稲垣美晴 サンタクロースの秘密 目 次  サンタクロース学入門   まずは「比較サンタクロース学」から始めよう   なまけもの、風邪っぴきからサイケまで、�世界のサンタ�勢ぞろい!   めくるめく�フィンサンクリ�の世界!?  クリスマス・ケーキの「|甘さ《ヽヽ》の構造」   なぜクリスマスは十二月二十五日なのか?   ペコちゃんの向こうに�日本のクリスマス�が見える!   �日本のクリスマス�は不二家の歴史と共に展開した   清浄と友情のシンボル、�塩�の話  変身したサンタクロース   日本初のサンタさんは|裃《かみしも》つけたお殿様   プレゼントを配る�悪魔のニコラス�   ニコラス、宗教改革で失業する!   ドイツから北欧へ旅したサンタ   どこまで続く、サンタの変身劇  本物のサンタはこれだ!   フィンランドのサンタクロースは妻帯者   サンタクロースの手紙の仕事   小人たちのクリスマス準備  もみの木ダカラ、コウナッタ   もみの木はスサノオノミコトのどこの毛から!?   クリスマス・ツリーはエデンの園の命の木   上品な大人のツリーの飾り方  トナカイ※[#「○に秘」]報告   ガチョウがサンタのそりを引く?   本家本元ラップランドのトナカイの話   サンタさん出現時における音楽的効果  クリスマス前のうきうき気分   動物たちも楽しく過ごすクリスマス   トーマスの十字架   キャンドル&アドベント・カレンダーで待つクリスマス   アウトドア・オーナメントのテクニック  クリスマス・カードのすべて   世界で最初のクリスマス・カード   クリスマス・カード百珍   カードの切手をさかさまに貼るのはどんな意味?   �エンジェル�の語源は、神様の�お使い�  クリスマス料理を決定した豚の鼻   クリスマス・ディナーの特選レシピ   お約束のドリンク・メニュー   ピパルカックはおいしいジンジャー・クッキーのこと  フィンランドの小人伝説   フィンランドの小人たちトントゥ   トントゥの姿を見た人は不幸になる?   小人たちのクリスマス  クリスマスって、こうなのさ   フィンランドの「月」の意味   クリスマスを一人で過ごすほど残酷なことはない   礼拝の途中にグロギを飲むのがスウェーデン流?   フィンランドならキリストはサウナ生まれ?  クリスマスは思いっきり? ほどほどに?   世界�クリスマスの過ごし方�ア・ラ・カルト   常夏の国のクリスマス   神なき国のクリスマス  サンタさんのファッション感覚   サンタの服はナゼ赤い?   日本人だけがつく�真っ赤な�うそ   赤の時代はもう終わった!?  サンタさん、数字で分析します   変わりゆくクリスマス   プーロの中にはアーモンドを入れて   もみの木は一月六日の公現節に片付ける  誰も書かなかったサンタクロース   サンタクロースの姓名判断   天使の心のサンタ学   クリスマス・ソング・コレクション  文庫版あとがき [#改ページ]  サンタクロース学入門   まずは「比較サンタクロース学」から始めよう  私にも、天使のような心を持った子供時代があった。その頃すでに一度、サンタクロース学は入門済みなのだが、少々斜めから物事を見たり、裏へ回ってなーるほどと納得するようになった現在、つまり良くも悪くも大人になってしまった今、あえてもう一度サンタクロース学に挑戦してみようと思う。  なぜサンタクロースのことが急に気になりだしたかというと、フィンランドのサンタクロースの絵本を翻訳したからだ。それ以来、やたらとサンタクロースのことが気がかりで、ヘルシンキへ行くたびにいろいろ資料を集めてみた。ざっと目を通したところ、クリスマスというのは子供だけのお祭りではなく、ヨーロッパの歴史や民俗学では随分大事なことらしいのだ。それなら尚さら、もっともっといろいろな事が知りたい。天使の心で受けとめたサンタクロース学ではなく、線路のようにどこまでも続く現在の好奇心でさぐったサンタクロースを確かめたいと思っている。大人になった現在は、論理的思考力もいくらかある。今の私にできる方法で調べて、考察し、わかりやすく並べてみよう。「サンタさんからプレゼントもらってうれしい!」とだけ言っていた頃よりは、肺活量も多くなった大人として、もう少し息の長い表現もできるはずだ。  ただ、論文ではないのだから、右脳も左脳も疲れすぎないように、たまにはナンセンスな遊びも忘れないようにしたい。とにかく、私の人生における美学の三本の柱、豊かな感受性、鋭い分析力、的確な表現力がバランスよく働いてくれればいいと思っている。  まあ、難しい話はちょっとおあずけにして、まずは楽しい「比較サンタクロース学」から始めよう。最近はサンタクロースの絵本もたくさんあり、内容もバラエティに富んでいる。私は偕成社の編集部にお邪魔して、国の内外を問わず、サンタクロース、クリスマスに関する絵本、物語集をすべて見せていただいた。大人の目で見ても楽しいもの、大人の目で見るからこそニヤニヤしてしまうもの等、けっこうたくさんある。毎年クリスマスになると新しいサンタクロースの本が出るわけだから、オーソドックスな話の展開だけでは読者に飽きられる。  サンタクロースが煙突からはいってきて、もみの木のそばに、あるいは靴下の中に、良い子へのプレゼントを置いていく。朝、目がさめると、ほしかったおもちゃが。サンタさん、ありがとう……。このパターンはもう古い。  だからここでは特別なサンタクロースだけを取りあげてみたい。   なまけもの、風邪っぴきからサイケまで、�世界のサンタ�勢ぞろい!  まずは職務をおこたるサンタの話。『サンタおじさんのいねむり』(ルイーズ・ファチオ作、前田三恵子文、柿本幸造絵 偕成社)には、おなかがいっぱいになると眠くなるサンタが出てくる。プレゼントを配りに街へ出かける際、お弁当を途中で食べてはいけないと奥さんから注意される。ちなみに、サンタクロースには奥さんがいるという設定の本と、全くの一人暮しの場合があるから気をつけたい。この本では妻帯サンタになっている。髪型ポンパドール、藤色のワンピースがよく似合う若い奥さん。この奥さんが注意したにもかかわらず、街へ着く前にサンタはちょっと一きれのつもりが、ちょっとに終わらず、サンドイッチ全部をたいらげてしまい、かしの木によりかかってぐっすり。あまり気持よさそうに眠っているので、森の動物たちが手分けしてプレゼントを配る。目をさましたサンタは真っ青になるが、動物たちの親切に気づき涙ぐむ。  この作者は動物好きらしく、森の動物たちにプレゼントを配らせている。サンタは仕事を途中までしかしていない。  もっと極端な例は、『サンタのおくさんミセス・クロース』(磯田和一作・絵 佼成出版社)だ。このサンタは何もしない。クリスマス・イブにサンタが風邪をひき四〇度の熱を出す。奥さんは、 「だめだめ。あなたは今夜は寝てなきゃだめです」  と言うと、サンタの赤い服を着て、つけ|髭《ひげ》つけてそりに乗る。きもっ玉女サンタは、階段ですべってころんだり、煙突に大きなおしりがつっかえたりするが、無事お役目果して最後の家にたどりつく。が、大変。プレゼントの袋は空っぽ。そこで女サンタは腕を発揮する。 「ちょっと裁ほう箱をお借りしますよ……。この袋で素敵な服を作ってあげましょう」  この奥さんはなかなか庶民的で味がある。この人のバイタリティならサンタ稼業もつとまりそうだ。|逞《たくま》しいサンタの奥さんの例一というところだろう。  ちょっと気品をそなえたサンタの奥さんが出てくるのは、『クリスマスはサンタ・クロースのひげだらけ』(ロジャー・デュボアザン作・絵、岸田衿子訳 佑学社)だ。話も面白い。奥さんはグリーンのロングドレスを着ていて上流階級風。クリスマスが来ると街中に、にせの髭をつけたサンタがあふれる。本物のサンタはかんかんに怒り、 「この、本物のひげにちかって、にせのサンタをなくしてやるぞ! サンタ・クロースは、一人しかおらんぞ! このわしだけだ!」  と言うと、街に氾濫するにせのサンタを片端からやっつけることにする。ドア・マン、サンドイッチマン、クリスマス・ツリーを売っているお百姓、ロウ人形のサンタたちから全部髭をとってしまう。そりいっぱいに積んだ髭を、家に帰って奥さんに見せると、 「サンタ、あなたってひどい人」  と、しかられる。 「サンタ、あなたってどうかしてるわ。クリスマスになると、なぜたくさんのサンタが出てくるのか、考えなかったの?」  サンタはそこで考える。やっぱりサンタは一人よりたくさんいた方が、街中がクリスマスらしく楽しくなる。とってきた髭は全部持ち主に返すことにする。それ以来、 「サンタのかずが、ふえればふえる程、サンタ・クロースはうれしくなるのでした」  とさ。  サンタクロースにとって、赤い服、白い髭、トナカイのひくそりは三種の神器のようなものだから、白い髭だけをテーマにしてこういう話を展開させるのも面白い。このサンタも、奥さんにたしなめられると素直によく言うことをきく。  もう一つ、奥さんが登場するサンタの話を読んでみよう。ほるぷ出版の『クリスマスにはやっぱりサンタ』(ビル・ピート作、今江祥智訳)。ここに出てくる�サンタじいさま�は下町育ちだろうか、歯切れのいい口調で物を言う。今まで使っていた皮袋が古くなったのを見て、 「これはまあ、なんたるくたびれよう。よれよれのしわしわで、つぎはぎだらけのおんぼろときたもんだ」  と言うと、すぐさま、 「役立たずのおんぼろぶくろめ」  と、窓から放り出してしまう。そしてすぐ、�おかみさん�に「ナイロンかプラスティックをつかった、とびきりしゃれたやつ」をたのむ。この�おかみさん�は�サンタじいさま�よりだいぶ若い感じ。この庶民的な風貌なら、寅さん映画に抜擢されても少しもおかしくない。  流行に敏感なこのじいさまは、袋に合わせてそりまで、ぎとぎとするようなサイケ調に塗りかえる。原宿近辺ならかついで歩いてもおかしくなさそうな袋が出来上り、おもちゃをつめるが、ぽろぽろこぼれていくらも入らない。昔のおんぼろ袋の有難さに気づいたサンタじいさまは、袋探しに東へ西へ。やっと見つけて帰ってくると、もう「おかしげな小細工ぬき」にしようと、そりもまた赤く塗り替えた。そして、「ヤッホー」とかなんとか叫んでプレゼントを配りに家を飛び出す。いかにも元気者風。  このお話、サンタクロースが流行に左右されるというところがミソだ。  これまでのサンタクロースには奥さんがいて身の回りの世話をしてくれるが、一人暮しのサンタクロースも、もちろんいる。レイモンド・ブリッグズ作・絵の『さむがりやのサンタ』(すがはらひろくに訳 福音館書店)は一人暮しの老人の悲哀さえ感じさせる。  十二月二十四日、 「やれやれまたクリスマスか!」  と言って起き、朝のトイレでまず、 「冬はいやだよ、まったく!」  とぼやく。自分で入れた紅茶を飲みながら、天気予報を聞くと、 「北極地方は厳しい寒さに見舞われるでしょう」  とのこと。 「なんてこったい、いやな雪だよ、まったく!」  と嘆き節が続く。朝食もお弁当も自分で用意し、仕事に出かける。家に帰ってからもクリスマスのごちそうを用意するが、食べるのは一人きり。 「風呂より楽はなかりけり」  と、バスタブで暖まりながらパイプをくゆらす。  サンタ稼業は寒がりやには少々きつい仕事だと思うが、このサンタの性格を決定しているのは一人暮しだと思う。この本を見ていると、家の造りがあまりにも普通の家庭と似ているので、いくら絵本のサンタとはいえ、最近のヨーロッパ、特に福祉国家がかかえている老人の一人暮しの問題が頭に浮かんで、私などはドキリとする。  レイモンド・ブリッグズには、もう一冊サンタクロースの本がある。『サンタのたのしいなつやすみ』(こばやしただお訳 篠崎書林)のサンタも、寒がりやのサンタと同一人物らしい。 「夏なのに、この寒い自分の家にいるなんて、なんてこった!」  というわけで外国旅行を計画する。フランス、スコットランドを経て、最後にはラスベガスに行き、この世の楽園「ネロパレスホテル」でギャンブル、華やかなラインダンスに興じ、プールサイドでは美女のソフトドリンク・サービスを受ける。サンタクロースの夏休みだけを扱った本は、私の知る限りこれだけだ。ブリッグズのサンタクロースは内向的というか、自閉症気味の感じがする。サンタ稼業は、情緒が安定していて社交的な人に向いていると思うが、どうだろう。  いつもドジをふむサンタにも登場してもらおう。『ドタバタ・クリスマス』(スティーヴン・クロール作、トミー・デ・パオラ絵、岸田衿子訳 佑学社)のサンタは、そりから落ちて鼻をぶつけてしまうドジからはじまって、クリスマス・ツリーは倒す、ソファーはつぶす、シャンデリアは落とす、ドアは壊す、階段を踏みはずして壁の絵は落とすといった、連続ドジわざの名手だ。どこの家に行ってもこんなにドジをふんでいては、時間がかかりすぎてプレゼント配りが間に合わなくなるのではないかと、私は心配になってくるのだが……。  サンタクロースは煙突から入って来ることに相場が決っているが、そこに着目して話を展開させているのが、『まっくろサンタ』(としたかひろ作・絵 ポプラ社)だ。子供たちはクリスマスに備えて煙突掃除をするのに、たー君だけはしない。いよいよクリスマスの夜、サンタが煙突から入って来るが、たー君の家に来たサンタは体中真っ黒。どうしようかと悩んでいるうちに、子供たちから泥棒と間違えられてしまう。屋根からまっさかさまに滑り落ちると、サンタはすっかり雪だるま。子供たちがシャベルで雪をとると、中からすすのとれたサンタが出てきて、泥棒の容疑がはれる。私はこの本の表紙が気に入っている。たくさんのサンタがぎっしりと並んでいる中に、一人だけ真黒なサンタがいて面白い。 『まっくろサンタ』も日本人の作品だが、『ふたりのサンタおじいさん』(あまんきみこ文、田中槇子絵 偕成社)も日本人の手によるもの。この本は、日本語だからこそ生まれたといっていい。つまり�三太�という名前のおじいさんをサンタだと思って、うさぎのみみた君、みみよちゃん、みみこちゃん、みみすけ君が手紙を出す。三太おじいさんは、 「なんじゃ、こりゃ……」  と、びっくりするが、本当のサンタの手伝いをして、二人でプレゼントを配るという話。  スリル満点でゾクゾクするような話もある。土曜日の深夜、テレビ映画劇場で放映したらどうだろうと思わせるような、現代版スパイもの、『そりぬすみ大さくせん』(マイケル・フォアマン作、瀬田貞二訳 評論社)だ。 「大都会の一番高いビルのてっぺんに、世界でよりぬきの大泥棒たちが集まって、泥棒大作戦をたてました。サンタ・クロースをぬすもうというのです」  という第一ページには深夜の高層ビルが、続く二ページ目には、黒めがねの男たちが勢ぞろい。男の子たちが見たら、ゾクッとしそうな本だ。それにしても、サンタクロースが誘拐されてしまうのだから、物騒な世の中だ。  誘拐を目撃した世界中の子供の叫び声に負けて、泥棒たちは誘拐を断念し、プレゼント配りを助ける。 「サンタさん、また手伝わせてくれますかい? まことにけっこうでござんした」  と最後には意気投合。ただし、泥棒たちのうち三人は、サンタのお金をちょろまかして逃げたが……。この本の原作は一九六八年に出ている。当時としてもサンタクロースの扱いとしては画期的なものだったと思う。  大人が見て楽しいサンタクロースの本といったら、なんといっても評論社の出している『クリスマスさんとゆかいな仲間』(クリストファー・メイナード文、コリン・ホーキンズ絵、田村隆一訳)だ。この本ではサンタをクリスマスさんと呼んでいる。最後に、クリスマスさん情報集というページがついていて、クリスマスさんが煙突に入ろうとするところを運よく写した写真や、カメラを向けていることには気づかない様子で、煙突の中へまた戻るところをとらえた八ミリフィルム、玄関にすえられたリモコン・カメラがとらえた、月あかりにぼんやりと見えるクリスマスさんの写真等が掲載されている。私は、こういうことを真面目にやる大人が大好きだ。  サンタクロースが出てくる絵本というのは数限りなくあって、とてもではないけれど全部は紹介しきれない。『ティムとサンタクロース』(冨山房)は、クリスマス・ケーキの飾りになるサンタクロースがヒイラギの木の下に落ちているところから話が始まる。『サンタクロースのながいたび』(講談社)は、トナカイの綱が切れてしまい、幾多の困難を経て天使に助けられるお話。『ゆきだるまのふしぎなたび』(岩崎書店)では、サンタクロースがトラックに乗っている。『ポールのクリスマス・イブ』(佑学社)のサンタは、クリスマス・プレゼントを配る前に、十二月二十四日のポールの誕生パーティにやってくる。『サンタさんのわすれもの』(ポプラ社)のサンタは、帽子を忘れていく。『クリスマス・クリスマス』(ポプラ社)のように、サンタクロースに捧げる絵本もある。  すでにこれだけいろいろあると、これからのサンタクロースの本は、そうとう知恵をしぼらないと、話の展開に新しさが出てこないだろう。ただ唯一残された道は、サンタクロースの子供について言及することだろうか。彼に子供がいるという設定になっている本は見当らなかった。それとも、今年のクリスマスあたりには、そういう本が出現するのだろうか。  ここで、サンタクロースが出てこない本についても触れておこうと思う。『セシのポサダの日』(冨山房)と『クリスマスのつぼ』(ポプラ社)は共にメキシコのクリスマスの絵本だ。メキシコでは、クリスマスといっても雪もなければサンタクロースも出てこない。その代わり、お菓子やキャンディをたくさんつめた素焼きの壺のまわりに紙を張って、いろいろな形の張り子をつくり、それを吊るしてスイカ割りのように割る遊びを、メキシコの子供たちは楽しむらしい。この張り子はピニャタと呼ばれているそうだ。  私たちはクリスマスというと、すぐにホワイト・クリスマスと考えがちだが、雪の降らない、暖かい時期にクリスマスを迎える人たちもいるわけだ。そういえば、オーストラリア人のスサンナに、南半球のクリスマスは夏だから、サンタクロースは海水パンツをはいて来るのか、と言ったところ、彼女はおなかをかかえて笑いころげたことがあった。西サモアからもらったクリスマス・カードには、海辺のやしの木にパンツ一枚で寄りかかった人が、空に輝く星を指さしている絵がついている。このように薄着で祝うクリスマスとは、いったいどんな感じなのだろう。   めくるめく�フィンサンクリ�の世界!?  パンツの話はこれくらいにして、もう一度サンタクロースに戻ろう。そもそもアメリカでサンタクロースのイメージが定着したのは、十九世紀初めのクレメント・ムアの詩、A Visit From St. Nicholas(セント・ニコラスのおとずれ)によってだという。この詩は後に、The Night Before Christmas(クリスマスの前の晩)と呼ばれ、アメリカ中の子供たちから愛されるようになった。偕成社からはタシャ・チューダー絵、中村妙子訳で出ている。この詩にはいろいろな画家が絵を描いていて、アーサー・ラッカムの絵も有名だ。詩を書いたムア(一七七七〜一八六三)は、神学大学で聖書やギリシャ語、ヘブライ語を教えていた先生で、この詩は自分の子供のために書いたのだが、友人が「トロイ・センティネル」という新聞に投稿して以来、あちこちに転載されるようになったという。このサンタクロースは、みんなが寝静まった頃入って来るのだが、お父さんが起きていて小人のサンタを垣間見る。  この「クリスマスの前の晩」は、それまで親しまれていたイギリスの詩とは違い、アメリカ人の作品ということで、大きな意味を持っている。ヨーロッパでは、もちろんこれよりも早くから、各地にいろいろな伝説があったわけだが、この辺で少し歴史をさかのぼって、すべての伝説の源となったセント・ニコラスにスポットを当ててみよう。誰でも一度は、セント・ニコラス、セント・ニコラス……が、サンタ・クロースになったことくらいは聞いたことがあると思うのだが、彼がいつ、どこに住んでいた何者かをここでは調査してみよう。  セント・ニコラスの伝説は、『たのしいクリスマス』(C・H・ビショップ作、牧野留美子訳 ヨルダン社)や『クリスマス物語集』(中村妙子編・訳 偕成社)、『少年少女のための聖人伝物語』(藤代幸一著 創造社)等に載っている。それらをまとめてみると、聖ニコラスとはどうやら次のような人だ。  おそらく四世紀頃の人で、小アジアにあるリュキア地方のパテラという町に生まれた。小さい頃から、「小さなもの、幼いものを特別に愛する、思いやりのある子」だった。若くして両親をなくし、莫大な財産が自分のものとなっても、ぜいたくな暮しをしようとせず、貧しい人々に分け与えることを喜びとした。  ある時は、金持の家族だが財産をみな失ってしまったために、愛する三人の娘をアフリカの奴隷商人に売りわたさなくてはならないという家に、金貨の袋を投げ入れて、三人の娘を奴隷買いの手から救い、愛する若者とめでたく結婚できるようにした。  ニコラスは、船乗りの安全を守ることでも有名だった。嵐をしずめるような奇蹟もしばしば行なったという。だから今日でも、船乗りは危険にあうとニコラスの名をとなえるそうだ。  ニコラスは子供を救う奇蹟も行なった。ある宿屋の主人には、小さな子供を誘拐して殺し、それを客の食卓で饗するという悪習があった。そこでニコラスは、宿中を捜して塩水の樽に隠された三人の子供の身体を見つけ、十字を切って子供たちを蘇らせたという。  ミラ(現トルコ)の司教としてニコラスは秘密の善行をしていたが、うわさが広まり、多くの人々に尊敬されるようになる。亡くなってから聖人としてあがめられるようになると、子供たちは、セント・ニコラスを子供を特別に守ってくれる聖人と考えるようになり、心から何かを願うと、きっとかなえてくれる人と信じるようになった。子供たちが寝静まった夜、贈り物を届けてくれるセント・ニコラスの話は小アジアからヨーロッパへ、そしてもっと遠い国まで広まり、ついにはサンタクロースとして世界中の子供から愛されるようになった。  と、まあ、こうなるわけだ。私は、聖人ニコラスが、楽しいサンタさんに変身したあたりに一番興味がある。楽しいサンタさんの起源を是非明らかにしたい。聖人ニコラスは一人だが、楽しいサンタさんは世界中にたくさんいる。よーく調べて本物を見つけよう。そして、サンタさんに関係するすべての物もついでに分析してみよう。この本には、『サンタさん、分析します。』という題をつけた(単行本時)。�サンタさん�は呼びかけだから、�分析します。�だけでは主語も目的語も明らかでない。もう少していねいに言うと、「サンタさん、(私はもう大人になったから、いろいろな角度からあなたのことを)分析します(よ)。」というわけだ。  サンタクロースについて言及するには、もちろんクリスマス全体に話題が広がる。そして、筆者は私だから、当然フィンランドの話が中心になる。もちろん私は日本人だから、日本のことにも触れる。友人のY君に、 「フィンランドとサンタクロースとクリスマスのことを書くんだけど、三つとも長い言葉だから題名に困っちゃった」  と言ったら、 「それじゃ、フィンサンクリってのにしたら?」  と言っていた。Y君の発言は、いつも私の言語体系を根底からくつがえすものだが、今回はなかなか語呂がいい。さっそく使わせてもらうことにした。  つまり、この本では、めくるめく「フィンサンクリ」の世界が展開する。 [#改ページ]  クリスマス・ケーキの「|甘さ《ヽヽ》の構造」   なぜクリスマスは十二月二十五日なのか?  日本は仏教と神道が主流の国のはず(?)なのに、どういうわけかクリスマスも欠かさずやる。もっとも、日本の場合はクリスマスを祝うというのではなく、クリスマスという名の遊びの日を過ごすだけなのだが。そして、物を売る人たちが大騒ぎをして商品合戦をくりひろげるだけなのだが。そして、消費者は、わかっていてもそれに踊らされてしまうのだが。  日本のクリスマスも時代によって過ごし方が違った。一時、繁華街で盛大にやることがあり、キャバレーなどがにぎわったという。キャバレーという所には行ったことがないのでよくわからないのだが、聞いた話によると、クリスマスには景品を出すそうだ。その景品として使われる鍋・食器類の商売をしている友人の家では、キャバレーがにぎわった頃には売り上げがのびたが、やがてクリスマスが家庭内での静かなお祭りとなってからは、商売にひびいたということだ。日本人にも悲喜|交々《こもごも》のクリスマスがあるのだ。  世界中にひろまったこのクリスマスとはいったい何なのか、少し歴史をさかのぼって調べてみよう。とは言っても、私は特に歴史に弱いので間違えないように気をつけなくてはいけない。時々、学校の先生になったらいかがですかと勧められることがあるのだが、歴史がわかっていないから、私が先生になるのは無理な話だ。 「えーと。昔々ある所に……」  と言って歴史の授業を始めたら、ちょっとあいまいすぎて生徒から信頼が得られない。だから、今回は、しかと目を見開いて文献にあたってみる。  まずクリスマスという言葉の意味から。もちろんこれは英語だ。「キリストのミサ」という意味のChrist's MassがつながってChristmasになった。Xmasと書く時のXは、ギリシャ語のXristos(キリスト)の頭文字をとったそうだ。フランス語ではNoel 、イタリア語ではNatale。いずれもラテン語のnatalis(誕生日)からきているという。ドイツ語ではWeihnachtというが、これは聖夜という意味だ。  いずれにせよ、キリストの降誕を祝う日なのだが、聖書にはキリスト誕生の正確な年月日が記されていない。だから、十二月二十五日説以外にも、一月一日説、三月二十一日説、三月二十九日説、四月九日説、九月二十九日説などいろいろある。アレクサンドリアのクレメンスの記録によると、西暦二〇〇年頃の五月二十日に最初の降誕祭が行なわれたとあるし、ギリシャをはじめ東方の教会では一月六日を公現祭として祝ったらしい。  では、なぜ十二月二十五日にクリスマスを祝うようになったのだろう。初めて十二月二十五日を降誕祭としたのはローマで、それは三五四年のことだ。ローマでは異教時代末期、この日に衰えゆく太陽がふたたび熱と光をよみがえらせる冬至の祭りを行なっていたが、この異教的太陽の祭日をキリスト教徒は、「正義の太陽」であるキリストの祝日として祝うようになったのだ。これは、三二五年のニケア会議で決定された。  冬至は年の変わり目だから、一年のしめくくりをし、新しい生活の準備をするという意味で、冬至を祝う習慣は多くの民族にあった。ローマ人は冬至に農神祭(農神サターンの祭りで、十二月の収農祭とも言われた)を行なったが、それがキリスト教徒に受けつがれて、ヨーロッパの北方では宗教的なクリスマスとなり、南方ではカーニバル(謝肉祭)となったと言われている。ケルト族とゲルマン族の間にも、古くから冬至の祭りがあった。  エジプト人は一月六日に年が明けるとして祝ったし、ギリシャ人は一月五日に、ワインと農耕の神ディオニソスを祝った。こういった古い習慣は、多かれ少なかれ現在のクリスマスの民俗的行事の中に残っていることが多い。異教的起源の風習といえば、「クリスマスの丸太」がそうだ。クリスマス前夜に、大きなカシワの木の丸太をだんろに引き入れ、前の年に残しておいた丸太の燃えのこりで火をつける風習は、リトアニアの神話がもとで、その灰には家屋を火事と落雷から守り、火傷をなおし、畑の害虫をよける力があると信じられていたそうだ。クリスマスに教会に宿り木(寄生木)を飾るのは、古代ケルト族の宗教、ドルイド教で、宿り木は神聖で魔力を持った植物だと信じられていたからだという。  クリスマスは中世になると、祝日としてますます人気が出た。お祭り気分の催し物はこの頃から始まったようだ。しかし、キリスト教諸宗派の中には、清教徒のようにクリスマスの行事や風習を異教的な起源をもつものとして認めない場合もある。イギリス清教徒は一六四四年、議会でこの祝日を廃し、その代わりに全国市場日を設けた。スコットランドのようにクリスマスを一般の休日とせず、四月一日をその代わりとしているようなところもある。   ペコちゃんの向こうに�日本のクリスマス�が見える!  ところで、日本のクリスマスはどういう具合に始まったのだろう。よくフィンランド人に、 「日本でもクリスマスをお祝いするの?」  と、きかれるが、 「どんな風に?」  と、詳しくせまられると何と答えようか一瞬とまどう。日本のクリスマスはアメリカから飛行機に乗ってやってきたが、宗教は飛行場に忘れてきてしまったし、クリスマス料理も機内食にふさわしくなかったので搭乗券がもらえなかった。だから、飛行機が空港へ着いた時、タラップから降りてきたのは赤い服を着た白いおひげのサンタクロースさんだけだった。彼は小さな機内持ち込み用バッグを大事そうにかかえていた。あまりにも大事そうにかかえていたので、もちろん税関で開けるよう命ぜられた。さあ、中には何がはいっていたのだろう。これが日本のクリスマスのカギをにぎっているのだ。  それはケーキだった。甘くておいしいクリスマス・ケーキ。つまり飛行機から降りてきたのはサンタクロースとクリスマス・ケーキ。ここから日本の風俗としてのクリスマスの歴史が始まる。極端な言い方をすれば、クリスマス・ケーキを食べるのが日本のクリスマスだったから。  自分の子供時代のクリスマスとは何だったのかと思い出してみると、不二家のケーキを食べたことがまず頭に浮かぶ。そこで考えた。不二家のクリスマス・ケーキの歴史を調べたら、ある程度日本のクリスマスの歩みがつかめるのではないかと。さっそく、不二家の本社に電話してみた。営業企画部売場担当の吉本課長(当時)さんが、わざわざ時間をさいてお話しして下さることになった。  私はクリスマス・ケーキの話だけを伺うつもりだったが、吉本さんはいろいろな文献にあたって、クリスマスの起源を初め、サンタクロース、もみの木、トナカイのことまで詳しく調べておいて下さった。机をはさんで向いあった私たちは、まるで卒論のテーマを話し合っている大学の先生と学生のよう。不二家の歴史から始めて下さった吉本さんのお話は、日本の洋菓子の歴史を知ることができて、とても興味深いので、なるべく詳しくここで報告しておきたい。   �日本のクリスマス�は不二家の歴史と共に展開した  明治四十三年、創業者が藤井さんであり、また富士山が日本一ということから、不二家という名前でスタートした。第一号店は横浜元町。お店の近くで製造し、手で運んだそうだ。なぜ元町かというと、外国人が多く住んでいたからだ。アメリカ人がほとんどだが、ロシア人もいたという。外国人相手でスタートした洋菓子店の店先には、シュークリーム、エクレア、ワッフル、焼きりんご等が並んでいた。外国人は店先で平気で立食いをするが、日本人は立って食べるのはちょっと抵抗があるので、座れるように二、三席設けた。これが不二家喫茶部の始まりだという。そこではお菓子を食べながら、コーヒーや紅茶が飲めた。その時のコーヒーは、モカとコロンビアが半々だったそうだ。  その当時、日本に住んでいた外国人といったら、相当生活程度の高い人ばかりだった。そういう人の家には専属のコックがいたので、わざわざ洋菓子店から買う必要がない。そこで、洋菓子を買ってもらうには、コックを自分の家に雇えない外国人を相手にしなくてはならない。それには価格と種類が問題になってくる。  外国人経営の店もあり、外国人による外国人好みのふるさとの味を提供していたので、不二家はこの店に対抗することになる。いろいろ御苦労があったようだ。この時期、つまり外国人相手の商売をしていた時期を第一期とし、吉本さんはこれを「勉強の時代」と呼んでいらっしゃる。  続く第二期とは、外国人プラス日本人上流階級ということだが、珍しい洋菓子をまず口にしてみようと思いたったのは、大正の文人、俳優、ハイカラさんだけだった。大衆化されていく段階を第三期とするが、慣れていない味を大衆に|教えこむ《ヽヽヽヽ》のも大変だったらしい。バターを使えば臭いと言われるし、アイスクリームに塩をかける人もいたという。最初臭くて食べられないものが、食べられるようになり、それをおいしいと感じるようになるには、やはり時間がかかる。  フランス風ショートケーキがお目見えするのが大正十一年頃。スポンジに、色づけをしたバタークリームを使った。バターは大島にいくらかあったが、主としてアメリカやフランスからレーズンやピスタチオ等と共に輸入していた。この頃はケーキもはかり売りだったそうだ。  日もちがするので、プラムケーキがほとんどだった。クリスマス・ケーキもプラムケーキから出発した。初めのうちは、飾りといっても銀玉をのせる程度のあっさりとしたもの。クリスマス・ケーキの存在は口こみで広がり、昭和二十五、六年頃大衆化したとみられる。三十年代になると、クリスマスも本格化。バタークリームでできたクリスマス・ケーキが飛ぶように売れたという。何しろ作れば売れたそうだ。作って残ることはなかった。当時、ほとんどの子供が、ケーキを食べるのは年に一回、クリスマスの時だけということもあったからだろう。  現在ではバタークリームより生クリームを使ったケーキが好まれているそうだ。クリスマス・ケーキの命は三日か四日。十二月二十六日になると、存在価値を全く失う、はかない命。もてはやされる花の命は短いのだ。  最近は、ケーキの種類もふえたし、食べる機会もいくらでもある。ケーキを食べるのはクリスマスに限ったことではない。でも、やっぱりクリスマスにケーキを食べなきゃ気持がおさまらないというのが人情らしく、クリスマス・ケーキは今でもよく売れる。不二家ではクリスマス・ケーキの売り上げだけで、一ヵ月の売り上げに相当するという。甘いものには魔力があるのだ。  バターが臭くていやだった日本人も、洋菓子の味を覚えた。クリスマスという外国から入ってきた行事が日本人にケーキを教えた。日本ではクリスマスが一企業の歴史と共に展開した。外国の人から見たら、仏教徒が多い日本にもクリスマスがあり、それもケーキを食べるだけのお祭りというのは、きっと不思議なことだろう。フィンランドでは、特にクリスマスのケーキといったものはない。  日本では最近大騒ぎするようになったが、バレンタインデーというのもフィンランドではなきに等しい。ヘルシンキにいた頃、二月になってそろそろバレンタインデーだな、さてフィンランドではどんな風にするのだろう、やっぱりチョコレートを買って配ったりしないと友情にひびが入るのだろうか、と思ってお菓子屋さんの店先を気にしていたのだが、ハート形のチョコレートはいつになっても現われなかった。がっかりしたと言おうか、よかったと言おうか、拍子ぬけがした感じだった。  日本では、いつからあんなにバレンタインデーがさかんになったのだろう。最近ではニュースで紹介される程だ。バレンタインデーの必殺仕掛人もどうやらお菓子屋さんらしい。チョコレート商戦に踊らされながら、日本人はしゃれたゲームを覚えていく。日本の資本主義は実に楽しく展開する。外国からまるごと輸入した行事が、日本では本家の外国より盛大になってしまうのだから。聖バレンタインも墓場で首をかしげていることだろう。  この次に日本へ上陸して、お菓子屋さん経由で北へ南へと広まりそうなのは、イースターの卵形チョコレートあたりだと私は思うのだが、どうだろう。フィンランドでチョコレートが飛びかうのはイースターの時だ。うずらの卵大の小さなものから二〇センチくらいある大型まで、いろいろな大きさがあり、中にはおまけがはいっている。  ちょうどイースター前にヘルシンキから東京へ帰ることになった時、家族や友達にあげるようにと、大・中・小いろいろな大きさの卵形チョコレートをみんなからプレゼントされた。だから、私のトランクは卵だらけ。甥や姪はおまけ入りのチョコ卵が気に入ったようだったが、もしイースターの卵形チョコレートが本格的に日本に上陸したら、子供たちから歓迎されるだろうか。まあ、宣伝合戦次第だろう。   清浄と友情のシンボル、�塩�の話  あまり甘いお菓子の話ばかりしたので、辛党の私としては、この辺で一つ塩の話もしておきたい。これは大学時代に彫刻のアトリエでNさんから聞いた話だ。ずっと前のことなので、どこの国の話だか忘れてしまったが、何しろどこかの国の王様の話。  