福永 武彦 風のかたみ [#表紙(表紙.jpg)] [#裏表紙(表紙2.jpg)]   すすき野     一  見わたすかぎり枯れ枯れとした尾花ばかりが連なっている野中の一本道を、武士らしい身ごしらえの一人の若者が、徒《かち》で急ぎ足に歩いていた。時刻は既に申《さる》の刻を過ぎてもいようか。空は濃く薄く墨を流したように濁り、太陽の在りかも分らない。まだ本降《ほんぶ》りにはならないが、時折烈しく吹きつける風に乗って冷たい滴が頬を濡らす、するとそのたびにあたりは一段と暗くなるようである。右を向いても左を向いても、波の穂をなしてうねうねと続く芒《すすき》の原で、その尾花も秋風におおかたは吹き飛ばされたものの、夕闇の近づくにつれて白波のように風に靡《なび》き伏している。ただ前後に一筋、おのずから旅人が踏みかためたために道らしいものが通じていて、それさえも黝《くろ》ずんだ原の彼方《かなた》にやがて溶け入るように見えなくなった。  若者は足を休めて、伸び上って前を見、また後ろを見たが、この涯《はて》もなくひろがる原のなかに、人影はおろか、生きものの姿一つなかった。聞えるのは凄《すさま》じいばかりの風の音、時折はそれに加えて芒を打つ雨のささやき、ふと無気味な声で響くのは遠くで狐が鳴いているに違いない。  しかし若者の顔つきには、格別|動《どう》じた様子もない。気にはかかるらしく眉をひそめてはいたが、その眉も精悍《せいかん》なら、眼光も鋭い。旅仕度らしく狩衣《かりぎぬ》の上に猪《いのしし》の毛皮を纏《まと》い、指貫《さしぬき》を穿《は》き、腰にはやはり猪の毛皮でつくった尻鞘《しりざや》の太刀を横たえ、背には|胡※[#「竹/祿」、unicode7c36]《やなぐい》を負い、強弓を杖《つえ》のように手に握っていた。鹿の皮の沓《くつ》を履いていたが、徒歩きにしてはこの沓は花車《きやしや》にすぎ、どうも馬や従者の見えないのが不審に思われる程のしっかりしたいでたちである。しかし誰一人見る者とてもない芒の原で、しかも日の沈むのも、もう間もない。  若者は気を取り直してまた大股《おおまた》に歩き出したが、空を仰ぐはずみに、ふと、風に靡く芒の彼方の、道よりも右手のやや小高くなったあたりに、何やら人家らしいものを認めた。もしや狐が化かすのかと夕闇の漂うなかをじっと眼を凝《こら》すと、どうしても古ぼけた庵《いおり》か堂のように見える。ありがたいと思わず吐息を洩らしてその方へ向おうとする瞬間に、道の彼方からかすかに馬の蹄《ひづめ》らしい音が聞えて来た。姿は見えないが、音のみは次第にこちらに近づいて来る。  若者は初め殆ど微笑を見せた。はぐれた連れが戻って来たと思ったに違いない。しかし次の瞬間にはきっと全身を緊張させると、すかさず弓に矢を番《つが》え、少しの油断も見せずに道のかたわらに足を踏まえて前方を注目した。音は次第に近づき、やがて時雨《しぐれ》の原の向うから馬に跨《またが》った一人の男が現れた。綾藺笠《あやいがさ》をかぶり、簑《みの》をつけた法師ふうの男で、武器は携えていない。従者も見かけない。道を遮《さえぎ》る者があるのに気がつくと、馬の手綱を引き締めたが、格別恐れる様子もなく声を掛けた。 「慮外をなされますな。怪しい者ではございませぬ。」  若者は油断なく相手を見澄ましたまま、少しく弓を横に移した。その間に相手の男は鐙《あぶみ》から下りると、手綱を引いて若者のそばまで近づいて来た。 「これはお武家さまらしいが、如何《いかが》なされました。もう日も暮れまするぞ。それにこの空模様で。」  簑の下には薄鈍色《うすにびいろ》の水干《すいかん》に裾濃《すそご》の袴《はかま》をつけ、藁沓《わろうず》を履いている。振り仰ぐように空を見たが、あたりはもうだいぶ暗くなって笠のかげでは年の頃もしかとは分らない。野盗のたぐいではないようなので、若者は番えた矢を外して、訊《き》いた。 「その方は何者だ。」 「はい、旅の法師でございます。これより三河の方へ参ろうとするところで。して、あなたさまは。」 「己《おれ》は都へ上る途中だが、連れにはぐれて困っているところだ。」 「都へお上りならば、道が違いましょうぞ。この原は伊賀に抜けるのなら近道にはなりますが、あなたさまがこのままお進みになれば伊勢へ出てしまいましょう。近江《おうみ》でもこのあたりは草深いところ、盗賊はもとより、狐狸《こり》に野猪《くさいなき》などの棲《す》みかでございますからな。それ、狐の鳴声が聞えまするぞ。」  男は若者の心胆をためしてみるように、白い歯を見せてからかうような笑いを見せたが、すぐにまともな顔つきに戻った。 「失礼を申しました。お困りでございましょう。それでどうなされます。」 「どうしたものかと思案していた。この先はまだ遠いのか。」 「一時《ひととき》や二時《ふたとき》では、この原は抜けられませぬ。それに都へお上りなら、ここから引返した方が早うございましょう。とまれ人家もないところ、はて日も暮れそうな。」 「戻るとしてもたやすくはない。あそこに堂のようなものが見えるから、宿を借りようかと思っているが。」  男は若者の眼を追って芒の彼方へ眼をやった。強く吹きつける風とともに、大粒の雨が横なぐりに面を打つ。手綱を取られた馬が心細げに嘶《いなな》いた。 「これは重畳《ちようじよう》。わたくしも如何したものかと困《こう》じておりましたが、ひとつ相宿《あいやど》をお願いしますか。しかしあの御堂は、恐らく無人でございましょうな。この雨は夜っぴて降りましょうから、雨さえ凌《しの》げればそれが何よりでございます。お供いたしましょう。」  気さくな男と見えて、言うより早く馬の手綱を引き、芒の中へ割ってはいった。若者は道の前後をもう一度入念に見わたしたが、降って湧《わ》いたようなこの法師のほかに人影などはさらにない。しかも雨は小歇《こや》みなく降りはじめ、尾花の穂にしとしとという雨音を立てている。若者は決心して、早くも姿の見えなくなった男のあとを追いながら芒の原へと身を没した。     二  今にも崩れ落ちそうな古い六角堂で、人の住んでいる気配は見えない。旅の法師と称した男は横手の柱に馬を繋《つな》ぐと、堂の内外を一まわりして、漸《ようや》くあとから追い縋《すが》った若者に声を掛けた。 「鬼でも出そうな、薄気味の悪いところでございますな。一樹の陰、一河の流れとやら申しますから、これでも野宿よりはましでございましょう。今のうちに火種でも探すといたしますか。」  既にあたりは茫々と暗くなりかけていたが、男は旅馴れているものと見え、堂の近くの叢《くさむら》から枯木などを拾い集めている。若者は入口に登る階《きざはし》に足を掛けて堂の中を覗《のぞ》き込んだ。入口の戸はなく、中はがらんとして暗闇である。油断なく構えて中にはいり、弓の端を手に持ってびゅうびゅうと音を立てて振り廻した。格別隠れひそんでいる鳥や獣もいない。若者は弓を壁に立て掛け、背から胡※[#「竹/祿」、unicode7c36]をおろした。太刀も外してやはり弓のそばに立て掛けた。  そこに例の男が片手にあまるほどの枯木を運び入れた。ばりばりと音を立てて枝を折ると、器用に積み重ねている模様である。こやつ暗闇でも眼が見えるのかと、若者が気味悪く思っているうち、早くも火打石の音、火口《ほくち》がぼんやりと明らんで、男は上手に火を吹いている。どうやら堂の中央に炉《ろ》のようなものが切ってあるのを、予《あらかじ》め見とどけておいたものであろうか。やがてしめった薪《たきぎ》に火のついたところで、かまえて火を吹いているのが、いぶり出した煙のなかで赤鬼のようである。 「さあ、どうぞお当りなされませ。御気楽になされましょう。こうして御一緒するのも前世の縁《えにし》でございます。わたくしめに御気兼は要りませぬ。」  若者は軽く一揖《いちゆう》した。このような気転の利く男と同宿したことを嬉しく思っていた。炉の前に足を組み、濡れた衣をあぶっていると、男の方はまた縁の方へ出て行って馬の世話をしているようである。既に堂の外は西の空に僅かに仄明《ほのあか》りがあるばかり、風はようよう収ったが雨は依然として降り続いている。やがて男は皮子《かわご》や餌袋《えぶくろ》を抱えて戻って来ると、堂の隅にその皮子を置き、若者に向い合って炉の前に坐った。餌袋を開いて干飯《ほしいい》を出すと、若者にもすすめた。 「いや、御坊のせっかく用意されたものを頂いては相済まぬ。」 「御遠慮は無用。あなたさまは先程、連れにはぐれたと仰せられましたな。連れにも、馬にも、糧《かて》にも、おはぐれでございましょう。これで宜しければ、どうかお上りなされませ。」 「忝《かたじけ》ない。それでは。」  若者は手を延して受け取ると、干飯にかぶりついた。それまでの緊張がゆるんだところを見ると、まだどこか幼な顔の残っている若々しい顔である。法師はひとり頷《うなず》きながら、自分も食事を始めた。 「あなたさまは遠国からのお越しでございましょうな。」 「信濃《しなの》より参った。」 「長旅ではさぞお疲れでありましょう。」 「それほどでもない。馬もいれば供もいる。」  そして思い出して眉をひそめた。 「実はそれが心にかかっている一事だが、昼すぎのこと、道に休んで、飯《いい》を取ろうとしていたところ、どうした物のはずみか繋がれた馬が驚いて走り出した。続いて控《ひかえ》の馬も走る。供の者らは慌ててあとを追ったが、これがいっこうに戻らぬ。私も急いで探しに歩いたが、不思議なことにかき消えたように見えなくなった。要り用なものはみな馬の背につけたまま故、何とも途方に暮れてしまった。しかしその場に待つわけにもいかず、とにかく道を歩き出したが、どうやら道を誤ったものと見える。この野中にはいり込んで、どこまで歩んでも尾花ばかりで、日は暮れかかる、雨は降り出す、御坊に此所《ここ》で出会ったのはもっけの幸いであった。」 「人里はなれたこのような古堂で、見知らぬ者と同宿というのでは、恐ろしゅうはございませぬか。」 「恐ろしゅうはない。ただ供の者らにはぐれては、この先がどうなるやら。」  法師は食事を終って、濡れた水干などを火に乾かしていたが、相手の顔を見て笑いながら言った。 「御心配は要りませぬ。御馬も御供も、明日には出て参りましょう。」 「気やすめを。」 「いや、気やすめに申すのではござりませぬ。まことでござる。」  若者はきっと相手を見た。 「わたくしは法師の体《てい》をなしておりますが、実は陰陽道《おんようどう》の道を窮めんとして修行の途にある陰陽師でございます。いささか法術も使えば相《そう》も見ます。あなたさまがおはぐれなされた者どもは、明日は無事現れると相にも出ております。」  若者は怪しむように、疑うように、相手の顔を見た。年の頃はそう若くはない、さりとて老人というのでもない。異様に骨張った頬から頤《おとがい》、額は広く、眉は濃く長く両の眼の上に覆いかぶさり、鋭い眼が焚火《たきび》の明りを受けて蛍火《ほたるび》のように瞳《ひとみ》の色を明滅させている。しかしその大きな口は、悪げのない微笑を湛《たた》えて、一二本欠けた歯が、息をする度に火吹き竹のような音を立てた。 「私の相をみてくれるか。」 「おやめなされ。」  法師は軽く首を左右に振った。 「相などを見て己《おの》れが行先のことを知ったとて、何の得《とく》もありはしませぬ。人それぞれ定業《じようごう》あり、明日のことを知らずに暮すのが一番でございます。」  男はついと立ち上ると、「火がさびしゅうなりましたな、」と独り言のように呟《つぶや》いて、あたりを見まわした。  若者は気勢を殺《そ》がれて押し黙った。乏しい炉の明りを受けて、黒々とした法師の影が壁にゆらゆらと映っている。その壁も、壁土は落ち、羽目板は朽ち、見るかげとてもない。法師はつかつかと奥へ進み、台座ばかり残っている壇のところから、物凄《ものすご》い音をたてて板をひっぺがした。ついでに壁の羽目板も力まかせに引き抜いて持ち運んで来ると、炉のなかへ投げ込んだ。 「この六角堂も、もとは観音などを安置したものでございましょうかね。こう荒れ果てては観音の思《おぼ》し召しもございますまい。我々が煖《だん》を取るのに役立てば、それが重畳。」 「御坊は仏罰ということを恐れぬのか。」 「何の、無人の堂の板切れの一枚や二枚。仏の慈悲は広大無辺でござりますぞ。もっともわたくしめは法体《ほつたい》はしておりますが、先ほども申しましたように陰陽師、鬼神を恐れても三宝を恐れることはありませぬ。」 「気の強い御坊だ。天下に恐れるものは鬼神のみか。」 「その鬼神を避ける術《すべ》を知る者が、陰陽師でございます。暦を案じ、星を案じ、危《あやう》きを避け、安きをもたらす。式神《しきがみ》をお使いなされる安倍《あべ》の晴明《せいめい》さまのような方にかかっては、鬼神さえも恐れて近づきますまい。わたくしなどは拙《つたな》い術をいささか使うばかり、それでもこのような人里遠いところに仮の宿りをいたしたところで、何の怖《こわ》いことがございましょうや。」 「御坊は法術を使うと申されたな。」 「いささかは。」 「それはどのようなものか。」  法師は異様な笑みを見せたが、燃え上った焔《ほのお》に照されてその顔は一層物凄かった。 「なに、益体《やくたい》もないものでござる。」 「一つ見せて下さらぬか。」 「おきなされ。それにあなたさまのようなお若い方、それでなくとも空恐ろしい雨宿りに、怖い思いをするだけ御損というもの。」 「私は何も恐れぬ。これまで怖いと思ったことはない。」 「信濃よりの旅と仰せられましたな。」 「如何《いか》にも、山国で育ち申した。」 「京へ参られる。」 「都は初めてです。」 「たとえ田舎で武芸のお心得がおありでも、都は恐ろしいところ。こののち怖い目にお会いにならぬとは限りませぬぞ。」 「百鬼夜行《ひやつきやぎよう》でも出ますか。」  若者は嘲《あざけ》るように笑った。 「怖いものは鬼とは限りませぬ。」  法師は若者の様子をじっと見詰めていたが、そのまま口を噤《つぐ》んだ。 「術を見せては下さらぬか。このような夜明しは退屈なものです。」  若者はもう一度頼んだ。既に夜はとっぷりと暮れ、屋根を打つ雨の音のみひときわ陰気である。     三  不意に音を立てて、堂の階《きざはし》を駆け登ると、開きっ放しの入口から走り込んで来た黒い影がある。若者は忽《たちま》ち飛びのいて壁に立て掛けておいた太刀を取る、法師は炉の横手にすさって身動きもせず注目する。と、蹲《うずくま》ったその影が早口に喋《しやべ》り出した。 「皆さまがた御免なされませ。お驚かせ申してまことに相済みませぬ。これは京より伊勢に下る旅の者でございます。いやもう日は暮れる、雨は降る、どこぞに人家でもあるかといくら歩いても草原の一本道、そこへ明りが見えました。これはありがたや、誰ぞ住むと見える、一夜の宿をお願い申そうと、いやもう一目散に走って参じました。皆々さま、どうかおゆるしなされて、一夜の宿をお願いいたします。この通りでございます。」  床の上に頭を擦りつけているのは、平笠をかぶり、簑をつけて、皮子を手にした相当の年輩の男である。笠も簑もしとどに雨に濡れて、まるで狸《たぬき》か狢《むじな》のように見えた。法師が大きな声で笑い出した。 「そう恐れ入らずともよい。我々とても旅の空で一足お先に宿を取ったまで。誰に断りも要らぬ無人の堂でござるよ。」  その男は恐る恐る首を起し、法師を見、次いで若者を見て、二度三度と頭を下げた。 「ありがとうございます。実は盗賊の住いかもしれず、或いは狐どもの化かすのではないかしらんと、それは気が揉《も》めましたが、かと言って暖かそうな火の燃えるのを遠目に見ては、寄らないわけには参りませぬ。いや胆《きも》の冷えたことでございました。見れば御立派なお武家さまにお坊さま故、これでまずは一安心仕りました。わたくしめは西の京の四条のあたりに住んでおります笛師で、名を喜仁《よしひと》と申しまするが、かねて伊勢の守《かみ》さまから御註文《ごちゆうもん》の笛が出来上りましたので、貴重な品ゆえ自ら運びまする途中でございます。少しばかり道を欲ばりましたため飛んだ目にあいましたが、これで心も落ちつきました。御免|蒙《こうむ》りまして食《じき》などを頂きましょう。」  一息にそれだけ喋ると、餌袋から餅を出して食事を始めた。若者も太刀を置いて炉のそばへ戻る。法師も座に就いて、尚も笑い声で訊いた。 「喜仁と申されるか。それでは都で喜仁《きじん》の笛と噂《うわさ》される笛作りの上手は、そなたのことかな。」 「お恥ずかしいが、その者でございます。いや、上手などということはございませぬ。何分にもやんごとない方々は、皆さま唐物《からもの》を一番とされまする故、わたくし如きの作りましたものは、なかなか御身分のある方のお好みには合いませぬ。伊勢の守さまは昔よりわたくしめを御|贔屓《ひいき》でして、はい。」  若者がやはり笑顔を見せながら、口を挟《はさ》んだ。 「その方は、笛のように口もよく囀《さえず》るな。」 「これは恐れ入りました。」  法師が腐った羽目板を二つに割って炉に投げ入れたので、焔が笑い声に和して燃え上った。しかし声が歇《や》むと、堂の内も外も無気味なほど静かである。  法師と笛師とが京の噂話などを始めたが、その間若者は黙然と聞き入っていた。それが途切れたところで、若者が笛師に声を掛けた。 「如何であろうか、伊勢の守への献上というその笛を、私に見せてはもらえまいか。」  笛師は顔を起して相手を見たが、格別警戒する必要もない人物と思ったのか、気さくに承知して、皮子の中から幾重にも綾《あや》の布に包んだ一管の笛を取り出した。 「これでございます。」 「御免。」  若者は押し頂くように受け取ると、乏しい明りに透すようにして眺めた。長さは一尺三寸あまり、朱塗の上に黒い樺《かば》が巻いてある。若者の手は愛撫《あいぶ》するようにその表面を撫《な》でた。 「あなたさまもお嗜《たしな》みでございますか。」  笛師に訊かれて、若者は少し顔を赧《あか》らめたようである。 「いや、私はただの無骨者《ぶこつもの》だ。」 「御|謙遜《けんそん》でございますな。その笛はわたくしの作りましたものの中でも特に気に入った代物《しろもの》でして。笛の良し悪《あ》しは何と申しましても、まず材料の竹《たけ》でございます。良い煤竹《すすたけ》を探し当てるためには千里の道を遠しとせず、さて手にはいってもそれからの細工に少くとも三年はかかります。この笛は色もよし艶《つや》もよし、伊勢の守さまに何ぞ銘でも入れて頂いて、喜仁の名をとどめていただく所存でございます。」 「では音色も格別であろうな。」 「音色は申すまでもございません。」  若者は魅せられたように手中の横笛に見入っていたが、鋭く訊いた。 「如何であろう、私にちょっと吹かせてみてはくれまいか。」 「これは献上の品でございますから。」  笛師は困り顔で手を延したが、若者はするりと身を引いて立ち上った。 「そこを枉《ま》げて頼む。」  笛師の顔が蒼《あお》ざめた。その時、それまで二人のやり取りを聞いていた法師が、取りなすように声を掛けた。 「お若いかた、それはよしになされ。」 「何と言われる。」 「わたくしめがお止め申すのは、何もその笛が伊勢の守さまへの献上品ゆえではない。あなたさまのお身を思って言うことです。」 「これは異なことを、相にでも出ておりますか。」  若者は軽んじるような目つきで法師を見たが、笑う時には幼な顔の残っているその面《おもて》に、執念じみた鋭い眼光がきらりと光った。 「このような狐狸|妖怪《ようかい》の住まおうやもしれぬ野中で、深夜、名器とも覚しい笛を吹くなどというのは、謂《い》わば変化《へんげ》を招き寄せるようなもの。おためになりませぬ。」 「もしこの笛が名器ならば、反対に変化を折伏《しやくぶく》する力があるべき筈、それに御坊のように、法術をお使いなされる方がこちらにあれば、何の恐れることもありますまい。御無用に願いたい。」  若者はそう言い捨てると、件《くだん》の笛を取って口にしめした。と共に、清水の潺々《せんせん》として流れ行くのにも似た響が、或いは高く或いは低く、咽《むせ》び、嘆き、語らい、歌うように、この笛から溢《あふ》れ出た。炉の焚火は既に火勢も衰え、時々|燠《おき》の跳ねるほかに人の声一つしない古堂の中から、時雨にそぼ濡れた芒の原へと、笛の音は微妙にひろがって行く。  若者ははたりと笛をやめると、丁重に笛師の手にそれを返した。 「見事なお手並でございますな。」  笛師は、こうなってはしかたがないという諦《あきら》め顔で相手を褒めたが、若者はぽつりと、「故郷のことが思い出されて、」と言ったばかり。法師は先程から押し黙ったままでいたが、どうやら既に眠っている様子。  それから一時《ひととき》過ぎたか二時《ふたとき》過ぎたか、若者はまどろみから覚めて身を起した。どこやら遠くの方で、かねを叩きながら近づいて来る人たちの気配がする。阿弥陀《あみだ》を念じる人の声もかすかに混っている。炉の火はまったく消えて、堂の中は真の闇である。  若者は太刀を取ると、そっと入口へ立って行った。雨は既に歇み、風のざわめきのみが芒の原を吹き過ぎるが、外もまた暗い。その中を、点々と火をともして行列がこちらに歩いて来る。かねの音、念仏の声が次第に近づく。 「あれは何でございましょう。」  声がして、いきなり腰に縋《すが》った者があるので、若者は振り向いた。笛師である。起き出して此所まで来たものの、歯の根も合わぬほどの顫《ふる》えようで、それでも大事な献上物の笛をしっかと手の中に握り締めている様子。 「大事はない。」  若者はそう言ったなり、また行列の方を眺めた。はや堂のすぐ近くまで来たところを見ると、紛れもなく葬式である。棺《ひつぎ》を担《かつ》いだ下人《げにん》どもの前後には、僧形《そうぎよう》の者もあれば、平服の者もある。およそ十何人かの一行が今この夜更けに葬式をするものと見える。  若者にしっかと掴《つか》まった笛師の身体《からだ》の顫えが、こちらにまで伝って来る。 「これは何としたこと。鬼でござりましょうか。」 「おかしなことだ。この時刻に葬式《とむらい》でもあるまいに。」  昼の間は人けもなかった物寂しい原のただ中に、深夜になってこれだけの行列が出るというのは怪しい。もしや狐が化かすのか、野猪《くさいなき》が化かすのか、それとも鬼か、或いはこれこそ陰陽師の法術ではあるまいか、などと若者は訝《いぶか》しく思っている。堂のなかはひっそりして、陰陽師の起きて来る気配はない。  その間にも、若者と笛師の見ている前で、葬式の一行は素早く仕事を始めた。塚穴を掘る、経を上げる、棺を収める、鋤《すき》や鍬《くわ》を使ってその穴を埋める、卒都婆《そとば》を立てる、またたくうちと思われる程、それが早い。と同時に一行は再びもとへ戻って行った。ちらちらと揺らめく幾つもの火が次第に遠ざかった。 「やれ恐ろしゅうございましたな。」  笛師が安堵《あんど》の息を洩らして呟いた。しかし若者は身動きもせずに、今埋めたばかりの塚穴の方から眼を離さない。 「何となされました。」 「いや待て。どうも何やら動くようだ。」  夜は暗々として星一つない曇り空だが、夜目に馴れるとそのあたりが仄明るく見える。 「動くと申されると。」 「あそこを見よ。」  塚がたしかに動いた。と見るまに、その動く地面の中から、むくむくと人の形をしたものが踊り出た。裸のままの大きな人間で、しかもその手、その足、その胴体のいたるところに、燐光《りんこう》のようなものが燃えている。それがしきりに身体を動かして火を吹き消そうと身を|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いていたが、やがてこちらを向くと、いきなり走って来た。笛師は「わっ」と叫んで若者の身体を突き放した。  若者は階《きざはし》を駆け下りるや、太刀を抜き、一刀のもとにその怪しいものを切り倒した。     四  その翌朝のことである。若者は朝の日に葉末の露の干《ひ》るように目を覚ました。故郷の夢でも見ていたものか、脣《くちびる》にはかすかに微笑のあとをとどめている。それが忽ちに気を取り直すと、半身を起した。ここは故郷の屋敷ではない。旅の空に一夜を借りた人も住まわぬ古堂である。と気がつくままに、すぐさま昨夜の恐ろしい出来事を思い出した。  開き放しの入口に眩《まぶ》しいように朝の光が射し初《そ》めている。夜が明けてからまださして時は経っていないようだ。若者は太刀を握り締めたまま入口のところまで出て来た。昨日の雨は嘘のように歇み、見上げる空は鱗雲《うろこぐも》を撒《ま》き散らしたままからりと晴れて、赤い日輪が地平線のすぐ上にのぼっている。見渡す限りの芒の原が、一団となって倒れ伏しているところもあり、風に靡いているところもあり、……ただ、若者がいくら入念に眺めても、塚穴のあともなければ、切り倒した筈の妖怪の屍《かばね》も見えない。一面の草の原にうそ寒い秋風が吹いているばかり。  若者は階を下り、昨夜のことを考え合せながら心覚えの方角へと歩いて行った。どうやらこのあたりかと思うが、無駄に足跡を探している。あの物々しかった葬送の行列も、卒都婆を立てた塚穴も、火を吹いていた気味の悪い男も、朝の光に照されるとまるで夢としか思われない。しかし確かに手応えはあったのだ。若者は太刀を抜いて調べてみたが、何と血糊《ちのり》ひとつついていない。そこに突っ立ったまま、茫然として思いをめぐらした。 「お早いお目覚めでございますな。」  声に振り返ると、六角堂の階の上に、昨夜の法師が笑いながら立っていた。人の好さそうな、前歯の欠け落ちた顔を綻《ほころ》ばせて、こちらを見下している。 「いや今しがた起きたばかりだ。」 「何かお探しの模様ですが、如何なされました。」 「実はそれが不審なことがあって。」  法師は階を下りて来る、若者も近くへ寄って昨夜の一部始終を物語り始めた。 「それは存じませんでしたな。なるほど。いやもうすっかり眠りこけておりました。」  法師がもっともらしく合の手を入れながら聞いている、それを見守るうちに、若者にふと疑いが湧いた。昨夜のあの騒動は、すべてこの法師が陰陽道の法術とやらを使って、自分をたばかろうとしたのではあるまいか。なるほど、この法師は騒ぎの間じゅう眠っていた、あれ程かねや念仏の声が聞えていたのに目を覚まさないというのもおかしい。それに己《おれ》が法術を見せてくれと頼んだ時、怖い思いをするだけ損だとも吐《ぬ》かしおった、ひょっとすると己の胆玉をためしてやろうと、この男が幻を現《げん》じたのではあるまいか。  しかし法師は、何の悪だくみもない、秋の風のように吹きさらしの面がまえで、一緒になってあたり近所を見まわしている。 「詮議《せんぎ》はそれくらいにして、朝の食《じき》でも取るといたしましょう。恐らくは野猪《くさいなき》の年老いたのが化けたのでございますよ。そう御懸念あるな。」  そう言ってまた古堂の方に戻りかけたので、若者は半信半疑であとに従った。  しかし堂の中にはいるや、若者はまた驚いた。笛師の姿が見えない。たしか皮子を持参していたが、簑笠と共にそれもない。掻《か》き消すように見えなくなっている。 「笛師はどうした、」と思わず叫んだ。 「早立《はやだち》をしたのでございましょうな。わたくしの起きました時には、最早おりませなんだ。」  先程は寝ていたのかどうか、若者もそこのところは確かではない。何しろ目が覚めるとすぐに様子を見に表に出た。しかし昨夜は、怪しいものを切り倒したあと、気を喪《うしな》ったようにぐったりしている笛師を、介抱して寝かせた覚えがある。恐らく夜が白むと早々に逃げ出したものであろう。気の弱そうな男だった、と若者は考えた。  法師の差し出した干飯を、遠慮しながらも貰って食べた。臆したわけではないが、何となく自分も早くこの古堂をあとにしたいような気分である。法師は黙り込んだままゆっくりと干飯を噛《か》んでいる。時折遠くで雉子《きじ》の啼《な》くらしい突き刺すような声が聞えて来る。若者はそこでまた一つ思い当った。ひょっとすると、あの笛師とやらも、この法師の見せた法術の一つではなかったのか。行き会った法師と共にこの無人の堂に泊ってからあとのことはすべて、笛師が来たのも、葬式の行列が見えたのも、化物を切り倒したと思ったのも、この者の手になった幻だったかもしれぬ。そう考えると、若者は妙に空恐ろしくなった。旅の空にはさまざまのことがある、この後京に出れば、またさまざまのことがあろう、故郷にいたのでは思いも及ばないような、怪しいこと、恐ろしいこと、凄じいことがあろう。しかし己は弱音は吐かぬ、と若者は自分に言い聞かせた。  法師は食《じき》を終ると、身の廻りのものを片づけて、横手の柱につないである馬の世話をしに行った。若者の方は身一つで簑も笠もない、仕度らしい仕度も要らない。よしとばかり立ち上って、その時初めて腰に挿《さ》した笛に気がついた。今迄《いままで》それに気づかないでいたというのが、そもそも迂闊《うかつ》である。  若者はそれを手に取ってみた。紛れもなく昨夜、喜仁という名のあの笛師が、伊勢の守への献上品だと言っていた見事な出来の横笛で、昼の光に見れば惚《ほ》れ惚《ぼ》れとするほど細工が美しい。さてはあの笛師は幻ではなかったのか、と若者は合点した。如何に陰陽道でもそこまでの術は無理というものだろう。とすれば一切は自分の思い過しで、自分の見たものはすべて現《うつつ》の出来事であり、法師はまこと眠っていたのかもしれぬな。若者は微笑し、笛をまた腰に挿した。いずれは京に着いて、これを返してやることも出来よう。それ迄は己が預っておく。  若者は法師と共に一夜の宿の古堂をあとにした。すすめられるままに、芒の原をもとへ戻る。馬の手綱を引く法師の前を、疲れを知らぬ元気な足取で歩いた。ようよう原が尽き、道が二岐《ふたまた》に分れたところで、法師がうしろから声を掛けた。 「それではここでお別れいたしましょう。わたくしはこちらへ参りまする。あなたさまはこうお行きなされば、やがてお供の方々にもお会いなされましょう。少しも御懸念には及びませぬ。」 「間違いはなかろうな。」 「御心配は無用。これしきのことは相《そう》を見る迄もございませぬ。ただ後々のため、わたくしより一言《ひとこと》申し上げたいことがございます。」  若者は不審の面持で法師を見た。今は人の好さそうな笑顔はどこかに消えて、濃い眉の下から掘り出された二つの眼が、玉《ぎよく》のように光っている。その玉の曇りのような瞳がぐんと大きくなった。 「あなたさまは武芸の心得も人後に落ちず、笛を吹けばひとかどの名手ゆえ、風流への志もございましょう。お若いながらしっかりした方とお見受けしました。しからばあなたさまの最も頼みとなされるものは何でござりますか。」 「頼みとは。」 「されば武士は刀または弓矢を頼みといたしまする。笛つくりは己れの腕を頼みといたしまする。学生《がくしよう》は学問を、やんごとない人々は歌の道や技芸を頼みといたしまする。僧は仏法を頼み、陰陽師は法術を頼みといたしまする。して、あなたさまは。」 「そういうことか。」  若者は暫《しばら》く思案していた。 「己は己の運を頼みとする他はないな。」 「運は天のつくるもの、それでは足りませぬ。」 「それならば、この自分を頼みとする他はないだろうな。」 「よくぞ申されました。あなたさまの頼る者はただあなたさまの御身一つでございます。人を頼り遊ばすな、天の運を頼り遊ばすな。人は遂に天涯孤独、生きるも死ぬもただあなたさま次第でございます。」  若者は頷《うなず》き、快活な声を上げた。 「御坊がそのようなことを申される以上、さだめし私の相に穏かならぬものがあると見えまするな。」  法師は眼を閉じて、そのままの形で言った。 「それは何とも申せませぬ。ただ、あなたさまは他人によって御自分を滅すやもしれませぬ。ゆめ他人を信じてはなりませぬぞ。」  若者は更に声を出して笑った。 「他人を信じてはならぬのなら、御坊の言われることも、はかないこと。それではこれで御免を蒙る。」  法師は漸く眼を開いたが、若者はもうその顔を見てはいなかった。 「御造作《ごぞうさ》にあずかり忝《かたじけ》のうござった。」  礼を言うと共に早くも歩き出していた。その背に法師が言葉を掛けた。 「またお会いしますぞ。宜しいかな、またお会いしますぞ。」  しかしその声が聞えたのか聞えないのか、若者は弓の柄を握ったまま逞《たくま》しい足取で大幅に足をすすめ、やがて芒の彼方へと消えてしまった。   しなの人《びと》     一  若者は途方に暮れた顔つきで、鎖《とざ》された大きな棟門《むなもん》の前に立っていた。そのうしろには馬が二頭、郎等が二人、小者がやはり二人ほど附き随っている。近江の芒《すすき》の原で出会った法師の言葉に間違いはなく、はぐれた供の者ともめぐり合って、無事に粟田口《あわたぐち》から京の町にはいった。何しろ不案内の土地で、目指す屋敷に辿《たど》り着くのも容易ではない。それが漸《ようや》く訪ね当ててみればこの始末で、ぴったりと鎖された門の前には、「物忌《ものいみ》」と筆太に書いた札が立ててある。広大な屋敷の中は森閑と静まり返って、殆ど人の住む気配もない程である。  年老いた郎等が、再び拳《こぶし》で扉を烈しく敲《たた》いた。 「お頼み申しまする。中納言さまに何とぞお申し入れを願いまする。これは信濃の国よりはるばる参りました中納言さま縁《ゆかり》の者でござります。主人は大伴《おおとも》の信親《のぶちか》と申しまする。どなたかお出会い下され。」  近くの木立で鴉《からす》がしきりに啼《な》いているが、誰一人門を開こうとする者はいない。郎等は精いっぱいに嗄《しやが》れ声を出し、片手で額をこすっているところを見れば、うっすらと汗を掻《か》いているらしい。しかし冷たい秋風が吹き過ぎて行く大通りで、日射《ひざし》もさして強いわけではない。  小者は二人とも疲れ果てたように、馬の手綱を引いたまましゃがみ込んでしまった。若い郎等が心細げに主人に呼び掛けた。 「次郎さま、これは如何《いかが》したものでございましょう。」 「困ったな。」  若者は失望した表情で、眼の前の門を口惜しげに見詰めている。  故郷を出てから、長い道中も、心は絶えず期待に充ち満ちていた。それが先程三条の大橋を渡った時に、初めて不吉な感じを抱いた。この大橋を渡れば、遂にあこがれの都の土を踏むことが出来ると思いながら、欄干から賀茂川の流れと、涸《か》れ涸《が》れと水の引いた河原とを眺めていた。すると若者の眼は、枯草のそよいでいる間《はざま》のそこここに、変死した屍体《したい》が幾つも投げ棄てられたままになっているのを、見るともなく見てしまった。若者は屍体に驚くような臆病者ではなかったが、まさか都へ来てまず手初めにこのような光景を眼に入れようとは、思いも寄らなかった。そうして茫然としているところに、美々しく飾った糸毛車《いとげぐるま》が、牛のはこびもたどたどしく、侍たちに囲まれて大橋の上を近づいて来た。それは都というものの印象を田舎人に刻みつけるには、あつらえたようにあでやかで目を奪う眺めだった。若者は馬から下りて傍《かたわ》らに控えたまま、その一行が橋を渡り切るまで見送っていた。しかしその驚きが醒《さ》めてみれば、糸毛車の屋根を照す秋の日は、無残に屍《かばね》を曝《さら》している河原の上にも、白々《しらじら》と降りそそいでいたのである。そこには痩《や》せた野犬が狂ったように走りまわり、鴉が群をなして飛び上ったり飛び下りたりしていた。どこにも人影はなかった。そして京の町は橋の向うにひろがり、若者は今や幾分の不安を覚えながら、この後のことどもを考えた。  三条の大路にはいってからも、だだっ広い通りには思ったほどの人の往来もなく、道を訊《き》くのにも苦労をした。通りすがりの顔色の悪い下人《げにん》は、烏帽子《えぼし》を抑えるようにしてそそくさと駆け抜けて行った。下々《しもじも》の者はそばへも近づかなかった。左右にはいかめしい屋敷ばかりが、いずれも大門を鎖《とざ》して並んでいる。ところどころ乾いた土の上には牛馬の糞《ふん》が固くこびりついていた。そして漸く探し当てた目的の屋敷は、この一行に門を鎖したまま、いっかな人の出て来る様子はなかった。  郎等が諦《あきら》め切れずに扉を敲き続けていると、漸く内側から人の声がした。 「騒々しい。何ごとだ。」 「これは、……ありがたや、何とぞお願い申しまする。中納言さまにお申し入れ下さりませ。信濃より上京いたしました縁《ゆかり》の者でございます。」 「殿は物忌ゆえ、何ぴとたりともお会いいたされぬ。そこの立札が目に入らぬのか。」 「そこを枉《ま》げてお願いいたしまする。主人は大伴の次郎信親と申しまする……。」 「うるさい。殿は重い物忌ゆえ、今明日は目通りはかなわぬ。」  若者は自分も扉ごしに声を掛けた。 「お目通りはかなわぬとしても、せめて宿だけなりとお願い出来ませぬか。大伴の信親、中納言さまにお会いいたしたく、はるばる信濃の国より参りました。供の者らも疲れております。」  門扉の向うでは、暫《しばら》く思案している様子だったが、やはり同じ返事が返って来た。 「それはお気の毒に存ずる。しかし物忌は物忌、殿のお申しつけに背くわけには参らぬ。早々に立ち去られたい。」  そして扉は開かぬままに、跫音《あしおと》がかすかに遠のいた。 「やむを得ぬ。参ろう。」 「どちらへ参ります、」と年老いた方の郎等がふさぎ顔で尋ねた。 「どこぞ宿でも探すとしよう。そのように気落《きおち》するな。」 「と申して、これという当てもございませぬ。」  若者は自分をも家来たちをも力づけるように、明るい声で笑った。 「人間万事|塞翁《さいおう》が馬と淮南子《えなんじ》にもある。そう嘆くものではない。」     二  次郎信親と呼ばれた若者は、信濃の国の小県《ちいさがた》の郡《こおり》から来た。父はこの郡を統《す》べる大領《だいりよう》で、大伴氏の出であり、土地の一族の間で長者として重んじられていたし、また郡司としても信望が厚かった。代々この地方に住みついてしまった以上、最早中央に出て立身を志すだけの野心もなく、国守の気に入られるように、落度のないように、勤めを果せば足りるとしていた。二人の息子があった。  この大領にとって夢寐《むび》にも忘れられない事件は、今からもう一昔以上も前のことだが、時の国守が大領の屋敷を訪れた折に、大領の妹に想いを懸けられたことである。都から来た貴族に寵愛《ちようあい》されるということは、女人にとっての幸いであるばかりでなく、一家にとっても名誉なことだったが、大領は妹を深く慈しんでいて、必ずしも悦ばなかった。国守は藤原氏の一族に属し、この後の栄達をも約束されている風流人だったから、恐らくは田舎暮しの間の弄《もてあそ》び者とするために妹に言い寄ったと、考えていた。妹は国守の屋形に引取られ、やがて四年の任が果てて京に戻る時になって、共に京へ行くことを誘《いざな》われた。国守が決して一時の気紛れからではなく、深く妹を寵愛していたことを知って、大領は初めて心から安堵《あんど》し、祝福した。都へ出た妹からは折を見ては消息《しようそこ》が来た。兄が田舎人ながらもともと風雅の道にも嗜《たしな》みがあることを知っていたから、気に入りそうな書物や、都でなければ手に入らぬ高価な品などが齎《もたら》された。大領は兄想いの妹のことをいつも自慢にしていた。  大領の方からも、便《びん》さえあれば季節の山のものなどを送っていたが、特に註文《ちゆうもん》があって届けたものは萩《はぎ》である。新しく西の京に作られた屋敷に色とりどりの萩を植えたいとの希望に応じて、白萩、野萩、蒔絵《まきえ》萩、草萩などの苗が送り出された。それらはやがて花を咲かせて、屋敷の庭を彩ったことであろう。妹からは次のような歌をおこした。   移し植うる萩が下枝《しづえ》に散る露は      遠《をち》かたびとの心とぞ見む  しかし萩の下枝に散る露はあまりにはかなかった。妹に附き従って京へ上った侍女から、思いも掛けず訃報《ふほう》が届いた。ふとした乱風《みだりかぜ》がもとでみまかったという。あとには頑是ない姫が一人残されていた。殿様はお嘆きのあまりお勤めも怠っていられると、その消息には書いてあった。大領はそのあとめっきりと老けた。  大領の二人の息子は、二人ながら武芸に熱心で、山国の育ちゆえ特に狩猟に長じていた。次郎の方も技を競っては決して兄に劣らないだけの力量をそなえていたが、いつしか書物を読み習い、笛などを嗜むようになった。屋敷には次郎が勉学するに必要なものは一通り揃《そろ》っていたし、父の大領も暇があれば手を取って教えた。兄の太郎保親は一まわり以上も年が上で、弟のみやび男《お》ぶりを嘲《あざけ》った。 「笛を吹いて何となる。文集《もんじゆう》が読めたとて、それが何になる、」と兄は言った。 「私はただ好きだからしているだけだ。」 「それならば弓箭《きゆうせん》の道が好きであればよい。馬を責めることが好きであればよい。お前は叔母君のように都に出て出世がしたいのか。叔母君のような女人は、貴族の男の寵愛を得て、雲上人の間に身を置くことも出来よう。しかし男と生れてはそうはいかぬ。貴族の子は貴族、武士の子は武士。門閥のない者に出世の道はない。」 「私は何も出世したいわけではない。」 「せめて受戒して僧侶となれば、多少の道はひらけよう。それすら権門の出でなければ、高位に上ることは覚束《おぼつか》なかろう。お前に何が出来るものか。」 「私は僧になる気はない。私はただ、こうして田舎びとで朽ちるのかと思うと、それが口惜しくて。」 「父上は何と申された。」 「父上にはまだ申してない。」  次郎の気持が父の大領に通じていない筈はなかった。しかし年端《としは》のゆかぬ息子に、父は決して京へ上れとは言わなかった。そして息子も、兄には打明けても、父に許しを乞うほどの度胸はなかった。  次郎が叔母君を識《し》っていたのはごく幼い時分である。しかし叔母君が屋敷から去り、やがて都で亡くなったというしらせが来てから、そのやさしかった面影はかえって鮮かに思い浮ぶようになった。都には叔母君の忘れ形見である姫君もいる筈だ。ついぞ会ったこともない姫君の面差《おもざし》が、子供の頃に識っている叔母君の面差と重なり合って、脳裏に描き出された。次郎は山の中深くはいり、ただ松風の音のみ聞えるような林の中で、ひとり笛を吹いて心を紛らした。そうすると岫《しゆう》を出でて流れる白雲は、すべて都のかたを目指しているように思われた……。  そして十数年が過ぎ、大領が病の床に伏すようになってから、或る日、次郎はその枕辺に呼び寄せられた。父は助けられて漸く床の上に身を起すと、人払いをして徐《おもむ》ろに次郎に語った。 「次郎、そなたが都へ出たい気持を持っていることは、年来承知しておった。何分にもそなたは年が若い上に、父としてもそなたを手放して遠国へ旅立たせるのは、気が進まなかった。そなたの母は若くして死んだから、母の分までもそなたを可愛く思っていた。しかし私もいよいよそなたと別れる時が来た。もうあといくばくもない。」  大領はそこまで言って烈しく噎《む》せ返った。次郎は言葉もなくその背を摩《さす》った。 「太郎のことは心配せぬ。あれは心ばえのよく出来た男だ。それに引きかえ、そなたはまだ若い。世間も知らず、身に覚えのあるものは何もない。さよう、笛を少し吹くぐらいのものかな。それさえも都へ出て何の足しになるやら。此所《ここ》にいて、兄を助けて、兄弟仲よく暮すに越したことはないと思うが。」 「父上、私は都に出とうございます。」 「さもあろう。都は遥《はる》かの彼方《かなた》だ。そこへ行けば山国では思いも掛けぬようなことも起る。再び故郷へ帰れるかどうかも分らぬ。そなたはそれでもよいのか。」 「男と生れたからには、思う通りにいたした以上、悔はございませぬ。」 「都には中納言さまがおいでになる。久しく無沙汰に過ぎているが、まさか小県の大領をお忘れではあるまい。私から中納言さまにお願いの文《ふみ》を認《したた》めておこう。そなたの身一つ、中納言さまにお預けしておけば、悪《あ》しゅうはおはかりなさるまい。それでよいな。」 「はい、そのあとは力の及ぶ限り自分でやります。後《おく》れを取るとは思いませぬ。」  大領は苦しげな顔を僅かに綻《ほころ》ばせた。そして次郎に筆硯《ひつけん》を運ばせると、顫《ふる》える手に力を籠めて長い文を書いた。それが身に障《さわ》ったのか、書き終った後は床に倒れたなり、再び起き上ることは出来なかった。  父が亡くなった時に、次郎は人目を避けて涙をこぼした。兄に嗤《わら》われると思ってのことだったが、その兄も次郎の感じ易い性《さが》を、決して嘲っているわけではなかった。ただ、このような心の素直な若者の今後のことを、気遣った。兄の眼からは、この弟は如何《いか》にも頼りなげに見えた。  次郎は十三月の父の喪に服している間、あまり口数を利かなかった。しばしば父の墓の前に行って、ひとり笛を吹いていた。山々の頂きが、夕暮になると赤々と染まり、濃い紫紺《しこん》の影が翔《かけ》るように谷間《たにあい》に落ちた。残輝にきらめく雲の群が、暮れかかる空に浮んでいた。その形は、次郎がまだ見たこともない羅城門《らしようもん》の丹塗《にぬり》の柱のように、錦の平張《ひらばり》に覆われた|※[#「舟+帶」、unicode825c]《ひらたぶね》のように、……しかし最もしばしば、ろうたけた女人の顔のように見えた。叔母君の忘れ形見という姫の顔を、雲のかたちに想像した。笛の音は千里の遠くへと想いを送るようであった。  忌が明けて、次郎は兄に出立の意向を伝えた。 「いよいよ行くか。それでもよくこれまで我慢をしたな。」  兄はいつのまにか父に似た顔つきになり、万事にどっしりとした風格を帯びて来ていた。 「お前がどうしても都へ出たいのなら、己《おれ》はとめはせぬ。亡き父上もお許しなされたこと、己がとめては不孝というものだ。しかし覚悟はあろうな。」 「もとよりです。」 「中納言さまの許《もと》にお世話になるとしても、叔母君は既にあの世の人、お前が縁つづきとは言え何ほどのことがあろう。お屋敷を固める侍の一人として用いられる位のところと思え。」 「私は宮仕えがしたいのです。中納言さまの家来になろうとは思いませぬ。」 「宮仕えか。なるほど我が家は大伴氏の出だが、山国に蟄居《ちつきよ》して最早政治向きとは関《かかわ》りのない家柄だ。家柄がなければ出世も出来ぬ。お前がどのように好運でも、検非違使庁《けびいしのちよう》の小尉《しようじよう》にでもなれば見つけものだ。無理な望みはせぬことだな。」  次郎は歯を食いしばったまま黙っていた。兄はそれを見て笑った。 「強情者め。しっかりやれよ。面白うないことがあれば、いつでもひた走りに走って帰って来い。それとも出世して、兄に都見物でもさせてくれるか。」  次郎もそこで笑い、兄はかすかな目尻の湿りを高笑いの中に押し隠した。  秋めいた日の清々《すがすが》しい朝、大伴の次郎信親は気心の知れた郎等二人、馬引きの小者二人、及び馬二頭に旅仕度や引手物を積んで、都を指して出立した。道には早くも萩の花が咲き乱れていた。     三  次郎信親は馬の背に揺られて、手綱をゆるめたまま馬の歩むにまかせていたが、いつのまにかその表情は、中納言の屋敷の棟門の前に佇《たたず》んでいた時とは違って、晴れ晴れしいものに変っていた。もともと物にこだわる性質ではないし、物忌というので断られたのでは文句のつけどころもないと諦めた。遠い信濃からの旅の果てがこの始末では、郎等たちが気落するのも無理はないが、この若い主《あるじ》にとってみれば初めて見る京の町はすべて物珍しい。いつまでもくよくよしていては愚というものだ。大路の左右には築地《ついじ》が並び、暫く行くごとに豪壮な大門が聳《そび》え、どの屋敷も深い木立に囲まれているが、ふと耳を傾けると、かすかに管絃のひびきが風に乗って洩れて来る、その音色を聞くと心が踊るようにはずんで来る。ここにはどのような人たちが住んでいるのだろうか、みやびやかな姫が箏《こと》の手を休めて、今この馬の蹄《ひづめ》の音を聞いているのではあるまいか。そういう埒《らち》もない空想が、空に浮ぶ白い雲のように去来する。しかし次郎を乗せた馬は疲れた足を単調に進めて行き、やがて大路の左右はそれまでの屋敷町とは打って変って、次第に商家ふうのたたずまいを見せ始めた。人通りも多くなり、はだしの子供等が手に手に棒を持って印地打《いんじう》ちをして遊んでいる。桶《おけ》を頭にかついだ物売の女や、米俵を振分けに乗せた馬を引く下人が通ると、そのたびに子供等が悪態を吐《つ》きながら蜘蛛《くも》の子のように散る。馬の背の次郎はそれを見ながら思わず微笑した。 「それで、宿の方は如何《いかが》なさるおつもりで。」  今まで黙々と馬の腹に沿って歩いていた年老いた方の郎等が、主のあまりの呑気《のんき》そうな様子にたまりかねたのか、声を掛けた。 「そうさな。」 「最早そろそろ申《さる》の刻でございまするぞ。」  次郎は空を見上げ、それから馬をとめて郎等に話し掛けた。 「この大路を行けば、たしか太秦《うずまさ》へ参る筈だ。そのあたりに、亡き叔母君が昔お住まいになっていた屋形がある。そこに、叔母君にお仕えしていた侍女が、尼となって住んでいると聞いている。」 「今の名は妙信とか申しているようでございます。しかしこの広い都のなかで、首尾よく訪ね当てられましょうか。」 「それは己にも分らぬ。いざとなればどこぞ泊るところぐらいは見つかろう。とにかく太秦とやらの方へ行ってみるとしよう。」  郎等は心細げな面持で若い方の郎等と顔を見合せた。無鉄砲な主の供をして出て来た以上、多少の困難は覚悟の前である。再びとぼとぼと歩き始めると、そこで次郎がはたと膝《ひざ》を叩いて大声を出した。 「よいことを思いついた。四条の西のあたりで、喜仁《よしひと》という名の笛をつくる者がいる筈だ。そこを訪ねて、宿などを問い合せてみよう。」 「それは如何《いか》ような者でございますか。」 「なに近江の芒の原で、お前たちにはぐれた時に識り合った者だ。さいわいその者に返すべき品も所持している。気のいいような男であった。何ぞ宿の世話をしてくれるかもしれぬ。」  次郎の腰には、あれ以来笛が挿《さ》してある。それを確かめてみながら、夢の中の出来事のようだった古堂のことなどを思い出した。都にはよるべとては殆どない。中納言の屋敷に入れてもらえない以上は、多少の縁に縋《すが》ってあの男を訪ねて行っても無下には扱われまい。次郎は二人の郎等に命じて、笛師の住処《すみか》を問い合させた。しかし通りすがりの物売などは何も知らない、町家の者は恐ろしげに身を引くか、田舎言葉が分らなくて押問答を繰返したりしている。次郎は歯がゆくなって自分も馬から下りると、折から来合せた僧を呼びとめて、笛師の名を口にした。存外に知られた名前らしくて、教えられたままに小路を南へ曲った。道の左右には低い家並が続き、どうやらこの界隈《かいわい》には塗物師や蒔絵師などが住んでいると見える。暫く気をくばって歩くうちに、琴師の店の隣に、「笛師喜仁」と額の懸った家の前に出た。 「此所らしいな。お前等は待っているがよい。己が様子を訊いて来る。」  郎等が慌てて袖を取ろうとする間もなく、次郎はつかつかと狭い入口の戸を抜けて中へはいった。 「笛師の喜仁殿のお住いはこちらか。御意を得たい。」  土間に立って呼ばわったが、明るい表から来たために室内の模様がさだかには分らない。土間の右手は板敷になっているが人の気配はない。左手の奥で何やら物音が聞えている。と、誰かこちらに近づいて来た。 「どなたさまでございますか。笛のことでお出なされましたか。」 「如何にも笛のことには違いない。私は大伴の信親と申すが、名を申しても喜仁殿は私の名を御存じではあるまい。お会いすれば分る。」 「その主人でございますが、伊勢の方へ下向したまま、未《いま》だに戻りませぬ。」  眼が馴れてみれば、中年の実直そうな男で、短かめの小袖から太い腕を出している。 「なに、まだ戻らぬ。それは弱ったな。この笛がなくては伊勢の国へ向われた筈もないと思っていたが。」  無意識に綾絹に包んだ献上品の横笛を腰から抜いて見せた。相手の男の表情が少し変ったようである。 「とにかくこうお出でなさりませ。」  先に立って奥の方へと案内した。次郎もその預り物の笛を手にしたままうしろからついて行く。細長く続く土間の左手は仕事場になっているらしく、数名の男が車座になって、乏しい燈台の光に照されながら笛の細工などをしている。格子の窓からは僅かばかりの陽の光が射し込んでいる。職人たちは次郎が通りすぎるのを振り返っても見なかった。  次郎は沓《くつ》を脱いで奥の板の間にあがり、衝立障子《ついたてそうじ》の前の藁《わら》の円座に坐った。この部屋も光に乏しく調度の類はさだかに見えないが、客をもてなす部屋のようではない。案内した男は姿を消し、次郎が表に待たせたままの供の者等のことを考えて、どうしたことかと少し不審に思い始めた時、障子《そうじ》の蔭《かげ》から、薄紅の広袖の衣を着た女が、滑るように次郎の前に進み出ると、りりしい声でこう呼んだ。 「あなたは父をどうなされました。お手にあるのが伊勢の守さまへ献上のお笛ならば、お答え次第ではお武家さまでも唯では済みませぬぞ。」  長い黒髪に縁取られた顔を見ればまだ若い娘で、年の頃は自分とほぼ同じ位であろう。その勢い込んだ表情とわななく脣《くちびる》とを、次郎は暫くの間うつけたように眺めていた。 「これは異なことを仰せられる。」  漸く気を取り直して、手にした笛を前に置くと、急いで説明を始めた。 「私は信濃の国から京へ参った大伴の信親と申す者です。旅の途中、近江の芒の原で、たまたま喜仁と名乗られる笛師と同宿しました。ところがその夜のうちに怪しいことがあって喜仁殿の姿は見えなくなり、この笛のみがあとに取り残されておった故、かように届けに参った次第。このこと、ゆめ偽りではござらぬ。」  部屋の隅から、先程案内して来た同じ男であろう、顫え声で口を挟《はさ》んだ。 「と申して、御主人様は行方知れず、お笛のみここにあるとは解《げ》せませぬ。これは検非違使庁へ訴え出て、御|詮議《せんぎ》をお願い申した方が宜しゅうございましょう。」  話しかけられた娘は、大きく眼を開いて旅姿の若い武士を見詰めたまま、その男の方を振り向こうともしない。どうやら心の中で信じようか信じまいかと推し量っているらしい。次郎は強気になって声を荒《あらら》げた。 「疑いもほどほどにされよ。私が喜仁殿をあやめたと思われるのか。もしそのような者であれば、何で笛を届けにここへなど来るものか。」  娘は息を呑んだように見えたが、次の瞬間に崩れるように板の間に坐った。 「これは御無礼を申しました。わたくしどもの思い過しでございます。」 「しかしお嬢さま、」と男が弱々しく逆らった。 「お前はお黙り。どうぞこの者の不届きな言葉もおゆるし下さいませ。そのお笛は父が丹精をこめた品、伊勢の守さまへ献上すると申して旅立ちましたのが、お手許にあるのを見てつい驚きのあまりお疑いを掛けました。あなたさまはそのようなお人柄のかたではございませぬ。わたくしの不調法でございます。」  娘の黒髪が揺れた。次郎はさっぱりともう機嫌を直していた。 「そうと分ればよい。それで頼みが一つあるが、このあたりに宿はあるまいか。」  娘は顔を起して、あきれたような表情になり、はずんだ声で訊き返した。 「宿と仰せられますと、あなたさまは都へお着きになったばかりでございますか。」 「さよう。肝心の訪ね先が物忌とやらで、主従ともども宿に困《こう》じているところです。」  次郎はそう言うなり、大声を上げて笑い出した。     四  表座敷の燈台に火がともされ、次郎信親は円座にあぐらをかいて今や心おきなく寛《くつろ》いでいた。前に置かれた高坏《たかつき》には、旅の間には口にしたこともない珍しい品が載せられているし、酒を入れた提子《ひさげ》もその側《そば》にある。身なりを整えた笛師の娘が、小女《こおんな》に命じて食事の仕度をさせたあとは、自ら次郎の傍らで酌をしてくれる。二人のいるあたりだけが燈台の明りに照されて、座敷から土間にかけては物の形も分らない程暗い。店の者たちの声はここまでは聞えて来ない。夜になって蔀戸《しとみど》も下され、表の小路の人通りもぱったりと絶えたようである。  次郎は心持よく酔がまわるのを感じている。中納言の屋敷から門前払いを喰わされた時には、行き当りばったりのはかない気持でいた。それがふと思いついて笛師のところを訪ねてみたお蔭で、娘が供の者等のためにも宿を見つけてくれた、自分はあとに引止められてこうして夕飯を振舞われている、これもみな一管の笛の縁《えにし》と思えば、身に沁《し》みて有難い。 「それにしても、あなたのお父上はどうなさったのだろう。私はすぐにもこちらに戻られたと思っていた。」  次郎は古堂の出来事を語ったあとで、やさしくそう訊いた。娘は話の恐ろしさに尚《なお》も身をわななかせていたが、次郎の方に少しばかり身をすり寄せた。 「あなたさまがお眠りになってから、妖怪《ようかい》がまた現れて父を取って行ったのではございますまいか。」 「そのようなことはまず考えられぬ。先程も申したように、あの妖怪は陰陽師《おんようじ》の法術だと私は睨《にら》んでいる。お父上は胆を冷されて、夜が明けると共に出立されたものでしょう。」 「わたくしはその陰陽師というのが怖くて。」  娘がふるえるたびに、衣《きぬ》がさらさらとかすかな音を立てた。 「あの法師は尋常な奴ではありません。と言って、お父上をあやめるようなこともしますまい。しかしまたお父上は、なぜ供も連れずにお出掛けになったのです。」 「父は一人旅が気楽でいいと申しまして、いつも身軽に出掛けます。良い竹を探しに行った時などは、なかなか戻りませぬ。仕事のこととなると、いつももう夢中で。」 「なるほど。それなら気にされることはない。この笛が紛失したと思われたので、新しく良い材料をお探しに歩かれているのでしょう。」  娘もそれをうべなうように軽く頷《うなず》き、身体をひねるようにして笛を手に取った。その笛は綾《あや》の布に包まれたまま、この座敷に移ってからは部屋の隅の螺鈿《らでん》の筥《はこ》の上に置いてあった。 「あなたさまは、その御堂でこれをお試し遊ばしたのですね。」 「さよう。」 「ではもう一度、わたくしにもお聞かせ下さいませ。」  次郎は少しためらい、手渡された笛を暫く見ていた。あの古堂で、笛師の喜仁から無理に奪い取るようにして、これを吹いてみた。その時陰陽師も、それは不吉だと言ってとめたが、この笛を試してみたいという一心がむらむらと起って、反対されればされるほど魅入られたように吹きたくなった。しかし今は、そういう気分ではない。あの時は知らなかったが、恐ろしい事が生じたのはこの笛を吹いたあとのことである。まさか今夜再び、あの陰陽師が術を使うこともあるまいが。 「それはよしましょう。」 「なぜでございます。」  娘は顔を起して次郎を見た。燈台の焔《ほのお》がその大きく見開かれた眼に映っている。 「なぜというわけもないが。」 「ではわたくしにもお聞かせ下さいませ。父はこのお笛を伊勢の守さまへ献上すると申して、それは大事にしておりました。たしか一度も試しに吹いてみるということはいたしておりませぬ。わたくしも聞いたことはございませぬ。父は笛つくりに関しましてはひとかどの上手でございますから、これが申し分のない出来であることが、試さずとも、分っていたのでございましょう。しかし娘のわたくしといたしましては、ぜひにも聞きとうございます。」 「お父上の許しがなくても。」 「あなたさまをお泊め申すのも、わたくしの一存でございます。」  そうまで言われると、次郎も無下には断れなかった。これを吹くのは不吉な気がするなどと、男子たる者が言うわけにはいかない。そこで次郎は脣をしめし、やおらその笛を吹き始めた。清冽《せいれつ》な響が管の中から溢《あふ》れるように流れ出し、二人を包み、部屋を包み、暗闇の中へと吸い込まれて消えて行った。無心に左右の指を操り、呼吸を調べているうちに、次郎は一切を放念した。信濃の故郷にいるのか、旅の空にいるのか、今がいつであるのか、何処《どこ》であるのか、すっかり忘れてしまった。そして眼を開いた時に、再び現在の自分にかえった。土皿の上で火がまたたき、笛師の娘はうっとりと自分を見詰めている。娘は曲が終ったことに気がつき、やや顔を赧《あか》らめ、軽く会釈して笛を受け取り、再び綾の布に包んで筥に載せた。  娘は笛の出来ばえについても、次郎の手並についても、何とも言わなかった。黙って提子《ひさげ》を取って酒をすすめた。それからぽつりと訊いた。 「それであなたさまは、明日にも中納言さまをお訪ねになるのですね。」 「私が信濃から来たのはそのためです。」 「どういう御縁がおありなのでございますか。」  次郎はそこで自分の生い立ちと、中納言や叔母君や姫のことなどを語って聞かせた。信濃の国での山暮しと、そこで日々に憧《あこが》れていた遠い都の空、……今はその都にいるかと思えば、次郎の声も浮き立つ。  しかし娘の方はやや沈んだ声で訊いた。 「あなたさまはそのお姫さまを慕われて、都までお出で遊ばしたのですね。」 「まさか。私はただ都に出て暮してみたいと思っただけだ。姫君を……会ったこともない姫君を、慕うなどということがあるものか。」 「いいえ、まだ見ぬ恋ということもございます。あなたさまの笛の音にそれが出ておりました。」 「笛の音に。」 「はい。あなたさまのお吹きになりますのを聞いておりますうちに、お心の想いがわたくしにも分りました。わたくしの耳にはそのように聞えました。しかし御身分のあるお姫さまを慕われて、それであなたさまのお為合《しあわ》せが得られるものでございましょうか。」  次郎は笛師の娘がささやくように語るその声に、思わず自分の心を見透かされたように感じた。この日頃、都へ上りたいと念じないことはなかったが、その心のなかに、姫への想いがなかったとどうして言い切れるか。しかしたとえどのような想いがあったとしても、それがかなえられる筈もない。 「私はただの信濃人《しなのびと》で、中納言さまに使って頂こうと都へ出て来ただけです。あなたの考えているようなことは何もない。姫君があなたのように美しい人かどうか、それさえも心もとないのに。」  娘は顔を赧らめ、火影《ほかげ》に顔を隠すようにした。 「お戯れを。わたくしのような者は、お姫さまとは較べものになりませぬ。」 「いや、私はあなたのような美しい人をこれまで見たことはない。」  娘は俯《うつむ》いて、かすかに身じろぎした。吐息がその口から洩れたようである。  次郎はそのようなことを口にしたのが、つつしみを欠いたことかもしれぬと思った。しかし決して嘘を言ったわけではない。初めに居丈高にこの娘から詰め寄られた時以来、真実美しい人だと思っていた。それは相手の好意に対する感謝といったものではなかった。接穂《つぎほ》もなく、訊いてみた。 「あなたは何という名前です。」 「わたくしは楓《かえで》と申します、」と娘は涼しい声で答えた。   姫     一  廂《ひさし》の間《ま》の、巻き上げた御簾《みす》の近くに坐って、姫は手習いの手を休めて庭の方を見ていた。先程まで側についていた侍女は用があって立って行き、風が吹き入るたびに書き損じの反古《ほご》が身のまわりで乱れるのを取り揃《そろ》える者もいない。姫は文机《ふづくえ》の上に片肱《かたひじ》を突き、寝殿に通じる透渡殿《すきわたどの》の下で、遣水《やりみず》がかすかな水音を響かせているのを、聞くともなしに聞いている。かすかなと言えば、遠くから笑い声のようなものが、やはりかすかに聞えて来る。姫がいるのは西の対屋《たいのや》で、女らのさざめきは東の対屋から聞えて来るのである。そこでは多くの女房たちが、若い三の姫を囲んで、碁や双六《すごろく》などに興じているのであろう。しかし姫は格別それを羨《うらや》ましいとは思っていない。自分も一緒になって遊ぶ気になれば、誰も自分をのけ者にはしないだろう。ただ、自分の方でそういう気にならないだけのことだ。  父の中納言は、信濃の国の受領《ずりよう》となって任地に赴いた時に、既に北の方との間に一の姫と二の姫とをもうけていた。藤原氏の一族の間でも外戚《がいせき》に近く、それに名聞《みようもん》の欲もさして強くなかったので、その頃|迄《まで》に身分が特に擢《ぬき》んでているということはなかった。ただ風雅の道に熱心で、好色の噂《うわさ》が時たま聞かれる位で、ごく平凡な貴族にすぎなかった。それが一族のうちでも羽ぶりのよい人の姫を北の方に迎えてからは、その北の方が勝気で悧発《りはつ》な人であったために、自《おのずか》ら素行も修《おさ》まり、宮中での覚えも目出たくなった。受領となって他国へ行ったのも、一国に拝すれば其《そ》の楽余り有りと言われていた時代に、北の方が家計を建て直すためにと、引込思案の夫を蔭《かげ》からせき立てたものであろうと噂された。四年の任期が果てて夫は無事に帰って来た。留守を守って来た北の方にとって、姫たちの成長を悦んでいる夫のつつがない顔は、蔵にあまるほどの財宝とともに、この上もない悦びとなって酬いられた。しかし北の方の安堵《あんど》はやがて覚めた。信濃の国の前司が任地から齎《もたら》したものは解由状《げゆじよう》と財宝ばかりではなかった。眉目《びもく》うるわしい女人《によにん》がひそかに伴われて来ていることが分った。  