[#表紙(表紙.jpg)] 考証[時代劇] 稲垣史生 目次  まえがき  医は算術こと始め  町奉行を裁く  まぼろしの悪代官  岡っ引を探索する  「いざ尋常に勝負」考  名城大いに笑う  江戸の構造汚職  江戸っ子の学力  殿中作法八つ当り  忍者学入門  道中もの怪談比べ  小股の切上った女  岡場所|考現学《モデルノロギオ》  「不義はお家の法度」考  吉原を科学する  大奥お錠口《じょうぐち》の怪  与力を吟味する  刀と扇子の作法  関所破りの奴刑 [#改ページ]   まえがき  戦後日本の歴史は大きく書きかえられた。それまでの国家主義や天皇制の美化に代わり、もっぱら科学的、客観的な立場に立つ歴史に変ったのだ。  なるほど、その新しい日本史は一応私たちを納得させる。歴史とは過去・現在・未来へと、滔々《とうとう》と流れ来り、流れ去る事象の流れだというのだ。それはあたかも大河のような、津波や雪崩《なだれ》のような、大きな力で何ものをも呑みこみ、押し流してしまう。例えば徳川幕府が鎖国政策を採ったため、日本は世界の列強に遅れてしまった。そこで明治政府は富国強兵策をとり、強引に追いつけ、追い越せの国策を押しすすめ、その度がすぎて太平洋戦争へ突入したことはご存知の通りである。  つまり滔々たる事象の流れは、因となり、果となって大河のように流れ、その間に個人の力は何の影響も及ぼさない。坂本竜馬や西郷隆盛、あるいは犬養毅・吉田茂がどんなにすぐれていても、歴史の大きな流れはいささかも変えることができなかった。個人はまったく無力だというのだ。  それが歴史学者の立場である。学者は事象を分析し、体系づけ、実証的に流れの真義に迫る。つまり事象のみを研究し、人間個人は研究対象としないのである。  歴史書が無味乾燥で、何かもの足りないのはそのためではないのか。事象のみで人間の歴史が、そう単純に割りきれるものかどうか? もっとよく考え、視点を変えてみよう。  強力なその流れを作ったのは、実はわれわれ個人ではないのか。ひとりひとりの人間の意志や力が、谷川の水が合流して大河をなすように、その「歴史の流れ」を作ったのではないか。つまりわれわれ個人のパワーの集積、集合体ではないのか。  早い話が数年前の選挙で、永い保守独走の政治の流れを変え、保革伯仲を方向づけたのは、私たちの一票一票の集積によるものではなかったのか。影響がないどころか、その流れはわれわれ個人が作ったものにほかならない。  してみると、事象の流れの真理・本質を知るためには、まずわれら人間個人——やや飛躍するようだが、個々の人間研究へさかのぼらねばならない。つまり人間とは何かの原点に立つ必要がある。徹底的に人間を究明し、人間性を剔抉《てっけつ》するのでなければ事象の流れは理解できない。  ところで、人間そのものをとことんまで究明し、人間性の真実に迫ると何がわかるか?  人間はけっして美しいこと、善いことばかりはせず、友を裏切り、騙《だま》し討《うち》にし、時には不倫の恋もする。汚く、醜悪で、思わず顔をそむけたくなる行動も往々にあることが分る。  今、その究明する人間を、過去に実在した人物に取ろう。織田信長なり、豊臣秀吉なり、特に目立った人物とすれば分りやすい。彼らの人間性を徹底的に追求すれば、やはり鼻持ちならぬ醜悪面が露出する。何だ、むかしもそうなのか。本来、人間とはそんな醜悪なものだったのかと気づく。そうなら汚濁に満ち、何か不安な現代社会にも、とくべつ悲観することはないのだなと、安心立命したいのが私たちの願いなのだ。実はそれで歴史書を読むのだが、事象のみを研究対象とし、人間不在の歴史学者はその願望に答えてくれない。  では誰が一体これをやる? ほかならぬ小説家であり、ドラマ制作者である。小説で、映画・テレビで、彼らはそれを追求し、剔抉する。きれいな純愛を描くと共に、密通・強姦などの醜悪面も、容赦なく描写することを許されるのはそのためである。もちろん人間とは何かの大問題に、彼等は決定的な結着をつけられるわけがない。宗教家でさえ二千年の歳月をかけて、なおその結論に到達していない。あまりに問題が大きすぎ、簡単に解明は不可能だが、私たちには毎日の現実の生活があるので、一時、人間問題は預かったまま、唱名念仏することで心の平安を求めるというのが宗教家の立場であろう。  作家もまた、人間とは何かの大問題に、結着をつけられるとは思わないが、少なくともその問題へ肉迫する努力と姿勢がたいせつなのである。小説やドラマにその姿勢のないものは、ひとかけらの値打ちもない。感動も、共感も呼び起さない。  さて、過去の人間をありのままに描き、現代人との比較によって人間生存の原理を見出し、以て現代社会にも安心立命するためには、まず過去の人間生活を、かつてありしままに再現するのが第一条件である。そうでなければ正しく比較することはできない。百年前、二百年前のわたしたちの先祖が、何を食べ、何を着、どんな家に住んでいたか、それを如実に再現するための作業が時代考証である。思えば時代考証とは、気取った言い方をすれば人間生存の原理を探るための方途といえよう。本書はその具体的な実例集である。 [#改ページ]   医は算術こと始め [仁術の見本「因幡《いなば》の白兎」]  テレビでは時代劇の視聴率がよく、一日平均六本ずつ放映しているが、その中に、よく「慈姑《くわい》形」の髷《まげ》を結《ゆ》った医者が登場する。これはとんでもない間違いで、本当は、坊主頭でなくてはならない。あれは医者に扮する俳優が、「坊主頭はいやだ」とゴネるために生じた、実にバカバカしい誤りなのである。  ところで、今日、差額ベッドや保険外診療など、「医は仁術か算術か」と取り沙汰されているが、こうした問題はなにもいまに始まったことではない。  そもそも医療の発祥は、神話「因幡の白兎」とされている。大国主命《おおくにぬしのみこと》が兄|八十神《やそがみ》の供をして、気多前《けたのさき》(鳥取県)を通りかかったとき、皮をはがされた兎が苦しみ泣くのを見た。わけを聞くと鰐《わに》をだましたため、怒った鰐が背中の皮をやぶっていった。通りかかった八十神がそれを見て、潮水にひたしたあと風に吹かれれば治るといった。で、兎がその通りにすると、全身焼けるように痛くて今にも死にそうだ。兎はそう訴えるのである。  そりゃいかん、と命《みこと》は傷を真水で洗わせ、蒲《がま》の花(花粉)をつけるように親切に教えた。さっそく兎がその通りにすると、間もなく傷が癒えたと『古事記』にある。兄のいじわると対照的に、いかにもさわやかな仁術ぶりである。  有史時代には他の文物と同様、医術も朝鮮・中国から輸入された。欽明《きんめい》天皇の十五年(五五四)、百済から医博士|王有陵陀《おううりょうだ》、採薬師|潘量豊《はんりょうほう》、丁有陀《ていゆうだ》の三人の来朝があり、降《くだ》って推古天皇の十年(六〇二)にはやはり百済僧|観勒《かんろく》が来朝、方術(呪術)の書を朝廷に献じたという。この頃から日本にも医学の誕生があったと見てよい。  推古朝といえばすっかり仏教が弘通《ぐつう》、その一派の呪術はじゅうぶん病魔|放逐《ほうちく》に効果的ムードを持っていた。当時リサーチ階級は僧をおいて他になく、輸入医学や薬学は、いつか僧の職務に包含されたのは当然である。この時から坊主で医者を兼ねることがはじまり、医と仁術の結合にいわば主役を演じた。  医療が国家事業となり、医者が官人となったのは大宝律令制定のとき(七〇一)である。  中国大陸では唐の最盛期で、医療制度もそっくり輸入して寸分の違いもない。令によれば宮内省の管下に典薬寮があり、官の医師および医博士を管轄、または諸国より献ずる薬種を調合して、病者に配給する事務をとった。  所属の医師は貴紳の診察にあたり、医博士はもっぱら大学で医生の教育を受け持った。すなわち両者を臨床と教授方に分け、現代の医療制度の原型を作りあげた。  が、まだまだ「白い巨塔」の問題現象はおこらず、それどころか着々と国家事業の実をあげていった。すなわち仏教の慈悲心が医の救済精神にむすびつき、養老七年(七二三)に奈良興福寺の施薬院と悲田院ができ、天平二年(七三〇)には大和平城京に施薬院がつくられて、尊くもゆかしい仁術の象徴となった。  施薬院には医師がいて、収容された洛中の病者を無料で診る。施薬も投薬もただなら、保健と療養に湯あみさせたことはよく知られている。  悲田院も貧窮者を収容、病者を無料で診療させること施薬院と変らない。いうまでもなく慈善病院の始めで、諸寺でもこれにならい、僧医による同じ施療があちこちでおこなわれた。当時、冷水浴しか知らなかった庶民に、寺院の湯あみは何よりの療法であると共に、この上ない慰安であった。温泉づき無料病院! 一日数万円の差額ベッドや、数十万円の入歯と何と大きな違いであろう!  平安朝の典薬頭、丹波康頼《たんばのやすより》(九一二〜九九五)はその著『医心方』の冒頭に書いた。 「大医病を治するに無欲無求、大慈|惻隠《そくいん》の心に発すべし」  と。その仁術の精髄は今どこへ行った?  医道の乱れは平安時代、律令体制の弛緩にはじまった。悲田院・施薬院はすがたを消し、有能な医師は藤原貴族の専属となってお髭《ひげ》の埃《ちり》を払った。そうでない藪《やぶ》や笥《たけのこ》医者は、宮廷の式微《しきび》と共に放浪して怪しい腕をふるった。呪術とチャンポンの気やすめ程度のものだが、薬代だけはちゃっかり取ることを忘れなかった。医者の質的低下はこの時にはじまっている。  医者株の下落といえば、鎌倉・室町期を経た戦国時代より甚だしきはない。日本じゅうが戦乱にあけ暮れ、戦《いくさ》の度におびただしい戦傷者を出した。戦場でその負傷者を、すばやく手当てする外科医が必要である。 「創腫科」は当時の外科だが、文字どおり腫物やとげ抜き程度の医術であった。急遽おおぜい必要なとき、あるかぎりのとげ抜き医者でも動員するしかない。心得ある者はひとり残らず従軍させた。槍傷・刀傷が専門だからこれを「金瘡医《きんそうい》」という。  が、まだまだ足りない。諸大名は急ぎ金瘡医を養成しようとした。が、武家時代では男なら、戦士として出陣するのが誇りであり、義務であり、また生きがいであった。男で出陣しない奴は、どこか障害ある者に違いない。まあ、それほどでなくても、体が弱いか臆病か、とにかく欠陥男であることは確かだった。残っているのはみな男の屑《くず》、それが医者になったのである。  速成の金瘡医がいかにお粗末だったか『雑兵《ぞうひょう》物語』のエピソードで知ることができる。  弥助は金瘡医の薬箱持だが、負傷兵に水を飲むな、声を出すな、はいいとして、葦毛《あしげ》の馬の糞尿が傷に効くと本気で言っている。『雑兵物語』の戦場描写は定評があり、実際馬の糞尿を飲んだことは『甲陽軍鑑』(甲州流軍学書)にもある。  永禄五年(一五六二)武田信玄が武州松山城を攻めたとき、米倉丹後の嫡男彦次郎が敵弾を受け、金瘡医のすすめでまだ生温かい奴を、 「甘露、甘露」  と飲んだなどとある。ばかな話だ。 [医者には男の屑がなる]  ところで戦国の金瘡医は、もちろん従軍に甲冑をつけず、野羽織・たっつけ袴に小刀を差すぐらいであった。すなわち軽装で武装せず、極力、非戦闘員たることを標榜《ひょうぼう》した。が、小心な男の屑、それでも間違って撃たれてはと、髪を剃り坊主頭を光らせて、遠くからでも無抵抗の医者とわかるようにした。髷は男の象徴だが、なりふり構っていられず剃ったのである。以来、医者は坊主頭がおきまりである。  医者には男の屑がなる。この観念は以後ずっと変らず、江戸時代になっても医者といえば、男性ちゅうの能なしが、やむなく成り下る下職だった。  医者のライセンスは明治八年(一八七五)からで、それまではまるで野放しであった。名医のもとへ弟子入りして、見よう見まねで施術をおぼえ、師の許しを得て開業するのがふつうだったが、医書は難解だし、秘術はなかなか教えてくれない。独立するのに二、三十年はかかるので、多少の心得があれば勝手に医者の看板をあげた。昨日まで薬種屋の番頭だったなどはごく上等で、香具師《やし》がとつぜん医者に化けて往診に来たりする。 「おや、お前、脈もみるのかい?」 「頼朝公のご公認さ」  と意外な人物の名が飛び出すのは、かつて医者に扮して平家の残党狩りをやったという眉唾《まゆつば》の由緒による。  香具師はまだ薬に縁があるが、まるで無縁の小間物屋や飴屋が、とつぜん医者になりすますのだから危なくて仕方がない。  薬屋に毛のはえた奴あたま剃り  は、坊主頭になった俄《にわか》医者である。 「藪医」というのはろくに薬も持たず、病人が来ると藪へ駆けこんで、いいかげんな草根木皮《そうこんもくひ》を取って来て与えるところから生じた称。藪にもなれぬのを「筍医者」といい、こんなのは簡単に病人を殺してしまう。  殺すもの上手の女郎、下手の医者  上手な女郎には手練手管があるが、藪や筍には医者の「い」の字もない。ために川柳では三枚目にされ、何ともさんざんな扱われようである。  八幡《やわた》よりもっと怖いは医者の藪  人の命の惜し気なく藪医|盛《も》り  すっかり病気が悪化してから、「ほかへも診せたら」というのが藪のきまり文句。  半殺しにして余人へと藪医言い  藪医者の勿体ぶりも命とりである。  ひと思案ござると藪医のこわいこと  急患があって駆けつけたが、病人を間違えて女中を診察した。人違いだといわれると、「いや火急の際、誰かれの差別はない」  と答えたひどいのもいた。  また門弟が不届きをしたので、医者が立腹してこぶしをふりあげたところ、弟子は思わず手を合わせ、 「どうぞ足蹴《あしげ》にして下さりませ。あなたの手にかかってはこれまで生きた者がいません」  と頼んだという話もある。  当時、医者の憧れは何といっても幕府の御典医であった。 「奥医師」は将軍の侍医で法印《ほういん》・法眼《ほうげん》に叙し、「御番医《ごばんい》」は表御殿に詰めて大名・旗本の急患に備えた。  法印・法眼・法橋《ほっきょう》は僧位で、ここでも医者は坊主扱いである。  奥医師と御番医のほか、「寄合《よりあい》医師」「小普請《こぶしん》医師」など予備役の医員がおり、「御広敷見廻《おひろしきみまわり》」という見習医師もいる。御広敷は大奥の事務局にあたり、大奥女中の急病に備えるとは表向き、彼女らを稽古台にしたインターンであった。  御典医には多くの門弟がいて、御広敷見廻はその中から選ばれる。が、事は人命に関するので、民間に名医がいれば採用の道がひらかれていた。勿論、採用テストを受けるが、その腕試しの方法がふるっている。  将来、将軍やその家族を診ることになるが、恐れ多くて直接脈どころに手をふれることができない。そこで貴人の手首に糸を巻きつけ、次の間でその端を握って脈を診る。古来、これを「糸脈」といったが、御典医にぜったい不可欠の触感として要求されるのだ。  テストにはモデルの手首が使われるが、意地の悪い試験官は、猫の足に糸を結わえたり、時には柱に結びつけたりした。  しかし受験生はそれを知る由もなく、柱と気づかず、 「ちと血圧が高うござる」  と答えたり、猫と知らず大まじめで、 「ニャンとも分かりませぬ」  といって試験官に抱腹絶倒させた。蘭方が入るまで、江戸の医者はおよそそんな調子だった。  仁術といえど立派な人殺し [医は算術どころか忍術]  さてこの藪や筍が、当時どれほど診療代を取っていたものか。医は仁術の建前から、もとは患者の意志次第で規定はなかった。  薬礼の時はこっちで匙加減《さじかげん》  の川柳がそれ。医者の側からいえば、  医者の薬礼と深山《みやま》の躑躅《つつじ》、取りにゃ行かれずさき次第  であった。ところが江戸初期に医者側の請求方式となり、ガッポリ取る上に車代・弁当代まで求めるようになった。まず安政年間(一八五四〜五九)の診療費を見よう。  診察料は一回で二分の一両、薬代は三日分で四分の一両、七日分でも二分の一両だからなかなか高い。  往診料は初回が三分の一両、その後は四分の一両ずつ取る。ほかに一里内外は二分の一両、二里は一両、二里半は二両、三里以上は何と五両も取り、おまけに二里以上は駕籠に乗るものとして、駕籠代を別に申し受けるというのである。  また手術料は、切傷一寸につき四分の一両、出産手術は二分の一両、乳癌の剔出手術はぐっと高く二両半であった。  安政年間の一両は米価に換算して、ざっと今の四万六千円、一週間病気で寝たとすれば、診察料・薬代・往診料などで五・八両、これを現在の金になおすと二十六万六千八百円となる。二里以上の遠隔地から呼んだとすれば、駕籠代を入れてべらぼうな数字となる。  それで足りずなお「支度料」というのを取った。藪に支度のあるわけはないが、はったり用に弟子を薬箱持ちにつれてゆく。そのお賑やかしの費用まで、ほぼ相場がきまっていた。旗本では二分の一両、大商人は一両で、五日か十日目にまとめて請求した。ほかにも、心付けや弁当代を取るのだから呆れたもの。文政(一八一八〜二九)の風俗書『世事見聞録』に、 「供廻りの者ども病家へ参りし時、弁当代と称して金銭をねだり取ること通弊なり。価あるいは二百匹(二分の一両)、三百匹などつかわす事なり。これは米の半俵または一俵、二俵の価にして、供廻りの者四五人、八九人の弁当には過ぎたる事なり」  とある。もちろん駕籠代も弁当代も、医者が取りあげてお供には均霑《きんてん》しない。  駕籠代の上前《うわまえ》を取る流行《はやり》医者  何のかのと医者は取りまくり、御典医ともなれば年収四千両もあった。四千両は今の一億八千四百万円、医は算術どころか忍術だが、問題はその驕《おご》りと道義心であった。  乗物へきつい山師と指をさし  駕籠代や弁当代を出し渋ると、妙にゆすりめいたせりふを並べた。こっちは病人がいるのだから、つい言いなりに金をつかませるのである。医者は図に乗って横暴をきわめた。江戸中期の『近世風俗見聞集』に、医者の堕落と医者駕籠の弊害を次のようにのべている。 「当世の医者は御代《みよ》の結構すぐるに任せ、医術の修業を怠りて奢侈《しゃし》に流れ、衣服美麗をつくし、住居も玄関・書院その他の結構たぐいなし。本人はもとより家従までも不行跡を尽し、医道の玄妙至らざる故、親切の情さらになく、表向きのみ飾り、さも良医の体《てい》に見せて人を騙《だま》すなり。  殊《こと》に病家へ見廻るにも駕籠に乗り、若党・陸尺《ろくしゃく》(駕籠かき)その他の供まわり武士の如し。行違いに人を悩まし、或いは喧嘩をしかけ、もし薬箱などに当りし者あれば、たちまち打擲《ちょうちゃく》いたし、医道にて薬箱は大切の道具なりとて金品をゆするなり」  とある。鼻持ちならぬ特権意識である。  が、これではいけない。幕府はたびたび診療費以外のものを禁じたが、ほとんど効果は見られなかった。  しかし江戸時代といえども、百人が百人みな算術医者や忍術医者ではなかった。  名医|長田徳本《ながたとくほん》は甲州武田の遺臣。病者から一律に十八文の薬代を取ったのみである。往診を乞われると愛用の牛の背にまたがり、 「一服十八文じゃ、十八文じゃ」  と大声で呼びながらいった。駕籠代も弁当代もいっさい不要である。  徳本は将軍家光が病んだとき、招かれて治療に当たり、衆医の反対を押し切って強い薬を盛った。ために日ならずして家光は全快し、その功を賞して厚く報いようとしたが、徳本は例によって一服十八文より多くは受けなかった。当時、日雇人足でも一日の賃銀は六十六文、それに比べて十八文の薬礼はひどく安い。また徳本は豪邸を与えられたが、それも断わって相変らず郊外の草庵に住んだという。  徳本は頼み甲斐ある名医なり  は、出身地の甲斐に掛けたうまい柳句である。 [#改ページ]   町奉行を裁く [最高裁判事を兼ねた町奉行]  映画やテレビでやる町奉行は、やたらにカッコいいものの、本当は事実とはほど遠い。いちいち列挙するのも大人気ないが、その度がすぎては誤解を招き、奉行の権威にかかわるので一言せざるを得ない。  まずテレビの遠山奉行が、白洲《しらす》へ出て来るとき一オクターブ高い声で、 「北町奉行遠山|左衛門尉《さえもんのじょう》さまご出座ァー」  と前触れがある。  するとお白洲に面した高座敷の襖が、つぎつぎ自動ドアみたいにスイスイと開き、威厳あたりを払って奉行が着座する。同時にお白洲の囚人は、 「うへえー」  と白洲の砂を噛むほど平伏する。  これがどうもまずいので、むかしは「罪人を引き据える」というから、奉行や書記が先に定位置につき、そこへ被告を連れて来て荒々しく引き据えるのだ。残念でした。あべこべだ。  その奉行が長|上下《かみしも》を着、犯人を問い詰めて昂奮し、肌ぬぎになって遠山桜の入墨を見せるのも大嘘である。長上下は法廷で着るものでなく、江戸城内の式典にかぎるのだし、ふつう町奉行は犯人を取調べない。最初のお白洲で人定《じんてい》尋問をし、事件の概要を質《ただ》すのみである。あとは専門の吟味与力にまかせ、すっかり調べあげ、罪科が決定したとき、奉行は再出座して判決文を読みあげるだけである。まして片肌ぬぎで大目玉をむき、 「これにて一件落着……」  などと絶叫するのはオーバーを通り越した紙芝居だ。  その判決文の内容だが、ちょっと前の映画に「手錠のうえ過料」というのがあった。  手錠は五十日なり百日なり、名主預りで手錠をかけられること、そのうえ過料を取られるのだからありそうに思える。当時は本刑と付加刑があり、前者が付加刑で後者が本刑だ。例えば「引廻しのうえ磔《はりつけ》」といえば、引廻しが付加刑で磔が本刑である。  ところが今のばあい、手錠も過料も両方が本刑であって付加刑がない。本刑を二つ重ねるなんてべらぼうな。判決文を間違える町奉行などいるものか。  寺社・町・勘定の三奉行は、幕政の中枢をなす執行機関であった。そのうち寺社奉行は全国的に、宗教行政をおこなうので譜代大名がなる。これに対して町奉行は、首都たる江戸だけの治安維持にあたるため旗本役であった。格式としては寺社奉行より落ちるが、お膝元をあずかるので仕事の重みはずっしりと来る。まさに第一線の要職で、エリート中のエリートが選ばれたし、まさに出世コースの八合目であった。  一口に町奉行といっても、司法・警察・民政、それに交通行政をひっくるめた幅広い行政権が与えられていた。そうでなければ完璧な治安は期し難い。今の東京都知事・警視総監・東京地裁所長・東京駅長などを兼務していたといえる。例えば戸籍・住宅・衛生事務から、消防対策や泥棒をつかまえて裁判までする。また東海・中山道の始発駅として、その輸送事務も受け持っていた。  特に裁判では東京地方裁判所だけでなく、最高裁判事、または法務次官を兼ねていたともいえる。評定所《ひょうじょうしょ》の主要メンバーとして、江戸以外の幕領ぜんたいの裁判もやるし、大名領の重大事件も裁いたからである。さらに当時の刑法は「御定書《おさだめがき》百ヶ条」というが、その内容は一般に秘密で、知っているのは寺社・町・勘定の三奉行だけであった。法廷で遠山桜の入墨をひけらかし、でたらめの判決文を読むようなお安い役人ではない。テレビの町奉行を逆にお白洲へ引き据えると致そう。 [犯人逮捕から「一件落着」まで]  一体、町奉行はどこに住んでいるのか、テレビの制作者は知っているのだろうか。私邸から毎日出勤するのか、或いは奉行所内で寝泊りするのか。だいぶ前の作品だが、悪党一味が奉行を怨み、寝ているところを襲撃するというむちゃなシーンがあった。私邸ならともかく、奉行所にいるとすれば天下の政庁が襲われたことになる。ばかばかしくて涙が出る。  町奉行は私邸から通うのでなく、奉行所の奥向に、家族と共に住むのが原則であった。現在の奉行所見取図に、「女部屋」と書かれているあたりに奉行と家族はいた。  が、それは原則で、実際は最小限の家族しか移って来なかった。奥方が稀れにセックス御用に呼ばれた位のものだろう。  町奉行は朝五つ刻《どき》(八時)に廊下づたいに出勤、用部屋で宿直者から前夜何ごとも無かったかを聞く。もしあれば当座の処置を指示し、その間にも書類に目を通している。四つ刻(十時)には登城して芙蓉《ふよう》の間に詰め、上申することがあれば中奥《なかおく》の老中部屋へ出向いた。逆に老中の方から呼ばれることもあったが、その多忙の間に要領よく、政局を見きわめたり、要路へのゴマスリも忘れてはならない。  殿中で持参の弁当を食べ、八つ刻(午後二時)には下城して奉行所で政務をとる。  ところがオフィスの机上には、留守ちゅう書類が山積していた。それをいちいち見ている間がない。そこで年番方《ねんばんがた》与力という官房長がいて、だいたい民政・司法・警察部門に分けて要点を説明してくれた。奉行はそれを聞いていて、明快にその場で裁断する。よほどのきれ者でなければ勤まらなかった。 「お白洲の時刻でございます」  と係り同心が催促に来る。いそがしく用部屋を出ると、廊下づたいに白洲にのぞむ部屋の奉行の席につく。  その座敷を「裁許所《さいきょじょ》」といい、文机《ふづくえ》を前に書役《しょやく》同心が一人、吟味与力が二人と同見習二人、それに幕府の下級監察官、お小人目付《こびとめつけ》と徒目付《かちめつけ》が必ずいた。裁判に不正がないかを見張るためである。  白洲には縁側に近く蹲《つくば》い同心が二人、これは文字どおり、土間に蹲っていて法廷の警備に当る。これで裁判の構成要員が揃ったわけ、そこへ奉行所の下男《しもおとこ》が、囚人の縄尻を取って入廷し、お白洲へ乱暴に引き据えるのである。  大忙しの町奉行はほとんどぶっつけ本番で、目で書類を見、耳で罪人の申し条を聞いた。あとは専門の吟味与力に任せたが、重要な事件は隣室で吟味ぶりを陰《かげ》聞きしたという。  ついでながら書いておくが、拷問はお白洲や吟味部屋でやるのではなく、伝馬町牢屋内の拷問蔵にかぎることだ。厳密には笞打《むちうち》・石抱《いしだき》・海老責《えびぜめ》を「責問《せめどい》」といい、「拷問」というのは釣責《つりぜめ》の一種だけである。町奉行の権限でやれるのはこの責問のみ、拷問ともなれば老中の許可を必要とした。が、まだ被疑者の段階だし、人体を傷つけることなので、老中もなかなか許さなかった。また「御定書百ヶ条」の中に、拷問できるのは殺人・放火・強盗だけで、しかも確実に死罪以上の容疑者と限定している。むかしはやたら拷問にかけたように思うのは、いいかげんな時代劇の罪である。  かくて与力の吟味がおわり、判決文がでると奉行の言渡しとなる。  判決文はこれこれの悪事を働いたため、不届につき死罪を申付ける……という形式になる。「不届につき」は死罪以上、「不埒《ふらち》につき」と書くのは軽罪ときまっていた。それさえ知らずに時代劇を作るのは、それこそ不届至極である。  またテレビでは奉行所の白洲で、奉行自身の吟味のあげく、その場で「獄門」の刑を言渡したりするのも大嘘だ。奉行が言渡すのは遠島《えんとう》まで、死罪以上は係りの与力が、伝馬町の牢屋へ出張して、中庭で判決文を読みあげた。そして判決があるとすぐ、牢屋敷内の刑場で死刑が執行されたのも今日と違うところである。  ところがどうも凄いのがあった。左衛門尉さま入墨の片肌を脱ぎ、 「この遠山桜に見覚えがあろう!」  と、やくざの金さんに返ってべらんめえで容疑者を詰問した。その果て死罪を言渡すのはまだしも、陪席の代官も収賄罪が露見して、 「その方も追って切腹を申し付くる」  とやったのには、思わず椅子から転げ落ちた。オドロキだ。町奉行の支配は町人だけで、侍も侍、高級旗本の代官の処罰などまるでお門《かど》違いである。法廷でそんな放言をしたら、遠山奉行の方が不届につき「切腹」申し付けられたであろう。 [「遠山の金さん」の秘密]  町奉行はこのほか一日おきに、南北両奉行所の打ち合せ会議や、最高裁たる評定所《ひょうじょうしょ》の裁判にも立会わねばならない。忙しくて、忙しくて、とてもテレビでやるように、町人の金さんに返って岡場所をぞめき歩く余裕などなかった。  では一体、与力まかせで名裁判ができたのか? 遠山の金さんこと左衛門尉|景元《かげもと》は、果してそんな名奉行だったのか?  景元は寛政五年(一七九三)八月、勘定奉行遠山|景晋《かげくに》の子として生れたが、わけあって義兄景安が家督をついだため、一生部屋住みの宿命を負わされた。そのためやけになって放蕩、傍々《かたがた》、長唄の家元|芳村《よしむら》家へ通い、名取りとなって芳村金四郎と名乗った。遠山桜の入墨はこのころ彫ったもので、花は桜木、人は武士から来たかと思われるが、そうではない。「遠山桜」の入墨は、当時、博徒や町火消、鳶《とび》など、「顔」をきかす連中の間で、大いに流行した図柄だから自慢にならない。  その後、景元は義兄の病気で家督をつぎ、天保十一年(一八四〇)北町奉行に就任した。以来、さすがにやくざのような入墨を恥じ、襯衣《シャツ》を着て腕まではみ出した桜を隠していたといわれる。  景元には名裁判といわれるものがほとんど無く、前歴が前歴だけに、下情に通じて情味ある裁きをしたにすぎない。エピソードとして残るのは、或るときお白洲に引き据えられた吉原の遣手婆《やりてばばあ》、奉行が遠山の金さんと知って、思わず、 「あら、金さん。しばらく……」  とやった。すると金さん、雷《らい》のような大声で二の句をつがせず、 「貴様、まだ遣手をしているかッ!」  と怒鳴りつけた。一瞬、婆はふるえあがり、おとなしく裁判を受けたといわれる。有名なのはその一件のみ。  とはいえ、景元は水野越前守が天保改革で、堺町・葺屋《ふきや》町の芝居小屋を取りつぶそうとしたとき、頑張って猿若町《さるわかまち》へ移転することで存続させた。芝居が江戸庶民の、唯一の娯楽であることを知っていたからである。  また経済政策でも、極端なデフレ方針に反対するなど、庶民本位の市政をおこなったことが知られている。これみな部屋住み当時、街へ出て放蕩したお蔭である。遠山の金さんが名奉行たる所以《ゆえん》は、実は裁判でなくて民政にすぐれていたからといえよう。  このことは大岡越前守にもいえる。芝居や講談でやる『大岡政談』は、ほとんど他人の手柄を横取りしたか、または作りばなしである。「天一坊事件」は関東|郡代《ぐんだい》伊奈半左の手柄だし、「小間物屋彦兵衛一件」「小西屋一件」は海の向うの中国ダネ、「村井長庵衛門事件」や「雲霧仁左衛門」「津の国屋お菊」など、みな根も葉もない作りばなしである。  わずかに「白子屋お熊事件」だけが、大岡越前守が扱った名裁判である。  享保十二年(一七二七)二月のこと、新材木町の材木商、白子屋庄三郎方で婿養子の又四郎が就寝ちゅう、頭に斬りつけられ重傷を負った。誰が犯人かわからなかったが、家族を審問ちゅう下手人は女中の菊と判明、さらに菊は庄三郎の女房つねにそそのかされてやったと自白する。  その原因を突っこんで調べると、ひとり娘のお熊が又四郎を嫌い、美男番頭の忠八と関係ができたため、じゃまな又四郎を殺そうと母娘ぐるみで企んだ嘱託殺人であった。明快に黒幕を割り出した点、さすが名判官といいたいところ。だが、この探索の巧みさも、前述のとおり大岡越前自身ではなく、配下の吟味与力の腕のよさに帰さねばならない。越前は初回法定の人定尋問だけで、結審の折りも、みな死罪以上だから判決文さえ読まなかったわけである。  大岡越前も裁判より、むしろ法務官や民政官として勝れていた。「御定書百ヶ条」など法典整備に功績があったし、いろは四十八組の町火消を作ったりして能吏ぶりを見せている。遠山景元といい、大岡越前といい、名判官はどうも斬ったはったの刑事事件には縁が薄いみたいだ。そして裁判で名奉行と謳われた人は、刑事ではなく民事で名をあげている。しかも一種ユーモアの持主であった。  寛文・延宝(一六六一〜八○)ごろの町奉行、渡辺大隅守のもとへ或る町医者が患者を訴えて出た。病気の治療をし、よくなったので薬代五両を請求した。が、患者はまだなおらぬと言い張って、どうしても薬代を支払わないというのである。民事の訴訟である。  大隅守が見ると、なるほど患者はまだ青ぶくれの顔をしている。しかし治療を受けたのだから、薬代は払えと命じると、被告は病気つづきで五両の金はとても払えないといった。もっともなこと。だが、どこかへ奉公し、その給金で払えばよいじゃないかと奉行がいえば、 「この体で誰が雇ってくれましょう」  と、これまたもっともな返辞である。  大隅守はそこで医者に向い、 「患者がああ言うのだからお前が雇え、給金をそのまま納めさせれば取りはぐれはない」  とすすめた。すると医者はあわてて手を振り、きっぱりと断わった。 「とんでもない。あんな青ぶくれの病人が使えるものですか」  瞬間、名奉行は雷のような大声で怒鳴りつけた。 「お前はさっき全快したといった。なおっているならどうして使えぬ! 薬代が危ないと思い、それでなおりもせぬのに金を巻きあげようとした不埒者め!」  ということで、薬代は不払いでよしとの判決を出した。そういうスカーッとした審問の妙を、今の裁判や議会の証人喚問でも見せてほしいものだ。  天和〜元禄(一六八一〜一七〇三)ごろの町奉行、北条安房守のところへ叔父と甥の家督争いが持ちこまれた。安房守はひと通り聞き終えると、 「まこと不埒な者どもである。叔父は甥を可愛がり、甥は叔父を尊敬するのが人の道ではないか。しかるに醜い相続争いをするとは何事、両人とも手錠を申しつける」  と、裁判らしいこともせず、即座に手錠をかけて親類預けにした。  叔父の手錠は罪人用のものだが、甥のは子供だから手首に紙を巻きつけ、封印しただけのもの。何しろ奉行に叱られたのだから、甥はその日から泣いてばかりいる。困ったことにその涙で濡れ、紙の封印は今にも切れてしまいそう。親類の者がこれを見て、もし切れたら一大事、親族こぞって罰せられよう、えらいことだと寄り寄り相談して、急に甥っ子に家督をつがせることにした。  家をつぶされては元も子もなくなるので、叔父も諦めてとんとん拍子に和解が成立した。奉行所へ出頭してその旨を申しあげると、安房守、あわやというところだったなとお笑いになり、一件ことごとく落着した。