[#表紙(表紙2.jpg)] 渡辺淳一 ひとひらの雪(下) 目 次  花野  野分  良夜  寒露  冬野  薄氷  花冷 [#改ページ]    花  野  秋霖《しゆうりん》が夜に入って霧に変った。この数日、雨もよいの日が続くが、霧のなかにある涼しさは、やはり秋のものである。  伊織はその霧に濡れる夜の街をガラスごしに眺めながら、ロビーでコーヒーを飲んでいた。銀座に古くからあるホテルだが、まわりのビルにはさまれて、ちょっと見ると小さなレストランかと見間違う。だがこのあたりは銀座のバーやクラブの中心街で、銀座でも特に地価の高いところである。  すでに六時に近く、中二階のロビーから見える鋪道《ほどう》は車があふれ、そのあいだを店へ向かうホステスらしい女性の姿が見える。まだ雨の名残りがあるのか、華やかな衣裳を傘でおおっていく人もいるが、なかには水たまりを避けて、和服の裾《すそ》をからげていく女性もいる。これから飲みに行くのか、四、五人の男連れがそれに見とれ、そのあとを黒い蝶ネクタイをつけたボーイが駆けていく。夜に入りかけた銀座の街は、男女さまざまな人であふれ、見ていて飽きない。  伊織はしばらくその夜の景色を眺めてから、ロビーへ視線を戻した。霞との約束は六時だったが、まだ十分ほど間がある。街と同じように、ここにも華やかな女性が多い。これから客と一緒に店に入るため待合わせているらしいホステス、スカウトでもしているのか、若い女性と話しているマネージャー風の男、内緒の話でもあるのか、額をつけるように話し合っているママらしい女性、それらにまじって、男達がドアのほうをうかがいながら、思い思いにコーヒーやウイスキーを飲んでいる。男も女も、一人でいるのは、みな待合わせが目的なのであろう。  おそらくこのなかで、人妻を待っているのは伊織だけかもしれない。  あと数分もすれば、この賑わいのなかに霞が現れる。まわりには着物を着ている女性もいるが、霞の和服姿には華やかさのなかに清々《すがすが》しさがある。とくに今日は、これから踊りを見に行くのだから、きっかりと盛装してくるに違いない。  おそらく霞が入ってきたら、周りの人々はみな振り向くだろう。その女がまもなく自分の前に現れる。その瞬間が確実に近づいていることを知りながら、伊織はいま一つ気持が浮き立たない。  その浮かぬ原因が、ここへくる前に会った協和デパートとの打合わせのことであることは、はっきりしている。今日、世田谷につくるはずのコミュニティ・プラザの設計について説明したが、デパート側は最終的な契約を保留した。  今度のコミュニティ・プラザは、住宅地にデパートをつくるというユニークな企画だけに、伊織ものり気であった。いままでのように、盛り場に聳《そび》え立つ都心型デパートとは違う、田園的で瀟洒《しようしや》なデパートをつくってみたいと思っていた。事実、依頼主のデパートもそれに賛成で、伊織の思うとおり、自由に設計してくれということだった。伊織は早速、スタッフからアイデアを集め、それをもとに中間に庭園を配した円形のビルをつくることに決した。だが、いざ設計図ができてみると、依頼主からクレイムがついた。  担当の須賀部長の話では、この設計図では土地のスペースをとりすぎて、売場面積が圧迫されるというのである。それにビルのなかに中庭をとったため、正面が狭く外見が貧弱に見えるし、円形の建物は人々に馴染《なじ》みがなく、空間のロスも大きいという。  この意見に伊織はいささか不満であった。もともとビルはガラス張りの円形にして、あいだに中庭をつくるという案は、初めにデパート側で了承していたはずである。売場面積についても、デパート側が希望したスペースは確保してある。それをいまさら、中庭が余計だとか、売場面積が少ないなどといわれても困る。  今日、部長と会ってわかったのだが、クレイムは、土地の買収が初めの予定どおりすすまなくなったことに原因があるらしい。それに内部に庭園というのは贅沢すぎるとして、社長が反対したのだという。重役のなかには、円形などにせず、いままでどおり箱形の、オーソドックスなビルのほうが風格があると主張した人もいるらしい。  それなら初めからそういってくれるとよかった。全面的に任せるというから、こちらは考えたのである。  これまで、伊織は一般の建築物はあまり手がけていなかった。美術館や博物館が主であっただけに、発注先はほとんどが公共企業体で、それだけに途中で予算が削られたり、用地が変更になる、などということはなかった。  だが往々にして、民間の発注の場合にはこの種のトラブルが生じやすい。予算はもちろん、建物の趣向も、オーナーの意向で、勝手に変更させられることがある。伊織があまり、民間の仕事に手を出さなかったのは、こういう点がわずらわしかったからでもある。コミュニティ・プラザについては、相手が名のあるデパートだから大丈夫と思っていたが、その見方は甘かったようである。  須賀部長は、こちらに非があったことは認めるから、すぐやり直しをしてくれといったが、伊織はいささかやる気を失っていた。  それにしても、気の滅入ることがあった日が、霞と逢う約束の日であったとは、奇妙なめぐり合わせではある。  伊織はコーヒーを半ばほど飲んだところで、ウイスキーの水割りに替えた。霞と逢う前から飲む気はなかったが、クレイムのつけられた仕事のことを考えているうちに、アルコールが欲しくなってきた。  相変らず霧が深く、いったんやんだと思った雨が、また降り出してきたのか、ガラスごしに見える夜の街に急に傘が増えてくる。そのままグラスを手に夜の街を見るともなく見ていると、人の近付く気配がし、振り返ると霞が立っていた。思ったとおり和服で、ひき茶色の小紋に金茶の袋帯を締め、右手に萌黄色《もえぎいろ》の蛇の目を持っている。 「ご免なさい、お待たせして」 「いや、僕が勝手に早く来たのです」  まわりの視線が霞に向けられているのを知りながら、伊織は立上った。 「でましょうか」  自分と待合わせた女性が、みなの注目を浴びるのは嬉しいが、反面、照れくさいような気の重いところもある。いずれにせよ、目立ちすぎるのは考えものである。  ホテルを出ると、伊織はすぐ車を拾った。  今夜はこれから霞と国立劇場に踊りを見に行く約束になっている。年に一度のA流の家元の発表会で、他流の高弟もでる。霞は以前、踊りを習っていたが、今度の家元とは流派が違い、知るきっかけも別の人を介してらしい。そのあたりについては詳しくいわないが、家元とはもうかなり前から親しい仲らしい。  伊織は踊りに特別関心があるわけではなかったが、その家元の名前はよく知っていたので、誘われたとき即座に承諾した。 「なにか、あったのですか」  車に乗ると、待っていたように霞がきいた。 「別に、どうして」 「考えごとをされてるようでしたから」  たしかに霞が来たとき、伊織はぼんやり窓へ目を向けていた。 「つまらんことです。今日終るはずの仕事に、ちょっと文句がつきましてね」 「あなたの仕事に、文句をいう方がいるのですか」 「もちろんいますよ。僕は雇われて設計しているだけですから」 「なにが、いけないというのですか」 「要するに、全部駄目だということです」  伊織は自虐的ないい方をしながら、霞に甘えようとしている自分を感じていた。 「いろいろと大変なのですね」  車は銀座を抜け、日比谷から桜田門のほうへ向かっている。雨足はさほど強くなく、霧に煙った外濠《そとぼり》の水面に、ビルの灯が揺れている。その明りが消え、右手に暗い皇居の茂みが見えてきたところで、伊織がきいてみる。 「やはり、その踊り、見なければいけませんか」 「ご覧になりたくないのですか」 「もしできたら、二人だけになりたいと思って」 「そんな……」  霞は呆れたというように溜息をついたが、伊織はかまわず続けた。 「どうしても、見なければいけないわけでもないでしょう」 「そんなこと仰言っても、踊りを見るために来たのですから」  たしかに、今日は初めから、踊りを見るという約束であった。そのことに伊織も納得し、そのつもりで来たはずである。だが霞と逢ったいまは、劇場に行くのが億劫《おつくう》になっていた。これから踊りを見に行けば、終るのは九時を過ぎる。そのあとからでは、軽くお茶を飲むくらいで別れなければならない。 「いちおう、見たということにしておけば、いいんじゃありませんか」  踊りを見ずに、これからマンションかホテルに行けば、二人で三時間は過すことができる。 「だいたい、内容はわかっているのでしょう」 「でも、見ると見ないとでは違います。それに受付けに切符がありますから」 「それなら、いったん切符を受け取って、なかに入りましょう。ちょっと見てすぐ出たらいい」 「けど、先生の踊りは、あとのほうなのです」 「じゃあ、入ってすぐ楽屋に挨拶に行ったらいい。それなら、きたことがわかるでしょう」 「でも、見ていないのがわかってしまったら……」 「舞台の上からじゃ、わかりゃしませんよ。もしきかれたら、うしろから見ていたといえばいい」  車はお濠を右に見ながら、隼町から国立劇場へ近づいている。 「他人が踊るのを見ていても、つまらないでしょう」 「そんなこと、ありません」  口では否定するが、霞も迷ってもいるようである。 「さっき逢ったとき、あんまり綺麗だったので、急に欲しくなったのです」  伊織は前を見ている霞にいったが、それはお世辞でなく、偽らぬいまの本心であった。  劇場に着くと、会はすでにはじまっていた。受付けにおいてあった切符は、中央のやや前の席らしい。 「やっぱり、坐るのですか」  伊織がきくのに霞は答えず、正面の扉から入っていく。仕方なくあとに従いていくと、客席はほとんど満席で、舞台では一対の男女が踊っている。  伊織は踊りは嫌いではない。歌舞伎はもちろん、花街《かがい》の踊りの会にも何度か誘われて行ったことがある。だが、とくに自分から好んで行くというほどでもない。  懐中電灯をもった女性に案内されていくと、中央の前から十番目くらいの見やすい席であった。  伊織は霞を奥の席に坐らせてからささやいた。 「これだけ見て、出ましょう」  霞は答えず、前を見ている。舞台では老爺《ろうや》役の男が裾をからげ、老婆役の女が引摺《ひきず》りで踊っている。  踊りを見る度に伊織は日本の踊りほど艶《なま》めかしいものはないと思う。もともと踊りは三味線の発達とともに、室町から江戸時代に至って、いまの型に完成されたのであろうが、伊織にはその所作のすべてが、性の姿態と関連しているように思われる。たとえば中腰から反り身、さらに首の動きから足を割る型まで、さまざまな所作の原型には、男女のいとなみの姿が潜んでいるようである。  もっとも、踊り自体が素朴な庶民のあいだから発生し、花街や歌舞の世界で育《はぐく》まれてきたことを考えると、人間の本然的な性の姿が表現されることは当然かもしれない。だが同じ踊りでも、西欧や東南アジアの踊りは、明るく開放的で、生命の讃歌そのものといった感じが深い。それにくらべると、日本のはいかに華麗でも、奥に一つ控えた部分があり、それが淫靡《いんび》な連想を呼びおこすのかもしれない。  舞台を見ながら、伊織は、霞が踊った姿を想像した。娘時代に少しやったまま、いまは怠けているというが、霞の舞台姿なら、華やかさのなかに、ある艶めかしさがあるに違いない。  もっとも、それはいまだからそう思うことで、以前の霞には、そんな雰囲気はなかったかもしれない。しかし、伊織はいまの霞を頭のなかで踊らせて、やはりある淫《みだ》らなものを想像する。とんと足を割る。その瞬間、開いた着物のあいだから白い長襦袢がのぞき、霞の足首が垣間見える。  初めの「常磐老松《ときわおいまつ》」が終って、場内が明るくなった。 「出ましょう」  伊織がささやくが、霞は舞台に目を据えたまま身動き一つしない。どうやらいま立上って、目立つのを恐れているようである。だが、次のがはじまってからでは、かえって出づらい。 「僕が先に出る。君はあとから従いてきてくれ」 「待って下さい、わたしが先に出ます」  慌てて霞が手で制する。 「楽屋には?」 「ちょっと先に行ってきます。出たところのロビーで待っていて下さい」  伊織がうなずくと、霞は呼吸を整えるように少し間をおくと、思いきったように立上った。伊織はなにくわぬ顔でしばらくプログラムに目を向け、それからあとを追った。  扉の外では人々が談笑していたが、じき開演ベルが鳴り、伊織だけがロビーに残った。すでにはじまって三十分以上経っているが、客がときどき現れ、それを待って、受付けに四、五人の女性が坐っている。いずれも踊りの関係の人達なのか、若いが和服を着ている。伊織はそちらをぼんやり見ながら考えた。  これからマンションへ行くというのもありきたりだから、たまにホテルにでも行ってみようか。ここからなら千駄ヶ谷か、あるいは代々木あたりが近いかもしれない。そんなことを考えていると、ロビーの右手の奥から霞が戻ってきた。 「会ってきたの?」 「ええ……」 「じゃあ……」  行こうとはいわずに、伊織は先に出口に向かった。はじまって間もないのに出ていく二人を、受付けの女性達は怪訝《けげん》そうな顔で見送る。かまわず外へ出ると、いま着いて、客をおろしたばかりの車が停っていた。 「代々木……」  運転手にそういってから、伊織は霞の耳元でささやいた。 「ちょっと、ホテルに行ってみよう」  きこえたのか、霞は相変らず堅い表情のまま前を見ている。 「楽屋で会ってきたから、もう安心でしょう」 「わかりません」 「怒っているの?」  返事をしない霞の横顔を見ながら、その冷たい表情が燃えたつ瞬間を、伊織は期待している。  どこのホテルという目途がはっきりあるわけではない。ただ代々木あたりにそれらしいホテルがあることだけは、前を通るたびに見て知っていた。  もともと、伊織はその種のホテルにはあまり行ったことがない。とくに家を出てマンションで一人で棲《す》むようになってからは、行く必要もないし、たまに行くときでも、きちんとしたホテルのほうが清潔で心地よい。  だがときに、ラブホテルの猥雑さを求めたくなるときもある。今日もその類《たぐ》いだが、伊織がそんな気持になったのは、霞のいつになくとりすました表情のせいかもしれない。 「客席はあんなに暗いのだから、いなくても舞台からはわかりませんよ」  相変らず答えない霞の手に、伊織は自分の手を重ねた。 「でも、今日は妙な踊りの会になった」  そういった瞬間、霞が指を抓《つね》った。 「いたい……」  伊織は大袈裟にいって、顔を顰《しか》めてみせる。  せっかく踊りを見にきたのに、途中から連れ出されたことに、霞は抵抗を覚えているようである。しかもその行く先が、二人だけの秘密の場所であることに、恥じているらしい。 「ねえ、やっぱりやめましょうか」  思いなおしたように霞がいう。 「大丈夫。それにいまさら戻っても仕方がない」  伊織はいったん離した手をもう一度握る。 「悪いわ……」  霞は良心の呵責《かしやく》に苛《さいな》まれているのか。しかしそれなら、もっと早くに拒否するべきであった。  伊織がいくら頼んでも、霞が断固いやだといえば、伊織としても諦《あきら》めざるをえなかった。それをここまで来たのは、霞自身にも、二人だけになりたいという気持があったからに違いない。もちろん、それを霞があからさまにいったわけではないが、霞の曖昧な態度には、そうとられても仕方がないところがある。  伊織はいま、ある快感にひたっていた。これが若いときなら「やった」と、快哉を叫ぶかもしれない。踊りを見にきた霞を強引に引き出し、しかもホテルへ連れ込む。愛の行為もさることながら、一人の女を自分の思いどおりに動かせたという喜びも、また男には大きい。  霞はなお落着かぬように窓を見ている。いまさら戻るわけにいかないのに、抜け出てきたことを悔いているのかもしれない。 「家元の踊り、前に見たことがあるでしょう」 「ありますけど、今度の青海波《せいがいは》は初めてです」 「ああいう人が踊るのだから、よかった、といっておけば間違いありませんよ」 「無責任だわ」  霞が呆れるのに、伊織はかまわず、 「しかし、踊りというのは、やはり若い綺麗な女《ひと》が踊るにかぎる。いくら家元でも、六十、七十になった人の踊りは、華やかさがないし、見ていてはらはらする」 「そんなことはありません。踊りは顔や形とは無関係です」 「芸の力だといいたいんだろうが、皺《しわ》の上に白粉《おしろい》を塗っても、若く張りのある顔に見せるわけにはいかないでしょう」 「あなたは、顔を見に行くのですか」 「そんなわけでもないが……」  もう三年も前になるが、伊織はやはりある家元の踊りを見たことがある。新聞の評には、七十をこえてなお健在と書かれていたが、正直いって伊織は見ていて辛かった。たしかに磨きぬかれた芸や踊りの解釈は抜きんでているが、なによりも踊りの基本の足元が頼りない。年を経ると骨盤が開くのか、まっすぐ立っていても、両肢がやや開いているように見える姿の崩れや、動きの鈍さは、いかに芸の力があったところでカバーできないような気がする。 「やはり、踊りは五十くらいまででしょう、所詮《しよせん》は躰《からだ》をつかう芸だから」 「でも、家元は鍛錬なさっているから、躰はお年よりはずっとお若いのです」  うなずきながら、伊織は霞の躰のことを思い出していた。そういえば、踊りをしていたせいか霞の躰はやわらかい。笙子より七つも年齢が上なのに、むしろ霞のほうが若いかと思うほどしなやかである。  おかしな話だが、ベッドの上でも、霞の身のこなしは軽々としている。ときに違った態位を求めても、ごく自然についてくる。むろん羞恥心《しゆうちしん》が邪魔して、すべてスムーズというわけにはいかないが、霞の躰は、いままでのどの女性よりも、やわらかくしなやかである。もしかすると、秘めたところの好ましさも、それに関係があるのかもしれない。 「君の踊りを見たかった」 「お見せできるようなものでは、ありません」  伊織がいま考えていることに気付かず、霞は大真面目な顔で答える。  千駄ヶ谷駅を過ぎて明治通りにぶつかる手前に、ホテルという文字が見える。そのネオンを通りこしたところで、伊織は車を停めた。  運転手にお金を払って先におりると、霞も素直におりた。車が行き来する道路だけは明るいが、正面は代々木の森の茂みになり、左手は神宮の森へ通じるだけに森閑としている。銀座を出るとき降りはじめた雨もほとんどあがり、霧のなかに街灯の明りがふくらんで見える。霞が蛇の目を開き、それを伊織が持つと二人はごく自然に寄り添う形になった。 「道行きのようだ」  伊織が冗談めかしていったが、霞はなにも答えない。  小路に入り五十メートルも行くと、左に棗《なつめ》らしい生垣が続き、その途切れたところに、「ホテル入口」と書いた蛍光灯が浮き出ている。あたりに人影はなく、秋の霧が二人をつつんでいる。  伊織は入口でいったん立止り、それから組んでいる腕に力をこめ、ぐいと引きずるようになかへ入った。ホテルに入るのに勇気がいるのはそこまでで、植込みのなかに一歩入ってしまえばもう迷うことはない。いまは霞も観念したらしい。石畳を行き、自動ドアの前に来たところで静かに蛇の目をたたむ。  すぐ女中がでてきて、「洋間がいいですか、和室がよろしいですか」ときくのに、伊織はすぐ「和室」と答える。  大きいと見えたのは外観だけで、ホテル自体はさほどでもないらしい。エレベーターもなく、せいぜい三階建てくらいだが、路地|行灯《あんどん》のように、廊下の端々に淡いブルーの明りがおかれている。  案内された部屋は三畳ほどの控えの間の先に座敷があり、暖簾《のれん》で境された奥に布団が敷かれている。風呂は入口の右手にあるらしく、女中が、「お湯を入れておきましょうか」ときく。伊織がうなずくと、「それじゃ、ごゆっくり」と無表情のまま、去っていく。ドアの閉まる音がきこえたところで、伊織は霞と顔を見合わせた。 「おいおい、どうしてそんな隅にいるんだ」  二人だけになったというのに、霞はまだ座敷の片隅で、両手をきちんと膝にのせたままうつ向いている。  これではまるで客を出迎える女中のようである。 「おいで、もう誰もこないよ」  伊織が声をかけると、霞ははじめて気がついたようにあたりを見廻し、それからそろそろとテーブルの前にいざり寄ってきた。 「わたし、こういうところ初めてです」 「もちろん、そうそう来られては困る」  伊織は備えつけの冷蔵庫からビールをとり出しグラスに注いだ。 「さあ、一杯飲もう」  グラスをつき出すと、霞も手に持ってそっと合わせる。なんのための乾杯か、うまく踊りの会を逃げ出してきたことへか、それとも初めてラブホテルに忍びこんだお祝いか。伊織が飲むと、霞も軽く口をつけた。 「ホテルって、こういうふうになっているんですね」 「ちょっと、こちらへ来てごらん」  伊織は手招きして寝室と境している暖簾をあけた。いきなり花模様の布団が拡がり、枕元に縦長の行灯が置かれている。和風といっても、下は低いダブルベッドになっていて、枕の先に明りを調節するスイッチやボタンが備えつけられている。 「ここにも、テレビがあるんですか」 「それはビデオだよ。そちらのスイッチをおすと、ベッドの上がこの画面に映る。あれを終ってから、自分達の姿をもう一度見ようというわけだ」 「いやだわ」  霞は呆れたというように顔をそむけた。 「でもこのごろは結構利用する人がいるらしい。ときどき消し忘れて、他の客に見られることもあるらしい」  試みにスイッチをおしてみたが、白い地が流れるだけでなにも映らない。 「君の躰なら、きっと可愛くてきれいに映る」 「まさか、そんな怖ろしいことをなさるわけではないでしょうね」  むろん、伊織はそこまでやる気はないが、しなやかな霞の肢体が乱れる姿を見たいとは思う。 「こんなところへ、よくいらっしゃるのですか」 「いまはこない。ずっと昔に、ちょっと来ただけです」  昔といっても四、五年前、笙子と知り合ったころは、何度かこの種のホテルを利用した。奇妙なことに、躰を許すことには笙子はかなり逆らったが、ホテルに入ることにはあまり抵抗しなかった。そのあたりも霞とは様子が違うかもしれない。 「あの女中さん、わたくし達をどう思ったでしょう」 「どうも思っていないさ。こういうところに勤めている人は慣れているから、気にすることはない」  腕時計を見ると、七時二十分である。せっかく踊りの会を抜け出してきたのに、暢《の》んびりしていると時間がなくなる。再びテーブルの前に坐りかける霞に、伊織はうしろから声をかける。 「お風呂へ入ろうか」 「わたしは入りませんから、どうぞ」 「せっかくだから入ったらいい。そのほうが躰もあたたまる」 「出がけに入ってきたのです。それに髪が濡れますから」 「いや、なにかあるはずだ」  伊織はバスルームの手前の洗面台に行きビニール袋に入ったシャワーキャップを見付けてきた。 「こんなものまであるのですか。よくご存じだわ」 「別に知ってるわけじゃないが、ここにきた以上は当然、女性も風呂に入る」 「前に一緒にいらした方も、そうだったのですか」 「変なことはいわないで欲しい。とにかく入ろう」 「いいえ、わたしは結構ですから、あなただけどうぞ」 「じゃあ、僕が入ったら入るね」 「一人でなら入ります」  どうやら簡単には承諾しそうもない。伊織はあきらめて先に入った。  風呂は広く、浴槽のふちは岩風呂風に一部石で囲まれていて、洗い場の隅に人が一人横になれるほどのマットが敷かれている。枕型のものがおかれているところを見ると、ここでうつ伏せになりマッサージでもしてもらうのか、あるいはバスルームで、セックスも楽しめるという仕掛けかもしれない。  こんなところで霞と一緒に戯れたら、と思うが、いまの状態では難しい。あきらめてあたりを見廻すと、マットの上の壁に、鏡のように平たい面がある。こちらからはなにも見えないところを見ると、覗き穴かもしれない。そんなことを考えて風呂から上ると、霞はまだ着物のまま、きちんとテーブルの前に坐っている。 「いい湯だ、早く入ってきたらいい」 「本当に入ってきませんね」 「もちろん、男の一言だ」  霞はようやく納得したらしい。立上ると、きっぱりと襖を閉めて出て行く。  一人になって伊織はビールを一口飲み、それから思い出して振り向くと、思ったとおり、うしろの壁に覗き穴のような小窓があり、グレイのカーテンがかかっている。伊織がこっそりと開くと、目の前に浴槽を見下す形で視界が開ける。そのまま息をひそめて見ていると、霞がタオルを胸に当てて入ってくる。いったん蛇口の前でしゃがみ湯をとると、軽く横向きになり、まず秘所に、それから右肩から一度、左肩から一度、交互に湯をかける。  鏡は最近ときどき見かけるマジックミラーらしく、こちらからは見透《みとお》せるが、向こうからは見えぬ仕掛けになっているらしい。その正面で霞が軽く前|屈《かが》みで浴槽の縁をまたぎ、ゆっくりと躰を沈めていく。それにつれて、初め秘所に当てていたタオルは胸に移行し、瞬間、小さくとび出た乳首が垣間見える。  浴槽からはかすかに湯煙りがのぼっているが、見るのに邪魔なほどではない。湯のなかに躰をうずめたところで、霞は視線を感じたのか、鏡のほうを見上げ、それからくるりと背を向けた。だが暢んびり湯につかっている様子からは、見られていることを知っているとは思えない。  シャワーキャップがあったはずだが、ピンでとめたのか、髪をうしろに高々と巻きあげ、おかげでいっそう細さを増した首と撫で肩が、浴室の明りの下で白く浮き出ている。  ふと、伊織は鏡に額をつけるばかりに覗き込んでいる自分に気が付いて愕然《がくぜん》とする。こんなことは紳士のやることではない。これではまったくの出歯亀か、覗き趣味ではないか。  だが、せっかくの壁をつぶして、わざわざ鏡を嵌《は》めこんだところを見ると、覗き見を好む男性は多いのかもしれない、客が望むから、ホテルはそれに合わせてつくったまでで、ここにきた男達はみな、自分の連れてきた女性が入浴する姿を盗み見るのかもしれない。  そう思うと、今度は、ここで覗いたであろう男達が、みな仲間に思えてくる。  美しい女体が目の前で湯を浴びるのを、見て悪いという道理はない。もし美しくなければ、男達は覗かないし、初めから見ようとも思わない。覗き見るのは男としての自然の行為で、覗き見られるのは、美しい躰を持った女達の当然の勤めである。  なにやら勝手な理屈をつけると、また勇気がでて、再び鏡に顔を近付ける。  いつのまにか霞は浴槽からあがって、蛇口の前でお湯をとっている。鏡をとりつけるときにそのように計算したのか、蛇口の前にくると、霞のかがんだうしろ姿がすべて見える。いまはじめて気が付いたのだが、霞のお臀《しり》は、やわらかな撫で肩とほっそりとしたウエストにくらべて、意外に大きい。やや高いところから見下しているせいか、ふっくらと左右に拡がり、二つのふくらみの頂点は、湯につかったせいかいくらか朱味《あかみ》を帯びている。  どこにも鋭角的なところはない、肩から背、そして腰へ、一つながりにのびる女体はすべてすがすがしくまろやかで、そのくせ妖《あや》しい淫《みだ》らさを秘めている。  やがて、きっかりとお臀の下で爪先立ちに支えていた足がわずかに開き、横にあった霞の手が前に隠れる。  伊織は溜息をつくと鏡から目を離し、バスルームのほうへ足を忍ばせた。  襖を開けるとすぐ控えの間があり、その先の洗面台のある一隅が脱衣所になっている。  伊織がバスルームから出てきたときは、そこに乱れ箱があり、浴衣とタオルがおいてあったが、いまは霞の脱ぎ捨てた衣類がおかれている。例によって包みかくすように、一番上に着物がかぶせられているが、その端から赤い襦袢の端が見える。  それを横目で見ながら、伊織はバスルームの前に立った。入口のドアは曇りガラスで、なかの様子は見えないが、近くに立つと、人がいることくらいはわかるかもしれない。  伊織はなかでお湯の流れる音をたしかめてから、そっとドアの把手《とつて》に手をかけた。  だが思ったとおり、ドアは内側から鍵がかけられていて開かない。せっかく座敷にマジックミラーまで取り付けて、浴室のなかを覗けるようにしているのに、ドアに鍵をつけるとは片手落ちではないか。  伊織は仕方なくドアを軽くノックする。 「ちょっと……」  瞬間、お湯の流れる音がやみ、なかから霞の声が返ってくる。 「なんでしょうか」 「もう一度、入りたいんだけど」 「じゃあ、すぐあがりますから、待ってください」 「そのままでいいから、開けてくれよ」  駄々っ子のように、伊織はドアをどんどん叩く。 「少し躰が冷えてきたんだ、いいだろう」 「いけません」  思いがけないきっぱりした声に伊織は黙る。  どうやら、霞はこちらの魂胆を見破って、開ける気はないらしい。 「いいじゃないか、一緒に入るくらい、頼むよ」  もう一度、哀願するが返事はない。 「ケチ……」  口惜しまぎれに捨て台詞《ぜりふ》を吐いてみるが、効果はない。ここにいると、いずれ霞は裸のまま出てくる。どう頑張っても、湯気のたつバスルームにそう長くいられるわけはない。このまま脱衣場で籠城しようかとも思うが、それも考えてみると大人気ない。 「なかに入れてくれなかった分だけ、ベッドでいじめてやればいいのだ」伊織は自分にいいきかせて部屋へ戻る。  そこで残っていたビールを飲み干して布団に入った。  退屈なままにあたりを見廻すと、さまざまな仕掛けがあるのに気がつく。まずベッドに腹這《はらば》いになり、枕元のスイッチをいじってみる。手前のは照明らしく、オンにすると寝室全体の明りがつき、二番目をおすと行灯の明りだけがつく。さらにそれを右へ廻すと明りが弱くなり、左へ廻すと強くなる。その横にあるボタンは、ベッドにそって壁に嵌めこまれている鏡専用らしい。スイッチをおすと、鏡の上のカーテンが自動的に開き蛍光灯がついて、抱かれている女の背中からお臀まで、丸見えになる仕掛けになっている。  続いて上下に並んでいるボタンの上を押すと、ベッドが左右に小刻みに揺れ、下のをおすと、ベッドのなかほどに枕のようにつき出ていた部分が、ゆっくりと上下運動をくり返す。行為の最中にこのボタンを押すと、彼女の背から腰が一定のリズムをもってもちあがり、同時に左右に揺れ、男が労せずに、女性へ強い刺戟を与えられるという仕掛けらしい。  左端にあるボタンは、ビデオ用らしく、上のを押すと録画になり、中央のを押すと巻き戻しになり、下のをおすと再生になる。すべて枕元の操作一つで、寝ながらにして自分達の姿態を楽しむことができる。  これらのボタンを見ていると、なにか車の操縦席にでもいるような錯覚にとらわれる。もっとも、おし方を間違えると、せっかく盛りあがったムードをこわしかねない。  それにしても、万事に手抜かりはなく、ボタン類の上には灰皿がおかれ、そのわきにはきちんと桜紙もおかれている。さらにその下には、避妊に必要なものも添えられている。また行灯の先には、大人の玩具の自動販売機がおかれ、お金を入れさえすれば、自由にとり出せるようになっている。  一つ一つをいじりながら、伊織は改めてその便利さに感心する。  以前、若いころ行ったことのあるホテルには、こんな設備はなにもなかった。せいぜいあったとしても鏡が取り付けてあるくらいのもので、動くベッドなど、考えもしなかった。  それからみると、ずいぶん進歩したものである。  それがいいか悪いかはともかく、まもなくその妖しげなベッドに、霞が入ってくることだけはたしかである。ボタン一つで背中からお臀まで丸見えになることも、ベッドが淫らな動きをすることも知らず、湯上りの霞がここに横たわる。  そのまま眠ったふりをして目を閉じていると、バスルームから出てきた霞が座敷に戻ってきたらしい。襖が開く音がし、やや間があってそろそろと近づく気配がする。それでも目を閉じていると、霞がたずねる。 「もう、お休みになったのですか」  一緒に風呂に入れてくれなかった腹いせに、知らぬふりを装うつもりだったが、そっと薄目を開けると、目の前に、赤い長襦袢姿の霞が立っている。 「おうっ……」  伊織は驚きとも感動ともつかぬ声をあげ、それから顎《あご》までおおっていた毛布をはねのけた。 「すごい……」  いままで、霞の長襦袢姿は何度か見たことがあるが、いつも白か、色ものでも、せいぜい水色か淡いピンクであった。それが今日は目に沁《し》みるほどの赤い地に、ところどころ白い花柄の浮き出た襦袢を着ている。  あまりの艶めかしさに、伊織が見とれていると、霞は顔をそむけて、 「こんなの、おかしいでしょう」 「いや、素敵だ」  娼婦のような襦袢を着てきたことに、霞は恥じているようだが、男はその種の襦袢に憧れている。それも娼婦でなく、きっかりした女が淫らな襦袢を着てこそ艶めかしい。  本来、夫達は家庭の妻達にも、赤い襦袢を着て欲しいと願っているところがある。だが妻にはどこか肩肘《かたひじ》張ったところがあり、照れていいだせぬうちに燃える時期を失い、やがて惰性のなかであきらめてしまう。いったん倦怠がきてから襦袢を着たのでは、そのどぎつさだけが目立ち、気重くなるばかりである。  このあたりのタイミングは難しいが、ともかく不倫の恋に赤い襦袢はよく似合う。 「久し振りに濃い地の着物を着たので……」  霞は派手な襦袢を着たことを弁解するが、着物の地が濃いからといって、赤い襦袢を着なければならないという理由はない。白い無地か、淡い水色を着たところで一向にかまわない。それをあえて赤い地を選んだところをみると、霞自身、内側から燃えるものがあったのかもしれない。 「さあ、早く……」  目を閉じて、眠ったふりをしようとした気持もいまは失せて、伊織はいきなり霞を抱き寄せた。そのままベッドのなかに引きずりこむと、足までからめて抱きしめる。 「風呂に入れてくれなかった罰だ……」  結びを解くのももどかしく、伊達巻を解くと、さらりと前が開き、勢いこんですすむ手に、裾よけがからむ。赤い襦袢の淫らさを補うように裾よけは純白で、その下はもはやなにもつけていない。  愛する女への罰はどうしたらいいものなのか……  バスルームに入れてくれなかった報復として、強引に抱き寄せ、乱暴に求めたら、女はいっとき狼狽《ろうばい》するかもしれないが、結局、その荒々しさが悦びを呼びおこすことになりかねない。  といって放っておいたのでは、自分がいつまでも満たされない。  両者の中間をとるとなると、結局、蛇の生殺しのように、中途半端のまま、行きつ戻りつさせることかもしれない。  たとえば、いったんは結ばれながら、その状態のまま、ときに強くすすみ、ときに離れる寸前まで引き、素知らぬふりを装う。それをくり返せば、女は夢と現実《うつつ》を行ききし、走りかけては止り、止りかけては走り、やがてそのもどかしさに耐えがたく、最後は哀願するに至る。  そうなれば、女はもはや自分の膝下にひれ伏したも同然で、半ば拗《す》ね、半ば恨めし気にすすり泣き、怨嗟《えんさ》の眼差しで訴えるよりない。だが罰である以上、その拷問はかぎりなく長く執拗《しつよう》であるにこしたことはない。「勝手に悶《もだ》え、苦しむといい」そんな残忍な思いで、容易に決め手を与えない。  やがて自分が耐えがたくなり、いよいよこれまでというときになって、いま一度、女に哀願させ、それに素直に従ったなら、はじめてきっかりと制裁してやるといい。  もっともこの罰は、すべての女性に適用できるというわけではない。いまだ性に開眼《かいげん》していない女性には、単に冗長なだけの行為になり、男はただのくたびれもうけに終ってしまう。  だがいまの霞になら、この方法は十分の刑罰になりうるはずである。華奢《きやしや》と見えて豊かな霞の肢体は、その罰に喘《あえ》ぎ、悶え、やがて最後の哀願を口走るに至る。  いま伊織が霞に加えているのは、まさしくこの罰である。ときに情熱をこめ、ときに冷酷に、いま肌を触れ合わせているのは、愛しいというより憎々しい奴と、自分にいいきかせ、憎悪をかりたてて責めたてる。一瞬でも可愛いなどと思っては、その瞬間、男は暴発し、女を愉悦の花園に導き、安堵《あんど》させることになる。  伊織はそれを自分にいいきかせ、極力己をおさえて罰を長引かす。だが、ここらあたりが、限界のようである。霞が小刻みに首を振り、泣くとも甘えるとも知れぬ声をささやく度に、伊織は目が眩《くら》みそうになる。いつからか、拷問をくわえているのは、男か女かわからなくなり、もはや耐えがたく、これまでと思ったところで、霞が最後の哀願をする。 「お願い……許して」  いつもは優しさをたたえた目が横一文字につりあがり、瞼《まぶた》の端が小刻みに痙攣《けいれん》している。それを見て、伊織はこれでよしとばかり、いままでおさえてきた緊張を一気に解き放つ。  はっきりと言葉にはならぬ言葉の渦から、突然、雲をつき抜けたような空白が訪れ、一対の男と女が、一つのベッドに寄り添っている。  男は軽く上を向き、女はその胸に顔をうずめたまま身動きもせず、ついいましがたの取り乱しようからは想像もつかぬ静けさである。もしその図を天井からでも俯瞰《ふかん》すれば、男にとりすがった女の姿は、長々と黒髪が伸び、岸辺に打上げられた海藻と見えるかもしれない。  たしかに、ひっそりしているのは外見だけで、よく見ると二人の背と胸は呼吸の度に波打ち、肌にはうっすらと汗が滲《にじ》んでいる。  この汗を見るかぎりでは、男が刑罰を科したのか、女がくわえたのかわからない。いまの萎えようからみれば、むしろ男のほうが罰を受けたとみるのが順当かもしれない。  そのままひたすら静かな時間が過ぎて、はじめに動き出したのは、伊織のほうだった。  軽く顔を振り、顎の先まできている女の髪を除けると、ベッドの先の鏡のなかに、霞のやわらかな背と丸いお臀が写っている。  枕元のボタンを押して、ベッドのわきの鏡に明りをつけたのは、刑罰が始まって間もなくであった。突然、まわりが明るくなったことに、霞は一瞬たじろぎ、「消して」と訴えたが、伊織はかまわず刑を続けた。これも一緒に風呂に入らなかった罰である。伊織はそんなつもりであったが、鏡に写る霞の姿態は魅力的であるとともに、危険な武器でもあった。男におしひしがれ波うつ霞の躰が、伊織の欲望をかりたて、同時に果てることを促す。  それほど大きな効果をもたらした鏡が、いまは朝の街灯のようにいささか生気を失い、ぼんやり、男に抱かれた背中とお臀を写し出している。伊織はしばらく、その鏡に写る白い女体を、一枚の絵を見るように見詰め、それから枕元へ手を伸ばして明りを消した。  鏡が消えると、あとは行灯の淡い明りだけになり、そのなかで、そっと抱き寄せると、霞は待っていたように寄り添ってきた。 「よかった?」  伊織がきくと、霞は答えない。 「よくなかった?」 「意地悪……」 「どっちなの?」 「あなたは麻薬よ」  歌うようにいうと、霞は軽く額をすり寄せてきた。  麻薬といわれて、伊織は急に可笑しくなった。片方の手で霞の肩を抱き、もう一方の手をまろやかな腰にのせたままきいてみる。 「僕が麻薬なのか」 「そう、すごうく悪い薬。早く、断ち切らなければ駄目だわ」 「おいおい、変なこというなよ」 「でも、いい薬よ」  胸のなかに顔をうずめたまま、今度は霞が小さく笑う。  どうやら、霞のいう麻薬とはセックスのことらしい。その意味がわからぬでもないが、正直にいって男にはそういう実感はあまりない。男の性は一瞬で燃え尽き、回を重ねるごとに深まるということもない。快感は童貞のときにえたときとあまり変らず、初めにえた快感のまま横這いで、強まるより、むしろ弱まることのほうが多い。  それからみると、女の性は年とともに開花し、充実していくものらしい。少なくとも、初めの苦痛がやがて快楽に変るという変身は、女だけに与えられたものである。それだけに、性はときどき女へ麻薬のような効果をもたらすものらしい。 「しかし、麻薬とは人聞きが悪いな」 「もともと悪いのだから、当然よ」  霞は冷ややかにいうが、女にとっての麻薬なら、満更悪いともいいきれない。いやむしろ、麻薬くらいの力があれば、女との絆《きずな》はそう簡単に解けはしない。 「いままで、麻薬をつかったことはなかったの?」 「こういうのは、初めてよ」 「必要なときは、いつでもご連絡下さい」  おどけていいながら、伊織は霞の夫のことを考える。もし自分が麻薬だとすると、夫はなになのか。良薬なのか、それとも期限の切れた風邪薬か。いずれにせよ、普通の薬といわれるより、麻薬といわれたほうが、男にとっては喜ぶべきことのようである。 「多分、患者さんがいいから、よく効くのだろう」 「でも、怖い薬よ」 「滅多にない薬だから、大切にして欲しいな」 「踊りまでやめて、大切にしてるわ」  どうやら、霞の性はいま鮮やかに花開いた、というところらしい。三十五歳という年齢からみると、いささか遅まきといえなくもないが、くっきりと真紅の花を咲かせていることはたしかである。霞はいま、そのことを自分の躰のなかで実感し、味わっているのかもしれない。 「もっともっと、いい麻薬の注射をしてやろう」 「そんなにして、中毒になってもいいのですか」  下から見上げるように霞がたずねる。  このごろ霞は、伊織がはっとするほど妖艶な眼差しをすることがある。いまベッドのなかで、下から見上げた目にも、男心を惑わせる艶めかしさが滲んでいる。  以前の霞にはそんな艶めかしさはなかった。美しく整った顔立ちではあったが、すっきりとして爽やかであった。綺麗な女が綺麗な顔で綺麗なことをいうだけだった。だがいまの霞は美しさのなかに、妖しさがくわわっていた。きっかりとした物腰のなかに、ある気怠さが漂っていた。生真面目な表情のなかに、内にこもる情念のようなものが潜んでいた。 「いい女になった」  思わず伊織がいうと、霞がきき返した。 「なんでしょう」 「君が、いい女になったといっているのだ」 「そんなの、おかしいわ」 「おかしくはない。このごろ、顔が変ったとは思わないか?」 「こんな年齢になって、変るのでしょうか」 「変る、まず第一に助平っぽくなった」 「ひどいわ」 「いや、褒めているのだ。綺麗な女は沢山いるが、美しくて助平っぽい女はそういない」 「その、最後のところは、なんとかならないのですか」 「それがいいのだ。男は美しいだけの女にはあまり関心がない。それよりセクシーな女のほうがはるかに素敵だ」 「わからないわ」 「わからなくてもいい」  伊織は肩に当てていた手を、背にそってゆっくりと下へ移動させる。瞬間、霞の上体がぴくりと動く。 「悪戯はやめて……」 「悪戯ではない、撫ぜているのだ」 「そんなことをして、またおかしくなったらどうするのですか」  伊織はかまわず指を這わせ、それに応じて霞の上体がまたぴくりと動く。 「わたし、このごろ、自分の躰が、ひどくいやらしくなったような気がするのです」 「いやらしいのではなく、素晴らしくなったのだ」  鋭く反応する女体を愛撫しながら、伊織はそのなかに、自分の影がしっかりと坐を占めていることを実感する。 「でも、おかしいわね」  霞は思い出したようにあたりを見廻した。ベッドの左手にはカーテンに閉ざされた鏡が嵌めこまれ、その上の壁は行灯の明りで丸く浮き出て、その分だけ天井は暗く沈んでいる。座敷と境する右手には王朝時代を思わせるような簾《すだれ》が下り、足元の壁には男女の秘戯を形どった木彫りが飾られている。枕元にはさまざまなボタンがあり、その先に大人の玩具と桜紙がおかれ、さらに床の足元にはビデオが備えられている。情事のための部屋といいながら、情事には向かない騒々しさである。 「みんな、こんなところで逢っているのでしょうか」 「沢山あるホテルがつぶれないところをみると、利用しているのだろう」 「でも、やはり落着かないわね」  それは伊織も同感で、こう鏡やビデオに取り囲まれては、自分が見るというより、誰かに見られているような気がしてくる。 「しかし、最近の若い人は、こういう賑々《にぎにぎ》しいのが好きらしい」 「わたしはもっと静かな、なにもない部屋のほうがいいわ」 「それじゃ、ちょっとビデオでも見てみようか」 「撮ったんですか……」  霞が驚いてビデオのほうを振り返った。 「ちょっと、ごく一部だよ」 「いやです、そんなのを映したら承知しません。許しません、わたし死にます」  あまりの慌て方に伊織は苦笑し、手で霞の肩をおさえながら、 「冗談だよ、ビデオなぞ撮っていない」 「本当ですか、本当に撮っていないのですね」 「嘘だと思うならつけてみようか」  枕元に手を伸ばし、スイッチを押すと、ビデオの画面は前と同様、白い縞模様が流れたままなにも映らない。 「ああ、よかった。本当に吃驚《びつくり》したわ」 「しかし、見てみたいことはたしかだ。今度またきて二人だけでこっそり見よう」 「そんなことをするなら、もうきません」 「裸もそう悪いものではない。今度ポルノを見に行こうか。見たことはありますか」 「いいえ」 「でも、見たいと思うでしょう」 「あなたといると、だんだんおかしくなってくるわ」 「見たいと思うのが正常なのです」  伊織が再び霞を抱き寄せると、いまの頑《かたく》なさを忘れたように霞はぴたりと寄り添ってくる。  とろとろと、黙っているといつまでも眠りのなかに落ちこんでいく。その寸前のところで、伊織はそっと顔をあげた。 「何時かな……」今度も、先に時間を気にしたのは伊織のほうで、霞はそれにつられたように、かすかに顔を動かす。 「もう、踊りは終ったかな」  踊りのことをいわれて、霞の頭は現実に戻ったようである。自分から上体を起こし枕元の伊織の時計を見た。 「もう、九時だわ」  いまになって、霞は踊りも見ず、ホテルに来てしまったことを後悔しているらしい。急に落着かぬ顔になって、 「困ったわ……」  だが伊織が素知らぬ顔で横たわっていると、たまりかねたように、 「わたし起きます、向こうを見ていて下さい」  すでに伊織に逆らう気持はない。いわれたとおり素直に鏡の方を見ていると、霞は素早く脱ぎ捨てられた襦袢と裾よけを持ち、バスルームのほうへ去っていく。ベッドに一人になって、伊織はぼんやり、いまはカーテンでおおわれている鏡を見ている。ついいましがた、ここに霞の肢体が写り、あるときは男におしひしがれ、あるときは悶え、あるときは小さく泣いて震えたのが、いまは波一つたたぬ湖面のように静まり返っている。  あれは夢であったのか、現実であったのか、思い出すうちにわからなくなり、そのうち目を閉じ、うとうととしているうちに仮眠をしたらしい。肩のあたりに軽く触れる感触に、ふと目を開けると、すでに着物を着て、髪を整えた霞がすぐ前に坐っている。 「用意ができました」  一瞬、伊織は踊りの会で逢っているような錯覚にとらわれ、しばらく霞を見上げる。 「さあ、起きて下さい」  いま一度、あたりを見廻し、ホテルの一室にいることをたしかめてから、伊織はのろのろと起き上った。 「お風呂にお湯を張っておきました」 「じゃあ、入ってこようか」  手廻しのいい霞に感心しながら、こんな女と一緒に棲んだらどうだろうかと想像する。  霞の香りを消すのは惜しいが、風呂に入ったほうが目は醒める。簡単に湯にだけつかって出ると、伊織は服を着た。それからフロントに電話でタクシーを頼むと、奥でベッドをなおしていた霞が駆け寄ってきた。 「タクシーを呼ぶのですか」 「外は、まだ雨が降っているらしい」 「でも、こんなところから……」 「平気だよ、運転手はそんなことは気にしない」  間もなく、女中が伝票を持ってきた。伊織が支払いを終えて出ようとすると、霞が不思議そうにきく。 「さっき、あなたの靴がありませんでした」 「いま、払ったときに持ってきてくれた。黙って帰る客を防ぐために、質草に保管しておいたのだろう。こういうホテルは、深夜も客が出入りするからね」  床に明りのおいてある廊下を戻っていくと、入口に出る。右手が帳場らしいが人影はなく、自動扉の前に立った途端に、「ありがとうございました」という声だけが流れてくる。そのまま飛石伝いに生垣の外に出ると、タクシーが待っていた。  相変らず雨は小降りで霧は深い。車が動き出したところで、霞は改めて感心したようにつぶやく。 「ああいうところは、ホテルの人とほとんど顔を合わせなくてすむようになっているのですね」 「あそこは少し古いが、なかには、部屋に帳場からチューブが通っていて、そのなかを請求書が入った容器が送られてきて、お金をいれてやると、釣銭だけ戻ってくる仕掛けになっているところもあるらしい」 「行ったことがあるのですか」 「いや、噂《うわさ》にきいただけだけど」  一度、笙子といったところがそうだったが、伊織は人からきいたことにする。 「あなたと一緒にいると、いろいろなことを覚えます」  車は神宮外苑の森のなかを四谷のほうへ向かっているらしい。暗い闇のなかに、対向車のヘッドライトが、獣の目のように浮き上って、消える。 「なにも食べなかったが、お腹が減ったでしょう」 「そういえば忘れていました」  考えてみると、二人は踊りの会もそこそこにホテルへ直行し、食べる間も惜しんで肌を合わせていたことになる。 「でも、時間がないのでしょう」  伊織がきくのに霞は素直にうなずく。  やがて車は四谷から麹町を抜けてお濠端へ出る。そのまま右へ行くと、いま少し前、出てきた国立劇場である。 「こうして見ると、踊りを抜け出て、ホテルに行ってきたようには見えない」 「意地悪なこと、いわないで下さい」 「誰が見たって、疑いはしない」 「でも、髪がうまく結《ゆ》えなくて、おかしいでしょう」  たしかに、よく見ると、逢ったときと少し違うかもしれないが、それをわかるのは、霞の家の人達だけであろう。  霞が装って帰ることを考えるうちに、伊織は再び憂鬱になってきた。とやかくいっても、霞は夫のところへ帰る人である。家を出たときと帰るときと、髪型が変っているのを気にするのも、夫の目を怖れているからである。つい少し前、鏡のなかで淫らな姿を見せたのも、所詮はいっときの、かりそめの姿というべきかもしれない。 「どうかなさったのですか」  急に黙りこんだ伊織に霞がたずねる。 「お仕事のこと、まだ気になさっているのですか」  いわれて、伊織は今日、コミュニティ・プラザの仕事がやりなおしになったことを思い出した。 「君に逢えたおかげで、そんなことは忘れていた」 「じゃあ、余計なことをいったでしょうか」 「いや、そんなことはない」  同じ沈黙のなかでも、男と女と、考えることが違っていることが、伊織には可笑しかった。 「当分、旅行はなさらないのですか」 「いろいろ行かねばならないところがあるのだけど、一度、ヨーロッパにも行ってみたいし」 「いつですか」 「できたら、あまり寒くならないうちに。君と一緒に行けるといいが」 「連れていって下さるのですか」 「もちろん。でもどうせ行けないのだろう」 「そんなことはありません」  意外に自信あり気な声に、伊織は霞の顔を見た。 「どんなに短くても、十日間はかかりますよ」 「十日間あれば、一緒に行って、一緒に帰ってくることができるのですね」 「僕も、それくらいしか余裕がとれそうもない」 「行先はどこですか」 「オランダに友人がいる。そことウィーンにぜひ行ってみたい」 「十日間あれば、いいのですね」 「本当に、行けるのですか」 「行けるわ」  十日間も外国へ行くというのに、霞は家のほうになんといって出てくるのか、夫や子供にどう説明し、どう納得させるのか。 「わたし、もうずいぶん長いあいだ、外国へ行っていないのです」 「しかし、国内でも飛行機で行くのは怖いといっていたでしょう」 「外国なら、かまわないわ」  妙な理屈だが、急に大胆になった霞に伊織は呆れて、 「じゃあ、本当に計画をたてていいのですね」 「二、三日あとにお電話をします」  車はお濠を左に見て、桜田門から日比谷へ向かう。そこから丸の内を抜ければ東京駅である。 「十時だけど、このまますぐ乗りますね」  霞はしばらく考えるように外を見ていたが、やがて顔を戻して、 「まだ、どこかへ連れて行って下さるのですか」 「時間があるなら、なにか食べにでも行こうかと思ったのだが」 「じゃあ、お伴します」  伊織は車の暗がりのなかで霞を見た。いま少し前、ホテルにいたときは、遅くなったといって慌てたはずである。すぐ起き出して帰りの支度をはじめたのが、いまは暢んびりもう一軒|従《つ》いていくという。 「いまからでは、寿司屋くらいしかないけど、いいですか」 「わたしは、どこでもかまいません」  伊織は行先を八重洲口から有楽町に変えて、数寄屋橋通りの小路にある寿司店に案内した。  十時という、夕食にしては遅いし、夜食にしては早すぎる中途半端な時間で、店は空いていた。伊織は霞とカウンターに並んで坐りビールを頼んだ。 「今日は、お早いですね」  馴染みの板前が声をかける。いつもは飲んだあとに寄ることが多いので、十二時ころになる。 「さっき、村岡さんが見えてました」 「そうか……」  伊織は一瞬ぎくりとして、ビールを飲む。たしかにこの店には村岡もくる。そんな店に霞を誘ってきたのは軽率だが、いっそ知られるなら知られてもいいという開きなおった気持もある。 「こういうところは、何時までやっているのですか」 「クラブが終ったお客様が見えますから、やはり、二時くらいにはなりますね」  霞の質問に板前が答えている。この男は、今度村岡がきたら、美しい女性ときていたことを告げるかもしれない。そうなると面倒だと思いながら、いっそ知られたいという気持も、伊織のなかにはある。  すでに十時は過ぎているが、霞は一向に慌てる様子はない。いつもはあまり食べないのに、今日は珍しく|とろ《ヽヽ》をつまみ、海老を所望する。 「ヨーロッパ旅行、本当に連れて行って下さるのですか」 「あなたさえよければ」  伊織が声を低めていうと、霞はうなずいて、 「嬉しいわ、これで楽しみが一つふえたわ」  だが伊織はそのことより、いまは時間のほうが気になる。 「大丈夫ですか、十時半ですよ」 「あら、もうそんな時間なの」  霞は一瞬、戸惑った表情を見せたが、すぐ意を決したように、 「十一時のにします。たしか十一時半くらいまであるはずです」 「そんな遅いので帰ったことがあるのですか」 「いいえ、初めてです。でも一度、それで帰ってみたいと思っていたのです」  今日の霞はどうしたのか。いつもと違って、すべてに大胆である。それも初め、踊りを抜け出てきたときにはおどおどしていたのが、いまは平然と落着いている。これもラブホテルに行ってきて度胸が坐った結果か。 「いままでで、一番遅く帰ったのはいつですか」 「初めのころ、車で送っていただいたときです」  そのときは辻堂まで送ったが、今日はそれより確実に遅くなりそうである。 「もう、家の人は休んでいるのでしょうね」 「髪型が変ってしまったでしょう。ですから、いっそ遅く帰ったほうがいいのです」  そうであったのかと、伊織は改めて霞の髪を見て、 「僕にはまったく同じに見えるが、わかるのかなあ」 「そりゃ、見る人が見ればわかります」  その見る人というのは誰なのか、霞の家のお手伝いか、娘か、それとも主人か…… 「もし、わかったらどうするのです?」 「どうしたらいいでしょう?」  逆にきき返されて伊織は黙った。こちらが本気で心配しているのに、霞はむしろ、それを楽しんでいるようでもある。 「そろそろ出ましょうか」  再びいいながら、常に時間を気にしている自分に伊織は呆れる。遅くなって困るのは霞なのだから、こちらからいちいちいいだす必要はない。霞がこのままいたいのなら、ずっといてもらえばいいのだ。  そう思いながら、じっとしていられないのは、霞の家でトラブルが起きるのを怖れているからである。  もしそれが原因でもう逢えなくなっては困る。そういう不安はむろんあるが、同時にトラブルがおきて、霞が家にいられなくなったとき、果たして自分が責任を負うことができるのか。そのあたりの腰が定まっていないところが、伊織を臆病にさせているともいえる。 「踊りを見にきたのだから、あまり遅くなってはおかしいでしょう」  伊織が先に席を立つと、霞も仕方なさそうに立上った。  外は雨はほとんどあがり、秋には珍しく深い霧が夜の街をつつんでいる。 「素敵だわ」  霞は蛇の目を片手に持ちながら、伊織に寄り添う。 「あのう、腕を組んでもよろしいですか」  伊織が照れながらそろそろと肘をつき出すと、霞はそっと手をそえた。組むというより、触れているといった感じだが、そのほうが和服には似つかわしい。 