中納言が西の京の太秦のはずれに別業《べつぎよう》をつくり、そこに信濃の女人を住まわせているばかりか、しげしげと通うようになったのを、北の方は口惜しい想いで眺めていた。新しい屋形には東国から移し植えられた萩《はぎ》が庭を埋め、それはここの女主人に似た寂しげでみやびやかな花を咲かせた。  しかし女人はやがて秋風よりもはかなくみまかり、忘れ形見の姫がただ一人取り残された。中納言の悲しみはいっこうに薄らぐ様子もなく、それを見ているうちに北の方の気持もいつしか変って行った。もともと北の方は、夫の心が他の女に移ってからは、女人の常として烈しい嫉妬《しつと》にさいなまれ、中納言に対しては殊更によそよそしい態度を取っていたが、競争相手が世を去るや持前の怜悧《れいり》な性《さが》にかえって、一にも二にも主人を大事にし、決して既往を咎《とが》めるような素振りは見せなかった。そうして再びもとのような、落ちついた似合の夫婦と見られるようになると、自分から進んで、西の京に一人取り残されている幼い姫を、手許《てもと》に引取って育ててみたいと申し出た。  このことは中納言の内心に多少の波瀾《はらん》を巻き起した。幼い姫には早くも故人に似た面差《おもざし》が認められた。その姫が乳母《めのと》と数人の侍女たちにあやされながら、急にがらんとした屋形の中で心細げに暮しているのを見るにつけても、行末のことが思いやられた。遠い先のことを思えば、母親のない姫の身の上は大海に漂う一葉舟《ひとはぶね》にもひとしいであろう。それよりは三条の屋敷に引取られ、自分の目の届くところで慈しまれた方が、どれほど姫にとっても為合《しあわ》せであることか。ただそのような想像に、いつも北の方の表情が重なった。継母に育てられた薄幸な姫の物語などが思い合されて、北の方の勝気な性質をよく知っているだけに、中納言はくよくよと考えあぐねた。  しかし北の方のすすめる言葉には誠意がこもっていたし、結局は自分の意志というものを見定めることの出来ない性質だったので、中納言は遂に北の方の申し出通りに姫を三条の屋敷に引取り、西の対屋に住まわせることにした。そして自分がはるばる信濃の国から連れて来て、しかも幸福というものを味わわせることもなく死なせてしまった人の魂に懸けて、必ずや姫を為合せにすることを心に誓った。女人の幸福が女御更衣《にようごこうい》の位にある以上、いずれは何としてでも力を尽して入内《じゆだい》させたい。もしそれがどうしても駄目ならば、せめてやんごとない雲上人と結ばれるようにさせてやりたいものだ。それがせめても蓮の萼《うてな》に自分の来るのを待っている人への心尽しであると考えた。  姫は為合せに育ち、中納言の恐れるようなことは何一つ起らなかった。北の方は自分の姫たちと同じようにこの姫を慈しんだ。しかし、それはいつのことだったか、乳母が小ざかしくも姫に実の母のことを語って聞かせてから、たまたま女房たちが内々の話の中で、姉の姫たちを一の姫や二の姫と呼ぶように、自分を萩姫《はぎひめ》とか西の姫君とか呼んでいるのを洩れ聞くような時に、姫は悲しみというものを少しずつ知り始めた。姫は決してそれをうわべに見せることはなかった。ただ自分がどんなに大事に扱われても、また姉妹の姫たちと少しも区別されているわけではないと固く承知していても、この心の奥深いところにある悲しみは消えなかった。  今も、姫は遠くから聞えて来るささめきに、新しく琵琶《びわ》や箏《こと》の音がまじるのを聞き分けながら、自分も立って行ってその仲間に加わろうとは思わなかった。「お前はどうしてそう引きこもりがちなのだろう。少しは姉たちと一緒にいてはどうだね、」などと父の中納言が心配そうに言うことがあっても、「わたしはこの方が気楽でいいのです、」と答えるばかり、一人で草紙《そうし》を読んだり手習いをしたりしている方が、しみじみと愉しいと思っている。それが姫の本心から出たことで、決して北の方や姉妹の姫たちにうとまれてのことではないと分っているだけに、中納言としてもそれ以上強く言うわけにはいかない。亡き母に似た、心ばえのやさしい姫である。その心ばえが幼くて、閉じこもりがちなのであろうと中納言は考えた。  姫はもう幼くはなかった。文机に倚《よ》るその腕はまろやかに白い。扇のように広がる黒髪は身の丈にあまる程である。そして姫の洩らす吐息は女らしい情感を示している。姫は筆を取り、机の上の唐紙《とうし》にすらすらと歌を一首したためた。   はかなしや夢にゆめみし心地して      木《こ》の葉《は》時雨《しぐれ》に道は絶えつつ  うっとりとした表情で、自分の書いた歌を読み返している、と侍女の近づいて来る跫音《あしおと》が聞えた。姫ははっと我にかえると、それを隠すように、新しい唐紙を取ってその上に重ねた。     二  姫が思い出しているのはそれほど昔のことではない。その時からまだほんの一月とは経っていない。それなのに遠い昔のことのような気もすれば、ほんの昨日のことのような気もする。夢に夢みる心地というのはこういうものであろう。  西の京の太秦のはずれにある屋形を、萩の花が今を盛りと咲く頃に訪れるのは、毎年秋になると姫が待ち兼ねている愉しみである。三条の屋形から外に出る機会はそう多くはないし、それでなくても引きこもりがちの姫が、いそいそと出掛けるのは殆どこの時ばかりと言ってもよい。そこは亡き母を想うよすがの場所であると共に、生れた時から姫の世話をしてくれた侍女が、世をはかなんで今は妙信という名の尼になり、この広い留守宅を預って、その一隅に暮している。姫の乳母も数年前に亡くなったから、姫が肉親同様に甘えることの出来るのはこの妙信尼ばかりである。この尼から母の思い出話を聞いたり、また妙信が故郷の信濃にいた頃のことを尋ねたりする時ほど、姫にとって心のなごむことはめったにない。父の中納言も、尼を慕う姫の気持をとどめることは出来なかった。  今年の秋もまた、姫は侍女たちをつれてこの別業へと出掛けた。年ごとに屋形は古びて行き、築地《ついじ》なども崩れて雑草のはびこるにまかせている。しかしとりどりの萩は美しく色を咲かせ、池のまわりや遣水のほとりに、葉末を水に濡らすばかりにたわわに咲き誇っている。寝殿も庭も手入れが行き届かずに荒れ果てているだけに、萩の色のみが眼に沁《し》みるようである。姫は黴《かび》くさい釣殿《つりどの》の勾欄《こうらん》に凭《もた》れて、思わず涙ぐんだ。 「せっかくお出でになりましたのに、お屋敷のお手入れも思うにまかせず、このように庭まで荒れてしまいました。」  申訣《もうしわけ》なさそうに、姫の近くに尼はうずくまって、ともどもに庭の方を見ている。 「妙信、わたしは萩を見て、お母さまのことを思い出していただけです。そんなに気にすることはありません。」 「かえって風情《ふぜい》があって宜しゅうございますね。」  辨《べん》と呼ばれる侍女が、姫に向って小ざかしい口の利きようをした。  姫はかすかに頷《うなず》いた。そこにいるのは三人だけで、他の侍女たちは小者を使って屋形の掃除をさせているのであろう、遠く対屋の方から話声や物を動かす音などが聞えて来る。それが一層がらんとした感じで、勾欄の裾近くに戯れている池の水の音が侘《わび》しい。 「お殿さまも、もう少しこちらに人手をおまわし下さいますと宜しいのですが。」  妙信は尚も恐縮している。姫がここに到着しても、一応の掃除が済むまでは休む場所もない。それでこうして釣殿で庭を眺めながら待っていることになる。 「お父さまが、たまにでもこちらにお出掛けになれば、見違えるようになるでしょうにね。でもお父さまは、もうわたしのお母さまのことはお忘れになっているのよ。」 「お忙しいのでございますから、お越しになる暇はございますまい。」 「お殿さまは陰陽道《おんようどう》にお詳しいのですから、そのうち方違《かたたが》えでお出で遊ばすかもしれませんよ、」と辨がやや皮肉な声で言った。  この辨という侍女は、姫よりはほんの少々年上だが、頭の切れる才気走ったところがあり、そのために姫が一層おっとりしているように見えた。 「いいえ、お父さまは此所《ここ》へはいらっしゃりたくないのです。もうお母さまとのことは昔の済んだこと、今ではお忘れになりたい、お忘れになろうとつとめていらっしゃる。わたしが此所に来るのも、内心では困ったことだとお考えでしょう。だから此所が年ごとに荒れるのもしかたのないことです。妙信ひとりではどうにもなりません。ただわたしは、昔はこの萩をお父さまとお母さまとが一緒に並んで御覧になったこともあったのかと思って……。」  一陣の風が池の表に漣《さざなみ》を立てて吹き過ぎると、萩の花片が散りこぼれて、波の上に斑雪《はだれ》のように流れた。 「お姫さま、そう気落《きおち》されるものではございません、」と妙信が力づけた。「お殿さまはこのお屋敷をお姫さまにお譲りなされるおつもりでしょうから、いずれお姫さまが御立派な殿がたと夫婦《めおと》におなり遊ばしましたならば、またお二方で仲良くお庭を御覧になるようなこともございましょう。尼はその日の来るのが待ち遠しくてなりません。そればかりがこの頃の望みでございます。」  姫は少し頬を染めたが、何とも答えなかった。  その翌日、姫は対屋の勾欄に倚って外を眺めていた。今日は庭の手入れに男たちが大勢働いているから、勾欄の手前に御簾《みす》を垂らして、なるべく自分の姿が人目に触れないようにしていた。それでも時々は御簾を掲げて、庭の様子を面白そうに眺めた。下衆《げす》の者どもは、或いは下草を刈り、或いは立木の枝を払いながら、鄙《ひな》びた歌などを口ずさんでいるし、妙信はもともと田舎育ちゆえ植木のことには詳しく、木の枝を一本落すにも、草の一株を動かすにも、こまごまと指図を与えていた。それを姫の傍《かたわ》らで、辨をはじめ侍女たちが、からかい半分に噂しながら眺めていた。次第に庭が明るく広々と感じられるようになると、姫の心もいつしか晴々として来るようである。 「あれは何でございましょう、あそこの築地のところに誰かいるようでございますよ。」  侍女の一人が目ざとく見つけて注意したが、今や池の向うに秋空の青さを映すように広がっている庭の立木の蔭に、何やら鮮かな衣の色のようなものがちらほらと見える。 「ほんに。もしかしたらどこぞの殿がたがお姫さまをお目に留めたのかもしれませぬよ。」 「お姫さま、早くこちらの方にお隠れ遊ばせ。」  侍女たちは口々に騒ぎながら御簾の内に姫を引入れた。姫はされるままになっている。こういう時に一番機転が利くのは辨で、さっそく女童《めのわらわ》を出して様子を見に行かせた。その子は帰って来ると、すぐには姫の許に来ないで、辨の側へ行ってひそひそ話をしている。他の侍女たちが気を揉《も》んでいるうちに、辨も女童もともどもに行ってしまった。どうやら女童だけでは話が通じなかったものと見える。  辨は暫《しばら》くして急ぎ足に戻って来ると、見事な筆蹟《ひつせき》で一首の歌を認《したた》めた扇を、姫に差し出した。床しい香りが薫《た》きしめられている扇である。   秋萩の露をいとしと思へども      玉にぬくべきすべもあらなく 「どこの誰ともお名前は分りませんでしたが、やんごとない御身分のかたとお見受けしました。随身《ずいじん》や小舎人童《こどねりわらわ》がお供についておりました。近くに御車が止めてあるのか、それとも忍んで馬ででもお出でになったのか、その辺のことは分りません。どうやらお姫さまに懸想《けそう》していらっしゃるように思われました。わたしをつかまえて根掘り葉掘りお訊《き》き遊ばすので、わたしも好い加減にごまかして御返事しておりました。そうすると扇をお取りになって、その歌をすらすらと……。」  姫は辨の話すのを上の空に聞きながら、扇の文字をうっとりと眺めていた。どこの誰とも知らない男でありながら、届けて来た歌の文句が心に沁みるような気がする。 「さあお返しを。」  侍女たちが文箱《ふばこ》を出して、急いで墨などを磨《す》っている間も、姫はかすかに眉をひそめて俯《うつむ》いていた。畳紙《たとうがみ》が出され、筆を押しつけられても、姫はまだたゆたっている。ここに返しの歌を書くことが、何だか自分の運命を決めてしまうような、空恐ろしい気持が稲妻のように走った。しかし侍女たちに責められて、いつまでも放っておくことは出来ない。   秋萩におく白露は玉ならず      雁《かり》の涙のしづくせるらむ  すらすらと書き流したが、扇の文字と較べても格別見劣りのしない美しい書きざまである。辨は押しいただいて、いそいそと出て行った。侍女たちが箏を持ち出して来たのは、姫に弾かせて、表にいる男に姫の手並を知らせようという下心なのか。姫は言われるままに、おとなしく箏をかき鳴らした。  その日は夕暮から空模様が変り、烈しく野分《のわき》の風が吹き始めた。日が落ちると風の音が一層険しくなり、池の水が打ち寄せられて釣殿の勾欄を叩く音が咽《むせ》ぶようである。昼の間は陽気に騒いでいた侍女たちも、いつしか身をすくめて顫《ふる》え上っている。今宵は月もない夜で、火を明るく点《とも》して倚り合って物語などをしていたが、それもつい途絶えがちになる。風の音が凄《すさま》じくて虫の声さえも聞えない。  やがて侍女たちは廂《ひさし》の間《ま》に寝て、姫は屏風《びようぶ》の蔭に取り残された。心細いので辨を呼ぼうとしても、辨はどこかへ行ったらしく姿が見えない。夜が更けて行っても空に鳴る音はいっこうに止《や》まず、隙間を洩る風に燈台の火さえ消えてしまった。と、几帳《きちよう》の帷《かたびら》を掲げて、誰やらそっと側に近づいて来た者がある。 「誰、誰なの。」  低い声で訊いてみる、思わず語尾がわなわなと顫えてしまう。すると聞いたこともない男の声がそれに答えた。 「どうか大きな声を立てないで下さい。私は昼のうちにあなたに歌を差し上げた者です。漸《ようや》くの思いでこうして忍んで来ました。」 「辨はいませんか。辨は。」  姫はそれでも小さな声で侍女を呼んだが、風の音に混ってあちこちの戸の軋《きし》む音などが聞えて来るばかり。男は倚り添うと衣《きぬ》の上から姫の手の上をそっと抑えた。 「どうか私の気持も察して下さい。昼からずっと今まで待っていたのですよ。あなたも雁《かり》の涙などと悲しいことは言わずにいて下さい。どうしてまた、まだ会いもしないうちから、あんな悲しい歌を詠《よ》んだりなさったのですか。」  男が衣に薫きしめている香は、身分の賤《いや》しくないことを示しているし、その声もごく若々しい。姫は驚きと恐れとに身を竦《すく》めていたが、いつまでも無言のままではいられないので、かぼそい声で答えた。 「此処は亡くなったお母さまが昔住んでいた屋敷なのです。ですから悲しいことばかり思い合されます。」  その言葉が如何《いか》にも幼げに響いたのが、男に姫をいとしく思う心をいや増させたらしい。一層しっかりと倚り添うと、姫の身体《からだ》のわなわなと顫えるのがこちらに伝って来るようである。 「こういう荒れ寂びた屋敷でお会いするというのも何かの因縁ですね。あなたのお母さまのお引合せかもしれない。」  姫はいつのまにか涙に濡れた眼に袖を当てている。男の手が姫の長い髪に触ると、それも涙のように冷たい。しかしうら若い乙女の身体は、衣を通して自《おのずか》ら体温を発散している。 「あなたのお父さんの中納言は、あなたを入内《じゆだい》させるおつもりのようですね。いいえ、そんなに驚かれることはありません。私はあなたのことをよく知っています。しかし三条の屋敷では、中納言の監視が厳しくて、私が文を附けることも出来ません。それであなたが、こちらの方へお出でになるのを待っていました。ですからこれは、決して一時の戯れの恋というのではないのですよ。私はもう長い間あなたのことを想っていたのです。」  男はしみじみとした口調で語った。姫は宮中に入れるつもり故、めったな男を引き入れてはならないという父の中納言の方針は、姫にもよく分っていた。しかしそれはもっと先のことだと姫は考えていた。それなのにこうして、男の手に抱かれるままになっているというのは、まるで夢の中のこととしか思われなかった。ただいずれ入内して女御更衣の位に即《つ》くのと、今ここで若い大宮人のやさしい声を聞いているのと、どちらが為合せというものかは分らなかった。これが自分に与えられた運命ならば、これでもよいと思った。 「こんなに風が吹いたのでは、萩の花もみんな散ったことでしょうね、」と夜の白みかけた頃に、男はいとしげに姫を抱き寄せて、呟《つぶや》いた。 「私は中納言の思惑も恐ろしいし、世間を憚《はばか》ることもあるから、この後も思う通りにあなたに会えるかどうかは分らない。しかしどうか私のことを忘れないで下さい。私の気持はいつでもあなたのところにあるのです。」  姫は恥ずかしげに頷き、今はもう自分の心はこの人の思うままだと感じた。わたしはこの一夜のことを忘れないだろうし、いつかまた会える日まで、この思い出を胸の底に深く秘めて大事にするだろう。夜が次第に明け、男の姿が漸く眼に見えるようになって来ても、眼は涙にくもってその姿は朧《おぼろ》げにしか映らなかった。 「そんなに泣くものじゃありませんよ。また会いに来ます。」  男はそう言って慰めたが、三条の屋敷に戻れば、この人は敢て忍んで来ることはないだろうという予感がした。そしてこんなにも早く別れの時が来ると、歌の返しに何の気なく「雁の涙のしづくせるらむ」などと詠んだことが、讖《しん》をなしていたのではないかと疑われた。朝が近くなっても野分の風は歇《や》まず、雁の渡る声も聞えずに、ただ辛い別れのみがあった。     三  大伴の次郎信親が漸く中納言と南面《みなみおもて》で対面するまでには、次郎が初めに門の戸を敲《たた》いた日から幾日かが経っていた。笛師の家に二晩ほど世話になり、明けての朝、どうにか三条の屋敷の門をくぐることが出来た。そして応対に出た侍に、はるばる持参して来た亡き父の書状や信濃の守の添書などを、大事そうに渡した。相手はそれを奥に持って行ったが、恐らくそのせいか、一行は壺屋《つぼや》を一軒与えられて、そこで旅装を解くことが出来た。しかし中納言に対面が許されたのは更に一両日経ってからのことで、何ごとも、次郎の目からは悠長きわまりないように見えた。  南面の平敷《ひらしき》の上に中納言は青の直衣《のうし》をゆったりと着こなして、白い埋火《うずみび》をいけた火桶《ひおけ》の上に小手をかざしていた。まだ冬には少し間のありそうな暖かい日で、次郎のような若者にはその火桶がおかしく感じられたが、それだけに相手が老人だという憐《あわれ》みのようなものをも感じた。痩《や》せた顔立で、白いものの混った長い眉毛の下に、鈍いような垂れ下った目蓋《まぶた》があった。それは次郎がかしこまって名乗《なのり》をすると、幕を上げるように開き、そこに鋭く研ぎすまされた瞳《ひとみ》がちらりと動いたが、その一瞬の懐しげな色を次郎は見逃さなかった。しかしそれもほんの暫くで、再び目蓋が垂れ下ると、内心の感情を素直に伝えるものはなくなった。言葉は鷹揚《おうよう》で、歯がゆいほど間遠く感じられた。故郷のこと、亡くなった父のこと、身の振りかたなど、平凡な質問が間を措いて出された。しかし次郎の答の方もはかばかしくないので、二人の話の切目には寒々とした沈黙が流れた。中納言はそれでも調子よく何かと新しい質問を浴せたが、その表情は何を考えているのか分らないような、茫漠とした、およそ親身とは言えないそっけないものである。 「まず二年や三年は此所で辛抱する、都の言葉でも覚えることだな。よいかな。」 「はい。」 「いずれは検非違使庁にでも推挙するとしよう。武術には覚えがあろうな。」 「覚えはございます。しかし私は武術以外で身を立てたいのです。」 「これは異なことを言う。では何が出来るのか。」  次郎は赤面した。 「何も出来ませぬ。ただ、これから覚えとうございます。」 「そちほどの年になって、今さら学問でもあるまい。技芸の道とても、中道からではなかなか思うにまかせぬ。しかしまあしたいことがあるならばそれもよかろう。昔そちの父御には面倒を掛けた。世話にもなった。されただけのことはそちにもしてやりたい。しかし何が望みなのだ。」  次郎にははかばかしい返事も出来なかった。中納言は頬を歪《ゆが》めて、一種の笑いのようなものを洩らした。 「姫に手習いでも教わるがよい。まずそれが手初めというものだ。」  中納言は火桶から手を離すと、手を叩いて人を呼んだ。それが退出の合図ということらしかった。次郎は深く頭を垂れて中納言の前を退いたが、心のうちにとりとめのない不満を感じないわけにはいかなかった。     四  それから更に数日して、次郎は一人の年若い侍女に案内されて、西の対屋へ導かれた。その数日の間に俄《にわか》に秋は尽きて、冬の初めらしい底冷えのする季節となった。薄曇った日で、長い渡り廊下には冷たい風が吹き渡っていた。しかしそこを歩きながら、次郎は期待のために頬がほてるのを覚えていた。  廂の間で行われている不断《ふだん》の御読経《みどきよう》の声が、廊下を進むにつれて次第に高く聞えて来た。それと共に次郎の心も烈しく動悸《どうき》した。志を立てて遠い信濃の国から都へと上って来たのも、要するにただこの対面のため——姫の顔《かお》ばせを一目見たいがためであったとしか、今では思われなくなった。そして憧《あこが》れていた人に見《まみ》えるのも今一瞬の後である。心がはずむのに反して、足は次第に重くなり、頬の色もいつか褪《さ》めた。やがて傀儡《くぐつ》のように、命じられるままに御簾の前に坐った。  御簾の向うには姫のほかにも尚幾人かの侍女が控えているらしく、憚るようなひそひそ声が聞えていた。 「お姫さま、お待ちかねの信濃|人《びと》を召し連れました。」  案内役の侍女が告げると共に、次郎は恭《うやうや》しく平伏した。 「大伴の次郎信親と申します。信濃の国に育った無骨者でございます。」  御簾の向うの話声がぴたりと止り、好奇心に充ちた幾つもの眼が御簾越しに自分を注視しているのを次郎は感じた。 「固くるしい口上はやめなさいとのことです。もっと楽にして下さい。」  それは滑らかな、張りのある声で言われたが、それを口にしたのは姫ではないようである。案内してくれた侍女が、小さな火桶を次郎の前に据え、そのあとから可愛い女童が菓物《くだもの》を盛った高坏《たかつき》を運んで来た。次郎が畏《かしこま》っていると、御簾の中では悪戯《いたずら》っぽくくすくすと笑う声がした。 「お行儀のよい若者ですこと。ただの無骨者というのではないようですわね。」 「でも武士の心得はあるのでしょう。そなたは馬には乗れますか。」  次郎は憤然として武芸一般には通じていると申し述べた。御簾の中では幾人もの声が入り混って、どれが姫の声であるかは分らなかった。 「その他には何が出来ますか。」 「双六《すごろく》はお出来になる。」 「歌は詠めますか。」 「扇合せや貝合せは御存じ。」  質問が降って湧《わ》き、その間に笑い声が洩れ、初めには遠慮がちだったのが、やがて仲間どうしの気儘《きまま》なやり取りに変って行った。遠くからの単調な御読経の合唱に重なって、女たちは遊びごとの品さだめを面白そうに話し始めた。御簾を通して、いつのまにか香の馨《かお》りが濃く漂って来た。次郎は何を訊かれても知らないの一点張りで通し、そのうちに押し黙ったまま華かな雰囲気《ふんいき》に酔ったように上気していた。いくら耳を傾けても、姫の声を聴きわけることは出来なかった。 「少しお黙りなさい。みんながそう喋《しやべ》っていては、お姫さまが何もお訊きになれないわ。」  それは最初に、もっと楽にしろと言ってくれた侍女の声だった。(後になって次郎は、それが辨という、姫に一番親しく使われている侍女だということを知った。)それと共に衣《きぬ》ずれの音がして、お側の女たちが身を引く気配がした。そしてやさしい声が、沁み通るように聞えて来た。 「次郎と言いましたね。次郎はわたしのお母さまを御存じ。」  それはまだどこかにあどけないものを残しているような、ふくよかな声で、場馴れせずにもじもじしている次郎の心を、落ちつかせるのに充分だった。 「存じていると申すことは出来ません。姫の御母上が信濃にあったのは、私がほんの子供の頃のことです。殆ど覚えているとも言えない位です。」 「わたしのお母さまは次郎には叔母に当るわけですね。」 「私の父の妹に当ります。私が子供の頃にはまだごく若くて、多分お姫さま位のお年だったのだろうと思います。」 「どんな人でした。」 「もの静かな、控え目な、そして優しい人でした。よく唄をうたってもらいました。声の美しかったことを覚えています。」  それに附け足して、お姫さまの声によく似ていると言いたかったが、それは言い過ぎのような気がした。 「わたしはお母さまのことは何も知りません。妙信から昔のことを聞くだけです。お父さまはお話しになるのがお厭《いや》なようですけど、どうしてでしょうね。」  次郎には答えられなかった。 「きっとお父さまは、わたしがお母さまを恋しがって泣くとでもお思いなのでしょうね。」  その拗《す》ねたような声音《こわね》は、聞いていると思わず微笑が浮ぶほど可愛らしかった。侍女たちが小さな声で何か呟《つぶや》いていた。しかしどのような顔ばせなのだろう、と次郎は考えた。姫の声を聞くことは出来たが、その面差は御簾の向うに隠されたままである。ちらりとでも見ることは出来ないものだろうか、せっかくこうして姫に対面できても、これではあまりにはかない、と次郎は口惜しく感じた。 「そなたは武術では身を立てたくないとお殿さまに申したそうですね。」  先程の侍女の声である。それに他の侍女が何やら口を入れ、嘲《あざけ》るような笑いがそれに和した。 「お殿さまは物はためし故、好きなようにさせるがよいと仰せられました。お姫さまにお手本を頂いて、手習いをするようにとのことです。お姫さまは恥ずかしがっておいででしたが、わたくしからもお願い申しました。そなたもよくお礼を申しなさい。」 「かたじけなく存じます。」  次郎は素直に頭を下げた。侍女たちがとりどりに低い声で話し合っているのが聞えて来た。 「今さら手習いなどをして……。」 「いったい文字は読めるのでしょうか……。」 「お殿さまは家司《けいし》にでもさせるおつもりなのかしら。」 「そんな。武士でいる方が気楽でしょうに……。」  衣ずれの音がすると、ひそひそ声が歇み、御簾の向うのすぐ近くで、先程の侍女がするすると御簾を巻き上げながら、声を掛けた。 「もっとこちらへ寄りなさい。——お姫さま、どうぞお使わし下さいませ。」  御簾が巻き上げられたといっても、ものの三尺たらず程である。そこから白く細い手が、一冊の草紙を軽く支えて、ものうげに差し出された。 「ありがとうございます。」  次郎は慇懃《いんぎん》に礼を述べ、その草紙を受け取った。と同時に、御簾ははらりと下された。しかしその間のほんの短い時間に、小袿《こうちぎ》の青い袖口から洩れこぼれていた、しなやかな、色白な手は、次郎の網膜に痛いほど焼きつけられた。その手は、あらゆる女らしさ、なまめかしさ、思いやりを示していた。と共に、近よりがたい気位と高慢とを隠しているようにも見えた。次郎などには手の届かない高貴な珠玉のように、——あこや珠《だま》を砕いて延べひろげたように、一瞬の間を照り輝いてその手は掻《か》き消えてしまった。  次郎は形身のように我が手に残された草紙を開いてみた。それは名高い歌などを書き写したものらしく、まず開いたところに次の歌が美しい筆づかいで書かれていた。   あさか山かげさへ見ゆる山の井の      浅くはひとをおもふものかは  書かれている文字を読み解くことも、その意味を解することも、いとた易く出来た。それが「手習ふ人の始にもしける」と古今集の序に言われた古歌であることも、知っていた。しかしそのような気配は微塵《みじん》も見せなかった。何ごとも第一歩から、真面目にやってみようと決心していた。 「お姫さまはそなたのために、わざわざこの草紙をつくられたのです。文章博士《もんじようはかせ》もお賞めになるほどの上手ですから、そなたもこれをお手本にして励めばすぐにも上達するでしょう。」  侍女の声に次郎は頭を下げて頷いた。しかし姫の言葉はもう聞かれなかった。もう一度御簾が巻かれることもなかった。次郎はまたうそ寒い廊下を、草紙を抱えて退出して行った。その間、御読経の合唱にまじって、女たちの忍びやかな笑い声が聞えていたが、次郎の脳裏には先程ちらりと見た白い手の幻が消えなかった。遂に顔ばせを見ることが出来なかっただけに、その白い手は姫の美しさを象徴するもののように感じられた。   笛     一  冬の乏しい日の光が狭い中庭の植込《うえこみ》の上に落ちているのを、次郎信親は半蔀《はじとみ》の前に立って覗《のぞ》くようにして眺めていた。中納言の屋敷の庭にある美々しい前栽《せんざい》に較べれば、植込はただ形だけである。しかも紅葉は散り、萩《はぎ》も葉が尽きている。故郷では見たこともない菊の花を屋敷で初めて見た、——その珍しい菊がこの庭にも植えてあるが、恐らく笛師がどこぞの貴族から拝領して来たものであろう。その菊も既に枯れている。  次郎は中納言の屋敷の中に壺屋を一軒与えられて、どうやら暮し向きにも馴れた。そこでその後の笛師の喜仁《よしひと》の消息も気に懸るので、先頃の礼を兼ねて楓の許《もと》を訪れた。初めてこの家を訪ねた時に通されたのと同じ奥まった部屋に案内され、中央に仕切ってある炉の前に座をすすめられたが、案内してくれた小女《こおんな》はそのまま退《さが》ってしまい、ひとりつくねんと膝《ひざ》を抱いていた。開いた半蔀から明りははいるものの、部屋は薄ぼんやりと暗く、若い女の持ちものらしい調度などが置いてあるところを見れば、ここは楓の部屋かとも思われる。しかし肝心のたずね人がいっこうに姿を現さないので、やがて飽きてしまい、立ち上って半蔀から首を出してみる気になった。  格別の風情《ふぜい》もない中庭の冬景色を眺めていると、やがてかすかに衣《きぬ》ずれの音がした。  楓が両手の間に小猫を抱いて、部屋にはいって来た。すぐに膝を突き、丁重に首《こうべ》を下げた。小猫はそのはずみにするりと膝から滑り落ちて、可愛い声で啼《な》いた。 「よくお出で下さいました。もうお忘れかと思いました。」 「先日のお礼を申し述べようと思って。」  次郎は炉の前の席に戻った。しとやかに両手を揃《そろ》えて俯《うつむ》いている楓を見ると、町家の娘とは思われない気品がある。取り澄ましている恰好を、初対面の折の居丈高の口上と思い合せてみると、つい微笑が浮んで来る。これまで待たせたのは、身仕度や化粧に手間取っていたせいに違いない。  楓は顔を起したが、男の浮べている微笑を見て自分もかすかに脣《くちびる》を綻《ほころ》ばせた。相手がなぜ笑顔を見せたのかは分らないものの、薄暗い部屋が急に明るくなったような気がする。 「その後の御様子は——。」 「それで喜仁殿は——。」  同時に二人とも口を開き、急いで口を噤《つぐ》んだが、それがまるで申し合せたように同じだったので、今度は遠慮なく次郎が高笑いをし、楓も袖で口を覆った。炉辺《ろばた》で丸くなっていた小猫が驚いたように足を延すと、のそのそとまた楓の膝に抱かれに行く。 「御免下さいませ。その後の御様子などをうかがいたいと存じましたので。」 「この前は泊めて頂いて有難う。」  次郎は笑顔をやめて、淡泊に首を下げた。 「早くお礼に来たいと思っていたが、暇がなかった。喜仁殿はまだお戻りになりませんか。」 「はい、まだ戻りませぬ。いくら呑気者《のんきもの》の父でも、もう戻らなければ店の方で困ります。祖父の代からの笛師でございますから、職人は大勢おりますが、特に大事な品は父の手でないと仕上げが難しゅうございます。本当にどうしたのでございましょう。」 「それは心配ですね。一体お父上の留守の間はどういうふうにやっているのです。」 「店の方はそれぞれ手分をして仕事をいたしますから、並の品なら面倒なことはございません。奥の方はわたくしの妹が手伝ってくれます。祖母もおります。」 「あなたも忙しいんだな。あなたのお母上は。」 「母はおりません。」  楓は顔をそむけるようにしたが、眉のあたりに憂いの翳《かげ》が差したのを次郎は見逃さなかった。それは母は死んだという意味なのか、それともこの家にはいないという意味なのか、次郎には判断がつかなかった。しかし楓はすぐに気を取り直したように、明るい声で訊《き》いた。 「あなたさまは如何《いかが》でございますか。中納言さまのお屋敷でのお暮しにはお馴れになれましたか。」 「さよう。中納言殿には一度お目に掛った。わたしは壺屋を頂いたので、そこに信濃から連れて来た郎等二人と共に住んでいます。今までのところは格別の御用もないので、手習いをしたり書物を読んだり、また家司《けいし》の老人から有職故実《ゆうそくこじつ》を教わったりしている。あまり閉じ籠《こも》っているので少しあきあきしました。遠乗にでも出掛けたいようだが、我儘《わがまま》の言える身分でもないし。」 「都へお出でになっただけの甲斐《かい》はございましたか。」  楓は笑みを含んだ口元を見せた。 「まだよく分らぬ。」 「いいえ、甲斐と申すのは、あなたさまのお目当てのかた。」  次郎はそれでもよく分らずに楓の顔を見た。楓はやさしく小猫の背を撫《な》でている。次郎は少しうろたえた。 「姫のことか。姫には一度だけ対面をゆるされたが、御簾《みす》越しゆえ——。」 「お顔を拝むことはかないませんでしたか。」 「さよう。わずかに手の先だけが見えた。」 「それははかないこと。夢に御仏《みほとけ》の声を聞いたようなものでございますね。」  次郎は黙って頷《うなず》いた。もしも楓の言うように都に出て来た甲斐がこの対面にあったとすれば、これから後のことも心細く思われる。しかし都へ来てからさして日数が経っているわけでもないし、姫に会うことだけが目的でもないし。 「姫に会えずともよい、」と言い切った。 「それは偽りでございましょう。お心のうちはよく分っております。」 「そう私をからかうものではない。」  楓はかすかに首を垂れた。言葉が過ぎたと思ったのか、口のなかで詫《わ》びを言った。二人の間で話が途切れると、仕事場の方から聞えて来る竹を削るような単調な響のみが高くなる。 「わたくしは父の身が案じられますから、清水《きよみず》へ詣《もう》でてみようかと思っております。」 「清水の観音というのは霊験あらたかだそうですね。私はまだ詣でたことはないが。」 「ありがたい観音さまだとみなみな申します。ただ途中の道が寂しくて、それにこの頃は盗賊の噂《うわさ》をしきりと聞きますので、それが怖《こわ》くてなりませぬ。」 「ほう、どのような噂が——。」 「御存じありませんか。不動丸と申す盗賊が、あちらこちらの大きなお屋敷に押し入ったという噂が、もっぱらでございます。二十人三十人と徒党を組んで、なまじい手向いすれば殺されるとか申します。それが何処《どこ》に住んでいるものやらつゆ知れず、検非違使《けびいし》のかたがたもその勢いには恐れをなすとやら。」 「何かそのようなことを聞いたこともある。お屋敷でも怠りなく警護している様子です。しかし賊が襲うのは、それだけの獲物のある屋敷を狙ってのことでしょう。まさか清水詣での娘を、昼日なかかどわかすこともあるまいし。」  楓は頷いたが身をわななかせている。 「父のいないせいか臆病になりました。この頃の町の噂は、鬼の出る話や盗賊の話など怖いことばかりでございます。」  次郎は笑った。楓が怖そうな顔をするのが心底からのこととは思えない。この気丈な娘がたかが噂話ぐらいで顫《ふる》える筈はないと思っている。そして次郎は嘗て心から怖いと思ったことは一度もない。 「都に住んでいて怖いようなら、私の故郷なんぞへはとても住めませんね。夜になると狼《おおかみ》や野猪《くさいなき》が出る、風の音さえ陰気で物凄《ものすご》い。」 「どのようなところでしょう。わたくしに聞かせて下さいませ。」  楓は身をすり寄せたが、次郎は相手にしなかった。 「なに、山のなかの寂しいところというだけのこと、お聞かせするような面白いことは何もない。あなたを怖がらせたところでどうなるものか。」 「あなたさまのお側にさえいれば、何も怖いことはございません。」  楓はそう言うと、潤いのある目つきでじっと男を見た。     二  臘月《ろうげつ》にはいってから、次郎は再び楓のところを訪ねた。今度通されたのは表座敷の方で、案内した男が、ただ今主人が御挨拶に参りますと言ったところを見れば、雲隠れしていた主人の喜仁も漸《ようや》く旅から戻ったに違いない。待つ間もなく、いつぞや近江の芒《すすき》の原で一夜を共にした男が、せわしない足取で部屋にはいって来ると、恭《うやうや》しく平伏した。 「これはよくお出でなされました。いつぞやは飛んだ失礼を申し上げました。聞けば娘が御無礼を申し上げたそうで、どうぞおゆるしを願います。たしか次郎信親さまと仰せられるそうでございますな。よくお訪ね下さいました。」  話の間にも首をしきりに動かして、口は滑らかに動く。次郎は思わず笑い出した。 「喜仁殿、そう丁重に言われては恐縮です。私の方こそあなたの留守中にうかがって、いろいろとお世話になった。」 「何の、娘の行き届かぬところは親のわたくしからもお詫びを申し上げます。よくお訪ね下さいました。伊勢の守《かみ》さまへの献上の笛は、あの古堂で失ったものととうに諦《あきら》めておりました。いや帰って参りまして娘から見せられた時には夢かと驚きました。魂のこもった笛ゆえ、翼を生じて空を飛んで戻ったものかと疑いましたら、何とあなたさまがわざわざ御足《おみあし》をお運び下さいましたそうで、いやまったく有難うございました。今日はどうぞ御ゆるりと遊ばしませ。娘もただ今こちらに参ります。娘はあなたさまのことばかり申しておりましたよ。」  次郎は気まりの悪そうな顔をしたが、相手にはそれが通じそうにない。やがて高坏《たかつき》や提子《ひさげ》が運ばれたところに、楓が美しく着飾って姿を見せた。 「清水へ願を掛けに参られただけの功徳《くどく》がありましたね。」  次郎は楓に酌をしてもらいながら、そう言った。楓が返事をする代りに、父親の方がすぐに引取った。 「それがあなたさま、父親の身が気懸りで願を掛けに参ったのではございませんよ。いや勿論《もちろん》、そのこともございましたでしょう、しかし娘の本心は別でございますよ——。」 「別と申されると。」 「お父さま、」と楓が烈しく遮《さえぎ》った。  謎《なぞ》のような言い廻しに、次郎は笛師の笑みくずれた顔を見、またその娘の恥じらった様子を見たが、言葉の意味はよく分らなかった。分らないままに楓が顔を赧《あか》らめて袖で隠すのを見て、自分も顔が火照《ほて》るように覚えた。笛師の笑い声を打消すように、急いで言葉を続けた。 「喜仁殿のように不意に消えてなくなれば、誰だって気に懸るのが当然です。一体あの古堂ではどうしたのですか。あくる朝になって、私と陰陽師とが目を覚ました時にはあなたはもういなかった。」  笛師は大きく頷き、次第に酔が廻ったらしくて、両手を揉《も》んだり捏《こ》ねまわしたりしながら思い出話を始めた。 「そのことでございますよ。いや恐ろしゅうございましたな。薄気味の悪い古堂で、夜は更ける、雨はしょぼ降る、そこへ念仏の一行が、火を持ちかねを叩いて近づいて来るのを見れば、二十人程の者が真夜中に葬式をするのでございました。さてその葬式が済んで、一行が帰る、前のように人気《ひとけ》もなくなる。一面の芒の原で今し埋めたばかりの塚穴だけが夜の闇にこんもりと堆《うずたか》い、それを古堂の入口の柱のところであなたさまが睨《にら》んでおいでになる。わたくしめもおっかなびっくり、お側にしがみついて見ておりましたな。」 「如何《いか》にも、」と次郎は頷いた。 「そうすると塚穴が動き出し、そこから裸の男が一人、光り物のように宙に浮き出して、踊り上ってこちらに向けて走って参りました。」  次郎もその時のことを思い出して思わず拳《こぶし》を握り締めた。楓は倚《よ》り添って、身を顫わせながら俯いている。 「さてそれからでございます。あなたさまは、こやつ、と叫んで古堂の階《きざはし》を駆け下りて行かれる、わたくしはもう恐ろしゅうて恐ろしゅうて、とても見ている段ではございません、その場に小さくなり、頭を抱えて蹲《うずくま》りながら、阿弥陀《あみだ》さまの名号《みようごう》を一心に唱えておりました。と、わっ、という叫び声がわたくしの真うしろでいたしました。」 「何、真うしろ、」と次郎が訊き返した。 「さようで。わたくしははっと眼を開きました。前は暗闇、あなたさまが駆けて行かれたあたりもただ黒々としております。声がしたのは真うしろ、堂のなかでございます。堂のなかにはかの怪しい法師が寝ている筈、これはどうしたことかとぶるぶる顫えているうちに、あなたさまがお戻りになりました。怪しいものは打取った、もう恐れるには及ばぬ、——そう申されました。あなたさまは堂の中におはいりになる、わたくしもその後からはいる、法師は眠っている様子、あなたさまもおやすみになる、しかしわたくしは寝つかれませぬ。先程の叫び声はたしかにこの法師の発したものに違いありませぬ。それが時々、寝たまま唸《うな》り声を出しております。何という恐ろしい奴か、これはうかうかしてはおられぬ、朝になればまたどのような怪しい目に会わされるやも知れぬ、そう思いましたので夜の白むまで一心に仏の名号を唱え、白々明《しらじらあ》けには這《は》うようにして逃げ出しました。いやもう芒の原をひた走りに走って逃げました。」 「そうか。やはりあの陰陽師の法術だったのか。」  次郎はひとり頷いた。楓はその膝に縋《すが》るように聞いていたが、父の言葉が途切れたので慌てて身を引いた。 「ではあの陰陽師めが幻を現《げん》じたのでございますな。」 「法術を使ったものであろう。恐ろしい術だ。」 「あいつめが笛を取るために企んだことかと思っておりました。それで、あなたさまに打たれた痕《あと》が傷にでもなっておりましたか。」 「そのようなものはなかったようだ。しかしあの男は私のことを怨んでいるかもしれぬ。別れ際に、また会うと申していたから。」  笛師の喜仁は楓に命じて更に酒を運ばせた。次郎も気を取り直して盃を重ねた。少しの間も口を噤んでいることの出来ぬ笛師は、それからまた旅の見聞などを次々に物語った。  長居をするつもりのなかった次郎が、日の傾いたのに驚いて立ち上りかけると、笛師は暫《しばら》く待つように言って、楓に合図をした。楓は座敷を出て行ったが、やがて綾絹に包んだ品を両手に捧げ持って帰って来た。 「信親さま、これをあなたさまに差上げましょう。」  笛師はおかしなほど真面目な顔つきになってそう言った。 「これは私のお返ししたいつぞやの笛ではないか、」と訝《いぶか》しげに次郎は訊き返した。 「如何にも。確かにお返し頂きました。しかしあなたさまがこれに御執心のことは、古堂に泊り合せた時から分っております。伊勢の守さまへ献上のつもりでおりましたが、不慮のことで紛失したと申して、あと半年ほどの御猶予を願って参りました。よってそちらの方は、また別に作りましょう。この笛はあなたさまに差上げます。」 「このような貴重な品を頂いても、身分不相応というものです。」  両手に笛を受け取ったまま、次郎はしきりに辞退した。 「娘の楓がぜひそのようにしろと申しました。もとよりわたくしにも異存はありませぬ。娘の心持もお汲《く》み取りの上、どうかお収め下さい。」  この笛が名器であることは、今|迄《まで》に二度ほど、——一度は古堂で、二度目はこの家で楓のために吹いて聞かせたことがあるので、充分に承知していた。思わず口許が綻びかけるのを、すぐ横から楓が嬉しげに見詰めている。次郎は気持よく笛師に向って頭を下げた。     三  その夜、次郎は貰った笛をためつすがめつしていた。次郎が住んでいる壺屋はさして広くはないが、従者等は仕切った障子《そうじ》の向うにいるから、主人のする様を見ている者はいない。それにもう寝ている筈である。紙燭《しそく》の明りで笛の作りを見ているうちに、どうしても口にしめしてみたくなった。  あたりは闃寂《げきせき》として、ただ隣から従者等の鼾《いびき》が聞えて来るばかり。やがて次郎は手にした笛をいつのまにか口に運んでいた。軽《かろ》やかな息が触れたかと思うと、涼しい音色がそこに湧《わ》き上り、ひと度|水脈《みお》から噴き出した泉のように最早《もはや》とどまることを知らない。直に我を忘れてしまった。それ迄は笛師のもてなしのことや、楓のやさしい微笑のことなどを思い出して、感謝の気持で心が充されていたのに、笛を吹き始めると、心の中はからりと吹き通って、ただ笛の音のなかに自分の心が包まれ、涵《ひた》され、沈んで行くように感じた。  その頃、姫はまだ眠らずにいて、何処からともなく聞えて来る笛の音を聞いた。いつぞや太秦の屋形でお会いした殿がたが、もしやわたしに聞かせようとしてお吹きになっているのではないか、と心が踊ったが、笛の音は道を歩く人が吹いているものとは思われない。同じ場所で高くなり低くなりして響いている。 「辨、辨。」  几帳《きちよう》の蔭《かげ》に寝ている侍女を呼んでみた。 「はい、お姫さま。」  すぐに返事が返って来たところを見ると、辨もまだ起きていたらしい。 「あの笛の音が聞えて。」 「はい。珍しい上手でございますね。今時分どなたがお吹きでしょうか。」 「いい音色だこと。」  暫く間があって辨が言った。 「どうやらお屋敷うちのようでございます。それほど遠くとは思われませぬ。」  姫は答えなかった。辨は笛の音に聞き惚《ほ》れていたが、姫がかすかに溜息《ためいき》を吐《つ》いているのを聞き落しはしなかった。   百鬼夜行     一  同じ夜のことである。  西の大宮大路を馬に乗って北へのぼって行く若い貴公子があった。馬の口取りの舎人《とねり》が一人と、手に松明《たいまつ》を持った小舎人童《こどねりわらわ》が一人、供についているのはただそれだけで、舎人はしきりと馬の足を急がせるが、馬は首を垂れてゆるゆると進んで行く。それでも、やがて二条大路との角に出たので、その辻《つじ》を右へ曲った。  月もないし、星の瞬《またた》きも見えない暗澹《あんたん》とした空模様で、今にも冷たいものが落ちて来そうである。左手には大内裏《だいだいり》の高い塀《へい》がどこまでも続き、右手は穀倉院《こくそういん》の敷地で大きな倉が立ち並ぶだけだから、人通りというものは絶えてない。広い大路の凍《い》てついた土の上を、馬の蹄《ひづめ》の音と、二人の供の者の跫音《あしおと》だけが薄気味の悪い響を立てて、誰かがあとから追い掛けて来るように聞える。まるでこの一つだけの松明が、地獄の暗闇の中に次第に吸い込まれて行くようである。しかし貴公子は睡そうに馬の背に揺られていて、この夜更けに帰るのを格別気にしているようでもない。それに此所《ここ》まで来れば屋敷はそう遠くはないし、夜歩きには馴れていた。  貴公子は時の左大臣の末の子で、二条の北にある父の屋敷の中に住んでいた。蔵人《くろうど》の少将に任ぜられていたが、年も若く、姿もうるわしかったので、とかく女たちに愛されたし、従ってまた好色の念が強かった。屋敷の中ではまだ幼名の安麻呂《やすまろ》という名で呼ばれていたが、もうひとかどの若者で、夜になると父や母や乳母《めのと》などの監視の眼を盗んで、あちらこちらの女の許《もと》に通った。その夜は堀河に住む或る女のところを訪ね、引き留められるのをようよう振り切るようにして帰路についたその途中のことである。思い出し笑いのようなものを口の端に浮べながら、片方の手に手綱を握り、もう片方の手を口に当てて息を吹き掛けて暖めたりしていると、ふと笛の音が聞えたように思った。  空耳《そらみみ》かなと顔を起して夜空を見上げた。大内裏の美福門《びふくもん》の厳しく鎖《とざ》された門の前は先程通り過ぎたから、大路の右手は今や神泉苑《しんせんえん》である。塀の向うには鬱蒼《うつそう》と樹々が茂っている筈で、夜目には見えないものの、風に吹かれて数知れない枝や幹や葉が一斉に揺れざわめく音が物凄《ものすご》い。風が少し収ると梟《ふくろう》が呼び掛けるように啼《な》く。その風の音を伝《つたわ》るようにして、か細い笛の響が確かに耳に聞えて来る。その音色はどうも神泉苑の中から起るようだが、今時分、あやめも見えぬ庭園の中で笛を吹くような物好きがいるとも思えない。すると神泉苑よりももっと先の方ということになるだろう。安麻呂は訝しげに耳を傾けた。と、その気配を察したのか、馬の口取りの舎人が足を停め、乗っている馬も立ち止った。そして童《わらわ》がやや甲高い声で呼び掛けた。 「若様、向うから誰か来ます。」  安麻呂は鞍《くら》の上で身を引き締めた。供の者が気にしたのは笛の音ではなかった。大路の遥《はる》か向うにちらちらと赤い点のような焔《ほのお》が浮んでそれがかすかながら動いている。確かに行列が次第にこちらに向って近づいて来るらしい。 「これは困ったな。」 「こんなに遅いのに、どなたさまの行列でしょうか。かなりの人数のようです。」  それまでは睡そうに首を垂れて歩いていた筈の童が、すっかり目の覚めた生き生きした声で叫んだ。 「こんなところで、めったに人に出会ったら大変だ。どこぞに身を隠すところはないか。」  少し語尾が顫えている。何しろ内緒で屋敷を抜け出しているのだから、身分のある人に出会って見あらわされては父の左大臣に筒抜けになって、以後禁足を命じられることは請合いである。 「そうですね、」と童は賢《さか》しげな声で馬上の若殿を見上げた。「往きがけに見たところでは、神泉苑の北門が明いていたようでした。あの門の中にはいって行列をやり過したら如何でしょうか。北門はすぐそこです。」 「それはいいことに気がついた。暫くの間隠れるとしよう。」  舎人に命じて馬の足を早めさせた。神泉苑の土塀がすぐに尽きて、覆いかぶさるように門がある。童の言った通り、片側の扉が開いている。その間にも向うから来る行列は更に近づいて、松明の火が一つ一つ数えられる程になった。  舎人が馬の鼻面を叩いて、北門の中へと乗り入れた。安麻呂が馬から下りている間に、童は片方の手に松明を持ち、もう片方の手で扉をしめようとする。それは軋《きし》みながら動いたが、子供の力ではぴったりと締るまでには至らない。 「早く火を消せ。」  安麻呂がそう命じると、童は松明の先を地面に打ちつけた。くすぶるような臭いが強くなり、余燼《よじん》も消えるとあたりは真の暗闇になった。舎人は後ろの方の柱にでも馬の手綱をつないだらしいが、馬もろともに掻き消えてしまったようである。童もどこにいるのか見当もつかない。  その時また安麻呂の耳に笛の音が聞えて来た。黒暗々《こくあんあん》の闇の中に、それは咽《むせ》ぶように、訴えるように、かすかに流れて来る。何だかそれを聞いていると、先程別れて来た堀河の女の面影が浮んだ。とすぐにその面影が溶けるように消えて行き、別の若い女の朧《おぼろ》げな面差が揺らめいた。不意にその女に、——太秦の荒れた屋形でただ一度しか忍び逢ったことのないその女に、是が非でも逢いたくてたまらない気持になった。  しかし安麻呂が放心していたのは、ごく僅かの間にすぎない。大路を近づく行列の跫音が次第にはっきりして来ると、話声のようなものさえ聞える。一体この夜更けに誰が通るものかと、思わず好奇心が起った。怖いという気持は殆どなかった。大路の上で行列にまともに出会うのを恐れていたので、こうして門のうしろに隠れてしまえばもう安全である。身が安全だとなると、覗いてみたくなるのは人の常というものだ。そこで扉の充分に締っていない迫間《はざま》から、道の方を眺めてみた。  最初眼に映ったのは、暗闇に馴れた眼には驚くほど明るい松明の群である。手に手に掲げた松明の焔が風に靡《なび》いている。そしてその松明を手にしているのは、——そこで息を呑み、思わず我が眼を疑った。人ではない。身の丈はすべて一丈ほどもある異形《いぎよう》の者たちで、漆を塗ったような黒い顔に、髪がおどろに乱れ、或る者はその髪が宙に浮くように逆立っている。こちら向きのを見れば、額に角のようなものが生え、一つだけの目玉が爛々と輝いている。腥《なまぐさ》い臭いがこちらに吹きつけて来る。 「鬼だ。」  声が出ると共に、総身から力が抜けて、扉の内側に足が蹇《な》えたように蹲《うずくま》った。眼を閉じる前に見た行列のそれぞれの鬼の姿が、まざまざと脳裏に残っている。中には牛や馬の頭をした奴もあったし、頭髪が焔のように赤く燃えている奴もあった。大きな口から牙《きば》のようなものが飛び出して、それが松明の火にきらきら光っている奴もあった。早く一行が通り過ぎればよい、と顫えながら阿弥陀仏を念じてしゃがみ込んでいると、何と、一行はどうやら大路の途中で立ち止った模様である。跫音が歇《や》んだかと思ううちに、轟《とどろ》くような大声がした。 「このあたりに人間がいるらしいぞ、どうも人間くさい臭いがする。誰ぞ見届けて引捉えて参れ。」  ぎょっとなって、思わず両手で頭を抱えた。今はもうこれ迄だ、もう命はない、と観念した。父母の教えに背いて夜歩きをした自分が後悔される。今にも頸筋《くびすじ》を掴《つか》まれるかと身をわななかせていると、走り寄って来た跫音がふと止り、途中からもとへ戻って行った様子。やがて先程の声がした。 「どうして引捉えて来ないのだ。」 「それがどうも掴まりません。」 「そんな筈があるものか。北門の蔭に隠れているわ。さっさと行って掴まえて来い。」  安麻呂はぶるぶる顫えながら、今度こそ間違いなく掴み取られるものと固く眼をつぶった。しかし跫音はやはり途中で止って、もとへ戻って行ったらしい。 「どうした、掴まえたか。」 「どうしても掴まりません。」 「怪《け》しからんことを申すな。それなら己《おれ》が行って引捉えて来るわ。」  先程から下知《げじ》していた鬼が、今度は自分でやって来る気になった。荒々しい跫音が一歩また一歩近づいて来た。その跫音が立ち止ったかと思うと、鋭い鬼の爪がむんずとばかり頸筋を掴んだ。  安麻呂はその一瞬に一期《いちご》の時を知った。笛の音が遠くの方で、弥陀の来迎《らいごう》をしらせるように響いていたのを覚えている。その時面影に浮んだのは、父でもなく母でもない、先ほど別れて来た堀河の女でも、日頃親しんでいる女房たちでもない、ただ一度しか逢ったことのないうら若い姫の、その面影ばかりが、異様に鮮かに網膜に浮んだ。己はただ遊びのつもりであの姫に逢いに行ったが、その実は命を懸けてまで姫のことを想っていたのだな、と初めて気がついた。  しかし口中に溜《たま》った苦い唾を呑み込みも敢えず、鬼の吐く腥《なまぐさ》い息が顔にかかり、眼の前が燃え上るように明るくなる、——と思うまもなく一面の闇が訪れて、安麻呂の身体《からだ》は奈落の底へと投げ込まれた。ああ己は罪業《ざいごう》が深くて闇冥処《あんみようしよ》に堕《おと》されるのだ、と気を喪《うしな》う前に考えた。     二  同じ夜のことである。  二条大路を西に向って歩いて行く奇妙な風体《ふうてい》の男たちがあった。先頭の男と殿《しんがり》の男とが松明を掲げていたが、松明の光も方一間を照すにすぎなかったから、闇の中を動いて行く一行の人数は定かには数えられないが、少くとも十人は越えているらしい。おおかたは夜の闇に紛れ込むような黒い水干を着て、脛巾《はばき》をつけ、藁沓《わろうず》を履いていた。一人一人がどれも太刀を帯びていたり、|胡※[#「竹/祿」、unicode7c36]《やなぐい》に弓を持っていたり、または大きな袋を背負っていたりする。一行の間には一二頭の馬が引かれているらしく、人を乗せる代りに長持のようなものを運んでいる。武器は物々しいがこの一行は侍ではなく、身分の低い下人の群のようである。 「今夜のように大っぴらに歩けるのは有難い。これもみな頭《かしら》の知慧《ちえ》から出たことだ。何と今夜の仕事の易々《やすやす》と行ったことよ。」  凄《すさま》じい髭面《ひげづら》の男が傍若無人の大声を出した。その後ろから、これは一人|法体《ほつたい》をした別の男が声を掛けた。 「一体その知慧というのは何だ。このように明りなどをともして、都大路をのさのさと歩いてもいいのか。」 「お主《ぬし》みたいな奴には、今夜という夜の有難味が分るまい。お主は今日が何の日だか承知しているか。」 「さてと——。」 「知るまいな。今日はそれ、臘月の辰《たつ》の日よ、と言っても通じないか。つまり今日は百鬼夜行日《ひやつきやぎようにち》よ。」 「南無三宝、何たる事だ。固い物忌《ものいみ》の日に夜歩きをして鬼に出会ったらどうする気だ。」  本来は臆病な男なのか、思わず顔色が蒼《あお》ざめた様子だが、髭の男はからからと笑って言下に相手を罵倒《ばとう》した。 「それよ、胆《きも》の小さいお主みたいな男がいるから、頭もあらかじめ今夜が百鬼夜行日だとは仰せにならなんだ。だからみなみな、首尾よく目指す屋敷に討ち入って、取り放題に獲物を取った。どこの家も、夜討と知っても今夜ばかりはひっそりと閉じ籠《こも》っておるわ。誰が酔興に、臘月の辰の日と知って表になぞ出るものか。検非違使庁《けびいしのちよう》の役人どもも、鬼が怖くて閨《ねや》で顫えているわい。」 「しかしな、もしや我々が鬼に出会ったとしたら——。」 「馬鹿馬鹿しい。お主ほどの男でも鬼は怖いと見える。屈強の我々一行に出会ったら、鬼どもの方で退散すること必定《ひつじよう》。何と頭、そういうものでは御座らぬか。」  髭面の男は、前を行く男のがっしりとした背中に向けて呼び掛けた。 「さよう。鬼が怖くては盗賊はしおおせまい。」  その男が主領であろう。直垂《ひたたれ》の袴《はかま》に、指貫《さしぬき》の裾の紐《ひも》を高くくくり上げて、胴には腹巻、両手には籠手《こて》をつけている。頭には黒衣《こくい》の頭巾《ずきん》のようなものをかぶっているから、顔かたちは分らない。ただ振り向く時に松明の火にその眼が鋭くきらりと光った。 「小頭《こがしら》は唯の一人で鬼に会うても、やはり恐れはせぬか。」  やや侮るように主領はそう附け足した。小頭と呼ばれた髭の男は、当然勢いのいい返事をするかと思いのほか、少々尻すぼみの声で訊き直した。 「唯の一人で御座るか。」 「さよう。」 「されば、唯の一人では少々|心許《こころもと》ない。」  左右にいた男どもが忍び笑いを洩らしたので、憤然と言い返した。 「お前らはそう笑うが、この己が百騎千騎でも後《おく》れを取ると思うか。但し相手が鬼神では、正直のところあまり出会いとうはない。都大路のこの夜更けに、唯の一人で百鬼夜行に会うても動ぜぬのは、大頭《おおがしら》一人で御座ろうよ。何と海念坊、お主はそうは思わぬか。」  先程は恐れをなしていた法体の男は、そう問い掛けられて相槌《あいづち》を打った。 「大頭ならば、間違いなく鬼をもひしごう。ただ小頭がそれほど胆が小さいとは思わなんだ。今しがたの高言はどこへ行ったやら。」 「何の胆が小さいわけではない。鬼神は虫が好かぬ故、なるべくならば会いたくないだけのことよ。いざ出会えば取りひしいでくれるわ。」 「もうよい、」と主領が鋭くたしなめた。「お前等の働きは分っている。海念坊も今夜は御苦労であった。冷泉院《れいぜいいん》の角でみなみな散るといたそう。かねての手筈の如く散れ。」  一行は足を早めて大路を進んだが、その時、左手の側から笛の音が虚空を掠《かす》めるように響いて来た。すぐさま気がついたのは主領で、鋭い眼指《まなざし》をその方向に投げたが、暗々たる夜の中では笛の音の出どころを確かめる術《すべ》もない。配下の者どもは気のついた様子も見せずに、黙々と歩いて行く。百鬼夜行の話などを聞かされたあとでは、この笛の音は無気味といえばまさに無気味で、吹くのは人か鬼かと疑われる。ただ主領ひとりは、興ありげにそのいみじい音色に耳を傾けていた。  やがて二条と大宮大路との四つ角に出た。主領が足を停《とど》めると自《おのずか》ら一行はその周囲を取り囲んだ。 「今夜の働きは、みなみな格別であった。次の手配は小頭からいずれ申し渡す。何分にも——。」  大頭がそこまで言った時に、鋭い叫びをあげた者がいる。 「西から誰ぞ来る。火が見えます。」  一同は素早くその方向に視線を投げ掛けた。確かに二条の大路をこちらに向けて火が一つ動いて来る。それはまるで人魂のようにふわふわと闇の中に浮いている。 「これは容易ならぬこと。頭、すぐにも散りますか。」  髭の男は下知を待って、主領の顔を窺《うかが》った。しかし頭巾に隠されたその表情は何とも知れない。周囲にいる男どもは内心では早くも浮足立って、一声あれば忽《たちま》ちに逃げ出しそうな気配である。風に吹かれる草のようにざわめいている。  主領は落ちついた声音《こわね》で、一同の者にゆっくりと言葉を掛けた。 「いやいや、ここで後ろを見せるわけにはいかぬ。何と手前らのような無法者が、闇夜に燈《あかし》の一つに出会って逃げたとあっては、後々まで臆病風に吹かれることになろう。いくら盗賊が、お上《かみ》の眼を掠めて上手に隠れるのが商売だとは言っても、ここでめったな真似はさせられぬ。まあよく考えてみよ、今夜は臘月の辰の日で百鬼夜行日だが、それを知っても知らいでも、この夜更けに、松明をともして大路を行く者があれば、先方でも鬼が出はせぬかと顫えているわ。その恐ろしさは手前どもの比ではない。こちらは総勢十五名、血腥い奴等ばかりで、今夜の夜討でも非道の限りを尽したことだ。百鬼夜行とは即ち我等のことだ、何の恐れることがあろうか。ここは一つ、どんな虚仮《こけ》が夜歩きしているやら、確かめてからかってやるのも面白かろう。小頭、その方の考えはどうだ、申してみよ。」 「なるほど、まこと仰せの通りで御座る。」  小頭は髭をふるわせて頷いたが、内心では酔興なことだと主領の処置を怨《えん》じていないわけでもなかった。何もわざわざ危い目を見るにも及ぶまい。しかしこの主領は、一度言い出せば決して後には引かなかったし、その豪胆さは配下の者の遠く及ぶところではなかった。 「ではみなみな、今まで通り歩いて行け。」  大宮の辻から、一行は尚も西に向って歩き出した。笛の音は、一行のあとを追うかのように、風に乗って嫋々《じようじよう》と響いて来る。主領の他は、その音色に聴き惚れるほどの余裕もなく、太刀の柄を握りしめて眼をくばっている。と、向うに見えていた松明の火が、横に流れたかと思うまにふっと消えた。 「見えなくなり申した。」  一人の男がそう注意したが、主領は返事もせずに黙って歩き続ける。やがて主領の右の手が上り、それと共に一行の足はぴたりと止った。右手は大内裏、左手は神泉苑で、それでなくても物寂しいあたりである。広い大路を風が吹き抜けて、立ち止ると寒気が一層厳しい。 「よし、このあたりだな。誰ぞ行って見届けて参れ。誰がよかろうか、——さよう、海念坊、お主が行け。」  法体の男はびくっと顫えたようだが、臆病声は出さなかった。 「畏《かしこま》った。」  松明を受け取り、それを頭上に掲げると、群を離れて神泉苑の土塀に沿って走った。やがて門がある。その門の扉は細く開いていて、ちょうど人一人通り抜けられる位である。その門に近づくにつれて、海念坊の身体が小刻みに顫え出した。門の屋根が頭上に覆いかぶさるようで、その上に鬼が隠れて自分の来るのを待っているのではあるまいか。ただの一口に自分の身体を呑み込もうとするのではあるまいか。  海念坊はくるりと向きを変えて、もとの方へ戻った。 「どうした。」  主領が咎《とが》めるような冷たい声で訊いた。 「どうも見当りませぬ。誰もおりませぬ。」 「馬鹿なことを申すな。慌てて北門の蔭に隠れたにきまっておる。よく探すことだ。小頭、その方行って、引捉えて参れ。」 「畏った。」  小頭は海念坊から松明を受け取ると、まっしぐらに門を目指して駆けつけた。しかし細目に開いた扉の前で、これまた気が臆した。明いた扉のすぐ蔭に、鬼が構えているかもしれぬ。この夜更けに、一人歩きをする人間がいようとは思われないから、これは鬼にきまった。相手が人間でさえあれば、如何に武勇に秀でた侍でも引けは取らぬが、鬼が相手では怖《お》じ恐れぬ方がどうかしている。それでも小頭は、勇を鼓して門の扉の中に半歩だけ身を乗り入れた。松明を門の内部に差し入れて、あたりを窺った。しかし一陣の風が松明の火を横ざまに吹き流し、何やら物《もの》の怪《け》のような姿が自分を取り囲んでいる気配、慌てて眼をそらし足をひねって、忽ち扉の外へ身をしりぞけた。急いで一行の待っている大路の中ほどへと走り帰った。 「どうだ、掴まえたか。」 「いやそれがどうも見当りませぬ。消え失せた模様で御座る。」 「たわけたことを。人間が消え失せる筈はない。それなら己が行って引捉えて来る。お前等はここで待っておれ。」  主領は松明を手に取ると、格別急ぎもせずに北門を目指して歩き出した。背の高い堂々たる男である。口のほとりに配下の者どもを嘲《あざけ》る薄笑《うすらわら》いを浮べている。門の開いている隙から、恐れ気もなく中へ一歩踏み込んだ。松明を高く掲げてあたりの様子を見まわした。  すぐ右手に蹲って顔を隠しているのは、まだ年の若そうな身分ありげな男である。左手の奥の門の柱に馬がつながれ、その足許に舎人が一人、向うむきに身体を丸め、その横には小舎人童がこれも両手で頭を覆って小さくなっている。その他には人の姿はない。