[#表紙(表紙.jpg)] 考証[大奥] 稲垣史生 目 次  一 奥御殿の神秘と現実  二 江戸以前の奥御殿  三 初期大奥の種々相  四 花ひらく大奥  五 大名の奥御殿  六 旗本・諸士の奥向  あとがき [#改ページ]   一 奥御殿の神秘と現実  奥様ということばは、武家の奥御殿から出ている。武家では上は将軍から、下は二百石高の旗本家までかならず表と奥があり、表には男ばかり、奥向には女ばかりが住んでいた。その奥向の主宰者だから奥様である。旗本以下の御家人には表奥の区別がなく、したがって奥様とはいわず御新造様《ごしんぞうさま》といいわけた。  その奥向つまり奥御殿は、また二つにいいわけられた。江戸城の将軍家の奥向を大奥といい、諸大名および旗本家の場合は奥向といった。将軍家だけはちがうのである。将軍家をたてまつっての称とも思えるが、そうではなくて、中奥《なかおく》に対して大奥というので、中奥のない大名・旗本家では使わないとするのが正しいようである。したがって、紀州家その他の大大名家で、中奥のある城では例外的に大奥と称したものもあった。本書ではその大奥と奥向の模様と、そこに住んでいた武家の女性をえがきたいと思う。  時代は奥御殿の画然と分れた江戸時代を主とし、その成立期である戦国時代へもさかのぼる。  さて、武家の奥御殿といえば、何か妖艶で残忍な印象を受ける。そこは女ばかりの住む女人国で、嫉妬、変態行為、陰湿な勢力あらそいが渦巻いている。寵愛《ちょうあい》を独占するために、相手を呪咀《じゅそ》したり毒殺したり、あまたの侍女によって黒髪地獄を現出する。それに老女の勢力あらそいがからんで、しわ寄せが若く美しい女中に向けられ、むごいリンチが加えられた。鞭打ち、逆《さかさ》吊りの暴虐がすぎ、死ぬと死体を奥庭の井戸へ投げこんだ。また、新参の女中たちに「新参舞い」なる裸おどりをさせ、裸体の検査をしたなどの珍話もある。  このリンチや裸踊りは、奥女中の性不満からくるものだとか、その欲求解決のため、長持《ながもち》づめの役者が大奥へ送りこまれたなどの話がある。 「どうです? あんなことは本当にあったんですかねえ」  とよく聞かれる。 「家斉《いえなり》には二十一人も側室があったそうですね。いったい……」  すぐ話はそっちへゆきたがる。それらの真偽を探求しようとするが、何しろ他人の家の奥のぞきであり、将軍も諸大名も規則を設けて極力|秘匿《ひとく》したことがらである。女中たちは秘密厳守の誓詞《せいし》を入れ、退職後といえども親兄弟にも内情を漏らさなかった。隠せば隠すほど臆測するのは人情だし、貴族の世界への詮索癖も、万人共通だけに、猟奇ばなしは幕府の盛時からすでに巷間に流れていた。  明治維新を迎え、やっと解禁の形で漏れはじめた。学者や新聞社で、後世のため元奥女中の談話をとった。が、惜しいかな、責任ある高級女中の談でなかったため、信憑《しんぴょう》性は部分的にしかないとされている。高級女中は旗本の娘や上級藩士の娘なので、主家の内情を漏らすわけはなかったのだ。  しかし、このままでいい問題だろうか? 封建時代には、権力者たる将軍・大名の、個人の意志が政治面に直接作用することが多い。その将軍と、朝夕近接する奥御殿の女流は、将軍を動かしやすい立場にあったのではないか。特に容色をもって仕える側室の影響力は、けっして小さいものではなかろう。外部からその力を利用しようとする者もあらわれたにちがいない。  武家時代の女の地位は低かった。敵国の女子などは財物同様にあつかわれ、一城を落せば城中の女を品物のように分配した。一族の女も、人質や政略結婚に使われ、ほとんど人権を認められなかった。江戸時代へくだっても、礼法家の伊勢|貞丈《さだたけ》は家訓の中で、「夫は男なるゆえ心行われたれども、妻は女のことなれば知恵たらずふつつかなる事多し」  といい、名君のほまれ高い保科正之《ほしなまさゆき》も、家訓の中にひどいことを書いている。 「婦人女子の言は、一切聞くべからず」  これでは女の地位どころか、まったく女の無視である。何かといえば、 「女わらべの知ったことではない」  ときめつけられた。  ふしぎである。それでいて、奥向女流の影響は、けっして少ないものではなかった。将軍家では貞享《じょうきょう》・元禄の五代|綱吉《つなよし》、明和・安永の十代|家重《いえしげ》、文化・文政の十一代|家斉《いえなり》など、政治面へいちじるしい影響を受けた。幕臣で、政策の遂行に大奥の力を借りた者に、田沼|意次《おきつぐ》や柳沢|吉保《よしやす》がある。それとは逆に、寛政改革の松平定信や、天保改革の水野越前守は、大奥女流の反感を買って失脚した。諸藩でも大なり小なり、同じ影響下にトラブルを起こしている。お家騒動にかならず美人の側室がでることでも、奥向の影響はあきらかである。旗本家のお家騒動も例外ではない。品物同様にみられ、「知恵たらず、ふつつかな者」といわれる奥御殿の女流が、どうしてこのふしぎな力を発揮するのだろうか? その解明を目標に、とにかく武家の奥御殿をさぐろう。 [#改ページ]   二 江戸以前の奥御殿 [史料としての築山殿《つきやまどの》事件]  武家の邸宅は、室町時代から表と奥にわかれ、表は主人が対外的な諸事を宰領するところ、奥は家族が居住する場所とだいたいきまっていた。構造上も区別がつけられていて、関東|管領《かんれい》の第宅《ていたく》図では、そのさかいめに大戸と書かれている。  戦国時代はそのけじめが、ますますはっきりしたと思う。籠城の場合、女は食糧運びなど手伝わぬでもないが、だいたい足手まといになるので、城外の安全地帯へ避難させることが多かった。  城には城主の家族と、最小限の召使だけが残る。城の構造はいくさ本位で、奥向のスペースはできるだけきり詰められていた。  表と奥とを遮断して、追々奥向が形成されていった。  北条家の家訓、「早雲寺殿二十一箇条」のなかにつぎの一カ条がある。 一、ゆうべには六つ(六時)に門をはたとたて、人の出入りによりあけさすべし。左様なくては未断《みだん》にこれあり、かならず悪事|出来《しゅったい》すべきなり。  城ばかりではなく、家臣の邸宅にも及んでいることが「長曽我部百箇条」にみられる。 一、男留守のとき、その家へ座頭・商人・舞々・猿楽・猿使い・諸勧進の類、あるいは親類たりといえども、男は一切立入り停止のこと。  しかし法令は、逆の事例があったから出すので、つまり表奥のさかいめは相当ルーズで、そのための弊害があったとも受けとれる。  家訓や法令ばかりでは、状況が頭に浮かばない。そこで大名時代の徳川家へ眼を向けてみよう。  岡崎城にいた時代、浜松城、駿府《すんぷ》城の時代と、それぞれの奥向であった事件の中に、その状況をさぐるのが具体的であり、早道でもある。  初代家康の行動は、その後ずっと「権現様《ごんげんさま》以来のしきたり」として、徳川家のすべての規矩《きく》をなした。閨政《けいせい》においてもまた例外ではなく、後々の将軍が、よくも見ならったと思われることが多い。  家康は弘治元年(一五五五)、十四歳で元服して松平元信と称した。今川氏の人質として駿府に滞在中なので、元信の元は、今川義元の元にあやかったものである。翌々三年、今川氏の重臣関口義弘の娘、築山《つきやま》殿(駿府の館が築山の妙をそなえていたための称)と結婚して、永禄二年(一五五九)に長子信康を、翌三年には長女亀姫をもうけた。今川義元が宿願の上洛をくわだて、尾張侵入を開始したとたん、桶狭間《おけはざま》で織田信長の奇襲に倒れたのは、おなじ永禄三年のことである。  家康も今川方に従軍していたが、義元の敗北を知ると、退いて松平の本城たる岡崎城へ向かった。今川方の守将朝比奈|泰能《やすよし》が、すでに駿府へ敗走していた。ために家康は容易に岡崎へ入城することができた。六歳の天文十六年、人質としてこの城を出てから実に十三年ぶりの帰城である。  この時をさかいに、家康は人質生活から解放され、独自の翅翼《しよく》をのばすことになる。  まず三河の統一から手をつけた。つづいて今川氏を離れ織田方へ接近して同盟を結んだ。これは父祖以来の外交政策を変えるものだし、当時の情勢ではまだまだ危険度は高かった。それに、今川氏のもとには妻の築山殿、嫡男信康をおいたままである。家来のうちにも、妻子を駿府において来た者が多い。だから、反対者はあったが、家康は的確な見通しによって、新興勢力の信長と結んだのである。  人質の妻子を、やがて取りもどす機会が来た。家康は西郡の城を攻め、今川一門の鵜殿《うどの》長照の子二人を捕えた。徳川方の石川数正が、これを種に人質交換を今川方へ持ちかけ、鵜殿の子と築山殿・信康の交換に成功した。  家康は、三年ぶりに妻子と対面、はじめて自分の本城で、家族と同居することになったのである。  徳川家の大奥は、このころからはじまるといってよい。永禄五年(一五六二)三月のことである。  家康が家族と共に、岡崎城にいたのはそれから八年間である、家康の一生を通じて、家族と共に暮らしたのはこの期間のみともいえる。家庭的にはいたって恵まれず、この八年間も築山殿は別曲輪《べつくるわ》に住んで、家康夫妻は別居同様であった。が、ともあれその間に家康は、着々と地歩を固めていった。  まず自立後はじめての試練、三河の一向一揆にぶつかった。苦心の後やっと鎮圧した。また武田信玄と結び、落日の今川氏を一挙に倒そうと駿河へ侵入した。そして浜松を落としたあとは、大井川以西の遠江《とおとうみ》を手に入れた。嫡男信康と信長の長女徳姫を結婚させたのも、その期間中の収穫である。何と、新郎新婦はわずか九歳の政略結婚だが、仲むつまじく追々ふたりの姫を産んでいる。  最初の松平元信から元康と名を変えていた家康は、永禄六年(一五六三)七月、三度改名してはじめて家康と名乗った。その三年後の永禄九年十二月には、かねて願い出ていた徳川姓を勅許され、徳川家康になると共に、従五位に叙され、三河守に任ぜられた。  この元康から家康へ改名したことに、大きな意義を見のがすことはできない。元康の元は今川義元にあやかった字である。その元の字を排したのは、すなわち今川家の羈絆《きはん》を脱し、名実共に敵対の意思表示をしたことであった。名家今川の一族をもって任ずる築山殿を、強く刺激せずにはおかなかった。  後世築山殿は悪妻の見本のようにいわれるが、すくなくともその原因を作ったのは家康である。  築山殿は関口義弘のむすめだが、義元とは血のつながりがあり、養女として人質の家康に嫁いだのだ。自分では降嫁した気持である。気位が高い上に、家康より八つ歳上の姉女房であった。その辺に悲劇の芽が胚胎《はいたい》していた。  思えば家康は信長の死後、彼女をおき去りにしてまっすぐ岡崎城へ入った。三年間まったく駿府に放置された。人質交換で、やっと三年目に岡崎城へ迎えられたが、別曲輪に住まわされて家康は近づかない。そればかりか、義元のかたき織田信長と結び、その娘を信康の嫁にした。さらに義元の元を排し、駿河をねらうにいたっては、恩を仇で返すに等しいではないか。  もっと大きな原因がある。ほかでもない。家康の最初の寵妾《ちょうしょう》があらわれたのである。事もあろうに築山殿の侍女お万(小督)に、湯殿で手を出して孕《はら》ませた。『玉輿記』によれば、それが露見して大騒ぎ、怒った築山殿がお万をはだかにし、庭木に縛りつけてさんざん鞭打った。たまたま宿直《とのい》の本多作左衛門が、悲鳴を聞いて助けだし、城下はずれの庄屋の家で出産させたという。生れたのは双生児《ふたご》で、うちひとりは死に、生き残ったのが後の結城《ゆうき》秀康なりとする。まさに「お湯殿の子」であった。  ところが、この説は辻棲が合わない。秀康の生れたのは天正二年(一五七四)二月八日。したがってお万の懐妊は天正元年のはずだが、家康はその三年前、元亀《げんき》元年(一五七〇)にはすでに浜松へ移っている。お万はいっしょに浜松へゆき、もう岡崎にいるはずはない。これは岡崎でなく、浜松のことではないのか。しかし築山殿は終始岡崎城をうごいておらず、したがってこの説も成り立たない。  幸い信頼度の高い『柳営婦女伝系』に、もっとも辻棲の合ういきさつが出ている。これがいちばん真相に近い。  この書によれば、岡崎ではなくて浜松城へ移ってからの事件である。怒ったのは築山殿ではなく、家康自身だとする。お万が何かで家康をひどく怒らせた。お万は、着のみ着のまま城を抜け出し、本多作左衛門の家臣、本多半右衛門の伯母のもとへ駈けこんだ。この婦人は家康幼少のころお側に仕え、表使《おもてづかい》を勤めたことかある。そのころ役を退いて、浜松城下に住んでいた。婦人はお万から事情を聞き、くり返し帰城して家康に詫びるようすすめた。が、お万は帰れというなら死んでやると駄々をこね、ついにこの家で秀康を産んだ。家康も無軌道ぶりに、苦笑いをし、別にとがめだてをしなかった。  どうもこれが正しいようだ。築山殿が鞭打ったとするのは、彼女の嫉妬深いことをいうための作り話であろう。  元亀元年(一五七〇)、家康は岡崎城を信康に与え、自分は居城を浜松城へ進めた。この時も築山殿は岡崎においてけぼりだ。そして浜松では、お万のほかお愛(西郷の局)など若い側室を寵愛した。諸書には築山殿を、「生得悪質、嫉妬深きお人」などと書いているが、そうでなくても、以上のいきさつから家康を怨むのは当然であった。 [戦国奥御殿への考察]  ところで、家康が去ったあとの岡崎城が問題である。築山殿のただひとつの頼みは長子信康のみ。その信康と徳姫の夫婦仲がきわめてよい。世間並みの姑《しゅうとめ》のように、嫁に息子を取られた感じだ。敵の娘に対する悪感情も渦巻いた。徳姫は養父義元を討った信長の娘——とても同じ屋根の下には住めない。  信康に向かって築山殿はけしかけた。 「武将の妻が、女児しか産めぬのでは仕方がない。早く男児を……」  そしてしきりに、信康に側室をすすめた。  信康については、暴虐非道で家臣の信望もなかったとする説と、逆に豪勇で名将の素質じゅうぶんとする説がある。短い半生から推《お》すのでやむを得ないが、とにかく戦場ではしばしば優秀な戦士ぶりを発揮した。天正三年(一五七五)五月の長篠《ながしの》の合戦には、十七歳で豪勇ぶりを見せた。  長篠の合戦後、武田|勝頼《かつより》がつくづくと述懐した。 「こんどの戦で、三河の小せがれ(信康)のかけひきには驚いた。まことにすえ恐ろしい奴。徳川殿は果報者よ」  どういうかけひきかはわからぬが、後に勝頼の三河侵入にも、信康はみずから物見に出て戦の潮どきを家康に教えた。知略にもすぐれていたと見える。ただ、武将の理想タイプとして、粗暴で単純な性格であった。生母の築山殿に水をさされると、たちまち酒色におぼれて正妻徳姫をうとんじた。泥酔して人を斬るなどの乱行が絶えない。徳姫がそれをなじると、召使のせいにして、 「この口で告げ口いたしたな」  と、両手で召使の口をひき裂いた。桀紂《けっちゅう》の暴虐——築山殿の思う壷であった。  そのころ岡崎に減敬《げんけい》という唐人医者がいた。築山殿を診療するうち、さまざまな打明けばなしをするまでになった。減敬はかつて武田勝頼に仕え、今も甲州と接触がある。いつか築山殿の欝憤は、そっちへはけ口を求めていた。減敬の仲だちで、大胆にも勝頼と密書をとり交した。 「家康と信長は、私がたばかって必ず殺す。その時は信康に徳川の旧領を与えられたい。また私のこと、甲州ご家来中の適当な人にめあわせてほしい」  そんな趣旨のものだった。これに対し勝頼からつぎのようにいって来た。 「家康、信長を討ちとってくれたら、信康殿には徳川の旧領はもとより、信長の領地もよいだけ進上いたそう。また築山殿には、小山田兵衛という大身の武士を取り持とう。信康の同意が得られれば、いつでも甲州へ迎える手筈である」  メッセージではなく誓詞に近い。しかし築山殿は、さすがに信康には打明けかねて日を送った。が、そのスリル感と、復讐の喜びがどうしても態度に出る。そわそわと落ちつかなかった。  築山殿のもとに、琴という侍女がいた。日ごろの築山殿とちがうのを怪しみ、そっと手文庫をあけてみた。勝頼からの密書を発見した。琴にはひとりの妹があり、徳姫の侍女をつとめていた。琴はその内容に驚き、そっと妹に打明けた。妹から重大事は徳姫の耳へ……。  築山殿を怨む徳姫は、すぐさま父信長のもとへ、つぎの通り書き送った。 一、築山殿は悪人で、信康へ讒言《ざんげん》して、私との仲を不和にした。 二、私が姫ばかり二人産んだのをあざけり、男を産めといって多くの妾を信康に持たせた。 三、築山殿は医師減敬と通じ、信康を引き入れ甲州へ一味せんとしている。 四、織田・徳川の両家を亡ぼし、信康にはその所領を与えること、築山殿を小山田なる甲州の侍にめあわせること。この二件を起請文《きしょうもん》として取り交している。 五、信康はつねづね粗暴のふるまいが多い。私の目前で召使の口を引き裂いて殺した。 六、また信康は踊りが好きだが、踊り子のひとりを弓で射殺した。衣裳が悪いとか、踊りが下手だとか、理由もなしに殺生する暴君ぶりである。 七、さらに信康は、鷹野の途中、僧に出会い、その日の不猟はこの者のせいだとして殺した。(僧に出会えば不猟という伝説による) 八、勝頼の密書の中には、必ず信康を味方にせよと書いてある。夢々、油断なされますな。  この手紙は信長を驚かせた。武田といえば寝た間も忘れたことのない相手だ。築山殿が、その武田と通謀する! いかに夫婦不仲とはいえ、他に男ほしげなそぶり? ちょっと信じられなかった。が、とにかく徳川家の重臣、酒井|忠次《ただつぐ》を安土城に呼んで聞きただした。  ところが忠次は、よもやと思った前記八カ条の内容を、ほとんど弁解もせずに認めた。これまた意外だった。信長は即座に、築山殿と信康の処分方を命じた。  これは一体どうしたことか。なぜ忠次は、あっさり事実を認めたか。これにつき意外な背任の事実があったとする。  忠次は信康の侍女、お福という女に思召しがあった。そこで徳姫にとり入って、やっとお福を手に入れた。屋敷へひきとって寵愛した。ところが、それ以来、信康からやたらにいじめられた。何かというと忠次を目のかたきにする。どうも信康もお福に思召しがあって、早いとこさらわれたのを怨んでいるらしい。そこで忠次はしっぺい返しに、信康のことを弁解しなかったというのだ。  たかが色恋の怨みから、徳川家の一大事を招いたわけだ。だいぶ話が長くなったが、初期大奥への考察のため、今すこし続けたい。  さて、忠次は岡崎へは寄らず、まっすぐ浜松へいって家康に復命すると、八方に敵を持つ家康は、信長の後援がぜひ必要な折とて、涙をのんで妻と子の処罰を決意した。家臣の野中三五郎、岡本平右衛門に命じ、天正七年(一五七九)八月二十九日、浜名湖に近い富塚で築山殿を討ちとらせた。時に築山殿は四十六歳。家康の心境は複雑だったにちがいない。討ち取って帰った野中、岡本に、 「女のことではあり、ほかに仕様もあったろうに」  と不機嫌だったという。  信康の場合は、さらに愛情の念が強かった。同じ年の八月、岡崎城から大浜へ移し、九月には遠州堀江城、さらに豊田郡|二俣《ふたまた》城に移して大久保|忠世《ただよ》に預けた。一カ月の間、あちこち移したのは、ひそかに逃亡してくれと願ったのかも知れない。その気持も通ぜず、家来たちが厳しく見張ったため、ついに九月十五日、信康に腹を切らせるしかなかった。信康はくれぐれも、謀反については事実無根だと、父家康に伝えてくれと遺言して果てた。時に二十一歳の若さだった。  家康には信康を死なせたことが、あとあとまで痛恨の種であった。後に秀吉から北条の旧領をあてがわれた時、井伊、榊原、本多の重臣らと共に、酒井忠次の子家次(忠次は隠居して家次が継いでいた)にも恩賞を与えた。が、他の重臣が十万石以上なのに、家次にはわずか三万石の恩賞しか与えない。忠次が、他の重臣並みに……と願うと、家康は一言、 「お前でも子は可愛いか」  といった。家康はあの時、安土城で信康のため弁解してほしかったのだ。  なお信康の死については、勝頼が恐れた如く信長もその才能に恐れを抱き、自分の嫡子信忠と比べて、次代には信康の支配下に入るのではないかと、若芽のうちに刈り取ったとする説がある。幕府の日記たる『徳川実紀』にも、 「少年|勇邁《ゆうまい》の気、するどくおわしまししを、信長の恐れ忌《い》みしより、事起れるにて、お手荒き御ふるまいのありしも、軍国の習いにて、あながち深く咎《とが》め奉るにもあらず」  という。一半の真実を伝えるものであろう。ともかくこの事件は、将軍親子の情愛が、政略や家臣のため阻害されることが多いという好見本である。  さて、この築山殿事件では、戦国武将のさまざまな内面生活を知ることができる。二重の政略結婚、親子の情誼《じょうぎ》など……。そして当時の奥向については、三つの考察資料がある。  すなわち第一には、家康がお湯殿でお万に手を出したこと。湯殿の世話係は、どうせ卑しい女である。その上、燈台もと暗しで、築山殿の間近で摘み喰いをしたところに、築山殿を怒らせた原因があった。お万は若くお転婆で、現代のつっぱり娘に相当する。  そんな女に見返られて、築山殿も耐えられなかったのであろう。家康もお万の産んだ子に疑いを持った。果して自分の子か。家康はいつまでも庶子の認定さえしなかった。嫡男信康の死で、お万の子はやっと陽の目を見た。下総《しもうさ》の結城家をついだ後、越前の北庄で六十七万石の大名になった。すなわち越前秀康だが、それはずっと後のはなし……。「お湯殿の子」は、後の大奥にもあったようだが、初代家康が早くも遺憾なく「権現様ぶり」を示したわけだ。  第二の考察資料は、酒井忠次がやはり岡崎城で、お福を見染め、徳姫に取り入って妾にしたこと。これによって、表奥の境はあっても、重臣なら自由に奥向へ出入りできたことがわかる。奥方にも単独で会え、願いがましいことも直接いえた。重臣にして奥女中を見染めたり、囲ったりである。若侍と侍女が、ひそかに奥庭で恋を語るぐらいは当然ちょいちょいあったにちがいない。後の大奥とはちがう、自由な空気が感じられる。第三に、お万が着のみ着のまま城を飛びだしたこと。これによって奥向の規模が知れる。  いまひとつ、お万のかけこんだ本多半右衛門の伯母は、表使《おもてづかい》をやったことがあるという。まだ女中の人数も少ないが、老女や祐筆《ゆうひつ》や表使は、自然発生的にできていたのであろう。家中によって名称はちがうだろうが……。 [塩問答と大奥総監]  つぎに衆妾中、最も可憐で利発者だったお勝の方(お梶)をあげておく。お勝は、水戸の城主江戸|但馬《たじま》守の娘。家康の命令で太田|道灌《どうかん》の子孫、太田康資の養女となり、天正十八年(一五九〇)の冬、十三歳で召し出され枕席にはべつた。時に家康は四十九歳、実に三十六年のひらきがある。さすがの家康も気の毒に思ったか、いちどは松平正綱と結婚させた。が、なぜかお勝は若い正綱を嫌ったので、あわてて取り戻し、もとどおり寵愛した。その間わずか一カ月、ちょっと腑に落ちぬ話だが、考えようでは年齢差の大きい二人に、かえってそれなりの愛情が生じたのかも知れない。家康は以後、どこへゆくにもお勝の方を伴った。大坂冬の陣にもつれていったし、翌年の夏の陣にもつれだした。愉快なのは、二度とも彼女は騎馬で従ったことだ。陣中へ女を連れ出したのは、秀吉にも前例はあるけれども、騎馬というのは木曽義仲の愛妾、巴《ともえ》御前に例を見るのみである。  お勝は若いころ子供がなく、四十歳にして松姫、つづいて市姫を産んでいる。情愛の対象としてよりも、可憐で利発なところを家康は愛したのだろう。  お勝の才女ぶりに、よく持ちだされるエピソードがある。話の内容から見て駿府城でのことだ。  あるとき家康は、本多、大久保、平岩などを御前へ召し、焚火《たきび》をしながら戦ばなしに花を咲かせた。それから話が食物のことになり、あれがうまい、いやこれに勝るものはないと意見がわかれた。  時にお勝の方も茶を入れに来ていたが、皆の話を聞いて微笑《ほほえ》んでいる。ふと気づいて家康が声をかけた。 「お勝、お前に何か考えがあるのか」  彼女はにっこり微笑んで答えた。 「せっかくのお尋ねゆえ申しあげます。この世でもっともうまいものは、塩をおいてほかにありません。どんな贅沢な料理も、塩味がなければ食べられたものではありませんからね」 「なるほど。では、最もまずいものは何か?」 「それも塩のほかございません。塩のききすぎた料理は、どんないい料理でも吐きだしたくなりますから……」  家康はこの答えに感心して、もしお勝が男だったら、一方の旗頭になるだろうといった。 『故老諸談』にある話だ。  今日から見れば多少気がきいている程度で、特にほめられる内容ではない。つまらない話だ。が、ここへ持ち出したのは、側室が侍衆のいる部屋へ、茶を入れに来ていること。それが当時の奥向への、ひとつの考察資料だからである。焚火をしていたというからいろりのある部屋であろう。奥向の一室へ側近者を呼んだとも、また表御殿の重職の溜りとも考えられる。いずれにしても、重臣のいるところへ側室が出ていって、時には談笑の仲間入りをしたことがわかる。これは重要である。後に大奥が画然と仕切られてからは、想像もできない自由さであった。  つぎにいま一人、特異な側室をあげなければならない。阿茶《あちゃ》の局《つぼね》である。  本名をお須和《すわ》といい、甲州ざむらい飯田久衛門の娘、武田信玄と今川義元が和睦の折、今川の家臣|神尾《かんお》孫兵衛に嫁いだ。  その孫兵衛は桶狭間の一戦に討死、やむなくお須和は一子猪之助をつれ、甲州黒駒在へひっこんでいた。  天正七年(一五七九)、家康が甲州へ侵入の折、黒駒峠で出会い、気に入って浜松城へつれ帰ったという。家康三十八歳、お須和二十五歳の時であった。以来大いに寵愛して、戦場へもたびたび同伴した。小牧《こまき》・長久手《ながくて》の合戦の折、陣中で流産したため子供がないが、まれに見る女丈夫で賢婦人なので、西郷の局の産んだ二代将軍秀忠の義母となって訓育した。  天正十八年(一五九〇)、家康の江戸入城以来、阿茶の局は大奥のすべてを仕切り、お表の幕閣と対等に交渉した。春日局に先だって、早くも大奥総取締のような地位についた。 『幕府|祚胤《そいん》伝』には、 「十八年以後、隠密の御用向を、奥より執政(老中)へ伝達があった」  と記されている。あきらかに、政治にタッチしていた。大奥女流の、政治参与のはじめである。  それ以後の局《つぼね》の活躍はめざましい。天下分け目の関ケ原の戦で、小早川隆景の寝返りに一役買ったともいわれるし、大坂冬の陣には本多|正純《まさずみ》と共に、大坂城からきた北政所《きたのまんどころ》高台院と会見して講和を計った。さらに家康の命令により、板倉重政と共に大坂城へ乗りこみ、秀頼母子の誓書をとってくるなど、はなばなしい外交手腕を見せた。  それだけではない。元和二年(一六一六)家康が死ぬと、衆妾はみな髪をおろしたが、遺命により阿茶の局だけは蓄髪のまま活躍した。元和六年、秀忠の五女和子が後水尾《ごみずのお》天皇の女御として入内《じゅだい》するとき、局は生母の代理として上洛、重要儀式をぶじにすませた。その功績により、従三位を賜わろうとしたが辞退、後に一足とびに従一位に推叙《すいじょ》されたなどは、見方によっては巧妙な進退といえよう。晩年の家康は阿茶の局に頼ることが多く、秀忠もまた彼女を信任することが厚かった。時代が時代とはいえ、側室であって、大奥の総取締を兼ね、対外的にもこれほど政治的に動いた人はない。寛永十四年(一六三七)正月、八十三の高齢で死んだ。 [ふたり松姫に見る奥向の規模]  さて、以上が衆妾中の代表タイプである。家康は生涯に十八人の妻妾をもった。ところで、これらの側室たちは、バラエティに富む中にも、共通するものがある。ひとつは後家が多いこと。西郷の局(お愛の方)、茶阿の局(お久)、お亀の方、阿茶の局(お須和の方)、お牟須《むす》の方、それにこれからのべる下山殿もまた未亡人のひとりである。  後世、家康は後家好き、秀忠は処女好み、家光は尼僧好きといわれた。  秀忠、家光の場合はこじつけの気もするが、家康の後家好きだけはたしかである。  それに今ひとつ、側室はどれもこれも身分がいやしい。鋳掛屋《いかけや》の女房だったり、修験者の娘だったり。そして彼女らを、家康は湯殿ではらませたり、鷹狩りの途中拾ったり、きわめてお行儀の悪い方法で手に入れた。「家康の裾《すそ》貧乏」というのはそのためだ。どうも安上りの感が深い。  家康がそうなら側室たちも、何かみみっちくて天下人《てんかにん》の思われ者らしくない。慶長十二年(一六〇七)十二月、駿府大火の折、側室たちが、せっせと貯めた金を焼失したと『当代記』にある。金額は阿茶の局が金三十枚、お亀の方は千五百枚、茶阿の局、お万の方(蔭山。頼房の母)は三百枚または五百枚を焼いた。貯蓄は家康の感化だろうが、ゆく末を考えて臍《へそ》くった感が強い。先ゆきの不安な町家の妾ではあるまいし、という気がする。しかし、後家好きや裾貧乏は、果たして家康の本性だったろうか? 「人の一生は重荷を背負って坂道を上るが如し」といった家康の、処世観から割り出された性生活のあり方だったろうか? 考えてみる必要がある。  まず、これら十八妻妾は、家康三十二歳から六十八歳までの三十六年間に獲得した女たちである。しかも、そのうち十一人までは、天正年間の壮年期に入手した。天正年間といえば、信長と組んだ家康が、新興大名としてのした時期——天正三年(一五七五)には長篠の合戦、七年には北条氏政と組んで武田勝頼と対峙、十年に信長が本能寺に倒れて以後、秀吉と対抗し、十二年には長久手《ながくて》に戦った。秀吉の異父妹朝日姫との結婚(天正十四年)で、秀吉との和解成った以後は、その風下に立ちながらも、実力を蓄えるのにいそがしかった。越えて十八年、秀吉の小田原攻めに加わり、その年、新しく関東に封ぜられて江戸城に入った。  仕事に油の乗った盛りであり、いそがしく東奔西走した時代である。席の温まる暇もない。そんな中で、新興の一大名としては、側室の素性に高きを望めなかった。兵馬倥偬《へいばこうそう》の間に、いそがしく子孫づくりをした。意欲さえ湧けば、相手えらばずとなったのはやむを得ないことである。初代将軍の観念でいう、裾貧乏などとさげすむのは当るまい。将軍になったのは慶長八年(一六〇三)二月、六十二歳のときである。  家康だとて高貴の血をとり入れ、血統を高めようとしたのは鎌倉、室町将軍とおなじである。三河の田舎大名から経《へ》昇っただけに、ことさら血統へのあこがれは強かっただろう。側室さがしにも、その熱望のあらわれないはずはない。武田氏の滅亡後、甲州経略にあたったとき、もっともよくその意図をむきだしにした。いわゆる「甲州の姫狩り」である。  家康は天正十年(一五八二)に、二度甲州へ入っている。はじめはその三月、織田軍にさそわれて市川口から進入、一カ月半ほど滞陣した。宿敵武田氏に、とどめを刺す一戦で、主として織田軍が戦った。追いつめられた武田勝頼は天目山に滅びる。信長は、斬りとった甲州を、先陣の恩賞として川尻|鎮吉《のぶよし》にあたえた。そして自身は新作戦のため京へ出たところを明智光秀に討たれた。  この急変に、武田の遺臣がいっせいに起《た》った。新領主の川尻を殺し、三千の川尻勢を追っ払ったので、この年、甲州は主なき真空地帯となった。北方、越後から上杉が、東南小田原からは北条が狙っている。家康は機先を制してふたたび甲州へ侵入、七月九日甲府に着陣した。それから十二月二十一日まで半歳近く滞陣して甲州の経略に当った。姫狩りはこの期間におこなったものである。  家康はまず新府(韮崎《にらさき》)、古府(甲府の北方)を中心に巡視した。川尻とはちがい、極力、善政はしいたものの、まだ、治安はよくなかった。巡視の途中、何度も武田の遺臣から命をねらわれた。が、そんな中でも家康は、鳥居彦右衛門に命じ、武田の一族馬場氏勝の娘を探すよう命じた。  彦右衛門はいちおう探した顔つきで、行方不明と答えておいた。それですんだと思いのほか、家康は忘れもせず、催促した。探索方の者は困り、思いきって真相を告げた。 「その娘なら、とっくに彦右衛門が手に入れて、女房のように可愛がっております」  家康は怒るどころか、 「そうか。彦右衛門は若いときから、抜けめのない奴だったからな」  と大ごえで笑った。『東照宮御実紀』にある話、まこと強将の下に弱兵無しだ。  こっちがだめになって、家康はつぎに、武田信玄のむすめ松姫を探せといった。敵城を落したら、その婦女を略奪するのが戦国のならい、家康は特に松姫に執心した。草の根を分けても探し出せと命じた。  信玄には六男五女があった。女子はそれぞれ北条氏政、穴山梅雪、木曽義昌、上杉景勝に嫁ぎ、末娘の松姫だけが残っていた。松姫の生母は信玄の叔父武田信友のむすめで、異腹の姉たちよりずば抜けて美しかった。時に松姫は二十二歳、美女の評判を聞いて家康の追及はきびしかった。  勝頼滅亡のとき、松姫は姉の嫁ぎ先、穴山家にかくまわれていた。穴山家は武田の一門で、特に重縁の間柄——当主の梅雪は勝頼を見限り、早くから家康についていたが、弟の信邦は変節しなかった。何とか松姫をかくしたい。