福永 武彦 夢みる少年の昼と夜 [#表紙(表紙.jpg)] [#裏表紙(表紙2.jpg)] 目 次  夢みる少年の昼と夜  秋の嘆き  沼  風景  死神の馭者  幻影  一時間の航海  鏡の中の少女  鬼  死後  世界の終り [#改ページ] [#小見出し] 夢みる少年の昼と夜  鳩時計が今や時刻を告げようとして、発条《ぜんまい》のひきつれる掠《かす》れた金属性の音を響かせ始めた。それまで畳の上に横になってぼんやり天井を向いていた太郎は、そのかすかな響きにむっくりと身体《からだ》を起した。箪笥《たんす》の上の鳩時計にちらっと眼を遣《や》った。慌てて眼をつぶると、息を凝らした。  間ニ合ッタ。始マッテシマッテカラデハモウ遅イノダ。オ婆サンノヨウニ喘《アエ》ギナガラ、ソレガ咽喉《ノド》ヲグルグルイワセ始メル時。……クックウ、ト一ツ鳴ル。オ婆サンジャナイ、鳩ナンダ。デモウマク願ヲ掛ケナケリャ駄目ナンダカラ、魔法使ノオ婆サンカモシレナイ。魔法使ノオ婆サンハ喘息持《ゼンソクモ》チダトオ鹿《シカ》サンガ言ッタ、喘息テノハキットトテモ苦シインダロウナ。  クックウ、クックウ、クックウ、クックウ、クックウ……。モウ六ツ鳴ッタ。早ク考エツカナキャ。村越先生、青山先生、アブクチャン、直チャン、……ソンナ事ジャナイ。空ヲ飛ブ呪文《ジユモン》、|ピーターパン《ヽヽヽヽヽヽ》、|ネヴァネヴァランド《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、違ウ。暴君|ネロ《ヽヽ》、鼠《ネズミ》、ネムノ樹、墓地……。  クックウ、クックウ、クックウ、クックウ、クックウ……。  駄目カナ。鳩。愛チャン。ソウダ、愛チャンニ会イタイ……。  クックウ。十二時ダ。間ニ合ッタ。  太郎は眼を開いた。あたりがくらくらする。魔法の世界が過ぎ去って、真昼の眩《まぶ》しい光線が縁側に一面に射し込み、その余熱が頬《ほお》をかっかとほてらせる。茶の間の中は蒸し暑い。箪笥の上で、啼《な》き終った鳩時計が、もう何ごともないかのように平和に眼の玉をくるくる動かしている。コノ鳩時計ハモウオ婆サンダ。ソレハオ母サンモ知ッテイル。オ母サンノオ父サンモ知ッテイル。コレハドイツ製ダ。コレハドイツノ鳩ダ。オジイサンガムカシ外国デ買ッタモノダ。コノ鳩ハ色ンナ死ンダ人達モ知ッテイルノダ。鳩ハ何年クライ生キルノダロウ?  太郎は考え込みながら、眼の玉をくるくる動かした。真似をしているな、と言いたげに、鳩時計が上から見下している。太郎は寝ころんだまま両足の先を箪笥の抽出《ひきだし》の環《かん》に掛ける。愛チャンニ会エルトイイケド、会エルカシラ。オ祈リハウマク行ッタケド。何ヲシテイルノダロウ、愛チャンハ、アノ家ノ中デ? イツモ門ノシマッタ家。硝子《ガラス》ノギザギザヲ塀《ヘイ》ノ上ニ植エツケタ家。樹ガ茂ッテイテイツモヒッソリカントシタ家。アレハフライパンデ何カイタメモノヲシテイル臭《ニオ》イダ。  ——お鹿さん、お昼のお菜《かず》は何?  ——じゃがいものバタいためです。  ——何だ、またか。  ——もうすぐですよ、お坊っちゃん、とお鹿さんはとんちんかんな返事をした。  太郎はもう一段上の抽出の環に足の先を掛けた。それが太郎には精いっぱいでその上まではまだあがらない。無理に上げようとすると汗が出て来る。両手を支えにして、お臀《しり》を浮かすようにした。もう少し。もう少し脚《あし》が延びれば。  ——お坊っちゃん、茶ぶ台を出して下さいな。出来ましたよ。  飛び起きた。活溌《かつぱつ》に部屋の隅から茶ぶ台を持って来る。畳んである脚をぽきぽきいわせながら組立てる。その前に大急ぎで坐る。それから大きな声で呼ぶ。  ——準備はいいよう。  お鹿さんが笑いながらお勝手からはいって来ると、手にしたお盆の上の食器類を並べ始めた。お皿の中のじゃがいもが湯気を立てている。太郎は悪口を言いたそうにして止《や》めた。お鹿さんのお昼のお菜は何かというとこれだ。肥ります、とお鹿さんは言うけど、これが一番簡単に出来るからだと太郎は承知している。お鹿さんは田舎者《いなかもの》だから、お料理の方はあまり上手《じようず》ではなかった。  |ミミイ《ヽヽヽ》ガイタラナア。アノ頃ハ梅雨デ毎日雨ガ降ッテイタ。学校ノ帰リニ、墓地ノ近道ヲ通ッテイタラ、|ミミイ《ヽヽヽ》ガ雨ニ濡《ヌ》レテ顫《フル》エテイタノダ。ハンカチニクルンデ連レテ来タ。オ出《イ》デ、オ出デ、ト呼ンデモナカナカ来ナイ。畳ノ上ヲ爪《ツメ》ノ先デ擦《コス》ルト、キョロキョロシテ、飛ビ掛ッテ来ル。両手ノ間ニ載ルホド小サカッタ。|ミミイ《ヽヽヽ》ヲ捨テロト言ッタノハオ父サンダ。捨テニ行ッタノハオ鹿サンダ。ドッチモ悪イ、嫌《キラ》イダ。大人ハ嫌イダ。|ミミイ《ヽヽヽ》ガ御飯ヲ食ベル時ハソリャ可愛《カワイ》カッタ。僕ハ十ダ。ソノ倍ガ二十デ、青山先生ハ二十ダッテ? 村越先生ハ三十カナ。オ父サンハ三十八ダ。オ鹿サンハ幾ツダロウ?  ——お鹿さんは幾つ?  ——忘れましたよ。  自分ノ齢ヲ忘レルナンテ馬鹿ナオ婆サンニ限ッテイル。シカシオ鹿サンハマダオ婆サンジャナイナ。  ——四十くらい?  ——ありがとう、お坊っちゃん。よく噛《か》んでおあがんなさい。  間違ッタラシイ。幾ツデモイイヤ。ドウシテ大人ハアンナニ平気デ猫ヲ捨テニ行ケルノダロウ。僕ハ犬ガ欲シイナ。大キナ奴《ヤツ》。桜井君ノ持ッテイルヨウナ奴。  ——お父さん、犬なら飼っていいって言ったね。本当かしら?  ——どうなりますかね。お引越の後の話ですよ。  ——厭だなあ、学校変るの。友達だってみんな新しくなるんだよ。  ——しかたがございませんよ。旦那《だんな》さまの御転任なんですからね。何処《どこ》へ行っても、お友達は直に出来ますよ。  ——僕は人みしりするたちなんだってさ。この前お父さんがそう言ってた。それ、いけないこと?  ——お坊っちゃんは大丈夫です。  何のことだか分らなかったけれども、御飯を終って御馳走《ごちそう》さまと言った。暑くって汗が滲《にじ》み出て来る。  ——今晩は何?  ——そうですねえ、何にしましょう? 旦那さまはお帰りにならないから、……ライスカレーはどうです?  ——カレーか、と馬鹿にしたように言った。お父さん今晩も遅いのかい? 今晩、縁日なんだけどなあ。  ——御転任の前だからお忙しいんですよ。お坊っちゃんも御用を言いつかっているんでしょう?  ——うん。学校に行くんだ。村越先生から転校のための書類を貰《もら》って来るんだよ。  ——先生はお休みでも学校においでなんですか?  ——何て言ったっけかな? そう、当直なんだ。お父さんが一昨日の晩、お家へ行って、今日僕が学校に貰いに行くように決めて来たんだもの。  ——そうですか。  お鹿さんはそれきり黙って後片附を始めた。太郎は茶の間に隣り合った三畳間へはいった。その部屋の東向の窓の前に、小さな机が置いてある。太郎は抽出を明けて、中から、むかし買ってもらった時にはボンボンの入れてあった、丸い大きな罐《かん》を引張り出した。今はそれは太郎の玉手箱だ。側に人のいる時には決して中を開かない。中に何がはいっているか、太郎の他に知る者はなかった。  太郎はその蓋《ふた》を明ける時にはいつも緊張する。それは鳩時計が時刻を告げる間に願を掛けるのと、同じような気持だった。そして鳩時計の時には必ず眼を閉じなければならないし、玉手箱を明ける時には呪文を称《とな》えなければならない。太郎の称える呪文は、時と場合によって色々あった。今は——。  太郎は早口に、口の中で呟いた。  ——太郎は胡麻《ごま》を開く。    神秘の色は青い。    物にはみな歴史がある。 「胡麻」とか「神秘」とか「歴史」とかいうのは、太郎の蒐集《しゆうしゆう》した言葉だ。それらは太郎の「単語帳」の中に書き込まれているが、しかしこのことは、作者はもっと後から説明しよう。念のために言えば、このボンボンの丸い罐は|青い《ヽヽ》色に塗られていた。  太郎は罐の蓋を明けた。その中には雑多な物が詰め込まれている。太郎は一つ一つ大事そうに取り上げた。  父親の懐中時計の銀の鎖。古くなって少し錆《さ》びついている。コレハ昔ハモット大キカッタノダ。コレハ可哀想《カワイソウ》ナ|アンドロメダ《ヽヽヽヽヽヽ》ヲ縛ッテイタ鎖ダ。ソレヲ|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ガ|ヘルメス《ヽヽヽヽ》カラ貰ッタ剣デ切ッタノダ。  桜貝。綺麗《きれい》な透きとおるような薄い貝殻、九十九里浜《くじゆうくりはま》で拾った。コレモ最初ハモットズット大キカッタ。コレハ波ノ泡《アワ》カラ生レタ|アプロディテ《ヽヽヽヽヽ》ガ、ソノ足デ踏ンデイタ貝ダ。ダカラ昔ハ地中海ニアッタノガ、段々ニ流レテ九十九里浜マデ流レツイタノダ。  指貫《ゆびぬき》。|ピーターパン《ヽヽヽヽヽ》ガ指貫ノコトヲ間違エテ「キス」ト呼ンダ。ダカラ|ウエンディ《ヽヽヽヽヽ》姉サンモコノ指貫ノコトヲ「キス」ト呼ンデイタ。  壊《こわ》れた目覚《めざまし》時計の部分品。発条《ぜんまい》とか、針とか、捩子《ねじ》とか。コレハ鰐《ワニ》ノオ腹《ナカ》ノ中デチクタクイッテ、海賊|フック《ヽヽヽ》ヲ怖《コワ》ガラセタ目覚時計ノ部分品ダ。  紫水晶。そのよく光った平な面は、鏡よりもよく物を映した。不思議な模様が中を走っている。|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ガ|アテナ《ヽヽヽ》カラ貰ッタ鏡ダ。|メドゥサ《ヽヽヽヽ》ヲ直接見タ者ハ石ニナル。ダカラ|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ハ鏡ニ映シナガラ怪物ヲ殺シタノダ。  石。色様々の小さな石。青いのや、茶色いのや、緑色のや、ぎざぎざのついたのや、丸いのや、ミンナ、|メドゥサ《ヽヽヽヽ》ノ首ヲ見テ石ニナッタ馬鹿ナ奴等ダ。ダカラコレハミンナ昔ハ人間ダッタ。コノ茶色クテフクレ上ッタノハ、暴君|ポリュデクテス《ヽヽヽヽヽヽヽ》ダ。  古い博多《はかた》人形の折れた首。顔面の塗が半分ほど剥《は》げ落ちて、男とも女ともしれぬ異様な表情に見える。コレガ|メドゥサ《ヽヽヽヽ》ノ首ダ。今デハモウ人ヲ石ニ変エル力ハナイ。シカシモシ僕ガソノ呪文ヲ発見シタナラ、石ニ変エルコトガ出来ルカモシレナイ。  母親の形見の帯止の珊瑚玉《さんごだま》。コレハ竜ノ珠ダ。  ——お坊っちゃん、お昼寝ですか、それともお出掛けになりますか?  隣の部屋からお鹿さんの呼び掛ける声。太郎は慌てて大事な品々を罐の中に仕舞い込んだ。大急ぎで返事をした。  ——今行くんだ。もうすぐ行くよ。  ——お八つはどうします?  ——うん。僕、アブクちゃんとこへ寄って来るから分らない。  ——では晩御飯のときに一緒にあげますね。わたしもその頃お使いに行きますから。  お鹿さんがこっちの部屋にはいって来ないと分ったので、また玉手箱の蓋を明けて、底の方から小さな手帳を取り出した。それを半ズボンのポケットに入れ、玉手箱は抽出に仕舞った。それから壁にかかった麦藁《むぎわら》帽子を取ってかぶった。  ——暑いから日向《ひなた》で遊んでは駄目ですよ。  ——分ってるよ。  玄関でズックの靴をはくと、大きな声で、言って来ますともう振り向きもせずに叫んだ。  表に出ると焼けるような日射《ひざし》だ。蝉《せみ》がやけくそな声で合唱している。太郎が勢いよく歩いて行く間、道には人けがなくて、木の葉一枚そよとも動かない。直に汗が頸《くび》のあたりをむず痒《がゆ》くさせ始めた。  道を曲ると右側に高い塀が続いている。塀の内側には暑さにだらんと葉の垂れた樹が茂っていて、二階の窓のあたりはよく見えない。門はしまっていた。愛チャンノ家ハイツデモ門ガシマッテイル。太郎は門の前で石ころを一つ蹴《け》とばした。そういう合図で門が開いて愛ちゃんが出て来れば、——しかし今迄にもしょっちゅう此処《ここ》を通るのだけれども、太郎の前に愛ちゃんが出て来たことはない。それに夏休みになってからは、もう学校で愛ちゃんに会うこともなかった。もう随分久しい間、ちらとでも顔を見たことさえないのだ。  愛チャンハショッチュウ頸ニ湿布ヲシテイタ。湿布ヲシテルト頸ガ長ク見エル。手首ヤ膝《ヒザ》ノアタリニ繃帯《ホウタイ》ヲシテイルコトモ多カッタ。何故《ナゼ》ダロウ? 学校ヘ行ク時ハイツモ三代《ミヨ》チャント一緒ダ。二人トモ愚図愚図シテ足ガ遅イカラ、ドウシテモ僕ガ追イ越シテシマウ。振リ向イテ見ルワケニハ行カナイ。一度ダケ学校ノ運動場デ、チョット愛チャント話シタコトガアル。桜井君ト一緒ノ時ダッタ。「アノ子ノ帽子オカシイネ、」ト僕ガ言ッタ。愛チャンハ黄色イベレ帽ヲカブッテイタ。「チョットソノ帽子見セトクレ、」ト桜井君ガ言ッタ。愛チャンハ俯向《ウツム》キ、側デ三代チャンガ怒ッタヨウニ「駄目ヨ、」ト言ッタ。「オ前ニ言ッテルンジャナイヨ、」ト桜井君ガ言ッタ。サット手ヲ延シテ帽子ヲ取ッテシマッタ。自分デソレヲカブッタ。桜井君ハ背ガ高イ。「返シテヨ、」ト愛チャンガ頼ンダ。僕ノ方ヲ見テ、モウ一度「返シテヨ、」ト言ッタ。  犬が暑そうに舌をだらりと垂れて歩いて行く。太郎は口笛を吹いたが、犬は見向きもしなかった。桜井君ノ犬ハモット大キナ犬ダ。愛チャンハキット怖ガッテ泣クダロウ。僕ハ桜井君ノ頭カラ帽子ヲ取ッテ両手ノ間ニ鞠《マリ》ノヨウニ握ッタ。愛チャンガ僕ノ手ヲツカンダ。「意地悪ネ、」ト泣キソウナ声デ言ッタ。三代チャンガ、「先生ニ言イツケルカラ、」ト言ッタ。「君、愛チャンテイウンダネ?」ト訊《キ》イタ。ソシテ僕ハ附ケ足シタ。「コノ黄色イ帽子ハ君ニハ似合ワナイヤ。」  坂を下りて広い商店街へ出た。暑いから大急ぎで目的地へ着いた方がいいような気もするし、ハンカチでゆっくり汗を拭《ふ》き拭き歩いた方がいいような気もする。しかし学校はもうすぐだ。お寺の二階建の大きな門の前を過ぎて、電車通りを渡ってすぐそこの右側だ。  日蔭《ひかげ》にはいるとひんやりする。背の高い下駄箱がしんと静まりかえって威圧するように並んでいる。廊下の上りぐちに水道がある。栓《せん》をひねって、冷たい(アマリ冷タクモナイ)水をごくごくと飲んだ。それから濡れた口のあたりを掌《て》の甲で拭き、その手をハンカチで拭いた。  グラウンドに面した窓から、照り返る日射の余熱がかっと射し込んでいる。グラウンドには誰もいない。砂場の方から時々声がするだけだ。生徒の姿が一人も見えないグラウンドというものは気味が悪い。太郎は足を急がせて教員室のドアの前まで行った。ノックして、中へはいった。  中もしんとして、大きな机がお行儀よく並んでいるばかり。と、鈴のような明るい女の声がした。  ——どなた? あら、遠山君?  太郎はどぎまぎして赧《あか》い顔をした。青山先生がいるなんて想像もしていなかった。涼し気な白いワンピースを着て、しなやかな身体を少し前屈《まえかが》みにしながら、こっちを向いて笑っている。口の端に小さな靨《えくぼ》があった。  ——僕、村越先生に用があるんです。  ——そう。此処へいらっしゃい。きっともうじきお見えになるでしょう。  太郎は頷《うなず》いて、先生のすぐ側の椅子に腰を下した。先生の物問いたげな視線を感じた。  ——遠山君、転校するんですってね? いつなの、いつお引越?  ——もうすぐです、あと一週間くらい。  ——そう。関西ですって?  ——神戸です。  ——神戸は夏は暑いわよ。わたし女学生の頃行ったことがあるけど、夕暮時になると風がすっかり凪《な》いでしまって……。  青山先生ノ声ハ透キトオルヨウナ優シイ声ダ。「大丈夫? 直ニ癒《ナオ》ルワヨ、」ト先生ガ言ッタ。宿直室ニ蒲団《フトン》ヲ敷イテ僕ハ寝カサレタ。運動場デ皆ガ一、二ト、体操ヲシテイル声ガ聞エテイタ。僕ハ時間中ニ急ニ気持ガ悪クナッタノダ。先生ガ冷タイ手拭《テヌグイ》ヲ額ニ載セテ下サッタ。 「大丈夫ヨ。元気ヲ出スノヨ、」ト優シイ声デ言ッタ。スグ僕ノ上ニカブサルヨウニシテ、髪ノ毛ガ前ニ垂レテイタ。胸ガフクランデイタ。僕ハ手ヲ延シテ、ソットソコニ触《サワ》ッタ。「アラドウシタノ?」ト先生ガ言ッタ。「遠山君ハマダ赤チャンネ。」  ——遠山君がわたしの担任だったのは、二年生の時までね、と青山先生が話題を変えた。大きくなったことねえ。あの頃は赤ちゃんだったものねえ。  太郎は見すかされたように赧くなった。赧くなるともう言葉が出て来ない。心の中で急いで呪文を称えた。  ——ペルセウスは空を飛ぶ。    メドゥサの首は人を石に変える。  ——……急に気持が悪いって言い出したことがあったわね、そうそう、遠山君たらわたしのお乳をほしがったわね、わたしびっくりしたわ。本当にまだ赤ちゃんだった。  そう言いながら、先生の方が急に赧い顔をした。急いで訊いた。  ——遠山君のお母さんはいつごろお亡くなりになったの?  ——ずうっと前、小ちゃい時です、と太郎は答えた。  声ガ出タノハ呪文ノオ蔭ダ。僕ハオ母サンノコトヲ覚エテイナイ。モシ呪文ヲ称エテオ母サンニ会ウコトガ出来タラ。青山先生ハ綺麗ダケドオ母サンジャナイ。オ母サンジャナイ人ノオッパイニ触ッチャイケナイノダ。  ——遠山君はよく出来るし気だてがいいから、どこの学校へ行ったって先生に可愛《かわい》がられるでしょう、と先生が言った。  太郎の眼が先生の胸のあたりへ行く。先生は胸の前で扇を使った。その小さな扇からはかすかに香水の匂《におい》がした。  ——いや暑い、どうにも暑いことだ。  乱暴にドアがばたんと明いて、大声で喚《わめ》きながら村越先生が教員室へはいって来た。ソラ、|サムソン《ヽヽヽヽ》ガ来タ。太郎は腰掛けていた椅子から下りて立ち上った。  ——おやもう来ていたのか? 待ったかい?  太郎は口の中で、今来たばかりです、と答えた。村越先生はワイシャツを腕まくりして、手拭《てぬぐい》でせっせと頸《くび》や腕を拭いた。青山先生が扇であおいでやったが、巨大な身体《からだ》に風を送るには扇はあまりに花車《きやしや》だった。  ——その手拭を水でしぼって来ましょう、と青山先生が言った。  ——済みませんな、と言ってどっかと椅子に腰を下し、その上に無理に脚《あし》を折り曲げるようにして胡坐《あぐら》をかいた。遠山もそこへ掛けなさい。遠慮しなくってもいいぞ。  村越先生は肥っていたから、開襟《かいきん》のワイシャツの中からむくむくした身体がはじけ出るようだった。太郎を見て二三度|頷《うなず》いた。  ——一昨日の晩、お父さんにお会いしたよ。神戸へ行くそうだな。急な話で私もびっくりした。うん、書類はみんな出来ている、今あげる。お前のような可愛い子を手放すのは私も残念だよ。  ——本当に残念ですわね、と足早に戻って来た青山先生が、おしぼりを渡しながら合槌《あいづち》を打った。  机の上の土瓶《どびん》から三人分の茶碗《ちやわん》に麦湯を注いだ。村越先生は顔を拭きながら一息にそれを飲んで、もう一杯、と言った。|サムソン《ヽヽヽヽ》ハ凄《スゴ》イナ。青山先生は笑った。太郎も真似をして一息に飲んでみようとしたが、息を吐《つ》いてから茶碗の中を見ると、まだ半分の余も残っていた。その麦湯は生ぬるかった。  村越先生は机の抽出《ひきだし》から封筒を出して太郎に渡した。  ——これを持って行きなさい。落すんじゃないよ。  太郎はお辞儀をしてそれを受け取った。  ——お父さんに宜しく言っておくれ。向うへ行ったら身体を大事にするんだよ。  ——さよなら。先生のことを忘れないでね、ととびきり優しい声で青山先生が言った。  太郎は少し悲しくなった。黙ってお辞儀をして、封筒を大事に右手に持って部屋を出た。廊下は風通しが悪くて暑かった。ドアの外で暫《しばら》く立ったまま考えていた。何か忘れものをしたような気持。中から、不意に青山先生の花火のように甲高《かんだか》い笑い声が響いて来た。  ダカラ大人ハ嫌《キラ》イナンダ。モウ笑ッテル。今サッキ、悲シソウナ様子デオ別レヲ言ッテクレタノニ。青山先生ハヒョットシタラ、|ダリラ《ヽヽヽ》カモシレナイナ。騙《ダマ》サレテハ駄目ダト|サムソン《ヽヽヽヽ》ニ教エテヤロウカ。  しかし太郎は村越先生にそれを教えには行かなかった。太郎は廊下を歩いて下駄箱のあるところまで戻った。教員室の笑い声はもう聞えては来ず、砂場の方で子供たちのはしゃぐ声がとぎれとぎれにした。太郎はそこで気を変えてグラウンドへの出口から、立ち並んだ肋木《ろくぼく》の裏手へ出た。砂場の方へ近づいて行った。  わっと喚声が上った。相撲《すもう》の勝負がついて、小柄の男の子が見事に土俵の上に引繰り返された。裸の背中に陽が当って金色に光っている。勝った方は黒く陽焼のした上半身を反《そ》らすようにして相手を見下した。友吉だ。  ——太郎は怖《こわ》くはない、と急いで呪文《じゆもん》を称えようとした。  ——こっちへ来い、と目ざとく見つけられた。  友吉の声の方が遥かに呪文に似た効果を持っていた。魔法に掛けられた太郎はもう引き寄せられている。土俵の廻りにいた四五人の生徒たちが一斉に振り返って見た。太郎はその側まで行って、立ち止った。  ——遠山、どうだ相撲を取らないか、と友吉が勝ち誇った声で言った。  ——僕は厭だ。  ——ふん、弱虫、と友吉が言った。  ——僕は見てるだけでいい。  ——お前はいつだって見てるだけじゃないか? 一遍でいいから掛ってみろ。  太郎は動かなかった。右手に封筒を握ったまま、そこに立っていた。新しい取組が始まり、砂が太郎の足許まで飛んで来た。  力ガ弱イノハシカタガナイ、ケレド怖ガッテハ駄目ダ。太郎ハ怖クハナイ。|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ハ決シテ怖ガラナイ。  太郎は友吉の裸の背中を、魅せられたように眺《なが》めている。友吉は身体も大きいし、力も強い。学校中で友吉にかなう者はいない。太郎は友吉が嫌いだけれども、汗をかいたその背中が油に濡《ぬ》れたように光っているのを見るのは、気持がよかった。  ——僕は帰るよ、と太郎は小声で言った。  誰も返事をせず、夢中になって勝負を見守っている間に、太郎は急いで元の方へ戻った。コンクリートの運動場は、歩くたびにズックの靴の下でこそぐるように熱い。  僕ハ友吉ハ嫌イダ。アイツハ弱イ者|苛《イジ》メヲスル。休ミ時間ニ二階ノ教室ノ窓カラ見テイタラ、アイツガ愛チャンノ腕ヲ捩《ネジ》ッテイタ。捩ッテ肋木ノ方ヘ歩カセテイタ。デモアレハ愛チャンジャナカッタカモシレナイ。遠クカラ見タンダシ、直ニ見エナクナッタカラ。ソレニ愛チャンガ友吉ナンカニアンナニヒドク苛メラレル筈ガナイ。肋木ニ腕ヲ挟《ハサ》ンデ苛メタラ、愛チャンハキット泣クダロウ。愛チャンガ可哀想《カワイソウ》ダ。  校門を出て、お寺の方へと電車通りを横切った。モシ僕ガ|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ナラ、空ヲ飛ンデ行ッテ助ケラレタノニ。お寺の門をくぐって境内にはいった。今晩は縁日だから、それを当て込んで見世物小屋がもう幾つも天幕を張っていた。骨組の出来かけている小屋もあった。お父さんの帰りが遅いのなら、縁日には来られないだろう。太郎の足許から、びっくりしたように鳩が飛び立った。  石段を登る。登って行く間に次第におくればせの後悔が足を重たくする。ドウシテ僕ハアンナニ弱虫ナンダロウ。友吉ニ声ヲ掛ケラレルト足ガスクンデシマウ。一度デイイカラアイツニ掛ッテ行キタイナ。一生懸命ニ組打シタラ、ナニ負ケルモノカ。モシアイツニ勝ッタラ、愛チャンダッテ僕ト友達ニナッテクレルダロウ。僕ハマダ愛チャント一度ダッテ仲良ク話ヲシタコトガナイノダ。  お寺の前でお辞儀を一つして、人けのない境内を裏の方へ抜けて行った。蝉取《せみと》りの子供達が三人ほど固まって騒いでいたが、どれも知らない子だった。意地の悪そうな眼で太郎の方を見、黙って向うへ行ってしまった。  愛チャンハイツダッテ、ソッケナイ眼デ僕ヲ見ルダケダ。冷淡ナ、知ラナイ男ノ子、トイウ眼。友吉ニ苛メラレタ時ニ僕ガ助ケニ行カナカッタセイカシラ。デモアレハ愛チャンジャナカッタカモシレナイ。帽子ヲ取ッタセイカ。デモ取ッタノハ桜井君デ、僕ハ返シテヤッタノダ。愛チャンハイツデモ寂シソウダ。三代チャントシカ口ヲ利《キ》カナイ。モシ僕ガ友吉ヲ負カシタラ、ソレガ魔法ヲ解クダロウカ。モウ一週間タッタラ、愛チャントハ二度ト会エナクナルダロウニ。  お寺の裏手は墓地になっている。太郎は墓地の中の細い道をぶらぶら歩くのが好きだ。そこらには蝉が沢山いるし、樹が茂っているから陽の光が翳《かげ》り、風が涼しい。白い石の墓が沈黙して立ち並んでいる。その一つ一つの石の下に、死者たちが眠っている。それは玉手箱の中に、「歴史」を持った貴重な品々が、太郎の呪文によってその喪《うしな》われた生命を喚《よ》び起されようと、待っているのと同じことだ。それは「単語帳」の中に、太郎によってわざわざ選び取られた言葉たちが、眠っているのと同じことだ。しかし死者たちに対する太郎の蒐集《しゆうしゆう》は、まだそう数多くはない。太郎は呪文を称えて、その一人一人に呼び掛ける。  ——死んだ人たちよ、よみがえれ。    一寸《ちよつと》の間だけ帰っておいで。    太郎とお話をするために。  オ母サン。青山先生ハ僕イママデ聖母|マリア《ヽヽヽ》ダト思ッテイタケド、本当ハ|ダリラ《ヽヽヽ》ナノ? 赤ンボノ|イエス《ヽヽヽ》ハ|マリア《ヽヽヽ》様ノオッパイニ触《サワ》ッテモイインダカラ、僕、先生ノオッパイニ触ッタ。デモ二年生ノ時ダヨ。今ハモウ五年生ダカラソンナコトハシナイ。ソレニ先生ノ笑ウノヲ聞イテイタラ、|ダリラ《ヽヽヽ》ミタイダッタ。今ニ|サムソン《ヽヽヽヽ》ガ騙サレルンダネ。  オジイサン。鳩時計ハ本当ニ願ヲ叶《カナ》エテクレルカシラ?  良チャン。君、本当ニ死ンダノカイ? 不思議ダネ、ソンナニ急ニイナクナッチャウナンテ。僕、アト一週間デ神戸ニ引越スカラ君ノオ母サンノトコヘオ別レニ行カナキャナラナインダケド、君ノオ母サンマタ泣クダロウナ。  チイチャンノ泣虫。アンマリ甘ッタレテ泣イテバカリイルト駄目ダヨ。一人デ遊ブ癖ヲツケナキャ駄目ダヨ。  墓地の中の道を抜け切って、陽のかんかん当る通りに出た。暑い。土が白っぽく焼けている。しかしアブクちゃんの家は此処《ここ》からもうすぐだ。口笛を吹きながらだらだら坂を下りて行った。  ——蟹田《かにた》君、と玄関の前で呼んだ。  太郎と同じ年頃の、下ぶくれのふっくらした少年が呼ぶと直に姿を見せて、太郎を奥の六畳間へ案内した。その部屋の隅で俯向《うつむ》いてしきりに手を動かしていたよく似た顔の女学生が、振り向いて、いらっしゃい、と言った。  太郎は立ったままはにかんだ。  ——何しているの? と訊《き》いた。  ——あたし? 当てて御覧なさい。  ——姉ちゃん、太郎君が来たんだからお八つにしておくれよ。そんなのいいから、とアブクちゃんが言った。  ——じゃ、見ちゃ駄目よ。  女学生の方は身体で隠すようにしながら、手早く畳の上のものを片附けてそれを紙袋の中に仕舞った。そして、待ってらっしゃい、と言い捨てて台所へ立って行った。太郎はそっと訊いてみた。  ——何さ、あれ?  ——切紙細工みたいなものさ。姉ちゃんたら夢中なんだよ。詰んないものなのにさ。  ——言ったわね、詰んないものじゃないわよ、とお勝手から厳《きび》しい声がした。  ——聞えちゃった、とアブクちゃんは首をすくめた。  アブクちゃんはさも秘密らしく、下ぶくれの顔を一層ふくらませ、黒い眼を光らせて、今日は話してくれるね? と訊いた。  ——ペルセウスだろ? うん。手帳を持って来た。何しろとてもむずかしい外国人の名前ばっかしだから、そらじゃ話せないんだ。  太郎は半ズボンのポケットから手帳を出し、代りにくしゃくしゃになったハンカチを仕舞った。この部屋は縁先に夕顔棚《ゆうがおだな》があって、少しは風が涼しい。手帳の頁《ページ》をぱらぱらとめくった。  それが太郎の「単語帳」だ。一頁に三つ四つ、多いのは十位、単語が書かれている。どれも大きな、はっきりした文字だ。例えば——。  父クロノス。母レア。ゼウス。ポセイドン。ハデス。  羅馬《ローマ》。希臘《ギリシヤ》。埃及《エジプト》。  オシリス。イシス。  屋久貝《やくがい》。鸚鵡貝《おうむがい》。夜光貝。蝶貝《ちようがい》。  ボレアス。ゼフィロス。ノトゥス。エウルス。  金。銀。瑠璃《るり》。玻璃《はり》。|※[#「石+車」、unicode7868]※[#「石+渠」、unicode78f2]《しやこ》。珊瑚《さんご》。瑪瑙《めのう》。  アネモネ(風の花)。ヒヤシンス(唐水仙)。ドリオペ(蓮華樹《れんげじゆ》)。  郷愁。望郷。思慕。恋着。  黄金時代。銀の時代。真鍮《しんちゆう》の時代。鉄の時代。  ゴルゴン(海の波)。父ポルコス。母ケト。メドゥサ。ステエイノ。エウリアル。  蜩《ひぐらし》。みんみん。つくつく法師。あぶら蝉。  波止場。港。風見。羅針《らしん》。航跡。  プシュケ。魂。蝶。愛。エロス。  ——ほらお八つよ。それ何?  太郎は慌てて「単語帳」の頁を閉じた。中を見せたら説明しなければならない。しかしその説明というのがやっかいだった。  ——アブクちゃんにね、ペルセウスのお話をしてあげる約束なんだよ、と言った。  ——その中に書いてあるの?  ——この中にあるのは単語だけ。だってとても覚えにくい名前が多いんだよ。ペルセウスのおじいさんはアクリシオスって言うんだ。  ——あたしにも聞かせてね、そのお話、とお菓子をむしゃむしゃ頬《ほお》ばりながら、姉の方が弟と同じい真剣な眼附をして、太郎を覗《のぞ》き込んだ。  太郎は冷たい飲物のコップの端を、唇《くちびる》の先で嘗《な》めながら、返事をしなかった。コップが汗をかいている。オ話ハ好キダケド、好子サンガ聞イテチャ厭ダナ、恥ズカシイナ。  ——姉ちゃんは駄目だよ、とアブクちゃんが口を入れた。姉ちゃんは向うでお得意の切紙細工をしてりゃいい。僕だけ聞く約束なんだから。  ——意地悪。今お八つあげたじゃないの。  ——それとこれとは別さ。  ——お母さんが帰って来たら言いつけてあげるから。  太郎は「単語帳」をめくって、恐ろしく片仮名の沢山並んでいる頁を開いた。姉の方が諦《あきら》めて隣の部屋へ行ってしまったから、そこで小声で話を始めた。  ——まずね、ギリシャのアルゴスの王様でアクリシオスという人がいたんだ。その王女さまがダナエさ、と太郎は「単語帳」を参照しながら、アブクちゃんの黒い眼を見詰めて話し出した。……ところでギリシャにはデルフィの神託というのがあってね、それで未来のことが色々分るんだけど、このアクリシオスという人が神託にお伺いを立てると、自分の娘のダナエがもしも子供を生むと、その子供が自分を殺すと出ちゃったんだよ。王様は大層びっくりして高い塔のてっぺんへダナエを閉じ込めちゃった。しかしゼウスが、金の雨になってそこへはいって来て、ダナエと結婚してしまったんだ。  ——金の雨って何だい? とアブクちゃんが訊いた。  ——ゼウスてのは一番偉い神様だろ、何にでもなれるんだよ。だから雨は雨でも金の雨になったんだろ。僕もよくは知らない。とにかくそうして、誰も行けない筈の塔の中へはいったのさ。そしてペルセウスが生れたんだ。そこで王様は、今度はダナエと子供とを箱に入れて、海に流しちゃった。その箱は流れ流れて或《あ》る島に流れ着いた。その島でペルセウスが大きくなるんだけど、その間に島の王様のポリュデクテスがダナエを好きになっちゃって、お妃《きさき》になれって言ったのに断られたもんだから、ダナエを牢屋《ろうや》に入れちまうんだ。そして子供のペルセウスがメドゥサの首を取って来たら、お母さんをゆるしてやるって言うんだよ。そこでペルセウスがいよいよ探険に行くことになるんだ。  ——それ、アンドロメダの出て来るお話でしょう? と隣の部屋から声がした。  ——ううん、と太郎は機嫌《きげん》を悪くして唸《うな》った。  ——姉ちゃんは黙っといで、とアブクちゃんが言った。ね、それからどうなるの?  ——それからメドゥサのお話になるんだけどね、メドゥサというのは三人姉妹の一番上のお姉さんなのだ。この三人はギリシャから遥か西の方の、いつまでたっても夜で、決して太陽が昇ることのない国に住んでいる。ええと、どこかに系図を書いておいたんだけど分らなくなっちゃった。とにかくこのメドゥサというのはとても美しくて、夜の星空のように美しい女なのだよ。けれどもその運命は、太陽の光の下では死ななければならないようにきまっているんだ。つまり人間で、神様じゃないんだ。そのメドゥサが、自分は夜の国に住んでいるけど、もし太陽の光に照されたなら、智慧《ちえ》の女神《めがみ》アテナにも負けない位|綺麗《きれい》な筈だと威張ったんだ。そのためにアテナから生意気な女だってひどくされるようになる。アテナはメドゥサの顔を醜い上にも醜くして、その顔を見た者はぞっと怖くなって石に変るようにきめてしまうんだ。  ——その人の髪の毛は蛇《へび》なんじゃない? と好子が隣の部屋から訊いた。  ——そうなんだよ、と太郎は話の腰を折られて怒ったように言った。  ——あたしその話知ってるわ、と再び好子が言った。  ——それじゃ、ペルセウスがアテナから何を貰《もら》ったか言って御覧? と太郎は訊《き》いた。  ——ええと、たしか空を飛んで行ける靴と、姿の見えなくなる兜《かぶと》と、それから……何だったかな?  ——剣だろう? ところが剣をくれたのはヘルメスなんだよ。それに兜と、メドゥサの首を入れる袋と、金の靴とを渡してくれたのは、大海の流れのほとりに住んでいるニンフなんだ。智慧の女神から貰ったのは、メドゥサの顔を直接に見ないための鏡じゃないか。  ——そうだったかな? でもそのお話、結局はアンドロメダを助けに行くんでしょう? あたし知ってるわ。  ——僕もうこれでやめる、と言って太郎は「単語帳」をぱたんと閉じた。  ——姉ちゃんの馬鹿、とアブクちゃんが唇の端に唾《つばき》をためて言った。太郎君が怒っちゃったじゃないか。  ——あら、あたしのせい? と好子が言った。  ——よし、そんなこと言うんだったら、アンドロメダみたいに鎖で縛っちゃうから。  アブクちゃんは立ち上って隣の部屋へ駈込《かけこ》んで行った。太郎は立ち上りかけてまた坐り直した。右の手にしっかりと「単語帳」を握ったまま、隣の部屋に注意を集注した。短い叫び声と、格闘している物音が聞えて来る。  モシ好子サンヲ|アンドロメダ《ヽヽヽヽヽヽ》ミタイニ縛ッチマッタラ、好子サン泣クダロウカ。生意気ダカラ少シクライ苛《イジ》メテモイイ。女ノ子ヲ苛メタラ面白イダロウナ。一遍デイイカラ苛メテミタイナ。シカシ、|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ハ|アンドロメダ《ヽヽヽヽヽヽ》ヲ助ケタノダ。苛メタ|フィネアス《ヽヽヽヽヽ》ハ石ニ変エラレテシマッタンダ。  ——太郎君、加勢してくれよ、とアブクちゃんが叫んだ。  太郎が隣の部屋へ行ってみると、形勢は全く互角で、姉弟は組み合ったまま独楽《こま》のように畳の上でくるくる廻っていた。  ——アブクちゃんなんかに負けやしないわよ、と息を切らしながら姉の方が言った。  ——加勢してくれよ、そしたらこいつを縛っちまおう。こいつめ、こいつめ。  僕ガ手ヲ出シタラ、好子サンダッテカナワナイナ。二人ガカリナラキットヤッツケラレルナ。何デモナイ、アノ手ヲツカマエテグット捩《ネジ》レバイインダ。  ——もうお止《よ》しよ、アブクちゃん、と太郎は言った。僕もう帰る。  ——帰るの? と手を休めた隙《すき》に、好子は素早くお勝手の方に逃げ出した。何だ、つまんないの。じゃ明日またお出でよ、そして続きを話しておくれ。  ——うん、じゃ明日ね。  太郎が片手に麦藁《むぎわら》帽子、片手に大事な封筒を持って、玄関でお別れを言っていると、アブクちゃんの後ろの方で好子が、おどけたような顔を見せていた。明日いらっしゃいね、と澄まして言った。アブクちゃんが振り向いて、こら、と叫んだ。  道を歩き出すと汗の出ているのが分った。ハンカチで頸筋《くびすじ》の汗を拭き、ゆっくりと陽の照っている道を歩いた。  苛メテモヨカッタンダ。アノ細イ手ヲ捩ッテ縄《ナワ》デ縛ッテヤレバヨカッタ。ダケド僕ハ臆病《オクビヨウ》ダカラ。モシ呪文《ジユモン》ヲ使エレバ、出来タカモシレナイナ。何カウマイ呪文ハナイカシラ。  家まではすぐだった。お鹿さんはお使いに行ったらしく、玄関の戸には錠が懸《かか》っていた。裏の方へ廻り、お鹿さんと二人だけが秘密の細工を知っている勝手口の戸を、おまじないを使って明けた。茶箪笥《ちやだんす》の上に大事な封筒を載せ、机の抽出《ひきだし》の玉手箱の中に「単語帳」を仕舞った。それから裸になって身体《からだ》を拭いた。汗が収ると、本箱の中から「ギリシャ神話」の本を出し、一心に読み始めた。  太郎が今凝っているのはアルゴ船と金羊毛との話だ。その前はペルセウスだった。その前はピーターパンで、その前が古事記物語、その前が青い鳥、その前が千夜一夜、その前が小川|未明《みめい》とアンデルセン。いつでも現に読んでいる本の世界が、現実よりももっと現実的になるのだ。いつかは自分でもお話を書いてみようと思っている。机の抽出には、小学生用ではない大人の原稿用紙さえ、重ねてはいっていた。  お鹿さんが帰って来て、お勝手でことこといわせ始めた時に、太郎はふっと思い出した。いつのまにかすっかり忘れていたこと。押入を明けて、古い玩具《おもちや》のはいっている玩具箱の中から細長いボール箱を取り出すと、急いで中をたしかめて麦藁帽子を引掴《ひつつか》んだ。  ——お鹿さん、僕ちょっと直ちゃんとこへ行って来る。  ——あらもうすぐお風呂ですよ。  ——じき帰って来るよ。  呼びとめられないうちにさっさと飛び出した。また愛ちゃんの家の前を通る。門は依然として閉じられ、庭の中は蝉《せみ》の声ばかり。急いで行って来なければならないから、今は門の前でぐずぐずなんかしていない。道を二三度曲って、小さな壊《こわ》れかけたような家ばかり並んでいる狭い通りへはいった。直ちゃんの家は中でも特別小さい。格子戸《こうしど》の前のどぶ板が腐りかけている。そっと呼んだ。  ——直ちゃん、直ちゃんいませんか?  ——はい。  穴だらけの障子戸が少し開いた。一種の薬くさい、むっとするような臭《にお》い。部屋の中は薄暗く、直ちゃんの顔の色も陰気くさく見えたが、太郎を認めてじきに顔をほころばせた。  ——此処《ここ》まで出て来ないか? と太郎が言った。ちょっと用なんだ。  ——うん。いま御飯を掛けてるから見て来るね。  姿が消え、中で何か話をしているらしい。太郎はボール箱を抱えて道を往《い》ったり来たりして待っている。直ちゃんが下駄を突っかけて入口の格子戸を明けると、太郎君、よかったらはいらない? と言った。  ——此処でいいんだよ。  ——だってお母さんがね、会いたいって。  ——いいんだ、とはにかんだ。  直ちゃんは諦《あきら》めて通りへ出て来ると、何さ? と訊いた。手がまだ少し濡《ぬ》れている。  ——君、御飯たくの? と訊いた。  ——うん、だってしかたがないだろ、お母さん寝たきりで立てないんだもの。  ——偉いんだね、君、僕なんかより十倍も百倍も偉いんだね。  ——馬鹿なこと言ってらあ、と直ちゃんはけろりとした様子をしている。今晩はそれに姉さんが帰って来る筈だから、御馳走《ごちそう》をつくってやるんだ。  太郎はどうも具合が悪くなった。どうもうまく言えそうもない。大急ぎで呪文を称えた。  ——ペルセウスは空を飛ぶ。    ヘルメスの剣は正義の剣。  ——あのね、と太郎は言い始めた。僕もうじき神戸へ引越すだろう。直ちゃんともお別れだろう?  ——残念だなあ、と直ちゃんが大きな眼をくるくるさせて言った。  ——それでね、お別れにね、僕、僕の持ってるものを何かあげようと思って考えたんだけど……。  ——駄目だよ、そんな、と直ちゃんはもう逃腰になりかけているのに、  ——これあげる、と押しつけた。お母さんに宜しくね、と大急ぎで附け足した。  ——駄目だよ、太郎君。  ——僕は要《い》らないんだ、直ちゃんが持ってた方がずっとずっと値打があるよ。  困ったようにボール箱を抱えている直ちゃんの側から、一目散《いちもくさん》に逃げ出した。  ヨカッタ。断ラレタラドウシヨウカト思ッタ。直チャンハトテモ親切ダ。初メテ学校ニアガッタ時ニ僕ガマゴマゴシテ泣キ顔ヲシタラ、直チャンガヒョットコノ真似ヲシタノダ。僕笑ッチャッタ。直チャンハ学校モヨク出来ルシ、ソレデチットモ威張ラナインダ。イツカコウ言ッタ。「僕ハ色ンナ調ベルコトガ好キナノサ。蚊ダトカ蜘蛛《クモ》ダトカ鈴虫ダトカ、アアイウモノヲヨク見ルト面白イヨ。僕本当ハ顕微鏡ガ欲シインダケド、僕ントコ貧乏ダロウ。オ母サン病気ダシ、姉サンガ働イテルダケ、弟タチモイルシネ。ダケド僕大キクナッテ働ケルヨウニナッタラ、ゼヒ顕微鏡ヲ買オウト思ウヨ。顕微鏡ナンテ本当ハ贅沢《ゼイタク》ナモノジャナイ筈ダネ。」ソウダトモ、チットモ贅沢ジャナイヨ。君ガソレヲ持ッテル方ガ、僕ガ持ッテルヨリモズットイイノサ。僕ハチットモ惜シクナイヨ。  太郎は今度はゆっくりと前の道を戻った。嬉《うれ》しくなって口笛を吹いた。父親に買ってもらった大事な顕微鏡だったが、今の太郎には、玉手箱の茶色な石一つ(暴君ポリュデクテスの変身したもの)ほどにも大事ではなかったのだ。太郎はまた愛ちゃんの門の前を通った。  モシ愛チャンガ僕ト仲好ニナッテクレタラ、僕、愛チャンニ茶色ノ石モ、緑色ノモ、ギザギザデ紫色ノ縞《シマ》ノアルノモ、ミンナアゲルンダケドナ。ソシテ一ツ一ツノ石ガ昔ダレダッタカヲ教エテヤルンダケドナ。  家へ帰るとさっそくお鹿さんに、お風呂におはいりなさい、と言われてしまった。こういう時のお鹿さんはどんなにあらがっても無駄だ。太郎は風呂が嫌《きら》いだから何かと口実を見つけ出すのだが、いつのまにかお鹿さんに風呂場に追い立てられている。早く大人になりたいと太郎が考えるのは、こういう時だ。大人ニナッタラ、厭ナトキニハ厭ダッテ言ウコトガ出来ル。子供ハイツダッテ大人ノ言イナリニナラナキャナラナインダカラ詰ラナイ。ケレドモ僕ハ、キット十八デ死ヌダロウ。  なぜ十八歳ときめてしまったのか、太郎にも分らなかった。しかし死ぬことは少しも怖くはなかった。大人になるよりも、その方が何だか綺麗《きれい》でさっぱりしているような気がした。  風呂桶《ふろおけ》の中に身を沈めると、お湯がざあっと溢《あふ》れ、湯船の木の匂《におい》がすがすがしく鼻についた。自分の手も足も、透きとおったお湯の中では、全く別の人間の手や足のように見えた。それは女の手足のように見えた。しかし太郎は、絵や写真で見た場合のほかには、裸の女なんか全然見たこともない。もしそれを一度でも見ることが出来たら。  |アンドロメダ《ヽヽヽヽヽヽ》ハ海岸ノ岩ニ裸デ縛ラレテイタノダ。ソコハ波打際《ナミウチギワ》デ、寄セテ来ル波ガ、|アンドロメダ《ヽヽヽヽヽヽ》ノ足ヤ手ヲ濡ラシテ、思ワズ身顫《ミブル》イサセタノダ。|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ハソレヲ空カラ見テイタ。|アンドロメダ《ヽヽヽヽヽヽ》ハキット泣イタダロウ。波ハ冷タイシ、鎖ハ痛イシ、竜ハスグソコマデ来テイタ。|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ガ不意ニ現レタノデ、ビックリシテ身ヲ|※[#「足+宛」、unicode8e20]《モガ》イタダロウ。好子サンガ|アンドロメダ《ヽヽヽヽヽヽ》ナラ、僕ハ直ニハ竜ヲ殺サナイデ、ウントジラシテ、好子サンガ泣キ出シテ僕ニ頼ムマデ待ッテヤロウ。今日ダッテ、アブクチャント二人ガカリナラ、好子サンヲ苛メラレタンダケドナ。両手ヲ捩ッテ、縄デ縛ッテ、柱ニユワエツケルコトダッテ出来タノニナ。  風呂の中に漬《つか》って空想に耽《ふけ》っていると、じんとするような好い気持になった。そういうことを考えてはいけないのだ。それは自分が石に変えられることなのだ。太郎は慌てて呪文を称えた。  ——メドゥサは夜の国の女王。    メドゥサの心は石よりも冷たい。    メドゥサの首は人を石に変える。  そうすると(呪文のお蔭《かげ》で)陶酔が引潮のように引いて行った。太郎は大急ぎで湯船から上り、そそくさと身体を洗った。太郎の風呂はいつだってとても早いのだ。要するにどぼんと漬るだけなのだ。  風呂から上ると、茶の間で団扇《うちわ》を使いながら、カレー粉のにおいを嗅《か》いでいた。夕暮に近くなると、|かなかな《ヽヽヽヽ》が鳴き出す。そうすると太郎の心が少しずつ寂しくなる。何かしら充《みた》されない空虚な気持。しかしそれは原因があって寂しいのではない。心の底の底の方で、何かがしきりと太郎を呼んでいるのだ。しかしそれが何であるか太郎は知らない。  晩御飯を食べている途中で、鳩時計が六時を告げ始めた。太郎は夢中でスプーンを操《あやつ》っていたから、発条《ぜんまい》のひきつれる最初の合図にも気がつかなかった。鳩はゆっくりと六回鳴いた。もう夜になるのだもの、愛ちゃんには会えないだろう。お鹿さんは黙って給仕をしている。太郎は大きなお皿でライスカレーを二杯食べた。お八つのバナナも貰って平らげ、バンドをゆるめて、御馳走さまと言った。  三畳間に寝ころんで(牛になりますよ、とお鹿さんがいつも言うのだけど、太郎はじき横になる癖がある)、次第に黄昏《たそがれ》の濃くなって行く庭先で、蚊柱の立つのを眺《なが》めていた。狭い庭の隅の暗がりで、虫が鳴き始めた。お鹿さんが縁側に蚊遣《かやり》を焚《た》いて置いてくれた。その薄青い煙が太郎の方に靡《なび》いて来る。太郎は起き上って電燈をつけ、机に向って「ギリシャ神話」を読み始めた。寂しいような気分を払うには、本を読むのが一番なのだ。遠くで花火の音がした。  シカシ|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ダッテ寂シイコトハアッタダロウ。遠イ西ノ国ノ果ノ方ヘ旅ヲシテ行ッタノダカラ、オ母サンノ|ダナエ《ヽヽヽ》ノコトヲ、恋シイト思ッタコトモアッタダロウ。シカシ僕ハオ母サンガ恋シイカラ、寂シイノジャナイ。オ父サンノ帰リガ遅クテ縁日ニ連レテ行ッテモラエナイカラ、寂シイノジャナイ。モウジキ神戸ニ引越スカラデモナイ。キット僕ガ子供ノセイナンダ。人ミシリスルタチッテイウノハ、ソウイウコトナンダロウ。花火ハ縁日ダカラアガッテイルンダ。  ——お鹿さん、花火が随分あがってるね?  ——縁日だからでしょう、と茶の間からお鹿さんが答えた。  ——そうだね。お鹿さん、縁日に行きたくないかい?  ——駄目ですよ。旦那《だんな》さまがいつお帰りだか分りませんし。  ——僕一人じゃ駄目?  ——いけません、旦那さまに叱《しか》られます。  ヤッパシ駄目カ。ナゼ他ノ子ハヨクテ僕ハ駄目ナンダロウナ。露店モ出テイルシ、見世物小屋モアルシ、面白インダケドナア。  ——今日は何の縁日? と縁側へ出て、蚊遣の火を見ながら訊《き》いた。  ——きっと四《し》万六千日でしょう、とお鹿さんは無関心に答えた。  お鹿さんは、縁日というのはみんな四万六千日だと思っているのだ。その時玄関で、太郎君、と呼ぶ声がした。太郎は急いで駈出《かけだ》して行った。玄関の戸の外に立っているのは直ちゃんだ。その後ろに、大柄の浴衣《ゆかた》を着た若い女が、直ちゃんの肩を抱くようにして並んでいた。太郎は思わず足を竦《すく》め、息を詰らせた。  ——太郎君、さっきはどうもありがとう、と直ちゃんが言った。お母さんがお礼に行けって言うもんだからね、それに姉さんが帰って来て……これ姉さんだ。  ——いつもこの子がお世話になりまして。また先ほどは……。  太郎は人から礼を言われるのが一番嫌いだ。それにこんな大きな女の人からお辞儀なんかされると。もぐもぐしながら、  ——直ちゃん、上らない? と友達に呼び掛けた。お父さんいないんだ、お鹿さんだけ。いいだろう?  ——僕たちこれから縁日に行くんだ、と直ちゃんが言った。あの顕微鏡とても大したもんだね、倍率が凄《すご》いね。僕もう蚊の翅《はね》なんか覗《のぞ》いてみた。  ——もう夢中なんですのよ、と姉さんの方が白粉《おしろい》の濃い、口紅のあざやかな顔をほころばせた。ほんとにお坊っちゃん、ありがとうございました。  綺麗《キレイ》ナ人ダ、怖《コワ》イミタイダ。キット夜ノ国ノ女王ナンダナ。  ——僕、お礼なんか言われたら困る。  ——それじゃまたね、僕たち縁日に行くから。姉さん今日公休日なんだ。  直ちゃんはさよならのしるしに、ひょっとこの真似をした。姉さんの方はあでやかに笑った。暗闇《くらやみ》の中に、背中を見せたその白い浴衣が浮き上った。太郎は二人が行ってしまうと、のろのろと三畳間に戻った。  ——直ちゃんだったよ、とお鹿さんに言った。  ——そうのようでしたね。  ——姉さんと縁日に行くんだってさ。  ——そうですか。  さっぱり反響がない。諦《あきら》めて机に向った。と、お鹿さんの方が呼びかけた。  ——何か直ちゃんにお上げになったんですか?  ——うん。  ——何ですか?  ——顕微鏡さ。  ——まあ、と驚いた声、それから溜息《ためいき》、そして茶の間はまた静かになった。  太郎はそれから宿題をしたり、日記をつけたり、本を読んだりした。花火の音がまだ時々聞えて来るが、太郎はもう煩わされない。九時になると、お鹿さんが床を取ってくれ、太郎は寝衣《ねまき》に着かえた。今日はお昼寝をしなかったから眠い。お鹿さんは電燈を消して、茶の間へ帰る。  蚊帳《かや》の中は蒸暑い。枕《まくら》に頭を当ててじっと仰向になっていると、夜が世界の上に重たく覆《おお》いかぶさっているのが分る。太郎は団扇《うちわ》を使いながら自分の上に夜の重みを感じている。  石ニナル時ニハ、コウイウフウナ重ミヲ感ジルンダロウナ。ドンナダロウ、石ニ変エラレテシマウノ? キット死ヌヨリモモット恐ロシイコトダロウ。身体《カラダ》ガ竦《スク》ンデシマッテ、息ガ出来ナクナッテ、ソレデ眼モ見エルシ、耳モ聞エルノダ。怖イ。僕ハ石ニサレルノハ厭ダ。  太郎の真上で、夜が次第にその濃度を増して行く。寝返りを打ち、急いで別のことを考え始めた。団扇の柄を固く握り締めた。  縁日ニ行ケタラ、コンナコトハ考エナイデ済ムノニナ。オ父サンハマダ帰ッテ来ナイ。僕ハ一人デ寝カサレルノニ馴《ナ》レテイルカラ怖クハナイ。僕ガ怖イノハ石ニ変エラレテシマウコトダ。愛チャンニハ会エナカッタ。セッカク鳩時計ニ願ヲ掛ケタノニ。オジイサン、鳩時計ハ本当ニ願ヲ叶《カナ》エテクレル筈ダッタネ? イツモ門ノシマッタ家。愛チャンハアノ家ノ中デイツモ何ヲシテイルノダロウ? 縁日ニ行ケタラ。愛チャンハ。縁日ニ。  太郎はむっくり床の上に起き直った。縁日ニ行ッタラ、愛チャンニ会エルノジャナイカシラ? 鳩時計ガ約束シテイルノハ、ソウイウコトジャナイカシラ? 縁日デ、愛チャンガ僕ヲ待ッテイルトイウコト。  ——お鹿さん、とそっと呼んだ。返事はなかった。  太郎は寝衣を脱ぎ、暗闇の中を手探りしてシャツを身に附けた。ズボンもはいた。蚊帳をめくって外へ這《は》い出した。茶の間の様子をうかがってみた。襖《ふすま》を一寸ほど明けて覗くと、お鹿さんは針仕事を膝《ひざ》にしたまま居睡《いねむ》りをしている。お父さんはまだ帰って来ないらしい。太郎は跫音《あしおと》を忍ばせて茶の間を通り過ぎ、薄暗いお勝手へ出た。自分のズックの靴を手探りで見つけてはき、それから勝手口の戸をゆっくりと開いた。お鹿さんの目が覚《さ》めないように。  ——ペルセウスは空を飛ぶ。    ペルセウスは怖いものなし。    メドゥサの首は人を石に変える。  しんとした暗い道に出ると身体が顫《ふる》え出した。夜気が涼しいけれど、太郎のは夜の冒険に出て行くための武者顫いだ。急いで歩き出した。もう時間が遅いから花火は上っていない。天の河で二分された夜の空が、重々しく太郎の上にかぶさって来る。道を曲ると愛ちゃんの家が、気味の悪い黒い樹木に囲まれて、太郎の通りすぎるのを見守っている。愛チャンハキット縁日デ僕ヲ待チクタビレテイルダロウ。太郎はそこから逸散に駈出した。  電車通へ出ると、お寺の門の側にずうっと露店が並んで、裸電球やアセチリンの灯がまぶしい。足を遅くして一つずつ覗いて歩く。小間物屋、金魚屋、植木屋、下駄屋、化粧品屋、バナナ売り、玩具屋《おもちやや》、綿菓子売り、氷屋、ゲーム遊び、手相見。誰か知った顔はいないかと思って、きょろきょろするのだけど、太郎には無関心な人たちばかりだ。白い鬚《ひげ》の生えた手相見の爺《じい》さんが、薄眼をあけて、蝋燭《ろうそく》の灯影からじいっと太郎の方を見詰めている。気味が悪いので急いでその隣の金魚掬《きんぎよすく》いの方に移った。硝子《ガラス》の鉢《はち》の中で涼し気に金魚が泳いでいるのを見ていると、藻《も》のゆらゆらしている向うで、人相の悪い香具師《やし》みたいな男が、金魚のように口をぱくっと明けて、鉢巻をした金魚売りの耳に顔をくっつけているのが眼に映った。  ——夜中に墓地で。  殆《ほとん》ど聞き取れないほどの低い声だったが、太郎はぎょっとする。急いで歩き出した。二階建の門をくぐって境内に踏み込むと、ジンタや呼び込みの声が喧《かしま》しくて、幟《のぼり》や旗や絵看板が、眼の前で踊り上る。見世物小屋が立ち並び、その間の空地《あきち》に駄菓子売りや氷屋が店を出し、色とりどりの風船が風にゆらゆらと揺れている。急に心細くなって来た。お父さんに黙って出て来たのだから、愛ちゃんに会えないのなら早く帰らなければならない。ゆっくり見物というわけにはいかない。しかし、それでもやっぱり、見世物小屋の前に立って、けばけばしい色に塗られた絵看板を見詰めていた。手をつなぎ合って玉乗りをしている少女たち。大きな臼《うす》を持ち上げている巨人。  ——さあさ、はいんな。面白いよ、坊っちゃん。  ——うん。  ——百人力だよ、何でも持ち上げるよ。綺麗な女の踊りもあるよ。  ——僕、お金を持っていないんだよ、と小声で言った。  ——ええまけとこう。可愛《かわい》い坊っちゃんだからな。ただでいいから、さあおはいり。  太郎はびっくりして、皺《しわ》の多い、陽焼けのした呼び込みの小父さんの顔を見上げた。鷹揚《おうよう》に頷《うなず》いている。本当にいいのかい? とおずおずと訊き直した。  ——いいとも。さあ早くはいんな。  太郎はするっと木戸をくぐって小屋の中へ忍び込んだ。ジンタの音が大きくなる。ぱっと明るく光の射した舞台が眼の前に開けた。  パンツ一枚の大きな男が、横を向いて鉄の棒を器用に操《あやつ》っている。|サムソン《ヽヽヽヽ》ダナ。|サムソン《ヽヽヽヽ》ガ百人力ヲ見セテイルノダナ。そのふくれ上った二の腕の筋肉が、鉄の棒よりも太く逞《たくま》しい。胸毛の生えた胸のあたりが、汗で黒々と光っている。次は鉄の玉だ。それをぐいと持ち上げてこちら向になる。  ——村越先生!  声が出そうになって慌てて口を抑えた。どう見たって間違いじゃない。