これはどこぞの貴族の若殿が、女の許に忍んで行ったその帰りだとは、すぐに知れた。恐らくはこちらを鬼と思って竦《すく》んでいるのであろう。主領はすたすたと側へ寄ると、薫物《たきもの》の薫じている高価らしい衣の襟《えり》をむずと掴んだ。ずるずると引き寄せると、明りをつきつけて固く眼を閉じたまま戦《おのの》いているその顔を見た。そして投げ捨てるように襟首を離すと、もうあとをも見ずにすたすたと一同の待っている方に戻って行った。 「如何で御座ったか。」  小頭が待ち兼ねたようにだみ声で尋ねた。 「うむ、鬼ではなかった。」 「それで如何なされました。」 「存じておる者であった。」  主領は声をひそめてそう答えると、あとは大声で下知した。 「手筈通りに散り、他日の指図を待て。怪しまれぬよう充分に注意せよ。よし、散れ。」  一同の者は主領に向って黙礼した。松明の火が消されて闇になると、一人また一人と、或いは東に、或いは西に走り去った。一瞬の後には大路の上にはもう人一人いず、寒い風が吹き渡った。     三  しかし盗賊等は夢にも気づかなかったが、二条の大路には、もう一人、この有様を初めから終りまでつぶさに眺めている者があった。美福門の柱の蔭に、先程からひっそりと立っていた一人の法師で、暗闇の中に溶け込んでしまったかのように、誰の眼にもとまらなかった。この冬の夜寒に、みすぼらしい程の粗末な法衣を着ているだけだったが、格別寒そうな顔もしていない。笛の音はまだ嫋々と響いていて、法師はその方角をじっと見詰めていた。 「さてさて世の中というのは面白いものだ。人かと思えば鬼、鬼かと思えば人、女の許に通う貴人にしても、他人の財物を掠める偸盗《ちゆうとう》にしても、すべてものの影を見て踊っておるわ。世上のこと幻と観ずれば真《まこと》の形も見えようが、どれが現《うつつ》やらどれが幻やら、お前どものような節穴《ふしあな》から覗いたのでは何も見えまい。あの笛を吹いている男も、己《おの》れの笛が幻妙の業《わざ》をし出来《でか》して、聞く者の心に幻を生ぜしめる力があるとはつゆ知らぬと見える。あれは心の素直な、自ら恃《たの》むところのある男だが、ああして憑《つ》かれたように笛を吹くところを見れば、消しがたい煩悩《ぼんのう》に捉えられて、無常の道を歩むことであろう。それもよかろう。踊る者は踊る。倒れる者は倒れる。己れはそうではない、己れは人を踊らせてみせる。笛の音を聞かせることも要らぬ、説教を聞かせることも要らぬ。多年の修業により習い覚えたところを念じて、心眼を以《もつ》て見、心耳を以て聴き、現前《げんぜん》するものを仮象《かしよう》となし、仮象のものを現前させる、この法術によって、人という人を操り、心という心を偸《ぬす》んでみせよう。都は面白いところだ。百鬼夜行するところの末世と見える。百鬼は心に住むとは知らぬ者どもが、恐れ戦いて人間の業《ごう》を刻んでおる。己れは人を救いはせぬ。仏法は最早我が信ずるところではない。己れは身|自《みずか》らが地獄へ落ちてもよい、その代り、お前どもをみなみな踊らせてやる、この世が幻にすぎぬことをようく見せてやるわ。」  夜風が神泉苑の樹々の梢《こずえ》を一斉に吹き払って過ぎた。そして法師の姿は美福門から見えなくなり、笛の音もいつのまにか聞えなくなっていた。   雪     一  深夜、百鬼夜行におびやかされて気を喪《うしな》った安麻呂は、自分がどうやって二条の北にある父の屋敷にまで辿《たど》り着いたのか、まるで覚えていなかった。しかしとにかく神泉苑の北門の蔭《かげ》で、まず気を取り直したのが安麻呂だったことは確かである。というのは馬の口取りの舎人《とねり》も、小舎人童《ことねりわらべ》も、二人ともまだ気を喪ったまま屈《かが》み込むように地面に倒れていて、安麻呂がその名を呼びながら、ようよう手探りで探し当てて、正気に戻らせたからである。いや、それよりも初めから正気のままでいたのは、人間ではなくて馬だけだったのかもしれない。安麻呂を我に復《かえ》らせたものは、手綱を柱につながれて、寒さに足を踏み鳴らしていた馬の蹄《ひづめ》の音だったからである。  しかし二人の供の者が、顫《ふる》えながらも気を取り直すと、今度は安麻呂が、安心したせいかまたぐったりとなってしまった。何でもやっとのことで馬の背に乗せられたことだけは覚えている。しかしそのあとのことはもう何も分らない。気がついた時には暖かい衣《きぬ》を着せられて、畳の上に寝かされていた。すぐ近くに誰かが控えていた。 「若様、お気がつかれましたか。有難や、一体どうなされました。」 「此所《ここ》はどこだ。」 「何をおっしゃいます。若様の曹司《ぞうし》でございますよ。お帰りが遅いので大層心配いたしました。もしやお殿さまにでも知れたら、この乳母が何と言ってお咎《とが》めを受けるか分りません。」 「此所は地獄ではないのか。」 「気を確かにお持ち下さいませ。二条のお屋敷の中ではございませんか。お召物もすっかり汚れておりましたが、とにかくそのままお寝かせいたしました。小者どもも、一体どうしたのやら、為体《えたい》の知れぬことばかり申しております。」  安麻呂は血走った眼できょろきょろと自分の部屋を見廻したが、乳母の顔さえもまるで幻を見るように見ている。そして一言、口の中で呟《つぶや》いた。 「何とおっしゃいました。」 「鬼、……鬼に会った。」  苦しげに両手で胸のあたりを掻《か》きむしるようにしているから、乳母は驚いてその額に触ってみた。ひどい熱である。無慚《むざん》に潰《つぶ》れた烏帽子《えぼし》といい、潤んだ眼といい、蒼《あお》ざめた顔の色といい、ただごとではない。乳母はうろたえて、眠りこけている侍女たちを起しに行った。額を冷したり、手足を摩《さす》ったりしたが格別の験《げん》も見えない。こうなればもう自分の一存というわけにもいかず、医師《くすし》を招《よ》ぶか祈祷《きとう》の僧を招ぶか、とにかく御両親に知らせないでは済まされない。夜も明け切らない寅《とら》の刻だというのに、泣声をあげて注進に及んだ。屋敷の中は上を下への騒ぎとなった。  安麻呂の口から僅かに知り得たのは、神泉苑の前で百鬼夜行に出会ったということだけである。そのような危い目にあいながら、どうして無事に命ながらえて帰ることが出来たのか、父の左大臣にも納得がいかない。およそ人智の及ばぬ不可思議としか言いようがない。その時、安麻呂の枕許《まくらもと》にいた乳母が、はたと手を打って泣きながら説明した。 「思い出したことがございます。わたくしの兄は叡山《えいざん》の阿闍梨《あじやり》でございますが、この夏兄に会いました折に、尊勝陀羅尼《そんしようだらに》を書いてもらいました。わたくしは若様の息災をお祈りして、こっそりと御衣《おんぞ》の襟《えり》にその尊い陀羅尼を縫い込んでおきました。鬼めが若様の御|頸《くび》にまで手を掛けながら、恐れて逃げ去ったというのも、きっと尊勝|真言《しんごん》の霊験《れいげん》のためでございましょう。有難いことでございます。」  安麻呂は高熱に浮かされて眠っているばかりだったが、それを取り巻く人たちは、いずれも乳母の言葉を承認した。仏の功徳の他に、これほどの危難を避け得る手立《てだて》があるとは思われなかった。  左大臣も北の方も手を合せて仏を拝んだ。しかし大事な若君は、夜が明けても昏々《こんこん》と眠り続けているばかりで、家族の者たちの愁眉《しゆうび》はいっかな晴れなかった。     二  次郎信親が、壺屋の中に籠《こも》って憑《つ》かれたように笛を吹いていたその夜から、日は早く過ぎてやがて臘月《ろうげつ》も尽き、新しい年を迎えた。中納言は暮から睦月《むつき》に掛けて、内裏に出仕したり、客を招いたり、また招かれて出掛けて行ったりすることが多くて、屋敷の中はその度ごとにざわめいたが、武士どもが警護に呼び出されて供につく時にも、次郎だけは呼び出されることはなかった。中納言の縁つづきだということが知れてから、他の武士からは敬して遠ざけられるようなところがあったし、次郎も自分の方から進んで誰彼に近づきを求めようとは思わなかった。ただ家司《けいし》の老人からは時々使いが来て、話の相手をさせられたが、それも格別何かを教えてくれるというのではなく、中納言家の家系やしきたりなどを雑談ふうに話してくれるだけである。この老人は次郎の叔母君のことを今でもよく覚えていて、懐しそうに眼を細めながらその思い出話などをした。  次郎はやがて中納言の屋敷に於《お》ける生活を、大体呑み込むことが出来た。南面《みなみおもて》で宴が催され、管絃の響が壺屋にまで聞えて来るようなことがあれば、その席に連なることが出来ないのを残念に思いながら耳を傾けていたが、冬の寒い季節なので、管絃の催しもごく稀《まれ》にしか行われず、次郎は壺屋に閉じ籠って、家司から借りて来た書物などを読み、また姫の書いてくれた手本に従って熱心に手習いなどをすることで日を過した。墨の香りを嗅《か》ぎながら筆の痕《あと》を辿っていると、涼しげな姫の声が耳許で聞えるような気がしたし、また御簾《みす》の下から現れた白い腕が幻となって眼の前に散らついたりした。そういう時、次郎は手を休めてぼんやりと物思いに沈んだ。故郷の雪深い山々の眺めが、思い浮ぶこともあった。都に降る雪は、故郷の信濃の国のそれとは較べものにならぬほど淡々しかった。  しかしその日は、前の夜から霏々《ひひ》として雪が降り続いていたから、次郎は自分の身が京にあることを暫《しばら》くは忘れる位だった。手習いの草紙も書き写したのでそれを姫に見て頂きたい旨を、思い切って奥向きの女房に伝えた。年のいかない女童《めのわらわ》が呼びに来て、長い渡り廊下を西の対屋《たいのや》へ案内されたが、廊下の左右は見渡す限り、庭も庭の樹々も白々と雪に覆い隠され、これから連れて行かれるのが自分の知らない別世界ではないかと、ふとそんな気持がした。しかしそれはこの前と同じ廊下で、行き着いたところも同じ御簾の前である。ただこの前は、御簾の向うでは侍女たちのひそひそ声が聞えていたのに、今日はひどく静かで、辨という侍女が一人だけ側《そば》に控えているらしかった。はきはきした辨の声がすぐにした。 「そなたはこの前お姫さまを騙《だま》しましたね。」  不意に咎められて、次郎の心は騒いだ。はて何のことだろうと考えたが、格別思い当るふしもなく、真直に頭を起して御簾の正面を見詰めた。 「そのような覚えはありませぬ。お姫さまを騙すなどと、そんな大それたことを。」 「そのように白《しら》を切って。そなたはいつぞや、たしか辰《たつ》の日の晩に、夜おそく笛を吹いたでしょう。」 「それは吹きました。」  次郎はすぐさま思い出した。しかしそれがどうして姫を騙したことになるのかは分らなかった。 「それです。わたしたちもみんな騙されました。それにこの手習いも。」  女童が次郎から受け取って御簾の奥へ齎《もたら》した稽古の草紙を、辨は姫に見せながら詳《つまび》らかに点検しているらしかった。次郎は自分の清書した分を一冊に綴《と》じ合せて、姫の手本と共に渡したのだが、こんなにしげしげと調べられるとは思ってもいなかった。低い声が入り混って、その間に、この崩しはどうだとか、世尊寺様《せそんじよう》の書きざまがどうだとかいうような批評が姫と辨との間で交されていた。次郎のことはまるで放ったらかしの有様なので、とうとう声を掛けてみた。 「どういうことですか。何か私に落度でもありましたか。」  そして御簾の向うから笑い声が湧《わ》いた。辨は明るく華《はなや》かな声で笑い、それに重なってやさしい声が、恐らく袖で口を覆っているのであろう、くぐもり声で笑いを抑えながら、辨をたしなめた。 「そんなにお前のように笑っては可哀そうよ。いいえ、次郎、笑ったのはわたしたちが悪いのです。でも次郎だって。」  その言いかたは子供っぽくて、少しも咎めるようなところはなかった。そして尚も訝《いぶか》しげな顔をしている次郎に、辨がまた少し威張ったような口の利きかたで説明した。 「そなたはこの前、わたしたちが歌は詠《よ》めるか、双六《すごろく》は出来るか、などと尋ねた時に、何も知らない、何も存じないと言ったでしょう、覚えていますね。」 「確かに申しました。」 「そら、それが騙したことになるわ。そなたは笛を吹けるではありませんか。」  次郎は、何だ、そんなことかと思い、顔の筋肉の緊張をゆるめて弁解した。 「あんなのは笛が吹けるうちにはいりません。好きで嗜《たしな》むだけのことです。」 「そんなに好きなのですか。」 「田舎育ちゆえ、暇にまかせて弄《もてあそ》んでおりました。しかし都に出ては、人に聞かせるほどの笛とは思いません。」  姫の声がそれに答えた。 「次郎ほどに巧みな人は、大宮人の中にもそうそうあろうとは思われません。好きでさえあれば、物の上手になるものです。それに天性ということもありましょう。」 「それを何も出来ないなどと言ったのは、謙遜《けんそん》にも程があります。」  口惜しそうに辨が附け足し、姫がまたたしなめたらしく、辨は半分笑いながら抗議した。 「それはわたしも、何も悪気があって騙したのだとは思いません。でもお姫さま、この人は結局わたしたちを虚仮《こけ》にしたのも同じですわ。田舎者だから何も知らない、まず手習いから教えてほしいというのでしょう。お殿さまだってそうお思いになったから、お姫さまにお手本を見せてやれとおっしゃったのですわ。それなのに、この書きざま、わたしなんかよりずっと上手で。」 「辨、そんなにむきになるものではありません。お前だって上手よ。」  つまり褒められているのだということが、次郎にも分って来た。確かに次郎は自分でもそれほど見苦しい字を書くとは思っていなかった。故郷にいた時分に、兄の太郎保親に文弱だとからかわれながらも、せっせと字を覚え字を写した。しかし父の書いてくれる手本には及ぶべくもなかったし、都から届いた叔母君の消息文は(父はそれらをすべて手函《てばこ》の中に大事に保存していた)やはり手の届かぬほどの見事な筆跡だった。次郎は謙遜であることを美徳として、或いは方便として、用いたのではなかった。真実、自分の書くものはまだ至らないのだと思っていた。しかしそれをわざとらしくなく説明することは難しかった。 「これだけ書ければ、何も手習いをするほどのことはありません。わたしの字とどこか似ている書きざまですわね。」 「姫の御母上のお書きになったものを、郷里《くに》にいた頃習ったことがありますから。」 「そうなの。」姫は暫く考えているらしかった。「では、信濃の、次郎の住んでいた屋形には、まだわたしのお母さまの書いたものが残っているのね。」 「ございます。姫の御母上は、私の父のところへ消息文などに添えて、経文や歌や物語などを写したものを送って下さいました。父と叔母君とは仲のよい同胞《きようだい》でした。」 「わたしはそれを見たい。」  姫の声にはしみじみ母を懐しがる響があった。 「今度|便《びん》があれば取り寄せましょう。」  姫が頷《うなず》いているらしい気配がした。そして控え目ながら、辨が傍《かたわ》らから口を出した。 「この人がお姫さまと血続きなことをつい忘れておりました。それならわたしなどよりも上手なのは当然かもしれませんわ。でも笛の方はどうなのでしょう、そなたはまさか笛も叔母君さまに教わったと言うのではないでしょうね。」 「叔母君は私がまだ子供の頃に都へ上《のぼ》られましたから、習える筈もありません。」  次郎が畏《かしこま》った声で返事をするのを、姫がやさしく注意した。 「次郎、そんなに辨の言うことに恐れ入る必要はありませんよ。もっと気楽にしていて宜しいのよ。辨もそんな、極《き》めつけるような口の利きかたをしてはなりません。」 「はい、お姫さま。ですがこの人は、口では無骨者だとか、弓矢を取る他には何も知らないとか言っていながら、あの笛の上手だったこと。それをこの前、わたしたちはみなはしたなくからかったりしたのですから、思い出すとわたしは口惜《くちお》しくてなりません。」 「ですからお前たちは、いつも口が過ぎるのです。次郎、この前のことはどうぞ赦《ゆる》してやって下さいね。ですけれど、辨のいうのももっともです。笛はどこで習いました。」 「物真似というだけのことです。父に手ほどきを受けましたが、格別の師もありません。山の中でひとり愉しみに吹いていただけです。」 「それに笛もきっと由緒あるものでしょう。それもお形見の唐物《からもの》か何かですか。」  辨が少し叮嚀《ていねい》な声で訊《き》いた。 「いいえ、京の笛師で喜仁という者の作です。都へ上る途中で識合《しりあい》になって、それが縁で譲り受けたのです。いつぞやの日にちょうど手に入れたので、つい興に惹《ひ》かされて吹いてみました。」 「見事な音色でした。」  姫はうっとりとしたような声で呟いた。それからためらうように附け足した。 「ただあの晩は風が烈しかったせいか、何か無気味な感じがしました。」 「あれは辰の日の夜で、土御門《つちみかど》の高名な医師《くすし》の屋敷に盗賊が入ったのも同じ夜でした。」  辨が怖そうな声で註釈《ちゆうしやく》した。 「まさか鬼ではなかったのね。」 「いいえお姫さま、鬼ではございません。この頃とかく噂《うわさ》の高い不動丸という名の悪逆無道の盗賊が、大勢の部下を引連れて、一物あまさず掠《かす》め取ったそうでございます。さからって殺された者もあったとか。辰の日といえば百鬼夜行日なのに、鬼よりも恐ろしい者どもが出歩くようになりました。」 「その者どもは、身分ある公卿《くげ》の屋敷にも押し入るとか。お父さまは怠《おこた》りなく御注意遊ばしていらっしゃるでしょうね。」 「お殿さまはよく気のつく方でございますから、陰陽師の指図に従って、あらかじめ方違《かたたが》えなどを遊ばすでしょう。このお屋敷には警護の武士も大勢おりますし。」  次郎は御簾の向うで交される話を熱心に聞いていたが、この時きっぱりとした声で口を入れた。 「万一そのような節は、私が身を粉《こ》にしてでもお屋敷を守ります。」  辨がちょっと皮肉を混えた声で尋ねた。 「そなたはいつも謙遜しているとは限らないのですね。」 「このことは謙遜いたしませぬ。笛などはたかが戯れですが、武具《もののぐ》を取っては後へ引くことはありませぬ。」  さすがに辨も、それ以上軽口は叩けなかった。姫は素直に礼を述べた。 「嬉しく聞きました。次郎はきっとわたしたちを守ってくれますね。」 「必ず姫をお守りします。この身が死ぬともいといませぬ。」  姫はそのまま黙ってしまい、辨も何とも言わなかった。次郎は自分の姫に対する気持をはっきりと打明けてしまったことに気がつき、思わず頬を赧《あか》らめた。姫は屋敷のことを心配していたのだ、それなのに自分はそれをただ姫一人のことに取っていた。しかし姫がいなければ、この広い屋敷も無人の空屋《あきや》と何の選ぶところもない。 「たとえ次郎が守ってくれても、次郎の力ではどうにもならないこともあるのです。」  姫は小さな声で呟いた。次郎にはその意味が分らなかったが、姫の沈んだ気分を打払うかのように、辨が持前の快活な声で言った。 「お姫さま、この人に笛を吹いてもらいましょうか。お姫さまは箏《こと》を遊ばせば、お気も晴れましょう。」 「いいえ、それはまたにしましょう。わたしは箏など弾きたくない。」 「私の笛はとても箏に合せられるようなものではありません。」  次郎も慌てて断った。姫の気分をそっとしておきたいのか、辨が姫の代りに別のことを訊き始めた。 「それでそなたはもうここの暮しに馴れましたか。」 「格別の御用を命じられることもないので、壺屋に逼塞《ひつそく》しております。」 「それでは窮屈でしょう。しかしこのような気候では出歩くわけにもいきませんね。」 「土地不案内ゆえ、遠くへは行かれませぬ。月が明けて初午《はつうま》になれば、伏見へ稲荷詣《いなりもう》でのお供がかなうかと愉しみにしています。」 「清水《きよみず》へはお参りしましたか。」 「それもまだ行きません。案内をしてくれようという人はあるのですが、いつ御用があるかと思えば、迂闊《うかつ》には出歩かれませぬ。」 「男はわたしたちと違って、どこへでもずんずんと行けるのに。」  辨のその口惜しそうな声音が、次郎には少しおかしかった。 「一日お暇を頂いて、太秦の広隆寺へお参りしようかと思っています。実は私が信濃から召し連れました年かさの郎等が、太秦のお屋敷の留守をお預りしている妙信という尼に、会いたいと申しておりますので、広隆寺へお参りした帰りにでも立ち寄ってみようと、そう申し聞かせてあります。」 「妙信の縁者ですか。」  辨が口を挟《はさ》んだ。 「さあ、どういう間柄ですか。忠義な者で、老齢ながらぜひ供をしたいと言うので京へ連れて来ましたが、存外むかし想い合った仲か何かかもしれません。」  辨は遠慮なく笑った。それが収った時に、しっとりした声で姫が言った。 「近いうちに、太秦へわたしも行きたいと思っています。その節、次郎もその老人を連れて一緒に供について下さい。妙信に会いたいのはその老人ばかりではありません。わたしは太秦の屋形で、妙信と共にのんびり暮すことが出来たら、どんなにか気楽だろうと思います。」  その言いかたには何か翳《かげ》ったものがあり、それが次郎の心に沁《し》み入った。このような姫君にも苦労というものはあるのだろうか、と次郎は考えた。それと共に、姫の供をして出掛けられるという予期しなかった悦びが、胸の中をかっと熱くした。     三  次郎が草紙やら書物やらを新しくまた借り受けて退出したあと、姫は縁の近くに立って庭の方を見ていた。雪は小歇《こや》みなく降り続いていて、見わたす限りただ一様に白い。物音も聞えず、時々、松の梢《こずえ》から、積った雪が音を立てて崩れ落ちるのが一層静けさを増して聞える。 「お姫さま、そこはお寒うございましょう。」  辨がそのうしろに膝《ひざ》まずいて声を掛けた。 「太秦の屋形にも雪が降っているでしょうね。」  姫の問が唐突だったので、辨にしても何と答えていいか分らなかった。 「信濃の国というのも雪の深いところなのでしょう。わたしが三条のこのお父さまの屋敷で雪を見るのも、この冬が限りなのです。わたしはいつまでも此所にいたい、でなければ太秦で暮したいと思います。」  辨は漸《ようや》く姫の心の動きを知って問い返した。 「御入内《ごじゆだい》の期日はもうきまりましたのですか。」 「卯月《うづき》の初めとかお父さまは申されました。しかし辨、わたしは少しも入内したいとは思っていないのです。内裏にはいって女御更衣の位についたところで、煩わしい苦しいことが待ち受けているような気がします。左大臣さまの三の姫君も、やはり同じ頃入内するとかいうことです。左大臣家は家柄も正しく権勢も思うままですから、あの姫君はいずれ皇后にでも中宮にでもお上りになるでしょう。しかしわたしには何の後ろ楯《だて》もないし、お父さまが一人で気をくばったところでどうなるものでもありません。かえってわたしが寂しい想いをするだけのことなのに、お父さまはそれが亡くなったお母さまへの供養だと信じ込んでいらっしゃるのです。」 「しかしお姫さま、そのような勿体《もつたい》ないことを。女御更衣は女と生れてのこの上ない為合《しあわ》せでございます。調度類や御衣裳《ごいしよう》も、お殿さまの命令でところ狭いまで整えられております。東の対屋の女房たちが羨《うらや》ましそうにお姫さまの噂をしておりますし、わたしどももそれは鼻が高うございます。お姫さまがそんなに沈んでいらしては、わたしどもまで困ってしまいます。」  姫はいたわるようにやさしく頷いた。 「女と生れたからには、どうしようもないのでしょう。自分の思う通りには何一つ運ばないのです。男ならば、——そう、あの次郎のように、田舎から都に上ることも、都が厭《いや》になればまた郷里に帰ることも、思うままです。しかしわたしはこの屋敷から内裏に移されて、それからどうなることやら。いっそ尼にでもなって、後生《ごしよう》を願う方がまだしもましなように思われます。」 「お姫さま。」  辨は力づけるように呼び掛けた。 「面白い噂を聞きましたから、申し上げましょうか。御気分が晴れるかもしれませんよ。」 「どういう噂。」  姫は自分でも気を取り直そうとするのか、振り向いて辨の方を見た。 「左大臣さまの末の若殿の蔵人《くろうど》の少将が、臘月の辰の日に、鬼に出会ったとかいうことです。」 「まあ恐ろしい。」  姫は眉をひそめ、丈にあまるその黒髪がゆらゆらと揺れた。 「左大臣さまは姫君を入内させる前ですから、少将の夜歩きを厳しく禁じていらっしゃったそうです。ですからきっと罰《ばち》が当ったのかもしれませんね。恐ろしい百鬼夜行の群に、美福門のあたりでぱったり出会ったということです。命だけは取りとめたものの、それ以来宮中にも出られず、いまだに臥《ふせ》っていらっしゃるとのこと。左大臣さまはひた隠しに隠そうとなさっていても、こういうことはとかく噂のたねになりがちなものですわ。三の姫君の御入内にも障《さわ》りになりはしないかと、左大臣家ではそれは気を揉《も》んでいるそうです。」 「まあお気の毒に。姫君もお困りでしょう。盗賊が出たり鬼が出たり、この頃は怖いことばかり。」  姫は憂い顔を見せたが、辨の方は寧《むし》ろ小気味がいいという表情で澄ましていた。それから、姫の驚くようなことを、賢《さか》しげに附け足した。 「この蔵人の少将というのは、お姫さまに文《ふみ》をつけたことのある若様ですよ。」 「わたしに。」 「お忘れになりましたか。一度だけ、太秦のお屋形で扇に歌をしるして届けて来た若様でございます。それだけで、あとはふっつりと文も来なくなりましたね。百鬼夜行に出会うようでは、どこに夜遊びに行っていたのか、自業自得でございましょう。」  姫はまた庭の方に向きを変えていたから、その顔から血の気が引いて雪より尚白くなったのも、辨の眼には見えなかった。 「左大臣さまの末の若殿。」  囁《ささや》くような声で、姫は自分で自分に納得させるかのようにそう呟いた。野分《のわき》の風に萩《はぎ》の花が吹き散らされた太秦の一夜に忍び逢った貴公子が、左大臣の子息であることを今の今まで知らなかった。またその夜の秘密は、辨にも、妙信にも、つゆ知られていない。もしあの人が、辨の言う通り、左大臣さまの末の若殿であるとすれば、その後この三条の屋敷に忍んで来ることなぞは到底できなかっただろう。どのようにわたしが待っていても。  降りしきる雪が、姫の今にも崩れそうな心の中にも、音もなく降りつもった。     四  安麻呂が高熱に浮かされた日が続いてその病状は一進一退を重ねたが、年が明けると共に漸《ようや》く回復のきざしを見せるようになった。この間に両親の左大臣と北の方との心配は並々でなかった。医師《くすし》の授けた薬が利いたものか、加持祈祷《かじきとう》の効験《こうげん》があらたかであったのか、とにかく最もまめまめしく力を尽したのは乳母であり、もともと安麻呂に備っていた若い体力が最後に物を言ったことも確かであろう。しかしそれ迄《まで》は、蔵人の少将ともあろうものがまったくの子供扱いをされて、おとなしく乳母の言いなりになって寝ていた。 「今日は気分がいいから庭を見たい。」  珍しく爽かな顔をして、朝の食事を終えると安麻呂が身体《からだ》を起して乳母に意向を伝えた。乳母の方はすぐさま渋い顔をした。 「すっかり雪がつもって、それはお寒うございますよ。」 「その雪景色が見たいのだ。」 「でもまたぶり返すようなことがありましては。」 「そうそう寝てばかりもいられぬ。少しは気晴らしをさせてくれ。」  乳母は思案顔をして、それなら中庭に面した東の対屋の縁近くに寝具を移してもよい、そうすれば寝たままで庭が見られるだろうと、漸くのことで譲歩した。安麻呂もそれでよいことにして、今迄寝ていた曹司《ぞうし》から寝場所を変えた。そして久かたぶりに心ゆくまで外気を吸い込んだ。  横に長く延びた池のところまで、中庭は一面に雪がつもっていて、池の中の中島《なかじま》や橋も白く覆われ、池の水のみが蒼みを帯びた鈍色《にびいろ》に光っている。池の向うの築山に松の緑が映《は》え映《ば》えと美しい。中庭の雪の上を、犬の足痕《あしあと》のような花弁の模様が点々と走っているだけで、人の足痕のようなものは何処《どこ》にもない。恐らく雪の降り歇んだのは今朝がたのことで、それからまだ間もないことのように思われる。池に臨んだ泉殿《いずみどの》の屋根から、軒につららが幾本も垂れているのが見えたが、今の体力ではとても泉殿まで廊下を歩いて行くことは心許なかった。  どこか裏手の方から童らの声、それに女どものはしゃいだ声が聞えて来た。恐らく雪山《ゆきやま》でもつくって遊んでいるのだろう、と安麻呂は想像した。己《おれ》が病気だからというので、遠慮して姿を見せないようにしているに違いない。こちらに呼びよせて、雪まろばしをさせたら面白かろう。安麻呂は誰ぞ呼んでそう命じようと思ったところに、乳母が顔を綻《ほころ》ばせて姿を見せた。 「お気晴らしにちょうどよいお友達がお見えになりました。」 「ふむ、誰が来た。」 「高倉の判官《ほうがん》さまでございます。」 「なに宗康《むねやす》が来たのか。それは嬉しい。すぐこちらに通してくれ。」  乳母が振り向くよりも早く、磊落《らいらく》な声が轟《とどろ》いた。 「案内を待つまでもなく推参いたした。どうした安麻呂、飛んだ災難に遭《あ》ったというではないか。」 「鬼判官か、よく来てくれた。無聊《ぶりよう》を託《かこ》っていたところだ。」 「雪見とは、さてさて病人でも風流なお人は違ったものだ。」  客はどっかと円座の上に胡坐《あぐら》をかいて坐った。皮肉めいた口振りも少しも厭味には聞えない。聞かされる安麻呂の方もまだ蒼白い顔に微笑を浮べている。乳母がしりぞくと、女童が火桶《ひおけ》や菓物《くだもの》を載せた高坏《たかつき》などを運び、会釈をして立ち去った。そして仲のよい友達どうしは心置きなく閑談に耽《ふけ》った。  この鬼判官と世人から恐れられている高倉の宗康は、検非違使庁の尉《じよう》で、安麻呂とは幼い頃からの仲良しである。もっとも年は宗康の方が三つ四つ上で、身分は反対に安麻呂の方が遥《はる》かに家柄がまさっていたが、奇妙に二人の間に気の合うところがあった。安麻呂が蔵人の少将として雲上人の間に好色の噂が高いのに較べれば、高倉の判官は無骨者ながら、職務に対して忠実すぎるほど忠実だというので、都の下々の者にまであまねく知られていた。鬼判官が来たと言えば、むずかる子も黙る程の勇名があった。しかし友達の安麻呂から見れば、格別どこと言って恐ろしげなところのない、気性のさっぱりした男というにすぎない。眉は濃く、鼻は尖《とが》り、口は大きく、しかもその眼は細くて穏かである。ただいざとなれば、その眼が鋭く見開かれて凄《すさま》じいまでの光を発するのだが、安麻呂はついぞそのような場面に出くわしたことがない。盗賊の追捕《ついぶ》や罪人の取調べに当って、鬼神を思わせる程の働きがあると人から聞かされても、大して本気にもしていない。 「噂によれば、百鬼夜行に出会ったというではないか。これが相手が盗賊なら己《おれ》が出向くところだが、鬼に出会ったのでは見舞も如何《いかが》かと今日まで遠慮していた。一体鬼というのはまことの話か。」 「まこともまこと、あんな恐ろしい目を見たのはこれが初めてだ。いやもう金輪際《こんりんざい》夜歩きはすまいと思った。」  安麻呂は思い出しただけでもぞっとするような顔つきになって、身顫いをした。客は嘲《あざけ》るような微笑を浮べた。 「お主《ぬし》のような臆病者には、たとえ相手が人間でも、眼がくらんで鬼に見えたのではないか。一体どのような話なのだ。」 「さよう、あれは師走の辰の日だったが、己はこの頃通っている堀河の女のところから、夜おそく戻って来た。まったく、たかがあんな女のためにこんな危い目に会ったのかと思えば、愛想も尽きたと言ったものだ。」 「女のことはどうでもよい、」と判官は気短かに先を促した。「それからどうした。」 「場所は左は美福門、右は神泉苑といったあたりの二条の大路だった。正面から松明《たいまつ》を持った行列が来るので、神泉苑の北門の蔭に隠れてやり過そうと思った。そのまま隠れていればよかったのだが、つい覗《のぞ》いてみる気になった。」 「なに、覗いてみたのか。」  鋭い声で客が訊き咎めた。 「うむ。それがどいつもこいつも恐ろしい異形の鬼どもであった。一つ目の奴や、額に角の生えた奴等が、おどろしく髪を振り乱して、こちらを睨《にら》んでいた。己のひそんでいる気配にすぐさま気がついたらしく、頭《かしら》と覚しい鬼が、すぐさま引捉えて来いと下知したのが聞えて来た。」 「ふむ、その声はどんな声だ。」 「人間の声ではなかったな。こう、腸《はらわた》に沁み通るような、気味の悪い響をしておった。己はもう観念して、これでもはや命は助からぬものと諦《あきら》めた。ところが命《めい》を受けた鬼の奴は、己の隠れている北門のすぐ近くで足をとめて、元へと戻って行った。」 「鬼の方でもお主が恐ろしかったと見ゆる。」 「いやそうではない。そのことはあとから分った。頭が下知してまた別の奴が現れたが、これまた門の扉のあたりから引返した。やれ助かったと思うまもなく、下知をしていた頭らしい鬼が、自ら荒々しい足取で近づいて来た。そやつが遂に己の頸筋《くびすじ》をむんずとばかり掴《つか》んだ。」 「お主、その時鬼の顔を見たか。」  判官の眼がきらりと光ったようである。安麻呂は枕の上でかすかに首を振った。 「それどころか。頭を掴まれると共に己は殆ど気を失った。鬼の手が己の身体を投げ出し、すたすたと遠ざかって行く跫音《あしおと》が聞えた。投げ出されたはずみに、少しく正気に復《かえ》ったと見える。すると大路の上で、鬼めらの話し合う声が聞えた。鬼の頭がこう言った。『掴まらぬのも道理だ。あれでは、この己にもどうにもならぬ。』すると他の奴らが一斉にその訣《わけ》を訊き返した。答えて曰《いわ》く、『尊勝陀羅尼《そんしようだらに》のおわしますためだ。』その一声と共に、おびただしくともされていた松明の火がぱっと消えた。ばらばらと走り出す跫音が暗闇に木霊《こだま》し合って、あとはしんとなった。それから己はまた気を失ったと見える。」 「なるほど、面白い話だ。尊勝陀羅尼の霊験で鬼めらが消え失せたというのだな。」  客は半ば訝しげな、半ばからかうような顔で、そう尋ねた。 「乳母の話では、己の衣の襟のところに陀羅尼を書いて縫い込んであったというのだ。有難いことだ。そのお蔭で命を助かった。」 「そうか。鬼でも陀羅尼は恐ろしいと見える。いやお主も運のよい男よ。しかし未《いま》だに病み臥《ふ》しているとは気の毒の至りだ。これは鬼のたたりかな。存外女のたたりではないか。」  客は大声で笑い、安麻呂は苦笑《にがわら》いしてそれに和した。 「何のたたりにせよ、こう長引いてはかなわぬ。時にお主の方はどうだ。忙しいか。」 「忙しいも何も。近頃は不動丸と呼ばれる賊の一味が都を我が物顔に振舞っていて、己たちも引き廻されているわ。」 「鬼判官でも掴まえられぬのか。」 「うむ。何しろ素早い奴ばらで、風のように消え失せるから後手《ごて》ばかり引いておる。しかしなんの、いずれこの宗康が引捉えてくれる。目に物を見せてくれる。」  検非違使の尉は腕を撫《ぶ》すような形をした。それを安麻呂は羨《うらや》ましそうに眺めていた。 「お主は元気がいいな。己はこうして寝ているのにほとほと飽きてしまった。たまに雪見と興じても、雪がすぐに溶けよう。何しろ乳母が忠義面で毎日附き添っているから、うるさくてかなわぬ。女の顔でも見たいものだ。」 「乳母も女のうちではないのか。」 「いやあれは……。」  二人はまた声を立てて笑った。 「女のたたりで鬼に遭ったと思え。少しはつつしむがよかろう。それに女房たちもいる、姫たちも見舞に来てくれよう、贅沢《ぜいたく》を言わずにおとなしく寝ているがよい。」 「姉妹《きようだい》や女房どもでは女のうちにはいらぬ。乳母と同じことよ。」 「三の姫は御入内がきまったそうではないか。おめでたいことだ。」 「そうのようだ。ところがあの妹は、穢《けが》れるとか言って見舞にも来ぬ。人情のないお姫さまだ。いずれは己よりもぐんと身分が高くなるだろう。ここだけの話だが、入内などということは親の出世の方便にすぎぬな。たとえ皇后になったところで、女というのは哀れなものだ。」 「お主は三の姫をそれほど可愛く思っていたのか。」  客はやや意外なという顔をし、安麻呂は打消した。 「妹が可愛くて言ったわけではない。」  安麻呂の顔に不意に浮んだ悲しげな表情を客は見逃さなかった。 「それはどういう意味だ。」  安麻呂は暫く黙っていた。日が射して庭の雪が眩《まぶ》しいように光った。軒に点滴《しずく》の音がし始めた。安麻呂は思案の末に、思いあまったような声を出した。 「お主は検非違使を勤める男だから、口は固かろうな。」 「勿論《もちろん》のことだ。何か己の職掌に関《かかわ》りのあることか。」 「いやいや、そうではない。まったく関りはない。これは己の秘密だよ。」  しかしそれでも安麻呂は、まだ言おうか言うまいかと迷っていた。しかし長い間人恋しく寝ていたので、つい友達に打明け話をする気になった。 「実は己は去年から一人の女を想い詰めているのだ。未だにこうして煩っているのもその想いのせいかもしれぬ。」 「それは鬼に出会った晩にお主が通って行った女か。」 「いや違う。あんな堀河などに住む女房と一緒になるものか。身分の高い姫君だ。」 「貴族の娘ならお主が案ずるがものはあるまい。お主の手管《てくだ》に靡《なび》かぬ女は広い都に一人としていそうにないからな。」  客の顔にまた少しばかり嘲りの色が浮んだ。しかしそれはすぐに聞き上手らしい、真面目な表情に戻った。 「己はその姫君に一度だけ会った。もう去年の秋のことになる。あんな美しい女を己は未だ嘗て他に知らない。少し寂しげな、まだ幼な顔の残っている、臈《ろう》たけた姫君だ。やさしい、素直なひとだ。」  安麻呂はまるで夢でも見ているように、低い声で呟いた。まるで自分に言い聞かせているようである。客の高倉の判官は眼に好奇の色を浮べて身を乗り出した。 「どうして一度だけなのだ。一体その姫君というのは誰のことだ。」 「うむ、それはな。お主は三条の中納言に継《まま》しい姫君のあることを知っているか。」 「ああ、萩姫と呼ばれている姫君のことだろう。噂には聞いている。」  そこまで言って、客はあっと驚いたように声を呑んだ。勢い込んで訊き返した。 「お主、その萩姫とやらは、お主の妹の三の姫と同じく、御入内がきまっているのではないか。」 「そうだ。」 「その姫君とお主は会ったのか。」 「そうだ、一度だけ会った。太秦に姫の亡くなられた母君の住んでいた屋形がある。そこを姫が訪れた時を狙って、忍んで行った。しかしその後は、姫も三条の屋形を離れられぬし、己も三条へは忍んで行くわけにはいかぬ。事が露顕すれば一大事となる。三条の中納言と父との間にも、思わしくない事が起るだろう。」 「それは当然だ。御入内のきまっている姫君に通ったとなれば、徒事《ただごと》では済まされぬ。そのようなことが人に洩れたらどうする。」 「いや誰にも洩らしたことはない。乳母さえも知らぬ。お主だけだ、こうして聞かせるのは。」  客は安堵《あんど》したように頷いた。 「己の苦しい気持を察してくれ、」と安麻呂は訴え続けた。「己は姫を恋い焦《こが》れている。姫も同じ気持だと思う。しかし中納言が姫を入内させるときめた以上、この己に何が出来る。己たちに何が出来る。己は卑劣な男で、姫と会ったあとでも女から女へと通い歩いている。それは、どうせ姫のことは諦めるほかはないと思って、何とか他の女で気を紛らそうとしたのだ。しかしどうしても諦めることは出来ない、思い切ることは出来ない。どんな女と会っていても、姫君のことが眼の前に散らついて離れないのだ。」 「お主のような色好みでも、そのような突き詰めた気持になるものかな。」 「それはお主があの姫君を知らないからだ。この世に生を享《う》けた者で、あの姫君ほど美しいひとは二人といないだろう。手を触れるのさえ憚《はばか》られる。それを己はこの胸に抱いたのだ。己の腕の中でその身体が溶けてしまうのではないかと思った。」  安麻呂が熱に浮かされたように姫への想いを打明けている間、客の方は冷静な表情で病人を見守っていた。点滴の音は一層しげくなり、松の枝から音を立てて雪が崩れ落ちた。築山の蔭にでも潜んでいたらしい水鳥が、日の光に促されて、氷片の浮んだ池の表を軽やかに滑り始めた。その波紋がゆるやかに動いた。 「所詮《しよせん》恋というのははかないものだ。雪の溶けるように、いずれは溶けてしまうものだ。そう分ってはいるのだが。」  安麻呂の力のない声に客は頷いたが、心では何か別のことを考えているらしく、いつのまにか瞳《ひとみ》を移して、池の中の水鳥の動きをじっと追っていた。   影     一  姫が太秦《うずまさ》の別業に行ってみたいと父の中納言に訴えた時に、中納言は容易に承知しなかった。入内の前に太秦へ行き、こころゆくまで亡き母の思い出に涵《ひた》りたいというのは、娘ごころとしてさもあろうかと推察したが、まだ雪も残っているうそ寒い季節なので、もう少し時を待ち、せめて梅が綻《ほころ》びてからにするがよいと諭《さと》した。しかし姫の方は思い立つと、しきりにせがんだ。姫の心の中では野分立《のわきだ》つ夜に会った貴公子のことが(今ではその人が、左大臣の若殿の蔵人《くろうど》の少将であると分っていたが)どうしても忘れられず、太秦に行きさえすれば、何だかもう一度会えるような予感がしていた。その若殿が百鬼夜行に出会ったあと、年が明けてもまだ臥《ふせ》っているらしいことは、辨の問わず語りで知っていたから、ひとり胸を痛めていた。しかし見舞の文を出すことも出来なかったし、日が経つにつれて、もうすっかり良くなっているに違いないと強いて考えた。萩《はぎ》の花の散る夜に、あれほど固い誓いを立てた人が、こちらの動静を気に留めていない筈はない、だからもしも自分が太秦へ行っていさえすれば、必ず聞きつけて忍んで来てくれるだろう。そう考えると、もう居ても立ってもいられない気持になった。  信濃の国から下向した次郎信親が、一度太秦へ行きたいと言っている、何でも妙信尼に会って話をしたいと申している、という新しい理由を添えて、姫は中納言を口説き落した。何も次郎のために行きたいわけではないが、あれは武勇にすぐれた者らしいから、次郎が警護してくれる分には安全だというようなことを匂わせた。中納言は次郎のことなどはどうでもよかったし、次郎の腕の程についても格別信用してはいなかったが、姫の熱心さにはとうとう根負《こんまけ》してしまった。それほど言うなら一両日くらいなら出掛けてもよいと承知して、暦を繰って出掛ける日を自ら取り極めてくれた。  一方、姫の警護をして太秦の別業へ出向くように命じられて、次郎信親は踊り上るほど悦んだ。用らしい用もなく、家司《けいし》の老人からしかつめらしい話を聞かされるほかは、殆ど壺屋に閉じ籠《こも》ったきりだったから、まるで飽き飽きしていた。使に来た女房は、笛を持参するのを忘れないようにと念を押し、その命令は次郎には面映ゆかったが、そんなことで姫の心を慰めることが出来ればこんな嬉しいことはなかった。それにこの機会に、姫のお顔を見ることが許されるかもしれぬ。二人の郎等を自分と共に連れて行けることも、その年老いた方が漸《ようや》く妙信尼に会えるというので、まるで次郎の采配《さいはい》で事がかなったかのように礼を述べるのを聞いていると、やはり悪い気持はしなかった。 「爺《じい》や、それは違うよ。中納言さまの御命令なので、己《おれ》がきめたのではない。己もここでは新参の家来というだけだ。」 「いいえ、爺にとっては御主人は次郎さまお一人だけでございますよ。」  この頑固なまでに忠義な郎等を見ていると、次郎の心もほのぼのとした明るさを取り返した。  大路の雪が溶け、まだところどころ築地《ついじ》の蔭などには汚れた雪が残っていたが、俄《にわか》に春めいた日の朝、姫を乗せた半蔀車《はじとみぐるま》はのどやかに三条の屋敷を出た。簾《すだれ》の下からこぼれている紅《くれない》の裳裾《もすそ》を、次郎は満足げに、しかし心持を隠したわざとらしい厳《いかつ》い表情で見守ったが、その心持が自《おのずか》ら脣《くちびる》を綻ばせるのをどうすることも出来なかった。牛車《ぎつしや》に同乗している辨は、簾ごしに従者等の様子を眺めては報告した。 「お姫さま、次郎が嬉しげにしておりますよ。」  姫ははしたなく外を見るようなことはしなかった。 「外に出られるのが嬉しいのでしょう。あれは山国の育ちですから、都での窮屈な暮しにはきっと退屈しているに違いありません。」 「馬に乗ると、見違えるほど凜々《りり》しく見えます。頼もしい気がいたします。」  姫は頷《うなず》いたが、しかしやはり外を見ようとはせずに、静かに車の動きに身を揺すられていた。     二  夜になると、寒さはやはり厳しかった。次郎は辨から呼ばれて笛を携えて対屋の奥へと導かれた。そこには御簾《みす》が下りていて、御簾の中に明るくともされている燈《ともしび》の火で、侍女たちの姿が仄《ほの》かに浮び出ていた。姫がいるのはすぐに分ったが、その顔かたちまでは燈台の明りだけでは見定められなかった。侍女たちは箏《こと》などを用意していた。次郎が下屋《しもや》に控えていた時にも、既に楽器の音色が澄み切った大気を通して聞えていたが、しかし今はささめき声が聞えるだけで、どうやら次郎の笛を皆して待ち侘《わ》びていたらしい。さっそくに辨の声がした。 「次郎、お姫さまがそなたの笛をお待ちかねです。」 「どうも不調法ですから、お気に召しますかどうか。」  次郎が恐縮していると、姫がかばうように声を掛けた。 「次郎、そんなに急いで笛を吹くには及びません。辨はとてもせっかちなのです。」 「でもお姫さま、」と辨が口を挟《はさ》んだ。「お姫さまだって早くお聞きになりたいでしょう。何しろこの人は、ずっとわたしたちを騙《だま》していたのですからね。」 「騙したわけではありません、」と姫はたしなめた。「次郎も今日は疲れたでしょう。この屋敷は来るたびに荒れて行くようです。」  その日の昼の間は、次郎は下人や女どもを指図して、屋敷の掃除や見廻りなどで忙しかった。そのことを知っての上での姫の心づかいを、次郎は嬉しく感じた。 「わたくしが行き届きませんもので。」  か細い女の声が聞え、姫の言葉でそれが妙信尼であることが分った。 「いいえ、これは妙信のせいではありません。この屋敷はもう古すぎるのです。秋の頃は隙洩《ひまも》る風も風流なものですが、冬のこの寒さでは供をして来たお前たちにも気の毒です。」  侍女たちは口々に否定したが、確かにここは場所も都から西にはずれ、まして建物も荒れ果てているので、冬も終りに近いとはいえ寒気は殊のほか厳しかった。 「供といえば、次郎の召し使う老人が妙信の縁者だとかいうことでしたね。妙信はもう会いましたか。」 「はい、昼の間に顔だけは合せました。もう顔を見忘れるほどでございました。」  姫は頷き、代って辨が声を掛けた。 「別れてからもうどの位になりますか。」 「さあ、そろそろ二昔にもなりましょう。」 「それで、尼御前の何に当るかた。」  尼は俯《うつむ》いたなり答えなかった。そして侍女たちは小声でお互いの臆測を語り合い始めた。姫が再び口を利くとその話声が歇《や》んだ。 「妙信は次郎を覚えていますか。」  妙信は顔を起して御簾ごしに若い武士を懐しげに見た。 「わたくしが郷里《くに》を出ました時には、次郎さまはまだ腕白盛りの小さなお子さまでした。それでも幼な顔がどこかに残っております。」  姫は頷き、やさしい声で妙信に言った。 「そなたはもうお下り。次郎の供人《ともびと》と、積る話をなさい。向うにいても、次郎の吹く笛の音は聞えましょう。」  妙信尼は礼を述べて姫の前からしりぞいた。次郎はそれを見守りながら、姫の暖かい心ばえに自分も心の暖まるのを覚えた。自分の召し連れている郎等とこの尼との間に、どのような過去のいきさつがあったのか、次郎も知らない。しかし二十年に近い歳月を隔てて、嘗《かつ》て信濃の国で知り合っていた男女が遠い都で再会するというのも、何かの因縁であろうと考えられた。 「次郎は妙信のことを覚えていますか。」  尼がいなくなってから、姫は次郎に向って同じ質問をした。 「私はよく思い出せません。叔母君の出立《いでたち》が子供心にも悲しかったので、誰が供について都へ行ったものか、気にも留めていませんでした。」 「そうでしょうね。子供の頃の愉しかったことや悲しかったことも、時が経てば、次第に忘れて行ってしまうのですね。」  辨がそこで快活な声を挟んだ。 「お姫さま、わたくしどもは早く次郎の笛が聞きとうございます。」  侍女たちが等しくそれに和したので、姫も沈みかけた気持を振り払うようにして、命じた。 「では次郎、一曲聞かせて下さい。」  次郎は腰に差してある笛を取り出すと、ゆっくりと口にあてがった。御簾のうちが静かになり、燈台の火が瞬いた。     三  その夜、姫は眠りから見離された。  一つには次郎信親の笛があまりにもいみじげな音色を奏でたので、侍女たちが更にせがむのにまかせて、自分も一緒になって次々と所望しているうちに、眼は冴《さ》え冴《ざ》えと霜夜の月のように冴え切ってしまった。姫は今までにもその道の上手と言われる殿上人の笛を、幾たびか洩れ聞いたことがないわけではない。春の夕べには心も晴れ晴れと聞き、秋の宵にはうら寂しい心持で聞いた。しかし太秦のこの別業で、今、残雪の庭をわたる冬の夜風に、あたかも調べを合せるかのように蕭々《しようしよう》と鳴り続ける笛の響には、嘗て聞いたどの笛にもまさって心の緒《お》を掻《か》きみだされた。師走の辰《たつ》の日に、誰が吹くとも分らない笛の音を三条の屋敷内で聞いた時にも、心があやしく騒ぐような深い想いに捉えられたが、その主《ぬし》が次郎信親と知って、眼の前にその笛を操るさまを見ながら聴くのとは較べものにならなかった。  しかし姫が眠れなかったのは、次郎の笛に感動して、その興奮が長く尾を引いていたためばかりではない。姫は左大臣家の若殿がもしや忍んで来はしないかと、高鳴る胸を抑えて心待ちに待っていた。  昨年の秋この屋形で忍び逢った貴公子が、その後蔵人の少将で、左大臣家で安麻呂と呼ばれる若殿だと侍女の辨から聞かされ、しかもその人が病の床にあると分っても、姫に何をすることが出来ただろうか。きっと向うも同じ想いで臥っているのであろう、たとえよくなったとしても、その妹の姫と入内を争うことになっている自分のところへ、通うなどということが許されるものではない、——そう姫は考えて諦《あきら》めるほかはないと自分に言い聞かせはしたが、もしやその同じ屋形へもう一度行きさえすれば、若殿の方でも何とか聞きつけて忍んで来るのではないかと、万が一の望みを抱いて、父の中納言を説き伏せて、こうして太秦へ来ているのである。此所《ここ》へ着いた後に、「怪しい者が御車をうかがっていたそうでございます、」と辨が空恐ろしそうな顔で報告した時にも、姫はいつもと変らない表情で頷き返したが、それは不安を隠したのではなく、内心の悦びを隠したのであった。それこそ安麻呂が、自分の車が三条からどこぞへ下《さが》ると聞いて、下人に行先を調べさせたものであろう、と姫は判断した。そのこともあって、姫は今宵かならず若殿が忍んで来るものと信じていた。信じようと強いてつとめていた。眠気はまだなかったし、眠るつもりもなかった。  夜が更けて、供の者たちはそれぞれ眠ったらしい。宵のうちは荒々しく松林の梢《こずえ》を揺がせていた風も、いつのまにか収って、外はごく静かである。几帳《きちよう》のほとりに燈台が一つ置かれていて、その侘《わび》しげな灯《ともしび》が隙洩る風に時々ふるえているが、姫のいるあたりには濃い闇が渦をなして、かすかな灯影とせめいでいる。廂《ひさし》の間《ま》で寝ている侍女たちの寝息がかすかに聞えていた。  妙信ももう眠っただろうか、と姫は考えた。次郎の供をして来た老人と、どのようなつもる話に花を咲かせたことであろう。一夜語り明かしても尽きないだけの物語もあろうに。姫はその二人が、壺屋の中で向い合って、熱心に語り合っている様を想像した。しかし恐らくは、老人たちはくたびれて、話を明日に持ち越してもうとうに眠っているに違いない。二十年近くもの間、夢の中でしか会えなかった人に現《うつつ》に会って、満足のほほえみを浮べながら眠っていることであろう。姫はその二人を、むかし信濃にいた頃に、互いに行末を契り合った仲だと信じていた。うら若い姫の心情からすれば、二人は思い焦れたまま引き裂かれた仲であった。主人への忠義ということから、一人は都にのぼる上臈《じようろう》の供を仰せつかり、一人は田舎に残って屋敷の警護に当らされた。心に思うことを口に出して言うことも出来なかった。それでも年月《としつき》の過ぎ行くがままに、恋する心が失せて行くものではない。いつかはめぐり会う日が必ず来るものだ。  姫はやさしい吐息を洩らした。いつかはまたあの方に逢える。いな今宵がそのいつかなのだ、今宵あの方はきっと来て下さる。姫は心からそう信じたいと思った。しかし或いはこのまま、もう二度と顔を見ることもなくて、別れてしまうのではないかという不安も、いくら打消しても奥深いところに萌《きざ》していた。次郎の吹く笛の音に心を奪われながら、既に心の隅では何やら不吉な予感のようなものを感じていた。その笛の音は、寂しく、悲しく、切迫した想念を一種の諦めに似た情緒のなかに包んでいた。この世の中では遂げることの出来ない想いを、来世に於《おい》て果したいというような、深く沈んで行く感情があった。しかしそれは姫の聞き違いであったのかもしれない。なぜならば辨をはじめ侍女たちは、格別悲しい想いをその笛に聴き取っていたようでもなかったから。辨は言った。「次郎の笛を聴いていると、身も魂も遠くの空へ運ばれて行くような気がいたしますね。」姫にとって、身も魂も運ばれて行くのは、ただ若殿がいる筈の二条の左大臣の屋敷を措いて他になかった。そしてその屋敷は、天竺震旦《てんじくしんたん》よりも尚遠くて、逢いに行くことのかなわぬ場所であった。  夜はさらに更け、姫の小さな心は期待と不安とのために、いつまでも小鳥のように顫《ふる》えていた。すると、ふと、ごくかすかな、ことり、という音がした。と同時に揺らめいていた燈台の火が、ふっと消えた。きなくさい臭いが漂って来ると共に、あたりは真の闇となった。 「若殿。」  声を出してはならないと思い、思わず口を覆った。しかし誰かがそっと几帳のあたりから忍び入って来る。とうとう来て下さった、と思うまに、姫の衣の肩のところに男の手が触った。姫の身体は崩れるようにその手のなかにあずけられた。 「とうとう来て下さいましたのね。」  姫はどうしても、たとえはしたないと思われても、それを口にしないわけにはいかなかった。久しい間待ち佗びていたこの想いを伝えないで済ますことは出来ないと思った。いつぞや初めて逢った夜、自分の気持を打明けることさえも出来なかったことを、あとになって姫はどんなにか後悔したことだろう。 「お逢いしとうございました。」  男は黙ったまま抱きしめた腕に力を入れた。なぜ若殿はこんなに黙っていらっしゃるのだろう、と姫はいぶかった。この前の時はお喋《しやべ》りしすぎるくらいに想いのたけを口にした方なのに。そして不意に姫は気がついた。あれほど床しく薫《た》きしめられていた香《こう》の馨《かお》りが、男の着ているものからはまるで匂って来ない。そしてこのごつごつした手。力まかせに姫の素肌に触れようとする汗ばんだ手。 「あなたは誰。」  相手は返事をしなかった。姫は黒髪を打顫わせて身を|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いた。口を押えられる前に、本能的に叫んでいた。 「次郎、来て下さい。次郎。」     四  次郎信親もまた眠ることが出来なかった。  配下の者たちが下屋《しもや》のそれぞれの場所に落ちつき、とうの昔にぐっすりと眠ってしまった気配を感じながら、次郎はまだ昼の身仕度のままで、下屋から出て西の対屋の外廻りをゆっくりと歩いていた。  京の町なかではもう稀《まれ》にしか残っていなかった雪も、このあたりまで来れば土を白く覆い隠していて、簀子縁《すのこえん》の下にまで積っていた。月の姿は見えなかったが、雲の間から洩れて来る光に、夢の中にでもいるように雪明りが物の形を朧《おぼろ》げに浮び上らせていた。寒気は厳しく、残雪は固く凍りついていた。それでも次郎は格別寒いとは思わなかった。雪深い信濃で育って来た身には、寒いと言っても高が知れている。それに中納言に親しく命じられて、姫の警護という大役を仰せつかった以上、これぐらいの労苦は当然のことだと思っていた。しかし次郎が唯一人、夜も更けているのに、屋敷うちを見廻っているのは、ただ役目柄に忠実だというだけではなかった。寝所に入って寝ようなどという気には、到底ならない程気持が冴えていた。  姫のすぐ近くにいる、——その実感は、次郎にとって三条の屋敷にいて感じるものの比ではなかった。どのように姫を恋しく思っていても、御簾ごしでなければ話を交すことも出来ない。現に今日でさえも、結局は姫の顔を拝む機会もなく、張り詰めていた期待も裏切られて、せめてこうして西の対屋の縁に沿って歩いているだけである。姫は次郎の心を知らず、ほんの近くに次郎が寝ずの番をしていることも知らずに、安らかに眠っているのだ。それにも拘《かかわ》らず次郎は自分が今ここにいて、親しく姫の身を守っていることに深い満足を覚えていた。三条の屋敷では姫と次郎との間には幾つもの障害があるが、ここでは謂《い》わば主人の姫と、家来の次郎との二人がいるばかりだ。いな、想われ人である姫と、想う人である次郎との二人、と言った方がよい。急に姫との距離が著しく近くなったように次郎は感じていた。  それは一つには笛のせいだった。姫に聞いてもらえるというので、次郎は嘗てないほど熱心に、巧みの限りを尽して笛を吹いた。その音色が姫の心にこちらの心を伝えればよいと願っていた。果して姫はこの心を汲《く》んでくれただろうか。  次郎は凍《い》てついた雪の上を踏んで、車宿《くるまやどり》のまわりを迂回《うかい》し、釣殿《つりどの》の手前まで行った。池は荒れ果てて枯れた水草が岸辺にはびこり、月光が気味の悪いほど水の表を光らせていた。その蒼白《あおじろ》い水面は一面に燐光《りんこう》を漂わせたようで、人を引き込む程の鈍い輝きがあった。あたりは静かで、風の音も歇《や》んでいた。  笛を吹く前に、御簾の前に伺候して姫が辨や妙信尼と話すのを聞いていた時に、ふと感じた不安が、この時急に甦《よみがえ》った。それは何というわけもなく心の片隅に浮び出た不安だった。今まで自分がこの笛を吹く度ごとに、何かしら不吉なことがそのあとで起ったという——。初めの時は近江の芒《すすき》の原の六角堂で、笛師の喜仁《よしひと》の持参している笛を借用して、陰陽師《おんようじ》の留めるのも肯《き》かずに吹いてみた。葬式の行列が現れて、死人の踊るのを見て切り倒したが、それは陰陽師の見せた法術であったかもしれぬ。しかし笛師はそのために驚いて逃げ去った。次は笛師の留守宅で娘の楓のために同じ笛を吹いた。その時は幸いに何ごとも起らなかった。この笛を喜仁から貰い受けて、お屋敷に戻って一曲試みた同じ夜に、何でも百鬼夜行《ひやつきやぎよう》が出たとかの噂《うわさ》である。根も葉もない暗合には違いないが、もしやこの笛には、何やら奇妙な因縁がひそんでいて、あやかしを行うのかもしれぬ。——次郎は笛を吹くことに軽いためらいを感じたが、姫の所望とあっては断ることも出来なかったし、また自分の気持を伝えるものもこの笛のほかにはなかった。そして笛を吹き始めてからは、つい今まで、そのことはすっかり忘れていたのだが。  次郎は池の水をじっと見詰めながら、姫への想いを笛の音に託して、こうして中納言に仕えていたところで、想いが叶《かな》う筈もなく、出世が叶う筈もないということを、しみじみと感じていた。信濃の国で、兄と共に暮していた方が、どんなにか心の安らかな日々を過せたものを。しかも自分はこの道を選んだのだ。姫への想いがこんなにも自分を悩ませるとは、故郷を出る時には思ってもいなかった。しかしたとえ当《あ》てどがないとしても、選んだ道を歩むのが男の本懐というものであろう。  次郎が池のほとりから釣殿に沿ってもとへ戻ろうとした時である。気のせいかと思われる程のかすかな人の声がした。 「次郎。」  自分を呼ぶらしいその声が、姫のものだということに次郎はすぐに気がついた。次の瞬間に、釣殿の渡り廊下へと猿《ましら》のように素早く飛び上り、廊下伝いに西の対屋へ跫音も立てずに走っていた。  対屋は暗くて物のけじめも分らなかった。しかし次郎は昼の間に下検分をしていたし、宵には姫に呼ばれて笛を吹いたので、大体の目安は分っていた。燈《ともしび》の火はすべて消えていた。次郎は眼を凝《こら》し、やがて几帳や御簾の位置を朧げに察することが出来た。侍女たちの寝息がかすかにする他に、何の物音もしなかった。しかし、空耳だったとは思われない。その上、この場所に不似合な、怪しげな影のようなものの気配を感じ取った。次郎はそっと低い声で呼んだ。 「姫。」  それと共に、ごくかすかではあるが、衣《きぬ》ずれの音が横手の奥でした。押し殺した息遣いがほんの僅かばかり洩れた。それだけで次郎には充分だった。跫音も立てず、まるで暗闇の中で眼が見えるかのように、次郎は几帳のかたわらを抜けて真直にその近くへと駆け寄った。  姫は曲者《くせもの》の片腕に身動きもならず抱き竦《すく》められて、片方の手で息も出来ないほど口を覆われていたが、この時またあるだけの力をしぼってあらがった。曲者は舌打をすると、力まかせに姫の身体《からだ》を次郎の方に投げつけた。  次郎は咄嵯《とつさ》に崩れ落ちて来る姫の身体を抱きとめた。それはあまりに軽やかで、幾重にも包まれた衣のなかには身体がないのではないか、抜け殻だけではないか、と疑わせた程だった。しかし姫は気を喪《うしな》ったらしく、その黒髪ががくんと揺れて次郎の腕に触った。次郎は壊れもののように、そっと床の上に抱きおろした。  その間に曲者は素早く身を翻して、暗闇の中を西廂《にしびさし》の方に逃れた。次郎はおくれを取り返すために、これまた逸散に走りながら、廂の間の入口で一瞬立ち止り、低いがしかし鋭いよく透《とお》る声で、呼ばわった。 「辨殿。すぐ起きて下さい。姫君の大事ですぞ。」  次の瞬間には踊り上るように走り出して曲者のあとを追っていた。  曲者は簀子縁から一気に飛び下り、この時はもう庭を横切って築地に沿って走っていた。次郎はその姿を眼にとめると韋駄天《いだてん》もかくやとばかり追い掛けた。曲者の姿がふっと見えなくなったのは、築地の崩れたところから屋敷の外へと跳り出たためである。次郎は見逃さず、自分もするりと築地の間を擦り抜けた。  築地の外は雲間の月明りに照された雪の道が、蹄《ひづめ》や轍《わだち》の痕《あと》を黒々と残して遠くへと続いている。その片側は林である。林のなかに逃げ込もうとして、凍てついた雪に足を取られた曲者がちょっとたたらを踏んだ瞬間に、一気に距離を詰めて次郎が追いすがった。 「待て。」  曲者は身体を立て直すと、逃げるかと思いのほかその場に立ち止って振り返った。黒衣の頭巾のようなものをかぶって顔を隠している。 「何か用か。」 「何を抜かすか。姫君の寝所に忍び入った曲者、ひっ捉えてくれるわ。」 「ふむ。己を捉えると申すか。さてさて命知らずの男よ。名は何と言う。」  次郎もさすがにあきれ果てた。賊の方から名を名乗れなどと言われようとは思わなかった。逃足の早さから見ても唯者ではあるまいと思うが、ふてぶてしいにも程がある。 「おお己か。己は大伴の次郎信親という。して貴様は何者だ。」  相手は頭巾の中から大きな目玉をぎょろりと剥《む》いた。身構えているその形に寸分の隙もない。 「己の名を聞いたらお主《ぬし》も驚くだろう。己は不動丸よ。」  次郎は格別驚かなかった。それよりも曲者の構えに眼をくばって、隙もあらば飛び掛ろうと狙っていた。太刀を使わずに、何とか手捕りにしてくれようとの魂胆である。 「京の町にその名も高い不動丸を知らぬとは、お主は田舎侍と見えたな。」 「不動丸がどうした。天《あめ》が下にかくれもない盗賊が、やんごとない姫君のもとに忍び込むとは何たるざまだ。」  賊は一歩身をしりぞき、気味の悪い声で高らかに笑った。 「恋をしたのよ。不動丸とても人間のはしくれだ。姫君に恋をして何が悪い。」  次郎も今度ばかりは驚いた。その僅かの隙に、曲者は疾風《はやて》のように次郎に飛び掛った。次郎は素早く身を躱《かわ》して逆に相手の利腕《ききうで》を取ろうとしたが、曲者もまた煙のように擦り抜けた。二人は初めとは位置を変えて向い合った。共に太刀の柄には手を掛けていなかった。 「お主はなかなかやるな。」  賊は息の乱れも見せずに悠然としていた。次郎も落ちついて言い返した。 「不動丸と相対《あいたい》の勝負が出来るとは、願ってもないことだ。貴様を引捉えたとあれば、己も検非違使庁に推挙してもらえるかもしれぬ。」 「何とお主は検非違使になりたいのか。阿呆な男よ。」  曲者は憐《あわれ》むように眼を光らせた。 