「わたし、いつか、こんな情景を夢で見たような気がするのです。このままずっと歩きたいわ」  ビールを飲んだせいか、あるいは情事のあとの余韻のせいか、霞は少し酔っているようである。 「いいわね、男の人はいつまでも飲んでいられて」  伊織はふと、このまま霞をマンションに連れていきたい衝動にかられた。終電がなくなるまで飲んで帰れなくなり、自分のところへ泊ればどうなるのか。霞の家では大騒ぎになるかもしれないが、いっそ、そのほうがすっきりするような気もする。 「じゃあ、遅れついでにもう一軒飲んでいきましょうか」  勢いこんできくと、霞はあっさりと、 「今日はやめます。今度、連れていって下さい」 「しかし、その晩は帰れませんよ」 「平気です、そのつもりで出てきますから」  あらかじめ家に、泊るといって出てくるのでは少し興醒めだが、それにしても、人妻という立場を考えると、かなり大胆な行為ではある。 「わたし、いままで子供すぎたのです」  すでに十一時だが夜の銀座はいまが盛りである。霞は未練がましい眼差しで、ネオンのあふれる夜の街を見ている。  伊織はかまわず小路から表通りに出たところで車を拾った。 「あと三十分経てば、クラブの退けどきにぶつかって、車が拾えなくなるところでした」 「乗車拒否というのは、そういうときにおきるのですね」  霞にとっては、すべてがもの珍しいらしく、車窓からあたりを見廻しながら、 「今度一度、そのクラブというところへ、連れていって下さい」 「君のような綺麗な人を連れていったら、ホステス達が迷惑がるかもしれない」 「女性を連れていくと、あなたがもてなくなるから、おいやなのでしょう」 「そんなことはありません。あなたさえよければかまいませんよ」  伊織はクラブに女性を連れていくことは、あまり好きではないが、霞のような素敵な女性なら、一度くらい連れて行ってみたいとも思う。 「今度は、いつお逢いできるのですか」 「来週の木曜日はどうだろう」  自分から尋ねてくる霞を、伊織は新鮮な思いで見詰める。いままで霞がこんな積極的ないい方をすることはなかった。次の逢うときの約束も、ほとんど伊織のほうから一方的に日時をいい、霞がそれにうなずくだけだった。 「では、木曜日にします。我儘いっていては逢ってもらえそうもありませんから」 「他の日は、会合や打合わせがあるのです」 「女の方と会合なさるのでしょう」 「そんなんじゃありません」  伊織は真面目に首を振ったが、霞は軽く笑って、 「いいんです。わたしはあなたの三番目か四番目の女にしておいて下さい」  伊織はさらに否定しようと思ったが、あまり真剣にいい返すのも可笑しいので黙った。  車が八重洲口へ着いたのは、十一時十五分だった。まっすぐホームへ行くと、最終の一つ前に間に合ったようである。だがホームに停っている電車のなかは、ほとんどが男性達で、それも飲んでいる人が大半のようである。虎のなかに羊を放つような気がしないでもないが、霞自身はさほど不安そうでもない。いったんなかのほうを見て、それから振り返ると、きっぱりした口調でいった。 「今日は本当に楽しゅうございました、ありがとうございました」  途中でいかに乱れても、最後はきっかりと、けじめのいい女である。伊織は、そのけじめのなかの淫らさを見ただけで、今日の一日を納得できる。 [#改ページ]    野  分  午後、伊織が事務所を出ようとしたとき、窓の彼方に虹《にじ》が見えた。つい少し前まで小雨が降っていたのだから、虹が出ても可笑しくはないが、秋空に見るのは珍しい。  だが考えてみると、虹は春夏秋冬、いつ現れてもいいのかもしれない。伊織が不思議に思ったのは、虹は夏の雨上りのあとのものだと思いこんでいたせいである。それが澄んだ秋空に七色のかけ橋をかけている。道を行く人もそれに気がついたらしく、立止って見上げている。  だがそれもいっときで、伊織が書類を片付け、ポケットに煙草とライターをいれて出かけようとしたとき、虹はすでに消えていた。さすがに秋の虹ははかないのであろうか、伊織はそんなことを思いながら、気になる人に会う直前に、虹を見たことに少し拘泥《こだ》わっていた。  今日、午後三時に青山のレストランで会う約束をしたのは、妻の兄の村井康正であった。村井は内科医で品川で開業している。伊織よりは二つ年上だが温厚な人で、妻の身内のなかでは一番親しくしている。その村井が昨日、突然、ちょっと会って話をしたいといってきたのである。  伊織は少し考えて、青山の絵画館に近いレストランで会うことにした。ことさらに戸外を選んだのは会社では社員の目があるし、マンションでは独り身の生活が探られるような気がしたからでもある。  妻と別居してからは、なんとなく気まずくて会っていない、その村井がわざわざ出てくるというのである。そのことからも話の重大さはある程度、察しがついた。当然、妻の兄という立場から、このあたりで元の鞘《さや》に戻ることをすすめにくるのであろう。  だが、伊織のこの推測は当っていなかった。  レストランの窓ぎわの席で向かい合って坐り、時候見舞や近況など、とりとめもない会話を交わしたあと、村井はその話の続きのような調子でいった。 「妹もいろいろご迷惑をおかけしましたが、ようやく別れる決心ができたようです」  瞬間、伊織は煙草を持ちかけた手を止めたが、村井はなにごともなかったように、静かにコーヒーを飲み、それからまたポツリといった。 「ずいぶん迷ったようですが……」  色づいた銀杏《いちよう》の並木に午後の光りがあふれている。 「もう少し早く、決心してくれるとよかったのですが、女なものですから、自分のまわりのことしか考えられなくて」 「いや……」  伊織はゆっくりと首を振った。二十年近いあいだ一緒にいて、別れる決心がつくまで一年以上かかったとしても長すぎるということはない。実際、伊織にしたところで、いま妻が離婚に同意したときかされても、実感として迫ってこない。正直いって、家を出たとき、「別れたい」と告げはしたが、そのとおり別れられるとは思っていなかった。しばらく別居して、お互い冷静に考えてみよう、といった程度の気持であった。  だがその間、妻は深刻に別れることを考えていたようである。たまに家に戻ったときにも、立入って話すことはなかったが、別居は妻にとって、それなりに大きなショックだったのであろう。 「お恥ずかしいことですが、一時は未練がましいことをいったり、狂ったようになったり、大変だったのですが……」 「申し訳ありません」 「いや、それはお互いのことですから」  村井は妻の兄でありながら、とくに妹の肩を持つというわけでもない。温厚で冷静な人だけに、家を出るときも、伊織は村井にだけは了解を求めた。 「どうも、わたしの我儘で……」と、伊織はそれだけいって頭を下げたが、そのときも村井は、「出たいといわれるのなら、仕方がありません」といっただけだった。自分の妹のことだから、当然、心配はしたろうが、それ以上、問いつめたりなじることもなかった。夫婦のことは所詮、夫婦にしかわからない。さし出がましいことはしたくない、という態度が言葉の端々に現れていた。  だがなにもいわぬなかに、すべてを見透していたようでもある。「歳月とは仕方がないものです」といった一言に、その気持はよく表れていた。まさしく、伊織が妻から離れようと思ったのも、歳月の悪戯に違いない。初めはこの人と暮して行けると思ったものが、途中から行けなくなった、愛していると思ったものが、いつのまにか愛せなくなっていた。夫婦の亀裂といっても、問い詰めてみれば、ただそれだけのことだった。  それは甘えといえば甘えだし、身勝手といえば身勝手だが、歳月というものが確実に、愛を侵蝕《しんしよく》したことも事実であった。そこには、明快な理由がないだけに、いっそう面倒で修復しがたい溝が横たわっている。村井はそのあたりまで見透していたようである。  伊織は目の前の村井に、改めて親しみを覚えた。もともと、妻の身内ということをのぞいても、親近感を覚えていたのだが、いまは同じ男として、わかってもらえるという安心感があった。 「いまのこと、子供達にも話したのでしょうか」 「つい、二、三日前に話したようです。初めは泣いたようですが、お母さんがそうするのなら仕方がないと納得したようです。もっとも別れたところで子供は子供ですから」  伊織は素直にうなずいた。妻と別れたところで、二人が自分の子であることに間違いはない。 「いまはまだ少し混乱しているようですが、いちおう納得しましたので、このあとは第三者に入ってもらって、家裁にでもお願いしたらどうかと思うのですが、いかがでしょう」 「ええ……」  いまさら村井の考えに異論があるわけではないが、伊織は事態の急な進行に少し戸惑っていた。まだまだ先と思っていたものが、急に現実となって、どう対処していいのかわからない、というのが本音である。 「なにせ、妹も外で働いたこともなく、家にだけ閉じこもっていたものですから」  それにも、伊織は素直にうなずいた。妻に生活力があるとは思えないから、別れる以上はできるだけのことはするつもりであった。しかるべき生活費はもちろん、場合によっては、いまいる家を与えても仕方がないとも思っていた。 「その点は、わかっています」 「申し訳ありません」  村井が頭を下げ、それと同時に二人は苦笑した。お互い、「申し訳ない」といって謝っているところが、なんとなく可笑しくなったのである。 「もしそういうことになれば、お互い親戚でもなくなるわけですが、われわれはわれわれで、今後とも……」 「こちらこそ」  伊織とて、こんなことで村井との交際を失うのは辛い。 「ところで、これからはずっと東京にいらっしゃいますか」 「実は、来週からちょっと、ヨーロッパへ行こうかと思っているのですが」 「離婚の手続きといっても、両方が合意していれば、とくに面倒なことはないようですが、そのことはまたお電話ででも。ヨーロッパはお仕事ですか?」 「まあ、仕事と観光を兼ねて……」  本当は霞と一緒の旅である。伊織はその背徳にうしろめたさを覚えながら、しかしこれからは、そんな旅行も背徳ではなくなるかもしれないとも思う。  村井と店を出たあと、伊織は別れて一人で神宮外苑を絵画館のほうへ歩いてみた。夕暮れが近づいて、強さを増した斜光が銀杏の葉にあふれ、その下をジョギング姿の若者が駆けていく。左手にベンチがあり、そこに犬を連れた老人が、きっかりと背筋をのばして坐っている。  うしろから秋の風を感じながら、伊織は「離婚」とつぶやいてみた。  いままで、その言葉はいささか切なく、気が重く、同時にある甘さも含まれていた。面倒だが、それに到達すれば、ずいぶんさっぱりして心が休まるような気もしていた。だがいざ現実になると、急に寂寞《せきばく》として殺風景なものに思えてくる。一人で自由になることに、ある期待がないわけではないが、同時にふわふわと風に吹かれるような頼りなさでもある。  またうしろから一人、ジョギングの若者が息を荒らげて走り去り、そのあとを銀杏の葉が落ちていく。色がないはずの秋風に色を覚えて振り返ると、どこから迷いこんだのか、鋪道に一枚の白い紙片が舞っている。神宮の森にも並木にも黄昏《たそがれ》が迫り、そのなかで伊織はふと叫びたい衝動にかられる。 「俺は離婚するぞ……」  初めは大きな声でいうつもりが尻すぼみになり、そのまま立止っていると、セーラー服の女学生が横に一列に並んで近づいてきた。なにが可笑しいのか、手にもった鞄を大きく振り上げながら笑っている。  上の娘とちょうど同じ年頃である。伊織は、離婚のことをきかされて子供達が泣いたといった話を思い出して、気が重くなった。  この罪は一生かかっても、償いきれないかもしれない。しかも、自分はこれから霞と二人でヨーロッパに出かけようとしている。妻も娘も深刻に悩み、苦しんでいるときに、自分だけ女性と外国へ行くとはいかにも無責任である。これでは血も涙もない男といわれても仕方がない。  いまそれだけの犠牲を払って妻と別れて、なにを得ようというのか。それで自由を得たところで、果たして幸せにつながるのか。いったい自分は、なにを得たくて別れようとしているのか。何年も前から望み、憧《あこが》れていた離婚が、いま現実になろうとしているのに、さほど気は晴れず、むしろ戸惑っている。その心もとない自分に、伊織はいささか呆れ、閉口している。  まだ晩秋には間があって、並木の銀杏は半ば黄ばみ、半ばはまだ緑のままだが、それでも葉にはそれぞれの寿命があるのか、一部はすでに散りはじめている。学校帰りらしく、ランドセルを背負った子供が二人、しゃがみこんで落葉を拾い、その小さな背にまた枯葉が舞い落ちる。  並木に囲まれた道を半ばほどいったところに電話ボックスがある。それを見るうちに、伊織は引き込まれるようにガラスのドアをおしてなかへ入った。  初めから、どこへかけるという当てがあったわけではなかった。ただひっそりと陽を避けてたたずんでいる電話ボックスを見て、入ってみたくなっただけである。だが黄色い電話に向かうと、伊織は、初めからそのつもりであったように十円玉を入れ、自由が丘の家のダイヤルを廻した。 「もし、もし……」  短い呼出音があって、出てきたのは次女の美子だった。長女はもう少し気取った声を出すが、次女は少年のように明快である。  伊織は危うく声を出しかけて、息をのんだ。いまとくに、娘と話さねばならないことがあるわけではなかった。もともと銀杏の下を歩いているうちに、気紛れに電話を見付け、ダイヤルを廻しただけである。 「もしもし……」  返事のない電話に、次女は不審げに、「変だな……」とつぶやく。もともと長女にくらべて、次女は剽軽《ひようきん》なところがある子だが、それが首を傾けている姿が目に浮かぶ。 「どなたですか」  今度は少し大人びた声になり、それからいきなり電話が切れる。間違い電話か悪戯電話とでも思ったのか、それが父からの電話とは知るわけもない。「変な電話がきたの」と母に告げているか、それとも電話のことはすぐ忘れて、もう別の遊びに熱中しているかもしれない。  ベルを鳴らしておきながら、なにもいわなかったのは悪かったが、伊織の気持は娘の声をきいたことでいくらか落着きを取り戻していた。  美子は末っ子だけにちゃっかりしたところがあるが、根は気弱で気持は優しい。その子がさほどめげた様子もなく、普段の声を出していた。少なくとも、いまの声をきいたかぎりでは、離婚のことをきかされて泣いた名残りはないようである。  返事のない電話の応対だけで、そんなことまで速断するのは行き過ぎだと思いながら、ともかく娘の声から、伊織は家族の無事まで推測する。  電話ボックスを出てさらに行くと、並木は途切れ、正面に池が現れる。このあたりは夏のあいだは若者達で賑わっていたはずだが、いまは噴水もとめられ、淀《よど》んだ池面に枯葉が数葉浮いている。  円い池の先はグラウンドになり、その先にドーム型の絵画館が望まれる。明治時代のさまざまな美術品がおさめられているときいているが、伊織はまだなかに入ったことがない。煉瓦色《れんがいろ》のタイルで装われたクラシックな建物が、斜陽を浴びて西の半分だけが赤く輝いている。  伊織はいま来た銀杏並木を振り返り、煙草を一本喫ってから、近付いてきたタクシーに手を挙げた。 「近いけど、表参道までやってください」  伊織は丁重にいったつもりだが、運転手はなにもいわず自動ドアを閉めた。顔の表情からはさほど不機嫌とも思えないが、もともと無愛想な男なのかもしれない。だが、いまの伊織にはとくに気にはならない。それどころかむしろ無愛想なほうがいい。いまは誰にもわずらわされず、一人になりたい。できることならこのまままっすぐマンションに戻って、村井にいわれたことを考えてみたい。  しかしいまさら一人になって考えてみたところで、どうなるわけでもない。すでに別れるということは決定したのだから、あとはその方法に向かってすすむだけである。そのことは百も承知していながら、なにか落着かない。  いったい、こんな調子でこれから仕事ができるのか……  だが、五時から、懸案になっていたコミュニティ・プラザの件について、スタッフと打合わせをすることになっていた。急に気が向かなくなったからといって、私事で中止にするわけにもいかない。車のなかで一人でいるうちに少しでも考えようと思いながら、その実、頭はなにも働かない。  そのまま夕暮れが近づいて、混雑してきた道を眺めるうちに、車は事務所に着いた。  無愛想な運転手に金を払い、部屋に戻ると、待っていたように笙子が入ってきた。 「留守中に、村岡先生からお電話がありまして、電話をいただきたいそうです。それから、これが届きました」  笙子は机の上に茶封筒を一つおくと、部屋を出ていった。ドアが閉じ、一人になったところで封筒のなかを見ると、伊織と霞の二人の航空券が入っている。  出かけるとき、窓の彼方に見えた虹はとうに消え、かわりに一部|茜色《あかねいろ》に染まった雲が広がっている。伊織はその暮れかけた空から目を戻すと、再び机の上の航空券を手にとった。  外国へ行く切符だから表をめくったところに、ローマ字でそれぞれ「イオリショウイチロウ」「タカムラカスミ」と書かれている。国際線の切符を見慣れた人なら、そこに名前があることは、すぐわかるはずである。  はたして笙子はこの切符を見たのか……  いま部屋へ持ってきたとき、切符はエージェントの会社名が記された茶封筒のなかに入っていた。エージェントの使いの者からそれを受けとって、そのまま渡してくれたとしたら、なかは見ていないし、霞の切符が入っているのも気がつかないはずである。だが封筒は封をしてあったわけではないから、見る気になれば見られたはずである。何時ごろに持ってきたのかわからないが、二時間近く外出していたのだから、見るには充分の時間があったはずである。  伊織が来週の火曜日から、ヨーロッパへ行くことは、むろん笙子も知っている。飛行機の便や泊るホテルを記したスケジュール表も渡してあるから、切符が届けられたからといって不審に思うわけはない。  だが、霞と一緒に行くことは知らない。  ヨーロッパ行きを告げたとき、「お一人ですか」ときかれたが、即座に「そうだよ」と答えた。そのとおり笙子が信じているとすると、なかを見ないだろうが、疑っていれば見るかもしれない。たとえ疑わなくても、なに気なく見ることもある。  だがもともと、笙子は他人の書類や手紙を盗み見るような女ではない。伊織宛にきた手紙は、端のほうを鋏《はさみ》で切ることはあっても、自分から見るようなことはなかった。だが、その抑制がすべてにそうかというと、いささか怪しくなる。まれに女性名で手紙がくると、郵便物の一番上にのせてあることもあるが、それはあきらかに相手を意識してのことのようである。  いずれにしても見たのか見ないのかは、笙子の態度から察するより仕方がない。いつもより冷ややかなら、見たかもしれないし、普段と変らなければ、見ていないと判断してもいいかもしれない。  改めて先程の笙子の態度を思い返すと、気のせいか、少し突慳貪《つつけんどん》だったような気がする。必要以上に丁寧に、事務的ないい方をするときは、不機嫌な証拠だが、それに近かったようである。  とすると、見たのか……  考えるうちに、伊織はもう一度、笙子の様子を探ってみたくなった。廻転椅子を一廻転し、机の上に書類を拡げたところで、伊織はインターホンをおした。 「さっきの村岡への電話だけど、自宅でいいんだね」 「はい」 「他には、電話はなかったかな」 「ありません」  インターホンで応対するかぎりではよくわからないが、ききようによってはいつもより冷たくきこえないわけでもない。  インターホンを切って、伊織は時計を見た。会議が始まるまでには、まだ少し間がある。伊織は笙子にいわれたとおり村岡に電話をした。 「相変らず、忙しそうだな」  村岡はそういってから、明日の土曜日の午後に、宇土教授のお嬢さんの結婚式があるのを知っているだろう、ときいてきた。 「二時からだったな」  今朝、手帖を見たときも、メモがあって、伊織は覚えていた。 「さっき仲人から連絡があって、その披露宴の席で、お前に挨拶してもらえないかというのだ」 「俺が、どうしてだ」 「実は予定していた、お嬢さんのピアノの先生というのが急に病気で出られなくなったらしい。それで、急遽《きゆうきよ》、お前に白羽の矢が立ったというわけだ」 「しかし、俺はお嬢さんを、よく知らないし……」 「でも先生のところへは何度も伺って、子供のころから知っているだろう。お嬢さんの親しい友達や先輩は何人かいるらしいが、初めに挨拶するようなしかるべき人がいないらしい」 「待ってくれよ」  伊織は宇土教授には世話になっているから、教授の一番可愛がっていた末娘の結婚式に出ることに異存はない。だが、披露宴で、初めに新婦側を代表して挨拶をするのはいささか荷が重い。 「それ、先生が俺にといったのか?」 「もちろん、教授命令だ。宇土先生自らのご指名だ」  正直いって、いま結婚式の挨拶どころではない。近々に妻と別れるという男が、結婚のお祝いの言葉を述べるなど場違いというものである。 「いろいろ考えた末、決ったことだから仕方がない、いいだろう」 「しかし、そういうのは、どうも苦手なのだ」 「そんな堅苦しく考えることはない、どうせ結婚式の挨拶なんて、新婦は才媛《さいえん》でってことをいえばいいのだ」  妻と離婚の話が急速にすすんでいるのを知らないだけに、村岡は暢んびりしている。  しぶしぶながら挨拶を引き受けることにして、電話を切ると、五時だった。 「みなさん、お待ちです」  笙子が会議の準備ができたことを知らせにきて、伊織は立上った。 「わたしは、これで失礼します」  笙子が頭を下げた。事務所の女性達の勤務時間は、午前九時から午後五時までである。これから会議があるとしても、五時を過ぎたのだから、帰っても一向にかまわない。  だがいままで、笙子はこういう場合には少し残って、お茶を出したり、電話を受けとることぐらいはやってくれた。 「明日は……」  伊織はいいかけて黙った。明日の土曜日は笙子は休みであった。 「いや、いい」  伊織が首を横に振ると、笙子はすぐ背を向けて出ていった。  やはり少しおかしい。霞との旅行のことを知って、不機嫌なのか……  そのまま会議室へ行くと、望月らスタッフがすでに集まっていた。賑やかに雑談していたのが、伊織が入っていくと話をやめ、中央のテーブルのまわりに坐り直した。  もともと会議といっても、堅苦しいものではない。途中でお茶を飲んだり煙草を喫うのはもちろん、頬杖をついたり、体を横向きに坐っている者もいる。なにごとによらず、伊織は形式的なのは嫌いであった。各人が自由に、楽な姿勢で自由に討論したほうがいい。形式よりも、いいアイデアがでることが先決である。  初めに望月がコミュニティ・プラザ建築について、これまでの経過を説明し、それに伊織が補足して、今後の方針について相談した。いろいろ不快な点はあるが、このまま継続することはすでに決っていた。問題は、デパート側の意見をとりいれたうえで、いままでの案をどの程度いかしていくか、という点であった。いずれも、最初の案にクレイムがつけられたとあって、いささか意気があがらないが、ともかく、ガラスの面を多くして田園風な明るい雰囲気を生かすことにして、大筋の案はでき上った。 「じゃあ、その線で、望月君がチーフですすめてくれ」  少し無責任かと思いながら、今度の仕事は、全面的に彼等に任せることに初めから決めていた。  翌日の土曜日、伊織は午後一時にマンションを出た。披露宴で挨拶を頼まれているので、モーニングを着ようと思ったが探しても見当らない。家政婦の富子にきいても、見たことはないという。以前は着たことがあったのだから、向こうの家に置いてきたままなのかもしれない。一年前、家を出てくるとき、必要なものはひとまとめにして運んだはずだが、そのときモーニングはクリーニングにでも出していたのかもしれない。  考えてみると、この一年、結婚式に出たことはなかった。今年の春に叔父が死んだが、そのときはニューヨークに行っていて出られなかったし、そのあとの友人の娘の結婚式も、仕事の関係で欠席した。そのまま着る機会もないまま忘れていたようである。いま急に必要になったからといって、離婚を承諾した妻のところへ、とりに行くのはおかしなものだし、これから行ったところで間に合いそうもない。 「困りましたね……」  富子がつぶやくのに、伊織は黒味がかって礼服に近い感じのスーツを着ることにした。  家を出ていると、なに気なく忘れていたものが、あるとき突然必要になり、慌てることがある。正式に別れることになったら、その種の残してきたものも、まとめて受け取っておかねばならない。伊織は一瞬、億劫な気持にとらわれてマンションを出た。  通りに出てタクシーを拾い、会場のホテルへ行くと、週末と大安が重なったせいか、宴会場のあたりは、結婚式に来たと思われる人達であふれている。古川・宇土家と書かれた受付けの前でご祝儀を渡すと、すぐ村岡が近付いてきた。 「ご苦労さん、お前が引き受けてくれたので、教授も喜んでいたよ」  思ったとおり、村岡はきちんと半礼服をきている。伊織は普通のスーツであることが気になったが、そのまま控室へ行き教授に挨拶した。 「お目出度うございます。ついに、手放されるのですね」 「嫁《ゆ》きたいやつは、勝手にゆくがいいさ」  乱暴ないい方をしたが、教授の目は笑っている。続いて新婦に挨拶したが、最近はあまり会ったことがなかったので、花嫁衣裳で美しく装った姿は別人のようだった。 「昨日、村岡に挨拶するようにいわれたのですが、僕でいいのですか」  新婦とわきにいる夫人と、半々にきくと、夫人は大きくうなずいて、 「伊織さんのような立派な方にしていただけるなんて、こんな嬉しいことはありません」 「僕は、立派なんかではありませんよ」  伊織は本気でいうのだが、夫人も新婦も謙遜《けんそん》だと思っているようである。  披露宴は予定どおり定刻二時から始まった。まずウエディング・マーチとともに、新郎と新婦が入場し、着席したところで、仲人の挨拶がはじまる。新郎は大手の商事会社のサラリーマンらしいが、新婦と同様、音楽が好きで、その縁で結ばれたらしい。仲人は型通りに、「前途有為な青年で……」というが、たしかに出身大学や勤めている会社をきくと、そういうのも無理はない。三十だが、すでに責任ある仕事を任されているエリートらしい。もっとも、在学中に東南アジアを歩き廻りすぎて、一年間留年したらしく、単なる秀才とは少し違うようである。  仲人のあとは、新郎の勤めている会社の直属の部長が立って挨拶をした。伊織はどこかで会ったことがあると思ったが、話をきいているうちに、三年前、多摩地区開発のプロジェクトを担当したときに、会ったことを思い出した。  部長は新郎がいかに優秀かを述べたあと、「新郎は酒は強いが、女にも強いとは知らなかった」といって笑わせた。  続いて、伊織が指名された。昨夜、村岡にいわれて考えたが、うまい言葉は浮かんでこなかった。いちおう、新婦が才媛で、とくにピアノに堪能であることはわかっていたが、それだけではありきたりである。  考えた末、教授の家に行ったとき、たまたまコートのボタンがとれたが、新婦が真先に気がついてつけてくれたことを話し、よく気がつく明るいお嬢さんで、こういう人をもらった男は果報者だと述べた。さらに、建物は柱一本では不安定だが、二本になると途端にがっちりすると、建築物になぞらえて結婚を祝った。そして最後に「盛大な結婚式をあげたからといって、責任を感じたりせず、ときには適当に息抜きしながら、力まず、ぼちぼち、暢んびりやって下さい」とつけくわえた。  そのあと、もう一人、新郎側の挨拶があって、来賓の祝辞は終り、次は新郎と新婦がエンゲージ・リングの交換をし、ウエディング・ケーキにナイフを入れ、シャンペンが抜かれた。 「スピーチ、なかなかうまいじゃないか」  シャンペンを飲み干したところで、村岡がささやいた。 「いや、こういうのは苦手だ。大体、こんなところで人生訓じみたことをいえる|がら《ヽヽ》ではない」 「ぼちぼち、暢んびりというのはいいよ」 「まだ海のものとも山のものともわからないのに、末永くお幸せに、という気にはなれなくてね」 「まあ、そんなに深く考えることもないさ、これはただのセレモニーだから」  再び司会者が立って、テーブルスピーチがはじまった。初めの祝辞と違って、今度は大分くだけている。新郎が新婦の気をひきたい一心で、急遽ピアノを習ったことや、友達から借金してオペラの切符を買ったことなどを、友人が明かし、その度に爆笑がわく。途中からは歌も入り、最後には新郎の友達のコーラスになる。若者らしく、明るく陽気な披露宴である。  やがて宴が終りに近づいたところで両親が立ち、新郎と新婦それぞれが、これから義理の親となる人へ花束を捧げる。会場の明りはすべて消され、両親が立っているところだけ、スポットライトで照らしだされ、そこに花束を持った新郎と新婦が「かあさんの歌」というメロディーをバックに近づいていく。やがて若い二人は両親の前で一礼し、それぞれ花束を渡し、盛大な拍手がわく。スポットライトのなかで、宇土教授は怒ったような顔で花束を受けている。 「下のお嬢さんだけは絶対手放したくない、っていってたからね。教授は泣きたいのをこらえているんだよ」  村岡が背伸びして見ているが、伊織は教授のほうは見ず、手だけみなに合わせていた。 「いいねえ、この瞬間のために親は子を育ててきたようなものだ」  村岡がいうのに伊織は黙って先に腰を下した。  花束贈呈が終って会場に明りがつき、最後に新郎の勤める会社の重役の音頭でもう一度乾杯をして、宴は終った。  宴会場の出口に仲人と新郎と新婦、それに両親が並び、退場していく客にそれぞれ礼をいっている。伊織は新しい夫婦に挨拶し、教授に改めて「お目出度うございます」とだけいった。教授は「伊織君、ありがとう、ありがとう」といって自分から手を差し出した。  その手を握り返し、廊下へ出ると、うしろから村岡が追いかけてきた。 「どうも、中途半端だな」  時計を見ると四時半だが、これから飲みに行くには少し早すぎるし、といってこのまま帰るのでは、いささか心残りである。 「このホテルのバーへでも行ってみようか」  そのまま二人で十二階のバーへ行って、円形のカウンターに並んで坐った。 「なかなか盛大だった。いつ見ても、結婚式はいいものだ」  村岡はまだ披露宴の名残りに酔っているようだが、伊織は答えず、ドライマティニのオンザロックを頼んだ。  伊織が醒めた顔をしているので、村岡は気になったらしい。 「元気がないようだな、どこか悪いのか」 「そんなことはないが、どうも、俺は結婚式というのがあまり好きではないんでね」  伊織は水を一口飲んでからマティニに軽く口をつけた。ジンのにがみがゆっくりと喉の奥にしみるのが、むしろ心地よい。 「若いカップルがみなに祝福されて新しい生活に入っていく。それを見るのが厭《いや》なのか」 「別に、厭なわけではないが、なにか背筋が寒くなるような気がしてね」 「そうかな……」 「みなが、前途有望な青年だ、才媛だと褒めて、末永く幸せにといったことをいう。しかしそんな簡単にいくものかな」 「それはわからんが、あそこに集まった人は、みなそれを期待しているわけだろう」 「みな、結婚式をしたら幸せになれるものだと単純に思いこんでいる。そして簡単に�頑張れ�とか�幸せに�という。そういうありきたりで無責任なところがいやなのだ」 「じゃあ、どうすればいいのだ。まさか不幸になれ、ともいえんだろう」  そういわれると、伊織にも答えようがない。だが、いまの結婚式は形式にとらわれすぎている。コンベアベルトの上を流れていくように、型どおりの宴会で、型どおりの空騒ぎで若者が送り出されていく。最も形式を嫌うはずの若者が、そのベルトの上に、唯々諾々と身を任せ、満足そうな顔をしているのが、なんとなくうすっぺらに見える。 「みなにおだてられている当の本人にとっては気持のいいことかもしれないが、見ているほうにとっては、あまり楽しいショウではないな」 「でも、教授のあんなに感激した顔を見たのは初めてだ。花束を受けとったときは、俺まで|じん《ヽヽ》ときた」 「正直いって、俺はああいうやり方は好きではない。いかにもそれらしいメロディをかけ、会場を暗くし、スポットライトを当てて涙をそそる。やらせというか、演出のゆきすぎだ」 「でも、あれが披露宴のクライマックスだろう」 「あんなことをやるのに、なにも大勢の人を招《よ》んで、見せることもないだろう」 「お前、今日はどうかしたのか」  村岡は飲みかけたウイスキーのグラスをテーブルにおくと、うかがうように伊織を見た。 「なにか、あったのか」  伊織はゆっくりと首を横に振った。いま見てきた結婚式を批判したからといって、それは妻との離婚とは関係ない。いまの結婚式というものには、すべてそうした愚劣で形式的なことが入りすぎている。そう思いながら、離婚のことが頭の片隅にあることも事実であった。 「とくにないが……」  披露宴では、ビールとウイスキーの水割りを少し飲んだだけだが、昼間の酒なので効いたようである。それにバーでのマティニが重なって、伊織は酔いを覚えた。もう一杯、マティニをお替りしてから、伊織は思い出したようにいった。 「今度、離婚するかもしれない」  瞬間、村岡がはじかれたように伊織を見た。 「本当か?」 「ようやくワイフも納得したらしい」 「それはどういうことだ」 「昨日、ワイフの兄が訪ねてきた。あとは離婚届けに判をおすだけでいいらしい。きまれば、意外に簡単なようだ」  突然の話で、当の本人より村岡のほうが慌てたらしい。気ぜわしく、ライターを二度すり、三度目にようやく煙草に火をつけてからいった。 「お前は、それでいいのか」 「いいのかといわれても、向こうが納得したのだから、そういうことになるだろう」 「まるで、他人ごとみたいじゃないか」  そういわれるとたしかに、伊織自身もまだ、離婚ということが|ぴん《ヽヽ》とこない。 「で、子供や家はどうするのだ」 「そこまではまだ決めていない。いまは、離婚することにお互い同意した、というだけのことだ」  やはり披露宴の帰りなのか、着物姿の女性が五人ほど一団になって入ってきて、窓ぎわの席に坐った。少し飲んでいるせいか、みな陽気である。呆《ぼ》んやり伊織がそちらに視線を向けていると、村岡がいった。 「もう一度、考えなおす気はないのか」  伊織はカウンターの前に並んだボトルの列に視線を戻した。 「ないわけでもないが、向こうが別れるというのだから、そうするより仕方がないだろう」 「しかし、初めに家を出て離婚をしたいといいだしたのはお前だろう。お前さえ、もとに戻す気になれば、なんとかなるんじゃないのか」 「………」 「奥さんだって、好んで離婚したいわけじゃないだろう。お前がいうから、しぶしぶ応じたんじゃないのか」 「そうかもしれない」 「頼りないな。お前はいったい離婚したいのか、したくないのか、どっちなんだ」  そう開きなおってきかれると、伊織もわからなくなる。たしかにいま離婚を望んではいるが、一人になってから先のことを思うと、億劫さとともに、ある寂寞とした思いにとらわれる。 「俺は、できることなら離婚なぞせず、いままでどおり、一緒にやってもらいたいと思っている。もちろん、お前がどうしても別れたいというのを、やめろなどという気はない。夫婦のことは当事者にしかわからないんだから、そこまで立入る気はないけれど」  伊織は手に持ったグラスを見たままうなずいた。村岡のいうことは当然だし、余計な口出しはしたくないという好意もよくわかる。といっていま、亀裂が生じた原因を説明せよ、といわれても難しい。 「ただ一つだけききたいことがあるんだが、お前、誰か好きな人がいるのか」  まっすぐ村岡に見詰められて、伊織は顔をそむけた。 「やはり、あの事務所にいる女性か……」  すでに村岡には笙子を紹介しているし、一緒に食事をしたこともある。こちらからいったわけではないが、笙子と普通の関係でないことは、堅物の村岡でも知っている。 「彼女と結婚するために、別れるんじゃないのか」 「いや、違う」  伊織はグラスのなかの氷をからからとならしながら首を横に振った。以前なら、妻と別れるとなったら、すぐ笙子との結婚を考えたかもしれない。少なくとも一年前、家を出た時点まではそのつもりでいた。だがいまは離婚がすぐ、笙子との結婚へ結びつかない。 「彼女とは、もう別れたのか?」 「そういうわけではないが……」  正直いって次の目標があって、別れるわけではない。なにも目的がない、その頼りなさが、離婚への気持を少し重くさせているのかもしれない。 「まさか、他に好きな人がいるわけではないんだろう」  一瞬、伊織はどきりとしたが、村岡はそれ以上、追及してくる気配はない。伊織はそのことにかえって不安になって、自分からいいだした。 「来週から、ちょっとヨーロッパへ行ってこようと思っている」 「こんなときに、なんの用だ?」 「ちょっと勉強がてら、少し暢んびりしてこようと思ってね」 「そうか、そのほうがいいかもしれないな」  村岡は、伊織が離婚についてゆっくり考えるために、ヨーロッパへ行くのだと解釈したようである。むろん一人で、霞と行くなどとは夢にも思っていない。 「しばらく日本を離れたら、また考えも変るかもしれないな」  村岡はそこまで期待しているようだが、伊織にはそんな気はない。自分から求め、妻も承諾したものを、いまさら取り消せるわけもない。 「はっきり、誰かと一緒になるという目処《めど》もないのなら、無理して別れる必要もないんじゃないのか」  伊織はそれをききながら、霞のことを考える。いまもし、妻と替って結婚するとすると、霞のことがまっ先に頭に浮かぶ。かつてあれほど好きだったのに、笙子との結婚に踏み込む気になれないのは、やはり宮津とのことが頭に残っているからかもしれない。  だが、霞は夫も子供もいる人妻である。たとえ自分が一人になったからといって、簡単に結婚できる相手ではない。霞が一人になるためには、伊織がぶつかった以上の、難しい問題がからんでいるに違いない。 「気を悪くされては困るが、俺達の年齢で一人で生活していくのは大変だぞ。家政婦がいるといっても、こまごまとしたところまでは手が届かないだろう」  誠実な村岡は、真剣に心配してくれる。 「やはり、俺の知っている画家で離婚したのがいるが、別れたら五キロも痩《や》せた」 「その人はいくつだ?」 「四十六かな、子供が一人いた」  その男が、妻とのあいだにどういうトラブルがあったのかわからないが、離婚が相当の決意とスタミナがいることだけは、伊織もわかる。少なくとも結婚よりははるかに煩瑣《はんさ》で、精力を消耗することはたしかである。 「ヨーロッパには、何日くらい行ってくるのだ」 「十日間くらいだ。オランダとウィーンにもちょっと寄ってこようかと思っている」 「いいな、俺も行きたいな」  うっかり、村岡も一緒に、なぞといわれては困る。伊織は相手にせずマティニを飲んだ。 「出発は来週の火曜日だ」  正直に告げてから、伊織は急に不安になった。もし、同じ日に、霞も出かけることを知ったら面倒なことになる。まさか、村岡から霞のところへ、電話をかけることはないだろうが、些細《ささい》なことから、二人の旅のことが洩れないともかぎらない。 [#改ページ]    良  夜  備前の小壺に紫苑《しおん》が二輪、高く低くバランスをとりながら位置を占めている。名のとおり淡紫色の野菊に似た寂しげな花が、主のいなくなる部屋をいっそう侘《わび》しく見せている。  二日前、航空券をとりにきたついでに、霞がこの花を活けていったのである。 「どうせ、明後日から旅行にでるのだから、花はもったいない」  伊織がいったが、霞はかまわず花鋏をもった。 「遠くへ行くのですから、出かけるときお花があったほうがいいでしょう」  そのときは無駄かと思ったが、いま旅立つときに、花は秘めやかに部屋のなかから見送ってくれる。花が開いて静けさを増した部屋を伊織は振り返り、忘れものがないのをたしかめてから、戸口へ向かった。 「じゃあ、頼んだよ」  靴を穿《は》き終ったところで、もう一度富子に念をおす。留守中、とくに用事はないが、ベランダにある鉢ものへの水や、郵便受けにたまる新聞の整理、空気の入れ換えなどの面倒をみてもらうことになっていた。 「泊っているところは、スケジュール表に書いてあるとおりだから、なにかあったら連絡してくれ」  富子にも旅行の日程表は渡してある。ホテル名はすべて日本語で読みやすく仮名をふっておいたが、富子が外国まで上手に連絡をよこせるかはわからない。だが渡してあるというだけで気持は大分楽である。 「向こうは寒いのでしょうね」 「東京よりは季節が一カ月くらい早いらしい」 「風邪をひかないように、気をつけて下さい」  さほど長くはないが、外国への旅とあって、富子は少し淋しそうである。 「じゃあ、出かけよう」  自分にいいきかせるようにいって、外へ出てエレベーターで下までおりると、望月と笙子がロビーで待っていた。 「荷物を持ちましょう」  望月は素早くバッゲージを受け取ると、マンションの前に停めてあった車へ運ぶ。 「わたしも、成田までお見送りしてよろしいでしょうか」  並んで車に向かいながら、笙子がきいた。いままで外国へ旅行をするときは、いつも所員の誰かが空港まで送ってくれた。その都度、都合のつく者で、二、三人のときも四、五人のときもあったが、いままで笙子が欠けたことはなかった。 「もちろん……」  伊織はうなずき、先に車に乗った。  霞とはむろん同じ便だが、先に一人で出発手続きを終えるように、一昨日、会ったときに説明しておいた。別々に手続きをしても、座席は並ぶように、航空会社のほうに事前に頼んでおいたから問題はないはずである。ともにファースト・クラスなので、その程度の我儘はきいた。 「事務所の者が見送りにくるかもしれないが、なかへ入ってしまえばわからないから」  もし霞と会っても、出国手続きを終えるまでそ知らぬ顔をしていれば、互いに気づかれる心配はない。  出発の一時間前の八時までには着く予定で、六時前に出たが、道路が混んで、成田に着いたのは八時を少し過ぎていた。搭乗カウンターのある北ウイングに行って、伊織はあたりを見廻したが、霞の姿はなかった。そのまま先に手続きを終え、荷物を出して望月と笙子のところへ戻ってくると八時二十分だった。 「まだ少し時間がある。ちょっとコーヒーでも飲もうか」 「でもあまり時間がありませんから、先に入られたほうがいいんじゃありませんか」  たしかに出発まで四十分では、あまり暢んびりできない。それになかで待っている霞のことを思うと、早目に入ったほうがたしかである。 「じゃあ、そうしよう。遠いところわざわざありがとう」  伊織は、望月と笙子を半々に見て礼をいった。 「気をつけて、いってらして下さい。お土産はあまり無理をしなくて結構ですから」 「じゃあ、無理をしないことにしよう」  冗談をいい合って伊織は望月に握手をし、続いて笙子に手を差し出した。笙子は一瞬、堅い表情をしたが、そっと握り返した。 「留守中、頼む」  笙子はうなずくと、思い出したようにショルダーバッグを開き、白い包みをとり出した。 「|おかき《ヽヽヽ》とお茶のセットです。お邪魔かもしれませんが、ホテルででも」 「ありがとう」  伊織はそれをカバンに入れて、もう一度、二人を振り返った。 「それじゃ、行ってくる」  うしろから、なお二人が見送っている視線を感じて、伊織がもう一度振り返ると、望月が手を振り、笙子があげかけた手を胸元でとめた。  伊織はなにか笙子にいい忘れたような気がしたまま、ゲートへ通じる地下への階段を下りた。  出国手続きを終えてなかへ入ると、伊織は免税品売場の方へ行った。一昨日の約束では、その売場の前あたりで待ち合わせることになっていたが、霞の姿はない。どこへ行ったのか、不安になってあたりを見廻していると、うしろからぽんと肩をたたかれた。 「いま、見えたのでしょう」  振り向いた伊織の前にカシミアのトックリセーターにグレンチェックのブレザースーツを着た霞が立っている。普段、和服姿を見慣れていたせいか、急に若やいで見える。 「女の方が、お見送りに見えていたでしょう」  霞が悪戯っぽく笑う。 「すぐ横にいたのですよ。あなたが入ったから追いかけてきたのです」 「あれは事務所の女性だ。もう一人の所員と一緒に送りに来てくれたのだ」 「まあいいわ、うまく逢えたから」  霞は修学旅行にでも行くような浮き浮きした顔で、手に持ったバッグを軽く振ってみせる。 「ここに、おかきもチョコレートも入れてきたわ。飛行機のなかで欲しくなるでしょう」 「しかし、よくこられたね」  伊織が感心したようにつぶやくと、霞は少し怒った口調で、 「切符まで買ったのに、こないと思ったのですか」  正直なところ、伊織はまだ霞と一緒にヨーロッパへ行くということが実感となってこない。あとは飛行機に乗るだけなのに、まだトラブルでもおきて、中止になるような気さえする。 「やはり、お嬢さんに送ってきてもらったの?」 「そうよ、娘も成田を見たいといって、一緒に来たのよ」  もし誰かに見つかったらと不安になって出発ゲートへ行くと、そこにもかなりの人が待っている。十一月に入って、ヨーロッパはもう観光シーズンは終っているはずだが、相変らず胸にバッジをつけた団体客が多い。 「まだ少し時間があるわ。コーヒーでも飲みましょうか」  霞が軽食を売っているカウンターのほうへ行くのを見送って、伊織はその先の公衆電話へ視線を向けた。  ヨーロッパまで行くというのに、まだ一度も自由が丘の家へ電話をかけていなかった。昨日から、かけようかかけまいかと迷いながら、出発間際でいいと思ううちに、そのときが迫っていた。いまさら、ヨーロッパに行くことを知らせたところでどうなるわけでもない。そう思いながら、もしこのまま死んだら、と不吉な予感が頭をかすめる。  霞が持ってきたコーヒーを一口飲んでから、伊織は立上った。 「ちょっと……」  それだけいって、カウンターの先の黄色電話のところに行って受話器をとる。  離婚が決った相手にいまさら電話をしなくても、いいたいことがあれば、外国から手紙にでも書いたほうがいい。そのほうが余程スマートで余韻がある。そう思いながら、もしこのまま事故にでもあったら、とも思う。  離婚するとはいえ、まだ籍がある以上、やはり一言くらいいっておくべきかもしれない。そう自分にいいきかせて、伊織はダイヤルを廻す。  誰がでるのか、息を潜めていると、短い呼出音があって妻がでた。 「もしもし……」  久しぶりにきく妻の声が以前と変っていないのが、なにか不思議なことのように思って、伊織はいう。 「俺だけど……」 「ああ……」と、かすかなつぶやきが洩れる。 「いま、成田にいる……」  妻はすでに義兄から旅行のことをきいていたのか、驚いた気配はない。 「十日間ほど、仕事でヨーロッパに行ってくる」 「………」 「変りはないか」 「はい……」  はじめて返事が返ってきたが、それで会話はすぐ途切れる。 「義兄《にい》さんから、話はきいた……。そのことは、いずれ帰ってからにしよう」  話しながら、伊織は自分のいい方が、少し素気なさすぎるような気がしていた。 「子供は元気か?」 「ええ……」 「いまなにをしているの?」 「テレビを見ています」  妻は必要にして最少の言葉しか返してよこさない。仕方なく、伊織は一人でうなずいた。 「じゃあな……」 「気をつけて」という言葉が返ってくるかと待ったが、返事がないまま電話は切れた。  伊織は音の途絶えた受話器を持ったまま、しばらく遠く人ごしに、椅子に坐っている霞の横顔を見ていた。  ゲートの前の椅子へ戻ると、霞がコーヒーの紙コップを伊織に渡しながらきいた。 「なにか、お忘れものですか」 「ちょっと仕事のことで……」 「ぎりぎりまで大変ですね」  伊織はコーヒーを飲みながら、いまの妻の応対を思い返していた。電話できくかぎりでは、妻が興奮したり乱れている様子はなかった。これから外国へ行くといった途端、なにか、これまでの|思い《ヽヽ》のたけをぶちまけられるような気がしたが、そんな心配は不要だったようである。  だが考えようによっては、その静かで言葉少ななところが、妻の心の冷え方を現しているといえなくもない。 「まだ、気になることがあるのですか」 「いや……」 「わたし、こうして二人で外国へ行くのははじめてです」  霞はヨーロッパとアメリカに一度ずつ行っているといったが、初めは団体旅行で、あとのほうは四、五人の友人と一緒だったといっていた。 「まだ本当に、二人で行けるのかどうか、不思議な気がするのです」  それは伊織も同じであった。あとはもう目の前の飛行機に乗ればいいだけと知りながら、まだ本当に行けそうな気がしない。伊織は改めてあたりを見廻した。なにか犯罪者のように怯《おび》えた態度だと、自分で呆れながら、しかし落着かない。 「早く、飛行機が出るといいわ」  どうやら、霞も同じ不安を感じているようである。伊織は気持を落着けるように煙草を銜《くわ》え、時計を見た。出発時間まであと二十分だが、搭乗案内をしないところをみると、少し遅れるのかもしれない。  夜のなかで明滅する空港の灯を見ながら、伊織はここに誰かが現れて、引き戻される情景を想像した。いまもしここに現れるとしたら霞の夫か、それとも彼に頼まれた誰かか。  突然、一人の男が駆けつけてきて、「この女は行かせない。この男は、妻を誘惑して外国へ逃げようという卑劣なやつだ」そんなことを喚《わめ》き、霞を引きずりだす。 「遅いな……」  伊織がもう一度時計を見たとき、ようやくゲートが開き、マイクが搭乗案内を告げた。  途端に待っていた人達が一斉に立上る。それを見ながら、伊織がバッグを持った。 「行こうか」  霞が顔を上げてにっこりうなずく。その笑顔を見て、伊織ははじめてこれから二人でヨーロッパへ行くことを実感した。  座席はファースト・クラスで、前方の席に並んで坐ると、すぐスチュワードが挨拶にきた。 「伊織祥一郎さま、高村霞さま、アムステルダムまでですね」  三十半ばの愛想のいい男性が、軽く頭を下げて名前をたしかめた。 「アンカレッジまで六時間ですが、どうぞご用がありましたらお申し付け下さい」  伊織はうなずきながら、一瞬、身分調査をされたような気持になった。名前の違う中年の男女二人が隣り合わせた席に並んでヨーロッパへ行く。姓が違うのだから、当然、夫婦ではないが、一緒に行くところをみると、なにかいわくのある関係であろう。乗務員達はそんなことを考えながら、見ているのかもしれない。  だがそれはこちらの思いすごしで、単に仕事で行く二人が、たまたま同じ便に乗り合わせたと思えばいいのかもしれない。伊織は思いなおして飲物のサービスのシャンペンを受け取る。そのまま、あたりを見廻すが、知っている人はいないようである。  伊織は安心してグラスに口をつける。  やがて入口の扉が閉まり、機はゆっくりと滑走路に向かって行く。闇のなかで青と赤の航空標識だけが点々と続く。伊織はその明りを見ながら、ベルトを締めなおし、霞も息をひそめたように窓を見詰めている。  やがてエンジンの音が強まり、機は滑走路を走り出す。さらに加速され、がくんと小さな衝撃音を残して、ふわりと宙に浮く。そのまま上昇し、空港の光りが急速に遠ざかるのを見て、伊織は初めて、そっと溜息をついた。どうやら無事離陸したようである。このままじっとしていたら、六時間後にはアンカレッジにつき、さらに十数時間後にはアムステルダムに着く。  機がとびあがって、伊織は初めてすべての拘束から解かれたような気がした。妻のこと、離婚のこと、仕事のこと、そして笙子とのこと、地上のもろもろの煩瑣なことから解放され、いまは自由である。少なくともこれから十日間は、なにも考えず、ひたすらヨーロッパの旅を楽しめばよい。  安堵して窓を見ると、霞が振り向いて微笑した。そのままサイド・テーブルの上にあった霞の手に伊織が手を重ねると、霞がそっと握り返してきた。 「もう、大丈夫ね」 「ああ……」  互いになにもいわなかったが、考えていたことは同じだったようである。  成田を発ってじき夕食が出た。それを食べて伊織は軽く眠った。ワインの酔いと、東京を離れたという安らぎのせいか、心地よい眠りであった。  どれくらい経ったのか、途中で目を覚ますと、霞が伊織に頭をあずけるようにして眠っている。その横顔を見て、伊織は改めて霞と一緒に旅に出ていることに気がついた。  成田から六時間後に着いたアンカレッジはすでに冬であった。  空港ロビーの窓から、雪を抱くアラスカの山並みを見ているうちに、伊織は改めて旅に出ていることを実感した。  一時間の給油時間ののち、再び飛行機に乗り、食事がでて映画がはじまり、それが終るとまた眠った。朝食とも夕食ともわからぬ食事がでて、そのあいだうつらうつらと眠りながら時間がすぎる。  食事と眠りと交錯するなかで、目覚める度に、伊織は横に霞がいることに驚き、感動する。いままで東京で霞と逢っているときに、眠るなどということはなかった。逢っている時間が惜しくて、そんなもったいないことはできない。その思いが、いまだに頭のなかにこびりついているらしい。  はっと目覚めて、一瞬、横にいる霞を見て慌てる。もう霞の帰る時間だと思い、いやこれはヨーロッパに行く飛行機のなかだから大丈夫なのだと気が付く。まだまだ、霞といる時間は長く続くのだと安堵し、それからまた眠る。眠っても眠っても、霞が横にいてくれるということが、ときに不思議に思える。それは霞も同じなのかもしれない。ときに仮眠して目覚めると、霞がこちらを見て微笑んでいる。それを見て、伊織も安心してまた眠る。  二人とも、いつまでも続く一緒の時間に戸惑いながら、心は満ちていた。いつもヨーロッパへ行くときは、飛行機のなかで退屈していたが、いまはその長さが気にならない。食事と眠りを強要される苦痛の旅であったのが、安穏と奢侈《しやし》の交錯する豊かな旅に変っている。  最後の軽い朝食が終ると、マイクが、まもなくアムステルダム空港に到着することを告げた。現地時間で七時三十分だといったが、あたりはまだ暗い。  機が高度を下げ雲を抜けると、突然、無数の明りの粒が近づいてきた。薄明のなかで大地の輪廓が見えてきたが、アムステルダムの街は、まだ夜のままの明りが残っている。やがて機は右へ大きく旋回し、そこから一直線に着陸姿勢に入る。 「着くよ……」  伊織はささやきながら、ついに霞とここまで来たことにある感動を覚える。  飛行機から降りてみると、空港のあたりは霧がおおい、まだ完全に明けそめぬ空の下で、航空標識も街灯もまるくふくらんで見える。朝が早くて到着便は少ないのか、空港ビルは閑散としている。長い、清掃の行き届いた通路を、同じ便から降りた客の列だけが続く。  霞が前にヨーロッパにきたときは団体旅行で、パリとロンドンが中心でアムステルダムは素通りしただけらしい。 「素敵だわ……」  霧に濡れたガラスごしに、朝靄《あさもや》のなかに沈む空港を見て、霞がそっとつぶやく。 「これから夜が明けるのですね。東京は、いま何時ごろでしょう」 「八時間早いのだから、そろそろ午後の三時ごろかもしれない」  二人は再び歩きはじめた。伊織は迎えにきているはずの東野に、霞のことをなんといおうかと考えた。東京を発つ前から、東野へはこの便で着くことを伝えてあったが、迎えにきてもらうつもりはなかった。以前はともかく、いまは北のフリースランド州に住んでいるのにわざわざアムステルダムまで来てもらうのは悪い。だが東野は、ちょうどそのころアムスまで行く用事があるから、迎えに出ると連絡があった。伊織はすぐ断りの手紙を書こうかと思ったが、それからでは間に合いそうもないのであきらめた。  いずれにせよ、東野に霞を紹介しなければならないことはわかっていたが、朝の空港でいきなりというのは、少し戸惑う。  東野は伊織の妻を知らないから、「妻です……」といってもとおりそうである。伊織としても一度そういってみたい気もするが、それではやはり不自然だし、霞も困るかもしれない。いっそはっきり、「好きな女性だ」と白状したほうがすっきりするし、互いに気が楽かもしれない。東野自身、外国の女性と結婚している男だから、つまらぬことに拘泥わるはずはない。