モシアレガ|サムソン《ヽヽヽヽ》ダトスルト、……そう思う間もなく、ジンタの伴奏に乗って肉襦袢《にくじゆばん》一枚の女が袖《そで》から走って来ると、今しも鉄の玉を足許に置くために身体を前に屈《かが》めたサムソンのその背中にするすると登った。サムソンが身体を起すと、ダリラは(勿論《モチロン》アレガ|ダリラ《ヽヽヽ》デナクテ誰ダロウ?)巧みにサムソンの肩の上に這い上り、調子を取ってそこに立ち上った。口の端にある小さな靨《えくぼ》、間違いもなく青山先生だ。ワタシノオ乳ヲ欲シガッタワネ。身体を反《そ》らせているから、肉襦袢の下の胸がふっくらと盛り上って見える。サムソンはその小さな両足首を手で抑えている。それをしっかと握り締め、そろそろと肩の上から離しにかかった。見る見るうちに、ダリラのすらりとした身体が、サムソンの両方の掌《てのひら》の上に移動した。両手を横に水平に上げて均衡を取りながら、サムソンの手が動くのにつれて、ダリラの位置は高くなったり低くなったり、右へ行ったり左へ行ったりする。急にジンタが狂ったように調子を高く響かせ始め、サムソンがその万力のような手でダリラの足首をぐっと握り、身体を捩《ねじ》るように廻転させた。あっという間にダリラの身体は横倒しになり、今にも逆さまに落ちるかと思うと、サムソンが身体を廻転させるにつれて、独楽《こま》のようにサムソンの廻りを廻り始めた。ダリラの髪が宙に靡《なび》いている。二三回ぐるぐると廻してから、サムソンはダリラの身体をぱっと抱きかかえるようにして廻転を止めた。ダリラは平気な顔でサムソンの手を離れると、こちらを向いて舞台から丁寧にお辞儀をした。太郎の廻りで拍手が起ったが、その辺は舞台ほど明るくなかったから、太郎にはお客たちの顔は見定められなかった。  ジンタが陽気な音楽に変った。するとダリラが何処《どこ》からか鎖を持ち出して、それでサムソンをぐるぐると縛り始めた。丹念に、鎖がサムソンの岩乗《がんじよう》な身体に巻きついて行く。金属のじゃらじゃらいう音。サムソンは少し白眼を出して天井の方を向いている。身動きも出来ないほどにサムソンの身体を縛ってしまうと、ダリラはサムソンをからかい始めた。遠山君ハマダ赤チャンネ。コンナ易シイコトガ分ラナイノ? 可哀《かわい》そうなサムソンの廻りを、踊るような足取で往《い》ったり来たりする。先生ノ言ウコトヲヨク聞カナケレバ駄目ヨ。手にはしなやかな鞭《むち》を持って、猛獣使いのように床をぴしぴしと叩《たた》いた。サムソンはまだ白眼を出して天井を向いたままだ。  急にジンタが止《や》んだ。息づまるような沈黙。サムソンの顔が紅潮し、鎖の下のふくれ上った筋肉がみしみしと音を立てるよう。サムソンが怒ったのだ。縛られたままの身体を一歩前に乗り出すと、ううむ、という気合がその咽喉《のど》から洩《も》れる。ダリラはぎょっとなってその様子を見詰めている。サムソンの緊張した顔から汗がぽたぽた落ちる。  ——ええい!  太郎はびっくりして飛び上った。じゃらじゃら、という鎖の音。今まで蛇《へび》のようにサムソンに纏《まつ》わりついていた鎖が、音を立ててその足許に頽《くず》れ落ちた。サムソンが鎖を断ち切ったのだ。ダリラは声をあげて、舞台の袖の方に逃げ出した。サムソンがのっそのっそとそのあとを追って行く。ジンタが騒々しく始まった。  ——凄《すご》いなあ、サムソンは。  ——本当だね。物凄い力だね。  合槌《あいづち》を打たれて太郎は初めて気がついた。アブクちゃんだ、アブクちゃんが太郎の側で一緒に舞台を見ていたのだ。イツノマニ来テイタノダロウ? しかしその疑問よりも先に、逃げて行ったダリラのことが心配になった。  ——サムソンが追い掛けて行ったね? どうするのだろう? ダリラの足を持ってまた振り廻すんだろうか?  舞台の上には誰もいない。ジンタだけが華々《はなばな》しく鳴り響いている。行ってみないか? とアブクちゃんが誘うので、太郎も手を取り合ってざわざわ騒いでいるお客たちの間をすり抜けると、舞台の裏手へ廻った。  そこは薄暗くて、床が足の下でみしみし鳴った。ぼんやりした裸電球が二人の影を壁に大きく写し出す。誰もいないのだ。太郎は先に立って行き、鉄の棒に蹴《け》つまずいた。屈んでちょっと持ち上げてみようとしたが、それはびくとも動かなかった。  ——あれを見て御覧、とアブクちゃんが言った。  太郎が立ち上ると、息の詰まるような光景が眼に映った。裸の女が両手を頭の上にあげた万歳のような恰好《かつこう》で、柱に結《ゆわ》いつけられている。よく見ると太い鎖が、幾重にも身体の上を走って身動き一つ出来ないのだ。  ——ダリラだ!  しかし俯向《うつむ》いていた顔を苦しげに起すのを見ると、それはダリラではなかった。それは竜の餌食《えじき》にされるあの可哀そうな少女、アンドロメダだった。だからあんな恰好にされているのだ。  二人が急いで側へ近づこうとした時、さっき姿を消したダリラが、前のように身体にぴったり合った肉襦袢を着、手に細い鞭を持ってまた現れた。  ——しっかり勉強をしないとこうですよ。切紙細工ばかりしていて宿題をやらないとこうですよ!  ダリラはしなやかにしなう鞭で床をぴしぴしと叩いた。その度《たび》に、自分の身体を鞭《むちう》たれたかのように、アンドロメダは身をよじらせて|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いた。  しかしそれも一瞬だった。太郎たちの後ろからサムソンがのそのそと歩いて来た。ダリラはびっくりして声を上げると、その場に鞭を投げ捨てて大急ぎで逃げ去った。サムソンも、前に変らない足取で、暗闇の中に悠々《ゆうゆう》と消えて行った。  ——アンドロメダを助けなくちゃ、と太郎は叫んだ。  しかしアブクちゃんはダリラの捨てて行った鞭を拾い上げると、ためしに二三回宙に打振って、愉快そうに笑った。  ——これはアンドロメダじゃないよ、太郎君。これは僕の姉ちゃんじゃないか。  鎖で縛られた少女が今までつぶっていた眼を開いた。その弟に似た下ぶくれの顔と黒い大きな眼。好子さんにまぎれもなかった。可哀ソウニ、ドウシテコンナトコニ縛ラレテイルノダロウ? 人サライニサラワレタンダロウカ。  ——姉ちゃんだから苛《いじ》めてもいいんだ。  アブクちゃんはそう言うと、手にした鞭でぴしりとしなやかな脚《あし》の肉を打った。好子は悲鳴をあげて身体をよじらせるが、徒《いたず》らに鎖が白い身体に食い込むばかり、髪が散って顔が見えなくなると、それはまた岸辺の岩に繋《つな》がれたアンドロメダに変った。  ——太郎君、君もぶっておやり、とアブクちゃんが鞭を渡した。姉ちゃんだから苛めてもいいんだよ。  |アンドロメダ《ヽヽヽヽヽヽ》ヲ苛メタノハ|フィネアス《ヽヽヽヽヽ》ダ。|フィネアス《ヽヽヽヽヽ》ハ石ニ変エラレタ。悪イ奴《ヤツ》ハミンナ石ニ変エラレル。僕ハ空ヲ飛ブ|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ダ。  太郎はアブクちゃんの渡してくれた鞭を受け取った。シカシコレハ僕ノオ話ノ邪魔ヲシタ好子サンダ。太郎は鞭を振り上げた。一遍デイイカラ苛メテミタイナ。好子は身体をくねくねと動かし、何か言いたそうにして太郎を見た。|アンドロメダ《ヽヽヽヽヽヽ》ハキット泣クダロウ。好子が一声叫んだ。  ——石にされるわよ!  石! 僕ハモウ|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ジャナイ。太郎は慌てて鞭を投げ捨てた。大変ダ。僕ハ|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ジャナクナッタ。飛び上って走り出した。アブクちゃんが後ろから何か叫びながらついて来るようだったが、灯影の射さない楽屋裏をあっちこっち走って、天幕の外へ飛び出した時には一人きりだった。息をはずませて暗闇の中に佇《たたず》んだ。と、側に人影が動いた。  ——夜中に墓地で。  それを言ったのは鬚の白い人相見、聞いているのは小屋の呼び込みの男だ。太郎はそっとそこを逃げ出した。夜が重々しく太郎の上に垂れ込めている。どこか遠くでひそひそ声が聞える。太郎は耳を澄ました。  ——夜の女王だ。  ——夜の女王のお出ましだ。  ——夜の女王が石に変えてしまうのだ。  ぎょっとした。誰ヲ?  ——太郎を。  思わず太郎は口を抑えた。それを言ったのは自分の口だった。墓地の方へ逃げ出したら危ないから、足を自然にもと来た方へ向けた。相変らずジンタがとどろき、呼び込みの声が喧《かしま》しい。アセチリンの臭《にお》いが漂って来る。ふと愛ちゃんのことを思い出した。それと同時に、ちらちらする灯影の中に、三代ちゃんの歩いて行く後ろ姿を認めた。その側へ駈出《かけだ》して行った。  ——三代ちゃん、と息をはずませた。愛ちゃんと一緒じゃないの?  三代ちゃんは胡散《うさん》くさそうに太郎の方を見た。怯《おび》えたような表情だった。  ——ね、愛ちゃんいないの? と熱心に訊《き》いた。  三代ちゃんは暫《しばら》くの間まじまじと太郎を見詰め、ぽつりと言った。  ——愛ちゃんはとうに死んだわよ、知らなかったの?  ——え? 本当? いつ? と続けざまに訊き返した。  ——もう一月くらい前よ。  ——じゃもう会えないんだね、とがっかりして小さな声で言った。そう、死んだの?  三代ちゃんはまだまじまじと太郎を見ていたが、好きだったの? と訊いた。  ——うん。とても。  ——じゃ可哀《かわい》そうだからいいこと教えたげる、と太郎の耳に口を寄せた。夜中に墓地に行けば会えるわよ、と早口に言った。  それだけだった。太郎が問い返そうとすると、三代ちゃんは燕《つばめ》のようにもう身を躱《かわ》していた。太郎は暫くその後ろ姿を眼で探したが、やがて途方に暮れてそこに立ち侘《わ》びていた。夜中に墓地で。しかしそこでは夜の女王が、太郎を石に変えようと思って待ち受けているかもしれないのだ。ドウシタライイダロウ?  お寺の山門はすぐそこだった。その向う側には光の射している電車通りが見えた。振り返れば暗い石段。とみこうみして、とうとう決心した。石段を一段ずつ登った。登りつめてから石甃《いしだたみ》の道を歩き、お寺の前でお辞儀を一つし、横に逸《そ》れて墓地の方へ足を運んだ。あたりには誰もいない。闇《やみ》は濃く、墓地を囲む欅《けやき》の高い樹々が、黒々と星空に聳《そび》え立っている。夜気はもう涼しすぎるくらいなのに、太郎は掌《てのひら》に汗をかいている。すたすたと墓地の入口まで来ると、誰かいる。誰かが通せんぼをしている。ダレ?  ——そこに来たのは遠山か? 何しに来た?  その声は友吉だ。太郎は掌を固く握り締めた。  ——僕、愛ちゃんに会いに行くんだ。  ——ははは、そうは行かないぞ、弱虫。  友吉は勝ち誇って相撲取《すもうとり》のように両手を差出した。もう呪文《じゆもん》を称《とな》えるひまもなかった。太郎は小さな身体《からだ》を火の玉のようにして相手の胸に飛び掛った。友吉が思わずよろめくのを、しゃにむに押して押して押しまくった。汗で濡《ぬ》れた相手の背中を抱え込み、手探りでバンドを探し、それを握り締めた。立ち直った友吉が太郎を振り飛ばそうとしてしきりに足搦《あしがらみ》を掛ける。それを構わず、力の限り押した。あっ、と友吉が声をあげ、後ろざまに引繰り返ると、太郎はその上に折り重なって地面の上に顛倒《てんとう》した。友吉の手がゆるんだ。太郎は素早く起き上ると、墓地を抜ける細道をどんどん駈出した。今になって呪文が思い浮んだ。|ペルセウス《ヽヽヽヽヽ》ハ空ヲ飛ブ。太郎は今、ペルセウスよりも早く墓地の中を走って行った。  ——太郎はそんなに急いで何処《どこ》へ行くの?  その声で走るのを止め、あたりを見廻した。お母さんがいる、おじいさんがいる。それに良ちゃんもちいちゃんも。みんな見知った顔だ。ただお母さんの顔だけは、古ぼけた写真のようにはっきり見えない。それは聖母マリアのようでもあるし、青山先生のようでもある。その手に縋《すが》りついた。  ——お母さん!  ——そんなに早く走ると息が切れますよ。  ——この子は大人しすぎるから、ちと腕白を見ならう方がいい、とおじいさんが言った。  ——僕もう相撲を取っても君に負けないよ、と良ちゃんが言った。  ——僕だって。僕、今さっき友吉を負かしたくらいだから。  ——お兄さん、あたいの猫を見て。可愛《かわい》いでしょう?  ちいちゃんの手の中で小猫が鳴いた。  ——おや、ミミイだ。ちいちゃん、これ何処で拾ったの? これ僕の飼っていたミミイだよ。  ——ここで拾ったのよ。あたいの大事な小猫ちゃん。  太郎は暫く小猫の顎《あご》を撫《な》でていたが、ふと思い出して顔をあげた。  ——ね、誰か愛ちゃん何処にいるか知らない?  それからあたりを見廻し、おじいさんに呼び掛けた。  ——おじいさん、僕、鳩時計に願を掛けたんだよ、愛ちゃんに会いたいって。鳩時計はきっと願を叶《かな》えてくれる筈だね。  ——その子はもっと向うの方にいるだろう、とおじいさんが答えた。  太郎はまた急いで歩き出した。暗闇の中を透《すか》すようにして見渡した。樹がざわざわと葉群《はむら》を動かしている。頸《くび》に繃帯《ほうたい》を巻いた女の子が、欅《けやき》の木の下に立っている。その側へ走り寄った。  ——愛ちゃん!  愛ちゃんは冷たい眼でこちらを振り返った。ほんの少し、唇を開いてほほえんだ。  ——愛ちゃん、死んだんだって? 本当?  ——本当よ。  ——僕ちっとも知らなかった。僕、愛ちゃんと友達になりたいと思っていたのにな。  ——もう駄目よ。太郎さんどうしてこんなとこへ来たの?  ——だって会いたかったんだもの。  風がまたざわざわと木の葉を揺った。太郎は愛ちゃんの冷たい手を握り締めた。  ——僕、愛ちゃんがそりゃ好きだったのにな。  ——だって太郎さんは意地悪したじゃないの? そう言って愛ちゃんは片手で帽子を抑えた。それは黄色いベレだった。  ——僕どうしていいか分らなかったんだよ。  太郎は困ったように下を向いた。愛ちゃんはまた寂しそうに微笑した。もういいのよ、と言った。  太郎が思わずほっと溜息《ためいき》を洩《も》らした時だった。さっきまで木の葉のざわざわいう音だと思っていたのが、明かに人の呟《つぶや》く声に変った。  ——夜の女王だ。  ——夜の女王のお出ましだ。  ——夜の女王が石に変えてしまうのだ。  ——人間どもを。  ——人間どもを。  あちらの闇、こちらの闇から、声が高く低く響き渡った。  ——大変だ、と太郎は叫んだ。僕は石に変えられてしまう。  ——悪いことをしなければ大丈夫よ、と愛ちゃんが言った。  ——駄目なんだ。僕さっきアンドロメダを苛《いじ》めようとしたんだ。僕はペルセウスじゃなくなった。  星空が揺れ始めた。太郎は愛ちゃんの手を振り払って逃げ出した。細い真暗な道を逸散に走った。声が太郎に追い縋った。  ——メドゥサは夜の国の女王。  ——メドゥサの心は石よりも冷たい。  ——メドゥサの首は人を石に変える。  まるで太郎の心の中から湧《わ》き出してでも来たように。  走りながら怖《こわ》いもの見たさに振り返った。来る、来る。夜の女王だ。白粉《おしろい》の濃い、口紅の真赤なその顔。髪が後ろざまに靡《なび》いている。太郎は一心不乱に駈出した。白い石の墓が太郎の走って行く道の両側に黙々と立ち並ぶ。コノ墓ハミンナ石ニ変エラレタ人達ダ。僕モアアイウフウニ変エラレテシマウノダ。  もうどうにも息が切れて走れなくなった。手や足がそろそろしびれ出したようだ。見ると道のほんの横に、下ぶくれの顔をそのまま丸石にした墓がある。アブクチャンダ。アブクチャン、君モウ石ニサレテシマッタノ? 振り向くと、夜の女王がもうすぐそこへ迫って来る。モウ駄目ダ。  ——太郎君、こっちへ逃げるんだよ、と側でかすかな声がした。  ——直ちゃん! 泣きそうな声で叫んだ。  ——太郎君は僕にあんないい顕微鏡をくれたんだもん、僕、姉さんに悪いけど助けてあげるね。こっちから逃げるんだよ。十二時を打つまでに家へ帰れれば大丈夫さ。  ——ありがとう、直ちゃん。  それから一心に走った、走った。自分の喘《あえ》ぐ息のほかには何も聞えなくなった。星空が流れて行く。石の墓が走り去る。樹が倒れる。激しい呼吸にまじって、発条《ぜんまい》のひきつれる掠《かす》れた金属性の音。  クックウ、と一つ。夜の女王があでやかに笑う。  クックウ、と二つ。直ちゃんが顕微鏡を持った手で行先を示す。  クックウ、と三つ。村越先生が大きな鉄の玉を足許に置く。  クックウ、と四つ。青山先生が肉襦袢《にくじゆばん》を着て鞭《むち》で黒板を指《さ》す。  クックウ、と五つ。アブクちゃんが嬉しそうに手を叩く。  クックウ、と六つ。好子さんが縛られた鎖の下からするりと抜け出す。  クックウ、と七つ。友吉がすとんと仰向に引繰り返る。  クックウ、と八つ。お母さんが心配そうに太郎に手を差延ばす。  クックウ、と九つ。おじいさんが鳩時計の前でお辞儀をしている。  クックウ、と十。ちいちゃんが小猫のミミイを抱えて好い子、好い子をする。  クックウ、と十一。愛ちゃんが頭のベレをしっかと抑えている。  そしてクックウ、と最後の十二が鳴り終った。  太郎は眠る。 [#地付き](ギリシャ神話はマラルメ「古代の神々」に拠《よ》る。——作者) [#地付き](昭和二十九年七月)   [#改ページ] [#小見出し] 秋の嘆《なげ》き         ——マリアが私を去って他の星へ行ってか         ら私は常に孤独を愛した。——マラルメ    1  早苗《さなえ》の兄が死んでからもう十年が過ぎた。指折り数えるまでもなく、確に十年が過ぎている。兄の宗太郎は大学生だったし、早苗はまだ女学校に通っていた。それは戦争中で、宗太郎が学徒出陣で取られてしまったら後のことが心配だと、かねがね母が嘆いていたものだ。兄は召集になる前に死んだ。戦争が終ってからも、母はいつまでもくよくよしていたし、馴《な》れない疎開先の田舎《いなか》で、身体《からだ》を悪くして死んだ。早苗は一人で東京に帰って来て、親戚《しんせき》の家に厄介になりながら働き始めた。そして時間が過ぎた。一体いつのまに兄さんの年を追い越してしまったのだろう、と彼女は考える。自分はもう婚期を逸しかけている。平凡な女事務員として時間はどんどん過ぎて行く。兄が生きていたらきっと悪口を言うだろう。早苗、お前いつになったらお嫁に行くんだい? 兄さんの馬鹿、お嫁になんか行かないわ。早苗はそしてふと考える、私は「兄さん」と呼んでいたかしら、それとも「お兄さん」と呼んでいたかしら。彼女が時間というものを、意地の悪い悪魔のように考えるのはそういう時だ。からかったり甘えたりする時に、時々、宗ちゃんと呼んだこともある。兄は怒った。早苗、増長するとこれだぞ。拳固《げんこ》をつくって眼の前で振り廻した。早苗は笑った。宗ちゃんの馬鹿、お兄さんなんかにぶたれないわ。そうするとやっぱりお兄さんと呼んでいたのだ。早苗はそう気がついて安心した。口の中でお兄さんと呟《つぶや》いた。そっと側にいる人のように呼び掛けた。そうすると自分はやっぱりまだ女学生で、兄の勉強の邪魔をして叱《しか》られる度《たび》に母の側に駈《か》け寄っていた昔と変らないような気がする。お母さん、兄さんたらひどいのよ。兄さんと、その時言っただろうか。早苗が不安になるのは、いつも記憶がほんの少しだけ不確かなまま、彼女に思い返される時だ。何も忘れてはいない筈だ。私はいつでも好い記憶力を持っていた筈だ。お兄さんともう一度呼んでみる。誰を呼ぶよりも甘く。麻野さん、と麻野さんを呼ぶ時よりも甘く。麻野さんは呼べば必ず答えてくれるけれど(麻野さんが側にいない時に、麻野さんと呼ぶことは決してないから)、兄は答えない。兄は決して答えない。十年前の或る秋の夜に答えなかったように、それ以後もう決して答えることはない……。    2  ——兄さん、まだ起きてるの?  早苗は床の中から身体《からだ》を少し乗り出して訊《き》いてみた。隣の部屋はしんとしていた。  寝衣《ねまき》のまくれた腕が寒かった。早苗は慌てて寝床の中へもぐり込み、枕《まくら》の上にそっと横向に頭を載せた。今迄|俯向《うつむ》いたまま肱《ひじ》を突いて本を読んでいたから、両腕とも痺《しび》れてじんじんしている。腕をそっと横にずらし、身体を横に向けて母の方を見た。母はとうに寝息を立てている。遅くまで本を読んでいてはいけないよ、と母が言ったのは二時間も前のことだ。それは早苗に言ったので、兄の方は決して意見をされたことがない。だから早苗は兄と競争をするような気持で、スタンドの笠《かさ》を傾けて母の顔に灯が当らないようにしたまま、せっせと本を読んでいた。目覚《めざまし》時計の針がもう十二時を過ぎている。こうやって寝床の中にもぐり込んで、秋の夜長にいつまでも本を読んでいると、戦争なんかまるで嘘のよう。兵隊さんには悪いけど。早苗は溜息《ためいき》を一つ吐《つ》き、それから低い声でまた呼んだ。  ——兄さん、寝たの?  宗太郎は答えなかった。さっきまで頁《ページ》のめくれる音や、紙の上をペンの走る音を聞いていたように思ったけれど、空耳《そらみみ》だったのかしら。枕許のスタンドを消してみれば、隣の部屋にまだ電燈が点《つ》いているかどうかが分る筈だ。早苗は残り惜しげに読みかけの本を伏せ、そしてスタンドのスイッチをひねった。暗くなった室内に、隣との境の襖《ふすま》の間から、洩《も》れて来る明りはなかった。  その時不意に重苦しい不安が心の中を占めた。早苗はもともと甘えっ子だったから、今までにも何かというと兄を呼んだ。寝てから襖越しにお喋《しやべ》りをしたことも数え切れない。それなのに今晩、まるで兄の存在を確めてみるように呼んだのは、何かが彼女を不安にさせていたからだ(と、後になって早苗は考えた。その時はぼんやりした不安を感じていただけだ)。こんなに早く兄が眠る筈はない、兄は不眠症だと言っていつでも遅くまで起きていた。私には分らないわ、どうして眠れないの、と早苗は訊いた。子供には分らないさ、早苗ちゃんが大人になったら分るようになるさ。  私はもう眠る、と早苗は自分に言い聞かせた。私はもう子供じゃないけど、でももう眠る。早苗は暖まりすぎた足を少し蒲団《ふとん》の横の方にずらした。でも兄さんは近頃どうしたのだろう、と思った。夏休みが済んで、秋の新学期が始まるようになってから(それとも、もっと前からだったのか)、兄が不意に変った。第一に早苗や母によそよそしくなった。冗談を言ったり笑ったりしなくなった。放心したように、焦点の定まらない瞳《ひとみ》で遠くの方を見ている。早苗ちゃん、兄さんはどうしたんだろうね? と母が呟いた。何だか人が変ったみたいじゃないの。早苗はびっくりし、それから初めてそれに気がついたような気がして、自分はぼんやり屋だと思った。確に兄はどこか変になっている、しかしそれがなぜなのか、どういうふうになのか、早苗には分らなかった。前よりも無口になり、考え深げになり、無関心になった。そして今晩、寝る前に、宗太郎はふと気がついたように、早苗はどんな人と結婚するのだろうね? と言った。私は結婚なんかしなくってよ、だって戦争だもの。兄は未来が彼にだけ見えるような眼指《まなざし》で早苗を見据えた。戦争が終って何年もしてからのことさ、と言った。  早苗は暗闇《くらやみ》の中で、びくっとなって耳を澄ました。  ——兄さん、呼んだ?  もう一度スタンドの灯をつけてみた。あたりはしんとして時計が枕許《まくらもと》で時を刻んでいるばかりだった。彼女はふと、起き上って隣の部屋へ様子を見に行こうかと思った。しかし自分がなぜそんなに不安なのか、説明がつかなかった。子供らしいというので、後できっと嗤《わら》われるだろう。早苗は電燈を消した。もしお兄さんのような人が他にもいたら、いつか、結婚してもいい、と彼女は思った。そう考えたことが彼女を安心させたので、掛蒲団《かけぶとん》を頤《あご》のところまで引張り上げ、いつのまにか眠った。その間に、一つの生命が次第に喪《うしな》われつつあることも知らないで。    3  ——麻野さん、もう此処《ここ》でいいわ、と早苗は言った。  しかし心の中では、麻野さんが家まで送ってくれるだろうことは分っていた。それが分っていたから、断ってみせたともいえた。  ——そう、それじゃ僕、失敬する。  相手は意外なほどそっけない返事をした。その声だけがプラットフォームの雑沓《ざつとう》の上で、奇妙に他人の声のように響いた。急ぎ足の乗客が、二人の周囲を洗うように過ぎ去った。此処からあと、早苗は郊外電車に乗替えるのだから、二人の行先は別々になる。しかし今迄、麻野さんが彼女を映画に誘った時はいつでも、彼女の家まで送ってくれたのではなかったろうか。それが礼儀というものではなかったろうか。早苗は口の中で何か呟《つぶや》き、麻野さんが反対側の電車のドアに吸い込まれるのをぼんやりと見送った。ドアが閉り、電車が動き出し、プラットフォームの上には明るい電燈と乗客とが溢《あふ》れていた。早苗はのろのろと歩いて乗替のための階段を降った。  時間はまだそう遅いというわけではなかった。早苗は郊外電車に乗り、それを下りてから夜道をせっせと歩き、親戚の家に着いて玄関の戸を明けるまで、考えにならない考えを追っていた。その間じゅう、彼女が心の中で呟いていたのは次の言葉だった。まるで人が変ったみたい、麻野さんたらまるで人が変ったみたい。  親戚の家では若い従妹《いとこ》が、早笛の帰りを待っていた。二人は一緒にお茶を飲み、早苗は見て来た映画の筋などを話した。私も見るわ、とても面白そうね、と従妹は叫んだ。誰におごらせてやろうかな。洋裁の学校に通っている従妹は、二三人のボオイフレンドの名前をあげた。早苗は一緒になって笑った。確に、一人で見る映画じゃないわね、と彼女は言った。それを言いながら、寒々としたものを心の中に感じていた。  自分の部屋で一人きりになってから、早苗はその一晩のことを思い返した。彼女は麻野さんと一緒に食事をし、映画を見た。その間に彼女が話したこと、そして聞いたことは何だったろう。平凡な会社員と、平凡な女事務員との私的な会話。映画のストオリイは彼等の生活とは全く掛け離れていた。二人は恋人らしい恋人でもなかったし婚約者というのでもなかった。唯《ただ》の仲のよい友達、時々勤めの帰りに落ち合って一緒に映画を見るくらいの間柄にすぎない。人が変ったといっても、何が何に変ったというのだろうか。  私には誰もいない、誰も甘える人はいない、と寝る前の化粧をしながら、早苗は呟いた。か細い声で虫の鳴いているのが聞えて来た。兄さんが死んだのも秋だった、お通夜《つや》の晩には虫がしきりに鳴いた、と彼女は思った。鏡台の鏡の面が冴《さ》え冴《ざ》えと白く光っていた。しかし、変ったのは私の方かもしれない、と早苗は考え始めた。    4  しきりに虫が鳴いていて、締め切った部屋の中に線香と煙草のにおいが立ち罩《こ》めていた。早苗は小さくなって母の隣に坐り、時々顔を起して飾ってある兄の写真の方を見た。なぜそこにいるのは本当の兄ではないのだろう。過去の一つの瞬間に捉えられた、固定した表情でしかないのだろう。その写真は大学にはいった年に撮《と》ったもので、宗太郎は新しい角帽をかぶり、やや気取ったような、はにかんだような顔であらぬかたを眺《なが》めていた。  ——惜しいことをしましたな。前途有為の青年がこうした不注意で亡くなられるというのは、何としても、お国のために損失ですよ。どういうんですかな、眠られないから薬を呑む、その眠られないというのが不思議ですな。私どもの若い時分には横になるとすぐにぐうぐう寝たものですがな。近頃の若い人は神経衰弱というんですか、しかし私の考えじゃこれは贅沢《ぜいたく》な病気ですよ。いや病気とも言えん。兵隊に行って鍛えられれば直に癒《なお》るにきまっておる。何と言っても軍隊生活ほど若い者にとって薬になるものはありませんな。お宅の御子息も早いとこ出陣されていれば、こういうことはなかったのです。学生というのが一番いかん。近頃の学生はどうも懦弱《だじやく》なようですな。戦時下というのに、まだ性根がすわっておりませんな……。  一人で喋《しやべ》っているのは隣組長の小父さんだった。赭《あか》ら顔《がお》に大きな目玉が光り、それをぎょろぎょろさせながら、唾《つば》を飛ばして喋り続けた。在郷《ざいごう》軍人会の幹部で、道で会っても、いつも早苗や宗太郎を横眼で睨《にら》んで通った。今も、通夜の客たちを眺め廻しながら、時々、蒼《あお》ざめた早苗の顔をじろじろ見た。まるで早苗が気がつかなかったから、それで宗太郎が不注意で死んだとでもいうように。  なぜ私は兄さんの様子を見に行かなかったのだろう、と早苗は考えた。あんなに虫が知らせたのに。せっかく電気まで点《つ》けたのに。しかしそうした後悔よりも、今朝の母の態度の方に回想が移って行った。早苗は母から、兄さんを起しておいで、と言われて、前の晩のことはすっかり忘れて何げなく兄の部屋にはいった。蒲団《ふとん》の中の兄の顔色は異常に蒼く、その身体《からだ》はどこに触《さわ》っても怖《こわ》いほど冷たかった。母さん、来て! 兄さん何だか変よ! 母は駈《か》けつけると、兄の身体に取り縋《すが》り、早苗、早くお医者さまに、と叫んだ。早苗はふっと事の意味を了解した。錯乱した眼に、兄の机の上に封筒が置いてあるのに気づいた。それは机の真中にきちんと置かれていた。しかし彼女がかかりつけの医者を連れて家へ戻って来た時、その封筒はなかった。睡眠薬を呑みすぎたようなのでございますけど、と母は説明した。白髪の医者は訝《いぶか》しげにいつまでも首を振っていた……。  ——しかし御愁傷さまのことで。どうせのことなら戦場へ出て、名誉の戦死をされてもらいたかったですな。折角の御子息を、いや、勝手なお喋りばかりしまして……。  早苗は隣にいる母が丁寧にお辞儀を返すのを見た。母は今朝から、取り乱すこともなければ涙を零《こぼ》すこともなかった。まるで覚悟をしていたとでもいうみたいに。お兄さん、と早苗は心の中で呼び掛けた。お兄さんは睡眠薬を呑みすぎて死んだの? それとも決心して……。しかし何を決心することがあったのか。どんな不満が、どんな絶望が、兄の心の中に隠されていたのか。あの封筒の中に書かれてあったのはどんなことか。定まらない考えと、むっとするような煙草の煙と。そして溢《あふ》れ出て来る涙が、兄の写真も、気丈な母の表情も、赭ら顔の隣組長の小父さんも、ぼうっと滲《にじ》ませてしまった。    5  しかしどのように変ったのか、と早苗は思った。  時間は記憶の中では身軽に羽ばたいて、彼女を過去の場面に連れ戻すことが出来たが、それを思い出す彼女はいつも同じ時間の中にいた。記憶はいつも一足飛に十年の昔に彼女を押し戻した。私は何ひとつ変らない、と彼女は呟く。兄が死んでから、彼女はずっと一人きりだ。もう甘えることもない、親しくすることもない。母さえもが、もう彼女には以前の母ではなくなってしまった。確にそこには、兄の死因には、何かの秘密があったのだ。しかし母がそれを彼女に洩《も》らすことがなく、封筒の中身についても言葉を濁してしまった以上、早苗が自分の周囲に信じられるものを持たなくなったのは当然だった。母も死んだ。早苗にとってはもう早苗しかいない。可哀《かわい》そうにね、と鏡に自分の顔を映しながら、彼女は呟く。可哀そうに、早苗も老《ふ》けたわね、オールドミスね、いつまでぼやぼやしているの。それを呟く自分の声が、いつのまにか兄の宗太郎を真似していることに、彼女はふっと驚く。時々、自分の顔を美しいと思う。しかし美しいのは兄に似ている眼許と生際《はえぎわ》だけだ。うぬぼれていない時には、それは男のようにきつい、厳《きび》しい顔だ。ちっとも女らしいところのないこんな冷たい顔を、誰が好きになるだろう。もし私が男だったら、早苗みたいな女は御免だ。そんなにつんつんするんじゃないよ、とむかし兄が言った。お嫁にもらいてがなくなるぜ。  早苗は鏡の中で微笑した。いいのよ、兄さん。微笑して白い歯が少し見えると、昔のように兄と冗談を言い合って、大口を明けて笑いたいような気分になる。しかし微笑は、直に少しずつ消えて行ってしまう。早苗はまた呟く、まるで鏡の中にいるのが兄ででもあるかのように。私、麻野さんに振られたらしいわ。言ってしまうと、それがまるで他人の言葉のように、運命の女神《めがみ》の言葉のように、重々しく彼女の心に木霊《こだま》する。私、麻野さんに振られたらしいわ……。  早苗は鏡台の前から立ち上り、押入から蒲団を出して敷いた。それから寝衣《ねまき》に着かえ、枕許《まくらもと》のスタンドの灯を点けた。ハンドバッグの中に読みさしの本を入れていたので、口金を明けて中から紙カバーをかけた文庫本を取り出した。その時、彼女はごちゃごちゃした中身の中に一枚の小さな角封筒があるのに気がついた。そんなものを入れた覚えはなかったから、急に彼女は自分の顔の蒼ざめるのを感じながら、それを手に取った。麻野さんのしたことだ。しかしいつ、そんなチャンスがあったのだろう。彼女はハンドバッグを足許に置き、立ったまま封筒を開いて中の手紙を読み始めた。    6  ——私はもう駄目かもしれないねえ、と低い声で母が言った。  昼の間も薄暗い百姓屋の奥まった部屋の中だった。破れた障子に、廊下の向うの部屋に射す夕陽の反射が、僅《わずか》に屈折して仄白《ほのじろ》く当っていた。薪《まき》を焚《た》きつけるにおいが此処《ここ》まで流れて来た。早苗は寝たきりの母の枕許に坐って、時々手で蠅《はえ》を追っていた。母が倒れてからもう一月になり、病状はいっこうに良くならなかった。  ——厭よ、そんな気の弱いこと言っちぁ。早苗は口許に微笑をつくり、母を励ますように強い声で言った。しかし早苗にももう駄目かもしれないことは分っていた。兄が死んだあと、母は目に見えて弱くなり、もう心の支えになるものは何もないようだった。田舎《いなか》に疎開して来てからも、世馴《よな》れないこの親子は余分な苦労ばかりしていた。私が兄さんと代っていたらどんなにかよかったのに、と早苗は心の屈した時にしばしば考えた。  ——私は死ぬ前に、どうしても早苗ちゃんに話さなければならないことがあるんだけどね……。  母はかろうじてそれだけ言い、あとは苦しそうに口をつぐんだ。早苗は急に心持が悪くなった。あのことだ。今まで決して母が洩らそうとしなかった秘密。  ——何のこと? 兄さんのこと?  母は早苗の方を見て、眼で頷《うなず》いたように見えた。しかしその瞳《ひとみ》に素早く恐怖の影が揺いだのを早苗は見逃《みのが》さなかった。今まで決して早苗に告げようとしなかったことを言いたがるというのも、母に死期の迫った証拠なのだろうか。  ——いいのよ、お母さん。私、知ってる。兄さんは自殺したっていうのでしょう?  母は一層恐怖に充《み》ちた表情をした。  ——そのわけは? と微《かす》かに呟いた。  ——わけまでは知らない。兵隊に行くのが厭だったからじゃないの?  母は直に答えなかったが、天井を向いたその視線は肯定の色を示してはいなかった。何か奥深い感情がその眼の中に翳《かげ》っていた。  夕暮が近づき部屋の中に青っぽい光が濃くなったが、電燈の点く時間にはまだ間があった。  ——私、御飯の支度《したく》をして来なくちゃ、と早苗は言った。  母は早苗の方に眼を向けた。  ——私はどうしても話さなければいけないのだけど、でもね、それを話した方が早苗ちゃんのためになるかどうか……。  ——聞いていけないこと?  ——知らないで済めばそれに越したことはないけどね。  ——兄さんのことじゃないの?  ——それもあるけど、でもお前のお父さんが……。  早苗はがくんとした。母はそこで言葉を切った。早苗は父のことは覚えていない。父は早苗がまだ赤ん坊の時に死んだ。流行性の感冒かなんかで死んだ。そして父のことは一家の話題にのぼることはなかった。今、母は早苗に対する義務として、彼女に父親のことを聞かせようとしているのだろうか。しかも母の表情には、病人が過ぎ去った昔を懐《なつか》しむような気配は微塵《みじん》も感じられなかった。そこには何かしら苛立《いらだ》たしい嫌悪《けんお》のようなものがあった。  ——でもまたにしよう。  母は溜息《ためいき》を吐《つ》き、やさしく早苗に頷いた。  ——私ももう少しよく考える。聞かせたところでどうにもなるものじゃない。  早苗は、それじゃ私、お勝手をして来ます、と言って立ち上った。母が嗄《しやが》れた声でうしろから呼び止めた。  ——早苗ちゃん、宗太郎はね、あれはお薬を呑みすぎて死んだんですよ。自殺じゃありません。よくって、決して自殺したんじゃありませんからね。  あんな嘘を、と早苗は勝手口に立って行きながら思った。なぜお母さんはあんな見え透いた嘘を私に教えるのだろう。彼女は兄のことや、また父のことを、母に聞きださなければならないと決心したが、次の日母の病状は急激に悪化して、そのあと死ぬまで、遂にその話に再び触れることはなかった。    7  今晩、僕はあなたに会ってこの話をするつもりですが、ひょっとして話す機会がないかもしれませんので、手紙を書いておくことにしました。  早苗さん、あなたはきっと僕の気持に気がついていたでしょう。僕は随分考え、今から半月ばかし前に、とうとう父に早苗さんと結婚したいという意志を伝えました。父はもともと、結婚問題は僕の好きにさせると言っていたので、僕が決心したということは、ほぼきまったも同然だったのです。それなのに僕があなたにそのことを言わなかったのは、父が一応身許を調べてからのことにしようと但し書をつけたからです。母も、血統さえよければ異存がないという意嚮《いこう》でした。僕はあなたを不意におどかして、びっくりさせるつもりでした。  僕はこのあとのことは書きにくいのです。いっそ黙ったままあなたと別れてしまって、あなたが御存じないままにしておいた方が親切なのじゃないかとも思います(あなたが知っていながら僕に教えなかったとは思えませんから)。でももしこれが現実というものなら、あなただって現実を知らずに生きて行くことは卑怯《ひきよう》でしょう。で、僕は思い切ってこれを書くことにします。  あなたのお父さんはあなたのごく小さい時分に亡くなられたと聞いていました。その人のことが調査の結果分ったのです。あなたのお父さんはM病院で亡くなられました。それは狂人を収容する病院なのです。亡くなられたのは実際はもっと後のことです。しかし病院に入られた日を、あなたのお母さんは命日だとあなたに教えられたのでしょう。  僕はこのニュースを聞いて、亡くなられるまであなたのお母さんがどんなにか苦労をなさっただろうと、同情しました。あなたもこのことを知って、どんなにか驚かれるでしょう。  僕の両親は、当然、結婚に反対です。僕はどうしていいのか分りません。それは僕が卑怯だからです。しかし僕は両親と絶縁してまであなたと結婚するだけの勇気が持てないのです。もし僕たちに子供が生れたら、僕たちは一生びくびくして暮さなければならないのです。僕はそれに耐えられそうにありません。  早苗さん、どうか僕の気持を察して下さい。僕は今、何だか気が狂いそうなほどです。あなたも運が悪かったし、僕も運が悪かったのです。僕は一生あなたのことは忘れません。    8  疎開先から早苗が東京へ戻って来た時に、彼女は全くの一人きりだった。やがて丸の内のオフィスに勤めるようになってから、彼女は次第に孤独であることに馴《な》れて行ったが、兄の不意の死の原因となったものに対して、いつまでも疑問が残った。  早苗は仕事の上では頭もよくきびきびと働いた。しかし彼女の心の中にどのような感情が揺れ動いているものか、同僚には分らなかった。彼女に附き纏《まと》う男たちもいた。早苗の持つ冷たさは遠目には魅力的だった。それでも彼等が心から打融《うちと》けて来ることはなかった。どんなに親しく話し掛けても、早苗の心の中には固い壁のようなものがあり、男たちはその壁に自分の声の木霊《こだま》を聞いて気恥ずかしくなってしまった。それはまるで一人《ひとり》相撲《ずもう》を取っている感じだった。男たちはもっと無邪気な、心の素直な娘たちを愛した。  早苗が自分を頑《かたく》なだと思うようになったのは、兄が死んで、母がその死因を隠したことに始まっていた。彼女は母に対して、母が死ぬまで頑なだった。兄の死因を自分でもきっと突きとめてみせると誓った。あれほど親しくしていた兄が、自分にそのわけも言わずに死んだということが、彼女を人間嫌《にんげんぎら》いにした。どんなに親しくしていても、人は他人の心を知り得ないのだろうかと彼女は疑った。彼女はいつでも固く結んだ唇《くちびる》と、相手を真直《まつすぐ》に見詰める瞳《ひとみ》とを持っていた。  早苗は兄の古い友達などにも会い、人が変ったと言われた頃の兄の様子を尋ねた。しかしそれで何が分っただろうか。確に兄は戦争を嫌い、兵隊に行くことを厭がった。しかしそれは自分の生命を断つだけの充分の理由とは思われなかった。兄が恋愛をしていたことも知った。しかしその恋愛がどんなに不幸なものであったにせよ、それもまた理由には弱すぎた。少くとも私なら、失恋したぐらいで死にはしないわ、と早苗は呟《つぶや》いた。早苗は気質の上では兄とそっくり似ていると思っていたから、この推測は間違いない筈だった。それならば一体何が残るだろう。何かしら哲学的な理由だろうか。人は哲学的な理由だけで死ぬものだろうか。早苗には分らなかった。死者には死者だけの理由があるに違いない。そうやって一心に過去を追い詰めて行くと、早苗はふと自分の中の或る部分が既に死んでいるように感じることがある。兄の死と共に自分の中の成長も止り、自分が今でもお下げの女学生のように感じることがある。早苗が過ぎ去った時間を惜しいと思うのはそういう時だ……。    9  早苗は立っている自分の両足が小刻みに顫《ふる》えているのを感じた。手紙を二回ほど読み返し、ぼんやりと壁の方を見た。身体《からだ》が顫えるのは寒さばかりではなかった。そうだったのか、それだから麻野さんは今晩私とあまり口を利《き》かず、途中で別れて帰ってしまったのか。  早苗は手紙を元通りに畳んで封筒に入れ、それを机の上に載せた。ちょうど昔、兄が机の上に封筒を置いて、早苗の呼ぶのに返事もせず、永遠に眠ってしまった時のように。それから急いで寝床にはいった。掛蒲団《かけぶとん》にすっぽりくるまり足を曲げて小さくなっても、悪寒はいっこうに去らなかった。歯を食いしばって、彼女は一心に考え込んだ。  考えたのは麻野さんのことではなかった。麻野さんが彼女を愛していたことも、結婚しようと思っていたことも、それを彼女に隠しているうちに或る事実が分って結婚を取りやめる気になったことも、それは早苗にとってもう大事なことではなかった。なぜなら、彼女は麻野さんを愛してはいなかったから。それからまた事実、——父が狂人病院で死んだという事実、そのことを考えたわけでもなかった。早苗が考えたのはただ兄のこと、不可解な理由のもとに死んだ兄の、その自殺の動機だった。  兄さん、兄さんはそれを知ったのね、知っていたのね、と早苗は心の中で呟いた。兄さんが人が変ったのは、私たちのお父さんが狂人だったことを知り、その同じ血が自分たちの中にも流れていることに気がついたからなのね? ひょっとしたら、もっとはっきりした徴候が、狂気の予感が、兄さんをおびやかしていたのかもしれないわね。  早苗はその頃の兄の表情を思い起した。あの暗い、陰気な眼指《まなざし》。兄さん何を考えてるの、そんな深刻な顔をして? そう早苗が訊くと、宗太郎はふっと気を取り直したように、早苗の顔を見て笑った。しかしその時の仮面の下に隠れていたものは、深い絶望的な恐怖だった。最早自分の理性を信じることの出来ない恐怖、自分の中に流れている血を信じることの出来ない恐怖。誰にも言えず、誰からも理解されることのない秘密を持って、兄はひと思いにこの恐怖と共に自分の生命をも殺したのだ。  早苗はわななき続けた。兄を苦しめたものはこの秘密だった。母を苦しめたものも、やはり同じ秘密だった。そして今、早苗の手足を痺《しび》れさせるものも、この初めて知らされた事実に他ならなかった。何という余計なことを麻野さんは教えてくれたものだろう。しかしそれは現実だった。それは取り返すことの出来ないもの、自分ではどうしようもないものだった。それは寒気《さむけ》のように彼女の頭脳の中に忍び入った。  私にもこれからあと、毎晩のように不眠の夜があるだろう、と早苗は思った。不眠と、浅い眠りと、幻想と、悪夢とがあるだろう。私を相手にしてくれず、私と結婚しようという人もなくなるだろう。早苗がいま一番ほしい相手は兄の宗太郎だった。兄ならば心ゆくまでこの悩みを語り合うことも出来る。しかし兄は昔、早苗にその秘密を打明けることもなく、早苗ちゃんはどんな人と結婚するのだろうね、と言い遺《のこ》したまま、彼女が幸福になることを祈って死んだ。それは十年も前のことだ。自分にとっての最も重要なことを知らず、幸福になることも出来ないで、ただ平凡に過ぎてしまったこの十年が、今、早苗には唯の一瞬のように思われる。兄さん、もう寝たの? と訊いて、その答を待っていた間の短い瞬間のように……。  でも私は生きる、と彼女は呟いた。悪寒はとまったが両足は氷のように冷たかった。兄さんが死んだのは秋だった。あの頃は寝るとすぐに足が暖まったものだ。私はスタンドの灯を点けて、目覚《めざまし》時計の針を気にしながら、いつまでも本を読んでいたものだ。電燈を消すと直に眠った……。早苗はそういうことを思い出した。自分の横で母がすやすやと寝息を立て、隣の部屋の襖越《ふすまご》しに兄が本の頁《ページ》をめくる音が聞えて来た。しかし彼女は一人きりだった。生き残った秋の虫が、微《かす》かにかぼそい声で鳴き続けているばかりだった……。 [#地付き](昭和二十九年十月)   [#改ページ] [#小見出し] 沼  子供は怯《おび》えたように、少し離れたところから沼の方を見ていた。  沼はすぐそこだった。夏休みの終りに近い頃で、背の高い、頂きに白い花弁をつけた鉄道草が、身の丈よりも高く生い茂っていた。草の間から、折よくぎらりと太陽の光線を反射した沼の水が、子供の眼に魔法のように映った。あの光ったところが沼なのに違いない。  すぐ先の方で、小学生たちが四五人手を振りながら口々に騒いでいた。そこは夏の間じゅう、子供たちが蝉《せみ》を取ったり、蝶《ちよう》を追い掛けたりして遊ぶ場処だった。すぐ側に、「ごみをすてるな」と書かれた立札があり、その先に、「危険。ここで遊んではいけない、」と下手《へた》な字で警告した立札が、鉄道草の間から顔を出していた。しかし子供は此処《ここ》へ来たのは初めてだったし、まだ小さくて、書かれた字が読めなかった。  子供は少しずつ沼の方へ近づいた。そこはお母ちゃんに、行ってはいけないととめられていた場処だ。雨がしょっちゅう降っていた頃、沢山の蛙《かえる》の声が一かたまりになって、庭の向うの方から聞えて来た。蛙はいつでもおどけたように、「お出《い》で、お出で、」と鳴いた。 「ほら、沼で蛙が鳴いてる、」とお母ちゃんが言った。 「どこにあるの、その沼?」  そう訊《き》いてみたら、お母ちゃんは眼を三角にして、「駄目。ボクなんかの行くとこじゃないのよ。一人で行っちゃ駄目、」と言った。あんなに蛙が待っているのに。  子供はまだ少し怯えていた。小学生たちのきいきいいう叫び、甲高《かんだか》い笑い声が、少しずつ子供の気持を落ちつかせた。だって、いつのまにか来てしまったんだもの。子供は、自分よりも大きな男の子たちに見つからないように用心して(きっと意地悪だろうから)前へ進んだ。大きな樹の幹を楯《たて》に取り、怖々《おずおず》と首を出して覗《のぞ》いてみた。  そこが沼だった。どんよりした生ぬるそうな水が、すぐ足許からひろがって、——しかし眼を移すと、ほんのちょっと先には、もう苔《こけ》の生えた、樹の茂った、向う岸がある。何だい、こんなに小さいの。それに蛙もいなかった。ぎらぎらした太陽が水の上に浮んでいるばかり。  どぶん、——水音がした。小学生たちの一人が、不意に小石を投げ込んだのだ。思わず樹の幹にしがみつき、波紋が、太陽と、青い藻草《もぐさ》と、きたならしいごみとをゆらゆらさせ、じきに向う岸にぶつかって、幾重にもまじり合うのを見ていた。びっくりした。みんみん蝉が上の枝から、おしっこをして飛び立った。おしっこをしたのは僕じゃないよ。  子供はそこで初めて気がついた。向う岸だと思ったのは小さな島で、沼はその澱《よど》んだ水をめぐらしてぐるっと島を囲んでいるのだ。その島は子供なら五六人は立ったり坐ったり出来るくらいの大きさがあり、その中央に太い樹が左右に枝をひろげて、そのうちの長く伸びた一本の枝は、こっちの岸まで水の上を渡っていた。その枝を見上げながら、小学生たちが口々に叫んでいた。 「僕なら出来るよ。」 「出来ないよ。出来っこないよ。」 「出来るともさ。」  何のことを言ってるのだろう。子供は注意深い眼で、樹の蔭《かげ》から様子を見ていた。一人の子が勢いよく飛び上り、向うの島から手を伸している枝に飛びついた。しかしほんの僅《わずか》のところで届かず、勢いあまって転り落ちた。他の子たちが声を合せて笑い、転んだ子はすんでで沼へ落ち込むところだった。「どうして子供たちはあそこで遊ぶんでしょうね、」とお母ちゃんが言った。「よその子供と遊ばせないようにしろよ、」とお父ちゃんが言った。沼の水は濁っていて、見るからに深そうで、お魚や蛙なんか住んでいそうになかった。  小学生たちはまた騒ぎ出し、一人が馬になると、さっき転んだ子を背中に乗せた。その子は裸足《はだし》になって爪先立《つまさきだ》ち、ひょいと枝を掴《つか》んだ。枝はややしない、馬は飛び起き、子供たちは一斉に拍手した。ぶら下った子は赤い顔をして、仰向いたまま指先に力を入れた。 「駄目だぞ。そんなことをして落っこちたらどうするんだ。」  急に草叢《くさむら》の中から声がした。小学生たちは蜘蛛《くも》の子を散らすように逃げ出し、枝に掴まっていた子は一番あとから、やっとの思いで地面に飛び下りると、下駄を突っかけて仲間の後から走って行った。草叢の中では明るい笑い声がした。白いワイシャツを着た大人が、むっくりと起き直った。 「僕は違うんだよ。あの子たちと一緒じゃないんだよ。」  しっかりと樹の幹にしがみつき、子供は一所懸命にそう弁解した。大人は笑っていたので、安心して少し前へ出た。 「坊やは一人きりかい?」 「うん。僕、一人で来たんだ。」  大人はそれきり何も訊かず、ものうそうに煙草に火を点《つ》けた。子供は掌で額の汗を拭いた。側に寄って行き、しゃがんで沼の方を見た。その大人はちっとも怖《こわ》いところがなく、黙って煙草を喫《の》んでいた。蝉が、向うの島の中の大きな樹の幹にとまって、暑苦しく鳴き始めた。 「大きいんだね。島があるくらいだもの、とても大きな沼だね。」  大人は笑った。それは沼とも言えないくらいの小さな沼だった。そして島とも言えない位の、——しかし水の中にある陸地を島と言うのなら、樹が一本生えただけのその島も、やはり島には違いなかった。 「坊やは海に行ったことはないのかい?」 「僕知らない。」  子供はどこへも行ったことがなかった。父親は父親だけで休日を過し、母親はいつも家にいた。 「さっきの子、枝につかまったんだね。どうして枝につかまったの?」 「島に渡ろうと思ったのさ。」 「どうして? ああそうか、手を代りばんこに動かしながら行くんだね。」  子供は枝を見、枝の高さを目測した。その枝は高くて、緑色の葉がぎっしりと茂っていた。枝から幹の方に眼を移した。蝉はもうどこか他の樹へ飛び立ち、島との間の水は濁ったまま、空の青さを映してはいなかった。 「島に行けたらきっと面白いね。あそこにはきっと、誰もまだ行ったことがないんだね。」  大人は振り向いて子供の顔を見た。 「坊や、行ってみたいかい?」 「うん。小父ちゃんなら行ける?」  それから子供はもう一度、枝を仰いで見た。 「もし僕、あの枝につかまれたら、一人で行ってみせる。」  大人は立ち上り煙草をぽんと水の中に捨てた。 「じゃ小父ちゃんが向う岸に渡してやろう。」  子供は息をはずませて走った。どう走ったのか自分でも分らなくなり、道もはっきりせず、走ったり立ち止ったりして、それでもいつのまにか自分の家の方角へと近づいた。自分の家が分った時には、安心して、急におしっこがしたくなった。 「お母ちゃん、」と叫びながら、家の中へ駆け込んだ。  なぜそんなに急に逃げ出したのだろう。やさしそうな小父ちゃんだった。もしあの時逃げ出さなかったなら、きっと島へ行けたのだ。島に行ってたら、どんなに面白かっただろう。ひょっとしたら、僕はもうボクじゃなくなって、誰かほかの人になっていたかもしれない。あそこに行った人だけが、大人になれるのかもしれない。お母ちゃんも行ったことがあるのかしら。 「どこへ行ってたの、一体?」  母親は怖い顔をして訊いた。あそこはきっと秘密の場処なのだと思った。大人はあそこを教えたがらないのだ。 「どこなの… おっしゃい。」 「沼なの、」と不承不承に答えた。  母親は息を呑み、火のついたように怒り出した。なぜそんなに叱《しか》られなければならないのか、子供には分らなかった。母親は矢継早やに質問し、子供は黙っていた。何と答えていいのか分らなかった。歩いているうちにひとりでに沼のところへ出たのだ。それに僕はおいたなんかしやしなかった。おしっこを洩《も》らしたりもしてやしない。 「ボクはどうしてそんなに強情なの?」と母親は叱り疲れて、黙りこくった子供を見詰めていた。  夕方になって父親が帰って来ると、玄関口で母親は子供のことを訴えた。父親は不機嫌《ふきげん》な顔をした。何も自分が帰って来るそうそうから、子供のことなんかでがみがみ言うことはないのだ。母親は怒りの対象を父親の方に向けた。 「あなたは坊やのことを、ちっとも大事に考えていないんだわ、」と蒼《あお》ざめた表情で、母親は言い張った。  お父ちゃんはちっとも僕を大事にしてくれない、と障子の蔭で、子供は考えた。あれはきっと僕のお父ちゃんじゃないんだ。  いつ頃からか、その奇妙な考えが子供の頭の隅で育っていた。僕はちっともお父ちゃんに似ていない(「この子は母親似でしてね」)、お父ちゃんは僕と遊んでくれない、何も買って来てくれない、怒ればとても怖いんだ、お酒を飲むときっと怒るんだ、お母ちゃんだって本当はお父ちゃんが嫌《きら》いなんだ。  夕食の仕度《したく》が、卓袱台《ちやぶだい》の上で冷たくなった。 「もうよせ。いつまでもがみがみ言うな。」 「あなたはこの子がちっとも可愛《かわい》くないんでしょう? 自分の子じゃありませんか。どうしてそんなに平気でいられるんだか。この子さえいなければ私と別れるって、いつかおっしゃったわね。」 「馬鹿なことを。子供の前じゃないか。」 「子供の前でもいいんです。あなたは、あなたはボクちゃんが沼にでも落ちて死んだら、その方が、私と別れられるから嬉《うれ》しいんでしょうよ。」  