[#表紙(表紙.jpg)] 渡部昇一 新常識主義のすすめ 目 次  新常識主義のすすめ  不確実性時代の哲学     *  古事記・宣長・小林秀雄     *  漫画の時代     *  進化論の受容に関する一考察  百科事典の旧版について     *  モーツァルトとその時代  紛争の内容と形式     *  日米ファカルティ雑感  ファカルティの憂鬱  私立大学の存在価値     *  戦後教育・三つの矛盾  義務「教役」からの離脱     *  あ と が き [#改ページ]     新常識主義のすすめ     1  アイリーンは夫のウイルソンを教育してやろうと思っていた。ウイルソンは宏大な屋敷を相続している大金持なのであるが、彼女はそんなことは知らずに、偶然に知り合って結婚したのである。結婚してから、召使いや庭師のいる大邸宅に連れてこられて胆をつぶしたようなわけだった。ウイルソンは鷹揚《おうよう》な申し分のない夫だと思うのだが、ただグループ・セックスの価値を認めてくれないのが彼女の唯一の不満なのである。そこで夫の性教育をしてやらなければ、と彼女はひそかに決心したのであった。  アイリーンはグループ・セックスこそ男女の交流のあるべき姿であると確信していた。というのは、そこには人間の最も醜い性質である所有欲がないからである。男が女を財産のように所有するところから、家族制度というような醜怪なものが出来上ったのであるから、新しい時代の進んだ人たちは、すべからく男女の性的関係から所有欲という要素を排除すべきなのである。一夫一妻こそ所有欲の制度化であり、「醜」であるのに反し、所有欲を抛棄《ほうき》し、官能の満足を何人かのグループで分ち合うことこそ、「美」でなければならなかった。事実、アイリーンはマイアミにいた時、気の合った者同士が数人でやっているグループ・セックスの一員であり、そこで満足な性生活を体験していた。ウイルソンとは酒場か何かで知り合い、たまたま意気投合したので結婚する気になったのだが、そのうち彼をもグループ・セックス主義に改宗させてやることができるという確信を持っていた。  そういう女だから、アイリーンは申し分なくセクシイである。ウイルソンも彼女には惑溺《わくでき》といってもよいほどすっかり惚れこんでいる。しかし彼女の好色は、好色な男にはテレパシイの如く通ずるところがあると見えて、スーパーに入っただけでも、そういう男の視線があることをアイリーンは感ずる。それだけでも彼女は深いところで興奮してしまうので、それはウイルソンにもわかる。そこで当然のことながら嫉妬心というか、独占欲というか、アイリーンを自分のものだけにしておきたいという気持が彼には働く。そういうことは「おくれている」とアイリーンは考える。性的に保守的なアメリカ東部のプレップ・スクール風のピューリタニズムのしっぽを引きずっている夫を、すぐにマイアミで知り合ったグループ・セックスの仲間に入れることは難しいと考えた彼女は、そこに至る一段階として、とりあえず一夫一妻という狭い形式をやぶって見ようという中間的な案を思いつく。  アイリーンにはオードリィという父違いの姉がいた。三十三歳の独身の女教師である。彼女はセックスについて真面目に考えるタイプの女であったが、男関係はうまくいかない。今まで五人の男と関係があったが、短くて三カ月、長くて二年しか続かなかった。しかしすばらしい肉体の持ち主である。そのことをアイリーンは思い出したのだ。そして自分たちの新婚の大邸宅にこの義理の姉を招待する。当分、召使いや庭師には休暇をやっているので、近所の家というものが実際にないウイルソンの城のような館《やかた》の中では、男一人と女二人の奇妙な生活がはじまるのだ。  ウイルソンは当惑気味である。オードリィもはじめは普段はあまりつき合いのない義理の妹が何のために自分をよんでくれたかわからなかったのだが、「結婚したからきてみて頂戴」と言われてやってきてみたところ、それが豪壮な館だったのにびっくりし、義妹は金のために結婚したのかと思う。しかしアイリーンの意図が別のところにあるのを知って、彼女も当惑する。男の経験はあっても、オードリィは根は控え目な、羞《はず》かしがりやのところのある気質の女なのである。アイリーンは自分の夫と義姉が性的交渉を持つようにと、いろいろけしかけるようなことを画策する。アイリーンはセックスの先達であり、啓蒙された先覚者であり、熟練者である。それにくらべると夫のウイルソンも義姉のオードリィもナイーヴに見えてしかたがない。ウイルソンがオードリィの肉体的魅力を認めながらも、なんとなく羞かしがり、ぎごちなくて接近できないでいる様子を、はげますような立場から見ているアイリーンは、何だか息子のデイトの成功を願う母親のような感じさえある。  そんな状態がしばらく続いてから、室内プールで——ウイルソンはそれだけ豊かなのである——泳いだりしているうち、ついにウイルソンとオードリィの関係が成立する。アイリーンはそれを喜び、それ以後、男一人に二人の美女がベッドを共にするという生活がはじまる。それはまことに甘美な、充実した性生活の連続であった。ウイルソンのデープ・セブン(陰茎の愛称)も、その活力を少しも失わない。しかしアイリーンはその状態に満足し切ったわけでなく、何とかもう一歩すすんだ状態にまで夫を啓蒙し、グループ・セックスのアイデアを採用させたいのである。それで庭師の助手を連れこんだらどうかと提案する。ウイルソンもオードリィもそれに反対の意見を示す。するとアイリーンは二人の女性を相手にしていたらウィルソンのデープ・セブンはそのうち働かなくなってしまうだろうと揶揄《やゆ》する。ウイルソンはそれを聞いて、 「デープ・セブンはバーキスのようにやる気だよ(Deep Seven is as willing as Barkis)」  と答えたが、アイリーンには何のことかわからず、一瞬ポカンとしたようになる。するとさすが女教師をしているだけに、オードリィにはすぐわかった。 「ディキンズの『ディヴィッド・コッパーフィールド』ね。わたしはあなたがディキンズのファンだとは知らなかったわ。わたしがここに来てからあなたが本を読むところなど見かけたことなかったもの」  こんなことからウイルソンとオードリィの二人の間で、しばらくディキンズのことが話題になる。念のためにいっておけば、チャールズ・ディキンズはヴィクトリア朝の代表的小説家である。日本では彼の『クリスマス・キャロル』が広く知られているが、ここに出てくる『ディヴィッド・コッパーフィールド』は一八四九年から五〇年にかけて分冊出版された傑作で、彼の自伝的要素も織りこまれている。この作品の中で「バーキスはやる気だよ(Barkis is willin')」という言葉が印象的に使われていて、『ディヴィッド・コッパーフィールド』を読んだほどの人なら、誰でも知っている言葉である。だからディキンズを読んだことのあるウイルソンも何気なく「デープ・セブンはバーキスのようにやる気だよ」といったのであり、それは直ちにオードリィにも通じたのであった。  しかしバーキスというディキンズの作品の中の登場人物の名前が出てきて、そこから文学的な話になった途端に、今までこの三人の性生活では指導者的な立場にあったアイリーンは仲間はずれにされてしまったような気になる。また、実際お互いがディキンズ・ファンであることを発見してから、ウイルソンとオードリィの間には、今までとは違った親近感が湧いてくる。それまでは性的な交流のみであり、まあ、それでも十分に共感のあるものであったのだが、しかし今、肉体の共感のほかに、もっと別次元の共感もあるということが予期せぬ形で示されたのだ。 「これからはセックスの合間《あいま》には、ベッドでディキンズを音読するのもよいかも知れないね」  などという案も出た。ディキンズにはユーモアがあり、音読すれば、聞き手の方はかなり頻繁に笑うことになり、それはまことによいベッド・ルームにおけるアイデアというべきものであろう。夫と義姉のこうしたディキンズの話を聞いていたアイリーンは、今までにない孤立感を味わいはじめたのであるが、それと同時に、彼女は自分自身の体の中の変調に対しても、内なる聴覚を集中しなければならなかった。生理がはじまったのである。  かくしてその夜は、アイリーンはセックスには参加できなかった。その一方でウイルソンとオードリィはこれまでにない心の通うようなセックスを体験した。それまでも十分に充実したセックスだったのに、その晩のものは何か特別だと二人に思われたのである。翌朝になって、アイリーンはそのことを察して心におだやかならざるものを感ずるが、それを直接には示さない。何しろグループ・セックスの信仰者であり、その主唱者として二人を教育するつもりであったのだから。だが決定的な破局は間もなくやって来た。オードリィが妊娠したことがわかったのである。  そのことを知ったアイリーンは、狂気の如くとりみだす。そしてオードリィに堕胎することを迫るのだ。オードリィはそれを拒絶する。ウイルソンも堕胎には反対である。そしてあまりにも自制心がなく、夜叉《やしや》の如くに嫉妬に狂って荒れているアイリーンに幻滅して、離婚を決意するのである。かくしてグループ・セックスに至るための教養課程として始まった一男二女の性生活は、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になり、三人ともバラバラになって孤独の生活にはいることになった。何とも索莫とした結末である。     2  ながながと最近読んだあるアメリカの小説の内容紹介をしてきた。正確にいえば、単なる小説ではなくてポルノ小説である。これは四年前に『彼——私の中の動物』(Him——The Animal In Me)という題で出た匿名の著者によって書かれたもので、最近では日本のホテルのブックストアなどでもよく目に付く。なぜこんなポルノの話をするかといえば、それが正にポルノであり、その作者は匿名ながら大作家であるからである。  小説家になったことがないからわからないが、小説家というものは、時として思い切ったポルノを書いてみたいという誘惑を感ずることがあるのではないだろうか。近頃の日本では、輝かしい賞を取った人でもポルノにすぎないものを書いている例があるようだが、外国ではどうであろうか。『彼』の著者は、世界各国の言葉に翻訳された作品を持つ現代の大作家の一人とのことである。おそらくユダヤ教かプロテスタントの宗教を背景に持っているように感じられるが、そういう人が一つ思い切ってポルノを書きたいとなったらどうするだろうか。匿名にならざるをえないであろう。  匿名の故にこの作家は性的描写については徹底的な自由を得た。だから各ページはポルノである。しかし元来がちゃんとした作家なのだから、性の極限情況をポルノとして描いているうち、いつの間にか、普通の小説の形におけるよりもずっと純粋に現代における性の解放区の問題性を示すことになってしまった、と思われてならないのである。この匿名作家は、今紹介した『彼』の前に『彼女』というポルノを書いたが、それも結果的には、アメリカの大学人たちの性の荒野についての最も純粋な描写と問題性の暗示となって、読み終ったら本当に寒気がしてきたのであるが、それと共に、一種の「もののあわれ」みたいなものを感じたものであった。『彼』の場合にも同じく寒々とした感じと、哀れさと、それに寓意性を感じさせられたのである。寓意性といっても、作者がそれを意図したとはどうしても思われないのであるが、そこがまたこの作者が並のポルノ作家でなく、本当は国際的な名声のある小説家である所以《ゆえん》のものであろう。  グループ・セックスというのは、進化論的発想法の両極に想定される奇妙な理想郷《ユートピア》らしい。進化論的発想から言えば、現在の一夫一婦制を根幹とした家庭は、男性が女性を独占的に所有するという醜悪な所有欲から産み出された男女交流形態で、未進化なものである。更に|進んだ《ヽヽヽ》人間存在の状態にあっては、当然、所有欲に基づく男女関係は捨てられ、男女の性的交流の全き自由を保証するグループ・セックスが取ってかわるべきであるとされる。この意味では、グループ・セックスは現行のモラルの後に来るもの、より進んだもの、と考えられていることになろう。  同時に、グループ・セックスを支持する人たちの中には、現行のような夫婦制度ができる前、太古の人間は自由であった、と主張するルソー的考え方に基づいている人たちがいるらしい。現実に地上に存在する未開社会においては、グループ・セックスというようなものは行なわれていないと主張する人類学者もいるわけだが、そんな主張とは関係なく、ルソーの描いた原始状態に対するヴィジョンの流れを汲む仮説をかついでいる人たちも少なくないわけである。このようにして未来のユートピアを夢みる進歩主義者も、原始にかえるのがよいと考えるルソー的ロマン主義者も、全く同じ結論になってしまうのである。  特にアメリカという性道徳に対するピューリタン的考え方の強かった国においては、グループ・セックスはその反動として解放的な意味も持っている。何しろ一対一であったものが、多対多の関係になるのであるから、セックスの内容は飛躍的に豊富になると考えられやすい。そこには人間存在の根源的特徴であるセックスを、とことんまで重視して、これを基軸にして全生活を回転させようという意志があるのだ。したがって、そういう生活者を描く文学は必然的にポルノにならざるをえない。谷崎潤一郎の『鍵』もこの意味において完全にポルノである。ここに登場する老人は確か大学教授ということであったが、その人の生活における関心は、その日記から見る限りセックスだけだからである。セックス以外のことが意識から全く姿をひそめてしまった大学教授などというものが世の中にありうるとは考えられないから——何も大学教授に限ることはない、まともな職業をもった人間なら目醒めている時間の大部分は仕事関係のことによって意識が占められているはずだ——セックスのことだけ考えている風に描くこと自体が戯画なのである。セックスを中心とした戯画的物語をわれわれはポルノと称するのであるから、『鍵』はポルノであるといって差支えない。それは人体画のうち、男性性器の部分だけを他の部分と関係なく巨大に描いた画を枕絵、つまりポルノグラフィ・ジャパニーズ・スタイルというのと同じことである。  この意味でグループ・セックスを理想とするアイリーンの世界を描く匿名作家は、谷崎の如く真面目である。しいて違いを取り立てていえば、行為そのものの描写の部分が多いことであろうが、これは現代のアメリカの文学風土の中では当然のことであろう。しかし谷崎文学と異なると共に、われわれにとっても示唆的であるもっと重要な点は、『鍵』は最後までセックスだけだったが、『彼』の方では唯セックス主義の破綻《はたん》がディキンズの小説への言及によってはじまることである。これは二重の意味において象徴的であるといえよう。それはセックス以外の分野における共鳴がセックス自体にとって重要であるという示唆であり、もう一つはそこに出てくる小説がディキンズのものであるということそれ自体である。  ウイルソン、アイリーン、オードリィの三人はトリプル・セックスの関係に満足していたのである。そのままの関係が相当長い間にわたって続いたとしても少しもおかしくないところであった。しかしひょんなことからウイルソンがディキンズの小説に言及した時に、オードリィがそれに反応し、アイリーンはその言及がわからなかったということは、決して些事《さじ》ではない。人はパンのみにて生きるものでないように、肉のみによって生きるものでもないのである。ディキンズの小説のファンであるということによって、肉体の交流のみならず、精神的な交流が成り立つことがわかったのであった。これは多少とも本を読んだ経験のある人間ならば想像できることであろう。  手近なところで自分の例をあげてみることにする。私はこの二、三年の間に、ハマトンの『知的生活』という四五〇ページばかりの本を二度ばかり通読し、おまけに教室でテキストとしても使った。この本は今から百年ばかり前にイギリス人によって書かれ、相当広く読まれたものであるが、第二次大戦が勃発してからは再版になった形跡はなく、今の英米人でも知る人はほとんどなくなってしまった。ところがたまたま早稲田大学のピーターソン氏の自宅に招かれた時、そこの書棚にハマトンの『知的生活』や『人間の交わり』を見たのである。聞くとピーターソン氏もハマトンの愛読者とのことであった。私は今の英米人にまだハマトンを愛読し、そこにのべられている知的生活に共鳴する人が残っているとは考えていなかった。一瞬のうちに私はピーターソン氏の中に百年の知己を見出した。ハマトンを座右に置いている人となら、何を話しても、何時間話しても大丈夫なのである。これが最近出たベストセラーだったり、有名すぎる古典だったりすると、愛読者が多すぎて、こういうように知己を感ずるということにならないと思うが、今の世の中にひそかにハマトンを愛読している人なら、長い間つき合ってきた人よりも、深い心の交流がありうることは直観的に明白なのである。  ハマトンといえば最近、彼のことがクリスティーの『奉天三十年』に出ていると第一勧銀のS氏が教えてくれた。この本は二十数年前に読んだきりで、細かなことは記憶してなかったのであるが、なるほどそこには次のような記事がある。奉天で伝道医師をしていたクリスティーは拳匪《けんぴ》の乱によってその経営していた病院や私宅は破壊され、焼かれ、奪われ、ほとんど何も残されなかった。ただ、 「我々は焼け跡から陶器や装飾品の破片を見出すことができた。一人のロシヤ兵が衙門《ヤーメン》の建物の中から見付けた英語の本を一冊私に渡した。それはハマトンの『知的生活』で、高地《ハイランド》にいる私の老叔母に著者から贈られたものであるから、私にとって貴重な本であった。他に沢山の物が亡んだのに、この見すぼらしい古本が残ったのは不思議なことである」(矢内原忠雄訳・岩波新書・昭和十三年・二一三ページ)  この記事から、ハマトンから自著を贈られるような関係にあったクリスティーの叔母さんに親しみを感ずるし、それを大切に持って奉天で読んでいたクリスティーにも、このことを知る前には感じることのなかった親しみを感ずる。ある本の愛読者同士の間に流れる感情とはそのようなものではないだろうか。  ディキンズの『ディヴィッド・コッパーフィールド』も、今のアメリカ人で読んでいる人は少ないであろう。いくら評判が高かったとはいえ、何しろ百二十年以上の昔のイギリス人の小説であるから、普通の若いアメリカ人が読むようなものではない。それを読んでいるということ、しかも「バーキス・イズ・ウィリン」(バーキスはやる気だ)という文句がピンとくるということは、相当高度な段階において教養が共通し、その趣味を分ちうるということである。つまりウイルソンとオードリィはお互いに百年以上前の小説を耽読《たんどく》するような青春時代を持った人間であることを確認し合ったのであった。その夜の二人のセックスは今までになく——それまでも十分満足していたのに——深い満足感を与えるものだったのだ。セックスの質が変ったのである。 「二人は話もしなかった。キスもしなかった。男は女の乳房に口を当てることもしなかった。そんなことは一切せずに、ひどい単純さで二人はひたすら行為を続けたのであった……」  それまでの性行為の描写が派手だから、これは鮮やかな対比である。描写するほどのことはない性行為が、最も深い交流であったことはパラドクスである。しかし肉体のみならず精神的な交流を実感した二人にとっては、単純な行為が技巧の限りを尽した行為とは比較にならぬすばらしい体験を与えてくれるものになったのだ。肉体だけの快感だけにとどまり、その量的拡大はグループ・セックスにのみ見出しうると信じているアイリーンは、決定的に二人から孤立してしまう。深いところで繋《つなが》りが切れてしまったのである。     3  この『彼』を書いた匿名作家は、なぜこんなところにディキンズを出してきたのだろうか。それはウィリング(やる気だ)という言葉を陰茎について使うためにたまたま持ち出された感じであり、作意性は全くない。しかしその自然さが正に作家の力量というものなのであろう。しかもそれがディキンズであることが、考えれば考えるほどよく利いているのである。  ディキンズの描くところは庶民、あるいは普通の市民であり、芸術至上主義者だとか、ハイブラウな人たちとか、スノッブとか、貴族とかにはほとんど関係がない。市井の人の日常の生活をユーモアを交えて描いているのが特徴である。そこに出てくる人物も事件も、常識の範囲で理解できるし、変り者が登場しても、それはカリカチュアになっている。  ディキンズを日本でいえばどんな作家になるであろうか。作品の雰囲気は大いに違うし、扱われている階級も少し上であるが、しいて佐々木邦を類比して考えてみたい。ディキンズと佐々木邦は教養の背景も対照的に違うし、気質的にも反対だったような気がするが、日本の作家で、普通の人たちの普通の生活を、常識的に、しかもユーモアをまぜて描いた暖かい感じのする作家といえば、いま佐々木邦しか思い当らないのでそうするのであるが、入念な性行為の描写の続くポルノの中の会話に、佐々木邦の作品への言及が出てきたらどんな感じがするか想像してみてもらいたい。たとえば女のヒモのようなことをしている男と、その女たちの間に次のような会話があったとする。 「あなたはなまけ者で、縦のものを横にもしないわね」 「だが僕は横になっているデープ・セブンを立てて生活している。つまり横のものを縦にすることによって生活しているわけサ。珍太郎のお父さんのようにね」  それを聞いて女の一人はポカンとするが、もう一人のそれまであまり積極的な役割を演じていなかった女が、 「それ、佐々木邦よね。『珍太郎日記』のお父さんの職業」  といったとしたらどうだろう。自分が佐々木邦を読んだと同じように喜んで佐々木邦を読み、自分が記憶していると同じように『珍太郎日記』の一場面を記憶している女性が出てきたら、その男はそこでいうにいわれぬ感激やら懐かしさやら共感を持つはずである。「あの佐々木邦を愛読していたのか、この女は」と思ったとたんに、目の前にいる女は単なるセックス・パートナーではなく、話による交流、つまり精神的にも交流できる相手であると認識しなおすであろう。その側で、そうした会話から置きざりにされているもう一人の女は、これは今まで通りのポルノ的な相手にすぎない。ウイルソンが体験したのは正にそういうことなのであった。事実彼は、その話の出てきた夜には、ディキンズを書棚から抜き出し、久しぶりに何ぺージかめくって見るのである。その後にオードリィと今までになかったような、魂まで満足させるような、例の単純動作のセックスを体験したのであった。良識の世界がディキンズの登場で、あたかも海中の岩の如く出現し、そこにグループ・セックスに至る訓練期間ともいうべきトリプル・セックスの生活の船が衝突して沈没したという感じである。  三人の生活を更に確実にぶっこわすのは、あの単純動作のセックスによってオードリィが妊娠したという事実であった。このことを知った時、アイリーンは嫉妬で狂気の如くになる。グループ・セックスは所有欲を揚棄した行為のはずであった。所有欲あるいは独占欲のなくなったセックスに嫉妬はないはずであったのに、ひとたびオードリィに子供が出来たと知るや、アイリーンはその堕胎を要求してやまないのである。そしてこの嫉妬に狂う姿にあいそを尽かしたウイルソンは「汝を離婚す」(I put thee away)という古風な英語で繰り返して離婚の宣言をする。  この宣言に至る前、ウイルソンはなぜこの三人の生活は解散しなければならないかの理由を反省してこういう。 「なるほどわれわれ三人はこうした生活をやって楽しかった。しかし楽しかった理由は、われわれが実に多くのものを拗棄していたことに気付かなかったからにすぎない……アイリーン、僕は君のいうことに従ってきた。そうする度ごとに君の考え方のどの点が間違っているかが君のためにも僕のためにもはっきりとわかってくるだろうと考えたからなんだ。しかし僕にはそれがわからなかった。もっともわれわれがそれを直視する気にさえなれば、いつでも、眼前にあって、はっきり見えたと思うんだけれども。実に明快単純なことだったんだね。つまり君の流儀のセックスはね、アイリーン、要するに神意にも叶《かな》い、自然にも叶っているセックスの第一義をすっかり忘れていたということなんだよ」 「それは一体どういう意味?」 「つまり子供を作るということをすっかり忘れていたということさ」とウイルソンは言った。  ウイルソンは更に静かに、反省的に言葉を続ける。 「君流の考え方はすっかり破産してしまったじゃないか……アイリーンは自分を新しい女だと思っていたが、そんなんじゃない。アイリーンは昔ながらの人間の業《ごう》である嫉妬や憎悪のかたまりになってしまった。セックスのためにはそうならなかったが、オードリィが母親になったら、太古以来の動物本能がすっかりむき出しになった。アイリーンは嫉妬とか憎悪なんていう古い動物的本能などすっかり乗り超えた境地にいたと自慢していたんだが」  かくして三人はバラバラの道を行く。ウイルソンは、アイリーンにはその大邸宅をくれてやる(離婚話の時にアメリカの男は不動産に執着しないのが通例である)。誰もいなくなった大邸宅に一人残されたアイリーンは、マイアミにいるもとのグループ・セックスの仲間に長距離電話を入れるが、相手がその受話器を取り上げた音を聞いた時に、彼女は急に思い返して電話を切ってしまう。その結末は知れたものであることが今やわかったからである。そしてがらんとした大邸宅の温水プールで、あてのない水泳をはじめた、というところで『彼』というポルノは終っている。     4  六〇年代の終り頃から七〇年代のはじめにかけて、大学改革をはじめとして何といろいろの試みが行なわれたことであろう。特にアメリカや日本ではヴェトナム反戦運動とからみ合って、新しいアイデアで世の中は満ちているように思われた。スワッピングやグループ・セックスや麻薬や同性愛の問題が大手を振って出てきた感じであった。特にピューリタン的性道徳がそれまで支配的であったアメリカでは、性に関する解放が日本よりは大きな思想的問題であったように思われる。『プレイボーイ』誌は日本人の目からは若い女性の裸体の多いポルノ誌のように見えたが、発行当時のアメリカにおいては、あれは新しいライフ・スタイルを主張する一種のイデオロギー的主張を持った雑誌であった。そこでは今までの生活規範が一度はひっくり返されるのである。厳格な一夫一婦制に対してはグループ・セックスをはじめとする別の性的ライフ・スタイルの価値が尊重される。またセックスにおいては男が主導型というのが通念であり、男が求め、女が従うということになっていたのがひっくり返される。『彼』においても、若い素人の女の方が性のヴェテランであり、ナイーヴな男を指導するようになっているし、セックスの仕方にしても、女の方があれこれ指図するようになっている。  だがこうした性の新スタイルは、完全に、しかも簡単にぶちこわれたのだ。それは男女の交わりにおいては肉体だけですむものではない、ということがディキンズの小説によって暗示され、また、性には妊娠が伴うものであるという現実によって明白になる。しかしこんなことは「常識」ではないのか。しかし新しいアイデアは「常識」の前にいともたやすく崩れるのである。  ではこの「常識」とは何であろうか。 「常識」というと今の日本語では、しばしば「常《ヽ》人でも持っているような知|識《ヽ》」というような意味に使われる。しかしこれでは英語のコモン・センスの意味にはならず、コモン・ノレッジである。センスには知識という意味はない。センスは識別力の方である。だからコモン・センスを「常識」と訳すとすれば、それは「常《ヽ》人でも持っている識《ヽ》別力」という意味での「常識」であって、「知識《ノレツジ》」の意味を含ませてはいけないのである。  元来、西欧における「常識」の起源はアリストテレスの『霊魂論』(第二巻・六章)にコイネ・エスセニス(「共通感覚」とでも訳すべきか)に端を発すると言うのが定説である。つまり目、耳、皮膚などの五官は、それぞれバラバラの感覚であるが、人間の頭の中ではそれが統一されているように思われる。たとえばアスピリンの錠剤は、視覚によれば白く、触覚には固く、味覚には苦い。それぞれバラバラの印象なのであるが、頭のどこかでまとまって「アスピリンの錠剤」という一つの表象ができる。このように本来バラバラで異質な五官からの情報をまとめて一つのものとして知覚する能力を、アリストテレスはコイネ・エスセニスと呼んだのである。これは後のアリストテレス学者やスコラ哲学によって「|内 官《イナー・センス》」として解釈されたが、それは人間精神の諸能力の「まとめ役」といったような意味であった。  何しろわれわれの感覚器官はそれぞれ違った種類のことを知覚するのに、頭の中ではそれが一個の対象として認識されることは万人の経験することであるから、「内官」というのは捨て難い考え方で、今日でもそれを重視する心理学の一派があるそうである。  十七世紀のイギリスでは、この内官を更に三分して、|常 識《コモン・センス》、想像力《フアンタジー》、記憶《メモリー》とした思想家がいる。このほかに外官、つまり五官があって、全部で八官あることになるが、そのうちでもコモン・センスは、その他の七官の「裁判官《ジヤツジ》」であり「調整者《モデレイター》」である。五官もそれぞれ勝手な印象を持ちこんでくるし、想像力も記憶もまたそれぞれとりとめのないことを持ちこんでくる。それをバランスとってまとめるのがコモン・センスというのである。このコモン・センスの調整機能がうまく作用しなければ、人格の統一もなく、分裂者——十七世紀にそんな言葉はなかったが——となるより仕方がない。こういうところからコモン・センスとは、「それを欠くならば人間が|馬 鹿《フーリツシユ》か|気違い《インセイン》になるもの」というような定義をかかげている辞書まで出てくることになった。「馬鹿《イデオツト》や|気違い《ルナテツク》以外なら万人に共通な判断力」ということになると、コモン・センスのコモンは「常《ヽ》人に共通」という意味の「常」になって、今日の意味の|常 識《コモン・センス》になり、更に日本では「識」という漢字からの連想で「知識《ノレツジ》」の意味を含んで、「常人に共通な知識」ということになった。  語義の変遷はだいたい以上のようなものであるが、十七世紀から十八世紀にかけてのイギリスの哲学史から見ると、「常識」は極めて重要な意味を持っている。というのは、イギリスやスコットランドでは極端な主観主義、あるいは観念論が起ったからである。イギリスの観念論者は、先ずロックのいわゆる第二次性質——熱さ、冷たさ、甘さなど——を単に観念、あるいは印象にすぎないとしてしまった。バークレイになると同じ思考の原理を更に一歩すすめて、外延、形態などの第一次性質までをも観念か精神にすぎないものと見なすに至った。ヒュームは更にバークレイの精神《スピリツツ》まで否定したので、この世にあるものは観念と印象だけという妙なことになったのである。  本当にあった話かどうか知らないが、当時の代表的イギリス人であったサミュエル・ジョンソンについて次のような逸話があったとされている。このジョンソンという大常識家が、バークレイと会った時のことである。しばらく話してからバークレイが帰るというので席を立った時、ジョンソンはこういってひきとめた。 「バークレイさん、帰らないで下さい。あなたが私の目の前からいなくなることは、あなた御自身の説によれば、あなた自身が消滅してしまうことになります。私はあなたにこの世から消滅してもらいたくないのです」  と。いかにもジョンソンらしいユーモアであるが、極端な観念論に対する批判としては一概に笑ってすますわけにはいかないものを含んでいるようである。観念論に対するもっとも強い反動が起ったのは、ヒュームの生まれ故郷であるスコットランドにおいてであった。期せずして反観念論学派、いわゆる「常識学派」が生まれたのである。後にカントはこの常識派を自説の本質的な敵と見なして、軽蔑的に「常識をふりかざせば、どんな軽薄なおしゃべり者でも、最も深遠な哲学者と冷静に向い合うことができ、しかも議論しても負けないのだ」と揶揄《やゆ》した。それでカントの影響力の強いところでは、「常識を持ち出せば哲学の終り」などといって常識を軽く見るのが常である。しかし二十世紀になってもG・E・ムアのような常識哲学者の弁護論者が出、しかもそれを支持する英米の哲学者の少なくないことも確かなのである。では常識哲学が極端な観念論をどういって批判していたのだろうか。  十八世紀の常識哲学の代表的な人物であるリードは、ヒュームの観念論は、結局のところ一種の帰謬《きびゆう》法になることを指摘した。帰謬法——レドゥクチオ・アド・アブスルドム(reductio ad absurdum)——とは、元来はアリストテレスの論理学に由来するものであるが、通俗的には、議論倒れになるような極端な議論のことである。ある命題を押し進めていくと、必然的に不合理な結論に至らざるをえないことを示すことによって、はじめの命題自体の不可であることを論証する方法である。観念論者は、当然ながら観念を重視する。しかし観念論者の立場を押し進めて行くと、ヒュームの説のように、この宇宙の中には観念と印象だけしかなくなり、実体を具《そな》えたものは何もなくなってしまう。人間の場合も、頭の中に浮ぶ観念や印象はあっても、その人の頭もなければ肉体も実在しないことになる。それは実際上、馬鹿げた話なので、観念論の結論自体が、観念論の出発点が間違っていることを証明している、というのが常識哲学の主張である。この「|馬鹿馬鹿しさ《アブスルドム》」から逃げようとするならば、やはり自分の頭の働き以外の、他の客観的存在物があることを認めなければならぬ、ということになる。そして自分のほかに客観的な物が存在するならば、これを知覚する五官やら、それについての記憶やら空想やらが生ずることになり、これをまとめる「常識」があり、この常識が働いている状態の人がノーマルなのであるということになる。この結論は観念論の場合の如く「|馬鹿馬鹿しさ《アブスルドム》」におわっていない。つまりこういう考え方をしても日常生活の体験と少しも背馳《はいち》しないし、むしろその説明に都合がよいのである。     5  この常識哲学の視点から『彼』という例のポルノを見直してみたらどうであろうか。すると奇妙な類似性が浮き上ってくるのである。観念論では観念や印象が頭の中にあることは確実であるとしながらも、観念や印象の背後にあるものの存在を拒否する。哲学的にいえば「拒否する」ことなのだが、結局は「無視する」ことと違わない。なるほど印象や観念が存在することは疑いえないけれども、それだけに極端なウエイトをかけてしまうと、いつの間にか宇宙から実体がなくなって、「精神」あるいは「幽霊」——英語でいえばどちらも |spirits《スピリツツ》——だけになってしまい、更に極端になって、その幽霊まで消えて印象と観念のみになるということは、問題を人間のセックスとして見た場合にも同じことになりそうである。  セックスの行為の間の「快感」——哲学的には「印象」とでもいうべきか——についていえば、その存在は疑問を容れる余地のないことである。そこで「セックスの快感」という手ごたえのある実感にウエイトをかけて行くと、結局はグループ・セックスが理想のように見えてくる。相手が多様であれば印象も多様ということであり、多様というのは豊かさであって、セックスの「印象」は豊かであればあるほどよいだろう、ということになってしまう。  ところが、バークレイに対して、「帰らないでくれ、君が目の前からいなくなることは君自体の消滅なのだから」といったジョンソンの言葉に示唆される如く、バークレイの学説を考えた人までがその説によれば消えてしまうのだから、おかしい。つまりそういう観念論あるいは唯心論を考え出す人自体を捨象していた意味で、バークレイやヒュームの考え方は、「馬鹿馬鹿しさに還元しうる」のであり、これが reductio ad absurdum の文字通りの意味である。  唯|心《ヽ》論が重大な点を「捨象」することによって成り立つように、唯|性《ヽ》論も重大な点における捨象によってのみ成り立つ。つまりセックスは快い印象を与えるけれども、性的器官は単なる快感器官でなく、妊娠が前提とされた器官である。妊娠するのが自然なので、妊娠しないためにはむしろさまざまの不自然な工夫が要る。ということは唯性主義は、性的器官の自然的条件を捨象するという無理の上に成り立った主張にすぎない。丁度、唯心論が観念なり印象を持つ、当の本人を捨象するという無理の上に成り立った学説であったように。  ひとたび捨象したものが捨象し切れるものでないことがわかった途端に、唯心論であれ、唯性論であれ、その虚構はがらがらと崩れるのである。ドイツ観念論が全く流行しなくなったのは第一次欧州大戦のためであったという。戦場の経験者たちは、もはや「|安楽椅子の上の哲学者《アームチエア・フイロソフア》」として、世の中にあるのは観念と印象のみ、ともいっておれなかった。何しろ飛んで来るのは「印象」ではなく「実弾」なのだから。イギリスにおいても第一次大戦前はドイツ観念論の影響が強くて、アングロ・ヘーゲル派という有力な哲学の流れがあった。その代表的な人物であるオックスフォードのF・H・ブラッドレイの『|現 象と実 在 《アピアランス・アンド・リアリテイ》』(一八九三)などは、その考えの進め方といい、結論といい、それより約百五十年前に出たヒュームの『人性論』と同じであるといってよかろう。ヒュームはリードらのスコットランド常識派にとってかわられたが、ブラッドレイの考えは、第一次大戦で多くの人の支持を失い、その後にはさっき名前をあげたG・E・ムアたちの新・常識論が登場してくるのである。  アイリーンの唯性主義をぶちこわしたのは戦争というような大事件ではなく、オードリィの妊娠という簡単なことだった。セックスをすれば女が妊娠することは太古からの日常のことであり、現在だって毎秒何万人か何十万人かの女たちが世界中で体験している平凡なことにすぎない。これを捨象しようとしたのだから、アイリーンの主張は元来が無理だったのである。  ひとたびこの平凡なことが唯性主義の虚構の中に入ると、それまではなくなっていたとされていたアイリーンの嫉妬心も爆発する。妊娠が捨象されているような虚構の状態では嫉妬心のような感情も捨象しえたであろうが、ひとたび前提となる大虚構が崩れれば、休火山の如く心の奥にひそんでいた嫉妬心も大噴出、大爆発して、三人をそれぞれの方向に吹き飛ばしてしまう。  考えて見ればアイリーンの唯性主義が捨象していたのは妊娠ばかりでもなかった。セックスする人にも心があるということもすっかり忘れられていた。共通の話題を持つこと、共通の知的体験を持つこと——このこと自体はセックスと何の関係もない——をもアイリーンは捨象していた。人間存在の根本的要件みたいなものを全部捨象するぐらいだから、男女関係における独占欲でも捨象できる。グループ・セックスという結構な関係の成り立つ条件というのは、つまりそれを捨象したならば人間でなくなるようなものを敢えて捨象することであるから、それはつまり非人間的な関係ということになるのである。丁度、人間個人の存在というのを捨象して非人間にしないと観念論は成り立たないように。     6 「今度の戦争は難しいことになるよ」  と日華事変が勃発した当初からいっていたのは私の伯母であった。彼女は本当に昔の人で、義務教育の恩恵さえろくに受けていなかったから新聞も読めない人であった上に、ラジオも普及していない田舎の話だから、これという情報源は何もなかったのである。極く極く微量のうわさ話から、ほとんど正確に未来を予測していたことになる。おそらく世界地図など見たことがないからシナ大陸が日本の東にないことだけは知っていても——日本は朝日の出《いず》る国という知識はあった——それが北西にあるのか南西にあるのかは知らなかったろう。オーストラリアなどはおそらくその存在さえ知らなかったと思う。  これに反してこの伯母の息子、つまり私の従兄や私の父などは、新聞も雑誌も読んだし、世界地図はしょっちゅう眺めていた。しかし日華事変の頃や、太平洋戦争の中頃まで、彼らは日本の敗戦などは夢想もしなかったのである。戦前の日本のことだから、男と女が戦の見通しについて議論するなどということは全くなかったが、思い出してみると奇妙なのは、私の周囲にあっては、本を読んでいる人ほど戦局の判断が甘かった。東北の田舎町でも、更に奥の村落部への疎開があったのだが、「こんな所に爆弾が落ちるようじゃ日本も戦いはおしまいだろう」などといって、一向に疎開もしないのは近所の字の読めないおじさんであった。  これはまことに素朴な体験であって、そこから学識と知恵は反比例するなどという結論を引き出す気は毛頭ない。しかしようやく物心がついたころに、私にも読めるものを読めない人たちの判断の方が、私のまだ読めない難しいものを読める人たちの判断よりも、画然としていたということは不思議な体験として、その後、いつまでも私の頭から去らなかった。そして西洋の哲学史を学ぶようになってから、「捨象」という概念を知り、おそらくこの捨象ということが、この知識と知恵の乖離《かいり》現象を説明してくれるのではないか、と思うに至った。そして田舎の無学な人たちがよくいう「ただの馬鹿ならいいけれども、学問をした馬鹿ほどこわいものはない」という諺みたいなものの意味も何となくわかってきたような気がした。  捨象のことは別の言葉で抽象といってもよい。抽象能力は明らかに知力の指標であり、学問の出発点である。ガリレオが振子の法則を発見したのは、その振子の美しさとか色彩とかをすっかり捨象して、振子の「運動」ということだけを抽象して考察できたからである。科学の進歩は一にかかってこうした抽象にある。  自然科学ならばそれでよいのだが、生きている人間や社会を考える時には、捨象してはいけないものがあるのではないだろうか。日華事変を起した人や、それを支持する世論を作った人たちは、大陸政策のことばかり考えて、アメリカ、特にその潜在工業力のことは捨象してしまったように見える。しかし無学な人は学問のための抽象力もないかわりに、勝手に事実を捨象する力もない。そこで知識の縮小均衡ともいうべき一種のバランスが生じて、判断としてはあまり狂ったものにならないのではないだろうか。戦前の田舎の人で、本や新聞を読めない人は、アメリカの工業力を抽象的な数字では知らなかった。しかしリヤカーのタイヤはダンロップに限るということは確実に知っているから、それを捨象しないのである。  戦後においても事態はあまり変らないように見えた。大内兵衛博士をはじめとする偉い経済学者たちは、戦後間もない頃のソ連を視察してきて、社会主義体制のすばらしさをたたえた。マルクス主義は高度に抽象的な学問であるから、田舎の無学な者たちはそれに対して何もいえない。しかし大内博士らに和してソ連をたたえることは決してしなかった。なぜならば身内の中に、あるいは同じ村の中には何人かの満州引揚者やシベリヤ抑留者がいて、地獄の思いをしていることを知っていたからである。そういう現実を捨象できるほどの知力がないのだ。しかし明らかに無実な数十万の同胞が戦争が終ってからも強制収容所で塗炭の苦しみをなめ、望郷の思いにかられながら死んでいっているというのに、そういう非情な国の体制を賛美できたという日本の文化人や学者たちの知力というものは何であったろうか。それは明らかに高度の捨象力である。それはアメリカの潜在工業力をも捨象できた戦前の秀才新官僚・秀才軍人の知力と同質のものだったのではないか。     7 「パートナーに対する独占欲がないからグループ・セックスは高級である」  というのがアイリーンの主張であった。これと同じように、 「個人の私有欲を否定しているから社会主義社会はすぐれている」  というようなことが戦後広く唱えられてきたように思われる。しかしアイリーンのグループ・セックス礼賛も、本当のところ所有欲も独占欲も嫉妬心も消滅させはしなかったのである。しばらく恣意的に捨象していたのであるから、それはたちまち通常よりも激しい形で復活してきた。これと同じように、社会主義理論は、その出発点において、階級闘争だけを重視して、国家とか私有欲とかを捨象したのではないだろうか。捨象というのは頭の中だけの話であるから、現実には少しもなくならない。なくならないことがますますはっきりして来ているのが近頃の状況であると考えられる。  国家をなくするはずの社会主義国が、もっとも国境に敏感である。アメリカとカナダの国境問題はないが、社会主義国の周辺は過去の帝国主義時代の諸国家同士の如くピリピリしている。アメリカが沖縄を返還したのに、社会主義国ソ連は自分の国の広さにくらべればケシつぶのような北方領土を抱えこんではなさない。これが所有欲でなくて何であろうか。  社会主義は理論上は国家の解消を説いたが、実質上は恣意的捨象にすぎず、国家は少しもなくならないのみか、かえって悪化したようである。それと同じく、個人の所有欲も理論上は捨象できても実質的には少しもなくならない。このことは去年の夏頃に出版されたオタ・シクの『新しい経済社会への提言』(篠田雄次郎訳・日本経営出版会)に次のような言葉が見えるからである。ちなみにオタ・シクはチェコスロヴァキア共産党中央委員会党幹部学校教授、科学アカデミー経済研究所所長、共産党中央委員会委員、経済大臣兼副首相として「プラハの春」の自由化の時期を指導したが、たまたま海外出張中にプラハはソ連軍の戦車の制圧下に置かれたので帰国できず、そのままスイスに亡命して現在ザンクト・ガレン経済社会大学教授として活躍している。この経歴が示すように、彼は東欧共産国の理論も実際も、裏も表も知り尽している人である。その彼はいう。 「庶民は工場、生産、計画、中央統制、国家に対して全面的に無関心になる。この疎外現象の最も特異な現象は実に無数の窃盗である……勤労者のよくやる方法は不正労働である。日中は自分の力をできるだけセーヴして、夜になると手伝いなどをして収入をふやす……庶民は体制に対して無関心となり、自己の生活は体制から脱けだしたところに始まる。週のうち五日は遅れず、休まず、働かない。ただ残りの週の二日に生命を燃焼させる」(一〇三—四ページ) 「不足がちの製品は特殊の階級のものに配給され、闇市場が発生し(最も物資の調達に不自由しないのは高級幹部党員と、おもしろいことに流通業務に携わる幹部党員である)、もぐり作業用として生産事業所や流通事業所から原材料を盗むことが一般的となる」(一二六ページ) 「しかし最も根本的な矛盾は、結局、政治的発言権のまったくない、権力を持たない大衆と、全政治権力を独占する党幹部と高級官僚のごくわずかの上層部の人たちとのあいだにある対照である」(二〇八ぺージ)  このような引用を続けて行けば全くキリがなくなるが、要するに共産革命によってなくなったはずのものが、すべて厳存していることである。厳存しているどころか、悪質になっているのである。新しい階級はできたし、弾圧もあるし、個人の所有欲も少しもなくならない。それは鈴木俊子さんの『誰も書かなかったソ連』(第二回大宅壮一賞受賞作品)の記述を裏付けるものである。  国家がいらないとか、階級がない社会とか、所有欲のなくなった人間などというのは、いずれも重大なことを捨象して出来上ったイデオロギーの中にのみ存在し、現実はそういう捨象作用によって少しも変らないのである。日本でも近頃は、哲学界では新感覚論の名のもとにバークレイやヒュームばりの哲学の流行が見えるし、ウーマン・リブ系の理論の中にはアイリーンなみの主張が聞かれる。また少なからぬインテリは自分の国家を尊重する議論を恥じ、個人の所有欲がなくなる日が来るような政治体制を説く。しかしそれはいずれも「|馬鹿らしさに還元《レドウクチオ・アド・アブスルドム》」しうる主張なのだ。このレドゥクチオ・アド・アブスルドムは別のいい方ではレドゥクチオ・アド・インポスビーレ(reductio ad impossibile)ともいう。つまり「不可能なことに還元」できる議論ということである。そして現在の社会主義の主張は、いずれもつきつめると、「馬鹿馬鹿しさ」や「不可能」に還元できるもののようである。「公共料金を下げて税金を安くし、公務員の給料を上げる」などという公約は、「全員白星になるような大相撲」(伊藤善一氏の言葉)と同じであって、|馬鹿馬鹿しく《アブスルドム》もあり、不可能《インポスビーレ》でもある。  一九七一年を通じて起った一連の事件を見ると、重大なことを捨象した体制はいずれもボロが出るということを示しているように思われる。革命を起しても人間のやることは変らない。ソ連のことはすでにふれたが、ソ連よりも道徳的には本質的にすぐれていると、日本の進歩的文化人や新聞がさわいだ毛沢東治下のシナでも、『三国志』以来の人間性は変っていなかった。革命を起さなかったイギリスやスウェーデンでも、ひとたび社会主義の方向へ足をふみ出してしまえば、おそかれはやかれ、非常識《ヽヽヽ》なところまで税金が来てしまうものであることを証明したようである。観念論の方へ一歩踏み出せば、その人間の実在まで消すような非常識《ヽヽヽ》に至るように。  こうした現代の狂気からのがれるためには、重大なことを捨象してしまわないことである。国家は大切なものであるし、個人には所有欲とプライヴァシイヘの欲求があり、社会には何らかの階級があるものであることを認めた上で議論をすすめた方が、実際にはよい結果が生ずるであろう。日本が独立後、自民党がずっと政権を取り続け、野党との政権交替がなかったのは、野党の方の主張が常に重大なことを捨象していることに対して大多数の日本人が危惧《きぐ》の念を抱いたということにほかならない。ロッキード問題でも保革交替しなかったのは、日本の投票者の大半がまだ現実捨象の野党に信を置かなかったということになるであろう。「常識」というものは要するに重要なことを捨象しないでバランスを取ることにすぎないから、歯切れはあまりよくないのが普通である。しかしニコラス・アマーストが丁度二百五十年前にいったように、「世の中には|常 識《コモン・センス》ほど|常ならざる《アンコモン》ものはない」のであるから、常識をふまえた政治も決して常にあることではない。しかも庶民の常識をくもらせ、捨象を正義と信じさせるようなデマゴーグの議論が横行する世の中である。常識の前途には「風雨強かるべし」との予兆《オーメン》がきざしてからすでに久しい。かつて常識論の支配がイギリスを流血革命から救って長期の繁栄のもとになったように、わが国にも強力な新常識が生じて、捨象主義イデオロギーを圧し、永い泰平と繁栄の世を開いてもらいたいものである。 [#改ページ]     不確実性時代の哲学       ——デイヴィッド・ヒューム再評価——     1『英国史』の著者  ある著述家の人気を計るインデックスの一つは、疑いもなくその古本相場である。哲学者としてわれわれに知られているデイヴィッド・ヒュームの『英国史』八巻は、今から九年前の一九六九年、オックスフォードの古書店サンダーズで六ポンド六シリングであった。それが去年、エデンバラの古書店ボールデングで四百ポンドであった。これは初版の美本であったから例外として、並の皮表紙本でも保存のよいものは八十五ポンドであった。今なら百ポンドにもなっていると思われる。  もちろんこれは過去数年間のイギリスのインフレによるものと説明される面もある。しかしイギリスの古本屋は口を揃えて言うのである、 [#この行1字下げ]「つい二、三年前までは、ヒュームの『英国史』はいたるところに転がっており、売れることもなく、どこの古本屋でも処置に困ったものですがねえ」と。  ヒュームの『英国史』が売れだしたのはここ二、三年のことである、ということは注目してよい。以前はセリでも数十点で一山の部類に入れられ、巻数が多く、かさばるところから古本屋でも邪魔にされていたヒュームの『英国史』は、今ではどこのセリでも、それだけで独立してカタログのアイテムにされている。私も出たことのある北イングランドの郷紳の邸宅の蔵書のセリでは、それが三百ポンドでセリ落されるのを見た。セリで三百ポンドなら、古本屋の店頭では更に高くなり、海を渡って日本に来れば更に高くなっていることであろう。  ところでヒュームと言われて、彼が『英国史』の著者であることを知っている人はどれほどいるであろうか。スコットランドの十八世紀啓蒙問題などを専攻している少数の専門家を除けばあまりいないのではないかと思われる。われわれにとっては、ヒュームは一にも二にも『人性論』の著者であり、カントを「独断の夢から揺り起した」認識論学者である。私自身、ヒュームが最初の本格的な英国通史の著者であることなどは、十年前まで知らなかったし、それを知るようになったのも偶然からであった。  デイヴィッド・ヒュームが規範力のある|英 文 法 《イングリツシユ・グラマー》の成立に少なからざる役割を演じていた、ということは、一般に知られざる事実である。十年以上も前に、『英語学史』(大修館書店・一九七五)のために十八世紀後半における規範文法の成立のあとをたどっていた時、私はある事実に気がついた。規範力のある英文法が出来たのは十八世紀のおわり頃であるということは別に新発見でも何でもないが、その英文法が例文として用いている英語の用例が、実にしばしばヒュームの『英国史』から取られているのである。はじめこのヒュームが哲学者のヒュームであるかどうか知らなかった。