「何と——。」 「宮仕えなどは阿呆のする仕事だ。お主ほどの腕の立つ男が、宮仕えなどをして何の足しになるものか。しかし今日はよくも己の邪魔をしてくれたな。この返しは次にする。」 「待て、逃しはせぬぞ。」 「そうはいかぬ。」  次郎は気配を感じて、はっと身をすさった。いつのまに現れたのか、林のなかから馬にまたがった男が三人、空馬《からうま》を一頭連れて、次郎のうしろに迫っていた。不動丸はひらりとその空馬に飛び乗った。 「大伴の次郎信親と申したな。よいか、不動丸は命を懸けて恋をしたと姫に伝えておけよ。忘れるな。」  そして烈しく鞭《むち》をくれると、四頭の馬は先後して雪明りの白い道を走り出し、またたくうちに遠い闇の中に吸い込まれるように消えてしまった。     五  次郎は面目を失した気持で西の対屋へ戻った。不動丸の言葉がまだ耳の中に響いているようである。あのような盗賊に見込まれたとあっては、これからは一層熱心に姫の警護につとめなければならぬ、——そう思うと、残して来た姫の身が急に心配になった。気を喪って腕の中にぐったりとなっていた姫のやわらかな感触が、まだ生ま生ましく残っている。次郎は中門の廊下を踏んで、そっと廂の間に近づいた。一つだけ、かすかに燈台の火がまたたいているのが見えたから、そこへ向って小さな声で呼び掛けた。 「辨殿。次郎が戻りました。」  灯影が揺らぎ、女が一人、すうっと次郎の側へ寄って来た。 「次郎、よく戻って来てくれました。」  そのおろおろした声は不断の辨のようではなかった。 「姫君は御無事ですか。」 「御無事です。次郎の戻るのを、それは待っていらっしゃいます。こちらへ。」 「他のかたがたは。」 「いぎたない人たち、」といつもの辨らしい調子で罵《ののし》った。「でもその方が宜しいのよ。みんなが起きてくれば大騒ぎになるでしょう。そうすれば、どういう噂が立たないとも限りません。今夜のことを知っているのは、次郎とわたしばかりです。さあこちらへお出でなさい。」  しかし次郎は尚もためらっていた。姫の寝所へ近づくことは、たとえこのような場合であっても憚《はばか》られた。 「お姫さまがお待ちかねです。」  次郎は手を取られるようにして、ただ一つ点《とも》されている燈台の近くへと案内された。その仄かな明るみの中に、浮び出るようにしどけなく横たわっている姫の姿が眼に映った。 「次郎でございます。」  辨がそう言うと、姫は上半身を起して、脣をわななかせた。 「ああ次郎。」 「姫君、御無事でしたか。」 「次郎、ここへ来て。」  姫はまだ怯《おび》えているらしく、黒い髪が顔の半ばを覆い、それが漣《さざなみ》のように揺れていた。その物|怖《お》じしたような小さな顔は、思わず息を呑むほど美しかった。滑り落ちそうな衣《きぬ》のために、白い肩の肉が少しばかり見え、黒髪がその肩に散っていた。 「曲者は取り逃しました。不つつかで申訣《もうしわけ》ありません。」  次郎が燈台の側に畏《かしこま》ると、姫は感謝の籠った眼指《まなざし》で次郎を見た。 「それはいいのです。次郎が折よく来てくれたので、危いところを助かりました。本当によく来てくれました。」 「折よくお庭を見廻っていたものですから。」  次郎ははかばかしく口を利くことも出来なかった。手を触れることが出来るほどの近くに、こうして姫の不断の姿を見ていると、かねて想像していたのとは較べものにならぬその美しさに、魂が惹《ひ》き入れられて行くように感じた。 「姫君はもうお休み下さい。私は外で朝まで番をしていますから、御心配は要りません。」  次郎が立とうとすると、姫は引きとめるようにその細い手を前に出した。 「いいえ。」  その白い手はまだかすかに顫えていた。 「しかし私が此所《ここ》にいては。」 「いいえ、いて下さい。わたしはまだ怖くて。」  辨がうしろの方から声を掛けた。 「次郎、賊はもう退散したのですね。」 「残念ながら取り逃しました。」 「もう戻っては来ませんかしら。」 「馬で逃げましたから、万が一にも戻ることはありますまい。私の召し連れている郎等を起して、朝まで見張らせます。」 「ではお姫さま、いつまでも次郎にいてもらうわけには参りますまい。誰かが起きでもすれば、かえってうるそうございます。今夜のことは人に知られてはなりませぬから。」  姫はまだ暫《しばら》く、うつけたように次郎を見詰めていたが、不意にその身体が前屈《まえかが》みに倒れかかった。次郎は危《あやう》く抱きとめた。辨が走り寄って来て、次郎を助けて姫を抱きかかえた。 「お姫さま。」 「そっと休ませた方が宜しいでしょう。」  姫はまた気を喪ってしまったらしく、固く眼を閉じたままだった。姫を寝かせて、辨がかいがいしく気附の薬などを口に含ませている間、次郎はその場を去りもあえず、じっと姫の寝顔を眺めていた。何という美しい人だろう、この姫君のためならば、たとえ命を棄てても惜しくはない、と次郎は考えた。それと共に、先程の不動丸の高笑いが、「命を懸けて恋をした、」とほざいたその声が、今も尚聞えるようだった。  たとえ誰が姫君に恋をしようと、己の恋にまさるものはない、と次郎信親は心の中で呟《つぶや》いた。   幻術     一  中納言はくつろいだ姿で、北の方や末の姫に相手をさせながら酒を酌《く》んでいた。ちらほらと綻《ほころ》びた梅の花のかすかな香りが、壺庭《つぼにわ》から東の対屋まで流れて来て、春の間近いことをしらせている。それでも中納言は背中を丸めて、火桶《ひおけ》を抱え込むようにしていた。 「明日、そなたたちに面白いものを見せてやろう。」  この日頃、憂《う》かない顔ばかりしていた夫が、珍しく晴れ晴れと、機嫌を取るような表情をして言ったので、北の方は好奇心に駆られて訊《き》き返した。 「何でございます、その面白いものとは。」 「はて何かな、当てて御覧。」 「それは無理でございますよ。急に当てろと申されましても。」  北の方は横にいる姫や侍女たちの方を見て同感を求めた。その姫は西の対にいる継《まま》しい娘よりは三つ四つ若くて、まだ子供子供していたが、すぐさま母親に代って質問した。 「異国《とつくに》から渡って来た楽師か何かですの。」 「いやそうではない。」 「では蝦夷《えみし》で取れた珍しい獣でしょう。」 「そんなものではない。」 「それでは何かしら。」  末の姫が相談するように母親の方を見上げて考え込んでいるのを、中納言は満足そうに眺めていた。西の姫もこのようにはきはきと物を言ってくれればいいのにと、顔立はさして美しいとは言えない末の娘を見るにつけても、思っていた。こうして北の方のところに来ている時でも、中納言が心の中で案じていたのは、此所《ここ》にはいない、そして今もつくねんと寂しげにしているであろう西の対屋の姫のことで、その姫には甘えるべき母親もいないのだということが、いつも念頭から去らなかった。 「そんなにじらさないで、早くおっしゃいまし。」  北の方に催促されて、中納言は漸《ようや》く口を切った。 「時にそなたたちは、この頃都で名高い智円《ちえん》という陰陽師《おんようじ》のことを知っているかな。」 「さあ存じませんが。」  そこにいる女たちはみな顔を見合せて、不思議そうな様子をした。 「知らぬのか。それでは話にならぬな。」 「下々《しもじも》のことは存じません。」  末の姫が高慢そうな口を利いた。しかし好奇心はその眼に光っていた。 「半月ばかり以前のことだが、京の町におかしな法師が現れおった。そもそもの初めは、二条大路の堀河院の前のあたりで、大きな黒牛が道の中ほどに寝そべったなり、動かなくなった。折しもさる高貴のお方のお通りがあるという時刻で、滝口《たきぐち》の侍どもが舎人《とねり》を連れてこの牛を動かしにかかったのだが、こいつめが押しても引いてもびくとも動かない。牛飼いもどこへ行ったやら姿を見せず、その牛だけが大路の真中に悠々と寝そべったなり、時々のんびりした声を出して鳴いていると思いなさい。時は刻々に迫り、もう行列が見えて来た。物見の下衆《げす》どもは面白がって囃《はや》したてる、侍どもはいきり立っても相手が畜生ではどうにも埒《らち》が明かぬ。進退|谷《きわ》まったところに、件《くだん》の法師がしずしずと現れた。」 「まるでお父さまは見て来たようにおっしゃるのね。」  末の姫が若々しい声を挟《はさ》み、侍女たちは口を抑えて笑い、中納言は得意げに話を続けた。 「そこで法師が、『どうなされた、』と訊くので、『これこれだ、』と答えると、『それはわけもないこと、』と言って、黒牛の首筋をぽんと叩くと、黒牛はすぐさま立ち上って、法師のあとに従って道の横手にしりぞく。そればかりか、行列がその前に差しかかると、足を四つに折って、さも土下座するように畏ったから、見ている者どももやんやとばかり感心した。滝口はすっかり面目を失した。」 「しかしお父さま、それは法師が自分で飼っている牛だったのでしょう。それなら当り前よ。」 「そう思うだろう。いや、このあとが面白いのだ。」  中納言は息を入れて、傍《かたわ》らの懸盤《かけばん》の上から杯を取り上げた。侍女の一人が瓶子《へいし》を取って酌をした。中納言の動作は万事につけて悠長で、少しも話を急がなかった。 「さて、行列が行ってしまうと、滝口の武士の一人が、いま姫が言ったのと同じようなことを考えた。つかつかと法師のところへ来ると、『これは御坊の召し使う牛であろう、』と詰問した。法師は、『そうではない、それがしは牛などは連れておらぬ、ほんの行きずりに来合せたばかりだ、』と答えたのだが、武士は承知しない。『不届きである、早々に立ち去れ、』と命じて、『このくそ坊主め、』と悪口を言ったのが悪かったのだな。法師が牛の首をまたぽんと叩くと、その牛がのっそり立ち上って、武士の方へ歩き始めたのだ。武士が叱りつけても牛の方はとにかく進んで行く。首を下げ、角を立てて進んで来る以上、滝口はじりじりと後ずさりをする。まさか刀を抜くわけにもいかない。仲間の滝口どもも一緒になって何とか牛を留めようとするが、こいつめは動き出したら今度は止らないというわけだ。悪口を言った滝口はさんざんに追い廻された。」 「さぞおかしな恰好だったでしょうね。」 「滝口にしたら、おかしいどころではなかろう。とにかく黒牛がその滝口を小突きながら、いつのまにやらぐるっと一廻りして、もとの法師のいるところまで戻って来た。こうなると滝口の面々も意地になって、法師を引立てようとした。何しろ法師さえ掴《つか》まえれば、牛の方はおとなしくなるとでも思ったのかな。」  中納言はそこでまた杯を傾けた。北の方までが、姫と一緒になって話の続きを催促した。 「そこで法師を掴まえようとしたら、その法師が、いきなり牛の口のなかへ飛び込んだ。」 「何ですって。」  その場の女たちがみな一斉にはしたない声を出した。中納言はゆったりと笑った。 「驚いたかな。」 「だってお父さま、牛の口には人間ははいれませんわ。」 「それがするするとはいってしまったのだ。その頃はもうあたりは黒山の人だかりで、その見物の眼の前で確かに牛の口のなかに消えてしまった。滝口どもが地団太《じだんだ》ふんでもどうにもならぬ。それに牛の奴が、今度は道の中に四足で立ったなり、びくとも動かない。押しても引いても大磐石《だいばんじやく》のように突っ立っている。滝口どももしまいには呆《あき》れ果てて、そこを立ち去ってしまった。」 「おや、法師はそれなり消えてしまったんですか。」  北の方が一同の疑問を代表して夫に訊いた。 「滝口がいなくなると共に、群集の中から牛飼いが現れた。何でも、高貴のお方の行列が来るというのに、自分の引いている牛が動かなくなったので、怖くなって、それまで人込にまぎれていたというのだな。めったに出て来ては、それこそ滝口に引っ立てられよう。そこでもう大丈夫だろうという時になって牛を連れに来た。牛も飼主に引かれておとなしく歩き出した。と、急にその牛が、『待ってくれ、』と叫んだ。と同時に、その牛の口から、さっきの法師がぴょんと飛び出したのだ。」 「まあそんなお話、本当とは思えませんわ。」  姫が、すっかり騙《だま》されたというあどけない顔をして、叫んだ。しかし中納言はいとも真面目に首を振った。 「これは本当も本当、この頃評判の話で、見た者も大勢いる。群集を前にして、その法師がこう言ったそうだ。『それがしは智円と申す陰陽師である。人助けと思って牛を動かしてやったが、とんだひどい目に会った。しかしそれがしの術は、お手前らの見た通りだ。それがしは相《そう》も見る、吉凶も占う。御用のあるかたはいつなりと訪ねて来られよ。修業の途中、ただ今は三条大橋のほとりの無住の荒れ寺に寝泊りしている。』この話が伝ってから、智円という陰陽師は都随一の人気者よ。」 「どこまでが噂で、どこまでが実際にあったことか、よく分らないお話ですわね。」  北の方が少しばかり嘲《あざけ》るように口を挟むと、中納言はすかさず声を大きくした。 「だからこそ明日、そなたたちに見せてやろうと言っているのだ。」 「その陰陽師をですか。」 「そうとも。まことか嘘か、見れば分る。その法師に術を使わせて、一同見物いたそう。さぞかし面白い見ものであろう。」  末の姫が侍女たちとはしゃいだ声を上げて喜んでいるのを、北の方は自分もほほえみを浮べて眺めていた。中納言の気紛れは今に始まったことではない。気紛れというよりは物見高いといった方がよいかもしれぬ。しかし中納言の真意がどこにあるかを、北の方はすぐに推測した。姫や侍女たちが退《さが》り、夫と二人きりになった時に、北の方はそのことを口に出した。 「あなたはわざわざわたくしどもの慰みのために陰陽師をお招びになるのですの。」 「そうとも。」 「その実、お目当はただ一人、西の姫を慰めてあげたいというのが、あなたの御本心でございましょう。」 「それもあるな。」  北の方の眼にちらちらと皮肉そうな光が漂っているのを認めて、中納言は火桶を抱えたなりあらぬ方に眼をそらした。それから急に居丈高になって訊き返した。 「それが悪いか。」 「何もお腹立ちになることはありませぬ、」と北の方は穏かに答えた。「西の姫も御入内を間近に控えて、どうしてああ沈んでばかりいるのでしょうね。この上もない出世というのに、姫の気持ばかりは分りませぬ。わたくしにしたところで、あの姫の為合《しあわ》せを願わないわけではないのですからね。」 「ふむ。」  中納言の機嫌はすぐに直った。ちょっと思案してから、声をひそめて打明けた。 「これはそなたにはまだ言ってないことだが、実はいつぞや、太秦の屋形に姫を遣《や》った夜に賊がはいった。」  北の方は見る見る顔色を変えた。 「それではもしや。」 「いや、懸念には及ばぬ。次郎信親という信濃より参った新参の内舎人《うどねり》が、夜っぴて番をしておったので、無事に賊を追い払った。このことはごくごくの内密じゃ。」 「何という恐ろしいこと。もしやそれが知れたら御入内の障《さわ》りになりましょう。」 「このことは誰も知らぬ。それはよいとして、姫が可哀そうにそれ以来すっかりふさぐようになった。次郎信親が日夜警護の任に当っておるから、この屋敷にいる限り恐れることはないのだが、娘ごころとしては気がふさぐのも無理はあるまい。そこで気晴らしに、陰陽師の幻術でも見せてやろうと考えたのだ。」 「それはよく気がおつきになりました。」  北の方はやさしい声でそう言ったが、心の底では、西の姫の御入内が仮に取りやめになったところで、あと数年すれば末の姫を代りに立てることも出来るのではないかと考えていた。 「あれは不為合せな娘ゆえ——。」  中納言は低い声で呟いた。     二  翌日は如何《いか》にも春の初めらしいうららかな日和で、寝殿のすぐ前に植えられている紅梅や白梅の花が幾つも綻び、香《かぐ》わしい匂があたりに立ちこめていた。寝殿には中納言をはじめ、客に招いた身分ある親族たちが席を連ね、御簾《みす》の向うには北の方や姫たちが侍女にかしずかれて催しの始まるのを待っていた。渡り廊下には主だった家来たちが静粛に控えていた。  西の姫は父の中納言から今日のことは聞かされていたが、そのために格別心がはずむとも覚えなかった。太秦の事件のあと、姫は毎日を鬱々として愉しまなかった。怪しい盗賊に附け狙われたことよりも、恐らくは最後の機会かと思われた太秦への下向の折に、遂に左大臣家の末の若殿に逢うことが出来なかったことの方が悲しかった。若殿はとうとう来て下さらなかった。それを思えば、望みもここに尽きたかと嘆かれる。父に言われるままに、同胞《はらから》の姫や北の方と並んで御簾越しに人けない中庭の方を眺めていたが、心はともすれば嘗ての夜の若殿の面影にのみあこがれている。 「智円法師をお連れしました。」  年嵩《としかさ》の武士が法体《ほつたい》の陰陽師を伴って中庭に現れ、恭《うやうや》しく一礼してから、自分は脇に退いた。広い中庭の中央に一人だけ取り残されて、その男は恐れる様子もなく突っ立っていた。  多くの人たちの好奇心に充ちた視線を浴びながら、その法師は微塵《みじん》もひるむ色なく、まず鋭い眼光で寝殿の中の中納言の顔を見詰めた。それから素早くその左右の貴顕の士たちを視線に収め、更に御簾の中を、まるで易々と透視できるかのように、一人一人調べた。それから廊下に控えている家来たちをも順繰りに見た。その間一語も発せず、濃く長い眉の下から、怪しい光を発する両の瞳《ひとみ》だけが、刺し貫くように動いた。それから軽く一揖《いちゆう》した。  それまでの間、誰一人身じろぎする者もなかったが、その瞬間に呪縛《じゆばく》が破れたかのように、中納言の手前にいた老いた家司《けいし》が声を掛けた。 「智円法師と申されるか。」 「如何にも、智円と申します。」 「お手前の術のことが殿様のお耳にはいった。ついては我等にその術を披露して頂きたい。」  法師は家司を見詰めて頷《うなず》き、それから低いがしかしよく通る声で答えた。 「それがしは陰陽道を修業する者でござる。それがしの試みる法術は、女子供の慰みではござらぬ。大事の場合、存亡に臨んだ場合にのみ用いてしかるべきもの。されど本日は中納言さまのせっかくのお招き故、少しばかり拙《つたな》い業《わざ》をお眼に掛けよう。ここでお見せするのは、さして難しい術ではござらぬ。たかがこれほどのことかと思われては迷惑する。そのおつもりで御覧なされよ。」  法師はそれだけ言うと、眼を閉じ、合掌した。何か呪文《じゆもん》でも称《とな》えているのか、その脣がかすかに戦《わなな》いているが言葉は聞えない。そして長い時間が何ごともなく過ぎた。  御簾のうちの女たちは眼を凝《こら》して法師の祈る様子を見詰めていた。いや、女たちばかりではない、そこにいる男たちも、皆々、何ごとが始まるのかとまじろぎもせずに法師から眼を離さなかった。法師の身体は小ゆるぎもしない。暖かい春の日射《ひざし》を全身に浴びて、黙然と祈祷《きとう》しているばかりである。それがあまりに長いので、見詰めている人たちも漸く飽きた。寝殿の階《きざはし》の横に植えられている紅梅白梅の花片《はなびら》が、はらはらと散っている。  人々の眼が、塑像のような法師の姿から漸くその傍《かたわ》らの梅の花の方に移ると、その花片の散り急ぐのがいつとはなしに眼に留った。それらの花片は、風らしい風もないのに、いつしかすっかり散り尽していた。しかしそれでも、不思議がいつのまにか既に始まっていることに、気のつかない人もいた。  しかし人々の眼は、その時はもう前栽《せんざい》の植込に眼を奪われていた。そこには五葉の松に並んで桜の木が数本植えられていたが、その桜が、何と見事な花を咲かせていた。前栽の緑の色が次第に濃くなり、桜が散ると共に、つつじが咲き、山吹が咲き、藤の花房がしだれて、春も闌《たけなわ》の季節となった。眼を起すと、前栽だけではない。遣水《やりみず》から池のあたりまで、すがすがしい若葉となって、日射が急に強くなった。着ているものを脱ぎたくなるほどの暑気が充ち満ち、思わず空を仰ぐと、黒い雲が一陣の風に乗って廂《ひさし》の近くに迫っている。あたりが急に暗くなったかと思うと、稲妻が光り、雷鳴がとどろき、女たちが面を伏せるのと同時に、沛然《はいぜん》と夕立が降って来た。まるで一寸先が見えない程の大粒の雨が、滝のように降る。縁近くにいた人たちは顔の濡れるのを厭《いと》うように扇をひろげたが、雨はすぐに歇《や》んだ。あたりはまた明るくなった。と見れば、もう秋の気配が濃い。遣水のほとりで、桔梗《ききよう》や女郎花《おみなえし》が、しおらしく咲いている。可憐《かれん》な撫子《なでしこ》が眼に留る。芒《すすき》の根本では虫の音のすだくのさえ聞える。萩の花がはらはらと散る。そのうちに雪が降り始めた。松の梢が、植込が、庭の表が、すぐに白くなる。眼路《めじ》の限り一面に白い。寒さが厳しくなり、木々の梢からは音を立てて積った雪が落ちる。  そして見物の人たちがはっと夢から覚めたように正気に復《かえ》った時に、中庭の中央には先程と同じ恰好をして、法師が凝然《ぎようぜん》と立っているばかりである。日は相変らずうららかに照っている。階の前の紅白の梅は数輪の花を開いているのみで、春はまだ浅い。人々は一斉に感嘆の吐息を洩らしたが、その中には多少の恐怖の念も籠《こも》っていた。  法師は静かに合掌の手をほどき、眼を開いた。 「見事であった。厚く礼をして取らせよ。」  中納言は小声で家司にそう命じ、家司はその旨を法師に伝えた。案内の武士に誘《いざな》われて法師が立ち去ると、待ち兼ねたように女たちは口を開いた。今その眼で見たことが信じられないかのように、幻術の見事であったことを口々に語り合った。 「何て面白かったのでしょう。もっと他にも見せてもらいたかったわ。」  末の姫はまるで夢中になってはしゃいでいた。しかし憂かない顔をしたまま黙然と隣に坐っている腹違いの姉を見ると、心配そうに尋ねた。 「お姉さま、どう遊ばして。」 「どうもしませんわ。でもわたくしは何だか、胸が騒いで。」  その答に、末の姫は若々しい声で笑った。 「ちっとも恐ろしいことなんか。わたくしたちにもああいう術が使えたらさぞ便利でしょうね。寒ければ夏にすればいいのだし、暑ければ冬にすればいいのですからね。ねえお母さま。」  北の方は姫をはしたないと言ってたしなめた。北の方も、今の幻術に言うに言われぬ空恐ろしいものを感じていた。折角のこの催しも、西の姫のために(また自分たち一家のためにも)何かしら不吉な前兆ではないかという、奇妙な予感のようなものが心を走った。     三  次郎信親は、この頃町の噂に聞く智円という幻術使いが、昨年の秋近江の芒の原で会った陰陽師ではないかと、かねがね疑っていたが、この日は新参の身ながら透廊《すきろう》の端に席を許されて、久しぶりに陰陽師の姿を見ることが出来た。その姿かたちは旅先の折とさして変ってはいず、晴れの場所に現れるにしてはあの時と同じような粗末な法服を纏《まと》っていた。ただ眼光だけは旧に倍して鋭く、じろりと自分の方を見た時には、射すくめられる程の威厳があった。己《おれ》は決して怪しい術などにたぶらかされはせぬぞ、と固く自分に言い聞かせたが、他愛《たわい》もなく幻術の虜《とりこ》となっていた。術が終った時に、次郎はいまいましげに舌打した。  しかし懐旧の念がやがて心を占めた。かの法師は旅寝の一夜を共にしたばかりか、都に出てからの心構えなどをも親切に教えてくれた。識《し》る人も少ない都の暮しで、ここで会ったのも何かの縁《えにし》であろう。そう考えると矢も楯《たて》もたまらず、法師の姿を探し求めた。法師が家司からねぎらわれて出て来るのを、平門の前で待っていた。 「御坊、お久しぶりでござる。」 「これはいつぞやのお武家さま、こちらにおいででございましたか。」  法師は先程中庭で見せた居丈高の様子とは打って変って、穏かな微笑を見せて挨拶した。 「久しぶりに御坊の姿を見て懐しく存じた。宜しければ私の壺屋に来ませんか。」  法師は承知し、次郎は案内の武士に引取ってもらって自分の壺屋へ案内した。法師は嬉しげに進められる菓物《くだもの》などを口にした。次郎は繰返してその節の礼を述べ、どのように御馳走したところで、あの夜の干飯《ほしいい》のお返しにはならぬと言った。 「私はあれからこの中納言さまのお屋敷で、何事もなくて過しているが、御坊の法術はいよいよ磨きがかかりましたな。」 「いや子供騙しみたいなものでございますよ。」 「それは謙遜《けんそん》がすぎる。見事なものであった。」 「あなたさまは、あの六角堂で見た葬礼の一行が、わたくしの法術だとお見破りになりましたか。」  法師は一瞬きらりと眼を光らせた。 「いやお恥ずかしいが、あの時は分らなかった。後にあの笛師と再び会って、その折のことなどを語り合っているうちに、ようよう暁《さと》った次第です。」 「さよう、あなたさまは法術が見たいと仰せられましたからな、そう思う時には既に術にかかったも同然。それより今日は、わたくしも必死の思いをいたしました。危いところであった。」  次郎は怪訝《けげん》な顔をして、問い返した。 「今日は中納言さまを初め一同が、御坊の術を見たいというので集っていたのではないか。それこそ初めから、術にかかっていたも同然であろうに。」 「いやいや、それが一人だけ例外がありました。」 「誰です、それは。私も術にかかるまいと必死に気持を集注してはいたが。」 「あなたさまではございません。御簾のうちに一人。」  次郎にはそれが誰だか分らなかった。相手が説明するのをもどかしい気持で待っていた。 「さよう、この法術というのは、これを見ている人たちの気持が、すべてわたくしの気持に一致しなければなりませぬ。人々の気持を操ることによって、幻が現ずるのです。わたくしはまずそこに居合せる人たちの眼を見る、その心を読む、その心をわたくしと一つにする、法術の奥義とても唯それだけのことです。ところが先程、御簾の向うに一人だけ、わたくしを見ようとせぬ女人がおられた。まるで他のことを考え続けていて、わたくしの心の中にはいろうとせぬ。ほとほと術が破れるところでした。」 「ふむ。」  次郎は思案し、それから呟いた。 「それは、恐らく姫です。」 「如何にも。その姫君のみはわたくしの術にかかりそうもなかった。そこでわたくしは姫一人のために、姫君にのみ見える術を使いました。あなたがたが、春から夏、夏から秋、秋から冬と四季のめぐりを見ていられた間、わたくしは姫君のために、別の幻を現じさせた。姫君が心に思われている通りを、見せてさし上げたのです。一時《いつとき》に、二《ふた》ようの術を使ったというのはわたくしも初めてです。これは我が命を縮めかねないほどの至難の業《わざ》です。」 「一体姫は何を考えていられたのだろう。姫が心に思っていたことというのは何なのか、それを教えて頂きたい。」 「それは申されませぬ。」  法師はきっぱりと言い切り、それから穏かな声で訊いた。 「あなたさまはその姫君にお目通りをなされましたか。」 「うむ。」 「笛の縁で。」 「よく御存じだな。如何にも笛の縁で、姫のお顔を拝することが出来た。しかしただ一度だけだ。」  次郎は自らを憐《あわれ》むようにそう呟いた。法師がその様子をじっと見詰めていることには気がつかなかった。 「あなたさまが更に中納言さまの信任を得られるようになれば、姫君にもしげしげお会い出来るようになりましょう。」 「しかしどうすれば中納言さまの信任が得られる。私は姫の護衛をして少しく手柄を立てた。しかしその後は何ごとも起らぬ。」 「そのうちに何ごとか起りましょう。わたくしはあなたさまのお味方をしてさし上げますよ。」  法師は親切にそう言ったが、その微笑は次郎には謎《なぞ》のように映った。   嵐の前     一  東洞院川《ひがしのとういんがわ》が西洞院川に合流する四条の川岸を背にして、伊勢殿《いせどの》と呼ばれている大きな屋敷があった。貴族の家ではないが、召し使われている下人の数も多く、屈強の侍ふうの男も大勢いる。主人は水銀《みずがね》を商っている商人で、ひとかたならぬ財産を持っている故、それであのような厳しい警護をしているのであろうと噂《うわさ》されていた。水銀の産地である伊勢の国へ出向く時などは、数え切れないほどの馬を連ね、多くの侍どもが周囲を囲んで、物々しい行列をして出掛けて行った。門を構え高い築地《ついじ》をめぐらしているから、町の人には中の様子はさっぱり分らず、主人が在宅しているものやら商いで旅に出ているものやら、見当もつかなかった。屋敷の中には大きな倉が並び、いつもひっそりしていた。  警護の厳しいその屋敷の裏手の最も奥まったところに、別に建てられている小さな壺屋《つぼや》があり、そこに夜おそく三人の男が顔をつき合せるようにして坐っていた。 「大頭《おおがしら》はばかに遅いが、間違いはありませんかな、伊勢殿。」  それを訊《き》いたのは顔一面|髭《ひげ》だらけの男で、円座の上に無遠慮に足を組んだまま頤《あご》を突き出した。 「間違いはない。もう見えるであろう。」  伊勢殿と呼ばれた老人は、厚い真綿のはいった衣を幾重にも着込んで、柔和な微笑を浮べながら耳を澄ませるような表情をした。ここからは東洞院川の水音が絶え間なく聞える。 「このところ久しくお出でがなかった。何しろこの前太秦でやりそこなって以来お顔を見ておりません。」 「大頭がやりそこなうなどと、珍しいこともあったものだ、なあ小頭。」  法体の男が側から口を入れた。これは嘗《かつ》て蔵人の少将が百鬼夜行と見間違えた偸盗《ちゆうとう》の一味で、その時海念坊と呼ばれていた男である。とすると、ここには小頭もいる、海念坊もいる、この伊勢殿とやらも賊の一味であるに違いない。しかしこの屋敷の主《あるじ》は、年も取っていれば、身体《からだ》も痩《や》せて小さく、おっとりと構えていて、それらしい武張ったところは微塵《みじん》もなかった。どう見ても、年来商売に打込んで、そろそろ楽隠居でもしそうな裕福な商人としか思われなかった。 「来たな。」  老人がひとり頷《うなず》いたが、あとの二人には何の気配も聞き取れなかった。川音が少しく乱れ、小さな艀《はしけ》を川岸に舫《もや》った様子である。跫音《あしおと》はまるでしなかったが、裏口から褐《かちん》の直垂《ひたたれ》にやはり同じ色の袴《はかま》をつけた背の高い男が、いつのまにかぬっと部屋の中に現れた。 「遅うなった。」  主座の老人は首を振って頷いただけだが、小頭と海念坊とはその場に坐り直して一礼した。その間に男は悠々と空いている円座に座を占めた。顔は黒い覆面の頭巾《ずきん》で隠していて、それを脱ごうともしない。他の男たちも格別それを咎《とが》める様子もない。 「大頭《おおがしら》、一別以来、お久しぶりでござる。」  小頭の挨拶に、頭巾の男は苦笑《にがわら》いを洩らしたようである。 「もうよいわ、あの時の話は耳が痛い。しかし大層世話になった。よいところにお前たちが来てくれて助かった。」  伊勢殿がそこで一種の皮肉な口調で尋ねた。 「大頭でも手にあまる男があるものかな。」 「いや、平常ならば後《おく》れは取らぬ。あれは女ばかりと少しあまく見て、一人で出掛けて行ったのが不覚であった。もっともあの次郎信親とかいう奴は、なかなかたのもしげな侍よ。味方につければ、小頭などよりも働きがあろうやもしれぬ。」  小頭が髭の中から口を尖《とが》らせて何やら喚きそうになるのを、伊勢殿が軽く手を上げて制した。 「気心の知れぬ者が味方につこう筈はない。この私とても、真に心をゆるして召し使うのは幾人とはおらぬ。悪《あ》しゅうは言うまいぞ。そもそも大頭が、中納言の姫のもとに忍び込むという話を聞いて、伏勢を命じたのはこの私の一存だ。」 「かたじけない。礼を申す。」 「礼は言わんでもよい。ただ危い真似はせぬようにして頂きたい。油断は禁物じゃ。」  老人はじろりと大頭を見たが、その一瞬の眼光は柔和な面立にはまるで似合わなかった。 「して今夜の相談というのは何だな。」  そう訊かれて、頭巾の男は暫《しばら》く相手の顔を見詰めていたが、やがて重々しく答えた。 「実は次の獲物に、中納言の屋形を襲おうかと思う。」 「なに、中納言とは三条の中納言か。」 「いかにも。」 「姫が目当てか。」  頭巾の中の表情は分らなかったが、男は少しく顔をそむけて主人から眼をそらせた。それから沈鬱に頷いた。 「それもある。」  一座の者は皆押し黙った。大頭はゆるゆるとその意図を説明した。 「己《おれ》は今までに嘗て女に迷ったことはない。太秦の屋敷に忍び入ったのも、姫君の噂《うわさ》を聞いて、どんな女か知りたいと思っただけのことだ。しかしいざという時に邪魔者がはいって、やむなく引返した。しかしこのままで過したのでは、己の面目に関《かかわ》る。なるほど中納言の家中では、まさか姫君が知らぬ男を寝所に引き入れたなどと、口が腐っても言う筈はない。しかし己がしくじったことは、姫が知っている。あの次郎信親という男が知っている、中納言とても聞いていよう。それでは己の名がすたる。この己が、姫君に三条の屋形に戻られては、もう手も出せぬ、みすみす姫君をあきらめて泣き寝入りをしたなどと、たとえ数えるほどの小《こ》人数であろうとも口の端にかかっては、天《あめ》が下に名を知られた不動丸の名折というものだ。お前等も、大頭は女のもとに忍び入って見事にしくじったと、内心では嗤《わら》っていよう。」 「我々は決して——。」  海念坊が宥《なだ》めるように禿《は》げた頭を動かした。  その時伊勢殿が念を押すように訊いた。 「では大頭は、三条の屋形を襲って姫を攫《さら》うと言うのだな。」 「如何《いか》にも。」 「それはおことの意地か。」  頭巾の男はその大きな眼を暫く閉じていたが、やがて眼を開くとはっきりと断言した。 「いや、意地ばかりではない。己はあの姫君に想いを懸けたのだ。姫を自分のものにしたいのだ。」  一座の者は動揺し、小頭が思わず叫んだ。 「大頭が女に懸想《けそう》するなどとは——。己はまた大頭は木の股《また》からでも生れたものと思っていたが。」  海念坊もしきりに首を振っていた。 「不動丸は、悪逆無道は働くが女に非道はせぬと、かねがね仰せられたのは大頭ではござらぬか。」 「如何にも非道はせぬ。己はあの姫を自分の妻《め》としたいだけだ。」 「しかし御入内のきまっている姫君ですぞ。」 「知っておる。だからこそ奪い取るのだ。お前等はあの姫君を知るまい。赫夜姫《かぐやひめ》も及びもつかぬほどのうるわしさだ。噂に聞いただけならば諦《あきら》めることも出来ないではない。しかし己はこの眼に見、この腕に抱きしめて、しかも首尾をまっとうすることが出来なかった。姫君の移り香はこの腕に沁《し》み込んでいる、その黒髪は今でも己の頬に冷たい。どうか己の望みをかなえてくれ。」  それまで思案に耽《ふけ》っていた伊勢殿が、その時重々しく口を開いた。 「意地なればそれでよい。盗賊のなりわい、たとえ相手が中納言の屋形でも、押し入って姫を盗むことは、至難ではあるが不動丸に出来ぬことはあるまい。しかし恋となれば、また別だ。後々のことが思いやられる。」 「後々とは。」  大頭は黒い眸《ひとみ》を研ぎすまして老人の顔を注視した。 「姫を盗んだとてそのあとはどうなる。人質なれば返すことも出来よう。邪魔となれば命をあやめることも出来る。しかしおことが恋に焦れているとあれば、共に暮したくなるは必定《ひつじよう》。その時はどうする。表向きに妻とするわけには参るまい。今のように頭巾に顔を隠して、小頭や海念坊にも正体を知られずに、不動丸として時折姿を現す、——そのようなことも、姫を盗んでくればままにはなるまい。」 「伊勢殿にあずかって貰えばよかろう。」 「そううまく行くかな。私の屋敷には多くの配下がいる。私のためには命をも捨てて働こうという者どもばかりだ。私もそれだけのことはしてやっておる。しかし大頭がこの屋敷に姫を隠しているとなれば、ひとつ己たちも女を盗んで来ようという気になりはせぬかな。大頭のせっかくの威信も、そこなわれはせぬかな。」  相手はそれを聞いて無造作に言い切った。 「よし、伊勢殿がここに姫を置くことを肯《がえん》じないならば、己は頭巾を脱ぐまでだ。己は野盗になる。鈴鹿山《すずかやま》の山塞《さんさい》にでも姫とともに籠《こも》ることにする。」 「出世は諦めるか。」  大頭は目くばせをするように鋭く伊勢殿を睨《にら》んだ。この男の身分は、老人のほかは、小頭や海念坊にさえも秘密と見える。伊勢殿は失言を詫《わ》びるように首を振った。 「宜しい。おことがそれほどの決心ならば、三条の中納言の屋敷を襲うことにきめてもよい。大きな獲物だ。お前どもも異存はないな。」  小頭と海念坊は等しく頭を下げたが、多少の躊躇《ちゆうちよ》の色が小頭の髭面の中に見えた。 「あの屋敷はいつ見ても警備が厳重なようでござる。この前太秦で大頭の手を阻《はば》んだ男もいようし、大丈夫でござるかな。」 「そう早く弱音を吐いてはならんぞ、」と大頭がたしなめた。「それ故、伊勢殿の智慧《ちえ》をお借りするのだ。武勇にかけては不動丸はおさおさ人に引けは取らぬが、頭の働きにかけては御老体にはとてもかなわぬ。京の水銀《みずがね》商人、実は鈴鹿山の山賊の主魁《しゆかい》とは、我等には思いも及ばぬ変化《へんげ》の妙というものだ。何ぞ良い智慧があろう。」  老人はそれを聞いて屈託のない笑顔を見せ、それから錆《さ》びた声を一段とひそめて話し出した。東洞院川の川音が夜が更けると共に高くなった。     二  三条の中納言の屋敷に使われている者で、摂津の国の荘園から宿直《とのい》にのぼって来ている中年の下衆《げす》がいた。一見して田舎者らしい愚直な男で、所用で表に出ると、繁華な町並を金壺眼《かなつぼまなこ》をきょときょとさせて歩いていた。屋敷内の雑舎《ぞうしや》に住んで、厨《くりや》や湯殿などの雑用をつとめ、料理女などからも役に立つ男として重宝がられていたが、内心はいつも侘《わび》しい気持で、早く任期が果てて故郷へ帰れる日を待ち望んでいた。  或る日この男は、七条堀川の東の市《いち》まで、醤《ひしお》を買いに行かされた。木の桶《おけ》に入れた醤を肩に担《かつ》いで、堀川の大路を戻って来る途中、自分がぼんやりしていたのか、それとも相手が急いでいたのかは分らなかったが、水干を着た若い男に突き当られて、思わずその桶を取り落してしまった。あっというまに桶の蓋が明き、中身の醤がみるみるうちに溢《あふ》れ出て道路の上に流れた。 「やあ、これは一大事。」  男は泣きそうな声を出して、地面に転っている桶に飛びついたが、今はもう後の祭。手を醤だらけにして呆然とその場に屈《かが》み込んだ。 「これは済まぬことをしましたなあ。まったく手前の不調法で、お詫びの申しようもない。如何《いかが》ですか、ちょっと手前のところまでお寄りになりませんかね。中身は手前が元通りにして進ぜますよ。」  眼の前に突っ立って、まるで諳誦《あんしよう》でもするようにぺらぺらと喋《しやべ》っているのは、頤のあたりに疎《まば》らに鬚《ひげ》の生えた、どこやら陰険な感じのする若い男である。しかし下衆には、この事故が故意にしくまれたことだとは分らない。どうしたものかと思案にあぐねていただけに、すぐさま相手の好意に飛びついた。情ないほど頭を下げた。 「何のお安い御用だ。もともとこちらが悪いんでね。まあついて来なさい。」  下衆は半分ほど中身の減った木桶を、醤にまみれた手で抱え、すごすごとその見知らぬ男のあとに従った。若い男はかなり早い足取で(というのも、他の通行人の注意を惹《ひ》かないためだったが、その魂胆のほどは下衆には分らなかった)、やがて綾《あや》の小路を左に折れて、目立たない小さな家の前で止った。ただその家の門《かど》の前に柳の木が一本立っているのが、何かの目印のように見えた。若い男は半蔀《はじとみ》から中を覗《のぞ》き、それが合図のように戸が開いて、少し年上らしい、やはり屈強の若者が現れて、下衆を中へ招じ入れた。中には更に二人ほどの男がいて、どちらも髭だらけの精悍《せいかん》な顔をしていた。 「さあこちらへ来なさい。実は私が粗相をして、この人の大事な買物をふいにしてしまった。誰ぞ東の市まで一走りして、醤を一|樽《たる》買って来てはくれまいか。」 「そんな御面倒をお掛けしては——。」  下衆は一応辞退して見せたが、その間に一人の男が、応《おう》とばかり立ち上って出て行った。残りの男は酒や肴《さかな》の用意をする。忽《たちま》ちのうちに支度が整い、濁った酒をなみなみと注いだ杯が下衆の手に渡された。 「楽にしていなされ。今すぐに戻って参る。その間はゆっくりするがいい。ときにお主は田舎の出だな。田舎はどちらかな。」  人相はあまりよくないが、この連中が親切にもてなしてくれるので、下衆はすっかり心を許して、進められるとついつい杯を重ねた。訊かれるままに身の上話もすれば、中納言の屋形での毎日の暮しぶりをも語った。 「お主もそれでは味気ない日々を送っていることであろう。都に出て、知り人もないとあってはさぞかし不自由とお見受けした。どうであろう、我々はこのように無骨な者どもだが、寄り合って暮しておる。酒もある、食い物もある。お主も時々遊びに来ては如何か。このようなことで識《し》り合ったのも他生の縁というもの、困ったことがあれば助けて進ぜよう、要り用なものがあれば用立てても差上げる。男どうし、遠慮は要らぬ。」  下衆はぺこぺこ頭を下げて聞いていたが、ここに連れ込んで来た若い男の口振りが、いつのまにか少し横柄になっていたのも、格別気にならなかった。そのうちに使に行った髭男が、新しい醤《ひしお》の桶を担いで帰って来たので、下衆はそれを貰い受けて、少し足を干鳥《ちどり》にしながら中納言の屋敷に戻った。その帰り際に、主人と見えた若い男がもう一度念を押した。 「いつでも遊びに来られよ。ここに来れば、飲むのも食うのもお主の心のままよ。綾の小路を堀川から東に折れて、門先《かどさき》に柳のある家が目印と覚えて、明日にもまたお出でなされ。」  下衆は自分の失敗を厨の庖丁師《ほうちようし》に知られることもなく、無事に役目を果してまた不断の暮しに戻ったが、二日もすると、柳のある家でもてなされた時のことを思い出さないわけにはいかなかった。何しろ殺風景な雑舎に住んで、漬物と共に水っぽい汁粥《しるかゆ》を掻《か》き込んでいる身には、その折の濁り酒のことはもとより、肴に出た乾鳥《ほしどり》や乾魚《ほしうお》の美味だったことが、涎《よだれ》とともに甦《よみがえ》って来る。そこでとうとう我慢がならず、三日目になるともう出掛けて行った。門《かど》を叩くと半蔀から誰かが覗く、そして戸が開いて中に招じ入れられ、この前同様に手厚くもてなされた。例の若い男が愛想よく話をしかける、他の男どもの顔ぶれは少し違っていたが、女の姿は相変らずこの家にはないようである。それでいて結構御馳走が並び、下衆はすっかり満悦して帰路に就いた。  こういうことが二度三度と重なるにつれて、下衆はすっかりこの連中と馴染《なじみ》になった。と言っても、果してどういう身分の者どもであるのか見当もつかない。主人の若い男は山城の国の豪族の息子で、供の者を連れて商売かたがた都見物に来ているのだと、口では言っている。しかし一癖ありげな他の男どもは、供の者というよりは仲間うちのように見えるし、商売というのも実状は何なのか。ただこの家には高価な絹や布の類が多量に貯えてあり、その交易に人が出たりはいったりすることから、何かその方面の仕事であろうかと疑っていた。 「お主もいずれ郷里《くに》に帰る節には、都からの土産などもいろいろ欲しかろう。その気にさえなってくれれば、こういう絹なども差上げますよ。」  言葉の端などにちらちらと様子のいいことを言う。 「その気」というのがどういうことなのか、怪しくは思うが、生来頭のめぐりの早い方ではないので、深くも尋ねずに、そのまま追従笑《ついしようわら》いなどを浮べて聞き流していた。若者の方もそれ以上は触れない。しかし下衆が中納言の屋敷へ帰る時刻になると、必ず何かしら引出物を与えて機嫌を取った。  しかしこういうことが幾度か重なって、遂にこの下衆は、胆《きも》の冷えるようなことを言い渡された。一座に屈強の男どもの居並ぶなかで、主人の若い男が日頃は見せぬ恐ろしい顔つきになって、こう言った。 「お主もしげしげと我等と附き合って、今はもう仲間うちも同然ゆえ、今日は折入って頼みがござる。実は我々は明後日の夜、中納言殿のお屋敷に討ち入って、財宝を頂戴いたそう所存だ。お主にも一役《ひとやく》たのみたい。」 「これはまた何という恐ろしいことを。」  下衆はわなわなと顫《ふる》えて、絶句した。 「いやいや、何も恐ろしいことはない。手筈は色々と整っておる。お主のすることはごく易しいことだ。」 「では、あなたさまがたは盗賊なので——。」 「如何にも。しかしお主はそういうことは聞かずともよい。否と言えば、お主の命は貰い受ける。応と言えば、礼は望み通りに取らせる。お主には何の危いこともない。中納言のお屋敷でも、お主が我等の味方などと誰一人知らぬこと、事が済んでもお主には何の嫌疑もかからぬ。それは己が請け合う。どうだ、よく考えろ。このようなうまい話はまたとないぞ。お主は一介の田舎者、宿直《とのい》が終って郷里《くに》に帰るとなっても、何の土産もあるまい。我等の味方につけば褒美《ほうび》は確実。忠義面などをして、折角の運を取りそこなうまいぞ。」  下衆はあまりの申し入れに度胆《どぎも》を抜かれていたが、欲に眼が眩《くら》んだというよりも、否と答えれば命を取るぞと言われたのが、骨の髄まで恐ろしく感じられ、眼の前がぼうっと霞《かす》んだようになって、思わず頷いた。 「それで、何をすれば宜しいので。」 「聞き分けたか。よし、それならば話してやろう。ここに紙の袋に入れた薬がある。明後日の夕餉《ゆうげ》の支度に、その方は自在に厨《くりや》の中にはいれようから、その時、汁粥《しるかゆ》を煮る大釜《おおがま》の中にこの中身をぶち込むのよ。人に見られぬよう、ただそれだけ気を配って事を運べばよい。わけもないことよ。」 「もし出来ませなんだら。」 「その時は、お主の命はないものと思え。味方の者が屋敷うちにも紛れておるから、お主のすることはすべて見通しじゃ。」  下衆は冷汗をたらたらと流して、怨めしそうに主人を眺めた。 「そのお薬とやらを入れて、お屋敷の方々を皆殺しになさるおつもりで。」  若い男は声をあげて笑った。 「そんな酷《むご》いことはせぬ。これは雄黄《ゆうおう》と呼ばれる薬でな、唐《から》から渡来した貴重この上ない代物《しろもの》よ。皆殺しにするほど多量にはない。腹痛《はらいた》でも起して、一時《いつとき》か二時《にとき》、おとなしくして貰えればそれでよいのだ。お偉い方々は粥などは食さぬ。侍や雑色《ぞうしき》どもが腹いっぱい喰《くら》って、働きが鈍くなればそれだけで結構。その間に我等が働く。」  周囲で睥睨《へいげい》している連中が、一斉に頷き合った。  下衆にしてみれば、どうにも逃道はない。日頃厨の中の雑役に使われている身には、大釜に近づくことはさして難しいことではないし、人に気づかれずに薬を入れるのも、勇を鼓せば何とかなろう。ああは言うものの、もしやその薬が命に関るほどの猛毒だとしても、自分だけは粥に手をつけなければ済む話だ。それに褒美のことを考えれば、どうせの命、思い切ってやってみる他はあるまい。 「や、やってみます、」と蚊の鳴くような声で答えた。     三  下衆男《げすおとこ》が充分に言いふくめられて、用意の雄黄とやら呼ばれる薬を懐中にして、柳のある家を出たのは、そろそろ春の日も沈もうという頃おいである。大路にはまだ人通りが多いが、みな暗くなるのを恐れるように急いで歩いて行く。その男だけが足取も重く、気分もすぐれない。すすめられた酒や肴も咽喉《のど》を通らず、ゆっくりして行けと言われても、針の座に坐らされている心地がした。振り切るように帰路についたが、明後日の約束を思うと、今からもう息をするのもままならぬほど気分が重い。  堀川の大路を北にのぼって、やがて三条というところで、不意に擦れ違った通行人から呼びとめられた。 「そこの人、ちょっと待ちなさい。」  はっと驚いて、足が萎《な》えたようにその場に立ち止った。振り返って見れば、笠をかぶり、杖《つえ》を突いた、貧しげな法師である。格別警戒を要する相手でもないと分って、少しばかり安心した。 「何か御用ですかな。」 「如何にも。」  法師は近々と顔を寄せて来た。気味の悪いほど光を帯びた眼をしていて、太い眉がその光を隠すように目蓋《まぶた》の上に垂れ下っている。その眼が下衆の顔を睨んだまま、恐ろしい言葉をその口から洩らした。 「そなたには死相が見える。」  ぎょっとなって、すんでにその場にしゃがみそうになった。 「何と言われました——。」 「このままではそなたの命があぶない。命旦夕《めいたんせき》の間《かん》にあると相に出ておる。」  下衆はたちまち顔色も蒼《あお》ざめ、おろおろ声で法師の袖に縋《すが》った。 「何とか助かる方便はございますまいか。お願いでございます。」 「さよう。そなたの相は、必ずしもまだ見込《みこみ》がないわけではない。普賢菩薩《ふげんぼさつ》にお慈悲を願えば、或いは延命の手立もあるやもしれぬ。」 「それは如何すれば宜しいので。」 「わたしと共に来られるがよい。そなたのために普賢経を読誦《どくじゆ》して進ぜよう。」 「ありがとうございます。」  下衆は地獄に仏のよろこびようで、思わず合掌した。何だか身体《からだ》じゅうがほてって来て、酒に酔ったようになった。法師が歩いて行くうしろを、瘧《おこり》のように顫えながらついて行く。何処《どこ》をどう歩いたとも覚えないうちに、荒れ果てた寺の前に出た。既に日はもう殆ど落ちて、住む人もなさそうな、薄気味の悪い寺だけが、ぼんやりと竹藪《たけやぶ》の蔭に浮んでいる。誘われるままに本堂にあがって、冷たい板の間に坐ると、法師が燈台に火をともした。そしてじろりとこちらを睨んだ。  そのあとのことは、下衆はよく覚えていない。有難い延命の経文を、法師が長々と誦《じゆ》している間、一心に合掌して聞いていたが、殆ど眠ってしまったようである。何か訊かれて、それに答えたような気もするが、或いは途中で眠って夢を見ていたのかもしれぬ。とにかくはっと気を取り直した時には、経が終って、法師がじっとこちらを見詰めていた。 「宜しい。そなたの死相は消えておる。」 「え、消えましたか。」  思わず掌《てのひら》で自分の顔をつるつると撫《な》でてみた、何という霊妙な経文の功徳であろう。気分さえもすっきりして、ここへ来るまではもう死んだような心持でいたのが、今は予備の命が幾つもあるようにさえ思う。ぺこぺこと頭を下げた。 「これも人助けのため、礼を言うには及ばぬ。」 「ありがとうございます。」  下衆は何度も繰返して礼を述べ、法師に道順を教わって表に出た。既に夜になっていたが、仄《ほの》かな月明りがあって道を歩けぬほどではない。夜風に吹かれて歩き出すと、今しがたの悦びが次第に醒《さ》めて、盗賊の一味との約束がまた思い出された。懐《ふところ》を探ると、預りものの大事な薬は、ちゃんと袋のままそこに納っている。これを使って盗賊どもの手助けをするという仕事まで、有難い経文で帳消しになったわけではない。  しかしまあ死ぬことはないのだからな、とにかく命だけは大丈夫なんだからな、——下衆は自分にそう言い聞かせて、やがて中納言の屋敷の裏門の中に、影のように吸い込まれた。     四  夜も更けてから、次郎の住んでいる壺屋の戸を敲《たた》く者があった。「火急の用で、お主《ぬし》に会いたいという法師が来ている、」という声を聞けば、裏門をあずかっている侍が呼びに来たものらしい。姫の入内の日も近づいているので、屋敷うちは警護がものものしく、めったに人は通さない。その法師が名を名乗らぬというので、警護の侍が怪しんでいるのも無理はない。次郎は身仕度を整えて一緒に裏門まで出向いた。笠を目深にかぶって顔を隠している法体《ほつたい》の男は、紛れもなく陰陽師の智円である。 「これは御坊、夜分いかがなされた。」  不審に思って問い掛けると、相手は相変らず笠を傾けたまま、低い声で呟《つぶや》いた。 「内密にお話ししたいことが生じました。火急のことなので、時をわきまえず伺いました。暫く御耳を貸して下さらんか。」 「御坊ならば何も遠慮は要らぬ。壺屋までお出でなさい。」  客を招じ入れ、郎等に命じて茶菓の用意などをさせながら、気安い気分になって思わず笑った。 「何でまた御坊は名をお告げにならなかったのか。この前幻妙の法術を使われたから、智円と名乗れば警護の者もすぐにお通ししたであろうに。」 「いや、そうではありません。私の名は出ぬ方がよい。」  法師は一緒に笑おうとはしない。仔細《しさい》ありげな厳《いかつ》い表情をしている。これは徒《ただ》ごとではないと次郎も気がついた。 「これはあなたさまだけが御存じのことにして頂きたい。誰から聞いたかということは御無用に願いたい。宜しいですな。」  次郎は頷いた。夜遅く火急の用というのであれば、法師にとっても秘密を要するのであろう。茶菓には手も出さず、郎等が退《さが》るのを待って、手短かに訊いた。 「中納言さまは明後日、熊野への行幸に供奉《ぐぶ》されると聞いておりますが。」 「如何にも。」 「お屋敷うちの侍がたも、お供についておおかたは留守になりましょう。」 「それほどは行くまい。姫の警護があるので私は残る。」  法師は頷き、それから打明けた。 「明後日の夜、不動丸を頭《かしら》とする賊どもが、お屋敷を襲ってお姫さまを盗み出す計画でございますぞ。」 「なに、御坊はどうしてそれを御存じか。」  次郎が思わず居丈高《いたけだか》になるのを、法師は軽く手で押しとどめた。 「それはどうでも宜しい。お屋敷の厨につとめる下衆が片棒を担がされました。夕餉の粥の中に雄黄と呼ばれる唐わたりの薬を入れて、諸人を眠らせた上で仕事にかかるとのことです。」 「して、そやつの名は。」  今にもその下衆を引捉えて来ようという剣幕である。 「それは知らぬことになされ。その下衆に罪はない。とんだ臆病者でございますよ。」 「しかしその薬を用いるようなことがあっては一大事だ。」 「それはわたくしが掏《す》り取って、ここにございます。代りに豆の粉を入れておきました。」  法師は懐を抑えて、初めてにやりと笑った。乏しい燈台の火に照されて、その顔が無気味に歪んでいる。 「御坊、その話はまことだな。」 「恐らく間違いはありますまい。わたくしはその下衆男に術を掛けて訊きただしましたまで。信じるか否かはあなたさま次第。ただ御用心が肝要でございましょう。」 「それは心得た。よい話をしらせて下さった。もしも御坊がその薬とやらをそのままにしておいたなら、留守居の者たちは一同不覚を取ってむざむざと姫君を盗まれるところであった。さっそく中納言さまに申し上げて、手筈を整えることにいたそう。御坊にはあらためて中納言さまからお礼を差し上げることにします。」 「何のこれしき。礼が欲しくてしたことではござらぬ。わたくしはただあなたさまのお役に立てばと思ったまでのこと。この後のことは、中納言さまの御信任を得るのも、お姫さまに気に入られるのも、みなあなたさまのお力次第でございますよ。」  次郎はかすかに当惑した様子を見せたが、その間に法師はもう帰り仕度を始めていた。 「智円殿、」と次郎は呼び掛けた。「これほどの大事を教えて、名も名乗らぬ、礼も要らぬというのは、どういうおつもりか。私などよりも直接中納言さまに申し出れば、御坊の名が一層あがったであろうに。」 「わたくしにはさもしい魂胆はございませんよ。これはみな、わたくしがあなたさまのためにすること、自分のためではござらぬ。わたくしにはわたくしの考えがあり、それはあなたさまとは関りのないこと。ただ、あなたさまのためよかれと思って、おしらせに参りました。これが吉になるか凶になるか、あとはただ、あなたさまが御身一つを頼りにしてなされることでございます。」  次郎は陰陽師を裏門まで送って行ったが、その間も、差し迫った危難を防ぐ方便を考える一方、智円の言った「身一つを頼りにして」という言葉が、嘗《かつ》て芒《すすき》の原で別れる時に聞いた言葉と同じであることを思い出していた。あの親切な法師は、己の相《そう》に何を見たのだろう、と次郎は一人になってから訝《いぶか》しんだ。   虚実     一  夕暮が近づいて、広い厨《くりや》の中が騒がしくなるにつれ、下衆男《げすおとこ》はいよいよ落ちつかなくなった。幾人もの男女がそれぞれ手分けして、或る者は塩引きの魚を切っている、或る者は折敷《おしき》を並べている、或る者は味噌を取り分けている。半蔀《はじとみ》から洩れる日もだいぶ翳《かげ》って、大釜《おおがま》を焚《た》く薪の火の色がひときわ赤い。沸々と滾《たぎ》っている大釜の中で、粥《かゆ》がうまそうな匂を漂わせているのを、すぐ側で見ていた。 「お前さん、ぼんやりしているんじゃないよ。」  雑仕女《ぞうしめ》に責められて、少し身を引くと、女は大釜の中に柄杓《ひしやく》を入れて味を見ている。やがてこの粥が煮え上れば、大釜を下におろすのはこの男の役目である。懐を抑えて足をわななかせながら、隙があれば薬の中身を投げ込もうと構えている。 「もういいかね。」 「まだもう少し。」  さっきから機会はたびたびあったが、何分にも勇気が足りない。誰も彼も忙しそうに立ち働いている上、厨の中はもう仄暗《ほのぐら》いから、人の目に立つことはないと思うが、万一にも見つかったなら唯では済まないだろう。恐ろしいことを引き受けたものだと思い、また賊の一味がどこかに潜んでいて、自分が約束を守るかどうか監視している筈だと思えば、歯の根も合わぬ。しかし大釜を下してしまえば、もうその機会はあるまいから、一心に阿弥陀仏《あみだぶつ》を念じながら、そろそろと懐から紙袋を取り出して掌の中に隠し持った。 「さあ、おろしておくれ。」  柄杓を手にした雑仕女がそう命じた。女の方に背中を見せ、自分の手許《てもと》を隠すようにして大釜のすぐ近くに行った。身体じゅうがぶるぶる顫《ふる》えている。 「南無、南無……。」  唸《うな》り声をあげて仏の名を称《とな》え、思い切って紙袋の中身を釜の中にこぼした。がくがくする足に力を籠《こ》めて、大釜の把手《とつて》を両手で持つと、その場におろしにかかったが、思わずよろよろと傾《かし》いですんでに倒れそうになった。 「何てお前さんは愚図なんだろうね。引繰り返しでもしたら大変じゃないか。」  女は口汚く罵《ののし》ったが、幸いに薬を入れるところは眼にとまらなかったらしい。下衆はほっと溜息《ためいき》を吐きながら、女の前に大釜を据えた。 「お前さんの手の中にあるのは何だい。」  飛び上るほど驚いたが、これ以上調べられたら言い逃れるすべはない。掌の中で握りつぶした紙袋で、ちんと鼻をかんだ。 「どうも風邪を引いたらしくてなあ。」 「お粥の中に鼻水など落すと承知しないよ。」  女はそれ以上気にも掛けずに、柄杓で汁粥を掬《すく》い始めた。やれやれ、と下衆は一安心し、それと共に、もしやこの袋の中身が猛毒で、その袋で鼻をかんだだけでも命が危いのではないかと、今度はそのことが心配になって来た。思わず土間の上に腰をおとして、茫然としていた。今にも毒がまわって、気分が悪くなりはしないかとわざと眼を大きく見開いていたものの、格別痛くも痒《かゆ》くもならないようである。その間に雑仕女は大きな椀の中に次から次へと柄杓で粥を掬って入れて行く。他の女がそれを折敷の上に運ぶ。女たちが、今日は膳の数が少いから仕事が楽だというようなことを話している。下衆はそろそろと後ろに退《さが》った。  その夜、下衆は早くから寝てしまった。風邪を引いたという口実で、夕餉《ゆうげ》は辞退した。今にはじまるぞ、とびくびくしながら、いつまでも身体《からだ》じゅうを顫わせていた。     二  その夜までの次郎の働きは、目立たぬながら機敏なものであった。法師が帰るや否や、さっそく家司《けいし》の老人と相談し、深夜にも拘《かかわ》らず中納言に目通りを願った。中納言は不機嫌な面持で寝所から出て来たが、次郎が賊の計画を話すにつれて、眠気も吹き飛んだような蒼《あお》ざめた顔になった。その計画を次郎がどうして知ったかという点で、中納言は多少疑わしそうな様子はしていたが、何ごとにつけて用心するに越したことはないという家司の意見が採用された。熊野への行幸に供奉《ぐぶ》することは、今さら変更の出来ることではないし、留守宅に北の方や姫を残して行くのは中納言にとっても心配のたねである。そこで当日は方違《かたたが》えをした方がよいとなって、その相談が次の晩、こっそりと主だった侍を集めて行われた。中納言は陰陽道に精通していたので、自ら方角を按《あん》じて、北の方は末の姫を連れて、一の姫の婚《とつ》いだ先である四条の屋敷に行くことになった。しかし賊どもが狙っている肝心の姫の行先が容易に決定しなかった。というのは、中納言の調べによれば姫の行くべき方角は未《ひつじ》であって、他の方位は許されない。しかし未の方角には姫が身を寄せられるような屋敷は一つもなかった。それならばあくまでこの屋敷にとどまるか。それは家司が危険だと言って反対した。そして方位を変えることは中納言が許さなかった。一同が首を捻《ひね》っている時に、次郎が恐る恐る口を入れた。 「ただ今思いつきましたが、こちらから未の方角に、一軒私の知っている家がございます。」 「それは願ってもない。」 「ただそれが……。」 「何だ、申してみよ。」 「何分にも身分の低い者の家でございますから、お姫さまが承知なされますかどうか。」 「この危い瀬戸際ゆえ、姫に異存はなかろう。何者だ、それは。」 「笛師で喜仁と申す者の家でございます。そこの離れを借り受けて、一晩身をお隠しになれば如何《いかが》でしょうか。」 「笛師か。」  中納言は落胆したような様子を見せたが、家司はかえってそういう町なかの商家の方が、賊の目を掠《かす》めるのによいのではないかと進言した。  そのあとは賊を如何《いか》にして迎え討つかという問題が討議された。汁粥に入れる薬が既に無害なものと入れ替っている以上、自分等の手の者だけで充分だというのが、次郎や主だった侍の意見だったが、家司は万全を期して、検非違使庁の役人たちにも来てもらった方がよかろうと述べた。中納言もそれに賛成した。しかしどこに賊の目が光っているやら分らないので、万事につけて隠密に行動するように定められた。  翌日、即ち盗賊どもの襲撃があると予定されているその当日の朝、中納言は供を連れて参内し、熊野への行幸に供奉して行った。北の方は末の娘と共に牛車《ぎつしや》を仕立てて、一の姫の屋敷へ遊びに行った。夕刻になって、市女笠《いちめがさ》をかぶった二人の女が、老人の供を連れて、そっと裏門を出て行き、さりげない風体《ふうてい》をした侍が二人、まるで無関係のように、遠く離れてぶらぶらと女たちのあとをつけていた。それは次郎と次郎が信濃の国から連れて来た若い方の郎等である。同じく夕刻、家司が検非違使庁を訪れて、その夜の警戒を申し入れた。  やがて日が落ち、夜の町は薄暮の中に沈んでしまった。     三  楓《かえで》の案内で中庭の奥にある離れに通されると、二人の女は漸《ようや》く市女笠を取った。そこまで附き従って来たのは次郎だけで、二人の郎等は母屋の入口あたりに控えて外を見張っている。この家の主人をはじめ店の者は、みな遠慮をして顔を現さない。 「ここまで来れば大丈夫です。途中でも怪しい者の姿は見かけませんでしたから、まさか姫君がこのようなところに隠れておいでだなどと、賊どもが気のつく筈もありますまい。」  次郎がそう言って慰めると、姫は怖《こわ》そうに身体を竦《すく》ませた。 「でも次郎、見つかったらかえって危いでしょう。供の者と言っても、お前の手のうちの者だけで。」 「御心配は無用です。あの者たちは私の命令なら命を捨てます。それにこうした町家では、正面から一人ずつはいって来るほかに、襲いようがありません。お屋敷のように広い建物と違って、かえって安全なのです。」 「それに隣近所が近うございますから、」と楓も口を添えた。「いざとなれば、近所の者どもが大騒ぎを始めます。」  楓は茶菓の支度をすすめながら、勝気そうに眼を光らせていた。  姫のそばに控えていた辨は、初めて見る町家の部屋の調度などを眺めていたが、次郎に向ってからかうように尋ねた。 「ねえ、次郎、本当に今夜、賊どもがお屋敷を襲うのでしょうか。」 「間違いはありますまい。ただ……。」 「ただ、なに。」 「姫君がいらっしゃらないと分れば、やめるかもしれません。あの不動丸というのは、膂力《りよりよく》に長《た》けているだけでなく、頭の利く男ですから。」 「お姫さまだけが目当てだと言うの。」 「そうです。不届きな奴です。」  辨はさして本気にしているようには見えなかった。それは姫の恐怖心を和らげるためだったかもしれない。人々が大騒ぎするのがおかしいというふうな平気な顔をしていた。 「賊どもが、日をきめて襲って来るというのが、わたしには分りません。どうして今晩なの。」 「今日はお殿さまが供奉で熊野へお立ちになったので、お屋敷うちの警備が手薄なのです。不動丸の計画はそれを知っての上のことです。それに厨がたの下衆に薬を渡して、侍どもを眠らせる方策を立てています。もしも知らないでいたら、まんまと一杯食うところでした。」 「次郎はよく御存じね。まるで賊の仲間みたいですね。」  さすがに次郎は顔色ひとつ変えなかったが、楓は鋭く侍女を睨《にら》み、姫も少しばかり色をなした。 