[#表紙(表紙1.jpg)] 渡辺淳一 ひとひらの雪(上) 目 次  侘助  日永  双葉  春愁  余花  若竹  青芒  秋思 [#改ページ]    侘《わび》  助《すけ》  明方、朝地震《あさない》があった。電話があったのは、そのしばらくあとだった。  初め、ベルは遠く眠りのなかからきこえ、次第に意識のなかに入ってきた。醒《さ》めやらぬ頭のまま、伊織はベッドから腕を伸ばして受話器をとった。 「お目ざめですか」声は柔らかだが、少しくぐもっていた。 「七時ですよ」  その言葉で、伊織の脳裏に高村霞の爽《さわ》やかな顔が甦《よみがえ》ってきた。 「まだ、お休みでしたか」 「いや、ありがとう」  昨夜、別れるとき、伊織は七時に起こしてくれるように頼んだ。枕元のナイト・テーブルの時計は、正確に七時を指している。 「雪が降ったのですよ」  伊織は上体をのばしてカーテンを開けてみた。十二階のマンションから見える街は薄く雪化粧をし、すぐ下に駐車したままになっている車の屋根にも雪が積っていた。 「そちらは、やんでますか」 「ほとんど……」  ひとひらずつ、なお残りの雪が朝の光りのなかで落ちているが、これ以上降り続ける力はなさそうである。 「こちらはまだ降っています。やはり田舎なのですね」  霞の住んでいる辻堂は茅ヶ崎の一つ手前で、東京よりは暖かいはずである。 「今朝、地震もあったのです。お気付きになりませんでしたか」 「知らなかった。何時ころですか」 「五時半ころです。さほど強くはありませんでしたが、でも大分長いあいだ電気の笠が揺れていました」 「そのころから、起きていたのですか」 「ええ……」  伊織は昨夜、このベッドでうずくまっていた霞のことを思い出した。着物のうえからは痩《や》せてみえたが、腕のなかで息を潜めた躰《からだ》には豊かな温《ぬく》もりがあった。 「じゃあ、それからずっと……」 「眠ってしまっては、起こすことができません」  電話の先で、霞が小さく笑ったようである。 「お仕事はできそうですか」 「大丈夫です。お陰で助かりました」  今日、伊織は昼までに、原稿を書いて渡すことになっていた。霞にモーニング・コールを頼んだのは、そのための早起きであった。 「外の空気を吸われたら、きっと目が覚めますよ」 「コーヒーでも、飲んでみます」 「それでは……」  電話を切りかけた霞に、伊織はいいかけてやめた。昨夜のことを話すには、雪の朝は明るく、眩《まぶ》しすぎた。  受話器をおくと、伊織は再びベッドにもぐった。せっかく、モーニング・コールで起こしてもらったのだから、そろそろ仕事をはじめなくてはならない。  正直いって、七時というのは少し余裕をもった時間である。昼迄に渡すといっても十枚の原稿である。せいぜい三時間もあればできそうである。  もっとも起きてすぐ書き出せるというわけでもない。伊織は朝に弱いだけに、頭が順調に働きだすまでに時間がかかる。コーヒーを飲み、新聞を読む時間も必要である。しかしそれにしても、七時は少し早すぎたかもしれない。八時でも間に合うはずだが、伊織は、朝の早い時間に霞の電話をもらいたかった。 「明日の朝、起こしてもらえないだろうか」  昨夜、伊織は霞に頼みながら、その表情を見ていた。  夫がいる家庭から、はたして朝早く電話をよこせるだろうか。伊織の依頼のなかには、軽い嫉妬《しつと》と、相手の困惑する顔を見たいという少し意地悪な気持もあった。  だが、霞は、一瞬考えるように首を傾けただけで、すぐうなずいた。 「何時が、よろしいでしょうか」 「七時に……」  顔を見たが、動じた気配はなかった。  伊織は霞の生活についてはほとんど知らない。せいぜい、夫が鎌倉と銀座に店をもつ美術商で、女の子が一人いるといった程度のことである。こちらからきかないかぎり、霞は自分から家庭のことを話さないし、伊織も無理にききだそうとは思わない。