それでわざわざDNB(英国人名辞典)をひいて、哲学者のヒュームが、十八世紀の規範英文典の例文によくとられている『英国史』の著者であることを確かめたのであった。まことに迂遠な話で恥かしいことだが、ヒュームなどにはそれまでほとんど関心がなかったのだからしかたがない。  それに私がヒュームの『英国史』を知らないのもそれほど驚くには当らないことだったのである。それはここ一世紀ほど、イギリスでも全く読まれない本の部類に入っていたのであるから。王立史学会会長で、八巻の『英国教会史』や、今日なお権威ある十二巻の『英国政治史』の編集者であったウイリヤム・ハントも「今では誰もヒュームの『歴史《ヒストリ》』を読む者はいない」とすでに一九二一年に断定しているし、戦後も一九六五年にかのウィル・デュラントは、「今日、ヒュームの『英国史』を読むことはすすめられない」と言っている。つまりイギリスでもアメリカでも、ヒュームの『英国史』はもう誰も読まない本としてしか言及されなくなっていたのである。もちろんドイツにはマイネケや、それより一世代先の二、三の研究者がいたが、それは学者の中には関心を持っていた人もあったということであり、イギリスのブラックなどもそうした孤立した例と考えてよいだろう。どんな分野のどんな問題でも、それに関心を持つ少数の学者がどこかにいるのは当然であり、ヒュームの『英国史』に関心を持った学者も探せばいたということであって、一般論として言えば英語圏の中ですらヒュームの『英国史』を読む人は絶えてなくなっていた、と言える状態だったと言ってよい。  しかしそのヒュームの『英国史』もかつては英国人による最初の本格的英国通史として一世を風靡《ふうび》し、出版後約六十年は、完全に標準的英国史として読書階級をほとんど独占的に支配しており、その後、他の英国史が出て来てからも、永く大学などでも読まれていたのである。それがほぼ完全に忘却の中に沈み、再び最近になってから急に需要が出てきているのだ。その背景にはどんなことがあったのであろうか。いな、ヒュームの『英国史』のみならず、彼の学問一般や、彼の人格そのものについての評価も最近とみに変ってきているように見える。今ごろになってヒュームの見直しが世界中で起ってきているわけは何なのであろうか。     2 ヒューム批判の系譜  あまり正直な自伝を書き残すことは危険である、という教訓をヒュームは示しているように思われる。六十四歳になった一七七五年の春頃から、ヒュームは下痢を起し、これは内出血と重なってその年のうちに肥満していた彼の体重は三十五キロも減った。これは彼の死んだ母と同じ病状であった。慢性の腫瘍《しゆよう》性大腸炎と推測している人もあるし、肝臓癌と推定する医者もいるが、もちろん本当のことはわからない。彼は劇作家のジョン・ヒュームをともなってパースに転地保養に行きちょっとはよくなったようであるけれども、その後は病勢が進むばかりで、帰ってからしばらくして死ぬのであるが、この転地に出かける直前に、簡潔な『| 自 伝 《マイ・オウン・ライフ》』を書いたのであった。日付は一七七六年の四月十八日となっているが、ヒュームは、同年八月二十五日に死んでいるから、死ぬ四カ月と一週間前に書いたことになる。この『自伝』は彼の『英国史』や伝記にはたいてい付録としてつけられているが、印刷しても、八ページぐらいの短いものである。短いものではあれ、頭脳の働きが、老齢にも病気にも侵されていない当人の書いたものだから、信憑《しんぴよう》性が高い。もしヒュームを批判する人がこの伝記の中の彼自身の記述を使って彼を批判するならば、これほど有効なことはない。ところが実際この自伝の中には、後世の人が悪意をもって使えば使えるような、率直な表現があちこちに散在するのである。  先ずどのようなムードでこの『自伝』が認《したた》められたかを見てみよう。 [#この行1字下げ]「一七七五年の春に、私は内臓の疾患におかされた。はじめには少しも驚かなかったのであるが、以来それは致命的なものとなり不治のものとなってきたものと私はおもっている。現在の私は、すみやかに死にゆくことを待ち設けている。病気から私がうける苦痛はきわめて僅かなものである。しかもなお不思議なことには、私のからだが非常に衰弱しているにもかかわらず、私の精神が一瞬の間といえども衰えをみせていないことである。私がもう一度すごしてみたいと一番望む生涯の時期を名ざしてみよとならば、私は現在の晩年の時期をあげたいと思うくらいである。私は研究に対しても以前にかわらぬ情熱を感じ、交友に対しても以前と同じ快活さをもっている。その上考えるに、六十五歳の人間が死んだところで、それは老衰したほんのわずかの数年を、きりすてるだけのはなしである。しかも、私の文学的名声が、ついに光をいやましながら輝き出した多くのしるしを目にしながら、それを私が味わうのも、ここ二、三年を出ないことを私は知っている。現在の私以上に、人生から脱俗してあることはむずかしい。」(山崎正一訳)  ここに見られるのは一人のストア的、あるいはエピクロス的な平静さを以て死に面していることを自覚している老哲学者である。六十五歳で死なないとしても、それから先は生きたとしても大したことはないし、しかもそれは老衰の時期で、それほど惜しいものでないことを悟っている。しかも今、死のうとしているこの老齢の、名誉も富も十分にある現在ほどよかった時期は一生になかったと自認し、この一番よい時期が傾かないうちに死ぬことをむしろ歓迎すべきだ、と思っていることが明らかである。  ヒュームは少年時代より古代ローマ人の書物に親しみ、特にセネカはその愛読書の一つであった。この死に直面していた頃、彼を崇拝しており、パリ滞在時代には親しい関係にあったブーフレエル伯爵夫人に次のような手紙を与えている。 [#この行1字下げ]「私には死が次第に近づいて来るのが見えますが、不安も後悔もありません。大なる愛情と尊敬をこめてあなたに最後の御挨拶を送ります」と。  事実、彼の周囲にいたすべての人の証言によっても、ヒュームは最後の瞬間まで平静で上機嫌でユーモアを失わなかったという。ところがこのようなムードで書かれたヒュームの『自伝』には、前に触れたような後世の誤解を招くような箇所が少なくないのだ。それはヒュームが自分の若い頃の野心と、金銭について、しばしば、かつ率直に触れているところである。ほとんど毎ページに収入のことが書いてあるが、それはたとえば次のような工合である(以下は直訳でなく、要約である。傍点現筆者)。 [#ここから1字下げ] 「自分の生家は名家の支流であるが豊かではなく、父は早く死んだが、次男である私にはスコットランドの慣習により分け前は僅少であった。したがって徹底的に節約した生活をやって資産不足を補い、何とか|独立して《ヽヽヽヽ》やって行きたいと思った。」 「一七四五年にアナンデール侯爵家の家庭教師となり、一年住みこんだので、私のわずかな資産はかなり増加した。」 「一七四六年から二年間、セント・クレア将軍の秘書官として海外に随行したが、この勤務中、つつましく暮したので、私は|独立した《ヽヽヽヽ》と言える資産に達するに至った。具体的には一千ポンドに近い額を所有する身となった。」 「私の『英国史』が完成すると、私の印税収入は、かつてイングランドに知られているいかなる例をも、はるかに超過するような状態になってきた。私は単に|独立した《ヽヽヽヽ》のみならず、富裕になってきた。」 「一七六三年、ハーファド卿に再三すすめられて、エデンバラの隠棲地から再び出てパリの大使館付秘書官になり、後には代理大使になった。三年後に再び哲学的隠棲のためエデンバラに帰ったが、ハーファド卿の好意で、三年前よりもはるかに多額の貯金と、はるかに多額の定収入を得ることになった。これは|ありあまる財産《ヽヽヽヽヽヽヽ》と言える。」 「一七六七年、コンウェイ将軍〔ハーファド卿の弟〕から招かれ、国務省の次官になった。二年後の一七六九年に私はエデンバラに帰ってきたが、年収千ポンドもあり、|極めて裕福《ヽヽヽヽヽ》になった。」 [#ここで字下げ終わり]  このような一生の財産報告を自伝に書いた学者は、私は寡聞にして西にデイヴィッド・ヒューム、東に本多静六を知るのみである。  この『自伝』の中で、ヒュームはしばしば「|独  立《インデペンデンス》」とか「|富 裕《オピユレンス》」とか言っていることに注目したい。「富裕」という概念は自明であるが、「独立」という単語は少し説明を要するであろう。たとえば次のような英文を見ていただきたい。  His father had left him so considerable fortune that he was independent of any profession.  学校英語式に直訳すれば、「彼の父はそんなにも大きな財産を彼に残したので、彼はいかなる職業からも|独立していた《ヽヽヽヽヽヽ》」となるが、はっきり訳せば、「……いかなる職業にも、つく必要がなかった」ということである。つまり英米人が、個人の境遇をさして|independent《インデペンデント》と言う時は、「働かないでも喰えるだけの不労所得がある」ということなのだ。私がアメリカの大学に、フルブライトで行った時、アメリカ人の同僚たちの家によばれて、ほかの教授の噂話などを聞くことがあった。そうした折に、「彼はインデペンデントだから」ということが、いかにも羨ましそうに口にされたのを一、二度聞いたことがある。日本と違って多くのアメリカ人の若い大学教員たちは身分が極めて不安定であるが、親ゆずりの資財があって、大学の給料など不要な人がおれば、そういうインデペンデントな人は羨望に値することになっても不思議はない。亡夫の遺財で遊んで喰って行ける未亡人もインデペンデントである。  若くして学芸に志したヒュームが望んだのは、正にこのインデペンデントな状況なのであった。これによってのみ、研究・著作のための自由時間と、他人のおもわくを気にしない言論の自由とがえられることを、慧敏《けいびん》な彼は若い時から洞察し、この点に関して何らの幻想をもたなかった点において、正に本多博士と似ている。ヒュームはカルヴァン派教会に睨まれたらまともな職業につけない十八世紀のスコットランドにおいて、たえず教会の神経を逆なでにする論文を平気で書き続けた。またホイッグ党のもとに、すべてのいいポストが握られている時代に、その『英国史』の中では、トーリーに同情を惜しまなかった。そのため、エデンバラ大学の教授になりそこね、その後再び、グラスゴー大学の教授にもなりそこねている。そういう危険は百も千も承知で、しかも筆を曲げないですんだのは、彼は経済的にインデペンデントだったので、思想的にもインデペンデントでありえたからである。  ではどれぐらいのお金があれば当時のスコットランドではインデペンデントでありえたであろうか。ヒュームが父と死別した時に得た遺産の分け前は年収四十ポンドよりちょっと多いぐらいのものであった。この五十ポンドでインデペンデントな生活をしようとして、彼は極度に倹約をする。そして三年間フランスの田舎町に留学しているから、当時の五十ポンドの価値はそれぐらいのものであった。今の日本で青年一人が極貧の独身生活をするとすれば、月六、七万要るであろう。それぐらいの不労所得をあげるためには、約千五百万円ぐらいの預金が必要である。ヒュームが父からうけた遺産の配分は、今の金にすればだいたいそのぐらいと考えてよいのではないだろうか。  ヒュームは一七五二年、スコットランド法廷弁護士会図書館の司書に選ばれたが、その時の年俸が四十ポンドであった。かりにその年俸四十ポンドが、今の日本円で月八万円の価値があったと仮定すれば、晩年のヒュームが、年間不労所得千ポンドあったことは、今の日本円でざっと毎月二百万円の不労所得があったにほぼひとしい。毎月二百万円の不労所得を産むためには、資産としてざっと五、六億円が必要となる。もちろん十八世紀中頃の貨幣価値を今の日本円に換算することは無茶な話であるが、生活感覚からいえば、晩年のヒュームの資産は、今の日本ならさしずめ五、六億と考えると、やや感情移入ができるであろう。しかも今日の税制を考えるならば、金の使い|で《ヽ》としては、十億と考えてもおかしくないところである。貧しい学者が、本の印税や社会とのかかわりによって、これほどの巨富を成したことは、一見ありそうにもないことであるが、心がけ次第では不可能でもないことは、例の本多静六博士も示している。本多博士も極貧よりはじめて、当時の淀橋区(今の新宿区あたり)の第一の多額納税者になったのだから。  金銭的成功ほど人の誤解や嫉視を招き易いものはないのに、ヒュームは若い頃の自分の野心をも語っている。彼は子供の頃から文学(|literature《リテラチヤア》)の情熱によってとらわれたこと、そしてこれが生涯を支配する感情だったことを同じく『自伝』の中で告白している。そして自分の文才(|talents in literature《タレンツ・イン・リテラチヤア》)を伸ばすためには、節約によって〈インデペンデント〉になること以外は、一切のことを無視しようと若くして決心したのであった。そしてこの野心は晩年までには十分達せられて、パリの社交界にも人気があり、名声は日に日に高くなっていたことをも自認しているのである。野心を持たないことには、何もこれという仕事を達成できないことぐらいは万人の知るところである。宗教上の聖人でさえも、その第一歩は聖人たらんとする野心からはじまるという。聖人になるために、全き謙遜を得んとする野心が必要というパラドクスすらあるのだから、ヒュームが文名を揚げようという野心を起し、終生その目的を固持したことは、誉められこそすれ、非難されるべき筋合いのものではない。  しかし、名誉も富をも、人生計画通りに得た学者が、後世の人にほめられるわけはない。もしヒュームが『自伝』の中でその文名に対する野心を語らず、売れた本の印税を語らず、財産報告をしなかったならば、その後の彼の評価はだいぶ違ったものになっていたであろう。この点、彼の心からの友人であり、また彼を尊敬してやまなかったアダム・スミスとは顕著な対照をなしている。事実、スミスの個人的側面については、われわれの知りうることが、あれほど業績のあった十八世紀の人にしては例外的に、極端に少ないのである。このことはスミスの後世の評価が主として彼の業績のみによってなされるという幸運な結果を残した。  ではヒュームはどのような個人的な悪評を受けたであろうか。彼の新しい書簡業の編者であり、また伝記作者であるモスナーはその例をふんだんにあげているが、ここに関係のあるものだけをいくつかひろってみよう。  ヒュームの哲学がキリスト教の神学にとっては不都合なものであったから、ビーティやウォーバトンのような神学者側からの批判があったのは不思議でない。特にビーティは、ヒュームの悪口を言うことで名を成したと言ってもよいぐらいの人である。自己の学説への批判者に対しては概して寛容だったヒュームもビーティに対しては「私を紳士として扱わなかった」と憤慨している。つまり人格批判が多かったのだ。  更にヒュームに対する偏見を拡散することに成功したのは同時代のジョン・ブラウンである。彼は牧師の子であり、自分自身も牧師で、ウォーバトンに親しかったからヒューム批判は当然としても、彼はベストセラーになった自著『当代の風俗と徳義考』の中において、ヒュームには「|人気取り《ポピユラリテイ》と金《ゲ》|もうけ《イン》に腐心した」人間として言及している。ベストセラーと言っても、ブラウンのものはヒュームとは幅も奥行きも比較にならなかったが、一時期、この本は「凧の如く空に昇って町を魅了した」のであった。ブラウンには早くから軽い狂気が見られ、人をののしることが甚しく、多くの交友関係を破り、ついには五十一歳の時に自殺した人物である。このタイプの人間には、自由な学問研究のために終生、経済的自立《インデペンデンス》の境遇を作ることに努力し、ついに達成したヒュームの剛健なところがない。また交友にすこぶる厚かったヒュームの人間性がない。小才は大才を嫉妬し、小ベストセラー作者は大ベストセラー作者を敵視したと見るべきである。ヒュームが「蓄財《ゲイン》」と「|人 気《ポピユラリテイ》」を求める真意はブラウンにはわからないのである。彼のヒューム評は燕雀《えんじやく》が鴻鵠《こうこく》の志を冷笑しているにすぎない。  例のサミュエル・ジョンソン博士はヒュームを「愚鈍で悪者で嘘つき」と言ったが、ヒュームを「|愚 鈍《ブロツクヘツド》」といった人の批判は聞くに値しない。いかなるヒュームの批判者でも、彼の哲学的|犀利《さいり》さを認めないというのはおかしいからである。この批判はむしろジョンソンのスコットランド人嫌いの表明として見逃した方がよいであろう。またジョンソンの伝記を書いたボズウェルは、ヒュームにあっては「虚栄《ヴアニテイ》こそが彼を魅了した愛人であり、一生彼の心を掴まえてはなさず、彼を支配しつづけたものである」と評しているが、これはヒュームの『自伝』にかかれている少年時代からの志を、悪意をもって曲げたものと言えよう。  近代にはいると、哲学史的にはヒュームの系統に属すると見なされるジョン・スチュアート・ミルも、ヒュームが「|文 学 趣 味《テイスト・フオア・リテラチヤア》」の奴隷になっていることを非難するし、また、不可知論《アグノステシズム》という言葉と思想を普及させるに力のあったT・H・ハクスレーは、完全にヒュームの思想的系列にありながらも、その『ヒューム伝』において、ヒュームには「単なる有名欲や世俗的成功欲」が多分にあったとし、この為にヒュームは青年の頃の哲学を捨てて、後に政治論や歴史に向うようになったのだと推測している。つまりヒュームは哲学者として始まったが、虚名と金が欲しいため、それを得やすい分野の著作にのり出し、哲学を捨てた、という主張である。ハクスレーはダーウィンのブルドッグとして進化論に反対する教会の権威者を論破し、ロイヤル・ソサイエティの重要なメンバーとして、また良心的な科学者として知られていたから、彼の筆になる『ヒューム伝』(一八七九年)は、ヒュームの人格的欠陥を示したものとして広く受け入れられた。しかも彼の『ヒューム伝』が、「英国文人叢書」というイギリスの規準的評伝叢書の一巻に入ったことは——今なお標準的文献としてリプリント版が出ている——こうしたヒューム像の確立に大きな力があった。しかしヒュームが『自伝』を書きさえしなかったならば、ハクスレーもこんなヒューム像を描くことはなかったであろうに。イギリスからヒュームの『英国史』の読者が消えたとしても無理からぬことであった。  ハクスレーの描いたヒューム像の影響は大きかった。第二次大戦の少し前にヒュームについての本を書いたデンマークの学者クルーゼは、ヒュームは「文学的野心《リテラリ・アンビシヨン》」に取りつかれて真理の探究に無関心となったと決めつけている。その野心のためヒュームは同時代の大衆の判断を最高の審判と考え、それに迎合することを第一とするようになった、というのだ。  それでもクルーゼのヒューム批判は、ヒュームの「| 文 名 欲 《ラブ・オブ・リテラリ・フエイム》」を批判するという慎ましさをもっていたが、戦時中にアメリカで出たジョン・H・ランドルのヒューム批判はジョン・ブラウンそのままの厳しいものであった。彼は言う、「ヒュームは二つの目的のために物を書いた。一つは金をもうけるためであり、一つには文学的名声を得るためにである」と。そしてランドルは自分の主張の根拠がヒュームの『自伝』から出ていることを引用によって示している。このようにして見れば、ヒュームの独創的な哲学上の意見は、単に世間の耳目を聳動《しようどう》させるためだけのものであったにすぎず、彼の『英国史』も世の中がホイッグ党だからトーリー党の肩をもって見せただけの天邪鬼《あまのじやく》の歴史にすぎなくなってしまう。まことにヒュームは卑小なものにされてしまったわけだが、それでもランドルは哲学教授のはしくれだけあって、ヒュームが「英国の生んだ最も有能な哲学者」であったことを認めている。金銭欲と名誉欲だけで書いたヒュームが、どうして英国第一の哲学者であったのか、ランドルの論文では一向に明らかにならないが、その真相は何であったのだろうか。     3 生涯計画 [#この行1字下げ]「ワレヲシテ洛陽|負郭《フカク》ノ田ニ頃《ケイ》ヲ有《モ》タシメバ、ワレアニヨク六国ノ相印ヲ佩《オ》ビンヤ」  とは『史記』の蘇秦《そしん》伝にある名文句であるが、戦前派なら『十八史略』で読んだ記憶があるであろう。もし蘇秦が洛陽に近いところに美田を二頃(二百|畝《せ》)持っていたならば、彼は読書子として平穏な一生を終えたに違いない。しかし彼にはそんな財産がなかった。そこで睡魔が襲えば錐を股にさすような猛勉強をし、ついに燕趙韓魏斉楚を合従《がつしよう》せしめ、この六カ国の宰相を一時に兼ねるというような出世をしたのである。このような異例な出世をすれば後世によく言われるわけはないが、さすがに司馬遷はその偉大さを正当に評価して、故なき汚名をそそいでやったのである。 [#この行1字下げ]「もし私がスコットランドに年収百ポンドもあがる土地を相続していたならば、私は一生郷里にとどまり、農事にいそしみ、土地を改良し、読書し、哲学を書いたことであろう」  とヒュームは友人に書いた。つまり負郭の田が二頃もあったならば、ヒュームはいわゆるジェントルマン・ファーマーとして、晴耕雨読し、折にふれて考えることなど書くような生活をしたかったのである。しかし次男坊の彼には、当時のスコットランド法によって大した遺産の割り分はこない。彼は先ず、知的生活のための物質的基礎を自分の手で作り上げなければならなかった。この手紙には、彼の『自伝』同様、嘘は書いていない。というのは、ヒュームはその後、何度も隠棲生活に入ったり、入りかけたりしているからである。彼の社会的活動は、必要にせまられたり、懇請されたりして、やむなく引き受けたという印象をうける。  ヒュームは学校の成績はよく、家柄は伯爵家の支流の小領主で、母方の祖父はスコットランドの最高民事裁判所長官であるなど、代々、法律家を出している名家である。当然のコースとしてヒュームは法律家になるものと家族に期待された。当時のスコットランドの裁判官は、行政官もかねたようなおもむきもあって、今の日本で言えばエリート高級官僚と言ったコースに当る。ヒュームはそのための実力もコネも十分すぎるほどあった。  しかし十八歳の時、ヒュームは自分が哲学上の重大な原理を発見したと信ずるに至るのである。そうなると法律の勉強はどうしてもいやになり、哲学と学芸一般以外のことにかかわるのに耐えなくなった。この場合、彼が「|哲 学《フイロソフイ》」と言った時のその単語の意味は今よりもはるかにひろく、道徳学から一部自然科学まで及んでいたし、「|学芸 一般《ジエネラル・ラーニング》」と言うのは主としてラテン語の古典作家のことであった。そしてこの種の学問、つまり広い意味の哲学と古典学への圧倒的な関心を「|文学への 情熱《パシヨン・フオア・リテラチヤア》」と彼は呼んだのであって、「文学」が後世のように小説や詩に限るような狭い意味には絶対に使っていないのである。そんなことは彼の短い『自伝』を少し落ち着いて読めば明らかなことなのに、後世のヒューム批判者たちは、「|文 学《リテラチヤア》」という語義さえ確かめなかったのである。つまりヒュームが「|文 学《リテラチヤア》」と呼んだのは、今の日本の大学の「文学部」と言った場合の「文学」なので、それがヒュームの時代のこの語の普通の意であった。「|文 学《リテラチヤア》」が「|軽 文 学《ライト・リテラチヤア》」の意味に主として用いられるようになったのは、十九世紀になってからの話である。  ヒュームは青年時代には非常にやせており、数年間も自宅で猛勉強したために健康をもそこねた。神経衰弱だったようである。そこで、法律家の忙しい生活に入らないで知的生活をおくれるような生涯計画をたてたのである。資産は何もしないで生活していくには十分でなかったので、先ず、商人になりさっさと金をもうけて引退するか、あるいは商売と知的生活を両立させようかと考えたらしい。それに外的に活動的な生活を送ったら健康の恢復にもよいだろうと言うので、何通かの推薦状をたずさえて、ブリストルの名のある商人の家に出かけて行った。  そんなことをするぐらいなら、法律をやりながら好きな勉強をすればよいではないか、という考えもあろうが、それはヒュームの場合にあてはまらない。法律の勉強、及び法律家として馬鹿にされないでやって行くためには、自分の知的エネルギーがその方向へ吸収され尽すに違いないことをヒュームは直観的に恐れたと見るべきである。日本でも立志伝中の人物である某氏は、勉強するためにはじめは教員をやって生活の資としていたが、教員生活が意外に知的エネルギーを喰い尽すので、自分の勉強をするためにはかえって有害と考え、教員をやめ、一見非知的なアルバイトにかえて志を果した、という話を読んだことがある。個人差のあることだから一般論にはなるまいが、ヒュームの行為はそれを暗示させる。  しかしブリストルに出かけて二、三カ月、商人の生活に入って見ると、これは自分の知的生活と両立しないことがよくわかった。そこで彼は人生の方針を立てなおすことになる。学問への欲求がやまなかったのである。幸いに年五十ポンド足らずの収入は保証されていた。そこでヒュームは自分の研究にまとまりをつけようとフランスに渡る。ただし金が豊かでないのでパリには行かず、片田舎にひきこもった。そしてこの異郷にあって二十三歳のヒュームは、恋人も定職も将来の確たる見通しも何もない状態で、一生これでやって行こうという「|生涯 計画《プラン・オブ・ライフ》」を決定的に、また最終的に立てる。ここでヒュームは、はじめて「|独  立《インデペンデンシイ》」という例の単語を使う。彼の言葉は次の通りである。 [#この行1字下げ]「きわめてきびしく生活をきりつめて私の資産の不足を補い、なんとか独立してやって行ける道を講じ、そうして私の文才をのばすこと以外には、いがなるものも取るに足りないものと見做《みな》そうと、心にきめたのであった。爾来《じらい》私はこの計画を、着々と首尾よく実現してきたのである。」(山崎正一訳)  そしてこの「生涯計画」を立てた時に、ヒュームがフランスの田舎で執筆しつつあったのは小説でも詩でもなく、ヒュームの著作のうちで最も哲学的な『人間本性論』(|Treaties of Human Nature《トリーテイズ・オブ・ヒユーマン・ネイチヤア》)だった。いかにヒュームの悪口を言う人でも、イギリスの第一級の哲学者と認めざるをえない論文のようなのが、ヒュームの言う「|文 学《リテラチヤア》」なのであり、タレンツ・イン・リテラチャアは「学問の素質、あるいは才能」である。『自伝』の中の「文学への情熱」を「学問への情熱」と正訳すれば、ヒュームの生涯計画を誰が非難できよう。     4 英作文修業 [#この行1字下げ]「いかなる著述の企ても、私の |人 間 本 性 論《トリーテイズ・オブ・ヒユーマン・ネイチヤア》 ほど不運なものはなかった。それは『印刷機から死んで生まれ』dead-born from the Press おちたのであった。狂信家の間に、ささやきの一つを起すような評判すら得られなかったのである。」(山崎訳)  ヒュームがスコットランドで数年勉強し、更にフランスの田舎で三年間かけて書き上げて出版した彼の処女作の運命はかくの如きものであった。彼はフランスでこの論考を書き上げ、意気揚々としてロンドンの本屋ジョン・ヌーンと出版の交渉をした。ヒュームが隠棲してこの著述に没頭したフランスのラ・フレーシは、若き日のデカルトの勉強したゆかりの地でもある。ヒュームにして見れば自分の本はデカルトのそれにおとらず、人知の歴史に大きな足跡を残すはずのものであり、その内容から言って既成教会から大反撃を受け、ひょっとしたら迫害さえ受けかねないものであると信じた。最初、匿名出版したのは一つにはこのためであろう。ヌーンはこの青年の自信に動かされてか、初版千部を刷り、五十ポンドの稿料と、十二部の装幀本をくれた。五十ポンドは今の東京の生活感覚から言えば約七、八十万円ぐらいのものと考えられるから、処女作の成果としてはまずまずのものと考えられる。  しかしこれはヒュームにとっては「打撃」であった。予想されたような爆発的な反響は少しも起らなかったのだから。その後の詳しい調査ではこの本についての書評もあったことが知られている。この書評は一般に批判的なものであったが、ヒュームの「天才」は認めているのだから、喜んでもよいことである。しかしヒュームはどうもこの書評を知らなかったらしいし、それに書評が本の売れ行きには一向関係ないことは今と同じだったように見える。ヒュームにして見れば十有八にして学に志し、そのために安全有利な法律家の道を捨て、健康をそこなうほど勉強し続けて八年、今や二十六歳の自信満々たる青年だった。その処女作が、あのうるさい教会側にもさざなみほどの波紋をも起さなかったと知れば、その失望を察してやることができよう。 [#この行1字下げ]「しかし、生まれつき機嫌のよい気楽な性質だったから、私はきわめて速かにこの打撃から立ち直って、田舎で私の研究を、非常な熱意をこめて続行した。」(山崎訳)  とヒュームは言っている。では彼は田舎で何をやったか。ヒュームは|英語の勉強《ヽヽヽヽヽ》をしなおしたのである。  ではヒュームはいかにして英語を学んだか。彼が手本としたのは『スペクテーター』誌の文章であった。『スペクテーター』を手本にして英語を学ぶ、と言えば、フランクリンの『自伝』を思い出す人も少なくないであろう。『スペクテーター』の破本を手に入れたフランクリンは、明晰でしかも上品なユーモアのあるジェントルマンの文章に魅了され、何度も読み返したあげく、ついにその文体の真似をすることをはじめる。『スペクテーター』の中のあるエッセイの要旨を極めて短く紙に書き、それを数日ねかせる。それからそのメモを見ながら原文の復元を試みる。それから『スペクテーター』の原文と比較して、自分の表現力の不備なところを発見してなおす、というのがその方法であった。かくしてフランクリンはわかり易い達意の文章を書けるようになった、と書き残してくれている。  ヒュームは具体的にどのような英作文修業をしたかは明らかでない。しかし大西洋を隔てて同時代に生きた二人が、期せずして『スペクテーター』を手本にして文章修業をしたということは偶然でないのだ。クロムウェルの革命でその|熱  狂《エンシユージアズム》の頂点に達したピューリタニズムも、そののち半世紀もすると、新しいタイプの、教養ある、人間的なプロテスタント・ジェントルマンの文化を産み出しつつあった。『スペクテーター』のアジソンは正にその代表であったのである。文意はあくまでも明瞭でありながら卑俗ならず、機知と諧謔《かいぎやく》を交えた上品な文体が、つまりイングリッシュ・エッセイの原型が、ここに生まれたのであった。フランクリンもヒュームもカルヴィン主義の雰囲気の中に育ち、その熱狂を嫌い、ドグマの研究よりは自己の教養を求めた人たちである。『スペクテーター』は正にそのような人たちを読者にしていた。そしてフランクリンとヒュームも先ず経済的な|自  立《インデペンデンス》を、文筆によって求めるところがあったのである。ヒュームがイギリスで空前の文筆による収入を得たように、フランクリンも『プア・リチャーズ・アルマナック』により、国際的なベストセラー作者となり富裕への道に入った。この本の中にフランクリンは、かの有名な金言 It is hard for an empty sack to stand upright(空の袋は直立し難し——金がないと人は卑屈ならざるをえない)を書いたが、これこそ経済的自立《インデペンデンス》の精神的意義である。ヒュームもフランクリンも、文筆によってこの境遇に入るには、『スペクテーター』のような平明暢達な文章を書かねばならぬと洞察したのであった。  ヒュームは自分の処女作が売れないのを見た時も、その著作の内容《マター》に対する自信を失ったことはなかった。「自分の英語《マナー》が悪かったのだ」と彼は信じたのである。そして終生、自分の英語を磨くことに心懸けることになる。ヒュームの友人でかの語源論の大著を書いたモンボド卿ことジェイムズ・バーネットも、「ヒュームは死の床にあって、自分の罪の告白をするよりも、自分の英語にスコットランドの方言的な言い方が混じっていることを告白したものだ」と冗談を言っていたぐらい、「よい英語」を書くことこそはヒュームの最大の関心事であったのだ。 「| 人 間 本 性 論 《トリーテイズ・オブ・ヒユーマン・ネイチヤア》の出版が成功しなかったのは内容《マター》よりもむしろ様式《マナー》によるのである」と確信したヒュームは、この本を書き直す。処女作には入れなかった奇蹟論を入れるなど、多少の内容の変化はあるものの、本質的には処女作の書き直しである『|人間 悟性 に関する 哲学 的 小論集《フイロソフイカル・エツセイズ・コンサーニング・ヒユーマン・アンダスタンデング》』(後に『|人 間 悟 性に 関 す る研 究《アン・インクワイアリ・コンサーニング・ヒユーマン・アンダスタンデング》』と改題)が十年後に出たのもそのためである。このほかにも、ヒュームは『道徳及び政治|小論集《エツセイズ》』を出している。この小論集《エツセイズ》は先に失敗した処女作の後、英語の勉強をし直して書いた第一作であるが、これは意識的に『スペクテーター』や『クラフツマン』のスタイルを模倣したものであり、「自分は新しい著述家になったのだ」とも言っている。その結果は如何。  それは成功であった。同じ年のうちに版を重ねるということになったのである。確かに英語の勉強は役に立ったのである。この後も、例の処女作の書き直し版や、『|政 治 論 集《ポリテカル・デスコースズ》』を出したが、はじめのうち売れ行きはあまりよくなかった。しかし読んだ人の口コミによってか、同著の売れ行きも次第にゆっくりと増加しはじめるのである。ただ依然として、例の処女作だけは売れなかったところを見ると、ヒュームがその失敗の原因を英語にあるとした洞察は正しい。また同時に、処女作《トリーテイズ》の|書き直し版《インクワイアリ》のことを、「|水でうすめた《ウオータード・ダウン》」ものとして後世の学者が非難するのは正しくないと言えるであろう。ヒュームは水でうすめたのでなく、わかり易い英語に書き改めたのである。  そしてこの表現上の真摯な努力が、経済的自立《インデペンデンス》への道を伐り開くことになった。自分の味方は自分の本を読んでくれる人であり、特定のパトロンでも、党派でも、宗派でもない。ヒュームは自分の考えることをわかり易く発表し続ける限り、どこにも気がねする必要がなくなったことを知った。そういう独立した筆者の少ない時代には、そういう筆者は必ず熱烈な支持者を得る。彼をパリに連れて行って、最初は大使館付秘書に、後には代理大使にしてくれたハーファド伯爵や、また国務次官にしてくれたコンウェイ将軍などがそれである。またフランスで人気のある著作者として、ヒュームは、パリの社交界においてそれまでなかったほど人気のあるイギリス人であった。このことはヒュームのパリにおける外交上の仕事に大いに役立ち、代理大使の期間も極めてすぐれた実務者であることをしめし得たのである。     5『人間本性論』  ヒュームは哲学的思考の極北を示した。それ以上は考えようのないぎりぎりのところまで分析的思考の線を追ったのである。イギリス経験論の祖であるジョン・ロックは、人間の観念は先天的に与えられるものでなくて、経験を通じて形成されるものであるとした。ジョージ・バークレイはロックが認めていた外界に物が実在することを否定し、物は観念として存在するのみであるとした。ただそういう知覚されたものを知覚するもの、つまり精神は実在すると考えたのである。そしてヒュームもバークレイと同じく、知覚されたるものが存在するとしたが、彼の考えは更にそれより一歩進んだものである。本当に存在するのは印象であり、また、この印象を反省するところから生ずる印象(怖れとか恥とかいう観念)である。そしてこれらの印象が連合するということ以外に精神的実体などはないとした。哲学にとっての基本的概念である「実体」も、ヒュームにとっては知覚と観念の連合にすぎない。また何人にとっても疑いえないとされた「因果律」——原因あれば結果あり——もヒュームは知覚の習慣にすぎないとするのである。「信念」などはいきいきとした観念であり、それ以外の何物でもありえない。そしてこの観念連合を支配する法則は習慣、慣性などといった傾向性にすぎず、更にこの傾向性は何か、と問えばこれは解らないとする。  ここにのべたようなことは、哲学史や哲学辞典でも紹介してくれることであるが、このヒュームの極北的哲学が、彼の政治論、道徳論、経済論、更には英国史とは関係あるのかないのかということになると、以前にはあまり問題にされなかった。「ヒュームは金と俗受けを求め|哲 学《フイロソフイ》を捨てて|文 学《リテラチヤア》に走った」というような批判者たちは、ヒュームの処女作『人間本性論』の第一巻だけが哲学で、その後のヒュームの著作はすべてこれと関係ないとする立場に立つわけである。  しかし最近のヒュームの研究の成果がわれわれに示す重大な事実は、ヒュームの徹底した分析的認識論と、その後の彼のいわゆる通俗的著作の間には亀裂がないということである。  ヒュームの処女作はその題名の示す如く『人間本性論』、あるいは『人性論』であり、「|人間の本性《ヒユーマン・ネイチヤア》」を対象としたのであった。彼の当初の計画では、|悟  性《アンダスタンデング》、情念《パシヨンズ》、道徳《モラルズ》、政治《ポリテクス》、趣味判断《クリテシズム》の五つの主題を扱うつもりであったが、実際にはそのうち最初の三つを、それぞれ第一巻・悟性論、第二巻・情念論、第三巻・道徳論として出したのである。そしてケンプ・スミスの画期的な研究によれば、むしろヒュームははじめ第二巻や第三巻の内容を考え、部分的に書いてから第一巻の悟性論を書いたという。この説はジェソップらによっても支持されている。つまりヒュームの関心は、始終、人間の本性をあらゆる面から考察することであり、経験論の極北も、その考察の一環であったことがますます明らかにされているのであって、最初、純粋哲学を書いたヒュームが堕落して通俗的テーマを取り上げるようになったのではない、ということなのである。  ではヒュームの人間の本性に対する根本的な洞察は何であったか、と言えば、それは人間の理性に対する不信ということである。数学については、論証的に確実な学問という考え方をしていたが、これだけが例外で、ほかはすべて彼には不確実に思われたのであった。理性に、あるいは悟性に対して懐疑的な彼の哲学は、その頃、大陸で次第に有力になってきている理性主義、合理主義に対して強い不信の念を示す。原因、結果というような一見明白なようなものですら、分析的に考えれば形而上学的に必然性はない。実体もありそうでいながら、分析して見るとないのである。社会の起源を考えるに当っても、「社会契約説」と言うようなものは、主知主義的な、あるいは合理主義的な虚構であるとして否定する。ヒュームによれば「理性は情念の奴隷」にすぎないのである。歴史を考えるに当っても、あらゆるイデオロギー的解釈を拒否する。因果律にすら必然性を認めることができなかった人が、どうして「歴史の必然」というような荒っぽい虚構を受けいれることができたであろうか。     6 コンステチューション  今から十五年前の一九六三年七月十八日、フライブルク大学において、経済学者のハイエクは「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」についての公開講演を行なった。ハイエクは元来が経済学者で、その功績にはノーベル賞が与えられているが、第二次大戦の頃より、彼の関心はますます法哲学、政治哲学に向いてきている。このヒュームに関する講演は現代のヒューム研究のうちでも最も注目すべきものの一つとして評価されるべきである。この中でハイエクが、ヒュームが否定した合理主義とは、具体的に言って |構成的  主知主義《コンストラクテイブ・インテレクチユアリズム》 であると指摘したことは、ヒュームの現代的意味を考える上で大いに助けになる。  ではヒュームが排した構成的主知主義とはどんなものであろうか。  フランス革命のもとがルソーの『社会契約論』にあったことは高校でも教えてくれることだが、これが典型的な構成的主知主義であることはそれほど鮮明には理解されていないように思われる。われわれの社会が「契約」で成立した、と考えることは、人間にそういう契約を作成する知力のあることを前提としている。そしてまた、今の社会に不満があるならその契約をやり直せばよい、ということにもなる。国王や貴族のいる社会がいやならば、そういうもののない理想社会を作るべく契約し直しをすればよい。かくして抜本的な契約のしなおしが暴力を以て強行され、フランス革命が遂行された。革命の背後にあるもっとも根本的な思想は、全く人間の知性に頼って国家を思いのままに作り変えることができる、という構成的主知主義であり、人知に対する全くの信頼なのである。フランス革命の哲学的弁護者、つまり構成的主知主義であったコンドルセは、革命時代の政治家として活躍したが、そのうち革命政府内部の権力闘争に敗れ、追われる身になる。そして明日にもギロチンにかけられそうな状況にありながらも人間の理性を礼賛し、その理性の支配する明るい未来を信じてやまない。  コンドルセの悲劇的であり、同時に滑稽なこの姿こそが、人間の理性の本質を示すものである。彼は理性の万能を信じた。そして新契約による革命政府を作るのに参加した。それは旧社会よりずっとよいもののはずであった。ところが予想外《ヽヽヽ》のことが起って、次から次へと大量の同志や無辜《むこ》の人々が殺され、あげくの果てに自分まで殺されることになったのである。そしてナポレオンが現われ帝政が歓呼の声で迎えられることになる。これはフランス革命を起した人たちの、誰一人として|予想しなかった《ヽヽヽヽヽヽヽ》事態であった。革命を起した人たちは、人間の理性の万能を信じ、新契約の理想国家を作るつもりであったが、ロベスピエールの登場を誰一人予測できず、ナポレオンの登場を誰一人夢見ず、したがってその後のもろもろの事件を何一つ予見できなかったのである。ロベスピエールやナポレオンの出現を予測できないのは当り前だ、と言う人があるであろう。然り、そんなことは予測できないのが当り前である。人間にはそれを見通すほどの知力はない。理想社会を一挙に契約で作り上げるほどの知力は人間にそなわっていないのだ。常に予想もしなかった、夢にも考えなかった要因が千も万も億も兆も出てくるのである。ヒュームはフランス革命の十三年前に死んでいるが、社会契約説が人間の理性の本質から見て嘘であること、そんなものの上に個人の自由が保証されるような国が出来ないことを明らかに洞察しえた。何となればヒュームの人知に対する信頼は——彼自身は天才的知力の人であったが——理論的にきびしく抑えられ、しかもそのことを実際の英国史の上で彼は一々の事件について確かめていたのであるから。  ヒュームの見るところ、英国史は人知の頼りなさの証拠のように思われた。しかもその英国通史を書くに当って、ヒュームは自分自身の知力に対しても甚だ謙遜であった。つまり彼は英国通史を一番書き易く、資料もととのっているスチュアート家の即位から書きはじめたのである。これがヒュームの英国史の第一巻『ジェイムズ一世及びチャールズ一世治下の英国史』(一七五四年)である。ジェイムズ一世はもとはスコットランド王ジェイムズ六世であったのだが、未婚のエリザベス女王の死後を受けてイギリス国王に即位し、ジェイムズ一世になった人である。出がスコットランド人であるから、当時、エデンバラの法廷弁護士会図書館の司書をやって、多くの良質の資料に近づくことのできたヒュームにとっては、一番書きやすかったと思われる。彼が司書をしていた図書館は、当時も今も、スコットランド最善の図書館の一つといってよい。特に前にのべたようにスコットランドにおける法律組織のあり方から言っても、それは政治の枢機に触れるような資料をも含んでいたのである。ここの資料を自由に駆使して書けば、イングランドの歴史家に資料的にも優位に立つことになることは明白であった。しかもその時代は百五十年前から百年前までの約半世紀足らずの期間にすぎず、通常の知力で十分書きうる対象であった。  この第一巻はどこでも不評であり、十二カ月に四十五部しか売れなかったというからひどい。それで一時、フランスに隠棲でもしたいと思うぐらいがっかりしたのであるが、当時、英仏は敵対関係にあってそれも果せず、二年後にその続編、チャールズ一世の処刑からクロムウェルの清教徒革命を書き継いだ。これは比較的評判がよく、そのおかげで、不評だった第一巻も売れ出した。更に今度は時代をさかのぼらせ、三年後にチュードル王朝の歴史を書き上げる。ここでは処刑されたスチュアート家のチャールズ一世も、イギリス人の間で人気絶大のエリザベス女王も、同じ国体観を持っていたことを指摘したため、ヒュームは大いに憎まれることになった。しかしヒュームはそんな世評は全く気にしない。二年後には、英国史の最初の部分を二巻にまとめた。これが『ジューリアス・シーザーの侵入よりヘンリー七世までの英国史』(一七六一年)である。いわばヒュームは英国史を逆に書いていったのであった。  ヒュームははじめから英国通史を書く計画だったのだが、「千七百年間にわたって叙述しつづけるという考えに恐れをなして」(『自伝』)一番手のつけ易いところからはじめ、逐次刊行、遂に着手してから十年ほどの間に完成したのである。歴史を年代順に書こうというのは、書き手側にとっては当然の発想であろう。しかしヒュームは自分の知力にも懐疑を持つ。よく知っていて、書き易い時代を書き終えることができたら、その前の時代を書いてみよう、という態度なのである。イギリス人が書いた最初の本格的英国通史は、このような逆書きで成功したのであった。一番書きたいところ、一番自信のあるところから完成して行ったから、書き手にとっては途中で挫折しても悔いが少ない。このことはヒュームの歴史の落着いた、格調正しい典雅な文章と無関係ではないであろう。  ヒュームの史観の中心は、彼の認識論の場合と同じく「習慣」である。人間は理性によって社会契約を結んで歴史を作って行くものでなく、慣習に導かれて事を処理して行くものである。しかしこの習慣は固定したものでなく、その時々の機会で方向をかえるものであって、予測も予断もなかなかできない、つかみにくい流動的なものである。ヒュームはクロムウェルの独裁を見て、 [#この行1字下げ]「徒《いたず》らに理論的な自由とか、理想的な完全性とか求めて、濫《みだ》りに現状を破らんとし、政府・君主に反抗することの百害あって一利なきを説くのである。特別異常の暴君ありて、人民危急存亡の秋《とき》となり、現状打破の止むなきに至ってのみ革命は許される。それにしても民衆に剣を持たせ血を見せることは、結局、無政府的混乱を招き、遂に専制主義に帰する外なく、英国大革命が何よりよくこの轍《てつ》を示している。」(千代田謙『啓蒙史学の研究』三省堂・三七〇ページ)  ヒュームはイギリスの島には、連続した政治の習慣があると考え、これを「国の体質」と呼んだ。コンステチューション constitution という単語は今日は「憲法」と訳すのが常であるが、イギリスには成文憲法がないから、「憲法」と訳しては誤解が生ずる。この語の意味するところは成文化されてはいないが、昔からその国らしい習慣として継続されてきた「国の体質」、つまり「国体」と訳すのが正解に近いであろう。戦後、「国体」という言葉に対するアレルギーがあるらしく、この語をさけるために、無用のわかりにくさを生んでいるように思われる場合が少なくない。たとえば入念な研究である大野精三郎著『歴史家ヒュームとその社会哲学』(岩波書店)もコンステチューションを「憲法」とか「憲法機構」と訳しているので読者に奇妙な印象を与える。「十六、七世紀のイギリス憲法と政治体制」などというこの本の目次を見たら、誰だって「イギリスには憲法なんかないはずだが」と思ってしまう。大野氏はイギリスに日本やアメリカのような憲法がないことは百も承知なのであるが、「国体」という言葉を避けようとしたため無用の曖昧《あいまい》さを生んでしまった。その点、「憲法」と「国体」という二つの単語を使いわけた維新の元勲の方が、事態を正確に見ていたことになろう。  ヒュームの政治に関する論文の多くは「国体論」なのだ。すでに成文になっている憲法の内容について論じている「憲法論」ではないのである。そして彼の英国史は、英国の国体論の具体的展開なのである。ではヒュームはイギリスの「国体」をいかなるものと見たか。彼はイギリスの島には共和制よりは君主制が望ましい国体であるとしたのである。ヒュームの意見と思われるものを要約してみよう。 [#この行1字下げ]「われわれはいかようにも理想的な共和国を書斎の中で作り上げることができる。頭の中では現在のイギリスの国体よりもはるかに完全な共和制を想像してみることは容易である。しかし、もし今の国体である王制を廃止するほどの権力を握った人間が出てきたら具体的にどういうことになるか。もしそういう人物が今までの国体を踏みにじって、別の国体に改変するとしたならば、その人物がすでに一種の専制君主になり、一度その地位についたら自発的に権力の座を降りることなどはない。こういう人間は、また決して自由を国民に与えないものであることは、すでにクロムウェルで見たところである。クロムウェルには後継者がなく、王政復古がスムーズに行なわれたからよかったようなものの、ああいう暴政が続いたらどうであろうか。結局、多くの内乱や騒動のあとに再び君主制にもどるであろう。それならば、はじめから君主制を国体として認め、それを平和にもり立てていた方が、われわれはずっと幸福であったに違いないのである。」  これは一世代後に来るフランス革命の経過に対する正確な予測でもある。国王を処刑し、新憲法を作ったが、国体をひっくり返すぐらいの人間なら恐怖政治もやる。そこで戦乱の果てに皇帝が出る。またひっくり返る。などということをフランスが繰返している間にも、英国の国体は揺がず、そこから議会政治が成長してきた。フランス革命以後の国々が、まがりなりにも落ちつくのは、イギリスの議会制度を真似しはじめたからにほかならない。フランス革命が勃発した時、イギリスの読書階級にはヒュームの英国史が浸透していた。国体論を卒業していたのである。そしてイギリスはヨーロッパ中から羨まれる政治的先進国になっていたのであった。     7 二大政党とフランス革命  ヒュームとルソー。これほど違った二人の思想家を並べることは難しいであろう。しかし「お人好しのデヴィ」(le bon David)とフランスの社交界で綽名《あだな》されていたヒュームは、『エミール』を書いて以来、逮捕の危険にあったルソーの窮状を聞いていたく同情し、彼とその愛人テレーズ・ルヴァセールをイギリスに亡命させ、イギリス政府に年金まで出させるように取り計らってやったのである。しかし間もなく精神状態のおかしくなったルソーはヒュームの悪口を言いはじめ、喧嘩わかれになった。もちろん非は一方的にルソーにある。現実の人生においてはルソーは失敗者、ヒュームは成功者であった。しかし政治理論の歴史から見れば、少なくとも大陸においてはルソーの構成的主知主義にもとづく民主主義理論が勝利を収めて今日に至ったと言えよう。これに反してヒュームの個人尊重の自由主義は、アングロ・サクソン国においては成功裡に実践されたが、政治理論としては人気がないように思われる。特に二十世紀に入ってからは、ルソー的な構成的主知主義の優位は歴然としている。その系譜には、コミュニズム、ファシズム、ソーシャリズムがある。ハイエクはルソーの生きていたフランスには政治的自由がなかったから、|頭の中で《ヽヽヽヽ》自由を考え、民主主義を考えたのだが、ヒュームのイギリスにおいては、すでに政治上の自由が相当に実存していたので、自由の問題を|具体的に《ヽヽヽヽ》考えることができたのだ、という趣旨のことを言っている。なるほどそう言われて見れば、マルクス主義という構成的主知主義を考えたマルクスは、政治的自由の比較的少ない国に育ち、そのマルクス理論を実践したロシアの革命家も一般民衆も、そもそも自由を実生活で知らなかった人たちなのである。毛沢東も同じケースとして考えたらよいであろう。これは「マルクス主義革命が、なぜマルクスの明確な予言に反して、工業最先進国であったイギリスから起らず後進国のロシアに起ったか」という疑問に対する一つの解答になるであろう。自由がすでにあるところでは、それを守り、ひろげることを具体的に考えうるのに反し、まだ政治的自由を知らないところでは、頭の中で空想しただけの民主主義を革命の形で敢行し、恐怖政治におわるのである。それがフランス革命以来のパターンである。  しからばヒュームは個人の自由をまもるためには政治を「慣習」にだけまかせておいてよいとするのであろうか。もちろん「いな」である。慣習それ自体は、時と場合でどのようにも動くものであるから、「正義」の配慮がなされなければならない。ここで人間が頭の中で「構成する法規」(実定法)と、人間性と社会に対する私心なき観察から「発見されるべき法」(自然法)の区別が明らかになる。ヒュームは人間の知的構成力とその妥当性には常に懐疑的であったから、人間が構成できる法規は、人間によって発見される法のわく内にするべきだと考える。彼は好んでシセロを読み、君主を含むすべての人間の上にある法の存在を知り、その法の下の自由という考え方を知っていた。