名奉行とはやたら片肌ぬぐのではなく、機知と人情の機微を利用して、思わず微笑む裁決をする人のことである。 [#改ページ]   まぼろしの悪代官 [見て来たような嘘の忠次代官斬り]  講談では侠客国定忠次が、上州|岩鼻《いわはな》の代官所へ斬りこみ、悪代官松田軍兵衛を血祭りにあげて百姓の危難を救う。見て来たような嘘とは知らず、映画もテレビもこれを踏襲し、防戦の家来をバッタバッタと斬り捨てたあげく、親玉に虚空をつかんでのけぞらせる。強いの、何の、話にならない。  が、岩鼻は代官不在の役所だし、松田軍兵衛も似た名前の男さえいない。まして、やくざに代官が斬られるなど、そんなべらぼうな事件は日本中どこにもなかった。作りばなしもほどほどがいい。  この松田軍兵衛だけでなく、代官といえば悪人……悪者といえば代官と時代劇では相場がきまっている。苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》はする、賄賂は取る、よわい領内の娘っ子を手ごめにする。脂ぎった嫌らしい四十男と相場がきまっていて、いつか悪役のチャンピオンにされちまった。  お馴染みテレビの『水戸黄門漫遊記』でも、まっ先にぶつかる事件は美しい農家の娘お光が、代官横山五平太の目にとまって妾になれと迫られる。お光の家では年貢未納、そこへつけこまれたので、泣く泣くやわ肌を捧げる寸前、ご隠居の黄門に救われるというお定まりのすじ書である。  いや、もっと捻《ひね》った一篇がある。黄門が東海道沼津宿へさしかかったとき、もの言う地蔵に出会ってびっくり仰天。実は人間が地蔵に化けての賓銭かせぎだったが、本人を取っちめて真相を吐かせると、黒幕はご多分に漏れぬ悪代官であった。素朴な農民にいいかげんなご利益《りやく》を宣伝、たんまり儲けたというのだからばかばかしくて涙が出る。何と単細胞の悪党で、何と漫画チックな役人にされていることか! またテレビの制作者が、相変らずそんな代官を、大まじめで出しているのがさらに漫画チックである。一体、代官とは何者かわかっているのだろうか?  ふつう代官というのは、本官に代って職務をおこなう者。源義経が宇治川で木曾義仲を破り、はじめて後白河法皇に拝謁したとき、 「鎌倉の頼朝が代官源九郎義経……」  と名乗っている。武家時代には広く守護代・地頭代など、みな略して代官といった。一定の職名となったのは江戸時代からで、やはり主君に代って土地を治め、傍々《かたがた》、税を取り立てる役。幕府の職制に明記され、それをまねて諸藩にも代官がいた。また三千石以上の大旗本も、現地の用人を代官といわせている。  代官の兄貴分に「郡代」というのがいる。  仕事の内容はおなじだが、代官が五万石の土地を治めたのに対し、郡代はその倍の十万石を支配した。こっちの方が威張ってもおり、事件を起してもおもしろく、そして大きいはずだが、奇妙にテレビに登場しないのはどういうわけか。悪事は代官がみな背負いこんでいる。  幕府の御料所は四百万石ほどで、一部を大名預けにし、残りは六人の郡代と、四、五十人の代官によって治めさせた。「代官所」といえばオフィスを指し、テレビでは「岩鼻代官所」などという標札さえ出している。が、残念でした。「代官所」というのは支配地のことを言い、オフィスの方は「代官陣屋」または「陣屋敷」といった。文字どおり看板に偽りありだし、第一、キョロキョロ代官屋敷を探す奴もおらねば、探すまでもなく、抜群の豪邸だから商家の看板のような標札はまったく不要であった。  代官陣屋の敷地はふつう四、五千坪、本屋《ほんおく》は玄関をあがって侍部屋や書役《しょやく》の間、それに書院などひと通りの武家造りだが、書院には罪人を調べる白洲づき、書役の間には訴えごとをする莚敷《むしろじき》庭のあることが変っている。お白洲には捕物三つ道具があって、一歩ふみこむだけで背すじが寒くなったといわれる。  奥向には家族の居間、それに女中部屋が二、三室かならずあった。  代官は家族づれで赴任する。役料百五十俵というから、今(昭和五十八年)の年間手当に直して二百五十二万円ほどである。安い。  部下は幕臣の手附《てつき》二人、現地採用の手代八人、それに書役二人と警備の侍二、三人、足軽・中間《ちゅうげん》を入れて三十人前後のメンバーであった。手附を課長とすれば手代は課員、百姓・町人の中から目はしのきく者を採用した。  手附で月給十三万円ほど、手代はざっと九万円、人事院も腰を抜かすほどの安月給であった。  そのくせ仕事は治安・民政・徴税のすべてにわたり、今日の県庁か地方事務所、警察および税務署の事務いっさいをひき受けていた。  そればかりか、堤防や橋の修理、また官林・官道の修繕や災害時の対策、それに孝女の褒賞から道楽息子の説教まで仕事のうちであった。  五万石といえば播州赤穂藩に匹敵する。赤穂では士分だけでも五百人、足軽・中間を入れたら千人以上になろう。そんな大勢で治めていた土地を、たった三十人でまわるのだから大変である。朝から夜中まで働きずくめであった。それで十万位じゃ、てんでやりきれない。どこかで埋め合わせをせざるを得ず、制度上、「構造汚職」の体質を代官は持っていた。  役人の子はにぎにぎをよく覚え [ケチな帳簿のごまかしが主要悪事] 「百姓は死なぬよう、生きぬようにと合点して年貢を取れ」  とは家康の遺訓である。家康のブレーン本多正信は、その尻馬に乗ってもっとひどいことを言った。 「百姓は国の宝だが、これを治めるには法がある。一年間の食い扶持と種籾《たねもみ》だけ残し、あとはすべて年貢として取りあげよ、百姓には余分のものを持たせず、といっても、ひどく不足もないよう見計え」  というのだ。当時、さらにひどい諺として、 「百姓と胡麻の油は絞るほど出る」  ともいわれた。  その搾取の一線に立つのが代官である。たとえ一石でも二石でも、よけいに取りあげれば腕がいいということになる。血眼で、容赦なく取りあげた。寛政四年(一七九二)甲州の田安領で、代官山口彦三郎が米一斗に一斗一升|枡《ます》を使い、黙って十パーセントを増徴した。まったくの詐欺であり、ごまかした分で私腹を肥やしたのだからひどいものだ。  さすがに騙された五十四カ村の百姓が怒り、寺社奉行に直訴するという事件が起った。「寛政の太枡騒動」といい、代官の典型的な悪業ということができる。  このほか最も多いのは帳簿をごまかして年貢米を横流しする手。土木工事に幽霊人夫を使い、日当を着服するなど、悪にしても地方役人らしい泥臭さがある。  年貢は無作為にえらんだ数坪から、生産高を推定するのだからどうにでもなる。百姓はそのコツを呑みこんでいて、年中行事のように係り役人に袖の下を使った。一村の推定反当り収穫高を「石盛《こくも》り」というが、立合い役人の胸三寸でどうにでもなる。機嫌を損ずると大変な「酷盛《こくも》り」をされるので、百姓にとっては必要悪であった。享保四年(一七一九)秩父の代官堀内兵衛が、徴税に姦曲《かんきょく》ありとして罰せられたのはこの種の収賄によるものであった。  河川の築堤や川さらいには、代官から補助金が出るのがふつうである。そこで村方ではだいたい一割をよけいに申告、その分を代官および検査役の手附《てつき》に、リベートとして贈るのがお定りとなっていた。これを「リベート」や「袖の下」という代りに、当時はもっと適切な語「役恩」と称して平然と贈り、そして受けとった。  代官は幕臣に違いないが、家禄三百石か五百石の下級旗本である。それも多く勘定方や同朋《どうぼう》衆、ひどいのはお鷹匠や鳥見《とりみ》役から抜擢された者が多かった。  勘定方は算盤《そろばん》の名手だが、剣術や武士道にはまるで無縁の腰抜け侍である。同朋衆というのも茶坊主の親玉、上にへつらうことの名人で侍っ気はまるで無い。お鷹匠は将軍の鷹の飼育係だし、鳥見役と来てはその鷹の餌たる小鳥の物見役であった。鳥類に大いに縁があっても、人間統治にはまったく関係がない。ただ、将軍や要職に近づくチャンスがあり、鳥見を名目に農事通になった者が、知ったかぶりをして抜擢されることが多かった。  それだけに、いったん代官や手附になると、有頂天になって威張ったし、半ば公然と袖の下を取った。成り上り者の通弊である。  ……などと書いていると、代官は勝手気ままに何でもできたと思える。横領、収賄、リベート稼ぎ。その悪銭で賛沢をし、妾をおく。電話も汽車もない時代、遠く江戸を離れて放埓は心のままだったと考えられがちである。  映画もテレビもその発想から、出て来る代官のすべてを悪人にした。善玉の代官など見たことがない。  だが、そうではない。江戸には中央政府が厳然とあり、制度上、二重にも三重にも代官の監察機関があった。また封建時代の武家だから、横領・収賄など破廉恥罪の断罪はことさらきびしかった。当人だけの切腹ではすまず、監督者・家族・朋輩など連坐はまぬがれない。とても、とても、めったなことで公金横領などできなかった。  また、悪事に落ちやすい職掌だけに、たびたび幕府から注意書が出されている。  まず代官は百姓を私用に使ってはならない。金を貸したり、借りたり、ましてその金で商売してはならないとある。また年貢の使いこみや帳簿のごまかしは絶対にいけないという。ほかにも、出勤は午前九時だが、即刻、出勤簿に名を書けとある。時間が来るとすぐに出勤簿をひっこめ、あとは容赦なく遅刻とせよ。  病気のときは電話一本ですむ今日と違い、兄弟か親戚の者を代役に立てねばならない。  まったく無関係の者が、おいそれとエキストラが勤まるものじゃないが、無条件、百パーセントの奉仕が建前だから、代役はしかつめらしい顔で終日机に向っていた。  休日というのはまったくない。やむを得ぬ事情で休むときは、御用の隙をみて、月にわずか一日か二日ゆるされるのみ、江戸から赴任して来たときに限り、翌日はとくべつ休息が認められた。週休二日の上、さらに連休のある今日とはだいぶ違う。  だからレジャーを楽しむとか、家族サービスをするなどということはまったくない。もと代官|手附《てつき》だった安藤博氏は、その著書にこう記している。 「代官も手附も、公用にあらずしていっさい陣屋の外へ出ることを得ず。いわんや割烹店の類へ出入りするは最も禁ずるところなり。陣屋内にありても、謡曲・弾琴のほか、歌舞・三味線等の遊興を厳禁せるが故に、婦女子の如きは赴任の当初より、一回も陣屋の門を出たることなし」  ひどいものだ。陣屋で騒ぐのは厳禁だし、さればといって料理屋へいってもいけない。奥方など亭主の在任中、一歩も門外へふみ出したことがないというのだ。代官およびその配下は、規則、規則、規則……でがんじがらめに縛られていた。  代官がやたら悪事を働けなかったのは、何といっても専門の監察官、「国目付」が鷹のように眼を光らせていたからである。  国目付とは各地をまわる巡検使のこと、幕府のはじめ元和元年(一六一五)に創設され、もっとも活躍したのは大飢饉の天保八年(一八三七)前後であった。  目付は悪事をあばくのが使命で、親戚・知友であろうと情け容赦なく糾弾する。父の不正をあばいて切腹へ追いこみ、また、主君をやっつけたため廃絶、元も子もなくなり浪人したという極端な例さえある。  国目付が巡廻のとき、酒肴《しゅこう》の接待はもちろん、道すじの掃除も、宿舎の畳がえもいっさい許さない。不意に代官陣屋へあらわれて帳簿をめくり、疑問があれば代官を宿舎へ呼びつけて徹底的に締めあげた。どんなに「知らぬ」「存ぜぬ」としらをきっても許してくれない。情け容赦のない役人であった。とてもとても、代官は時代劇でやるように、安直に公金横領や収賄などできるものではない。まして公用族として、料亭で大威張りの散財をするなど以ての外、そういうのは、もっぱら今日の役人の話。テレビ作者はそれが羨ましく、ことさら代官に仮託するのであろう。 [ああフェミニスト善玉の代官]  ばかに代官の肩を持ったが、もちろん彼らが悪事を働き、処罰された例は少なくない。が、その大部分は、功をあせるあまり過大な徴税報告をし、やり繰って帳尻を合せたことがバレたものが絶対多数である。罪は手柄を競わせて、そんな運命をたどらせた幕府にある。  佐倉惣五郎事件は承応二年(一六五三)、下総《しもうさ》(千葉県)佐倉の城主堀田正信が、領内の年貢米をいちどに二割もひきあげたことにはじまる。そこで二百ヶ村の名主代表として、惣五郎が寛永寺へ参詣する家綱将軍を、境内三枚橋に待ち受けて直訴する。  将軍への直訴は大事件だが、それも代官ではなく譜代大名の悪政によるのだ。このとき代官は善玉として、かえって農民を庇護している。  当時、北関東の幕府領は、数人の八王子の代官が支配していた。岡上景能《おかのぼりかげよし》もその一人だったが、下総の堀田家領地の農民に対し、二割の増税はひどすぎるから無視せよと、役人らしくない文書を書きおくっている。  岡上家は小田原北条の家来だったが、北条の滅亡とともに徳川に仕えた。いわば幅のきかぬ新参の家来だが、相手が譜代大名でも黙ってはいられなかったのだ。景能の生活は清廉潔白で、誠実無比の能吏として聞えた。  最もいちじるしい業績は、上野《こうずけ》(群馬県)笠懸野《かさかけの》の開墾であった。この原野に長い堀割をつくり、渡良瀬川から水を引くことに成功した。笠懸野は開け、新田には稲が黄金の波を打った。  が、このため渡良瀬川の水が減り、沿岸の村々から苦情百出、このとき景能すこしもあわてず、 「責任は私にある。しばし待て」  と対策を急いだ。が、沿岸の各村は幕府に訴え、ために例の国目付が現地へ検分に来た。ようやく問題か大きくなったが、あわてて取り消すような醜態はみせず、景能はどうどう信ずるところをのべた。  しかし、それがいけなかった。まむしのような国目付に睨まれ、文字どおり我田引水がすぎるとして罰せられた。  さらにこの潔白な能吏も、やはり不正に帳尻を合せていたらしく、何と、最後には切腹を命じられている。いわれなき「悪代官製造」の、もっとも悪質の例ということができよう。  ほかにも善玉代官として、武田信玄のむすめ松姫が、家康の目をのがれて八王子に隠れ住んだのを、最後まで庇護した代官|下嶋与政《しもじまともまさ》、遊女を更生させて東北開拓の農民と結ばせた名代官寺西|封元《たかもと》などがいる。いずれも女に嫌われるかぼちゃ面でなく、やさしく爽やかなフェミニストのイメージが浮かぶ。「灰色の代官名」ではなく「紅白色高官」、こういうのがいいねえ。 [#改ページ]   岡っ引を探索する [「十手《じって》踊り」テレビの捕物帳]  世にテレビの捕物帳ほど、ばかばかしくて現実離れのした代物《しろもの》はない。  十数年まえの映画の没落期に、岡っ引が江戸城へ乗りこんでいって、怪盗団の首魁《しゅかい》なるお側役を、将軍の目のまえで縛る捕物帳を見、驚いて椅子から転げ落ちたものだ。旗本格の与力さえ、「不浄役人」ということで登城できぬのに、世の中の屑みたいな岡っ引がどうして江戸城へ乗りこめる?  痛い尻をさすりながら、そういう考証映画評をやったら、それなりの効果があったのか、こんなむちゃな捕物帳にはお目にかからなくなった。というのは私の思いあがり、近ごろ見たテレビの捕物帳で、映画を上まわる凄まじいのを見て、今度はびっくりして腰を抜かした。  なかなかの人気番組『大岡越前』で腕利きの岡っ引が、 「御用、御用!」  の声も勇ましく、何と、鯖江《さばえ》藩の江戸家老屋敷へ踏みこんで犯人を捕えたのだ。  これはわけが分らない。一体、その家老屋敷がどこにあるのか、このシナリオ作家はご存知なのだろうか?  諸藩の家老は藩邸内の一角に、さらに塀で囲み、開き門のある専用の屋敷にいた。藩邸の規模によって多少違うが、少なくとも七、八室はあり、小体《こてい》ながら庭つきの独立した屋敷なのである。  したがってそこへ入るには、藩邸の門を抜け、さらに家老屋敷の門を通らねば本屋に達しない。岡っ引はどこから踏みこんで二門を抜けたのか、そっちの方がずっと面白いミステリーではないか。  ところが家老屋敷どころか、事もあろうに幕府の寺社奉行の役宅へ踏みこむ凄いのを見た。『大江戸捜査網』という、これもなかなかの人気番組だから、ただ腰が抜けたではすまされない。テレビの公共性と権威のために一言せざるを得ない。  寺社・町・勘定の三奉行は、幕府の花形役人として光ったが、中でも寺社奉行は全国の寺社および寺社領の住民を支配する別格の奉行だった。他の二奉行が旗本なのに、寺社奉行だけが大名役だったことでもその重さが知れよう。町奉行など問題にならぬほど偉いのである。  ではその寺社奉行のオフィスは? 町奉行は数寄屋橋と呉服橋に南北の奉行所があり、勘定奉行も江戸城内の勘定所へ詰めた。ひとり寺社奉行だけは、大名だから江戸藩邸をオフィスとして事務を執った。だから『大江戸捜査網』で、岡っ引が踏みこんだのは大名屋敷ということになる。ばかばかしくて話にならない。諸藩の藩邸は治外法権で、犯人が逃げこんだら与力・同心も手が出ない。指をくわえて引きあげるしかなかった。まして岡っ引ふぜいに指一本ささせるものか。おまけに「隠密同心」などという、辞書を引いても出て来ない人物がいっしょに乗りこむなど、見ていて背中がむずがゆくなった。これでは十数年まえの、映画の捕物帳と何の変りもないではないか。  今さらいうまでもないが、江戸には南北二人の町奉行がいる。治安をあずかり、民政をおこない、民事・刑事の裁判もやってのける。常に旗本の俊秀がえらばれるが、出世コースの八合目だからよく転任する。今もそうだが、それでは前例重視の役所仕事がスムーズに運ばない。自然、世襲の与力・同心がお膳立てをし、奉行は事務報告を受け、判をおすだけとなった。  それら喧嘩・こそ泥から災害予防まで、おびただしい毎日の事件を、残らず書いて奉行に出す帳面を、「言上帳《ごんじょうちょう》」といった。奉行所の仕事が一目瞭然である。そしてこの「言上帳」のうち、刑事事件のみ、のちのち犯人検挙に役立てるため別冊として保管した。これを「捕物帳」といい、奉行所ではなかなかの重要書類であった。『銭形平次』では下っ引のがらっ八が、メモ帳のつもりでけつにぶら下げているが、とてもとても、そんなお安い代物ではない。  岡本|綺堂《きどう》がこの「捕物帳」の名称を借用、『半七捕物帳』を書いたのは大正六年である。第一篇「お文の魂」を『文芸倶楽部』に発表、それからずっと昭和十一年まで、計六十八篇のシリーズを書きつづけた。後にまとめられた『半七捕物帳』の序文に、綺堂は、 「この六十余種の中に、何等かの特色があるとすれば、それは普通の探偵的興味以外に、これらの物語の背景をなしている、江戸のおもかげの幾分をうかがい得られるという点にあらねばならないと思う」  と書いている。  綺堂は明治五年(一八七二)の東京生れ。もの心づく頃はまだ武家気質や、江戸のおもかげが濃厚に残る時代だった。後に新聞記者となり、移りゆく東京を駈けまわるうち、それはやみ難い郷愁として綺堂の胸に育った。江戸の終末は惨めだったが、一面、落日の美しさは忘れられない。殊に権力や虚栄とは無縁の裏町に、しみじみとした庶民の情誼が根づいていた。人間は権力や物欲をはなれると、どんなに美しく生きられるかの好い見本であった。  綺堂は『半七捕物帳』を、ただの推理小説やミステリーではなしに、「下町のユートピア」として描こうとしたのである。そして急速な明治の近代化で、かんじんの人間性が失われることを訴えたかったに違いない。 『半七捕物帳』の次元は高い。かつて慶応の文学部で、これを卒論の課題にした学生がいたが、まことむべなるかなである。  郷愁の下町情誼を出すために、綺堂は江戸に没入した。調べ、また生存者を訪ねた。そして出会ったのが、岡っ引半七のモデルになった実在の赤坂に住む半七だったのである。その半七はすでに八十に近かったが、記憶が確かで倦きず懐旧談にふけった。綺堂はたびたび半七を訪れ、岡っ引の精髄にふれて『半七捕物帳』を書いたのである。当時まだ「捕物帳」の意味が通ぜず、作者は心配して「江戸探偵名話」なる角書《つのがき》をつけている。  それが、どうであろう。昭和三年に佐々木|味津三《みつぞう》の『右門捕物帖』が出現、つづいて六年には野村|胡堂《こどう》の『銭形平次捕物|控《ひかえ》』が出た。あとは『池田大助捕物日記』『人形佐七捕物帳』『若さま侍捕物帖』とつづき、やがて『平賀源内捕物帳』、『瓢斎捕物帳』から『鏡屋おかく捕物帳』という美人岡っ引までとび出す始末となった。  彼らは揃って映画に登場、謎と立廻りで客を呼んだ。が、岡っ引が将軍の眼前で、お側役を縛るようなでたらめを演じたため、映画自体が没落する羽目に落ちたのである。  懲りもせずにテレビが同じ道をたどり、またまた寺社奉行の屋敷へ踏みこむ始末である。高い次元の綺堂流モチーフは、今や薬にしたくもまったく無い。辞書にも無い隠密同心や影同心がきょうもブラウン管せましと「十手踊り」をやっている。メカニズムの先端でこの陳腐……滑稽というほかはない。 [でっちあげの犯罪あの手この手]  一体テレビの制作者は岡っ引の正体を何と認識しているのだろうか。私服の警察官などと思ったら大間違いである。  岡っ引は旧称「目明し」で、戦国時代に犯人検挙のため、やむなく採った嘱託《そくたく》(当時の法律用語)制の名残りである。火付け・強盗などあった場合、犯人を密告した者は、たとえ仲間でも罪を許し、褒美をあたえた。手っ取り早く犯人をあげるにはこれに限る。戦国の名残りとして、江戸初期では当然のようにこの手を使い、いつか悪の世界の顔役が目明しといって御用風《ごようかぜ》を吹かすようになった。  が、いかに効果的とはいえ、悪人を利用するのは公明でなく、また公儀の威信を傷つける。ためにマジメ将軍吉宗が、享保年間(一七一六〜三五)目明しの禁止を命じると共に、なおもやめなかった仁助など十数人を捕えて厳罰に処した。  目明しはこのとき絶滅したはずで、表面的には確かに息をひそめた。が、永い間の慣習だし、実際に彼らがいないと係り同心は手がまわらない。町奉行所には南北合せて与力五十騎・同心二百四十人がいたが、民政・司法に手を取られ、警察官はわずか二十八人の同心のみ。当時、江戸の人口は百万だが、武士を除いた所管の町人は五十万、同心一人あたり一万八千人の市民を受け持つ勘定だ。現在の警視庁で、警官一人あたり二百九十六人の都民を受け持つのとは大違いである。  目明しはいつか復活した。といっても、お膝元の江戸だけは、さすがに目明しの名称を遠慮して岡っ引といった。岡っ引の「岡」は岡惚れ・岡場所・岡目八目の岡で、正規でなく、横からの意、犯人を横から引っぱるから岡っ引となるのだそうだが、当てにはならない。多分こじつけだろうが、岡っ引という言葉のひびきが、江戸市民の好みに合っていつか定着した。だから江戸だけが岡っ引で、他の地方はすべて目明しである。  岡っ引には二種類あり、表向き、「小者」および「手先」と言い分けた。奉行所で岡っ引といえないから、そんな代用語を使ったのである。  小者というのは同心の下働きで、同心の家にいて巡視のときはついて歩く。犯人逮捕はたいていこの小者がやり、同心みずから出向くことは珍しい。よくあるケースは巡視のとき、自身番(江戸市中警護のため各町内に設けた番所)でこれこれの怪しい奴が町内に潜んでいると密告がある。すると同心は「捕えてこい」と命じ、小者はその足で現場へ踏みこみ、 「御用!」  と十手をふりかざすだけで、どんな兇悪犯もへなへなと膝をついたという。芝居のトッタリ(捕手)はこの小者を象《かた》どったといわれ、実際、十手、捕縄《とりなわ》の熟練者が多かった。  ところがそれだけ働いて、幕末で月の手当が一両か二両、今の四、五万にしかならない。それでは食べていけないので、主人の役目を嵩《かさ》に着て、弱い者からちょいちょい巻きあげた。名の売れた料理屋などへ、「旦那は来てないか」と顔を出すと、きまって「そこらで一杯やっておくんなさい」と一分(四分の一両)はくれた。旦那というのは同心のこと、特に弱味がなくてもそうだから、賭場や淫売屋をのぞくだけで袖の下がすべりこんだ。  が、享保以来、表向き岡っ引はいないのだから、頭数だけを奉行所へ届け、いちいち名前は通じていない。給料は奉行所の機密費から、同心がまとめて貰って来て分配した。身分証明書の手札は出るが、同心かぎりのもので奉行印がない。十手、捕縄の所持は許されるものの、同心がいっしょの時か、または逮捕令状がなければ人は縛れなかった。  これに対して手先の方は、奉行所とは無縁・無給の点が違う。濁った川の水垢のように、いつしか同心にこびりついたものだ。岡っ引の大部分がこれで、何となく八丁堀の役宅へ出入りしていた。半七も平次もまさに手先である。岡っ引もいい顔になると、「下っ引」なる子分を七、八人も持っていた。無給のくせに子分を持ち、一体、やっていけるのか。親分ともなれば銭湯や寄席や、一杯飲み屋など人の集る商売を女房にやらせている。日銭稼ぎと同時に情報源にしていたのだ。  下っ引きはふつう無職で親分の家にごろごろしていた。八丁堀の近くに溜り場があり、そこで下っ引きどうし情報を交換した。それを親分に伝えるのが本筋だが、金次第で他の親分へ流すこともある。平次の子分がらっ八は忠実だが、実際は水垢の上をゆくヘドロ野郎が多かった。  手札を持つ小者さえ町家をゆする。まして水垢やヘドロの害は大きく、計り知れない。ゆすり、押借りは序の口で、悪質な手口に「引合を抜く」というのがある。例えば泥棒が捕まったとき、その金で何を買ったか追及される。そばを食い、着物を買ったとすれば、そば屋と呉服屋は参考人として調べられ、間が悪いとお白洲で怒鳴りつけられた。当時、奉行所へは名主・大家《おおや》の付添が必要で、迷惑料に帰りには一杯おごらねばならなかった。金がかかるうえに白洲で胆を冷やし、損害は実に莫大だ。岡っ引はそこへつけこんで、 「手を廻せば引合を抜ける。任せておきな」  といって金をとる。実際、呼ばれそうな者はとにかく、まるで無関係な者まで、今にも召喚されそうに持ちかけてゆするのだ。  もっともひどいのに「入臓物《いれぞうもつ》」というのがある。磔・獄門・火焙《ひあぶり》の三種は「高台物《たかだいもの》」と称する重刑だ。治安係りの同心は年間に一件、この高台物をあげねば幅がきかない。岡っ引はそれを知っていて、機嫌とりに無実の放火犯などすぐでっちあげた。ぽっと出の田舎者を大番屋へしょっ引き、怪しいからと裸にするとき、火口《ほくち》や火打石をうまく袂《たもと》へすべりこませる。そして、 「それ見ろ、やったじゃねえか」  と証拠品にしてしまう。否認すると釣責めにかけるので、小心な田舎者は耐えられず無実の放火を認めてしまうのだ。ひどい話で、言論統制のきびしい当時でさえ、 「岡っ引など百害あって一益なし。よろしく捕えて死刑にせよ」  と随筆『滄浪夜話《そうろうやわ》』は叱責している。 「捕物帳」の主人公、岡っ引というのはこんな手合である。社会制度の欠陥に巣くい、弱者をおどし甘い汁を吸った。卑劣で、冷酷で、その生態は「街のダニ」という以外にない。  が、この悪辣《あくらつ》な岡っ引にも、ただひとつの取りどころがある。捕えた犯人が死罪にもなるので、なかなか信心が深かったこと。岡っ引の家の入口には、きまって縁起棚があり、奥の間にはかならず仏壇があって朝夕拝んだ。  また引合を抜いて巻きあげた金は、ぜんぶ自分が取りあげるのではなく、その事件で入牢《じゅろう》する犯人に、何割かをツルとしてそっと渡した。牢屋は地獄の沙汰も金次第で、入牢のとき牢番や同囚に金をつかませねば半殺しの目に会う。そのため隠し持って入る金をツルといった。まったく無一文の罪人にとって、引合抜きのお裾分けはどんなにありがたかったか知れない。それによって岡っ引が、重なる罪障をのがれたいと願うところに、ちょっぴり人間味をのぞかせている。  多少の弊害に目をつむっても、犯人検挙に岡っ引は欠かせぬのだから、仕方がないとするのは使用者の同心である。明治生き残りの同心今泉雄作氏は、岡っ引の目は江戸の隅々にまでとどき、どんな些細な詐欺・姦通も見とおしだったと語った。また引合抜きについても、 「つまらん事で大勢引合に出すのは腕が悪い。犯人を重く罰すればよいので、かかり合は当事者が適当にかげんすべきだ」  と言っている。  半七や銭形平次は、そんな岡っ引の一面をとらえ、作者の正義感や社会観で肉付けした作品である。特に『半七捕物帳』のばあい、かつての江戸の正確な描写に、その裏の裏を知る岡っ引が、打ってつけの主人公であった。半七の迫力はそこにある。江戸城へふみ込む岡っ引が、どんなにでたらめでばかばかしいか、まこと語るも涙である。  テレビの捕物帳よ初心へ返れ。そうでなければ悪くすると、映画と同じ運命に落ちること請合いである。 [#改ページ]   「いざ尋常に勝負」考 [敵討免状と竹矢来仇討のふしぎ]  時代劇の敵討《かたきうち》といえば、きまって「仇討《あだうち》免許状」をふりかざし、 「親の敵、いざ尋常に勝負!」  と呼びかける。ばかに仇討好きの殿様がいて、勝負の場所を竹矢来で囲み、家来と共に見物するのもおきまりで、みごと討ち果すと大喜び、 「天晴れじゃ!」  と扇を開いて賞めそやす。  だが闘牛じゃあるまいし、復讐とはいえ人の殺し合いを、見物席から見て楽しむ人権無視が、むかしといえどもあるものか。  政府が刑罰権を持ちながら、個人に私刑の免許状など与えるわけもない。ひとことで言えばみな嘘だ。例外的に似た事実はあるが、敵討とはそんな悠長ではなやかなものではない。ヨーロッパの諺に、 「或る者は復讐を|男らしい《マンフッド》というが、むしろそれは|犬らしい《ドッグフッド》と言った方がよい」  とある。まことにぴったりで、噛みつくように凄まじいのが本当の敵討である。  憎い敵《かたき》の形容に、日本には「不倶戴天」ということばがある。出どころは中国の『礼記《らいき》』で、父の敵とは倶《とも》に天を戴《いただ》かず、つまり相手を殺さずにはおかぬという意。つづく文句に兄弟の敵は、武器をとる間も惜しんで殺せ、とある。中国ナイズの古代、さっそくこの一節は『日本書紀』に取り入れられ、同時に仇討礼讃の思想も生れた。とはいえ本家の唐朝でも、やたら敵討を賞めて公認したわけではない。廷臣の汪万頃《おうばんけい》という者、張審素《ちょうしんそ》という者を殺したので、その子の湟《こう》と|※[#「王+炎」、unicode7430]《たん》が父の敵|万頃《ばんけい》を討ち果した。このとき朝廷では二子を許そうという者と、逆に殺そうという者の二派に分かれた。許そうというのは張九齢、殺そうというのは李林甫で、いずれも名宰相である。時に高宗は李林甫の説をとり、 「国法は殺傷を止めるためにある。今、孝の名のためこれを認めたら、たがいに讐《あだ》し合って際限があるまい」  といって二子を罰した。  この辺が問題で、情と法との二筋道、スト権ストみたいな矛盾がつきまとった。そのため日本では大宝律令以来、ずっと法律ではよいとも悪いともきめかねて江戸時代に至った。初代家康のとき侍の規範が必要となり、はじめて敵討に対する内規のようなものを定めた。 「殺された者の子葉《しよう》が敵討を願い出たら、登記して希望どおりにせよ。但し又敵《またがたき》はいけない」  というのである。当時の法律は公布せず、幕政の基準ともいえるものだが、よく敵討に対する公の観念を打ち出している。  殺害人は幕府で捕え、幕府の裁判にかけて罰するのが建前である。復讐を名目にした、プライベートの殺人を積極的に認めるわけにはいかない。が、封建制の下、犯人が他藩領へ逃げこむとややこしく、制裁を縁者にゆだねるのもやむを得ないとした。願い出れば適格者は許すが、さりとて奨励はしないという立場である。  ところでその適格者だが、殺された者の「子葉」とあるのみではっきりしない。子葉とはどんな意味か?  原則的には直系の卑属で、親の敵を子が、兄の敵を弟が、叔父の敵を甥が討つ。しかも適格者はそこまでで、親族以外の家来・門弟・朋友などは助太刀しかできない。  だが、被害者には必ずしも直系の卑属がいるとは限らず、そのときは順に関係の濃い縁者が討手となった。例えば子がなければ兄弟が出るし、兄弟も孫もないか、または幼いときは甥が出る。順序はざっとこの通りで、間をとばしたり、逆縁になったりしてはいけない。肉親がいるのに家来や門弟が出たり、親が子の敵を、兄が弟の敵を討つのはまずく、ふつう仇討の許可がおりなかった。西鶴の『武道伝来記』に、弟の敵討を出願して許されなかった例が出ている。  渡辺数馬が弟の敵、河合又五郎を討ったのも逆縁だが、弟源太夫にはまだ子がなかったのだから違反ではない。問題は『忠臣蔵』で、浅野|長矩《ながのり》の怨みを晴らすのなら、子がないのだから弟の大学がやらねば敵討にはならない。大石らの家来が吉良を討つのでは、間をとばすことになってルール違反である。赤穂浪士が討入りまえ、仇討の名目に悩んだのもこの一点であった。理論的に家康の定めた、敵討の条件に当てはまらねば暴走族の騒ぎと同じになる。差しあたって討入りの日、吉良邸の玄関に立てる口上書(声明書)に何と書くべきか。長老の堀部弥兵衛が白髪頭をひねった結果、 「舎弟大学が兄の敵を討取り、本意をとげさすべきところ芸州へ遣《つかわ》され……」  と特に断わった。大学に敵討をさすべきだが、芸州浅野の本家に預けられたため、やむなく家来どもが頭越しの仇討をするのだというのである。その理由も、 「内匠頭の末期の心底、家来ども忍び難く……」  と書き、弥兵衛老、我ながらその名文に満足した。が、あとの文句にはたと詰った。例の「不倶戴天」を引用したいが、あれは父の敵に対することばで主君の敵が対象ではない。といっても代るべき名言はなく、困って儒者の細井広沢に相談したところ、それと気づいた話せる学者、 「ご心配あるな。道理にさえ叶えば、経書《けいしょ》の文字にいちいちこだわる必要はござらん」  と答えた。よって弥兵衛は安心して、 「君父の仇は倶に天を戴かざる義、黙止《もだし》難く……」  と続けたという。『礼記』の著作権を侵害し、むりにこじつけた飛び越し仇討で、幕府も正当と認めなかったことは、浪士に切腹を命じたことでもわかる。  