別居しているとはいえ、伊織にも妻子がいる以上、相手を問い詰めるほどの権利はない。  家庭のことを探りだせば、お互いに傷をさらけだすだけである。伊織も霞も、そのあたりのことはわきまえている。余程のことがないかぎり、相手の領域に踏みこむことはない。  だがときに、かすかな妬心が芽生えることもある。  昨夜の霞はかぎりなく優しく豊饒《ほうじよう》であった。燃えたあとも伊織は離しがたかった。しかし、九時を過ぎると、霞は腕のなかからそろそろと顔をもたげ、起き上った。そして一時間後には、きたときと変らぬ生真面目な顔で鏡に向かい、着付けを終えた。 「明日、七時に……」  伊織はそれを軽い罰のつもりで、霞にいい渡した。  霞からの電話で、伊織の頭は完全に眠りから醒めたようである。そのままガウンを着て戸口へ行き、新聞を取ってリビング・ルームへ戻る。二LDKのマンションで、入口から続く十五畳ほどの部屋をリビング・ルームにつかい、あと寝室と書斎と全部で三部屋だが、二十五坪あり、一人で住むには充分の広さである。  リビング・ルームは南向きで、ベランダのカーテンは半ば開かれたまま、レースのカーテンのあいだから、朝の陽が洩れている。まだ昇ったばかりで陽あしは長く、それが途切れる位置にソファがある。それと向かい合った椅子とのあいだにガラスのテーブルがあり、その上の細長い花瓶に侘助《わびすけ》が一輪投げこまれている。  昨日、霞が持ってきて、活けていったのである。 「出がけに、庭に咲いていて美しかったものですから……」霞は持ってきた理由をそういった。  侘助は椿《つばき》に似ているが椿ではない。白い一輪の花を咲かせるが、開ききらず釣鐘型のままとどまる。その控えめな風情が古来から茶人に好まれたらしく、多く茶室のにじり口か、寺社の庭などにひっそりと咲く。  霞はなに気なく家から持ってきたと告げたが、伊織は白い花から、侘助のある庭を想像した。茂みの手前に蹲踞《つくばい》があり、奥に灯籠《とうろう》がみえる。その陰にでも咲いていたのか、それとも竹林から洩れてくる陽ざしの先に、静まりかえっていたのか。いずれにしても、侘助が咲く庭なら、静かな趣きのある庭に違いない。そこに夫と暮している霞に、伊織は軽い妬《ねた》みを覚えた。 「なぜ、侘助というか、ご存じですか」 「侘助という人が、中国から持ち帰ったとか」 「それも、ご主人からきかれた……」といいかけて、伊織は口を噤《つぐ》んだ。  そこまでいっては、妬む心があらわになる。  白い侘助に、妬心はそぐわない。  霞は小枝を手に持ち、もってきた鋏《はさみ》で葉を落した。椿と同様、侘助も、いかに葉を落すかに心を配る。はたから見ていると、無残と思うほど葉をけずっていく。 「あなたに似ている」 「なんでしょう」 「いや……」  曖昧《あいまい》な返事のまま、伊織は夕暮れのなかで活けている霞のうえに侘助を重ねていた。  無造作に投げこまれたように見えて、よく見ると、侘助は朝の光りのなかで、すっきりと立っている。一本の枝も、一枚の葉も、これ以外に動かしようがない。ぎりぎりのところで、緊張した空間をつくり出している。  花を見ながら、伊織は、昨夜、霞が花鋏をおいていったことを思い出した。あれは本当であったのか、夢のような気がして、飾り棚の抽斗《ひきだし》をあけると、たしかに鋏をおさめた箱がある。  花鋏をおいていったことは、また花を持って訪れてくるということか。そのときは素直にそう思いながら、いまは鋏だけ、ぽつりと残されたような頼りなさがある。  伊織のなかで、昨夜のことが、まだ現実のこととなって甦ってこない。すべてが夢を見ているような、半信半疑なところがある。その茫漠とした目覚めのなかで、伊織は小さくつぶやく。 「ヤクザか……」  昨夜、床へ誘うとき、霞は小さな声で「ヤクザにしないで下さい」といった。  