その場合のヒュームが人間社会の基底に横たわるルールとして|発見した《ヽヽヽヽ》のはハイエクも指摘するように次の簡単自明なことであった。  この世の中の物質的な財は有限であり、人々が自分の欲しいだけ勝手に取るには不十分である。それでも、もし世間が「上衣を奪う者には下着をも与える」ような寛容な人たちだけから成り立っているならそれで問題はない。ところが実際には財は各人が欲しいだけ取るには不足(scarcity)であり、人間の寛容度も無限ではない(limited generosity)。この二つのことは誰にとっても明らかなことであり疑う余地がないであろう。このような人間の条件がある限り、もし個人の人間が平和に、自由に生きようとするならば、必ず次の三つのことが保証されなければならない。  先ず第一に、財の所有には安定性がなければならない。政権が変ったり、法令が変ったりするたびごとに個人の財産がおびやかされるようでは自由もへったくれもない。ホイッグ党が政権を取っても、トーリー党の個人の財産は安定でなければならないし、トーリー党の政権のもとでもホイッグ党の個人が財産没収されたり国外追放されたりするようなことがあってはならない。  第二は、この安定的な財産が移動する時には、その当事者の同意がなければならない。つまり商行為として、あるいは贈与行為としてしか財産を動かしてはいけない。権力による収奪はゆるされない。  第三は契約の履行は法によって強制されなければならない。もし契約に強制力がなければ、もっと悪い強制力が現われてくるであろう。契約の法的強制のないところでは暴力が強制してくるのである。これは無法状態に近かった戦後の闇市における暴力団のこと、及び法秩序の回復と共に正常な商行為が回復し闇がなくなったことを考えて見ればわかるであろう。  ヒュームによれば、以上、三つのことが正義の根源であり、この原則が無視されるところでは、民主的共和制であれ、立憲的民主制であれ、自由が根こそぎなくなる専制の危険があるとしたのである。専制政治とは、一般の人間が自分の財産が何時奪われるか安心感が持てない体制にほかならず、そこには個人の自由はない。権力から生命と財産の安定性を守る不断の努力こそがマグナ・カルタ以来の英国の「国体」であった。イギリスの法律はジェイムズ一世時代のサー・エドワード・クック(Edward Coke)の例のように、国王の最高の法務官でありながら、国王の権力による国民の財産への侵害を不断の努力で守り抜こうとした多くの裁判官たちの努力によって成長してきたもので、ついに国王の専制を止め、立憲君主たらしめるに至ったのである。  イギリスにおいてなぜ世界最初の二大政党主義が生まれたのか。それは誰かが考え出したものではない。構成的主知主義の産物ではないのだ。人知は二大政党による議会を構想できるほど明察に富むものではない。ある党が政権にあっても、反対党の人間の財産の没収はできない、というヒュームの「正義」が社会の原理として広く受け容れられた時、はじめて二大政党による議会制はそういう社会に自然発生したのである。政府が——それが君主制であれ共和制であれ——個人の財産を没収しうるという通念があるところでは議会制はうまく機能しない。イギリスとアメリカは国体は全く違うが、アメリカでも議会制ははじめからうまく機能した。要するに反対党が政権を取っても、財産を没収されるおそれがない、という通念がすでに社会に浸透していたからである。それに反して、戦後、アメリカが民主主義を押しつけてうまく行かなかった新しい国々は、まだ財産に関するヒューム的正義の観念が確立しておらず、反対党に政権を渡すことが身の破滅に直ちにつながるという状態だった。したがって個人の自由の基盤も脆弱《ぜいじやく》であった。  ここで注目すべきことは、こうした原則にもとづく法の支配は、微視的に見ればしばしば公益に反する不都合なことを起すということをヒュームが認めていることである。抽象的な法の支配によるよりも、大岡裁き的にやった方が、対症療法的にはよいように思われることがある。しかしそれは人知の力が極めて限られており、遠い影響をすべて見通すことはできないものだということを知らないものの考えることである。長い目で見るならば、一時的な不都合を忍んでも原則を堅持した方が、よい秩序を自発的に生ぜしめるのだ、ということをヒュームは主張してやまない。     8 不確実性の哲学  一九七四年十二月十一日、ストックホルムで行なわれたハイエクのノーベル賞受賞記念講演の演説は |Pretence of Knowledge《プリテンス・オブ・ノレツジ》(知りもしないことを知っているという態度をとること)という奇妙なものであった(これは西山千明氏によって「科学主義がもたらす危機」と訳され、ハイエク『新自由主義とは何か』〈東京新聞出版局〉に収められている)。  この講演の中には一度もヒュームの名前は出てこない。しかし一読すれば直ちにそれはヒュームの思想の現代的適用であることがわかるであろう。ハイエクは現代の経済学が、数学的に処理できるものしか科学的と見ず、それを経済の全体として錯覚する傾向があることを指摘する。そして更に本質上知り得ぬもの、コントロールしえぬものを、把握しうると考え、したがって政治が価値などをコントロールできると考え、絶えざる介入が行なわれていることの誤謬《ごびゆう》をあばく。 [#この行1字下げ]「経済学の分野においても、いろんな事象に対する支配を可能にしてくれるのに十分な知識を、人間は手に入れることができない。」(西山千明訳)  たとえば東京の某喫茶店で飲むコーヒー一杯の値段はいくらであるべきか、を中央の官庁は、いかなる情報を集めても知ることができない。世界各地のコーヒーの産地の出来高とその予測。種類による嗜好と需要。船の運送料、倉庫代、トラックの運送費。その喫茶店のある場所の坪単位地代、ビル賃貸料。従業員の給料、及び使用している茶碗の値段、内装にかけた金、レコードやステレオの設備費などなど、コーヒー一杯の値段を決定する要因の数だけでも何十、何百あるかわからない。いわんやわれわれが使用・利用するすべての物品について、中央官庁あたりがすべての価格決定要因を集めて決定する、などということは夢物語である。しかし現実には、そういう不可能なことが可能だと信じてやる経済体制だってある。極端な社会主義はそこを目ざすわけである。できっこないこと、わかりっこないことを、わかりうることとして計画経済をやることを、ハイエクは |Pretence of Knowledge《プリテンス・オブ・ノレツジ》と呼んだのであった。ケインズ以降の経済学の誤りの根もここにあるのであって、ケインズ自身が生きていたら、それに気付いて修正したであろうが、亜流はそれに気付かないとハイエクは嘆く。  ヒュームの思想をもっともよく受け継いで発展せしめたのは、彼の十二歳年下の友人アダム・スミスである。スミスの『道徳情操論』もヒュームに負うところが多く、『国富論』においても、彼の有名な「分業」(division of labor)はヒュームの partition of employment の言い換えであることは明らかであろう。そうした一つ一つのことよりも、アダム・スミスがヒュームから学んだ最も重大なることは、「人知の限界」ということであった。スミスは「価格」というものには、人知では知りえぬ無数の情報をフィードバックする機能があることを洞察した。哲学的に言えば、重商主義は構成的主知主義につらなる考え方であり、自由通商主義は、ヒューム的不可知論に通ずる考え方であると言えよう。スミスは人知が計画しうることの限界をよく知って、「見えざる手」などと言ったが、これは誤解されやすい表現であった。  現代は再び構成的主知主義とヒューム的不可知論との対立の時代のように思われる。何でも中央政府が計画できると考える共産主義・社会主義国家が一方にあり、市場の価格こそが無数の情報に対するもっとも信頼すべき指標と見る市場経済主義国とがある。経済面に限って言えば、勝負はすでに三十年前から明白であった。私は二十数年前、ベルリンを訪ね、東と西との極端な差に驚いたことがあるが、それがまだ続いていることは、東ドイツが国境警備をますます厳重にし、その国境守備隊の銃口を西ドイツに向けず、逆に自国領に向けており、国民が西へ脱出するのを抑えていることからも疑問の余地がない。構成的主知主義の統制経済は、不可知論的市場経済に及ぶことはできないのである。  しかし思想的には、構成的主知主義の権威はまだまだ健在のようである。人民のためによかれとして起された革命が、いずれも同胞を何百万、何千万と殺した上で専制政治になるという結果になっていることを体験しているのに、まだ、頭の中で構成した革命の綱領を信じたい人が少なくないのである。  しかしそれは人間の知力に対する過剰信仰であることにそろそろ気がついてもよい頃なのではないだろうか。最近の小平の訪日は日本のいわゆる革新派、つまり構成的主知主義者たちを当惑せしめた。あの偉大なる毛主席の国からの公賓が日米安保に賛成し、日本の軍備増強をあおるような発言をするとは、つい数カ月前まで、|誰が予想したであろうか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。歴史とは誰も予想できないことの連続であることはヒュームが明々白々と示したところだ。歴史の必然がわかるなどということ自体、人間の知の本質が何もわかっていないことなのだ。「政治の世界では一寸先が闇だ」と故川島正次郎はいったそうである。この方が歴史の必然を説く学者よりずっと哲学的に深い意味があるのだ、ということを疑う人は、戦後三十年だけでも日本の歴史を見るがよい。  ヒュームの再評価の機運は、シカゴ学派を一つの起点としていたように思われる。ここは構成的主知主義の色彩のあるケインズ批判の中心地でもあった。はじめは経済学の世界のできごとであったのが、次第に哲学的・思想的深さをもって世界的にひろまってきているように思われる。二十世紀も後半になると構成的主知主義の欠陥がますます明らかになってきた。そこで人々は、実質的に個人の自由が大いに拡張され、めざましい富の増大が行なわれたイギリスの|あの《ヽヽ》時代の政治と法律の原理を再考しはじめたのである。そしてそこに至れば、われわれはデイヴィッド・ヒュームという忘れられた巨人に出会うのである。そして興隆期のイギリスがいかにヒュームの思想に近づいたか、そして今や凋落《ちようらく》期のイギリスが、いかにヒュームから「遙けくもきつるものかな」といった状態になっているかを見て、深い感慨にふけることであろう。現代は「不確実性の時代」だと言われる。しかしヒュームは人間の歴史は常に不確実性の時代であることを、理論的にも実際にも見事に示している。むしろ事の本質に従って考えるならば、不確実が常態であるべきであって、確実性は特定のイデオロギーに托された幻想にすぎないというのが実態であったと言えよう。そしてようやく不確実性ということが広く認められるようになった。そしてヒュームこそはこの不確実性の真の解明者であったとして世界的な再評価を受けはじめているのである。 [#改ページ]     古事記・宣長・小林秀雄       ——オカルテズムの系譜として——     1   しき嶋の やまとごころを 人とはゞ     朝日にゝほふ 山ざくら花  これは寛政二年の秋、本居宣長が自画像に書いた賛であって、戦前の小学校を出た日本人ならば誰でも知っているはずの有名な歌である。「にほふ」という言葉を含んでいるところから、この歌にもとづいて専売局は「敷島」とか「朝日」という銘柄の煙草を売り出したことを記憶している人も少なくないであろう。もっとも煙草の「敷島」は勤労階級によってよりも、主として花柳界などで好まれたというが、それも「大和心をひと問はば、当然な話だ」という冗談になっていた。また、同じ煙でも、煙草などという平和的なものでなく、大洋《わだつみ》に龍かと靡《なび》く石炭《いわき》の煙を吐く軍艦の名前にも、「敷島」「大和」から「さくら」に至るまで、この一首の歌の中の単語と同じものが使われていた。軍艦の命名はこの歌によるものではなかったであろうが、日本の国力の精|華《ヽ》として命名したところ、何隻かの軍艦の名前と、わずか三十一文字の歌の中の単語とが重なっていた、ということは、それだけこの宣長の一首が、日本的なるもののエッセンスを濃厚に含んでいたと考えてよいであろう。  昨年(一九七七年)の八月初めに日本を離れて、ユーラシア大陸の反対側の沖にあるブリテン島の北の町に住みついて約七カ月、単調な日々と単調な風物になれて、頭の中まで単調になっている時に、思いがけぬ小包がとどき、何かとあやしんで披《ひら》いて見れば小林秀雄『本居宣長』であった。紺の葛巻紬《くずまきつむぎ》の表紙をひらけば、見返には奥村土牛の桜の絵があり、口絵には本居宣長六十一歳の自画自賛像があり、そこには小さく例の「しき嶋の」の歌がかすかに読まれる。そして小林秀雄はこの大著を宣長の異常とも言える桜への愛着に注目するところから説き起し、全巻五十章の第一章を次の宣長の歌でしめくくっているのだ。   桜花 ふかきいろとも 見えなくに     ちしほにそめる わが心かな 「何という違いだろう」と思わず私は感嘆せざるを得なかった。というのは連日エデンバラの古書店に通いつめて、堂々たるフォリオ版から、かわいらしいドゥオデシモ版に至るまで、二百年、三百年という歳月を経た皮表紙の本いじりに毎日の午後をすごしていたからである。今のイギリスでは古本屋といっても、骨董古書店(antiquarian bookseller)と中古古書店(secondhand bookseller)にかなり明瞭に分れているのであるが、私の通っているのは前者の方である。要するにどこを見ても皮表紙の本であり、どの本に手を出してもずっしりした皮の手ざわりである。それにそういう古書店の重要な仕事の一つは、古くなった皮表紙に特殊な油をぬって磨いてつや出しすること、またこわれた皮表紙の手入れをすることであるから、西洋の本格的な古書店——一冊何十万もする本で棚が埋まっている——というのは、皮革加工の仕事場のような印象をも与えるのである。そうした堂々たる革衣の中に、西欧を作り上げた思想や感情が包みこまれているのだ、と思う時、何とも言えない重苦しさにおそわれることがあった。  そんな時に小林秀雄『本居宣長』がとどき、桜の花の歌が目に入ってきたのだ。これは私に和本のあの軽さや、装幀の瀟洒《しようしや》さを憶い出させてくれるに十分であった。そして和本の感じを花で表わすとすれば桜花の感じであり、それが日本的ということでもある。日本的と言えば『古事記』と『源氏物語』ほど日本的なものはなく、その理解者として宣長より深い人もいなかったであろう。つまり小林秀雄が本居宣長を論ずるに当って桜の花から説き起したのはまことに卓抜した構想、あるいは類まれなる霊感か直覚によるものである。つまり第一章が桜の花であること自体が、小林秀雄の宣長論は正鵠《せいこく》を射ていることの保証であるといってよい。そして読み進むにしたがって、われわれは宣長の深さに驚くと共に、そこまで宣長に肉薄した小林秀雄に驚嘆するのである。     2 「桜の花」といえば、戦前の日本人はある共通の表象を持っていたと思う。何しろ「国花」であるし、小学校の教科書でも、子供向けの読み物でも、桜に対する国民的表象を作り上げるようになっていた。中学生ともなれば、『岩波中等国語』で芳賀矢一の桜の花についての論を読み、そこに引用されている古歌など暗誦させられることになる。  ところで今はどうなっているのであろうか。小林秀雄の宣長論がとどいた日の夜、私は家族のものに「敷島の大和心をひと問はば」という、戦前ならこの和歌を知らなければ日本人と見なされないほど有名な宣長の歌を知っているか、とためしに聞いてみたら誰も知らないのである。敗戦時に小学四年生であった女房も知らないし、いま高校生の娘も、中学生の息子も知らない。もちろん小学生の息子も知らない。これから判断すると現在、四十四、五歳以下の大部分も、宣長のこの有名な歌を知らないのではないだろうか。「こんな歌も教えないで学校では一体何を教えているのだ」などという嘆きは別としても、この調子だと、四十五歳以下の日本人は桜の花についての表象すらもろくにもっていないのではないか、とさえ疑われてくる。というわけでまず桜の花とはどんな花か、ということから話をはじめるのが安全である。  宣長が愛したような桜の花の表象を、戦前の子供たちは国定教科書のほかに『国史絵巻』のような『講談社の絵本』や『少年倶楽部』や『幼年倶楽部』などの挿画から与えられていたのではなかろうか。子供の絵本や雑誌といっても、当時は一流の画伯たちが良心的な作品を画いていたのであって、今日のものとは類を異にしていたのである。そうした桜の花の表象の下地があった時に、姉が勤務先から桜の苗を一本もらって来る、ということが起った。この桜の苗は国花ということで、大して広くもない庭の真中に植えられ、忽ちに大きくなり、毎年、花が咲いた。食べられる桜ん坊のなる種類ではなく、花だけの木であったから、子供心にはちょっと物足りなく思うこともあった。近所には桜ん坊のなる桜のある家もあったのである。そこの大きな桜ん坊を見ているのに、自分の家の桜にはそういう実がならないのだから損したような気になっても仕方がない。それにうちの桜はどんどん大きくなって、枝が邪魔になるので花の蕾が丁度よい頃になると、よくその枝を切った。桜は枝を切らないものだそうであるが、庭の広さから言ってやむをえないことだった。しかしその枝を切る時期が、蕾のほころびる頃だったために、小学生の私の心にも小さい事件を起すことになった。  おそらく小学校の四年生の時であったと思う。学校から帰ってきたら、花瓶に桜の枝がさしてあった。それはどうということのない情景であったが、たまたまそれを私はしげしげと見たのである。桜の蕾や、咲いている花をじっと見たのである。まだ葉は出ていなかったと思うが、葉になるはずの淡緑のかたまりがすでに見えた。その美しさにしばらく呆然とした時間のことを四十年以上経た今でも鮮やかに憶えている。それは口で叙述することもできないし、不器用な自分には絵にもかけないと子供心にも思った。このような体験はその後は起らなかった。しいていえば垣根に咲いている小さい花——その名をいまだに知らない——が奇妙に美しいことを学校でふと憶い出して、その日は走って帰ってきたこととか、庭にある花がばかに綺麗なのでその名を母にきいたら桔梗《ききよう》だと教えてもらったなどなどにすぎない。美しさを自覚してしげしげと眺めている自分を、更に自覚したというのは桜の花がはじめてであった。  この体験はその後、ときどき思い返されることがあった。そのたびに「なぜ桜があの時あんなに美しく見えたのか」と自問したものである。そして桜の花にはとり立てて美しいところはない、ということに思い至った。牡丹《ぼたん》でも芍薬《しやくやく》でも百合でもチューリップでも、その美しさは自明である。しかし桜はどうか。漢詩でも英詩でも、ずいぶん花はうたわれているが、桜の花自体を対象にしたものは皆無に近いと言ってよいであろう。桜の花の淡泊さに感動するのはやはり日本人的なものの特徴なのではあるまいか。それについても憶い出されるのは、近所の人にダリアの花をもらった時の祖母のつぶやきである。 「こんな|ざまざましい《ヽヽヽヽヽヽ》色では仏様の花にもならないし」  と当惑の態《てい》で家族の者に言った。「ざまざましい」というのは私の郷里の方言では「グロテスクめいて気持が悪い」というような意味になる。ダリアの色は鮮烈だ。それを愛する画家も少なくなかろう。しかし田舎の伝承の中にしか教養を持たなかった祖母にとっては、ダリアは花の大きさも色も、仏壇にはむかないと感じたらしい。お釈迦様は元来、天竺《てんじく》の方であるから、南国の鮮烈な花と合わないことはなかろう。しかし日本の仏様、つまり身近な先祖の慰霊としてはふさわしくないという感覚であったようだ。   めづらしき こまもろこしの 花よりも     あかぬ色香は 桜なりけり  という宣長の歌は、そのことを指したものであると言ってよい。そして日本の古伝承における美女の代表は「この花咲くやひめ」であり、この姫は富士山に祀《まつ》られている。富士山と桜花と言えば、詩的あるいは絵画的表象における日本そのものではないか。     3 [#この行1字下げ]「凡て神代の伝説《ツタヘゴト》は、みな|実 事《マコトノコト》にて、その然有《シカア》る理は、さらに人の智《サトリ》のよく知ルべきかぎりに非《アラザ》れば、然《サ》るさかしら心を以て思ふべきに非ず」  と宣長は『古事記伝』において断言した。つまり『古事記』に書いてあることは全部本当のことだが、人知ではなぜそうなのかは知ることができないから、「さかしら心」をもってあれこれ推論してはいけない、つまり学者の知性では理解できないものである、それなのに神話学とか民俗学とか心理学とかを利用して、さかしらに説明しようとしてきたのが現代のアカデミズムであった。小林秀雄の宣長論が類を絶しているのは、この宣長のメッセージを現代の批評の言葉で、そこなうことなく伝えようとしたその姿勢にある。したがって小林秀雄の宣長論は、「宣長は古事記は理性ではわからないと言っているんだよ、ということを世のさかしらな学者たちにわからせようとしている本」という努力の巨大な記念碑なのである。それはある問題が証明できないことを証明しようとしている数学者の努力に似ていないこともない。このことを小林秀雄は主として宣長からの引用文をもって語らせている。その内容を|私の《ヽヽ》言葉で表現させてもらえば次のようになる。 [#この行1字下げ]「〈古事記〉はオカルト文書である。私〔宣長〕は長く古語のしらべに思いをひそめているうちに、このオカルトの世界を|実 事《マコトノコト》と見ることができる|霊 視 力《クレアヴオイヤンス》(clairvoyance)を得た。私が〈古事記伝〉において行なうところは、このクレアヴォイヤンスの与えるところのものを自分の言葉に忠実に移すことなのである。世の儒者たちのように、常識(常見)で説明できないことはみな幼稚な古代人の空想物語として片づけるような態度では話にならないのだ。私〔宣長〕の言うことを本当に理解してもらうためには、あなたも同じクレアヴォイヤンスを得ようと心がけるべきである。〈古事記伝〉はその手だすけとなるであろう」と。  小林秀雄は、その大著『本居宣長』の最終のページで次のように言っている。 [#この行1字下げ]「彼〔宣長〕の古学を貫いてゐたものは、徹底した一種の精神主義《ヽヽヽヽ》だつたと言つてよからう。むしろ、言つた方がいい。観念論とか、唯物論とかいふ現代語が、全く宣長には無縁であつた事を、現代の風潮のうちにあつて、しつかり理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の〈情《ココロ》〉の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、〈情《ココロ》〉を、しつくりと取り巻いてゐる、〈物の意《ココロ》、事の意《ココロ》〉を知る働きでもあつたからだ」と。(傍点現筆者)  この文章で用いられている「精神主義」という言葉は誤解され易い。私ならば「オカルテズム」と言いかえたい。しいていえば同じ精神主義でも、霊界との交流を信ずる spiritualism の意味での精神主義《スピリチユアリズム》であって、普通われわれが使う意味での精神主義ではないのだ。むしろ心霊術なのである。オカルテズムにとっては観念論とか唯物論とかいう現代語は全く無意味である。人の「情《ココロ》」のほかに、「物の意《ココロ》、事の意《ココロ》」を知ることを主張するのはオカルテズムの真髄であって、合理的科学には、物や事、つまり物質には意《ココロ》なるものは存在しないことになっているのである。  オカルトというと日本では黒ミサとか、悪魔信仰《セイタニズム》とか、そのほか、ここ数年来よく話題になった気味の悪い映画のようなものを連想しやすい。広義のオカルトにはそういうものを含めてもよいであろうが、そうでないオカルトの方が重要である。たとえばスウェーデンボリは当時、第一級の自然科学者であり、鉱山の実務にも通じていたが、霊界が見えたという。その見えるままを、彼はむしろドライな筆致で書き残した。そこには常識では計り知れないが——つまり「さかしら」ではどうしようもないが——確実な観察眼を持った旅行者の記述の如く霊界のことがのべてある。もしスウェーデンボリの著作を後世の人が注釈するとすれば、宣長が『古事記伝』で述べていることに似てくるであろう。聖テレジアの『霊魂の城』も同じような印象をわれわれに与える。  近代の目ざましい例ではルードルフ・シュタイナーの例がある。彼ははじめ自然科学を学び科学哲学で学位を得ている。クリシュナー版やソフィア・ワイマール版のゲーテ全集のうち科学論文に関するものの解説・校訂では、今なお彼の業績が基本的であるとされている。したがって文献学者・哲学者としても立派な人なのである。それがだんだん霊界がはっきり見えるようになって来て、晩年はひたすら自分に見えるところを述べて解説した。その場合の彼の体験にもとづく自信のある口ぶりは、宣長が「さかしら」を斥ける時のそれと一脈通じているようにも思われる。  ここまで言えば、聖書でも、大本教の『霊界物語』でも似たようなものではないか、という人も出るであろう。然り、宗教の本はすべて根本においてオカルト文書であり、それがなければ宗教でも何でもないのである。宣長は『古事記』に書いてあることを読みほぐしているうちに、そこに書いてある一見、荒唐無稽なことを、オカルトの次元で体験的把握ができたのだ。彼にとって『古事記』は伝説でも神話でも歴史でもなく、まことの「神典《カミノフミ》」になったのである。     4 『古事記伝』はオカルト体験の書である、と言っても、宗教書である、ということには私はちょっと躊躇を感ずる。というわけは宗教の場合にはドグマとか戒律が正面に出てくるのに宣長の見た『古事記』の神代巻は、古代の日本人が分ちもった霊界物語の一種という面が強く、特定の教祖が教えを垂れるというようなものではないからである。そう思って読めば、宣長の書いたものには宗教というよりはオカルト文書の重要な特徴をなす諸点が、そちこちに見えるのだ。たとえば「あやしき事の説」の末尾に次のような発言がある。 [#この行1字下げ]「今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね、つら/\思ひめぐらせば、世ノ中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる、いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ」  世の中の事でも、今日あっていつも体験できることは不思議ではないと人は思いがちである。しかし考えて見れば、まことに不思議なことが多いのだ。たとえば物は上から下に落ちる。しかし木は下から上に伸びて、何十メートルにもなり、重量も何トンにもなる。どうして何トンもの物が、物理に反して上に伸びて行くのか。また死体は腐敗し分解していくのに、外見は死者のような熟睡者、あるいは植物人間はなぜ腐らないのか。熟睡中の意識はどうなっているのか。それは死後の意識のあり方とどこがちがうか。などなどはさかしらに説明はされているようでも、根本的なことは太古と同様、何もわかっていないのである。このようなことを熟視しているうちに、|霊 視 力《クレアヴオイヤンス》でそれがわかる人が出てくる。これが良質なオカルト文書の出発になることがよくあるのだ。いわゆる宗教とは少し気味合のちがったもので、宣長の体験はそれに近かったようである。彼は『古事記伝』を注釈し終えて、「そもそも自分が述べていることは、個人的なさかしら、こじつけをまじえないで、神典《カミノフミ》に見えたるままである」ということを繰返す。宣長には「見えた」のである。これはクレアヴォイヤンスそのものだ。このところを小林秀雄はこうも言っている。 [#この行1字下げ]「〈古事記伝〉の訓みは、まさしく、宣長によつて歌はれた〈しらべ〉を持つてゐるのであり、それは、〈古語のふり〉を、一挙にわが物にした人の、|紛ふ方ない確信と喜びとに溢れてゐる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。さういふ処で、何かゞ突破されてゐるといふ感じを、誰も受ける……長い時間をかけた、忍耐強い附き合ひは、実証的諸事実を動員しての、たゞ外部からの攻略では、〈古事記〉は決して落ちない事を、彼に、絶えず語りつゞけてゐただらう……その際、集められた諸事実は、久しく熟視されて、極めて自然に、創作《ヽヽ》の為の有効な資料と変じなかつただらうか」(五〇〇ページ。傍点現筆者)  論敵に自分の説をうまく説明して納得させることは宣長にはしばしばできない。しかし『古事記』の世界を、誰もかつて見なかったように見たという実感からくる喜びと自信はあきらかであり、ゆらぐところがない。小林秀雄は「創作」という言葉を使って宣長の到達したところを指そうとしている。これは正にオカルト文書で言うところの「想像力による認識」のことなのである。近代の哲学の認識論によれば、認識の主体である人間は常に受身であって、外界から来る刺戟の印象が認識のもとになるということにされてきている。しかしコールリッジが難解な表現でのべているように、|空 想《フアンタジー》と区別された詩人の|想 像 力《イマジネーシヨン》は認識なのである。宗教で言う恩寵としての啓示や、オカルトで言うクレアヴォイヤンスに達した|想 像 力《イマジネーシヨン》も同じことである。この意味で宣長の「想像力」を小林秀雄は「創作」と呼ぶのである。この意味で目に浮んだことしか本当の「創作」はできないのだ。  宣長のクレアヴォイヤンスを示す具体的一例として高天原に、次々に成り坐《ま》す神々の名について彼の解説をあげてみよう。宣長によれば次々に挙げられている神々の名を系譜と考えるのは不適当であるという。次に何の神、その次に何の神、と言ってもそれは縦ではないという。父の次に子、というのは縦《ヽ》の意味の「次」であるが、兄の次に弟が生まれるというのは横《ヽ》の意味の「次」である。神々の誕生は正にこの「横《ヽ》の次」なのであって、「皆同時にして、指続《サシツヅ》き次第《ツギツギ》に成り坐すこと、兄弟の次序《ツイデ》の如し、(父子の次第《ツイデ》の如く、前《サキ》ノ神の御世|過《スギ》て、次に後ノ神とつゞくには非ず、おもひまがふること勿《ナカ》れ)」と宣長は言う。この宣長の主張を支持する根拠が『古事記』の中にあるわけではない。ただ宣長にはそう見えてきたのである。つまり「想像力による認識」なのだ。これを小林秀雄は「……〈天地ノ初発《ハジメ》の時〉と題する一幅の絵でも見るやうに、物語の姿が、一挙に直知出来るやうに語られてゐる」と説明しているが、これはまことに適切な解釈である。というのは時間的生起を縦の連続として見ず、横の連続、つまり「一幅の絵」のように見えるというのは、オカルト省察の出発点なのであるから。  たとえば高い崖から落ちた人とか、水におぼれた人などが、助かって意識を取りもどした時、しばしば「自分の一生に起ったすべてを一瞬の間に見た」というような体験を語ることがある。これを心理学者はどう説明するか知らないが、東西のオカルト文献はこの現象に深い関心を示す。時間的継起として何十年にもわたって起ったことが、どうして一瞬の間に全部想起されるのか。それは縦の時間的継続が、横の空間的形象になることにほかならない。日本でも死者が閻魔《えんま》大王の前に行くと、自分の一生を写す「玻璃《はり》の鏡」の前に立たされるのだとお寺さんは民衆に説いてきた。この地獄の鏡は、映画のフィルムのように次から次へと生前のことを写し出すのか、それとも一挙に写し出すのか知らない。しかしこの「玻璃の鏡」を最初に考え出した神秘家《オカルテスト》は、一瞬にして自己の全過去を見るという体験から出発したに違いないだろう。『古事記』の「神代七代」を「縦」でなく「横」と感じた時の宣長は文献学者というよりはオカルテストである。その宣長の解釈を「主題の像《カタチ》」として直ちに了解した小林秀雄もオカルト的なものに反応する素質があったというべきであって、単なる評論家としての鋭さというのでは不十分である。彼の洞察の次元はもっと深いのだ。     5 「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」  と宣長は断言する。これはすでにして怪力乱神を語るどころか、積極的に肯定しているのだから、漢学者の啓蒙された思考とは相容れないことは明らかである。 [#この行1字下げ]「この〔言霊《ことだま》〕の働きも亦《また》、空や山や海の、遙か見知らぬ彼方から、彼等〔古代日本人〕の許《もと》に、やつて来たと考へる他はないのであつた」  と小林秀雄は解説する。霊的なるものが、人間個人の外にあって、それが人間の中にやって来るとは、近代科学の絶対に拒否するところである。霊とは人間の脳という物質の表面あたりで小さな波状としてとらえられる微電流を起す生化学反応ぐらいにしか考えられていないのだから。しかしこれは今の人にそう思われるだけである。神が目に見える時代の人には別に思われたのである。類比的理解のために、西洋の例をとって説明して見よう。新約聖書の聖ヨハネ伝の第三章(6—8)に次のような記述がある。 [#この行1字下げ]「肉から生まれたものは肉であり、霊(|spirit《スピリツト》)より生まれたものは霊(|spirit《スピリツト》)である……風(|wind《ウインド》)はその好むところに向って吹き、汝はその音を聞くが、それが何処より来りて何処に行くかを知らない。霊(|spirit《スピリツト》)より生まれたる者もすべてかくの如しなのである」と。  これは英訳の聖書から取ったものであるが、聖書の原典では、「霊」(|spirit《スピリツト》)も「風」(|wind《ウインド》)も|全く同じ単語《ヽヽヽヽヽヽ》 |pneuma《プニユーマ》 を使っているのだ。しからばギリシャ語 |pneuma《プニユーマ》 には「霊」と「風」という|二つの語義《ヽヽヽヽヽ》があったのであろうか。否、である。古代のギリシャ人は霊魂を風の如く吹き来りて、人体に入り、また風の如く吹き抜けていると表象していたのであり、正にその理由で同じ単語を使っていたのだ。後世の辞書の如く、「二つの意味がある」などと分析していたのではなく、風でもあり霊魂でもあるものを考えていたのである。  今の人は霊魂を風としては表象しないであろう。しかし日本語でもラテン語でも、霊魂と呼気は同じ単語であった。英語 |spirit《スピリツト》 はラテン語の |spirare《スピラーレ》(呼吸する)という動詞と同根であることはよく知られていることである。日本の「いのち」も「いき」と関係あることが指摘されている。|いき《ヽヽ》しているうちが、|いのち《ヽヽヽ》のあることである。昔の人は脳波よりも何よりも、呼吸の停止を死と考えていたようである。ここから霊魂は風の如く外から来るという表象が生ずる。昔の人々には霊的なるものが外から来たと感じられ、目にも見えたのかも知れない。今の人たちと違うところである。「言霊《ことだま》」も外から人間にやってくるのであって、動物の叫び声から進化した音声などとは考えられていなかった。同じような意味で神代の神は、神代には目に見えたとしてもおかしくない。宣長のクレアヴォイヤンスはその状態を見たし、小林秀雄もそのことがわかる人だった。同じことはロゴスについても言えるであろう。ロゴスにいろいろな意味があったのではなく、ロゴスは人間の言葉、言霊、理知的なるものなどというものに分化して認識される以前の、そのどれでも同時であるものであり、それが神でもあった、ということなのである。宣長も、霊という「こころ」の働きは「言《コトバ》」の働きであるという注を書いた。宣長がギリシャ哲学や聖書の解釈学を読んだらどう言ったであろうか、などと空想して見るのも面白い。オカルテズムの中に |pneumatology《ニユーマトロジイ》 というのがある。字通りに訳せば「風学」であるが、本当は「霊魂学」という意味である。宣長がこの種の本を読んだとしても少しも驚かなかったであろう。  このように見てくると、宣長の業績というのは、通常の学問的成果を超えたところに真価があり、それは後世のアカデミズムが、『古事記』を通常の方法で研究しても出来上るようなものではなかったことがよくわかるであろう。そしてこの宣長に対する評論も、通常のアカデミズムの学者の論文をいくら積み上げても十分なしうるものでなく、小林秀雄という個人の特殊な資質を必要としたのである。通常の研究の積み上げでは何ともならないのがオカルテズムである。繰返して言うが、『古事記』はオカルト文書であり、宣長はオカルテストであり、小林秀雄はそれを感じうる人であったのだ。宣長の『古事記伝』が後世によって凌駕《りようが》されにくい性質のものであるように、小林秀雄の『本居宣長』も後世によって凌駕されにくい、ある独特な特質を持つのもそのためである。  ここに一つの疑問が残る。もしも宣長をオカルテストというならば、彼の学問的業績は現代的にさめた学問によってはどのように評価されるのであるか、という疑問である。私はかつてアカデミックな国語学者に「今日の国語学によって宣長の『古事記』の読み方はどのくらい不適当として捨てられてしまっているのか」と質問したことがある。その答は意外であった。「まずはだいたい宣長の通りです。あちこちについて異論を出す学者がおりますが」というのである。  今から二世紀も前の学術的研究が、批判精神の旺盛な今日においても、まずは大筋において通用するとは驚異である。そのような例外的に堅固な学問的業績がオカルテストによって成しとげられた、ということは通念に反するではないか、という意見がでるであろう。しかし「オカルテストによる啓蒙」という逆説的な状況が、人類の知の歴史にはときどき起るのである。合理主義者の啓蒙がしばしば一過性なのに、オカルテストの知的業績がしばしば恒久的であるという逆説はどういうことなのであろうか。それについては他日、ゆっくり論じて見たいと思っている。 [#改ページ]     漫画の時代     「これでよいのかしら」 [#この行1字下げ]「わが国では年間二十五億冊の雑誌が発行されるが、そのうちの約三分の一は漫画雑誌である」  とか、 [#この行1字下げ]「わが国の全出版物の総数二十八億冊のうち漫画は九億冊に達した」  とか、 [#この行1字下げ]「大学生のよく読む雑誌の上位の五位までは漫画雑誌によって占められている」  とか、最近漫画についていろいろショッキングなデータが報道されているが、これを読んだ大人たちは何となく不安を感ずるであろう。この不安感をある綜合雑誌の編集者は次のように表現している。 [#この行1字下げ]「活字で育った世代は、このところ巷に氾濫している漫画・劇画に脅威を感じているわけです。いまさら何をといわれるかもしれませんが、かつては子供が主として見ていたメディアを、学生をはじめとして老いも若きも、争って毎週見るということになると、ある脅威を感じる。本を読まなくなり、バカになるんじゃないかと心配するむきもあります。活字はつまらなくなってしまったんだろうかという漠然とした不安もある」(『中央公論』一九七八年十一月号、二二六ページ)  これは多くの人が共鳴する意見であろう。私自身、これと同一趣旨の嘆きをいろいろな人から聞いているし、また、ほかのところでも読んだ記憶がある。自分を活字文化族と思わない人でも、人の親ならば、自分の子供が——それが高校生、大学生の場合ならば特に——漫画に読みふける姿を見ると、「これでよいのかしら」と思いたくなるであろう。小学校でも授業中に漫画を見たら取り上げて焚《や》く、などという所もあると聞いた。明らかに児童向けの劇画でも、小学校の先生を焚書《ふんしよ》に駆り立てるほど不安にするものであるらしい。子供から大学生、更には若い社会人まで漫画に読みふけるようではこれからの日本はどうなることか、という心配を抱くのは、大人の感覚としてはおそらく正常なのではあるまいか、とも思われる。私だって、自分の子供が漫画を読んでいるのを見れば、「もっと実のある本を読め」と言いたくなるし、少年漫画雑誌を眺めている学生諸君に向っては、「若いうちには古典を読め」と忠告したくなる。しかし、私はそうしないし、またできない事情もある。というのは私は子供の時からずっと漫画を読んでいたし、今も読んでいるからである。酒呑みの老人が若い者に「酒を呑むな」と忠告する時は、自分が酒害を痛感している場合であるが、私は漫画からの害を受けたとは思ったことがない。少なくともその自覚症状がない。同じように私は酒の害を感じたことがないから、若い人に禁酒をすすめることもない。  漫画と酒を並べるのはおかしいかも知れないが、現在の私にとって漫画は酒の役目に近いのである。日本で寝酒といい、英国でナイトキャップというのがある。睡眠の直前に飲むアルコールで、ねむ気を誘う役目をする。緊張が多すぎる人とか、寝つきの悪い人にとっては睡眠薬の代りになる。夜に集中度の高い仕事をする人には寝つきのすこぶる悪い人が少なくないようだ。睡眠薬をあたかもピーナツでも噛むように大量に食べないと眠れないという人もいるし、夜中に仕事をする時はアルコールを切らすことのできない習慣ができて、昼は通常だが、夜は酒乱という人もいる。幸いなことに私は大学を出てから不眠に悩んだ記憶が全くない。夜中から夜明けにかけて体の調子も頭の調子も一番いいという損な体質だが、眠る時だけはいつも苦労はない。たいてい数分の屈伸運動と蜂蜜入りの熱いミルクが十分な睡眠剤の働きをしてくれる。ところが床に入ってからもすぐ眠りたくない時もある。そんな時はベストセラーのアメリカの小説を読む。二十分も読まないうちにねむくなる。また気分が沈んで逃避的な時は『半七捕物帳』だ。そして本当に疲労感がある時は、漫画である。  たとえば藤子不二雄の『ドラえもん』を開く。このナンセンスでユーモラスで無邪気な、元来は幼児向けらしい漫画をしばらく読んでいると、いな、眺めていると、憂世の辛さを知らぬ愉快な幼児期の気分にめでたく退行してたちまち眠りこんでしまうのである。きっと私の寝顔にはにこにこした表情が残っているのではなかろうか。  実存的な悩みとか、アングストで寝つきの悪い人は、宗教書を読んで気持を和ませるとか、ヒルティの『眠られぬ夜のために』と言ったような本を読む方が高級であろう。しかしそういう宗教的、人間的な問題はちゃんと起きている時にしっかり考え、ふとんに入ったら、さっさとハピーな幼児に退行するのも悪くはないではないかと思う。深刻な悩み、深刻な思索は昼間のうち、あるいは朝に、遅くとも夜の早い部分にとどめる、というのも一つの生き方である。そしてふとんの中の時間は、なるべくすみやかに平和な眠りに入るような風に神経をなだめるべきなのだ。ナイトキャップがアルコールの生理的作用で眠りをいざなうのに対し、漫画は心理的なナイトキャップたりうるのである。     リリース効果  西田幾多郎と漫画、という対比がなされることがある。 「大学生は漫画などを読まずに、西田幾多郎の『善の研究』などに取り組むべきなのだ」  という正論もあれば、 「西田幾多郎を読むよりは、よくわかるだけでも漫画の方がいいのだ」  という逆説もある。しかし私はこの二つは対立させる必要が全くないと思う。西田哲学の本は『善の研究』は別としても、普通の学生が教養のために読むには難しすぎる。哲学専攻の学生なら、専門書として読むことがあろう。同じ哲学でもスコットランドの啓蒙哲学を専攻したい学生ならば、西田哲学の本を読むことは必須でなかろう。しかし西田哲学の本を二、三時間、一生懸命に読んだら、しばらく散歩するとか、友人とだべるとか、音楽を聞くとかの解放感《リリース》を与える休息が必要である。この種のリリースを得る手段として、しかるべき長篇劇画を読むことは理に叶っている。文字だけの文学書では、なかなか解放感を味わうことができないであろう。よく張る弓ほどよくゆるまなければならない。  現代の職業のうちでも最も緊張度の高いものの一つは外科医である。ある外科医が、 「手術をやったあとで曾野綾子の小説なんか読めるものか。宇能鴻一郎だよ」  と言ったという話を聞いたことがある。曾野さんの小説は手術後の外科医にリリースを与える性質のものでない。リリースを与える読み物は別種のものである。宇能氏の小説を劇画化すれば発禁になるかも知れないが、それはリリース効果の極めて大きいものになるに違いないだろう。  子供や学生にとっても漫画はこうしたリリース効果をもっているのではないだろうか。今日の学校制度が普通の子供に相当なストレスを与えていることは間違いない。そのストレスにはリリースが必要である。漫画はそれを提供しているという面があるようである。私は子供の時代を田舎町で送ったから、今の子供たちよりももっと自然な形のリリースが実に多くあった。すぐ家の裏の小川ではどじょうがとれ、なまずやふなが釣れた。またワナで生きたまま雀を捕えることもできた。学校から帰ってきたら、やりたいこと、つまり学業のストレスからのリリースの道は山ほどあった。それにもかかわらず、毎月、『幼年倶楽部』の「こぐまのころすけ」や、『少年倶楽部』の「冒険ダン吉」などの新しい漫画を見るのがいかにたのしみであったことか。 「今日は幼年倶楽部が配達される日だ」などという時は、歩いて家に帰ることはまずなかった。走ったものなのである。     首斬りのストレス  もっともその頃の漫画と近頃の漫画ではまるで違うことを指摘する人もあるだろう。たしかに『少年倶楽部』の復刻版を子供たちは絶対に捨てない。単行本の如く愛蔵している。それなのに、近頃の漫画週刊誌はパラパラと見て、二、三日後は紙くずかご行きである。お目当ての連載物を見ればよいらしい。そしてそれがまとまってコミック・ブックとして単行出版になると買うのである。たしかに近頃の漫画雑誌には、アブノーマルだったり、下品にすぎるものも少なくない。昔の『幼年倶楽部』にはなかったものだ。しかしそういうどぎつい漫画は、昔にはなかったようなストレスの下にある子供にはどこか訴えるところがあるのではないだろうか。不自然なストレスの多い学童生活では、しかもお上品な母親に過保護で育てられている子供たちには、汚物の出るどぎつい漫画がすかっとさせることがあるのかも知れない。むしろそういうリリースを子供が歓迎しているとするならば、ストレスがやや異常とか、ほかに理由があると考えてよいであろう。その昔、戦場の緊張は、ふだんは善良な兵士をも野獣の如きものにしたという。平時には求めないようなリリースを求めたのである。今の受験戦争は子供たちにリリースとしてどぎつい漫画をも求めさせているのかも知れない。リリースの話と言えば、山田朝右衛門|吉亮《よしふさ》の直話というのに次のようなのがある。 [#この行1字下げ]「また昔から手前どもでは、幽霊が出るために夜通しで騒ぐという噂《うわさ》もありました。これはこうなんです、手前や弟子なぞでも人を斬って帰って来ますと、どういうものか顔がボーッと逆《のぼ》せて、大変な疲れを覚えます。一トロに血に酔う、とでもいうのでしょうか、とにかく妙な気持です。そんな時には、父から徹夜《よどおし》の宴《さかもり》を許されるので、若い弟子たちは底を抜いて騒いだものです。これを世間の人が曲解して朝右衛門は怨霊に悩まされて睡れないため、ああして夜通しで騒いでいるのだと伝えたものでしょう」(篠田鉱造『明治百話』)  山田家には代々俳諧の宗匠をするぐらいの教養の伝統はあったのであるが、首斬りのストレス解消には俳句では不十分で酒をのんでさわぐことが必要だった。  仕事と解放感《リリース》は相反しない。首斬りの腕前と飲酒は相反しない。西田哲学とマンガも相反しない。それは数学者C・L・ドジソンと『不思議の国のアリス』の著者ルイス・キャロルが同一人の頭脳に共存し得たるが如く共存しうるものである。     戦中の�焚書�  漫画をリリースの機能から見て弁護しようとしてみた。しかし漫画のためにアポロギアが必要なのであろうか。もちろんそれは無用である。しかし漫画の氾濫を憂える声が、その抑圧に向う力に化する可能性があるとすれば、あらかじめその問題を考えておくことも無用でないであろう。  戦争中の中学校の書物の取り締りのことをまだ記憶しておられる方も少なくないと思う。私の場合、それは中学一年の英語の授業中に、捕物帳を読んでいて英語の先生につかまったことにはじまる。その時は、先生が怒るのももっともだと思ったので、叱られても納得した。それから間もなく、昼の弁当の時間に、講談本を読んでいるところを同じ先生に見つかった。この時は悪いことをしている意識は全くなかった。講談本や小説は小学校でも休み時間に読んでいたし、それについて注意されたこともなかったから、中学でも昼休みは机の上にのせて大っぴらに読んでいたのである。しかし今度は先生はなかなか許そうとせず、教室の前に坐らされ、なぐられ、退学しろと執拗に言われた。猛烈な反抗心があったが、親のことを考えてあやまり、ようやく許してもらった。  そのうち、全校一斉の持ち物検査が行なわれ、教科書以外の本は、小説といわず講談といわず、漫画といわず、軍記物といわず、一冊のこらず没収された。その本は職員室の前の廊下に山をなした。何しろ出版物の甚しく欠乏していた頃だから、この没収本で古本屋をはじめたら一財産ができるくらいのものだった。店頭に出せば即日、すぐ売れるような、みんなの読みたい本ばかりだったのである。われわれは中学一年だったから、まだ幼稚な本が多かったが、上級生ともなれば文芸物も少なくない。それらが一切合財没収されたのである。おまけに『愛染かつら』を持っていた上級生などは、かなりの処罰を受けたと聞いた。河合栄治郎博士の愛読書だったというのに。     根強い差別観  当時、本はまことに貴重品であった。だからそのうち、説諭でもあって返してくれるものだろうと期待していた。しかし本の山は教員の宿直室とか事務室に運びこまれ、そのうち一冊もなくなってしまったのである。みんな先生たちが家に持って帰ってしまったのだ。何度も言うが戦争中は書物の欠乏時代で、戦前の小説、雑誌、漫画はすべて貴重品であり、もし古本屋に持って行けば直ちに高価で引き取られ、高い値段をつけて即日に売れるような時代だったのである。生徒から教育指導の目的で取り上げた本を家に持って帰った時の、その先生方の家族の喜びようが目に浮ぶ。奥さんも子供も、「お父さん、また持ってきてネ」と言ったに違いないのだ。その本は近所の人に貸して喜ばれ、親類に貸して喜ばれ、ついには闇物資の交換に用いられ、ついに古本屋に直接に売られるに至ったのである。  戦争直後、私は何冊かの取り上げられた自分の本を、金を払って古本屋から買いもどした。その古本屋とは子供の時からの知り合いであったからその古本を売った人の名前を聞き出すのはいとも易しかった。それは悪書追放に最も熱心だった先生の一人だったのである。そしてその先生は戦後には「本を読まねばだめだ」などと生徒に話したのだから、それを聞いた私がいかに憮然《ぶぜん》たる思いをしたかおわかりになると思う。戦争中の悪書は戦後にはたわいのないものだった。別に国家転覆を図る本とか、戦争反対の本を読んでいたのではない。単なる娯楽的読み物だったにすぎない。ひしひしと迫ってくる戦争の緊張やら、勤労奉仕のやるせなさからの解放感を味わうためやら、しばしの逃避的退行のためのものであり、それはむしろ健康な人間の正常な欲求だった。  戦後、出版は自由になったが、それは主として思想的なものに関してである。思想的なものなら、テロをすすめる本でも、政府非難の本でもいっさい自由である。民間団体では検閲まがいのことをしているところはいくつかあるが、政府が活字の出版物を、猥褻《わいせつ》以外のことで検閲することはない。  ところが漫画に対しては根強い軽蔑感があり、子供や青年が夢中になって読むという報道があると、それによって日本人の質が下って行くような気になる人が少なくないらしいのである。そういう人たちも、さすがに法による禁圧の必要を口にすることはまだほとんどないが、できることなら禁圧したいというような気配が濃厚である。そして漫画を青少年に読ませなければ、青少年は向上するとでも信じているような印象を受けることがある。これは戦争中の先生がたと同じ発想法だ。漫画のかわりに小説をもってくれば戦前そのものである。『愛染かつら』や谷崎潤一郎は戦前の日本の青年の質をどれほど低下させたであろうか。戦後は文化勲章をもらった作家が戦前には青年を害するということで何度も発禁されていることや、不艮少年のやることとされていた映画を見ることが、今ではむしろハイブラウな趣味になっていることを考えれば、漫画で青年の質が下るという心配を聞くと「またか」と言った印象をもつのである。  江戸時代には黄表紙、洒落本のたぐいを読むことは、大人にとってもいけないことだと考える為政者が何人もいた。草紙類や浮世絵や歌舞伎が民衆を堕落させるものとして敵視され、これに対する禁制が出されたことが何度あったろうか。今から見れば、禁止された方が江戸文化であり、国際的評価を得ているものである。戦前の中学では持っているだけで処分の対象になった谷崎や川端の文学を三十年後の日本人は日本文化の代表として誇っている。     