母親は泣き出し、子供も一緒になって泣き出した。可哀《かわい》そうなお母ちゃん。別れるってどういうことなんだろう。  親子は冷たくなった夕食をまずそうに認《したた》めた。子供は直に睡《ねむ》たくなった。蚊帳《かや》の中へ入れられて、尚《なお》も両親が口争いをしているのを聞きながら、眠ったり、目を覚《さ》ましかけたりした。あの小父ちゃんはやさしそうだった。逃げ出さなければ、きっと島へ渡してくれたんだ。ひょっとしたらあれが本当のお父ちゃんなのかもしれない。だからちっとも逃げ出すことなんかなかったんだ。  子供はぱっちりと目を覚ました。父親も母親もぐっすりと眠っていた。子供は蚊帳から抜け出し、寝衣《ねまき》のまま小さな下駄をはいて、そっと表へ出た。月の明るい夜で、道には誰もいなかった。子供は沼の方へ歩いて行った。歩くたびに、下駄がからころとよく響く音を立てた。子供は長い間歩いた。夢の中で歩いている時にちっとも疲れないように、何の疲れも感じなかった。  昼まは鉄道草が咲いていたのに、今は月見草が首を揃《そろ》えて子供を待っていた。沼は月の光に照されて、蒼ざめた、冷たそうな水を湛《たた》えていた。水の間に、一本の大きな樹が翼をひろげたその下で、島は黒ずんで浮び上った。露に濡《ぬ》れた木の葉の一枚一枚が、ぴかぴかと輝いた。誰もいなかった。虫が子供の足許で鳴きやみ、それからまた一斉に、うるさいほど鳴き始めた。  小父ちゃんはどこにいるのだろう。  遠くで梟《ふくろう》が一声二声鳴いたが、それほど怖くもなかった。沼もそれほど怖くなかった。昼まとはまるで違って見える位に、それは大きく、美しく、妖精《ようせい》の住みかのように見えた。どこも一体に青っぽいのに、眼を凝らすと木の葉の一枚一枚をはっきり見ることが出来た。よく見ると、島から伸びて来ている樹の枝が、子供でも手が届くほど地面の方へ垂れ下っていた。  きっと小父ちゃんがこんなふうにしておいたんだ、と子供は考えた。島で僕を待っているんだ。子供は飛び上り、た易く枝を掴んだ。  枝はひんやりして、葉が一斉にさやさやと鳴った。子供は代りばんこに手を前へ動かした。次第に手の力が抜けて、足の下には沼の水が青く光っていた。夢なんだな、手を放して沼に落っこちたと思ったら、きっと目が覚めるんだな。子供はしかし、一心に手を動かした。夢でもいいから、どうしても島へ行ってみたかった。そこまで行けば大人になれるんだ。葉がさやさやと鳴り続けた。  子供は遂に樹の幹に達した。太い幹を伝って地面に下りた。島だ。苔の生えたぬるぬるした地面を、滑らないように用心して歩いてみた。どっちへ行っても沼の水が眼の前にある。月の影を映して金色に光っている。ごみも藻草も、みんな金色に光っている。ここが秘密の場処なんだ。あの大きな子たちも、ここへは来れなかったんだ。お母ちゃんは来たことがあるかしら。  母親はふと目を覚まし、機械的に子供の様子を見た。蒼ざめて立ち上り、後れ毛を掻き上げ、便所や台所の電燈を点けてみた。急いで父親を揺り起した。父親は機嫌の悪い顔で目を覚まし、暫《しばら》くは取乱した妻の様子をぼんやりと見詰めていた。薄暗い電燈の光が、蚊帳の網目のために一層薄暗くなって、子供の抜け出したあとの白い敷布を照していた。 「きっと沼だ、」と父親は言った。 「まさか、こんな夜なのに、」と母親は言った。  子供は島の上で一人だった。それを取り囲む沼の中で、一人で、少し顫《ふる》えながら、僕はもう大人だと考えていた。もう何も怖くはない。お父ちゃんだって怖くはない。沼の水に映った月の位置が前よりも少し動いた。僕はもう帰らなくちゃ。小父ちゃんはどこにもいなかったが、しかしどこかで子供を見守っているようだった。子供は安心して樹の幹を登り始めた。しかしその幹は太すぎて、そして来た時の枝はずっと上の方だった。手が疲れて来ると、また夢の中にいるような気がした。ここから落っこちると目が覚めるのだ。  両親は草を踏み分けて沼のほとりへ来た。母親は狂ったように喘《あえ》いでいた。その眼はいち早く、島の上に小さな影を認めた。父親がとめる間もなく、愚かな母親は叫んだ。 「坊や。」  子供は目を覚まし、声のする方を見、母親の肩ごしに自分を追って来た父親の鋭い眼指《まなざし》を認めた。手を離した子供の身体は地面に落ち、苔の上を滑り、沼の中へ吸い込まれた。波紋が、そこから金色の渦をゆっくりひろげ、重なり合った。 [#地付き](昭和三十年八月)   [#改ページ] [#小見出し] 風景  私がまだ療養所にいた頃のことだが、私の属していた病棟《びようとう》の大部屋の一つに、いっぷう変った患者がいた。名前を言っても始まらないから、彼ということにしておこう。私は彼とは三部屋ばかり離れた大部屋で病を養っていたが、彼の噂《うわさ》は寝たきりでいる私の耳にもよくはいった。  彼はあまり病人じみたところのない、よく肥った、血色のいい青年で、入所して来ると毎日大人しくベッドに仰向けに寝ていた。大部屋というのは六人がベッドを並べて起居しているから、自然に話もし合い仲良くもなるのだが、彼は無言の行でもしているみたいに頑固《がんこ》に口を噤《つぐ》んで、いっこうに打融《うちと》ける気配がなかった。彼が元気になって喋《しやべ》るのは、医師の廻診の時だけだった。ベッドの上にむっくり起き直ると、小心な、やや卑屈とも見える態度で、自分の病状を仔細《しさい》に説明した。それも微熱が取れないとか、食慾がないとか、夜分少しも眠れないとか、そんな苦情ばかりだった。医者は首を傾《かし》げていた。おかしなことに彼が熱心になればなるほど、彼の話が嘘だということが同室の人たちに分った。彼の食慾は旺盛《おうせい》で、病院で出るまずい一膳飯《いちぜんめし》を誰よりもがつがつと呑み込んだし、夜はその鼾声《かんせい》と歯軋《はぎし》りとで具合の悪い人たちを悩ませた。誰しもが心にそれぞれの悩みを持ち、しばしば夜中に目を覚《さ》まして枕許《まくらもと》のコップを手に取ると、眠られないでいる仲間の気配を感じたものだ。太平楽な鼾《いびき》は彼等を再び寝つかせなかった。なぜあんな嘘を吐《つ》く必要があるのだろう、と彼等は考えた。微熱の方も、看護婦は検温の結果を患者から聞くだけで、実際に体温計の目盛を見るわけではないから、ひょっとしたらそれも出まかせかもしれなかった。しかし何のために病状を悪く言うのか。不思議そうな面持で眼くばせなどをしている部屋の連中を、彼は怒ったように横眼で睨《にら》んで、一層熱心に医師に訴え続けた。  彼の病状はレントゲン写真で見ても、それほど悪いようには思われなかった。気胸を続けていたが、排菌もなく、この分では直に外気に出て作業療法に廻されるだろうと誰しも考えていたほど、人の羨《うらや》む軽症の患者だった。ただ本人だけがそれを信じなかった。彼は或《あ》る専門学校を卒業して薬剤師の免状を持っていたから、医師の方でも彼の主訴を一応は真面目《まじめ》に取り上げた。しかしどこまで本気で聞いていたやら。彼の関心はあまりにも自分の病状、それも神経質なまでに悪いと自ら信じている病状に限られていたから、人に好感を与えなかった。  私は初めて彼に会った時のことをよく覚えている。それまでにも、手洗いに行くのに長い廊下を渡って行きながら、大部屋の一つ一つを覗《のぞ》き込むようにして誰か彼かと立話をするのが我々の癖だったので、私も彼が大人しくベッドに仰向けに寝ているのは承知していた。彼は大抵、鉱石ラジオのレシーバーを耳に当て、眼をつぶり、死んだように窓際《まどぎわ》に横たわっていた。同室の誰とも打融けず、眼に見えぬ幕を廻りに垂らしている印象だった。その彼が、或る晩、私のところに突然話をしに来た。  彼は私の寝台の傍らの小さな丸椅子の上に、その大きすぎる程の体を乗せたなり、いつまでも貧乏揺りをしていた。私も好奇心は強い方だから、この人嫌《ひとぎら》いの、いつも孤立した青年が何の用事でわざわざ来たものかと思い、しげしげとその顔を見守った。眼は小さすぎて表情らしい表情を見せなかった。彼は何の前置もなしに、不意にこう訊《き》き始めた。 「一体死んだあとに霊魂というのはあるもんですかね?」  消燈前の自由時間で、私の大部屋の連中は勝手な雑談を交《かわ》していたが、珍しく彼が部屋へはいって来たので、いつのまにかしんと静まり返っていた。私は意外な質問に少しびっくりして、暫《しばら》くは彼の厚い唇の動くのを見ていた。 「あるんですか、ないんですか?」 「それは難《むずか》しい質問だな。僕は信じないけれども、あった方が都合のよい人にはあるんでしょう。君はどうです?」 「都合じゃなくて、本当にどうなんです?」 「それはないでしょうね。死んだあとは空々漠々《くうくうばくばく》ですよ。」 「霊魂はない。それじゃ死んだ人間が、我々に合図をよこすということもないわけですね?」 「そうね、そういう神秘的なことはその人の感受性次第じゃないかな。君は何かそういったことでもあるんですか?」  彼はその小さな眼をしばたたいた。それから今度は別のことを訊いた。 「同じ夢を何度も見るというのは変ですか?」 「それはよくあることでしょう。僕だって経験がある。どんな夢なんです?」 「どんな夢でもいい、」と急に彼は無愛想に言い放った。「僕だってフロイドの夢判断ぐらいは読んだことがあるから。」  彼はそう言ったなり、荒々しく椅子から立ち上って部屋を出て行った。  彼がいなくなると、部屋の連中が笑い出した。私もおかしいことはおかしかったが、彼の態度には何かしら笑えないものがあった。私の方は何げなしに夢の内容を訊いただけなのに、彼はそれを材料に、私が彼の精神生活を測定するとでも疑ったのだろうか。しかし夢の話にどれだけの秘密があり、私がそれをどれだけ読み取れるというのだろう。そんな暗い、人に語り得ない、秘《ひそ》かな慾望が彼の意識に隠されているとは思われなかった。私たちは勿論《もちろん》、誰しも一人ずつの秘密を奥底の方に隠し持ってはいたが。  それからも彼は折々私を訪《たず》ねて来た。格別の話があるわけではなく、その時々の気紛《きまぐ》れな質問だったが、私の方も寝たきりで退屈していたから大人しく彼の相手をつとめた。或る日、私は彼にその頃聞いた噂をたしかめてみた。 「君、この前の培養が出たっていうのは本当かい?」 「本当ですよ。これで外気行きは当分お流れだ。」  彼は意外なほど晴れ晴れとした顔で答えた。療養所では、培養検査が何回かマイナス続きだと外気へ出ることが出来るので、検査の結果には誰しもが一喜一憂していたものだが、彼は反対に、悪い成績が分ってほっとしている様子だった。 「君は本当に病気なのかい? どう見てもそうとは思えないがね、」と私は冗談を言った。 「悪いんですよ。喀血《かつけつ》までしたんだから。」 「しかし丈夫そうな身体《からだ》をしているなあ。」  私は感心して、小さな丸椅子の上で貧乏揺りをしている彼を見上げた。少し脂肪肥りだが、どっしりした身体つき、血色のいい顔色、どこにも暗い翳《かげ》は射していなかった。 「表から見たって病気のことなんか分るもんか、」と彼は乱暴に答えた。 「君ぐらい安静を守っていたら、培養が一度ぐらい出たってそう気にすることはないね、」と私は言った。 「僕はあと二年は此処にいるつもりだ、」と彼は言い、急いで「本当は僕の具合はとても悪いんですよ、」と附け足した。その時の彼の素早い眼の光を私は見逃《みのが》さなかった。君は早くよくなりたいとは思わないんだね、とそう私は訊きそうになって、思い返した。彼にあっては、一日も早く退所したいという人並の願望が全く逆に働いていることを、噂からも、また彼の態度からも、汲《く》み取ることが出来た。彼は彼なりに療養所の生活をエンジョイしていた。それは全く彼なりの、自分勝手な、エンジョイのしかただったが。  私が彼の生活のしかたをもっと身近に知るようになったのは、冬の初めに、彼が私のいる大部屋に移って来てからだ。彼は自分の部屋の連中と喧嘩《けんか》をして一日も居づらいから、私の部屋の空《あき》ベッドに変りたいと言った。私はそれを聞いて同室の仲間たちに相談した。多くの意見はそんな勝手なことは断った方がいいというのだったが、私は断るだけの理由もないし、彼の立場も気の毒だと言って極力彼を弁護してやった。それには彼という人間に対する小説家としての興味が、私に働いていたのかもしれない。彼は医師の許可を得て私の大部屋へ移って来た。そして彼の姿は日夜私の眼から離れなくなった。  彼は確にいっぷう変っていた。例えば毎朝、目の覚《さ》めた時には誰でもが機嫌《きげん》よく、お早うを言い合うものだが、彼はむくっと起き上ると鋭い声で、ちくしょう! と叫んだ。それからどっしどっしと洗面に行く。それも草履《ぞうり》の裏が烈《はげ》しく廊下に響き渡るくらいに、ぱたぱたと跫音《あしおと》を立てる。食事の時にはしょっちゅう、まずい、まずい、と独《ひと》り言《ごと》を言っているが、食事の速度は誰よりも早い。卵の殻などは無造作にベッドの横に投げ棄《す》てる。その卵も行商人が売りに来た奴《やつ》を値切れるだけ値切って買ったものだ。とにかくすべてが自己中心的で、見ていて厭な気持がした。薬剤師というその肩書と平常の粗野な態度との間には、奇妙な分裂があった。  大部屋の六人はそれぞれ家庭の事情も経歴も違っていて、私のように世間を知らない者にはいい勉強になることが多かった。共通した病気の悩みがあり、生活の苦労も自《おのずか》ら筒抜けになるから、よほど頑固な人間でない限り一人だけ孤立していることは不可能だった。しかし彼はこの部屋に移ってからも自分から壁を壊《こわ》そうとはしなかった。彼は機嫌のよい時には鼻唄《はなうた》をうたいながら鏡を見ていた。ベッドの横の壁に懸《か》けた小さな鏡に顔を映して、飽きもせず長い間睨めっこをしていた。彼の大きな丸い顔、その単純な造作《ぞうさく》、厚い肉感的な唇と小さな硝子玉《ガラスだま》のような眼、やや天井を向いた鼻、一体何が面白くて自分の顔をそんなにしげしげと眺めることがあるのだろう。機嫌が悪くなると幾日も口一つ利《き》かず、死んだように寝ていた。そういう日が四五日続くと、今度はばかに陽気になり、まだ学生気分の抜け切らないぞんざいな口振で、冗談などを言った。それまで貯《たくわ》えてあった精力が爆発的な発作を起して、看護婦と喧嘩をしたり、食器をひっくり返したりすることもあった。或る晩、不意に停電があり、廊下を歩いていた看護婦が誰だか分らない患者に抱きつかれたという事件が起った。はすっぱな看護婦で、派手な声をあげたので大騒ぎになったが、その犯人は彼だった。ほとぼりのさめた頃になって彼は得意そうに我々に告白した。彼の中には抑制された破壊的な情熱が巣くっていた。 「僕は俗物でいいんだ。あんたなんか、きっと僕を軽蔑《けいべつ》しているんだ、」と彼は私に言った。 「そんなことはないよ、」と私はおだやかに答えた。 「僕の理想はごく平凡なものですよ。結婚して、小さな家に住んで、子供が出来て、そしてのんびり暮せればいい。夏には庭に朝顔でもつくって、冬は長火鉢《ながひばち》でも置いて。」 「それは何も君だけに限らないだろうよ。誰だってそういうことは考えるんだろう。」 「僕はね、学校を出てから信州の上田で或る病院に勤めていた。陽当りの悪い官舎の中で、安月給を貰《もら》って、いつかはちゃんとした家に住んで、結婚して、と考えていたんです。」 「病気になったから、それで君の幸福な家庭というやつが延期になったわけだね。しかしもう少しの我慢さ。」 「そうじゃない、」と彼は言った。「病気のせいじゃない。僕は駄目なんですよ。病気が癒《なお》ったって駄目なんだ。」 「どうして? ばかに気が弱いじゃないか。」 「僕は上田にいた頃にその真似ごとみたいなことをしたことがある。がその女は死んじまった。僕が殺したんです。」  彼は低い声で、丸椅子の上から私の寝台の方へ身体を捩《ね》じ曲げて、そうささやいた。私は耳を疑った。彼は急に不機嫌になると、自分のベッドへ帰って寝てしまった。  私はかねがね彼に躁鬱病《そううつびよう》的なところがあると思っていたが、それに虚言症《きよげんしよう》を加えなければならないのかなと考えた。私はその話をもう少し確めたかったが、その後も敢《あえ》て訊くだけの勇気がなかった。しかし私は、彼と上田の話などをした。 「僕は終戦の年に、一月ばかり上田のサナトリウムにいたことがあるよ、」と私は言った。 「上田を知ってるんですか、」と彼は意外そうに私に訊いた。「あれはつまらない町でさ。」 「知ってるという程じゃない。せいぜい城址《しろあと》ぐらいだよ。僕のいたサナトリウムはその近くだった。君の勤めていた病院とは違うんだね?」 「上田でいいのはあの城址ぐらいのものだ、」と彼は言った。「あそこは春がいいんですよ。桜が咲いてね。僕はよくあそこらを一人で散歩したもんだ。」 「幸福な家庭を夢みながらかね。」  つい冗談を言うのが私の悪い癖だったが、この時も彼の気をそこねた。彼は黙り、私も黙った。我々はめいめい自分の殻の中に閉じ籠《こも》った。  その年の冬、私は手術の予後が悪くて、寝台から離れられなかった。書見器にアメリカの小説を掛けて、思い出したように頁《ページ》を繰っていたが、その難解な小説はいっこう先へ進まなかった。字引を引く気力もなく、私はぼんやりとそれから先の主人公の運命を想像していた。大して好きでもないのに心を惹《ひ》かれてしまった男、家庭も身分も棄《す》てて男と共に逃げて行く女、その二人を燃し続けている暗い情熱が、私にはロマンチックに映った。その頃の私は何も持っていなかった。明るい希望というようなものはなかった。そして我々は、誰しも、明るい希望を持ってはいず、具合の悪い時には死の幻影に悩まされ、少し具合がよくなると生の重荷に打ちひしがれた。生きることは死を乗り越えることだが、果して生きてこの療養所を出るとしても、どのような生活が我々を待っているのか。少くとも療養所の中では、国家の保護を受けて、最低の生活を保証されていた。彼のように、もっと此処にいたいという気持は、早くよくなりたいという希望とは別に、多くの患者たちの心の底の方に澱《よど》んでいた。此処では生と死とが隣合せていたが、その生をおびやかすものは死、この抽象的な運命だけだった。生きることはその純粋な形態を此処で保っていた。  一日一日は退屈だった。寒さが厳《きび》しくなると、私たちは蒲団の中にもぐったなり、レシーバーを耳にあててラジオの番組を聞いていた。それまでは外国音楽にしか興味を抱《いだ》いていなかった私が、初めて三味線の音色に耳を傾けるようになったのはその冬のことだ。それは日本への回帰といったものだろうか。私は三十を過ぎたばかりだったが、耳に当てた冷たい金属の肌触《はだざわ》りから洩《も》れて来る爪弾《つまび》きに、過去の時代への郷愁のようなものを感じていた。鋭く冴《さ》え渡る三味線の音色に、武蔵野《むさしの》を吹きすぎる松風の音が混った。声は哀婉《あいえん》を極《きわ》めていた。    ※[#歌記号、unicode303d]木枯しの吹く夜は物を思ふかな涙の露の菊襲《きくかさ》ね     重ぬる夜着や独《ひと》りねの更《ふけ》て寝る身ぞやるせなや  消燈後のしんとした病棟《びようとう》の中で、眠られぬ人たちは遅くまでレシーバーを耳から離さなかった。遠くで咳《せき》の音がした。それが断続して|水※[#「奚+隹」、unicode96de]《くいな》のように聞えた。彼は大きな鼾をかいて眠っていた。  この青年にどのような過去があるのだろうか、と私は考えた。人には皆、それぞれの過去がある。彼がのんきそうに眠り、旺盛な食慾を持ち、看護婦と戯れても、彼の心にある苦しみがどうして他人に分ろう。彼は自分勝手に振舞い、幸福な家庭を夢みている。が、彼の口は鎖され、過去にどのような苦しみを嘗《な》めたかを人に語ることはない。どのような孤独を彼が隠し持っているか、我々には分らない。私は眠られぬままに、それを勝手に空想してみた。極めて僅の材料を使って、——彼が薬剤師であること、一人の女と共に暮しその女が死んだこと、あと二年はこの療養所にいたいと言ったこと、そういう乏しい材料から、彼の運命を思い描いた。    *  彼が上田の或る病院に薬剤師として赴任して来たのは、桜の花の散り急いでいる頃だった。それまでの気楽な学生の身分と違って、今は相当の責任もあれば義務もあった。東京の下町の育ちだったから、この小《ち》っぽけな城下町は埃《ほこり》くさかったが、一日の仕事を終り、薄暗い食堂で貧しい夕食を認《したた》め、それからぶらりと城址《しろあと》の方に散歩に出掛けると、如何《いか》にも一人前になったような気がした。夕映《ゆうばえ》の雲が明るい色を残している丘の上から、西陽を浴びた二重の櫓《やぐら》や、散り残った桜の枝や、石壁や、黒ずんだ堀の水などを眺《なが》めていた。あたりには若い二人連が人目を避けるように逍遥《しようよう》し、それが彼の心に一種の羨《うらやま》しいような、腹立たしいような気持を起させた。彼は足許から小石を拾うと、立て続けに堀の中に投げ込んだ。あたりは次第に暮れかけて、水音が彼のところまで返って来た。  官舎へ戻ると黴《かび》くさい畳の上に薄い夜具を敷いて、ほしいままな夢に耽《ふけ》った。どのような夢でも彼には可能だった。暗い夜を背景に鮮《あざや》かな白い肉体が踊り、戯れ、絡《から》まり合い、或る時は手だけが、或る時は足だけが、模様のようにくっついたり離れたりした。彼が夢を追いかけるのではなく、夢の方が昼の間も彼に追い縋《すが》り、微妙な秤《はかり》の先で薬を量っている時などに、裸の足が二本、彼の網膜に焼きついたなりどうしても離れなかった。指の腹に触れるセロファン紙のすべすべした感触が生きもののように感じられた。そういう時、彼はすべての煩わしい事務を投げ出して表へ駆け出して行き、獣のように吠《ほ》え喚《わめ》きたいと思った。  その年の秋、彼は外来に来る患者たちの一人に、気をそそられる女を見出《みいだ》した。地味な色の袷《あわせ》をすらりと着流して、待合室の椅子の上から、切長の瞳《ひとみ》で彼をじっと見詰めていた。彼が眼を合せるとさりげなく眼を落したが、細《ほつ》そりした襟足《えりあし》の白さが彼の心を波立たせた。あれはどういう種類の女だろう、と彼は考えた。彼は薬局と待合室との間をうろうろして、看護婦の呼んだ時にその名前を覚えた。その晩、彼はこっそり診察室に忍び込み、カルテを引張り出して一枚ずつ調べてみた。その女の住所は分ったが職業は書いてなかった。病名は相当に進行した結核だった。  何だ肺病の女か、と彼は軽蔑《けいべつ》して呟《つぶや》いた。彼は学生時代から健康には自信があったし、自分の家庭の貧しさや、学業の不成績や、容貌《ようぼう》の醜さなどに感じる劣等観念を、その点一つで補っていた。しかし今、どのように軽蔑しようと思っても、垣間見《かいまみ》ただけの女の面影が、——そのやや冷たい、ものうげな視線が、彼の心から拭《ぬぐ》い切れなかった。彼は自分が薬剤師で、医師でないことを残念に思った。彼にとってその女に近づく方法といっては何もなかった。薬専を受けないで医専を受ければよかったのだと、もう返らないことまで口惜しげに考えた。夢の中で、その女は聴診器を持った彼の前に立って、一枚ずつ、ゆっくりと着物を脱いだ。  彼には何の方法もなかった。彼は病院の医師に対しては卑屈に構えていたし、看護婦にはいつも威張った口を利《き》いた。従って病院の中でその女のことを訊《き》く気にはならなかった。また訊いたところで始まらないだろうことも分っていた。彼はただ毎夕の散歩に、城址からその女の住所の方へと足を延した。己《おれ》は散歩をしているだけで、あの女を探しているわけじゃない、と彼は自分に言い聞かせた。  機会は向うから、意外な形を取って現れた。彼がいつもの散歩の帰り途に、肌寒《はださむ》さを覚えて足を急がせていると、女の声が突然彼を呼びとめた。 「先生、先生じゃございません、病院の?」  どうして彼は気がつかなかったのだろう、例の女が僅《わずか》に白い歯を見せて彼のすぐ側に立っていた。 「僕、僕ですか?」とへどもどした。 「お出掛けですの、どちらへ?」 「散歩の帰りです。」そして相手の名前を呼んで、「この近くに住んでるんですか?」と訊いた。  女は名前を呼ばれても大して驚いた様子を見せなかった。それと同時に、彼も落着きを取り戻した。彼は人から厚かましいと言われても平気な男だった。 「僕は歩き廻って咽喉《のど》が乾《かわ》いちまったんだが、この辺に喫茶店はありませんかね?」  女はちょっと眉《まゆ》をひそめ、平静な声で、「お宜しければうちへお寄りになりません?」と誘った。  二人は、二階に細い格子《こうし》を填《は》めた低い屋並の続く通りを暫《しばら》く歩いた。小さな潜戸《くぐりど》を明けて女が先にはいると、庭の中に離れがあった。女が戸を明けている間に彼は植込のあたりをぶらぶらしていたが、母屋《おもや》の方は暗くてよく見えなかった。彼は小綺麗《こぎれい》な座敷に通された。  女が勝手の方に立って飲物の支度《したく》などをしている間に、彼が感じていたのは夢のようなということだった。事があまりにもうまく運びすぎた。そして夢のようなという感じは、その後も、彼が官舎へ帰ってからも、翌朝目が覚《さ》めてからも、彼の心から消えることはなかった。その一晩の偶然から、彼は悪夢の中に落ちた。しかし女にとってはどうだったろう。少くとも彼の眼に映るところでは、女は平静に、すべてを予期したことのように構えていた。女の態度は彼には謎《なぞ》のようだった。  彼は散歩の帰りに、というよりはもうそれだけが目当で、二日を置かず女の許を訪《たず》ねた。そのような訪問が相手の迷惑になるかもしれないと考えるだけの余裕すらなかった。彼はその女が欲しいと思った。彼はその女の経歴も、感情も、何も知らず、ただ単純にその女が欲しかった。心の底に暗く澱《よど》んだものがあり、それがふつふつと滾《たぎ》っていた。  女は格別うるさそうな顔もせず、といって待ち焦れている表情でもなかった。ものういような顔をして、「御免なさい、わたしいつだって微熱があるのよ、」と言った。その冷たげな、取り澄ました顔立は、泣かしてみたい、叫ばしてみたいという狂暴な慾望を彼の心に燃え立たせた。そして彼は、慾望を長く心の中に隠し持っていることの出来ぬ人間だった。  しかし彼は女のことを何一つ知らなかった。彼の質問に、女は寂しそうに少し歯を見せただけで、「そんなことどうだっていいじゃないの、」と答えた。そして確に、二人の間でそんなことはどうでもよかった。二人をつなぐものは、社会的な身分でも、職業でも、そして愛でさえもなかった。彼にあっては破壊的な慾望、そして女にあってはものうげな情熱、それだけが孤独と孤独とをつなぎ合せていた。  彼がその女のことを聞かされたのは、彼よりはやや年上の病院の代診の口からだった。医師は皮肉の見える微笑を浮かべて、彼に忠告した。 「君、近頃あの女のとこへよく行くそうじゃないか。止《よ》した方がいいよ。」  彼はとぼけてみせたが、相手は少しも動じなかった。 「此処《ここ》は狭い町だからね、何でも直に分る。君が隠したって駄目さ。あの女は鍛冶町《かじまち》の古くからの紋章屋の娘さ。親からは勘当同然だが、こっそり仕送りぐらいされているのかもしれない。結婚そうそうに亭主が戦死して、それからぐれ出したんだが、一時は眼にあまるものがあったらしい。胸が悪くなってからは誰も寄りつかないようだ。独《ひと》りでいるのが寂しくてしょうがない女だ。」 「先生も御存じですか?」と彼は訊《き》いた。  医師は曖昧《あいまい》な微笑を続けた。 「よした方がいいよ。したたかな女だ、君には歯が立たない。」  己だって女の一人ぐらい操《あやつ》ってみせる、と彼は考えた。どんな不身持の女でも、彼の方がしっかりしていれば騙《だま》されたりなんかはしない。彼は女の弱味を握っていることを示そうとして、それを女の前にぶちまけた。 「あたしがそんな女だとして、それでどうなの?」  女は暗い表情のまま、どうでもいいというような無関心さを見せた。「あんたはあたしが好きなんでしょう、それだけでいいじゃないの?」 「君の方はどうなんだ?」と彼は急いで訊いた。この女の本当の心持は彼には少しも分らなかった。 「嫌《きら》いなように見えて?」  彼が黙っていると女は更に投げやりに附け足した。 「あたしはあんたからお金を貰《もら》うわけでもない、どうしてくれとも言わない。あたしがこれでいいんだから、あんたもこのままでいいじゃないの。」 「他の奴《やつ》はどうなんだ? 君は本当に一人きりで暮しているのか?」 「疑うのなら、此処に来て一緒に暮せばいいわ。」  その年の十二月に、彼は決心して女のところへ移った。何かしらそういうふうにしなければ済まないような気持だった。病院では医師も看護婦も、一種の嘲《あざけ》りを隠した眼で彼を見た。道を歩いても、通行人の一人一人が彼のことを知っているようだった。しかしそんなことが何だろう。彼にとって慾望が充足される瞬間だけが生きていることだった。その他の時間には、彼はただ影のように動いていた。陽の射さぬ薬局の黴くさい匂《におい》の中で、彼が考えているのはいつも女のことだった。慾望は泉のように汲《く》み尽せるということがなかった。  しかしこれが彼の夢みていた幸福な家庭なのだろうか。宿直の晩に、炬燵《こたつ》の横に蒲団《ふとん》を敷いて久しぶりに病院の官舎に寝てみると、此処で彼が未来を夢みていたのがほんの数カ月前のことだとは思えなかった。女との生活は家庭とは違っていた。女はいつも気ままで、物ぐさで、投げやりだった。いつでも何か遠いところを見ている眼をしていた。妻とか恋人とかいう感じではなく、彼の前に常に用意されている「物」としての存在だった。一体その心に何を考えているのだろう。誰か他の男のことか。彼は嫉妬《しつと》に苦しまされていたが、その男たちは常に眼に見えなかった。嫉妬は彼の心の中で、慾望に比例して大きくなったり小さくなったりした。女は殆《ほとん》ど弁解ということをしなかったし、その瞳には彼の猜疑《さいぎ》をあざけるような色が浮んでいた。女は口癖のように呟いた。 「死んでしまいたい。」  それを聞くと彼は必ず怒って女につかみかかった。しかし女は、彼が厭だから死にたいと言っているわけではなかった。そう呟く時、疲れたようなけだるい微笑が女の口元を染めた。宿直の晩に一人で寝ていると、女の声が遠くから彼を呼んでいるようだった。もしや女が死にはしないかという恐怖と、眼に見えぬ男たちへの嫉妬が、寝つきのいい筈の彼の眼を冴《さ》えさせた。彼はもう一人では眠ることが出来なくなっていた。  女が妊娠していると分った時に、彼の心を沸き立たせたのは憎しみだったろうか。それはどう日数を数えても、彼の胤《たね》である筈がなかった。しかしその憎しみの中には、彼が自分でも意外に思った程の、女への愛情が含まれていた。女はどう責められても何も白状しなかった。 「これがあんたの子だったらいいのに、」と僅に呟くだけだった。冬の間に女の病状は一層悪くなっていたから、彼は口を酸《す》くして中絶をすすめたが、女は取り合おうとしなかった。それは胎内の子供が可愛いというより、何をするのも面倒くさいという投げやりな気持からだった。「どうせあたしが死ねば子供も死ぬのよ、」と女は言った。  その冬の間に彼の立場も面白くないものに変って行った。病院を休む日が多くなった。「どうしても今日は行っては厭、」と女が哀願する時に、彼はそれを肯《き》き入れている自分に驚いた。彼は病院長に幾度か呼び出されて注意を受けた。「君はまだ卒業したてじゃないか。今からこんなことでは先が思いやられるな。」しかしそういう叱責《しつせき》を受けている間でも、彼が考えていたのは別のことだった。  女はしょっちゅう死んだ方がいいと口にしていたが、決して一緒に死のうとは誘わなかった。それを先に言い出したのは彼の方だった。女は眼を光らせ、乾いた唇をわななかせた。 「なぜ、なぜあんたも死ぬの?」  なぜだろう。それを説明することは彼にも出来なかった。女を完全に自分のものにしたい気持なのか、こういう羽目に陥ったことを、女にも自分にも復讐《ふくしゆう》したい気持なのか、それとも何かしら自分を甘やかすヒロイックなものか。しかし何よりも、彼はせめて女を悦《よろこ》ばせてやりたかったのだ。この口数の少い、いつも憂わしげな、不幸な身の上の女を悦ばせる唯一のことは、彼が一緒に死ぬことだけだった。それ以外に、彼が何を持っていよう。そして彼がまだ失っていなかった単純で、善良な感動が、それをつい彼の口から吐き出させた。 「それはいけないわ、そんなことは、」と女は言った。  しかし女の中にある暗い、エゴイスチックな悦びは彼の心にも伝わって来た。目前の死に彩《いろど》られて、二人の慾望は焔《ほのお》のように燃え上った。肉体の虚無と、死の虚無と、その二つのものの間にはもう何の障害もなかった。この幾人もの男を知った肉体を自分ひとりのものにするための破壊に、彼は自分の肉体をも賭《か》けた。二十五年の生涯を惜しいとは思わなかった。  薬は彼が用意した。女は心から悦んでいて、少しも彼を疑わなかった。 「御免なさいね。きっとこれも何かの因縁なのね。」  女はためらわずに薬を呑んだ。彼はその時の女の咽喉仏《のどぼとけ》の動きも、彼の方に倒れかかった時の溜息《ためいき》のような叫びも、その指先の痙攣《けいれん》も、がっくりとなった髪の乱れも、すべてを夢の中の出来事のように見ていた。薬は同時に呑む筈だった。どうして彼の指は、こわばったなり動かなかったのだろう。女が死ぬと、今迄の張り詰めた、充足した、ぎらぎらした陶酔が潮のように引き、ぞっとするような孤独が彼を取り囲んだ。己は卑怯《ひきよう》だ、と彼は考えた。しかし彼の手は小止《おや》みなく顫《ふる》え続けていた。己は死にたくない、己は騙されたんだ、己の方が騙されたんだ、と彼は叫んだ。しかし女は冷たくなった顔を、美しく、無邪気に、彼の方に向けていた。不意に彼の眼に溢《あふ》れ出した涙が、女の顔を霧のように滲《にじ》ませた。    *  今年の夏の終りに、私は信州の上田へ遊びに行った。  よく晴れた日で、雲のない青空からぎらぎらした太陽が照りつけていたが、風はもう秋めいて肌《はだ》に涼しかった。私は汽車から下りると、駅前の広場を暫《しばら》く眺《なが》め廻していた。  私がこの上田の町の小さな療養所に一月ばかり滞在したのは、もう十年の昔になる。戦争が終った年の秋で私は北海道から関西の方へ旅行する途中だった。血沈が悪いからと医者に注意され、それに満員つづきの汽車旅行にも疲れ切っていたから、此処《ここ》で暫く足休めをすることにした。それは前に遊郭だったとかいう奨健寮の建物で、畳敷のその二階の一部屋に私はごろごろして小説などを書いていた。山が近く、夕暮になると町を囲む山肌が一斉に色づいた。  私は小さな電車に乗り、次の駅で下りて城址《じようし》公園へ行った。昔来た時とは変って、今では外濠《そとぼり》をはいるとそこが遊園地になっていた。その先の道の左右に二重の櫓《やぐら》が石垣《いしがき》の上に聳《そび》えていた。それも私には初めて見るものだった。石垣の階段を登ると博物館の表札が出ていて、温厚な老人が入場料は十円だと言った。私はその老人から、この二つの櫓は一昨年此処に移されて来たもので、奥の方にある昔からの徴古館と共に今は博物館になっていると聞かされた。私はそれらを順々に見て廻り、この地方の民芸品や、古文書や、真田氏《さなだし》一族の武勇を伝える甲冑《かつちゆう》武具の類を眺めた。どの櫓にも見物人は一人もいなくて、硝子張《ガラスばり》のケースの中に格子戸《こうしど》を洩《も》れるしんとした昼の光が射していた。  昔は七つの櫓が本丸《ほんまる》を囲んでいたというその本丸の端《はず》れに立つと、南には田畠が黄色く続いて、その向うに千曲川《ちくまがわ》が見えていた。低い山々が上田の町を囲んで白っぽく光った。私はそこを西側に廻り、内濠《うちぼり》を見下すベンチの上で、まだ酸《す》っぱい葡萄《ぶどう》などを食べた。それから遊園地の方へ戻って来た。  そこでは子供たちが、嬉《うれ》しそうに声をあげて滑り台やブランコで遊び、家族づれの連中が猿《さる》や鹿《しか》やリスなどの檻《おり》の前で無心に笑い興じていた。私はリスが金網に足の先を引掛けて、逆《さか》さまにぶら下ったなり小さな欠伸《あくび》をするのや、木の実を小さな歯で噛《か》み砕きながら後ろ足だけで立っているのなどを、長い間眺めていた。遠くから流行歌がぎすぎすしたレコードに乗って流れて来た。  私はその時、彼のことを思い出した。私が真冬の療養所の寒い蒲団《ふとん》の中で、爪弾《つまび》きの三味線の音色をラジオのレシーバーを通して聞きながら、彼の身の上について暗い風景を思い描いていたのは、すべて埒《らち》もないことだった。その頃私の考えることは何かにつけて陰鬱《いんうつ》で、また私たちの誰もが一人ずつの孤独の中に、身動きもならず閉じ籠《こ》められていた。私たちは互いに憐憫《れんびん》と同情とを感じていたにも拘《かかわ》らず、信頼して心の苦しみを打明け合うこともなかった。今ならば。今私は健康を回復し、こうやってのんきそうに遊園地などを歩いている。そして彼もまた、今はどこかの病院に勤めて、恐らくは幸福な家庭を持って暮しているだろう。私のことなどはもうとうに忘れているだろう。しかし幾年か前、私たちがどんなにか生きたいと思い、必死に、歯を食いしばって苦しみに堪《た》えていた頃には、風景はすべて暗く、未来というものは無限に遠いものに映っていたのだ。  私は薄い鱗雲《うろこぐも》の浮び始めた空にくっきりと聳えている櫓や、草の生えた白い石垣や、青く茂った樹々や、大きく揺れているブランコや、笑いさざめいている人たちなどを、それからも暫くぼんやりと眺めていた。私の思い描いた風景はただ私一人の妄想《もうそう》だったかもしれないが、この城址《しろあと》の風景、このおだやかな、明るい、懐古的な風景と、それを見ながら彼の心に浮かんだあのささやかな願い、「どんなに平凡でもいい、僕はただ人並の暮しがしてみたい、」といった願いだけは、彼にとって常に真実だったように思われてならない。その風景が彼の心に浮かぶ度《たび》に、彼の中の破壊的なものをそれが支えていたように、私には思われてならなかった。  私は、それから城址公園を出ると、夕暮に近い埃《ほこり》っぽい坂道を、上田の町の方へとゆっくりと歩いて行った。 [#地付き](昭和三十年九月)   [#改ページ] [#小見出し] 死神の馭者《ぎよしや》  僕はその子供をちっとも可愛《かわい》いとは思わなかった。大体僕みたいな独身者に、子供を可愛がるような殊勝な心懸《こころがけ》なんかがある筈はない。自分の子供の頃を思い出してみても、ろくでもないことばかりだし、我ながら憎ったらしい子供だったような気がする。他人の子供なんてものは、お行儀よく構えてはにかんでいるのを見ると、この猫かぶりめと思うし、大ぜい集ってうるさく騒いでいるのを見ると、人口ばかり増加して我が国の将来はどうなるのだろうと考える。といっても僕が独身でいるのは何も主義主張があってのことではなく、ただその当時、僕の恋人が僕になかなか結婚を承知しなかっただけのことだ。もしも彼女が早いところうんと言っていたら、僕だってその頃はもう立派な父親になって、けっこう赤ん坊を抱っこしてお守の役ぐらい勤めていたかもしれない。僕だって時々は考えたものだ。五人ぐらいはいてもいいな。いいや三人くらいが適当だ。いや可愛い女の子が一人いればいい。それから、何よりもまず子供の母親というものがあっての話だと気がついて、折角の空想がみんなおじゃんになるのだ。アパートの汚ない狭い部屋の中で一人くすぶっていると、人間は誰しも人には話せないような下らない空想に耽《ふけ》るものだ。だからいくら僕が会社で空想家と渾名《あだな》されていたからといって、僕が生れもしない、というよりその母親さえまだきまっていない子供の名前を、五人ならば地太郎・水二郎・火三郎・風四郎・空子とつけようとか、三人ならば日太郎・月二郎・星子とつけようとか、そんなふうに最後の一人がうまく女の子とは限らないとか、いやいや五人とか三人とかそう計画通りには行くまいからこういう命名法は意味がないとか、埒《らち》もないことに時間を潰《つぶ》していたのも、一つは当時の僕の生活にとっての副産物だったわけだ。  ところで肝心の話だが、僕はその子供を可愛いと思っていたわけではない。ああいう事件さえなければ、僕はその子のことをとうに忘れてしまっただろう。僕のいたアパートというのが、うら寂しい長屋の密集した一角にあって、僕の陣取った二階の四畳半からはちょうど眼の下にちょっとした空地《あきち》と共同の井戸と物干場とが見え、お天気の日には満艦飾のおむつの下で、おかみさん達が果てしなくお喋《しやべ》りをしたり、子供たちがうるさく騒いだりしていたものだ。僕が子供は嫌《きら》いだというのも、窓の下から聞えて来るその騒ぎがあんまり物凄《ものすご》いので、それですっかりうんざりしたせいかもしれない。もっとも僕が流行性の不思議な熱病に罹《かか》って、会社を休んで毎日寝ていた頃、見舞に来てくれる同僚たちは口々に、これはひどいところだね、なんてうるさいんだ、これじゃおちおち眠ることも出来ないだろう、なんぞと慰めてくれたものだが、僕はかえって子供たちの騒ぎがばかに懐《なつか》しくて、変に元気づけられもしたのだ。何となく子供の頃のことを思い出し、己《おれ》だって昔はあんなふうにあたり構わずの大声を出して世にはばかっていたのだろうと、多少は感傷的な気持にもなった。しかし病気が少しよくなって、窓に凭《もた》れてまた満艦飾が眺《なが》められるようになると、ぴちぴち跳《は》ね廻っている子供たちにろくなのはいない。乱暴だ、意地が悪い、やたらわめく、泣く、きたならしい。女の子だって大人しいのは一人もいない。男の子と打つ蹴《け》るの騒ぎをやり、負けると大人なみのヒステリイ声を張り上げて泣く。そうすると今度はおかみさん連中が、家の中で昼寝から覚《さ》めた赤ん坊がけたたましい泣声を聞かせているのにも気がつかずに、猛烈ないがみ合いを始めるのだ。そういう騒ぎの中で、その子供の姿がもう見られないというのは如何《いか》にも不思議な気がした。  思い出してみるとあれはうそ寒い夜だった。何しろ僕が石焼芋を買いに行ってそれが両手の間でばかに暖かった記憶があるから、秋から冬にかけての或《あ》る晩のことだったに違いない。というのが例の流行性の熱病を煩って以来というもの、どうも僕の記憶力は少々不確になっているようなのだ。何でもばかに腹が減って、僕はアパートのぎしぎしいう階段を下りて表の通りへ出た。これは勿論《もちろん》僕が病気になる以前のことだ。すぐ側の横町に、この時間になると必ず石焼芋の屋台がかかっていて、どうにもこの芋の焼ける匂《におい》というのが僕にたまらないほど食慾をそそるのだ。僕が一度、何といっても冬になってうまいのは鍋焼《なべやき》うどんと焼芋ですね、と必ずや彼女も同感だろうと思って口にしたところが、恋人から下品なかたね、と一言のもとにやっつけられた。それは僕が軽はずみに口を滑らせたことで、彼女だって内心は嫌いではないのにちょっと体面を取り繕ってのことだったろうと僕は思うが、しかし言わでものことだった。もし僕たちが結婚して、僕が僕の妻に、済まないけど焼芋を買って来てくれないかと頼んだなら、彼女だって出掛けないわけにはいかないだろうし、僕がそれをうまそうに平げれば、彼女だってお相伴しないわけにはいかないだろう。夫婦とはそういうものだと考えるのだ。空想癖、焼芋、それに子供という奴はあまり虫が好かないこと、この三つが当時、恋人に対して僕が肩身の狭い思いをしなければならぬ我ながら困った欠点だった。  僕は両手の間で石焼芋の重たさと暖かみとを愉《たの》しみながら、横町から戻って来た。するとアパートの横手の、ちょうど二階の僕の部屋の真下に当る通りの片側に、まるでゴミ箱の蔭《かげ》に隠れるようにその子供がしゃがんでいたのだ。僕はびっくりして危く焼芋の紙袋を取り落すところだった。というのは、実は臆病《おくびよう》だというのも、かねがね恋人から僕がやっつけられる原因の一つだったからだ。与太者からちょっと睨《にら》まれただけで僕は足がすくんでしまう。しかし僕の恋人はふんという顔で、組んだ腕に途方もない力を入れて、ずんずん僕を運んで行くのだ。一人前の年頃でこうびくびくするのは情ないが、これも僕の空想癖と何等《なんら》かの関係があるのだろう。行きずりの与太者の一睨みでも、僕には自分が殴《なぐ》られて血まみれになった光景だとか、恋人がそいつの片腕でさらわれて行く光景だとかが、直に空想されてしまうのだ。つまり僕には、可能性という奴がいつでも必ず実現されるように錯覚されるのだ。その時僕はとっさの間に、留守中に僕の部屋に侵入した泥棒が、今やゴミ箱の蔭に潜《ひそ》んで僕をやり過そうとしているのじゃないかと空想した。取られて惜しいほどの品物が部屋にあるわけでもないし、実はその時の僕は怖《こわ》いよりはしまったという気持で、それは机の上に書きっ放しのまま載せておいた彼女|宛《あ》ての手紙を(それはまだ下書で、これから丁寧に清書する筈のものだったが)読まれてしまったんじゃないかという心配に基づいていた。そいつをたとえコソ泥にでも読まれたら気恥ずかしい。しかし有難いことに、そいつは泥棒ではなかった。  僕は直に気がついたのだが、それが例の子供だった。向うでも驚いたのか俯向《うつむ》いていた顔を起したが、何とも色の悪い顔だった。その子供のことが前から念頭にあったというのは、僕がアパートの二階から眺めていると、この子一人がいつでも殆《ほとん》ど無口で、仲間から外《はず》れてぼんやり立っていることが多かったからだ。静かなだけでも有難い。僕の観察したところでは、僕の部屋の真向いの長屋に住んでいる運転手の家の息子《むすこ》で、たしか小学校の四年か五年くらいなのだろう。で、僕は訊《き》いた。  ——どうした? 親父《おやじ》さんに叱《しか》られでもしたのか?  子供は無言で、切長の眼で僕を睨んだ。その眼には敵意といったようなものがきらきら光っていた。何といっても寒い晩だったし、見れば裸足《はだし》のままだから、僕が同情したとしても格別不思議はないだろう。恋人に対して点を稼《かせ》ぐ必要もあったから、子供に親切にしなければいけないということは、いつでも僕のコンプレックスをつくっていた。  ——早くうちへお帰り。こんなところにいつまでも立っていたら風邪《かぜ》を引くぜ。ほら、こいつをやろう。  僕は紙袋を開いて、中からほかほかした焼芋を二つほど取り出すと、それを子供の方に差し出した。  ——ほら。  子供は考えるまでもなくそれを両手で受け取ったが、香ばしい匂《におい》が暗い道の上に立ち罩《こ》めて、子供のだか僕のだか分らないが腹の虫がぐうと鳴った。僕は足を動かした。  ——こんなもの要《い》らない!  僕はもう子供に背中を向けていたのだが、子供の声があまりに悲しげだったので、振り向いて元へ戻った。  ——いいんだよ、帰ってお上り。うん、もう一つやろうか。  紙袋の重みを量りながら、僕が袋の中へ手を入れた時、子供は一層せつなげな声を張り上げて、要らない! と叫んだ。叫ぶのと同時に、何たることか、僕のやった焼芋をえいとばかり地面に叩《たた》きつけた。それからおいおい泣き出すと、泣きながら物干場の方へ走って行ってしまった。あっけにとられて僕はその後ろ姿が暗闇《くらやみ》の中に消えるのを見送った。  僕は部屋へ戻り、焼芋を平げ、それから書きかけの手紙の後を続けた。 「今さっき一寸《ちよつと》した事件があったところです。僕が焼芋を買いに行っての(これは僕の自由ですからね)帰りみちに運転手の家の男の子に会いました。上の方の子です。それが父親か母親かに叱られたのか、ひとり寒ぞらにふるえていたので、僕は可哀《かわい》そうになって大事な芋を分けてやりました。ところがその子は折角の好意の品物を地面に投げ棄《す》てたじゃありませんか。その子がぺこぺこのお腹をしていたことは僕が請合います。とするとこれはどういうわけなんですかね。児童心理学の大家であるあなたに、是非とも説明してほしい事件じゃありませんか。断っておきますが、僕は決して同情を振り廻したわけでも、軽蔑《けいべつ》したわけでもありません。どうも僕には子供というやつは苦手です。」  僕の恋人は——言い落したが彼女は或《あ》る託児所のホボさんを勤めていた——その手紙の返事をだいぶ経《た》ってからよこしたが、それによると、ひねくれた子供は一度や二度ではこっちの好意を素直に受け取ろうとしないこと、気長に親切を掛けてやらなければいけないこと、その子はきっとびっくりして発作的に地面に投げたのだろうということ、焼芋を食べすぎるのは胃によくないし焼芋のカロリーはこれこれだというようなことが、極《きわ》めて簡潔に書き並べられていた。  彼女は僕よりも勿論《もちろん》年下だったが、どうも姉さんぶったというか、母親ぶったというか、僕に一目置かせるところがあった。きっと毎日、沢山の子供たちを相手にして暮していれば、どんな男も子供のように見えて来るのに違いない。彼女が僕との結婚をなかなかうんと言わないのは、勿論経済的な理由で、彼女に愛情が乏しかったためではない。夫婦で共稼ぎをしてもいいじゃないかというのが僕の意見だが、彼女の方は結婚したら奥さんらしく家の中にいたい、子供の世話は自分たちの子供だけにしたいなどと贅沢《ぜいたく》を言うので、そうなると僕の貰《もら》う月給では誠に心細い次第なのだ。彼女は真面目《まじめ》なホボさんだったが、どうも子供が好きで選んだ職業でもないようだ、とこれは今になってから想像する。本当の子供好きなら、結婚したからといって天職を止《や》める必要はない筈だから。  しかし何と言っても彼女は勤めには頗《すこぶ》る熱心で、ちょっとでも暇があれば児童心理学、社会心理学、遺伝学、育児学などの参考書に読み耽《ふけ》り、僕との逢引《あいびき》の時間の、一分だって惜しいような顔をしていた。しかるに僕の方は勤めには不熱心の限りで、彼女と会うためなら会社なんかいくらサボったって良心の呵責《かしやく》は微塵《みじん》も感じないように出来ていたのだ。彼女はいつも白粉《おしろい》けの全くない顔に髪もぱさぱさのまま、小脇《こわき》に読みかけの参考書を一冊抱え、三十分から一時間ぐらい遅く待ち合せの場所へやって来ると、あたし本当はフラストレーション・テストのことで明日までにもう少し勉強しておかなくちゃならないのよ。あなたとこうして会っていると良心の呵責を感じるわ、と早口に言いながらそれでもにっこり笑ってみせるのだ。何といってもこのにっこりに僕は夢中だった。  しかし僕はやたらに脱線ばかりしていて、実は僕の話というのは彼女のことではない。肝心なのは子供のことだ。しかしその前にもうちょっと脱線して、僕の会社のことも説明しておこう。  僕は或る薬の会社の、宣伝部調査課というのに勤めていた。決して天職だなんぞという気持ではなく、大学を出てからやっとありついたくちで、それ以来しかたなしに縛られていたのだ。宣伝部というのは宣伝課と調査課とに分れていて、気の利《き》いた奴は大抵が宣伝課だ。そこは頗る活気があって、同じビタミン剤でも洒落《しやれ》た文句一つで他の会社のを負かしてやろうという気概に溢《あふ》れていたが、調査課の方は僕のような空想家でなければ、無能と渾名のある奴とか、爺《じい》さまとか、お澄ましとか、とにかく切れる奴はいなかった。仕事の方も他の会社の宣伝広告のスクラップをつくったり、統計を取ったり、名士に御案内を廻したり、全く一個の男子として生きがいのある勤めぐちじゃない。それで僕はややもすると仮病を使って会社をサボると、昼頃までアパートの四畳半に朝飯抜きで寝坊をするつもりになる。すると窓の下から、おかみさん連中の活溌《かつぱつ》な会話が聞えて来て、そのうるささに厭でも応でも叩き起されるという寸法だ。  ——子供というのは眼が放せませんからね、折角つくった糊《のり》をすんででみんな舐《な》められてしまうところでした。  ——怖いもの知らずだからね、うちのなんか一度カレー粉を口いっぱい放り込んでね。  ——家の中ならまだ安心、大通りは怖いわね。わたししょっちゅううるさく言うんだけど。  ——近頃の自動車はどうしてあんなに乱暴に走るんでしょうね、子供が通りで遊んでいるのを見るとぞっとしますわ。  ——奥さんのとこなんかまだお小さいからいいわね。うちのは本当に言うことを聞かないで。  ——いくらがみがみ言ったって子供が大人しくなるもんかね。  しかし午前中は子供たちは学校へ行っていて、おかみさん連中の井戸端《いどばた》会議と幼稚園前の子供や赤ん坊の泣声だけで済んだが、午後になって小学生たちがこの空地で、やれベースボールだ、やれプロレスごっこだと遊びだすと、もう本なんか読んではいられず、こんなことなら会社に出て新聞の綴込《とじこみ》でも見ている方がましだったとか、彼女のいる託児所に電話を掛けて今晩あたり顔を見たいものだとか、いいや今日は日曜日じゃないのだからサボったのがばれると彼女が仮病のことをうるさく訊くだろうとか、そういうことをぼんやり考えるのが関の山だった。  仮病を使った日は夕方から何処かへ出掛けなければ気が落ちつかないようなものだが、或る晩、僕が小さな電気コンロの上に手をかざしていると(従ってサボった日のことではないわけだが)、ドアをほとほとと訪《おとな》うノックの音がした。まさか彼女が来る筈もないし、というのは彼女は決して日曜日の昼間以外に僕のアパートを訪《たず》ねて来ることはなかったし、それも表で会うにしては僕の小遣《こづかい》が心細い時に、予《あらかじ》め電話でよくよく拝み倒した場合に限られていたからだが、万一という空想も働いて、僕はいそいそとドアを明けた。ドアの外に立っていたのは例の子供だった。  僕は少しあっけに取られて子供の顔を見詰めたが、例によって栄養の悪い、痩《や》せた、蒼《あお》ざめた顔の中で眼ばかり光らせながら、ややはにかんだようにもじもじしている。  ——何だい? まあおはいり。  遠慮するのをとにかく部屋へ連れ込んだ。そこで気がついたのだが、子供は片手に小さな紙袋をしっかり握り、中身が何であるかはその香ばしい匂で早くも見当がついたので、僕は変にこそばゆい期待を抱《いだ》いて子供を電気コンロの前に坐らせた。  ——おじさん、これ。  ——うん、そいつは石焼芋だな。そいつは僕の好物だが坊やはおじさんにそれをくれるというわけか?  子供は頷《うなず》き、僕は早速にもこの前の一件の心理的動機を尋ねてみたいとは思ったが、物を一緒に食うというのは子供とか未開土人とかに対する場合、信頼感を抱かせる何よりも良い方法だと何かの本で読んだ記憶があったから、まずむしゃむしゃと一つ頬《ほお》ばって、子供にもすすめた。子供は僕が食べ始めると安心したような顔つきになり、自分でも一つ手に取ったがその間にも注意深く僕の口許を見詰めることをやめなかった。