王様には三人の娘がいました。ある時、王様は長女に尋ねました。 「娘よ、お前は私を愛しているかね?」 「ええ、もちろんですわ。私はお父様を砂糖と同じくらい愛してますわ」 「ほう、そうか。そんなに私を愛してくれているのか」  王様は次女に尋ねました。 「娘よ、お前は私を愛しているかね?」 「はい、お父様。私もお父様を砂糖と同じくらい愛していますわ」 「そうか、そうか。お前もそんなに私を愛してくれているのかね」  王様は三女にも尋ねました。 「娘よ、お前は私を愛しているかね?」 「はい、もちろんですわ。私はお父様を塩と同じくらい愛していますわ」 「なに、塩と同じだと? お前は何てことを言うんだ。あんなに辛いものと私を一緒にするのか。お前なんかとっとと出てゆけ!」  王様はすっかり腹を立てて、三女を勘当してしまいました。  長い年月がたちました。ある日、三女は長い間会っていなかった王様を家に招いて、たくさんごちそうを作ってもてなそうと考えました。料理が次から次へとテーブルに出てきます。が、どの料理にも、どの料理にも砂糖がたくさんはいっています。あまり何もかも甘いので、王様はもううんざりです。  そこで三女は、最後に塩味のきいたおいしい料理を出しました。なんておいしいんでしょう。王様は塩の素晴らしさに初めて気がつきました。そして、塩と同じくらい愛していると言われ、腹を立てたことを悔い改めました。と、さ。  この話をK君にしたら、 「それは『食い改める』っていうオチがついてるの?」  と、ふざけたことを言っていた。K君、違いますよ。これは塩の永遠なる素晴らしさを讃美した話ですよ。  塩は世界中で清浄のシンボルだが、友情のシンボルでもあるそうだ。だから、パンと塩は歓待を意味するという。百科事典によると、鹿児島地方では昔は塩売りの商人に子供の名をつけてもらう風習があったという。名づけの商人を塩親と呼び、子供を塩子と言ったそうだ。王様の三女はさしずめ、日本風に命名するなら、塩辛姫といったところだろうか。  もう一つ塩の話。私たちはスイカを食べる時に塩をかけるが、フィンランド人は砂糖をかけて食べる。塩をかけて食べると笑われる。全員が砂糖をかけている時に一人で塩をかけるのはつらい。多数派はいつも少数派を圧迫する。欧米の人たちは年間の砂糖摂取量が日本人の約四倍だそうだ。  塩には永遠の素晴らしさがある。砂糖にも永遠の素晴らしさがある。ところが、この頃どういうわけか塩も砂糖も嫌われ始めた。タクアンだって「減塩」という表示がなければ売れない。砂糖だって「ノン」だの「カット」だのとくっついた名前が出まわっている。こんなに嫌われてしまったら、いったい最後に笑うのは塩と砂糖のどちらだろう。  いや。最後に笑うのは、塩でも砂糖でもないかもしれない。彫刻のアトリエには、ひとくち知識専門のH君もいた。彼が言うには、「酢は台所の魔術師」だそうだ。酢は料理以外にも魔術を使うらしい。アトリエでテラコッタの|はにわ《ヽヽヽ》が欠けた時、酢でつけるといいと習った。何しろ魔術を使うのだからすごい。塩や砂糖は地球最後の日まで、生き残るための魔術を使うことができるのだろうか。ノストラダムスは、クリスマス・ケーキの未来をどう予言しているのだろう。  話はまた飛ぶが、急に心配になってきた。もし、ある日突然父が私に、 「娘よ、お前は私を愛しているかね?」  と言ったら、どうしよう。何と答えたら父の機嫌をそこねずに済むだろう。たとえば、こんな風に言ってみようか。 「もちろんですわ、お父様。夏は蚊取線香のように、冬は掘ごたつのように、お父様を愛していますわ」  私は勘当されるだろうか? [#改ページ]  変身したサンタクロース   日本初のサンタさんは|裃《かみしも》つけたお殿様  聖人ニコラスの話は初めにちょっとしたが、彼がどんな道のりをたどって現在のようなサンタクロースになったのか、サンタさんの生いたちをこの辺で調べてみよう。聖人から、世の中の楽しさを一手に引き受けたサンタさんになるまでには、何度か変身があったはずだ。世界中に広まるとなれば、サンタさんにも必ずカルチャー・ショックがあったはずだ。サンタさんは、どこの国へ行っても本来の自分を貫き通したのだろうか、それとも郷に入っては郷に従えと、柔軟な態度で世渡りをしてきたのだろうか。是非その辺を明らかにしてみたい。  まず、やはり一番気になる私たちの国とサンタさんの関係から始めよう。サンタさんは来日して、日本文化をどのように受けとめたのだろう。キリスト教が日本に伝わったのは、誰もが学校で「|以後よく(1549)見かけるキリスト教徒」と覚えたように、一五四九年だった。この年にフランシスコ・ザビエルが来たわけだが、サンタさんはザビエルと一緒には来なかった。ザビエルは日本に二年と三ヵ月滞在していたので、日本でもクリスマスを祝っているはずだが、サンタさんが飛び出すようなクリスマスでなかったことは、記録が何もなくてもだいたい想像できる。  それでは、サンタさんの正式な来日はいつだろう。こういうことは歴史の年表に出ていないから困る。いろいろ調べてみたら、初めて日本人が主催したクリスマス・パーティが開かれたのは、東京銀座の原胤昭経営の女学校。キリスト教家庭新聞(一九三六年十二号)に、そのパーティについての記事が出ているので、紹介しておこう。  原胤昭が東京第一長老教会で受洗したのは明治七年十月十八日である。彼はその感謝のしるしに、何かしたいと願っていた折から、クリスマスの日が近づいたので、おおいにやりたいものだと考えた。もちろんその指導にあたったのは築地大学の宣教師カロゾルスであった。  ところで、この話を耳にした米国公使館では、まちがった変なことをやられてはとの心配からであろう、その祝会の前日、わざわざ四名の館員を送って会場の下検分をさせた。  すると天井から吊り下げたみかんで美しく飾った十字架が、彼らの目にとまり、これはカトリックがやることなのだとの注意で、せっかく大枚を投じ、大骨を折って作った十字架は、あわれ撤回させられた。しかしそれを取り除いてはあとがあまりにも寂しいから、即座の思いつきで、造花を集めて美しく飾ろうとしたが、当時は今日のようにそんなものがざらにあるわけではなく、祝会は明日にも迫っていたので、しかたがないから、その頃浅草の蔵前から仲見世辺へかけて何軒もあった|花簪屋《はなかんざしや》へ綱曳き人力車で、賃金の高いのもおかまいなしに、人を走らせて大急ぎで花簪を買い集め、クリスマス・ツリーも型の如く飾った。だが、祝会が始まる前からいっさいを見せては、あまりに興がないというもので、幕を取りつけ一同をあっと言わせようとしたが、これもその頃、大巾の布や|金巾《カナキン》などは、横浜まで行けばあるにはあるが、どこにでもざらにあるというものではなかったから、しばし途方にくれていた。旧幕時代、大江戸八丁堀の与力で相当に権勢を張っていた原の家のご威光で、すぐ近所の新富座へ交渉して、芝居の落し幕を借りることを思いついた。  すると、にぎやかなことの好きな座附きの若い者どもがワイワイ騒いで、ちょうちんをつけて手伝いにやってくるというような騒ぎになった。それから、サンタクロースだが、これはぜひとも純日本風の趣向でやろうというので、|裃《かみしも》をつけ、大小を差し、大森かつらをかぶり、殿様風の身ごしらえであった。  世界中にサンタクロース多しと|雖《いえど》も、このサンタさんほど特別な衣裳と小道具で現われたケースは、まあ他にないだろう。サンタさん、大変身の巻だ。聖人ニコラスも、まさか日本へ来て殿様になるとは思っていなかっただろうから、いきなりカルチャー・ショックに打ちのめされたといった感じだったに違いない。   プレゼントを配る�悪魔のニコラス�  ここで、聖人ニコラスの話をもう少し詳しくしておこう。ニコラスの伝説はたくさんあるのだが、どの文献を見ても生没年さえはっきりしない。生年は二七一年あるいは二八〇年、没年については三四二年、三四三年、三四五年、三五〇年、三五二年と五つも説があった。  大半の文献は、後にサンタクロースとして世界中で愛されるようになった聖ニコラスとは、リュキア地方ミラ(トルコ南西部)の司教ニコラスとなっているが、『カトリック大辞典』(上智大学編 冨山房)では、ミラの司教ニコラスと、同じくリュキア地方ピナラの司教ニコラスとの混淆したものと定義している。  史実として聖ニコラスの生涯については何ら確たるものが知られていないし、聖人に列せられた時期も不明だ。明らかであるのは、六世紀コンスタンティノープルに初めて聖ニコラスの名を冠した教会が建てられたこと。そして、九世紀には東欧であらゆる聖人の上に置かれて、聖母の次に尊敬されるほど重要な聖人となったこと等だ。  それ以降、彼への崇敬はギリシャ正教会全体に広まり、ニコラスが亡くなったとみなされる十二月六日が、ニコラスの祝日となった。数々の伝説は、つまりギリシャの伝説なのだ。ディオクレティアヌス帝時代に迫害されたとか、ニケア会議に出席したという話は、何ら根拠がないとされている。  司教ニコラスが亡くなった時のこんな伝説もある。ニコラス自身が聖地から持って来たシュロ(勝利の象徴)の枝が棺に入れられたが、その枝からすぐに葉が生え始め、七〇〇年間も青々と繁っていた。棺が埋葬されるとニコラスの頭の方からは油が、足の方からは水が湧き出た、という。  死後、彼は子供と船乗りの守護聖人(フィンランドでは森の鳥の守護者)として祭られ、港町にはニコラスの名をつけた教会が建てられるようになる。十六、十七世紀にはヨーロッパ各地でコインにもニコラスの肖像が描かれるようになった。司教からだんだん楽しいサンタさんになっていくのだが、カトリックの国では、今でも司教としてのセント・ニコラスの姿で出てくる。  キリスト教では十二月六日をニコラスの祝日としている。オランダやスイスやドイツとオーストリアの一部では、司教の格好をしたニコラスが、ニコラスの祝日の前夜、つまり十二月五日にプレゼントを配るそうだ。プレゼントを渡す前に、ニコラスは説教をしたり、聖書に書いてある事柄を子供にたずねる。  オランダでは、十二月五日にニコラスがスペインから白い馬に乗ってやってくることになっている。子供たちは暖炉のそばに木靴を置いて、その中に砂糖と草を入れる。これは白い馬のためだ。朝起きると、砂糖と草がなくなっていて、お菓子がいっぱい入っている。スペインからやってくるニコラスには、プレゼントを配る役目のお付きの者がついている。  最初、ニコラスのお付きの者(大勢いる場合もある)は、プレゼントを配る役目、つまり善人だったが、中世になるとどういうわけか、次第に悪魔になってしまう。角も生えてくる。そして、その角の生えた悪魔は、悪魔のニコラスと呼ばれるようになる。中世は、生活の中に悪魔が存在した時代らしいが、どうして善人にいきなり角が生え、悪魔になってしまうのか、私にはよくわからない。悪魔に変身させられたのだから、ニコラスさんにとって中世は苦難の時代と言えよう。悪魔だけが出て来てプレゼントを配ったこともあったが、ニコラス・プラス・悪魔という組み合せもあった。そういう場合は、悪魔は鞭を持っていて、悪い子供に罰を与える役になる。   ニコラス、宗教改革で失業する!  ニコラスにはプレゼントを配るという使命があるが、ニコラス以外の人がこの役目を果たしている国もある。スペインでは一月六日の公現祭(キリストが東方から来た三博士に姿を現わした日を祝う祭り)に、三博士が馬(ラクダの可能性もある)に乗ってベツレヘムへ行く。その途中、窓やベランダに出してある子供の靴の中へプレゼントを入れていくのだそうだ。  イタリアでも、一月六日にプレゼントを配ったそうだが、ここではベファナという魔女のようなおばあさんが出てくる。三人の博士たちがベツレヘムへ行く途中、このおばあさんに道をたずね、一緒に幼な子の誕生を祝いに行こうとさそった。しかし、ベファナは急に口がきけなくなってしまう。三人の博士たちが去った後、また話ができるようになり彼らを探すが、決して見つからない。ベファナは行く所行く所で、いつかは幼な子イエスを見つけられるようにと願って、小さなプレゼントを置いていった。  このベファナというおばあさん、プレゼントを配るのはいいけれど、子供が怖がるようないでたちの魔女らしい。だから、お母さんは子供がいい子にしていないと、 「ベファナが来て食べちゃうぞー」  と、おどかした。公現祭には、ベファナの格好をした女性が子供の家をまわった。ある時ミラノで、ドアを開けたら恐ろしいベファナが立っていたので、子供がショックのあまり死んでしまったことがあったという。悪魔に鞭で打たれないように、魔女に食べられないように、いい子でいなくてはいけないということなのだろうが、あまりやりすぎたら、本来の意味がないどころか、悲劇まで生じかねない。やっぱり、善人のニコラスさんに出て来てもらった方がいいと思う。  ニコラスさんはみんなにプレゼントを配るとてもいい人だから、クリスマスだけに限らず、年に何度でも出て来てほしいのだが、彼が出て来てはまずい歴史的事件が起こった。それは宗教改革だ。プロテスタントにしてみれば、カトリックの聖人がプレゼントを持ってきてはまずい。そこで、プレゼントを持ってきてくれるのは、幼な子イエスだということにした。これは、考えてみるとちょっと不自然な感じがする。生まれたての赤ん坊が家々をまわってプレゼントを届ける。納得できるだろうか。  一八四七年にローレンス・フローリッヒが描いた絵を見ると、プレゼントの袋を持った聖ニコラスと光り輝くもみの木を持った幼な子イエスが、二人で馬に乗っている。このイエスには天使のように羽根が生えていて、五、六歳の女の子のような感じがする。やはり、生まれたての赤ん坊がプレゼントを配るのは不自然だから、次第にイエスの像も変わっていったのだろう。ただ不思議なことに、たいてい女の子になる。白い服を着た、長い金髪の少女。たぶんイエスと天使と守り神のようなものが、混ざってしまったのだろう。   ドイツから北欧へ旅したサンタ  ウィーンの郵便局には、毎年数万通の手紙が幼な子イエス宛てに来るという。なぜウィーンなのかはよくわからないが、サンタクロース宛ての手紙の規模など問題にならない程、量が多い。昔は、クリスマス・イブに子供たちは幼な子イエス宛ての手紙を窓の所へのせ、窓ともみの木の間にテーブルを置き、お皿を用意した。朝になると、お皿にはお菓子や果物やおもちゃがいっぱいのっていた。  幼な子イエスが、クリスマス・イブにプレゼントを持って子供の前に現われることもあった。金紙で作った冠にろうそくを立てているのはスウェーデンのルシアに似ているが、この幼な子イエスは、ハンス・トラップという鞭を持った恐ろしい男を連れている。これはドイツの話だが、ドイツではこの類の恐ろしい話が多い。聖ニコラスの連れているクネヒト・ルプレヒトという従僕は頭に角のある悪魔だし、スウェーデンのルシアは光の使徒だが、ドイツでは「ルツェルフラウ」と呼ばれて、クリスマス時期に暴風を起こし、貢物を要求する魔女だった。この他にも、ペルヒタというクリスマス魔女がいたそうだ。特にドイツでは異教的な迷信が強く生活の中に残っていたのだろう。悪魔や魔女を研究する学問もあるが、サンタさんとは少しかけ離れてしまうので、この本ではそこまでは追究しない。  楽しいサンタさんの話がしたい。他のヨーロッパの国々に比べたら、イギリスのクリスマスの歴史は初めから楽しかったと言える。プレゼントを持って来るのはファーザー・クリスマス。彼はすでに十五世紀から存在している。そういえば、数年前にロンドンでクリスマスを過ごした時、子供たちはサンタクロースではなく、ファーザー・クリスマスと言っていた。イギリスでは、サンタさんは名前を変えられてしまったのだ。  富める者にも貧しい者にもプレゼントを配っていたファーザー・クリスマスはみんなから愛されたが、ある歴史的事件をきっかけに姿を消さなければならなくなった。それは清教徒革命だ。クリスマスは真剣に人間の罪について考える時となり、ファーザー・クリスマスさんは出て来てはいけないことになった。彼が再び姿を現わすのは、一六六〇年王政復古の年だ。それ以後は隠れる必要もなく今日に到っているが、いくら善人といえども、クリスマスの解釈が違ってくると、引っ込まなくてはならないのだから、サンタさんの生涯にも浮き沈みがあったのだ。  このへんで、アメリカのサンタさんの生涯に話を切り替えたい。なん度、セント・ニコラス、セント・ニコラス……と言い続けてもサンタクロースにならない人のために、シント・クラースというヒントを与えよう。セント・ニコラス、セント・ニコラス、シント・クラース、サンタ・クロース。今度はうまくつながっただろうか。実は、アメリカのサンタさん誕生の秘密は、このシント・クラースが握っているのだ。  セント・ニコラスをアメリカ大陸まで運んだのは、オランダの移民だった。十七世紀、ニューアムステルダム(今のニューヨーク)に住むオランダ系の移民が、シント・クラースと呼んでいたことから、サンタ・クロースが誕生したと言われている。アメリカのサンタ・クロースには独自のお話(北極に住んでいてプレゼントを作っているとか、トナカイの引くそりに乗るとか)ができたので、もはや司教ニコラスとは直接関係ない、独立した人物だとアメリカの学者は言っている。アメリカのサンタさんが、世界中の楽しいサンタさんの元祖というわけだ。このあたりからだろうか、サンタさんがデパートの幹部と手をにぎるのは。  セント・ニコラスにもう一度戻ろう。原点から今度は北欧へ進んでみよう。ドイツの文化は必ず北上するから、言うまでもなくセント・ニコラスもドイツ経由で北欧まで行った。もちろんプレゼントも配った。北欧へ行く時にセント・ニコラスについて行ったのは、なんと雄ヤギだった。フィンランド語で雄ヤギをプッキと言う。セント・ニコラスとプッキがプレゼントを配っていたが、プッキといっても、本当のヤギを連れて歩いたのではなく、誰かが羊の皮をかぶり、布か|わら《ヽヽ》で頭を作って、それに本物の角をつけてプッキの真似をしていたのだ。人間がやらない場合には、わらで作ったプッキを連れて歩いたらしい。これは昔の話だが、今でもわらでできているプッキはクリスマスの飾りとして北欧に残っている。  北欧にセント・ニコラスが登場したのは、ごく限られた範囲だった。セント・ニコラスが出てこなくても、プッキとクリスマスの関係は古くからあり、プッキは来たる年の豊作のシンボルだったと言われている。フィンランドでは昔、クリスマスに数人の男性が一まとまりになって家から家をまわって歩き、歌をうたったり、お酒をもらって飲んだりした習慣があったが、この時誰か一人が角をつけてプッキの格好をしていたそうだ。  フィンランドでクリスマスにプレゼントが贈られるようになったのは、十八世紀の終わり頃で、これはスウェーデンからブルジョア・フィンランド人に伝わった習慣だ。宗教改革後は、クリスマスからセント・ニコラスの名前が消えてしまったから、クリスマスにプレゼントを配る人に新しい名前をつけなくてはならなかった。フィンランドでは、クリスマスのおじいさんという意味のヨウル・ウッコにした。たいていこのヨウル・ウッコはわらでできた実物大のプッキを連れていた。現在、フィンランドではサンタクロースにあたる人をヨウルプッキと呼んでいるが、クリスマスが一年の農作業のしめくくりであり、来たる年の豊作をプッキに祈願したという昔の事がわかっていないと、プレゼントを配るサンタクロースがなぜクリスマスのヤギなのか理解しにくい。  ドイツ文化北上説などと言ったら少々大げさになるが、サンタさんの足どりをたどっていくと必ず、ドイツ→北欧という図式の存在につきあたる。ドイツで宗教改革があった後、プレゼントを配るのは幼な子イエスということになった。だが、生まれたての赤ちゃんが家から家へと配って歩くことはできないので、もう少し成長した子供がその務めを果たすようになる。そして、その子はなぜか少女になり、頭にろうそくをともした冠をかぶることになる。この時点で、ドイツ→北欧という図式が成立する。この場合は、ドイツから同時にフィンランド、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの各国へ放射線のように伝わったのではなく、まずスウェーデンに直行した。   どこまで続く、サンタの変身劇  北欧では秋学期が済むと、子供たちが家々をまわってお金やろうそくをもらう習慣があった。スウェーデンでは十二月十三日に学校が終わったが、キリスト教ではこの日をルシアの祝日としている。三〇四年十二月十三日に亡くなったルシアは、シシリア人の殉教者で、死後、光の使徒として祭られた。スウェーデンでは、このルシアとドイツからやって来た、ろうそくの冠をかぶった少女が結びついて、クリスマスの新しい人物が生まれることになる。  聖ルシアの伝説を紹介しておこう。  ローマの若い青年がルシアの美しい瞳に恋をした。だが、ルシアは熱心なキリスト教徒だったので、ローマ人の伴侶となることは望まなかった。そこで、ルシアは自分の目をくりぬいて、青年に差し出して言った。 「あなたが恋こがれているという私の瞳をあげましょう」  不思議なことに、ルシアにはまた美しい瞳が授かる。前にもまして美しい瞳が。しかし、青年は興奮のあまりルシアを剣で一突きに殺してしまう。  ルシアは光の使徒だ。ラテン語のlux(光)がLuciaとなったのだろう。聖ルシアの彫像や絵画を見ると、必ず手にお盆を持っていて、その上には目がのっている。ルシアは特に目の病気を治す聖人と考えられているようだ。中世には、ルシアの祝日である十二月十三日が一年で一番、日の短い日とされていたから、人々の祈りの言葉も、 「聖女ルシア、暗い冬の夜にあなたの輝きを与えて下さい」  であった。  中世にはルシアにも魔女的な要素が加わり、角が生えたこともあったが、一七六四年の記録によると、羽根が生えているから、この頃は天使のような存在になっていたのだろう。現在のルシアは白い服に赤い布を結び、頭にろうそくのついた木の葉の冠をかぶっている。ルシアはルシアの祝日前後とクリスマス前後に、子供たちと一緒に家から家へと歌をうたいながらまわって、飲み物や食べ物をもらっていたが、そのうちクリスマスの人物として定着する。北欧で光の使徒が重要な人物として定着するのは、わかるような気がする。暗い日々が続く極北の地では、誰もが光を求めているのだ。  現在ルシアの祝日には、朝早く女の子がルシアの格好をして、両親の寝室まで朝のコーヒーを持って行く。かわいい少女がやれば、きっと天使のようだろう。少女もかわいいが、年頃のお嬢さんにやらせて美しさを競わせたら、もっといいのではないかと考えた人がいた。一九二八年、ストックホルムで新聞社主催の美人コンテストが行なわれ、ミス・ルシアが選ばれた。ミス・ルシアは百万ドルの笑顔で大通りをパレードした。これでまた、ルシアに新しい性格が付加されたことになる。  元はと言えば、すべて聖人ニコラスから始まったことだ。サンタさんの変身劇はどこまで続くのだろう。あっ、そう、そう。スウェーデンでは外国からノーベル賞受賞にやって来たお客様には、ルシアが朝のコーヒーを運ぶそうだ。頭にろうそくを立てた女性が接近して来ても驚かないように、ノーベル賞をもらう予定のある博士の方々には、この話を心にとめておいていただきたい。 [#改ページ]  本物のサンタはこれだ!   フィンランドのサンタクロースは妻帯者  私の大切な友人マウリ・クンナスを紹介しよう。彼はフィンランド人の絵本作家で、今や世界中の子供たちに人気を博している。マウリは一九八一年秋に『サンタクロース』(フィンランド語では「ヨウルプッキ」と言う)という絵本を創作したが、たちまち世界中の出版社の注目の的となった。何しろ楽しい。絵がいい。各ページの隅から隅までお楽しみがいっぱいで、何度開いても必ず新しい発見がある。そして、作者の優しさと温かさが伝わってきて、読者を幸せにしてくれる。マウリの『サンタクロース』はそういう絵本だ。  私はこの絵本を日本語に翻訳した。偕成社から『サンタクロースと小人たち』という題で出版された。この絵本には、サンタクロースとお手伝いの小人たちとトナカイがいる村の、一年間の仕事の様子が紹介されている。私の「サンタクロース学特講」に出席する学生は、試験前にあわてなくて済むように、今のうちに各自書店で買い求めておいてほしい。  さて、本物のサンタクロースを見つける旅に出よう。サンタクロースがどこに住んでいるかは、子供たちにとっても全くの謎だ。でも、なんとなく北極の辺りだということは皆気づいているらしい。私も時々北極圏をうろうろするが、北極の辺りといってもいささか広すぎる。もっとはっきりとした地名がわからないものだろうか。その点、マウリの『サンタクロースと小人たち』は、私たちの問いに納得がいくように答えてくれている。  最初の見開きには、工場や倉庫や飛行場のあるサンタクロースの村の全貌と、見てはいけないものを見てしまって面喰っている、迷子になったサーミ人のおじいさんがいる。そして、そこにはちゃんと、この村があるのはコルバトントリのふもとだと書いてある。コルバトントリとはちょっと聞き慣れない地名だ。子供たちが言い易いように私は「コルバトントリ」と書いたが、もう少しフィンランド語の発音に近づけるなら、コルヴァトゥントゥリとなる。  フィンランド人に、 「サンタクロースはどこに住んでるの?」  ときくと、誰もが、 「ラップランドのコルヴァトゥントゥリさ」  と答える。私は初め、これは架空の地名かと思っていたのだが、コルヴァトゥントゥリは、ソ連との国境近くに実在している、標高四八三メートルの山だ。コルヴァはフィンランド語で耳を意味するから、コルヴァトゥントゥリはさしずめ�耳の山�とでもいうところだろうか。フィンランド語で「山」はヴオリだし、「丘」はマキ。トゥントゥリというのは、山と丘の中間くらいのなだらかな山のことで、ラップランドに多い。コルヴァトゥントゥリは、形が犬の耳に似ているので、その名がついたという。そこは、人っ子一人いない果てしなき荒野だ。いつから、ここにサンタクロースが住んでいるのか、私は我が少年探偵団と共に既に調査済みだ。  一九二七年の十二月、ラジオの子供番組でマルクスおじさんことマルクス・ラウティオ氏が、サンタクロースは小人たちと一緒にコルヴァトゥントゥリに住んでいて、彼らには特別な耳があるから、子供たちのプレゼントのお願いが聞こえる、と紹介したことから、すべてが出発したらしい。なぜいきなりコルヴァトゥントゥリが出てきたかというと、一九二〇年のタルットの和平(ソ連からペッツァモ地域を割譲された)以来、フィンランド人の関心がそのあたりの地域に集中していたからではないか、ということだ。  マウリの『サンタクロースと小人たち』は、大自然の真只中コルヴァトゥントゥリで、素朴だが楽しい生活を送っている。それとは反対に、『クリスマスさんとゆかいな仲間』たちは、手入れの行きとどいた庭、そりの発着場、レーダー誘導装置、専用ゴルフ場、石庭、いろいろな娯楽設備の整ったお城に住んでいる。重量あげジム、室内プール、トナカイ用レクリエーション室、特殊照明設備つきディスコ、テレビ室、玉突き室、サンルーム、展望台といった娯楽部門の充実ぶりには、熱海のホテル経営者でさえびっくりしてしまいそうだ。  つつましい生活をしている、フィンランドのサンタクロースの話を続けよう。彼には奥さんがいる。世界中の子供たちにプレゼントを用意するために、一年中一生懸命に働いてサンタクロースのお手伝いをしてくれる、何百人もの小人たちと一緒に暮している。フィンランドには昔から小人伝説があるが、とても面白いから、後で改めて一章を設けて話したいので、サンタクロースのお手伝いとしての小人の話も、今は省略しておく。ここでは、ただ、彼らは皆器用で働き者だとだけ言っておこう。  みんなの一日は、サンタの奥さんが作るおいしいおかゆから始まる。それから、大工仕事、織物、陶芸、印刷といった部門別の工場へ仕事に行く。おもちゃの倉庫番をする小人、外でトナカイを世話する小人もいる。小人の子供たちは小人の学校へ通って、大事な地理や工作の勉強をする。その間サンタの奥さんは小人の奥さんたちと一緒に、掃除、パン焼き、洗濯、つくろいものを済ませる。  夏休みはそれぞれ楽しく過ごし、秋になると仕事再開。一番小さくてすばしっこい小人が、良い子の調査に出かけ、その結果をサンタクロースに報告すると、サンタはそれを良い子のリストに書きこむ。世界中からサンタクロース宛てに手紙がどっさり届くが、外国語に堪能な手紙係の小人が辞書を使って読みこなし、どの子のお願いも大きなノートに書いておくそうだ。   サンタクロースの手紙の仕事  私は、一九八一年に我が少年探偵団の外国部員をコルヴァトゥントゥリへ派遣し、その郵便事情をつぶさに調査させたので、彼の報告を聞くことにしよう。 「いやあ、驚いたのなんのって。手紙係の小人は二十人もいるんですけどね、みんな十ヵ国語がペラペラなんですよ。彼らは手紙の整理の他に、電話番の仕事もしてるんですから、秋からは想像を絶する程の忙しさですよ」  と言って興奮気味に帰って来た、外国部員A君の話をまとめると次のようになる。  手紙は毎年約五万通来るという。そのうちの三分の一は外国からで、遠い所では南アメリカ、オーストラリア、そして日本からも。サンタクロースの住所を知らない子供は、トナカイの国、サンタさんの仕事場、雪の国などと書いてくるが、必ずサンタクロースの元へ届くことになっているらしい。十一月二十三日から十二月三十一日までに着いた手紙には、特別なスタンプを押したサンタさんからの返事がくる。フィンランド語、スウェーデン語、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、日本語、スペイン語、イタリア語、ポーランド語なら、手紙係の小人たちはできるらしい。  自分の住所を書き忘れたり、切手を貼り忘れる子供も多くて、サンタさんたちも頭を痛めているようだが、クリスマスが済んでから、プレゼントと手紙の感謝状が舞い込んだりすると、サンタさんはじめ、手紙係の小人たちはうれしくてたまらないという。  サンタの国のテレホン・サービスは十一月二十三日から十二月二十四日まで。平日は八時半から十九時半、土・日は、十二時から十七時で、電話番号はロヴァニエミ(九九一)六一七一一だ。電話機は十台用意してあるので、いつもお話し中ということはないが、サンタさんは仕事がものすごく忙しいから、決して電話の応対はできない、とのこと。クリスマス期間中、この電話は一万五〇〇〇回くらい鳴るそうだ。  以上が、外国部員A君の報告だが、このデータは一九八一年十一月二十四日ペルッティ・コルホネン氏から入手したらしい。私としては、これだけではちょっと満足できない。やはり私が調査に行かなくては駄目だ。まず、ヘルシンキの郵便局へ行こう。  私は運よく、サンタクロースのお手伝いをしていたというリーサ・ヤントゥネンさんに会って、サンタクロースの手紙のすべてを知ることができた。初めて子供たちの手紙に返事を書いた人は、郵便局員のユルヨ・コスキネンという男性だという。それは一九五〇年代のことだった。郵政省が正式にサンタクロースへの手紙に返事を出すようになったのは一九六一年。この年に子供から来た手紙の総数は一二八四通。だが、そのうちの五三七通は差出し人の住所が書いてなかった。住所の書いてある手紙には返事を出した。六八一通が国内、六六通が外国。  約一三〇〇通だった手紙も、五年後には七〇〇〇通、一九七〇年には一万二〇〇〇通と記録的に増えた。そして最近は、なんと三〇万通もの手紙が来るという。そのうち三分の二以上が外国からだそうだ。  返事を書く小人たちも現在は三〇人以上。彼らはどんな言語も読解可能だが、とても忙しいので、この頃はフィンランド語、スウェーデン語、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、日本語、スペイン語、韓国語、ポルトガル語、ロシア語だけで返事を書いている。  小人たちは毎年手紙の山に埋もれて、にっちもさっちもいかない状態。だから、もうテレホン・サービスまでやるような余裕はないらしい。  ところで、子供たちは、サンタクロースへどんな手紙を書くのだろう。私は好奇心が抑えきれず、ヘルシンキにある郵便博物館に飛んでいってしまった。ここにはサンタクロース宛てに来た手紙が保管してある。  ほとんどの子供がプレゼントに望むものを書いている。 「私は、小さな子供用ミシン、スケート靴、電池で動く子供用掃除機がほしいです」  と、自分のほしい物だけ書く子もいれば、家族全員へのプレゼントを詳しくリスト・アップしている子もいる。なかなか賢い子は、 「僕は良い子だったので、次の物をもってきてください」  と、ほしいおもちゃのカタログをすべて貼りつけている。  サンタクロースに捧げる詩を書いている女の子、「友達とクラブを作ったんだ」と秘密を打ちあける男の子、「コルヴァトゥントゥリの小人たちのようにおりこうでいるにはどうしたらいいか教えて」とたずねる子。いろいろいる。サンタクロースに質問する場合は、内容がだいたい決まっているが、ほとんどすべての問いを網羅している例を示しておこう。これは日本人のT・Y君という小学四年生の手紙。 [#ここから1字下げ]  サンタさんは、今何歳ですか。あごひげの長さは何センチでどこにすんでいるのですか。トナカイは、いるのですか。サンタさんは、どこから来て、そこは、どんな所ですか。雪は、どのくらいつもっているか。サンタさんは、日本にはいなくて世界に一人ですか。しんせきやおよめさんや子どもは、いるのですか。食べ物は、ぼくたちといっしょで、まほうつかいとは、ちがうのですか。一人一人えんとつから入ってプレゼントをくばっているのですか。サンタさんは、いつ日本へ来られるのですか。世界中を回っていたらたいへんだけれど、ぼくが子どもの間に来てください。ぼくは、一度サンタさんを見たいです。写真ででもおしえてください。ぼくは、切手をあつめています。つかった切手があったらぜひプレゼントしてください。返事を楽しみにしています。 [#ここで字下げ終わり]  とてもいい手紙だ。リーサ・ヤントゥネンさんが、 「サンタクロースの手紙の仕事は本当に楽しかった」  とおっしゃった意味がわかるような気がする。もう一つ、ちょっといい手紙を紹介したい。これも日本人。 [#ここから1字下げ] さんたのおじさんへ  また、おじさんの忙しくなる季節になりましたね。白い毛皮のついた赤マントは、ちゃんとクリーニングできてますか? トナカイ君たちも、はりきっているでしょう。おじさんも赤いビタミン剤を飲んで元気を出して下さい。  ところで、私のお願いもどうぞきいて下さい。私の家へ、のぶ君とけい君とちえちゃんという三人が、ピアノをひきに来ています。三人ともよくがんばってひきますが、もっと練習すると、もっと上手になります。それで、ピアノを好きになる薬を持ってきて下さい。薬の色は、赤でも黄でも白でもなんでもかまいません。  一回飲むと、少しピアノを好きになって、二回目を飲むと、もっと好きになって、三回目を飲むと、だんぜん大好きになる薬がいいのです。難しいお願いですが、どうぞきいて下さい。  いつも、のぶ君とけい君とちえちゃんのピアノを、トナカイ君と一緒に聴いていらっしゃるでしょう。薬を飲んだ後も、ずっと続けて聴いて下さいね。では、風邪をひかないように、気をつけて下さい。さようなら。 [#ここで字下げ終わり]  M・Mさんという女性だが、大人になってからサンタクロースにこういう手紙が書けるのは、本当に素敵な人に違いない。こんなに素晴らしい手紙をたくさんもらえるのだから、フィンランドのサンタクロースもサンタ冥利につきるだろう。  えっ? あなたもサンタクロースに手紙が書きたくなった? でも、住所がわからない? 心配御無用。世界中でサンタさんほど有名な人はいないのだ。宛名は、   Mr. Santa Claus   Finland  と書くだけで十分。ただ、返事がほしい場合は、受取人の名前と住所をローマ字で書いておくこと。それから、サンタさんの家計を脅かさないために、一通につき国際返信用切手(一枚一五〇円)を二枚必ず同封すること。  もし、フィンランドのサンタクロースから返事がきたら、疑い深い大人になったあなただって、きっと「本物のサンタはこれだ!」