水野コンプレックス  ここでもう一度、酒の例を引き合いに出すことをお許し願いたい。酒は「憂いを掃《はら》う玉帚《たまははき》」でストレス解消や陽気な発散にはまことによいものである。しかしひとが酒を飲むのを見ていると不安でたまらなくなるタイプの人も少なくないのだ。そういうタイプの人々は、酒がいかに悪徳のもとになっているか、いかに多くの人の健康をやぶったか、いかに多くの家庭を破壊したか、などなどの例をあげるにこと欠かない。酒の害を説く議論には十分すぎるほど明らかな根拠も実例もあるから説得力がある。かくして禁酒論は世論を動かし、一九一九年から十数年間にわたってアメリカは禁酒法の下に置かれることになった。その結果は誰でも知るが如くである。飲酒は止むどころか、むしろ製造も消費も増加し、まともな企業が製造できなくなったのでマフィアが大規模な密造にのり出し、強大な資金力を得るに至った。おまけに個人の自由に対する侵害が大きかった。よいことは何一つなかったのである。  酒のような弊害がはっきりした形のものでも、人が好むのを禁ずるとこんなことになってしまう。酒で浮かれたり、解放感にひたっている人を見て、不節制、非道徳、不経済、怠惰、堕落などと眉をひそめるまでは個人の勝手であるが、そういうことに眉をひそめる自分を正義と思いこみ、同志を糾合して酒の追放に乗り出すというメンタリティこそが危険なのだ。こういう心理の持ち主に対して心理学者が注意を向けているか否かは知らない。私の歴史的知識の及ぶ限り、こうしたメンタリティほど多くの不幸を産むものは少ない。これを禁酒党コンプレックス、あるいは天保の改革の実行者水野忠邦の名にちなんで水野コンプレックスなどと呼んでみたい気がする。もちろん、禁止したいほど心配になる対象は酒に限らず、文学書でも映画でも、漫画でも同じことである。問題はそういう危険なメンタリティが広汎にわたって存在するという事実なのだ。     シェイクスピアとワイン [#この行1字下げ]「一般に文化は保存《ヽヽ》という言葉に結びついてしまい、文化創造とか文化開発とはなかなか言わない。日本開発銀行では、日本も文化国家にならなければいけないというわけで、そのための特別な融資制度の研究をしているが、どうしてもそれは文化|保存《ヽヽ》融資になってしまう」(日下公人「文化の輸出をめぐって」『文化会議』一一三号・傍点現筆者)  これは面白い指摘である。かつては歌舞伎も文楽も政府の保護や資金援助など、何一つ必要としないものだった。それどころか、民衆がそれを好みすぎるのでしばしば幕府の役人に弾圧されたのである。日下氏も言うように、どこの国でもその国固有の文化として、外国人をも惹きつけるようなすぐれたものは、そこの国の民衆が好きで好きでしようがなかったものなのだ。シェイクスピアをはじめ多くの劇作家が出た十六世紀末から十七世紀はじめのロンドン市民は、芝居が好きで好きでしようがなかった。それを心配したピューリタン政府は劇場を禁止したぐらいである。それほどイギリス人の庶民が好きだったものだから、芝居はイギリスの文化の大遺産である。また葡萄酒が好きで好きでたまらない国は、すばらしいワイン王国になる。  これは嗜好品に限らない。科学でも機械でも同じことである。日本人は無暗《むやみ》に車が好きだったので、世界最強の自動車王国ができたのだし、オートバイ、カメラ、音響機器、何でもそうである。もし日本の大衆が、そんなに車が好きでなく、カメラも一部の物好きだけしか興味を示さず、レコードでも音が出ればよいだろう、と言ったぐらいの関心しかなかったならば、これらは日本の特徴的産業には決してならなかったであろう。そしてこれらは水野コンプレックスの人たちからは、しばしば眉をひそめられたものなのである。  漫画は日本の若者が好きで好きでたまらないものである。非難され、軽蔑され、心配されながらも、年間に九億冊も売れているものである。政府の援助資金や奨励金など全く当てにしなくてもよいほど広く深く支持されているものである。万一、弾圧されたとしても絶対になくならないエネルギーを持っている。だからそのうちに、日本の漫画は日本文化の一特徴として、外国人にもファンが出たり研究者が出てくると見て間違いない。アメリカはポパイ、ミッキーマウス、ブロンディ、スヌーピーなど、国際的な漫画を生み、これでどれほどアメリカという国のイメージに親しみを与えるのに役立っているかわからない。アメリカの漫画を好んで読んで育った子供たちは、アメリカの文化に親しみを持たざるを得ないであろう。もちろんアメリカの漫画家たちは、アメリカのイメージに貢献するために画いているのでなく、広汎な読者がいるから画いているのである。つまりアメリカ人が漫画が好きで好きでたまらないから生まれたのである。  ところで私の見るところ、日本の漫画は質量ともに世界一になっているのではないか、と言えそうである。今から十年ほど前、私はアメリカに行く時、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」を見ることができなくなるのが残念だ、と言って家内の軽蔑を買った。今でも思うのだが、水木の妖怪漫画を立派な装幀にし、よい紙に刷り大判の本にして出したら、世界第一級ということを誰でも認めるにちがいない。言葉のハンデもあるが、幸いに漫画に出てくる言葉の量は、同ページ数の小説とは比較にならないほど少ないのだから、今、『週刊文春』の連載漫画「タンマ君」につけてあるような英訳をつけることもそれほど難しくないであろう。そして日本にこれだけの漫画があることを知ったならば、世界中に厖大な愛読者を生むに違いないのである。識者がこぞって軽蔑するインスタント・ラーメンでも、外人に愛好されはじめている。日本の青少年がこれほど熱愛する日本の漫画が、どうして世界のほかの国の青少年の心を捕えないことがあろうか。東大のようにプレステージの高い大学に漫画研究会のある国の漫画なら、よその国から研究しに来る人があってもおかしくない。日本にやってくる若い留学生にももっと漫画を読ませるがよいだろう。少なくとも彼らは今よりは楽しい日本の想い出をもって祖国に帰るであろうから。     漫画の古典化  また漫画は単なる視覚のもので、文字だけの本のようには|ためにならない《ヽヽヽヽヽヽヽ》と考えている世の親たちは、ためしに横山光輝の劇画『三国志』でも覗いて見るがよい。そこには吉川英治の『三国志』に出るぐらいの漢字が出て来ているのだ。総ルビで、しかも劇画だから難しい漢字も子供はいつの間にか読んでいる。たとえばその第一巻のはじめの方からアト・ランダムに漢字を拾ってみよう。「漢民族」「黄巾賊」「出没」「忠告」「※[#「さんずい+豕」、unicode6dbf]県」「身分不相応」「洛陽船」「高貴」「戻る」「文化の粋」「交易船」「凶兆」「黄魔鬼畜」と言った調子である。こうした漢字が現代の小学校教科書にどれぐらい出てくるだろうか。更に「蒼天已死 黄夫立当 歳在甲子 天下大吉」という黄巾賊のスローガンも、ルビがあるし、しかも面白いストーリィの中なので、小学生でも読み、覚えてしまうのだ。漫画でなかったら、これぐらいの漢字の出てくる本は、なみの大学生でも今はなかなか読めまい。しかもこの劇画の『三国志』たるや、現在十七、八巻めが出ているところだが、まだ孔明が登場してきていない。この調子だと全巻が終了するには三十巻になるのか五十巻になるのか、はたまた百巻になるのか見当がつかないのだ。こんな雄大な漫画を持つ国がそうざらにあると思えない。  日本の漫画がどれほど外国に出ているか知らない。しかしもう十年近くも前、ノースカロライナの土曜の朝のテレビでは『鉄腕アトム』が、アストロ・ボーイという名前で活躍していた。ただ残念なことに、その漫画がメイド・イン・ジャパンであることを示すものが何もなかったから、あれを見ていたアメリカの子供たちは、アメリカの漫画だと思っていたに違いない。もし自分たちの好きな漫画の主人公が日本人によって作られたことを知ったら、日本に好感情あるいはあこがれを持つアメリカの子供も出てくるのではないか、と思ったことであった。 『鉄腕アトム』について言えば、この作者手塚治虫の漫画全集が出ている。ずいぶん前に描かれたものでも、今日なお厖大な読者を持っているということは、漫画にも古典化が起っているということである。手塚治虫にかぎらず、全集として、最初の発売後一世代経ってからも再刊出来る漫画は少なくないと思う。堅い先生たちの論文でも、二十年後の再刊に耐えるものは稀である。活字本のみを高級と考えて、絵のある本を見下げる文化人たちにも一考をわずらわしたいところである。     この途方もないエネルギー  今年(一九七八年)の文化勲章の受章者である田中美知太郎先生が、漫画について次のように発言なされているのは注目に値する。 [#この行1字下げ]「〔現在の日本の大学生も大いに漫画をよむ現象について〕私は、これを不思議だとは思いません。日本人には、直覚的にモノを見る傾向がある。ハラで分りあうなんてのもそれだし、俳句のような短い文学形態が生れるのも、それでしょう。その意味では、漫画は、日本人の特色を大いに生かしています。」(『週刊新潮』一九七八年十一月九日号)  もっとも田中先生は、この直覚的なものだけではなく、辛抱強く論理をたどる能力が加わらねばならないとしておられるわけだが、前にのべたように、漫画と西田哲学は共存しうるのである。もっとも共存させずに、もっぱら漫画という人も少なくなかろうが、そういう人が夢中になって楽しむ漫画があることは、それはそれで結構なことではないか。この厖大な量の漫画の中には唾棄すべき卑猥のみのものもあるであろうが、そんなことは文学にも言えることだ。しかしこの厖大な量が途方もないエネルギーであることは確かで、この中から不朽の傑作が数多く出るだろうということを期待してよいと思う。そしてそれは源氏物語絵巻を持つ国民の現代的表現として理解すべき面があり、海外にも文化的インパクトを多く与えるようになるであろう。 [#改ページ]    進化論の受容に関する一考察     1  明治維新(一八六八年)の約十年前にダーウィンの『種の起原』(一八五九年)が出版されたことは、その後の日本の思想界のあり方に重大な関係があっ|た《〔一〕》。言うまでもなく、ダーウィンのこの書物はイギリスにおいても重大な思想上の問題を起したのである。そして、出版の翌年、英国科学振興会(British Association for the Advancement of Science)の主催でオックスフォードにおいて開かれた討論会におけるT・H・ハクスレーとウィルバフォース主教の議論の優劣は明らかであった。これは通俗的な表現をすれば、「科学と宗教の争い」において科学が勝った、という印象を世間に与えたのである。  東京大学の初代総長であった加藤弘之も『人権新説』(一八八二年)において「物理の学科に係はるかの進化主義」という表現を用いている。ここで「物理」というのは、今の表現では「自然科学」というのにほぼひとしいから、進化論を科学としてふりかざして自説を推し進めるという形になってい|る《〔二〕》。その後は丘浅次郎の『進化論講話』(一九〇四年・増補版一九一四年)のような、今日なお読むに耐える名著が出されて、学問としての進化論は極めて広く普及した。丘浅次郎が繰返し述べたことは、生物進化の現象について反対の考えを持っている生物学者はもはや一人もなく、学者が議論を戦わしているところは、すべてその現象を認めた上での仮説上、及び理論上のことばかりである、ということであった。丘の本が明治末期から大正初期にかけてどのような思想的影響力があったか、哲学者田中美知太郎の証言を引用しておきたい。 [#この行1字下げ] そしてわたくしは……多少熱烈な忠君愛国の徒であつて、子供のころは自分用の両陛下の御写真をもつてゐて、これを祭つてゐたことを思ひ出す……このやうな少年の夢が破られるのは、わたしの場合は丘浅次郎の『進化論講話』を読むことによつてである。これはわたしたちの世代の共通経験みたいなものであつて、多くの人たちがこの書物の与へた衝撃的な印象を語つてゐる。……わたしはこの分厚な活字の大きい書物を何日かかかつてほとんど一気に読んでしまつた。それは中学二年生の夏休みのことではなかつたかと思ふ。そして何だか今まで見なれてゐた周囲の世界が、すつかり様相を変へてしまつたやうに思つたのである。ダーウィンの『種の起源』は世界を変へた書物の一つであつて、十九世紀後半は進化論の時代であつたと言つてよいだらう。マルクスが『資本論』をダーウィンに捧げようとして、断わられた話はよく知られてゐる……少年のわたしを十九世紀以来の一種革命的な世界思想に接触させたのは、この『進化論講話』にほかならない。これは真に独創的な書物であつて、進化論の単なる学説紹介ではなく、進化論的な考へ方そのものを、証拠と推論によつて、実地に教へてくれたのである。だから一種の|思想の書《ヽヽヽヽ》と呼ぶことができるだら|う《〔三〕》。(傍点現筆者)  このように日本では進化論が、丘浅次郎というすぐれた生物学者によって、科学的現実として示されたために、もっとも強力な思想になったのである。当時は大学教師で一般むきの著書や評論を書く人、特にベストセラーなど書く人に対しては「学者の風かみにおけぬジャーナリスト」という中傷がなされやすかったのであるが、丘浅次郎に対しては、そういう非難がほとんど聞えないのは、動物学における研究がすぐれておったからであ|る《〔四〕》。つまり単なる啓蒙家でない、本物の動物学者が日本では進化論を科学的真理として普及せしめたのであって、この点、イギリスのT・H・ハクスレーと並行していると言えよう。  もちろん科学者による進化論の普及以外に、イギリスではダーウィンよりも数年前に、ハーバート・スペンサーが、人間の社会をも進化の結果とみる社会有機体説を唱えた。スペンサーは有力な思想家ではあったが、その後、ダーウィンが出なかったならば、依然として有力な思想家にとどまっていたであろう。しかしダーウィンはスペンサーの思想に「科学」の裏付けをしたようなことになった。それでスペンサーの思想は、今日では想像することが難しいぐらいに強力にその時代を風靡《ふうび》したのである。日本の明治の思想家も多くはスペンサーの影響下にあった。特に面白い実例として、ラフカディオ・ハーンと夏目漱石をあげることができるが、すでに論じたことがあるから、ここでは繰返さな|い《〔五〕》。  進化論を思想と見た思想家はその後も特に社会主義者の間に著しいが、これも彼らが、社会主義の上にも、歴史観の上にも、「科学的」という形容詞を付けることを好む、ということに無関係ではないであろう。しかしここでは思想家の進化論には立ち入らない|で《〔六〕》、もう一人、科学者である進化論者をあげておきたい。それは永井潜の例である。彼は明治九年に広島に生まれ、その後、東大医学部教授、及び医学部長であった人であり、社会通念的に、日本の医学の総本山みたいに見られていた。彼は大正のはじめ頃から昭和の二十年代のはじめまで、生物学及び医学からみた人間の問題を扱った準哲学的な本をいくつか書いている。『人性論』(一九一六年=大正五年、四五五頁)、『生物学と哲学との境』(一九二六年=大正十五年、五三六)、『自然観より人生観』(一九三三年=昭和八年、四六八頁)、『生命論』(一九一三年=大正二年、五七〇頁)などがそれであるが、その頁数から見ても力作であるし、またその版数から見ても、広く読まれたことがわかる。科学者永井は、自然の序列において人間のすぐ次に位する動物が類人猿であることが、「輓近の血清反応《ヽヽヽヽ》によつて、尚確実なる証明を与へられた」(『人性論』四四頁、傍点、原著者)とするのみならず、ダーウィンのいわゆる missing link(「見付からない連鎖」永井訳)もデュボアのピテカントロプス・エレクトスの発見によって提供されたと考え、人類の発生の経路が明らかになったとする(同上書四五—四八頁)。つまりピテカントロプスは「|或意味に於て人間の出来損ひであつて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|前世紀に於て死滅して仕舞つた者である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(同上書四八—四九頁、傍点、原著者)  永井は当時の日本を代表する医学者であったから、最新の遺伝学の成果にも敏感であった。彼は「生物測定学 Biometrics なる一新生面を開いたゴェルトンといふ偉人」(『生命論』三五七頁)のデータを詳しく紹介した上で、「ダーヰンの淘汰説は単なる机上の臆説たるに止らず、近世の実験的遺伝学の精密なる研究によつて、更に確実なる裏書を与へられた者と言はねばならぬ」(同上書三八〇—三八一頁)と言っている。  しかし永井は、これに次いで、ヨハンゼンの研究を詳細に紹介している。つまり幾代にわたって淘汰を重ねても、純系統の平均値は左右されない、つまり遺伝は遺伝子によるのであって、環境の淘汰によるのではない、というダーウィン説の否定につながる説を丁寧にのべているのである。更に永井はド・フリースの「突飛性変化《ミユーテイシヨン》」(最近は「突然変異」という訳語が定着しているようである)を詳しくのべている。それで永井の進化論の紹介には、相反する学説が並置され、しかも永井自身はその矛盾する両方の学説を同時に支持しているかのようである。 [#この行1字下げ] 斯くてダーヰンによつて確固たる立証を与へられたる進化の事実は、今日と雖も誰も異議を挾む者はないが、併し此事実を説明せんがために設けられたるダーヰンの淘汰説、並びに之に確固たる碁礎を与へんとしたゴェルトンの研究は、ヨハンゼンの最新の研究によつて、基根底より動揺し始めた。(『生命論』三九二頁) [#この行1字下げ] ダーヰンの淘汰説の如く、外界の変動によつて惹起された形質の変化に重きを置くのは頗る其当を失つた者と言はねばならぬ。(同上書四一一頁)  ここで、ダーウィンの進化論を信じながらも、新しい遺伝学はその反対の方向に行っていることを知っている科学者の混乱があると言ってもよいであろう。永井の本が個々の学説の紹介においては精確であるのに、読む人にある種のもどかしさと混乱を与え、結局、今日忘却されたの|も《〔七〕》、このような混乱が自分の頭の中で整理されないで提出されているからであろう。丘浅次郎であったならば、「生物進化の現象については異論なく、その説明原理について議論が分れるのみ」と自信をもって言い切ったところである。永井は進化論について紹介者であって研究者ではなかったから、学説の混乱が混乱のまま出てきている。  このように戦前の進化論は、結局のところ丘浅次郎の線が最も強力で滲透的だと言ってよいであろう。永井も心情的にはダーウィンを信じているのであるから、結局、ド・フリースの突然変異の発見も、ダーウィン的進化論に便利なように解釈されて行くのは時間の問題だからである。突然変異で生じ続けるものに対して自然淘汰の原理が働き続けて進化が起る、とすれば、一応、人を説得する力があるからである。それでだいたい世界的にも当時の進化論の大勢になったようであ|る《〔八〕》。もっとも戦前の進化論学者の代表者の一人であった小泉|丹《まこと》は『種の起原』はほかの哲学書と同列に扱われるべきでもなく、また自然淘汰が宇宙引力の法則とかエネルギー不滅の法則などに相当するものではない。つまり普通の意味における科学ではなく、数多い進化説の源流の|一つ《ヽヽ》であることを強調してい|る《〔九〕》。しかし小泉も生物進化の現象を否定しているのではないから、これも丘浅次郎の見解のうちに含めて考えうるであろう。  要約して言うならば、E・モースや石川千代|松《〔十〕》らの生物学的進化論、スペンサーや三宅雪|嶺《〔十一〕》らの哲学的・社会学的進化論が共に明治以来あったが、丘浅次郎が出てからは、その影響下、あるいはその見解の範囲内に包摂しうるのが、戦前の日本の進化論の状況と言って差し支えないであろう。ではこれらの学問状況が、戦前の日本の代表的百科事典にどのように反映されているかを見てみよう。     2  まず『日本百科大辞典』の記述から見てみよう。この日本最初の近代的な百科事典は、最初一八九八年(明治三十一年)に編集計画が立てられ、十年後の一九〇八年(明治四十一年)に第一巻を出し、その後、更に十一年の日時を費して一九一九年(大正八年)に全十巻が完成した。これを英米圏の百科事典にくらべると、ブリタニカ第九版の時代に計画されて、ブリタニカ第十一版の時代に完成したことになる。あまりにも厖大なるものであったために、第六巻まで出た段階において出版元の三省堂が破産し、残りの四巻は、財界、学者団、一般市民の協力のみで国家的援助なく完成したものである。特に学者団が当時の金で数千円を集めたことは、日露戦争の結果、武力では一等国に加わったものの、ブリタニカに匹敵する百科事典が日本にないことに対する学者の憂国の情が見られるのであって、学者が百科事典の刊行に原稿のみならず金まで出した稀有の例である。当然この百科事典の内容は当時の日本の学界を代表したものであったと考えてよい。  しかし進化論の内容そのものの紹介になるとまことに哲学的であって、その記述が約百六十行もあるのに、ダーウィンに触れているところはわずかに十数行にすぎず、その記述の仕方も次のようなものである。 [#この行1字下げ] ……古来哲学上に於ける世界の起源及秩序は大凡そ三に分る。一は創造説(Creation theory)……二は流出説(Emanation theory)……第三の説は進化説にして……創造説一般を否定し、流出説に接近すと雖も、其発生の秩序を説くや、世界の事物及状態は単純より複雑に、不定より確定に、同種より異種に、下等より高等に漸次進化発展せるものとなすを以て流出説と其方向を逆にするものなり。此説は近代ラマルク(Lamarck)・|ダーウィン《ヽヽヽヽヽ》(Darwin)等の生物学者により生物の高等なる形態は一段下等なるものより漸次に変化せることを事実に於て証明し、且此事実に対する精細なる科学的説明を試みられたる以来、俄に他の説を圧倒して独り優勢となり、啻に生物界のみならず、物質及精神両界に渉り其歴史を説明すべき唯一の臆説とせられ、一般世界観を構成するに必要欠くべからざるものとなれり。されど進化の思想其物に至りては由来する甚だ遠し……器械観は一切の活動及変化を悉く物理的に説明し、盲目にして且必然なる原因結果の法則に支配せらるるものとなし、別に何等の精神的要素の必要を認めざるものなり。此見解はギリシャの原子論者が自然界に於ける生成の理を解釈せんとして、これを無数の原子の器械的集散離合に帰せしに始まりしが、近世に至り、デカルト(Descartes)はこれによりて動物の活動を説明せんとし、|ダーウィンは種の起源を解釈せんとし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ヘルバルト(Herbart)は精神の発達に応用し、遂にスペンサー及ヘッケルの如きは自然・生物・精神を通ぜる全体の現象を物質及運動又はエネルギーの関係に於ける器械的進行によりて説明せんとするに至れり……  右の引用は記述全体の一割にも足らぬものであり、他の九割以上の記述は、ダーウィンにもラマルクにも全く関係のない、エンペドクレスとかアリストテレスとか、パラセルススとか、ライプニツのモナード説とかによって占められているのであって、「進化論」がまず第一に生物学に関係すると思っているわれわれには一種のショックを与える。この項目の筆者は井上哲次郎(東京帝国大学文科大学教授)、中島万次郎(東京高工講師・浄土宗大学講師)の二人の哲学者であった。前者は当時は学界の耆宿《きしゆく》、俗な表現をすれば大ボスであり、この百科大事典の監督でもあった。後者については寡聞にして知るところがないが、高工の哲学講師という肩書からして、井上の教え子の若い学者だったのではないだろうか。そしておそらく実際の原稿は中島が作成したのであろう。一九一一年(明治四十四年)の百科事典に進化論を書いた人が、それより数年前の一九〇四年(明治三十七年)に出た丘浅次郎の名著を全く参考にした形跡がないのは不勉強と言うべきである。しかし当時としては、西洋渡来の学問に関しては日本人の学者のものよりも、西洋の文献に当るのが本筋であるという西洋崇拝が通念であったと思われる。事実、当時の日本人の研究水準は西洋の学者にくらべれば低く、学者とは西洋の学問の輸入者という感があったからである。東大が蕃書調所《ばんしよしらべしよ》であった時代からまだ遠くはなかった頃である。丘の著書は当時の日本人の学者としては例外的なものであったのであるが、同時代の哲学者《ヽヽヽ》から見れば、日本人動物学者の啓蒙書など眼中になかったのかも知れない。  しからば井上・中島が「進化論」の項目を書く時に主として参考にしたものは何か、と言えばブリタニカの第九版の Evolution の項と考えて差し支えないと思う。数あるブリタニカの版のうちでも、画期的な充実を示している第九版で「進化」の項目を担当したのは、実にかのハクスレーその人と、J・サリーであった。ハクスレーについては説明の必要はないだろうが、サリーはロンドンの University College の教授で『知覚と直観』、『心理学概論』などの著作のある当時の大家であっ|た《〔十二〕》。第九版の進化論は実に二段組で三十頁、四千数百行の堂々たる記述であって、一頁二十五行ぐらいの本にすれば二百頁に近いものになり、それを更に日本語に訳すれば三百頁前後の本になる分量である。しかもこの記述は二部に分れ、 Evolution in Biology と Evolution in Philosophy になっているのであるが、生物学に費されている分量は四分の一強で、約四分の三は「哲学における進化論」を扱っているのである。ハクスレー自身はすぐれた生物学者でありながら、ヒュームの標準的伝記の著者であるほど、哲学にも強かった人であったので、哲学の扱いが極めて詳しくなったものと考えられる。そしてその中には、エンペドクレスも、デカルトも詳しく出てくるし、creation, emanation, evolution の三つの区別も出てくる。三省堂大百科がブリタニカ第九版の進化論の項目中の「哲学における進化論」の要約と見なしうることはこれだけでも推測がつくのである。今でこそブリタニカは庶民も月賦払いで買えるものになっているが、明治時代には、富裕な華族か大金持か、また財政豊かな公的機関でもなければ手が出なかったものであって、その思い切った要約でも啓蒙価値はあったのである。  ただ今の目から見て、生物学やダーウィンにほとんど目もくれない進化論はやはり異様であり、哲学偏重もここに極まった、という感じを受ける。執筆者が哲学者であり、動植物・地質学には関心も知識もあまりなかったからだと思うより仕方がない。ただこの記述の価値という点から言えば、哲学説として見ると、ダーウィニズムも大したこととは思われていないことを示していることであろう。ダーウィニズムは科学的真理と思われていた時代のものとしては、反時代的な独自性がうかがわれる。しかし「今、問題になっている進化論とはどういうものか」と思ってこの項目をひいた人は、いたく失望したことであろう。  この哲学偏重の進化論の記載に関連して、「進化論」の次の項目は「進化論的快楽主義」(Evolutionistic hedonism)であり、三段に分れている一頁中の一段(三十一行)をまるまる当てている。「進化論」そのものの記載の五分の一というのは、記載量としては平衡を失した詳しさである。スペンサーの倫理説の要約であるが、担当者は、東大(東京帝国大学)講師の深作安文である。  ダーウィンその人の伝記を担当しているのは、小林一郎(東京帝国大学文科大学講師・文学士)であるが、その記述の中にも倫理・道徳的な、あるいは俗に言って修身教科書的な色彩がかなり目につくほど入りこんでいる。 [#この行1字下げ]〔ビーグル号〕の艦長ロイはいたくダーウィンの人物に推服し、一八三九年に至り其姪と婚儀を結ばしめたり。ダーウィン夫妻は……ダウン(Down)村に居を卜し、ここに平和にして質素なる生活を営み、専心に其研究を続けて学者的生活の模範を示したりき。ダーウィンは其学殖の豊富にして見識の超邁なりしのみならず、気品極めて高尚純潔にして名利の念なく、人に接するに温和懇切、己を持するに謹厚厳正、学問上の研究以外に一切の世俗的活動を喜ばざりしかば、其生涯は甚だ単調なりしも、これに推服する人甚だ多かりしと云ふ……『種の起源』が十九世紀の最大著述たることは殆ど何人も否み難きに至れり……  とあって、『種の起源』の内容的なことには一切触れていない。それではやはり不可と考えてか、一字下げて「ダーウィンの学説」として、約一頁にわたって解説がある。執筆者は「進化論」の項目と同じく井上・中島の両氏である。これとは別に「ダーウィン説」という項目があって一頁の三分の一強の記述があり、同じく井上・中島の執筆である。現代の百科事典の編集では考えられない項目の重複であるが、「ダーウィン説」の項目の方にはヴァイスマンやネオ・ダーウィニズムの名前も出てくるから、「進化論」という項目に入るべきであったと思われる記述である。ブリタニカ第九版の「生物学における進化」と重なり合う内容になっている。     3  次に、戦前のもう一つの代表的百科事典であった『平凡社大百科事典』(一九三二年=昭和七年)の「進化説」は小泉丹の執筆によるものであって、一頁四段組のフォリオ版で約五頁にわたる入念で堂々たる記述であり、これを読めば、丘浅次郎を読んだ時と似たような感じを受ける。つまりダーウィン以来の生物進化論とはいかなるものかが、まことによくわかるのである。井上・中島という生物学に素人の哲学者の観念的な記述と、元来が動物学者であり、しかも進化論に詳しく、「彼ほどに、進化論の文献に精通していた学者は日本にかつていなかっ|た《〔十三〕》」ほどの人で、しかも啓蒙書を書いても筆の立つ人の記述との間には格段の差がある。まずその書き出しにおいて、進化説とは要するに生物進化説であると喝破する。 [#この行1字下げ] 進化といふ言葉は種々に用ゐられてゐる。宇宙進化、社会進化、言語進化、法律進化等といひ、或は船の進化、恋愛の進化などといふのも見る。しかし進化説といふのは本来生物進化説である……社会進化、法律進化などといふものは、生物進化とは同様には取扱はれないもので、自ら別趣の過程である……生物進化説とは、生物の箇々の種類を固定、不変であるとする説に反対して、それ等は変遷するものであるとする説である……進化説の研究は系統発生の研究である。  まことに明快な叙述であって、これこそわれわれが普通、進化論と言っている時の用法だということがよくわかる。つまり百科事典で進化論を引いて、エンペドクレスが出てくるような意外性はなくて、期待して引いたことに、信頼すべき情報が与えられるという感じである。小泉は叙述を三部に分ける。まず第一は「進化の事実の立証」であるが、これはなぜダーウィンが、また丘浅次郎が、生物進化の現象を事実と認めざるをえなくなったかがわかるような、具体的な例に富む叙述であり、これこそ三省堂大百科に欠けていたものであった。  第二には「進化過程の吟味」であり、そこでは応化放散とか、変異性|逓減《ていげん》の法則とか、躯体《くたい》大化の法則、有限進化の法則など、進化論に関する多くの法則性を扱っていて、啓蒙価値が高い。第三には「進化説の趨勢と現代の進化学説の検討」であるが、ここには小泉自身の意見がよく示されていて興味深いものがある。  進化論にははじめから、宗教的な立場や人間尊重の立場からの反対があり、日本でも一部の哲学者で思想善導のため反動的に進化論に反対している者もいるが、これらはすべて問題にするに足りないとする。しかし小泉は進化論に対しては、生物学界の中でも普《あまね》く確実に信認されているわけでないことを率直にみとめている。そして進化に関する生物学・遺伝学の多くの学説を手短かに、要領よく説明していて貴重な情報になっている。たとえば、ネオ・ラマルク説とネオ・ダーウィニズムがどこが決定的に違うのか、その代表者は誰か、などということは今日の進化論の本で探しても、めったなことでは見つからぬことになっているのだから。  また小泉が、当時の遺伝学の成果からして獲得性質の遺伝を否定するのが常識になりつつあった時に、獲得性質の遺伝の可能性も捨て切ってはいないようであるし、また、多くの有力な生物学者によって否定されているオルソゼネシスに対しても、その可能性を認めているような慎重な書きぶりである。これは最近の今西錦司の進化論に通ず|る《〔十四〕》。またこの百科事典でダーウィンに関する項目は一頁足らずであるが、生涯についても、業績についても、限られた紙面ではよく書かれている。執筆者は雨宮育作(東京帝国大学教授・農学博士)であって、井上・中島のような哲学者ではなく、ダーウィンの業績を評価するにはより適任であったと思われる。  またスペンサーについての記述量は、三省堂大百科ではダーウィンのそれに近い量であったが、平凡社大百科の方では一頁の四分の一にすぎず、詩人エドマンド・スペンサーに関する記事の丁度半分になっていることは、明治から昭和にかけて、ハーバート・スペンサーの影響力がいかに墜ちたかの一つの指標と見なしうるであろう。執筆は牧野信之助(東京帝国大学倫理学研究室)である。そして、 [#この行1字下げ] 彼〔スペンサー〕の思想は一時欧米を風靡し明治初年の我国にも影響するところが少なくなかった。  とその解説を結んでいるが、少なくともわが国における影響については具体的な名前をあげて言及してもよかったのではないかと思われる。  このように見てくると、明治から大正初期にかけて作られた三省堂大百科においては、進化論を扱うに当って、生物学的側面の記述が手薄で、哲学・倫理学的な面が強かった。従って進化論の哲学者スペンサーへの言及がダーウィンに劣らない。これに反して、昭和初年の平凡社大百科においては、進化論の生物学的方面が目を見はるばかり充実し、哲学的・倫理的な面は切りすてられることになった。これはスペンサーの取り扱いの簡略化につらなる。     4  戦後の代表的百科事典である平凡社『世界大百科事典』(一九七二年=昭和四十七年)を見てみよう。  まず進化論の項目は、佐藤重平(植物学)の記載により、一頁三段の記載様式で約五段ある。つまり一頁と三分の二の量であり、戦前の平凡社大百科にくらべると甚しい減量である。したがって進化論史の概観は与えられているものの、戦前版で小泉が行なったような、「進化の事実の立証」、「進化過程の吟味」に相当する部分、つまりダーウィンの進化論をして天下を風靡せしめた実例の部分がはっきり削除されているから、「進化論とは何ぞや」を知るために、読者は、戦前版の大百科か、丘浅次郎を読み返さなければならぬ、という不便が生ずる。もちろん佐藤の記述のうち、最近の進化学説に関するものは、小泉以降のものも含んでいるが、ルイセンコへの言及以外、小泉のものとそれほど違ってもいない。つまり昭和七年から昭和四十七年の約四十年の間、進化論はルイセンコ以外、あまり新しい話題がなかったと言えるらしい。注目すべきことは、ルイセンコの説は、小泉が考えていたことと本質的にあまり違っていないことである。  この戦後の平凡社世界大百科の進化論関係で注目すべきことは、「社会進化論」の項目に、一頁強の紙面が与えられていることである。戦前版の平凡社大百科には「社会進化」と「社会進歩」の二項目が相続いで与えられており、両者あわせて半頁強のスペイスを占めている。この両項目の執筆者は米林富男(社会学)であるが、「社会進|化《ヽ》」はスペンサー流の社会進化論であり、「社会進|歩《ヽ》」はマルクス主義を含めて考えている。進歩説の中では漸進性を認める進化論と並んで、突変性を強調する革命論があるとし、後者の代表者にマルクスを置くのである。進|化《ヽ》(evolution)と進|歩《ヽ》(progress)をこのように使いわけた例として特記に値しよう。  戦後版平凡社世界大百科では「社会進化論」には、まる一頁以上のスペイスが与えられ、新島繁が書いている。スペンサーなどの社会進化思想がダーウィンの主著によって「明確に進化論(生物学的進化論)として科学的に確立された」という立場からの論述は、現代の通念に合っていると言えよう。また明治以降の日本の思想家たち、特に堺利彦らの社会主義者への言及もあり、マルクシズムへの言及もあって、現時点における社会進化論の状況について啓蒙的な役目を果している。  この戦後版の平凡社世界大百科の「スペンサー」に関する記述は、一頁の三分の一強であり、量的にはそれほどでもないが、山崎正一、小西嘉四郎の記述は要点をついていて見事である。(因みに、エドマンド・スペンサーの記述は、一頁の三分の一で、ハーバート・スペンサーよりやや少なく、戦前版の平凡社大百科と逆転している。)この版でスペンサーは「産業ブルジョアジーの立場に、包括的体系的な世界観としての組織を与えた」と評価されており、また、彼の不可知論は、「科学者をして宗教による拘束から自由ならしめた点に、その時代的意義があった」としている。またスペンサーの進化論が、進化と平衡と解体という風に、スペンサーに忠実に紹介されている点も今までの百科事典にないことであった。ただ、日本への影響に対する言及が全くないことは残念である。     5  このように日本の代表的な百科事典の記載を見ると、それぞれのものが特徴を持っていて、新しい版が一つあればよいとは言えないことがわかる。三省堂大百科の進化論が、哲学における進化にスペイスを割きすぎたのは賢明でないが、以降の百科事典のように、哲学上の進化思想という厳然たる大分野を全く切り捨てるのもおかしなものである。またダーウィニズムそのものを詳しく知るには戦前版平凡社大百科が断然よく、スペンサーのためには、三省堂大百科と戦後版平凡社世界大百科の併読が望ましいと言ったような工合で、百科事典の進化ということはそれほど明らかな上昇線を画いているわけではない。また戦後版ではミチューリン農法に関連してルイセンコへの言及があるのは当然であるが、シャルダンへの言及は全くない。おそらく、明治の編集者なら哲学的な見地からシャルダンへ言及したかも知れないが、現在では、生物学や、社会学に関連したものでないと百科事典の進化論では扱われないらしい。  百科事典以外での戦後の進化論は、先に言及したルイセンコ論争が一時的にもっともめざましかっ|た《〔十五〕》。しかしスターリン批判などとからみあって、政治的な色彩が濃い。一般に自然科学の本と見なされている岩波全書の『進化論』の中で、徳田|御稔《みとし》は次のようにのべている。 [#この行1字下げ] この〔中国〕旅行を通じて中国で行なわれているミチューリン的育種の成果に接し、その方面では私の確信はいっそう深められた。公主嶺の試験所ではルイセンコの創始した方法にならい、春コムギを冬コムギに転化させることに成功していた。北京や南京の研究所では、ワタの接木雑種で見事な成果を挙げていた……」(二二五頁)  これは進化論学者なるものが、政治的理念のために、いかに非科学的、非実証的になるかの顕著な例であろう。徳田はまた、同書の中で、「進化学的研究は、ただ知識の幅をひろげるだけでは不十分であり、実践的に〔スターリニズムのイデオロギーに従って〕自己を鍛えることなしには、問題の核心にせまることはできない」(上掲書二一六頁)と言っているのだから、進化|学《ヽ》は自然科学でないことを公言しているようなものである。丘浅次郎の自然科学者的アプローチから見れば明白な堕落であって、進化論の名誉にはならなかった。それといく分かは関係があってか、今の大学の生物学科では進化論を扱わないのが普通とのことである。  戦後は八杉竜一の一連の著述により、進化論史の紹介は進んだが、進化論そのものは特に進まなかったように見え|る《〔十六〕》。ただ一つ注目すべき著作は今西錦司の『ダーウィン論』(中公新書・一九七七年)であろう。この中にはダーウィンの進化思想に影響を与えたのはスペンサーであって、その逆ではない、という当然、百科事典にも記載さるべき事実や、進化学の主流派は、自分たちのたてた理論を守るために、「適用できない実験結果はこれを伏せて、発表しない傾向がある」(一七〇頁)という事実など、興味ある指摘に満ちている。そして今までの進化論の代案の出発点になりそうなアイデアを出している点で貴重な文献である。  明治以来の日本の進化論を見ると、戦前戦後とも丘浅次郎の仕事を超えるものがなかった、と断定してよく、その丘を超える出発点になりそうなのは今西錦司である、と言えよう。更に大まかに言うことを許してもらうならば、進化論自体は進化せず、その説の啓蒙の中心となる百科事典の記述も必ずしも進化せず、というパラドクスが成り立つ現状である。  注 [#ここから1字下げ、折り返して5字下げ] 〔一〕 村上陽一郎「生物進化論と日本の知識人」(『ソフィア』一九七二年春季号、二四—四五頁)。単行本の形で出ているものでは筑波常治『日本人の思想』(三一新書、一九六一年)一〇〇頁以下及び『現代日本思想史大系26 科学の思想㈼』(筑摩書房、一九六四年)、『丘浅次郎集』(近代日本思想大系9 筑摩書房、一九七四年)などがある。特に最後にあげたものには、充実した参考文献が付けられている。また徳田御稔『改稿 進化論』(岩波全書、一九五七年)には「日本の進化論史」のために二つの章が与えられている。 〔二〕 村上陽一郎「上掲論文」三四—三五頁参照。 〔三〕 田中美知太郎『時代と私』(文藝春秋、一九七一年)七八—七九頁。 〔四〕 筑波常治『丘浅次郎集』の解説(四三八頁)参照。 〔五〕 拙論「スペンサー・ショックと明治の知性(1)及び(2)」(講談社学術文庫版『教養の伝統について』二三—五四頁)。 〔六〕 すでに引用した村上論文、及び筑波解説とその文献目録を参考されたい。 〔七〕 徳田御稔(『進化論』岩波全書)の中で、日本の進化論史を詳しく扱いながらも、永井について全く言及がないのはその一例として数えてよいであろう。 〔八〕 これは実験生物学の代表者とも言うべきモーガンにおいて明らかである。「彼の説において、自然淘汰(生存競争)は単に有利な突然変異の|ふるい《ヽヽヽ》であるにすぎない。獲得形質は遺伝しない……この考えはヴァイスマンのネオダーウィニズムと同一である」(八杉竜一『近代進化思想史』中央公論社、自然選書、二三四頁)。 〔九〕 小泉丹『ラマルク・動物哲学 ダーウィン・種の起源』(岩波大思想文庫23)一—二頁。 〔十〕 徳田御稔『上掲書』三—六頁、及び上掲の筑波解説参照。 〔十一〕三宅雪嶺の『宇宙』は、一つのテーマをなす問題であるので、別の機会に論じてみたい。 〔十二〕James Sully, M. A., LL. D. Grote Professor of Mind and Logic, at University College of London (from 1892 on), author of Sensation and Intuition, Outlines of Psychology etc. 〔十三〕徳田御稔『前掲書』二一五頁。ルイセンコ論争に関しては中村禎里『ルイセンコ論争』(みすず書房、一九六七年)、メドヴェジェフ著・金子不二夫訳『ルイセンコ学説の興亡』(河出書房新社、一九七一年)など参照。 〔十四〕今西錦司『ダーウィン論』(中公新書、一九七七年)。 〔十五〕注〔13〕参照。 〔十六〕埴原和郎『人類進化学入門』(中公新書)のような化石学にもとづいたものもあるが、その研究によって、進化への認識が進んだとは思われず、むしろ素人の目にも人類進化論の無理なことを示してくれたような感じがする。     この本の批判は、拙著『腐敗の時代』(文藝春秋、昭和五十年)九九—一〇一頁参照。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]    百科事典の旧版について     1  ブリタニカ百科事典を最初に見たのは中学五年か新制高校三年の頃であったと思う。つまり昭和二十二、三年のことである。ところは田舎の中学(後の新制高校)であった。古くからある田舎の中学というものは意外に基本的図書をよくそなえていたものであって、『広文庫』とか『大語園』とか、近頃ようやくリプリントによって一般の人の目にふれるようになった叢書類もいっぱいあった。ブリタニカなどもその一つであった。  そのブリタニカを最初に使ったのは社会科のために「道路」について宿題のレポートを書くためであった。そしてびっくりしたことは、ローマ時代から現代までの道路の作り方が丁寧に説明してあることであった。石の積み方や、舗装の仕方まで書いてある。またイギリスの道路の歴史も詳しく、マカダムというスコットランドの男が現われて、道路舗装の革命をやるまではいかに道路というものが使いものにならなかったかもよくわかった。彼の道路の作り方を macadamization( McAdam )ということもその時に覚えたが、これは受験英語には関係のない知識であり、それだけに知っていることに喜びがあった。  この時にブリタニカというものの偉大さをはじめて知らされたのである。この百科事典さえあれば、あとは工事人を指揮して道路が作れそうな気にすらなったのだから。旧幕時代にこの百科事典を持っていたら、それだけで日本の洋学の総大将になれたであろうに、などという空想も湧いた。このブリタニカが何版のものであったかは、当時は注意もしなかったが、おそらく第十四版だったと思う。  このブリタニカにはこの中・高時代にもう一度お世話になった。英語クラブの中でも特によくできたE君が、コントラクト・オークション・ブリッジのルールをこのブリタニカから訳したのである。それで英語クラブのメンバーはブリッジができないといけないことになった。終戦直後の田舎のことだから、正式のブリッジができることは、十分なる知的ステイタス・シンボルになった。その後、私はブリッジとは縁が切れたが、商社などに入った当時の英語クラブ会員の中には、アメリカに行っても腕をみがき続け、国際的なブリッジ・クラブの会員になった者もいる。  しかし当時の日本でブリタニカを私有することは夢物語であった。個人として持てるのは戦前の華族や実業家というのが通念だったのである。上智大学一年の時の憲法の時間に、小林珍雄教授は、官庁では年度末になると予算を使い切るということをやらねばならないので、随分無駄使いがある、という例として、某省の意外なところにブリタニカがあるので、 「こんな高価なものがどうして……ここに」  と聞いたら、 「予算が余ったので」  という答を得た、という話をなされた。中央官庁においてすら、ブリタニカがあることは、贅沢品として外来者の目をひくに足りるものだったのである。     2 「ブリタニカを持ちたい」と思いながらなかなか買わなかったのは、素朴な進化論に憑かれていたからであると思う。大学院生の時に、アメリカから上智に研究に来ていたアメリカ人学者の手伝いをしていたことがあった。この人がブリタニカで調べて見たいことがある、というので上智の図書館に行った。そしたら古色蒼然たるブリタニカしかなかった。今から考えるとそれは第九版で、貴重な版だったと思うのであるが、そのアメリカ人はいかにも愉快そうに笑い出して、 「これは博物館ものだね」  と言って使わなかった。十九世紀末の百科事典を二十世紀半ばの研究者が使えるものか、ということだったのであろう。十九世紀の百科事典しかない貧しい日本の大学図書館に対する優越感は、彼をひどく上機嫌にしたようであった。  学問は日進月歩で、しかも進歩の速度はますます早くなっていると思われる時に、前世紀の百科事典では問題にならないのが当然だ。百科事典は新しいほどよいのである、というありふれた常識がこの小さい出来事によって私の頭の中で更に固められた。  しかしいろいろなことを調べているうちにあたりまえすぎることに気がついてきた。それは百科事典というものの巻数は、学問が進むにつれて増加しないということである。たとえばブリタニカ第十版は一巻あたり約九〇〇ページで実に三十六巻ある。約三二、五〇〇ページということになる。これが戦後もっとも普及した一九六〇年前後の版では、一巻あたり約一、〇〇〇ページで二十三巻あるから、総ページ数では約二三、〇〇〇ページということになる。つまり半世紀以上も前の版の方が、約一〇、〇〇〇ページも多いのだ。一万ページとは実にただならぬページ数である。しかもブリタニカは大判だから、普通の本ならざっと二万ページ分の違いになる。中央公論社の『世界の名著』の平均ページ数を約五五〇ページとすると、実に十八巻分になるのだ。約十八巻の記述がどこかに消えてしまったのである。  更によく考えて見れば、新しい百科事典には、新しい自然科学上の記述がうんと多い。つまり半世紀前にもなかった事項が山ほどあるのだ。それなのに一万ページも減っているということはどういうことなのか。それはほかでもない、昔は詳しく書かれていた事項が、思い切って削除されたことにほかならない。ページの絶対数が少なくなった上に、新しい科学や工学や医学などの記述が増えたのだから、ブリタニカ第十版から消えた記述の量は、中央公論社の『世界の名著』の五十巻分ぐらいはあると考えてもよいのではないかと思われるのである。  ではどういう記事が消えたか、と言えば、その当時の人に重大に思われ、詳述されたことがらである。それが今の目から見て全くでたらめだったり、価値がないことならかまわないけれども、必ずしもそうではないのだから困る。私は中学生の時、田舎の古本屋でネルソン百科事典を千五百円で買ってもらって持っていた。この百科は昔はよく古本屋で見かけたものだが今はほとんど姿を消したようである。文庫版よりちょっと大きいくらいの小型版で、一巻が約五〇〇ページの厚さで二十五巻ある。あまり使わなかったが、当時の田舎の中学や高校で英語の百科事典を持っていることは、たとえ小型版であれちょっと友達を羨ましがらせるに足りることであった。ところがこの百科事典が大学を卒業してから意外に役に立つようになったのである。英語の本を読んでわからない事項がでてきた時にまず参考書や最近の事典類に当って見る。そこにない時、このネルソンに当って見ると時々、知りたいことが書いてあるのである。つまり現代の標準的な参考文献類《レフアレンス・ブツクス》を探してわからないことが、もはや捨ててかえりみられなくなった昔の小型百科にちゃんと出ているのだ。そういうことがしょっちゅうあるわけではないが、時々ある。百科事典の本質から言って、古い記述を切り捨てては新しいインフォメーションを入れ換えてゆくのだから当然だが、私は職業がら、しょっちゅう古いことを調べていなければならない。それでネルソンの使用度が意外に高くなったのである。このことに気付いたのは私だけでないことを同じ英文科の佐多教授と話していた時に発見した。佐多教授もネルソン百科について、 「あれは今の参考書にないことが時々書いてあって案外便利ですよ」  と私もかねがね感じていた通りのことを言われたのである。して見ると世の中にはネルソンをまだ使っている人が案外多いのかも知れない。ブリタニカには手の出なかった戦前の教師たちも、ネルソンなら少し無理すれば買えたからである。     3  古いネルソンでさえもそれだけの利用価値があるなら、古いブリタニカならもっともっと利用価値があるはずと考えて、それを買うような算段をすべきであったが、それはなかなかできないものであった。第一にかさばるし、第二に学問は進歩しているはずだからわざわざ古い百科事典を買うことには心理的抵抗が大きすぎたし、第三にはこれと関連していることだが、まず新版のブリタニカを買うべきだという考えがはるかに強かった。ところが新版となると値段もはるし、それだけの金を払う気なら、もっと優先的に買うべき専門書はいくらでもあったのである。ところがそのうちどうしても百科事典は新版だけでは用をなさないことに別の方面から知らされたのである。  それは山本夏彦氏のエッセイであった。山本氏は新しい平凡社の『世界大百科事典』には教育勅語の悪口ばかり書いてあって、勅語の原文がない、と指摘されたのである。「まさか」と思ってひいてみると山本氏の言う通りなのだ。 [#この行1字下げ] 一八八九年(明治二二)自由民権運動の抑圧のうえに大日本帝国憲法が制定され、ここに天皇制国家の法的機構が確立したが……  といった調子ではじまり、終始一貫、戦前の日本そのものと教育勅語の悪口の羅列のみと言ってよい驚くべきものである。そして確かに山本氏の指摘するようにその批判の対象になっている勅語の原文はない。原文は戦前は子供でもみんな暗記していたぐらいのものであるから短いものである。批判は批判としてよいが、それは勅語の原文・成立の事情を客観的にのべた上で、最後につけ加えるべきものであって、原文抜きの批判ばかりというのでは百科事典の初歩のルールを踏みはずしたイデオロギーの押し売りにほかならない。  では戦前の平凡社大百科ではどうなっているかと言えば、原文を三段ぐらいにわけて解説している。原文だけをまとめて出していないのは一寸《ちよつと》不親切だが、当時の日本で教育勅語を暗記していない人が百科事典をひくことはありえぬ話であったから、それでも用は足りる。わけてはいるが、とにかく原文は全部出ているのだから。その点、何と言ってもよくできているのは戦前の三省堂『日本百科大辞典』であって、ここには勅語が出された背景、時の文部大臣の名前、それに原文、その原文に対する文部省の認めた英訳、更に学者によるくわしい解説が続く、という工合になっている。