あれはどういう意味だったのか……  たしなみのいい人妻が、夫以外の男に肌を許すことは、ヤクザなことだという意味なのか、それとも、求めようとする伊織をヤクザだという意味なのか。  だが言葉とは別に、霞の躰は逆らいながら優しくなっていった。  伊織はソファに背を凭《もた》せ、目を閉じた。  すると自然に、昨夜の乱れた霞の姿が甦ってくる。白くやわらかな躰であった。そのまま回想のなかに身をまかせて目を開けると、目前の侘助がかすかに揺れている。  どうしたのか、改めて目をこらすと、かすかに軋《きし》む音がして部屋全体が揺れているようである。 「地震か……」  今朝、軽い地震があったと霞が教えてくれた。その余波が、いままた訪れたのだろうか。ベランダを見ると、レースのカーテンの裾もゆっくりと揺れている。  伊織は吸いかけた煙草を灰皿に戻し、もう一度、侘助を見た。朝の光りのなかで、一枝の先の花もかすかに揺れている。伊織はそこに、横を向いた霞の細い首と顔を見ている。  このまま、揺れて崩れるならそれでもいい。そう思ったとき、朝地震は気怠《けだる》い朝の空気のなかで静まった。  地震がおさまったところで、伊織はコーヒーを飲むためキッチンに立った。  四十半ばになって、一人の生活はなにかと不便である。お茶一杯飲むのから、電話の取り次ぎ、衣服の整理まで、すべて自分でやらなければならない。もっとも部屋の掃除だけは、一日おきに午後から家政婦がきてやってくれる。簡単な炊事や洗濯くらいなら、頼めばやってくれるが、伊織は洗濯ものはほとんどクリーニング屋に出し、食事は大半が外食である。幸いマンションは青山で、まわりにレストランや料理店が多く、出前もすぐ届けてくれる。多少、お金はかさむが、それで一応不自由はしない。  だが現実の生活には、それ以外にこまごまとした繁雑さがくわわってくる。セーターや靴下をどこにしまったか忘れてしまう。煙草の買いだめが切れたり、至急、銀行からお金をおろしてこなければならないときもある。さらに来客のとき、一人では、自分でコーヒーや紅茶を淹《い》れなければならないこともある。原稿を書いていたり、調べものをしているとき、そんな相手にわずらわされるのは気が重い。 「お家にお帰りになったら……」  昨日、コーヒーを飲みながら霞がいったが、多少、手間がかかっても、一人でいたい。いまの伊織はいくばくかの便利さより、自由のほうを選びたい。  それは、家を出たときからの信条である。それにいま、家を出ているから、霞にも逢えたともいえる。  伊織はキッチンのガスをつけ、薬缶《やかん》の湯を沸かした。キッチンにはオーブンとともに、三つのガス台があり、一人ではもったいない広さである。ときどき、そのガス台のまわりに埃《ほこり》がたまったり、湯こぼれの斑点が残っていることがあるが、今朝のガス台のまわりはすべすべと輝いている。流しのステンレスも、水道栓のまわりも洗い清められ、飲み終ったカップを入れてあったボウルも、片隅に伏せられている。  左手の洗いもの籠のなかにはナプキンが敷かれ、その上に洗われたグラスが伏せられ、その上にもう一枚、ナプキンが重ねられている。家政婦のお座なりの掃除とは違って、きっかりと整頓《せいとん》されている。  流しを片付けていく、それだけの行為のなかにも霞の几帳面《きちようめん》な性格が滲《にじ》んでいる。  コーヒーを飲み、ひと通り新聞に目を通すと八時だった。そろそろ人々が動きはじめたらしく窓の下から車の行き交う音がする。だが表の通りから少し入っているせいもあって、音はさほど気にならない。  伊織はカップに残ったコーヒーを飲み干し、さらに一本煙草を喫《す》ってから書斎の机に向かった。  週に一回、大学へ講義にいくが、午後の大半は原宿の事務所のほうへ行く。