「何を言うのです。辨。」 「済みません、お姫さま。でもこれが何かの間違いでしたら、わざわざ方違えまでして、とんだお笑い草でございますわ。」  楓がそこでしとやかに言葉を挟《はさ》んだ。 「こういうことでもなければ、お姫さまにお目通りのかなう身分ではございません。よくお越し下さいました。どうぞお気軽に遊ばしませ。いぶせき賤《しず》の家《や》ではございますが、お珍しいものもございましょう。これらは父のつくりました笛でございます。」  片側の隅にある蒔絵《まきえ》の棚の上に美しい飾りのある笛が並んでいる。それを一つ一つ手に取って見ながら、姫が楓に言葉を掛けた。 「お前の父の作った笛というのを、いつぞや次郎が吹いてくれました。大層よい音色でした。」 「それは次郎さまがお上手なせいで、父の手柄ではございません。」  楓はかすかに頬を赧《あか》らめたが、その様子を辨は皮肉そうな顔つきで眺めていた。  やがて燭《しよく》に火が点《とも》され、食事の用意が整った。次の間まで女たちが運んで来た高坏《たかつき》を、楓が一人で給仕して客にすすめた。姫は浮かない顔をしていて、食がすすまなかった。 「さっき次郎の話していた薬というのはどうなったの。」  辨が次郎に訊いた。 「それはとうに取り替えてある筈です。しかし万一ということもありますから、粥は食べたふりをするように、侍どもに命じてあります。」 「おやおや、さぞお腹が空くでしょうね、」と辨が嘲《あざけ》った。 「なに、乾飯《かれいい》が渡してありますから。」  次郎は、辨が軽口を叩くのは、緊張を抑えるための一種の強がりであろうと判断していた。こうして三人の女たちを近くで見ていると、姫の美しさは神々《こうごう》しいばかりであるが、それはなよなよとした、今にも崩れ落ちそうな脆《もろ》さを秘めている。辨は快活で気安いが、しかしそれもうわべだけで、芯《しん》は弱そうである。いざという場合に心の張りを失わないのは、恐らく笛師の娘の楓であろう。楓は身分の高い姫君の前に侍していても、何等動ずる色を見せない。従って万一事件が出来《しゆつたい》しても、うろたえ騒ぐことは決してないように見える。今まで知らなかった楓の落ちついた一面が、次郎にはひどく頼もしいものに見えた。それはまた楓の持つきびきびした美しさを、改めて教えるものでもあった。そうは言っても次郎の眼は、先程から殆ど絶え間なく、盗むように、姫の素顔の上に注がれていた。不動丸がこの姫に狙いをつけたその執念の程が、分りすぎるほどよく分った。  やがて時刻が戌《いぬ》の刻を過ぎると、次郎はさりげなく申し入れた。 「姫君、姫君はどうかここでごゆるりとお寝《やす》みになって下さい。御心配なさることは何もありませんから。」 「それで次郎は。」 「私はお屋敷の方に参ります。」  辨が鋭い声で驚きの叫びを洩らした。 「それでは次郎は、わたしたちを置き去りにするつもりなの。」 「辨殿。大丈夫です。私の郎等が寝ずの番をして見張っています。ここに姫君がおいでになることは、露ほども賊どもに気取られていないのですから。このことを知っているのは、内輪のほんの数人なのです。だからちっとも、心配は要りません。」  しかし辨は姫に縋《すが》るようにして、姫の言葉を促した。姫の声も顫えていた。 「わたしは次郎が、ずっと附いていてくれるものと思っていました。」  その懇願するような眼指《まなざし》は、次郎の心を引き裂くのに充分だった。次郎もまた、親しく姫の近くに侍《はべ》るというこの機会を失いたくはなかった。しかし次郎は重々しく答えた。 「そうはいきません。不動丸がお屋敷を襲った時に、私がいなければ手不足です。何としてでも奴を捉えなければ、あとあと心配のたねが残ります。我々も枕を高うして寝るわけにいきません。姫君はここにさえおいでになれば安全なのです。向うで不動丸を罠《わな》に掛けるのに、私の働きがどうしても必要です。」  次郎の声には有無を言わさぬ強い響があった。それはまるで自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと口から出た。そして黙礼すると、離れを後にし、二人の郎等に充分に言い含めて、影のように夜の闇に溶け込んだ。  次郎がいなくなってしまうと、春らしい暖かい夜なのに、何となくうすら寒い感じがして、女たちは互いに膝《ひざ》を寄せ合って坐っていた。あたりは静かで、遠くから犬の吠える声が響いて来るばかり。 「万一ここを襲われたら、もうどうにもなりませんわ。」  辨がありありと不安を顔に出して言った。 「次郎さまがああおっしゃるのですもの、決してここが知れることはございません。」  楓は自信をもって答えた。 「次郎はどうしてあんなによく賊の計画を知っているのでしょう。万一次郎が気脈を通じているのなら、お姫さまをお屋敷から外に出したというのは、たいへん巧妙な手立だということになりますわ。」 「そんなことは決して、」と楓は怒ったように辨に言葉を返した。「次郎さまは、お姫さまのためなら死んでもよいとまでお思いなのです。あの方は、賊などと気脈を通じるような、そんなお人柄ではございません。」  その言いかたがあまりに烈しかったので、それまでひっそりと想いに沈んでいた姫が、顔を起して楓を見た。 「お前は次郎が好きなのですね。」  はっきりと図星を差されて、楓は見る見るうちに赧くなった。 「はい。でも、人の心は思うようにならないものでございます。」  姫は寂しそうな面持で頷《うなず》いた。そして小さな声で独り言のように呟《つぶや》いた。 「そうね。何ごとも思うようにはならないものですね。」  そして姫は、楓が眉をひそめながら、出掛けて行った次郎の身を案ずるように燈台の焔《ほのお》を眺める様を、やはり憂わしげに眺めていた。     四  京の町に日が沈んで、暫《しばら》くの間は淡い黄昏《たそがれ》が揺らいでいたが、やがて次第に暗くなると共に人通りがぱったり絶えた。するとそれを見計っていたように、さりげない地味な風体をした男どもが、一人また一人と、綾の小路に現れて、その角に柳の木の植えてある家の戸を、そっと叩いた。その度に、半蔀《はじとみ》の間から紙燭《しそく》を挑《かか》げて人相を確かめているのは、嘗《かつ》て中納言家の厨につとめる下衆男をここへ誘《いざな》った、例の陰険な感じのする若い男である。今夜はその目つきが殊のほか鋭い。こうして都合五人の男が家の中に吸い込まれると、主人は入口の戸を固く鎖《とざ》した。  家の中には主人の他に髭面《ひげづら》の男が二人待ち受けていて、はいって来る順に夕餉をもてなした。この二人と主人とは、既に黒の水干を着込み、胸当や脛巾《はばき》をつけている。そしてあとから来た連中が忙しげに車座になって食事をしている間、部屋の隅に纏《まと》めて置いてある大刀や弓箭《ゆみや》や|胡※[#「竹/祿」、unicode7c36]《やなぐい》などを、仔細《しさい》に点検していた。その間はひっそりして、湯漬《ゆづけ》を掻《か》き込む音が響いているばかり。食事が済むにつれて、髭面の男どもが一人一人に押込み用の装束や武器などを手渡した。その度に紙燭の火がまたたく。主人はどっかと腰を下して、満足そうにその様子を眺めていた。締め切った部屋の中は人いきれでむんむんする。大刀や鉾《ほこ》などが触れ合って戛然《かつぜん》とした音を立てる。用意してあった装束と武具とがすべて配給され、一同|勢揃《せいぞろ》いしたところで、主人がやおら声を掛けた。 「用意は出来たか。約束の刻限は戌《いぬ》の刻ゆえ、ゆるゆると行けばよいな。」  あとから来た五人のうちで、先程から胴顫《どうぶる》いばかりしていた若い男が、思い切ったように尋ねた。 「むささび、今夜の手配《てくば》りをもっとよく聞かせてくれ。やみくもに連れ出されて、ただ働けというだけでは解《げ》しかねる。不動丸の一味徒党となったのは嬉しいが、事の仔細を弁《わきま》えているのがむささび一人では、己《おれ》なんかはぐれた時にどうすればいいのだ。」  主人はぎょろりと新参者を睨んだ。むささびというのがこの男の内々《うちうち》の呼名《よびな》と見える。年は大して取っていない。集った連中の中では寧《むし》ろ若い方である。しかし素ばしこく動く目つきからすると悪智慧《わるぢえ》の点では引けを取らないらしい。 「はぐれぬようにすればよいわ、」と嘲るように言ったが、気を変えて説明を始めた。「よし、それでは手配りを教えてやろう。今夜の目安《めやす》が中納言殿のお屋敷であることは知っているな。大頭《おおがしら》の組と、小頭《こがしら》の組と、我々の組と、三隊が戌の刻に三条堀川のたもとの河原で落ち合うことになっている。顔を揃えたところで、我々の組の総勢八人は小頭の組の者と力を合せて、表門から侵入する。大頭の組は裏門へまわる。己が築地《ついじ》から忍び入って表門を明けるから、主《ぬし》たちはそこからはいればよい。しかし恐らく抵抗はあるまい。例の下衆めが夕餉の粥のなかに薬を入れた筈ゆえ、お屋敷内の侍どもで足腰の立つ奴がいようとも思えぬわ。万一刃向う奴ばらがいれば、弓で射るなり大刀で斬り捨てるなり、さして手強《てごわ》いことはあるまい。中納言殿がめぼしい家来どもを連れて、昼のうちに熊野への行幸に供奉されたことは、ちゃんとこちらに分っておる。残っているのは女子供ばかりであろう。宝の山が我々を待っていると思え。」  男は低い声で笑い、一同それに声を和したが、あとから来たうちの一人で、凄《すさま》じいまでのあばた面の男だけは、眉をひそめて訊き返した。 「その手配りは少し妙ではないか。いつもならば大頭が先頭に立って、表門から堂々と立ち向うのではないか。大頭があの大音声で、『不動丸が参ったぞ、』と名乗をあげればこそ、向うの胆っ玉もひしげようというものだ。それを大頭が裏門からとは頷けない。何ぞわけがあるに違いない。我々を放免《ほうめん》とあなどり、手強い表門に差し向けて、その隙に自分等だけがうまい汁を吸おうというつもりではなかろうか。」  一座の者に俄《にわか》に懸念の色が浮び、先程から胴顫いを抑えようと歯を食いしばっていた若い男などは、一層眼に見えて顫え出したが、むささびと呼ばれた主人は白い歯を見せてせせら笑った。 「大頭が裏門にまわられるのには、ちと仔細があってな。主たちには洩らしてはならぬ大事だが……。」  そこで主人は口を閉じて思案顔に首を捻った。しかしここで少し打明けた方が、配下の心服を得るのに役立つと思ったのか、ゆっくりと言葉を継いだ。 「よし、聞かせてやろう。今夜の襲撃はいつもと異り、大頭の狙いは中納言殿の可愛がられている西の姫君よ。我々が表門から侵入して、お屋敷内の者どもを牽制《けんせい》している間に、大頭の組が裏門から西の対屋《たいのや》を襲って、姫君を攫《さら》うおつもりだ。大頭がじきじきに手を下されるので、裏門をお選びになった。」 「女子供には手を出してはならぬという、今までの御法度《ごはつと》はどうなったのだ。姫君を質にとって、それで引き上げるのか。」 「人質に取ろうというのではない、」と言って、むささびはまた白い歯を見せた。「今度ばかりは大頭が、どうやら中納言殿の姫君に懸想《けそう》されたものと見ゆるわ。しかしその方は大頭のなされること、我々の任務はお屋敷内の財宝を掻《か》っ払うことにある。女子供に目をくれてはならぬ。金目のものを洗いざらい掠《かす》め取って、我等の隠れ家まで運べばよい。」  一同はなるほどと頷き合ったが、胴顫いをしている男だけは尚も食いさがった。 「しかしどっちにしても危い橋を渡るのは己たちだぞ。己たちが矢面《やおもて》に立って侍どもと一戦を交えている間に、大頭は何の苦労もなく姫君を攫うつもりだぞ。」 「言葉が過ぎる、」と険のある顔になって、主人がたしなめた。「大頭はいつでも味方の先頭に立って戦われる御方だ。決して我々を見下したりはなされぬ。だからこそ己たち放免の仲間も、安心して不動丸の味方について、こうして組をつくっているのだ。お主はまだ新参ゆえ知るまいが、智慧といい武勇といい、それに思い遣《や》りのある点まで、大頭ほどの御方は二人とないぞ。我々のように東の獄で刑を果して、どこへ行っても爪弾きされるような放免を、こうして不動丸の一味に使って下さるのだ。これも大頭が我々を見込んでのことだ。ありがたく思え。」  頷き返しながら、あばた面の男が口を挟んだ。 「それはよく分っておる。ただな、不動丸と言っても顔を見たこともない。覆面に顔を隠してどこの誰とも知れぬ。一味と言っても我々の他のことはこれまた分らぬ。一体お主は知ってのことか。」  むささびは軽く手を振って払いのけるような科《しぐさ》をした。 「そんなことは主たちは知らぬ方がよい。我々は表向きは検非違使庁の放免で、何も他の一味のように盗賊を業とするわけではない、頼まれた時だけ手伝うのだと思っていれば、主たちも気楽であろう。分前はたんまり戴《いただ》ける。何とそれだけで充分ではないか。」  一同が頷いたのを見て、主人は立ち上った。 「思わぬ長話で遅くなったぞ。出立しよう。」  主人が紙燭の火を吹き消すと、或いは大刀を佩《は》き、鉾を取り、或いは背に|胡※[#「竹/祿」、unicode7c36]《やなぐい》を負った物々しい面々が、藁沓《わろうず》を履いて、一人ずつ外へ出た。通りの様子を窺《うかが》って、暗闇の中へ紛れ込んだ。  指定の場所へと足早に歩きながら、むささびは仲間の者の言った言葉を考え直していた。この男はもと山城の国の生れで、ごく若い頃から絹を商いにしばしば都との間を往復していたが、たまたま都に滞在していた時に女出入りのために過って人を殺し、東の獄に五年ほどつながれる身となった。身のこなしも軽く、才智にも長《た》けていて、獄舎にいた間にかえってさまざまの悪事を覚え、今までの商売が馬鹿らしくなった。刑を終えるとすぐに検非違使庁の放免《ほうめん》に採用され、真面目に働きながら折を待っていたが、どう見込まれたものか、或る男に誘われていつしか悪事に加担するようになった。その男が小頭と呼ばれて、不動丸の片腕であると知った時には、むささび自身も重く用いられるようになっていた。仲間の放免どもを一人ずつ自分の配下に引き入れ、今では七人もの手下を持ついっぱしの組頭に出世した。とは言うものの、組頭とは名だけのことで、大頭と直接に口を利いたことは数える程しかない。いつでも間に立つのは小頭で、謂《い》わば小頭の命令で動いているようなものである。不動丸の仲間が実は何人いて、どのような組織になっているのか、それも知らなければ、分前は間違いなく貰えるものの、奪い取った莫大な財宝がどこに運ばれ、どこに隠されているのか、それも知らぬ。もう少し秘密を打明けられてもよい筈だと、歩いているうちにむくむくと不満が頭を擡《もた》げて来た。  堀川沿いに三条の近くまで来た時には、急いで歩いたために身体が汗ばんでいた。合図をして仲間の者たちを通りから河岸の方にくだらせ、そこに屈《かが》ませた。むささびだけは立ったまま、眼を透すようにしてあたりの気配を窺っている。月のない夜で、かすかに星影がちらちらするが、堀川の通りはもとより、河との間の斜面にも人っ子一人見えない。河音に紛れて咳《しわぶき》一つ聞えて来ない。仲間たちをそこに残して、むささびはすぐ先に見える三条の橋の橋桁《はしげた》の下まで、足もとに気をつけながら歩いて行った。そこがかねて小頭に言いつけられた場所で、大頭ともそこで落ち合う筈である。時刻におくれたような気がしていたので、恐る恐る指定の場所まで来てみると、そこは橋桁が空を覆《おお》って星明りさえもなく、河の表と河岸との区別もつかない。大頭と小頭の姿もなければ、この橋の向うに控えている筈の他の組の仲間たちもどこに隠れたやら。森閑として水音ばかりである。さては自分等を残して、はや出立したのかと不安を覚えた時に、すぐ足もとで声がした。 「むささび、遅いではないか。」  思わず飛び上るほど驚いた。 「小頭か、おどかすな。」 「何と肝の小さな男よ。」  すぐ近くにしゃがみ込んで、こちらを見上げているのはまさに小頭である。むささびもその隣にしゃがみ込んだ。 「お主の手の者はどこにいるのだ。」 「橋の向うに伏せてある。心配するな。」 「大頭は——。大頭はまだなのか。」 「どうもそのようだ。いま少し待て。」  むささびは安堵《あんど》の息を洩らした。遅参したために大頭から一睨みされるのが恐ろしかったが、自分の方が大頭よりも早く来たと知ると、俄に元気づいた。かねがね大頭は神速機敏を旨としていて、時刻の点ではうるさすぎる程である。 「小頭、」と暗闇の中で呼び掛けた。「夕餉の粥に入れた薬の効き目ということもある。夕餉からもう一時《いつとき》は経った筈。あまりうかうかして侍どもが正気に戻っては一大事。」 「分っておる。大頭が見えぬことにはどうにもならぬわ。」  言われるまでもなく自分の組だけで襲撃するわけではないし、姫君を攫うのが第一の目的だとすれば大頭がいなくては話にならぬ。むささびも黙りこくってその場に屈んだまま、人の気配を探っていたが、誰一人近づく様子もない。次第に夜が更け、春とはいえ河風が冷たい。 「小頭——。」 「何だ。」 「中納言殿のお屋敷はすぐそこだ。己が一つ様子を探って来ようか。」 「馬鹿なことはよせ。大頭の命令がないうちは、ここを動いてはならぬ。」 「とは言っても、こうして待つばかりが能ではあるまい。己は身軽ゆえ、気取られずに中の様子を見て来るわ。」  むささびが手柄を立てよう一心から、早くもその気になって立ち上りかけると、眼の前にきらりと光ったものがある。身をそらすと、いつ抜いたものか小頭が大刀を手に持ち、すぐ胸もとに突きつけている。 「何をする。」 「言われたとおりにしておれ。己の命令は大頭の命令だ。大頭がここで待てと言われた以上、待つ他はない。」  むささびは不承不承にまた屈み込んだが、今の小頭の早業には肝が冷えた。相手はいつのまにかまた大刀を鞘《さや》に収めたらしいが、ことりとも音を立てない。こうしてまた長い時間が経ち、次第に足がしびれて来た。  そこに何やらかすかな物音がした。ああ大頭が来たな、と思った瞬間に声がした。 「小頭、むささび、そこにいるか。」  どうも声が違うようである。 「おう。」 「待たせたな。」 「海念坊か。大頭はどうした。」  それを訊いたのは小頭である。むささびもすぐに相手を識別した。法体の男が、大きな身体にも似ず猫のように身軽に二人の側まで歩いて来た。 「うむ。大頭からの伝言だ。今夜の襲撃は取りやめになった。」 「なに。どういうわけだ。」  しびれた足をさすりながら立ち上ったむささびは、思わず不服そうな声で訊《き》き直した。 「解散しろ。いずれ日を改めて決行する。」  海念坊は低い声できっぱりと申し渡した。しかしむささびは尚も繰返した。 「一体どういうわけなのだ。聞かせてくれ。」 「余分なことは聞くものでない、」と小頭が側からさとしたが、むささびは立ちはだかるように海念坊に向い合っていた。 「わけか。わけは簡単だ。姫君がいないのだ。」 「いないとは。」  小頭までが釣られて問い返した。 「我々の計画が洩れた。姫君はどこぞに身を隠したらしく、行方が分らぬ。よって今夜のところは取りやめにするとのことだ。」 「しかしせっかく段取りをつけて、ここでむざむざやめるとは。」  むささびは諦《あきら》め切れぬ声で呟いた。 「段取りも敵がたの方が上手《うわて》だ。せっかくの薬も利かず、検非違使どもの伏勢もあるらしい。」 「さてはあの下衆め。」  むささびは歯噛《はが》みをして口惜しがった。あの下衆が裏切って、粥のなかに雄黄《ゆうおう》を入れなかったに違いない。今夜の襲撃のことを洩らしたに違いない。 「大頭は姫君の行方を探られたが、どうしても分らぬ。それで皆の者に無駄に待たせたが、このまま帰れとのことだ。いずれ次の連絡が行く。」  むささびは黙って頷いたが、ふと気がついた時には小頭も海念坊も、もうそこにはいなかった。むささびはすごすごと仲間たちのいるところまで戻った。 「遅かったな。出掛けるのか。」  暗闇の中で人影がぱらぱらと立ち上った。むささびは沈んだ声で答えた。 「それが取りやめになった。主《ぬし》たちは隠れ家へ戻ってくれ。いずれ日を改めてやることになろう。」 「何と無駄骨か。それでお主はどうするのだ。」 「己は少し考えがある。あとから帰る。気取られぬよう用心しろ。」  ぶつぶつ言っていた連中も、さすがにむささびを詰《なじ》るわけにもいかず、一人ずつ河原から消えて行き、むささび一人がそこに残った。むささびは遣《や》り場のない忿懣《ふんまん》を覚えて、殆ど地団太《じだんだ》を踏んでいた。今夜の計画では、夕餉の粥に薬を入れるというのが一番|要《かなめ》の智略で、その役割を負わされたのがむささびだった。これは自分の働きを見せる良い機会だったし、充分に日時をかけて殆ど完全に成功していた筈だ。まさかあの下衆男が、どたん場で裏切ろうとは。そう考えると矢も楯《たて》もたまらずあの下衆が憎くなった。それにあれは生き証人ゆえ、この後いつ綾の小路の隠れ家を訴え出ないとも限らぬ。いやひょっとすれば、今頃はもう手がまわっているやもしれぬ。どちらにしてもあの下衆めを生かしておくわけにはいかない。  むささびはそう決心すると、すぐさま三条堀川からすぐ近くにある中納言の屋敷まで、足を忍ばせて近づいた。かねて調べておいた築地の崩れが表門の近くにある。暗闇の中でそれを探り当てると、そこに足を掛けて軽々と屋敷の中にはいっていた。  むささびと呼ばれるだけあって、身のこなしは鮮かで、まるで夜の闇に溶け込んでしまったようである。見つかる恐れはない。しかしこの広々とした屋敷の中に、味方もなく唯の一人きりでいるのかと思えば、どうも気味が悪い。眼を凝《こら》すと、寝殿の屋根や池のほとりの木々が黒々と見えるが、人の姿らしいものは皆目見当らない。築地の内側に沿って暫く歩き、物の蔭を選んで身体を貼《は》りつかせ、次第に屋敷の裏手にある下屋《しもや》の方へ近づいた。伏勢があると聞いたが、その連中も上手に身を隠して襲撃を待ち受けているのであろう。神経を使って少しずつ身体を動かして行くうちに、むささびは次第に疲れて来た。しかしあの下衆男に対する怨みは、まだ身裡《みうち》に煮え滾《たぎ》っている。漸く下屋まで達したが、さてこの暗い建物の内部にはいって、目指す男を危《あや》めるのは並大抵の仕事ではないと、ここに於て初めて気がついた。どうも気のつきようが遅かった。死地に迷い込んで、屋敷うちから抜け出すためにもまたまた神経を磨り減らさなければならない。さてどうしたものかと思案しながら、下屋の壁に沿ってそろそろと歩むうちに、むんずとばかり背中から組みつかれた。 「しっ、静かにしろ。」 「誰だ。」  漸くのことでそれだけ口にしたが、岩乗《がんじよう》な腕が頸筋《くびすじ》を扼《やく》していて、殆ど息も出来ない。 「己だ。分らぬか。」 「あ、大頭ですか。」  むささびは嬉しげに呟いた。  大頭さえいれば百万の味方よりも安全である。しかし咽喉《のど》にまわされている腕の力は少しも減じない。 「何しに来た。己の命令は聞かなかったのか。」 「どうか手を……ゆるめて下さい。」  掠《かす》れ声で哀願した。腕の閂《かんぬき》が少しばかり弛《ゆる》んだが、しかし大頭は手を離そうとはしない。 「あの下衆めを……。」 「なに、下衆がどうした。」 「あいつが薬を入れなかったと聞いたもので、……不届きな、……後日のために……。」  大頭はかすかに笑い声を洩らしたようである。 「そうか。あの下衆が訴人《そにん》しては、お前の身が危いというわけか。あの下衆はお前等放免どもの顔しか知らぬから、少しも危いことはない。我等が危ぶむのは、お前だ。お前がここで掴《つか》まっては一大事だ。」 「逃げます。すぐにも逃げます。」  むささびは必死になって|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いた。何やら無気味なものが、いつまでも頸筋から離れないこの鉄のような腕に感じられた。 「逃げられるかな。」  その嘲りの声が発せられた一瞬、腕の力がややゆるみ、むささびはとにかくその手をほどいた。振り向きざま、大頭の顔を見た。暗闇に馴れた眼がその顔を認め、叫び声が口から洩れた。しかし一瞬早く、再び腕が首に巻きついた。 「死ね。」  そしてむささびの口は最後の叫びを洩らすこともなく、ぐんにゃりとした身体は大頭の腕から小さな獣の骸《むくろ》のようにぶら下っていた。     五  次郎が屋敷に戻って来た時には、かねての手筈通り、侍どもは表門と裏門とを見張る位置に配置されて、怠りなく準備をすすめていた。検非違使庁からも、高倉の判官宗康《ほうがんむねやす》に率いられる検非違使たちが既に応援に来ていて、要所要所に潜んでいた。次郎は判官が渡殿《わたどの》の家司《けいし》の部屋にいると聞かされて、すぐにそこに顔を出した。  鬼判官と呼ばれる検非違使の尉《じよう》は、家司に酒をすすめられて、すこぶる上機嫌の体《てい》に見えた。次郎が恭しく平伏すると、磊落《らいらく》な声で言葉を掛けた。 「そう恐れ入らんでもよい。お主のことは家司殿から詳しく聞いた。なかなかの働き、若いのに見上げたものじゃ。こちらへ参られい。」  次郎は顔を上げて、鬼判官の側に近づいた。世の評判はよく聞いているが、面と向うと少しも恐ろしげなところのない、寧ろ子供っぽい程の単純な顔立である。酒がはいったせいかとろんとした目つきをして、しまりのない口許《くちもと》に人のよい微笑を浮べている。聞くと見るとは大違いで、少々頼りなげな感じのする大男である。ただ、どこかで一度会ったことがあるような、というかすかな疑いが次郎の脳裏を過《よぎ》った。 「さあ、お主も相伴《しようばん》されよ。さすが中納言さまのお屋敷には良い酒がある。」 「わたしは結構です。」  次郎は丁寧に断って、眼を家司の方に移した。家司の顔にも多少の不審の色が見えるのは、やはり判官の振舞に顰蹙《ひんしゆく》しているせいであろう。相手は目ざとくそれに気がつき、声に出して笑った。 「案ずるのは無用にされよ。高倉の宗康、少しぐらいのことで酔いはせぬ。それに蟻《あり》も洩らさぬほどの手配《てくば》りがしてある故、賊どもが来れば袋の鼠も同然、上手に罠《わな》にはいってくれるわ。」 「判官殿は不動丸が必ず襲うとお考えですか。」 「さよう、」と判官は盃《さかずき》を傾けながら、とろんとした眼を天井の方に向けた。「いつも不動丸の奴には後手後手《ごてごて》とあとばかり追わされるから、一度は先手を取って罠に掛けてやろうと存じていた。お主の働きで、うまく罠に掛ればよいが、……しかし奴の方でもこちらの裏を掻くやもしれんな。」 「裏と申しますと。」 「されば家司殿のお話では、姫君はお主がどこぞに隠したというではないか。姫君がここにいないと不動丸が嗅《か》ぎつければ、恐らく姫君のいる場所を襲うであろうな。」 「それは大丈夫です。姫の居どころは誰も知りません。」  次郎は自信ありげに微笑を浮べた。 「誰も知らぬと。それは面白い。どこに隠された。」 「それは申せませぬ。」 「何と検非違使の尉《じよう》にも申せぬのか。」  判官は居丈高の声を出したが、次郎はびくともしなかった。 「これは固く誓約したこと。ごく内々の者だけの秘密でございます。家司殿もお洩らしにはならなかったでございましょう。」  白髪頭を振って家司も頷いた。 「ふむ、口のかたいことだ。」  判官は苦笑いをしながら、その間にも手許に引きつけた瓶子《へいし》を抱え込んで、しきりに盃を口に運んでいたが、ふと眼を据えると次郎の顔を見た。 「お主はそれで姫君を放っておいてもよいのか。」 「はい、」と次郎は自若として答えた。 「不動丸が嗅ぎつけぬとも限らぬぞ。こちらが手を廻せば、向うでも手を廻そう。もしや姫君の居どころが知れたら、一たまりもなかろうに。」  その脅かすような声は次郎の心を貫いたが、さりとて顔色一つ変えなかった。 「たとえ私がお側にいても、不動丸に襲われれば守り切れますまい。それよりは居どころの分らぬのが何よりの武器、いかな不動丸でも手の出しようがござるまい。」  判官は眼を細めて次郎を眺めた。 「お主はなかなかの智慧者よ。腕も立つとの家司殿のお言葉、どうだな、検非違使庁に仕える気があれば、いつでも推挙するぞ。」 「ありがとうございます。」  次郎は心から礼を言った。検非違使庁に仕えたいというのはかねてからの念願であり、ここで判官から言葉をかけられたのはもっけの幸いというものである。故郷の信濃にいた頃、兄の太郎保親から、どんなに好運でも検非違使庁の少尉にでもなれば見つけものだ、と言われたことがある。その職が、家柄から言っても次郎の望み得る精いっぱいのところであろう。そしてその道は、今にもひらけようとしているのだ。しかし礼を言いながらも、今の次郎には、中納言家を去って検非違使庁に出仕しようなどという気はまったくなかった。どのような出世ももう望まなかった。己は姫君のそばにいつまでもいたい、いつまでもこうしていればいい、と不意に胸の疼《うず》くほどに姫君をいとしく感じていた。 「ではひとつ様子を見て来るかな。」  判官はゆらりと立ち上り、少し足許をふらつかせながら部屋を出て行った。つまりはあの男が、己の出世の行き止りということか、と次郎は自ら憐《あわれ》むような気持で考えた。   恋のみだれ     一  姫は几帳《きちよう》の蔭《かげ》にいて、仄暗《ほのぐら》い中にその白い顔が幻のように浮んでいたが、次郎はこうして目通りを許されていることに譬《たと》えようもない嬉しさを感じていた。いつぞやの晩、笛師の家の奥の離れでも、姫の顔《かお》ばせを側近くから拝むことが出来たものの、あの時は大事な役目を担《にな》って心を緊張させていたので、今のように落ちついた気持で姫の前にいたのではなかった。人目を避けるために、賤《いや》しい身なりにやつして、今にも頽《くず》れそうな不安を必死に抑えつけていた時の姫の顔も美しかったが、やはりあでやかな衣裳《いしよう》を纏《まと》って、鷹揚《おうよう》に辨に指図をしている姫の方が、如何《いか》にもその人らしく見えた。しかし姫の顔に憂色が消えていたわけではない。物しずかなたたずまいが、かすかな香の馨《かお》りと共に、何か悲しげなものを次郎に伝えて来た。それが生れつきのものなのか、それとも別に理由のあることなのか、次郎には分らなかったが。  姫と違って、辨の方は平常の快活さに輪を掛けたようなはしゃいだ様子を見せて、姫の指図を待つまでもなく、女童《めのわらわ》に命じて次郎の前にくさぐさの珍しい菓物《くだもの》を並べさせた。 「次郎、わたしは今だから申しますけれど、そなたが賊の一味だったらどうしようと、それは怖かったんですのよ。」 「辨殿はそんなに私を信用して下さらなかったのですか。」  次郎は穏かに辨の方を見た。 「そんなことはありません。でもね、万一ということはあるでしょう。わたしがそれを口にしたものですから、笛師の娘に怖い顔で睨《にら》まれました。」 「それは当り前ですよ、」と言って次郎は笑った。「私が賊の仲間だったら、何もまわりくどいことをする必要はないでしょう。それに辨殿は、いつぞや太秦の屋形でも、いざという時に眠りこけていたぐらいですから、姫君の大事の場合には、あまりお役に立ちそうもありませんね。」 「まあ、そんなひどいことを。」  辨がやっきとなって言葉を返そうとした時に、かすかな微笑を洩らしながら、姫が取りなした。 「次郎も、辨をかまうのは程々にして下さい。心からわたしに仕えてくれるのは、辨と妙信だけなのですから。」 「申訣《もうしわけ》ありません。」 「次郎もそうですけれど、」と姫はやさしく附け加えた。 「一体あの事件は、結局どうなったのですか、」と辨が、好奇心に充ちた、生き生きした眼指《まなざし》で次郎を見詰めながら尋ねた。  姫もまた目立たぬ程の好奇心を見せて、次郎の方を眺めていた。自分がわざわざ姫に呼ばれたのは、慰労のためというより、その後のなりゆきを説明してほしいためだったのかな、と次郎は多少の失望を覚えながら考えた。 「あれはおかしなことになりました、」と次郎は説明した。「結局、朝まで待ち受けていましたが、不動丸の一味は襲って来ませんでした。我々が隙もなく備えを固めている上、検非違使庁からも判官《ほうがん》はじめ大勢の侍が加勢に来ていることが、賊の耳にはいったものと見えます。しかしこちらも充分に秘密を守って、敵を罠《わな》に掛ける手筈だったのですから、どうしてそれが洩れたものやら見当もつきません。」 「お殿様が熊野への供奉《ぐぶ》からお戻りになったら、次郎はきっと叱られますね。これは次郎の計画だったのでしょう?」  辨がさかしげに尋ねた。 「如何にも、私の申し上げた企みです。しかし結局は姫君に危いことはなかったのですから、私の落度というわけでもありますまい。」 「次郎の落度ではありません、」と姫が口を添えた。「もしあのままその屋敷にいたのなら、賊が襲って来て、人死《ひとじに》があったかもしれないのですから。」 「それでも、次郎が勘違いをしたのかもしれませんわ。ありもしない風説におびやかされて、うろたえるということもありますわ。」  辨が半分は冗談のような、半分は意地の悪いような口を利いた。いつも辨には、何とかして次郎をからかってやろうというところがあった。次郎は取り合わなかった。 「私は風説などにおびやかされる人間ではありません。」 「でも、あの晩賊が襲って来ると言い出したのは次郎でしょう。そのことを誰に聞いたのかは言えないのでしょう。」 「それは言えません。言わないと約束しました。」 「それが変じゃないの。」  辨は勝ち誇ったような顔をしたが、次郎は動じなかった。 「しかしあの晩の賊の襲撃が、単なる風説でなかったことには、ちゃんとした証拠があるのです。あなたがたが怖がるといけないと思って隠していましたが、あの晩、お屋敷の中で、賊の仲間が一人締め殺されていました。あくる朝、その屍骸《しがい》が下屋《しもや》の裏手に転っていました。」 「まあ。」  辨の顔が見る見る蒼《あお》ざめた。姫も思わず身じろぎをしたようである。 「誰が殺したのでしょう。」  か細い声を出して辨が訊《き》いた。 「さあそれが不思議なのです。誰も心当りがない。お屋敷の者にも検非違使たちにも、殺した覚えのある者は誰もいません。それで結局、これは賊どもが仲違《なかたが》いをしてのことだろうということになりました。」 「その殺されたのは何者ですか。」 「それは直に分りました。もと東の獄につとめていた放免です。検非違使の判官がさっそく命令して、その者の住いを突きとめて家探しをしたところ、贓品《ぞうひん》がいろいろ出て来ました。その仲間の者どもも引っ捉《とら》えました。しかしそいつらはほんの手先で、上の方の仕組みについては何も分らなかったそうです。」 「ではまだお姫さまを狙っているのでしょうね、」と辨が怖そうに尋ねた。 「さあ、不動丸もこうなってはもう手が出せないでしょう。よほどの不意打でも掛けない限り、このお屋敷に攻め入れるものではありません。それに姫君の御入内も、もう間もないことですから、不動丸も諦《あきら》めるでしょう。」  辨はその言葉を聞いて安心したように生色を甦《よみがえ》らせたが、姫はやはり憂いを帯びた表情のままひっそりと坐っていた。それから気を取り直したように次郎に向って礼を言った。 「次郎のお蔭で危い目にも会わずに済みました。それにあの楓という娘にも世話になりました。よく礼を言っておいて下さい。」 「畏《かしこま》りました。」 「町かたで育っていれば、何ごとも自分の思うままに出来て、気楽でいいのでしょうね。」 「それはお姫さまとはまるで身分が違います、」と辨が言った。 「わたしはあの娘が羨《うらや》ましい。わたしなどは、何ひとつ自分の思うままにはならないのです。」  その声音《こわね》に打たれて、次郎は思わず姫の顔を仰いだ。 「何をおっしゃいます。」  辨が鋭く抗議した。姫はしずかな声で次郎に訊《き》いた。 「あの楓という娘は次郎が好きなようですね。次郎はそれを知っていますか。」  次郎は顔を赧《あか》らめ、返事をためらった。 「そうのようです。」 「次郎の方も好きなのでしょう。」 「親切な、やさしい人です。しかしそんなことは考えたこともありません。」  姫は頷《うなず》いたが、それはただ相手が返事をしたので頷いたというだけだった。次郎が、それでは誰のことを考えているのか、姫は気がつかなかったし、賢い辨でさえも、まさか次郎が一心に姫のことを想いつめているとは知らなかった。  姫はかすかに身顫《みぶる》いし、そして呟《つぶや》いた。 「二人とも、もう少しこちらにお寄り。」  そして次郎と辨とが少し座を進めても、姫は首を垂れて物想わしげに尚も暫《しばら》く黙っていた。それから思い切ったように、低い声で話し始めた。 「そなたたち二人は、わたしの味方ですから、わたしが何を言っても驚かないでしょうね。わたしはそなたたちに頼みがあります。」 「どうぞお姫さま。」  辨が答え、次郎も片膝《かたひざ》を乗り出した。しかし姫が何を言い出そうとするものやら、想像もつかなかった。 「わたしの入内の日も迫って来ました。内裏にはいってしまえば、もう何ごともかないません。その前に、一度だけでいいから、わたしはお会いしたい人があります。」  辨がはっと息を呑み、それから喘《あえ》ぐような声を出した。 「何とおっしゃいました。」  次郎は暫くの間、姫の言った言葉の意味を掴《つか》むことが出来なかった。急に姫が、自分の手の届かぬ遠い遠いところの人であることを、胸を剣で刺されたように、感じ取った。 「長い間、辨にまで隠していました。誰にも隠したままで、入内するつもりでいました。でもあの笛師の娘を見ているうちに、気持が変りました。あの娘は自分の想いを大事にしています。その想いのためには、どんなことでもする決心でいます。それがわたしには分りました。わたしはこういう身分に生れて、何ひとつ自分の思い通りには出来ないように、してはならないように、育てられて来ました。入内してしまえば、もう死んだも同然です。その前に一度だけ、そなたたちの助けを借りて、そのかたのお顔が見たいのです。」 「一体それはどなたさまです。」  辨が声を詰らせて訊いた。 「二条の左大臣さまの若殿です。去年の秋、太秦の屋形に出掛けた時に、辨が扇を頂いて来た安麻呂さまです。」  辨は驚きのあまり、うつけたようになっていたから、すぐ側で、次郎がどんな心持で姫の言葉を聞いたのか察することも出来なかった。辨は声をわななかせて姫に訴えた。 「お姫さま、そのようなことをなされては……。それに、あのかたは左大臣さまの、やはり近々に御入内される姫君のお兄さまに当るかたではございませんか。」 「その通りです、辨。」  姫の言葉は寧《むし》ろ涼しげだった。こうして明《あか》してしまった以上は、もう恐れることはないというふうに聞えた。 「それを承知で、わたしはお会いしたいのです。」  姫は顔を起して二人を見やりながらそう言い添えたが、その姿は次郎には、今までよりも一層美しく、一層女らしく見えた。子供が駄々をこねるような幼さはなく、ひたむきな女ごころが感じられた。しかしそれは表には見せない絶望の涙で、次郎の眼が曇っていたせいかもしれなかった。姫は手の届かない遠くにいる人で、最早《もはや》その心さえも捉えることは出来ないという思いが、次郎を打ちのめした。しかし次郎は不断と変らぬ落ちついた声で言った。 「何なりと御指図下さい。お言いつけの通りにいたします。」  姫は感謝の気持を瞳《ひとみ》にみなぎらせて頷いた。しかし辨はまだ息を喘がせながら、姫に食いさがった。 「お姫さま、それは到底かなえられることではございません。それにあの若様は、二条の御屋敷に、御両親と一緒にお住いでございますから、文をお届けする術《すべ》もございますまい。お姫さまがお会いしたいとおっしゃいましても、その手立が……。」  姫はかすかにほほえんで辨に言った。 「そなたは聞きませんでしたか。この間、笛師の家であの娘と話をしていた折に、楓は、父親が身分のある殿がたのお屋敷などにも出入りしていて、笛の御註文《ごちゆうもん》に応じていると申していました。楓がなにげなく洩らした名前のなかに、蔵人《くろうど》の少将のお名前もあった筈です。あの笛師の喜仁というのは大層の名人のようですから、雲上人《うんじようびと》のおそばへも行かれましょう。そこに何か手立が見つからないでしょうか。」 「私が笛師に頼んでみます、」と次郎が答えた。「もしも笛師がその若殿のところへ出入りしているのならば、話は簡単です。私が笛師の供についてお使いの役をつとめましょう。」  辨は次郎の方を振り返って、眉をひそませた。 「次郎にはお姫さまのおっしゃった意味が分っているのですか。御入内を間近に控えていながら、お姫さまの身に万一のことがあればどうなることか。橋渡しをしたわたしたちは重いお咎《とが》めを免れませんよ。」  次郎は磊落《らいらく》に笑った。 「承知しています。しかし姫君も御覚悟があって申されたことでしょう。私も、姫君のためならば、覚悟は出来ています。」  そう言い切った次郎を、辨は呆《あき》れたように、姫はたのもしげに、言葉もなく見詰めていた。     二 「あなたさまを少将さまのところへ御案内するのは、わけもないこと。ちょうど品物をお届けする用もございますからな。」  笛師の家の表座敷で、酔の廻ったらしい喜仁は機嫌のよい声で答えた。先夜の礼として、くさぐさの下賜品が中納言家から運ばれたが、その宰領をしていた次郎だけは、是非にというので夜まで引き留められ、盛んなもてなしを受けた。賊を欺く策略が無事に成功したというので、主人も娘も心から悦んでいた。珍しい褒美《ほうび》の品をもらえたためではなく、次郎が手柄を立て、そして自分たちもそれに一役買ったというのが、二人には嬉しくてたまらないらしかった。事のついでのように次郎が蔵人の少将のことを訊いた時にも、笛師は二つ返事で引き受けた。 「いや、案内を頼むというのではない。ただあなたの供として連れて行ってもらいたい。」 「ええ宜しゅうございますとも。あなたさまは笛の上手ゆえ、少将さまにお聞かせするためにお連れしたということで済みます。わたくしの持参する笛の自慢ついでに、あなたさまの自慢もいたしましょう。」 「あまり自慢をされては困る。それに、名を明かにして連れて行ってもらいたいのではない。喜仁殿の笛つくりの弟子ということでよいのだ。私も侍のなりはしないで行くつもりだ。」  喜仁はそれを聞いてちょっと訝《いぶか》しげな顔をしたが、深く考えるには酒が過ぎていた。 「お好きなようになされませ。しかしあなたさまをお連れすれば、少将さまはきっとお悦びになりますな。あのかたは評判の好き者で、親御さまの眼を掠《かす》めて夜歩きばかりなされていましたが、去年の臘月《ろうげつ》に百鬼夜行《ひやつきやぎよう》に出会ったとかで、それからはお身体《からだ》の調子が思わしくないようでございますよ。春だというのに、いまだに出仕もなさらず、お屋敷なかに逼塞《ひつそく》しておいでです。お若いのにお気の毒な。鬼めのたたりでございますかな。前とは打って変ったように、ふさぎの病に罹《かか》られておいでですから、笛でも吹いてお聞かせすれば、お気晴らしにもなりましょう。」  その間、楓は座敷の隅で、姫君からの拝領の蒔絵螺鈿《まきえらでん》の手箱などを仔細《しさい》に見ていたが、ふと気づいて、父の方を顧みた。 「その百鬼夜行に出会ったとかいうかたは、もしや、二条の左大臣さまの若様ではございませんか。」 「そうとも。楓もその話を聞いたことがあるかな。」 「都では誰知らぬ者のない噂《うわさ》でございました。次郎さまはその蔵人の少将さまへどんな御用がおありなのでしょう。」  次郎はかすかに微笑を見せただけで、その問には答えなかった。楓はしずかにその側まで近づき、提子《ひさげ》を取って酌をした。 「私はもう結構。そろそろ屋敷に戻らなければ。」 「遠慮は御無用にして、もっとおすごしなされよ。それとも娘の酌では御不満ですかな。」  笛師は陽気に叫び、娘から睨まれると、「わたくしめはもう食べ酔いました。娘の機嫌を損ぜぬうちに、どれ、引き下るとしますか、」と言って、足をよろめかせながら部屋を出て行った。 「お父上は大丈夫かな、」と次郎が訊いた。 「父はお酒に弱いくせに、今晩はかなりすごしたようですから。」  そう言いながらも、楓は格別心配そうな顔もせず、立って様子を見に行く気配もなかった。両手に提子を抱いて膝の上に置いたまま、何かを考えあぐねている表情で、父の去って行ったあとを見守っていた。 「どうしました。」  楓は振り向き、少し膝をずらして次郎の方に近づき、前に置いてある盃《さかずき》に酒を注いだ。それからやさしく言った。 「この間の晩、お姫さまのお話をうかがっております間に、あのかたはお為合《しあわ》せではないようにお見受けしました。何か心のなかに、深く隠していることがおありのようでした。あなたさまが、蔵人の少将さまのところへお使いにいらっしゃるというのは、もしやお姫さまの御用なのではございませんか。」  次郎は眉をひそめたまま答えなかった。 「このようなことを申し上げれば、お気に障《さわ》るだろうということは存じています。でも、下々の者たちまで、左大臣家のお姫さまと中納言家のお姫さまとが、お二人とも入内されるということを噂にしております。雲の上のことは分りませんが、蔵人の少将さまは左大臣家の若殿、謂《い》わば競争相手のかたの御兄弟、そこへあなたさまが出向かれるというのは、人に知られたならばゆゆしいことでございましょう。父は呑気《のんき》に構えておりますが、わたくしは心配でなりません。」  次郎は重々しく口を開いた。 「喜仁殿には迷惑のかからぬようにします。」 「いいえ、わたくしが心配なのは、あなたさまのお身の上でございます。」  楓はその片手をそっと次郎の膝に触れさせた。 「次郎さま、先ほども申しましたように、わたくしはこの前、お姫さまは心の奥で、どなたか深く慕っていられるかたがあるような、そのような気がいたしました。今夜のお話を聞いて、そのお相手が、もしやその蔵人の少将さまではなかろうかと思われるようになりました。こんなことを申してはいけないのでしょうか。」  次郎は先ほどから眼を閉じたまま微動もせずに坐っていた。膝にそっと置かれた暖かい手を感じていたが、腕組みをしたままそれを取ろうとはしなかった。それからゆっくりと口を開いた。 「あなたは知らない方がいい。」 「知りとうございます。決して他言はいたしませぬ。わたくしはそれを知りとうございます。」  それは単に好奇心の叫びというのではなかった。もっと切迫した、もっと悲しげなものが、その声のなかに響いていた。次郎はやはり眼をつぶったまま頷き返した。 「姫君は蔵人の少将殿がお好きなのです。」 「前から。」 「さよう。私が信濃の国から都に着いた少し前のことらしい。」 「お姫さまは、それがかなわぬ恋だということを御存じないのですか。」 「御入内の前に、一度だけ会いたいと仰せられた。」  楓は深い嘆息を洩らした。 「そしてあなたさまは、あぶない目を冒《おか》してまで、そのお姫さまのためにお使者の役目を引き受けられたのですね。」 「そうだ。」  楓はもう一度吐息を吐いた。 「お姫さまは、あなたさまのお心を御存じないのでしょうか。」 「知る筈もない。」  次郎は自らを蔑《さげす》むように荒々しく言った。と同時に、楓は堰《せき》を切ったように内心の抑えていたものを溢《あふ》れさせた。 「そのようなことが何になりましょう。お姫さまがどれほど少将さまをお好きでも、それでどうなります。そのお姫さまをあなたさまがどれほどお慕いになっても、それでどうなるというのでしょう。そんな空《むな》しいことを、そんな何の益にもならないことを、なぜしなければならないのでしょう。」  次郎は眼を開き、楓が自分の膝に縋《すが》って泣き伏しているのを見た。乱れ散った黒髪が、嗚咽《おえつ》するたびに揺れ、髪油の匂がかすかに馨《かお》った。  不意にこの娘を憐《あわれ》む心が、迸《ほとばし》るように湧《わ》き出でた。楓が自分を好きだということは、姫に言われるまでもなく、とうに気づいていた。自分を見る時の楓のきらきらした眼の輝き、摩《す》り寄って来る時の身のこなし、話し掛ける言葉の節々の微妙な張り、それは如何《いか》に次郎が女ごころに無知であっても、知らないままではすまされなかった。しかし次郎の方からすれば、姫と較べれば楓は日と星ほどの相違があった。朝日の昇る時に、誰がいつまでも星の瞬きを眼に留めていることが出来よう。次郎の心のなかでは、昼夜の分ちなく、姫の姿は日輪のように照り渡っていたのだ。たとえ楓が自分を好きだと分っていても、同じ感情を楓に対して持つことは出来なかった。可哀そうに、と次郎は心の中で呟いた。しかしそれは同時に、自分自身を憐む言葉に他ならなかった。 「楓さん。私はこういうことを考えるのだ。自ら定めた掟《おきて》というものがある。それは、いつ、どうして定められたものか、自分にも分らぬ。しかしその心の掟に、決して背かないと誓って、あくまでそれを守ろうとする者も、この世の中にはいるのだ。自ら定めた掟だから、自ら破っても誰にも知れるわけではない。誰に咎められるわけでもない。しかしそれ故にこそ、この掟は尊いのだ。姫が蔵人の少将殿に今一度会いたいと言われるのも、恐らくはこの掟のためだろう。私が、身分をも顧みず姫君を慕っているのも、この掟のためだ。私はあなたの気持が分らないのではない。自分のしていることが、無駄な骨折だということに気がついていないわけではない。しかし私は、どうしてもそうしなければならない。そのためによしんば身を滅したからといって、悔むことはない。どうかそれを分ってほしい。」  次郎が話している間じゅう、楓は小刻みに肩を顫わせて泣いていたが、その時なよやかに身を起した。涙に濡れた眼で、打ち沈んだ男の顔をじっと見た。 「分りました。次郎さま、あなたさまのおっしゃることはよく分りました。わたくしたちはみな、心にそれぞれの掟を定めて生きているのでございますね。その掟はわたくしにもございます。わたくしはわたくしなりに、それを守って参ります。」  次郎は苦しげに眉を寄せたまま、楓の方を見ようともせずに、黙然として動かなかった。     三  綾絹に包んだ笛をまるで捧《ささ》げ持つようにして、摺《す》り足でそろそろと歩いて行く笛師の喜仁のあとから、大伴の次郎信親はその供の者といった直垂《ひたたれ》姿で、附き従っていた。笛師の足の運びの遅いことはもどかしいばかりだが、そうかといってここで侍の身分が露《あらわ》になったら一大事である。警戒の厳しい二条の左大臣のお屋敷の中に、賤しい笛師の供の者|風情《ふぜい》に化けて、中納言家に仕える者がはいったとあれば、姫の入内を目前にしている両家の間柄からして、ただでは済まされまい。長い細殿《ほぞどの》を曹司《ぞうし》まで案内される間じゅう、女房などに行き会うたびに、次郎は烏帽子《えぼし》が垂れ下るまでに腰を折って顔を隠した。何やら敵地に乗り込んだという心地もする。ここに来る前に、笛師の家で身仕度を手伝いながら、楓が不安げな顔をしていたことを思い出す。しかしそれを掻《か》き消すように、姫の高貴な面影が次郎の心の中を過ぎて行くと、もう何一つ恐れることはないと思う。問題はただ、使者の役目が無事につとまるかどうかというそれだけである。  案内の女房に従って、恭《うやうや》しく曹司の入口に平伏した。 「笛師の喜仁を召し連れました。」 「待ち兼ねていた。こちらへ通せ。」  その声は若くて甲高いが、どこか力が抜けている。次郎は充分に頭を下げていたあとで、少しばかり顔を起した。  美しい茵《しとね》の上に、脇息《きようそく》に寄りかかって、狩衣《かりぎぬ》を着た若者がしどけなく坐っていた。顔は色白というよりは寧ろ蒼ざめて、見るからに精気がなく、脇息がなければ今にも倒れそうに見える。その傍《かたわ》らにいる老女は乳母《めのと》であろう。それに若い女房と女童《めのわらわ》もいる。これでは余人に知られぬように事を運ぶことは難しいな、と思案しているうちに、その老女がこちらを向いて、顔を起している次郎を目ざとく見咎めた。 「そのうしろにいる者は誰じゃ。」 「申しおくれましたが、この者はわたくしの供で、少しばかり笛を嗜《たしな》むものでございますから、少将さまの御慰めにもなろうかと存じまして、連れて参りました。」  笛師がさっそく引き取って返事をした。よもやこれが、近江の芒《すすき》の原で一目散に逃げ出した臆病者とは思われぬほどの、沈着さである。乳母は格別の不審も覚えなかったと見えて軽く頷いた。 「笛を。」  蔵人の少将は、女童が喜仁から受け取って渡した笛を手にして、しげしげと見守った。 「これは必ずやお気に召す筈でございます。喜仁が精魂を籠《こ》めて作りましたもので、音色もそれは素晴らしいもので。」 「そうか。」  少将は嬉しげに笛を捏《こ》ねまわしていたが、徐《おもむ》ろに脣《くちびる》の方へ運んだ。試すように一口二口吹いてみる。 「若様が笛のお稽古を遊ばすのなら、わたくしはお許しを得て向うへ参ります。」  乳母がかすかに皮肉そうな微笑を見せて、そう言った。少将は声を立てて笑った。 「私の笛はそんなに下手か。」 「若様は何ごとにつけてお上手でございますが、笛だけはいけません。聞いているうちに身うちがぞっといたします。」 「しかしこの笛は、喜仁が自信のある作だと申しているぞ。」 「笛の良し悪《あ》しではございません。若様の技倆《ぎりよう》がどうも。」  そして会釈をすると、乳母は悠々と部屋を出て行った。 「少将さまも、見事にしてやられましたなあ、」と、喜仁が遠慮のない口を利いた。 「なに、あれはお前の悪口でもあるのだ。技倆が悪くても笛さえよければ、乳母だって逃げ出しはすまい。しかしあの女はこの頃威張っていかんな。己《おれ》がこうして長患いをして閉じ籠ったきりでいるから、とやかく偉そうな口を利く。笛の良し悪しを聴き分けるような耳は持っておらんのだ。なあお前たち。」  側にいた女房と女童は、笑いを抑え切れぬように袖に口を隠して下を向いた。少将は笛を取り上げて吹き始めた。  なるほど、乳母が退散したのももっともだ、と次郎はしかつめらしい表情を崩さずに、心の中で考えていた。確かに笛の出来は悪くなかった。次郎が喜仁から貰った、伊勢の守へ献上する筈であった笛と較べても、遜色《そんしよく》があるとは思われなかった。しかし吹き手の方は、どうにも上手と褒めるわけにはいかない。ただ蔵人の少将は実に熱心に笛と格闘していた。息切れがするのか長くは続かなかったが、精いっぱいに吹いていた。それからぽつんと歇《や》めた。 「悪くない笛だ。」  再び脇息に凭《もた》れて大きく吐息を吐きながら、少将は笛師に声を掛けた。 「さようでございましょう。これで少将さまが元通りの元気なお身体にお戻り遊ばしたら、笛の音色も一段と宜しくなります。」 「何だ、お前までが技倆が悪いようなことを申すのか。」  少将は相変らず袖を口に当てている女たちを見やりながら、機嫌のよい声を出した。しかしすぐさま、気落《きおち》したかのようにその声がしぼんでしまった。 「と言ってもなあ、己はどうも元のようにはなりそうもない。」 「滅相な。すぐにもよくなります。」 「春になればと思っていたが、己の病は鬼に見込まれた病だからな、人間の思い通りにはいかないらしい。」  少将の述懐は哀れを催させ、次郎もそれを女々しいとは思わなかった。百鬼夜行の祟《たた》りで、蔵人の少将がいつまでも出仕できないでいることは、京の町にあまねく知れ渡っていた。ただ次郎だけが、姫の意中を聞かされてからは、少将の病には別の原因があるのではないかと疑っていた。その疑いが、今の言葉を聞くと一層濃くなった。 「時に少将さま、わたくしの召し連れました者の笛を、一曲お聴き願えませんかな。多分お気晴らしになりましょう。」 「その者は己よりうまいか。」 「こう申しては何でございますが、これほどの上手は大宮人のみなさまの間にも珍しいかと存じますよ。おためし下さいまし。」 「よかろう。己よりうまく吹いたら、褒美を取らせよう。」  喜仁が振り向いて合図をしたので、次郎は会釈をし、腰に差した笛を抜いて無造作に口にしめした。次の瞬間にはもう美しい音色が、その小さな楽器から流れ出した。  蔵人の少将は、笛を吹く技術は大したことはなかったが、聴く方にかけては確かな耳を持っていた。いや、音楽の良し悪しの分らぬ者が聞いても、その音色は心の中に沁《し》み通るようなものがあった。女房も女童も、居ずまいを正して聴き惚《ほ》れ、この笛のために屋敷の中の一切の物音が掻き消されてしまった。次郎は無心に吹き続けた。一曲が終ると、少将がすぐに声を掛けた。 「うむ。もう一曲。」  曹司の片隅から泉が湧《わ》いて来るように、涼しい響が蔵人の少将の全身を包んだ。耳を傾けながら、少将の心の中の印象は少しずつ変って行った。初めは、ただ見事だと思い、次いであの恐ろしい記憶が、——臘月の辰《たつ》の日に夜歩きをしていて、百鬼夜行に出会う前に不吉な先触れのように聞いた笛の音の記憶が、甦った。しかしその遠いかすかな響は、あの夜、気を喪《うしな》う前には、弥陀《みだ》の来迎を知らせる合図のように神々しかった。それを聴くうちに死んでもよいとまで思った。いやそうではない。死にたくはない、姫にもう一度逢うまでは死にたくないと、その時、暗闇の中に沈んで行きながら一心に思い詰めていたような気がする。そして今、笛師の供の者が嚠喨《りゆうりよう》と吹き鳴らす響を聴いていると、姫への想いが一途《いちず》に高まり、心のすべてを占め、野分《のわき》の風の吹きすさんだ太秦の一夜にこの身があるような心地になる。 「もう一曲。」  少将は憑《つ》かれたように所望し、かなわぬ恋のために心が千々に乱れるのを感じた。もう笛の巧拙はどうでもよかった。この笛によって傷痕《きずあと》が再び開いたのを、寧ろその傷痕をいとおしむかのように、心の奥底で撫《な》で摩《さす》って、深い感慨に耽《ふけ》っていた。いつのまにか曲が終り、一座の者が主人の声のかかるのを待ち受けていた間も、暫くはそれに気がつかなかった。 「いや、見事なものであった。これほどの笛の名人が隠れていようとは思わなかった。こちらへ来るがよい。」  次郎は畏って茵《しとね》のそばに近づいた。 「名は何と申すのか。」 「名のある者ではございません。」 「誰に習った——。」 「見よう見真似で、自分で覚えただけでございます。」  少将は感に耐えぬように相手を見ていた。 「何なりと褒美を取らせよう。久かたぶりに心がなごんだ。時々は来て慰めてもらいたいものだ。褒美には何が所望か、遠慮なく言ってくれ。」  次郎は顔を起し、低い声で申し入れた。 「恐れ入りますが、わたくしの所望の品はお人払いの上で申し上げとうございます。」 「何、人払い、——この女どもが邪魔だと言うのか、面白いな。どんな註文《ちゆうもん》が出て来るか。」  そして女房にやさしく命じた。 「お前等は喜仁を連れて下《さが》っていよ。喜仁に馳走してやれ。己はこの男と話がある。」  曹司の中が二人きりになっても、次郎は尚もあたりの気配をうかがっていた。少将の方がたまりかねて催促した。 「どうした。早く申せ。」 「はい。」  次郎は懐の奥から文を取り出すと、相手に渡す前に少し説明を加えた。 「このような策略を用いましたことを、平におゆるし下さい。わたくしは三条の中納言さまの屋敷で、西の姫君にお仕えしている大伴の信親と申す者でございます。姫君の御入内の日もいよいよ迫りました。それで少将さまにお文を差し上げたいと申されますので、わたくしが使者に立ちました。どうかこのお文を御覧下さいますよう。」  聞いているうちに、蔵人の少将の顔色は次第次第に蒼ざめ、文を受け取る手はわなわなと顫《ふる》えていた。 「姫君は御息災かな。」 「はい。されど御心痛の模様でございます。」  少将は心ここにない有様で頷き、文を開いて読み始めた。長い時間がかかり、その手の中にある文は蝶の羽のように顫えていた。次郎はじっと俯《うつむ》いて待っていたが、やがて少将が深い嘆息と共に、文の末にしるされた次のような歌を読むのが聞えた。   待つらむと契りしほどを忘れずば      身の朽ちぬまの逢ふこともがな  暫くの沈黙の後に、少将は次郎に向って訊いた。 「そちは姫君にお仕えしていると申したな。」 「はい。」 「事の仔細《しさい》は存じているのか。」 「存じております。」 「姫君は今一度逢いたいと申されている。他愛《たわい》もないことを申されるものだ。」  次郎は相手の言葉に驚き、眼を上げて、苦痛の深い皺《しわ》が少将の若々しい顔を歪《ゆが》ませているのを見た。 「何と仰せられます。」 「よいか、思ってもみよ。姫君は御入内のさだまっているお方だ。それも日は目睫《もくしよう》のうちに迫っている。警戒は殊のほか厳しかろう。どうして脱け出せると言うのだ。」 「それはわたくしどもが何とでも……。」 「万一、ことが露《あらわ》れたらどうする。中納言家には取り返しのつかぬ傷がつこう。宮中での己の出世ももう終りだ。いや、己はどうなったところで構わぬ。しかし姫君の身はどうなる。尼寺にでも閉じ籠る他に道はなかろう。主上のお憎しみを受けて、己たちはともどもに破滅だ。」  少将は恐ろしげに手足をわななかせた。次郎は一歩前に身を乗り出した。 「そのことは覚悟の上で、姫君が言い出されたことではありませんか。わたくしは、あなたがきっと悦ばれると思っていました。長い間、文を通わすすべもなかったあなたがたです。姫君がこの期《ご》になって尚も未練を捨て切れないで、今一度と申されているのです。あなたはお逢いになりたいとは思わないのですか。」  少将の顔はさながら紙のように白くなった。次郎の言葉の過ぎるのを咎めようともせず、苦しげに顔をひきつらせていた。力のない声で呟《つぶや》いた。 「逢いたい、それは己も今一度姫君に逢いたい。今の今まで、何とかして逢えないものかと、そればかり念じていた位だ。しかしこの文を見て、姫君のお気持を知ったとなると、己はかえって、もう己たちは二度と逢えぬ、二度と逢ってはならぬということが分ったのだ。」 「そのような勇気のないことで……。」  次郎は歯噛《はが》みをするように荒々しく言った。相手の心変りが理解できなかった。この男は、この蔵人の少将は、一筋の恋をさえ貫くことの出来ぬ言いようもない臆病者かと、口惜しくてならなかった。相手は次郎を憐むように、そして自らを憐むように、かすかな寂しい微笑を洩らした。 「勇気か。そちは恐らく侍であろう。勇気というものを知っていよう。己は勇気とは関《かかわ》りがない。己はあぶないことの出来る男ではない。己たち禁中に仕えている者は、してよいことと、してならぬこととの区別を弁《わきま》えないでは暮せぬ。恋をすることは気ままだが、御入内を目前にした姫君と恋をしてはならぬ。そちのような身分の者なら知らぬこと、己たちの身分ではそれだけは出来ぬ。姫君とても御存じの筈だ。それが掟なのだ。」 「では諦めると申されますか。」 「諦める、そうだな、人力の及ばぬことは諦める他はあるまい。己のように二条の左大臣の血筋に生れ、若くて蔵人の少将に任ぜられている者でも、この世にままならぬことはあるものだ。しかも己は、姫君のことを夢寐《むび》にも忘れたことはなく、こうして鬱々と日を送っているのだ。何ということだ。」  少将は吐息を吐き、焦点の合わない眼で遠くの方を見ていたが、やがて言った。 「そこの机と文箱《ふばこ》とを取ってくれ。返しの文を認《したた》めよう。」  次郎は眼を閉じて、紙の上を走る筆の運びを耳にしながら、黙然とそこに控えていた。その筆はしばしばとまり、吐息がそれに続いた。やがて少将が、文の末につける歌を読むのが聞えて来た。   水茎のはかなき跡をしるべにて      朽ちたる舟のゆくへかなしも  少将が書き終えて文を渡そうとした時にも、次郎はまだ塑像のように動かなかった。     四  がらんとした寺の本堂で、次郎は智円法師と向い合って坐っていた。本尊の前にともされた燈明がかすかに瞬いているが、春の夕べらしい柔かい日射が、まだ欄間から射し込んでいて、二人のいるあたりは仄《ほの》かに明るい。 「此所《ここ》に参ると、近江の六角堂のことが思い出される、あの時は驚きました。」 「あのような破《や》れ寺《でら》と一緒にされては困りますな。この寺もわたくしが住むようになってからは、だいぶ手入れもしました。昔は狐狸《こり》の住いで、わたくしが来た頃は乞食も住まなかった。」  法師は声を上げて笑ったが、その笑い声が本堂の中に木霊《こだま》して異様な感じを与えた。 「御坊はずっとこちらにいられるおつもりか。」 「さてどうなりますか。今はわたくしを取り立てて下さる殿様がおいでなので、こうして京にとどまっているものの、いずれ旅に出るやもしれません。まだまだ陰陽道の修業が至らぬゆえ。」 「うちの殿様は、その後は御坊のもてなしもせず、申訣のないことに存じておる。」 「何の、お気になされることはありませぬ。」  次郎はこの法師の前では、中納言に仕える身として、肩身の狭い思いをした。せっかく催された法術の披露も、一時の褒美だけでその後のお召しはなく、不動丸の襲撃を教えられても、盗賊を捉えることが出来なかったので、法師の名を顕わすには至らなかった。