そう自分にいいきかすが、いざその瞬間が近づくと迷う。  オランダは開かれた国だけに、入国手続きも税関も簡単である。パスポートを一目見ただけで通してくれて、あとは荷物を受け取ってゲートを出る。すぐ、出迎えの人のあいだから、手をあげて近づいてくる男がいる。頬と鼻の下に黒々と髭を生やしているのは以前と同じである。 「よく、お見えになりました。疲れたでしょう」  東野は手早く自分から伊織の荷物を持ちかけて、横にいる霞に気がついたらしい。おや、というように視線をとめ、それからひょいと頭を下げた。  伊織はそのまま空港ロビーのなかほどまでいったところで、霞を紹介した。 「こちら高村さん、陶芸家の東野さんだ」  いかにも素気ない紹介であったが、それから先は適当に解釈してくれ、といった開き直った気持でもあった。東野は「ようこそ」と気軽に答え、霞はもう一度、名前だけをいって頭を下げた。 「まず、いったんホテルへ行って休んだほうがいいでしょう。いまここへ車を持ってきますから」  東野はそういうと、足早にロビーから出て行った。外は相変らず霧がかかり、その彼方から徐々に夜が明けてくる。 「あの方、わたし達のこと、知っているのですか」 「いや……、しかし勘のいい男だから、察してはいるかもしれない」 「変に思っているのではないでしょうね」 「そんな、細かいことをいう男ではない。さっぱりした男だから気にすることはない」 「でもあの方、さっきちょっと、不思議そうな顔をしてらしたので」 「君があまり、綺麗だからだろう」  伊織がいったとき車がきた。東野はてきぱきと二つのバッゲージを荷台におし込むと、運転席に坐った。 「これからホテルで少し休んで、よかったら一時ごろにお迎えに行きますが」 「でも、忙しいんじゃありませんか」 「いまは、わり合い暇なときなのです。それに今日からは、伊織さんのためにずっとあけてありますから」  伊織は恐縮して頭を下げる。 「今日と明日は、このあたりを案内して、よかったら明後日にでも僕の家にいらっしゃいませんか。少し遠いけど、途中、海も見えますから」  東野の家は北のレーウワルデンという街だときいていた。初めの予定では、二人だけで暢んびりオランダを見て歩くつもりであったが、東野が熱心に誘ってくれると断りにくい。彼がいつも横にいると思うと、気が重いこともあるが、心強いことはたしかである。  道は空いていたが、アムステルダムの街が近付くにつれて次第に混み、それとともに外は明るくなってきた。まだ完全には明けきらぬが、そのなかを出勤するのか、車が信号の前で並んでいる。街を歩いている人はみなコートを着て、なかにはあたたかそうな毛皮を着ている人もいる。葉を落した裸木が朝日に輝き、ヨーロッパはすでに初冬である。  ホテルの部屋は十二階で、まわりは大きい建物がないので、よく見晴らしがきく。空港に着いたときはまだ薄暗かった空が、走っているあいだに明るくなり、いまは朝陽の下で街が見渡せる。  窓のすぐ下に運河が見え、それにそって同じ高さの煉瓦造りの家が並び、あいだに中庭が見える。すでに樹木はほとんど葉を落し、運河の水も冷え冷えとしているが、芝生だけは西洋芝で、青々と色づいている。空港ではかなり深かった霧も、いまはほとんど消え、水と芝生が朝陽を浴びて輝いている。 「玩具《おもちや》のようだわ」  霞がつぶやくのに伊織はうなずき、そっと肩に手を当てる。そのまま顔を振り向かせて接吻をする。 「見られるわ……」  すぐ霞が首を振って唇を離すが、すでに終ったあとである。 「風呂に入ろう」 「どうぞ、お先に……」  一緒に、といいかけたが、どうせこれからは、何度も夜を重ねるのだから慌てることはない。伊織は自分にいいきかせて、先にバスルームへ入る。二十時間近く坐りづめできたので、温かい湯のなかで手足を伸ばすと、全身から疲れが抜けていく。  風呂を終えて、パジャマに着替えると、伊織は先にベッドに入った。  そのあと、霞はバスルームに消え、やがて寝間着に着替えて近づいてきた。 「早く、おいで」  カーテンを下ろした淡い闇のなかで伊織が掛布の端をあげると、霞はとびこむように入ってきた。そのまま、しっかりとしがみつく。  長いあいだ、二人で横にいながら、触れ合うことができなかった。そのおさえていた気持が一気に爆発したようである。伊織は懐しいものを探るように、霞の肌の感触をたしかめながら、少しずつ寝間着の前を開く。 「駄目よ、少し静かに休みましょう」 「なにもしないから、裸にだけなってくれ」  伊織がさらに手を動かすと、霞はあきらめたのか黙っている。そのまま腰紐をとき、下着をとったところで、やわらかい茂みにそっと触れる。 「しないと、仰言ったでしょう」 「しないよ」 「じゃあ、静かに休みましょう」  くるりと霞がうしろを向く。湯を浴びた心地よさと気怠さのなかで、伊織は霞の裸のお臀を抱きながら目を閉じた。  どれくらい眠ったのか、目覚めるとレースのカーテンのあいだから、やわらかい陽射しが洩れていた。横を見ると、霞が軽く背を見せたまま眠っている。寝つくとき、霞のお尻は裸のままであったはずだが、いまは薄いショーツをはいている。してみると、伊織が眠ってから、霞は起きて下着をつけなおしたのだろうか。伊織は再び霞のすべすべした太腿《ふともも》に脚をからませながら、目覚めたときすぐ横に霞がいることに安堵する。  そのまましばらく肌のぬくもりを楽しんでから、伊織はベッドを抜け出した。すでに昼に近く、外は霧があがり明るい陽が射している。だが空は灰色で雲が低く、そのあいだから洩れる陽が、いかにもヨーロッパ的である。伊織はいったんソファに坐り、煙草を喫った。  まず事務所へ、無事に着いたことだけでもしらせようかとかたわらにあった鞄を開くと、わきのほうに小さな包みがあった。出発間ぎわに、笙子がくれたのだが、なかはおかきとお茶のセットだといっていた。お茶でも飲みながら食べてみようかと、包みを開くと、上に花模様の封筒がおかれている。一瞬、伊織は霞のほうをうかがい、それからそろそろとなかを開いた。 〈お気をつけて行ってらっしゃいませ。お二人の楽しい旅でありますように 笙子〉  伊織は慌てて便箋《びんせん》をおりたたむと、封筒へ戻した。もしやと思ったが、笙子はやはり、霞と二人で行くことを知っていたらしい。面と向かってはなにもいわず、出発間際にも平静を装っていたが、本当はこの手紙にあるようなことをいいたかったのかもしれない。  改めて、伊織はマンションを出るとき、「わたしも、お見送りにいっていいですか」といったときの表情を思い出した。  あのとき、笙子はすべてを知って、そういったのか……  伊織が考えこんでいると、べッドの端がかすかに動いて霞が目を覚ました。 「あ、起きていらしたのですか」  伊織は手に持っていた封筒を鞄に戻すと、なにごともなかったように煙草を喫った。 「ご免なさい。寝坊して。あ、もう十一時を過ぎたのですね」 「霧は晴れたよ……」  低く雲の垂れこめている空を見ながら、伊織は東京にいる笙子のことを思った。  東野が迎えにくる一時までは、充分時間があると思ったが、いざ準備をはじめると結構手間どった。伊織はグレイのズボンにベージュのジャケットを着、コートを手に持ったが、霞は迷った末、ベージュのジャージのワンピースを着た。霞は和服が好きで、今度の旅行でも着物を持ってきていたが、今日は街中を歩くことが多いようなので洋服にした。  先に伊織が準備ができて階下におりていくと、東野はすでにきて、ロビーで待っていた。 「連れの方は?」 「いま、きます……」  そういってから、霞について少し説明しようかと思ったとき、東野が先にきいた。 「あの方、もしかすると、東京で画廊をやっている人の奥さんじゃありませんか」  思いがけぬことをきかれて、伊織は一瞬、息をのんだ。 「どうしてご存知で……」 「やっぱり、そうでしたか。空港でお会いしたとき、どこかで見たことがあると思ったのですが、さきほどようやく思い出したのです」 「会ったことがあるのですか?」 「三年前でしたが日本に帰ったとき、個展をしたいと思って、いろいろ画廊を廻ったことがあるのです。英善堂なら一流だし、陶器類も扱っているので、どうかと思って行ってみたのですが、そのとき、ご主人と一緒にいらっしゃったのです。きれいな方なので憶えていたのですが、むろん、あちらではわたしのことは知らないと思います。そのときは結局、断られましたけど」  とにかく、こうはっきり、人妻であることがわかってしまっては、黙っているわけにもいかない。 「実は、今回の旅行は二人だけでこっそり来たものですから……」  思いきって伊織がいうと、東野は軽く微笑を浮かべながらうなずいた。 「わかっています。ヨーロッパは絶対二人でくるところですよ」  そのとき、霞がエレベーターからおりてきた。モスグリーンのスエードのコートを着た霞は華奢で、大きな外人のあいだにはさまれると少女のように見える。 「まず、王宮のあるダム広場へ行ってみましょう。そこから、ぶらぶら歩いてムントタワーに行って、運河ぞいの花市場を見るというのはどうですか」  東野はもう先程のことは忘れたように、屈託なく霞に説明する。 「こんなに寒いのに、お花の市場があるのですか」 「温室の栽培ものやなにかで、オランダは一年中、花をたやしません」  なにも知らぬ霞は、東野の言葉に目を輝かしてうなずいている。  ダム広場には昔の王宮があり、それと向かい合って、円筒形の戦没者慰霊塔が建っている。第二次大戦のときにはここにもドイツ軍が進攻し、激しいレジスタンスがおこなわれた。だがいま広場には人々が群れ、電車と車が行き交い、当時の面影はない。  三人はその広場から、ショッピング街であるカルバー通りを歩いた。オランダはクリスマスより、十二月初めのセント・ニコラス・デイのほうが賑やかなので、デパートや一部の店ではすでに華やかなモールと電気の飾りつけをしている。北欧にも近いだけに、毛皮やバッグの高級品店があり、ダイヤモンドを中心とした貴金属や銀製品の店なども多い。  それらの店にくる度に霞は立止り、ウインドウから引きずられるようになかへ入る。 「まだ何日もいるのだから、慌てて買う必要はないよ」  伊織がいうのに、霞はうなずきながら、一着だけコートを試着してみることになった。だが袖に腕をとおした瞬間、大きすぎてコートのなかにうずまった感じで、伊織と東野は同時に笑ってしまった。背はさほど低くはないが、華奢な霞では、外国のコートはとても合いそうもない。  霞はあきらめたのか、少し足早になり、途中、歴史博物館を見て、ムント広場に出た。ここからコーニングス広場の橋に至るまでの運河沿いの道が花市場になっている。相変らず空は灰色で冷え冷えとしているのに、さまざまな花が路上にあふれ、ここだけは別の世界のようである。  花に誘われて市場を見て歩くうちに、短い日は早くも暮れ、気がつくと、運河のわきの家々にはもう灯が点《つ》いている。 「小さいけど、ちょっと洒落たレストランを頼んでおきましたので」  そういって東野が案内してくれたのは、スプイ広場に面した小綺麗な店で、オランダの家庭料理のメニューも豊富である。三人別々の料理をとり、わけ合ったりしながら食事を終えると八時だった。 「まっすぐホテルに戻られますか、それとも飾り窓でも見てみましょうか」 「なんですか、それ」  霞がきき返すのに、東野が説明する。 「男が女を買うところですけど、日本のようにじめじめした感じはありません。僕もワイフと一緒に行ったことがあります。こちらの女性はさばけていて、よく恋人と散歩がてら歩きます。赤や青の明りのついた窓に、スタイルのいい女性が脚を出して、なかなかきれいです」 「そんなところへ行くのですか」  困った顔をしながら、霞も好奇心がわいてきたようである。  アムステルダムの飾り窓は、ダム広場から、五、六百メートル東へ入った運河ぞいの一角にある。がっしりした石造りの家の一、二階の窓ぎわに、女達が椅子に坐ったり、立って髪をかきあげたり、すらりとした肢《あし》をこれ見よがしになげだしたり、思い思いのポーズで客の目を引いている。いずれも薄いドレスかランジェリーをつけただけで、なかにはブラジャーとパンティだけの女性もいる。売春という暗いイメージにはほど遠く、それぞれ自分の肉体を誇示し、男達に挑戦しているといった感じである。群がる男達も悪事をしているといった感じはなく、それぞれ楽しげに眺めたり、冗談をいい合ったり、戸口で値段の交渉をしている者もいる。女達の坐っている奥にはベッドがあり、鏡や小さな洋箪笥まで窓から覗き見える。ところどころカーテンの閉っている窓は、客と交渉が成立して、ただいま仕事中ということになる。  はじめは尻込みして、うつ向き加減に歩いていた霞も、慣れるに従って顔をあげ、やがて感心したようにつぶやく。 「きれいね、素晴らしい躰だわ」 「でも、近づくと結構、婆さんがいるんです。いまは明りで誤魔化してますが」 「でも、あそこにいる方なんか、すらりと脚が伸びてファッション・モデルみたいだわ」 「そこに見える塔のある建物が旧教会で、この先が市庁舎です。教会や市庁舎のすぐ横に飾り窓があるってのが愉快でしょう」  たしかに目の前の夜空に、十字を形どった塔の先端が聳え立っている。 「東野さんも、なかにお入りになったことがあるんですか」 「独身のころ、二、三度行っただけです。マフィアが管理している、なんて噂もありますが、きちんとお金を払って遊ぶ分には、どうということはありません」  霞は呆れたといった顔で、今度は伊織に、 「あなたも、遊んでみたいのでしょう」 「いや、見ているだけで充分だよ」 「無理なさらなくていいわ、あんなに素敵なんだから」 「別に無理しているわけじゃなくて、もともと僕は外人の女性は嫌いなのだ。たしかに遠くから見るときれいだけど、近づくと鼻が高いのに眼がひっこみすぎて、大峡谷に吸いこまれるような気がする。それにああ脚が長くては、首まで絡まれて逃げられなくなりそうだ。女はやっぱり、日本の女性のように小さくて可愛いのがいい」 「慰めて下さるのね」  本心から伊織はそう思っているのだが、霞は信じていないようである。  飾り窓と飾り窓のあいだには、ポルノ・ショップやポルノ映画、さらにライブ・ショウをやっている店などが並んでいる。 「ちょっと、寄ってみましょうか」  ポルノ・ショップの前で東野がいうのに、霞は慌てて、 「わたしはここにいますから、ご覧になりたいのでしたら男性だけでどうぞ」 「でも、せっかく来たのですから勉強のためにいかがです」 「変な勉強だわ」 「ちょっと、見てみようか」  伊織が誘うと、霞はあなたまで、というように溜息をつくが、一人で道で待っているのも怖くなったのか、仕方なさそうにあとに従いてきたが、入った途端に立止る。 「どうしたの?」 「こんな……」  霞はそういったきり、顔を伏せる。突然、露骨な裸の写真が並んでいるのを見せつけられて、動けなくなったらしい。子供のように手で顔をおおっている姿がおかしくて、伊織と東野は笑いだした。 「大丈夫だよ、別に写真が襲いかかってくるわけではないから」  かまわず伊織が背を押してなかに入ると、霞は下を向いたままそろそろとすすむ。  オランダはポルノは解禁だけに、局所まですべてはっきり写し出されている。伊織がその一冊をとってなかを開くが、霞は顔をそむけたまま見ようとしない。 「これ、どうお?」  悪戯半分に伊織がきくと、霞は見たくないというように横を向く。だがその方向にも裸の写真は並んでいる。 「二、三冊、買っていこうかな」 「おやめなさい、笑われます」 「別に、笑われやしないよ。所員の連中のお土産にいいだろう」 「いやだわ……」  声は怒っているが、その実、目は怖る怖る書棚の写真を眺めている。 「ポルノだからといってあまり気にすることはないさ。こんなのはヨーロッパではどこでも解禁で珍しくもない。ほら、そこにいる二人づれだって平気だろう」  伊織が外人の二人づれを顎で示すと、霞はちらとそちらを見て、 「お買いになるのでしたら、早くなさって……」  また怒ったようにいって、顔をそむける。伊織は二冊買って「あとでゆっくり見せるよ」と囁くが、返事もしない。  飾り窓を出て車に乗り、ホテルに着くと十時だった。 「明日は九時半に迎えに来ます」  東野が当然のようにいう。明日もまた案内を頼むのは恐縮だと思うが、東野がぜひにというのだから、無下に断るのも悪い。改めて礼をいい、ロビーで別れて部屋に戻る。  ドアを閉めて二人きりになった途端、伊織はいままでの我慢を一気に吐き出すように、霞を抱き締めると、霞もぴたりと躰をおしつけてきた。そのまま長い接吻を交わしてから、二人はようやく満足したように唇を離した。 「疲れたろう」 「少し……でも、とっても楽しかったわ。東野さんて親切な方ね」  伊織はうなずきながら、東野が霞を知っていることを、いったものかどうか迷っていた。 「明日はどこに行くのですか」 「まず、ゴッホ美術館へ行って、それから、三十キロほど南のハーグという街へ行くらしい」  霞は、ハンガーに伊織のコートをかけながら微笑んで、 「ポルノを見たあとに、ゴッホをご覧になるのですか」 「どちらも芸術だろう。さあ、一緒に風呂に入ろう」 「それも、芸術ですか」 「もちろん女性の体が最高の芸術だ。今日はどうしても入れるぞ」 「いやです。あんな写真を見たあと、較べられては惨めになるだけです」 「馬鹿なことをいうんじゃない。あれは写真のための写真で、つくられたものだ」 「なんと仰言っても、見られるのはいやです」 「じゃあ、明りを消すから、いいだろう……」  霞は答えず、軽くふくれた顔をしている。 「先に入って待っているから、頼む」  伊織が両手を膝にのせ深々と頭を下げると、霞は仕方なさそうに、 「絶対、見ませんね」 「見ない、誓っていい」  今度は大真面目に目を閉じたまま十字を切る仕種《しぐさ》をする。それからそっと目を開くと、霞が笑っている。その笑顔を見届けて、伊織は安心してバスルームに入った。  右手の洗面台の前は広い鏡になり、浴槽は細長く、一人がゆっくり手足をのばせる空間がある。伊織は湯を張ると、明りを消してドアのほうへ声をかけた。 「約束どおり、暗くしたよ」  そのまま入口の隙間から洩れるわずかな明りのなかで待っていると、ドアの端から、霞が顔だけ覗かせた。 「本当に、明りをつけませんね」 「つけたくても、スイッチが外にあるのだから、つけられるわけがないだろう」 「目を閉じていますね」 「閉じている、このとおり」 「向こうを見ていて下さい」 「大丈夫、こんな暗くちゃ、なにも見えやしない」  霞はなお半信半疑といった様子でなかをうかがっていたが、ようやく納得したらしい。細目に開いていたドアをさらに開き、霞が一歩、なかへ踏み入れたと思った瞬間、すぐばたんとドアが閉まる。 「おいおい、ドアを完全に閉めてしまうと、真暗になってしまうじゃないか、これじゃ息がつまってしまう。ほんの少しでいいからあけてくれ」  霞も閉めてみて、なかの暗さに驚いたらしい。仕方なさそうにドアの端をわずかにあけ、また光りが洩れたなかをそろそろと浴槽のふちへ近付いてくる。  ころ合いを見て伊織が振り向くと、霞は悲鳴をあげ、タオルを胸に当ててしゃがみこむ。 「目を閉じている、といったでしょう」 「いったけど見たくなった。そんなところでうずくまっているとますます見えるぞ」  このチャンスを逃さじとばかり、伊織が手を引くと、霞は哀願する口調になって、 「入ります、入りますから目を閉じて」  それを信じて伊織が手を離すと、霞は浴槽の前で、 「このまま、入るのですか」 「もちろん、前のほうがいい」  伊織が躰をずらして前をあけると、霞は観念したように背を向け、まず左足から浴槽の縁をまたぐ。続いて右足と、裸になると意外に豊かなお臀が淡い闇のなかでゆっくりと揺れる。 「お湯がこぼれます」 「かまわないよ、さあ坐って……」  伊織は湯のなかで両膝を開き、そのあいだに霞の腰を引き寄せる。たちまち浴槽の縁から湯がこぼれ、それとともに霞はうしろ向きのまま男の腕と膝のなかに抱えこまれる。 「そんな……」一瞬、逆らおうとするが、全裸であることにあらためて気が付いたように、すぐ大人しくなる。そのまま霞はなにもいわず、髪を巻き上げて長さを増した襟足だけがほの白く浮きでている。それを見るうちに、伊織は耐えがたくなり、霞を軽くうしろ向きにして唇を吸う。  男と女のあいだは、新しい発見があるかぎり、愛は深まるものらしい。  いま、霞が初めて伊織と一緒に風呂に入っている。明りは消して、ドアが軽く開かれ、うしろ向きに項《うなじ》を見せている。  一緒に風呂に入ることなぞ、他人からみるとつまらない、他愛ないこととしか思えないかもしれない。だが伊織にとっては重大な、少し大袈裟にいえば、記念すべき日、といえなくもない。考えようによっては、今日は初めて霞が体を許したときと、初めて一緒に奈良に旅行したとき、そして今度のヨーロッパ旅行を決意したときに匹敵する、二人にとって重大な日といえるかもしれない。  初めは、ただ逢って話をしただけなのが、肌を許し、いまは一緒に風呂に入るまでの仲になっている。遠くから憧れ眺めていただけの女性が、いま湯のなかで乳房から腰まで自由にさわらせている。  伊織はそこに喜びと感動を覚え、同時に二人の歴史を感じとる。  今年の二月、霞と初めて逢ったときから、二人のあいだは急速に、そして着実に深まってきた。このあいだの月日は、二人にとっては無意味ではなかった。一日一日が、深まるために必要な月日であったと納得できる。 「あたたかい……」  伊織は片手を霞の胸に当てたまま、うしろから項にそっと唇を当てる。瞬間、霞の肩口がぴくりと震え、湯水が揺らぐ。いま、霞の全身はすべて敏感になっているようである。項であれ肩であれ、胸であれ、どこに触っても、電気に触れたように反応する。 「気持がいいだろう」  胸元に当てた手をおろしながらきくと、細い項がかすかにうなずく。 「今度から、いつも一緒に入ろう」 「………」 「明りをつけたいな」 「駄目よ……」 「明るいほうがさっぱりする」 「このままでいいわ」  断られた腹いせのように伊織の手はさらにおりていく。やがて、霞がわずかに身をよじり、それにつれてまた湯が揺れる。さほど熱くはないほどよいあたたかさが、二人の躰を気怠く、淫らにさせていく。  ゆっくりと湯のなかで燃えていく霞の躰を楽しみながら、伊織の頭のなかからは、すでに笙子のことも妻のことも、仕事のことも消えている。  ヨーロッパで初めての夜のせいか、あるいは湯のなかで戯れた余韻のせいか、その夜の霞はいつになく乱れた。  伊織が求める態位に素直に従い、その都度、確実にのぼりつめる。相変らず声は忍びやかで、動きも控え目だが、小刻みに震える躰の反応は、たしかに愉悦に浸っていることを伝えてくる。それをくり返すうちに霞の躰は一つの火柱になったようである。何度か、伊織のほうが耐え難くなり、少し休もうとすると、もう離さじとばかり、霞のほうからしがみついてくる。  その燃えさかる女体を抱きながら、伊織は一瞬、不思議な思いにかられる。  一体、この激しさは、霞の躰のどこに秘められていたのか。この愉悦を追い求め、むさぼりつくそうとする貪欲《どんよく》さは、どこからでてくるのか、いつもはもの静かで控え目な霞が、別人と思うほど乱れる。  この変貌のエネルギーはなになのか……  考えれば考えるほど、女体の不思議さに驚き呆れ、やがてなにか底深い洞《ほら》にとりこまれたような思いにとらわれる。  一体、二人で肌を合わせ、喜びに浸っていながら、その実、本当に快楽を味わっているのは女だけで、男はただむさぼられ、奉仕しているだけなのではないか。女がたえず悦び、満ち足りていくのに、男が得るものは、その先の疲労と倦怠だけなのではないか。  しかしそう思うのも一瞬で、すぐに現実の愉悦に呼び戻され、やがて我慢の限度に達し、ついにすべての精力を吐き出すように果てていく。  だが終えてからも、男はひたすら小さく、ひっそりと萎えていくのに、女はさらに大きな波がおしよせ、末広がりに豊かに、満ちていくものらしい。伊織が離れようとしても、霞は「いや」というようにさらにしがみつく。 「驚いた……」  互いの呼吸がおさまったところで、伊織が少し皮肉をこめていうと、霞はなお余韻を楽しむ眼差しで、 「あなたが、悪いのよ……」 「どうして」 「だって、前はこうじゃなかったのに……」  そういわれるとたしかに、初めのころの霞は、もっと控え目で慎《つつま》しやかであった。 「ご免なさい」 「いや、いまのほうがいい……」  淡々としていた女が、いつのまにか、燃えて乱れる女になっている。男はその変貌に驚き呆れながら、一方でそのように変えた自分に満足する。 「でも、今夜は少しおかしかったわ」 「ポルノを見たせいかな」 「そんな……」  首を振ると霞がさらに愛しくなって、伊織は再び霞を抱き寄せると、満ち足りたあとの気怠さのなかで、先に眠りに入っていく。  翌日は快晴であったが風が冷たかった。  約束どおり、九時半に東野が迎えに来て、まず国立博物館に行き、それからゴッホ美術館に行った。国立博物館はオランダの十六、七世紀の絵画を中心に集められているが、なかでもレンブラントの作品は有名で、「夜警」という絵のある大広間は、天井をガラスにして自然光で鑑賞できるようになっている。ゴッホ国立美術館は八年前に建てられたもので、中央を吹き抜けに三階まで展示スペースを持つ独特なもので、全体に瀟洒《しようしや》で近代的なつくりになっている。  昨日の予定ではそれを見てからハーグに行くつもりだったが、変更してそのまま市立美術館に行き、そこからさらに海洋歴史博物館に廻った。なにやら一日中、美術館や博物館巡りだけをしたようなものだが、今度、オランダに来た目的の一つは、それらの建築物を見ることにあったのだから、伊織は満足であった。  結局、二日目はそれで終り、三日目は東野の熱心な誘いで、彼の住むレーウワルデンまで行くことになった。向こうに行けば東野夫人にも会うので、霞は初めて着物を着て出かけることにした。  途中、古い民族衣裳や生活様式の残るフォーレンダムを見て、アフスルイトダイクを渡った。ここは海を陸地にするために締めきった全長三十二キロもある大堤防で、海のなかの一本道をひたすら走る。 「怖いわ……」  窓を見ながら霞がつぶやいたが、たしかに左右は冷え冷えとした海がどこまでも続き、心細くなる。この大堤防を渡ると北オランダのフリースランド州に入る。  レーウワルデンはこの州の首都で古くて落ち着きのある街だった。  東野はここに居を構え、家の裏に窯《かま》を持っている。以前からぜひ一度見に来てくれといわれていただけに、オランダ人の夫人が手料理で歓待してくれた。夫人は日本にもいたことがあるだけに、日本語も上手で、久しぶりに見る和服に「素晴らしい」を連発し、自分も一着持っているといって着て見せた。  伊織は、夫人が自分たちをどう見るか、気がかりであったが、夫人はごく自然に、好きな男女が一緒に旅に来ているのだと思っているようである。  食事のあと、みなで写真を撮ることになった。伊織はその写真がなにかの都合で、日本の知人に見られるのではないかと不安になったが、そうなったらなったまでのことだと心を決めて霞と並んだ。  その夜は、東野が予約しておいてくれた駅に近い、古風だが風格のあるホテルに泊った。  翌日は東野の窯を見せてもらったあと、フリースランド一帯を車で廻った。  オランダで感心することは、どんな小さな街にいっても、必ず美術館か博物館があり、古くからのものを大切に保存していることである。  それにしてもここまでくる日本人は少ないらしく、行き交う人がみな霞に視線を向ける。 「君が着物を着ているから、珍しいのだろう」 「でも、みなさんは足元に関心があるみたいよ。ほら、いま行った人も不思議そうに足元を見ていたでしょう」  たしかに外国の人は下駄をはかないので、霞が器用に草履をはいているのが不思議らしい。  その街を抜けると、あたりはたちまち平原になり、風をさえぎるのはポプラの裸木しかない。あたりの景色は寒々として、日本でいうと初冬に近いが、その荒涼としているところがせせこましい日本から見ると好ましい。  やがて陽が傾き、大きな夕陽が平原の果てに沈むのを見ながらレーウワルデンに戻り、夜は町はずれにあるレストランに行った。萱《かや》ぶきの屋根で、古い農家を改造した感じだが、なかはがっしりした太い柱で支えられている。そこで夫人をまじえて四人で食事をしながら、伊織はもう長年、霞と一緒に連れ添っているような錯覚にとらわれた。  霞も「あなた……」と、妻のような口のきき方をし、それがここでは少しも不自然ではない。  翌日、昼前にレーウワルデンの駅から電車で帰ることになり、東野が見送りにきた。四日間、東野にはずいぶん世話になったが、それ以上に、霞のことを変に意識せず、自然に際《つ》き合ってくれたことが嬉しかった。伊織は改めて礼をいい、最後に一言、「彼女のことは誰にもいわないでください」とつけ加えようかと思ったが、いまさらいうまでもないと思ってやめた。  互いに握手を交わし、電車が動き出して、伊織は何故ともなく軽く溜息をついた。 「ようやく、二人きりになった」  東野がうるさかったというわけではないが、なにかほっとした気持ではある。 「今日、もう一泊アムスに泊って、明日は午前中にウィーンに発つ」  伊織がいうと、霞はうなずいて、 「今日は何曜日でしょう?」 「着いたのは水曜日だから、土曜日かな……」  線路の両側は灰色の空の下、果てしなく立枯れの平原が続く。伊織はその荒れた光景を見ながら、ふと東京の妻と笙子のことを思った。霞もものをいわず、じっと視線を外に向けている。  二人だけの満ち足りた旅の束の間に、二人は互いに別々の思いにひたっている。  北オランダから帰った翌日、伊織たちは朝十時の便で、アムステルダムからウィーンに向かった。ヨーロッパには何度か来ているが、ウィーンにはまだ行ったことがなかった。いつも行きたいと思いながら、スケジュールの都合がつかず、行きそびれていた。今度はオランダも一つの目的であったが、同時にウィーンには必ず行ってみようと心に決めていた。 「でも、おかしいわね……」  飛行機に乗ってから、霞は思い出したように笑って、 「ヨーロッパまで来て、オランダとウィーンだけというのも変った旅行だわ」 「最近、気ぜわしく動き廻る旅がいやになった。それより一カ所にとどまって、じっくり見たほうが落着くし、勉強になる。それとも、パリか、別のところのほうがよかった?」 「いいえ、わたしはこれで充分です。オランダの田舎を見られて、とてもいい旅でした。ウィーンも、前から行ってみたいと思っていたところですから。ただ、どうしてオランダとウィーンなのかと、ちょっと不思議に思ったものですから」  そうきかれると、伊織も少し不思議な気がする。オランダは東野がいたからだし、ウィーンは前から行ってみたいと思っていたというだけに過ぎない。要するに、仕事のからまない気儘な旅だから、気儘に決めたというだけのことであった。 「ウィーンの森へ行って、帰りに素敵な音楽でも聴けたら最高ね。ガイドブックに書いてあったけど、パリのベルサイユ宮殿に負けない、シェーンブルン宮殿というのがあるのでしょう」  それもあるが、伊織のウィーンへの思いは、ある華麗さと滅亡とのないまぜになった妖しさに近い。  かつてウィーンには、ヨーロッパに君臨したハプスブルク王朝があり、権勢と豪奢をきわめたが、いまのオーストリアはその面影はなく、西欧と東欧文明の境目にひっそりと息づいている。だがそれ故にこそ、ここには栄華をきわめた西欧文明の最後の余韻が残っているような気がする。いいかえると熟した柿の甘美さであり、落日の光芒《こうぼう》の美しさである。 「これから発展したり、活動的な街というわけではないけど、やはり華やかで奢侈で、その裏で滅びていくのをじっと待っているような、そんな街のような気がする」 「日本でいえば、京都みたいな街なのでしょうか」 「多分、ウィーンは西欧文明の最後の砦《とりで》なのかもしれない」  伊織はそこで黙った。もしかして落日のウィーンに憧れるのは、自分自身のなかにある滅びの感覚を感じているからなのかもしれない。  飛行機がウィーンに着いたのは午後一時だった。ウィーンは山に囲まれているせいか、アムステルダムにくらべるといくらかあたたかい。だがすでに晩秋で、灰色の空の下で冷んやりと静まり返っている。  伊織はここのT商事の支店長をしている木崎を知っていたが、ウィーンに行くことを告げただけで、はっきり日時までは連絡していなかった。彼も気持のいい男だから、いえば迎えにきてくれて、迷惑をかけることになるかもしれない。今回は霞と一緒なので、着いてからでも連絡すればいいと思っていた。  ホテルはあらかじめエージェントを通じて予約してあったが、市立公園のすぐ前であった。ホテルで遅い昼食を終えてから、昔の城壁あとのリンクと呼ばれる環状道路をタクシーで廻った。オペラ座や美術館、国会議事堂、ブルク劇場など、ウィーンの主要な建物は、ほとんどこの道に沿って並び、一周すると市の中心部はいちおう見たことになる。  ウィーンはドイツ語圏で、ドイツより美しいドイツ語がつかわれているといわれているが、そちらは自信がないので、運転手に英語で尋ねる。  ひとまわりしたところでタクシーを降り、ウィーンのシンボルといわれるシュテファン寺院へ行き、そこから繁華街であるケルントナー通りを歩いてみる。  まわりは山にかこまれ、しかも大きな建物が続き、風はあまり強くないが、落葉が歩道のわきをかさかさと駆けていく。人々はみな厚手のコートを着て、なかには胸の前で筒状のものに両手をさし込むマフを持っている人もいる。左右の店をのぞきながら、ゆっくりオペラ座の近くまで行くと、もう短い日は暮れかけてくる。  二人はそこからリンクを逆に戻り、市立公園の一隅にあるシューベルトの像を見てから、公園のなかの小さなレストランで休んだ。戸外で肌寒いが、木のテーブルの上に落葉が舞い、楽士に頼むと横にきて、ウィンナーワルツを弾いてくれる。それを聴きながら、霞がそっと寄り添う。 「楽しいわ」  伊織がなにもいわずうなずくと、霞が伊織のコートのポケットに手をさし込んできた。 「ありがとう……」  なにに感謝しているというわけでもない。ただ一言、霞はそういいたかったらしい。  ふと目を上げるとレストランの明りがついて、急に夕暮れが迫ってきた。 「もう、帰りたくないわ……」  霞がいうのに、伊織はうなずきながら、このまま二人が東京へ戻らなければどうなるだろうかと、夢でも見るように考えた。  楽士の弾くワルツが終ると、あたりはすでに夜だった。公園のなかの街灯がつき、林のなかの小径を行くと、明りのなかにヨハン・シュトラウスの像が浮き出てくる。  シュトラウスには何人もの愛人がいたというが、それを現してか、シュトラウスのまわりには数人の女性の裸像がまとわりついている。 「あなたみたいだわ」 「なにが……」  伊織がきき返すと、霞は目だけで笑って枯葉の道を先に歩いた。コートの襟を立て、ウエストを紐で軽く締めて、小さな腰のふくらみがかすかに揺れていく。公園を出ると、街は夜に衣替えし、ショーウインドウのさまざまな装飾が、光りのなかで息づいている。 「もし、街に色があるとすると、ウィーンは濃いグリーンという感じだ」  いまは晩秋でさほど緑は濃くないが、それでも街を歩いていると、なんとなくそう感じる。 「オペラ座やヴェルベデーレなど、黄金色の建物が多いのは暗いグリーンによく似合うからだろう」 「暗いグリーンって……」 「濃い緑というより、暗い緑といったほうがぴったりすると思わないか」 「じゃあ、パリの街は何色でしょう」 「パリはボルドー色とでもいおうかな。ロンドンは濃い紫かベリーブルーという感じかな」 「アメリカの街は?」 「サンフランシスコはカリフォルニアブルーか、ショッキングピンクというところかな。とにかく鮮やかな色がよく似合う。ニューヨークはあるようでない、何色でもいい、雑多なところがニューヨークかもしれない」 「東京は何色でしょう」 「やはり茶だろう、茶が東京では一番シックに見える」  伊織は思いつくままにいっただけだが、霞は感心したようにうなずいて、 「やはり一流の建築家は、街の印象も色で表せるのね」 「こんなことは、誰でも感じることだろう」 「でも、ここに雪が降ったら素敵でしょうね。この明りも豪華なショーウインドウもみんな雪に映えて、それにこちらの女性はみんな装身具が派手でよく似合うでしょう」  霞が見詰める彼方から、女性が一人、背筋を伸ばして近づいてくる。三十半ばか、やはり濃いグリーンのコートを着て、襟元のグレイの毛があたたかそうである。 「ウィーンの女性はきれいだけど、街が女性を美しく見せている部分もあるのよ。日本だって街がもう少し素敵なら、わたし達だって少しはましになるはずよ」 「君はそれで充分、素敵だよ」  伊織がごく自然に躰を近づけると、霞はその腕にそっと手をかけてきた。  夕食は日曜日だったのでホテルのレストランでとり、そのあと、伊織は木崎の自宅へ電話をしてみた。木崎はこれからホテルまで訪ねてくるといったが、明日会う約束をして電話を切った。そのあとやはりホテルのバーでウイスキーを飲んで、九時に部屋に戻った。  今度の部屋はやはりダブルだが、ベッドの枠や椅子の縁にさまざまな模様がほどこされ、いわゆるロココ調に近い。 「下着、汚れたのがあったら出してください。わたしが洗いますから」  霞がいうのに伊織が苦笑すると、訝《いぶか》しげに、 「なにが、おかしいのですか」 「こんな素敵な部屋で、下着の洗濯をする、などというから」 「ご免なさい、でも本当にいたします」 「いいよ、汚れたのは捨てていくつもりで、沢山持ってきている」 「そんなもったいないことをしないで、さあ出してください」  仕方なく伊織がバッゲージの奥から下着と靴下を出すと、霞はそれを持ってすぐバスルームへ行こうとする。 「おいおい、洗濯なぞいいから、まず入ろう」 「いけません、今日は別々ですから、いまお湯を張ります」  ヨーロッパに来てから、霞とはもう三度も一緒に風呂に入っている。相変らず明りはつけないが、入ること自体にはほとんど逆らわなくなった。昨夜は思いきってバスルームのなかでうしろから求めようとしたが、さすがにそこまでは許さなかった。  旅行中に一度は必ず……と淫らな妄想にふけっていると、バスルームから霞が出てきた。 「どうぞ、先に入ってください」  まだ旅行は続くのだから焦ることはない。伊織は自分にいいきかせて風呂に入り、そのあと霞が入った。  部屋にとり残されて、伊織は久しぶりに一人になったのを思い出した。考えてみると、旅に出てからいままで、ほとんど霞と一緒であった。外を歩くときも買物をするときも、ホテルにいるときも、霞が常に横にいる。初めのとき、それがもの珍しく不思議でさえあったが、いまは一人になって少しほっとしている。別に霞が邪魔だというわけではないが、なにか気持が暢んびりする。  いまのうちに、妻へでも手紙を書こうか、それとも笙子に書こうか……  いままでも書こうと思いながら、どう書いたものか、まとまらぬうちに日が過ぎていた。事務所の連中へ出すように「元気でいる」というだけなら簡単だが、妻や笙子ではそういうわけにはいかない。いまさらいい逃れをいうわけではないが、少し弁明したい気持もある。  いままで書けなかったのは、内容がまとまらなかったせいだと思っていたが、いつも霞がそばにいたのが原因であったのかもしれない。  伊織が妻に手紙を書きかけたとき、霞がバスルームから出てきた。伊織はなにくわぬ顔で便箋をたたむと、ガイドブックの下におき、煙草に火をつけた。霞は湯上りの香りを残して、窓ぎわに立った。 「きれいだわ……」  昼間、ワルツをきいた公園はいまは闇のなかに沈み、まわりの街灯だけがまっすぐ一列に並んでいる。 「いま、東京は何時でしょう」 「ここと時差は八時間だから、六時少し前かな」  霞はうなずくとソファに坐り、バッグのなかを探りだした。 「ちょっと、家へ電話をかけてもよろしいですか」 「もちろん、いますぐ?」 「六時なら帰ってきていると思うのです。かけていただけますか」  伊織は電話の前に行き、国際通話のガイドブックを開いた。指定のナンバーで追っていくと、交換手も通さずに直接、日本を呼び出せる。それにそって、霞がいう自宅のナンバーを最後にくわえて、伊織は受話器を渡した。 「そのままで出るはずだよ」  長いあいだ留守にしていて霞は家のことが心配になったのか、それとも今日あたり、電話するといってあったのか、しかしいま電話をかけて、夫が出たらなんというのか。伊織のほうがむしろ緊張していると、電話がつながったらしい。霞は明るい声で、 「とき子さん、……わたしよ、変りない?」  初めに出たのは、お手伝いの女性らしい。 「いまウィーンなの、……ちっとも。元気よ……」  そんな会話を交わしたあと、娘に替ったらしい。  やはりオランダやウィーンの話をしたあと、「東京のおばさまにあのことよくお願いして……」といってから、「どうしたの?」ときき返している。  ホテルの一室なので、霞の声はすべてきこえる。とくに聞き耳をたてるわけではないが、いないほうが話し易いであろうと思って、伊織はバスルームに入った。  すぐ目の前のタオル掛けや洗面台の端一杯にパンツや靴下がぶら下っている。すべてきれいに洗われ、きっぱりと引き伸ばされている。  伊織はそれを見ながら、下着を洗ってくれた霞と、家に電話をしている霞とを考えた。一体、どちらが本当の霞なのか。それとも両者は同じ女で矛盾しないのか。不思議な思いでバスルームを出ると、霞はすでに電話を終っていた。 「東京も寒いんですって……」  伊織はうなずきながら、いま夫とも話したのか、そのことのほうが知りたい。 「変りはなかった?」 「ええ、娘がゆっくりしてきていい、なんていうのよ」  それにしても、伊織としてはいささか不可解なところがある。他人はいざ知らず、少なくとも自分なら、霞のいる前で、家に電話をかけたりはしない。家のことや子供のことが心配でも、そんなことは極力表に出さない。それが男の気取りというか見栄のようなものである。  もっとも、霞は自分で日本に電話をかけられないのだから、一人でこっそりというわけにもいかなかったのかもしれない。好きな人と一緒とはいえ、主婦である以上、家のことが気になるのは当然かもしれない。  その点では、男と女は少し違うかもしれない。霞はさして深く考えず、ただ娘やお手伝いの声をききたくて、かけただけなのかもしれない。おそらく、霞のいまの平然としている顔を見ると、夫とは無関係の会話であったのであろう。  もしかすると、今日のいまの時間に、急に電話をしたいといいだしたのは、夫がいないことをみこして、やったことなのかもしれない。まさか、けじめのいい霞が、男と一緒の外国のホテルから、夫へ電話をかけたりはしないだろう。そう自分にいいきかすと伊織の気持は落着いてくる。  だがそう思えば思ったで、今度は、霞は夫になんといって出てきたのか、そのことが気になってくる。いままでは、相手がなにもいわないことを、詮索《せんさく》するまでもないと思いながら、今日みたいな夜には、また改めて気がかりになってくる。 「君の主人は、どう思っているの……」そうききたい衝動をおさえて、伊織はまた煙草を喫う。そのままぼんやりしていると、霞がきいた。 「あなたは、お家に電話をかけなくても、よろしいのですか?」  伊織はゆっくりと首を振りながら、妻と離婚の話がすすんでいることを、告げたものかどうか考えた。 「帰ったら、別れることになるかもしれない……」  その台詞を、伊織は一度、霞にいってみたいと思っていた。そういえば、霞はどんな反応を示すか、喜んでくれるか、それとも「おやめなさい」というか。あるいは表面は反対しながら、心の底では歓迎してくれるか。  だが現実になってみると、その言葉はいかにもいいだしにくい。それをいうと、いま二人のあいだにある緊張感とスリルが、たちまち崩れ去るような気がする。ここでいってしまっては、いかにももの欲しげにみえるかもしれない。  少なくとも旅のあいだだけは、そんなことはいうべきではない。離婚が現実のこととなって、伊織はむしろその言葉を口に出しにくくなっていた。  翌日、二人は九時にホテルの食堂で朝食をとってからウィーンの森へ出かけた。相変らず風は冷たいがよく晴れて、やわらかい陽が落葉の鋪道に落ちている。  ウィーンの森は、ウィーン市街の北西から南西に連なる緑濃い丘陵地の一帯をさす。北から南と広いので、全部まわるのは大変だが、一日目はまず車でバーデンへ行き、そこからヘレネンタールを通ってマイヤーリング、ハイリゲンクロイツを経てヘルドリッヒの水車小屋を見てウィーンに戻るコースをとることになった。  バーデンはローマ時代から温泉場として知られたところで、丘の上から森と葡萄畑が一望の下に見下せ、モーツァルトが「アベ・ベルム」を作曲した家やベートーベンが「交響曲第九」の構想を練った家などが残っている。ハイリゲンクロイツは、�聖なる十字架�という意味のとおり、十二世紀にレオポルト公によって建てられた僧院である。  だがそれ以上に、伊織が行ってみたかったのはマイヤーリングであった。この小さな村のある一帯は、以前は王家のお狩場であったが、いまからほぼ百年前(一八八九年)、ときのオーストリア皇太子ルドルフ大公が、十七歳の令嬢マリア・ベッツェラを愛したが許されず、狩の館で二人でピストル自殺をとげたところとして有名である。伊織はこの事件を、まだ高校生のころ、「うたかたの恋」という本を読んで知り、感動した覚えがある。  落葉のあふれた小径を行くと、晩秋の陽射しのなかに、白い僧院が見えてくる。ときのヨーゼフ皇帝とエリザベート皇后が、一人息子の死を悲しんで建てた僧院である。 「同じ題名の�うたかたの恋�という映画もあったのです。シャルル・ボワイエが皇太子で、ダニエル・ダリューが令嬢で、それは素敵だった……」  二十数年前を思い返して伊織が説明するが、霞はその映画は見ていないという。 「たしか、今年の初めにもリバイバルで、テレビで上映されたはずだが」 「そのころ、あなたもそんな恋をなさっていたのですか」 「死ぬほどではないが、少し……」 「いまは、どうなのですか」  伊織は足元を駆けていく落葉を見ながら答えた。 「はっきりいえることは、これが最後だということです」 「いろいろ、何人もの女性を好きになったあとにですか」 「いままでの恋は、君という人を見付けるための道のりだったということです」  マイヤーリングの森にいるせいか、いささか|きざ《ヽヽ》な言葉も伊織は平気で口に出せるし、その言葉がまた晩秋の森の小径によく似合う。  その夜は木崎の案内で、フライシュマルクにあるレストランに行った。この店は十五世紀から続いているというだけに、内部の飾りから調度まで古きよき時代の雰囲気を伝え、壁にはここを訪れた有名な音楽家や芸術家のサインが飾られている。  和服を着た霞を、伊織は正直に、「一緒にきた高村さんだ」と紹介した。東野の例もあって変に隠さないほうがいいと思ったが、木崎は心得たようにうなずき、自分から名前を名乗った。木崎はほとんど外国にいる男だし、あまり他人のことに口出しするタイプでもない。それより美しい婦人が一緒とあって彼も楽しそうである。  チターの演奏を聴きながら話をするうちに、三人はすぐうちとけた。東野と違って、木崎はややプレイボーイのところがあり、ウィーン駐在の支店長ではあるが、息子が高校生であるということを理由に、単身赴任で自由な生活を楽しんでいるらしい。 「ウィーンはいいところですよ、もう少し早くいってくれれば、僕の家で室内楽でも聴いて、食事をしてもらうんだった」 「室内楽って、なまのですか」 「もちろん、ウィーンフィルのメンバーでよく知っているのがいるのです。彼等に頼めば気軽に来てくれます」  木崎は支店長だけに、かなり立派な家に住んでいるらしいが、そこで室内楽を聴きながら食事とは、優雅なことである。 「伊織さん、今度一人で来ませんか。一人なら面白いところをいくらでもご案内しますよ」  ワインがきいてきたのか、木崎はもち前の快活な口調で、 「変な話ですが、ここにいると日本よりずっともてますよ。いい女性が沢山いますからご紹介します」  前に霞がいるのに、木崎はかまわず、 「ご存知のとおり、ここは日本からの音楽留学生が多いのです。大体、四、五百人はいるといわれていますが、そのうち、ものになるのはごく一部で、ほとんどは音楽では食べていけないのです。でも彼等の大半は良家の子女ですからお金はあるんです。下手に日本に帰るよりは、�家の娘はウィーンに音楽の勉強に行っておりますの�なんていうと、きこえはいいですからね。しかし実際は行き場がなく、ただ遊んでいたり、なかには二流、三流のつまらないオーストリア人と結婚したのもいます。そんなお金はあるけど退屈といった、良家の子女が結構いるんです」  もの怖じせず、万事に開けっぴろげな木崎の前では、霞も怒るわけにもいかず、ひたすらきいている。  レストランを出たあと、木崎はバーを案内してくれた。いままでのレストランが高級であったのに、今度はいわゆる娼婦がたむろしているバーである。最高級から最下級へ、両極端を案内してくれるところが、いかにも木崎らしい。  バー入口の女のヌードの写真からして妖しかったが、二階へ上ると薄暗い照明のなかにカウンターとボックスが無造作に並んでいる。いったん三人がボックスに坐ると、バーテンがすぐ飲物の注文をとりにきて、ついでに「向こうにいる彼女はどうか」ときく。「いや、いいんだ、まず飲物だけくれ」と、木崎はドイツ語でいったようである。  この種のバーには、必ずカウンターに何人かの女性がぼんやり坐っているが、彼女等はいわゆる娼婦で、男からの呼びかけを待っているのである。 「飲物をご馳走すると、お前と寝ようということになってしまいますからね」  木崎がいうのに、霞は興味深げにあたりを見廻して、 「わたしのような者が来ては、いけないんじゃありませんか」 「そんなことは平気です。女性が来たって、彼女達は別に気にかけてません」  すでに飾り窓で一度試練を経てきているせいか、霞は比較的落着いて、 「男の方って、いろいろ遊ぶところがあってよろしいですね」 「あったって、娼婦はしょせん娼婦ですからね」 「でもあの方達とベッドを一緒になさるのでしょう」 「ベッドで一緒になっても、お金で買うんじゃ、所詮、味気ないものですよ。向こうは商売だし、こちらも一時の欲望を満たすだけですから。男と女のあいだは、やはり心のつながりがなければ。そうでしょう」 「木崎さんって、意外にロマンチストなのね」 「もちろんです。高村さん、今度一人でいらしたら僕がウィーンの森から、ベートーベンが楽想を練ったという、小川のほとりのあたりまで全部ご案内しますよ。いまは少し寒いけど、夜、あの小径を行くと街灯に軽く霧がかかって、そりゃ素敵ですよ。一緒に歩いたら、かなり嫌いな男でも好きになるはずです」  霞がくすくす笑うと、木崎はさらに調子にのって、 「僕は和服を着て、こんな美しい人を久しぶりに見ました。やっぱり日本の女性はいいですね、今度ぜひ一人で来て下さい」  娼婦のいるバーで、隣りに伊織がいるのも忘れたように、木崎はぬけぬけと霞を口説く。もっとも、木崎は前から、そうした図々しいところがあったから、どこまで本当かわからないが、霞は結構、楽しそうである。 「わたしが一人できたら、そんな女は知らないなんて仰言るのでしょう」  そんなことを気軽にいう霞に、伊織は呆れながら、もしかして霞のなかには、それくらいやりかねない勇気が潜んでいるような気もする。  小一時間ほどでバーを出ると、木崎は車でホテルまで送ってくれた。 「ウィーンの木当のよさを知ってもらうには、やはり一カ月くらいいなければ無理です。必要ならいつでも案内しますよ」  木崎はそういうと、「またお逢いしたいですね」と、霞の手を握る。それから急に思い出したように、「じゃあ……」と伊織にいって、そそくさとホテルを出ていく。 「忙しい人だ」  ロビーで後姿を見送りながら伊織がいうと、霞は小さく笑って、 「木崎さんって、愉快な方ね」  伊織は答えずエレベーターにのった。今夜は、霞は楽しかったようだが、伊織はいまひとつ楽しめなかった。とくにどうというわけではないが、木崎の霞への如才ないサービスが、少し鬱陶《うつとう》しかったからである。  もともと木崎は社交的な男で、万事にそつなく、話題も豊富で、女が喜ぶようなことをぬけぬけという。外国に長くいるせいか、そういうところは少し日本人離れしている。  もっとも木崎が甘いことをいったからといって、本気で霞を好きだといったわけでもないし、霞とて、一晩、楽しくすごせたことで満足しているにすぎない。そのあたりは知っているつもりだが、なにか落着かない。 「明日は、木崎さんがご案内して下さるんですか」 「彼も忙しいだろうから、二人でいこう」  いいながら、伊織は、木崎に嫉妬しているらしい自分を感じて少し呆れる。まさかこんなことで、と思いながら、そんな純情なところのある自分に少し戸惑う。 「彼はもともと調子のいい男だから、案内するなどといっても、当てにならないよ」  伊織の気持を察したのか、霞はもうなにもいわない。そのまま部屋に入ると、伊織が脱いだスーツを受け取ってハンガーにかけた。 「疲れたろう……」 「ううん」  霞が首を振るのを見て、伊織は少し優しくいってみる。 「やっぱり、彼に案内を頼もうか」 「どうしてですか」 「彼がいたほうが、楽しいんだろう」 「まさか……」  霞は呆れたという顔をすると、急に笑い出した。 「木崎さんがどんなに面白い方でも、わたしはあなたと二人だけのほうがいいのよ」 「わかった……」  伊織は思いきり霞を抱き締めると、そのまま一気にベッドまで運び込む。  次の日は、カーレンベルクの丘からハイリゲンシュタットの一帯を廻った。木崎の案内を断ったので、伊織は別にガイドを頼んだ。紹介されてきた人は三十前後の日本の女性だったが、木崎がいう遊び好きな音楽留学生のイメージには程遠い地味な人だった。  彼女の車でまずカーレンベルクへ向かったが、途中、ホイリゲと呼ばれるワイン酒屋に寄った。このあたりはワインの新酒を飲ませるので有名で、入口に松の小枝が飾られ、「気楽で居心地のよい酒蔵」のシンボルになっている。そこで軽くワインを飲んでから、カーレンベルクの丘へ登った。丘の上には教会やホテルとともにレストランがあり、その展望台に立つと、ウィーンの森から葡萄畑、そしてドナウ川まで一望の下に見渡せる。昨日と変って、雲がやや厚く広がり、それがいっそう森と空の大きさを思わせた。晩秋で観光シーズンをはずれているせいか、人影は少なく、冬を間近にしたウィーンの森の静けさが冷気とともに迫ってくる。伊織はその展望台で霞と並んでカメラにおさまった。  いままで二人の写真はほとんど東野に撮ってもらったが、今日はガイドの女性なので気兼ねすることもない。伊織が森を背景に立ち、霞が横に寄り添う。ガイドは初めから、二人を夫婦と思いこんでいるらしく、霞を「奥さん」と呼ぶ。初めは顔を見合わせて戸惑ったが、慣れるうちに平気になる。  この丘の下のハイリゲンシュタットには、ベートーベンが聴力の衰えを悲観して遺書を書いた家が残っていて記念館になっている。さらにこの丘の傾斜にそって続く小径は、「交響曲第六番田園」の楽想を練ったところといわれている。 「そのころは、森はもっと深く、このあたりにもほとんど家はなかったようです」  ガイドの説明にうなずきながら伊織は霞の肩に手をのせた。少し前をガイドの女性が行き、並んだ二人の枯葉を踏む音だけがかさこそと小径に響く。 「よかったわ、連れてきていただいて……」霞が伊織にだけきこえる声で囁く。 「人間って、勇気を出せばなんでもできるのね」 「………」 「あなたが初め、ヨーロッパにいこうと仰言ったとき、とても行けるとは思わなかったわ」  そのときは伊織も、本当に霞がくると思って誘ったわけではなかった。  翌日は朝方は曇っていたが、昼近くから陽がさしてきた。朝早く、曇っていると知ったのは、七時に一度目覚めて窓を見たからである。いつもならそのまま起きるのだが、今日は午前中に出かける予定がなかったので、安心して再びベッドにもぐり込んだ。  