武田家は清和源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする名族ではないか。系図のあやしい家康ふぜいに、由緒ある武田の姫をもてあそばれてなろうか。  しかしこのままでは、追及の手が及ぶこと必定である。ではどこへ逃げたらよい? 占領下の甲州には、身のおきどころのない松姫であった。  信邦は考えた。幸い家康は松姫の顔を知らない。替え玉を出しても松姫で通るのではないか。他人には打明けられぬ秘密——信邦はみずからの妻女お都摩《とま》に因果をふくめ、お尋ねの松姫だといって家康の陣屋へゆかせた。  お都摩はときに十六歳であった。  愛する妻を人身御供《ひとみごくう》として捧げるのはつらい。ゆく方もまた死ぬより苦しかったであろう。政略結婚など、この苦衷に比べれば物の数ではない。  お都摩は家康にともなわれて浜松城へゆき、側室となって下山殿と名乗った。正妻築山殿をのぞき、側室で殿の字のつくのはこの人だけである。表向はそのまま武田松姫で通したからである。すると衆妾中、もっとも毛並みがよいことになる。下山殿は翌天正十一年、浜松城で男子を産みおとしている。  ところが、である。実はお都摩のまえにいま一人、替え玉を買って出た烈女がいた。  武田の家臣、市川十郎左衛門|尉《じょう》の娘お竹である。書物によって「お竹は武田氏」と書かれ、「信玄公のむすめ」と書いたものさえある。武田松姫と名乗って出たからだ。時代小説によくあるように、「ふたり松姫」である。鉢合せをして、二人は少なからず驚いたであろう。二人とも贋物なのだから、どっちかがおりなければおかしい。というより、からくりがばれては大変なことになろう。二人は城内で打合せたか、それと知って片方が体よくかわしたか。とにかく家康の前をつくろって、筋目のよい下山殿の方が松姫として押し通した。これもひとつの考察資料である。そういう打合せができたのは、口さがない奥女中が少なかったせいだ。奥御殿の構造が簡単で狭く、いち早く二人が顔を合せ、打合せねばできぬことである。  いやそうではなくて、家康はすべてを知っていて、眼をつぶっていたのではないか。これも否定できない。  替え玉どうしの鉢合せに、家康は見て見ぬふりをした。二人とも偽松姫とはじめからわかっていた。だが顔色にも出さなかった。二女の苦衷をあわれんだ? いや、そうではなくて、処罰すれば家康が一杯喰わされたことを天下に公表するようなもの。大恥かきである。そんな愚かなことをする家康ではない。終始、松姫として厚く遇した。その方が家康には好都合だった。  若いときには加茂朝臣《かもあそん》と書き、藤原朝臣とあらため、最後に源家康におちついたほど、姓氏《せいし》の不確かな家康だ。名将信玄のむすめ松姫に子を生ませることが、どんなに面晴れだったか知れない。目的はただそれだけであった。  後にははっきり下山殿の正体がわかった。下山殿の産んだ子に穴山梅雪のあとをつがせ、武田信義(後の信吉)と名乗らせた。梅雪は本能寺事件のとき、家康とともに泉州《せんしゅう》堺にいた。事件後の混乱に、本国へひきあげの途中、土一揆にあって殺されたものである。信義は下総《しもうさ》小金で三万石、つぎに佐倉で四万石、さらに水戸で十五万石を領したが二十一歳で没し、御三家水戸はやがてお万(蔭山)の子頼房が継ぐことになる。  また、お竹の方は、浜松城で三女振姫を産んだ。振姫は、のちに会津六十万石の蒲生《がもう》秀行へ嫁し、秀行の死後は浅野|長晟《ながあきら》へ再婚した。  一方、お都摩・お竹の忠節により、やっと危地を脱した松姫は、武州|案下《あんげ》山に潜んだのち、横山村(八王子)へ移り住んだ。武田の遺臣らが米銭を持ち寄ってくれ、わびしいながらも静かな余生を送った。  後に家康は関八州のあるじとなった。江戸に近い八王子に、本物の松姫がいることぐらいは、当然知っていたにちがいない。それでも家康は、へたに騒ぐようなことはしなかった。家康の目的は、じゅうぶん達せられていたからである。  さて話は飛ぶが、家康が諸大名に命じて駿府城を修築させ、将軍職を秀忠にゆずって、駿府に引込んだのは慶長十二年(一六〇七)である。それまで彼は江戸城西の丸にいた。関ケ原の合戦以後、江戸城は天下の政庁として規模を拡大していたが、このことは次章にゆずるとして、家康が晩年を送った駿府城でも、二、三書き加えることがある。  ある年の正月、江戸から歳首の賀使として酒井家次が駿府へやって来た。たいへん寒い年で、家次は謁見のとき烏帽子《えぼし》の下に綿帽子をかぶっていた。ご挨拶のとき運悪く烏帽子がぬげ、下の綿帽子が見えたので急に家康の機嫌が悪くなった。 「老人ならともかく、若い者が綿帽子など以てのほかだ。江戸城で諸大名謁見のとき、そんな無作法があっては将軍(秀忠)の威光にもかかわろう」  と家次を叱った。折よくその席に阿茶の局がいて、とっさの機転で助け舟を出した。 「家次殿はひどい風邪で、とても謁見はむりでした。それを、厚着に綿帽子をつけても拝賀すべきだとすすめたのは私です」  晩年阿茶の局に頼ることが多かった家康は、その一言で機嫌を直したと『東照宮御実紀』にある。  家臣の謁見は表向ときまっているが、ここでも側室がかたわらにいる。時に家康は六十六歳だが、世の楽隠居とはちがい、まだまだ秀忠の政治をバックアップしていた。隠居の城だから表奥のけじめがなかったのではない。あるにはあったが、当時もなお側室が表の、しかも公式の場へ出ていることがわかって重要である。  さらに、おなじ『東照宮御実紀』の中に、この話と並んで記されているのが、つぎの話である——  駿河の阿倍川べりに遊女町ができ、旗本の若ざむらいたちも盛んに遊びにいった。町奉行の彦坂九郎兵衛が士風の頽廃をおそれて、遊女町を二、三里先へ移そうとした。大御所家康がそれを聞いて、 「町の繁昌は遊女屋があるからだ。まあそのままにしておけ」  と移転を止めた。  その秋、この地方に踊りがはやり、にぎやかな声が城中にまで聞えた。家康は感興をおぼえ、九郎兵衛を呼んで踊りが見たいから城内へ入れろと命じた。堅物の町奉行だが、町人ばかりを呼んで踊らせた。すると家康は、日頃むくつけき男ばかりにかこまれている、たまには遊女を見せろという。上意をかしこみ、にわかに阿倍川べりの遊女を城内へ呼んで踊らせた。踊りばかりか、そのあと遊女を縁側へあげ、ひとりずつ自己紹介をさせた。  帰るときには別室で菓子を賜わり、 「今後は名指しでお前たちを呼ぶから、かねて心得おくように」  と係の坊主に伝えさせた。  これを聞いた旗本の若侍は、召された遊女に何をしゃべられるか知れない。うっかり遊女買いはできぬぞと、以後ばったり廓通いがやんだ。つまり遊女町はそのままで、旗本の道楽だけやめさせたという、巧妙な民政ぶりを讃えたエピソードである。  遊女を城へ入れた例はほかにない。直接大奥と関係はないが、まだ城内はそうとう自由だったことを物語っている。  さて、駿府城へ来てからも、家康はお六、なつ、梅など若い側室を愛して衰えを見せなかった。後家好きの家康も奇妙なことに晩年になって、孫ほど年のちがう若い娘を好んでいる。特にお六は家康が死んだ時、まだ二十歳であった。何と、年のひらきは五十五ということになる。  一般に老人ほど若い娘を好むというが、家康もはっきりその傾向を見せた。晩年も家康は鷹狩りをやめなかったが、若い側室を幾人も供につれて歩いた。たいてい女たちは乗懸馬《のりかけうま》に茜染《あかねぞめ》の蒲団をしいて乗り、市女笠《いちめがさ》の下は覆面していた。乗懸馬とは、荷物を運ぶ馬である。あまりみっともいいものではないから、本多正純が注意したところ、 「鷹狩りはただの遊びではない。戦陣に擬したものだから馬に乗せるのじゃ」  と、家康は理屈にならぬ理屈をいって取り合わなかった。晩年の家康は、つとめて華やかな中に身をおこうとした。元和二年(一六一六)正月二十一日、最後の鷹狩りの折も若い側室たちを伴っていた。そのとき出先で喰った鯛の天ぷらが悪かったため、そのまま寝ついて四月十七日七十五歳で死んだ。  以上で江戸以前の奥向が、どんな状態だったかほぼ想像できよう。後の大奥にみる妖美や陰惨の影がない。家康はこの道では特別だが、側室の入手ぶりなど一種のユーモアさえただよっていて微笑ましい。いちじるしい特色である。 [#改ページ]   三 初期大奥の種々相 [大奥制度の誕生前後]  つぎに、江戸城の完成により、名実ともに女人国の大奥時代が出現することになる。すなわち慶長八年(一六〇三)二月、征夷大将軍となった家康は、この時を待っていたかのように、諸大名に命じて江戸と江戸城の造成に乗りだした。神田山(駿河台、お茶の水の丘)を崩して洲崎を埋め立て、江戸の市街を拡張した。翌九年には大々的な江戸城の普請にかかり、石材を関東北部の山や伊豆に求め、困難な運搬を開始した。天守台、本丸、石垣、櫓《やぐら》、城門などそれぞれ諸大名に分担させ、その出来栄えを競わせた。この築城のさいちゅうの慶長十年(一六〇五)将軍職は家康から秀忠にゆずられている。秀忠将軍は朝夕、普請場を見てまわって工事を督励した。  翌十一年九月、工事はほぼ完成したので、秀忠将軍は新装成った本丸へ移った。  さらに翌十二年、天守閣を完成した江戸城は、名実共に天下の政庁にふさわしい大城郭となった。本丸の大奥も、このときでき上がったものである。  大奥ぜんたいの守備に当る留守居役《るすいやく》ができたのは、慶長十四年のことである。  留守居役には大留守居と、本丸留守居、西の丸留守居などがある。留守居は大坂の陣に臨時においたのが、このとき常置の職となった。職務は江戸城ぜんたいの守備で、将軍不在のとき城の守りの責任者である。男は将軍に従って出陣するので、残された大奥を守備し監督に当る。『職掌録』には、 「大奥の御広敷《おひろしき》、女中方など一切を司る。また櫓や多門(城壁兼用の櫓)、外郭の諸門もあずかる。女の関所手形も職掌の中である」  と書かれている。  直接大奥へ入って取締ることはできないが、事務局たる御広敷に詰める御広敷番衆、御広敷伊賀者、御広敷|添番《そえばん》など男の役人を配下として指揮するわけだ。  留守部隊長だから、一万石城主の格として優遇したが、後に平和つづきで将軍の出陣がなくなると、まったくの閑職となって、賄賂ばかり欲しがる腑抜け役人に落ちた。  いま一つ秀忠の時代に特記すべきことがある。大奥|法度《はっと》の初の制定である。ちょっとあとの元和《げんな》四年(一六一八)になるが、左の趣旨の条例を下付された。 一 局より奥へは、男子入るべからず。 一 女は券なくして城門を出入りすることができない。 一 夕方六時以後は門の出入りを許さない。駈けこむ者がいたら、すみやかに追い返すべし。 一 台所のことはすべて天野孫兵衛、成瀬喜右衛門、松田六郎左衛門が昼夜交替で勤務し、善悪を沙汰すべし。もし命令にそむく者があれば、すみやかに報告せよ。もし隠しだてをすれば、その者も同罪である。  江戸城の大奥法度は、『徳川実紀』ではこれがはじめである。浜松城、駿府城時代に出たものがあったかもしれぬが、今は知る由もない。  しかし、この留守居役と、大奥法度第一号が出たことは、江戸城大奥史では画期的なことである。ひとつひとつ大奥の制度ができあがってゆくのだ。元和四年といえば、三年前に大坂夏の陣を終え、二年前に家康が死んでいる。温厚な秀忠が、着実に幕府の基礎固めをやった期間である。大奥制度の整備も、その一環として急がれていた。  とはいえ制度ができたからとて、急に整然たる大奥の生活がはじまるものではない。法度が出たことは、逆の現象があった裏づけである。元和四年の大奥法度に局から奥へ男は入るべからずとか、午後六時以後は出入りを禁じるとかの条項があるのは、逆にいえば当時男が奥へ出入りしたこと、夜になっても出入りする者がいたことの証拠である。過渡期の大奥を知るに、もっともふさわしい事件が秀忠の時代に起っている。事件を起したのは、長じて三代将軍となる家光であった。  大久保彦左衛門が書いたものの中に、家光は少年時代から寡黙で、人にことばをかけることがない。だからお気持がわからず困ったものだ。とても将軍職はつげまい、というのである。  したがってその初恋も、ばかにじめじめしたものである。母の大|御台所《みだいどころ》(秀忠夫人は特に大御台所といった)に仕える古五《こご》の局に家光は恋した。局に会いにゆくのに、人にみられては大変と、ある夜|般若《はんにゃ》の面をかぶっていった。案の定、女中にみつかったが面におどろいて逃げ去った。急場はのがれたものの、それから大奥に妖怪が出るという噂がパッと立った。 「ばかなことを。この世に妖怪などいるものですか」  気の強い大御台所が、侍女たちをたしなめた。 「妖怪や悪鬼ではのうて、男が大奥の女を慕うて来るのじゃ。きびしく不寝番を申しつけよ」  それから警戒が厳重になって、とても忍びこめるものではない。家光は密会をあきらめたが、困ったことに古五の局の腹が、だんだんとせり出して来るのである。さっそく朋輩の女が、さてこそ男が通って来たのだといいふらした。  とても隠しきれるものではない。大御台所は弟の忠長を愛し、家光を嫌っているからさぞ怒られよう。家光は覚悟せねばならなかった。  ところが家光のお小姓伊丹権六が、身替りになりたいと申し出た。 「本来ならご馬前に討死する身、今のご難儀をこの身が代るのは当然のこと。さあ般若のお面をお貸しください。私が代って忍びこみ、わざと捕えられましょう。どんなに責められてもお名をあかさず、不義者として死ぬ覚悟です」  という。家光はためらったが、権六は強いて面を借りると、大奥へそっと忍んでいった。  案の定、伊賀者が不寝番の眼を光らせていて、たちまち権六は捕った。  大御台所の怒りはすさまじかつた。家光の小姓と聞き、すぐ権六を磔《はりつけ》にした。権六は末代までも不義者として、その汚名を残すことになった。むかし長篠《ながしの》の合戦の折、鳥井強右衛門が敵に捕えられ磔になった。これは籠城する味方を助け、武士の手本とあがめられた。だが伊丹権六の場合は、不義者の名を末代まで残す苦しい忠死であった。  古五の局も同罪として、武州深谷の城主にあずけられ、間もなくその地で火あぶりの刑に処せられた。局もさんざん責められたが、ついに家光の名は出さなかった。太平の世に、両人の誠実は類《たぐい》まれというべきである。権六には二歳になる男の子があった。この子も殺されるはずだったが、さすがに家光はあわれがり、春日局(家光の乳母)を天海僧正(家康の帰依をうけた天台の僧。のちの寛永寺の開山)のもとへやり、命乞いをしてもらった。危いところを助かったその子は、亡父のあとを弔っていたが、家光の代になり浅草寺の別当に取り立てられた。さらに江戸城紅葉山のお霊廟《たまや》をもあずかる、高位の僧に昇進した。『明良洪範《めいりょうこうはん》』(江戸時代の逸話集)にあるエピソードだ。  さてこの初恋はいつの頃か。家光が世子《せいし》として西の丸へ移ったのは、元和二年十一月、十三歳のときである。その前では年が若すぎるので、どうしても十四歳以降である。すると古五の仕える大御台所は本丸大奥にいるのだから、西の丸から本丸大奥へ忍んでいったことになる。千代田城の古図で見ても、本丸と西の丸ははっきり分れ、堀や諸門に隔てられている。さてこそ権六は伊賀者につかまったのだが、当時はその気なら大奥内へも忍びこめたことがわかる。  初の大奥法度は元和四年である。この事件があったから出したのではなく、逆にすでに法度が出ているにかかわらず、それを蹂躙したために極刑に処せられたのではないか。そうでなければあまりに刑が重すぎるし、家光の年齢が若すぎる。したがって法度は出ても、泥棒を捕えてみればわが子なりで、家光自身が破っていたことになる。大奥の警備もその程度のもので、後のような完全封鎖にはまだほど遠いことがわかって貴重である。 [江戸城の完成とその規模]  秀忠の代に、一応江戸城は天下の政庁として威容をととのえたが、まだまだ完成したとはいえなかった。諸大名に大犠牲を強い、広大壮麗な城郭として最終的にでき上るには、生れながらの将軍、家光の時代を待たねばならなかった。  家光は元和九年(一六二三)将軍職をつぐと、英邁《えいまい》の気性を発揮して諸大名を押えた。不平ある者は帰国して、兵馬の用意をせよと、大見得をきったのは誰しも知る話だ。威圧しておいて、容赦なく諸大名に工事を課役した。あの一言に、こころから諸大名が畏服《いふく》したかを確かめようとした——そう考えてもさしつかえはあるまい。  工事は寛永六年(一六二九)、家光二十六歳のときはじめられ、かつてない大規模なものであった。御三家をはじめ一門、譜代、外様の諸大名六十八家を動員し、ほかに三河衆、遠州衆、伊勢衆、五畿内衆など小身の者まで、全国的に一時に総動員したものである。  この時の一期工事では外郭の堀と石垣、内郭の諸門や桝形を築造した。寛永十二年の二期工事では、二の丸を拡張して三の丸をせばめる工事がなされ、ここに本丸、二、三の丸ともほぼ規模が確定したのである。  後に明暦三年(一六五七)の大火で本丸を焼き、天保九年(一八三八)西の丸炎上、弘化元年(一八四四)ふたたび本丸を、嘉永五年(一八五二)また西の丸を焼くなどのことはあったが、ほぼ寛永十二年の規模を踏襲している。したがって大奥も、焼けるたびに細部の変更はあっても、およその骨組みは変ることなく、明治に及んでいる。  では、どういう規模と構造だったか。その輪郭をえがいてみよう。  江戸城といえども、構造の上では室町時代の武家邸宅と変るところがない。その規模を拡大したにすぎなかった。高い銅塀によって、表と奥がわけられていた。表には将軍の対外的なオフィス——すなわち幕府の諸役所がおかれ、奥は妻たる御台所《みだいどころ》をはじめ、子女とその召使いがいた。つまり大奥は将軍の私邸である。  江戸城には表と奥の間に、中奥《なかおく》という一区画があった。ここは将軍の休息所や学問所のあったところ、いわゆる公邸に相当した。かくて本丸の建物は、表向(官衙《かんが》)、中奥(公邸)、大奥(私邸)の三区域に分れていた。  今日の首相官邸でも、玄関に近く、応接室や会見室、その奥には中奥にあたる公邸がある。現在総理はたいてい自邸から通っているが、戦時中は官邸に寝泊りしていた。二・二六事件で岡田首相は永田町の官邸で襲われている。  この構造は武家の住宅の基本的なもので、諸大名や大身《たいしん》の旗本屋敷もおなじである。高い銅塀はなくとも、杉戸や襖を境に表と奥が分れていた。その境を侵す者は、旗本屋敷といえども厳罰に処せられた。  江戸城の総坪数は二十二万二千余坪、この広大な敷地に、一万一千三百七十三坪の本丸、七千二百坪の西の丸の建物が建っていた。十七世紀前半の日本に、一万八千坪を越える広大な建造物は、まったく驚異に価する事実である。  ところで、西の丸にも大奥はあるが、煩雑を避けてまず本丸大奥のみに絞ろう。一万一千余坪の本丸建坪のうち、表向および中奥は、あわせて四千六百八十八坪であった。それに対し大奥は、だいぶ広くて六千三百十八坪、すなわち本丸建物の五十七パーセント以上を占めていた。  本丸はほぼ南面して建ち、南から表向、中奥とつづき、その北に大奥が位置している。  ところでこの大奥が、さらに構造上、御殿|向《むき》と長局《ながつぼね》向と御広敷向の三ブロックに分れていた。  まず大奥の西南部が御殿向で、そこには御台所《みだいどころ》用の部屋として御休息の間、御化粧の間、衣類室の御納戸《おなんど》、仏壇のある御清《おきよ》の間などがあり、式日用としては将軍と会う御座の間、女中から祝詞を受ける御小座敷などがあった。また将軍お成りのとき用いる部屋としては、夫妻が同衾《どうきん》する蔦《つた》の間や、その間御|中臈《ちゅうろう》が待つ控室などがある。他に呉服の間、溜《たまり》の間、御膳所、御祐筆詰所などが並んでいた。  つぎに御殿向の東北に、大きな部分を占めるのが長局である。文字どおり長い廊下に沿い、女中たちの部屋部屋がずらりと並んでいた。そんな列が御殿向に並行して幾側もあって、近い方から一の側、二の側、三の側と呼ばれた。一の側の部屋数は十七、八、一の側から身分の高い順に入っている。いちばん女臭い地帯であった。  長局の廊下は四十間、いちばん遠い三の側から、御殿向に通ずる出仕廊下の端までは、何と七十余間もあったという。  |女護ケ島《にょごがしま》をなしているのは、この御殿向と長局である。中奥との間を銅塀で区切られ、わずか一カ所のお錠口《じょうぐち》で、男の世界へ通じているだけだ。明暦の大火以後は上下二カ所のお錠口になったが、一カ所は閉じたまま非常用とした。  つぎは残る御広敷《おひろしき》(御広座敷とまちがいやすいが別物)である。これは大奥の男役人が詰める役所と、付属の小部屋および長屋から成っていた。事務官の広敷役人はすべて男子で、広敷用人、広敷番、広敷伊賀者(忍術伊賀者の末)、それに物品購買係りの御用達《ごようたし》(商人ではなく役人)などがいた。大奥に男がいるのはここだけ……といっても、出口に近い東南のほんの一画を占めているにすぎないが……。もちろん前記御殿向との間は遮断され、狭いお錠口によってわずかに通じるばかりだった。  大奥の玄関はこの広敷にあるのみ。したがって出入りの女中は、かならずここを通らねばならない。広敷役人は事務兼玄関番、それに女中外出時の警固役であった。  さて、おもな建物の形式は、江戸初期に完成した書院造りである。部屋には違棚《ちがいだな》、附書院、帳台構えの設けがあり、壁やふすまには狩野派など御用絵師による、花鳥、山水、人物画などが描かれていた。女たちの衣裳と相まって、さぞ美しかっただろうが、残念ながらイメージを助ける遺品はきわめて少ない。  わずかに私の住む川越市の喜多院に、寛永年間、江戸城から移した建物がある。この寺が大火で焼けた時、特に家光将軍から城内の紅葉山にあった別殿の一部をもらって来たのである。家光公誕生の間、春日局の化粧の間などあって、大奥の一端をうかがうことができる。  誕生の間は典型的な上段の間で、格天井《ごうてんじょう》もふすま絵も、色あせながらも三百年前の華麗さをしのばせる。家光はこの部屋で呱々《ここ》の声をあげ、産湯《うぶゆ》を使ったと思えば興味ふかい。  だが、もっとひきつけられるのは、春日局の化粧の間である。入側《いりがわ》づきの八畳間で、天井が低く中二階がある。木組みは太くがっちりして、頭のつかえそうな部屋は、いつも夕方のように薄暗い。大奥は部屋部屋が重なり合い、いかにもその通りのほの暗さであったろう。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」どおり、美しい絵ぶすまや厚化粧の顔が、ほんのり闇に浮かび出るさまは、想像するさえ妖冶《ようや》である。大奥ムードを伝える化粧の間を、私はこよなく愛している。  ほかに旧|芸州《げいしゅう》藩主、浅野家に伝わるふすま絵がある。御台所のお居間近くにあったもので、金張付の源氏物語絵巻である。  なお本丸大奥のほか、西の丸にも二の丸にも大奥はあった。いずれも本丸にくらべて規模は小さく、人数は少ない。西の丸には大御所と世子がおり、二の丸はいろんな用に使ったが、後に側室の住居となった。世子が将軍になる時は、おつきの女中をひきつれて本丸へ移り、側室が二の丸へ移る時も、おつきの女中をひきつれて移った。 [御台様と側室たち]  大奥のあるじはいうまでもなく御台所である。御台所の称は、食物を調理する「御台盤所《みだいばんしょ》」から出たといわれ、中世以前は公家の大臣・大将、武家では将軍・大名の夫人に用いられた。将軍夫人の専用になったのは、江戸時代からである。  御台所の権威は赫々《かっかく》たるものだ。大老、老中も平伏したまま頭をあげられない。男で拝謁できるのは、ほかに若年寄・御側御用人があるが、最敬礼のため誰ひとりお顔を見た者はなかった。明治以降、皇后陛下の拝謁でもお顔を拝まれたのに、まことに凄まじい権威というほかはない。表役人にそれほど威光を示すと共に、大奥では三千と称する奥女中の上に、別称・御台様として君臨した。華麗にして、まばゆいばかりの存在であった。  ところが、である。文字に書くとその通りだが、実質的にはいささかちがうのである。今日からみれば、ちょっと妙なその事情をのべねばならない。  男尊女卑のことばは儒教・仏教が入ってからのことである。いわゆる女子は生れながらにして罪業あるものとし、道徳的には父母、夫、子に従う「三従」を求められ、法律的には大宝・養老令で「子無きは去る」など「七去」の制を課せられた。すべて女は男に従属すべきもので、社会に対して表立ったことは許されなくなった。官吏としては後宮職員として用いられるだけで、もとより政治には参与できない。女の権力は狭められ、早くも律令時代、完全に男尊女卑となった。  鎌倉以来の武家時代、いよいよその傾向の強まるのは当然である。もっとも、法のあるような無いような時代なので、尼将軍政子が軍政の全権を握った如き異例はある。また、巴《ともえ》、板額《はんがく》など女武者もあらわれたが、これは殺伐な時代の所産であって女権の復活とは無縁であった。義仲が追いつめられ、最期に臨んだとき、女同伴では後世の笑いものになると巴御前を去らせている。このような大事に、女のたずさわるのを嫌うのが一般の風潮であった。  戦国時代となっては、たがいに間諜として女を用い、偽りの婚姻を結んで敵を陥れることがあった。そのため女の地位はいよいよ低下して、敵国の女など財物同様に処分したことも少なくない。例えば一城を陥れて、その城中の女は品物同様に味方の軍兵に配給したなど珍しいことではなかった。  徳川時代に至り、戦国乱倫の風を矯正するために、姦通罪など最も重刑に処し、同時に女子の風俗を厳重に取締った。例の「男女七歳にして席を同じうせず」の教義が一般にゆきわたり、女はその夫に絶対服従するはもちろん、社会上の地位もけっして表面に立つことを許さなくなった。これは法律の制裁より、むしろ道徳上の制裁によって、女は甘んじて男の風下に立つもの、男を内助すべきものと、自分も信じて疑わなかった。  その根本にあるのは、いうまでもなく父権父系の思想である。血統とは男の血統をいい、女には血はあっても、血統のための血ではない。ただ、男から男へ伝わるのが正しい血統だとした。が、男だけでは直接自分の血を子孫に伝えることができない。そこで女の腹を借りる——女の役目は子を産むことで、不生女《うまずめ》は妻の資格がない。  特に戦国時代、血族集団の団結力に、大きく一族の存亡が掛るようになった。一族の数が多く、団結の強い者が勝ち残り、そうでない者は亡び去った。血を伝えるだけではなく、多く子を産むことを求められるあまり、女はいよいよ道具視された。  そういう戦国期を生きぬいて来た徳川氏である。御台所の座もおのずから見当がつくというものだ。あとつぎの男児を産めばよし、そうでなければまこと虚しい存在になる。最大の役目を果せない御台所は、形式的な大奥の儀式につらなるだけで、まったく孤独の生涯を大奥に送らねばならなかった。家光夫人孝子のように、中の丸へ敬遠された例さえある。  誰もそんな憂きめは見たくない。大いに継嗣《けいし》づくりを心がけたにちがいないが、驚くなかれ男児を産み、将軍の母となれたのは秀忠夫人御台所(達子)のみで、あとの御台所はそろいもそろって落第である。何とも情けないことに、稀れに男児を産んだ人はいても、病弱のため幼くして死んだ。跡目は側室の産んだ子か、または三家三卿等から入って継いだのである。達子だけは恵まれたが、あとの御台所はすべて無意味な存在に終った。将軍の妻として崇拝されるが、いささかも人間として尊重されるのではない。美しく飾られるが、自分の意志をおき忘れた、人形のような存在であった。  一体どうして子供が産めなかったか?「子無きは去る」とまでいわれた血統保持の役目を、歴代の御台所はなぜ果せなかったか? それには幾つかの理由をあげることができる。宿命的なめぐりあわせであった。  徳川家は三河の一豪族から起り、ついに政権をとっただけに、何とか家系を粉飾しようとつとめた。田舎大名の成り上りと思われたくない。政権の維持や家臣の統率上、どうしても必要なことであった。これは中世以来、あまねく武家の念願したところ。織田信長がしばしば藤原姓を称したことはよく知られている。  家康も同じく、永禄年間(一五五八〜六九)藤原姓を用いたし、源姓と併用したこともある。  その徳川氏が政権をとると、こんどは皇室に近づいて、血統を尊く見せようとした。秀忠の末子和子姫を、後水尾《ごみずのお》天皇の女御として入内せしめたのはそのためである。かねて家康の念願だったという。  つづいて三代家光が鷹司《たかつかさ》信房のむすめを妻に迎えてから、歴代の将軍はいずれも天皇家、皇族、公家の女《むすめ》を妻にした。こんどは現実に高貴の血を導き入れたのである。家綱は伏見宮貞清親王の王女浅宮、綱吉は鷹司|房輔《ふさすけ》の女、家宣《いえのぶ》は近衛|基煕《もとひろ》の女、家継は霊元天皇の皇女吉子内親王、吉宗は伏見宮文仁親王の王女真宮といったぐあいに……。  十一代|家斉《いえなり》の妻は、薩摩の島津|重豪《しげひで》の女だが、これも形だけ近衛家の養女として輿入れしている。すでに政権をとって久しいのに、なお徳川氏は血統をたかめようと懸命であった。この結婚政策については、ほかにも理由があろう。大名と縁組みすれば、外戚として威張られる弊害がある。たしかにそれもあろうが、体質の低下を覚悟のうえで方針を変えなかったのは、やはり血統への配慮からであろう。  公家の姫君は上品な瓜実顔《うりざねがお》である。ほっそりした腺病質と相場がきまっている。京おんなの代表とされ、たしかに美人の一類型である。江戸初期にはそのたおやかな風情が一世を風靡した。  ところが、嫋々《じょうじょう》たる肉体に問題があった。当時、戦国の余風たる男色がなお盛んで、色若衆の妖美にあこがれる者が多かった。若衆は男だから尻が小さい。その好みがほっそり尻の小さい京おんなに合致したこともあって、美女といえば京女に限られていた。が、弱々しく尻の小さい女——これでは子供の産めるわけがなかった。産んでも、母親が蒲柳《ほりゅう》の質では、せっかくの子も早世することが多い。かくて本妻腹は家光ひとりという、不幸な結果を招いたのである。  ほかに今ひとつ原因がある。おかしな話だが、大奥には三十歳になると「お褥《しとね》お断り」といって、同衾を辞退する習慣があった。女の停年制である。三十といえばまだまだ女盛り。その年齢で欲望を絶つのは早すぎるが、それというのも、胎盤のせまい公家のむすめでは、三十すぎてのお産はむりだからである。医術の未熟な当時、その年齢では母体が危ぶまれた。  三十すぎてもお褥お断りを願い出ないと、男好きだとか、欲深かだとか陰口をたたかれた。これまた教養高き彼女らには耐え難い。かくて肉体の爛熟期に、将軍との行為を切りあげたのである。若いうちはゆっくり閨房《けいぼう》ムードになじまず、これからという年齢でもう停年退職である。それやこれやで御台様に子が少なく、幕府が終るまで、この傾向は改まることがなかった。  子のない御台様はすることがない。身のまわりのことはすべて女中たちがやってくれる。 「日が永《なご》うて、することがのうて、退屈じゃわいな」  と無聊《ぶりょう》に苦しむ毎日であった。  御台所は表向へ出ず、また、外出の機会もない。年中大奥へ閉じ籠ったきりである。だからいったん嫁いだら、婚家たる江戸城の大手門も、表御殿も知らずに終る御台所があったのである。  さて、以上がだいたい徳川家夫人たちのあり方……。おもな人びとの素顔は後章にえがくが、これでは将軍自身や表向の政治面へ、何の影響力も持っていないことは歴然であろう。夫婦間のことは別だというが、それとこれとは話がちがうだろう。  ところで、問題は側室の方にある。大奥女流が政治面へ、何らかの影響をあたえるとすれば、すなわち側室中心の話である。側室自身による場合もあれば、第三者に動かされることもあった。大奥どころか江戸城のなかで、もっとも注意すべき存在といえそうである。  故意か偶然か、何と彼女らは御台所と対照的な性格、容貌で将軍にまみえたことか! 彼女らは情熱的な江戸女である。おっとりした京女とちがい、抜け目のない野心家どもが多かった。身分は旗本のむすめから黒鍬者《くろくわもの》なる軽輩のむすめ、さては花屋のむすめまで千差万別だ。が、いずれも公家の姫君とちがい、健康そのものの女たちであった。せっせと将軍の子を産んで、血統を伝えるパイプの用を果した。勤務成績は優秀であった。  その容貌はまちまちだろうが、御台所が上品な瓜実顔だったのに対し、側室には丸顔が多かったのではないか。家康の側室お亀の肖像画に丸顔の魁《さきがけ》を見るし、その後、美人の標準が変ったことも思い合わされる。西鶴によれば元禄をさかいに、美人は丸顔がよしとされた。その風潮は諸大名によって作られた。大名もはじめ瓜実顔の美人を求めたが、体が弱くて子を産めない。あとつぎがなければ断絶の大名家では、あわてて胎盤の広い、丸顔美人を妻妾に迎えた。