そういう負目《おいめ》はあるが思案にあまった今のような場合には、次郎としては他に相談相手もないこと故、つい足が向いた。といっても、姫の大事を他人に明すわけにはいかない。  しかし次郎の鬱屈した様子は、すぐさま法師の鋭い眼光に見破られたようである。 「今日はどちらに参られてのお帰りでございますな。」 「ああこの扮装《いでたち》か。仔細があって二条の左大臣殿のお屋敷に参った。」  法師は垂れ下った濃い眉の下に瞳《ひとみ》を隠して、じっと次郎を見詰めていたが、不意に次郎の心胆を寒からしめた。 「蔵人の少将にお会いに行かれましたろう。」 「何——。」 「それも姫の御使者でございましょう。」 「どうしてそれが分った。」  次郎は詰め寄ろうとするように、膝を立てた。しかし相手は平然と片手を上げて制した。 「いつぞや中納言さまのお庭で、法術をお目に掛けましたな。あの時、御簾《みす》の向うで、姫君ひとりは術にかからず、危《あやう》く術が破れるところであったと、申したことがありました。覚えておいでか。」 「如何にも。」 「姫君が術にかからなかったのは、心に別のことを想われていたからです。それが分って、わたくしは姫君のために、心に想われている人を幻に現じて差し上げた。それが蔵人の少将です。さすれば、姫君が考えられていることはわたくしにはよく分ります。」  次郎はいつもながらの法師の眼力に舌を巻いて驚いたが、しかしそのために今は心置きなく話が出来るようになった。先程の少将の嘆息がうつったかのように、次郎は大きく吐息を吐いた。 「御坊が承知ならばしかたがない。こういうこともあるものかな。姫君が今一度逢いたいと仰せられているのに、あの男はそれを断った。」 「断りましたか。」 「人力の及ぶところではないと申した。」  法師は合点をして呟いた。 「悧巧《りこう》なお人じゃ。人力の及ばぬことを知るという分別が大事じゃ。」  次郎は憤《いきどお》ろしく法師の言葉に噛みついた。 「何をか分別と申される。事が露顕した時にはどうなるか、自分の出世の道は止ろう、中納言は失脚しよう、姫君は尼になろう、などとあの男は言っておった。それが分別というものか。まだ逢ったわけではない、まだ事が露顕したわけではない。それをもう先走って、逢いもせぬ先に身顫いして、せっかくの姫の気持を踏みにじる。それが分別か。」 「まあまあ落ちつきなされ。」  法師は穏かな声でたしなめた。しかし次郎は口惜しげに身をよじらせた。 「私は姫君がおいたわしくてならぬ。あれほど思い詰めていられるのに、このような返し文を持って帰れるものではない。姫君は、いざとなれば、親をも屋敷をも捨てる気でいられるのだ。しかしあの蔵人の少将は、何ひとつ捨てようとはせぬ。」 「それでも少将が、恋を知らぬ男とは申せますまい。」  法師のその言葉に、次郎はきっと眉を上げて睨んだ。 「何と申される。」 「少将とても、姫君を想う心はあなたさまに劣りますまい。それを、逢ったところでどうにもならぬと、我と我が心を抑えるというのも、やはり見上げた心持ではございませんか。」 「いや私はそうは思わぬ。恋というものは命をなげうってするもの。分別がどうの、成行《なりゆき》がどうのと、言ってはいられぬ筈だ。」 「身分というものもありましょう。」 「身分か。身分があれば恋もかなわぬものか。少将もそう申した。己たちの身分ではそういうことは出来ぬと。蔵人の少将などという、私などが一生かかっても望めぬような高位高官にあれば、姫君の恋をかなえて差し上げることも出来ぬのか。そのように窮屈なものか。」 「身分の高い低いは、真の為合《しあわ》せとは関りがありませぬ。」  その言葉は、このような荒れ寺に住んで、ひとり行い澄ましている僧侶には似つかわしかった。しかし智円法師は、腹の底に何を考えているものやら、有徳《うとく》の聖《ひじり》のようには見えなかった。次第に暗くなって行く本堂の中で、法師の眼は燈明の光を受けて燐《りん》のように光った。  次郎は相手の言った言葉をじっと噛みしめていた。それから慌しく訊いた。 「御坊の言われたのは、私には身分がない、私ならば為合せがつかめる筈だという意味か。」 「いやいや、早まってはならぬ。そうは申しませぬ。しかしあなたさまには、あなたさまならではの為合せもござろう。」 「御坊は謎《なぞ》のようなことを申されるな。」 「わたくしは謎は申さぬ。あなたさまの頼るべきものは御身一つと、しばしば申し上げました。あなたさまのなさりよう次第では、このわたくしの身にも果報がころげ込むやもしれませぬ。しかしそれはわたくしがおすすめしてのことではない、あなたさまが御自らお選びになることです。」  法師はそう言って瞑目《めいもく》したまま頭を下げた。あとは俄《にわか》に静まり返って、夕闇の中を遠くから鐘の音が聞えて来た。  次郎は重い気持を抱いて寺を出た。法師の許《もと》に寄ったことが、まったくの無駄であったような気がしていた。空にはまだ明るみが残っていて、東の中空には淡い月が懸っていた。月の光もまた謎のように次郎の胸に射し込んだ。  明日の朝にも、姫の許へ今日の結果を報告に行かなければならない。少将から預って来た返し文もある。そのことを考えると、次郎の足取は一層重くなった。どんなにか姫が心待ちしている筈である。首尾よく少将に会えたかどうか、それを気遣うことはあっても、まさか少将の気持がこのように変ってしまったとは、姫は思ってもいないだろう。変ってしまった——。果して変ったのだろうか、と次郎は、その言葉に躓《つまず》いたように考えた。少将はただ、逢うことは出来ないと言っただけである。その気持は少しも変っていない。次郎が辞去する際に、少将はしみじみとこう洩らした。 「己は姫君から文を貰ったことが、どんなにか嬉しいのだ。己は久しく寝たり起きたりしながら、姫君のことばかり想っていた。しかし姫君の方はどうなのだろうか。あれ以来己のことは忘れてしまっているのだろうか。己の妹の姫と同じように、入内の日を待ち焦れて、昔のことなどとうに忘れているのだろうか、——そういう疑いが時折己の心に萌《きざ》すと、居ても立ってもたまらぬような気持になったものだ。今はそうではない。この文を読んで、姫君の気持はよく分った。これで己はもう思い残すことはない。たとえ明日死んでも本望だ。今一度逢おうと逢うまいと、それはもうどうでもよいことだ。そう姫君に伝えてくれ。」  次郎の心を揺すぶるように、その若くてやや甲高い声が、今も尚耳の中に聞えていた。あの男は命を懸けて姫君に恋をしている、と次郎は呟いた。そのことは、どのように悪く言っても打消すことが出来なかった。そしてかの不動丸も、命を懸けて姫君に恋をしたと、確かにほざいた。それならば、この己はどうなのだろう。どうすればこの恋に命を懸けることが出来るのか。姫を警護し、姫の文使いをして、それでどうなるというのだ。  頭を垂れて次郎が中納言の屋敷まで歩いて行く間じゅう、京の町を穏かに照している蒼ざめた月は、不幸な若者の後ろ姿をも照していた。   背信     一  姫は次郎と辨とに意中を打明けたあとで、殆ど茫然として昼夜を過した。決して洩らすことはないと、たとえ父の中納言に対してでもゆめ洩らすべきではないと固く心に誓っていた筈の秘密を、言葉のはずみとはいえ、どうして次郎と辨とに話してしまったのだろうか。辨はまだしもである。みどり児の頃から育ててくれた乳母《めのと》が出家し、名も妙信尼と改めて太秦《うずまさ》の別業に留守を守るようになってしまってからというもの、側《そば》に侍《はべ》って懇《ねんご》ろに世話をしてくれるのは、この年若い侍女の辨なのだから、今まで内心の秘密を辨に気取られないで済んだというのが、不思議な程である。寧《むし》ろ早いところ辨に打明けていれば、これほど日を曠《むな》しゅうすることもなく、かえって辨が若殿に会うための手立を案じてくれたかもしれない。しかし次郎についてはまるで事情が違う。よし自分にとって亡き母の甥《おい》に当るにせよ、大伴の次郎信親が目通りしたのは漸《ようや》く去年の秋であり、親しく話を交すようになったのは、春の初めの頃太秦に泊りに行って、賊の手から危難を救われた縁《えにし》に因るものである。姫のように母もなく、血のつながる同胞もない心細い身にとっては、いつのまにか次郎を、身分が違うとはいえ実の兄も同然と考えるようになってしまったのであろうか。  しかしどのように理由づけても、自分の口から秘密を洩らしたことははしたない振舞であったと、姫は認めざるを得なかった。蔵人の少将を慕うあまり、せめてもう一度逢いたいと、かなわぬ望みに身も心も焼けつく想いに駆られていた。入内の日は一日一日と迫り、支度の調度も日を追って取り揃《そろ》えられる。東の対屋《たいのや》に住む姫君や侍女たちには羨望《せんぼう》の眼で見られ、こちら西の対屋では辨をはじめ姫に附き従う者たちが、女童《めのわらわ》に至るまで、誇らしげに姫の出世を悦んでいる。誰も知る者のない心の苦しみが、つい二人に本心を打明けさせてしまったのでもあろう。それを口にしたからといって、次郎と辨とに余計な気苦労を掛けるだけで、入内の前に左大臣家の若君と忍び逢うなどという大それたことが、かなう筈もないのに。恐らく蔵人の少将も、わたしをおさげすみになることだろう、と姫は哀《かな》しげに考えた。  しかし一度そのことを口にし、しかも次郎が朗らかな声で、必ず使者の役目をつとめてみせると自信ありげに請合ってからは、姫もその成果をつい心待ちにしていた。次郎は如何《いか》にもたのもしげだったし、膂力《りよりよく》のみならず才にも秀でていることは、姫も既によく承知していた。従ってとてもあり得ることではないという諦《あきら》めが、万に一つのはかない望みに取って替るのをとどめることが出来なかった。その顔さえもさだかではない蔵人の少将に寄せる恋心は、次郎が返事を齎《もたら》すまでに一層高まり、殆ど耐えがたい程になっていた。 「お姫さま、次郎が参りました。昨日あちら様へ伺い、お目通りを許されたと申しております。」  朝早く、取るものも取りあえずという慌しい様子で辨が注進に及んだ時に、姫はみるみる顔色を透きとおるように白くし、次いで頬を赧《あか》く染めた。辨はさっそく側の者たちを退かせ、次郎を呼び寄せて几帳《きちよう》の中へ案内した。 「お役目を果して参りました。」  平伏した次郎の顔色も、いつもに似ず蒼《あお》ざめて憔悴《しようすい》しているように見えた。それが不吉な答を暗示しているように思われて、姫は頬の紅《くれない》を次第に褪《さ》めさせながら、気遣わしげに尋ねた。 「次郎、あの方にお会い出来たとか……。」 「はい、首尾よく笛師の供をしてお目通りを許されました。」 「どのような御様子でした。」 「御本復とまでは申しませんが、もう御心配には及ばないでしょう。私が拙《つたな》い笛を吹いて差し上げると、大層お悦びでした。曹司《ぞうし》に閉じ籠《こも》っているのに飽き飽きしたと申されていました。」 「それで、どういう御返事を……。」  姫は再び頬を赧らめて、袖で口を覆《おお》いながら訊《き》いた。 「お返しの文《ふみ》はこれにございます。御覧下さい。」  次郎の渡す文を、姫はその小さな手に受け取ったが、その手はわなわなと顫《ふる》えていて容易に中を開くことも出来ないようだった。辨が介添をしようと側に倚《よ》り添った。しかし姫はさりげない身のこなしでそれを遮《さえぎ》り、期待と不安との入り混った表情を浮べながら、その返し文を読み始めた。そっと窺《うかが》っている次郎の顔が一層蒼くなった。  姫がそれを読んでいる間に、重苦しい静寂があたりに垂れ込めた。辨は息を殺して姫のすぐ横に侍っていたが、途中で姫がかすかな吐息を洩らすのを聞くと、待ち切れぬようにそっと声を掛けた。 「お姫さま、若様は何と仰せられていますか。」  姫は嬉しげに叫んだ。 「辨、あの方はわたしのことを想っていて下さった。忘れてはいらっしゃらなかった。」  そして尚も文の残りを惜しむように読み続けていたが、末にしるされている歌を声に出してやさしく詠《よ》んだ。   思ひ川逢ふせも知らぬながれ木の      身は朽ちぬともこがれ渡らむ  姫はうっとりと、一つ一つの言葉の味わいをためすように口の中で呟《つぶや》いていた。辨がとうとう姫を夢想から喚《よ》び戻した。 「それでお姫さま、お逢いになる手筈はそこに書いてございますか。」  姫は我に復《かえ》った。辨を見て軽く首を横に振りながら、尚も呟いていた。 「安麻呂さまは、やはりわたしを想っていて下さいました。」 「お姫さま、」と子供をたしなめるような、少しあきれたという声で、辨が注意した。  次郎が一歩|膝《ひざ》を乗り出して、辨に声を掛けた。 「手筈の方は私が聞いて来ました。私が取り計います。」 「それはどういうふうに。」 「一番お宜しいのは太秦のお屋形でしょうが、あそこは前のようなことがあって、中納言さまも姫君が御入内を前にして太秦に行かれるのは、おゆるしになりますまい。そこでお忍びで清水《きよみず》に詣《もう》でられるということになれば、信心のことゆえ、多分御承知になるかと思います。蔵人の少将さまは清水の南、阿弥陀《あみだ》ヶ峯《みね》のふもとに、御|昵懇《じつこん》のお屋敷があるとかで、私が今日にも出向いて調べて参ります。清水に一夜お籠りになるという名目でお出掛けになり、そこで供の者を遠ざけ、私が姫君と辨殿を、人目に触れぬようにしてそのお屋敷に案内します。少将殿も同じ頃、やはり出向かれる筈。翌朝、また清水まで戻って来れば、誰にも知られないで済む、——とこういう次第ですが。」 「阿弥陀ヶ峯というのは鳥辺山《とりべやま》よりも先で、寂しいところと言うではありませんか。」  辨が恐ろしそうに尋ねた。 「清水からはほんの近くです。町なかは人目があるし、清水に近くて安全な場所といえば、少将殿が御存じのこのお屋敷より他にはなさそうです。何でも、もと郡《こおり》の大領《だいりよう》の別邸とかで、秘密は洩れません。私が下検分をしてよく見て来ます。」 「でも、お姫さまをそんな寂しいところへお連れしても大丈夫かしら。」 「その節は私が、私の使っている郎等どもを連れて、お供しますから。」 「それでも……。」  尚も不安げに口を挟《はさ》もうとする辨を、その時姫がたしなめた。 「辨、そのように心配することはありません。安麻呂さまと次郎とが取り極めたことです。決して間違いはありますまい。」  姫の毅然《きぜん》たる態度は、先程返し文を手にして、おどおどしていた子供っぽい姫とは、まったく別人の感があった。一人前の女らしい落ちつきを見せて、幸福そうに眼を輝かせていた。 「それで、いつ頃お逢い出来るの。」  姫は次郎を見て、涼しい声で訊いた。 「手筈はなるべく早く整えますが、一両日のうちに、悪い夢を見たので、方違《かたたが》えに清水に詣でたいと、お父様に申し上げて下さい。そうすれば中納言さまは陰陽道に通じたかたですから、きっと日を按《あん》じてお許しになると思います。」 「それはよいことに気がつきました、」と姫は微笑を見せて言った。 「お父さまはきっと承知して下さいます。それで日がきまり次第、次郎が安麻呂さまにおしらせに行くのですね。」 「はい。私がしかるべく計います。」  姫は鷹揚《おうよう》に頷《うなず》き、それから礼を言った。 「次郎、そなたには色々世話になります。そなたがいなければ、わたしは安麻呂さまともう一度逢うことなど、とうてい出来なかったでしょう。いいえ、考えることさえなかったでしょう。わたしはそなたを兄とも思っています。」 「そのような勿体《もつたい》ないことを。」  次郎は恭しく平伏したが、それは尚一層蒼ざめた顔を、姫の前から隠そうとするかのようであった。  次郎が退出しても、辨はまだ眉をひそめたまま、姫の傍《かたわ》らにひっそりと差し俯《うつむ》いていた。 「どうしたの、辨。お前らしくもない。」  姫の声に、辨は顔を起して恐る恐る答えた。 「わたくしは何だか恐ろしゅうございます。胸騒ぎがいたします。」 「それはお前が、この文を見ていないからです。見せてあげましょう。」  姫は蔵人の少将から来た返し文を辨の手に渡した。辨は押し戴《いただ》いてそれに眼を通した。 「お見事な手でございますね。」 「御|身体《からだ》の具合がよいか悪いかは、誰にせよ、そのお人の筆の運びを見れば分ります。安麻呂さまの御加減はもうすっかりお宜しいのよ。それにそのお歌を読んで御覧。」 「はい。」 「あの方は、心にもないことを申されるような方ではありません。太秦でお逢いしてから、安麻呂さまの方もずっとわたしのことを想い詰めていて下さったのです。ただ、今|迄《まで》はその折がなかっただけです。お前だって、それ位のことは分るでしょう。」 「はい。」  辨は頷いたが、しかしいつもの快活な辨とはまるで違った怯《おび》えたような色が、その眼の中に宿っていた。 「少将様のお気持はそうでございましょうが……。」 「では何を恐れているのです。」 「お姫さまはもうお忘れになったのですか、あの不動丸とかいう痴者《しれもの》のことを。」  姫は僅かに身をたじろがせた。 「人に知れてはならぬこと。ましてや賊などに。」 「この前は笛師の家が町なかにありましたから、いざという時も気丈夫でした。でも今度は、阿弥陀ヶ峯の麓《ふもと》などという遠いところ、賊に襲われれば逃げることは出来ません。」 「まあ辨の臆病なこと。大丈夫です。賊が気のつく筈はありません。それに次郎が附いていてくれます。」 「その次郎ですが……。」  辨は言いかけてやめ、姫は自分の想いの中に鎖《とざ》されていたから、そのあとを尋ねようともしなかった。そして辨も、それ以上口を酸《す》くしたところで、姫の耳に入らないことは分っていた。入内を目前に控えて、姫が左大臣の若殿ともう一度逢いたいなどと言い出したからには、姫のお側近く仕える者として、行き着くところまでお供をしなければならないと、健気《けなげ》にも辨は覚悟を定めていた。しかし辨は、姫のように眼が眩《くら》んではいなかったから、どことなくまがまがしいものを、例えば次郎の異様に蒼ざめた顔色などに、感じていた。そこには、辨の知らない何かが隠されていた。     二  夜も更けてから、ひそかに笛師の家を訪れた者があった。店の者が恐る恐る中から声を掛けて確かめた。 「どなたさまです。」 「夜分に申しわけない。大伴の信親だが、御主人はもうおやすみか。ちょっとお会いしたいのだが。」 「これは大伴さまでございましたか。すぐお明けいたします。」  次郎はこの家にはすっかり馴染《なじみ》で、時刻に拘《かかわ》らずいつも心持よく迎えられた。重たい戸口を開いて招じ入れられると、すぐに中庭の奥にある離れに通された。燈台に火が点《とも》され、案内した男が引き下って行くと、次郎は膝を抱いたまま瞑目《めいもく》していた。長い間待たされたあとで、あでやかに化粧した楓が、滑るようにはいって来た。その衣摺《きぬず》れの音に次郎は眼を開いた。 「次郎さま、よく来て下さいました。」 「これは楓さんか。遅く伺って相済まぬ。お父上は——。」 「父はもうやすみました。わたくしがおもてなしをいたします。」 「いや、もてなしには及ばぬ。実は……。」  楓のあとから、酒肴《しゆこう》を載せた折敷《おしき》や高坏《たかつき》が、先程案内してくれた男の手で次の間まで運ばれた。女どもはもう寝てしまったとか、夜分ゆえ何もなくてとか、弁解しているその男の気のよさそうな声を、次郎は迷惑を掛けて済まぬと言いながら、自分の方でも迷惑げに聞いていた。楓はいそいそと立ち働いて、次郎の前に提子《ひさげ》を手にして坐ったが、次郎は沈んだ顔つきをして、眼を起そうともしなかった。 「お一つ如何《いかが》でございますか。」 「頂こうか。実は先日のお礼を喜仁殿に申し述べに来たのだが。」 「首尾ようお会いになれたそうでございますね。」 「うむ。お蔭さまで。」 「父もお役に立ったとか言って悦んでおりました。お姫さまも念願がかなうとあればさぞ御満足でございましょう。お気の毒なのはあなたさまばかり。」  楓は次郎の訪ねて来た嬉しさのあまり、つい軽口を叩いたが、次郎は盃《さかずき》を下に置いて憮然《ぶぜん》として腕を組んだ。楓はすぐに詫《わ》びた。 「余計なことを申して。おゆるし下さいませ。」 「いや、いいのだ。それよりも……。」  次郎は言い澱《よど》んだ。 「何でございましょう。」  楓の眼にも、次郎の様子がいつになく変っていることは初めから分っていた。顔色が悪い上に、この前の時よりも尚一層沈痛としか言いようのない気分を漂わせている。何とか陽気に振舞って相手の心を晴らしたいと思っていたが、この鬱屈した表情には取りつく島もない。 「どうなさいました。」  次郎は厳しさの中に幾分のやさしさを雑《まじ》えた眼で、まっすぐに楓を見た。 「実は、私は郷里《くに》へ帰ることにきめた。」 「何とおっしゃいます。」 「都へ来て半年ほど経ったが、女々しいことに信濃の山奥が恋しくなった。侍勤めなどというものは、私の性《しよう》には合わぬことが分った。故郷の山の中で、鳥獣《とりけもの》を相手に狩でもして暮す方が、中納言さまのお屋敷で窮屈な思いをしているよりも、どれだけましかしれぬ。」 「せっかく御出世の緒《いとぐち》にお就きになったというのに、そのようなことを申されては。」 「いや、出世などというものは、たかの知れたこと。せいぜい中納言家の家司《けいし》になるか、宮仕えをして主典《さかん》の位にでも就ければ、それで終りだ。我等が如何《いか》につとめても、蔵人の少将になることは出来ぬ。一生を侍の身分であくせくして暮すよりは、田舎者は田舎者らしく、また別の道もあろう。郷里を出る時に、兄がくどい程説教をしてくれたが、若気のいたりで都に出てこの眼で確かめるまでは、それが分らなかった。私は私らしく生きたい。あなたにも世話になったが、もうお会いすることもあるまい。」  楓は眼を大きく見開いて次郎を見詰めたまま、凍りついたように身動き一つしなかったが、いつのまにか滲《にじ》み出た涙が、その眼からはらはらと落ちた。 「都をお見限りでございますか。」 「さよう。」 「楓のことも——。」 「あなたのことは忘れぬ。しかしいたしかたがない。」 「なぜ急にまたそのような御決心を……。」  次郎は依然として腕を組んだまま、瞑目して答えなかった。そして楓の発した問は、聞かずとも楓自身にその答が明かだった。姫君のお心が蔵人の少将にあって自分にはないと分った以上、この方《かた》は中納言家に仕えるのを、そして都にあって出世を望むことを、潔《いさぎよ》しとはなされないのだ。この方は自ら定めた掟《おきて》に従って、身を引こうとなされているのだ、——そう楓は考えた。次郎が哀れでならなかったが、自分の身はそれ以上に哀れに思われた。 「それで、いつお立ちでございます。」 「明日。」 「明日ですって——。」 「お別れに参った。夜分遅いとは分っていたが。」 「明日ですの。」  楓は息を呑み、蒼ざめたが、次郎の顔色は一層悪く、苦痛を懸命に押し殺しているように見えた。楓の眼に、男の顔は死人の相のように見えた。 「どうかわたくしをお連れ下さいませ。信濃の国とやらへ、お連れ下さいませ。」  楓は笛を吹くような鋭い声音で一息に叫んだ。 「それはならぬ。」 「はした女《め》で結構でございます、どうかお供のうちに加えて下さいませ。」  次郎は眼を開き、泣き濡れている娘にやさしい声を掛けた。 「分別のないことを申されてはならぬ。お父上のことを忘れたのか。この家であなたは母代りの大事なお人、どうして都を離れられよう。信濃のいぶせき山の奥に、あなたのような手弱《たよわ》い女性《によしよう》が暮せると思っているのか。」  楓は突き放されたように、その場に泣き崩れた。 「さあ、泣いてはならぬ。あなたは物に動じない、しっかりした人の筈だ。お別れゆえ、いま一|献《こん》注いでほしい。」 「はい。」  楓は気を取り直して、素直に提子を取って次郎の盃に注いだ。しかしその手が顫えるのを抑えることは出来なかった。腫《は》れた目もとと涙のこびりついた頬とが哀れに美しかった。 「お父上に宜しく申し上げて下さい。もう二度と会う折もあるまい。いつぞや頂いた笛は、いつまでも大事にすると伝えて下さい。その代りというわけではないが、あなたに差し上げるものがある。」  次郎は部屋の隅に置いた刀の側から、衣に包んだ筥《はこ》を取って来ると、楓の前に差し出した。 「何でございましょう。」 「唐渡りの鏡だ。私の亡くなった母の形見だが、厭《いや》でなければ取っておいて貰いたい。」 「そのような大事なものを、勿体のうございます。」 「遠慮には及ばぬ。これは私の志です。私はあなたに何もしてあげられなかった。もし姫君にさえ会わなければ、また別の生きかたがあったかもしれぬ。しかしすべては前生《ぜんしよう》に定められたこと、今さら人力の及ぶところではない。楓さんも身体を大事にして下さい。」 「はい。」 「それではこれで。」  楓はその場に萎《な》えたように坐っていたが、次郎が立って行って佩刀《はかし》を身につけ、振り向いて別れの一|瞥《べつ》を投げた瞬間に、物に憑《つ》かれたように追い縋《すが》ってその袖を掴《つか》んだ。 「次郎さま、せめて今夜なりとここにお泊りになって下さい。」 「そうはならぬ。」 「せめて、せめてもう一時《いつとき》なりと。これではあまりに酷《むご》いとお思いになりませぬか。」 「私は酷い男だ。そう思ってくれ。」 「厭でございます。楓は厭でございます。楓は——。」  言葉が閊《つか》えたように言い澱んでいたが、遂にそれが迸《ほとばし》り出た。 「楓は、一度だけでも、次郎さまに抱かれとうございます。」  顔を隠すようにしながら、楓の身体は次郎の足許《あしもと》に崩れ落ち、花片《はなびら》の散ったようにそこに打伏した。細い肩が波打って、しなやかな曲線を描いていた。燈《ともしび》の火がまたたき、あたりは静かで、部屋の中には香が重たくくゆっていた。  次郎は立ったまま、苦しげに楓の姿を見下した。その身体を抱き起そうとして、ひと度手が動いた。しかし手は肩に触れる前に止り、反対に足は一歩うしろに下っていた。 「済まぬ。」  そして次郎は振り向きもせずに母屋の暗い土間を通って、笛師の家から逃れ去った。     三  清水《きよみず》の寺の裏手にある林の蔭《かげ》に馬が二頭隠されていて、二人の郎等が馬の側《そば》で見張っていた。次郎は姫君と辨とに、かねて用意した虫《むし》の垂衣《たれぎぬ》のついた市女笠《いちめがさ》をかぶらせ、寺の横手の門を抜けてそっと小道を案内して行った。既に日はだいぶ西に傾いて、林の中はひっそりと小暗い。姫の姿を見ると、二人の郎等は平伏した。 「この者たちは、いつぞや笛師の家でも警護申し上げた者です。御心配は要りません。それに馬はおとなしいのを用意してありますから。」  次郎は姫にそう説明した。 「わたしは馬に乗るのは初めてです。どうやって乗るの。」 「私がお乗せします。」  次郎は軽々と姫を抱き上げると、横坐りに鞍《くら》の上に乗せた。一人の郎等が手綱を握り、一人が馬の尻を撫《な》でていた。姫は少しも恐れる様子がなく、馬の背から面白そうに下を見下していた。 「辨殿も。」  次郎が辨を抱き上げようとして近づくと、辨はしりごみして顫え声を出した。 「わたしは歩いて行きます。」 「それではどうぞ、」と次郎は少し笑いながら言った。「大した道のりではありませんから、女の足でも歩けないことはないでしょう。疲れたらいつでも乗せてあげますよ。」 「歩きます。」  辨はまるで自分に言い聞かせるように叫び、姫の乗った馬の腹について歩き出した。もう一人の郎等は空馬を引いて後ろに従った。次郎は辨と肩を並べながら姫の側を離れなかった。 「この道なら牛車《ぎつしや》でも行けるでしょうに。」  辨がいまいましそうに次郎に食ってかかった。 「もう少し先で道が登りになると、牛車では難しいと思います。それにかかる時間が違います。辨殿も夜道を行くのはお好きでありますまい。」 「それはそうだけど。」  馬の上から姫がやさしく呼び掛けた。 「辨、お前も馬にお乗り。」 「でも、お姫さま。」 「少しも怖いことはありません。いい気持です。こんな面白いものとは知りませんでした。」  姫は浮き浮きした声で言った。それは目前に待っている恋の成就が、姫を幸福な感情でみたしているためであろう。辨の方はそうではなかった。不安そうに時々あたりを見まわし、次郎の顔を偸《ぬす》み見、物言いたげな顔をしていた。しかし次郎はその気配を感じても取り合おうとはせず、いかつい眉と鋭い眼で前方を睨《にら》み、黙々と歩を早めた。  そして一行は、次第に夕闇の濃くなる道を、緑の葉の生い茂る木立の間を通って、前方の阿弥陀ヶ峯の方へ近づいて行った。     四  南に面した座敷である。人里離れた阿弥陀ヶ峯の麓にぽつんと建っている屋敷にしては、天井なども網代《あじろ》に編んだ檜《ひのき》づくりで、見まわせばそれほど粗末でない女ものの調度なども揃《そろ》っている。清らかな畳が三枚ほど敷いてあった。姫は辨に手伝われて旅装を解き、脇息《きようそく》に凭《もた》れて疲れを休めていた。馬に乗せられて山道を行くのも、初めのうちこそ面白くて気分が浮き立っていたが、いざこうして目的地に着いてみると、か弱い女の身には経験したこともない荒行で、言葉も出ない程に疲れ切っている。勝気で負けず嫌いの辨も、とうとう次郎に頼んで途中から馬の背で運ばれて来たが、無事に到着したと分ってほっとした表情を見せていたのも暫《しばら》くで、日の暮れると共にその顔色はまた何やら恐れるような色を浮べ始めた。  先程までまだ西日が軒先に差し込んでいたのが、今は庭先の前栽《せんざい》のたたずまいも見分けがたく、遠くの林が僅かに梢《こずえ》のあたりに夕暮の名残をとどめているばかり。郎等の一人が燈台を運び、火の消えないように紙で覆いをして去って行ってからは、しんとして広い屋敷の中に人の気配もない。 「お姫さま、少将さまはどうなされたのでございましょう。」 「さあ。」 「それに次郎は——。」  姫ははかばかしい返事も出来ないほどぐったりしていたが、この静けさはただごとでないと分り始めていた。恐らく安麻呂に何か事情が生じて来るのがおくれ、次郎が様子を見に行ったものに違いない。もし今晩安麻呂が来られないとすれば、この最後の逢瀬《おうせ》も空《むな》しくなり、明日の朝はどうしても清水《きよみず》へ戻らなければならないのである。危い目を冒して抜け出して来ただけに、何としてでも逢いたいと、神仏に縋りつきたい気持でいた。  廊下を踏む跫音《あしおと》が近づいて、先程の郎等が、折敷の上に乾した鳥や野菜や焼米などを載せたものを運んで来た。この郎等は、いつぞや笛師のところに難を逃れた晩、供について京の町を一緒に歩いた老人である。如何にも実直そうな、主人に忠義な男と見えるが、余計な口は利かないといったふうに、折敷を並べ終ると、一礼したまま、すぐに引き下ろうとするから、辨が急いで呼び留めた。 「次郎はどうしました。何処《どこ》にいます。」 「主人はすぐに参ります。御食事をどうぞ。何もございませんが。」 「お客はまだ見えていないのですか。」 「わたくしは何も存じません。」  取りつく島もなく、それだけ言って退出した。 「お姫さま、一体どうしたのでしょう。」  姫は蒼ざめた顔をして、切なそうに脇息に凭れていた。時は刻々に過ぎて行く。夜になれば、山道を踏んで安麻呂がこの屋敷を訪ねて来ることは、到底覚つかないように思われる。そして夜は既にまったく落ち、燈台の乏しい火は部屋の隅に気味の悪い影を作っていた。屋敷の内も外も恐ろしいほど静かで、鳥がけたたましく一声|啼《な》くと、一斉に木の葉のざわめく音がする。 「とにかくお姫さま、少しお召し上りになって下さいませ。」  辨が食事を進めても、姫の心は姿を見せない安麻呂の上に馳《は》せて、息も苦しいほど胸がつかえていた。そして辨は辨で、空腹よりは不安の方が先に立った。郎等の去って行った廊下の方を、怯えたように眺めていた。 「様子を見て参りましょうか。」  しかしいくら辨が気丈でも、一人でこの屋敷の中を探りに行くだけの勇気はない。姫はかすかに首を横に振った。 「辨、そのように心配してもどうにもなりません。安麻呂さまはきっと来られなくなったのでしょう。これも前生の定めごとですから諦めます。」 「でもお姫さま、せっかくここまで苦労をして……。」 「いくら苦労をしても、安麻呂さまがお出でになれないのなら、しかたがありません。あの方は約束を自分からお破りになるような方ではありません。まさか御病気がまた悪くなったのではないでしょうね。」 「次郎の話では、お身体はもう殆どお宜しいとのことでしたから、きっと何か特別の御事情が生じたのだと思います。それよりもわたくしが心配なのは、この屋敷が無人《ぶにん》なことでございます。少将さまの縁《ゆかり》のところと聞きましたが、次郎の手の者の他に、誰一人姿を見せません。肝心の次郎さえも、どうしたことやら……。」  辨はいつのまにか姫の近くに倚《よ》り添って、声を潜めていた。しかし姫は、そのようなことはまったく気に留めていないように見えた。 「次郎はきっと安麻呂さまの御様子を見に、清水の方へ出掛けたのでしょう。うまく探し当ててお連れしてくれればいいけど。」  二人の女がそれぞれに思いあぐねて、食事も取らずに顔を見合せているうちに、遠くの方から、廊下を踏んで近づいて来る跫音《あしおと》が陰気に響いた。姫はさっとひそめた眉を明るくしたが、どうやら跫音は一人のようである。姫の顔色が再び沈むと共に、辨は血の気のない顔を一層蒼くして、きっと入口の方を睨んでいる。重たい跫音が止り、次郎が片手に長い燈台の柄を持ち、片方の掌で火を覆いながら、現れた。その燈台を部屋の隅に置き、両手を突いて平伏した。 「遅くなりました。」 「次郎、次郎——、」と声に険を含ませて、辨がすぐに呼び掛けた。「これはどうしたことです。少将さまはどうなされました。」  次郎は顔を起したが、その顔色は、脣《くちびる》をわななかせて詰問している辨よりも、一層蒼白くて日頃の次郎とは別人の感があった。 「どうして返事をしないのです。一体次郎は今まで、わたしたちを放っておいて何をしていたのです。少将さまをお探しにでも行っていたのですか。」  次郎はそれでも尚答えなかった。黙然と俯いていた。 「次郎——。」  辨が鋭く叫んだ。 「私は馬の世話をしておりました。」 「では、少将さまをお探しに行ったのではなかったのですか。」 「蔵人の少将はここには見えません。見える筈がありません。」 「何を言います。」  辨は悲鳴を洩らし、姫の方に身体を摩《す》り寄せた。姫は初めて口を開いた。 「次郎、それはどういう意味ですか。」  その時、次郎は俯いていた顔を起し、真直《まつすぐ》に姫を見た。その眼は突き刺すように鋭かったが、燈台の光を受けて、手負の獣のような、狂暴な鈍い輝きがその底に澱んでいた。姫は嘗《かつ》て次郎のこのような恐ろしい顔を見たことがなかった。 「申し上げた通りです。蔵人の少将はここには見えません。すべて私のたくらんだことです。」 「でもあの返《かえ》し文《ぶみ》は——。」 「あれは私が書きました。少将の文と取り替えました。」 「歌は——。」  次郎は笑おうとしたが、その笑いは声にはならず、僅かに脣を歪《ゆが》めただけだった。 「歌ですか。姫君は私が歌一つ作れないとお思いですか。私は中納言さまのお屋敷に身を寄せてから、姫君にお手本を頂戴して、毎日、字を習うことと、歌を詠《よ》むこととに、生き甲斐《がい》を感じていました。郷里にいた頃にも少しは嗜《たしな》んでおりましたが。」 「あれはそなたが作った歌なのですか。」 「その通りです。」  そして次郎は歌の文句をすらすらと諳誦《あんしよう》した。  「思ひ川逢ふせも知らぬながれ木の      身は朽ちぬともこがれ渡らむ  姫君はこれが、蔵人の少将にふさわしい歌ではないと、その時お気づきにならなかったのですね。もし気づかれたなら、あれが贋《にせ》の文《ふみ》だということが分るだろうと、私は覚悟を定めていました。少将は、左大臣家の嫡流という根のしっかりと張った大きな樹です。流木などというものではありません。私は信濃の国から都へと流れて来ました。この先どこへ流れて行くか、それとも朽ち果てて岩に当って砕けてしまうか、明日のことも知れない身の上です。」 「なぜわたしを騙《だま》したのです。」  姫は悲しげにそう尋ねた。露《あらわ》になった事の意外さに顛倒《てんどう》していたのは辨の方で、姫は寧《むし》ろ落ちついて、憐《あわれ》むように、訴えるように、次郎を見た。 「姫君はそれをお知りになりたいのですか。私が何も言わないでも、私の気持がお分りにはなりませんか。」  姫はそれには答えず、眼を落してじっと次郎の返事を待っていた。そして次郎は罪を咎《とが》められている罪人のように、考え考え言葉を継いだ。 「私は姫君のために身をなげうって御奉公をいたすつもりでおりました。姫君が蔵人の少将にそれほどお逢いになりたいのなら、どんなことをしてでも、お望みに添うようにして差し上げたいと決心しました。これは決して偽りではありません。何と言っても姫君がお為合《しあわ》せであればそれでいいのです。御入内なさるのが幸いなのか、少将と忍び逢われるのが幸いなのか、私のきめることではありません。私の心持など何になりましょう。そこで手立を尽して左大臣家へ参りました。蔵人の少将にお会いしました。姫君の文を無事に届けました。しかし少将のお答は、私の予期していたものと違っていたのです。」 「違っていた……。」  姫はうつけたように同じ言葉を繰返した。 「そうです。私はこういうことは言いたくありません。姫君のお気持を傷つけたくはない。しかしお尋ねになるのなら、ありのままに申し上げます。少将は姫君のお申出でを、他愛《たわい》もないことだと断られました。御入内の日の迫っている姫君と忍び逢って、万一それが露顕したら、少将の出世の道も終り、中納言家にも左大臣家にも傷がつき、主上のお憎しみを受けることになる。姫君は尼にでもなる他はあるまい、そういう危い橋を渡ることは己《おれ》には出来ないと、申されました。」 「まさかそのような。」 「私は、それは姫君もお覚悟の上だし、必ずや上手に、人目に触れぬように取り計うからと申し上げたのですが、人力の及ばぬことは諦める他はないとの仰せでした。蔵人の少将はたしかに姫君のことを忘れかねていられる。身も痩《や》せる思いで籠っていられる。御本復がおくれているのはそのためでしょう。少将のその気持は私にも分らないことはありません。ただあの人には肝心の勇気がないのです。恋のためにすべてを投げ捨てるだけの勇気がなく、勇気のないことが分別だと思っているのです。私は腹が立ちました。姫君がお可哀そうだと思いました。しかし自分も、この次郎信親も、哀れな男だと思いました。」  次郎はそこで言葉を切った。姫は黙ったまま自分の膝もとを見詰めていた。辨は何か言いたそうに息をはずませたが、次郎がそれよりも早く言葉を継いだ。 「少将を説き伏せることは出来ませんでした。今となってはどうにもならないことだ、自分たちの身分ではそういうことは出来ないと、答えるばかりでした。私はお屋敷に戻り、一晩眠らずに考えました。私には身分などというものはありません。捨てて惜しくない命があるばかりです。今まで私は、本当の自分というものを圧し殺していたのです。それが姫君に対する当然の義務だと信じ、姫君のために良かれとのみ思って仕えて来ました。しかし私はあの晩、自分も亦《また》一個の人間だと考えました。魔が差したというのでしょうか、このまま姫君が内裏《だいり》におはいりになれば、最早《もはや》お顔を見ることもかないますまい。自分の想いを伝えることも出来ないでしょう。私はその晩、自分の心を鬼にしました。蔵人の少将の筆の運びを真似て、贋の返し文をしたためました。自分の歌をそこにしるしました。もしやこれで姫君や辨殿の目を欺くことが出来れば、自分にも新しい道が拓《ひら》けるだろうと、私はそこに賭《か》けたのです。私は郎等どもに言い含めて、阿弥陀ヶ峯の麓にあるこの屋敷を手に入れ、姫君をここにお移ししました。御覧のように寂しいところです。当座に要り用なものだけは運んであります。しかし多少の御不自由は忍んで頂かなければなりません。」  それを聞いていた辨は、堰《せき》を切ったように怒りを爆発させた。 「次郎、お前という者は、大恩あるお姫さまを盗もうというのですか。そのようなことをして、無事に済むと思いますか。」 「無事に済むか済まぬか、もうしてしまったことです。」 「お前は自分のことばかり言って。少しはお姫さまのことを考えなさい。お姫さまは近々に今まで以上の尊い御身分におなりになるお方ですよ。明日の朝、清水のお籠りにお姿が見えないと分れば、大変なことになります。お殿さまはお姫さま思いのお方ですから、きっと草の根を分けてもお探しになります。検非違使《けびいし》の役人たちもすぐに動き出します。お前がお屋敷にいないことが分れば、必ずこの場所へ追手が掛るでしょう。わたしは決してこのことを人に明《あか》さないと約束しますから、お前は明日の朝は、どうあってもお姫さまを清水へお戻ししなければなりません。今となってはその他に手立はありません。」  次郎は辨のいきり立つのを見て、少しばかり微笑した。 「辨殿まで巻き添えにしてしまったのは、しかたのないことと諦めて下さい。姫君だけをお連れすることは出来なかったのですから。」 「わたしは自分の身なんかどうなったっていいのです。ただお姫さまが。」 「辨殿、私には姫君をお返しする気持は毛頭ありません。どうか一時の気の迷いでしたことだなどと考えないで下さい。」 「お前はお姫さまの御出世を踏み躙《にじ》っても、それでいいつもりでいるのですか。人の不為合《ふしあわ》せを何とも思わないのですか。」  辨は声を顫わせて畳み掛けて訊《き》いたが、次郎は冷静で少しも動じなかった。落ちついて畏《かしこま》っている男の姿は、辨の眼に恐ろしく大きく見えた。 「不為合せですか。なるほど、辨殿から見れば、御入内なされて女御更衣《にようごこうい》の位に即《つ》くのが、女の身の為合せというものでしょう。しかしそれが真実の為合せだと、どうして分ります。姫君は蔵人の少将を慕われている。そのためにはどのような危い橋をも渡ろうとなされた。そういうことの中に為合せがあると、恐らく姫君は思われたのでしょう。私は人の不為合せを願っているわけではない。ましてや姫君を不為合せにしたいなどと、夢にも考えていません。私は確かに姫君を欺いて、このような人知れぬ屋敷にお連れしました。しかし私は不動丸のように、ただ姫君の御身《おみ》が欲しくて、盗み出したのではありません。」 「どこが違います。」 「私は昨年の秋都へ上って、初めて姫君のお声を聞きました。お手本を頂きました。拙《つたな》い笛をお耳に入れました。太秦で漸くお顔を見た時には、私は姫君のためには死んでもいいと固く決心しました。都へ来る前から、まだ見ぬ恋にあこがれていたのでしょう。しかし私がどんなに姫君を想っても、身分というものがまるで違います。私がどのような人間であり、どのような想いに身を焦しているのか、姫君に分って頂くことさえ出来ないのです。姫君のお心が蔵人の少将にあるとしても、私の想いは少将よりももっと深い筈です。ただ、それをどうしたら分ってもらえるか。この屋敷の中では私たちだけです。ここには姫君と私とを隔てる身分の垣根といったものはありません。私は姫君に私という者を見てもらいたいのです。本当の為合せを、二人してつかみたいのです。」  姫はかすかに身じろぎした。悲しげな声で呟いた。 「わたしは次郎を兄のように思っていました。」  その声には無量の思いが籠められていた。安麻呂を失ったという失望が、——しかも次郎の策略によってではなく、安麻呂自身の意志によってこの恋を成就することが出来なかったという失望が、姫の心を千々に砕き、今はもうどうなってもいいとまで思っていた。次郎を憎むだけの気力もなかった。兄とも信じていた次郎が、このような思い切ったことをするとは、まるで夢のようだった。 「私は兄とは思われたくありません。」  次郎は短くそう答え、燃えるような目つきで姫を見詰めた。辨が必死の声で反駁《はんばく》した。 「次郎、お前はそのように思い上って。そんな不埒《ふらち》なことが許されると、お前は本気で信じているのですか。わたしが許しません。指一本、お姫さまに手を触れてはなりません。わたしは身を捨ててもお姫さまをお守りします。」  次郎は冷たい微笑を浮べた。 「辨殿。あなたは私を誤解していられる。先程も申したように、私は不動丸とは違う。姫君を意のままにしたいと言うのではありません。私が姫君を想うように、姫君からも想われたいと望んでいるのです。それだけが私の今生《こんじよう》の願いなのです。」 「それが思い上ったというものです。お姫さまが、お前のことなんかを想われる筈があるものですか。」 「そうかもしれない。しかし待たせて下さい。お心が私に向かない限り、指一本触れないことを誓います。力を用いたとて、人の心を動かすことが出来よう筈はありません。」  姫は怖《お》ず怖《お》ずと顔を起し、心細げな、か弱い声で尋ねた。 「いつまで此所《ここ》にいるの。」 「いつまでもいて下さい。しかしどうしても私の想いがかなわないと知ったら、私は諦めます。必ず中納言さまのお屋敷にお帰りになれるように計います。追手が姫君を探し当てるのが先か、姫君のお心が私に靡《なび》くのが先か、それが私の運の分れ目です。どうかそんなに気落《きおち》しないで下さい。山の中でも、お気を紛らすことは色々ある筈です。鳥も啼けば、美しい花も咲いています。ただ、この屋敷の外へは決して出ないで下さい。検非違使は恐れませんが、不動丸の奴も姫君の在りかを探すでしょうから。」  不動丸の名に、二人の女は身を寄せ合って身体を顫わせた。しかし次郎は泰然として言い切った。 「御心配は無用です。私が必ずお守りします。それにこういう暮しの中にも、為合せというものはあるものだと、今にお分りになるでしょう。」  そして軽く一揖《いちゆう》すると、恐怖と猜疑《さいぎ》の眼で見守っている辨の前から、静かに部屋を出て行った。姫はなよなよと泣き崩れた。   渦     一  翌日の夕刻、出仕から戻った中納言は家司《けいし》をはじめごく主だった侍だけを奥に集めて、内輪の会議を開いていた。西の対の姫君が、清水へ参籠《さんろう》に行ったまま姿を消したという報《しら》せは、中納言にとっては殆ど青天の霹靂《へきれき》とも言うべきものであった。入内《じゆだい》の日が指折り数えるばかりに迫って来ているというのに、夢見が悪いと言ってせがんだ姫の言葉に、つい方違《かたたが》えの参籠を許したのが、あやまりのもとである。それにしても、侍女もろとも掻《か》き消すようにいなくなったというのは、本人の意志でしたことでなければ、よほど巧妙な賊の仕業ということになろう。 「不動丸とやらのしたことにきまっておるわ。姫を狙うと高言しておった奴だ。」  中納言は怒るというよりも、がっくりと気力を失って、細かく鬚《ひげ》を顫《ふる》わせながら喚いていた。 「しかし殿、神隠しということもございますぞ。何しろ誰一人、怪しい者を見かけた覚えがないと申しております。」  家司がこれも白髪をそよがせながら、烏帽子《えぼし》の落ちそうになったのも気がつかないでいる。 「一刻も早く探し出さねばならぬ。神隠しなら手の打ちようもないが、不動丸の仕業とあれば、すぐにも検非違使の尉《じよう》を呼んで探索してもらえ。すぐに使を出せ。」 「お言葉ですが、これは公に知れては一大事でございます。」 「分っておる。高倉の判官《ほうがん》ならば、内密に取り計ってくれよう。この前も世話になった男だ。こちらの内情は存じておろうから、ごく内々に手を貸してもらえよう。それにしても困ったことが起った。」  中納言は吐息を吐き、憮然《ぶぜん》たる表情を浮べて、更に言葉を続けた。 「姫は急病で臥《ふ》せっているということにせよ。医師《くすし》にも内情をしらせておかなければならんな。しかしまたこのことが公になれば、禁裏《きんり》からお見舞の使が来ないとも限らん。どうしたものか。とにかく、そちたちは大至急姫の行方を突き留めよ。よいな。」  そこに居合せた一同の者は、不安に眼を曇らせながら平伏したが、中納言は目ざとく、一座のうちに次郎がいないことに気がついた。 「次郎信親の姿が見えぬようだが。」 「あの者は姫君の警護をして清水にお供いたしましたが、未《いま》だに帰って参りません。」 「ふむ、やはり姿を消したのか。」 「次郎は忠義な者でございますから、もしや姫君が賊に襲われたのなら、必ず斬り死《じに》をするまで戦った筈でございます。未だに帰らぬところを見ますと……。」  家司はかねがね次郎に目を掛けていたから、憂わしげに白い眉をひそめていた。 「神隠しで屈強の侍まで消えるということはあるまい。これは不動丸の仕業にきまった。さっそく迎えを出して判官を呼べ。」  半時《はんとき》の後に、高倉の判官|宗康《むねやす》が中納言の許《もと》に呼ばれて、事情を明された。鬼判官も中納言じきじきの懇願に、恐懼《きようく》して内密の探索を誓った。 「では、不動丸の一味が姫君をかどわかしたと、こう皆様はお考えなのですか。」 「さようです、」と家司が答えた。「他に心当りとてもございませんので。」 「それで姫君の他に、辨という侍女も行方が知れんのですな。」 「さよう。」 「その他に行方の知れぬ者はおりませんか。」 「供についていた大伴の次郎信親という侍が未だに戻りません。」 「その他には。」 「それだけです。」  判官は大きな眼をぎょろりと剥《む》き、大きな声で唸《うな》った。 「それはおかしい。まさか不動丸の一味が男まで攫《さら》うとは思われませんぞ。家司殿、その男はたしかいつぞや、私が検非違使庁に推挙してやろうと申した男でございましょう。」 「如何《いか》にも。」 「賊の一味と渡り合ったとすれば、むざむざしてやられる男とは思われぬ。必ずや打ち殺された賊の屍体《したい》が、一つや二つは残っている筈。誰一人争う姿を見た者がないというのもおかしい。時にその次郎信親は、お屋敷の中に住んでいるのでしょうな。」 「壺屋を与えてあります。」 「召し使っている郎等もおりましょうな。」 「郷里から二人ほど連れて来ております。」 「ではその壺屋へ、どなたか案内して下され。」  判官は中納言に一礼して、悠々と壺屋を検分しに出掛けて行ったが、暫《しばら》くして戻って来ると、勝ち誇ったようなだみ声で報告した。 「姫君を奪って逃げたのは、その次郎信親と申す者です。」  一座はどよめき、中納言は思わず腰を浮かした。 「何と申す。」 「かねて用意をしたらしく、壺屋の中の要り用の品々がさっぱりと消えています。馬に積んで運んだものでしょうな。郎等二人もおりません。これで見ると、姫君も次郎と心を合せて、一緒に逃げられたのではありませんかな。」 「そのような馬鹿なことが。」  中納言の顔色は見る見るうちに灰のように白くなった。     二 「その後病の様子はどうかな。」  高倉の判官が無遠慮に大声をあげながら部屋にはいって行くと、安麻呂はそれまで女房たちに絵巻物などを繰りひろげさせて眺めていたのが、脇息《きようそく》に倚《よ》り掛ったまま大儀そうに顔を起した。 「宗康か。よく来てくれた。まずまずだ。」  痩《や》せ落ちた頬にかすかに親しげな笑いの影を浮べたものの、久しく会わなかったせいか、検非違使の尉にはこの仲の良い友達が快方に向っているとは見えなかった。気力が衰えて、それが健康の回復にも妨げになっているように思われる。その気力の衰えが何に由来するのかを知っているだけに、殊に磊落《らいらく》に振舞おうとしていた。 「お珍しゅうございますね。」  乳母《めのと》が安麻呂の傍《かたわ》らから愛想のよい口を利いた。それを皮肉と取ったものか判官はじろりと乳母の方を見、それから二人のどちらにともなく答えた。 「いや正直なことを申すと、この見舞は附けたりでな、実は内々に左大臣殿にお目にかかりに参ったそのついでよ。」 「父に会いに来たのか。」 「御用向でございますか。」  安麻呂と乳母が同時に尋ねた。判官は一種|曖昧《あいまい》な微笑を浮べた。 「気骨の折れることばかりだ。少しお主のところで休ませてもらいたい。」 「さあどうぞごゆるりとなされませ。わたくしどもはこれで失礼いたしましょう。」  乳母は女童が茶菓などを運んで来たのを汐《しお》に、一礼して女房たちを連れて退いた。  高倉の判官はやれやれという表情で、友達の方を憐《あわれ》むように見た。 「お主もこうして閉じ籠《こも》ったきりの上、あのおばばに夜昼となく附き纏われているのでは気の毒だな。」 「あれでよく気をつけてくれる。」 「気がつきすぎて困るのではないか。どうだな、少しは人目を偸《ぬす》んで夜歩きでもするようになったか。」 「いや、屋敷から一歩も外へは出ぬ。人の訪ねてくれるのが唯一の愉しみだ。」 「と言って、昔の女が訪ねて来てくれるわけでもあるまい。好き者で鳴らした蔵人の少将が、乳母や女房を相手に蟄居《ちつきよ》しているとは、はてさて感心なことだ。」  安麻呂は勢いのいい相手の赤ら顔を羨《うらや》ましそうに眺め、吐息を吐いた。 「女の話はしてくれるな。」 「これは気の弱い。まさかに鬼の祟《たた》りだと今以て信じているのではあるまいに。」 「鬼の祟りかどうかは知らぬが、己はいつぞや太秦《うずまさ》で逢ったあの姫君のことを、今に忘れかねているのだ。」  安麻呂がそう言いながら、うつろな瞳《ひとみ》を遠くの方にさ迷わせるのを、判官は半ば憐むように、半ば蔑《さげす》むように眺めていたが、ずばりと言ってのけた。 「実はその話だ。その萩姫のことで聞き込んだことがあるので、こうして出向いて来たのだ。お主には気の毒だが、左大臣殿にはこの上もないという話だ。」  安麻呂は蒼《あお》ざめた顔にかすかに血の気を浮べて、判官に問いただした。 「何を言う。中納言家の姫君に何かあったのか。」 「あった、あった。一大事が生じた。御入内の日を前にして、萩姫が行方知れずになった。これは極秘のことだが、中納言殿は大変な気落のしかたで、姫君は病気ということにして人の口を塞《ふさ》いではいるが、姫君がすぐにも見つからぬ限り、いずれは雀どもが囀《さえず》り始めよう。さすれば主上の思し召しも如何《いかが》か。御当家にとっては重畳《ちようじよう》な次第だが、中納言殿にとっては出世もこれで終りだな。」 「それで姫君はどうなった。お主はどうしてそれを知っている。」  安麻呂は喘《あえ》ぐように問い掛けた。 「己は中納言殿に内密に呼ばれて、姫君の探索を仰せつかった。姫君は清水に参籠に出掛けられて、そこから行方知れずとなった。」 「さては不動丸の仕業か。」  検非違使の尉は小鼻に皺《しわ》を寄せてせせら笑った。 「相手は分っておる。不動丸ならば手強いが、この相手はすぐにも探し当ててみせるわ。姫君の警護をしていた田舎侍で、大伴の信親という奴よ。そいつが不敵にも姫君を攫いおった。何処《どこ》に隠れたとしても、検非違使の庁で手分けをして心当りをさぐれば、日ならずして姫君を取り返せるにきまっておるわ。但し、——おいどうした。」  安麻呂は話の途中から一種の錯乱したような表情を浮べ、脣《くちびる》をわななかせていたが、注意されて思わず叫び声を洩らした。 「もしやその男は。」 「なに、お主は知っているのか。」  今度は判官の方が驚いて問い返したが、安麻呂はそれも聞えぬようにひとり頷《うなず》いていた。 「大伴の信親、あの男に違いない。」 「覚えがあるのか。」 「その男なら確かこの前、出入りの笛師の供をして、ここへ来たことがある。姫君からの文を携えて参った。もう一度、入内の前に逢いたいという姫君の申出だったが、己は断った。己たちのような身分の者は、そういう危い橋は渡れぬと申して、返書を持たせて帰してやった。そうか。あの男は己を意気地なしだと罵《ののし》ったが、それだけの覚悟を持っていたのだな。あの男も命懸けで姫君に恋をしていたものと見える。しかし己はあの時、それを見抜くことが出来なかった。己には捨て切れぬ名聞《みようもん》とか家柄とかいうものも、あの男にとっては芥《あくた》同然だったのだろう。」 「お主はそれを知って口惜しくはないのか。つまらぬ男にむざむざ姫君を取られたとは思わぬのか。」  判官が力を籠《こ》めて問い掛けたが、安麻呂は格別感情を動かした様子でもなかった。次第に持ち前の面《めん》のような蒼ざめた顔に戻り、ゆっくりと言葉を続けた。それは自分自身に言い聞かせているようでもあった。 「己は口惜しいとは思わぬ。己は所詮《しよせん》姫君と逢うことは出来なかったし、この後も二度と逢えないことは分っていた。しかしそれだからといって、己が今ではもう姫君のことを想っていないなどと、考えないでくれ。己は太秦で一夜だけ逢い、身も魂も姫君に奪われた。恋というのはそういうものだと思う。己は女たちを大勢知ってはいたが、姫君だけはまるで違う。姫君に寄せるこの想いだけが真実恋というものだ。あとはみな一時の心の迷いだ、或いは一時の慰みだった。たとえ一夜だけでも、命を賭《か》けて悔いないのが恋のさだめだ。」 「ふむ、そういうものかな、」と疑わしげに判官が呟《つぶや》いた。 「己はあの男が姫君を偸んだからといって、格別口惜しいという気はせぬ。姫君の心はこの己にある。どのようなことが起ろうとも、姫君があの太秦の一夜を忘れる筈はない。」 「お主ともあろう好き者が、世間知らずのことを言う、」と判官は嘲《あざけ》るように口を挟《はさ》んだ。「女というものは、一度身を任せてしまえば、その男が好きになるものだ。あの侍に許してしまえば、いつまでもお主のことを想っているものか。」  安麻呂はかすかに頷いた。それは不承不承に認めるというより、寧《むし》ろ相手と共にそれを諾《うべな》うという趣きがあった。 「確かにそういうことはあろう。己は姫君があの男を好きになったとしても、それをとやかく言う気はない。あの信親というのは、身分は低いがしっかりした男だ。己なんかと違って、勇気もある、力もある、それにまじりっけのない純なものも持っているようだ。もし姫君があの男を好きになって為合《しあわ》せを得られるものならば、入内して九重《ここのえ》のうちにあって人々に傅《かしず》かれるよりも、余程ましかもしれぬ。」 「お主は本気でそんなことを考えているのか。下賤《げせん》な者と隠れ住んで、姫君が為合せになれる筈がない。不幸な身の上となることは見え透いているわ。」 「そうかもしれぬ。しかし己は、あの二人が為合せに暮すことが出来ればと望んでいるのだ。どのようなことになっても、姫が太秦の一夜を忘れる筈はない。それだけが己の頼みだ。それだけあれば己は充分だ。」 「さてさて気の弱いことを申す安麻呂だ。お主も早くよくなって、どこぞ別の姫君でも探すことだな。そうすれば迷いの夢も覚めよう。」  安麻呂は吐息を洩らしただけで、それには答えなかった。しかしやがて、ふと気づいたように、眉をひそめて判官に訊《き》いた。 「お主は先程、父の許を訪ねたついでだと言っていたが、この中納言家の大事を父に洩らしたのか。」 「言うまでもない。左大臣殿は大層なお悦びであった。この分では己も近々に蔵人の尉に取り立てられるやもしれんな。」 「しかしそれは極秘のことではなかったのか。」 「言うまでもない。しかし己の立場としてはだな、ここで検非違使の庁が迅速に動いて姫君を取り返したとせよ、中納言殿は口を拭って素知らぬ顔が出来るというものだ。御入内も恙《つつが》なく済ませられる。その時は御当家としては、三の姫の競争相手がいつまでもいらせられることになる。そこでもし萩姫が行方知れずになったという噂《うわさ》が禁中に流れるようなことになれば、萩姫の御入内はおのずから取りやめということになろう。これは左大臣殿にとっても、急を要する重大な話だ。」 「つまりお主は、中納言殿を裏切って父の方に附いたというわけか。」  安麻呂はその整った顔立に明かに嫌悪の色を浮べながら詰問したが、検非違使の尉は露ほどの動揺も見せなかった。 「どこが悪い。すべて出世というものは上手に立ち廻ることが第一だ。それに左大臣殿はお主の父上ではないか。しかもこれはお主のためを思ってのことでもある。萩姫の御入内が取りやめになれば、お主にしてもまた姫君に逢えるかもしれぬぞ。」  刷毛《はけ》で差した程の希望の光が安麻呂の瞳《ひとみ》をきらめかせた。しかしそれも一瞬のことで、やがて黄昏《たそがれ》の余燼《よじん》のように揺《ゆら》ぎながら消えてしまった。 「いや、己は昔の夢だけでよい。この後また姫君に逢える筈もない。己はもう諦《あきら》めている。己にはあの男のように突き詰めた気持になるだけの勇気がなかった。己は何ごとにつけて、突き詰めるということを知らない男だ。今さら何を望むものか。」 「それではお主は、姫君が不為合せになってもそれでよいのか。」 「仏の御心は己には分らぬ。」  安麻呂は弱々しく呟いたが、その姿は高倉の判官の射すくめるような眼指《まなざし》の前では、弥陀《みだ》の慈悲にすべてを委《ゆだ》ね切ってひたすら来世を頼んでいる有髪《うはつ》の僧のようにも見えた。     三  夜も更けて、東洞院川《ひがしのとういんがわ》の水音が絶えず耳を打つ伊勢殿の屋敷内の奥まった壺屋の中である。主座には伊勢殿と呼ばれる小柄な老人がゆったりと構えていて、その横に頭巾《ずきん》に顔を隠した大頭《おおがしら》が、燈台の光を背にして両足を組んでいる。少し離れたところに、髭面の小頭《こがしら》と法体《ほつたい》の海念坊とが畏《かしこま》って控えていた。  大頭は二人の配下の方をじろりと睨《にら》むと、多少|苛立《いらだ》たしげな声で尋ねた。 「手配は済ませたか。」  小頭が頭を下げて直ちに答えた。 「済ませました。明日よりそれぞれ約十人ほどの手勢を引き連れて、それがしと海念坊とが仰せの場所に出向く所存。して御用向は何でござる。ただの打込み押入りとは違うとのみ聞き申しておるが。」 「うむ。今聞かせる。しかしその手の者どもは間違いなかろうな。いつぞやの放免どものような奴ばらでは困るぞ。」 「あれは試みに使ってみた奴ら。我等の手の者は大頭に忠誠を誓っております。」  小頭は無遠慮に笑い声を出したが、大頭の方はにこりともしなかった。傍らにいる伊勢殿も、一言も口を挟まなかった。 「実はこういうことだ。三日ほど前に、中納言家の姫君が行方知れずになった。いつぞや我等が見事に裏を掻かれて偸みそこなった例の姫君よ。あの時策をめぐらして我等をたぶらかした奴は、大伴の次郎信親という、太秦で己と渡り合った男だが、その男が姫君をまんまと偸みおった。」  不動丸の声には憤懣《ふんまん》の色が隠せなかった。二人の配下は驚いて眼を見張り、伊勢殿は横眼で鋭く話し手を見詰めた。 「先《せん》を越されはしたが、しかしこれは我等にとっては願ってもないこと、向うから火中に飛び込んで来たようなものだ。三条の屋敷の中なればこそ警護もきびしいが、一歩外に出れば我等の眼をくらますことはかなうまい。」 「と申して、果して何処に隠れたやら、雲を掴《つか》むような話ではござりませんか。」  海念坊がもっともな質問をすると、不動丸は待っていたように即座に答えた。 「そうではない。ここのところをよく聞け。まず姫君の足取だが、清水寺に参籠してそこから行方知れずになった。辨という侍女もろともに消え失せた。一方の次郎信親は昨年信濃の山奥から京に出て来た田舎侍で、地の利を弁《わきま》えているとは思われぬ。女二人を連れて信濃まで長旅の出来るほど、準備をととのえていた筈もない。まさか京の町なかに隠れるほどの度胸もあるまい。とすれば、隠れ家の見当はおおよそ知れている。まず清水の西のかた、山科《やましな》から関山《せきやま》のあたりまで、東は如意岳《によいがたけ》の麓《ふもと》まで、北は鳥部野《とりべの》から滑石《なめいし》に掛けて。どちらにしても阿弥陀ヶ峯を越えて山科へ出たあたりが怪しいということになろう。次郎には下郎が二人ほど附いておる筈。それに都育ちのか弱い女が二人。これが目安だ。どうだ分ったか。」 「それならば手綱をしぼるようなもの。さっそく探りを入れましょう。」 「ここに図面が二葉ほどある。これを書き写して手落なく探せ。」  大頭は懐から折り畳んだ絵図面を取り出して、小頭に渡した。その時伊勢殿が初めて声を掛けた。 「探り当てた上でどうするつもりかな。」 「そのことだ。姫は攫って来て、ひとまずこの屋敷に隠してもらいたい。長持にでも押し籠めて運べば人目には分るまい。その上で折を見て鈴鹿山《すずかやま》にでも伴うといたそう。」 「相変らずの執心だな、」と伊勢殿は冷やかに笑った。「大頭がその気持なら、一時はここに預ってもよい。侍女はどうする。」 「殺す。」 「恋敵《こいがたき》のその男も殺すのか。」 「次郎信親か、」と暫く大頭は思案するように相手の顔を見据えていた。「やむを得ずば殺す他はない。しかし己はどうもこの男が気に入っている。胆も太く、腕も立つ。何とか味方に引き入れられればこれに越したことはないと思う。そこでここは一つ伊勢殿の智慧《ちえ》を拝借したいのだが、彼奴《きやつ》の留守を狙って隠れ家から姫だけを偸み出し、あとは検非違使どもに密告して彼奴を捉えさせるというのは如何であろうかな。」 