と、叫びたくなるだろう。  でも、あまり日本からたくさん手紙が行くと、手紙係の小人たちは目がまわってしまうかもしれないので、大人は少々ひかえめにどうぞ。一九七四年六月のアメリカ郵便公社の発表によると、大リーグの黒人プロ野球選手ハンク・アーロンは、年間九〇万通のファンレターをもらったそうだ。もしサンタさんが、この記録を破るようなことになったら、コルヴァトゥントゥリでは、手紙係を大量にふやさなくてはならないだろう。 (編集部注 現在、サンタクロースへの手紙の受け付けは行われておりません。)   小人たちのクリスマス準備  コルヴァトゥントゥリの生活をもう少し紹介しよう。クリスマスが近づくと、小人たちはプレゼントの包装に忙しくなるが、自分たちのクリスマスの用意も決して忘れない。木や|わら《ヽヽ》を使って飾りを作る。フィンランドのクリスマスには、これらの飾りが欠かせないが、もっと詳しい話は、「クリスマス前のうきうき気分」の章に書くことにする。台所では、学校がお休みになった小人の子供たちが、クリスマスの星形パイやいろいろな形のクッキーを作る。ヨウルプーロといって牛乳入りの甘いおかゆは、小人たちのクリスマスのメイン・ディッシュだが、この中には一つだけアーモンドを入れておく。これが当たった人は幸せになれると、みんなが信じているからだ。クリスマスの食べ物や飲み物については、「クリスマス料理を決定した豚の鼻」の章で徹底的に追究してみよう。  私は、マウリの『サンタクロースと小人たち』を見るたびに、絵の中の物がいろいろほしくなってくる。いったい何がほしいかというと……。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 一 チクチク・ニンニさんの作る人形 二 小人の学校で一番後ろに座っている子が、机の中に隠している子犬(右側) 三 奥さんたちのしているトナカイ模様のエプロン 四 飛行場で働いている人たちの、背中にトナカイがついたブルーのつなぎ 五 小人の子供が、手紙係のおじいさんに渡そうとしているコーヒー茶碗 [#ここで字下げ終わり]  こんなに真剣に、毎回絵の端から端まで見ている読者がいることに、マウリは気づいているだろうか。クリスマス・イブ、いよいよサンタがそりに乗って出かける前に、奥さんがサンタの背中にリューマチのクリームをぬっている絵などは、私のような人情家は涙なくしては見ることができない。このように、作品に感情移入することを常として、偉大な諸芸術家と多くの喜びも悲しみも分かちあってきた私が、「サンタクロース学特講」を受講してくれた学生諸君に言えることは、これしかない。 「君たち自身、愛と感動に満ちた人生を送ってくれたまえ。それこそが、サンタクロースを描いた作品の理解を深めるのだ」  出席日数の少ない学生にも受験資格を与えるので、あきらめずに試験を受けてほしい。但し、追試は行なわない。  試 験 問 題       時間九〇分 『サンタクロースと小人たち』持込み可 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 一 サンタクロースの村には、明らかに左ききと思われる人が何人いるか。 二 サンタクロースの奥さんはエプロンを何枚持っているか。 三 ブラスバンドの中で、一番いい音を出していると思われるのは誰か、また、その理由も簡単に述べよ。 四 小人たちの中で、幸せのアーモンドが当ったのは誰か。 五 次のテーマの中から一つを選び、八百字前後で自由に論ぜよ。 (文科系の学生へ)  A 昔、国立劇場の屋根裏に住んでいた小人の、演出家としての才能  B コルヴァトゥントゥリのクリスマスパーティに見た、人生の縮図 (理科系の学生へ)  A ベタベタ・トピが行っている糊づけ方法の是非  B トナカイの引くそりが、空を飛ぶ場合の安全性(必要な場合には、図やグラフを用いてもよい) 六 小人の学校の時間割の組み方について、所感を述べよ。(教職をとっている学生のみ) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  もみの木ダカラ、コウナッタ   もみの木はスサノオノミコトのどこの毛から!?  普通、クリスマス・プレゼントの|在処《ありか》というのは、きれいに飾りつけをしたもみの木のそばか、ベッドに吊るされた靴下の中、と相場が決っている。絵本などを見ると、暖炉に大きめの靴下がその家の子供の数だけ下がっていて、サンタクロースがプレゼントを持って来てくれるのを待つばかりといった場面もある。プレゼントを靴下に入れるのは、アングロサクソン系の国の習慣だと、何かの本に書いてあったが、なぜプレゼントを靴下の中へ入れるのか、ちょっと考えると不思議だ。  ある人の話によると、ある時、サンタクロースが煙突からプレゼントを落としたら、たまたま暖炉に靴下が干してあって、その中にすっぽりと入った、それ以来クリスマス・プレゼントは靴下の中へ入れることになった、というのだが、これは本当だろうか? この説は、サンタクロースが実在し、かつまた煙突から出入りするのも事実ということが前提になるわけだが、学説としてサンタクロース学会で発表するには、前提を実証する際に多少困難な点があるのではないかと思われる。  この章では靴下なぜなぜ論を展開させるのではなく、クーシの話をしようと思う。フィンランド語でクーシというと、二つ意味がある。数字の六。そして、もみの木。ここではもちろん、サンタさんに関係の深いほう、もみの木のことだ。言葉の話から始めたから、日本語の「もみの木」についても調べておこう。古名は「もむのき」といって、これは樹皮が揉んだように見えるからだという。  時間と空間の壁をのり越えて、世界中から情報を集めるというのが私の方法だから、もみの木がなぜ常緑なのか、古代ギリシャの話にも耳を傾けてみよう。伝説によると、青年アティス(ギリシャおよびローマの植物の神)が自殺しようとしたとき、シビリー(天地の豊熟を象徴する女神)が彼をもみの木に変え、その木の下で悲しんでいると、ゼウス(オリンポス山の主神)がこの木を常緑にした、ということだが、この話だけで、もみの木がなぜ常緑なのか、読者の皆さんには納得していただけただろうか。いいえ、まだ?  実は、私にもわからないのだ。たぶん、もみの木がなぜ常緑なのか、というような質問には、誰も答えられないだろうと思う。パンダはなぜ白と黒なのか、と問われても、動物学者が答えられないのと同じだ。ただ私は、常緑のもみの木がクリスマス・ツリーとして採用されたいきさつについてなら、話すことができる。つまり、もみの木ダカラ、コウナッタ、というあたり。  クリスマス・ツリーとしてのもみの木の話をするにあたって、私はゼロから出発してみたい。原点に立ち、「木って何だろう」というところから始めよう。私の素朴な疑問に一〇〇パーセント答えてくれる本がある。富山和子さんの『森は生きている』(講談社)は、小学中級から、と書いてあるように、子供を対象とした本だが、大人が読んでも読みごたえがある。こういう本こそ、絶讃すべき書物だと思う。この本は、森林のもつ様々な働き、日本人と森林との長い歴史について書いてある。目次をながめてみよう。 [#ここから1字下げ] 日本は森の国です  木のくらし  木はどのようにつかわれたでしょうか  木は生きものです  紙のおくりもの  火のおくりもの  水と土のおくりもの 山国の人たち  森林は人間がそだてました  山国の人たちは、心のやさしい人たちでした  山はとてもにぎやかでした  山は神のすむ場所でした  植林のはじまり 森林のはたらき  森林は風をふせいでくれました  森林は雪もふせいでくれました  森林は気温を調節します  森林は火事もふせいでくれました  海岸林は国土をつくってくれました  森林は海のさかなもやしなってくれました  森林は風景をつくりだしてくれました  外国の森林の歴史 土こそ人間をまもる  もしも山に人がいなくなってしまったら  土こそが人間をまもる [#ここで字下げ終わり]  目次を見ただけで、知識の豊富な人ならその知識を整理して思い出せるかもしれない。本文に入る前に、「わたしたちのまわりには、森林のおくりものがいっぱいです」と始まる前書きがあり、新聞、ノート、えんぴつ、輪ゴム、運動ぐつのゴム底、柱、床、天井、机、椅子、テニスのラケット、バット、ピアノ、こけし等、私たちの身の回りに、いかにたくさん�森林のおくりもの�があるか注意を促してくれる。  木の皮からとれるタンニンは、インクやペンキや染料に使われるし、この他にも木は、酢、アルコール、機械油、合成樹脂、接着剤、薬品、フィルム、衣類、アイスクリームの中にまで入っているという。炭酸ガスを吸って酸素を出すのも木の役目、根や葉がくさって畑の土をこやしてきたのも木だった。大昔の人たちは動物を追うのに木の枝を使ったが、それが道具のはじまりとなった。川を渡るのに木を渡した。これは橋のはじまり。木をくりぬいて丸木舟を作った。これは乗り物のはじまり。木を燃やして食べ物を煮炊きした。つまり、人間が火を使い始めた時から、木はかけがえのないエネルギー源。人類の文明のふるさとは森林だった、と、いうわけだ。つまり、人間と木には長い長いおつきあいの歴史があるのだ。  この本を読んでよかった。クリスマス・ツリーの話をするにも、「木とは何か」という基礎が納得できなければ、私は不安で先へ進めない。もう一つ、この本に出てくる植林の神様、スサノオノミコトの話も読んでおこう。『日本書紀』には次のように記されているという。  スサノオノミコトは、 「この国に、船がなければ困るだろう」  といって、自分のひげをぬいてまきました。すると、それがスギの木になりました。今度は胸の毛をぬいてまきました。すると、それがヒノキになりました。おしりの毛をぬいてまきました。それは、マキの木になりました。まゆ毛をぬいてまきました。それは、クスノキになりました。  こうして彼は、山々に木を植えると、人々に、木の使い方も教えていきました。 「スギやクスノキは、船を作るのに使いなさい。ヒノキは、神社を建てるのに使いなさい。マキは、棺おけに使いなさい。その他にもいろいろな木を植えて、育てていきなさい」  と。   クリスマス・ツリーはエデンの園の命の木  もみの木も、スサノオノミコトの毛でできたのか、ちょっと気になるところだが、まあそれはいいとして、そろそろクリスマス・ツリーの話に入ろう。日本ではクリスマス・ツリーというと、どれもが同じような飾りつけになっているが、私はフィンランドでいろいろなクリスマス・ツリーを見た。一番大きいのは、ヘルシンキにあるストックマンというデパートの前に飾られるもみの木。ストックマンの前のアレクサンテリンカトゥという通りは、一九四七年以来、クリスマスになるときれいな電飾が施される。その下を歩くのも、市電で通過するのも気持がいい。十二月に入ってストックマンの前に大きなもみの木が立ち、アレクサンテリンカトゥにクリスマスの飾りがつくと、ああ、またクリスマスがやって来たな、と誰もが思う。  家の中に飾るクリスマス・ツリーで一番大きいのを見たのは、サトゥの家でだ。外国の家の天井は高いが、床から天井まで届く程大きなもみの木だった。森からわざわざ運んできたのだろう。このもみの木には特に飾りはなく、小さなろうそくが所々についていただけだ。フィンランドで見たクリスマス・ツリーはだいたいシンプルな飾りつけが多かった。パシの家に招かれた時は、りんごだけの飾りつけだったが、もみの木ってこんなにきれいだったかなあ、と感動したほどだった。  市販されている飾りの中で、色とりどりの光った球があるが、あれはいったい何か、何を象徴しているものか、これまでに考えたことがある人はいるだろうか。『旧約聖書』の創世記第二章に、  |主《しゆ》なる|神《かみ》は、|土《つち》《アダマ》の|塵《ちり》で|人《ひと》《アダム》を|形《かたち》づくり、その|鼻《はな》に|命《いのち》の|息《いき》を|吹《ふ》き|入《い》れられた。|人《ひと》はこうして|生《い》きる|者《もの》となった。|主《しゆ》なる|神《かみ》は、|東《ひがし》の|方《ほう》のエデンの|園《その》を|設《もう》け、|自《みずか》ら|形《かたち》づくった|人《ひと》をそこに|置《お》かれた。|主《しゆ》なる|神《かみ》は、|見《み》るからに|好《この》ましく、|食《た》べるに|良《よ》いものをもたらすあらゆる|木《き》を|地《ち》に|生《は》えいでさせ、また|園《その》の|中央《ちゆうおう》には、|命《いのち》の|木《き》と|善悪《ぜんあく》の|知識《ちしき》の|木《き》を|生《は》えいでさせられた。 (「聖書」新共同訳・日本聖書協会一九九五 創世記二章より)  と書いてある。クリスマス・ツリーは、エデンの園に植えられた命の木、善悪を知る木のシンボルとして存在していると言われる。もみの木の常緑が不滅の生命を象徴するにふさわしいからだという。だから、飾りつけに使う球は果実を表わしているのだ。  こんな伝説もある。キリスト誕生の夜、自然が全く驚くべき変化をとげた。川からはワインが溢れ出し、木々の枝は花をつけ、金のりんごが熟した。クリスマスの木の飾りつけ以前にも、もみの木に限らず、常緑樹にりんごや花やろうそくをあしらって冬の祭りを祝うことはあったらしい。クリスマスにもみの木やヒイラギを用いるのは、神聖なカシの木を崇拝する、ヨーロッパの樹木崇拝に基づいているのだろう。  ハルツでは夏至の日に、大きなもみの木を広場へ立てて花や色づけした卵を飾り、昼間は若者たちが、夜は年配の人たちがその木のまわりで踊ったという。異教的な歌をうたってこの木をめぐると、枝の間にかくれている小鬼が逃げださないで、家人に気づかれずに手助けをすると信じられていたらしい。現在フィンランドでは、夏至祭に白樺の若木を飾るが、これには特に飾りつけはしない。  もみの木の、クリスマス・ツリーとしての歴史をたどってみよう。タリンやリガでは一五一〇年頃に、ギルドに属している独身のドイツ商人たちが、クリスマスにたっぷりとお酒を飲んだ後、二本のもみの木を立て、紙でこしらえたバラで飾り、そのまわりで踊ったという。このもみの木は最後に燃やされたらしい。タリンのクリスマス・ツリーについては、すでに一四四一年にも記録がある。  昔、ストラスブルクでは飾りつけをしたもみの木をmaiと呼んだが、これには「魔法の祝福をもたらす緑の枝」という意味がある。一六〇五年の記録には、色紙で作ったバラやクッキーなどのお菓子で、クリスマスにもみの木を飾るのがストラスブルクの古い習慣と記されているから、それ以前からすでにクリスマス・ツリーがあったと考えられる。  クリスマス・ツリー誕生の地はドイツ。そこからヨーロッパ各地へ、そして全キリスト教国へ広まった。移住したドイツ人家族が、たとえばデンマークやアメリカでクリスマス・ツリーの存在を広く知らしめた。もみの木にろうそくを飾る習慣については古い文献に出ていないが、これには伝説がある。初めてもみの木にろうそくを飾ったのは、マルティン・ルターだという。そう。マルティン・ルターといえば、あの宗教改革のルターだ。その伝説とは……。  クリスマスの前の晩、ルターがウィッテンベルクの家へ帰る時だった。空は澄み、星が輝いていた。彼は一人で雪の積もった森をぶらぶら歩いていた。高くそびえるもみの木の上には数えきれないほど多くの星がまたたいていた。その素晴らしい光景がルターの胸を打った。彼は家に帰るとすぐ、森からもみの木を切ってきて、子供部屋に立て、枝にたくさんのろうそくをつけて火をともした。そして、きれいに光を放つこのもみの木のまわりに家族を集めた。この木を見て、子供たちもルターが森で経験したあの感動を味わうことができた。  これはあくまでも伝説であって、事実ではないらしいのだが、時代の英雄ルターの影響力は強く、一五三六年ウィッテンベルクで家族とクリスマスを過ごすルターの絵が描かれると、その絵の中にある、ろうそくのともったもみの木が人々の注目を集め、しだいに広まっていったらしい。  はじめ教会はクリスマス・ツリーを異教的、反宗教的なものとして反対していた。クリスマス・ツリーは、カトリックの時代にカトリックの国で生まれたものだが、教会へ受け入れられたのはプロテスタントの方が先だ。それは、一八四〇年代といわれている。カトリック教会はそれより五〇年遅く、クリスマスの飾りとしてもみの木を受け入れた。  歴史の話は程々にして、この辺でちょっと休憩して、今年のクリスマス・ツリーの飾りつけ計画を立ててみよう。日本では七夕に、笹の葉サーラサラという飾りつけをするが、あれはやはりサーラサラと音のする笹だから、まわりにゆかたを着た子供たちが立つとよく似合うのだ。クリスマスには、やはりもみの木がいい。あの安定した三角形は、冬の祭りにふさわしい。飾りをつけるのにも手頃だ。もし仮りに、さるすべりがクリスマス・ツリーだったら、イブを迎える前に飾りが皆すべり落ちてしまうだろうから。   上品な大人のツリーの飾り方  飾りつけをするには、まずもみの木が必要だ。フィンランドの人たちは、毎年森から切ってくるか、市場などで買う。私の家では、子供の頃庭にもみの木を植えておいて、毎年大きな植木鉢に移して飾ったものだ。せっかく飾るのだから、ビニール製のもみの木だけはやめよう。中途半端な物があるくらいなら、何もない方がずっといい。  美しいクリスマス・ツリーを望むなら、今までのクリスマス・ツリー概念を捨てなくてはいけない。できるだけシンプルにして上品な大人のツリーを作ろう。飾りの種類を一つに決めて、りんごだけ、電球だけ、とするのも一案だ。小さな旗の連らなっている飾りもある。わら細工ばかりも、落ちついた色できれいだ。お菓子を下げるにしても、包み紙の色を統一すればなかなか結構。もみの木の先には、たいてい大きな星をつけるが、立体になっているかわいい天使でもいい。  自分で作った物を飾るのが一番望ましいのだけれど、時間のない人は市販の飾りで間に合わせてもかまわない。ただその時に、どれとどれを選ぶかが問題だ。くれぐれも雪からなにからワンセットになっているような飾りは買わないよう、気をつけてほしい。ドイツには、クリスマスの飾りを専門に作っている大きな会社があり、カタログには一万三〇〇〇種類が紹介されているというから、さすがクリスマス・ツリー誕生の国といった感じがする。  クリスマスの飾りは、一八六〇年代から量産化され、ドイツ中部がその中心となっていた。初期のものは、りんご等ほとんどがガラスでできていたという。きっと存在感があって、愛着の持てるような飾りだったのだろう。  もみの木の飾りつけが済んだから、話を先へ進めよう。フィンランドのクリスマス・ツリーの話をしたいが、その前に、フィンランドのもう一つの習慣を紹介しておこう。手帳やカレンダーを見るとすぐわかるのだが、毎日の日付けの横に人の名前が書いてある。二月一日はリーッタ、五月三日はオウティ、十月十日はアレクシスというように。フィンランド人は誕生日の他に、自分の名前の祝日にもみんなから祝福される。人によっては、リーッタの日に生まれたからリーッタという名前がつくこともあり、こういう場合は誕生日と名前の祝日が重なる。十二月二十四日は、もちろんアダムとイブという名の祝日だ。聖書に、神は同じ日にこの二人を創ったと書いてあるからだ。  クリスマス・ツリーとしてもみの木を飾るようになる前に、南西フィンランドではこの名前の祝日に、もみの木を居間へ運び、その枝にプレゼントや紙で作った飾りをつけたそうだ。子供たちは自分の名前の祝日にプレゼントのたくさん吊るされた小さなもみの木をもらったが、このもみの木は夜中に子供のベッドのそばへそっと運ばれた。なんとなくクリスマスに似ている。フィンランドのクリスマス・ツリーは、これが原形になっているらしい。  つまり、一人一本。どの人にもプレゼントのたくさん吊るされたもみの木が一本与えられた。そしてそのもみの木はクリスマスの間中きれいな飾りとしてみんなの目を楽しませた。一八二九年、ヘルシンキのオット・ヴィルヘルム・クリンコヴストロムの家庭では、八本のもみの木が飾られていた。これがフィンランドでは、もみの木と共に過ごすクリスマスの始まりだという。  ルターのクリスマス・ツリーの伝説がフィンランドに伝わったのは、十九世紀になってからだった。一八七八年、雑誌にルター家のクリスマスの絵が掲載された。もちろんそこに描かれたもみの木は、画家が想像したものだが、国民の大いなる師として尊敬されていたルターのクリスマス・ツリーは、すぐに広まっていった。  クリスマス・ツリーの話はこれくらいにしておこう。日本の門松の歴史も調べてみたくなったが、サンタさんから、 「ちょっと僕とは関係ないんじゃない?」  と言われそうだから、やめておく。最後に、もう一冊大事な本に登場してもらう。内村鑑三の『デンマルク国の話』だ。これには、不毛の原野だったユトランド半島に、もみの木を植林したダルガス親子の苦労話が書いてある。ユトランドの土地にノルウェーのもみの木が適していると知って苗木を植えるが、五、六年もすると枯れてしまう。今度はノルウェーのもみの木の間にアルプスの小もみを植える。するとこの二種類のもみは一緒に育ち始めるが、ある程度まで育つと生長が止まってしまう。期待、努力、失望を繰り返した挙句、小もみを途中で切りはらうと、はじめて大もみが生長することに気づく。この発見によって、不毛の地ユトランドに美しい森林が茂るようになったそうだ。デンマークの人たちがもみの木を飾ってクリスマスを楽しめるのも、このダルガス親子の努力があったからこそだ。この親子は、さしずめデンマークのスサノオノミコトというところだろうか。  私は「木って何だろう」というところから始めた。木を飾るには、木が無くては困るからだ。物とつきあうには、物を知らなくてはつきあえないからだ。これからもずっともみの木を飾るなら、もみの木の将来も気になる。フィンランドの森林は国土の七三パーセントを占めている。フィンランドは、ロシア、スウェーデンに次いで、ヨーロッパで三番目に広い森林地帯を持っている。その面積はおよそ二二〇〇万ヘクタール。人口が少ないから、一年に一回くらいもみの木を切っても、フィンランドの森が全滅するようなことはないと思うが、エネルギー関係者はなんて言うだろう。サンタさんを迎える日には、やはりもみの木があった方がいい。  もみの木の章だから、最後にもみの木の音楽も聞いてみよう。シベリウスは交響曲、交響詩の作曲家として有名だが、とても美しいピアノ曲の小品も残している。ほとんどすべてのフィンランド人にとってそうであるように、彼にとっても自然の存在がこの上なく大切だったのだろうと感じさせる曲が多い。「樹の組曲」(作品七十五)は、ピヒラヤの花咲く時、孤独な樅の木、ポプラ、白樺、樅の木、という題の五曲から成っている。  私が初めて「樹の組曲」を聞いたのは、今から二十年以上前のこと、舘野泉さんのコンサートでだった。こういう曲を聞くようになった頃から、私は透明なリリシズムの魅力に傾倒していったのだが、中でも「孤独なもみの木」は、シベリウスの姿が重ね合わせになっているようで印象深い。  やはり舘野さんの演奏で聞きたい。 [#改ページ]  トナカイ※[#「○に秘」]報告   ガチョウがサンタのそりを引く?  北極圏のラップランドへ行ってトナカイを見るたびに、トナカイとカモシカってどう違うのかな、といつも疑問に思う。しばし考えた末、サンタクロースのそりを引くのがトナカイ、引かないのがカモシカ、と定義してみたのだが、これでは何一つ明らかにならない。こういう脳ミソを持つ人間はちょいちょい、あのずしっと膝に重みのかかる平凡社の『世界大百科事典』のお世話になる。カモシカの項を調べてみた。  本州、四国、九州および台湾特産のヤギに似た動物。|偶蹄《ぐうてい》類でウシ科に属する。体長一〜一・一五m、肩の高さ〇・七mくらい、雄雌とも八〜十五�の、わずかに後方に曲る、とがった洞角を有する。亜高山から高山帯に多く、けわしい岩山の針葉樹林に単独で住む。昼行性で、食物はシャクナゲ、ツガ、ヒノキ、スギなどの葉や若芽、種子など。六月頃一児を産む。敵に会えばけわしいがけに逃げ、角でつき落す。  カモシカという名前なのに、ヤギに似ていてウシ科に属する、というところが、私のような潔癖性には許し難い。いっそのこと、カモヤギか、カモウシか、できればヤギウシという名前に変えたらどうなのだろう。草食動物は肉食動物に比べておとなしいと聞いているが、敵をがけから角でつき落とすなんて、ずいぶん大胆なことをするものだ。でもまあ、この動物はフィンランドにはいないようだから、サンタクロースのトナカイががけからつき落とされる心配はない。  サンタクロースが乗るそりを引いているのは何ですか、と質問したら、全員が自信を持って「トナカイ」と答えるだろう。が、これはちょっと違う。私たちが普通見かける絵本には、トナカイがそりを引いている絵が出てくるが、私の手元にあるフィンランドの出版社から送られてきた絵本を見ると、ガチョウがそりを引いているのもあるし、ブタが馬車のように大がかりな車を引いているのもある。  一晩中、それも世界中そりを引いてかけめぐる体力から考えると、ガチョウさんの場合は途中でドクターストップがかかりそうだし、ブタさんの場合には、足の長さと走行距離を考えると一晩で任務を果せるかどうか懸念される。ある文献によると、サンタクロースのそりを引くトナカイは正式には八頭とあるから、ガチョウ一羽やブタさん二ひきでたやすくできる仕事ではなさそうだ。そりを引くトナカイの名前が『クリスマスのまえのばん』(偕成社)に出ているので、紹介しておこう。ダッシャー、ダンサー、プランサー、ビクスン、コメット、キューピッド、ダンダー、ブリッツェンの八頭なんだそうだ。 『国民百科事典』(平凡社)によると、トナカイは……。  中央の一対のひづめは大きく、広く左右に開くことができる。その後方に位置する側ひづめもよく発達し、これらの四個のひづめを地につけて歩く。そのためよく雪の上を歩くことができる。  やはりトナカイがそりを引くのが適任ということになりそうだ。それにやはり肉食動物の、たとえばライオンとかがワーオーとほえながら近づいてきたら、子供たちにはちょっと迫力がありすぎる。草食動物としてのおとなしい性格、不言実行型の誠実さが面接試験で審査員に良い印象を与えたのだろう。  トナカイは一見おとなしい。人間社会では、一見しておとなしい人物にかぎって特殊な私生活を営んでいたりするから、私としてはぜひトナカイの私生活ものぞいてみたい気がする。走行訓練が終わってからの、彼らの足どりを追ってみよう。ベールをはがすと、そこにはどんな私生活が展開しているのだろうか。『クリスマスさんとゆかいな仲間』には、私の好奇心を満たしてくれるトナカイのすべてが書いてある。まずはもちろん男性の私生活から。  彼らは一日中そり引きの訓練や運行理論を勉強するので、その疲れをいやすために夜は�雄じかバー�へ行くらしい。もちろんネクタイをしめて。彼らの好きなのは、ひづめ巻印の紙巻タバコだそうだ。旅行経験の豊富な年配のトナカイたちは、アメリカの「ツーファー」葉巻を好むという。タバコを吸いながら飲むのは「こけジュース」という地酒。「まろやかな風味に加え、ずらりと並んだ踊り子の脚線美にうたれたときのように、おもわずピリリとくる辛さがうける」そうだ。トナカイさんたちもなかなかやる。蝶ネクタイをしめたバーテン・トナカイと話し合っている時の、カウンターにひじをついてちょっと斜にかまえた姿など、あだっぽくて、ともすれば私もほれてしまいそう。  さて、レディ・トナカイたちはどんな風に人生をエンジョイしているのだろう。まずファッションからさぐってみよう。彼女たちには他人に左右されないポリシーがあるようだ。だから、パリ、ニューヨーク、ローマからの借り物でない独自のセンスを活かしている。よくカールされた長いまつげには「煙突すす」のマスカラをつけているし、口紅は「かんしゃく玉的」熱情を感じさせる赤を使っている。ひづめに装飾を施すのは女としてあたり前のこと。ピンクの星を二、三個描き、ペンキが乾いたら、風雪にたえられるようニスをぬってしあげる。香水は最新流行の「情熱のきわみ」をつけている。  頭には飾りの著しく派手な帽子をかぶって、石庭を見おろすサンルームに集う。おしゃべりの内容は? もちろん、うわさ話。レディ・トナカイたちはみんな甘党だから、大好物の桜んぼがのったチョコレート・ケーキをほおばり、お茶を飲む。ケーキをつい食べすぎてしまうので、ダイエットだってちゃんと考えている。甘さをおさえた、レモンと人参の冷たいカクテルを飲んで、カロリーをとりすぎないよう注意している。  サンタクロースは日課のうち、まず最初にトナカイ保育園を訪問する。そこで保母をしているヌースさんなどは、サンタクロースのあの白くて立派なおひげにあこがれているので、サンタさんが来る前には、スミレの香水を一吹きよけいにふりかけるそうだ。レディ・トナカイたちもなかなか隅におけない。サンタさんの所にもそのうち「週刊ヒイラギ」あたりの直撃インタビューが押しよせそうだ。  トナカイたちも私生活ではある程度気ままにやっているが、空とぶ乗務員ともなると、いろいろ規制されることが多いらしい。ウェストサイズが一三五センチをこえると、風の抵抗が大きくなってスピードがおちるし、飛行中の行動もにぶくなる。だから理想の標準体重は一八〇〜二二五キロだそうだ。病院やお年寄りの家へプレゼントを配達する時には、ひづめの防音カバーをつけるとのこと。彼らもなかなか気をつかっている。心の優しい動物だ。  と、まあ『トナカイのよもやま話』という文献をのぞいての報告だが、この辺で脳ミソを冷やしてすこし現実に戻ろう。このままトナカイの私生活を追跡したら、きっと見てはいけないもの、聞いてはいけないことの存在にまでつきあたるだろうから。   本家本元ラップランドのトナカイの話  サンタクロースの話はイギリスへ伝わって煙突から入るようになり、北欧へ伝わってトナカイがそりを引くようになったと言われている。この間ヘルシンキへ行った時、トナカイについての詳しい本、『いかにして私はトナカイの世話をするか』を見つけた。この本の著者であり、トナカイ博士であるパーヴォ・クルケラさんが、 「どうぞフィンランドのトナカイを、日本の皆さんにも紹介して下さい」  と言って下さったから、この本を読んで、本家本元の北欧に棲息するトナカイを研究してみよう。  まず、トナカイの数を確かめておこう。世界中のトナカイのうち七割以上がロシアに住んでいて、その数はおよそ三〇〇万頭。ノルウェーとフィンランドに約二〇万頭ずつで、スウェーデンはそれより幾分多い。アラスカには五万頭いる。フィンランドにはトナカイの放牧だけを生業としている家族が約八〇〇世帯ある。フィンランドのトナカイの外見はどうかというと、南部にいるほうが足が長くて毛が白く、北部にはその反対に足が短くて、いくらか濃い色の毛をしたトナカイがいる。  わざわざ人間がトナカイを飼育しているのだから、トナカイは人間に何かを提供してくれるわけだ。それは労働である場合もあるし、トナカイ自身である場合もある。労働の場合は、荷をのせて運ぶこと、スキーをはいた人及びそりを引くことができる。一九五〇年代まで、トナカイは人を乗せたそりの引き手として活躍していた。労働以外にトナカイは、肉は食用、乳は飲料、角は薬用、糞は燃料として、人間に提供できる。トナカイは一生の間に十回から十二回、角が生え替る。夏に切った角からは、心臓や血液の循環に関する病気に効く薬ができる。毛皮は言うまでもなく、靴、手袋、敷物、皮ひも、弓の弦というように用途が広い。ラップランドで私は、サーミ人がはいているようなトナカイの毛皮でできた靴を買った。トナカイの毛皮はどこの市場にも売っていて、値段も手頃(トナカイ一頭分が数千円)だから、旅行者はつい敷物にと買っていくが、トナカイの毛はぬけやすいので、あれは壁に飾った方がいい。  トナカイは草食動物だが、森の中ではどんなものを食べているのだろう。スカンジナビアのトナカイは二五〇種類の植物を食べていると言われているが、その中でもヤカラという、ちょっと白っぽい緑色の苔がトナカイの好物だ。『サンタクロースと小人たち』のトナカイが、プレゼントを配り終わった後で、ごほうびにもらっているのがヤカラだ。ヤカラの他に、トナカイは草もきのこも食べる。  ヤカラやきのこがおいしいからといって、トナカイは無防備に食べてばかりいられない。森の中には怖い敵もいる。熊、オオカミ、穴熊がトナカイをねらっている。トナカイは上の方に注意を払うことがないので、木の上から穴熊におそわれる。春になると、冬眠から目覚めた腹ぺこ熊が、トナカイの子供をおそう。このように、他の動物におそわれるケースが年に一五〇〇回以上ある。怖ろしいのは腹ぺこ熊だけではない。特に冬は、食べる物を探して森から出てくると、自動車や電車にひかれることもある。一年間のトナカイの交通事故死は二四〇〇件にも達している。自動車や電車に限らず、冬にはスキーを楽しむ大量の団体旅行客がラップランドを訪れるので、トナカイの平和な暮しが乱されているそうだ。  トナカイの数がどんどん少なくなってしまったら、サンタさんも仕事がはかどらないから心配になるに違いない。でも、それほど心配するには及ばない。なぜなら、トナカイにもちゃんと赤ちゃんが生まれて数が増えていくのだから。トナカイの赤ちゃんは、約七ヵ月半お母さんトナカイのおなかにいる。五月の末頃生まれるが、生まれたてのトナカイは五〜七キロの体重がある。お産をする時には、お母さんトナカイは他のトナカイから離れて茂みの中へ入る。その時は、決して誰も邪魔をしてはいけない。  赤ちゃんトナカイはお母さんトナカイの乳を飲んで育つ。生まれたては、一時間に三回お乳を飲む。一回に一分間くらいお母さんトナカイの乳首を吸う。生後四週間から六週間ほどたつと、草も食べられるようになる。三ヵ月目に入ると、お母さんのお乳を飲むのも五時間に一回、それも一回におよそ二十五秒間。お母さんトナカイのお乳は五月から九月までの間に、全部で四五リットルくらい出ることになる。  昔は、お母さんトナカイのお乳が必要だったのは、赤ちゃんトナカイだけではなかった。人間もお母さんトナカイの恩恵にあずかっていたのだ。人間もトナカイの乳を飲んでいた。トナカイの乳しぼりは十九世紀の末頃まで行なわれていた。トナカイの乳からチーズを作ったこともあった。濃くて固まりやすいから、それほど乳の量はいらないらしい。  トナカイは人間に、肉も食用として提供してきた。一年に約三万九〇〇〇頭のトナカイが食用となる。トナカイの肉は、牛肉や豚肉と違い、それほどちょいちょい食べるわけではない。ラップランド名物とでもいうところだろうか。私もラップランドへ行くたびにトナカイ料理を食べる。初めて食べる時には誰もが、臭いかなと心配するが、そうでもない。牛肉や豚肉より少し|硬《かた》くて歯ごたえがあり、慣れればおいしい。じゃがいもや野菜と一緒にスープにすることもあるし、薫製を作ることもある。レバーも食べられるとお料理の本に書いてある。トナカイはフィンランド語でポロという。ラップランドへ行ってトナカイ料理が食べたかったら、レストランへ行って、「ポロを下さい」と言えばすぐわかる。  ラップランドにはサーミ人が住んでいる。彼らとトナカイのつきあいはとても長い。フィンランドには六七種類の哺乳類がいるが、サーミ人と一番関係が深いのは、なんといってもトナカイだろう。トナカイ動物学、トナカイ料理が終わったので、次はトナカイ民話採集の旅へ出よう。トナカイが出てくるサーミ人の民話があるので、あらすじだけ書いてみる。  ラップランドのある山に、AとBという姉妹が住んでいました。AにもBにも一頭ずつトナカイがいて、その乳をしぼって生計をたてていました。ある日、二頭のトナカイが話をしました。 Aのトナカイ「もう、うちの奥さんの所を離れて、どこかへ逃げたいと思ってるの」 Bのトナカイ「なぜ?」 Aのトナカイ「うちの奥さんはとてもいじわるで、乳をしぼる時にぶったり、けったりするから」 Bのトナカイ「私は決して逃げたりしない。だって、うちの奥さんはとてもやさしくて親切な人だもの」  Aのトナカイはとうとう奥さんのいじわるにがまんができず、どこかへ行ってしまいました。