花より団子で、実用的になったのである。なるほど健康美人はハツラツとしてよい。大名の好みをまねて、町人たちも丸顔を愛した。将軍家も、元禄をさかいに丸顔美人に切替えたにちがいなかった。しかも御台所とは反対に、色っぽい女が多かったと思われる。悪くいえば娼婦のように将軍をとらえたであろう。将軍ももとより木石に非ず、どうして影響を受けずにすまされよう。十五代の将軍中家光、家宣、家重の三人が腎虚《じんきょ》で死んだという説さえある。ただその影響を、政治面に及ぼしたかどうかが問題なのである。  普遍的な側室の影響力を考えてみよう。  小さいところでは親兄弟の取り立てを将軍にねだる。これはたいてい叶えられ、驚くほどの出世をする。つぎは縁者や知人のことを頼み、おねだりの範囲がだんだんひろがった。それがすすんで表向の人事に及び、寵愛が深まるにつれ、公けの政策にもふれることになる。そこまでゆけば大なり小なり、天下の政治に影響をあたえずにはいなかった。  さらに徳川家では、しばしば継嗣問題が起った。これは徳川一族の問題とはいえ、往々、世相や政情とからみ合って、公けの事件へ発展した。その場合、とうぜん生母として影響力を持ったし、お家騒動の様相を呈すれば、彼女の比重はぐんと増した。それらの例も二、三にとどまらない。月並みではあるが、「女は魔物」「女の髪は大象をつなぐ」とは一面の真理である。 [大奥女中団の生態]  ところで、側室単独の動きより、はるかにこわいのは大奥の高級職員と組むか、または第三者にあやつられる場合である。単独では外部との連絡もとりにくいが、この場合は高級職員を通じて自由だし、いろんな者の手も忍び寄る。もちこまれるのは、人事だけでなく、明らかに政治問題も、あるいは一大名の運命にかかわることさえあった。  高級職員とは、いうまでもなく、上臈《じょうろう》、御年寄など大奥の実力者にかぎられていた。彼女らの実態をつかむため、いささか大奥の職制にふれねばならない。  大奥の職員は大別して二種類に分れる。お目見《めみえ》以上、以下である。大奥のあるじ御台所に、お目通りできるか、できないかで身分を分けたのである。幕臣ぜんたいを、お目見以上は旗本、以下は御家人に分けたのと同じである。  お目見以上には、上臈《じょうろう》、御年寄、中年寄、御客会釈《おきゃくあしらい》、中臈《ちゅうろう》、小姓、御錠口《おじょうぐち》、祐筆《ゆうひつ》、表使《おもてづかい》などがあり、いわば士分に相当する。  お目見以下は御三の間、使番、火の番、御|仲居《なかい》、御末《おすえ》、御犬子供など、これは男なら足軽・小者に当るだろう。  だいたいお目見以上は御台所のお世話、お目見以下は炊事・風呂たきなどの下働きであった。そして、これとほぼ同数の職員が、まれに大奥入りする将軍のため待機していた。  この中で、上臈《じょうろう》は平素御台所のお側に勤め、公家出身者が多いだけに典礼・学芸のお相手になった。飛鳥井、姉小路など生家の姓で呼ばれるならわしだった。  御年寄は俗に老女と称し、お局《つぼね》といわれるのはこの職である。御台所の衣裳、配膳から、来翰《らいかん》の披露、芝や上野への代参など、大奥のいっさいを切り廻した。幕末の定員は六人であった。  中年寄は御年寄の助役で、さしつかえのある時は代勤する。  また御客|会釈《あしらい》は、将軍の大奥入りや御家門の来訪に、接待係として取りなすのが役目、御錠口は、表御殿との境目、お錠口を守り、将軍の来訪をいち早く知らせるのが役目であった。  上級の奥女中はこの辺までだが、中心的存在はいうまでもなく御年寄である。  ところで、上臈《じょうろう》は式部官のような役でおとなしいだけである。御客会釈も御年寄の古手で、政治感覚はボケ、もうその意欲もない。中年寄、小姓、御錠口などは、単に事務官にすぎず問題にならない。ひとり御年寄のみが、大奥の総務長官、表向の老中に相当する職として威をふるった。  老女といっても年齢に関係はない。若くても、家柄と手腕のよさで就任した。実際、寛文《かんぶん》十年に出た「奥女中法度」に、四人の御年寄の名をあげて、この者の言付は何ごとによらず背くべからずと明記してある。法規的にも絶対権を持たせたわけだ。給与は五十石十人扶持、合力金八十両だから、女の職員としてはずば抜けている。が、職・禄とも老中相当とはいえない。彼女らが自らを誇示した言い方であろう。  廊下を通るときはお坊主が先に立ち、 「お通りあそばす」  と声をかける。その声がかかれば、女中たちはその場へうずくまってお辞儀をしなければならぬ。三家三卿の夫人が来訪しても、御年寄はほとんどお辞儀もあいさつもしないほどであった。ふだんは詰所のたばこ盆のまえにすわって、すこしも体を動かすことなく、女中どもに指図した。女の意地悪を「御殿女中のようだ」というが、その典型のような存在であった。  上臈《じょうろう》、御年寄、中年寄、御客会釈、中臈《ちゅうろう》までは一生奉公である。親の病気など、重大な時でないと宿下りはできなかった。青春を犠牲にした、変化のない大奥暮らしでは、権勢欲や物質欲に走るのが当然であった。  彼女らは中流の旗本家出身である。生家の繁栄を計るためにも、何らかの野心にとりつかれがちであった。御年寄には権力がある。そこで将軍に接する、野心的な側室と提携することになる。大奥の制度がまた、密着しやすく出来ていた。次の通り。  高級職員をあげた中、中臈《ちゅうろう》の説明を迂回して通った。ここに取りまとめるためである。  側室は職名では御|中臈《ちゅうろう》、将軍の子を産むと「お腹様《はらさま》」といい、何の方《かた》と方《かた》づきになった。  中臈はもともと将軍夫妻のお世話係で、やはり将軍付き、御台所付きに分れていた。御台所付きの中臈は、食事や入浴の世話から便所のお供まで、いっさいを受持ってまめまめしく働く。将軍付きも元来そうあるべきを、中で見目うるわしき中臈に、将軍が手を出したという形で情交するわけだ。  しかしお手のつかぬ者もいた。彼女らは自らの純潔により「お清《きよ》」の中臈といい、お手つきを「汚れた方」と称した。相手が将軍でも、性行為は汚れたものとして、卑しめる気持は壮とすべきも、実はご面相の関係でお手がつかず、やっかみ半分の称とも思われる。やはり大奥では、将軍が絶対の存在であり、妍《けん》を競ってお目にとまり、寵愛を得て世子を産むことを、最大の幸運と栄誉だと信じて疑わなかった。  ところで、お手つきになるには定まったコースがある。正式には御年寄が、合議の上できめるのだ。「お庭お目見《めみえ》」という一方的な見合をし、将軍のお気に召せば中臈に任じ、それから枕席にはべらせる。  将軍がふいにひとりの女中を見染めたときも、御年寄の合議の後、やはり中臈に昇格させてから枕席に奉仕させる。そしてどの場合でも、かならず御客|会釈《あしらい》か御錠口《おじょうぐち》クラスの者に世話親を命じるのである。世話親というのは、本人を長局の自分の部屋にあずかって、いっさいの面倒を見る者である。  お手つき中臈は世話親の部屋から、召されて将軍のご寝所へ通う。その間「お内証の方」という。やがて将軍の胤《たね》を宿すと、はじめて独立の部屋をあたえられ、出産後は「お腹様」と呼ばれて二の丸、三の丸へ移されることもあった。  これら中臈の採用から、世話親の指名、全コースの監督など、すべて御年寄の指揮による。御年寄の好意的な配慮がなければ、いかなる美女もチャンスに恵まれなかった。寵愛の持続も覚束《おぼつか》ない。大奥では出世の条件を、「一引、二運、三器量」といった。第一番に来る「引き」は、つまり御年寄のバックアップである。御年寄の権力と、側室の美貌が結びつくことによって、強大な大奥の力が生じるのであった。  もちろんいつの時代でも、側室と側室の間に、はげしい寵愛争いがある。御年寄どうしの間にも、権力争いの絶え間がない。その両者が複雑にからみあって、大奥内部で大規模な派閥争いとなることもあった。その例はあげて数えようがない。いかにも、女ばかりの別世界で、すさまじい黒髪地獄を現出したことはたしかである。  だが、その大奥女中も、外部に対しては一致して当った。兄弟は牆《かき》に鬩《せめ》けども、外にその侮りをふせぐ。彼女らの対外的な団結は、往々幕府の重臣たちを悩ました。政治への影響は、けっして少ないものではない。次章以下にそのあらましをのべたい。 [大奥権力の発生]  大奥の完成と共に、内部的な向上につくしたのは、家光の乳母|春日局《かすがのつぼね》であった。彼女の出すぎた性格は、女として不評だが、家光への忠誠と、大奥の向上につくした功績は否定すべくもない。  春日局、名は福。明智光秀の部下、斎藤内蔵助のむすめである。小早川秀秋の家来、稲葉|正成《まさしげ》に嫁ぎ、男子ふたりを産みながら、慶長九年(一六〇四)家光の誕生に際し、広く乳母を求めると聞いて志願して出た。夫の正成に相談しなかったのであろう。採用ときまり、正成もおかげで取りたてられた。しかし、それでは武士の一分が立たぬと、正成は福を離縁した。いかにも戦国武士の家庭らしい。夫も夫だが、妻も妻、福は平然と別れて江戸へ出た。強い女の生き方と、我執の強い性格を見る。  乳母となって、もっとも知られるのは例の家康への直訴である。  家光の弟忠長は、幼少から敏捷で才気があった。ために父秀忠と母の達子が、忠長を偏愛して継嗣に定めようとした。そこで局は伊勢参宮と称し、駿府城へかけこんで大御所家康に訴えた。家康は驚き、これも鷹狩りにかこつけて江戸へゆき、大いに秀忠夫妻を訓戒した。家光は危く世子《せいし》の座からころげ落ちるところを助かった。世に「春日局の抜《ぬけ》参り」という。  ところでこの争いは、実はその背後にいる達子——大御台所(江与の方ともいう)と春日局の嫉妬争いだとする。 『落穂事跡考』という書物に、つぎのような一節がある。 「若君(家光)の実母大御台所は、無類の嫉妬にて、春日局の年頃といい、容儀あるを台徳公(秀忠)のお手附かんとのお疑いより、諸事、若君へうとくあられ候」  というのだ。つまり春日局が年も若く、容色もいいところから、秀忠が手をつけないかと嫉妬した。坊主憎けりゃ袈裟までのたぐいで、家光までもうとんじたという意味。  なるほど大御台所は秀忠より六つ年上の姉女房である。春日局は秀忠と同年なので、若いというのは嘘ではない。  ただ、容色もいいというのはどんなものか。肖像画を見ると、頬骨高く眼はするどく、お世辞にも美しいなどとはいえない。この顔で秀忠との間を警戒する必要は、誰が見たってあるものではない。年は上でも達子の方は、無双の美女、小谷の方(織田信長の妹おいち)の娘ではないか。嫉妬など筋ちがいで、まったく病的というほかはない。  秀忠は病的なその嫉妬に戦々兢々、稀代の恐妻家だったことはたしかである。たったひとりの隠し女、お静の方が妊娠すると、おどろきあわてて大奥を下げ、武州の大間村へやって子を産ませた。幼名幸松丸といい、後の保科正之《ほしなまさゆき》である。  お静の世話親からしきりに実子承認を急がれたが、大御台所の怒りをおそれてついに認めなかったほど意気地がない。秀忠の謹厳と律義は、妻の嫉妬に牽制された結果とみられる。  春日局も、もし幼君のためを思えば、すみやかに退身して家光の安全を計るのがふつうであろう。にもかかわらず、家康の心底も知らず直訴の非常手段に訴えるのはきわめて冒険である。幸い結果はよかったが、忠誠心は別として、我執の強い、意地の悪い御殿女中の標本をみる気がする。  忠長の方がすぐれ、世子にきまりそうだとなると、幕府の役人をはじめ諸大名まで、そっちへちやほや機嫌とりをするのは当然だ。忠長の方は献上品が山をなすというのに、家光は着る物にも不自由したなど嘘のような話——春日局は頭へ来た。それで駿府へすっ飛んだ。烈しい気性の二女性が、はじめて大奥で火花を散らしたのである。家康の登場でドンデン返しになったが、やはり女どうしの勢力あらそいにまちがいはない。大奥最初の権力争い——その意味でも、春日局は特記すべき人物である。  その後も局は、独特の性格をむき出しにした。その代表的な行動は、寛永五年(一六二八)の参内であろう。  事の起りは後水尾天皇が、大徳寺の僧侶に幕府の許可を得ずに紫衣《しえ》の着用をお許しになったことからである。幕府は天皇のお処置を不可として、関係する僧侶数十人を厳罰にした。これがため天皇の威光は地に落ちて、ご不満の果て御位を一の宮にお譲りになろうとした。  ときに春日局は秘命を帯び、伊勢参宮と披露して京へ上った。真意は参内して天皇に拝謁、御憤激の程度を調査すること。また天皇と中宮(秀忠の娘東福門院)の御様子を観察することにあった。  春日局は家光の乳母というだけで、まったく無位無官である。無位無官の女性が、天皇に拝謁した前例がない。が、前例などあろうとなかろうと、局には問題ではない。幕府の威力で強引に拝謁を乞うた。武家|伝奏《でんそう》の三条西|実条《さねえだ》は、せっぱつまって自分の妹分と奏請、特に緋袴《ひばかま》を許され参内した。局はこうしてしゃにむに参内、天皇に拝謁したうえ、何かと宮中の内情をさぐり、意気揚々と江戸へ帰った。春日局の名を賜わったのはこの時である。  局の眼中には、朝廷も礼節もなく、ただ強い我執と増長慢のみがあった。  当時はまだ秀忠が、大御所として西の丸にいた。が、やがて秀忠が死に、大御台所もあとを追うと、三代将軍の大奥ではまったく局の独り天下であった。三千石の俸禄を受け、大奥総取締に任じた。大奥取締という職名はないが、大奥いっさいの権力をにぎり、初期大奥の建設に采配をふるう者の仮称である。  今や大奥は規模の拡大と共に、女中の数は加速度的にふえていた。戦乱は終り、城内は戦に備える必要はない。大奥の占めるスペースが五十五パーセントにのぼったのを見ても、その間の事情はうかがえよう。後に家光が死んだ時、三千人の大奥女中を解雇したとある。その数字の裏づけはないが、千人位の数は想像することができる。その上下の女中をひきい、大奥いっさいの指揮をとったのである。  彼女の場合、独断専行の裏に忠誠心がある。徳川家のために、大奥の伝統を作りあげよう——その情熱に駆られていたことは疑いない。こんな話が残されている。  小袖の裾をひく女中を見とがめて、 「女の衣裳中、白小袖の汚れたのは、いちばん見苦しい。特に御前へ出る者が、汚れた裾を引くのは不心得でだらしがない。手にかかげて、かいがいしく歩くようにせよ」  とたしなめた。掻取《かいどり》の作法もこのころできたものである。また、いう。 「化粧も髪結いも、すべて夜明けまえに終えねばならぬ。女の寝顔はみにくいもの。朝寝して人に見られるのは最大の恥と心得よ。奉公する者にかぎらず、人妻の場合もおなじである」  ところで、御前の奉公は気疲れのするものだ。毎日の出勤ではたまるまいと、一日おきの勤務にあらためた。また呉服の間で、針一本なくしても、見つかるまで部屋へは帰さず、徹夜しても探させた。これも春日局によって作られた不文律で、永く後々までも守られたものの一つである。それら功績は見逃すことはできない。  家光の正室は、関白鷹司信房のむすめ孝子、性格が合わぬとて中の丸へ移した。実は弟忠長の反逆に、同情的だったのが罪科にあげられたともいわれる。世に中の丸様というが、なきに等しい存在だった。さきには秀忠夫人の大御台所をへこませ、今また正室は本丸大奥にいない。広い大奥は、すみからすみまで春日局の威光にひれ伏した。後代、御台所がいても、大奥向はいっさい御年寄の宰領に帰したのは、このとき、春日局によってうち立てられた鉄則である。将軍の妻をロボット化したばかりではなく、お表、幕閣を押える権威さえも、このときうち立てられたのである。 [#改ページ]   四 花ひらく大奥 [女人国の形成]  将軍の代は飛ぶが、五代綱吉のとき、大奥は花らんまんの全盛時代をむかえた。  職制は完備され、独自のはなやかな服制もととのい、奥御殿は絵のような美しい世界となった。  春日局以来、大奥の権威は、急速に高まって、時には幕閣を動かすまでになった。諸大名も幕府の重臣も、大奥女流の機嫌をとることにきゅうきゅうとした時代である。  それだけに、閨政《けいせい》の弊害もあらわれはじめた。政治への容喙《ようかい》、派閥争い、驕慢と贅沢などがそのおもなものである。弊害ではなくても、後々の大奥生活に、抜き難いしきたりとなった習俗も、多くこの時代にできたのである。とにかく、最も大奥が大奥らしくなった、はなやかな時代ということができる。  書くことも多いのだが、まず奇怪なお添寝《そいね》のしきたりについてのべたい。それは綱吉将軍の閨房で、柳沢|吉保《よしやす》のすすめた寵妾の、ふつごうな寝物語にはじまるとされている。したがって柳沢騒動を物語ることになるが、そのまえに背景たるその後の大奥をのべねばならない。  五代将軍綱吉は、三代家光の四男である。母は二条関白の家司《けいし》本庄宗利の娘お玉——実は八百屋仁右衛門のむすめで、その母が彼女を連れ子として、本庄方へ女中奉公、のち本庄氏の養女——であった。家光の愛妾お万の部屋子《へやご》(小間使い)として大奥へ出たが、愛くるしくて利発なので、家光の眼にとまってお湯殿で手がついた。以来枕席にはべって、やがて生れた男子が四男徳松丸、成長後の五代綱吉であった。  徳松丸が六歳の慶安四年(一六五一)、家光が死んだとき御|賄《まかない》料として上野《こうずけ》、信濃などで十五万石を賜わり、のち十万石で上州館林に新封され城主となった。母のお玉は落飾《らくしょく》して桂昌院《けいしょういん》と名乗り、館林で徳松丸の後見をした。  四代将軍は長兄の家綱がついだ。庶腹の徳松丸は三十年ちかく館林ですごした。が、その家綱が死んだとき、三男の綱重も他界したあととて、思わぬ将軍職がころがりこんで来た。八百屋のむすめの桂昌院が、何と、将軍の生母となったのである。  桂昌院がまだ子供で京にいたとき、仁和寺の伴僧で亮賢《りょうけん》なる者が、彼女の顔をつくづくと見ていった。 「この子はすごい出世をする。末は必ず尊い身分におなりじゃ」  後に桂昌院が大奥入りしたとき、亮賢はすでに亡く、弟子の隆光《りゅうこう》が招かれた。 「かならず男子をお産みになり、やがては大将軍になられましょう」  男子は産んだものの、四男ではとてもだめだとあきらめていたが、こんどもみごと的中して五代将軍となった。  綱吉が江戸城へ入って将軍職につくと、桂昌院には三の丸御殿を建てて住まわせた。この時も桂昌院は隆光を呼んで、安鎮の修法《しゅほう》をおこなわせた。教養のない桂昌院は、すっかり隆光の法力を信じ、そのまま江戸にとどまるよう命じた。そして隆光のため建てられたのが雑司ケ谷の護国寺である。唐土伝来の観世音をまつり、関東における真言宗の大|檀林《だんりん》と定められた。  入仏《にゅうぶつ》供養は七カ月にわたっておこなわれた。桂昌院も天和三年(一六八三)二月、美々しい行列を組んで護国寺へ参詣した。  その折である。桂昌院お気に入りの綱吉の愛妾、お伝の方がちょっとした事件を起した。お小姓浅岡直国が、お伝の方に将軍の口上を伝えたが、そのあと自分のあいさつをのべるのに、不謹慎な態度があったという。具体的には伝わらないが、とにかくお伝の方を怒らせ、たちまちお役を罷免、大名預けとなった。それまでに大奥で、表役人を褒貶《ほうへん》することはあっても、寵愛を頼みにみずからの口でおとしめたことはない。  お小姓は旗本中、筋目の正しい者で、特に優秀な者がえらばれていた。たとえどんな非礼があっても、寵妾のつげ口ひとつで罰せられるのはひどい。いったいお伝の方はどんな女なのか?  お伝の生れはきわめて賎しい。父は小谷権兵衛という黒鍬者《くろくわもの》であった。黒鍬者とは城内の掃除や走り使をする、いわば城内の雑用係である。かつて戦場では、死体のとりかたづけが役目であった。  しかしお伝は、世にたぐいない美女であった。利発者であった。十二のとき願いでて館林の奥向へ勤めた。何しろ軽輩のむすめなので、はじめお湯殿のお世話係だ。  当時、三十歳の綱吉は、このむすめの美貌に魅せられた。そしてつい手を出した。そのあたり桂昌院とまったく同じコース、湯殿が仲立ちで側室となったのである。  それ以来、お伝は片時も綱吉のそばを離れなかった。彼が熱中する能楽や読書ぶりを見、元来聡明なので、すぐ要領を会得した。ことごとく綱吉の気に入った。とりわけ小鼓が上手になり、綱吉が一曲|謡《うた》うときは、いつも彼女がそばにいて小鼓を打った。綱吉の寵愛は加わるばかり、延宝五年(一六七七)には長女鶴姫を、翌々七年には長子徳松を産んでいる。綱吉はおのれの幼名、徳松と呼ばせたことで、どんなにその出生を喜んだかがわかる。  思いがけず将軍職をつぐと、お伝は一躍「お腹さま」になった。が、油断なく勤めて、たちまち大奥に大きな勢力をきずいた。というのは、周囲の条件にも恵まれていた。正室信子はもとより、他の側室もすべて不妊か流産して、将軍の子は鶴姫、徳松しかいなかったのである。  お伝の権勢を物語るにふさわしい事件がある。お伝には一人の兄と二人の妹があった。この兄がやくざ者で、賭場をわたり歩いている。たまたま博奕のもつれから喧嘩となり、小山田弥一郎なる者に殺された。寵妾の兄——というよりも、将軍家世子の伯父が殺されたのだ。やくざとはいえ、まさに血のつながる伯父である。幕府にとっては重大問題——すぐ弥一郎の人相書をまわし、大々的な捜査網を張った。  当時、人相書を廻すのは、主殺し、親殺しの重罪のみにかぎられ、大盗日本左衛門(本名浜島庄兵衛)のため出された人相書さえ、よほど異例とされたものだ。ただのやくざの斬ったハッタなら、岡っ引ひとりですむところを、この大捜査陣は、やはり寵妾の尻の光と世人をあきれさせた。幸い常陸国竜ガ崎で、弥一郎はじめ六人の一味がつかまった。全員|晒《さら》しのうえ獄門の極刑に処せられたのも、これまた受刑者にとっては、相手が悪かったということだ。  綱吉は舟遊びが好きだった。毎日のように城内吹上苑の池に舟を浮かべ、お伝に小鼓を打たせて舞うのを楽しみにした。この噂が江戸市中に流れた。艶麗なお伝にやにさがる綱吉の狂態に尾ゆれがついて広くささやかれた。当時、軽妙な筆と諷刺のおもしろさで売りだした英一蝶《はなぶさいっちょう》は、美人画集『当世百美人』の中に、大胆にも綱吉舟遊びの想像画をえがいた。  問題は図がらだけでなく、「浅妻船」という題名にもあった。浅妻とは一夜妻のこと、安物の売春婦「船《ふな》まんじゅう」を意味する。黒鍬のむすめのお伝の方をひやかしたものだ。小山田弥一郎事件で、割りきれぬ気持の江戸市民は、この絵で溜飲《りゅういん》のさがる思いだ。が、もちろん幕府では一蝶を捕え、 「公儀を憚《はばか》らざる段、不届《ふとどき》につき」  と、三宅島へ流した。  お伝の力は大したものだ。父は百人扶持の侍になり、二人の妹も名ある幕臣に嫁いだ。その他縁者の取り立てと、私怨による貶斥《へんせき》は数知れない。諸大名も重臣も、彼女に取り入るため肝胆《かんたん》をくだいた。  この女の独走にも限度があった。天和三年五月、世子徳松が死に、将軍の生母となる夢ははかなく消えた。綱吉はすでに三十八歳である。ふたたび男子出生の望みは薄い。  綱吉の御台所は鷹司関白の娘で信子、綱吉の愛をお伝にさらわれて、本丸にいながら味気ない日を送っていた。公家の娘だけに温和で、嫉妬のこころもなかったのだが、おつきの上臈|万里小路《までのこうじ》が見かね、わがもの顔のお伝を憎んだ。彼女を押えるため、対抗勢力を作りだそうとした。そこで御台所の里方鷹司家へ、ひそかにお伝に匹敵する美女を探してほしいと頼んだ。白羽の矢の立ったのが、常磐井《ときわい》の局、後の右衛門佐局《うえもんのすけのつぼね》である。  局は水無瀬《みなせ》中納言信定の娘、高名の学者を父に持ち、和歌をはじめ国学の造詣が深かった。京では准后《じゅごう》御所第一の才媛と聞えていた人である。  御台所の喜びはひと通りではない。お伝の方は、元禄の華美を象徴する侠艶な江戸美人である。その美しさは、椿か紅梅にもたとえられよう。だが、右衛門佐局は、貴族の理想とする清楚な佳人で、才学と典雅な趣味は雲上の女の典型であった。お伝が紅梅なら、右衛門佐局は白菊にもたとえられよう。あたりを払う気品と教養に、綱吉はたちまちひきつけられた。  綱吉は右衛門佐局が、御台所に『源氏物語』の講義をするところを見た。ことばやさしく文意通り、深い学識がにじみ出ている。綱吉はこの上もなく感服、一千石をあたえて大奥の取締を命じた。異例の待遇である。  局の支配に代ると共に、大奥の空気は一変した。武家ふうの侠艶より公家ふうの静美が尊ばれ、坐作《ざさ》進退は優雅に、遊芸よりも学芸が重んじられた。  とはいえお伝の方も、安閑とその攻勢を見送っていたのではない。将軍の母桂昌院をバックに、寵愛を盛り返そうとやっきだった。武家出身の女中たちをひきい、事ごとに右衛門佐局に対抗した。大奥は京都方、江戸方の二派に分かれ、女らしい陰険な暗闘をくりひろげた。大奥のみにくい派閥争いはこの時を嚆矢《こうし》とする。自分の魅力だけで将軍をひきつけられないと知ると、別に若く美しい娘をつれて来て献上した。相手側も負けてはおらず、さらに上をゆく美女を奉る。寵を争って、みずからを色情地獄へ落すのであった。大奥はもっとも大奥らしい様相を呈し、右衛門佐局も、京から大|典侍《てんじ》・新典侍なるふたりの若い公卿の娘を連れて来て、将軍に奉っている。 [柳沢騒動とお添寝《そいね》役]  綱吉は三十五の男盛りで将軍職につき、政治への情熱ははげしく、善政も多かった。越後騒動のやり直し裁判を、江戸城大広間で親裁したのは有名である。親裁といっても、将軍みずから審問しては恐れ多い。申次《もうしつぎ》の係がいて一々取りつぐのだ。ところが、被告の小栗美作《おぐりみまさか》の審理なかば、とつぜん綱吉は大声でどなりつけた。 「事はきまった! はや罷《まか》り立て!」  申次などそっちのけだ。そのこえは殿中にひびきわたったという。前回の依怙贔屓《えこひいき》の裁判はくつがえされ、小栗美作はじめ逆意《ぎゃくい》方(謀叛を企てたほう)に、切腹の刑が言い渡された。きびしい親裁に、諸役人も大名もふるえあがったという。  それは、譜代の家臣へ移りかけた権力を奪い返し、将軍の専制政治をとりもどすきっかけにした行為とされている。  その名君綱吉も、世子徳松を失ったあと、ただ男児がほしいばかりに怪僧|隆光《りゅうこう》の言を用い、生類《しょうるい》憐み令の悪令を出して世の顰蹙《ひんしゅく》を買った。ひとつには無教養な、桂昌院の盲信にもよるものだったが、さらに隆光の求めにより、江戸城の鬼門の神田橋そとに、一寺を建立して若君誕生の祈願をこめることになった。継嗣を得るために、名君も今や愚かな一凡夫にすぎない。本堂、護摩堂、大師堂、鐘楼に至るまで、善美をつくした大寺院を建てた。元禄元年(一六八八)六月、みごと大伽藍ができあがった。  ところが、である。その七月、綱吉は親しく参詣して寺中くまなく見廻ったとき、本堂の柱に見劣りのする用材の二三本をみつけた。綱吉は怒り、すぐ普請奉行をはじめ関係者を厳罰に処した。  その柱は、手抜きや横着で粗悪な材を用いたのではない。一日も早くと急がされ、遠方から吟味して取り寄せる余裕がないままに、江戸にあり合せの中から最良のものを選んだのである。それでもいけない、最善の手を尽さねば、男子の出生はないと狂信している。  さっそく本坊改築となった。そのとき総奉行を命じられたのが、お側衆の柳沢保明(後の吉保)であった。吉保は将軍の気質を知り尽していて、金と人とを最大限につぎこんだ。早く、しかも完璧な伽藍のできぬわけがない。将軍は大満悦で、その功により保明を側用人《そばようにん》に引きあげた。この頃から柳沢の出世が目立ちはじめる。  さて、寺は智足院元禄寺、関東真義真言の大本山と定められた。のち元禄八年に護持院と改称されている。  それはともかく、ここへ柳沢保明の前歴をはさんでおこう。保明の父安忠は三百五十俵の小十人組のさむらいであった。綱吉が館林へ入城のとき、お小納戸《こなんど》役として随行した。  父の関係で保明は、わずか九歳で召出された。整った目鼻だちと、生れながらの利発さで、綱吉はじめ誰にも愛された。はじめお小姓役。学問好きな綱吉は、四書を保明に読み聞かせては師匠気どりで嬉しがった。早い勤仕にかかわらず、貞享《じょうきょう》元年、保明二十七歳のときまでこれといったエピソードはない。  この年八月、大老堀田|正俊《まさとし》が、稲葉正休に斬られるという江戸城で二番目の刃傷事件があった。時に側用人の牧野|成貞《なりさだ》が、将軍に急報するため御座の間へかけこもうとした。保明が前に立ちふさがって通そうとしない。 「どけ、なぜじゃまをする!」  成貞がどなると、保明は落ちついて腰の脇差を指さした。 「どうなされた? それは……」 「なるほど、少々あわてたわい」  と成貞は脇差を遠くへ投げやってから、御座の間へ伺候した。  この話も、特に沈着とか機転がきくとかいうほどではない。にもかかわらず、その時の処置適切とあって、間もなくお側衆にとり立てられた。  そしてこんどの恩賞となった。側用人に昇格、一万石の加増で、今までの所得と合せて一万三千石、めでたく大名格になったわけである。  このお側衆と側用人は、ちょっとまぎれやすいが、別物である。お側衆とは、近習出頭人といって、常に将軍に近侍し将軍の命を老中に伝える役だった。五人から多いときは十人近くもいたが、綱吉の時にその上に側用人をおいた。これは君側第一の役で、将軍に心添えをする補佐官である。身分は老中格としたが、柳沢の場合は特に大老の格式までも与えた。将軍も五代となり、幕府の政治は分課され、ともすると譜代の重臣に権力が移りそう。将軍が側近の地位を強化して、重臣の官僚政治化をふせぐのが狙いの制度であった。  さて、護持院の建立以後、保明は元禄七年(一六九四)、武州川越城主となり七万石を領した。翌八年、幕府より駒込に別荘地四万七千坪を賜わり、林泉の妙を尽して六義園《りくぎえん》と称した。さらに元禄十四年には、松平の姓と将軍の名の一字を賜わり、松平美濃守吉保と名乗った。子の安貞も、このとき吉里と改めている。  宝永元年(一七〇四)、甲府十五万石(実収は二十万石以上)に移封された。甲府は枢要の地とて、これまで徳川家一門のほか封ぜられなかったところ。それさえあるに、元禄四年以来、綱吉が吉保の屋敷に来臨すること五十八度に及んだ。  綱吉は柳沢邸へ来ると、着衣を着かえてくつろいだ。 「そちは学問の弟子であり、また養子みたいなものじゃからな」  とそんな冗談をとばすほどであった。  これほどの寵臣は例がない。ために多くの悪評を受けたが、やや終りを全うした点でも無類である。宝永六年、綱吉が死ぬと、隠居して保山と号し、六義園で余生を楽しんだ。吉里があとをつぎ、大和郡山十五万石に転封された。  ざっと以上が柳沢吉保の経歴である。一代二十数年間に、徳川一門にも準ずる最高の大名にのしあがった。何かあると勘ぐられるのは当然であろう。異例の出世はいいとして、なぜそう頻繁に柳沢邸へいったか? 綱吉をひきつける何かがあったにちがいない。綱吉も摘み喰いでは家康に負けないから、柳沢邸に寵愛する女がいたのだろう。吉里はその妾に産ませた子ではないか? と想像が飛躍する。それが世にいう柳沢騒動だ。俗説の「柳沢騒動」はこうである。  綱吉は館林侯といわれた頃、謹厳実直で婦女を近づけなかった。そのため世継ぎもなく、老臣たちの心配の種であった。そこで家臣の女子を着飾らせ、綱吉の煩悩をかき立てることになった。  それを聞いた吉保は、妻のおさめに着飾らせ、綱吉が上野東叡山に参詣の途中に待ち受けた。不忍池のほとりで、綱吉が駕籠をとめたとき、おさめは茶の給仕にでた。彼女は、王子小町といわれた美女だけに、煩悩どころか薬がききすぎて綱吉の手がついてしまった。同時に吉保の異常な抜擢《ばってき》がはじまる。いつかおさめは懐妊して男の子、吉里を産み落した。  吉保はいよいよ野望を燃やした。最後の目標は、おさめの産んだ吉里を将軍職につけること。だがその計画は、井伊|掃部頭《かもんのかみ》ら重臣にさまたげられて果せない。将軍のあとつぎには、綱吉の甥、甲府中納言綱豊(後の家宣)がむかえられた。吉里を継嗣とすることに失敗した吉保は、さらにおさめに色仕掛けで、百万石を将軍にねだらせる。そのあたり『護国女太平記』にはつぎの通りある。 「おさめはお手にすがり申すよう。賎しき私ごと、度々お情けを蒙り、ついにお胤《たね》まで宿し参らせ、御誕生ありし今の越前守(吉里)は、これぞまさしく君の御胤ゆえ、大切の儀なればその節立ち交りし(立合うた)女どもは残らず美濃守(吉保)が討ち果て候。この御大事を憚《はばか》り包まんがためなり。かほどに御代を守護し奉る美濃守が所存、私の子なれども越前守は御胤ゆえ敬いおり候。然るに先日、御養君様(家宣)西の丸へ入られ候えば、この後、越前守は将軍の御子と生れながら、わずか十五万石の御|宛行《あてがい》にて、国守・御家門の下につき、一生を送り給うと思えば果報|拙《つたな》く存ぜられ、由緒《よし》なき私の腹に妊《やど》らせ給いしゆえと存じ候えば、勿体《もったい》なくもただわが身を恨み候よりほか御座なく候……」  おさめがそうかき口説くと、綱吉はすっかり蕩《とろ》かされてしまった。 