霞は軽く横向きに眠っていたが、伊織が入っていくと、そっと抱きついてきた。初めのころ霞はぎごちなく、伊織が手足を動かしただけでぴくりと反応し、一緒にいても滅多に眠らなかった。むろん、伊織が起きているのに、眠るようなことはなかった。それからみると、最近の霞はずいぶん自然になって、いまも伊織が起きたのも気付かず眠り続けている。それなのに自分から抱きついてきたのは無意識なのか、それとも慣れ親しんだ躰のほうが自然になついてきたのか。霞のあたたかい肌に触れるうちに、伊織は再び欲望を覚えた。  肩に廻した片手はそのままに、もう一方の手を徐々に胸から下腹に近づける。瞬間、霞は腰をよじり、軽くいやいやをする。いまさら、いやだといっても駄目だよ。伊織はそんな気持で、もう一度指を近づけるとまたよじる。バネ仕掛けの玩具のように、秘所に近づくとぴくりと動くのがおかしくて、くり返していると、たまりかねたように霞がつぶやく。 「いけませえん……」  すでに躰のほうは目覚めているのに、頭のほうはまだ怠けているらしい。それをこらしめるように今度は、胸元を開き乳首の先に唇を当てる。乳首の先に触れるか触れぬくらいの浅さで舌を遊ばせると、いままでひそんでいた乳首がゆっくりと頭を擡《もた》げる。 「あっ……」  自分で慌てたようにつぶやき、それとともにじれったさが増してきたらしい。触れる舌の動きに合わせて、下半身がゆっくりと揺れはじめ、やがて「ねえ……」とせがむようにささやく。  そのくせ、乳首や秘所はわたしの理性とは別です、といわんばかりに、目はなお頑固に閉じている。伊織はそれではそれで結構と、ときに熱い息をかけ、ときに休みながら、乳首をもてあそぶ。間合をおく責めについに霞はたまりかねたのか、最後に「いやあ……」と、長く尾を引く声とともに一気に伊織の胸のなかにとびこんでくる。  その気怠い朝の情事がはじまったとき、ウィーンの街は雲におおわれていた。  だがいま、情事のあとの眠りから覚めて見上げる空は、雲が途切れ、そのあいだから明るいが力のない秋の陽が射している。  遅い目覚めのあと、ホテルで軽い朝食をとってから、伊織は霞と車でシェーンブルン宮殿へ向かった。  この宮殿はウィーンの西駅から南西に五キロの地点にあり、かつてはハプスブルク王家の夏の離宮としてつかわれ、狩猟の館でもあった。建築が着手されたのは十七世紀の末で、当時のレオポルト一世がバロック建築の巨匠、フィッシャー・フォン・エルラッハに命じて設計させ、五十年かかって完成しただけに、建築家にとってはぜひ一度見ておきたい建物である。完成されたときはマリア・テレジア女帝の時代で、宮殿の外観はマリア・テレジアン・イエローという黄金色でいろどられ、それが緑の窓枠と、緑の森に囲まれて鮮やかなコントラストを見せている。 「きれいだわ」  正面に立って霞はしばらく見とれていたが、門を入り、宮殿のなかに入ってもう一度、溜息をついた。かつて威光を誇ったハプスブルク家の贅を尽した建物だけに、部屋数だけで千四百室あり、いまはそのうちの四十五室だけが公開されている。そのなかにはマリア・テレジアの肖像画のある宴会場や、彼女の居間だったミリオンの間、すべてゴブラン織りで飾られた居室、中国からのタペストリーで取りまかれたブルーの間、ナポレオンの間など、大小のギャラリーはいずれも豪華な調度で飾られ、見ているだけで眩暈《めまい》が起きそうになる。  さらに、宮殿をつき抜けた中庭には、ネプチューンの泉を中心に、左右にナヤーデンの泉を配し、そのまわりは花壇が整然と並び、正面の小高い山の上にはハプスブルク家の象徴である鷲《わし》の像が暮近い秋の入日に輝いている。庭園のまわりにはギリシャ神話の神々の像が並び、その奥には動物園やローマ遺跡などがあるといわれているが、広すぎてとてもそこまでは廻りきれない。  二人はいったん庭園を抜け、正面の小山を登り、その上に立つ石造りのグロリエッテまでいってみた。そこからは宮殿と広大な庭と、それに続く森から、さらにウィーンの街まで見下せる。 「凄い。ベルサイユもそうだが、こういう建物を見ると、ヨーロッパ人のエネルギーというかスタミナに圧迫されて、なにもいえなくなる」  伊織がつぶやくと、霞もうなずいて、 「贅沢もエネルギーがなければできないのね。それにしても、マリア・テレジアという人、普通じゃないわね」 「子供を十六人も生んだけど、その末っ子が、かのマリー・アントワネットで、政略結婚でフランスに嫁がされて、フランス革命で殺された」 「貧乏人がパンがないといったら、�どうしてお菓子を食べないの�といった人でしょう」  伊織はうなずきながら、贅を尽した果てに、彼等が見たものはなんであったのかと考える。  シェーンブルン宮殿を出ると、秋の日はすでに暮れかけ、振り返るとマリア・テレジアン・イエローの宮殿が斜陽のなかで輝いていた。  伊織は一瞬、その黄金色に目まいし、それからこの宮殿を訪れたさまざまな人のことを思った。  かつてここには女帝マリア・テレジアをはじめ、フランツ・ヨーゼフ皇帝が住み、最後の皇帝カール一世がここで退位を認めた。十九世紀初めにはウィーンに侵攻したナポレオンがここを司令部とし「会議は踊る」の舞台にもなった。そして無数の貴族と顕官がここを訪れ、日夜、華麗な宴と舞踏会がくり広げられた。  だがそれらの人々はいまはすべて去り、黄金色の宮殿だけが落日のなかで輝いている。 「しかし不思議だ……」  どういうわけか、いま伊織の脳裏には、華やかな宴や舞踏会の情景でなく、それを終えて去っていく人々の後姿ばかりが浮かんでくる。『会議は踊る』や他の映画で見た、宴のあとにふとまぎれこむ静寂だけが思い出される。 「こんなに華やかなものを見ると、かえって淋しさを感じてしまう」  伊織は自分の精神が少し萎えているせいかと思ったが、霞も同感らしく、 「幸せすぎると、怖くなるのと同じでしょうか……」  伊織はうなずきながら、あと一日で終る霞との旅のことを思った。十日前、東京を発つときは、ただここを離れられればいいと思っていた。いま日本を離れたら、その先には薔薇色《ばらいろ》の日だけが待っているのだと思っていた。事実そのとおりであったが、その旅もようやく終りに近づいたようである。  すべてに終りがあることは初めから知っていながら、いっとき、人々は終りはないものと思いこむ。終りを忘れて楽しみ、遊び惚《ほう》けて、ふと、終りを垣間見て怖気《おじけ》づく。いまの伊織の心はそれに近い。  こんな享楽は長く続くわけはないと思いながら、日夜、この宮殿で遊び惚けた男も女も、やがてときがきて退場し、あとには静寂だけがとり残された。そのときの落日も、今日のように赤く華やかで、体に沁《し》みる程、淋しかったのかもしれない。  ウィーンの最後の日、二人はゆっくり街を歩き、買物をした。  伊織は外国に行ってもあまり買物はしないが、霞はやわらかい黒皮のハンドバッグを買い、さらに娘と友達に頼まれたといって、二つのバッグとゴブランの刺しゅうの入ったハンカチ、そして小さな装飾品などを買った。  霞が品物を選ぶのを見ながら、伊織は妻と笙子のことを考えた。これまで、スカーフや財布など、簡単な身の廻りのものを買ったことはあるが、今回はどうしたものか……  別にお金を惜しむわけではないが、別れる相手に土産を買うのは、なにか未練たらしい気がしないでもない。それに妻もいまさら、期待しているとも思えない。  伊織は妻への土産はあきらめて、笙子にだけ買うことにした。 「事務所の女性だけど、なにかいいのはないだろうか」  伊織はなに気なくいったが、霞はすぐ察したらしく、 「あの、お見送りに来た人でしょう」 「彼女と、他に二人ほど女性がいるから」 「じゃあ、やっぱり刺しゅうのあるハンカチとかスカーフとかはいかがです。少し嵩《かさ》ばりますけど、手描き模様の陶器などもいいんじゃありませんか」  二人の女性にはそれで充分だが、笙子にはやはり、バッグとかアクセサリーとか、少し高価なものがいいと思うが、霞の前では買いにくい。 「一人に、バッグを買ってきてくれと頼まれたんだが、これはどうだろう」  伊織はそんな口実をもうけて、女もののバッグを手にとってみる。 「その方、おいくつぐらいなの?」 「三十少し前かな」 「それなら、これなんかいいんじゃありませんか。でも、その人の好みがあるから。どういうのを欲しいと仰言ってたの」 「普通のサイズのものであれば、なんでもいいらしい」 「色や形は、はっきり仰言らなかったのですか」  そうつっこまれると、頼まれたのでないのがたちまちわかってしまう。 「やはり黒皮のが、いいかな」  霞は二、三バッグを手にとって眺めたが、すぐ関心なさそうに他の品物のほうへ目を移す。やはり、別の女性のために選ぶのでは、気のりしないのかもしれない。伊織はあきらめかけたが、帰ってからの笙子とのトラブルを思うと、やはり買っておいたほうがいい。迷った末、結局霞が買ったのよりはいくらか若向きの黒皮バッグを一つ買った。 「外国旅行は、買物を頼まれるのが一番憂鬱だよ」  伊織は溜息をついてみせるが、とってつけたようなぎごちなさは隠しようがない。  最後の夜、二人は十時にベッドに入った。  いつもは十二時近くまでバーで飲んだり、部屋で雑談をしていたが、明日は朝の便でウィーンを発ち、いったんアムステルダムまで行き、そこから午後、まっすぐ日本へ向かわねばならない。出発が早いせいもあるが、それ以上に、二人だけの最後のヨーロッパでの夜という名残り惜しさもある。  その気持は、霞も同じらしい。ワインの軽い酔いが残るまま、一緒に風呂に入ろう、と誘うと、霞は素直に従った。伊織は勢いにまかせて、途中で明りをつけると、「やめて……」と小さく叫んだが、やがてあきらめ、明るい湯のなかで接吻を交わした。それからさらに、恥ずかしいことを要求すると、霞はさすがに逆らったが、最後はうしろから抱く形で、しっかりと肌を触れ合った。 「もう、許して下さい……」  湯のあたたかさと恥ずかしさで、霞は途中でへなへなと坐り込み、伊織はそこで仕方なく手を離した。あの控え目であった霞が、明るい湯のなかで短い時間とはいえ、恥ずかしい行為を受け入れた。そう思うだけで伊織は、一緒にヨーロッパに来た甲斐《かい》があったと思う。  バスルームに続いて、ベッドに入ってからの情事は、さらに激しく執拗であった。煽《あお》られるうちに、霞はヨーロッパの最後の思い出を吸いこむように、伊織をしっかりととらえ、満ちていく。  長い愉悦のあと、二人は手足を投げ出して仰向けになり、それからまた思い出したように寄り添い、互いに足をからめた。 「ありがとう」 「なにが?」 「全部に、ありがとう……」  その言葉が可愛くて、伊織は再び抱き締め、軽く目を閉じた。 「きこえるか?」 「なあに?」 「夜の音……」  十一時を少しすぎたくらいか、街はまだ人々で賑わっているのだろうが、公園に面したホテルの部屋は静まり返っている。ときたま車の警笛がきこえるが、それもすぐ途切れ、再び深い静寂が訪れる。その静けさに馴染むにつれて、伊織の耳に新しい夜の音がきこえてくる。それは雑然として、なんの音とはっきりはいえぬが、いまこの街に住む人々の話し声であり、溜息であり、笑い声のようでもある。夜のヨーロッパのすべての声が重なり合い、忍び合い、深い静寂の彼方に息づいているようである。 「静かだ……」  伊織がいうのに、霞が胸のなかでうなずく。満ちたあとの気怠さが全身をおおっているのに、二人は最後の夜が惜しくて、なお眠りきれないでいる。  翌日は雲が厚く、肌寒かった。二人は予定どおり朝九時にウィーンを発ち、いったんアムステルダムへ出た。そこで二時間ほど休んだあと、東京行きの飛行機に乗って、伊織ははじめて安堵とともに、ある虚脱感を覚えた。  安堵はいうまでもなく、このまま飛行機に乗っていれば、二十時間後には日本に着くという安心であった。ヨーロッパの旅は楽しかったが、所詮異国である。実際の生活に不自由はなかったとはいえ、日本にいるときとは別の気苦労や緊張がある。東京へ戻れば言葉はすべて通じ、たとえお金が一銭もなくても、なんとか切抜けることはできる。  だが、その安堵と裏返しに、これで霞との旅も終るという淋しさもあった。少し大袈裟かもしれないが、今度の旅行は、伊織にとっては、今年のうちでも最も強く記憶に残る事件であった。むろんこの一年間には、妻とのトラブル、笙子との問題、それに仕事のことなぞ、さまざまなことがあったが、そのなかでも今回の旅は大きな比重を占めている。  他人には、単なる人妻との浮気旅行としか見えぬかもしれないが、一緒に行くと決心するまでには、それなりの迷いと不安があった。はたして本当に行けるのか、そして行ったあとはどうなるのか、考えるうちに眠られぬこともあった。旅に出てからも、他人の目を意識して、気をつかうことも多かった。それらさまざまな戸惑いや気苦労をふくめると、最も大きく心に残る旅ではあった。  だが、大きな旅であったから必ずしも大きな変化をもたらす、ということではなさそうである。  たしかに旅に出て、霞とのあいだは以前とは比べようもないほど深まった。旅の終りのころには、霞はごく自然に伊織のことを「あなた」と呼び、伊織も「おい」と気軽に呼ぶようになっていた。他人の前で夫婦のように装っても、互いに違和感を覚えることもなく、ごく自然に振舞えたし、あまり言葉に出さなくても、求めていることは察することができた。躰のつながりもさらに深まり、最後には明るいバスルームの中で楽しむ余裕までできた。十日間に及ぶ異国の旅で、二人の心と躰の両面で深まり合った部分はかぎりない。  だが、この旅のあいだ、二人はこれから先のことについては、具体的にはなんの話もしていなかった。これから二十時間後に日本に着けば、霞は辻堂に帰るし、伊織は家政婦が待つ青山のマンションに戻る。日本に帰ってしまえば、状況は出かける前と少しも変っていない。  心と躰の深まりが、現実にはなんの変化も与えていない。いま日本へ帰る飛行機に乗っていながら感じる虚《むな》しさは、出かける前と同じ位置に戻る、その変化のなさなのかもしれない。  その心残りをのせたまま、飛行機は二十時間後、成田に着いた。機がランディングし、駐機スポットに向かい始めて、二人は互いに顔を見合わせた。 「着いたよ……」 「とっても楽しかったわ」  その一言をきいて、伊織は一緒にきた甲斐があったと思った。うなずき、そっと霞の膝の上に手をのせると、指先からあたたかい体温が伝わり、旅で重ねたさまざまな思いが甦ってくる。 「あなた、ありがとう」  充分堪能したはずの躰がまだ名残り惜しく、指先に力をこめると、霞は微笑み、その手を軽く握り返す。  やがて機は駐機スポットに停り、まわりの人々が立上る。それを見て、伊織も仕方なく手を離す。長い旅はようやく終り、荷物を持って出口へ向かう人の顔には、みな軽い疲労と安堵がみなぎっている。 「ご苦労さま」  スチュワーデスの笑顔に送られて、二人はブリッジから空港ロビーへ出た。霞は旅行ケースと、免税店で買った品物を入れた紙袋を、伊織は機内用の鞄を一個持っているだけである。  そのままパスポート・コントロールから荷物の受取り場所へ行く。刻々と出口へ近づくことは、とりもなおさず、二人の別れの瞬間が近づいていることでもあったが、二人はなにも話さなかった。霞には空港に出かけるとき送りにきた娘が迎えにきているようだし、伊織も事務所の者が迎えにきているはずだった。互いの荷物が出てきて、運搬車に積みこんだところで、二人は改めて顔を見合わせた。 「じゃあ、ここで……」  伊織はまっすぐ向かいあって霞を見た。 「今晩はマンションにいるし、明日は十一時から事務所に出ている」  霞はうなずき、少しものいいたそうにした。 「なにか?」 「いいえ……」  霞はただしばらく、伊織の顔を見ていたかっただけなのかもしれない。 「先に行きなさい」  霞はまた戸惑った表情をしたが、すぐ意を決したようにくるりと背を向けると、左手の税関のほうへ行った。伊織はそれを見届けて右手のコーナーへ行く。霞のほうはすいていたらしく、簡単に荷物検査が終ったようである。最後にもう一度振り向くと、小さく手を振って自動ドアから出ていった。  伊織は少し遅れて検査を終え、ロビーに出たが、霞の姿はすでに人混みのなかに消えてどこにも見当らなかった。 [#改ページ]    寒  露  わずか十日少しを空けただけなのに、季節は大きく揺らいだようである。出かけるとき、まだ緑を残していた神宮の森は色|褪《あ》せ、絵画館に行く道の銀杏も葉を落し、曇り空の下で梢が鋭さを増している。一日一日では、季節の移ろいはわからないが、十日という間隔で見ると、秋は確実に足を早めている。  日本に帰った夜、久しぶりに自分の部屋でゆっくりと眠った伊織は、翌朝八時に目覚めると、留守中にたまっていた新聞をまとめて読み、それから富子のつくった朝粥を食べた。最近ではヨーロッパでも日本食に不自由はしないが、お粥を食べられるところはあまりない。久しぶりに富子のつくる粥にありついて、伊織は全身が日本人に戻ったような気がした。  所員達に買ってきた刺しゅう入りのハンカチと、笙子へのバッグをまとめて鞄に入れ、伊織はいつもより早く十時にマンションを出た。 「いってらっしゃいませ」  富子が明るい声で見送る。久しぶりに主人が帰ってきて活気がでたのか、それとも土産に買ってきたタペストリーが気にいったのか、富子は上機嫌だった。  自分で車を運転して事務所へ行くと、所員達が一斉に立って迎えた。 「お帰りなさい」  普段なら伊織が出てきても、所員達は仕事を続けたまま、個々に「お早うございます」と挨拶するだけである。その形式ばらず自由なやり方が、伊織の好みでもあったが、十日ぶりの出勤とあって、所員達は待ってくれていたようである。 「変りはなかったか」 「はい……」  みなはなんとなくほっとしたようにうなずく。 「これ、つまらないものだけど買ってきた。みなで分けてくれ」  伊織は包みの土産を渡すと、改めて一人一人の顔を見廻してから所長室に入った。留守中のことについては、昨日、望月に電話できいて、おおよそわかっていた。至急、目を通さなければならないものは、昨夜のうちにマンションで見て、指示を出してあった。  それでも机の上には、留守中にきた郵便物が山になっている。それを見ながら、伊織は先程、所員達のなかに笙子がいなかったことにこだわっていた。 「どうしたのか……」  椅子に背を凭《もた》せながら考えていると、坂井という女性がお茶を持って入ってきた。伊織は彼女が茶碗を机の上におくのを待ってきいた。 「相沢君は、どうしたのかね」  坂井は少し戸惑った表情で答えた。 「お休みのようです」 「体でも悪いのかな」 「わかりませんけど、二日前からです」  伊織はことさらにゆっくりとお茶を飲み、女性が出ていくのを待ってから、回転椅子に背を凭せて考えた。  笙子が二日前から休んでいるとは、初耳であった。昨日、空港に着いたとき、迎えにきていないので不審に思ったが、仕事が忙しいのだろうぐらいに簡単に思っていた。あるいは、霞と一緒に帰ってくるのを見たくなくて、来なかったのかもしれないと思ったりもした。だがまさか、前の日から休んでいるとは知らなかった。もし休んでいるなら、迎えに来た所員が伝えそうなものだが、いうまでもないと思ったのか、それともいいにくかったのか。  それにしても笙子が休むのは珍しい。外見は頼りなく見えるが体は意外に健康で、たまに風邪をひくくらいで、それでも休むことは滅多になかった。  望月でも呼んで、休んでいる理由をきいてみようか……  だが、事務所に出てきた早々、そんなことをきくのはおかしいような気もする。他の女性ならともかく、笙子のこととなると、かえってききにくい。  そのまま迷っていると、望月が書類を持って現れた。休み中にたまったもので、一抱えほどある。それらについて、一通り説明をしたあと、望月がきいた。 「ヨーロッパはいかがでした」 「うん、まあ、よかった……」 「もう、寒いんじゃありませんか」 「オランダは風が冷たかったが、ウィーンは晩秋でね、なかなかよかった。今度の旅行は、スケジュールに余裕があったので楽だったよ」 「何か参考になる建物がありましたか」 「ヨーロッパの建築は、参考になるといえば全部参考になるし、ならないといえば全部ならない。建築に対する思想が、われわれとは根本から違うからね」  伊織はそういってから、思い出したようにきいた。 「相沢君は、どうして休んでいるの?」  望月は一瞬、怪訝《けげん》な顔をして、 「ご存じないのですか。所長にはすでに話してある、といっていましたが」  帰ってきてから、まだ笙子とは逢っていないし、電話でも話していない。 「そうかね……」  伊織がなにくわぬ顔でうなずくと、望月は部屋を出ていった。  ヨーロッパよりは強い午後の陽射しが部屋いっぱいにあふれている。  伊織は立上り、シェードを少し深めにおろしてまた椅子に坐った。  旅行前はもちろん、旅行中も笙子からはなんの連絡もなかった。昨夜も帰ってきてから、電話があったわけでもないし、留守中の郵便物にも、笙子からのものはなかった。それなのに、すでに連絡ずみ、とはどういうことなのか。気紛れにそんなことをいったのか、それともなにかの都合で、連絡が遅れているのか。いずれにせよ、笙子が無断で二日も休むのはいままでになかったことである。理由はわからぬが、尋常のこととは思えない。  迷った末、伊織は笙子のマンションに電話をかけることにした。  だが笙子の部屋はベルが鳴るだけで、誰もでない。六回、鳴り続けたところでいったん切り、再びかけなおしてみるが、やはりでない。  電話に出ないところをみると、風邪などではなく、どこかに出かけたということか……  伊織は受話器をおき、吸いかけの煙草をくわえた。  机のわきには鞄があり、そのなかに笙子へのお土産に買ってきたバッグが入っている。それを買うとき、伊織の頭のなかには笙子への罪滅ぼしの気持があった。別の女性と旅に出ていることへのうしろめたさを、バッグを買うことでいくらかやわらげようという魂胆だった。  今朝、部屋を出てくるとき、笙子に逢ったら、まっ先にこれを渡すつもりでいた。むろん、他の所員の前では渡せないが、二人だけになる時間はいくらでもある。そのとき、お土産だ、といって渡せば、旅立つ前の気まずさは氷解するかもしれない。  だがそれは虫のいい考えだったようである。やはり、霞と一緒にヨーロッパに行ったことが尾を引いているのか……  今日の休みは、そのことと関係ありそうに思うが、肝腎《かんじん》の笙子がいないことには、理由を質すことも、いいわけすることもできやしない。  その日一日、伊織は落着かなかった。  十日間も留守しただけに、事務所にはさまざまな来客があり、途中でスタッフとの打合わせも入り、席のあたたまる間もなかった。だがそのあいだにも、ふっと笙子のことが思い出される。  いまごろなにをしているのか、どうして電話をよこさないのか……  だが客の前で、そんな気持を現すわけにもいかず、平静を装う。それでも来客の度にお茶を持ってきたり、用件を告げにくる女性が、いつもの笙子と違うので、つい戸惑う。笙子ならうなずくだけで通じるものが、他の女性だと、いちいち細かくいわなければわからない。用件が終って早々に帰ってもらいたい客に、丁重にお茶のお替りなど持ってくると、笙子なら上手に帰すはずだと、つい苛立つ。  夕方、いちおう仕事の区切りがついたところで、伊織は再び、笙子の部屋に電話をしてみたが、やはり返事はなかった。そのまま夜は、ビルの設計をして以来懇意になった繊維メーカーの社長と約束があって、築地へ行き夕食を一緒にしたが、そこでも笙子のことが頭から離れない。食事のあと銀座へ誘われ、新橋に近いクラブから、もう一度電話をかけてみたが、やはり笙子はいない。 「どうしたのですか、なにか用事でも……」電話をかけて、浮かぬ顔をしている伊織に、社長がたずねるのに、「別に、なんでもありません」と曖昧に答える。  ホステスのつくってくれる水割りを飲みながら、伊織は笙子がいないだけで、こんなに沈んでいる自分に、いまさらのように呆れる。こんなことなら、初めから霞などと行かなければよかった、二人でこっそり旅に出たりするから、こんなことになったのだ。そう自分を責めるが、そのときはそのときで、霞と行くことが、なによりも重要なことに思えたのだから仕方がない。  しかし、いざ仕事の場に戻ってみると、笙子がいなくては、なにごともスムーズにすすまない。いいかえるとそれだけ、笙子は仕事の面で、大きな役割りを占めていたのだと、改めて思い知らされる。  いつもなら銀座に出たついでに、もう一軒くらい廻るのだが、旅の疲れもあって、その気になれず、十時に社長と別れた。  すぐ車を拾ってまっすぐマンションへ戻り、机の上を見ると、封書が一通おかれている。郵便物は、いつも富子が下のメイルボックスから部屋に持ってくるが、封書の文字は一見して、笙子の文字とそっくりである。本心は早く見たいのに、伊織はなにかすぐ封を切るのが怖くて、そのまま手紙を持って茶の間へ行き、ソファに坐ったところでおもむろに開いた。  三つ折りにされた和風の便箋に、笙子らしいきっかりした字で書かれている。   お帰りなさいませ。お疲れなのにお迎えに行けなくてご免なさい。帰られた早々こんなことを申し上げて、身勝手なことはよくわかっているのですが、事務所を辞めさせていただきたいと思います。   これまで、本当によくしていただいて、心から感謝しております。   それなのに何故辞めるのかときかれたら困るのですが、わたしの我儘としかいいようがありません。仕事も中途半端のまま、さぞ呆れられたことでしょうが、最後の我儘と思って許して下さい。   退職の日は、この手紙が着いたときからでも、休みはじめた日からでも結構です。適当にご処置下さい。なお仕事のことは、坂井さんによく説明しておきましたので、多分、支障はないと思います。   いま、わたしは東京にいないのですが、いずれ気持の整理がつき次第、改めてお詫びにあがります。   本当に長いあいだありがとうございました。楽しい、いい夢を見させていただいて、この四年間のことは、一生、忘れることはないと思います。   またお忙しい日が続くと思いますが、お体を大切に。さようなら。 [#地付き]笙子    祥一郎さま  伊織はそれを二度くり返して読むと、手紙をテーブルの上においた。予測していなかったといえば嘘になるが、これほど切羽つまった内容とは思っていなかった。なにか、ただならぬ気配であるとは思っていたが、まだなんとかなると|たか《ヽヽ》をくくっていた。  だが、これはあきらかに最後通告である。事務所を辞めるとともに、いままでの関係も断ち切りたいということらしい。  落着かぬまま、伊織はもう一度読み、煙草に火をつける。すぱすぱと、気ぜわしく喫っても手紙の内容は変りはしない。それでもまだどこかに笙子を呼び戻す余地はないものかと、伊織はもう一度、手紙を読み直す。 「お帰りなさい」という言葉で始まっているところをみると、笙子は、伊織がヨーロッパから帰ってくる前に、今度のことは決意していたようである。文章は落着いて淡々としている。興奮している様子はどこにもない。だが、手紙の内容は厳しい。何度読んでも、これを機会に事務所を辞めるという辞意の表明とともに、伊織への訣別《けつべつ》の通告でもある。 「この四年間のことは、一生、忘れることはないと思います」という個所を見る度に、胃の奥を締めつけられるようなやりきれなさを覚える。  そうだ、四年間であったかといまさらのように思い、その間のことがなまなましく甦ってくる。  初めて逢ったとき、そして心惹かれて最初にベッドをともにしたとき、愛しながらもおきたさまざまなトラブル、さらに事務所に勤めるようになってからのこと、そのときどき、笙子は一生懸命尽くしてくれた。二人が別れることなぞ、あるわけがないと互いに信じていた。その笙子が、自分から別れていくという。  正直いって、伊織にはまだそのことが実感となって迫ってこない。目の前に手紙があり、笙子が書いたことは百も承知していながら、そんなことが実際におこるとは信じられない。 「どうして……」手紙を持ったまま、伊織はつぶやく。  この数カ月、笙子とのあいだはたしかにぎくしゃくし続けていた。いっとき仲直りしたようで、その実、底には常に不信がただよっていた。それが、霞の存在に原因があることはあきらかであった。今度別れるに至った直接の理由も、霞とのヨーロッパ旅行であることも推測はついた。笙子が怒るのも無理はない。当然であると思いながら、伊織はいま一つ納得できない。 「どうして、それが、こんなことにまで発展しなければならないのか……」  だが、それは男の一方的な考えなのかもしれない。ヨーロッパに行っているあいだ、笙子は例の律義さで真剣に考え悩み、そして決断したに違いない。伊織がオランダに遊び、ウィーンの森の静けさに酔っているとき、笙子は別れることを考え続けていたのであろう。 「もう、とり返しはつかないのか……」  改めて、伊織は手紙のなかに、どこか許してくれる余地はないものかと探る。だが気持を抑制した淡々とした文章だけに、むしろ笙子の決意の強さのほうが迫ってくる。たまらず、最後の宛名が「伊織祥一郎」でなく、「祥一郎さま」とだけなっているところに、かすかな期待を抱こうとする。  それにしても、こんな手紙だけ寄こして笙子は一体どこにいるのか。改めて封筒の裏を見てみるが、「相沢笙子」と名前が記してあるだけで、住所は書いてない。マンションにいないところを見ると、東京以外の土地らしいが、これではわかりようがない。表の郵便局の捺印を見れば、差出局くらいわかると思って見ると、「長野」という字がかすかに読める。  長野というと、笙子の実家があるところである。  とすると、笙子はいま実家にいるのか……  伊織はすぐ長野に電話をかけたい衝動にかられるが、笙子の両親にはまだ逢ったことはない。ただ一度、母親とだけ電話で話したことがあったが、笙子に似た律義な感じの人で、「娘がいつもお世話になっています」と、丁寧な挨拶をされて戸惑った覚えがある。二人の関係を笙子がどう説明していたのかわからないが、電話で話したかぎりでは、昔《むかし》気質《かたぎ》の誠実な人のようであった。  そのときはたしか正月だったが、互いに燃えているさかりで、正月休みの数日、逢えないのが辛くて、時間を決めて電話をかけ合ったのである。いまになってみると、そんなときがあったことが不思議な気さえする。  ともかく、電話をする気になれば、実家の番号はわかっているから、いますぐにでもできる。  しかしかけていいものか、それとも向こうから連絡があるまで待つべきか迷う。  笙子のことだから、このままということはない。いずれなんらかの連絡はよこすはずである。だが、それまで待っているあいだの落着かぬ気持を考えると、いっそかけたほうが楽なような気もする。  伊織はサイドボードからブランディをとり出し、勇気をつけるように一口飲むと受話器をとった。「勝手に仕事を放りだして休んだ秘書を、上司が呼び出すのは当然である」そう自分にいいきかせてダイヤルを廻す。やがて低い呼出音が鳴り、息を詰めていると年輩の女性の声が返ってきた。 「もしもし、相沢ですが」  出たのはやはり母親のようである。伊織は電話に軽く一礼して、「東京の伊織というものですが……」と名前をなのると、母親はまた丁重な挨拶を返す。伊織はそれに恐縮しながら、 「笙子さん、そちらにいらっしゃいますか」 「笙子は、今日お昼に、東京へ帰りましたが、なにか?」 「いや、それなら結構なのです」  伊織ははぐらかされた気持で、もう一度、目に見えぬ相手に頭を下げて電話を切った。  やはり、笙子は実家に帰っていたようである。直接、話はできなかったが、いちおう動きがわかったことで、伊織は安堵した。  東京へ戻ったというのなら、いずれ電話でもくるかもしれない……  伊織は立上ると、スーツをガウンに着替えた。外国旅行から帰ったまま、やらなければならないことがいくつもあった。新しく多摩地方で開発するグリーン・ベルトの設計を考えなければならないし、建築雑誌の原稿の締め切りも迫っていた。それにヨーロッパで世話になった東野や木崎へ礼状も書かなければならない。  だが、いまこれから仕事をやる気にもなれず、ソファに横になり、ブランディを飲む。  日本に帰ってきて二日目のせいか、まだ躰も頭も本調子ではない。時差|呆《ぼ》け、というほどではないが、全体にいま一つ引き締まらない。そのままテレビを見ながら、頭はやはり笙子のことになる。  すでに十一時を過ぎているが、笙子はなぜ電話をよこさないのか。笙子の母親の話では、昼に長野を発ったというのだから、五時か六時には着いているはずである。夕方の急行に乗ったとしても、十時半にはつく。それからマンションまでの時間をみても、十二時前には戻るはずである。  これまで笙子はそんなに遅く帰ることはなかった。友達と会っても、十時か、せいぜい十一時までには部屋に戻っていた。それからいうと、もう戻っている時間である。  伊織はトイレに行き、今度はビールの栓を抜く。躰は疲れているのに、頭だけは冴えている。ビールを一口飲み、十一時半になったところで、伊織は待ちきれずに、笙子のマンションのダイヤルを廻した。夜のせいか、妙に高いベルの音がして一瞬たじろぎ、気をとりなおして待つが返事はない。十回ほどベルが鳴り続けたところで、いったん切り、もう一度呼んでみるが、やはりでない。 「どこへ行ったのか……」  こんなに待っているのに、何故、連絡をよこさないのか。笙子へとともに、それを待っている自分にまで腹立たしくなり、ビールをあおり、またソファに仰向けになる。そのまま明りが眩しくて目を閉じているとベルが鳴った。伊織はとび起き、いままで待った思いをこめて受話器をとると、忍びやかな声が洩れてきた。 「もしもし」 「君は……」  伊織は怒鳴りかけて、相手が笙子と違うと知り、慌てて声をのんだ。  そのとき、伊織の頭のなかには笙子のことしかなかった。電話のベルが鳴れば、それは当然、笙子からだと思いこんでいた。だが電話の主は違ったようである。 「もしもし、どうかなさったのですか……」  忍びやかだが、おさえた声のなかには甘さがあった。笙子のことしかなかった伊織の頭のなかに、ゆっくりと霞が甦ってくる。 「いま、よろしいですか?」  霞も、伊織の応対の不自然さに気が付いたようである。少し間をおいて、 「もう、今日からお仕事だったのですね」  うなずきながら、伊織の脳裏に、霞と一緒に行ったヨーロッパの情景が甦る。つい一日前、帰ってきたばかりなのに、なにかずいぶん遠い先のことだったような気がする。 「お疲れでしょう。もう時差呆けはなおりましたか?」 「ええ……」 「わたしはまだ眠れなくて、いま一人でウイスキーを飲んでいたのです」  たしかに少し酔っているのか、霞の声は明るいくせに少しまだるっこしい。 「いま、なにをなさっていたのですか」 「別に、なにも……」 「ねえ、逢いたくありませんか?」  いきなりきかれて、伊織は今日一日霞のことを忘れていたことに気が付いた。 「すぐ、電話を下さるんじゃなかったのですか」  いわれて伊織は初めて、そんな約束をしたことを思い出す。 「あなたは悪い人よ」 「悪い……」 「そう、凄く悪いわ。旅に連れ出して、わたしに妙な癖をつけて、どうなさるのですか」  霞はそこで小さく溜息をついて、 「このまま、放っとかれるのですか」  いい悪いというより、伊織の頭はまだ完全に霞のほうに切替っていない。 「明後日の夜、あいていらっしゃいますか」 「………」 「お忙しいのですか」 「いや、夜ですか?」 「マンションにお伺いしてよろしいですか」 「ええ……」 「じゃあ、お伺いします」  霞はそこで少し間をおいて、 「あなたは薄情な人よ、いまに罰が当るわ」  薄情というのはともかく、罰が当るという言葉だけは本当かもしれないと、伊織一人でうなずいた。  霞からの電話が切れて、伊織は残ったグラスのビールを飲み干した。待ち続けていた笙子からの電話ではなかったのに、受話器をおくと気持はいくらか和らいでいた。  考えてみると、今日一日笙子のことばかり思い続けていたが、落着いて振り返ってみると霞もいた。いまの電話はそのことを思い出させてくれたようである。 「なにも、笙子一人にこだわることはないのだ……」  伊織は再びブランディをグラスに注ぎながら、自分にいいきかす。  たしかに笙子はよく仕事ができて几帳面な女だが、それが高じると、いささかうるさくて負担になる。仕事を任せる分には間違いはないが、反面、いまだに正義とか真実を叫ぶような、青くさいところがある。それからみると、霞はもっとおおらかで陽性である。いい加減というわけではないが、清濁併せ呑む大きさがある。 「笙子のことなぞ、もういい……」  伊織はもう一度、自分にいいきかせブランディを飲む。だが、その熱い液を嚥《の》みおろすと、また笙子のことが気にかかってくる。もう帰ってきているのではないか。もしかして、帰って電話をよこしたが、話し中なので切ったのではないか……  何故、こう笙子に拘泥《こだ》わるのか。つい少し前、霞がいると思ったのに、次の瞬間にはもう笙子からの電話を待っている。そのとりとめのなさに、自分で苛立ち、呆れる。 「彼女が去っていこうとしているからか……」  いまの霞は自ら躰が燃えていることを訴え、逢う日の約束まで大胆に求めてくる。  だがいまの笙子は確実に自分から去ろうとしているだけである。こちらが連絡を待っているのを百も承知していながら一向にかけてこない。まさかそれがテクニックとは思わないが、沈黙がいっそう思いをかりたてる。去りかけて、ようやく笙子の得がたさがわかってきたということなのか、それとも去っていくと知って、初めて未練がでてきたのか。 「どうして、もっと早く、気がつかなかったのか……」  だが、たしかに以前は笙子に逢うのが億劫だったし、いまは霞と逢うのが気が重い。この我儘は誰が悪いということでなく、ただ恋というものの妖しく罪深いところなのかもしれない。  翌日の朝、伊織はもう一度笙子のマンションに電話をかけてみたが、やはりでなかった。  東京へ帰るといって、途中から行先を変えたのか、あるいは友達の家にでも泊ったのか、ともかくこれでは、向こうから連絡がくるのを待つよりない。  あきらめながら、伊織は改めて笙子の身勝手さに腹が立ってくる。  たとえ、霞との旅行に不満を覚えたとしても、個人的な感情を仕事の場にもちこむのは行き過ぎではないか。私情と仕事とを混同するとは我儘すぎる。  だがそう思いながら、しっかり憎みきれない。 「なぜ、そんなことをしたのか」と怒鳴りたい気持と、抱きしめたい気持が入りまじる。  次の日、伊織は笙子の代りをしている坂井という女性にきいてみた。 「相沢君は、いないあいだのことをきちんと頼んでいったのかね」  伊織のいい方が強かったせいか、坂井は少し堅い表情で、 「いちおう、お見えになるお客さまのことや所長のスケジュールなどは教えて下さいました」 「で、何日くらい休むといったのかね」 「初めは一週間くらいといわれたのですけど、昨夜、電話で、このまま辞めることになるかもしれないといわれました。相沢さん、本当に辞めるのでしょうか」 「昨夜、電話があったのか?」 「十時ごろ、お部屋のほうにかかってきたんです。急に休んだので、やはり気になっているようです」 「そのとき辞めるといったのか」 「そういうことになるかもしれないって言っただけで……失礼ですけど、笙子さん、結婚なさるんですか」 「結婚……」 「よくわかりませんけど、もしかしたら、そうかなと思ったものですから」  坂井和子は笙子の三つ下で、事務所に入ったときから、笙子を慕っていたらしい。服装なども笙子に似せたものを着たり、ときどきは笙子のマンションにも訪れていたようである。 「彼女は、いまどこにいるのかね」 「所長さん、ご存知じゃないんですか」  坂井は、伊織がすべて知ったうえで、きいていると思っているようである。実際、これまでの二人のつながりからみると、そう思われるのも無理はない。伊織はさらにききたい気持をおさえて、お茶を飲んだ。  これ以上、坂井にたずねては、自分が狼狽していることを見せつけることになりかねない。  坂井が去って、伊織は一人で考えた。そして最後に自分にいいきかせる。 「もう、笙子のことは考えないことにする。いつまでも、笙子のことにばかりかかずりあっていては仕事にならない。もし途中で笙子が現れたら、そのときはそのときのことである。とにかくいまの時点では、すでに辞めたものとあきらめる。実際そうでなければ、これからの仕事に支障をきたす」  だがそうはいっても、このまま退職扱いにもしかねる。勝手に馘《くび》にしてくれといわれても、本人と直接話さないことには、いま一つ納得できない。さし当っては、有給休暇ということにでもして、場合によっては復帰する余地を残しておくほうが無難なようである。  もっとも所員達は、四日間も笙子が休み続けていることに、不審を抱いているようである。家庭の事情なのか、それともなにかトラブルでもあったのか、裏ではあれこれ憶測し合っているようである。  だが伊織はそのことについては、一切なにも触れないことにした。笙子と親しかったことは周知の事実としても、いまさら、他の女性と旅行に行ったのがばれて、気まずくなった、などといえるわけもない。それに、それが笙子が辞める理由の、すべてか否かもわからない。どうみても自慢にもならぬことを、自分からいいだすこともない。  しかしこのまま、休む状態が長びくと、放置しておくわけにもいかなくなる。笙子が休めば結果として他の女性に負担を強いることになるし、他の所員達も、仕事を知っていた笙子がいなくて、困惑しているようでもある。  実質的に四年間、笙子は伊織の秘書役を勤めるとともに、事務所の経理も担当してきた。さらに伊織と所員達の橋渡し役もしてきたのだから、その穴は大きい。いつまでもこのままにしておくわけにはいかない。いずれきっぱりさせなければならない。そうは思いながら、容易には決しかねる。  それにしても、一種不透明な空気が、事務所のなかに広がるのは感心したことではない。  相沢笙子はなぜ休んでいるのか、その理由は所長だけが知っているようだが、その所長は無言を続けている。そんな苛立ちが、所員達のなかにあるようである。  その日、伊織は六時に事務所を出た。七時に霞がくる約束になっていたので、まっすぐマンションへ戻り、上は茶のシャツに淡いベージュのカーディガンを着て、ズボンは同じ茶のフラノ地にはき替えた。  伊織の洋服の色は大きくわけて、紺系統と茶系統の二つになる。とくにどちらが好みというわけではないが、自分では紺系統のほうが少し若く見えるような気がする。だが、最近は年をとってきたせいか、茶の系統も落着いて悪くないようである。若く見られていやな気はしないが、といって、とくに若く見られたいとも思わない。男は年齢相応に老けたほうが好ましい。男が若く見えるのは、内容が空疎な感じがして考えものかもしれない。  それでも最近は、家に戻るとすぐスーツを脱いで、パジャマかガウンに着替えて、セーターやカーディガンを着ることは滅多にない。せっかくカシミヤやビロードのいい部屋着があるのに、もったいない話だが、一人で寝てしまうだけだと思うと、おしゃれをする気もおきない。  その日は久しぶりにイタリア製の脇にポケットのあるベージュのカーディガンを着て、ビールを飲みながら夕刊を読んでいると、階下からのインターホンが鳴った。腕時計を見ると七時五分前である。喫いかけの煙草を灰皿に戻して、入口のドアを開けると間もなく霞が現れた。 「よろしいのですか?」  霞は一瞬、うかがうように、奥へ目をやってからドアを閉めた。 「まだ、お帰りになっていないかと思ったのですが」 「三十分前には戻っていました」  今日の霞は、紺の一枚マントに黒のブーツをはき、いままでの和服とはうってかわって近代的である。細く華奢なブーツとマントを脱ぐと、下はタートルネックのセーターとタイトのスカートであった。 「久しぶりだわ、ここへきたの」  霞は部屋のなかをたしかめるようにゆっくり見廻してから、伊織に頭を下げた。 「その節は、お世話になりまして、本当にありがとうございました」  急に改まった挨拶に、伊織が面食っていると、今度は睨む眼差しになって、 「わたしに、逢いたいと思いませんでした?」 「もちろん……」 「もちろん、なんです?」 「逢いたかった」 「無理なさらなくていいわ、わたしが逢いたいといったから、逢って下さったのでしょう」  そういうと、霞はいきなり手に持っていたマントを放り出して、伊織の胸にとびこんできた。  たしかにこの数日、伊織の頭のなかを占めていたのは、笙子のことばかりであった。しかし、だからといって、霞に逢いたくなかったわけではない。霞のことも、ときに思い出してはいたが、こちらから電話をして誘い出すほどの気持はなかったというだけのことである。 「逢いたかったわ」  霞はしっかりと伊織にしがみつき、胸元から足先までぐいぐいおしつけてくる。それにおされるように伊織は二、三歩退りながら霞を抱きしめる。胸にむしゃぶりつくようなやわらかい感触と、腕にかかる黒髪を見るうちに、ヨーロッパでの日々が甦ってくる。  あるときは公園の見える窓ぎわで、あるときはベッドのわきで、そしてあるときは晩秋の森で、何度このなだらかな肩を抱き、黒髪が波うつのを見たことか。やはり躰の感覚は、頭の記憶より強いのか、抱きしめているうちに、伊織の脳裏からゆっくりと笙子が退場し、かわって現実の霞がクローズアップされてくる。 「女から、逢いたいっていわせるなんて、悪い人だわ」 「帰ってきたばかりで、忙しかったんだよ」  長い抱擁を終えて、二人は立って向かい合ったまま話す。 「忙しくても、電話ぐらいはできたでしょう」  たしかにする気になればできたが、笙子のことにかまけていたからだけではない。ときに霞のことを思い出しながらかけなかったのは、辻堂の家のことを考えたからでもある。夫も子供もいるところへ電話などかけては悪い。十日に及ぶ外国の旅に連れ出して、そのあと、またすぐ誘い出すなど、あまりに図々しすぎる。  これまで間男していて、いまさら良識派ぶるわけでもないが、伊織の頭のなかには、常に霞の家のことがあった。いっとき忘れていても、霞の陰に夫の目を意識して怯《ひる》む。長い旅に引きずり出したあとだから、しばらくは慎んだほうがいいかもしれない。そんな気持が、電話をすることを躊躇《ちゆうちよ》させたことはたしかである。だが、女にとっては、そんな遠慮は不必要らしい。いったん燃え出した火は、ひたすら燃えさかるだけで、いまさら夫に悪い、子供に悪いなどというのは、卑怯ないい逃れとしかうつらないのかもしれない。 「勝手なんだわ」  霞は改めて怨嗟《えんさ》の眼差しで伊織を見る。そういえば、こういう艶やかな眼差しをするようになったのも、旅に出てからだと、伊織は少したじろぎながら考える。 「そうそう、ヨーロッパの写真ができたのよ」  霞は抱かれて乱れた髪をかきあげると、ウィーンで買った見憶えのあるハンドバッグを開いた。 「この写真、現像してもらうため、わざわざ鎌倉までいってきたんです」  旅行中の写真は伊織と霞と二人のが多いから、近くの写真屋には出しづらかったのであろう。 「あんなカメラだけど、結構ちゃんと写っているでしょう。あなたが撮ったのはピンボケが多いけど、わたしが撮ったのは、みな素敵よ」  写真はいずれもカラー版で四十枚近くある。二人で写っているのは、東野かガイドの女性が撮ってくれたものだが、一人のは互いに撮り合ったものである。 「これなんか、ひどいわ」  どういうわけか、シェーンブルン宮殿の前で撮った一枚は、霞の顔が半分しか写っていない。 「あまり宮殿がきれいで、そちらに目がいってしまったらしい」 「違うでしょう。このお隣りの美女のほうを見ていたんじゃありませんか」  たしかに、横に金髪の女性が、軽く風に髪をなびかせて立っている。 「これは、いかにも記念写真って感じね」  アムステルダムの王宮前で撮ったのは、二人とも直立不動の姿勢で前を向いている。まだヨーロッパに着いたばかりで、二人並んだところを東野に見詰められて緊張したのだろうが、途中からは表情もやわらかく、ポーズも自然になっている。 「これ、覚えていないでしょう。先にぐうぐう寝て憎らしいから、撮っといたのよ」  霞が示す一枚は、ウィーンのホテルのベッドで、伊織が軽く口をひねったまま眠っている。 「僕のおかしいのだけ持ってきて、自分のは隠したのだろう」 「そんなことないわ。わたしはきちんとしているけど、あなたの写し方が下手で、焼き付けできないのが五、六枚かあったのよ」  霞はさらに一枚とり出して、 「これ、ちょっといいでしょう、なにか映画のシーンみたいじゃない。主演の男優が少し落ちるけど」  ウィーンの森の小径か、コートを着た二人が、軽くうつ向き加減に寄り添うように歩いている。 「わたし達の知らないうちに、ガイドの人が撮ってくれたのよ」 「これは、もらっていいのかな」 「もちろん、わたしの分は家にありますから」  こんな写真を自宅において大丈夫なのか。もし家の者に見付かったらどうするのか。伊織は心配になるが、こういう大胆さも、旅に出てからのような気がする。 「夕食は、まだでしょう」 「いえ、わたしはいりません。今日は九時には帰らなければいけないので……」  霞は首を横に振りながら、目は訴える眼差しである。それに引き寄せられるように、伊織はそっと手をそえた。 「向こうへ行こう」 「今日は、お顔を見にきただけよ」  睨みながら、霞の腰はすでに浮いている。そのまま手を引いてベッドルームへ入ってしまえば、あとは二人とも躊躇するところはない。接吻をし、霞の弱い耳朶《みみたぶ》を舌の先でなぞると、「助けて……」と身を縮める。 「じゃあ、早く脱ぎなさい」  伊織の命令に、霞は従順に横を向いてスカートのベルトに手をかけた。  伊織は先に服を脱ぎ、ベッドへ入っていると、例によって霞がしゃがみながら近づいてくる。  寝間着がなく、黒いマントを躰に巻いてくるが、その下は全裸である。近づいたところでいきなりマントを剥ぎとると、霞は白い弾丸になって、伊織の胸にとびこんでくる。  しっかりとそれを抱き締め、さらに耳元に唇を這わす。 「あっ……」  霞はくすぐったそうに悲鳴をあげながら、躰ごとぐいぐいおしつけてくる。 「わたし、痩せたでしょう」 「そうかな……」 「あなたが、いけないからよ」  どういう理由か、伊織にはわからないが、すべて悪いのは男のせいらしい。 「逢いたかったわ、あなたも逢いたかった?」  たずねるのに伊織は答えず、手を下半身に遊ばせる。  ヨーロッパから帰ってからの短い空白であったが、躰は待っていたらしく、愛《いと》しい秘所はすでにうるおっている。  いつもなら、伊織はしばらくじらすのに、その潤沢さに急《せ》かされるように、軽く触れただけで、いきなり入っていく。  瞬間、霞は眉を顰《ひそ》め小さな悲鳴をあげたが、首にまわされた腕にはさらに力がくわわる。そのまま二人は、どちらが攻め、どちらが守るとも知れぬ、愉悦の渦のなかに落ちていく。  伊織が入口のチャイムが鳴っているのに気がついたのは、それから数分経ってからだった。  初め、その音は霞の忍び声に消されて遠くきこえたが、耳をすますとたしかにこの部屋のようである。マンションの入口はロック式だが、ときどきインターホンを鳴らさず、他の人と一緒に入ってくる人もいる。  いまごろ誰なのか……  伊織は結ばれたまま動きをとめた。だが燃えている霞には、チャイムもきこえないらしい。動きのとまった伊織をなじるように下半身をよじる。 「ちょっと……」  伊織が耳元にささやき、躰を離そうとすると、霞は自然にいやいやをする。 「人が来ているらしいんだ」  そこで霞は初めて気がついたように、そっと目を開いた。  静かになったベッドルームに、やはりチャイムが聞こえてくる。 「鍵はかけたね」  部屋にあとから入ってきたのは霞だが、鍵をかけたのを伊織は見届けたような気がする。 「大丈夫よ、どなたか見える予定なの?」  伊織は考えてみるが、今日、マンションの方へ来る約束の人はいないはずである。 「合鍵を持っているんじゃないでしょうね」  突然霞は、怯えた表情になったが、鍵を持っているのは家政婦の富子だけだし、彼女がいまごろ戻ってくるとも思えない。 「とにかく、見てくる」  伊織は急いで下着をつけ、ガウンを着かけたが、万一、知っている人では恰好がつかないので、セーターとズボンをはく。  せっかくのぼりつめたところを中断されてか、霞は不満そうな顔である。 「すぐ戻ってくるから、そのまま休んでいなさい」  不在と思ってか、チャイムはいったん鳴りやんだようだが、相手はまだドアの外にいるようである。伊織は霞を残してそっとベッドルームを出ると入口に近づいた。  忍び足でまずドアの前に立ち、覗き穴から外をうかがうが人影はない。もうあきらめて帰ったのか、たしかめてみようとそろそろとドアを開けると、廊下の先を女性が去っていく。 「あっ……」  伊織がつぶやいたのと、女性が振り返ったのと、ほとんど同時であった。  振り向いたのは笙子であった。夜のマンションの廊下はほの暗いが、トレンチコートにうずめたほっそりした顔がまっすぐこちらを見ている。  廊下をはさんでしばらく向かい合ったあと、笙子はくるりと向きを変えるとこちらへ戻ってきた。片手にバッグを持ち、片手をコートのポケットにいれたまま、ハイヒールの音を響かせて笙子が近づいてくる。  ドアから顔だけ出したまま、伊織はそれをぽかんと眺めている。このまま黙っていれば、笙子はなかに入ってくる。だが、部屋のなかには、霞が裸のままベッドで休んでいる。なんとかしなければと思いながら、金縛りに合ったように動けない。 「どうした……」  数メートル手前まできたところで、伊織はたまりかねたように声を出した。だが驚いたのは笙子も同じらしい。不審そうに伊織を見て、 「いらっしゃらないかと思って、帰ろうかと思ったのです……」  たしかに間一髪のタイミングであった。もう少し遅くドアを開けたら、笙子はエレベーターにのって、おりていたかもしれない。 「それで……」  なんとか気持を落着けようとするが、言葉はつい震える。 「会社にお電話をしたら、まっすぐお帰りになったといわれたので、こちらへ来てみたのです」 「しかし……」 「あらかじめ、お電話をかけるべきでしたけど、多分、いらっしゃるだろうと思って、突然うかがってご免なさい。お休み中でしたか?」  図星をさされて、伊織は慌てて首を振ったが、笙子は静かな口調で、 「お忙しいようでしたら、またにします」 「いや、そんなことはない」  入口なのでこれ以上、話していると、奥にいる霞にきこえてしまう。伊織は切羽つまって、 「向かいに�ボン�という喫茶店があるから、そこで待っていてくれないか。すぐ行くから」 「でも、わたしはいまでなくてもよろしいのです。ただ一言、お逢いしてお詫びを申し上げたいと思ったものですから」 「そう、そのことがあって……」  伊織はいいたい言葉を必死におさえて、吃《ども》りがちに、 「いますぐ行くから、ボンだよ、いいね」  念をおすと、笙子は強張《こわば》った表情でかすかにうなずく。 「じゃあ……」  笙子が背を見せ、去っていくのを見届けてから、伊織はもう一度「あっ……」と声を出す。  入口の沓《くつ》脱ぎに、霞のロングブーツが立てかけられたままになっている。慌ててドアを開けたので隠す暇もなかったが、反対側に立っていた笙子には、それがはっきり見えたに違いない。  ドアを閉めると、伊織はそのまましばらく戸口で立っていた。べッドでは霞が待っているが、これではすぐには戻りにくい。すでに情事を続ける気持は失せていたが、それ以上に、笙子とかち合ったバツの悪さが、足をすくませる。  しかしこのまま戸口に立っているわけにもいかない。仕方なく、いったんトイレに行き、それからベッドルームに戻ると、霞は裸の躰を掛布で包んだままベッドの上に坐っていた。 「参ったな……」  照れくささを隠すように軽く舌打ちするが、霞はなにもいわずベッドから立上った。 「どうするの?」 「服を着ます」  そのまま、霞はしゃがんでベッドのわきにたたんであった衣服を拾う。 