トナカイのいなくなったAはBをねたんで、Bのトナカイにいじわるをしようとしましたが、BのトナカイはいつもBと一緒にいるので、うまくいきませんでした。Aは時々Bから食べる物をもらって暮していましたが、年をとって働けなくなると、もう誰もAに食べ物をあげようという人はいません。Aがどんなにたのんでも、みんなはこう言ってことわりました。 「おまえはトナカイにいじわるをしたじゃないか。トナカイの世話もろくにできなかったんだから、飢え死にするといいさ」  こういう民話を読むと、サーミ人とトナカイの関係がよくわかる。ラップランドでは、トナカイはとても大事な動物なのだ。   サンタさん出現時における音楽的効果  サンタさんがトナカイの引くそりに乗ってやって来る日、クリスマス・イブのトナカイについて考えてみたい。サンタさんがやって来る時には必ず、シャン、シャン、シャン、シャンと、鈴の音が聞こえる。この鈴は、サンタさんが手に持っているわけでもなく、そりについているわけでもない。トナカイについているのだ。サンタさんがやって来る時に音がするのは、このトナカイについている鈴の音だけだから、ここではその鈴の音を分析してみたい。もう少し対象を広げるなら、「サンタさん出現時における音楽的効果の考察」ということになる。  自分でもびっくりするほどテーマが難しくなってしまったので、まず専門家に相談することにした。作曲家のS君にきいてみた。 「サンタクロースのそりを引くトナカイには鈴がついてるでしょ。あの鈴の音を分析したいんだけど……」 「音がするものはね、みんなシャーマニズムと関係があるんだよ」 「飾りとか、目印とかじゃなくて?」 「もちろんそういう意味もあるだろうけど、それ以前の段階でね。神社で鳴らす鈴だってそうなんだ。浮遊している気を、鈴を鳴らすことで集めるんだよ」 「へえー。シャーマニズムねえ……」 「詳しいことは調べなくちゃわかんないけどね。こんど、調べとくよ」  S君の講義を楽しみにしていたのだが、彼は彼で自分のクリスマスに忙しいらしく、トナカイの引くそりに乗って「戦場のクリスマス」という映画のロケに行ってしまった。だから私は、S君の与えてくれたシャーマニズムというヒントを参考に、自分でこの難題を解かなくてはならない。まず手始めとして、この世における鈴の歴史的変遷をたどってみようか。  その前にちょっと、鈴という名前について触れておこう。「鈴」(すず・レイ)。音訓ともにその音声から起っていて、音が清く澄んでいるために「すず」と称したと言われている。原始楽器の一種だから、世界中の諸民族の間で用いられてきた。『国民百科事典』によると、  先史時代から世界各地に分布しており、原始宗教においては除魔の呪力があると考えられていた。この点で鐘と深い関係がある。仏教の|鈷鈴《これい》や、神前で参拝人が鳴らす鈴はその流れをひいている。しかし鈴がひろく愛好されたのは、それが呪具であった時代から下って装身具となってからであった。日本でも古墳時代になると副葬品中に多種の鈴が見いだされる。手鈴、|足結鈴《あゆいすず》、腕輪に使われたと思われる|鈴釧《すずくしろ》などをはじめ、家畜や家具、武具にもつけている。この風習は現在でも、かんざしの鈴やぽっくりの鈴、ネコの首輪などに残っている。鈴は楽器としても用いられた。日本でも神事用の鈴が神楽などで楽器として欠くことのできないものとなり、さらにさまざまな雅楽などにとり入れられた。  ということだ。呪具から始まって装身具となったが、はじめから祭典用の楽器としても使われた。祭典用と装飾用が合わさると、郷土玩具としての鈴にもなるが、音響だけを考えるなら、もちろん通報機としての役割も担ってきた。仏具として用いられる鈷鈴のようなものも、はじめは一種の武器をかねた除魔具であって、馬具に多くの鈴がつけられたのも、同じような意味があったと思われる。古墳時代の家畜である馬、犬、鷹には鈴がつけられていた。馬鈴にはこの頃からさまざまな形態があったらしい。  西洋ではどうだったのだろう。鈴と鐘の両方をたどってみると、世界で最も古い鐘はバビロンで発掘されている。今から三〇〇〇年も前のものらしい。家畜に鈴や鐘をつける歴史も古く、アッシリアの彫刻や聖書にも記述があるくらいだ。ギリシャ・ローマ時代には軍馬や戦車にもつけていた。古くから鐘は、火災、洪水などの災害をよける保護力や、悪魔をしりぞけたり、飢饉や悪疫を終らせたりする力をもっていると信じられていた。サンタさんのそりをひくトナカイの鈴は、家畜や軍馬につけた鈴の系譜に属していると考えていいのだろう。  ジングル・ベルという言い方があるが、このジングルとは鈴の鳴る音そのものでもあり、「二輪馬車」を意味することもある。鈴を楽器として用いる場合には、ジングルまたはジングル・ベルと呼ばれるそうだ。プリミティブな民族の中には、鈴を全身につけて装飾と踊りの伴奏とをかねることもあるが、これではシャーマンに近くなる。シャーマンは太鼓や鈴などのリズムによって次第に精神を高揚させ、ついには忘我の状態に達する。サンタさん自身にたくさん鈴がついていれば、サンタさんはシャーマンだと断定できるかもしれないが、そうではないのだから、「サンタさん=シャーマン説」は有力とは成り得ない。だが、ポーランドの人類学者ツァプリカが北極ヒステリーと名づけた一種の精神病が、シベリアや極北地方の民族に多いと言われているから、サンタさんが北極ヒステリー(巫病)である可能性もなくはない。  冗談はともかく、今までの調査で、鈴は昔魔よけとして使われたことがわかった。次は鈴の音をよく聞いてみよう。雪降る夜、遠くからシャン、シャン、シャンと鈴の音が聞こえたら、とても美しいと思う。鈴の音以外にふさわしいサンタさんの現われ方はあるだろうか。落語家が出てくる時のような寄席のお囃しでは、少しにぎやかすぎると思うし、相撲の呼び出しさんにサンタさんの出現を披露してもらっても、ちょっとぎょうぎょうしい。サンタさん自身が火の用心も兼ねて拍子木を打ちながら来るというのは、そりの速度と拍子木のリズムがうまくあわないような気がする。  音楽的効果を考えるなら、まずメロディかリズムかというところにしぼってみる必要があるのだろう。そして、楽器を使うとすれば、その大きさも考えなくてはならない。もしサンタさん自身が音楽効果も担当するとなると、そりに座った状態で弾ける楽器が必要になる。ギター、マンドリン、ウクレレ、三味線あたりが適当かもしれないが、よく考えてみると、サンタさんは北極圏からやって来るわけだから、手にはきっと手袋をはめている。手袋をはめていては不自由で弦楽器は弾けない。そうすると、手袋をはめていても使えるようなリズム楽器がいいのだろうか。タンバリン、カスタネット、トライアングル、鈴と考えてみたが、やはりサンタさん自身が音楽も担当するのは負担が多すぎるような気がしてならない。せっかく演奏したとしても、そりは空を飛んでいるのだから、音が散ってしまい音楽効果があがらないかもしれない。どこでそりを止めるのかよく知らないが、家の中で待っている子供たちに聞こえなくては残念だ。  あるいは、時代と共に歩んできたサンタさんのことだから、何か新しいことを企画しているという可能性もある。たとえば、シンセサイザーを使った音楽と共に華々しく地上に舞い下りようと考えているかもしれない。髪をみな立てて、お化粧もして、テクノ・サンタになろうとしているのかもしれない。かっこつけてイメージ・チェンジをはかるのはいいけれど、シンセサイザー一式をそりに載せたら、トナカイさんたちは重すぎてプレゼント配りの途中でバテてしまいそうだ。  サンタさんは奇をてらうようなことはしなくていい。やっぱり、あの軽やかな鈴の音と共に子供たちの家へ舞い下りてきてほしい。トナカイの動きにつれて鳴る鈴の音は、雪景色に一番似合う音楽なのだ。 [#改ページ]  クリスマス前のうきうき気分   動物たちも楽しく過ごすクリスマス  だいぶ前のことになるが、大学の帰りに上野公園あたりで、T子ちゃんとこんな会話をしたように記憶している。 「ねえ、T子ちゃん。きのうテレビでやってたんだけどね。マリリン・モンローのお墓には、今だにお花を毎週届ける人がいるんですって」 「ヒエー。そんなに愛されてみたいじゃん」 「死んでからもそんなに愛されるって、どんな感じかしらね」 「でも、届けるほうだって毎週じゃかったるいからさ、銀行振り込みかなんかで一年分ぐらい払っといて、けっこう花屋の店員かなんかにやらせてるんじゃないのかなあ」 「えっ、銀行振り込み? そんなんじゃ味気ないわね」  私は今生きている。私の場合は、死んでから銀行振り込みでお花を送っていただくより、どうせなら、私の目の黒いうちにいただきたいと思っているのだが、最近は全く花束が届かない。何年か前までは、クリスマスというと必ずポインセチアがどこからか贈られて来たのだが、この頃はどうしたのだろう。最近の私の歩き方は、そんなにもマリリン・モンローとかけ離れているだろうか。  ちょっと、ちょっと。このままではマリリン・モンローの話が続いてしまいそうなので、なるべくサンタさんに近づくように、話題をポインセチアに切り替えよう。ポインセチアは、日本では本名を使ってデビューしたが、フィンランドでは華やかな芸名を使ってスターの座を獲得した。ポインセチアがスターになるまでの、フィンランド花園界の内幕がいかなるものであったか、ちょっとここでのぞいてみよう。  ポインセチアがスターの座についたのは、一九六〇年代のことだった。それまでのクリスマス花園界には、人気を二分する双璧、チューリップとヒヤシンスがいた。ヒヤシンスが彗星のように花園界にデビューした時には、一軒の花屋へヘルシンキの住民を総動員したというから、スターの持っている力には改めて驚かされる。それは、一八七九年のことだった。これは事実だ。ヘルシンキのある花屋が、クリスマスのためにヒヤシンスを一鉢仕入れ、それをショーウィンドーに飾った。本当に大勢の人が見に来たらしい。その頃は、クリスマスに特に花を飾るというような習慣は、裕福な家庭にもなかったから、珍らしかったのだろう。  一足遅れてチューリップも登場するが、一般の家庭にクリスマスの花として浸透するのは、ヒヤシンスもチューリップも一九二〇年代になってからだ。二大スターには、それぞれ違った魅力がある。ヒヤシンスは「香り」を、チューリップはクリスマスにふさわしい「赤」を備えている。ただ、スターを支持するのは人間であり、人間は心がわりが激しい生き物だから、一九三〇年代になって、「美しいゆえに命短き」ポインセチアがあでやかな姿を見せると、人々の心は次第にそちらの方へ向かうようになる。ポインセチアは、フィンランドでは初めから「クリスマスの星」と呼ばれた。だが、すぐに戦争の時代がやって来る。そういう時には、スターに声援を送る余裕など誰にもありはしない。  だから、「クリスマスの星」が本当の輝きを見せたのは一九六〇年代になってからだ。それまで、寒さに弱くて短命だった「星」も、改良されて長い間光を放てるようになった。そして、現在でもクリスマスのシンボルとして花園界のトップスターの座に君臨している。  クリスマスに限らず、寒い北欧の冬には、花の扱いに気をつけなければならない。ヘルシンキのアパートの、通りをへだてた向いに小さな花屋さんがあった。私はわざわざ包んでもらう程の距離ではないと思って、花びんに水を入れて買いに行った。お店のおばさんに、 「この中へ入れて下さい」  と、花びんを差し出すと、 「だめだめ。外は寒いから凍りますよ」  と言って、おばさんは新聞紙でバラを包もうとしている。 「私はお向いに住んでいるの。ほら、あそこ。すぐでしょ? 包まなくても大丈夫だと思うけど……」 「短い距離でもね、こんなに寒い時には、外へ出したらすぐに凍ってしまうから、お花はいつもこうして何枚も重ねて包むんですよ。さあ、どうぞ」  と、完全武装したバラを渡してくれた。北欧では、花も冬を越すのに苦労している。  暗くて寒い北欧の冬、みんなが首を長くして待っているのがクリスマスだ。楽しい事というのは、待っている時の方が気分が盛り上がることもある。フィンランド人はどんな風にクリスマスを待つのだろう。何をどう飾るのだろう。私たちにもできそうな物があったら、やり方を覚えて作ってみよう。  まず、家の中の飾りから。ヒムメリという名の、麦わらでできたモビールがある。麦わらの直線と色がとても美しい。これは、三角と四角を基本形とする三次元のバリエーションだが、単純なようでいて作るのは難しいらしい。麦わらの長さが少しでも違ってしまうと、バランスがすぐにくずれる。まず小さなヒムメリから始めて、徐々に大きなサイズに挑戦したらどうだろう。ヘルシンキでは工作の道具を売っているお店に吊るしてあるが、昔は「麦わら」に意味があったから、工作だの趣味だのというようなものではなかった。  昔々、農家ではクリスマスの日に、家の主人がどっさりと麦わらを運んできて居間の床へ敷いた。その他に数本の麦わらを天井へ放り投げて、来たる年の畑仕事を占ったという。居間の床に敷いた麦わらは火が移りやすいという理由で、十九世紀のうちにその習慣はほとんどなくなってしまうが、そのかわり麦わらを使った飾りが後を継ぐことになる。そもそもヒムメリも昔は豊作祈願の意味があった。大きなヒムメリを作ると、あるいは、いくつもヒムメリを作ると、特にライ麦の収穫が多いと信じられていた。ライ麦の貯えがなくならないようにと、ヒムメリを夏至祭まで天井に吊るしておく地方もあったと言われている。  なぜクリスマスに麦わらかを説明するのは、それ程難しくない。イエス・キリストは馬小屋で生まれ、麦わらの上に寝かされたからだ。ヒムメリを作るようになった頃には、他にこれといった遊びもなかったから、大勢若者が集まって楽しく作ったらしい。麦わらはまずサウナで暖めてやわらかくしてから切ったそうだ。ヒムメリにろうそくを飾ったこともあったというから、もみの木以前のクリスマス・ツリーのような性格のものだったのだろう。事実、もみの木を飾るようになると、ヒムメリはただ天井から吊るす飾りとしてだけの役割を受け持つことになった。  麦わらは他の飾りにも使われている。もみの木にも、星や人形の形を作って吊るすし、ヤギや馬や小人の麦わら人形も作る。ドアにつけるリースに麦わらを使ってもきれいだ。ドアにリースをつけるようになったのは一九五〇年代のアメリカの流行に影響されてのことであって、これには全く宗教的な意味はないそうだ。意味のある麦わらの使い方をもう一つ紹介しておこう。  麦わらという言い方はふさわしくない。脱穀していない麦を使うのだから、麦の穂束と言うことにしよう。これは飾りではなく、小鳥へのクリスマス・プレゼントと考えたらいいだろうか。クリスマスに麦の穂束を外に立てて小鳥にごちそうをふるまう習慣は北欧の各地に見られる。「他」に対して善を施すというより、最初はこれにも豊作祈願がこめられていたのだろう。たいてい、カラス麦の穂束が使われたらしいが、大麦の大事な地方では大麦が垣根にゆわえつけられた。  フィンランドでは、小鳥だけでなく動物たちもクリスマスを楽しく過ごす。馬や牛もクリスマスのごちそうがもらえるし、クリスマス・イブには動物たち同士で会話が楽しめるように、犬や猫も馬小屋に泊まっていいことになっている。クリスマスの夜には、動物たちが皆話をすると言われているからだ。世間話に花が咲くこともあるだろう。日頃のうっ憤を神に直訴する動物もいるだろう。いずれにせよ、人間のお祭りに動物たちも楽しく参加できるところがなかなかいい。もともとは動物にごちそうをふるまうことも豊作祈願の意味があったのだろうが、動物たちにもクリスマスの雰囲気が味わえるようにという優しい気持も含まれての習慣だと思う。私たち日本人は、ごちそうを食べて楽しくお祭りを過ごす時、動物たちのことまで考えているだろうか。猫や犬の喜びのために何か企画を立てているだろうか。   トーマスの十字架  小鳥や動物が出てきたので、この辺で人間にも登場してもらおう。やはり男性がいい。名前はトーマス(フィンランド語ではトゥオマス)。キリスト教のカレンダーを見ると、十二月二十一日がトーマスの祝日となっている。トーマスが私の友人なら、彼の人となりを詳しく紹介できるのだが、彼は昔の人、それもキリストの十二人の弟子のうちの一人だから、私には彼についての知識があまりない。だが、調べたところ、彼には一つ大事な役割があることがわかった。十二月二十一日に、彼がキリスト教徒全員にクリスマスをもたらし、同時にクリスマスの平和を宣言する、と文献に書いてある。つまり、トーマスの祝日からクリスマスが始まる。だから、それまでに仕事を終らせ、クリスマスの準備も済ませておかなくてはならない。  スカンジナビアでは昔、トーマスの祝日から新しい年が始まると考えられていた。特にカレリア地方では、明かりとりのために使われるパレと呼ばれる木片を燃して、燃える速さ、煙の出方、消え方で新しい年を占ったと言われている。このパレを十字に組んで壁に飾ったのが、現在でもクリスマスの飾りとして残っている「トーマスの十字架」の始まりとされている。木で十字架を作ることもあったが、母屋、牛小屋、馬小屋の戸口にタールで十字を描いたこともあった。  十字架とはいったい何だろう、というようなことも、たまには改めて考えてみたくなる。もちろん宗教的な立場から言えば、キリストの死のシンボルであり、もう少し大きくとらえれば、キリスト教信仰全体のシンボルだ。だが、トーマスの十字架は、異教時代の太陽も意味しているだろうし、祖先崇拝にも関係があるのではないかとも思われる。御先祖様はたいていの場合、子孫を守る立場に立つと考えられていたが、時には子孫を苦しめることもあるという恐怖心が昔の人にはあったらしい。だから、御先祖様の怒りに触れて災いが起こらないように、十字架をかかげて防いだのだ。常緑樹を使って十字架を作るのは、やはり樹木崇拝にも起因しているからだろう。  トーマスの十字架を作るのは難しいらしい。木を薄く、しかも折れたり割れたりしないようにナイフで削っていくのだから、これは技術を要する。フィンランドでも、トーマスの十字架を作れる人はもうあまりいないそうだ。多くの職人がフィンランドを離れ、手仕事の技術を披露するためにヨーロッパの他の国のデパートへ行ってしまったという。そうなると、十字架の本来の意味はほぼなくなってしまうが、名前はいつまでもトーマスの十字架として残るだろう。   キャンドル&アドベント・カレンダーで待つクリスマス  クリスマスを待つ時に欠かせない物、ろうそくの話もしておこう。私はずっと前、ろうそくを集めていた。高校生の頃には本気でろうそく作家になろうと思っていたから、自分で作ったりもした。だから、その頃集めたろうそくや自分の作品が今でもタンスにぎっしりとつまっている。子供の頃には貯金箱を集めていた。大学時代はボールペンを集めていた。こうしてふりかえってみると、あまりたいした人生は送っていないことになる。  ああ、また脱線だ。ろうそくの線路に車輪を戻そう。ろうそくの好きな私としては、日常生活の中にろうそくが溶け込んでいるフィンランドの生活が、とても思い出深く感じられる。クリスマスに限らず、暗い冬にパーティがある時などは、通りからパーティをする家の戸口まで、雪の上にろうそくが点々と立っていて、すぐに場所がわかるようになっている。日本ではろうそくと言うと、すぐに停電を連想するが、フィンランドでは照明の一つとして生活の中に根ざしている。  ろうそくの歴史といったら有史以前から始めなくてはならないが、クリスマスのろうそくに限るとすれば、フィンランドでは一八〇〇年代の初期に始まったと考えていいだろう。フィンランドで初めてろうそく工場ができたのは一八二九年だという。降臨節の時に週に一本ずつろうそくをふやしていくのは、既に知っている人も多いと思うので、北欧で特に使われる、一本から三本が枝分かれしているろうそくについて書いてみよう。今、私のろうそくコレクションを調べてみたら、さすがに、この種類もあった。デンマーク製の、赤い三三センチというサイズだ。デンマーク人は、これを「三人の王のろうそく」と呼ぶらしい。キリストが生まれた時に東方から贈物を持ってやって来た博士たちを意味しているのだろう。フィンランドでは、三本のそれぞれを「信仰」「希望」「愛」に見立て、その三つが同じ一つのところ、つまり「神」に結びついている、というように解釈をしている。このろうそくは、もみの木の頂点に飾られたこともあったそうだ。  もみの木が出てきたところで、降臨節のろうそくともみの木の関係も明らかにしておこう。スウェーデンの教会では、もみの木に二八本のろうそくをつけておいて、降臨節の第一週目に七本のろうそくに火をともし、二週目に十四本、三週目に二一本、最後の週には全部のろうそくに火をともすという。つまり一日にろうそく一本という割合だ。この他には、ろうそく一本ですべてを済ませる場合もある。一本の時には、ろうそくは長くて太くなくてはならない。ろうそくに数字が書いてあって、一日ずつ燃やしていく。これは、言ってみればクリスマスまでのカレンダーのようなものだ。一日一日火をつけるごとにろうそくが短かくなっていって、最後にクリスマスがやって来るという仕組み。他にもこれとよく似たカレンダーがあるから、ろうそくはこれくらいにして、もう一つの「クリスマスの待ち方」も研究しよう。  一九六三年のスウェーデンの調査では、子供たちのうち九三パーセントがアドベント・カレンダー(クリスマス・カレンダー)を使っているという結果が出た。アドベントとは降臨節のことだが、子供たちの作る(あるいは買う)カレンダーは、十二月一日から二十四日までの、まさにクリスマスを待ち望む胸ドキドキ型カレンダー。スウェーデンでは十九世紀から子供たちが創作を始めたというが、フィンランドにその習慣が伝わったのは二十世紀になってからだ。スウェーデンでは一九三二年に、印刷されたアドベント・カレンダーも売り出された。たいてい大きな紙に二四個窓がついていて、数がふってある。一日には一の窓を、二日には二の窓をというように毎日開けていく。窓を開けると中にはかわいらしい、あるいは楽しい絵が描いてある。もう少し大がかりなものになると、毎日お菓子が飛び出してくる。このように何か立体的な物を入れておきたい場合には、マッチ箱を使うのもいい。二四個つなげて、ラベルの所にシールをはるなり、自分で絵を描くなりして、箱の中に「お楽しみ」をしのばせる。たいてい、二十四日に開けるところからは、一番うれしい「お楽しみ」が出てくるようにできている。こんなに胸がわくわくするようなクリスマスの待ち方ができたら、十二月がどんなに楽しいだろう。   アウトドア・オーナメントのテクニック  今までは家の中の飾りを主に調べたので、今度は外へ出てみよう。えっ、寒すぎる? そんな了見ではフィンランドでクリスマスを過ごす資格はない。寒ければ寒いほど、北欧の自然は美しいのだ。少し厚着をすれば、寒さなんかなんてことはない。暗闇を見に外へ出よう。暗闇を知らなければ、光を理解することはできないのだから。北欧には長くて暗い冬がある。本当の闇を知っているから、北欧の人たちは光を工夫することがうまい。  冬、パーティがある時などは、通りから戸口までろうそくに火をともして並べる、と前に書いた。ただろうそくを並べるだけでなく、自然を利用した光の造形の世界もある。雪を使ってろうそくのまわりを囲えば、間から光がもれて、雪の形をはっきりと|映《うつ》しだす。氷の造形の中にろうそくを置けば、うすぼんやりと光がゆれる。雪の方は、大きめのおだんごを作って組み立てれば簡単にできそうだが、氷の方は水を凍らせて形になるまで氷点下の所へ置いておかなくてはならない。簡単な方法で大きいのを望む人は、バケツに水を入れて外へ出しておけばいい。水が凍ったら、バケツごとお湯の中へ入れてまわりを溶かし、さかさまにあける。底だった部分の真ん中を割り、凍らなかった水を出す。その中にろうそくを立てる。この場合、水彩絵具を溶かして氷に色をつけることもできる。雪の上に置くつもりなら、私は色をつけない方がきれいだと思うが、皆さんの御意見はどうだろう。  冬でも気温が氷点下にならない地方の人たちは、冷蔵庫の氷と小さめのろうそくで光をデザインしてみるといい。氷と光の造形。なんだか私もやる気が出てきた。彫刻のアトリエで粘土をこねていた時代を思い出した。今年のクリスマスは忙しくなりそうだ。アドベント・カレンダーをまず作り、麦わらのヒムメリも天井から吊るし、庭には氷と光のパラダイス。こういう遊びは思いっきり、しかも真剣にやらなくてはいけない。子供たちは遊びの中であんなにのびのびと成長していくではないか。  クリスマスの飾りがそろったら、そわそわうきうきしてきて、とてもではないけれど二十四日まで待てないというのが人情だ。そこで、フィンランドではピック・ヨウル(小さいクリスマス)と言って、クリスマスの前に友人同士、職場、学校などでパーティをする。はやくも十一月末頃から、週末というとあっちでもこっちでもピック・ヨウルをやる。たいてい十マルッカ(一マルッカは約二〇円)くらいのプレゼントを用意し、入口で渡しておくと、あとでサンタクロースから他のプレゼントがもらえる仕掛けになっている。何が入っているかな、と楽しみに開けるのだが、規定の金額が金額だから、ろうそくが出てくることが多い。  プレゼントで気をつかいたいのは、包装だ。デパートの包み紙のままではつまらない。紙とリボンの色合せ、結び方、レースや麦の穂などリボン以外の飾り等、工夫すれば楽しさは何倍にもふくれる。一つ一つの小さな事が、それぞれうーんと楽しくなっていったら、クリスマスを待っている間中、うきうき気分でいられるし、そういう方法が身についたら、人生そのものが変わってくるような気がする。 [#改ページ]  クリスマス・カードのすべて   世界で最初のクリスマス・カード  人間一人じゃ生きられない。世の中のすべてが機能してくれなければやはり不便だ。私が世の中で一番感謝しているのは、なんといっても郵便屋さん。郵便屋さん程ありがたい存在はない。特にフィンランドの郵便屋さんの誠意と忠実さには、勤労を感謝するなどという域を越えて、ある種の感動さえ覚えた。  ヘルシンキに住んでいた頃のある休日、一階のアパートの窓からぼんやり外を見ていた。すると、遠くから誰かがこちらの方へ向かって走ってくる。フィンランドでお休みの日といったら、森から出てくるリスだってのんびりしているというのに、あんなにあせっているのは珍しかった。窓から見える風景の中で動いているのは彼だけだったから、私はずっと見ていた。こちらの方へどんどん近づいてきて、彼は私の住んでいる棟に飛び込んだ。すると、すぐにうちの玄関のベルが鳴った。あれっと思って二重になったドアを開けると、息をはずませた彼、その人が立っていた。そして言った。 「速達です」  彼は郵便カバンを持っていなかった。手に一通の航空便を持っていただけだ。私はこの時初めて「速達」の意味を知った。いつもならハサミも使わずすぐに速達便を開けるのだが、この時ばかりは手紙を手にしたまま、歩いて帰ってゆく郵便屋さんの後ろ姿をしばらくながめていた。  フィンランドの郵便屋さんは、どんなに奥まった所に住んでいても、一通の手紙のために足を運んでくれる。郵便局も転居先を報告しておくと、アフターケアが親切だ。たとえばT子ちゃんがアメリカから出した手紙は、フィンランドの私のアパートを転々とした末、東京の自宅までやって来た。人口が少ないので、有名な人なら名前だけ書いておけば届くらしい。  こんなにいたれりつくせりで、東京フィンランド間の葉書の航空郵便料金は七〇円。JR一駅分の運賃より安い。有難い。七〇円で成田まで行き、飛行機に乗って、フィンランドに着いてからも電車やバス(北の方で鉄道のない地域は郵便バスが人も手紙も乗せて走る)に乗り、さらに場合によっては郵便屋さんがその先ずっと歩いていって、読む人に手渡してくれる。有難いことだ。本当に有難い。こんなことを言うと、またH子さんに、 「稲垣さんは、ポックリ寺の和尚さんみたいねえ」  と言われそうだ。ポックリ寺の和尚さん。聞きなれない言葉だが、H子さんの説明によると、法隆寺のすぐそばに|吉田寺《きちでんじ》(通称ポックリ寺)というお寺があり、そこの和尚さんが和歌をまじえながら毎日毎日の有難さを説いて下さるという。たとえば、   今朝もまた    ほうき持つ手の     うれしさよ   あすの命の    あると思うな  といった具合に。私もポックリ寺の和尚さんのように、葉書の有難さを詠んでみたい。   今日もまた    えんぴつ持つ手の     うれしさよ   届いておくれ    フィンランドまで  私は手紙をよく書くほうだから、フィンランドからもよく来る。知り合いがあっちこっちに散らばっているので、他の国からの郵便も多い。気の早い人は十一月末からクリスマス・カードを送ってくる。この第一便が届くと、私はドキッとする。そろそろクリスマス・カードをとりそろえなくてはならない。  葉書の七〇円は有難いと書いた。だが、封書の料金は、ちょっと有難くない。というのは、フィンランドから出す時には二〇グラムまでが基本料金だが、日本からの料金は十グラムごとにきざまれているからだ。気のきいたカードを送ろうとすると、すぐに二〇グラム、三〇グラムまで秤の目もりが動いてしまう。全員に素敵なクリスマス・カードを、などと考えていると、カード代と切手代で、日本人用年賀状資金がなくなるどころか、年が越せなくなってしまう。 『ギネスブック'95』(ピーター・マシューズ編、大出健訳 騎虎書房)によると、クリスマス・カードを最も多く出した人はサンフランシスコに住むワーナー・エアハート氏で、一九七五年のクリスマスには六万二八二四通出したという。六万人以上知り合いがいるというのもたいしたものだが、切手代だけだって馬鹿にならないだろう。数百万円かかるのではないか。いったい、ワーナー・エアハートさんとはどんな人だろう。  手元の資料によると、フィンランドでは一九九三年のクリスマスに四一〇〇万枚以上のクリスマス・カードが投函されたという。この数字から割り出すと、一人平均約八枚のクリスマス・カードを出していることになる。フィンランドに限らず、このクリスマス・カードというものはいつ、どこで誰が始めたのだろう。  一八六九年にオーストリアで始まったという記録もあるし、一八四六年に初めて作られ、ヴィクトリア女王がそれを最初に郵便で出したという説もあるが、よく調べてみると、一八四三年イギリス起源説が最も有力だ。  画家ジョン・コール・ホースレーが最初のクリスマス・カードを描いた。絵は三つの場面から出来ていて、彼の友人のヘンリー・コール一家がグラスを手にして乾杯しているところと、その左側にはおなかのすいた子供に食べ物をあげている絵、右側には貧しい奥さんが洋服をもらう絵が描かれている。そして家族の絵の下に、   A Merry Christmas and   A Happy New Year to You  と書いてある。  一〇〇〇部刷って売ったのだが、乾杯している絵の中で子供までワインを飲むとは何ごとか、と禁酒主義者からホースレーとコール両氏は非難されたようだ。そのためというわけではないが、クリスマス・カードはすぐには広まらなかった。というのは、郵便料金が距離によって計算され、受けとり人が支払う制度だったからだ。一八七〇年以後各国が郵便料金を統一して、差し出し人が支払うことにし、葉書の料金がひき下げられると、やっと庶民も参加できるようになった。  クリスマス・カードの前身というのは、イギリスではChristmas pieceと呼ばれる、子供たちの秋学期の通信簿の代わりとなる詩を書いたカードだと言う人もいる。この詩を読んで、親は子供たちの文学的才能の成長を知ったらしい。もっとも、これは社会のどの階級もが、といったことではなかったらしいが。  クリスマス・カードは、イギリスから北アメリカ、ヨーロッパへと広まっていった。フィンランドへは、スウェーデン経由で入ってきたが、それまでは、クリスマスに知人の家を訪ねて挨拶する代わりに、名刺を送る習慣があったらしい。   クリスマス・カード百珍  フィンランドで最初にクリスマス・カードが作られたのは一八七一年だ。十字架の形でフランス菊の飾りが施されている。この頃のカードは、今の郵便の基準にはとうてい当てはまらない形ばかりだった。円形、楕円形はもちろんのこと、多角形、扇形、貝の形、半月形などがあった。中には、紙のレースや絹のリボンがついているものまであったそうだ。  フィンランドでは、一八九〇年代になるとクリスマス・カードを送る習慣が都会で一般化する。カードの絵としては、キリストの誕生、東方から来た博士、天使(宗教的な色彩の濃いものとかわいらしいものの両方)、ベツレヘムの星、もみの木、クリスマスの飾り、ろうそく、雪景色、教会へ向かうそり、雪だるま、家族で祝うクリスマス、サンタクロース、赤い三角帽子の小人たち、鐘、ピンクのブタさん等だ。ラップランドのトナカイも、一八〇〇年代からすでにカードに登場していた。  変わったところでは、カエルのオーケストラ、手鏡を見つめる眼鏡をかけたロバ、月にうっとりする大鹿等があるが、普通はツバメやウソ(スズメより少し大きい鳥)が登場する。ウソの雄はおなかが赤い。これはイギリスの郵便屋さんの制服に似ているので、クリスマスというとウソが脚光を浴びる。日本の郵便屋さんも、世界中から注目を浴びるようにもっと派手な制服を着てほしいものだ。  花では、バラ、スズラン、エーデルワイス、桜、風鈴草が一八〇〇年代のカードに見られるが、そのうちチューリップも仲間入りするし、現在ではクリスマスといったら、ヒヤシンスとポインセチアなしでは考えられない。  もちろん時代が変われば、新しい物が出来て人々の生活も変わる。一九〇八年のリサ・フロマンのカードには、子供を抱っこした小人が|電話で《ヽヽヽ》サンタクロースにプレゼントを注文している。一九一二年のカードには飛行機も飛ぶようになるし、自動車はモデルチェンジごとに姿を変えて現われた。  一九一〇年代になると、カード製造業者は新聞広告を出して大・中・小、金文字も使ったカードの売り込み作戦を始めた。ただ、この頃のカードは、幾分暗い感じだった。  そこで一九一七年、クリスマス・カードのコンクールが行なわれた。フィンランド製のカードの質を高めようという趣旨だったのだろう。このコンクールで一等になったのは、小さな小人が大きなスキーで丘をすべっている絵だ。有名な画家のアクセリ・ガッレン=カッレラも数枚のクリスマス・カードを描いているし、絵本のさし絵画家として名高いルドルフ・コイヴも試みている。フィンランドで一番有名なカード作家は、マルッタ・ヴェンデリンだ。  カード作家としては、スウェーデン人のイェニー・ニューストロムを忘れてはいけない。彼は一八九〇年代から始めて、およそ五〇〇〇枚も描いている。彼が、北欧のクリスマスの小人を創造したと言われている。ドイツの小人伝説がモデルになっているそうだ。  一九〇〇年代初めには、世界中のクリスマス・カードが八〇〇トンに及んだというから、よくまあ広まったものだ。クリスマス・カードが一般化したためにそれと同時進行で、絵の中にあるもみの木を飾る習慣も一般化していった。  一九二〇年代には写真を使ったカードが出まわるようになり、中には、若い男女が雪景色の見える窓辺に寄りそうロマンティックなものまでお目見えするが、今ではこの類はもう過去のものだ。この頃は、都会だけでなく田舎の人々にもクリスマス・カードを送りあう習慣が浸透し、宝物として、アルバムに貼ったりしていた。  戦時中はカードにも兵隊が登場した。戦場で雪におおわれた兵士、妻子が待つ家庭に帰る兵士。主題はサンタクロースではなく、兵士だった。  一九六〇年代にまた写真を使ったカードが出てくるが、絵の方が楽しいせいか、自分でカードを作る人がふえ、特に子供の写真を同封するのがはやった。だが、開くようになっている二ページのカードは葉書に比べると数が少ない。やはり安価で簡単だから葉書が好まれるのだろう。  この辺で、クリスマスの切手の話もしておこう。デンマークのエイナル・ホルボルが、クリスマス・カードを送る習慣がひろまったので、クリスマス・カードに貼りつける何か少額のシールのようなものを作って慈善事業としたい、と提唱したのが始まりだが、その対象として、まず結核患者及びその家族の救済ということが挙げられた。  