この条件をやかましくいうと、本格派の敵討は幾つも数えられない。実はそれが本当で、やたら戦友の仇討だの、商売上の敵討などというのは当らない。まして縁台将棋の敵討、満貫ふりこみの敵討なんてのはまるで的はずれというべきである。  好い鴨だなどと自分が鴨になり 雄介 [討つも討たれぬも武士の一分《いちぶん》]  仇討に対する幕府の態度が、こうも消極的だったから、免許状や証明書など発行するわけがない。ただ家康の作ったという内規により、父や兄が殺されたから仇討したいと届け出れば、役所で受付けて登録してくれる。幕府では大坂城代や京都所司代、地方では諸国の代官や町奉行所で受けつけた。大名領ならいうまでもなく藩庁へ届け出る。この時いちおうの資格審査があり、逆縁だと受付けられなかったり、幼少なら時期を待てといわれたりした。  資格があれば藩庁では、幕府へ書類をまわしてくれる。これを公儀の「お帳につける」といい、後に討手がどこで敵討をしても、登録ずみなら即座に釈放してくれた。そうでなければ討ったあと、殺人犯として牢屋にぶちこまれ、取調べを受ける。あちこち照会して、確かに敵討と判明するまで臭い飯を食わねばならないのである。  町人の仇討には登録制度がないから、すべて一度は入牢《じゅろう》するシステムであった。  が、ただそれだけのことである。何の援助もないどころか、かならずその手続き中に仇人は逃げた。役所仕事で手間どれば手間どるほど遠方へ……。  例外的にわずか一件、仇討免状が出たことがある。承応二年(一六五三)三月、播州|竜野《たつの》藩士吉見半之丞が、兄の敵《かたき》村井弥五右衛門を東海道川崎宿で討ったときそれを持っていた。発行者は京都所司代の板倉重宗。 「禁裡御構の外なら、どこで敵を討っても差しつかえなし」  という文面であった。しかしこれをふりかざし、相手を萎縮させて討ったのではない。弥五右衛門を斬ったあと、宿場の者が「喧嘩だ」とさわいだため、この証明書を出して見せたのである。騒ぎを静めるため使ったのであって、幕府の権威を借りるためにふりかざしたのではない。  が、この冷たい制度の上に、さらに敵討のやりにくい条件が重なった。時あたかも儒学の最盛期で、武士道はその精神をとり入れてひどく理窟っぽくなった。それまでの武勇尊重より、名誉や体面をやかましく言い、しきりに「武士の一分」を強調した。見栄だけの義理や意地にこだわったのである。そのため肉親のみでなく、君辱かしめらるれば臣は怨みを報い、師匠が討たれ黙止《もだ》しては武士の一分が立たない。朋友の敵もおなじなら、卑属たる妻や子の敵を討たなくても体面上まずい。  この一分論を押し進めると、仇人の側でも討たれては一分が立たぬことになった。当人の名誉も体面も地におちる。意地でも逃げおおせねばならず、江戸中期の兵書にはそれを武士の心得として書いている。 「仇人は常に寝床を替え、路地をゆくにも討手の居そうなところは通らない。何とか討たれぬ工夫をするのが武士の本領で、そのため門外漢から卑怯といわれようが構わない」  というのだ。軍学者で儒者、そして大石内蔵助の先生でもある山鹿素行《やまがそこう》は、 「仇人は逃げきるのが誉れ」  とさえ言っている。武士道とは逃げることと見つけたりだ。川柳にある。  むずかしく床をとらせる敵持  ひらき戸をやたらしておく敵持  とにかく逃げることを考えていた。  また、匿ってくれと頼まれると、頼まれた方も隠しきるのが武士の意地であった。討たせては武士の一分が立たぬ。そのため気を配って危ないところへ出さない。  敵持は月は見れども花は見ず  顔の見えぬ月見はよいが、昼の花見はさせなかったというのだ。危ないと見るや損得ぬきで、大げさな護衛をつけたよい例は、数馬の敵河合又五郎を匿《かくま》った旗本安藤治右衛門である。本筋の敵討などそっちのけで、一分が立つの、立たぬのと肩肘《かたひじ》を張り、かえって始末におえなかったのである。  御無用と気味わるくいう敵持 [仇討成功率は一パーセント以下]  これだけ用心されては討つ方も容易でない。写真も新聞もない時代、勘と噂を頼りに捜しまわるしかなかった。仇人の顔を知っていればいいが、知らないばあいは千載一遇のチャンスものがしてしまう。その上、仇人は偽名を使うし、身分も変え、変装もする。それらをすべて計算の上で、こつこつと辛抱強く捜しまわらねばならない。  それにふつう敵討の届出をすると、主君から永《なが》のお暇《いとま》が出た。休職ではなく停職に当る。敵討は私事で自分勝手にやること、公務をさしおいてそれにかかるのだから、停職は当然という観念に立つのである。したがって禄は取りあげで、旅立つ本人も留守宅も無収入となる。はじめ親戚や知人から経済援助を受けるが、やがてその道も絶えて貧窮のどん底へ落ちた。長い仇討旅のうちには、さしもの若者も風雪に耐えず寝込むこともある。まこと苦しく、心細い旅であった。  それでもなお討手はゆく。  文政七年(一八二四)四月、浅田鉄蔵は常陸《ひたち》鹿島郡磯村で敵《かたき》成滝万助を討った。それまでに鉄蔵は乞食に身を落として敵を狙った。  讃州《さんしゅう》丸亀藩の足軽の娘りやは、十六歳から十二年間、江戸の武家屋敷に奉公して、父の敵岩淵伝内を捜した。そのため転々と奉公先を変えること七十回、ついに敵を捜し出して本懐をとげた。  越後新発田の藩士久米孝太郎は、父の敵滝口某を狙って十八歳で仇討旅に出た。以来、三十年という長旅の後、安政四年(一八五七)十月、仙台|祝田浜《いわだはま》で仇討本懐をとげた。父が殺されてから実に四十一年目のことであった。  最高記録は陸奥の修験者の妻とませで、母の敵《かたき》源八郎という男を、五十三年もつけ狙って嘉永六年(一八五三)首尾よく討ち果している。  呆れたものだ。それで敵にめぐりあい、勝負をつけられれば幸いだが、多くは路上に死し、または苦難に負けて闘志を失った。諸藩の記録に仇討願は数多くあるが、大部分は結果についての記載がない。討っていればその旨書かれているはずだが、それのないのは途上に倒れ、または諦めて市井《しせい》に埋もれたのである。仇討成功率はわずか一パーセントと言われる。  さて、それほど稀少なめぐり会いだから、一度敵をつかまえたら何としても討ち取ってしまわねばならない。そのためどうしても不意討ちになった。ドラマや小説では、 「不倶戴天の敵、いざ尋常に勝負!」  と名乗りかけるが、そんな余裕もなく斬りつけるのが多かった。名乗ってもまったく形だけで、相手に武器をとらせる前に斬った。手もとに百種の仇討例があるが、名乗りかけたのは三十一例、しかもそのうち十八例は、名乗ると同時に斬りつけたのだから形式だけのものだ。  鍵屋の辻の渡辺数馬は、ちゃんと名乗ってから尋常の勝負をした好例である。敵の又五郎と三時間も、一対一で戦ったことでも立派である。助太刀の荒木又右衛門は、その間、激励はしたが手出しはしなかった。  不意討ちをしかけながら、形だけ名乗った例に赤穂浪士の仇討がある。  これでは敵の吉良上野介は、どう戦いようもなかったであろう。  講談の曾我兄弟は富士の巻狩りで、父の敵工藤|祐経《すけつね》の陣屋へ忍びこんで斬ろうとした。 「盲亀《もうき》の浮木《ふぼく》、優曇華《うどんげ》の、花待ち得たる今日ただ今、十八年の天津風《あまつかぜ》、艱難《かんなん》辛苦の甲斐あって……」  と講釈師、優曇華の花まで持ち出して一段と声を張りあげる。が、寝ている者を斬るは卑怯と、枕を蹴って兄弟は名乗りかける。 「河津祐泰《かわづすけやす》の一子曾我十郎|祐成《すけなり》」 「同じく五郎|時致《ときむね》。いざ尋常に勝負いたせ」  祐経が刀を取ろうとした瞬間、兄弟の怨みの一刀が胸を貫いていた。これ以後名乗りかけるのが、仇討の作法になったのでございます……などと大まじめで講釈師はいうが当てにならない。なぜなら兄弟は首尾よく討ち果し、いったん屋外に出たものの、かんじんの止めを刺し忘れたことに気づき、ふたたび立ち戻って喉を念入りに貫いて来た。何しろ辛苦の数十年を、この一瞬に賭けるのだから、鎌倉武士のかがみ曾我兄弟でもあがるのは当然である。まして非公認で停職、食うや食わずで迎えた仇討の一瞬、あがるなといっても無理な話。ほかにも止めを刺し忘れた例が四件もある。  最後に竹矢来の仇討だが、奥州中村、常州《じょうしゅう》土浦の両藩で、たしかに各一件の実例があった。が、それは一般人に迷惑をかけぬ配慮で、殿様が見て楽しむためでは全くない。仙台白鳥明神前の仇討も、藩主伊達吉村が美人討手の宮城野《みやぎの》・信夫《しのぶ》に同情、竹矢来の中で討たせたとあるが、この事件自体、仙台藩士が江戸商人をかついだ、眉唾ものの仇討とされているからご注意。  とにかく討手はしゃにむに斬った。卑怯でも何でも構わない。それが敵討の真相である。西洋の諺どおり、敵討は|男らしい《マンフッド》というより|犬らしい《ドッグフッド》と言ったほうがよい。  武士の喧嘩に後家が二人でき [#改ページ]   名城大いに笑う [テレビの武士は忍術で登城]  テレビの時代劇では、城門や殿中はよくでるがその中間を見たことがない。城門を入った大名や旗本は、どこを通って登城するのか、省略したのではなく、知らないのだ。一流行作家先生が言ったものだ。 「主人公の侍が、大手門へ来るところまで書いたがあとはわからねえ。仕方がないから場面転換で御用部屋へ飛ばしちまった」  まるで忍術だ。ごまかすというより調べる気がてんでない。念のため書いておけば、江戸城では大手門を入って下乗《げじょう》橋をわたり、三之御門をすぎるのだが、ここに番所があって甲賀百人組が六尺棒を持って突っ立っていた。その名の通り忍術甲賀者の末孫たちである。  横に睨んで右手へ向うと中之門、門を入ると眼の前は石垣、その石垣沿いに、さらに右へ曲ったところに御書院門がある。番士ちゅうの精鋭部隊が詰め、内側に番頭《ばんがしら》の詰所があった。  門を抜けてまた右手へ曲れば中雀《ちゅうじゃく》門、これが最後の門であり、入ると正面に本丸御殿の豪壮な大玄関があった。東西五軒で千鳥破風、金鍍金《きんときん》の金具がさんぜんと光っていた。  ここから入るのは溜間詰《たまりのまづめ》(幕府の顧問)の大名と当番目付のみ、あとの大名と老中・若年寄などは、横手へまわった納戸口を使った。さらに、もっと下っぱの役人などは中の口から出入りした。中の口にはそれぞれ控室があり、いったんそこで服装をととのえ、大刀をおいて殿中へ参入したのである。  それはとにかく、登城するには大手門からぐるりとひと廻りするわけで、それが防戦上の城構えの特徴なのだ。そこに面白味がある。迷路のような構造だから、不意に石垣の狭間で不仲どうしが鉢合せをしたり、甲賀番士に隠し武器をみつけられたり、どんな波乱の舞台にも仕立てられるではないか。  江戸城の話ではないが、元禄十四年(一七〇一)五月八日、石井源蔵・半蔵兄弟の伊勢亀山の仇討も、敵《かたき》赤堀源五右衛門が下城するところを、桝形《ますがた》に待ち受けて討った。桝形は三方石垣に囲まれ、人眼につかぬので討手にとっては絶好の場所である。  兄弟は父を討たれて二十八年、艱難辛苦して源五右衛門をつけ狙い、中間に身を落として亀山城へ入りこんだ。ぜったい討ち漏らせぬ正念場、まず源蔵が、 「父の敵、尋常に勝負せよ!」  と叫ぶと斬りつけた。源五右衛門は眉間を割られながら抜き合せたが、同時に半蔵が飛びこんでみごとに抜き胴。めでたく本懐をとげたあと、兄弟はゆうゆう仇討趣意書を敵《かたき》の帯に結びつけて逃げた。ほど経て気づき大騒ぎとなったが、そのころ兄弟は遠く伊賀の国ざかいへ飛んでいた。  この仇討の成功は、もっぱら場所を桝形に選んだことによる。なぜこんな構造のおもしろさを、テレビの時代劇に取り入れないのだ! 金がかかる? とんでもない。石垣は張りぼてだから城門や殿中より安上り。やらないのではなく、知らないのだ。もし名城に魂ありとすれば、作家の間抜けと不勉強を、大いに笑い、嘆くであろう。  思えば城は桝形にかぎらず、人質|櫓《やぐら》・切腹櫓・明かずの間など時代劇のタネに満ちている。城の怪奇と特ダネを次にぶちまけよう。 [人質櫓・切腹櫓・そして明かずの間]  櫓には用途や形により、着到櫓・八方正面櫓・水の手櫓などがある。  着到櫓は勢揃《せいぞろい》のとき大将が閲兵するところ、八方正面櫓は文字どおり八方を見通せる構造、江戸城本丸の富士見櫓がそれである。水の手櫓も給水源を見張るためのもの、それら櫓の総親玉が天守閣ということができよう。  城の華《はな》天守閣は、展望台であり、司令塔であり、高くそびえて城主の威厳を示す壮麗な高層櫓であった。常識的なこの櫓さえ、テレビの時代劇ではあまりお目にかからない。たまに出たと思ったら、江戸城の天守閣へ将軍が御三家を招き、あれこれ展望を自慢していると、すぐ真下を焼芋屋の娘が屋台を引いてゆくというシーンにぶつかった。気さくな将軍もいたもので、美人の焼芋娘に手をふるという趣向だ。 「苦しうない。焼芋を持て」  と呼びかけなかったからいいようなものの、家来でも買いに走らせたら、漫画にしてもきわめて低俗な作品となる。どこの国に天守閣の真下を、焼芋屋が通れるほどチャチな城があるものか。  めずらしい櫓に人質櫓というのがある。  いうまでもなく、人質を閉じこめておく櫓、戦国末期の羽州《うしゅう》(秋田)横手城にそれがあった。  城主の小野寺景道は、有望な織田信長と組むため京へ出発した。留守は嫡男の義道にあずけたが、何しろ油断のならぬ時代、支配下のおもだった者から人質をとった。中でも由利郡の石沢左衛門尉の母を人質とし、矢島義満・下村彦次郎・玉前式部の三人からは幼女を、赤尾津左衛門尉・岩屋小三郎・仁賀保治重・打越孫二郎・滝沢刑部介の五人からは男の子や弟を取った。もちろん人質は人質櫓へ監禁した。  小野寺家はもともと、隣合せの強豪秋田家とは宿敵どうしであった。城主景道が留守と知って、秋田方に何やら不穏な気配がある。国ざかい由利郡の石沢・矢島など、由利党の者には秋田城之介と親戚の者が多い。何とか秋田方へつきたいが、人質を取られているため小野寺方にいるより仕方がなかった。  人質櫓にいた石沢の母は、ひそかにそれを聞いて決心した。おなじ櫓内にいる、五人の人質の男児を呼んで心中をうちあけた。 「由利党が侍の義理を果せぬのは、人質の私たちがいるからだと思う。私たちさえ死ねば、味方は思う存分働くことができる。どうじゃ、いっしょに死んでくれぬか」  するとまだ幼い者たちが、 「侍の子じゃ、喜んで死ぬぞえ」  とすぐ応じた。老母はさっそく遺書を書き、五人の子をつぎつぎ刺したあと自分も胸を突いて死んだ。人質櫓の柱も壁も、純真な犠牲者の血でいろどられた。人質の死をむだにするなと、由利党はいっせいに秋田方へつき、小野寺方と激戦を交えたことはいうまでもない。  江戸時代には人質の必要がなく、今に残る人質櫓はない。が、櫓でなく「人質|曲輪《くるわ》」が、名古屋城の背面に何か陰惨な一角を残しているのを見る。そこはかつて底無し沼に囲まれ、人質はぜったい逃げ出すことができなかった。また人質曲輪であること自体も秘密だった。  次に、聞くからに背すじの寒くなる「切腹櫓」、ご存知、姫路城の奇怪な建物がそれである。姫路城の本丸東側に接する帯郭《おびくるわ》は、盛り土に堅固な石垣を築いた搦手《からめて》の防御線だった。  本丸からは急斜面の穴門によって通じるのみ。頭のつかえそうな石門を潜るだけで、異様な冷気におもわず首をすくめてしまう。  眼前に立つのは地下一階、地上一階の妙に陰気な櫓、地階の外部は石垣だが、内側は庭に面しているので二層櫓に見える。その地階正面には、壁に沿って細長い台があり、切腹人があるとき検使役が坐る台だという。前面の庭には井戸があり、切腹人の首を洗うためのもの。全体に陰惨で秘密っぽい……と、道具立てがそろっているので「切腹丸」の名がある。  好事家にいわせると、やれ罪人の切腹場所には本丸へ近すぎるとか、やれ落城時は天守閣で切腹するのが本当だとか、屍理窟をならべたあげくふつうの防備櫓だと主張する。が、その異様な印象から、作家がどう想像の翼をひろげようと勝手ではないか。作家が切腹櫓ときめて、フィクションを飛躍させない方がかえっておかしい。  ところで次は城内の明かずの間、筆頭は江戸城大奥の宇治の間ということができる。これは大奥のそのまた奥、御台様《みだいさま》のお居間に近い二十五畳である。襖絵が宇治の茶摘みなので「宇治の間」というが、また別名を「お上《かみ》の間」とも称した。将軍の大奥入りには、ここを御座所にしたためである。  五代将軍綱吉のとき、寵妾おさめの方の愛におぼれたため、奥方信子が綱吉を刺し殺したと伝えられる。その秘密を葬るのに、以来、宇治の間は明かずの間として釘付された。  もともと女人国の大奥は、迷信と怪談の巣といってよかった。宇治の間も例外ではなく、欄間《らんま》から血だらけの首が覗いたの、奇怪な人影がスーッと襖の表面へ吸いこまれたのと、背すじの寒くなる噂が奥女中の口から口へ伝えられた。  元禄以来、大奥は五度も焼けている。そんな怪しげな宇治の間なら、二度と作らねばよいものを、再建のときまた元どおり復活させるのはなぜか。そして妙なことに、血だらけの首や怪しい人影まで、むかしながら噂としてひそひそささやかれるのであった。慶応四年(一八六八)四月、官軍が江戸城を無血占領したときも、宇治の間は明かずの間として引き渡されている。明治もだいぶあとになり、大奥の内幕が旧奥女中によって語られたとき、考証家三田村|鳶魚《えんぎょ》はそのふしぎさを書きとめて今日に伝えた。テレビや映画で、なぜこんなおもしろいネタをやらないのか、そっちの方こそ現代の怪談である。 [あったぞここに抜け穴が!]  さて最大の怪談は、何といっても城の抜け穴であろう。いうまでもなく敵に包囲され、とても駄目だとなったとき、城主とその家族が逃げ出す秘密の地下道である。  江戸城では井桁《いげた》でカムフラージュした本丸の地下道が、湯島天神の真下に抜けているという。いやいや、もっと先のお薬園、今の東大付属植物園に達していたともまことしやかに言われる。出口は園内の樹林に囲まれ、ぽっかりと異様な洞穴をなしていた。戦前だが友人の読売新聞記者が、だいぶ奥までいってみた。が、暗く、寒く、でこぼこ道で、薄気味わるくて引っ返したと語った。  吹上御苑の西南部の井戸から、溜池の山王様の下へ抜けているという話もある。距離は千二百五十メートルでいちばん近い。が、これでは首相官邸の下を通らねばならない。戦時中そこに地下防空壕があり、必ずぶつかったはずだがそんな噂は聞かない。  おなじ吹上御苑の井戸から、遠くの牛込の穴八幡へ通じているとの説もある。が、これはまったく「穴」にこじつけた祭神への勿体づけである。穴かしこ、穴かしこ。  大坂城の抜け穴は有名で、今なお宰相山《さいしょうやま》町の三光神社境内に遺跡がある。入口は御影石で組まれ、奥行は十メートルほどあるといわれる。当時ほかにも数カ所あり、大坂方の知将真田幸村が作ったなどと称された。が、宰相山は文字どおり、加賀の前田宰相利常の陣所で、幸村がいた真田丸とは四百メートルも離れている。残念でした。この穴は、寄手《よせて》の前田利常、藤堂高虎、井伊直孝らが、甲賀や石見《いわみ》から呼び寄せた鉱山人夫に、地下トンネルを掘らせた跡なのである。トンネルを大坂城の真下までのばし、火薬を装填して一挙に爆破——とまではいかずとも、石垣を崩して突破口を作ろうとした。  いやいやそう見せかけて、城兵に心理的な圧迫感を与えようとした。宰相山の横穴は、抜け穴ではなく、寄手が掘った塹壕戦の名残りなのである。  さらにこれが熊本城ともなれば、明かずの間と抜け穴ばなしが合併して、思わず息をのむほどの怪談になっている。  慶長六年(一六〇一)加藤清正がこの城を築いたとき、ひそかに豊臣秀頼を迎えて家康と一戦するつもりだったという。そのため秀頼の御座の間を、ひそかに天守閣のいちばん奥に作った。八畳の二間つづきで、背後の右側に袋戸(袋棚のふすま戸)があり、そのま裏に抜け穴の入口を設けた。この部屋を「昭君の間」といったのは、王昭君の襖絵によるものではなく、秀頼将軍の間の隠語にほかならないという。ちとこじつけみたいな説。  抜け穴の方もその後、西南戦争で西郷軍にかこまれたとき、城兵が連絡のため抜け出そうとして探した。が、ついに見つからなかった。井戸ではないかと、その後、熊本市の社会教育課が城内百二十カ所の井戸を調べたが見つからず、空振りに終った。  姫路城は規模の大、縄張りの妙で現在の城郭ちゅう抜群である。勿論、抜け穴伝説もまことしやかに伝わったが、改修工事の折りもついに発見することなく終った。恐らく下水道の暗渠《あんきょ》や、いわくありげな古井戸からの想像だろうといわれている。  が、この姫路城には、抜け穴に準ずる巧妙な「間道」があった。  本丸の北に榎下《えのした》門というのがあり、これを出て内堀づたいにゆくと、搦手の原始林につづく鷺山《さぎやま》口がある。いちめんに障害物の雁木《がんぎ》を並べ、葦の間に小舟が隠してあった。事あるとき城主はこの舟に乗り、対岸のジャングルへ逃げこむのである。代々の城主と家老のほか、誰も知らぬ秘密の間道であった。  思えばこの間道はどの城にもある。江戸城では吹上御苑から、北西へ抜ける半蔵門コースがそれである。近くに伊賀忍者のお頭《かしら》服部半蔵の屋敷があり、万一のときは将軍とその家族を護って四谷門へ走り、そこから山間の要害甲府城へ……という、まことにうまいコース構想であった。  四谷の伊賀町も将軍のピンチに、間道を護る伊賀者の組屋敷があったところ。天正十年(一五八二)本能寺の変が起ったとき、泉州堺で孤立した家康を、鹿伏兎《かぶと》の難所越えでぶじ浜松へ送りとどけた伊賀者の子孫たちである。まことに打ってつけの役目だった。  名古屋城は関ヶ原の合戦後、大坂方の来襲に備えて築かれた城だ。そのため落城も覚悟のまえで、城主の脱出にはとくべつ配慮がなされていた。城の背面の「鶉口《うずらぐち》」がそれである。  そもそもこの城が那古野《なごやだい》台の上に築かれた当時、北西の崖下はいちめん大沼沢地帯であった。名にし負う底無し沼で、落ちたら人も馬も二度と浮かび上ることはできない。  その沼へ数千万本の松の丸太を投げ入れ、十六万余坪の大曲輪を築いた。これを御深井《おふけ》丸という。四面沼に囲まれているので、人質曲輪としてはお誂えであった。鶉口はこの御深井曲輪に通じ、沼ぞいに勝川すじへ出て木曾へ逃げこむ計画であった。何と江戸城の半蔵門から四谷へ抜け、甲斐へ抜けるコースとよく似ていることか。  さらに驚きは鶉口を出たところに、伊賀者に相当する御土居下《おどいした》同心なる警固役が、十七家ひっそりと世間から隔絶した生活を送っていた。間道が秘密だから、御土居下同心も三百年を日陰の暮しに甘んじた。その一軒大海家には、城主脱出のときに乗る忍《しのび》駕籠を保管したが、ついに用いる機会に会わず江戸時代を終えた。またその一軒の広田家では、代々忍術で空を飛び、また、何時間でも水底を歩いたという。  それよりもなによりも、最もドキッとさせるのは、この広大な御深井《おふけ》丸自身が、わずかながら動くということだ。浮木の上に築いた曲輪だから? なんと壮大なミステリーであろう。これがフィクションでなく事実なのだから、下手な小説やドラマは慙愧《ざんき》すべきである。 [#改ページ]   江戸の構造汚職 [相手がちがう時代劇の贈収賄]  ロッキードに続く政界・財界、さらに学界の汚職事件にはうんざりだ。しかし汚職は今にはじまったことではない。日本史の上でたびたび、そして堂々と存在していたのだ。  賄賂と付届けの区別はあいまいだが、職務権限に関係があるか、または無いかによってはっきり分れる。金を受けとっても、ご本人が当の職権の座にいないと収賄にはならない。  が、何とも時代劇はひどいもので、将軍家のお小姓が悪徳商人から収賄、穀物の買占め事件をうやむやにしてやるというのを見た。  奇怪! お小姓は将軍身辺の世話係りではないか。大豆やそば粉の売買には権限が及ばない。ましてやこのことが発覚して、尻をからげた岡っ引が、 「御用、御用!」  とお小姓屋敷へ踏みこんだのには、正直、ぶったまげて腰を抜かした。付届けと賄賂の違いがまるで分っちゃいない。黒幕……賄賂……職務権限……チャンバラ学では少なくともこれ位はみっちりやる必要がある。  まず江戸城内から探索すれば、年頭・五節句の献上品から、もうぷんぷん汚職の臭いがする。  この日、諸大名は登城して、水戸の初|鮭《さけ》・紀州の蜜柑・加賀の加賀絹・越前の奉書紙など、それぞれ国産品を献上した。とくべつ名産のない国の殿さまは、時服《じふく》(季節着)にのしをつけて奉った。それが動かし難い慣例で、毎月のように三百大名から同じ物が持ちこまれる。いかに大世帯の将軍家でも、鮭と蜜柑ばかり食べてはいられず、残ったのは民間へ払い下げた。  それをまた引き受ける商売があって、相手が将軍家でも二束三文にたたいて買った。献上品の残りを買うのだから「献残屋」といった。  が、時服の方は腐らないから、将軍家でものし紙を貼りかえてよそへ廻した。幕臣の功労賞・努力賞にこれを使ったし、将軍がときどき上機嫌で、 「時服を取らす」  と対談ちゅうの大名にいうこともある。間が悪いと献上の大名へ逆戻りするのだが、将軍は内緒を知らぬのだからいい気なものだ。  ところで時服を拝領する方も、消耗品ではないので貰っても仕方がない。殿中のその係り、御納戸頭《おなんどがしら》をこっそり物蔭へ呼び、換金してもらえぬかと申しこむ。これにもいつか相場ができ、時服|一重《ひとかさね》は七両二分ときまっていた。  悪いのはこの御納戸頭で、次の褒賞にはその分を新調したことにし、一重の価十二両二分を勘定所から取る。すなわち職権を利用して、一重五両ずつ儲けたのである。  この手の親玉は何といっても奥祐筆《おくゆうひつ》であった。今日の官房長官に当り、機密文書を一手に扱ったし、老中への面会にも奥祐筆の許可を必要とした。が、何より強い権限は、日光廟の修理や治水工事など、公の工事の担当大名を、この線で実質的にきめたことである。老中は判をおしたにすぎない。  もちろん工事は経済的に、大藩・強藩をおさえるためのものだから凄まじい。十万両、二十万両は軽くとび、たちまち藩の財政はあっぷあっぷになること必定だった。そこで各藩とも暮夜《ぼや》ひそかに、奥祐筆の屋敷へばく大な賄賂を搬入した。その賄賂の多寡《たか》によって、例外なく、正確にお役のがれができたという。  お城坊主も、坊主なりの知恵で賄賂せびりを考えた。家来が持参する大名の弁当を、中継しないでわざと遅らせるのだ。殿さま腹がへり、今にもぶっ倒れそうになるがやっと我慢する。『先代萩』の鶴千代じゃないが、 「大名は腹がへってもひもじうない」  という顔をせねばならぬ。幸い、そこでチップの要求だと気付き、相当の金をつかませるようになった。坊主は調子に乗り、大名屋敷へちょいちょいゆすりにいったが、糧道を断たれるので言うなりに金を出した。  大奥の方は女人国だけに、話がちょっとミミッチイ。献残は献残屋に渡さないで、宿下りの女中たちが残飯の体にして運び出した。博多|紬《つむぎ》や加賀絹など高級品だが、表向き残飯だから叺《かます》づめにした。が、それでも平河門を通るには、やはり番士に袖の下を使わねばならなかった。  御台様用の米は一日に一斗五升、これを黒革《くろかわ》同心——俗に「鳩」と呼ぶ最下級の侍が、形と艶のよいのを粒選りにし、せいぜい三合か四合にする。美容上そんなに召し上らないのだ。  残りの一斗四升六、七合は、みな黒革同心の役得となり、合羽《かっぱ》の下へそっと忍ばせて帰った。日に一斗四升あまり入るのだから、一年もすると豪邸を建て、妾をおいたといわれる。  十一代家斉は好色将軍で知られ、一妻四十妾に五十四人の子を生ませた。これらの子供たちに与える菓子は、あまりに大量のため大奥の賄方《まかないがた》が作った。そのため砂糖の使用量は、一日に一千|斤《ぎん》にものぼるという。一日分がそれでは年に三十三万斤、あまりに多すぎるので吟味方が調べると、何と、大きな半切《はんぎり》桶に砂糖を三百斤ほど入れ、水を加えて掻きまわす直前に賄方が声をかける。 「あっ、この砂糖に砂がまじってござる。それでもよろしゅうござるか」  すると上官の御膳番が、驚いたジェスチャーよろしく、 「待たっしゃい。それでは若君方が歯をお痛めに相なる。取り捨てい」  で桶をひっくりかえし、新しい砂糖で桶を満たした。が、それもまた砂まじりだと、三度まで芝居がかりで取りかえる。傍へぶちまけた砂糖はどうするのか? みな賄方と御膳番の役得になる。当時、砂糖はたいへんな貴重品、たちまち田中邸のように池に鯉を泳がすことができた。  役人の子はにぎにぎをよく覚え [賄賂に始まる『糞尿譚』天明版]  日本の賄賂史の中で最高峰は、何といってもご存じ田沼|意次《おきつぐ》である。  田沼は紀州藩の足軽の子、チャンスをつかんで西丸お小姓となり、家重将軍に取り入って出世街道をまっしぐら、安永元年(一七七二)には老中となって権力をふるった。どうしてそんな早い出世ができたか。ひとことでいえば強引な賄賂政策で、将軍の愛妾の友だちを自分の妾にし、たびたび大奥を訪ねさせて莫大な贈物をした。  さらに権門勢家《けんもんせいか》へ近づき、これまた贈物の猛攻をかけた。なりふり構わず実弾で押しまくったのだ。そして老中へ経のぼったが、こんどは賄賂を受ける側になってもとを取ろうとした。彼にはそれが当然のことに思えた。  田沼の屋敷には役職を望む者や、利権を求める旗本・町人がわんさと押しかけて門前市をなすありさま、大名でも十把ひとからげで控室に待たされた。ここでまず賄賂合戦がはじまり、応接係の用人に袖の下を使えば、スペシャル・ルームへ案内されてとくべつ早く田沼に会うことができた。  客は田沼邸訪問の前後に、それぞれ趣向を凝らした贈物をする。  或る家の進物は小さな青竹の籠に、真新しい大|鱚《きす》七、八匹、それと野菜と青|柚子《ゆず》をあしらってあったが、柚子には一本の小刀《こがたな》が添えてある。柄には萩薄《はぎすすき》の模様があり、よく見るとそれは後藤の彫金で、何百両もするという天下の逸品であった。  或るとき田沼が暑気あたりで寝ていて、ごますり客に面会することができない。そこで客が近ごろ何をお好みかと聞くと、例の用人が、主人は岩石菖《いわせきしょう》(観葉植物)を枕辺においておられると答えた。すると二、三日のうちに、足のふみ場もないほど屋敷じゅう岩石菖で埋まった。「京人形」と書かれた木箱が届けられ、あけてみると着飾った美女があらわれた話は有名である。羨ましや。  勘定奉行松本十郎兵衛、赤井越前守などひとつ穴の貉《むじな》で、こっちから賄賂を請求するというあくどさだった。松本が或る日ごますり客に、「夏の夜は蚊帳がうっとうしい。いちいち裾をまくって出入りせねばならんからのう」  と暗示をかけた。するとその客は二、三日のうちに、部屋部屋も廊下もひとつなぎにした、複雑な変型蚊帳を持ちこんでつるした。これならいちいち裾をまくらず、自由にどこへでも移ることができる。松本はそれぞれの部屋に妾をおき、鶯の谷わたりみたいにつぎつぎに啼《な》かせていった。これまた正直なところ羨ましい。  本来、賄賂は人間の弱点——あくなき物欲につけ入って相手を蕩《た》らしこむ、醜悪で、卑劣で、大きな社会的害悪である。  が、ものは考えよう。田沼は一家言を立て、賄賂哲学をこう語った。 「金や財宝は人間にとって、命にも替えがたい大切なものだ。その財宝をなげうって奉公を望むなら、これぞ忠誠無比の人物であろう。その志の厚いか薄いかは、もっぱら付届けの多少にあらわれる。自分は毎日登城して、国家のために心を砕いている。が、その苦労も屋敷へ帰り、廊下にまでうずたかく、諸家からの贈物が積みあげられているのを見るといっぺんに忘れられる」  賄賂こそ生甲斐! いかにも小身から身を起した者の哲学らしい。  さまざまに扇を使う奉行職  これは賄賂の催促である。『世事見聞録』は江戸中期の世相を慨歎した書物だが、公共事業の請負など賄賂でどうにでもなると書いている。担当の役人は、少しでも賄賂の多い方へきめる。それでは額が天井知らずになるので、町人は馴合いで誰が幾らで落とすときめておく。そしてあらかじめ儲けをはじき出し、係り役人の賄賂を差し引いたあと、皆で等分に配当した。いわゆる「談合入札」で、役人まで一枚かんだ、もっとも悪質な構造汚職だと『見聞録』も怒っている。 [弱みにつけこむ鷹匠と金銀座]  妙におかしなのはお鷹匠の汚職で、将軍のお鷹をタネに金にしようというのだ。  将軍の練武とも、またレジャーともつかぬものにお鷹狩がある。家臣をつれて野外を駆け、飼いならした鷹に野鳥を取らせるのだ。後には取られる方の野鳥まで飼いならし、さらに獲物用に鶴を用意するなど形式的となった。果ては鶴を朝廷へ献上する例となり、「鶴お成り」といってなかなか重要な行事とみなされた。  その将軍のお鷹を飼い馴らし、鶴お成りに活躍するのがお鷹匠である。  駒込千駄木と雑司ケ谷の二カ所にお鷹部屋があり、それを守る形で周囲に鷹匠の屋敷があった。お鷹部屋は籠も止り木も金ピカ、食堂たる餌所、疲れたときの休息所や、鷹どうしの交際もあるとみえ対面所までついていた。  前庭には泉水があり、時価数百万円の鯉がいたかどうかは知らないが、たかが鷹……と思ったらとんだ間違いだ。  お鷹匠はこの庭で基礎訓練をするが、それがおわると近郊へ出て実際に小鳥を捕獲させた。小紋の手甲《てっこう》・脚絆《きゃはん》にわらじばき、百俵三人扶持の侍だから両刀を帯びる。が、何よりの特徴は鷹を左|拳《こぶし》にとまらせていること、  勇み立つ鷹引き据える嵐かな 里圃  の一句が、よくその威勢をよんでいる。  ところが、何しろささげるのは将軍愛玩のお鷹、責任もあるが威張る材料にもなる。すれ違ってお鷹を驚かしたの、頭《ず》が高いのと盛んに難癖をつけた。 「とんだ粗忽を……。