それが如何《いか》にもこの前の罪を贖《あがな》うというふうに見えたから、僕は元気づけてやろうとして、まごまごしているとおじさんがみんな食っちまうぞ、とおどかし、それから笑ってみせた。子供は真面目な顔のまま笑わなかった。  ——坊やはたしか弟がいるんだろう?  ——うん。二年生だ。  ——腕白者だな、いつもチャンバラをやっている子だね。その子には食べさせなくてもいいのかね?  ——いいんだ。これは僕のお金で買ったんだから。  ——ふうん、じゃおじさんは光栄だな。他《ほか》には兄弟はいないのかい?  ——赤ん坊がいたけど死んじゃった。赤ん坊だって人間だね? 赤ん坊だから殺してもいいってものじゃないね?  ——当り前だ。まさか赤ん坊が殺されたってわけでもないだろう?  子供は答えなかった。僕たちは焼芋を食い終り、僕は電気コンロの上に薬罐《やかん》を掛けた。子供はじろじろと部屋の中を見廻した。  ——この部屋、広くていいね。おじさん此処《ここ》に一人で住んでるの?  ——そうだよ、と僕は憮然《ぶぜん》として答えた。  情ないことを言われたものだ。この北向の四畳半は取柄といっては家賃が比較的安いくらいのものだろう。僕の友人が権利金を払って此処に住んでいたが、引越す時に僕にあとを譲ってくれた。前よりも家賃が安くなったから僕は悦《よろこ》んで後釜《あとがま》に坐ったが、表はうるさいし陽あたりはまるでないし、僕の恋人からよく我慢が出来るわね、と言われるまでもなく、僕だって何処かましなところへ引越したいのは山々だ。そこで僕が一日も早く結婚しようと彼女を説得することにもなるのだ。  ——坊やのとこはもっと狭いのかい? と僕は殺風景な部屋の中を一緒に見廻しながら、訊いてみた。  ——ひと間だよ。でもね、僕んち四人だもの。こんなに空《あ》いたところなんかないよ。  確に僕の部屋はガラ空きで机と本箱とをのぞくと、あとは裸の壁に洋服がぶら下っているばかりだ。僕は茶を入れながら、何げなく、時にこの前はどうしてああ怒ったんだい? と尋ねてみた。返事をしないので顔を起してみた。  子供はすっくと立ち上り、もう帰る、と言った。少し怯《おび》えたような表情をしていたが、それは時刻が遅くなったためなのか、この前の話をされるのが厭なのか、その点はよく分らなかった。子供はお茶も飲まずに風のように帰り、僕は何と可愛《かわい》げのない奴《やつ》だと半ばあきれかえって、しかし子供が僕に示した好意を、恋人への自慢話にしようと思ってほくそえんだ。子供から焼芋をおごってもらうなんぞというのは、僕には生れて初めての出来ごとだった。  僕の部屋の窓から正面に見える長屋の一室に、運転手の一家が住んでいた。よく小型の自動車が夜の間道ばたに駐《とま》っていて、僕はあれがせめて自家用車ならば彼女と一緒にドライヴをして、などと空想を働かせたものだ。親父《おやじ》というのは背の高い、癇癖《かんぺき》の強そうな男で、仕事に出ていない時は必ずといっていいくらい酒を飲んでいた。酒を飲むとぴりぴりするような大声で、間を置いて鋭く二声ばかり怒鳴るのだが、その文句は何を言っているのかさっぱり分らず、ただ猛獣の遠吠《とおぼえ》か怪鳥の啼声《なきごえ》のように響き渡って、僕にぞっとするような厭な気分を起させるのだ。おかみさんの方の返事が聞えて来たためしは嘗《かつ》てない。例の子供とよく似た、ひどく顔色の悪い女で、頭なんか一度も手入をしたことはなかっただろう。口の重い女で井戸端会議の時にもあまり仲間にはいらず、煮え切らぬ返事をしながらせっせと洗濯物を干していた。大儀そうな身のこなしから見てもお腹《なか》が大きかったのだろうと思う。上の方の子供のことは既に書いたが、下のは頗《すこぶ》る活溌《かつぱつ》で、泣く、喚《わめ》く、怒鳴る、母親にでも兄にでも食ってかかる、エゴイズムの赴くままに行動して小さいながら腕白仲間の餓鬼大将だった。しかし母親が好きなのはどうもこの下の子の方らしく、せがまれると小銭を出して与え、後から兄の方が側へ寄るといきなり横ビンタを喰《くら》わせる、といった光景を見たことがある。弟の方はその金で飴《あめ》を買って来ても決して兄に分けてやることはないようだった。長屋とはいったが、この界隈《かいわい》はそうそう下層の連中ばかりが住んでいたわけではなく、ちゃんとした勤人の家庭もまじっていて、日曜日になると子供たちを連れて親たちが遊びに出掛けるのをまま見受けたものだが、運転手の一家にはついぞそういった団欒《だんらん》ぶりは見られなかった。  或る日、もう冬も峠を過ぎた、日射《ひざし》の暖かい昼下りのことだったが、会社をサボった僕が近くのソバ屋にはいると、客は運転手が一人きりで、ソバ屋の亭主を掴《つか》まえて盛に愚痴をこぼしていた。僕はソバをすすりながら、聞くともなしにその話を耳にした。  ——魔物と言えば、何と言ったって一番魔物然としたのは白バイさ。こっちだってこれで相当気のつく方だよ、それでなくったって罰金に次ぐに罰金でうだつが上らねえんだから、大抵スピイドを出す時にゃバックミラーには気を使っているんだが、あっと思った時には大抵がもう後の祭さ。アクセルを踏む間もありやしない、直にあの厭なサイレンだ。あいつは本当に身顫《みぶる》いの出るような厭な代物《しろもの》さ。変に陰に籠《こも》ってやがって、車のすぐ尻《しり》のところで火のついたような唸《うな》り声《ごえ》を立てやがる。よくまああんなにうまく隠れていやがるものだ、全く魔物だね。それに黒眼鏡を掛けたところなんざ、人をおどかすにはもって来いだ。大体白バイなんてものは泥棒も同じことじゃないか、こっちの油断を見澄まして罠《わな》に掛けようというんだからな。こちとらの仲間で罰金の一万や二万、持ってない奴はいないだろう。稼《かせ》ぎが尠《すくな》いからついスピイドを出すんだが、考えてみれば厭な商売だよ。  ——お巡《まわ》りの方だって商売だろうよ、とソバ屋の亭主が無愛想に言った。  ——全くだ、運転手という運転手から怨《うら》まれてさぞ寝覚《ねざめ》が悪かろうよ。因業な商売だな。しかし因業と言えば、こちとらの方もあんまり寝覚のいいものじゃないな。私なんかこれでだいぶ年季もはいっているし、腕には覚えのある方だがそれでもちょくちょく……、とそこで運転手は声を落した。  ——あんたは飲みすぎるんだよ、とソバ屋が言った。  ——車を動かす時は素面《しらふ》だよ。それなのにこう魔がさすというのかな、ハンドルがどうしても切れないんだな。まるでそっちへわざわざ突っかけるように車が向いて行ってしまうんだ。  ——また引っかけたのかね? とソバ屋が低い声で訊いた。  運転手は首を横に振り、僕の方を横眼で見た。僕は金を払って立ち上ったが、ソバ屋の亭主は今迄とはうって変った声で、おありがとう、と言った。あのソバ屋と運転手とはだいぶ気があっているらしいなと僕は考え、もう少し話の続きを聞いていられたらと残念に思った。確にあの運転手は最近に誰かを轢《ひ》いた覚えがあるに違いない。あの妙に血走った眼、神経質な話しかた、どうもただ事じゃない。あの男がもし殺人運転手で、あのソバ屋がその腹心だとすると、あそこで食わせるソバには毒がはいっているかもしれない、などと下らない三段論法を働かせながら、僕はアパートへ帰った。  僕はこの話を本気にしたわけではないが、その晩恐ろしい夢を見た。例の運転手の操縦している車に僕が乗っていて、夜の町を走らせているのだ。僕は運転手の黒い背中と、バックミラーに映った鋭い眼許とを見ながら、とんでもない車に乗り合せたものだと後悔し始めていた。この車のスピイドは物凄《ものすご》い。窓の外に、時折、明るい燈火が飛ぶように走り過ぎ、車は町から町へと羽が生えたように突走る。この運転手は僕を殺すつもりではないかしらん、そうだ、秘密を知られた僕に対して後ろ暗いことをたくらんでいるに違いない。君、君、僕は此処《ここ》で下りるぜ、と僕は大声で叫んだのだが、男は返事もせずにハンドルを握り締めている。その時、鋭いサイレンの唸りがすぐ後ろから迫って来た。  助かった、という感じだったろうか。まるで違う。運転手の叫んだしまったという声が、不思議なことに僕の唇の上でも同様に呟《つぶや》かれた。僕は振り向いて夜目にも白々と浮んで見えるオートバイが、黒眼鏡の巡査に操縦されてまっしぐらに尾行して来るのを硝子《ガラス》ごしに眺《なが》めた。運転手は車を停《と》めるどころか、それに較《くら》べれば今迄は歩いていたとでも言える程の物凄いスピイドで車を疾走させ始めた。サイレンの音が少し遠ざかり、それからまた少しずつ次第に近づいたが、窓ごしに見るとその白バイは勢いあまって宙に浮き上っているように見えた。  運転手は前を睨《にら》んだままの凍りついたような姿勢でハンドルの上に覆《おお》いかぶさり、車は烈《はげ》しい振動を続けながら右に左によろめき、僕は足を踏まえて振動に抵抗しながら、窓の外を飛ぶように走り過ぎて行く光景をちらちらと眺めた。車は時々|軋《きし》んだような音を立て、悲鳴が流れ、サイレンが低い唸り声を絶えず響かせた。車は異様なショックで跳《は》ね上った。  ——轢《ひ》いた!  ——轢いた!  僕は車の恐るべきスピイドにも拘《かかわ》らず、道端《みちばた》に立ってこちらを指差している通行人の驚いた顔を一つ一つ見た。夜の町の暗さの中で、その顔の一つ一つは開いた口、ぎょっとした眼指《まなざし》、血の気の失せた表情を、鮮《あざや》かに見せていた。彼等は口々に叫んだ。その声までが僕の耳にはっきりと聞えて来た。  ——あいつは死神の馭者《ぎよしや》だ!  ——あいつは死神の馭者だ!  運転手はハンドルにしがみつき、車の中の鎖《とざ》された空気は膨脹し、僕のこめかみは恐怖にぴくぴくと顫えた。停めてくれ! と僕は叫んだがその声は車の振動の中で揉《も》み消された。僕は男の肩を叩《たた》き、懸命にそれを揺ぶったが、その肩は石のように重たくてびくとも動かなかった。車は狂気のように走り続けた。そうか、この男は死神の馭者だったのか、こいつは今僕を死者の国へ攫《さら》って行くのか、僕はこんなにも早く自分を訪れた死を、まるで引越でもしているみたいに急に当り前のことに考え始め、それから自分が後にして来たアパートのからっぽの部屋のことや、会社の同僚たちや、恋人のことなどを、素早く思い出していた……。  僕はそれからも、特に僕が春さきに原因不明の熱病に罹《かか》って寝込んだ頃には、これとよく似た気味の悪い夢を何度も見たものだが、まるで眼に見えぬバクテリアがいつのまにか僕の身体《からだ》の中に侵入して不意に僕を打倒したのと同じように、運転手の一家が、姿を見せぬより恐るべき敵のために不意打を掛けられるということになったのは、夢よりも現実の方が一層気味が悪いということの一つの現れでもあったろうか。  その日の夕方、僕が会社からいつものようにぼんやり考えごとをしながら戻って来ると、何となくざわざわした、一風変った予感のようなものがアパートの周囲に立ち罩《こ》めていた。これは何か事件でも起ったようだと僕は急に立ち止り、何処《どこ》かに知った顔でもないかと見廻すと、折良く例のソバ屋の亭主がきょろきょろとこちらを眺めているのに気がついた。  ——何かあったんですかね?  馴々《なれなれ》しく側へ寄って、亭主の視線と同じ方向、つまり物干場や共同の井戸などのある方向におかみさん連中が不断とは全く違った真剣な表情でひそひそ話を続けているのを、一緒に眺めるような振をしながら僕がそう尋ねると、亭主は胡散《うさん》くさそうに僕をじろりと見て、それから低い声で、知らないんですか? と念をおした。  ——知らない。今帰って来たばかりだから。  ——実はね、そこの運転手さんとこの子供が、つい今しがた向うの大通りで車に轢かれたんですよ。  あっと僕は驚き、反射的にどっちの子? と訊《き》き返した。  ——下の子ですよ。あの子は不断から腕白者でね。もっとも上の方の子もその時一緒だったらしいが、それからどこへ消えたんだか。  ソバ屋の亭主はまたきょろきょろとあたりを見廻し、困ったものだ、と嘆息した。  ——それでどうだったんです? 助かった? 怪我《けが》は? うちの人たちはどうしたんです?  僕は矢継早に質問したが、相手はそこでまた僕の方に視線を移し、それから僕というものの存在を初めて認めたように、ゆっくり頷《うなず》きながら説明した。  ——いや怪我も怪我、大怪我ですよ。直に病院に担《かつ》ぎ込んで、おふくろも一緒について行きましたがね、あの分じゃ助からないんじゃないかな。父親の方はちょうど仕事に出ていてね、タクシイ会社に電話したけどまだ連絡がつかないんですよ。困ったものだ。上の子も何処へ行っちまったものやら。  ——一体またどうして轢かれたんです?  ——それがよく分らないんですよ、何しろ轢いた車が卑怯《ひきよう》な奴《やつ》でそのまま逃げちまってね。いやはや、親父も親父だから因果応報というところかもしれん。  最後のところを独《ひと》り言《ごと》のように呟いたが、僕にはぞっと背筋の寒くなるような気持だった。それにしても例の子供は、弟がとんだ災難だというのに何処へ行ったものだろうと考えながら、僕がアパートの階段を昇りつめて自分の部屋の前まで来ると、何と廊下の隅にひっそりと立っているではないか。怯《おび》えたように顫えているので、取敢《とりあ》えず僕の部屋へ連れ込んだがこっちの訊くことに返事もしない。しかし僕が何度も、弟と一緒だったんだろう? とか、通りを二人して横切ったのかい? とか、坊やには何も責任はないよ、とか言っているうちに漸《ようや》く首を振って頷くようになった。この子はきっとあとで両親にどやされるのが怖《こわ》いのだろうと思い、大丈夫だ、おじさんが行って謝《あやま》ってやる、何も坊やが悪いんじゃないや、というようなことを繰返したのだが、子供は焦点の定まらない瞳《ひとみ》でぼんやりと僕の顔を見ているばかり。と、ぽつんと口を利《き》いた。  ——あの車はお父さんのだった。  僕はいっぺんに蒼《あお》くなり、まさか、何を言ってるんだ、そんな馬鹿なことがあるものか、と子供を説得にかかったが、しかし僕もその場を見ていたわけではないから次第に自分の言葉がうつろに響き始めるのをどうすることも出来なかった。  その晩が通夜《つや》だった。僕は初めて運転手の家、というより部屋と言った方が正確だが、そこを訪ねた。子供が前にも言った通り、その狭い部屋は壁際《かべぎわ》には箪笥《たんす》や子供の机やその他沢山のガラクタが並び、四人の家族が住む空間といってはほんの僅《わず》かしかなく、通夜の客も入口でお線香をあげて帰るのが大部分で、叱《しか》られないように行って謝ってやると子供に約束した手前、僕も暫く片隅に上り込んでソバ屋の亭主と話などをしていたが、それは決して心持のよいものではなかった。というのは母親がもう半狂乱で、殆ど完全なヒステリイを起して泣き喚《わめ》いていたからだ。不断は大人しい無口な女だっただけに、何とも正視できない悲惨な感じがした。ちょうど僕がお悔みに行っていた間に運転手が慌てふためいて帰って来たが、彼の腐った魚のそれのような目玉を見ると、果してそれが男泣きに泣いた結果なのか、それとも打撃を持ちこたえるのに充分なだけ何処かで一杯やってから帰宅したためなのか、とんと僕には見当がつかなかった。ちっとも知らなかったもんで、どうもお世話を掛けました、と彼はソバ屋と僕とが並んで坐っている方を向いて挨拶《あいさつ》したが、その時顔を起して父親を見た子供の眼が、きらりと光ったようだった。  ——とんだ災難だったねえ、とソバ屋の亭主が言った。  ——いや知らぬが仏という奴さ。まさか自分の忰《せがれ》がこういうことになろうとはね。  ——轢いた奴は分らないのかね?  ——警察でも色々調べている最中だが、まだどうも掴《つか》まらないようだ。  運転手が帰って来たので母親は今までよりも一層大声で泣き始め、良人《おつと》の方はひそひそ声でそれを宥《なだ》めにかかったが、僕は長居しても役に立つ筈がないと思い早々に引き上げることにした。この分では、子供が弟の災禍についてかれこれ言われることはまずないだろう。ところでその晩のいつ頃から僕の気分が悪くなったのかよく覚えていないのだが、寝床にはいってみると頭が重たくて身体じゅうがぞくぞくし始めた。僕はありったけの夜具を積み重ねて顫えていたが、夜中に犬が気味の悪い声で吠《ほ》え続けているのを聞きながら、今度は身体中がかっかとほてって来て、それから朝まで汗まみれになったまま一睡も出来なかった。  それからの一週間というもの、僕は高熱にうなされて覚めているのか眠っているのか自分でもよく分らなかった。僕の病気は何でも現代医学ではまだ原因不明のヴィールスによるものらしく、どこで伝染したのか見当もつかなかったが、ちょうど猖紅熱《しようこうねつ》のように身体中の皮という皮が完全に一皮|剥《む》けてしまった。まことに情ない有様で、恋人が初めて見舞に来てくれて、ドアのところで、あらあなたの顔赤まだらよ、とすかさず言われた時にはまさか僕もそれほど見っともない様子をしているとはつゆ思わず、彼女に鏡をつきつけられて我が顔ながら茫然《ぼうぜん》と見守った。ああこれじゃ百年の恋も覚めちまうな、とせめて冗談めかして言うほかはなかった。  ところで僕が寝込んでいた間に、運転手の一家には更に恐るべき災難が訪れていたので、僕はそれをアパートの隣室の男から聞かされたのだが思わず息がとまる位のショックだった。通夜の晩から母親がヒステリイ気味で、父親との間に口論めいたものが毎日のように交《かわ》されていたらしいが、あげくの果に母親が首を括《くく》ったというのだ。隣室の男はこう言った。  ——僕も詳しいことは知らないが、何でも発見したのは子供らしいよ。学校から帰ると母親が鴨居《かもい》からぶら下っていたので、死ぬような悲鳴をあげたそうだ。君は聞かなかったのかな。親父は仕事に出ていて留守、この辺の連中もあんまり事が事なので気味悪がって寄りつかないんだ。一番気持が悪いのはその子供なんだな。普通の子供なら母親が死ねば泣くところだが、怖い顔をして物も言わん、何かこうじっと見詰めているだけで、ちょっと気でも変なのじゃないかと心配だよ。  ——どうしてまた首を括ったんだい? 下の子が自動車に轢かれたのがそんなにこたえたのかな?  ——この辺の噂《うわさ》じゃ赤ん坊が死んでからはずっとどうもおかしかったと言うよ。あの赤ん坊は蒲団《ふとん》で圧死したんだ。狭いところに家族が一緒に寝てればありがちなことだ。どっちにしても政治が貧困なんだな。政治が。  僕はまだ熱も下らず、身体中が奇妙にけだるくてしょっちゅううとうとしていたから、隣室の男の話というのが半分は夢の中の出来事のようだったが、それからもすぐ裏の物干場でのおかみさん連中のひそひそ話が、時々前後の脈絡もなく僕の頭脳の中に飛び込んで来た。  ——あれは赤ん坊を殺したんだよ。蒲団で押し殺せば何の証拠もないからね。  ——亭主の方が悪者だよ。きっと亭主にそそのかされたのさ。  ——あの人はまた身重だったようですわね。  ——あの運転手は相当の悪者だよ。ああいうのが子供を轢き殺しておいて知らぬ顔をきめこむんだよ。  ——あのおかみさんは本当に気の毒だわ。まだ大きな子がいるというのにどうして早まったものか。  ——あの御主人、毎晩やけ酒を飲んでいるようね、怖いわ。  ——子供も可哀《かわい》そうに。子供が一番可哀そうよ。  僕はこの熱病の間じゅう殆ど食うや食わずで寝ていて、見舞に来てくれる人たちの好意で生きていたようなものだが、その間不思議でならなかったのは例の子供だけが一度も見舞に現れなかったことだ。といって何も僕があの子から好かれていたという自信があるわけではなく、あの子の方にしても相次ぐショックに僕の顔なんか見に来る気にならなかったのかもしれないし、または僕がうとうとしている時に来て、黙って帰って行ったのかもしれないとも考えられるのだ。しかし僕の方は、ひょっとすると僕の恋人のことを思う以上に、その子のことばかり考えていたのかもしれず、次のような奇妙なことを聞いたり見たりしたというのも、その子のことが念頭にあって僕の空想癖に病中の異常|妄想《もうそう》が重なり合ったものかもしれないのだ。  夜も相当に更《ふ》けていたが、僕の耳に次第にはっきりと聞えて来たのはその子供のやや甲高い声と、押し殺したような父親の返事だった。  ——……ちゃんを殺したのはお父さんだ。  ——馬鹿なことを言うんじゃない。  ——でも、僕見た。  ——見る筈がないじゃないか。お父さんはその頃はこっちの方には来てないんだから。  ——嘘だ。僕見たんだ。  ——そりゃ運転手がお父さんに似ていたんだろう? もうその話はよせ。  ——お母さんは赤ん坊を殺した。だから死んだんだ。お父さんは……。  ——お母さんは気がふれて死んだだけだ。赤ん坊なんか殺すものか。  ——あれはお父さんが殺せと言ったから、お母さんはしょうことなしに殺したんだ。お父さんが悪いんだ。  ——馬鹿。そんなでたらめを!  ——本当だ。僕眠っている振をしてみんな聞いた。お父さんが言ったことだ。  子供の眼が敵意にきらきら光った。あの小さな拳《こぶし》が固く握り締められているのを僕は見た。  ——詰らんことを言うんじゃない。人が聞いたら本気にするじゃないか。  ——お父さんはみんな殺すんだ。お父さんは誰も彼も殺すのだ。  父親の蒼ざめた顔の上に、あらゆる毛細血管が一筋ずつ膨《ふく》れ上ってどす黒く浮び上り、異様に血の気の引いた唇が湧《わ》き上って来る言葉を押し殺すかのように固く結び合された。  ——お父さんは死神の馭者だ。みんなに死を配って歩くのだ。  父親はゆらりと立ち上った。  ——殺すの、僕も殺すの? よし僕はみんなに言ってやるぞ!  子供は逃げ出した。人通りの尠《すくな》い夜の町の中へ一目散に駈《か》け出した。小さな拳を握り締めたまま、息も継がずにひた走りに走った。父親は駐《と》めてあったタクシイに飛び乗ると、そのあとを追い掛け始めた。春の靄《もや》が燈火を滲《にじ》ませているコンクリイトの夜道の上を、子供は飛礫《つぶて》のように飛び、車は黒い翼の鳥のように羽ばたいた。子供と車とは何処までも何処までも走り続けた。子供の悲鳴と、自動車のエンジンの唸《うな》りとが、夜の町を真一文字に引き裂いた……。  僕がようよう窓のところまで立って行き、何ごともなかったように満艦飾のおむつをぶら下げた物干場を見下して、おかみさん連中の日なたぼっこを眺められるようになったのは、十日間ばかり苦しい思いをした後のことだった。僕は子供たちが大ぜい集って飛んだり跳《は》ねたりして遊び廻っているのを、珍しいもののように、多少は懐《なつか》しげに、眼で追っていたのだが、その腕白共の間に例の子供の姿は見えなかった。僕は毎日のように注意していたのだが、そういえば運転手の家、というより部屋なのだが、そこの戸も締められたままのようだった。僕が漸く外へ出られるようになって、めっきり暖くなった春の日射《ひざし》を愉《たの》しみながらソバ屋まで行くと、ソバ屋の亭主は事もなげに、運転手とその息子《むすこ》とが夜逃をした話を聞かせてくれた。  ——やっぱり恥ずかしかったんでしょうな。しかしひどい奴だ。あたしに一言の挨拶もなしでどろんですからな。結局一番損をしたのはあたしですよ。  ——それはどういうわけ?  ——何ね、あそこの長屋はあたしの持家でね。運転手のところはもうだいぶ家賃がたまっていたんです。香奠《こうでん》だと思えば帳消しにしてやってもいいのに、黙って逃げ出すとはね。  ——行先は分らないんですか?  ——全然分りませんな。田舎《いなか》へでも行ったんでしょう。  そこで僕は一人になって考えたのだ。あの子供はどうしただろう。相変らず敵意の籠《こも》った眼指《まなざし》で、ひっそりと父親の顔をうかがいながら、田舎の小学校へでも通っているのか。僕はその子供をちっとも可愛いとは思わなかったが、母親も亡くなり、弟も喪《うしな》って、あの酒飲みの父親と二人きり顔をつき合せているのかと思えば、何やら不憫《ふびん》のようにも思われるのだ。  僕が流行性の熱病を煩って赤まだらの顔を恋人に見せてからというもの、彼女は次第に僕によそよそしくなり、とうとう僕は失恋してしまった。この話も、子供が自動車に轢かれたり、赤ん坊が圧死したり、母親が首を括ったりするのと同じ悲惨な話なので、隣室の男に言わせればこれもまた政治が悪いというところに落ちつくのかもしれないが、僕は長い間くよくよと思い悩んでいたものだ。しかしこれは全く別の話だ。僕はその後あの北向の、薄暗いアパートの四畳半から他へ引越したが、あの頃のことを思い出すと、僕の恋人だった児童心理学者のホボさんのことよりも、栄養の悪そうな、無口の、眼ばかりぎょろぎょろしたあの子供のことの方を余分に思い浮べる。今でもきっとあの裏手の空地では、洗濯物が物干台の上で風に靡《なび》き、おかみさん連中がお喋《しやべ》りをし、子供たちがあたり構わず大声をあげて遊び廻っていることだろう。 [#地付き](昭和三十年十二月)   [#改ページ] [#小見出し] 幻影    1  一つの事件というものは、例えばそれが二人の人物によって成立している場合には、当事者の双方から話を聞かなければ正確な意味を測定することは出来ないだろう。しかし一般に事件というものは傍観者の見地から側面的にのみ見られやすい、私はその場合の、事件の持つ一種の独断的な、謎《なぞ》のような効果というものも嫌《きら》いではない。  しかし次の事件は、——事件といってもささやかな、ごくありふれた恋愛事件かもしれないのだが、偶然私が当事者の双方から話を聞いたものだ。もっともその一方は既に死んで、私はただ死んだ女の代弁者の口から概略を聞いたのみだが、その話と後に聞いた男の方からの話と合せると、二つの光線の交錯するところに、この事件を特徴づける意味がくっきりと浮び上って来るような気がする。その代り事件の持つやや神秘的な味《あじわ》いは損われたのかもしれないが、しかし私は、その明らさまの、後味の悪い点に、真実というものが隠されているような気がしないでもない。  だいぶ前のことだが、私のところを訪れた一人の女客が、私と私の妻とを前に置いて、次のような話を始めた。それまで私たちは取りとめもなく人の噂《うわさ》などをしていたのだが、たまたま、一高とか東大とかを出た秀才には本当に厭な男がいるという話になった。そして彼女は、彼女の経験した限りでは最もいたましい思い出だというその話を、次のように語り始めた。    2  わたしが療養所にいた頃、A子さんという仲のよいお友達がいました。わたしは大部屋で、その方とは隣合せのベッドにいたのですけれど、一見して色の白い、透きとおるような顔色をした、それは綺麗《きれい》な人でした。一体、女の患者さんどうしは、よそよそしくてお座なりのお附合が多いものですわ。御飯の時だって、みんなベッドの上に起き直ると、壁の方を向いたなり、他の人たちの顔を見ないようにして食器の上に屈《かが》み込む、まるで人に見られたら、御飯が一層まずくなるとでもいうようなんです。それなのにみんなが、看護婦さんの配膳《はいぜん》してくれたアルマイトの食器で、同じお菜《かず》を食べているんですものね。もっともA子さんはもう起きられないほど具合が悪かったから、身体《からだ》を横向きにして寝たまま器用に箸《はし》を操《あやつ》っていました。わたし療養所へはいった初めの頃は、その暗い、陰気な雰囲気《ふんいき》が厭で厭でしようがなかったものです。けれども、皆さんがそうやってひっそりと、御自分の病気だけを大事にして暮しているんですもの、めったにおせっかいをして憎まれても始まりませんものね。わたしはこれで軽症の方だったけれど、気分だけでも、もう生きてこの療養所は出られないような気がしていました。本当に。なにしろお互いに打解けることがないから、仰向けに寝て眼をつぶっている人、レシーバーを耳に一日中ラジオを聞いて、時々一人でくすくす笑う人、殆《ほとん》どめくりもしない本を書見器に掛けて、一日中|睨《にら》めっこをしている人、大部屋の共同生活でも一人一人が一城の主《あるじ》なんです。その中でA子さんは、重症だというのに、横向きのまま、せっせと手紙を書いていらした。  そうやって暫《しばら》く経《た》って、一人一人の気心が少しは分って来た頃、A子さんは病状がはかばかしくないというので個室の方にお移りになりました。今から四五年前のことでしょう、あの頃はまだストマイと成形手術とが主な療法で、具合の悪い方も多かったわ。今から考えるとあの頃亡くなった人は本当にお気の毒ね。A子さんは手術が出来ないくらい重かったんです。それに個室に出るというのは、もう癒《なお》らないという御託宣みたいなものですからね。わたしは気兼することもなくなったから、毎日しげしげとA子さんの部屋へお見舞に行き始めました。わたしは何も自分の親切を吹聴《ふいちよう》するつもりはないけれど、A子さんにとってはそれがとても嬉《うれ》しかったらしいの。お母さんがいらっしゃるきりで、何でもお父さんは戦災で亡くなられたとか、翳《かげ》のある寂しそうな方で、お友達だってまるでいないんです。個室というのは陽の射さない、薬くさい、粗末な部屋で、壁には模様のようにしみがつき、わたしがベッドの側の丸椅子に腰を下すと、古びた床板がぎしぎし鳴ったものです。わたしは、「どうお元気? 書翰《しよかん》文学はもう済んだの?」とおきまりを尋ねて、それから暫らくの間、彼女を元気づけるようなことを言う。すると、「この頃は疲れるから毎日だんだん短いお手紙になってしまうのよ、」とA子さんが答えるんです。  A子さんの書翰文学、これは女子|病棟《びようとう》では有名でした。前に言ったように、A子さんは毎日必ずお手紙を書くんですが、その宛名《あてな》がいつも同じ人だということは誰でもが知っていました。起きて歩ける人なら、ポストまで出向いてこっそり出すことも出来るわけだけれど、大部屋にいた頃から寝たきりなのだからどうしても看護婦さんに頼むし、口の軽い看護婦さんは面白がってその話をするというわけです。返事は来たことがありません。毎日お昼前に、看護婦さんが来た手紙を配って歩くけれど、そういう時、A子さんは枕《まくら》から少し首を起してちらっと看護婦さんの手許を見る。もう初めから諦《あきら》めてはいるが、しかし万に一つの期待が芯《しん》の方に燃えている顔なんです。それは本当に可哀《かわい》そうでした。  彼女が個室に移ってから、わたしも次第に親しくなったので、「あなたのお手紙書く人、本当に受け取っているのかしら?」と訊《き》いてみました。「それは大丈夫よ、だって返送にはならないんだから。」「どういう人なんでしょうねえ? わたし随分ひどいと思うわ、あんまりよ。」しかしA子さんは翳のある笑いかたをして、「あなたはわたしより若いもの、」と言うんです。そんな返事ってあるかしら。まるで若いからわたしには分らないとでもいうように。  そのKさんという宛名の人は、何でも名古屋で或《あ》る大学の英語の先生をしていらっしゃるということでした。その人が南方から復員して来た時に一度会ったきりで、それから毎日手紙を書いているんだと言うんでしょう。わたし驚いてしまった。奇妙な情熱とでも言うのかしら。そう言えば文学的で気取っているかもしれないけど、他に言いようもないでしょう。復員してからなら、もう三年ぐらいは経っている筈で、その間一日も欠かさずに手紙を書く、向うからは頑固《がんこ》に返事が来ない。としたら一体何のためにその情熱が使われているのでしょう。わたしならさっさと止《や》めてしまうわ。だって相手の人に気がないことは確実なんですものね。「その人の気持は大丈夫なの?」とわたしもあきれて訊き返したんですが、A子さんは「大丈夫よ、だって昔、生命《いのち》を賭《か》けて誓い合ったんですもの、」と答えるばかり。その時の、長い睫毛《まつげ》の下の瞳《ひとみ》が、奇妙な情熱を湛《たた》えてきらきら光っていたのを今でも思い出しますわ。  昔の話というのを、わたしも詳しく聞いたわけじゃありません。戦争中にA子さんは本郷《ほんごう》に住んでいて、そこの教会でKさんと識《し》り合ったのだそうです。Kさんはお家が名古屋で、一高東大を出て、大学の助手かなんかをしていました。わたしその二人が、戦争を背景に、急速に仲良くなったのがよく分るような気がします。きっと三四郎池のあたりを一緒に散歩して、未来を誓い合ったんでしょうね。わたしだって、それ位のロマンスはあるけれど、でもこれは別のお話よ。A子さんは夢中になって愛していたんでしょう、Kさんの方だって真面目《まじめ》だったんでしょう。そしてKさんが応召ということになったんです。  最後に別れる前に、Kさんは何処《どこ》からか、毒薬のはいった小瓶《こびん》を持って来たそうです。「いま二人でこれを呑んで死んでもいい。僕は戦争に行くのは厭なんだ。けれども今死んでしまっては詰らないような気もする。」そうKさんは言ったそうです。わたし二人が何処でそんな話をしたのか知らないけれど、もしわたしが小説家なら、教会のがらんとした礼拝堂の中にしますわね。夜で、ベンチが裸のまま並んでいて、そしてあたりには誰もいない。結婚式にふさわしい場所に、追い詰められた若い恋人どうしが死ぬ相談をしているなんて。そこで毒薬の話ですけど、A子さんは、即座に死にたいと答えたそうです。「どうせ別れ別れになって、あなたは弾丸に当って死ぬかもしれないし、わたしだって空襲でどういうことになるかもしれない。それより今、死にましょう。その方が綺麗だし、わたしには嬉しい。」そう口説いたと言います。Kさんは考え込んで、「僕も最初はそう思った、だからこれを持って来た。でも戦争で必ず死ぬとは限らないんだから、その時まで、僕が帰って来るまで、待っていてくれないか、」と言いました。そしてKさんは毒薬をその場で二つの瓶に分けて、「もし万一のことがあったなら、その時にこれを呑もう、」と言って、A子さんにその一つを渡したそうです。わたしこの話を聞いても、Kさんという人が、その時心変りがしたとは思いません。死ぬことだけが愛している証拠じゃないんですものね。死んでもいいほど愛していたが、しかしもし生きられるものなら生きたいと思ったんでしょうね。二人はそういう約束を交した。生きている証拠がある限りは二人とも生きる。どうしても耐えられないようなことが起ったり、相手が死んだことが分った場合には、それぞれ自殺をするという約束なんですね。最後は東京駅で別れたというんですが、教会の人たちがプラットフォームの上に円陣をつくって、讃美歌《さんびか》の「また会う日まで」を歌ったんだそうです。わたし基督教《キリストきよう》というのは知らないけれど、その頃はフォームで讃美歌をうたうのがもう一種の抵抗になっていたのでしょう。わたしはそれをきざだとは思いません。基督教徒が自殺しようなんて言うのはよっぽどだろうし、たとえA子さんもKさんもそれほどの信者じゃなかったとしても、わたし戦争のあの雰囲気《ふんいき》の中でなら、無理もないことだと思いますわ。恋人が生きて帰って来るとは思えないような時代だったんですものね。  ところでKさんは無事に生きて帰って来た。それまでにA子さんも随分苦労をしたらしいんです。お父さんは亡くなる、家は焼ける、あの方はお勤めに出て働く、そして病気になって療養所へはいった。Kさんは復員して来て、一度だけA子さんのところにお見舞に来たそうです。  その時一体どういうことが起ったんでしょう? A子さんが病気だからそれで気が変ったんでしょうか。好きな人が他に出来ていたんでしょうか。とにかくKさんは名古屋へ帰り、A子さんはそれから毎日のように手紙を書いたんです。それがあの人の生きている目的のような気がしますわ。でも何という望みのない、無益な目的でしょう。  そのうちにA子さんは日ましに悪くなって行きました。お母さんが看護に見えていましたが、もう長く持たないことが誰の眼にも明かなのです。日課の手紙書きさえ続けられないほど、体力が衰えていました。そこでわたしは、あんまりA子さんがお気の毒に思われたので、そのKさんという人にわたしから手紙を出すことにしました。おせっかいというものかもしれません、でもわたし、そうでもしなければ自分の気が済まなかったのです。こんな男らしくない人はいないと思っていました。きっとわたしの手紙は、険のある、厳《きび》しい文章だったのでしょうね。A子さんがもういよいよ駄目そうだということ、一度だけでもあなたにお会いしたがっていること、あなたにはお見舞にいらっしゃるだけの義務があるのじゃないかしらと思うこと、そういうことを相手を責めるような口調で書きました。手紙を速達で出した翌日に、追い掛けて電報まで打ちました。きっとわたしは、A子さんの魂が乗り移りでもしたように、もうすっかり夢中だったのでしょう。  Kさんは療養所にやって来ました。わたしはその時、A子さんの個室にい合せたのですが、「僕がKです、」と言ってその人が現れた時には、声がつまって思わず涙が出て来たくらいです。A子さんにしてもどんなに嬉《うれ》しかったでしょう。その人は、痩《や》せぎすな、眼のぎょろっと大きい、どこか取りつく島もないような人でした。ああこの人はもう愛していない、とわたしは女の本能ですぐに見抜きました。この人は義務として来ただけです。愛しているから来たわけではありません。しかしわたしは思わず眼頭《めがしら》を抑えたまま、「どうぞゆっくりA子さんを慰めてあげて下さい、」と言い捨てて、自分の部屋に逃げ帰りました。A子さんのお母さんはその時留守でしたから、二人だけが閉め切った個室の中にいたわけです。あの昔の恋人どうしは、久しぶりに会ってどんな話をしているのだろうかと、わたしは自分のベッドに腰を下し、ぼんやり空想したものです。  小一時間ほど経って、あまりKさんと話をしすぎても病状に障《さわ》るだろうと思い、わたしはまた個室へ戻りました。戸はしまっています。ひょっとすると折角のところを邪魔するんじゃないかと、自分の役目の詰らなさをつくづく感じながら、やっと入口の戸をノックし、返事がないので硝子戸《ガラスど》を少し明けてみました。わたしはどんなにびっくりしたでしょう、お客さんはもういないのです。 「あら、どちらへいらっしゃったの?」と訊き、蒲団を真深くかぶっているA子さんの方に顔を近寄せました。「帰ったわ、」とそれだけ答えたA子さんの目蓋《まぶた》から、少しずつ涙が滲《にじ》み出ていました。  一体何があったのでしょう。名古屋から此処までわざわざ見舞に来てくれた人が、どんなに忙しいか知らないけれど、一時間経つや経たずで帰ってしまうなんて。私は慰める言葉もなく丸椅子に腰を下し、苦しそうに息をしているA子さんを見詰めていました。するとA子さんは、ぽつぽつとその模様を話してくれました。どうかわたしを好奇心の強い女だと思わないで下さいね、わたしは何もそのことを話してくれなくてもいいとA子さんを留めたくらいなんです。でも、話す方が寧《むし》ろA子さんの気持を落ちつかせるのなら、とわたしは考えました。勿論《もちろん》わたしだって聞きたかったんです。  Kさんと二人きりになると、A子さんはこういうようなことを言ったそうです。「むかしわたしたちは一緒に死のうと約束しました。覚えていらっしゃるでしょう? 毒薬の瓶をあなたとわたしとで分けました。あなたはそれを今でも持っていらっしゃる?」「僕は捨てた、」とKさんは答えたそうです。A子さんは枕《まくら》の下の財布《さいふ》から小さな鍵《かぎ》を取り出すと、Kさんにベッドの下のスーツケースを明けてもらい、その中を探させました。A子さんは今だにその毒薬を大事に持っていたんですね。「わたしはもう助かりません、」とA子さんは言いました。「そのことは自分にも分っています。あなたにお会いするまで死んじゃいけないと思っていました。Kさん、昔の約束の通りに、今このお薬で一緒に死んで下さる?」Kさんは答えなかったそうです。A子さんはベッドの上に起き上ったというんだけど、よくあの人にそれだけの力が残っていたものですわ。「わたしが先に死にます。あとであなたも死んで下さいね。」そう言って、枕許から湯呑を取って、お薬をそこに注ごうとしました。その時Kさんは、素早くその小瓶をA子さんの手から奪い取って、こう言ったそうです。「僕は死ぬことは出来ない。君が死ぬのを黙って見ていることも出来ない。これは僕があずかる。」そして二人は暫く顔と顔とを見守っていました。「僕はそれじゃこれで失礼する。気の弱いことを考えずに、身体を大事にしてくれ給え。」最後にそう言うと、黙礼して部屋から出て行ったと、A子さんは話してくれました。  A子さんは悲しんではいましたが、決して怨《うら》んでも憎んでもいなかったようです。「あの人は人が変った、でもやっぱりいい人なのよ、」と言っていました。こんな明かな拒絶でもなお信じるくらい、A子さんという人はおめでたい人だったんでしょうか。わたしはそのKさんという、秀才で、口先ばかりで、死んで行く人間にそんな冷たい仕打の出来る人を、本当に憎んでいます。わたしだって何も、その時一緒に死ねとは言いませんけれど、もっと他の言いようだってあるんじゃないかしら。君は勝手に死ね、僕は違う、とこれじゃあんまりひどいじゃありませんか。女ってものを馬鹿にしているんですわ。そうお思いにならない?  A子さんはそれから三日ばかしして亡くなりました。お母さんが嘆いて、「本当に不幸な娘でした、何の為合《しあわ》せも知りませんでした、」と言われた時に、わたしおいおい泣き出しました。A子さんはまだ娘の頃にKさんに恋をして、一生その恋だけを大事に守って、毎日せっせと手紙を書いて、それで結局何の役にも立たないで、天使のように一人きりで死んでしまったのです。そんな一生ってあるものでしょうか。本当に無駄な、惨《みじ》めな、生きがいのない人生という気がします。せめてKさんにもう少しの暖かみでもあって、ほんの一寸《ちよつと》のお芝居でもしてくれたら、A子さんだってもっと安心して死んで行けたような気がします。一体Kさんという人は、その心の中で、何を考えていたんでしょうね。    3  私はこの話を聞いた時に、話の内容の持つ暗さにも驚いたけれど、その主人公であるKという人物が、私の昔|識《し》っていた男であるのにも驚かされた。Kは高等学校の時に私より二年ほど若かった。普通なら年度が違えばそんなに親しくなることはないのだが、私も彼も同じ弓術部に属していた。私は手を取って、初心者の彼に弓の引きかたを教えてやった覚えがある。無口な大人しい少年で、立《たち》の間などに、道場の奥でラムやラスキンなどの原書をめくっていた。「いやに君は勉強するんだな、」と私がひやかすと、「なに新聞を読むのと同じですよ、」と答えた。痩《や》せて、眼ばかりぎょろぎょろさせて、甲高《かんだか》い声でよく笑った。  その頃は大学の文科へ進む者は数が尠《すくな》かったから、彼が英文科へはいったことは、ちょっとしたニュースだった。彼もまた小説家志望の、野心家の一人で、もうラスキンなどを読んではいなかった。私は彼と本郷の白十字《はくじゆうじ》という喫茶店で、ハクスレイの新作の技術的価値という問題を論じたことがある。彼に言わせれば、ハクスレイのようなシニシズム的人生観からは何ものも生れない、技術を技術だけ抽《ひ》き出して論じたところで我々の勉強にはならない、というのだった。どうもその頃から、私は技巧家にすぎたようである。  私がいくら思い出してみても、私の記憶はこの白十字での、消えかかったストーヴの側でねばっていた一晩で終ってしまう。それから戦争になり、戦争の慌しく陰惨な潮流の中に、彼も私も巻き込まれてしまった。私はKが名古屋の大学で教師を勤めていることを、この時初めて知った。  しかしこの話のKは、私が昔識っていたKと果して同じ人物なのだろうか。Kはもっと真面目《まじめ》な、責任感の強い、優秀な人間だった。一高東大出の秀才という悪口に一概に当てはまるような、そんな軽薄な人間ではなかった筈だ。私は彼のことを懐《なつか》しく思い出し、一方、話の中のA子さんの運命を振り返って、そこに何かしら神秘的な、謎《なぞ》のようなものが隠されている気がした。A子さんの運命に同情すると共に、Kの方にも何かしらの原因があるのだろうと考えた。昔のKの肖像と、今の話の中の肖像とは、一つに重なり合わなかった。それが私の心の中に、重たい痼《しこり》のようなものとなって残った。    4  去年の秋、名古屋でフランス文学の学会があり、私はそれに出席したが、ふとKのことを思い出したので彼の勤めている大学に電話を掛けた。午後|晩《おそ》く、私は彼に会いに行った。  まだ灯を点《つ》けるには早い、しんとした研究室の中で、私は殆《ほとん》ど十幾年ぶりにKの顔を見た。彼は昔よりも一層痩せて、鋭い眼をぎょろつかせていたが、しかし口辺に微笑を失わなかった。それはやはり昔と同じ顔だった。しかし私は彼を一目見ただけで、最早彼が昔の野心家ではなく、一介の語学教師に満足していることを見抜いた。私たちは文壇の話や、この頃の翻訳の話や、それから昔の仲間たちの噂《うわさ》などをした。 「時に僕は、この前偶然のことから、A子さんという人の話を聞いたよ、」と私は言った。「決して君の気を悪くしようと思ってこんなことを持ち出すわけじゃない。君にしたって昔のことだろうし、君には君のわけがあるんだろうけれど。」  私はこの前聞いた内容をざっと語った。ぎっしりと古びた書物の詰った本棚《ほんだな》の前で、彼の顔色は前よりも一層悪くなった。陽が西に傾いて、硝子窓《ガラスまど》に映った樹々の影が少しずつ移行した。 「僕は何もこんなところまで来て、君に厭な話をするのは気が進まない。君は返事をしてくれなくてもいいんだ。何もむかし僕等が友達だったからといって、今こんなことを訊《き》くのが失礼なことは僕にも分っている。ただあの話を聞いた時に、僕はひどく不思議に思ったのだ。あまり君らしくないようだ。僕は君の味方になって、君のためにその理窟《りくつ》を考えてみようとしたけど、どうしてもそれに思い当らなかった。毎日あてもない手紙を書いているという、そのA子さんという人の苦しみの方が、僕にはひどく切実に感じられた。一体何があったのか、——こういう疑問は自分でもどうにもならないんだ。単に小説家の好奇心といったものじゃないんだ。もっと人間的な、自分の孤独と対決しているような、ぎりぎりの問題なんだな。だからもし君がよければ僕にそれを教えてもらいたいのだ。どうだろう?」  彼は黙ったまま、長い間、硝子窓に映った緑の影が夕陽にくっきりと浮び上るのを眺《なが》めていた。私は彼が気を悪くしたのかと思った。すると彼は私の方に向き直り、次のように語り始めた。 「僕がそのことをあなたに説明したところで、うまくあなたに分ってもらえるかどうか。大体僕自身にしても、それをうまく自分の良心に言い聞かせることは出来ないだろうと思う。これが、僕がA子をぱったり嫌《きら》いになったとか、他に好きな女が出来たとかいうのなら、説明は頗《すこぶ》る簡単なのだ。しかしそうじゃない。僕はずっと独身だったし、A子からの手紙だって毎日見ていた。ただA子が僕という者を相変らず昔通りに考えて手紙を書いていたのに対して、僕は昔の僕じゃなかったのだ。そこのところを、とにかくあなたに説明してみよう。 「戦争中に僕はA子と絶望的な恋愛をした。絶望的というより他《ほか》に言いようもない。それは、結婚が出来ないとか、いつ引き離されるか分らないとかいうこともあった。あの時代で、のんびりと恋愛を愉《たの》しむことなんか誰にも出来なかったろうからね。しかし僕の場合は、こういうことがあった。A子のことを愛していた、それは確だ、しかしそこに余裕というものが微塵《みじん》もなかった。つまり少しでも落ちついて、少しでも冷静に、僕とか、僕の周囲とか、客観的状勢とかを見廻すだけの余裕がなかった。恋愛というものは、ちょっとぐらい冷静になって、この女もいいけれどあの女もいいというふうに計算し、それでもやっぱりこの女でなければ駄目だというところに、本当に力強いものが生れるのじゃないか。僕はA子に夢中だったが、それは思うに一種の逃避、easion だったんだな。僕は第一補充兵で、いつ兵隊に取られるかも分らない、取られればきっと死ぬだろう、僕に与えられた時間はひょっとしたら今日一日だけ、今のこの一瞬だけかもしれない、絶えずそういうことを考えている。だからA子というものは、僕にとって他のあらゆるものよりも貴重だった。A子の顔を見ているその瞬間だけが生きているんだ。他の時は死んでいるのと同じだ。だから、絶えず会っていようとする、そのことばかり考えている、もし一人の人間の心の中の思考を、科学的に測定して統計を取ることが出来れば、僕は九九パーセントまではA子のことを考えていただろう。僕の絶望的というのはそういう意味だ。恐らくA子だってそうだったんだ。二人とも、共通の、唯一の幻影を心の中に持って、それによって生きていたんだ。もし戦争中でなかったなら、僕等はもう少しゆとりを持って、こんな差迫った、息切のする、苦しい恋愛をしなくても済んだろうと思うよ。 「そしてお定まりの通りに召集が来た。A子と引き離される、もう会えない、もう永久に会えないかもしれない。今まではA子という者が僕の逃げ場だった。その中ではとにかく恐怖を忘れることが出来た。こう考えると、僕は本当に臆病者《おくびようもの》なんだな、戦争というものが怖《こわ》くてしかたがなかったんだ。しかしもう駄目だ、もうどうにもならん。そこで僕はいっそ死んだ方がましなような気がした。今死ぬことだって怖いには違いないが、先の方の、しかし確実な、死を待ち受けながら、一歩一歩、死の方へ近づいて行くのにはとても耐えられなかった。そこでA子と一緒に死のうと決心した。毒薬は前から持っていた。つまりそういうものを秘《ひそ》かに持つことで、心の中の抵抗の拠《よ》りどころにしていたんだね。 「A子は直に賛成した。彼女は無邪気に、何のためらいもなく、一緒に死のうと言った。女というのは勇気のある代物《しろもの》だ。僕はその時、彼女を羨《うらやま》しく思った、ということは、僕がその時少しばかり冷静になったことなんだろうね。それともう一つ、その晩の緊張した、運命を僕にゆだね切った、放心したような彼女の顔は、嘗《かつ》て見ないほどに美しかった。僕はその美しさを殺すに忍びなかった。恐らくその若々しい顔は僕の顔をも鏡のように映していたのだろう、そして僕のエゴイズムが、この自分の顔をも殺すに忍びなかったのだろう。つまりは僕の臆病ということかもしれん。僕は、今死ぬのは延期しようと言った。僕は必ず生きて帰って来るから、それまで待てと言った。駄目な時に、駄目だと分った時に、別々に死ねばいい。僕はA子の香水瓶《こうすいびん》に毒薬を半分だけ分けてやった。それが形身というようなものだ。しかし今は死ななくても、いつかは死ねるのだ。愛していれば、生きていることも出来るだろう。こういう僕の考えかたは卑怯《ひきよう》だったんだろうか。しかし僕は心に疚《やま》しいとは思わなかった。 「そして僕等は別れた。僕は兵隊に行き、全く別の世界にはいった。今迄の経験とは全く隔絶した、新しい経験をした。訓練の期間を終えて、南方へ送られることになった。僕の乗り込んだその輸送船が、敵の潜水艦にやられるということが起った。 「それまでも、僕は前以上にA子を愛していた。訓練が厳《きび》しければ厳しいほど、それが耐えられなければ耐えられないほど、僕はA子のことばかり考えた。今は実在しないところのA子の幻影が、僕の evasion の対象だった。輸送船の中で、こうやって敵地へ乗り込めば、彼女に再び会える可能性はこの一分一秒ごとに減って行くのだと考えた。たまらなく悲痛な気持がした。例の毒薬は、あらゆる秘術を尽して隠し持っていた。まるで探偵小説にでも出て来そうなほど、智慧《ちえ》をしぼって大事に隠した。これさえあればいつでも死ねるというのは、一種のノイローゼ的な考えかただ。しかし僕は、そういう生きかたが本当の生きかたではないことに、まだ気がついていなかった。 「それはごく一瞬の出来事だった。敵潜の襲撃はあっという間で、僕はまだ眠っていなかったから本能的に甲板《かんぱん》に飛び出した。僕の足許は見る見るうちに傾いて来た。その短い瞬間に、荒れ狂う真暗な海を眺めながら、僕はこういうことを考えたのだ。 「もう駄目だ、いよいよ死ぬ、毒薬を使うなら今だ。と同時に、これで死んでもいいのか、それで満足か、という内心の声がした。僕が死んだことが分ればA子も死ぬだろう。しかしA子が死ぬ前に、この僕はもう確実に死んでいるのだ。他人のことではない、まず自分のことだ。そう思った瞬間に、今まで僕とA子との間にあったただ一つの幻影が、不意に二つに分れた。僕はそして自分の幻影を見たのだ。今までは僕は本当に生きて来たのか、僕は幻影の中を生きて来たのではないか。高等学校の寮生活という幻影、野心家の大学生という幻影、英文学という幻影、そしてA子という幻影だ。僕自身の本当の生活は何処《どこ》にあったのか。僕は今まで酔っぱらって生きていたのではないか。現実が苦しければ苦しいほど、A子を美しく彩《いろど》って、その幻影に陶酔して来たのではないか。だからいつだって死んでもいいような気持で、毒薬を隠し持って、自分を小説の中の主人公のようにみなして生きて来たんだ。違う、生きるというのは、そう決心して生きることだ、生きるために生きることだ。幻影のそとに生きることだ。 「こういう考えは、本当に短い間に次々に頭の中に湧《わ》き上った。馬鹿野郎、何をぐずぐずしてやがるんだ! 僕はそう怒鳴られ、突き飛ばされた。傾いた甲板の上は修羅場《しゆらば》の騒ぎだった。カッターを下すのが待ち切れなくて、兵隊たちは次々と甲板から水の中へ飛び込んだ。船はいよいよ傾いて、雲のある夜空がぐっと眼の前にかぶさった。僕は例の毒薬の瓶をまず水の中に投げ棄《す》てた。そのあとから、思い切り足にはずみをつけて飛び込んだ。重油の浮いた、ねばねばした水が、僕を窒息させた。しかし僕は沈んだ船の大渦巻にも呑み込まれないで、どうにかカッターに引き上げられることが出来た。 「もし僕の人生観というものが変ったとしたなら、それはこの一二分の間の出来事だ。僕はそれからフィリッピンに連れて行かれて、さんざん苦労を嘗《な》めた。しかし生きようと決心した者にとって、弾丸というものは当らないものだ。僕は例の毒薬を自発的に棄てたのだから、どんなに苦しくても、歯を食いしばって生きなければならなかった。自分が生きるためには、戦友の死ぬのを見殺しにすることだってある。生じっかなヒューマニズムでは、戦場ではみんなが死ぬだけのことだ。 「僕は復員して戦後の日本へ帰って来た。A子が療養所へはいったことも知り、直に見舞に行った。A子は前と同じだった。あまりに昔と同じだった。僕は自分がまず生きなければならないから、郷里《くに》へ戻って就職を探した。A子を愛していることは昔と変らなかったから、何とか落ちついたら、彼女を呼ぶことも出来るだろうと思っていた。