑しながら立ち上がった。 「でも綿貫さん、ぼくにはとても信じられないんです。あの爆発や火事はうそだったんでしょうか?」  尚は、まだ色を失ったままのくちびるをかみしめた。 「綿貫さん、まるで悪夢を見たような気がします。しかしふしぎだなあ。じっさいたまらなく熱かったが……」  鉄也も、まだ夢のつづきのなかにいるような、さだまらない目つきをしていた。 「こんなことってあるものだろうか」  綿貫部長刑事が、ズボンについたしばの枯れ葉をつまんですてながらいった。 「われわれはおそらく集団|催《さい》|眠《みん》にかかったのだろう。集団催眠というのは、たくさんの人間が一度に催眠術におちいってしまうことだ」 「すると、あの爆発も火事も、ぼくらの心のなかだけで起こったことなのですか」 「ん、まあそうだ。熱いと思ったのも、激しい火事につつまれたと思う心が、連鎖反応的に感じさせたものだろう」  次郎もようやくわれにかえって頭を押さえた。 「ああ、痛い! 頭が割れるように痛むよ」 「おそらく、あの催眠効果が君にだけは、他の人よりも強くはたらいたのだろう。まあ、もう少しじっとしていたまえ」  次郎はうなずいて、しばふに横たわった。 「三輪さん、次郎君をお願いします。ぼくは尚君を連れて、もう一度科学博物館へはいってみようと思う」 「しょうちしました」 「さあ、それじゃ尚君、行ってみよう。もうあいつらはいないだろうが」  綿貫部長刑事と尚はふたたび正面玄関へのぼっていった。警備員がふしぎそうな顔でふたりを見ていた。必死に飛び出していったと思ったら、こんどはふたりでまたやってきた。へんなやつらだ、といった感情が顔に現れていた。  科学博物館の内部はなんの破壊のあともなく、さっきと同じようにしいんと静まりかえって、蛍光燈の光が陳列ケースをまぶしく照らしているばかりだった。しばふで見た小学生の一団のにぎやかな声が、どこからともなくこだまして聞こえていた。だが、あの学生の一団の姿はどこにもなかった。  ふたりはさっき、彼らによって奇妙な方法で荒らされたへやを回っていった。陳列ケースの中では、たくさんの機械やメーター類が、静かにパイロット・ランプを点滅させ、あるいはかすかなうなりを発して動いていた。どこにも破壊のあとや故障を起こしているものなどはなかった。 「綿貫さん、あいつらがいろいろな部品をぬきだすのを、ちゃんとこの目で見たのに、テレビはあのとおり像を映しているし、あの赤外線装置だってちゃんとはたらいている。綿貫さん、もしかしたら、さっき見たあいつらの姿も幻覚だったのでしょうか?」  尚の声はかすかにふるえていた。綿貫部長刑事は深く腕を組んでうなった。 「いや、尚君、部品をぬきだすところまでは現実だったのだろうよ。あのあと、彼らがわれわれのほうを注視したね。あのへんからあとが幻覚だったのだろう。おそろしいやつらだ」 「綿貫さん、部品をぬきとられても、まだこのように機械類がはたらいているのはなぜなのでしょうか」 「それがどうもよくわからないんだ。陳列窓だって穴などあいたようには見えないし……」  念のために、広い科学博物館の内部を一巡してみたが、あの学生たちの一団はすでにどこにもいなかった。 「尚君、これからツーリスト・ホテルへ張り込もう。やはりあいつらと接触を保つことがだいじだ。さあ、出よう」  ふたりは急ぎ足に外へ出た。 「あれ! 綿貫さん、ふたりがいません」 「なに!」  ふたりのこおりついた目に、ただ緑のしばふが明るい日ざしをはねかえしているだけだった。ふたりは走った。鉄也と次郎がいたところのしばふが押しつけられたように乱れているだけだった。ふたりの姿はどこにもなかった。国立博物館の正門の前を、修学旅行らしい女子高校生の一団が長く連なって通ってゆくのが見えた。 「次郎のぐあいが急に悪くなって、病院へでも行ったのではないでしょうか?」 「われわれが科学博物館へはいってからまだ十分もたっていない。それに、次郎君を病院へ連ばなければならなくなったとしても、科学博物館の内部にいるわれわれに何か連絡するはずだ」 「それじゃ、あのふたりは……」  尚は、そこまでいって口をつぐんだ。綿貫部長刑事はそのあとをうけて黙ってうなずいた。そして、 「尚君、私が心配しているのもじつはそれなのだ。明夫君と同じようなケースとも考えられる」  ふたりはそれからは無言で、上野公園の下の駐車場までもどった。青いステーション・ワゴンは、そこへ止めたとき同様に長い車体を横たえていた。 「車は使わなかったんだな」  綿貫部長刑事はボンネットをあけて、エンジンやそのまわりを鋭い目で点検した。 「尚君は、中を調べてくれたまえ」  尚はドアを開いて運転席や、後部の|荷物室《トランク》まで調べた。 「どこにも異常はないようだな」  ふたりはあらためて車内におさまった。 「綿貫さんは、すごく用心深いんですね」  尚は、映画などで、探偵などが自分の乗ってきた車を調べてひそかにしかけてあったダイナマイトなどを発見する場面を見たことがあったが、じっさいに自分がそんな状態におかれることがあろうなどとはこれまで考えたこともなかった。 「ははは、尚君、追跡しようと思う車に、そっと強力な電波発信器をとりつけておくなんてことはよくある手だよ」  綿貫部長刑事はみごとなハンドルさばきで、ステーション・ワゴンを車の列の中からスタートさせた。 「そのへんを少しパトロールしてみよう」  上野駅のまわりを、ゆっくりと走った。もちろんどこにもふたりの姿はなかった。  |広《ひろ》|小《こう》|路《じ》へ出た。十字路に沿ってそびえる高いデパートの窓が火事のように夕日に染まっていた。 「もうこのへんにはいまい。ツーリスト・ホテルへ直行しよう」  赤信号でえんえんとつづく車の列の後ろへ、ステーション・ワゴンをつけた。  ツーリスト・ホテルへは、まだ学生の一団はもどっていなかった。綿貫部長刑事は鉄也の家へ電話をかけた。彼はまだもどっていず、またなんの連絡もなかったということだった。明夫もまったく行方不明のままということだった。綿貫部長刑事は暗い顔で、声だけは明るく、やがて電話機をおいた。  それから、ホテルの支配人といろいろうちあわせていたが、支配人はうなずいてなにか女中にいいつけた。間もなく女中がかかえてきたのは古いシャツやズボンだった。綿貫部長刑事は自分の着ていたシャツやズボンをくるくるとぬぎすてた。そしてよごれたシャツを頭からかぶった。 「綿貫さん、そんなものを着てどうするんですか?」 「電気工事人にばけて、やつらのへやの天井にひそむのだ。服装を変えておかないと、万一怪しまれた場合に困る」  綿貫部長刑事は完全に電気工事人にばけてしまった。腰には幅広のベルトまで巻きつけ、ペンチやドライバーまでさしこんである。ゴムぞうりをポケットにねじこむと、 「私はいまから彼らのへやの天井にひそんでいる。間もなく帰ってくることだろう。彼らのへやの前の廊下のはずれにふとんをしまっておくへやがある。尚君はそのへやにひそんでいたまえ。万一、事態が手におえなくなったときは荏原警察署へ電話したまえ。私の部下の手のすいている者が応援にきてくれるはずだ。それから、と、もし彼らの中に次郎君や三輪さんがいても今はけっして声をかけてはいけないよ。懐中電燈、手袋、これがホイッスル。そうだな、何か手ごろな武器を持ちたまえ」  綿貫部長刑事は、尚にてきぱきとこれからの行動について説明した。 「それじゃ、しっかりたのんだよ」  綿貫部長刑事は、支配人といっしょに奥へ消えていった。どこから天井へ上がるのだろう。尚は手袋や懐中電燈をズボンのしりのポケットにつっこみ、ホイッスルを首からかけた。そして長さ一メートルほどの鉄棒を女中から借りると、それをかかえてふとんべやにもぐりこんだ。  三畳ほどのせまいへやはふとんが積み重ねられ、かびくさい空気が重くよどんでいた。尚は壁ぎわに積み重ねられたふとんを少し押し出して、そのあとにせまい空間を作った。そのふとんと壁の間のせまいすきまに身を入れ、いざという場合は頭の上にふとんをずらしてしまえば、たとえこのへやにだれかがはいってきても、わからないだろう。尚は、いっぽうの小窓のカギをはずして、いつでもここから外へ出られるようにした。さいわいドアには小指の先ほどの小さな穴があいていた。そこから自由に、廊下と彼らのドアをうかがうことができた。 「さあ、いつでもこい」  尚は足音のしないようにスリッパをゴムぞうりにはきかえ、ふとんの山の上へ腰を下ろした。  せまいへやはまるでむしぶろのように暑かったが、緊張にみなぎった尚には少しも気にならなかった。  それから三十分ほどして、急に玄関のほうがさわがしくなった。大勢の足音が入り乱れ、やがて尚のひそむふとんべやの前の廊下に近づいてきた。 「きたぞ」  尚はドアの穴にそっと片目を当てた。  彼らは黙々と廊下を踏んで、それぞれのへやに散ってゆく。科学博物館で見たままの黒い学生服に身を固め、まるでたがいに見も知らぬ他人どうしのように、無表情でそれぞれのドアへ消えてゆく。 「あっ!」  尚は思わず心の中で叫んだ。最後の数人が廊下を歩いてゆく。その中のふたりは、あきらかに三輪さんと次郎だった。 「ど、どうしたんだ! ふたりとも」  尚は廊下へ飛び出してゆきたい衝動を必死にこらえた。 「ふたりともあいつらと同じように学生服を着て、くそ! あいつらの仲間にされてしまったんだろうか」  尚はわきあがってくる不安を、くちびるをかんでこらえた。  そのまま、なんの音も聞こえてこなかった。 「あいつら、いったい何をやっているんだろう?」  いまごろ、綿貫部長刑事はまっくらな天井で、忍者のようにへやのようすをうかがっていることだろう。尚はしだいに、こうしてふとんべやにじっとしのんでいることに耐えられなくなってきた。尚は落ち着かなく、ドアの穴に目を当てつづけた。  そのとき、尚は、背後のガラス窓のすみから、二つの目がじっと自分に注がれていることに気づいていなかった。     4 やみの中の声  中央線|高《たか》|尾《お》駅を降りて、駅前を通っている広い街道を左へ行く。そして鉄橋の下をくぐり、なおしばらく進むと、|小仏《こぼとけ》峠への登りにかかる横道が街道の右にある。幅三メートルほどの目だたないいなか道である。それをたどってゆくと、両側には木立やかりこんだ植え込みに囲まれた農家がつづく。小学校や会社の寮らしい建物があったり、桑畑がつづいたり、道は右に左に曲がる。右側の高い丘陵の中腹を中央線が通っている。左からは渓流のひびきがわきあがってくる。  道はいよいよせまく、いかにも|峠《とうげ》への登りらしく、深い草むらや雑木林が両側をおおっている。やがて短いトンネルをくぐりぬけると、間もなく中央線の小仏トンネルの四角いコンクリートの入り口が見えてくる。この道をたどらずに、トンネルの手前を左にたどれば、道は細く、今にも絶えそうに高尾山の西の裏山のすそへ回りこんでゆく。  午前一時。トンネル口にさしかかった貨物列車の先頭をゆく電気機関車の警笛の音が、さびしく山やまにこだまして消えていったあとには、聞こえるものは木々のこずえをわたる風の音と、やみの奥からひびいてくる渓流の音だけだ。空はいちめんに星がまたたき、その星空に黒々と小仏峠へつらなる|稜線《りょうせん》がそびえていた。遠い山の中腹に、かすかに灯がひとつまたたいているのは、航空標識燈かなにかだろう。  この深夜、|山《やま》|間《あい》の深いやみの中を、ひたすらに足を急がせる一個の人影があった。やみと草むらにともすれば見失いそうになる山道を、彼は足もとをたしかめるでもなく、また人の住むけはいさえないこの|谷《たに》|間《あい》をおそれげもなく、ただひたむきに歩いていた。  明夫だった。  シャツは汗とほこりにまみれ、目はうつろに狂人のような光を放っていた。明夫はいま、自分がなぜこのようなところを、なんのために急いでいるのか、まったく考えようともしなかった。明夫の胸にあるものはただ〈歩け!〉という衝動しかなかった。父も母も、尚のことも次郎のことも、彼の頭からは煙のように消えうせてしまっていた。  そう、あのときからだった。明夫が眠りについて二時間ほどたったとき、明夫は深い眠りの中で自分の名を呼ぶ声を聞いた。それに気づいたのも、けっして目がさめたからではない。眠りの中の意識の消えた大脳の中へ、とつぜん、水のようにしみこんだそれは奇妙な呼びかけだった。 〈歩け! 外へ出るのだ!〉  明夫は自分の心のままに手早く身じたくをすると、夜のやみの中へ出た。意識はなお深い安らかな眠りの中にあった。明夫は深夜の町を急いで|目《め》|黒《ぐろ》へ出た。目黒から渋谷へ、そして|新宿《しんじゅく》へ。なぜか中央線に乗らなければならないような気がした。新宿駅の近くで、よっぱらいのようにビルの壁によりかかってその日の最初の中央線の下りを待った。高尾で降りたが、それから先どうしたらよいのかけんとうもつかなかった。明夫はそのまま待合室の堅い木のベンチに倒れて眠った。こんどは真の眠りだった。夜が明けたが、明夫はそのまま、まる一日をそこで過ごした。夜にはいってふたたび〈進め〉と耳にできない衝撃を受けて、明夫は歩きはじめた。その心はなお深く、厚く閉ざされていた。  ゆくての深い木立の奥で、一瞬、かすかにきらめいたものがあった。それは一枚の木の葉が月光をはねかえしたかのように見えた。しかしそれは、木の葉のかがやきではなかった。  木立の奥に、奇妙な平たいものがななめにかたむいて、銀色に月光をはねかえしていた。それは巨大なさらのように見えた。中央部がドームのように半円形に突き出ている。  明夫はそれにおそれげもなく、足を速めて近づいて行った。           *  時間は刻々と過ぎていった。尚はじっとしんぼう強く待ちつづけた。外部から聞こえてくる町の騒音もいつしかしだいに低く弱まり、時計はすでに十時を過ぎていた。ツーリスト・ホテルの内部はしんと静まりかえって、人の動くけはいもなくなった。 「あいつら、どうしちまったんだろう? 物音一つしないが。よし、ひとつ偵察してやろう」  尚はそっとドアを押した。カチッと金具の鳴る音が低くひびいた。尚は首をすくめて石のようにからだをかたくした。  気づかれはしなかったろうか?  しばらく息を殺して周囲のようすをうかがったが、いぜんとして動くもののけはいもなく、すべてのドアはかたく閉ざされたままだった。尚はするりと廊下へすべり出た。ゴムぞうりは足音をまったく消してくれる。  いちばん手前のドアの前にたってようすをうかがったが話し声ひとつもれてこない。つぎのドア、これも何も聞こえない。そのつぎのドアは? やはりだめだった。すべてのドアは、尚の期待もむなしく、室内をうかがうすべはなかった。  尚は胸の中でののしった。これではまったく調べることもできないではないか。尚は玄関から外に出た。庭へ出てみたが、彼らのへやの窓はことごとく雨戸が閉じられていた。 「そうだ!」  尚は急いでホテルの帳場へもどった。支配人に耳うちして新しいシーツを数枚用意させた。それをかかえ、尚は廊下をもどった。  彼らの部屋の一つの前に立った。ドアをノックする。 「おそれいります。シーツの数がそろっておりましたでしょうか。気がつきませんで」  尚はいかにもすまなさそうな声をかけた。  彼らは、自分たちで寝床の用意をするからといってへやの係りの女中も中へはいれなかったのだ。 「ごめんください。シーツを……」  第一のドアはやはり声もしなかった。  ……おかしいぞ! もう眠ってしまったんだろうか?  第二のドアも答えがなかった。 「シーツがそろっておりましたでしょうか」  つぎつぎと訪れるドアもすべて何の反応もなかった。尚の胸には深い疑惑が濃いかげを落としはじめた。 「ごめんください」  尚は、思いきってドアのノブに手をかけ、ぐいと回した。しかし、内部からカギがかけられているとみえ、ドアは開かなかった。……すると、やっぱり彼らは中にいるんだ。もちろんへやから出ていったようすはない。なぜこれほど呼んでも答えがないのだろう?  尚はついにシーツをかかえて帳場へもどってきた。 「こうなればしかたがない。よし!」  尚はふたたび支配人と打ち合わせをはじめた。 「天井にあがるのは奥の物置部屋からです。どうぞこちらへ」  支配人は尚を奥の一室に案内した。そこは、冬使う電気ごたつや、ざぶとん、予備のテーブルなどが雑然と収められているへやだった。その天井板の一枚をはずして、尚ははいあがった。  綿貫部長刑事がその後、どうしているか知りたかったが、天井裏で声を出すわけにもいかない。尚はほこりだらけのはりの上をそろそろと前進した。やみの中にひとみをこらして下のへやのありかをさがす。見当をつけておいてそっと天井板に足をかけた。  そのころになって、あせらずにあのふとんべやに身をひそめていたほうがよかったのではないだろうか、という思いが、ちらと胸をかすめたが、尚は首をふってその考えを向こうへ押しやった。尚は用意してきたキリをそっと天井板にあてた。静かにキリの先端をもみこむ。音をたてないようにゆっくりと静かに。やがて小さな穴があいた。尚はからだがほこりでよごれるのにもかまわず、その穴に目を当てた。  室内は明るく蛍光燈がともっていた。その灯の下に、いた!  学生服の姿の数人が床に散乱していた。それはまったく散乱としかいいようがない状態だった。ひとりはへやのすみに、もうひとりは入り口のドア近く、そして三人がへやの中央におり重なっていた。  尚は思わず息をのんだ。  ……死んでいるのか!  しかし、死んでいるのではないらしかった。ひとりがかすかにうめいてごろりと寝返りをうった。中央に重なった三人はぶるぶると全身をふるわせていた。  ……病気なのだろうか?  ひとりは上半身をくねくねとくねらせると、奇妙な叫び声を発した。  Ki……Kiii……N  そして、はたと、動かなくなった。  尚の全身は水を浴びたように冷えあがった。  ……これはたしかに人間じゃない! 何だろう? あのからだの動きも、とても|脊《せき》|椎《つい》動物とは思えない。あのうごめき! あの叫び声! 尚は、全身が金しばりにあったように動けなかった。|呆《ぼう》|然《ぜん》と数分が過ぎた。  ふいに足もとでドアが開く音がした。だれかがへやにはいってきた。尚は小さな穴から見るかぎられた視界に、やきつくような|焦燥《しょうそう》をおぼえた。はいってきた男は床に倒れている仲間のひとりひとりのからだを調べ始めたようだった。ときおり首をひねりながら奇妙な装置を操作している。……何をやっているんだろう? 病気にでもなった仲間をなおしてやるのだろうか?  Gun……n  zaaa……a  またしても奇妙なうなりが尚の耳に伝わってきた。倒れている学生服の連中は、まるで気の狂った軟体動物のように、気味の悪いけいれんを始めた。  ……とにかくつぎのへやも調べてみよう。  尚は息苦しくおどる胸をおさえて移動した。あまり奇妙な光景に腰から下がへんに浮きあがって力がはいらなかった。  つぎのへやの内部も同様だった。ここでは八人の人影が横たわっていた。そして何かを求めるように、手足を使ってずるずるとはいまわっていた。  ……三輪さんと次郎はどこにいるんだろう?  尚はつぎつぎと部屋をのぞいて回った。最後のへやをうかがった。「あっ」と思った。次郎だ! 次郎はたましいのぬけた人間のように、ぼんやりと壁によりかかっていた。焦点の定まらないひとみ、どうやらくちびるからよだれをたらしているようだった。ほかにだれもいない。