建築家でありながら、最近はむしろ美術のほうにのめりこんでいる。いま机の上にある案内状にも、マチスの展覧会が近くの近代美術館で開かれ、初期のフォーヴィズムから晩年にいたる六十余年の各時期の代表作・百六十点が一堂に集められている、と書かれている。  この展覧会に寄せて、ある雑誌からエッセイを求められている。 「なぜか、マチスは日本で不遇である……」その一行を書いて、伊織は考えた。  マチスはピカソと並ぶ二十世紀最大の巨匠といわれながら、ピカソよりはもちろん、ゴッホやユトリロ、さらにはムンクなどより数段人気は落ちる。その理由は、マチスの絵が初期の一時期を除いて、明るくカラフルで豊穣《ほうじよう》であるせいである。  日本人は明るさより陰鬱さを、豊穣より貧しさを好む。鮮やかな色彩の乱舞や、単純化した平面構成に馴染《なじ》めず、むしろ絵のなかに文学を見る、あるいは精神性を求めるといったほうが適切かもしれない。ミレーの「晩鐘」のなかに誠実さを、ユトリロの「白」のなかに都会の憂愁を、ムンクの「叫び」のなかに生の不安をみて感動する。これにくらべてマチスはあまりに絵画的である。文学や精神や人生などには一顧だも与えず、ひたすら色は色として主張し、存在する。結局、日本人は、絵を絵として見ず、そこに作家の生い立ちと生涯を重ねて見る癖がある。ゴッホの絵にゴッホの耳を切った狂気を、ユトリロの絵にユトリロの私生児としての生い立ちと孤独をダブらせ、共感する。  がいして、日本人は「貧窮」「苦悩」「孤独」「狂気」「夭折《ようせつ》」「自殺」といった言葉を好む。現実にはそれを嫌っていながら、他人がそれらにまみえるのを見ることには、おおいに関心がある。だがマチスはこのどれにも当てはまらない。マチスの生涯は、豪華で奢侈《しやし》で、かつ華麗であり、光りと豊かさのなかで大往生した感が深い。マチスの評価が日本で不当に低いのは、この豪奢、豊穣のイメージにある。  伊織はそこまで書いてきて、手を休めた。 「豪奢、豊穣」という言葉から、自然に霞のことが思い出された。外見は、茶室の横に咲く侘助のように静かで控え目なのに、去ったあとには豪奢で豊穣な余韻がある。  いっときの思いから覚めて、伊織は再び机に向かった。  絵は絵として素直に見たい、その裏に、作家のどのような生い立ちや貧しさ、苦悩があろうとも、それらは絵と無関係である。絵は絵として独立するものであり、それ以外のなにものでもない。一枚の絵がきれいで美しく、感動的であったらそれでいい。少なくとも、マチスの絵はそう見たい。  ある評論家は、マチスの「ダンス」という絵について、手をつないだ輪が一カ所だけ切れていることにこだわり、その理由を延々と論じている。だが、はたしてそんなことに意味があるだろうか。手の輪が数センチ離れていようといまいと、その絵から躍動する人間の美しさや、楽しいリズムを感じとることができたら、それで充分である。評論家が、せっかく素直に見ようとする観客の目をいじけさせてしまう。  そこまで書いてきて、伊織は一人で苦笑する。  そういえば、自分も美術に関しては評論家である。他人のことを批判して、その実、自分も案外つまらないことをいっているのかもしれない。 「気をつけなければ……」自分にいいきかせて、伊織は「でも……」と考える。  美術の評論などをしていたから、霞に会えたともいえる。  一カ月前、KSという高名な画家の米寿を祝う会があった。霞と会ったのは、その会場である。立食パーティなので、さまざまな人が行き交う。そのなかで、淡いグレイの綸子《りんず》を着た女性が目にとまった。どこかで見たことがあるような気がしたが、咄嗟《とつさ》に思い出せなかった。向こうも不思議そうに立止り、軽く会釈した。  それから数分後に、村岡という美術評論家が霞をともなってきた。 