明治時代の百科事典の方が記述の様式としてははるかに学問的であるのはどうしたものだろう。  そう思っていろいろのことをためしにひいて見ると、新しい百科事典ではまるで役に立たない事項というのが決して少なくないのだ。たとえば日華事変の頃の本を読んで、知らない地名や将軍や会戦の名前を調べて見ようと思ったらどうするか。これは戦前の平凡社の大百科を使うとたいてい間に合うのであるが、戦後版ではほとんど削除されている。また平凡社の『大百科事典』は昭和二十四年に新補遺三巻を出しているが、これは敗戦直後の事項をしらべるためには、ちょっとほかに類のない宝庫である。その第一巻の第一ページの冒頭に「アーニー・パイル」がある。これは今では知る人も少なくなったが、東京日比谷の東京宝塚劇場が占領軍用の劇場として用いられていた頃の名称である。それは沖縄戦で戦死したアメリカの名記者の名前なのであって、彼を記念して劇場の名前にしたのである。だから、この劇場の入口にはアーニー・パイルの肖像がかけてあった。そんなことがくわしく書いてある。  また同じページの下には「アイケルバーガー」という項目があり、日本占領時代のアメリカ第八軍司令官だった人の経歴や著者などのことが、写真入りで紹介してある。これなどはその後の百科事典からは当然のことながら完全に消えたものである。したがって使う目的によっては、いかなる最新版の百科事典も及ばない価値を持っているのである。  このようなことを某月刊誌の編集長に話したら、しばらくたって彼に再び会った時、こういう話をしてくれた。 「ある執筆者からいただいた原稿に〈佐久間艇長〉が出てきたのですが、若い編集者は、さっぱり見当がつかないのですね。それでも先日渡部先生にきいたことを思い出して、戦前の百科事典に当らせてみましたら、バッチリありましたよ」と。  科学や工学の新情報を得るためなら新版の方がよいだろう。(もっとも最新情報ならその分野の専門雑誌を見るのが一番よい。)しかし昔のことなど調べたい時になると——そういうことの方が私には多い——古い百科の方がはるかに役に立つのである。それにどの百科事典もその編集時点での学問の水準を示そうと努力しているだけに、それぞれの時代のことが意外によく浮き出てくるのだ。     4  日本の百科事典で古い版の重要性を知ったちょうどその頃に、どうしてもブリタニカの旧版を調べて見たい、という事情が起った。それは私の専門の英語学史を書いているうちに、各時代のブリタニカは、「文法《グラマー》」という項目に誰の学説を載せているか、という疑問が生じたからである。もちろんブリタニカでなくてもよいのだが、創刊以来二百年以上も続いていて、しかも十数年に一度ずつ新版を出し続けているので、一種の座標軸みたいに便利なところがある。それで私の立場から言うとブリタニカが断然便利なのだ。  こうして見て行くと、初版(一七七一年)では「文法」の項目は全面的にハリスの体系を採用している。そしてそれはフランスの哲学者ラムスからケンブリッジ大学を通じてイギリスで流行し、カルヴァン派教会系の学校が主として用いた体系である。それが第三版(一七八七年)になると変ってくる。初版ではそっくり取り入れたハリスの批判も相当くわしくなされる。  そして品詞は十品詞を認める立場を取るようになった。この十品詞は十八世紀に大いに流行したものだが、これは主としてアングリカン教会系の学校で用いられた教科書に多いのである。  そしてカルヴァン教会を国教とするスコットランドの首都エデンバラで編集された百科事典の「文法」の項目の記述の変化が、当時の政治的・教会史的、また社会的変化と一致しているのである。  古い百科事典の効用ということは外国でもあまりまだ注目されていないようだ。ブリタニカの発生地のエデンバラにまる一年間いる間に、スコットランド国立図書館でも探して見たのだが、初版や三版などはなかった。閲覧室には九版と十一版があったが、その理由はこれが特に有名な版だからである。それまでも私はブリタニカのいくつかの古い版を既に持っていたが、全部の版を集めてやろうと決心した。ブリタニカには正規の版のほかに、グライク編の第三版への補遺二巻、ネイピア編の第四、第五、第六版への補遺六巻などがあってそれがなかなか重要である。たとえば後者の「|人  口《ポピユレーシヨン》」にはかのマルサス自身が相当長い論文を書いているのであって、これを読めば、マルサスの『人口論』を、著者自身が要約してくれているのだからずいぶんと便利である。今、私が欲しいと思っているのは二版だけになったが、これは戦後エデンバラのセリに一度出たことがあると古書好きのイギリス人が言っていた。学問の進歩と百科事典の進歩を容易に同一視したため、図書館でも新版が出ると旧版を廃棄処分にするのが普通であったため、意外に古い版は残っていないのである。私が集めはじめた頃は、ごく安い値段で買えたものだが、今は急に高くなって、各版を揃えることは個人にとっては難しくなってきている。古いことを調べるには古い百科事典がまことに便利だ、ということに欧米の学者や図書館も気づいてきたらしいからだ。特に第九版などには|順番待ち名簿《ウエイテイング・リスト》が出来ているのを見たことがある。これからは、大学図書館などは各国の主要百科事典の各版を取り揃えておくように努力すべきであろう。 [#改ページ]    モーツァルトとその時代     1  宗教に対する熱意からはじまった三十年戦役(一六一八—四八)は、宗教に対する全き冷淡さをもって幕を閉じた。この戦役に結末をつけたウェストファリア条約の基本路線は、Cujus regio, eius religio(領主の宗教は領民の宗教)ということであったのである。宗教信仰の自由、改宗の自由、宗教の自由などなど、理想としては立派なものは、すべて、三十年間に流れた戦場の血潮と共に流れ去ってしまった。宗教的価値を絶対にしたところから、この長期にわたる惨事があったのだから、それに対して人間が冷淡になるのは当然であったろう。宗教熱心なのは結構だが、それは内輪のことにしておけ、というのが時代思潮となる。  三十年戦争はヨーロッパ大陸での話であったが、これと同じようなことはイギリスでも起った。イギリスでは清教徒が一六四九年、つまりウェストファリア条約締結の一年後にチャールズ一世を死刑にした。宗教的熱情、あるいは燃え上るような正義感から、王の首を斬ってみたものの、これはイギリス人に激しい悔悟の念を与えて、清教徒政権はクロムウェルの死と共に消えてしまう。イギリス一般の風潮も、清教徒の宗教的熱情に対する反想と嫌悪感で一杯であった。熱情的な文章を書くことさえ軽蔑されることになる。  つまり一六五〇年頃を境として、大陸でもイギリスでも、ヨーロッパ人は宗教的な熱情や熱心さやあるいは燃え上るような正義感を表に出すことを極端に嫌うようになったのである。これが啓蒙主義の真の意味であり、「理性の時代」と呼ばれるものの正体なのである。この宗教的情熱とか情熱的正義を理性で抑制した時期が約百五十年間続いた。この時代こそ西欧が最も西欧らしく、しかも人類史上にほとんど例を見ない美事な文化を作り出した時代であるという見方が成り立ちうると思う。モーツァルトの音楽は正にこの期間に生じたものであり、この期間以外には生じえなかった種類のものである。  戦争とは情熱の産物と言われるが、この理性の時代には、戦争すらもゲームのようであり、人道的であって、ほとんど憎悪なしに行なわれていたようである。お互いに銃を構えて二つの軍隊の司令官が、お互いに先に発射する特権を譲り合ったという、嘘みたいな話が本当にあった時代なのであった。  戦争からさえ情熱が取り除かれた時代に、情熱の表現であるべき芸術はどうなったであろうか。建築や美術はロココとなった。そして音楽はいわゆるバロック、次いでクラシックになったのである。  芸術のほかのジャンルはともかく、音楽こそ情念の表現そのものというのが通念である。その音楽が情念否定の時代に生まれたとき、人類の音楽史上に比類ない大音楽家の時代が作り上げられたのである。その意味で古典音楽とは、逆説的発生を持つ。  試みに三十年戦争の終結後(一六四八)、再び戦争に情念が加わるフランス革命(一七八九)頃までに生きた大音楽家の名前を並べてみよう。   ヴィヴァルディ 一六七八—一七四一   バッハ     一六八五—一七五〇   ヘンデル    一六八五—一七五九   ハイドン    一七三二—一八〇九   モーツァルト  一七五六—一七九一  これを見ただけでも、宗教戦争が終って一世代終えた頃から大音楽家が生まれはじめ、フランス革命が始まった頃にこの人たちの時代が終ったことがわかるであろう。情念を抑えた時代の音楽——これこそバッハからモーツァルトに至る音楽の本質であり、疑いもなくモーツァルトはこの系列の頂点にある。彼の後はベートーヴェン(一七七〇—一八二七)もブラームス(一八三三—九七)も「情念」の要素を含む音楽を作り出す。ベートーヴェンの偉大さは万人の認めるところであるが、彼とモーツァルトの違いはフランス革命以後の時代を体験したか、しなかったかの違いになるであろう。     2  子供が小さい時、いい音楽を聴かせるとよいというので、モーツァルトだけを聴かせていたことがある。三人の子供がいるが、モーツァルトの音楽をいやがった子供はいない。眠りにつかせる時にもよいし、また眠っている時にかけても目をさまして泣き出すことはない。ところがほかの音楽では必ずしもそのように行かない。特に邦楽の場合は、眠っている時にラジオが入ったら、子供が泣き出したことがあった。邦楽にもよりけりだが、「怨」の情念がこもった時代のものの場合、子供をおびえさすのである。  何年か前の『タイム』で読んだことだが、アメリカの動物心理学者たちが「動物にも音楽がわかるか」ということで実験した報告がのっていた。それによると動物たちが「聞き覚えがある」という反応をずば抜けてよく示したのがモーツァルトの音楽であったと言う。「モーツァルトの音楽は動物にもわかるのか」と感心したものであった。子供というものは比較的動物に近いわけであるが、子供もモーツァルトの音楽が一番好きである。  こういう例を考えると、モーツァルトを頂点とするクラシック音楽というのは、ドイツ音楽とかヨーロッパ音楽とかいうワクを本質的に越えたものなのではあるまいか、という考えが浮んでくる。戦後は文化価値の相対性ということが世界的に言われ出して、芸術の価値も、西洋的な物指しで計ってはならぬ、ということが主張されてきている。それは主としてカトリック教会など、世界的にまたがっている宗教団体を中心として出て来たように思われるが、宣教師の行くところ、どこの民俗芸術も、その文化圏においては、ヨーロッパの芸術のヨーロッパに於けるのと同じ価値を有するという発想である。この考え方は、疑いもなく高いヒューマニステックな理想を踏まえているので多くの人に支持されているように見える。  しかしよく考えて見ると、アフリカやアジアの土着音楽と、モーツァルトと比較して、それぞれの文化圏においては等価値だ、というのは甚だ不自然と思われる。他の文化圏の土着音楽と比較するならば、ヨーロッパの土着音楽、つまり民謡などと比較すべきである。そして両者ともそれぞれの文化圏においては等しく価値がある、と言うのならわかる。しかしモーツァルトはそれを超えた普遍的な価値があるのであって、アフリカのどっかの民俗音楽とモーツァルトが等価値だ、などと言うのは、センチメンタルな文化相対主義であって、少なからざる害毒を流すものであろう。文化相対説が瀰漫《びまん》しているところでは、偉大な芸術は生じない。     3  モーツァルトが西欧というワクを超え、時には人間というワクを超えて偉大であるのは、やはり彼を産んだ文化的背景が特異なものであったからである。三十年戦役が終ってから、フランス革命が始まるまでの約百五十年間というものが、人類の歴史に類をみない時代であったことを、どうしても再びくり返さねばならぬ。国際法の理念が自然発生的に生まれ、その理念が何ら強制力なしにほぼ完全にまもられた時代というのは探し出すことが難しい。当時の人たちは、理性的な人間の規範というものが存在することを信じ、それに従うことをすすんで行なった。そういう人たちの耳を喜ばした音楽は、客観的に美しいものでなければならなかった。主観、つまり自分の感興を発表するだけではならなかったのである。  客観的に美しい、ということは、聴き手がいつ聴いてもよい、ということである。モーツァルトは音楽会で聴いてもよいし、喫茶店で聴いても、ホテルのロビーで聴いてもよい。食卓でも、宴会でもよい。教会でもよし、眠る前でもよい。そして朝飯の時でもよいのである。  これについて最近、うちでは面白いことがあった。小学生の男の子がベートーヴェンの第九を買ってきてステレオから流していた。そして夕飯時になった。夕飯時というのは、子供が三人もいれば相当、主婦が叱らなければならない時間である。「早く席につきなさい」「そら、こぼした」「そんな大声で御飯の時にしゃべるものではありません」などなどである。ところが子供達は、経験的に妙なことを発見した。つまりベートーヴェンの第九を流していた時、母親がおこりっぽくなっている、というのである。そして実際にその通りなのであった。ベートーヴェンの第九を聴く時は、聴き手は聴くことに専念しなければならない。夕飯の仕度をしながら聴けるものではない。だから知らず知らず、家内はいらいらしてきていたのであろう、というのが私の推論である。子供たちは夕食前にベートーヴェンの第九を流すことをやめた。  ベートーヴェンの悪口を言うつもりではない。音楽会とか、音楽喫茶で、専心して聴く時はベートーヴェンは大いによい。しかしそこにはベートーヴェンの「我」、よく言えば個性が出すぎて、夕食しながら聴くことを許さないのである。おそらく近代の作曲家の音楽の多くは、飯を喰いながらは聴けないと思うが、それは「我」を出しているからであろう。モーツァルトはもちろんバック・ミュージックにすぎないのではない。専心して聴いても天国から聴えてくる音であると同時に、飯を喰いながら、お茶を飲みながら聴いても、胃のためによいのである。  近年、ヴィヴァルディに対する若者の愛好が異常に高いと聞いて嬉しく思っている。というのはヴィヴァルディやバッハからモーツァルトに至る音楽は、国際法の理念が守られた唯一の時代であり、その時代の音楽の好みが強いことは、よき時代の好尚がわかるという意味だからである。戦後しばらくドイツの学校向けラジオの時間が、毎朝、モーツァルトだけの時間を設けていたのは、さすがであった。モーツァルトの死と共に西欧は残酷な時代に地すべりをはじめたのである。 [#改ページ]     紛争の内容と形式     服装と戦争の正義感 『カンタベリー物語』のプロローグで、チョーサーは、登場する二十何人かの人間すべての服装について縷々《るる》述べている。  たとえば近従(騎士のつき人)についても「武者ぶり凛凛《りり》しく戦った。赤、白の花鮮やかな、着物一面の縫いとりは、まるで牧場をみるよう」とか、騎士の従士については、「この従士は緑の上着に緑の頭巾《ずきん》をかむり、切っ先鋭く研ぎ上げ、紅雀《くじやく》の羽をつけた矢を、きりりとつかねて腰につけていた」とか、全部に服装の記述がある(御興員三氏の訳による)。 「小間物屋と大工、織物師、染物師に綴織職が、押しも押されぬ組合の、揃いの仕着せに身を固めて、一行に加わっていた。身に帯びた品々は、飾りも鮮やかな新品で、脇差しの鐺《こじり》も真鍮などではなく、銀を用い、見事な細工であった」。もちろん女性の場合には、さらに詳しく記述されている。  これは、巡礼の風景を描写したものである。私も実際に巡礼に行ったことがあるが、かなり様子が違っていた。私が行ったのは、フランスとスペインの国境のルルドという聖ベルナディットの奇跡が起ったところで、ドイツの盲人連盟の一行と一緒に、ある盲人の付添いとしてであった。  そのとき『カンタベリー物語』を思い出したのだが、どこか違う。『カンタベリー物語』では、男の服装を職業ごとに記述し分けていた。弁護士やキャプテンなど、みなその服装の記述が違うし、しかも色鮮やかであった。ところが、私が行った巡礼の場合、女性は多彩な洋服を着てはいるが、男は、グレーに何かさえないネクタイとか、丸首のダボシャツとか、その程度で、誰を見ても職業のわかるような服装はしていない。  中世は着る物に凝《こ》った時代と言えるのではないだろうか。日本でもそうだ。緋《ひ》おどしの鎧《よろい》だとか、金覆輪《きんぷくりん》の鞍を置いてあるとか、非常に着物が派手だったと思う。  それがいつごろから西洋の男の服装が地味になったかというと、どうもピューリタン革命を境にして、市民の洋服というのがグレースーツのような——その時からあの形ができたわけではないが——どちらかといえば、大変地味なものに統一されていったような気がする。例外的に残っているのは、中世的な儀式においてである。カトリックの司祭のミサをあげるときの礼服だとか、大学の式典のとき学部長が着るような色鮮やかな式服だとか、あるいは軍隊でいえば将軍や何かの軍服だとか、時折そういうものも見かけるが、それは中世伝来というにすぎず、近代的ということは、男の服装がさえなくなった時代のことではないだろうか。  服装から紛争をみていくと、終局的に服のきれいな方が負ける、という定理のようなものが認められる。  ローマ人とゲルマン人のことを例にとると、ゲルマン人というのは、映画などをみてもわかるように、皮の衣を巻きつけたようなかっこうをしている。それが結局勝ってしまう。  それから、先ほど男の服装の単調化についてのところでふれたように、ピューリタンの服装は、つまりクロムウェルの軍隊は——アイアンサイズは——本当に粗末である。王党派はきらびやかであった。この場合もやはり服装の粗末なピューリタンが勝ちを占めた。  それからナポレオン戦争のときも、初めナポレオンが大いに勝っていたころは革命軍のおんぼろ軍隊が、当時一番きれいなオーストリアのハプスブルク家の軍隊などを、イタリアやアルプスの地でけちらしていたのである。  イギリス軍とワシントンの率いる軍隊が戦ったときも、イギリス軍は正規兵なので大変きれいだが、ワシントン軍は移民がてんでんばらばらのかっこうで集まったものだった。  南北戦争でも、南軍のリー将軍の軍隊の方が北軍のグラント将軍の軍隊に比べて、かっきりといい服装をしている。  将軍の例でいえば、日本の将軍はわりときらびやかな着物を身にまとったが、マッカーサーは、正式のときでもギャバジンのような略式の服装で天皇陛下に会ったりしている。  一番新しい例は、アメリカ軍とベトナム軍で、裸足の北ベトナム軍がアメリカ軍に勝ったような感じである。  日本でも奇兵隊と幕府の軍隊とか、例はいろいろ挙げることができるが、大体の傾向として、戦争においては少なくとも服装のまずい方が勝つ、すなわち、美的センスと戦いの勝利は逆になるということが示されるのではないだろうか。  したがって、争おうと思ったら必ず相手よりもまずい服装の方がいいだろう。機動隊も、成田では、反対側よりもひとつ落した粗末な感じのする服装をしたらよいだろう。学生と団交をやるときも、学生より総長の方がきたないかっこうをして出るのがよいのではないか。  これは半分冗談としても、美的センスのある軍隊に特有なのは、当然のことながら、エスタブリッシュメントの軍隊であるということである。きたない方は、必然的に非エスタブリッシュメントなのである。  すると、大体において服装のきたない方が正義感を持つ度合が高く、それに対し、エスタブリッシュメントの方は美的センスが高い。したがって、戦争をやった場合、美的センスの高い方はきたない手が使えないが、きたない服装の方はほとんど必然的に正義感が高いので、「あいつらには何をしてもいいんだ」という感じできたない手を使って何でもやれるわけである。     戦闘のない戦争  では、同じくらいのきたなさ、つまり同じくらいのきれいさの戦争ではどうだろうか。要するに同じくらいの正義感で戦った例として、三〇年戦争がある。  これは一六一八年から四八年までの戦争で、特にドイツを中心として三〇年間戦い合ったわけである。初めのうちはカトリックとプロテスタントが戦争したはずだったのが、それにフランスやスウェーデンが加わり、何が何だかわからないまま戦いを三〇年間続けたのである。  そして、今いったように、両方とも同じ正義感、すなわち同じ程度の服装で三〇年間戦った結果、ひとつの紛争の極点まで至ったと思われるのである。人口がドイツ全体で半分ぐらいになったといわれている。場所によっては、見渡す限り全部村がつぶれてしまい、一〇〇キロ歩いたが一軒の家もみなかったという旅行記が残っているぐらいである。  その悲惨さは想像を絶するものである。この前の戦争で日本はずいぶん悲惨な思いをして、われわれの中には肉親を失った人も多いが、それでも、民間人を含めて、死んだ人は全人口の五パーセントにみたない。ところが三〇年戦争では、平均して人口の六〇パーセントが死んでいるのだから、これはとんでもない残虐さだったわけである。  結局、一六四八年のウェストファリア条約のときの鉄則は「領主の信仰は領民の信仰」(Cujus regio, eius religio)という、宗教戦争としてはこれほどばかな結果はないような決着をみたわけである。宗教の正義のために闘ったのだが、終ったときの気持では、結局お互いに宗教はどうだっていいんじゃないかという結論になった。個人の内心の欲求だとか個人の宗教心というのは問題にならない。結局正義というものは一切振り回さないことにしようという完全に便宜的な原理で終局したわけである。  ほぼ現状のまま、そしてたまたま領主がカトリックなら、領民も文句をいわずにカトリックになること。領主がプロテスタントなら領民も文句をいわずにプロテスタントになる。文句をいえばまた戦争だ。それでもいいかとなるとそれはだめだ、ということで、ドイツじゅうの町々村々の教会の鐘は、宗教を完全に無視したような原則をたたえて鳴りわたったというわけである。  同じくらいの正義感をもった戦いが、非常な大スケールで戦われ、しかも長く続いたために、いくつか興味深いことが生じた。  ひとつは、国際法の鼻祖といわれるフーゴ・グロチウスというオランダ人の『戦争の正義と平和について』である。これは一六二五年に書かれた。オランダという宗教戦争の真っただ中にあって、その悲惨を目の当りにしたグロチウスは、人類社会という理念をうち出し、国家間にも法律が必要なのではないか、しかも国家間の法律は個人間の法律のごとくあらねばならない(jus gentium)という概念をうち出したのである。  さて、権謀術数を友だちの間に使ったら大変よくないということは誰でも認めるだろう。しかし、国同士ならかまわないというのがマキャベリズムだったわけであるが、それに対し、グロチウスは国同士でも個人と同じくらいの倫理を支配させるべきではないかと言いだしたのである。さらにスイスのバッテルは、一七五八年に『諸民族の正義』("Le droit des gens")を書いて、すべての戦争は正義であるという規定をしてしまった。つまり、どんな戦争でも戦争している当人同士はそれを正義だといってやらなければならない、という原理を持ち出した。  それまでは、戦っている人間は相手側が悪いんだという原理で闘っていた。三〇年戦争でもそうだが、宗教戦争は必然的にそうなるわけである。  それが極端にまで至った結果、すべての戦争は正義という逆の発想法が出てきた。すると、もはや正義の名で戦う権利のある人間はいなくなるわけである。戦争が起ったら、お互いに相手は正義だという。少なくとも国家間の紛争はそうでなければならないから、手段も正しくなければならないという教訓じみたことになる。そして非戦闘員を傷つけてはならず、すべて「緩和」(temperamenta)の精神でやらなければならない。お互いが正義なのだから、勝った国が負けた国に過酷な条件を押しつけてはならない、そんなことを本に書いたのである。  ところがおかしなことに、何ら権威の裏づけのないこういう概念が、三〇年戦争後では、誰にも破れないような鉄則になったのである。破っても罰する人はいないし、別に国際連合があるわけでもないが、そういう通念がいきわたった。戦争がなくなったことはないが、三〇年戦争以後は、常に相手も正しい、正義であるという前提で戦おうということに落ち着いたようである。  相手も正しい、こちらも正しいとなると、相手とこっちの、「おれの方が正義だ」と感じる度合が同じになる。三〇年戦争から一三〇年間ぐらいは、西ヨーロッパにおいてはだれがつくったわけでもない、自然発生的な国際法のもとで戦争が行なわれた。しかも、これは厳格に守られたので奇跡といってもよいかもしれない。  これをいまの戦争学者たちは、リミテッド・ウォーというが、制限戦争、限界を設けた戦争というわけである。結局勝っても負けてもゲームのようになってしまった。  したがって、戦闘はなるべくしない方がよろしいという通念があり、明らかに退路を断たれたりしたら降参しなければならない。そこで捨てばちになって戦ってはいけない。むだな殺生だから、勝敗が決まっているのに戦うというのはフェアではない。うまく囲めば勝ちということで、勝った方も過酷な要求はしない。勝った方は言い分はある程度通すが、負けた人から徹底的に収奪したり、相手を処罰したり、といったことはしないというわけである。  イギリスのローレンス・スターンという作家が大陸を旅行し、『センチメンタル・ジャーニー』という本を一七六八年に書いているが、このときは七年戦争の真っただ中である。しかし平気で戦争している相手国を旅行している。宿屋に泊まると、宿屋のおかみさんが「あんたの国とうちの国が戦争していて景気が悪くて困る」とかこぼしているが、戦闘員ではないスターンに対しては別にどうということはない。全然憎しみを持たない。  たまに戦闘しなければならないときもあるが、やり方は個人の決闘めいたものになる。有名な話で、そちらの方からお撃ちくださいとか、いやそちらから、いやそちらからなどとお互いに譲り合って最初の鉄砲を撃ったなどというのがある。最初撃った方が絶対得なのだが、にもかかわらず「どうぞどうぞ」と、二〜三回やり直さないと仁義に反するような戦争になった。  だから、非常に死傷率は高い。マルパラケの戦いでイギリス軍は勝ったが、三三パーセントを失っている。ツオルンドルフのときは、負けたロシア軍はちょうど半分死んでいる。勝ったプロシア軍が三八パーセント、クネルスドルフでプロシア軍は四八パーセント死んでいる。こんなひどい死に方をする戦争というのは、その後ないと思う。したがって、一度戦闘をやればこれだけ死んでしまうので、「戦争」はやるが「戦闘」はやらないということになった。     形式の時代  戦闘を恐れなかった君主は、フリートリッヒ大王である。彼は七年間に一六回戦闘をやっているが、こんな人は当時他にはいなかった。結局、あのフリートリッヒはいつでも戦闘するということがみなに知られて、威信が出てきた。だれも戦闘《ヽヽ》する奴とは戦争《ヽヽ》したくない。結局フリートリッヒは、フベルトウスブルグ条約以降、晩年の二三年間一度も戦争をしていない。戦争しかかったことはあるが、フリートリッヒが兵を動かそうとすると、「あいつはまた戦闘するからいやだな」とおよび腰になって、みんな譲歩して手を打ってしまい、戦争しなかったのである。  ちょうどそのころフランスの名将、モーリス・ド・サクスという人が回顧録を書いている。その中で彼は、いまいったゲームのような戦争について書き、最後に戦争の要領は「戦闘をしなくてもいいことである」などということになった。中島敦は『名人伝』という小説で、はっとにらむと雁が落ちたりする、弓を射ないどころか弓というものを忘れてしまった人が本当の名人であると書いている。何かそういった悟りめいた形で、戦争しても戦闘しないのが本当の名将なのである。戦闘までもっていくのは下手だということになった。それが社会通念だったようである。  戦争の回数が非常に多く、しかも戦闘をしてそんなに死傷率が高くては大変だと思われるかもしれない。しかし、ちっとも大変ではないのだ。というのは、戦っているのは全部雇兵で、雇兵というのは危険な競技のプロのようなものだから、死んでもいいのである。だれの迷惑にもならない。それはボクシングの選手の鼻がつぶれてもだれも何とも思わないのと同じで、納得して金をもらってやっているのである。  したがって、戦闘員は勝っても占領地は絶対に荒らさない。これは三〇年戦争のちょうど裏返しである。非常に目覚しい例は、カントがいたころのケーニヒスベルクである。彼がかの地で教授をしていた間、七年戦争が起って、二度もロシア軍に占領されているが、カントは何も触れていない。つまりあの規則正しい哲学者の生活が一度も乱されなかったという意味である。  将軍たちは、社交界に出入りしていた。ロシア軍が占領する役場にロシアの旗が立ち、教会での祈りに、ロシア女帝エリザベートのために、というのがつく。ところがまたフリートリッヒの軍隊が入ってくるとロシア軍は逃げ、ロシアの旗をするすると下ろしてプロイセンの旗を掲げる。教会では国王フリートリッヒのために、となって要するに前後の文句は変らない。  カント自身もその当時、教授の認可をもらうための書類を出しているが、ロシア軍が占領した時代も、フリートリッヒの時代も、全く文面が同じである。相手の名前だけが変っている。ほかは一行も変らないと言ってよい。だれから占領されてもちっとも変らない。結局そのころの英雄に人気があるのは、だれにもあまり迷惑をかけないで勝ってくれるからで、これは拳闘の選手が勝つのと同じである。  フリートリッヒというのは、制限戦争の時代に一番戦闘した男なのだが、そのイメージは三〇年戦争のころや後世の猛将とは全く違う。毎晩食事を五時間から七時間もかけてとっている。そして自分でも管弦楽をやって、人手が足りないとフルートを吹いたり、作曲も手がけてずいぶん長いのを残したりしている。たとえば彼の作曲した『シンフォニア・Dデュア』というのはなかなかの名曲で、大バッハも感心したそうである。  私はフリートリッヒ作曲のレコードが欲しくて、この前ドイツに行ったときやっと手に入れたが、これを知らない人に聞かせて「だれの作曲だと思う」と聞くと、大体バッハだろうというぐらいうまい。しかも非常にさわやかで、私はある意味でバッハ以上ではないかと思うことさえある。朝などそれを鳴らすと、非常にさわやかで、子供たちがみんな起きてくる。さすがに大王の威光だ、などと思ったりする。  内容で争ってはいけないということが通念になり、結局形式としての戦争の作法で争わなければならない。作法を崩したらみんなの指弾をあびるので、作法だけはきちんと守る。内容はいらない。戦争の口実はどうでもかまわないのである。「あっ戦争が始まったな」とみんなが見ており、きたないことをせずに勝てば、ああ偉いとたたえる。  その形式絶対支配の時代こそが、われわれがもつ偉大なる音楽の時代なのである。たとえばヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトらの生きた時代がちょうどいま触れた制限戦争の時代に入るわけである。  だから、バッハの音楽、これは何をいおうとしているのか問うのはナンセンスでしかなく、要するに形式がきれいなのである。モーツァルトもそうである。普通モーツァルトの曲は、何を語ろうとしているのかといろいろな解説がつけ加えられがちなものだが、要は形式がきれいなのであって、何かを訴えようという気はないのだろう。     内容の時代  こうして、敵も味方も紛争の当事者たちは形式は同じ、正義感も同じになるが、それが長くは続かなかった。フランス革命になると、服装のきたない方に圧倒的な正義感があるので、何をしてもいいという感じになる。プロの戦闘員でないものを巻き込んでもいいという、制限戦争の時代にはどんな猛将でも、どんなばかな君主でも絶対しなかったことが認められるに至った。  フランス革命の革命主義者は正義の権化なので、それだけボルテージが高い。やってはいけないことをやってもいいのだから、これはボクシングをやるときにキックを入れるようなものである。だから必ず勝つ。そして勝ちまくった。 「戦争は正義である」ので、ナポレオンを追っ払うときも、追っ払った方は対ナポレオン戦争は正義だと逆にいうわけである。ナポレオン戦争の方が正式には革命戦争と呼ぶのだが、追っ払う方は解放戦争と呼ぶようになってしまう。お互いに錦の御旗で戦争するようになった。  フランス革命のもたらした非常な不幸は徴兵制度である。軍隊は誰を引っ張ってきてもよろしい。これは三〇年戦争への逆戻りである。三〇年戦争は宗教戦争であるがゆえに、ひどい場合は女子供まで戦った。それがだめだというのでやめて一〇〇年ぐらいすると、のど元過ぎれば熱さを忘るで、また紛争に内容を入れてきたなく戦う。  ベートーヴェンは、モーツァルトの時代に育ったのだが、若いころにフランス革命を経験している。そこで彼は正義を知るわけである。ベートーヴェンの音楽には、もちろん伝統的な形式だけの美の音楽もあるが、何かを訴えかけようという音楽をかなり生んでいる。  したがってベートーヴェンの大曲というのは、ちゃんと向って聞けば、本当に天才の圧倒的な音楽なのだが、飯を食うときに流すとなると、癇にさわって聞くにたえないことになってしまう場合がある。実はうちで実験的に——実験のつもりでやったのではなく、結果的に実験になったのだが——晩飯の前に音楽をかけようということで、いろいろな音楽を流してみた。ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、皆いい。子供たちも喜んでというか、少なくとも反対しない。  ところがベートーヴェンになったらやめてくれと言いだした。なぜかというと、ベートーヴェンを流しているとお母さんがいらいらしてくるというのである。子供だから母親のきげんには敏感で、いつの間にか音楽と母親のきげんの相関関係を認めたわけである。女房にしてみれば、夕飯の仕度をしているとき、バッハやモーツァルトやヘンデルが流れている分にはどうということなく仕事ができる。ところがベートーヴェンを流されると聞かなきゃならないような気分になるわけである。飯はつくらなきゃならない、音楽は無理やり聞かされる。一々そうはっきり意識しないが、結果としてはいらいらして口やかましくなるわけで、それで子供たちはベートーヴェンはやめてくれと言いだしたのである。  これなども音楽から内容を取り去った時代、戦争から内容がなくなった時代の形式美が、フランス革命という紛争に入った時代になって、ベートーヴェンのようなすぐれた人でさえも音楽の中に何か訴えるところが出てきて、バックグラウンド・ミュージックとしては流しがたくなった、ということではないか。  プロの戦闘人からは、美しい形式が生まれてくるものである。日本の武士でも、武士は相身互いということばがあり、主君が馬鹿な戦争をする以上、武士はどうしても戦わなければならない。すると、これは正義とはいえないので、きれいに戦おう、きれいに死のう、潔《いさぎよ》くやろうというところにウエイトがかかる。これはやはり形式美の闘争である。立派なことを口にしても意味はなく、向こうも正義、こちらも正義。にもかかわらず戦わなければならないところに武人の悲劇といったものを感ずるのであろう。  近代の戦争に至り、ナポレオン戦争で正義が前面に出たので、再び反省が多少出てきたようである。したがって、ナポレオン戦争後何度か戦争があったが、あまり正義を出さないようになってきた。普墺戦争でも、プロシアは圧倒的に勝っているが、ウィーンには入城しない。  普仏戦争の際、これはまたフランスが悪いのだが——私は近代の悪は全部フランスから出ているという意見をもっているのだが——王様がセダンで捕虜になった。だからもちろん、そこでやめなければいけない。王様をとられたらやめるのは将棋のルールである。ところがフランスは、正規兵でない者を闘わせるということをやる。市民軍をつくる。市民軍に来られたら市民を殺さなければならないというので、また世の中が悪くなる。  第一次世界大戦は、もちろん、三〇年戦争以後の戦争や、ナポレオン戦争以後の戦争に比べれば、かなり内容が悪くなっているが、それでもまだよかった。『大いなる幻影』という映画をみてもわかるように、ドイツの将校とフランスの将校などの「武士は相身互い」という様子がかなり見受けられる。その信頼はやはりフランス人側によって裏切られるわけだが……。  ところが第二次世界大戦になると、また正義の出しっこになって、戦争裁判でもあらわになったように、いかに正義で戦ったかということであって、すっかり世の中が悪くなってしまった。じゅうたん爆撃もやれば、市民殺害もやる。お互いに三〇年戦争並みに戻ってしまった感じがする。  それでまた正義のもとで戦いすぎると悪いと考えたものだから、今度はお互いに戦わない——少なくとも大国は戦わないでいこう、というところに、いま落ち着いているのではないか。カーターが正義を持ち出したので、また少しもめるのではないかと心配だが、正義を持ち出せばもめるというのが人類の歴史なので、出してはいけないのが原理だろうと思う。しかし、幸いにカーターにも柔軟性があり、引っ込めかかっているようなので、まずまずいいだろう。  このように闘いは正義度が低ければ低いほど、形の美が追求される。形の美が追求される紛争は質のいい戦争である。形が問われないときは、形のきたない方が正義を主張し、そして勝つ傾向がある。もちろんこれは傾向であって法則とはいわないことにする。     形式尊重の紛争解決  ところが世の中には、自分の正義を決して主張しない闘争がある。それは商業である。商売人は人のために商売するのだといった大それたことは、決して口にしない。商売する人間は、必ず自分がもうけるという立場でやっているのだと思う。だから正義感で商売することはないわけで、「もうけさせてもらいます」、なのである。だから売れればありがとうという。  商取引は、正義感を主張しないという意味において、制限戦争に参加する人間と似ている。そう思ってみると、果せるかな、そこには厳格なる形式の尊重が行なわれている。つまり契約を守る。大阪商人などは、契約書をつくらなくても、「満座の中でお笑いくださるべく候」とあり、それでよかったという。  それから、近ごろの世の中は大変悪くなったといっても、信用が徹底的に重んじられるのは株式取引所で、これは電話一本で何百万円だって動かせる。一々契約書を書かなければ株の注文を出さないということではない。電話ひとつである。  つまり一番きたない——きたないといおうか、正義感のないと思われやすい商取引において、一番厳格に形式、すなわち契約その他の信用が守られているのである。  これに関してひとつの洞察ないしはヒントとして終戦直後、田中耕太郎氏が述べられたことに、世界の平和は商法の原理でいかなければならない、というのがあることを想起してみたい。たとえば手形とか商業契約というのは、守らないことには何にもならないので、一番体制に関係なくコンセンサスができるものである。だから体制に関係なくコンセンサスができて、どこの政府も体制に関係なくその実行を保証してくれる、これは商法的交渉、商取引である。正義感がミニマムになって動くのが商法だと思う。  現代はある意味では、お互いに正義を主張することはなるべくやめて、商法的な精神に切りかえるべきときではないだろうか。いまの世の中ではどんな立派なことをいっても、それは自分の利益のためなのだとお互いに悟ること。悟らない人もいるわけだが、悟らせるよう努力しなければならない。お互いが自分の利益だと悟ったとき、型の美しさが出てくると思う。  これはわれわれの政治形態である議会制度の発生地イギリスにおいても、イギリスで議会制度が曲がりなりに二大政党で成り立ったひとつの要因は、お互いが各々自分の利益のためにやっているのだということを認め合ったことだった。  初めはもちろん非常に仲が悪くて、政権交替があれば前の責任者を追及したり、首を切りかねなかったわけだが、トーリーだとかホイッグだとかいってどなり合っているうちに——トーリーというのはアイルランドの山賊、追いはぎというののしり言葉であるし、ホイッグというのはスコットランドの裏切り野郎で、人種差別のニュアンスさえあるののしり言葉なわけだが——ののしられた名前を自分の党の名前にしてしまったわけである。これは明らかにイギリス人のユーモアのセンスといってもいいのだが、トーリーといい、ホイッグといい、そう言い合っているのを受け取る心理の背後には、自分たちが多数党で政権をとっていたとしても、それは自分たちの利益のためだということを当然認める信念があるわけである。だから、負けた方の党をとことん追及しようという気はなくなる。向こうは向こうで自分たちの得になるよう行動しているのだし、こちらにしても得しようとしているのだからという発想の中から、二大政党が成り立っていったわけである。だから二大政党というのは、高邁《こうまい》な理念や、二大政党論を誰かがつくって、それを実践したのではなく、気がついてみたら、お互いに自分の方が得なんだからと言い合っているにすぎないという洞察から、ああなったと思うのである。  最近はイギリスでも、二大政党がどうもうまくいかない。それはトーリー対レーバーの対立になったからだと思う。トーリーは伝統に従って正義を主張しない党だし、保守党員が正義感に満ちているとは思われない。ところが、少なくとも初期の労働党は正義の権化であった。だから労働党の方がどうしても正義感が強い。いまでもその名残りがあって、おれたちの言い分を通さなければヤマネコでもなんでもストライキをやるぞ、というわけである。保守党は、おれたちのいうことを聞かないといっても、どうしようもない、内閣をやめるだけである。  すると、ずるずるとレーバーの方に引きずり込まれるわけで、実際、いまイギリスには党はないのだ、労働党だけの政策があって、保守党の方は少しテンポを遅くしていくだけのことしかできないといわれる理由はそこである。もう少し進めば案外別の展開があるのかもしれないが、いまのところ議会制度は動かなくなっているかのごとくである。  アメリカでは、リパブリカンでもデモクラットでも選挙のときは自分たちの方がいいというが、自分たちだけが正義だとは、どちらかといえばいわない。しいていうなら、デモクラットの方が正義感が強い。だから、アメリカが参加した戦争は全部民主党のときだったと聞く。  こう見てくると、どうも正義感というのは非常に有害なもののように思うのである。     正義からフェアネスへ  日本でも春闘のときなど、やはり労働組合の方が正義感が強い。だからきたないことをやる。国電に白いペンキできたなく書く。あれは正義感があるから書くのである。正義感がなければ決してきたなくしない。だから、正義感と形式の美はちょうど反比例するわけである。  昭和五十一年の春闘のときだったか、おもしろいことがあった。富塚総評事務局長が、春闘を支持する政党には、今度の選挙で二億か三億都合しますとテレビで言っていたのである。これは明らかに、ある政党がスト支持すれば二〜三億やるぞということである。結局、考えてみれば、彼らだって賃上げしたいからやっているのである。何のためにスト権をもちたいのかといえば、ストをやって賃上げしたいからで、つまり自分たちの利益のためなのだが、自分たちの利益という感じは与えない。正義のためにやるのだ、だから支持した政党には二〜三億出してもいいというわけである。  同じようなことは、たしか一〇数年前か二〇数年前かに伊藤|斗福《ますとみ》という保全経済会をやっていた朝鮮人がタコ足配当で首が回らなくなり、自民党党員に二〇〇〇万円寄付するから保全経済会を相互銀行なみに扱って、銀行法の保護のもとに置いてくれといった運動をしたことがある。それは少しひどいではないかと自民党は受け付けなかったので、保全経済会は破産した。  しかし保全経済会にいわせれば、二〇〇〇万円ぐらい寄付すれば、保全経済会も銀行のようになる。そうすれば、その傘下の何万人という人が損しないですむ。これはある意味では大変な正義である。それはちょうど、二〜三億出そうという国労・動労と同じ発想法だと思うのだが、いまのところまだ人は余り気がついていないようである。  したがって、世の中がこれからの紛争と関わる場合、相手が自分よりもきたない手できたら、あるいは立て看板がきたなかったり、工場だとか会社にべたべたとビラなどをきたなく貼ったりしたら、これは正義感からやっているのだと、すぐにその正義感を探しあて、正義感の根拠を爆破するか——爆破というのは論理によってだが——あるいはこちらもそれと対抗するだけ、同じ程度にきたなくなれるだけの正義を発見するかしなければならないと思うのである。  しかし、そういうのはあまり望ましくないので、これからの紛争は、国家全体の、あるいは国際的にも、田中耕太郎氏も洞察なさっていたように、商業的な取り決めがもっとも公平であり、形もきれいであるということを考えて、その線にコンセンサスをもっていくよう努力すべきではないかと思う。  その場合、商法的な形での紛争処理、それは大きくは国家間、小さくは個人、あるいは地域団体と企業など、いろいろあるだろうが、どの場合も商業的な紛争解決法の原理は、正義ではなくフェアネスである。  おれの方もこのぐらい泣くから、おまえの方もこのぐらい泣いてくれとか、あなた方もこれだけ得するのだから、おれたちにもこれだけ得させてくれとか、要するにこれが商業の原理である。この品物を買えば私もこれだけもうかる、あなたもこれを使えばこれだけいいことがあるんじゃないかということで、取引が成り立っているのであろう。  お互いにある程度納得する線、歯切れは悪いかもしれないが、両方同じ正義であると思うか、あるいは両方自分の得のためにやっているんだという認識にお互い立たないとだめである。だから両方とも正義だ——あるいは両方とも正義がない——という立場に立つことが重要である。三〇年戦争以後の、モーツァルトやハイドンなどの美しい音楽を生みだしたような、戦争ですらもゲームのように扱ったあの時代をつくった原理は、お互いが正義であるということを認めた原理であった。  イギリスが二大政党政治を確立して世界のお手本になったのは、お互いが自分の利益のためだという原理のゆえであった。  だからどちらをとってもいい。お互いが正義だという取り方もあるし、お互いが自分の利益のためだというアプローチもあると思う。要するに、お互いが同じ原理に立つところまでいかないと、きたない方が勝つ。同程度の正義だということを特に主張してもいいし、両方とも自分の利益のためだというところでもいい。そのとき、そこにはある程度納得できるフェアという根拠がある。  昭和五十二年五月十二日の新聞に、藤沢建設と文京区大塚二丁目三三番地の住民との争いが載っていた。初め藤沢建設は六階建てで三六戸分建てようとしたところ、住民運動が起り、裁判で和解して四階二四戸建てに変更された。これは藤沢建設としては三六戸建てるつもりで投資したのが、二四戸にしかならず、いわば泣いたわけである。六階と四階では日照も違ってくるだろう。  ところが住民の中には、一〇〇パーセント自分たちの正義を信じ、四階建てでも高いといって、裁判調停があったにもかかわらず、建築を妨害した者がいる。その結果契約金を支払った人も入れなくなって、藤沢建設は訴えた。裁判所は全面的に建設会社側を認めて、二五〇〇万円の支払いを住民運動側に命じたわけである。そのうち一〇〇〇万円は即時執行可能となった。  建設会社側は、その権利を直ちに執行する気はないと、非常に下手に出ているそうである。藤沢建設ぐらいがはじめから違法建築をやるはずはないので、一応建築法内で合法的な建築設計を立てたのだろうと思う。  だから法律の許される範囲では何をやってもいいわけで、六階建てをあくまでも強行するといえば、これは建築会社の一〇〇パーセントの正義である。しかし、住民側が一〇〇パーセントの正義を日照権として主張すれば、これまた四階でも高いということになる。本当は四階にしたところで手を打つのがフェアだろうというのが裁判だったのだろうが、片方がとことんまでやろうとしたために、逆の線が出た。この判決に対して、普通ならば全部住民闘争側に味方するような新聞も、識者や、ほかの住民団体からのそれは住民側の行きすぎだという意見を紹介していた。  これなどは、正義だけをごり押しするときりのない闘いになるという例で、この場合、住民側は非常にきたない戦術をつかったが、日本はまだ裁判権が動くので、きたない側が必ず勝つとは限らなかったわけである。このあたりに、正義のかわりにフェアをという感覚が、かなり出てきているような気がするのである。 [#改ページ]     日米ファカルティ雑感     はじめに  戦後、相当の期間、世界中を観光旅行してあるくのはアメリカ人と相場がきまっていたが、最近ではドル防衛とかでアメリカも自国へ観光客を呼ぶことに熱心になってきている。特に日本から渡米する人の数は飛躍的にふえ、アメリカ観光業の最大のおとくいさまの一つになっているということだ。私もニューヨークの日本領事館の近くのホテルで朝食をとっているとき周囲をみたら、半数ぐらいの人が日本語を話していた。このような時節に、今さら「アメリカではこうだった」というような見聞をのべることは一種のアナクロニズムというべきものではあるまいかとも思われる。  それでも、|※[#「火+共」、unicode70d8]雲《こううん》托月ということもある。日本にいたときにいろいろ考えていたこと、あるいは漠然と感じていたことが急にはっきり意識化されたことがないわけでもない。特に十年近く日本の大学の教員をしてから、突然アメリカの教壇、しかも四つの州の六つの大学の教壇に立つと、多少「これは勝手がちがうな」と感じさせられることがよくあった。日本の大学とアメリカのそれを比較してどっちがよいかという意味でなく、異なった国を見たため自分の国の姿がよくわかったという、誰でも経験する平凡な事実を思いつくままのべてみよう。     1  英語では大学の教員のこと�faculty�という。そのことはもとから知っていたのだが、これが「能力」つまり�talent�を意味することを実感《ヽヽ》したのは渡米して三週目ぐらいだったろうか。タレントという言葉は今では日本語になり、誰でも知っている。特にテレビ・タレントというふうに、ほとんど「芸人」と同意語になっているようだ。アメリカのファカルティはタレントである。地位も給料も日本のように年功で上ることはなく、研究教授のタレントとしての能力のみによってきまるといってよいだろう。だからアメリカの教授の給料は、給料というよりむしろ日本でいう「ギャラ」に近いような気がした。  日本のタレントは紅白歌合戦に出るとか、ヒットしたレコードを出すことによってギャラが上る。アメリカの大学の場合、ギャラを上げる手段の第一は学位をとることになるだろう。大学の教員という以上は修士は持っているから、学位といえば博士(Ph. D.)ということになる。どこの大学にもかなり多くの教員が博士論文を書きながら教えていた(私の体験はすべて文学部か社会学部のものである)。各大学によってそれぞれちがうだろうが、ミシガンのある州立大学では、修士の教員の給料は年間九千五百ドルを超えないことになっているそうだ。それに、大学院を教えることが許されないから、学位を持ってない先生は何が何でも学位をとるということになる。それで大学側も、論文作成中の教員の授業時間数は、普通の義務時間数より四分の一ぐらい減らしてくれているようである。  もちろんこの学位制には批判が多いのだが、日本の入学試験同様、よりよき代案がない以上、仕方がないといったところらしい。私もその学位候補生の講師、助教授の何人かと知り合いになったが、害よりは益が多いという印象を受けた。というのは、アメリカで大学教員を志す者は、修士をよい成績でとれば、すぐ教壇に立てる。大抵はもう結婚して生活がかかっているから、論文を完成するにも、教えつつ研究生活をするため、五、六年から十年ぐらいは費さねばならない。その間にも、博士の単位をとり、レポートを書き、教授の指導を受けているわけだから、学問が進むことは確実である。つまり修士をとってから三十代のはじめ頃までの数年間、一つのテーマを追求しつづけるわけで、その意志力と習慣は尊いものといわざるをえない。日本では、文学部の学位は若いものにはまず出さないというコモン・ローによって、修士をとったパリパリの頭脳が目先のアテがなくなって、雑論文、雑翻訳、雑アルバイトにおわれているのではないだろうか。  これはおそらく文学博士に関する概念が日米では違うことに由来することが大きいと思う。日本ではしばしば学位論文を一人の学者の学問生活の総決算、つまりライフ・ワークと考えているのに反し、アメリカでは、これから学者として生活して行く人の一度は通過すべき煉獄《れんごく》なのであり、ここで鍛えられてはじめて一人前のタレント仲間に|入れる《ヽヽヽ》わけなのである。ギャラも一人前になる。そしていろいろな大学から、有利な条件で口がかかる。学者としてのモビリティがぐっと高まる。それに、社会人として、つまり大学の教壇に立ちながら数年間、試験、レポート、論文に時をすごすことは、その人の学問の客観性を高め、その人自身に謙遜を教えることになる。日本ですでに大学の講師、助教授になった人が、レポートを書かされて点をつけられたり、落ちる可能性のある試験を受けることに同意するだろうか。  