監視する者もいないのに逃げ出そうともしないでぼんやりしているのは、おそらく正常な判断力や記憶力をうばわれてしまったのだろう。  ……くそ! 待っていろよ、今に助け出してやるぞ、しかし三輪さんの姿が見えないのがふしぎだ。どうしたんだろう?  ……それにこの天井裏にひそんでいるはずの綿貫部長刑事はどこへ行ってしまったんだろう?  尚はにわかに激しい孤独感におそわれた。たったひとりになってしまった不安と心細さがしだいに恐怖に変わりはじめた。尚はじわじわと迫ってくる不気味な何ものかのけはいとおそれに、背を丸めて後退した。今にも後ろから、得体の知れぬ怪物がおどりかかってくるような恐怖が尚の背すじをこおらせた。物置部屋の天井板をずらして一気に床に飛びおりた。はずみをつけて立ちあがった尚の全身の血がこおりついた。目の前に学生服を着た一個の人影があった。 「な、何だ! きさまは!」  尚は胸の奥底からつき上げてくるふるえをおさえようもなかった。 「……コレイジョウ、ワレワレニキョウミヲモツトキケンダト、ケイコクシタハズダ」  低くささやくようなその声は、なぜか尚の鼓膜に針をつらぬき通すような金属的な痛みをあたえた。 「警告だって?」 「オマエノネムリノナカデケイコクシタ。ワスレタラシイナ」 「ああ、あのとき!」  一瞬、あの夜のできごとが火花のようにひらめいた。  男は灰色の目をあげて尚の顔を見つめ、すっと音もなく足を踏み出した。尚はじりじりと後退した。  ……くそ! こんなところでやられてたまるか。  尚は絶望的な思いに胸をふさがれながら必死に周囲を見回した。雑然とさまざまな物を積みあげてある。 「サア、ワレワレノヘヤヘクルノダ」 「ふざけるな!」  尚はあとずさりながら、とっさに積んであった小さな金属性の灰皿をつかんだ。 「サァ!」  男はつと手をのばした。その手の先端からすさまじい緑色の光がほとばしった一瞬、尚はまりのように床にころがった。その手から金属の灰皿が弧をえがいて飛んだ。男の指先からひらめいた閃光はその灰皿を宙でとらえた。  グワッ  白熱の炎がふくれあがった。薄暗い電球がくだけ散って、急に白熱の炎が天井までとどいた。  舞い狂う灰の中で、学生服の姿がのたうった。  Hiiii……n  |甲《かん》|高《だか》いひびきが尚の耳をつらぬいた。尚はくだけた灰皿をつかむと、のたうち回る男のからだへたたきつけた。突然、男はからだをちぢめて動かなくなった。  ゴーッ  炎は天井を突き破り、ふすまも壁も床も今は火の海だ。  尚は動かなくなった男のからだのどこかをつかむと、猛然とドアに向かって突進した。髪に火がついてちりちりとちぢむのがわかった。からだでドアを押しのけ、男のからだをずるずると引きずりながら出口へ走った。 「火事だ」……「火事だぞ」  どこかでけたたましい叫びが起こった。  窓のあく音、人のかける足音が騒然とまき起こった。火はすでにホテルの外壁をなめ、軒下をしっぷうのように走った。  どっと火柱がふきあがり、幾千の火の粉が川の流れのように夜空をおおった。尚は男のからだを引きずってホテルの裏口からすべり出た。そこはもう近所からかけつけてきた人びとでごったがえしていた。尚は、人びとに怪しまれないように男のわきの下に手を回し、肩を組み、人ごみにまぎれた。  炎は高く天をこがした。消防自動車のサイレンがつなみのように四方に聞こえていた。尚は裏道のなるべく人通りの少ない道を選んで、火災の起こったホテルから遠ざかっていった。ど……どうしよう? これから。逆転勝ちでどうやら敵のひとりをとらえた。このえものを徹底的に調べて正体をさぐり出さなければならないんだが。……たのみの綱の綿貫部長刑事も、三輪さんも、どこへどうなってしまったのか? 次郎は? そうだ、次郎は!  尚は暗い町の向こうに燃えあがる赤い火の色をふり返った。次郎はあの炎の中にいるのだ! 助かったろうか。尚はくちびるをかみしめた。           *  戦いはようやく今始まったばかりというのに、すでにさんたんたる幕あきだった。  尚はしばらく考え、思いきって公衆電話のボックスへ飛びこんだ。ダイヤルを回すのももどかしかった。やがて電話機の奥に三輪陽子の明るい声が流れてきた。 「陽子さん、おれだ。村上尚だ。じつは大急ぎできてほしいんだ。わけは電話では話せない。君がきてからよく説明する。たのむ! 今、おれのいるところは……」  いぶかしそうにまゆをひそめている陽子の顔が目に見えるようだった。なにしろもう午後十一時近い。こんな時刻に陽子が家を出てくることなど不可能かもしれない。尚は必死だった。 「おとうさんに聞いてみるわ」  陽子が奥へしりぞいていったのを待つ間の何分かは、尚には無限の時間に思えた。ようやく陽子の声がもどってきた。 「おにいさんもいるんでしょう?」 「ああ、今、電話に出られないけれど」  尚はうそをいった。今、陽子の兄があいつらにとらわれたあげく、行方不明だなどとは口が裂けてもいえない。 「それじゃゆくわ。待ってて」 「ああ、たのんだぜ」  尚は電話ボックスの中でぐったりと肩を落とした。とらえた敵のひとりを石べいにもたせかけ、自分はそれをかいほうしているような姿勢をとった。  夜空はなお赤く染まり、ときおりもののはぜる音がかすかに夜空を伝わってきた。四十分ほどそうしていたろうか。やがて町かどを回って一台のタクシーが走ってきた。 「おうい! ここだ、ここだ」 「どうしたの? 尚さん」  灯影から離れた暗闇でも、尚の衣服がところどころこげ、たれさがっているのがわかった。 「いいか! おどろかないで聞いてくれよ」  尚はこれまでに起こったさまざまなできごとをかいつまんで陽子に話した。陽子の顔が見る見る夜目にも色を失ってゆくのがわかった。 「尚さん! 私、とても信じられない。でもほんとうのことなんでしょう。こわいわ」 「ね、君を呼んだのは、今おれにはまったく味方がいないんだ。相談相手になってもらいたいんだ」  陽子は深い息をはいた。一度、遠い火事の火炎を見て、それから尚の顔を見つめた。 「わかったわ。こわいけれどお手伝いするわ」 「ありがとう」  尚は急に力がよみがえってくるのを感じた。ふたりはいそがしくこれからの計画を相談した。 「まず、そのホリョをどこかの大学か病院へ持ちこんで、いったい何者なのか調べてもらう必要があるわね。そして正体がはっきりしたら、そのときこそ警察なり新聞社なりへ知らせて本格的な対策をたててもらえると思うわ」  いったん事態の中に身をおくとなると、陽子はいつも決定するのが早かった。しかもその判断にあまりまちがいがない。そんなところが尚は好きだった。 「よし! そうしよう。で、どこがいいだろう?」  陽子はしばらく考えて、以前、|親《しん》|戚《せき》のおじさんが入院した病院がこの付近にある、といった。 「|若林《わかばやし》先生といったわ、小さな病院だけれども」 「じゃ行こう」  陽子の記憶をたよりに、ふたりは学生服のとりこをかかえて歩き出した。陽子の記憶にまちがいはなかった。やがて裏通りの自動車の音も遠い静かな一角に小さな病院があった。 「ほら! あの病院よ」 「あれか、でも、胃腸科って書いてあるぜ。こいつ、腹をこわしてるんじゃないんだよ」 「何いってるのよ! からだの構造を調べてもらうんじゃないの」 「そりゃ、ま、そうだけど」  とつぜん訪れてきたこの中学生たちに、とりつぎに出てきた看護婦は露骨に警戒心を示した。 「おねがいです。すぐ見ていただきたいんです。ひどい苦しみようなんですから」  尚はほんとうに自分が苦しんででもいるかのような声をふりしぼった。看護婦はおどろいて顔をしかめた。  診察室へ通されると間もなく、和服の上から白衣をつけた年配の院長が現れた。 「どうしたね? 友だちのぐあいでも悪くなったのかな」  やさしくほほえんで皮の丸いすにどっかりと腰をおろした。 「じつは先生……」  尚はさっき陽子に話したと同じように、これまでのできごとをかいつまんで説明した。はじめは、あっけにとられたように尚の口もとをながめていた院長の顔が、しだいにけわしい色をたたえていた。 「待ちなさい。説明はあとで聞こう。先にその患者を見せなさい」  尚のことばに院長は明らかに異常なものを感じたのだろう。手早く白衣のボタンを止め、そで口をまくりあげた。尚と陽子は学生服のからだを寝台の上に押し上げた。  院長のきびしいひとみが光った。  学生服がぬがされ、下着のボタンがはずされていった。院長は恐ろしい目つきで、ひとり黙々と何ごとかうなずきながら診察をはじめた。耐えがたい緊張が診察室をみたした。  とつぜん、院長がふたりをふり返って叫んだ。 「君! これは! これは人間じゃない! 内部にはいっているのは内臓ではない」  院長の声はかすかにふるえていた。院長は看護婦に向かって叫んだ。 「おい! いそいでレントゲン室の用意をしてくれ! それから手術室も。レントゲンの結果によっては内部をたしかめる必要がありそうだ」  たちまち病院内のあちこちのへやに、真昼のような灯がともされた。 「ぼくたちにできることがあったら、お手伝いします」 「そうか。それでは手伝ってもらおう」  十分後に一枚のレントゲン写真ができあがった。これを蛍光燈にかざし、のぞきこんだ三人は思わず息をのんだ。 「ほ、骨がないじゃないか」 「心臓も! 肺も! 何もない」  そのとき、奥の手術室から恐ろしい悲鳴が聞こえた。ガラガラともののくずれる音がつづいた。  尚は弾丸のように手術室に向かって突進した。白いドアのノブをつかむのももどかしく、ドンとけとばした。まばゆいサークルランプの下に、上半身はだかの男が仁王立ちになっていた。その手に、レントゲン撮影装置の重い部分品が握られていた。 「おい! おとなしくするんだ」  尚は全身の力をふりしぼって叫んだ。  ……Hiiii……NNN…………  聞きとれないほど高い振動音が手術室の空気をふるわせ、尚の鼓膜をつきさした。 「うっ! 痛い」  尚は思わず耳を押さえてよろめいた。両手でしっかり耳をふさいでも、その音は|頭《ず》|蓋《がい》をつらぬき、大脳の奥にキリをもみ込まれるような苦痛を与えた。尚は夢中でドアの外に退いた。 「やっ、息を吹き返したな!」  尚の後ろで院長がたまげるように叫んだ。  男は大きく手を回して、握っているレントゲン装置の重い金属の箱を、恐ろしい力で投げ飛ばした。  ピューン……それが室内の空気を切る音を、尚ははっきりと聞いた。 「伏せろ!」  一瞬、三人は床にからだを投げた。ひどい音をたてて金属の箱は柱を打ちくだき、壁をつきくずした。まるで地震のように廊下や天井がぐらぐらとゆれ動いた。 「逃げろ! 逃げるんだ!」  三人はからだをまるめると玄関のほうへ走った。ふたたびこの病院の建物がいまにもくずれ落ちんばかりに鳴り響いた。 「君、これはおそらく、レントゲン線があの生物の神経中枢のどこかに強い刺激を与えたのだ。息を吹きかえしたのはいいが、君、あれは気が狂っているのかもしれないぞ」  院長が尚の耳にささやいた。声は激しくふるえていたが、さすがに科学者だけに重要なところはすべて見通していた。 「どうしましょう?」  三人はいつでも外へ逃げ出せるように玄関のドアを開いたまま、奥の手術室のけはいをうかがった。あれきりなんの物音も聞こえてこなかった。 「君!」  院長は陽子に目くばせした。 「表通りに出たところに公衆電話がある。警察へ連絡したまえ。診察室の電話を使うのは危険だ……」  陽子はうなずいて、するりと外のやみにすべり出て行った。 「よし、そっともどってみよう」  ふたりは足音を忍ばせて手術室につづく廊下をもどった。くずれ落ちた壁を乗り越え、開いたままのドアから明るい内部をのぞき込んだ。手術室の内部はめちゃめちゃに破壊され、レントゲン撮影装置や手術台が散乱していた。あの男の姿はどこにもない。 「逃げたか」 「看護婦はどうしたろう?」  若林先生は身をひるがえして、急いでレントゲン室にかけ込んだ。レントゲン室のすみに、気を失った看護婦がどろ人形のように打ち倒れていた。院長は看護婦をかかえ起こした。 「よかった。気を失っただけらしい」  手術室のいっぽうの窓が、窓枠ごと打ちくだかれていて、男はそこから庭へのがれ出たものらしかった。 「まだ、遠くへは行くまい。君、あとを追おう。きなさい」 「ここはこのままでいいんですか?」 「あとは看護婦にまかせて、とにかく追跡が先だ」  おりから、すさまじい音で眠りをさまされたらしく、目をこすりながらまだ若い看護婦が、奥の住居のほうから現れてきた。若林先生はその看護婦にかみつかんばかりにさしずを与えた。看護婦は何がなんだかわからないながら、手術室のすさまじい破壊の跡を見て、見る見るまっさおになった。 「行こう!」  若林先生と尚は玄関から夜の町へ走り出た。もう深夜に近い町は自動車のライトも絶えて、街路燈だけがいやに明るく、それがかえって広い通りをむなしくさせていた。 「どっちへ行ったろう?」  ふたりは忙しく左右を見回した。二百メートルほど向こうの公衆電話のボックスのドアが開いて、陽子の姿が現れた。尚が手を振ると、陽子は一散に走ってきた。 「いかん、逃げ出した!」 「どっちへ行ったの?」 「そうだ。君が見なかったとすると、あっちだろう」  三人は目を見かわすと、公衆電話とは反対の方向へ一団になって走った。すぐ十字路がある。しかしどの方向にも、走る人影はもちろん、犬の子一匹姿を見せなかった。 「おかしいなあ、あの手術室から逃げ出してまだ三分もたっていないんだ。そんなに遠くへ逃げたはずはないんだがなあ」  三人はキツネにつままれたように立ちすくんだ。ひどく不気味なものがじわじわと迫ってくるような気がして思わず肩をすくめた。街路燈の光の届かない暗いやみの中から、あの灰色の目が三人の上にじっとそそがれているような気がした。  遠くからサイレンの響きが伝わってきた。赤い回転燈をきらめかせて、パトカーが猛然と走ってきた。 「おうい! ここだ、ここだ」  院長は手を振った。三人の姿を目に止めてパトカーは急ブレーキをかけた。           *  残ったたった一枚のレントゲン写真が、この奇妙な事件の唯一の手がかりだった。ツーリスト・ホテルの火災跡からも、何も発見されなかったし、もちろん上野の科学博物館でも、その後もなんの異常も変化もなかった。事実上、事件の輪郭を伝えるなんの物的証拠もなかった。ただ、明夫と次郎、それに三輪陽子の兄の鉄也、綿貫部長刑事の四人が、なぜかつぎつぎに姿を消してしまっただけだ。しかしこれとて、事件の内容を伝えているわけではない。  最もふしぎなことは、ツーリスト・ホテルに泊まっていた例の学生服の一団が、あの火事の中から煙のように消えてしまっていることだった。いまこれら一連の事件を一つにつなぐことができるのは、尚ひとりになってしまっていた。  警察では、尚のこれまでの事件の説明、それに若林先生の、あのレントゲン写真の奇妙な映像についての慎重な説明が、くり返しくり返し聞きとられたが、綿貫部長刑事のいったように、それだけではなお警察が動き出すには証拠が少なすぎた。実際、すぐれた警察官でも、こんな雲をつかむような話では、理解しにくいのもむりはなかった。尚はくちびるをかんでうつむいた。院長も黙って腕をこまねいた。  三輪陽子のなげきは深かった。兄の行方不明を知り、この事件が彼女にとってにわかに、重大な意味をもってきた。  三人は警察から出ると、もう明け方近い町を、それぞれのおそれと闘志を抱いて黙もくと歩いた。 「あいつらは、いったいどこへ行ってしまったんだろうか? これからどうやって、あいつらを捜し出そうか」  大海の中に、ひと握りの魚の群れを放してしまったように、すべての手がかりはここでぶっつりと断ち切れてしまった。 「残念だな。なんとかしてあの男を、いやあれは男ではないな。あれをのがすのではなかったな。実に貴重な標本だったよ、あれは」  若林先生はくやしそうにつぶやいた。     5 奇妙な宇宙船との戦い  ようやく東の空にその日の最初の光が動き始めた。夜の暗闇に代わって、しだいに明らかになってくるあかつきの光が、アメリカ軍の|厚《あつ》|木《ぎ》基地のB滑走路を大河のように白く浮きあがらせていた。いま、長大な翼を張って、一機の大型ジェット機が離陸してゆく。エンジンのノズルから、輝く炎をふき出しながら、しだいに速度を速めて地上を離れた。エンジンの音がいちだんと天地をふるわせる。 〈コチラ、セント・エバンス4号。コレヨリ、ウエーキ島ヘムカウ。コントロール・タワー(航路管制局)ドウゾ。コチラ、セント・エバンス4号。コレヨリ……〉  機上から見る下界はまだ暗闇に閉ざされていた。その下界にまたたく無数の灯は、星空のように美しかった。東京を左に見てジェット爆撃機セント・エバンス4号はまっすぐ太平洋上に出た。  機長のコリンズ中佐はタバコに火をつけて深く息を吸った。経験を積んだ中佐だったが、それでもジェット機の離陸にはいつもひどく緊張する。紫色のタバコの煙はゆっくりと流れ、排気装置に吸い込まれてすぐ見えなくなった。  とつぜん、操縦席のハウ少佐とクレイ少佐がコリンズ中佐を振り返って何か叫んだ。ハウ少佐がキャノピー(操縦士席の上の透明な|天《てん》|蓋《がい》)の一角を指さして、怪鳥のようにのどをふりしぼった。 「なんだ? どうしたんだ」  コリンズ中佐は指にはさんだタバコを灰ざらに押しつぶすと、操縦席のふたりの指さす方向に目を走らせた。高空から見やる東の空はもうすっかり|紺青《こんじょう》に晴れあがり、まだ夜のやみにふかぶかと閉ざされた海面と明暗を分かち合っていた。その紺青の空におそろしく大きなものが浮かんでいた。|紡《ぼう》|錘《すい》|形《けい》のシルエットは、そのはるかな距離から考えてもひじょうに巨大なものと思われた。 「機長! なんでしょう、あれは?」 「き、機長! か、怪物だ!」  コリンズ中佐は自分の顔から血が引いていくのを感じた。 「距離は?」 「三十キロ、いや五十キロはあるかな」 「船のようだが……」 「船が空を飛ぶか!」 「宇宙船じゃないでしょうか? 機長」 「空飛ぶ円盤だろうか?」  コリンズ中佐は機内電話の送話器をつかんだ。 「全員へ。針路前方へ注意せよ。ハーカー少尉は基地へ通報。サム中尉は兵器を点検。ハザウェイ少尉はあの物体の正確な位置を測定しろ。全員戦闘用意!」  機内の非常ベルが鳴り出した。落下タンクが切り離され、リモート・コントロールの尾部二十ミリ機関砲がプラスチックのカバーを破ってつき出した。 「機長! 近づいてくる」  音声器の中でクレイ少佐がわめいた。キャノピーにひたいを押しつけてみると、その巨大な物体はやや傾いて、最初見たときの倍も大きくなっていた。それはセント・エバンス4号の姿を発見して突進に移ったのだ。 「ハウ! 全速で退避しろ。サム! 攻撃用意」  セント・エバンス号は長大な後退翼を傾けて急降下にはいった。アフター・バーナーが大地も裂けるばかりにほえた。激しい回避運動に、コリンズ中佐はいやというほど操縦室の側板にたたきつけられた。 「やってきたぞ!」  ハザウェイ少尉が悲鳴をあげた。もう一度急旋回する。機体のあちこちがミシミシと気味悪くきしんだ。いろいろな物音がごうごうと折り重なった。その中で、サム中尉の撃ち出す二十ミリ機関砲がたよりなく、小太鼓のように鳴っていた。  ふいに空が暗くかげった。その空の一角がすさまじい緑色にひらめいた。  セント・エバンス4号の後退翼が木の葉のように舞った。エンジンポットが花火のようにさくれつした。 「全員脱出!」  