「汝が申すこと道理なり。さすがに女ごころのしか思うなるべし。越前守はいかにも我子なれども、柳沢が屋敷において出生せしことなれば、表立って我子と披露なり難し。またすでに甲府(家宣)を西の丸へ迎えし上は、代嗣のことは今さらせん方なけれど、大禄を与えんことは我心の儘《まま》なりとは言いながら、諸侯のおもわくもあれば早急にはなり難し。然れども、汝が歎き不便にもあれば、今その証拠をとらせおかんと、御|硯《すずり》を取り寄せ給い、御筆を染められ『甲斐・信濃の両国にて百万石追って沙汰すべきものなり。松平美濃守(吉保)へ』と書かれ、御朱印を押し給いておさめに与え給え」  百万石のお墨付というのはこれである。その後も吉保は陰謀をやめず、こんどは一刻も早く綱吉を隠居させ、家宣を将軍にすえたあと、吉里をその養子として、西の丸へ入れようと計った。例によっておさめの色仕掛けで、すでに綱吉の承諾を得た。御台所の信子は、何度も諌言《かんげん》したが聞かれない。ついに最後の拒絶に会ったとき、用意の短刀で綱吉の胸を突き刺した。綱吉は佩刀《はいとう》に手をかける間もなく死んだ。信子もおなじ刃に伏してあとを追ったというのである。これが世にいう柳沢騒動だ。 『護国女太平記』はいわゆる実録体小説で、事実ではない。しかし、虚構と真実を、いかにもよく附会《ふかい》してあるし、否定する証拠がないままに俗説として今日にも生きている部分がある。多少検討を加えてみたい。  まず問題なのはヒロインのおさめである。「おさめ」というのは「長女」と書き、中古には主婦のことをいった。吉保の妻が綱吉に通じたという筋立から、そんな名を思いついたのではないか。妻を献上したのは同じ寵臣の牧野備後守で、その話を取りこんだのである。吉保の妻は定子といい、そっちの方は別条がなかった。  ところが、吉保には染子という妾がいた。これならどうやら辻棲が合うのだ。  染子は正親町《おおぎまち》大納言実久が、京の町医者田中某のむすめに産ませた子だという。延宝七年(一六七九)十二月、六代家宣の御台所として、近衛|基煕《もとひろ》の姫|煕子《ひろこ》が輿入れしたとき、染子は十三歳で供をして江戸へ来た。どういうきっかけか、綱吉が染子に手を出して、懐妊させたのでさすがにきまりが悪い。きまりが悪いわけだ。養子の嫁の召使を孕ませたのだから……。それでこっそり寵臣の吉保に下げわたしたのだ。  家康が寵妾お勝を、松平正綱にくれた前例がある。吉保はありがたく拝領して屋敷へ連れ帰り、聞いてみるとすでに妊娠数カ月である。その由を綱吉に申しあげると、 「大事にいたせ」  とのこと。こうして生れたのが吉里であるとする。吉保の妾ではなく、むしろ綱吉の妾を預った形である。おさめとは、妻の定子とこの染子から「さ」と「め」を取った仮名だと、クイズのような解き方をする説もある。  これだと五十八回の柳沢邸訪問もうなずけるし、吉保のめざましい昇進も理解できる。百万石のお墨付も、やがて吉里に相続させるための高禄とわかる。ただこの場合、吉里をご落胤ときめてかかるわけだが、そうするとなぜ柳沢邸におかねばならなかったかがおかしい。お腹様だから、どうどうと江戸城におけばよし、男子がないのだから早く実子と認知すればよさそうなものだ。煕子の侍女を孕ませたのはいかにもまずいが、男子を産んだのだから大威張りだし、いつまで照れている柄でもない。それらのことはあっても、預った愛妾とする方がいちばん自然に思える。染子が病気のとき、綱吉から見舞の使者があった。その死に際して吉保は、碑面に「施主甲斐少将吉保」と刻んだ。それは君臣の礼をとった書き方だという。それらのことが、何より預り妾の証明である。  御台所が綱吉を刺したとするのはフィクションである。綱吉は宝永五年(一七〇八)の暮れごろから麻疹《はしか》をわずらい、翌六年正月十日に死んだ。信子もまた麻疹に感染、そのうえ疱瘡《ほうそう》を病んで二月九日に死んだと『柳営日記』にある。にもかかわらず、後年大奥でも変死を信じる者があり、綱吉の死んだ「宇治の間」は、幕末まで不吉な開《あ》かずの間とされて来た。実際、宇治の間のあたりで奇怪な黒い着衣の人影を見、綱吉の亡霊ではないかと女中たちを恐れさせた。  また吉保に甲斐を与えたときの文書が残っている。 [#ここから1字下げ] 甲斐の国|者《は》、要枢の地|而《にして》、一門歴々領し来ると雖《いえど》も、真の忠勤《つとめ》に依って今度《このたび》山梨・八代《やつしろ》・巨摩《こま》三郡|宛 行 訖《あておこないおわんぬ》、先祖の旧地として永く領知の条くだんの如し  宝永二乙酉年四月二十八日  御朱印 甲斐少将どの [#ここで字下げ終わり]  甲斐一国は容易ならぬ地だが、特別をもってお前にあたえると書いてある。この種類の文書は細目を別紙の目録としてつけ、文面に総高を書かれるのがふつうである。それがない。だからかえって好奇心を引く。問題の百万石のお墨付は綱吉が死ぬと取り返し、事なきを得たとなっている。フィクションと知りつつ、なぜ異例の書き方なのかと、勘ぐりたくなる。宇治の間と同じ真理だろう。  ところで染子は百万石をねだらなくても、もはや政治にも人生にも倦きた晩年の綱吉に、法外なことをねだったのは間違いない事実である。綱吉はなんでもその望みをかなえさせた。あまりに弊害が大きかった。そのため将軍の寝所に、お添寝《そいね》番がつくようになったといわれる。  お添寝とは、お手つきの中臈が夜の奉仕中、よからぬことを将軍にねだりはせぬか監視する役目である。同じ寝所のごく間近に、床をのべて寝るという残酷な役目だ。一夜のお添寝を順序立ててのべるとしよう。  将軍が大奥入りをする夜、お召しの女は御年寄まで通知される。御年寄が本人に手配する。番に当ったお手つき中臈は、先にご寝所たるお小座敷へいって将軍を待つ。早めに長局を出てお小座敷に向うが、御用の中臈は一間ほど先に、お添寝(お清《きよ》の中臈)は一間ほど後れて、共に静かに廊下をゆく。中臈は総|白無垢《しろむく》で髪を櫛巻きにし、けっして簪《かんざし》をささぬので、ああ今宵は誰さんのお召しだとすぐ分った。  二人がお小座敷へ入ると共に、お伽の御年寄が中臈の髪を解いて検査する。将軍の体近く奉仕するので、凶器でも隠し持たぬか念のため調べるのであった。  終れば御年寄は次の間へさがり、お三の間の女中に元どおり櫛巻きに直させて将軍のお成りを待つ。  将軍はお鈴廊下から、お鈴番の先触れについてやって来て、お小座敷でしばらく中臈と話をする。このとき茶菓をだすことはあっても、酒をのむことはなかったという。  さて床入りとなると、将軍は中央に、御用の中臈は右に将軍と向い合って臥し、お添寝は将軍の左にすこし離れて蒲団を敷き、背を向けて寝るきまりであった。  お添寝はたいてい若い中臈だったから、ずいぶん迷惑な役廻りである。翌朝は隣にお伽中の御年寄に、前夜の模様を報告せねばならない。どうお戯れになり、どんな話を交されたか、ほかに別条はなかったかを申しあげる。  お添寝される方も迷惑な話で、将軍家でも諸大名でも、奥方とか側室が、若いうちに子供ができないのは、寝所に変な番人がいたからである。お添寝は後に、何か薬をのんで寝るようにした。白い粉薬だというから、おそらく眠り薬だったにちがいない。  ともあれ五代将軍の貞享・元禄期には、施政や世相もそうだったように、大奥史においても最もはなやかな一時代を画した。 [大奥の作法成る]  綱吉のあとを受けた六代|家宣《いえのぶ》は、甲府宰相綱重(家光の三男)の嫡男である。五代綱吉の甥《おい》に当る。万治四年(一六六一)十八歳で甲府二十五万石をつぎ、延宝七年(一六七九)近衛関白|基煕《もとひろ》の娘を奥方に迎えた。  ところが、綱吉の世子徳松が五歳で死んだため、宝永元年(一七〇四)十二月迎えられてその継嗣になった。すでに家宣は四十二歳——かれにしてみれば、四代家綱に嗣子《しし》がなかった時、兄弟の順位からは父の綱重が五代将軍になるべきだった。それを横から入って綱吉(家光の四男)がつぎ、しかも自分の子徳松を西の丸に入れてあとつぎにした。自分の血統で本家を独占するつもりだった。徳松が死んだからこそ自分は出られたが、そうでなければ子々孫々まで相続圏外へ押しのけられただろう。危いところだった。  そんな気持があるため、綱吉時代の政策をすべてぶちこわそうとした。まず生類憐みの令を撤廃、前代の罪人八千八百人に大赦をおこなった。実際、元禄四年以来の綱吉には、非難さるべき多くの秕政《ひせい》があり、世は家宣初政の新鮮さを歓迎した。  家宣は政治の姿勢を正そうとした。それはまず役人の形にはじまる。折り目正しい進退作法こそ、理想政治の出発点である。そこで公家ふうの典礼・服制をとり入れた。改革意欲のゆきすぎはあるが、後々の大奥作法に、京都ふうの影響をあたえたことは少なくない。特にとりあげる必要がある。  家宣の御台所|煕子《ひろこ》は、五摂家の筆頭近衛の出である。そのうえ父基煕には、後水尾天皇の姫宮|級《しな》の宮《みや》が降嫁され、臣下といえ内実は皇族に準じて、禁裡からも特別の扱いを受けていた。  特に基煕は公家第一の学匠といわれ、有職故実《ゆうそくこじつ》では右に出る者がなかった。御台所はその薫陶を受け、ふかく学問を愛して関東の武家ふうを嫌った。嫁してもなお、近衛家から連れて来た侍女、斎《いつき》の局《つぼね》、錦小路の二人を相手に、きょうは歌書、あすは物語ものと学問に熱中した。  輿入れ当時、まだ甲府宰相といわれた家宣は、武芸にのみはげんで学問の道を知らない。まったく肌合のちがう二人だったが、こう不調和ではお家の不為と、博学の聞え高い新井|君美《きみよし》(白石)を召抱えたこともあって、やがて家宣も大いに学問好きになった。  家宣は世子ときまったころ、おすめという側女を得た。これは園地中将|季豊《すえとよ》のむすめで、柳沢吉保が家宣を籠絡、自分の地位を保持するため献じたもの。公家出身だけに和歌・管絃の道にすぐれ、やはり学問への造詣も深かった。家宣はこのおすめにも影響され、公家ふうに心をひかれたのである。  将軍就任のあとも、万事京都ふうでなければ喜ばない。譜代の重臣が先例をもちだしても、家宣は頑として聞かない。家宣が許しても御台所派の女中団が武家ふうを受けつけなかった。こんなことがあった。  幕府の先例に、将軍が代替りになっても、将軍宣下のないうちは、奥方は御簾中《みすなか》様と称して御台所とはいわない。それなのに、家宣は将軍宣下まえに、平然と煕子を御台所と呼ばせた。老中はおどろき、側用人の間部詮房《まなべあきふさ》に、大奥へいってその理由を聞いてこいといった。応対にでたのが斎《いつき》の局である。 「当将軍家ではそんな前例があるのですか。京で承ったところでは、将軍家では室町御所の例式にならうとのこと。それゆえ御台所と呼びました。事のついでに伺いますが、今後は室町将軍家より一段ひき下げてよろしいのですか」  と、何ともすさまじいごあいさつである。  老中は室町将軍家の前例など知る由もない。あわてて林大学|頭《かみ》に聞く。分らぬ。新井白石に聞く。わからぬ。書類をひつくり返し探すうち、御台所の父君基煕公が、幕府へよこした公文書をみつけた。はっきり「御台所」とあった。おそるおそる間部詮房が、京の基煕公へ伺いを立てると、何と足利義満以来、世子の間でも「御台所」といった前例を、証拠の古文書まで添えて送って来た。ごていねいに、御台所と御簾中の相違点までこまごまと書かれている。口あんぐりだ。  無知ほど恥かしいことはない。折から朝鮮王、琉球王の親善使節の来朝や、家宣将軍宣下の儀式も近い。にわかに基煕公から典礼作法の指南を受けることになった。宝永七年(一七一〇)四月十五日、近衛太閤基煕は江戸着、老中の出迎えを受けて竜《たつ》の口の伝奏屋敷へ入った。接待役は間部詮房、典礼指南役ではあり将軍の岳父ではあり、最高のもてなしだったことはいうまでもない。  基煕は二日または三日毎に登城して、大奥で有職故実の講義をした。その登城には、特に座敷でも杖をつかうことを許された。  ところが、有職故実はもと政刑の典章だからと、基煕は追々政務にまで口をはさむようになった。さなきだに将軍の厚遇する老人、たちまち隠然たる勢力をきずき、ついに「竜の口の大御所」といわれるに至った。年齢は六十三歳、吉良上野介みたいに気むずかしい。にらまれると損だとばかり、役人はもとより大名までが、わんさと音物《いんもつ》を持参した。  おかしいのは、武士はもとより町人まで、杏葉牡丹《きょうようぼたん》の紋をつけることがはやった。杏葉牡丹は近衛太閤の紋所なのである。基煕と懇ろだと人に思わせるだけで、恐れられ、羨ましがられた。ちょっとした近衛太閤ブームである。  家宣は「百年にして礼楽《れいがく》起る」という古語を思いだした。幕府も創業以来、百年になった。今こそ本格的に典礼を改定すべきではあるまいか。それを基煕公に諮問した。答えていう。 「武家といえども朝廷より官位の叙任がある。官位相当の服制によって、はじめて上下の品等が判然とし、おのずから秩序礼節が生れよう。天下泰平のもとはまず服制に始まる」  こういう趣旨であった。  家宣は喜び、今までの羽織を道服にあらため、直衣《のうし》を作って上下《かみしも》に代えるなど、徹底的に公家ふうをまねた。大奥の服制は、ほぼこの時できたものである。  例の朝鮮王の使節がやって来た。ここでまた近衛太閤が説をなした。 「礼を正すには楽を正すべし。先例の能楽など後世の俗楽で、異朝の使節に見すべきでない。日本には古来雅楽があるのを、こんなときにこそ誇りを以て演奏せよ」  というわけだ。  これもなるほどと、さっそく雅楽に変更された。  自然、大奥にも雅楽の関心が高まって、基煕にこっちの指南も頼んだ。が、女の舞楽は童女に限ると、さっそく京から舞姫を呼び寄せるという騒ぎだ。舞姫が大奥へ参着すると、部屋子《へやご》の少女たちに習わせて、たびたび奥御殿で舞楽が催された。家宣はすっかり優雅な舞いに魅惑され、上手な者には褒美をだして奨励した。よって大奥に、楽の音の絶え間がなかった。  と書くと、いかにも平穏無事に聞える。が……実は、派閥争いの深刻さは、どの時代よりもすさまじかったのである。  家宣には正室煕子、側室おすめのほか、お喜世、お古牟、いつきの方(正室付きの上臈斎の局とは別人)などがある。  ところで彼女らの出産歴はどうか? 正室煕子は一男一女を産んだが、ふたりともすぐ死んだ。優雅な京女が、どんなに出産率が悪いかのよい見本である。  つぎにおすめは公家の出身で、柳沢吉保の推薦だったことは前に書いた。正室につづいて、宝永五年(一七〇八)、三男の大五郎を産み、あっぱれこの子が七代将軍かと思われた。ところが、大五郎より七カ月遅れて、側室お喜世が四男鍋松を産んだ。かくて典型的な継嗣争いを繰りひろげることになった。  お喜世の父は勝田玄哲といい、加賀藩の槍術指南役だったが、後に江戸へ出て浅草で坊主になった。鍛冶屋と生き別れて玄哲に嫁した母親は寺でお喜世を産んだ。お喜世は長じて御殿奉公を望み、二、三の大名屋敷に勤めた後、大番|頭《がしら》の天島治太夫を仮親として甲府宰相の奥向桜田屋敷に仕えた。お喜世の美貌と才気は、すぐ家宣の眼にとまった。江戸女らしい、ぴちぴちとした魅力に家宣は参った。綱吉の世子として西の丸へ移るころ、寵愛第一の側室であった。家宣が将軍となった年、お喜世は西の丸で四男鍋松を産み、お腹様となって名も左京と改めた。  他の側室お古牟も、浅草あたりの一向宗の僧、太田道哲のむすめだという。浅草の坊主の娘がふたり……それで家宣は抹香《まっこう》臭い女が好きだとこじつけられたりする。お古牟は誰より早く宝永四年(一七〇七)、西の丸で二男家千代を産んだ。が、わずか二カ月で死んだので、競争圏外へそれてしまった。  その他、いつきという側室——。彼女の父は小尾十郎左衛門という侍、宝永七年懐妊したが、あわれ難産のため母子とも死んだ。  さてこの一妻四妾は、いずれも懐妊しながら出産間もなく死なせたものが多い。やっと生き残っているのは、おすめの産んだ大五郎と、お喜世の産んだ鍋松だけである。長幼の序はあきらかだが、こうも成育率が低いのでは、生き残った方が勝である。真綿で包むようにして育てた。  チャンピオンの一人おすめは、公家だけに正室煕子の後楯があった。煕子はとっくにお褥《しとね》辞退の年齢で、一線をはなれて応援した。  それに対してお喜世にも、これまた有力な後楯があった。側用人の間部詮房である。素性賎しいお喜世が、第一の寵妾になれたのは、美貌と才知のせいではあるが、詮房の支援に負うところが多い。  詮房はもと猿楽の役者、西田喜兵衛の子供である。姿が美しいので召出され、追々登庸されて西の丸へ入るころは、書院|番頭《ばんがしら》に任じ越前守となった。宝永三年正月にお側衆となって三千石、同年若年寄へ進んで老中の待遇を受けた。  家宣将軍となったときは三万石で侍従、つづいて上州高崎城主となって五万石を領した。家宣は養父綱吉の施政を批判し、寵臣柳沢吉保をしりぞけながら、自分もまた寵臣を作った。めざましい抜擢ぶりは、けっして綱吉に劣らない。  詮房はこの殊遇《しゅぐう》に応え、常に城内に宿泊して、自邸へ帰るのは年に二、三回だったという。詮房も出身は卑しかった。その点、お喜世に通じるものがある。一方、ライバルのおすめと御台所の提携も、公家出身の共通点による。双方、類をもって集った対抗勢力である。争いのはげしくなるわけだ。  近衛太閤の出府は宝永七年である。基煕の殊遇は何といってもおすめ側を有利にした。竜の口の大御所は、三日にあげず大奥へ来て、行儀作法を京都ふう一色に塗りかえた。奥御殿には優雅な舞楽の音がひびいて、将軍は一にも二にも公家流でなければ承知しない。まさにおすめにとってわが世の春である。世子は大五郎以外にありようはない。と思われたのだが……世の中はまったく皮肉にできている。その年の八月十二日、大五郎はわずか三歳で急死した。あっという間に転落した。  お喜世の江戸方は凱歌をあげた。勝負はあった。鍋松以外に世子はない。はげしい派閥争いだけに、大五郎の死因にはいろいろの噂が立った。  それにしても、何という高い幼児の死亡率であろう。特にたおやかな京おんなの子が育たず、温室そだちの体質の悪さを物語った。それに対し江戸おんなのお喜世は、野性の花のたくましさで勝った。お喜世は世子鍋松の生母として、家宣在世中寵愛をその一身にあつめた。 [大奥のみだれ]  大奥の権力はお喜世に集った。お喜世には不可能なことが何ひとつない。五代将軍のときまでは、一人の寵妾を出すと一族のめざましい出世栄達となった。黒鍬者のお伝の父が、百人扶持の侍に取り立てられたなど……。しかし六代将軍のお喜世に至って、その影響は積極性を帯びた。綱吉の秕政《ひせい》をあらためて、政治の姿勢を正すはずの家宣が、逆に大奥女流にその理想をむしばまれたのは皮肉であった。  正徳二年(一七一二)七月四日、家宣は作事奉行、普請奉行、御納戸頭、御賄頭、細工所頭へつぎのような諭告を出した。 「御用達《ごようたし》商人、職人がその筋の役向へ贈物をするそうだが、これは賄賂にひとしいゆえ停止せよ」  いわゆる付け届は前代からあり、柳沢吉保など大いに私服を肥やしたものだ。が、それは主として猟官運動のためで、賄賂や汚職というほどではなかった。  ところが正徳年間に入ると、町人が役人と結託し、利権を得ようとした。事の性質がちがい、当然賄賂が横行するようになった。眼にあまるものがあり、この諭告となったのである。  ところが、その源流をたずねると、ほかならぬ大奥——というより家宣の施政自身にあったことになる。家宣が有職故実に凝り、雅楽を奨励したりで、新しい衣裳が必要となった。上は御台所からお犬子供に至るまで、すべて京都ふうの仕立と模様に変えねばならない。千人の大奥女から、いちどに大量の注文がでた。今までの御用商人、後藤|縫殿允《ぬいのじょう》、茶屋宗意《ちゃやそうい》らだけでは間にあわない。そこで新たに他の呉服商人にも注文を出した。が、何しろぜいたく品なので儲けも多い。すこしでも多く注文をとろうと、係の女中へ賄賂を送ったり、宿下りをねらって料理屋、劇場へ招いたりした。奥女中の実家へまで手をのばして、莫大な金品を贈って籠絡した。  女中たちの堕落は早い。暗に賄賂を催促したり、商人どうしに競争させたりした。ひいきの御用商人ができ、後藤、茶屋など古顔は、きまりきった注文しかもらえなかった。  これは呉服ものだけでなく、やがて他の御用達にも及んだ。まず大奥で使う建具や諸道具……それを扱う細工所や、利権のからみやすい普請方がねらわれた。そこへ出入りする町人が、錦小路その他有力な奥女中をとらえようとする。彼女らの口ききで、それぞれ管轄の奉行に働きかけてもらう。奉行たちも、出世の手段に側室を利用したいので、女中たちのいうがままに動く。範囲はどんどんひろがって、大工、石工、瓦職、経師《きょうじ》屋、蒔絵《まきえ》師のたぐいまで、つてを求めて城門を出入りするようになった。弊害はつのるばかりである。  これを匡正《きょうせい》しようとしても、禍根は大奥にあるのだから手がつけられない。手を入れて逆にしっぺ返しを食ってはたまらない。老中たちは尻ごみするばかり。ひとり大久保|忠増《ただます》が、思いきって家宣に実情を告げた。おどろいた家宣は、すぐ大奥へつぎの禁令をだした。 [#ここから1字下げ]  大奥ならびに御部屋女中より表方御役人へ、親類・縁者などのお役替の儀、又は町人・職人の御用達し候儀を、女中より直きにたのみ候事もこれあり候様に相聞え候。向後一切、たのみ申すまじく候。もし表向の御役人へ申し届候わでは叶わざる用事これある時は、御留守へ申し達し、(表の)御役人へは御留守居より申し通じ候様に致し申すべく候。女中より直き直きのたのみ遣わし候事は勿論、御留守をさし措きて外の向《むき》より頼み申し遣わし候儀も、一せつ無用たるべく候。これ以後、相背き候ものこれあり候わば、急度《きっと》、御吟味あるべき由、仰せ出され候間、かたく相守り申すべく候。三の丸、二の丸女中も同様に堅く相守り申すべく候。 [#ここで字下げ終わり]  こういう禁令は、はじめてである。誰が将軍に告げ口したか。自分たちのことは勝手に屁理屈をつけ、表向でそんな悪口をいうなら、こっちにも考えがあると、心配した通り奥女中が柳眉を逆立てた。それ以来、表役人に何か手落ちがないかと、鵜の目、鷹の目でアラ探しをはじめた。  ここでちょっと説明をはさみたい。この文面でみると、表役人も高級女中から、直接頼まれることがあった。奉行クラスなら、お広敷《ひろしき》で奥女中に対面できたのがわかる。もちろんお広敷に限るとはいえ、外聞をはばかることは人払いで話し合った。そのあたり、後の大奥よりはいちじるしく男子禁制がゆるかった。  また、文中の留守居役とは、先にのべた将軍出征時の留守部隊長である。平和つづきで出陣もなく、すっかり閑職となっているのがわかる。  さて、奥女中が、何か表役人の手落ちをと探すうち、正徳二年、一つの誤認裁判を発見した。およそこういう事件である——。  伊勢亀山の城主、大給乗邑《おぎゅうのりむら》の一族に、松平左門という五千石の旗本がいた。幼少で家督相続したため、乗邑はじめ一門の松平|近祗《ちかまさ》、同|好乗《よしのり》らが後見、家政は家老の高木八兵衛がみた。ところが、ご多分にもれず八兵衛は、帳簿をごまかして私腹を肥やした。適当に召使を撫でてあるので、八兵衛にはつくしても誰ひとり幼主左門に忠勤をはげまなかった。  たまたま乳母の弟の前田貞右衛門は、このありさまに気の毒でならない。せめては自分ひとりでも尽さねばと、まめまめしく働いた。左門は感謝して、はじめて将軍の拝謁の日、貞右衛門を侍にとりたてた。家政をめぐって貞右衛門、八兵衛が事ごとに対立、はっきりお為方と逆意方ができてお家騒動となった。両派の暗闘はすさまじい。乗邑はじめ後見役は、八兵衛にまるめられて逆意方へつき、ついに幕府へ訴え出た。何しろ乗邑がついている。幕閣ではうっかり逆意方に軍配をあげた。時の月番はほかならぬ大久保忠増——その誤りを奥女中が衝いたのである。  家宣はすぐ再吟味を命じ、前審をくつがえして左門・貞右衛門の勝とした。そんなことで表役人をへこまし、溜飲をさげる奥女中であった。表役人が大奥の機嫌をとらねば、いつ足をすくわれるかも知れない。大奥との緊密な連絡を保ち、顔色をうかがうようになったのは、この時からである。  それはともあれ、六代家宣は、就職いらい三年十カ月、正徳二年(一七一二)十月、五十歳でにわかにこの世を去った。かれのめざした理想政治は、まだまだ遥か彼方にあった。さぞ心残りだっただろう。が、いちばん気になるのは僅か四歳の鍋松のことである。満では三歳の将軍が、果して天下を治められるだろうか? 家宣は信任する間部詮房に、後事を託するより仕方がなかった。  家宣の死によって、御台所をはじめ落飾して院号で呼ばれた。御台所は天英院、お喜世の方は月光院、おすめの方は蓮浄院である。大五郎が死んでから、競争相手もなく、月光院のひとり舞台だった。いま家宣が死に、わが子鍋松が家継と名乗って、七代将軍職についた。幼少のため引きつづき本丸大奥にとどまり、月光院が片時も放さない。彼女の権力は無上のものとなった。  すべての政務は間部詮房を通じて、形だけ幼将軍に達せられる。が、実はとちゅう詮房が、いいように処置することが多かった。詮房は前将軍のご遺言といって、どんなこともできる立場にあった。ますます屋敷へ帰ることなく、政務にかこつけて大奥へ入りびたりだった。  月光院はまだ三十歳の女ざかり。一児を産んだ肉体は、熟れ切った果実の魅力をたたえていた。間部詮房は美男であり、前々からの一味であってみれば、この間ただですむわけがない。『三王外記』にうまい描写があるから借りよう。 「詮房公服を脱し、煖帽を戴き夫人と共に炉に擁して私語す。家継これを見て、傅母に、詮房は将軍のようであると」  すなわち詮房は上下《かみしも》をぬぎ頭巾をかぶり、月光院とコタツに入ってしんねこで差しつ差されつやっていたのだろう。幼い家継がやって来て、 「詮房は将軍のようじゃな」  といったのである。  二人は今や江戸城に、まったく怖いものなしだ。大胆なラブシーンを展開したのである。『三王外記』の記事はつづく。 「ここにおいて大奥の風紀乱れ、近臣、侍医と奥女中の通じ、宿直《とのい》の室に簪《かんざし》の落ちていることも屡々なりしが、あえて詮房これを禁ぜず、かかる大奥の乱れかつてなし」  上のなすところ下それを見習う。一代の嬌名を謡われた絵島は、月光院づきの御年寄であった。 [長持吟味と新参舞]  絵島事件はあらためて書くまでもないが、正徳四年(一七一四)正月のこと、絵島は月光院の代参として芝増上寺へ参詣、その帰途、行列を木挽《こびき》町の山村座へつけ、芝居見物のあと役者生島新五郎と密会した。この不行跡が発覚して、絵島は信州高遠へ、新五郎は三宅島へ流された。連座する者千五百人という、未曽有の大疑獄となった。  事のてんまつは世に知られる通りである。ただ一つ、ふつういわれながら、あいまいなまま残されている部分がある。ほかでもない。新五郎を長持詰めにして、大奥へ運び入れたという話である。本当だろうか? それに関連して、大奥の性関係をまとめておきたい。  お広敷に七つ口といって、奥女中の出入り口がある。七つ(午後四時)に閉じるのでこの名があり、締戸番という役人が眼を光らせていた。  締戸番は、戸の開閉をつかさどるばかりでなく、長持や葛籠《つづら》の検査もした。目方十貫目以上のものは、ふたをとってなかをあらためねば通さなかった。そのため大|天秤《てんびん》が備えてあったという。これは絵島事件のとき、生島新五郎が長持にかくれ、大奥へ潜入したためという。  後には形式的となり、いいかげんな検査で通したが、制度は永く残って文政年間までもおこなわれていた。当時、ふたたび奥女中の風紀問題が起り、検査を厳重にしたところ、新五郎とは逆に、奥女中が長持に入って大奥を抜け出していた事実がわかった。  ある時間、長持詰めでも生理的に耐えられる。だが、問題は潜入したあとである。一体どこへ運びこむのか? 御殿向《ごてんむき》の座敷や部屋では、人眼があるからとうてい長持のふたはあけられない。奥女中の住居たる長局以外に、ふたをとる場所もなければ、密会はなおさら不可能である。絵島ほどの御年寄になれば、長局一の側に三、四室も続いた一区画を占めていた。二階もあるので、役者ひとりを隠すことも不可能ではなかろう。ただ、それをやるには数人の部屋子《へやご》を買収しなければならない。絶対口をふさがねば危い。さらに、長局は字の如く、隣室とぴったり接している。塀など簡単な仕切りはあるが、非常の時に備えて開き戸がつけられていた。ふだんはその戸をあけ、心安く隣りの住人と往き来している。男を隠しきるためには、両隣の数人をも買収せねばならない。長局の構造上、問題である。  それに——発覚すれば死罪はまぬがれまい。大胆不敵な行為である。果して周囲の者が秘密を守ってくれるかどうか。特に女どうしの嫉妬が怖いし、下々の女中が、おしゃべりなことも危険率を高めた。  しかし、主従観念の強い当時のことである。部屋子は買収できるとしよう。絵島のばあい、両隣りもお年寄の圧力で、黙らせることも不可能ではあるまい。大胆不敵な行動も、抑制された性衝動からといえばそれまでである。  ところで、これが御殿女中ではなく、姫君だとすれば可能性はぐっと増すことになる。奥御殿ぐるみがその気なら、じゅうぶん成り立つ話である。三田村|鳶魚《えんぎょ》の『江戸の女』に、一若侍の経験談のような話がのっている。 [#ここから1字下げ]  若い秋田藩士が江戸勤番になって、あちこち遊びあるくうち両国の茶店と馴染みになった。その亭主にすすめられ、ある日、長持詰めになってどこかへ運ばれた。しばらくゆくと門番と亭主の押問答があり、貫目吟味となるが、危いところで助かる。どうやらぶじに奥御殿へ運びこまれ、老女から菓子など差し入れがあって待つうちに、美しい姫君があらわれて嬉しい首尾をする。夜明け近くまた長持詰めで運び出されるが、一夜の謝礼が何と百両! 藩邸へ帰って同僚から問い詰められ、事の次第を話すとみんな驚いた。江戸にはよくある話で、ときどき勤番者がそのまま紛失するのだと先輩がいった。 [#ここで字下げ終わり]  その題名は『春夢仙遊録』で夢物語のような印象を与える。場所も人名もないから、嘘でなくても信用できないと『江戸の女』にはある。ただ、奥向ぐるみ姫君の恋に協力しているのは、大奥女中の場合よりは現実性がある。それに、長持が運びこまれる時、貫目吟味の一節があって、ぐっと現実感を添えている。もしこれ自体は作り話でも、当時、可能性ある話題ではなかったのか。  高級女中は一生奉公といって代参で外出するほか大奥へ閉じ籠ったままである。完全に男から遮断されていて、それで尼僧の如く行い澄ましていた、といえば嘘になるだろう。張形《はりがた》をもてあそんだことも本当なら、陰間《かげま》買いも事実である。満たされぬ欲望に、狂おしくなる者もいたはずである。年に一度の煤《すす》掃きには、男の人足が大奥へ入って来る。男女顔が合わぬよう、幾重にも仕切りができていた。ところが、人足のうちに大奥で紛失する者がいて、入った数と出た数が合わなかったという。紛失した男はどこでどう消されたか、ある年の大火で大奥の焼けあとから、男の焼死体がいくつも出て来たという。  それなどはまだいい方だ。明暦三年の大火に、甲斐国谷村城主、一万八千石秋元越中守|富朝《とみとも》は、防火のため大奥へとびこんだまま紛失してしまった。焼死なら死体がでるはずだが、それもついにでなかった。いかに混乱ちゅうといえ、天下の諸侯が消えてなくなるとはひどい。大奥女中の情念の火に焼かれたものとされている。  これは大奥での話ではないが、十二代|家慶《いえよし》将軍の死後、落飾して桜田の御用屋敷にひきこもっていた側室お琴の方が、たまたま屋敷の修繕に来た美男大工に情念を燃やした。ついに二人の間に関係ができた。抑圧されていた大奥生活の反動から、はじめて人間性に眼覚めたと、今流にはいえるところだが、当時の貞操観、主従観ではとうてい許せるものではなかった。兄土佐守忠央が、不憫の募るお琴を斬り殺した。恋は思案のほかである。大奥へ男を誘いこんだ例はほかにもあるかも知れない。  つぎに今ひとつ、大奥の奇怪事とされている新参舞についてのべておこう。明治二十五年発行の『千代田城大奥』に新参舞のことがある。 [#ここから1字下げ]  例年正月節分の夜、新規召抱えのお末(奥向の雑役女)が、御膳所で新参舞という行事に出る。はじめは十人ばかりの者が、覚悟をきめておずおずと着物をぬぐ。ピンクの腰巻ひとつになり、頭には笊《ざる》をかぶったり唐茄子《とうなす》型に手拭をかぶったり。また、襦袢《じゅばん》いちまいになり、下腹に綿などつめて懐妊を装う者もあった。思い思いにおどけた姿で一列に並ぶと、先輩が先達《せんだち》になって南の溜りから御膳所へ入る。