これでお鷹さまのお好物を買って、よしなに……」  と幾らか袖の下を使えば、鷹ではなく人間の機嫌が直って許してくれた。が、触らぬ神に祟りなし、向うから鷹匠が来たとなると、武士も町人もさっさとわき道へ外れた。  ただひとつ、逃げようにも逃げられない稼業があった。お鷹匠はお鷹部屋の位置の関係から、よく練馬・赤塚あたりへ出かけたが、板橋宿があいにくその道すじに当っていた。両側にずらっと旅籠屋が並び、まずいことに定数外の飯盛女をおいていた。公儀お目こぼしの宿場女郎だ。いきなり鷹匠が入って来て、 「休息いたす。茶を持て」  とやられると、酒を出すのは常識だし、二階へあげて女を抱かせるのも、きまりきった魔除けの呪《まじな》いであった。そうでなければお鷹を驚かしたといい、飯盛の数をあばくぞと、幾らふんだくられるか知れたものではない。  鷹匠は勝手を悪く酒を飲み  ところが逆に、お鷹匠のその権勢を利用して、苗字・帯刀の身分を獲得しようとしたばかな奴がいる。千住宿三丁目の妓楼|大桝《おおます》屋の五兵衛で、お鷹匠の道すじに外れているので近づくチャンスがない。そこでごていねいにも、千駄木組のお鷹匠支配戸田五助と、その配下に二千両の賄賂をおくり、 「何とぞお鷹ならしの折りにはお立寄りを……」  と両手を揉み合せた。鴨がねぎを背負ってとびこんで来たようなものだ。二十人のお鷹匠は喉《のど》をぐびぐびいわせ、とくべつ高くお鷹をささげて千住宿へ乗りこんだ。 「亭主、茶を所望じゃ」  お定りのせりふに、亭主の五兵衛は逆立ちするほど平伏して一同を迎えた。まず座敷へ通して大宴会、飲めや歌えの大騒ぎである。  女を転がし、股ぐらをさぐり、隣室へよろめいていって臆面もなく抱いた。人間どものおかしな交合を、鴨居のお鷹が驚いた眼で見ていた。  勿論、大桝屋では他の客を断わったが、断わられた中に馴染み客もいて、腹癒《はらいせ》にこのらんちき騒ぎを幾層倍にもして言いふらした。このことが幕府の耳に入り、まだ流連《いつづけ》ちゅうのお鷹匠二十人が、一網打尽になって苗字・帯刀の夢などふっ飛んでしまった。  苗字・帯刀といえば金座の後藤、銀座の湯浅氏がそれで、新年と五節句には登城する資格を持っていた。幕府から貨幣の鋳造を請負った形だが、勘定奉行のきびしい監督下にあったことはいうまでもない。  何とその銀座で、たびたび不正事件が発覚して、取締役の年寄が遠島や召放ちの処分を受けている。宝永年間(一七〇四〜一〇)、貨幣の改鋳で悪名高い荻原重秀が勘定奉行のとき、銀座にからまる大疑獄事件が起った。  貨幣の改鋳というのは、金貨・銀貨に銅や錫《すず》をまぜて量をふやすこと、重秀の献策でおこなわれたものだが、年寄たちが量目をごまかして私腹を肥やしたのである。  ことが発覚して年寄四人が流され、付加刑として私財のすべてを没収された。没収財産は四人分で金百五十四万両、銀一万貫……といっても現代人にはピンと来ないが、よく分かるのはお妾づき別荘が、何と二百二十カ所も没収されたという。一人当り五十五軒、どんな精力家にせよ、とちゅう過労で眼をまわすほどの数、こればかりは江戸の構造汚職の方がはるかに凄まじい。  さて、時代劇の効用のひとつは、問題を過去の事件におきかえて描けることであろう。見当はずれのお小姓の汚職じゃなく、壮大な本格的構造汚職を取りあげて、ロッキードやグラマンのいらいらを解消してくれないだろうか。 [#改ページ]   江戸っ子の学力 [岡っ引は字が書けたか?]  テレビの捕物帳を見ると、岡っ引の子分の下っ引が、小型の「捕物帳」を尻にぶら下げている。警察手帳のつもりらしいが、岡っ引は正規の警察官でないからその種の手帳を持つはずがなく、一体、下っ引ふぜいに字が書けたのだろうか? 親分の平次や半七さえ怪しいものだ。  江戸の上級武士はとにかく、足軽・中間や庶民はどれほど読み書きができたのか。学校制度はどうなっていたか、テレビではまるでいいかげんなことをやっている。かつて私が江戸の学制について書いたら、有名なテレビ作家がネタに使わせてほしいと言って来た。どうぞご自由にと返辞すると、書きも書いたり国家試験の問題を、保管倉庫の屋根を破って盗み出すというばかばかしい話に仕立ててあるではないか。とたんに驚き、卒倒した。  これだから、がらっ八の尻に捕物帳をぶら下げても、いっこうおかしいと思わないのだ。時代劇はいつまで経っても、阪妻《ばんつま》時代と同じことをやっている。学校制度や予備校が問題になっている今日、江戸っ子の学力について書いておこう。  寺子屋は鎌倉時代、僧侶が付近の子を集めて手習いを教えたのが始めである。だから生徒を「寺子」といい、入学することを「寺入り」といった。  その後、戦乱の時代にも寺子屋はあったが、学校らしくなったのは何といっても江戸時代である。殊に好学将軍綱吉が官学をおこし、法律将軍吉宗が掟《おきて》を庶民にゆきわたらせるため寺子屋の保護政策をとった。町奉行の大岡越前を通じ、わかりやすい教科書を無料で寺子屋に配布したなどがそれである。  このとき以来、寺子屋は急速に都市・農村に普及し、一町・一村に寺子屋のないところはないまでになった。延享四年(一七四七)の町数は千六百七十八町だから、ほぼその位の数の寺子屋があったわけ。さらに幕末には庶民が知識欲に駆られて急増、天保年間(一八三〇〜四三)の調査では毎年百四十軒ずつふえている。  ここではっきり言えることは、江戸のはじめと終りでは、江戸っ子の頭の中味は大違いということだ。大久保彦左衛門と朋友意識の一心太助が、ぺらぺらお触書を読んではまずいが、天保の岡っ引半七が、人相書を読み下すのはそうむりではない。その中間の時代だと、読める奴と読めない奴が半々で、棟割長屋では「大家《おおや》といえば親も同然」の大家が、店子を集めてお触書を読み聞かせたそうである。しち面倒な掟の文句を、熊さん・八つぁんが怪訝《けげん》な顔つきで聞き、 「じゃ何ですかい。その家職を専一にてえのは、菓子を餞別に下さるッてんで……」  などとピントはずれの質問が飛び出す。そんな設定のおもしろさもあるのだが、作家の不勉強からか、この読み聞かせシーンに一度もお目にかからない。  授業ははじめ僧や神主が片手間にやったが、教科内容が複雑になると、都市では幕臣や藩士、それに浪人や書家、町家の隠居などが教えた。稀れには元御殿勤めの婦人も、ふとした路地や新道に寺子屋を開いていた。そんな場合は寺子にまじって、にやけた若旦那が「いろは」から手習いをするばか面《づら》も見られた。  校舎はもちろん教師の自宅、粗末な机を並べただけのもの。ふつう寺子は二、三十人で、町方では男女共学だった。そのため男児が女児をいじめ、泣かせることも度々なので、先生は容赦なくリンチの鞭をふるった。またそんな悪童は、いちばん前の席に坐らされていた。  武家の寺子屋では男と女を分け、別々の教場で授業を受けた。女の教室は「女座」といい、かしまし娘を戒める壁書が貼ってあった。 「顔のよし悪し、着物のよし悪し、家の暮し向き、告げ口、高笑い、男の子の噂、わがままをなすべからず。そむく者は七つ時(午後四時)まで留め置き候事」  というのである。むかしも悪戯《いたずら》をすると残されたのだ。  寺入りをしてまずやるのは、いろは四十八文字の練習である。縦とじの手習草紙が、まっ黒になるほど上へ上へと書き重ねた。  つぎに一二三の数を覚え、終ると江戸の町名や請取文、送り文、店請《たなうけ》状の書き方に及ぶ。さらに『商売往来』『庭訓《ていきん》往来』も教わった。また、大工の子なら『商売往来』の代わりに『番匠往来』、百姓の子には『百姓往来』が与えられた。さらに進んで高等科へ入ると、稀れには四書五経から『文選《もんぜん》』を学ぶ者もいた。  女はいろはと数字から、主として手紙の書き方を教わった。また良妻賢母になるように、教科書として『女今川《おんないまがわ》』や『女大学』が与えられた。さらに進むと『源氏物語』も使ったとみえ、  寺入りをして手習の巻を書き  と川柳にもある。が、『文選』や『源氏物語』は、大きな声で棒読みにするだけで、どんな意味なのか先生にも分っていない。こじつけ解釈は学者の仕事で、寺子屋先生のあずかり知らぬことだった。  ところでこの寺子屋の月謝は? 学校というより私塾なので、定額はないがひどく安かった。二百文から一千文を盆暮れに納めるだけ、一千文は今の金で一万一千五百円、月謝に直すと千九百円ほどである。金がなくて二百文の子は、たった三百八十円の月謝ですませた。学問の切売りを蔑《さげす》み、清貧に甘んじてこそ人に教えることができる。新入生があるとその手を執り、まず「天上|天下《てんげ》」と書かせて記念にしたという。唯我独尊を謳ったものか。  そんな師であれば弟子の方も、春秋の彼岸にはぼた餅を、上巳《じょうし》の節句には炒豆《いりまめ》を師家へとどけた。卯月《うづき》八日には草餅、端午の節句には柏餅と、まっ先に先生に届けるので、うずたかく贈物が積みあげられたほどだ。慶事があれば赤飯が届くし、八百屋はしゅんを、魚屋は初鰹を競って持参した。呉服屋では夏冬の衣類をいっさい引受けるなど、師弟の情は美しく、細やかであった。きびしいうちにも愛情が通い合う。それなのにテレビの師匠はそっけなく、事務的で、今日の進学塾そのままではないか。作者はそんな先生しか知らない。それでいて天上天下、唯我独尊では困るのである。 [エリートコース昌平黌《しょうへいこう》の誕生]  寺子屋は七、八歳で入学、ほぼ五年の在学で男児は十二、三歳、女児は十三、四歳で卒業した。ふつうこれでおしまいだが、とくべつ勉強したい者は、幕府の大学、昌平黌で講義を聴く道も開かれていた。  学問所は寛永七年(一六三〇)、儒官林道春(羅山)が忍ヶ岡(現・上野公園)にのちの弘文院を建てたのにはじまる。道春は早くから家康の秘書格で、公文書やお触書の文案を作って功績があった。三代家光将軍のとき、今の西郷さんの銅像あたりに別邸をもらって塾を開いた。塾といっても書庫や講義室を持ち、小さいながらも公立学校の性格があった。学問好きの尾州義直が、儒学の元祖の孔子廟「先聖殿」を傍に建てて重みをつけた。  旗本のうちでも好学の士が聴講に集まり、すでに忍ヶ岡の名所だったが、道春は花にも、見物の美女にも目もくれず、本にしがみつくガリ勉ぶりを見せた。  道春は学問の鬼で、明暦の大火(一六五七)に火の粉をかぶりつつ逃げるとちゅうも、目を書物から離さなかったという。  その篤学の血は子の春斎、孫の鳳岡《ほうこう》に伝わっていよいよ凄まじく、講義も冴えた。  ところが呆れたことに、その上をゆく学問好きがあらわれて鳳岡のお株を奪った。誰か? 事もあろうに五代将軍綱吉である。  綱吉は前将軍の弟で、早くから俊才ぶりは聞こえていた。なるほど儒学の造詣ふかく、漢書をそらんじて澱《よど》みがない。  将軍に就任すると共に、越後騒動のやり直し裁判で凄腕を見せたが、同時に大名・旗本を集めておき、四書五経の講義を始めたからたまらない。大名どもはあくびを噛み殺し、終って心にもない讃辞を奉るのは大変な苦行であった。  止せばよいのに綱吉は、大奥でもこの儒学の講義をはじめた。 「子曰く。学びて時に之を習う。またよろこばしからずや……はい。読んで……」  すると厚化粧の奥女中が、声を合わせて、 「子曰く。学びて時に……」  と雀の学校よろしく合唱する。また、 「淫欲は伐性《ばっせい》の斧にして、最も卑しみ、慎しむところ……」  と大得意。「伐性の斧」は人間のすぐれた本性をそこなうもののこと、ご本人はまるで淫奔ではない顔つきで読みあげるのである。大変なお旦那芸、それをしかつめらしい顔で聞かねばならぬ女中たちこそよい災難であった。  この綱吉が寛永寺参詣の折り、ふと忍ヶ岡の先聖殿に寄ってグッドアイデアを得た。 「そうだ。先聖殿を湯島へ移し、弘文院も幕府の大学としよう!」  元禄三年(一六九〇)七月、鶴のひと声で湯島聖堂の建築工事がはじまり、翌年正月には早くも竣工した。  正殿は南向き中国ふうの建物、殿内北壁の中央を神座として、孔子以外の十哲を忍ヶ岡から遷座した。名づけて「大成殿」といい、綱吉の直筆を正面の梁上にかかげた。  今も大成殿はそのままの規模を伝えるが、棟瓦《むねがわら》の両端にえたいの知れぬ怪獣が背なか合せに乗っている。鬼竜犬《きりゅうけん》だ、鬼犬頭《きけんとう》だなどといわれるが、定説なく、  聖堂の屋根|鯱《しゃち》の牡《おす》だろう  と川柳子も当てずっぽうを言っている。  南に向いた第一門は仰高《ぎょうこう》門、第二門は入徳《じっとく》門、いずれも儒教臭い名がついているのに、  どう思ったか聖堂で珠数《じゅず》を出し  というあわて者もいた。  弘文院は聖堂の西側に建てられ、幕府の大学として名を「昌平黌《しょうへいこう》」と改めた。「昌平」は孔子の生まれ故郷であり、「昌平の世」にも通じてめでたく、昌平坂・昌平橋などみなこれにならった。が、ほんとうにおめでたい奴がおり、  聖堂で叱られている千社札  の一句がある。  学舎の門は神田堀に向けて建ち、講堂および寄宿舎の学寮、それに学務課に当る役人詰所があった。ときどき綱吉が押売り講義に来たので、将軍専用の御成門や御成御殿も建っていた。  はじめ昌平黌は聖堂の付属物だったが、江戸中期以後はこっちの方が親しまれ、逆に、聖堂をひっくるめて「昌平坂学問所」と呼ばれた。略して単に「学問所」ともいう。  ところで、千社札を貼る文盲はとにかく、庶民も希望すればこの学問所へ果して入れるのか。いかにも、入れる。庶民は第二の入徳門の前、一般講義所の「東舎」で聴講がゆるされたのである。  徳に入る門は閉ざさぬ鑑《かがみ》なり [試験問題を漏らせば切腹だ]  学問所の講義にはおよそ三種類がある。  一つは前述の川柳に見る入徳門の日講、その二は学問所講堂の講義、第三には寄宿生の稽古所講義というのである。  綱吉時代はまだ不平等だったが、天明七年(一七八七)に学問所開放令とでもいうべきものがでた。毎日朝の九時から正午まで、身分を問わず入徳門日講を聞いてよいというのだ。幕臣はもとよりのこと、藩士も浪人も百姓・町人も、希望者は自由に聴講せよというのだ。気取っていえば教育の機会均等……当時としては画期的な変革であった。富裕な町人の中には日参した者もいた。  が、早まってはいけない。庶民に許されたのはこの日講だけで、あとの二つは武士に限られ、しかも旗本・御家人のみ許された。  そのうち第二の学問所講堂の講義では、とくべつ聴講者は役持ちの旗本・御家人のみ。だから勤務時間の関係もあって、組毎に交替で聴講者を出した。  というと押すな押すなの盛況に聞えるが、実は「子曰く」と聞くだけで頭痛のする連中が多く、頭数をそろえるのに一苦労であった。殊に武骨者ぞろいの大番組や先手《さきて》組では、うまくエスケープして代返《だいへん》の元祖を生んだ。  熱心なのは第三の稽古所講義の方である。こっちは学問好きの秀才ばかり、藩士の篤志家も同じこと、志願して学寮にいるのだから心構えが違う。儒書を棒読みにするのではなく、疑問点は質し、議論をし、時には先生をへこますこともあった。  教授に当るのは「御儒者」、定員は六人で重要な講義だけ受け持つ。助教授に当るのは「教授方|出役《でやく》」、教授の代講に出るから出役である。稽古所講義でへこまされるのは、多くはこの出役の方であった。  さて学生の実力は、三年に一度の「学問吟味」によって試される。官吏登用の国家試験に当り、旧暦二月ちゅう五日間にわたっておこなわれた。  一日目は『小学』、二日目は『四書』、三日目は『五経』で、四日目は『歴史』の問題が出る。そして最後の五日目は、当局の出題によって論文を書いた。  当日、受験生は麻|上下《かみしも》に威儀を正し、学問所講堂の試験場へ静粛に入る。  御儒者とお目付(監察官)が上座につき、教授方も横に居流れると、お目付の配下の徒《かち》目付が試問書を広蓋《ひろぶた》にのせてうやうやしく運んで来た。お目付がこれを受け取り、一応あらためてから御儒者に渡す。すると御儒者は試問書を開き、課題を読みあげると共に、各自答案を出すよう申し渡した。論文は全知識の結集だけに、試験ぜんたいの大きなヤマ場であった。  受験生は机にしがみつき、必死で問題と取り組んだ。勿論、辞書の持ちこみやカンニングは厳禁、お目付が鋭い目を光らせていた。妙なことに時間制限がないので、日没後も筆をおかない奴がいる。この試験に合格すれば、エリートコースを驀進《ばくしん》できるのだからむりもない。お目付もその心情を酌んで急かせなかったが、燭台は出さない規則だった。したがって夜目のきく忍者でなければ書きつづけられず、自然にそれがタイムリミットになっていた。  ところで、ちょん髷時代のこの試験、問題の事前漏洩や、寄付金による裏口合格はなかったのか? 前述のシナリオ作家が書いたように、保管倉庫を破るなどしなくても、御儒者に袖の下を使って試験問題を聞き出す手はなかったか?  一言でいって、インチキを考え、疑うのは浅ましい現代人の頭である。他の部面はとにかく、学問所に関する限りそれはなかったと言える。試験問題は御儒者が殿中できめ、その場で封印して若年寄の屋敷へ移す。そして邸内の土蔵に保管されるが、終始、お目付と徒目付が付いていて眼を離さなかったという。また御儒者は誓詞血判して、事前に漏らさないことを誓っていた。もし違反したら切腹ものだ。聖賢の道を教えることが、自然に不正へのブレーキになっていたのだ。例のシナリオ作家氏によれば、倉庫の屋根をはがし、忍者のように忍びこむのだそうな。事のついでと思ったのか、 「土蔵の屋根瓦はどうしてはがすのですか」  と聞いて来た。 「たいがいにせい!」  と怒鳴りつけてやった。 [#改ページ]   殿中作法八つ当り [浅野はなぜ上野介の裾《すそ》を踏まぬ]  テレビで、映画で放映される『忠臣蔵』松の廊下のシーンで、浅野|長矩《ながのり》も吉良上野介も、烏帽子《えぼし》・大紋《だいもん》を着ているのは間違いである。長矩は五位の平《ひら》大名で大紋だが、上野介は四位の少将だから狩衣《かりぎぬ》でなければならない。  講談では意地悪の上野介、わざと長矩にちがった服装を教え、殿中で恥をかかすことになるが、そのご本尊の上野介自身、装束を間違えて出ては困るではないか。  大紋というのは直垂《ひたたれ》に、文字どおり自家の大形の定紋を上五カ所、袴に四カ所で計九カ所つけるからの称。むらさきの胸紐や菊綴《きくとじ》があり、いかにも武士の大礼服らしくてカッコいい。  だが、大紋の袖は手より一尺も長いし、袴は腰から末端まで七尺四寸、幅も二尺以上ある。全体がだぶだぶで、夏の単衣《ひとえ》ならとにかく、袷《あわせ》の大紋となると重くて身動きがとれない。しかも長袴のすそは、凧《たこ》の尻ッ尾みたいにずるずる引きずっているのだ。  もしあのとき長矩が、吉良上野介を殺そうとすれば、 「上野、待て!」  と、その長袴のすそを踏めばよかった。上野介は眉間に一太刀、つづいて背に一太刀受けたのだから、完全に後向きになっていた。なぜその尻ッ尾を踏み、つまずき倒れるところに折り重なって刺さなかったのか。  物理的におかしいではないか。『忠臣蔵』ずれの大人は知らず、やがて科学する子らはおかしいと笑うだろう。何と返事をするのだ。  一体、時代劇の殿中はめちゃくちゃである。おなじ『忠臣蔵』では長|上下《かみしも》の侍が、袴を摘みあげず殿中を歩いていた。ビデオだから、二、三メートルでOKだが、凧の尻ッ尾みたいのを引いて、実際に長廊下を歩けるものかどうか、やってみたらいい。『南紀徳川史』に長袴の歩き方があるが、ちゃんと両手で袴を摘みあげている。  そもそも殿中の基本動作、平伏さえ満足にやれる侍がいない。将軍も大名も、同輩もなしに、でたらめに頭を下げている。殿中の式典ともなれば、並び大名が十人や二十人は必要で、早いとこエキストラを使うためひどいことになる。頭の高さがでこぼこで文字どおり、「頭《ず》が高い」奴がいっぱいいる。  参考までに書いておけば、相手が将軍なら「合手礼《ごうしゅれい》」といい、両手を膝横から下して、両手人差指の先がすれすれまでに合わせる。同時に上半身を静かに倒し、両手指先で作られた三角形の間に、鼻をはめこむ形で、おでこが畳に付くまでに下げるのだ。  相手が一段下の大名なら、「双手礼《そうしゅれい》」といって指先が十五センチほど離れ、頭の高さも拳を三つ重ねたほどになる。同輩となれば「拓手礼《たくしゅれい》」で、指先はもっと広く、頭はもっと高くなってよい。  だいたいこの三段階に分れるが、いずれの場合も背すじを伸ばし、両手は膝から最短距離を通って畳の上で合せる。つまり武家らしく、簡潔の美を尊ぶのである。  さすがに歌舞伎の人は満点だが、若い新劇俳優はさっぱりだ。ちょっと前、NHKの時代劇で天一坊ものをやった。ちょっと今までと変っていて、天一坊が将軍吉宗のほんとうの子という設定でストーリーを運んだ。吉宗は浜畑賢吉、天一坊は人気上々の志垣太郎君、いろいろあって一篇のクライマックスが、江戸城内で両者が対面する場面となるのは当然であった。  最高にムードを出すため、見学者はスタジオから出てもらい、さて本番となって、スタートのサイン。浜畑・志垣の両優は、万感胸に迫るの一瞬——ついに志垣の天一坊、 「ははッ」  とその場に平伏した。が、何と彼は空中で指先を合せ、空中で三角に鼻を突っこんで、手とおでこをいっしょに畳へすりつけたではないか。 「それじゃあ蝦蟇《がま》の置物倒しだ」  幸い私がスタジオにいたのでやり直した。まったく眼が離せない。  思えば松の廊下の刃傷も、あまりに殿中の作法がきびしすぎて起きた事件である。五万三千石を棒にふらせた、その武家作法なる怪物をとらえてみたい。 [「電気掃除機」代り武士の平伏]  殿中の作法につき、慶長十年(一六〇五)はじめて心得書が出た。その要点は、 「殿中では作法を正し、やたら雑談してはならない。特に将軍の御座所ちかくは静かにせよ」  というのだ。特にきびしい文言ではないが、運営に当って容赦しなかった。寛永二年(一六二五)五月のこと、大番組の小幡藤五郎は公卿登城の日、詰所で足の灸《きゅう》を冷やそうと、裾をからげているところをお目付に見つかり、不作法の段、不届とあって切腹を命じられた。  大名とて容赦はせず、不作法があればびしびし罰せられた。  そもそも武家作法は足利幕府が、みずからの弱体をカムフラージュするため作り出した付焼刃の虚勢である。出が源氏の庶流だけに、戦勝で得た領地は片っぱしから味方に分け与え、自身はまったくの素寒貧《すかんぴん》であった。そこで伊勢・今川・小笠原など、毛並みのいい大名に命じて、しち面倒な進退の規矩《きく》を作らせたのである。  目的が大名の威圧にあるので、将軍を偶像化し、家来どもに拝脆《はいき》させる方式を定めたものだ。挙措《きょそ》進退、いちいちきびしい約束があって、一分一厘の間違いもゆるさない。  こうなると伊勢・小笠原など典礼家は、むずかしくすればするほどもてるわけだ。しかも勿体ぶって奥義なるものを教えず、多くは口伝《くでん》にしてぼやかした。明らかにこれは利権になり、複雑化の度がすぎて、とんだ滑稽な武家作法へ転じた。  出陣には、酒のさかなに打飽《うちあわび》・勝栗《かちぐり》・昆布《こんぶ》ときまっていた。「敵に打勝ってよろこぶ」という縁起ものというわけ、三方《さんぽう》をおくにも、酌をするにも、進むだけで絶対後退しないのが作法。退出には蟹みたいに、横這いになるしかない。  戦場で敵の首を取ったら、大物なら敬意を表し、対等に向きあって盃ごとをする。 「やあ、ご苦労さま」  というわけだが、相手は首だから返辞もなければ、また盃を持つ手もない。首係りの一人が代りに盃をとり、他の一人が瓶子《へいし》で酌をする。その注ぎ方はちょんちょんと二度、盃を変えてちょんちょんとまた二度、つまり三々九度ならぬ「二々四《ににし》度の盃」である。  その盃を口へ運ぶのだが、首に飲めるわけがなく、皆こぼれるのは当りまえ。薄気味わるいが同じ盃で、わが方の大将も一杯やるのが作法だった。  切腹にもやかましい作法がある。典礼ご三家の伊勢|貞丈《さだたけ》が、『凶礼式』に書き残しているので主要部分を抜粋しよう。 [#ここから1字下げ] 一、切腹前の沐浴には、先に水を入れ、その上へ湯を注ぐこと。 二、髪の結いよう、元結四本を左巻きにすべし。常より高く結い、逆に曲げよ。口伝。 三、装束は白衣を左前に合わせ、帯も白。口伝あり。 四、切手(切腹人)、敷物の上に着座する時、三方《さんぽう》の縁を切取り、上に笹の葉と大根の香の物三切をのせ、逆箸にして据える。 五、酒のむ事、逆手酌で二酌。時に肴というべし。この折り肴に非ず切腹刀を出す。さらに二酌して四|献《こん》、あと口伝。 六、酒終り、太刀とり後へ廻るなり。このとき切腹人の畏《かしこま》りよう口伝。 [#ここで字下げ終わり]  といった調子である。沐浴に水を先に入れ、白装束を左前に着るなどみんな不吉なことばかり、逆箸も、逆手酌も、二々四度に至っては日常生活の最高タブー。よくもこれだけ集めたものだが、皆こじつけの禁忌事項だから大笑いだ。  ただ、髪を常より高く結い、逆に曲げるという一項目だけは理由がある。首は介錯人が後から斬るので、毛がじゃまにならぬよう結いあげるのだ。あとは「口伝」で勿体ぶるが、それもよく探ってみると大笑いだ。結いあげた切腹人の髪を、世話係りが櫛の峯で、ポンポン、ポコポンと四度たたけというのだ。ばかばかしい。  この武家作法は江戸幕府になると、安上りの威圧手段としていよいよ凄まじくなった。  将軍の諸大名への謁見は、ふつう白《しろ》書院でおこなわれる。将軍はその上段の間に、簾《すだれ》を半ば垂れて坐っている。謁見者が国持大名(島津・前田など)だと、すぐ前の下段の間の中ほどに平伏する。と同時に老中が芝居がかりで、「備前」とか「掃部《かもん》」とか職名の呼捨で披露する。その声、数オクターブ高いので、相撲の呼出しによく似ていた。  が、笑ったら切腹もので、大名は合手礼の平伏で、顔を畳にこすりつけた。外様の平大名ともなればひどいもの、次の間の障子ぎわにずらりと並び、十把《じっぱ》ひとからげの拝謁であった。はじめから平伏のしつぱなしだから、将軍がエスケープして簾の中にいないことも多かった。それでも御座の間の座布団と脇息に向かい、必死で平伏をつづけねばならぬ。  最高の平伏はおでこを畳へつけ、同時にふかく息を吸いこむ。当然、畳のごみを残らず吸いこみ、十人、二十人の同時拝謁では、そのあとがきれいに掃除される結果を招いた。電気掃除機など不要である。  ところで謁見ではなく、用があって将軍に目どおりするには、はるか次の間で平伏した。すると将軍は、 「それへ」  と声をかけた。そこへ進み出よという意味だが、当人はもじもじと匍匐膝行《ほふくしっこう》のまねをするだけ。恐れ多くて進もうにも進めないというジェスチャー、その芝居がうまければうまいほど幕閣の点数がよかった。  これら殿中の作法は複雑怪奇で、ひと通り覚えるのは大名にとって大仕事だ。どこに坐って、畳のごみをどれほど吸うのか、きめられた作法どおりやらねばすぐ罰せられる。お目付が三角|眼《まなこ》で睨んでいて、畳の縁を踏んだ、小刀が障子にふれたというだけで「登城停止」になる。  まして殿中で、前をゆく奴の長|上下《かみしも》のすそを踏み、転ばせでもしたらただではすまない。踏まれて自分が転んでも、武士の体面上そのままにはできなかった。そのため大名は子供の時から、長袴のすそを踏まぬよう、踏まれぬよう特訓を受けた。実際に長袴をはき、指南役の家来に手を引かれてよちよちと歩くことからはじめたのである。  吉原の花魁《おいらん》道中も、茶釜ほどある高い塗下駄をはき、難行苦行の行進たること殿中の大名と変らない。そこで花魁は卵の「禿《かむろ》」時代から、高下駄で廊下を歩く練習をした。これも転んだら花魁の面目まるつぶれ、命がけで歩く練習は、大名と花魁だけのマル秘リハーサルであった。 [残念でした、その日の吉良は狩衣]  ところでこの厄介な長袴、小便をするとき一体どうするのか? ズボンと違って前にボタンもチャックもない。一物《いちもつ》をつまみ出せないから、面倒でも袴を脱ぐしかないが、放水後、殿様ひとりで長袴をはく能力がない。  が、幼稚園の児童じゃあるまいし、トイレの前で泣きべそかくわけにもいかぬので、実は長い尿筒《しとづつ》を用いて庭上へ垂れ流した。  尿筒の長いのは一メートルもあり、竹筒または銅製の筒っぽであった。これを長袴のすそから挿入、立ちながらこころ静かに放出したのである。銅製では冬など急所へひんやりと来るので、筒っぽの口もとに鹿革を貼りつけたりした高級品もあった。  大名は家来を一人だけ、殿中の廊下の端や庭上へ伴うことができる。ふつう佩刀《はいとう》を捧げ持つ役目だが、小用《こよう》の近い大名だと、刀の代りに尿筒を奉持させた。何とも臭い役目で……。  とにかく殿中の長袴は、まことに厄介で活動の意欲を削《そ》ぐ。武家装束が複雑で非活動的なのは、殿中のけんか、刃傷沙汰をなくするためとの説もある。本当であろう。私の実験によれば、けんかどころか、十メートル歩いただけで立往生した。  さて、問題を冒頭へもどそう。  吉良上野介も大紋を着ていたなら、この厄介で動きのとれぬ長袴をはいていたはずである。長矩も大紋だから窮屈どうしで五分五分だが、裾さえ踏んで折り重なって刺せば、万に一つの仕損じもないはずである。  しかも長矩はこんな場合、長袴のすそを踏むのがいいことを、誰よりもよく知っていた。というのは松の廊下の事件より二十年前、延宝八年(一六八○)六月二十五日、芝の増上寺で長矩の母方の叔父が、これと同じ事件を起しているのである。  その日は前将軍家綱公七十七日の法要があり、諸大名は長上下に威儀を正して参列した。  法要奉行は志摩国鳥羽の城主内藤和泉守忠勝、相番を丹後宮津の藩主永井信濃守|尚長《なおなが》が勤めていた。この法要奉行内藤忠勝が、長矩の生母の弟で、まさに血つづきの叔父にあたる。  長矩の短気は母方の血すじで、叔父忠勝も気が短く、すぐカーッと頭に来る性《たち》であった。法事はとどこおりなく進み早や終り近くになっていたが、いつもこの辺で老中から事後の指示がある。それは奉書に認《したた》められ、係役人が回覧するしきたりであった。永井信濃は上席なので受け取り、読んだあと懐中して立ち去ろうとした。忠勝が憤然として、 「奉書をこちらへもお廻しあれ」  と咎《とが》めたが、一顧もくれず歩を移した。 「信濃、待てッ!」  とたんに忠勝は脇差を抜き、逃げる相手の長袴のすそを踏んだ。とうぜん永井が前のめりに転ぶところを、忠勝は乗りかかって一刀のもとに刺し殺した。  短慮で頭へ来ながらも、とっさに長袴の裾をふみ、折り重なって確実に相手を仕止めている。仮に梶川与三兵衛みたいなのがいても、裾さえふめば絶対に討ち漏らすはずがない。  もちろん忠勝は切腹、内藤家は潰されたが、それだけに長矩には強烈な印象を残したはずである。特に刺殺のみごとさは、武士の心得として胆に銘じたに違いない。その長矩が、長袴をひきずって逃げる上野介の、裾をふまずに逃がすわけは絶対にない。  ではなぜ上野介は逃げた? 冒頭でも触れたように、上野介は四位の少将で、礼服は大紋でなく狩衣であった。狩衣は文字どおり狩するときの軽装で、袴は足首で締める括り袴であった。平安朝の公家の服装を、幕府がそのまま取り入れたため、足は走りやすいよう足袋ははかず、むき出しのはだしときめられていた。  吉良上野介はこの狩衣だったので、裾も踏まれなかったし、はだしだから危機一髪のときも、すべって転ぶようなことがなかったのである。上野介が狩衣だったことは、お目付|多門《おかど》伝八郎の手記にあり、風俗史の泰斗江馬務の『日本服飾史要』にもある。東宝映画でも狩衣にし、松竹も一度狩衣を着せた。それが本当で、そうでなければ物理的におかしい。  このほど播州赤穂を訪ね、大石神社の飯尾宮司にお会いしたときもこの話が出た。 「ええ、テレビは聞違ってますよ。さっそく私はそう申し入れたんですがね」 「ほう、それで放送局は何と返辞を?」 「芝居ですから……ということでした」 「芝居?」  これは問題だと私は思った。芝居とは歌舞伎の『忠臣蔵』をいうのだろうか。あれは徳川政権下で、政道批判になるため時代を鎌倉に移したのだ。そうでなければ上演が許可されなかった。それで吉良も浅野も大紋を着ている。  今、ありがたい民主主義の世に、誰に遠慮して鎌倉の服制に変えたのか。ふしぎな『忠臣蔵』である。 [#改ページ]   忍者学入門 [だらしのない現実の忍者たち]  テレビも映画も忍者ものとなると、宇宙遊泳式に城壁も堀も飛び越え、時には水上歩行や透明人間みたいに消えちまう。おきまりは天井板をはがし、不細工な顔をのぞかせてにんまり笑う。三歳の童児もその存在を知っているが、残念ながら忍者への認識は、漫画のスーパーマンと寸分の違いもない。  ばかな話だ。メカニズムの最先端にいて、テレビの忍者はなぜこうも非科学的なのか。物理的にまったくおかしいではないか。  塀は越えられないもの、警官は盗みをしないものとしなきゃ、話にならんとシナリオライターに言ったら、 「そのはずの警察官が泥棒をするからおもしろいんですよ」  と来た。呆れた。その調子で忍者をオールマイティにし、ついに漫画にしたのはテレビ作家の罪である。  村山知義が小説『忍びの者』を書いたのは昭和三十五年、忍者の生態や忍法など、現地踏査によるリアルな描写で評判になった。 『立川《たてかわ》文庫』の猿飛佐助や霧隠才蔵に、はじめて血が通ったのだ。すぐ大映で映画化し、つづいてNET(現テレビ朝日)がテレビ化した。それ以来、映画では『忍者秘帖・梟の城』『忍者武芸帳』、テレビでは『仮面の忍者・赤影』『妖術武芸帳』『忍法かげろう斬り』など、どっと出現して忍者ブームをなした。親類すじの『隠密剣士』『六人の隠密』『お庭番』など入れると、黒装束の怪人が一時はブラウン管を占領したことになる。  またそれはNHKの『天と地と』や、お門違いの『草燃える』にまでそれらしいのが飛び出す始末、忍者が出なければ時代劇にならないほどの錯覚に落ちた。