ある大学で知り合った同僚に、朝鮮戦争時代の陸軍中佐だったという人がいた。彼はその頃日本にいてよい印象を受けたらしく、私にも大変好意的だった。その上、奥さんは上智の国際学部に通っていたとかで、家によばれたり、いっしょに旅行したり、随分親しくつき合った。大学生の子供が二人もいて年はもう五十に近いと思うが、その彼が論文書きをやっているのである。彼は助教授(associate professor)なのだが、隔週ぐらいに指導教授のところへ行って参考書のリストをもらい、一抱えもの本を家にもちかえって読み上げ、それについて指導教授にレポートし、また次の参考書のリストをもらってくるというようなことをやっていた。その間もずっとフルタイムの助教授で教えているわけだからさぞ大変だろうに、別に悲壮がっているところもなく、きちんきちんとやっていた。こういう場合に、自分の年とか前歴とかメンツとかにこだわらずにやるべきことはやるのだと割り切って勉強している点、アメリカの国民性のよい面を見た思いがした。  私の教えていた大学院のクラスは大抵、現職の小・中・高の教師が多く、年も私よりだいぶ上の人が少なくなかった。この場合も、修士をとると大体年間千ドルぐらい昇給する規定があるとのことである。日本の教員の講習会は私も少し知っているが、試験でおとすというようなことはまずない。それに反し、アメリカは修士課程だから、レポートが悪かったり試験が悪かったりすれば落ちる。小・中・高で四、五年から十年以上も教えた人が、修士コースに入って、四、五年がかりで卒業するのを見るのはこころよいものだった。何といっても、中年になってから落第や試験のあるところに戻ってくる気力だけでも教師としての心構えが立派である。昇給を組合活動によってしか求めえない日本とは違った弾力性を感じた。こういう生徒の中には、沖縄戦を経験し、本土にも最初に上陸したという勇士や、もと海軍将校などもいたが、やはり少しも年齢とか性などにはこだわらず、自分たちの教師を見る目は、その人の学識だけというふうに割り切っているようだ。四十代の男が三十代のミスに授業をうけたりテストを受けたりする。  要するにアメリカの大学内では日本式のメンツの問題がネグリジブルであることが大きな特色だと思う。メンツという概念はその語が示すように多分にシナ的、儒教的である。三宅雪嶺はすでに明治時代に、シナや朝鮮が不振なのは儒教のためだと指摘している。儒教の長所は多くあるにせよ、一般に退嬰《たいえい》的で、現実を直視して割り切る勇気を欠き、無能の高官や老廃の人をあがめて若い人間の能力を封殺したため夜郎自大におちいり、シナも朝鮮も植民化されたことは歴史の厳たる事実である。日本の明治の指導者が若かったことはいうまでもないことだが、学界でも岡倉天心が美術学校校長になったのは三十前であり、後藤新平が県立病院長になったのは二十四、五のときだった。この若い日本が再び儒教化し、維新の志士が元勲、元老となったとき、日本に危機がやってきた。沖縄戦で日本の敗色濃く、連日猛爆のため全土が焦土化しつつあったとき、日本の最高戦争指導者会議の老人たちは、和戦いずれをとるかの重大決定を回避して、はしけ人夫用の米の特配量を熱心に議論していた。先輩のメンツを重んじて年功序列に頼った国の末路はかくの如きものであった。メンツの世界では「生意気」という評言が若い人間の覇気に対する必殺弾になる。この結果は年よりのカンにさわらないタイプが次代を担うことになる。ところが戦争とか、革命とかの非常時になれば、メンツは突然通用しなくなるわけである。  国際的に鎬《しのぎ》を削って競争している実業界からは、メンツへの配慮とか生意気という評言が次第に消えつつあるようだ。会社では四十づらをぶらさげてテストを受けないと昇進しなくなっているところが多くなっているし、若い者は生意気だなどといったら新製品の開発や新市場の開拓は不可能であることは誰にもわかってきたからだろう。この面で一番儒教的であった大学がゲバ棒の試練を受けたのは、百年前ごろ儒教国が武力侵略を受けたのと一脈通ずるのではないだろうか。また紅衛兵がシナで起ったことはそれこそ造反有理というものだろう。今後のカリキュラムなども、三十歳以下の若い教員か、今なお第一線で自ら新研究をしている学者以外は組めなくなると思う。今思い出しても、アメリカの大学で生意気という英語を聞いたことがない。恐らくそういう概念が不在なのではあるまいか。     2  このような日米の大学の雰囲気の差も、ファカルティをタレントと解釈すればよくわかるような気がする。われわれがケンプのピアノ演奏会に押しかけたのは彼が老人だったからではなく、彼が優秀なピアノ・タレントだったからである。我々が伊東ゆかりの唄を聞くのは彼女が若いからではない。彼女が聞くに耐える唄のタレントだからである。ファカルティが教壇に立てるのは若いからでも年とっているからでもない。老朽もあれば若朽もあり、少壮もあれば老壮もあって、年齢は本質ではない。それは学生を教えるに足るファカルティ、つまりタレントだからである。  タレントにはマネジャーがいる。これがアメリカでは大学のアドミニストレーションに当る。その機能が本質においてマネジャーであるから、タレントをスカウトしたり、トレードに出したり、首を切ったり、給料を上げたりする。教授会(ファカルティ・ミーティング)もあるが、教授は自分がタレントであることを心得ているから、アドミニストレーションの領分にはあまり口を出さない。権利と義務は表裏一体のはずだから、口を出せば責任がかかる。タレントがマネジャー、あるいは興行主の責任を負わされてはたまらない。アメリカの学長に対する業績評価法は大変具体的であり、まず第一に、彼の在職中に教員の給料をいくら上げたかということである。その次が、施設の拡大、充実になる。その学長が学長であった間にどんな学問的業績を上げたか、あるいは学長になる前にどんな偉い学者であったかは問題にならない。一応、学位があるのが望ましいとされている程度である。学長はアドミニストレーション、つまり興行主側なのでタレントではないからだ。われわれがある詩人を尊敬するとき、あるいはある音楽家を好むとき、その人が詩人協会や音楽家協会の会長であるかどうかは問題にしない。ところが日本では世界的タレント小沢征爾を生意気だといって騒いだことがあった。  それではアメリカの教授はすべてタレントとして完全に割り切っているかというとそうでもない。キャンパス・ポリティシャンという教授たちがいる。こういう人たちは大抵、長く一つの大学におり、しかもタレントとしての流動性を喪失したため、学内の政治に興味を持つようになったものである。したがってタレント型の教授とは甚だ折り合いがわるいのだが、アメリカの大学は先生の流動が激しいので、それほど弊害はないようだ。また、学内のことに興味のある人が必要なこともある。  このようなわけで、学期はじめの教授会の一番大きい仕事は新任のタレントの紹介だった。たいして大きな大学でもないところの一つの学部で二十人もの新任が、つまりよそからスカウトしたタレントの紹介があったのを見たことがある。  教授会では同僚たちの最近出版された本の紹介をする。みんな拍手で祝福するのである。というのはアメリカでは publish or perish(出版せざれば亡ぶ)というのが通念で、専門書を出版すればギャラが上る。出版しなければ上らない。小さいリベラル・アーツ・カレッジだったが、全学教授会で、学長が教授たちの最近の業績を紹介しているのを見て、異様な感じを受けたことがある。しかし考えて見れば、教授会は同僚のタレント諸氏の最近の活動こそ参考になるのであって、すでに点数が出て落ちるときまった学生を救済するための政治折衝をする成績判定会議などの方がむしろ異様と申すべきだろうか。  教授会は一般にアドミニストレーションからのファカルティに対する報告と、それに対する質問という形が多かったようである。議事題目が山のように印刷してあり、何時間かかるのかと思ったら、またたく間にこなしてカッキリ一時間でおわったのを見て驚嘆したことがある。終ってからはカクテル・パーティだった。何か問題があると、すぐ委員を選出してその人たちにまかせる。次の教授会でその委員会から報告があるということですんでしまい、教授会で何十人も討議することは実際にあるかも知れないが、目撃したことはなかった。  しかし黒人問題などが起っている大学ではタレントの集団である教授会にも日本の大学みたいなマネジャー会議的重荷がかかってきてやり切れないという声が出はじめている。結局委員会みたいなものに引っぱり出されて自分のタレントをみがく、つまり学問がしにくくなっているようだ。それで、最もタレント性が高い人、つまり超一流の学者で大学行政(つまりタレントからみれば雑務)からすっかり足を洗う人も出てきている。アメリカにはまたこういう人のための研究機関がいろいろある。中にはドクター・コース中心の大学などもある。このような大学や研究機関のヴァライエティに富んでいるところがアメリカの強みといえよう。  アメリカの大学の教授会が昔にくらべていろいろの権限を持つようになったことは、いろいろの委員会を作らなければならないことであり、いろいろな雑務をしなければならないことになり、それが一流の学者をして大学を離脱せしめるに至っていることは皮肉である。教授会が強化されて学問を殺すというべきだろうか。もしこの傾向が強まれば、アメリカは適応性の高い国だから、きっと教授を純粋にタレントと遇して雑務(つまりマネジャーの分野の仕事)をさせずに、学問と授業に専心させるタイプの大学がまたふえてくるだろう。これに反し日本の大学は身分意識(つまり年功序列意識)が高くタレント意識が低く、流動性は皆無に近いのだから、ますます教授会の権限が増大し、本来なら理事会や事務当局にまかせて置くべきことまで教授会の議事の日程にのせ、委員会の数はやたらにふえ、授業や研究時間よりも会議の時間にとられる時間の方が大きくなるのではないかと案ずるしだいである。それでもアメリカならサバティカル・イヤーがあって何年に一度かは丸々一年休ませてもらえるし、また国内の流動性も高いし、タレント性だけで生きられる高等研究所も多いのだから|いき《ヽヽ》がつけるが、日本では大学の学問の自滅ということになりはしないだろうか。  日本中の大学が教授会のために身動きならなくなっている際、思い切って今まで教授会の扱っていたことを大幅に管理責任機関に返還し、われわれ教員はもっと身軽に学問をさせてもらうわけにはいくまいか。学校を破壊したり、学内で人身傷害沙汰を起した大学生をどうするかについて教授会が討議するというのは無用の手間ではないだろうか。学生を入学させるときの法律的契約を確実なものにしておき、それを破ったものを契約解除するのは「処分」ではない。学長直属の法律家でできることである。  またその他、大抵の問題は「科」の話し合いで解決できることであって、「部」の教授会は必要でないと思われる。某学生は英文科を卒業する能力ありと認むるや——というような問題及びその結論を、哲学・教育・史学・独文などの先生にはかるのは、他の科の先生に時間とエネルギーの空費を強いるものといえよう。図書、施設の問題も各科の要望はそれぞれことなり、せいぜい科長レベルの調整ぐらいで済むはずだし、財政の問題は教授会ではどうにもならないことは明らかだ。大勢集まってもいい知恵が出るとは限らないことはパーキンソンの法則をひくまでもない。  大学の教員にとって学問の自由が最も大切な価値であることはいうまでもない。昔はこの自由がしばしば外からおびやかされた。上智大学は戦時中被害者であった。しかし幸いに現在の日本、及び日本の属している自由圏では、研究の自由が政府からおびやかされることは絶無といってよい。むしろ学問研究をストップさせるのは、また多くの大学において実際にストップさせたのはラディカルな学生及びいわゆる造反教師という学内者であった。しかしラディカルな分子は、それが目に見えるだけに始末がよいと思う。無法者が暴力をもって封鎖すれば、国家権力がそれを解いて自由な研究の継続を可能にしてくれるからである。  しかしわれわれの最も怖れなければならないのは、教授会であろう。これは魔物の如くあらゆる面に手をのばし、本来ならば研究と授業に向けられるべきわれわれのエネルギーと時間を蕩尽《とうじん》せしめるような諸活動にわれわれをひきずりこまないではおかないだろう。われわれ大学教員は、学者としてのファカルティ、つまり、タレントで奉職しているのであり、その他の点では平均以下という人が少なくないわけだし、またそれは恥ずべきことでも何でもない。長島選手は巨人軍のマネジメントにはノー・タッチだし、いわんや後楽園の観衆の整理などには手を出さない。そんなことをやっておればバットに球があたらなくなるだろう。運動選手やテレビ・タレントさえ使っている知恵を、われわれが用いないということはない。われわれはファカルティであってアドミニストレーターでないことを自覚したい。アメリカの大学でもタレントとマネジャーの混同が起りつつあるところもあるが、それを矯正する力も強く働いている。しかし日本にはその歯どめがない。これが私がアメリカで感じた日本の大学の危機であった。 [#改ページ]     ファカルティの憂鬱     1  三、四年前に、大学の教員という意味の英語ファカルティと、芸能人を示す英語タレントは、どちらも「才能」というような意味を持っている同意語みたいなものであるところから、大学の教員も、もっとタレント性に徹して(学問を磨き、講義を魅力的なものにする)、マネジメントや劇場整理みたいなことから手を引くべきではないか、と提唱した(「日米ファカルティ雑感」)。当時は学内紛争がまだ鎮まらず、教員がガードマンの手助けをしていた頃である。世の中には同じようなことを考えていた人が多くいたと見えて、筑波大学なども実現しつつある。これは現在、かなり熱い政治問題になっているようだが、この大学の基本構想というのは、結局、大学教員のタレント性の重視という常識的なことであるように思われる。しかしこれに対して反対の声も相当強いようだ。その政治的な論拠には立ち入らないが、新大学構想におけるタレント性重視という本筋だけは積極的に評価すべきであると思う。  ただ、筑波大学の発足は私を不安にする。不安になる理由は、私の場合、多くの筑波大学反対派のそれと違っている。それは「またしても国家によって改革が先導されたか」という感慨なのだ。日本の大学の出発が、明治十九年の帝国大学令にあることはよく知られていることである。そして「国家の須要に応ずる学術技芸」を教授することを目的として建てられた帝国大学を大学組織の根幹としてきた。ただ日本の場合は幸いにも、ドイツなどと違って国立一本になることがなく、私学も存在し続けてきたわけである。そして現在、全国の学生約百四十万のうち、私学は約百十万を受け持っている。つまり全国学生の約七七パーセントは私学に学んでいるのである。数の上から見ればまことに私学隆昌を謳歌したいところだが、実際はそうでないことはみんな知っている。約三十三万の国公立の学生を教える教員数と、約百十万の私立の学生を教える教員数がほぼ同じというところに、その問題は端的に現われている。おまけに私学の方の学費の一年分は国立の四年分以上にもなっているのだ。こんな工合だから、父兄は安くて質のいい国公立を歓迎する。この世論《ヽヽ》にこたえて、文部省などは国公立大学の数を大幅にふやしたがっている。筑波はその大学国公立時代の華やかな幕開けとも言えるのである。  そうなれば多くの私学は競争に耐ええない。そしてついには、大学で教える者の絶対多数が国家公務員か地方公務員になる時代が来るかも知れないのである。大学教授が全部公務員になった場合の危険はナチス時代のドイツを見ればわかる。またいわゆる社会主義国の大学教授の役割を見ればわかるであろう。それは本質的な身分において昔の士官学校教官と同じことなのである。     2  戦前の日本の教育が、国家に必要な学術技芸の教授・研究をその目的としていたことはファカルティの本質とかかわってくるので、その語の意味を考えてみよう。  ファカルティ(faculty)の語源は、少し大きな辞書ならどれにでも書いてあるように、facilis(容易に) から出ている。そしてこれから二つの名詞形が派生した。一つは faculty(能力)であり、もう一つは facility(容易さ)である。「容易にできる」のは人間の「能力」であるに違いない。それから「能力」にもいろいろ種類があるので複数形も考えられるようになり、中世に大学ができた時、類比によって、大学を構成する諸能力、つまり学問の諸分野をそれぞれファカルティと呼ぶに至った。この大学のファカルティが最初、神学、法学、医学、人文学の四つだったことはよく知られている。ところが、日本の方では、このファカルティの意味のみならず、ファシリティ(容易にできる)の方も、暗黙のうちに大学の本質と考えられてきているのではなかろうか。  秀才は鈍才になかなかできないことが容易《ヽヽ》にできる。学業の面においてファシリティを示す。先生の言ったことを一ペんで了解して、きっちりした答案を書くという感じである。明治以降、日本は西欧の文物を急速に輸入する必要があったから、学業においてファシリティのあるものが尊重された。秀才偏重である。そしてファシリティのある者がファカルティになった。これは語源の妙だ、などと言ってはすませないことである。  ファシリティの尊重は、早熟児をトクさせる。また受験勉強型の勉強の得意な人間をトクさせることになる。田中美知太郎先生によれば、同僚の京大教授たちのある者たちは「自分が高校なり大学なりの入試をパスして来たといふこと以外に、ほんたうの自信のよりどころになるものをもつてゐないのではないかと疑はれることがある」(『時代と私』、一二三ページ)とのことであるが、そういう人たちは、ファシリティによってファカルティになったのだと言うことができよう。  もちろんファシリティのある人間の有用性については疑う余地がない。官僚などはその最たるものである。商人もしかりである。しかし独創的な学者や教育者にはこれはそれほど望ましい特質ではないであろう。ダーウィンやアインシュタインの伝記を見るならば、この人たちが日本の一流校の入試に合格したとはとても思われないのである。国家有為の材を手早く養成することを目的とした日本の学制からはことごとくはみ出たようなタイプ、つまり、異常なファカルティはあるが、日本型入試に適応するようなファシリティに欠けているタイプの人間なのである。それに日本はファシリティの尊重が、そうでないタイプの人間に不当な劣等感を与えて、真の大才を発達させないできているのではないか、と心配させられる面が少なくない。  それでも日本にはまだ私立があって、ファシリティにやや欠陥がある人間に大学教育を与える機会を保持してきた。しかし戦前の日本において私学は一般に学校の中の第二級市民にすぎず、戦後は、数こそ増大したが、その点になると本質的に変ってきていない。私学当局も、どちらかと言えば旧帝大のあり方を理想とするところがあった。しかし価値観とか人生観とかの多様性を重んじ、人間の個性を重んずることを前提とする現代において、国家公務員であるファカルティより、無冠の一市民であるファカルティの方が原理的に望ましいことは言うまでもないのに、再び国家によって、国公立大学の大増設がもくろまれているらしいことはどうしたことであろうか。     3  世界を見渡して私立大学が栄えているところはあんまりない。日本をのぞけばアングロ・サクソンの世界、特にアメリカである。つまりあぶなげのない民主主義国家のみが強大な私立大学を内蔵していることは、示唆するところ重大である。もっともドイツやフランスなどは、高校までの主力が私立だからまだ救いがある。共産主義国は、民主主義国と称しているが、私学の存在を認めるほどの自由はないらしいから、「民主」の意味がわれわれとはだいぶ違うらしいと言わねばなるまい。アメリカではエール、ハーバード、コロンビア、スタンフォード、プリンストン、ペンシルヴェニアなど、われわれが知っている大学の|多く《ヽヽ》が個人の創意で始まったことは、この国の民権の淵源の深さを文句なく悟らせてくれる。  ところが最近、アメリカでもよく私立不振が言われる。州立大学のプレスティージが上ってきているというのである。これはアメリカの体制一般に出て来た変化に呼応しているもので、ある意味では体制の危機につらなるものであろう。国家がますます大きな予算を動かすようになれば、どうしても一切の組織がそれにおんぶしてくることになるからである。また、教育予算というのは州議会においても比較的抵抗が少ないので、州立の方が容易に拡大充実できるという事情もあるらしい。  しかし何といっても私学の財政の危機を誘発したのは理工系の予算の激増である。十分な基金のあった私学でも、理工系の金の喰い方には追いつけなくなったのである。このことは日本の各私立でも痛いほど知っていることだ。アメリカでは政府や財団からの研究費が、私立・州立に関係なく各研究者に行くので大いに救われてはいるものの、学校が負担しなければならない費用も、建物や給料など莫大である。したがって私学の危機の引き金となったのは、アメリカでも理工学部であったといえよう。ただ最近では風向きが変ってきて、アメリカでも一昔前ほど理工に力を入れなくなってきている。それは宇宙開発計画の縮小、巨大科学一般の頭打ち、軍縮の傾向、環境汚染の恐怖などなどの要因が重なり合って、政府も国民一般もいわゆる科学の進歩に昔ほど熱心でなくなったからである(自然科学の悲観的状況については拙論「文科の時代」=文藝春秋刊『文科の時代』所収参照)。核融合とか、公害防止技術などの開発など、残された分野もあるわけだが、それは強弩《きようど》の末勢といった印象を与えないでもない。  われわれはここに一つの希望を見る。巨大な金を喰う理工分野に一応の限界がつけば、少なくともその方面の支出の拡大へのスロー・ダウンの見通しが立つならば、大学が国家におんぶする程度の方にも増大停止の可能性が生ずるからである。人文・法経などは最悪の場合には何とか独立採算に持ってゆける。国家のお世話にならない多数の大学がありえたならば、民主主義の将来のために何と心強いことであろうか。  私学の学生も同じ権利を持つ国民である以上、国家の援助は元来、各個人に出されるのが本筋である。学生は自分の好きな学校(公私を問わない)を選んで入り、国家の援助はその個々の学生の学費援助として支出されるならば、国家が私学の会計を監督する手間も大いにはぶけるであろう。もちろん私学への寄付行為に対する税制面での配慮はもっともっと親切であってよいのだが、そういう法制技術面のことにはここで立ち入らないことにする。     4  なぜ私は私学にそれほどこだわるのか。それは前にのべた民主主義ということもあるが、少なくとも人文学においては、国家と手を切っているということが、本質的に重要なことのように思えるからである。手っ取り早い話が、革命後半世紀にもなるのに、文学として読めるほどの作品がソ連でどれほど出ただろうか。問題になるのは秘密出版で出たようなものだけではないか。近頃のシナ文学はどうか。いやそんな外国のことはどうでもよい。わが国の江戸時代の学問のあり方をちょっと振りかえってみよう。  慶長八年、林羅山が論語の新註を講じた時に、船橋秀賢は、「昔から朝廷には明経博士がいて古註を講じている。それなのに一匹夫にすぎない者が朱子学など唱えるとは僭上の沙汰である。これは処罰すべきだ」と奏請した。朝廷も家康にその旨を伝えたが、家康は取り上げなかった。当時、羅山は一介の浪人であり、私《わたくし》に儒学を教えていたのである。羅山が出てから日本の儒学が一新したことは言うまでもない。新しい学問は民間から生じたのである。  しかもこの羅山が後に幕府に仕え、朱子学が官学になるに及んで、逆に不毛となった。江戸時代を通じて思想家として後世に名を残した人の大部分が官学でなかったことは面白いことである。幕府官学の宗家たる羅山が幕府の命で『本朝編年録』を書いた時、日本の皇帝をシナの呉太伯の子孫であるとした。これが実証的研究の結果そう言うならそれはそれでよいが、シナの本に書いてあるからそう言ったにすぎない。ここに事大主義みたいなものが見られる。羅山は超凡の記憶力を持ち、子供の時から「多智なること文殊の如し」と言われた秀才である。ファシリティの権化でもあった。こういうタイプの秀才だから、幕府四代の将軍に仕えて、一度も当局の非難を受けたことがない。「御立派」と言えば言えるが、思想家として名誉になるかどうか。  近頃はまた荻生徂徠《おぎゆうそらい》が流行《はや》っているとのことである。二つの出版社から全集が出るというのも少し異常である。その流行の原因を考えると、彼が自分を「東夷」と言ったり、「日本国夷人」と言ったからであるらしい。中国ブームのおかげで、シナ文化に無条件降伏したような徂徠がもてるというのも、日本人全体が事大主義に傾いてきているからかも知れない。徂徠は一般に天性豪邁で語学の天才だったと言われる。明の太祖の『六諭衍義《リクユエンギ》』のうち、朱子学の室鳩巣《むろきゆうそ》が読み切れなかった約二万五千字を徂徠は十日足らずで見事に精解したと言うから、その実力については疑う余地がない。しかしその彼も僅か五百石を以て幕府の用人柳沢吉保に感激して仕えた。この辺が、鼻っ柱の強い彼の事大主義的一面である。  完全なる在野の学者にはたとえば中江藤樹がいた。彼は郷里に引きこもって母親に孝行していたわけだが、彼の学問と徳行は一世に高かった。それで当時の日本人たちは、富貴や出世と関係がなくとも、余裕ある堂々たる生活があることを彼によって知ったのである。これが当時の人心にどれほどの影響があったかは計り知れない。  もう一人、京都の伊藤仁斎をあげてもよいだろう。彼の学問は、本場のシナの儒学の流れより約百年も先んじていたと言う専門の学者の発言がある。つまり儒学者としては当時のシナを含めても文句なく世界一だったことになる。しかも人格は深沈不競、世人の尊敬の的であった。その名声を聞いて紀州侯が千石の禄を以て招聘《しようへい》した。人間の身分が固定して立身出世の難しい頃に千石といったら大変なことである。しかも禄は世襲なのである。しかし仁斎はこれを惜し気もなく断わっているのだ。君主に仕えれば学問の自由がなくなることを怖れたのである。その長男伊藤東涯もよく家学を継承して名声があったので、紀州侯は彼を五百石で招聘したが、やっぱり固辞している。次男の梅宇は徳山の毛利侯に仕えたが、途中でやめて帰っている。彼は人に接するに寛厚で知られていた。別に喧嘩してやめたのでなく、仕えることは学問に不自由だったからであるらしい。三男の介亭は、高槻の永井侯からのたっての頼みで仕官した。子供を残さないし養子もとらない。家禄をまもろうというケチな考えがないのである。四男の竹里は久留米侯に仕えた。この人は大変おとなしい人だったので、立派な教師だったのだろう。五男の蘭嵎《らんぐう》については逸話がある。彼が初めて紀州侯の前で書物を講義することになった時に、本をひろげたまま、いつまでも口を開かない。満座の人は手に汗して、「この人は貧乏儒者の家に育ったので、大名の前に出て畏縮したのだろう」とはらはらしていた。再三促されても口を開かない。そこでとうとう紀州侯自身が「どうしたのか」と尋ねると、蘭嵎ははじめて、「殿様はまだ座ぶとんを敷いていらっしゃる。これでは聖人の書物を講義するわけにいきません」と言った。それで紀州侯は直ちに座ぶとんを取り去った。すると蘭嵎は明快なる講義をすすめ、満座の者、感服せざる者なしだったと言う。この親にしてこの子ありと言うべきか。  仁斎親子あたりから、日本において学者とか学問の権威が著しく高まったことは明らかである。封建の世において、諸侯より偉いものがあることを世人は自分の目で見たのである。仁斎が仕官していたら、おそらく日本人全体はもっと卑屈だったままでいたのではないだろうか。学問の本場のシナに儒学でかなうはずはない、などと言うことを仁斎らは考えない。禄をうるために学問するのでもないことははっきりしている。この影響は後々まで徳川時代のインテリの考え方に深い刻印を残した。幕府の権威が学問に及ばないことはすでに誰の目にも明らかであった。中井竹山や頼山陽も決して仕官しようとしなかった。山本北山や亀田鵬斎も決して官学である朱子学の権威を認めなかった。そして由井正雪という幕府をひっくりかえそうとした浪人が、楠公をきわめて尊崇したことにも典型的に見られるように、近代的日本を作る思想の素地は、在野の学者を中心に伸長していったのである。官学の林家が日本の皇室の起源をシナとしていた頃、仁斎は「神皇正統億万歳 一姓相伝日月光 市井小臣嘗竊祝 願教文教勝虞唐」という詩を作っていた。その見識においてはまさに天地の差があったと言うべきである。  ここでふと思い出したことがある。それは先にふれた田中美知太郎先生がギリシア語を始められた若い頃、先生は仁斎が古学においてシナに勝ったように、西洋哲学において西洋を越そうという野心を持っておられたそうである。これも仁斎の影響の一種ではあるまいか。哲学に限らず、明治以後の日本では、何においても西洋の一番強いところを越そうとした形跡がある。陸軍は最初フランスを、後にドイツを、海軍はイギリスを、カメラはドイツを、織物はイギリスを、そして今ではGNPでアメリカを越そうとしている。本場のものも越せば越せるのだという、すべての日本人の持つ平均的自信というのは、その多くを江戸の在野の学者が作り上げたものと言ってもよいかも知れない。それは事大主義しか知らなかった朝鮮と顕著な対照をなしている。     5  人文学において国家、つまり官の保護があると駄目になるらしいことは、徳川時代の仏教を見てもわかる。遠くは聖徳太子や弘法・伝教の昔から、禅宗や真宗に至るまで、仏教は日本の知的活動の主流であった。ところが徳川時代に、キリシタン対策をかねて、幕府が仏教を保護し、僧侶を優遇したところ、ほとんど偉い人間が出なくなってしまった。多少の頭のあるものは儒学にいったのである。  さらに幕府が奨励しなかった国学や神道も、徳川時代に大いに発展して、そのイデオロギーは維新の原動力となった。ところが維新になって、政府が神道を保護し、国教として国民に押しつけたところ、神道畑から名のある学者は出なくなり、逆に迫害された仏教の方から思想家が出てきた。そして最も完備した大蔵経も大正から昭和の初期にかけて刊行されるほどになった。  国家のバックがあると人文学が駄目になる例として、もう一つシナの漢の時代の例を思いついたから挙げておく。今日、詩経の註としては毛萇のもの、春秋においては左氏のもの、易においては費直のものが標準的であるとされている。ところが、これは当時の目で見ればすべて私学のものであり、このほかに時の政府が認めたものがそれぞれあった。たとえば易経において施・孟・梁丘三氏、詩経において斉・魯・韓三家、春秋において公羊学のように。ところが政府がテコ入れした方のものは滅んでしまい、全く政府の恩恵を受けなかった方のものが尊重されてきているのである。     6  現代の私学は危機にある。アメリカにおいてすらそうだという。世界におけるアメリカの比重の下り方が、私学に対する国家援助の金額と反比例しているのは偶然であろうか。私は決してそう思わない。アメリカの私学は国家の財政援助をえているために、学力の低い少数派人種グループにも人種的見地から入学させねばならず(これは学問と関係のない政治的配慮である)、教員の男女比率にまで干渉され、学問自体の質の論議が二の次になってきているからである。  日本の私学に関する政府干渉はその意味ではまだないようだ。しかし私学は(少なくとも人文学関係では)長期ビジョンとして国家離れを目標とすべきである。国家もまた、学問の興隆を願うならば、この辺のことを理解しなければならない。しかし既にわれわれの給料の何パーセントかは国家から出ていると言う。研究費でも私学援助をえている。しかしこれは望ましい姿ではない。かと言って私学とその教員が今すぐ国家と手を切るわけにもゆくまい。これはどのような方法で是正してゆけるか。これが今の私学の教員の憂鬱であると思われる。 [#改ページ]     私立大学の存在価値     1 私立大学の栄える国  現在の大学の淵源は西ヨーロッパにあると考えてよいと思うが、それは元来、私立であった。近代国家が成立する以前の話であるから当然そうなるわけである。  ところがフランス革命を主たる境目としてヨーロッパ大陸の諸大学は、国公立大学化してきた。共産革命を経た社会主義国圏にはもちろん私立大学の存在する余地はない。またイギリスのオックスフォードやケンブリッジは、今日なお私立の建て前を取っているようであるが、実際には大部分が国費によって運用されているので、私立大学という概念からは離れてきている。したがって私立大学が栄えている近代国家は、世界中でもアメリカと日本(それに韓国を加えてもよい)だけと言ってもよい。ただ私立大学のほとんどがなくなったヨーロッパ大陸でも、大学以前の段階の教育施設は、私立が盛んである。  それで大ざっぱな分類をしてみれば、世界の主要なる近代国家は、学校制度から見て次の三群に分ちうる。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] (1)大学及びそれ以前の教育機関も国立(公立)のみのところ——共産圏(社会主義圏) (2)大学は主として、あるいは実質的に国立(公立)と言ってよいが、大学以下の教育機関の多くはいまだに私立であるところ——西ヨーロッパ圏 (3)大学もまた大学以前の教育機関も、国公立と私立が混在しているところ——アメリカと日本(韓国) [#ここで字下げ終わり]  このうちでも日本は大学生の八十パーセント近くを私立大学が教育している点、私立のもっとも栄えているところと言ってよいであろう。特にかつての各種学校を高校以後(ポスト・ハイスクール)の高等教育つまり大学、短大教育の範囲に考えれば、私立の受け持つ役割は、現在の日本において特に顕著である。  問題はこのような高い私立の率が、後期高等教育の形態として望ましいか、否か、ということになる。それに対する答は明確に「然り」(イエス)である。  かつてのナショナリズムの時代には、それぞれの国家が、何が何でも国力を増強しなければならなかった。特にフランス革命以後のヨーロッパではそのせり合いが急にはげしくなったと思われる。西ヨーロッパの大学が実質上、国公立化して行ったのはそのためであったと言えよう。学問の振興が取りもなおさず国力であり、国家はそれに金をそそぎこんだ。そして日本が開国した頃はだいたい西欧のそうした時代に対応していたわけである。国家が主導者となって強力な大学が上から作られた。東大をはじめとする旧帝大、旧高専、旧陸海軍の諸学校がそれである。わが国の近代化に果したこれらの国公立の教育機関の役割の大きさは、高く評価されるべきものであり、その功績を認めるに吝《やぶさ》かであってはなるまい。  ただ日本においては、開国当時からアメリカの影響も強かった。そして日本が最初に門戸を開いたのはアメリカに対してであった。この歴史的事情のために学校制度においても、ヨー口ッパと並んでアメリカの影響をも受けることになった。アメリカは新大陸に生まれたという歴史的事情もあって、学校は有志の私人によって作られたのである。特に信仰の自由を求めてきた人たちの多かったニューイングランド地方では、高等教育にとって牧師養成がさし当っての任務であった。アメリカの代表的大学としてわれわれにも知られているハーバードやエールはそうして出来たのである。その後も長く、アメリカの有名大学は私立であるという伝統が強く、州立大学はむしろそれを完補するような形で後から生じてきたと言ってもよいであろう。事実、建国当時は、合衆国国立大学のようなものを建てようといううごきがないでもなかったらしいが、全体の雰囲気としてそういうものは好ましくないとしてその案は実現をみなかった。  明治政府は教育の本筋としては国立大学を考えていたが、アメリカ式の発想をも禁圧することなく、私立学校の設立を許した。日本には徳川時代の私塾の伝統もあって、「教育機関を民間人が作る」ということに違和感はなかったのである。また日本に布教にやってきた欧米の宗教団体も自由にギムナジュウムやリセやハイスクールを建てるような感じで日本に私立学校を建てた。これらの私立学校には、はじめのうちこそ大学のステイタスが与えられていなかったけれども、次第に大学に昇格した。このために自国には私立大学を持たないヨーロッパの宗教団体も日本には大学を持つ、というようなことさえ生じた。  これは戦前の日本にとっては特筆すべき文化的大事件であったと考える。世の中が国家社会主義的方向に進む中にあって日本においてはともかくも価値観の多様性を認める建て前の大学制度が存在したのであったから。そして戦争中に私立大学の一部が迫害に近い取り扱いを受けたのも、私立大学が価値の単元化を前提とする軍事政権風の政治に本質的になじまなかったからだと言えよう。このことこそ、私立大学の存在価値が奈辺にあるかを示す貴重な歴史的体験であった。     2 急増した私学の功績  戦後は新憲法がアメリカによって与えられたという事情もあって、「価値の多元化」あるいは「人生観やライフスタイルの多様性」は自由主義社会、民主主義社会の本質的部分として公認されるようになった。そしてこの精神的風土と法律的前提は、おそらく人類史上に例のない私立大学ブームを日本に招来したのである。  もちろんそこには今までの観念から見て、「大学」というにはお粗末すぎるものが少なくなかったことも認めなければなるまい。しかし研究の後継者を作るには不十分な施設でも大量の若人たちに大学教育や大学生活(キャンパス・ライフ)の機会を提供した貢献は巨大であった。また短大の急速な普及とあいまって、それまでは女性が遅れている国と考えられていた日本は、一転して、最も高い率で女子高等教育が行なわれる国になったのである。  この場合、日本の私学の特色はどこにあったか、と言えば、形式的な設備、人員の充実をまつよりも、ともかく高い教育を受けたいという|国民のニーズ《ヽヽヽヽヽヽ》に敏活に応じたことによるものと思われる。これは戦後の民主主義社会における最も目ざましい事件の一つであった。この場合、大学が国公立であった西欧の反応のにぶさと比較すれば、その違いは歴然としており、結果を見れば日本のやり方の方がよかったこともこれまた歴然としているのである。  通常の発想法からすれば、大学というものは、先ず高度の学術研究をするための設備があり、立派な学者がいなければならない。それから大学がはじまるのである。しかし日本の場合はそうではなかった。ともかく進学したいという若者の巨大な群があった。それは設備は多少粗末でも、また教授の中には学者としての能力は理想的とは言いかねる人が相当いたとしても、ともかく大学を開校することをはじめたのである。したがってこの私大の高度成長時代に起った欠陥を指摘しようとすればその材料にこと欠かないであろう。しかし三十年前の日本の高等教育の状況を、今日のそれと比較すれば、誰でもその進歩のあとに感慨無量なるものがあるに違いない。  この日本の私大の急速な拡大は、日本の社会全体に起った高度経済成長と関連して考えると便利でもあるし、またそれと関連づけて考えることが必要でもある。というのは高度経済成長がなかったならば私大の急成長もなかったろうし、私大がなかったならば高度経済成長もなかったろうと考えられるからである。そして高度経済成長のプロセスについて批判されるべきことは多くあったとしても、誰もそれ以前の生活に逆もどりしたいとは思わないであろうが、それと同じように、急成長した私大の欠陥を指摘しえても、私大無しの日本にはもどりたくないというのが大体の人の感じであろう。高度経済成長がなかったならば、これほど多数の青年が——特に女子が——大学、短大に進学することはなかったであろう。また、これほど多くの私大卒の人間がいなかったならば、高度経済成長を支えるための厖大な人材はなかったであろう。  これについては十数年前に出たロンドン・エコノミストの記事が印象的である。丁度その頃、イギリスにおいては、敗戦国にして戦犯国の日本が、資源や技術の蓄積において格段に劣っているはずなのに、不死鳥の如くよみがえり、イギリスに追いつき追いこそうとしているのを不気味な思いで見る人がポツポツ出てきていたのである。その一人であったロンドン・エコノミストの記者は、次のような趣旨のことを言っていた。 「日本の工場に新しい機械が欧米からとどく。すると数名あるいは十数名、あるいはそれ以上の数の大学卒のエンジニアが寄ってたかって、分解して構造をマスターする。そしてそのアイデアをつかむや、それを改良したものを作り、逆輸出する」と。  このイギリス人にとって、一つの工場に、数人、十数人、数十人の大学卒《ヽヽヽ》のエンジニアのいる日本が不可解だったのである。大学卒のエンジニアといえば、イギリスの工場なら決して数人、十数人、数十人という工合にころがっているものではない。日本の旧帝大の工学部を出た人ぐらいの数しかいないのに、日本では数人、十数人、数十人と出てくるのである。一人一人の大学卒のエンジニアの質をくらべれば、イギリスの方が高かったかもしれぬ。しかしエンジニアは本質上、特殊化された狭い分野のことをやるものであるから、どんな優秀なエンジニアでも、いくつもの分野をカバーするわけにはいかない。多少、個人としての質は劣っていても、数人、十数人、数十人と沢山の大学卒エンジニアを持った国の方が勝ちである。いわんや数が多ければ異能ともいうべきエンジニアが入る可能性が高いのである。  全く同じことは他の分野についてもいえる。日本の会社は大卒のセールスマンの大軍を世界中に派遣することができたのだ。その分野では日本の超一流といわれる会社の社長の口から、たまたま直接に聞いたことであるが、「戦後の急速な会社の発展は、私大出の人がいなければ考えられないことですよ」ということだった。彼はもちろん旧帝大卒であるが、私の背景のことは何も知らずにそう言っていたのである。  理想的な設備、理想的な教師をそろえてから大学を開き、理想的な生徒を集める、というのは、結構なことであるが、しょせんは理想論である。日本の教育は理想の条件が出てくるのをまたず、理想をめざして、先ず出発したことに意義が認められるであろう。もし理想の設備、理想の教師などを待っていたら六三制の中学さえそう多くはできなかったであろう。旧制中学を知っている人たちの目から見ると、出来はじめの六三制中学は、先生の質からいっても、生徒の質からいっても、設備から言ってもお話にならなかった。しかし国民全部に中学教育を与えようという理想をめざして走りだしたのである。高校全入も同じことである。高校の教科の難しさから言えば、九十パーセント以上の国民が高校を卒業できることなどありえようはずはない。しかし国民のニーズがそこにある以上、ともかく高校全入はほぼ実現に近くなっている。欠陥は多いが、これによって国民の階級分離がとめられていることは忘れてならない。日本は自由な体制と青少年の低犯罪率が両立する唯一の大国と言われている理由の一つである。     3 私立大学の本格的な出番  今後の私立大学のあり方も、先ず理想的条件が出来てから出発するよりは、むしろ国民のニーズに多様に反応することからはじめ、次第に条件を理想に向って近づけるのが望ましい。多元価値を前提とした現代の社会において、その社会の要請に最も見事に応じているのが日・米の私立大学であり、今後は次のような予測から見て、日本が世界の大学の先進的典範になることはほぼ間違いないことだと思われる。  まず将来の大学進学希望者の数である。信頼すべき調査によると、現在の若者の八十パーセントは大学進学を希望していると言われる。更に八十パーセントの若者が進学した時点になって考えれば、九十パーセント以上の人が大学進学を希望するに違いない。つまり今の高校なみの進学者を持つことになるであろう。  この点、アメリカが四十パーセントを越えたあたりで進学率の上昇が停滞しているのとは異なったパターンになるに違いない。これは多分にわが国の国民性によるものである。「大学進学五十パーセントを越えた」、という声が聞かれたとたんに、急速に進学率が高まるであろうということは、予期しておいた方がよいと思う。同じことは高校の場合にも起ったことがあるからである。高校進学率が二十〜三十パーセント台の時は、その伸び率も遅々としていたが、五十パーセントを越えたあたりから途端に急カーブ上昇になった。これは高度経済成長とも関係あったろう。しかし今後は経済成長もそれほどでなかろうから、大学の場合はそうなるまい、というのは日本の社会のもう一つのファクターを忘れていることになる。というのは決して止まることのないインフレは、——たとえ緩慢なものであるにせよ——教育費を節約してもどうせ無駄だという感じを与えているのである。子供に残してやれるものは、せいぜい教育ぐらいしかなくなったのである。昔のように家作を数軒残してやる、という発想はなくなったと言ってよい。  それにすべての身分を示す称号もなくなった現代において、たった一つのタイトルは学校のくれるタイトルだけである。それに「隣の人からおくれはとりたくない」という古い村落社会時代から日本人の第二の天性となっている近隣比較発想は、大学進学率がある程度をこえて高くなった途端に、急に更に高くするという現象を産むに違いない。それを抑える力はないし、また抑えるべきものでもないのである。  近い将来に大学進学率九十パーセントになることを考えた際に、それに応ずることのできるのは、ただ私立大学があるのみである。国公立の大学、つまり税立大学は、本質的に建て前主義の官僚主義におちいりやすく、教育効果はすこぶる悪い。これは日本よりははるかに能率がよいといわれる、アメリカの州立大学についても言いうるとミルトン・フリードマン(ノーベル経済学賞受賞者)も述べている。同じ予算、同じ設備、同じ教員でやるならば、私立大学は税立大学の三倍から五倍の学生を、質を落すことなく卒業せしめる効率を持っていると言ってよい。パーキンソンがつとに指摘するように、税立大学の機構は「節約」という機能が決して働くことができないようになっているのである。過去の如く、大学進学者の数が青年人口の数パーセントの頃ならばその税金の無駄に耐えられるが、もし九十パーセント大学進学時代に、これを税立大学でやるならば、戦時中の軍事予算なみの厖大な金を必要とし、教育のために国がひっくり返ってしまう。どうしてもそのすべてを私大が受けとめなければならない。税立大学の引き受ける学生量は十パーセントから五パーセント以下にし、しかも税立大学にふさわしい社会福祉機能を主として担ってもらうことになろう。どのような社会にあっても、身体障害者とか、母子家庭とか、恵まれぬ人が出るのはさけられないことであるから、その社会的公平を復原させるために、学費タダの立派な税立大学があることが望ましい。  これに反して、大部分の青年の教育を引き受けるべき私立大学においては、その多様性こそ生かされなければならない特長である。高度の学術研究を目的とした大学があってもよいし、よりよい市民を作るための生活体験を与える大学があってよい。フンボルト的理念の古い大学の理念に慣れた者にとって、「ホテル経営の経済学修士」というようなアメリカの大学の大学院制度は、はじめのうち奇妙なものであった。しかしなまっかじりのマックス・ウェーバー論よりも、確実なホテル経営の理論と技術の方が意味がある、ということもようやく多くの人にわかってきた。今後の私立大学も、この方面を徹底的に強めて、よりよい市民を作ることに向う大学が出てきてもよい。  たとえば宗教学と言っても、学者の宗教学説を学ぶこともさることながら、座禅・黙想の時間も、単位になるようなのがあってもよい。造園学や建築学の場合は、いまの植木職や大工職の仕事の時間、つまり労働実習時間を単位に数えるというやり方も加味できるようにするべきである。ギターや唄も音楽の単位に数えるところがあってもよいと思う。  このような大学のあり方は極端であるように思えるかも知れない。しかし国民のニーズが極端に多様的であるときは、大学のあり方も極端に多様であってよい。(この場合、「大学」というのはポスト・ハイスクール全体の教育を指すので、短大や専修学校や放送大学まで含めていうのである。)     4 自由社会の基礎としての私立大学  おそらく将来は、「国民に教育機関をゆだねる国」と、「国家権力がすべての教育機関を握る国」との二つに分れるであろう。国家がすべての教育機関をにぎるということはこの前の戦時中という軍部独裁の暗黒時代にもわが国には起らずにすんだことである。将来とも、国家権力が全教育を握るというような近代的奴隷国家に日本を落してはならないであろう。教育の主導権が民間の自由な発意によること、また、次代を担う教育の大部分が、民間の団体——つまり私立大学——に託されている状態こそむしろ人類の希求すべき理想的な文明状態だと思うのである。  今から二十年前、私は西ドイツに留学する機会を与えられた。その当時は今より更に大学の数も、進学者も少なく、高校卒であれば——つまりアビトゥア試験を通過しておれば——誰でも大学(ドイツの一般大学はすべて公立と言ってよい)にすすむことができた。ところがドイツ人の進学熱が高まるにつれてその制度の維持は不可能になってきた。ドイツでの私の恩師も連邦政府の大学改革に参与しておられたが、私立大学という発想はまだ西ドイツでは現実的でないと言っておられた。これからのドイツの大学ではますます不協和音が大きくなると思われる。新しい酒が醗酵してきているのに、袋は旧態依然としているのだから。私が日本の大学にはいろいろな種類があって、それぞれの大学に入試があることを説明しても、当時のドイツ人たちは信じられぬといった風で、しかもやや軽蔑の面持ちで聞くのが常であった。しかしそのドイツすらも長い伝統を破って実質上の入試にふみ切らざるをえなくなったのである。つまり一歩日本に近づいたことになる。そのうち、ますます日本に近づかざるをえなくなってくるであろう。  ここでもう一度、日本の私学の発展と高度経済成長との関係との類比をもってきてよいかも知れない。日本が高度経済成長政策をとった時、慎重な欧米の経済学者や経済担当相たちは冷笑した。当時来日したイギリスの大臣は、「経済大胆賞もの」とひやかしていたと記憶する。しかしその後の日本の成功を見、自国の経済の不振を見た時、西欧諸国はこぞって日本の高度経済成長政策をまねしようとした。そして日本ほどはうまくいかなかった。その一因は、私大増設というもう一方の車輪が欠けていたからである。  もし日本が大学進学率九十パーセントを目ざして進むならば、西欧諸国はあざ笑うであろう。しかしある時点からそのメリットに気がつき真似し出すであろう。そうして日本のようにはうまくいかないことに気付くであろう。  そのメリットというのは大学進学九十パーセントによって、社会に階級分離が起るのを回避できることである。今後、民主的な社会がもっとも恐れなければならないことは、その成員の間に階級的分離の生ずることであるが、これは、九十パーセントが大学に行くことによって予防することができる。日本人は今でも九十パーセント以上、自分を中流階級と信じている国民であるが、これこそ繁栄、低犯罪、安定など、日本の明るい面の基礎なのである。日本人が階級闘争を起して、同胞が粛清し合い、殺戮《さつりく》し合うことこそ、何としても避けねばならぬことなのであるが、この状況をはじめからなくするためには、大学をすべての人に開くのが一番なのである。階級打破を叫んで革命を起した国々においては教育が完全に国家権力の手に帰し、深刻な階級分離を起しているのは歴史のアイロニーであるが、日本の私学は誰も予見しなかった方法によって国民の大部分を「中流」にするであろう。  そこで西欧が全国民の中流化という点で日本を真似しようとしても、うまくいかないだろうという重大な理由は、やはり私立大学が未発達だからである。いかなる国の財政をもってしても、ポスト・ハイスクールの教育を、国民の九十パーセントにまで、税立大学を通じて行なうことは不可能である。どうしても私大によらねばならぬ。  このように考えてくると、私大振興こそは、日本国民が将来、幸福に、自由に生きる最大のとりでであると言わざるをえない。私大にこそ将来の日本の自由なる民主主義の運命がかかっているのである。そして日本の教育を世界の範たらしめるのも、正に強力な、充実した、極端にまで多様な私学の存在にほかならないのである。 [#改ページ]     戦後教育・三つの矛盾     仮定としての万民平等 「流した汗がむくわれる政治を」という社会党のスローガンをこの前の総選挙で見かけて実に懐かしい思いがした。汗を流して働く者が損をしない政治を実現しようということは、「働かざるものは食うべからず」という例のマルクス主義的スローガンに連なっているものと思われるが、それをぐっと柔らかくした感じの表現になっている。私がこのスローガンを見て懐かしく思ったのは、革新政党が勤労の美徳と、勤労者は酬いられなければならないことを主張するのを見たのは実に久しぶりのことだったからである。  このところ何年もの間、革新政党は福祉の手を弱者にさしのべることをおもな主張としてきたという印象を受ける。私の住んでいる東京都の知事である美濃部さんは、事あるごとに、働けない老人、働けない病者などを助けることを政策の目玉にして選挙してきた。