そして毎日のように彼女から手紙が来ることになった。一日も欠かさずにね。 「僕はそれからのことをあまり詳しく話したくはない。それはどうしても自分勝手な議論になるだろうからね。彼女の手紙は、彼女が昔と同じ幻影を抱《いだ》いていることを僕に教えた。僕は幻影を棄てたのだ。今の二人というものはあまりに違っている。むかし僕たちが恋人どうしだったのが寧《むし》ろ不思議なくらいだ。しかし僕にはそれが分ったが彼女には分らない。彼女は療養所の中で、依然として同じ夢を描いているわけだ。 「そこで問題は、それを少しも早くA子に分らせることだ。僕たちは性格も違うし、物の考えかたも違う。二人が同じ夢を見ることは出来ないし、二人が結婚すれば、彼女の夢が覚《さ》めて不幸になるだけだとね。しかし彼女の方の状況が変っていた。彼女は療養所で日ましに病状が悪化しつつあった。それを言うことは残酷だった。 「だから僕は返事を出さなかった。A子がその夢を育てているのを妨げようとはしなかった。もし僕が卑怯だとすれば、はっきりしたことを彼女に言わなかったその点だ。僕は決して彼女を愛しなくなったわけではない。幻影としては愛しなくなった、そして幻影というものは、現実の前では無力なことを知っているだけだ。現実では、A子を引き取ることも出来ない。僕には両親があるし、大学の語学教師がどんなに薄給か、あなただってよく御存じだろう。自分の生活だけで精いっぱいなのだ。しかしこういう点も、或いは僕が卑怯なのかもしれない。 「彼女がいよいよ悪くなって、その友達という人から僕は呼びつけられた。本当を言えば、僕は会いたくなかった。A子の夢に見ている僕と現実の僕とが違う以上、そっとしておいて、彼女がその夢を抱いたまま死んだ方が幸福なのじゃないか。死にぎわに現実を見せる必要がどこにあるか。お芝居をしてやればいいと人は言うかもしれないが、僕はそんなお芝居をするのは厭だ。僕はそういう点、嘘の吐《つ》けない人間なのだ。 「最後のことは君も知っているだろう。A子は一緒に死んでくれと言い、僕は断った。僕は沈んで行く輸送船の甲板で、生きようと決心したんだ。今になって死ぬことは出来ない。A子に悲しい思いをさせたことは済まないと思う。しかし僕にはどうにもならなかった。どうする方法も知らなかった。それから名古屋まで帰る汽車の間に、僕はどうしても涙がとまらなかったよ。 「僕は近いうちに結婚するかもしれない、親がうるさいからね。しかし僕には何の感激もないんだ。現実というのはかさかさしたものだ。もしもう一度、昔のように、幻影を追って生きられたらとつくづく思うよ。」  Kは話し終った。研究室の中はもうすっかり暗くなっていた。彼は電燈のスイッチを捻《ひね》ったが、明るい電燈の下で、彼は私の方に顔をそむけるようにした。  私は彼と別れて、大学の構内を出て、タクシイを拾って宿舎へと帰った。明るくネオンサインの点いた盛り場を車が走って行く間に、私はあの薄暗かった戦争中の街々の風景を思い出していた。すると不意に、私の耳に「また会う日まで」の合唱が聞え出した。それは執拗《しつよう》に、いつまでも私の内部で響いていた。そして私はその声に揺《ゆす》られながら、最後まで一つの幻影を追って死んだ女と、自ら幻影を棄てて現実の中に生きた男と、果してどちらの方が幸福だったろうかと、いつまでも考えあぐねていた。 [#地付き](昭和三十年十二月)   [#改ページ] [#小見出し] 一時間の航海  わずかに一時間の航海だった。  四月の初め、沼津から戸田《へだ》へ通う定期船の船室に、一人の大学生が乗船していた。くしゃくしゃのレインコートを着たまま、傍らに置いた小さなリュックサックの上に、汚れたレインハットをのせ、胡坐《あぐら》をかいて船室の硝子窓《ガラスまど》の方を見詰めていた。  それはひどく狭い船室で、けばの立った畳を六枚ほど敷いたばかり。両側に、汽車の窓を思わせる四角に区切られた硝子窓が、片側に五つずつ、向い合って並んでいた。船の進行して行く方向には、中央に曇った鏡が懸《かか》っていて、その左右に粗末な木のドア、畳の前が幅一尺ほどの板の間になって、乗客の脱ぎすてた下駄や靴が並んでいた。客は全部で六人ほどしかいなかったが、思い思いに畳の上に陣取っていた。ドアの反対側の壁には広告が何枚か貼《は》りつけてあり、「不二《ふじ》洋子|大一座《おおいちざ》来る」という広告が中でも一番大きかった。  大学生は船室の中を見廻し、それからまた自分の前の硝子窓を眺《なが》めた。彼はその動作を、さっきから三度ほど繰返した。鎖《とざ》されている、と彼は考えた。しかし一時間ほどすれば、僕は明るい、開かれた風景の中にいる。それは簡単なことだった。去年の春休みにも、その前の年の春休みにも、彼はリュック一つ持って戸田の大学寮に滞在した。彼は馴《な》れっこになったコースを踏んで、今や戸田に行きつつある。格別、去年や一昨年と変ったことがある筈もなかった。  大学生は四角な硝子窓に吹きつけた飛沫《しぶき》が、糸を引いて流れ落ちるのを眺めていた。隣の窓も、その隣の窓も、この外海の方に面した硝子窓はどれも飛沫《しぶき》で汚れ、それが部屋の中を昼間でも暗くしていた。定期船は十二時半に出航する予定が三十分ほどおくれ、今は一時十五分過ぎだった。身体《からだ》を延びあがるようにして外を覗《のぞ》くと、海原には白い三角波が無数に立って、その上に烈《はげ》しい雨脚《あまあし》が落ちていた。風の音が、船室の中に立ち罩《こ》めた機関の音を圧倒して、吠《ほ》えるように喚《わめ》いていた。打ちつける一波ごとに、硝子窓がざあっと洗われた。対岸の方はどんよりと曇り、見渡す限り白ちゃけた海がひろがっていた。今日はしけるよ、と乗る前に船員が喋《しやべ》っていた。  鎖されている、と一つ覚えのように大学生は口に出して言った。今迄来た時は、この航路はいつもうららかに凪《な》いでいて、遠くに富士を眺めながら航海したものだ。いつも甲板をぶらぶらするかベンチに腰を下すかして、こんな薄暗い、便所くさい船室の中にもぐり込んだことはなかった。一時間の航海は爽快《そうかい》だったから、戸田への往《ゆ》き復《かえ》りにバスを利用する気になったことは、一度もない。今、狭い船室の中に閉じこめられると、相客たちの不安がお互いに感染して、重苦しい意識の罠《わな》に掛けられてしまったようだった。大学生は帽子の上に置いた手を神経質に動かし、それから自分の生きられる範囲を確めるように、また船室の中を見廻した。そこには何かしら彼を不安にさせるものが隠れていた。不安は、飛沫のかかる窓の外から来るのではなく、窓の内側に澱《よど》んでいた。  向う側の硝子窓に、対岸の内浦湾の陸地がかすかに海の上に浮んでいた。雨が横なぐりに窓に吹きつけた。その窓の足許に、艫《とも》の方を枕《まくら》にして母親らしい女が五つ位の男の子と並んで横になっていた。母親の方は蒼《あお》ざめた顔をして、子供を腕の中に抱きしめた。その横の、不二洋子の広告の下に、五十年輩の女と三十位の女とが、向い合うようにして坐り、小さな声で話をしていた。若い方は陽焼した顔が油紙のように光った。船には強いらしく、年寄の方も平気な顔で煙草をふかしていた。この二人は何となく魚くさいにおいを漂わせていた。大きな風呂敷包が、畳の上で首を傾けた。  船は更に揺れ始め、もう畳の上に坐っていても、外海の側の窓の向うに、盛り上った海原を見ることが出来た。船は片側に傾《かし》いだまま、雨にいためつけられながら、一層烈しく機関の音をとどろかせた。大学生は、漁師のつれあいらしい二人づれから、怖《おそ》る怖る眼を自分の横の方に向けた。今までにも、彼が何度も船室の中を見廻したのはそのためだった。  大学生の隣り、やはり窓の方を向いて、彼と同じ年頃の若い娘が一人、つつましく坐っていた。たたんだレインコートと、小さなバッグと、雨傘《あまがさ》とを膝《ひざ》の前に置き、じっと下を見詰めていた。黒っぽいワンピースを着ていた。いるのかいないのか分らないように、いつでも俯向《うつむ》いていた。  綺麗《きれい》な人だ。それが大学生の単純な第一印象だっだ。この小さな汽船に乗り込んだ時に、大学生はなぜということもなくその娘の側に座を占めた。娘はその時も顔を起さなかった。今でも、彼はまだ娘の顔を見ることが出来なかった。ただ黒い、素直な髪が、長々と肩の上に垂れ下っているばかりだった。その頸《くび》すじは細《ほつ》そりして、身体つきも花車《きやしや》だった。船が揺れても、両手を膝の上に置いて、きちんと坐っていた。どうして綺麗だということが分ったのだろう。さっきちらっと見た横顔は、明かな印象を彼に残さなかった。しかしこの狭い船室の中で、娘のいるところだけが別の空間を形づくっていた。鎖された場所の中で、その空間は無限に開いていた。しかし彼には、どうすればこの開かれた空間に近づくことが出来るのか。分らなかった。  船は大瀬崎を過ぎ、左手の窓の向うに岩や小石の多い海岸が雨に洗われながら展開したが、船は前よりも一層烈しく揺れ始め、殆《ほとん》ど斜めに傾いた。子供が奇妙な声をあげ、一緒に寝ていた母親が用意した紙袋を急いでその口に当てがった。部屋の中に生ぐさい臭《におい》がこもり、その臭は機関の音に掻き乱されながら、白ペンキを塗った低い天井板と、畳との間で、次第に濃くなって行った。二人の女づれは話を止《や》め、年を取った方が風呂敷包を枕にして身体を延ばした。その足袋《たび》は汚れていた。壁に貼った広告の中から、不二洋子が大きな眼を剥《む》いて見下した。  綺麗なことは分っている、と大学生は考えた。綺麗だということは容貌《ようぼう》だけの問題じゃない、その人の与える全人格的なものが、僕の中に喚《よ》び起したこの不思議な情緒、と言ったらおかしいだろうか。僕の感じているこの不思議な情緒はどこから来たのだろう。久しぶりの旅行とか家から離れた解放感とか、この鎖された船室とか、春らしくないこの風や雨とか、そんなものが僕の点を甘くしたのだろうか。女になんか僕はちっとも関心がない。高校の時の女友達とか、妹たちとか、映画スターとか、そんなものは空気みたいだった。一度だって女の人に胸をときめかしたことなんかない。だいたい勉強したいことが山ほどあるのに、ダンスだとかハイキングだとかに潰《つぶ》す暇なんかあるものか。旅行は一人がいい、人と話をする位なら黙っている方がいい。僕はいつでも自由でいたい、鎖されているのは真平だ。この人がどんなに綺麗でも、それは戸田までの一時間の間だけだ。ただそれだけのことだ。  大学生はそこでまた船室の中を見廻し、最後に、少し大胆になって隣の娘の方を見た。娘は今までの姿勢とは変って、バッグの上に身体をかぶせるように俯向いている。大学生は急に不安になった。黒い髪がバッグを掴《つか》んだ両手の上にさっと散って、露《あら》わになった頸すじの色がおどろくほど白い。  不安が急に決意を促して、呼び掛けた。 「君、気持でも悪いんですか。」  口にしてから自分の大胆なのに驚いた。見ず知らずの人に、それも若い娘に、自分から口を利《き》いたことなんか一度だってありはしない。彼ははにかみ屋だった。彼の渾名《あだな》は「お嬢さん」というのだ。しかし一度口を利いた以上、それきり黙ってしまうわけにはいかなかった。 「君、大丈夫?」  顔を近づけてもう一度呼んだ。その時、娘が顔を起して彼の方を向いた。乱れた髪を指の先で払いのけ、小さな声で答えた。 「ええ、大丈夫ですわ。」  大学生は赧《あか》くなった。どうして予感というものはこんなに当るのだろう。黒くて深い、どこまでも澄み切った眼、高い鼻梁《びりよう》、やや痩《や》せた頬《ほお》と頤《あご》、割に大きな色の薄い唇、しかしそれらの部分が一つの綺麗な顔として統一され、彼に向って一息に飛びかかった。彼は眼がくらくらした。その黒い瞳の向うに無限の空間がひろがっている。それは何かを訴えている。  娘の顔がやや微笑を含んだようだった。しかし瞬時にそれが消え、悲しげなものが霧のように顔の全体を取り囲んだ。眼は伏せられ、ちらっと見えた白い歯は唇の中に隠れ、長い髪が頬の上に垂れた。大学生は急いで尋ねた。 「君は戸田まで行くんですか。」  娘は顔を起し、眼にやや嘲《あざけ》るような色を浮べた。 「ええ、これは戸田行の船ですもの。」  大学生はまた赧くなった。彼は大急ぎで喋り始めた。 「戸田はいいですねえ。僕は御浜《みはま》にある大学の寮に毎年のように行きます。ほんとにいいところだ。桜だって綺麗だし。しかしこんなに雨が降ったんじゃもう散っちまったでしょうか。僕は何もお花見に行くわけじゃないけど、桜の散ったあとじゃ詰りませんね。海へボートを出すと、公園の桜が水に映って素晴らしいですね。しかしお天気がよくならなくちゃ。君、お天気よくなると思いますか。」  娘は窓の方を見た。暗澹《あんたん》と曇った空が、飛沫《しぶき》に濡《ぬ》れた硝子窓にこびりついている。娘はやや眉《まゆ》をひそめた。その白い顔の上にも、雨雲が影を落している。 「こんなに雨が降ったんじゃ、達磨越《だるまごえ》のバスはとまったでしょうね。」  娘はかすかに頷《うなず》いた。 「あのバスはとても怖《こわ》いんだそうですね。道が狭いし、ちょっと雨が降ると峠では道が滑って、ひやひやするそうじゃありませんか。バスで行ったことありますか、僕はないけど?」 「わたくし、バスは知りません、」と娘が言った。「子供の頃はいつも船でした。大きくなってから行くのはこれが初めてです。」  娘はそう言ったなり、黙って俯向いた。取りつくしまもないような静かなものが、その娘の身体から滲《にじ》み出ている。機関の音が、単調なままに急に高くなった。窓の外に海が傾く。  大学生は考え始めた。大きくなってから初めてというのなら、この人は村の人じゃない。そんなことは初めから分っていた。東京の女子大かなんかの学生くらいだろう。春休みに旅行に出たのだろう。僕と同じように独《ひと》り旅《たび》が好きで、子供の頃に遊びに行ったことのある戸田へ、久しぶりに訪《たず》ねて行くところだろう。言葉遣《ことばづかい》も丁寧だし、上品だし、きっとちゃんとしたところのお嬢さんなのだ。こういう人と友達になったらどんなに素晴らしいだろう。もしこういう人と恋をしたらどういうことになるだろう。  空想がそこからふくらみ始めた。二人は御浜《みはま》の石の堤防の上に腰を下して、外海の方を見ている。小さな燈台が岬《みさき》の先の方に白っぽく光っている。岩と岩とのはざまを、波が踊るように流れ込んで来る。風が冷たい。 「僕は明日東京へ帰ります、」と彼は言う。  彼女は答えない。風がその髪を弄《なぶ》って、さらさらという音が聞えるように思う。しかしそれは松の頂きを吹き過ぎる風の音だ。沖の方で鴎《かもめ》が鳴いている。 「東京でまた会えますね? 君はいつ帰るんですか。」  彼女は彼の方を向く。その眼に敵意のようなものが燦《きらめ》く。 「わたしは帰りません、わたしはもうお会いしません。」 「どうして?」 「だって、これでいいじゃありませんか。戸田でだけのお友達で。あなたはわたしを知らず、わたしはあなたを知らないで、さよならをして、それだけでいいのですわ。」 「僕は厭だな、そんなこと、」と彼は強く言う。勇気が彼の心に湧《わ》いて来る、それから今まで知ることのなかった不思議な感情が。 「僕は君とこれっきりになるなんて厭だ。それじゃほんの行きずりみたいなものだ。」 「でも、そうでしょう、わたしたち? 戸田行の汽船で偶然一緒になった、それだけのことでしょう?」 「しかし……。」  しかし僕はもう君がこんなに好きなのに、——彼はそう言うだろう。そう言うだけの勇気が、果して彼に確実にあるだろうか。彼女の寂しげな眼が、いつまでも海の遠くを眺めている……。  船が揺れて、硝子窓を波が白く洗った。それはもう曇った鏡のように風景を映さない。大学生は自分に復《かえ》る。こんなにも好きなのに、——本当に、もう、自分の心はそんなにも捕えられてしまったのか。彼は娘の着ている粗末な黒一色のワンピースを見る。飾りらしいものは何一つない。華《はなや》かな色は何一つこの娘には見られない。勝気な人だ。それでいてどこか寂しそうな翳《かげ》がある。この人の着ているのは喪服ではないだろうか。  空想が再び大学生の意識の中に育ち始める。二人はボートに乗っている。達磨山《だるまやま》が青い影を水の上に落している。彼がオールを動かすたびに、ボートの位置が動く。ボートの中に、二つの若々しい感情が、常に同じ方向を目指《めざ》して動いて行く。 「しかし僕は君のことは何も知らないんだよ、」と彼は言う。 「教えたげましょうか、」と娘が彼の顔を真直《まつすぐ》に見詰めて言う。  彼はオールを放す。ぼんやりと頷く。僕が知りたいのは僕の好奇心ではない、僕の愛情なのだ。僕は君のことは何でも全部知りたい。 「話してくれたまえ、」と強く言う。  なぜ娘の蒼白《あおじろ》い顔に、その時、嘲るような色が浮んだのだろうか。 「去年の暮に、わたしの父が肺炎で亡くなりました。そして母が、先月の初めに、後を追って亡くなったんです。母は戸田村の人間ですけど、まだ父が大学生の頃、お互いに好きになって家を出てしまったのです。初めのうちは、母もわたしを連れて時々、此処《ここ》へ機嫌《きげん》を取りに帰って来たものですが、わたしのおじいちゃんやおばあちゃんは昔《むかし》気質《かたぎ》の、とても頑固《がんこ》な人間なのです。父のことを怨《うら》んで、決していい顔を見せないのです。それで母もとうとう諦《あきら》めて、わたしが小学校へはいった頃から、もう夏のお休みにも決して実家へは戻らなくなりました。それでもわたしたちは仕合せに暮していました。父と母とは、子供のわたしがひやかしたほど、それは愛し合っていました。けれども漁村で育った人間は、東京なんかに行くとかえって病気になることが多いんです。母は胸を悪くして、ずっと療養していました。ですから父が死んだということは、母の持っていた希望を、精神的にも肉体的にも根こそぎ奪い取ってしまったのでしょう。母は死ぬ時に、わたしに田舎《いなか》に帰って、おばあちゃんと暮せと言いました。おじいちゃんが亡くなったあと、おばあちゃんも気が弱くなっているだろうし、それにわたしのことは、昔からそれは可愛《かわい》がってくれたのです。わたしにはお金もないし、頼るような親戚《しんせき》も他にはないし、結局学校をやめて、此処へ戻って来るよりほかしようがなかったんです。わたしがむかし考えたような希望は、もう何一つ残っていないのです。わたしは此処の人間になって、次第に磯《いそ》くさくなり田舎言葉がうまくなって、そのうち漁師のおかみさんにでもなるでしょう、もし貰《もら》ってくれる人があったら……。」  彼女の声が次第に低くなる。嘲るような光も消えてしまう。ボートの舷側《げんそく》を波がぴちゃぴちゃ叩《たた》く。 「そんなのは駄目だ。」  自分でもびっくりしたほどの大きな声で彼は叫ぶ。 「君は気が弱くなっているんだ。それはお父さんとお母さんとが続けて亡くなったりすれば、誰だって気が弱くなる。僕、とても気の毒だと思う。けれど、負けちゃ駄目だ。君がこんなとこに引込んじまったら、今までの君の勉強はどうなる? 全く無駄じゃないか。どうしてアルバイトでもして、とにかく卒業して、一人で働こうという気にならないんだ? 僕、どんな加勢でもするよ。」 「あなたには、こんな打撃を受けた時に、人がどんなに惨《みじ》めになるか分らないのよ。」 「分る。だけど……。」 「分らないのよ。あなたは我儘《わがまま》に育ったお坊っちゃんでしょう。不幸なんてものは御存じないでしょう。生きるってどんなことか御存じ? 大変なことよ。わたしの父は苦学をして大学を出たわ。わたしたちいつでも貧乏だった。母はずっと寝ていたから、わたしは母の看病の隙《ひま》を偸《ぬす》んで本を読んでいたわ。でも、どんなに苦労をしても、親子三人いっしょだった。貧乏だからって惨めではなかった。今は独《ひと》りよ、独りきりよ。惨めだわ。あなたには分らないわ。」 「だから僕が何でもしてあげる。僕に出来ることなら何でも。勇気を出したまえ。」  彼は熱して叫ぶ。と、娘が冷たく言う。 「なぜあなたがしなければならないの?」  娘の眼に、また嘲るような色が浮ぶ、それは僕が君を愛しているからだ、——彼はそう言う。そう言うだけの勇気が、果して彼にあるだろうか。  彼は再びオールを握る。ボートは向を変えて、村の火《ひ》の見櫓《みやぐら》の方向を目指して進み始める。しかしボートの中の二人は、二人の心は、もう別々の方向を向いている。二人の心は近づかない……。  船がひとしきり揺れ、機関の音がとどろき、幻想がまた現実に復《かえ》った。母親と子供とは抱き合って寝ている。二人の女づれも苦しそうに臥《ふせ》っている。船室の空気は濁って、広告の不二洋子だけが、きつい顔をして見得《みえ》を切っている。腕時計を見るともう二時になっていた。予定の一時間は既に過ぎた。しかし汽船は、まだ戸田湾にはいるような気配を見せない。  大学生は娘の方を見た。身体を前屈《まえかが》みにして、両足を横の方に出している。前に垂下って散った髪と飾りのない洋服と、それはまるで黒い花のようだ。そこだけが別の空間をつくり、その空間が小刻みに顫《ふる》えているのだ。大学生は自分も嘔気《はきけ》を感じた。 「君、苦しいんじゃない?」  娘は顔もあげず、返事もしない。大学生はその側に寄った。 「君、横になった方が楽でいいよ。みんな寝てるんだから、何も恥ずかしいことなんかないんだ。よかったら僕の膝《ひざ》を枕《まくら》にしたまえ。僕はちっとも構わないから。」  娘の身体《からだ》が傾いた。大学生は自分でも驚くほど大胆になって、その肩に手を廻した。一瞬、ぞっとするほど冷たい髪が彼の頬《ほお》に触《さわ》り、彼の胸に首が重たくあずけられた。娘の身体が横に倒れ、胡坐《あぐら》をかいた彼の膝の上に、その首が横向に落ちた。曲げた両足が黒いスカートの中に隠れた。大学生は肩を抱いた手を離さなかった。仄《ほの》かな暖かみがその部分から彼に伝わって来た。  この人はいま不安に耐えている、と大学生は考える。生きることの不安とは、しけの海を航海する不安と同じことだ。不安の中では意識は鎖《とざ》される。この人はいま鎖されている。しかし僕は、今、もう鎖されてはいない。この狭い船室、濁った空気、飛沫《しぶき》に汚れた窓、その中に閉じこめられても、僕の心は開いている。それは僕がこの人を抱き、この人に愛を感じ、この愛に自分というものを集注させているからだ。もしこの人が僕を愛し、僕を信頼し、どんな危険をも僕に任せてしまえば、この人は不安から救われる筈だ。もし僕を愛しさえしたら……。  娘が抱かれた手の中でかすかに身じろぎした。 「大丈夫ですよ、もうすぐ着きますよ。もう少しじっとしていらっしゃい、」とやさしく言った。  そこから空想がまた開いた。 「駄目、わたしを抱いちゃ駄目、わたしをやさしく御覧になっちゃ駄目、」と彼女が狂おしく叫ぶ。 「どうしてそんなことを言う?」 「どうしてでも。わたしは詛《のろ》われているの、わたしの好きな人はきっと不幸になるの。」 「じゃ君は僕が好きなんだね?」 「あなたは御存じない。わたしがどんなに不幸か、どんなに人を不幸にしたか。わたしの好きだった人は死んだわ。なぜなのかわたしは知らない。わたしが愛して、生命がけで好きになって、その人のためになら死んでもいいとまで思うと、きっとその人は不幸な災難とか病気とかで死んでしまうの。わたし、怖《こわ》い。」 「そんなことは偶然だよ、」と彼は笑いながら言う。 「そんな眼でわたしを見ないで、もしわたしがあなたを好きになりでもしたら。わたしにやさしくしないで。わたしを放っといて。」  彼女の身体が彼の手の中から離れ、黒い髪が前に散って顔を隠す。彼は指先でその髪を払ってやる。その瞳《ひとみ》を真直《まつすぐ》に覗《のぞ》き込む。 「君は間違っている。そんな迷信じみたことを信じてはいけない。君がどんなに僕を愛しても、僕は決して死にはしないよ。僕は大丈夫生きる、君のためにも、僕のためにも。だって僕は……。」  こんなに君を愛しているんだから、——彼はそう言う。そう言うだけの勇気が彼にあるだろうか。ある。今こそはある。 「だってこんなに君を愛しているんだから。」  彼の腕の中に抱き込まれたこのしなやかな肩。たとえ彼女の愛が死を約束するとしても、この力強い、開かれた、生き生きした愛の前に、果して何だろう……。  娘は不意に身体を起した。畳に手をついて坐り直した。 「もう大丈夫、ありがとう。」  大学生は赧《あか》くなる。彼はもとの「お嬢さん」に戻る。幻想の中ではあんなにすらすら出て来た言葉が、今は咽喉《のど》の奥につかえてしまった。  汽船はいつのまにかあまり揺れなくなっている。戸田湾にはいったのだ。二時二十分。もう二十分も延着した。御浜《みはま》に着くのはもうすぐだ。 「僕は御浜で下ります。君は村まで行くんでしょう?」  娘は頷き返した。それ以上、彼には何と言えばよいのか分らない。彼はレインハットを手の中に握りしめた。さっき抱いた時にこの人の肩はあんなにしなやかだったのに。 「それじゃさよなら。」  娘は大学生の顔を見た。何かを言いたげに少しほころびた唇、素早い眼の光、しかし光は消え、唇は平凡な言葉を呟いている。 「お世話を掛けました。ほんとにありがとう。」  まるでそれ以上のことを口にすれば、何か不吉なことでも起りはしないかというように。大学生は帽子をかぶり、リュックサックを肩に掛け、板の間にしゃがんでゆっくりと靴を履《は》いた。彼の前の鏡は曇ったまま歪《ゆが》んだ像を映している。彼は立ち上り、もう一度娘の方を見た。 「さよなら。」  黒くて深い瞳がさ迷うように動いて、彼を見詰めた。何かを訴えたいような、何かを怖《おそ》れているような。  大学生はドアを引いて舷側に出た。風が横なぐりに彼に飛びかかった。御浜の船着場はすぐ眼の前だ。公園の桜が白っぽく向うの山に咲いている。汽笛が鋭く二声鳴り響いた。汽船は急速にスピードを落し、ゆるやかに舳《へさき》を小さな桟橋に近づけた。 「切符を貰《もら》います。荷物を踏んでも構いませんよ。」  大学生は船員に切符を渡し、舳に積み重ねた船荷の上から桟橋の上に飛び下りた。汽船はすぐに後退を始めた。此処で下りたのは彼一人だった。  二時三十分。雨は依然として降りしきり、リュックの肩紐《かたひも》に掛けた手の甲を濡《ぬ》らしている。わずかに一時間の航海だった。よし実際には一時間半かかり、雨や風にいためつけられても、それはやはり空想をふくらませるに足りる航海だった。  汽船は村の船着場を指《さ》して出発した。船室の窓は雨に濡れて、娘の姿は見えなかった。大学生は呟いた。見ず知らずの人だ。僕はただ空想してみただけだ。  しかし|ひょっとしたらその空想は本当だったかもしれない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。大学生はリュックの肩をゆすり、冷たい雨の中を、大学寮を目指して歩き始めた。 [#地付き](昭和三十一年四月)   [#改ページ] [#小見出し] 鏡の中の少女  広い洋間の片隅に、床の上にじかに古風な燭台《しよくだい》が三つほど置いてあり、その各々の上に、太い蝋燭《ろうそく》が三本ずつ、焔《ほのお》を揺らめかせながら燃えていた。蝋燭の火に囲まれて、右手に絵筆、左手にパレットを持った一人の少女が、絨毯《じゆうたん》の上に胡坐《あぐら》をかいて、せっせと手を動かしていた。小さなカンヴァスが彼女の坐ったすぐ前の床の上に寝かされ、彼女の右手はなるほどその上を素早く動いてはいた。しかし絵を描いているにしては、その眼が決してカンヴァスの方を見ないのは不思議だった。カンヴァスの向う端、そこはもう壁になっていたが、その壁に、やはり古風な、木の飾りで縁取られた大きな鏡が立てかけてあり、少女が一心に見詰めているのは、その鏡の中だった、鏡の中には、さかさまになって、描きかけのカンヴァスが映っていた。そして燭台の灯に照された、蒼白《あおじろ》い顔色のこの少女の姿も、やはりそこに映っていた。  部屋の中は、その片隅の燭台の置いてあるあたりの他は、ぼんやりと暗くて、蝋燭の数に応じて少しずつずれた影が、それでも三つだけ大きく固まって、壁と天井とに黒い汚点《しみ》を投げ掛けた。右手の影だけが素早く動いた。晩春らしい澱《よど》んだ空気の中に、少し開かれた窓の間から、しっとりした若葉の匂《におい》と、海の気配を含んだ微風とが流れ込んで来た。絶え間なく波の寄せる音が、すぐ近くから聞えていたが、少女は耳を貸そうともせずに、せっせと絵を描いていた。  それは奇妙な描きかたという他はなかった。少女は決してカンヴァスを見ない。パレットの上で絵具を溶き、それを筆に含ませると、鏡の中に映ったパレットの上に、ためらわずその色を置いた。絵は抽象的な模様のようなものだった。さまざまの色彩が、その上に重なり合って塗られていた。 「お前は本当に上手《じようず》になったわね。」  少女は手を休めてそう呟《つぶや》いた。鏡の中の少女も、手を休めてこちらを見た。  少女が話し掛けた相手は、広い部屋の中で、この鏡の中にしかいない。それはやはりお行儀悪く胡坐をかき、蒼白い顔色をして、彼女の方を見ていた。 「私よりもお前の方がうまいのね、」と少女は言った。  麻里《まり》が、この海岸に近い別荘に移って来たのは、去年の秋だった。それからもう半年近く経《た》っていた。麻里は東京の或る美術学校に通っていたのだが、去年の秋、健康を害した。父親は高名の画伯だったから、直に知人に相談して、一人きりの娘を海岸へ送った。それは夏場が過ぎてしまえば森閑《しんかん》となるような避暑地で、このだだっ広い別荘の中では、麻里と、父の義理の妹に当る佳子おばさんと、それに女中一人とが、心細く冬を過した。おばさんは何かと口実をつくっては東京へ遊びに出掛けた。父親は月に二三度、泊り掛けで様子を見に来た。しかし麻里は、それほど嬉《うれ》しそうな顔もしなかった。いつでもきつい、怒ったような眼附で父親を見た。そして父親は、お前さえ丈夫なら私はパリへ出掛けるのだが、と考えていた。  五百木《いおぎ》画伯は、若い頃に滞在したパリほど、世界中でいいところはないと本気で信じていた。彼は十年ほどパリにいて、青春をパリ女と遊び暮した。それでいながら、ふと日本人の外交官のお嬢さんと恋愛をして、パリで結婚し、娘の麻里を得た。この妻は日本へ帰って暫《しばら》くしてから死んだ。彼は成人した麻里に、亡くなった妻の面影を認めた。それを感じるたびに、奇妙なほど、もう一度パリへ行きたいと思った。彼は自分を天才だと自惚《うぬぼ》れることもなく、ただの職業的な絵かきなのだと考えていたが、麻里の眼が自分の中の弱点を見抜いていることに、時々気がついた。久しぶりに別荘に現れる度《たび》に、麻里がじっと見詰めるその眼の表情に、惰性のように絵を描きながら、東京で遊び暮している自分を咎《とが》めるようなものを感じた。しかし己は天才じゃないんだからな、と五百木画伯は無言の眼に心の中で抗議した。彼はロマンチックな肖像画や、デコラチーヴな静物などを描いて、人々にもてはやされた。彼はその名声が空疎なものだとは思っていなかった。父親と娘とは、互いに理解し合わない世界に住んでいた。  |それ《ヽヽ》は不意に来た。  麻里はいつものようにクロッキブックを開いて、裸体のモデルを見詰めていた。彼女の周囲には、幾人もの学生が、黙々と手を動かしていた。教室の中はあたたかく、紙の上をさらさらとコンテの走る音の他には、誰かが時々小さな咳《せき》をしているのが聞えるだけだった。麻里の手だけが動かなかった。  麻里はやっと、紙の上にゆるい線を引いた。そしてまたモデルの方を見た。大きい。その裸体は大きすぎた。それは見ているうちに、大きく、より大きくなった。紙の上に引かれた線、それからはみ出して、もっと大きくなった。すべすべした、白い背中の皮膚が眼の中でぐんぐん容量を増し、ざらざらした毛穴が感じられるほどに拡大され、死んだ、鉛色の、巨大な拡《ひろ》がりとしか思われなくなった。それは刻々に大きくなり、彼女の紙の上には収まり切れなくなった。麻里はまた線を引き直した。しかしそれでも、この次第に大きく膨《ふく》れあがって行く背中の皮膚を、輪郭だけで捉えることは出来なかった。 「あのモデル、大きいわね。」  麻里は隣にいた女子学生にそう呼び掛けた。 「何言ってるの?」  友達はうるさそうに呟き、それから麻里の方を見た。 「あのモデル、だんだんに大きくなるわ。あたしには我慢が出来ない。あたし。」  友達は、二本の線が引かれただけのクロッキと、恐怖に怯《おび》えた麻里の顔とを代る代る見た。そのわけの分らぬ恐怖が、友達の上にも感染した。 「どうしたのよ、一体?」  あたりの学生がみんな麻里の方を振り返った。彼女はもうモデルの方を見る気力もなかったが、不安にこわばった友達の顔の向うに、刻々にひろがって行く鉛色の皮膚を感じた。それは今や教室の中いっぱいに大きくなり、麻里が息をすることも出来ないほど、覆《おお》いかぶさって来た。それは彼女を押し潰《つぶ》した。その不可解な、巨大な物は、ぐんぐんと彼女の身体《からだ》の中へ侵入した。そして彼女は、眼を見開いたまま、この巨大な物をまじまじと見詰めていた。  教室の中が急に騒がしくなった。  麻里は鏡の中の少女を見詰めていた。暗い鏡の中に、こっちを向いているのは彼女ではなかった。彼女である筈がなかった。なぜなら、彼女は確に、鏡の外にいるのだから。しかし鏡の中の少女は、彼女の妹と言ってもよいほど、彼女に生き写しだった。彼女とよく似ていながら、いつまでも年を取らない、全く別の少女だった。その子は彼女のように、怯えるということはないだろう。物の形が次第に大きくなり、物が自分を押し潰し、物が自分と一つになってしまうことに、恐怖を感じるようなことはないだろう。その子は、自分のように絵が描けなくなることはないだろう。 「お前に教えたのはあたしだった。」  麻里はそう呟いて微笑した。だからお前は上手なのだ。あたしはもう描けないけれど、お前は上手に描ける。あたしは死んでいるけれど、お前は生きている。お前はあたしではないから。 「もうアブストラクトも飽きたから、今度はお前の肖像を描きましょう。」  鏡の中の少女が、微笑して頷《うなず》いた。  どうしてそんなに苦しむ必要があったのだろう。絵なんてものは愉《たの》しみでいいんだよ。愉しんで描いて、それが商売になるんだから、こんな割のいいことはないさ。そう父親が、御機嫌《ごきげん》のよい時に呟いた。そんな筈はない。愉しみ? パパのは要するにカンヴァスの上に絵具を並べてみるだけだ。絵はそこに新しい物を創《つく》ること、オブジェの中にシュジェを発見すること、自分が物になることだ。だからパパみたいに、口笛を吹きながら色を塗るだけで絵になるのなら、そんな悦《よろこ》びはペンキ屋の商売と同じことだ。  しかし麻里は口に出して父親を非難したことはない。パパは天才じゃない。それを御自分でも認めているんだもの、あたしが口を出すことはない。だけどあたしは違う。あたしはペンキ屋じゃないんだから。  麻里は描く前に、物たちをじっと見る。いつまでも、自分の気の済むまで、見据える。気が済むというのは、対象が自分の一部に、いな自分自身に、なってしまうことだ。裸体ならば、そのモデルは彼女の肉体になる。静物ならば、彼女は壺《つぼ》を、花を、卓子《テーブル》を呼吸する。風景ならば、彼女は緑の樹々と共に揺れ、青空と共に輝き、建物と共に大地の上に存在する。そこから初めて、カンヴァスの上に、物が写し出されるのだ。見られた物たちと自分との間に、その時、距離というものはなくなり、世界は一つに収縮し、彼女は自分が此処《ヽヽ》にあると共に|そこ《ヽヽ》にあることを感じる。いな、もう此処《ヽヽ》も|そこ《ヽヽ》もなく、彼女の筆がカンヴァスに下される度《たび》に、向うにある物が、影に変り、彼女の捉えたものが実体となるのだ。それが絵というものだ。物を見詰めることの苦しみの中から、最後に、ほんの少しばかりの悦びが生れさえすれば……。  しかし物は素直に捉えられはしない。物は死んだまま、そこに、彼女の手の届くところに、寝ているのではない。物は反抗する。物は厭だと言って呻《うめ》き、捉えられそうになると逃げる。物は大きくなる。物は一定の形として見られることを拒否する。物は全部になる。彼女よりももっと大きな、形のない、大きすぎて空気のように眼に見えないものに変る。彼女は次第にそれに気づく。  そして、|それ《ヽヽ》は不意に来て彼女を打ち倒した。  麻里は新しいタブローにかかる。鏡の中の少女。大きな鏡の中に、彼女がモデルにしている少女も、またその姿を写し出すための裸のカンヴァスも、共に存在する。ただ、カンヴァスはそこに、さかさまになって映っているのだ。麻里はモデルを見、絵具を溶き、鏡の中を見詰めながら、カンヴァスに筆を下す。もう彼女は此処にはいない。彼女は鏡の中にしかいない。  夜が更《ふ》けて行き、蝋涙《ろうるい》がしずかに垂れ、焔《ほのお》がゆらゆらと揺めく。夜の中にいれば、麻里は少しも怖《こわ》くはない。この大きな部屋の上に、更に大きな夜があり、宇宙がある。しかし此処《ここ》に、この鏡の前にいる限り、彼女の世界は鏡の中に鎖《とざ》されるのだ。夜は彼女が鏡の中に閉じこもることを許す。鏡の中だけで彼女は生きている。鏡の中の少女こそは実在なのだ。鏡の中の絵は確実な存在なのだ。鏡の外にひろがる現実は、ただの影にすぎない。 「お前は影じゃない。」  麻里は呟く。鏡の中の少女は笑う。なんてお前は若くて、きらきら光る眼を持って、美しい歯を見せて笑うのだろう。あたしの眼はもう硝子《ガラス》の眼だ。あたしの口はもう笑わない。あたしはもうおばあさんになってしまった。あたしのことなんか考えてくれる人はいない。誰も? しかしお前は、若くて、美しくて、生きている。 「あたしはお前に綺麗《きれい》な肖像画をつくってあげるね。いつかお前が恋をする時のために。」  そしてふと現実の感覚が、時間の向うの思い出が、彼女に復《かえ》って来る。 「内山さんはこっちを向いてもくれないんだもの、嫌《きら》いよ。」  麻里はしげしげと相手の筆の動きを眼で追いながら、甘い声で言う。  狭い部屋。まるで物置みたいな、乱雑な、採光の悪い、板敷の部屋。その中で一心にカンヴァスに向っている若い青年。その絵を見ている麻里。 「よくそんなに喋《しやべ》ってばかりいて、絵が描けるわね。」  内山は振り返らない。麻里が遊びに来ても、彼はいつも一分一秒の時間も惜しいように手を動かし続けている。しかし口だけは、充分に相手を意識して、へらず口を叩《たた》く。 「いつもはこうじゃないんだ。麻里ちゃんだから喋るんだ。喋っていたって、僕の絵は決して内容空疎じゃないぜ。五百木画伯みたいに、中みの何にもない絵を描くわけじゃない。考え抜いたあげくだから、せめて口ぐらいは遊ばせてやっても、手の方はちゃんと命令通りに動いているんだ。五百木画伯なんか……。」 「パパの悪口は止《や》めてよ。」 「構うもんか。五百木画伯は、或る程度の技法《メチエ》を習得すれば、手の方が勝手に描いてくれるつもりでいる。そんなメチエ、実は何の役にも立たないんだ。メチエは眼の方にある。眼というより、眼を意志づける頭脳の方にあるんだ。問題は、見ることによって物の存在を確認することにあるんだ。」 「よくそれでパパのお弟子《でし》で通ったわね。」 「破門されたのも当り前かな。」  内山はにやっと笑って、お茶でも入れてくれないかなあ、と独《ひと》り言《ごと》のように呟いた。  麻里はいそいそと立ち上り、もう休めばいいのに、と口の中で言った。せっかくあたしが遊びに来たのに。 「麻里ちゃんの方が大物だよ。君の方が天才だ、」と内山が追い掛けて言った。 「急にどうしたの、それお世辞?」 「勿論《もちろん》、僕に較《くら》べてじゃない、五百木画伯に較べての話だがね。」 「何だ。バカにしてる。」 「君はきっと天才だよ、僕ぐらいにはね。但し、これからもっと勉強をして、五百木画伯ぐらいの年になって、初めてそれがきまるのさ。今のところは、僕等はまだ絵かきの卵さ。僕たちは忙しいよ。」  小さい電気コンロに薬罐《やかん》を載せて、その前に蹲《うずくま》って青年の方を見ている麻里は、相手が附け足すように、小さな声で言ったのを聞きとめた。 「僕等には恋をする暇もないんだからな。」  その言葉が心の上に落ちてゆるい波紋を投げた。  麻里はせっせと描く。彼女の手は早い。しかしその手は麻里の手と言えるだろうか、それはもう一人の少女の手だ。 「そうね、あたしがお前を描いているんじゃなくて、お前が自画像を描いているのね。」  鏡の中で、その少女は真剣な表情を俯向《うつむ》かせて、早いタッチで色彩を置いて行く。あたしは影にすぎない。あたしにはもう絵は描けない。しかし、考えるのはあたしだ。内山さんのことでも何でも。 「お前は内山さんを識《し》らないでしょう?」  鏡の中の少女は答えない。 「そりゃいい人よ。天才なの。変り者よ。」  そう呟《つぶや》くと心の底が疼《うず》き始めた。長い間忘れていた感情が返って来る。あんなに好きだった人、あたしの中に住んでいる物たちが、あたしの眼から愛情を見えなくしたのか。それとも内山さんは、もうあたしのことを忘れてしまったのか。 「あたしは忘れてやしない。」  会わなくなってから、もう半年も経《た》っている。どうして来てくれないのだろう。たった一時間、汽車に乗りさえすればいいのに。パパよりももっと薄情だ。芸術家というものは薄情なものだ。 「でも、あたしたちはみんな、自分だけの世界に住んでいるんだから。」  鏡の中の少女が頷《うなず》いた。しかし急に燃え始めた心の中の焔《ほのお》は、そこだけが希望のように輝く。あの人は来ない、しかしあたしの方から行くことは出来る。意識が次第に焦点を結んで行く。 「あたし、明日、内山さんに会いに行く。」  鏡の中で、眼が光った。そんなことが出来る筈はない。少女はおびやかすように、こっちを見詰めている。 「あたしには意志がある。あたしは自由だ。」 「意志なんかない、自由なんかない、」と少女が答える。 「あたしは何も此処《ここ》に閉じこめられているわけじゃない。何処《どこ》へだって行ける。今までは、行きたいと思わなかっただけだ。」 「行けない。行くことは出来ない、」と少女が答える。  暫《しばら》く二人は顔を見合せていた。それから麻里が呟いた。 「お前なんか嫌いよ。」  鏡の中の少女が悲しげに麻里を見た。  麻里は立ち上った。足がしびれていてふらふらした。窓の側へ行って大きく窓を開き、夜の空を見上げる。波音が近くなり、樹々の梢《こずえ》が黒く聳《そび》え、空は暗く大きい。この夜空には星がない。あたしのように、と呟く。この夜空の下に、海も、街も、人々も、眠っている。あたしは眠らない。あたし一人は眠ることが出来ない。  蝋燭《ろうそく》の火を一つずつ吹き消して行き、芯《しん》のくすぶる匂《におい》を嗅《か》ぎながら、最後に残った燭台《しよくだい》を左手に持って、鏡の前の描きかけのカンヴァスを壁に立て掛けた。さかさまに肖像が描かれている。麻里はそれを見ても何も感じない。そのまま燭台を持って寝台へ行く。寝衣《ねまき》に着かえる彼女の影が、壁で揺れている。そして、三本脚《さんぼんあし》の燭台の火を全部吹き消した。  あたしは眠らないのだ。暗闇《くらやみ》の中で色々なものが見える。あらゆるものは大きくなる。それが一晩じゅう、彼女の上に覆《おお》いかぶさって、彼女から睡眠を奪い取ってしまう。彼女は見る。いつも見馴《みな》れている、不確な、ぐんぐんと大きくなる物たちを。  しかし明日は、あたしはもっと別の物を見るだろう。  五百木画伯は片手で頬杖《ほおづえ》をついて、空いた方の手の中の空《から》になったウイスキイ・グラスを弄《もてあそ》んでいた。すぐ前で、若いバーテンが気取った手附でシェーカーを振っている。棚《たな》の上に並んだ洋酒の壜《びん》が、ゆるやかに揺れている。揺れているのは画伯の頭の方だ。隣の客は相手もないのにダイスを転している。画伯は若いバーテンに呼び掛けた。 「もう一杯くれ。」  時々こういうことがある。自分だけが世界から孤立して、風の吹く原っぱに一人きり立っているような気持。友達も、女たちも、何もかもが煩わしくなり、飲んでいる酒さえも苦い。自分の心の底の方へとぐんぐん落ち込んで行く。そういう厭《いや》な気持を避けるために、画伯はことさらに人好きで、遊び好きで、いつも陽気に笑っている自分を演出する。しかし、疲れた時には、もう仮面をつけることは出来なかった。  パリへ行ったら、と思う。何だかそのことだけが、腐って行く自分を救うような気がする。昔パリにいた時には、野心もあったし、生きる目的もあった。名声への憧《あこが》れもあった。今のように気持が落ち込むことはなかった。麻里があんなになってからか、と画伯は考える。しかし麻里のせいではないのだ。何かが自分の中で死んでしまったからだ。  明日は麻里に会いに行ってやろう。いっそのこと己も、麻里と一緒に別荘で暮すか。そうすれば。しかし麻里の冷たく見据えるような眼附が思い出される。あいつの眼は狂っている。あいつと一緒にいたら、己まで狂ってしまうだろう。 「あら先生、おひとりなの? 何だか寂しそうにしていらっしゃるわね?」  はすっぱな声と共に、しなやかな手が肩にかかる。画伯は急いで仮面を取り上げて顔につけた。 「年は取りたくないもんだよ、誰も構ってくれん。」  風景が硝子窓《ガラスまど》の外で刻々に変化する。流れて行く、流れて行く。樹が、道が、林が、広告が、家が。硝子の白く曇った面。この向うには風があり、このこっち側には風がない。それでもあたしの眼の中を、風が吹きすぎる。早く、早く。風のために眼が押されて痛い。眼はあたしの大事なもの。眼の中に、あたしがいる。眼の外の世界は大きい、大きすぎる。流れて行く、風よりも早く、あたしの眼、外側、硝子の向う。  麻里は眼を閉じる。我慢さえすれば内山さんに会える。手にしたハンドバッグの金具をぎゅっと握り締める。すると大きくなるのだ。大きくなる。暗闇の世界が、眼の中で次第にひろがり、そこに果しない夜をつくる。身体《からだ》が気持悪く揺れている。客車の中には物たちの匂が充満する。それは硝子窓の外からも押し寄せて来る。彼女の頭の中に、乗客たちの鞄《かばん》や、靴や、新聞紙や、洋服や、帽子などが押しあいへしあいする。そこに、樹も、道も、林も、何もかもが侵入する。  あたしはやっぱり来るんじゃなかった。  汽車が揺れる。もう遅い、もう遅い。汽車の振動がそう話し掛ける。眼の下に口、その下に食道、そして胃。すべての神経が縦の一つの線を形づくる。眼は見えない物をも見る恐怖に、口は下から込み上げて来る嘔気《はきけ》に。そしてそれだけの部分が、麻里のうちの生きている全部だ。手はバッグの金具を握り締めたまま死んでいる。足は靴の中で死んでいる。客車の車体の中で、麻里の身体は縦の一つの線の他《ほか》は、感覚もなく切り離される。  五百木画伯は駅からの道を歩きながら、海岸の潮気を含んだ大気を、のびのびと呼吸した。己も此処へ来て暮すか。咋晩ふと考えたことを、今も思い出している。しかし根からの都会人である彼が、一日も東京を離れて暮せないことは、誰よりも自分がよく承知しているのだ。どんなに娘が可愛《かわい》くても、此処では三日と我慢が出来ない。そして娘のことを思い出すのも、月に二三度、疲れて、気が滅入《めい》って来た時だけだった。  画伯は玄関で女中に土産物《みやげもの》を渡して、みんな元気かねと訊《き》いた。 「あら兄さん、珍しいんですのね?」  義妹の佳子が愛想のいい顔で客間に現れた。 「うん忙しくてね。あなたも御苦労さま。麻里はどうです?」 「麻里ちゃんも元気。これからは季節もよくなるしするから。」 「神経の方、あいかわらずですか? 近頃は一体何をしています?」 「さあ? 例によってお部屋に閉じこもったきり。わたしなんか寄せつけないんだから。」  画伯は苦笑した。佳子は、呼んで来ましょう、と言い捨てて奥へはいって行った。  画伯は客間の中をぶらぶらと往《い》ったり来たりする。これではまるで病人の見舞だ、親子といったものじゃない。どうしてもっと打ち解けないのだろう。小さい時から、いっぷう変った、取りつきにくい子供だった。何を考えているのか分らなかった。今も分らない。己が独《ひと》りを通しているのも、みんな麻里のためなんだが。  荒々しくドアが開き、佳子が息をはずませて帰って来た。 「いませんのよ、どうしたのかしら?」  麻里は懐《なつか》しげに狭い部屋の中を見廻した。何もかもが半年前と同じだ。乱雑に積み重ねた画集やクロッキブックの上に、自分のバッグを投げるように置くと、よろめいて椅子に腰を下した。 「誰だい?」  カンヴァスの方を向いたまま、内山が声を掛けた。壁にぶら下った幾枚もの絵、むっとする絵具と油の匂。 「いてくれてよかったわ。もし留守だったらどうしようかと思った。」  内山はゆっくりと顔をこっちへ向けた。筆を置いて立ち上った。 「麻里ちゃんか、よく来たね。」 「会いたかったわ。随分久しぶりね。あたしすっかり疲れちまった。」 「遠いからね。」  内山は無雑作に卓子《テーブル》の向うに腰を下した。 「内山さんはどうして一度も来て下さらないの? ひどいと思うわ。忘れたの?」 「忘れはしないさ。そんなことどうでもいいのさ。」  内山の意志の強そうな、冷たい顔。半年も会わないでいたその時間。張りつめていた心の上に、また波紋がひろがり始める。どうでもいい? どうでもいいことのために、こんなに苦労をして、怖い思いをして、一時間も電車に揺られて、会いに来たのだろうか。 「だってあたし。あたしがこうして来ても内山さんにはどうでもいいの?」  麻里の声が泣声になる。内山は急いで立ち上ると、麻里の側へ歩いて来て、その肩に手を置いた。 「そんなことはない。前だったら、麻里ちゃんが来ても絵を描いていたろう? 今日はさっそく中止して、お相手申してるじゃないか。」 「それだけなの?」とすねたように訊いた。 「僕たちは平凡な恋人どうしじゃない筈だ。僕たちには芸術というものがある。ちっとは我慢もしなけりゃならない。それに本当の恋人というものは、いつだって心の中にいるんだから。そうだろう?」 「いつだって?」 「そうさ。僕たちは毎日会ってるのさ。昨日だって、一昨日《おととい》だって会ってるんだから。」  やさしく、肩に手を廻して、内山が言った。  肩が重くなった。昨日だって、一昨日だって。昨日という時間が不意に実体を持った。時間が少しずつ大きくなった。昨日は何をしていたろう。一昨日は何をしていたろう。過ぎ去った時間が、意識の中で物に凝固し、その形のない物が、少しずつ大きくなる。昨日だって、一昨日だって会ってるんだから。でも、あたしは会わない。あたしは今日、初めて別荘から此処まで来たのだ。昨日の時間に誰がいたのだろう。誰が昨日、内山さんに会ったのだろう。あたしじゃない。  鏡の中の少女がおびやかすように彼女を見詰めた。 「お前なのね。」  麻里の中で、過ぎ去った時間が夜よりも巨大にふくれ上った。肩の上の手が、万力《まんりき》のように彼女を押し潰《つぶ》した。  五百木画伯は麻里の部屋の中にいた。  いつもは決して此処へはいったことはない。どんなに言っても、麻里は頑固《がんこ》に父親を自分の部屋へは通さなかった。あたし描きかけの絵をパパに見せるのは厭。  部屋の中には秘密と不安との匂がした。画伯は窓を大きく開き、部屋の中を見廻した。壁に向うむきに立てかけられた幾枚ものカンヴァス。そして鏡の側に、一枚だけこっち向きに置いてある不思議な絵。 「さかさまなんだな。」  画伯はそう呟き、それを普通のように置き直した。肖像が顔を起して、闖入者《ちんにゆうしや》を見た。色彩というより、一種の暗い光が、そこから滲《にじ》み出て来た。  何という不安そうな顔。痩《や》せた、蒼白《あおじろ》い表情。嘲笑《ちようしよう》と憐憫《れんびん》とを湛《たた》えた口。鱗光《りんこう》のように輝いている眼。影のように散った髪。全体が縦に長く、頭も、顔も、首も、異常なほどひょろ長い。そしてその顔は生きていた。 「麻里か?」  いな、麻里ではない、別の少女、気味の悪いほどよく似てはいるが、画伯のまるで知らない別の娘だ。それは生き、呼吸し、すぐそこに画伯を見据えている。嘲《あざけ》るように、父親を睨《にら》んでいる。  画伯は打ちのめされたように、その未完成の絵を見た。画家としてのメチエが、次第に冷静に、職業的関心を喚《よ》び起す。これは天才の絵だ。これが芸術というものだ。己が久しい以前に諦《あきら》めてしまった芸術、それはつまりこれだ。名声とか、尊敬とか、そんな空虚なものとは全く関係のない、それ自体が生きている芸術、それが此処にある。そしてこれを描いたのは、己の娘の麻里だ。己じゃない。  画伯は素早く空想した。もしこの絵の背景を描き足して、己の作品だと言って展覧会に出品したなら、批評家どもは何と言うだろう。おどろくべき傑作、五百木は遂に此処に達したか。これが彼の新しい出発だ。みんなそう言って騒ぐだろう。  彼の顔にシニックな微笑が浮んだ。天才か。天才と呼ばれて早く死んだ友人たちの顔が、次々に浮んだ。無名の天才たち。貧しく、惨《みじ》めだった奴等《やつら》。己が選んだのは職業としての絵かきだ。芸術としての絵画じゃない。しかし麻里は?  画伯は気を取り直すと、急いで部屋を出て行った。 「お前なのね?」麻里は鋭く呼んだ。  彼女は走っていた。彼女は逸散に走った。自動車の明るいヘッドライト、飾り電燈のついた窓、ネオンサイン、あらゆる光線が明滅し、交錯し、流動する。驚いたような通行人の顔、吠《ほ》える犬、軋《きし》る自動車のタイヤ、警笛、一切のものが自分の方に突き進んで来る。明るい、まぶしい街、その上で夜が重々しく揺れている。渦巻のように、色彩と光線とがくるくる廻る。 「そうよ、あたしよ。」  それは鏡の中の少女の声だ。 「お前なのね、お前が内山さんに会っていたのね?」 「そうよ、あたしよ。」  夜が次第にその触手を伸して麻里の身体を包む。しかし少女の冷やかな声の方が、麻里には一層恐ろしい。 「でも内山さんはあたしの恋人よ、どうしてあたしに黙って内山さんに会いに行ったの? 内山さんがあんなひどいことを言うのは、みんなお前のせいね?」 「そうよ、あたしよ。」  夜の空には星がない。夜は暗い。今は夜さえも不安なのだ。星は地上の街に落ちて、狂気のように燦《きらめ》く。火花が舗道の上で飛び散る。 「なぜなの? お前に絵を描くことを教えたのは、あたしじゃないの? あたしがいなければ、お前なんか何でもないじゃないの?」  夜の空には音がない。夜は沈黙だ。音は街々に錯裂する。 「内山さんはあたしのことなんかもう忘れた。内山さんの好きなのは……。」 「そうよ、あたしよ。」  夜が充満する。光が消え、鏡の中の少女の声がいつまでも波音のように響いている。 「お前は一体誰なの?」  麻里は自分の力の尽きて行くのを感じながら、鋭い声でそう訊く。 