そのことは勝手だが、問題は彼等が使うその忍術である。  テレビではごちゃごちゃにやっているが、黒装束の怪人にははっきり三種類ある。第一は伊賀・甲賀の本格派忍者で、これにも「上忍」「中忍」「下忍」の別がある。上忍は豪族で陽忍の術を使い、下忍は足軽クラスで陰忍の使い手。中忍は下忍の組頭で、陽忍・陰忍の両方を使った。  陽忍は高級忍術に当り、後方撹乱の謀略をやり、陰忍の方が飛んだり隠れたりの体術なのである。忍術といえば陰忍だけのように思うが、実際は形のない陽忍の方がこわかった。  第二の怪人は「隠密」で、これは忍術も使わねば黒装束も着ない。目的によって家来や門人が、随時、行商人や猿まわしなどに化けて敵地にもぐりこむ。合法的に入ることもあり、柳生|宗矩《むねのり》が大目付のとき、門弟を諸大名の剣術師範に推挙、藩内にとどまって機密をさぐらせたのがよい例である。  この素人の変身でなく、常時、将軍専用の隠密として使われていたのが、第三の怪人「お庭番」。「お庭番」とはカムフラージュで、実は世襲のスパイ専門家だから、やることが凄い。三年、五年どころか、城下に住みついて一生がかりで探索に当ることもあった。これまた黒装束を着ず、体術の陰忍とは縁がない。  その辺が大切なところで、飛んだり隠れたりの忍術は、伊賀・甲賀忍者の中でも、下忍だけが用いる術技である。ゆめゆめ混同してはならない。  ところで本職の伊賀・甲賀の忍者は、南伊賀の百地《ももち》、北伊賀の服部・藤林の三上忍に率いられていたが、天正九年(一五八一)織田信長の大軍に攻められて国外へ逃げ、諸国の大名に召抱えられた。特に服部半蔵は、本能寺の変の折、家康が遊覧ちゅうの堺《さかい》で孤立したとき、鹿伏兎《かぶと》の難所越えで居城岡崎へ送りとどけた功により重用された。家康が政権を取った時も、下忍二百人の長として江戸城|搦手《からめて》門近くに屋敷を賜わった。  一方、甲賀忍者は関ヶ原の戦に、伏見城に籠城して多くの戦死者を出した。家康はその功に報い、戦死者の子弟百人を召抱えて大手門の番士とした。組屋敷は今の神宮外苑、青山甲賀町といったところである。  ところが、甲賀者が伏見城で戦っていたころ、伊賀者も家康に従って活躍していたはずである。特に天下分けめの関ヶ原の戦はもっとも腕の見せどころであった。が、手柄らしいものが、まったく伝わっていないのはどうしたことだろうか?  服部半蔵は歴戦の勇士だけに、技術を持つ伊賀者をよく統率することができた。ところが慶長元年(一五九六)半蔵が病死し、嫡男の正就《まさなり》があとを継ぐと問題がおこった。  正就は二代目ばかの上に、酒のみの大変な暴君である。組下の伊賀者を奴隷のようにこき使い、屋敷の屋根の葺《ふ》きかえや、破損個所の壁ぬりまでやらせた。忍者が左官のまねごとではさまにならず、拒否すると給米停止の罰を食わせた。誰も正就のために働こうとせず、五年後の関ヶ原の戦にも出陣したのだが、スト気分で案山子《かかし》みたいに突っ立っていた。  伊賀者の今ひとつの不満は、同じ忍者の甲賀者が与力なのに、彼等はいちだん下の同心待遇だったこと。なぜ差別されるのか、忍術はむしろ伊賀者の方が上ではないか。  慶長十年(一六〇五)十二月、二百人の伊賀者は不満を爆発させ、武器をひっさげて四谷の長善寺にたて籠った。武家最初のストライキで、正就の罷免と待遇改善をさけんで気勢をあげた。  幕府側は交渉に応じ、あっさり正就の罷免を認めたので、伊賀者は武器を捨てて長善寺を出た。が、とたんに幕府の態度が変り、主謀者十人を牢へぶちこむと共に、帰順した伊賀者を三人の足軽大将に分属させてその勢力を削いだ。組屋敷も内郭ではまずいので、四谷門外の広場へ移した。後の伊賀町・忍町である。  牙を抜かれた伊賀者は、その後、閑職の大奥警備へまわされ、厚化粧の奥女中に見とれて忍術など忘れてしまった。お局《つぼね》外出の女駕籠に、下男よろしく空《から》っ脛《つね》でついてゆき、お局が陰間《かげま》茶屋あたりでどろんろんと消えると、お株を奪われておろおろする始末である。  寛永十四年(一六三七)の島原の乱は、忍者活躍の最終チャンスであった。が、幕府の腑抜け忍者はまったく出陣せず、わずかに在野の甲賀者が十人従軍したにすぎない。その十人は闇夜に敵城へ忍びこみ、敵の兵糧米十三俵を盗み出した。忍者にしては大変な手柄だったらしく、総司令官の松平伊豆守から、 「抜群の働き」  と賞められた。が、二回目の潜入では敵にみつかり、どろんろんと消え損なって二人まで斬られた。どうも史実の忍者はだらしがない。 [見当違いな忍術コキおろし]  では、忍術とは虚妄の術で、何の役にも立たなかっただろうか?  伊賀・甲賀者が腑抜けになってざっと五十年、延宝年間(一六七三〜八○)に忍術秘帖『万川集海《ばんせんしゅうかい》』、つづいて『正忍記《しょうにんき》』が書かれた。いずれも伊賀の上忍、藤林氏正統の子孫の保武および正武の著書である。  忍術はその使命上、極端な秘密主義をとって進歩して来た。だから専ら口伝され、実用時代に伝書はなかったのである。それが、泰平無事で忍術は無用、秘密の必要もなくなって書かれたのだ。  小説やテレビの忍術はこれが唯一のネタ本である。その用具と術技のめぼしいものをあげれば、短い幾つもの竹筒に麻縄を通し、ぴんと張れば先端が高所へとどく「忍び熊手」、今の救命袋に当る「長蓑《ながみの》」、下駄のまわりに浮袋をつけた水上歩行具の「水蜘蛛」や潜水ちゅう一端を水面へ出して呼吸する「鵜《う》」という忍具もある。が、水蜘蛛は映画会社で実験したらぶくぶくと沈んだし、鵜も本気で使ったらとんだことになる。くわばら、くわばら……。  術技の方も潜入時に犬に吠えられたら、用意の餌で懐柔すべしとか、門扉《もんぴ》を開くには金具に油をさして音を殺す。もし敵に気づかれたら、暗がりにうつ伏して、声なく隠形《いんぎょう》の呪文を唱える。これを「鶉隠《うずらがく》れ」という。また逆に敵の意表に出て、大胆に闇中棒立ちのまま、息をひそめるのを「観音隠れ」という。  さらに「五遁の術」というのがあるが、何のことはない、火や水や木立など、自然物を利用して身を隠すだけのこと。「くノ一」に至っては、「女」の文字の分解せるもの、謎々めいて他愛がない。  忍者ブームが起きたとき、鬼の首でも取ったようにそのあほらしさを指摘した本が続出した。足立巻一著『忍術』などがそれで、忍者の漫画化にひと役買う結果になった。  だが、ここで一言したい。忍者についての何もかもが、現代人には不合理で、取るに足らぬ虚妄の技であろうか? 忍者はもともと秘密指令で働き、手柄も公表されることがない。活躍の記録がないからといって、実戦に役立たなかったのでは決してない。現に長享二年(一四八八)足利将軍|義尚《よしひさ》が、近江の佐々木高頼を攻めたとき、佐々木方の甲賀忍者が将軍を奇襲して左耳を切り取って逃げた。長善寺騒動のあとも捕まった十人の主謀者が、どろんろんと脱牢して夜な夜な江戸で辻斬りをしている。  忍具も水蜘蛛や鵜はともかく、長蓑や角《つの》のある撒菱《まきびし》はいかにも合理的である。ユニホームの黒装束も、実は黒でなく柿染だったというのも頷ける。黒は暗夜にも見えるが、柿色はかえって闇に溶けて見えない。そのため実際に柿渋で染めていたといい、旧陸軍のカーキ色の軍服もそれと思い当るのではないか。  その忍具や術技より、学ぶべきは、忍術の原理である。近ごろよく「忍者外交」などというが、何も黒装束で天井板をひん捲《めく》ったりするのではなく、交渉の呼吸とスピードにあったことは言うまでもない。忍者も死生の剣が峯にいて、哲理めいたものを把握せぬはずがなかった。こんな話がある。  織田信長が石山本願寺を攻めあぐんでいたころ、近江の膳所《ぜぜ》で伊賀の忍者城戸弥左衛門に狙撃された。弥左衛門は本願寺顕如に頼まれた殺し屋である。あいにく弾玉《たま》ははずれ、差しかけていた唐傘の柄を折ったにすぎない。 「曲者だ、捕えろ!」  供侍が八方に飛んで探したが、そこはベテラン忍者だけに、百姓に化けてゆうゆうと逃げ失せた。そればかりか、翌日、弥左衛門はしゃあしゃあと、菓子箱を持って安土城に信長を見舞った。すると信長はまだ昂奮状態で、 「犯人は伊賀者に相違ない。そちも伊賀者ゆえ見当がつこう。すぐそ奴を捕えて来い」  と怒鳴った。弥左衛門、板敷に額をこすりつけながら、内心ぺろりと舌を出した。  忍術の極意はここにある。 「忍びには習《ならい》の道は多けれど、まず第一に敵に近づけ」 『万川集海』の忍歌である。信長ほどの男も、忍者があまりに身近にいたためかえって見えなかったのである。 [忍術とは虚実の転換と見付けたり]  さて、いま私の手もとに『忍道』なる忍術の奥義書がある。その要《かなめ》どころを抜き出せば、「忍の要旨たる、有《う》を無となし、無を有となし、実を虚とし、虚を実となす。すなわちこれ有無虚実の転換なり。以て無色無形に入り、無声無跡に達し、無臭無気に帰し、面して天地と共にあり」  というのだ。これをやや補足すると、忍術の真随は虚と見えて実、ありと見えて縹渺《ひょうびょう》として無きに等しい境地——すなわち一切の妄執から脱却して、周囲の雑物雑念にとらわれることがなければ、おのれ自体の実在さえ超越して、無色・無形・無臭の透明人間になってしまうという、禅僧の無我の境地で、すなわち忍の大悟だというのである。  さらにいう。 「これを行うに当りてや、ただ他の睫毛《しょうもう》上に身を安んじて、以てその眼を避くるの一法あるのみ。睫毛はすなわち自らこれを賭《み》ること能わざるものなり。灯火は善く闇を破るもとといえども、灯台は必ずその下《もと》暗きを思え。  もしその一閃一瞬の活機を奪却して、他が百綻百破の死命を制することを得なば、禅者はこれに投じて善《よ》く野狐《やこ》を恫喝《どうかつ》し去るべく、剣者はこれを投じて善く他の潭竜《たんりゅう》を屠斬《とざん》し来るべし」  と。忍術の要諦は弥左衛門のように、敵の内懐へとびこみ、敵の睫毛の上に乗れば、かえって近すぎて敵に見えない。灯台|下《もと》暗しとはこのことである。  そのうえ一瞬の活機をとらえ、一挙に死命を制するのが忍法の奥義だと教えている。  これなら納得できる。江戸の初期、将軍家の剣術師範柳生|宗矩《むねのり》は、禅の要諦を柳生新陰流へとり入れ、「剣禅一如」を唱えた。禅僧はすべての欲望から超絶、心頭を滅却することで仏教の真理に到達する。常に死に直面する剣士も、すべての迷いを去ってはじめて白刃の下に活路を見出し得る。  忍法もこれと同じだ。観音隠れで呪文を唱えるのは、敵を眼前に心気を静めるためである。五遁の術は火遁・水遁・木遁・金遁・土遁だが、地物の利用は今日の科学戦でも重視される。そのほかすべてを利用せよということで、『忍道』には霧遁・雷遁・風遁・雪遁・女遁・老遁・幼遁・獣遁・魚遁など、「遁形三十法」があげられる。  そしてここで気付くのは、獣遁・魚遁など表現がきわめて抽象的なこと。獣遁はけものの皮を着て逃げろ、魚遁は魚の跳ねる音を立て、注意をそらせて逃げろという意味か。おそらくそれも、一方法に違いない。三十遁のすべてに秘伝があるのだが、『忍術』では口伝になっている。そしてこの事から類推すれば、前記の『万川集海』も『正忍記』も、わざと表現をぼやかし、頓馬なことを書き、奥の手は秘中の秘として口伝したのではないか。この忍術書自体が、きっと霧遁の術であり、風遁の術なのだ。それとは知らぬテレビ作家が、囮《おとり》記事だけ見て宇宙遊泳や透明人間みたいな忍者につくりあげてしまった。著者の藤林保武・正武はさすがに上忍、不勉強なシナリオライターの睫毛上に乗るくらいわけはなかったのである。  これら忍道の極意や技を、完璧に使ったよい例がある。  甲賀流忍術十八人衆のひとり、山田八右衛門は或る酒席で、先輩の忍者と技の巧拙について論じた。そして結局は忍術くらべをすることになり、八右衛門は白昼その先輩の刀を奪ってみせようという。しかも伊賀一ノ宮の敢国《あえくに》神社の祭礼当日に奪い取ることにした。よし、やれるならやってみろと先輩も意地になり、当日になるとからかい気分で八右衛門を呼びにやった。  すると八右衛門は蓑笠すがたでやって来たが、挨拶もそこそこに出てゆくと、ふと路傍の百姓家に立ち寄った。それから裏の小高い岡に登り、ゆうゆうと煙草をすいはじめた。先輩はそれを見届けると、家来に八右衛門を見張らせて敢国神社に参拝した。で、神前のワニ口《ぐち》(大鈴)の紐をつかみ、武運長久を祈った一瞬、すぐ傍の老婆が先輩の刀を鞘ごと抜いて逃げ去った。  はじめ先輩の家を訪ねたのは本物だが、百姓家へ立ち寄ったとき、おなじ蓑笠をつけた替玉と入れ替ったのだ。相手に替玉を見張らせ、安心させておいて、その間に八右衛門は老婆に変装して、先輩がもっとも虚心になる参拝の一瞬を狙ったのである。実を虚となし、虚を実となす、その一閃の活機を利用したというわけである。甲賀流忍術十四世、旧陸大・海大教授藤田西湖氏の記事の概要である。実に合理的、科学的ということができる。  勝負の世界ではそれが真理であろう。現代を戦国ぶりの競争社会と見るなら、或いは処世術の一環として役立つかも知れない。 [#改ページ]   道中もの怪談比べ [花嫁行列も関所でストップ]  マンネリ時代劇のアクセサリーに、美人鶴姫さまの気まぐれ旅や、道中女すりのお銀がよく登場する。男はとにかく、入鉄砲に出女のきびしいチェックは常識ではないか。一体、関所をどう通ったのか、女のひとり旅などできるものかどうか、テレビ時代劇の怪談というほかはない。  制作者は現代のレジャー旅行か、または新婚旅行を頭に描いているのではないか。あれこれ道中ものの怪談をご披露に及ぼう。  女の関所改めはいうまでもなく、江戸にいる人質の大名妻子が、本国へ逃げ出すのを防ぐためである。江戸中期には奥方も若殿も、例外なく江戸かぶれし、本国の城などどっちを向いて建っているか知らない。愛着もなければ逃げる気もないが、幕府の権威を見せるためであるから、ぜったい関所手形が必要だった。それも、関東・東北から箱根を越える者は御留守居発行の手形、上方から江戸へ来る者は京都所司代の手形、摂津・河内の女は大坂町奉行、和泉の女は堺奉行の手形がいる。 「御留守居」というのは江戸城大奥の監督官で、女専門の係りだから女手形を出すので、間違いのおこらぬよう禿茶瓶《はげちゃびん》が多かった。が、これで将軍出陣のときは、江戸城の留守をあずかる重役なのである。どんなあばた面の女中でも、この重役から関所手形をもらったのである。  その手形の文面は、 「女二人、内一人は前髪の先切れ、髪の中に釣はげあり、他は少女、額《ひたい》にできものの跡あり。江戸より駿州原宿まで参る。箱根の関所相違なく通されたく」  とあり、「釣はげ」は引きつり禿《はげ》だろうが、頭や顔だけでなく、襟・のど・手足など、すべて見えるところの切傷・突傷・腫物・膏薬貼りの有無から、櫛摺《くしずれ》・枕摺・後毛《おくれげ》のぐあいまで、残らず書くことになっていた。にせ者の使用に備えていたが、これだけ書かれては悪用のしようがない。  では、手形があればすいすい通れるかといえばそうはいかない。何かと難癖をつけられるので、近くの茶店で手形を見せ、あらかじめ通関の要領を聞いたものだ。そこには物慣れた亭主がいて、勘どころでチップを使うなど伝授する。そのあと関所の大門《おおもん》まで送ってくれるが、自分のチップを取ることも忘れなかった。  さて、大門を入ると面番所《おもてばんしょ》があり、三人の番士が四角い顔をならべている。かたわらには捕物三つ道具が、いかめしく飾ってあってぞーッとする。恐る恐る面番所へすすみ、番士の前へ手形を出すと、番士は横柄に受けとってあれこれ文句をつけた。やれ紙がよごれているの、字がにじんでいるのと言い、嫌な視線で全身を舐めまわされる。前記の関所手形に「少女」とあるが、これは十二、三歳の少女のこと、少女なら振袖がきまりものとあって、ふつうの小袖では通してくれない。そのため茶屋に貸振袖があり、通るときだけそれを借りた。  それでも何か不審があれば、役人はすぐ改婆《あらためばばあ》を呼んだ。これは別名を「女改者《おんなあらため》」または「番女《ばんにょ》」といい、別棟の改所へつれていって髪を解き、おっぱいに触れて調べるのは有名な話だ。髪を解かせるのは傷あとなど見るためだが、乳房に触れるというのが腑に落ちない。逃げられてまずいのは男ではなく、人質の女のはず。改めて女であることを確認しても無意味ではないか。  その通り、まさに意味の取り違えで、乳房にふれるのは女でなく、お小姓など優さ男が対象であった。女が男装して通るのを警戒してのことだ。少女ではなお乳房が小さく、判定資料にならないこともある。そこで乳房など面倒と、いきなり前をまくって男の象徴を展示させたりした。川柳の、  たしかなり手形に前をひんまくり  は、一物《いちもつ》が何よりの手形だというのだ。意地の悪い改婆だと、その場で放水してみろともいう。男なら立ったままの放水も、女では妙なぐあいだから忽ち化けの皮がはげるはず。ところが、なんとも奇怪なことがあった。番士と改婆が額を集めてひそひそ。  ふたなりの若衆に関の一評議  まさに旅の怪談である。  改婆はふつう番士の妻がなるが、適任者のいないときは足軽・中間の女房を使う。手当は月に二、三朱。てんで小遣にもならぬので袖の下を取った。 「どりゃ頭の傷を……」  と、髪へ手をかけそうにすれば、すなわち|○《まる》印の要求である。茶店で教わった通り、すばやく袂へ金をすべりこませねばならない。そうでなければ象徴の展示や、放水検査で旅人をいじめた。その代りチップの効き目も早く、  合点じゃ薬の廻る関の婆  で、がらりと今までの態度が変る。 「気をつけておいでなされ。道中にゃ悪い奴がいますからね」  と、自分のことは棚へあげ、愛想笑いで送り出した。そんな婆を懲らしめるため、放水検査に初めもじもじ、あとは脱兎の如く盛大な立小便をやらかしたお小姓がいた。  では江戸の女、ちょいと隣村へお嫁にゆくにも、関所があれば関所手形が要るのか。めんどうながら必要で、こんな手形の現物が残っている。 「箱根宿小田原町善右衛門の娘いち、二十歳と相成り、このたび元箱根の岩右衛門方へ縁付き候。御関所通行の儀、お願申上候」  この願書の裏に、管轄の小田原城主が承認の判をおしている。  嫁入りの移籍だから当然だが、ちょいと隣村の親戚へゆくにも、買物に出かけるにもいちいち手形を必要とした。やはり庄屋から領主に願い出て、裏書を得て発効したのである。  女が関所を通るには、これほどきびしくチェックされた。鶴姫もお銀もどうごま化しようもなかったのである。 [狼のいる女のひとり旅]  次にむかしの街道を、女ひとり歩けるものかどうか。山中には狼や猪が出没、突風・雷雨のおそろしさも女にはこたえた。  油断のならぬのは「人面の狼」で、山賊・追剥《おいはぎ》・辻斬り・スリ・ゴマの灰などうようよいた。強面《こわもて》の雲助には胆《きも》を冷すが、親切ごかしの枕さがしはいちばん悪質だ。  幕府では交通政策上、とくに道中の犯罪を重く罰した。「十両盗めば首がとぶ」とはふつうの泥棒だが、寛政三年(一七九一)無宿の喜兵衛という者、枕さがしで五両を盗み首をちょん斬られた。それでも街道すじの犯罪が絶えないのは、封建制の看板どおり、警察権がばらばらに分断されているからだ。小田原までは直轄領・旗本領、箱根を越えると大名領や幕府の依託領が輻輳《ふくそう》して、わずか二、三里で管轄ちがいになる。スリも追剥も、すぐ他領へ逃げこめばほとんど捕まらなかった。本物の狼も人面狼も、牙を鳴らしていい鴨を待ち受けていた。  出羽山形の藩主秋元|志朝《ゆきとも》は、弘化二年(一八四五)上州館林へお国替えになった。家来は殿様の行列についてゆくので、そのあと家族だけの道中となる。すべて武家女ばかりだが、山また山の八十里、てんで心ぼそいので、誘いあわせて十数人で出かけた。  それでもとちゅう雷雨に会い、茶店へとびこんで喉が裂けるほど観音経を読んだとか、血の雨ふらす雲助のけんかに、ふるえあがったと藩士の妻山田|音羽子《とわこ》が日記に書いている。どんなに道中が怖かったか、滝沢馬琴も関西旅行記の中で、 「旅へ出たら敵地と思え」  といっている。  女の旅には道連れか、または男のお供が必ず要る。そうでなければ危なくて歩けない。ふつう武家なら乳母と中間がつき、町家の女には番頭・丁稚や出入りの鳶が供をした。  が、送り狼になる心配もあるので、親子や夫婦ならいちばん安全だった。 「子曰《しのたまわく》く」の儒教イズムから、当時アベックで歩くことはなかった。どうしても同伴の必要があれば、夫婦でも道の両端を別々に歩いたものである。それが、旅だけは危険だから夫婦肩を寄せ合って歩いても嫉《や》かれることはなかった。川柳の、  粘ばりつく筑波の山の夫婦餅《みょうともち》  は、新婚夫婦の熱《あ》つ熱《あ》つの道中なのである。  そしてこの「筑波餅」でもわかるように、女の旅といえば筑波山や江の島など、極く近間《ちかま》にかぎられていた。せいぜい一晩か二晩どまり、だから中間や番頭でたくさんだった。  が、ただひとつ例外がある。「伊勢参り」「お蔭参り」または「抜け参り」という、すさまじい熱狂的な大行進であった。伊勢神宮への集団的な参拝だが、抜け参りの「抜け」はエスケープを意味し、番頭も丁稚も女中さんも、抜け参りとさえ言えば大威張りで休めた。関所手形もふたつ返事で書いてくれる。しかも道中の旅籠代も茶代も、すべて無料の上、地方の金持がわらじ銭まで出してくれた。  何事のおあしも持たず伊勢参り  こんな有難い話はないので、旗や幟《のぼり》を立てて伊勢へ伊勢へと押し出した。ひところは一日に数万といわれ、犬や猫まで人間にまね、「伊勢参り」の旗を首に巻いて道中した。すると奇特な猫として大もてで、ニャンともおかしな具合いだった。  この抜け参りだけは、新婚の夫婦も長道中を伊勢まで、しかも無料だからこたえられない。われもわれもと新婚無銭旅行に出かけた……と言いたいところだが、実は、残念ながら遠慮する者が多かった。  というのは、こういう神聖な旅だから、とちゅう男女の交りは厳禁とされていた。どんな美人と泊り合せても、絶対みだらなふるまいがあってはならない。  ちょっとでも男女の体が触れ合えば、神罰たちどころに降って、そのまま二つの肉体は離れなくなるといわれた。これでは新婚旅行の意味がまるでない。  神罰の実例は、西鶴の『好色五人女』樽屋おせんに如実にえがかれている。  おせんは大坂天満の生れ、丸ぽっちゃ餅肌の色っぽい女だった。十四のときから表店《おもてだな》の和泉屋へ女中奉公に出たが、間もなく出入りの樽屋半六に惚れこまれた。  樽屋は何とか物にしたいが、奉公人では手を出す隙がない。親しいこさん婆に相談すると、「それは抜け参りを利用するに限る。任せとき」  という頼もしい返辞であった。  いかにも、抜け参りは大坂でも公然とエスケープ。こさん婆はおせんを誘い、連れ立って和泉屋を出た。半六と街はずれで待合すはずだったが、運わるく半六があらわれる前に、和泉屋の番頭久七が、これも抜け参りのつもりで抜けて来た。 「ちょうどよい。一緒しまほ」  というので、遅れて来た半六と共に、女一人に男二人の不均衡チームで出発した。  久七もかねておせんに惚れていたから、まさに二匹の送り狼だった。が、神聖な伊勢参り、行きはさすがに神罰が怖くて手が出なかった。  ところが無事に参拝をすませ、帰りになると双方あせりだした。大坂へ着けば二度とチャンスはない。伏見の旅館で、久七が淀川船を見に出たわずかの隙に、半六がおせんと関係してしまう。明日大坂に帰る一日まえ、しかも帰途とはいえ抜け参りの道中にはちがいない。神罰の当らぬわけはなかった。半六とおせんはめでたく世帯を持ったが、貞享《じょうきょう》二年(一六八五)正月、町内の麹屋長左衛門方で、おせんが法事の手伝いちゅう、あるじ長左衛門と土蔵の中で密通した。西鶴の筆では和姦になっているが、実際は長左衛門がかねて横恋慕し、脇差を突きつけての強姦であった。おせんはまったく罪がないのに、屈指の淫奔女にされたのは、伊勢参りのタブーを侵したためとされている。  が、その程度ならまだいい方で、男女密着して離れぬ神罰の実例がある。随筆『聞之任《きくのまま》』天保元年(一八三〇)のところに、 「春より伊勢神宮へお蔭参りといふこと流行……何国の者にか、参宮の男女途中にて交接したるが、犬のつるみたるやうにして離れ得ず、せんすべなく長櫃《ながひつ》に二人を入れて国許へ送る道すがら、多数の人見たりとなん語り伝ふ」  とある。ばかな話だが、その醜態を懺悔のため見世物にすれば、罪障が消滅して呪縛が解けるともいわれた。『御入部伽羅女』には、怪しからぬその見世物を、 「女はふり神、生国は備後の福山、歴々なる人の娘、参宮の道で仕そこなひ、男は二十五、見ぬことは話にならずと、えいやえいやの大見物……」  と言っている。例外的な夫婦の旅も、これでは二の足を踏まざるを得ない。伊勢参りは亭主だけでするようになった。が、それでは道中浮気して、長櫃詰めにされては大変と、女房が男の貞操帯をさせて出発させたという。その名は「悋気《りんき》の輪」、形と使用法はいま研究中である。 [アベック事始めは坂本竜馬]  では、新婚旅行はいつから? 女のひとり旅はいつごろから始まったか。迷信も旧習も糞食えの、勤皇の志士坂本竜馬がアベックの元祖である。  慶応二年(一八六六)一月二十日、竜馬は薩長連合の大仕事をやりとげ、翌々日、伏見の寺田屋へ投宿したところへ、幕府の捕方にふみこまれる。が、すぐピストルで応戦、あやうく伏見の薩摩藩邸へ逃げこむことができた。  寺田屋の養女お竜は竜馬の恋人で、このときいっしょに薩摩屋敷へゆき、傷ついた竜馬を介抱した。お竜の献身的な看護により、竜馬の傷はめきめきと回復する。ふたりの愛情はこれをきっかけに一段と深まり、やがて肉体的にも結ばれる。  傷がなおると竜馬は退屈し、お竜といっしょに付近へ散歩に出た。ふたりは道の両端を歩くどころか、公然と手を握り合い、べったりくっついて大熱《おおあつ》だった。 「わあ、眼の毒どすなあ」  これを見て通行人は驚き、悲鳴をあげたという。通行人より驚いたのは薩摩藩士で、この調子ではいつ幕府方に襲われるか知れない。傷の療養かたがたその三月、汽船三邦丸で竜馬夫妻を薩摩へ移すことにした。  船が鏡のような瀬戸内海をゆけば、左右にみどりの島々が現れては消え、微冥幽渺《びめいゆうびょう》の絶景が眼前に展開した。竜馬夫妻はその景観に見とれ、感動してキッス位はしたとみえ、薩摩|兵児《へこ》たちもすっかり悩まされたと記録にある。  いったん鹿児島入りした竜馬夫妻は、それから霧島山麓の塩漬《しおびたし》温泉へ蜜月旅行にでかけた。東奔西走の志士竜馬と、非運に耐えて来たお竜にとって、この旅行はすばらしく、無上のものであった。一日、ふたりは霧島の山頂をきわめ、そこに立つ天の逆鉾を抜きとったりして最高の幸福感にひたった。  竜馬とお竜のこの旅行が、日本の新婚旅行第一号である。とはいえ目的が半ば傷療養で、百パーセント熱つ熱つの旅行ではない。純粋に陶酔だけが目的の蜜月旅行は、明治も十六年にならねば見られない。その一月十九日、時の参議井上馨の令息勝之助氏が、はじめて結婚式後に熱海温泉へ新婚旅行にでかけた。『東京日日新聞』は大ニュースとして報じ、その末尾に、 「新婚後まもなき旅行は琴瑟《きんひつ》和調の本にて、西洋には常におこなわれるものなり」  と註している。女のひとり旅も、やっとこの頃から実現したと見てよい。 [#改ページ]   小股の切上った女 [素足の美学と「指|反《ぞ》り」の謎]  近ごろの女優さん、時代劇といえばきまって内股に歩く。水商売の女ではあるまいし、武家の婦人がわざと蟹股《がにまた》にして歩くとは何事か。あれでは自分の足につまずいて、ズッコケない方がどうかしている。  着物を着たら内股——の神話は、もっぱら「小股《こまた》の切上った女」の観念から来ている。  小股が切上るというのは足が外側へ湾曲し、膝が開いただけ足首の骨が内へ曲っていることだ。着物の上からでは急所のところが割れ、つまり小股が切上った形に見える。極端なことをいえば足の異常である。  なぜこんな足ができたかといえば、男尊女卑の封建時代、女は室内に正座していて外出することがない。運動といえばわずかに台所へ立つくらいのもの、よって醜い蟹股になった。運動不足の生活なので、お尻や胸の発育も悪く、ぺしゃんこだ。何という不健康さ! また蟹股に柳腰《やなぎごし》はつきものだし、全体に小柄なため小股の「小」の字がつく。  このタイプは、被圧迫の度合が強いほど極端になる。芸者や茶屋女など、水商売に小股の切上った女が多かったのはそのためである。妙に弱々しく頽廃的で、まったく抵抗力を持っていない。言うがままになる。そんなタイプに男どもは、こころよい征服感を味わって魅せられた。そして昔の中国の纏足《てんそく》のように、小股の切上った女に官能美を見つけたのである。  足首が曲っているのだから、歩くと内股になるのは当然である。だからそれは水商売の女に限るのに、時代劇では御台様《みだいさま》も、旗本のむすめもみな内股に歩いている。ばかな話だ。今の女優さんは小学校からスポーツで鍛え、小股の切上った女など一人もいない。お尻は大きく、足はすんなり、足首もまともについている。それにむりに内側へ曲げ、内股に歩いてはさぞ痛かろう。  ではどう歩くのか。内へも外へも曲げず、両足はスキーのように並べて平行線上をすべらせる。それが自然だし、歩きやすいし、小笠原流の作法でもその通りである。重ねていうが内股は水商売の女だけ、それをまねては大笑いだ。  芸者や茶屋女は、男どもが曲った足に魅せられると見るや、逆にそれを有力な武器とした。  足袋を嫌って素足でとおし、何かとかこつけては脛《はぎ》や太腿《ふともも》まで露出した。久米の仙人さえ通力《つうりき》を失った女の足、まさに男殺しである。  それは何と美しく、そして小粋《こいき》な存在であることか!  すき通るほどまっ白で、蝋細工みたいな足首がある。その両側には可愛い二つのくるぶし、そして形よく盛りあがった足甲のさきに、ちんまり愛嬌のある指が仲よく並んでいる。先端には五つの小爪が、桜貝をそのままに優雅に光っているのである。  この女性美の勘どころを、いち早く讃美したのは西鶴であった。貞享三年(一六八六)版の『好色一代女』に、美女の条件として、「面《おもて》道具の四つ(目・鼻・口・耳)不足なく揃えて、額はわざとならず自然の生えどまり、首すじ立ちのびておくれ毛なしの後髪《うしろがみ》、足は八文三分に定め、親指|反《そ》って裏|空《す》きて……」  と数えあげ、このあとへ腰つきや乳房の形がつづく。だから足は顔の次に、重要度の高い美人の条件だったことがわかる。  ところで問題は足の描写だが、「八文三分」は足の大きさを言い、一般に女は九文だからだいぶ標準より小さい。また「裏空きて」は土踏まずが空《す》いて扁平足ではない、中《なか》高のカッコ好い足のこと。はてな? と思うのは「親指|反《そ》って」だが、字義どおりなら足の親指が上へ反りかえっていること。だが、なぜこれが美しい足なのか、『好色増鏡』や『傾城請状』にもおなじこの表現がある。田螺金魚《たにしきんぎょ》の『当世虎の巻』で、遊女瀬川を身請《みうけ》するところにも、 「足の大指が反《そ》って言い分なしの玉だ」  とある。  これは読物だけでなく、浮世絵にもはっきり表現されている。西川|祐信《すけのぶ》・鳥居|清長《きよなが》の女はみな親指が反り、殊に春信《はるのぶ》えがく女は足の裏ぐいと空《す》き、指も反って西鶴の文章とぴったり一致する。  とくべつ目立つのは歌川|豊信《とよのぶ》の「涼み台に休む女」で、錦《にしき》うつぎの花の下、青竹の縁台に掛ける若い女は、デート疲れか暑さのせいか、乳房もあらわに単衣《ひとえ》ものを肩からずり落としている図。題字に「風はとほりぬ」とあり、不意に涼風がすそを払ったところだ。女はなお夢うつつだが、とたんに顔でなく二本の素足が、 「あれーッ」  と驚きの表情も豊かに跳ねかえっている。その片足は膝までまくれ、眩《まばゆ》いばかりまっ白な脛《はぎ》がまる見えではないか! そしてその足の親指は、どの浮世絵より大げさに、躍動的に反りかえっている。一体その反りかえりにどんな意味があるのか?  三田村|鳶魚《えんぎょ》グループの『西鶴輪講』(昭和三年)で、山崎楽堂は、 「親指反っては美人の相であると共に、もう少し立入った条件でその方の秘事があるのです」  と、含みの多い発言をしている。『一代女』には他に口元の小さい、親指の反った女に取り憑《つ》かれる話があり、語感からもとろりとした性的な素足が連想される。鳶魚グループのほとんどはすでに亡く、その秘事はいま聞くべきよすがもない。考証屋の私が奮起するしかないのだ。 [舐《な》めて哀しい女足の狂崇《きょうすう》]  ところで作家や浮世絵師が、こうも素足を讃美するのは、単に覗き趣味やポルノ好きに迎合したためではない。もっと人体の内奥に潜む、根源的な人間性を計算に入れたものである。作家や画家としては、むしろ素材への正しい対し方だったといえる。  それは一体、何かといえば、人間には足狂崇という一種哀しい病的感情がある。主として男が女性の白い足にあこがれ、やがてははげしく恋慕・崇拝すること。白|脛《はぎ》の曲線やちんまりした足指に、神々しいまでの畏敬の念を抱くのである。  クラフト・エビング(Krafft Ebing)の説によれば、足への愛慕|景仰《けいぎょう》は、相手への服従観念に発するという。はじめは女の素足を抱き、匂いを嗅ぎ、接吻する程度だが、やがて舐めまわし、踏まれ、蹴とばされて快感を味わうようになる。北ヨーロッパの神話では、女の素足をご神体とあがめたし、その狂おしい拝脆《はいき》ぶりはルイ十四世時代が絶頂であった。  ステルン(Bernhard Steren)の『ロシア風俗史』によれば、ロシア皇后の禁裡には、足の裏をくすぐるだけが役目の女が大勢抱えられていた。