この際に善玉は現在働いていない人たちであり、悪玉は働いてもうけている人たちになっているような感じであったので、私などは近頃の革新政党というのは「汗を流して働いている者から取った税金を、汗を流すことをやめた人、あるいは流せない人たちのためにもっと気前よくバラマクこと」になったのかと思っていた。これなら本当に革新的なことであるといってよい。  冗談はさておき「流した汗がむくわれる政治を」というスローガンを革新政党から聞くと、「はてな、路線変更でもあったのかな」と首をかしげたということ自体、戦後三十年たった今の現状が、いろんな面で逆説的な様相を呈してきていることの顕著な例である。「働かざるものは食うべからず」と言うが、戦後一番働いたのは誰だったろうか。働いた者順にランクをつけることはできないけれども、今の経営者たちが汗を流すことが少なかったとは言えないであろう。資本の蓄積も、国際信用も、工場も会社もすべて失ったところから出発し、なんだかんだと言われながら産業を復興し、先進国の市場にも、またジャングルの中にも日本製品を売りこむことによって、とにかくここまでやってきた人たちを有閑階級と呼ぶわけにはいかない。彼らは単に勤勉の汗を流したのみならず、外国との貿易においては、いろんな点で冷汗までたっぷり流したからである。こういう汗を多く流した者、あるいは効果的に流した者は富んだ。社会的な強者になった。一方、汗を流さなかった者や、効果的に流さなかった者は、生活水準が相対的に低くなった。革新政党はよく働き、よく富を作った人たちを——それが国富であれ私富であれ——どちらかと言えば敵視し、働かない人たち、あるいは働けない人たちの代弁者になった観がある。 「働かざる者は食うべからず」であったはずの政党が、働かない者、働けない者の味方に変容し、「流した汗がむくわれる政治を」などと急に言われると、かえってこっちがびっくりしてしまうというようなことは、何も政治だけのことではないのだ。  戦後いろいろなされた改革のうち、もっともめざましかったものの一つに学制改革がある。六三制にしろ、男女共学にしろ、機会均等にしろ、そうしたことのすべての底に流れる一貫した思想は平等主義であった。戦前の社会はかなりはっきりした階層社会であったから、そのアンチテーゼとしての平等主義は多くの人に新鮮に感じられたことは確かである。山下清画伯がなにかにつけて評価を下すのが難しい時に、「兵隊の位で言えばどれくらいか」と言ったというが、戦前の日本人にとってそれは実にピンと来る尺度であった。そして兵隊の位を大きく上下に分つ線が旧制中学(あるいはそれに匹敵する学歴)であった。中学を通じてのみ高級将校への道が開かれていたし、また幹部候補生経由で将校になるのも容易であった。これに反して中学に入らないで将校になるのは至難のわざであったし、なったとしても先は知れていた。     百万円のスピーカー  だから中学が義務教育になるんだと聞いた時には昔の人はびっくりした。第一、昔の中学校の先生の数は、今の大学教師の数と大して変らないぐらいであったという事実からみてもわかるように、中学は難しいところという通念があった。英語という課目は、小学校の頃に既に、「瓢を携えて墨堤に遊ぶ」式の文章が書けるような子供がやることであったし、その英語の混じる記号でやる代数や幾何や化学や物理なども、小学校で鶴亀算が解けるような子供たちがやることという通念があった。学校も遠慮なく落第させ、時には放校にしたものである。そうした旧制中学のイメージを持っていた人間にとって、中学が義務教育になることは信じ難いようにも思われたが、戦争直後は何しろ農地解放のようなことさえいともスムーズに行なわれた国だから何でもスムーズに行なわれた。  また中学での男女共学というのも戦前では考えられぬことであったが、これも何となくスムーズに定着したようである。  それと共に平等な機会を与えれば、誰でも中学ぐらいの英語や数学ができ、男女も区別なく扱えば、人間として平等になるという通念が出来上った。そしてこの通念は何も戦後の日本が初めて経験したことではない。それはジョン・ロック以後のイギリス啓蒙主義が形成した「環境主義」なのである。ロックはよく知られているように、人間の精神が生まれながらに持っていると考えられていた|生得 観念《インネイト・アイデアズ》を否定して、どんな人間の精神でも、生後の経験によって形成されるとした。今の言葉で言えば、イン・プットが同じであれば、アウト・プットも同じになる、という考え方である。この場合、重要なことが一つ捨象されている。それは機械の性能が違えばイン・プットが同じでもアウト・プットは異なるという常識である。ロックとその亜流は個々の機械の性能に当るものを「人間精神」として、万人に平等であると仮定した。従ってアウト・プットが違うのはイン・プットに差別があるに違いないと考えるようになったのである。  もちろん環境主義も説得力がある。アフリカのジャングルの中で、ごくごく原始的な生活をしていた部族の子供を白人牧師が引き取って育てれば、イギリスの大学を優秀な成績で卒業するということもあるし、訓練次第では女性のキック・ボクサーも作れる。しかし常識は、環境主義の正しさを認めながらも、それだけで割り切れるものでないことも教えてくれる。  たとえば同じステレオでも、十万円のスピーカーと百万円のスピーカーをつけたものをかける場合、イン・プットする電流やレコードは同じでも、アウト・プットする音質はまるで違う。同じレコードをかけるということは、同じ情報をイン・プットすることになるが、これは同じことを教えることに類比しうる。しかし出てくる音は器械次第で違うように、同じことを教えてもその効果は子供によってまるでことなる。  この場合、教育が及ぶのは、器械の整備やレコードを択《えら》ぶことまでであって、スピーカーの買い換えまでには及ばない、と考える考え方もあるし、一方、教育は、スピーカーの取り換えに相当することまで出来るという考えもある。  平等主義は、哲学的あるいは思想的に環境主義であるから、その意図が人道的に美しいことには疑いがないけれども、ある程度を超えて主張されると妙なことになってしまう。マルクス主義の基本的思考法を最初に明快に説いたといわれている『反デューリング論』の中で、フリートリッヒ・エンゲルスも「社会階級の廃止ということを超えて平等を要求すれば、それは馬鹿げたものになる」と言っているが、現状は「馬鹿げたもの」になっているところがところどころに見うけられる。戦後三十年、錦の御旗として担がれてきた平等主義が、教育の場でどのような逆説的情況を産みだしたかを見てみよう。    1 筆記試験主義が不公平を生み出す矛盾  戦後間もない頃の話である。私の近所にNさんという家があり、そこの家には二人の男の子がいた。長男は中学を出るとすぐ就職した。そして旧来の考え方に従い、長男は家を継ぎ、老母の世話をすることになった。次男は家を継がないかわりに進学させてもらい、東大を出て現在、某大新聞の部長である。誰が考えても、長男が損して次男がとくをしている。中学を出ただけで田舎町で仕事を持つとすれば、その選択は限られている。それに終戦直後こそ中学出は田舎町ではインテリに属していたが、中学が義務教育になった今では、旧制中学は新制中学とは違うものだということを知っている人は年々少なくなる一方、毎年毎年、高卒や大卒の人間が増えてくると、旧制中学出も相対的に有難味が減少する。その兄にくらべると弟の方は申し分ない学歴と、才能を振うべき広大な舞台を与えられている。それで兄の方は今でも酒を飲むと愚痴をこぼすそうだ。「おれも家などもらわなくてもよいから、大学に進めばよかった」と。  この長男の後悔の念はわれわれにはよくわかる。今の人だったら、このN家の兄と弟のコースのどちらを択ぶかと問われたら、十人が十人まで弟のコースを取るであろう。ところが戦前は必ずしもそうではなかった。たとえば佐々木邦の『次男坊』という小説を見てみよう。堀尾という地主の長男と次男が登場する。そして長男は家を継ぎ、親の面倒を見る。学歴は旧制中学だ。これに反して次男は東大を出て東京の新聞記者になる。パターンとしては私の近所のNさんの家に起ったと全く同じである。しかし結果はまるで違う。  まず堀尾家の長男は財産をすべて受け継ぐ。戦前の相続は長子相続だから何のゴタゴタもない。そして先祖の墓をまもり、親の世話をすることは長男の義務であると思いこんでいる。いな義務感というよりむしろ特権感が強い。そして親からそっくり受け継いだ財産のうち、適当と思われるだけを弟に分けてやるつもりである。そんな工合だから、堀尾家の長男は、弟が旧制高校に進み、東京帝大に進み、学士になっても、少しも弟を羨まない。村の世話役で満足している。弟も兄には絶対頭があがらない。  堀尾家の場合は相当大きな地主であるが、それほどの家柄でなくても、戦前は家に残って家業を継ぎ、親の面倒を見るのを運命、あるいは特権と考えて、満足して田舎で生活している人たちがいっぱいいたものである。弟が上級学校に進んで社会的に出世しても、そういう場合、兄貴に頭があがらなかった。また世間でも、社会的出世度によって、愚兄賢弟であると簡単に思いこまなかった。「長男」というだけで、出世競争から離れるというのが普通だったし、長男の数は、ほぼ日本の全戸数に近いわけだから、いたるところに進学しないでいる潜在的秀才がいると社会自体が思いこんでいた。  これは野心ある長男にとってはきびしい社会だったとも言えるが、親の世話さえちゃんとしておれば、なまじっか出世するよりも社会的評価が高かった時代であるし、また、一般に先祖崇拝や親孝行の観念が強烈な時代だったので、長男に生まれたことを本当に恨む男は意外に少なかったと考えられる。その社会通念を反映して、国家も長男はなるべく兵役には取らなかった。  このことは進学競争から棘《とげ》を抜く働きがあった。優秀な人でも、また相当富裕な家でも、長男なるが故に進学しないという人が沢山いるとすれば、それとは別の理由で進学しない人たちにとってもそれは気が休まることなのである。大地主の長男も中学どまりとすれば、単なる自作農ぐらいなら、無理に進学しなくても不自然でない。頭が悪くて進学しない人でも、頭がよくて、しかも金があっても進学しない人がいっぱいいるのだから自分を慰めることが容易であった。     平等主義に潜む怖しさ  ところが戦後はすべてが一変した。財産は兄弟姉妹の間で均等分与である。潜在的に兄弟姉妹が遺産に関して競争者、あるいは敵同士になるし、親は誰が面倒みるのかはっきりしない。墓や親をみることは特権でもなければ誇りでもなく、単なる貧乏|籤《くじ》にすぎなくなった。こうした新情勢の下にあっては、うっかりと家を継ぎ、親の面倒を見ることにした長男は、先にのべたN氏の家の場合のように、泣上戸のままで人生を終ることになりかねないのである。戦後の平等主義は、相続の平等を実現したため、万人を戦前の次男・三男のような立場に立たせることになった。戦前の次男・三男が遺産の代りに高等教育を受けたように、みんなが高等教育を目ざした。進学競争が激烈ならざるをえないわけである。  現在の社会が学歴社会と言われるのも、結局は学歴がない人が安心して生きられなくなってきているということによるものである。この酷しさを理解するために、「人が働きに応じて与えられる社会」とか、「正直者が絶対に馬鹿をみない社会」が実現したとされる場合のことを想像してみるがよい。もし本当に働きに応じて与えられる社会が実現したら、そういう社会の貧乏人は立つ瀬がない。そういう社会では貧乏、あるいは収入の少ないことが、とりもなおさず働きが足りないと評価されてしまうからである。ところが社会正義がゆき渡らず、よく働く人も貧しい場合がありうることが認められておれば、気分的には貧乏人は住み易い。「よく働いたけれども金持になれない」という言い訳が成り立つからである。それと同じく、正直者が全く馬鹿をみない正義の社会が実現されたらたまったものではないであろう。そういうところで馬鹿をみたら不正直者ということになってしまうからである。それよりは「正直者が時としては馬鹿を見ることのある社会」の方が、ずっと暮し易い。そういう社会では、少々馬鹿を見ても、「お前は不正直者だ」という非難を受けずにすむからである。  平等主義に基づく均等相続によって、家に残る長男がいなくなった社会においては、誰でも高学歴を志向するようになる。「長男だったものだから、中学でやめました」という言い訳はしにくい社会になってしまったのだ。昔は、「中卒程度の学力、あるいは知能グループ」というような分類はしにくかった。と言うのは、一流大学に楽々と進学できる実力のある人でも、進学を断念し、安んじて家業に精出している例が多かったからである。ところが長男も次男・三男と同じく進学競争列に加わるようになった今日、学歴による知能分類までされかねない情勢になってきているのだ。つまり進学しなければならないという大きな心理的負担が生じてきたのである。  以上は長子相続という不平等がなくなったために生じた進学熱を指摘したが、長子に限らず、新憲法第十四条の規定による平等主義、及び、新憲法第二十六条の規定による教育を受ける権利などは、それ自体としてはいずれも結構な条文であって、文句の言いようがない。しかし「すべて国民は……その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」という規定は、さきにあげた「国民は正直であれば馬鹿をみることがない政治を行なう」というスローガンと同じく、それが実現に近づけば近づくほど息苦しくなるのである。すべての国民が能力に応じて教育を受けているはずになっている社会で、もし教育をあまり受けていなかったら、それは「能力がない」という烙印を押されたと同じである。考えただけでも身震いしたくなるような話ではないか。私の父は高等教育を受けなかった。それは祖父が早く死んだために上級の学校にやってくれる人がなかったからである、と父は確信していた。「もしおやじがもう十年長生きしてくれたら、おれだって学問ができたんだ」と父は口ぐせのように言った。祖父が十年長生きしたからと言って、父が学問したかどうかは大いに疑問であるが、そう言えたので父は幸せだったと思う。つまりそう言うことによって自らを慰めることができたし、周囲の人も「そうだ、そうだ」と相槌をうってくれたからである。  平等主義がある程度実現されると、実力者支配体制、つまりメリトクラシーになることはすでにR・R・パーマーなど欧米の学者によっても認められていることである。メリトクラシーの前提は、「公平なる競争」、「機会の均等」、「功績に応じた報奨」「才能ある者に開かれたエリート・コース」などである。競争には万人が参加でき、その競争のためのルールは同じで、利得も同じである。その目前の競争に関係あること|のみ《ヽヽ》によって評価され、他の要素は一切考慮してはならない、ということになる。これは平等主義の時代には文句のつけようのないことであろう。アメリカ流の表現を取るならば、「人種《レイス》・信条《クリード》・皮膚の色《カラー》・|性 《セツクス》」に関係なくやるということである。この結果は、有能なる者を励ますことになり、少数の精鋭者の出世を容易ならしめることになる。こうした社会では、「誰でも競争に勝てば出世できるじゃないか」ということが合言葉になり、平等主義は一転して苛烈なる能力差別主義になる。このためには試験し、ふるい分けし、択び抜き、そしてその水準に達しないものを除去するための厖大精緻なシステムを産む。しかもこれは平等主義の社会の中において行なわれる差別行為なのだから、法律に抵触しないように、慎重な配慮がなされるのである。     筆記試験による能力差別  タテマエとして万人に平等な競争をさせるということは、日本の現実においては具体的にどうなっているか、と言えばそれは唯筆記試験主義になっているのである。今日の平等主義的な精神風土において、どこからも文句がでないような差別をやろうとすれば、筆記試験が一番無難である。|平 等 主 義《イーギヤリテアリアニズム》の社会は、必然的に能力主義《メリトクラシー》社会を産み、能力主義社会は必然的に合法的差別の方法を唯筆記試験主義に見出す。たとえば最近話題になっている国立大学の統一試験問題なども、国家的規模においてなされる筆記試験である。ユダヤ・キリスト教徒は「神の前に平等」だと考え、われわれは「法の前に平等」であると考えている。しかしめったに裁判問題に関係することのない大多数の人間にとっては、「筆記試験の前には平等」ということになっているのである。  戦前も筆記試験は重要であったが、身体検査などもうるさかった。当時のエリート・コースである海兵や陸士の入試を考えればよくわかる。また授業料不要のコースであった師範学校も同じことである。私どもが旧制中学の入試を受けた時も、心配したのは体格検査と体力検査であった。鉄棒にぶら下り懸垂十回、逆上り、跳び箱を使っての空中転回、腕立て伏せ二十回ぐらいできないと入試は危ないとされていた。  同じように、昔の私立の学校では、校友の子とか、同じ宗教の信者とかで択ぶワクがあったように思う。しかしこれもだんだん少なくなって、主なる私立ではほとんどなくなったと言ってよい。私立大学に寄付が集まりにくくなったのは、入試が唯筆記試験主義になったためだという説もある。いくら母校に寄付しても自分の子供を入れてもらえないとすれば張り合いのない話だからである。  そのほか、内申書の重視などと言われながらも、本当の意味での内申書は全く利用されなくなってきている。内申書は高校入試で利用されると言っても、それは中学時代の筆記試験課目の評価が主として考慮されるということである。このため、中学生に対しては本当に呼吸《いき》する間もないほど学校の管理・統制がきびしくなったと言ってよい。内申書が重視されない時は、学校では適当にのんびりやっても、入試半年前ぐらいから必死になって追いつく、ということも可能だったのに、今は入学直後から卒業ぎりぎりまで学校の成績を気にしなければならないという悲惨なことになってしまった。そのくせ、本当に内申書ならではの情報は、書く先生の主観が入りすぎるのはよくないと言われたり、いろいろな差別問題に関係するおそれもあって全くないと言ってもよい。大学入試ともなれば、内申書は大抵のところでは考慮の対象にしないと思う。つまり唯筆記試験主義である。そしてこれがどこからも文句のでない、一番安全な方法なのである。  これは日本だけの話でもない。アメリカでも数年前に、生徒の父兄に内申書の閲覧権を与える法律が通った。すると生徒の品行その他について、正直なことを書いた先生が、しばしば厄介な問題にひきこまれた。不利なことを書かれた生徒の親の中には、その教師を訴えるというようなこともあったらしい。それで教師は内申書を書くことを嫌がり、ノー・コメントを出すケースが増えた。思わしくない生徒については内申書を書くことを拒否したり、ノー・コメントにしたりすれば、それは不利なことを書かれたと全く同じことだから、また書かないということで問題が起ってきているという。しかし教師は嘘はつきたくない、正直に書けば糾弾される、何も書かなければ書かないで非難されたのでは全く立つ瀬がない。そこで父兄による内申書閲覧権を廃止するか、内申書そのものを廃止するかの何《いず》れかになることであろう。もし内申書が残るとすれば、それは筆記試験課目についてのみ、記入されることになるであろう。  このように、「いずこも同じ秋の夕暮」で、天下の大勢は唯筆記試験に向うと思われるが、ここには|例の問題《ヽヽヽヽ》が更にシャープな形で出てくることになるのだ。例の問題とは、低学歴の者が言い訳や言いのがれをする余地がないということである。上級学校、あるいは有名校に進めなかったのは、完全に当人の学力が足りなかった、あるいは頭が悪かった、ということの証明みたいになるのだからたまらない。     創造性とは無関係  では筆記試験は人間の知力や能力を計るのにどれだけ有効か、と言えばそれが決して万能ではないのである。たとえば英才教育の専門家の伏見猛弥氏は、知能因子に刺戟を与えることによって子供の知能指数を飛躍的に上昇させることに成功させた方であるが、「拡散思考」という種類の知能は、これまでの知能測定では測定しないし、知能指数からはこうした知能因子は除外されているという。拡散思考というのは、何か新しいことを思いつく知能であり、何か未知な世界に触手をのばして見ることらしい。これは教えられたことを記憶することでもないし、また課題の認知能力でもないから、いわゆる知能検査や、筆記試験の対象にはならないものである。しかし拡散思考は、人間の創造性にかかわっているらしいことは確かであるから、これが計ることができないというのは唯筆記試験にとってはかなり致命的なことになろう。古典的な例ではエジソンなどが拡散思考型の人だったと考えられる。普通の学科は駄目だったが、お母さんが科学の初歩の本を買い与えたら、それに興味を持ち、物置き小屋か何かで実験をはじめ、ついに発明王になった。ダーウィンやアインシュタインの伝記を読んでみると、今のような唯筆記主義の時代だったらちゃんと進学できたかどうかすこぶるあやしいという印象を受ける。当時は大学に進学する人は極端に限られていたから、相当ぼんやりした人間でも入学できた。  日本の例で言えば、最初にノーベル賞を授賞された湯川博士も、旧制高校ではトップ・クラスの成績ではなかったそうである。文化勲章を授与された数学者の岡潔博士も小学校から旧制中学を受験して一度落ちたとのことだし、去年、経済学で文化勲章を授けられたロンドン大学の森嶋通夫博士も、中学か高校の成績は何十番目といったところだったという。  唯筆記試験主義は創造性に直接関係ないばかりでなく、もっと普通の意味での「実力」にも関係ないこともよくある。たとえば英語が話せて、英米人とコミュニケイションがよくできる能力というのは入試には全く関係がない。この点についてはよく日本の英語教育の欠陥としてしばしば手きびしい指摘を受けるところである。もちろんわれわれ英語教師はそんなことには十分すぎるほど気付いている。しかし入試の英語は改まらない。それはどうしてか。たとえば初等文法をマスターしたぐらいの年頃の高校生が、一年アメリカの高校にはいってくれば、発音はほとんど完璧になり聴き取り能力も飛躍的に増すことはしばしば観察されることである。特に発音の場合は、高校の一年間を向うで過ごせば、もう日本の学校でやることは全くないと言ってよい。これは明らかに語学の能力である。しかしこういう語学力に合わせて入試をやるわけにはいかない。たとえば大学入試の英語の試験官に、日本語を知らないアメリカ人を頼み、その人に質疑応答してもらうならば、受験生の語学力《ヽヽヽ》は申し分なくよく判定できる。しかしその場合、一年間以上、英語国に居住経験のある受験生が、絶対に、また圧倒的に有利である。したがってそういう入試は平等主義に反するのだ。生活史が重要な役割を演ずるような試験は差別であって、絶対に避けられるべきことなのである。それで日本の大学入試の英語の問題は、東北の山の中の出身で外人を一度も見たことのない高校生に対して、ロンドン滞在経験五年の人が、特に有利にならないような形式のものになっている。つまり唯筆記主義の問題になるのである。したがってこれは英語の実力というよりは高級な知能テストと考えてよい。公平さが確保できて、しかも進学能力をある程度査定する上では日本式の英語試験にまさるものはないのである。「日本の大学入試の英語問題は私にもできない」といって非難する外人もいるが、そんなことを言われても日本の英語教師はいっこうにたじろがないであろう。  平等主義と足並みを揃えて進行して来た唯筆記試験主義も、常識から見ておかしいことはすぐわかる。筆記試験が平等主義から見て文句がつけようがないと言っても、それでも不徹底である。第一に才能が平等でない。知能指数が平等でない。それに育った環境も平等でない。親の教育程度、教育熱心さも平等でない。勉強部屋があるかないか、家庭教師を持ちえたか否か、などなど数え上げればきりがないほど不平等要因がある。これだけ不平等なものがあれば、筆記試験ぐらい公平にしても公平なことにならない。そんなところでメリトクラシーを振り回されたのでは平等主義が泣く、と考える人も出てくる。先に平等主義は必然的に能力主義に導くと言ったが、能力主義や実力主義は、能力や実力のない者には苛烈すぎる上に、遺伝子や家庭環境の不平等を少しも解消せず、この点で恵まれなかった人たちを収奪し、苦しめ、辱しめ、絶望に追いやるものであるからよくないという見方も生ずるものである。  そこまで平等主義を徹底しようと思うならば、行きつくところは一つである。つまり「結果における平等」である。頭のよい者も、勉強する者も、頭の悪い者も、怠ける者も、成績は同じにしてしまえばよいではないか。そこまで行ったところではじめて平等主義者は安心し、その人道主義的感情は満足せしめられる。全生徒にオール5やオール3をつけた教師が出て話題になったが、そういう突飛な評価をした背景には、こうした事情があるものと推定してよかろう。  平等主義が「結果における平等」まで行きついたのは、自分の全生徒にオール5を与えた日本の教師がはじめてなのではない。フランス革命の時のフランソワ・ノエル・バブーフが元祖である。言うまでもなくフランス革命は近代の平等主義のはじまりであるが、そのうちでもバブーフが最も徹底した平等主義的共産主義者であった。彼の計画によれば各人は自分の労働の成果を共同市場に持ちこみ、同一賃金をもらうことになっていた。この際、生産の能率とか生産品の質などは一切問題にしないのである。彼によれば人間の基本的必要は同一で、胃袋も同じ大きさであるから、収入は、個人の才能や努力に関係なく同一たるべきこと、という主張であった。沢山いい品を作る者も、仕事が下手で少ししか作らない人も、報酬は平等というのであるから、これ以上の平等主義は考えられない。すべての生徒にオール5をやるという先生と同じ主張である。バブーフに共鳴したジャコバンの残党たちはパンテオン・クラブを創設して運動をはじめたが、このパンテオン・クラブを武力で閉鎖せしめたのはナポレオンであった。そしてナポレオンがイタリアに出兵していた頃バブーフらは捕えられて死刑にされたが、その後、間もなく権力の座についたナポレオンは、エコール・ポリテクニークなどの秀才校を強化し、フランスの知的エリートのコースを確定した。つまりフランス革命は、平等主義で出発したが、極端な「結果における平等」まで行ったところで、西欧第一のメリトクラシーの社会になったのである。  この類比は日本の戦後教育にも当てはまる。平均主義はオール5主義、あるいはもっと穏和な形で「落ちこぼれのない教育」というスローガンに至った。しかしこれらはいずれも「結果における平等」を志向するものであって、どっちみち長続きしないであろう。極端な平等主義が出てくる一方では、唯筆記試験主義は現実にますます強化されてきているのである。これが万人を平等にするはずの戦後民主主義の産み出した第一の教育上の矛盾である。    2「良すぎる大学は有害な大学」という矛盾  戦後の日本の経済社会に起った大変化で、しかも平等主義と連なっていたのは財閥解体である。普通「独禁法」と呼ばれている名の法律は、昭和二十二年法律五四号として出された「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」であるが、この法律の意図するところは、それまでの日本人にあまりなじみのないものであった。徳川時代に大町人が取り潰された例はあったが、店が大きくなったから解体させるという発想法はなかったようである。店が大きくなって支店がうんと多くなるということは、そこの店の商売の質がよく、お客を多く獲得したということであり、ほめられこそすれ、非難の対象になることとは思われない。  しかし質がどんなによい商店でも、その支店網が多くなりすぎることは、大多数の人にとって住みにくい社会になるということに最初に気付いたのはアメリカであった。商店(本店)と支店網という古い表現で言ったが、本店(持株会社)とその傘下の関連諸企業と言ってもよい。アメリカは広大な市場を持ち、自由企業意識のもっとも強い国だったにもかかわらず、すでに十九世紀にシャーマン法(一八九〇年)を作り、更にクレートン法(一九一四年)を作って、事業支配力の過度な集中を排除しようとしたのである。理由は簡単で、あるグループの力が強くなりすぎると、そのグループ以外の人にとって著しく不利な状況が生ずるおそれがあるという事実からであった。この場合、その巨大な企業の質が悪いということは全くない。技術、製品、資本力、販売機構など抜群にすぐれているのである。しかしその企業の「質の良さ」が、社会全体として見ると、極めて「悪質」な働きをしてくるという逆説的状況が認められるということであった。  このように過度の集中の害を知っているアメリカは日本の財閥を解体したし、地主をなくしたし、華族その他の特権階級をも廃止した。それに中央から任命されていた県知事なども県民に選ばせるという風に、地方分権も推進した。このように日本のどこを見廻しても、権力や財力は分割され、平等主義が進行して行ったように見える。ところが現実には、別の面で予想もしなかった集中が進行してしまったのであった。  戦前の日本を動かしていたのは誰か、ということはなかなか難しい問題であるが、軍部が極めて大きな比重を占めていたことは間違いがない。その軍部の中で発言権を握った人たちは、言うまでもなく陸士・海兵を経て陸大・海大を出た人である。単なる秀才は旧制中学・旧制高校を経て、東大に進んだが、秀才であってしかも頑健な者は、軍関係の学校に進んだ。しかも軍関係の学校には貧乏人も学費を心配することなく進学できたから、全くのメリトクラシーであった。そのほか国家権力に近いところには、世襲の貴族院議員や、多額納税による貴族院議員がいた。この人たちは必ずしも学校秀才のコースを通過したのではない。それでも貴族院議員は衆議院議員よりも偉いことになっていた。その上に元老やら元勲がいたが、この人たちは、そもそも日本に近代的な学校がない頃に成人したのであるから学閥は問題にならない。  このようにざっと見ただけでも、戦前は東大によることなしに権力に近づく道がいくつかあった。ところが戦後は軍関係の学校は廃止になった。後に防衛大学や幹部学校ができたが、昔の陸大や海大のような比重を日本の社会に対しては持たない。そして言うまでもなく世襲の爵位や財産による貴族院議員は廃止になった。そして旧日本のパウワー・ストラクチャーの構成要素がすべて取り除かれた時に、ひとり残ったのは東大なのである。つまり東大は完全に独占的な地位を占め、競争的立場にあった機関はすべて視界から消えてしまったのであった。戦後、誰もかれもが東大を意識しはじめたのはそのためである。     占領軍の想像をこえる  占領軍であったアメリカ人はこんなことを夢にも想像していなかったであろう。彼らの考えでは、ウエスト・ポイントとアナポリスを廃止したぐらいにしか考えなかったであろう。アメリカならそうしても実際どうということはないのだ。たとえばアメリカの大統領を並べて見て見ると、ルーズベルト、トルーマン、アイゼンハウワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォード、カーターという工合になるが、同じ大学の卒業生は一人もいないのである。ハーバードが名門と言ってもケネディ一人であり、エール出身はフォード一人、ルーズベルトがコロンビアである。アイゼンハウワーはウエスト・ポイントで、あとのトルーマン、ジョンソン、ニクソン、カーターの卒業校はたとえ調べて見たとしても覚えておくことはまずないだろうと思われる田舎大学である。それにハーバードにしろエールにしろコロンビアにしろ、アメリカの名門校は私立大学だから土台、日本とは成り立ちが違う。だから占領軍は、一大学の卒業生によって高級官僚の約八○パーセントが占められるなどという国は想像できなかった。想像できないくらいであったから、財閥に対しては集中排除を考えたのに、学閥に対しては対策を考えなかった。  もちろんこれに対して、東大にはよい先生とよい学生と多い予算が三位一体として存在しているので、正にこれが大学の理想であるから、よい製品、つまり優秀な卒業生が多く出てくるのは当然である。もしこれに手をつけるとすれば、日本の学問の水準に関係してくる、という議論もでてくるであろう。  しかし独占禁止法の精神は悪いもの、劣ったものを禁ずるのではなく、程度を越して良いもの強いものを抑えるところにあるのである。たとえば日立と東芝と富士と三菱が合併すれば、電気関係では強力無比なものができるであろう。研究資金も豊かになるだろう。しかしそのよいこと自体が悪いのである。独禁法の思想がアメリカに発生した当初から、「良すぎる会社は有害な会社」という逆説が働いているのである。日本でも、「良すぎる大学は有害な大学」なのである。  元来、日本人は教育熱心な民族である。江戸時代には義務教育制などなかったけれども、驚くほど識字率は高かった。特に都会ではそうであった。それが明治維新の後間もなく、徴兵制とワン・セットにして義務教育になったのだから、あっという間に日本は世界でも最高の識字率になったのである。こういう国では、人為的に教育を政府が奨励すること自体が危険だと考えた方がよい。というのは過熱状態に入り易いからである。ところが「教育」といえば文句のない「善」ということになっている上に、戦後は海兵・陸士という連峯みたいな教育界の峯がなくなって、東大という名の富士山一つになったからたまらない。みんながそこに登山しようとする。夏の富士山以上に混む。     東大と塾との関係  つい私が高校生の頃まで、田舎の人たちは東大というものを意識しなかった。旧制中学といえば田舎ではエリート・コースであったのに、そこの中学生がたいして意識しなかったのだから、それ以外の大部分の人は存在さえ知らなかったぐらいのものではなかったかと思う。それが近頃では夏休みに帰って田舎の人々と話して見ると、子供を持っているほどの人ならみんな意識しているのである。途方もない過熱状態が生まれた。  陳腐な語源談義になるが、教育を意味する英語のエジュケイション、フランス語のエジェカシオン、ドイツ語のエアツィーウングなどすべて、「引き出す」というのがもとの意味である。それぞれの個人の内に与えられている可能性を引き出してやるということなのであるが、これに異存のある人はないであろう。ところが東大による教育の独占的支配の下では、幼稚園に至るまでそのあおりを喰って、ゆっくり才能や能力を引き出すことなど考えておれなくなってしまった。人間の可能性を引き出すというのは、きたない比喩になって恐縮だが、さなだ虫を引き出すような感じがあるのではないかと思う。急いで引き出そうとするとプツンと切れてしまうといった感じである。あるいはもっと美しい比喩で言えば植物の成長をまつ、というようなものであろう。根がどのくらい張ったか見るために、しょっちゅう引き抜いておれば木は枯れてしまう。同じようにテスト、テスト、ドリル、ドリルで、たえず受験を意識した評価を受けるならば、それが知的・情的成長に有益であるわけがない。  更に重大なことは、東大富士山のために、ただでさえランク付けの好きな国民が、度を越したランク付けに狂奔することになっていることである。ランク付けそれ自体は悪いことではない。しかし物には程度というものがある。このため青少年の可能性を引き出すべき教育組織が、大部分の青少年を失望せしめる巨大な機構に変質してしまった。故吉田富三教授は、東大医学部部長も勤められ文化勲章を授与された偉大な科学者であられたが、私はこの先生の口から直接に「東大の入試は籤引《くじびき》にしなければならない」というお話をうかがってびっくりしたことがある。  吉田先生は若い頃、地方の医科専門学校で教えられたことがあったとのことである。そこの学生たち、あるいは卒業生やインターンは驚くほど勉強しない。才能がないか、と言えばそんなことは全くなく、人によっては東大の医学生に劣るところのない天分をもっていると思われた。そういう人がなぜ勉強しないかの理由をしらべてみると、いずれも東大に進学できなかったので、深く傷ついてしまっていることが吉田先生にわかったのである。 「どうせわれわれが勉強しても、東大じゃないんだから」と言って酒を飲んでいるといった工合だったという。この経験から吉田先生は、東大の存在が、いかにその他多くの有為な青年を絶望的にしているかに開眼されて、籤引き入学論というラディカルな意見を抱かれるようになったのであった。吉田先生も東大が優秀な大学であることは百も承知であられたのだが、そこの教育支配・人脈支配が独占の域まで至っているために、国民全体から見ると有害であると判断されたわけである。ペーパー・テストの語学が劣ったために東大医学部に行けないことは、その人の医者としての能力とは全く関係がないにもかかわらず、そこで傷ついてしまって向上心を失う。努力したところで将来は大したことがないと思いこむからである。もちろんそんなことで向上心を失う方が悪いとも言えるが、そう一概に言えないところが独占の害なのである。  ランク意識が度を越したところでは、もはや通常の教育の場で、子供の成長ペースに合わせてその可能性を引き出しているひまなどはない。成績順で組分けすれば簡単だが、それをやるには平等主義が強すぎる。「落ちこぼれない教育」というスローガンは、人道主義の面からも、平等主義の面からも文句のつけにくい立派なものであるから、先生たちは落ちこぼれなくやろうとする。ところが落ちこぼれのない教育を受けていると、ランクの高い学校の入試からは落ちこぼれてしまうという逆説的事態が発生してくるから、生徒の多くは塾に行くのである。田中内閣は人材確保法を作って教員の給料をよくした。その意図は甚だよいとしよう。しかし問題の本質は少しも変っていないのだから、高給に釣られて立派な人材がどしどし義務教育に流れこんできたとしても、塾に行く子供の数は減りはしない。子供たちは学校の先生の質が悪いから塾に行っているのではなく、今の学校の平等主義で教育されていたのでは、東大独占の教育体系が生んだ極端な不平等社会で敗者になるからなのである。  この塾の繁栄自体が、日本の公教育の完全なる失敗を証明しているのであって、これに目をつぶっていたのでは日本の教育論は成り立たない。だからと言って塾を悪者にすることは絶対に許されないのである。法律で強要されて塾に行く子は一人もいないわけであって、全く自発的である。このように学習熱心な子供や家庭を多く持っている日本政府は何と幸せな政府であろう。何とか教育の必要性を国民に認めさせようと必死になっている政府がこの世界にはいかに多いことか。先進国アメリカだってその点については頭を痛めているのだから。  しかし日本人の教育熱心を政府はこれ以上濫用してはならぬ。「濫用」という言葉をここに使うのは適切でないかも知れないが、資源の濫用があると同様に、国民的美質の濫用もあると思うのである。たとえば戦前の日本人は、奉公の念、つまり公《おおやけ》である国家のために自己の利益を二の次にするという心懸けが比較的濃厚な国民であった。そしてガバナビリティ(正当な命令や統治を受け容れる能力、つまり被統治能力)のすこぶる高い民族であった。しかしこの前の戦争はこの国民的美質を濫用した。そのためにどのくらい奉公の念に厚い国民が損をし、従順な兵士が犬死したことか。戦後の日本人が反政府的、反権威的になり、エゴが強くなったのも無理からぬところがあるのである。国民的美質も、一たび濫用されると涸渇することだってあるのだ。日本人の貯蓄率が高いのも美質だが、インフレがいつまでも続いて、もし貯金は馬鹿らしいという観念が行き渡り、みんな貯金をやめたら政府は恐ろしく困るであろう。同じく国民が教育熱心であることをやめたら、政府は今まで想像したことのない困難な事態に当面するであろう。その危険はすでにきざしている。  今の塾に通っている子供、あるいは家庭教師のついている子供が、一日、何時間学習に拘束されているか一寸《ちよつと》計算してみるがよい。学校への往復を入れて七時間としても、それに二、三時間の塾が加わったり、自分の勉強が加わったりすれば、十時間ぐらいは拘束されているのだ。これは戦前の働かされた子供たち以上のひどい状況であって、産業革命時代に炭鉱労働に使われた子供なみの苛酷な状況であることはすでに「文藝春秋」(「義務教育を廃止せよ」一九七五年七月号、『正義の時代』に収録)で詳しくのべたことがあるからくり返さないが、私は児童福祉法が、児童を過度に勉強させることに対して何の規定もしてないのは不思議だとかねがね思っている。われわれの子供の頃はまだのん気であったが、今の子供たちが成人した時、自分の子供たちに対して教育熱心であるかどうか、甚だ疑問である。勇敢といわれた日本男子が、一転して臆病者になるように、国民的美質も濫用の後では一転するものだと考えておいた方がよいのではないだろうか。  もちろん政府も事態を放っておいているわけではない。私学助成などもそれである。しかし私学を助成するなら、終戦直後、焼かれた校舎の復旧の時だったら遥かに効果的であったろう。不思議なことに東大は被爆せず、学生の授業料と父兄の寄付によって成り立っている私学がやられた。私学の財政危機はそもそもここに端を発していた。今度政府が私学を補助するのも、意図としては有難いのであるが、公平に予測すれば、私学は二流か三流の国立大学となる公算が大である。私学の特徴であった身軽な新学部・新学科の創設やらは困難となり、従って何のために私学があるのか、そもそもの存在理由までおかしくなりかねない。今の教育の独占を放置したままでは、人材確保法も、私学助成法も、当事者にとってはありがたいが、国全体から見ると税金がもったいないことになろう。  戦後の平等な社会、特に陸海軍の大学の廃止、貴族院の廃止などは、東大のみを、無比の権力集中機関とした。そのために起った受験の過熱は、すでに非人間的な域に達した面もあって、教育を根本からゆがめてしまっている。もっともよい大学がもっとも有害になったというのが、戦後民主主義の産んだ第二の矛盾である。    3 共学制度が男も女も不幸にする矛盾  戦後の平等思想の実践として男女共学が導入された。とは言うものの男女共学は何も日本において新しいものではない。旧幕時代の私塾は、たいてい共学であった。また私も戦前の公立小学校と国民学校に学んだが、小学校三年までは全く男女共学であった。一列おきに男女が並んでいた。小学四年からクラスが男女別になったが、同じ校舎である。その上には高等小学校があり、ここでも同じ校舎に男女が通っていた。男女が峻別されたのは中学校と女学校及びそれ以上の高等教育であった。それでも女子の聴講を許していた旧帝大などもあったはずである。 「七年ニシテ男女ハ席ヲ同ジウセズ、食ヲ共ニセズ」という『礼記』の言葉は、「男女七歳にして席を同じゅうせず」という風に少し変えられて広く人口に膾炙《かいしや》していたのであるが、私の入っていた公立小学校では十歳から席を別にしていたことになる。もっと正確に言えば満六歳になった途端に強制的に席を同じくせしめられ、十歳になってまた分けられたことになる。その点においては、戦前の義務教育においても儒教倫理はこわされていた。また辺鄙なところでは上級生になっても男女は席を共にしていた、というよりは共にせざるをえなかったのである。戦後間もなく、公立の新制中学は完全共学になり、また旧制中学には女子が入り、旧制女学校にも男子が入るようになったが、それは青年男女の取り扱いに関しては、戦前の辺地でやったことを都会でもやるようになったことだとも言えよう。 「辺地では十歳を超えても男女共学だった」ということは、なにも日本の山村の分教場の話だけでなく、アメリカにおいてもそうであった。西部のフロンティアでは男女を別々に教える校舎や設備があるわけではなく、男女共学にならざるをえなかった。西ヨーロッパやアメリカ東部では、古くから男女別学が発達していた。つまり、物心のつく年頃になった少年少女を同じ教場で教えるのは、洋の東西を問わず、辺地教育の必要上生まれたものであり、それは高い文化を示すよりは、劣悪な教育条件を示すものにほかならなかった。  だから戦後のアメリカ軍が男女共学の指示を与えたとしても、「公立中学・高校をすべて共学にせよ」などと言ったはずはないと思う。しかし敗戦直後は通訳の不備や、指示を受ける側の過敏性もあって、すべての公立学校は共学にしなければならないような雰囲気であった。教育基本法にも「教育上男女の共学は、認められなければならない」とあって、「共学の禁止」を禁止するだけであって、共学を命令しているのではない。それで私の郷里でも旧中学校も旧女学校も一時強制的に男女を混ぜたが、旧女学校はいつの間にか女子高にもどってしまった。しかしおそらく男子の入学は禁じてないはずだから、男子が応募して唯筆記主義である入試に合格したらそれをこばむことはできないであろう。  いつの間にか旧女学校は女子高になってしまっていたという事実は、その地域の住民は、男女別学の学校を持つことを希望していたということにほかならない。もっとはっきり言えば、終戦直後、この学校が一時的にせよ共学になったのは、お上《かみ》の命令でそうなったので、その地域社会の住民の要望を反映したものでなかったということである。また現在、男女共学の行なわれている多くの公立の中学や高校も、共学にするか、別学にするか、地域住民の投票によって決めたら、別学を選択するところが少なくないと思うが、こういうことについては不思議なことに民意の問われることは稀である。それで東京のような名門の私立男子校や私立女子校のあるところはそこに行くことによって民意を表明しているわけであるが、私立のないところや、私立の入試に「落ちこぼれた」者たちや、経済的余裕のない者たちは、しばしば実際上、共学を強制されていることになっている。     男子は女子に劣等感を抱く  では共学を支える教育理念は何か、と言えばそれがすこぶる薄弱なのである。日本には多くのミッションスクールがあるが、ほとんどどこでも別学をやっているのは、欧米の、僻地《へきち》でないところの青少年教育には、別学がふさわしいという経験的事実を引き継いできているからである。戦後の日本で共学が全国を風靡《ふうび》しつつあった時、上智大学の外人教授たちが、「何たる愚かな事を」と憮然としておられたことを思い出す。そんなわけだからカトリック系の中学・高等学校では、栄光学園、聖ポーロ学園などは男子校、雙葉《ふたば》、白百合、聖心などは女子校であって決して男女を混じない。プロテスタント系の学校も大抵はそうしていると思う。西ヨーロッパ全域やアメリカなど教育先進地域では同じことである。  男女共学がなぜよくないか、と言えば、それは「男女相争わしめず」という人類の基本的な知恵に反するからである。男女が競争関係になくて、相補関係にあることは、その生理学的構造から見ても明々白々のことである。進化論者は人類が単性生殖でなく今のような男女の形態に至るには数千万年、数億年の時間を要したと言うであろうし、神を信ずる人は、神が男女の別を定めた、と言うであろう。いずれにしろ、男女の別は、どんな理屈をもってしても、なくならないものなのである。そして心理学者の研究が示すように、男女それぞれ、「自分は何であるか」ということ、つまりアイデンティティを追求する時期がある。そして男は男であることを確認し、女は女であることを納得する時期が必要とされ、よい意味での「男らしさ」、よい意味での「女らしさ」が養われなければならない。  男女それぞれのアイデンティティが確立してからの男女共学は考えられてよいが、男女のアイデンティティ確立期を撹乱するようなことは自然に対する冒涜《ぼうとく》であろう。ただ、男女共学をやらざるをえない僻地では、その生存条件からして、男女のアイデンティティの確立が容易であるから、そういうところの共学は、害がほとんどないと考えられる。  これほど科学が重視されている時代に不思議でならないのは、科学のデータがほとんど教育に考慮されていないことである。発達心理学者は、幼児の場合、精神年齢が男女によって相当異なり、一、二歳の違いがあるを常とするという。それにはじめのうちは肉体的にも女子の成長の方がすみやかである。それなのにどうして男児と女児を同じ年齢で進学させるのであろうか。もし女児を六歳で小学校に進学させると決めたら、男児は一、二年遅らせて七歳か八歳で進学させてもよいはずである。そのようにしないので、多数の男児は女児に知能的にも、また体力的にも劣等感を持ってしまう。何年か前、小学校の運動会でかけっこの競走を見た。まず背の高い順に男子がかけっこをする。六人ぐらいが一緒である。ところが最後に三人ばかり余ったのだ。つまりクラスで一番背の小さい方の男児が三人ばかり残ったのだ。ところがこの余った三人は、引き続き女子と一緒に走ることになったのである。女子の方も背の大きい方から走るわけだから、同一学年の中の最も背の高い女児と一緒に、最も背の低い男児が走らされることになった。結果は明らかである。女子の方が早いのである。男子が負けるような条件のもとで走らされているのだ。     性欲が身につかぬ悲劇  男女を同じに義務教育で扱うのは平等に見えておそろしく不平等なのである。女児は二年ぐらい年上の男児と一緒にしてはじめて男女はやや平等に扱われると言ってよかろう。日本のどこかの動物園での話であるが、オスのゴリラが幼児の時に、年上で強いメスのゴリラと一緒におかれた。そしてこのメスにいじめられたので、成長した後も女性上位の幼児期のパターンがくずれずに交尾がうまく行かなかったとのことである。成獣になったゴリラのオスはメスよりはるかに強大であるが、このオスは幼獣の時にメスにいじめられた記憶のために、オスのプライド、つまりメイル・エゴが傷ついてオスとして取るべき行為が取れないのである。オスがオスとして成長する期間に、人為的な干渉があると、体ばかりは成長しても一人前(一匹前というべきか)のオスの用をなさないのは、ゴリラだけの話ではないのではないか、と思っていたら、最近慶応大学の小此木《おこのぎ》啓吾氏が次のように書いておられるのを見て、私の心配はまんざら杞憂《きゆう》でないことを知った。 「現代の青年男子に多いのが無性欲《ヽヽヽ》、性的不能(インポテンツ)である……しかも、性経験の多い未婚女子が目立つのに対して、男子には逆に、性未経験で、結婚しても、女性とのセックスに対して圧迫感を抱き、|男性的な性欲が身についていない青年《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》がみられる。そしてこういう未熟型男性は、しばしば病院に妻に連れてこられるが、妻は、まことに堂々と、夫の性の未熟さを指摘する」(「精神医学からみた帰属意識の問題」より。傍点原筆者)  性欲が身についていない若い男子というのは私の想像を超えた存在であるし、私の年齢以上の男性諸氏も私と同じ思いをされるであろう。しかし子供の時から同一年齢で進学させ、男女共学にして共に競争せしめ、しかも必ずしも精神的・人間的に成熟している人ばかりではない女教師に叱咤《しつた》激励せしめれば、大人になっても性欲が身につかないような変な男が出来上るらしいのである。しかもこういう男の中に急進的な思想を抱く者が少なくない。性の挫折感はしばしば男から保守的センスを奪うのである。  ついでにつけ加えておけば、英語の俗語でペニス・エレクトスをプライドと言う。だから「朝まら」はモーニング・プライド、あるいはプライド・オブ・モーニングという。ここで勃起したペニスがプライドと連想されていることに注目しよう。それは正に男のプライドなのだ。そのプライドが、こともあろうに女性に傷つけられている状態にあっては、当然、もう一つのプライドを失わしめるのだ。相関関係は常識でも明らかであろう。  男は女よりはるかに遅れて成長することは、オリンピックの体操からみてもわかる。女子のピークは十三歳から二十歳までであり、ツリシュチュワの如き名選手も、コマネチにくらべると体が重そうにみえてならなかった。一方男子選手は三十歳近くになっても現役である。男女では成長のスピードや長さがまるで違うのであるから、小中学校で共学することは甚しく反自然である。 「男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないもの」(教育基本法第五条)という認識からはじまった男女共学は、無性欲男性を作ったらしい。これでは、男性の方としても女性に協力《ヽヽ》してやることができないし、女性の方としても男性を敬重《ヽヽ》してやるわけにゆかないであろう。そうした男性が幸福なわけはないし、そうした男性を夫とした女性の方はなお困るであろう。男女平等の立場から出発した共学は、男女のいずれを幸福にする方にも働いていないらしい。これが戦後教育の第三の矛盾である。     解決のために  この矛盾を解決する方法はあるだろうか。それはもちろんある。今まで平等主義という錦の御旗に目がくらんで、すでに明らかになっている矛盾、あるいは逆説的状況を見据えることをしなかっただけの話で、事態を直視すれば対策も自ら明らかになるであろう。詳しい構想をえがくことは別の機会にゆずることにして、ここではヒントだけをのべることにしよう。  先ず唯筆記主義からのがれるためには、不当差別や、悪質な差別にならない良性の差別を社会に導入する必要がある。たとえば農村における長子相続に対する再考慮がそれである。