そして上段に供えられた三宝から御幣《ごへい》、摺子木《すりこぎ》、杓子《しゃくし》などをとり、いよいよふざけた恰好となる。このとき古参のお末衆が、薬罐《やかん》や桶の底をたたき、  新参舞を見しやいな   新参舞を見しやいな  とはやして立てれば、裸のお末は摺子木や杓子をかつぎ、住吉踊りを手ぶりおかしく踊りながら、中央の囲炉裡を三度めぐるを吉例《きちれい》とした。  そのうち先輩のお末が、これも裸で縫いぐるみの鼠を追って出る。そんな茶番がはさまって、らんちき騒ぎは最高潮に達する。今まで尻ごみした新参のお末も、いつかふんい気にまきこまれ、我も我もと踊りの輪に入るので、二三十人もの裸体集団となった。  この夜、御台所は奥御膳所の南にある御上段の間に入り、お下段からそっと透《す》き見されるという。変化のない大奥生活にとって何よりの慰み——一同へ酒と料理の下されがあった。何の必要あって、ふざけた裸踊りなどやらせるのか。いつの頃か、お末の中に入墨した者がいて、風儀を害したことがある。それで裸踊りに事よせて、身体検査をしたものだという。 [#ここで字下げ終わり]  ところで、この記事のある『千代田城大奥』は、明治維新を経験した太田贇雄が、永島今四郎と共に数十名にのぼる元大奥女中を訪ね、その談を基にまとめた書物である。年中行事、服装、居住など整然と分類して分りやすい。ただ、その序文にもあるとおり、さしも妖艶なりし奥女中も、明治にはすっかり老いさらばえて記憶もたしかでないありさま。あれこれ矛盾するところが多いと、著者みずからが告白している。それかあらぬか、かつて大奥で天璋院《てんしょういん》殿(十三代家定夫人)づきの中臈をつとめた大岡ませ子は、その夜芸のある者は踊りもするが裸になるようなことはない。芸のない者も踊り手について囲炉裡を一周するだけのこと、殊にお年寄が見物するなどとはけしからぬ。高級女中はけっして御膳所などへゆくものではなく、まして御台所が透き見をなさるなど出放題にもほどがあると語った。どうも新参舞の件は多少オーバーに伝わったようである。 [大奥法度と不良将軍]  幼将軍|家継《いえつぐ》は、正徳六年(一七一六)四月、風邪がもとで死亡した。それも月光院が奥庭の花見に、弱い家継をいつまでも寒い風に当てたからである。月光院と間部詮房《まなべあきふさ》は酔っていい気持だが、八歳の家継は思わぬ夜寒《よさむ》にすっかりやられたのだ。  八歳ではもちろん継嗣がなく、そのあと将軍の座をめぐって、大奥にはげしい暗躍が起った。家宣の御台所|煕子《ひろこ》、今は法号で呼ぶ天英院は、この際じぶんの縁辺の者を立て、その地位を確保したいと思った。月光院も、掌中の珠を失っておなじ思いである。二人の寵愛争いは延長して、こんどは激しい相続争いを演じた。  間部がいるだけに、月光院の方が強い。煕子の推した尾張継友をしりぞけてやがて月光院の推す吉宗が八代将軍となる。  吉宗の政治は、享保《きょうほう》改革といってよく知られている。それ自体も効果をあげたけれど、後に松平定信の寛政改革、水野越前守の天保改革も、吉宗のこの享保改革を手本にしたものである。徳川の屋台骨を、匡正するのに大いに役立った。まさにその意味では中興の名主であった。  新将軍のまえには、いくつかの問題が待ち受けていた。窮迫した財政の建て直し、士風のひきしめ、側近政治の廃止などである。財政の建て直しには緊縮政策を、士風のひきしめには学問・武芸を奨励した。側近政治の弊害を見て、間部詮房はもとより新井白石までも断乎罷免した。白石が家宣に献策した、形式的な典礼作法もいっぺんに廃止した。吉宗は時に血気の三十三歳、本家譜代の家臣を重用しても、じゅうぶん押えてゆく自信があったのだ。  吉宗は分家から入ったくせに、よいと思えば遠慮なくてきぱきと実行した。めんどうな典礼作法などにこだわらない。急ぎの政務は、白衣——いわば寝巻で重臣から聞くこともあった。現実主義、実質主義の政治家であった。  側近政治の弊害に関連して、改めねばならぬのは大奥の風紀である。吉宗は法律将軍といわれるほど、たくさんの法令を出している。刑法の基礎法典といわれる「御定書百箇条《おさだめがきひゃっかじょう》」をはじめ、それまで慣習によっていたものを、片っぱしから法律化した。大奥にも基本的な法律を設け、崩れかけた姿勢を立て直そうとした。就職六年目の享保六年(一七二一)四月、はじめて永久法の大奥法度を出したのである。  大奥法度は元和四年(一六一八)秀忠が出したあと、寛文《かんぶん》十年(一六七〇)相当細部にわたるものが出ている。が、それは四代家綱の大奥だけを対象にしたものだ。文中に於梅、岡野、矢島、川崎など御年寄の名がでているほど一時的な法令である。永久法はやはり吉宗の出した享保法典をもって嚆矢《こうし》とする。以来百五十年ほどいささかも変ることなく、幕府の終末まで遵用《じゅんよう》した。本文はそれほど長くはない。大奥のようすがよくわかるので寛文法を合せ解説してみたい。(法文は現代語に直した) [#ここから1字下げ]  定 一、大奥女中の文通は、祖父母・父母・兄弟姉妹・おじおば・甥姪《おいめい》・子と孫までに限り許される。この者たちの外に、どうしても文通したいときは、御年寄に断ってから出さねばならない。  宿下り(実家への帰休)の節も、親類に会えるのは前述の近親のみに限る。いちいち誰に会ったかを帳面に書いて、あとで御年寄の吟味を受けねばならない。 二、下々の女中(お目見以下)は、親子・縁者を長局へ呼び寄せてはならない。しかし近い親類で、部屋子《へやご》にしたい者があれば、その旨を御年寄に願い、御留守居の指図に従うこと。 三、宿下りのない女中(お目見以上)は、祖母・母・娘・姉妹・おば・姪、それに男子は九歳までの子・兄弟・甥・孫に限り大奥へ呼び寄せてもかまわない。泊めねばならぬわけがあれば御年寄に願い、御留守居へ届出たうえ、二晩かぎり泊めることができる。 四、長局へ使の女を泊らせてはならない。どうしても泊める必要があれば、御年寄へ届け出て、御留守居の指図を受けるように。 五、衣服・諸道具・音物・振舞事に至るまで、ぜいたくな物や身分不相応な品はいけない。 六、部屋々々で振舞事や寄合をしても、夜ふかしは絶対に禁物である。 七、御紋(三つ葉葵)つきの道具類は、いっさい私用に貸し出してはならない。 八、長局へ出入りするごぜ(按摩)は二人に定めおくべし。 九、御下男(御広敷の小者)を私用に使ってはならない。急なことがあれば、御年寄から御広敷|番頭《ばんがしら》へ断ったうえ使うこと。 十、召使のうち、不審な者は早々にやめさせよ。御城内を大切に思い、少しの油断もあってはならない。 [#ここで字下げ終わり]  これが全文である。たいへんな拘束を受けていた。文通の相手も、宿下りのときの面会者も、最小限にかぎられていた。当時の女性は出歩くこともなく、交際範囲も狭かったとはいえ、これではまったく籠の鳥である。宿下りのできるお目見以下の女中でも、奉公によって三年間は外出をとめられる。三年たつと一回につき六日間、それから三年目ごとに許されるにすぎない。お目見以上の高級女中ともなれば、原則的に宿下りはない。親の病気など重大な時にかぎり、最小限の外出をゆるされた。お手つき中臈になると、いつ将軍のお召しがあるか知れず、それさえ認められなかった。  その高級女中のため、設けられたのが第三条である。極く近親の女と、男なら九歳以下にかぎり呼びよせることができると定めた。またやむを得なければ、大奥で泊めてもよいとした。対面はもちろん、泊る場合もお広敷で泊め、長局で泊めたのではあるまい。  ついでに書いておけば、春秋二季に宿下りのあるのは、直《じ》きの奥女中に使われる又者《またもの》——すなわち御末やお犬子供という部屋子《へやご》だった。彼女らは町人の娘で、行儀見習が目的で大奥に来ている。正式の大奥メンバーではないが、宿下りのときはいっぱし大奥女を気取るので間違われやすい。宿下りの三月をあてこんで、江戸の芝居三座では「鏡山」を出すしきたりであった。  あとの箇条は常識的であり、当然すぎることばかりである。  ところで、この全文のあとに、「右の箇条を堅く守り、誓詞前書の趣、相違なきよう心がくべきこと。そのため左にしるしおく」として、その誓詞なるものをあげている。 [#ここから1字下げ] 一、御奉公の儀、実義を第一に仕《つかまつ》り、少しも御うしろぐらき儀致すまじく候。よろず御法度のおもむき、堅く相守り申すべき事。 一、御為(主家の)に対し奉り、悪心を以て申し合せいたすまじき事。 一、奥方(大奥)の儀、何事によらず外様へ申すまじき事。 一、女中方の外、おもて向願いがましき儀、一切取持ち致すまじき事。  附、御威光をかり、私のおごりいたすまじきこと。 一、諸|傍輩《ほうばい》中(同僚)のかげことを申し、或は人の中をさき候ようなる儀仕るまじき事。 一、好色がましき儀は申すに及ばず、宿下りの時分も物見遊所へまいるまじき事。 一、面々の心および候ほどは行跡をたしなみ申すべき事。  附、部屋部屋の火元、念入りに申付くべき事。 [#ここで字下げ終わり]  この誓詞も幕末まで変らず、署名捺印して提出したものである。  注意をひくのは四番目の箇条だ。大奥関係の外、表向き(政治的)な願いごとはいっさい取持ってはならぬ。御威光を借り、驕慢やぜいたくがあってもならぬとした。大奥の弊害として、もっとも恐れられているものだ。今までも、五代綱吉のときのおさめの方、家継の生母月光院のこと、数えればきりがない。吉宗はその弊害を、二度とくり返したくはなかった。短文ながらピリッとする一条だ。  この条文は、ざっと五十年前の寛文法に、もっとこってりとある。相当する三カ条をあげてみよう。なかなか詳しくきびしい掟だ。 [#ここから1字下げ] 一、すべて御台所のお為になるよう心がけよ。但し当座はお気に入っても、あとで支障があるようではいけない。 二、諸大名の奥方や、公家、門跡、旗本の面々、出家、町人など、誰によらず将軍にとりなし、訴訟がましいことを頼まれても引き受けてはならない。 三、世上のとり沙汰や諸人の噂を、みだりに将軍に申しあげてはならない。風説には嘘が多く、人に関しては不公平なことが多い。よくよく心せよ。 [#ここで字下げ終わり]  妙なのはこの文書は、老中から於梅、岡野、矢島、川崎の四年寄あてになっている。この時のは、大奥法度というより諭告のような形だ。  だが、ここではっきり、外部からの依頼に応じるな、根もない風説をお耳に達するな、など具体的にポイントを押えてある。この三カ条に当る内容を、享保の大奥法度では、誓詞の中の一カ条に縮めている。前者は諭告なのでくどく、後者は永久法なので簡潔になった。短くなったからとて、大奥女流の政治圧力を軽視したためではけっしてない。その逆だ。こんな話がある——  吉宗の生母はお由利の方といって、紀州藩軽輩のむすめとも、また百姓の娘ともいう。紀州の奥向へ奉公に出たが、お湯殿の係で身分はきわめて卑しい。吉宗を産んでもずっと恵まれなかった。  ところが、やがて吉宗は紀州藩主となり、思いがけず将軍になった。享保三年、お由利の方は将軍の生母として、江戸へ迎えられ、二の丸に住んで幸せな日を送っていた。  将軍のお小姓市郎大夫は老中久世重之に憎まれてお役ご免、紀州へ帰って蟄居を命じられた。市郎大夫の母瀬川は、お由利の方に永く仕えた者、その縁故でお由利の袖にすがって罰の軽減を頼んだ。  お由利の方は同情した。赦免方《しゃめんかた》を吉宗にたのんでみた。孝心の厚い吉宗は、はじめは黙って答えなかった。が、重ねて頼むと、吉宗はかたちを改めていった。 「天下の政治は重大ゆえ、婦人のことばに左右されたくない。今後とも表向のことはお控えあるよう」  また、こんな話もある。就任直後のこと、吉宗は大奥女の中で、顔の美しい者を選定して報告せよといった。さては美女をご寵愛かと、みな胸をときめかせた。が、選ばれた五十人の美女は、残らず暇を出して実家へ帰らせた。そしていった。 「美しい者はいくらでも嫁入り口がある。しかし醜い女にはそれがないから、ずっと大奥に勤めさせるのがよかろう」  さらに、女には嫁入り聟《むこ》とりの時期がある。二十五になったら暇を出さねばいけないともいった。  いかにも人情に厚く、名君らしいことばである。が、実は緊縮財政による、大奥の人|減《べら》しにすぎなかった。  吉宗が名君とされるのは、現実主義、実利主義の政治家だった点である。家宣の理想主義、形式主義とは正反対であった。人材登用や目安箱の設置によくあらわれている。  が、そっちの方は一般史へまかせて、ここでは吉宗の閨政《けいせい》について書かねばならない。吉宗は分家から入ったのだから、天英院や月光院は姑《しゅうとめ》以上の立場である。大奥の扱い方はよほど慎重にやらねばならなかった。天英院には実際の母のように仕えたという。また、月光院を吹上の新殿に移して、大奥倹約令の圏外においたという。すなわち、ここだけ贅沢三昧を許してあった。親切がすぎて、吉宗と月光院の仲が怪しいといわれた。吉宗はこの道の達人だし、月光院もまだまだ男ほしい三十代であった。これは大いに真実性がある。『続三王外記』にそういう艶《つや》ダネが集めてある。  たしかに名将軍は女にも迷将軍であった。まだ紀州にいたときから、あちこち女くせが悪くて家来たちを困らせた。後の天一坊事件の種も播いた。将軍になってから一妻六妾——正室|真《さな》宮理子、側室お須磨の方、お古牟の方、お梅の方、お久免《くめ》の方ということになっているが、どうしてどうして、それだけではすまず、『清濁太平論』には大要こんな記事がある。 「吉宗将軍が大奥へ見えられると、二の間、三の間の女中(軽い身分の女中)を相手にされ、殊のほかご遊興あって、お表の振合(倹約政策)とは違っていた。お相手になった二の間、三の間の女中で、懐妊した者は十人ばかりもある」  というのだ。なんともお行儀の悪い話である。『清濁太平記』の信憑性は問題かも知れぬ。が、江戸町奉行根岸肥前守の書いた『耳袋』に、こんな生ま生ましい話がある。  吉宗がある日大奥の風呂へ入ると、湯殿の次の間に二十二、三の美しい女がひかえていた。たちまち欲情して、それと御年寄に意を含ませた。御年寄は女を呼び、もったいをつけてご寝所の奉仕を命じる。賎しいお湯殿係だ。お目にとまってさぞ感激……と思いのほか、女は顔色を変えて拒絶した。 「私には夫がございます。いかにお上でも、このことばかりはご容赦ください」  御年寄はあわて、怒った。 「亭主があろうとなかろうと、大奥勤めの身が上様の意にそむけると思うか! 命の御用さえ果すのが武家奉公ぞ」 「操は女の命、それを捨てる位なら死にます。このことばかりはお受けできません」と拒む。  調べてみると女は、関東郡代伊奈半左衛門の手代某の妻だ。禄はわずか三十俵、暮らしが立たぬので妻が大奥勤めに出たのである。  郡代は勘定奉行の支配、御年寄はそっちから手を廻し、手代の某に妻を離縁するよう圧力をかけた。何ともむちゃな話だが、将軍に逆らう方法がない。手代某はやむなく離縁状を書いて郡代に渡す。郡代の手からそれは御年寄の手へ……。  女は御年寄から離縁状をみせられた。たしかに夫の筆跡だ。 「これで納得がいったであろう。さあ上意に従うのだ」  とお年寄から迫られる。信じられぬことだ。 「この上はひと目夫に会わせてください。最後のお願いです」と泣きくずれる。  そこで御年寄は思案のすえ、雑司が谷鬼子母神で二人を会わせることにした。といっても、厳重監視の中で、茶屋の一室で逢うのである。鬼子母神の参詣をふれ出し、女にも供をさせた。打合せの通り男も来合せて、手代夫婦は幾月ぶりで顔を合わせた。倦きも倦かれもせぬ仲だ。物もいえず、ただ泣くばかり。約束の時間は早やすぎて、無情にも女はひったてられた。その日から女は吉宗の寵愛を受けたが、ついに子供は産まなかった。  その後、吉宗は江戸郊外の小菅《こすげ》へ鷹狩りにでた。そのとき警備の伊奈半左衛門が平伏しているのを見、かたわらへいって吉宗は声をかけた。 「その後、あの者は堅固で勤めおるか。よく目をかけてやれ」  もちろん例の手代のことだ。お声がかりというわけで、即日、二百石の加増があったという。『耳袋』には事件の年月がない。吉宗と伊奈半左衛門のほか、関係者の名も書かれてない。著者はもと町奉行だ。とても名を出せるものではない。時と名のないところに、かえって真実性がある。  吉宗の豊富な醜聞の中で、ひときわすさまじいのが綱吉将軍の養女、竹姫との関係である。竹姫は綱吉晩年の寵妾、大典侍《おおすけ》の姪である。綱吉の養女として、はじめ会津の松平、つぎに有栖川《ありすがわ》宮と婚約ができながら、いずれも相手に若死されて果せなかった。そのため竹姫は、綱吉、家宣、家継の三代二十年間を、江戸城の一隅でさびしくすごした。そのゆかず後家の竹姫に、これまた親切がすぎて手を出したのである。綱吉の養女だから、血のつながりはないが、大叔母にあたる。どうも倫理上よろしくない。結局、竹姫は薩摩藩主島津継豊におしつけたが、この縁組には島津から、さんざん条件をつけられた。子供が産れても島津家をつがせないなど、ずいぶんばかにした条件である。それでもよいとして輿入れした。吉宗と竹姫の醜関係が、当時そうとう知られていた証拠である。中興の名主と仰がれ、お表では謹厳・精励な吉宗が、どうして女となるとこうもだらしなくなるのか! それとこれとは別物で、これが現実主義、実利主義の極致かも知れない。吉宗は、よく働き、よく遊んだということか。 [繁栄の果ての智泉院事件]  さて大奥法度の制定で、江戸城大奥は内容もまた整った。あっぱれ将軍家の家庭となった。つづいて大奥の繁栄時代となる。繁栄とは大奥権力の拡張と、女人国らしい贅沢三昧であった。倹約令がでても、黒船の来航があっても、これ以後大奥だけは花咲き、鳥歌う別世界となった。  年代はちょっと飛ぶが、十一代|家斉《いえなり》の大奥にその繁栄ぶりを見よう。  家斉は一橋|治済《はるさだ》の子で、天明元年(一七八一)将軍家治の養子となり、同六年家治の死によって将軍となった。時に十四歳。したがって、はじめは松平定信を老中上座として政務をとらせた。定信は謹厳にして人格は高潔、そのうえ情熱をかたむけて革新政治を行なった。すなわち寛政改革である。その成果はよく知られている。が、定信は同時に大奥へも、改革の一環として節約を命じた。  いっさいの無駄をはぶき、従来の総経費を三分の一に減らすこと。そのためには、例えば文箱の紐は切り詰めて、結ぶだけの長さに統一した。それまでは立って畳へつくほど長いものだった。長いので、どんなに優雅に見えたことか。それを、容赦もなく切り詰めてどこに生活のうるおいがある? 重箱の隅をほじくるような干渉に、定信はたちまち反感を買った。  そうでなくても、定信が老中になったとき、ちょっとしたトラブルがあった。御年寄大崎が、「ご同役」といったのを定信はとがめた。御年寄は老中格ではあるが、厳密には同役ではない。が、とたんに大崎は開き直った。 「従来のならわしでご同役と呼んでいますのじゃ。今さらそれをあれこれいわれるなら、とてもお役はつとまりません」  そしてさっさと辞職してしまった。大奥の我ままは、それほどひどくなっていた。  定信の努力にもかかわらず、改革は表面だけにとどまり、二百年間つもりつもった封建社会のひずみを、とても正すことはできなかった。寛政五年(一七九三)、定信は隠退して家斉の親政時代となる。その退陣に、大奥の暗躍があったこともちろんである。  家斉は在職五十年、かつてない江戸の繁栄を招いた。謹厳な定信のあとに出て来たのは、正反対の水野|忠成《ただあきら》である。思うまま情実政治と放漫財政をとり、収支のつぐなわぬところは貨幣の改鋳でつじつまを合せた。通貨が膨張してうわべだけは景気がいい。破綻ふくみの繁栄だが、幸い家斉在職中は別条がなかったということである。天保八年(一八三七)四月、将軍職を家慶《いえよし》にゆずっても、なお大御所として四年間も政務を見た。これほど永い在職も他にないし、在職中、太政大臣になったのも前代未聞である。  おなじ繁栄に大奥も賑わっていた。おかしな話だが、こっちは金や官位ではなく、側室と子供のインフレで大賑わいだった。  家斉はこの道の強者として、一妻二十二妾、子供の数は五十四人とされている。二十二妾とはわかっているだけの数で、ちょっと手をつけたのを合わせると四十人、それ以上ともいうが、事の性質上はっきりとはわからない。側室と、出来のよくない子供についてはくどくどのべてもはじまらぬ。よってここでは省略した。  ところで、この側室の身もとだが、子を産んだ十六人のうち、十五人までが旗本の娘である。  つぎの通り。 [#ここから1字下げ] お満の方  納戸役頭取平塚伊賀守為喜の娘 お羅久の方 小姓組押田藤次郎敏勝の娘 真徳院   小姓組水野権十郎忠芳の娘 お宇多の方 小普請組水野内蔵丞忠直の娘 お志賀の方 大番組頭能勢市兵衛頼能の娘 お利尾の方 書院番朝比奈舎人矩春の娘 お登勢の方 小普請組梶久三郎勝俊の娘 お蝶の方  西丸御番組曽根弥三郎重辰の娘 お以登の方 奥祐筆組頭高木新三郎広充の娘 お袖の方  御船手頭吉江左門政福の娘 お八重の方 小普請組土屋忠兵衛知光の養女、実は清水家の家来牧野多門忠勝の娘 お美尾の方 小姓組木村七右衛門重勇の娘 お屋知の方 新御番大岩庄兵衛盛英の娘(お木曽とも) お八百の方 西丸御納戸役阿部九右衛門正房の娘 お瑠璃の方 小姓組戸田四郎右衛門政方の娘 [#ここで字下げ終わり]  このほかに、ただひとり変り種がいる。お美代の方だ。これが何と、坊主の娘なのである。  めずらしいことだ。家康がお手本を示したように、歴代の将軍はお行儀が悪かった。直訴に来た後家さんに手を出したり、お湯殿で直接行動に出たりした。そのため鋳掛屋の後家さんだったり、黒鍬者の娘だったり、まことに素性の怪しい者が多かった。  ところが、家斉は揃いも揃って旗本の娘から側室を選んでいる。しかも、旗本といっても相当なところばかりだ。納戸役頭取といえば七百石、大番組頭も六百石クラス。小姓組、納戸役の娘が多いのは、側近にいる役目だから召出される機会が多かったのであろう。書院番、新御番なども、旗本の中堅どころである。形だけ公家の養女にしたなど一人もない。  徳川将軍の大奥はこれが本当であろう。家康以来、皇族または公家の娘を御台所に迎えたのは、高貴の血をとり入れ、田舎大名の出をカムフラージユしようとしたからだ。また将軍家は諸大名より一段上の存在で、かれらの娘を娶《めと》ることができないのも理由の一つだった。一面、姻戚として威張られるのを警戒するためでもあった。  一体、将軍は女ひでりではあるまいし、賎しい女の摘み喰いなどすべきではないのだ。手近に譜代の家来たちがおり、武家育ちの娘こそ将軍の子を産むにふさわしかった。  彼女らはお家大事の忠誠心に燃えている。武士の娘のほこりがあった。老中上座の松平定信に対しても、楯つくほどの気概を持っていた。  その忠誠やほこりから、家斉の大奥では従来のような寵愛争いは起きていない。それぞれ将軍の子種を宿して、忠実に産み落しているという感が深い。揃いも揃って側室が、こうまで多産なのも今までにないことである。公家や町家のむすめとはまるで違う。  ところが、その意味でただひとりの異端者がある。破戒坊主の娘のお美代の方である。お美代は生来の美貌と才知に物をいわせ、旗本の娘を圧して孔雀のように大奥に羽ばたいた。極盛期の大奥は、このお美代によって代表される。彼女を中心にのべることになる。  お美代は本丸御小納戸頭取、中野清武の養女、実は内藤|就相《すけなり》の娘となっている。が、この内藤就相というのも怪しく、「実は」がもう一度ついて、ほんとは下総《しもうさ》国中山法華経寺の寺内にあった日蓮宗智泉院の住職日啓のむすめである。  日啓は若いころ、牛込七軒町にあった仏性寺の役僧をつとめたことがあった。そのころ彼は美貌を種に、檀家の女をたぶらかし、産ませた子が四人もあった。お美代はその三番目の子である。  仏性寺の檀家に、お小姓の中野清武がいて、その頃からの知り合いである。美しく育ったお美代を、腹に一物の日啓は、神田昌平橋内の中野家へ奉公に入れた。美貌で釣ってためにしようとの魂胆である。案の定、清武はすぐお美代に眼をつけ、妾にした。  清武はお小姓中でも、特に厚い信任を受けていた。永遠に君寵をつなぎとめるため、お美代を利用することを考えついた。自分の妾でありながら、養女として大奥へ入れたのである。  眼尻の下った家斉は、すぐお美代に手をつけた。文化七年(一八一〇)、お美代はお手付中臈となり、家斉のただならぬ寵愛を受けるようになった。お美代は文化十年、家斉の第三十五子|溶《よう》姫を産み、同十四年には四十一子の末姫を産んだ。溶姫は後に加賀百万石の前田斉泰に嫁し、末姫は広島四十三万石の浅野斉賢の嗣子勝吉のもとへ嫁いだ。  お美代への寵愛は加わるばかりだ。それにつれて中野清武も出世した。お手付中臈になったときお小納戸頭、文化十年には新御番格二千石とわずか五、六年で三百石から二千石に加増、この分ではどこまで出世するか知れない。だが、利口な清武は寵臣の末路を知っていた。ぶざまな転落はたまらない。早くも天保のはじめ、隠居を願い出て枢要な地位から退いた。あとは隅田川のほとりに居を構え、碩翁《せきおう》と号して風流三昧の暮らしをした。  だが、お美代を通じて将軍を動かすことができるので、自然に隠然たる勢力ができた。猟官運動に、出世の手づるに、音物《いんもつ》を持って訪れる大名・旗本が多かった。碩翁は莫大なその贈物で、贅沢三昧の日を送った。  養父の碩翁さえその通り、まして実父日啓への余慶は大したものだった。日啓は智泉院を、将軍家の祈祷所にしようと考えた。が、この寺は下総中山法華経寺の子院。本寺を飛びこえることができないので、法華経寺を祈祷所にして智泉院はその取扱所という、持って廻った方法で、とにかく智泉院のお護札《まもりふだ》を将軍家へさし出せるようにした。お美代のいうことなら、将軍はどんなむりでも通した。将軍家の御祈祷所ともなれば、寺の収入はまるでちがう。それに、大奥女中の信心を集めることができた。江戸から七里の道を遠しとせず、高級女中は駕籠をとばして、祈祷を頼みに智泉院を訪れた。  日啓はそれら女中衆に取り入って、ひとつの野心を実現しようとした。すなわち、当時両山といった寛永寺、増上寺の菩提所《ぼだいしょ》に並んで、日蓮宗の菩提所をこしらえてそこへ坐りこもうというのだ。これは坊主にとって、最高の野心だった。お美代を動かすと共に、参詣の奥女中に最大のサービスをした。もともと破戒坊主の日啓だし、相手が欲求不満の大奥女中だったので、庫裡《くり》で罰当りな行為におよんだ。それは二人や三人ではない。大奥女中はこの事件で大変な醜聞の種をまいた。  坊主と奥女中の桃色事件は、これより三十五年前の享和三年、延命院事件というのがある。美男住職の日潤が、御殿女中を相手にけしからぬ祈祷をし、孕ませて死刑になった事件である。が、その時は大奥女中より、諸大名の奥女中や町家の女が多かった。智泉院事件のように、大奥女中専門ではない。智泉院の場合、日啓とその子の日量、さらに孫の日尚に及ぶ三代にわたる桃色事件である。なぜ摘発できなかったか。お美代の寵愛が深く、寺社奉行もうかつに手出しをできなかったのである。  家斉は天保八年(一八三七)四月、隠居して大御所となったが、なお強い発言力があって、手を下せぬ。同十二年正月に死んでから、はじめて水野忠邦が天保改革の一環として寺社奉行にその剔抉《てっけつ》を命じた。時の寺社奉行阿部正弘は、ことがことだけに慎重に、ひそかに取り調べをはじめた。吟味をうけた者は大奥の高級女中で三十名を越えた。阿部正弘の内申には、つぎのように大奥の幹部どころの名がつらねてあった。 [#ここから1字下げ] 家斉付老女   伊佐野、野村、滝山 同御客|会釈《あしらい》   花沢 同|表使《おもてづかい》     岩井、滝沢 同お手付中臈  てう、るり、いと、八重 同御次頭    勝井 同祐筆     とう 御伽《おとぎ》坊主    長栄 家斉夫人付老女 花崎 同御客会釈   染岡、波江 同中臈頭    ます浦 同中臈     島沢、杉岡 同祐筆頭    山村 本丸老女    瀬山、浜岡 同御客会釈   志賀山 同祐筆頭    浜田 同表使     島田 同中臈     美代 同御伽坊主   栄嘉 [#ここで字下げ終わり]  これだけ揃えばみごとなものだ。  ほかに連絡係をつとめた者に、お美代の方召使のひわ、勝井召使のくに、志賀山召使のでんなどがいた。  また付録として、他家へ嫁いだ姫付の女中も、疑いありとして取調べを受けた。  水戸家へ嫁した峯姫づき老女久米浦  越前家へ嫁した浅姫づき老女深村  加賀前田家へ嫁した溶姫づき老女染山  これらの老女たちも、大奥にいるときから日啓の熱心なファンであった。  この事件はずいぶん長期にわたり、表使の岩井の如き、すでに三十年もまえに死んでいるし、ほかにも病死、退職者があった。  やがて一件の吟味がおわり、阿部正弘はその全容をつかんだ。坊主と淫楽にふけったさまがよくわかった。大奥のみだれは、欲求不満の不自然な生活にはじまる。とことんまで捜査を進めると、とんでもないところへ飛火して、大奥の醜態を世間にさらすことになる。臭いものにはふたで、阿部正弘は大奥からひとりも罪人を出さぬことにして幕閣の諒解を得た。大奥女中の数の上では、はるかに絵島事件の上をゆくのに、ついに一人の犠牲者も出さなかった。ただ、日啓親子が召捕えられたとき、家斉夫人広大院の御用人山口日向守、広敷番頭稲田八郎左衛門が、急に病気を理由にお役ご免を願い、聞きとどけられたことがある。引責辞職である。奥向役人の犠牲はこのふたり以外には出ず、黒い噂の女中たちも、追々病気を理由に退職した。  幸か不幸か、主犯の日啓とその子日量は遠島を申し渡されたが、刑の執行のまえに牢死した。残るは日尚だけ、阿部正弘はこの日尚に、船橋の旅籠で女中を犯したという、妙にこじつけた女犯《にょぼん》の罪で晒《さらし》刑にしただけである。  さて、お美代はどうなったか。家斉の死や智泉院事件で後楯を失ったが、それくらいのことでは参らず、溶《よう》姫の生んだ犬千代を前田家から迎え、家慶を排して将軍職につけようとした。きわめて大胆な陰謀だったが、相続問題はしばしば例挙したのでここでは繰返すまい。それより大奥の繁昌を語るため、おびただしい子女の処置問題をとりあげておこう。 [五十四子と大奥女人数]  家斉の侍妾は五十四人の子を産んだ。ほかに流産が七回あり、堕胎もまた少なくないと思われる。  寛政元年の十七歳から、文政十年の五十五歳まで、三十九年間に、子供の出生しなかった年は七度、子供二人の年も七度、三人が五度、四人の年さえ一度ある。あとは毎年一人ずつ生れ、家斉の年齢とおなじ数になった。つまり家斉は生れた時から毎年一人ずつ子を持ったことになる。内男子二十七人、女子二十七人である。  こう多産では粗製濫造の傾向はまぬかれず、長子竹千代が寛政四年七月に生れて、翌年六月に死んだのをはじめとして、ずいぶん多くの子が早死している。婚期まで成人した者は約半数の二十八人、その中でさえ四人も早世している。しかも大人になった者も、家慶をはじめどれもこれも凡庸か、多少頭の弱い者もいた。  問題はその子女を、どう片づけるかであった。将軍の姫を迎えては、御主殿といって別に御殿を建てねばならず、そのかかりが大変だ。あまり利口でない男子をもらっても同じこと。それにどの藩も、財政難で青息吐息の時期であった。諸大名はノーサンキューといいたいところ。さて、どこへおっつけるか? 家斉の中年以降、そのことが老中たちの悩みの種であった。将軍の子供だからあまり貧弱な大名では困る。貰ってくれたら、親戚のシンボル松平の称号をやるとか、持参金をつけるとか好条件を出してみた。が、てんで売れゆきはよくない。 「上意じゃ。ありがたくお受けせよ」  としまいにはむりに押しつけた。  尾州家はその被害第一号であった。家斉は尾州大納言宗睦の嗣子五郎太へ、第一子の淑《ひで》姫を嫁がせることにした。ところが寛政六年九月五郎太が死んだので婚約は解消。しかし宗睦にはほかに男子がなかったので、第六子の敬《たか》之助(二歳)を押しつけた。尾州家は他に候補者もあったのだが、我慢してお受けするとこの敬之助もすぐ死んだ。  淑姫はその前年一橋の《やす》千代に嫁いでいた。が、敬之助の死と共に、この千代夫妻をそっくり尾州へ入れた。しかも淑《ひで》子に出産の見込みがないというと、すかさず四十六子の斉温《なりよし》をかれらの養子にする。その斉温には、田安家の愛姫をめあわせようときめたとこで斉温が死んだ。……その頃、二十九子の斉壮《なりたけ》は田安家へ養子にいっていたが、男子の出生があってはみ出たため、斉温のあと釜へさしむけたのはよいが、ついでのことに田安家の猶《さね》姫とカップルにしてゆかせるなど、もう手当り次第である。  尾州家の血統はこのためめちゃくちゃになり、家臣の中には憤慨する者もいたが、相手が将軍だけに泣き寝入りしかなかった。  また、二十子の浅姫は越前福井の松平|斉承《なりつぐ》に嫁した。幸い浅姫は美しかったし、二万石の加増もあった。