一九〇四年、デンマーク、スウェーデン、アイスランドでクリスマス・シールが発行された。デンマークではすぐに大きな反響があり、人々から歓迎を受けた。というのは、デンマークのシールにだけ「クリスマス」という文字が印刷されていたからだろう。  ノルウェーとフィンランドでは一九〇六年に初めて作られた。フィンランドではアクセリ・ガッレン=カッレラが赤いりんごのいっぱいなっているりんごの木をデザインし、「結核患者のために」というテキストを入れた。特にクリスマスについては何の言及もない。これではあまり売れ行きがよくなかったのもわかるような気がする。  だから、最初の本当のクリスマス・シールは一九一二年にヴァイノ・ブロムステッドが考案した五ペンニの「ウサギとリス」だ。このシールにはちゃんと「楽しいクリスマスを」と「幸せな新年を」という言葉がスウェーデン語とフィンランド語の両方で入っている。テキストが変わったお蔭で、クリスマス・シールを使う人も多くなった。「ウサギとリス」はそのまま十五年間クリスマス・シールとしてみんなから愛された。   カードの切手をさかさまに貼るのはどんな意味?  一九二七年からは、シールの絵が毎年変わる。慈善事業として売り上げが使われるシールには、複十字の印がついている。一九七三年に郵政省がクリスマス切手を発行するようになると、結核撲滅協会のクリスマス・シールの売り上げは少なくなった。だが、一人が負担する額は少しでも、数がそろえばまとまった金額になる。  現在、赤十字やユニセフのクリスマス・カードも慈善事業として作られている。ちなみに、一九九三年のユニセフのクリスマス・カードは、世界中で約一億五六〇〇万枚(そのうちフィンランドでは二〇〇万枚)売れたという。フィンランドは戦後一九四六年、ユニセフのクリスマス・カードに救済される側に立ったこともあった。  ではここで、フィンランドの郵政省が作ったクリスマス切手はどのようなものか調べてみよう。  一九七三年から毎年一〜二枚ずつ発行されているが、最初の十枚はピルッコ・ヴァフテロのデザインだった。彼女のデザインしたクリスマス切手は、その後も五枚発行された。ピルッコ・ヴァフテロの絵はフィンランドのクリスマスの伝統をよく伝えてくれる。楽しくて優しさに満ちたいい絵だ。どんな内容か紹介しておこう。 [#ここから1字下げ、折り返して7字下げ] 一九七三年 トナカイのひくそりに乗るサンタクロース 一九七四年 プレゼントを配りに行く二人の小人 一九七五年 三人の博士の劇を演ずる少年たち 一九七六年 雪景色の中を教会へ急ぐそり 一九七七年 サウナを暖める子供たち 一九七八年 小鳥へのごちそう、麦の穂束をもってゆく少年 一九七九年 馬小屋へ干草を運ぶ小人 一九八〇年 ごちそうが並ぶテーブルのそばで遊ぶ子供たち、暖炉のそばで遊ぶ子供たち 一九八一年 森で切ったもみの木を家へ運ぶ子供たち 一九八二年 森の動物たちに食物を与える二人の小人、ヨウルプーロを食べる三人の小人 一九八四年 プレゼントの袋を背負ったサンタクロースと小人 [#ここで字下げ終わり]  一九八一年からは、いろいろな人が絵を描くようになった。特にかわいい切手が発行されたのが八三年と九三年。郵政省とテレビの子供番組が八歳以下の子供を対象とした切手の絵のコンクールを行なったのだ。八三年のテーマは、「フィンランドのクリスマスといったら、あなたは何を思い浮かべますか?」。六〇〇〇人以上の応募があり、審査員たちは、次のことを念頭において二点の絵を選んだ。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ☆単純な方法でクリスマスの雰囲気がかもし出されていること ☆子供らしく瞬時にして創造したもので、しかもプロ顔まけのもの ☆色が力強く、グラフィック作品としてレベルの高いもの [#ここで字下げ終わり]  この結果、六歳の女の子エイヤちゃんが描いた絵(満天の星空の下で、一頭のトナカイがサンタを乗せたそりをひいている)が、一マルッカの切手になった。  もう一枚の一・三マルッカの切手は、三歳の女の子カミッラちゃんが描いた二本のろうそく。ろうそくの炎がお互いよりそうように傾いている。この炎とバックの赤がとても暖かい雰囲気を作り出している。  九三年のテーマは「クリスマス」。選ばれた絵は、アンナちゃんの「小人たちともみの木」と、タイナちゃんの「三人の天使」だ。どうして子供たちはこんなにかわいい顔が描けるのだろう。点を三つ(目と鼻)と線一本(口)だけで微笑ましい顔になる。クリスマス切手の絵は、毎年子供たちに描いてもらったらいいのではないだろうか。  フィンランドのクリスマス切手は、たて長にせよ、横長にせよ、おおよそ二四・五ミリ×三四・五ミリというサイズだ。葉書に貼ることを考えれば、この大きさはちょうどいい。ずっと前にチェコスロバキアの友人から来た手紙に、とてもきれいな切手が貼ってあったのだが、封筒からはみ出しそうなほど大きいのにはびっくりした。  切手で印象的といえば、トンガの切手がこれまたすごい。一枚がバナナ一本の形をしていて、数枚貼ると、おいしそうなバナナの房になる。トンガの郵政省の人たちは冗談が好きなようだ。  今でこそ、こうして切手もカードも楽しめるのだが、フィンランドの郵政省がロシアの支配下にあった時には、クリスマス・カードに切手を貼るのに、いつもと違った場所に、それもさかさまに貼ったそうだ。それが庶民の抵抗だった。ささやかな抵抗だが、クリスマスのように、みんなが幸せでありたいと願うような時だからこそ、何か示したいという感情がそうさせたのだろう。   �エンジェル�の語源は、神様の�お使い�  ここでちょっと耳よりなかわいい話。今までにもらったクリスマス・カードをひっぱり出してながめていたら、かわいい天使のカードがけっこう多い。またしても素朴な疑問が誕生した。天使ってなーに?  ごそごそ調べてみた。すると、大発見! なんと、天使は男なのだ。私はあやうく、手に持っていたポテトチップスを落としそうになった。あんなにかわいくって、けがれを知らない天使がむくつけき男とは、いったい何たることか。真相をさぐってみよう。  天使の歴史は聖書をぬきにしては語れない。聖書によると、神の創造した天使は、人間よりもすぐれた知恵と能力とをもつ純粋な霊だった。天使は大きく三つの階級に分けることができる。セラフィム(|熾《し》天使)、ケルビム(智天使)、トロニ(座天使)。主天使、力天使、能天使。権天使、大天使、天使。天使の中で私たちが名前を知っているのは大天使のミカエル、ラファエル、ガブリエルくらいだ。  天使に羽根がついて描かれるのは、時間・空間をこえる象徴としてだと言われている。セラフィムには六枚の羽根があり、そのうちの二枚で顔をかくすそうだが、八本足のタコの頭をたたいた時、「痛い!」と言って頭を押さえた二本が手だ、という故林家三平さんの話と似ていて面白い。  ラテン語で天使をangelusといい、これはギリシャ語のaggelos(お使い)を起源とする。第一階級の天使たちは神から光を人々に与える「お使い」をする。「お使い」をする天使の他に聖書には人間を守る天使も出てくる。守護天使が描かれる時は、たいてい白くて長い服を着ていて、右手に十字架、左手に剣を持っている。そして、夜中起きていて、眠っている人を見守る。このように聖書の天使はすべて男だ。  天使が女として描かれるようになったのがいつで、それがなぜかはよくわからない。女性にとっては、天使が女として描かれるのは好ましいことだが、天使自身は女になったことを喜んでいるのだろうか。おそらく、すべての天使が性転換を望んでいたのではないと思う。モロッコの病院へ行きたくなかった天使だっていたはずだ。  やっとあんよができるようになった子や幼稚園へ通う年頃の女の子を見ていると、あれで羽根がついていたら天使のようだといつも思う。あの年頃は男の子だって、羽根をつけたらかわいい天使になると思う。これからは、男の子の天使もどんどん描くべきだ。そうだ。今年のクリスマスはかわいい男の子の天使の絵をかいて、印刷ごっこを楽しもう。  最後にもう一度、有難い葉書の話をしたい。ずっと前から気になっていたことなのだが、外国からはほとんど無地の葉書をもらったことがない。よその国には絵のついていない無地の葉書というのはないのだろうか。私はここで、絵のついている方がやっぱりきれいでいいと言いたいのではない。その反対に、日本にある無地の葉書は私たちの宝だと言いたいのだ。十センチ×一五センチの中を自由に埋めていい。特に年賀状は誰もが工夫する。無地の葉書があるお蔭で、日本人は随分楽しい思い出を持つことができるのだ。大げさな言い方をすれば、日本人の創造力は無地の葉書にきたえられてきたのかもしれない。これは有難いことだ。葉書は本当に有難い。 [#改ページ]  クリスマス料理を決定した豚の鼻   クリスマス・ディナーの特選レシピ  クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、歴史は変わっていただろうと言われる。もし豚が内気な性格で、ブーブーブーブーとけたたましくなかなかったら、クリスマス料理はもっと変わっていただろうと、私は歴史の本に書き加えたい。  フィンランドではクリスマスというと必ず豚肉を食べる。かなり大きなかたまりを買ってきてオーブンで焼く。これがまたおいしい。特に「クリスマスのハム」という言い方をして、クリスマスのシンボルにまでなっている。ハムは、元来幸せをもたらす食べ物だそうだが、クリスマスに特に豚肉を食べるのは理由があってのことだ。それは、豚がブーブーなくから。これだけではいくらなんでもわからない。キリストが誕生したあの夜を再現してみよう。  |彼《かれ》らは|王《おう》の|言葉《ことば》を|聞《き》いて|出《で》かけると、|東方《とうほう》で|見《み》た|星《ほし》が|先立《さきだ》って|進《すす》み、ついに|幼子《おさなご》のいる|場所《ばしよ》の|上《うえ》に|止《と》まった。|学者《がくしや》たちはその|星《ほし》を|見《み》て|喜《よろこ》びにあふれた。|家《いえ》に|入《はい》ってみると、|幼子《おさなご》は|母《はは》マリアと|共《とも》におられた。|彼《かれ》らはひれ|伏《ふ》して|幼子《おさなご》を|拝《おが》み、|宝《たから》の|箱《はこ》を|開《あ》けて、|黄金《おうごん》、|乳香《にゆうこう》、|没薬《もつやく》を|贈《おく》り|物《もの》として|献《ささ》げた。(マタイによる福音書二章より)  東方から三人の博士がやってきて、キリストに贈り物を捧げた。この時、キリストの誕生を祝ってやってきたのは、博士たちだけではなかった。動物たちもキリストのために何か役立ちたいと思ったらしい。博士たちが贈り物を捧げたように、動物たちも|プレゼント《ヽヽヽヽヽ》がしたいと思った。それぞれよく考えた末、牛はミルクを、ヤギは皮を、ニワトリは卵を、そしてロバはキリストとマリアの乗り物として自分の背中を提供することにした。  その時、そこには豚もいた。豚はキリストの誕生を祝福しようと思って、ブーブーブーブー言った。幼な子イエスがいとおしくて、体を何度もすり寄せた。特に形になるようなプレゼントを用意したわけでもなく、一晩中彼はブーブー言いながら愛撫を続けたらしい。キリストは眠れなかった。豚はキリストに、「大騒ぎするだけで役に立たない」という印象を与えてしまった。豚もキリストの誕生を祝福しようと思ってやったことなのだが、彼は愛情や喜びを程よく表現することが下手だったのだ。それ以来、罰として豚はクリスマスに人間に食べられてしまうことになった。  という伝説がある。これを聞いて、豚がブーブー鳴くことと、クリスマスに豚肉を食べることが、うまく結びついただろうか。フィンランドでは、一八〇〇年代の中頃から裕福な家庭のクリスマス料理として豚のハムが登場した。時には仔豚の丸焼きが出てくることもあって、こういう場合には豚の口にりんごをはさむそうだが、私は見たことがない。いつだったかパリのレストランのショーウィンドーに仔豚の頭が飾ってあったが、それにはサングラスがかけてあった。私が今使っているボールペンはピッグ・ペンといって、先端に、豚がしがみついている。  おっとっとっと。また横道にそれそうになった。この章は豚の話ではなく、クリスマス料理について書かなくてはならないのだ。  一番最初に、コルヴァトゥントゥリのサンタクロースや小人たちが、クリスマスのメイン・ディッシュとして食べているヨウルプーロの話をしよう。「ヨウル」がクリスマスで、「プーロ」がおかゆという意味だが、日本語でおかゆと言ってしまうと、おなかが痛い時に梅干と一緒に食べるような印象を与えるが、これは塩味ではなくて、甘い。それに牛乳も入っている。お米と牛乳と砂糖という組み合わせは、日本人の食生活の中にはちょっと見出せないが、このヨウルプーロは豚のハムよりずっと長い歴史を持つ、正真正銘のクリスマス料理なのだから、どんな食べ物か、舌や目や頭で確かめておこう。  四人分作ってみよう。用意する材料は、   水   三デシリットル   米   一・五デシリットル   牛乳  七デシリットル   塩   小さじ一ぱい   砂糖  小さじ一ぱい   バター 大さじ一ぱい   シナモン   アーモンド  まず水を沸騰させ、お米を加える。十〜十五分煮てから少しずつ牛乳を加える。よく煮えるまで時々かきまぜながら三十分程待つが、この時に、香りづけに棒状のシナモンを入れてもよい。煮えたらシナモンをとり出し、塩と砂糖で味つけをする。食べる直前にバターを混ぜる。好みによって、さらに砂糖、牛乳、粉末シナモンを加えてもよい。ヨウルプーロには、忘れずに皮をむいたアーモンドを一つ入れる事。  このアーモンドが当たると、次の年に幸せが訪れる、という事になっている。アーモンドを入れる習慣は、一八〇〇年代に都会で始まったらしいが、来年こそはと期待している独身者に配偶者を、若奥様に赤ちゃんを授ける不思議な力を持っているらしい。アーモンドの他にも、何かに何かを隠しておいて、それが当たると何かだ、というような話はヨーロッパの各地にある。たとえば、パンの中に豆を入れておいて、それが当たるとその夜の王になり、他の人にどんなバカげたことでも命令できるという大人の遊びもあるし、ケーキの中の豆を見つけた者がその夜の王様になり、お妃様を選んで二人の命令で他の人たちが歌ったり踊ったりするという子供たちのゲームもある。イギリスではクリスマスのプディングにコインをかくしておくそうだ。  ヨウルプーロの味、フィンランドのクリスマスの味はいかがだっただろう。牛乳とお砂糖が入っているからお菓子のようだって? 鋭い。なかなか鋭い指摘だ。実は、これはデザートなのだ。昔々クリスマスといっても食べる物がそんなにない時代には、ヨウルプーロがクリスマスの主役だったが、いろいろなごちそうのある現在ではデザートとして扱われている。昔はお米ではなく、大麦でプーロを作っていたらしい。フィンランドでは「食」の文化が東と西で少々違うが、プーロはもともと西のもの。東ではクリスマスにパイを食べていた。パイに代わって東部フィンランドでもヨウルプーロを食べるようになったが、東ではオーブンで焼くこともあるそうだ。  せっかくプーロの話をしたから、ここでフィンランド語一口メモをのせておこう。だいたいプーロを食べるには、バターをたっぷりとってプーロの真ん中にエイッと落とすが、これをヴォイシルマと呼んでいる。ヴォイとはバターのこと。シルマとは目のこと。プーロの真ん中にバターの目ができるわけだ。なかなか楽しい言い方だと思う。  もう一つ簡単にできるお料理を作ってみよう。これは切ってまぜるだけでできる。まず用意するもの。   ゆでたじゃがいも 四個   ゆでたにんじん   ゆでたビーツ   じゃがいもと同量   ピクルス     四本   りんご      二個   塩   こしょう   パセリ   生クリーム   砂糖   酢  切ってまぜる前にお料理の名前を言っておかなくてはならない。これはロソッリというお料理、というよりサラダと言った方がいい。これはとても簡単で、何しろ最低じゃがいもとにんじんとビーツがあれば、これらをゆでてさいの目に切って、まぜて、軽く塩こしょうで味をつければできあがりだが、これではあまりにもそっけないので、もう少しごちそうらしく手をかけてみよう。日本で作る場合、一番問題になるのがビーツだ。フィンランドには甘酢づけのビーツが缶詰、あるいは瓶詰で売っているが、日本ではどこに行けば手に入るだろう。デパートか外国人の出入りする大きなマーケットにあると思うが、ビーツがないととても困るので、根気よく探そう。  ゆでたじゃがいもとにんじんをさいの目に切る。買ってきたビーツの缶詰をあけて、ビーツもさいの目に切る。この時、缶詰の汁は捨てないでとっておく。ピクルスもりんごも細かく切ってすべてまぜ合わせ、塩とこしょうで味をつける。これを大きな入れ物に盛る。ソースとして、生クリームに酢と砂糖で味つけをし、さっきとっておいたビーツの汁を少し加える。これは入れても入れなくてもよいが、入れるときれいなピンクの生クリームになるから、楽しさが倍増する。そもそもこれは、赤、だいだい、白、緑と、色を楽しむサラダだ。パセリは生クリームのかたわらに添えよう。さあ出来上り。ロソッリはさわやかな味だから、いくらでも食べられる。  昔、クリスマスにはテーブルに真っ白いテーブルクロスをかけて、その上に一晩中ごちそうを出しておいた。夕方から始まって、食べて食べて食べまくったらしい。クリスマスにたくさん食べるのは、ヨーロッパのどこの国でも同じだが、これにはわけがあった。クリスマスによく食べると、次の年に十分食べ物が得られる、と信じられていたからだ。夜中に物を食べていいのはクリスマスだけだったから、のそのそと起きてきて食べる楽しさもあっただろうし、次の日早く起きて教会へ行くのに、テーブルに並んでいるごちそうをちょっとつまんで口に押し込むというような便利さもあっただろう。現在ではもうごちそうを夜じゅうテーブルに出しておくことはあまりない。クリスマスには御先祖様が家に帰って来る、と信じる人が少なくなったからだろうか。  クリスマスの習慣や料理のほとんどが、スウェーデンからフィンランドへ入ってきた。フィンランドからスウェーデンへ伝わったものは、クリスマスに関する限り一つしかないと言われている。それは黄色い大かぶ、ラントゥのグラタン料理だ。フィンランドの青空市場へ行くと、とても大きなかたまりがゴロゴロしている。初めは何だかわからず野菜とも思わなかったが、あの大きなゴロゴロからおいしいクリスマス料理ができると知って驚いた。ラントゥのグラタンは、まず小さく切って煮、それをすりつぶして作るのだが、これにはシロップを入れるので、出来上りはうっすら甘みのあるお料理になる。  グラタンというと、私たちはつい一品料理のように考えがちだが、フィンランドのグラタン料理はそうではなく、大きな器に作って、それをみんなでとって食べる。ラントゥのグラタン以外には、じゃがいものグラタンとにんじんのグラタンがクリスマスのテーブルに並ぶことがあるが、これらもたくさんあるおかずの中の一つというわけだから、それだけ食べて満足するという程、いろいろなものが入っているわけではない。じゃがいものグラタンには、普通じゃがいもしか入っていないし、にんじんのグラタンは、にんじんとお米と卵でできている。  特にクリスマス料理というわけではないが、フィンランドのグラタン料理の中で一番ポピュラーなのはマクサラーティッコだ。レバーとお米に牛乳と干しぶどうが入っていて、とてもおいしいから、私はフィンランドでよく食べた。グラタン料理はマーケットでも売っているので、オーブンが壊れてしまった時には調法したが、やはり家庭で作った味には愛情というプラスアルファーがあるので、市販の物が続くと飽きてしまう。   お約束のドリンク・メニュー  食べ物の話をしていたら、ちょっとのどがかわいてきた。ビールでも飲みながら、クリスマスの飲み物の話に移ろう。日本ではビールというと真夏の飲み物だが、フィンランドではビールはクリスマスと深い関係がある。フィンランド人はクリスマスに自家製ビールを作る。これはスウェーデンのクリスマスの最も古い伝統的習慣らしいが、フィンランドにも伝わり、それぞれの家庭で、その地方独特の作り方で作られた。昔はビールの醸造にあたり、おまじないを唱えたりもしたという。  ビール以外のクリスマスの飲み物といったら、昔は牛乳もあった。冬になると牛に十分えさを与えることができなかったから、牛の乳はほとんど出なかった。そこで、特別クリスマスだけでも子供たち全員に牛乳を飲ませようと、村中の牛から乳をしぼって貧しい家庭にも分け与えたそうだ。  クリスマスは特別な日だから、家畜だってお酒がもらえた。強いスピリッツを飲むことで、来たる年の豊作を祈願した頃は、小さな子供も馬もお相伴にあずかったのだ。  たぶん二十世紀になってからだと思うが、スウェーデンから新しい飲み物が伝わった。グロギという温かい飲み物。これは赤ワインをベースにして作れば大人用になるし、ジュースを使えば子供も飲める。  これも簡単だから、作ってみよう。まず最初は、ワインを入れて大人用。   赤ワイン 一本   角砂糖  五〇グラム   レモン  一個   シナモン 一本   ナツメグ 少々   クローブ 少々   アーモンド   干しぶどう  おなべに角砂糖を入れて、その上にワインを注ぐ。砂糖が溶けたら、香料、シナモン、及びレモンのしぼり汁を入れる。レモンのない場合には、オレンジの汁でもいいそうだ。これを温めるわけだが、アルコール分が蒸発してしまわないよう注意せよ、とお料理の本に書いてある。温まったらコップに入れて、その中に干しぶどうと皮をむいたアーモンドを適当な数だけ入れる。この時、アーモンドの皮は必ずむくこと。でないと、口の中でごそごそしておいしくないから。この飲み物には、途中で干しぶどうやアーモンドを食べるために、スプーンが必要だ。飲み終わってから、底にくっついた干しぶどうとアーモンドを、コップの底をたたきながら口に入れるという、品性の疑われるような真似だけは避けたい。  子供たちにも、おいしい飲み物を作ってあげよう。この場合は、もちろんワインは使わない。フィンランドにはムスタヴィーニマルヤという名前の果実があって、そのジュースを使うのだが、日本にはないので、果汁一〇〇パーセントのグレープジュースを使えばいいと思う。たぶん濃すぎるからちょっとうすめて、レモン汁と香料を入れて温めるわけだが、ジュースを使う時はすでに甘いので、砂糖はいらない。もちろん干しぶどうとアーモンドは忘れずに入れる。  甘くて温かいグロギは、日本人の舌の上をスムーズに通過しただろうか。赤ワインが出てきたので思い出した。ワインを飲む前の日に、角砂糖を一つ落としておくと味がよくなるという話を聞いたことがあるが、あれは本当だろうか。とてもお料理の上手な年配の方の意見だから、試して損はないと思う。  日本酒は温めて飲むが、フィンランドではグロギ以外にお酒を温めて飲む習慣はほとんどない。では、なぜグロギは温めて飲むのだろう。グロギはクリスマスの飲み物と言ったが、スウェーデンでは昔、これを教会から帰って来た時に飲んだらしい。十二月の北欧は寒い。それで、何か温かいものが飲みたかったのだろう。教会から帰って来て、まだそりにすわっているうちに飲んだのだから、温かいグロギの味は格別だったに違いない。スウェーデンから伝わったグロギは、一九三〇年代になるとフィンランドのお店でも売られるようになり、どんどん愛飲家が増えるが、こういった「食」の文化史の陰にも、婦人雑誌の存在があることを忘れてはいけない。今これを飲まなければ世間から追放される、と言わんばかりに、グロギを讃美してその作り方を載せた雑誌があったのだろう。人間の歴史なんて、案外滑稽な流れ方をしているものだ。   ピパルカックはおいしいジンジャー・クッキーのこと  忘れないうちに、クリスマスのお菓子の話もしよう。まだ私がヘルシンキ大学の学生だった頃、クリスマスが近づくと、学食に星形のおいしそうなパイが並んだ。かざぐるまの形だが、私はどうしても星形と呼びたい。授業と授業の合い間にはみんなでコーヒーを飲むことが多かったが、クリスマスの前には、コーヒーと一緒にこの星形のおいしいパイを食べるのが楽しみだった。中にはプラムが入っている。それほど甘すぎないし、星形という形も楽しいから、私はフィンランドのお菓子の中で一番好きだ。お料理の本には、中に入れるのはママレードでもよいと書いてあるが、私は絶対プラムの方がおいしいと思う。  もう一つ、クリスマスのお菓子で大事なものがある。いろいろな形のクッキーだ。星、ハート、男の子、女の子、ブタ、というように様々な形のクッキーを焼く。大きな家も作る。こういうお菓子を総称してピパルカックと言う。ドイツから広まったらしい。ドイツの人たちは、「ヘンゼル」と「グレーテル」を|象《かたど》って焼くそうだ。  クッキーの家を作る方が、設計図なども必要だし、知的な遊びだと思うが、あまりこった家を作ろうとすると、構造学上の問題点をまず検討しなければならないので、少々ややこしいことになる。だからまずは、単純な家を作ってみよう。ピパルカックがおいしいのは、ジンジャーが入っているからだと思う。ピパルカックと星形のパイは、『サンタクロースと小人たち』の小人の子供たちが一生懸命に作っているので、ここでは作り方を省略する。どうしても作りたい人は、彼らのやり方を参考にしてほしい。  ピパルカックの豚もあると書いたが、これもあのブーブー鳴いてキリストの安眠を妨害した話と結びついている。豚は悪い印象を与えてキリストに嫌われた。そこで罰としてクリスマスに食べられてしまうことになった。なったが、だ。貧しい人々は豚肉が買えなかった。豚肉がなくても豚を食べるにはどうしたらいいか考えた。名案が浮かんだ。豚の形をしたパンを焼けばいい。それを食べれば豚を食べたことになる。と、まあこういうわけで豚パンが生まれたのだが、ピパルカックの豚さんは、たぶん豚パンの名残なのだろう。二〇〇〇年前にTPOを考えずブーブー鳴いてしまった豚さんの罪は、いつになったら時効になるのだろうか。  豚パンなどと言うと、ふざけた感じがするが、クリスマスにはパンの存在も忘れてはならない。クリスマス料理と呼ぶようなものがまだなかった頃には、クリスマスで一番大事なものはパンだったのだ。クリスマスには特別大きなパンを焼いた。これは食べずに、穀物の貯蔵小屋に置いておいて、春の種まきの頃までにカビが生えれば、その年は不作、カビが生えなければ、豊作と、占ったという。あるいは、大きなパンを焼いて、おそなえのように積み重ねて一番上にチーズをのせ、テーブルの飾りとしたり、使用人にクリスマス・プレゼントとして配ったこともあった。  不思議なもので、一つの国でもフィンランドは東と西でパンの歴史が全く違う。東では毎週パンを焼いたので、いつもやわらかいパンを食べていた。西では、クリスマス前に一回と春に一回しかパンを焼かなかったので、パンは硬かった。何しろ一回で半年分のパンを焼くのだから相当な量になる。パンの真中に穴をあけて棒に通し、天井に保存しておいた。フィンランドに行くと、マーケットやパン屋で真中に穴のあいたパンを見かけるが、この穴の理由は今述べた通りだ。  ところで、なぜパンにバターをつけるのだろう。西洋料理の並んだ食卓で、 「あなたは、なぜパンにバターをつけるのですか?」  ときかれたら、自信を持って答えられる日本人はいるだろうか。こんな言い方をすると、パンにバターをつけるにはまるで特別な理由でもありそうに聞こえるが、なんてことはない、パンにバターをつけるとおいしいからだ。日本人は、この単純な理由がわかってパンにバターをつけているだろうか。もしわかっているなら、もっとバターをつけたら、もっとおいしくなると考えて、それを行動に移す人が現われてもいいと思うのだが、だいたい日本人がパンにつけるバターの量は決まっている。たぶん日本人は、パンにつけるバターの量を舌で判断するのではなく、目で判断して決めているのだと思うが、どうだろう。  いろいろな所で食事をすることが多いせいか、つまらないことが気がかりになったりする。ペリーさんが黒船でやってきた時を開国と考える人もいるが、もし東京オリンピックを開国と考えるなら、日本人の生活は外国と接してからまだ日が浅い。それに、パンにあんこを入れてしまう民族だから、パンとバターの関係が明らかとなり、パンにもっとバターをつけて食べる日が来るのは、もう少し先になりそうな気がする。 [#改ページ]  フィンランドの小人伝説   フィンランドの小人たちトントゥ  この宇宙には、人間の目に見えるにしろ、見えないにしろ、いろいろな種類の生き物がいそうだ。自分の目で見なければ信じないという人もいる。私などは、目に見えない物もたくさんあってほしいと、わざわざ願う方だから、フィンランドの小人伝説を知った時には、新しいおもちゃをもらった子供のように驚喜した。  ヨーロッパでは、特にフィンランドに限らず、小人の出てくるお話や伝説があちこちにある。サンリオから出版されている『ノーム』(ヴィル・ヒュイゲン文、リーン・ポールトフリート絵)は、小人のすべてが記されている豪華本だ。訳者の遠藤周作さんが、 「この本の自由奔放な空想力とイマジネイションは、すれっからしの我輩まで夢中にさせたのである」  とおっしゃるように、大人をも魅了して世界中で爆発的に売れた。  この本のもう一人の訳者、寺地伍一さんは、  自然界のすべてのものは〈地〉、〈空気〉、〈火〉、〈水〉という四つの基本物質によって成り立っていると古代・中世の人々は信じていました。〈ノーム〉というのは元来この四つの基本物質の中の〈地〉を代表する精だったのです。  と説明していらっしゃる。ノームは小さいから、日本語でいったら一応小人ということになるのだろうが、一口に小人と言っても、国によってちょっとずつ違うので、定義づけはとても難しい。  世界中の小人を調べている時間はないので、フィンランドだけにしぼって書きたいと思うが、それだけでも六〇〇ページからなる文献と取り組まなくてはならない。もっとも、この本にはサンタさんに関する事物を明らかにするという使命があるので、小人学の方には、あまり深入りはできないのだが。  コルヴァトゥントゥリでサンタクロースのお手伝いをしている小人たちの話をする前に、まず、フィンランドの小人の概説から始めよう。私は、マウリ・クンナス作『フィンランドのこびとたち トントゥ』(文化出版局)も訳したので、小人の容姿が気になる人はこの絵本を参考にしてほしい。題名にもあるように、フィンランド語では小人の妖精をトントゥと言う。  トントゥは昔から、建物に住む守り神として考えられてきた。牛小屋にも馬小屋にもサウナにも、それぞれトントゥが住んでいて、真夜中誰も見ていない時に仕事をする。トントゥにおかゆをあげて親切にすると、その家に良いことがあり、いじわるをすると、災いが起こる。もちろん女のトントゥも男のトントゥもいるが、何百年も生きているので、男のトントゥには立派なひげがある。たいてい赤い三角帽子をかぶっているが、マウリの絵から判断すると、やわらかそうな布でできている。『ノーム』の小人は、赤は赤だが、とんがり帽子をかぶっている。それに、女は結婚前が緑色、結婚後が濃緑色だそうだ。『ノーム』の赤いとんがり帽子は、うすくらがりや夜の闇の中で、肉食鳥から身を守る役目をしているそうだが、トントゥの赤い三角帽子には他の理由もありそうなので、注意しておこう。  トントゥはtonttuと綴るが、これはスウェーデン語のtomteという言葉からできたという。だから、スウェーデンの小人たちはトムテということになる。だが、この語には元来、家の建っている場所、敷地というような意味がある。スウェーデン語のtomteはフィンランド語にお嫁入りして、tonttiとtonttuという双生児を産んだ。だから、tonttiは今でも敷地という意味で使われる。どうやらこのトムテの嫁入り話が赤い三角帽子の謎を解く鍵らしいのだ。 「敷地」に家を建てる時、まず基礎を作る。そして、木で十字を作る。すでにこの時点で守り神は引っ越してくるらしい。と言うより、その十字から生まれると言ったほうがいいかもしれない。こういう伝説がある土地もあるし、家を建てた人、最初に住んだ人がその家の守り神になると言われている所もある。この場合、家を建てると言っても、誰が炉を作ったかが問題となる。特に炉を作った人が守り神になるという。そしてさらに、誰が最初に火をつけたか、に注目する土地もある。つまり、最初に火をつけた人がその家の守り神になるという。だから、守り神の風貌も性格も、火をつけた人と同じということだ。  では、「火」はいったい何色をしているだろう。そうだ。赤だ。トントゥの帽子は何色だっただろう。そうだ。赤だ。これで解けた。つまり、トントゥの赤い帽子は、火を象徴しているということ。トムテがフィンランド語にお嫁入りして産んだトンティ(敷地)とトントゥ(赤い帽子をかぶった小人)という双生児の、双生児たるゆえんが、ここで判明した。  せっかくだから、家の守り神のもう一つの説も紹介しておこう。それは、その家で最初に死んだ人がその家の守り神になるという説だ。男が死ねば男の守り神、女が死ねば女の守り神になる。普通、男の守り神がいると、その家では男のする仕事がうまくいき、女の守り神は女の仕事を手伝う、と言われている。森に住む守り神もいるが、これもやはり火と関係している。森の中の同じ場所で三回火をたくと、守り神がその場所に住みつくという。『サンタクロースと小人たち』に、「小人たちは、昔、家や森の守り神だったそうです」と書いてあるが、今まで見てきたフィンランド小人学の知識があれば、この一行はすんなりわかる。コルヴァトゥントゥリの小人たちの話に移りたいところだが、まだちょっとおあずけにして、『フィンランドのこびとたち トントゥ』に出てくるような、一般的な小人の話から見ていこう。  まず、整理整頓の好きなトントゥ。汚れたお皿が散らかっていないように、床にゴミ一つ落ちていないように気を使うトントゥがいるらしい。男にしろ、女にしろ、このトントゥはきれい好きで、食器は洗ってきちんと棚に置いてあり、寝る前に床の掃除をするような家だと住み心地がいいようだ。夜遅くまで一生懸命に仕事をし、疲れて掃除をしないまま眠ってしまうような家では、トントゥが夜中に道具を片付けてくれる。でもこういう親切なトントゥは珍しいほうで、夜中の見回りに来た時に部屋が散らかっていると、カッとなって奥さんをどなりつけたり、そこら中の物を投げたりするおこりっぽいトントゥもいる。こんな話も伝わっている。  母親がリーサに言いました。 「寝る前には必ず部屋を片付けなさい。夜のお客様の邪魔にならないようにね」 「夜のお客様って誰のこと?」 「トントゥよ。トントゥは夜中に屋根裏からおりてきて、ダンスがしたいのよ」  動物の世話をするトントゥ。牛小屋や馬小屋に住んでいるトントゥは、動物にえさをやったり、ブラシで体をこすったりする。ただ、トントゥにはそれぞれ好きな色があるようで、茶色の好きなトントゥは茶色の馬にたくさん干草をやったりというような|えこひいき《ヽヽヽヽヽ》もあるらしい。変わったところでは、馬のたてがみやしっぽを三つ編みにするトントゥ。馬のしっぽが三つ編みになっている時は、何かいい事が起こるのだから、決してそれをほどいてはいけないという言い伝えが、フィンランドの方々にある。『フィンランドのこびとたち トントゥ』には、奥さんから、よく働くお礼にとよそゆきドレスを作ってもらったトントゥが、ドレスに着がえたとたんにお姫様気分になってしまい、「もう、働かないわ」と、仕事をやめる話が載っているが、これは実に楽しい。  水車小屋に住むトントゥ。このトントゥは、粉をひきに来てつい居眠りをしてしまった人を起こすこともあるし、その反対に、お休みの日に粉をひきに来ると、怒って水車にしがみついて止めてしまうこともある。この力持ちトントゥは、男ばかりとは限らない。ちょっと大きめの女トントゥという場合もある。  水車トントゥには色っぽい話もある。