コリンズ中佐は射出座席のスイッチをたたいた。しりの下から、グァンと衝撃がつきあげ、中佐のからだはシートもろとも中空にほうり出された。二つに折れた巨大な胴体が青い星のマークもあざやかに頭上をすべっていった。機構だけがまだ働いているのか、尾端の二十ミリ機関砲は発射の黒煙をたなびかせていた。  コリンズ中佐は必死に首を回して、あの奇妙な宇宙船を目にとらえようとしたが、頭を下に電光のように落下してゆく目のくらむ重力のために、思うように動かなかった。           * 『大型ジェット爆撃機セント・エバンス4号、|伊《い》|豆《ず》諸島東方海域で消息を絶つ』の報は、アメリカ海・空軍に、この朝の目覚し時計の役割をはたした。捜索機はつぎつぎと各基地から発進していった。  救命胴衣を着けて、黒潮を流されてゆくコリンズ中佐を発見したのは、青森県|三《み》|沢《さわ》基地を発進した航空自衛隊のP2J対潜機だった。急報によってかけつけた護衛艦もちづきによって救助されたコリンズ中佐はひじょうに興奮して、ほとんど錯乱状態だった。そのことばの内容はだれにもわからなかった。  コリンズ中佐の経験したことはついに関係者に取りあげられることなく、コリンズ中佐はアメリカ海軍病院神経科の病棟に収容された。  尚と陽子はまだ若林病院に泊まっていた。家へは電話をかけたが、事件がまったく停滞してしまっているいま、のんびりと家へ帰る気がどうしてもしなかった。若林院長も、すっかり心をうばわれ、破壊された手術室もそのままに、毎日あのレントゲン写真と取り組んでいた。  綿貫部長刑事も、署のほうへも、家のほうへも何も連絡がないということだった。三輪さんも、明夫も次郎もまったく消息を絶ったきりだ。この三人はそれぞれの家からいちおう警察へ捜索願を出してもらった。しかし、その結果はまるきり期待できなかった。 「陽子さん、ツーリスト・ホテルの焼け跡へ行ってみないか。何かつかめるかもしれないよ」  尚は陽子を誘って若林病院を出た。  あれからちょうど一週間たっていた。ツーリスト・ホテルの焼け跡には焼けた材木でバリケードが作られ、ほとんど整理していないままになっていた。こげくさいにおいが鼻をつく。 「おかしいな?」  尚は焼け跡の向かい側の自動車修理工場にはいっていった。 「あの焼け跡はちっとも片づけていないようだけれど、どうしたんですか?」  尚の質問に中年の工員がおどろいて顔をあげた。 「ああ、あれか? あんたはツーリスト・ホテルの人かね?」 「たのまれて見にきたんです」  われながらうまいいい方だと思った。だれにたのまれた、とはべつにいっていない。だがこれで、この工員は尚がツーリスト・ホテルの経営者にでもたのまれてきたかのように錯覚した。 「そうかい。なあ、このへんの人はみんないっているよ。化け物とは思いたくねえが、なんだいありゃ、気味が悪いぜ」 「おじさん、それ見た?」 「いやおれはごめんだ、そんなもの。でもうちの若いやつがひとり、見てんだ。それからこの近所の人で、夜おそく帰ってきた者が見ているぜ」 「だれかに見られると、かくれたりするの?」 「消えちまうらしいな」 「ありがとう」  それだけ聞けばもう用はない。あっけにとられている男を後ろに、尚は外へ飛び出した。           *  その夜、おそく、ツーリスト・ホテルの焼け跡近い町角でタクシーを降りたのは若林院長と尚、陽子の三人だった。足音を忍ばせるように、もう表の戸をかたく閉ざしている商店街を急ぎ、やがて焼け跡の前に立った。昼きたとき、尚がたずねた自動車修理工場もすっかり灯が消えている。  三人は古材木をそっと押しのけて焼け跡にもぐり込んだ。焼け跡は意外に広かった。奥のほうに半分焼け落ちた物置が残っている。三人はその中へからだを入れた。  表通りのほうからはまだ自動車の通る響きがあわただしくつづいていたが、それもしだいに間どおくなり、やがて時間は午前零時をさした。 「何も起こらないですね」 「まだまだわからんぞ」  じっと息を殺しているのは、なかなかつらいことだった。 「ね、あの音なにかしら?」  ふいに陽子がささやいた。 「ん……?」  かすかにかすかに地の底から響いてくるような物音が聞こえていた。それは耳元で響くようでもあり、またはるかな|虚《こ》|空《くう》から聞こえてくるようでもあった。 「若林先生!」 「黙って、黙って」  三人は石のように動かなかった。  その音は、いまやはっきり三人の耳に響き始めた。 「見ろ!」  若林先生が尚の肩をこづいた。  焼け跡のほこりの間から、もやもやと煙のように立ちあがってくるものがあった。陽子が激しくふるえるのが、尚の背中に伝わってきた。  一つ、また一つ。幻ともつかぬ現実の人の姿ともつかぬ異様な影は、まるで灰の中から生まれ出てくるように現れた。煙のようにたなびくかと思うと、焼け材木に薄ぎれのようにまつわりついてゆらめいた。頭と思われるような部分にはかすかに目や口らしいものがついていた。  ……Sa……aaaa. Saa……  えたいの知れぬ響きは高く鳴り響いた。それにつれて、|異形《いぎょう》の姿はけんめいに立ちあがろうとし、舞いあがろうとした。それは、風に舞う布のように苦しげにはためいた。 「そうか! わかった」  とつぜん、若林先生は低く叫んだ。同時に尚にもある考えがひらめいた。 「尚君、懐中電燈!」  尚は握っていた懐中電燈をパッとともした。その光の中で、奇妙な影は一瞬、半透明にゆらめいた。 「よし!」  若林先生が背をまるめると、灰をけたてて突進した。尚もすかさず先生について走った。 「掘るんだ! あそこを」  その奇妙なかげろうは、ロープの切れたアドバルーンのように、二、三度たよりなくゆらめくと、そのまま煙のようにうすれていった。ふたりは焼けこげの古材木を手に、灰の中を掘りまくった。くだけたコンクリートの破片をころがし、ふわふわと舞い立つ灰をかきよせ、ふたりはけんめいに捜した。 「うむ? 何かかたいものがあったぞ!」  若林先生は手にした材木をほうり出すと、こんどは慎重に手で灰の中をまさぐった。 「うむ。これかな?」  灰の中から掘り出したものは十センチメートル四方の四角い銀色の箱だった。あの火事の熱で焼けたのか、ところどころがにぶく変色していた。 「若林先生、それは?」  若林先生は尚のことばに答えようともしないで、鋭い目で箱を見つめていた。  Hiii……nn  突然、かん高い金属音が箱の中からもれてきた。 「あっ!」  若林先生の手の箱の一方から、半透明の霧のようなものがふき出した。それはたちまち人体ほどの大きさにふくれあがり、はげしい勢いで右に左にゆれ動いた。思わず飛びのく尚の顔に、それは正面からぶつかってきた。 「うわっ!」  顔をおおって悲鳴をあげた尚は、濃い煙がからだをつつんで流れ去っていくような気がした。  若林先生は箱を地上におくといそいで自分の上着をぬいだ。そしてしきりに動き回る異形の影を箱ごと上着で押しつつんだ。 「さあ、行こう!」  おどろくふたりをうながして、若林先生は焼け跡から飛び出した。かかえた上着の中で、いぜんとしてふしぎな金属音は鳴りひびき、子犬でもつつんだようにむくむくと上着はうごめいていた。 「若林先生! それはなんですか? いったい」 「調べてみなければなんともいえないが、これはおそらく君が連れてきた奇妙な患者と同じものだと思う」 「あれと、ですか?」 「若林先生、その空気のお化けみたいなものはなんですか」  陽子がおどる呼吸をおさえてたずねた。 「陽子さん、これが空気のお化けならまだいい。これはじつは想像もできないほど恐ろしいものだよ」 「恐ろしいもの?」  尚のことばがかすかにふるえていた。 「この箱は物質を電送する装置じゃないかと思う」 「電送?」 「これを作った彼らが仲間を地球に送るための電送装置の一部ではないかとわしは思うんだよ」  尚も陽子も、ただ声もなく若林先生がかかえた上着を見つめるだけだった。 「くわしいことは病院へ帰って調べてみなければわからんが、あのレントゲン撮影のフィルムを見て不審に思ったのは、内部の組織がひどくイオン化しているらしいということだった。レントゲンフィルムの像がひどくゆがんでいるんだよ。はじめはその原因の見当がつかなかった。しかしわしは、たまたま学生時代の実験を思い出した。それと、ほれ、尚君、君に聞いた科学博物館で連中が陳列してある機械の部品を抜きとったときのこと。君! こりゃあ、電送だよ。物質を電子の流れにして送っているんではないかとわしは思ったんだ」  尚も陽子もあっけにとられて若林先生の顔を見つめていた。 「おいおい、ふたりともまっすぐ前を見て歩きたまえ」 「すると若林先生、あの連中はどこからかこの地球上へ電送されてきているというのですか?」 「まだはっきりとはいいきれんがね」 「肺も心臓も何もない人間をですか」 「いや、そこなんだ。尚君、もともと彼らにはそんなものはないのかもしれない。しかし、この地球上に現れるためには、形だけでも人間にならなくてはならんだろう」 「先生、その上着の中のものはどうしてそんなにふわふわしているんですか?」  陽子が気味悪そうに若林先生の腕の中をのぞいた。 「陽子さん、これはたぶんこのあいだの火事の熱で電送装置の受信機、つまりこの箱のどこかがこわれてしまったんだろう。だからあのようにフワフワ、まるでまぼろしのようにしか現れることができないのだろう」 「おどろいた!」 「あの現れ方は、まるで電送写真がうまく出てこないときによく似てるよ」  上着の中の動きはようやく静まった。若林先生はその銀色の箱をしっかりつつみなおした。 「さあ、早く病院へもどろう、またあばれ出さないうちに。尚君、タクシーがきたら止めてくれたまえ」 「若林先生、連中はあんなにたくさんいたのにどうしてしまったんでしょう?」 「たぶん電送装置の受信機があの火事ですべてこわれてしまったのだろう。さいわいこれ一個だけが、故障を起こしたくらいで残されていたんだ」 「あ、タクシーがきました」  三人を乗せたタクシーは深夜の町を風を切って走った。タクシーの中では若林先生は黙ってひとりなにごとか深い考えに沈んでいた。ときどき何か口の中でブツブツとつぶやいたり、しきりにうなずいたりしていた。  大いそぎで若林医院に帰ってきた三人は、診察室へ飛び込むと、焼け跡からかかえてきた奇妙な物体をとりかこんだ。上着につつんだふわふわした妙なものは、そのままがんじょうなステンレスのトラッシュ缶に入れてがちりとロックした。強力なサークル・ライトの光の輪が、テーブルの上に置かれた小さな四角な箱を照らし出していた。若林先生はその箱をたんねんに調べた。 「材質は金属ともプラスチックともつかぬ妙な物質だ。それにたいへん軽い。やはり地球上のものではないようだな」 「内部の構造は、わかりますか?」 「どこにも、継ぎ目もふたもない。これは電子工学の専門家に、あとでじっくり調べてもらおう」 「その小さな穴は、なんでしょう?」  箱の一方に、直径五ミリメートルほどの小さな穴がある。尚はその穴に眼を当てて箱の内部をのぞこうとした。 「よせ!」 「え?」 「尚君。あぶない。えたいの知れない物に、うっかり目などを近づけるんじゃない」  さすがにお医者さんだ。 「おっとっとと」  尚は、あわてて箱をテーブルにもどした。 「この穴は、なんだろう。ここに何かはまっていたか、かぶさっていたかするような形だが?」  若林先生はつぶやいた。 「あ、そうだ。先生。おれ、やつらがとまったツーリスト・ホテルの部屋で、こんな物をひろったのです。これがそこへ、はまるんじゃないかな」  尚はポケットから、ハンカチのつつみを引っ張り出した。 「これです」 「どれどれ」  若林先生がハンカチの上から、尚がひろってきた小さな薄い白色の小片をつまみ上げた。 「ガラス……ではないな。プラスチック……ともちがうようだ。有機質の薄膜のようにも見えるが……」  若林先生はそれをピンセットではさむと、箱の側面の小さな穴に押し当てた。それはまるで吸いつけられるように穴にぴったりと収まった。 「ふうむ。やはりここに、ついていたものだったのだな」 「やつらはこの箱を、ツーリスト・ホテルで何かに使っていたのですね」  そのとき、とつぜん、へやの壁ぎわに置いてあったステンレスのトラッシュ缶が、パァンと裂けて飛び散った。 「あっ!」  紙のように引き裂けたトラッシュ缶が、くるくると舞ってテーブルの上に落下してきた。 「あぶない!」  尚は陽子をかかえて飛びのいた。テーブルの上の薬品のびんがガラガラと割れた。 「見ろ!」  トラッシュ缶の置いてあった所に、学生服の一人の少年が立っていた。それはこれまで尚が何回も目にした、奇妙な少年の一団の一人にちがいなかった。そしてあの燃えるツーリスト・ホテルから、尚がかつぎ出した一人とも全く同じ姿形をしていた。 「おっ! また現れおったな!」  若林先生も、診察室を破壊された苦い経験がある。 「へやの外へ逃げるんだ」  少年はガラスのような目で三人を見つめると、音もなく近づいてきた。 「くそっ」  尚がテーブルの上の薬品のびんをつかむと、少年の体めがけてたたきつけた。びんが割れ、少年の体は飛び散った液体でびしょぬれになった。しかしそんなことでは、少しもひるむようすがない。  尚は先生と陽子を後ろにかばって、じりじりとテーブルを回りこんだ。武器がないのが心細い。尚はやむなく小さな|円《まる》椅子をつかんだ。 「診察室の出口まで、いっきに走るんだ。いいな!」  尚は円椅子をふりかぶると、力いっぱい少年にたたきつけた。まるできびがらざいくのように軽がると円椅子がはねとばされ、少年はけもののように尚へ向かって跳躍した。恐ろしい力がのしかかってきた。尚の全身は、骨も筋肉もばらばらになりそうだった。 「く、く、くそっ!」  尚は何とかして少年の体をはねとばそうとしたが、何十トンもあるような重さで床に押しつけられ、びくとも押しかえすことができなかった。そのくせ、少年の腕にも肩にも、胴体にも全く実体感が感じられないのだ。別に尚の手が少年の体をつきぬけてしまうというわけでもないのに、妙につかみどころがなく、握ればいくらでも握れるが、離すと乾いたスポンジのようにまたやわらかくふくれてもとにもどる。 「こいつう!」  少年の手が、尚ののどにかかった。 「うっ!」  完全に呼吸ができなくなった。尚は苦しさにのたうち回った。急速に目の前が暗くなってくる。意識が薄れてきた。 「だ、だめだ!」  尚は心の中で叫んだ。  とつぜん少年の腕がゆるみ、空気がどっと胸に流れこんできた。頭の中に焼け|火《ひ》|箸《ばし》をつっこまれたような苦痛がつき上がってきた。その苦痛が尚の意識をよみがえらせた。尚は残っていた力をふりしぼって、必死に少年をはねのけた。立ち上がろうとしたが、気力も体力もそこまでだった。尚は壁を背にして犬のようにあえいだ。その目に、窓を破って戸外に逃れ去る少年の後ろ姿がちらっと見えた。 「しっかりして! 尚さん」 「だいじょうぶか」  若林先生が、いそいで尚の腕に注射をした。  尚はよろよろと立ち上がった。 「あらあら、先生。薬で、ほら、箱が溶けかかっているわ」  テーブルの上の箱は、飛び散った薬品にぬれ、そのぬれた部分から|糊《のり》のようにどろどろと溶けはじめていた。 「しまった!」  どけようとしたが、溶けたところが白い蒸気になって、見る見る消失してゆく。ものの十秒とかからぬうちに、テーブルの上の箱は完全に消滅し、あとにはテーブルの上一面にびんから流れ出た薬品がたまっているばかりだった。 「先生、なぜあのふわふわしたものが急に少年の姿に変わったのでしょう?」 「尚君。おそらくあのレンズのようなものを穴へとりつけたことで、箱の中の装置が完全にはたらき出したのだろう。あのふわふわしたものは、少年の体になりそこなっていたのだろう」 「やつは、どこへ行ったんでしょう?」 「わからん。なかまの所へもどったのかもしれん。おそらくやつらのなかまが、まだどこかにいるんだ」  陽子が、ほうきとちりとりを持ってきた。 「先生。どうしてあいつは急に逃げ出したりしたんでしょう。おれ、もう少しで息の根が止まるところだったよ」 「あの箱が溶けてしまったことと、何か関係があるのだろう。だが、あれであの少年は、もとの姿にもどることはできなくなったかもしれんぞ」  どうやら事態はまったく思いがけない方向へと動きはじめてきたようだ。あの奇妙な一団は想像も許さない異質の存在のようであった。その出現とその後の行動はあきらかに人類に対する不気味な悪意を示していた。  それを知っているものはほとんど数名しかいなかった。一億の日本人、四十億の世界中の人々。その中でわずか数名だけがしだいに濃く迫ってくる不気味な何物かの気配に耳をそばだて、心をふるわせているのだった。 「それにしても、綿貫部長刑事や三輪さんのおにいさん、それに次郎や明夫はどこへ行ってしまったのだろう?」  不安そうに、尚は陽子にささやいた。陽子はだまってくちびるをかんだ。     6 よみがえった記憶  ああ、痛い!  どうしてこんなに痛いんだろう!  明夫は割れるように痛む頭を押さえてうめきつづけた。頭だけではない、肩や背中のあたりまでゴツン、ゴツンと一定のリズムで衝撃が加えられてきた。 「よせ、何をするんだ!」  力いっぱいどなったつもりだったが、わずかに口が動いただけで、声はまったく出なかった。 「君! 君! こんなところで寝ていないで早く家へ帰りなさい」  きびしい口調が耳につきささってきた。 「帰れ?……家へ?……はてな?」  明夫は頭をもたげて周囲を見回した。がらんとした建物の内部に、明るい蛍光燈の光だけが、いやにしらじらと輝いていた。 「ここはどこだ」 「おい! 家へ帰れといっているんだ」  目をあげて見ると、ひとりの警官が立ちはだかっていた。その後ろにいぶかしげな顔の駅員が明夫をのぞき込んでいた。 「家へ帰る?」 「おい! 寝ぼけたふりなどしていると派出所へきてもらうぞ」  聞きなれないことばが鋭い刃物のように胸をつらぬいた。 「いや、お、おれはまだ仕事が残っているんだ」 「仕事?」 「そうだ。仕事だ。いや、……待てよ」  明夫はふと口をつぐんだ。突然、それまでからだいっぱいつまっていたものが、急速に抜けてゆくような不安がわきあがってきた。明夫は自信を失った。 「お、おれはいったい……」 「さあ、早く家へ帰るんだ! 家はどこだ?」  家はどこだ? と聞かれたとき、明夫の胸の中でこれまでの記憶がいっぺんによみがえってきた。 「しまった! これはたいへんなことになったぞ」  明夫は、はね起きた。 『東京行き最終電車が発車いたします。お乗りのかたはお急ぎください』  アナウンスが叫んでいた。  どうしよう、あの電車で帰ろうか? それとも……。  明夫は自分の頭が混乱でいまにも割れてしまうのではないかと思った。事情は何もわからなかったが、この何日かのあいだ、自分が行ってきた行動があざやかに胸によみがえってきたのだった。  明夫は手にした小さなボストンバッグを開いた。中に黒光りのする、あるいは銀色の光沢をはなつさまざまな機械の部品がはいっていた。 「ちくしょう! 人をばかにしやがって!」  明夫は怒りでからだをふるわせてそこを離れた。警官と駅員はまゆをひそめて明夫を見送っていた。 「あのボストンバッグの中は、何か盗品じゃないですかね?」  駅員が警官にいう声を聞こえないふりをして駅前の広場へ出た。もう真夜中ちかい中央線・高尾駅前は、ときおり行きかう自動車のほかは通る人とてなかった。