「せっかく、いいところだったのに……」 「お出かけになるのでしょう」  やはり戸口でのやりとりをきいたのか、霞の声は急に素気ない。 「突然くるなんて、非常識なやつだ……」  伊織の口からつい愚痴がでる。いままであれ程待っていたのに、なんの連絡もよこさず、選りに選って、霞とベッドに入っているときにのこのこやってくる。しかもインターホンも鳴らさずに、いきなり部屋までくる。直接くるなら電話の一本ぐらいよこすべきではないか。  休んだのも勝手だが、訪れ方もまた勝手である。考えると無性に腹が立ってくるが、あの場合、そのまま帰すわけにもいかなかった。  探し続けていた笙子に、久しぶりに逢ったという思いと、霞とベッドにいたといううしろめたさが、戸口で会っただけで別れるのを戸惑わせた。おそらく、あのまま笙子を追い返したら、笙子はもう二度と現れないに違いない。是が非でも、いま二人だけで逢って、話さなければすべては終る。  だが、笙子と逢うことが、逆に霞を傷つけることにもなる。事実、霞は不快さをはっきり顔に出していう。 「向こうへ行っていて下さい」  霞はそういうと、自分からベッドルームのドアを閉めた。  情事の最中に、女が訪ねてくるような男には用事はない。行為を中途でやめて、別の女を追いかけていくような男《ひと》は勝手にするがいい。「向こうへ行け」といった霞の目には、そんな怒りがあふれていた。  だが今夜のことは、決して伊織が仕組んだことではない。今日のことはあくまで偶然である。  しかし考えてみると、いままで霞と笙子が、かち合いそうになったことは何度かあった。  霞と接吻をしているとき、笙子かららしい電話のベルが鳴ったこともあるし、霞と逢って別れたあと、笙子が訪ねてきたこともある。それにヨーロッパに行くとき、空港で霞ははっきり笙子を見ている。その他、電話で二人は何度か、声をきき合っているはずである。  今日ぶつかったのはまずかったが、いままでぶつからなかったのが、むしろ運がよすぎたのかもしれない。二人の女性のあいだを行き来していては、今夜のようなことがおこるのは、時間の問題だったといえなくもない。 「仕方がないか……」  自らを慰めるが、それにしても、今夜はいかにもまずかった。せめて二人で話をしているか、酒でも飲んでいるときならともかく、ベッドで、しかも情事の最中とは、いかにもタイミングが悪い。あれでは、すぐに出ていくわけにもいかないし、笙子のほうは、こちらの顔や態度から普通でないのはわかるはずである。さらにまずかったのは、そのあと慌てて、近くの喫茶店で逢う約束をしてしまったことである。それで笙子は怪訝な顔をしたし、部屋にいた霞の気持も害してしまったようである。 「まずかった……」  自棄《やけ》気味に頭を叩いていると、霞が服を来て、ベッドルームから出てきた。 「それじゃ、わたし、帰ります」  初めとは別人の声で、コートを持って去りかける。 「おいおい、ちょっと待ってくれよ」 「女の方が、お待ちなのでしょう」 「でも……」  このまま別れたのでは、霞とのあいだまでまずくなってしまう。 「本当に、今日はそんなつもりじゃなかったんだ。まったく偶然でね。仕事のことで、急用ができて来ただけなんだ」 「女性が夜、仕事のことで男性のマンションに来るのですか」 「だって、彼女は秘書だから……」 「秘書で、彼女なんじゃありませんか」  それだけいうと、霞はコートをわし掴みにして、さっさと戸口へ向かう。  そのあとを追いかけようとして、伊織は出口で立止った。いまこんな状態で、霞と別れるのはまずいが、向かいの喫茶店では笙子が待っている。もたもたしているうちに、笙子にまで逃げられては、なんにもならなくなる。 「悪かった……」  伊織は謝るが、霞はなにもいわずぴしゃりとドアを閉めていく。一人になって伊織はトイレの先の洗面所の鏡に向かった。  笙子とは先程、逢っているが、情事のあとの顔と見破られてはまずい、簡単に髪に櫛《くし》を当て、唇のあたりをたしかめてから煙草とライターを持つ。  そのまま戸口に出かけたが、思いなおしてベッドルームとリビングルームを点検する。これから笙子と逢って、もし一緒に部屋に戻ることになったとき、女性の名残りがあってはまずい。リビングルームのテーブルの上にある二つのグラスを至急片付け、続いて寝室をたしかめる。ベッドは、霞が整えてきちんとなっているが、さらにベッドカバーの裾をまくりあげて、ピンが落ちてないかたしかめる。さらに枕元からシーツを調べるが、ピンや髪の毛は見当らない。 「これで、大丈夫だ……」  伊織は一人でうなずくと靴をはく。  笙子に待っているようにいった喫茶店は、すぐ向かいなので、コートを着るまでもない。ジャケットの上にマフラーだけ巻いて、エレベーターでおり、正面玄関を通り抜けようとすると、右手のロビーに女性が一人坐っている。  おやと思って見なおすと、笙子だった。 「どうしたんだ」  驚いて、伊織は思わず大声をだした。 「向かいの喫茶店と、いったろう」 「行ってみたんですけど、混んでて坐れないのです」  両手をコートのポケットにつっこんだまま、笙子の声は冷ややかである。 「じゃあ、ずっと、ここにいたの?」  笙子は黙ってうなずく。どうにも間の悪いときは、すべてが悪いほうに向かうらしい。先程からロビーで待っていたとしたら、当然、霞が出てくるのを見たはずである。霞のほうも、ロビーで一人ぽつんと坐っている笙子を見たに違いない。 「お忙しいようでしたら、また出直してきます」 「いや、いいんだ……」  自業自得といってしまえばそれまでだが、どうにも今夜はついていない。これ以上、なにをしても、ろくなことはなさそうだが、といってこのまま笙子と別れるのも口惜しい。 「とにかく、どこかで話をしよう。部屋にいこうか」 「いいえ」  夜のロビーで、笙子はきっぱりと首を横に振る。 「じゃあ、ちょっと出ようか」  いま、女性と寝ていた部屋に戻るのは、さすがに気がひけて、伊織はマンションを出ると、右手にあるビルの地下のスナックバーへ誘った。 「オードブルや簡単なサンドイッチくらいなら、ここでも食べられるけど」 「いりません」  店は細長く、カウンターがL字型に走っているだけだが、マスターと馴染みで退屈なときにときどきくる。 「水割りを……」  伊織はマスターにそういって、笙子に飲物をきく。 「コーヒーをください」 「しかし、驚いた……」  伊織は改めてカウンターに両肘をついて溜息をつく。 「ヨーロッパから帰ってきて、まさか、休んでいるとは思わなかった」 「………」 「手紙も読んだが、着いたのは二日あとだった。すぐ長野に電話をしたが、お母さんが出て、東京へ帰ったといわれた」  笙子は軽く顔を伏せたまま、なにもいわない。 「突然、休んだので、みんな変に思っている。急に替りをさせられて坂井君も困っているし、他の連中もいろいろとやりにくいようだ」 「すみません……」 「どんな理由か知らないが、事務所を辞める以上は、いちおう上司の了解をえて、みなに納得してもらったうえで辞めるのが筋というものだろう。いきなり、いやになったから辞めますというのでは、勝手すぎはしないか」  伊織は少しいい過ぎかと思ったが、下手《したで》にでると負けそうな気がして、しいて強くいう。 「しかも、そのまま何日も行方不明になっていて、今度は思い出したようにぽかっと現れる」 「せっかくのところ、お邪魔をして、申し訳ありませんでした」  笙子は一気にいうと、ぷいと横を向いた。  伊織は煙草に火をつけ、小刻みに喫い続けた。この際、強く威丈高にでるべきか、優しく下手に出るべきか。理屈からいえば叱るのが当然であるが、相手はすでに辞めるつもりでいる。それを叱れば、ますます追いやるだけである。それに霞とのことも感付かれたあとだけに、強くでるのは気がひける。 「まあ、そんなことはどうでもいいが……」  迷いながら結局、口に出たのは、いささか弱気な言葉であった。 「しかし、どうして急に事務所を辞める気になったの?」 「………」 「まさか、仕事や待遇のことで、不満があったわけではないのだろう」  笙子は両手をコーヒーカップにそえたまま、黙っている。 「なにか、いやなことでもあったの?」  霞とのことが一つの原因と察しはつくが、それをこちらからはいいだしにくい。 「突然、辞める以上は、やはり理由をはっきりいって欲しいな」 「わたし、突然なんかじゃありません。前々から辞めようと思っていました」  笙子はゆっくりと、髪をかき上げ、それにつれて耳から細い首の線が白く浮き出た。 「そろそろ、生活を変えたいと思ったのです」 「いまの生活が不満なのか」 「そういうことでなく、事務所も大分長いし、そろそろ年齢ですし、とにかく変えたかったのです」  笙子の説明は必ずしもはっきりしないが、いおうとしていることはなんとなくわかる。いろいろ理由があるにせよ、いまの生活を変えたいという気持は、わからないわけでもない。 「でも、辞めてどうするのだ」 「いったん長野へ帰ります」 「坂井君が、結婚するんじゃないかって、いっていたけど」 「いいえ」 「本当に違うのか?」 「違います」  意外にはっきりした返事に伊織はしばらくグラスを見詰めていたが、やがて煙草をもみ消して、 「しかし、いろいろ理由はあるかもしれないが、もう一度、考えなおしてみる気はないかな」 「………」 「いままでのことは、いちおうなかったことにして……どうかな」  いつのまにか、伊織は哀願する口調になっているのに、笙子は相変らず軽く顔を伏せ、目はカウンターの一点に向けたままなにも答えない。  だが伊織はその無言のなかに、一脈の光明を見出していた。  もし本当に事務所に戻る気がないのなら、「辞めないでくれ」といっても、「いやです」とつっぱねるはずである。あるいはさっさと帰っていってもおかしくはない。それを黙って話をきいているところをみると、まったく可能性がないということでもなさそうである。全然、脈がないものなら、初めからマンションにもこないし、霞がいたのを知って待っているわけもない。ただ辞める手続きをするだけなら、日中、事務所に現れて事務的に話せばすむことである。それを笙子は夜、一人でマンションまで訪ねてきた。  もしかすると、辞めるといいながら、笙子の気持はまだ揺れていたのかもしれない。少なくとも、今夜マンションにくるまでは、はっきり辞めると決心はついていなかったのかもしれない。  もしそうだとすると、霞との一件はいかにもまずかった。せっかく逢って話し合おうとしていた気持が、先程のことでたちまちしぼみ、冷えきったのかもしれない。 「とにかく……」  伊織はグラスの氷を小刻みにかたかたと振りながらいった。 「君はなにか誤解しているようだが、それは違うよ」  暗に、霞のことをいっているつもりだが、笙子がそれを察しているかどうかはわからない。 「ただ、仕事の関係で際《つ》き合っているだけで、それだけのことだから……」  話しながら、伊織はそれと同じことをつい少し前、霞にもいったことを思い出した。一方に都合のいいことをいい、その舌の乾かぬうちに、他方に同じことをいっている。これではまったくの二枚舌である。男の風上にもおけぬペテン師である。  だが、霞にいったときには、本心から霞を失いたくないと思い、いま笙子と対しているときは、また笙子を失いたくないと思っている。二枚舌といわれようとペテン師といわれようと、そのときどきに嘘はない。自分の心に正直に従うと、そうなってしまう。二人の女性のあいだにはさまれば、煩雑なことが生じるのは目に見えているが、いまはそこまで考える余裕はない。  ただ、いまはっきりといえることは、笙子を離したくないということだけである。 「いろいろ不快な思いをしたと思うが、そのことは謝るよ」  具体的にいいわけをしたいが、なまじっかいえば|ぼろ《ヽヽ》が出るだけに、漠然としたいい方で謝るよりない。  だが相変らず笙子は答えない。初めはその沈黙が、つけ入る甘さにみえたが、いまはその沈黙が、怒りの深さを暗示しているようである。  伊織はグラスに残った水割りを飲み干すと腰を浮かした。 「出ようか……」  ここにいても話がつきそうもない。もっとも話は前からついているといえばついているともいえた。それをなんとか戻そうとするのだから難しいのは当然かもしれない。 「じゃあ、出る」  伊織がカウンターのほうに手をあげると、マスターが心配そうな眼差しでうなずいた。いつもは気さくに話しかけてくるのを、少し離れて黙っていたところをみると、マスターも、二人の様子のおかしいのに気付いたのかもしれない。  お金を払って外に出ると、通りには木枯が吹いていた。伊織は一瞬、これと似た風がアムステルダムの街にも吹いていたのを思い出した。 「ちょっと、寄っていかないか」  コートは着ず、両手をポケットにつっこんだまま。伊織がきいた。 「どこへですか」 「マンションに……」  笙子はゆっくりと首を横に振った。 「わたし、帰ります」 「しかし、なにも話がついていないじゃないか、とにかく、ちょっとでいいから……」  二人だけで部屋に戻れば、なんとかなるかもしれない。少し卑怯だが、このあとは強引に抱擁をし、接吻でもして、笙子の気持が和むのを待つよりなさそうである。だが笙子はそこまで見通しているのか、あるいは、はじめからそんな気はないのか、風の流れる先を見ながらいう。 「それじゃ、失礼します」 「待てよ。たとえ辞めるにしたって、いつからにするか、仕事の引継ぎをどうするか、それに君のものだっていろいろ事務所に残しているじゃないか」 「明日でも、事務所にうかがいます」 「そんな勝手なことをいわれても困る。明日は午後から建設省へ行かなければならないし、夜も忙しい」 「いらっしゃらなくても、望月さんと坂井さんにお話ししておきます」 「仕事の引継ぎだけやればいい、というわけでもないだろう。まだマンションのことだってあるし、いろいろと……」  笙子のマンションは伊織が借りてやったものだし、部屋には伊織の本やセーターもいくつかおいてある。それらがいますぐ必要だというわけでもないが、四年に及ぶ結び付きの長さは、そう簡単に消し去れるものではない。  気分を変えるように伊織は、風に背を向けてゆっくりと歩きはじめた。マンションとは逆の方角だが、いまは笙子の帰るのに従って、少しでも一緒に歩くより仕方がない。  笙子は横に伊織がいるのを無視したように足早に行く。 「しかし……」  伊織はうしろから追いかけるように声をかけた。 「もう少し、落着いて考えてみてはどうかな」 「………」 「別れるといったって、そんな簡単に別れられるわけがないだろう」 「それ、どういうことでしょう」  突然、振り返った笙子の顔が、晩秋のネオンの下で蒼ざめている。 「変ないい方、しないで下さい」 「いや……」  伊織は曖昧につぶやきながら、過去のことを思い返す。  好きでやったことだから返してくれなどという気はないが、笙子にはずい分尽してきた。これまでさまざまなプレゼントをし、生活に困らぬように充分のお金も与えてきた。いま伊織は、そうした面を強調していったわけではない。それら経済的な面にくわえて、四年間の精神的なつながりも含めていったつもりである。だが、それをいってはすべてが終ってしまう。簡単に別れられないだろう、といったときから、男は未練だらけの負け犬になってしまう。 「ただ、長かったからね……」 「………」 「四年間だから……」  伊織はことさらに、四年という言葉に力を入れた。四年間、互いに愛し、築きあげてきたものは、そんななま易しいものではない、といいたかっただけである。  だがそれがいま崩れようとしている。その脆《もろ》さに驚き、呆れている点では、伊織も笙子も同じなのかもしれない。  思い出したように、また木枯が夜の街を通り過ぎて行く。伊織は一瞬、息をつめ、風が去るのを待ってささやいた。 「ちょっと、車に乗ろう」 「いえ、帰ります」  伊織はかまわず、近づいた車に手を挙げた。このまま街を歩いても仕方がない。こうなったらまず車に乗って、話はそれからのことである。 「さあ……」  車が停って伊織が呼ぶが、笙子はどんどん歩いていく。 「乗らないのか」  もう一度、呼ぶが、笙子は振り返らない。運転手は停めておいて乗らない客に苛立っているようである。 「済みません」  仕方なく謝って追いかけようとすると、突然、笙子は別に車を停めて乗りこんだ。 「待て……」と口のなかで叫びながら、追いついた途端、車は動き出した。 「おい、おい……」  こんこんと窓を叩くが、笙子は素知らぬ顔で前を向いたまま、車は夜の道を去っていく。  伊織は路上につっ立ち、その車のテールランプが消えるのを見ていた。  ついに笙子は行ってしまった。いまはそのことに、喜びも悲しみもない。それより躰の芯《しん》が一本抜けたような、頼りなさである。すでに十時に近く、車の数も減った広い通りに、また思い出したように木枯が吹く。伊織はその風におされるように、ゆっくりとマンションのほうへ戻りはじめた。 「そうか……」  納得したわけでもないのに、そんなつぶやきが口から洩《も》れる。  先程、車が動きはじめたとき、強引にすがりつけば、あるいは停ってくれたかもしれない。  だが、前を見たまま振り向かない笙子の横顔を見た瞬間、すがりつく気は失せてしまった。  夜とはいえ、まだ人通りのある道で、女の車を追いかけるほどの気力はなかった。あれ以上追いかけては惨めになるだけである。夜目に見た笙子の横顔には、もはやなにものも寄せつけぬ厳しさがあった。 「それにしても……」  伊織は両手をポケットにつっこみ、軽く背を屈《かが》めて歩きながら考える。あの冷ややかな表情はなんだろう。あの優しかった笙子が、どうしてあんなに豹変《ひようへん》しうるのか。つい少し前まで、伊織の一言一句に逆らわず、献身的だった女が、あれほど醒めた、他人の顔をできるものなのか。 「終ったのか」  もう一度、伊織は車の去ったあとを振り返るが、広い通りにはあてのない木枯だけが夜空の果てに過ぎていく。 [#改ページ]    冬  野  初冬の短い日が、煙草を一服喫い終る度に暗さを増していく。  日曜日の午後四時だが、マンションはもの音一つせず静まり返っている。その一隅で伊織は明りをつけず、椅子に坐ったまま窓を見ている。動かずに坐っていると、夕暮れは部屋の内と外と、両側から迫ってきているのがわかる。どこから昼といい、どこから夜というのか不明のまま、日の暮れきる寸前に、一瞬明るくなるときがある。いまがその瞬間らしい。  夕闇の底が白々と明るい。その淡い明りを残す机の上に、紙が一枚おかれている。二日前、義兄から送られてきた離婚届である。すでに妻は署名し、印鑑もおしてある。義兄には証人になってもらったので、証人欄に同様に署名、捺印《なついん》してある。いま一人、証人が必要だが、伊織は村岡に頼むことにしていた。彼が名前を書き、伊織が署名、捺印して区役所に提出すれば、それで手続きはすべて終る。  伊織はその呆気なさに、いささか戸惑い、呆れていた。十七年間、続いてきた夫婦が別れる以上、もう少し煩瑣で面倒なことがあっていいのではないか。こんな紙一枚にサインするだけでは簡単で殺風景すぎる。  だが離婚というのは、両者が納得してしまうと、それからあとは意外に簡単なものらしい。あとは区役所に届ければそれですむ。  それより面倒なのは、ここに至るまでの過程で、この一カ月のあいだにも煩瑣なことがいくつもあった。子供の籍はどうするか、慰謝料はどうするか、子供の養育費は、などなど。  もっとも伊織はその一つ一つの解決に動き廻ったわけでなく、実際は知人の弁護士と義兄が仲に入ってまとめてくれたのである。子供は二人とも妻の側に行くことに異論はなかったし、慰謝料にしても、弁護士のいう、いわゆる妥当な額に不満はなかった。自分の身勝手さからでた問題に、とやかく文句をいえる立場でもない。伊織は彼等が敷いたレールのまま、黙って従ってきた。  すでに動き出した車は停めようもなく、少し卑怯ないい方かもしれないが、伊織はただそれに乗っただけである。  どういうわけか、決断しておきながら、話がまとまって事態がすすみだすと、伊織は別れることが他人ごとのように思えてきた。離婚するのが、自分であることをつい忘れてしまう。そしてすべてまとまり、あとはサインするだけとなったいま、伊織はある頼りなさにとらわれている。  いま署名して、判をおせばそれですべてが終ると思うと、なにか急に惜しいような気がして、ペンもとらずにぼんやり外を見ている。  また一段と夕闇が迫って、明りが取り残されているのは、自分のまわりだけになる。だが伊織は相変らず椅子に坐ったまま窓を見ている。いま一瞬でも動けば、その隙にたちまち夜が訪れる、そんな夕暮れの静謐《せいひつ》のなかに、白い紙片だけが浮き出ている。  左に夫の名を、右に妻の名を書きこむ欄がある。妻の欄はすでに書きこまれ、印鑑がおされている。右下に「署名は必ず本人が自署して下さい」と記され、「印は各自別々の印を押して下さい」と注意書きがある。  もともと、妻は自分の印鑑は持っていなかった。一般の夫婦でも、妻が独自の印鑑を持っている例は少なそうである。それを別々に、というところがなんとなく可笑しい。妻は前からあった「伊織」という認めを捺《お》したようである。伊織は手元にある実印を捺すことになるのかもしれない。同じ「伊織」で、別々の判を捺すことが、いよいよお前達は他人になるのだぞ、と訓《さと》しているようにもみえる。  その下に「離婚の種別」という欄があり、義兄が記したのか、「協議離婚」というところに丸印がつけられている。「そうか、協議だったのか……」と、伊織は他人ごとのように思う。さらにその下に、「未成年の子の氏名」とあり、「妻が親権を行なう子」という欄に、まり子、美子、と二人の名前が記されている。その隣りの「夫が親権を行なう子」という欄は空白になっている。  もともと、子供達が妻のほうへ行くことに伊織は異論はなかった。まだ若い子供達が、母親のほうへつくのは当然だと思いこんでいた。だがこうして自分のほうの空欄をみると、子供も去っていくのを改めて知る。この子達はどう思っているのか。我儘でいい加減な父だ、もうこんな人は自分達には関係ないと思っているのか。それとも、親達の離婚とは別に、血を分けた父として愛着だけは残しているのか。  今回の話し合いが正式に決まるまで、伊織は二人の子供とは会っていなかった。ただ一度だけ、電話で、「お母さんとは別れるけど、お前達の父親であることは、変りはないのだから」と話した。そのとき、長女と次女がでてきて、一人一人に告げたのだが、二人ともなにもいわず黙っていた。あれは泣いていたのか、それとも子供達の精一杯の反抗だったのか。  それにしても、罪のない子供達を無口にさせてまで、別れる理由はあったのか。いまになって、なにか自分一人だけ勇みすぎて、土俵を割ったような気がしないでもない。  彼方のビルの窓にまた一つ明りがつく。するとそれを待っていたように次々と明りが広がり、やがて夜が定まる。見ていると、夕暮れから夜になるというより、明りが夜をもちこんだようである。  今日は離婚届に署名して、判をおして弁護士に送るはずだった。本来は自分で届け出るべきかもしれないが、他人が届け出てもいいと記されている。こんな簡単なことなら、他人の手で勝手に離婚させられることもあるのではないか。伊織は妙なことに感心して、また紙片を見る。  いま署名したら、それできれいさっぱり片付くと思いながら、なお夜が深まる窓ぎわでぼんやりと考えこんでいる。一体、この億劫な気持はなになのか。  離婚は自分から望み、家を出たのも自分からであった。そのときははっきり、「別れたい」と妻にもいい、義兄にもその気持を説明したはずである。それが相手も了承したいまになって、戸惑っている。あの当時と気持が変ったわけでもないし、いまさら妻の許に戻っても、ここまで壊れた感情が元に戻るとは思えない。離婚は既定の事実で、もはや変えようはない。そうとは知りながら、いま一つ気がのらない。 「どうしたのか……」  伊織はつぶやきながら、笙子のことを考える。  家を出たころは、はっきり笙子という存在が頭のなかにあった。妻と別れて、笙子と一緒になりたいという目標が見えていた。だが、いまはすでに笙子はいない。獲物を求めて疾駆していた獣が、いきなり獲物に逃げられて、勢いのやり場に困っている。それほど極端でなくても、なにか、寸前で肩すかしをくらった気持は拭《ぬぐ》えない。  これまで離婚を望んできた最大の理由は、笙子という対象があったからである。目的があったからこそ、その状況に憧れていた。だがいまは肝腎の目的が失われている。かつて、あれほど切望したときにうまくいかず、笙子が去ったいま、離婚が現実のこととなろうとしている。まさか、妻がいまというタイミングを狙っていたとは思えないが皮肉である。  笙子さえいてくれたら、いまの気持は大分変っていたかもしれない。だがこの半年くらいは、その笙子への情熱も大分薄らいでいた。いまもし、笙子がいたからといって、彼女と結婚する気になったかどうか自信はない。この半年は、まさしく笙子から霞へ気持が動いていた。しかし、そのくせ、霞との結婚は、どういうわけか伊織の頭のなかに具体的な形となって現れてこない。  それにしても笙子の去り方は、なんと鮮やかであったことか。まさかと思っていたが、マンションを訪れた翌日に事務所へ来てみなに挨拶し、仕事の引継ぎをし、自分のものを取りまとめて帰ってしまった。伊織がいないのを承知で来て、「所長には、昨夜、お逢いして全部話してあります」といったらしい。  辞める理由は、「そろそろ年齢だし、田舎の母が病気がちなので」と答えたという。  伊織はそんな話はきいたことがないし、母親とはつい少し前に電話で話しているのだから、笙子が勝手につけた理由であることは明確である。  所員達はそれでも、所長との不仲か、結婚のためと噂し合ったようだが、笙子はそんな素振りはまったく見せなかったらしい。立派といえば立派だが、そんな演技ができるとは意外であった。  しかし、なによりも驚いたのは、笙子の見事な変貌ぶりである。あれほど自分に熱中していた女が、顔も合わせず平然と去っていく。たとえ、非はこちらにあるとしても、そのやり方は少し非道すぎやしないか。  もともと女は去りぎわが、男よりはいさぎよいと知ってはいたが、正直なところこうまで冷酷とは思わなかった。いったん、あなたを嫌いとなったら、もはや見向きもしない。それまでの迷い苦しむ部分が深いせいか、別れると決心がつけば、ものの見事に振り切るものらしい。  この女の厳しさからみると、男ははるかに優柔不断である。「お前は嫌いだ、もう逢いたくない」といっておきながら、しばらくして女から電話でもかかってくると、またのこのこ出かけて行って、逢ったりする。いったん決意したはずが、少し甘えられると気を許す。別れにおいては、どんなきつい男より、優しい女のほうがまだ峻烈《しゆんれつ》である。  このあたりはどちらがいい悪いの問題でなく、男と女の性質《さが》の違いなのかもしれない。女は一瞬一瞬、愛への集中度が強いだけに、いったん醒めたら、その醒め方もまた早い。それは女がきついというより、妊娠とか出産という役目を背負った性として、中途半端では生きていけない、必然の姿なのかもしれない。  ともかくその後、伊織がマンションに何度、電話をして誘っても、笙子は頑として拒み続けた。ついには口惜しまぎれに笙子を責め、恨み言をいうと、「お願いですから、そんなことをいって、これ以上、あなたを嫌いにさせないで下さい」と逆に諭《さと》された。 「いまなら、まだ好きです。好きな気持を残したまま別れさせて下さい」  そういわれたら、それ以上、追うわけにもいかない。未練はあっても、そのあたりであきらめるのが、男の分別というものかもしれない。口惜しいけれど、それ以上、体面をかなぐり捨ててすがるわけにもいかない。  振られていまさら比較するのもおかしいが、笙子にくらべると、霞はもっと弾力的である。怒りながらも、どこか許すところがある。  もっともあの事件のあと一週間は、なにもいってこなかったし、伊織もさすがに気がひけてなにもいえなかった。沈黙のあと、伊織が最初に電話をしたのは、笙子が完全に去って五日ほど経ってからだった。 「どうしているの……」  おそるおそるきくと、「元気です」と、素気ない返事が返ってきた。 「この前のこと、まだ怒っているの?」 「なんのことでしょう」  当然わかっているのに、知らぬふりをするところに、まだ怒りが続いているのがわかった。それでも面と向かって顔を合わせていない気楽さから、伊織は必死に弁解した。あの女性はいまはもう辞めて、なにも関係がないこと、あのときは本当に仕事の打合わせにきて、あのあとも、コーヒーを飲みながら話しただけであることなどを長々と説明した。本当は笙子が許せばどうなったかわからないが、結果として、退職のことについての話をしただけだから、仕事の打合わせだといっても、さして大きな違いではない。その夜、笙子と変な関係にならなかったので、そのあたりのことは怯まず話すことができた。  霞がその説明をどの程度、納得したかはわからない。だが、大の男が一生懸命、弁解するのをきいて、少し可哀想になったのかもしれない。それから一週間あとに、ようやく東京まで出てきてくれた。  半月ぶりに怒りがとけて再会というわけだが、本心から信用しているかどうかはまだわからない。 「あなたを見損なったわ……」  霞は逢うといきなりそういって、伊織を睨んだ。だが怨嗟にせよ、睨む目のなかには、すでに許す気構えが含まれている。伊織はそこに取り入るように、さらに謝った。その裏には、笙子はともかく、霞なら許してくれるという計算があったからでもある。  笙子と霞とでは度量が違う。それは性格はもちろん、年齢のせいもあるし、一方が独身で、一方が人妻という違いもあるかもしれない。だが、この前の事件についていえば、霞は部屋のなかにいたほうで、外から訪れた側ではない。せっかくの情事を中断されたという不快さはあったにしても、伊織とは身近にいたほうである。  それからみると、ドアを開けた途端、情事の雰囲気をにおわされ、部屋に一歩も入れられず、追い返された笙子とは、ショックの度合いが違う。もしあの場合、霞が笙子の立場だったら、やはり半月くらいの空白で許すことはなかったろう。  航空標識なのか、ビルの上に赤い光りが明滅している。煙草を銜《くわ》えながら、伊織がそれを見ているとインターホンが鳴った。時計を見ると五時を少し廻っている。 「いいんですか……」  前回もそうだったが、今度も、霞は不安そうになかをうかがいながらきく。  笙子とは別れたといっても、まだ、他に誰か女がいるとでも思っているのか、なかに入ると自分から鍵をかけ、さらにドア・チェーンまでかける。 「そんなにしなくても、大丈夫だよ」 「当てにならないわ」  霞は草履を脱ぎ、うしろ向きにそれを揃えてから書斎へ入ってきた。 「どうしたんですか、こんなに暗くして」 「いや、ちょっとね……」  一人でぼんやり離婚届を見ながら考えていた、ともいえず、言葉を濁す。 「まるで、穴蔵ね」  霞はそういいながら、次々と明りをつけていく。伊織は慌てて、机の上にあった離婚届を、抽斗《ひきだし》にしまい込む。 「まさか、居眠りしていたわけじゃないんでしょう」 「ちゃんと、起きていたよ」  明りがついて、霞の藤色の地に花模様の浮いた縮緬《ちりめん》と紺の帯が浮きあがる。大体、これまでの経験からすると、霞は時間があるときは和服を、急ぐときには洋服を着てくる場合が多い。してみると、今日は時間に余裕のあるほうなのかもしれない。 「食事にでも行きましょうか」  離婚の鬱陶しさから逃れるためにも、外へ出たほうがいいと思ったが、霞はあまり気がすすまないようである。 「わたしは、大丈夫ですけど」  霞はそういうと、アネモネを持って流しに立つ。 「お花、活けていいですか」  以前はこんなことはきかずに、黙って花を活けたのだが、これも、この前の夜の後遺症かもしれない。伊織は流しに立った霞のうしろ姿を見ながらきく。 「今日は、何時までに帰ればいいの?」 「今日は、泊っていってもいいんです」  そこで霞は悪戯っぽく笑って、 「でも、またどなたか見えると悪いから、帰ります」 「もう、彼女はいないといったでしょう」  何度も否定しているのに、まだ笙子のことに拘泥わっているらしい。霞は備前の小ぶりの花入れにアネモネを挿して、テーブルの上に持ってきた。 「ねえ、この趣味、悪いでしょう」  花入れには、短く切った赤と黄のアネモネが三本ずつ挿し込まれている。 「赤と黄なんて、おかしいわよね」  そういわれるとたしかに、沈んだ備前の肌に、原色はけばけばしすぎる。 「でも、今日はなんとなく、こんなふうにしてみたかったの。この赤いのは若い美しい女の方、こちらの黄色いのは、嫉妬に狂っている中年のおばさまよ」 「まだ、そんなことをいっている……」  赤いのは笙子で、黄色は自分のつもりでもあろうか。伊織はその執念深さに、いささかあきれる。 「でも、こうしてみると、そんなにおかしくもないわね」 「もう、よしなさい」  伊織がたしなめると、霞は花入れを飾り棚の空間において、 「わたし、これからは、あなたにあまり熱中しないことにします」  どういう意味なのかわからず、伊織が首を傾けると、 「そのほうがいいでしょう」  そのまま再び流しに立つと、余った花をポリバケツに捨てる。 「あまり真剣になると、喧嘩の原因になるから、ほどほどにしたほうがお互いのためよね」 「真剣にならないということなの?」 「そう、あなたと同じ程度に適当に……」  一体、熱中しないとか、ほどほどにとか、いわくあり気ないい方をするが、そんなに計算どおり、うまくできるものなのか。口でそういったところで、躰もそのとおりついていくものなのか。それならいまここで着物を脱がせ、真裸にして求めてみようか。抱擁をし、接吻をし、結ばれてからも、ほどほどに、などということができるものなのか。  澄ました霞の顔を見るうちに、伊織は次第に欲望を覚えてくる。  伊織はグラスをおくと、まっすぐ霞の前に立った。 「おいで……」 「どうなさるのですか」 「寝よう」  いきなり、手をつかまれて、霞はきょとんとしている。 「早く……」 「おかしいわ、急に」  伊織はかまわず、手を引いて寝室に連れていく。 「脱ぎなさい」  急に横暴になった男に霞は戸惑ったようだが、すぐ素直に背を向けると帯を解きはじめた。  女が肌を許しながら、その相手と適当につき合う、などということができるものだろうか。いったん結ばれたら、女の躰はひたすら燃えあがるか、燃えないかの、いずれかではないのか。もちろんそこに個人差はあるが、相手によって調節するなどという、器用なことができるとは思えない。少なくとも、そういうことができないところが、女体の素晴らしさであり、男の真似できないところでもある。長年、伊織は女の躰をそんな風に考えてきた。変に小細工などせず、ひたすら快楽に没頭する、それが成熟した女体の素晴らしさだと思いこんできた。  だが、霞はこれからはほどほどにつき合うという。いままでは没頭しすぎたから、その都度調節する、といわんばかりである。  そんな都合のいい真似はさせない……  伊織はベッドのなかで、手ぐすねひいて待っていた。ほどほどにといった霞の思いあがりを、打ちのめしてやりたい。その気持を知ってか知らずか、霞は長襦袢一枚になると、例によって端からそろそろと入ってくる。まず掛布の端をもちあげ、腰からすり寄ってきた途端、ぐいと引き寄せ、一気に腕のなかに抱えこんだ。  霞は瞬間、小さな悲鳴をあげたが、すぐおさえこまれるまま仰向けになった。伊織はなにもいわず霞の右手を自分の肩の下におさえこみ、左手はあいたほうの手でおさえたまま、胸をまさぐった。いきなりわし掴みにされて霞は慌てふためき、苦しそうに上体をよじるが、伊織は腕の力をゆるめない。そのまま大きく開かれた胸を唇でなぶり、さらに手を下のほうへ這わせていく。 「あっ、あっ……」と、悲鳴とも愉悦とも知れぬ声をあげながら、霞の上体が、魚のようにはねあがり、その度にやわらかい肌が小気味よくぶつかってくる。  伊織はいまは刑の執行者のつもりである。ほどほどに、などということができるのならやってみろ。そんな怠慢なことなぞ許さない。とことん追いつめ、快楽という奈落の底に突き落してやる。これまでは好んでその罠《わな》のなかに陥ちこんでいたくせに、いまになって適当なところで、などという甘えは許さない。  執行者は充分こらしめたのを見計らって、ころはよしとばかり、霞のなかに入ってゆく。本当の刑の執行はむしろこれからで、いままでは序の口である。 「いいか?」  霞をしっかり胸の下へ抱えこんで伊織はたずねる。  性は快楽でありながら、同時に男にとって、一つの自己確認の手段なのかもしれない。「いいか?」と尋ね、「素敵か?」とたしかめ、それにうなずき、応じるのをきいて男はようやく納得する。俺の行為が確実に彼女をのぼりつめらせ、女を満たさせると思うことが、男に自信をもたせ、いままでの行為が徒労でなかったことを知らしめる。もし不幸に、女がなにも答えず、躰の反応も薄ければ、一生懸命汗まで流して努めた行為が、ただの徒労となり、馬鹿げた虚しさだけが残ることになる。  いま、伊織は一つ一つ霞の反応をたしかめ、声と躰と両方で問い詰め、両方で答えさせていく。  初めは恥ずかしさから、容易に答えなかったものが、途中から徐々に従順になり、ついにはかなり恥ずかしい言葉まで、いわれたとおり口走る。もちろん、愉悦の渦にのみこまれ、頭が朦朧《もうろう》としているからこそ声に出せることで、素面《しらふ》ではとてもいえる言葉ではない。だが伊織は、くり返しくり返しそれを強制し、それをいうことに馴れさせていく。  情事の最中に口走ったことなど、言質《げんち》となるわけもない。とくに満ちていく瞬間の女の口約束など、一片の価値もない。そうとは知りながら、少なくともその一瞬、われを忘れて、口走ったという事実は大きい。 「さっき、なんといったか、知っている?」  やがて激しく荒れ狂う瞬間がすぎ、凪《な》いだ時間が訪れたところで、伊織は意地悪な質問をする。 「なんでしょう」 「覚えていないのか」  霞の躰には、まだ愉悦の名残りが残っているのか、気怠《けだる》げな眼差しで首を傾ける。 「とてもいい、素敵だ、といった」  伊織は次々と霞の口走った言葉を、耳元でくり返してやる。 「そんなこと……」  慌てて顔をそむけるのに、さらに追打ちをかけるように、 「いや、はっきりいった、それに、絶対、離れないともいった。それに……」  霞はもういい、というようにシーツに顔を伏せるが、伊織はかまわず、 「あれでも、まだほどほどで、いい加減なのかな」  行為が終ったあとは、言葉で嬲《なぶ》ることで、伊織の復讐は完結する。だが、それで男がたしかに勝利を得たわけでもない。  少し前、霞は間違いなく荒い吐息のあいだから「あなたが大好き」と答え、「決して離れない」といった。伊織はそれをはっきりときき、「そうだな」と念までおした。だが情事が終ったいま、それをたしかめると「あんなふうにするからよ」と他人ごとのようにいう。肌を触れ合い、結ばれる行為をしたから、そう答えたのだといわんばかりである。  とすると、あんなことをしなければ答えなかったということか。いやそれより、霞は、「先程の言葉は、情事が答えさせたので、わたしが答えたのではない」といいたいのかもしれない。自分のなかに二人の女がいて、情事に溺れたほうの女が口走った、とでもいうのか。 「しかし、さっきの様子は、ほどほどという感じではないな」  伊織はさらに言葉で嬲る。 「あんなに興奮して、いい加減につき合うってことはないだろう」 「わたし、そんなこといったかしら」 「いったよ、はっきりと。今度からは適当に、ほどほどにつき合いますとね」 「それはそうよ」  伊織はまたわからなくなる。一体、どちらが本当なのか。いい加減につき合うといった霞が本物なのか、情事に溺れて「離れない」と誓った霞が本物なのか。 「でも、さっきの君が、嘘をいったとは思えない」 「そうよ」 「じゃあ、どうなるんだ」 「わかんないわ」  霞は面倒だというように、掛布のなかに躰を沈ませる。どうやら、霞の理屈では、絶対離れないとつぶやいた自分も、ほどほどにと宣言した自分も、ともに真実だといいたいらしい。どちらが本物などというより、霞という女のなかには、二人の女が住んでいるということらしい。 「そうか……」  どうやら霞は情事は情事で楽しみながら、際き合いのほうはほどほどの距離を保っていくということらしい。霞のなかでは、その二つは矛盾せず両立しているらしい。 「いけない?」 「いや、そんなことはないよ」  答えながら、伊織はなにか、実となる部分は、すべて食べ尽くされたような気がしないでもない。そのまま起き上ろうとすると、霞が不満そうにきく。 「もう起きるんですか」  伊織は手を伸ばして、ナイト・テーブルの上のスタンドをつけた。 「なにか食べに行こう、お腹が減った」 「ねえ、お願いだから消して下さい」  いわれたとおり明りを消すと、霞は拗《す》ねるように背を向けて、 「おかしな人ね、お腹が減ったなんて」 「でも、なにも食べていないだろう」 「少しくらい減ったっていいでしょう、わたしは平気だわ」  いったん、ベッドから出しかけた腕をそのままに、伊織が黙っていると、霞はそっと寄りそって、 「もう少し、このままじっとしていて」  どうやら、霞は食事などより、このままベッドにいて情事の余韻を楽しみたいらしい。  だが伊織の頭はすでに醒めている。つい少し前までは、自分でも呆れるほど霞に挑んだが、その結果は、霞を楽しませるだけに終ったようである。罰を加えるはずのつもりが、途中からくわえられるほうに廻り、気がつくと軽い徒労感が全身に拡がっている。  快楽は快楽として呑みこんで揺るぎない、その平然とした女体の逞《たくま》しさを知って、いまはその力強さに少し尻込みしている。 「静かね……」  霞が頭を伊織の胸にあずけてつぶやく。伊織はうなずきながら、やはり軽い空腹を覚えている。躰はたしかに触れ合っていながら、男と女の心は別のことを考えている。 「ねえ、お正月はどうなさるの。お家にお帰りになるのでしょう」 「いや、ここにいるよ」  今年の正月は、大晦日から二日まで家に戻ったが、今度はそんなわけにいかない。伊織はサインしかけてやめてある離婚届のことを思い出した。 「ここで、一人でなさるの」 「どこかホテルにでも行こうかな」  いかに別れたとはいえ、一人でマンションで過すのでは侘《わび》しすぎる。 「いまから、お部屋が見つかりますか」 「伊豆か、房総あたりでも探してみようか」 「ねえ、伊豆になさらない。三日なら、私も行けますから」  霞は急にはずんだ声をだした。伊織は腕を伸ばして再びスタンドの明りをつけた。 「正月なのに、出てこられるの?」 「三日は実家へ帰る予定だったのです。でもあなたに逢えるのならやめます」  正月の三ガ日、一人でホテルにいるのも侘しいから、一日でも霞が来てくれるなら、それにこしたことはない。 「泊れるの?」 「泊ったほうがいいでしょう」 「でも、それじゃ実家の人に会えないじゃないか」 「それはいいの、会おうと思えばいつでも会えるから」  そんなことをして大丈夫かと思うが、ヨーロッパへ行ってから霞は大胆になったようである。 「じゃあ至急、ホテルを探してみよう」 「お正月早々、あなたに逢えるなんて嬉しいわ」  霞は再び伊織の胸に顔を寄せてきた。解きほぐされた髪が肌に触れてこそばゆい。伊織はその長い髪を静かによけながらささやいた。 「起きようか……」 「………」  霞はきこえなかったように、顔を胸にうずめたまま動かない。淡いスタンドの明りがあたりを円く浮きあがらせ、デジタル時計の音だけが規則正しく響く。  伊織はやはり起きることにした。頭は醒めていたし、一度果てて、これからまた抱くほどの気力もない。女は満ちたあともなお、たゆとうような余韻が続くようだが、男は果てると急速に萎えてしまう。若いときならともかく、伊織の年齢では続けてすぐという貪欲さはない。  そろそろと霞の頭の下にあった腕を抜き、上体を起こすと、伊織は下着にガウンだけ着けてリビングルームの方へ移った。そこで服に着替えると、霞もあきらめて起き出したらしい。伊織はかまわずソファに横になってテレビを見ていると、三十分ほどして霞が現れた。すでに着物を着て、髪も整えてある。 「まだ八時前なのね」 「なにか、食べにいこうか」 「これからですか……」  霞が呆れたといった顔をする。たしかに情事のあとに食べに行くのは、なにか順序を違えたような気がしないでもない。 「来たときから、食べに行くことばかり仰言ってるわ」  そんなわけでもないが、情事が終ってみると、満たされずに残されているのは空腹感だけである。 「たまにゆっくり食事をするのもいいでしょう」  考えてみると、このところ、霞と一緒に食事に行ったことはほとんどなかった。いつも逢うとすぐベッドへ行き、帰るぎりぎりまでそこから離れない。明るいところで向かい合って、会話らしい会話はほとんどしていない。もっとも、それは伊織が望んだというより、霞の事情に合わせているせいでもある。東京へ出てきても二、三時間で帰らなければならないのでは、食事をする時間も惜しい。 「和食はどうだろう」 「わたしは結構です。あなたがどうしてもと仰言るなら、お伴しますけど」  そういわれては、無理に出る気はおきない。ともかく、霞は人目のあるところより、密室で二人でいるほうが好きらしい。 「じゃあ、少し飲もうか」  伊織は立って、棚からシェリーのボトルを持ってきて注いだ。 「年内のお仕事は、いつまでですか」 「二十八日で終るつもりだったけど、今年は三十日まで、やることになるかもしれない」 「わたしも、今年はもう出てこられないかもしれないわ」  たしかに人妻が年の瀬を控えて、暢んびり情事にふけるのは難しいかもしれない。 「でも、年が明けたら、すぐ逢えるのだからいいわ」  霞がなに気なく預けたといった感じで、伊織の膝の上に手をおいた。 「今年は、とってもいい年だったわ……」  つぶやきながら、霞の手がそっと動く。伊織はシェリーの入ったグラスを片手に持ったまま、再び淫らな感覚を思い出している。 「あなたを知って、奈良へ行って、ヨーロッパにも一緒に行けたし、でも、まだ一年なのね」  たしかに、霞を知ってからずいぶん経ったような気がしていたが、実際は一年に満たない。それなのに、いまは二人で話をしながら、女の手は平然と男の上におかれている。これほど無防備に親しくなるとは、余程気が合ったというべきか、それとも中年の情欲の濃さのせいか。 「来年も、わたしを愛して下さいますか」 「もちろん」 「三日まで、きちんと待っていて下さいね」  頼みながら、霞の指は次第に中心部へ向かってくる。 「他の女《ひと》にあげたりしてはいやよ」  なぞるような指の動きで霞がたしかめているのは、伊織にというより、伊織の男性自身に対してのようである。 「大丈夫だよ」  答えながら伊織は奇妙な感情にとらわれるが、といって再び求める気にまではなれない。 「こら、こら……」  悪戯っ子をいさめるように、手をおさえると、霞は初めて気がついたように頬を染めて、 「そんな……あなたがもっていったのよ」  どちらが悪いともいい難い。だが、霞の手が自然と股間に近づいたのはたしかである。間違いなく、霞は以前はこんな淫らではなかった。はじめに逢ったころの霞なら、そんなところに触れるどころか、膝の上に手をおくのさえ、ためらったはずである。 「もう一杯、ください」  情事のことはもうあきらめたというように、霞がグラスを差し出す。 「ブランディにしようか」 「いいえ、シェリーで結構よ」 「あのあとは、酔うでしょう」 「そうかしら」  霞は知らない、といった顔をしたが、すぐ思い出したように、 「でも、本当に、お正月にはお家にお帰りにならないのですか」  伊織はシェリーからブランディに替えてから、答える。 「帰りたくても、帰れないんだよ」 「そんなこと仰言って、ご自分で勝手に拗ねているのでしょう」  ふと伊織は、いまが白状する潮どきかと思う。 「実は、離婚するんだ」 「まさか、ご冗談でしょう」 「こんなこと、嘘をついたって仕方がない」  霞はしげしげと伊織を見て、 「どうして、そんなことをなさるのですか」 「どうしてって、うまくいかないからさ」 「おやめなさい」  霞は持っていたグラスをテーブルにおくと、きっぱりした口調でいった。 「そんなこと、なさっても同じよ」 「同じ?」 「いまのままでいいじゃありませんか。離婚して、他の人と一緒になっても、同じことですよ」 「他の人と一緒になるわけではないよ」 「それじゃますます必要ないわ、おやめなさい」  たしかに、再婚する相手もいないのに離婚するのは無意味かもしれない。それでは離婚というマイナスだけが残ることになる。だがいまとなっては仕方がない。すでに妻が離婚届にサインしているのに、いまさらやめるとはいいだせない。 「しかし、嫌いな女性と一緒にいても、仕方がないだろう」  いまとなっては、それが最大の理由だと思いこもうとしているのに、霞は軽くいなすように、 「嫌いだといっても、実際は別居して、勝手なことをなさっているのだから、いいじゃありませんか」 「だから、そういう状態はよくないと思ってね」 「でも、奥さまはそれで、とくに文句は仰言らないのでしょう」  たしかに不満はあったかもしれないが、妻から別れ話を持出したことはなかった。 「あなたが、別れたいと思ったのは、本当はあの秘書の方と一緒になりたかったからじゃありませんか」 「そんなことはないよ」  図星を指されて、伊織は慌てて打消すが、霞は追討ちをかけるように、 「奥さんを愛していないとしても、あなたはそれだけで離婚なさる方ではないわ」  女の勘は鋭いというが、たしかに妻への愛が冷えたからといって、すぐ離婚に走るほど伊織は一本気ではないし、それほど純粋でもない。 「離婚などなさらず、いまのままでいたほうが得なんじゃありませんか」 「得だって?」 「四十を過ぎて、一人でいる男性なんて、なんとなく寒々として、侘しすぎるわ」 「………」 「いまのまま、奥さまは奥さまとして、わたしと適当に遊んでいるほうがよろしいんじゃありませんか」 「僕は、そんな遊びで……」 「別に皮肉でいっているんじゃありません。ただそのほうが、あなたも気が楽かと思って」  いままで、霞はなに不自由ない人妻で、世間や男女の愛の機微などには、ほとんど無関心なのだと思いこんできた。いわば箱入り人妻、とでもいうべき存在だと思っていた。それが意外に厳しいことをいう。しかもその一つ一つが、意表をついて胸にこたえる。 「本当に、離婚なぞ、おやめになったほうがいいわ」 「やめろといわれても、いまさら、やめるわけにはいかないんでね」 「でも、離婚は強がりでなさるものではないわ」  口惜しいけど、その一言も当っている。伊織はさらにブランディを飲んでいってみる。 「ところで、君は僕と結婚する気はないんだろう」 「そんな、ご冗談を……」 「冗談でいっているんではない。僕は本気で考えているのだ」 「あの方の、替りですか」 「………」 「替りに、なんていうのでは嫌だわ」 「彼女とは初めから、そんなつもりではなかった。大体、そうなら、君と一緒にヨーロッパに行ったりなぞしない」 「あのころは、あの方に少し飽きてただけじゃありませんか」  霞の言葉は相変らず適確に急所を突き、伊織は防戦一方といった感じである。  それにしても、この前の鉢合わせ以来、二人の立場は微妙に逆転したようである。気のせいかもしれないが、なんとなく霞は余裕をもち、伊織はおされ気味である。 「もう、彼女のことは忘れて欲しい」  もはや理屈では勝てそうもなく、いまは頭を下げるだけである。 「とにかく、いまは誰よりも君を好きだよ」 「わたしもよ」  意外に、簡単に答える霞に、伊織は勇気を得て、 「君さえ、よかったら結婚したい」 「ありがとう。そういって下さると嬉しいわ」  霞はそこで軽くシェリー酒を飲んで、 「でも、あなたはきっとわたしに飽きるわ。そんなに長くは続かないわ」 「そんなことはない」  強くいったが、霞はまるで相手にしないように軽く首を横に振って、 「あなたはそういう人よ。一人の女性でじっとしていられなくて、また新しい女《ひと》を求めて移っていくわ」 「それじゃ、浮気な、どうしようもない男だといってるようなものじゃないか」 「でも、そこがあなたの素敵なところよ。夫としてはともかく、彼としては最高よ」  霞にそこまでいわれては、伊織としては返す言葉もなく、ただブランディを飲み続ける。  霞が立上ったのは、それから三十分ほどしてからだった。 「やはり、帰るのか」  来たときは、今日は泊ってもいいようなことをいったはずである。 「わたしはいいのですけど、娘が待っているものですから」 「ご主人は?」  ブランディの酔いをかりて、伊織は一歩踏みこんできいてみる。 「あの人はいつもお仕事で、家にはほとんどいないのです」  前にも霞はそんなことをいっていたが、この前のように慌てて帰るところをみると、口だけなのかもしれない。 「娘が、一度、あなたにお逢いしたいらしいのです」 「お嬢さんは、僕達のことを知ってるの?」 「はっきりはわかりませんけど、多分、感じてはいるでしょう」 「それで、大丈夫なの?」 「さあ、どうでしょう」  母が別の男性と逢っているのを知っても、娘は黙っているのか。そのあたりの若い女性の心理はよくわからないが、霞は慌てる様子はない。 「でも、彼女は一度、あなたを見ているのです。空港で、素敵な方だって、いってたわ」  たしかにヨーロッパへ行くとき、霞達は先に空港にきて、伊織達が話しているのを見たといっていた。 「僕に逢って、どうするのかな」 「きっと興味があるのよ、年頃だから」  娘といっても、霞の実子でなく、夫とだけ血がつながっているのだときいた憶えがある。 「大学生だったね」 「十九になったばかりです、そういう若い子に興味がおありですか」 「いや、ない」 「そうかしら……」  笙子のことを思い出したのか、霞は疑わしい目を向ける。だが正直いって、伊織は二十歳前後の女性にはあまり関心がない。若さがあるといっても、年齢が離れすぎていては話題が合わないだろうし、稚《おさな》すぎてこちらが疲れてしまう。女性ならやはり二十五歳から上のほうが好ましい。 「じゃあ、帰ります」  霞は思い出したように戸口へ向かう。 「それじゃ、もう今年はお目にかかれないかもしれませんが、よいお年を」 「君も……」 「三日、本当によろしいのですね。でもその前にお電話を下さい」  霞は念をおすと、ドアを開けた。  霞が帰ってから、伊織はソファに横になった。情事のあとの気怠さと、ブランディの酔いがまじって心地よい。うっかりするとこのまま眠りそうである。  こうしていると、もう数日で一年が終るとは思えない。そのまま、目を閉じていると、笙子の顔が浮かんでくる。あれ以来、どうしているのか、その後なにもいってこない。霞と鉢合わせをした翌日、事務所へきて事務引継ぎをしたあと、二日後にはマンションも引払っていた。まことに電光石火というか、見事な去りようであった。  その後は、事務所宛てに手紙が一通きたが、内容はとおり一遍の挨拶状であった。それを見るかぎりでは、五年間に及ぶ、男と女の生臭いつながりがあったとはとても思えない。手紙の差出しの住所が長野だったから、実家にいることは察しがついたが、伊織からは電話をしていない。あれほど見事に去られては、電話をする気もおきないし、したところで元に戻るとも思えない。 「笙子はもういなくなったのだ……」  この一カ月は、ひたすら、そのことを自分にいいきかせるための月日であった。初めは口惜しく残念で、ときに腹立たしくもあったが、最近ようやく「しようがなかったのだ。あれはあれでよかったのだ」とあきらめきれるようになってきた。  だが、なおときとして、笙子が鮮やかに甦ることがある。突然、笙子のその瞬間の切なげな表情や、タイトのスカートの下の小気味よいお臀の張りなどが、生ま生ましく思い出される。霞と情事を楽しんだ挙句に、そんなことを思い出すなど、霞への冒涜《ぼうとく》である。