そのうえ長子於義丸が生れて、結構ずくめの縁組みに思えたのだが……その長子於義丸が早世したとたん、押しつけ養子がはじまった。貰えというのは四十九子の斉善《なりよし》だが、やっかいなことに半ば盲目なのである。夫妻はまだ若いし、子供はいくらでも生れるのに、お構いなしに押しつけて来るのだ。  気の毒なのは佐賀の鍋島家である。鍋島斉直の嫡子斉正へ、三十一子の盛姫が縁付いた。年額三千両と百俵のお化粧料がつく。それだけあれば、どうにか……と思っていたところ、大奥からどうのこうの注文をつけて来る。大奥の指示のとおり御主殿を作ったところ、莫大な建築費がかかった。このため参勤道中の金がなくなり、殿様は仮病を使って引籠ったほどである。  言い落してならぬことがある。嫁に来るといっても、下々のようにひとりでやって来るのではない。姫つきの上臈年寄から、お半下《はした》に至るまで、一部隊をひきいて来るのだ。尾州家へ嫁いだ淑《ひで》姫の場合をみよう。御用人以下の男子を除いても左のとおり。 [#ここから1字下げ] 大上臈一人  小上臈一人 御介添二人  御年寄二人 中年寄三人  御中臈頭一人 御中臈八人  御小姓一人 表使三人   御祐筆三人 御次六人   呉服の間五人 御三の間七人 御末頭《おすえがしら》二人 御仲居三人  御使番三人 小間使三人  御半下《おはした》十七人        計七十一人 [#ここで字下げ終わり]  これでは大奥の将軍づき、御台所づきの編成とそう変らない。ひと通りの役どころが、そろってついて来たのである。しかもこの人数で、ああだ、こうだと大奥風をふかすからたまらない。尾州家はまだ親藩だからいいが、これが外様の加賀藩ともなると大変だった。  本郷の加賀屋敷へついていったのは、大上臈から小間使までは尾州の場合と同じ編成、おなじ人数。ただ御半下ばかりは二十人で三人多く、したがって総人数は七十四人となった。そのほか男の御用人二人、御用達一人、侍八人、御医師一人がついていった。  おもしろいのは輿入れのとき、お付の女中たちに老中から諭告書の如きものを賜わった。 「姫君様のお為を第一に思い、加賀守についても疎略に思ってはならぬ」  という趣旨。ところがこれをいいことに、何もかも姫君本位に考え、盛んに将軍家の威光を振りまわした。溶《よう》姫の夫の加賀守斉泰を、お付の女中が、「加賀守……加賀守……」というのを聞き、こともあろうに溶姫が、 「それは、身の殿のことをいうのか?」  と聞いたという話がある。  また、女中の誰ひとり殿の草履を直さなかったので、溶姫手ずから直したという話もある。  それもこれも、旗本の娘ばかりなので、諸侯を一段ひくく見たせいである。  さて、尾州、加賀のお付女中が、ほぼ同数であることから、姫つきの人員を想像することができる。尾州も加賀もAクラス大名、他はそれよりも少ないとみても、やはり御年寄以下の諸役はそろえていったと思われる。諸大名へ嫁した姫君は十三人いる。仮に一人につき五十人の付人として、総員六百五十人となる。江戸城大奥から、嫁入りのためこれだけの女中を送り出したわけだ。  さて、大奥の総女中数はどれほどか。これはまだ、手をつけられていない研究課題である。年代によっていちじるしく違うし、部屋子《へやご》を入れた数は実際に調べようがあるまい。  家斉が大御所になってからの天保九年(一八三八)、その年の総数は八百八十五人だったと記録にある。そのうち六百六人が大御所とその夫人に、二百七十九人が将軍とその夫人に仕えていた。しかし、この数字には又者《またもの》の部屋子は入っていない。天保九年といえば家斉の娘たちもほとんど片づいて、末子の恭《やす》姫ひとりが残っているくらいのもの。女中の人数もいちばん少なかった時ではあるまいか。 『徳川実紀』には家光の死後、大奥の女中三千七百余人に暇を出したとある。そのうち、薙髪《ちはつ》して尼になった者は百余人ともある。家光は在職二十八年、四十八歳で死んだのだから、大奥を賑わしたことは事実であろう。その死と共に西の丸から世子家綱が入って奥女中は交代した。だから退職した女中は多かったにちがいないが、三千七百人は多すぎるようだ。家光に重みをつけるため、オーバーになったのではなかろうか。  今日もっとも信用できるのは、三田村|鳶魚《えんぎょ》『御殿女中』の数字である。『清華閣雑編《せいかかくざっぺん》』から引いたもので、要約すればつぎの数字となる。 弘化三年の大奥総員 本丸女中(家慶在住)  上臈年寄上座御中臈二人  上臈年寄二人   小上臈一人  御年寄三人    御客|会釈《あしらい》四人  同格上座中臈一人 同格(同上)四人  御中臈八人    御錠口四人  表使七人     同格御祐筆頭二人  表使格過人一人  御次頭一人    御祐筆六人  同介一人     御錠口介三人  御次二十人    切手書三人  呉服の間頭一人  御広座敷頭一人  御三の間頭一人  御伽坊主五人  呉服の間十一人  同過人五人  同格盲女一人   御次過人八人  御広座敷十二人  御三の間十二人  同過人九人    御末頭一人  使番頭二人    御仲居五人  同介三人     同過人二人  同格使番頭一人  同格使番一人  火の番十五人   同格一人  御仲居過人二人  御茶の間過人一人  使番十一人    同過人十二人  御半下四十六人  同過人十二人           計二百五十四人  右のうち過人というのは定員外のこと、盲女というのは按摩のことである。また上臈年寄上座御中臈というのは、世子生母など格別な中臈、御客会釈格上座中臈というのも、一段下ではあるが、特に寵愛ふかい側室である。  弘化三年の大奥といえば、本丸に十二代|家慶《いえよし》将軍、西の丸に世子家定がいた。しかし御台所楽宮が天保十一年正月に亡くなったあとなので、高級女中は定例より減じていたと思われる。 西の丸女中(家定在住)  上臈年寄二人   御年寄二人  御客会釈六人   御中臈五人  御錠口三人    表使三人  同介一人     御祐筆三人  御錠口介二人   御次八人  切手書二人    呉服の間頭一人  御三の間頭一人  御伽坊主三人  呉服の間六人   御広座敷四人  御三の間七人   御末頭一人  同格使番頭一人  御仲居五人  火の番九人    使番十人  御半下二十六人  元御末頭格使番頭隠居一人           計百十二人 同御簾中様(家定夫人)付女中  上臈年寄一人   御年寄二人  小上臈一人    中年寄三人  御中臈頭一人   御中臈六人  御小姓二人    表使二人  御祐筆三人    御次六人  御末頭一人    御仲居三人  同格御茶の間一人 使番二人  御半下十三人           計四十七人  その他に、所属以外の者がいて、本丸、西の丸を合わせて総数四百六十九人である。もちろん部屋方など、又者の入らない数字である。  この数字だけでは冒険だが、幸い今ひとつ慶応元年(一八六五)の記録がある。それによれば、女中の総数は四百十一人で、弘化三年に比べて五十八人減少していることになる。  慶応元年も家茂将軍夫妻のほか、天璋院(家定夫人)、本寿院(家定生母)、実成院(家茂生母)などがいて、スタンダードな形ではないが、この二つの記録によって、やや大奥の規模を知ることができる。すなわち同数の部屋子がいたとすれば、八百人から一千人位、二倍の部屋子がいたとすれば、千二百人から千四百人位ではなかったろうか。  一説には女中の総数を一万五千人といい、一日に七十石の米を喰いつぶすなどという。ルイ十六世の王宮でも、職員の数は四千人だったという。一万五千人は信じられないし、「大奥の美女三千人」というのも、中国式の口調だけのものではあるまいか。  どうも大奥のこととなると、とかく大げさに伝わりやすい。将軍夫妻の召上る米は一日に一升五合だが、その実五合にも当たらない。黒革同心という下級役人が、一粒選りに形のいい米粒を選り分けて用い、あとは役得にするのだとか、女中でもいちど足にふれた足袋は、二度と用いて奥へ出ない。そのため日に何十足もはき替えるとか、百目蝋燭《ひゃくめろうそく》は一寸も燃えるとすぐ取り替えるとか、無意味な僣上沙汰も伝っている。果して本当か。はじめに書いたように、責任ある高級女中の責任ある談を、正確に伝えたかどうか、今では確めるよすがはない。  ただ、回想記の名著『名ごりのゆめ』の中に、現実感あふれる大奥の描写がある。著者は蘭方医の名家桂川|甫周《ほしゅう》の娘今泉みね。医者だけは男でも大奥へ参入することができた。御典医だった父甫周が、将軍|家茂《いえもち》と大奥で戯れるさまがよく出ている。その個所を引用させて頂くとしよう。 [#ここから1字下げ]  お正月を迎える毎に忘れられず、心にうかんで来ますのは、お屏風のあそびの事でございます。  なんでもお城の表と大奥とは、何かにつけ大分にちがうそうですが、大奥も大奥、これは近侍の者、殊に奥医師たちに限られたものでございましたとやら。何か古事から出た吉例《きちれい》ででもあったのかと思いますが、まるで子供のようなあそびが始まります。どういうわけかわかりませんが、幼心にただ面白く父から聞いて居りましたとおりを申し上げます。  公方様の御前。二双か三双の金屏風にぐるりと囲まれて、その中へ坊主あたまの御典医たちがくじをひいて一人ずつはいります。この中には、京都から薄墨の綸旨《りんじ》を頂いて、法印とか法眼《ほうげん》に任ぜられていまして、平素は鋲《びょう》うちの≪ろ色≫のお駕籠で登城する身分の高い人達も居ります。  さてお屏風のなかでは外から何がとび込んできますやら、坊主あたまを気にしながらも、かしこまって居りますと、「御用意はよろしいか、そら、まいりますぞ」とのこえと一緒に、それでもはじめはお褥《しとね》や御|時服《じふく》のような柔かなものがほうりこまれますので、早速頂戴、頭へ被って次の心がまえをして居りますと、ズシーンバターン、そらお机、お文庫、御用たんす、お硯筆《けんぴつ》やら花瓶やら、お火鉢に、掛軸、一しきり次から次と降るようでございます。「もうよいか、まだか」とおそばから公方さまのお声、もう品物はお屏風の上にまでもとどきそう。身の置き場所もないような中から、「まだ、まだ」と申し上げる者もありますし、二つか三つで「もう結構でございます。どうか御免を蒙ります」と申し上げる者やとりどりで、公方さまは始終御満足、カラカラとお笑いだそうでございます。  その折の品は全部拝領となりますそうですが、誰もそんなことを最初から考えに入れて居るものもなく、その様子のおかしさやなんかで大笑いだということでございます。 [#ここで字下げ終わり]  流暢《りゅうちょう》で品格のある談に、のどかな大奥のさまが眼前に浮かぶよう。これこそ大奥の真実だと思う。 [#改ページ]   五 大名の奥御殿 [奥向の規模と会津騒動]  大名というのは、江戸時代では一万石以上の領主をいう。一万石以下は旗本、さらに二百石以下は御家人という。  大名の方は、一万石以上十万石までが小大名、十万石以上は大大名と言い分けた。  殿様というのは、小大名ならびに旗本で、大大名になると太守様、またはお屋形《やかた》様といった。  大名の数は時代によって多少のちがいはある。が、だいたい二百六十家から二百七十家あり、口調がよいので一口に「三百大名」という。徳川時代も、正確には二百六十年だが、やはり口調がいいので「徳川三百年」というのと、偶然にも数が一致している。  ところで、その三百年の泰平つづきに、創業の辛苦を知らぬ二世三世が、だんだん贅沢になり、無気力になった。やがて大名という語は、よくいえば「鷹揚《おうよう》」、悪くいえば、「薄ぼんやり」の代名詞になった。けたはずれの贅沢について「大名旅行」「大名暮らし」など、現代にもなお生きている言葉がある。  この大名の奥御殿も、やはり秘密のヴェールに包まれて、世の好奇心の対象となったこと江戸城大奥と変らない。しかもこちらは数が多く、バラエティに富むため臆測も飛躍しがちであった。大奥と同じ順序で、大名の奥御殿を語ろう。  さきにのべた、大名時代の家康の奥向は、そのまま他の大名の奥御殿だった。戦争本位に造られた城内では、表奥の境目も割合に自由で、特に籠城のばあい女が男にたちまじって弾丸はこびなどをするさまが、『おあむ物語』に見られる。  江戸に幕府ができ、徳川家に臣従してからの諸大名は、そっくり将軍家のまねをした。城の構造も職制も、将軍家を小型にしたようなものである。大番頭《おおばんがしら》・目付・使番《つかいばん》など、職名も三百大名を通じて同じものが多い。  そっくりまねをしたのだ。その方が無難で、あまり新機軸を見せたりすると幕府に睨《にら》まれるため避けたのだ。それでは幕府と区別がつかぬので、幕府の方は原則的に「御」の字を上につけて呼んだ。たとえば御目付、御使番……大番だけはまん中にはさんで「大御番」といった。大名家では目付、使番である。  ともあれ、そんな消極的な理由で、奥向の構造も、職制も、江戸城大奥を小型に縮めたと思えばまちがいない。ただ、禄高や家風によって、少しずつの相違はある。色合や習慣となれば、三百大名は三百色ということもできよう。ただ、基本的に幕府をまねたという意味である。  たとえば中奥《なかおく》である。大大名は江戸城にまねて中奥を作ったが、小大名は規模の上で成り立たず、たいていは省略した。中奥のある大名でも、幕府への遠慮から広敷と称したり、奥向に付属させて女がいる場合もあった。  表と奥の境目は、やはりお錠口《じょうぐち》があり、殿様の奥入りには小姓と小納戸役がそこまで送って来る。そしてお錠口の鈴を鳴らして合図する。すると奥から老女と表使《おもてづかい》が迎えに来て、殿様のひき渡しがおこなわれる。  刀は小姓が捧げて来て、ここで表使に渡されるのだが、そのとき小姓と表使の手が、ちょっとでもふれたら謹慎を命じられた。また、小姓の足先が、一寸《いっすん》でも奥向へ踏みこんだら、それこそ一大事であった。謹慎どころか悪くすると命にかかわる。みんなこの境界線にはびくびくものだったという。  いっさい男子禁制。女ばかりで男のかけらもいない……この表奥の区分が厳重すぎて、武家屋敷の警備に真空地帯のようなものができた。大きな矛盾である。そこをつけ目に、大名屋敷専門に荒らしたのが鼠小僧で、その泥棒哲学に、大名屋敷の構造やその弱点をよく見ることができる。  鼠小僧は本名次郎吉、堺町中村勘三郎座の木戸番定七(或は貞次郎)の長男で、寛政七年(一七九五)大坂町で生れた。三人兄妹で、妹の≪この次《じ》≫は幼少のころから加州侯の奥に仕えていた。  次郎吉ははじめ建具師、つぎに鳶《とび》人足になったが、博奕《ばくち》が好きで勘当になり、文政五、六年(一八二二〜二三)から泥棒をはじめた。はじめ大したことはなかったが、大名屋敷が案外入りやすく、獲物の多いのを発見してから荒稼ぎをするようになった。  たびたび住居を変え、女房を変えてカムフラージュをした。一度つかまりながら巧妙に言いのがれた。ざっと十年間、大名屋敷を専門に荒らしつづけた。天保三年(一八三二)五月八日浜町の松平宮内少輔の屋敷へ侵入、殿様の寝所まぢかく忍び寄ったとき、一人の腰元が目をさまして殿に告げた。近習の侍が起きだし、まったく無造作にふんづかまった。大名屋敷は町奉行の手が及ばない。そこで門外へ突き出し、門前に北町奉行所の捕方が待ち受けていて捕えた。  調べによると、侵入した大名屋敷は百カ所以上、金額はおよそ一万二千両にのぼるが、いちいち記憶していないという。  入ったのは井伊|掃部頭《かもんのかみ》をはじめ、老中・若年寄・尾州家など三家三卿のほか大小名の屋敷は総なめだった。ただ、加州家の奥向だけは妹の奉公先だけに遠慮して入らなかった。  なぜ大名屋敷へばかり入ったかについて、次郎吉はこう説明した—— 「大名屋敷は外見がきびしいばかりで、いったん潜入すれば警戒はきわめてゆるい。ことに奥向、長局となれば、番士も遠慮して入らないから、万一みつかっても逃げやすい。自分は鳶職をやったから、高い場所は歩きなれていて、塀を乗り越えるぐらい何でもない。それにくらべ町家は油断なく戸締りをするし、盗難の用心もゆき届いていて入りにくい。それで大名屋敷専門に入ったのだ」と答えた。鼠小僧は義賊で、盗んだ金を貧民に与えたなどは嘘だ。ただ、大名屋敷専門で町家へ入らなかったことで人気があったにすぎない。  鼠小僧に懲り、大名邸ではその後警戒をきびしくしたかと思うとそうでもない。ひきつづき、稲葉小僧、葵《あおい》小僧が出てちょっとした小僧ブームを起した。最後の小鼠小僧は弘化四年(一八四七)の処刑だから、幕末にいたるまで大名屋敷は荒されっぱなしだったわけだ。その小鼠小僧のことばにある。 「武士は領地もあり家来もいて、何事があっても食いはぐれない。だから泥棒に入られたぐらいで、騒いで体面を汚したくない。怪我をするのも恥になる。それで、番士にみつかっても、見て見ぬふりをする。ゆっくり仕事をして塀外へ出たじぶん、やっと騒ぎだすというあんばいだ。それから見ると町人は、自分で稼いだ金だから、命を捨てても守ろうとする。泥棒に入るには、大名屋敷にかぎるのだ」  このことばに、大名屋敷の欠陥がよく言い尽されている。かりに騒ぎになっても、男子禁制をいいことに番士はすぐ駈けつけなかった。まさに泥棒天国なのだ。奥向や長局の制度が変らぬかぎり、警備の真空地帯だったといえる。  さて大名の住居はすべて画然と表奥に分れていた。さらにその奥向が、御殿向、御広敷向、長局と大きく三つのグループに分れていたことも、江戸城大奥とまったく同じである。御殿向は奥方の居間、寝所、化粧の間、仏間などであり、御広敷は奥向の事務所、長局は奥女中の寄宿舎であった。  信州|松代《まつしろ》十万石、真田家の長局でも一の側、二の側、それに裏部屋という一側もあったという。一の側には住居が十五、六画もあって、御年寄や表使など高級女中が住んでいた。表局《おもてつぼね》ともいった。二の側には御祐筆、御次、御三の間などBクラスの女中がおり、一名|裏局《うらつぼね》ともいった。長局は二階建で、上下二室になっていた。  部屋は広い共同廊下と、御殿につづく出仕廊下にはさまれていた。両方の廊下に面する側は、障子になっている。部屋と部屋との仕切りは、入口の方が板戸、次が障子で、部屋子《へやご》(小間使い)がそこに住んでいる。用のある者は、板戸の前へ来て、 「お頼み申します。旦那様はおいでか」  と声をかける。部屋子がすぐ出てとりつぐというあんばいであった。各自の部屋の柱には、奉書を縦に長く切って、中の住人の名が書いてあった。  なお、大奥では各室にかまどがあって自炊したが、真田家では共同炊事で、御年寄はじめ弁当を使った。また大奥では、各住居ごとに風呂があったが、真田家では共同風呂で数人いっしょに入ったそうである。大奥にくらべだいぶ簡略にできている。  奥方はじめ大名家族の食事は、もちろん特別に御殿向のお台所でつくられた。お茶も菓子もすべてそうである。係の者が御年寄の指図でととのえ、毒味をしてからさしあげるのである。  毒味は御膳係が交代で勤めたり、大名家によっては高級女中の専務だったところもある。といっても形式的になりやすいから、二、三人の奥女中が組めば、毒を盛るぐらいは簡単にできた。お家騒動に置毒事件がつきものなのは、やはり奥向の制度や構造からきている。伊達騒動の芝居『伽羅先代萩《めいぼくせんだいはぎ》』で、政岡《まさおか》が千松を幼君の身代りとする場面は、たとえフィクションにせよ、当時ありがちな事件だったことを物語る。また加賀騒動では、本郷上屋敷の御広敷(奥御殿)で、二度まで茶釜の中に毒を入れた奇怪な事件が起っている。  代表的なのは会津騒動である。あらましをのべることが、奥向の規模を知るのに役立つかも知れない。  会津城主二十三万石、保科正之《ほしなまさゆき》は二代将軍の隠し子だったことは前にのべた。人となり謹厳で、学者としても一流であり、水戸黄門らとともに寛文の七聖人と仰がれた殿様であった。  ところが、この聖人殿様にも四人の側室があり、十四人の子を産ませているからそれとこれとは別物である。側室の名はお万・お富貴《ふき》・おしほ・沢井——  ところで、正室菊子が死ぬと、そのなかの一人お万の方を継室にしたのは、大名としては異列であった。正妻は主人であり、側室はあくまで家来なので、これを正妻に直すことは主従関係を乱すとして、道義の上から許されなかった。のちに(享保九年)幕府からその禁令が出たくらいである。よほどお万がお気に入りだったのだ。  お万は四男五女を産んだ。男の子が四人もあり、長子|正頼《まさより》は世子だし、女子の春子も名家上杉綱勝に嫁したのだから、何不足ない身分と思われる。  ところがお万はすごい焼餅やきで、他の側室が一から十まで気に入らない。なかでも側室おしほの子の松子姫に、前田|綱紀《つなのり》との婚約ができると我慢ができなかった。  なぜかといえば、自分の子の春子は米沢三十万石の上杉家へ嫁したのに、おしほの子の松子が百万石の前田家へ嫁ぐ。三十万石と百万石、その違いが憤懣の原因であった。お付老女の三好が、お万の方の焼餅を煽動した。松子のおめでたは、輿人れ前から呪われることになった。聖人といわれる保科正之も、色香に迷ってとんでもない女を奥方に直したものである。  焼餅の相手であるおしほの方は、もうこの世にはいないのである。十年ほど前、松子が四歳のとき病死している。それゆえ誕生の際からつけられた老女野村が、主従関係のほかに骨肉の情愛で松子に仕えていた。野村は「先代萩」の政岡みたいに、片時も離れずついていて、お万の方は手の下しようがない。  万治元年(一六五八)七月二十六日は黄道吉日とあって、いよいよこの日お輿入れときまった。その前日、米沢藩主上杉夫人の春子は、妹のめでたい門出を祝うため、芝三田の会津藩上屋敷を訪れた。姉妹はお暇《いとま》乞いのあいさつがあってから、お別れの宴に出たが、そのときお膳がまず妹松子姫の前に運ばれた。姉の春子の膳があと廻しである。松子づきの野村の頭に、怪しいぞとピンと来た。野村は進み出て言った。 「姉君よりお先に、膳については失礼でございましょう」  そして、自分の手で妹姫のまえの膳を姉姫にすすめたから、姉妹はそれぞれ膳をとり変えて食事を終った。松子は翌日、めでたく加賀百万石のお嫁さんとして輿入れした。  ところが、米沢藩邸へ帰った春子は、その晩から腹痛を訴え、二日三晩くるしみ通したあと、二十九日についに死んだ。いうまでもなく別宴の膳は毒入りであって、お万の方が老女三好と打合せ、毒の方を松子の前においたのだが、野村の機転ですり変えられたものである。  松子を殺すつもりの毒は春子に向けられた。お万の方は目分が盛った毒で、おのれの実子春子を殺してしまったのである。まことにどうも、出来すぎている話に思えるが、正真正銘のノンフィクションである。  殿様の保科正之は、春子の毒殺を聞いて大立腹、ただちに関係者十余人を斬罪に処した。ただ、張本人のお万の方は、正室でもあり世子正頼の生母でもある。罪人にはできず幽閉するにとどめたが、この厄介な婆さんは、死ぬまで他の側室を呪いつづけたという。 [奥向の職制と蛇責め浅尾]  奥女中の職制も、江戸城大奥に似ているが、諸家によって名称のちがうのもある。一般的なものを左にかかげる。 【御年寄】老女とも略称する。奥向の総取締で、表の家老に相当する。広島藩では江戸に四人、広島に二、三人いたという。 【中老】中臈と書く藩もあり、加賀、広島藩とも若年寄という。御年寄を助けて実務をとる奥向の中堅的存在。 【表使《おもてづかい》】これはどの藩でも同名である。お錠口へいって、表の役人と交渉する役。その時は杉戸の内外で、お杉戸をへだててかけ合った。そこまでゆけるのはこの役だけである。 【祐筆《ゆうひつ》】これは秘書官だが、広島藩では一種の権力があって、中老でも勝手に使うことができなかった。真田家では逆に、Bクラスの女中とされていた。 【御小姓】殿様の身のまわりの世話をする役。小姓といえば表なら男だが、奥向に男はいないから、別に女小姓と断らなくても女である。殿様の世話をする役目に変りはなく、大奥の御中臈に相当する。したがってお手のつく者もあり、そっちに縁のない「お清《きよ》の御小姓」もいた。御小姓が殿様の子を産むと「御腹様《おはらさま》」となり、それから中老に進む藩もあった。御小姓のことを加賀藩では元詰《もとづめ》、彦根藩では小将といった。小将は音に通わせたのだろうが、元詰とはすこし気になる名称ではある。また、飯田藩では中老がこのお小姓に当り、殿様の枕席にはべる中老と、そうではない「お清の中老」の別があった。阿波藩ではお手のついたのを「お汚れの女中」といった。 【御次】奥方の居間の、すぐ次の間の用事をする。この用はお側役の下働きで、お膳を運んだり鬢盥《びんだらい》に水をくんだりの類い。たいてい御次までお目見以上である。 【御三の間・呉服の間】お次の間のさらに次の間に勤務する女中。したがって身分は低く、お目見以下となる。呉服の間はふつう御三の間と兼務である。この役は殿様や奥方の着物を調製した。 【御末《おすえ》・火の番・御使番】身分はお目見以下で、奥向の実務にたずさわっている。十万石の真田家では三十人ほどいて、リーダーは御末頭といった。御末のなかに「火の番」という役があり、文字どおり火の元の見廻りをした。火の番はほかに警察事務も担当、ことが起ると犯人探索に活躍した。またお末の中に「御使番」という役があった。これは表使の下役で、外部とのいろいろな交渉に当った。 【御仲居・女六尺】御仲居というのは、御三の間の手伝いみたいなもの。献立を作ったり、台所と部屋の連絡に当ったりする。御末のなかでも古参の者がなったという。またこの名称は、大名家によっては部屋子ぜんたいにつけたところもある。さらに、お末の中から体格のよい者は、女六尺に選ばれた。これは女の駕籠かきだが、むろん外で担ぐのではなく、御殿内で担ぐのである。奥方も姫も、外出時には部屋から駕籠に乗ったまま出る。現代の奥方が車に乗るときのように、玄関まで歩いて出て乗るのではない。乗ったままの駕籠を、女六尺が玄関で男の六尺に渡すのである。ご帰館のおりも同じで、玄関で男六尺から受け取ると、そのまま女六尺がお部屋へ運びこんだのである。  これらの奥女中は、原則的には藩士の娘から採用する。が、江戸の藩邸ではなかなかそうもいかなかった。とくに御小姓や御末は藩に人がなく、民間から採用することが多かった。そのためあちこち渡り歩く、渡り小姓などという者ができた。  さて以上が、一般にどこの藩中にもあった役職である。奥向の仕事といえば、たいてい同じことだから、職名はちがっていてもほぼこういう分担でやっていたのである。  ところが、このほか大藩だけにしかない、別式女という妙な役があった。つぎにまとめてみよう。  別式女というのは、奥女中の武芸指南役である。姫君をはじめ、一般の女中たちに、薙刀《なぎなた》・小太刀・馬術などを教えた。別名を腰刀婦・帯剣女などといい、女ながら勇ましいいでたちなので格別の女、すなわち別式女となったのであろう。  そのいでたちは、眉を剃っても眉墨をつけず剃り跡を青々とさせ、おしろい気はなく、顔もいかつい者が多かった。着物は対丈《ついたけ》に着てひきずっていない。その上、いつも大小を差して歩くのだから、女ばかりの奥向ではまったく異風であった。  別式女は戦国時代からいたが、平和の到来で一時かげをひそめた。それが寛文ごろ(一六六一〜七二)、諸大名の奥向に軟弱の風がみなぎると、かえって反動として流行したのである。男では旗本|奴《やっこ》が威張ったように、伊達を競い武張った言動を尊ぶ風を生じ、実際に女中たちも竹刀打ちに熱中したものである。別式女が彼女らを相手に、ポンポンやるところは想像するさえ興味ぶかい。大藩には江戸屋敷内に馬場があったし、別式女の役目はなかなか重かった。  どれぐらいの人数がいたか。寛永・正保頃(一六二四〜四七)尾州が六人、水戸・長州が各三人、紀州・姫路・肥後・薩摩がそれぞれ四人いたという。そして加賀の別式女の名は、重野井・品岡・織部・りちの四人であったという。重野井、品岡、織部などは奥向でいう三字名で、御年寄・中老などとおなじ高級女中を意味する。が、りちはおの字名といって、一段下の御小姓、御次の格である。名前から判断すれば、別式女は案外地位の高い者が多かった。  ところで加賀騒動の浅尾もこの別式女であった。芝居や講談では浅尾がつかまるとき、捕手を投げとばしたり大暴れをするが、これは女ながら武芸指南役だったからである。実際の浅尾の行動によって、別式女を浮彫りにしたい。  そもそも加賀騒動は、江戸中期のお家騒動で、本筋は財政難から来た保守・革新の争いであった。それに相続問題がからんだもの。お家騒動としては典型的であり、ほかにも大名の奥向を知る材料が多い。  加賀百万石の六代藩主|吉徳《よしのり》は、名君のほまれ高く、いつも洗いざらしの着物を着て家来どもに範を垂れた。吉徳の正室は五代将軍綱吉の養女松姫だが、すっかり吉徳の感化を受け、贅沢を追放して琴・三味線もやめたほどである。  虚礼の廃止や事務の簡素化など、政治面でも見るべきものがあったが、綱吉や吉宗ほどでなくても、あちらの方もなかなかごさかんであった。一妻九妾に、十一男九女を産ませている。左の通り。 [#ここから1字下げ] 以与の方——江戸の人、上坂喜信の娘。長男|宗辰《むねとき》(七代藩主)を産む。 お滝の方——浪人、鈴木道一の妹。長女喜代姫を産む。 お多見の方——芝神明の神主、鏑木内膳の娘。二男の重煕《しげひろ》(八代藩主)と三男(早世)を産む。 お貞の方——鏑木内膳の妹で、多見の叔母にあたる。二女の聰姫・四男勢之助・三女楊姫・五女益姫・六男八十五郎を産む。吉徳の死後真如院という。 お夏の方——藤堂家の家来、園田秀顕の娘。七女暢姫・八女保姫・十男治修(十一代藩主)を産む。 お蘭の方——江戸の御家人、木村小左衛門の娘。六女橘姫を産む。 お縫の方——松平越中守の家来、石川杢の娘。五男|重靖《しげのぶ》(九代藩主)を産む。 流瀬の方——加州の家来、辻道直の娘。七男|重教《しげみち》を産む。 お勢の方——江戸の医者、畠山玉隆の娘。男女各一人を産んだが、いずれも早世。 [#ここで字下げ終わり]  この中で、いちばん成績をあげたのはお貞の方である。享保二十年(一七三五)から六年間に二男三女をあげている。他の側室にくらべて、とくに寵愛の深かったことを物語る。そのくせ、他の側室の子はつぎつぎ藩主になったのに、お貞の子だけ飛ばされたことも側室表によってわかる。なにしろ百万石の太守の座である。お貞の方がやきもきするのは当然であった。  この表で今ひとつ感じるのは、側室の子が七代から十一代まで、つぎつぎに藩主に就任していること。吉徳が死んだ延享二年(一七四五)から九年間に、七・八・九代とめまぐるしく三代の藩主が代っている。こんな例もめずらしく、毒殺説の出るのもあたりまえであった。  さて、加賀騒動の主役、大槻伝蔵《おおつきでんぞう》はそんなところへ登場する。加賀藩へは祖父の時代に仕え、父七左衛門は鉄砲組で二百八十石の侍であった。伝蔵は末子なので、坊主にするため郊外の寺へあずけられていた。鷹狩りのとちゅう先君|綱紀《つなのり》公がその伝蔵を見、つれ帰って世子吉徳のお居間坊主にした。それが出世のきっかけで、吉徳が当主になるとひたすら出世コースを驀進した。  享保九年(一七二四)坊主頭に訣別して士分となり、同十一年新番組に入って百三十石、同十七年は大小将《おおごしょう》組になって四百八十石、さらに翌々十九年には、サージャント格の物頭《ものがしら》になり、元文元年(一七三六)三十五歳でオフィサーの組頭格で千百八十石をもらう身となった。そして寛保元年(一七四一)には、将官クラスの人持《ひともち》組へ昇進した。人持組とは一隊の部下をもつところから出た呼称で、家老になる資格があり、駕籠で登城することを許される特権階級であった。そのうえ、翌々寛保三年(一七四三)四十二歳のとき、三千八百石の高禄に達し、幕府の柳沢や間部《まなべ》にはおよばぬが、大名家では前代未聞の出世と謳われた。  どうしてこんなすさまじい出世をしたか。一言でいえば、加賀藩ではちょうど新旧政策の転換期に来ており、大槻伝蔵のような新人物を必要としていた。百万石の加賀藩でも財政の窮乏は他藩とおなじこと。保守派の年寄衆では、このピンチを乗りきることができない。若く有能な吉徳としては、因習にとらわれることなく、藩政に新風を送りたい。それには手足となる人物が必要。伝蔵にその才能を見つけたまでである。  吉徳の眼に狂いはなく、老臣たちが足を棒にして頼んで廻り、それでも果せなかった上方商人からの借金を、伝蔵はあっという間に手品のように借り集めた。藩内では物品税や関税を新設し、たちまち金を吸いあげた。なにごとも早く、要領よく、てきぱきとやってのけた。君寵いよいよめでたく、そのため政務を独断し、栄達になれて驕慢なところがあった。  かれも一個の凡夫——そのため敵を作り、味方にうとまれたことは本当である。とくに伝蔵の権勢に押され、政局の中心から退けられた老臣と、旧習の改訂を罪悪とする保守派が、虎視眈々《こしたんたん》と伝蔵の隙をねらうのは当然のなりゆきであった。  