「ふむ、捉えさせてそのあとは。」 「うまく語らって獄を抜け出させる代りに、我等の仲間に引き入れるのよ。どうせ死罪は免れぬ身、とすれば——。」 「甘い、甘い。思ってもみよ、おことはその男とは恋敵ぞ。同じ姫君を争う身で、そ奴がおことの下につくと思うか。」  大頭は黙って考えていたが、図面を調べている二人の配下に荒々しく命令した。 「探り当てても手出しはならぬ。よく見張った上、必ずまず伊勢殿のところへ注進に及べ。姫君に異変のあったことは、既に中納言家より検非違使庁に知らせて、極秘の探索を願い出たと聞いている。もしも検非違使めらが嗅《か》ぎつけて姫君を救い出したとなれば、最早我等に手の届かぬことは必定。必ずや先を越さねばならぬぞ。」 「畏ってござる。では我等はこの図面をお預り申して、さっそく明朝より取りかかります。」  小頭と海念坊が一礼して慌しく立ち掛けるのを、大頭は片手をあげて呼びとめた。 「一つ言い忘れた。この次郎信親という男は笛の名手よ。さすれば、山里より笛の音が洩れ聞えた時は怪しいと思え。」  そう言い足すと、大頭は頭巾の蔭で薄気味の悪い微笑を見せた。     四  深夜のことである。笛師の喜仁は検非違使庁から出向いたという男たちに眠りを覚まさせられた。店の者が表戸を開いて、用向を聞くよりも早く、男たちは忽《たちま》ち闖入《ちんにゆう》して、母屋の中、笛をつくる仕事場、さては庭の隅々まで隈《くま》なく探し始めた。喜仁が寝ぼけ眼《まなこ》をこすりながら紙燭《しそく》に火を点《つ》けていると、近くの部屋で不意を襲われて女どもが金切声をあげているのが聞える。ぶるぶる顫えながらそれでも身仕度を整えると、武士の一人が手を取って引き立てた。自分の家の中をまるで罪人のように連れて行かれた先は、中庭の奥にある離れの前である。空地に篝火《かがりび》が据えられて、昼をあざむく程に明るい。篝火の前に胡床《あぐら》を立て、そこに見るからに厳《いか》めしげな男がどっしりと腰を下している。青色の表《うえ》の衣《きぬ》をつけ冠をかぶり、身分の高い役人ということは一目で知れた。笛師はその前に平伏した。 「笛師の喜仁というのはその方か。」  太いだみ声で訊かれて、返事も出来ず、ただ首を下げて頷いた。 「我々は検非違使庁の者だ。己の名を存じておるかな。」  喜仁が恐れ入って下を向いたままでいると、うしろに立っていた武士が大声で叱咤《しつた》した。 「世に名高い高倉の判官さま直々《じきじき》のお出ましだ。隠さず正直に申し上げねば、ただ事では済まされぬぞ。」 「鬼判官——。」  口の中でその名を呟くや血の気のない顔がいやが上にも蒼くなった。ちらりと上目遣いに窺《うかが》うと、篝火に照された恐ろしげな顔つきは赤鬼さながらである。 「一体何のお咎めでございましょうか。」  口の中で蚊の鳴く程の声を出した。 「その方は先日、二条の左大臣殿のお屋敷に、蔵人の少将殿をお訪ね申したな。」 「はい。」 「その折に、中納言家に仕える大伴の次郎信親と申す者を、供といつわり同行したであろう。」 「あっ、申しわけございませぬ。」  咎められるのも当然、一体どこから露顕したのか。思い起せば飛んだことをし出来《でか》したものである。あの時大伴の次郎が、何の目的で同行を頼んだのか、娘の楓は知っているらしいが格別問いただしてみたわけではない。しかし左大臣と中納言とが、共に姫君の入内を目論《もくろ》み、政治向きのことでいがみ合っている仲であるという噂は夙《つと》に聞いている。その左大臣家に、身分を隠して大伴の次郎を案内したとあれば、検非違使庁から役人が来て居丈高《いたけだか》に詰問されるのも当然と言わなければならない。ただこのように深夜、人の寝しずまってから現れたのが不思議と言えば不思議だが、そこまでは考えが至らない。地面に額を擦りつけるようにして、ひたすら平伏するばかりである。  背後の方で、別の声がした。 「見当りませぬ。やはり隠れてはおらぬようでございます。」 「さもあろう。まさか此所にはおるまい。」  判官は重々しく頷き、それからまた笛師に呼び掛けた。 「そのように恐れ入らんでもよい。その方が次郎信親を伴ったことを咎めているのではない。ただ、奴の行方を教えてくれればよいのだ。」 「行方と仰せられますと。」 「こいつ、白ばくれて。」  背後にいた武士が荒々しい声を出した。 「大伴の次郎は中納言殿の屋敷から逐電《ちくてん》した。何処へ参ったか、その方は知っていよう。」  判官の声には突き刺すような響があった。 「次郎さまが御恩のあるお屋敷を逐電なされるなどと、そのようなことがありましょうか。」  訝《いぶか》しげに顔を起して問い返したが、笛師の小さな目玉には濃い驚きの色の他には何もない。 「こ奴めしぶとい奴、一つ責めますか、」と背後の武士が声をかけた。 「待て。確か娘がいた筈、その娘を連れて参れ。」  喜仁は身を起し、必死の声を張り上げながら判官の足許に躙《にじ》り寄った。 「娘は何も存じませぬ。どうぞ娘だけはおゆるしを。」 「ではそちが申すと言うのか。」 「いえ、わたくしめも、真実何も存じませぬ。」 「ではそちの代りに娘を責めてくれようか。」  笛師が返す言葉もなく顫えていると、背後から引立てられて来る娘の悲しげな叫び声があがり、やがてその身体《からだ》が取り縋《すが》るように笛師の足許に倒れた。 「お父さま。」  判官は胡床の上から、互いに抱き合って顫えている親子の様子を見守っていたが、やがて徐《おもむ》ろに問い掛けた。 「娘、大伴の次郎の行方、その方は知っているか。」 「はい、存じております。」 「何——。」  驚いたのは鬼判官ばかりではない、父親の喜仁も思わず娘を抱きしめた手に力を入れた。楓は顔を起して判官を見上げたが、今まで不安に戦《おのの》いていたその顔に、一瞬、一種の誇らしげな凜々《りり》しさが輝いた。 「次郎さまは、たしか四日ほど前の夜遅く、お別れだと申されてわたくしのところに参られました。信濃の故郷《ふるさと》に帰ると申されておりました。」 「楓、それはまことか、」と笛師が慌しく問い掛けた。「どうしてお前はそれを黙っていたのだ。」 「お父さま、わたしはその時、一緒に信濃へお連れして下さいと次郎さまに頼んだのです。あの方は聞いて下さいませんでした。わたしはお父さまを見捨てて、あの方と逃げようと一度は考えた不孝者です。ですから申し上げようとは思いながら、心が苦しくて。」  楓の眼にかすかに涙のようなものが光った。判官はその有様をまじろぎもせずに見詰めた末に、再び口を開いた。 「娘、次郎信親は信濃へ帰ると、確かにそう申したのだな。」 「はい、さようでございます。」 「それを告げに、わざわざ、夜遅くその方の許を訪ねたというのか。」 「はい。その上、お形見の品を頂きました。」 「形見、それは何だ。」 「唐渡《からわた》りの鏡でございます。お母上の遺された大事な品というのを、わたくしに下されたのでございます。」 「まことだな。」 「ゆめ偽りは申しませぬ、」と楓は涼しい声で言い切った。しかしすぐに恐れるような色を美しい顔に浮べて訊き返した。「一体次郎さまが何をなされたというのでございますか。検非違使のかたがたがお尋ねに見える程の大事を、次郎さまがなされたのでございましょうか。」  高倉の判官は胡床の上からすっくと立ち上った。笛師は、娘の言葉が過ぎて判官が手荒な振舞に及ぶのではないかと、ひしと娘の手を握り締めたが、判官は二人の前に立ちはだかったなり、苦笑するように脣を歪《ゆが》めていた。 「はてさて、次郎信親という奴は果報者じゃな。その方はあの男がそれほど好きか。」  嘲るように訊かれて、楓は胸を張って答えた。 「好きでございます。」 「哀れな者だ。」  その判官の声音は、嘲りよりは憐みを帯びていて、不審を抱いた楓はすぐに問い返した。 「なぜでございましょう。」 「よし、では教えてつかわそう。我等が夜分、このように探索に来たことは決して他言はならぬぞ。他言すればその節は必ず引捉える。よいな。次郎信親は不届きにも中納言殿の姫君を攫って逃げおったのだ。あの果報者は、その方ほどの娘に想われていながら、自ら墓穴《はかあな》を掘りおったわ。」  そして親子が呆然として顔を見合せている間に、高倉の判官は召し連れて来た検非違使どもに合図すると、一同は一陣の風の吹き過ぎるように立ち去ってしまった。   胡人《こじん》月に向って     一  朝早く、すやすやと眠っている姫のそばを離れて、辨はそっと庭の方へ出てみた。最初の晩などは夜が白むまで二人して抱き合って顫えていたが、やがて夜が重なるにつれ、不安と緊張もいつしかほどけて、馴れぬ場所ながらまどろむことが出来るようになった。しかし姫が眠れるのはこの運命を諦《あきら》めたせいだとしても、辨の方は決して諦めようとはせず、従って眠りも浅く、遠くから聞えて来るかすかな物音にでもびくっとなって目を覚まし、身構えた。次郎信親は最初の約束を守って夜になると姿を消し、姫に近づくことはなかった。それでも寝所を守って夜っぴて警戒しているらしく、人の跫音《あしおと》のようなものを聞きつけて、二人が怯《おび》えて耳を澄ませていると、遠くで次郎が郎等と言葉を交しているのが聞えることもあった。姫はそれを知ると安んじて再び眠り、辨はそれほどまでに姫を想っている次郎に対して、必ずしも姫と同じように安堵《あんど》の気持を抱いて眼を閉じることが出来なかった。  腫《は》れぼったい眼に朝の空気はすがすがしかった。この荒れ果てた山荘は深い杉の木立に囲まれ、西側には竹の林が屋敷を守り、東はひらけていたが阿弥陀越えの道からは遠く隔っていて、人目につくことはなかった。小鳥の群が梢《こずえ》から降るように鳴声を滴らせ、遠くからは山鳩がやさしく呼び交していた。荒れ放題の植込に露がしっとりと下りて、桔梗《ききよう》や撫子《なでしこ》が可憐《かれん》な花を咲かせている。しかし辨の心は少しも晴れなかった。確かに次郎が初めに言ったように、人里離れた暮しの中にもそれなりの風情《ふぜい》はあった。山から吹きおろす風は涼しく、生い茂る草花や珍しい鳥の声は目や耳を愉しませたし、夕べになると大きな蛍《ほたる》が幾つも屋敷の中を流れるように飛びまわった。それに次郎が何かと気を使って姫の機嫌を取ろうとしていることも、辨にはよく分っていた。しかしそれはかえって辨を腹立たしい気持にさせるだけだった。何と言っても二人は幽閉の身で、そぞろ歩きをするとしても屋敷の庭さきに限られ、その間も次郎か郎等が近くに従っていた。何とかして逃げることは出来ないだろうかと、辨は昼も夜も思案した。姫が諦めても、辨は決して諦めなかった。と言って、たとえ監視の眼を掠《かす》めても、女二人の徒歩《かちある》きで何処まで行けることやら。馬を盗むことは出来ても、乗れなければ何にもならない。結局は郎等の一人を手懐《てなず》ける他はないだろうと辨は考えた。  薪を割る音が裏手の壺屋の方から聞えていた。辨が近づいてみると、年老いた郎等が双肌《もろはだ》脱ぎになって鉈《なた》をふるっていた。老人は辨を認めるとすぐに手を休め、水干《すいかん》の肩を入れて一礼した。 「早くから精が出るのね。」 「朝餉《あさげ》の支度をしなければなりませんので。」  辨は軽く頷いた。辨はそれを皮肉とは取らなかったし、老人も皮肉を言うような人柄ではなかった。食事の支度などは下衆《げす》のする仕事で、辨のような身分ある女性《によしよう》の勤めではなかった。 「お前の主人は何処にいるの。」 「まだ休んでおります。」 「そう。昼も夜も眼を光らせているのじゃ大変ね。」  その当てこすりは老人には通じなかった。辨は暫く考えてから徐々に切り出した。 「お前はこのことをどう思っているの。」 「このことと仰せられますと。」 「きまっているでしょう、お姫さまとわたしとをこのようなところに閉じ籠《こ》めて、無事に済むつもりでいるの。」  老人は顔を曇らせたまま答えなかった。 「お前の主人のしたことは悪虐無道なことです。大恩ある中納言さまのお姫さまを偸《ぬす》むなどと、そんな大それたことが許される筈はないでしょう。必ず殺されます。たとえこの世で罰せられないとしても、来世では必ず地獄に堕《お》ちます。お前だって、後生《ごしよう》は大事でしょう。妙信はこのことを知っているの。」 「妙信には申しておりません。」 「妙信が聞いたら何と言うでしょう、きっとお前のことを嘆くにきまっているわ。わたしは自分が助かりたいからこんなことを言うのじゃない。わたしは死んでもいい、でもお姫さまはお助けしなければなりません。お前も助けてあげたい。だから一番いいことは、隙を狙って、お姫さまを太秦の妙信のところにお連れするのです。馬にお乗せして、太秦まで一走りなさい。妙信にお姫さまを預けて、お前は出家なさい。今となってはその他にお前の命を助ける手立はないし、お前の後生もこの善根《ぜんごん》にかかっているのです。」  辨は必死になって、早口に、小声で、喋《しやべ》った。いつ次郎が現れるかもしれない、もう一人の郎等もやって来ないとは限らない。この若い方は、辨が今まで見たところでは根からの田舎者で、主人想いに凝り固っているし、辨が流し目で見ても愛想笑い一つしたことはない。老人の方も忠義一徹なことに変りはないが、ただ妙信の識合《しりあい》だけあって日頃から信心深い性質である。辨が最後の頼みとするところは、老人の慈悲心に訴えることの他にはなかった。  老人は切り割った薪を集めて、黙々と束ねていた。赤銅色の額に深い皺《しわ》が刻まれ、汗がそこを滴り落ちた。 「お前にだって分別はある筈よ、」と辨は強く叱咤《しつた》するように言った。  老人は辨の万に向き直り、小腰を曲《かが》め、それから急に総身《そうみ》の力が抜けたようにその場に土下座した。掠れた声を搾《しぼ》り出して、途切れ途切れに答えた。 「あなたさまの仰せられることは一々ごもっともでございます。はい、私めにもよく分っております。しかし次郎さまは私めの主人、あなたさまがお姫さまの御身を思われるように、私めも主人に忠義を尽さなければなりません。主人が分別を失えば私めに何の分別がありましょう。主人が地獄に堕ちるのならば私めも同じところに供をいたします。これは前生《ぜんしよう》の定めゆえ今さらいたしかたはありませぬ。どうぞおゆるし下さい。」 「何のための忠義なの。主人の非をいさめてこそ、家来というものじゃないの。」 「はい。もしそれが出来ますものなら、もとよりおとめいたしたでしょう。主人には主人の考えがあってのこと、一徹なかたでございますからな。己《おの》れの非を知れば必ずお姫さまをお返しになります。主人も迷っておりましょう。このようなことになろうとて、はるばる信濃より出て参ったわけではございません。」  老人の眼にかすかに涙のようなものが浮んだが、辨は気づかなかった。 「一体お前の主人は何に魅入られたというのでしょうね。お殿さまのお覚えも目出たく、出世の道もひらけていたというのに。まるで気違いじゃないの。」  この郎等を味方につけることが出来ないと分って、辨は苛立たしげに叫んだ。老人は首をうなだれたまま低い声で呟いた。 「お気の毒な方でございます。お気の毒な方でございます。」  老人の心の中には、自身を含めて、運命の道を踏み違えた他の人たちは存在していないかのようであった。     二  風にひるがえる簾《すだれ》の近くにいて、姫は文机《ふづくえ》を前に一心に阿弥陀経の経文を写していた。長い日中を、姫は厭《あ》きることなく写経に勤《いそ》しみ、端近くに控えている次郎の顔を殊更に見ないようにしていた。次郎は端然と正坐して膝《ひざ》を崩すこともなく、姫の白い横顔と、風にかすかに揺れている長い黒髪とを、夢の中のように眺めていた。辨はその傍らにあって、経文を巻いたり墨を摩《す》ったりしながら、時々敵意の籠《こも》った眼を次郎に向けたが、次郎はうつけたように姫の姿を見守っているばかり。姫が手を置いたところで、聞えない程の吐息を洩らした。 「お姫さま、少しお休み遊ばせ、」と辨が声を掛けた。 「もう少しで終ります。」 「でもそのようにお詰めになっては、お身体に毒でございますよ。」  姫はおとなしく頷き、眼を庭の方にさ迷わせた。次郎はふと目が覚めたように立ち上ると、暫く中座していたが、やがて冷たい清水に甘葛《あまずら》を入れた金鋺《かなまり》を三つほど、懸盤《かけばん》の上に載せて自ら運んで来た。自分の分を一つ取ると、懸盤を姫の横に置いた。 「姫君、召し上って下さい。」  姫は軽く頷き金鋺を手にしたが、辨の方は怒ったように横目で睨んだだけだった。 「辨、お前もおあがり。せっかく次郎が運んでくれたのです。」 「私の故郷の水は、甘葛などを入れないでももっと甘いのですが、」と次郎が言った。  辨は手を触れようともせずに、次郎に食ってかかった。 「次郎、いつまでこんなことを続けるつもりです。お姫さまはこうして写経に専念していらっしゃる、仏門にはいりたいとのお気持のようです。お前の思うようになんかなる筈もないのに。」 「仏門に、」と次郎が顔を起して訊いた。「それはまことですか。」  姫は寂しげに頷いた。 「私のこの想いを汲《く》んでは下さいませんか。」  姫は暫くためらってから、漸《ようや》く口を開いた。その声は簾の外から聞えて来る蝉《せみ》時雨《しぐれ》に掻き消されそうなほど低かった。 「次郎、そなたがわたしを想っていることはよく分っています。そなたの言うように、わたしとても女御の位につけば為合《しあわ》せになれるなどと考えているのではありません。そなたが無理にもわたしを所望するのなら、そなたと夫婦《めおと》になるのもしかたのないことだと覚悟しています。」 「何をおっしゃいます、お姫さま、」と辨が鋭く咎《とが》めるように叫んだ。 「しかしね次郎、わたしはどうしても安麻呂さまのことが忘れられないのです。ただの一度しかお逢いしたことのないお方、でもその方と来世までも契ろうというこの気持を、捨て去ることは出来ません。安麻呂さまの方で、この恋は今生《こんじよう》では果せないとおっしゃられるのならば、わたしは早く死にたい。どうせ生きていても骸《むくろ》のような身です。死ぬことがかなわないのなら、尼にでもなる他はありません。わたしはもう諦めています。そなたがわたしを欺いたことも、もう許してあげます。わたしは今生のことには何の未練もありません。今はただ弥陀の御慈悲にすがるばかりです。阿弥陀ヶ峯にこのように閉じ籠められて、尊い阿弥陀経をお写しすることが出来るというのも、何かの因縁でしょう。わたしはこれを写しながら、そなたが煩悩《ぼんのう》を脱するように、そなたもまた弥陀の御慈悲にあずかるようにと念じています。」  そして姫はゆっくりと経文の一節を誦《じゆ》した。 「如等衆生《によとうしゆじよう》、当信是称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経《とうしんぜしようさんふかしぎくどくいつさいしよぶつしよごねんぎよう》。」  次郎は押し黙ったままそれを聞いていたが、やがて徐《おもむ》ろに問い返した。 「私と夫婦《めおと》になる覚悟はある、しかし生きた骸《むくろ》も同然だと、こう仰せられるのですね。」 「そうです。」 「身は委《ゆだ》ねても、心は私にはないと仰せられるのですね。」 「そうです、次郎。」  次郎は姫の横顔を見据えていた。今にも崩れそうなたおやかな姿のどこに、このようなゆるがぬ心が隠されているのであろう。日が経てば必ずや自分の気持が通じるものと思っていた。写経をしたいと姫に言われて、どれほどか危い思いをして京の町へ出、経文一巻と必要な品々とを取り揃《そろ》えて姫に渡した。しかしそれもみな、姫が現世《げんぜ》を諦めてのことだったのか。 「次郎、お前にもお姫さまのお気持はよく分ったでしょう、」と辨が小賢《こざか》しくも口を挟んだ。「男らしく諦めなさい。中納言さまのお屋敷へわたしたちを帰して下さい。」  次郎は尚もじっと姫の姿を見詰めたまま、辨の声には耳も貸さなかった。その瞳に燃えている鋭い光は、辨を慄然《りつぜん》たらしめるのに充分だった。次郎は肺腑《はいふ》から搾り出すような苦しげな声を洩らした。 「私はそうとは思わなかった。姫の信じていられる安麻呂という男は、私の見たところでは臆病な、卑怯《ひきよう》未練な、一身の分別しか考えない男だった。そのような男を、姫がそれほどまでに想い詰めていられるとは。男が命を懸けてこのような大事を冒した以上、姫のお気持もきっと変ると私は信じていたのに。私は姫を連れて、準備の整い次第、信濃へ逃れるつもりでした。姫も必ずや悦んで、私と一緒に来て下さるものと思っていました。」  姫はその時、初めて次郎の方に顔を向けて、次郎の刺すような眼光を臆せずに見返した。それは今までの、弱々しく、痛ましげな印象とは打って変ったものだった。その脣には一種の微笑のようなものさえ浮んでいた。 「次郎、わたしの心は今申した通りです。それを承知の上で、もしそなたが信濃へ行けと言うのなら一緒に行きましょう。死ねと言うのなら一緒に死にましょう。」  急に沈黙が落ちた。次郎の顔から血の気がまったく引いた。辨もまた真蒼《まつさお》になり、身体が小刻みに顫え出した。姫はまたそっと庭の方へ眼を移した。その長い沈黙を破ったのは辨だった。 「なりませぬ。そのようなことはなりませぬ。」  必死の声で叫んだ。しかし誰も答えなかった。蝉の声も歇《や》み、日射《ひざし》がかっと強くなり、簾を動かすそよとの風もなかった。     三 「殿、もう御猶予はなりませぬぞ。」  若い郎等が精悍《せいかん》な顔を汗にまみれさせて注進に及んだ時に、次郎信親は放出《はなちいで》の間で老いた郎等と二人、黙然と相対していた。 「何かあったか。」 「阿弥陀越えの山道を五人ほど、侍らしい者共が山科の方へ歩いて行きましたが、たしか三日ほど前にも見受けた男どもでござる。為体《えたい》の知れぬ奴輩《やつばら》、恐らくは不動丸の一味かと存ぜられます。」 「ふむ。いよいよこちらの方に眼をつけて来たかな。しかしこの屋敷へ通じる小道は、植木などを移して上手に隠してあるから、よもや気づくことはあるまい。」 「しかし殿、馬も用意し、道中の糧《かて》も当座に要り用の分だけは集めました。この上は一刻も早くここを立ち退くが分別、まごまごして嗅ぎつけられれば、足手|纏《まと》いの女づれではとても防ぎ切れませぬ。」  次郎は頷いたが、若者の言うことを是認した風でもなかった。 「都の暮しに未練はござらぬ。私は早う信濃へ帰りとうございます。」  傍らに控えていた老人は気遣わしげに主人の様子を眺めていたが、若者の方を向いてたしなめた。 「殿には殿のお考えがある。みだりに急ぐものではない。」 「じゃと言って、先程見かけた奴等の目玉とて節穴ではあるまい。こんな都の近くに、長居は無用と存ずる。一刻も早く旅立つのが上策というもの。それともお主は妙信さんにもう一度会いたいか。」 「馬鹿を申すでない。」  老人は取り合おうともせずに、再び主人の様子を見守った。次郎は腕を組み、眼を落したまま、二人の郎等のやりとりを聞くともなしに聞いているようだったが、ふと夢から覚めたように、若者の顔を見詰めてきびきびした声で言った。 「御苦労であった。今日の夕刻までに、姫君のなされている写経も終りになろう。その終ったところで、我等の進退もきめるといたそう。」 「どのようにおきめになりますか。」  老人は窪《くぼ》んだ眼の底に不安を滲《にじ》ませながら尋ねた。 「道は二つ、姫君を中納言殿のお屋敷へお戻しして我等は逐電するか、それとも姫君をお連れして信濃へ逃れるか。」 「その何《いず》れをお選びになるおつもりで。」  次郎は憐むように老人を見て頷いた。 「爺、お前の気持は分っている。お前は己の供をして都まで来た。妙信が尼になっている今となっては、お前も後生を大事に、善根を積んでいずれは出家でもしたいと思って遥々《はるばる》と来たに違いない。己のような主人を持ったばかりに、お前の道を迷わせてしまった。済まないことをしたと思っている。」 「滅相もない、私は殿のなされることに否やはありませぬ。ただあの女性《によしよう》たちが不憫《ふびん》に思われて。」 「不憫か。己だとて不憫に思わないわけではないのだ。」  次郎は沈んだ口調で呟いた。それから気を取り直して磊落《らいらく》な声で命令した。 「その方たちは見張を一層厳重に、かたわら出立の準備も怠らぬようにしてくれ。いずれにしても今夜限り、明日はもうこの屋敷にはいないものと思ってくれ。」  二人の郎等が急いで立ち去ったあと、次郎は再び憂色を浮べ、腕を拱《こまぬ》いて、じっと考え込んだ。その頃|南面《みなみおもて》の簾の蔭では、姫が一点一画もおろそかにせず、写経の筆を進めていた。     四 「お姫さまの写経も終りました。お姫さまをお慰めするために、次郎も笛を吹いて差し上げたらどうかしら。」  辨がわざと快活な声でそう言い出したのは、次郎の表情が沈痛としか言いようのない程曇っていて、辨の心に不安を喚び起したせいである。いくら声を飾っても、恐怖のために語尾が顫えるのをどうすることも出来なかった。 「笛ですか。」 「お前がいつになったら笛を吹いてくれるかと思っていました。お姫さまをもてなすつもりなら、お前にとって笛の他にはない筈なのに。」  次郎は顔を起して姫の方を見た。夜になって簾を巻き上げたために涼しげな月の光が縁の近くに射し込み、姫の姿を仄白《ほのじろ》く浮び上らせていた。姫はかすかに頷いた。畳の上に滑り落ちている長い黒髪の端に、月の光が水の流れるように光っていた。次郎は重々しく口を開いた。 「笛はいつもここに持っています。姫君を悦ばせるために、吹いて差し上げたい、聞いて頂きたいと思わなかったわけではありません。私が不調法な口で喋るよりも、笛の方が一層よく私の想いを伝えるでしょうから。しかし笛の音は遠くまで響きます。誰が聞きつけるか分りません。それ故、危いことはしたくなかったのです。」  姫は再び頷いた。射し込む月光を背に受けて、姫の姿は神々しいばかりに輝いた。次郎はそのまま黙ってしまい長い沈黙のあとで呻《うめ》くように声を発した。 「私は考えました。苦しみました。そして遂に心を定めました。」  辨がはっと息を呑んだ。追い掛けるように尋ねた。 「心を定めたとは——。」 「姫君を中納言殿のところへお返しします。それも今夜のうちに計います。人目を忍ぶこと故、私と共に馬に乗って頂かなければなりません。辨殿も、お厭《いや》でしょうが私の郎等と馬に乗って下さい。山道を一駆《ひとかけ》りすれば済むこと故、おとなしく眼を閉じていて下さればよい。」  辨は大きく安堵の息を洩らした。姫は初めから身じろぎもせずに次郎を見ていたが、その顔の表情は仄暗い蔭になっていて、どのような感情に捉えられているものか見分けがつかなかった。口を利いた時に、その声はやさしかった。 「そして次郎はどうするつもりです。」 「お二方を無事に中納言殿にお届けすれば、あとは何とでもなりましょう。御心配には及びません。思えば悪い夢を見ました。」  姫は答えなかった。大きな蛍が、月光と競いながら幾つも幾つも座敷の中に紛れ込み、軽やかに踊りながらまた外に出て行った。次郎は独り言のように呟いた。 「大伴の次郎信親は、世にまたとない愚か者です。夢を見ることしか知らず、その夢をかなえるだけの知慧《ちえ》も勇気も持ち合せなかった大馬鹿者です。いざ都に出るという時に、郷里《くに》の兄者《あにじや》が、無駄なことだ、愚かなことだと申しておりましたが。」 「そなたは信濃へ帰るのですね。」  姫が念を押すように訊いたが、次郎はしかとした返事はしなかった。 「早く仕度をした方がいいのではありませんか、」と辨が口を挟んだ。「次郎がそう言うのなら、一刻も早く戻った方がお殿さまもお悦びでしょう。こうしていても、わたしは何やら胸騒ぎがしてなりませぬ。」 「仕度は既に整っています。」  そう言って座を立って行こうとする次郎を、姫はその細《ほつ》そりした白い腕を上げて呼び戻した。 「次郎、屋敷に帰るというのなら、お前の笛を聞かせて下さい。今となっては一刻を争うということもありますまい。ここでお前と別れれば、いつまたお前の笛を聞くことが出来るやら。」  辨は不安げに姫に言葉を返そうとしたが、姫は小腰を屈めている次郎を見詰めたまま、辨の方に眼をくれようともしなかった。次郎は暫く思案していたが、やがてそこに坐り直し、腰に差した横笛を引き抜いて手に持った。 「姫君のお望みですから、胡笳《こか》の曲を吹きましょう。これは本来、胡人が蘆《あし》の葉を巻いて吹く笛の曲で、ひちりきでならとにかく、笛では難しい曲ですが。」 「それは岑参《しんじん》の『胡笳の歌』という古詩にある楽器ですね、」と姫が訊いた。 「そうです、顔真卿《がんしんけい》を送別する時の作です。胡笳は悲しい曲ばかりですが。」  口を湿すと、早くも吹き始めていた。その曲は鉄石の心をも穿《うが》つような音色を持ち、或いは高く或いは低く、咽《むせ》び泣くように姫の心を貫いた。辨も今は憑《つ》かれたように耳を傾けていたが、それでもこの曲の中に次郎の深い想いを聞いていたわけではなかった。しかし姫は、明かにこの曲が自分一人に向けられていることを、それも別れに臨んで特にこの曲でなければならないことを、知っていた。この荒れた屋敷に閉じ籠められてからの毎日を、しかも礼節を守って手荒な振舞に及ぼうともしなかった次郎、思いやりと心遣いとを片時《へんし》も忘れたことのなかった次郎、その次郎が命を懸けてまでの恋を諦めて、無事に自分を父の許に帰そうとしている気持が、岑参の古詩の一節と共に、姫の心に甦《よみがえ》った。   ……涼秋八月|蕭関《しようかん》の道   北風吹き断《た》つ天山の艸《くさ》   崑崙山《こんろんさん》南月斜ならんと欲す   胡人《こじん》月に向って胡笳《こか》を吹く   胡笳の怨将《うらみまさ》に君を送らんとす   秦山遥《しんざんはる》かに望む隴山《ろうざん》の雲   辺城夜々《へんじようやや》愁夢多し   月に向って胡笳誰か聞くを喜ばん。  笛の音はこの山荘の座敷から、中天に懸っている明るい月を目指して、一筋の怨のように立ち昇った。姫の心はやがて千々《ちぢ》に乱れ始めた。一人の男をこれ程までに迷わせながら、しかも唯の一夜しか逢ったことのない男に貞節を守るほど、自分の恋は深いのだろうか。恋の深い浅いを一体何によって測ればよいのだろうか。哀れな次郎、生きながら骸《むくろ》となるのは寧ろこの男の方ではないのか。やさしい次郎、いつでもわたしを守ってくれた次郎、このような大事を冒してしまい、この後どうやって生き延びようと言うのか。  次郎が笛を吹き終えた時に、姫の眼に滴《しずく》のような涙が光っていたが、次郎もまた底知れぬ悲しみに沈んでいたために、それに気がつかなかった。あたりは不意に異様なほど静かになった。その静寂の中に、ごくかすかに、馬の蹄《ひづめ》の音らしい響が地鳴りのように伝って来た。 「さては。」  それは今まで優雅に笛を吹いていた男とは到底見えぬ機敏な動きだった。次の瞬間には笛を腰に差すと、太刀を鷲掴《わしづか》みにして立ち上っていた。会釈もせずにそのまま突走り、屋敷の裏手を目指して駆け出して行った。 「殿、殿——。」 「おう、ここだ。」  眼を血走らせた若い郎等が、車宿《くるまやどり》の蔭から矢のように次郎に近づいて来た。 「来ました。やはり昼ま見た奴等です。先程の笛の音が——。」 「分っている。それで準備はよいな。」 「馬は南の杉林の中の石塔につないであります。殿は姫君を連れてすぐ逃げて下さい。爺が辨殿を連れてあとを追います。私が奴等を屋敷の方に引きつけておきますから。」 「済まぬ。お前にも世話を掛けた。」  次郎は嘆息するように天を仰いだが、夜の空に無心に輝いている月の光は、幽鬼のように立ちはだかっている周囲の森を、そこに潜んでいる曲者《くせもの》もろとも、一層|黝《かぐろ》く見せるばかりだった。   破滅     一  月のみ白く冴《さ》えわたっている都大路に馬の蹄の音を響かせて、大伴の次郎信親が三条の中納言の屋敷の裏門にまで達したのは、亥《い》の刻をやや過ぎた頃おいである。馬の背からひらりと飛び下りると、喘《あえ》いでいる馬を片手で宥《なだ》めながら、その背に死んだようにぐったりしている姫の様子を、気遣わしげに伺った。それからつかつかと歩み寄ると、固く鎖《とざ》されている裏門の戸を力いっぱい叩いた。 「開門されたい。開門。」 「誰だ、今頃——。」  眠そうな声が返って来た。 「己《おれ》は大伴の信親だ。姫君をお連れ申した。すぐさま開門されたい。」  次郎はその間も、漸《ようや》く馬の背で正気を取り戻したらしい姫を見守ると共に、大路の今来た方角を見透すように眺めていた。しかし大路は闃寂《げきせき》として、あとから来る筈の郎等の馬の姿も見えなければ、賊の一味が追って来る気配もない。やがて門の横の潜《くぐ》り戸が軋《きし》みながら開くと、警護の侍が、泡《あわ》を食った顔を覗《のぞ》かせた。 「まことに信親殿か。」 「己だ、正真正銘の信親だ。家司《けいし》殿に姫君をお連れしたと急いで申し入れてくれ。ただし内密に頼む。余人に知られぬようにな。」  小者どもが門を開いて馬を中に引き入れると、侍は馬の背の姫の姿をちらりと見たなり、すぐさま奥に走り去った。 「姫、もう御心配には及びませぬ。無事にお屋敷の門をくぐりました。」  姫は顔を起して、被衣《かずき》の蔭から次郎を見下した。 「次郎、それでは早く下して。」  次郎は、心もち微笑を浮べ、その近くに寄り添った。 「もう暫《しば》しお待ち下さい、履物《はきもの》がございませんので。お屋形までは私がおぶって行って差し上げます。」  姫はその言葉にややはにかんだ様子だったが、すぐ憂《うれ》わしげに尋ねた。 「辨たちは大丈夫かしら。一体どうなったのでしょう。」 「もうじきあとを追って来る筈です。せっかくこうしてお帰りになったのですから、そんな悲しいお顔をなさらないで下さい。」 「でもわたしは怖い。お父さまは何と仰せられるかしら。それに辨にもしものことがあったら、——あれと妙信とが、わたしのために尽してくれる無二の味方なのです。それに次郎の身の上だって。」 「私のことは私が始末します。」  次郎はきっぱりと言い切った。奥に注進に行った侍はなかなか戻って来ず、夜露がしっとりと姫の被衣を湿した。馬の蹄の音は相変らず聞えて来ない。姫は再び馬の背でためらうように身を動かした。 「どうなさいました。」  わななく手を次郎の取るに任せながら、姫はか細い声で呟《つぶや》いた。 「次郎、ひょっとしたらわたしは、わたしは、間違いをしたのかもしれません。」 「いいえ、姫君が間違うなどということはありません、」と次郎は力強く打消した。  その時漸く侍が戻って来た。次郎は頷《うなず》いて、恥じらう姫を軽々と馬の背から自分の背に移した。 「馬はそのままにしておいてくれ。己はすぐに戻る。」  振り向いて小者どもにそう命じると、姫を背負ったまま、侍のあとに従って母屋《もや》の方へ大股《おおまた》に歩き出した。     二 「お父さま——。」  姫の呼び掛けた声は無量の想いに充ちていて、鬼神といえども心を打たれない筈はなかったが、中納言は耳にも入らぬように、両手をうしろに組み、小腰を屈《かが》めて、姫の前を往ったり来たりしていた。歪《ゆが》んだ烏帽子《えぼし》や、着崩れた浅黄の狩衣《かりぎぬ》などが、中納言が慌てて身仕度を整えて寝所から出て来たことを物語っていた。次郎は廂《ひさし》に平伏して上目遣いに様子を見ていたが、中納言がめっきり老けたと思わないわけにはいかなかった。 「お父さま——。」  再び姫が呼び掛けると、中納言はぴくりと足をとめ、姫を見下して嗄《しわが》れた声で叫んだ。 「何で今頃戻って参った。最早そなたを子とは思わぬぞ。」  それはかねて抑えていた胸のうちを、一息に吐露したものだったに違いない。姫は丈なす黒髪をうち顫《ふる》わせながら、大きく眼を開いて、哀願するように父を見詰めた。 「殿、お言葉ではござりまするが、姫君も無事にこうしてお戻りになりました。お叱りも程々に。」  側に控えていた家司が、取りなすように言葉を入れた。 「何が無事だ。姫は神隠しにあって行方知れずになったと、夙《つと》に内裏へも申し入れてある。御入内《ごじゆだい》の式を前に、後々のことも考えずに屋敷を出て行った不孝者が、何の用があって、今頃戻って参った。」 「お赦《ゆる》し下さい、お父さま。」 「この父はな、そなたを入内させて権職に就こうなどと、ゆめ思ったわけではないぞ。そなたを、亡き母の代りに、為合《しあわ》せにしてやりたいと念じたばかりだ。それを当てつけがましく、この父に恥を掻《か》かせおって。」 「いいえ、そういうわけではございませぬ。ただわたくしの身の不運でございます。」 「そなたのようなものには何の用もない。そこな不埒者《ふらちもの》と、何処《どこ》へでも行ってしまえ。」  姫は絶え入るように泣き崩れた。次郎は蒼《あお》ざめた顔を起し、苦しげに頬を歪ませている中納言と、身悶《みもだ》えして泣いている姫と、黙然と控えている家司とを、順繰りに見た。そして思いあまったように中納言に呼び掛けた。 「殿、姫君へのお叱りは見当違いというものです。罪はみなこの信親が負うべきものです。」  中納言はじろりとこちらを向いたが、その瞳《ひとみ》は鉄をも貫くほど厳しかった。 「何を申す——。」 「すべて私の企んだことです。大恩ある殿に対し、申し開きの出来ないことをいたしました。私はこの場で御成敗にあっても、少しも厭《いと》いません。その覚悟で参りました。ただ姫君だけはどうかいたわってあげて下さい。姫君には何の罪もないのですから。」  中納言は怒りに耐えぬように脣《くちびる》を顫わせた。 「何の罪もないと。不埒者と逃げおって、これまで共々に暮して来たではないか。汚《けが》れ果てた身となりおって。」 「姫君は清浄|無垢《むく》でございます。」 「何をたわけた——。」  中納言はその場に立ちはだかったまま、娘の上に眼を落した。怒りと侮《あなど》りとの浮んでいたその表情に、一瞬かすかに憐《あわれ》みの色が差した。 「まことです、お父さま。次郎は——。どうか次郎の命を助けてやって。」  姫は顔を上げて必死の声を搾《しぼ》ったが、それさえ中納言にしてみれば、この二人の間に新しく生れた筈の愛情を証明するものに他ならなかった。中納言は憎々しげに言い放った。 「清浄の身ならば尼にでもなれ。最早そなたに用はない。今さらこの私が、娘が戻って参りました、入内いたさせますと主上に申し上げられるとでも思っているのか。左大臣の三の姫は目出たく女御の位に即き、その一族は飛ぶ鳥をも落す勢い。それに引きかえ、我等は門を閉じて、主上のお怒りの醒《さ》めるのを荏苒《じんぜん》と待つばかりだ。これというのもみな——。」  そこで中納言は絶句して、精も根も尽き果てたようにその場に腰を落した。烏帽子が内心の懊悩《おうのう》を示すかのように小刻みに揺れていた。家司が首をめぐらして、しみじみと次郎に話し掛けた。 「次郎、殿をはじめ我々は誰しも、そちをどんなにかいとしがって来た筈だ。今さら申しても始まらぬが、そちは何ということをしてくれた。そちが姫君もろとも消え失せると、検非違使の判官《ほうがん》はそちが姫を盗んだのだと言い張りおった。しかし私ひとりは、今日の日まで、そんな筈はない、次郎は賊と闘って死んだものであろうと、秘《ひそ》かに回向《えこう》を称《とな》えていたが、何とやはり、そちの仕業であったか。」  家司はもともと小柄な老人だったが、めっきり皺《しわ》の数もふえ、見る影もないほど痩《や》せ衰えて小さくなっていた。落ち窪《くぼ》んだ眼には隠しようもない涙が光っていた。 「申訣《もうしわけ》のないことをいたしました。この命で償いが出来るものなら、どうか御成敗を。」  次郎は何の未練もないように首を垂れた。そして家司は顫える手を膝《ひざ》の上に置いて端坐したなり、中納言が指図するのを待っていた。人に知られぬように屋敷の奥に集《つど》っているこの四人は、どの一人を取っても、その表情には最早何の希望の色もなかった。姫は依然として泣き続けていた。そして中納言は、先程の勢いも今はまったく冷め、うつろな瞳を起して火影の届かぬ廂に蹲《うずくま》っている次郎の方を見やった。そして力のない声を掛けた。 「本来ならば八つ裂きにしても悔いない奴だが——。しかし姫が命乞いをするとあれば、赦してつかわそう。そちは姫の血筋につながるもの、酷《むご》いことはしとうない。どこぞに行って勝手に死ぬがよい。さっさと立ち去れ。」  次郎は恭しく一礼した。 「命が惜しいわけではありませんが、見届けたいこともございますので、今|暫《しばら》く御猶予をいただきます。姫君には何の罪もございません。どうか昔通りの姫君と思ってお慈しみ下さい。殿も御壮健に遊ばしますよう。家司殿にも長々とお世話になりました。」  すっくと立ち上ると、背を向けて歩き出した。 「次郎、次郎——。」  姫が懸命に呼んでいる声を聞きながら、振り返ろうとはしなかった。     三  裏門のところまで戻って来ると、柱につながれた馬が首を起して主人を見上げた。小者どもの姿は見えず、警護の侍も母屋の方へでも行ったのかあたりには見えなかったが、次郎は気にも留めずに馬の手綱をほどいた。あとから来る手筈になっている二人の郎等のことが、俄《にわか》に次郎の心を不安にしていた。裏門の戸を少しばかり開いた時に、かすかに自分を呼ぶ声を聞きつけ、空耳《そらみみ》かなと思いながらも振り向いた。 「次郎——。」  次郎は馬の手綱を握ったまま、月光の中をこちらをさして小走りに走って来る人影を認めた。その小さな黒い姿がしばしばよろめいた。 「姫。」  それと分って次郎が一跳びに駆けつけた時に、姫はもう力が尽きて今にも倒れそうに見えた。身を預けるように次郎の腕に縋《すが》りついた。 「何となさいました。」 「次郎、わたしを連れて行って。」 「何ということを申される。ここは姫のお屋敷ではありませんか。せっかくお父上の許《もと》へお帰りになったのではありませんか。」  姫は涙に濡れた顔を次郎の方に仰向けて、かすかに首を横に振った。その白い喉《のど》もとが絶え入らんばかりに喘いでいた。 「いいえ。」 「どうしたというのです。」 「いいえ、次郎、ここはわたしの家ではありません。わたしは間違っていました。」 「何を申されます。」 「わたしはお父さまがあんなすげないお方だとは思ってもいませんでした。やさしくわたしを迎えて下さるものとばかり信じていました。お父さまはやはりわたしを入内させて、この上にも御出世なさりたかったのです。もうわたしの身が何の役にも立たないと分ると、あのようなひどいことを。」  その目蓋《まぶた》から零《こぼ》れ落ちる涙を、月の光が真珠のように照し出した。次郎は細そりした身体《からだ》を抱きしめ、わざとらしく笑った。 「それは姫の思い過しというものです。殿は心の中では、どんなにか姫のお帰りを嬉しく思っていられるのです。そのことは私が請け合います。姫がお考えになっているよりも、もっともっと姫を可愛く思っていられる。それ故にこそ今度のことが口惜しくてならないのでしょう。思えば罪万死に当るとはこの私のことです。お父上の憎しみは当然のこと、よくも私をお赦しになったと思っています。」 「そなたはこれからどうするつもり、」と姫は危ぶむように次郎を見詰めた。 「私は郎等のことが気懸りです。名もない者たちとはいえ、信濃の国からはるばる私を慕って供をして来た忠義な家来どもです。放ってはおかれません。未だにあとを追って来ないところを見ると、何ぞ間違いでもあったのではないか。それに辨殿のことも気遣わしい。あの方は、まったく私の無分別のために飛んだ目にあわれたのです。これから阿弥陀ヶ峯の山荘に戻って、様子を見て参ります。みな無事でいてくれればよいが。」 「それからは。次郎、それからそなたはどうするつもりです。」 「私の身ですか。検非違使庁に自首して出る他はないでしょう、」と次郎は自らを嘲《あざけ》るように答えた。「この世にはもう何の望みもない。所詮《しよせん》はこれが定まる運命というものです。」  姫は涙のこびりついた眼を閉じて、その顔を次郎の胸に埋めた。 「次郎、わたしも連れて行って。そなたの行くところへ、何処へなりとわたしも行きます。」 「姫。」 「次郎の運命を違《たが》えたのもわたし、思えばわたしの方がよほど罪深いと申せます。わたしはもう父からも見放されました。どうかわたしを、次郎。わたしは死ぬのならそなたと一緒に死にたい。」  次郎は苦しげに眉をひそめ、月の光に照されて既に死んだように蒼ざめている姫の顔を眺めた。それからゆっくりと姫の身体を離した。 「そのようなことを言われるものではない。お父上は必ず姫を迎え入れて下さいます。お戻りなさい。」 「いいえ。」 「姫、もう遅すぎるということが姫にはお分りにならないのですか。私は、生きた骸《むくろ》と一緒に逃げようとは思いません。」  その言葉は鋭い切先のように姫の胸に突き刺さった。姫の身体は重心を失ってよろめいたが、次郎は最早その腕を支えようとしなかった。 「姫はまだまだお為合せになれる方です。私のような者とは違います。早くお戻りになって下さい。お父上がお待ちかねです。」  見向きもせずにすたすたと馬のところへ戻って行くと、ひらりとその背に跨《また》がった。 「次郎、待って。」  次郎は馬の背から、一瞬振り向き、それと共に黒い小さな影がその手から弧を描いて姫の足許に落ちた。 「姫、それを姫に差し上げます。」  そして次の瞬間には裏門の僅かに開いた隙間を、馬を駆って走り抜けていた。  姫は地面からその品を拾い上げた。手触りで綾《あや》の布に包まれた横笛であることが分った。次郎は大事な笛を形見にくれた、と気がつくや、最早次郎にこの上生きようという気持のないことが痛いほど姫に会得された。涙も涸《か》れ果て、遠ざかる蹄の音をうつろな心で聞いていた。その音も遂に聞えなくなってから、諦《あきら》めて母屋の方に戻ろうとして歩き出した。あたりの静けさ、そして今まで誰も様子を見に来た者がなかったことを、その時初めて不審に感じた。しかしその時はもう遅すぎた。 「いや網にかかった、目指す魚が見事に網にかかりおったわ。」  黒い頭巾《ずきん》をかぶった大きな男が、いつのまにか姫の前に立っていた。それと共に闇から滲《にじ》み出たかのような幾つもの影が、姫を取り巻いた。 「誰——。」  きっとなって叫んだが、恐怖のためにその声は聞き取れぬほど低かった。相手は無遠慮に笑った。 「太秦よりこのかた姫を恋い焦れている男でござる。不動丸でござるよ。」  姫は色を失って、一二歩うしろへ下った。しかし姫を取り巻く網は一層|狭《せば》められて、逃れる術《すべ》があるとも思えなかった。もし次郎さえいてくれたらとかなわぬ望みを抱いたが、その次郎がここへ戻って来る筈もない。姫の惨《みじ》めな気持を見抜いたように、不動丸は悠然と落ちついたなり高言を吐いた。 「何とお前等も己の眼の高いのに驚いたであろう。次郎の奴が姫をこの屋敷へ連れて来た以上、必ずや姫を残して立ち去ると、己の言った通りではないか。あの馬鹿者は今頃阿弥陀ヶ峯の屋敷に戻って、動顛《どうてん》しておるわ。」 「案ずるよりはいと易うございましたな、」と背後に控えていた黒ずくめの男の一人が相槌《あいづち》を打った。「されどあの次郎という奴、仕止めておいた方が後腐れがのうて宜しゅうはござらなかったか。」 「そのように簡単に仕止められる奴ではない。あいつが騒げば手助けの侍が中から出て来るわ。面倒を掛けずとも、奴は検非違使庁に自首して出る、我等が手を下《くだ》す程のこともなかろう。姫を頂戴《ちようだい》すればそれで充分。」  主領は無遠慮な高笑いを響かせながら、むずと姫の腕を取った。まるで夢の中にでもいるように、姫はされるがままになっていた。 「頭《かしら》、時刻が移ります。屋敷うちの者どもが助勢に現れては一大事。」 「よし、行くとするか。なに中納言は、今となっては姫を厄介払いしたい気持だろうから、見よ、誰も来はせぬわ。姫、この不動丸に狙われては所詮逃れることは出来ぬと、これでお分りになったか。」  姫は男の力強い腕の中に抱え上げられたまま、既に気を喪《うしな》っていた。     四  次郎は馬から下りると、手綱を引きながら杉林の中のあるかないかの小道を進んで行った。既に中天を廻った月が、枝の合間から鮮かに射し込んで、虫のすだく足許の雑草の上に奇妙な模様を作っていた。あたりはごく静かで、梟《ふくろう》の鳴く声が遠くから無気味に聞えて来た。  やがて次郎は空地に出た。月光に蒼白く照し出された石塔には、先程姫を連れて此所《ここ》を立ち去った時はあと二頭ほど馬が繋《つな》がれていたのだが、今はその姿はない。さてはうまく落ち延びたかと次郎はほっと吐息を吐きながら、手早く自分の馬の手綱をそこに掛けた。身軽になると、太刀の柄を握りしめて屋敷の方へ歩き出した。馬がいなければいないで、為体《えたい》の知れない不安がすっかり消えてしまったわけではなかった。屋敷の方を見透すようにしたが、木蔭になっていて、何の気配もない。そこで足早に進んで車宿《くるまやどり》の横に出た。中庭には月の光が隈《くま》なく射している。屋敷の方へ行こうとして車宿の角を曲った時に、次郎ははたと足をとめた。次の瞬間には飛びつくように身を屈めていた。  それは若い郎等の屍《むくろ》である。命がないことは抱き起すまでもなく分った。次郎の腕の中で、その郎等は悽惨《せいさん》な死にざまを示していた。拳《こぶし》に握りしめた太刀は未だに血潮に濡れているように見えた。この男がどんなに激しく闘ったか、最後まで一歩も退《ひ》かずに抵抗したか、その光景がまざまざと次郎の眼に映った。 「何ということだ。こうなることが分っていながら、お前を引き入れてしまった。」  次郎はそっと郎等の重たい身体を地面に下した。この男が必死になって争ったのは、自分の朋輩と辨とを無事に逃すためだったのだ。それはうまく成功したのだろうか。  次郎は逸散に屋敷の方に駆け出していた。外から見ただけでも、必死の闘争が屋敷の中で行われたことは明かだった。腥《なまぐさ》い臭いが立ちこめ、月の射し込む仄明《ほのあか》りに、黒ずんだ血の痕《あと》が床に点々とついていた。 「爺——。」  答える者はなかった。 「辨殿——。」  屋敷の内部はひっそりと静まって、虫の声が聞えるばかりである。次郎は中へはいると、勝手を知った足取で暗闇の中を嘗《かつ》ての姫の座敷へと急いだ。巻き上げた簾《すだれ》の下を蛍《ほたる》が無心に流れている。次郎は紙燭《しそく》に火を点けると、それを片手に挑《かか》げてあたりを照し出した。  老いた郎等の骸《むくろ》は屋敷の端《はず》れの縁の上に横たわっていた。次郎は紙燭を傍《かたわ》らに置いて、その屍を抱き起した。 「爺——。」  どのような凄《すさま》じい闘いが行われたのか、老人はもう答えることはなかった。主人のために一身を賭《と》して、果してこの老人が何を得たというのか。現世の命も、来世の約束も、この老人にとっては、ただ主人に忠義を尽すこと程に大事ではなかった。しかもその主人は道にはずれた恋のために、すべてを犠牲にして悔いなかったのだ。 「爺、済まぬことをした。己が至らぬために、むざむざとお前を死なせてしまった。お前は後生を願って、ひたすら仏果を得たいと望んでいたのに、己のような者の供をして都の土を踏んだばかりに、このような悪運に取り憑《つ》かれた。己がもっと早く諦めていれば、こういう無惨なことにはならなかった筈だ。何という己は馬鹿者だ。爺、どうか己を赦してくれ。」  次郎はそこにぬかずいて老人の冥福《めいふく》を祈っていたが、はたと気を取り直して立ち上った。 「辨殿——。」  もしも辨が賊の手に攫われているのならば、何としてでも救い出さなければならぬ。次郎は再び紙燭を手に取って、屋敷の中を隈《くま》なく探し廻った。しかし辨の姿はどこにもなかった。  次郎は庭に出た。屋敷の外の壺屋の蔭に、大輪の花を投げ捨てたように、見馴れた姫の衣裳《いしよう》と共に女が倒れていた。蒼白い顔を月の光が遮《さえぎ》るものもなく照し出した。 「辨殿——。」  それもまた冷たい骸だった。胸を抉《えぐ》られて、華かな衣が血に染まっていた。恐らく辨は、姫の衣裳を纏《まと》って自分を姫と見せ掛けたものであろう。しかし月の光に余人であると知った不動丸の一味は、辨を此所で刺し殺したに違いない。その固く結んだ脣は、今にも次郎を叱責《しつせき》しそうな程生き生きとしていた。しかし二度と言葉を吐くことはなかった。  次郎は茫然と立ち尽していた。確かに次郎は姫の気持を重んじて、三条の屋敷まで送り届けに行った。その代償がこれだった。一人の侍女も、二人の郎等も、その代りに酷《むご》たらしく殺されてしまった。しかも姫が最後になって、自分は間違っていた、一緒に何処へでも連れて行ってくれ、と哀願したとすれば、一体この者たちの死は何によって贖《あがな》われるのだろう。畢竟《ひつきよう》は空《むな》しいこと、取り返しのつかないことだ。そしてこうなったことのすべての基《もとい》は、この自分にあるのだ。  月はますます冴えて阿弥陀ヶ峯の頂に近づいた。夜は既に更けた。あたりは虫の音が降るように聞えるばかりで、生きた人間は次郎一人だった。  次郎は杉林の石塔のところに戻り、そこに塚穴を三つ掘った。黙々と、無心に、掘り続けた。夜露がしっとりと下り、時々繋がれた馬が蹄の音を立てたが、次郎は気がつかなかった。穴を掘り終ると屋敷から屍を一つずつ運び、丁寧にそこに埋めて合掌した。長い間合掌していた。  夜がやがて明けそめ、朝靄《あさもや》が林の中を流れ出した。次郎は馬の手綱をほどき、やさしくその鼻面を撫《な》でると、手綱を引いてその場所から遠ざかって行った。   東の獄     一  楓は唐渡《からわた》りの鏡をじっと見詰めていた。  大伴の次郎信親が別れのしるしにこの鏡を手渡して行方知れずになってから、日々は流れるように過ぎ去った。故郷へ帰ると言われて諦《あきら》めてはいたものの、深夜現れた検非違使の判官に、次郎信親は中納言殿の姫君を攫《さら》って逃げたと言い渡されてからは、日夜楓の胸は怪しく騒いだ。都を見捨てて単身信濃へ引き上げたとあれば諦めることも出来る。しかし自分のこの想いを承知していながら、たとえ身分のある姫君であろうとも、他の女性《によしよう》と逃げるなどとは。そう思うと怒りと嫉妬《しつと》とに、心も煮え滾《たぎ》るようだったが、しかしやがて別の気持がそれに替った。誰が一緒であろうとも、次郎さまがお為合《しあわ》せならばそれでよいのだ。どのような草の廬《いおり》に隠れていようとも、御無事でさえいられれば、いつかはまためぐり会うことも出来るだろうと思った。形見の品を覗《のぞ》き込んではそこに映る涙に曇った顔を眺め、溜息《ためいき》ばかり吐いていた。父の喜仁がやさしい言葉を掛けても、娘は一間に閉じ籠《こも》ったなり死んだようになっていた。しかし次郎の消息も三条の中納言の姫君の消息も、杳《よう》として知れなかった。  或る日、楓は鏡の面《おもて》が少し曇っているのに気がついた。その面の上に薄ぼんやりと次郎の顔が浮んでいた。嘗《かつ》ての精悍《せいかん》な男らしい顔ではなく、今すぐにも息も絶えそうな暗い沈んだ面持をして、こちらを向いていた。幻はすぐに消えてしまったが、楓の不安は醒《さ》めなかった。次郎さまはきっと何やら容易ならぬことにおなりなのだ、きっとわたしの助けを待っていらっしゃるのだ。そう考えると矢も楯《たて》もたまらず会いに行きたかった。しかし何処《どこ》に行けばよいのか。姫君の供をして知らぬ他郷をさ迷っているものやら、都の近くに潜んでいるものやら。ついぞ噂《うわさ》に聞くこともなく、その行方を知る手立《てだて》もない。楓は途方に暮れて、自分のやつれた顔をいつまでも鏡に映していた。鏡の面にはもう次郎の幻は浮ばなかったが、その代りその面影は寝ても覚めても楓の脳裏にこびりついて離れなかった。  思案にあまった楓は、ふと或ることを思い出した。たしかこの春頃から三条の大橋のたもとにある荒れ寺に、智円という陰陽師《おんようじ》が住んでいて、どのような難しいことでもやすやすと占うという話である。その霊験《れいげん》あらたかな僧に訊《き》いてみたらという思いつきが浮ぶと、居ても立ってもいられなくなった。楓は店の者には用足しに行くように取り繕って、三条大橋へと出掛けて行った。  よほど人に知られていると見えて、少し尋ねるとその寺の在りかはすぐに分った。しかし草深く茂った境内の奥に、今にも崩れそうな寺の本堂を垣間見《かいまみ》た時には、足が竦《すく》むような気がした。雑草の生えている茅葺《かやぶき》の屋根の上に、鴉《からす》が二三羽こちらを見下しているばかり、あたりには人の気配もない。しかし次郎の身を思えば、ここで引き返したのでは何の役にも立たぬ。勇を鼓して暗い内陣に向って呼び掛けた。  暫《しばら》くして本堂の中から貧しげな法師が姿を現した。鋭い瞳《ひとみ》がちらりと光っただけで、あとは格別|怖《こわ》そうなところもない、親切そうな人柄である。声も穏かである。 「何か御用かな。」 「都に名高い智円法師さまにお願いがあって参りました。わたくしは喜仁と申す笛師の娘で、楓と申します。」 「宜しい、お上りなさい。」  昼も小暗い本堂の中に燈明の火ばかりが瞬いている。楓は本尊の阿弥陀仏《あみだぶつ》に手を合せると、すすめられた円座の傍《かたわ》らに畏《かしこま》って坐った。法師は黙然と端坐したまま促すように相手が口を切るのを待っている。楓は一礼して語り出した。 「この春のことでございますが、三条の中納言さまの姫君がかどわかされて、その後行方知らずにおなりになった事件がございました。かどわかした者は中納言さまにお仕えする大伴の次郎信親と申されております。」  それまで眼を閉じていた法師は、重たげな目蓋《まぶた》を少しばかり持ち上げて楓を見たが、相手は眼を伏せていてそれに気がつかなかった。 「わたくしは次郎さまといささか縁《えにし》のある者で、お形見に唐渡りの鏡を頂きました。次郎さまのお行方は今日《こんにち》もなお知れませぬ。それが先頃のこと、鏡を見ておりましたら、その面《おもて》に次郎さまの面影が浮びました。気の迷いと申せばそれまでのことでございますが、わたくしは胸騒ぎがしてなりませぬ。何やら今にも死にそうな、生きるすべもないようなやつれたお顔でございました。あなたさまのお力で、次郎さまのお行方が知りとうございます。」  法師はやおら鋭い質問を投げ掛けた。 「そなたは次郎殿を恋していられるな。」  楓は頬を赧《あか》らめ、素直に頷《うなず》いた。 「はい。」 「姫君と一緒に逃げたような男でも、悔いはないのか。」 「ございませぬ。次郎さまがよしどなたをお好きになられても、わたくしの心はわたくしの心でございます。」 「宜しい。よく言われた。次郎殿にはそれがしも縁《ゆかり》がある。」  楓は飛びつかんばかりに身を戦《おのの》かせた。 「御存じでこざいますか。では今どこにいるかも——。」 「いや、いささか縁はあるが今の居どころは存じておらぬよ。時にそなたは形見の鏡とやらをそこにお持ちかな。」 「はい、一刻も離しませぬ。」  楓は懐から袱紗《ふくさ》に包んだ銅の鏡を出して法師に渡した。法師はそれを押し戴《いただ》いてから、暫く鏡の面を見詰めて呪文《じゆもん》のようなものを称《とな》えていたが、やがてそれを楓の手に返した。 「大事なのはそなたの念力じゃ、それがしの法術ではない。そなたは一心に次郎殿の身を想って、この鏡を見詰められよ。よいかな、一心不乱に鏡を見ておるのじゃ。」  楓は言われるまま、両手に鏡を捧げ持って曇りのないその面を注視した。初めのうちは自分の顔が映っている。蒼《あお》ざめた自分の顔、やがてそれがふっと掻《か》き消えた。薄雲のようなものが円形の縁取りの中に漂い、次第に濃くなり、朧《おぼろ》げな情景がその中に浮び上った。次郎が腕を組んで坐っている。 「次郎さま——。」  思わず声を出して呼び掛けた。それが聞えたのか、次郎はこちらを振り向いた。痩《や》せ衰えた顔、光のない瞳、乾いた脣《くちびる》……。 「どのようなところにいると見えるか、」と法師が鋭い声で訊いた。 「狭い壺屋のようなところです。格子があります。格子の前は細殿《ほそどの》のようになっています。」 「他には。」 「他には誰も見当りませぬ。」 「ふむ、これは容易ならぬことになった。」  法師は憂わしげに呟《つぶや》いた。それと共に楓が見ていた鏡の中の情景は拭ったように消え去り、そこに再び自分の顔が映っていた。 「次郎さまは何処においでなのでしょう、」と楓は鏡から顔を起して法師の方に不安そうな瞳を向けた。 「獄におる。」  法師はぽつりと答えた。 「次郎さまが獄に——、では捉えられて。」 「捉えられたか、自首して出たか。あれほど言って聞かせたにも拘わらず、あの男は頼るべきものが身一つということを解《げ》せなかったものと見える。己《おの》が一存でなすべきことを、恐らくは姫の心持を汲《く》んで身をあやまったに違いない。」  法師は憤るように口の中でぶつぶつ言ったが、楓の耳にはよく聞き取れなかった。楓は動顛《どうてん》して同じ言葉を繰返した。 「次郎さまが獄に——。」 「多分、東の獄であろう。」 「ではいつ殺されるとも分りませぬ。助けてあげて下さいませ。お願いでございます。」  楓は法師に取り縋《すが》るようにして叫んだ。 「それがしのような者に、次郎殿を助ける手立などが出来る筈はない。」 「では誰に出来ましょう。恐ろしい東の獄に捉えられては、誰一人手出しは出来ませぬ。ましてやわたくしのような女がお願いしても他に力を貸して下さるかたがあろうとは思われませぬ。お坊さまは次郎さまに縁《ゆかり》があると仰せられました。お坊さまが幻術をお使いになることは、京の町に隠れもないこと。わたくしのために力をお貸し下さいませ、お願いでございます。」  法師は掻き口説く楓の様子を冷静に眺めていた。 「そなたの慕う男は、別の女性《によしよう》と逃げた男ぞ。そのような男のために、命を懸けてもよいと申されるか。」 「はい、どのような危い目もいといませぬ。わたくしを不憫《ふびん》と思《おぼ》し召して、どうか次郎さまをお助け下さいませ。」  法師は少し心を打たれたように見えた。 「と言って、た易いことではない。」 「存じております。お坊さまに出来ないことならば、わたくしも諦めます。わたくしも死にます。」 「よかろう。それならばそれがしが、行って中の様子を見て来ましょう。見込があるとなれば、法力の限りを尽して救い出して進ぜよう。」  楓は手を合せて法師を拝んだ。法師は歯の抜けた口を開いて笑った。 「拝むなら御本尊になされよ。うまく行くときまったわけではない。愚僧の痩腕《やせうで》で東の獄が破れるものかどうか、様子を見ての上のことだ。」 「わたくしもお連れ下さいませ。」 「それはならぬ。誰でもが忍び込めるところではない。会いたくば会わせもするが、それには死ぬ程の苦しい思いをせねばならぬ。まずそれがしに任せなさい。」  楓は素直に頷いた。次郎から貰った形見の鏡を袖のうちにしっかりと抱きしめたまま、熱に潤んだ瞳で法師の顔を御仏のように見詰めていた。     二  いかめしい土塀《どべい》をめぐらし、東洞院川を背にして城のように堅固な備えを見せている伊勢殿《いせどの》の屋敷の奥である。贅《ぜい》を尽した調度に囲まれて、塗籠《ぬりごめ》になっている部屋の中に伊勢殿が悠然と構えていた。ほとほとと壁を叩く音がした時に、それまで手に弄《もてあそ》んでいた宝玉の類を、ゆっくりと蒔絵《まきえ》の手箱の中にしまい込んだ。壁を叩く音が次第に高くなったが格別急ぐ様子もない。手箱に蓋をすると、それを持って部屋の隅にある幾つもの唐櫃《からびつ》の一つに入れた。それから音のする壁の方に行き、どこやらに触ると、細工がしてあるらしくて壁の一部分が軋《きし》りながら開いた。顔を黒い頭巾で覆《おお》った男がぬっと中にはいり、燈台の火が眩《まぶ》しいのか眼をぱちぱちさせた。 「待たせるではないか、」と不満そうに主《あるじ》を見た。 「大頭《おおがしら》、そう気が立つものではない。まず坐れ。ここにいるのは我等二人ばかり、おこともそのうるさい冠《かぶ》りものを取るがよい。ほんに目障りな。」  大頭はどっかと円座の上に足を組むと、言われるままに頭巾を取った。この塗籠は貴重な品々を隠しておく伊勢殿の秘密の部屋でもあれば、また屋敷の裏手にある東洞院川の舟着場から、木立の間を縫って近づくには最も人目に隠れた場所でもあった。大頭が伊勢殿と膝《ひざ》をまじえて策を練るのは此所《ここ》ときまっていて、小頭や海念坊などの腹心もこの塗籠には通してもらえなかった。  大頭は頭巾を取るや、待ち切れぬように尋ねた。 「姫の様子はどうだ。」 「変りはない。壺屋の中に押し籠めてある。」  大頭は険のある目つきで伊勢殿を睨《にら》みつけ、荒々しい声で詰め寄った。 「一体いつまでこういうことを続けるつもりだ。いい加減に己《おれ》の手に渡せ。」  小柄な老人は、ひしがんばかりの大頭の勢いにも少しも動ずる色がなかった。微笑さえ浮べていた。 「この屋敷にいる限りは、姫はおことのままにはさせぬ。何とその約束ではなかったかな。