警官が明夫のあとを追って駅の建物から出てくるようだ。明夫はかまわず広場につらなる広い道路を左へとった。  これまでの記憶がしだいに鮮明になってきた。 「そうだ! おれはだれかから何か品物を受けとり、それを裏高尾の林の中の、そうだ、あれは何だったろう?……円盤? うん、そうだ、空飛ぶ円盤みたいなものに届けたんだ。いつも真夜中だった。品物はこのボストンバッグの中に入れて……。今夜もおれは、その仕事をするためにここへ来ていた。昼のあいだは高尾の町や、この高尾駅で浮浪児のように寝泊まりして。ちくしょう!」  明夫ははっきりとあの夜のことを思い出した。何者かの声にうながされて家を出た。そしてこの中央線の高尾の町へきた。それから毎夜、えたいの知れぬ運搬人をつとめてきた。 「記憶がこんなにはっきりしているのに、どうして家へ帰ろうと思わなかったんだろう?」  まるで夢からさめたような気持ちだった。  なぜいまごろ、突然、あの催眠術にかかったような状態から抜け出したのか、なぜゆり起こされたとたんに正気をとりもどしたのか、かいもくわからなかったが、明夫はあの円盤をはっきりと自分の目で確かめなければならないと思った。明夫は歯をくいしばって夜道をいそいだ。まず敵の正体を確かめてからでなくては尚たちに会えないと思った。  記憶は正確だった。木立をぬけ、中央線の土手の下を通り、トンネルの手前を左へ、暗い裏高尾へ踏み込んで行った。風の音だけが高い木々のこずえをさわがしていた。 「確かにこのへんだった」  明夫は慎重に足音を忍ばせて、いちだんとやみの濃い林の中へはいって行った。木立の奥に、 「あっ! あれだ」  心の奥底に忘れられない悪夢のような記憶があった。明夫は背を低くし息を殺して近づいて行った。空飛ぶ円盤というものについては、これまで何度となく話に聞いたり本で読んだりしてはいたが、もとより見るのはいまがはじめてだった。明夫は歯をくいしばって恐れに耐えた。知らぬ顔をして、きのうやおとといのようにまっすぐ近づいてゆき、開いたままのハッチをくぐって内部へはいれば、すべてのことがらが明らかになるだろうとは思ったが、とてもそこまでやれる勇気はなかった。  円盤の直径はおよそ五十メートルほど、頂上までは十数メートルはあろう。やみの中に、かすかににぶい銀色の光をはなっていた。明夫は身じろぎもせずに、やみの中にかすかに光る円盤を見つめていた。  どのくらいそうしていただろうか。ふと、かすかに明夫の耳に何かの音が伝わってきた。それは明らかに円盤の中からだった。 「出てくるぞ!」  明夫はやみの中でひとみをこらした。  円盤のどこかで、金属の触れ合うような異様な響きがした。突然、円盤の横腹の暗いハッチが開いた。そのハッチからひとりの男が進み出た。男は周囲をうかがうように首を回し、だれかを待ちうけているかのようにやみの奥をうかがった。 「ううむ、あれはいったいどこからやってきたのだろう? 火星だろうか、金星だろうか、それとも、もっともっと遠いどこかの星からやってきたのだろうか?」  明夫は近づいてもっとよく見たいという欲望を必死に押さえつけた。男はふたたび音もなく円盤の中へもどろうとした。  そのときだった。  ダーン!  すさまじい銃声がやみに響いた。明夫の背後で青い発射の|閃《せん》|光《こう》がひらめいた。  ダン! ダーン!  弾丸が大気をさきわけるような音が耳をうった。  キ、キーン!  |反跳弾《はんちょうだん》が円盤のゆるやかな傾斜をすべり落ちた。 「やめろ! うつな、うつんじゃない!」  明夫は必死に叫んだ。だれがうっているのかわからなかったがむしょうに腹が立った。小銃や|拳銃《けんじゅう》などで破壊できるような円盤ではなし、まして人間には想像できないふしぎな技術を使う連中だった。調べるんだ! 調べもしないで射撃を加えたりなどして、このまま立ち去られたり逆襲されたりなどしたら、ふたたび空飛ぶ円盤を観察する機会などないじゃないか!  ダ、ダーン!  発射のすさまじい衝撃波が明夫の顔をたたいた。明夫は思わず目を押さえて地に倒れた。その明夫のからだをおどりこえてひとりの警官が円盤にかけ寄って行った。拳銃の発射の青い閃光が円盤の銀白色を流星のように映した。  ゴオウ……  あらしのように大気がどよめいた。木々のこずえはいまにもちぎれそうに右に左に激しくたわみゆれた。見あげる明夫の目に、円盤は音もなく宙に浮いていた。警官はその円盤めがけて狂ったように拳銃をうちつづけた。 「あっ、そうだ! あの警官はさっき高尾駅でぼくに職務質問した人だ」  そのとき突然、目もくらむまっさおな光が天地を染めた。その光の中で、警官のからだは|燐《りん》|光《こう》をはなって見る見るうすれていった。           * 〈裏高尾に空飛ぶ円盤現れる! 少年の目の前で警官消失。青い光線を浴びる〉  明夫のかけ込んだ高尾警察署を通じてもたらされた情報が新聞やテレビ、ラジオを通じて発表されるまでの警察や、また警察から意見を求められた科学者、あるいは政府すじの緊張と混乱ぶりは、そのまま一冊の本になるほど劇的なものだった。しかし、いくらこれらのニュースが世間に与えるショックが大きいからとはいえ、そのままかくしおおせるものではない。政府は厳重な報道管制をしいて秘密会議を重ねたすえ、それから二日後の朝刊、テレビ、ラジオを通じて、ついにこのニュースは発表されたのだった。  日本中はもちろん、世界の目もこのニュースに集中した。  世界中の株式市場は、経済界の歴史はじまって以来の大暴落を記録した。ニューヨーク、ロンドンなどの繁栄を誇る財界の受けた打撃はことに深刻だった。しかし、かんじんの日本国内は奇妙なことに、それほどこのニュースによって大きな打撃は受けなかった。  また、東南アジアやアフリカなどを中心としたいろいろなむずかしい国際問題も、このニュースをきっかけに、見る見る氷のとけるように解決の方向をたどっていった。           * 「尚君、明夫君、陽子さん、これを見たまえ」  若林先生が玄関で三人を呼んでいた。どやどやと出てみると、院長はくつもぬがないうちに、カバンの中から一冊のパンフレットをとり出してひろげていた。 「〈円盤対策委員会〉で、こんなふうにまとめたものをくれた。きみたちもよく読んでおきたまえ」  1 円盤には、アメリカ空軍の大尉らが見たきわめて巨大なものと、中学生・田中明夫君が見た直径五十メートル程度のものの二種類がある。大きな円盤は母艦ではないかと考えられる。  2 彼らの正体はいまだ不明。若林病院院長・若林博士の報告によれば、彼らは物質を電送する技術を持っているようである。  3 中学生・村上尚君、その他の報告によれば、彼らは物質を複製することが可能らしい。これは、この物質電送とも関係が深いと考えられる。  目撃例=科学博物館の陳列機械類から部品を抜きとった。しかし、その後の調査によれば、抜きとられたはずの部品は、すべてもとのままそなわっていた。  4 彼らは一種の催眠術的な方法を用いることがある。  例=科学博物館で村上尚君らが建物が破壊される幻覚をみた。また田中明夫君は催眠状態のまま数日にわたって彼らに利用されている。  5 渋谷駅前をはじめとする大宮市、宇都宮市など一連の大爆発事故は彼らに関係があると思われる。  6 彼らは熱線銃のようなものをそなえているらしい。  さらにこまごました説明が加えられていた。これで、どうやらあの奇妙な連中の輪郭がはっきりしてきた。彼らはこれからどんな行動に出るのだろうか? まず少数の偵察部隊を地球に送りこんでおいて、これから何百隻、何千隻もの宇宙船でいっきょに地球に侵入してこようというのだろうか? もしそうだったら、どうやってそれを防いだらよいのだろう?  若林先生をとり囲んで三人は暗い視線を投げ合った。戦いは緒戦からいっきょに終盤戦に追い込まれた感じだった。  尚がいった。 「な、みんな! 若林先生も聞いてください。これはもう一度作戦計画をねりなおしましょう。このままでは彼らの出方を待つだけです」 「尚さん、私、じつはこの間からとても気になっていることが一つあるの……」  陽子が不安そうなひとみを三人の上にはせた。  そのときだった。電話のベルがけたたましく鳴り響いた。  電話のベルは、するどく四人の胸をつらぬいた。 「なんだろう?」  明夫が不安そうにいった。 「尚君、出たまえ」  若林先生が目で、受話器の近くにいる尚をうながした。尚は受話器を耳に押し当てた。 「もしもし、こちら若林病院ですが」 「長距離電話です」  交換手がよくようのない声で機械的にいった。回線がはいったとみえ、受話器の奥に風音のようなノイズがわいた。 「あ、もしもし、わたくし、わたくし三輪鉄也と申しますが、そちらに尚君と私の妹の陽子がごやっかいになっていると思いますが」  その声を聞いて、尚は受話器を握ったまま絶叫した。 「み、三輪さん? お、おれです、尚です。三輪さん、ぶじでしたか。い、いま、どこにいるんですか?」 「何! 陽子さんの兄さんだって?」 「え、おにいさん!」  陽子と若林先生と明夫は、はじかれたように尚の両側にかけ寄った。 「三輪さん、陽子さんも元気ですよ。それから明夫も、あやういところを記憶をとりもどして生還しました。三輪さん、いまどこにいるんですか?」 「尚君、ここは千葉県・|銚子《ちょうし》の|犬《いぬ》|吠《ぼう》|埼《さき》灯台だよ。そこの無線方位信号所のオフィスから電話をかけているんだ。ぼくはけさこの灯台近くの海岸の岩のあいだに倒れていたところを発見されて、ここへかつぎこまれたのだ。気がついてみると、これまでのいろいろなできごとが、すべてひとつにまとまって思い出されてきた。尚君、近くに円盤がいるんだ。かくれているんだ。いまのうちに発見して……」  三輪の声ははげしく乱れた。  ふいに電話の声がかわった。 「尚君ですか。三輪鉄也さんにまちがいありませんか?」  年配らしい野太い声が、ガンガンひびいた。 「ええ、たしかに三輪鉄也さんです。だが、あなたは?」 「そうですか。いや私はこの灯台に勤務している小林と申す者ですが、けさ、三輪さんが海草とりの人たちに発見されてかつぎこまれたんですが、気がついてからのいうことがどうもおかしい。精神異常なんじゃないかという者もいましてね。なにしろ円盤がおそってくるとか、太陽系外のなんとかがどうしたとか。でも、東京のこういうところに電話すればわかるというものですから、もしかしたら近ごろの円盤さわぎと関係のある人かもしれないと思って、とりあえずかけてみたのです」 「どうもありがとう。すぐ行きます」  尚はそっと受話器をおろした。  四人はさっそく犬吠埼灯台へ出発の準備にとりかかった。若林先生のさしずにしたがって注射器や聴診器をカバンにつめこんでいた陽子が、ふと顔をあげた。 「尚さん、さっきいいかけたことなんだけど……」 「なんだい?」 「あの渋谷駅前の爆発事件、それから大宮、宇都宮の爆発と、あれがあの生物たちがやったんだとするとね、もしかしたら」 「もしかしたら、なんだい?」  陽子は遠い遠いところを見つめるようなまなざしでいった。 「あの生物たちにとって、何かとても危険なものとかいやなものがそこにあったんじゃないかしら。だからそれを取りのぞくために爆発させたんだ、とは考えられないかなあ」 「なるほど」  若林先生が深くうなずいた。 「自分たちの存在をさとられるかもしれないことを、ただのおどかしやおもしろ半分でやるわけないものね」 「そうだ。警告でもないし、そうかといって積極的な攻撃でもないようだ。するとこれは陽子さんのいうような防御的攻撃だったと考えることができるぞ」 「若林先生、でもいったい彼らはこの地球へきて何をやっているんでしょうね」 「わからん。尚君、いまの電話の内容と、陽子さんの考えを〈円盤対策委員会〉に知らせておきたまえ」 「さあ、行くぞ」  コガネ虫のような軽自動車は、やかましい排気音をひびかせて京葉国道をつっ走って行った。  北にえんえんとつらなる|鹿《か》|島《しま》浦、南にはぼうぼうとひろがる|九十九里《くじゅうくり》浜に、太平洋の荒波がまっしろにくだけていた。くだけた波頭はこまかい潮の霧になって砂浜の奥深くまで風にのってはこばれてきた。その潮の霧をふせぐ防風林が砂丘の向こうにくろぐろとつづいていた。  |八《よう》|日《か》|市《いち》|場《ば》から旭、|飯《いい》|岡《おか》への道を右に、尚たちの車は夕刻犬吠埼にたどりついた。夕ばえに西の空は焼けたように赤かった。はるかにさえぎるものもなくひろがる太平洋は、もうしのび寄ってきたたそがれの色の中でくろずんだ青味をおび、その水平線の向こうから遠い海鳴りの音が響いてきた。  灯台は早くもその強烈な光を、西の夕ばえと東の海鳴りへ向かって発射しはじめていた。灯台の下の白いコンクリート造りの無線方位信号所の一室に、三輪鉄也は横たわっていた。はいっていった四人を見ると、三輪鉄也はよみがえったように生気を浮かべてからだを起こした。 「おにいさん!」  陽子がかけ寄った。           *  ……ぼくは、はげしい火と煙の中から、いくつかの小さな箱をかかえてのがれ出た。そこでだれかぼくのよく知っている人とすれちがったような気がするが、それがだれであったのか思い出せない。その人は学生服を着た人物をひきずるようにして、裏手のやみに消えていった。  ……ぼくは電車に乗り、暗い|谷《たに》|間《あい》の林の中に着陸している円盤の中にはいっていった。そしてかかえてきた小さな箱をわたした。その円盤の中で、またひとりの知った顔に会った。その男は何か運搬係をやっているらしく、いろいろな部品のようなもののはいったボストンバッグをさげていた。  ……その部品というのは、彼らの地球での活動に絶対に必要なものだということだった。それらはすべてキャッチされたといっていた。  ……キャッチ、というのはどうやら同じものをもう一つ作ることらしい。しかし、なんのことなのかよくわからない。  ……ある夜、ぼくは円盤のハッチを開いて外へ出た。間もなくあのボストンバッグをもった人物がやってくるはずだった。ぼくはその夜こそ、その人物がだれなのかをたしかめ、問いただしてみようと思っていたのだった。ところがやみの中からとつぜんうたれた。弾丸がキンキンと円盤の外板にはねかえった。「やめろ、うつな」とだれかが叫んでいた。その声にはどうも聞きおぼえがある。  ……私は円盤の中へしりぞき、そのあと円盤はしばらく高空に退避し、そしてここへ降りた。まだ用意がととのわないのだ。 「そしてぼくは灯台の向こうのあいだに倒れていたわけなのです。若林先生、あの円盤はたしかにこの近くにいるはずです。そして何事かを待っているんです。捜し出してやっつけてしまわないと……」  三輪鉄也は火のような息をはいた。 「しかし、この砂原のどこにかくれているのかなあ」 「若林先生、尚君、明夫君、それに陽子も聞いてくれ。あの、ぼくの乗っていた円盤は、もっと大きな円盤からリモート・コントロールされていたようだ。もちろんひとりも搭乗員はいない。いてもそれは母船から電送されてきた立体的映像だ。彼らは太陽系以外のどこかからやってきたのだ。そしてこの地球を調査しはじめた。彼らは地球の大気に直接ふれることを好まない。そのためリモート・コントロールされる偵察船と、そこを中継基地として電送されて出没する偵察員とを送りこんできたんだ」 「彼らがいろいろな物質を集めたのはなぜかね」 「地球の文明、とくに科学の発達を知るためでしょう」 「彼らとなかよくすることはできないかね」  若林院長が太い息をはいていった。 「ぼくはそれは不可能だと思います。だいいち彼らの正体が何ものなのかもわからない。動物なのかそれとも植物なのか? あの母船の中には彼らの実体がひそんでいるのか、それともあの母船と思われる大きな円盤もまた、無人の中継アンテナにすぎないのか。ただ、そのどこかにいる彼らは、どうも恐ろしく冷酷な行動性をもつ生物らしい」 「三輪さん、さっき三輪さんがいった何かを待っているというのは、何のことですか?」  と尚はたずねた。 「そうだ。ぼくはだんだん、いろいろと思い出してきたぞ。若林先生! 彼らは、そうだ。東海村の、東海村の原子力研究所を……」 「え? 三輪さん、原子力研究所がどうかしたのかね?」 「東海村の原子力研究所を持ってゆこうとしているんです!」 「何?」 「ど、どうやって?」 「彼らは地球の原子力利用の標本に、どこかの原子力研究所をそのまま持ってゆくことにしたんです。複製をつくることは失敗した。放射能のために正しい複製ができなかったんだ。彼らははるばる東京からバスでやってきたことがあったが、失敗してひきあげた。そして東京での一応の偵察調査が終わって、最後にいよいよ東海村の原子力研究所をそのまま持ってゆくために待機しているんです」  三輪はくちびるをかみしめた。 「ぼくは彼らのガイドをやらされていたんですよ。電送装置をあちこち運んだり、目標を捜して偵察員を送りこんだり」 「しかし、三輪さん。東海村の原子力研究所のような膨大な建築物を、いったいどうやって運ぶのかね?」 「そのままじゃなくて縮小するらしい。偵察員がいっていた。いや、ことばでわかったんじゃないが、偵察員どうしの会話の内容がこちらの頭にもなんとなくとどくんですよ」 「縮小?」 「東海村の原子力研究所をそのまま何十分の一かに縮小して運ぶらしい。それがどうも今夜ではないかと思う。早くなんとかしなければ……」  若林先生は電話にしがみついた。周囲をとりかこんでいた灯台の人たちはだまって顔を見合わせた。中には指先で頭にくるくると輪をかいている者もあった。しかし〈円盤対策委員会〉はこの若林院長からの電話でにわかに色めきたった。     7 はるかな夜の空から  東海村の原子力研究所の電話は、ひっきりなしに鳴りはじめた。数百台のトラックや乗用車がかり出され、原子力研究所に勤める人びとの運び出しにかかった。  それは決死的な作業だった。いつ生命の終末がおとずれてくるかわからなかった。縮小するだけならだれでも生きていられるかもしれないが、そんな“生”はとてもがまんできるものではない。つぎの瞬間におとずれてくるかもしれない悪魔の手におびえながらも、勇敢なドライバーたちは研究所の建物から建物へと車を走らせて行った。ひとりでも多く研究所から運び出さなければならなかった。  夜はしだいにふけていった。|下《か》|弦《げん》の月が青白い光を太平洋の荒波に投げかけていた。くだける波は金波銀波のかがやきとなって、広大な砂浜にとどろいた。その音はいつもよりすさまじく、人の胸を恐怖と不安でぬりつぶした。  遠雷のような爆音をひいて、高い夜空をジェット機の編隊がパトロールしている。 「いやに静かですなあ。東海村のほうはまだ変わったことはありませんか」 「ええ、勤務者はすべて退避を終わったそうですが、まだ何も起こっていないそうです」  若林院長と小林灯台官は暗い夜の海に顔を向けてこれから起こるかもしれぬ何かを待っていた。  三輪鉄也、尚、明夫、それに陽子の四人は一団になって灯台の付近をパトロールしていた。三輪のかすかな記憶によれば、円盤はどうやらこの付近にひそんでいるのだった。犬吠埼から|外《と》|川《がわ》、|行部岬《ぎょうぶさき》にかけては、単調な海岸線に対して一歩内陸へはいるとたいへん起伏と変化に富んだ地形だ。林のかげ、丘のあいだの谷間など、円盤の隠れひそむのにつごうのよいところはたくさんある。 「いま何時だろう?」 「間もなく午前一時だ。