「あたしよ。分らないの? あたしよ。」  鏡の中の少女がゆっくりと麻里の前へ歩いて来た。その少女は笑った。その笑う顔が次第に大きくなる。夜のように大きくなる。それは夜よりも巨大になり、彼女を無慈悲に押し潰す。  夜になって、別荘に電報が来た。五百木画伯は、佳子と共に、急いで家を飛び出した。  麻里の部屋の窓は開いたままだった。月明りが暗い部屋の中に射し込んでいた。壁に立て掛けたままのカンヴァスの上に、月の光がくっきりと落ちた。  少女の肖像は、生きている者のように、真直に前を睨んでいた。月光に濡れた髪が、潮風にさらさらと揺れた。その眼は、嘲るように遠くの方を見詰めていた。 [#地付き](昭和三十一年五月)   [#改ページ] [#小見出し] 鬼    上  正親《おおきみ》の司《つかさ》に仕えている若者が、屈託のなさそうな顔附をして、夕暮の京の町を、七条|堀河《ほりかわ》から安衆坊《あんしゆうぼう》に向けて歩いていた。供に連れているのは、眼の大きな、臆病《おくびよう》そうな童《わらわ》ばかりで、童の足がつい駆け出しそうになるのを主人は笑いながら引き留めていた。 「そう急ぐな。」  陽が山の端《は》に沈もうとして、血のように滲《にじ》んだ色が町並を酷《むごた》らしい色合に彩《いろど》った。品物を頭に載せて往来していた販婦《ひさめ》もとうに姿を消したし、帰りおくれた女車の側を行く雑色《ぞうしき》は、鞭《むち》を振上げてしきりに牛の歩みを急《せ》き立てていた。破れた鈍色《にびいろ》の水干《すいかん》を着た乞食《こじき》が、物欲しげにこちらを見ながらすれ違った。秋の初めらしい光の澄んだ空には、赤くただれた鱗雲《うろこぐも》が次第に赫《かがや》きを失って行く。 「この間、応天門《おうてんもん》に何やら光り物が出たそうだ。お前ならまず気を喪《うしな》うところだな。」  童はそう言われて、一層顔色を悪くした。つぶらな瞳を起して心配そうに暮れそめて行く空を見上げたが、主人の方はお構いなしに喋《しやべ》り続けた。 「応天門には鬼がいるらしいな。いや、あれは朱雀門《すざくもん》だったか、ひょっとしたら羅城門《らしようもん》だったかな。御所にあった玄象《げんじよう》という琵琶《びわ》が掻《か》き消えて、それを弾《ひ》く音が南の方から清涼殿《せいりようでん》まで聞えたので、博雅《はくが》の三位《さんみ》が音を頼《たよ》りに朱雀門まで訪《たず》ねて行ったところ、鬼が縄《なわ》をつけて、琵琶を手許まで下してくれたそうな。鬼というのは、なかなか変ったこともするものだ。」 「夜になれば、狐《きつね》だって出ます。盗賊なんかも待ち伏せしているかもしれません。」  童は漸《ようや》くそれだけ言い、主人の足の遅いのをじれったそうに横眼で見た。主人は今日、京極《きようごく》の端《はず》れまで所用で出掛けて、どうしたわけか、そろそろ日の暮れそうな時分になって、二条の我が家へ帰りかけたのだから。 「盗賊がお前なんかを相手にする筈がない。朱雀大路《すざくおおじ》を走って行けば、大して怖《こわ》いこともないさ。私は今日は他《ほか》に泊るから。」  主人にそう言われて、童は口の中で思わず阿弥陀仏《あみだぶつ》の御名を称《とな》えた。さんざ威《おど》かされた上、一人で夜道を帰されるのではたまらない。主人がゆっくりしているのには、何かしら魂胆がありそうだと思ってはいたのだが。  若者は七条大路の次の辻《つじ》を右に曲った。その角近くに、かねて父の代から出入りをさせている夫婦者の家があった。亡くなった父が受領《ずりよう》を勤めていた頃に国から京に上った者で、旅人の宿を業としていた。平門《ひらもん》をはいるといつもは客も少なく、ひっそり静まりかえった家なのに、土間では下人どもが車座になって騒いでいて、身分ありげな若者を遠くから小腰を屈《かが》めて眺《なが》めた。言葉の中に、耳|馴《な》れない国の訛《なまり》が多かった。  顔色の悪いのを愛敬《あいきよう》で包み隠した中年の女が、若者を奥へ案内した。 「手筈《てはず》はいいのかね。」 「本当に若様のお気の弱いこと。局《つぼね》にお通いになればお宜しいのに。こちらまで気を揉《も》まされるんですからね。」 「なに気が弱いわけではない。これが風雅の道という奴《やつ》だ。」 「どうですか。こんなあばら家では風雅でもございますまい。」  女は意味ありげに笑ってみせ、若者の方は気が弱いと言われて、道々その臆病さをからかって来た童の姿を眼で探した。しかし童は、下人《げにん》どもの世話している馬を見る方が面白いらしく、主人の側からは離れていた。 「お方《かた》様が恐ろしうてなりませぬか。」  女は尚《なお》も若者を苛《いじ》めていたが、ふと気を取り直して真顔になった。 「それが、実は今夜ばかりは家へはお泊め申せませぬ。」  若者は顔を起して、意外なことを訊《き》くという面持をした。 「あの人に何ぞ……。」 「いいえ、あの方はお出《い》でになれますが、実は田舎《いなか》から、公事《くじ》があって都に上った縁つづきの者が、あのように沢山の下人を引き連れて参っておりますので、とても若様のお泊りになる場所がございません。全くわたくし共の都合で申訣ございませんが、向うを断るわけにもいかず……。」 「それでは私の方はどうなるのだ。」  若者は一瞬相手が嘘を吐《つ》いてごまかすのではないかと思ったが、確に下人も多勢いることだしその疑いは直に振払った。といって、事がうまく運ばないと分るや、久しぶりに逢うつもりでいた女への不憫《ふびん》さが、急に込み上げて来た。 「今夜はどうしても逢わずには帰らぬ。」  相手は暫《しばら》く思案をめぐらしていた。 「実は一つ手だてがございます。」 「何だ。早く言え。」 「この西に当る大宮のあたりに、久しく誰も住み手のない御堂がございます。如何《いかが》でしょう、今夜ばかりはそちらへお泊り遊ばしては。きっとこれも風雅でございますよ。もしお宜しければ、すぐにもお迎えに参りますから。」  若者には考えてみるまでもなかった。恋しい女の面影が、ここ暫く逢わないでいたために、一層|鮮《あざや》かに眼に浮んだ。それは気の小さな、いつもおどおどした、髪の長い女だった。どんな寂しい場所であろうとも、決してしりごみはしないだろう、私が一緒にいる限りは、——そう若者は思った。  若者は早く結婚したが、それは年も自分よりはずっと上で、顔の半面に痘痕《あばた》の残った、醜い女だった。初めのうちは、暗い几帳《きちよう》の蔭《かげ》で逢っているばかりだったから、世馴れない若者には姑射山《こやさん》の仙女のようにも思われた。思えばその頃、若者は何も知らなかった。女はさる中納言の遠い縁つづきで家柄もよかったし、物腰も柔かで、若者はとうとう聟《むこ》になることを承知した。心の隅に、何かしら心残りのようなものを感じながら。  それは予感というようなものだったかもしれない。若者は少しずつ気がついて行った、妻は容貌が醜いばかりでなく、心ざまも賤《いや》しく、若者の一挙一動に鋭い眼をくばっていることを。歌の道にも暗く、書もつたなく、言葉遣《ことばづか》いも次第にぞんざいになり、女《め》の童《わらわ》に優しい言葉を掛けることにさえ若者の心を疑った。そして若者の方は心の奥深く不満を育てながら、妻の眼を逃《のが》れて、心ばえの優しい、情のある女を愛人とすることを夢みていた。  或《あ》る日、若者が六条堀河の大路を歩いている時に、通りすがりの赤糸毛の女車を引いた牛が、不意に大路の向うから放れ馬が来たのに驚いて、急に横にすさった。そのはずみに車の轅《ながえ》がはずれ、すずしの下簾《したすだれ》が翻って、楓重《かえでがさ》ねの小袿《こうちぎ》を着た女房が危く中から転り落ちそうになった。若者はとっさに車の後ろへ走り寄り、その肩を抱きとめた。顔色を蒼《あお》ざめさせて、細く見開いた眼、わななく唇、そして彼の手に纏《まと》いついた黒髪の冷たさ、……しかしそれも瞬時で、女は素早く簾の中に消え、雑色は車に牛をつけ直し、そして牛は何事もなかったかのようにのんびりした歩みを続けた。白昼夢のように若者は女車のあとを見送っていたが、ちらりと見た、恐怖と感謝との二つの感情を綯《な》いまぜた若々しい女の顔は、若者に嘗《かつ》て覚えたこともない烈《はげ》しい恋心を惹《ひ》き起した。若者はその女車が大きな屋形《やかた》にはいるのを見届け、七条まで歩いて、かねて町の事情に明るいことを自慢にしている、宿屋を営む女を訪ね、様子を訊いた。そして女房のはいった屋形が、若者の妻とは遠縁に当るなにがしの中納言の別宅だということが知れると、若者は小ざかしく引き受けた女の手を通して、その女房に文を送った。女房の方でも、女車の簾の蔭に見た男の姿が忘れられなかったのだろう、直に文を返して来た。幾度か文が交《かわ》されてお互いの気持も分ったが、しかし若者にとっては、屋形の局まで忍んで行くことは危険が大きすぎた。それはどういう風の吹き廻しで妻の耳にはいらないとも限らない。そこで二人は、仲立《なかだち》をした女の家の一間に、御簾《みす》を下し、蚊帳《かや》を吊《つる》して、ひそかに逢った。蛍《ほたる》が蚊帳《かや》の外をはかなげに飛び交う夜、若者にとって、今まで生きて来た自分の命は、ただこの幼な顔の残った、悲しげな女ひとりのためのものであることが理解された。切なげに身をわななかせている女にとっても、怖《おそ》れと愛との入り混ったこの一夜は、恐らくは初めての生きがいを感じさせたもののようだった。二人はしっかと手と手とを取り合い、そして夜はいつしかに白んだ。二人は稀《まれ》にしか逢うことが出来ず、逢うたびに一層誓いを固くした。司《つかさ》に出仕している間にも、机の上の書類を一枚また一枚とめくりながら、若者はうつけたように女の顔を記憶の中に描いていた。ややもすれば嫉妬《しつと》深い妻の表情がその上に重なり合うのを、必死に振払おうとしながら。  青い袿《うちぎ》を頭に懸《か》けた女房が、仲立の女に連れられて現れると、若者は童を呼び寄せて、女に案内されるままに、七条の大路を大宮の方に歩いた。既に日は全く暮れ、僅《わずか》に一抹《いちまつ》の明るみが西の空に漂っているばかり、人通りの全く絶えた大路には秋の初めの涼しい風が道端《みちばた》の柳の葉を吹き返している。童は寒そうに肩をすくめ、自分の前を、足弱そうに歩いて行く小柄な女房の、青ばんだ衣の裾《すそ》のあたりを眺めていた。お方様が怖いから、それでこんなところでこっそりお逢いになるのだな、と考えた。お方様がもしも気がつかれたら、ただ事では済まされないだろう。それなのに御主人様のあの嬉《うれ》しそうな顔。  一町ほども歩かないうちに、大路から横にそれると、破れた築地《ついじ》が長く続き、その尽きたところに如何にも古びた御堂が、ひっそりと戸を鎖《とざ》したまま、夕闇《ゆうやみ》の中に蹲《うずくま》っていた。案内役の女は入口の戸に手を掛け、こともなくそれを開いた。中はしんとして黴《かび》くさい臭《にお》いがぷんと鼻を衝《つ》き、内陣に今もなお仏が飾られているものかどうか、それさえ見定められない。女は若者の方を振返った。 「此所《ここ》でございます、暫くお待ち下さる間に、わたくしが畳を持って参りましょう。」  小柄な女房は尚も袿に顔を隠して若者に倚《よ》り添ったまま、怖そうに御堂の中をうかがっていた。その後ろ姿を童はぼんやりと見詰めながら、主人がいつになったら自分に帰れと言うのか、気が気でなかった。あたりは次第に暗くなって来て、萩《はぎ》の花が築地のあたりに咲いているのが、白々と浮び上った。  仲立の女が自分の家から畳一|帖《じよう》を持って走って戻って来ると、御堂の中に姿を消した。ついでに紙燭《しそく》をも持って来たらしくて、仄明《ほのあかる》い灯が、瞬《またた》きながらがらんとした御堂の中を照し出した。 「さあこれでお休みになれましょう。わたくしは暁方《あけがた》にお迎えに参りますから。」  女はそう挨拶《あいさつ》すると、小腰を屈めて外へ出た。若者はそこで漸く、童が自分の命令を待って入口に佇《たたず》んでいるのに気がついた。 「お前も御苦労だった。もう帰るがよい。明朝また迎えを頼む。」そして優しく附け足した。「他言をしてはならないよ。」  童は悲しそうな顔をして頷《うなず》いたが、その時、主人の側にいた女房が袿を取って童の方を見た。物に怯《おび》えたようなその表情が、童の心の中に、沈痛といったような一種の感情を喚《よ》び起した。  紙燭がかすかな音を立てて燃え尽きると、暗闇の中に濃い油脂の臭いが漂い、それが黴の臭いと混った。女房は若者の腕の中にしっかと抱かれていたが、その身体は、あたりが暗闇になると、一層わなわなと顫《ふる》え出した。風が御堂の破間《やれま》から吹き入って、戸をかたかたと揺すった。しきりに虫がすだいて、それがこの夜を風情《ふぜい》ありげにするよりも荒涼たるものに感じさせた。 「私がこうしているのだもの、何も案じることはないよ。私はこうやって、あなたと一緒にいるときが一番幸福なのだ。この時のために生きているのだ。私は今さえ幸福ならばそれでいい。あなたはそうは思わないか。」  女ははかばかしい返事をしなかった。 「私にもっと力があったら。私がもっと身分のいい家に生れていたら。今の妻のような嫉妬深い妻を持っていなかったら、——そういうことを考えると、私は夜でも眠られないのだ。私はあなたをこれ以上幸福にしてあげることが出来ない。こうやって人目を忍んで、ただあなたと逢っている時だけが、せめてもの私たちの慰めなのだ。しかし私たちは若いのだから、いつかはもっと愉《たの》しい、もっと為合《しあわ》せな日がめぐって来るだろう。もし此《こ》の世で駄目ならば来世にでも。」 「いいえ、わたくしは今だけで満足でございます。」  女はそれだけ言い、一層強く男の胸に身を任せた。今だけが愉しければいい、それが本来の若者の考えだったから、未来に幸福があるなどということは、実は思ってもみなかった。殆《ほとん》ど毎年のように悪疫が流行し、都大路にさえ腐れ果てた屍体《したい》が投げ棄《す》てられているのを見ることに馴《な》れていたから、明日というものが少しも頼みにならないことは、よく知っていた。どれほど仏を拝んだところで、病いや災いを避けることが出来ない以上は、今こうして女を抱いていることの他に、幸福があるべき筈もなかった。しかし女はやがて、心細そうな、張のある声で、訴えるように話し始めた。 「わたくしは今、心から満足しておりますし、このことを決して忘れはいたしませぬ。わたくしはたとえこれから尼になって暮しましても、御読経《みどきよう》の合間合間に、あなた様のことを思い起して、わたくしの後生は極楽に生れ変らなくても、あの時のわたくしは極楽にいたのに等しかったのだから、これ以上慾ばることはないと、申し聞かせるつもりでございます。たとえ今わたくしの命が死に絶えて、地獄へ堕《おと》されることがありましても、わたくしはそれで満足でございます。なぜならばわたくしは、此の世にあなた様のような方にめぐり合って、こうしていとおしんで頂きましたことを覚えておりますから。」  不吉なことを相手が言い出したので、若者はそれを遮《さえぎ》ろうとした。女は更に言葉を続けた。 「……けれども、わたくしと同じ心持を、あなた様もお持ちなのでございましょうか。疑ってはなりませぬ。それはよく存じております。けれどもあなた様はいつまでも、今のわたくしたちのこの幸福を、覚えていらっしゃいますでしょうか。わたくしは恐ろしげな場所で忍び逢いに逢うのも、少しも厭だとは思いませんし、あなた様が今、わたくしをいとおしんで下さいますのも、真心からのことだと存じております。ただ明日のことはわかりませぬ、明後日のことは分りませぬ。あなた様が後になって、中納言の局《つぼね》にいた女房と忍び逢いに逢ったことがあるが、何とも風雅なものだったなどと、もしや昔語りのたねにでもなされることがありましたならば、……」 「どうしてそんな悲しいことばかり言うのだ。私は決してあなたのことを忘れることはない。明日も明後日も同じだ。もしもあなたが死ぬようなことがあったなら、私も必ずや一緒に死んでしまうよ」 「いいえ、そういうつもりで申したのではございませぬ。わたくしはただ、今のわたくしがどんなに幸福か、それを申したかったばかりでございます。」  女はそう言って喘《あえ》いだ。若者の情熱が再び掻き立てられ、二人は言葉もなく抱き合った。長い鬚《ひげ》を生やした蟋蟀《こおろぎ》が破間からはいって来て、二人の上に掛けた直衣《のうし》にとまって鳴き始めた。虫は、そこに人がいるのも知らないように、いつまでも鳴き続けた。  そして長い時間が経《た》ち、夜も更《ふ》け、あたりが一層|森閑《しんかん》と物恐ろしく感じられる頃おいに、ふと御堂の後ろの方にかすかな気配がして、虫の音が一時に止《や》んだ。若者は奇妙な予感を覚えながら、そっと暗闇の中をうかがった。灯先がちらちらと影を投げ、誰かが裏口から御堂の中にはいって来る様子だった。  若者はぞっと怖気立《おぞけだ》って、思わず抱きしめていた腕に力を入れた。女はそれまで眠っていたのか、驚いたように身をすくませた。若者は息を殺して、ちらちらと動く灯影の方に注意を集中した。  御堂の中がぼんやりと明るくなり、紙燭を手にした女《め》の童《わらわ》が一人、中にはいって来た。その背後の影が大きく壁に映り、その影が動くと見るまに、女の童は仏の座の前にあった燭台《しよくだい》にその火を移した。御堂の中で燭台の火はゆらゆらと揺れた。若者は女を腕の中に抱きしめたまま、身を起してそっと後ろの壁の方ににじり寄った。  女の童がはいって来たその同じ場所から、風のように、萌黄《もえぎ》の唐衣《からぎぬ》を纏《まと》った女房が一人、現れ出た。ゆっくりと前に進むと、御堂の隅に顔を隠すように横ざまに坐った。  若者は、腕に抱えている女と同じほど自分も身をわななかせていた。眼は吸いつけられたように、怪しげな女房から離れなかった。初めに現れた女の童はいつのまにか消え失せ、燭台の灯の仄暗い中に、その女は横向に坐ったまま、最早ぴくりとも動かなかった。そして時間が流れたが、鳴き止んだ虫はもう再び鳴き始めなかった。  言いようのない恐怖が若者を捉《とら》えた。この女はただ者ではない。生きた人間である筈がない。この夜中に、単身、人けのない御堂に現れるとは。これは私の女を食いに来た鬼かもしれない。若者は、むかし業平《なりひら》の中将が女を連れて山科《やましな》の山荘に泊った時に、その女を鬼に食われたという故事を思い出した。そして、自分の力で必ずや守り通そうと、腕の中の女を固く固く抱きしめた。しかしその力も、ややもすれば崩《くず》おれそうになるほど、しんと静まり返った中に静坐している女房の姿は無気味だった。その女房は、此所《ここ》に人がいると知ってか知らずか、横ざまに坐ったまま身じろぎ一つしなかった。そして不意に、細く、よく透る声で、口を利《き》いた。 「そこにいるのは如何《いか》なる方々です? わたくしは此所の主《あるじ》ですが、どうして主にも告げずに此所におはいりになりましたか。此所は昔から、人という人の来たことのない処《ところ》です。」  その声は特に変っていたわけではないが、それだけにかえって恐ろしげな響きを持っていた。若者は顫え声で答えた。 「此所にお住みになる方があるとは、つゆ存じませんで。今晩、此所に泊るよう人にすすめられたものですから。申訣《もうしわけ》のないことをいたしました。」 「早く此所を出て行きなさい。出て行かないと、よくないことになります。」  若者にしても、それだけ答えたのが精いっぱいだった。言われるまでもなく、一刻も早く逃げ去りたかった。腕の中の女は、着物の上に徹《とお》るまでに汗を流していた。若者が抱き起そうとしても、ぐったりして手応《てごた》えもなかった。その身体を抱えるようにして引摺《ひきず》りながら、若者は御堂の入口の方へ少しずつにじり寄った。  漸《ようや》く表に出ると、外はぬば玉の闇夜だった。若者は女の腕を肩に掛けて歩かせようとしたが、それだけの気力が女にある筈もなかった。何処をどう歩いたかも覚えぬうちに、若者は堀河に近い中納言の屋形の前まで辿《たど》り着いた。とにかく危いところを免れた、この女を鬼に食われないで済んだ、——それだけのことしか考えなかった。若者は門をしきりと敲《たた》いた。漸く警固の侍どもが門を開いた時に、若者は正体もない女を品物のように相手に渡すと、身を翻して走り去った。自分の家まで、物に憑《つ》かれたように駆け通しに駆けた。  次の日は一日寝ていた。思い出すだけでも毛髪が逆立《さかだ》つような気がした。しかし夕刻が近づくにつれ、昨晩の女のことが痛ましく思い起された。思えばあの恐ろしい事件のあとで、殆ど口ひとつ利《き》かないで別れたのだ。歩くことも出来ないほど正体がなかった。今日の日に見舞に行かなければ、あまりに不実のように思うだろう。若者は決心して身仕度《みじたく》を整えると、昨日の童を供に連れて、何はともあれ七条堀河の、仲立をしてくれた女の許《もと》を訪《たず》ねた。女は待ち構えていたように若者を小脇《こわき》に呼んで、その耳に囁《ささや》いた。 「あの方は屋形にお戻りになってからも、まるで死んだようで、一体何事があったのかとどなたが尋ねても返事ひとつお出来になりませんでね。中納言様も御心配あそばされて、これは何ぞ穢《けが》れに会ったのだろうとの仰せで、仮屋《かりや》を造ってそこへあの方をお入れになりましたが、そこで間もなく息をお引取りになりました。わたくしは今朝ほど、心配なのでお屋形を訪ねましたところ、それはもう大変な騒ぎで。」 「お前はそれであの人に会ったのか。」  若者は顔色を真蒼《まつさお》にして尋ねた。 「それが、わたくしが出向きました時には、もう息を引取られたあとでございました。身寄もない方で、仮屋でお亡くなりになるとは、きっと前世が悪かったのでございましょうね。」  若者は茫然《ぼうぜん》としてその言葉を聞いていた。 「鬼の住むようなところにあの人を泊めたのが、私の不覚だった。何という愚かなことをしたものだろう。」  若者はそう言って返らぬことを嘆いたが、仲立の女は、鬼が住むなどとは聞いたこともないと、真顔で繰返すばかりだった。    中  この話は、「今昔《こんじやく》物語集」巻第二十七|本朝《ほんちよう》の部附霊鬼の第十六「正親《おほきみ》の大夫《たいふ》若き時鬼にあひし語」を、私が小説ふうに書き直したものである。殆《ほとん》ど原文に忠実であり、私はほんの少々、例えば主人公に童《わらわ》を一人供につけたり、仲立《なかだち》の女に宿屋をやらせたり、また御堂で主人公が「女と臥《ふ》して物語などする程に」という段に、会話を加えてみた程度の、潤色を施したにすぎない。原文はほんの二|頁《ページ》ばかりで、この直後に例によって didactique な結びを添えているから、その部分は原文のまま次に引用する。 「正親の大夫が年老いて人に語りけるを、聞き伝へたるなるべし。其の堂は今にありとかや。七条大宮の辺にありとぞ聞く。委《くは》しく知らず。されば、人なからむ旧堂などには宿るまじきなりとなむ語り伝へたるとや。」  これだけである。  ところで「今昔物語集」はかねてからの私の愛読書だが、この挿話《そうわ》には多少合点のいかない節を覚えていた。というのも、この中では鬼があまりにもあっけないからだ。巻第二十七には、霊、鬼、死霊《しりよう》、野猪《やちよ》、狐《きつね》、迷わし神、産女《うぶめ》、などの怪異談が四十五篇含まれているが、鬼に関するものはいずれも凄惨《せいさん》である。例えば、私が右の話の中にちょっと引用した、業平《なりひら》の中将が女と共に北山科《きたやましな》の旧《ふる》い山荘に泊った時には、「にはかに雷電霹靂《らいでんへきれき》してののしりければ」という事態が起り、中将が太刀《たち》を抜いて身構えたにも拘《かかわ》らず、「女の頭《かしら》の限りと着たりける衣どもとばかり残りたり」(第七)という悲惨な結果になる。このように、鬼の特徴は、一般に言って、その姿を現さずに、後に被害者のバラバラの屍体《したい》だけが残るというのが多い。「重き物の足音にてはあれども体《すがた》は見えず」(第十)とか、「夜なれば其の体は見えず、ただ大きやかなる者」(第十四)とかいうのがそれである。しかしこの鬼なる者は、形を変じようと思えば何にでもなれるものらしく、例えば「此の板、俄《にはか》にひらひらと飛びて、此の二人の侍の居たる方様《かたざま》に来る」(第十八)という板も、「車の前に小さき油瓶《あぶらがめ》の踊りつつ歩きければ」(第十九)という油瓶も、鬼が形を変えたものである。最も形相の物凄《ものすご》いのは、「面は朱の色にて、円座《わらうだ》の如《ごと》く広くして、目一つあり。丈は九尺ばかりにて、手の指三つあり。爪《つめ》は五寸ばかりにて刀のやうなり。色は緑青《ろくしやう》の色にて、目は琥珀《こはく》のやうなり」(第十三)とあって、だいぶ後世の鬼に近くなっている。この他に白髪の老女に形を現じたのもあるが、鬼が美しい女房の形をして現れ、いっこうに真の正体を現すこともなく、犠牲に選ばれた女は恐怖のあまり後になって悶死《もんし》するというようなのは、此所《ここ》に紹介した挿話の他に例を見ない。  そこで考えるのに、どうもこの鬼は死霊というよりは、生霊《いきりよう》の方に近いらしい。生霊に関しては、「源氏物語」の「葵《あおい》」に現れる六条|御息所《みやすどころ》のもののけを初めとして、「栄花物語」の中にもしばしば描かれている。強度のノイローゼに伴う幻視幻聴であろう。もしこの話の中で若者と女との見たものが、二人の共通の幻覚であったとすれば、鬼と錯覚したのも無理からぬところと言える。しかし更に一歩を進めて、この鬼が死霊でも生霊でもなく、人間業《にんげんわざ》であったとしたならばどうであろう。私はこれについて、幾つかの場合を推理してみた。それをみんな書くのも曲がないから、一つだけを選んで次に述べることにしよう。もっとも「今昔物語集」の中の右の話を紹介するに当って、必要なだけの伏線は少々余分に張ってあるから、聡明な読者は早くもそれと気がつかれたかもしれない。    下  帰れと言われて、臆病《おくびよう》な童《わらわ》は朱雀大路《すざくおおじ》まで走って行ったが、そこではたと立ち止った。既に夜はとっぷりと暮れ、見はるかす限り大路に人一人見えない。さっき主人がからかい半分に言った応天門《おうてんもん》の鬼のことや、自分が口を滑らせた狐《きつね》のことなど、知っている限りの恐ろしい妖怪《ようかい》が、この大路の向うで自分を待ち構えているような気がする。童は立ったまま顫《ふる》え出し、よくよく考えた末、もとの道を大宮の方へ駆け戻った。どうせあくる朝また主人の迎えに来るのなら、いっそあの御堂の側で夜明しをした方がましなような気がした。童は主人思いだったし、また主人の側にいさえしたなら、鬼が出ても狐が出ても、怖《こわ》くはない筈だと自分自身に言い聞かせた。  童はこっそりと御堂に戻ると、裏手に廻って小さな壺屋《つぼや》を見つけた。これもすっかり荒れ果てて、入口には戸もついていなかったから、童はた易《やす》く中へもぐり込み板壁に凭《もた》れかかった。身体中《からだじゆう》が小刻みに顫えて、どう息ばんでも顫えはとまらなかったが、しかし声を出せば聞える範囲に主人がいるのかと思えば、少しは気が安まった。すぐ足許で虫がすだいていた。童はとうに両親に死に別れ、一人きりの身寄である姉も世をはかなんで大原《おおはら》の里で尼になっていた。怖いという気持を鎮《しず》めるために、亡くなった母や遠くにいる姉のことを思うと、ひとりでに涙が流れて来た。そして童は両腕の間に膝《ひざ》を抱いたまま、いつのまにか泣き寝入に寝入ってしまった。  どれほどの時が経《た》ったのだろう、童はふと目を覚《さ》ました。どこかで幽《かす》かに人声が聞えて来る。と、急に自分の立場がぎょっとするような不安の中に喚《よ》び起された。身体中ががたがた顫えたが、それでも主人のことが気になったので、這《は》うように御堂の方へ近づき、破間《やれま》の隙《すき》からそっと中を覗《のぞ》いてみた。薄暗い燈台《とうだい》の灯が大きな影を揺がせて、童はその中に、主人と、先程の小柄な女房とを認め、そして心臓の締めつけられるような恐怖と共に、見も知らぬ女が反対の側に坐っているのを見た。主人は女房の身体を抱きかかえるようにして、入口から表の闇《やみ》の中に消えた。あの女は誰だろう、そして御主人様はどうして不意に行ってしまったのだろう。そうした疑問と共に、自分も早くお伴をして一緒に行かなければ、——そう考えはしたものの、どうしたことか奇妙に足腰が動かなかった。童は尚《なお》も破間に眼を押し当てたまま、見るともなしに中を覗いていた。御堂の隅に横ざまに坐った女は、主人たちが逃げるように走り去ったあとでも、じっとしたままでいた。もしやあそこにいるのは鬼ではないかしらん、それならばきっと見つけられてただの一口に食われてしまうだろう。童は口の中で一心に仏の御名を称《とな》えた。それでも顫えはいっこうにとまらなかった。口の中がからからに乾《かわ》き、眼に見えぬ手でじりじりと首を締められているような気がした。  ふと気がつくと、明いたままの入口の戸から、女の童を連れた女が一人、そっとはいって来た。それと同時に、今まで黙然と静坐していた壁際《かべぎわ》の女が、首を起し、声を掛けた。 「うまく行ったかね。」 「行ったもなにも。隠れて見ていたら、転るように逃げて行ったわ。さてさて臆病な若様のことよ。」  その声を聞いて、童は思わず自分の耳を疑った。紛れもない、この女は夕刻この御堂へ案内してくれたその同じ女ではないか。これもやっぱり鬼なのだろうか。 「あたしがうまくやったからさ。どうして、我ながら怖いくらいの出来だったよ。」  女たちは二人とも得意げに語り合った。 「お前さんは髪を振乱して、口許に紅《べに》でもこすりつけた方がいいという意見だったじゃないか。黙って坐っているだけで大丈夫だと言ったのはあたしだよ。もっともお方様もそれでよかろうとのお話だった。」 「あたしはもっと凄みのある方が面白かったと思うよ。それでもあのお女中の怖がりようと来たら。」  押し殺すような笑い声がその唇から洩《も》れた。 「あたいだってうまくやったでしょう。」  女の童までが一緒になって笑った。その子供子供した声が、外にいる童の気持を急に鎮《しず》めた。さっきほど恐ろしいとは思わなかった。この女たちは決して鬼ではない。しかし何かしら、鬼よりももっと邪悪なものが……。 「お方様もこれで安心というものさ。若様も二度とあの女とはお逢いになるまいよ。」 「口惜しいほど綺麗《きれい》なお女中じゃないか。いっそ息の根を止めてやればよかった。」  女の憎々しげな声が鋭く響き渡った。 「なにあの女はごくごく気が弱いとお屋形《やかた》でも評判だから、怯《おび》え死《じに》に死ぬだろうよ。めったに手でも掛ければ検非違使《けびいし》がうるさいだけさ。そこがお方様のお考えの深いところじゃないか。」 「ふん。それで御褒美《ごほうび》の方にも間違いはあるまいね。」 「それは大丈夫とも。今夜あたしがお方様のところに御注進に行ったら、いずれ首尾を見た上で礼は充分に取らせるが、取り敢《あ》えずというのでこれを頂いたよ。これは唐渡《からわた》りの珠《たま》だ。」  乏しい燭台《しよくだい》の灯の瞬《またた》く中に、自慢そうに延した女の手の中できらりと燦《きらめ》くものが見えた。 「それはあたしにおよこし。」 「とんでもない。お前さんへのお礼は明日にでも……。」 「いいからおよこし。それは婆さまの持つようなものじゃない。」 「何をほざく。子持ちの傀儡女《くぐつめ》のくせをして。」  女二人は口汚く罵《ののし》りながら掴《つか》み合いを始め、それと共に、女の童が不意に甲高《かんだか》い声で泣き出した。その泣声が真夜中のしずまり切った空気の中を、ぞっとするような寂寥感《せきりようかん》で貫いた。これはひょっとしたら夢じゃないだろうか。そう童は考えた。破間から見える諍《いさか》いの光景は、そこだけが地獄図絵のように、悪夢じみて乏しい光線の中に浮び出た。  あくる日の夕刻、心配げに足を急がせる主人に従いながら、童は今でもまだ信じられない昨日の光景を思い浮べていた。あれからどうやって主人の屋形まで辿《たど》り着いたのか、さっぱり覚えていない。眼や耳にしたことを教えようと思っても、昨日はあんなに屈託のない顔附をして、鬼の話で童を怖がらせた若い主人も、今日は不機嫌《ふきげん》に黙り込んだまま眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて歩いて行く。そして主人の考えている不安は、童の心にも次第に空恐ろしいものとして伝って来た。  仲立の女が声をひそませながら、中納言家での騒ぎや不幸な女房の最後などを主人に告げている間に、童の心を襲ったのは、事の成行《なりゆき》の意外さと共に、空とぼけたこの女の心持の恐ろしさだった。この悲しげな声、眼には涙さえ浮べているのに。ひょっとしたら自分の間違いで、御堂にいたのはやっぱり鬼だったかもしれない、この女は本当に何も知らぬ正直者なのかもしれない。そうした疑いが次々に浮んでは消えた。  しかしこれはみんな嘘だ、みんな企んだことだ。子供らしい直覚でそう見抜いて、童は思わず声をあげて叫び出しそうになった。自分だけの知っている秘密が、心の中で次第に重たくなった。しかしこの場で、声に出してそれを告げることは出来なかった。  若者はその日から、うつけたように病床に臥《ふ》してしまい、妻はまめまめしく看病した。童は事の仔細《しさい》を主人に告げようと思いながらも、容易にその時を得ることが出来なかった。  一度、例の仲立をした女が屋形を訪ねて来たが、奥でどのような話が交《かわ》されたのかは童には分らなかった。ただ、女は嬉しげな顔をして出て来ると、庭先にいた童にお世辞を言った。きっと自分の顔を覚えていたのだな、と童は考えたが、それはあの日の夕刻、主人の伴をしていた時の自分の顔で、深夜に御堂の破間から覗いていた時の自分の顔である筈はなかった。もしもそのことを知ったなら、この女は自分をただではおかないだろう。童は眼に見えぬ蜘蛛《くも》の網《い》に捉《とら》えられているような気がした。  病いが癒《い》えると、主人はまた何事もなかったように正親《おおきみ》の司《つかさ》に出仕し始めた。また前のように屈託のない、晴々しい表情にかえった。童を供に連れて都大路を歩いた。そして童の心の中に、初めて、言いようのない悲しみが萌《きざ》して来た。  あの女の人は死んでどうなったのだろう。仮屋《かりや》の中で誰にみとられることもなくはかなくなり、今はどこをさ迷っているのだろう。地獄だ。地獄の他《ほか》に行くところがある筈もない。童は萩《はぎ》の咲いた御堂の入口で、夕闇の濃くなって行く中にぽっかりと浮んだ小さな白い顔を、まざまざと思い出した。その顔は物に怯《おび》えたように自分の方を見詰めていた。その短い、しかし鮮明な印象。それは地獄へ堕《お》ちることを予《あらかじ》め知っていた顔ではなかったのだろうか。頼る者もない諦《あきら》めたようなその顔、しかし御主人様がいた筈なのだ。その人が頼りになるからこそ、あんな荒れ果てた、人も住まない御堂で逢引をしたのではなかったろうか。  頼りに? そこで童は、今になって、御主人様が何の頼りにもならないことを理解した。妻の眼を掠《かす》めて、今や若者はせっせと別の女房に文を送っていた。まだあれから一月とは経っていないのに。いずれは童を供に連れて、こっそり通って行くことになるだろう。最早童にとって、あの夜の恐ろしい事実を主人に告げたところで、何の効果もないことが分って来た。そして亡くなった女房が、尚も無量の恨みを含んで地獄道をさ迷っているその気持が、切ないほど自分の心にも感じられた。  あの仲立の女も、あの傀儡女《くぐつめ》も、またお方様も、みんな鬼よりももっと悪いのだ。しかしどうしたらその罪を問うことが出来るだろう。検非違使に訴え出たところで、何の証拠もない。陰陽師に調伏《ちようぶく》してもらおうにも、童には何の資力もなかった。口惜しさに身のわななく思いがしても、どうすることも出来なかった。  童が主人に暇をもらって、ひとり大原へ向ったのは秋も末の頃だった。主人がその訣《わけ》を尋ねても、童は眼を伏せるだけで、理由を告げようとはしなかった。姉に会いたいからと口にするばかりだった。  尼になった姉は、かねて寂光院《じやくこういん》にいると聞いていたが、高野川に沿って行くその山道は遠かった。紅葉《もみじ》は既におおかた散って、うそ寒い時雨《しぐれ》が降りかかると濡《ぬ》れた道は滑って歩きにくかった。ひとりきりの旅でも、今は怖いとは思わなかった。心の中で、冷たい焔《ほのお》のようなものが、急《せ》きたて励ましていた。  長い石段を昇りつめて、漸《ようや》く尼寺にまで辿り着くと、姉は寂光院の裏手の山中にある小さな庵室《あんしつ》にいることが分った。童は痛む足を引摺《ひきず》りながら、竹林の間を抜けて更に歩いて行った。やっと姉の姿を認めた時には、疲れのために声も出ず、ただ涙ばかりがとめどもなく流れ落ちた。数年来会わなかった姉は、亡くなった母親とそっくりになっていた。姉の方は、弟の身に何ぞ不首尾でもあったのではないかと、まずそれを心配した。  その夜、童は心のたけを物語った。火の気もない庵室の中は凍りつくほどの寒さで、時雨《しぐれ》もよいの風が竹林を吹き過ぎて行く音ばかりが、無気味に夜空に響き渡った。 「それでお前はどうしようと思うの。」  姉がそう訊《き》いた時に、童は、まるでみまかった女房の霊が乗移ったかのように、口惜しげに叫び出した。 「私には我慢がならないのです。あんな罪のない、優しそうな人を、鬼の真似をしてたぶらかして殺してしまった奴等《やつら》が。どうしてそんな無慚《むざん》なことが出来るのでしょう。そういうことを頼んだお人も、仲立をした女も、鬼の代りをした女も、みんな何の咎《とが》めも受けないで、安穏と日を送っています。そして御主人様だって、もうあの女の人のことは忘れかけているのです。そんなはかない、情ないことってあるものでしょうか。私はあの人の仇《かたき》を取ってやりたい。あの哀れな死にかたをした人を慰めてやりたいのです。」 「それには仏を念ずるより他にはありませんよ。」 「いいえ、私は仏に頼ろうとは思いません。」 「その人たちもいずれは地獄に堕ちるのです。もしもその哀れな女人のために仏を念じてあげれば、必ずや功徳《くどく》になります。私たちに出来るのはそれだけです。」 「私はこの世で罰を与えてやりたいのです。」 「それが何になります? そうすればお前だって地獄に堕ちるだけではありませんか。仏の御名を称えてその人の魂を救うほかに、お前に出来ることはありませんよ。」  竹林を吹く風の音が心に沁《し》み入るようだった。不意に声をあげて泣き始めた童を、尼は数珠《じゆず》を爪繰《つまぐ》りながら、いたわしげにじっと眺《なが》めていた。  寂光院に近い魚山大原寺に、翌年、修業に熱心な一人の沙弥《しやみ》がいた。先輩の僧たちは彼の精勤篤学なのを愛《め》でたが、同時に、稀《まれ》に見せるその鋭い眼指《まなざし》を怖《おそ》れていた。そして地獄に堕ちた一人の女人を今もなお幻のうちに見ているのは、ただこの鋭い、無量の訴えを含んだ、沙弥の眼指ばかりだった。 [#地付き](昭和三十二年八月)   [#改ページ] [#小見出し] 死後  彼がその時見ていたのは一匹の小さな蜘蛛《くも》だった。それは山《やま》胡桃《くるみ》の下枝から殆《ほとん》ど飛沫《しぶき》のかかりそうな水面まで、細い一本の糸を頼りにするすると下りて来た。どうするつもりなのか。もう一寸か二寸さがれば、水に攫《さら》われてしまうだろうに。その蜘蛛は白っぽい腹をこちらに向け、彎曲《わんきよく》した六本の脚《あし》を縮めて、必死になって糸にしがみついていた。そして彼の方も、奇妙な好奇心に駆られてじっとそれを見詰めていた。  宿屋の裏手にある小川のほとりだった。川幅は狭かったが裏山から急な斜面を流れ落ちて来るので、水嵩《みずかさ》も多かったし、水底に沈んだ石に流れを殺《そ》がれて、盛り上った水が白い飛沫を飛び散らせた。岸辺に茂った山胡桃の下枝は、跳《は》ね上った水滴に葉を濡《ぬ》らされて次第に重たくなり、水の上で鶺鴒《せきれい》の尾のように動いた。枝と枝との間には幾匹かの既に巣を掛け終った蜘蛛が、準備を整えて餌食《えじき》を待っていた。彼等はものぐさに、ただ待てばよかった。しかし一本の糸で水面のすぐ側までぶら下った奴だけは、夕暮の風に山胡桃の病葉《わくらば》と同じように顫《ふる》えながら、ただ待っているだけでは済まなかった。しかしそいつは何時《いつ》までも動かなかった。そしてその蜘蛛を見詰めている彼も、しゃがんだまま動かなかった。  蜘蛛はやがて活動を始めた。ところがそいつはもと来た方に糸を手繰《たぐ》って登り出すのではなく、そのまま下にさがった。何という馬鹿な奴だ、と思わず彼が叫んだ瞬間に、そいつは水に攫われ、みるみるうちに一尺ほど流れた。と思うや、ぐんと糸を引いて、水面を叩《たた》いている山胡桃の下枝に見事に這《は》い上っていた。そこからまた元の位置まで、するすると糸を伝わって戻って来た。たった一本の、中枝と水面すれすれの下枝との間を結んだ糸を、そいつは休みなく往《い》ったり来たりした。時々は葉から葉へと歩き、途中からぶら下っては新しい筋道をつくった。暫《しばら》くの間に、水面の上わずか一寸ばかしのところに、ともかくも半欠けの巣らしいものが出来上りかけていた。確に、水面に近ければ近いほど、小さな羽虫が輪を描いて沢山飛んでいた。こいつは危険な目を冒したが、それだけ餌食の多い場処に陣取ることが出来た。そして水の上は次第に暗くなり、眼の見えなくなった羽虫が、早くも未完成の網の上に掛っていた。  つまりそういうことか、と彼は呟《つぶや》いた。彼は足許から細長いしなやかな草を一本抜き取ると、それを網の上に投げた。その僅《わずか》ばかりの重量でも、花車《きやしや》な巣はしない、中心にいた蜘蛛はたちまち草の重みで川の中に転り落ちた。そいつは急流に呑まれてみるみるうちに流れ出した。しかし今度も、見事に一本の糸に縋《すが》って踏み止ると、水から抜け出して山胡桃の下枝に這い上った。そしてまたせっせと破れた箇所を繕い出した。その蜘蛛の巣は、絶えず飛沫がかかるために白っぽく光っていた。川の表だけを残して、岸辺にはそろそろ夕闇《ゆうやみ》が忍び寄って来た。  その時彼は不意にこういうことを考えた。こいつはさっき水の上に落ちた時に、或いはそのまま水に流されて行ったのかもしれない。山胡桃の下枝にうまく這い上ったと思ったのは単なる僕の錯覚で、実際は、あのまま水に呑まれて、今は屍《むくろ》となって下流の方を何処《どこ》までも流れて行きつつあるのかもしれない。この僕の眼の前に、水上わずか一寸のところに、半欠けの巣の中心に、何でもなかったような顔をして陣取っている奴は、幻の蜘蛛、僕の眼が思い描いた妄想《もうそう》、実体のない観念なのかもしれない。それであってどうして悪いわけがあろう。最初に水に攫われた時に、或いは二度目に僕が草を投げつけた時に、こいつは確に溺《おぼ》れ死んだのだ。そして僕が今見ている奴は、その時までの奴と全く同じ形をしてはいるが、別の蜘蛛なのだ。別のものであって、同時に同じものなのだ。実存というものはない、虚妄《きよもう》があるばかりだ。生というもの、或いは死というものはない、非連続の現実の意志があるばかりだ。それでどうして悪いわけがあろう……。  彼は尚《なお》もその一匹の蜘蛛を見詰めていた。それは次の瞬間には彼自身だった。彼は軽々と、白く光った糸の渦《うず》の中に身を置いて、暮れそめて行く空の方を眺《なが》めていた。足許のところで、流れ行く水が激しい音を立て、大きな葉の一枚一枚が身を顫わせて揺れ、それと共に彼の身体《からだ》も揺れた。待つことだ。待つこと以外には何もなかった。川明りに羽虫が飛び交い、高い空に蜻蛉《とんぼ》が舞っていた。蜘蛛はその空を見ていた。彼も見ていた。何という易《やさ》しいことだろう。  人間だってそのように易しい筈だ、と彼は考えた。今さっき、どうして僕に危機とか、死の恐怖とか、虚無とかいう月並な考えが浮ばなかったのだろう。なぜただ死後ということ、日常と同じ形をした死後ということが浮んだのだろう。一筋の糸にぶら下った蜘蛛、そいつは死の危険の上に身を曝《さら》して、謂《い》わば死の踊りを踊っていたのだ。軽やかな草を投げられただけでも破れてしまう花車な巣の上で、そいつは不安そのもののように顫えていた。しかし僕は不安だったのか、僕は僕以外の者の眼が僕を見守っていることを、邪悪な意志が(それを邪悪と言えるだろうか、ほんの気紛《きまぐ》れにすぎなかったのではないか)僕の巣を破ろうと待ち構えていることを、知っていたのか。僕は知らない、僕は知る必要もなく、従って不安でもない。僕は僕の実体が虚妄であり、現実の生が死後も同じであることを、いな逆に、死後が現実の生と同じであることを知っているのだ。だから今の僕には、切迫した危機の感情も、ことさららしい絶望も、生きることの不安もないのだ。何という楽天的な奴だ、この蜘蛛は。ひょっとしたら、こいつは本当に僕なのかもしれない、古代人が輪廻《りんね》と呼んだあの奇妙な願望の通りに、僕が生れる前の僕、僕が死んだあとの僕なのかもしれない、しかし、それは現に、この瞬間に、どうして僕であってはいけないのだろう……。  彼が立ち上った時に、川のほとりは既に全く夕闇に包まれ、その一匹の蜘蛛の姿はもう見分けることが出来なくなった。遠くから盆踊りの囃子《はやし》の音が単調に響き出した。彼は草を踏んで宿屋のある方角に歩き出した。  それは確に徐々に来たのだ、この死後の観念は。彼はそれがいつから始まったのかを思い出すことが出来ない。今度の、この最後の、決心という奴がいつから始まったのかを知らないように。ひょっとしたら僕はまだ決心していないのかもしれぬ、と彼は呟いた。 「僕は図書館でちょっと調べ物をして来るから、」と彼は妻に言った。 「まあこの暑いのに。うちでなさるわけにはいかないの?」 「うん、気になっているところがあるからね、夕方までには帰る。」 「折角の夏休みなのに。わたし何処か涼しいところへ行きたいわ。」 「うん、そのうちに行こう。」  彼は機械的に返事をし、「君は午後は映画にでも行くさ、」と附け足した。妻は顔を赫《かがや》かせ、それから溜息《ためいき》のような声を出した。 「午後は途中が暑いわ。それより早く帰っていらして。晩御飯のあとで一緒に行きましょうよ。」  彼は黙って頷《うなず》き返し、ノオトや参考書などを入れた小さな鞄《かばん》を手にして家を出た。駅までの間の十五分ほどの道のりに、午前の太陽が烈《はげ》しく照りつけていた。妻は映画には行かないだろう。恐らくは実家まで歩いて行って母親と油を売るか、洗濯をしたあとで昼寝でもするのだろう。それが日常というものだ。人には誰にでも、一人ずつの日常がある。一人の男と一人の女とが結婚すれば、そこに共通の日常が生れて来る。それは次第に積み重なる。それは次第に腐蝕《ふしよく》する。しかし誰が悪いのでもない。それは日常というものが、それ自体持っている作用なのだ。しかし積み重ならないもの、共通の要素を持たないもの、それもある。魂だ。魂が真実で日常が虚妄なのだ。生成して存在しないものと、存在して生成しないものか。しかし魂に生成があるだろうか。僕にとってそれは既に決定したものだった。僕の魂は初めに与えられたまま、何の変化も持たなかった。  道路の片側に、日蔭《ひかげ》に身体を半分ほど入れて、一匹の野良犬《のらいぬ》が舌を出して寝そべっていた。その赤い舌の先から、汗が点々と道路の上に垂れた。前脚の上に頤《あご》を載せ、眼を細く閉じ、その眼で通り過ぎて行く彼をじろりと見た。お前も不満なのか、と彼は心の中で犬に呼び掛けた。僕のように。しかし僕が不満なのは、僕が僕でないことだ。お前はこの暑さに、餓《う》えに、渇《かわ》きに、犬であることに、不満だ。僕は妻を愛し、妻の母を愛し、学生たちを愛し、夏を愛し、生きることを愛している。新制大学の哲学講師というこの日常をも愛している。けれども僕は僕ではない。僕があるべき筈の僕ではない。  中央線の停車場は、プラットフォームの上に陽射がかっと照りつけ、電車を待つ人たちが誰も彼も疲れた、眠たげな表情をしていた。反対側のフォームを、下りの列車が猛烈な轟音《ごうおん》を響かせて通りすぎた。紙屑《かみくず》が風に舞って彼の足許を走った。遠くへ行くことは出来る。と彼は考えた。ただ、何処へ行っても、人は常に此処《ここ》に帰って来る。  彼は電車に乗り、バスに乗り、やがて大学の図書館の前まで来た。この中にはいりさえすれば、日常はとどこおりなく廻転する。ギリシャ哲学史。万物流転。一にして全。自然について。汝《なんじ》自らを知れ。そして彼は獲得した智識の上に僅《わずか》ばかりの新しい智識を加え、それによって学生たちを悦《よろこ》ばせることも出来るだろう。彼はユーモアのある、軽妙な講義をした。「ヘラクレイトスにとって、魂とは火気、クセラ・アナトミアシスだった。だから乾《かわ》いていればいるほど、魂は善良で賢明だと考えられた。すべてのものは、その内部に含まれる火気が、多いか少いかで価値がきまる。燃え上っていれば、そこに運動があり、生命があった。ところで酒という奴は、魂をしめっぽくさせるんだ。だからヘラクレイトスは酒を飲むことを非難したのだ。僕も同じ意見だがね。」そして学生たちは大声で笑った。しかしそうした講義を口にしながら、彼が何を考えていたのか学生たちには分らなかっただろう。「午後は映画にでも行くさ。」そのやさしい言葉の蔭に、彼は何を考えていたのだろう。申し分のない教師、申し分のない亭主。しかし僕の魂は、初めから湿っていたのだ。  新しい智識か、しかし悦ぶのは僕ではない、と彼は図書館の前の広場の、涸《か》れ切った池を見詰めながら考えた。そのあたりは、正午に近い太陽を遮《さえぎ》るものもなく、ベンチにもひとけがなく、野球場の方から喊声《かんせい》が聞えて来るだけだった。新しい智識が何になるだろう、魂が既に決定している以上は。それはファウスト博士のような、すべての書を読み尽しての感慨ではなかった。彼は三十代だったし、まだ学問らしいものの緒口《いとぐち》に達したばかりだった。読むべきもの、知るべきものは無数にあった。しかしそれでどうなるというのだ。  彼は暑い陽射の中をぶらぶらと歩き出した。何処かで休んだような気もする。何かを食べたような気もする。電車や自動車の疾走する通りで、顔じゅう汗だらけの男が彼にぶつかり、文句を言ったような気もする。とにかく彼は何時《いつ》のまにか上野駅に来ていた。スピーカーが鳴り響き、人々が雑沓《ざつとう》し、むんむんする熱風が停車場の構内に澱《よど》んでいた。彼は遠い記憶から甦《よみがえ》って来た地名を告げて、切符を買った。誰か友人から、古びた温泉があると聞かされたことのある場処。あとはただ汽車に乗るだけだ。偶然のようで偶然ではない。たとえ|後になって《ヽヽヽヽヽ》、僕の行きそうなところ、僕に縁《ゆかり》のある場処を人が探したところで、決して思い当ることはないだろう。しかし偶然ではない。人間の記憶は無数の糸にからまれ、或る物はつながり、或る物は切れ、しかも微妙に現在まで続いているのだ。生きている限りは。彼は早くからフォームに並び、客車の一隅に腰を下すことが出来た。つまりこういうふうにして人は決心するのだ。しかしいつ、何が、僕をこの(最後の)決心に導いたのか。甘えたような妻の声、赤い舌を出して喘《あえ》いでいた犬、紙屑を巻き上げて走り去った下り列車、涸れた噴水、汗みどろの男、……どこに決心させるだけのものがあったのか。何処にもない。理由というものは、常に何処にもない。  汽車が走り出し、窓から涼しい風がはいり、そして彼は妻の、別れ際の言葉を思い出した。 「早く帰っていらして、晩御飯のあとで……。」  妻は待っているだろう、何も知らず、何の予感も持たずに。可哀《かわい》そうに。——お前は、お前の亭主がその内部に、腐蝕した、乾燥した、生成のない魂を持っていることを知らなかったのだ。それはお前の罪でも、また僕の罪でもない。僕は、僕自身も、なぜこうして僕が汽車に乗り、最後の決心をしてしまったのかを知らないのだから。  夕暮の田園がパノラマのように走り過ぎて行くのを、彼は窓からぼんやりと、疲れた眼指《まなざし》で眺めていた。  いつからそれは始まったのだろう。この死後の観念は。昔のことだ、まだ子供だったか、それとも青年だったか、あのことがある前だったか、それとも後だったか。とにかく彼はそれを何度も経験したのだ。  朝、目が覚《さ》めかけて、途中で消えてしまった夢の筋を思い出そうとしている渾沌《こんとん》の中で、急に自分が「僕」であることを、同時に今寝ている部屋、昨日から続いている生活、つまり日常というものを、瞬間に、無理由に自覚する。その時に、不意と、奇妙に、その観念が彼に落ちかかって来たのだ。|これは僕ではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。確に僕の中に昨日の、一昨日の、その前の日の、……そしてずっと昔のぼんやりした幼年時代までの、記憶はある。昨日考えたのと同じ未来への希望もある。意識は眠りによって中断されることもなく、昨日から今日へと続いている。しかしそれは僕ではない、昨日の僕は既に死に、今この目覚めた瞬間から、僕は新しく生れたのだ、僕の新しい意識と共に。昨日の僕がどんな人間だったか、虫だったか鳥だったか、それともただの虚無にすぎなかったか、そんなことを誰が知ろう。あるものは今の「僕」、それだけだ。なるほど、咋日と同じように、父親や教師や友人たちは、僕を僕として認めるだろう、僕が今この瞬間から初めて生きているのではないことを証明するだろう。人はみな、そうした他人からの証明によって、自己を自己として承知するのだ。決して自分自身によってではない。なぜならば、彼に彼が「僕」であることを証明してくれる他者も、或いは僕の書いたもの、僕の記憶しているもの、つまりは僕の見るもの考えるものも、外界に存在するもの内界に浮んでは消えるものも、すべて虚妄《きよもう》であり、幻影であり、一種の夢にすぎないからだ。目覚めた瞬間の僕が、僕を証明するために持っているすべては、決して昨日も「僕」が在ったことを証明しているのではない。その僕は既に死んだのだ。世界は今の僕の意識にふさわしく作られている。世界は僕をつくり、僕の意識を過去から未来に及ぶ延長の上につくり、また僕を意識すべき他者までも作った。世界は常に、刻々に、無数の意識をつくる。しかしそれは、ひょっとすれば、唯《ただ》この僕一人の意識のみを、偶然に、作ったのかもしれぬ。僕以外のすべて、あらゆる他者はただ僕の幻視であり、仮象であるのかもしれぬ。