事実、日本の農村は均等分割のために完全潰滅になる寸前であり、老人問題も真暗なのである。つい最近まではこの問題には憲法問題がからんでくるところからタブーであった。しかし近頃は、新憲法は金甌無欠《きんおうむけつ》で神聖不可侵と言っていた革新側も、天皇の問題を考え直そうといい出しているのだから、そろそろ憲法は第九条問題だけでないことがわかってきたらしい。  また私立学校では、筆記試験で採用する学生を五割、校友子弟の中から三割、その他の考慮(たとえば特定の宗教にもとづく学校の場合は宗教)にもとづくもの二割ぐらいの配分でとることも考えられる。体育会関係で採った学生が、唯筆記主義で採った学生よりも、卒業後の社会的活動において劣るものでないことは広く認められていることからもわかるように、唯筆記主義が万能でないことは証明ずみである。  東大問題については、そろそろ明治以来の国立主導型から私立主導型へと路線を切りかえるべきである。明治以来、常に不利な立場に置かれ、空襲に焼かれ、高い授業料を余儀なくされながらも、私大のうちのあるものは、分野によっては旧帝大よりも強力になっている例もある。これは民間の自主性にまかせれば、国家も税金を使うことなしに、いかに効率のよい教育ができるかを明らかに示すものであろう。今の私大卒の人口の半数だけでも国立で教育したとするなら、どんなに天文学的予算を食ったことだろうか。税立大学への投資はこの辺でほどほどにしなければならない。大学は国主私従から私主国従とすべきである。もちろん東大のようにすぐれた大学を解体するとか縮小するというのはナンセンスである。しかし入学者は唯筆記試験によらず、一定の学力テストを通過した者のうちから、身体障害者や母子家庭など、不利な環境にある人を優先的に五〇パーセントぐらい取り、あとは吉田富三先生の言うように籤《くじ》にするのも一つの方法であろう。税立大学は先ず社会的機能を重視しなければならぬ。もちろんこれによって学問の水準が下るうんぬんの心配はない。学問の水準というのは大学院博士課程以上、教員の質によって決まるのであって学部の学生で決まることはない。東大の先生にはすぐれた方が多いのだから研究の便宜は今までより低くすることなく、研究に精励してもらわねばならない。私立はいくらランキングが出来ても、比較的無害である。例えば慶応を落ちて早稲田に入っても、あるいはその逆の場合も深く傷つくというよりは、「自分は慶応型(あるいは早稲田型)だ」と考えるからである。これはすでに東京の高校レベルで認められる現象である。  ここで問題になるのは官僚である。日本の高級官僚が優秀で私心少なく、真に国家のことを考えていることはわが国の誇りであるから、このよさが傷つけられるような改革は不可である。官僚のチーム・ワークは東大卒を軸として回転してきたとも考えられるので、この効率のよさは温存したい。そのためには、高級官僚の養成機関を大学と切りはなすことである。その場合も唯筆記試験主義に堕することのないように、国家公務員の上級試験を受ける資格として、民間企業での実務経験と、そこでの雇傭主からの在勤証明書あるいは推薦状を持つことを前提とする。そして二十五歳以上の年齢からキャリアをはじめさせたい。どうしても若いうちに「世間の飯《めし》」を食っておく必要があると思う。その代り定年を五年ぐらいのばせばよいであろう。  また個人の発達速度という個《ヽ》の問題と、学校で大量に教えるという公《ヽ》の問題とのずれは、義務教育の課程では深刻なものがあるが、これについては、再び義務教育の選択制を主張しておく(詳しくは拙論「義務教育を廃止せよ」文藝春秋刊『正義の時代』所収を参照されたい)。つまり学校と塾の両方に行く必要をなくすることである。塾だけで力がつけばそれでよし、学校だけで十分ならそれでもよし、両方に行きたい物好きであったらそれでもよし、という風にするのである。日本の教育の危機は、教育不足にはなくて、教育過剰と過熱と過当競争にあるのであるから、多くのコースを作るのが唯一の解決策である。それにこうすれば底なしの沼とも思える教育予算がこれ以上ふくらむことはないであろう。  共学の問題は、今のべた選択制の採用で大幅になくなるが、学校を別学にするか、共学にするかについては、一度そこの地域社会で住民の声を聞いてみたらよい。共学を選択する住民の多いところは今までどおりでよいし、別学を選択するところでも、人間の数は変らないのだから、A中学を男子校、B中学を女子校とするだけでよい。それに不満な人は男女共学の私立学園を作ることだ。今までは共学に不満な人が男女別学の私立学園を作ったり、そこに子供を入れてきた。住民投票で別学になったのに、共学がよいという人は今度は自分たちが共学の私立を作る番である。いろいろな考えの人が、それぞれの理念に従って私立学校が作れるところが自由主義国の最大の特徴で、全体主義国にはその例を見ないのである。共学主義者や男女家庭科必修推進論者も、既成の公立の共学制に安易によりかかることなく、自分たちの理念を、私立学校を作ることによって実践してみたらどうか。そして公立学校の重大方針は、各地域の、実際に子供を送っている住民たちの意見を尊重して決められるべきものである。  つまり種々の段階で矛盾や逆説的状態を露呈しているのであるが、これに対する基本方針は、「国(官)主私従より、私主国(官)従に移れ」の一語に尽きる。日本の産業界が世界の驚異であるのは、一にかかって私主国従だからである。イギリスの産業が不振なのも主要産業を次々に国有化して国主私従の色が濃くなってきたからである。日本でも主要産業の国有化を進めれば、経済が硬直化するにきまっている。  学校・教育もしかりである。明治維新の時は官が主導して産業も教育も育成したが、産業はそのうち払い下げた。学校は払い下げなかった。これがそもそもの問題の出発点だったのである。教育の運営も、民間の下からもり上るエネルギーとアイデアを主とし、官はそれを補足する立場を取ることが、最も根本的なことであろう。 [#改ページ]     義務「教役」からの離脱     1 [#この行1字下げ]「人類以前に地球上に全盛を極めて居た動物の例を挙げれば、古生代に於ける魚類、両棲類、中生代に於ける爬虫類、第三期に於ける獣類などである。……特に中生代の蜥蜴《とかげ》類の旺盛を極めて居た勢は殆んど想像も及ばぬ程で、近頃発掘せられた化石のみに就いて見ても北アメリカから出たアトラントサウルスといふ蜥蜴などは体の長さが十六間もあつて、今日の最大の鯨よりも更に大きい。……また空中には翼を有する蜥蜴類が沢山に飛んで居たが、其の中で、プラテノドンと云ふ種類などは翼を拡げると三間半もあつて、今日最大の飛ぶ鳥なる南米のコンドル鷲に比べて殆ど三倍も大きい。……斯くの如く、其の時代に於ては陸上を走るものも、水中を游ぐのも、空中を翅けるものも悉く蜥蜴類のみで、聊《いささ》かでも之に匹敵すべき動物は他に無かつたのである。……次に第三期に於ける獣類もその通りで、単に身体を大きさのみに就いて云ふても、ヂノテリウムと称する象類の如きは頭骨だけでも長さが一間近くある。マケロヅスと云ふ虎には牙の大きさが殆ど短刀ほどあり……されば此の時代に於ける獣類は中生代の蜥蜴類と同じく、如何なる動物が出て来やうが到底亡ぼされる如きことは夢にも有り得べからざる勢であつた」(『丘浅次郎集』筑摩書房、三二六ページ)  ではこうした無敵に思われた生物はどうして忽ちにして全滅してしまったのであろうか。これについては古生物学の書物にも何も論じてなく、生物学者の間にも何の特別の説もなく、普通にはこれらの動物よりもなお一層優れた動物が現われてきたために生存競争に敗れて亡びたのであろうと簡単に考えられていた。しかしこれに対して丘浅次郎は次のような重要な考え方を示す。 [#この行1字下げ]「一時絶対の優勢を保ち得た動物種属を内から働いて滅亡せしめた原因は何であるかと云ふに、我らの見る所によれば、何れの場合にても必ず初め其の種属を急に勃興せしめた原因と同一のものである」(同書、三二八ページ)  丘浅次郎に対するすぐれた解説を書いた筑波常治氏によれば、「栄えるのに有利だった要因が、ある程度をこえたところで逆転し、不利な要因にかわってしまう」というのはダーウィンにも見られない点だそうである(同上書、四四八ページ)。丘の説明は十分に説得力のあるものである。体が大きくて力が強かったために他の動物に打ち勝った動物について言えば、たしかに喧嘩して生き残るという生存競争には都合がよいが、ただ生きていくだけで多量の食物を要し、成長に多年を要し、蕃殖《はんしよく》も遅くなり、動作ものろくなる、というマイナスの点が出てくるので、生存競争の利点だったものが、一転して、生存のための弱点になってくるのである。牙の大きく鋭い動物も同じことで、牙だけが単独に発達しうるものではなく、これを載せるための頭骨も、顎骨も、これを動かす筋肉も、それを養う血管も共に発達せざるをえなくなって、大きな牙のために、その動物の種全体が滅亡に至るという。  丘のこうした考え方は今日では常識的になってきており、「核爆弾を発明した人類は、核爆弾によって亡ぶ」などというように、「剣によって立つ者は剣によって亡ぶ」というキリストの言葉と重ねて用いられることもある。しかし丘がこの考え方を発表したのは明治四十三年の『中央公論』であることを考えると丘の達識がよくわかるのである。更に丘は、次のような、当時としては誰も言いえなかったような発言をするのだ。 [#この行1字下げ]「〔牙や角の大きさも〕一定の度を超えると、恰《あたか》も不相当に多くの海陸軍を造つた貧乏国が、武器を維持するために重税を課する結果として、総べて他の方面が疲弊し、終には国全体が衰へざるを得ぬ如くに、やはり生存競争には却つて不適当なものになつてしまふ」(同上書、三二八ページ)  この丘の観察は日露戦争以前になされたものであることに注目したい。当時の貧乏国日本は、ロシアと戦うために、国をあげて国の牙ともいうべき軍備の拡大をやっていたのであるから。しかし私は、日露戦争までの「日本の牙」の生成はプラスに働いていたと思う。とにかく日露戦争によって白人の植民地主義にピリオドが打たれたからである。しかし丘が優勢な動物について観察したことが、日本にも起ったと思う。歴史をあとから悔むのは愚の骨頂だということは十分自覚しているのだが、それでも、日露戦争の終った時点で、徴兵制を廃止して志願制にできたら、その後の大悲劇はなくてすんだのではないかと思うのである。しかし当時、徴兵制を志願制に切りかえよ、という声はなかったようだ。日露戦争後の日本の陸海軍は、東亜の陸海において無比の大勢力だったのであり、牙としての役割は果しおわったところだったのに。  日本の軍事史をふりかえると、いつも誇りと痛恨が混じり合う。しかしここで憶い出してもらいたいのは、明治の日本が最も大成功を収めた軍事改革とペアになった車輪として教育改革があったということである。日本の学制が明治以来、大成功をとげ、識字率が世界でもっとも高い国の一つになったことは、現在の日本の繁栄の基礎としても高く評価されているところである。しかし明治日本が、義務|兵役《ヽヽ》と義務|教役《ヽヽ》を車の二輪として出発し、一輪の方は一定の度を超えて大きくなりすぎ、国を転覆させた。しかしもう一輪の方は大丈夫なのであろうか。いな、そこには憂うべき徴候がいたるところに、歴々と出ているのである。試みに、丘浅次郎の一文の中の「海陸軍」を「学校」に、「武器」を「教育」に置きかえて見給え。 [#この行1字下げ]「之も一定の度を超えると、恰も不相当に多くの学校《ヽヽ》を造つた貧乏国が、教育《ヽヽ》を維持するために重税を課する結果として、総べて他の方面が疲弊し、終には国全体が衰へざるを得ぬ如くに、やはり生存競争には却つて不適当なものに成つてしまふ」     2  ある時点まではその種族、国家、組織などにプラスに働く要因になっていたものが、一転してマイナスに働くようになる段階がくることは、丘浅次郎の生物進化の類比が示す如く、周囲を観察すればどこにおいても多かれ少なかれ見受けられるところである。類比をレトリックと言って嫌う人もいるが、やはりどうしても適切な類比というものはあるのだ。たとえばある程度以上の数の人間が群をなして住むようになれば、必ずその集団のための仕事をやってくれる人が要る。その集団が小さい時は、村の世話役みたいな人で間に合うが、大きくなれば、役場が必要になり、市役所が必要になり都庁が必要になる。そして|ある時点までは《ヽヽヽヽヽヽヽ》その役所の人手の増えることが、仕事の能率やら住民の便益を増すことに連なるであろう。しかし役所の人手がそのまま増え続けると、牙が大きくなりすぎたのに、しかも大きくなることをやめない牙を持った化石時代の虎みたいに、牙を支えるだけのために体中の栄養が取られてしまって、その虎自体の生存がなり立ちかねるということは、東京都をはじめとする多くの自治体に明らかに見られてきていることである。これだけ沢山の住民税を取り上げながら、住民のためにやる事業費はほとんどなく、人件費のみになるなどというのからはじまり、ニューヨークみたいに、税金を出す事業体や個人が逃げ出し、税金のおかげで生活する人が居残るという破局的徴候を出している町も出てくる。ニューヨークなどは看板都市だから国が支えてくれているが、そのうち完全破産の都市が出てくるという予測の確実性は、ますます高くなってきている。  ここで重要なことは、軍も役人も福祉政策も、それ自体は文句なくよいものなのであるということである。軍については現代では存在そのものの意義を認めないという議論もある。しかしどの国でも精強な軍隊を持つことを悪とはしていないようであるし、特に、明治の日本においては、逸早く精強な近代的軍隊を持つことのみが、白人先進国に植民地化されることから国民を守り、かつは不平等条約を改正するためのもっとも確実な道であるということに、広汎な国民的合意があったと言ってよい。それはちょうど、今日、国民の福祉向上政策に対して広汎な国民的合意があるのとまことによく似ている。明治は兵力の強化がまごうかたなき善だったのであり、現在は福祉政策の強化がまごうかたなき善なのである。しかし福祉政策に関しては、今日でさえすでに、福祉先進国の欠点が露出してきたこともあって、警戒的発言を出す人もでてきた。  この中にあって、ひとり教育だけは、その「充実」の価値について、批判を受けることなく、進化《ヽヽ》し続けているもの、あるいは肥大化し続けているものである。公立学校の教員の給料を特別よくしようという田中内閣の人材確保法に反対する声はきこえなかったし、今回、一教室の子供の数を四十人以下にしようという日教組の提案に、文部省も反対しなかった。対外者が反対しないくらいだから世論の反対も無きが如くである。大蔵省は財源難を理由に渋っているかも知れないが、それは「無い袖は振れない」という論法であって、一教員当りの生徒数を少なくしようという趣旨に反対することはないであろう。たしかにわれわれの年配以上の人たち、戦前の学校の記憶を持っている人たちにとっては、学校は善そのものであり、学校が拡大強化されることは善が大になることであって、大きければ大きいほどよいということになる。しかしここにも例外はないのだ。いかに甘美な追憶をさそう「よきもの」であっても、ある時点から、整備に金をそそいでも効果の上り方が思うようにならなくなり、そのうちさっぱり上らなくなり、ついに害を生むに至るのである。すでに拡大の努力も、充実の努力も、一向に利点を産まず、むしろ弊害の方が多くなっている段階に日本の教育制度は到達しているのではないか、というのが私の懸念なのである。  教育に対する私の先入観念が最初にゆすぶられたのはもう十何年か前のことである。高度成長経済期がはじまって間もない頃であったと思う。それはささいなことであった。私は知り合いの婦人が連れて来たお手伝い志願の若い女性に会って、その話を聞くことになったのである。彼女は雪国の田舎の中学を出て東京近郊の繊維工場に勤めていた。ここで戦前派は女工哀史を連想するところだが、戦後は全くちがう。寄宿舎完備で高校に通う配慮までなされているのであった。驚いたことに、まさに会社のこの配慮が彼女のやる気をなくさせたのである。 「やっと仕事ができると思ったのに、まだ学校があると思ってがっかりした」  というのだ。働くことはいやでないけれども、学校がいやで仕方がないから、学校に行きたくなければいかなくてもよいお手伝いさんになりたい、というようなことを言った。「進学を喜ばない子供たちがいる」ということは正直のところそれまでの私の想像したことのないことであった。戦前は、誰でも旧制中学や旧制女学校への進学を熱望したと考えられていた。しかし家庭の状態からそれを断念せざるをえない子供が圧倒的に多く、進学できた子供は幸運な少数者であって、みんなに羨ましがられたはずであった。幸運な少数者は、選ばれた者であることに誇りを抱くと同時に、その幸運を分たざる大多数の級友に何となく済まないような意識を抱いたものだった。中学や女学校への進学の機会を与えられる、ということは戦前の子供たちにとっては、特に貧しい家の子供たちにとっては、目くるめくような幸せであって、そのさし出された幸運をこばむことなど想像できないことであった。  それだから例の繊維工場の経営者側も、田舎からきた少女たちが高校、つまり旧制の女学校に通えるようにしてやったことを最高の思いやりと考えていたのであろう。経営者たちは戦前派だったから。そしておそらく社長は旧制中学に進学したくてもできなかった人だったかも知れぬ。この女工員を高校に出すという制度は、それをはじめた当初は、中学側にも少女たちにも喜ばれ、人員募集の一つの目玉だったのであろう。何しろ学校の先生の多くも、戦前の旧制中学には家庭の事情で行けず、志を立てて授業料無しの師範学校に進むことによって向上心を実現した人たちだったし、その気風は、戦後もしばらくは相当濃厚に子供たちの間に残存していた。私もすべての人は進学を望むと思っていたのである。そこに例の少女が現われたのであったから、自分が学校というものに対して抱いていた公理みたいなもの——すべての日本人は進学を欲する——がゆすぶられたのである。  今でこそ進学をしたがらない青少年がかなりいる、ということは常識である。しかし今から二十年ぐらい前だとそうではなかったものなのだ。加藤周一氏もその自伝『羊の歌』の中に、よく出来る同級生の子供が家庭の事情のために旧制中学に進めなかったことを実にパセテックに書いている。誰でも実社会に出るよりは、上級学校に進むことを望んだと考えられていたものだった。そういうことを大人たちが前提としている社会では、学校制度の拡大・充実が、巨大化の停まらなくなった化石時代の動物を思わせるような進行を続けるのである。すでにこれ以上の巨大化は無駄だし無理だと、|教育される当人たち《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が、いろいろな形で意志表示を示しているにもかかわらず。     3  仕事の実体は縮小したり変容したりしているのに、それに投じられる人員と費用だけは確実に増加していくことを、パーキンソンは擬似数学的公式で示した。これが「パーキンソンの法則」とよばれることは周知のことだが、このパーキンソンの法則が当てはまらない領域がある。それは私的企業である。私的な企業は、有用性を超えても組織が肥大し続けると、その企業の収益が下る、という誰でも見落しえぬ警報システムが作動し出すので、マケロヅス虎のような牙が生えるとすぐ抜くことを考える。だから組織の拡大・充実による空洞化や滅亡の危険のあるのは、税立諸学校制度と考えてよい。税立学校という呼び方はまだ普及していないが、国立とか都立とか市立とか公立とか言うよりも、国税立、都民税立、市民税立といった方が、その設立の根拠がより明らかであるのでそのように呼ぶことにしたいと思う。公立とは即《そく》税立である。この呼び方をはなはだしく嫌うむきのあることはよく承知しているが、それは公立が税立にすぎないことが明示されると、はなはだ工合の悪いことが生ずるからである。だいぶまえにある私立大学の理事者から次のような話を聞いたことがある。 「新しい理工学部を作って、国立大学から先生方に来ていただいたところ、センスがちがうので当惑することがよくありました。古くからある学部では私学の校風になじんだ方が多く、なるべく予算を使わないでやるのを当然のこととしておられましたが、新しく来られた方々は、国立の習慣らしく、大きな予算を取るのが手柄という考え方なのです」  もちろんある種の研究にはある種の実験設備が必要なことは当然で、したがってそれを要求するのは正当なことである。ただ、税立大学の場合は、支出の無限増大に対する警報システムがないのに、私立大学では、たとえ公費(税金)の援助があったにせよ、過大支出については感度のよい警報システムがついているという例にこれはなるであろう。アメリカで「タクスペイヤーの建てた学校」というのと一脈通ずる単語はやはり「税立」である。  日本の教育予算は着増であり著増である。どのようなカーブをえがくかは教育統計の専門家にお任せするとしても、明治以来の教育制度の普及と効果があまりにも顕著であるので、今さら、いかに肥大化だと言ったところで、それに変るシステムは考えにくいという主張があるであろう。何しろ現にあるもの以外のことは想像しにくいのが常なのであるから。  ここで一つ『三浦老人昔話』(岡本綺堂)から、維新の少し前の頃の寺子屋の様子を引用してみよう。 [#この行1字下げ]「小身の御家人たちは内職ですが、御家人も上等の部に属する人や、または旗本衆になると、大抵は無月謝です。旗本の屋敷で月謝を取ったのはないようです。武芸ならば道場が要る。手習い学問なら稽古場が要る。したがって炭や茶もいる。第一に畳が切れる……歌がるたの会をやる。初午《はつうま》には強飯《こわめし》を食わせる。三月の節句には白酒をのませる……師匠は相当の物入りがあります。それで無月謝、せいぜい盆正月の礼に半紙か扇子か砂糖袋を持って来るぐらいのことですから、欲得ずくでは出来ない仕事です。ことに手習い子でも寄せるとなると、主人ばかりではない、女中や奥様までが手伝って世話を焼かなければならないようにもなる。毎日随分うるさいことです」(「旗本の師匠」)  これをまくらにして赤坂一ツ木の市川という二百五十石の旗本の話が語られている。この旗本は持明院流の字がうまいので自腹を切って手習いの師匠をやっていた。奥さんも娘もそれを手伝う。そして武家の子どもに限らず、町人職人の子供でも弟子にとった。師匠が旗本でも、師弟関係は別物で、武家町人の差別はなく、大工や魚屋の子供が稽古にきても、旗本の殿様が喜んで教えたものだったそうである。男の子と女の子は席の区別はするが、どっちも弟子にとる。  こういうアマの師匠は、たいてい二、三十人ぐらい教えたが、プロの師匠でそれで生計を立てている人は六、七十人から二百人ぐらいまで教えたらしい。もちろん今とちがって正確な統計があるわけではないが、ともかく明治五年に義務教役が施行(学制頒布)される前に、日本の都市部はすでに世界最高の識字率になっていたと推定されるのである。また習う側の意欲も盛んであった。税金のいらない効果的な学制の根はあったのである。  このような下地があったので、新教育制度はスムーズに全国に行きわたり、どんな山村にも学校が立ち、制度の拡大・充実が、そのまま効果の増大に連なる幸運な時代がきたのである。しかしここで忘れてならないのは、旧幕時代の寺子屋には、パーキンソンの法則の心配はなかったのに反し、明治以後の学制についてはその心配が大ありなのだ。そして心配事は財政的なことにとどまらず、もっと重要な人間的な面に及んでいるのである。     4  義務教役組織の破滅的な拡大・充実から逃れる方法はあるだろうか。それはある。ただそれを義務にすることを止めるだけでよいのである。今までの教育の「組織」を廃止する必要はない。教育を受ける側の「子供」(親権者)たちに、自分が受ける教育の形態を選択せしめる自由を与える、あるいはその自由を恢復してやるだけで十分なのである。これによって実際に教育を受ける者たちは、今日の教育問題の大部分から、容易にのがれうるし、また、同時に今日の教育問題が架空の問題であることが明らかになるであろう。  まず第一に世を騒がせている「教育権は誰にあるか」という問題である。国にあるのか、教員にあるのか、子供(親権者)にあるのか。理屈や理論はいくらでも立てられそうである。しかしこの議論は義務教役を前提とした時にのみ成り立つ話であることは、今、義務教役というワクをのぞいて見たらすぐわかる。子供の教育権は先ずその子供を産んだ親にあること、それ以外のどこにもないことは明々白々であろう。こんなことは旧幕時代の人でも知っていた。どのお師匠さんにつけるかは、その子の親の判断による。お師匠さんが教育権を行使できるのは「親から委任されている限りにおいて」であって、親が「あのお師匠さんは駄目だ」といえばそれでおわりである。  封建時代にあった自由が、かえって近代になって奪われた例はいくつかあるが、参考のためにもう一つあげておけば兵役である。百姓を足軽に徴発するという事例もあったが、全国的に組織的に兵役を義務化するというのはフランス革命が後世に残した害悪の一つであった。なるほどこれによってフランス革命軍は一時は軍事的に大成功を収めヨーロッパ大陸の多くを支配したのであったが、これと対抗して他のヨーロッパ諸国も徴兵制を敷いたため、パリがその後、二度も三度も陥落し占領されるようなことになった。注目すべきことは、明治の日本が国を開いた時、欧州はちょうど徴兵に基づく軍備拡張の時代だったということである。日本の徴兵の詔勅(徴兵令公布はその翌年)と学制頒布が同じ年であること、兵役と教役は近代化の車の両輪であったことは何度も指摘しておかなければならない。そして「兵隊にならない自由」がなくなったと同様、「学童にならない自由」もなくなったのである。大都会は私立学校もあって、多少の選択の自由もあるのだが、そうでない場合は親にも子供にも全く選択の自由はなくなるが、これは日本の大部分の地方に当てはまる実情なのである。この実情を教育における不動のことと錯覚して、「教育権は国にあるか教員にあるか」などと、当人抜きで専門家たちが議論しているのである。  第二に、教員組合の政党支持の問題がある。日教組の主流派は社会党だそうである。これに対して反主流派は共産党だそうである。政治について個々の教員がどんな意見を持とうと全く自由であるが、その教員を組織する団体が極めて明確なイデオロギーを表明している政治結社の羽翼であるのはどんなものであろうか。日教組が自民党と結んでいるなら、自民党自体がいろんな考えの人のよせ集めで、共通項に自由と民主があるぐらいの多様な集団であるから、まだそれほどおかしくないが、そうだとしてもやはり、政党と日教組が不可分的に結びつけられることは面白くないことである。特に社会党は反米親ソや反米親中の一連の政治運動を平和運動と同意語に使ってきた政党である。その特殊な意味で用いている「平和」を、義務教役で徴集された子供たちに教えようとしてきているわけである。しかし戦後の選挙は、一貫して過半数以上の国会の議席はそういう「平和主義」をまやかしだと考え、親米を党是とする政党によって占められてきた。おおざっぱに言えば、子供たちの父兄の大半は社会党の、つまり日教組の政策を支持しない。自分たちの政策を支持しない親たちの子供を、義務教役で集めて、反米親ソを吹きこもうというのはまことに大それたことではないか。ただ教育の場での被害が、それほどでもないのは、それは大部分の現場の先生たちが、名目上は組合員であっても、実際には常識的にやってくれているからである。     5  こうした教育論的、政治論的な問題のほかにも、今日みんなを悩ませている多くの問題が、義務教役を志願教役にするだけでやむのである。  そこで第三に、教育に対するとめどもない予算の拡大のおそれのことになるが、これはすでに述べたところから明らかなように、肥大化はそこでとまるのである。義務教役をやめにした結果、登校児の数が増えるということは決してない。パーキンソンの法則によって、親方日の丸的な組織はその成長をやめることがないとされるが、たまには例外がある。それはナポレオン戦争後のイギリスの陸軍で、非常に短い時間に、戦争中に水ぶくれになった兵数を約十分の一にしてしまった。そういう思い切ったことをしなかった国は、その後一世紀ぐらいの間に、すべて敗戦国になっている。今、思いきって志願教役に切りかえるならば、ナポレオン戦後のイギリスのような幸せな例外になるかも知れない。  第四に、学校と塾、学校と稽古事という、多くの親や子を苦しめている問題も義務教役を志願教役にかえてはじめて問題でなくなるのである。今の児童が学校とか、自宅とか、塾とかで勉強を強いられている時間の長さは、児童福祉法の精神を全く無視したもので、産業革命の頃のイギリスの炭坑で働く児童労働者以下の状態であることは、ほかでやや詳しく論じたことがあるので繰返さないが、この問題は、要するに、塾に行きたいが、学校にも行かなければならない、ということに帰着する。子供の生活が毎朝起きた時から、午後の大半を義務的に学校によって取られてしまうから、ほかのことができなくなってしまう。先進国では学校は昼までにするとか、宿題は出さないとか、児童の負担を軽くするための配慮がなされているところもある。ところがわが国はちがう。しかも日本の特別の点だと思うが、学校の先生は、子供が自分の学校以外のところで教育を同時に受けていることをはなはだしく嫌う傾向がある。ちょうどいま手元にある週刊誌に、子供たちをいわゆる有名校に入れた親たちの意見を特集したのがのっているが、いずれも子供が在学している学校向けの対策が一番困ったと言っている。私がかつて中学校の教師をしていた時、楽器の練習やら、演奏やらのために、たまに欠席したり宿題をやらなかったりする生徒がいた。当時の私はあまりいい気持がしなかった。何だか自分が馬鹿にされた気持なのである。それで学校の先生が、自分の生徒に対して一種の嫉妬深さを持つ気持がわからなくもない。しかし考えて見ると、その生徒には自分なりの将来があって、音楽家にでもなる素質があったのであろう。クラスにはあるいはまた日本舞踊の先生にでもなるつもりの生徒もいたのであろう。英語教師であった私も彼らの一生が何より大切なのであると悟って、こちらはなるべくその便宜を計ってやり、彼らの希望が実現するよう祈ってやる気持を持つべきだった。しかし現実に学校は生徒に対して嫉妬深いものである。個々の生徒の未来の夢を叶えてやるよりは、むしろ、現在の学校に、他の種類の教育がまじらないような、モノポリィの状況を望む。塾に通っていることや、稽古事をやっていることを学校にはなるべくかくさなければならないと、例の親たちは憤慨していた。この人たちは義務|教役《ヽヽ》の意味を実感したに違いない。それは否応なしに服役すべきものなのである。この役務がなければ、大っぴらに子供は自分の選択にしたがって好きな勉強や稽古に集中もできるし、遊ぶための時間もうんともてるのである。  第五に登校拒否児とか、いわゆる落ちこぼれ児の問題の解決ということがある。一般的に、出来る子が特別に学校外で勉強することはいやがる先生も、できない子に対する補習的な塾は歓迎する。ある新聞社主催の教育問題の討論会で、できない子供のための塾の先生が、「そのような子供に解らせる努力をしないで、よくも前に進めるものだ」というような発言をすると、正規の学校の先生がとたんに意気が上らなくなるのを面白いと思って観察していたことがある。義務兵役に合わない人間の数も少なくなかった。そのため丙種などもあったのである。しかし義務教役には丙種も丁種もなく、例外的児童を除くと一律に甲種合格扱いなのだ。学校の進度が早くて何ともついていけないと感ずる子は少なからずいるはずである(だから平均よりうんと理解の遅い子供に理解させることなく前に進む先生に私は同情的である)。彼らは授業が自分の理解に合わないと感ずるが、このことは深い劣等感と厭世感を与える。世の中は老いた人や貧しい人の気持に同情的であるのに、どうして毎日毎日、かなしい気持で教役を強いられている多くの児童たちにはそれほど同情的でないのだろうか。同じクラスの半分くらいの者ができるのに、自分ができない悲しみ。女の子とは競争したくないという正常な本能を持った男の子や、自分のできないことを男の子だけには見られたくないという女の子など、まあ、登校を拒否したくなる理由は山ほどある。「そういうのに適応するようにするのが教育だ」という考え方もあるが、それは義務教役のワクさえとればほとんどなくなるのだから、無理に悲しい気持の子供を作ることはない。A happy youth is in itself an end(幸福な若き日は、それ自体が目的である)とは私の好きなレキーの言葉だ。「何かになるため」の手段としての子供の期間があるのでなく、子供の時に幸福感のある日々を送ることが、それ自体で立派な目的なのである。自分の程度に合わせて進んでくれる私塾に行くだけでよいなら、何万人、何十万人の子供たちが幸福感の損なわれない子供の時期をすごし、しかるべき職業に入れるのである。     6  義務教役を志願教役にすることによって得られる利点を並べ立てればきりがないが、多少、これについて危惧を抱かれる人もあると思うので、あらかじめその主なるものに答えておきたい。  まず、志願教役制度の何について危惧するのか、ということであるが、教育から画一性のなくなることをおそれるのであれば、そのおそれには根拠がある。画一的な国民を作るのに義務兵役が一番よいように、画一的な子供を作るには義務教役が一番よいからである。しかしむしろおそろしいのは、日本中に画一的な子供を作ることなのではないか。  世界中の国家がむしろ教育の強化に熱心であるときに、日本だけが反対に見えるようなことをやっても大丈夫か、という心配もあろう。この点において日本は例外的に幸せな国である。旧幕時代にも自発的に都市から読み書きのできない人間をほとんどなくした国民だ。危険はむしろ画一化による過熱にあるのであって、多くの外国のように、放っておくと何百万、何千万の読み書きのできない人間が生ずるというのではないのである。今まで通りの学校に行きたい人はそれでよい。自宅修学やら、私塾やらで済ませたい子供はそれでよし、とすれば、もっと個性豊かな子供がうんと出るに違いないのだ。マイ・ペースに合わせた時に一番よく才能が出ることは当然のことである。それでなくとも均質度の異常に高い日本では、苛烈などんぐりの背くらべ競争になり易いのだから、異質の教育法で育った人間が多いほど、息苦しさがなくなって、今までの学校もうんとのびのびしてくるはずなのである。  そんな風にしたら、そうでなくても学力の下っている子供が多いのに困ったことになりはしないか、というおそれに対する解答はもっと簡単である。今の中学校で、小学生の分数問題が解けない生徒が、数パーセントでなく数十パーセントいると聞いているが、これは、小学校の課業をマスターしていなくても、中学を容易に卒業できることを示すものであって、「いまより悪くなるのではないか」などという心配はおかしいのである。志願教役にしてもどうせこれ以上は悪くなれないのだ。  もしどうしても必要なら、小学程度、中学程度の検定試験をやればよい。かりに小検、中検と呼んでおく。昔の専検などは無暗にむずかしく、ほとんど残酷と言えたものらしいが、今後の小検や中検はそんな必要はない。今の学校だって3と2だけでも平気である。あまり程度の高くない学校の3ぐらいの子供を目やすにした問題を、テスト屋にでも委嘱してやってもらえばよいであろう。そしてあまり1ばかりだったら、もう少し頑張って三カ月後ぐらいにまた受けさせたらよい。教育委員会が自分で問題作成までやることはなく、テスト屋委嘱で十分であると考える。  最後になぜ私が義務教役に終止符をうつことを主張するのか、その理由を生涯教育の立場からつけ加えておきたい。  誰しも定年はいやなものらしいが、大学教授とてもそうらしい。しかしほかの仕事とは異なって、大学教授が定年をいやがったり、こわがったりするところに、明治以降の教育の欠陥が特によく出ているように思う。まず大学教授の定年は税立大学で六十二、三歳であるが、たいてい私立やその他格が落ちると一般に考えられるところに再就職するので、まずは七十歳定年と考えてよい。普通の社会で七十歳だったら、創業者社長以外は重役でも残ることはまれだ。私の知っている人にも創業者社長でかなり大きな会社を作り上げ、一度も配当をし損ねたこともなかったのに、七十ちょっとすぎで社長を退いている。経営にミスがあったわけでも健康に欠陥が出たわけでもないが、やはり七十越えたら後進に道を開かないといけないというわけである。だから本質的にはサラリーマンの大学教授が七十歳まで勤務できるのは極めて恵まれているのであって、文句の言える筋ではない、と世の中の人は思うだろう。  ところがあにはからんや、なのである。定年に達した老教授たちに、大学の規定通りに退職を願う立場にあったある大学の若い教授の話によると、どの人も、七十歳でやめさせられることに対して憤懣やる方ない気持でいるとのことである。そして「俺は絶対やめぬ」とか「おれの生甲斐は教えることだ」と言ってゆずらない、という有力教授も中にはいるという。もしどうしても大学に出てこなければならないという経済的事情があればそれは同情に値するが、どうもそうではないらしいのだ。つまり何もすることがないから学校へ教えに来たいのである。しかし常識で考えても、一人でいたら何もすることのない老人から、どうして大学や大学院生が学問を学ぶことができるのであろうか。教えることができたのは、単位制を持つ大学が制度的に支えていてくれたからに過ぎない。制度のつっかい棒を取ればすでに単なる老人になってしまっていたのである。  ところが旧幕の学者はそうでない人が多かった。制度に支えられることなしに、老いてからも天下の若者が押しかけてくる大儒者がいくらもいたのである。伊藤仁斎とまでいかなくても各地方にいた。かえって幕府が支えた林家などは、はじめの方はよかったが、あとになると今の定年教授みたいな人が大学頭になっていた。幕府であれ政府であれ、制度に支えられただけの学者は、その地位にあるときの実力——多分に社会的権威——が案外身についた学問的権威でないので、ポストと共に学問も去って、一人になったときにはやることがない、つまり若い者の方で押しかける魅力が裸にすれば何もない、という例が少なくないらしいのである。  これに反して、国家の制度が何も支持しなかった稽古ごとなどはどうか。家元制度などは悪口ばかり言われているが、飲んだくれの婆芸者から、大臣級の人まで一生通わせ続けさせるだけの力がそこにはある。西洋から入った学問は、学校を卒業すると関係ないという人が多い。それなのに義務教役を受けていた頃は、学校の先生に気付かれないようにこそこそ通ったお稽古事の方は、死ぬまで続く、というのは面白いことである。  もう一つ顕著な実例をあげれば、某国文学の教授は、七十歳で定年になってからやることがなくなり、怒りやすい老人にすぎなくなっていた。形式教育の中は秀才で通り抜けたが、俳句を作らず、和歌を作らず、そして楽しみのための読書も青年以来あまりしていない。彼が本を読んだのは仕事のためだったのである。  そのかたわらに旧制の高等女学校しか出ない老婆が住んでいる。老いてから和歌を作ることに喜びを見出して、ある歌の結社に属している。そのうちその和歌を吟詠することに興味を持ち、吟詠の先生についた。吟詠は一般に稽古料が安い。そこで彼女は漢詩の吟詠も習った。学校では漢文を習ったことがなかったが、吟詠していると、その難しい漢字の意味も、詩の情趣もよくわかるようになった。それで漢詩を暗誦することに喜びがある。例の退職したもと国文科の教授は、暗誦している和歌や漢詩の数が、この老女に遙かに及ばないのである。老女は和歌や漢詩の世界に遊んで老いの退屈を知らないでいるのに、もと国文教授は、専攻したはずの文学の世界に遊ぶほど文学が身についていないのだ。これは実例である。戯画的とも言える話だ。  もちろん退職しても専門の分野で、また趣味の分野で活躍し続けたり、趣味の世界で遊んでいる老学者もいるし、何らなすすべのない老女も多いから一概には言えない。確実に言えることは、義務教役の線上にある教育の与えるものよりも、私塾的線上にある教育の方が人生的価値において劣ることはないらしいということである。  今の義務教役の定食メニュー的カリキュラムで何でも少しずつやるのがよい、と思う人にはそれを選択させればよい。しかし国語の教育を和歌と素読からはじめ、それを暗誦させて、しかもちゃんとした書法で毛筆書きのできる私塾で国語を習わせたいという人もいるはずである。音楽もちゃんと演奏する実力のある人につけ、将来はそれで身も立つようにしたい、という人もいるであろう。数学も小学生で今の大学程度の問題を解かせてくれるところに行きたい人もあろう。ところが現行の教役が義務的に押しつけられている限り、時間も体力も余裕が少なく、しかも教育の画一性の故に本来は末梢的なはずの入試だけが過熱してきているのだ。日本の義務教役制度は、過去においてはあきらかに有効であったが、発展しすぎてある時点を越えてしまったようである。一日も早くそこから離脱しないと、拡大・充実しすぎた制度をかついだまま、国民がつぶれてしまうことになるであろう。 [#改ページ]     あ と が き  雑誌に書いたものを集めて文藝春秋社から出していただくのは、『文科の時代』、『腐敗の時代』、『正義の時代』に続いてこれで四冊目になる。現代という時代の特徴はいくつかあると思うが、それは文科への推移が目につき、政治や社会の腐敗が構造的であるとされ、正義が叫ばれる時代であるので、そうした単語に「の時代」をつけて小論集の書名としてきたのであった。今回もそういう題名にしてもよいとも考えないでもなかったが、巻頭論文の題名をとって書名とした。私が言っていることは、たいてい常識的な判断にもとづいていると思うので、本全体の内容を示しているのではないかと思う。  参考のために、収録された小論が書かれた事情を簡単にのべておくことにする。 「新常識主義のすすめ」(『諸君!』一九七七年二月号)は常識の本質について考えて見たものである。われわれが高校生の頃は、戦後の哲学づいた一時期で、西田幾多郎全集を買う人が長蛇の列をなした、と言われたぐらいである。田舎の新制高校生も何となく哲学づいて哲学書を何冊か買いこんで読もうとしたが、ほとんど歯が立たなかった。今でもはっきり覚えているのは田辺元博士の『哲学通論』(岩波全書)に一週間ばかり喰いついて、ほとんど何も理解しえないことに絶望して巻を閉じ、たまたま田舎に行っていた母を迎えに出かけた時のことである。丁度、雪どけの道で、道路にはところどころ土が出ていた。よく晴れた早春の日光が、田に残っている雪に反射し、田辺哲学との格闘に疲れた目に痛かった。春先の陽光に、本来ならば胸がはずむはずの雪国の少年の心は、「みんながわいわい言う哲学が全くわからなかった」という体験のために一向に浮き浮きしなかった。  哲学はわからないものという考えを一変させてくれたのは、上智大学に入ったばかりの一年生の時、哲学概論を教えて下さったフランツ・ボッシュ先生である。先生は哲学概論といっても、認識論のみを丸一年、あるいは懇切丁寧に、あるいは挑戦的に、またあるいは刺戟的に教えて下さったのである。ボッシュ先生は批判的実在論という自分の認識論的立場を明示なさった上で、西洋の著名な哲学者の認識論の欠陥を指摘することもなさった。「とにかく批判的実在論の立場がわかってから物を言え」という授業であったが、一つの強力な哲学的な立場がよくわかるということは大したことであった。そのおかげで他の哲学の立場が、批判的実在論と、どういう点で違うか、ということを目安にして理解し易くなったからである。  ボッシュ先生が参考書としてすすめられたのはエーリッヒ・ベッヘルの『哲学入門』の上巻「認識論」(豊川昇訳・創元社)であったが、先生の講義が終ってからは、下巻の「形而上学」を読んだり、それからそれへと、いろいろな哲学書を読んで今日に至っている。その間、人生論風のものから、カントの『判断力批判』のようなものまで、かなり勤勉に読んだ。ひところの哲学青年はボッシュ先生のおかげで哲学に幻滅することなく哲学中年になった。その哲学中年が常識というものを「捨象」という抽象能力との関連において考えて見たのが「新常識主義のすすめ」である。私は哲学を自分の職業とするものでないので、現代の哲学に見られる術語《ジヤーゴン》や難しい抽象的な言い廻しは全くないはずである。これが『諸君!』に出ると間もなく、某哲学専門誌の責任者が見えられて、「哲学文献の研究でなく、自分の頭で哲学を考えていることがよくわかった。テーマや枚数に制限をつけないから、哲学的エッセイを連載してみてはどうか」というおすすめを受けた。その任でないので辞退したが、こういう表現様式のエッセイを哲学と認めて下さった方がいることを知って嬉しかった。  これを書いてから間もなく、|研究 休暇《サバテイカル・リーブ》で一年間、エデンバラに主として滞在することになった。この期間に最もよく親しんだ哲学者はヒュームである。ヒュームはエデンバラの住人であり、ヒューム研究者とも親しくなった。そして当時の哲学書——ほとんど例外なく言語問題をも扱っている——を蒐集したりしながら、ヒュームやその研究書を読んだりした。そしてヒュームが哲学によって哲学の極限を示したことと、彼の歴史についての著作はどういう関係があるかに関心を持ちはじめた。そしてヒュームが示した考え方は、われわれが生きている現代に極めて重要なヒントを与えてくれるもののように思われて来た。一年ぶりに帰国してみると、丁度ガルブレイスの『不確実性の時代』が話題になっていたが、ヒュームこそはこの不確実性の問題を理論的にも、また歴史に即しても最も徹底して考えた人である。ヒュームの基本的な態度はガルブレイスのそれとは違うが、私はこの点におけるヒュームの考え方は、もっと多くの人に知られてしかるべきものと考えて、「不確実性時代の哲学」を書いた。  エデンバラ滞在中に小林秀雄の『本居宣長』が出て、意外に広く読まれて話題になっていることを知らせて下さる方が何人かあった。『諸君!』編集部が一冊送って下さったので、読後感代りに書いたのが「古事記・宣長・小林秀雄」である。『本居宣長』が出たころに出た書評の主なるものも集めて送っていただいたのがあったが、その中には古事記が元来オカルトの本であることを意識した書評者はいなかった。宣長も小林秀雄もオカルテストと言ってよい稟質《ひんしつ》があり、この両者の妖しい魅力も、また、ついて行けなくなる箇所が出てくることも、すべてその根はオカルト体験にあると言ってよい。ではこういう場合のオカルトとは何なのか、については拙論「オカルトについて」(『文科の時代』所収)及び「戦後啓蒙の終り・三島由紀夫」(『腐敗の時代』所収)をも参考にしていただけば幸いである。 「漫画の時代」は、漫画を見て育ち、今も愛読する漫画や劇画を持つ人間の見方をのべたものである。 「進化論の受容に関する一考察」は、主として日本の百科事典を中心にして、日本で進化論がどのように受け容れられてきたかを考えたものである。子供の時に、科学、あるいは学問というものを最初に鮮明に意識したのが進化論を知った時であり、またこの進化論が科学でないということを見きわめたことが現在の私のはじまりであった。進化論は私のささやかな精神史の中では圧倒的な重みを持っている。進化論をまだ自然科学と思っている方は拙論「歴史を見る目」(『腐敗の時代』所収)を御覧いただきたい。上智大学では「アングロ・サクソン文明」という特殊講義で私は西洋における進化論の問題を扱ったことがあるが、進化論とは一体何であったのか、また何であるのか、いつかゆっくりまとめてみたいと思っている。 「百科事典の旧版について」は、やはりある意味で進化論と関係のないこともない。百科事典の新版が必ず旧版より進化していると考えておられる方は、かつての私のあやまちを犯していることになる。自分の関心ある分野によっては、百年前の百科事典の方が、現行の百科事典より何倍も役に立つのである。 「モーツァルトとその時代」と「紛争の内容と形式」は、いずれも三十年戦争からフランス革命までの時代こそが、特別な時代という認識から出発している。『ドイツ参謀本部』(中公新書)を書いていた頃、この時代の戦争様式が、その前の時代ともその後の時代とも全く異なった形式美のある戦争であったことに深い感銘を受けた。そして正にこの時代こそがモーツァルトの時代であり、モーツァルトのような人がその後は出ることができないことも、その時代の戦争の形式からわかるような気がしたものである。つい二週間前に私はモーツァルトの生誕地であるザルツブルクに国際会議のため一週間滞在し、モーツァルトの音楽を聞かない日はなかったと思う。この小さな都市がどうしてこのような景観美と文化的な厚みを持ちうるのか、ただただ感嘆するばかりであった。人口十二、三万の地方都市でこのような文化や芸術の重みのある美しい町を現代のどの国も作りえない。丁度、モーツァルトを二度と産めなくなったと同様に。  二年前、加藤秀俊氏を中心にして「紛争の研究」が行なわれた時、私はこのモーツァルトの時代の戦争を念頭に置いて、紛争の内容と形式にはある相関関係があるのではないか、という仮説を組み立てて見た。すべての紛争がモーツァルトの時代の戦争のようになれば、紛争も悪くないのだが、と思う。 「日米ファカルティ雑感」は十年前に、アメリカで一年教えて帰って来た時の感想である。丁度当時は大学紛争のおさまり切っていない時であったので教授会や、学園警備に呼び出されることが多かった。幸いにして私の大学では紛争は間もなく完全におさまり、文学部教授会は月に一回で、しかもたいてい一時間ぐらいで見事に処理されてきている。また学校の雑事も可能的に少なくなっているので、今の上智大学には、この雑感を書いた時の心配はなくなった。しかしこの雑感にのべた心配が実際に起っている学校も少なくないようである。 「ファカルティの憂鬱」は筑波大学の出発を契機として、税立大学の再開発が進み、私立大学が更に辛い立場になるのではないか、と心配した頃に書いたものである。しかしその後、状況は一般に私大に明るくなってきているようである。それは国の私学助成が進み、また私学自体の努力も稔ってきたことにあると思うが、しかし今の形で助成が進むことは私学の半税立大学化になることであるから、依然として私の憂鬱は去らないのである。 「私立大学の存在価値」は数年間、私立大学連盟の教員研修の委員をやっている間に考えてきたことを、他の委員の諸氏と論文集を作ることになった時にまとめたものである。私大連盟の事務局を通じて、日本の私立大学の事情を知ったり、他の委員や、多くの教員と意見や情報を交換する機会を持ったことは幸いであった。テレビにNHKと民放の両方があった方がよいように、大学にも税立大学と私立大学の両方があった方がよく、しかも民主主義のためには、私主官従がよいと思っている。 「戦後教育・三つの矛盾」は、日本の現在の教育の過熱状況の根本原因を考えてみたものである。それは「よかれ」と始まったものが逆の方向に働き出していること、つまり一種の逆説状況になっていることに由来すると思われる。明らかに悪いことなら除去するのが簡単であろうが、それ自体ではよいことが逆効果になっている時は対応が難しいと思う。しかしいずれ抜本的なことをせざるをえない日がやってくるであろう。 「義務『教役』からの離脱」も日本の教育問題は、欠陥よりは過熱・過剰にあるという視点から出発している。拙論「義務教育を廃止せよ」(『正義の時代』所収)にのべたことを更に展開したものである。「義務教育は日本では必要がないのではないか」という意見は、最初にのべた時はやや奇矯な意見のように思われたようであった。しかしこの頃ではそれに賛成してくれる識者にもときどきお目にかかることがある。私の孫の時代までにはそうなっていて欲しいものだと思う。  最後にこの本をまとめるに当って、転載を快諾して下さった各誌に感謝すると共に、配列その他、いろいろ御配慮をして下さった文藝春秋の松村善二郎氏に御礼申し上げる。    昭和五十四年八月 [#地付き]渡 部 昇 一   [#地付き]〈了〉  初出誌   新常識主義のすすめ       諸君!/昭和五十二年二月   不確実性時代の哲学       諸君!/昭和五十四年一月   古事記・宣長・小林秀雄       諸君!/昭和五十三年七月号   漫画の時代       文藝春秋/昭和五十四年二月   進化論の受容に関する一考察       受容と軌跡/ロゲンドルフ教授70歳記念出版   百科事典の旧版について       ソフィア/昭和五十四年春季号   モーツァルトとその時代       私のモーツァルト/帰徳書房   紛争の内容と形式       紛争の研究/農山漁村文化協会   日米ファカルティ雑感       ソフィア/昭和四十四年秋季号   ファカルティの憂鬱       ソフィア/昭和四十八年夏・秋季号   私立大学の存在価値       私立大学とは/日本私立大学連盟   戦後教育・三つの矛盾       文藝春秋/昭和五十二年二月号   義務『教役』からの離脱       中央公論/昭和五十四年三月号  単行本 新常識主義のすすめ 昭和五十四年九月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年五月二十五日刊