足の裏には繊細な神経があり、それがくすぐられると色情的な快感が湧く。そのための専属奉仕者で、六人ずつのグループで秘術を競い合った。  ところでこの悦楽技法、蒙古・韃靼《だったん》の民族から伝わったらしいと、この道の権威佐藤紅霞氏の説にある。とすると、正倉院の呉女面《ごじょめん》や水瓶《すいびょう》や五絃琵琶のように、南下して日本にも奇習は伝わっているのではないか。  眼玉を血走らせて探してみた。  あった! それは鎌倉時代の絵巻物『春日権現験記絵《かすがごんげんけんきえ》』に、異様な図柄で残っていた。  下げ髪に袿《うちぎ》の高貴の美女が、何と、素足を投げ出して、足指を下々の女に舐めさせているのである。舐められる美女はくすぐったそうだが、舐める女の方は奇妙な法悦にひたりきっている。この女は病気持ちで、景仰する貴女の足を舐めることで、病がなおると信じているのである。あたりには高僧や信者たちが、合掌して足を拝んでいる。まさに貴女の足は偶像化され、後光がさすほど美しいのである。ロシア宮廷よりもっと強烈で、狂信的な足狂崇が伝来していたのである。  日本の方が風土的に、妖しいその病患におかされ易いのかも知れない。乳母の素足を見たことが、初の欲情経験になったのはよくある例。女中の油っこい足に、偶然、少年の足がふれたため、奇妙な情交となるのも珍しいことではない。少年時代のそんなペーソスを、誰しも胸に秘めているであろう。  その足狂崇の異常さ、哀しさ、そして美しさを、完璧に描いたのは耽美派の谷崎潤一郎である。前期の作品『富美子の足』は、サディズムの富美子が瀕死の老人に、おのれの足を拝脆させる話である。  老人は日ごろ富美子の足を、こよなきものと恋慕し、愛玩していたが、病を得て早や余命いくばくもない。が、衰弱する意識の中で、時々うわごとのように富美子の足を求める。食欲などまるでなかったが、富美子が牛乳やスープを綿にふくませ、足指にはさんで口へ運ぶと、ちゅうちゅう指ごと吸って悦ぶのである。果ては臨終が近づいたとき、老人は珠玉の足に踏まれつつ死ぬことを願い、怪奇とも異常とも、言いようのない情景を展開する。中央公論社版『谷崎潤一郎全集』(第六巻)から引用させて頂く。 [#ここから1字下げ]  臨終の日には、お富美さんも僕も朝から枕元に附きつ切りでした。午後の三時頃に医者が来て、カンフル注射をして帰った後で、隠居は、 「あゝ、もういけない。……もう直ぐ私は息を引き取る。……お富美、お冨美、私が死ぬまで足を載つけて居ておくれ。私はお前の足に踏まれながら死ぬ。……」 と、聞きとれないほど低い調子ではありましたけれど、しツかりした語呂《ごろ》で云ひました。お富美さんは例の如く黙つて、不愛憎《ぶあいそ》な面持ちで病人の顔の上へ足を載せました。それから夕方の五時半に隠居が亡くなるまで、ちやうど二時間半の間、踏みつゞけに踏んで居たのですから、立って居ては足疲《くたび》れてしまふので、枕元へ縁台を据ゑて腰をかけたまゝ、右の足と左の足とを代る代る載せて居たのでした。隠居は其の間にたつた一遍、 「有り難う……」 と、微かに云つて頷きました。お富美さんはしかし矢つ張り黙つて居ました。「まあ仕方がない。もう此れでおしまひなんだから辛抱して居てやれ」と云ふやうな薄笑ひが、僕の気のせゐかも知れませんが彼女の口元に見え透いて居るやうに思はれました。 死ぬ三十分ほど前に、日本橋の本家から駆け付けた娘の初子は、当然此の不思議な、浅ましいとも滑稽とも物凄いとも云ひやうのない光景を、目撃しなければなりませんでした。彼女は父親の最後を悲しむよりは、寧ろ竦毛《おぞけ》を顫《ふる》つたらしく、面《おもて》を伏せて座に堪へぬが如く固くなつて居ました。しかしお富美さんの方は一向平気で、頼まれたからして居るのだと云はんばかりに、老人の眉間《みけん》の上に足を載つけて居たのです。初子の身になったらどんなに辛かつたか知れませんが、お冨美さんはお富美さんで、本家の人々に対する反感から、彼等を馬鹿にする積りで、わざとそんな意地ツ張りをしたのかも分りません。が、その意地ツ張りは、期せずして病人に此の上もない慈悲を与へる事になつたのです。お富美さんがさうしてくれたお蔭で、老人は無限の歓喜のうちに息を引き取ることが出来たのでした。死んで行く隠居には、顔の上にある美しいお富美さんの足が、自分の霊魂を迎へる為めに、空から天降《あまくだ》つた紫の雲とも見えたでせう。 [#ここで字下げ終わり]  というのである。まさに羽化登仙《うかとうせん》の姿で、これを哀れとか、浅ましいとかいうのは当らない。美しい女の足は、男にとって輝く珠玉であり、尊厳な神仏であり、またこよなき性器でもあった。何とも、すばらしく、しかも逆に罪なのは女の足である。  瓜田《かでん》より炬燵《こたつ》の足の疑わし [あッ、太夫の足指が反っている]  女は生まれながらに、この足の魔力をよく知っていて、百パーセント男を悩まして来た。  幕末の江戸本所に、「出し下駄」という名物女がいた。いうまでもなく下駄屋の女房だが、下駄の鼻緒をすげるとき、立て膝をしてわざとまっ白い脛《はぎ》をちらつかせる。高価な下駄だと扱いもていねいで、身を捻《ひね》って手入れするポーズになり、密林のあたりまで見せたりする。そのためこの下駄屋は大繁昌であった。  江戸の町芸者は柳橋など、大川ぞいに発生して粋《いき》を誇った。船宿や水辺の料亭へ呼ばれ、客にさそわれ屋根船で、納涼・月見に出かけることも多い。彼女らはその屋根船に乗るのに、屋根の横木に手を逆にかけ、足から先に滑りこむようにする。頭から先に乗りこむのはやぼの骨頂、しかしこれも考えてみれば、「出し下駄」の秘法そのものである。滑りこむとき客の眼の前へ、まっ白な足を露出させるためであった。  その最も挑発的で、濃艶きわまるのが吉原の花魁《おいらん》道中である。上はべたつく満艦飾《まんかんしょく》なのに、下はこれ見よがしの素足ではないか。思えば人形ぶりの「八文字《はちもんじ》踏み」も、魔性の素足美の強調にほかならない。  幸い旧吉原の松葉屋は、花魁ショーにそのおもかげを残している。とくべつ頼みこみ、化粧・着付から八文字を踏むまで、花魁道中のひと通りを見せてもらった。  その日のスターは加賀見太夫で、親子三代の吉原育ち、この道の唯一の伝承者である。 「失礼します」  と肌ぬぎになって、べたべた白粉を塗りはじめた。顔からはじめて顎・首すじ、背中やおっぱいまでまっ白にし、そのあと眉を書き、口紅をつけて仕上りである。  次にぱッと浴衣をぬぎ、花魁衣裳の着付けにかかったが、何とワンダフルにも、昭和の太夫は浴衣の下に、男のステテコをはいているではないか! お尻を盛りあげ、色っぽく見せるためだという。肌着の上には俗称「肉」という、防弾チョッキみたいな胸当をつける。これまた胸の線を豊かにし、傍々《かたがた》、急所防衛の隠し道具であった。  その上に遊女のシンボル緋《ひ》の長襦袢を着、腰紐・伊達巻のぐるぐる巻き、どうもお尻のふくらみが足りぬと、さらに小座布団をくくりつける始末だ。  その上にはじめて豪華上着をつけ、厚地の板帯でぎゅっと締めあげて出来上り。衣裳・小道具はステテコを入れて、何と二十八種にも上り、全工程にほぼ二時間を要した。  いや、まだおしまいではなかった。ホールに観客が詰まったとみえ、潮騒《しおざい》のようなざわめきが伝わって来る。いよいよ出の直前になって、裾《すそ》をまくって足化粧をはじめたのである。それは顔や首すじと同じに、板|刷毛《はけ》で塗り、牡丹刷毛で撫で、香水までふりかける念入りの厚化粧だった。すべすべした中高の足は、たっぷり白粉を吸って輝くばかり、ちんまりした足指も、厚化粧の禿《かむろ》に似て舐めてやりたいほど可愛い。  さて問題の花魁道中がはじまったが、裾をはね、ぐるりと大きく輪を描く外八文字は、明らかに魔性の足のデモンストレーションにほかならない。私は見とれ、『富美子の足』のご隠居みたいに羽化登仙した。だが、瞬間、私は胸の中で叫んでいた。 「あッ、太夫の足指が反っている!」  とはいえ楽堂のいう「その方の秘事」は、あまりの難問題でついにとらえ得ない。ただ、珍書『末摘花《すえつむばな》』の、  足の親指でつめってのみ込ませ  七つのを女房は足で揉んでやり  の二句が、或る程度、秘事の内容を暗示しているのではないかと思える。 [#改ページ]   岡場所|考現学《モデルノロギオ》 [赤線をまねるテレビの岡場所]  テレビの時代劇でおかしいのは、岡場所とそこに巣くう白首《しらくび》女である。やたらに首をまっ白に塗り、しどけない姿態で男を呼ぶ。その頽廃ムードはグラマー女優の役どころで、 「ちょいと、お兄さん」  などと付睫《つけまつげ》の眼でウインクする。グラマーだから鳩胸でっ尻《ちり》で、それで抜き衣紋《えもん》をするのだから大笑いだ。  この岡場所おんなのイメージは、まさしく戦後の赤線女から来ている。正直なところ筆者だって、バラックの新宿の赤線で遊んだことがある。下のスタンドで飲んでいて、話がきまれば二階のベッドで寝る。軋むお粗末な階段や、やっと身をすくめて入るペンキ塗りのドア。ネオンの裏側が窓枠に密着していて、その明滅で厚化粧の女の顔が幾色にもかわった。  無知で、怠惰で、すてばちで、救いようのないあばずれの女たちであった。昭和二十四年版の『街娼』に、中央保護所に入った赤線女の手記がある。そのうち秋田県出身、K子(十八歳)のものが最も切実である。 「七月二日の晩、Jと二人で公園の芝生にねころんでいたが、とうとうやられてしまった。その時の痛さといったらなかった。そのとき白いスカートに血がついたので、Jはびっくりして公園の小川で洗ってくれた。それから三、四日、ものをはさんでいるようで気持が悪かった。そのうちある友達が、京都の○○とやってごらんというので、友達がするように、一晩に三、四人も男をかえてやった。その時分は一晩に、五百円ほどしかもうからなかった。それもはじめは嫌やだったが、すぐなれて来た。今は一時間が二百円、泊りが四百円となっているが、私は男前には惚れるので、お金をくれと言いにくくなり、ただぼぼされることが多い」(略記)  ばかばかしい転落の動機や、お粗末な貞操観・人生観が如実にうかがえる。売春宿にいたらしいが、間もなく性病にかかって入院し、その治療費を稼ぐため、さらに深くK子は転落してゆくのである。  おきまりのタイプ、おきまりのコースである。テレビではそのままを、江戸時代に移して岡場所おんなにしている。何とお粗末!  岡場所の「岡」は傍、脇、引いては局外の意と辞典にある。岡惚れ・岡目八目などみな脇からのチョッカイである。岡場所も公認の吉原に対する、局外のセックスマーケットにほかならない。が、今ひとつ権威ある『大言海』には、 「公娼の苦海に対して、陸場所の義ならむ」  とある。公娼、つまり吉原との対比によるとらえ方を示唆している。問題はその辺にあるのではないか。  江戸は家康が来て突然できた街、はじめは侍と大工・土方だけがいた。ひどい女ひでりに野郎どもは、頭へ血がのぼって狂暴になった。これではいかぬと家康は、今の中央区堀留に公認のくるわ吉原を作った。  ざっと五十軒の遊女屋で、一軒に遊女五人としても二百五十人にすぎない。ドン・ロドリゴの『日本見聞記』に、慶長末年(一六一四)の江戸の人口は十五万人とある。町造りのごたごたで、女はほとんどいなかったのだから、二百五十人の遊女ではこなしきれない。需要のあるところ、地から湧いたようにあらわれたのが夜の女である。吉原の公娼に対し、非公認の娼婦だから私娼である。  生態によって夜鷹《よたか》・綿摘《わたつみ》・提重《さげじゅう》・ケコロ・船《ふな》まんじゅうなどと言い、湯女《ゆな》や飯盛女《めしもりおんな》も同類であった。夜鷹は持参の筵《むしろ》をひろげ、安直にことを終えるもの、綿摘は駒込あたり、綿摘むすめのいでたちで売春した。また提重は勤番侍に、弁当を運ぶと見せて先方で転んだ。もっとも語感がぴったりなのはケコロ、上野山下に出没し、蹴転《けころ》ばしの詰ったものである。  以上は街角や柳の下に立ち、暗がりへ誘いこんで男に絡みつく。が、ベテランになると「坐り夜鷹」のように、店を構えて客を待つようになる。これを「切見世《きりみせ》」といい、所定めぬ街娼よりよほど楽チンである。  湯屋が根城の湯女、旅籠《はたご》屋所属の飯盛女は、はじめから屋根の下で客と寝たから女郎に近い。その点、両者の中間的存在が船まんじゅうで、客を船中へくわえこんで怪しげな波立ちを水面にたてた。これは水上の切見世といえるが、どこの河岸へも自由に横付けにすることができる。  これらの私娼が群をなし、切見世を並べ、売春ルールみたいなものができると、江戸四宿(品川・新宿・板橋・千住)をひっくるめて岡場所と呼んだ。非公認だが脂粉の香りふんぷん、淫情|夭々《ようよう》として誰か家郷を忘れて遊興せぬ者があったろうか。  この岡場所、はじめは宿場、次に湯女風呂、坐り夜鷹の順でふえ、享保年間(一七一六〜三五)で七十余カ所、明和・安永(一七六四〜八○)には、何と百九十カ所にのぼった。  深川で二十五カ所、本所十四、京橋十五、日本橋二十二、神田十八、下谷九、浅草二十五……といった調子である。名のある岡場所はおふざけ「色里三十三所息子順礼」に、次の順序であげられている。  一番北国は吉原のこと、これは別格で二番が品川、三番目門前仲町、四番|表櫓《おもてやぐら》、五番|土橋《どばし》、六番大はし、七番|御旅《おたび》、八番四ツ谷、九番|氷川《ひかわ》、十番|音羽《おとわ》、十一番芝明神……とつづき、三十三番新川の蒟蒻《こんにゃく》島で終っている。  このうち江戸四宿に五百人、他の岡場所に九人ずついたとして、総勢二千人の私娼が棲息したといわれる。  江戸は四里四方で、その中に百九十カ所も岡場所があっては、五百メートルもいかぬうち色っぽいのにぶつかったであろう。柿色|暖簾《のれん》のかげで鼠鳴《ねずな》きするのを、子供に聞かれて親は説明に困った。 「あれはきれいなお姉ちゃんが、蜆《しじみ》売りを待っているのさ」  と答えながら、その夜、自分がお姉ちゃんの蛤《はまぐり》を買いにいったりした。 [セックスセンターの張りと意地]  やたら数字をならべるようだが、当時、吉原の遊女もおなじ二千人で、公娼・私娼はまさにいい勝負であった。実際、両者は何もかも対照的で、そして対抗的であった。  吉原は厚化粧に絢爛《けんらん》豪華な衣裳、ありんす語を使って見識ぶっている、すべて大げさで、勿体をつけ、要するにお高くとまっている。  これに対して私娼は、手拭をかむり、莚を抱え、ぶっきらぼうで安直に転んだ。吉原では最低の散茶《さんちゃ》でも金一分、今の金で一万二千円なのに、私娼のお代は二十四文で、たった百五十七円ぽっちである。  また吉原は公娼だけに、うんと営業税をとられたのに、岡場所は非公認だから税金が掛らない。賄賂政治の御大、田沼|意次《おきつぐ》が私娼にも課税しようと、岡場所の入口に「御上納金会所」を設けてみたが、結局うまくいかず廃止になった。  吉原ではそれが不満である。無税で非合法な岡場所が、安くて手つとり早いので大人気、どんどん客を取られたからである。そこで吉原では幕府に訴え、何度も私娼の取締りを要請した。もちろん私娼は風紀上、早くから法禁されており、かつて本人は晒《さら》し、仲介者は磔《はりつけ》というきびしい時代もあった。ずるずるべったりに甘くなったが、吉原の言い分はもっともだから、ときどき不意に岡場所へ手入れをした。同心や岡っ引など、警察官が動くので略して「警動《けいどう》」という。  岡場所はこれが嫌だとうろたえる  ケイドウで羽織をひとつ棒にふり  は、踏みこまれた客の醜態ぶりである。岡場所ではその時の用心に、抜穴やがんどう返しの壁が作られていた。  穴蔵はケイドウくわぬ御用心  江戸の岡場所の代表は、何といっても富岡八幡が中心の深川一帯である。川向う発展のため、大目に見られたこともあって早くから賑わった。  仇《あだ》は深川、いなせは神田……  といわれるほど、この地の芸者は粋で侠気を帯びていた。男みたいに羽織を着、仇吉・梅奴など権兵衛名《ごんべえな》をつけた。江戸城の東南に当るので、辰巳《たつみ》芸者と呼ばれたことも有名である。深川といえば辰巳芸者、辰巳といえば婀娜《あだ》と粋のチャンピオンという連想は、いつか不動のものとなった。  が、ちょっと待った。この辰巳芸者が来るまえに、深川はすでに岡場所として、多数の私娼が巣造《すく》っていたのである。婀娜と粋のご本家は、先住族のこの女たちではないのか。  富岡八幡は太田道灌時代からのもの、江戸のはじめ美しい参詣者でにぎわった。とうぜん門前に茶店ができ、茶酌《ちゃくみ》女が居付き、やがて売春へとすすむのはお定《きま》りのコースだった。当時はお粗末な水茶屋だったが、桃花の如き美形をあつめていたと写本『岡場所図絵』にある。場末の門前町だから、べたべたに塗ることも、着飾る必要もなかったであろう。  この桃花というのが見のがし難く、桜でも牡丹でもない、鄙《ひな》びた、さっぱりした美しさを思わせる。華麗な桜、絢欄たる牡丹が吉原の遊女なら、まるで違う薄紅の魅力といえそうだ。  粋のムードは色っぽさの中に、きりッとした意気地と淡白さを必要とする。常磐津《ときわづ》に、  張りと意気地の深川や  と歌った基本条件だったが、すでに彼女らにその素地ができていた。  江戸の急膨脹による、大量の必要物資は船で隅田川口の江戸湊に陸あげされた。その多数の船乗りが、航海ちゅうの欲情のはけ口を、深川の茶屋女に求めたのは自然のなりゆきであった。彼女らはたちまち私娼化し、深川は代表的な岡場所となったのである。  船乗りは航海ちゅう、板子いちまい下は地獄である。それだけに荒っぽく、さっぱりして諦めがいい。そんな船乗りを客にするうち、女たちも影響を受け、または対応の必要から、独特の気性とスタイルを作り出した。  張りと意気地は侠気を生み、自分たちが弱者のくせに、弱者の困窮にはひと肌もふた肌も脱ぐ。時にはそのため啖呵《たんか》をきることもあった。  逆に私娼という境遇に、静かな諦めと解脱《げだつ》を会得している。それはいぶし銀の美しさで、粋のだいじな要素を成した。  ではどんなスタイルが、この粋の理念から生み出されたか?  まずほっそりとした柳腰、髪形は小さく薄化粧、どんなに寒くても薄物を着、きまって素足でなければならない。着物の色はお納戸《なんど》(ねずみ色がかった藍色)かねずみ、けっして華やかなものを着ないのは、諦めと悟りから来た渋みであった。  深川の夜の女に、もうこの粋の下地がすっかりできていた。芸者が深川へ来たのはそのあとである。  芳町《よしちょう》は妖しい陰間《かげま》茶屋の本場、そこでどんな不埒《ふらち》をはたらいたか、芸者|菊弥《きくや》は鞭もて追われるように深川へ逃げて来た。ひどく美声だったので、小唄の師匠かたがた門前仲町に茶店を開いた。すると芳町当時の客が、大川を越えてわんさとやって来た。 「菊弥が八幡前にいるってよ」  まるでネス湖の怪獣でもあらわれたみたいに、妙な好奇心でおしかける奴が多い。芸者にふしぎな人気が出て、たちまち辰巳芸者の黄金時代を招いたのである。  が、お生憎さまでした。粋や粋すがたは辰巳芸者の創案ではなく、それより前に岡場所おんなが、ほとんど完成していたのである。その証拠に、「羽織芸者」という一枚看板の羽織は、思えばむさくるしく、野暮ったく、寒がりの田舎者が着るものだ。粋の本領は寒くても薄着で素足、そこに張りと意気地が感じられる。ある限りの岡場所おんなの絵を見たが、ただの一枚も不粋な羽織など着ているのはなかった。 [醜男に乗りかえる深川の心意気]  この深川おんなのきっすいの粋を、惻々《そくそく》と訴えるのは小唄の文句である。 [#ここから1字下げ] 顔にゃ迷わぬ姿にゃ惚《ほ》れぬ、たったひとつの心意気 野暮なお方の情《じょう》あるよりも、意気で邪見がわしゃ可愛い [#ここで字下げ終わり]  と粋のエッセンスを歌っている。おなじお色気でもべとつかぬ、涸《か》れた感じの婀娜っぽさには次のものがある。 [#ここから1字下げ] ぬしの来る夜は宵から知れる、締めたしごきが空《そら》どける 夢でこがれてうつつで泣いて、さめて悲しき床の内 [#ここで字下げ終わり]  あきらかに芸者でなく、寝るだけが商売の岡場所おんなである。さらに体臭を感じるような一節——。 [#ここから1字下げ] ぬしの寝顔をつくづく見れば、こうも可愛くなるものか [#ここで字下げ終わり]  また、諦めと解脱には、じーんとくる渋いのがある。 [#ここから1字下げ] 心ひとつでどうともさんせ、とかくお前の立つように 主《ぬし》をかえして二階へ上り、胸をおさえて茶わん酒 思いなおして鏡に向い、涙おさえて薄化粧 [#ここで字下げ終わり]  辰巳芸者よりこっちの方が、婀娜と粋の本すじである。芸を売り、座敷を賑わす芸者にこの哀しさはみじんもない。また付睫のグラマーでは、柳腰にも渋さにもまったく無縁、テレビの岡場所おんなはばかばかしくて涙が出る。  ところがこれらをひっくるめた、張りと意気地のよい標本がある。芸者と岡場所おんなの例話を、比較することで粋の神髄に迫るとしよう。  芸者の米蝶《まいちょう》が小鳥屋のまえを通ると、亭主が呼びとめて三十両もする高価な鵯《ひよどり》を見せてくれた。あまりの勿体ぶりが癇にさわり、いきなり籠の扉をあけて放《hな》っちゃった。すぐ三十両を取りよせて払ったが、いつか集まった人だかりから、驚歎のこえがあがったという。  この話、辰巳芸者の意気として伝わるが、何とも、鼻持ちならぬスタンドプレーに思えてならない。これに対して岡場所おんな、名も似たお蝶の話はこうである。  深川に黒さんという醜男《ぶおとこ》の客があった。醜男のくせにすこぶる多情で、どんな女も永くつづけて呼ばれることはなかった。たで喰う虫も好き好きで、お鷹という妓《こ》がこの黒さんに惚れ、他の女は買わせまいと決心した。  ところが、例によって黒さんは浮気し、売れっこのお蝶を呼んでやに下る始末。そこでお鷹はクレームをつけ、 「好きなら黒さんを譲ってもいいが、その代りみごと浮気をやめさせてみな」  という。お蝶には忠さんという恋人があり、その名を腕に彫りつけているほどだ。若くて美男で気っ風《ぷ》がよく、日ごろ皆に羨ましがられ、二人の仲は深川で知らぬ者はない。  それでもお鷹に開き直られると、へどを吐きそうな黒さんを、どうしてもものにしなければならない。死ぬほど好きな忠さんを捨て、摩利支天《まりしてん》に願かけて、身も心も黒さんに打ちこんだのである。それが深川岡場所おんなの、捨て身の生きる道であった。  恋風も辰巳になれば凄いなり  が、彼女らには意地を立てるための、何か自由な気風が感じられる。遊女や芸者が土地に縛られ、そこを苦海と歎いたのは、海に対する陸《おか》の意で、岡場所といった冒頭の解釈は間違いなかった。ともあれ岡場所おんなには、やぼったいすさみようはみられなかったのである。 [#改ページ]   「不義はお家の法度」考 [てんでフリーセックスの時代劇] 「不義はお家の法度」といい、奉公人どうし、ちょっと色目を使っても罰せられた。芝居『四谷怪談』の怪奇シーン、隠亡《おんぼう》堀の「戸板返し」がそのよい例である。  人三化七《にんさんばけしち》のお岩が死んだところへ、中間《ちゅうげん》小平が来合せたので伊右衛門はこれを斬り、二人を不義の心中者に仕立ててどぶ川へ流す。  ところがほど経て伊右衛門が、砂村の隠亡堀へ釣りにゆくと、戸板に釘づけになったお岩の死体が流れて来る。死体は流れに肉そげて、夏場の飴《あめ》細工みたいな為体《ていたらく》。伊右衛門、ぎょっとして斬りつければ、戸板は裏返しになって小平がはりついている。 「おのれ、死霊!」  狂おしい伊右衛門、暮れなずむ隠亡堀、心火《しんか》妖しく燃えて大ドロドロになるのが一篇のクライマックス。いかにも怪談らしい道具立て、鶴屋南北が一世一代の大フィクションと思われがちだが、何と、これが作劇の二年前、文政六年(一八二三)に本所の旗本屋敷であった実話をそっくり取り入れたものだ。  旗本佐伯屋敷の中間与平と腰元お咲、たがいに好き合って情交した。そのことご家老の耳に入り、不義はお家の法度で罰せられるところ、危うく逃げて心中した。そのとき死んでも離れまいと、戸板に体を結びつけて身投げした。流れ流れて死体は隠亡堀へ……。  その死んでも離れまいとの心情を哀れとし、当時、大評判になった事件である。 『四谷怪談』が当ったのは、いろんな怪異の新趣向によるが、実は不条理な恋のしがらみに対する、反撥と同情心によるものであった。それは人間の恋情の深い哀しみと憤りに根ざしている。  これに比べてテレビの時代劇の、何とふざけた茶番劇であることか! 相手かまわず惚れ合ってみたり、くっついたり、どうかすると主人の妻に懸想《けそう》して 「恋に上下のあるものですか」  などという。一体、作者は不義密通の法度、とくに姦通罪のきびしさを知っているのだろうか。まるで現代人の恋愛、現代人のフリーセックスぶりではないか。  てんで分っちゃいない。  封建制のバックボーンは「階級」であり、恋愛も結婚もその基本線の上でなされた。しかも法や体面という、二重・三重のしがらみにさえぎられていた。俗に「恋は曲者」というから、稀れに例外もないことはないが、幾重ものしがらみを乗り越えてのそれだけに深刻さが違う。 「いや、恋愛は今日だって真剣ですよ」  と開き直られそうだが、その深刻の度合いがまるで違うのだ。文字どおり命がけであった。  が、階級と年代により、同じ姦通罪でもがらりとようすが変って来る。テレビ作家にはそのけじめがつかないのだ。まこと恋は曲者——。  日本はむかしから儒学の影響で、男女七歳にして席を同じくしなかった。儒者のチャンピオン貝原益軒は、さらに輪をかけて兄妹でも同席を禁じ、衣桁《えこう》も風呂桶も性別にせよと言った。特に侍は、「女」ということばを使うことさえ柔弱として軽蔑された。それに階級意識が強く、よほどのことがなければ恋愛は生れなかった。  結婚は侍の場合ぜんぶ許可制で、親がきめるのだから惚れた腫れたはない。ふつうの旗本・御家人は、小隊長に当る組頭に結婚願を出し、大隊長格の頭支配《かしらしはい》の線で許可された。それ以上の高級旗本になると、老中、若年寄の許可となり、家格と役職によっては将軍の裁可に待たねばならぬこともあった。  その縁組にもタブーがあり、同じ組員どうしの婚姻は、派閥を作るからぜったい不可。また身分が違いすぎてもいけない。例えば高家《こうけ》が勘定方の平侍《ひらざむらい》から嫁をもらったり、五千石の旗本が、七十俵の徒士《かち》から妻を迎えることはできない。願書を出しても許可にならないのだ。諸藩も右へならえで、侍はまったく恋も、妻を自分で選ぶことも許されない。大和郡山藩の家老柳沢|淇園《きえん》は、随筆『独寐《ひとりね》』の中で、 「恋女房を持つのが神代からのならわしなのに、なぜ穴の中の貉《むじな》を値ぶみするように、本人の顔も見ずに妻をきめるのか。これほどおかしきことはなし」  と笑っている。侍は早く、そしてしゃにむに結婚させ、世継ぎを作るのが目的であった。願書を出したときが結婚の時、例えばその直後に婿さんが死ぬと、女は妻の扱いだから後家さんになった。お気の毒に処女の身で、見たこともない夫への貞操を一生守らねばならない。これを「行かず後家」といい、武家にはずい分多かった。実際これほどおかしきことはなしである。  が、百姓・町人の方は、武家に比べてよほどその辺は自由だった。誰の許可も必要でなく、十五になれば結納・婚儀を経て夫婦になる。男女は同席どころか、とかく危ない炬燵《こたつ》にもいっしょに膝を入れた。  炬燵の手明るい方へ出しておき  は殊勝にも、下でもぞもぞやってませんよの意。  母の手を握って炬燵しまわれる  という粗忽《そこつ》な奴もいた。婚姻は町人のばあい、法的には結納を受け取った時とする。  結納が来ると娘に錠が下り  結納のあと一方が死ぬと喪に服し、浮気をするとやはり姦通罪が適用された。ご用心、ご用心。  ふつう挙式のあと「大家といえば親も同然」の大家に届け、大家が名主に届け出て人別帳に書きこんでもらう。それも面倒がってやらず、腹ぼてになってから「実は……」と頭を掻き掻き届けるのが多かった。  また結納など並みの町人のこと、裏長屋の熊さん・八つぁんにはそれがないから、長屋の連中に一夜どぶろくを飲んでもらって万事オーケー、天下晴れての夫婦になれた。飲ませた時から法的の夫婦である。  婚礼は大物(!)入りとばか娘 [きびしい姦通罪とおさん・お熊]  ところで不義がお家の法度になったのは、ずっと以前の戦国時代である。諸大名の家法の中に、 「親類縁者といえども主人《あるじ》の留守に訪れてはならない。まして猥《みだ》らなことがあれば討ち果してよい」  などとある。それは、そうだろう。男は絶えず出陣し、命がけで戦っているのに、妻に浮気をされたら堪らない。そのための法度である。ヨーロッパで十字軍の騎士が、出征ちゅう妻の姦通をふせぐため、貞操帯を考え出したのと同じである。  その思想が江戸時代へ持ち越され、武家では有夫姦でなくても、主人や親の眼をぬすんで私通した男女は、共に成敗されるのが普通だった。私通とまでは行かず、好き合って夫婦約束をしてもいけないとする藩さえあった。前橋藩では親に内証で夫婦約束をしたら、密通同様に罰せられた。江戸のはじめは戦国の余風を受け、まだまだ私通を憎み、刑罰も残忍をきわめた。  が、それらは自然にできた家法だし、一言《ひとこと》に姦通といっても、相手やそのべたつきようにもさまざまある。和姦・強姦、それにいわゆる「魔がさす」こともあって一概に言い難い。八代吉宗は「法律将軍」といわれ、それまであってないようだった規則を、はじめて幕府の法律として制定した。姦通に対するいろんなケースと、それに対する刑罰もこのとき明確にきめられた。その中味を要約すれば次のとおり。  密通の妻とその相手の男は死罪。これは戦国以来の鉄則である。  密通の男女とも、証拠があればその夫が成敗してもよい。いわゆる「重ねておいて四つ」にしても構わない。  女が承知しないのに不義を申しかけ、屋内へ押しかけたときは斬り殺してよい。  姦通して実の夫を殺したか、または殺すようそそのかした妻は引廻しのうえ磔。そそのかされて殺した男は獄門である。  最も罪の重いのは、主人の妻と密通した男、これは引廻しのうえ獄門である。密通した妻も死罪を免れない。死罪と、磔や獄門は、死んでしまえば同じに思えるが、殺し方の残忍さがまるで違う。  気をつけねばならぬのは、 「縁談きまり候娘と不義致し候男は軽追放。但し、女は髪を剃り、親元へ相渡す」  の一ヶ条である。縁談がきまったかどうかは、武家なら願書、百姓・町人なら結納の時とすることは前述した。知らなかったではすまず、男は土地を追放される。困るのは女の方で、漆黒の黒髪に罪ありとして剃り落とされる。尼さんではお色気も半減、セックス犯の罰としてぴったりであり、ユーモラスでもある。吉宗はなかなかの名君だ。  さらに注意を要するのは、この姦通の刑罰がお妾さんにも適用されること。妾だからとうっかり浮気をすればこの法律でやられる。  名君といえばこの姦通罪、戦国時代よりだいぶ軽くなっている。ふつうの密通では死罪、夫が現場を押えたら、重ねておいて四つにして構わないという程度だ。それでも吉宗は、 「もっとまけろ、軽くせよ」  と繰り返したという。姦通ならすべて磔という、戦国の家法よりよほど甘い。姦通そのものはいけないが、人命こそ最高に尊いとしたのである。  したがって、この法律ができた享保(一七一六〜三五)前と後では、だいぶ刑罰に重い、軽いの差が生れた。  おさん・茂兵衛の姦通は、享保よりずっと以前の天和二年(一六八二)に起きた事件である。  おさんは禁裡《きんり》ご用の大経師《だいきょうじ》意俊《いしゅん》に、特に望まれて嫁いだのだが、夫の留守ちゅうふとした間違いで奉公人の茂兵衛と関係ができる。  ふたりは後悔しながらも、茂兵衛の故郷丹波の山奥へ逃げていって隠れる。が、結局は追手に捕えられ、おさん・茂兵衛ともに引廻しのうえ磔、茂兵衛の兄弟三人も、不義者をかくまった罪で追放になった。  これに対して享保十二年(一七二七)、つまり法律ができてから起ったのに白子屋事件がある。江戸新材木町の材木商、白子屋庄三郎のむすめお熊はたいへんな美人、実直な又四郎を婿さんにしたが、どうも物足りなくて二枚目の番頭忠八と乳くり合った。  庄三郎の妻、すなわちお熊の母おつねも、髪結の清三郎と妙な噂があるほどの女、むすめ婿の又四郎を嫌い、如才ない番頭忠八をあとつぎにしたい。そこでおつね・お熊は共謀して、ちと頭の弱い下女の菊を使い、又四郎を謀殺しようとした。そこで菊に、寝ている又四郎の部屋へ忍びこませ、喉を突かせたが失敗した。菊は掴まり、奉行所でいっさいを白状した。  時の町奉行は大岡越前守、四人に対して次の判決を下した。  又四郎の妻お熊(二三)は引廻しの上死罪、番頭忠八(三八)は引廻しの上獄門、直接手を下した菊(一七)は死罪、庄三郎の妻おつね(四八)は遠島であった。  お熊はあきらかに姦通の上、嘱託殺人で本夫を殺そうとした。最悪の犯罪で、以前なら極刑のところただの死罪である。その代り忠八が極刑の獄門となったのは、主人の妻と密通したからである。頭の弱い菊の死罪は気の毒、またおつねは殺人教唆だから遠島は当然だが、髪結清三郎との「黒い噂」はどうなったのか。「灰色の強姦」をそのままにして、一件落着としたのは名判官らしくもない。が、この二つの事件で、姦通罪はだいぶゆるくなったことが分るであろう。  惜しいこと情夫《いろ》を亭主にしてしまい [名君の慈悲すぎて姦通大流行]  諸藩では幕府法に見習い、それぞれ藩の法律をきめることになっている。だからどこの藩法も、享保以後ぐっと処罰が軽くなった。が、中でも土佐は特に甘かった。例えば人妻と姦通しても、「男女同罪で追放」とあるだけ。幕府法では死罪なのに、こっちは男女とも追放だから望むところ、駈落ちの公認みたいなものだ。  