トントゥが女で、粉をひきに来るのが男という場合には、トントゥがスカートをちょっとつまみ上げて|科《しな》をつくることもあるそうだ。粉ひき男をからかうだけで終わる場合もあるが、なかにはスカートをつまみ上げるだけではなく、もっと積極的に出るやりてトントゥもいると文献に書いてあるから、フィンランドの水車小屋へ行くようなことがあったら十分気をつけてほしい。  物を運んでくるトントゥ。夜中に出かけて行って、どこかから穀物や粉や|まき《ヽヽ》、たまにはお金まで運んでくるトントゥがいるという。どこかからといっても、たいてい隣りの家かららしいのだが、こういうトントゥがいたら、物が不足しなくていいと思う。こういうトントゥは穀物トントゥと呼ばれているが、穀物トントゥの伝説の多くは、二人のトントゥがお互いの家から物を持って帰る途中、橋の上でばったり出くわして、けんかになるが、粉を持っている方が相手の目に投げ入れて勝つことになっている。  大きな石がとんでもない所にぽつんとあったりすると、「トントゥの石」と呼ばれることがある。これは、トントゥがエプロンにのせて石を運んでいたが、その場所でエプロンのひもが切れて石が落ちたから、という説明がつくのが常だ。  リーヒ小屋に住むトントゥ。リーヒ小屋と言っても、きっと誰もわからないだろうと思うが、これは、畑から刈り入れた麦などを乾燥させたり、脱穀をしたりする小屋のことだ。日本にはこれに相当するような建物はない。このリーヒ小屋に住んでいるトントゥは、モラリストが多いらしい。旅人が泊まりに来ても、お酒を飲んだり、トランプ遊びを始めたりすると、石を投げつけて追い出してしまう。旅人はリーヒ小屋に入る前に、本当は、トントゥに泊まってもいいかどうかきかなくてはいけない。旅人の質問の後にコトンと音がしたら、それは「どうぞ」という意味だが、何も音がしない場合には、トントゥの御機嫌が悪いのだから、決してリーヒ小屋に泊まってはいけない。真夜中に追い出されるのが関の山だ。リーヒ小屋でなくとも、北欧では、人のいない部屋には小人がいるから、まず入る前にあいさつをするべきだと考えている人が未だにいるという。  リーヒ小屋では一晩中暖炉を暖めて麦のたばを乾燥させるわけだが、この暖炉の見はりをして、リーヒ小屋を火事から守るのもトントゥの役目だ。リーヒ小屋に住むトントゥの中には、額の真ん中に大きな目が一つついている一つ目トントゥもいたそうだ。トントゥは皆、人間とほぼ同じ格好をしていたが、中には一つ目トントゥや片方の足に馬のひづめがついているようなトントゥもいた。  サウナに住むトントゥ。フィンランドには、「サウナのトントゥのように黒い」という言い方があるように、サウナに住んでいるトントゥはすすで真っ黒だ。水車小屋のトントゥは粉で真っ白、サウナのトントゥはすすで真っ黒。だから、サウナのトントゥは黒いことを自慢に思っていて、すすがとれると悲しくなるのだそうだ。 『フィンランドのこびとたち トントゥ』の最後に、クリスマスの大好きなサウナトントゥの話がある。「トントゥのクリスマス」という題だが、こう始まる。  サンタクロースが生まれる前には、人々はトントゥと一緒にクリスマスを過ごしていました。キリストの生まれた日、クリスマスは、畑仕事の終わりを祝うお祭りでもあったのです。だから、守り神のトントゥを忘れてはいけません。   トントゥの姿を見た人は不幸になる?  一年間畑仕事を守ってくれたお礼として、クリスマスのごちそうは、まずトントゥに食べてもらう。フィンランドでは古くからの習慣としてクリスマスには早めに仕事を済ませて、暗くならないうちにサウナに入るが、サウナに行く前に必ずテーブルにごちそうを並べておく。サウナからは奥さんが最初に出てきて、テーブルのごちそうをたしかめ、何かがなくなっていたらトントゥは満足だった、何も手をつけていなかったらトントゥは不満だった、と判断するそうだ。  体にすすがついていることを自慢に思っていて、決して体を洗いたくないサウナトントゥは別にして、それ以外のトントゥのために、クリスマスには家族が特別な配慮をする。地方によって、サウナを暖めてまずトントゥに入ってもらう所と、家族の入った後、トントゥにゆっくりサウナを楽しんでもらう所とがある。ごちそうとサウナとどちらが先にせよ、トントゥにとっても、クリスマスは一年で一番うれしい日に違いない。  トントゥは暗い所が好きで夜動き回るから、ほとんど人前に現われることはないのだが、たまに姿を見せることがある。それは、不幸の知らせだそうだ。トントゥが出てくると、その家の誰かが死ぬと言われている。トントゥを見た次の日、家の主人が精神病になったという話も伝わっている。  実際に見ることはめったにないが、夢の中にトントゥが出てくることはよくあるらしい。夢でトントゥが何かを教えてくれることもある、という。ただこの、トントゥを見た、見ないというようなことは、UFOを見た、見ないの話と似ていて、相手に信じてもらうしかないので、難しいところだが、私はトントゥもUFOも存在してほしいし、できれば見たいと思っている。霊感の強さがこういうことに関係しているのかどうかわからないが、現在でもフィンランドにはトントゥが見えるという、タピオ・カイタハルユさんのような人がいて、トントゥについての本も書いているから、トントゥを遠い過去の伝説として博物館にとじ込めてしまうのは、あまりにも残念だ。  暗い所にはトントゥがいると言うと、フィンランドでは怖がった子供もいたらしいが、私などはトントゥの本を訳して以来、暗い所には楽しくてかわいいトントゥがいるかと思うと、一人で留守番をしていても、ちっとも怖くなくなった。古い木造家屋だから、時々ミシミシ音がするが、またトントゥがごそごそやっているな、おかゆでも食べたくなったの? くらいにしか感じない。フィンランドのトントゥたちは私に新しい発想法を教えてくれた。  トントゥの本を訳した時に、内容について作者のマウリと詳しく話し合った。トントゥの本を作って以来、彼にはいい事ばかりあったが、それはきっとフィンランド中のトントゥが喜んで、彼を応援してくれているからだろうと言っていた。   小人たちのクリスマス  あまり深入りはしていられないのだが、と言いつつ、つい楽しくなってしまい、トントゥの話に花が咲いた。さあ、急いでコルヴァトゥントゥリの小人たちの話に切り替えよう。  クリスマスに小人が出てくることは、日本ではほとんどないが、北欧のクリスマスには、赤い三角帽子をかぶった小人たちがつきものだ。コルヴァトゥントゥリの小人たちは、一年中プレゼントの製作に忙しく働いているが、クリスマスの日にはプレゼントを配る仕事もする。サンタクロースと一緒に出没する小人たちには、建物の守り神としてではなく、プレゼントの配り手としての役割がある。こういう小人の仕事は、雑誌や広告では、人間の子供たちが赤い三角帽子をかぶってやっている場合もある。  一八七一年、スウェーデンのヴィクトル・リュドバリィが次のように始まるクリスマスのお話を書いた。  小さな男の子がクリスマスの晩に、ひとりで居間に座っていると、小人が入ってきました。小人はその少年をそりに乗せると、一緒に、家から家へプレゼントを配る旅へと出発しました……。  四年後にこの物語は、さし絵入りの本となり、多くの子供たちに読まれた。さし絵を描いたのは、当時十八歳のイェニー・ニューストロム。彼は後にクリスマス・カードの作家としても、さし絵画家としても有名になる。  この物語のフィンランド語訳が出たのは一八九五年だったが、一八九〇年には子供の本の中にサンタクロースと共にプレゼントを配る小人の話が紹介されている。フィンランドの演劇にクリスマスの小人が出てくるのは、もっと早かった。一八八一年ヘルシンキの学生会館で行なわれたパーティでは、子供のグループが十二人の小人を演じた。その中には、後にシベリウス夫人となるアイノ・ヤーネフェルト(一八七一年生まれ)もいたという。  クリスマスの小人たちの基礎となっているのは、やはり古くからある小人伝説だ。守り神の小人は、クリスマスに、一年間の仕事のお礼としておかゆをもらった。その「クリスマスに」というところがクローズアップされ、クリスマス・プラス・小人という組み合わせの文学が誕生し、プレゼントの配り手としての役割が小人に与えられた、というわけだ。もちろん、一九二七年のマルクスおじさんの(正式な?)発表、「サンタクロースとクリスマスの小人たちはコルヴァトゥントゥリに住んでいる」以来、小人たちの住所も公になって、子供たちの心にも定住するにいたるわけだ。そして、数々の作家や画家の創作を経て、マウリ・クンナスの『サンタクロースと小人たち』で、彼らの仕事の内容及びコルヴァトゥントゥリでの生活のすべてが視覚的に明らかになった。  一九〇〇年から一九六六年まで毎年クリスマスに発行されていた『ヨウルプッキ』(フィンランド語でサンタクロースの意)という子供のための小冊子には、クリスマスの小人たちのお話(たとえば、大都会へ行って迷子になるトントゥ、自分の赤ひげがいやで白いペンキをぬるトントゥ、子供に数字を教えるトントゥ等)がたくさん書いてある。『ヨウルプッキ』の他にもクリスマスに発行された小冊子はたくさんある。私は、フィンランドの出版社の倉庫にひっそりと眠るクリスマスのトントゥの資料をたくさん集めてきたのだが、それらの紹介はまたの機会にしよう。フィンランドには楽しいトントゥのお話がいっぱいあるので、それだけをまとめて一冊の本にしてもいいと思う。 [#改ページ]  クリスマスって、こうなのさ   フィンランドの「月」の意味  十月にフィンランドから友人が遊びに来た。彼らに、十月は神無月と言って、神様が全員出雲大社に出かけていて留守になる、と説明したところ、 「ああ、よかった。それじゃ、ちょっとは自由にできるね」  と言って喜んでいた。神無月だからといって、はめをはずしてもいいかどうか、私にはわからないが、これはなかなか楽しい小噺だと思っている。  日本人に、十月は一年で何番目の月かときいたら、 「えーと。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十番目」  とわざわざ数えて答える人はいないだろう。なぜなら、すでに十月と言った時に答えが出ているのだから。フィンランド語の場合は、月の前に数字がついていないから、何月から何月までは何ヵ月かなどという時に、いちいち指を折りながら月の名前を全部唱えなくてはならない。フィンランドの暦にはどんな名前の月があるか、日本の月の古い言い方と共に表にしてみよう。   一月  睦月  |tammikuu《タムミクー》   二月  如月  |helmikuu《ヘルミクー》   三月  弥生  |maaliskuu《マーリスクー》   四月  卯月  |huhtikuu《フフティクー》   五月  皐月  |toukokuu《トウコクー》   六月  水無月 |kesakuu《ケサクー》   七月  文月  |heinakuu《ヘイナクー》   八月  葉月  |elokuu《エロクー》   九月  長月  |syyskuu《スユースクー》   十月  神無月 |lokakuu《ロカクー》   十一月 霜月  |marraskuu《マツラスクー》   十二月 師走  |joulukuu《ョウルクー》  フィンランド語の意味がわからなくても、一目でkuu が月だということくらい気がつく。日本語の古い言い方のいわれは各自で調べていただくことにして、ここでは私と一緒にフィンランド語の月の意味と、なぜそう呼ばれるようになったかをさぐってみよう。  一月。タムミクーのタムミはカシワ・ナラ・カシ類の木を総称したオークのことだ。方言では、真中、主軸、中心の木などという意味もある。水車の心棒はタムミでできている。つまりタムミには中心にあるものといった意味も含まれている。フィンランドの一月は自然の厳しい冬の中心にある、ということらしい。  二月。ヘルミクーのヘルミは真珠。だが、これは貝の中に入っている真珠のことではない。みぞれや雪が降った時、木の枝が数えきれないほどの「氷の真珠」をつけて光り輝く。その真珠のことだ。私は十二ヵ月の命名のうち、二月のヘルミクーが一番きれいだと思う。  三月。マーリスクーのマーリスは複合語だからこういう形になっているが、その元になっているマーとは、国とか土地とかいう意味だ。三月になって雪や氷が溶け出すと、いくらか地面が顔を出す、というようなことだろうか。  四月。フフティクー。四月になると、穀物の種まきに備えて、無駄な木ややぶを切り、燃したという。その仕事をフフタと言い、複合語になってフフティクーとなった。四月だけでなく、農作業と関係した月の名前が多い。  五月。トウコクーのトウコは種まきの意味がある。四月のフフタに続き、耕して種をまくのが五月の仕事だ。  六月。ケサクーのケサは夏。この月に関しては特に説明がいらない。  七月。ヘイナクーのヘイナは英語のhay。つまり、この月に干し草作りに励む。七月にいつまでもカッコーが鳴いていると、暖かくて長い秋が来ると言われている。  八月。エロクーのエロには、生命、穀物、収穫といった意味がある。四、五、七、八月の名前を見れば、農作業のだいたいの時期がわかる。  九月。スュースクー。秋をスュクスュと言うが、スュースもだいたい同じようなものだから、秋の月ということになる。フィンランドでは、「九月が秋をもたらす」と言われている。  十月。ロカクーのロカには、泥、ぬかるみ、汚れたというような意味がある。十月になると、夜がだんだん長くなり、人々が闇の存在を感じるようになる。雨が降ると、道は泥で汚れる。十月の天候と人々の気持は、月までもロカと呼ばせてしまうのだろう。  十一月。マッラスクーのマッラスは、死を意味する。フィンランドで生活して、一番苦しかったのは、やはり十一月だった。闇がすべてをおおってしまう。寒さと暗さの両方に圧迫されたら、誰だって明るさを失うはずだ。フィンランド人が十一月を「死の月」と呼ぶ気持がよくわかる。  十二月。ヨウルクー。ヨウルとは、何を隠そうクリスマスのことだ。フィンランドの十二月は、クリスマスの月と呼ばれているのだ。ただ、この言い方は新しい。十七、十八世紀までタルヴィクーと呼ばれていた。タルヴィとは冬のこと。十二月は、「冬の月」から「クリスマスの月」に変身した。ヨウルはスウェーデン語のjul、もっと先をたどればj様から発しているが、こんなに新しい外来語がフィンランドの月の名に使われているのは、十二月だけだ。このことから、クリスマスというお祭りがフィンランドでかなり意味を持つようになっていったことがわかる。  一月から始めたのでどうなることかと思ったが、やっとサンタさんの月、十二月までたどりついた。十二月のなかでも、特にサンタさんの活躍する日、二十四日だけにしぼって話を進めていこう。私がフィンランドで過ごしたクリスマス・イブを思い出しながら、サンタさん出現の日のすべてを明らかにしようと思う。   クリスマスを一人で過ごすほど残酷なことはない  クリスマス休暇に自分の国へ帰らないのは、留学生の中では日本人だけだった。他の国の人たちは、まるで日本のお正月のように、みんないっせいに故郷へ帰っていった。私はクリスマス・イブにマキネンさんの家に招待されていたが、クリスマスが近づくといろいろな人が、 「クリスマスはどこで過ごすの? 誰かに呼ばれてるの? まさか、家に一人でいるんじゃないでしょうねえ」  と、心配してきいてくれた。クリスマスを一人で過ごすほど残酷なことはない。やはりみんなが家庭の中で楽しく過ごす時、「家なき子」がいてはいけないのだ。  クリスマスには一年の感謝をこめて、新聞配達の人に心づけを贈る。この習慣を知らされて、私はアパートの人と一緒にお金を封筒に入れてドアに貼りつけておいた。みんなそうしているらしい。日本では、たとえお正月といえども、交通機関や遊戯場関係者は皆働いている。フィンランドでは二十四日になると、お店もほとんど閉店するし、夕方になると、交通機関も全面的にストップしてしまう。バスも市電も止まってしまうので、私はアパートでマキネンさんが迎えにきてくれるのを待っていた。アパートの隣の人はもう実家に帰っていたので、あたりはひっそりとしている。洋服を着替えて、プレゼントの数を確かめ、いつ来るかいつ来るかと待っていたのだが、なかなかマキネンさんは現われない。私の体は単純な構造でできているので、何もしないで静かにしていると、必ず眠くなる。とうとうすっかりいい気持で眠ってしまった。  玄関のベルが鳴った。飛び起きてドアを開けると、マキネンさんが立っていた。 「遅くなってごめんね」  私は急いで防寒具一式を身につけると、ハンドバッグとプレゼントを入れた袋をつかんですぐに部屋を出た。アパートから一歩出ると、外はだいぶ寒かった。マイナス十五度くらいだっただろうか。外気にあたると、身がひきしまる思いがする。 「どうぞ」  と言って、マキネンさんが車のドアを開けてくれた。腰をかがめて中に入ろうとした時、私は驚きのあまり、手に持っていた物をすべて落としてしまった。なんと、中にサンタクロースが座っていたのだ。もちろん赤い服と白いひげ。私は初め、自分が寝ぼけているのかと思った。サンタクロースが微笑んで私に挨拶をする。夢ではない。何事が起こるのだろう。  車が動き出した。マキネンさんの家まで十五分くらいかかっただろうか。その間私は絶句したまま、緊張してサンタクロースの横に座っていた。車の中にはもう一人、私の知らない女性がいた。私以外の三人は楽しそうに話している。車が到着すると、マキネンさんとサンタクロースが何やら打ち合わせをしている。私が玄関から入る時に、マキネンさんはプレゼントがいっぱい入っているとても大きなダンボールの箱を、家の中から外へ出した。プレゼントはみんなそこへ入れるものかと思い、私も急いでその中へ持ってきた物を入れた。サンタクロースも、もう一人の女性も、中には入って来なかった。  もう十人くらい集まっていた。私が入って行くと、ちっちゃなサトゥが、 「なあんだ、ミハルか。ヨウルプッキかと思ったのに……」  と、がっかりしていた。サトゥは先に鈴のついた赤い三角帽子をかぶっていて、まるでトントゥのようだった。このあたりになってやっと私はその晩の仕掛けがわかってきた。たぶん、ああいうふうになるのではないかと、演出を予想した。みんなに挨拶をしたり、天井に届きそうなほど大きなもみの木と記念撮影をしているうちに、十分くらいが過ぎただろうか。  玄関のベルが鳴った。サトゥが一目散に走って行く。ドアを開けると、プレゼントのいっぱいつまった箱をかかえたヨウルプッキが立っている。四歳のサトゥはもう大喜びでピョンピョン飛びはねている。ヨウルプッキの手をひいて、みんなのいる居間までやってきて、サトゥが歌をうたう。ヨウルプッキともう一人の女性(どうやらヨウルプッキのガールフレンドらしいが、真相はいかに?)にも、マキネン夫人の用意した温かいグロギが配られる。サトゥも興奮していたが、サンタクロースがプレゼントを持って家の中まで入ってくるのを初めて見た私も、相当興奮していた。日本では、サンタクロースは夜中に来ることになっているので、対面することはないから。  ヨウルプッキはグロギを飲みほして少しおしゃべりをすると、ガールフレンドと一緒にすぐに帰ってしまった。それからがまた大変。今度はプレゼントを開ける番だ。子供たちは、ものすごい量のプレゼントをもらう。お菓子、おもちゃ、絵本など、親戚中の人からもらうわけだから、全部開けるのにとても時間がかかる。ただ、子供にあげるプレゼントには、 「だれそれちゃんへ、ヨウルプッキより」  と書いておく。プレゼントはみんなヨウルプッキからもらうことになっているのだ。  私もその時、ヨウルプッキからたくさんプレゼントをもらった。暖かそうな手袋、アラビア社の花柄のついたお皿、チョコレートがぎっしりつまったクリスタルのびん、本もあったと思う。クリスマスに限らず、フィンランドでは本を贈り物にすることがよくある。プレゼントがそれぞれの手に渡ったところで、いよいよ食事になるわけだが、クリスマス料理と飲み物については、豚の鼻の章で詳しくやったので、マキネン夫人の手料理がとてもおいしかったとだけ報告して、次に進みたい。  子供たちは、もらったおもちゃの事が気になって、食事どころではない。食事が終わると大人たちも、プレゼントをながめたり、久しぶりに会った親戚の人と話をしたりしてゆっくりと過ごす。サトゥの家にはグランドピアノがあったので、私は初めてだったが、フィンランドのクリスマスの歌を弾いた。そんなことをしていると、マキネンさんが急に、 「そろそろ行こうか」  と言い出した。こんなに夜遅く、しかも外は寒いのに、いったいどこへ行くのだろう。 「何しに行くの?」  と聞いても、みんなニヤニヤしているだけで答えてくれない。 「行けばわかるさ」  とかなんとか言って、みんな防寒具をつけている。私はどこへ行くかわからないまま車に乗った。  到着したのは、なんと墓地。私たち以外にもたくさん人が来ていた。フィンランドには、クリスマス・イブにお墓参りをする習慣があるのだ。フィンランド人はクリスマスになると、必ず先祖を思い出す。クリスマスにお墓にろうそくをともすのは、フィンランド、ドイツ、オーストリアの習慣と言われている。一三六七年ドイツで、ある死にそうな人が遺言として、彼の死後、翌日、七日目、三十日目にお墓にろうそくをともしてほしいと言ったのが、お墓にろうそくをともすようになった始まりだと言われているが、この習慣が北欧へ伝わったのは、一九〇〇年代になってからだという。北欧四ヵ国の中では、フィンランドが一番早かった。第一次大戦で亡くなった人のお墓にろうそくをともしたのが、一九二〇年代とされている。  マキネンさんの家のお墓に御先祖を訪問した後、有名な英雄たちのお墓も見学しながら帰ってきたのだが、革のコートを着ていても、中は普段より薄着だから寒くてしょうがなかった。家に戻ってから、みんなでお茶を飲んで、ごちそうの残りをつまんで体を暖めた。その頃になると、もう子供たちは眠くなってくる。大人はさらにおしゃべりを続けた。私がマキネン夫人の御両親の車で家まで送っていただいたのは、午前二時頃だったと思う。  私のフィンランドでのクリスマス体験は、残念ながらここでとぎれている。その時は教会にも行かなかったし、クリスマスのサウナにも入らなかった。せっかく二十四日の集中分析を行っているのだから、たとえ体験ぬきでも、調べられるだけのことは調べてみよう。   礼拝の途中にグロギを飲むのがスウェーデン流?  フィンランドのキリスト教について触れておこう。一九二三年以来、完全な信教の自由が認められていて、すべての国民はどの宗教でも自由に信仰することができるし、無宗教でもかまわないことになっている。   福音ルーテル教会   九二・五%   フィンランド正教会   一・二%   ローマ・カトリック教会 〇・一%   その他の宗教団体    〇・四%   無所属         五・八%  私の見ていた限りでは、フィンランド人はあまり教会に行かない。結婚式やお葬式以外に教会に行くことがあるとすれば、やはりクリスマスだろうか。一口にクリスマスと言っても、いつ行くかは時代によって変わってきている。  キリストが生まれたのは夜中の零時と信じられているからか、零時に礼拝をする国が多い。フィンランドでは、キリストが夜中に生まれたからという理由以外にも、零時に礼拝を行う理由がある。それは、その時間に先祖が生前所属していた教会に集まるという言い伝えだ。だが十六世紀の後半になると、スウェーデンでもフィンランドでも、クリスマスの朝早く礼拝を行なうようになる。これはなぜかというと、教会への道のりが長いのに反して、冬の日が短いことが挙げられる。昔の人たちは時計を持っていなかったから、二十四日の夜いくらか眠るとすぐに起きて、そりをとばして教会へ行ったらしいが、早い人は午前三時か四時頃すでに到着してしまったようだ。ちょっとそれでは早すぎるだろうが、早朝に礼拝を済ませれば、まだ光のあるうちに帰れることになる。  その昔、教会には暖房がなかった。スウェーデンでは、礼拝の途中で休憩時間を設け、グロギを飲んで体を暖めたそうだ。フィンランドでは、特にそういうことはしなかった。スウェーデンとフィンランドでも少しずつ習慣は違うし、また地域によっても差がある。現在スウェーデンでは、所によって、二十四日の午後、二十四日の真夜中、二十五日の早朝というように、礼拝の時間もまちまちだ。フィンランドでも、一八八〇年代から「二十四日の午後」の礼拝がヘルシンキにお目見えする。だからフィンランドでも礼拝の時間は所によって三種類あるのだが、最近ではラジオやテレビが礼拝を放送するので、わざわざ教会へ行かなくても、礼拝をしたような気になれる。馬にそりをひかせて暗い道を教会へ急いだ頃とは、もう時代が違う。  ちなみに、一九九一年フィンランドで福音ルーテル教会のクリスマス礼拝に出席した人の数は、二十四日:三九万三八二人、二十五日:三二万七九五一人、二十六日:三万四七九四人となっている。(フィンランドの全人口は五〇〇万人弱)   フィンランドならキリストはサウナ生まれ?  クリスマスのサウナについても話しておこう。フィンランド人の生活にサウナは欠かせないものだから、一年中使っているのだが、クリスマスにも、特にサウナについて言わなければならないことがたくさんある。スウェーデンにもサウナ風呂があったが、一七〇〇年代に公衆サウナから病気が伝染すると医者が発表したため、だんだん下火になってしまった。そして、サウナ風呂に入るのはクリスマスだけに限られるようになった。フィンランドではサウナ風呂がそのまま残り、現在でもサウナ小屋が一〇〇万棟以上あると言われているように、日常生活の一部として存在している。それならなぜクリスマスにもサウナなのか、というところに注目しなければならない。  クリスマスはキリストの生誕を祝うお祭りだ。フィンランド人は、昔どこで生まれただろう。サウナだ。昔はサウナでお産が行なわれた。キリストの生誕とサウナは、ここで結びつく。クリスマスのサウナは厳粛なものだから、中では特別静かにしなければならないと言われたこともあった。自分の家にサウナのない貧しい人々も、クリスマスにはサウナのある家へ呼ばれて、身を浄めた。昔のサウナは、サヴサウナ(サヴは煙を意味する)といって、中の煙が外へぬけるような煙突がなかったので、サウナの中はすすだらけだった。現在フィンランドの湖畔に建っているような煙突つきのサウナとはちょっと違う。ついでだから、サヴサウナの生い立ちも調べてみよう。  サヴサウナの歴史は、キリストの生誕と同じ頃までさかのぼることができる。フィンランド人の祖先はその頃、現在のフィンランドの南部から東部のあたりに住んでいた。松を使った丸太小屋を建てて、サウナとしていたらしい。サヴサウナの歴史はこのように約二〇〇〇年も前から始まるのだが、フィンランドの東と西ではいくらか違った発達をとげた。東ではサウナはただ単に体を洗う場所、病気をいやす場所として使われたが、西では貧しい人たちがサウナを住居としても使ったし、刈りとった麦を暖めて乾燥させるためのリーヒ小屋としても使った。サウナで麻も乾燥させたし、肉の薫製も作った。  サヴサウナをサウナとして使う場合、どんな風に暖めるのか、やり方もここで覚えておこう。まず、まきが必要だ。石でできた巨大なストーブのようなものをまきで暖める。はじめは煙がサウナじゅうに広がる。煙を出すために天井に、あるいは壁(西部フィンランド)に穴があけてある。まきが最後まで燃えきったところでドアを開けて、石の上に何度か水をかける。これは石についているすすをはらうためだ。そして、ドアと煙出しの穴をしめて、もう三十分程暖めて完了。暖めている時の最高温度は摂氏二〇〇度にまでなり、その後も一一〇〜一五〇度くらいに三〜五時間保たれるので、サヴサウナは衛生的だと言われている。だから病人の看護や出産の場所として適しているそうだ。フィンランドでは二十世紀の初め頃まで、サウナで子供を産んでいた。  サヴサウナの欠点は、中がすすと煙だらけになるところにあった。一九二〇年代頃から、煙が直接外へ出るよう煙突がつけられるようになり、もう中がすすだらけになるようなことはなくなった。現在では電気仕掛けのサウナがあるから、アパートの中でもどこでも簡単にとりつけられる。ヘルシンキからストックホルムへ行く船の中にもサウナがある。サンタさんは、スウェーデンの子供たちにプレゼントを配りに行く時、この船のサウナで一汗流すのだろうか。 [#改ページ]  クリスマスは思いっきり? ほどほどに?   世界�クリスマスの過ごし方�ア・ラ・カルト  パーティは楽しい。どんな名目であれ、人が集まれば話がはずむし、笑い声が響くものだ。ありきたりのものでは満足できなくなると、人間はそれ以上のものを求めるようになる。ある程度これは当然のことだ。  クリスマス・パーティも楽しい。人間誰しも、つらく悲しいことより明るく楽しいことのほうが好きだから、クリスマスがキリストの生誕を祝う宗教的行事であることを全く気にとめずに、クリスマスをただただ楽しくやった人たちもいた。クリスマスをやりすぎてしかられた人々の歴史もある、とでも言おうか。もちろんクリスマスが盛んになったのは、中世西ヨーロッパ全域にキリスト教が支配的になったからなのだが、人類のすべてがみな敬虔なクリスチャンというわけではない。だから、クリスマスは|様々な形で祝われる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ようになった。  世俗的な騎士試合、仮装行列やサーカスなどの大騒ぎもあったらしいが、イギリスでは一二五二年に、ヘンリー三世が牛六〇〇頭を殺して大盤ぶるまいしたという残酷なクリスマスの記録も残っている。教会の中でスペイン舞踊が踊られたり、レスリング大会、狩猟パーティ、競馬にまで人が群がるようになり、だんだん「遊び」の部分の度が過ぎるようになっていった。もちろん教会は�やりすぎる人々�に対して警告を発したが、全く効きめがなかった。特にフランスの公現節(一月六日)のバカ騒ぎとイギリスの仮面パントマイムは、社会秩序を乱すほどのものだったという。本来のクリスマスの意味を離れて、娯楽のための娯楽になってしまったのだ。  キリスト教はその後、ヨーロッパにとどまらず、世界中に広まった。キャバレーで大騒ぎをするというひと頃の日本のクリスマスも、「クリスマスをやりすぎてしかられた人々の歴史」の中に入るのだろう。すべての人間が敬虔な気持を持っているとも言えないが、すべての人間が社会秩序を乱すというわけでもない。悪が栄える時代もあり、またそれが是正される時代もある。歴史はそんな流れ方をしている。それでは、今はいったいどんな時代なのだろう。クリスマスの過ごし方に限って、世界中を見わたしてみたい。それには、文献ではなく目撃者の証言がほしい。そこで、世界中とまではいかないが、外国でクリスマスを過ごしたことのある私の友人に体験談をきいてみた。  フランスに留学していたK子さんの話から始めよう。パリで過ごしたクリスマスだという。 「クリスマスっていうのは全く家庭中心でね、二十四日の夜十二時にミサに行くんだけど、その前、八時頃からかな、家族でごちそうを食べるの。あっ、その前にプレゼントの交換だったわ。ツリーを飾ってそのそばに贈り物をおいておくんだけど、チョコレートをあげるのがまあ無難なところかしらね。食べる前にプレゼントを開けたり見せあったりしてたわ。  あっ、そうだ。フランスではクリスマス・ツリーよりキリスト生誕の場面の人形の飾りの方が大事なの。たいてい陶器でできていて、毎年使えるし、人形を買ってふやしたりもするんだけど、ミサから帰ってからその飾りの中にイエスを飾るの。夜中に生まれたということでね。あのお人形は、なんて言ったかな、木でできてるのもあるし、手製のもあるし、お金持の家族は大きいのを持っていて、ちょうど日本のおひなさまのように継承していくんでしょうね。  ごちそうは七面鳥の丸焼きだけど、お腹の中に栗の甘露煮みたいなのをたくさんつめるのよ。お総菜屋さんがあるから売ってるかもしれないけど、たいていどこの家でも家庭で作ると思う。七面鳥を切るのは御主人の役目。七面鳥はパサついているから、私はあまりおいしいとは思わなかった。フランス人でも嫌いだっていう人が多かったから、あれは季節感を楽しむっていうお料理なんじゃないかしら。  飲み物はシャンペンで始まってワインかな。クリスマスには子供もワインを飲んでいいの。それ以外の時は子供が食卓で飲むのは水だけど。デザートはブッシュ・ドゥ・ノエルっていうケーキね。たきぎの形をした、とても甘いケーキだけど、これはクリスマスの時だけ食べるケーキ。南仏では十三品デザートを作るって言ってたわ。十三っていうのはね、キリストの弟子十二人プラス物乞いなんですって」  サンタクロースの存在についてたずねると、 「デパートの広告ではサンタクロースみたことあるけど、特に印象ないなあ」  とのことだった。ミサから帰ってから踊る若者もいるそうだが、それも家庭でか、あるいは道路でだという。繁華街はひっそりとしたクリスマス、家庭内で静かに過ごすという、宗教的行事としてのクリスマスというところだろうか。  カトリックの国の話をもう一つ聞こう。イタリアに留学していたUさんの話。 「二十四日の夜中にミサがあるけど、これには全員が出席するわね。アッシジは人口八〇〇〇人だけど、教会が二四あるから、全員が入れるわけ。二十五日のお昼に家族でごちそうを食べるんだけど、クリスマスっていったら何しろ宗教色が強くて、家族で過ごすっていうのが基本でしょうね。  ツリーも飾るけど、日本みたいにごちゃごちゃ飾らないで、玉だけを吊るしてたみたい。雪のつもりの綿なんかのせてなかったわ。プレジェピオって言って、キリストの生まれた場所を再現する人形を作るの。籐でできているのもあるし、粘土のもあるし、街中に何百というほど飾られてね、プレジェピオの大会まであるのよ。  えっ、サンタクロース? 来なかったわねえ。そうよ、来なかったわよ。イタリアでさ、けっこうサンタクロースって来ないもんだなって思ったんだもの」  イタリアもフランスとよく似ていて、宗教色が濃いようだ。社会の秩序が乱れるようなことは、誰もしていないようにみえる。フランス、イタリアの次は、アジアまで一飛びしてみようか。インド、アフガニスタン、パキスタンのあたりをよく旅行し、その近辺に詳しいK君に電話してみた。 「ねえ、K君の担当地域で、何か面白いクリスマスを経験したことある?」 「僕の担当の所はイスラム教だからねえ、クリスマスなんてやらないよ」 「でも、インドなんかやるんじゃないの? 全部イギリス風にやるのかしら」 「インド人にきいてあげるよ。ちょうど今日、僕んちにインド人が着いたばっかりだから、ちょっと待ってね」  しばらくしてから、 「お待たせしました。フレッシュな情報をお伝えします。ヒンドゥー教徒もね、クリスマスはお休みなんだって。飾りつけはしないけど、ケーキを食べるんだってさ。ケーキがおいしいからね、ケーキを食べにわざわざクリスチャンの所へ行くって言ってるよ」 「どんなケーキなの?」 「デコレーション・ケーキじゃないと思うけどね、何しろ添加物が入ってないから、小麦の味っていうのかな、ものすごくおいしいんだよ。だけど、とっても甘いの。カレーが辛いから、ケーキが甘くてちょうどいいんじゃないの。  芸大にトルコの留学生がいるからクリスマスのこときいたんだけど、トルコじゃやらないって。サンタクロースの元になった人はトルコのあたりに住んでたんでしょって言ったら、そうかもしれないけど、トルコではクリスマスはやらないってさ。トルコでやらないんなら、イスラム教徒はやらないと思うけどね。それにあの人たちはイスラム暦を使ってるじゃない。だから全然一年が違うんだよね。もっと何か知りたかったらトルコの人にきいてあげてもいいけど、やらないって言ってるんだから、やっぱりもうきいてもしょうがないかな。また質問があったらいつでも電話して下さいね。何でも答えますからね」  と、もしもし電話相談室の先生のようなことを言って電話を切った。   常夏の国のクリスマス  次はどうせ飛ぶなら、思いきって南半球まで行ってみよう。