わしが姫を見張っていれば、誰にも波風は立たぬ、姫の身も安全というものだ。それともおこと、決心して都を見捨てるか、鈴鹿山へ引き籠《こも》るか。それならば姫を渡しもしようが。」  老人がうそぶくように言うのを、大頭は口惜しげに脣を曲げて聞いていた。  不動丸が中納言家の裏門を襲って、正気を失った姫をこの伊勢殿の屋敷の奥深く担《かつ》ぎ込んだ時に、屋敷の主は姫をあずかる以上は、指一本触れてはならぬと大頭に申し渡した。そして自ら壺屋の中に姫を押し籠めると、余人に知れぬように食事の世話も自分でした。それというのも、伊勢殿の考えによれば女人は一味の団結をあやまる基《もとい》である。鈴鹿山の山塞《さんさい》でならば、奪い取った女どもに対してどのように振舞おうともよい、規律さえ紊《みだ》さなければ大目に見よう。しかしここ都のただ中では、不動丸の徒党は女子供には手を出さぬという方針のもとに統率されなければならぬ。金銀財宝というものは、惜しみなく分ち与えさえすれば配下は心服する、しかし女色はこれを分ち与えることが出来ない、一人が迷えば全員が迷う、況《いわ》んや主領が迷えば配下を手足の如く使うことは至難の業である。その上不動丸と一口に言うものの、大頭は常に顔を包んでその素性を手下の者どもにも明そうとせず、大頭の蔭には更に伊勢殿のような巨魁《きよかい》がひそかに采配《さいはい》を振っていて、一味はすべて隠密《おんみつ》のうちにこの「不動丸」という恐ろしい名前を護符のように頂いて都を席捲《せつけん》するとなれば、規律の大事なことは言うまでもない。——これが伊勢殿の方針である以上、大頭といえども従わないわけにはいかなかった。  大頭にしてみれば、伊勢殿に姫君に対するよこしまな考えがあるとは思わない。老人は慾《よく》のかたまりみたいなもので、人質に取って身代金が手に入るというのならば随分と阿漕《あこぎ》な真似もしようが、姫君の場合には中納言からも見放されていて、金の蔓《つる》にはなりそうもない。女色に溺《おぼ》れるには年を取りすぎているし、それにまさか大頭の狙った獲物を横取りする筈もない。これまでも二人は、智は伊勢殿、勇は大頭、また内にあっては伊勢殿、外にあっては大頭と、それぞれ役割を定めて「不動丸」の名のもとに一致団結して来たのだ。とすれば、伊勢殿の仕打はまったく大頭に対する厭《いや》がらせということになる。待ちに待ち、苦労に苦労を重ねて漸《ようや》く自分の手に落ちた姫君を、鼻の先で掻っ攫ったまま、顔さえ見せてくれようとはせぬ。鈴鹿山に行きさえすればと、二言目には言う。しかしせっかく都に住んでこれまで痕跡《こんせき》さえ残さなかったものを、姫一人のために一切を抛《なげう》って、ただの山賊になりさがってしまうのはやはり決心がつかぬ。姫のためとあれば、決して厭《いと》いはせぬが、その前に何とか方便がありそうなものだ。しかし智慧《ちえ》という点では、この老獪《ろうかい》なくそ爺《じじい》にはとても及びそうもない……。 「姫の様子をもう少し聞かせてくれ。何と申しておる。」  機嫌を取るような声になって、老人に尋ねた。 「いつも同じようなことだな。東の獄に捉われている次郎とやらを、救い出してくれと頼んでおるわ。」 「次郎めが自首して出たことを、どうして承知しているのだ。」 「わしが言って聞かせた。その方がおことのためでもあろう。親からは見放され、恋しい男は獄にあって明日をも知れぬ命、——大抵は諦めもつきそうなものだ。」 「それはお主《ぬし》が己のためを思ってのことか。」  大頭は何やら疑わしげに相手を見た。伊勢殿の方は鷹揚《おうよう》に頷いた。 「そうよ。礼を言ってもらわずばなるまい。もっとも、」と言いかけて、じろりと大頭を見据えた。「姫は次郎を救い出してくれぬ限り、おことには靡《なび》かぬときつい申しようじゃ。」 「それ程までに次郎を想っているのか。不思議なこともあるものだな。姫は次郎の手で阿弥陀の山中に攫われ、その次郎を撥《は》ねつけたのではなかったのか。それでなければ次郎が中納言の屋敷に姫を戻しに来る筈はない。姫があの男を嫌っているものとばかり、己は思っていたが。」 「そこが女心の微妙なところだろうて。」  伊勢殿は嘲《あざけ》るように笑った。大頭は思案顔で首を捻《ひね》った。 「それでは次郎の奴を助け出してやるか。」  その一言に、伊勢殿はそれまで見せなかった鋭い眼光を投げ掛けた。 「それはならぬ。馬鹿なことを申すものではない。」 「何が馬鹿だ。」 「思ってもみよ。次郎が生きている限り、姫の心はあの男に靡く。助けでもしようものなら、前々から申しておる通り、次郎がおことを放っておくものか。おことをあやめて姫を連れ出すわ。これしきのことが見抜けぬとは情ない。」 「姫を我がものとしてしまえば、あとは何とでもなる。」 「そうはいかぬわ。次郎が生きている限りは、姫が次郎を恋い慕うことは間違いない。何としてでもあの男を亡き者にするのがこの際の大事だ。さいわい東の獄におるのではないか。そやつの首を撥ねることは赤子の手をひねるよりもた易かろう。なぜ早いところ殺してしまわぬ。」 「うむ、」と大頭は唸《うな》り声をあげた。「お主の言うのはもっともなように聞える。しかしな、己はあの次郎というのが気に入っているのよ。」 「何をたわけた——。」 「おことには分るまい。あの次郎信親は己の恋路の邪魔をした憎い男だ。しかしそれは己が横合から手を出したまでのことで、あの男はあれで立派なものだ。己と同格に太刀打の出来る者は、あの男の他にはあるまい。小頭なぞが十人寄ってもあいつには及ばぬ。ああいう男と一緒に組めば、天下を取ることも出来そうな気がする。」 「それでわしの代りにするのか。」  伊勢殿が嘲るように口を入れた。 「いや、毛頭そのようなつもりは、」と大頭は慌てて答えた。「伊勢殿は伊勢殿、次郎は次郎。お主がいなくては不動丸の名がすたるわ。」 「その言葉を忘れるなよ。二人して力を合せて今日《こんにち》まで築き上げて来たものを、今さら次郎などという青二才に見変えられてたまるものか。」  大頭は頷いたが、その眼の底に何やら不敵な猛々《たけだけ》しい光が閃《ひらめ》いた。しかしそれを相手に気取られることはなかった。 「おことは早いところ次郎を殺せ。次郎が死ねば姫も諦めるわ。」 「姫はいつ渡してくれるのだ。」 「慌てるでない。姫は大事にしてある。何よりもつまらぬ男に情など掛けぬことだ。その男の死んだ証拠がない限り、姫はおことのままにはならぬわ。おことが力ずくでなどと思っても、その時は姫も死ぬ覚悟でおろう。わしが間でなだめて、おことのために気持の折れるのを待っているところだ。おこともわしに礼の一つも言ったらよかろう。」  伊勢殿は嗄《しわが》れた声で笑い、大頭はやむなく少しばかり頭を下げた。  塗籠の隠し戸が開いて、再び布で顔を包んだ大頭が外に現れた時に、その表情には感謝の色は微塵《みじん》もなく、寧《むし》ろ憤怒《ふんぬ》の形相を隠していた。立ち止って耳を澄ませたが、伊勢殿の広い屋敷うちはひっそりと寝しずまっていて、何の物音も聞えて来なかった。大頭は木立の間を抜け、やがて細い石の段を下りると、そこに舫《もや》っている艀《はしけ》の一艘に飛び乗り、東洞院川をどこともなく上って行った。     三  三条の中納言は大内裏への出仕も怠《おこた》って、日夜枕から頭が上らぬ有様だった。次郎信親が姫を連れて戻って来た時に、次郎はとにかくとして、何故に姫に対してまで酷《むご》い言葉を掛けたのであろう。次郎のあとを追って姫が走り去った時に、なぜすぐにも引き戻さなかったのであろう、——そう思うと後悔の牙《きば》が鋭く心を噛《か》んで、不しあわせな娘に対して一層の哀れさを覚えた。裏門の警護をしていた侍の報告によれば、あっというまに不動丸が襲って来て姫を攫って行ったとのことである。物の役に立たなかった侍を責めるよりも、せっかく次郎が死を賭《と》してまで返しに来た娘を、むざむざ賊の手に渡してしまった不甲斐《ふがい》なさ。中納言は臍《ほぞ》を噛んで口惜しがったが、姫の行方はそれなり杳として知れない。北の方や若い姫がさまざまに慰めても、中納言の心はいっこうに和まなかった。  深夜、高倉の判官宗康が姫君のことでお目にかかりたいと申し入れた時も、中納言は重たい頭をかかえて臥《ふせ》っていたが、すぐに判官を南面《みなみおもて》に通すように命じて、身仕度を始めた。判官がわざわざ目通りを願っている以上、姫の消息が知れたのかもしれぬ。中納言は顫《ふる》える足を踏みしめて、客人を待たせてある南面へ出向いた。判官は恭しく平伏した。 「よく来てくれた。姫の行方が知れたかな。」  検非違使《けびいし》の尉《じよう》はいかめしい顔を一層重々しく緊張させると、「お人払いを願います、」と申し入れた。 「ふむ。それほどの大事か。」 「如何《いか》にも。」  家司《けいし》を残して、警護の侍や童《わらわ》などが引き下った。家司のみは当然のことのように中納言の側近くに侍っていた。 「して、姫の行方は。無事なのか——。」  高倉の判官は初めて顔色を和《やわ》らげ、自信ありげに答えた。 「お行方をどうやら突きとめました。御無事の模様でございます。」 「それはよかった。生きていてくれたか。」  中納言は今にも失神するのではないかと思われる程手足を戦《おのの》かせた。家司は心配そうに主人の様子を見守っていた。 「で、何処にいる。やはり不動丸の仕業であったか。」 「その場所は目下探索中の大事でございますから、軽々しくは申し上げられませぬ。ただ近日中に不動丸の本拠を襲い、賊の一味をことごとく打ち取った上で姫君をお救いいたす所存でございます。」 「姫を間違いなく救い出せるか。危い目に合せることはないか。」 「それは何とも申せませぬ。何分にも相手が相手でございますから。」  中納言は不安そうに相手の前で手を打振った。 「判官、検非違使庁の名にかけても、必ずや姫を救い出してもらいたい。その方の恩賞は望みにまかせるぞ。」  高倉の判官は平伏し、念を押した。 「まことでござりましょうか。」 「まことじゃ。」 「無礼であろうぞ、殿に二言はないわ、」と家司が苛立《いらだ》たしげに口を挟《はさ》んだ。  判官は顔を起し、じろりと家司を見、それから落ちついた声であとを続けた。 「不動丸は天下の大賊、これの本拠を突きとめるためには、宗康もこれまで並々ならぬ苦労をいたしました。その本拠を襲って姫君を救い出すとなればこれは命懸けの大役、慮外ながら恩賞にいささか望みがございます。」 「何なりと申してみよ。」 「一つには、成功の暁にはわたくしを検非違使の佐《すけ》に御推挙願いとう存じます。」 「その方を五位にのぼすくらいのことは何とでもなろう。それでよいか。」 「いま一つ。姫君をこのわたくしの妻に貰い受けとう存じます。」 「何を申すか。」  中納言は呆気《あつけ》にとられたように、臆面もなく赭《あか》ら顔を曝《さら》している検非違使の尉を見詰めた。家司が我を忘れたように怒鳴りつけた。 「気でも狂ったのか。姫君は大奥へ入内されようという高貴な御身分、その方の如き——。」 「いや、お待ち下さい。姫君の御入内というのは昔の話、よもやいまだに御入内の見込があるなどとお思いではないでしょうな。」  家司が黙ると、判官はしたり顔で言葉を続けた。 「今となっては、姫君は殿の御出世の妨げでもございましょう。早々とお片づけになった方が宜しいのではありませぬか。」 「しかしその方のような——。」  中納言の声は如何にも弱々しかった。 「今は姫君を救えるも否も、わたくしの所存一つございます。わたくしが手を拱《こまぬ》いていれば、姫君は不動丸のもとで日夜責めさいなまれておいでです。」  そのあとの沈黙は耐えがたかった。中納言も家司も真蒼《まつさお》になって、茫然自失の体《てい》でいた。高倉の判官が決心を促すように言葉を掛けた。 「五位の佐《すけ》ともなれば、さして賤《いや》しい身分ではありませぬ。それに不動丸を打ち取って姫君を救い出したとあれば、誰が見ても似合いの夫婦《めおと》、殿さえ御承知ならばどこにも否やのあろう筈はなし、目出たいことでございましょう。」  中納言は死んだように首をうなだれていたが、遂に承知した。家司が何か言いそうになるのを、片手を上げて制した。 「それでもよい。たとえそれでも、賊の手に捉えられているよりはよい。」  はかなげに呟くのを、判官は得たりとばかり追討を掛けた。 「では後日のため、誓紙《せいし》を頂きたいものでございますな。この宗康も殿の誓紙を頂戴《ちようだい》できれば、勇気百倍して賊どもを蹴散《けち》らせるというものです。」  胸を張り、今や憎々しげなまでに頭を起して、高倉の判官宗康は二人の老人を見据えていた。     四  しんと静まり返った東の獄の奥深い房の中に、大伴の次郎信親は壁に凭《もた》れて足を組んだまま、寝もやらずじっと考え込んでいた。想いが立ち帰るのはいつも故郷の懐しい山や森のたたずまいだったが、それさえも夢かうつつか分らぬ程に身心ともに疲れ果てていた。今日は殺されるか、明日は殺されるかと、初めのうちはそれでも気に掛けていたが、検非違使庁に自首して出てこの獄に投げ込まれてから、取調べ一つあるわけではなく、忘れられたように打ち捨てられたまま日が過ぎて行った。いつ死んでもよいと思えば、何の煩うこともない。いっそ早く死にたいような気持にさえなっている。  細殿《ほそどの》の端に背の高い燈台が一つ置いてあり、乏しい光をゆらゆらと投げ掛けていたが、格子を越してこの房の中へまで射し込むことはなかった。ただ梁《うつばり》の間から月の光が、細い縞になって房の闇の中に射していた。警備の看守が二人、松明《たいまつ》を持って細殿をゆっくりと歩いていて、その跫音《あしおと》が時を措いて近づいてはまた遠ざかった。外の闇の中で、盛りを過ぎた虫の声が心細げにすだいていた。  次郎はふと奇妙な気配を感じて、格子の外を透すようにして見た。何やら朧げな影をそこに認めて、壁に倚《よ》りかかっていた身を起し、その方に近づいた。 「次郎さま、お久しぶりでございますな。」 「これは智円殿、如何《いかが》してこのようなところへ忍んで参られた。」  次郎は驚きの声を噛み殺して、格子の外に蹲《うずくま》っている法師を見た。法師は懐しげな微笑を見せ、少しも動じる色がない。 「わたくしには、これしきの術はた易きこと。それよりもあなたさまこそ如何なされましたな。姫君とお逃げになったとばかり思っておりましたが、かかるところでお見受けするとは。」  次郎は深い嘆息を洩らした。 「たしかに姫とは逃げた。しかし人の心は思うようにはならぬものだ。私には漸くそれが分った。それ故、姫を中納言殿へお返しして、自分は検非違使庁へ名乗って出た。今はもう何の望みもない。」 「それはお気の弱いなされようでした。あなたさまは御身《おんみ》一つを大事になされて、思う通りに事をお運びになればよかった。姫君の仰せられることを、いちいちお聞きになる必要はなかった。それが名を捨て身分を捨てたあなたさまの、意気地《いきじ》というものではありませなんだか。」 「御坊はそう言われるが、姫の心を得ることがかなわぬと知れた以上は、己に何が出来る。姫の心は己にはなかった。生きた骸《むくろ》としてなら抱かれてもよいと仰せられた。己はそのようなことは真平だ。己が欲しかったものは姫の心なのだ。」 「心とて変るものとはお思いになりませんでしたか。」  次郎は答えなかった。二人の看守が細殿を近づいて来る跫音が次第に高くなった。次郎はそれに気づき、気懸りなふうに法師を見た。看守の手にした松明が、法師の姿を明かに照し出し、その黒い影が格子の上に一面に映った。しかし看守はいっこうに気づいた様子もなく、跫音と共にその前を通り過ぎた。まるで眠りながら歩いているようである。 「何としたことだ。」  次郎は驚きの声を発した。法師はにやりと気味の悪い笑いを洩らした。 「あの者どもの眼には、わたくしの姿は映りませぬ。せいぜい守宮《やもり》でもひっついているものと思ったことでしょうて。」  法師は遠ざかって行く看守の後ろ姿を見送っていたが、やがて厳しい顔つきで次郎の方に向き直った。 「と言って長話は無用。次郎さま、実はあなたさまを、近日中にこの獄よりお救いいたす相談に参りました。そのおつもりでいて頂きたい。」 「馬鹿なことを申されるな。東の獄は警戒厳重、とても逃げられるものではない。また逃げようとも思わぬ。」 「いやその方便はわたくしにお任せ下さい。わたくしの法術の限りを尽して、検非違使めらの眼をくらませて見せましょう。それにこれはわたくし一人の所存ではございませぬ。」  次郎は不審そうに眼を起した。 「誰が御坊に——。」 「楓と申す娘に頼まれました。命を賭《と》しても、あなたさまをお助けしたいと申しております。」 「楓か。哀れな娘だ。私の心も知らずに余計なことをする。」  次郎はそう呟いたが、そこに嘲るような響はなかった。 「人の心というものは不思議なものでござりますな、」と法師は感に堪えぬように言った。「姫君の心はあなたさまに分らぬ、あなたさまの心は楓さんには分らぬ。恐らくわたくしの心もあなたさまには分りますまい。」 「おおそれよ。御坊はいつも謎《なぞ》のようなお方だ。一体何の故に私を助けようとなされる。何でまた酔興に、天下の法にさからってまで、そのような頼みを引き受けたのです。」  次郎が納得のいかぬ表情で見詰めるのを、法師は無遠慮に声をあげて笑った。燈台のかすかな火が、その横顔を夢の中の幽鬼のように照し出した。 「何の故にと言うことはない。酔興だと言えば酔興で宜しい。わたくしは久しく陰陽道の修行をして参りました。道を窮《きわ》めたとは申さぬが、おおよその術は使えます。しかし東の獄から囚人を逃すというのは、これは嘗て試みたことのない大事、並々の法術で出来ることではありませぬて。陰陽師としてはやり甲斐のある仕事であろうと考えて、引き受けました。」  次郎は呆《あき》れたように叫んだ。 「ただそれだけのために、国の掟《おきて》を曲げられるのか。」 「曲げるという程のことはございますまい。役人は不正を働き、賊は巷《ちまた》に溢《あふ》れ、無辜《むこ》の者が塗炭の苦しみを嘗《な》めている昨今、獄の内に罪ある者が入れられ、獄の外に罪なき者がいると、限ったことでもありますまい。まあそのようなことは別としても、わたくしには国の掟などどうでもよいのです。」 「御坊はそうでも、私はそうはいかぬ。私は罪を犯した。獄に入れられて首を撥ねられても、当然の酬いというものです。」  次郎は沈痛な声でそう呟いた。 「あなたさまが何の罪を犯された、」と法師が訊いた。 「異なことを。私は姫を偸《ぬす》み出した。大恩ある中納言殿を裏切った。しかもそのために、私の忠義な下部《しもべ》を二人、姫の女房を一人、むざむざと殺してしまった。これが罪でなくて何です。」 「さようかな、」と法師は落ちついた様子で言い返した。「姫君を偸んだと言われたが、ためにするところがあって盗まれたわけではない。ただ姫君の心を得んがためになされたこと、盗賊の類《たぐ》いの仕業とは異ります。しかもあなたさまは、諦めて姫君をお返しになった。これで罪は帳消しになったも同然、あなたさまが死罪になるほどのことはございますまい。」 「しかし三人の者が死んでおる。」 「生者必滅《しようじやひつめつ》の世の中、何もあなたさまが自らお手に掛けられたわけではない。そのようなことにくよくよされて、あたらお若い身を獄舎で朽ちさせるには当らぬこと。獄を出て身を隠し、すこやかにお暮し下さい。楓というのは気立のよい、やさしい娘ゆえ、また愉しいこともありましょうぞ。」  法師は熱心に説いていたが、次郎の暗い瞳に浮ぶ地獄のような焔《ほのお》を吹き消すまでには至らなかった。次郎は悲しげに叫んだ。 「私は獄を出たとて、最早《もはや》何の望みもないのだ。」  法師はそれまで蹲っていたのが、すっくと立ち上った。 「それは首尾よく獄を出ての上で、よくまたお考えになることですな。準備の整い次第、恐らく月の満ちる日の夜半に、お迎えにあがりますぞ。そのお覚悟でいて下され。」  言い終ると共に格子に貼《は》りついていた黒い影は、滑るように細殿を遠ざかった。 「しかし私には逃げる気はないのだ、」とその後ろ姿に向って、次郎信親は尚も低い声で叫んでいた。   火焔《かえん》の中     一  京の町並の上に夜の幕《とばり》が次第に下りて、やがて東山の頂に一点の曇もない満月が顔を覗《のぞ》かせると下界を照し始めた。初めのうちは何かしら不吉な前兆を示すかのように赤く濁って輝いていたが、時が経つにつれてその表は洗ったように白くなり、やがては蒼《あお》みさえ加わって中空に浮び上った。  その時刻まで待ち受けて、楓は寝しずまった家の中をこっそりと抜け出した。二度とこの家に戻ることはないかもしれない、——楓はそっと父の寝ている方に両手を合せ、住み馴れた我が家をあとにした。父に気づかれれば若い娘がこの時刻に一人歩きするわけを問いただされるにきまっている、そして事実を打明けた時に父が果して何と言うか。東の獄の罪人と一緒に逃げようとしている自分を、ゆるしてくれるだろうか。たとえその罪人が大伴の次郎信親であっても、たとえ父の喜仁がその人に好感を抱いているとしても、娘が危険の中に飛び込もうとするのを黙って見逃すとは思われない。——それが楓の判断だった。「お父さま、わたしは自分の定めた掟《おきて》に従います。どうかわたしの不孝をおゆるし下さい、」と楓は心の中で涙を零《こぼ》しながら、夜の道を三条大橋のたもとにある荒れ寺へと急いだ。人通りのない道を月の光を頼りに歩いていても、今はもう少しも怖いことはなかった。今日は次郎さまにお会い出来る、次郎さまをお救いして何処《いずこ》へなりと逃れることが出来る、——そうかたく信じていた。  寺の本陣の乏しい燭《しよく》の火を前にして、智円法師は塑像のように端坐していたが、楓の訪《おとな》う声にやおらこちらを振り向き、自分の前に招じ入れた。 「お坊さま、遅くなりました。」 「うむ、参られたか。時刻はまだ早い。それでそなたは今となっても悔《くい》はないのだな。」 「はい。何の悔いることがございましょう。わたくしは父も捨てました、家も捨てました。次郎さまのおためなら、この命を捨てても悔はございませぬ。」  楓の眼は灯《ともしび》を受けてきらきらと輝いた。法師はゆっくりと首を振って頷《うなず》いた。 「宜しい。では夜半に事を起すことにいたそう。次郎殿を首尾よく東の獄から救い出した上は、この寺までお連れせよ。獄から此所《ここ》までの間は徒歩《かちある》きの方が人目にも立たず、さして障害があろうとは思われぬ。寺の庭に馬を二頭用意してあるから、そなたらはすぐにも粟田口《あわたぐち》へと抜けるがよい。そうすれば夜の明けるまでには、追手《おつて》を遠く引き離していよう。」 「何から何までありがとうございます。」 「むずかしいのはその前のことだ。」 「獄を破る手立でございますか。」  楓は不安そうに法師を見た。相手の顔は影になっていて、どのような表情を浮べているものやら見分けもつかない。 「手立はついておる。それがつかなくては、馬の用意をしたとて何になろう。」  法師は少しばかり笑ったが、その声は本堂の中に無気味に反響した。 「最もむずかしいのはな、次郎殿に獄から出よう、無駄には死ぬまいとの決心をつけさせることじゃ。次郎殿がその気にさえなれば、獄を破る手立はこの胸のうちにある。ただ——。」 「ただ次郎さまが、そのような決心をなされまいと仰せられますか。」 「さて、決心をするかせぬか、それはそなたの腕次第よ。」 「一体なぜでございましょう。なぜ獄から出ようとなされないのでございましょう。」  楓は訝《いぶか》しげに、一層の不安に脣《くちびる》をわななかせながら訊《き》いた。 「そのわけはな、あの男は死に急いでおるからじゃ。この世に何の望みもないと申しておった。己《おの》れに罪があるとも申しておった。」 「ではまだお姫さまのことが思い切れずに、」と楓は悲しげに叫んだ。 「そうかもしれぬ。それを説き伏せて、次郎殿にこの世への望みを抱かせ、獄の外に出て今一度己れに定められた運をやり直そうとの気持を起させるのは、そなたの役目だ。そなたにそれが出来るかな。」 「はい、必ずやりとげます。」 「それならば宜しい。では手立のことだが。」  法師はそこで言葉を切り、「もそっと近くへ寄りなさい、」と命じた。楓はためらわず膝《ひざ》を突き合せるまで近づいた。今や法師の眼は、暗い影の中で燐《りん》のような光を放った。それは呪縛《じゆばく》するように楓を睨《にら》んでいた。 「獄の入口近くまでは、それがしが共に行って進ぜる。そこでそなたに術を掛ける。術を掛けられれば全身が痺《しび》れたようになろう。己《おの》が身が最早己が身でなくなる。脂汗を流すほどの苦しみに耐えねばならぬ。そなた、我慢できるな。」 「もとよりでございます。」 「そなたの身体は次第に縮んで行く、小さくなる、やがては鼠となってしまう。」 「鼠でございますか、」と楓はびっくりして叫んだ。 「そうよ、小鼠となる。それから口を利いてはならぬ。口を利いた時は術の破れる時じゃ。万一の用心に短刀を一振《ひとふり》そなたの口にくわえさせておこう。そなたは獄の中に入り、細殿を通って次郎殿の入れられた房へ行けばよい。看守に見つけられても何ほどのことはない。しかしなるべくならば見つからぬように素早く動くことだ。ただあの獄の中には、本物の鼠どもが大勢巣くっておるからな、そやつらと出くわしてもくれぐれも声を立てるでないぞ。そこで次郎殿の房はこの位置にある。」  法師は床の上に指で線を引いて、獄舎の中の模様を詳しく示した。楓は覗き込んでいちいち頷いた。 「房の中に入るのはわけもない。そなたは小鼠の大きさゆえ格子の間に楽にはいれる。さて、そこで次郎殿に声を掛けよ。さすれば、そなたはもとの姿に立ちかえっていようから、初め次郎殿もさぞ驚くことであろう。しかしゆっくりしている暇はないぞ。次郎殿に獄を抜け出すよう、手早く掻《か》き口説くことじゃ。よいかな、一刻を争うぞ。」 「はい。」 「その時、それがしが術を起す。東の獄はたちまち火焔《かえん》の中に包まれる筈じゃ。怖れてはならぬ、火と見ゆるものは火ではない。用意の短刀にて錠を捩《ね》じ切り、すぐさま二人して逃げ出すがよい。看守めらは火を消すのに魂を奪われていようから、さして手向う者もおるまい。よいな、この手立。」 「はい、よく分りました。」  楓は恐ろしげに身をわななかせたが、首を振って気丈な返事をした。法師は相変らず射竦《いすく》めるような目つきで、娘をじっと見詰めていた。     二  それよりも早く、東山に月がのぼり始めた頃おいから、四条の伊勢殿の屋敷をめざして、ひそかに近づいて来る手勢があった。この屋敷は固く門を鎖し、周囲には高い築地《ついじ》をめぐらしていて、中に忍び込むことなど思いもよらなかったが、ただ裏手は東洞院川に面していて、その方は警備が比較的おろそかにされていた。石垣に取りつきさえすれば、そこをよじのぼって裏庭に忍び込むことが出来た。手勢は小舟二|艘《そう》に分れ、いずれも黒い水干《すいかん》を着て太刀を帯びていた。人数は併《あわ》せてほぼ十人ほどである。艀《はしけ》の舫《もや》っている舟着場には当然見張りの者がいることとて、上手に桿《さお》を操ってそこをやり過し、遠く離れたところでぴったりと石垣に沿って小舟をつなぎとめた。山の端を離れた満月の光は川向うを仄《ほの》かに明るませているが、こちら側は蔭になっていて、一面の闇である。黒装束の男どもは一人ずつ石垣に取りつくと、猿《ましら》のようにするすると石垣を登り、やがて裏庭の鬱蒼《うつそう》と茂った木立の間に上手に身をひそませてしまった。それだけの人数がどこに隠れたものやら、伊勢殿の広い屋敷のうちに物音一つしない。  その暫《しばら》く後に、また一艘の小舟が黒い頭巾で顔を覆《おお》った男を載せて舟着場に着いた。名を名乗ると細い石の段を登り、そこで警備の男と押問答を交していたが、振り切るようにして屋敷とは違った方角に歩き出した。伊勢殿の配下が押しとめようとする。それに軽く当身《あてみ》を喰わせて黙らせてしまった。地面に倒れた相手に振り向きもせず、月光の洩れている木立の間を抜けて奥まった壺屋を目指して進んで行った。案内は既によく知っているようである。  閉め切った壺屋の中には、燈台の火に照されて中納言殿の姫君と伊勢殿とがいた。夕餉《ゆうげ》を自ら運んで来て、今しも伊勢殿が姫にすすめているところである。長い間の幽閉に姫の顔はやつれはてていたが、その容色は少しも衰えていない。 「姫君、御決心はつきましたかな。」  上目遣いに伊勢殿が姫を見ながら、おもねるような口を利いた。 「次郎を助けてくれるならば。もう一度次郎に会わせてくれるならば。」  姫は僅かにそれだけ答えた。懸盤《かけばん》の上に載せた物には手を触れようともしない。 「それはちと難題でござるな。今ひとつのお望みの方は、御決心次第でやつがれも必ず取り計うつもりでおりますが、次郎のことは諦《あきら》めて頂かねば。」 「次郎はまだ生きているのでしょうか。」  姫は恐ろしそうに身を顫《ふる》わせて訊いた。 「格別処刑されたとは聞いておりませんな。しかし次郎のことはお諦めになった方が宜しい。やつがれがこうして姫君をお守りしていればこそ、不動丸も手を出せないでいるものの、奴とていつまでも便々と待ってはおりますまい。いずれやつがれに詰め寄って来るは必定。お早く決心なされて、鈴鹿山へ移られた方が身のおため。万一にも不動丸の手に渡れば、姫君とてどのような痛い目にあわされるか、お分りでございましょう。」  伊勢殿は眼に老獪《ろうかい》な光を湛《たた》えて、嘆き悲しんでいる姫を好もしそうに見た。 「都にいれば、次郎にまた会えるかもしれぬゆえ。」  姫は自分に言い聞かせるようにかすかにそう呟《つぶや》いた。 「やつがれとて、そうそう待つわけにはいきませんぞ。姫君のお美しいのに免じて、気長に気長にと己れに言い聞かせてはいるものの、恋に眼が眩《くら》んだのはやつがれとて不動丸と同じこと。この上待てと仰せられても。」  にじり寄って来る老人を、姫は大きく眼を見開いて見詰め、わななく声で叫んだ。 「無礼な。」  その時、壺屋の戸がはたりと明いた。明るい月光を背に浴びて、その男はつかつかと部屋の中に押し入り、身を竦ませている二人を仁王立ちになって見下した。 「姫君、お久しぶりでござる。伊勢殿もとんだ邪魔者がはいって気の毒したな。」  伊勢殿は身構えたまま鋭く叫んだ。 「大頭《おおがしら》、何しに参った。此所はおことの来るところではない。」 「何を申すか。姫はもともと己のものだ。それを今聞いていれば、お主にたばかられてむざむざ横取りされるところであったわ。今日こそ姫君を頂いて行かずば。」 「それはならぬ。お主が約束通りに事を運べば姫は渡すと申したではないか。その約束は果したのか。」 「それよりは、もそっとよいものを持っておるわ。これを見よ。」  大頭は懐から丁寧に畳んだ書状を取り出して、伊勢殿の手に渡した。伊勢殿がそれを開いて眼を通している間に姫に呼び掛けた。 「姫君、この者にたぶらかされてはなりませぬぞ。この爺《じじい》の申した約束というのは、次郎を亡き者にしろということよ、御存じかな。しかしこの不動丸は、姫君のお気持をよく知るゆえ、何としてでも次郎の命だけは助けてやりたいと、いろいろ心を砕いておった。それが姫君に分らぬとは口惜《くちお》しい。次郎の命を助けるも殺すも、それがしの気持一つ、広い都の中で、次郎の身をどうとも出来る者は、この己の他にはないわ、のう伊勢殿。」 「この誓紙は、これはまことか。」  伊勢殿は手にした書状を打振るようにして、不動丸に詰め寄った。不動丸はさっと手を延すと、その書状を掻《か》っ攫《さら》った。 「まこともまこと、中納言殿の御親筆だわ。伊勢殿、いやさ不動丸よ、汝の命運《めいうん》もこれで尽きたと思え。」  伊勢殿は老人にも似合わぬ素早い身のこなしで壁のところまで退くと、そこに垂れていた紐《ひも》を強く引いた。静かな夜空に鈴の音が遠く近く響き合うのが聞えて来た。 「うぬ、くたばれ。」  眼にも止らぬ勢いで太刀を引き抜き斬りつけたが、それよりも一瞬早く壁がぐるりと廻転すると、伊勢殿の姿は壁に呑まれて壺屋の外に消えてしまった。しかし不動丸はすぐさまあとを追おうとはせず、太刀を握り締めたまま、身を伏せている姫君を抱き起した。 「姫君、驚かれたかな。あの伊勢殿と申す者こそ、まことの不動丸、世に名高い盗賊の主魁《しゆかい》でござる。それがしは賊ではござらぬ、それがしは検非違使庁の尉《じよう》、高倉の判官宗康と申す者、御心配には及びませぬ。」 「検非違使、——」と姫はうつけたように呟いた。 「如何《いか》にも。それがしの手の者が、手分けをして屋敷内にひそんでおる故、如何に不動丸が逃れようとしても必ず打ち取る筈。それに表門を破って、他の手勢も攻め込んで参ろう。さあ姫君、それがしと共に参られよ。」  高倉の判官と名乗った頭巾の男は、姫を助けて壺屋を出ようとしたが、そこで忽《たちま》ち数名の男に斬りつけられた。  屋敷の裏庭では、木末を洩れる月影に剣《つるぎ》の刃を閃《ひらめ》かせて、至るところで乱戦が始まっていた。伊勢殿にしても、大頭が遂には自分に反旗を翻すであろうことを、とうに見抜いていた。そのための用意はおさおさ怠ることではなかった。屈強の山賊どもが、鈴鹿山の山塞《さんさい》から都に呼び寄せられて、この屋敷の中に待機していたが、かねての合図通り、鈴が鳴るやさっそく飛び出して来て伊勢殿を守り、大頭の手勢の者どもと渡り合った。 「大頭——。」  大声に叫びながら助勢に駆けつけて来たのは、先鋒として忍び込んでいた海念坊である。 「おう、ここだ。」  太刀を振り廻して敵の一人を薙《な》ぎ倒すと、姫をうしろに庇《かば》うようにしながら鋭く眼を光らせた。 「海念坊、味方はどうしておる。伊勢殿は打ちとめたか。」 「それがよく分りませぬ。何分にも敵の備えがこれほど厚かろうとは、思いもよらず、小頭の組も苦戦の模様でござる。」 「何のこれしきのこと。」  大頭は血刀を振《ふる》って、近づいた敵をまた一人斬り倒した。広い敷地の中に、時々剣の刃の触れ合う音、つんざくような叫び、かすかな苦悶《くもん》の声が聞えるが、おしなべて争闘が行われているとは思われぬほどの静けさである。月は次第に空にのぼったが、木立が空を覆っているために人影は定かには見えない。しかしあちらこちらに幾つもの渦をなして、つむじ風のように駆け抜けて行く者たちが、僅かばかり洩れて来る月光の中をちらちらした。 「表門を開けば、検非違使どもが助けに来る筈。その方はどうした。」  呼び掛けられた海念坊は、今はやや離れたところから、取り囲んだ敵を必死に防ぎながら答えた。 「表門へは近づけませぬ。小頭の組は途中で遮《さえぎ》られた様子。助勢が屋敷内に侵入できる見込は、まずございませぬ。何分にも敵がたの人数が多くて。」 「そうか。よし、では小頭に合図をして、ひとまず引き上げるとせよ。」  それだけを言う間にも、暗闇の中で大頭の剣が閃くと、周囲の輪がところどころ欠けた。海念坊は既に声の届かぬところまで離れ、血なまぐさい殺気がひしひしと大頭を取り囲んでいる。 「引き上げろ。引き上げろ。」  大声にそう叫ぶと、飛礫《つぶて》のように手近の敵にぶつかった。次の瞬間には眼にもとまらぬ勢いで木立の間を走り、走りながら数名の敵を薙ぎ倒した。そこで素早く地面に伏し、息をひそませ、上手に追手をやり過してから、また壺屋のところに戻った。 「姫——。」  低く押し殺した声で呼んでみたが、答はない。夜目に馴れて大きく開かれた瞳にも、姫の姿を見分けることは出来なかった。さては伊勢殿の手の者に姫を奪い返されたか、と地団太《じだんだ》を踏む思いで、そのあたりを隈《くま》なく探してみたが、如何にしても姫の姿はない。敵の眼をくらませながら少しずつ退いて、やがて二艘の小舟をつないである石垣の上のところまで来た。 「大頭——、」と呼ぶ声がした。 「うむ、小頭か。余《よ》の者はどうした。」 「お頭の引き上げろという声は皆々聞いた筈。どうも伊勢殿の手くばり、我等の来るのを待ち受けていた様子でござるな。」 「あのくそ爺《じじい》め。あいつさえ打留めれば、他の奴等はすぐにも味方につくと思っていたが。この上は出直すほかはあるまいな。」  大頭は無念そうに暗闇の中に身をひそませて、屋敷の方を透すようにして眺めていた。味方が二人ほど逃げて来た。 「舟着場の方は、敵が厳しく固めている様子。あまり猶予はなりませぬぞ。」  小頭がそう注意すると、大頭は重々しく頷いた。 「その方は此所にいるだけの者を率いて艀《はしけ》で引き上げろ。」 「大頭はどうなされます。」 「今一度見まわって、あとの艀で行く。海念坊もまだ戻っては来ぬし、余《よ》の者もむざむざと見捨てては行かれぬ。」 「しかし大頭。」 「何の、己のことは心配は要らぬ。このまま逃げ出しては不動丸の名がすたるわ。」  大頭はすっくと立ち上ると、頭巾の下から平常と変らぬ磊落《らいらく》な声で少しばかり笑ってみせた。月の光がその姿を蒼白く照し出した。  味方の者が音もなく立ち去り、一人だけ敵陣に残されると、大頭は不敵な眉を釣り上げてまたそろそろと壺屋の方へ戻って行った。影から影へと拾って歩きながら、その眼は暗闇の中にあるものを何一つ見落さず、地に倒れている屍《しかばね》は一つずつあらためた。姫の姿はやはりどこにも見えなかった。やがて屋敷内から、一度引き上げたらしい敵の手勢が、二十人あまり、手に手に松明《たいまつ》を持って庭の中を調べ始めた。最早これまでと諦めると、大頭はまた暗闇づたいに猫のように跫音《あしおと》も立てず遠ざかって行った。  それより先、壺屋を出て、検非違使だと自称した不動丸が敵と太刀をまじえている間に、姫はいち早く暗闇の中に身を隠した。恐ろしいことが続くので今では何が起ってもそれ程驚きはしなかったし、これが逃げられるかもしれない最後の機会だと思えば、眼の前の白刃を見ても怯《おび》えた気持にはならなかった。親切そうな口を利いた伊勢殿にしても、自らを検非違使の尉だなどと言った不動丸にしても、姫は些《いささ》かも信じていなかった。今となっては一目だけでも次郎に会って本心を打明けなければ、死んでも死にきれぬという思いが、姫の心を嘗《かつ》てなかったほど強くした。姫は身を翻して逃れたが、必死の闘いを続けていた男たちは、誰もそれに気がつかなかった。  しかし何処へ逃れたらよいのか。この伊勢殿の屋敷が厳重に固められていて、門には見張がついていることは姫も聞き知っている。ただ水音の聞える庭の裏手に、舟着場があると小耳に挟《はさ》んだことがあった。姫はそちらの方へ走って行った。石の段が見つかり、そこに一人の男が倒れているのが見えた。姫は躊躇《ちゆうちよ》せずにその傍《かたわ》らを駆け抜け、石の段を下りた。艀が幾艘も舫ってあるが、月の光が川の面できらきらと光っているばかり、人影は見えないようである。  姫は一番小さな艀にこわごわ乗り、艫綱《ともづな》を解いた。どのようにして舟を操るものか、それさえも知らない。試みに竿を取って石垣を突いてみた。艀はゆらゆらと揺れると、水の流れに従って、月光の溢《あふ》れるような東洞院川の川面《かわも》を、姫を乗せたままひとりでに滑り出した。     三  梁《うつばり》の間から幾筋か洩れる月の光が、時刻が次第に夜半に近づいたことを示していた。それにいつもよりも一段と明るいところを見れば、恐らくは満月であろう。大伴の次郎は壁に凭《もた》れて、先日の智円法師のことを思い出していた。法師は自分を獄から救い出すと言ったが、そのような至難の業がどうして出来る筈があろう。運命に逆らったところでどうなるものでもないのに、と次郎はひとり呟いた。  格子の間から小さな鼠がちょろちょろと走り込んで来たのは、次郎が漸《ようや》く考えるのにも飽きて眠ろうと思った時である。怪異はあっというまに起った。 「次郎さま。」  どこからともなく呼び掛ける声に、次郎が身を構えた刹那《せつな》に、小鼠の姿は見えなくなり、そこに楓が坐っていた。はたりという音がしたのは、楓が口にくわえていた短刀が床の上に落ちた響である。 「楓さんか。」  さすが物に動じない次郎も、この鎖《とざ》された房の中に不意に楓が現れたのには、言葉を失っていた。楓は男のように水干《すいかん》を着込み、脛巾《はばき》をつけ、髪はしっかりと束ねている。その瞳《ひとみ》は容易ならぬ光を発していた。 「次郎さま、ゆっくりお話をしている暇はありません。これはみな智円法師さまのお指図に従ってのこと。さあわたくしと一緒に逃げましょう。」  落ちている短刀を取って次郎の手に渡した。次郎は殆ど茫然として凜々《りり》しい形《なり》をした楓を見詰めていた。 「此所から逃げるというのか。」 「もとよりでございます。法師さまもそのように言い残して行かれた筈。さあ次郎さま、もうすぐ術が始まります。」 「術とは。」 「火術と申されておりました。東の獄が一面の焔《ほのお》に包まれるそうでございます。その隙に逃げなければなりません。」  次郎は憐《あわれ》むように楓を見た。 「あなたはそれほどまでして、この私を逃がそうというのか。私は逃げる気はない。逃げたところでどうなるものでもない。」 「此所で殺されても宜しいのですか。」 「やむを得ぬ。」  楓はきらきら輝く眼で次郎を見た。 「ではわたくしも此所で死にます。」  遠くの方を警備の看守が二人して歩いて来る跫音が、忍びやかに聞えて来た。 「それはならぬ。あなたは死んではならぬ。」  次郎は急いで声を掛けた。 「わたくしにはわたくしの掟がございます。次郎さまがお逃げにならないのなら、楓も逃げません。御一緒に死にます。」 「馬鹿なことを。あなたには父上もある、家もある、この後いくらでも為合《しあわ》せになれる筈だ。」 「いいえ、次郎さまと御一緒でなければ、為合せなどはありません。どうかお分りになって下さいませ。」  楓は次郎の手に縋《すが》って掻き口説いた。その手にある短刀が、か細い一筋の月光を受けて蒼白く光った。 「次郎さま、それにわたくしはもう一人では逃げることが出来ません。法師さまがわたくしに掛けた術は既に終りました。もう一度鼠の姿に戻るわけにはいきません。あなたさまが此所を出ようとなされないのなら、楓もいつまでも此所におります。お側にいて、御一緒に死にます。」  次郎は楓の手を握りしめていたが、やがて力強く、「よし、」と呟いた。 「では逃げて下さいますか。」 「逃げよう。」  その時、細殿をこちらに近づいて来ていた看守の跫音が、はたと止り、何やらどさっと物の倒れる音がそれに続いた。房の入口にいつのまにか黒々とした影が立ちはだかった。僅かに縞をなして月光の落ちている房の中の暗闇を、透すように眺めながら、その影が太い声で呼び掛けた。 「大伴の次郎信親は此所か。」     四 「如何にも、大伴の次郎信親は此所にいる。その方は何者だ。」  次郎の返事を待ちかねたように、獄房の前に立ちはだかっていた黒い影は、即座に入口の錠を捩《ね》じ切ったらしい、無気味な音を立てて房の戸が開いた。その軋《きし》みに不敵な笑い声が重なりあった。 「久しぶりだな、次郎。己は不動丸だ。」  次郎は床の上に足を組んだまま、それでも油断なく身構えて、開いた戸の向うに黒い頭巾をかぶった男を見ていた。細殿の端に燈台が一つあるばかりで、その乏しい光は男の顔を照し出すほど明るくはなかった。 「ふむ。その不動丸が何の用だ。」 「言うまでもない。お主《ぬし》を助けに来た。さあ早くこちらへ来い。」  次郎は楓から渡されていた短刀を握りしめると相手の出かたを窺《うかが》って眼を光らせた。その間に楓がそっと膝をにじらせて次郎の背に隠れた。 「不動丸が己を助け出そうなどと、そのような殊勝なことを考えるとは訝しいな。」 「つべこべと問答をしている暇はないぞ。早くしてくれ。見廻りの看守はあやめたが、すぐにも他の奴等が様子を見に来るかもしれぬ。お主は逃げられるのが嬉しくはないのか。」 「貴様の世話にならんでも、逃げようと思えば何とかなろう。全体これは何の真似だ。不動丸がわざわざ東の獄に忍び入って、己を逃そうとするそのわけを聞かせてくれ。」  不動丸は思惑が狂ったという様子で、思案顔に戸の前に突っ立っていたが、やがてからからと笑った。 「二つ返事でついて来ると思ったが、さてさて疑《うたぐ》り深い男だ。次郎、では聞かせてやろう。己はお主を此所から助け出した上で、一緒に組んで仕事をしてみたい。お主とても、何も東の獄でむざむざ命を捨てることはあるまい。と言って、中納言殿の許《もと》へ帰参できる筈もないな。どちらにしてもお主は死んだも同然の身、我等と仲間になって、一つこの世を面白おかしく暮してみようとは思わぬか。」 「ふむ、この己に盗賊の仲間になれと言うのか。」 「そんなところだ。お主とても、この己の親切を断るだけの理由はあるまい。」  次郎は答えなかった。その間に、楓は次郎の背にぴたりとついて身を隠していたが、時の移るのが気が気でなかった。智円法師の約束した火術が、いつ始まるとも知れない。しかも房の入口に不動丸が控えている限り、進退の自由は利かず、逃げ道をふさがれる恐れがある。とにかくこの房から細殿へ出ていなければと思い、次郎の背をそっと押すようにした。  その楓のかすかな動きを、不動丸の眼が素早く捉えた。 「誰か他にもいるな。」  次郎は自分の身体《からだ》で楓を隠すようにしたが、不動丸の闇をも見透す鋭い眼光は、折しも一筋の矢のように射し込んだ月の光が楓の顔の上に落ちたので、明かにその顔を看《み》て取った。 「何と、そこにいるのは楓と申す娘だな。さてさて東の獄は警備厳重と聞いておったが、町の娘が自在にはいれるとは呆《あき》れたものだ。それとも次郎、賄《まいない》を多分に使って、楓を引き入れたのか。」  次郎が苦笑のようなものを片頬に浮べるのを、楓はちらりと見てその耳許にささやいた。 「次郎さま、早く此所を出なければ。もうじき術が始まります。」  しかし次郎は尚も根が生えたように床の上に腰を据えて、入口に立ちはだかっている不動丸を睨《にら》んでいた。 「どうしたのだ、次郎。」  たまりかねたように不動丸が怒鳴った。そして相手が無言のままなので、苛立たしげに問い掛けた。 「お主、一体何を考えておる。」 「不動丸が何故にこの己を助けようとするのか、そのわけをとっくり考えているところだ。己がその戸を出るところを、ばっさり一太刀というのではないか。」 「そのような卑怯《ひきよう》な振舞をこの不動丸がするものか。まことお主を助け出したいだけだ。」 「不動丸ほどの豪の者が、何で己まで仲間に引き入れる必要がある。働きのある手の者は大勢いように。」 「問答は此所を逃れたあとでゆるゆるすればよい。とにかく出て参れ。楓も早く出ろ。」  不動丸は細殿の左右に素早く眼をくれると、房の中に顔を差し入れるようにして低い声で怒鳴った。それでも次郎が動き出そうとしないので、業《ごう》が煮えたように叫んだ。 「よし次郎、それでは己の本心を聞かせてやろう。実を申せば、己は仲間に裏切られた。東洞院川のほとりに広大な屋敷を構えておる伊勢殿というのは、まことは鈴鹿山の山賊で、久しい年ごろ己と手を組んで働いた仲間だ。そやつが己を裏切りおって、己を裸同然で追い出しおった。何としてでもそやつを打ち殺して、取られたものを取り返さねばこの不動丸の男が立たぬ。そのためにお主の力を借りて、奴を膾《なます》にしてやりたい、とこういうわけだ。」 「それだけでは、己が手伝わねばならぬ理由にはなりそうもないが。」  次郎は冷然と言ってのけた。不動丸は暫く房の中を睨んでいたが、これまた押し殺したような冷たい声で言い放った。 「姫君というものがある。」 「何——。」 「姫君のことを、お主よもや忘れはしまいな。」 「何、姫君というと。」 「そうよ、中納言家の姫君のことよ。その姫君は伊勢殿の屋敷に捉えられているわ。今夜のうちにも、鈴鹿山の山塞に連れて行かれるかもしれぬ。お主、まさかその楓という娘に情が移って、姫君のことを忘れたわけではあるまい。」  それを聞いて次郎がすっくと立ち上るのと同時に、楓が鋭く叫んだ。 「嘘です。この男は次郎さまを騙《だま》そうとしているのです。」  火が起ったのはその時だった。楓の我を忘れた叫び声が、まるで合図のように火を呼んだ。細殿に沿って、稲妻が走るように蒼白い焔が流れたと見るまに、格子という格子がその根本《ねもと》から燃え上った。きなくさい煙がむくむくと房の入口を包み、不動丸があっとたじろいだ隙に、左手に楓の手を掴《つか》み、右手に短刀を握り締めて、大伴の次郎は疾風のように開いた戸を潜ってもう細殿に出ていた。 「ええ、何奴《なにやつ》が火をつけたか。」  不動丸は呆れたように前後を見まわしていた。火の手は既に遠くまで燃えひろがって、立ち並んだ房の柱も格子も、また細殿の床も、すべて焔に包まれ、ぱちぱちと木の弾《はじ》ける音、囚人の助けを呼ぶ声、それに遠くから看守たちの慌てふためいた叫びが耳を聾《ろう》した。しかし不動丸はすぐに気を取り直して、細殿に身を現した次郎に呼び掛けた。 「これはもっけの幸いだ。さあ己について来い。」 「待て、」と次郎が沈着な声で遮った。「貴様の言うことは己には解《げ》せぬ。姫君は中納言殿のお屋敷にいられる筈だ。どうしてその伊勢殿とやらの手に落ちたのだ。」 「それは己が攫ったからよ。それを何と、むざむざと横取りされた。」 「嘘です、」と楓が背後から叫んだ。「そんな筈はありません。次郎さまを騙そうとして、この男が仕組んだ罠です。お姫さまが攫われたなどと、そのようなことは誰も聞いておりません。」 「次郎、その娘の言うことにたぶらかされるな。その娘はお主が姫君に心を寄せるのを恐れるあまり、嘘だと言い張るのだ。姫君が伊勢殿の手にあるのは確かな事実、この不動丸が姫君を攫って、迂闊《うかつ》にも奴に取られた。己の言うことに間違いはない。さあ己と一緒にこれから乗り込んで、姫君を奪い返そう。何と次郎、これはみなお主のためを思って、己が侠気《おとこぎ》を出して言っていることだぞ。」  焔は既に一面にあたりを包み、黒ずんだ煙の間から赤い舌がちょろちょろと顔を出した。燃え尽きた梁が、火柱となって落ちて来た。 「嘘です、」と楓は三たび叫んだ。「次郎さま、この男の言うのは嘘にきまっています。あなたさまを、隙を狙って殺そうというのです。それにこの男は検非違使です。鬼判官です。不動丸とやらではありません。」 「まことか、」と次郎は振り返った。 「次郎さまがいなくなってから、この男は検非違使と名乗ってわたしどもを取り調べに参りました。わたしはその時のこの男の声をよく覚えています。頭巾に顔を隠していても、この声はその時の検非違使と同じ声です。それにわたしを楓だと見抜きました。わたしはまだ一度も不動丸という賊に会ったことがありません。それなのにどうしてこの男は、わたしの名前を知っていたのでしょう。」  次郎が楓の言うのを振り返って聞いていたのは、瞬《まばた》きする程の間だった。しかしその一瞬の間の油断に、鋭い太刀風が宙を切って響いた。次郎が身を構えた時には、既に影のように不動丸が傍《かたわ》らを駆け抜けていた。それと共に楓の身体はよろめきざま床の上に崩れ落ちた。 「何をする。」  次郎は、仁王立ちに焔の中に突っ立っている不動丸を見上げながら、膝を突いて楓の身体を抱き起した。 「うろたえるな。お主に危害を加えるつもりはない。その娘はお主にとっての邪魔者だ。お主の恋い焦れている姫君を救うのが、お主の役目ではないか。その娘に未練なぞ持つな。」  不動丸は血刀を下げたまま、憐むように見下していた。次郎はそっと手を離すと、次の瞬間にはすっくと立ち上っていた。二人の間に熱気を孕《はら》んだ煙が渦をなして舞い上った。 「これが不動丸のやりかたか。高倉の判官宗康のやりかたか。」 「何を申す。」 「罪もない娘をあやめてまで、己れの秘密を守りたいのか。」  次郎の顔に、抑えようのない憤怒《ふんぬ》の色が浮び上った。焔を踏んで、一足ずつ不動丸の方へ近づいた。 「血迷うな。お主のためを思えばこそしたことだ。足手まといがあってはこの獄は抜けられぬ。今は一刻を争って姫君を奪い返しに行かなければならぬ。次郎、その理《ことわり》がお主には分らぬか。」  不動丸が煙に噎《む》せて言葉を跡切《とぎ》らせた一瞬に、次郎は飛鳥のように飛び掛っていた。右手に隠し持っていた短刀が、不動丸の胸を抉《えぐ》った。不動丸は、まるで信じられないという顔で次郎を見詰めていたが、やがて崩れるようにその場にどうと倒れた。次郎は見向きもせずに、楓の許に走り帰った。 「楓、楓——。」  次郎は必死になって呼び掛けながら、生気の失せた身体を抱き起した。楓はかすかに眼を開いた。嬉しそうな微笑が蒼ざめて行く脣をわななかせた。 「次郎さま、楓は本望でございます。」  ただそれだけを口にすると、楓の脣からはもう何の言葉も洩れて来なかった。 「楓——。」  次郎の眼には涙が浮んでいた。冷たくなって行く身体を、いとおしげに抱き締めていた。  その間、不動丸はまだ息が絶えていたわけではなかった。深手を負った身を引きずるようにして、燃える床の上を少しずつ這《は》っていた。最後の力を振り搾《しぼ》ると、太刀を杖にして身を起し、次郎の背中にその太刀を突き通した。  東の獄が大火に包まれたと聞いて駆けつけて来た検非違使たちは、何処《どこ》にも火の痕《あと》がないのに茫然自失した。何一つ焼けたものはなく、くすぶっている煙一筋も見えなかった。ただ細殿の上に、三つの骸《むくろ》が折り重なって倒れていた。そのうちの一人が検非違使の尉《じよう》と分っても、何故に頭巾に顔を隠して此所に死んでいるのか、その謎《なぞ》は誰にも解けなかった。   いさら川  近江の国を北に向って旅をする一人の法師があった。痩《や》せた馬に跨《また》がり、従者も連れずに、見渡す限り人影もないすすきの原を、恐れる色もなく進んでいた。秋の暮の冷たい風が蕭条《しようじよう》と吹き過ぎ、芒《すすき》の枯れた穂をなびかせた。遠くからかすかに響く川音に混って雉《きじ》の鳴声が時折寂しく聞えていた。  やがて川のほとりに出た。法師は川に沿って暫く馬を歩ませ、やがて浅瀬を見つけてその川を渡った。渡り終って馬が身顫《みぶる》いするのを宥《なだ》めていると、ふと何処《どこ》からともなく風にまぎれて笛の音の聞えて来るのが耳にはいった。法師はその音色に耳を澄ませ、不思議そうな面持をしてあたりを見まわした。川に沿って地形が傾斜し、片側が山になっている。恐らくその向うが近江の湖《うみ》であろう。笛の音は山の麓《ふもと》から聞えて来るようである。法師は目星をつけると、馬の向きを変えて落葉のつもった林の中へと分け行った。  笛の音が誘うように聞えていたから、半時《はんとき》と経たぬうちに、迷わずに山の麓に出た。細い石の段が山の斜面を刻んで、その登りつめたところに寺があるらしい。今では笛の調べが明かに寺の中から聞えて来ることが分った。法師は馬を立木につなぐと、長い石段を登り始めた。  茅《かや》を葺《ふ》いた小さな寺の前に出た。 「それがしは旅の法師でござるが、どなたか御意《ぎよい》を得たい。少しばかりお訊《き》きしたいことがある。」  法師が声を掛けると共に、笛の音がはたと歇《や》んだ。そして奥から老齢の尼が姿を見せた。 「此所にいるのは世を捨てた者ばかりでございます。どうぞお立ち去り下さいませ。」  尼は慇懃《いんぎん》にそう言って断った。 「暫くお待ち下さい。それがしは笛の音に引かされて此所《ここ》まで参った者、笛をお吹きになられている尼御前にこう申し伝えては下さらぬか。大伴の次郎信親殿に縁《ゆかり》のある者が訪ねて参ったと。」  老尼は驚いたように法師を見詰め、会釈をして退《さが》って行った。やがて再び戻って来ると、法師を丁重に中へ案内した。連れて行かれたのは南に面している座敷である。  その座敷は山の中腹に張り出していて、眼の下に林の間を縫って流れる先程の川を見ることが出来た。西の方へ眼を移すと、漫々と水を湛《たた》えた大きな湖が、霧の中に半ば消え入りながらひろがっていた。近くの空を雁《かり》が連なり合って飛んで行くのが見えた。  法師が外の景色に見とれていると、衣《きぬ》ずれの音がして、年若い尼が老尼を従えて座敷へはいって来た。法師はすぐさまそこに平伏した。 「中納言さまの姫君でございますな。おいたわしいお姿になられましたな。」  若い尼はたじろぎ、それから気を取り直したように尋ねた。 「わたくしを御存じですか。」 「お見忘れでございましょうか。それがしは智円と申す陰陽師で、去年《こぞ》の年、お屋敷に参って法術を御覧に入れたことがございました。」 「そう言えば。」  若い尼はかすかに首を振って頷いた。 「一度お目にかかったことがあれば、それがしは決して忘れることはありませぬ。しかしあなたさまを姫君と承知したのは、お姿を拝見してからのことではございません。笛の音を聞いた時から、或いはと思っておりました。」  尼はそれに答えなかった。ただ先を促すように細い眼が少しばかり開かれた。 「それがしは大伴の次郎信親殿とは親しくしておりましたから、その笛のことはよく存じております。先程麓の川のほとりで笛の音を聞いた時に、ひょっとして次郎殿がまだ生きているのではあるまいかと、耳を疑ったことでございました。次郎殿でないとすれば、その笛をお持ちになるのは姫君の他にはありますまい、そう思って此所まで参りました。姫君もよく御無事でいらせられましたな。」  若い尼はそれを聞いてわななく声で呟いた。 「わたくしは生きていても何の甲斐《かい》もありません。次郎が死んだ今となっては、一日も早く死にたいと思います。」 「そのようなことを、」と側から年老いた尼がたしなめた。「御仏《みほとけ》の御慈悲にすがって、亡くなられた方の冥福《めいふく》をお祈りするのが、今のおつとめでございますよ。」 「妙信、そなたのように御仏が信じられれば、どんなにか為合《しあわ》せでしょう。わたくしはもう何一つ信じられなくなりました。わたくしは自ら道をあやまって、そのために次郎を殺してしまったのです。どうせ地獄へ堕《お》ちるこの身、地獄で次郎に会える日が今のわたくしの唯一の望みです。」 「何をおっしゃいます、」と老尼が悲しげにいさめたが、若い尼は衣の袖で溢《あふ》れる涙をそっと拭っていた。  法師は二人の問答を黙って聞いていた。それから低い声で、誰に聞かせるともなく喋《しやべ》り出した。 「人の世のことは、すべてままならぬものでございますな。それがしが初めて次郎殿にお会いしたのは、この同じ近江の国の、それも此所から程遠からぬ荒野の中でござった。見どころのある立派な若者と見受けました。その時それがしは、何でも自分の思うようにやれ、身一つを頼みにして、人に心を奪われてはならぬと、申しておきました。その後再会して、次郎殿が姫君をお慕い申していることを知ると、その恋をなしとげるようにとそそのかしました。それというのも、それがしは当時、現世の慾《よく》に惑《まど》わされて、中納言さまの御屋敷ばかりでなく、二条の左大臣さまのところへも出入りしておりました。もしも次郎殿が姫君をかどわかすようなことにでもなれば、その時は入内なされるのは左大臣さまの三の姫ばかり、さすれば左大臣さまに太刀打できるだけの権勢を持つ者は誰一人いなくなります。従ってそれがしに対する左大臣さまの覚えも目出たくなるであろうと、このように考えた次第でございました。それがしは左大臣さまに、我が法術によって験《げん》を見せようと約束しました。事は予想の如く運び、次郎殿はそれがしの暗示に従って姫君をかどわかされ、左大臣さまの三の姫が目出たく入内されました。ところがいざとなってみれば、それがしの手柄は格別の証拠もないこと故、左大臣さまは手を覆《くつがえ》してそれがしの功を認めようとはなさらなかった。結局はそれがしは虻蜂《あぶはち》取らず、ただ中納言さまが主上のお怒りを受けてお側から遠ざけられたという結果になりました。それがしは人の心を操り、人の心を偸《ぬす》んでやろうと目論《もくろ》んでいたものの、一人の心をも操ることは出来ませなんだ。せめて次郎殿が望みをとげられればと願っていましたのに、その次郎殿も姫君を父君にお返しして、自らは東の獄に自首して出られました。何という気の弱いことか。それがしとしては、せめて次郎殿を獄からお救いしたいと思い手立を尽しましたが、これも不動丸という邪魔者がはいったために、あたら次郎殿も相討となって果てられました。どちらにしても、あの男は死ぬべき運命にありましたな。と申すより、最早生きようという心持を失って、とうに死んでおったのです。それがしがどのような法術を使おうとも、心の冷え切った者に火をつけることは出来ませぬ。所詮はそれがしの一人相撲、今となって見れば、人を踊らせるつもりでいて、自分一人が踊ったということになりましょうかな。」 「では次郎がわたくしをかどわかしたのは、みな御坊の暗示のせいだということになるのですか。」  若い尼がそう尋ねると、法師は言下に否定した。 「いやいや、そうではありませんぞ。次郎殿は本心から姫君に恋い焦《こが》れておられた。どんなことでもする気でした。それがしはただ、次郎殿のお気持に最後の一押しを加えたにすぎません。如何なる霊妙な法術といえども、本人の気持のないところには働きません。恋心のない者を恋に溺《おぼ》らせることはかないません。あれほど思い詰めていた男が、どうして諦める気になったものか。」  法師は深い嘆息を洩らした。尼もそれに和して悲しげな叫びをあげた。 「わたくしのせいなのです。みなわたくしがすげなくしたせいなのです。」 「何を申されます、」と老いた尼が側からおろおろ声でたしなめるのを、聞こうともしなかった。 「わたくしは次郎の気持を汲《く》むことが出来ませんでした。安麻呂さまを想っていて、そのために眼が眩《くら》んでいたのです。今にして思えば、あの阿弥陀ヶ峯の隠れ家に一緒に住んでいた間が、わたくしの一番しあわせな時でした。それなのにわたくしには、それが分らなかったのです。次郎ほどわたくしを想ってくれた者はなかったのに、そしてわたくしも次郎が好きだったのに、愚かにもそれが自分の眼に見えなかったのです。」 「安麻呂さまとは、左大臣家の御嫡流ですな、」と法師が呟いた。「あの方も亡くなられました。病《やまい》に身が細って、ともしびの消えるようにはかなくなられた。せっかくこの上ない家柄に生れながら、人の運不運は分らぬもの。」 「それもわたくしのせいなのです。どうしてわたくしはこうも業《ごう》が深いのでしょう。わたくしのために、次郎も、安麻呂さまも、みんな命を落されました。わたくしだけが骸《むくろ》のような身を、こうして生きています。」  身を屈《かが》めて嗚咽《おえつ》する若い尼の背中を、老いた尼はしずかにさすっていた。 「どうかもうそのようにお嘆きにならないで。後生《ごしよう》のためにひたすら御仏を念じて下さいませ。」 「さよう、命を粗末にされてはなりませぬ、」と法師も側から口を添えた。「姫君のお美しかったのが所詮は業というもの。今さら嘆いたところでどうなるものでもありませぬぞ。」 「今のわたくしは、形見の笛を吹いている間だけが、生きているような気がします。その間は、次郎と一緒にいるような気がします。もし死ぬことがままにならぬとすれば、わたくしは早く年を取りたい。昔のことをすっかり忘れてしまう程、早く老いてしまいたい。」  法師は見るに忍びないように眼をそらせた。湖の上に幕《とばり》のようにひろがって行く霧が、次第に山裾の方へも移って来た。 「では姫君、これでおいとまいたします。」  法師が首を垂れて挨拶するのに、若い尼は尚も袖で顔を抑えていたが、やがて気を取り直したように法師に呼び掛けた。 「御坊はこのあたりをよく通られるのですか。」 「いや、こちらへ来たのは初めてです。つい笛の音に引かされて思いもよらぬ方へ来ました。お寺の名さえ存じませぬ。」 「ここは正法寺といいます。下を流れている川は不知哉川《いさらがわ》、この山は鳥籠山《とこのやま》。万葉集の歌枕です。こういう歌を御存じでしょうか。」  そして次の歌を口ずさんだ。   犬上《いぬかみ》のとこの山なるいさら川      いさとこたへよ我名もらすな  法師は大きく首を振って頷き返した。 「もとより姫君のことを洩らすようなことはいたしませぬ。それに二度とこちらへ来ることもございますまい。この後は陰陽道の修行のため、越《こし》の国から北の方へとくだって行くつもりでおります。都へ戻ることはもうありますまい。」 「わたくしは親も屋敷も捨てました。妙信と二人、身の朽ちるまでこの寺に籠《こも》っているでしょう。もう誰にも会わないつもりでいます。」  法師は頷き、いたわしげな眼指《まなざし》でまだうら若い尼の姿を見ていた。墨染めの衣に身を包んでも、その姿は近寄りがたい気品と、匂うような美しさとを残していた。  法師が立ち去る前に、尼は口の中で呟くように一首の歌を咏《えい》じた。   跡もなき波行くふねにあらねども      風ぞむかしのかたみなりける  法師が再び不知哉川の岸辺に出た時に、冷たい霧は水の表と沿岸の櫟林《くぬぎばやし》とを埋めて、もう笛の音も聞えず、ただ川音にまじって秋の風が寂しく吹き抜けて行くばかりだった。 この作品は昭和四十三年六月新潮社より刊行され、昭和五十四年九月新潮文庫版が刊行された。