もっとも重罪の主人の妻と姦通した場合、これも他国払いだけですむ。まこと南国土佐はセックス面でも開放的。残念! むかしの土佐に生まれればよかった!  それはともかく、姦通罪の緩和は、戦国後百年の平和と相まって、急にフリーセックスの風潮を生み出した。マジメ将軍吉宗の時代だというのに、姦通や心中が急増したのは皮肉である。  町内で知らぬは亭主ばかりなり  あの人と亭主夢にだに知らず  この頃はつくるに亭主気がつかず 「つくる」は念入りのお化粧をいう。みな享保の川柳で、浮気ムードにあふれているばかりか、姦通を遊戯視さえしている。  姦通法の中には、その証拠さえあれば、夫が勝手に姦夫・姦婦を処分してよいとの一ヶ条がある。重ねておいて四つにしてもいいが、あわれと思えば許してやっても構わぬ。それは夫の心まかせにせよと取れないこともない。  一体、姦通は本人が悪いのと、夫がぼんやりしているから起ることだ。成敗しても笑われるだけで、決して名誉なことではない。  四つにしようか馬鹿になろうかハーテナ  という川柳がある。表沙汰にして何の得もないし、成敗しても後味が悪いとなれば、汚職の金脈じゃないがうやむやにして揉み消した方がよい。或る浪人が就職さがしに留守がちだった。その間に妻が姦通しているとの噂が立ち、なるほど夫は証拠をつかんだが、近くの野で狐を斬って来て軒先へぶら下げておいた。そして忍んで来たのは狐だったと言いふらして事ずみにした。仕官の口がふいになるからである。  が、これは質《たち》のいい方で、相対《あいたい》といっても本夫の方が強く、出方によって姦夫は死罪になる。そこで勘忍料、慰藉料を取ることがはじまり、 「不義者、見つけた!」  で、本夫は刀の代りに手を出した。姦夫の方も即座に承知、勘忍料に相場さえできた。江戸ではその額が七両二分、上方ではやや安く五両だった。  生けておく奴ではないと五両とり  もはやのがれぬ尋常に五両出せ  これを「間男《まおとこ》の首代」といった。ひどい奴がいるもので、はじめから首代を出して姦通する奴まで出た。  音高しおさわぎあるなハイ五両  これでは話はあべこべで、売春とすこしも変らない。  太い奴人の女房まで泣かせ  あべこべといえばこんな話がある。  享保十一年(一七二六)のこと、御番所足軽津右衛門の女房が、同役の利助と姦通した。津右衛門が察知して女房を責めると、女房は「突くなと斬るなと勝手におし」と居直ったので、かえって津右衛門の方が逃げ出した。  恥をつつんで女房へのしを付け  享保の前後でこうまで違うのを、テレビはまるで分っちゃいない。一口に江戸時代といっても、前期・中期・後期で風俗・制度は大違いなのである。 [#改ページ]   吉原を科学する [素顔の吉原へご案内]  吉原は不夜城といい、柳暗花明の里として、芝居の舞台をそのままのイメージができあがってしまった。芝居では二階・三階の妓楼が立ち並び、屋号入りの暖簾に軒提灯《のきぢょうちん》、仲之町《なかのちょう》の中通りに桜並木がらんまんの春を告げ、花燈籠に限りない情趣をただよわせている。  その廓《さと》に妍《けん》を競うのは、後光のように輝く髪飾りに、けんらん豪華、目をおどろかす万金の衣裳を着た遊女たちである。一名「大名道具」ともいわれ、歌・俳詣・茶道・生け花にも通じ、単にセックスセンターだけではなく、当時の高級社交場……などと、どんな本にも大まじめで書かれている。  テレビの制作者やディレクターは、ほとんど吉原を知らぬ昭和生れだから、芝居や錦絵の吉原しか頭に浮かばず、また大嘘の書物と首っぴきで、その通りをやって得意がるばからしさ。歌舞伎は絵画的な美しさだけを狙ったもの、遊びの悠長さや吉原情緒など、通人ぶった奴が書き残したきれいごとに過ぎない。一体、十両も二十両も出して、厚塗り・満艦飾の化物みたいのを眺めるだけで帰るお人好しがいるものか。  ずばり言って遊女は性欲のはけ口であり、吉原はその公認施設にほかならない。その濃厚な性交描写は、当時、写本で大いに出廻ったが、明治以来、活字で複製・頒布すると大目玉を食ったことは勿論である。  だから吉原の無難なところ、屁でもないことを誇張して、まるでありもしない世界を作り出した。リアリズムが金科玉条の、近来のテレビ制作者がまるでそれをご存知ない。そのため遊女を置物化し、何の疑問も起さないのは現代の怪談というほかはない。  吉原の客は疑いもなく性交が目的で、若者なら行為は一夜数回に及ぶ。一体、あの原爆型の髪と、後光みたいな髷《まげ》飾りで、全身のはげしい絡みつきや波動に堪えられるのか。ディレクターはふしぎに思わないのだろうか。ばかな話だ。  吉原は明暦三年(一六五七)の大火を機に、一等地の葺屋町《ふきやちょう》から浅草寺《せんそうじ》裏の千束村へ移って来た。一般のマジメ町家の中にセックスセンターをおくのはまずいので、移ったというより追い出されたのだ。  当時、このあたりは低湿地で、蛙となめくじと藪っ蚊の天国であった。そこへ人間が割りこんだわけで、切実な性欲求がなければ、誰が藪っ蚊にさされにゆくものか。  しかも吉原は広く思えるが、実は京間で南北百三十間(二百五十メートル)、東西百八十間(三百五十メートル)、総面積は二万七百六十七坪という、地方なら家老屋敷より狭い一区画である。  北へ向く大門《おおもん》を入ると仲之町、その右手前から江戸|町《ちょう》一丁目、京|町《まち》一丁目があり、左手は江戸町二丁目、角町《すみちょう》、京町二丁目と並ぶ。これが俗にいう「吉原五|丁町《ちょうまち》」……などというから広く聞えるのだ。南北へ通じる仲之町は二百五十メートルしかない。道幅はわずか一、二メートルで、そのまん中へ桜並木を作ったのだから狭くてしかたがない。  今はこの吉原五丁、全体をひっくるめて千束四丁目となったが、大門あとから見ると仲之町の末まで、かんたんに一望の中に入る。江戸町・京町の切れ目の路地も、仲之町をゆくと次々とひと跨ぎのところにある。現地へ実際に来てみると、どんなに吉原の規模が小さく、芝居から受けるイメージが、どんなに不当にふくらんでいるかが分る。  この吉原五丁をめぐり、おはぐろ溝《どぶ》という幅五間の堀がめぐらされていた。一般社会と隔絶し、遊女の逃亡を防ぐためであった。出入口は大門だけで、完全に二万余坪は娑婆と絶縁した密封社会であった。  この狭い地区に遊女だけで三千人もいたし、妓楼の使用人や芸者・幇間《ほうかん》、仕出しの料理屋まであったのだから、五、六千人は常に住んでいた。一人当たりのスペースは、道路を入れて三坪ほどしかない。が、これは住人数だけのこと、遊客の数を入れるともっと狭い。  俗に、「遊女千人に客一万」  といわれるように、一人の遊女に十人の客が来るという意、三千の遊女がいるから三万人が集まる勘定だ。  もっとも、「ちょんの間《ま》」といって一発きり、簡単に用をすませて帰る客がいる。だが、泊るのは三人に一人としても三千人、定住者と合わせてざっと一万人近くが毎夜この廓内にいた。狭い、狭い。道路を入れて一人わずか二坪ではないか。畳敷の部屋だけなら一坪か半坪になろう。何が柳暗花明なものか。遊女と寝てもろくに寝返りさえできないではないか。柳句、  雪隠《せっちん》を一人出てまた一人出る  は、中での怪しい事をいっているのだが、いかに屋内が狭いかをも表現している。メカニズムの先端をゆくテレビが、まるで理屈に合わぬことをやり、その不合理を調べてみる気さえないのは呆れたものである。 [一夜遊女を抱いた気になって……]  吉原の遊びといえば、豪商紀伊国屋文左衛門が、三度まで大門を閉めさせて遊女を総あげした話、仙台藩主伊達|綱宗《つなむね》が、三浦屋の高尾を身請けするのに、彼女とおなじ重量の小判を積んだという話をすぐ思い出す。  紀文のお馴染みの几帳《きちょう》も、綱宗の相方だった高尾も、いうまでもなく最高級の太夫《たゆう》だった。和歌に、箏曲に、当時、女性の教養としては最高で、その名のとおり「大名道具」だったことに間違いはない。  満艦飾の主《ぬし》はこの太夫で、勿体をつけたことは無類である。  客になるには妓楼でなく、揚屋《あげや》へ呼んで見合をするが、その途中が有名な「太夫道中」である。足をぐるりと外側へまわし、スローモービデオのように寸刻みに歩く。足先が八の字になるので「八文字《はちもんじ》を踏む」というが、その調子だから百メートルを二時間もかかって歩いた。  全盛は花の中ゆく長柄傘《ながえがさ》  がそれ。  客はその間おおあくびで待ち、やっと太夫が来ても盃ごとだけで終り、それで何と十両や二十両(一両は今の四、五万円)は飛ぶ。が、セックスの方はお預けで、日をおいて二度おなじ遊女をあげ、前より三十センチほど近くへ坐るだけで、また同額の祝儀を取られるのだ。やっと太夫の部屋へ通され、はじめて床入りするのは三度目であった。何とも気の長いことに、  三会目こころの知れた帯を解き  となる。  この順序や川柳は、おびただしい吉原研究書に、禿茶瓶の江戸マニアが畏《かしこ》み、畏み書きこんでいる。それをまた畏み、畏み信じ、吉原の遊興はすべてこの方式としたいいかげんなテレビを見せられる方こそいい迷惑だ。  はじめ紀文や綱宗時代、勿体ぶって凄い遊興費を取った。それは事実だが、あまり阿漕《あこぎ》な勿体ぶりに、この方式はだんだん敬遠された。太夫道中や盃ごとはほどほどにして、本来の目的に突入したのである。  嘘をつけ、吉原はそんな性交センターではなく、高級社交場だとどんなに上品ぶってみてもだめである。問題の太夫は宝暦年間(一七五一〜六三)までで、あとは形だけまねた花魁となり、転び専門に落ちたのが何よりの証拠ではないか。  遊女の階級には格子《こうし》・散茶《さんちゃ》・うめ茶・局《つぼね》などがあり、それぞれ由来と値段が違うこと、これまた汗牛充棟もただならずの研究書にあるからくり返さない。が、彼女らこそ股間の道具一本やりで、もっぱら性交を本務とした。  花魁以外のお安いのは、朝の六時ごろ朝帰りの客を帰すと、また布団へもぐりこんで夢うつつ、前夜奮闘の疲れを癒やす。起き出すのは十時ごろで、朝湯へ入り、道具に磨きをかけ、首すじから顎へかけてべったり白粉を塗りたくった。乳房の上から背中まで塗るので、湯からあがってもほとんど半身まる出しの抜き衣紋《えもん》である。  昭和のはじめ私がまだ童貞のころ、妓楼の窓から二人の女郎が、その抜き衣紋でぼんやりおはぐろ溝の水面を見つめていたのを覚えている。湯あがりの肌によく白粉が乗り、溝のこっちから見たのだが、それはもう、ふるいつきたいほど色っぽかった。  なぜ首すじだけ塗っておくかといえば、  武士の早糞、女郎の早化粧  といって、不意に客が来たら顔だけべたべたと塗って飛び出すのである。  事実、田舎っぺの客など正午《ひる》ごろから来ることがあり、稼ぐ妓《こ》は昼見世へ出て客を呼んだ。  ふつうは正午ごろまでごろごろし、それから化粧にかかり、衣裳をつける。近ごろ新名所となった吉原(現千束四丁目)松葉屋で、花魁道中を取材のため私が実見したところでは、花魁が身につける衣裳・小道具は二十八種、着つけの全工程にほぼ二時間を要した。  格子や散茶はもっと簡単だが、それでも白粉は三度塗りで、着付に一時間はかかっている。  花魁以下は二時ごろ張見世《はりみせ》へ出て、格子の間から吸付け煙草をぞめきの客に渡したり、そんなお定りの情景は他書に譲るとしよう。馴染みかふりの客か、また、暖簾をくぐり、座敷で酒を飲んだか、飲まないか、それも端折って、何はともあれ床入りへ話を飛ばすとしよう。  花魁は本部屋といって自室へ迎える形だが、格が落ちるにしたがって部屋は狭くなり、うめ茶や局、端《はし》女郎などになると三畳の屋根裏や、時には屏風で仕切っただけの割部屋となる。  しかも客を臥床《ふしど》へ入れたあと、なかなか現れぬのが遊女の手であった。さんざん男をじらせておくと、勃起していて事が早くおわる。女郎がいちいち気をいかしていたら、幾つ体があっても持たないからであった。  初会《しょかい》には道草を食ふ上草履  上草履《うわぞうり》は女郎が廊下で履いた独特のもの。たいてい「廻し」といって、二、三人他の客も取っているので新客はあと廻しになるのだ。  初会には器を貸すと思ふなり  何の情感もなく、性器を単に借りもの、貸しものと見ている。  拭き紙は吉野の葛《くず》で漉《す》かれた吉野紙、薄手ですだれのように透けて見えるから「御簾紙《みすがみ》」ともいわれた。  御簾紙で薄い情けを拭いてとり  は実感がある。他に、  腹に波立つと抜手で紙をとり  御簾紙でむごく握ってついと扱《こ》く  などあるが、解説するとかえって情感を損なうであろう。ご想像に任せる。 [おはぐろ溝と哀れ遊女の実像]  とは言え、遊女必ずしも機械的に客の欲情をさばいていたのではない。  ためいきを一つして御簾紙をとり  女郎といえども女であり、商売をはなれて気のいくこともあったのだ。哀しくも女体だから、そうなれば子を孕《はら》むことになる。六代目高尾は一名「子持高尾」といい、産んだ子を乳母に抱かせて花魁道中をした。  しかしこれは特殊の例で、ふつう妊娠しても堕胎するのが常識であった。  粗相《そそう》しんしたと中条《ちゅうじょう》へそつと言ひ  遊女の妊娠は恥としたので、婦人科の医者中条にもそっと告げるありさまである。  妊娠には関係ないが、江戸後期になると梅毒・淋病ともあり、それへの配慮から厠《かわや》には洗滌施設が見られた。  性交と放尿は関連作用で、娼家では客用の便所は二階の一角にあった。が、遊女用は一階の奥まったところにあり、二つの足乗せ台の中間を溝が通っている。傍に薬罐と水鉢があり、遊女は溝にまたがって放尿のあと、湯を水鉢にそそいでぬるま湯とし、局所を洗滌したのである。  二階の男便所もこの女用も、排泄物は樋でおはぐろ溝へ流しこまれた。洗滌のあと使った紙は、流すと樋が詰まるので、捨て紙入れの籠まで女便所に備えつけてあった。  おはぐろ溝は遊女がおはぐろをつけたあと、余り水を捨てたからの称とされている。が、そのうえ二万人、三万人の尿を流しこまれては、今日では糞尿公害として大問題であろう。  当時、糞尿は唯一の肥料として、農家では喜んで買っていったものだが、廓の糞尿だけは汚ならしい(?)と敬遠された。そのためおはぐろ水と排泄物が混合し、何とも堪えられぬ嫌な臭いと色を呈していた。臭いの、何の……。  ところがこのおはぐろ溝を、あまりの遊女生活の苦しさに堪えかね、泳ぎ渡って逃げる女郎がいた。臭い、汚い、と言ってはいられない。一方口の警戒は厳重だから、女郎が脱出するにはこの方法しかなかったのである。  彼女らがどんなに苦しんでいたか、昭和初期の吉原遊女の手記『春駒日記』にそれを見ることができる。  春駒は搾取され、性病で吉原病院へ入院した。そしてもう売春生活に堪えられず隙を見て逃げ出したのである。 「二年間! 過ぎ去った二年間を思えば短いようですが、私に取っては全く苦しい永い月日だったのです。人間の尊さ、若さをここでめちゃくちゃにされ、野獣のような楼主の餌食となり、血の出るような悲惨な苦しい毎日を過ごして来たけれども、今日(の脱走)こそ本当に生れかわる日のように思われてなりませんでした」  この一節に遊女の虚像はふっ飛び、ぎりぎり追い詰められた彼女らの実態を見ることができよう。芝居やテレビの遊女とは、何という大きな相違だろうか!  さて、忘れてならぬのは、最初の設問たる原爆型の髪型、後光のような髪飾で、遊女はどうして寝るのかということ。勿論、後光のような大型のものは外し、三枚櫛や花簪《はなかんざし》もとるのだが、銀のピラピラだけは残して寝たという。  なぜそれだけ残すかといえば、クライマックスで全身が波動を起したとき、ピラピラ光って特別の情趣をかもし出すからだそうな。  そう答えたのは、取材時にちょうど松葉屋へ来合せていた年増芸者である。 「ところで姐さん、あの大仰《おおぎょう》な髷はどうしたんで? あんまり揺すっちゃ崩れませんか」  と私。……すると姐さんは間髪を入れず、 「そりゃ、寝るには鬢《びん》も髱《たぼ》も上へあげるんですよ。むかしはそれ用の髪道具がありましてね、項《うなじ》を上手に箱枕の上に乗っけるんです」  と、きわめて明快な答えが返って来た。なるほど、大きなナイトキャップのような道具を使えば、完全に仰向きに寝ることができる。ふつう遊女は正常位でさっさとすますから、素人女が仰向きに寝ると、 「女郎のようだ」  とたしなみのなさを笑われた。年増芸者の話はつづく。 「髪を気にして箱枕を外すと、花魁の腹へ子が入るといって、むかしはひどく嫌ったもんですよ。そうそう、箱枕といえば引出しのある上等のもありましてね、端に小さな鈴がついているんです。抱かれて寝て揺れる度に、ちろちろきれいな音が出るのがとても堪らなかった……」  真実の吉原情緒はそんなところにある。誤った吉原のイメージを改めねば、十年、二十年後にはわけがわからなくなるであろう。 [#改ページ]   大奥お錠口《じょうぐち》の怪 [光る銀みがきの錠が特徴]  先ごろふと見たテレビの大奥ものに、将軍綱吉が大奥入りするシーンがあった。コールマン髭の好色将軍、表と奥の境目お錠口へ近づくと、厚いとびらが自動ドアさながらにスーッと左右に開く。綱吉のその眼つき、いかにも蕩児らしくて満点だが、かんじんのお錠口の奇怪さには驚いた。  まずポイントの錠前だが、そこらで売っている鉄製の錠に見えたはひが目か。残念ながら大奥では、そんなお安いのは用いず、銀製の美しい錠前を用いていた。  第二に、扉が左右に開くほどお錠口は広くもなし、御表側と大奥側に、二重の自動ドアになっているのも恐れ入った。送り、迎えの者はどうしたのか。そんな係りはいないから、二枚の扉の中間は真空地帯になってしまう。そんな空間がもしあつたら、曲者が潜み、将軍の命が狙われるではないか。もちろん一枚で、重く分厚い大杉戸であった。  考証屋とは因果な商売で、こんな時代劇を見ると黙っておられず、この際、大奥の猟奇ポイント、お錠口および七つ口についてまとめることにした。  江戸城本丸は御表・中奥《なかおく》・大奥にわかれ、表御殿は幕府の政庁、中奥は公邸で、大奥が将軍の私邸たること、マル秘大奥ブームにより、よく知られている。中奥までが男のいる世界、大奥は将軍の家族と、その奉仕者の奥女中のいる女人国であった。したがって御表・中奥の間にとくべつの境目はないが、中奥・大奥の間は高い銅塀によってさえぎられている。これらを乗り越えるのは不可能で、中奥から大奥へはただ二つの通路によってのみつながっていた。すなわち将軍専用の上お錠口と、火事など非常時に女中の逃げる下お錠口である。ふだん厳重に錠が掛けられ、ためにお錠口といわれるのだ。川柳にもある。  お錠口これ陰陽の国境い  この上下お錠口のほか、今ひとつお錠口のあることはあまり知られていない。  大奥は男子禁制といえど、幾つかの例外的人物が出入りした。そうでなければ食料も運べず、水洗便所じゃないから大奥は糞尿攻めになる。  まず参入を許されるのは、将軍の姻戚大名と老中・御留守居など関係役人、それに医者と坊主と九歳以下の男の子であった。これら例外の男性は、大奥の御座敷または対面所まで、御客会釈《おきゃくあしらい》の案内でゆくことができた。彼等は中奥のお錠口からでなく、御切手門を入って大奥玄関を上り、その突きあたりのお錠口から参入した。これは玄関お錠口とでも呼ぶべきで、つまり大奥のお錠口は三つあることになる。  大奥はさらに将軍家族のいる御殿向《ごてんむき》、女中の宿舎の長局《ながつぼね》、それに大奥事務局の御広敷《おひろしき》に分れる。女人国は御殿向と長局で、御広敷には大奥警備の伊賀同心と、大奥の食事をつくる賄方《まかないかた》、味や毒味をする吟味役など男役人が詰めていた。よって狭義の大奥に御広敷は入らず、第三のお錠口はこの御殿向と御広敷の境目にあった。  御広敷で目立つのは広い台所で、大きな料理台やかまどが据えられ、上下《かみしも》をつけた男の調理人が将軍家族の三度の食事をつくった。たて矢の字の女中衆が、姉さまかぶりで調理するのではない。出来ると吟味役が毒味をし、お錠口まで膳を運んでいって女中衆に渡した。女中はこれを大奥お膳所へ運び、ここでお中臈《ちゅうろう》(事務官)がふたたび毒味をした。そうこうするうち料理は冷めるので、御台様《みだいさま》も姫君も熱いものを食べたことがない。そのためみんな猫舌だったという。  この調理人のほか、もっと下級者で大奥へ入らずにすまぬのが畳職人である。畳替えの日は女中たちを一カ所へ集めておき、城内の畳蔵から新しい畳を運び出してバタバタと敷き替えてしまう。敷き替えたあとへまた女中たちを移し、残る半分を急ぎ敷き替えるという方法をとった。まるで掃立《はきた》ての蚕だが、その間、男ひでりの大奥では、どうしても一人や二人、職人の紛失はまぬがれなかった。受難の畳職は誘いこまれ、もてあそばれ、ミイラのように涸《か》れて糞壷から出て来た。  大奥の汲取りは葛西《かさい》の百姓が受持ち、江戸城まぢか辰の口まで糞尿船を漕ぎ入れ、平河口から肥桶《こえおけ》をかついで参入する。職人みたいにいなせでなく、これなら大丈夫と女中を掃立てないでいると、何と、やはり汲取り百姓も紛失した。そして彼らが汲み取るべき糞壷から、仲間の百姓によって汲みあげられた。臭い恋の結末である。  むごいこと男ひでりを親がさせ  男の紛失で一番ひどいのは、明暦三年(一六五七)の振袖火事に、甲斐国|谷村《やむら》城主の秋元越中守|富朝《とみとも》が、大奥へ見舞いに入ったまま消滅した事件である。  この大火は正月十八日、本郷丸山の本妙寺から出火、西北の風にあおられて神田・浅草・京橋へ延焼、川向うへ飛んで深川・佃島を焼いてその日はおさまったが、火種が残っていたとみえ、翌十九日に小石川伝通院まえの町家から燃え出し、牛込門・神田橋門・大名小路・数寄屋橋門などをつぎつぎに焼いた。  それも一旦おさまったのだが、夜に入って三度番町から燃え出し、このとき江戸城本丸が類焼した。  秋元富朝が大奥を見舞ったのは、もちろん出火の十八日朝で、二日後に城が類焼するとは夢にも思わない。奥女中たちは玄関お錠口から富朝を誘いこみ、油っ気を吸いとってミイラにしたと思われる。一万八千石とはいえ天下の大名、火事だから蒸発ではすまされず、手を尽して探したが焼死体はついに出なかった。大名だけに糞壷ではなく、城内十七カ所の井戸の一つに捨てられたと見える。  それはとにかく、問題のお錠口と参入の模様についてのべよう。玄関お錠口は黒枠のお杉戸二枚、一枚一間とすれば二間幅となる。毎朝六つ(六時)にあけ、夕六つ(六時)の太鼓でしめた。開閉には男の側からお広敷|番之頭《ばんのかしら》・伊賀同心、女の側から表使《おもてづかい》なる中堅女中が出、双方その場に手燭をおいて一礼、杉戸を締めた後、外側は伊賀者、内側は使番の手でそれぞれ錠がけした。あとは内外とも不寝番が立った。お錠口に近く伊賀者詰所があり、参入者はそこで大刀を渡す。受け取った伊賀者は、老中・お留守居ならお錠口の外側で、その刀を捧げ持って退出するのを待つ。医者もおなじく小刀を脱する。が、これは受け取るとそこらへほうり出しておいたという。  老中でもそうだから将軍のばあい、お小姓が愛刀を捧げて供をしたこと勿論である。二枚の大杉戸が境界たることも同じ、だから自動ドアにはならないし、外側にお小姓、内側に高級女中の送り迎えがないのはおかしい。  お錠口に近く鈴があり、そのため一名「お鈴口」ともいい、続く通路を「お鈴廊下」といった。鈴は二寸径で七個、将軍の出入りに合図として内側から鳴らした。  御殿中こころの動く鈴の音  問題はこの鈴がどこにあり、どんな音色を出したかだ。リンリンではなく、グウグウと鳴ったともいうがはっきりしない。鈴には長い紐がついており、それを引いてリモコン式に遠方操作ができたこと、  鈴引いて殿を女の子に渡し  の川柳でも明らかである。  が、このお鈴の紐がばか長い。幕末の中臈大岡ませ子に取材せる三田村鳶魚『御殿女中』に、 「夜になるとお鈴廊下の紐を繋げます。繋げると長さ一町(百メートル)ほどになりましょう。お鈴の紐は太い萌黄《もえぎ》の打紐《うちひも》でした。上(将軍)のお出入りのほかにお鈴の紐に触れて鳴らしたら大変な間違いになりますから、誰彼にも厳しく申渡されていました」  とある。一体、何のために長い紐をつけたのか? なぜ夜だけ長い紐を、さらに長くつないだのだろうか? いいかげんな時代劇よりも、このお錠口の怪事がよっぽどおもしろい。 [腑抜け忍者とおお甘の七つ口]  姻戚の大名や役人、それに畳職人・汲取りのほか、さらに出入り商人が女中に接する通路が大奥にはあった。下級女中の宿舎につづく「七つ口」がそれである。  大奥の中心は御殿向《ごてんむき》だが、その北面に細長く付属するのが長局《ながつぼね》。役付の高級女中が入る、いちばん脂粉の香り濃い一角である。「一の側」から「四の側」まで四棟から成り、それぞれ二十軒に区切られた棟割長屋である。上臈・御年寄・御客会釈・中臈など、偉い順に一の側から入っていた。  この長局の末端に、お半下《はした》・お犬子供など下級女中の共同宿舎があった。入った部屋は十坪の板の間、中央に六尺×三尺の囲炉裏が切ってあった。次の間は二十畳でこれは畳敷き。その奥に八畳間があって、お末頭《すえがしら》が監督の目を光らせていた。  働きづめの下級女中が、ひと息入れたり、夜寝たりするのは二階の部屋である。通して二十八畳あり、隅にはめいめい箪笥をおき、衣類をかけ、雑然と散らかってひどく女臭い。娑婆との第三の接触口、七つ口はこの女中部屋の末端に開いていた。  境目はやはり重いお杉戸で、すぐ内側に締戸番《しめとばん》詰所がある。締戸の前は板敷で、その先一間ばかりが段々になった末、高さ三尺の手すりがついていた。手すりの向うは土間になっていて、伊賀者詰所と貫目《かんめ》番所が並んでいる。女中はその手すり際までゆき、外来の男たちもそこまでは許されて、両者は手すり越しに話すことができる。  七つ口、男をおいしそうに見る  だが、外来の男は料理の万屋、何でも屋の碇屋藤右衛門などすべて商人、紅おしろいから反物、隠れ食いのお菓子まで注文を取りに来るのである。朝いえば夕方には、もう何でも持って来た。  七つ口これもこれもとくくり付け  は女中たちが買物メモを渡すさま。  衣類などかさ張るものは長持で運びこまれるが、これも手すり越しに受け渡しされた。ここは朝五つ(八時)に開き、夕七つ(四時)にしめるので「七つ口」の称があった。その間ちょうど八時間、  小間物をひろげお犬寄って来る  は、酔っぱらいのへど吐きではなく、お犬子供が集まって来る七つ口にほかならない。案外、番頭と冗談を言ったり、突っつき合ったりする気軽な情景が目にうかぶ。厳重なのは上下のお錠口だけで、他の二つは割合監視が甘かったと思われる。  さてお錠口番の伊賀者というのは、かつて怪鳥《けちょう》のように宙を飛んだ伊賀忍者の末孫《ばっそん》にほかならない。大跳躍のほか天井を逆さに歩いたり、どろどろと消えちまうという超人ぶりは嘘ではない。前出の甲賀流忍術十四世藤田西湖氏は、八歳で小学校の二階から飛び降り、長じて十四メートルの高飛びをやった。  その忍術伊賀者も、慶長十年(一六〇五)待遇改善をさけび、四谷の笹寺にたてこもってストライキに入った。結局幕軍の包囲下に潰《つい》えたが、得意の忍術でみんな逃げ、落城した笹寺はもぬけの殻であったともいう。  このストが忍術伊賀者なごりの事件となった。平和政策を押しすすめる幕府に、怪鳥のような忍者は薄気味わるい存在だった。大奥警備を命じたのは、濃粧女人のほんわかムードに酔い、忍術を忘れさすためであった。  企みは図に当り、牙を抜かれた伊賀者たちは、女人国との接点でにやにややに下った。高級女中の外出ともなれば、われ先に尻っ尾をふってついてゆく始末。だから美人女中のウインク次第、中味など改めず長持の搬入を許した。何でもフリーパスとなれば、淫名高き老女|絵島《えじま》が、愛人|生島《いくしま》新五郎を長持詰めにして搬入したというのも本当かも知れない。お錠口の怪はこの一事件に集約される。 [熱つ熱つの濡れ場は長局の二階]  絵島は御家人白井平右衛門の妹で、六代家宣の側室左京の方に重用され、次第に累進して御年寄になった。正徳二年(一七一二)家宣が死に、左京の方の生んだ家継が七代将軍になると、御生母となった左京株と共に、にわかに絵島株も天井知らずの上りようである。  元禄をすぎること十余年、上下に頽廃の風潮あり、浅草の商人柄屋善六が大奥|御用達《ごようたし》になるため、権力者の絵島を山村座に饗応した。そのとき接待に出た人気役者、生島新五郎に絵島は恋し、再三、山村座へ通ったが、正徳四年正月十四日、増上寺へ代参のあと脱線、新五郎に酌をさせつつハメを外して観劇した。このこと翌日問題になり、かねて大奥の増上慢を憎める幕閣は、勇断を以って絵島を高遠《たかとお》へ流し、関係せる女中三百余人を罰した。山村座関係では座元長太、恋人新五郎の流罪をはじめ、連坐する者千人を越えた。断罪主任の老中は秋元但馬守|喬知《たかとも》である。  新五郎を長持詰めにして、大奥へ運びこんだのは事件発覚まえの熱つ熱つ時期であった。御年寄は大奥の主宰者で多忙だし、外出の名目もそんなにあるものではない。三十一歳の絵島が性の欲求に耐えかね、情夫を大奥へ引き入れようとしたのは当然である。  俗説では絵島を御家人の妹というが、どうしてどうして、白井平右衛門は秩父流の平氏で、三百石の歴々の旗本であった。先祖は武州豊島城主だったが、八代まえ泰経のとき太田道灌に攻略された。子孫は後に家康に仕えたが、かつて豊島城主だった誇りが抜けず、代々、闖入《ちんにゅう》者の徳川家を見下す傾向があった。そのため教泰など幾人も処罰された者がいる。絵島にも徳川をさげすむ心があり、平気で男子禁制の淀をやぶった。主人左京の方は浅草の坊主のむすめ、絵島には物の数ではなかったのである。  問題は七つ口から運びこんだあと、男をどこへ隠し、どこで乳繰《ちちく》り合ったかである。  中味は誂えの反物にして、とうぜん長局一の側の自室へ運びこんだに違いない。  長局の部屋の構造は、Aクラスで仏間兼応接間の八畳、お化粧と楽居の間の六畳、部屋子のいる八畳、それに入側(畳廊下)二畳という規模である。その上に二階がつくのだが、部屋は一階より狭かったようす。厠《かわや》は一室一室に廊下をへだてた向う側にあった。高級女中は専用の厠で、部屋子とは別に特設されていた。湯殿もおなじ所にあり、御年寄ともなれば専用だったこと勿論である。  さて男を隠すとすれば二階より安全な場所は他にない。私の住む川越市の名刹喜多院に、住職天海の縁により、寛永十五年(一六三八)江戸城から移された大奥の建物が現存する。中に春日局化粧の間というのがあり、まさに長局一の側の規模を伝えている。  まわり一メートルもある太柱、黒々と頭上にかかる大梁《おおはり》など大奥ムード満点だが、それは狭い階段をあがると極点に達する。  二階は八畳・十二畳の各一室、その一畳分が階段の上り口であった。梁は低く頭上に迫り、光りといえば足もとの細長い格子窓から、わずかに流れこむばかり。薄暗く、妖しく、沈澱《おど》んだ空気に満ちていた。 「ここが長局の秘密の間《ま》でしてな」  住職の説明を聞くまでもなく、新五郎を隠し、密かに濡れたのはこの部屋である。それには部屋子や近隣の部屋の女中を買収せねばならぬが、絵島の権勢を以ってすれば容易なことだった。  絵島が男を引き入れた何よりの証拠は、この事件のあと七つ口に、貫目番所がつくられて長持の目方を計ったこと。番所の中には幕末まで、大天秤がすえられていた。  さらに『御殿女中』に出て来た、為体《えたい》の知れぬあの長い紐も、そういう曲者の侵入に備えた、鳴子の紐か、または、蜘蛛の巣の役目を果したのではないか。 [#改ページ]   与力を吟味する [奇怪なお寺社様の与力様]  近ごろのテレビ時代劇は陳腐の至りと思ったら、珍しく江戸のマスメディアを扱った連続ものが放送された。主人公は浪人で、瓦版の記者という設定はいいとして、起る事件がいかにもばかげていてお笑いだ。その中の一篇では、富籤《とみくじ》に不正がないかを監察する役人が、寺の住職と組んで当りくじをごま化すのだ。  監査役自身が悪事をやるのだから、がぼがぼ金が入って来ること何とか流の家元と変りがない。で、役人の正体は最後にバラし、その意外性を狙ったのだろうが、少しもおもしろくない。時代劇で役人が出てくれば、たいてい悪徳商人と組んで私腹を肥やすものときまっている。二十年、三十年前の時代劇映画と少しも変らぬから、最初の顔ぶれを見ただけで筋は割れている。意外性などまったく無い。  ところでもっと驚いたことに、富突《とみつき》(富籤)の前夜だというのに突札《つきふだ》を入れた富籤の木箱が、忍びこんだ男にかんたんに開けられ、中味をすっかり入れ替えられてしまう。悪役人の裏をかいたわけで、翌《あく》る日、例によって長い錐《きり》でいくら突いても、悪人一味の悪口を書いた札ばかり突きあげられるという趣向だ。驚きましたね。突札を残らず書き替えたわけだが、一体、それは全部で何枚だと思召す? この時代では一万枚を越えたであろう。だから箱の大きさも畳一畳はあり、高さも腰骨のところまであった。テレビの画面に出たようなちゃちなものではない。よくまあそれだけの数を書き替えることができ、また、忍びこんですり替えることができたものだ。ばかばかしくて涙が出る。  が、それはそれとして、抽籤場で立会う監督官の悪玉、何と、寺社奉行所属の与力と言ったのには驚いた。ご丁寧にも「お寺社様の与力様」と確かにいった。ライターも演出者も、寺社奉行の配下に与力がいるとでも思ったのだろうか。残念でした。町奉行にはおなじみ与力・同心はいるが、寺社奉行には同心だけで与力はいないのである。  突札のすり替えは笑ってすませるが、職制上の間違いは黙って見すごせない理由がある。  そもそも与力の名称は戦国時代にはじまる。