西サモアで暮したことのあるIさんに、サモアのクリスマスの様子を話してもらった。まずサモアのクリスマス記念切手をながめてみよう。四枚つづりの中の一枚は、マリアと幼な子イエスらしいのだが、二人ともサモア人の顔つきをしているし、ずいぶん日焼けしている。イエスが寝ている下には南国の花(たぶん蘭の種類)が敷いてある。この切手から判断すると、イエスは馬小屋で生まれたのではなく、風通しの良い、壁のないサモアの家ということになる。  一つの大きな星が輝いているが、それはIさんの説明によると、南十字星だという。たぶんその星に導かれてやってきたのだろうが、三人の博士らしき人たちがそれぞれ贈り物を手にしている。その三人の博士の服装もちょっと変わっている。上半身は裸で、下にはラバラバと呼ばれる腰巻きのようなものをつけている。普通贈り物というと、黄金、乳香、|没薬《もつやく》と相場が決まっているが、この切手では、ゴザ、ハエたたき、カバのジュースを作るボウルになっている。このゴザはプレゼント用で、日常生活では使わない宝物だそうだ。ハエたたきも、別にハエをたたくわけではなく、偉い人がただ肩にかけておくだけらしい。カバとは胡椒科の植物で、これを粉にして水に溶き、飲用としている。ぴりっとした味で、お酒のないサモアでは嗜好品として珍重されている。このボウルは、カバを飲む儀式の時にだけ使われるらしい。つまり、サモアでの三種の神器を持って三人は幼な子イエスを祝福に来たというわけだ。  サモアでは、独立記念日とクリスマスが一年のうちの二大行事だ。だから、サモアの人たちは十二月に入ると、キリシマシ、キリシマシ(サモア語でクリスマスの意)と言って浮かれ出すという。キリシマシに備えて、村の人たちは毎日夕食後集まって讃美歌を練習するそうだ。村に一人か二人は必ず音感のいい人がいて、カワイのオルガンで伴奏する。村人たちは四つのパートに分かれて歌う。それがとてもうまいという。特に流行歌というようなものがないから、讃美歌を歌うのが唯一の楽しみなのかもしれないとIさんは言う。  キリシマシの前には、商店街がキリシマシ・セールを行なうので、布などが安く手に入る。手動ミシンを使って、キリシマシのために新しい洋服を作り、教会へはパリッとした格好をしていくらしい。子供たちは新しい洋服かゴムぞうりをもらえるが、特に他のプレゼントをもらうことはない。人にあげるとすればカードだけだという。ちなみにサモアでは、贈り物といったら、砂糖、バター、キャベツ、パン、イモなどで、泊まりがけで遊びに行くような時には必ずこのうちの何かを持っていくそうだ。親せきに行く時にビスケットを持っていくこともあるし、結婚式には豚一ぴきをお祝いとしてあげることもあるが、その他の物をあげることはあまりないらしい。クリスマスにプレゼントをする習慣がないとすれば、当然その役割を果すべきサンタクロースというのも必要ないわけだから、サモアのクリスマスには、外国人が泊まるホテルにサンタ人形が飾ってある以外には、サンタさんは登場しない。  飾りつけはどんな風にやるのかと思ったら、一応もみの木のクリスマス・ツリーがあるという。それはプラスチックでできている飾りつきの小さなもの。たぶん香港製か日本製だろうが、高価なぜい沢品だから、もし買う家があるとすれば、それは大奮発ということになる。他には、新聞紙で輪を作り、それをつなげて家に飾ったり、紙をレースのように切りぬいてはりつけたりする。この場合の新聞紙というのは、ニュースを知るための手段ではなく、紙として輸入しているのだそうだ。ハイソサエティの家には、モールの飾りがあったという。  キリシマシの日はどう過ごすのだろう。二十四日の夜中に大人も子供もそろって教会へ行く。男は白い背広にネクタイ、下はラバラバという腰巻き、そして裸足またはゴムぞうり。女は白いドレスに帽子、裸足またはゴムぞうり。子供たちも白を着る。みんな、讃美歌とうちわを持って教会へ行く。教会では、子供たちの劇、キャンドルサービス、牧師の話があり、礼拝が終わると、マヌイヤ・キリシマシ(メリー・クリスマス)と叫んで、みんなが抱きあう。  それから朝までどんちゃん騒ぎが続く。お酒は飲まない。時々タロイモをつまみながら、踊り明かす。大奮発して買ったプラスチック・クリスマス・ツリーを家の真ん中に置いて、そのまわりで歌と手拍子に合わせて朝まで踊りが続く。常夏の国のクリスマスは活気に満ちている。これだけ騒いでも不健康な方向へ流れていかないのは、「物」が介在していないからだろう。   神なき国のクリスマス  次に、クリスマスをやってはいけなかった国のクリスマスものぞいてみよう。ロシアのことだ。革命後にキリスト教が姿を消すわけだが、その前はどうだったのか、キリスト教が伝わった頃までさかのぼって調べてみよう。『クリスマスの招き』(今橋朗・船本弘毅・松本富士男著 燦葉出版社)に「ロシアのクリスマス」というところがあるから、読んでみよう。  ソヴィエト連邦の中心となったロシアは、広大な国土に多民族が住んでいますから、クリスマスの祝い方にも、地方によってずいぶん相違がありました。ロシアがキリスト教化されたのは、十世紀の頃で、東方教会特にギリシャ正教の影響によって、まず南部のキエフに教会が設立されました。皇太后オルガがわざわざ東ローマ帝国のコンスタンチノポリスまで行って洗礼を受け、その後、キエフ大公ヴラジミール一世は九八九年、ギリシャ正教を国教としました。  元来、ロシアは農業の国ですから、クリスマスも農民たちの、土と共に生きる生活の中でつちかわれました。  教会で行なわれる儀式の他に、民衆のクリスマス行事としては、コリャーダが代表的なものです。これは、今日われわれがキャロリングと呼んでいるものと、たいへんよく似ています。クリスマス・イヴから公現節前夜(一月五日)までの期間、つまり降誕節そのものもコリャーダと呼ばれます。コリャーダは、ラテン語のカレンダエ(暦・季節)から来た語です。そして、この季節に、子供や若者たちがグループを作って、村をまわり、家々の戸口や窓の外で、祝い歌(コリャーダ。オフセンとかビノグラージェと呼ぶ地方もある)を歌うのです。クリスマスの祝詞を歌い、その家の豊作と幸福を歌い、最後にプレゼントをねだる歌詞を歌います。 [#ここから2字下げ] コリャーダがやって来た、降誕祭より一足先に。 美しい緑のビノグラージェ! 空からおちる雪また雪だ。 その雪越えて飛んできたのは雁の鳥か。 コリャーダがやって来た。 若い衆も美しい娘もやって来た。イワノフさんの家を訪ねて来たぞ。 コリャーダくれるのはまだかいな、戸を開けるのいやなら 窓越しにおくれ! [#ここで字下げ終わり]  コリャーダとは、そのプレゼントの呼び名でもあるのです。つまり、コリャーダを歌って、コリャーダをもらうというわけです。もし、気まえよくくれない場合には、こんなひどいことも歌うそうです。「ピロシキくれないのか? 牛の角はずすぞ! ソーセージくれないのか? おやじのどてっぱら足蹴にするぞ!」  ロシア人もなかなか勇ましかった。十七世紀中頃には、クリスマスや公現節に群をなして騒ぐのは好ましくないから、大声で歌など歌ってさわがないようにと、皇帝から命令が出たほどだった。クリスマスをやりすぎてしかられた人々は、ロシアにもいたのだ。  革命後は、生活の中からキリスト教のお祭りが姿を消すことになるのだが、クリスマスを祝わなくなった、ソ連時代の人たちはどんなふうに十二月を過ごしていたのだろうか。モスクワに住んでいたHさんにきいてみた。 「広場なんかにね、もみの木を飾って、一番上に赤い星をつけてたわ。もみの木には食べられるものをつけることもあるって言ってた人もいるけど……。でも、このもみの木っていうのはクリスマスのためじゃなくて、新年を祝って飾ってるわけよね。クリスマスはやらないんだから。もみの木を飾るのは、ちょうど、そうねえ、クリスマスの頃だったかしら」 「クリスマスをやらないんじゃ、サンタクロースは出てこないのね」 「あら、サンタクロースは出てくるわよ」 「いつ出てくるの?」 「だから、新年に出てくるの。普通の赤い洋服を着てる場合もあるし、白い洋服のサンタクロースもいるみたいよ。なんだか電話でたのむと、サンタクロースを派遣してくれるって言ってたけど」  クリスマスはやらないけど、もみの木を飾ってサンタクロースが出てくるというのは、いったいどういうことだろう。キリスト教的色彩は薄れたが、新年の祝いと結びついて、生活の祭りということになったのだろうか。ただ、もみの木のてっぺんに赤い星をつけるというところが、やはりソ連なのだろう。  さて、またしても南半球へ南下しよう。今度はオーストラリアの番だ。テレビのドキュメンタリー番組を制作しているTさんから聞いた話をまとめてみる。オーストラリアの子供たちが過ごす真夏のクリスマスについて。  オーストラリアの僻地に住む子供たちは無線教育を受けている。School of the airというそうだ。アデレードという所にその本部があり、年に一度、クリスマスに全員がそこへ集合する。いつもは声だけでしか知らない先生と、そこで子供たちは対面するわけだ。五日間キャンプをして、無線教育ではできないことをする。公園の真中にみんなで大きなツリーも飾る。クリスマスの日には、先生がサンタクロースになって子供たちにプレゼントを配るという。  こういう話を聞くと、地球って大きいなと感じると共に、クリスマスってやっぱりいいなとも思う。クリスマスの他に、こんなにも世界の端から端まで広まったお祭りがあるだろうか。ちょっと思いつかない。今のところ、私が手に入れた情報の中には、やりすぎて世の中のひんしゅくをかうようなクリスマスの過ごし方の例はない。 [#改ページ]  サンタさんのファッション感覚   サンタの服はナゼ赤い?  サンタさんは、ほとんど例外なしと言っていい程いつも、赤い服を着て登場する。彼がなぜ赤い服を着ているのか、なぜそんなに赤にこだわるのか、いったい赤とは何なのか、そのあたりを考察してみたい。  赤と言えば、私には忘れられない日がある。一九七七年五月二日、つまりメーデーの次の日。私はソ連経由でフィンランドに向かっていた。横浜港から発ったバイカル号がナホトカに着くと、街中が赤旗で埋めつくされていた。赤もあれ程の量になると、やはり強烈だ。昼食を終えるまでには、大小の赤旗もほとんど片付けられていたが、一度にあれだけたくさんの赤を見た経験は他にない。ソ連での赤の印象が強烈だったから、まず、赤い服を着たサンタさんは共産党員か、と考えてみた。が、彼はまだ政治的見解を発表する機会を得ていないのだから、そう断定するには、あまりにも資料が少なすぎる。 『クリスマスさんとゆかいな仲間』には、サンタさんはベスト・ドレッサーの万年候補で、服の好みにやかましく、とびきり上等な素材を使うと書いてあるが、あれだけ太っている人が、よりによって膨張して見える赤を選ぶのは、特別な理由があってのことだろうか。  サンタさんの仕事は、主として子供を対象としている。それでは、子供にとって赤とは何なのか、そのへんを探ってみよう。『原色を好む心理・中間色をきらう論理』(千々岩英彰著 日本書籍)を読んでみた。幼児の色の好みについて、  幼児は、男女とも、鮮やかな原色や珍しい色、きれいな色などに直截に反応するという特質を備えているようにみえる。幼児が、色のないものよりも色のあるもの、あいまいな色よりもはっきりした原色を好むのは、おそらく、学習とか経験によらない、無意識的、本性的ないし原初的反応の一つであると考えてよいのではなかろうか。  とある。サンタさんの選択は正しい。赤は子供にウケる色なのだ。太った円満そうな感じのおじいさんが暖色の赤を着ていれば、子供たちから嫌われる心配はない。  それにしても、彼は相当太っているようだ。どの絵を見てもかなり太っているが、『クリスマスさんとゆかいな仲間』には、「胴囲・かしの木なみの太さ(ぶどう酒のたるで三個と少々)」とあり、体重の項目には、「秤のめもり超過」と書いてある。『ギネスブック』によると、史上最高の体重は、アメリカ人のジョン・ブラウワー・ミノック氏で、六三五キロの体をベッドの上で寝返りを打たせるのに付き添い十三人の力を要したという。いくらなんでも、サンタさんはこれ程は太っていないだろう。  やせて枯れた感じのする、日本のおじいさんとサンタおじいさんの体格を比較してみると、つくづく西欧人と日本人の食生活の違いを感じる。チーズ、バターをはじめとする多量の乳製品の摂取、それに糖分の取りすぎ。サンタさんの太りすぎの原因は、この辺にありそうだ。しかしまあ、彼の体型は子供たちから愛されているのだから、特に無理をしてまで減量する必要はないだろう。  もう一度、赤の話にもどって、今度は大人にとっての赤とは何か、考えてみよう。赤といえば、やはり女性の色だ。サンタさんが赤を選ぶ理由には、幾分目立ちたがりやという性格もあるのだろうが、もしかしたら、赤を愛するヤング・ギャルにアッピールしようという魂胆もあるのではないだろうか。  牛山源一郎さんの『服飾色彩学』(源流社)は「女性は何色が好きか」から始まる。七〇年万博の半年間に、一六万五二二〇人の女性を対象とした「好きな色」の調査結果で、赤は、ライトブルー、黄色、淡緑、ブルー、ピンク、緑に次いで第七位となった。この結果について、牛山さんは、  女性と赤は切り離せない関係にある。そこで流行がどんなに変わろうと、流行色がどの色であろうと、赤の占めるパーセンテージはいつもそんなに大きくは変化していない。おそらく、すべての色の中でコンスタントに一定のパーセンテージを保っている色が赤であろう。  これはアメリカの統計をみてもいえることで、過去二〇年間の統計で、一番変化しない色が赤になっている。すべての色の中で最高に赤が売れることもないかわりに、パーセントがどっと落ちることもない。  と、解説していらっしゃる。赤の人気は根強い。一定している。サンタさんは無難な色を選んだものだ。季節の区別なく人気の安定した赤に決めて、それを長年守り通すところなど、誠に心憎い計算だ。  サンタさんは年齢不詳だが、どこから見てもおじいさん。この年齢の人が赤を着るということは、日本では還暦のお祝い以外にはあまり考えられない。日本のおじいさんたちは、普通ドブネズミ色で身を包んでいる。髪や目や肌の色、体格の違いもあるだろうが、日本のおじいさんには赤いサンタ・ルックは似合いそうもない。なぜだろう。『原色を好む心理・中間色をきらう論理』で千々岩さんは、  日本の年寄りは、抑制された色の方が年相応だと考える傾向が強いのは事実であるが、西欧の年寄りに比べて、社会に向けて自己を主張するとか、年寄りなりに社会に寄与するのだという姿勢が欠けているために、没個性的な色を選ぶのではないかと思われるのである。同じ年寄りでも、現に仕事をし、それを誇りにしている人たちは、決してこうではない。生きがいの有無が衣服の色に表れるのではないかというのが私の考えである。  と、おっしゃっている。サンタさんは、またしても正しい。勇気あるおじいさんだ。幾分派手かと思われるような色も、主張をもって着こなす。いやはや、お見事だ。  それにしても、サンタさんはあの赤い服をどこから手に入れたのだろう。特別注文で洋服屋さんにたのんだのだろうか、それとも奥さんのお手製だろうか、はたまた、デパートのキングサイズコーナーの既製服なのだろうか。もし既製服だとすると、あの赤い服は売場のどの位置にあったのだろう。  デパートも商品がよく売れるように、配置には気を使っているだろうが、サンタさんが赤を選んだ時に、その赤はどこに、つまり何色と何色の間にあったのだろう。もしかしたら、サンタさんが赤い服を求めて買いに行ったのではなく、売場で赤い服がサンタさんの目に飛びこんだのかもしれない。 『服飾色彩学』には、商品の陳列の順序について興味深いことが書いてある。たとえば、黄、紺、赤の三枚があるとする。この三色をどう並べても売れ行きが同じ、というわけではないらしい。左から黄、紺、赤の順に並べると、一番安定して売れていくという。カタログにのせるにしても、ショーウィンドーに飾るにしても、この順序はくずせないらしい。人間の目は水平に移動する場合、左から右へゆくのに馴れているので、左から右へと、バランスよく色が並んでいるのが好ましいそうだ。それには、黄、紺、赤の順か、赤、紺、黄の順に並ぶのが一番売りやすいらしい。黄色が先に売れて赤と紺だけになっても売れ行きにはひびかないが、紺が先になくなって、黄と赤だけになると、商売がしにくいということだ。  こういうデパート側の陳列作戦から考えてみると、サンタさんは黄、紺、赤の中からか、あるいは紺と赤のうちの赤を選んだのだろう。それとも、デパートの陳列作戦にひっかかることなく、何が何でも彼は赤を望んでいたのだろうか。  サンタさんには、たいてい立派な髭がある。白くて長い髭が。相当に長いから、髭の「白」がかなり強烈な印象を与える。彼は、髭とのコントラストを考えて、赤を選んだのだろうか。『クリスマスさんとゆかいな仲間』では、ふさふさと暖かそうにたれるサンタさんの髭は、上着七・五枚分だそうだ。ある時はマフラー、ある時はエプロン、そしてまたある時は親なしねずみの隠れ家となるこの豊かなお髭、さて、日本に来て納豆を食べる時にはどうするのだろう。  サンタさんの髭の長さは、子供たちも知りたいところだが、未だにはっきりしない。ちなみに『ギネスブック』の記録を見ると……。 [#ここから1字下げ] 最も長い口髭——インドのスンダルガールのカリアン・ラムジ・セインさんは、一九七六年から口髭をのばし始めて、一九九三年七月末には三・三九メートルに達した。 最も長いあご髭——ハンス・N・ラングセス(一八四六年ノルウェー生まれ)のあご髭は一九二七年に亡くなったとき、五・三三メートルあった。この髭は一九六七年、ワシントンのスミソニアン協会に寄贈された。 [#ここで字下げ終わり]  いくらなんでもサンタさんのお髭は、ここまで長くはないだろう。こんなに長くてはプレゼントを配る時、邪魔になってしょうがないに違いない。  サンタさんのことをみんなは、おじいさんだと信じているが、もしかしたら女性という可能性もある。というのは、古い『ギネスブック』に、女性でもあご髭の最も長い人は三六センチもあったと書いてあるからだ。今までおじいさんだとばかり思っていたサンタさん、もしかしたらクリスマス歌劇団のヒイラギ組トップスター、男装の麗人なのかもしれない。もしそうだとすると、赤い服の袖口や衿元にあしらった白は、白い髭を意識した、|彼女の《ヽヽヽ》心憎い演出なのだろう。 「赤」といえば、サンタさんの他には、闘牛士の持つ赤い布がある。牛は赤い布に興奮して突進してゆくのかと思っていたら、そうではないらしい。牛は色盲だから、布は特に赤でなくてもいいようだ。牛が突進してゆくのは、布がヒラヒラしているからだそうだ。赤を見て興奮しているのは観客と闘牛士だけらしい。   日本人だけがつく�真っ赤な�うそ  ここで、スペインのりりしい闘牛士がひるがえすあの赤い布を見る目、サンタクロースの赤い服を見る目について考えてみよう。日本人の目はおおよそ黒い。外国人の目は、ブルー、グリーン、グレーと様々だ。私はフィンランド人の澄んだブルーの目が好きだが、あまりにもきれいにすき通っていると、果してこの人の目と私の目は、同じように物が見えているのだろうかと心配になることがある。  一九七一年十月ボストンで開かれた国際標準化機構の会議では、日本人の視感と西欧人の視感、知覚の差を検討した。その結果、白、黒、グレーの無彩色については、日本人も西欧人も見え方とか、感度とかは全く同じだが、赤、青、黄などの有彩色では、色差についての感度の違いがでてきたそうだ。西欧人の青い目と日本人の黒い目では、西欧人の方が色差に対する感度がいいという結果が出たのだ。たとえば、赤の判断力は西欧人が五四パーセントも日本人より優れているという。  この結果から牛山源一郎さんは、  日本人は赤についての感度が西欧人にくらべて大雑把にすぎるし、デリケートさに欠けていることが考えられる。  昔から朱、紅など、赤を色相の系統によって表現する漢字があり、赤については日本人は、これを識別する感度がすぐれていたと思っていたが、逆に見おとりする結果になっている。  とおっしゃっている。サンタさんの赤い服の本当の美しさは、私たち日本人の黒い目には見えていないのかもしれない。もしそうなら、サンタさんは黒い目をしたアジア等の子供たちのために、コスチュームの色を考え直す必要があるというわけだ。  いや、ブルーの目をした人たちだって国民性によって色の感じ方は違うはずだ。それに、人それぞれに色の好みというのがある。色の好みの本質は何かという問題は、色彩学でもまだ曖昧らしい。心理学者の報告によると、旧西ドイツ人には、「楽しい色」「目立ちやすい色」「上品な色」が好まれ、イギリス人には、「快適な色」「鮮明な色」「見慣れた色」が好まれるという。そして、日本人は、「新鮮な色」「新しい色」「清潔な色」「良い色」「健康な色」を好み、アメリカ人は、「美しい色」「良い色」「現実的な色」「健康な色」「新鮮な色」を好むということだ。さて、サンタさんの赤はいったいどんな色として世界中の人たちに受けとめられているのだろう。  ところで、話は変わるが、あのやさしくて誠実そうなサンタさんも、時には真っ赤なうそをつくことがあるのだろうか。うそがばれれば赤恥をかくことになるが、赤貧に苦しむ赤の他人にもプレゼントを配るという日頃の善行に免じて、執行猶予つきで許されるのだろうか。それとも、サンタさんは日本人ではないから真っ赤なうそではなくて、他の色のうそをつくのかもしれない。もしそうなら、サンタさんはいったい何色のうそをつくのだろう。  真っ赤なうそというのは、どうやら大和民族だけがつくうそらしい。英語圏の人は黒いうそ(見えすいたうそ)と白いうそ(うそも方便)をつくそうだ。フィンランド人にきいたら、フィンランド人は色のついたうそをつかないとのことだった。だから、もしサンタさんがうそをつくとすれは、それは無色透明ということになる。フィンランド語で赤《プナイネン》が出てくるのは、「ちょっと待って」の時の「ちょっと」だったり、「赤い糸」(大事な考え、本筋)だったりする。  日本人がどうして真っ赤なうそをつくかというと、「赤」は「|明《あか》」と同義だからだろう。つまり、真っ赤なうそとは、まったくでっちあげの、明らかなうそのことなのだ。こういううそだったら、サンタさんも若かりし頃、ムードミュージックを聞きながら、(それはIt's a sin to tell a lie.�うそは罪�という題名にもかかわらず)チャーミングな女性についたことがあったのではないだろうか、と下衆は勘ぐるのだが……。   赤の時代はもう終わった!?  サンタさん専売特許の赤をいろいろな角度から分析してきたが、次には歴史的な見方をしてみたい。原始時代から現代にいたるまで、赤の歩んできた道をここでたどってみよう。サンタさんがサンタ稼業を始めたのは西暦何年かよくわからないが、いつもあの赤い服でお出ましになっていたとしたら、赤が歓迎された時代もあっただろうし、嫌悪された時代もあっただろう。赤い服のサンタさんが日本に登場するとしたら、何時代がよかったか、ちょっと考えてみよう。  ナンセンスは承知の上で原始時代から始めよう。原始時代に人為的な色があるわけはない。土器にしても自然の土の色だし、身につけているものといったら獣の皮だろうから、特に人工的な色はついていない。つまり、まだ色の時代には入っていない。だが、縄文時代も後期になると、土器に色が塗られるようになる。人間が初めて使った色。それは赤だった。縄文時代から弥生時代になっても、土器の彩色といったら赤に限られていたそうだ。  原始時代には原始信仰があっただろう。赤く塗られた土器は、主として宗教的な意味を持っていたと思われる。赤は日本だけでなく、世界中どこでも魔よけの色らしい。こういう時代に赤い服を着てサンタさんが登場したら、原始人はどんな反応を示しただろう。神として拝んだかもしれないし、逆に恐れて逃げ隠れしたかもしれない。  縄文・弥生を経て古墳時代になるまで、赤は時代をリードする。古代になると多色の時代を迎えるが、それでも赤系統の色数はすでに十五あったというから、赤には私たちの歴史と共に歩んだ複雑な過去があるのだ。  せっかく原始時代までさかのぼって話を始めたのだが、原始からいきなり江戸時代まで一飛びしたい。というのは、江戸時代はいろいろな意味でサンタさんにとって苦難の時代だったからだ。まず第一に、鎖国だった。外国人のサンタさんが入国するのはほとんど不可能だったのではないだろうか。それに、江戸時代には奢侈禁止令が幾度も出され、赤を着ることが禁止されていたから、たとえサンタさんが密入国に成功したとしても、派手な服装がすぐに遠山の金さんの目にとまり、打ち首獄門の刑となっただろう。運の悪いことに、赤の御禁制は二百年以上も続いた。彼はプレゼントを配りたい欲求をその間どうやっておさえられただろうか。  赤がいけないと言われたら、赤だって困る。原始時代から色の第一人者として君臨してきたのに、身のおき所がないではないか。徳川家の人々は赤の身になって考えたことがあったのだろうか。そんな時代を赤たちはどう生きぬいたのだろう。『服飾色彩学』に、  この江戸時代、赤いきものがいけなければ、きもの裏地に赤を、そして裾回しに、長襦袢に、半衿に、帯揚げに、そして腰巻きにと、赤は表面を避けて、内へ内へと深くもぐりこんでしまった。  と書いてある。赤は息をひそめて世間の目をのがれていたのだ。遊女や芸者には赤い着物が許されていたというが、サンタさんに許されることといったら、たぶん藍染の着物の裏地に赤を使うことぐらいだったろう。ああ、なんて凄まじいいでたち!  サンタさんは裏地に赤を使うというような消極的なやり方では、たぶん満足できないのだと思う。なぜなら、彼のふだん着を見ればすぐわかる。下着にしても夏のショートパンツにしても赤を選んでいるからだ。サンタさんは、赤を基調とするトータル・ファッションをめざしている。夏休みには赤い海水パンツで泳ぐのだろうが、トータル・ファッションもいいけれど、赤いものにかみつく傾向のある鮫にだけは十分注意していただきたい。  赤について歴史的な見方をしようなどと言ったものの、原始時代から江戸時代へ飛び、さらに現代まで飛んでしまうのだから、いいかげんなものだが、現代もまた、サンタさんにとっては苦難の時代だからだ。千々岩英彰さんが「赤の時代は終った」と発表していらっしゃる。  私たちが、昭和四十七年に調べた結果では、赤は、オレンジ色に次いで、二番目に好まれる色であった。ところが、その後、継続して調べている結果によると、翌、昭和四十八年の結果では第七位、昭和五十二年の結果では第十八位と、順位は後退する一方なのである。  このように、赤が、統計上、嗜好色の座からずるずると落ちていくのは、全体の中での赤を好きとする人の数が少しずつ減っているからでもあろうが、それよりも、赤を嫌いと答える人が段々増えているからである。  サンタさんも赤い服を嫌われてはおしまいだ。赤の時代は終わったなどと言われては、これから先どうやったら人気を維持できるか心配に違いない。長年愛用してきた赤い服に別れを告げる時がきたのだろうか。赤にまさる色は何か、次の時代をになう色は何か、サンタさんに与えられた二十一世紀の課題はなかなか難しそうだ。  サンタさんがサンタ稼業を始めた頃にはなかったかもしれないが、今ではスタイリストという職業の人がいる。一度、そういう人に相談してみたらどうだろう。 [#改ページ]  サンタさん、数字で分析します   変わりゆくクリスマス  最近よく雑誌創刊号の広告が目につくが、現在日本にはいったい全部でどのくらい雑誌があるのだろう。私はほとんど雑誌を読まない。たまに手にすることがあっても、写真しか見ない。雑誌に書くことはあるのだが、字を読むのがとても遅いので、雑誌の小さな活字につきあっていると、それだけで短い人生が終わってしまいそうな気がしてくるからだ。  この頃、論文を読む楽しさを覚えた。論文には、きれいなグラビアもないが、うそやはったりもない。もちろん、専門用語しか出てこない理科系の類はまず無理だろうが、そうでなければまあ読める。外国語の場合は、文学よりわかりやすいこともある。ただ、頭の中をすっきりさせておいて、論理の筋道を論者と共に歩めればいいわけだ。このへんで、クリスマスの論文でも読んでみようかと思う。そんな論文が本当にあるのかな、と疑いを持つ人もいるかもしれない。無理もない。私も、クリスマスについての論文が存在することを知った時にはずいぶん驚いたから。  その論文とは、カイス・ヴオリオさんというフィンランド人の女性が書いたもので、題名は「変わりゆくクリスマス」。ヴオリオさんは耳鼻科のお医者さんだが、民俗学の研究者でもあり、「変わりゆくクリスマス」で博士号も授与されている。この論文を日本に紹介してもいいと言って下さったので、とても全部とはいかないが、私たちが読んでもわかるところだけをとりあげて考えてみたい。ヴオリオさんがこの論文を書いた動機は二つある。クリスマスに対する個人的な興味はもちろんのこと、もう一つは、フィンランドにおけるフィンランド語系とスウェーデン語系の人々の習慣の違いを明らかにしたいという欲求だった。  後者については、論文を読む前に少し説明が必要だ。フィンランドには、スウェーデン語を母国語とする人が約六パーセントいる。だから、フィンランドではフィンランド語もスウェーデン語も国の公用語になっている。公の標示はすべて両方の言葉で書いてある。私の友人のウルスラは、西側の海港都市ヴァーサの出身だ。ヴァーサにはスウェーデン語系の人が多い。ウルスラの家では、お父さんとお兄さん二人の母国語がスウェーデン語で、お母さんとウルスラの母国語がフィンランド語だ。お兄さん二人はスウェーデン語の学校に通い、ウルスラはフィンランド語の学校に通ったので、兄弟でも違う言葉を話すようになった。と言っても、兄弟で全く話が通じないというのではない。家族全員が二ヵ国語話せるということだ。こういうことは、私たち日本人にはちょっと想像がつきにくい。  ヴオリオさんは四つの言語グループに分けて、クリスマスの習慣がそれぞれのグループでどう違うかを、統計にしてわかりやすく示している。その四つのグループとは、 [#ここから1字下げ] A スウェーデン語を話す人々 B スウェーデン語とフィンランド語を話す人々(両親の母国語がそれぞれ違い、家庭で両方の言葉を話している人々を意味する) C 職場やつきあいの中でスウェーデン語系の人と接触のある、フィンランド語を話す人々 D フィンランド語を話す人々 [#ここで字下げ終わり]  ルシアの話を前に書いた。あの、ろうそくを頭に立てた女性の話。ルシアはスウェーデンのクリスマスでは重要な人物だ。ルシアはフィンランドにも伝わり、ヘルシンキでもミス・ルシア・コンテストが行なわれるようになったが、家庭で少女がルシアになり朝のコーヒーを運ぶという習慣は、フィンランド中にはまだ広まっていない。やはりルシアを一番最初に受け入れたのは、スウェーデン語系の人たちだった。クリスマスに、ルシアをやった家庭の統計が出ている。   A=17%   B=7%   C=0%   D=0%  ルシアの習慣に関しては、はっきりと差が出ている。ただ、ここで気をつけなくてはならないのは、ルシアは女性であり、家庭の中に女の子が、それもルシアにふさわしい年齢の子がいない場合には、いくらやりたくてもできないというわけだ。自分の家でルシアをやらなくても、隣りに住んでいるスウェーデン語系の家庭のルシアが、朝のコーヒーをもってきてくれる場合もあるらしい。こういうルシアの気持はよくわかる。誰だって七五三の晴れ着を着たら、隣り近所の人たちにも見てほしいから。  次は、アドベントの間にクリスマス料理を食べる人はどのくらいいるか、見ておきたい。十二月中におせち料理をつまみ食いする日本人より多いだろうか。   A=55%   B=47%   C=44%   D=36%  料理を食べる場合には、家族だけで、あるいは友人も招いてクリスマス・パーティをやっている。クリスマス料理を食べない人たちも、クリスマスのお菓子、クッキーやパイは、もちろんアドベントの頃から食べている。  アドベントの間のクリスマス・パーティではなく、十二月二十四日、クリスマス・イブを家庭で過ごす人の数はどうなっているだろう。   A=80%   B=77%   C=73%   D=67%  こういうことには、スウェーデン語系とフィンランド語系でそれほど差が出ない。クリスマスは家庭で過ごすものとされているのだ。家族だけでなく、もちろん親せきの人たちと一緒に過ごすこともある。二十四日を友人同士で楽しくというのは、ほとんどない。  では、友人や知り合いにはどのようにしてクリスマスの挨拶をするのだろう。まず、電話を利用する人。   A=63%   B=53%   C=54%   D=45%  クリスマス・カードを送る人。   A=97%   B=97%   C=95%   D=99%  花を贈る人。   A=67%   B=97%   C=83%   D=82%  電報を打つ人。   A=3%   B=7%   C=3%   D=2%  クリスマス・カードはほとんどの人が出していることになる。その反対に、電報を打つ人はあまりいない。花を贈る人の割合が、四つのグループで違っているのが面白い。クリスマスにこんなに花を贈る人が多いとは知らなかった。それにしても、クリスマス・カードの数値が高いのには驚く。おそらく、日本人で年賀状を出す人の割合は、ここまで多くはないだろう。  クリスマスのサウナには特別な意味があることを前に説明した。現在、その意味まで考えてサウナに入る人がいるかどうかは別として、実際クリスマスにサウナに入る人がどれくらいいるかを調べることには興味がある。   A=28%   B=50%   C=78%   D=77%  クリスマスにサウナに入ったと答えたの人のうち、クリスマス・イブに入った人は全体の、   A=3%   B=10%   C=38%   D=47%  だった。他の人は、二十三日だったり、二十五日だったりする。アパートに住んでいる人にはサウナがない。そこで、二十二日、二十三日あたりにアパートの共同サウナが特別にクリスマスのサウナということになり、いつもとは違ったサウナの順番(どの家族もたいてい週に一度サウナの番がある)がアレンジされるそうだ。「クリスマスにサウナへどうぞ」と友人から招待される場合も、やはり二十四日ということは有り得ない。統計からはっきりわかるように、クリスマスにサウナに入る習慣は、スウェーデン語系とフィンランド語系ではっきり差が出ている。スウェーデンにもサウナ風呂が存在したが、公衆サウナで病気がうつりやすいと言われるようになって以来、サウナ風呂に入る習慣はクリスマスに限られるようになった。しかし、その習慣もだんだん影をひそめてきているようだ。   プーロの中にはアーモンドを入れて  私がマキネンさんの家で過ごしたクリスマス・イブには、本物のサンタさんが出現した。フィンランドのように、各家庭の子供たちの前へ本当にサンタさんが姿を見せるのは、世界でもあまりないことだ。フィンランドにおけるサンタさん出現率も確認しておこう。   A=38%   B=53%   C=55%   D=58%  いくらサンタさんの故郷といえども、一〇〇パーセントという数値は出てこない。やはりサンタさんは忙しいから、サンタさんの出現を心から待ち望んでいる子供のいる家庭にしか立ち寄らないようだ。Aグループの家庭は他のグループよりも平均年齢が十歳上だから、従って子供たちも大きくなっている。サンタさん役を演じるのは誰かということにも興味がわく。 表にしてみよう。  サンタさんが入って来ない家でも、家族のうちの誰かがドアをノックし、 「あっ、サンタさんがプレゼントを置いていった」  と言って、プレゼントのいっぱいつまった箱を外から持ってくることもあるという。サンタさんのプレゼントの配り方はいろいろある。一人に一個ずつ手渡して帰る時もあるし、一人一人にかかえきれない程たくさんのプレゼントをあげることもある。