灯台へ帰って少し休もうか」  四人は灯台につづく丘の道を一列になって進んで行った。月光の中に灯台は白い幻影のようにそびえていた。灯台からあざやかな閃光が走ってやみを切りさいた。           *  松林を配した広大な原子力研究所の構内には、犬の子一匹姿が見えなかった。ふだんはあかあかと灯のともっている研究室も、今夜はすべて暗黒と化し、オート・コントロールされたままの機器類が無人の研究室でむなしくパイロット・ランプを点滅させていた。とつぜんの退避さわぎに、コックをしめ忘れたままの水道栓が滝のように水をほとばしらせていた。いま、すべての水の使用が止まったために、はげしい水圧がこの水道栓に集中されたような勢いだった。水は小さな排水口にあふれて、やがて床に流れ落ちた。  ゴオ——!  とつぜん、はるかな夜空の高みから奇妙な響きが伝わってきた。それは大気をゆり動かし、原子力研究所のすべての物体をかすかにうちふるわせた。  ミシ! ミシッ、ミシミシ!  メリ! メリメリ  柱や壁が異様なきしみを発した。  ミシ ミシ! ガタッ  ビシ! メリメリ  ときおりはげしく建物が震動した。風もないのに電燈のかさが振り子のようにゆれ、窓ガラスはガタガタと鳴った。もし建物の内部に人間がいたら、そのうす気味悪さに一分もはいっていられなかったことだろう。  建物だけでなかった。研究所の広い敷き地の表面に縦横にひび割れが走っていた。幾十日間も雨が降らなかった|田《たん》|圃《ぼ》のように、こまかい割れ目が網の目のように地表をおおっていた。 「あっ! 見ろ!」 「研究所の建物がちぢんでゆくぞう!」 「見ろ! どんどん小さくなってゆくぞ!」  研究所をとりかこむ松林の中に退避していた人びとは、いっせいに叫び声をあげた。           *  夜空にそびえる研究所の給水塔が見る見る低く小さくなっていった。それはまるで自分たちが車に乗って遠ざかっていくような錯覚を起こさせた。自衛隊のサーチライトがやみを切って集中した。その光の中に、研究所の周囲にめぐらした金網のさくがはるか向こうに移動してしまっているのが見えた。そしてそのさくと自分たちの立っている松林とのあいだに、暗い|亀《き》|裂《れつ》が口をあけていた。その亀裂はしだいに幅をひろげていった。原子力研究所はいま百メートルほどの平らな島の上に乗っていた。一分もたたぬうちにそれは五十メートルほどの島になり、やがて十メートルほどの丸い台の上に乗ったパノラマのように小さくなってしまった。 「見ろ! 研究所は一メートルぐらいになってしまったぞ!」 「穴の深さは五十メートルぐらいあるだろう。まるでアリゾナの|隕《いん》|石《せき》の穴みたいじゃないか」  見つめる人びとは恐怖で身動きもできなかった。この恐ろしい変化を人間の力でどうやってさまたげることができるだろうか? またそれを試みるにしても、いったいその相手はどこにいるのだ。暗い夜空のどこかか? それともこのぼうばくたる海原のどこかにか? 「あっ!」  直径一メートルほどの平盤に乗った模型のような原子力研究所は、とつぜん目もくらむような光につつまれた。そのまま流星のように暗い夜空にのぼって行った。 「宇宙技術者はどうした!」  人びとはひたいの冷たい汗が目に流れこむのをふきもせず、南の空へかがやく点となって消えてゆく原子力研究所を見つめていた。 〈……七〇一戦闘飛行中隊へ。全力ヲアゲテ空中移動中ノ原子力研究所ヲ追跡セヨ〉  基地を飛びたった超音速戦闘機の群れは、アフターバーナーから白光をほとばしらせて関東平野を東の空へ向かって高度をとっていった。           *  ゴオ!  はるかな天の一角から遠雷のような響きが伝わってきた。さえわたる月の光は一瞬、かがやきを失ったようだった。 「あっ!」 「あれはなんだろう?」  四人はいっせいに夜空をあおいだ。|下《か》|弦《げん》の月は低く西の空にかかり、そのあたりは星の光もうすく淡くかげっていたが、北の空にはおびただしい星の光があった。  その星の海の中から、目もくらむような青い光につつまれた一個の物体がひじょうなスピードで近づいてきた。  ゴオー!  大気はひきさかれるようにうちふるえた。砂浜にくだける波がたつまきのように高く高く吹きあがった。 「ふせろっ!」 「あぶない!」  グワー  急角度でつっこんできた。  ズシーン!  すさまじい衝撃波にたたかれて、夜空にそびえたつ純白の灯台がゆっくりと傾いていった。  遠い背後の丘陵の松林が足元をすくわれたように、丘の斜面をすべりはじめ、にえたぎる海水は蒸気となって海面をおおった。  まっさおな光につつまれた原子力研究所は、砂をふきあげて大地に激突した。  大地は波のようにゆれ、大気はキンキンと鳴りつづけた。蒸気は密雲となって立ちこめ、はためくまっさおな閃光に地獄のように染まった。  世界の終わりのような、長い長い時間が過ぎていった。ようやくあらゆる音響が静まってきた。  岩陰で虫のように手足をちぢめていた尚は、そっと頭をもたげて周囲のようすをうかがった。うずまく|砂《さ》|塵《じん》と蒸気とで視野はまったくふさがれていた。遠く近く人の叫び声が聞こえていた。尚は砂塵におおわれていたからだを起こした。飛んできた岩でもぶつかったらしくからだのあちこちが鈍く痛んだが、たいしたことはなかった。尚は海と思われる方向へ足を踏みしめて降りて行った。若林先生や三輪鉄也や、陽子、明夫のようすが気になったが、周囲の状態がひどく変わってしまっているのが、まず尚の心をしめつけた。  山津波のように岩石がくずれ、重なりあい、急な角度で前方のうずまく白い蒸気の中へ落ちこんでいた。その方角からもたくさんの人の叫び声が聞こえていた。巨大な灯台が怪物のように横たわっているのが、うっすらと見えていた。それをさけてさらに降りる。 「あっ! 海がないぞ」  尚は夢中で急ながけをくだった。さっきまで灯台のそびえる|断《だん》|崖《がい》の下に寄せていた太平洋の荒波は姿を消し、そこは一面に広大な赤土の丘陵になっていた。 「尚君! これはえらいことになったぞ」  後ろから若林院長のどら声が響いてきた。お互いにぶじを喜んでいるひまもない。 「見ろ! 尚君。あの赤土の山のところどころにコンクリートの建物らしいものがのぞいているだろう。あれは空中へ吸引されていった原子力研究所だ!」 「でも若林先生、原子力研究所は直径一メートルぐらいに縮小して……」 「尚君、なぜかそれがもとの大きさにもどってしまったのだよ。それとともに、原子力研究所を吸引する力も弱まってしまって落下してきたんだ」  急を聞いて早くも飛来したヘリコプターの群れから、つぎつぎと照明弾が投下された。真昼のような光は、人びとの目の前に恐ろしいありさまを浮きあがらせた。  何十万立方メートルという土砂が、|岬《みさき》の先端の海を埋めていた。原子力研究所の敷地の大きさは、縦横が約二キロメートルほどあった。それがそのまま落下してきたのだった。もとの大きさにもどるとき、そのふくれあがる圧力は、落下の衝撃とともに恐ろしいソニック・ブームとなって大気や大地をたたいたのだろう。  砂塵や蒸気がうすれてゆくと、広大な赤土の原も、周囲からずぶずぶと波にのまれ崩壊していった。ななめに赤土の山から突き出していた給水塔がいつか波の下になっていた。横だおしになった四階建てのビルも、波に洗われてくずれていき、土砂にのまれて見えなくなっていった。三輪鉄也も、明夫も、陽子も、どろにまみれてやってきた。 「これで彼らは二度とも原子力研究所の奪取には失敗したわけだ。しかし、なぜ成功しなかったのだろう。あれほど知能の進んだやつなのに」  若林先生はすさまじいどろの海を前にして深く腕を組んだ。そのとき、陸上自衛隊のトラック隊のサイレンの音が低く、背後の夜の奥から近づいてきた。           *  このころ、|筑《つく》|波《ば》山頂にある航空自衛隊の長距離警戒レーダーは、はるか北方から近づいてくる巨大な物体の存在をとらえていたのだ。           * 「若林先生! 伝令です」  ヘルメット姿の陸上自衛隊の隊員がさっと敬礼した。 「何かね?」 「ここより南へ二キロ、海に面した断崖の地すべりのあとに、埋没していた円盤状の物体を発見しました」 「うむ、それだ!」  みんなは一団になって伝令の乗ってきたジープに乗った。  ふりかえると、岬のあたりは華麗な舞台のようにあかあかと灯に照らされ、たくさんの人びとが右往左往しているのが小さな人形のように見えていた。ジープは、新聞社の旗をひるがえした何台もの自動車とすれ違った。それらの自動車は弾丸のように夜風を切ってつっ走って行った。  さっきの衝撃でくずれたのだろう。太平洋の荒波に面した高いがけが、なだれのように海中に幅広く落ちこんでいた。  どうどうとくだける波の響きが腹にこたえるようだった。幾千の星が暗い空にまたたいていた。  早くもいくつかの照明弾がうちあげられ、青白い光が滝のように海面と荒れ果てたがけとを照らし出した。その|光《こう》|芒《ぼう》の中に奇妙なものが浮き出ていた。灰色のがけから、半月形に突き出たその物体は、照明弾のかがやきの中で、この世のものとも思われない美しい|光《こう》|沢《たく》を放っていた。 「若林先生! あれです。ぼくの見たのは」 「そうだ! ぼくが裏高尾の谷間でみたのもあれです」  三輪鉄也と明夫が同時に叫んだ。 「そうか。こんなところにかくれていたんだな。灯台の付近では発見できなかったわけだ」 「若林先生、おそらくぼくはあれに乗ってここへきたんだろうと思うんです。そして降りて歩き回っているうちに正常な意識をとりもどしたんじゃないでしょうか?」 「たぶんそうだろう。よし! 行ってみよう」  三輪鉄也を先頭に急ながけを伝わって降りて行った。 「そうだ、円盤は回転しながらこのがけの下へもぐりこんだんだ。そして、ぼくはハッチを開いて外へ出た。あ、ほら、あのハッチがそれだ」  三輪鉄也の記憶は正しかった。白銀色の円盤の上方に、長方形のハッチが開いていた。  陸上自衛隊の施設部隊がやってきた。がけの上部を切り開いて円盤を地上に引きあげるのだ。数十台のブルドーザーやレッカーがうなりをあげて掘削作業をはじめた。側方からはサーチライトが、上空からは照明弾が、この困難な作業を照らしていた。  しかし施設部隊の精鋭はたちまちがけの表土をけずり、長大な傾斜路をつけた。五十台におよぶトラクターの列は、古代の戦車競走のようにその傾斜路を猛然と突進した。トラクターの後尾にとりつけられた太いワイヤーは今にもちぎれそうに緊張した。おびただしい鯨油が円盤の下に流しこまれた。  ズズズ……  ゴオー!  直径五十メートルにおよぶ巨大な円盤は、小山がゆらぐように、静かに傾斜路をのぼりはじめた。銀白色の円盤は、無数の照明弾の光の中で、巨大な水晶のドームのようにかがやいた。  前方は波荒い太平洋。そのはるかな水平線には、早くも夜明けのほのかな色が動きはじめていた。西の空、関東平野の上はまだ深い夜が閉ざしていた。海から吹いてくる風は人びとの耳元で鋭く鳴っていた。  ただちに内部調査班が編成された。宇宙物理学研究所の|井《いの》|上《うえ》博士、航空自衛隊の|近《こん》|藤《どう》二佐、東京新報の村上記者、それに円盤対策委員会から若林先生、そして尚が加わった。若林先生と尚は、最初からこの事件に関係してきただけに、ここではむしろ中心人物だった。危険の程度はふたりがいちばんよく知っていた。陸上自衛隊の隊員がひとり、短機関銃をかまえて護衛についた。 「よし、さあ、ゆこう」  若林先生と尚はまっさきに円盤のふちにかけられた金属製のはしごを登って行った。  ハッチの奥はまっくらだった。懐中電灯の光でさぐってみると、奥は円形の小さなへやになっていた。その一方にこれも開いたままの丸いドアがあった。金属ともプラスチックともつかないせまい回廊の床に、ところどころにあきらかにこれは金属の円い板がはめこまれていた。 「なんだろう? これは」  六人は一列になって回廊を進んで行った。 「照明器具らしいものはひとつもないな」  井上博士がつぶやいた。  その回廊は、円盤の外殻に沿ってぐるりと一周しているようだった。どこまでも同じゆるやかなカーブでつづいていた。 「ここにドアがあります。これでさらに内部へはいるのでしょう」  近藤二佐は、回廊の壁にとりつけられたドアを押した。ドアは音もなく開いた。六本の懐中電燈の光の矢は、めまぐるしく目の前の空間をないだ。その光の輪の中に、えたいの知れぬ巨大な装置が小山のようにそびえていた。ガラスのようなかたい透明な物質で作られたその装置は、何千個ともしれぬ自動スイッチをそなえ、おそらくそのスイッチを操作するためのものらしいマジック・ハンドが、これは骨折した腕のように力なくたれさがっていた。 「井上博士、あの装置はなんでしょう?」  近藤二佐がかすれた声でいった。 「うむ。よく調べてみなければ何ともいえないが、航空装置ではないかと思うな」 「すると、あの機械をあやつるための乗組員がどこかにいるわけですか」  近藤二佐のことばに、護衛の自衛隊員がぎくっと短機関銃をとりなおした。 「いや井上博士」  若林先生が暗い船内に鋭い目をそそぎながらいった。 「三輪君がこれに乗ってやってきたときも、船内にはだれも乗っていなかったといっていた。おそらくこの円盤はどこからかコントロールされているものと思われますよ」  若林先生のことばは、広大な船内に不気味にこだました。 「あの装置の上方に見えるのが電子頭脳らしい。たぶん、あれがコントロール用の電波を受け、航法装置を動かすのだろう」 「動力はどこにあるんだろう?」  それはたぶん船体の外殻に接したところに備えつけられているのだろう。そしてそれは人類の想像を絶した推進装置であるはずだった。それだけで現代の地球の文明を数世紀分も飛躍させるにたるものであるはずだった。みんなは異様な興奮にほおをほてらせ、船内にくろぐろとうずくまる不気味な機械を見つめた。  いったいどこの星の生物たちがこれを造ったのだろう。何の目的で? そしてどれだけの年月をかけて、この太陽系の地球までやってきたのだろうか? それはまるで目まいがするほど|茫《ぼう》|漠《ばく》としたできごとだった。 「これはさっそく解体調査を必要とするな。夜があけたらすぐにでも開始してもらわなければならん」  井上博士は目をかがやかせた。こんなすばらしい研究材料にめぐり合うことなど、博士のこれからの人生にも、二度とはないことだろう。 「やはり三輪君のいうように、円盤はどこからかリモート・コントロールで操縦され、したがって生物が乗りこむようにはできていないようだ」 「博士、今われわれが立っているこの回廊は?」 「点検用の回廊ではないかな? 照明器具がまったく見当たらないことといい、気密装置もないところからみて、たしかにこれは無人の偵察ロケットといったようなものらしいな」  博士のことばがまだ終らぬうちに突然、船内の中央にそびえる巨大な装置が、ニジのような光の幕につつまれた。  ウイーーン  ヒイイイーーン  かすかな震動が船内の暗黒をふるわせた。 「やっ! なんだろう?」  力なくたれていたマジック・ハンドが、にわかに生を得たように起きなおった。生き物のように自動スイッチが開閉した。ニジのような光の幕はにわかに強烈にはためいた。 「いかん! 逃げろ。リモート・コントロールの装置がはたらき出したようだぞ!」  若林先生が叫んだ。 「出よう! ここにいては危険だ!」  六人は身をひるがえして回廊を走った。十メートルも走らないうちに、回廊の床は大波のようにゆれた。 「いそげ!」  ゴオウーー  ふいに開いたままのハッチから、烈風が吹きこんできて六人の顔をたたいた。 「うっ!」  尚は気管から肺へ、いっぱいにふくれあがった空気を吐き出すこともできずに、必死にあえいだ。頭が割れるように痛んだ。その痛みの中で、  飛び立ったな……絶望的にうめいた。  尚は必死に肺にたまった空気を吐き出した。すばやくポケットからハンカチをとり出して口に押しこんだ。これでどうやら|窒《ちっ》|息《そく》死だけはまぬがれることができる。尚は吹きこんでくる烈風にさからって、ハッチのふちまで進んだ。切りとったような暗黒の長方形は、おびただしい星の光をちりばめていた。もっと進んで、ハッチから乗り出して見れば、あるいはかがやく岬の光のこうずいが見えるかもしれない、と思ったが、それ以上ハッチへ近づく勇気はなかった。  ……くそ! 飛び降りることはむろん不可能だし、といってこのままじっとしていてはあと十数秒の命だろう。八千メートルものぼったら、酸素マスクも防寒服もつけていない今の状態ではたちまち死んでしまうだろう。  尚は惑乱する心を必死に抑えた。  もしこのまま、この円盤をコントロールしている母船にでも収容されたら、いったいどういうことになるのか。考えただけでも気が狂いそうだった。  ぐっと床が傾いた。尚はずるずるとハッチへ向かってすべった。尚は全身の力を手足にこめて床にからだを押しつけた。からだはなお、ずる、ずるっとハッチの外の暗い星空へ向かってすべった。足の先が空虚になった。 「うわっ!」  脂汗にまみれた手のひらには、すべるからだをとどめるだけの摩擦力もなかった。尚は残った力をふりしぼってハッチのふちにつかまった。下半身から腕まで、広漠とした空間のむなしさにさらされた。ハッチのふちをつかんだ指先だけが尚の意識のすべてだった。  ダダダダ!  うわあ!  すさまじい絶叫とともに、一個の肉体が尚の頭上をおどりこえて背後の空間に消えていった。つづいてもう一つ声もなく弾丸のように暗黒の中へころがり出ていった。護衛の隊員と、もうひとりだれかが、ささえを失ったのか、それとももはや恐怖に耐えられなくなったのか、はるかな地上へ落下していったものと思われた。  手を放せ!  手を放すんだ! そうすれば楽になるぞ!  だれかが尚の耳元で叫んでいた。その叫びに気づくと尚の耳元でごうごうと風がうなっていた。 「うるさい! 黙れ!」  尚は絶叫した。  たとえ指先だけになっても放すものか!  尚の頭はしだいにもうろうとなってきた。ハッチのふちにぶらさがってから、まだほんの二、三秒しかたっていないはずなのに、おそろしく長い時間がたっていったような気がした。  尚の意識は断たれた。  トウトウヤッテキタナ  トウトウヤッテキタナ  トウトウ………………  ……何をいっているんだ?  コンドハセイコウスルゾ  ——今度は?  コテイサレタゲンシロ[#「ゲンシロ」に傍点]ヲネラッタノガシッパイノモトダッタ  ——固定された原子炉? ああ、東海村の原子力研究所のことか。  ジャマスルナ  ——くそ! いいかげんにあきらめろ!  尚の頭の中いっぱいに迫ってきた大きな顔があった。その顔には鮮烈な記憶があったが、しかしそれがいったいだれなのか尚にはまったく思い出すことができなかった。尚はその顔に向かってつかみかかろうとしたが、全身は石に化したようにびくとも動かなかった。ただ、からだのある一点、指の先だけが尚のすべての意識を結集していた。  手を放せ!  さあ、手を放すんだ!  それは甘美な誘惑だった。尚はその誘惑に、そう長くは耐えていられないだろうと思った。尚は深く息を吸った。何も考えずにごく自然に手を開いた。その瞬間、尚は閃光のように声の主が次郎であることに気づいた。 「次郎、おまえもあいつらの仲間にされていたのか!」  突然、短く鋭い響きが空をつらぬいた。  キイーン!  反跳弾が尚のほおをかすめた。           *  気がついたとき、尚はアシの茂った湿地に倒れていた。ひたひたと寄せるどろくさい水が耳や口の中へ流れこんでいた。全身がやけるように痛かったが、尚は上半身を起こし、口の中にたまった水を吐き出した。急に激しい吐きけがおそってきて、思いきり吐いたが何も出なかった。 「ここはどこだろう?」  首を回してみると、背後のアシの茂みの向こうに、深く傾いた円盤がそびえていた。  激しい目まいをこらえて尚は立ちあがった、そのとき、ざわざわとアシがゆれて、近づいてくる一個の人影があった。  次郎か!  はじめて尚の胸に絶望的な恐怖がわいた。 「尚君! だいじょうぶか!」  その人影が叫んだ。 「あ! 綿貫さん」  アシを踏みしだき走り寄ってきたのは綿貫部長刑事だった。 「綿貫さん、ここはどこです? ぼくは円盤から落ちたと思ったんですが……」 「安心したまえ、尚君、ここは|霞《かすみ》ケ|浦《うら》の南岸だ。あの円盤は不時着したんだ。若林院長と井上博士のおかげだ。あのふたりが誘導装置を破壊したんだ。あぶないところだった」  尚は思わずドロの中にすわりこんだ。その尚を綿貫部長刑事が助け起こした。 「尚君、わたしは次郎君を追ってあの円盤の中にひそんでいたのだ。裏高尾の|谷《たに》|間《あい》からここまで。みんながはいってきたのも知っていたんだ」  尚の胸に、ゆうべからのことが悪夢のように思い出されてきた。 「次郎は? 次郎はどうしました?」 「しっかりしろ! 次郎君は重傷をおってはいるが、だいじょうぶだ。救急車で病院へ運ばれたよ」  尚は綿貫さんの手にすがって、よろよろと立ち上がった。 「次郎は正気にもどりましたか?」 「救急車にかつぎこまれる時に、うわごとで尚君の名を呼んでいたから、ショックで意識がもどったのではないか、と思う。いや、やつらから解放されたのではないか、といった方がよいかな」 「そうですか! よかった!」 「さあ、行こう。ひとまず東京へ引きあげよう」  自分の体が、鉛か石にでも変わってしまったように感じられる。東京へ引きあげるといっても、もう体がいうことをきかない。五人は救急車で寝たまま東京へ向かうことにした。対策委員会が用意してくれた二台の救急車に分乗した五人は、車内の簡易ベッドに横になったとたんに、もう高いいびきをかきはじめた。           *  東京へ着いた五人は、病院で検査を受けたのち、ようやく解放された。綿貫部長刑事の上着からごくわずかの放射能が検出されたが、体に影響はないということだった。  若林院長と井上博士、綿貫部長刑事の三人はふたたびあわただしく車で出かけて行った。事態はこの人たちをゆっくり休養させてはおかなかった。  尚はもう何年も帰っていないような気がするわが家へもどった。走り出てきた母親は、疲労で目ばかりぎらぎら光り、あちこちすり傷だらけの尚を見て、見る見る目にいっぱい涙を浮かべた。 「尚! よかったわねえ。無事に帰ってこられて! 対策委員会というところから電話がかかってきて、おかあさんはおどろくやら心配するやら。おまえ、そんなことに首をつっこんでいたのね。もうお止しなさい!」  尚は首をすくめた。 「でもね、おかあさん。これは人類全体の運命がかかっていることなんだ。止すとか止さないとかいうことではないんだ。みんなで知恵をしぼって勇気を出して行動しないとならないんだよ」 「でも、尚」 「だいじょうぶだよ。おかあさん。おれだって命は惜しいさ。あぶないと思ったら逃げるさ。まかしとき!」  尚は自分の胸をどん、とたたいた。 「でも、おとうさんが許しませんよ!」 「おとうさんは、わかってくれるよ」 「尚!」  尚は自分のへやへ退却した。おかあさんと議論していたのでは、かえってことがめんどうになる。           *  学校は休校になっていた。あの宇宙船がいつ目標を変えて市街を襲ってくるかわからない。彼らの地球へ侵入してきた目的がよくわからない。いまのところ、彼らはどうやら原子力発電所などをねらっているようだが、それがほんとうの目的なのか? 彼らがもし、地球の文明の標本を集めようとしているようなことであれば、やがては当然、他の施設や船や自動車、あるいは都市そのものまで持ってゆこうとするであろう。そのため、国連の特別委員会は、世界中の大都市の市民の|疎《そ》|開《かい》を強くうったえていた。大都市に集中している人口をできるだけ少なくすることによって、万一の場合の犠牲者を少なくしようとする計画だった。大都市に住む人びとは、先をあらそって地方の|親《しん》|戚《せき》や友人に、自分の家族をあずけはじめた。太平洋戦争のとき、東京や大阪をはじめとする多くの都市では、空襲による被害を避けるために、たくさんの市民たちがいなかへ疎開した。小学生などはいなかのお寺や、公民館などを宿舎にして何か月もの間、集団生活をしたのだ。食べるものも不足し、一日中うえに苦しんで、そのうえ、のみやしらみにせめさいなまれ、おとうさんやおかあさんを思い出しては、ひと晩中泣きあかしたのだった。  その疎開がまたはじまった。いなかに親戚のいない家の子どもたちは、幾つもの集団を作って各地の農村や山の中の小学校へ散って行った。  化学工業をはじめ、大工業地帯ではその施設を移すといっても容易なことではない。そのうちに、そこにはたらく人びとがめっきりと減ってきた。工場もろとも、宇宙船にさらわれてしまったのではたまらない。それにこのように世の中ぜんぶがひっくりかえるような騒ぎになったときには、逆にはたらく所はどこにでもある。何も目標になりやすい大工場につとめていることはない、とみなが思ったのだった。  空港などもそうだった。地球の文明の標本をさがし求めるならば当然、空港もねらわれるだろう。ニューヨークも、パリも、モスクワも、東京も、大阪も、国際空港のほとんどは閉鎖され、空港にはたらく大部分の人たちは逃げ出してしまった。           *  都会の標本なら、それは何と言ってもニューヨークがいちばん高層ビルが立ちならんでいるし、自動車道路も整備されているから、ねらわれるとすればニューヨークにちがいない。だから東京は安全だよ、という人もいた。また、いや、やつらは高層ビルや高速道路などは少しもめずらしくないだろうから、それよりもむしろ人類文化の特色をあらわしている都市をねらうだろう。それなら京都だ、という人もあった。ばかいえ、それならパリだ。いやイスタンブールだろう。いや、ギリシャの|都市《ポ リ ス》の遺跡だろう。ピラミッドではなかろうか? などと勝手な推測による議論がむしかえされた。           *  そのうちに、ロンドンがやられたらしい、とか、ニューヨークがやられたらしい、とかデマが飛びはじめた。デマというのは、ほんとうのことのように根も葉もないうわさがニュースとして語り伝えられてゆくことだ。これは混乱をいよいよはげしくさせ、不安におちいっている人びとをますます不安におちいらせる悪質な口コミだ。それも結局、明日はどうなるかわからない自分の生命や、人類の運命に対する不安が、事態を悪い方へと考えさせるからなのだ。東京や大阪では北海道の札幌がやられたらしいなどといううわさが流れるし、その札幌では東京や大阪が壊滅したらしいというニュースでもちきりだった。  しかしそれでも市民生活にはたいした影響もあらわれなかった。一部の知識人などは、民衆がこの世の終わりだといって暴動でも起こすのではないか、と心配していたが、二、三の町でそのような騒ぎも起こりはしたが、それが全体にひろまることもなく、しだいに平穏になっていった。よく、第三次大戦が始まったとたんに、いよいよ人類の終わりがきたとばかりに、人びとは気違いのようになって人を襲ったり物をうばったりして恐ろしい地獄絵図がくりひろげられるにちがいない、などと言われるが、そんなことはない。人間はもっと現実的だし、そんなことでやたらに絶望的になったりするものではない。やはり以前と同じように店はあけるし、つとめに出てゆこうとする。子供たちは、いつもと同じようにおもてへ出てわいわい遊んでいるし、そのうちにけんかがはじまればこんどは母親が出てきて親どうしの言い合いがはじまる。そのことの方が第三次大戦や宇宙人よりもずっとずっと重要なのだ。会社につとめにゆく人だってそうだ。なんとなく非現実的な戦争や宇宙人の来襲よりも、取引先との話し合いがうまくゆくかどうか、手形がつごうよく落ちたかどうかの方がよほど重大なことなのだ。|誰《だれ》もがどんなことが起こっても、自分だけは死なないつもりでいるし、それにもうひとつ、みんなが死ぬならしかたがないや、というあきらめがある。  それはたいへん無責任な、危険な考え方でもあるが、同時にそれは戦争などごめんだ、戦争など起こすまい、という考えのもとにもなっているし、いったんできごとが起こった場合にも、それにふり回されることなく自分たちの生活を守ってゆこうとする強い意志ともなるものだ。それが混乱におちいることなく、事態を処理してゆこうとする知恵でもある。民衆というものはそういうものだし、生活というものはそういうものなのだろう。     8 やつは、ふたたびあらわれた  一週間ほどすると次郎が病院から退院してきた、相当ひどいけがだったのに、もともと元気のよい次郎のことだから、なおるのも早かったのだろう。左足だけがまだ不自由で|松《まつ》|葉《ば》|杖《づえ》をついている。左の耳のうしろのけががまだなおりきらないとかで、頭には|真《ま》っ|白《しろ》なほうたいを巻いていた。  みなはその次郎をむかえて尚の家に集まった。ジュースで|乾《かん》|盃《ぱい》したあと、ただちにこれからの作戦会議に移った。  まず次郎が口火を切った。 「ぼくはやつらの宇宙船の中にいる間に、やつらが話し合っているのをいろいろと耳にしたのだが、どうも、その内容が思い出せないんだ。ゆうべなんか、あともうちょっとで思い出せるというところで、またすうっと思い出せなくなってしまった。何か、それはとても重大なことなんだ。やつらをいっぺんにたたきつぶすことが、できるようなことだったと思うんだが。だけど、ああ、思い出せないなあ」 「まあ、いいよ。次郎」  尚がおしとどめた。 「あまり考えつめると、体によくない。まだ十分なおりきっていないんだからな。そのうちに思い出すさ」 「そうよ。次郎君。むりに思い出そうとすると、かえって思い出せなくなるものよ」  陽子もやさしく言った。 「次郎君や明夫君。それにぼくと、つぎつぎと意識をとりもどしたというのは、これはおそらく、やつらにとって、もうぼくらが必要なくなったからなのだろうと思う。ぼくら三人は、やつらがほうぼうから集めてきた科学機械などを運搬したり、それを受けとったりする仕事につかわれていた。そのやつらの計画が、一応終わってつぎにもっと大きな物を集めることになったのだろう。ぼくらの意識へのコントロールが無くなったので、ぼくらは正気に立ちもどったにちがいない」  陽子の兄の鉄也は深く腕を組んだ。 「私、ちょっと心配なことがあるんだけれど……」  陽子が口ごもった。 「なんだい? 心配なことって」 「それはね、あの宇宙船の中へ入ったり、あの連中と接触したのは次郎君と明夫君、それにうちのにいさんだけでしょう」 「おれや綿貫さんや若林先生、それと井上博士もいるぜ」 「でも、その人たちは宇宙人たちと接触したわけではないでしょう。つまり連中の中で生活したのは今の三人だけよ」 「そういうことは言えるだろうな」 「明夫君もにいさんも次郎君と同じように、ほんとうはいろいろなことを見たり聞いたりしたはずよ。記憶に残っていないだけじゃないの?」 「それはわからない。たしかに目や耳には入ったはずだが」 「ね、もし三人が、それをはっきり思い出したとすればどうなる?」 「どうなるって……」 「宇宙人は困るじゃないの」 「それはそうだ」 「このままにしておくかしら?」 「でも、もし困るんだったら殺してしまっているはずだ。もう必要なくなったからといって、ただほうり出すはずがないだろう」  陽子は首をふった。 「ううん。にいさんや次郎君が意識をとりもどしたのは、あの円盤が不時着したからでしょう。二人をリモート・コントロールしていた装置が、こわれたからだろうと思うわ。連中は、まだまだ二人を使うつもりだったのよ」  みなはおしだまった。陽子の推理はおそらく正しいだろう。 「明夫君の場合は、少しちがうよね。明夫君の意志力が強かったのか、それともコントロール装置が故障でもしたのか、明夫君は意識をとりもどしてしまったのよ。宇宙人が明夫君を必要としなくなったのではない証拠には、明夫君はそのとき運搬していた科学機械の部品の入っているバッグを持ったままだったことでもわかるわ。あのバッグは、宇宙人が何を目的としているのかを示す証拠のひとつだもの」 「そうか。そのまま明夫を解放するのはおかしいな」 「でしょう。だから宇宙人は、三人がいろいろなことを思い出すことをいちばん恐れているんじゃないかしら」 「さすがは陽子さんだ。ぼくも内心ではそう思っていたんだよ」  とつぜん明夫が、とくいそうに胸をそらせた。 「何がだ?」 「なんだよ? 急に」  明夫は二人を制した。 「尚君にも次郎にもわからんだろうが、これはぼくの意志の勝利だったんだよ。宇宙人のリモート・コントロールなんぞ、受けつけないのさ!」 「けっ!」 「やつらの機械が故障したのさ。なんでえ、へんなバッグなんか持たされてさ、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしていたくせに!」 「何とでも言え。おれはみごとに宇宙人のテレパシーをはねのけて、人類のために立ち上がったんだ」 「やれやれ。せっかく正気にかえったと思ったら、こんどはやけに勇ましくなっちまったぜ」 「あんなこと言うからだぜ」  次郎はうらめしそうに陽子を見た。 「あたしはしいらないっと」 「無責任だなあ」 「おいおい、陽子。まだ先があるんじゃないのかい」  鉄也がうながした。 「あ、そうだ」 「あ、そうだもないもんだ」 「それでさ」 「どこまでだっけ」 「ほら、宇宙人は三人がいろいろなことを思い出すのをいちばん恐れているんじゃないか、というところまでだ」 「そうそう。だからさ、三人をこのままにしておくかしら?」 「おいおい、おどかすなよ!」 「だってそうでしょう」 「やめてくれ! おれは何も思い出さないようにするから」  明夫が頭をかかえて、すっとんきょうな声を出した。 「またあいつらに、つけねらわれるのはごめんだぜ!」 「だらしがねえやつだな。さっきのおまえの宣言は、どうなったんだよ」 「もういい。もういい」 「明夫、えらいことになったぞ。おまえはあいつらにねらわれているんだ。今夜にもやってくるぞ。おまえはあいつらに、八つ裂きにされてしまうんだ」 「やめてくれ!」 「おまえの寝ているところへ、すうーっと現れてきて」  明夫は両方の耳を押さえ、大きな声ででたらめの歌を|唄《うた》いはじめた。 「静かにしてよ」  陽子が|眉《まゆ》をしかめた。 「私の心配しているのもそれなのよ」 「どうしたらいいんだ?」 「いったん自分をとりもどしてしまった人を、またリモート・コントロールするのはむずかしいんじゃないかと思うの。また妙なことがあったら、疑うものね。疑うっていうことは、理性的になることだしさ」 「なるほど」 「だから、こんどねらってくるとしたら直接、襲ってくるんじゃないかしら」 「うええ!」 「口を閉じさせればいいんだもの。こんどは簡単よ」 「そう簡単に言うなよ」 「どうしよう?」 「そうだ」  尚が陽子のあとを引き取った。 「みんながばらばらでいてはあぶない。いっしょにいるんだ」 「家へは帰らないのかい?」 「合宿するんだよ。そして行動するときは、いつも最低二人一組でする」 「トイレへ行くときもかい?」 「そうだよ」 「ウンチするときは、戸を開けておいてするのかい?」 「ばか」  鉄也が大きくうなずいて、身を乗り出した。 「一団になって行動するというのは、よい考えだ。一人一人では心細いし、何か起こっても自分でうまく処理できるかどうかぼくにも自信はない。当分の間それでゆこう」 「合宿する場所は?」 「私の家や次郎君や明夫君の家ではあぶないわね。捜そうと思えばすぐわかってしまうわ、明夫君も自分の家から連れ出されたくらいだもの」 「でも、どうしておれがねらわれたのだろう」 「明夫君。修学旅行の列車の中で、あの連中におぼえられたのよ。きっと」 「列車の中で?」 「明夫君でしょう。隣の車両に、妙なやつらが乗っているなんて言い出したのは」  みなはあっと思った、その時だったのだ。やつらは疑惑の心を抱いた明夫をはっきりと感じとり、その心の動揺につけこんで自分たちの手先に使うようにリモート・コントロールしたのだ。いわば明夫は列車の中で自分のことを連中にはっきりとおぼえさせてしまったとも言えるだろう。 「|昭《あき》|子《こ》さんの家ではどうだろう?」  同級生の|島《しま》|田《だ》昭子の家は、おかあさんが昭子の幼い妹や弟を連れていなかの親戚へ避難し、今はおとうさんと昭子しかいない。消防署につとめている昭子のおとうさんは、この騒ぎで家へは帰れず、消防署につめっきりなのだという。 「よし。昭子さんに電話してみよう。あそこなら、やつらだってわかるまい」  さっそく鉄也が電話をかけた。くわしい事情を話すひまもなかったが、昭子はなかよしの陽子をはじめ、五人がやってきてくれるというので大喜びだった。五人はいったん自分の家へ帰って、両親たちに自分たちの計画を説明した。尚のおかあさんもおろおろと引き止めようとしたが、尚の生命にかかわる問題となれば、ただ尚のことばにしたがうよりほかはなかった。それに今では尚も対策委員会の重要な参考人というわけで、逃げ回っているわけにもいかない。  三輪兄妹は、むしろ陽子の安全のためということもあって、両親はさんせいだった。明夫と次郎は、家出同様にころがりこんできた。           *  昭子の家は二階建てで、階下が台所と六畳と四畳半のふたへや。二階が六畳ふた間の間取りだった。その二階の六畳のへやの一方を陽子と昭子、一方を尚と明夫、次郎、鉄也の四人で使うことにした。道路に面した階下のへやは雨戸をぴったりとしめきり、玄関には固くカギをかけた。昼間から雨戸をしめていても、いなかへ疎開し雨戸を固く閉ざしたままの家も多いから、別におかしくはない。  食事の用意は、昭子と陽子のかかりだ。  こうして、|籠城《ろうじょう》作戦がはじまった。           *  二日、三日と何事もなく過ぎていった。二階に閉じこもっている生活も、考えたほど楽ではない。四日目に次郎が病院へ行く時には、みな大張り切りだった。この家が見張られていないかどうかをたしかめたうえ、そっとぬけ出し、人通りの少ない裏通りを通って病院へ行った。この日に次郎の頭のほうたいも取れ、松葉杖も必要なくなった。  六人は久しぶりに公園でのびのびと体をのばした。  上空を警戒のジェット機が絶えず遠雷のような爆音をとどろかせて飛んでいる。あちこちの街角には自衛隊の戦車が長い砲身を突き出して、怪獣のようにうずくまっている。宇宙船がやってきたら|仕《し》|留《と》めようというのだろうが、あの東海村でのすさまじいできごとを知っている五人の目には、なんともたよりない姿としか映らなかった。           *  五日目。いぜんとして何事もなかった。テレビのニュースも、科学者の解説や政府の役人の談話などばかりで、新しい事件の発生は何も報じていない。