当時は確かに有力者を頼り、集団をなし、頼られる方はその集団の力で他を制して勝ち残るしか方法がなかった。いつか頼みがいある大将のもとへ、痩せ馬たりとも打ちまたがった浪人が「一臂《いっぴ》の力を……」と集って来た、騎馬で寄り集ったので「寄騎」の文字を当て、数えるのに何人といわず、何騎というのはそのためである。  いや大将よりずっと低い線で、足軽が騎馬の侍を頼ったからとの説もある。頼られた方はふつう「寄親《よりおや》」、頼る方は「寄子《よりこ》」といって支配・従属の関係をむすんでいた。  平時、寄親は公私とも寄子の面倒を見てやり、寄子は寄親の命令にはぜったい服従する。徒党はもちろん厳禁だし、訴訟は必ず寄親を通じたし、結婚も寄親の許可を必要とした。  日ごろ寄親の指導で文武にはげみ、或いは武具の整備に専念した。けんかや暴飲・博奕をいましめるのも寄親の責任で、これらの指導監督を「寄親指南」といった。  ところでいざ合戦となると、寄親・寄子はそのまま戦時編制に切りかえられ、寄親は「組頭」となって組下の寄子を指揮して戦う。寄親は家中によっては「物頭《ものがしら》」ともいい、寄子は戦力を寄与するので「与力」といったとの説もある。大名の家中によって、寄騎とも与力とも書いた。与力となると槍を立てて歩く。  槍持をはじめて連れて振返り  では幕府のばあいはどうか。徳川家康は能率本位に、三河の豪族時代をそのままの、単純な職制を幕府の制度に取り入れたとする。寄親・寄子の組織も、江戸幕府にははじめからあった。ただ名称が寄親は「支配」または「組頭」、寄子は「寄騎」と変ったのである。  ついでながら与力の下僚の「同心」は、同意・協力・団結の意から発し、戦国時代すでに下級武士の名称になっていた。同列の者として、足軽・同心と並べ記されている。 [与力を持つ役・持たぬ役]  ところで寄親が組頭、寄子が寄騎になったとすると、与力は旧軍隊の将校ではなく兵である。また、その語源が従属関係から来ているものなら、職名というよりむしろ身分をあらわす名称であった。これを正規の役目につけた時のみ、与力ははじめて職名ということができる。例えば「大御番与力」「書院番与力」「町方与力」などのように……。  幕臣は大まかに言って旗本と御家人に分れる。旗本は二百石以上、お目見得以上というのが条件、これに対し御家人は二百石以下で、将軍に謁見の資格がない。「旗本八万騎」というのは大嘘で、本当は幕末で旗本五千三百人、御家人は一万七千余人、合計二万二、三千人というところであった。  この御家人をさらに「譜代」「二半場《にはんば》」「抱席《かかえせき》」など三階級に分けた。なじみのない妙な名称だが、主家将軍家との縁の濃度をあらわしている。 「譜代」は世統の意味だから、本人が失敗したり、停年になったりで、役目をやめても小普請《こぶしん》組という予備役へ編入され、扶持《ふち》は相変らずもらえる。もし本人が死んでも、子供が家督をつぐことができた。  これに対して「抱席」は、一代抱えのことで退職と同時に扶持を離れた。だから死んでも子に家督が譲れない。また在職中、病気で出勤できないときは、親類の者や知人に頼んで身代り勤務をする義務があった。 「二半場」というのは中間の意味、譜代と抱席の中間的待遇を受けた。すなわち非役になっても小普請入りは許されぬが、「目付支配無役」というとくべつの立場で、家督を子に譲ることができた。  右の三階級は、代々の永久就職か、一代限りのお雇いみたいなものか、或はその中間か、いずれにせよ当人にとって大問題であった。  つまり同じ御家人でも、譜代は将校の旗本に近く、抱席は兵卒だということである。  さて問題の与力だが、これは御家人でも最高の譜代に属した。扶持は百五十俵から二百三十俵まで、実収はほとんど最低の旗本と変らない。出勤には上下《かみしも》をつけ、式典の日は熨斗目《のしめ》(模様小袖)を着る。屋敷は三百坪で両扉の冠木《かぶき》門、門内には小砂利を敷きつめ、玄関はりっぱな式台づきであった。そんな屋敷ばかり組毎に、三十軒も五十軒も並んで官舎街を成していた。『江戸切絵図』の八丁堀の部に、「町御組」とあるのがその組屋敷だし、筋違《すじかい》門(万世橋)から上野山下に至る下谷一帯の武家地に、御|先手《さきて》組、御書院番組などとあるのもそれである。下って同心の宅地は三分の一の百坪、これは片扉で玄関なし。与力屋敷の間にはさまって建っていた。与力・同心はひと組のものだから、おなじ組どうし一区域を占めていたものであろう。  さて、問題はその与力の仕事だが、それを見るには与力のつく役・つかぬ役を摘出するのが早道である。一体、どんな役職に与力は所属したのだろうか?  幕府の職制では、大まかに役方(文官)と番方(武官)に分れる。前者は寺社・町・勘定の三奉行をはじめ、高家《こうけ》・お目付・作事《さくじ》奉行・普請奉行などいわば行政上の事務官、後者は大番組をはじめ旗奉行・具足奉行など侍本来の戦闘部隊であった。この役職の中で与力——ついでにペアの同心のつく役をあげれば次のとおり。  役方では、大奥取締役の御留守居が与力十騎に同心五十人、それにご存知町奉行が与力二十五騎に同心百二十人がつく。あと長谷川平蔵でおなじみの火附盗賊|改《あらため》に与力二十騎・同心百人がつくだけ。大目付や目付にさえ与力はつかず、役方では極めて少数であった。  ところが武官の番方では、幕軍の主力をなす大番組十二組に各与力十騎・同心二十人、親衛隊の書院番は、十組にそれぞれ与力十騎・同心十人ずつが配置されている。  その他、旗奉行・鉄砲組頭・持弓頭・持筒頭・お先手弓頭・お先手鉄砲頭・定《じょう》火消・鉄砲方などに、それぞれ与力十騎・同心三十〜五十人が配属されていた。また与力がつかず、同心だけの役職もあって複雑だが、とにかく与力の数だけは分る。その数、役方が八十六騎なのに、番方はざっと六倍の五百五十騎もいた。いうまでもなく寄騎は軍務につくことが多く、事務は至って不得手だということだ。文官系の八十六人も、五十騎が南北の町奉行配下で治安担当、二十騎が火附盗賊改の配下で強力犯専門の警察官、いずれも腕ずくの役職である。してみると与力と名のつく限りすべて武芸自慢の武官系統、旗本と御家人の境目にいながら、戦となれば馬に乗る独得の侍ということができた。  長生をする足軽は馬に乗り [放送局に聞きたい詰役所]  戦場では中堅どころの戦士だが、平和時にはどんな仕事をしているのか。武官系はまず本拠の江戸城を守り、次に交替で大坂城・二条城など幕府の番城《ばんじろ》を守るのがおもな任務であった。  江戸城のばあい大手・桜田・半蔵門は譜代大名が守るが、城内の平川・下梅林・蓮池門などは番方の受持ちであった。これらの諸門には瓦葺・木造のがっちりした御番所があり、番士はここへ詰めて警戒に当る。柱から柱へ組頭の紋所づき幔幕を張り、同心が六尺棒を持って通行人を監視する。  一門をあずかる組頭は、大番所奥の一室に詰め、部下の勤務ぶりを監督した。問題の与力はどこへ詰めたか? 組頭の次の部屋に出勤して、備品や武具の点検をし、当番日誌をつけたりした。ちゃんと出勤簿があって、組頭以下出勤と同時に署名した。与力ともなれば氏名に花押《かおう》を加えたといわれる。  表の同心から大目付・目付・お側用人の近接を知らされると、与力は急いで出て平伏しなければならない。それが、老中・若年寄・御三家ともなれば、組頭自身も出て送迎する。番所前に畳《たたみ》一畳ほど、高さ五寸ほどの敷板をならべ、四角になって平伏するのだ。これを「下座台《げざだい》」といった。このとき同心が一オクターブ高い声で、前者なら、 「イャオイ、イャオイ」  と芝居がかりの制止声をかけ、後者なら、 「ハイョー、ハイョー」  と叫んだという。朝の四つ(十時)は偉方《えらがた》の登城時、ハイョー、イャオイの連発で声を嗄らした。  そのラッシュに間に合うよう、与力の出勤は朝五つ(八時)、たいていその夜は泊りで翌朝次の番と交替した。したがって着替えの衣類が必要で、それを黒張りの葛籠《つづら》に入れて小者に持たせたという。責任は重いが楽な勤務、しかも月に四、五回出勤すればよかった。「週休五日制」くらいに当る。もっとも、「出役《でやく》」といって、臨時に学問所(昌平黌)や小石川の御薬園警備に出張することもある。また将軍の出行《しゅっこう》には、沿道の警固に全力をあげたことはいうまでもない。  町方与力が数寄屋橋の南町奉行所、呉服橋の北町奉行所へ通勤、裁判係の「吟味方」、消防係の「火消方」、物価係の「諸色値下係《しょしきねさげがかり》」までいて多忙だったことはよく知られている。他の与力たち——御留守居与力は大奥|御広敷《おひろしき》(事務局)に、定《じょう》火消与力は火消屋敷に、それぞれオフィスがあってそこへ詰めた。ちゃんと決っているのだ。  が、さて前記の汚職与力は、寺社奉行付与力というわけだが、一体どこのオフィスへ出勤したのですか? 本来、腕ずく、武芸ずくの与力が、坊主・神主が相手の宗教政策に、一体、どんな仕事を受持ったのですか? お固いので有名なその放送局に聞いてみたい。  しかし、聞くまでもなく、知らないのだ。寺社奉行に与力などいるわけがない。町奉行のような定まったオフィスもない。  なぜなら、町奉行も、先手頭《さきてがしら》も、旗奉行もみな旗本だが、寺社奉行だけは大名役であり、一段格が上なのである。支配するのは幕領の寺社だけでなく、全国のお寺と神社だから旗本では力が及ばない。それで大名が就任するのだから、幕府のオフィスを使うのではなく、自分の屋敷(大名邸)をそのまま役所にしたのである。したがって与力という、役所についた幕府の家来はいるはずもない。  また、事務をとるのは大名自身の家来たちで、彼らは大検使・小検使・寺社方という役名で仕事を分担していたことは『武鑑《ぶかん》』を覗くだけで一目瞭然ではないか。念のため言っておくが、富突の場所に臨検するのは寺社方与力ではなく、大検使だ。ちょん髷記者、早とちりの大間違い、なぜこれを指摘したかといえば、封建制のバックボーンは身分制であり、それによって職務の内容がきまる。その基本事項を無視しては、どんな時代劇も体《たい》をなさないからである。 [#改ページ]   刀と扇子の作法 [スタジオ流の袴《はかま》と刀の法]  時代劇の考証を頼まれ、私はよくスタジオへ入って間違いがないかどうかを見張っている。  ある日、幕末もので若侍がおおぜい出るシーンに立会ったが、折から学生バイトらしいエキストラがスタジオへ入って来た。はじめてのちょん髷とドーラン化粧に、誰しもきまってはしゃぎまわるものだが、彼だけ妙におとなしく見えるのは小股で歩くせいであった。若いのに痔でも出したかと思っていると、私の傍へやって来て小声でいうのである。 「先生、袴というものは窮屈なものですね」 「どれ、見せてみろ」  と前をひろげてみると、何と、襠高袴《まちたかばかま》の片方へ足を二本突っこんでいるのである。  刀もはじめは衣裳部さんが差してくれるからいい。だが、芝居の中で一度鞘ぐるみ抜き、さてカメラの前で二度めに差すとき、心得がないからでたらめだ。  侍は角帯で三重巻き、袴のうしろがさがらぬよう、袴下《はかました》という帯の結び方にする。袴は帯の上にはくことは言うまでもないが、紐は前後とも帯の下位に廻して締める。  小刀《しょうとう》は三重の帯と帯の間に差し、やや斜めに柄頭《つかがしら》が体の正面近くまで来るのがカッコいいし、実際そうでもあった。これに対して大刀《だいとう》は帯と着物の間に差し、柄頭は小刀より体の外側へ出る。つまり大小二本は腰骨の上で交叉しているが、間に帯をへだてているため鞘と鞘とは相ふれない。二本が斜めに交叉し、うまくバランスが取れて腰のすわりをよくしているとも言える。重い刀もこの差し方で、苦になるどころか心身ともにキュッと引き締めるに役立った。  ところで、武家の扇子は伊達でなく、正装には両刀と同じにきまりものであった。公式の場へは必ず差してゆくが、ふつうこれは小刀の脇に差し添える。ただし高位の人の前へ出るには差さず、別室におくか、または懐中するのが武家の作法である。  さて礼式作法は生存競争の結果、弱者が自己保全の必要から強者に服従の意を表するに始まった。だから日本・中国・インド、大戦前のドイツなど階級の雑多な国ほど発達したといわれる。『続目本紀』文武天皇大宝三年(七〇三)の条に、 「唐人、吾が使に謂《い》って曰《いわ》く。亟《しばしば》(度々)、海東に大倭国《やまとこく》有るを聞く。之を君子国と謂《い》ふ。人民豊楽し礼義|敦行《とんこう》(厚い)なり。今、使人の儀容を看《み》るに大いに浄《きよ》し。豈《あに》信ぜざらんや」  とある。日本には古来の作法があり、当時、中国人を驚かせたと見える。が、それは朝儀および公家世界のこと、一般化したのはやぼの張本人武家がのしあがってからのことである。武家時代といえば強弱・勝敗の世で、負けたらおじぎをせねば命が危ない。源平・鎌倉期に形ができ、神や主君に対しては下馬し、兜を取り、手を突いて低頭することが始まった。が、本格的に公家の作法を取り入れ、いっぱしの式制になったのは足利時代である。  足利氏は源氏の傍流から将軍になっただけに、創業期に敵方から奪った領地は、気前よく家来どもに分け与えた。そうでなければ命がけで働かない。そのため将軍家自身は、兵力も経済力もお粗末の限りだった。で、なるべく勿体をつけ、虚勢を張るため武家作法を編み出し、形の上で上下のけじめをつけて守護大名を押えこもうとした。特命を受けて伊勢・今川・小笠原家が作りあげたのが武家作法であり、後に合せ普遍したのが作法の同義語「小笠原流」である。小笠原流の理法は当流三十世で明大教授小笠原清信氏によれば、むだを省いた簡潔の美にあるという。平伏・進退・刀の操法にそれは凝集し、いかにも武士らしい爽快味を感じさせる。  列座みな行儀乱さぬ雁の御|間《ま》 [訪問どき刀はどう扱うか]  刀は武士の魂といい、武家の無上の象徴であり、現実的には攻撃と防御の主要武器であった。路上|鐺《こじり》がふれただけで、「鞘当て」と称して斬り合うのが武士の意地である。また会合で混み合い、他人の足がおいた刀にふれたとき、慇懃《いんぎん》に謝らねばその場で討ち果せ、そうでなければ侍の一分《いちぶん》が立たぬと兵書『甲陽軍鑑《こうようぐんかん》』にもある。  それほどの表道具ゆえ、当然、扱い方に持主の意志があらわれる。  ひとつ間違えると大変なので、日常の武家作法中、最高のウェイトを持ったといえる。ここに一人の中級武士があり、上司の屋敷を訪ねるとして、具体的に刀の操法をのべよう。  客が表門を入るには、中央より潜門寄りの「下座《しもざ》」を通るのが作法である。そして玄関に立つと同時に、刀を鞘ぐるみ抜いて右手に持つ。そうすることで、左利きでなければ抜刀できないから、相手に敵意のないことを示す。  案内を乞えば当家の家来が出て、挨拶ののち内へ招じられるので式台を上る。この時も左寄りの下座から、式台を上るのが上長の家柄に対する礼儀であった。その上ったところでか、または書院の次の間で家来が客の大刀を受け取る。受け取るには袱紗《ふくさ》か、それのないときは袂《たもと》で受けて、素手では客の刀にふれない。受けた大刀は刀架にかけ、ふつう小刀だけで主人に会うが、相手が貴人なら小刀・扇子ともここで脱して丸腰になった。  客室へ入ったら、客であっても身分が低ければ下座に坐る。あるじの方が官位が上なら上座につくこと、武家では厳然ときまっていた。また、官位がおなじなら、新参・古参の別によって座を定めたこともちろんである。  小笠原流では合手《ごうしゅ》礼・双手《そうしゅ》礼・拓手《たくしゅ》礼・折手《せっしゅ》礼など、相手によって七段階に分けているが、神仏はともかく人間相手では最高が合手礼である。膝上なる両手を前方へすべり出すとともに、上体を静かに畳の上へ倒す。両手は人差指がほとんどすれすれになるまで接近させ、したがって掌《てのひら》と掌の間に三角形ができる。極く平たく、野卑な言い方をすればこの三角形の中へ、鼻の頭をはめこむ形にするのが本格的な平伏であった。相手が勅使や将軍など、ずば抜けて貴人のばあい絶対これでなければならぬ。  さらに乱暴な説明になるが、相手が大名なら指先の間隔が十五センチほど、おでこの高さは畳から三十センチばかりとなる。合手礼よりずっと「頭《ず》が高い」わけで、こんなところに足利将軍以来の虚勢と階級意識を見る。実はそれを言いたさに合手礼・折手礼など小笠原流の名称を借りたが、当流の神髄や形はこんなお手軽な表現ではとうてい尽せない。いわば一般礼式についてのべたのだが、小笠原流では、 「こころ形に現わる」  というから、相手により形の上に、この差が生じるのは極く自然であった。  ところで座礼の折、今日ではよく扇子を膝前におく。これがてんで間違いで、前ではなく左横の畳上におく。また座敷の対面では、相手が目下なら腰に差したままでよかった。暑ければ使っても構わないが、そのばあい絵のある方(表)を手前へ向けて煽《あお》ぎ、また目上の人の前では全面を開かず、わずか三折《みおり》か五折をひらいて煽ぐ。開くにも右手で要《かなめ》を持ち、左手拇指で扇子の親骨を押し、人差指と中指を交互に使ってひと折ずつ開き、この時けっして紙に手をふれてはならぬ。また煽ぐといっても、バタバタ盛大にやるのではなく、うつ向いて顔だけそよと煽ぐのであった。  扇子の別の使い方に、物をのっけて捧げたり、逆に持って要で履物を直したりしてもよい。笏《しゃく》の代りだから、対座ちゅう忘れそうなことを扇面にメモしても構わない。ただし今ひとつの使用法、畳の上の地図を指したり、 「その方の意見は?」  などと同席の人を扇子で指すときは、絶対に逆さ扇——紙の方を持ち、要の方で指してはならない。必ず要を持ち、紙の方で指すのが定めの作法であった。特に目上の人を逆扇子で指したら、切腹に価する大無礼に当った。  扇鳴らす汝の世辞もまたよろし 虚子 [出門には振返るべからず]  武家の客間・居間には刀架がある。刀は武士の魂だから、鹿の角製や金蒔絵などりっぱなものがあった。それに刀を架けるには、向って左手に柄《つか》、右手に鞘の鐺《こじり》が来るようにする。舞台でいえば上手に鐺、下手に柄ということになる。  おかしいではないか。急に闖入者に襲われたとき、刀が左向きにおかれていては、右手で取っていちど左手に持ち替え、さらに右手で抜刀することになる。持ち替えるというワンクッションがある間に、容赦なく敵に討たれてしまう。どうなのか。柄を下手にする意味は、もっぱら鑑賞にその置き方がよいこと、来客に害心なきを表示することなどがあげられる。  が、武器はあくまでも護身用具であり、とっさに間に合ねば意味がない。実際、武家屋敷の鴨居に掛ける槍・薙刀は、穂先や刀身が下手向きで、柄を上向きにして掛ける。つまり、襲われたらすぐ右手で柄を執り、左手を添えるだけで、持ち替えのワンクッションなしで戦えるよう掛けてある。  一説に、書院の床の間では柄が下手だが、床柱より上手におくばあいは柄を上手にするともいう。  すなわち部屋の端、敵襲に近い場所ではすぐ抜刀できるよう柄を右にしたとも取れる。だから戦国期ではすべて右向きであったなど……。  が、それはともかく、必要あって刀の受け渡しをするには、鞘のまま刃の方を手前に、鎬《しのぎ》(背)を相手方へ向け、中央からやや上を右手で持ち、下部に左手を添えて差し出す。また刀の鑑定などで、抜身を渡すには柄の持ち替えで移動させるが、この時はなるべく低く受け渡しをする。万一手をすべらせても、周囲の人を傷つけないための配慮から来ている。  この侍、何かの挨拶に来たもので、席へ酒が出たとしよう。盃は原則として左手で持ち、酒を受ける。銚子のばあい問題はないが、弦《つる》のある鍋銚子の時は片手でなく、右手で弦を持ち左手で蓋を押える。女のばあいは指をそろえ、鍋底に軽く添えつつ酒を注ぐ。  男が左手で盃を持つのは、祝言の三々九度の時もおなじである。左利きでもないのになぜ左手で持つのか? いつ敵に襲われても、すぐ右手で小刀を抜き、応戦できるよう空けておくのだ。「黒田節」のかんどころの一節、 [#ここから1字下げ] 酒は呑め呑め呑むならば、日の本《もと》一のこの槍を……。 [#ここで字下げ終わり]  を歌うのに、左手で槍を掻《か》いこみ、右手に盃を持って呑む人形をよく見かける。逆だ。盃が左、槍を右手に持つべきで、さすが現地福岡の人形はみなそうなっている。もし敵に襲われたら、瞬間、左手の盃を投げつけ、槍の柄の中ほどを執ってすぐ戦えるではないか。  右手で飲んでいたら、槍を持ち替えるワンクッションが必要で、間違いなく敵にやられてしまう。  侍はまた三方《さんぽう》を持つにも左手で持ち、右手はそっと添えているだけである。襲われたらすぐ三方を投げつけ、右手で抜刀して戦うのである。さらに盃や三方だけでなく、何を持つにもその通り、また形だけではなく、万事につきその常在戦場の心がけを第一とした。  さて、訪問の用件をすませ、または祝詞などおわれば、礼をのべて座敷を退出する。すると来訪時とおなじに、当家の家臣が先に立って玄関へ先導した。客はその一間ほど後についてゆくのが作法……そうそう忘れてならぬのは、隣室の前の廊下で両刀を受け取ることだ。  客はその場で小刀は差すが、大刀はなお右手に下げたまま玄関に至る。お粗末な時代劇があればあるもの、屋内で刀を差しているシーンを見た。戸障子や柱、屏風・衝立のある屋内で刀を差していられるものかどうか。ちょっと動いても鐺《こじり》で襖・金屏風に穴をあけてしまうではないか。  それはともかく、玄関で暇《いとま》乞いの挨拶あり、そこで客は大刀を差し、門へ向って帰りがける。このとき客はぜったい振り返ってはならない。いったん辞しながら眼を返すのは、未練であり、失礼でもあった。うっかりそれをやったらただではすまなかった。 [#ここから1字下げ] あらかじめ君来まさらんと知らせあれば  門にも屋前《やど》にも珠敷《たまし》かましを 門部王《かどべのおおきみ》 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   関所破りの奴刑 [「ルーツ」日本版と見つけたり]  近ごろのテレビに何と時代劇の多いことか! ふつう一週間に四十四本、一日平均六・三本はやっている。仮りに一本の長さを五十分とすると、驚くなかれ毎日五時間と十五分は、やたら刀をふりまわす物騒な時代劇を見せられているわけだ。  ところでその時代劇、相変らずやくざの兇状旅や、幕府高官と政商のつるんだ密貿易と相場がきまっている。二十年、三十年まえの映画そのままだから、顔ぶれを見ただけで筋が割れ、全然おもしろくも、おかしくもない。困ったものだ。  その中で三船敏郎は、先ごろ西部劇の躍動的なおもしろさを狙った連続作品を作り、放送した。たまたま意欲的なその一篇を見たが、なるほど泥臭い時代劇臭を抜けきって新機軸を出している。ところが惜しいかな、その新手法が考証的におかしいのだ。  筋は上州|下仁田《しもにた》宿に近い関所で、旅人がよく野盗におそわれ、道中手形を強奪される。そのため関所を避け、脇道を通り抜けようとすれば、必ず捕まり、当然、関所破りの罪に問われる。そこまではいいのだが、あとの運びが奇抜で意外——捕まった旅人の男は、柵《さく》でかこまれた人足|寄場《よせば》へほうりこまれ、山奥の隠し銀山へ強制労働にやられるのだ。  人足寄場はご存知長谷川平蔵の創設で、時代もだいぶあとのものだが、まあ、普通名詞として今はまけておこう。  ただ、何とも驚いたのは捕まった女の旅人で、これはせりにかけられて下仁田の宿場女郎にたたき売られるというのだ。そのせり売りシーンもちょっと出たが、宿場の大通りに台をおき、その上に女を立たせて値をつける。年齢や顔のよし悪しで、金額の多寡《たか》がきまり、引きとるシーンは『ルーツ』そっくり。おやおや、というよりほかに評言がない。  シナリオ作家はおそらく幕府の基礎法典、「御定書《おさだめがき》百ヶ條」に、 「関所破り、男は磔《はりつけ》、女は奴《やっこ》」  とあることからの思いつきであろう。「奴」というのは槍踊りの中間《ちゅうげん》の奴ではなく、これでもれっきとした刑名なのである。本籍を除き、獄にとどめ、請う者があれば下婢《かひ》として与えるもの。身分を剥奪して働かせるのだ。つまり名誉刑・自由刑のふたつを合併しているが、まずは軽い刑である。  貰い下げて下女に使えばよいが、前科のある女ではおいそれと引取り手はない。実際は牢屋に留めおかれ、昼は洗濯や風呂炊きをし、夜になると女牢へほうりこまれた。その間に町年寄を通じ、なるべく早く引取りの希望者を探させたといわれる。  というわけで、関所破りや脇道をした者は、下婢《かひ》にはされるが宿場女郎にはされない。  女が奴刑として遊女にされるのは、姦通・重婚・売淫など、お色気犯のばあいに限られていた。どうせ淫奔女だから、遊女にするのがいちばんふさわしい。客と寝る刑罰など効き目がないようなものの、廓は「苦海」というほどに肉体的には辛かった。吉原はじゅうぶん牢獄の役目を果したので、奴の槍踊りにかけたうまい川柳がある。  里の奴《やっこ》もなげやりに客を振り [都市計画当って色町の大繁昌]  ところでお色気の奴刑は、姦通・重婚などは申告犯であるため、数は至って少ない。大量に、にぎやかに送りこまれるのは、何といっても私娼であり、その狩りこみの直後であった。  幕府は風教上、防犯上、吉原を公認するときの条件として、廓外で売春をしてはならず、また夜鷹や船饅頭などに眼を光らせ、もし違反者がいたら密告する義務を負わせた。そうでなくても廓外で、安く、安直に売春されては公認の吉原がさびれてしまう。  だから吉原の楼主は真剣に私娼を告発したが、こればかりは人間の野性に根ざすだけに、なかなかうまく見つからず、また絶滅できるものでもない。材木置場や船の中で、かんたんに転んで金にした。  夜鷹そばと船饅頭、心せわしくばかり喰い  暗がりの中での交合なので、どんなに眼を光らせていてもめったに捕まらない。  それどころか、夜鷹は白手拭をかむり、茣蓙《ござ》を抱え、柳の下に立つものときまっていたが、そのうち見世を張って客を待つようになった。柳の下のは「立ち夜鷹」、見世のあるのは「坐り夜鷹」という区別までできた。勿論、非合法の売春だから、管轄の町奉行所でも摘発すべきだが、とても、とても、夏日に雑草を刈るようなものだから見て見ぬふりをするしかなかった。坐り夜鷹の巣窟を「切見世《きりみせ》」といった。  さらに私娼をはびこらせた原因に、川向う——本所・深川の発展策があった。  江戸は江戸湾沿いの一寒村から、またたくうちに百万都市に発展した。隅田川の東側は市民であふれ、どうしても本所・深川を開発せねばならぬが、土地は低く、江戸城からは遠く、とても町造りどころではない。  幸い、深川八幡は民衆の信仰をあつめ、参詣人も多かったので門前にサービス女のいる水茶屋を許した。水茶屋は今の喫茶店だが、サービスの度がすぎて店外《てんがい》で転んだ。かんたんに転ぶので大はやり、  すっと来たなりで深川もてるなり  と川柳子。  幕府の考えた川向う発展策は、かくてみごとに成果をおさめた。人がゆくから商家が並び、物資が集まるから武家屋敷も移転して来た。本所・深川は「江戸前」(江戸城まえ)同様の賑わいを見せたのである。  ところが薬がききすぎて、女のいるのは八幡前ばかりでなく、入船町・土橋・裾継《すそつぎ》・裏櫓《うらやぐら》など、いかにも白首女のうごめきそうな名の場所が二十五カ所もできた。種類も茶屋女ばかりでなく、坐り夜鷹、深川芸者まで参加して艶美を競った。とくべつ転び専門の女をここでは「子供」と呼び、子供には「呼び出し」と「伏玉《ふせだま》」があった。前者は子供屋(置屋)に抱えられていて、お茶屋・船宿から呼び出しがあると、見番《けんばん》を通して通い、客を取った。これに対し伏玉の方は、子供屋にいてそこで商売をした。子供というも女郎に等しく、子供屋は「女郎屋」と何の変りもなかった。  おもしろいのは呼び出しの子供だが、呼ばれた家へゆくのに布団を持参したことだ。「軽子《かるこ》」と呼ばれる小女《こおんな》が、風呂敷包みにしてあとからついていったという。りっぱに女郎の本格派であった。  通い夜具二階をごろりごろり下げ  吉原の遊女が満艦飾の厚化粧、「ありんす」言葉で勿体をつけるので、客はかえって興醒《きょうざ》めして深川へ集まったこともある。ここなら手軽に性欲を処理し、お値段も安いと来ているから、繁昌するのも当然のことであった。  呼出しのとりえは床を急ぐなり  この深川の繁昌に、よその土地で指をくわえて見ているわけがない。さっそく隣の本所では十四カ所、京橋に十五カ所、日本橋に二十二カ所、神田に十八カ所、芝に十八カ所など、江戸ぜんたいで合計百九十カ所もの私娼窟がつぎつぎに生まれた。それぞれ白首女がたむろして、その数は総勢二千人にものぼった。  公認の吉原は廓《くるわ》といったが、これら非公認の色街は「岡場所」といわれた。岡場所の「岡」は正統ならざる、横からよけいな——という意味である。吉原は正統な廓だが、深川や本所は正統ではない、横から客をさらうよけいな場所だというわけである。やたら寝るのが商売だから、一夜に三人も四人も廻しの客を取る。川柳子それを見のがさず一句。  深川は戻した顔が隣りへ出 [入札の真実と関所破りの実例]  ところで、こんなに非合法売春が盛んなのに、吉原も、町奉行所も、黙って見すごしていたかといえば決してそうではない。吉原公認の条件にあったように、私娼の告発を義務づけられているから毛ほどのことでも訴え出た。主としてその訴えにより、とつぜん町方役人が私娼窟を臨検する。 「狩込みだ!」  女どもはあわてふためき、しどけない半裸体で逃げまどう。それを役人は片っぱしから捕え、縛りあげて数珠つなぎにしたり、駕籠に乗せたりして伝馬町の牢屋にぶちこんだ。  前述したようにこれをふつう「警動《けいどう》」といった。警察が動くのだからぴったりの文字だが、ほかに女が驚くので「驚動」、はすに逃げ出すから「傾動」、怪《け》しからぬ取締りだから洒落れて「怪動」の文字も当てた。川柳の、  岡場所はこれが嫌やだとうろたえる  は実感がこもっている。そして逃げ足の早い奴は、  深川の警動平家のように逃げ  となる。また、要領が悪く捕まった女は、  岡場所は不首尾な時にかごに乗り  うろたえるうちに女の数珠ができ  で、弥次馬のよい見世物になってしょっ引かれた。  この警動の大規模なものは、寛文三年(一六六三)吉原の告発によって、築地の暗娼《あんしょう》が捕まったのを始めとする。女はいったん入牢《じゅろう》の後、奴刑として吉原へ下げわたされ、このとき以来、下級遊女の「散茶《さんちゃ》」となった。散茶(粉茶)は振らなくても出るので、どんな客でも振らない意に通《かよ》わせての名称である。  次が元禄十二年(一六九九)、このときは町方の与力・同心が総出で私娼を刈込んだが、際限なくいるので抱主から土地の名主まで罰してみせしめとした。  また宝永三年(一七〇六)には、踊子(芸者の元祖)および踊りの師匠、法体《ほったい》の私娼の比丘尼から巡礼まで幅広く検挙した。また享保三年(一七一八)には水上作戦で、船饅頭を残らず掃討している。  さらに寛政七年(一七九五)、老中松平信明が大|剿滅《そうめつ》戦を展開、このとき女の入札方法が定書《さだめがき》として成文化されたのである。 [#ここから1字下げ] 隠売女の儀は、当所(吉原)名主に御預け遊ばされ候に付、会所に於て五町(江戸町・京町など)順番にて当番の者、人数を仕分け、当人名前を以て籤《くじ》取にいたし、町毎に籤に当り候者を引取り、その町の遊女屋へこれまた順番に預り、入用《いりよう》は町入用(町費)、或はその町限りの溜金《たまりがね》を以て出金致し来り候。尤《もっと》も、御吟味落着の節、女ども三ケ年当所へ下し置かれ候えば、町毎に冥加金入札にて女どもを引取り候|仕来《しきた》りに付、向後書面の通り相守り、勝手の儀にて致すまじき事。 附。右売女どもの内、病気にて引受人無き分は、町内限り居処手当いたし、療治を加え、当人とも難儀ならざるよう養育申すべき事。 [#ここで字下げ終わり]  というのである。捕えた私娼はいったん伝馬町の牢屋へ入れ、取調べのうえ奴刑が確定すれば吉原の会所へ移してくじ引で遊女屋へ割当てたとある。この時は遊女屋自体が牢屋だから値がつかない。無料で下級女郎として配布された。  刑期は最高三年で、その期間がおわるとあらためて幕府から女を下げ渡される。姦淫罪で女を入札するのは、捕えたあとではなく、実はこの時である。刑期を終えているから女は自由であり、入札代金も幾らかは入る。奴刑の判決後、町毎に預けられる時とはその点で違う。しかもこれ以降は、ふつうの女郎とおなじだから、稼いだ分の何割かは収入ともなる。『ルーツ』で台の上へ乗せ、 「さあ、幾ら!」 「二両だ」 「五両!」  と牛馬並みに売るのとは大違いである。  で、お色気犯がこの奴刑であり、関所破りでこの刑罰を喰った例は聞かない。特に女の関所犯は軽く、男といっしょなら無罪か、またはお叱りですんだ。  寛政六年(一七九四)大坂南堀江二丁目、森本屋庄兵衛の弟善八は、下女ちくと密通して江戸へ駈落のとちゅう、関所を避け、脇道をしたというので捕まった。はじめ奴刑を科すつもりだったが、これは前記どおり遊女ではなく下婢にするのだ。しかしそれでも重いというので、結局ちくは密通罪を加えても、急度《きっと》叱りという軽い刑ですんだ。  ただ一件、例外がある。寛政八年(一七九六)三河の江原村、伴右衛門の娘いしは、跡目相続のことで江戸の地頭屋敷へ訴えるため信州|波合《なみあい》の口番所にさしかかった。が、関所手形がないので追い返されたところ、脇道を聞きひそかに抜け出した。  捕まって審理にかけられたが、男といっしょではない単独犯行なので、本来は磔のところ女ゆえ死一等を減じ、めずらしく重刑の遠島に処せられた。  関越えてここも藤しろみさかかな 宗祗 ◆考証[時代劇]◆ 稲垣史生著