アルバイト・サンタさんの場合には何軒かかけもちするかもしれないが、それにしても十二月二十四日のサンタさんの数といったら、フィンランド全体で数万人にものぼるのではないだろうか。  お子様のお楽しみとしてだけでなく、宗教行事としてのクリスマスも見ておこう。クリスマスに教会へ行った人の数はどのくらいだろう。   A=90%   B=57%   C=49%   D=37%  大きな差が見られる。テレビで礼拝中継を行なうようになってからというもの、クリスマスに教会へ行くのは毎年の習慣から消えていってしまったのだ。スウェーデン語の礼拝に出席したヴオリオさんは、Aグループの人たちは皆家族単位で教会にやってきたと述べている。  フィンランドではクリスマスにお墓参りをすると前に書いたが、その割合はどうだろう。   A=35%   B=47%   C=78%   D=62%  これも大差がある。お墓参りをした人たちのうち、ほとんどみんながろうそくを持って行ったという。花やクリスマスの飾りを届けた人も多い。クリスマスは寒い冬の行事だから、もちろん病気の人は外へ出られないし、お墓が遠くにある人も、ごちそうを食べた後でちょっとお墓参りへ、というわけにもいかない。  クリスマスにはお墓参りをして先祖のことも思い出すが、動物たちも忘れてはならない。馬や牛のような家畜にもごちそうをふるまわなくてはいけないし、小鳥たちにも麦の穂束をプレゼントする。リスやウサギにはにんじん、犬にはソーセージ、熱帯魚にもクリスマスの「豚のハム」をごちそうする家庭があるという。小鳥たちへのプレゼントである麦の穂束はリュフデと呼ぶが、この統計も示しておく。このアンケートに答えているのは農家の人ばかりではないのに、多くの人たちが小鳥の幸せも考えている。小鳥たちも小鳥冥利につきるだろう。   A=90%   B=80%   C=91%   D=77%  動物たちへのごちそうの話をしたので、今度は人間のごちそうの番だ。クリスマスの食べ物として一番歴史の長いプーロの統計から見ていこう。プーロという言葉を忘れてしまった人のために、もう一度説明しておく。クリスマス料理の章で、作り方も詳しく書いておいた、あの牛乳入りの甘いおかゆのことだ。  クリスマスにプーロを食べる人たち。   A=88%   B=90%   C=94%   D=84%  プーロの作り方の所でも触れておいたが、プーロをオーブンで焼いて食べる人もいる。C、Dグループのうち約四分の一はオーブンで焼いたプーロを食べている。A、Bグループの人たちはほとんどが煮たプーロを食べている。プーロをオーブンで焼くのは東フィンランドの伝統だが、両親のうちどちらかの、あるいは両方の出身地が東部フィンランドの人がそうして食べているのだろう。これは、日本のお雑煮の作り方が地方によって違うのと似ている。  プーロの中には幸せをもたらすアーモンドを入れるが、これを実行した人はどのくらいいるのだろうか。   A=79%   B=93%   C=81%   D=86%  やはり、信じる信じないにかかわらず、楽しい習慣は多くの人が実行する。普通アーモンドは一つ入れるのだが、家族によっては二つ、あるいはそれ以上入れて、幸せになる人の数をふやすこともある。アーモンドが当たって幸せになればいいけれど、ある家庭では、アーモンドの当たった人が詩を作り、それを披露しなくてはならないそうだ。アーモンドが絶対に入っていませんようにと祈りながらプーロを食べる家庭もある。こういう家では、アーモンドが当たると皿洗いをしなくてはならない。   もみの木は一月六日の公現節に片付ける  プーロは、コルヴァトゥントゥリのサンタクロースや小人たちのクリスマス・パーティではメイン・ディッシュだが、普通のフィンランド人の間では、豚のハムがメインになることが多い。それでは豚のハムをメイン・ディッシュとして食べる家庭がどのくらいあるかみてみよう。   A=96%   B=93%   C=99%   D=95%  どのグループも、ほとんどの人が豚のハムを食べている。料理の章ではふれなかったが、七面鳥を食べる人がどのくらいいるかも調べておこう。これは七面鳥をメインとして食べたということではなく、多少なりともクリスマス料理として七面鳥を食べた人の割合だ。   A=22%   B=27%   C=8%   D=5%  外国のクリスマスというと、みんなが七面鳥を食べているように想像しがちだが、フィンランドではこの通りの数字だ。フィンランドでクリスマス料理といったら、やはり豚のハムを挙げることになる。  大かぶ、ラントゥのグラタン料理についてはどうだろう。クリスマスの料理や習慣はほとんどすべてスウェーデンからフィンランドへ伝わったが、この料理だけがフィンランドからスウェーデンへ伝わった唯一のものだということは前に説明しておいた。数字を確認しよう。   A=81%   B=90%   C=95%   D=94%  やはり差が表われている。全国民を対象とした調査ではないけれど、このように数字を見ていくと、統計というものの意味や面白さに気づく。フィンランドからスウェーデンへ伝わったことを感じさせる数字の並び方だ。  次は、飲み物五種類を比べてみよう。まずは、牛乳から。   A=63%   B=77%   C=83%   D=93%  自家製ビール。   A=5%   B=20%   C=32%   D=27%  ビール。   A=83%   B=77%   C=88%   D=78%  ワイン。   A=82%   B=80%   C=62%   D=63%  グロギ。   A=82%   B=80%   C=47%   D=26%  飲み物の中では、グロギが注目に値する。この作り方も歴史も説明したが、思い出すように少し繰り返しておく。昔、教会から帰ってきて寒いそりの中で飲んだ、あの温かい飲み物のこと。中に皮をむいたアーモンドと干しぶどうを入れた、赤ワインに少し香料が入ったあの飲み物のことだ。グロギは、ラントゥのグラタン料理とは反対に、スウェーデンからフィンランドへ伝わった飲み物だ。統計を見ると、グロギの歴史を裏づけるような数字が出ていて、とても興味深い。  お菓子のことも調べておこう。かざぐるま形だが、私がどうしても星形パイと呼びたいと主張した、あのパイについてはどうだろう。中にプラムの入った、あの星形パイを食べた人の割合を示す。   A=92%   B=100%   C=94%   D=92%  ほとんどの人が食べていることになる。それも、九割以上が家庭で作っている。こういう結果を見ると、私はつい日本の習慣と比較したくなってしまう。日本人は、雛あられやかしわ餅をどのくらいたくさん食べているのだろう。  興味のある統計はだいたい一通り見わたしたので、最後にクリスマスはいつ終わるか調べておこう。クリスマスが終わるというのは、つまり飾り、特にもみの木をいつ片付けるか、ということだ。 (表参照)  公現節については前にも触れたが、聖ヌートの祝日の説明が必要だ。ヌート・ラヴァルドというデンマークの王が、一一三一年一月七日に殺された。死後彼は聖ヌートとして祭られ、キリスト教のカレンダーでは一月七日を聖ヌートの祝日としている。現在でも一月七日を聖ヌートの祝日としている所もあるが、フィンランドでは一七〇八年以来一月十三日を聖ヌートの祝日としている。表を見ると、スウェーデン語系の人たちの中には、この日までをクリスマスと考えている人がけっこう多くいる。  もみの木の処理については、みんなどうしているのだろう。十二月二十九日頃、もみの木が枯れてしまったので処分したという人もいるが、普通は一月になってもまだもつ。調査によると、もみの木を燃やしてしまう人が多い。クリスマスの象徴であるもみの木が形をなくし、灰になることで、祝祭に終わりが告げられるのだ。  これで、一通り最後までクリスマスを統計で見終わった。博士論文を読んでみようなどと肩に力を入れて始めたが、なんてことはない、数字をながめただけだった。でも、無駄にはならなかったと思う。これまでの章でクリスマスの習慣や歴史を詳しく見てきたが、それらの習慣がはたして現在のフィンランドにどのくらい残っているのかを、数字で、大ざっぱにつかみたかったのだ。使った統計は、A・B・C・Dと四つに分けた言語グループの差を知るためのものだった。差があまりない項目もあったし、人によっては、四つのグループ分けの意味からして理解しにくいと思ったかもしれない。この章からそれほど難しいことを吸収しようとする必要はない。フィンランドの文化に、スウェーデン系の存在があるということを知ってもらえれば、それでいいと思っている。 [#改ページ]  誰も書かなかったサンタクロース   サンタクロースの姓名判断  雑誌だと、たいてい終わりのほうに星占いのページがある。フィンランドのある雑誌編集長が、 「星占いを休んだりしたら、読者から抗議の電話がじゃんじゃんかかってくるよ。クロスワード・パズルも人気があるから、毎回見開きで載せないと暴動が起こるだろうね」  と言っていた。星占いのページは日本の雑誌でも人気がある。本屋の店先で、星占いだけを立ち読みしている高校生の女の子たちをよく見かける。たぶん、どんな占いにしても、それだけを信じきってすがっている人より、ツキがあったりなかったりするゲームのようなつもりで楽しんでいる人の数のほうが多いと思う。  この本の主人公、サンタさんのすべてを占ってみたいと思う。ただ困ったことに、サンタさんの生年月日がわからない。これがわからないと、何座の人か見当がつかない。いつも赤い洋服を着ているから、赤がラッキーカラーの星座とすれば、おひつじ座あたりかもしれないが、それだけでは決め手にならない。血液型はどうかというと、これまたわからない。『クリスマスさんとゆかいな仲間』の統計表には、血液型が青色であると書いてあるが、これは人類の血液型分類法とちょっと違うので、占えない。  さて、困った。西洋占星術や血液型では無理だ。他の方法を考えてみよう。生年月日がわからなくてもできる方法となれば、そうだ、姓名判断がいい。「サンタクロース」というカタカナで調べてみよう。総格は十六。驚いたことに、総格はじめ外格、天格、人格、地格のすべてが、大吉と吉でできている。だから、サンタさんには蓬春運、福寿運、根気運、衆望運がある。やはり世のため人のために善行を続けている人には、いい名前がついているのだ。  十六格の人がどんな人生を歩むか、野末陳平さんの『姓名判断』(光文社)で調べてみよう。まず、順風出世運と書いてある。  生まれつきツキを背負っています。まったく同じスタートに並んでも、十六の持ち主は、努力+ツキ、思いがけぬ幸運とチャンスにめぐまれて、万事すらすらとうまく人生がはこぶのです。  この数は、親分肌の性格をつくりますから、人望を得て仕事が順調にはこぶのです。十六格は健康で生命運強く、大病をしても助かります。事故にあっても、軽傷ですみます。  とても素晴らしい人生だ。コルヴァトゥントゥリの親分として、小人たちから人望を得て仕事が順調に運ぶ。たとえ、そりが事故にあっても大けがはしない。なんて恵まれた一生だろう。サンタさん、これからも健康に十分注意して、世界中の子供たちのために、いつまでも仕事を続けて下さい。  そろそろ、私の「サンタクロース学特講」も終わりに近づいてきた。はじめは楽しい絵本の比較サンタクロース学だったのに、最後には博士論文も読みこなすほどの実力がついた。何事もやってみるものだ。この辺で、長い歴史があり、世界中に広まったこのクリスマスという祝祭が意味するものがいったい何なのか、ちょっと考えてみたい。アメリカのE・カウント博士は、「クリスマスとは何だろう」という問いに対して、 「民衆の中から湧き上がってきたドラマであり、祈りであり、讃歌である。ラファエロが聖母像を描き、フランス人が壮麗なシャルトル大聖堂を建て、イギリスの司教たちが祈祷書を編集し、ヘンデルが�メサイヤ�を、バッハが�ロ短調ミサ曲�を作曲している間に、一般民衆はクリスマスを生み出していったのだ」  と答えている。  もちろん、信仰と生活の接点というような言い方をすれば、簡単に片付くかもしれないが、もっといろいろな角度から見たらどんな価値があるのか、カイス・ヴオリオさんの論文をもう一度読んでみよう。ヴオリオさんは、「クリスマスの価値」という章を設け、単純価値と複雑価値の二つに分けて論じている。単純価値というのは、クリスマスのごちそうを食べたり、お酒を飲んだりする快楽的価値をはじめ、ストレスが解消できるという意味の精神衛生的価値、装飾や音楽などの美的価値、それからもちろん宗教的価値が挙げられる。  複雑価値というほうは、もう少し詳しく説明したほうがいいと思う。まず、クリスマスは家族単位で行なわれるが、これには家族がまとまるという意識が働く。クリスマスには、その意識を創り、保つという価値があるという。友人同士でパーティをやるということなども、仲間意識を育てるという価値がある。プレゼントのやりとりを通じて複雑な社会階級といったものとつきあうことになるが、クリスマスにおいても「社会階級」の存在に注目すべきなのだろう。  愛国的価値というのは、国旗や戦争の英雄の栄誉をたたえたりすることを意味する。民族主義的価値というのは、たとえば、ヒムメリ(麦わらのモビール)が古くからの伝統的なフィンランドの飾りであり、ルシア(ろうそくを立てた女性)がスウェーデンのものであるとしたら、やはりルシアはやめてヒムメリにしようか、というようなことだ。  食の文化には特に地方色が反映されているが、その土地、地域が持っている価値もあるというわけだ。細かく分ければそうだが、フィンランド全体として考えた場合は、西欧文化に属することになる。クリスマスの習慣は西欧、たいていドイツからか、スウェーデンを通って伝わったものだ。だから、フィンランドのクリスマスは西欧文化に属しているという価値を持っている。  クリスマスには学ぶことも多い。家庭で、あるいは他のパーティで。クリスマスのごちそうを食べる時には、いつもより礼儀正しくしなければならないし、他にもクリスマスだからこそ身につくといった事柄がある。子供たちにとっての教育的価値といったらいいだろうか。  フィンランドのクリスマスには右のような価値があるが、日本のクリスマスの価値といったら、どういうことになるだろう。宗教はぬきだし、愛国的だの民族主義的価値だのは見当たらない。日本ではお正月がクリスマスに匹敵する行事だから、お正月の価値を調べた方が面白いかもしれない。でも、羽根つきを始める前に、まだまだサンタさんの話をたっぷりしておこう。   天使の心のサンタ学  自分の子供たちのために、二十年以上も陰のサンタクロースになり続けた人がいる。それは、イギリスのJ・R・R・トールキン(一八九二〜一九七三)だ。彼は、三歳の息子のジョンに、サンタについてきかれた一九二〇年、サンタ自画像と住居を絵に描いて息子に送ったのをきっかけとして、それから毎年クリスマスになると、「サンタの手紙」を息子たちに送るようになった。ジョンの下の三人、マイケル、クリストファー、プリシラが子供の間ずっと、「サンタの手紙」はクリスマスごとに届いた。これらの手紙は、三男クリストファー の夫人ベイリーが編集して、"The Father Christmas Letters"という本にまとめている。 日本では評論社から『サンタクロースからの手紙』(瀬田貞二訳)という題で出ている。  トールキンは水彩画入りで、北極にあるサンタクロースの家のこと、助手の北極熊のことを書いた。そのうち、サンタクロースの家の家族も増え、雪のエルフや赤い地の精もサンタの手紙に話題を提供することになる。これはトールキン教授(オックスフォード大学)の、家庭での良き父親としての密かな楽しみだった。北極の切手を貼ったり、わざわざ郵便屋さんに届けてもらったりして演出にも工夫をこらした。プライベートな手紙だった「サンタクロースからの手紙」も、後に一冊の絵本としてまとめられ、私たちもトールキンのサンタぶりを垣間見ることができるが、世の中のお父さんすべてがここまでやるほどまめではない。  しかし、子供たちは皆ジョン坊やのようにサンタさんのことが気がかりでならない。それに、自分たちの前に決して姿を現わさないサンタさんの存在に疑問を持つ時が、いつか必ずくる。子供たちから、 「サンタクロースって本当にいるの?」  と、きかれたら、大人はなんと答えたらいいだろう。本当の大人なら、決して「いない」とは言わない。ふつう子供たちが「サンタクロース不在説」という悲劇的宣告を受けるのは、ちょっとだけ人生の先を歩んでいる子供たちからだ。あるフランス女性は、学校で友人からその宣告を受けた日、あまりのショックに人生観が変わってしまったと言っていた。  一八九七年のこと、アメリカの八歳になるヴァージニアという少女が、お父さんにたずねた。 「あたしの友達に、『サンタクロースなんていないよ』って言う子がいるけど、本当にそうなの?」  すると、お父さんはこう言った。 「新聞社に問い合わせてごらん。サン新聞がいるって言うなら、きっといるよ」  そこで、ヴァージニアは新聞社に手紙を出してたずねる。  ヴァージニアからの手紙を受けとったニューヨーク・サン新聞の編集長は、フランシス・P・チャーチ(一八三九〜一九〇五)という同社の記者に、この手紙に対する返事を社説に書いてみないかと勧めた。これが有名な、「サンタクロースって、いるんでしょうか?」という社説だ。これはもう古典のようになっていて、クリスマスになると毎年必ずどこかに掲載される。日本では偕成社から『サンタクロースっているんでしょうか?』(中村妙子訳、東逸子絵)という翻訳版が出ている。原文から要約してみよう。  ヴァージニアちゃん、サンタクロースなんていないんだと言っている、あなたの友達のほうが間違っています。疑い深い人は、目に見えるものしか信じないのです。この世に、愛と寛容と献身があるのと同じように、サンタクロースも確かにいます。  サンタクロースを見た人はいません。だからといって、サンタクロースがいないということにはなりません。この世の中で最も確かなものは、子供の目にも大人の目にも見えないのですから。ただ、信頼と想像力と詩と愛とロマンだけが、本当に美しいもの、真実に光り輝くものを見せてくれるのです。  サンタクロースは永遠に生きています。そして、いつまでも今と変わらずに、子供たちの心を喜ばせ続けてくれることでしょう。  この社説は大反響をよんだ。物質文明において見失いがちな精神性の大切さを、改めて気づかせてくれたのだ。チャーチという記者については、当時の編集長の回想録に、「人間生活のあらゆる面について、深い洞察力と鋭い感受性を持った人物」と書いてある。きっと、情緒の安定した繊細な人だったのだろう。詩情さえ感じられるサンタクロース擁護論というところだ。  フランスの哲学者、ガストン・バシュラールは、 「夢においてこそ、とりわけ個的なものを通して、人は宇宙的なものと交流する。まず夢の中で見たものでなければ、人は美的情熱をもって眺めないものだ」  と言ったそうだ。子供たちはサンタクロースという夢を見る。子供の夢には、その子のすべてを動かすだけのエネルギーがある。子供はサンタクロースを通して、この広い宇宙を把握しているのだ。 『クリスマスの招き』の中に、  子供とサンタクロースの関係は、大人からみれば、奇妙な関係です。いつかは通りすぎていく一過程であって、子供の魂がしゃぶっている魂アメのようなもので、甘ずっぱい郷愁のようなものかもしれません。それとも〈故郷喪失〉という弱みをもっている大人が子供への償いとして、夢を与えているのでしょうか。  と書いてある。「郷愁」という言葉が出てくる。サンタクロースを語るのにふさわしいいくつかの言葉の中の一つだと思う。この他に「ロマン」という言葉もぴったりするだろうし、「ヒューマニズム」と言ったら、これ以上何も言わなくてもいいくらい、この言葉はすべてを語ってしまう。信頼、愛情、郷愁、ロマン、ヒューマニズムといった、目に見えないもの、形のないものが具体的に人格化されて普遍人間になったのが、サンタクロースなんだと思う。  だから、この本は永遠のヒューマニズムに対する讃歌ということになる。マウリ・クンナスの絵本を翻訳したことに端を発する、私のサンタクロース学も、サンタさんのヒューマニズム権化説をもってしめくくりたいと思う。なぜ私はこの本を書いたのだろう。サンタさんについて本を書くなどということは、これまでの私の人生計画に全く入っていなかった。もちろんマウリの『サンタクロースと小人たち』は素晴らしい作品だと思っている。たぶん彼の表現力のパワーに触発されて、私の中からもエネルギーが出てきたのだろう。でも、私からエネルギーを引き出したのはマウリだけではない。サンタさん自身の魅力も忘れてはならない。やはりサンタさんには目に見えない大きな力があると思う。これだけ時間を費してまで、その魅力をさぐりたくなるのだから。  人生計画になかったことをやったわけだから、この仕事は人生の寄り道ということになる。今は、寄り道をしてよかったと思っている。この道には、今までに見たことのないきれいな花がたくさん咲いていた。この花束は、きっとサンタさんから私へのプレゼントなんだろう。いつも急いで先へ進もうとする私に、寄り道の楽しさを教えてくれる友人がいてよかった。これからも、周囲の良い影響でゆれ動いていくような人生が送れたら素晴らしいと思う。  ただ一つだけ心配なことがある。私は、今までに誰も書かなかったサンタクロースを書いてしまった。これは大人のためのサンタクロースの本、つまり、アカデミックないたずらの本だ。本当は誰も書いてはいけないサンタクロースのことが書いてあるのだから、子供たちには内緒にしておきたい。まだ天使の心を持っている子供たちには、彼らに適したサンタクロース学があるのだ。   クリスマス・ソング・コレクション  サンタさん関係のものを網羅したつもりだったが、一つだけぬけていた。それは、クリスマスの歌だ。フィンランドには、トゥオマス・ピーロネンさんというクリスマスの歌の収集家がいて、すでに二二〇〇曲も集めたそうだ。それらは、フィンランドの作曲家約四〇〇人、外国の作曲家約二五〇人の作品だ。フィンランドには、地方によってその土地の人しか知らないというようなクリスマスの歌もある。クリスマスの詩は数えきれないほどあるが、たいていの場合、作曲家が美しいクリスマスの詩に魅了されて曲をつける。ピーロネンさんは三〇〇〇曲を目標にして、これからも収集を続けると抱負を語っている。といっても、特に気負った考えがあるわけではない。 「孫たちが、『うちのおじいさんは、昔こんなことしたんだってさ』と言うだけのことですよ」  とのこと。  クリスマスの歌もたくさん紹介したいところだが、これは少々著作権の問題があって難しくなるので、クリスマスの歌によく出てくるフレーズを参考に示しておくから、自分で作ってみよう。大丈夫、大丈夫。あまり難しく考えなくていい。できる。 みんなが眠る夜 もみの木の下で 金の雲のもとへ 唇に微笑み 聖なるクリスマスの夜 いつもクリスマスだったら クリスマスのごちそうが トントゥはつまさき立ちで 天使が空へ クリスマスはもうそこまで来ている もみの木の小さなろうそく 白い鳩 クリスマス・パーティの 子供たちの目は輝き 湖が凍ると 友よ来て歌いたまえ 地に平和を もみの木にろうそくの花が咲き トナカイにのって かわいらしく歌う子供たち お母さんがプレゼントを 白いおひげのおじいさん メシア誕生の夜 年寄りも若返り 寒い? おいしい? 天国の光を クリスマスがやって来た もみの木の枝 子供たちの口から歌が クリスマスの星 ヨウルプッキ 貧しい者にも富める者にも 北風の吹く真冬の夜に 魂が輝く うちで楽しく過ごしてって 長い道を キリストの誕生を トントゥ 暗い地上に 真冬に夏が? 目が喜びに輝き 神よ愛を下さい 日は短く いろいろなごちそうが 昔なじみの  さあ、どんな歌ができただろうか。創作力が湧き出てきて、なん曲も試みた人がいるかもしれない。楽しい歌ができたら、次は、大きな声を出してそれを思いっきり歌ってみよう。心の中のすべてを言い放つようで、気持がよさそうだ。声が大きければ、もしかしたら、コルヴァトゥントゥリのサンタさんの所まで聞こえるかもしれないし……ね! [#改ページ]   文庫版あとがき  本書は、一九八二年に文化出版局から出版された「サンタさん、分析します。」に、新しい情報を少し書き加えたものです。  同年のクリスマスには、拙訳の絵本「サンタクロースと小人たち」(マウリ・クンナス作 偕成社)も出版されました。その本には、飾りや食べ物等、日本人に馴染のないフィンランドのクリスマスの習慣が出てくるので、「読者のために参考書が必要だ」と思ったのが、本書を書くそもそものきっかけだったのです。  本を書き終え、「これで完了。めでたし、めでたし」とホッとするはずでしたが、それからというもの、サンタクロースやクリスマスと縁が切れないどころか、私は季節を問わず、サンタさんとおつきあいをすることになりました。  マウリ・クンナスが二冊目のサンタ絵本を創作したので、それも翻訳しました。「サンタさんへ12のプレゼント!」(偕成社)です。これは、小人のビッレ君がクリスマスの十二日前から、毎日サンタさんへいろいろなプレゼントをしようとするかわいいお話です。  コルヴァトゥントゥリのサンタ村を舞台にした、マルヤッタ・クレンニエミの童話も訳しました。  おもちゃ作りに飽きてサンタに反抗する小人。クリスマスが待ちきれず、クリスマスを探しに行く女の子。子供たちの手荒い扱いにおこって、反乱をおこすおもちゃたち。「サンタと小人の国のお話集」(偕成社)には、クレンニエミの心暖まる微笑ましい童話が六話収録されています。  フィンランドの童話だけでなく、クリスマスの歌も訳して紹介しました。「フィンランドのクリスマス・キャロル」(ポニーキャニオン)には、北欧の静かで落ちついたクリスマスの雰囲気をよく伝える歌等が二十三曲入っています。 「サンタさん、分析します。」が世に出てから、私には肩書が一つふえました。それは「サンタ博士」です。この肩書でラジオ番組に出演したこともありました。  毎週さまざまな博士(たいていその日のテーマを専門として研究している学者先生)が登場し、子供たちの素朴な疑問に答えるという番組です。私が出演した日のテーマは、もちろんクリスマスでした。  朝早い生放送。しかも質問してくるのは子供たち。私は、心臓が飛び出しそうなほど緊張してマイクの前に座りました。 「クリスマス・ツリーを飾るのはなぜ」 「サンタが赤い服を着ているのはなぜ」  といった、子供たちお決まりの質問はまあよかったのですが、一人こういう女の子がいました。 「クリスマスには、クラスのみんながプレゼントをもらえるのに、私だけ誰からもプレゼントをもらえない。どうしたらいいの」  困りました。こんな質問が出るとは、予想もしていませんでした。でも生放送ですから、すぐ何か言わなくてはなりません。私はとっさに、フィンランドで昔発行された、子供向けのクリスマス小冊子に載っていたお話を思い出しました。  それは、「貧しいサンタクロース」。人からもらうことばかりを期待するのではなく、人に与えることの喜びを教えてくれるサンタのお話です。  私は、このお話の荒筋を話してあげました。その子が、本当に納得してくれたかどうかはよくわかりませんが、不満でいっぱいだった気持が少しでもほぐれれば、と願うばかりでした。  放送が終わってから、担当ディレクターは、 「三〇分じゃ惜しかったですね。これなら一時間でもできますね。いやぁ、よかったですよ」  と言ってくれましたが、私は三〇分でもすでにサウナに入った時のように汗びっしょり (毎週どんな博士も経験する!)だったので、一時間も続いたら、きっと脱水状態になってい たでしょう。  サンタクロースのことを真剣に考えているのは、やはり子供たちです。子供たちのサンタ学におつきあいしたこともありました。  フィンランド航空が子供たち(幼児から中三まで)からサンタの創作を募集し、最優秀者に日本・フィンランド間の往復チケットをプレゼントしようという企画でした。私は、その審査員になったのです。  全国から寄せられた作品の数は、ゆうに五〇〇を越えていたと思います。園児も中学生も同じ土俵で勝負をさせるということには、もちろん無理がありましたが、読む方としては、年齢別のサンタ学がよくわかり、とても興味深い経験でした。 「サンタがプレゼントをもって来てくれる」と信じて疑わない年齢層の子供たちの作品には、上手下手は別として、真剣味がありました。どんなに短くても、どんなに|拙《つたな》くても、それが伝わってくるから不思議です。  内容は実にさまざまでした。すべてに目を通してわかったことですが、子供たちは不安を抱いています。  サンタは、どう見てもおじいさん。おじいさんは、そのうちいつか死んでしまう。サンタが死んじゃったら、プレゼントはどうなるの。  こういう不安を解消するためにか、サンタの後継者について考えている作品が多かったのが印象に残りました。  それからもう一つ、日本の子供たちならでは、と思う発想もありました。  サンタは世界に一人だけ。そんなに重要な地位につくには、きっとものすごく難しい試験を突破しなければならないだろう。というのです。  外国の子供たちが、どんなサンタ物語を書くのかはわかりませんが、そういうお話がいくつもあったということは、やはり日本の受験戦争を反映しているように思われます。  子供たちが書く物語だけでなく、最近のサンタ本には、現代社会が色濃く映し出されています。もはや楽しいサンタさんばかりというわけではありません。サンタもグチをこぼすようになりました。 「1993年のクリスマス」(レスリー・ブリカス文、エロール・ル・カイン絵、北村太郎訳 ほるぷ出版)に出てくるサンタは、人間社会に絶望し、もうサンタ稼業をやめようとまで思いつめています。  一九九三年にこのサンタは、二回もハイジャックにあったり、テロリストに爆弾を投げつけられたり、麻薬密輸の疑いで足止めをくったり……と、行く先々でいやな思いをし、ついにこう言ったのです。 「いまの世の中、かわらにゃおかしい。さもないと、いくらにんげんがクリスマスをほしがったって、サンタは、うん、といわないぞ!」  まったく物騒な世の中になったものです。  事実、一九九五年六月、日本で全日空機がハイジャックされた時、その飛行機には、たまたま来日中だったフィンランドのサンタクロースが乗っていました。  日本ではほとんど話題になりませんでしたが、フィンランドでは、解放されたサンタのまわりにメディアの人間が集まってインタビューをし、ちょっとしたニュースになったものでした。  搭乗者名簿には、サンタクロースとなっていたのか、はたまた彼の本名が書かれていたのか、好奇心がくすぐられるところです。  数年前、ロンドンでクリスマスを過ごした時、どこかの美術館でサンタに関する展示を見かけました。よく覚えていないのですが、「セント・ニコラスはもうクビになった」というようなことが書かれていたように記憶しています。  今回、資料を見直すにあたり、キリスト教の本にも目を通してみました。すると、セント・ニコラスの立場が少し変化したという事実につきあたりました。  一九六二年から六五年にかけて、第二ヴァチカン公会議があり、この時、教会のあり方や教会暦が見直されました。聖人については、「真に普遍的で重要な意義をもつ聖人」(「第二バチカン公会議公文書解説」カール・ラーナー及びヘルベルト・フォルクリムラ著、小林珍雄訳 エンデルレ書店)だけを、全教会あげて祝うことにしたのです。  その結果、セント・ニコラスの名声は、歴史的事実よりもむしろ伝説に基づくものと判断され、彼の祝日であった十二月六日は、一九六九年以降、|任意の《ヽヽヽ》祝日ということになり、地域によって、ニコラスの祝日として祝ってもいいし、祝わなくてもいいということになりました。  正確に言えば、ニコラスはクビになったのではなく、降格されただけでした。  しかし、この事実により、「サンタクロースって、だあれ?」(ロビン・クリクトン著、尾崎安訳 教文館)の著者のように、 「ヴァチカン法王庁はサンタはぺてん師だと言ってもよいという結論にまで達した」  と、解釈する人も出てきました。  一方、ニコラス擁護派(特に、ニコラスの墓を守るドミニコ派の修道士たち)は、ヴァチカンの決定は情報不足によるものとして、再検討されることを望んでいるそうです。  日本には、サンタ博士はあまりいないようですが、世界を見渡すと、いろいろな分野の人達がサンタに興味をもち、それぞれ真剣に(?)取り組んでいます。  サンタの精神鑑定をした人もいました。このことは、「星の王子さまと野菜人格」(グレン・C・エレンボーゲン著、篠木満訳 星和書店)の「ニコラス・クラウス:心理測定における症例研究」(E・M・バード Ph, D. アクロン・パブリック・スクール・システム)に出ています。  詳しいことを知りたい人は、是非この報告を読んでみてください。  ウェクスラー成人知能検査、学力検査、ベンダー視覚運動ゲシュタルト・テスト、人物描画、文章完成法テスト、ハンド・テスト、ロールシャッハ精神診断法、幼児期の回想調査、動的家族描画といった検査と、家庭訪問の結果を総合した所見が載っています。  相対性理論の立場から、サンタの秘密を解明した人達もいます。シカゴ大学のG・ホロヴィッツとB・キサントポーラスという物理学者で、彼らは、「サンタが一晩で世界中の子供たちの家をまわれるのはなぜか」という難解な謎解きに挑戦しました。  彼らの結論によると、「サンタが、北の極にある理論上回転しているブラックホールから、莫大なエネルギーを引き出すと仮定すれば、可能」ということです。これは、サンタ存在説を裏づける嬉しい秘密の解明といえます。  物理学というと、なんとも難しくて、私などはまったくお手上げです。では私同様に、理科が苦手の方のために、やさしい読物を紹介しておきましょう。 「科学者からの手紙(4) 宇宙・不思議ないれもの」(佐治晴夫著 ほるぷ出版)にも、サンタを乗せて引くトナカイのスピード等の計算が出ています。  これによると、サンタが一軒に滞在する時間は三万分の一秒、ということですから、神業というか、驚くばかりです。ひょっとすると、サンタはこっそり物理学を勉強して、不可能なことを可能にしているのかもしれません。  これまで紹介したように、世界中のいろいろな分野の学者が、サンタの秘密を解明しようとして、果敢に取り組んでいます。それでもまだ、サンタの周辺には秘密がたくさんありそうです。  それらの秘密は、永遠に解けない謎で終わってしまうのでしょうか。 「サンタクロースは世界に一人だけ」  このセンテンスを、私は言い換えてみたいと思います。「子供の数と同じだけ、サンタクロースは存在する」いや、もっと正確に言うなら、「子供たちにサンタの話をしてあげる大人の数だけ、サンタクロースは存在する」とすべきでしょうか。  本来サンタの秘密とは、偉い学者先生によってではなく、子供たちとコミュニケーションをとるすべての大人各自の想像力と愛情によって、解明されるべきなのです。  今年のクリスマスには、我家でも、私なりにサンタの秘密をさぐって、二歳の息子に話をするつもりです。  文庫版あとがきでは、わずかではありますが、最近サンタさんが経験した悲しい秘密や嬉しい秘密にもふれました。そこで、文庫版の題名は「サンタクロースの秘密」とすることにします。  文庫版出版にあたり、講談社の北村周さんにお世話になりました。クリスマス生まれの北村さんは、「僕、クリスマス大好きなんです」と言って、張り切って資料を集めてくださいました。  本のカットは、単行本(文化出版局)に掲載した吉谷博光さんの絵をそのまま使いました。表紙の絵は、内海朗さんが描いてくれました。二人とも芸大時代の友人です。  皆さんの惜しみない御協力に心から感謝したいと思います。  一九九五年十月 [#地付き]稲垣美晴  本作品は、一九八二年十二月、文化出版局より『サンタさん、分析します。』として刊行され、加筆、改題し、講談社文庫版として刊行(一九九五年一一月初版刊)されたものです。     * 本電子文庫版では、親本掲載のイラストは割愛いたしました。