ニューヨークもパリもモスクワも無事で、整然と疎開がつづけられているというニュースばかりが長々と語られていた。 「やつらは、あきらめて行ってしまったのではないかな?」 「今まで集めた標本だけでもう十分、ということになったんじゃねえかな」 「おれたちのことなんか、おぼえてもいないよ」  みんなのことばに、陽子も自信がなくなったらしく、浮かない顔をしていた。  昭子が台所でじゃがいもの皮をむいていたが、やがてそれをゆで上げると皿に山盛りにして運びこんできた。香ばしい|匂《にお》いが立ちこめた。 「うわあ。うまそうだぞ」 「急に腹がへってきたよ。おれは食うぞう」  みんなは大喜びでとり囲んだ。町では菓子店などは製造がつづかないのか、めっきり品不足になってきて、みなのおやつを買い集めるのにひどく苦しんでいた昭子だった。 「待って。ほら、塩をたっぷりきかせて食べるとおいしいのよ」  昭子は|馴《な》れた手つきで、いもの上にパラパラと塩をふりかける。その下からみないっせいに手を出した。 「この調子じゃ、ちょっとたりなそうね。よし、もう少しゆでるか」  昭子がよいしょ、と立ち上がった。 「昭子さん! いっしょに食べろよ」 「食っちまってからでいいじゃねえか」  みなも口では引き止める。 「すわりこんじゃったら、もうだめよ。つづけてやらなければできないわ」  昭子は人の好い笑顔を浮かべて、またのそのそと台所へ入って行った。 「悪いなあ」 「すまねえ」  明夫も次郎もほんのていさいで気の毒そうな声を出す。  そのとき、台所から昭子の顔がのぞいた。ひどくおびえた表情で低く叫んだ。 「みんな! 誰かきたわよ」 「何!」  みんなが思わず腰を浮かせた。 「こっち!」  昭子がさしまねいた。みなは足音を忍ばせて台所へなだれこんだ。 「ほら」  台所の流しの横の小窓から、庭の植え込みを通して、固くしめきったままの玄関が見える。その前に、学生服を着た一人の少年が立っていた。  玄関の戸に手をかけ、二、三度力をこめたが、開かぬと知ってこんどはゆっくり庭へ入りこんできた。 「あっ! あいつだ」  尚は思わず叫んだ。眉毛や目や鼻、口のどれをとっても、何の特徴もないごくふつうの|容《よう》|貌《ぼう》だったが、全体から見ると体の動きにも恐ろしくむだのない、まるで人形かロボットのような奇妙なふんいきをそなえた少年だった。 「陽子さん! あいつだ。若林医院から逃げ出したやつだ」  陽子の顔から、見る見る血の気が引いた。みんなも、すでにその話は聞いて知っている。 「何をしにきやがったんだ?」 「みんな、気をつけろ!」 「あいつが現れたところをみると、これは陽子さんが心配していたとおりになったのかもしれない」  少年は台所の出口を発見したらしく、まっすぐこちらへ近づいてくる。昭子が急いでカギをかけた。 「あぶないぞ。みんな、茶の間へ引け!」  みな、ばらばらと台所から隣の茶の間へしりぞいた。 「くそっ。いもを食いそこなったぞ」  明夫が舌打ちした。  ガタガタ……ガタッ、ガタッ、  台所の出口の板戸を、こじあけようとしている。 「みんな! 何でもいいから、えものを持て!」  いざという時の用意に、そろえておいた野球のバットや木刀などを握りしめた。昭子は陽子を背にして果物ナイフをかまえた。太った昭子はゆうゆうとしていてなかなか心強い。  どおん! と、板戸が|蝶《ちょう》つがいをつけたまま押し開かれた。 「きたぞ!」  台所へ少年が入ってきた。無表情な顔に、ガラスのような目がうつろに光った。 「うひゃあ」  明夫がわくわくとふるえ出した。 「しっかりしろ!」  鉄也が低く叫んだ。  少年は、ゆっくりした足取りで台所を通って、みなのひそんでいる茶の間の入口へ歩み寄ってきた。 「それっ!」  壁のかげにかくれていた尚が、飛鳥のように跳んだ。手にした木刀をふりおろす。少年の体のどこかが、がつん! とひどい音をたてた。しかし全く苦痛を感じないらしい。機械のように正確に尚に向かって体の位置を変えた少年の背へ、鉄也のバットがうなりをたててふりおろされた。次郎が、明夫がおどりこむ。少年はわずかに体勢をくずしたがつぎの瞬間、かえって恐ろしい勢いで茶の間へおどりこんできた。すさまじい乱闘がはじまった。誰がどうしているのかさえ知るひまもなかった。尚はおどりかかってくる少年の腕の下をくぐりぬけ、左足を飛ばして足払いをかけた。よろめく少年の前から後ろから横から明夫たちがいなごのようにおどりかかった。とたんに三人ははね飛ばされ、壁やふすまを鳴りひびかせてまりのようにころがった。 「くそっ!」 「やろう!」 「いててて……」 「それっ」  台所から茶の間いっぱいの大乱闘だ。戸棚ががらがらと倒れ、皿や|茶《ちゃ》|碗《わん》がくだけ散った。えものがかくれひそんでいる場所を発見して襲ってきたまではよかったが、相手の数が多かったことが少年にとって計算ちがいだったのかもしれない。しかしそのことが、少年の戦闘力を少しでもそぐものではなかった。少年の頭や肩に、バットや木刀がうなりを発して打ちこまれても、ほんのわずか上体がゆらめくだけで、たちまち体勢をたてなおしてはもうぜんとおそいかかってくるのだ。若林医院で、重いレントゲンの装置を軽々と片手でふり回したやつだ。人間のおとな二十人分ぐらいの力があるのかもしれない。はげしい乱闘にみな、しだいに疲れてきた。なぐりつけても打ちすえても、少しもこたえない相手だ。だが尚たちは体中、|打《うち》|身《み》やすり傷だらけになってしまった。とうとう明夫の顔から鼻血が吹き出した。明夫はあふれる鼻血を手で押さえてうずくまってしまった。その背に少年のハンマーのような|足《あし》|蹴《げ》りがおそった。 「あぶない!」  一瞬、昭子の手から果物ナイフがキラッと光って飛んだ。ナイフは少年の背に刃の中ほどまで突き刺さった。棒立ちになった少年の足もとから、明夫が必死に|這《は》い出る。少年は何事もなかったように、腕を回して背のナイフをぬきとった。血も出ないし苦痛も感じないようだ。少年はふりかえってガラスのような無表情な眼で昭子を見つめ、それから体を回してするすると昭子へ近づいた。その背後から尚たちがおどりかかった。昭子はやにわに、足もとにころがっていたじゃがいもの入っている大皿をかかえ上げると、少年の顔に力いっぱいたたきつけた。乱闘の中で蹴り散らされ、ふみにじられてもまだ半分ほど残っていたじゃがいもが、くだけて散弾のようにへやいっぱいに飛び散った。その少年の背に、腰に、足に、尚たちの手がからんだ。 「死んでも離すな!」 「このやろう!」  またものすごい力でみなの体をはねかえすだろうと思ったが、なぜか、少年はみなに組みつかれたまま、ずるずると台所の方へ退きはじめた。とつぜん少年はけもののように何か叫ぶと、はげしい勢いで尚たちの腕を解き放つと、出口へ向かって走った。 「逃がすな!」 「追え」  尚たちも弾丸のように飛び出した。少年は入ってきたときと同じように庭の植え込みをくぐって玄関先へ出て、おもての道路へ走り去ろうとした。尚たちも先をあらそってあとを追った。少年は道路の片側に止めてあった一台の白い乗用車に飛び乗った。 「しまった」 「車できやがったのか」 「よし。待っていろ」  鉄也が裏の木戸から走り出て行ったかと思うと、いつもの青いワゴンを運転しておもて通りへ回ってきた。 「みんな乗れ! こういうこともあるかと思って、裏へ駐車しておいたんだ」  ドアを閉めるのも待ちきれずに、ぐうんとスタートする。  少年の運転する乗用車はすでにかなり前方にいたが、車体が白いので見失うことはない。中原街道に出ると品川の方向へぐんぐん飛ばしてゆく。幸い都心方面へ向かう車は少なかったので、しだいに距離がつまってゆく。ゆくての信号が赤になった。 「しめたぞ」  しかし白い乗用車はフルスピードで赤信号の十字路を突破した。 「いかん! 逃げられるぞ」 「よおし。かまわないから追いかけよう」 「パトカーが追いかけてくるだろうから、かえってつごうがいいぞ」  鉄也は、力いっぱいアクセルを踏んだ。 「みんな。しっかりつかまっていろよ!」  ブオオオオオ…………  鉄也はレーサーのようなハンドルさばきで、目の前をゆきかう車の列の中へ突っ込んだ。  キキキキ…………  ギィーッ  けたたましいブレーキの音と、タイヤのきしむ響きが入り乱れた。 「ばかやろう!」  どうん! と車体の後部に強い衝撃を受け、ワゴンは長い車体を半回転させてしまった。つぎの瞬間にはもう鉄也はハンドルを切りかえし、アクセルを踏んで走り出した。バックミラーには二、三台の車が止まって怒った運転手たちがばらばらと飛び出してきた。しかしそれにはかまわず、フルスピードで十字路を脱出した。  白い乗用車は気が狂ったように乱暴な追い越しをつづけてぐんぐん遠くなってゆく。鉄也も必死だ。 「鉄也さん。だめだ。逃げられちまうよ」 「何としてもつかまえたいなあ」  鉄也は時どき、対向車線にまで乗り入れて急追する。国電の五反田駅近くまで走った時には、二台のパトカーが真紅の回転灯をひらめかせてぴたりとくいさがっていた。 〈その車、止まりなさい。その車、止まりなさい〉  スピーカーが叫んだ。鉄也が窓から手をふって自分の車とならぶように合図した。何かわけがあると見たパトカーがたちまち並行してきた。 「すみません。円盤対策委員会の関係者ですが、今怪しい車を追跡中なんです。協力してください。目標の車は二百メートルほど前方にいる白い小型乗用車。学生風の男が運転しています」  パトカーの警官は何か相談していたが、鉄也の言葉を信じたらしい。警官の一人が手を上げると、見る見るスピードを上げて尚たちの車を追いぬいて前へ出た。 「よおし。追いつけるぞ!」  尚たちの車は、二台のパトカーに前後をはさまれた形になった。しかしこれでどうやら赤信号も無事に突破できる。  白い乗用車はあいかわらず百二、三十キロメートルものスピードで突っ走っている。品川駅前から南へ向きをかえ、東京湾の方向へ逃走進路をとった。 「やつめ、海の方へ行くぞ」 「やつらのなかまが、かくれているんじゃないかな?」  やがてその車は、海岸通りから倉庫の立ちならんでいる岸壁に入った。その先は東京湾の油やゴミを浮かべたなまり色の海面がひろがっている。岸壁のふちで止まった車はいったんバックしかかったが、とつぜんドアが開いて少年が飛び出した。追いつめられたけもののように岸壁の左右をうかがって、やにわに一方へ走り出した。そこへパトカーがすべりこみ、尚たちの車が少年の前方をさえぎるように止まった。もう一台のパトカーは背後を絶つ。 「逃げるな! 止まれ!」  警官が叫んだ。少年は体をひるがえすと、警官めがけて襲いかかった。警棒をふるってとり押さえようとした警官が岸壁のコンクリートにあおむけにたたきつけられ、もう一人の警官は頭をかかえてうずくまった。 「逃がすな!」 「止まれ! うつぞ!」 「うつな、生けどりにするんだ!」  尚が叫んだ。逃げる少年の前方は海しかなかった。少年の顔に、はじめてどす黒い絶望が浮かんだ。 「おとなしくしろ!」  尚が叫ぶのと同時に、少年はひらりと岸壁の上から身をおどらせた。 「しまった!」  どぶうん! 水音が高く響くと、少年の体はまっしろなしぶきにつつまれて沈んだ。 「あれ?」  すぐに消えるはずのしぶきが、急にぱあっと爆発のように大きく飛び散った。そのあとからおびただしい泡が水面をおおってわき上がってきた。 「どうしたんだろう」  みなの見つめる水面に、そのとき少年の体が浮き上がってきた。苦しそうにもがいている。 「助けてやれ!」  二、三人の警官と水泳のとくいな明夫が、すばやく上着をぬいだ。 「待て。ようすがへんだぞ」  鉄也が水面に飛び込もうとした警官や明夫たちを、おしとどめた。  見ると少年の体から無数の泡が噴き出し、白い煙のような水蒸気がもうもうと立ち上がってきた。少年の体は見る見る輪郭があいまいになり、白っぽくすき通ってきたかと思うと、やがて完全に溶けてなくなってしまった。  尚たちも、警官たちもぼうぜんと顔を見合わせた。 「やつは逃げられぬと知って、海に飛び込んで自殺したのだろう」  明夫がいまいましそうにくちびるをかんだ。どうやらそうとしか考えられない。 「ざんねんだなあ。つかまえていれば、体の構造などがよく調べられたのだが」  警官たちも口々につぶやいた。 「円盤対策委員会へ報告してくる。あなたがたからも誰かきてください」  鉄也の言葉に、警官隊からも一人進み出た。一台のパトカーに鉄也と、同行する警官が乗りこむと、電子サイレンの音も高らかに走り去った。  みなはもう一台のパトカーで、昭子の家にもどった。           *  家の中はめちゃめちゃだった。破れたふすまや障子をもとにもどし、飛び散った|茶《ちゃ》|碗《わん》や皿を掃き集めた。まるで一年一回の大掃除のようだ。終わった時には、もうすっかり夜になっていた。 「ああ。ひでえ目にあった。腹がへったなあ」 「また来るかな」  尚はしばらく考えこんでいたが、 「いや、もうこないだろう。さっきの少年は、若林医院から逃げたやつだ。ツーリスト・ホテルの火事で電送復元装置が破壊されて宇宙船へ帰ることができなくなっていたやつだ。若林医院から逃げ出して、今までどこにかくれていたのだろう?」 「尚君。もしかしたらぼくや次郎がやつらの手先にされていた時、連絡に当たっていたのがやつだったのかもしれない。円盤の中に少年がいて、そいつに運んできたバッグをわたした記憶があるんだ」 「そうか。すると、次郎や明夫や鉄也さんたちが正気にもどったので、三人の顔をよく知っているあいつが、|刺《し》|客《かく》になってきたんだな」 「ねえ。さっきどうして急にこの茶の間から逃げ出したのかしら?」 「そうよ。絶対有利な戦いだったはずでしょう。あのままだったら、ここにいるみんなは|今《いま》|頃《ごろ》、完全にどうにかなっていたわよ」  昭子のことばに、明夫や次郎はいやな顔をした。あの少年にとって絶対有利な戦い、というのがしゃくにさわったらしい。 「冗談じゃねえよ。ぼくはつぎに必殺わざをかけるつもりだったんだ。そうしたら、急に逃げ出しやがってがっかりした」 「ぼくだってそうさ。水平打ちをかけようと思ったらすいっと逃げ出してさ。おもしろくねえよ。こてんこてんにやっつけてやるところだったんだ」  陽子と昭子が顔を見合わせて、そっと首をすくめた。 「しかし、どうして急に逃げだしたのか、ふしぎだな」  尚も首をひねった。 「私があのとき……」  昭子がその瞬間の乱闘シーンを思い出すかのように、ひたいに手を当ててじっと考えこんだ。 「……あいつが私の方へ近づいてきたから、私は……」 「女子プロレスみたいなのがいたから、おどろいて逃げたんだよ」 「あれえ、たすけてえ、たすけてえってな」  明夫と次郎が、さっきのかたきうちのつもりか、ケタケタと笑った。しかしいつもならここで烈火のごとく怒りはじめる昭子が、二人のことばには耳もかさなかった。 「ね、聞いて!」  昭子がふと顔を上げた。何か思い当たることでもあったのか。 「あのときさ、私が……」  昭子のことばを聞いているうちに、みなの顔がしだいに引きしまってきた。明夫と次郎も真剣な顔で耳をかたむけている。  やがて尚は深く、何度もうなずいた。 「それは重大なヒントだぞ。ぼくにも思い当たることがある。若林先生の診察室で……よし、みんなきてくれ」  尚は立ち上がった。           *  対策本部に向かうワゴンは警戒のきびしい夜の街を風をまいて走った。まだ午後七時ごろだというのに両側の商店はシャッターをおろし、とびらを固く閉ざして人のすんでいる気配もない。時おりゆきかう自動車は、すべてパトカーや自衛隊のジープ、それに消防署の無線連絡車や電話線警戒のためのパトロールなどばかりだった。それらの車は、万一宇宙船が襲ってきて、大被害が起こった場合には、街に残っている人びとを安全な場所に避難させるという重要な任務を持っている。  ワゴンは東京湾の岸壁に沿って|晴《はる》|海《み》へ入った。立ちならぶ団地の窓の灯も半分ぐらい消えている。その先の工場街も、しごとをつづけてはいるが、活気がない。そこを過ぎると係船岸壁だ。何隻もの巨船が横づけされている。その下を、ぐんぐん走る。 「あ、ほら! 『むつ』だよ。原子力船の」 「大きいなあ」  みんなは目をかがやかせて日本の原子力船『むつ』を見上げた。 「世界一周航海に出かけるんだろう」  宇宙船襲来のさわぎにもかかわらず、出航準備がいそがしくつづけられているようだ。 「ああ、おれも世界一周なんてやってみたいなあ」  明夫が心の底から嘆声を発した。そのとき尚がふいに体を起こした。 「そうだ! 思い出したぞ」 「何を? 尚君」 「思い出したぞ。あの不時着した宇宙船の中でやつらのなかまがおれに話しかけてきたんだ。そのとき……」 「そのとき?」 「コンドハセイコウスルゾ。と言っていた」 「こんどは?」 「ああ。コテイサレタゲンシロヲネラッタノガシッパイノモトダッタ。とな」 「なんだって?」 「つまり固定された原子炉、あの場合は東海村の原子力研究所の原子炉のことだったんだ。みんな、固定された原子炉をねらったのが失敗だったとすれば、そのつぎには何をねらう?」 「固定されていない原子炉だろう。あっ、そうか。すると原子力船か!」 「やつらは、おれが助かるはずがないと思ったから、ほんとうのことをいってしまったのだろう。鉄也さん。対策本部へいそいでください」 「よおし」 「尚くん。よく思い出したなあ。これでやつらのつぎの作戦がわかったぞ」  みんなの胸に新しい希望がわいてきた。           *  東京湾の岸壁につながれた砕氷艦『ふじ』に設けられた対策本部は、たくさんの人びとでごったがえしていた。岸壁から甲板にかけわたされた橋のたもとに警備のための衛兵所がある。若林院長や綿貫部長刑事も、この『ふじ』の巨大な船体の中のどこかにいるだろう。面会を申し入れたみなは長い間待たされた。 「いったい何をしているんだろう。おい。警備の衛兵さんよ。つたえてくれたんだろうな」  衛兵はむっとした顔つきでこたえた。 「つたえてある。対策本部のかたがたは、どなたもたいへんいそがしいのだ。おまえたちのような子供に会っているひまはないだろう」 「なに! 子供だと?」 「じゃまだから、もっとそっちへ行って待っていろ」 「なにがじゃまだ。おれたちがいなかったら、人類は今ごろどうなっていたかわからないんだぞ」  明夫が肩をそびやかした。 「あっちへ行っていろ!」 「衛兵! なんだそのたいどは。おれたちは対策委員会の関係者なんだぞ」 「ねごとを言うな。警務隊に引きわたすぞ」 「警務隊が民間人をたいほできるのかね」  次郎もまけずにやりかえす。 「もちろん警務隊が警察当局へ引きわたすのだ」 「手間をかけるな。おまえが警察を呼んだらいいじゃないか」 「よし」  衛兵はほんとうに腹を立てたらしい。かたわらの電話機をとりあげると、警務隊を呼びはじめた。 「おまたせしました。どうぞ」  そのとき、急ぎ足でわたってきた士官が尚たちに向かって手を上げた。 「ご案内いたします」  ていねいな士官の態度に、衛兵は電話機を耳に当てたまま目を白黒させた。その前を、みんなはわざとゆうゆうと通り過ぎる。次郎がにやりと笑った。 「子供だと思ってばかにするなよ。ここにいるうぞうむぞうの五十人や百人より、おれたちの方がよっぽど重要人物なんだぞ」  ヴイ・アイ・ピーか。尚は胸の中でつぶやいた。日本全体、いや世界全体で自分たちと同じ年頃の少年はいったいどれだけいるだろうか。