いままで美しい女性が横にいたのに、帰った早々、別の女性のことを考えるなど勝手すぎる。  だが、霞と満ち足りたからこそ、かえって笙子を思い出すのかもしれない。譬《たと》えは悪いが、それは濃厚なものを堪能したあと、爽やかなものが懐しくなるのに似ているかもしれない。  そういえば、このごろの霞は洋食で、笙子は和食というべきかもしれない。最近、霞はこちらが戸惑うほど情事に積極的になってきた。相変らず、生来の慎しさは忘れていないが、いったんベッドに入ると人が変ったように豹変する。これがあの慎しやかな人妻かと、不思議に思うほどの乱れ方である。その強い刺戟に満ち足りたあとのせいか、稚さの残る笙子の躰が懐しく思い出される。 「もうよせ……」  自ら邪念を振り払うようにつぶやいて、伊織は再び書斎へ戻った。いったん明りが点いたままの机の前に坐り、それから怖いものでも見るように、またそろそろと抽斗を開き、離婚届を手にとった。  いまこれからサインをして送り返したところで、正式の手続きが完了するのは来年になる。いまさら縁起をかつぐわけでもないが、年明け早々に離婚というのも、あまり気持のいいものではない。ここまできたら、一日や二日遅くても同じである。とすればいっそ年明けに送ったほうがいいかもしれない。  いろいろ理屈をつけてみるが、要はいますぐ離婚届にサインをしたくない。いずれ離婚することはわかっていながら、いま少しこのままの状態でいたい。なんとも中途半端でいい加減だと思うが、この戸惑いも詮じつめれば年齢のせいかもしれない。  これがもし二十代だったら口笛でも吹きながら、サインをしたかもしれない。三十代なら、書類がきた日にすぐサインをして送り返したかもしれない。だが四十も半ばとなると、そうさっぱりともいかず、つい自分のことから妻や子供のこと、そして離婚に反対している母のことなどいろいろ考えてしまう。離婚を決意した時点で、それらはすべて解決ずみのつもりだったが、いざ書類を眼前に突き出されると戸惑う。  それにしても、妻はよくサインをしたものである。それまで、いろいろ思い悩んだろうが、離婚すると決めてからは案外簡単にサインしたのかもしれない。「伊織扶佐子」ときちんとした楷書で、所定の欄一杯に堂々と書かれている字には、もはや戸惑ったり怯んだ感じはない。  やはり女は強いのか……  笙子にしても、妻にしても、女は去りぎわは潔い。そこに至るまでは泣き喚き、取り乱しても一度決断したら、もはや振り返りはしない。そうと決めた瞬間から、女はまったく別の人格になるのかもしれない。 「おい、意気地なし」  伊織は自分を叱ってみる。いつまでもくよくよ思いあぐねて、これでは女みたいではないか。いや女よりはるかに女々しい。 「しっかりしろ」  もう一度つぶやくと、伊織はペンを持った。それから一つ空咳《からせき》をして、一字ずつ丁寧に書く。 「伊織祥一郎」、その字を書き終え、判をおして、伊織は大きく溜息をついた。  これですべては終った。これを封筒に入れて送り返せば、妻とはまったく他人になる。これでいいのだ、と思いながら、なにか大変な過ちを犯したような気がしないでもない。いままで重くのしかかっていた|しがらみ《ヽヽヽヽ》から解放されて、急に肩の荷がおりた気楽さと、反面、わずらわしいものがなくなった頼りなさもある。落着かぬまま伊織は再びリビング・ルームへ戻って、グラスにブランディを注いだ。それをストレートで飲むと途端に酔いが廻ってきた。 「もう、俺は一人だ……」  つぶやくうちに、伊織はふと、家に電話をしてみたい衝動にかられた。いままでは別れる妻に自分から声をかけるなど、恥ずかしいし、するべきでもないと思っていたのが、酔いの勢いと、離婚届にサインをしたことで、急に気持が楽になったのかもしれない。 「いっそ他人なら他人でいいじゃないか」  伊織は勝手な理由を自分にいいきかせて、ダイヤルを廻す。子供がでるかと思ったが、返ってきたのは妻の声だった。 「あ、俺だよ……」  伊織がいうと、妻も小さくうなずいたようである。 「変りないか……」  いってから、いまさら妙なきき方だと伊織は自分で呆れる。 「この、正月はどうするのだ」  いきなり話がとぶが、それもききたかったことの一つである。 「実家へ帰ります」  妻の実家は仙台である。毎年、夏か冬の休みには帰っていたから、子供達も慣れている。 「いつから?」 「明後日です」  そんなに早くから、といいかけて伊織は口を噤《つぐ》んだ。もはや妻も子も自分から離れた存在なのだから、こちらがとやかくいう権利はない。 「もし、そちらに年賀状がいったら困るから、いないあいだとりにいってもいいかな」 「どうぞ」  妻のいい方は相変らず冷ややかである。それに対抗するように、伊織はことさらにおさえた声で、 「あれは、サインをしたから、もうじきつくと思う」 「わかりました」 「じゃあ……」  最後に一言、ののしるなり泣き喚く言葉を待ったが、妻はそのまま電話を切った。伊織は電話をかけたことを後悔しながら、またブランディを飲みはじめた。  大晦日の夜から、伊織は四谷に近いホテルに部屋をとった。初めの予定では、伊豆か房総あたりの温かいところをと思ったが、これと思うところはみな予約で一杯であった。それでも無理に探せば、ないわけではなかったが、三日に霞と逢うことを考えると、いっそ東京にいたほうが便利である。  もっとも東京のホテルも正月三ガ日は混んで、どこも満員であった。たまたま四谷のホテルを知っていて頼んでみると、大晦日の当日になってダブルの部屋を一つ借りることができた。  このごろは正月をホテルで過す人が多くなったらしく、大晦日の六時にホテルへ行ってみると、フロントは家族連れの客でごった返している。久し振りに、華やかな雰囲気のところにきて嬉しいのか、駆け廻ったり、絨緞《じゆうたん》の上に坐りこんでいる子供達もいる。  伊織は受付けを終えると、自分でバッグを持って一人で部屋に入った。大晦日から三日までのつもりだったが、とくに準備するものもない。バスローブと下着と、着替えのジャケットとズボン、それに読みたい本を五、六冊つっこんできただけである。それらの入った鞄を荷物台におき、ベッドに仰向けになると、フロントの騒々しさが嘘のようである。今日が大晦日で、このまま一年が終るとはとても思えない。なにかまだ、仕事の続きで、ホテルに泊りこんでいるような錯覚にとらわれる。  軽く休んだあとシャワーを浴び、七時に伊織は階上のレストランに行ってみた。だが洋食はもちろん、中華も、地下の和食の店も、家族連れで一杯である。  伊織は人混みを避けて、比較的すいていた地下のステーキ店で夕食をとった。そこも家族連れか夫婦連れで、一人で食事をしているのは伊織しかいない。「お一人ですか?」と、案内するウエイターまで怪訝な顔をする。  こんなことなら、他の女性でも誘って、一緒に食事をするのだった。銀座のバーやクラブに勤めている女性は正月休みは意外に暇らしい。店は休みだし、馴染みの客はみな妻子の待つ家に帰ってしまう。彼女らはそれぞれに複雑な事情があって、実家に帰る人は少ないから、正月休みは彼女らにとっては最も孤独なときでもある。  とにかく一人では、独身なのか、それとも家族に逃げられたのか、などといろいろ詮索されているような気がして、伊織は早々に食事を終えて部屋へ戻った。ホテルは華やかで賑やかだが、今夜にかぎっては、その賑々しさがかえって伊織を孤独にしたようである。  翌日は七時に一度目覚めたが、元旦の部厚い新聞を読んで、再び眠った。以前は元旦の朝といえば初日の出を見たり、初詣でに行ったりしたものだが、いまはそんな気もおきない。一人で起きてバスルームに行こうとしたとき、電話のベルがなった。こんなに早くと思って出てみると霞からだった。 「お目出度うございます。もうお目覚めでしたか」 「いま、風呂に入ろうと思っていた」 「早いのですね。本年もよろしくお願いします」  霞はそういうと笑ったが、たしかに躰まで許し合った男女が交わす会話としては少しおかしいかもしれない。 「今日は、どこかにいらっしゃるのですか」 「いや、別にあてはありません」 「退屈でしょうが、大人しくしていて下さい。三日には、きっと参りますから」  霞はそれだけいって電話を切った。  伊織は風呂から出ると、ジャケットと替えズボン姿でロビーに降りてみた。元旦をホテルで過す客のためにさまざまな趣向がこらされている。一階から地下のフロアーにかけては、お祭りの縁日のような出店が並び、他に子供達の遊び場からゲーム・センター、主婦のための組紐の実演やらく焼き、さらには父親のために、囲碁、将棋の娯楽室からゴルフ練習場まで用意されている。妻や子供達は年に一度、正月をホテルで過すのが楽しみなのかもしれないが、男達にとっては、いささか迷惑らしい。大体、一流ホテルといっても、ツイン程度の部屋に家族三、四人が泊っては息苦しいし、子供達につきあって出店やゲーム・センターを見て歩いてもすぐ飽きてしまう。それにジュース一杯飲んでも、市価の数倍のお金がかかる。そんな出費をするより、家で暢んびり横になってテレビを見ていたほうが休養になるのだろうが、妻や子供の手前、そうもいかない。彼等が辛うじて息抜きできるのは娯楽室とか、ゴルフ練習場ということになるのかもしれない。  それからみると、いまの伊織は妻や子供に気をつかう必要はない。大変だなあと、ゲーム・センターで子供の相手をしている男達を見ながら、しかしそんな負担がなくなった自分が、少し淋しいとも思う。  ホテルを一廻りしてから、伊織は車で自由が丘の家に行った。妻や子はいないと知りながら、ベルを押してみるが、当然誰も出てこない。それをたしかめてから門のなかに入り、自分への年賀状だけとってホテルへ戻った。部屋でそれを見て、出さなかった賀状を区分けしているうちに再び夕方になった。  伊織は今度は早目に食堂におりていって夕食を食べると、テレビを見た。そのまま寝入って、夜中に目覚めて、持ってきた本を読む。  風呂に入って、テレビを見て、食事をして本を読む。気儘な時間を過すうちに、たちまち二日が過ぎた。ホテルの一人住いは退屈すぎるかと思ったが、それはそれで結構時間がつぶせるものだと、伊織は妙なところに感心する。  正月も三日になると、休みをホテルで過した客の大半は帰りはじめる。正月客のためにホテルが用意した催しものも三日で終る。ロビーは大晦日の日と同様、家族連れで賑わっている。妻や子供達の顔には、休みをホテルで過した満足感がうかがわれるが、男達の顔にはいささか疲れが見える。これから家へ戻っても、残る休みは数日という思いが、頭をかすめるのかもしれない。  伊織の事務所は六日からである。今年は一般には五日からのところが多いようだが、暮には三十日までやったので、その分だけ一月の休みをのばすことにした。例年はもう少し暢んびりするのだが、コミュニティ・プラザの仕事と、多摩地区のプロジェクトを受け持っているので、あまり暢んびりするわけにもいかない。  今年にかぎっていえば、伊織自身は休みはなくてもよかった。なまじっか休みが長くて一人であれこれ考えるより、仕事があったほうが気が紛れる。  以前は、正月休みに所員が自宅を訪れることもあった。伊織は形式的なことは嫌いなので、とくに呼び寄せたわけではないが、東京にいて都合のつく者だけが集まってきた。だがそれもこの三、四年はやっていない。正月休みには東京にいないというのが表立った理由だったが、本当の理由は笙子と親しくなったからだった。好きな女性ができてからは、部下を自宅へ呼ぶことが億劫になったし、その度に妻に気配りするのも面倒だった。そのあたりを察してか、所員も遠慮するようになっていた。  今回は、年の暮に望月が、「所長は正月はどこにいらっしゃるのですか」と尋ねた。 「ちょっと旅行をしようかと思っている」と答えたので望月はなにもいわなかったが、もしかすると笙子と別れたことを察して、暇ならこようと思ったのかもしれない。  彼等をホテルにでも呼べば、あるいは気が紛れたかもしれないが、それもまた億劫な気がした。  とくに気取っていうわけではないが、今年はひたすら一人で、妻と別れた孤独をかみしめるつもりであった。実際、ホテルのロビーを歩いていても、食堂へ行っても、伊織は充分すぎるほど孤独を味わった。仲良さそうな夫婦連れのあとを歩きながら、「孤影」というのは、いまの自分のためにあるような気がして、少しセンチメンタルにもなった。  だが一人のくせに、さほど侘しさも感じず、むしろその状態に酔ったような気持になったのは、心の底に、まだ霞がいる、という安心感があったからかもしれない。一人ではあるが、求めれば美しい花が手近にある。それが伊織に「孤影」などと|きざ《ヽヽ》な思いを抱かせる余裕を与えていたともいえる。  気がつかずにいたが、三日に霞に逢えることは、伊織の正月の孤独の支えにもなっていた。  その三日の朝、伊織は目覚めに夢を見た。どうといって、筋道ははっきりしないが、霞が身近にいたことはたしかである。だがむろん横にいるわけはなく、ただなにか妖しい雰囲気だけが残っている。  昨夜、寝つくとき、明日は霞がくると考えた、その思いが眠りのなかで尾を引いていたのかもしれない。だがこんなふうに、夢のなかで女体を生ま生ましく感じたのは久し振りである。伊織は少年のような夢を見たことに少し照れて窓を見た。  レースのカーテンから洩れる光りはすでに明るく、ナイト・テーブルの時計を見ると十時である。起きようか、もう少しこのままでいようか、迷っていると電話のベルが鳴った。 「お早うございます。お目覚めでしたか」  いきなり霞の声がとびこんできたので、伊織は不思議な気がして、自分の掌で頭を叩いた。 「いま、君の夢を見ていた。おかしな夢で、君がなにかけしからぬことをしそうだった」 「わたしがどうしてそんなことを……」 「今日逢えると思ったからかな」 「それが、ご免なさい。今日、行けそうもなくなったのです」  伊織は慌てて受話器を持ちなおした。 「実は今朝、阿佐谷にいる親戚が亡くなったのです。東京までは出ていくのですが、お参りに行かなければならないので」 「何時に行くの?」 「これから支度して、出来るだけ早く行きたいと思っているのです」 「夜も駄目なのですか」 「それが、小さいころからいろいろお世話になった方なので、今夜はそちらの家のほうにいなければならないのです」  親戚が死んだとあれば、夫とでも一緒に行くのか。伊織は喪服を着た霞を想像した。 「せっかく、今日はお逢いできると思ったのに、正月早々、亡くなるなんていやあねえ」  霞は少し甘えるように語尾をのばした。 「なんとか、途中で抜けてくるわけにはいかないかな。阿佐谷なら、ここからそんなに遠くもないでしょう」  今朝、妖しい夢を見たせいか、伊織は霞の声をきいて、いっそう欲しくなっていた。 「今日まで、ずっと一人でいたんだ。少しでもいいから逢えないかな」 「今日はずっと、そちらにいらっしゃいますか」 「君がこられるなら待っている」  三日間、ぶらぶら過したせいか、伊織は自分の躰がいつになく燃えているのを感じていた。 「じゃあ、とにかく行くだけ参ります。三時か四時ころになるかもしれませんけど」 「きっとだよ」  相変らず外は風が冷たいようだが、冬の陽が窓一杯にあふれ、眼下の高速道路を色とりどりの車が陽に輝きながら行き来する。正月の三日で、まだ数は少ないが、それだけ軽快に流れていく。下のホテルに至る道路には大分人がでて、振袖姿の女性も見える。  午後、ルーム・サービスのコーヒーを飲んで、また外を眺めていると電話が鳴った。 「いま、下のロビーまで来ているのです。ご挨拶だけでもと思って、降りてきて下さいますか」  霞の声の裏にロビーのざわめきがきこえる。 「そんなことをいわずに、部屋まできてくれよ。その先にエレベーターがあるでしょう」 「でも、時間がなくて、すぐまた阿佐谷に戻らなければいけないのです」 「もう、お参りはしてきたのですか」 「そうですけど、みなが集まっているのです」  時計を見ると午後四時である。 「とにかく、僕がこれから降りていっても時間がかかる。部屋まで来て下さい」 「それじゃ、ちょっとだけ……」  電話が切れて、伊織はあたりを見廻した。部屋は昼食に外へ出たあいだに、ベッドが整えられ、掃除は終っている。今朝の予定では、ここで今夜一晩、霞と過すつもりであった。大晦日の夜から、ホテルで大人しくしていたのも、今日霞と逢えると思っていたからである。 「亡くなった人には悪いが、ついていない」  伊織はつぶやき、ソファにかけた。ドアのチャイムが鳴ったのはそれから数分あとだった。バスローブを着たまま出ると、霞が立っていた。今日の霞は沈んだ紫の鮫小紋《さめこもん》にグレイの無地の帯をつけ、手に黒いコートと同色のバッグを持っている。 「どうなさったの?」 「いや、なにか急に楚々《そそ》として見えたのでね」 「いま、お悔《くや》みに行ってきたばかりよ」  いわれてみるとたしかに、いつも左右にふくらませている髪も、今日はうしろに引きつけ、華やかさをおさえている。 「急に楚々として見えた、なんて失礼だわ」 「でも、そういう地味な姿もなかなかいいものだ」  霞は部屋に入って、はじめて気がついたように頭を下げる。 「明けまして、お目出度うございます。本年もよろしくお願いします」 「こちらこそ……」 「今年も、いままでのように愛していただけますか」  いつのまにか、霞はこんな洒落たいい方をできるようになっている。 「ここにずっといらしたのですか」  霞は部屋の中ほどに立ったまま、あたりを見廻した。 「広くて、いいお部屋ね」  部屋はダブルで、片隅にソファもあるが、三日もいて伊織はいささか飽きがきている。 「ここで、真面目になさっていたのですか」 「もちろん、暮に君に逢って以来、神様みたいな生活だ」  霞はかすかに笑って、窓ぎわのソファに坐った。 「なにか、飲む?」 「いえ、今日はちょっとお顔を見にきただけですから」 「しかし、君が泊るというから、今日までわざわざいたのに……」 「ご免なさい。でもお通夜だから仕方がないでしょう、わたしもすごく残念なのよ」  伊織は部屋の備えつけの冷蔵庫からビールをとり出して、二つのグラスに注いだ。 「とにかく、お目出度う」  新年の盃《さかずき》がわりに、ビールのグラスを合わせる。 「姫始めって、知ってる?」  霞は答えず、怪訝な顔をした。 「新しい年に、初めて愛し合うことだけど」  今度は呆れたというように睨んだが、伊織はその機を逃さず霞の横に坐った。着物は長く箪笥にしまってあったのか、軽く樟脳《しようのう》の匂いがする。 「ちょっと、ここは駄目かな」  ぽんと霞の帯の下あたりを指でつつくと、霞は困った人、というように溜息をついて、 「今日は本当に逢うだけといったでしょう。これから親戚だけで仮通夜があるのです」 「じゃあ、接吻だけ」  こちらを向いた瞬間をとらえて、伊織は素早く唇をつき出す。霞はいったん顔を引くが、すぐあきらめたように接吻を受ける。だが次の瞬間、慌てて顔を離すと、 「いけないわ、こんなことして、わかってしまうわ」 「大丈夫、絶対……」 「そんな……」 「絶対にわからない方法があるんだ」  伊織はそっと霞の耳元に口を近づけた。そのままささやくと、霞の耳から首の線が淡く朱を帯びた。 「そんな……」 「平気だよ、昔はみなやったのだから」  伊織が霞に告げたのは、女がベッドに手をついて、うしろから男を受け入れる形である。これなら帯は解かなくてすむし、髪も乱れない。着物の裾をまくりあげ、腰にかきあげた姿が昆布巻に似ているところから、俗に「こぶ巻き」ともいわれている。  かつて芸者が正月など、贔屓《ひいき》の客への年始廻りで忙しいとき、合い間をぬって好きな人に抱かれるために、考えられたともいわれている。高島田に黒紋付のひきずりといった豪華な衣裳を着た芸者が、うしろ向きに裾をまくって白いお臀を出す図は淫らで愛らしい。花街《かがい》では、まくりあげた裾のあでやかさから「孔雀《くじやく》」というところもあるらしい。そんな光景を賞《め》でながら好きな女を愛せたら、男|冥利《みようり》に尽きるというものである。 「これなら、大丈夫さ」  はじめてきいたのか、霞は呆然としているが、伊織はかまわず窓のカーテンを閉め、夜のムードに近づける。 「暗くするから、いいでしょう」 「そんなこと、できません」 「頼むよ……」  伊織は自分のアイデアに酔っていた。芸者の着物ほど豪華ではないが、通夜に行く霞の着物も風情がある。湘南から出てきたので、完全な喪服ではないが、渋い紫地の鮫小紋にグレイの帯を締めた姿は、喪服と同じ秘めた淑《しと》やかさがある。その裾をまくれば、霞の白く円いお臀が露出する。 「さあ……」 「やめて下さい」  霞が尻込みするのを、伊織は強引に手をとってベッドのほうへ連れていく。 「今日、泊れなくなった罰だ」 「そんなこと仰言っても、急に亡くなったのですから……」 「いや駄目だ、許さない」  いままで期待させておいて、突然、約束を裏切った女には、「孔雀」の刑こそふさわしい。 「そこに、手をついて……」  伊織が命令すると、霞は一瞬ベッドを見、それから改めてその恥ずかしさに気がついたように、両手を顔にあてていやいやをする。 「そんなこと、絶対できません」 「いいから、お願いだ……」  いまは伊織も必死である。脅迫と嘆願をまじえて、霞のうしろに立つ。 「さあ……」  かまわず強引に、霞の背を前へおす。 「困ります」 「大丈夫、ほら……」  伊織は素早く裾から手を入れ、着物をまくりあげる。「ああ……」としゃがみ込む霞の弱腰を引き上げて、男がうしろから入っていく。淡い闇のなかで、二つのシルエットが重なり合っている。  伊織は白日夢を見ていた。  眼前に霞がベッドに手をついて男を受け入れている。通夜のために着てきた着物の裾は腰までまくりあげられ、その下から二本の肢が見える。夕暮れが近づいた部屋はカーテンで閉ざされ、仄暗《ほのぐら》いなかで、白く浮き出たお臀が前後に揺れる。  以前、伊織はこれと同じ情景を想像したことがあった。美しく慎しやかな女に、この態位を強要する。初めのうち女は拒絶し、なんとか逃げだそうとするが、執拗に迫られるうち、女は羞恥に震え、顔を突っ伏せながら受け入れる。初めはおずおずながら、やがてその被虐の態位と快感にたまらず自ら燃えだして下半身をうち震わせる。そんな情景を眼下に見下せたら男冥利につきる。おそらく無数の男のなかで、生涯に一度でもその快楽を体験したものは何人ぐらいか。一パーセントか、あるいはそれにも満たぬかもしれない。これこそまさしく男の夢に違いない。どんな生真面目な男でも、いかに慇懃《いんぎん》な男でも、一度はそうしたセックスを夢み、憧れる。  伊織はいままさしく、その夢のなかにいた。霞の低く、絶え絶えに続く喘ぎを、伊織は天上からの声としてきいている。苛酷で淫らな行為に溺れる女が、いまの伊織には売女《ばいた》とも天女とも見える。  だが白日夢にもやがて終りが訪れる。 「ああ……」と、息絶えるようなつぶやきとともに、霞は一瞬首を擡《もた》げ、それからのめるようにシーツに顔をうずめ、それとともに力の抜けた下半身がへなへなとベッドの端にしゃがみこむ。  その位置で着物の裾を拡げたまま、霞はぺたんと床に坐り込み、上半身はベッドにひれ伏したまま身動き一つしない。動くのはただ一点、突っ伏して鮮やかさをました襟足の白い筋だけである。  どうみてもきっかりと、整った姿ではない。裾をまくられた女が無残におし拡げられ、うちひしがれている。だが無残は無残であるが故に艶《なま》めかしさが増す。どう辱かしめ、淫らなことを強いられても、霞はいつも花となって咲き誇っている。 「ご免……」  伊織はその乱れた花にそっと囁く。いまさら謝ったところで、どうにもならぬと知りながら、さらに囁く。 「素晴らしかったよ」  きいているのかいないのか、霞はなにも答えない。まだ情事の余韻は醒めきらぬのか、耳から首全体は汗ばみ、上気しているようである。  やがて数分経ち、自分の淫らな姿に初めて気がついたように霞は慌てて立上ると、顔をおおってバスルームへ入った。  そう乱れているとも思わなかったが、そのまま一向に出てこない。  髪をなおしているのか、それとも着物を着なおしているのか、伊織は待ちながら、いまの白日夢を反芻《はんすう》する。  今夜、一緒にホテルに泊ることは難しそうだが、あのような形で霞を抱けたことは思いがけない収穫であった。考えようによっては、泊っていつもの愛撫をくり返すより、はるかに刺戟的で楽しかった。  前々から、伊織は今日のような交わりを夢見たことはあったが、今回のような特別の事情がなければ、求めることはできなかったかもしれない。とすれば、亡くなった人には悪いが、親戚の死はむしろラッキーだったといえなくもない。  思い出しながら、伊織は窓のカーテンを開けかけてやめた。あんな恥ずかしいことを強要したあとの霞の気持を考えると、暗くしておくのが礼儀かもしれない。それは素直に行為を受け入れてくれた霞への、せめてもの心づかいでもある。  もっとも、霞は受け入れるまで、決して素直ではなかった。伊織が話しかけ、誘っても「駄目です……」とくり返すばかりで、容易に納得しなかった。仕方なく、最後は力ずくでおさえこんだようなものである。  しかしあの場で逆らわず、簡単に許されても興醒めなものである。逆らい、恥ずかしがる女性を、無理矢理従わせてこそ、「孔雀」の魅力は増す。あれ以上簡単でも、あれ以上|手古摺《てこず》っても、しらけてしまう。まことに適切なところで、霞は許したものである。  あれは計算ずくであったのか、それとも自然のなりゆきであったのか……  しかし、遊女とか、遊び慣れた女ならともかく、霞が意識的に男をじらしたり、ころ合いを見て許すようなことをするとは思えない。とくに今回のように初めての行為を強制されて、じらす余裕などあるわけもない。やはりごく自然に振舞った結果が、そうなったにすぎないのだ。  考えてみると、霞はそのあたりのバランスがよくとれている女でもある。初めて躰を許したときも、一緒に風呂に入ったときも、今度の情事でも、ほどよく逆らい、ほどよいところで許す。もしかすると、霞の魅力は、この逆らい方と許すときのバランスの好ましさにあるのかもしれない。美しいだけとか、奔放というだけの女性なら沢山いる。しかし男が最終的に惹かれるのは、羞恥心と淫らさと、両者のバランスのとれた女性である。  生得《しようとく》のものなのか、霞はかぎりなく羞恥心に満ち、そして適当に好色である。  その霞がようやく、情事のほとぼりをおさめてバスルームからでてきた。  恥じらっているときの霞の仕草には独特の癖がある。いまも右手を額の上にかざし、顔を隠すようにしながら近づいてくる。 「着なおしたの?」  伊織がきいたが霞は答えず、ソファの前にいくと、端においてあったコートを手にとった。 「それじゃ、帰ります」 「まてよ、そんな急に……」  伊織は慌てて立上るが、霞はさっさとドアの方へ向かう。 「もう少し、いいじゃないか」 「でも、待っていますから……」  衣服を正し、髪を整えた霞には、もはやベッドに手をつき、男を受け入れた名残りはない。 「ともかく坐りなさい。コーヒーでもとろうか」 「いいえ、結構です」  霞はつんとしているようにみえるが、それは不機嫌というより、いま少し前の情事の恥ずかしさへの照れのようである。伊織は部屋の端の高いスタンドの明りだけをつけてから霞の前に立った。 「どこも変っていないよ」  伊織の見るかぎりでは、霞の髪型も着物の着付けも、きたときと、まったく同じに見える。 「誰に会っても、大丈夫だよ」 「………」 「でも、一カ所だけ変っている」 「えっ……」 「きたときより、色っぽくなった」 「そんな……」  霞は、額に軽く手を当てた。 「本当だよ、しかし、これは見るべき人が見ないとわからない」  情事のたびごとに、霞の肌はうるおい、和らいでくる。それは顔の表情や、胸元のまろやかさや、手のふとした仕草など、霞の全身から匂ってくる。そんな、日と時によって揺れ動く女体に伊織は驚き、呆れながら、羨しいとも思う。男の躰は冷静といえば冷静だが、常に淡々として波がない。情事によって、匂うように美しくなったり、華やぐこともない。 「これから、やはり阿佐谷に戻るの?」 「今晩は、親戚がみな集まるものですから」 「そのなかでは、君が一番綺麗だろうな」 「そんなこと仰言って、亡くなった方に失礼よ」 「見てみたい……」  あんなことをしたあとで、通夜の席で慎しやかに坐っている。その女の本当の秘密を知っているのは自分だけだと、伊織はそのことに密かな快感を覚える。 [#改ページ]    薄  氷  光りのなかで雪が舞っている。地方によっては「狸の嫁入り」と呼んでいるところもある。久しぶりの雪とはいえ、日が照っているので、地上に落ちると同時に消えてしまう。消えるために降る雪である。降っているときだけが命の雪でもある。さほど気温は低くなく、その分だけ雪の結晶は大きい。六角形のまわりに、さらにいくつかの飾りがついているようである。雪はなんと数えるべきなのか。結晶だとすると、一個とか一粒というべきか。だとすると、しんしんと降る雪は、そんな数え方では表せそうもない。  それにしても、雪を「ひとひら」と数えるのはおかしいかもしれない。これでは、花弁の一片か落葉を想像してしまう。だがいま降っている雪はまさしく、ひとひら、としか表しようがない。光りのなかで、雪が表と裏を見せながら、ゆっくりと落ちてくる。まさしく、一片の白い花びらが舞うとも、揺らぐとも見える。  伊織は書斎の窓ぎわに坐ったまま、光りのなかの白い舞いを見ている。雪が降るとはいえ、すでに三月の初めである。白い雪といっても、もはや寒さは感じない。それどころか、むしろ春の近さを思わせる。  それにしても、月日の経つのは早い。  つい少し前、正月を迎えたと思ったのに、もう二月も終っている。当り前のことだが、すでに年の六分の一を終ったことになる。このあと、梅が咲き、桜が訪れると四月で、新緑をめで、薫風に息をはずませていると夏になる。季節を追ううちに半年が過ぎ、一年が終る。このごろ、伊織はつくづく歳月の流れは早いと思う。まさに、「光陰矢の如し」としかいいようがない。  子供のころは、こんなに歳月の歩みを早く感じることはなかった。小学校から中学までは、ひたすら歳月が早く経つのを願っていた。高校から大学にすすんで、ときに早いと思うことはあっても、それで慌てるようなことはなかった。そのまま二十半ばまでは、早さが気になることはほとんどなかった。早さに戸惑うようになったのは、やはり三十を過ぎてからである。おや、いつのまにか三十になっていたのか、と驚き、なにか追われる気持になりだした。  だが、そのころはまだ余裕があった。突然、歳月が早くなりだしたのは、四十を過ぎてからである。いままで茂みのあいだをひっそり流れていたせせらぎが、突然、谷あいに出て早さを増したようである。このまま五十代から六十代にすすめば、流れはさらに早まり急峻な岩場から、最後は滝にでも落ちる感覚になるのかもしれない。  だがいま、光りのなかの雪を見るかぎりでは、岩場も滝の流れの音もきこえない。  朝陽のなかで降っていた雪は、昼が近づいてやんだようである。  十一時になったところで、伊織は書斎を離れて、ベッドルームの洋服ダンスの前に立った。  今日は正午から、コミュニティ・プラザの起工式が世田谷の現地で行われる。この設計については、デパート側と小さなトラブルがあったが、結局、伊織の意見をとり入れた形でまとまった。こんなことなら、はじめから任せてくれればよさそうなものを、そうもできないところが、企業の複雑なところらしい。  すでに雪もやみ、午後からはあたたかくなりそうなので、伊織は久しぶりに、春向きの淡いベージュ色のスーツを着てみることにした。まだ少し風は冷たいが、シーズンに先がけて洋服を着るのは心地よい。  ズボンをはき、ワイシャツのボタンをかけていると、富子が箪笥のなかからネクタイをとり出した。 「これは、いかがでしょうか」  富子が選んでくれたのは、濃い茶の無地に細かい織り柄の入ったものだった。それを胸に当てて箪笥の鏡に写してみると、スーツの淡い地にあって、似合いそうである。 「じゃあ、そうしようか」  富子はすでに伊織の好みを知っている。家政婦として働きはじめてまだ二年だが、富子に任せておくと大体間違いはない。ネクタイに続いて、靴下とハンケチも揃えてくれるが、すべて茶の系統でまとめている。  気のせいか、妻と別れてから、富子はいっそう甲斐甲斐しくなったようである。いままでは決められた時間に来て、決められた時間に帰ったのだが、最近は時間より早くきたり、遅くまで残っていることもある。しかもそれについて特別、手当を要求したりはしない。ひたすら、伊織のことを思って、やってくれるという態度が、表に現れている。まさか、富子が別れた妻のあとがまに、などと考えているとは思えないが、あまり一生懸命やられると、少し気が重くなることもある。  十分ほどで外出の準備を終えて煙草を喫っていると、望月が車で迎えにきた。 「雪が降ったのに、あたたかくなりそうですね」 「気まぐれな雪だ」  少し前まで降っていた雪はとけ、光りのなかで鋪道が濡れている。 「もう春ですね」  望月は窓を小さくあけてから、思い出したようにいった。 「やはり、宮津君達は結婚するようですね」 「宮津……」 「相沢さんと、昨日招待状をもらいました」  伊織は自らを落着けるように、ポケットから煙草をとり出して口に銜えた。ライターで火をつけたが、指先がかすかに震えているのがわかった。  望月のいうことははたして本当なのか。いまの話は伊織には初耳である。そんなことは笙子からも、宮津からもきいていない。むろん二人についての噂もきいていない。  今年の正月に、笙子から年賀状がきたが、それには、「新しき年のご多幸をお祈りいたします」と書いてあっただけだった。かつてのつながりからみると、いかにも素気ないが、賀状がきただけで伊織はいちおう納得した。別れたとはいえ、賀状をよこすことで、なお笙子の気持のなかに自分が存在していると思ったりした。  だが、笙子が宮津と結婚するのだとすると、事情はまったく違ってくる。笙子はなお自分への未練を抱いていると思ったのも、一人よがりとしかいいようがない。 「しかし……」  伊織はいいかけて黙った。「本当か?」と質したかったが、望月に狼狽していることを知られたくなかった。もともと望月は、伊織も知っていると思って話しかけているようである。 「君は、その話を誰からきいたのかね」 「結婚式の招待状がきて知ったのです。所長のところへはこなかったのですか?」 「いや……」  今朝も出がけに、郵便物は見てきたが、そんな招待状はきていなかった。 「しかし、宮津という男はぼんぼんのようで、結構やり手ですね。事務所を辞めてからも相沢さんと際き合っていたんですから」  それも伊織には初耳である。 「彼はいま、どこにいるの?」 「辞めて独立するなんていってましたけど、結局難しくて、野田工務店に勤めているようです」  野田は建築業界では十指に入る大手である。誰かの紹介で入ったのかもしれないが、個人の才能を生かすという点では、大手のほうが難しいともいえる。 「彼の実家は大きな旅館ですから、いずれは田舎に帰るんじゃありませんか」  伊織は、笙子が山陰の旅の途中で、宮津の家に寄ったことを思い出した。 「そうか……」  宮津と笙子とが結婚するとはまだ信じられない。まさかと思っていたことが現実となってしまったようである。だが考えてみると、二人の結びつきを予感しなかったわけではない。そんなわけはないと思っていた心の裏には、もしかしてという危惧があったからでもある。  それにしても女の気持はわからない。宮津と一緒に旅行をして、躰を奪われたとき、笙子は自分の軽率さを悔い、泣いて謝った。あの人とはもう二度と逢いたくないともいった。  その相手と、半年も経たぬうちに結婚するとは……  せっかく笙子が正直に告白し、謝ったのに、伊織は霞を求めて遊び歩いていた。その態度に笙子が不満を抱いていたのはわかっていた。あのときもう少し優しくして、ヨーロッパ旅行にも行かなければ、笙子の気持は変ったかもしれない。  だがたとえそうだとしても、宮津と結婚するとはどういうことなのか。数ある男のなかから選りに選って、宮津と一緒になることはないではないか。これでは、ていのいい当てつけである。いやがらせのための結婚と思われても仕方がない。あのときの、笙子の悲しみようからみると、予想もできない結ばれ方である。  しかし考えてみると、表面では嫌っていながら、心の底ではそれほど憎んでいなかったのかもしれない。たしかに手ごめ同然に奪われはしたが、宮津が笙子を好きだったことはまぎれもない事実である。思い詰めた果ての行為は粗暴であったが、心の底では愛していた。その点では、他の女性にうつつを抜かしていた伊織より、はるかに誠実だったといえなくもない。  とやかくいっても、女は確実に身近にいて、つねに愛してくれる男《ひと》に傾いていくものらしい。難しい理屈や、高邁《こうまい》な理念を説くより、今日、横にいて、欲しいものを与えてくれる男の方へ心を移してしまう。理想より現実のたしかさのほうに馴染むのは、なにも女だけでなく、男も同じかもしれない。いつになったら自分に戻ってくるか、当てのない人を、いつまでも待っているわけにいかないという不満には説得力がある。  だがそれにしても、宮津が辞めたあとも、笙子は際きあっていたのか……  辞めたあと、長野の実家で一人寂しくしているのではないかと案じたりしたが、とんだ見当違いであった。 「それで、式はいつだったかな」  顔を窓に向けたまま、伊織は極力落着いた口調でたずねた。 「来月の三日かと思いましたが、違いましたか」  そうきかれても、もともと招待状を受けとっていないのだから答えようはない。 「所長は出られますか」 「いや……」 「僕も出ません」  望月は待っていたようにきっぱりいう。 「事務所からは、他に誰か出るのかね」 「千葉君のところにも招待状がきたようです。彼は宮津君と同じ大学の後輩ですから」  宮津は望月と千葉だけを招待したのか。あのまま勤めていれば全員|招《よ》んだろうが、さすがに多く招ぶのは気がひけたのかもしれない。宮津が辞めたいきさつや、相手が笙子であることを考えると、そのあたりが無難な人選なのかもしれない。  だがそれにしても望月のいい方は少し気にかかる。伊織が出席するか否かをたしかめてから、「僕も出ません」と答え、さらに千葉は大学の後輩だからと、いいわけがましくいう。こちらの思い過しかもしれないが、伊織に義理立てして出席を拒否しているようでもある。 「君は出たら、いいじゃないか」 「でも、彼とはあまり親しくなかったし、辞めた男ですから」  伊織と笙子との関係は、事務所では誰知らぬ者もない周知の事実であった。松江での事件をはっきり知っている者はいないようだが、そのあとの笙子の辞め方が異様であったこともみな感じている。そんなことから所員達は伊織の気持をおもんぱかっているのかもしれない。 「しかし、二人ともよかった……」  伊織はことさらに、明るい声でつぶやいた。いまさら笙子が宮津の許に走ったからといって、気にはとめていない。それはそれでむしろ喜んでいる。そうした理解ある態度を示したい。 「あの二人なら、似合いかもしれない」 「しかし、彼等は辞めたあともずっと際き合っていたんですね、僕は少しも知りませんでした」 「それは、それでいいじゃないか」 「でも……」  望月が憤慨した口調でいうのに、伊織はむしろなだめるように、 「幸せになってくれたらいい……」  陽に輝く鋪道を見ながら、伊織は心とはうらはらなことをつぶやく。  起工式は予定どおり定刻から、世田谷の建設現場でおこなわれた。まず神主がお祓《はら》いをしたあと、施工主である協和デパートの社長が挨拶し、そのあと、現場の近くのレストランで、簡単なパーティが開かれた。  参会者はデパート側から社長をはじめ、新しい店の支店長に予定されている重役以下幹部達、工事を請負う大村建設の関係者、さらに地元の有力者など四、五十人が集まった。 「このあたりのシンボルにしたいので、よろしく頼みますよ」  デパートの須賀部長が上機嫌で話しかけるのに、伊織は適当に受け答えしながら、頭のなかは笙子のことで占められていた。会は一時間は続くようだったが、伊織は三十分ほどで会場を出た。 「このまま、事務所に戻りますか」  望月がきいたが、伊織は、ちょっと用事がある、といって渋谷で車を降りた。初めの予定では起工式のあと、まっすぐ事務所へ戻るつもりであったのが、急に気が変った。その原因が、出がけにきいた笙子の結婚話にあることはたしかだった。  渋谷で望月と別れたが、どこに行くという当てもない。明るい陽のなかをいったん道玄坂のほうへ向かい、途中のビルの一階の喫茶店に入った。午後の昼休みが終ったあとで、店は閑散としている。そこでコーヒーを飲みながら、伊織は、改めて宮津と笙子とのことを考える。  いま一人になって考えても、二人が結婚することが、まだ現実のことと思えない。なにか、だまされているような気さえする。  だが、実直な望月が、嘘をいうわけはないし、招待状まできたというのだから、疑いようはない。しかしそれにしても、笙子は何故、自分に招待状をよこさなかったのか。二人と伊織との関わりからみれば、当然、まっ先に招ばなければならないはずである。  しかし考えようによっては、最も親しかったからこそ、招ばなかったのかもしれない。たしかに、宮津にしてみれば、伊織は恋のライバルであり、しかもかつての上司である。その女性を強引に奪って結婚する。そのことを考えたら、暢んびり招待状など出せた義理ではない。その点は笙子も同じで、かつて同棲同然であった男を、披露宴に招ぶのは落着かないに違いない。それではあまりに当てつけがましく、見ようによっては図々しすぎる。  招ばなかったのは、二人の合意の上に違いない……  だがそれならそれで、何らかの形で連絡だけでもよこすべきではないか。いろいろ事情があったとはいえ、それが礼儀というものではないか。自分だけ知らされなかったことに、伊織はある淋しさと口惜しさを覚える。  もし宮津と笙子が素直に結婚式に出て欲しいといってきたなら、伊織は出ないわけでもなかった。その前に、過去のことは水に流して、これからよろしく、とでもいってきたら、さらにすっきりする。伊織とても、いつまでも宮津ときまずいままいたくはない。恋のライバルとはいえ、宮津がどうしても笙子を欲しいというなら、譲らないわけでもなかった。未練はあっても、笙子もその気なら仕方がない。その程度の分別はあるつもりであった。  かつて関係があったからといって、その男が結婚式に出ていけないという理由はないはずである。過去は過去として、新しく人生のスタートを切る二人を、祝福するのにやぶさかではない。もし望まれれば、祝辞の一言くらい述べてもいい。いまさら過去をむし返したところでどうなるわけでもないし、そのくらいの自制心はあるつもりである。  しかし、そうはいっても、本当に招待状がきた場合、招かれるままにでていけるだろうか。いまは仮定として考えているが、現実の問題となると、話はまた別かもしれない。たとえば祝辞を求められたとき、心から喜んで述べることができるだろうか。新郎と新婦が、幸せそうにメイン・テーブルに並んでいるのを見て、素直に拍手をおくれるだろうか。正直いって、伊織は自信がない。もしかすると、祝辞の途中で、嫌味の一つくらいいってしまうかもしれない。口では「幸せに」といいながら、心の底では、破綻を望まないとはいいきれない。考えてみると、やはり招待状をもらわなくてよかったのかもしれない。なまじっかもらっては、かえって迷うが、こないほうがいっそすっきりする。  そこまで考えて、ふと別の想像にたどりつく。  もしかして、招待状をよこさなかったのは、笙子の心くばりであったのかもしれない……  変に招待状など出して、迷惑をかけるより、黙っているのが礼儀というものかもしれない。いまさら世話になった人に面倒なことをわずらわしたくない、そんな思いが出すことを躊躇させたのではないか。  伊織は冷めたコーヒーを飲みながら一人でうなずく。たしかに笙子はそう考えたに違いない。宮津とは結婚するけど、笙子はまだ自分のことを捨てきっていない。今度の結婚は好んでというより、心の支えを失った果ての選択にすぎない。自分と別れたあとの空白に耐えられず、それを埋めたい一心で結婚に踏みきっただけである。少し都合がよすぎるかもしれないが、いまの場合、そう考えなければ立場がない。  結婚はしても、笙子の気持は自分に残っている、そう思うことで、伊織の気持はいくらか晴れてきた。  とやかくいっても、笙子は自分が女にした女性である。処女の笙子に女の喜びを教えたのも自分である。丹精に、というと可笑しいかもしれないが、まさにその言葉がぴったりするように、笙子を育ててきた。誰よりも、伊織は笙子のすべてを知っている。小さいが形のいい胸も、くびれたウエストも、まだ少年のような堅さを残しているお臀も、お腹の右下に小さな黒子《ほくろ》があるのも、みな覚えている。その知りつくした躰が、どのように別の男を受け入れ、どのような表情で果てるか。  笙子の最も鋭敏な個所も、そこへ指を触れるときの強さ加減も、最ものぼりつめやすい態位も、みな知っている。それらは四年という歳月をかけて、伊織が根気よく発見し、開発し、覚えさせたものである。それは伊織と笙子と、二人のあいだだけに生まれた秘密であり、二人だけが知っている感覚である。  はたして若い宮津がそこを探り当てられるだろうか……  体力はともかく、女性への経験やテクニックでは、伊織は宮津に負けるとは思っていない。青年の一途《いちず》な激しさこそないが、それを凌駕する優しさと巧みさをもっている。それになによりも、笙子の躰は、四年という歳月のあいだに、伊織に馴染みきっている。性の行為のはじまりから終りまでその過程のすべてを、伊織のやり方で体得している。  それを簡単に変えられるわけはない……  考えながら、伊織は自分にいいきかす。宮津が笙子を奪い、結婚まで決意させたとしても、あの躰までも独占できるわけはない。たとえ気持は彼になびいたとしても、躰はそんな簡単に動きはしない。それにたとえ宮津が、笙子を抱き、自由にしたとしても、彼が抱いているのは、伊織が育て、調教した躰である。宮津がいかに愛を訴え、笙子がそれを受け入れても、笙子の躰は別の歴史を覚えている。過去は頭のなかでは忘れても、躰はそんな簡単に忘れはしない。頭は裏切っても、躰はそうそう裏切れるものではない。 「精神より、躰の記憶のほうがたしかである」  いま、伊織はそれを信じ、そう思いこむ。それ以外に四年間、愛《いつく》しんだ女体を他の男に手渡す口惜しさを癒《い》やす手段はない。  頭のなかでは二人の結婚に納得はしたが、気持はいま一つ晴れない。そのやりきれなさを振り払うように、伊織はレジの横の電話で辻堂の家をよんでみる。  今度こそ、笙子に完全に去られてしまう。いま、その虚しさをいやしてくれるのは霞しかいない。午後で不在かと思ったが、若い女性の声がして、すぐ霞がでた。初めに出たのは、霞の娘のようである。 「明後日では、ありませんでしたか」  突然の電話に霞がきき返した。前からの約束では、明後日に逢う予定になっていた。 「今日は、出てこられないでしょうね」  今年に入ってから、霞には週に一回のペースで逢っていた。日中なら、霞はもう少し出てこられるようだが、夜となるとかぎられてくる。ときに昼に、しめし合わせて逢うこともあるが、伊織の仕事の関係でなかなか思うようにいかない。 「どうかなさったのですか」 「急に、逢いたくなって……いま、すぐでもいいんだ」  少年のような性急な訴えがおかしかったのか、霞は小さく笑ったようである。 「お仕事がおありじゃないんですか」 「それは、かまいません」  このあと事務所に戻って書類を見たあと、四時から多摩プロジェクトについてのミーティングがある。だが霞がでてくるというのなら、ミーティングのほうは明日にしてもいい。メンバーは所員達だから、適当な理由をつければ変更できる。  正直いって、伊織は今日は事務所に出たくない。望月が今朝、逢うなりすぐ笙子達の結婚のことを話したところをみると、招待状は昨日着いたのかもしれない。若い千葉のところにも届いているというから、所員達はその話でもちきりに違いない。そんなところに、顔を出すのは気が重い。  すでに笙子は辞めているのだから、関係ないといえばそれまでだが、所員達のなかにはなお伊織と続いていると思っている者もいる。たとえ別れたと思っていても、伊織がどんな表情をするか、好奇心を抱いている者もいるに違いない。 「これから、駄目だろうか」 「困った方ね……」  霞は母親のようないい方をしてから、 「ちょっと、待って下さい」  そのまま、短い間があって、再び霞の声が返ってきた。 「それでは、参ります。あと一時間ほどで出ますから、そちらに着くのは四時ごろになるかと思います」 「ありがとう、じゃマンションで待っています」  伊織は受話器を持ったまま頭を下げた。  その場で、伊織は電話で事務所に、夕方のミーティングは急用で明日に延期する旨を伝えた。自分の都合で一方的に予定を変更したが、それが、小さい事務所のオーナーのありがたいところである。たとえ社長でもこれが大きな企業なら、こうはいかない。  このごろ伊織はつくづく思うのだが、もし官公庁や銀行といった堅いところにいたのでは、到底勤まらないと思う。朝決められた時間に出勤し、夕方、決められた時間に帰る生活はできそうもない。大学を出て、初めに入った会社が比較的自由であったし、その後、独立してからは時間という点でますますルーズになっていた。いまの事務所は伊織の方針で、タイム・カードもおさないことになっている。はたからみると、少しルーズすぎるかもしれないが、伊織は自分の仕事さえ、きちんとやってくれればそれでいいと思っている。設計のような、アイデアや創造力を必要とするものは、自由な雰囲気のなかにいるほうが好ましい。もっとも、今日の予定変更は、いささか行き過ぎである。急に霞に逢いたくなって中止したのだから単なる我儘にすぎない。  だが考えようによっては、その自由さがあるから、伊織はいまの年齢で、大真面目に女性を追いかけているのかもしれない。もしそんな自由さがなく、最初から駄目とあきらめていれば、女性に心を燃やしたりはしない。たとえば、まわりの目が厳しく、恋愛などご法度という雰囲気であれば、それに合わせて自らをおさえ、そのうちにその状態になれて、さほど苦痛でなくなってくる。すべては常識の枠のなかで考えるようになり、妻子ある身で他の女性を追いかけるなど、とんでもないことと思い、信じこもうとする。  しかしそれが本心かというと、いささか怪しくなる。  表面、生真面目な人にかぎって、突然、好色になったり、猥褻《わいせつ》な行為に走ることがある。欲望を封じこめれば、それだけそれは暗く、秘《ひそ》かに潜行する。バーなどで、異様に女性に触ったり、そうかと思うと威張ったり、ときに酒乱におちいるのは、この種のタイプかもしれない。  その点、伊織はたしかに恵まれている。自分の事務所で、好きな女性を秘書にして平然としている。堅い職業でないから、それでとやかくいわれることもないし、いわれたからといって、仕事がなくなるわけでもない。何人の女性と遊んでも、いい設計さえできればそれで許される。逆にいかに生真面目でも、優れた設計をつくれなければ無能者となる。  だがその自由な雰囲気が、ときに裏目に出ることもある。所員の宮津が、所長の愛する笙子を公然と奪ったりするのも、その自由さのなせる結果といえなくもない。  そのまま伊織はマンションの書斎で、事務所から持ってきてもらった書類に目を通したが、むろんそこにも結婚招待状はなかった。 「お忙しいのですね」  途中で富子がお茶を淹れてきたが、伊織は生返事をしてから思い出したようにいった。 「もう、帰っていいよ」 「どなたか、いらっしゃるのですか」  富子の勘は鋭い。なに気なくいったつもりだが、すぐ女性でもくると感じたようである。 「まだ、四時ですけど……」 「今日は、帰っていいんだ」  少し苛立った口調でいうと、富子はいったんひき下ったが、十分ほど経ったところでコートを着たまま現れた。 「それじゃ、帰らせていただきます。シーツは新しいのに取り替えておきました」  女性がくると知って、ことさらにベッドをなおす。こういうところが、富子のいやらしいところである。伊織が黙っていると、 「それでは、お先に失礼します」  最後は馬鹿丁寧な挨拶をして帰っていく。なんとも御しがたい女だが、といって富子がいなければ、日常の生活はたちまち行き詰ってしまう。とやかくいっても、いまは食事から炊事、洗濯まで、すべて富子に頼っている。  こんなことなら妻のほうがよかったか……  ぼんやり考えていると、電話が鳴った。もしかして、霞からこられなくなったという連絡かと思ったが、返ってきたのは若い女性の声だった。 「もしもし、伊織さんですか」  どこかできいたような声だが思い出せなくて曖昧な返事をすると、すぐ弾んだ声になって、 「パパ……」  それで初めて長女のまり子とわかった。 「わたしの声、わからないの?」 「伊織さんなんて、変ないい方をするからだ」  一月に正式に別れてから、長女から電話がかかってくるのは初めてである。 「だって、そうでしょう」  まり子はそういってから、例の早い口調で、 「さっきね、美子が怪我をしたの。車にぶつかって、足の骨を折ったの」 「本当か……」 「いま駅前の病院にいっているの」  時計を見ると、すでに四時を過ぎている。受話器の奥から、さらに早口の声が返ってくる。 「美子ちゃん、自転車に乗ってお買物に行ったの。その帰りに車にぶつかって、すぐ駅の前の深野病院に行ったら、右の足が折れてるんですって」 「右の足のどこだ?」 「くるぶしの上のところだって、ママがいってたわ。これからギプス巻いて入院するらしいけど、歩けなくなったりしないわよね」  そうきかれても、医者でない伊織にはわからない。 「ママは?」 「病院にいってるの。わたしは試験休みで今日は家にいたの」  妹の事故のあと、一人家に残されて、まり子は不安になったのであろう。 「二丁目の角の三つに分かれたところがあるでしょう、少し坂になって。あそこを美子ちゃん自転車でおりていったら、急に車がでてきて、前から、あそこは危ないと思っていたのに……」  そんなことより、美子の怪我の程度のことのほうが気がかりである。 「それじゃ、いま美子とママは病院にいるんだな」 「いるけど、パパ、病院に電話をするの?」 「お医者さんに直接きいたほうが、よくわかるだろう」 「それならいいけど、ママは呼び出さないほうがいいと思うわ」 「どうして……」 「だって、わたしがパパに連絡しようといったら、ママはしなくてもいいっていったから。この電話も内緒なの」  いったい、妻はなにを考えているのか。いや、すでに妻ではないが、彼女はもう自分を、まり子達の父親と見なしてはいないということなのか。まさかと思うが、彼女ならやりかねないような気もする。 「わたし、どうしようかと迷ったけど、やはりパパにしらせたほうがいいと思って……」 「ありがとう、教えてもらってよかった」  やはり別れた妻より、血がつながっている子のほうが絆《きずな》は強いということか。 「それじゃ、お医者さんだけにきいてみる」 「パパ、病院にはいかないでしょう」 「あまり、重いようなら行くけど、今日はこれからお客さんがあるのでね」 「ママはあんなことをいったけど、病院にいってもかまわないと思うな。それにパパが行ったら、美子ちゃんきっと喜ぶし……」  いったん受話器をおくと、伊織はすぐ病院の番号を探して、ダイヤルを廻した。初めに名前をいい、子供が事故でお世話になっていると思うが、怪我の様子を教えていただきたいのですが、と頼んだ。そのまましばらく間があってから、先生はいまちょっと忙しいので、といって、婦長らしい人がでた。 「右のくるぶしのところの骨が折れていますけど、たいしたことはありません。手術をする必要はなく、ギプスをするだけで大丈夫です。