いな、この僕自身でさえも、他者の見る幻視の一つ、仮象の一部なのかもしれぬ。昨日の僕は既に死んだ。どのような死にかたをしたのか、深夜に自殺したか(あいつのように)、病院で苦しみながら死んだか、海に溺《おぼ》れたか、それとも死刑囚として絞殺されたか、誰が知ろう? いっそ鉄砲に撃たれた山鳥であったか、太公望に釣られた川魚であったかもしれぬ。そして今の「僕」の意識が、虚妄の上に、あらゆる仮象を伴って、不意に生れて来たのだ。これは死後なのだ。しかしそれは同時に生であり、人が現実と呼ぶところのものであり、不確な、曖昧《あいまい》な、瞬間の連続なのだ。従ってこの「僕」は、記憶の中にある「僕」と同じではない。後者にとっては今の「僕」は死後であり、前者にとっては昔の「僕」はただ一つの夢というにすぎない……。  この観念は、時々彼を襲った。そして彼を一種の憂鬱《ゆううつ》な気分に誘った。僕という人間の中には生成がない。多くの部分、多くの断片から成り立つこの魂には、持続ということがあり得ない。なぜならそれは、既に何処《どこ》かで死んでいるからだ。僕の記憶が不確なのはそのためだ。  例えば、彼は思い出す、僕は見渡す限り茫漠《ぼうばく》とした野原の中にいた。一本の道が一定の間隔を置いた電柱を路端に植えつけて、その原を縦断した。道は無限に小さくなり、電柱は次第に丈を細くして、共に地平線に消えてしまった。野原には芒《すすき》が靡《なび》き、電線には烏《からす》がとまって、時々、気味の悪い声で啼《な》いた。それは子供の頃のことだ。しかし彼はそれを正確に思い出すことが出来なかった。それは彼に与えられた仮象としての意識の一部なのだ。その一本道に立っていた少年は、「僕」ではなかった。それは現在の「僕」にふさわしく具象化された情緒にすぎなかった。  世界が僕の意識をつくった時に、それは作りそこなったとしか思えない場合もあった。子供の頃、可愛《かわい》がっていた子猫が死に、彼は泣いた。泣いているうちに、泣声がとまらなくなり、何時までもしゃくり上げた。「そんなに泣く子はうちの子じゃありません。」そう言って母親が彼を叱《しか》った。きつい、厳《きび》しい顔で彼を叱った。叱ったのは私だったと、後になって叔母《おば》が自分で彼に教えた。しかし彼の記憶ではそれはどうしても母親だった。母親がごく稀《まれ》に見せる、冷たい、威厳のある表情だった。どうして叔母であった筈があろう。もしそれが真実であるとすれば、その時の子供は彼ではなかった。「お前のお母さんはその頃はもう死んでいたのよ、」と叔母は言った。  どうしても真実とは一致しない記憶というものは沢山あった。夜、お祭りを見に行って、母や叔母にはぐれ、迷児になって泣いた記憶もある。しかしそんな筈はないと叔母は誓った。船に乗り、氷山があぶないというので船客たちが大騒ぎをし、船員がなだめていた記憶もある。しかし彼は船に乗ったことはない筈だった。すべてそうしたきれぎれの記憶から、彼は自分の意識が多くの破片を組み合せたものにすぎないことを知った。恰《あたか》も色のついた紙をでたらめに並べても、それが一つの綺麗《きれい》な模様になるように。  彼は学校に講義に行く途中で、道を行く人たちの顔をしげしげと見た。趣味らしいもののない彼にとって、それは唯一の、奇妙な、人の知らない趣味だった。色々の顔が街に溢《あふ》れていた。美しいのも醜いのも、老いたのも若いのも、痩《や》せたのも肥ったのも、すべて彼には興味があった。なぜ人は、或る特定の顔にふと親近性を感じるのだろう。なぜぞっとしたり、憎んだり、憐《あわ》れんだりするのだろう。何の関係もない見知らぬ人間に。それは彼が前に生きていた時に識《し》っていた顔、或いは、ひょっとすると、今の「僕」でない以前の「僕」の顔だったのかもしれなかった。今では相互の間に何等の意識の交流もないのに、この一つの顔と彼とは、同じ人間だったのかもしれなかった。  彼は人道を見下す喫茶店の硝子張《ガラスばり》の二階で、椅子に凭《もた》れ、いつまでも人通りを眺《なが》めていることを好んだ。群集が流れて行く。僕にとっての一つの風景として、魂の見る実体のない仮象として、これら無数の人間が歩いて行く。僕とは何の関係もなく、何処へ行こうと、何をしようと、僕の意識に一抹《いちまつ》の影を落すこともなくて。しかし群集の中に、僕の転生した人物、或いは僕に転生すべき人物が、紛れていなかったとどうして言えよう。僕も知らず、その人物も知らないとはいえ、僕が眠り、彼が眠ったその後に、我々の意識が取り替えられていなかったと誰が言えよう?  彼はゆっくりと煙草をくゆらせ、一杯のコーヒーをすすり、そしてじっと硝子窓の外を見ていた。「先生がまた瞑想《めいそう》に沈んでいる、」と学生たちが後ろの方で噂《うわさ》した。  彼が高等学校の寮にいた頃、彼と机を並べた友人の一人が自殺した。それは青年にありがちな一種の自己陶酔を、懐疑と不安との中に混ぜ合せたものだったろう。その真の理由は、あらゆる自殺者の理由が確実でないように、誰にも納得の行く説明が出来なかった。ただ彼にとって、行為の持つはっきりした意味が分らなかっただけに、それは異様な印象を植えつけた。彼は隣の机でまだ本を開いていた友人に、お休みを言って先に寝室に行き、直に眠ったのだ。翌朝、彼が目覚めた時に、友人の万年蒲団《まんねんぶとん》は寝た形跡がなく、その男は自習室で、机に凭れたまま薬を飲んで死んでいた。  悲しみは次第に一種の羨望《せんぼう》のようなものに変った。彼にとって、この死は悲しみよりは苦痛、それも自己に対する、このまだ生きている自己に対する苦痛として感じられた。あいつは別の生を選んだ。別の生というものがあり、別の意識というものがある以上、死とはただの虚妄にすぎぬ。あいつは眠り、別の自己として目覚めた。僕が目覚めてあいつの空の蒲団を発見したように、あいつは新しい自分を発見したのだ。一切の意識を新しく身につけて。彼はこの友人の死から、殆《ほとん》ど影響らしいものを受けなかったと信じた。しかも彼は大学に進む時に、哲学を選んだ。たとえ哲学を勉強しても、人生との違和感、この奇妙な死後の観念を解き明すことは出来ないだろうという、漠然《ばくぜん》とした予感を覚えながら。  彼は宿屋へ戻り、入浴を済ませ、食膳《しよくぜん》に向った。無口な女中が、横の方に坐って彼の給仕をした。 「盆踊りのようだね、」と彼は言い、女中は黙って頷いた。「君もあとで踊るのかい?」 「踊ります、」と女中は笑顔を見せないで答えた。  木曾節《きそぶし》の囃子《はやし》が、悠長《ゆうちよう》に、鄙《ひな》びて、繰返された。障子に夜気が忍び寄り、蛾《が》が表でしきりに羽音を立てていた。彼は豆腐の味噌汁《みそしる》のお代りをした。  彼の母親は彼が子供の頃死んだ。死は不在にすぎず、やがて徐々に忘却が来た。忘却が即《すなわ》ち死だった。それは意識の一部分が(その数多い組合せの一つが)欠け落ちたことを意味していた。  数年前のこと、ちょうどお盆の頃に彼は戸隠《とがくし》に旅行した。この土地の風習では、迎え火を自分の家から墓地までの間のところどころに焚《た》いた。白樺《しらかば》の皮に火をつけて燃やした。それは故人の霊が、墓地から家まで、この迎え火を頼りに帰って来るためだった。  夕暮に霧が立ち罩《こ》めた。道のほとりで、白樺の皮はぱちぱちと音を立てて燃え、その濃い白い煙は霧に混った。道のあちこちから煙が上り、人々の暗い影が火の廻りを動いた。  彼はそれを奇妙な風習として見ていた。旅人として、やや無関心に見た。その時、彼は不意に母親のことを思い出した。彼の母親の霊も亦《また》、この迎え火に誘われて、彼のところへ戻っては来ないだろうかと想像した。死後、一年に一度、故人が家に帰って来るというのは、古くからの美しい願望だった。人はそのようにして、この忘却という敵と戦ったのだ。しかし僕にはただ忘却があるばかりだ、と彼は考えた。僕には忘却にさからう意志もなく、記憶を美しくしようとする意志もない。意識はきれぎれの断片というにすぎず、それは或る瞬間に、世界が「僕」のために作ったものだ。僕が昨日の「僕」を信じられないのに、どうして母親の霊を信じることが出来よう。忘却は自《おのずか》ら来るところの死だ。組合せの一片が欠け落ちたというだけのことだ……。  しかし彼は、一種の感情を以《もつ》て、夕闇《ゆうやみ》の中に立ち昇る幾筋もの白い煙を眺めていた。  彼は妻を愛していた。しかし一度だけ、最も熱烈に、別の一人の女性を愛した。恐らくは相手がそれと気づかないほどの狂おしさで。  それは初めから不可能であることが分っていたから、それで彼はそれ程までに熱烈に愛したのだろうか。彼女は結婚していたし、彼の方には妻があった。そして彼女は敬虔《けいけん》なカトリック信者で、良人《おつと》と別れることは掟《おきて》が許さなかった。二人はただ友達として、友情のような恋愛のような感情の中に溺れていた。ほんの暫《しばら》くの間。そして彼は遠ざかり、忘却を自分の意志に課した。忘却が彼の掟だった。なぜならば彼女も亦彼の見た幻視、世界が彼に与えた仮象にすぎなかったから。ただ、愛に於《おい》ては、それが幻視であり仮象であることが分っているために、分っていればいるほど、人は一層深く愛するのではないだろうか。愛は二人の人間が共に見る幻影にすぎない。そして忘却は自《おのずか》ら来るところの死だった。恐らくは彼女も亦忘れただろう。しかし彼は、——彼はなおこの幻影を信じていた。僕がこのように生きているのでなかったなら、この愛も、たとえ絶望的にでも、とにかく愛として続いた筈なのだ、と彼は考えた。今あるものは愛ではない。なぜならば僕は、嘗《かつ》て彼女を愛した「僕」と同じではないから。  彼は宿屋の下駄を突っ掛けて、広場まで道をくだって行った。この温泉場は、昔ふうの古びた宿屋が四軒ほど散ばり、それもバスが遠い国境《くにざか》いの方まで通うようになってからは、次第に人に忘れられて泊りの客も尠《すくな》かった。彼が宿屋の入口を出た頃には、帳場もがらんとして、店の衆も泊り客も、みんな盆踊りの会場へ行ってしまったものらしかった。囃子に合せて、よく透《とお》る老人らしい寂《さび》のある声が、木曾節を歌っているのが聞えて来た。彼はその方角に歩き出した。  次第に声が近くなり、広場の中央で踊っている人たちの姿がちらちらした。彼の泊った宿屋は、この温泉場の四軒の宿屋の中で奥まった一番遠くにあり、だらだら坂を下りると、ちょっとした高台から広場を見下せる位置に出た。彼は松の蔭《かげ》に立ち止り、様子を眺めた。  中央の櫓《やぐら》の周囲に、団扇《うちわ》を持った男女が、浴衣《ゆかた》掛けで、輪になって踊っていた。それを取り巻いた見物人たちに較《くら》べると、踊り手の数はさして多いとは思われなかった。中に電球を入れた提燈《ちようちん》が、広場の周囲の木立の間に幾つも吊《つる》され、踊り手の手にした団扇が動作につれてきらりと光った。歌い声は渋く、ゆっくりと、正調だった。踊りの輪も亦ゆっくりと動いた。子供の頃に見たカレイドスコープのように、暗闇の中で、明るい浴衣の群が同じ動作を単調に繰返した。 「死ぬ時にならなければ、本当に愛したかどうかは分りませんわ、」と彼女が言ったことがある。彼はふとそれを思い出した。確に、人は死ぬ時に、もう自惚《うぬぼれ》もなく、虚栄心もなく、誇張もなく、人生を計算することが出来るだろう。その時になって、初めて、軽やかに過ぎたことが意外に重く、忘れたと思ったことが意外に意識の大きな部分を占めていたことに驚くだろう。僕は彼女を愛していたし、忘却さえも、この愛を消し去ることは出来なかったのだ。しかし、誰にも知られずに。彼女にさえもそれと知られずに。  理由というものはない。人は理由を発見することは出来ない。「全く思い当りません、」と妻も、妻の母親も、口を揃《そろ》えて言うだろう。「あいつは奥さんを愛していたし、他に好きな女なんかいた筈がない、」と友達は言うだろう。「明るい楽天的な奴だった。魔がさしたとしか思われない。急に気でも変になったんじゃないか。遺書もないんだし。」そういうことを言うだろう。誰に分るものか、この僕にさえはっきりとは分らないのに。二十代に、人がいずれ形成すべき自我、いずれ生成する筈の魂、そういうものに対して持つ希望とか野心とかいったもの、そして四十代を過ぎて、最早あるがままの自我しか望めず、せめてそれを最大限に発揮しようと考える悟のようなもの、そのいずれもが、三十代にはない。理性の年代か。何が理性だろう。神の掟を信じることもなく、人間の掟を信じることもない人間が、自己の裡《うち》に神をつくり、それを理性と崇《あが》めたところで、一人の理性は彼一人にしか通じないのだ。三十代の人間には、それこそ理性的に自分を殺す理由があるだろう。自己の裡の神が理性である以上は。しかしこの僕は、全く別の理由で死を選ぶのだ。僕には形成すべき自我も、発揮すべき自我もない。僕には魂もない。僕はそれらを信じることが出来ない。なぜならば、僕は死後に生きているからだ。昨日の魂と今日の魂との間に、何のつながりもないからだ。それは断絶であって、断絶の前にはすべてが虚妄だからだ。しかしその後は? 明日は?  もしも一つの眠りのたびに古い意識が死に、新しい意識が一つの生として生れるとすれば、生とはあの盆踊りの輪のようなものだ。円陣をつくって、踊り手たちは同じ動作を模倣する。その全体が一つの「生」であるように人は思い違っているのだ。それは決して同じではない。前の踊り手と後ろの踊り手との間には、明かに断絶がある。しかし人はそれを知らず、常にこの円陣の全体を彼自身の「生」のように錯覚する。そこには無数の小さな「生」が、世界のつくった無数の意識が、あるばかりだ。僕が我慢のならないのは、この、魂のない、平面的な、微小な「生」のかたまりだ。もし今晩僕が眠れば、今の僕は死に、明日は新しい意識を持つ別の僕が生れているかもしれない。しかし、それも亦「生」なのだ。不断に緊張した生の破片の一つ、任意に与えられた意識、生成のない魂というにすぎない。そしてまた一つの破片、そしてまた一つの……。その煩《わずら》わしさに僕は耐えられぬ。僕が望むものは虚無、絶対の、輪廻《りんね》もなく転生もない、完全な虚無なのだ。——これが恐らくは、僕と共に死ぬ僕の|死の理由《ヽヽヽヽ》なのだ。しかし誰がそれを知ろう?  彼は佇《たたず》んでいた松の樹の側を離れ、道をくだって広場へと達した。いつのまにか霧が山から流れて来て、夜気の中に、吊《つる》した提燈の灯がぼうっと滲《にじ》んでいた。木曾節を歌う声は一層哀調を帯び、囃子は一層高まり、白い浴衣の輪廓《りんかく》を霧に溶けさせて、踊り手たちの円陣は一層大きくなった。彼等は歌に合せてくるくると舞った。それは影絵のように動いていた。 「お客さん、踊りませんか?」  彼はすぐ側に、さっき給仕をした若い女中が、浴衣姿で手に団扇を持って立っているのに気づいた。 「僕は踊らない。君は?」 「あたしくたびれた。今は中休み。」  ぞんざいにそう答えると、初めて歯を見せて笑った。その笑い顔は小娘らしくて健康だった。  彼はまた眼を円陣の方に向けた。しかし今や彼が見ているのは、この田舎《いなか》びた踊りの光景ではなかった。彼は夜の暗い流れの上に、風に吹かれて魂のように顫《ふる》えている一匹の蜘蛛《くも》を見た。それは永劫《えいごう》に流れて行く時間の深淵《しんえん》の上に、危なっかしい網を張ってぶら下っていた。そしてそれと共に、彼はもう一つのもの、彼自身であるところのものを見た。それはこの夜の流れの中を、何処《どこ》までも漂い続ける一匹の小さな蜘蛛の屍《むくろ》だった。 [#地付き](昭和三十二年八月)   [#改ページ]  世界の終り [#ここから地付き] 忘れられた過《あやま》ちによる死刑宣告。恐怖の感情。        僕は告発に対して文句を言わない。夢の中の         説明の出来ない大きな過ち。                        シャルル・ボードレール「散文詩草稿」   [#ここで地付き終わり]    一 彼女  夕焼が美しい。  夕焼が気味の悪いように赤く燃えて美しい。こんな美しい夕焼を私は今迄に一度も見たことがない。私が歩いて行くにつれ、街の上に帯のように長くつながった雲が、焔《ほのお》のように燃え始めている。私の中の血を空に流したように赤い。空気の中にも物の燃える臭《にお》いが漂っている。いいえ、街は燃えてはいない。いつもの夕暮時の、ざわめいた街。人が買物に出掛けて行き、市場の前や通りの角でお喋《しやべ》りの小母さんたちが立話に飽きない時刻。街は暮れ始めて、陽の当らない蔭《かげ》はもう黝《くろ》ずんで灰のように見える。私は市場の前は通らない。お母さんが買物に来ている筈だし、私はお母さんに見られたくはない。私は一人で歩きたいし、それも買物なんかに行くのは真平だ。私は忙しい。私にはいつも考えることがある。今日あの人が帰って来る。  空が燃えている。  何かの前兆のように空が一面に燃えている。前兆ということはない。要するに夕焼なのだ。しかし今日の空は特別に晴れている。今日の空は特別に赤い。私が今迄に一度も見たことがない程。私はどんどん歩く。私は歩かなければならない。私はこの大通りを出外《ではず》れた寂しい岡の上へ行く。私が来るのは此処《ここ》で市場じゃない。買物はお母さんがすればいい。私は真平だ。私は岡の上へ来る。何かを探すために、何かを考えるために。何を考えるのか私はもう忘れてしまった。今日あの人が帰って来る。お母さんは嬉《うれ》しいだろう。私は嬉しくも悲しくもない。嬉しいということがどんなことなのか私は忘れてしまった。私は感情をどこかに置いて来てしまった。いいえ、それは家にある。私の家、あの人とそのお母さんとそして私とが住んでいる家、ちっぽけな田舎町《いなかまち》の病院、その中にありあまる程の感情がぎっしり詰っている。しかし私の感情はそこにはない。あるのはお母さんのそれ、あの人のそれ、看護婦さんのそれ、そして私のまわりには別の空間が透明な膜のように垂れ下っている。  火事がやまない。  いつまでたっても空の火事がやまない。消防自動車のサイレンの音がひっきりなしに聞えている。燃え続ける雲が火の粉のように降って来る。それは私のまわりの透明な膜に触れて溶ける。どうしてこういつまでも燃えるのだろう。何か特別のこと、大変なことでも起るのだろうか。岡の上から見ると、空は赤く燃えているし、枯れ枯れとした野原は灰色にくすんで、柏《かしわ》の葉っぱが風に一斉にふるえている。何て広い原っぱだろう。道が真一文字に遠くへ遠くへ。この道をどこまでも歩いて行けば、北の北の外れの国へ出るだろう。人一人住んではいず、熊《くま》や狐《きつね》や兎《うさぎ》や鴉《からす》などが我が物顔に威張っている雪の国へ。昔は私もそこへ行きたいと思っていた。それはいつの昔だろう。  お前はもうそこへは行けない。  私はもう決して北の外れの雪の国へ行くことはない。私の心の中で何かが死んでから、その遠い国は消えてしまったし、私のまわりには膜が垂れ下った。それは誰にも分らない、あの人にも分らないことだ。風が冷たくなり、柏の葉が揺れている。それなのに空はまだ燃え続ける。何か変ったことが起るのじゃないかしら。  帰った方がいい。  そうだ私は早く帰った方がいい。お母さんはもう買物を済ませただろうし、私が外出したのを知れば心配してあれこれと訊《き》くだろう。私は遠くまで来てしまった。あの人が前に此処に私を連れて来て、いい景色だろうと言ったのだ。街も見えるし、向うに山脈も見える。山脈にはもう雪が積っている。原っぱも見える。昔はこの辺は一面の原始林だった、熊のすみかだった、とあの人は言った。あの人は小さい頃からよくこの岡の上に遊びに来た、と言った。私を此処へ連れて来たのはあの人だ。だから私は、一人で此処まで来たのは初めてのような気がする。なぜこんなことをしたのだろう。  なぜだろう。  なぜあの柏の葉っぱはあんなにかさこそ揺れているのだろう。なぜ私の手はこんなに冷たくて、私の額は熱《ねつ》っぽいのだろう。なぜこの一本道は(通る人もないのに)山脈の方に通じているのだろう。まるで私を呼んでいるように。なぜ空の雲はいつまでも火の粉のように燃え続けるのだろう。なぜ私はひとりで此処にいるのだろう。  特別の意味があるからだ。  そうだ何か特別の、それと暗示している意味があるからに違いない。山脈も赤く燃えているし、ほら街だって屋根屋根があんなに赤く染っている。さっき私が街の大通りを通っていた時に、日蔭はもう灰のように翳《かげ》っていたのに。街がまだあんなに燃えているというのはどうしたわけだろう。それに私のまわりには誰ひとりいないし、見渡す限り誰ひとりいない。  赤い赤い。  どうしてこんなに赤いの、ともしもあの人がいたら私は訊く。そしてあの人はそのわけを私に教えてくれるだろう。しかし私はひとりだ。私はずっとひとりなのだ。あの人も私の父も私の妹も、みんな私とは関係がない。私が訊くのは私自身にであって決してあの人にでもなければ父にでもない。私は私に訊く、どうしてなの、と。  世界の終りなのだ。  誰が答えたのだろう、誰が私に世界の終りなのだ、などと答えたのだろう。私じゃない。私はそんなことは考えもしなかった。しかし本当にそうなのかもしれない。こんなに空が燃え続けて、私のまわりで私を包んでいる膜が次第にひろがって行って、そして私だけを残して時間が止ってしまっている。私だけが気がついている、時間が止って、世界が終るということを。不思議だ。私は少しずつ思い出して行く。私は街の大通りを歩いていて、冬支度《ふゆじたく》に買物に出ている人たちを、その人たちの視線を、睨《にら》み返してやった。あの人たちは知らなかったのだ、野菜や塩鮭《しおざけ》や石炭なんかを幾らたくさん買い込んでも、何の役にも立たないことを。なぜなら世界が終ってしまうのに、冬支度なんか必要じゃないのだから。だから私は、市場の方へ急いで行く人たちを睨んだのだし、あの人たちも私を異端者のように睨んだのだ。私だけがそれを知っているから。  時間はもうない。  時間はもうないから、すべてが平べったく並んで私を取り囲んでいるのだ。空がこんなに赤くいつまでも燃え続けるのは、時間が止ってしまい世界がいま滅びて行く証拠なのだ。本当は今頃の季節は寒い冷たい氷雨が毎日のように降り注ぎ、トタン屋根を濡《ぬ》らし、熊笹《くまざさ》を濡らし、晴れ渡った空なんかまるで見ることが出来ない筈なのに。こんなに珍しく晴れたのも、夕焼が美しいのも、その夕焼がいつまでも燃え続けるのも、みんな世界が今終ることの証拠なのだ。それを知っているのは私だけで、だから私は怖《こわ》いのだ。  お前は怖い。  いいえ私は怖いとは思わない。いいえ私は怖いということがよく分らない。私はずっと前から、怖いという一つの状態の中に生きて来て、それと怖くないという状態との間に、区別をつけることが出来なくなっている。どうせ世界はいつかは滅びるのだし、それが今だってもっと先だって大した違いはない。それに私はもうとっくに滅びてしまっているのだから、前に、ずっと前に。私はもういないのだ。私はもう影なのだ。  お前は死ぬ。  世界が滅びれば私は死ぬだろう、必ず死ぬだろう、あの人も、お母さんも、看護婦さんも、父も、母も、妹も、みんな死ぬ。しかしそんなことは何も意味がない。私は走って帰り、大変よ世界の終りよ、と街の人たちに教えてあげるべきなのかもしれない。さあ大変です、私はそれを知っています。けれども誰ひとりそれを信用してはくれない。世界が終っても、そんなことは何も意味がない。あの人たちはみんなとうの昔から死んでいるのだし、私だって昔から死んでいるのだから。  お前はこれから死ぬのだ。  私はこれから世界と共に死ぬだろう。泣いたり喚《わめ》いたりしながら。なぜなら私は私だけが生き残るとは思ってもみないから。しかしもしみんなが死んでいるのなら、もう一度死ぬというのは反対に生きること、生れること、になりはしないかしら。私には分らない、私には生きるとか死ぬとかいうことは分らない。私が怖いのはそんなことじゃない。  空はいつまでも赤い。  空はいつまでも赤いが、私はもう帰ろう。時間が止ってしまったから夜はもう来ないだろう。私は夜が怖いから、夜の闇に寂しい岡の上にひとり取り残されるのが怖いから、それで家に帰るのじゃない。お母さんに、世界の終りですわお母さん、と教えてあげるために帰るのじゃない。今晩あの人が旅行から戻るから、それで家に帰るのでもない。私は歩きたいのだ。街に通じるこの一本道を歩いて行きたいのだ。世界が終るというのに、どうして私の足はこんなにゆっくり動くのだろう。どうして駆け出さないのだろう。どうして私はもっと怖がらないのだろう。空は血のように赤い。街は夕焼雲の下でいつまでも燃えている。  後ろから誰かが来る。  私は後ろから誰かが来るのを感じる。私は道の真中で立ち止り、振向く。道のずっと向う、山脈に近い方の空間から誰かがこっちに歩いて来る。まだ芥子粒《けしつぶ》のように小さいが、夕陽に照されて次第にこっちに近づいて来るのが私に分る。私はそれを、その黒い影を、じっと見つめている。晩秋の空気が限りもなく澄んで、厚い硝子《ガラス》の板でその姿を抑えつけたように見える。押し潰《つぶ》された標本の昆虫《こんちゆう》のように見える。御免なさい。私は何かを忘れていた。私はだんだんにそれを思い出しそうになる。  そらだんだんに近づいて来る。  小さな人影はだんだんに一本道を近づいて来る。私の中の不確な記憶もしきりにうごめいている。私はすっかり忘れている。大事なことを忘れて、そして道の真中に立ち止って、振返って、誰かが私の方に近づいて来るのを待っている。夕焼の空を背景に、その人の姿が黒い。不吉な前兆のように。滅びる世界のように。私の中の不在のものが少しずつ私の存在の方へ近づいて来る。私はそれを知っているのだ。  お前は怖くなる。  私は急に怖くなる。人影はどんどん近寄って来る。女だ。その女の長い髪が風に靡《なび》くのが見える。薄い外套《がいとう》の胸が開いて、黒っぽい色のスエーターが覗《のぞ》いているのが見える。どんどん近寄って来る。真直《まつすぐ》に前を見詰め、両手をだらんと下げ、私の方に歩いて来る。私は知っている、それが誰だか。  それはお前だ。  勿論《もちろん》それは私なのだ。前方を見据えた鋭い眼、固く結んだ唇、痩《や》せた頬骨《ほおぼね》の出たその顔、長い黒い髪、——勿論私だ。その私は、殆《ほとん》ど私にぶつかりそうになる程近づいて来る。歩くのを止めようとはしない。私は鋭い声を立てる。もう一人の私は、私の方を見向きもしない。すぐ側を掠《かす》めるように通りすぎる。香水の香がぷんとする。それは私の愛用している香水の匂《にお》いだ。その私は行きすぎる。私は私の顔を両方の掌《てのひら》で抑えつける。そして見ている、もう一人の私が街の方に向ってどんどん遠ざかって行くのを。私の後ろから来て私に先立って歩いて行く者の姿を。何の前兆だろう。これに何の意味があるのだろう。しかし私はそれを知っている筈だ。  お前が探していたのはその女だ。  勿論私がしょっちゅう探していたのは、もう一人の私だったに違いない。私はその私を今までに一度も見たことがない。いつだって後ろ姿とか手の先とか足とか影のように動く形とか、ほんの一部分か朧《おぼろ》げな全体しか見たことがなかった。初めてだ。初めてその私は私の前に現れ、通り過ぎ、早く早く歩いて行った。もう消えてしまった。私は決して会いたくはなかった。探してなんかいたわけではない。向うの方が私を探していたのだ。私の意志じゃなくて彼女の意志なのだ。でも何のために。  世界の終りだから。  世界の終りだから私に会いに来たのかしら。私に会って、早くお逃げ、大変なことが起るから、と教えてくれるために。いいえ彼女は意地悪だから決して教えてなんかくれない。それに私だってそのことは知っている。私は歩き出す。彼女の行ったあとから、街に向って歩いて行く。もし誰かがこの道を見ていたら、同じ私が二人、一人は先に、一人は後ろから、歩いて行くのを見るに違いない。その人は、そのことが世界の終りの前兆だということを知るに違いない。私が二人いるなんて。私はどんどん歩いて行く。夕焼が赤い。夕焼が私の心の中で赤い。私は、もう一人の私がどこへ行ったのか知っている。どこで私を待っているのか知っている。私の足はのろのろと動く。私は急に怖くなる。私は思い出す。    二 彼  彼が目を覚《さ》ましかけている間じゅう、伴奏のように彼の暗い視野の外から響いていたのは、妻の声だった。その声は呪文《じゆもん》のように響いた。「私は水の底へ沈んで行った。深い深い海の底の方へ。あたりがだんだん蒼《あお》ざめて行き、ねばねばした潮水が私の身体《からだ》に絡《から》み、眼をあげても水面のあたりの仄《ほの》かな明るみがもうそれと見分けることも出来なくなって、落ちて行くの、鉛のように、一直線に。その怖《こわ》いこと、さあ戻ろう、もう一度浮き上ろうと思って、くるっと水の中で身体を廻転させようとしても、水面の明るみは見る見るうちに遠ざかって、私は鉛のように落ちて行くのよ……。」しかし彼はその時、水の底にもぐる夢を見ていたわけではない。(多分。もうその時でも夢の記憶は彼から逃げ去ってしまっていた。不確な、影のちらちらする灰色のスクリーンが眼の前にあり、そして伴奏のように声が聞えて来ただけだ。)その声は執拗《しつよう》に、いつまでも彼の中で響いている。「そしてもう真暗になる。私は海の底に着いてしまったらしい。かすかなぼんやりした蒼っぽい光が、周《まわ》りじゅうに漂って、小さな魚の群がすいすいと私の身体を掠《かす》めるように過ぎて行く。しかし私の身体はしっかと海の底に根を生やしてしまい、もうどんなに|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いても自由にはならない。そして怖いのは、私を取り巻き、私を押し潰《つぶ》して来る水の圧力なの。ねばねばした水、どうにも抵抗の出来ない、逃げられない、厭らしい水の触手なのよ。それは私を抱きしめて離さない……。」——「それは夢なんだよ。」  彼は自分の声で目を覚まし、痺《しび》れてしまった手に力を入れ、あたりを見まわした。レールを走る車輪の音が高く響き、薄ぼんやりした電燈が煙草の煙で曇っている、がらんと空《す》いた夜汽車の中だ。前の席は空《から》っぽで、だいぶ前に降りた客の読み捨てて行った夕刊が、横の方に畳んで置いてある。通路を隔てた反対側のシートで、肥った男が意地きたなく鼾《いびき》をかきながら眠りこけている。窓の外を暗い夜が埋め、そこを走る燈火一つない。ああ眠っていたんだなと思い、痺れた拳《こぶし》をためすように二三度握ったりゆるめたりした。どんな夢を見たのだろう。とにかく彼の耳に聞えていたのは列車の車輪の轟《とどろ》きではなくて、彼の妻の訴えるような声だったし、彼はそれが夢であることを彼女に教えてやったのだ。しかし彼が自分で見ていた夢の内容は今ではもう思い起すことが出来ず、不思議な物でも見るように乗客の少くなった座席とか、暗い窓《まど》硝子《ガラス》とか、鼾をかいている男とかを見廻していたが、そこに何の不思議もある筈がなく、彼は三日間の学会の帰りにこうして汽車に乗り込んで、もう二時間もすれば彼の生れた土地、彼の育った土地である弥果《いやはて》に汽車が着き、そして自分の家、妻と母とが待っている家に着くであろうことが、彼にはよく分っていた。不思議なのは彼が今眼にしているこの現実、殺風景な三等車の中に彼が腰掛けていることではなく、彼が妻の声を聞き、「それは夢だよ、」と彼女に教えてやるような、そんな二重の夢を見たことだった。「夢か、」と彼はぼんやり呟《つぶや》いたが、思えば彼の妻は彼と結婚してからずっと夢を見ていたのかもしれず、彼の方も彼女と一緒に見果てぬ夢を追っていたのかもしれなかった。そんな馬鹿げたことを考えるというのも、夢には伝染性があって、彼もときどきは、悪夢の中で、手足がねばねばした潮水に絡まれて、いつの間にか自分の存在が深海藻《しんかいも》に変ってしまっているのに気のつくことがあったからだ。夢とは記憶かもしれなかった。  一番初めに彼が驚かされたのはどれだったのだろう、と彼は記憶の中を探り始めた。あの「沈んで行く」だったのか、それとも「私は遠いところへ行っていた」だったのか、それとも彼女のあの恐るべき幸福感だったのか、結婚してから彼が妻の持つ異様な面に気がついたのはどれが一番最初だったのか。「遠いところ」というのも、「沈んで行く」と同じ位彼をびっくりさせ、狼狽《ろうばい》させたのだ。 「私は遠いところへ行っていたのよ。寂代《さびしろ》でもない弥果《いやはて》でもない、もっとずっと北の、寂しい河のほとりだったわ。」彼はやはり目が覚めるなと感じながら、妻の声に導かれるように暗い視野の中から現実の方へ引き戻されて来たが、現実というのが二階の寝室で、自分が妻と並んで寝ていて、しかも妻が彼の片腕をぎゅっと爪《つめ》が立つほど力強く掴《つか》んでいると気がついて行く間にも、妻のやや興奮した、しかし単調な低い声は、休みなく語り続けていた。それは何かに魅せられたように、ほんのちょっとでも息をつけばその間に大事なものが消え失せてしまうとでもいうように、少しあせり気味の早口で続いた。「あたりには濃霧《ガス》が下りて森の中は死んだようだった。河がすぐ側を流れているらしいけれど、私はどうしてもその側まで行けない。ただ水の流れる音を聞いているだけ。あたり中に熊笹《くまざさ》が生い茂って私の手も足も引掛るし、顔も頭も冷たくなって霧が玉のように顔の上を流れる。私はもっとどんどん歩いて河の方へ行きたいのだけど、身体がどうしても言うことを聞かない。そしてひっきりなしに冷たい滴《しずく》が絡み合った枝や蔓《つる》や葉っぱの上から落ちて来るの。静かで、私はひとりきりで……。」——「それは君が夢を見たんだよ、」と彼はやさしく諭《さと》すように呼び掛けたが、彼がその時急に怖くなったのは、彼女にとってそれは夢の話なのではなく、現に今、彼女が原始林の中をさ迷っていると、彼女が実際に信じているその憑《つ》かれたような話し振りだった。いやそうではない。彼はその時、徐々に思い出して行ったのだが、本当に恐ろしかったのは前の晩に(つまりこうして目を覚ますよりも五時間か六時間前に)彼と彼の妻とは全く理解の出来ない他人どうしのような喧嘩《けんか》をして、二人とももう口も利《き》かなくなり、背中と背中とを向け合せて寝たということだった。つまりこの数時間を溯《さかのぼ》れば彼は妻にやさしい言葉を掛けてやる気分ではなかったし、妻の方も彼の片腕をしっかと掴んで助けを求めるような気分ではなかったに違いない。しかし助けを求めているのかどうかは、今も、彼にはよく分らず、「大丈夫だよ。もう君も目が覚めたんだろう、怖い夢を見ただけなんだろう、僕がついているからね、誰だって魘《うな》されるということはあるさ、」などと慰めの言葉を口にしていたから、彼女の助けになっていると自分では信じていたものの、彼女の方はただ「此処ではない遠いところ」にいたことを無感動に表白するばかりで、そして彼はひどく不安になり、枕許《まくらもと》のスタンドのスイッチを探し、電燈の光が妻を悪夢から引き戻すことを願って、まるで知らない顔のように、ぴくぴく顫《ふる》えている目蓋《まぶた》や鼻翼や血の気のない唇や乱れて顔の半分ほどを隠している髪などを見る。  しかしどんな喧嘩をしたのか、その前の晩の記憶はさっぱり浮んでは来ず、ただごたごたと幾つもの似たような記憶の破片が混り合って頭の中に湧《わ》き上って来たが、彼はそれを押しのけるように慌てて現在に戻った。(とにかく結婚したばかりの頃ではなかったろう。)汽車が急激にスピードをゆるめ、小さな停車場に滑り込んで行くのを、彼は曇った硝子窓を人差指の腹でこすって小さな覗《のぞ》き窓《まど》を作り覗いて見た。過去も、そうして意識的に覗いて見る時に、その時には感情に押し流されて気にも留めずに言ったり聞いたりしたことが、実は何か別の深い意味を以《もつ》て思い返されて来るということがあるものだ。小さな停車場で、人影の疎《まばら》なプラットフォームを駅員がゆっくりと駅名を呼びながら歩いて行き、ベルの音が鳴り渡り、助役が呼子を吹いて片手をあげた。そして発車。  どうして海の底へ沈んで行く夢なんか見たんだろう、と彼は考え始めたが、彼の見た夢の内容は今はもう暗いスクリーンの向うに消えて行ってしまい、実際にその夢を語ったのは妻の声で彼はただ「それは夢なんだよ、」と呟いたにすぎなかったのに、そのことはもう忘れていた。海の底へ沈む夢の中にどんな願望が隠されているのか、フロイドならば海の底は子宮の象徴だとでも言うのだろうか、それは生れる前の平和な眠り、母胎の中の静けさ安全さ、というふうにも取れるし、またねばねばと纏《まと》いつく潮水は狂気の象徴なのかもしれない。「夢判断」でも調べればはっきり分るだろうが、しかしもっと簡単に、それはぐっすり眠りたいという人間の願望を示すだけのことかもしれない。石のように眠る、水に沈む石のように眠る、海の底深く沈んで行くように眠る……。そして彼は「夢判断」の、というよりフロイドの著作が幾冊か並べて置いてある自分の書棚《しよだな》を思い浮べ、隣り合った医学書の金文字のはいった背とか、合本になった医学雑誌のずっしりした列とか、そしてそれを取り巻いたしんとした空気、白い蒲団《ふとん》を敷いた診察用ベッドや机や廻転椅子や古風なシャンデリアや白いカーテンやストーブや、つまり診察室を、嘗《かつ》ては彼の父親の物であり今は彼自身の物である診察室を、手の先に感じるように思い浮べた。子供の時はその部屋は神聖なタブーであり、決してそこにはいって遊ぶことを許されなかった部屋、「お前も大きくなったら、お父さんと一緒にあそこで診察するんですよ。偉いお医者さんになったら、」と母親が口癖のように言い、消毒液くさい父親の手に掴まえられるのが厭で、折角自分を抱き上げようと笑顔を見せている父親の手からすっぽりと逃げ出し、「厭だよお医者さんなんか、僕はね、」と自分の成りたいものを考えているうちに「坊主」と抱きかかえられ、そして神聖な診察室の中へ(患者の来ていない時に)連れて行かれたその記憶はどんなにか愉《たの》しかっただろう。彼が大学へ行ってこの土地を離れていた間に、しばしば彼が思い出したのは、幼い頃、父親の腕の中から見下した机とか書棚とかベッドとか衝立《ついたて》とか体重秤《たいじゆうばかり》とかの位置だったし、父親が亡くなり彼がこの小さな病院の代を継いで初めてした仕事は、診察室の中を目立たぬ程度に模様変えして、特にもう時代おくれになった医学書を自分の蔵書と取り替えることだった。そして彼の持っていた、背を金文字で飾った洋書の中の幾冊かのフロイド。海の底へ沈んで行くのは、眠りへの願望であると共に死への願望であるかもしれない。夢のない眠り、それは死だから。  汽車ががたごといってスピードを増し、乗客の誰かが、さっき停車中に硝子窓を明けて今もそのままにしていると見えて、冷たい風がすうすうと窓に沿って流れて来た。彼は窓際を離れて通路寄りに席を移し、しかし僕の心の中に死への願望なんかがある筈はない、と打消した。不安はいつでも妻のこと、妻に関することから来る。そのために彼は三日間の学会が終っての帰り途に、今日、わざわざ寂代で汽車を降りて、妻の父に会いに行ったのだし、そのために夕食に引き留められたからこんな遅い汽車で夜中過ぎに家に帰るような羽目にもなってしまったのだ。「あなたは医者じゃありませんか、医者として診《み》てどうだったんです? 不審の点でもありましたか、」と義父はやや開き直った口調で問い返したが、それが彼にとって一番|辛《つら》い質問であることは此処《ここ》へ来る迄に、しばしば彼が自問自答していたことでも明かだった。「私はあなたに娘を差上げた。万事あなたの責任ですよ。」それは当然のことだし、彼は何も議論をしに来たわけではない。確に彼自身の責任なのだろう、心理的には。しかし医学的には、精神医学的には、結婚するまでの彼女の生活の中に何かしらの原因が探り出せるかもしれないと思えばこそ、彼はくたびれ切った身体を義父の家へ運んだのだ。「僕はその方面の専門ではないので。」——「しかし医者たる以上は分りそうなものじゃないですか。」——「ええ、どうもおかしいとは思います。それで御相談に上ったわけです。」——「相談? 何の相談です? 娘をどうするつもりです? 詰らん言い掛りは受けつけませんぞ。」相手は既に声を荒くしていて、彼の真意を聞き分けるだけの度量を失いかけていた。どうもおかしい、というそのおかしさを、彼自身も一体どのように説明すればよかったのか。十月の寒い夜汽車の中で、乗客の不注意から明けっ放しにされた窓硝子を侵入して来る冷たい風のようなもの。客車の中の、煙草の煙のこもった、生ぬるい濁った空気とは全く異質の、曠野《こうや》の上を吹き過ぎて行く純粋な風。どのように説明すればよかったのか。彼は思い切って立ち上り、通路を右手の窓の方を見ながら歩いて行き、三つほど前の座席に開いたままの窓を発見した。勤め人ふうの若い男が座席に横になって眠っていた。彼はそっと窓硝子を下した。それは軋《きし》りながら重たく下りた。  彼の心の中を何かが軋りながら重たく下りた。それが現実の上に覆《おお》いかぶさると、彼は蒼ざめた、まるで自分の存在を突き抜けて背後のもっと遠くにある物を見詰めているような、彼女の眼指《まなざし》を見る。「私はもうこんな生活には耐えられない、私は厭よ私は、」と彼女は叫ぶ。——「何が厭なんだ、何かお母さんとあったのかい?」——「あなたは私を幸福にしてくれると約束した、約束したでしょう? けれども私はちっとも幸福じゃない、こんなのは生活じゃない、あなたはお母さん思いでお母さんはあなたを大事にして、それで私はまるで邪魔者じゃないの。私のいる場所なんかどこにもない、まるで除《の》け者《もの》よ。」——「それは君の思い過しさ、」と言って彼は笑って見せる。「お母さんはお母さん、君は君さ。だんだんによくなるさ。どうして急にそんなことを言い出したんだ?」——「お母さんは暴君よ、意地悪よ、自分勝手よ、私を苛《いじ》めるのが嬉しいのよ。」——「どうしてなんだ? なぜそんなひどいことを言うんだ? お母さんは君のことを大事にしている筈だ。」——「いいえ、お母さんは私がこの家に侵入して来たのが厭で厭でたまらないのよ。私をしょっちゅうスパイして、ああしてはいけない、此処へはいってはいけない、どこへ行ってはいけないと何でも禁じて、まるで家の中の私の存在そのものが邪魔になるような言いかたをなさる。」——「そうでもないだろう、それは君の思い過しさ。もう年だから少しは口やかましい点があるかもしれないけど、根は親切な人なのだ。一体今日は何があったのだ?」——沈黙。  彼は自分の座席に戻り、煙草に火をつけ、大きく息を吐いた。彼女との間に議論が始まるのは大抵は夜、彼が寝室に入り、先に寝ている妻の顔色がすぐれないようだと予感のようなものを感じ、わざと笑顔を見せて言葉を掛ける、その時だった。彼女の怒りかたはいつもヒステリックで、論理を欠いているとしか思われず、しまいに彼の感情を苛立《いらだ》たしく刺戟《しげき》する迄は止《や》めなかったが、それでも彼は自分で自分をやさしい善良な人間だと信じていたから、なるべく柳に風と受け流して相手にならないように努めた。「私は結婚なんかするんじゃなかった、」と彼女は叫び、彼を責めるように眼を大きく見開いたが、彼が一番の魅力を感じて彼女と結婚しようと遂に決心したのも実はこの同じ眼の輝きだったのだし、当時はそこに神秘的な迷《なぞ》めいた影が揺曳《ようえい》していたものだ。「あなたは私をだましたのよ。あなたは弥果《いやはて》の医院の若い院長先生で、私はその奥さんで、外見《そとみ》には確にあなたの言った通りになったわ。でもあなたが約束したのは私を幸福にするってことで、私の幸福はあなたが私をひとりぼっちにしないことだってのは、あなたにだって分るでしょう?」——「それは僕は忙しいんだからね。午前は患者が来るし、午後から夜にかけては往診で……。」——「いいえ、そんなことじゃない。あなたの公の生活であなたの面倒を見ているのは看護婦さんの木村さんでしょう、それはしかたがないわ、私には代りは出来ないもの。けれど私生活の方であなたの面倒を見ているのはお母さんよ、私はお母さんの命令で女中のように使われるだけ。この小さな病院の中に閉じ籠《こ》められて、お母さんに頤《あご》で使われて。あなたは無関心で、何ひとつ面白いこともなくて。」——「少し表にでも出掛ければいいじゃないか。」——「何処《どこ》へ? 弥果みたいな小さな町に何があるの。海へ行っちゃいけない。何よあんな寂しい海。郊外へ行っちゃいけない、危険だから。それで町の中には? 私が喫茶店にでも行ったら、町じゅうの人が噂《うわさ》にして嗤《わら》うだけじゃないの。私は人から嗤われるのは厭。」——「困ったなあ、一体どうすればいいんだ? どうすれば君の気が済むんだ?」——沈黙。  もうじき冬が来るだろうし、その長い冬の間は弥果の町そのものが冬眠し、海は閉され、流氷が海岸を埋め、雪が降り、凍った北風が吹きすさび、そして夜は長い。家の中に閉じ籠ったきりでいれば大抵の人間は気が滅入《めい》ってしまうが、彼女の場合にはそれが度を越しているのだ。冬を憎み冬を恐れている。眼に見えない冬の寒気、人の心にまで侵入して来る寒気が、次第に彼女の心をまで荒涼としたものに変えてしまったのか。秋の終り、冬の初め、どうやら彼が初めてそのことに気がついたのもそうした季節だったに違いない。夜中に彼が目を覚《さ》まし、彼の片腕をしっかと掴《つか》んだ妻の指先の力と、呪文《じゆもん》のように語り続ける彼女の単調な声とに暗闇《くらやみ》の中で驚いた時に、空気は冷たく凍って、唇がひりひりするのを感じはしなかったか。「私は遠いところへ行っていた。どこだか分らない遠い街だった。私は喫茶店の中にいたけど、大きなサボテンの鉢《はち》が私のテーブルのすぐ側にあって、そのぎざぎざの葉っぱが機械仕掛みたいに、ゆっくりお出《い》でお出でをしている。給仕は可愛《かわい》い男の子で白い制服を着ていたけど、手にお盆を持ったまま、ぴょんぴょん跳《は》ねて歩いて行く。私は誰かを探《さが》しているんだけど、もうとても疲れてしまって、その店でお茶を飲んで休むつもりだった。けれどボーイは跳ねてばかりいて、いつまでたってもお茶を持って来ないから、私はその店を出てしまった。白い犬が店の前で私を待っていたけど、私が探していたのはその犬じゃない。でも私はその犬のあとについて行く。犬は機械仕掛みたいに動いて行くから、私も見失わないようにしてついて行ったわ。」そして眠りに就《つ》く前に、確に彼は妻と烈《はげ》しい議論をし、「君みたいにわけのわからんことを言う女は見たことがない、」と怒鳴り、背中を向けて寝てしまったのだが、現に彼女が寝言のような譫言《うわごと》のようなことを呟《つぶや》くのを聞けば、前の晩の夫婦|喧嘩《げんか》とどういう関係があるのか、単純な寝言なのか、お芝居なのか、それとも彼女の意識に何か奇妙な脱落があるのか、彼にはすっかり分らなくなる。そういうことが何度かあり(確に秋の終りから冬の初めにかけて)妻の声が止《や》み、彼が彼女を説得した、正気に返らせたと思い、沈黙が部屋を占め、そして彼女の冷え切った身体《からだ》が(彼女は蒲団《ふとん》から身を乗り出して彼の片腕をしっかと掴んでいたから)甘えるように縋《すが》りついて来ると、彼は結局彼女のこのような錯乱が彼に愛撫《あいぶ》を求めるためのお芝居だったように、自分で信じ込んでしまう。しかし同時に、彼(彼女の良人《おつと》である彼)は自分の腕に抱いているのが誰か見知らぬ女のような錯覚を覚え、それと共に不安が彼女から彼へと伝染し、この不安のような肉慾のようなものが、遂に再び睡《ねむ》りが襲うまで木の葉のように二人の身体をわななかせる。多分それは——彼女の中にあるものは、不安なのだろうと彼は想像するが、しかしその正体は、正確には彼の想像の外にあったのだ。事件が起ってもしかも彼にはやはりその正体は掴めなかったのだ。  煙草の火が途中でとうに消えてしまっていたが、彼はすっかり忘れて、今、スプリングコートの膝《ひざ》の上が灰だらけになっているのに気がつき、慌《あわ》てて手で払いのけ、それから再び曇ってしまった窓《まど》硝子《ガラス》を指の腹でこすった。外は暗闇《くらやみ》ですっかり曇ったまま燈火一つ見えない。どうやらぽつぽつと雨が降って来たらしく、硝子の上に水滴の短い斜の線が走り始めている。姑《しゆうとめ》と嫁とはどこの家だってうまく行かないものだ、と彼は考え、そう考えることが不安を遠ざける唯一の方法に習慣化していることに、とうに気がつかなくなっていた。母には母らしい物の考えかたや、男まさりの性質や、古くからの習慣や、特別の好みや、何よりも長い間守って来たこの家の黴《かび》くさい臭《にお》いが染《し》みつき、彼はそれを同情の眼で見守ることに馴《な》れてしまい、妻の新しい視野に自分の視野を合せることが出来ず、妻には母を弁護し母には妻を弁護することが自分の役割だと信じて来た。「あの人は私がもっと早くするように言うと、わざとのろくさとやるんだよ、」と母が言えば、「わざとじゃないんでしょう、もともと何をやらせてもスローなんだから、」と答え妻には「お母さんはどうもせっかちだからね、」と言う。しかし今、そこだけ曇りを拭《ふ》き取った硝子の上に顔をつけて、何一つ見えない暗い遠方に眼を据えていれば、その時の彼女の言葉にももっと別の意味があったのかもしれないと思われて来た。「どうしてわざとゆっくりする必要があるの、私はこれでも一生懸命なのよ。でも私の手が言うことを聞かないで、まるで他人の手のようにゆっくり動くんだもの。そういう時は、本当の手を探さなければいけないのだけど、私はそれをなくしてしまったらしいの。」それと同じ筆法が、深夜に目覚めて、例の「遠いところにいた」とか「沈んで行く」とかいった類《たぐ》いの言葉を呟き、彼が肩を揺すぶって正気に返してやった時にも、用いられたことがあった。「私そんなこと言ったかしら。よく覚えていないけど。ひょっとしたら私の口じゃなくて、誰か他人の口じゃなかったかしら、それを喋《しやべ》ったのは。私の本当の口はどこかへ行ってしまったのかもしれないわ。」——「じゃ今喋っているのは誰の口なのだ?」と彼は冗談のように、しかし背筋にうそ寒いものを感じながら訊《き》いてみたが、「これは勿論私よ、私が喋っているのよ。変なかたね、」と反対にたしなめられ、すぐに眠りがこういう詰らない出来事を忘却の中に投げ込んでしまった。しかし今、硝子窓にぽつぽつと降り掛って来る雨の滴のように、不安が過去の記憶の上を斜に掠《かす》めて行くのだ。つまりあの頃から(事件を溯《さかのぼ》るそんな前から)彼女は単に姑と嫁との問題だけで苦しんでいたのではなく、そこにもっと別の、謂《い》わば根源的な不安といったものがあり、それが無理解と孤独との中で(というのは、彼が妻を愛していたことは確で、彼女にもそれを口実に、つまり愛しているのだからと言って慰めてやりはしたものの、彼女の内面にどういうドラマが進行しているのかはさっぱり理解できなかったから)徐々に深まって行ったと考えることも出来た。「私は娘を引き取る気はありませんよ、」と先程義父が言った時に、彼に閃《ひら》めいたのはやはりこの無理解と孤独という言葉だった。「あなただって何も離縁したいというつもりで見えたんじゃないでしょうな?」——「勿論僕はそんな気はありません、ただ大学の恩師に相談した結果を……。」——「それは分りました。何でもあなたのお好きなようにして下さい。あなたは医者だし、私にはそんな話はさっぱり分らん。」だから寂代の駅で再び汽車に乗り込んだ時には、義父の声はまだ彼の耳許に残っていたし、それから汽車の車輪がレールに触れるがたんごとんという音を聞きながら彼が眠っていた間じゅう、親からも見放されている、と彼の心の中で幻の声が囁《ささや》いていたのだ。そして彼は彼女をいとおしく思い、あと何時間か経《た》てば自分の家へ着いて彼女にも会えると考えると、学会のあとで恩師に相談して極《き》めて来たことが間違いのような気持にもなり、それを何も知らずにいる彼女と、またその結果を(心から心配して)待ちかねている母との面影が浮んで来るのだ。「その学会ってそんなに大事なの、どうしても行くの?」と彼女は子供じみた声で尋ねたが、実はその声の中には自分の運命を予感しているような哀切な響きが籠っていたのかもしれなかった。「たった三日間だしそれ位我慢できるだろう。」——「厭よ、行かないで。」——「こんな町の町医者をやっていたんじゃ、どうしても取り残されるんだよ。医学は日進月歩だからね。だから学会に顔を出すのは決して遊びに行くわけじゃないんだからね。」——「それは分っているの。でも私は行ってほしくないの、ね行かないで。」——「どうして?」——「どうしてでも。」——「何だ子供みたいな。」——「私、怖いの。」怖い? 何を彼女は恐れていたのだろう。彼が学会のあとで恩師と相談し、もし恩師が正確な意見を出してくれたなら、彼も思い切って、彼女を大学病院に入れて診《み》てもらうことにするという、その未来を彼女は推察できたのだろうか。それとも彼女のよく口にする「陰謀」ということが、彼とその母との間でこっそり進行していることを見抜いたとでもいうのだろうか。「もう一度ああいうことが起れば困るから、」と母は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて重々しく言った。確にあの事件のあとで(事件の原因がどういうところにあったのか、彼にも母にも結局よく分らないままで過ぎたとはいえ)母はすっかりおどおどし、声も低くなり、物を言う時にも彼の顔から眼を逸《そ》らして横の方を向くようになった。しかし母が心の中で彼女の身を深く案じていることは疑いを容《い》れなかったから、彼もやはり母と相談せざるを得なかったのだ。「これが表沙汰《おもてざた》になればうちの病院の信用にも関《かかわ》るからねえ、」と母は肩を落してひっそりと呟いた。そういうこともある。確に人間は社会的信用の中で生きているのだし、弥果のような田舎町《いなかまち》では特にそうなのだ。  汽車がゆっくり停車場にはいって行き、眩《まばゆ》いように燈火が流れそして止ったが、見れば雨は前より、一層烈しくなり、篠《しの》つくように降っていて駅員が呼んでいる駅名もよく聞えず、柱に書かれているその名前も読み取ることが出来なかった。彼は腕時計を出して時刻を確め、それから座席に深く凭《もた》れた。誰かが迎えに来ているだろうか。寂代で汽車に乗りがけに、帰りの時刻が深夜になることを電報でしらせておいたから、こんなひどい雨になった以上、妻が駅まで出迎えに来ているかもしれない。病院から駅までは大した道のりでもないのだし、きっと待ち焦れているだろうから、雨傘《あまがさ》を手に改札口のところで待っているだろう。もしも母がとめなければ。