その中で、自分たちだけが他の誰もが経験したことのない奇妙な、恐ろしい経験を味わうことになったふしぎなめぐり合わせを、胸の奥底でかみしめた。これから人類がどうなるのか、やがて宇宙人の本格的な攻撃がはじまり、人類はみじめに敗れ去って滅亡してゆくのか、それとも、人類のはげしい抵抗によって宇宙人たちはふたたび暗黒の宇宙へ去ってゆくのか、それはまだどちらともわからなかったが、その人類の別れ道が今なのだという危機感だけが、ひしひしと尚の胸をおしつつんだ。           *  士官の先導で通された飛行機の格納庫のような広大なホールは、壁の一方が映画館のシネマスコープのような湾曲した巨大なスクリーンになっていた。そしてそこに日本列島の大きな地図が美しいかがやく線の線描で映し出されていた。そのスクリーンの手前の床には何段もの階段になり、何十台ものテレビや電話機がすえつけられ、たくさんの人々がすわったり動き回ったりしていた。その最上段に対策本部の最高幹部たちのつめている指令所があった。 「よお、きたな」  十数人の最高幹部の中から、めっきり疲れの色を顔に浮かべた若林先生と綿貫さんが現れた。 「綿貫さん。若林先生。思い出したよ。おれ」 「思い出した? 何を」  尚は大いそぎで二人に自分がさきほど、思い出したことについて話した。 「……だからやつらは、こんどは原子力で走る船をねらうだろうと思うんです。今、日本の沿岸にいる原子力で走る船は厳重に警戒しなければいけません」  綿貫さんと若林先生は、棒立ちになった。 「なるほど。ふうむ。これは容易ならぬことになったぞ。綿貫さん。ちょっときてください」  若林先生は綿貫さんをうながして、指令所の幹部の中にもどって行った。           *  現在、日本列島の海域にある原子力推進の船は日本の原子力船『むつ』と、アメリカの原子力空母『エンタープライズ』。それに同じくアメリカの原子力潜水艦『ジョージ・ネルソン』の三隻だけだった。  尚のもたらした予想は、対策本部をふるえ上がらせた。  九州の佐世保にあるアメリカ海軍の基地へ入港するために、四国のはるかな洋上を西北へ向かって航行していた原子力潜水艦『ジョージ・ネルソン』は、対策本部からの無電を受けると、大あわてで方向をかえると、ふたたび太平洋の海底へ消えていった。残るは『むつ』と『エンタープライズ』だった。この二つをくらべてみると、誰の目にもねらわれるのは『エンタープライズ』であることはあきらかだった。片方は原子力推進の実験船。片方は改良を重ねられた結果の超大型の実用船だ。  だが、|横《よこ》|須《す》|賀《か》基地に停泊している原子力空母『エンタープライズ』は整備中でどんなにいそいでも二、三日は出港できないという知らせが入った。 「これは困ったことになったぞ」  対策本部は頭をかかえた。もっとあわてたのは当の『エンタープライズ』と横須賀基地だった。もう重要施設も秘密兵器もあったものではない。『エンタープライズ』は五分もしないうちにまったくの無人艦になってしまった。基地にはたらく人びとも市民も、『エンタープライズ』の道連れになってしまったのではかなわない。街をすてて逃げ出した。ふだんは立ち入ることもできない基地の中へ堂々と入りこんで、ごっそりもうけたのはどろぼうだけだったという。     9 決 戦  中空に薄い雲がかかっていた。その雲のはるか上空を糸のような飛行雲を引いて、超音速戦闘機の編隊がパトロールしていた。海上自衛隊のミサイル護衛艦『あまつかぜ』が、東京湾につづく水路に白い|航跡《ウェーク》を残して、しだいに速度を速めて出航した。 〈……コチラ、|筑《つく》|波《ば》|山《さん》頂レーダー・サイト。高度三万メートルニテ|金《きん》|華《か》|山《ざん》沖ヲ南下スル巨大ナ物体アリ。警戒セヨ〉  対策本部の緊急電話があわただしく叫んだ。 「くるぞ!」 「いよいよ現れたか!」  人びとは不安な顔を見かわした。ここ、横須賀基地をかかえた湾内は異常な興奮につつまれていた。波静かな湾内にはアメリカ海軍の原子力空母『エンタープライズ』が巨体を不気味に輝かせて停泊していた。  今やこの横須賀基地だけでなく、日本中いや世界中の目が一隻の原子力空母『エンタープライズ』の運命のうえにそそがれていた。 「若林先生、あの宇宙生物たちの母艦の超大型宇宙船はほんとうにここへ現れるでしょうか?」  尚は、横須賀基地を見おろす背後の山に設けられた戦闘指揮所前に立って、さっきから目に双眼鏡を当てて大空を見張っていた。 「うむ、きっとやってくる。彼らの行動には何となくあせりが感じられる。やり方がとても強引になってきている。わしの考えでは、おそらく彼らは何ごとかの原因で、いそがねばならないのだろうと思う。これまでの失敗からみて、きょうは決戦をいどんでくるだろう」 「まったくこんなことになるとは思わなかったなあ」  尚の胸に、あの修学旅行の帰路の車中でのできごとが、もう遠い遠い過去の日のことのように思えた。あのとき隣の車両に乗っていた彼らに気づいたのが、そもそもことのはじまりだったのだ。あれから……。  そのとき突然、基地をめぐるあちこちでいっせいにサイレンが鳴り出した。  ウ……! ウ……!  ウィーン! ウィーン!  高く低く、その響きは不気味なこだまを引いて長く長く大気をふるわせた。警戒警報だ。 「きたぞ!」 「非常配置につけ」  戦闘指揮所はにわかに騒然となった。 「あっ! あれはなんだろう」 「見ろ! あれを」  はるか|房《ぼう》|総《そう》半島の上空、薄雲のたなびく青空に、いつの間に現れ出たのか、奇妙な巨大な黒い影が浮かんでいた。それは帯をのべたように水平に長く、そしてぐんぐんとその幅をひろげつつあった。  ズゥ……ン!  ズ、ズゥ……ン!  丘陵の一角から対空ミサイルの群れがきらめく炎を引いて発射された。白煙がすだれをかけたように青空にのびた。その先端が見る見る小さく、薄雲の中にとけこんだせつな、迫ってくる巨大な影の下当たりに、ぱっ、と目のくらむ火花が散った。ミサイルが命中して爆発したのだ。つづいて、パッ、パッ、パッ、と白い火のかたまりが生まれた。 「全弾命中だぞ!」  房総半島の上空はミサイルの爆発による、黒褐色の爆煙が厚く、密雲のようにたれこめた。巨大な物体はその爆煙の上に乗った、マンモス空母のように見えた。 「いかん、攻撃は不成功だ!」 「だめか?」 「やってくるぞ!」  爆煙のうずをあとに残して、それは見る見る大きく横須賀の湾内の上空へ迫ってきた。すうっと日がかげった。巨大な影が太陽をおおったのだ。たちまち天の半分が暗黒になってゆく。  ズゥーン! ズゥーン! ズゥーン!  にわかに、気の狂ったようなミサイルのいっせい射撃がはじまった。頭上をおおう暗黒のあちこちに、目のくらむような閃光が咲いた。高度一万二千メートル、直上の目標にやつぎばやに命中する。  ゴオー!  衝撃波がつなみのように大地をたたいてきた。うち上げられるミサイルの群れは、頭上の暗黒と大地を結ぶ無数の火の雨だった。爆発の閃光と、上からたたきつけてくる爆風とで、大地は今にも引きさけるかと思われた。 「若林先生、ミサイルはまったく役にたたないようですね」  尚はひたいにべっとり冷たい汗を浮かべてささやいた。 「うむ」  若林院長も、これまでに見せたこともない不安の色をただよわせていた。  奇妙な物体は今や横須賀いったいをすっぽりとその巨体の影でおおった。周囲は|暗《くら》|闇《やみ》と化した。尚の立っている丘から見ると、はるか水平線に近いかなただけが、ぐるりと輝く光の幕をはったように明るかった。 「まるで大きなかさの下にはいったみたいじゃないか」  陽光をさえぎられたために、気温が見る見る低下してきた。海から吹いてくる風がひんやりと冷たかった。その風にのって横須賀の市街から、人々の悲鳴や叫び声がものすごく聞こえてきた。まだ残っていた人びとが、あわてふためいて市外へのがれようとしているらしい。  ダン! ダン! ダン! ダン!  どこからか必死にうちまくる高射機関砲の音がいやにむなしくひびいてきた。色とりどりの|曳《えい》|光《こう》|弾《だん》が、先をあらそうように頭上の暗黒へふき上がっていた。チカチカと爆音がまたたいた。それだけだった。  周囲が真昼のように明るくなった。いくつもの照明弾が、小さなパラシュートを開いてゆっくり流れてゆく。 「見ろ! 尚君」  若林院長がその光をあびて立ち上がった。 「あっ!」  湾内に停泊しているアメリカの原子力空母『エンタープライズ』は、その巨体を、今、音もなく海面高くもたげはじめていた。イルカの頭のような丸い艦首は、すでにななめに二十メートルも中空にあった。 「若林先生、原子力空母が宙づりになってゆきます!」 「ううむ。上空にいる宇宙船に吸いこまれてゆくのだろう」 『エンタープライズ』の艦腹に群がっていたモーターボートが、ばらばらと海面に落ちて行った。照明弾の光の中で『エンタープライズ』は完全に中空にせり上がった。  若林先生が携帯電話にとびついた。 「こちら若林だ。いそいで攻撃部隊の指揮官に伝えてくれたまえ。あの原子力空母と上方の宇宙船との間の空間にミサイルをうちこむんだ。何かわかるかもしれんぞ」  提案はただちに伝えられた。数十発のミサイルが、ほとんど水平に、そのせまい空間にうち込まれた。丘に陣どった尚や若林先生をはじめとする人びとは、地面にひれ伏して耳や目を押さえた。ごうごうと海も陸もどよめき大気は炎のように熱した。爆風で海面はタツマキのように水しぶきを飛ばした。その光と響きとどよめきの中を、『エンタープライズ』はなおゆっくりとのぼりつづけた。その姿は照明弾の光の波と、さらにその上方のミサイルのすさまじい爆光の中で、幻想的な太古の怪物のように見えた。舞い狂う水しぶきが『エンタープライズ』の姿を霧のように包んだ。霧は輝く光のあらしの中でニジをひいた。 「おっ! 原子力空母が止まったぞ」  今までゆっくりと音もなく中空をのぼりつづけていた『エンタープライズ』が、なぜか、ぴたりとのぼるのをやめていた。変化に気づいたのか、ミサイル攻撃がぴたりとやんだ。にわかに死のような静寂が周囲をつつんだ。その静けさの中で、横須賀市街のざわめきがいよいよ津波の寄せるように高まって聞こえた。照明弾の光だけが、降るように海や丘を青白く染めた。その光の中を『エンタープライズ』はふたたびゆっくりとのぼりはじめた。  シュ、シュ、シュ、シュ……  ズ、ズゥーン、ズゥーン!  ひと息いれるかのように沈黙していたミサイル陣地がまたいっせいにうなりはじめた。暗闇と閃光がこの世のものとも思われず交差した。すでに『エンタープライズ』は五百メートルも上昇していた。こんどはわずかの間もとどまらなかった。その巨体もすでに大型旅客機ほど小さく、やがて軽飛行機ぐらいになってしまった。そしてなおのぼりつづけて行った。ミサイルの攻撃はしだいにおとろえ、やがてとだえた。 「あれ以上うっては原子力空母を爆破してしまうおそれがあるのだろう。そうなってはこの付近いったいに放射能をおびた破片が落下してくるからなあ」  若林先生がくちびるをかんだ。 「それにしても先生、さっきのぼってゆく『エンタープライズ』が、なぜいったん止まったんでしょうか?」 「うん。わしも今それを考えていたところだ。ミサイルの爆発による高熱が『エンタープライズ』を引き寄せる力に何か影響を与えたのだろうか? ああ、原子力弾頭が使えたらなあ。原子力空母を引き寄せるあの力、おそらく強力な磁力線だと思うが、それに明らかな影響を与えるはずなんだが……」  尚はがっくり腰を下ろした。 「……負けた。やっぱりかなわなかったな……」  ついに何物とも知れぬ宇宙生物との知恵くらべに、人類はかなわないのか。それはこのつぎ彼らが現れるときの、人類の悲惨な運命を意味しているのではないか。今、人類は恐るべき宇宙生物との最初の対決を終わろうとしていた。そこに浮かんでいた一隻の原子力空母を失って海面はようやく静まろうとしていた。尚はそのとき、ふとあることに気がついた。その目が異様にかがやいた。 「なぜ『エンタープライズ』はあのときいったん止まったんだ? なぜだ? それは……それは……あのとき……」  尚は若林先生の腕をとらえた。  若林先生は思わず叫んだ。 「そうだ! 尚君。君に言われたことがあったっけ! いそがしくてつい忘れていたが。あれをためしてみよう」           *  横須賀基地を見下ろす|武《たけ》|山《やま》ミサイル基地は、戦場のような騒ぎだった。ずらりと並んだミサイル・ランチャーの周囲に数十台のタンク・ローリーが並んでいた。爆発弾頭の内部の火薬や信管、機械類をとりはずしたあとのスペースに、高速ポンプでタンク・ローリーから、液体が注入されていった。 「準備の終わったものから、射撃用意にかかれ!」  タンク・ローリーの列はあとからあとからランチャーの列線にはいってくる。  放列の一角で、ぱっ、と白煙がふき上がった。尾端から長い炎をひいて最初の一発が発射された。 「それ! いそげよ」  精密な弾頭をとりはずした内部に、何の液体かしらないが、水をそそぎこむなど、精密兵器係下士官としてはあまりよい気持ちはしなかったが、各ランチャーの分隊長はけんめいに声をからしていた。やがてミサイルはつぎつぎとランチャーを離れていった。|轟《ごう》|音《おん》と閃光が目と耳を打った。 「いったい、どうなるんだ?」  みんなの顔は期待と緊張にこわばっていた。           * 「若林先生! 宇宙船が動き出したようです」  地平線に沿ってぐるりと明るい空の、西の方が少しずつ幅広くなってきた。それと同時に東の地平線の明るい空が、しだいにせまく細くなっていった。宇宙船が東へ向かって移動しはじめたのだ。西の空の明るい部分が、強烈な日の光の帯を地上に投げかける。その幅せまい明るい空へ、数十発のミサイルの群れが犬のように、巨大な宇宙船の下腹をすりぬけて上昇して行った。それは暗黒の円弧へ向かって投げかける無数の火のしだれやなぎだった。つづいてまた一群、さらに一群。  陽光に輝く世界がゆっくりとふたりの目の前に近づいてくる。遠い丘も、白波を浮かべる青い海も、生気をとりもどして目が痛いほど色あざやかになった。さあっ、と音を立てるようにふたりの上にもまぶしい陽光が降りそそいできた。  広大な|楕《だ》|円《えん》形の暗黒が東の空をおおってゆっくりと動いていた。その空にかかる巨大な暗黒のふちに何かきらきらしたものが輝いていた。奇妙な形の尾翼のようなものがそそり立っていた。  数十機の飛行機が群鳥の舞うように、青い空を旋回していた。たぶん上方からもはげしい攻撃を加えていたのだろう。           *  巨大な影は、すでに東京湾口の外、太平洋上に移っていた。そこだけ塗りつぶしたように長大な暗黒の楕円形だ。 「見ろ!」  数十発のミサイルの群れがいっせいにその上空から突っ込んで行った。何の爆発も起こらない。ただ望遠鏡の視野の中で、巨大な暗黒の影の上にまっしろな水煙が咲いた。つづいて一群、さらに一群、宇宙船は見る見る層雲のような水煙におおわれていった。ミサイルはあとからあとから食いついていった。 「百万ガロンの海水をあびせるんだ!」 「ゴオー!」  大気をどよもして超大型のICBMが突っ込んできた。急報を受けたアメリカかソビエトのミサイル基地のものだろう。まっしろな飛行雲をあざやかにひいて巨大な宇宙船に激突した。くだけた弾体がゆっくりと宙に舞う。灰白色のふぶきがどっと渦巻いた。 「あれは塩だぞ!」  さらに北方の空から流星のように突っ込んでくる。塩の雲が積乱雲のようにもり上がった。巨大な暗黒の宇宙船が、ふいにぐら、ぐらとゆれた。そのまま大きくかたむいた。宇宙船の一角から、青い電光がひらめいた。塩の雲の一部が|灼熱《しゃくねつ》の炎に変わった。 「あっ! 墜落するぞ」  巨大な船体から、ぽろりと何か離れた。それはくるくると舞って直下の海面にはげしい水柱を上げて落ち込んだ。 「原子力空母を捨てたぞ!」  宇宙船は塩化ナトリウムの雲と水煙の中で、かろうじて姿勢をたてなおした。その周囲の空間がふいにゆらゆらとかげろうのようにゆらめいた。青い閃光をめぐらして、塩の雲、海水の霧をうち払いながら、電光のように宇宙船は音もなくはるかな高空へ脱出していった。その姿はまたたくまに木の葉ほどになり、|芥《け》|子《し》|粒《つぶ》ほどになり、そして青い空に溶け込んでいった。それは一瞬の悪夢のさめるのに似ていた。 「そうだったのか! 尚くん。やっぱりきみの考えていたとおりだった。やつらは塩化ナトリウムをきらうのだ。生理的に悪影響を与えるのだろう。あるいはやつらの宇宙船の船体を作っている材質に何かの化学変化を起こさせるのかもしれない。私の診察室であの奇妙な箱が溶けたのも、あの箱にかかった液体は、リンゲル注射用の薬品だった。つまりリンゲル液だ。これは食塩水と同じ成分のものなのだ。私もあの時、それに気がつかなかったのは失敗だった。渋谷の爆発事故も、大宮や宇都宮の爆発事故もおそらく塩化ナトリウムと関係があるはずだ。塩でも運んでいたトラックとすれちがったのかもしれない。それに危険を感じたやつらが、爆発させたのだろう。停電さわぎも、アイスクリームがとけたのも、やつらの変身装置から出る放射線のせいだったのだろう」  若林先生は、しっかりと尚の手を握った。 「先生。でもヒントを与えてくれたのは昭子さんだったんです。ぼくたちのかくれていた昭子さんの家へ、やつらの一人が襲ってきたときに、昭子さんがそいつにゆでたじゃがいもの皿をなげつけたんです。そうしたら、そいつが急に力を失って逃げ出したんです。その時はどうしてなのかわからなかった。あとで気がついたんですが、ゆでたじゃがいもには塩がふってあったんです。塩は塩化ナトリウムだ。あいつは塩を嫌って逃げ出したんです。先生」 「そうだったのか」 「海水の|飛《ひ》|沫《まつ》をあびた『エンタープライズ』が、いったん上昇するのを中止したのを見て、ぼくは確信を深めました。やつらは海水にぬれた『エンタープライズ』を宇宙船の中に収容するのをためらったんだろうと思います」 「いやあ。きみの注意力と観察眼にはまったく感心するよ。それであの東海村の原子力研究所のときも、七分どおり成功しながらやつらは計画を放棄してしまったんだな」  綿貫さんも、深く息を吐いた。 「地球の海については十分に研究してやってきたはずだが、それでも危険と知りながら手をつけたからには、やつらにもよほどせっぱつまった事情があったんだなあ」  人情家の刑事らしいことばだった。  若林先生は、汚れた顔をてのひらで押しぬぐった。 「みんな。ほんとうにごくろうだったな。だが、みんな、これは偶然の勝利だ。その偶然にたよらなければ勝てなかったというのは、実は敗れたも同じだ。人類はこのできごとから、いろいろなものを学ばなければいけないなあ」  東京湾の上空には、まだ消えやらぬ塩化ナトリウムの白い雲や、海水の霧が静かに流れていた。このつぎには、いつ、どんな宇宙生物がやってくるのだろうか?  尚はいつまでもかがやく水平線を見つめていた。 |作《さく》|戦《せん》NACL  |光瀬龍《みつせりゅう》 平成14年4月12日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Ryu MITSUSE 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『作戦NACL』昭和58年10月25日初版発行