先生は一カ月もすれば治るだろうと仰言ってますが、当分、腫《は》れがあるので入院したほうがよろしいと思います」 「ありがとうございました。子供の父ですが、よろしくお願いします」  伊織は礼をいって電話を切った。どうやら、この状態では、いますぐ駆けつけていかなくても大丈夫らしい。  一安心して時計を見ると、四時二十分である。もしこのまま、病院に駆けつけることになると、霞との逢瀬は不可能になるところだった。強引に辻堂から呼び出して、ようやく着いたら、本人がいないというのでは霞が怒る。あとで話せばわかってくれるかもしれないが、危ないところであった。  それにしても娘の怪我を妻が知らせなくていい、といったことはショックである。もしまた娘達が病気になり、入院するようなことになっても、妻は知らせないつもりなのだろうか。別れたとはいえ、生活費はこちらで渡して養っているのである。離婚はしても、父親としてやるべきことはやっているのに、少し冷たすぎはしないか。  もっとも考えようによっては、下手に知らせて、余計な心配をかけたくないという配慮からかもしれない。だが、今回は娘がはっきり知らせようというのに、妻のほうが必要ないと拒否したようである。伊織は改めて妻の態度の厳しさに呆れる。  それにしても女は強い……  いまになって気が付いたが、子供達は妻に人質にとられているようなものである。伊織がとやかくいっても、妻が「ノウ」といったら、子供達も簡単に父親に近づくわけにいかない。  実際、別れて以来、娘達から一度の電話もなかったが、それも妻のさしがねかもしれない。自業自得とはいえ、このまま娘達も去り孤独に追いこまれていくかと思うと、伊織はいささか侘しくなってくる。  重い気持を振り払うように、ベランダから夕暮れのビルを見ていると、入口のインターホンが鳴った。ドアを開くと数分後に霞が現れた。 「よろしいんですか」  例によって霞は注意深くあたりに目を配ってから、忍びこむように入ってくる。 「早かったでしょう」  たしかに喫茶店で電話をしたのは二時少し前だったから、それから支度をして来たとしても、かなり早い。 「急いだので、こんな恰好できました」  霞は淡いオレンジのシャネル・スーツに、黒いストライプの入った絹のブラウスを軽く胸元に見せ、手にコートと花の包みを持っている。 「よく出てこられたね」 「ご命令とあっては、こないわけにいかないでしょう。今日は急にお暇になったのですか」 「そういうわけでもないが……」  伊織は子供の怪我のことを話す気はなかった。もともと男と女の逢瀬に、家庭の匂いを出すのは禁物である。それが中年の恋の掟というものである。  それでも女はつい、家庭の影がちらつくものだが、霞はいまだかつて、自分から家や夫のことを話したことはない。せいぜい娘のことを話す程度で、それさえも好んでということではなさそうである。  それに合わせてというわけでもないが、伊織も家庭のことは自分からは話さない。そういう話が嫌いということもあるが、もともと別居しているのだから当然といえば当然でもある。いま娘が怪我をしたことを霞に告げたところで、娘の状態がよくなるわけでもない。 「お花を持ってきたのですけど、やっぱりあったのですね」  霞は飾り棚にある花を見た。最近、富子はときどき花を買ってくるが、いまも長い円形の備前に薔薇や霞草などを投げこんでおく。 「お手伝いの婆さんが、いれてくれたんだよ」 「その方に叱られると怖いから、わたしはひっそりと活けさせていただきます」  霞は悪戯っぽくいって手に持った白い包みのなかから「みやこ忘れ」をとり出す。 「このごろはお花屋さんも季節感がなくなって、このお花、一月ごろから出ているのです」  伊織はうなずきながら、以前、笙子の持ってきた花と霞の花が睨み合っていたのを思い出す。  霞の花の活け方はどこか小粋《こいき》である。いま、テーブルにあったクリスタルの灰皿を持っていったので、なにをするのかと思ったら、そのなかほどに剣山をおき、そこにみやこ忘れを挿す。できあがると、白いクリスタルにみやこ忘れの紫が鮮やかなコントラストをなし、灰皿の上に花が咲いたようである。 「ここにおいていいかしら」  霞はそれをテーブルの上において、 「本当は、備前の花瓶に活けようと思ったのですけど、あんな素敵なお花があるんですもの」  飾り棚の上にある薔薇に遠慮した、というつもりなのだろうか、おいてみると、クリスタルの上のみやこ忘れのほうが、ひっそりとして、かえって目立つ。 「素敵だ。あちらはただ花をぶちこんだ、という感じだが、こちらの花には芸がある」 「無理に、褒めていただかなくても結構です」  すねたいい方をするのを待っていたように、伊織は霞の前に立ち、そっと顔を近付ける。 「なにをなさるの?」というように、霞は軽く顔をそむけたが、手を肩に廻すと、あとはごく自然に仰向く形になって接吻を受ける。  女性はソファに坐ったまま、男はその前で腰をかがめて、唇を合わせる。そのまま伊織は霞の手をとらえ軽く引く。唇は触れたまま、それにひかれるように上体をおこし、あとはベッドへ向かう。伊織の頭のなかから次第に子供のことも消えていく。  霞が洋服のときの一つの楽しみは、服を脱いでからベッドに入るまで、躰をおおうものがないことである。和服のときなら長襦袢でかくせるが、洋服の場合は適切なものがない。いまもどうするかと、伊織が先にベッドに入って見ていると、霞はいったん服を脱ぎ終えたところで「バスローブを借ります」という。伊織は黙っているが、もうあり場所を知っていて、洋服箪笥のなかから、男ものをとり出して裸の上に着る。  そのまま入ってくるかと思ったが、ベッドの足先につっ立っている。伊織としては、もう娘ではないのだから、勝手に入っておいで、というつもりだが、霞としては|きっかけ《ヽヽヽヽ》が欲しいらしい。 「早くおいで」とか、手でも強引にひかれたら、それで恰好もつこうというものだが、伊織は知らぬ顔を決めこむ。やがてたまりかねたように、霞がつぶやく。 「ねえ……」  早く呼んで、という言葉は口にふくんで、中腰のままこちらを見ている。その哀願したことを「よし」として、伊織は掛布の端をおもむろに開く。 「さあ、ここへ……」  それで、霞はバスローブを着たままベッドの端からそろそろと入ってくる。 「脱ぎなさい。こんなのを着ていると、縫いぐるみを抱いているようだ」  そういってバスローブの裾をまくると、下は生まれたままの裸である。伊織はそのやわらかい肌の感触を楽しみながら、もう一方の手で紐を解く。前が開き両の肩口が現れたところで、伊織は改めて霞を抱きしめる。  ベッドのなかにいるので、霞はほとんど抵抗しない。それどころか脱ぐのに協力するように、軽く上体をよじる。そのままじっとしているうちに、伊織の頭のなかから笙子のことも子供のことも消え、かわって霞だけがしっかりと位置を占める。そういう男の心の動きを知ってか知らずか、霞は腕のなかで息をひそめたまま、身動き一つしない。  だがその肌を触れ合った静止のあいだが、次の情熱へのステップともなる。肋骨が折れよとばかり抱きしめていた手がゆるむとともに、霞は小さく息をつき、そっと頭を擡げる。伊織はその頭を改めて左の腕にのせ、右の手をゆっくりと背に這わせる。  霞の躰にはいくつか、感じやすく弱いところがある。頤《おとがい》から背の中央にそって、おりていく線もその一つである。指先で触れるか触れぬか、わからぬほどの優しさで背から腰のくぼみまで下していくと、「あっ……」とつぶやき、それと同時に上体がぴくりと反る。まことにその反応は正確で、精巧な電気仕掛けの玩具のようでもある。それが面白くて、上から下へ、そして下から上へ交互になぞる度に悲鳴は次第に高くなり、最後は「やめてえ……」と哀願する。そのころになると霞の全身は燃えさかり、どこに触れても鋭敏に反応し、全身が性感帯といった感じになる。  いまや霞の躰は城門をすべて開き、うち手の寄せるままに落城寸前である。  だが伊織は一気には踏みこまない。敵は両手を挙げ、降伏の意思表示をしているが、要心に要心を重ねるにこしたことはない、入城は時間の問題だからあせらず、充分|苛《さいな》んでからでいい。 「ねえ……」  やがてたまらず、霞のほうから訴えてくる。黙っていても敵は求めてくる。そのとき、おもむろに仕方なくといった風情で入っていく。  いったん入城し、勝利の美酒に酔った瞬間から、男は骨抜きになり、最後は逆に打ちとられる運命にあうのだから、入城はできるだけ遅いにこしたことはない。  敵を攻め、激しい動きとともに雄叫《おたけ》びがあがったのは一瞬で、やがて二人のあいだには、なにごともなかったように静寂が訪れる。霞は例によってややうつむき加減に、伊織の胸元に額をつけ、伊織は右腕を霞の頭にかしたまま、両の脚は互いにサンドイッチのように重ね合わせている。  その姿のまま、二人はびくとも動かない。いつもなら六時か七時に逢って、霞の帰る九時まで、時間を気にしながらの逢瀬であるが、今日は二時間近くも早く逢っているので、時間には充分の余裕がある。伊織も、このあととくにしなければならない用事はない。そのまま、二人は眠ったようである。  伊織が目覚めたとき、ナイト・テーブルの上の時計は七時を示していた。いつもの習慣で、伊織はもうずいぶん時間が経ったような気がしたが、まだ霞が帰るには二時間もあると知って安心する。  最近、伊織は軽い不眠症にかかっている。いままでなら、眠れないことなどなく、とくに飲んだあとなどは、枕に頭をつけた途端に眠って、自分の無神経さに呆れることもあった。だがこの二、三カ月は、床に入ってもなかなか寝つかれない。躰は疲れているはずなのに、頭だけ冴えてくる。初めのうちは本でも読めば眠れると、軽く考えていたが、それもあまり効き目はなく、ひどいときには明方まで、うつらうつらしていたこともある。  その間、仕事のこと、別れた妻子のこと、霞や笙子のこと、そして自分のこれからのことなどぼんやり考える。万事とりとめもない、愚にもつかぬことで、考えるといっても、ただ堂々めぐりしているだけである。  どうしてこんなになったのか、自分でも不思議だが、やはり妻子と別れて一人になったことが、きっかけになっているのかもしれない。  昨夜も不眠症に襲われ、眠ったのは明方四時近くであったせいか、まだ寝たりない。霞のあたたかい肌に触れたままなら、いつまでも眠っていられそうな気がする。だがこのまま休んでは、夜中にまた眠れなくなるかもしれない。  起きようか、もうしばらくじっとしていようか、迷っている横で霞は実に気持よさそうに眠っている。相変らず軽くうつ伏せに、左の肩口だけ掛布からわずかに出して、静かな寝息をくり返す。それでもさきほど、伊織が上体をのばして時計を見たとき、動くなというように、指でそっと腕を引く動作をした。無意識とは思うが、男がベッドから動き出そうとする気配を本能的に察するのか。可笑しいといえば可笑しいし、愛らしいといえば愛らしい。  霞の肌のぬくもりを感じながら、伊織の頭のなかに再び、子供の骨折のことが甦ってきた。  その後どうしたのか、もう一度きいてみようかとも思うが、妻が知らせなくてもいいといったことを思うと、きく気は失せる。病院で心配ないといったところをみると大丈夫なのだろう。そう自分にいいきかせて、また眠ったようである。  再び伊織が目覚めたとき、時刻は八時を少し過ぎていた。今度は霞のほうが先に目覚め、それにつられて伊織が起きたようである。 「よかった……」  霞は時計を見て安心したらしい。また伸ばした上体を、そっとシーツのなかに沈める。伊織も時間をたしかめてから、霞にささやく。 「とても気持よさそうに眠っていた」 「二時間も眠ったのね、恥ずかしいわ」 「途中で、鼾《いびき》もかいていた」 「そんな、わたし絶対にかかないはずです。嘘でしょう」 「まあ、鼾というほどではないが、きみの吐く息が胸に当って、くすぐったかった」 「ご免なさい、そう仰言って下さればよかったのに」 「いや、気持がよかった」  やわらかい吐息は、霞の生きている証しであり、愛の囁きのようでもあった。 「でも、静かね」  たしかにこうしていると、いまがまだ夜の八時とは思えない。 「今日は服だから、時間はかからない」 「でも、もう起きなくては……」  何時に逢っても、結局、別れるぎりぎりまでベッドにいることは同じである。 「辻堂まで送ろう」 「いいえ、あなたはこのまま休んでらして」 「もう充分眠ったよ。今日は飲んでいないから大丈夫だ」 「本当に、わたしのことならご心配なく」 「送られたら、迷惑?」 「そんなこと……」 「じゃあ、送ろう。久しぶりに二人でドライブもいいだろ」  知ってまもなくだったが、霞を辻堂まで送ったことがある。そのときは月がよく冴えてい、茂みに囲まれた邸に霞が消えていくのを見て、軽い嫉妬を覚えた記憶がある。それ以来、もう二度と送るまいと思ったが、いまはそんな気持もかなり薄らいでいる。 「車なら、もう少し休んでいてもいいのでしょう」 「でも、もう八時半よ」  霞がいうのにうなずきながら、伊織は未練たらしくまた霞のすべすべした肌に触れる。  着物にくらべて、洋服は脱ぐのも着るのも簡単である。それから三十分もせずに、霞はシャネル・スーツを着終えて、来たときと同じ髪型に整えた。 「本当に一人で帰れますから」  霞がなお辞退するのを、伊織はかまわず助手席に乗せた。 「この前、送っていただいてから、もう一年になりますね」  霞も、前に送ってもらったときのことを思い出したらしい。 「大体、道は覚えているつもりですが、近づいたら教えて下さい」  伊織はアクセルを踏みながら、また子供のことを思った。娘が車で怪我をした日に、自分は人妻をのせてドライブしている。なんともいい加減とは思うが、知らせようともしなかった妻のことを思うと、当然だと、開き直った気持になる。 「こんなに遅いのに、ずいぶん車が走っているのですね」  青山通りから国道二四六号線を経て環八に出る。そこから第三京浜の高速に出る道筋は、この前と同じである。 「今日は突然だったから、明後日はゆっくり食事でもしよう、六時ですよ」 「また、お逢いするのですか」 「明後日は前から決っていた正規の逢引きでしょう。なにか都合が悪いことでもあるのですか」 「そんなことはありませんが、あまりお逢いしては嫌われてしまうし……」 「まさか、僕はいまはあなただけです」 「いまはね……」  霞はそこだけいいなおして、 「ねえ、やっぱり明後日はやめましょう」  伊織はいったん首を横に振ったが、霞の真剣な横顔を見て、 「それじゃ、明後日は許してあげるから、来週、京都へ行こうか」 「なにか、用事があるのですか」 「別にないけど土曜日なら行けるから。久しぶりに二人で旅行をしたい」 「………」 「京都なら新幹線だからいいでしょう。明後日逢うか、それとも来週、京都へ行くか、どちらをとるか……」  霞はなお答えず、前を見ている。 「さあ、どちらにしますか」  もう一度念をおすと、霞は小さくつぶやいた。 「京都へ行きたいわ」  正面に青と赤のランプが見え、第三京浜の高速道路の料金所が見える。それを過ぎて右の車線を行くと横浜新道に入る。いつもは二車線が合して渋滞する新道の先も、九時を過ぎると車も減ってスムーズにすすむ。 「この調子では、十時前に着いてしまうかもしれない。もう少しゆっくり出てくればよかった」  伊織は損をしたような気持になるが、霞は早く着いて困ることは、なさそうである。 「去年、奈良に行ったのは六月でしたね」  そのときは京都に泊り、すぐ奈良に行ったので、ゆっくりできなかった。今度は初めから京都だけなので、前よりいくらか暢んびりできそうである。 「京都で久しぶりに旅館に泊ってみましょうか」 「ご存じのところがあるのですか」 「東山ぞいの小さなところですが、庭があってなかなか風情があるのです。最近泊ったことはないのですが、明日にでも頼んでみましょう」  京都もヨーロッパも、ずっとホテルであったので、たまに和室も悪くはない。伊織は淡い行灯に照らされた日本間と、その片隅に敷かれた布団で過す一夜を想像する。 「桜にはまだ早いけど、それでも彼岸桜は咲いているかもしれない」  久しぶりの霞との二人旅に、伊織の心は華やいでくる。 「土曜日は午後一時ごろに、新幹線のホームで逢うことにしましょう。でも、その前にもう一度くらい逢えるかな」  霞はうなずくともうなずかないともいえぬ表情で、前を見ている。 「大丈夫でしょう」  伊織がもう一度念をおすと、少し間をおいて、 「参ります」 「よし、これで決った」  伊織はハンドルを持ち直す。車は新道から国道一号線に出たらしくまわりに急に家がふえ、行き交う車も多くなる。 「今日は少し曇っているけど、おぼろ月夜ですよ」  右手の山ぎわに、春の月が位置だけ示して雲の彼方に止っている。伊織は右手でハンドルを握ったまま、あいたほうの手を、霞の膝に忍ばせた。  国道から分かれて、辻堂の町に入ったのは十時を少し過ぎていた。東京駅から電車で行くのからみると、小一時間早いはずである。 「少し、海岸まで行ってみようか」  伊織が誘うと、霞はそっと車の時計に目をやったが、そのまま黙っている。伊織はこのあたりは二、三度、近くのゴルフ場まで来たことがあるので、大体の見当はわかる。 「この交叉点を左へ行けばいいのでしょう」  ハンドルを持ちながら窓をあけると、流れてくる風に海の匂いがある。 「久しぶりだ」  今年になって、湘南に来るのは初めてだった。やがて左右の家並みが途切れ、正面に暗い空だけが広がる。道は軽い登りになり、その先は海になっているらしい。 「もう、ここまで来れば安心でしょう」  伊織は家が近いから安心だろうと思ったのだが、近すぎることがむしろ不安なのか、霞はやはり答えない。軽い坂を登りきると思ったとおり海だった。そこからは道が海沿いに平行に走り、左右に松林が続いている。伊織はいったんハンドルを右へ切り、小田原のほうへ向かう。 「いつもは、混んで大変なのです」  この道の混雑は伊織も覚えがある。逗子、葉山から江ノ島を経て茅ヶ崎、小田原と、美しい海岸線を結ぶだけに、週末などは車であふれて大渋滞を招く。だが、いまはときたま車が行き交うだけで、あとは静まり返っている。  二、三キロも走ると左手に少し道が広くなって車寄せがある。そこで車を停め、窓を開くと、急に波の音が近くにきこえてくる。 「静かだ……」  海の上空は厚い雲がおおっているらしく、来る途中、朧《おぼ》ろに見えた月も見えない。 「海を見に来ることなど、あるのですか」  助手席が海側になっているので、伊織が海を見ると、自然に、霞に近づくことになる。 「近くにいるせいか、かえって見ないのです」 「もう、春だ」  小さく開けた窓から流れてくる風には、まさしく春の息吹きがある。伊織はその微風を吸いながら、霞の肩に手をおいた。一台、うしろから車が近づき去っていく。  その明りが消えたところで、伊織は軽い接吻をした。  明りを消した車のなかで、二人の男女が肩をよせ合って接吻をしている。だが、それを見る人は誰もいない。ときたま車が近づいてくるが、そのまま無関心に通りすぎ、あとは再び静寂が訪れる。わずかに開けた窓から春の微風と波の音だけが流れてくる。  伊織はシートを軽く倒すと、霞の膝の上にあった手をそろそろと移動する。  いまさら車のなかで、肌を触れ合う気などないが、接吻を交わすうちに次第に悪戯心がおきてくる。若者のようにカーセックスというわけではないが、ここで霞を少し困らせてやりたい。このまま別れたら、霞はもはや伊織の手の届かぬところに去ってしまう。その思いが悪戯心をさらに刺戟する。  唇から霞の弱い耳へ、唇を移動しながら、右手をそろそろと膝のあいだへ忍びこませる。瞬間、霞は「駄目よ」というように膝を合わせる。それに逆らわず手をとめ、またころ合いをみて、そっと指をすすめる。  女性に淫らなことをするときには、焦っては失敗する。ゆっくりと念入りに一寸刻みにすすんでいく。効率が悪そうでもそのほうが最後には勝利を得る。それに徐々に近づくほうが、風情もあるというものである。思い戸惑い、あきらめたようにみえながら、いつのまにか伊織の指は股の近くまですすんでいる。霞も初めは逆らい、かたくなに膝を閉じていたのが、いまは心もち開き、上体もややのけ反り気味に崩れている。まだ最終地点まで達してはいないが、ここまでくればもう一息である。  また一台、車が近づき、一瞬、まわりに明りが散らばるが、伊織はもうそのことは気にかけていない。全身の神経を右の指先一つにかけ、さらに一歩、忍ぶようにすすむ。それを数回くり返したとき、指先にやわらかく、しっとりとした感触が伝わる。  すでに霞の愛しいところは、時間をかけた進入に耐えきれず、潤っているらしい。伊織はそれをたしかめながら、そっとささやく。 「全部、知っている……」  その言葉の意味を知ってか知らずか、霞はかすかな吐息だけをくり返す。  伊織はいま霞のすべてを知っていると断言できる。外見は細そうにみえてその実、豊かな肉づきも、ひたすら円やかな肩から腰の線も、そして秘められたところの好ましさも、霞の秘密はすべてわかっている。そう自信をもっていえることに伊織は無上の喜びと満足を感じている。  それにしても車の中は不自由である。二人だけとはいえ、ベッドの上のようなわけにはいかない。伊織は運転席から左手で霞の肩をかかえ、あいたほうの手を秘めやかな個所に触れている。  その姿勢では、シートのあいだの空間がいささか邪魔である。いっそ席がつながっていればもう少し大胆に触れ合うことができようというものである。それにハンドルやボックスなども意外に邪魔である。だがそのやりにくさが、いまの伊織にはむしろ好ましいともいえる。  すでに出かける前に満ち足りて、もはや霞を求める気はない。ただ別れる間ぎわに、名残り惜しくなって指をのばしただけである。ちょっと触れてみたい、そんな軽い気持からの愛撫である。しかし、愛撫を受ける女にとってはかえって迷惑かもしれない。いっそ愛するならはっきりと、最後までゆきつかせて欲しいし、そうでないならはじめから触れないで欲しい、中途半端は困る。  むろん伊織はそれに気付かないわけではない。だが狭い車のなかでは初めから無理というものである。強引に求めれば、あるいは可能かもしれないが、路上の車のなかでは落着かないし、大胆すぎる。霞もそのことはあきらめているし、求めてもいないはずである。だが一度、燃えはじめた躰は容易におさまりそうもないらしい。 「だめ……」とつぶやきながら、下半身はやわらかく指を受け入れたまま、息づいている。初めは自分でも軽く思っていた火が、徐々に火勢を増し、いまや簡単なことではおさまりがきかなくなったようである。 「ねえ……」  小さな溜息は、こんなことをして、どうしてくれるのかという怨嗟の溜息のようでもある。それをききながら、伊織は少し責任を感じている。ここまで火をおこして、いまさら知らないというのは非道《ひど》すぎるかもしれない。 「どこかへ行こうか……」  指は秘所においたまま、伊織はそっとささやく。 「この近くにも、二人だけになれるところはあるでしょう」 「そんな……」 「ここからなら近いから、すぐ帰れますよ」 「いけません」  伊織の誘いの声が、かえって霞の正気を甦らせたようである。返事とともに霞は初めて、自分の姿態のしどけなさに気が付いたらしい。慌てて上体をおこすと、膝のあいだにあった伊織の手をおさえた。 「やめて下さい」  思いがけぬ真剣な声に、伊織は一瞬、手をとめ、それから叱られた少年のように、すごすごと手を引いていく。霞は急いで膝元をなおし、顔をそむけて、髪に手を当てる。 「もう、帰りましょう」 「このまま、まっすぐでいいんですか?」  少し意地悪な質問をすると、霞は改めてバッグからコンパクトをとり出し、背を向けたまま顔を見る。伊織は室内ランプをつけてから肩ごしにささやく。 「こんなまま、帰したくない」  霞は答えず一つ大きく溜息をつく。まださきほどの余韻から醒めやらぬまま、頭のほうも整理しかねているようである。 「向こうで明りが動いている」  相変らず雲は厚く、月も星も見えないが、暗い海の彼方に一点、動く明りが見える。 「なにか、湘南にいるような気がしない」 「行きましょう」  霞に促されて、伊織はエンジンをかけた。海岸道路の先の松林のあいだの小径でターンして、再びいま来た道を戻り、信号のところから左へ曲って辻堂へ入る。伊織は片手でハンドルを握りながら、左手を再び霞の膝の上にのせた。 「ここ、可愛かった……」 「非道い方」 「どうして?」  霞はなにもいわず伊織の指を抓《つね》った。中途半端に燃えさせられたことを恨んでいるらしい。 「そこを右へ曲って下さい」  いわれたとおり、また右へ曲ると、あたりは急に深い茂みの続くお屋敷街になる。 「あの先でしたね」  行手に竹林が見え、その先に白い石塀が見える。その途切れるところが霞の家だった。 「土曜日、一時ですよ」  少し手前で車を停めて、伊織は念をおした。 「わかりました。それじゃ、おやすみなさい」  この前もそうだったが、別れるときは、霞はいつも素気ない。そそくさといった感じで車をおりると、小走りに駆けていく。 「おやすみ……」  伊織はその後姿につぶやきながら、霞の愛しいところが、なお秘めやかに潤っていることを信じている。  霞と別れて、伊織の頭に再び子供のことが甦ってきた。ギプスを巻いていったん入院ときまったようだが、その後どうしたのか。妻はそのまま病院にいるのか、そして長女はまだ一人で留守番をしているのか、考えると次第に気になってくる。  だがそれにしても、つい少し前までは霞とマンションで逢い、そのあと辻堂まで送って車のなかで淫らなことをくり返していた。世間的には到底許されぬことをしていて、いまは普通の父親に戻っている。  どちらが本当の自分なのか……  考えるうちに、伊織は自分がジキル博士とハイド氏のように、二重の人格をもっているような気がしてくる。子供の怪我のことを心配し、電話でたずねたいと思うのはジキル博士であり、霞との愛欲に溺れているのはハイド氏のほうらしい。  だが外見はともかく、伊織のなかではその両者は矛盾していない。両者ともそれぞれに伊織自身であり、両方相まってバランスはとれているつもりである。実際、いつも子供や妻のことばかり考えていたのでは仕事にならない。そのかぎりでは家庭的で、優しい父ということになるかもしれないが、それでは男としての意志に欠けることになる。中年とはいえ、男なら牡《おす》としての欲望が芽生えるのも仕方がない。もっとも伊織の場合は、その欲望が妻でなく、他の女性に向かうところが問題ではある。  だがそれは一夫一婦という枠組みのなかでの問題で、牡としてはむしろ当然かもしれない。少なくとも、異性にまったく関心を抱かず、ホモや無気力に走る男より、ある面では好ましいといえなくもない。  ともかく、二つの顔が伊織のなかに潜んでいることだけはたしからしい。そしていまは善良な父としての顔のほうが、表に出ているようである。  行手に自動販売機が見え、その先に電話ボックスがある。伊織はそこで車を停め、東京の家のダイヤルを廻した。妻がでたら切ろうかと思っていると、長女のまり子がでた。 「ああパパ、病院へ行ってきたの?」 「まだ忙しくて行けないでいるんだけど、美子はやはり入院したんだろ」 「そうなの、でもあまり痛まないし、大部屋でみんなと一緒なので淋しくないから、ママはもうじき帰ってくるって」 「じゃあ、今夜は大丈夫だな。そのうち見舞に行くから、なにかあったらマンションのほうに電話をよこしなさい」  安堵しながら、いまの伊織はまさしくジキル博士になりきっている。 [#改ページ]    花  冷  三月はどこの会社も決算期を迎えて慌しい。伊織の事務所も、小さいながら忙しいことは同じである。  この一年間、建築業界は冷えきっていたが、伊織のところはなんとかのりきることができた。単純に仕事の額だけみても、前年度より一割近くのびている。これは地方の美術館の建築とか、新しい団地や公園の開発といった、公共的な仕事が多かったせいもあるが、そのもとは、やはり伊織個人の力といえそうである。  伊織祥一郎という名は、業界ではかなり通っているし、政府や公共団体の、建築や環境に関する会の委員も兼ねている。そのことが仕事の面で有利に働いていることは否めない。  しかし根本は、伊織の仕事そのもののユニークさにあることはたしかである。いかに名が通っているからといって、実力がなければ消えてしまう。伊織の設計は、最近の一部の建築家のように、独創性を強調するあまり、奇をてらうといった感じはない。基本はあくまで、オーソドックスな|つかいよさ《ヽヽヽヽヽ》であり、そのなかに近代的なセンスを加味していく。全体に建物の印象が落着いてやわらかく、それが依頼する側に安心感を与えるらしい。  村岡は、伊織の設計したものに、伊織の性格がよく現れているという。全体に調和がとれ、甘く優しい感じがあるという。  設計に性格がでるのは、わからないわけでもないが、はたしてそんなに性格がでているのか。  現実に、伊織がやってきたことは、妻子を放置したまま家を出て、好きな女性と親しくなり、さらに人妻を知って溺れていく。行為だけ見ると、優しさとは正反対の、冷たい男とみられかねない。  だが一対一で女性に対したときに、その優しさが表に出るのかもしれない。妻にこそ、愛が醒めてからは優しくはできなかったが、それでもできるだけのことはしたつもりである。笙子にも霞にも、伊織は自分でできることなら、なんでもしてやりたいと思ってきた。ときに複数の女性がダブることもあったが、それは優しさからの未練であり、優柔不断の裏返しといえなくもない。  それにしても、この一年は伊織にとっては振幅の大きい年であった。四十半ばになって、久し振りに少年のようなときめきとともに霞に燃え、それが結果として四年間続いた笙子と別れることになり、ひいては離婚にまでつながった。女性に関しては、まさに激動の一年であった。  だがそのもめごとの多かった一年に、比較的充実した仕事ができたのは皮肉といえば皮肉である。いま手がけている多摩地区のグリーン・ベルト構想も、地元はもちろん全国的にも幅広い関心を集めているし、二つほど手がけた地方の美術館設計も好評である。いま建築中の世田谷のコミュニティ・プラザも、多少ごたごたはあったが、できあがったらかなりの反響を呼びそうである。最近の仕事の好調をききつけてか、この春には、中近東での大きな都市開発プロジェクトに参画して欲しいという話もある。それを受けたら、初めての海外進出になる。仕事の上では順調だが、それが女性とのトラブルの多い年にあったことが不思議である。  一般に女性とのごたごたは、仕事の面で悪影響を与えるといわれているが、去年にかぎってはそうではなかった。いや去年だけでなく、笙子との愛に燃えたときも、K市の美術館に取り組み、それが結果としてM社の建築デザイン賞を得ることになった。家庭的に平穏無事なときより、恋に燃えているときのほうが、仕事が充実するのはどういうわけか。  仕事へのエネルギーも、女性に燃えるエネルギーも同じなのか……  一人の女性に惚れ、それを口説くのは、なまなかな情熱ではできない。とくに家庭がある身では、特別のエネルギーを必要とする。妙な譬えだが、伊織の場合、一つの大きな仕事を完成するのと同じぐらいのスタミナが必要である。大人しく家さえ守っていれば、人々は、誠実で立派な人というが、その好ましい男性のなかには、自分から女性に惚れて、口説くという意欲に欠けている人も含まれている。誠実の裏返しに、あきらめと無気力が潜んでいないとはいいきれない。なにごとも、常識とか倫理の範疇《はんちゆう》の枠内にいれば、世間的にも受け入れられ、住みやすい。そのほうが気も楽だし、エネルギーも必要としない。だがそれでは、平凡な、流されるだけの人生しか得られないかもしれない。  伊織はそういう生き方に謀反《むほん》を起こしたくなる。なにを好んで平地に乱を、と思うが、その挑む意志が、仕事にも共通する原動力になるような気がしないでもない。  その日、八重洲口の新幹線の乗場に向かいながら、伊織の気持は華やいでいた。再び霞と旅行に出かける。人妻との秘かな旅は常識では許されることではない。誘うほうも誘われるほうも、相当の悪《わる》である。  だが伊織はもうそのことは考えないことにした。悪なら悪でもいい。いま自分が霞を必要としていることはたしかだし、霞も二人の旅を楽しみにしていることは間違いない。いまさら霞の夫に悪いとか、非常識だとか、考えだしたらきりがない。  本来、愛は一方的で身勝手なものである。もう大分前になるが、「世界は二人のために」という歌が流行ったことがあった。伸び伸びとしたメロディーで、若者も中年も、心地よさそうに歌っていた。しかしよく考えてみると、「二人のために世界はあるの……」とは、ずいぶん勝手ないい方である。この世のなかが、愛し合っている二人のためだけにあるとしたら大変である。いま孤独な人のためにも、老人のためにも、子供のためにも、犬や猫のためにも、花や木のためにも世界はあるはずである。それを、愛し合うと自分達のためにだけあるように錯覚する。愛はまさしく、自己中心的で独善的なものである。実際そうだからこそ、愛は魅力的で捨てがたい。  それにしても、改まって愛は独善的だなどと思うのは、自分の行動にやましさを覚えているからでもある。初めから正しいと思っていれば、そんな理屈を考えるまでもない。  だが、霞と初めに奈良に行ったときも、ヨーロッパに行ったときも、伊織は常にあるうしろめたさにとらわれていた。こんなことをしていいのかと自分に問い、いいんだろうな、とたしかめる。もっとも、いまは妻とも別れているので、当時よりは気が楽である。少なくとも自分自身については、さほど感じない。  いま、むしろ気になるのは霞の夫に対してである。いったい、妻が他の男と旅に出ることを、霞の夫は知っているのだろうか。美しい妻が、他の男の愛撫に身を任していることを、彼は感付いてはいないのか。東京で逢うだけなら、さほど感じないが、旅に出る段になると、ある申し訳のなさにとらわれる。  だがそんなことをいっていては、きりがない。愛もやはり闘争である。一匹の牝《めす》を求めて、二匹の牡が戦い合う。そして、自分はいま勝利者になりつつある。闘いに同情など禁物である。そう自分にいいきかせたとき、車は八重洲口に着いた。  八重洲口での霞との待合わせは午後一時で、場所は新幹線の中央改札口である。切符は一時十二分発の「ひかり」になっている。  伊織が着いたのは一時十分前だった。最近は土曜日も車が混むので、少し早めにでてきたら、道は意外にすいていた。改札を入ってまっすぐ約束の場所にいったが、霞はまだ来ていなかった。発車までにはまだ二十分近くあるのであせることもない。伊織は柱のわきにバッグをおいて、煙草を喫った。  土曜日のせいか、改札口のあたりはかなりの混雑である。いま上りの電車が着いたのか、さまざまな荷物を持った客が一斉におりてくる。それに応えるように、逆にホームに入っていく客も多い。一部の学校では、もう春休みに入っているのか、若い学生や家族連れが目立つ。  伊織は人の流れを見ながら、八重洲口に続く通路のほうを見た。霞がくるとしたら、そちらの短い階段をのぼってくるはずである。この前、奈良へ行ったときは和服を着てきたから、今日も和服を着てくるかもしれない。あまり背は高くないが、霞の和服姿なら目立つはずである。  さらに人が増えてきたので、伊織は切符売り場に近い空いたところへ移った。そこからも八重洲口のほうからくる人の動きはわかる。  伊織はそちらに視線を向けながら、今日の予定を考える。一時十二分のひかりで発つと、京都には四時に着く。それからいったん旅館に行き、くつろいでから街に出て、七時ごろに食事にしてもらったらいいかもしれない。それとも旅館は東山ぞいにあるから、夕食まで、暢んびりお茶でも飲みながら庭を眺めているのもいいかもしれない。  考えていると、また新しい人波がおりてきた。改札の前の時計を見ると、一時五分過ぎである。そろそろこないと、乗り遅れてしまう。伊織は心配になって、改札口のあたりを行き来してみたが、霞の姿はない。昨日、電話でもう一度、場所と時間をたしかめ合ったから間違うわけはない。伊織は再び前の位置に戻って人の流れを眺めた。  そのまましばらく待ったが、やはり現れない。もしかして先にホームに入ってしまったのかもしれない。伊織は心配になって十二分発のひかりが待っているホームへ行ってみた。列車はすでにドアを開けて、ほとんどの乗客が乗り終っている。そのグリーン車のあたりを見てみるが、ホームにも車内にも霞の姿はない。  切符は伊織が持っているのだから、霞が先に乗るわけはない。もう一度、改札口まで戻ってみるが、やはり霞の姿はない。どうしたのか、いまは気もそぞろに、爪先立ちで見廻しているうちに、マイクが一時十二分発のひかりの発車することを告げた。  ベルが鳴り、目の前の時計が十二分を過ぎるのを見届けて、伊織はホームをおり、改札口を出た。そこから約束の待合わせ場所に再び戻ってみたが霞の姿はない。  どうしたのか……  いままで、霞が逢いびきの約束を破ったことはなかった。ホテルやマンションで逢うとき、多少遅れることはあっても十分か二十分後には必ず現れた。それが、定時になっても現れない。  正直いって、伊織は発車まぎわまで、来ないわけはないと信じこんでいた。  どうして来なかったのか。電車にでも乗り遅れたのか、それとも何か急用でもできたのか。それにしても、用事ができたのなら、電話くらいくれそうなものである。今日、出かける寸前まで、伊織は青山のマンションにいたが、電話はなかった。  してみると、くる途中でなにかおきたのか……  伊織はもう一度あたりを見廻す。相変らず改札口のあたりは、出てくる人と入る人で混雑している。土曜日の午後に入って、人出はますます増えてきているようである。  しばらくそこで待ってから伊織はいったん切符売り場に行き、切符を、あとの列車に変えてもらい、再び前の場所に立った。  もしかして待合わせる場所を勘違いしていたのか、あるいは日時を間違えたのか、といって、ここ以外に探す当てもない。  さらに待つうち、マイクが次の「ひかり」の発車を告げ、改札口の上の表示がくるくる変る。もう約束の時間から三十分近く経っている。伊織は改札の左手の「案内所」にいって、湘南電車の運転状況をきいてみるが、異常はないという。  さらに時計の針がはじけるように動いて、四十分をさす。「あと五分……」といいきかせて待つが、霞は現れない。  これは単純な遅れではないかもしれない。伊織はもう一度あたりを見廻し、やはり霞がいないのをたしかめてから、左手の公衆電話の前に立った。  もし霞がこちらに向かっているのなら、電話をしても本人はでない。お手伝いの女性か娘か、いずれかがでるかもしれないが、霞が彼女らに今日のことを正直に告げているとは思えない。多分、適当な理由をいっているのだろうが、そんなとき、霞のことを尋ねてはかえって怪しまれるかもしれない。  受話器を持ったまま伊織は戸惑う。このままもう少し待ってみようか。しかしこの時間でこないのでは、やはりなにかあったに違いない。迷っていると、うしろから、若い男性が顔をつき出した。かけないのならあけて欲しい、といいたげである。それに促されるように、伊織はダイヤルを廻した。  だが辻堂の局番を廻し、霞の家の電話番号まですすんでまたためらう。こないならこないでもいい、慌てたようにかけるのはみっともない。そう思った瞬間、かちんとコインの落ちる音がして呼出音に変る。切ろうかと、まだ迷いながら受話器をきいていると、女性の声がした。若く、少し素気ない感じの声で娘とわかる。 「あのう、お母さんはいませんか」  瞬間、「ああ……」と、慌てたようなつぶやきが洩れる。声をきいただけで、伊織とわかったようである。 「いま、ちょっと休んでいるのですが」 「休んでいる……」  伊織は鸚鵡《おうむ》返しにつぶやいてから、ききなおした。 「どこか悪いのですか」 「ええ、ちょっと……」  娘は言葉を濁したまま、答えない。 「なにか病気でも?」 「………」 「お母さん、電話にはでられないのですか」 「いま休んでいますので」 「家には、いらっしゃるのですね」 「ええ……」  娘の答えは要領をえないが、その曖昧なところが、普通でないことを思わせる。 「それじゃ……」  さらに聞きたいのをおさえて伊織はうなずく。 「お母さんに、僕から、電話があったと伝えて下さい」  受話器をおいて伊織はその場で考えた。  昨日、電話で話をしたときには、霞は病気らしいことは一言もいっていなかった。きちんと約束の時間までにはいきますと、はっきり答えたはずである。それで休んでいるとすると、そのあと急に悪くなったのか。しかしこれまで、霞がどこか悪いといっていたのをきいたことはない。軽い低血圧とか、ときに貧血気味だともいっていたが、その程度でこられなくなると思えない。それとももう少し重い病気なのか。  それにしても気になるのは、娘の答え方である。伊織の声と知ると、少し狼狽したような声で、「ちょっと休んでいるのですが」といったまま、口を噤《つぐ》んでしまった。そのあと、なにをきいても、同じ返事をくり返すばかりである。家にいるなら、電話口にくらい出してくれそうなものだが、そんな気配はまったくない。むしろ伊織と話すのを邪魔しているといった感じである。  いずれにせよ、このままでは京都へ行っても仕方がない。霞と一緒だからこそ、行く気になったので、一人ならわざわざ出かけるまでもない。しかし、行かないとなると、旅館から切符まですべてキャンセルしなければならない。切符はともかくとして、旅館は無理をいって頼んだだけに断りにくい。  だが、放っておくわけにもいかない。伊織はその場で京都の旅館に電話を入れた。一緒に行く予定の人が、急病になって行けなくなった、とわけを話して丁重に謝る。 「うちはちっともかましまへん、また機会がありましたら、つかっとくれやす」  やわらかな返事だが、電話の向こうの渋面は察しがつく。受話器をおいて、改めて改札口のまわりを見廻してみるが、やはり霞の姿はない。病気とすると、なんの病気なのか。前日まで元気だったのに、急に悪くなったとすると、胃痙攣とか虫垂炎のようなものか。それとも怪我か。しかし怪我なら、はっきりいうだろう。考えながら、伊織はゆっくりと八重洲口のほうへ戻って行く。  せっかく、今夜の楽しい夢を描いていたのに、逢えないと知って急に力が抜けてしまった。まさに出かける寸前、出鼻をくじかれて気持のやり場がない。ともかくいまは部屋に戻って、霞からの電話を待つより仕方がなさそうである。  自分にいいきかせてマンションに戻りかけたが、出かけるとき富子がいたのを思い出して、今度はマンションのほうへかけてみる。 「電話がきてなかった?」  京都に行くといってでかけたのに、途中からかけてよこしたので、富子は不思議に思ったらしい。 「いま、どこにいらっしゃるのですか」 「ちょっと、用事ができて遅れてしまったんだが、電話はなかったろうね」 「別に、ありませんでしたけど」  もしかして、霞から連絡があったかと期待したが、富子の答えは素気ない。 「じゃあ、京都にはこれからいらっしゃるのですか」 「いや、今日はもう無理かもしれない。これからマンションに戻る」 「それじゃ、夕食の用意でも」 「外で食べるから、君はもう帰っていいよ」  逢引きが不成功に終り、気落ちして帰るときに、富子にいられては気が重い。 「あと一時間くらいで戻るから、もし電話があったら、メモ用紙に書いておいてくれ」 「わかりました」  京都へは仕事でいくといってあるのだから、霞と逢えなかったことまでわかるわけはないが、勘のいい富子のことだから、あるいは察したかもしれない。しかし、いまさらそんなことを気にしても仕方がない。  伊織はまっすぐタクシー乗場のほうに行きかけたが、途中、売店の横に赤電話があるのを見て立止った。  霞と逢えなくて思い出したというわけでもないが、やり場のない気持を静めるように自由が丘の家のダイヤルを廻す。 「あ、パパか」  でたのはまり子だった。突然なので、吃驚したらしいが、すぐそんな自分が可笑しくなったのか一人で笑う。 「美子は、どうだ?」 「ギプスを巻いたまま入院してるよ、あの子ったらね、もう痛くないからとりたい、なんていってるのよ」 「それで、あとどれくらい入院するの?」 「先生は、もう一週間して、写真撮って、よければ退院してもいいっていってるんだけど、ママはもっとおいといてもらおうかなって、いってたわ。あの子、家に帰ると我儘になるでしょう」 「じゃあ順調なんだな。ちょっと心配になったものだからね。美子に大人しくしてるようにいっといてくれ」  急に京都行きが中止になって時間があいてしまった。そこで子供の怪我を思い出したというのが本当だが、霞の次に、娘のことが気になっていたことはたしかである。  一時間後にマンションに戻って書斎に行ってみると、机の上に富子の躰に似合わぬ小さな字で書きおきがある。 「待っていましたが、電話はありませんでした。お先に失礼します。午後三時」  伊織はその紙片を読むと、手のなかでまるめて屑籠に捨てた。  約束の場所にもこないし、電話もよこさないとなると、やはりなにかあったと思わなければならない。しかしたとえ急な病気としても、今日は行けなくなったと誰かに連絡くらい頼めなかったのか。あるいは、電話があったら伝言するようにといっておくべきではないか。それをなんの連絡もないところをみると、余程、悪い病気なのか、それとも「伊織」という名を出したくなかったのか。しかし、娘やお手伝いの女性は、すでに二人のあいだをうすうす知っているはずである。「伊織さんから電話があったら……」と、娘にこっそり頼んでもいいはずである。それもしないところをみると、娘にもいえないことがおきたのか。  それにしても気になるのは娘の態度である。電話で応対しながら、いつもより冷ややかで迷惑そうな感じであった。とにかく、いままでの声の調子とはまったく違う。  あれこれ考えながら、伊織の目は電話を追っている。「チン」と鳴った瞬間、すぐ受話器をとる態勢でいるが、一向に鳴る気配はない。  そのまま待つうちに陽は傾き、雲の端がわずかに赤味を帯びてくる。朝から晴れきらず、淡い雲が薄くおおって、花曇りのような天気であった。その微熱をたたえたような春の一日がようやく終りかけている。  あのまま順調に行けば、もうそろそろ京都に着くころである。今日は全国的に気温も高そうだから、いまごろなまあたたかい京の宵を散策していたかもしれない。それとも部屋で休んで、庭を眺めながらお茶でも飲んでいたか。いつも霞はホテルに着くとすぐ背広やズボンをハンガーにかけ、靴下もきちんとたたんでくれる。黙っていても浴衣を出して肩にかけ、浴槽に湯を張ってくれる。どこで身につけたのか、霞にはそういう気配りのよさがある。京の宿での、そんな情景を期待していたが、いまとなっては夢である。 「せっかく……」つぶやくとまた口惜しさが甦ってくる。何故こられなかったのか、それだけでもはっきり知りたい。考えるうちに伊織は無意識に受話器をとる。そのまま辻堂の局番を廻し、霞の家の番号まで廻しかけたところで、慌てて受話器を戻す。  さっき、あれほど頑《かたく》なな娘の態度にあっていながら、またかけては迷惑がられるだけだ。辛くても、ここは向こうからの電話を待つべきである。そのまま夜に入ったが、伊織は霞からの電話を待ち続けた。途中から落着かず、ブランディを飲み、少し酔ったが、一歩も外へ出なかった。  だがやはり電話はない。途中、ベルが二度ほど鳴ったが、一人は商事会社に勤めている友人からで、一人は知っているクラブの女性からだった。伊織は適当に受け答えして電話を切った。  彼等と話していても、心は別のところにあり、気持がのっていないのが自分でもわかる。霞と一緒に旅行ができなくなっただけで、これだけ意気消沈する自分が、少し哀れであり、腹が立つ。さらにブランディを飲み、視線だけテレビに向けていると、電話が鳴った。 「今度こそ……」と思って出ると、村岡からだった。 「なんだ、いたのか……」  京都に行くことは告げていなかったが、土曜日の夜にいたことが不思議であったようである。 「どうせ、いないだろうと思って電話をしてみたのだが、なにをしている?」  霞と逢えずに、一人で自棄《やけ》っぱちに酒を飲んでいた、ともいえず黙っていると、 「よかったら、出てこないか。いまある画家の古稀の祝いがあって、そのあと赤坂で飲んでいる。友達が一人いるが彼はもう帰る。ミスジ通りの�さわ�だから、わかるだろう」  時計を見ると十時である。もうこれからでは電話はきそうもない。あてのない電話を苛々しながら待つより、飲みに出たほうがさっぱりするかもしれない。 「よし、行こう」  伊織は勢いよく返事をして立上った。そのままネクタイを締めず、ジャケットだけ着て出かけると、村岡はカウンターでママと話していた。この店には数回きているが、いずれも村岡に連れてこられたのである。 「なんだ、大分飲んでるじゃないか」  家に大人しくいたので村岡は素面《しらふ》だと思ったらしい。 「またいい女でも見つけて、こっそり二人でやっていたんじゃないのか」 「馬鹿なことはいうな、女なぞもうやめた」  伊織はお冷やを一口飲んでから、急に思い出したように村岡に顔を近づけた。 「例の英善堂の社長はどうしている?」  唐突すぎるかと思ったが、村岡は飲んでいるせいか、気にかけた様子もなく答える。 「英善堂の社長は、一時病気だったようだが、最近退院したらしい」 「どこか悪かったのか」 「肝臓とかってきいたような気がするが、先月の末に会ったときには元気そうだった。彼がどうかしたのか?」 「いや、別に……」 「社長より、奥さんのほうを思い出したのだろう。パーティで会って、その晩にデートしたのだからな」 「あれは昔会ったことがあったので、話をしただけだ」 「しかし、彼女もおとなしそうな顔をして、隅におけないらしいぞ。最近、浮気をしているという噂もあるからな、まさか、お前じゃないだろうな」 「どうして……」  不意をつかれて伊織が反射的にきき返すと、村岡は笑って、 「冗談さ、ここのところ、お前は浮気どころじゃなかったからな」  伊織は頬の火照りを覚えたが、村岡は気づいた様子もなく、 「しかし、あれだけの美女だからな、男達が寄ってくるのも無理はない」 「その噂というのは、本当なのか」  伊織としては、そのほうが気になる。 「いや、画商という商売柄、若くて生きのいい画家がいろいろ出入りするだろう。その連中がデートに誘ったとか、手紙を出したとか、たいした根拠もないのにがやがや騒いでいるだけさ」  どうやら自分とのことではなさそうなので、伊織は安堵する。 「英善堂の社長が入院していたのは、いつごろだ?」 「今年の初めだったかな、ちょっと風邪をこじらせたのがもとだといっていたから一カ月くらいじゃないのか」  それでは、ヨーロッパ旅行した時とはずれている。伊織が考えこんでいると、村岡は水割りを飲み干して、 「あまり、美人の奥さんをもらうとあれこれいわれて大変だ。その点、俺なんか、いまのでよかった。もっとも美人を養うほどの金もないからね」  そこで村岡は楽しげに、 「しかし、お前もこのごろは土曜日もあいているようになったのだな」  村岡が茶化すのをききながら、伊織はいまなら酔った勢いをかりて、霞の家に電話をかけられそうな気がしてきた。幸い電話はカウンターの端にあって、今の席からはきかれそうもない。  伊織は勇気をつけるように、水割りを飲んでから「ちょっと……」といって立上った。そのまま電話の前にいって受話器を持つ。霞の家のダイヤルを廻すが、村岡はまたママと話している。遠くから、その横顔を眺めながら、ダイヤルを廻す。  もし、今度も娘がでたら切ろうか。娘でなく、お手伝いの女性だったら、初めてのようなふりをしてきいてみようか。できることなら、霞が直接電話にでてくれますように。祈るような気持で受話器を耳に当てていると、いきなり男の声が返ってきた。 「もし、もし……」  一瞬、伊織は息をのみ、それからそっと耳元から受話器を離した。声は間違いなく男の声で、しかも五十前後のようである。 「もしもし……」  受話器から、さらに男の声が洩れてくる。その声をききながら、伊織はそっと受話器を戻した。いままで何度か辻堂の家に電話をしても、霞の夫がでることはなかった。いまの声が夫かどうかはわからぬが、声の感じからまず間違いなさそうである。一瞬だが、声をきいたかぎりでは意外に若々しく、歯切れもよかった。  伊織は以前、村岡にきいた霞の夫のことを思い出した。単なる商人という感じとは違って、長身で眼鏡をかけて学者ふうな感じの人だといっていたが、そのイメージと声はあっている。  やはり、霞の夫だったのか……  直接声をきいて、伊織は急に相手の男性を身近に感じた。なにか、きいてはならぬものをきいたような感じである。だがそれ以上に不思議なのは、今日にかぎって、霞の夫がでたことである。偶然だったのか、それとも今日だけ特別なのか。そのまま席に戻ると村岡がきいた。 「なにか、用事でもできたのか」 「いや……」  声をきいた驚きはともかく、何故、今日だけ、霞の夫が電話にでたのか。昼の娘の電話といい、いまの夫の声といい、いつもの霞の家の様子とは、大分違うようである。  ともかく霞の夫の声をきいたことで、辻堂の家に電話をする意欲は完全に失せた。  あとはひたすら向こうからの電話を待つだけである。  だがそれから二日経ち、三日経っても、霞からはいっこうに連絡がない。  昼間でもかかってくるかと、できるだけ事務所やマンションにいるようにし、外出から帰ったときは、留守中の電話の有無をたずねるが、電話がきた気配はない。  いったい、霞はどうしたのか……  京都へ行く約束の日から、なにか神隠しにでもあったように、ぷっつり消息が途絶えている。まさか死んだわけでもないだろうに、一本の電話ぐらいよこしてもよさそうなものだが、天に昇ったのか、地に隠れたのか。少し大袈裟だが、そんな気がしないでもない。  ともかく、こちらから電話をして、様子を探れないのが辛い。そのまま不安と苛立ちのなかで一週間がすぎた。  もはやこれは普通ではない……  いままで、霞と半月近く逢わないこともあったが、その間も声だけはきいていた。去年の夏ごろは、毎日のように電話で話しあったこともある。それからみると信じられないほどの長い空白である。  あれこれ思いを巡らしながら、伊織は改めて旅行に行く直前の状況を考えてみる。その前日、電話で話したときには、霞の態度にとくに変ったことはなかった。いつものように明るい声で「京都は久しぶりだわ」とはしゃいでいた。その前二人で逢ったときは、マンションで愛をたしかめたあと、辻堂まで車で送り、途中、夜の海を見ながら、車のなかで接吻を交わした。  もしかして、その瞬間を誰かに見られてトラブルでもおきたのか。しかし車は停めていても、なかまでは見えないし、それらしい人影もなかった。霞を家まで送ったが、旅行はそれから十日あとである。その日まで、変りなかったのだから、送ったことが問題になったとは思えない。  とすると、霞のうえになにがおきたのか。桜が咲きはじめる予感のなかで、伊織はソファに横になって考える。  部屋の片隅にある電話のベルが鳴ったのは、それから二十分ほど経ってからだった。  不思議なことに、チンという音をきいた瞬間、伊織は霞からの電話と直感した。それはまさにインスピレイションとしかいいようがない。電話が欲しいと待ち望んでいた、その願いがベルを鳴らさせたといった感じである。 「もしもし……」  予感どおり霞の声と知って、伊織は思わず大声を出した。 「どうしたのだ」  突然の声に、霞は驚いたらしい。短い沈黙のあと小さくつぶやく。 「ご免なさい」  伊織は思わず息がつまった。なにからききだせばいいのか、思いがあふれて咄嗟に言葉にならない。 「今、どこにいるの」 「家です……」  瞬間、前にきいた霞の夫らしい男の声が甦る。 「そちらに、電話をしたら、休んでいるといわれた」 「済みません」 「あの日、やっぱり来なかっただろう」 「………」 「新幹線の改札の前で、ずっと待っていた」  土曜日のことを思い出すと、次々といいたいことがあふれてくる。