延享二年(一七四五)四月二十一日、吉徳は参勤お暇のため江戸を発ち、本国加賀へ向った。おりから雨季にかかったので、信州から北陸へかけ各地に洪水が起っていた。信州では松代へ遠廻りしたし、越後鍛冶屋敷で三日、糸魚川《いといがわ》で二日滞在を余儀なくされた。そしてすっかり予定が狂い、金沢城へ着いたのは五月六日の朝五時ごろであった。  吉徳はいつものように、騎馬で本丸の大玄関へ乗りつけ、作法どおり帰城祝いの盃をほしたと藩の記録にあるからまちがいはない。ただ、雨にたたられた長道中に、胃をわるくして、多少むくみがあったという。帰城後も不快げに見えたが、十五日ごろからむくみがひどく、最高の手当もかいなく六月十二日、五十六歳で死んだ。  主君吉徳は伝蔵にとって、生存を託す寄生木《やどりぎ》であった。この木が倒れないかぎり、伝蔵は安泰であり、無限の栄達が約束されていた。だから伝蔵は、ずっと城内にとどまって、必死に主君の看護にあたった。便器の始末までした。情誼からいっても、利害からいっても、当然のことである。  ところが、反大槻の保守派の老臣は、吉徳が死ぬとともに、「伝蔵の看護ぶりよろしからず」という、理由にもならぬ理由をつけて蟄居を命じ、果ては越中の山奥|五箇山《ごかやま》へ流した。  これが加賀騒動の本筋である。  芝居や講談では、吉徳帰国の途中、神通川で、鳥居又助に命じて吉徳を水死させる。そこが最高の見せ場ではあるが、これはまったくの作り話である。伝蔵にとってかけがえのない寄生木を、伝蔵みずから切り倒すわけがない。理由は吉徳を殺し、側室お貞の方と組んで、その子を擁立しようとするにある。江戸で毒を盛ったともする。  お貞の方に、そんな野心があった証拠はなく、あったとしても時期がずれている。置毒事件は、伝蔵が流されたあとの事件で、ぜんぜん別個の問題である。  吉徳のあとをついだ七代|宗辰《むねとき》も、なかなか名君だったが、惜しいかな延享三年(一七四六)十二月、わずか一年二カ月の在職で病死した。あまり短いので、このときも江戸藩邸での毒殺説が出た。宗辰のつぎに、弟の重煕《しげひろ》が八代藩主となった。この人はやや長く、宝暦三年(一七五三)まで在任したが、史実にある置毒事件は、この重煕のとき起ったことである。吉徳のときもでなければ、宗辰のときでもない。  寛延元年(一七四八)六月二十六日というから、重煕就任一年目のこと、江戸屋敷の奥向のお台子《だいす》の間で、係の女中菊が昼勤めの交代で来て、台子の役をひきついだ。台子というのは茶道具をおく台のこと、係は前例に従って、釜の湯の毒味をすることになっていた。  菊はすぐ毒味をしたが、一口のんで気持が悪くなり、思わず吐き出してしまった。老女の森田が飛んで来て、当番の医師中村正伯に調べさせた。ところが奇怪! 正伯はとっさに、 「こりゃ毒物じゃ」  といって釜の湯を捨て、釜を打ちくだいて新品ととりかえた。そして菊には吐瀉《としゃ》剤をあたえ、正伯はそのまま退出、一存のこととしてお側用人富田治太夫まで届けておいた。内々にすませようとしたのだろう。が、治太夫は事がことだけに重煕に申し上げ、そういう物騒なことではいかんと、正伯をよんで事情を聞いている。だが通りいっぺんの返答で、その場もうやむやになったらしい。  ところが、十日もたたない七月四日、おなじ屋敷内の広間で能の催しがあった。このときは下々の女中にまでお料理が出るしきたりで、なんとなく奥向がざわめいていたし、わずかの時間お台子の間が無人になった。  係の女中が戻ってみると変な臭いがする。釜のふたをとると、悪臭がただよい、湯の色も変っていた。今度は誰ものまなかったが、すぐまた正伯が飛んで来て、湯を捨て、釜を打砕いたことは前回どおりであった。  一度ならず二度までも、何者かが毒を盛った。うち捨てておけぬというので、きびしい詮議になった。いっぽう誰いうとなく、その時刻に別式女の浅尾が近くをうろついているのを見たという。事件は表向きとなり、側用人の富田治太夫・牧彦左衛門が浅尾を喚問した。  さて、浅尾は江戸湯島天神の境内に住む、ト伝流の剣術師範、小笠原武左衛門の娘である。女ながら馬術の名手で、姫君方に指南するため吉徳に召出され、別式女として勤めていた。  加賀の姫君が、すべて馬術に巧みだったのは、もっぱら浅尾の指南による。勤務成績もよく、姫君たちの信用は絶大であった。  それだけに、富田・牧両人の尋問でも、なかなか口を割らなかった。色黒く、たくましい女だ。何を聞いても頑として知らぬ存ぜぬで受けつけなかった。  ただ、富田がふと、 「この事件は真如院殿に関係があろう。それでお前は白状しないのだな」  といったとき、浅尾は意外な反応を見せた。急に顔色が変り、神妙になった。ここぞと富田が責めたてると、はらはらと落涙して次のようにいった。 「恐れ入りました。実は真如院さまが国おもてへおたちの時、ひと包みの薬を渡され、重煕公を毒殺するよう申しつけられました。もちろんお断りしたのですが、うち明けたからには命と引替えだとの仰せに、やむなく承知したのです。毒薬は二度の置毒に使い果し残っておりません」  ただちに広敷に座敷牢を作って浅尾を拘禁した。  真如院のお貞の方は、このとき自分の産んだ六男八十五郎を、藩の重役村井主膳の養子にするため金沢へいって滞在中であった。その出発に際し、浅尾に毒を託したというのである。  主君に毒をのまそうとしたこの事件は重大である。七月十四日、江戸から早打で事件を金沢へ知らせ、お貞の方を金谷《かなや》殿の仮牢へ収容した。金谷殿とは金沢城に隣接した御殿で、お貞はお国入り以来、ずっとここに滞在していた。すぐ彼女は容疑者として調べられたが、 「とんでもないこと。まったく身に覚えがない」  と言いきった。先君の寵妾であり、それ以上はどうしようもない。あせった検察側が、金谷殿の部屋を調べたところ、意外や大槻伝蔵と取りかわした数通の手紙が出て来た。それを証拠に問いつめたところ、お貞は伝蔵と密通の事実のみを自白した。  これはまた、意外な方へ事件が進展したものだ。お貞の方と伝蔵が密通! もし伝蔵が世にあれば、政敵は何よりの失脚材料としたであろう。が、伝蔵の流刑は延享四年(一七四七)十二月であり、置毒事件が起ったのは、その翌年、寛延元年(一七四八)六月のことである。そしてお貞の方が密通を認めたのは、三カ月あとの九月であった。したがって伝蔵は、置毒事件に関係がない。騒ぎが起ったとき、伝蔵はすでに流刑地にいた。どうして流刑地の牢内から、主君の毒殺を指図することができよう。お家乗っとりのため、伝蔵が毒殺をくわだてたとする俗説には証拠がない。  ただ、お貞との密通の事実は本当である。その証拠に、お貞が密通を認めたと伝わるや、伝蔵はすぐ流刑地の牢内で自殺して果てた。  さてこのことは、大名の奥向を見るのによい材料である。お貞が本国へいったのは、この時の一度だけである。したがって、密通は江戸藩邸でなされた。伝蔵は近習頭、側用人などつとめ、吉徳の在府期間は江戸の藩邸にいた。特に御広敷御用をつとめたことがある。御広敷は奥向にある男子職員の詰めるところ。伝蔵が公用で、お貞の方に会うのは当然である。百万石の上屋敷とはいえ、広敷の間数は知れたものであろう。それでもなお恋を語り、どの程度か密通までした。さきにのべた川越喜多院の化粧の間のように、奥向の建物は薄暗く、妖しい雰囲気をただよわせていたであろう。  伝蔵は吉徳公が死ぬとすぐ失脚した。だからこの密通は主君在世中のことである。側室に外出はないのだから、邸外で密会したとは考えられない。少なくとも、お貞は藩邸内に別殿をもらっていて、そこへ伝蔵をひき入れたのであろう。そうだとすると、大胆不敵な火遊びというほかはない。どんなに奥向が腐敗していたか、よい見本である。  さて、金沢におけるお貞の方は、重煕公のお思召しとあって、郊外の空屋敷へ移され、そこで終身禁固になるはずだった。が、病気をいい立てて移らない。誇り高い彼女には、牢屋同様の空屋に監禁されるなど、堪えられなかったのである。それで延び延びになっているうち、伝蔵の死んだ翌年、すなわち寛延二年(一七四九)二月十四日、病気ということに表向はなっているが、実は御留守居長瀬五郎右衛門がすすめて、彼女に首を吊らせたのだという。長瀬が検視し、徒横目《かちよこめ》がその日の夕刻、城外小立野経王寺わきの畑に遺体を埋めたという。縊死《いし》をすすめたのは、側室としての名誉のためであり、畑へ埋めたのは罪人扱いというより、臭いものには蓋をする気持のあらわれである。なお、検視は御留守居がしたとある。幕府の御留守居にまねたものだが、こんな嫌な役目までひきうけることがわかって興味ふかい。  さて、のこるは別式女の浅尾のみ。そっちへ話を戻すとしよう。浅尾は伝蔵が自殺した翌月、罪人用の駕籠で金沢へ送られ、城下の仮牢へ収監された。置毒事件が意外な方へ進展したため、その後ろくに取調べもなかった。  ところが、寛延二年(一七四九)十月二十一日、とつぜん近習番の毛利総次が、ひそかに仮牢へやって来て浅尾を絞め殺した。いうまでもなく藩命による処置で、近習頭の武田杢右衛門・牧彦右衛門が検視した。やはり奥女中としての名誉を重んじたことと、置毒事件を内々に葬り去ろうとした意図がみえる。  最後に、浅尾の蛇責めについてもふれておきたい。あきらかに浮説である。といっても、まったく種がないわけではなく、よく似た話が二つもあった。それを巧みにとり入れたのである。  その一つは『三壷記』なる書物が出所。それは三代目利常時代のことであった。利常の奥方は二代将軍秀忠の二女|子々姫《ねねひめ》だが、その輿入れについて来たお局某が、奥方死去のあとも加賀に残って、なにかと前田家の悪口を江戸へ申し送った。利常は怒った。局を捕えて成敗することになった。よほど憎しみが激しかったとみえ、在方へ申しつけて毒蛇を集めさせた。それから酒をそそいで蛇を興奮させ、丸裸の局とともに木樽に入れて地中に埋めたというのである。 「まむし・烏蛇・やまかげなど毒蛇ばかり。その中に、耳ある蛇もあり、足あるものもあり、両頭の蛇、二尾の蛇もあり」  とすさまじい描写がある。局はその蛇どもに噛まれ、苦しみのたうって死んだ。  出所のその二は『松梅語園』で、こっちの方はお局がすこぶる美人。つい利常が手を出した。すると急に増長して、子々姫さえいなければ自分が奥方になれると思ったか、病気の姫をろくろく看病もしない。それで利常が立腹した。たまたま局の屋敷近く、栗田久右衛門という者がおり、家伝の白蛇散を調合のため百姓からまむしを買いとっていた。そのことが誤解され、局を蛇責めにするための蛇だと噂された。噂が局の耳に入り、恐怖のあまり自害して果てたというのである。  ところが、この話は二つとも、元和元年(一六一五)ごろのことであり、加賀騒動からざっと百三十年ほど前の事件である。実録体小説の『見語』がうまくその話を浅尾の処刑に持ちこんだ。浅尾は武芸指南役の別式女だけに、蛇責めでなければ参らない。別式女と蛇責めの残虐さが、効果的に結びつき、まつ白な肌を噛む毒蛇の絵看板が、後世もよく見世物の観客を呼んだものだ。むかしからある残酷シーンの代表である。だが、残念なことに、実在の浅尾は色あさ黒く、お色気などにまるで無縁なオールドミスであった。  ところで、浅尾の始末だけでもすむまい。かんじんの加賀騒動の真相は? 浅尾がお貞の指図で毒を盛ったのなら、すぐ対決させそうなものだ。が、それもなく、うやむやのうちに殺したのが怪しい。どうなのだ? 浅尾の自白は嘘であって、お貞の方をおとしいれようとした、誰かの手先となって働いた。置毒はその一芝居としか思われない。そういえば医者の正伯が、すぐ証拠の毒入り湯を捨て、茶釜まで打砕いている。二回もおなじことをくり返した。たしかに背後に謎の人物がいる。浅尾はその男に躍らされた。正式の吟味や対質《たいしつ》となると、その人物の名が出る。それで急ぎ二人を始末した。問題はその人物である。一体誰か? 保守派の総帥、前田土佐守|直躬《なおみ》ではないかとされている。 [奥女中の暮らしと法度]  大奥女中は一生奉公だが、大名家でも高級女中はおなじく無期限の奉公であった。青春はもとより、一生を主家に捧げるのである。このAクラス女中は三字名で、絵島とか浅尾とか、仮名に直して三字のものである。尾上や政岡は四字になるが、これは例外とされ、漢字で二字のものはだいたいAクラスである。  実は、その名も自分勝手につけるのではない。家々によってきまった名があって、それを拝領するのである。人は変るが、御年寄・若年寄などの名は代々変わらない。だから過去のAクラス女中をさす場合は、何代目絵島、何代目浅尾といわねばわからない。  その下へ来るのがおの字名である。御小姓や祐筆がそれで、お万、お貞などと呼ぶ。その下のCクラス女中になると、そういう原則はない。勝手バラバラにつけ、かえって洒落た源氏名の者がいたりした。  さて、次は服装だ。奥女中の服装はややこしいが、ざっと次の通りである。  髪は片外《かたはず》しという独特のもの。前髪を別に取ってふくらませ、鬢《びん》もいいほどに横へ張らせる。髱《たぼ》は椎茸《しいたけ》髱といい、文字どおり椎茸に似た形、左右中央で合うようになり、髷《まげ》は根の髪を一束にして笄《こうがい》に巻きつけたもの。笄を抜けば、直ちに下髪《さげがみ》となる。はじめ下髪だったのが、活動に不便で巻き上げ、それが定形になったのであろう。  お年寄や若年寄、それに身分は低くても、御使番、火の番など、実際に働く者はお役人といった。彼女らはあまり化粧はしないが、殿様や奥方の側近く仕える者——御小姓や祐筆は厚化粧をした。独特の厚化粧は、どういう順序でなされるか?  まず生え際に黒際《くろぎわ》といって、際墨を濃く塗り、その外側には白|際《きわ》といって濃くおしろいをつける。また額には半月形の作り眉——天上眉というのを書き、顔いちめんに練白粉を塗りたくる。さらに唇には口紅、歯にはおはぐろをつけた。  衣服は白襟に間着《あいぎ》として、縮緬《ちりめん》うぐいす茶に、好みの模様を染めさせたもの。帯は割合に細く、上に緋倫子《ひりんず》の菊・鶯・鹿子|紗綾形《さやがた》などの金糸縫入りの掻取《かいどり》を着た。  式日ともなると、頭は中《ちゅう》かもじを掛け、掻取は総模様、紋のついた裾模様の間着となる。大名家のみならず、だいたい武家の奥女中はこんなスタイルときまっていた。  大奥ではこれが豪華版となり、旗本では簡略になっただけの違いである。  いずれも厚化粧に、華やかな掻取の裾をひき、奥女中がずらりと並んだところは壮観だったにちがいない。殿様はお花畑へ踏みこんだ気がしただろう。  大奥で春日局が奥女中の姿勢を正したように、大名家でも江戸初期には、それぞれ精神・服装・作法について薫陶したであろう。それは年とともに伝統となり、大なり小なり家風として藩政を終る日までつづいたことである。ここに加賀藩の初期に、春日局とそっくりの役割を果した老女がいる。さっそく登場してもらおう。  寛永年中(一六二四〜四三)加賀四代藩主前田光高のもとへ、水戸頼房の娘が嫁入りした。そのときお付きの老女に選ばれたのは、堀忠俊の後室であった。  忠俊は越後春日山城主だった。老臣堀直清の陰謀で、お家騒動を起し岩城へ流罪になって死んだ。しかるに後室は、忠俊流罪の後も貞節のほまれ高く、召されて一万石の扶持を賜わり、姫君の養育に当った人である。この後室が、奥女中の心得を説いていわく。 「女の高ごえ、高笑いは恥ずべきである。女のこえはうるさくうとましいもの。奥向は静かで品位のあるところとせねばならぬ。みんながそれを慎めば、耳に口を寄せてささやくこともない。こそこそささやくのは見苦しく、はた目に不愉快なものである。耳雑談はけっしてすべきではない。  また、お化粧をし、伽羅《きゃら》油をつけるのがよいとばかりに、やたらに白粉を塗り、ぷんぷん油の匂いをさせるのは下品でよろしくない。近江君が紅白粉をやたらにつけ、光源氏に笑われたと同じことである。つつしむべし」  後室はなお、床飾りから掛盆《かけぼん》(食器を乗せる道具)、配膳の作法にいたるまでこまごまと定め、衣服についても有益なことばを残している。 「皆の者が、上着ばかりはでに美しいのを着、下着がみすぼらしいのは間違っている。下着こそ清潔でいいものを着けるべきで、上着はそれに劣ってもかまわない。それが衣服に対する心掛けというものだ」  かんじんの後室の名が伝わらぬが、『明良洪範』にあるエピソードである。  さて、問題はその衣服である。女人国だけに、衣類のことから精神的な堕落もはじまるのだ。話を奥向法度へ進めよう。大奥とおなじに、諸大名にも奥女中法度があった。きびしい神文誓詞によって拘束されていた。まず誓詞から掲げよう。(原文のまま) [#ここから1字下げ]  天罰霊社起請文の事 一 御奉公|疎《おろそか》に存じ奉らず、幾重にも御忠節に相勤め申すべく候事。惣体《そうたい》、御隠密の儀は勿論、御前向の義は一言にても沙汰|仕《つかまつ》るまじく候事。 一 御上の儀、あしく取沙汰|承《うけたまわ》り候はば、早速言上つかまつるべく候事。 一 何事によらず御尋ねあそばされ候はば、親子兄弟の義にても、あり様に申上ぐべく候事。 一 何事によらず御用の儀は、依怙贔屓《えこひいき》仕るまじく候事。 一 怪しき薬の類、とり扱い、仕るまじく候事。もしさようの品、脇にても取りあつかい仕る者の候はば、早速言上仕るべく候事。 一 御沙汰の儀、内証(内々)を以て人に頼まれ申すまじく候事。附《つけた》り。内証を以て贈りもの等請け申すまじき候事。 一 諸女中の手前、かげ日向の取り捌《さば》き仕るまじく候事。 一 男子へ対し猥《みだ》りなる振舞い仕るまじく、並《ならび》に余人の文、とり扱いも仕るまじく候。  右八カ条相背き申すまじく、もっとも諸御規定通り堅く相守り申すべく候事。 [#ここで字下げ終わり]  この最後のところへ血判を押して提出したのである。文言はちがっても、どこの家中でもだいたい同じ形式であった。第五条の怪しき薬の類とは媚薬のことか。あるいはお添寝用の睡眠薬かも知れない。当時、両国薬研堀と両国米沢町に、四つ目屋という媚薬・性具の専門店があった。  次に、女中法度についてのべよう。大奥と同様に、それぞれ諸大名の家中でも出されたにちがいない。ここには『古事類苑』にある「諸家奥女中袖鏡」の記事をあげておこう。いずれの家中か、年代がいつか不明だが、奥女中の生活を知る多くのことがふくまれていて貴重である。読みにくい文章なので現代文に直した。 [#ここから1字下げ] 一 御家法を絶対に守るべし。 一 他の御殿に勤めていた者が、当家をそれに比較してあれこれいってはならぬ。 一 言葉づかいに気をつけ、忌《い》みことばは絶対に避けること。 一 自分の役目以外に口出しをしてはならない。 一 見世物・娼家・俳優の噂をしてはならない。 一 よく行儀を見習うよう、下々の女中に言い聞かせよ。 一 同勤一如の、心得を申し聞かせること。 一 新参者は百五十日以内にお定めの衣服、身拵《みごしら》えをととのえること。 一 すべての女中は、勤務中いっさい長局へ立ち寄ってはならない。たとえ着物の着替えでも、自分の部屋へゆくのはよろしくない。 一 勤務中は、いささかも御用を欠くようなことがあってはならない。よくよく心得おくこと。 一 御殿向に手水《ちょうず》場と着替所が建ててあるのだから、長局へ立寄ることは、平奉公人ではなおさら必要がない。もっとも着替えの時刻に、お末《すえ》に長局へ取りにゆかせるのはかまわない。また主人の着替えを持参したお末は着替えがすめば早々に引取るよう印し渡しておくようにせよ。 [#ここで字下げ終わり]  あとの三カ条はおしゃべりの予防のためであろう。また同じ「諸家奥女中袖鏡」のなかに、「御禁制品々の事」として左の通りある。(原文のまま) [#ここから1字下げ] 一 紫色・吉凶《ききょう》の紋・善悪《あやめ》の模様、総女中極禁の事。 一 御三の間以上、はなやかなる小紋、はでなる染もよう、縞《しま》がら等用ゆべからざる事。 一 総女中、禁ずべき品は、羽織おもてうら、同色の品(俗に引返しという)、胴着をわざと上に用ゆる事。襦袢に緋縮緬《いぢりめん》のたぐい、また長襦袢、蹴出《けだ》しの類《たぐ》い、別品の半襟かける事、褌衣《したひも》長きしな、同緋縮緬のたぐい用ゆる事どもなり。 一 丸帯は御前御次以下禁ず。 一 腹合せ・帯赤地、総女中とも二十歳以上禁ずる事。  右の通りに付、格並、見習居の人々列位に応じ、それぞれ心得申すべき事。 [#ここで字下げ終わり]  いずれの家中か不明だが、贅沢追放のほかに、風紀上、武家の奥向にふさわしからぬものを禁じている。第三条にある緋縮緬のたぐいを禁じているのが目立つ。  そもそも女が、肌に赤いものを着はじめたのは、宝暦ごろ上方の女形《おやま》からはじまっている。女形が何とかして女の色っぽさを出そうとし、赤い腰巻をちらつかせてみた。裾まえから、燃えたつような緋色がのぞき、まっ白な足首と対照をなしておおいに男の欲情をそそった。緋の蹴出《けだ》しである。商売上、たちまち遊女の間で大流行、やがて町家の女房や娘にひろまった。腰巻・蹴出しなら赤が常識となり、すっかり上方で蔓延した。それから江戸に伝わったのである。  江戸は武家のみやこである。この赤腰巻の流行には、淫蕩色だ、とたいへんな赤腰巻論が沸騰したものである。とくに武家では、果し眼になって反対論をぶった。  しかし、嵐のような反対論も、実際に赤腰巻の魅力のまえには無力だった。怒濤の勢いで江戸の上下にゆきわたった。大名の奥向へもどんどん浸透し、そこでこの禁令となった。  おなじ第三条にある、緋の長襦袢もそうである。これは文化文政ごろ、音羽の私娼が着はじめた。燃えたつような長襦袢を、ぞろりと着て夜具へすべりこむ風情には、何とも欲情をかきたてられる。男のすすめによるものか、女の本能による直感か、これまた町家の女房や娘が大いにまねをした。滔々《とうとう》とその風が武家の奥向へも流れこんだのである。  武家では本来、襦袢も腰巻も肌につけるものはすべて純白を尊んだ。白は身心のけがれなきを象徴する。堀忠俊の後室は、上着より下着を清潔に、よいものにせよと、女の心得を説いた。だが、世相の堕落というよりも、人間本来の欲求は、一片の法令で押えることはできなかった。贅沢と華美は、江戸全期を通じて武家の奥御殿から追放することは不可能だった。それについても思い出すのは、天保改革に際し、御年寄の姉小路《あねこうじ》が水野越前守をつかまえていったことばである。 「越前殿は側室を持っておられるか? それともお持ちではありませんか?」  倹約令の発令者越前守は、不意をつかれてちょっとまごついた。 「そ、それはござる」  しぶしぶ側室を認めると、姉小路は開き直っていった。 「それご覧なされ。およそ人間には情欲と飲食の欲はつきものです。越前殿がいかに倹約論を唱えても、自身で蓄妾をやめることはできますまい。しかるに私ども奥向に勤める者は、一生禁欲して終るのですよ。贅沢はその禁欲の代償ゆえ、やめるわけにはいきませぬ」  このひと言で天保改革の一角は崩れた。が、思えばこのことばに、最も端的に大奥女流の生態が集約されている。 [大名暮らしの裏おもて]  世に「大名暮らし」「殿様気分」ということばがある。無意味な最高の贅沢を意味している。江戸時代もなかごろになると、大名は藩祖の苦労を知らぬ、生れながらの大名であった。多くは浮世の風にもあたらず、のんびりと育ったために、よく言えば鷹揚、悪くいえば薄ぼんやりのおめでたい人間が多くなった。そこで大名、殿様といえば、世事にうとい、おめでたい、どこか抜けている、ちと頭が弱い——などの意味を持つようになった。「殿様気取り」「殿様芸」「大名旅行」など、みな類語で、あまり賞《ほ》めた意味はない。  言葉のイメージでは、おかいこぐるみで大ぜいの美女にかこまれ、することもなく遊び暮らしているように思える。  このせせこましい世の中で、オールマイティーのそういう生活を、考えるだけでも頭の保養になる。嘘だったわけではない。そういう殿様の話は数えきれないほどある。もっとも傑作な殿様に登場してもらって、まずその「殿様気分」を味わうことにしよう。  筑後久留米の九代藩主、二十一万石有馬|頼徳《よりのり》は、文化九年(一八一二)封を継ぐと、自らすべての政務をみて業績をあげ、なかなかの名君として知られていた。泰平|無聊《ぶりょう》の世に、きびしく士風をひきしめたので、家来どもはひたすら恐れ服するありさまであった。ところが、それとこれとは別物で、ばかげた水中ストリップの逸話を残した。  ところは品川の久留米藩下屋敷、当時ビードロといったガラス製の大きな浴漕をあつらえ、座敷のまん中にデンとすえつけさせたのである。そういうジョッキのお化けみたいな奴に、なみなみとビールをついで……などと、サラリーマンみたいな夢ではなく、殿様となればやることが大きい。すっ裸にした女中衆を、ひとりひとり泳がせて、それを眺めながら酒である。  突然の君命に、さすがに彼女らは恥かしそうに乳房や急所を隠して入るが、ひとたび隠し場所がおなじだと悟りをひらくと、勇敢に露出してふざけ合った。一人の観客にオールスターの出演だから気が強い。暑い盛りに公認の水浴とあれば、はしゃぎたくなるのもあたりまえ。金魚鉢ならぬ人魚鉢の、無類の水中ストリップとなった。名君の頼徳公も大いにご満悦、じゅうぶん頭を休めてから、また士風ひきしめの善政を行なわれたとか。  殿様の遊びはばかげたものと相場はきまっているが、つぎは人魚鉢の上をゆく女相撲、これまた正真正銘の実話である。  田沼|主殿頭意次《とのものかみおきつぐ》は、六百石の旗本から出世して、宝暦には新しく大名になった。かれが老中に在職中、前代未聞の賄賂政治をおこなったことは有名である。まったく今日の成金社長である。遠州|相良《さがら》の城主で五万七千石、成金でも一世はまだいいが、二世となるといけない。奥女中に女相撲をやらせたのも、実は二世の意知《おきとも》なのである。  天明二年(一七八二)、意知は築地へ新しく屋敷を賜わり引き移ったが、畳も青いその大広間に、女相撲の土俵をつくったのである。  そのころ回向院の相撲では、近世の名力士谷風梶之助・小野川喜三郎の両大関が、江戸の中心であった。  意知は大広間にびろうどの蒲団を敷きつめ、土俵はなんと、縮緬細工だから豪華なものである。支度ができると土俵入りである。恥かしがる女中どもをすっ裸にし、本物のまわしをしめさせたが、大事なところが凹んでいるので、ひどくまわしの落ちつきが悪かった。  その代り、髷は片はずしやら紅葉やら、色とりどりのきれいな相撲取である。肉体美満点の女谷風や女小野川が、ずらりと並んで土俵入りした。そのあと、いよいよ東西に分れて取り組みがはじまった。 「ヒガーシ、花の井。ニイーシ綾の里、綾の里……」  と呼び出す四股名《しこな》もなまめかしい。  回向院では竜虎相うつという相撲だが、縮緬細工の土俵上では、花乱れ、鳥驚くという風情で勝負が競われた。  はじめは恥かしいからおとなしくやったが、慣れて来ると日頃の怨みつらみが表面へ出て、引っ掻き、噛みつくという四十八手にない取り口も飛び出した。女プロレスそのままのあられもない姿に殿様は大喜び、勝ち力士には紅白の縮緬を褒美として与えたという。どうも嘘みたいな話だが、本当なのだから仕方がない。  次は人魚鉢や、女相撲より、もっと奇抜なことを考えた殿様がある。  出雲松江の城主十八万六千石、松平|宗衍《むねのぶ》は、結城《ゆうき》中納言秀康の後裔で、二代将軍秀忠の兄の家筋にあたる。この殿様も退屈まぎれの珍趣向では当時のオーソリティーと自他ともに許していた。  まず女性美の生命ともいうべき玉の肌を、着物に包んで見せないのは勿体ないというすこぶる進歩的な美容論の持主であった。そこで宗衍公、江戸藩邸の奥女中にはすべて素肌に絽《ろ》の一重帷子《ひとえかたびら》を着せた。ブラジャーもパンティも一切なしの、全身すき通しの薄物である。水着喫茶などより、はるかに深い趣きがある。宗衍はもともと肌のきれいな女でなけれは奥女中に採用しなかった。それだけに絽の薄物をすかしてみる玉肌の、とろりとした味合や胸のふくらみ、ヒップのぐあいがまことに美しく悩ましく、宗衍の美容論の正しいことを証明した。  珍趣向はそれだけではない。あとが傑作なのである。宗衍はただ薄物をすかして白い肌を見るだけでは物足りなくなった。そこで、一番肌の美しい浮舟という女中に、全身さまざまな花を入墨させたのであった。背に牡丹、腕には桜というように、凝りに凝った百花の入墨を、すき間もなしに彫りつけた。花咲き匂う女体である。それに絽の薄物を着せると全く生ける美術品であった。殿様は毎日この入墨侍女を眺めて楽しんだ。特に親しい客には給仕に出したので「出羽様名物の入墨侍女」として世間にも知れ、大いに得意がったものである。  ところが、さしもの美人も年齢には勝てず、つやつやしい肌も脂肪が抜けてはとろりとした味が失せる。勝手なもので、そうなると始末に困り、家来の誰かに縁づけようとした。美女の拝領、これほど下され物のうちでありがたいものはないはずである。ところが数多い十八万石の家来の中に、恩賜の美女をかたじけなく頂こうとするものが一人もいない。なぜなら、いかに美女でも女房と畳は新しい方がよい。肌の入墨に小じわの寄ったのは、誰だって気味悪くこそ思え、嬉しがる道理はない。 「かたじけのうごいますが、実は言いかわした女が他にありまして……」  とすべてノー・サンキューであった。そこで殿様は考えた。品物が少し古い代わりに景品をつけよう。家来に限らず町人にでも、入墨侍女には金千両をつけると触れ出した。が、売り急ぐとますます買手はつかぬもので、一向さばける様子がない。こうなると自分の物好きから、女一人を台無しにしたことが悔まれる。やむなく終身扶持を与えて、死ぬまで藩邸内に住まわせたという。  いま一つ、最高のばか殿様の話をしよう。これこそ骨の髄まで「おめでたい」ということができる——  播州姫路の城主|榊原政苓《さかきばらまさみね》は、三浦屋の高尾を落籍した遊蕩大名で知られている。身持が悪いので、越後高田へ左遷されたほどだが、それにも懲りず子の政永もたいへんな殿様、お能に凝りだして見るだけでは物足りず、自分で舞台に立つようになった。  すると、見物人がいなければ感じが出ない。はじめは家中の女子供に拝観を仰せつけた。が、文字どおり殿様芸であり、毎日ではあきてしまい、だんだん見物人が少なくなった。  仕方がないので町々村々へ触れを出して、望みの者にはお能拝観をさし許すといった。  百姓町人が殿様自演のお能を拝める。 「ありがたき幸せ……」  と、さっそく拝観に押しかけたが、これもわずかの間のこと。暇つぶしになるばかりで、さっぱり面白くない。やがてかれらもパッタリ来なくなった。客席が空っぽでは張り合いがない。仕方なしに村々の高割りで、見物人を割りあてることになった。百石につき何人出ろという命令だ。百姓の難儀はひととおりではなかった。  すると、そのお能見物を、代って見てくれる商売ができた。 「お能見よう、お能見よう」  と、村から村へ呼び歩くのである。  なるほど便利だと、あちこちで頼むのでこの新商売は大繁昌。はやるとなると値上げはつきもの。 「きょうの番組は長丁場ですぜ。『道成寺』なんぞは長いばかりでおもしろくない。ことさら見物に骨が折れるから、代観料に二百文出しなされ」  という調子になった。お能を見る方で金を取り、そのうえ威張るのだからあべこべである。取引がすむと雇われた方はお城へ出かけ、「何村何右衛門御能拝見の名代」と帳面につけ、一日見物して帰って来る。  そうして集めた観客とは知らず、殿様はいたってご満悦。もっと見たかろうと、幾番もつづけて演じるのであった。ために代理見物の値は上るばかり。地方のなまけ者や閑人の懐中が、お蔭でだいぶふくらんだという。  落語にでもありそうな珍風景だが、これは正真正銘の実話である。  さて、こう書いてくると、殿様といえばまともな人物はひとりもいないように聞える。が、これは江戸三百年間に、三百大名の中から傑作なのを選びだしたので、すべてがこうだというのではない。逆に名君といわれる人も多かったのである。  それに、案外殿様は忙しかった。これはあまり知られていないが、どの殿様の懐旧談にも必ずある。暇をもてあましていたということはなかったようだ。傑作殿様の特例だけではいけない。スタンダードな殿様の一日を書かねばならない。  殿様はたいてい、奥御殿ではなく中奥《なかおく》でめざめる。諸侯の中奥には女がいるところもあると前に書いた。女のいる中奥では係の女中が、女のいない家中では男の小姓が、それぞれ殿様の世話をしてくれる。  殿様は目ざめると手水《ちょうず》を使い、髪を結い、医者が来て健康診断をする。診察はすわったまま、脈と舌を見、ちょっと腹にさわってみる程度。  それはいいが、便所の場合はまったく困ったそうである。便所といっても、現代のように狭いものではない。六畳ぐらいはあって、小姓が刀をささげてすぐ側にひかえていた。そばにきちんと坐っていられたのでは、気楽に用を足すことができない。