母は必ず夜がおそいから女が出歩いてはいけないとか、駅には車だっているんだしとか、走ってもたかのしれた距離だとか、そんなことを口実に妻を外出させないようにする。だから母がまだ起きていれば、彼女はとても出迎えに来ることは出来ないだろう。しかしあんなに熱心に、行かないでくれと頼んだ位なのだから、彼女が帰りを待ち焦れていることは確実なのだ。汽車は篠つく雨の中を出発し、燈火が流れ、そして窓の外が直に暗くなった。寂しい曠野を海岸沿いに走って行く汽車だ。もしも雨が降ってさえいなければ海が見えるかもしれないし、窓を明ければ少くとも潮気を含んだ風を感じることが出来るだろう。しかしすべての窓を閉した列車は、重苦しい空気を客車の中に澱《よど》ませたままのろのろと進行する。一体彼女と母との間がはっきり面白くなくなったのはいつからのことなのか、結婚と同時にもうそれは始まっていたのか、と彼は再び彼を襲って来た睡魔と戦いながら考え始めた。すると直に浮んで来るのは、彼女の蒼《あお》ざめた神経質そうな寝顔で、それは眠っているのかそれともただ眼を閉じているだけなのか、時々二階の寝室に様子を見に行く彼の眼にははっきりと分らなかったが、しかし何となく眠っているような気がして、声も掛けずにただ様子だけを窺《うかが》ってそっと階段を下りて来た。初めのうちは医者のくせにそれと気がつかず、風邪《かぜ》でも引いたのではないかと心配して無理にも診察しようとしたが、やがて月が変った或る日、朝になっても彼女が起きようとせず、「何でもないの、大丈夫よ、疲れて気分が悪いだけ、」と言って寝床にじっと仰向に寝たきり母や看護婦が食事を運んでも殆ど箸《はし》もつけずに、二日間も三日間もそのままでいることが次の月にもまた繰返されて、やっと生理的なものだと理解したが、その頃は母も彼女を大事にして決して咎《とが》めようとはせず、彼女(妻)が二階で昼間じゅうひっそりと閉じ籠っているのを心配そうな顔で彼に様子を訊いたりしたものだ。しかしそれが恐るべき波瀾《はらん》を巻き起したのは、彼女のこの定期的な長期睡眠の三回目か四回目の時だったと思うが、彼女を抜きにした寂しい夕食を彼が母と共にした後で、思いあまったように母が彼に不思議な話を始めたのがその皮切りだった。「こういうことってあるものかねえ、」と母は沈んだ声で言ったが、そういえば食事の間も母は暗い表情をしていて心ここにない様子だった。「何がです?」——「実はね、夕方私が買物に市場へ出掛けた時にね、私は市場の手前のとこであの人に会ったんだよ。」——「だって二階で寝てるんでしょう?」——「それが、私もそう思っていたんだけど、紛れもないあの人じゃないの。寝衣《ねまき》の浴衣《ゆかた》の上に羽織を引掛けてすたすた歩いているのだから、私もびっくりして呼びとめたんだけど、どうも聞えなかったらしい。聞えても黙って行ってしまったのかもしれない。」——「そんなこと、大体わけが分らないじゃありませんか? 人違いじゃなかったんですか?」——「間違いはないよ。」——「帰って来て確めてみたんですか?」——「いいえ、でもねさっき夕食を木村さんが運んだ時には寝ていたと言うから、私より先に帰って来たのだろうよ。」——「しかし何のためなんです? 何しに出掛けたんだろう?」と彼が尋ねるのに、母は首を振って、「お勝手むきの仕事をするのが厭なのだろう。でも外へ出るのなら断ってからにしてほしいし、だいいちあんな恰好《かつこう》じゃ外聞が悪いからね。」——「じゃ僕がよく確めて来ます、」と言い捨てて、母が留めるのも聞かずに二階の寝室へ昇って行ったが、そこでは彼女が、夕食のお盆に白い布を掛けたまままだ箸《はし》もつけずに横になっていた。「君は夕方どこへ行ったのだ? お母さんが市場で会ったそうじゃないか?」と勢い込んで話し掛けるのに、彼女はやっと薄目を開き、ゆっくり首を横に振った。「私はどこへも行かないわ。」——「しかしお母さんは確に君に会ったと言ってる。間違いじゃないって。君だって行ったら行ったと正直に答えればいい、何も出掛けちゃ悪いとは言ってない。けれどこうして二日も三日も寝ていて、家の仕事はみんなお母さんに任せて、それで断りもなく外出なんかすれば、誰だって気を悪くするさ。一体どうしたんだ? 何の用があったんだ?」——「私はどこへも行かなかった。」——「しかし。」——「お母さんは嘘吐《うそつ》きよ、私を苛めるために嘘をついているのよ。」そこから先は水掛論で、彼は今でも、母の蒼ざめて緊張した顔と、妻のやはり蒼ざめて眼に涙を浮べ、唇をぴくぴくと痙攣《けいれん》させている顔とを交《かわ》る交る心の中に見ることが出来たが、この水掛論には結論もなく、どちらが嘘をついているのか彼には極《きわ》めることが出来なかった。結局それは母の見間違《みまちが》いだったのだろうと、当時(結婚してから数カ月目だったが)彼は妻の味方をして考えたが、母と妻との間に生じた溝《みぞ》はそれから確実に大きくなって行ったのだろう。しかし彼が不意に疑惑を感じたのは、或る時(その何カ月か後に)彼女が夢中になって彼を揺すぶり、譫言のように「怖い、怖い、」と叫び出した時だった。「誰かが階段の上で私を見ている。」そこで彼もびっくりして踊場に飛び出してみたがそこには人気配もなく、「寝ぼけたんだよ、誰がいるものか、」と慰め、そして彼女がこう言うのを聞いたのだ。「そうかしら? 本当にいないのかしら? あなたが見に行く前に逃げて行ったんじゃないかしら? でもいつかは、きっとあなたも見るわよ、お母さんが見たように。」——「誰を見るんだい、それは何のことさ?」——「きっと見るわ。」——「誰?」——「私よ。」——「君? 君はそこに寝てるのじゃないか?」——「私よ、もう一人の私よ。お母さんも見たし、あなたも今に見る。私もいつか見るに違いない。そしたらもうおしまいなのね。」そして彼女は急に泣き始め、彼はその苦しげな号泣を聞きながら、何か彼の存在している空間に罅《ひび》がはいってしまったような、奇妙な不安を覚えたのだった。そして今、それを思い出したことによって、再び彼の現にいる空間、この客車の中の埃《ほこり》っぽい重たい空気の中に、亀裂《きれつ》のようなものを感じ始めていた。  眼をつぶると、彼は自分の暗い視野と同じ濃密な巨大な夜の体積を感じることが出来たが、その夜は海と陸地との上に雨雲を浮べて、深々と覆《おお》いかぶさり、そして二本のレールが海岸沿いに冷たく走り、彼の乗っているこの夜行列車が遠い目的地に向って喘《あえ》ぎながら夜の空間を切り拓《ひら》いて行く。そして彼は列車の通った直後の、まだ震動し、ほてり、わなないている蒼白《あおじろ》いレールの上に、冬の初めの氷雨のような霙《みぞれ》のようなものが降りかかると、じゅっといって溶けて行く光景を何ということもなく空想したが、それとどういう関係があるのか、彼女が例の事件を起す少し前頃の言葉の切れ端やその奇妙に分裂した精神状態が、この雨に濡《ぬ》れたレールのイメージと混り合って彼の心象に浮んで来た。彼が往診から夜おそく戻り、診察室の前でドアが開いたままなのを発見し、そして机の抽出《ひきだ》しが開いたままなのを発見したことがあり、彼は二階の寝室へ行ってから、何げなく(しかし意識的に)「君は診察室へはいりはしなかったかい?」と訊《き》いてみた。「どうして? 私が薬局や診察室へはいるわけがないでしょう? お母さんがいつも眼を光らせて私をスパイしているのに。」——「それならいいんだよ。」——「誰かがはいったの? 木村さんでしょう。」——「いや木村君じゃない。しかしいいんだ、大したことじゃない。」——「もしそれが誰でもなかったら、ひょっとすれば私の手かもしれない。」——「君の手? 何を言うんだ君は?」——「私がさっき二階に昇る前に通ったら、私の手がドアの握りを掴《つか》んでいたわ。手だけよ。私が通ったら、その手は直に消えてしまったわ。」——「手だけってのはどういうんだ?」——「手だけよ。足だけのこともあるわ。足だけが階段を下りて行くの。背中だけのこともある。背中だけ私に見えるのよ。」——「|それ《ヽヽ》は、君の背中なのか?」と彼はひどい寒気を覚えながら問い返したが、彼女は「そうよ、私のよ、」と平然と言い、「しかしこの私じゃない、」と附け足した。——「そんなことはよくあるのかい?」——「ええこの頃。でもまだ大丈夫。」——「何が?」——「まだ手とか足とかいうだけで、そっくり私の姿を見たわけじゃないんだから。」そして彼は、「それは君が夢を見たんだよ、幻想だよ、」と慌てて打消したが、しかしその幻想(というより幻覚と呼ぶべきもの)が事件と何等《なんら》かの関係を持っていることに、彼は(医者として)当然気がつくべきだったのだ。それと殆《ほとん》ど同じ頃、やはり事件の少し前頃に、彼女が意外に平静な声で自分の心の中を覗《のぞ》き込むように、子供の頃の思い出を話し始めたことがある。「子供の頃、私たちは明るい港町に住んでいた。私は時々、そっと一人で抜け出し、山の手の方の白い道を歩いて行き、海が銀色に光っているのを見るのがとても好きだった。暖かい霞《かす》んだような港の中に大きな汽船が何|艘《そう》も碇泊《ていはく》し、工場の煙突やドックや起重機なんかが見えた。私は夢中になってその道をどんどん歩いて行くのだけど、すると急に帰り途が分らなくなってしまう。急に不安になる。そうして泣きたいような気持になると、私はわざと眼をつぶるの。眼の前が真暗になり、今まで見えていた港や汽船や海などが見えなくなる。そうするとね、その真暗な視野の中に明るい光の玉のようなものが浮んで来る。それが幾つも数がふえ、形がひろがり、汽船のようなもの、風見《かざみ》のようなもの、塔のようなものに変って行き、海のように一面にきらきらと輝き、私が今迄肉眼で見ていた景色よりも一層|綺麗《きれい》な形と色とを持って、それが刻々に変化して行くのよ。それと同時に、迷児《まいご》になってしまった不安が消えてしまい、とても幸福な、充《み》ち足りた気持になる。そういうことがだんだんに癖になり、もういつでも、夜眠られない時とか、昼間でも一人きりで寂しくてならない時などに、私は眼をつぶって視野の中に明るい光の玉を見て慰めていたものだった。」——「いつでもそういうことが出来たのかい?」と彼は訊いてみる。——「いいえ、それはとても小さな時のことよ。それからも、時々は見えていたけれど、だんだんに駄目になって行ったわ。あんな幸福な、明るい気持になることはもう出来ないのね。」そして彼は、彼女が例によって「私は幸福じゃない」と言い出すのかと心構えをしていたのだが、彼女は次第に声を低くし、眼を閉じ、悲しげな微笑の中に口を噤《つぐ》んでしまった。そして彼は何となく気にかかりながらそのことを忘れてしまい、そして事件は不意に起ったのだ。  彼は眼を開き、疎《まばら》な乗客たちの頭を客車のところどころに認めて、自分が眠っていたのでないことを確めたが、しかし彼の眼を開かせたものは客車の向うのドアからはいって来た車掌の、検札を告げる声だったらしい。重たい空気が揺れ、眠っていた男が急に起された時の奇妙な呟《つぶや》きがそこここで聞え、欠伸《あくび》をしている男もいれば、急いで内ポケットを探っている男もいる。乗客の中に女の数は少く、どの乗客の顔も疲れ倦《う》んで重たい目蓋《まぶた》をしていたが、それが一層空気を濁って感じさせた。彼は切符を出して手に持ったまま、次第にこちらへ近づきつつある車掌の姿を見ていた。それと共に今迄うとうとしながら考えていたことの正体を忘れてしまったが、それが何か彼女(妻)に関することだったという記憶は残っていた。 「弥果《いやはて》ですね、到着は零時三十五分です。」  車掌は彼の切符にぱちんと鋏《はさみ》を入れて機械的にそう呟き、彼の後ろの座席の方へ足を運んで行った。彼は腕時計を見てあとまだ一時間ばかりあることを確め、煙草を出して火をつけた。がたごという車輪の音、窓《まど》硝子《ガラス》を打つ雨しぶきが単調に響き、乗客たちはまた思い思いの楽な姿勢になってうたた寝を始めた。彼女は駅に迎えに来ているだろうか、と彼の意識はまたそこへ戻った。きっと来ているだろう、お母さんはもう眠っている筈だから、きっと抜け出して来るだろう。そして彼はヒステリイを起して喚《わめ》いている時の彼女の顔と、寂しげに訴えるような眼をして彼を見ている時の彼女の顔とを、同時に思い浮べた。「お母さんはスパイよ、あなたもその味方よ、敵よ。みんなして私を苛《いじ》めるのよ。」それと同時に、「私は怖《こわ》いの、とても怖いの。」それが同じ一人の女の顔だとは思えないような。どうしてこんなことになったのだろう、昔はあんなに幸福だったのに。しかしその昔がいつなのか、彼にははっきりした線を引くことが出来なかった。結婚する前は幸福だった。結婚してからもずっと幸福だった。彼女が流産した時には、彼の母も大事に彼女を介抱したし、彼女の方もそれを感謝していたものだ。そのあとは? 子供が出来ないからそれで彼女は不幸になったのか。母との溝《みぞ》が次第に深まったからなのか。それから事件。しかし事件のあとでも、彼女が幸福そうな顔をしていることもあった筈だ。寧《むし》ろ事件のために、彼女はそれから平静になったようなところもあったのだ。  煙草の火はまた途中で消えてしまった。この煙草は湿っている。がたんごとんという音が、単調に、睡《ねむ》たげに響く。それで僕の役割は一体どういうところにあったのか、と彼は自分に訊いた。自分のことを考えるのは厭なものだ。これは彼女だけの問題、心理的にも医学的にも彼女だけに原因のある問題なのだ。恩師もそういう意見だった。僕の愛情とか僕の性格とか僕の現在の生活とかいうものと、何の関係もない筈だ。ひょっとしたら、彼女はただの一時的な神経衰弱かもしれない。がたんごとんという単調な響き。硝子窓の外の夜と雨。彼女はきっと迎えに来ているだろう。しかし彼女は病気なのだ、彼女は事件の前も事件の後も、ずっと病気なのだ。ただ僕が(医者である僕が)そして外聞を重んじる母が、それを信じようとしないでいるだけなのだ。親からも見放されている。二本の蒼白《あおじろ》いレールの上に降る雨。がたんごとんという単調な音。「私、怖いの。」  彼は次第に睡気を感じ、あと一時間ばかりで着くのだから眠り込んではならないと自分に言い聞かせたが、その時になって初めて、一番幸福だった頃の自分と彼女との姿を、その初めての出会いがやはりこの汽車の中、大学のある都市から寂代へ行くこの汽車の中だったことを思い出し、その頃の彼女の若々しい顔と神秘的な眼指《まなざし》とを視野の中に見ることが出来、そしてそれを今迄、何時間もこの汽車の中で揺られていながら一度も思い出さなかった、或いは思い出そうとしなかったことを、急に不思議に感じ始めた。しかしそれと共に睡気は一層|甚《はなはだ》しくなり、ねばねばした潮水のようなものが彼の手や足に絡《から》みつき、仄《ほの》かな水面の明るみのような現在の意識が次第に遠く遠ざかって、彼の身体は暗い海の底の方へと引き込まれるように沈んで行った。    三 彼と彼女  沢村|駿太郎《しゆんたろう》が初めて黒住|多美《たみ》に会ったのは、その日から数えて三年と十カ月ほど前の、押しつまった十二月の暮だった。彼は大学のある都市から弥果《いやはて》に向かう満員の列車の座席に腰を下して、自分のすぐ隣の、窓と反対の通路側に、若い娘がじっと眼を閉じているのを見た。歳末に帰省する学生たちや内地からの旅行客やスキイを持った若い男女や、とにかく溢《あふ》れるばかりの乗客を満載した急行列車で、客車の中にはスチームのむんむんする熱気と共に、皮と人肌《ひとはだ》と飲食物の饐《す》えたような臭《にお》いが籠《こも》り、二重《にじゆう》硝子《ガラス》の窓は固く閉ざされていたから、隣の娘が気分の悪そうな様子をしていたのも無理はなかった。しかし彼は薄いドイツ語のパンフレットを熱心に読んでいたから、その娘の印象はただ女子学生が帰省するのだろう位のぼんやりしたものにすぎず、車掌が検札に来て、その切符に鋏《はさみ》を入れながら「寂代《さびしろ》は十四時二十分着です、」と言った時にも、その横顔を眺《なが》めて綺麗《きれい》な人だなとぼんやり考えただけにすぎなかった。  しかし列車がいよいよ寂代の駅に着き、乗客がどやどやと席を立ったり動いたりし、「寂代——さびしろ、五分間停車、」とプラットフォームから駅員のアナウンスの声が聞えて来、そして新しい乗客が客車の中に乗り込んで来た時にも、駿太郎の隣に坐った娘は、やはり眼を閉じたまま身動きもしなかったから、彼は急に不安を感じ始めてその横顔を窺《うかが》っていたが、遂に決心して彼女に呼び掛けた。 「此処《ここ》は寂代ですが、あなたは此処で降りるんじゃないんですか?」  そして彼は初めて正面から、彼の方に起したその顔を見た。沈んだ色をした大きな瞳《ひとみ》の底から、何か神秘的な光が素早く走り、顔全体の持つ若々しい魅力は彼を惹《ひ》きつけたが、唇が動いただけで声はよく聞き取れなかった。 「気分でも悪いんですか?」  そして、僕は医者ですけどと余計なことを口走りそうになり、相手が前よりもやや大きな声で繰返すのを聞いた。 「でも私は降りたくないんです。」  既に発車を告げるベルの音がりんりんと鳴り始めていたが、駿太郎はそれまで全然意識になかった行為を始めている自分に驚きながら、立ち上って「これですね?」と相手の小さなボストンバッグを網棚《あみだな》から下し、ついでに自分の革鞄《かわかばん》も手に取り「さあ急いで、」とせき立てた。娘は大きく眼を見開いていたが、両手に荷物を持った彼の後からゆっくりと身体《からだ》を動かし、また満員になってしまった通路を掻《か》き分けるようにしてプラットフォームへ下りた。それと同時に、ベルは鳴り止《や》み、急行列車は発車した。 「危いところでしたね、」と駿太郎は笑いながら言ったが、改札口の方に並んで歩いて行きながら娘は口を利《き》かなかった。ただ改札口で、娘は切符を渡したのに彼の方は途中下車ですと言って切符をまた仕舞い込んだから、「此処でお降りになるんじゃなかったんですの?」と娘は眼を見張って彼に訊いた。 「弥果《いやはて》まで行くんです。なに一汽車おくらせたって大したことはありませんよ。」  彼が荷物を両手に、先に立って停車場を出て行こうとした時に、娘は彼を呼びとめ、「休みません?」と誘い、二人は駅の構内にある小さな喫茶店にはいったが、そこで初めて娘は彼に少しばかり微笑を見せた。 「気分はもういいんですか? どちらへいらっしゃるんです?」  駿太郎はしょっちゅう喋《しやべ》っていなければ気が済まないほど慌てていた。もともと内気な人間が見知らぬ娘とこうしてお茶を飲みながら話すことは大冒険だという自覚があったし、ほんの十分ほど前までは夢にも考えていないことが起っていたのだ。しかし相手の方は眼を伏せたままぽつんぽつんと返事をするだけで、市内に自分の家がありそこへ帰ることは分ったが、なぜ帰りたくないのかは説明してもらえなかった。そこで彼は自分の名刺を出して、大学病院内科|病棟《びようとう》の研究員である身分と、沢村駿太郎という名前とを相手に教え、もっぱら自分のことばかり喋ったが、その間もこの小さな冒険が嬉《うれ》しくて快活な微笑を見せていた。相手の名前は黒住多美だった。その家まで送って行くつもりでいたのに、多美の方が固辞したので彼は途中で別れ、市内にある大学時代の友人の家に立ち寄って二時間ばかり暇を潰《つぶ》し、次の急行列車に乗って旅行を続けた。そして弥果に着くまでの間に、このささやかなロマンスがどういう後日譚《ごじつたん》を持つか空想を恣《ほしいまま》にしたが、しかし或いは旅の途中の単なる出来事として、彼も忘れ相手の娘も忘れてしまう可能性も大いにあった。  駿太郎は正月の休みを弥果の父の医院で送った。父も母も大変|悦《よろこ》んで、特に父は彼から新しい医学上の発見や研究を聞くのを愉《たの》しみにしていたが、父は久しく胆石を患《わずら》っていて長くは持たないことが自分にも分っていたために、めっきり老《ふ》けた顔を綻《ほころ》ばせたまま息子《むすこ》をじっと見詰めることが多かった。父は駿太郎が一人前になった以上、内心では此処へ戻って自分の手助けをしてくれることを望んでいないわけではなかった。母の方はしきりにそれをすすめたのだが、頑固《がんこ》な老人は、自分はまだ働けるし、駿太郎が大学の方で仕込んでもらえるのなら、まだまだ勉強してからでも遅くはないと言い張って聞かなかった。駿太郎にしてみても、大学病院のある都会でのんきに暮す方が、父と一緒に田舎町《いなかまち》の小さな医院の責任を持つよりもよっぽど気楽だったから、父の言葉をいいことにして、病院の寄宿舎で不自由しながら暮していた。この年の正月休みに、両親はしきりに若い女の写真を見せて彼の気を惹いたが、息子の方はどの結婚話にもさっぱり乗気ではなかった。  休暇が終って彼はまた病院の寄宿舎に戻り、漸《ようや》く汽車の中で会った娘のことも忘れかけていた頃、黒住多美が彼に電話を掛けて来た。駿太郎は悦んで会う約束をし、宿直明けの日の午後、盛り場の喫茶店で再会した。その日多美は元気がよくて、黒い厚手のスエーターに焦茶の襟巻《えりまき》をしたそのスラックス姿が少女のように見えた。多美はこの都市に住んでいる姉のところに寄宿して洋裁学校に通っていると言った。家庭的なことはあまり話したがらなかったが、寂代にいる父は製粉会社の工場長を勤め、そこには義理の母と妹たちがいるらしかった。しかし現に世話になっている姉の家も夫婦に子供が二人もいて手狭だったし、多美があまり幸福そうでないことはその重い口振りからでも察せられた。  その年の春に掛けて、二人は一緒にカーニヴァルを見に行ったりスケートに行ったりした。駿太郎の方はあまり暇がなくてそうそう会ってばかりはいられなかったが、勉強熱心で珍しく女友達もいず、看護婦と附合うことに気の進まなかった彼にとって、多美がたとえ快活な性質ではなかったとしても、遊び友達にはちょうど手頃な相手だった。看護婦たちが電話を取次ぎながら変な眼くばせをし、沢村先生お嬉しそうなどと蔭口《かげぐち》を利《き》いているのを知っても、まんざら厭な気持はしなかった。  次第に雪が解け空気が暖くなり、鰊《にしん》の来る季節になって、駿太郎の父の容態が急に悪くなった。彼は急いで弥果に帰ったが、この田舎町では充分に手当をすることも出来ず、といって大学病院まで汽車に乗せて運ぶことも無理だった。結局父は死ぬ前に息子に脈を診《み》てもらうために彼を呼び寄せたようなものだった。こうして彼は目まぐるしい現実の中で、父の死とその後始末とに忙殺され、それに続いて医院の経営にもさっそく当らねばならず、大学病院の研究員をやめる手続きや税金の計算や医院の事務や彼の父の診ていた患者たちのカルテの勉強などに忙しい思いをした。北国の春という一年で最も愉しい季節なのに、彼は新しい生活に追われて、次第に日が長くなり春が過ぎ去って夏が来る頃まで、夢中になって働いた。  その間にも駿太郎は時々多美に手紙を書いていたが、夏の或る日、その多美が不意に彼の医院に現れた。午後の往診の間に暇を見つけて彼は二階の自分の居間で彼女と会ったが、彼女の方はただ遊びに来たというだけで、格別思いつめて彼のところに逃げて来たのでもないらしかった。しかし彼は内心ではロマンチックな空想を愉しみはするものの、実際にそれが実現したとなると途方に暮れるような男だった。彼は自分が忙しくて前のように遊びに行けないのを残念がったが、もっと北の方にも行ってみるという多美の旅行プランに、地図を持ち出して細かい注意などを与え始めた。駿太郎の母はこの遠くから来た女客に最初はびっくりしていたようだったが、次第に打解けて来ると彼女を夕食に引き留め、ついでに夜も泊るようにすすめた。多美は素直に承知してその晩は三人でお喋りをした。一番よく口を利くのは母でそれも殆《ほとん》どが息子の自慢だった。多美はしごく大人しかったがその大人しいのが母の気に入ったらしいので、駿太郎もにやにやして聞いていた。  あくる日、多美は旅行を続けることにして弥果よりも更に北方へ出掛けて行ったが帰りにまた立ち寄る約束が二人の間に交《かわ》された。帰りに寄った日は日曜日だったので、二人は海岸の方に散歩に行き、取りとめのない話などをした。多美は冬が大嫌《だいきら》いだと言って、北国の夏の短いのを惜しんだが、駿太郎は冬の方がよっぽど北国らしい風情《ふぜい》があると主張し、彼女の行った同じコースを彼が学生時代に試みた時の思い出などを語った。多美はもともと内地の育ちで戦争中に一家が寂代に疎開したのだった。駿太郎は弥果で生れそして育っていたから、何かにつけてこの辺の風土の肩を持った。二人は仲のよい喧嘩《けんか》をした。  三年前のその秋から冬にかけて、二人はたびたび手紙を交換し、多美はその頃姉のところから寂代の父の家に戻ったが、その生活は大して変りばえのするものではないらしかった。そして駿太郎の中のロマンチックなものがまたうごめき出し、彼は幾晩も考えた末に遂に母に切り出した。母は半ば驚いたような半ば予期していたような顔をし、「何ごともお前次第だけれど、よく調べてからにしておくれ、」と言った。今迄どんな結婚話にも乗って来たことのない息子の自発的意志であるだけに、母としては非の打ちようもなかった。「少し陰気なたちのようだね、」と言う位だった。  年が明けた正月の休みに、駿太郎は寂代へ出掛けて行き、大学時代の友人のいる病院を訪《たず》ねた。その友人の父親はただの院長というよりこの町での顔役の一人で、彼はその辺から多美の父親やその家族の事情を手繰《たぐ》り出してもらい、ついでに向うに話を通じる時の橋渡しもいずれ頼みたいと申し入れた。院長は磊落《らいらく》な人で二つ返事で引受け、彼の友人は、「この町の美人を一人盗むつもりかね、」とからかった。そして彼はこそこそするのは厭だったので、多美を呼び出して会うこともせず、直に弥果に帰った。  調査の模様は友人からしらせて来たし、一方彼の母は自分でも別に調査を興信所に依頼したらしかったが、その結果は何《いず》れも平凡なものだった。黒住多美の父は関西の人間で長い間電気会社の技師を勤め、早く結婚して娘二人を得たが、多美が生れたあとで妻を喪《うしな》い、再婚した。新しい妻には一男二女が生れた。戦時中に疎開を兼ねて寂代で新しい職場に就《つ》いた。多美の実の姉は既に結婚し多美の方は寂代で高等学校を終えたが成績は悪くはなかった。性質は内気ではにかみ屋のために友達らしい友達はいなかった。姉になついていて、卒業してから姉の結婚先に寄宿して洋裁学校に通っていたが、長続きしなかった。姉の良人《おつと》は勤勉なサラリーマンであり、関西には義母の実家が商業を営んでいた。多美たちの生母については確なことはよく分らず、親戚《しんせき》関係も不明だった。しかし特に血統の上でこれという難点もない模様だった。  駿太郎にとってこの調査は形式的なものにすぎず、母にとっては更に関西方面にまで手を廻して調べるには費用の点でも大変だという気があったから、結局それは中途|半端《はんぱ》なままで終った。そして駿太郎は友人に手紙を出し、友人の父親を通じて先方に話をすすめてもらうことにした。その結果、彼は二月の中ごろ、つまりその日から二年と七カ月ほど前に、初めて寂代に多美の両親を訪問した。  黒住家の印象は彼にとってあまり愉快ではなかった。というのは、この一家の中で多美がどんな位置を占めているかが、家族の者の態度からも直に読み取れたから。従ってそれはまた多美を嫁に出すことを両親が歓迎していることを意味していた。彼にとってかえって悦ぶべきことかもしれなかった。 「私何だか怖いよう。どうせ家にいたって邪魔者あつかいされて、決して今のままがいいと思うわけじゃないんです。でも自分が変化するのが、どういうふうになって行くのかって自分の行末を想像することが、私には出来ないんです。自分が今のままで写真に写されたみたいにじっと停止してしまえばいいって、私時々考えるんです。その現在が幸福なわけでもないのに。」 「僕がきっと幸福にしてあげる。」  駿太郎はそう月並なことを言ったが、その約束を実現することは極《きわ》めて簡単なように見えた。黒住家の方で異存のないことが分ったので、駿太郎はその後二三度寂代へ通って、仲人役《なこうどやく》の友人の父親とも会い、黒住家をも訪ね、万事|手筈《てはず》を定めた。彼の父の一周忌が済んだあと、五月に寂代で内輪の披露をし、続いて弥果で式を挙げた。それが二年と六カ月ほど前のことだった。  二人は駿太郎が学生時代に一度行ったことのある山奥の湖やアイヌ部落などを一周するコースを選んで、新婚旅行に出掛けた。駿太郎には長い間自分の医院を留守にすることが許されなかったから、それは駈足《かけあし》の旅行だったが、多美は初めて見る風物を珍しがった。少くとも駿太郎には、多美が生き生きした感動に眼を光らせているように見えた。時間は彼女にとって確実に現在から未来に向って流れていた。  そして新しい生活が始まり、変化はごく徐々に来た。駿太郎にとって、いつから多美の眼の色が鈍くなり、いつから時間の流れが遅くなったのか、はっきり指摘することが出来なかった。沢村医院は父の代の時よりも繁昌していたし、彼は午前中はひっ切りなしに患者と応対し、午後から夜にかけては往診に出掛けて行くので、多美が新しい環境にどういうふうに馴《な》れつつあるのか、正確に見定めるだけの余裕がなかった。診察室には看護婦がいたし薬局には薬剤師がいた。そしてお勝手むきのことは依然として母が采配《さいはい》を振っていたから、多美は大して苦労をする必要もなく幸福だろうと彼は信じていた。多美が良人《おつと》に甘えられる時間は、ただ夜になって二階の寝室へ二人が引き上げてからしかなかったが、その甘美な時間が昼の間も持続しているように、駿太郎は錯覚していた。それに多美はもともと我慢強くて辛《つら》いことでも口に出さない性質だったし、口数も少かった。しかし何かが少しずつ変化していて、彼女が結婚する以前よりも一層陰気な顔をしているのに駿太郎はぼんやりと気がついていた。  その日からちょうど二年ほど前、結婚してから五カ月目の秋の終り頃、母が街で多美に会い、多美の方は出掛けた覚えがないと言い張る小さな出来事が起った。それは母の勘違いだったのかもしれず、或いは多美がその記憶を喪《うしな》っていてのことかもしれなかった。しかし何故《なぜ》ともなくそれが駿太郎には気味の悪い予感のように思われた。そして厳《きび》しい冬が訪れた。  多美は冬が嫌《きら》いだと言ったことがあったが、寒さに対して殆ど本能的な不安と恐怖とを抱《いだ》いていた。弥果は寂代よりも北に位していたから、十二月になると零下二十度の日が幾日も続いた。多美はルンペンストーブの前にしがみついて、陰鬱《いんうつ》な表情で赤く熱したストーブを見詰めていた。彼女は外出を厭がり、正月の休みに寂代の実家を訪問しようという駿太郎の誘いにも応じなかった。毛糸を編んだり洋裁をしたり本を読んだりして、良人と母とが四方山《よもやま》の話をするのを側で黙って聞いていた。夕食のあと、北国では夜が長かったが、彼女は話題に乏しかった。  その冬が過ぎて春になると、多美はまた元気になり母と一緒に買物などにも出掛けるようになった。その頃から駿太郎は時々多美の話の中に彼にとって理解の出来ないような節があるのに気がついた。彼女は夜中に魘《うな》されてしばしば彼の目を覚《さ》まさせた。しかし彼女が妊娠したことを知ったので、彼はすべての原因をそのせいにした。彼女は神経過敏になり、唇をぴくぴくさせる癖とか、じっと一つの物を見詰める癖とかが昂《こう》じ、しばしば怯《おび》えた。彼女の中で、ひどく赤ん坊を欲しがる気持と、出産への恐怖(というより自分の現在の状態が変化することへの恐怖)とが、矛盾しつつ戦っている様子だった。駿太郎はそういう彼女を可憐《かれん》に思った。初めに会った時の汽車の中で、「私は降りたくないんです、」と言った彼女のことを思い出した。  その春から夏にかけて、即《すなわ》ち一年半から一年と二カ月ばかり前になる間の短い期間は、沢村家の人々にとって幸福な月日だった。母もすっかりうちとけ、精一ぱい多美の機嫌《きげん》を取って彼女を大事にした。恐らくは生れるべき子供のことで一番夢中になっていたのは、この老いた母だったに違いない。  しかしこの平和も長くは続かなかった。或る日、多美は階段から滑り落ちて流産した。「なんて不注意なんだ、」と思わず怒鳴り、駿太郎はすぐそんなことを言ってはいけないと自制したが、それは彼女の心の底に深い傷を与えたに違いなかった。「階段の途中まで来た時に眩暈《めまい》がした、」と彼女は言ったが、駿太郎の顔を何の感情もない仮面のような表情でじっと見返していた。未来がそこで死んでしまったような表情だった。そしてそれは、その日から数えて一年と二カ月ほど前の、この土地にしてはかなり暑い夏の日の午後だった。  秋から冬にかけて時間は単調にのろのろと進行した。多美は健康が回復してからも一層|臆病《おくびよう》になり、自分の殻の中に閉じ籠《こも》ってしまった。冬は長くて厳しく、彼女は殆ど口を利《き》かなかった。ただ時々|発作《ほつさ》のように、駿太郎に向って彼女の見た夢の中の出来事を物語った。しかしその夢は、或いは、彼女にとっての現実だったのかもしれなかった。そして駿太郎には彼女の夢のひろがりの全域を眺望《ちようぼう》することが出来なかった。彼女は一種の持続的なメランコリイの中に沈んでいるのだと彼は思った。彼女の過去にどういうことがあったのか、彼女の幼時体験、生母や姉や継母や妹たちとの間に嘗《かつ》て起ったこと、そういう材料が不足し、多美はそれを告げようとしなかったので、駿太郎は結局多美の精神史を知ることが出来ず、彼女の現在からその過去を類推するばかりだった。人間は、たとえ妻であっても、その精神を了解することが出来ないというのが彼の結論だった。それに、何のために了解する必要があろう。日常に営まれる生の中で、何を思い何を考えているのか正確に理解し得ないとしても、人は無事に暮して行くことが出来るのだ。  それに一体どういう徴候によって人は他人の幸福を測定するのだろうか、とその冬の間にしばしば駿太郎は考えた。或る人間が快活でありお喋りでありよく笑い機嫌良くしていれば、果して幸福なのだろうか。とすれば多美は少しも幸福であるとは言えなかった。しかし彼女を不幸だと極《き》めつけることは(しばしば彼女はそう言明したが)早計のようにも思われた。社会的な身分と経済的な満足と暖かい家庭との中にあり、良人から愛され、大抵の我儘《わがまま》も聞いてもらえる若い妻が、不幸だと言って通るだろうか。不幸というのは単なる気分的なもので、次第に彼女も現在の結婚生活が以前の娘時代よりも遥かに幸福だと暁《さと》るに違いない。それが彼の希望的観測だった。要するに彼は、多美の陰鬱そうな表情や気味の悪い夢の話や完全な忘我状態などの徴候を、本気に考えてはいなかったのだ。そこへ青天の霹靂《へきれき》のように事件が起った。  その日から数えて七カ月ほど前の、春の浅い日のことだった。雪も次第に解けたし、貯蔵してある馬鈴薯《ばれいしよ》も少くなり、石炭も眼に見えて減って行くが、しかし春の来るのが間近になって人々の顔に生気が蘇《よみがえ》り、多美も元気よく働くような日が続き、そして或る朝、彼女は眠ったまま起きようとしなかった。駿太郎はそれには馴れていたが、多美があまりにも静かに寝ているし顔色もひどく冴《さ》えなかったので、声を掛けて揺すぶってみた。それでも何の反応もなかったから、つい機械的に目蓋《まぶた》を見、脈を取って、それがただの睡《ねむ》りではないことに気がついた。彼は慌てるなと自分に言い聞かせ、看護婦を呼んで内密に胃洗滌《いせんじよう》を施した。そして母を呼んで打ち明けた。 「しかしどうしてだろう? 私は何も気がつかなかったけど。何か書いたものでもあったかい?」  母はおろおろして眼に涙を溜《た》めたまま彼に縋《すが》りついたが、息子《むすこ》の方も原因らしいものに心当りはなかった。多美は昏々《こんこん》と眠り続けたが手早く処置したためにどうやら危機を脱したようだった。遺書らしいものは何もなかった。彼女はその晩になって正気づき、更にまたぐっすりと眠った。翌日になってやっと回復したが、駿太郎はいたいたしげな彼女の様子に原因を問いただすだけの勇気を失ってしまった。数日後にさりげなく彼がそのことに触れると、彼女は何も覚えていないと答えた。彼は看護婦に厳重に口止めした。  事件というのはそれだけだった。後になって駿太郎は、あの時とことんまで原因を追求すべきだったと考えはしたが、しかしそれによってどこまで真実が掴《つか》めたかは自信がなかった。あれは催眠剤の飲みすぎだったのか。——眠れないからしたことか、死ぬためにしたことか。——催眠剤は薬局で盗んだのか、薬屋で買い溜めたのか。——お芝居だったのか、意志だったのか。——熟慮の結果か、一時の発作なのか。幾つもの疑問が彼の脳裏に浮んでは消えた。彼女は記憶を喪失し、事件は不可解なまま残された。  しかしこのことのために、駿太郎も母も腫物《はれもの》に触《さわ》るように多美を扱うことになった。多美は春が深まるにつれて元気づき、口数も多くなり買物などにも出掛けた。事件のことだけが一家の話題から完全に抹殺《まつさつ》され、駿太郎も次第に、あれは単に眠れないから薬を飲みすぎただけのことだと思うようになった。しかし彼も、母も、看護婦や薬剤師も、多美の行動にはさりげなく眼を光らせていた。診察室や薬局へ彼女が立ち寄ることは決して許されなかった。  夏が来て、多美は依然として平静な日常を送っていたし、母などは事件のためにかえって多美が良くなったと言って悦《よろこ》んでいたが、駿太郎はそうは思わなかった。というのは二階の寝室に引上げてからの多美の様子を母は知らなかったから。言うことがしばしば分裂し、駿太郎を敵と呼び、母と協力して彼女に対し陰謀をめぐらしていると指摘するかと思えば、ありもしない影に怯えて、ただ駿太郎だけが頼りだと言ったりした。彼の眼に見えないものが彼女には見えるらしかったが、彼女の最も恐れているのは、彼女自身の化身であるその手や足や背中などの身体《からだ》の一部分が、しょっちゅう彼女の身辺に附き纏《まと》っていることだった。それは単なる幻影なのか、それとも彼女の精神の内部が測りがたく病んでいるためなのか。彼も疑い母も疑っていながら、親子は容易にその問題に触れたがらなかった。秤《はかり》にかけた場合に日常の平和の方が外聞の悪い病気よりも遥かに大事だった。駿太郎はそれを彼女に寄せる自分の愛情のためだと思っていたし、母にとってはそれは息子への愛情のためだった。 「今度の学会の時に、大学に行ってよく相談して来ます。」  駿太郎は自分の精神医学的な能力の限界をよく知っていたし、また、自分の責任に於《おい》て物事を(特に妻の問題を)決定することに臆病だった。この町には専門医もいなかったし、十月に彼の母校で行われる学会の時に、ひそかに恩師に諮《はか》ることが一番妥当だと思われた。何と言っても、彼の思い過しなのかもしれなかった。母は溜息《ためいき》を吐《つ》き、複雑な表情をしたが、この老人は実は久しく途方に暮れていたのだ。沢村医院は弥果では信用のある評判のいい医院だったし、母はこれまで善良な良人と有能な息子とを持ち、平和に幸福に暮して来た。一体どこからこうした暗い影が射《さ》すようになったのだろう。  その日から数えて四日前に、駿太郎は大学のある都市へ出発した。それを聞かされた多美が理由もなく引き留めるのを、彼は子供をあやすように宥《なだ》めすかした。「大丈夫だよ、」と彼は言ったが、それは寧《むし》ろ自分自身に言い聞かせたようなものだった。彼の真の目的を知らないにも拘《かかわ》らず、多美は不安に怯えたような蒼《あお》ざめた表情をしていた。  彼は大学病院で久しぶりに嘗《かつ》ての恩師や同僚たちに挨拶《あいさつ》し、また顔見知りの看護婦たちからもその後のことを尋ねられたが、それは彼を悦ばせなかった。何か自分が重たい秘密を背負っているような気がした。学会は三日ほど続き、三日目の夜は懇親会だった。彼はその間の僅《わずか》の暇を偸《ぬす》んで、その方面の専門の先生に相談を持ち掛けた。先生は「よく調べてみなければ分らないが、とにかく直ちに入院させた方がいい、」と彼にすすめた。「なぜもっと早く手紙ででも相談しなかったのだ、」と彼を責めた。その晩の懇親会の席上で、彼は憮然《ぶぜん》として酒を飲む気分になれなかった。  その当日、駿太郎は午前の汽車に乗り、寂代で下車して多美の父親を訪ねた。そして今迄の事情を説明し、帰り次第多美を大学病院に入院させるつもりだと告げた。義父は彼が予想したほどに驚かず、「あいつはもともと少し変でしたよ、」などと言った。彼は夕食に引き止められたがその席では多美の話は誰もしなかった。  その日の夕刻、彼は寂代駅からまた汽車に乗った。汽車は空《す》いていて、彼は空席にゆっくり身体を延して半ば眠りながら弥果に向った。汽車が弥果に着いたのは真夜中を廻っていた。  駿太郎は鞄《かばん》をぶら下げて改札口に向った。彼と一緒に降りた乗客は数えるばかりだった。彼は眠そうな駅員に切符を渡すよりも先に、改札口に、彼の年老いた母が立っているのを見た。母は額の皺《しわ》を深く刻んだ顔を彼の方に近づけて、「お前」と呼んだ。停車場の外は吹き降りになっているらしく、烈《はげ》しい雨音が此処まで聞えて来た。    四 彼女(つづき)  この道はどこまでも果しがない。  街に通じるこの道はどこまでも果しがない。私はのろのろと歩いて行く。しかし私は現にいるこの一点の他には存在しない。道は遠い過去から無限の未来へと通じている。しかし私にとって時間はただこの私の立っている一点に於《おい》て止ってしまう。私の足がふくれ上り、私の靴が重たくなり、私は現在の上に身動きもせず立っている。そして私はのろのろと動く。私の過去は私にとって何の関係もない。私は思い出すことが出来る。しかし思い出したところで何の意味もない。現在に於て私が死んでいるのなら、過去に於ても私は死んでいたのだ。過去は平べったい物の集まりにすぎず、道のうしろの方に固まり合ったまま、私を呼ぶこともしない。しかし私は現在に於て死んでいるわけではない。私の足はのろのろと未来の方へ動いて行くから。  しかしお前には未来はない。  しかし私に目指《めざ》して行くべき未来はない。なぜなら私はそれを物として掌《てのひら》の上に置いてみることが出来ないから。私の掌の上には何一つない。私の頭の上には、夕焼の燃えるような空間が覆《おお》いかぶさっている。それは私自身のように赤々と燃えている。しかしそれは空虚で、本当の空間ではない。それはどこかへ行ってしまい、私はそれが不在であることを知っている。私の中の時間も、その流れて行くさらさらという音を私に聞かせてはくれない。時間も不在なのだ。どこかに、どこか遠いところに、北の外《はず》れの国に、私の本当の空間が空を覆い、私の本当の時間がさらさらと流れ、そしてもう一人の私が生きている筈だ。此処《ここ》にいる私は影なのだ。風に吹かれながら一つの影が歩いて行くのだ。  世界もまた影のように死んで行く。  私を包んだ世界も、今や影のようにゆっくりと死んで行く。もう未来はない。私はのろのろと歩く。私がさっき思い出したのは何だったろう。天を燃やしていた火事も次第に消えてしまった。今まで私の耳許で鳴っていた消防自動車のサイレンの音も聞えなくなる。私は街にはいる。火事は止《や》んだ。夕焼の空を押し潰《つぶ》して、もう一つの空間が次第に私の頭の上に下りて来る。しかしそれもまた空虚で、私の本当の空間ではない。街は焼けただれた灰の臭《にお》いを漂わせながら、空間の中に押し潰されている。空から舞い下りた天使たちが後片附に忙しい。天使なのか悪魔なのか。私は見られないようにこっそり歩く。看板が曲って柱は歪《ゆが》んでいる。家々は倒れかかっている。硝子窓《ガラスまど》はまだ燃え続けくすぶっている。子供が猿《さる》のようにおかしな顔をしている。彼等は私を狙《ねら》っている。  街は今に凍ってしまうだろう。  急がなければ、街は今に凍りついてしまうだろう。夜は陰謀と詐欺と欺瞞《ぎまん》とに充《み》ちている。焼け残った家が眼を光らせて私の通り過ぎるのを見ている。この街の人たちはみんなどこかへ行ってしまった。彼等はみんな死んでしまった。今いるのは別の空間から後始末にやって来た地獄の幽霊たちだ。もうすっかり世界が変ってしまった。私は家へ帰る。私は何かを探していたが、その探していたものを忘れてしまった。それは家の中にあるのかもしれない。家へ帰ってもあの人はいない。あの人は今日帰って来る。しかし今日という時間がいつのことなのか、私はそれを知ることが出来ない。その時間は私の掌の上にはない。私は多くの時間を道の上に落して来た。  それはあの女が持って行ったのだ。  それはあの女が、もう一人の私が、持って行ってしまったのだ。思い出とか、希望とか、愛とか、愉《たの》しみとか、感情とか、みんなあの女が私から偸《ぬす》んで行った。あの女は影のように私に附き纏《まと》い、決して姿を見せず私を嘲笑《あざわら》っている。あの女が私を殺し、世界を終らせるのだ。この街が死んでしまい、街の人々が死んでしまい、道の上に冷たい灰が残っているのも、あの女が此処を通って行ったしるしなのだ。何のために道の上で私に会ったのだろう。何のために私より先に此処を歩いて行ったのだろう。あの女が私の秘密をお母さんにみんな教えたのか。お母さんが私を憎み、あの人が私を疑い、街の人たちが私を嘲《あざけ》るのも、みんなあの女のせいなのか。あれは一体誰なのか。  それはもう一人のお前だ。  それがもう一人の私であることを、私は知っている。しかしもう一人の私とは誰だろう。私という存在が、此処にこうしているのに、私以外のところにどうしてそれは存在しているのだろう。あの女は私よりも先廻りして家へ帰った。だから沢村医院というこの文字はこんなにのたくっているのだし、柱は曲ってしまっているのだ。屋根が今にも崩《くず》れそうに傾いて、家全体が音を立てて崩れ落ちるのにあと五分とはかからないだろう。五分というのはどれだけの長さなのか。とにかく私は見つからないようにしなければならない。そして早くあの女を探し出さなければならない。私はそっと入口の戸を明ける。私はそっと薬局の前を通る。私はそっと階段に近づく。ああ私は呼び止められる。 「私ではありません、」と言え。 「私ではありません。」何が私ではないのか。とにかくどんどん私は二階へ昇る。誰も私のあとについては来ない。私は部屋にはいり、電燈を点《つ》ける。あの女はいない。私は部屋の中を探し廻る。此処には誰もいない。あの人もいない。あの人はまだ帰って来ない。しかし不在なのはあの人ではなく、私の中にある何かなのだ。部屋の中にも燻《くす》ぶった灰の臭《にお》いが漂っている。私は疲労した感じを持つ。私はこの部屋の中にいても、私に覆いかぶさって来る別の空間を感じている。私の中で秤《はかり》のようなものが次第に高まったり低まったりしている。私の中でブランコのように揺れているものが、私の身体を前に後ろに動かす。砂のようなものが私の中で零《こぼ》れ落ちる。  お前は何かを忘れている。  そうだ私は何かを忘れている。私がさっき思い出したのは何だったのか。確に私の掌の上に載っていて、その重みを私が量ったのは何だったのか。下で誰かが食事に呼んでいる。私は返事をしない。誰かがとんとんと階段を昇って来る。戸が開く。お母さんが私に呼び掛ける。「ええ欲しくないんです。」それを言ったのは私ではない。ひょっとするともう一人の私がこの部屋のどこかに隠れていて、代りに返事をしたのかもしれない。お母さんは私をじっと見詰める。あの人の帰りは夜中になるとお母さんは言う。夜中までにどれだけの時間が流れなければならないのか。私はそれまで待てるだろうか。それまでにどれだけ沢山のことが起るだろうか。  既に起ったことと同じことが起る。  既に起ったことと同じことがまた起るだろう。人はいつでも同じことを繰返すのだ。新しい事は何もない。お母さんは見えなくなる。階段を下りる跫音も聞えない。すべてのことは、階段を昇ったり下りたりするように、同じ繰返しなのだ。それでは私に何が起ったのだろう。私は思い出すことが恐ろしい。しかしそれはだんだんに近づいて来る。もう一人の私が街へ行く道の上でだんだんに私に近づいて来たように。その時も私は思い出したのだ。その時も私は怖くなったのだ。それは一つの恐ろしい剥《む》き出《だ》しの物、掌の上にあるように眼に見ることの出来るものだ。  一、二、三でお前は思い出す。  一、二、三。それは硫黄《いおう》の臭いと焼けるような蒸気とぎざぎざの岩だ。私は顫《ふる》えながら岩にしがみつき、湯気の間から熱した熔岩《ようがん》が私の足許に次第に高まって来るのを見ている。私の泣き叫ぶ声ももう嗄《か》れてしまった。私の手は岩から岩を伝わるうちに血だらけになっている。私の肌《はだ》は熱気に焼かれて焦げくさい。私は夢中になって岩から岩を攀《よ》じ登る。しかしどろどろの熔岩が、ぶつぶつと泡立《あわだ》ちながらすかさず私の足を追い掛けて来る。それは今にも私の足を掴《つか》みそうになる。私の身体《からだ》は傷だらけで、私の喘《あえ》ぐ息はせわしない。  それは地獄だ。  それが地獄だということを私は知っている。それは阿鼻叫喚の焦熱地獄だ。私はそれを絵で見た通りにこの眼で見ている。恐ろしいのは、それが絵でなく実際だということだ。実際に燃えている。実際に煮え滾《たぎ》っている。そしてどろどろの熔岩の中に、私は見る。  溺《おぼ》れているもう一人のお前を。  溺れているもう一人の私を。その私は裸の姿で熔岩の中で|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》き苦しんでいる。その手や足や髪や顔などが、熱した湯気の中から浮んだり沈んだりする。その光景を私は岩にしがみついて、目瞬《まばた》きもせずに見詰めている。私の掴んだ岩が崩れて転げ落ちる。私は危く別の岩の方に身体を動かす。私の手足はもう支える力を失っている。誰も助けには来ない。私を助けに来る人は誰もいない。私はひとりだ。私は今にもこの手を離すだろう。私は、私もまた、この煮え滾る熔岩の中に転げ落ちるだろう。  しかしそれは夢だ。  しかしそれは私の見た悪い夢だ。もしそれが夢ならば、夢は覚《さ》めるまでが恐ろしいというだけのことだ。しかし私が思い出すのは夢のことではない。それは夢が覚めたあとの長いぼんやりした時間だ。私はうっすらとした光に包まれて、じっと立っている。いや立っているとは言えない。私にはもう身体がない、手もなく足もなく胴体もなく、ただふわふわする魂が、暖かい、香ばしい空気の中に漂うだけ。私を取り囲む空間は無限にひろがり、時間は永遠に同じ時刻を指している。私はそれを思い出す。私は空虚で、ただ影のように空間に浮んでいる。それは私の死だ。  お前は一度死んだのだ。  そうだ私は一度死んだのだ。地獄を見ることが私の生の一部であるように、無限のひろがりの中にいることも私の生の一部なのだ。そして私は死んでいたのだ。死は夢ではなかったし、その中で私は幸福だった。私の魂は静かに休んでいた。  しかしそれはもう取り返せない。  しかしそれはもう取り返せない。私にはそれが恐ろしい。もしそれが取り返せれば、私の空間が私を取り巻き、私の時間が私の身体の中を流れるだろう。私ともう一人の私とが合体し、不在のものは発見されるだろう。私は私の唇に接吻《せつぷん》することが出来るだろう。  ではなぜ目覚めたのだ。  本当になぜ目覚めたのだろう。なぜこの生の中に甦《よみがえ》ったのだろう。なぜこのねばねばした、重苦しい生の流れが、私の身体に絡《から》みつくのだろう。どうしてあの人は私をそっと眠らせておいてくれなかったのだろう。  復讐《ふくしゆう》するためだ。  あの人は私に復讐するために、私を眠らせようとはしないのだ。いつでも私を目覚めさせ、私に地獄であるこの生を眺めさせていたいのだ。それは、私の意識は私のものなのに、あの人の意識を私が奪ってしまったからだ。私の世界は私のものなのに、あの人の世界に私が侵入したからだ。あの人は自分の意識を自分のままに動かすことが出来ず、私のためにその意識を奪われるのが口惜しいのだ。いつでもあの人の意識の中に、私が存在しているのが口惜しいのだ。  しかしお前の世界はお前のものだ。  しかし私の世界は私のものだ。あの人によって侵入されることは決してない。私の世界は私と共に終るのだ。どんな恐怖も、どんな不安も私ひとりのもので、あの人の手には触れられない。それがあの人には分らないのだ。  誰にも分らないだろう。  それは誰にも分らないだろう。私が怖《こわ》くて木の葉のように顫える時に、誰にもその恐怖は分らないだろう。私の内部の虚無がどんなに深いか。私の中の不在のものを追い求める時の、——私を襲う不安から声をあげて逃げようとする時の、その私の恐怖は誰にも分らないだろう。  だからお前を呼んでいるのだ。  誰が私を呼んでいるのか。私を呼ぶ者は誰もいない筈なのに。私は立ち上る。私は部屋の中を歩き廻る。勿論《もちろん》誰もいる筈はない。誰もいないことを私はよく知っている。しかし私の知らない何かがそこにある。  お前は階段を下りる。  私は階段を下りる。一段ずつ下りて行く。下りるにつれ恐怖が私の胸を締めつける。私はそれがなぜだか分らない。しかし階段を下りることは私には恐ろしい。  そしてお前は診察室の前へ行く。  そして私は診察室の前へ行く。そのドアはぴったりとしまっている。私はこのドアを明けることが出来ない。それは神聖な部屋だ。それはあの人だけのもので、決してはいってはいけないとあの人が言い、お母さんが言い、看護婦さんが言っている。私は決してそこへははいらない。  しかしお前はその中へはいる。  いいえ私は診察室へははいらない。それは私に禁じられている。私の世界が私のものであるように、この部屋はあの人のものなのだ。私ははいることが出来ない。  しかしお前は今思い出す。  私は何を思い出すだろう。  世界は既に終ったことを。  いいえ世界はまだ終ってはいない。私は此処にこうして立っている。私は両手で私の頬《ほお》を抑え、硝子《ガラス》の上に診察室と書かれたその文字を読む。  世界が終ったしるしにお前は私に会った筈だ。  誰が私に会ったのだろう。あの街に通じる一本の道の上で誰が私に会ったのだろう。  それは私だ。  私は私の後ろから来、私の先へ歩いて行った或る者に出会った、それが誰であるかを私は知っている。それが何を意味したかを私は知っている。  だからお前はこの診察室へはいるのだ。  今や私は知っている。この診察室の中で、誰が私を待つかを。何が私を待つかを。だから私はドアの冷たい握りを掴む。私はゆっくりとそれを廻す。私は中へはいる。  それはそこにある。  それはそこにある。私は見る。 [#地付き](昭和三十四年二月)   この作品は昭和四十七年十一月新潮文庫版が刊行された。