だがいまそれをいうと、すべて恨みと愚痴になってしまう。 「あとで、電話くらいくるかと思った」 「ご免なさい」  霞はひたすら、同じ詫びをくり返す。 「なにかあったの?」 「………」 「いま、話しにくい?」 「そんなことはありませんけど……」 「じゃあ……」  促すが返事がないまま、また沈黙が訪れる。向こうからかけてきたのだから、話しづらいわけはなさそうだが、まだ気持がまとまっていないようである。 「どうしているかと、ずっと心配していた」 「………」 「逢いたい……明日でも、明後日でもいい、出てきてくれないか」  話すうちに、京都へ行けなくなった理由など、どうでもよくなってきた。 「いいでしょう」 「もう、逢わないようにしましょう……」 「なに……」 「わたし達、逢うのをやめましょう」  霞がこのような沈んだ声を出すのは初めてである。電話ではっきりしないが、途切れたときは泣いているようである。 「どうしたの、なにかあったの?」  あまり問い詰めては悪いと思いながら、じっとしていられない。 「ちょっと、躰の具合が悪かったのです」 「あの日、急にですか?」 「眩暈《めまい》がして、そのまま……」  あるいはそうかと思ったが、はたしてそれだけなのか。伊織は少しなじるように、 「ずっと、心配していたのです。でももういいんだね」 「………」 「逢いたいのです、逢って下さい」  自分でも呆れるほど、はっきりいうと、小さな溜息が洩れて、 「やっぱり、やめましょう」  伊織は慌てて受話器を握り直して、 「そんなこと突然いわれても、僕には納得できません。なぜ逢えないんですか、僕をきらいになったんですか」 「そんな……」 「じゃあ、いいでしょう。いますぐがだめなら、来週の半ばでも、末でもかまいません」 「お願いがあるのです。わたし達、これからお友達になりましょう」 「友達……」  伊織は急に可笑しくなった。すでに何度も肌を許し合ってきた男女が、いまさら、友達などになれるわけがない。 「逢えない理由があるなら、はっきりいって下さい」 「………」 「どうして逢ってはいけないのですか、誰かに叱られるのですか、怖いのですか」 「いいえ……」 「とにかく一度逢って下さい。逢ってくれなければ、何度も電話をしますよ」 「だめです」 「それが困るのなら出てきて下さい。来週の火曜日か、水曜日、どちらにしますか」 「そんなに早くは……」 「じゃあ、土曜日、土曜日の午後にマンションで」 「あのう、お願いですから、外にして下さい」  霞は部屋で二人だけになることを怖れているようである。 「わかりました、それじゃ外にします」  他人の目があるところでは落着かないが、ともかくいまは逢うことが先決である。  伊織は考えて、青山の絵画館へ行く道の手前の喫茶店を告げた。そこなら霞も前を通って覚えているし、静かで落着いている。 「土曜日に、二時に、今度はきっとですよ」  伊織は念をおし、霞が「はい」と答えるのを待って、自分でもうなずいた。  霞から電話があったことで、伊織の気持はひとまず落着いた。これで、連絡のないまま一方的に向こうからの電話を待つ、という苛立たしさからは逃れられたようである。  だがそれで、この間の逢えなかった理由が納得できたわけでもない。  霞の話をきいたかぎりでは、出かける寸前になって、体の調子がおかしくなったことだけはたしかなようである。だが、どこがどのように悪かったのか、細かいことは一切いわない。本人は軽い眩暈だというが、来週まで外出もできないというところをみると、ただそれだけとも思えない。  ともかく、電話くらいなら、もっと早くできたのではないか。あの日といわなくても、せめて翌日くらいにくれるべきではないか。それをよこさなかったところをみると、やはり、もう少し深刻な理由があったのではないか。  村岡の話では、霞の夫は入院していたというが、今年の初めというのだから、今度のこととは直接関係はなさそうである。しかし電話での霞や娘の態度から、霞と夫とのあいだに、なにかあったと考えるのが妥当かもしれない。もしかして、出かける寸前に、夫になにかいわれて出られなくなったのではないか。実際、今日の霞の声にはいつもの明るさはなく、沈んで、なにかに怯えている感じでさえあった。話しながら、常に自分をたしなめ、おさえようとしている。 「もう、逢うのはやめましょう」とか「お友達になりましょう」などというのは、あきらかに、いままでの自分を反省し、自制している態度である。ああいういい方をするのは、やはり夫とのあいだにトラブルがあったからに違いない。夫に叱られるか、たしなめられて、出られなくなり、そのことから自己嫌悪にでもおちいったのか。そのまま鬱《うつ》の殻のなかにでも閉じこもったのか。ともかく、霞の心と躰に、大きな影響を与える事件がおきたことだけはたしかなようである。  だがそれにしても、あれほど密だった霞と自分との仲が、そんな些細なことで崩れそうになるとは、思ってもいなかった。  何度も愛をたしかめ合い、ひかれ合っている男女の絆は、そう簡単に切れるものではない。たとえ夫に露見したとしても、霞はまだ自分を愛しているはずである。その証拠に電話はくれたし、一週間後には逢う約束までしてくれた。いまの伊織はその事実を信じ、それに頼るより仕方がない。  一週間後の約束の日を待ちながら、伊織は今度逢うときのことを考えた。  霞は逢うことは承知したが、マンションは避けて外を希望した。部屋で二人だけになると、また前と同様、肌を許すことになる。土曜日の午後、外で逢いたいというのは、それを警戒しているからに違いない。  なにか悪者のように警戒されたのは口惜しいが、ともかく霞が逢う気になったことだけは進歩である。とやかくいっても、まず逢わないことには話にならない。電話ではなく、面と向かって顔を合わせれば、また状況は変ってくるはずである。  逢ってまっ先に質《ただ》さねばならないのは、この前の日から、霞のうえに起こった変化についてである。電話ではいいにくそうだったが、逢えば気持も和んで正直に話してくれるかもしれない。さらに話のすすみ具合によっては、また二人だけで、愛をたしかめ合うこともできるかもしれない。このあたりは、少し一方的で虫がよすぎるかもしれないが、といってまったく無理とも思えない。愛が醒めた男女ならともかく、二人はまだ愛し合っている仲である。口でこそ、「もう逢うのはやめましょう」といっても、それは心底から望んでいったのではなく、仕方なくつぶやいたにすぎない。  その証拠に、霞は「これからはお友達になりましょう」といっている。まったく関心がないならそんなことはいわないはずである。友達で、ということは、これからも別れないという意志の表明である。男と女は頭で考えるほど、きっぱりと別れきれるものではない。とくに深く関わり合った男女は難しい。気持の上では整理がついたつもりでも、躰の奥で求め合い、また引きずられているということもある。  実際、頭で考えるようにスムーズにいけば、男と女のトラブルなどおきはしない。複雑で理性どおりいかないところが、男女の仲の困ったところであり、そして魅力的なところでもある。それを利用するというわけでもないが、霞に逢いさえすれば、二人のあいだはなんとかなりそうである。たとえいまは「いや」といっていても、話をするうちにまた前の親しみが甦ってきて、二人だけになることに応じるかもしれない。場合によっては伊織は、霞の前で土下座してもいい。みなの前で、「頼むから、君が欲しい」と手をついて頼めば、霞も無下に断らないはずである。  いま伊織は、ひたすら楽観的なことだけを考える。  マンションから見下す一隅に児童公園があり、そこの満開の桜の上に雨が降っている。つい数日前はまだ蕾であったのが、この二、三日の陽気で一気に花開き、それを待っていたように冷雨が襲ってきた。雨はときに風をともない、咲いたばかりの花びらのいくつかを、地上にたたき落していく。まさに「花に嵐」のたとえどおりである。  といって、そんな言葉に感心しているわけにもいかない。ようやく咲いた桜が、美しさを誇る間もなく、雨に打たれ、散っていく姿は無残すぎる。こんなことなら、いっそ咲かなければいいのに、桜は真剣に咲きすぎる。樹木全体、ものの怪《け》にでもとり憑《つ》かれたように咲き狂う。  満開の桜を見ていると、伊織は狂女を連想する。桜の咲き方には、手加減をくわえたり、バランスをとるということがない。ひたすら一途に、全精魂をこめて咲き誇る。満開の桜には、女の情念と情欲が秘められている。  そこにいま、冷雨が降っている。春陽のなかであまり華やかに桜が咲きすぎると、他の草木の立場がなくなる。自然の神様は、そのあたりのことを考えて、ときに桜に嵐を与えるのかもしれない。雨のなかの桜を見ながら、伊織の頭のなかは自然に霞のことに移っていく。  逢うのは明日の土曜日である。そのときまでには雨があがるかもしれない。京都へ行く約束をして逢えなくなって、すでに半月経っている。マンションで逢ったのは、その十日前だから、もう一カ月近く、肌を触れ合っていないことになる。  今度、逢ったらどうしてくれようか……  この一カ月の思いのたけを、あのやわらかい肌に刻みこんでやらねばならぬ。「もう助けて」と息を荒らげ、狂い死にするほど嬲《なぶ》り、愛してやる。  悦びの頂点にのぼりつく瞬間、霞の全身は満開の桜になる。全身がピンクに彩られ燃えさかる。考えるうちに、霞とくり返した、過去のさまざまな場面が甦り、伊織のほうが熱くなる。  明日は青山の喫茶店で、午後二時の約束である。はっきり何度もたしかめたのだから忘れるわけはない。そう思いながらふと不安がかすめる。三十半ばにもなって「友達になりたい」などと子供じみたことをいう女性である。いま一度、確認しておくにこしたことはない。また一段と強くなった雨のなかで桜が縮こまっている。その雨に身をすぼめている桜を見ながら、伊織は霞の家のダイヤルを廻す。  午前十時台は、霞が最も電話に出ることの多い時間である。いままでも特別のことがないかぎり、この時間帯にかけることが多かった。  いまも、時計が十時半を指したのをたしかめて、伊織はダイヤルを廻した。前から霞の家に電話をするときは、軽い緊張を覚えたが、この前、夫らしい人の声をきいてからは、その度合いがさらに強まった。まさか、今度もでるわけはないと思って息を潜めていると、若い女性がでた。もう何度もきいているので、すぐ娘の声とわかる。 「もし、もし……」  相変らず、少し堅い声が受話器から洩れてくるのをききながら、伊織は黙って電話を切った。娘は春休みに入って、このところずっと家にいるらしい。彼女とは、この前、霞がこられなかったときに、いろいろ問いただして、気まずい思いをした。あのときだけ特別だったのかもしれないが、いままた霞を呼んでもらうのは少し気がひける。  名前もいわずに電話を切って悪いことをしたが、いまの場合、仕方がない。伊織はいずれあとで、もう一度電話をすることにして事務所へ出かける支度をした。書類をまとめ、リビングルームでネクタイを結んでいると、富子がきいた。 「また、お花を買ってこようかと思うのですが、なにがよろしいですか」  いわれて部屋を見廻すと、たしかに花はどこにもない。大分前に、富子が買ってきた百合も、とうに枯れて捨てたあとである。霞がこなくなって、マンションからは急に花が消えてしまった。最後に霞が活けていったのは、みやこ忘れで、灰皿の上の剣山に挿していったのだが、それも姿を消して半月以上になる。 「もうチューリップがお花屋さんにでていますが、それにしましょうか」  部屋に花があるにこしたことはないが、できることなら霞が活けるような、風情のある茶花が好ましい。だが、それを富子に求めるのは無理というものである。 「あまり、うるさくない花がいいな」  伊織がいう意味を富子はわかったのか、簡単にうなずく。  バッグ一つを持ってマンションを出ると、外は相変らず雨が降り続き、ときたま思い出したように、横なぐりの風が吹きつける。マンションの先の家の塀からあふれた桜が、その度に鋪道に花びらを落す。 「困った風だ……」  伊織は一人でつぶやき、公衆電話を探す。事務所に出たら、霞に電話をしづらくなる。いま行く途中に、かけておいたほうが安心である。  青山通りから表参道へ入ったところに、電話ボックスがあった。伊織はそこで車を停めてなかに入った。さきほどは娘がでたが、今度は霞がでて欲しい。祈る気持でダイヤルを廻すと、願いが通じたのか霞の声が返ってきた。 「よかった。ようやくでてくれた」  いきなり伊織がいうと、霞は小さく溜息をついて、 「吃驚しました、どうかなさったのですか」 「突然、電話をかけてはいけないのですか?」 「そんなことはありませんけど、まさかと思ったので」 「明日、二時ですよ。また、この前のようにすっぽかされると困ると思って今度は電話をしたのです。大丈夫でしょうね」 「はい……」  霞はいったん答えてから、 「すみませんが、もう少し遅くしていただけますか」 「かまいませんが、何時がいいのですか」 「四時ごろが……」 「じゃあ、四時にしましょう。今度、来てくれなければ本当に怒りますよ。きっとですよ」 「あのう、お逢いするだけですね」 「そうです。とにかくきて下さい」  相変らず、霞は警戒的だが、いまそのことに文句をいってもはじまらない。伊織は話題を変えるように、 「今日は雨ですが、明日は晴れるようです。着物できますか?」 「どちらにしましょうか」 「できたら着物にして下さい。もうしばらく着物姿を見ていない」  最後に逢ったときも洋服姿であったと、伊織は遠いことのように思い返す。 「あなたがこなくなってから、部屋のなかは花もなくて、殺風景なものです」 「じゃあ、なにかお花でも持っていきましょうか」 「本当ですか……」  思いがけぬ一言で、伊織は生気をとり戻す。 「明日待っています、四時ですよ。それとも、もう少し遅くしましょうか」 「いえ、その時間で結構です」 「じゃあ、きっとですよ。いま事務所へ行く途中で、原宿の公衆電話からです」 「いってらっしゃいませ」  一瞬、伊織は霞に見送られた気持になって電話を切る。そのままハミングでもしたい気分で外に出ると、雨まじりの風がズボンの裾を叩いていく。だが、伊織はもう天気のことは気にならなかった。  伊織の事務所は、土曜日は三時までである。といっても所員の半数ずつが交互に出るだけで、実際は隔週ごとの休みと同じである。仕事本位の伊織の考えからすれば、土曜日は休んでもかまわないのだが、工事現場をもっていると、ときに急な用件がとびこんでくる。土曜日の勤務は主にその用件をさばくためで、所内はいつもより暢んびりしている。  だが霞と逢う日の朝、伊織は十一時に事務所に出て、そのまま一歩も外へ出なかった。まさかと思うが、また霞に万一のことがあっても、事務所にいれば連絡を受けられる。そのつもりで伊織は動かないのだが、三時になっても帰らない所長に、所員達は戸惑っているようである。 「僕はもう少し用事をしていくから、君達は帰り給え」  伊織のほうが気をつかっていうと、所員達は一人ずつ、済まなそうな顔をして帰っていく。三時十分になると、もう誰もいなくなって、事務所はがらんと倉庫のようになる。  事務所で一人になったのは久し振りである。伊織は煙草を喫いながら窓を見た。昨日、花を無残に濡らした雨は朝方にあがって、明るい春の陽が鋪道いっぱいにあふれている。  風雨に打たれて桜は大分散ったように思ったが、陽気とともに桜は再び勢いを盛り返したらしい。いま向かいのビルのあいだの狭い敷地に咲いている桜は、全身、ピンクの帽子をかぶったように咲き誇っている。日によって桜の風情は異なる。伊織はそれがふと、女の移ろいに似ているような気がして可笑しくなった。  そのまま三時半になったところで、伊織は机の上の書類を整理した。必要なものを抽斗《ひきだし》に納め、吸殻をもみ消して、ブラインドを閉めると、事務所のなかは淡い闇に閉じこめられる。最後に明りを消し、戸を閉め、鍵をかけて廊下へ出ると、一瞬、ひんやりと肌寒さを覚える。  土曜日の人のいなくなったビルのなかにも、花冷が忍びこんでいるらしい。伊織は靴音がいつもより高いのを感じながら、エレベーターにのり、下へおりる。外へ出ると左右の歩道は若者であふれている。伊織はそのあいだを抜けて、タクシーを拾う。  ここから約束の青山の喫茶店までは五、六分あれば行ける。四時には少し早いが、伊織はむろん先に行って待っているつもりである。  車をおり、青山の喫茶店に着いたのは、三時五十分だった。霞の姿はなかったが、約束の時間より十分早い。そのまま伊織は中程の席に、入口のほうを向いて坐った。ここなら霞が入ってきてもすぐわかる。それをたしかめてコーヒーを頼む。  久しぶりに晴れた土曜日の午後だが、店は閑散としている。夕方の少し前という中途半端な時間のせいかもしれない。  伊織がこの店を初めて訪れたのは、もう三年くらい前になる。散歩の途中、なに気なく立寄ったのだが、都心の喫茶店にしてはゆったりして古い映画音楽が暢んびり流れているのが気に入った。店主らしい三十半ばの品のいい女性がいつもいるが、趣味ででもしているのか、客が入っても入らなくてもあまり気にかけていないようである。いまもやわらかい音量で、「太陽がいっぱい」が流れている。隅のほうにいる若い学生達には退屈かもしれないが、伊織やその斜め向かいでコーヒーを飲んでいる中年の男性には、懐しい曲である。  伊織はコーヒーを飲みながら、去年の秋、この向かいのレストランで、妻の兄と会ったことを思い出した。そのとき、義兄は妻が離婚に承諾したことを静かな口調で告げた。温厚で誠実な人であったが、その義兄とも妻と別れてからは会っていない。  とりとめなく思い出しながら、時計を見ると四時になっていた。伊織はいったん入口のほうを見てから、店の新聞を借りた。できることなら、このまま新聞を読んでいるときに霞に現れて欲しい。なにげなく人が近づくのを感じて目をあげると、霞が笑顔で立っている。そんな情景を勝手に期待する。  はたからみると読んでいるように見えるが、その実、五感はすべて入口のほうへ向けられている。いままた厚いガラスのドアを押して客が入ってくる。女性で一人であるところまでは、視線の端でとらえて察しがつくが、それ以上はわからない。いかにも人を待っている風でなく、ゆっくりと関心なさそうに顔をあげる。だが女性は霞でなく、この店の馴染みの人らしく、店主と軽く目配せして奥のカウンターに坐る。伊織は再び新聞に目を戻しながら、時計を見る。四時十分である。  久しぶりの外出で、着物を来てくるとすると、二、三十分は遅れるかもしれない。それに土曜日で車も混んでいるのかもしれない。伊織は自分にいいきかせて、さらに落着いたポーズで新聞に目を向ける。  さらに二十分経ち、四時半になったが、霞は現れない。いままでは暢んびり新聞を読んでいる風を装っていたが、こうなっては落着いていられない。新聞はテーブルにおき、目は入口のほうを見たまま、ガラスのドアの先に人影が映る度に首を伸ばす。だが、入ってくるのは、霞とは似つかぬ人ばかりである。違うと気が付く度に、伊織は気忙しく煙草ばかり喫う。  そろそろ夕方が近づいて、客の出入りが激しくなる。きたときは三組しかいなかった客が、いまは倍以上にふえて、あいている席は一つしかない。伊織は一人でボックスを占領しているのに気がひけて、また新しいコーヒーを頼む。音楽はいつのまにかピアノ曲に変っているが、もはや耳を傾ける余裕もない。  またなにか起きたのか……  再び、伊織の脳裏に不吉な予感が拡がる。急に用事でもできたのか、それとも店がわからなくなったのか。しかしこの店のことは何度も説明したし、電話番号も教えてある。それにここへくる前は、ずっと事務所にいたのだから、わからなければ電話をよこすはずである。  もしかして、急に気が変ったのか……  約束をするまで、霞は少し渋っていた。外で逢いましょうと、二人だけになるのに警戒的だった。だが、着物にしましょうかと尋ね、花でも買っていきます、とまでいっている。初めこそ躊躇したが、あとでは完全にくる気になっていた。 「あれだけ約束してこないわけはない」自分にいいきかせて、もう一度煙草に火をつける。ゆっくりと喫っているつもりが気付かぬうちに早くなる。  またドアが開いて新しい客が入ってくる。三人組だが坐るところがなくて、ウエイトレスが断っている。  伊織はいたたまれず二杯目のコーヒーを飲み干してから立上った。もうこれ以上、待っているわけにいかない。ポケットに手をつっこみ、十円玉をたしかめ、電話のあるレジのほうへ行こうとしたとき、またドアが開いて女性が一人現れた。その女性の顔を見た瞬間、伊織は立止った。  どこかで見たような顔である。女性も同じらしい。おや、といった顔で伊織を見ている。そのまま向かいあっていると、女性は少し硬張《こわば》った表情のまま、頭を下げた。  相手の会釈に合わせるように、伊織も軽く頭を下げる。どこかで会っているような気がするが、はっきり思い出せない。そのまま見詰めていると、若い女性はまっすぐ近付いてくる。 「あのう、伊織さんでしょうか……」  その声を聞いて、伊織はすぐ思い出した。少し硬く、突慳貪《つつけんどん》ないい方は、電話で何度もきき慣れている。 「わたし高村かおりですけど……」  思ったとおり霞の娘であった。いままで電話で話したことはあるが、面と向かって会うのははじめてである。 「伊織です」  伊織は坐らないかというように席のほうを振り返ると、娘は戸惑った表情をした。 「どうぞ……」  促されて娘はそろそろと坐り、もう一度頭を下げた。 「突然、お伺いして申し訳ありません」  かおりはクレージュのシャツに綿のキュロットスカートをはき、髪を長くうしろに垂らしている。霞の実の娘ではないときいていたが、華奢な躰つきや、眼元のやわらかい感じはよく似ている。  それにしても、霞の娘がなぜきたのか、この時間にこの場所にくるのは、まさか偶然とは思えない。 「お一人ですか……」  なにからいっていいものか、わからず尋ねると、かおりは小さくうなずいて、 「あのう、今日は母がこれなくなりまして……」 「やはり」とでかかった声をおさえて、伊織は自分を落着かせるように、煙草に火をつけた。 「お母さんはなにか用事でも……」  かおりは両手を膝の上にきっかりとのせたまま、ゆっくり首を左右に振った。 「母は、休んでいます……」  相変らずいい方は素気ないが、それは冷たいというより、この娘の緊張したときの癖らしい。 「じゃあ、病気でも?」 「薬をのんで、休んでいます」 「くすり?」  伊織がきくと、かおりは急に決心したように顔をあげて、 「わたし、お願いがあるのです。母ともう逢わないで下さい」  いきなりそういわれても、答えようはない。呆気にとられていると、かおりはさらに哀願するようにいった。 「母を、もう誘わないで下さい」  ガラス窓の向こうに青山通りが見える。夕方が近づいて、車は増えてきたようだが、土曜日のせいか、人々の表情はどこか暢んびりしている。歩きながらウインドウを覗いたり、ひとかたまりになって話しながら行く女性のグループも見える。いま信号が青になり、再び車が流れだす。その人々と車の先に、絵画館へ向かう銀杏《いちよう》の並木が見える。まだ新緑には早いが、鋭くとぎすまされた梢がわずかに色づき始めている。  伊織は一瞬、ガラス一枚へだてた世界が、夕暮れのなかに輝かしく生き生きしているのが不思議に思えた。いま若い女性と向かい合っている喫茶店のなかと、外の情景の違いに戸惑っていた。その遠い世界から、伊織はゆっくりと視線を戻すと、軽くうつむいたかおりの白い額を見ながらいった。 「今日、あなたがここにきたのは、お母さんに頼まれてですか」 「いいえ」  顔を振る度に、かおりの長い髪がかすかに揺れる。 「母に黙って、きました」 「じゃあどうして、ここだと……」 「わたし、母のことなら全部わかります」  かおりはそこで少し意地悪な眼差しになって、 「この前、母が京都に行くときも知っていたのです。あのあと、おじさま、お電話を下さったでしょう」 「………」 「あのとき、ご気分を悪くなさったかもしれませんが、母と逢って欲しくなかったのです」  たしかにそのときの、かおりの応対は冷ややかであった。 「わたし、初めは、ママとおじさまと、仲良くなることに賛成だったのです。だから、ずっとママの味方でした」  この目の前の少女の名残りをとどめた娘が、自分達の味方であったのか。伊織は不思議な思いで、かおりを見た。 「わたし、ママとおじさまのことはみんな知っています。去年の六月に奈良に一緒に行かれたのも、秋にヨーロッパへ行かれたことも、お正月に逢われたことも……」  そこまで知っていたとあっては、なにもいうことはない。伊織は軽く顔をそむけて煙草だけ喫う。 「ママはわたしに全部教えてくれたのです。わたしが味方だから信用して……」  そこで、かおりは突然声をつまらせ、それから自分の気持をたしかめるように一つうなずいてからいった。 「でも、裏切ってしまったのです」  うつむいたかおりの|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》が小刻みに震えている。伊織はその神経質そうな顔を見ながら溜息をつく。どうやら、この女性が自分達のことを、かなり詳しく知っていたことはたしかなようである。これでは、いままで気づかれぬようにかけていた電話も、すべて見透かされていたことになる。伊織は恥ずかしさをこらえてたずねる。 「そのことは、お母さんからきいたのですか」 「母はみな正直に教えてくれました。私が味方でしたから」  先程から、「味方」というが、一体それはどういう意味なのか。ききかねていると、かおりはさらに一つうなずいて、 「わたし、本当はママの子ではないのです。でも小さいときから、ママはとてもよくしてくれました。ママはどう思っているか知りませんが、わたしはママを本当の母だと思っています」  かおりが霞の子でないことは、村岡からも霞本人からもきいて知っていた。継母だから、あるいはと思っていたが、二人が仲良かったことは、数少ない霞の話のはしばしからも察することはできた。 「ですから、ママのためなら、なんでもしてあげたいと思って……」 「でも、お父さんは……」 「もちろんパパも好きです。でもママはあんなに年齢が違うのに、パパと一緒になって、大変だったと思います」  実の子でないだけに、年頃になって、かおりは娘心にいろいろ考えたのであろう。 「もう一杯、コーヒーはどう、それともケーキは?」  一息いれるように伊織がきくと、かおりは「いいえ」と首を横にふって、 「わたし、ママがおじさまを好きなことは、去年の春からわかっていたのです。おじさま、三月の初めに電話をくださったでしょう」  三月初めだったか、はっきり憶えていないが、たしかにかおりの声をきいている。 「わたし、勘でわかったのです。それからママの味方になって、ママが旅行に出るときはいつもパパにわからないように、うまくしてあげたのです」 「それじゃ、ヨーロッパも……」 「そうです。パパはわたしのいうことなら、なんでも信じるんです」  かおりはそこで急に悪戯っぽい大学生の顔になって、 「本当は、おじさまからお礼をいただかなければなりません」  笑うと、なに不自由なく育った娘の穏やかさが顔に表れる。  伊織は落着きをとり戻すように、窓のほうへ視線を向け、それから思い出したようにきいた。 「あなたは先程、ママを裏切ったといったけど、それはどういうことですか」 「………」 「この前、京都へ行くとき、お母さんはこられなかったけど、それと関係があるのですか」 「あります」  かおりはいったんうなずき、それから短い間をおいていった。 「その日になって、わたしがパパにいったのです」 「お父さんに?」 「わたし、それまでは本当にママの味方だったのです。ママが大好きで、ママのためならなんでもしてあげたいと……でも、突然、許せなくなって……」  かおりはそこで声をつまらせたが、すぐ気をとり直したように、 「パパは凄く怒って、ママを打って……」  一瞬、伊織は自分が頬を打たれたような気がして顔を伏せた。 「ママは顔がはれて、そのあと薬をのんだんです」  下を向いたまま、伊織は目を閉じた。そうとも知らず、あの日、のこのこ電話をかけた自分は、なんと愚かなことであったのか。 「悪いことをした……」 「いいえ、悪いのはわたしです。黙っていればよかったのに……」  再び伊織は窓を見た。青山通りは相変らず車と人であふれ、そのなかを右翼の団体なのか、国旗をたてた車が、ボリュームいっぱいに軍歌を流していく。その車が過ぎ、静かになったところでかおりがつぶやいた。 「でも、ママはおじさまが好きなのです。好きだから、またお約束をしたのです。でもやっぱり怖くなって、薬をのんだんです」 「………」 「ママはあれ以来、ずっと睡眠薬をつかっているんです」  斜めうしろの若い男女が立上り、かわって女性だけの二人連れが入ってくる。顔かたちからみて、母と娘らしい。その母のほうが、伊織へ怪訝そうな目を向ける。テーブルをはさんで項垂《うなだ》れている中年の男と若い娘の組合わせを、不思議に思ったのかもしれない。 「出ましょうか」  彼女達が奥の席に坐るのを待って伊織はいった。喫茶店では人目があるし、それにここへきて一時間近くになる。どこへ行くという当てもないが、これ以上、この店にはいづらい。  かおりは戸惑った表情をしたが、黙って従いてきた。レジで支払いを終えて外へ出ると、夕暮れの陽が、通りを斜めに射している。伊織はその斜光を横切って絵画館へ向かう並木道に出た。 「少し歩きましょうか」  正直に打明けられて、伊織はかおりに、いままでとは違う別の親しみを覚えていた。  そのまま二人は並んでゆっくり絵画館のほうへ向かう。遠くからは枝しか見えなかったが、梢の先には、芽吹きはじめた葉が無数の緑の斑《まだら》をつくっている。  伊織はかおりの歩調に合わせるようにゆっくり歩きながらきいた。 「今日、あなたがここにきたこと、お母さんは知っているのですか」 「多分、知っていると思います。ここでおじさまと逢うことも、ママが教えてくれたのです」 「お母さんが……」 「昨夜ですけど、ママはこないことに決めたから、教えてくれたんだと思います。今日そのまま起きていると、つい出てくるので、薬をのんで休んだんです」 「………」 「おじさま、もうママに逢わないでくれますか」  そう聞かれても答えようはない。いまは自分の気持を整理するので一杯である。 「でも母はもう、おじさまとは逢わないと思います」 「なぜ……」 「母は強い人ですから」  かおりのいうことはどういうことなのか。伊織にはよくわからないが、そういわれると、そんな気がしないでもない。 「おじさま、わたしを怒っていらっしゃるでしょう」  うしろから小犬が駆けてきて、そのあとを二人の子供が追っていく。その子供が並木の先に消えてから、かおりがつぶやく。 「でも、こうするより仕方がなかったのです」  かおりの低くおさえた声が、梢の先の暮れなずんだ空に吸いこまれていく。  伊織はいまさら、かおりを責める気はなかった。霞とのあいだを密告されたからといって、責められなければならないのは、伊織のほうである。だが、いままで霞の味方であったかおりが、なぜ急に裏切る気になったのか、そこになるといま一つわからない。 「しかし……」  伊織は赤く染まった梢の先の空を見ながらいった。 「ヨーロッパに行ったときも、お母さんはあなたに相談したのですか」 「ママはどうしても、十日間は行ってきたいといったんです。それで、わたしのお友達のお母さんと一緒に行くことにして、パパを誤魔化したんです」  この二十歳にもならぬ娘が、そんなだいそれたことを考えついたのか。伊織は改めてかおりのあどけない顔を見る。 「わたし、あのとき、空港に見送りに行って、おじさまを見ました。素敵な方だけど、プレイボーイみたいだといったら、ママに叱られました」 「プレイボーイ?」 「だって、おじさま、ママより若くて美しい方とご一緒だったでしょう」  たしかにそのとき、空港には笙子が見送りにきていた。 「ママはヨーロッパで楽しんだでしょうけど、わたしは日本で、パパを誤魔化すのに苦労したんです」  たしかアムステルダムのホテルから、霞は家に電話をしたが、それも夫の目を誤魔化すための打合わせだったのかもしれない。 「二人で組むと、なんでもできるんです」  かおりは少しおどけたいい方をすると、 「わたし、小さいときから、そんなことで、ママを助けることになりそうな気がしていたのです」  苦労したといいながら、もしかするとかおりは大人の恋に関わり、それを操ることに、快感を抱いていたのかもしれない。 「おじさまはご存じないかもしれないけれど、お正月のときも、わたしがホテルまで一緒にいったのです」  あの日、伊織は強引に霞を求めたが、そのあいだもかおりはロビーで待っていたというのか。そのときのことを思い出して伊織は顔を赤らめた。 「でも、ママはおじさまと逢うことで、気持が落着いていたのです」 「しかし、お父さんは……」 「ママは父を嫌いではないけれど、好きではないのです」  だから母の情事を助けたというのか、伊織はますます若い女性の気持がわからなくなる。 「お父さん、今年の初めに病気だったのでしょう」 「どうしてご存じなのですか」 「いや、ちょっときいたのでね」  並木にそった歩道の片側は石塀になり、そこからあふれた桜が夕暮れのなかで散っている。伊織はふと花冷を覚えて、身を引き締めた。 「風邪から肝炎にかかって、一カ月ほど入院したのです。父に逢ったことがあるのですか?」  声だけはきいているが、伊織はそのことはいわずに首を振る。 「わたし、父が病気をしてから、気持が変ったのかもしれません。急に可哀そうになって、それに……」  かおりはそこで、ショルダーバッグを手に持ち換えて、 「おじさま、今年の初めに離婚なさったでしょう。そのときから急に怖くなったのです」 「怖い?」 「このままでは、本当にママがおじさまのところにいってしまうような気がして……」  芽吹きはじめた梢の先に、暮れなずんだ空が透けて見える。伊織はその赤くいろどられた空を見ながらうなずいた。  初め、母が軽く他の男性と逢うくらいまでは、かおりは許すつもりであったのかもしれない。父以外の人と親しくなったとしても、単なる情事で終るかぎりは問題はない。  だが、現実に情事をこえて二人が結ばれそうになって急に不安になったようである。自分が操っているつもりの大人の恋が、途中から本当の深みに入りかけるのを見て、怖くなったのかもしれない。 「わたし、今度のことがなくても、いずれパパにいったかもしれません」  その気持も伊織にわからないわけではない。母の恋を助けるといっても、父はこの世でただ一人の血を分けた人である。ママが好きといっても、そこにはおのずから限界がある。 「ママがおじさまのことを、真剣に考えすぎるので」  そういえばたしかに、この半年の霞との関係は、人妻との恋という限界をこえていたかもしれない。超えてはいけない一線を超えて、深く濃密になりすぎていたかもしれない。 「ご免なさい。でも、許せなかったのです」  突然、かおりは立止ると、額にそっと手を当てた。そのままゆっくりと首を左右に振る。母を裏切った自分に嫌気がさしたのか、それとも大人の恋に介入した自分に悔いているのか。動かぬかおりを見ながら、伊織はどうしたものか戸惑っていた。  表通りから入った並木道とはいえ、人通りがないわけではない。いまも向こうから若い二人連れがくる。四十半ばの男性と、若い女性が並んで立ったまま、女性のほうは目頭をおさえている。なにか二人のあいだで|いさかい《ヽヽヽヽ》があったのか、中年の男が無理強いしていると、とられなくもない。  伊織は歩きかけたが、かおりはうつむいたまま動き出そうとしない。どうしたものか、困っていると若い二人連れが近づき、怪訝そうに伊織のほうを見ていく。 「さあ……」  二人が去ったところで、伊織はそっとかおりの肩に手を当てた。 「行こう」  まっすぐ梢を上に向けた並木の先に、絵画館の円いドームが見える。夕陽を受けて、左の半面は明るく浮き出ているが、右の半面は早くも暗い影のなかに沈みこんでくる。その手前のサッカー場からか、遠く若者の歓声がきこえてくる。  伊織が歩きだすと、途端にかおりがささやいた。 「おじさま、どこかへ連れていって下さい」 「どこかへ?」  まっすぐ前を見たまま、かおりがうなずく。どこかへといっても、どこへ連れていけばいいのか、若い娘の気持はわかりかねる。 「お忙しいのですか」 「いや……」  もともと、今日は霞と逢うつもりで夜の時間はあけてある。ここでかおりと別れたからといって、行く当てもない。 「食事でもしますか」 「いえ、どこか、お酒の飲めるところへ連れていって下さい」  再び歩きながら伊織はどうしたものかと考える。霞と逢うつもりが、思いがけぬことで、娘と逢っている。つい少し前までは思いもしていなかった組合わせである。しかもその娘は、本気でどこかに連れていってくれという。 「まだ帰らなくていいのですか」 「いいんです」  かおりはきっぱりと答える。  並木のまわりは、また夕暮れが一段と深まってくる。  これまで、伊織はかおりのような若い女性と飲みに行ったことはない。笙子とは何度も行っているが、かおりは彼女より十歳も若い。すでに大学生だから、アルコールを飲んでも問題はないだろうが、向こうから連れていって欲しいといわれると、いささか困惑する。 「お家に電話をしなくても、いいのかね」 「平気です」  胸につかえていたものをいってしまったせいか、かおりの表情はさっぱりしている。伊織は渋谷の公園通りにある小さなホテルのバーへ行くことにして、車を拾った。 「おじさまは、よくお飲みになるのでしょう。ママからきいて知っています」  もう先程の苦しげな表情は忘れたように、かおりは明るくいう。 「ブランディが好きなのでしょう」  霞はどんなことをいったのか、かおりと二人で話している姿を伊織は想像できない。  渋谷の公園通りの中程で車を降りて、ホテルのバーへ行くと、思ったとおり空いていた。伊織は入って右手のカウンターにかおりと並んで坐った。 「なににしますか?」  馴染みのマスターがきくのに伊織はやはりブランディを頼み、かおりの顔を見る。 「わたし、よくわからないんですけど、ウイスキーの飲みやすいの、ありますか」  伊織はかおりの本心がわからぬまま、ウイスキー・サワーを頼む。 「じゃあ」  二つ揃ったところで軽くグラスを重ねると、かおりがつぶやく。 「ご免なさい……」  いまさらなにを謝るのか、強引にバーまで案内させたことを謝っているのか。しかしかおりのおかげで、伊織は一人の侘しさを救われていた。 「おじさま、おもてになるのでしょう」 「それも、ママからきいたの?」 「いいえ、勘でわかるんです。でも、ママのどこを好きだったんですか」  若いだけに、かおりは好奇心が一杯のようである。 「ママって、そんなに素敵ですか」 「そんな話はやめよう」  伊織はグラスを手にしながら霞を思い出す。いまごろなにをしているのか、すでに睡眠薬から醒めたろうか。それともまだ眠り続けているのか。はたしていま、自分とかおりが飲んでいるのを知っているのだろうか。 「でも、もうママと逢わないと約束してくれますね」 「ああ……」  半ばうなずくとも、うなずかないともいった調子でつぶやくと、かおりは白くやわらかい小指をそっとつき出した。 「ママのために約束して下さい」  いま簡単に、霞と逢わないと約束していいのか。約束したら、本当に逢わないでいられるのか。逢わないと誓うことを、霞は本当に願っているのか。それはかおりの一方的な要求で、霞の本心ではないのではないか。 「いけませんか」 「いや……」  いまこの場で、「もう逢いません」と誓うことは簡単である。だが誓ったからといって、男と女は逢わないわけではないし、誓わないからといって、逢うわけでもない。男と女とのあいだは理屈ではない。悪いと知ってやめられるものなら、初めからやりはしない。妻子ある男と人妻と際き合うことが、道徳的にいけないことぐらい、多少とも常識ある者なら誰でも知っている。だが知ったうえでやめられないからこそ、迷い悩むのである。一言の誓いでやめられると思うのは、かおりの過信である。まだ本当の恋をしたことのない若者の、正義と裏合わせの傲慢《ごうまん》ではないか。  だがいま、伊織はそのことに反論する気はない。そんなことをいったところで、正義はこちらにないのだし、正確にわかってもらえるとも思えない。 「それだけ、お願いしておきたいのです」  グラスを持ったまま、伊織はゆっくりうなずく。  しかしかおりの要求を正式に受け入れたわけではない。そんな重大なことを、いまこんなところで決められるわけはない。  だが、いったんはうなずいておく。そうしなければ話は堂々めぐりをして前にすすまない。まさに中年の男一流のずるさかもしれないが、そのずるさのなかには、人を愛することは、一片の誓いや言葉で変るものではないという確信もある。たかが十八、九の娘に、そんなことを誓わされてたまるかという矜持《きようじ》もある。 「生意気なことをいって、ご免なさい」  かおりもいいすぎたと思ったのか、軽く頭を下げる。それには答えず、伊織はまったく別のことをきく。 「あなたは、大学生でしたね」 「青山の二年生です」 「じゃあ、ここに近い……」 「渋谷や原宿のあたりはよく知っています。おじさまの事務所のあるビルも知っています。一昨日も前を通りました」  かおりはようやく若い学生の顔になり、ウイスキー・サワーをおかわりしてたずねた。 「おじさま、ママ以外に好きな人、いらっしゃらないのですか」  伊織は答えず、苦笑する。 「おじさまなら、きっといますね」  緊張がほぐれて、かおりは少し酔ったようである。目のまわりがほんのりと赤い。そういえば、霞も酔うと目のまわりから染まってくる。実の親子ではないが、酔った風情が似ているのが可笑しい。 「まだ、大丈夫?」  伊織はウイスキーのことをきいたのだが、かおりは帰る時間と錯覚したようである。 「あ、もう八時ですね」  かおりは赤皮の腕時計を覗いた。 「出ようか……」  いって伊織は、ふと霞を身近に感じる。そういえば、霞と別れるのはいつも九時であった。  外へ出ると、少し風が出てきて雲が動いていた。 「駅まで、送っていこう」 「わたし、一人で帰れます。それより一つお願いがあるのですけど、いいですか」  また霞のことかと、伊織は黙っていると、かおりは軽く首を曲げて、 「おじさまのお部屋に、いってはいけませんか」 「………」 「ほんの一、二分でいいのです。どんなところでお仕事なさっているのか、見たいのです」 「たいして、仕事はしてないけど……」 「でも、素敵なマンションなのでしょう。ママからききました」  これも若い女性の好奇心なのか。ともかく、本人が見たいというのなら見せてもかまわない。 「ご迷惑ですか」 「いや……」  伊織は近づいてきたタクシーを拾うと、かおりを先に乗せた。渋谷から青山は近いので五分もせずに着くと、かおりはいったん入口の前でマンションを見上げたが、すぐ黙って従いてきた。そのままエレベーターをおり、部屋の鍵をあけるまでなにもいわない。 「どうぞ……」  伊織が先に入って促すと、かおりはあたりを見廻しながらそろそろと入ってくる。その恰好が霞に似ているので苦笑すると、「なにが、可笑しいのですか」ときく。伊織は笑いをおさえてリビング・ルームの明りをつけたが、かおりは部屋の手前でつっ立ったままつぶやく。 「素敵なお部屋ですね……」  そのまま動こうとしないので、伊織はソファを示した。 「坐ったら……」 「いえ、わたし帰ります」  突然の心変りに驚いていると、かおりはどんどん戸口のほうへ行く。慌てて伊織があとを追っていくと、沓脱ぎの手前で、かおりはくるりと振り返った。 「おじさま……」  いまにも泣き出しそうな顔で見上げると、いきなりかおりの全身が伊織の胸に倒れてきた。どういうことなのか、さっぱりわからず、伊織がそのまま小さな肩を抱いていると、かおりがつぶやいた。 「抱いてください……」  目の前に女のやわらかい髪がある。かおりは軽く額を伊織の胸に当てたまま動かない。いまそっと抱きよせ、求めたら、かおりは唇を許すかもしれない。  結ばれるか結ばれぬか、それは伊織の一存にかかっているようでもある。  だが伊織は軽くかおりの髪に手を当てたまま黙っている。  なぜ突然、「抱いてください」などと口走ったのか。男の部屋にきて、そんなことをいうのは危険ではないか。いまのいい方だけきいていると、母がこられなくなったので、替りに抱いてください、といったようでもある。だが、母を裏切ったからといって、娘が替りになる理由はない。伊織自身とて、そんなことを求めてマンションまで連れてきたわけではない。女が自分からそんなことをいうところをみると、本気で好きだということなのか。  そういえば以前、霞が、娘はあなたに関心を抱いています、といったことがあった。そのときは悪い気はしなかったが、それは若い娘のいっときの気紛れだと思っていた。だがいまの状態はあきらかに、対等な男と女の姿である。形だけみれば、愛し合っている二人と思われても不思議はない。いったいかおりはどうしたのか。酔って急に甘えたくなったのか。それとも本気で好意を抱いていたとでもいうのか。しかし、もしそうだとすると、それは単なる憧れに違いない。若い女性が中年の、自分とは離れた世界にいる男へ、憧れと期待を抱く。それが一時、恋という形にすり替っただけではないか。  とくにかおりの場合、自分の母と親しかった男性ということが、その気持を増幅させたのかもしれない。そして少し意地悪く考えれば、母の好きな人だからこそ、近付きたいと思ったのかもしれない。  いずれにしても、男に向かって「抱いてください」とは大胆すぎる。  だがかおりが遊び歩いている女とは思えない。その証拠に、自分からそんなことを訴えていながら、体は小刻みに震えている。おそらく、母を裏切った悔いと、自ら告げにきた緊張と、酒の酔いがまじって、興奮のあまり口走っただけなのであろう。また一夜明ければ、かおりは明るい湘南の街を駆けて行く大学生に戻るに違いない。 「さあ……」  伊織は肩口においてあった手で、そっと髪を撫ぜながらいった。 「帰ろう」  かおりは答えず、顔をうずめたままつっ立っている。それにかまわず、伊織は手を離すとことさらに明るい声でいった。 「送ってあげよう」  静かに伊織が体を離すと、かおりもそろそろと顔を戻す。だが額に垂れた髪はそのままに、軽く横を向いている。思いがけず口走った一言に、自ら恥じらい、悔いているのかもしれない。 「いま一緒に出るから、部屋で待っていなさい」  伊織はいったん書斎に行き、ネクタイをはずし、上だけジャケットに替えた。一瞬、辻堂に帰るかおりに託して、霞に渡すべきものがあったような気がしたが、咄嗟のことで思い出せない。部屋へ戻ると、かおりは一時の激情から醒めたのか、落着いた表情で、きちんと椅子に坐って待っていた。 「行こうか」  伊織が促すと、素直にうなずいて立上る。廊下に出て、エレベーターにのると、かおりは明りが眩しいのか、顔をそむけた。瞬間、前に垂れた髪のあいだから、白い額が覗く。つい少し前、その額が自分の胸にうずめられていたことに、伊織はあるなまなましさを覚える。 「大学はなんの学部?」  ことさらに、その艶めいた感覚を振り払うように伊織はきいた。 「史学です。本当は建築に行って、おじさまのように素敵な美術館を建てたいと思ったのです。でも自信がなかったので……」 「歴史も面白いでしょう」 「父が古いものを扱っているので、それを見ているうちについ……」  たしかに英善堂は画廊のなかでも古美術では有名な店である。史学を学んだのは、父への思いやりという面もあったのかもしれない。 「表通りまで行くと、車を拾えるから」  そのまま青山通りにでると、すぐ車がきた。伊織がそれを停めると、かおりは前に立ってきちんと頭を下げた。 「いろいろ、勝手なことをいってご免なさい」 「八重洲口まで送ろう」 「いえ、いいんです。一人で帰れます」 「しかし、遅いから」 「本当にいいんです」  かおりはきっぱりと首を横に振るとドアに手をかけた。 「じゃあ、気をつけて……」  お母さんによろしく、といいたい気持をおさえてうなずくと、かおりはもう一度、頭を下げて車にのった。  すぐドアが閉まり、かおりの小さい顔がガラスの向こうにおさまる。その白い横顔には、先程の乱れた名残りはどこにもない。たとえ乱れを隠していたとしても、かおりの若さなら、今日のことはすぐ忘れ去るに違いない。 「さよなら」  窓ごしに手を振るのにうなずきながら、伊織は夜の道端に立尽くしていた。  風がでてきた街にネオンが輝いている。伊織はその明るい通りに背を向けてマンションへ戻りはじめた。  なにか特別、仕事をしたというわけでもないのに、ひどく疲れた感じである。しっかりと歩いているはずなのに、足腰が頼りない。表通りからマンションへ続く暗い道に入って、伊織は一人でうなずいた。 「そうか……」  正直いって、今日、かおりにいわれたような事態を予測しないわけではなかった。場合によっては、今日のような事態が霞の身の上におこるかもしれないと、思ってはいた。だが現実に面と向かって告げられると、心の痛手は違う。そのせいとは思いたくないが、やはりかおりの話はこたえたようである。それもじわじわと打たれて参ったのとは違う。拳闘でいうカウンターパンチのように、出ばなを一発でくじかれて参ったのに近い。  しかも困ったことには、その状態がすべて納得がいくことである。人妻とあれほど親しくなれば、いずれ夫にも知れ、破局がくるのは当然であった。霞が悩み、薬をのむようになるのも、当然の結果である。なにか一つでも、「そうではない」と叫べるものがあると救われるが、こちらに反論すべきものはなにもない。しかもそれを、霞の娘に告げられたことはやはり辛かった。せめて自分より年上か、友人にでもいわれるのならまだしも、二十歳以上も違う若い女性にいわれたのでは立場がない。  いま、全身をおおっている疲れは、そうした自分のもろもろの愚かさを改めて知らされた、やりきれなさのせいに違いない。  片手をポケットにつっこみ、軽く右の肩が落ちるのが、伊織の歩き方の癖である。その黒い影がゆっくりと鋪道を行く。表通りから一本入っただけで、あたりは大きな邸とマンションで静まり返っている。風が吹き抜けていく路に外灯が一列に並んでいる。  つい少し前、この道をかおりと一緒に並んできた。なぜ、今日、かおりが辻堂から出てきたのか、そしてあのように大胆なことをいったのか、それも伊織にはよくわからない。  だがいま、そのことを考えたところで仕方がない。いまはただ一人になって、ゆっくり休みたい。いつもなら、気が沈んだときは飲みにでも出て発散するが、いまはその気力もないようである。  マンションの部屋に戻ると十時だった。出たときのまま明りはついているが、部屋が急に広々と見える。つい少し前までいた部屋が、なにか他人の部屋のようである。  伊織はジャケットを脱ぎすて、いったんソファに坐りかけたが、すぐ飾り棚からブランディを取りだしてグラスに注いだ。それを一口飲むと、ゆっくりと熱いかたまりが喉の奥に落ちていく。  瞬間、自分を虐げたい衝動にかられてさらにストレートで飲む。 「馬鹿な奴……」  つぶやきとともに、伊織は自分が狡猾《こうかつ》で卑劣で、身勝手で好色で、この世の悪のすべてを抱えこんでいる男に思えてきた。 「どうにでもなるといい……」  さらにブランディを飲み、その喉を灼き尽くす熱さが、いまはむしろ心地よい。 「そういうことなのさ……」  わけもなくつぶやき、さらに一杯飲んでソファに横になる。  そのまま天井を見詰め、眩しさに目を閉じると、自然にこれまでの女性達の顔が浮かんでくる。  妻、笙子、霞、そしてそれ以前に知った女性達の顔が走馬灯のように、ぐるぐる廻りながら、浮かんでは消えていく。伊織は夢でも見るように、その一人一人にゆっくりとうなずく。  いま改めて彼女たちにいうことはなにもない。ただ、いまは少しへこたれているので、彼女達の優しかったときの顔を懐しんでいるだけである。みんな、それぞれに誠実で好ましかった。  だが、それにしても、女達はなんと強いことか……  かつて、頑として離婚に応じなかった妻も、いまは子供達をしっかりと自分の羽根のなかにとりこんで生きている。笙子もあのまま一通の手紙もよこさず、宮津との新しい生活に没頭しているようである。そして霞も、ヨーロッパに行ったことや短い逢瀬に命を燃やしたことなどは単なる過去の思い出として、辻堂の家でまた新しく生きていくに違いない。  女達の去り方はみな鮮やかである。いっとき思い悩み、それこそ生死をかけて苦しむが、その苦境を抜け出たら、もはや振り返りはしない。着実に平然と、また新しい生活へ踏み出していく。そうしなければ生きていけぬとはいえ、その切り換えの見事さには男は到底及ばない。 「やっぱり、お前もか……」  三人のなかから、霞の顔だけが最後に残る。霞だけはそうあって欲しくない。彼女だけは、もっと自分に未練を抱いていて欲しい。それは霞への愛着が最も強いというより、最も生ま生ましく伊織の躰が、霞を覚えているからである。  ふと目を開けると、横になった視線の先に電話がある。それを見ているうちに、伊織のなかでまた霞への思いが甦ってくる。  そろそろ十一時である。かおりがまっすぐ帰ったとして、間もなく家に着く時間である。電話をするならその前がいい。そう思いながら、受話器をとったものかどうか迷う。  いまさらかけても無駄かもしれない。もし霞が本当にまだ逢う気があるなら、向こうからかけてくるはずである。もし彼女が逢わないと決めたものなら、いまさらどう騒いだところで無駄である。  いま伊織は自分がひどく気弱になっているような気がする。かつてあれほど大胆に愛に踏みこんだ男が、なんという意気地なさか。たかがこんなことでと思いながら、一人で溜息だけついている。その気弱さのなかで、伊織は改めて考える。  妻から笙子、そして霞へと追い求めてきて、結局得たものはなんであったのか……  あるときは逢瀬に心をときめかせ、情事に耽溺し、女が自分の掌中にあることに満足した。  だがそのときどきの充足も振り返ってみると他愛ない。過ぎてしまえば、華やかさより虚しさのほうが色こく浮きあがる。 「そうか……」  伊織はもう一度つぶやく。  どうやら舞台は終りかけているようである。まだ終幕と決めこむのは早いかもしれないが、妻から離れて、笙子、霞と追い続けてきたドラマは、このあたりで一つの節目を迎えたようである。つい少し前まで、華やかに舞台をいろどっていた役者達は一斉に退場し、舞台はいままさに暗転にかかろうとしている。  一瞬の落日が鮮やかな光芒を残しながら消滅するように、愛の緊張も一瞬の歓喜の記憶を残して消え去るのかもしれない。  もしかすると、妻も笙子も霞も、そして伊織も、それぞれの緊張に少し疲れたのかもしれない。ともに燃えあがる純粋なものを求め、それに耽溺しすぎたが故に、あとに訪れる虚しさはいっそう強く、いまその報いを受けているのかもしれない。  がらんとして、明りだけが煌々《こうこう》と輝く部屋のなかで、伊織は一人で壁を見ている。  霞と結ばれた翌朝、朝地震《あさない》があり雪が降っていた。雲間から陽は射しているのに、ゆっくりと舞うような雪であった。手を出せば、掌にとどまるほどの大きな雪であったが、握った瞬間、たちどころに消える。  霞との愛も、笙子との愛も、妻との愛も、振り返ればひとひらの雪ほどのたしかさもない。  だが伊織はあきらめはしない。いまは少しへこたれているが、また気持をとり直したら、ひとひらの雪と知りながら、新しい愛を求めていくに違いない。  伊織はそう自分にいいきかせながら、ふと子供の声をききたくなって、自由が丘の家のダイヤルを廻した。 [#地付き](完)  発表紙 「毎日新聞」朝刊 昭和五十六年三月十二日〜昭和五十七年五月十日  単行本 昭和五十八年二月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年十一月十日刊