ずいぶん困ったと、これも浅野侯の懐旧談のなかにある。ただ一人便所の中で、無念無想になれる下々の方が、その点しあわせというものだ。  さて、身じたくができると、表御殿へ出て政務をみる。家老からいろいろな報告を受けたり、書類に判を押したりする。だいたいは家来まかせで、 「よきに計らえ」  というわけだが、それでも疑問があれば聞き返すし、再調査を命じる場合もあった。  江戸城へ登城する日は午前十時ごろ出かけ、午後二時ごろまで殿中にいて退出する。在国中なら、ほぼその時刻まで表御殿で政務をとった。  午後は武芸の稽古と学問が待っている。馬術・剣術・槍術は休むことがなく、時には馬で遠出することもある。そんな日は学問が夜へかかり、遅くまでしかつめらしい儒者の講義を聞かねばならなかった。  またその間に来客があれば、会うだけではなく、会食することもあってなかなか忙しい。  さて、その忙しい一日が暮れると、私邸である奥御殿へ帰ることになる。自分の家へ帰るのだから、いつでもさしつかえなさそうなものだが、近親や先代の忌日《きじつ》、命日ということで、婦人に近づけぬ精進日がある。幕末の真田家では、月に四日ほど泊れぬ日があったそうだ。  そうでなくても、殿様は奥泊りをあまりすかなかった。芸州藩主浅野侯の懐旧談に、 「奥の生活は窮屈で、あまり居ごこちがよくなかった。それで、おもに中奥を休息の場所にした。ここがいちばん気楽だった」  とある。どうしてか?  奥へ泊れば枕もとに老女がいる。煙草の火がないといえば、老女が中老にいいつける。中老がまた御次に命じて持って来させるというぐあいだ。もっとも、中奥に寝ても、男の小姓が二人、袴をはいたまま半夜がわりに枕もとについている。小姓は終夜、雑談どころか、身じろぎもせず坐っていた。それもつらいが、殿様の方もすぐ枕もとにおられては、ぜんぜん眠れたものではなかったという。おかしなことに大名たる者、表にも安眠の場所はなかったのである。 [大名の妻と側室]  さて、最後に奥御殿のあるじ、大名の奥方と側室たちについてまとめてみよう。諸侯の奥向は、江戸城大奥を縮小したもの、制度や風俗にかわりはないが、小型になっただけ人間関係に親密の度が濃い。これがただひとつの、大きな相違であり、そして重要なことがらである。  将軍家では規模が大きすぎ、将軍夫妻は遠くへだたって顔をみることもまれだった。形ばかりの夫婦どころか、意志の疎通を欠いたことから、いろんな悲劇に発展したのを見て来た。  大名家はそれほどではない。たとえば奥方が、表御殿へ毎朝あいさつにゆくぐらいのことはあった。将軍家の御台所《みだいどころ》が、表御殿を見たことがないのとは大違いである。それだけに、おたがいの気持も知り合って、夫婦らしい愛情も人並みだったようである。奥方は飾りものではなく、血の通う人間としての、確乎たる存在であった。奥向の事務は御年寄以下女中たちに任せるが、実権は奥方がしっかりにぎっていた。女中の任免まで、奥方みずからする家中もあり、奥向におけるウエートは、将軍家よりぐっと大きかった。それについてよい例がある。  事例は享保十五年(一七三〇)九月十五日、霞ケ関の芸州藩上屋敷で起った——  第七代の広島城主浅野|安芸守吉長《あきのかみよしなが》は、浅野家中興の名君で、江戸では、七賢人の一人に数えられたほどである。どうもそれとこれとは別物で、その吉長が四十五の分別盛りに、吉原通いをはじめたから驚いた。下世話《げせわ》にいう通り、七ツ下《さが》りの雨と四十すぎの色好みはやみそうでやまぬ。浮気の相手は三浦屋の太夫《たゆう》で花紫。お出入りの能役者、高安彦太郎をお供につれ、しげしげと吉原へお通いになる。  大名の吉原通いは江戸初期に盛んだったが、幕府の察度《さっと》がきびしいのと、諸藩の財政難によって、延宝(一六七三〜八○)以来絶えていた。ところが、とつぜん名将軍吉宗の治下に、大名の吉原熱が復活したのだから皮肉である。臍《へそ》曲りの尾張|宗春《むねはる》・播州姫路の榊原|政岑《まさみね》など、いずれもお忍びで花街へ潜行、名うての名花を手折らんものと競い合った。  花紫というのは丸ぽちゃで、あまり聖人殿様向きではなかった。しかしこの道ばかりは案外で、吉長はついに彼女を身請けした。その上どういうはずみか、同じ三浦屋の歌野という格子女郎もついでに落籍させて上屋敷へ連れて来た。もののはずみで二人も同時に身請けするとは、いかさま、殿様らしい遊びぶりである。さらにおどろきは、芝明神前の陰間《かげま》(男娼)二人もいっしょに身請けしたというのだから、なんとも呆れるほかない。  そのころライバルの尾張宗春は遊女春日野を身請けしたため素行よろしからずとあって蟄居隠居を命ぜられ、姫路藩主榊原公も高尾を落籍したため幕府に睨まれて越後高田へ国替えという処罰を受けた。したがって安芸守吉長もまことに危い。ひとたびこれが幕府の耳に入れば、どういう処分を受けるかわからぬというピンチ。ところが吉長はいい気なもので、身請けした遊女二人、陰間二人を帰国のときに本国広島へ連れて行くという。こうなっても重臣の中で誰一人、殿様のご乱行を諌める者がない。  ときに奥方節子が柳眉をさか立て、吉長に詰め寄ったのはあたりまえの成り行きであった。 「殿様は七賢人の一人といわれるお身でありながら、賎しき遊女を請け出すとは何事でございます。しかもその者たちをお国入りの供に召連れるのはあまりのなされ方。長の道中に、世間のもの笑いともなりましょうし、公儀の聞えもよろしくありますまい。何分にもお取りやめの程を」  と節子夫人は進言された。まことに理の当然、少しもやきもちめいたところのない諌言《かんげん》であった。  ここで、ちょっと節子夫人を紹介しておこう。節子ご内室は、加賀藩主前田吉徳の姉であった。十九歳の元禄十二年十一月お嫁入りになり、夫君よりも一歳年上であった。夫との間には長女誠姫・世子岩松君(八代藩主宗恒)があって、誠姫はすでに奥州中村藩相馬|徳紀《とくたね》公へ縁付いているという、まことに理想的な大名家庭であった。  そのうえ節子夫人は大変な賢夫人で、学問を好み、武芸の達人でもあった。将軍家の侍講《じこう》林|大学頭《だいがくのかみ》をよんで講義を聞き、また女流書道家として右に出る者がない。武芸は乗馬、打物、なんでもござれの女剣豪で、ことに薙刀の名手として知られていた。したがって奥女中たちもみなみな一騎当千の勇婦ばかり、まことに武門武家の女性としては模範的であった。日常生活もいたって厳格、足などうっかり崩そうものなら、ぴしゃりと免許皆伝の平手打ちが飛んだ。  あるとき夫君吉長公が、節子夫人の膝枕で昼寝をしたが、このときはぴしゃりとやるどころか、二刻というから今の四時間、全然膝を動かさなかったという驚異的なレコードを打ち立てている。奥方節子とはこういう勇婦、賢夫人であった。  さて、その人の諌言である。少しは耳をかたむければいいものを、吉長公まことに不機嫌で、例年なら帰国に際しお暇乞いのあいさつがあるのに、その年は「知らぬ顔の半兵衛」でお発ちになった。お伴の列には身請けした遊女の花紫と歌野が美しく着飾ってついていたし、同じくMプラスWの鼻持ちならぬ陰間が二人、侍衆にまじって騒いでいた。変になまめいた大名行列である。  節子夫人はこの様子を物蔭から覗いて、「これでは正室としての一分が立ち申さぬ」とばかり、深く決心をあそばされた。  その夜夫人は夜遅くまで、灯火をあかあかと照らして弟の加賀守吉徳公へ、詳しく事情を認《したた》められた。それから古式どおりの白装束に着替え、心静かに仏前に坐った。夜がしらじらと明けそめるころ、伝家の宝刀を逆手にとって、まず左の下腹へ突き立てた。きりきりとそれを右腹へ引廻し、一旦抜いて咽喉を突こうとした。免許皆伝とはいえ、さすがに女だけにこの辺で気力がおとろえ、前へ伏せて苦悶の一瞬、この気配に次の間の女中らは仰天し、うろたえ廻るうちに御年寄の外山・沢井と中老の豊田がお側へ駈けよって抱きかかえ、 「医者を早う」 「気付薬を……」  と立ち騒ぐ。節子夫人はこれを見て、 「その手当は不用じゃ。腹を切るからには死ぬのが願い。豊田、早う介錯《かいしゃく》せよ」  と健気にもおっしゃる。三人はようやく納得したが、それではすぐに追腹《おいばら》仕りますという。夫人はますます声を励まして、 「追腹は天下の法度。なぜ生きて岩松君の成長を見届けてはくれぬ」  と叱った。だが日頃賢夫人の徳を慕う三人は諦めず、たとえご勘気《かんき》をこうむろうと、お供いたさずにすみましょうか。ぜひぜひお供をと懇願する。その忠節にさすがの夫人も、 「では、やむをえぬ。ありがたくその志を受け、外山・沢井は供を許そう。豊田は残らず介錯して、三十五日を経て心まかせにせよ」  と仰せあった。そこで、外山・沢井の二人はその場で切腹、豊田は襷《たすき》がけでかいがいしく三つの首を切り落した。女三人がもろ肌を脱いで、切腹するのもすさまじいが、朋輩の女中が襷がけで、首を切る情景も、想像するさえ物凄い。  首を落したあと豊田は、加賀守吉徳公へその旨急報したので、急ぎ駈けつけ、邸内はたちまち騒然となった。そのころ、遊女同伴のドライブ気分で藤沢宿まで来ていた吉長公は、奥方の悲報に、さすがにまっ青になったけれども、取り返しがつかない。当時の法規では奥方が死んでも、殿様であるご亭主は江戸にいなければ会うことができない。殿様というのは不便なものであった。もちろん、この事件は表向き「奥方急病にて死亡」ということにしたから世に伝わらなかったが、そのあと吉長公はずいぶん面白くない旅をしたのは事実である。  さて三十五日の法要をすませた十一月二日、中老豊田は奥方の墓前で、いさぎよくこれまた切腹して果てた。  これは特別の例であるが、妻の座の確乎たるものであることがよく知れる。殿様たる者うかうかしていれない。  さて、つぎに側室について書く段階へ来た。大名家でもこの側室なる者がいちばんの問題。お家騒動には、かならず色っぽい側室が登場して、逆意《ぎゃくい》方と組んでお家の乗っ取りを画する。加賀騒動のお貞の方、薩摩騒動のお由羅の方がそれである。黒田騒動のお秀の方、鍋島騒動のお豊の方は、実在しないのに、芝居や講談ででっちあげてしまった。  よくいわれるように、幕府では継嗣のない大名はどんどん取りつぶした。家康・秀忠・家光の三代の間に、嗣子《しし》のないためか、あっても幼弱のため改易《かいえき》されたもの四十六家、減封は十二家に達した。したがって嗣子を得なければならぬ必要や、参勤交代で妻子を江戸に住まわせ、自分は隔年に江戸と本国を往復した関係で、本妻のほか多くの妾を持った。水戸|斉昭《なりあき》は十人、加賀六代吉徳は九人。二万石の飯田藩主堀親窯にも三人の側室があった。  大名の側室には、町家のむすめが多かった。屋敷方へ奉公して、行儀作法を見習うための者もいたが、はじめから殿様の眼にとまり、あわよくば男の子を産んで、生母として威張ろうという魂胆の者もいた。自分が栄耀栄華に暮せるばかりか、一族をあげて取り立てられる。当時、女としては最高の出世コースであった。  そのため警戒して、奥女中はすべて不器量なむすめばかりを集めた藩がある。「人三化七《にんさんばけしち》」ばかりである。これでは殿様、化物屋敷へ入ってゆくようでさぞ気味が悪かったであろう。『竹斎老宝山吹』という黄表紙に、 「いやはや手前屋敷では、かような化物ばかり召抱えるかと、竹斎老の思召すところも如何じゃが、いずれも家の子の行かずどもでござる」  とある。「家の子の行かずども」とは、家来の娘で、醜婦のため嫁に行けぬ者との意味。その間の消息を伝えている。  大名家では原則的に、側室に権力を持たせない仕組みだった。寵妾兼御年寄という例は、三百諸侯にひとりもなし、御年寄に手を出した大名もない。また側室から本妻に直すことは、大名家でも極力防止したし、享保年間、幕府法によって禁止された。  蜂須賀《はちすか》侯の姫君年子が『大名華族』の中に聞き書きとしてこんな話をのせている——  ある大名家では、江戸藩邸内に特別の女牢を設け、殿様の子を産んだ側室を監禁した。特に男子だと取りあげてていねいに育て、側室の方は発狂したと称して一生陽の目を見ることがなかった。時には干し殺したという。下賎な母親を認めると血筋の汚れだし、下賎な生母には下賎な親類縁者がたくさん名乗り出て、費用倒れになるからだという。お家騒動の予防でもあった。  とにかく大名家では、妻の座に権威があり、それだけ側室の地位は低かった。  それを百も承知のくせに、側室優先の誤りをおかし、奥方に斬られた殿様がある。これまたばか殿様の好見本である。ご参考までに次の通り——  諸大名は正妻を上屋敷に、側室を中屋敷または下屋敷におくのがふつうである。上州安中の城主水野|元知《もととも》の奥方も、上屋敷にいて殿の出府を鶴首して待っていた。  その元知は半年の在国期間(関八州の諸侯は半年交代)を終え、参勤のため江戸へ向っていた。殿様、実は下屋敷に好きな側室がいて、一刻も早く会いたくて仕方がない。行列が江戸へ着くやいなや、お妾さんのいる下屋敷へ直行して、上屋敷の奥方が後まわしになってしまった。翌日、口を拭って上屋敷へ入ると、さあ奥方の怒るまいことか。 「私は気に入ろうと入るまいと正室でございますぞ。久しく国表にいて参府されたのだから、まず本邸に来て私に対面なし、夫婦の契りを固めるのが作法ではありませぬか。それを、こともあろうに下屋敷の賎しい女に交わってから何喰わぬ顔で来られるとは、正室をないがしろにする致し方……。その分には捨ておけませぬぞ」  と長押《なげし》の薙刀をおッ取って斬りつけて来た。元知は、くつろいでいたおりでもあり、まさか女房が、という油断もあって肩先に傷を負ったのだからだらしがない。 「助けてくれ」  と哀れな声をあげて奥向から表御殿へ逃げ出し、ために屋敷内は大騒動になった。女房に斬られた殿様は、後にも先にも元知が唯一人で、まことにどうもうまくない話だ。  侍は闇夜に背後から斬りつけられても、不覚者として罰せられるが、元知の場合は屋敷内で、しかも女房に斬られたのだからてんでいけない。一件が将軍家の耳に達し「乱心者」ということで信州松本へ配流され、水野家はために断絶してしまった。  斬られたのではないが、やっぱり奥方に薙刀で追いかけられた大名に福島正則がある。正則もやっぱり女に手を出して奥方を怒らせた。奥方は凄い見幕で大薙刀をふるい、その勢いは当るべからざるものであった。戦国の荒大名福島正則も、青くなって屋敷内を逃げまわった。あとで正則は冷や汗を拭いながら近臣に言った。 「わしは今まで、どんな戦場に出ても敵に後を見せたことはないが、きょうはなんと、畳の上で敵に後を見せたよ。どうも女の怒っている顔つきは恐ろしいものだ」  賎《しず》ケ岳《たけ》七本槍の猛将も、照れ臭そうに頭を掻いた。  あれこれ思えば、「大名暮らし」「殿様気分」もあまり気楽なものではない。 [#改ページ]   六 旗本・諸士の奥向  徳川の制度では、一万石以下二百石以上が旗本である。身分の上では、将軍にお目通りのできる、お目見以上が旗本であった。二百石以下、お目見以下は御家人である。  旗本とは、戦場で将軍の旗本を固める親衛隊という意味。御家人は本来、譜代の臣という意味だが、旗本に対していう場合は身分的に属官ということになる。戦になると旗本は騎兵、御家人は歩兵部隊となって戦い、平時は高級役人とその属僚として政務をとっていた。  では、その旗本・御家人の数は? 俗に「旗本八万騎」というが、文化九年(一八一二)の調べでは、旗本五千二百五人、御家人一万七千三百九十九人でひどく掛値のあることがわかる。旗本・御家人の差別を超越して、二本差す者として合算すれば二万二千六百四人となるが、これでもだいぶひらきがある。まったくのでたらめか? もし、むりに八万騎の根拠を求めるとすれば、かれらの又家来、すなわち陪臣《ばいしん》を算入することによって八万以上の数になる。口調のいいことと合せて、幕府の兵力を実際以上に誇示したことばと見るべきであろう。  ところで、問題はその又家来である。旗本と名乗るからには、どんなに少禄の者といえども一僕一婢を有しない者はなかった。一人の騎馬兵が出動するのに、数人の従者が必ずつく。三百石の旗本なら徒侍《かちざむらい》二人、具足持一人・槍持一人・挾箱《はさみばこ》持一人・馬の口取二人・草履取一人・小荷駄二人の合計十人と定められている。五百石の旗本なら、これが計十三人となり、千石ならば二十三人と累進的にふえてゆく。四千石では七十九人、五千石では百二人で、それ全体で戦力をなしているのだ。  武家政府では、戦時編成のまま政治をおこなうので、この又家来をそのまま平時も養っていなければならない。五千石の旗本では、家老以下百二人の家来たちが、原則的におなじ屋敷内に住み、主人の公務を助けていた。主人の登城・下城には警固をつとめ、主人が諸奉行や火消役につけば、その下僚として働く。また五千石の領地から年貢をとりたてる仕事もある。それらの仕事を表御殿でした。表向がオフィスであることは、将軍・大名とすこしも変らなかった。そして奥向も同様である。  旗本屋敷は画然と、表と奥に分けられていた。表には男子ばかり、そして奥向には、旗本の家族とその召使がいた。  表と奥の境目は、杉戸または、襖《ふすま》、時に簾《すだれ》一枚のこともある。だが、ここからは表、ここからは奥と、はっきり区別がつけられていた。  台所はたいてい、表と奥の二カ所にあった。しかし、ふだんは表の台所で調理して、家族の分は奥へ運ぶ。そのとき表のお膳係が、境目の簾のところまで持って来る。女中が奥から出て来てそれを受けとる。男女出会ってはいけないから、簾のところに置いて男の係が引っこむのを待って、女中が取りに行ったほど厳重な境目であった。  主人が出勤するときも、妻は送って出てもこの境目を越すことはない。どんな懇意な人にしろ、訪問者はやはりこの線は越さなかった。応接はすべて表向でした。  大坂夏の陣の徳川勢のなかに、山口小平次重克という侍がいた。書院番組に属して戦い、五月七日に天王寺口の戦で死んだ。禄高はわからないが、書院番だから旗本の精鋭である。この小平次が陣中から家族へ送った手紙が『甲子夜話《かっしやわ》』にあるが、そんな際にも、表と奥の境を厳重にするよう家人に注意している。 「お末《すえ》の口、たててばかりおくべし。かりそめにも、女を表へいだすまじく候」  というのだ。お末は大奥にもあった下級女中のこと、彼女にぺらぺらしゃべらせるな、表向へは出すなという文意である。そのころから、すでに奥と表の境は厳重であった。  以上は二、三千石以上の旗本である。五千石ともなればもっと見識張ったものだ。屋敷の構造からして違い、「奥様の御門」「奥様の玄関」というのが別にあった。また、奥方は鋲打《びょううち》駕籠に乗ったし、奥向には片はずしに結った女中もいた。身分の低い女中でも、丸|髷《まげ》や島田に結っていた。ただ、大名と違うところは、家来のお目見という時だけ、奥方は表へ出て男に会う。これが大名にはないことであった。  さて同じ旗本でも、それ以下になると表奥のけじめが次第にぼやけてくる。屋敷の構造がだんだん簡単になって、一千石クラスでは、主人の出勤に奥方が刀を持って、廊下まで見送ることもする。自分が刀を持たなくても、おもだった女中に持たせる場合もあった。主人はそこで刀を受取り、玄関の方へ出てゆく。さらに下って二、三百石になれば、奥方が刀を持って、自身で玄関まで見送ることになる。  なにしろ二、三百石ともなれば、家来の数も多くはないし、第一屋敷の構造が表奥に分けるにも分けようがない。なんとなく家族は奥の方に住んでいるというにすぎなくなる。お客があれば奥方も娘も取りつぎに出るし、お茶も出す。お客は座敷の次の間で、刀をはずして入るのだが、それを左右の袖で受け取るのも奥方や娘であった。  下って、御家人になると、まったくその境もなかった。だから御家人は、奥様ではなく御新造様《ごしんぞさま》という。  では旗本の奥向に、何人ほどの奥女中がいたか。二、三百石の旗本で四人位、六百石で六人位になる。その内訳は、奥方についたり、諸雑用をやるのに二人、台所・洗濯・掃除で三人、女中の監督みたいのが一人。ついでながら、飯炊きはふつう下男であった。  つぎに七百石クラスでは七人位、千石を越えると十数人はいた。山口小平次が心配したように、それらの女どものおしゃべりも怖いし、風紀上のことも頭痛の種であった。武士は指導階級だけに、家事不取締りはそれ自体が罪とされた。おのれの家事さえ治められぬ者は、四民の上に立つ資格がない。「不義はお家の法度」を鉄則に、特に男女関係をきびしく取締った。  ところが、どんなに境を厳重にしようと、どんなに厳罰をもって臨もうと、男女たがいに牽引するのが自然の理法——家来どもではなく、これは旗本の家族ぐるみといいたいほど、乱脈を極めた事件があった。奥向の模様を知るよき材料でもある。ざっと次のとおり——  小川町に住む朝比奈百助は、御小姓組に属する一千石の旗本。朝比奈家は今川義元の老臣朝比奈駿河守の末裔《まつえい》で、なかなかの名家。ところがこの百助は、中年すぎから頭が変になり、寛延四年(一七五一)九月、四十六歳で死んだので、その二十四日に葬儀執行のため親戚一同が参集した。喪主は相続人の万之助(二十五歳)だったが、突然立ちあがりざま広縁《ひろえん》にいた妻の弟植村千吉を後から袈裟《けさ》がけに斬り捨ててしまった。一同驚いて逃げ廻るなかを、万之助は血刀を下げ狂ったように妻のとえ(二十歳)を探した。が、今までいたはずのとえはどこへ消えたか見当らぬ。自棄《やけ》気味の万之助が、手当り次第に斬ったのは左の通りである。 [#ここから1字下げ] 家老松田常右衛門——百助の湯灌中を斬られて即死。 継母ぎの——深手を受けて縁の下へ這いこみ、やっと命だけはとりとめた。 乳母たつ——肩先を斬られたが軽傷。 下女みどり——斬られて即死。 下女さき——水がめの陰にかくれていたのを引き出され、斬られて重傷。 [#ここで字下げ終わり]  万之助はこれだけ斬ったあと、血で汚れた衣服を着替え、表玄関からどこかへ出かけようとする。そのとき祖母の栄寿院が万之助をとどめて、 「これだけ人を殺しておいて、どこへ出かけようというのじゃ。切腹の覚悟は出来ていような」  と念を押した。 「言うまでもなく覚悟はしている」  万之助はそう答え、思い直して自分の部屋へ入って切腹した。ところでこの栄寿院というのは、先々代の後妻で元吉原の花魁《おいらん》だが、気丈にも万之助の介錯をして首を斬り落した。七人の家人、親戚があっという間に死傷したわけで、あたり一面血の海となり、眼もあてられぬ惨状であった。  万之助があんなに探した妻のとえは、事件発生と同時に縁の下へ逃げこみ、離家にひそんでやっと命が助かった。そうとは知らず万之助は、とえが実家へ逃げ帰ったと思い、衣服を替えて追うつもりだった。万之助の兇刃は、主として妻と千吉に加えられたものである。この二人が密通していたからだ。とえの実家、植村家も一千石の旗本で、千吉とは姉弟に当る。だから密通というのはおかしいが、千吉は養子であって血のつながりはなかった。つまり義理の姉弟ゆえにこの間違いが起ったのである。  ところで、原因はそれだけではない。いま一組の密通と、お家乗っ取りの陰謀がからんでいた。ここで複雑な家族構成をのべねばならない——  家族は前述の加害者・被害者のほかまだたくさんいたのだ。当主万之助の異母妹お百(五歳)、はえ(三歳)、それに継母ぎのの叔母で掛り人るん、家老常右衛門の妻のよし、同人の下女もと、朝比奈家の女中まさ、もん、くめ、栄寿院づきの下女ゆう、いは、万之助の下女そで、もと、万之助づき家来宮木又右衛門小島右内、知行所の代官柴伝右衛門、そのほか中間が八人いた。万之助夫妻をはじめ合計三十一人の大家族である。  これでみると一千石の旗本では、女中がちょうど十人おり、それが朝比奈家全体にいるのではなくて、家族のひとりひとりについていることがわかる。家老の妻とその女中とあるのは、屋敷内に家老一家が住む別棟があったのである。  もっとややこしいことに、当主の万之助は先代百助の妾腹で、植木屋半兵衛の妹ゆうなる者の腹から生れた。  このゆうは、子のない栄寿院が引きとり養女として育てていた者。百助がそれへ手を出して、万之助を産ませたのだ。ところが百助の妻が死に、後妻に武州|幸手《さって》の大百姓から後妻をもらうにつけ、ゆうの存在がじゃまなので、米原立碩という医者へ嫁入りさせた。  一千石の旗本に、妾のひとり位よさそうなものだが、実は後妻になるぎのには、すごい持参金がついていた。ちょっと遠慮する必要があった。後妻ぎのは、嫁いでからお百とはえを産んだ。  いちど嫁入りしたゆうも、医者の立碩に死なれて事件当時は朝比奈家へ帰っていた。もと栄寿院の養女、百助の妾だが、今は女中として働いていた。このゆうは、継母のぎのにとってこの上もないじゃま者である。なにかにつけてゆうをいじめ抜いた。  それにはわけのあることで、実は継母のぎのが家老松田常右衛門と組み、万之助を廃して自分の産んだお百に養子をとり、朝比奈家をつがせようとたくらんだ。ゆうは万之助の実母で、けむたい栄寿院の子飼いだから気味が悪かったのだ。が、とにかく病気の百助をだまし、万之助を狂気したことにして押し込め、その妻とえも実家へ帰した。そういう陰謀のさいちゅう、ぎのと常右衛門は悪人どうしでただならぬ仲になった。姦通である。  一方、とえの実家は本所の旗本植村家である。植村家の当主千吉は、とえの妹やえの婿さんだった。だから千吉は義弟になるのだが、とえは実家へ帰っているうちに、これまた千吉と密通してしまった。  万之助は妻の密通だけでなく、継母と家老の不義も知った。その継母ぎのは万之助が狂気したといって座敷牢へ押し込め、朝比奈家を奪おうとしている。憤慨した。逆上した。そしてこの惨劇となったものである。  これほどすさまじい家事不取締りはない。事件は当時の最高裁、評定所で審理され、朝比奈・植村の両家は断絶、関係ある親戚の四軒も半潰れ、ほかに百家以上の旗本が連座の罪に問われて罰を受けた。  寛延といえば九代家重の時代、享保改革の反動はあったが、武士の堕落はまだまだそれほどでもなかった。その時期に、一家の中にこうも二組の姦通があるとはあまりにひどい。一千石といえば、表と奥のけじめはあるはずだ。  事はざっと右の通り。ここでちょっと思いあたることがある。百助が手をつけた妾のゆうが、医者の立碩に死なれて朝比奈家へ戻ったこと。百助は妻ぎのと、妾のゆうを同じ屋根の下に住わせていることがわかる。いうまでもないことだが、これも将軍・大名にまねて、旗本も妻妾を同居させていたことを物語る。妾を外に囲うのではない。  凄じき密通ものがたり。  さて、書くべきことは書き終えた。武家の奥御殿という特殊世界を、なんとか書物の中に写し出したつもりだ。ところがそのラスト・シーンが、陰惨な七人斬りではちょっと心残りである。もっと明るい話題で終りたい。  姦通ではなくて未婚の男女が、表と奥の境界を侵したらどうなるか。それを言い残してきたからつけ加えよう。「不義はお家の法度」として罰せられる。武家では自由恋愛を罪悪視したし、一家の規律上も禁止していた。痴情事件を起し、家事不取締りで罰せられるのを警戒するためだ。旗本ではなく、彦根藩の話だが、巻末にふさわしい明朗な事件がある。つけ加えたい——。  彦根の家臣向坂次郎右衛門の屋敷で、若党の杏平《きょうへい》が腰元美津と通じて懐妊させた。  彦根の家中はとくに士風が厳格で、こんな場合不義者として必ず成敗される。  しかし次郎右衛門の妻女の槇《まき》が思うよう、あたら若い命を、こんなことで捨てさせるのもかわいそうだ。まだ他人に知られたわけではなし、早く駈落ちさせればすむことではないか。槇はそれを夫に願い、ひそかに二人を落してやった。  ところが、どうして知れたのか役人が嗅ぎつけ、逃がしたことが露見し、向坂夫妻は永《なが》の暇《いとま》となった。浪人して麹町あたりに住んだが、年と共に困窮のどん底に落ちた。明日の米にもさしつかえる身である。  一方、駈落ちした杏平と美津は、浅草で小商売をやり、子供のお花もはや十五歳、平穏な日々を送っていた。時に延享三年(一七四六)二月二十九日、築地本願寺わきの武家方から出た火は、たちまち八丁堀、小網町、大坂町へと延焼、芝居町をひとなめにして浅草から小塚原まで焼き払った。杏平はこの火事で焼け出され、家財を失ってまたはじめから出直さねばならなかった。  だが少しも悲観しない。とりあえず蚊帳《かや》売りになって、街々を呼び歩いた。  ふと杏平が麹町の裏通りを通ると、うらぶれた女房から声をかけられた。安物の紙の蚊帳を買ってくれたが、その面《おも》ざしに見おぼえがある。思いきって聞いてみた。 「もしやあなたは、向坂様の奥様ではございませぬか」 「そういうそなたは?」  女房も驚いて聞き返す。 「杏平でございます。奥様のお情けで、助けていただいた若党の杏平でございます」  思いもよらぬ再会に、ただ感激の涙にくれたが、何より気になるのはこの裏店《うらだな》住いで……。 「して奥様、この御有様は?」  知らなかった。杏平たちが駈落ちしたあと、かれらのため罪を着て浪人されたとは……。みんな杏平たちのせいではないか。そのままにはできなかった。杏平は飛んで帰り、とりあえず米一斗と銭三百文を贈った。  次郎右衛門は固辞して受けなかったが、とにかく杏平は押しつけて帰った。その夜妻の美津と、額を寄せて相談した。三日や五日はあの米銭でどうにかしのげよう。だがその後どうお助けしたものか。焼け出されたあとだけに、杏平には旧主に贈る何物もなかった。そのとき美津がいった。 「この上はお花を金に代えましょう。幸い器量も十人並み。あのとき成敗されていたら生まれなかった子、今こそご恩返しをすべきです」  杏平も賛成して、さっそく女衒《ぜげん》に頼み、吉原の遊女に売った。お花は器量もよかったので五十両に売れ、そのうち十五両は女衒にとられ、三十五両を手に人れた。さっそくその金をもって向坂方を尋ね、いい商売があったので儲けました、どうぞ生活の足しにといって差し出した。  何しろ三十五両の大金なので、妻女の槇はどうしても受けとらない。押したり返したりのあげく、杏平はふと嘆息まじりに漏した。 「ちょっと商売のことで疲れました。近所で一杯ひっかけて来ますから、話はまたあとで……」  そして杏平は表へ出たまま、ついに日が暮れても帰って来なかった。夫の次郎右衛門が帰宅して、それはいかん、金を返そうということになった。が、ただ浅草辺とのみで杏平の住所は聞いてない。やむなく、今度来るまで預っておこうということにしたが、なにしろ家賃は数カ月も溜っている。ついその金に手をつけてしまった。  素浪人の次郎右衛門が小判で支払ったのを見て大家の甚兵衛が不審に思った。自分の家でちょうど三十五両を盗まれたところだったので、さっそく町奉行所へ届け出た。  ときの北町奉行能勢肥後守は、ただちに次郎右衛門を呼び出して取調べた。次郎右衛門は彦根藩当時のことから、すべてを率直に申しあげた。そこで肥後守は杏平を呼び出し、その口からも事実をたしかめた。不義のことはとにかく、再会以来の善行に、奉行もいたく胸打たれたようである。さっそく関係者一同を呼び出して申し渡した。 「家主甚兵衛は証拠もないことを訴え、武士に無実の罪を着せようとしたのは不届である。よって科料三十五両を申しつける。また、女衒は人身売買の禁止令を犯した罪により、科料十五両を申しつける。合わせて五十両、この金を吉原へ下げ渡すゆえ、花を親もとへ返しつかわすよう」  なんとも、当時にしては名裁判であった。この評判が彦根藩へ聞え、次郎右衛門は許されてもと通り藩へ復帰した。「不義はお家の法度」のかげに、人間性がのぞく佳話である。 [#改ページ]  あとがき  私は田舎の古い家で育ったせいか、どうも近ごろの奥行のない浅い家は気に入らない。陽当りはいいだろうが、外から家の中がまる見えの気がして、これでは憩いをとるための家の意義がないように思う。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』のように、人間の醜い面は見ずに暮らしたいものである。  そのためではないが、武家の奥御殿はずいぶん採光が悪かった。太い木組みのどっしりした建物で、その薄暗い中に厚化粧の奥女中が動くさまは、まことに幽艶妖美だった。女中たちは十二、三から十七、八歳、現代ならまだ高校も出ない若い娘たちが、厚化粧に掻取をひきずって勤務する。大奥ではそれがみな旗本のむすめである。御典医桂川甫周の妹も若くして大奥入りをし、天保十五年の本丸火事で、あるじを救うため火中へとびこんで死んだ。ふたりの侍女もあとにつづいて運命を共にする。忠誠心に凝り固まったそんな女を、陰翳の濃い奥御殿にほんのりと浮かび上らせたかった。永いあいだの私の念願であった。はたして目的が達せられたかどうか。  もちろん奥御殿について、今ある史料のすべてを集めた。が、秘密にされていた特殊世界だけに、まだまだぼんやりしている面がある。研究を重ねてそのうち大成したい。(稲垣史生) ◆考証[大奥]◆ 稲垣史生著