「この人は、高村霞さんといって、英善堂という画廊の夫人だが、もとは宗像という」  そういわれて、伊織の頭に十五年前のことが甦ってきた。 「それでは、宗像久志君の……」  女性は初めて笑顔でうなずいた。  宗像久志は大学時代の同期で、卒業後A新聞社に入ったが、八年後にニューヨークで急死した男である。卒業後はほとんど顔を合わせていなかったので、あとで知ってお悔みに行った覚えがある。  家は吉祥寺の公園に近い閑静なところにあったが、そのとき初めに出てきたのが霞であった。それから十五年ぶりの再会だが、当時の面影はいまもたしかに残っている。  パーティのあと、伊織は村岡に誘われたが断って、そのまま霞と同じホテルのバーで飲んだ。  二人になって、霞は改めて、夫が急用でこられなくなり、かわりに自分が出てきたことを告げた。英善堂が鎌倉と銀座に店を持つ著名な画廊であることを伊織はむろん知っていた。銀座に出た折、ぶらりとその店に入ったこともある。だが伊織は店のことはなにもきかず、亡くなった霞の兄や、その友達のことなどを話した。しかしその話のあいまも、着ているものや表情から、霞のいまの生活を想像した。  英善堂の夫人であれば、経済的に困ることはない。実際、そのとき着ていた、裾に白鷺《しらさぎ》の舞う綸子はよく似合った。ものごしも落着いて、外からみるかぎり幸せそうである。しかし伊織はその満ち足りた表情のなかに、なお不幸の翳《かげ》りを探していた。  一つくらい、なにか不満があるのではないか。  それは他人の不幸を喜ぶというより、相手に好意を抱く男の、本能的な願いでもある。それを知ってか知らずか、霞は淡々と応じ、九時になって時計を見た。 「これから、辻堂まで帰るのですか」  伊織がきいたとき、霞は一瞬、戸惑った表情をした。 「もう一杯いかがです。電車はまだあるでしょう」  九時では早すぎると思いながら、東京から一時間以上もかかるところへ帰る女性を、遅くまでとどめておく非常識にも気付いていた。だが、霞は素直に応じて、ブランディをもう一杯飲んだ。  いま考えてみると、その一杯がすべてをきめたようにも思う。伊織が少しくだけて霞と話し、勇気を出して食事に誘ったのも、その追加の一杯を飲みはじめてからである。  そのとき以来、霞とは二度会っている。そして昨夜三度目に、伊織は霞のすべてを知った。  その経過は、人妻という立場を考えると、大胆すぎるともいえるし、見方によっては自然ともいえる。  あまり気持のいい譬《たと》えではないが、霞との関係は「焼け棒杭《ぼつくい》に火」とでもいうべきかもしれない。  もっとも二人のあいだに、かつて愛し合ったという記憶はない。十五年前に会ったとき、霞とは彼女の兄のことについて、二言三言話した記憶しかない。そのあと、お参りをすませて帰ってきただけである。  だがそのときから伊織のなかには霞への思いが棲みついていた。しかしそれ以上、積極的に近づく機会もないまま歳月がすぎた。この十五年前に一度逢ったときの思いを恋といえば、いまの状態はまさしく焼け棒杭といってもおかしくはない。  原稿を書き終えたのは十一時少し過ぎだった。渡すのは十二時の約束だから、まだ一時間近く余裕がある。伊織は書き終えた原稿を紙袋に入れ、机の上におくと、リビング・ルームへ戻った。  朝方、街をおおった雪はほとんど溶け、北向きの道路の端や、児童公園の一隅にだけ、わずかに残っている。雪景色は朝方、数時間の命であったようである。  ベランダから目を離すと、伊織は朝淹れて、そのままあたためてあったコーヒーを、カップに移した。このごろはすべてが便利になり、コーヒーもスイッチだけいれておくとできあがり、さらにあたたかさまで保てるという装置ができている。そんな安易なものでは、味もまずいと思っていたが、いざ使ってみると至極便利だし、味も悪くない。  つい数カ月前までは、コーヒーはサイホンで淹れたものでなければ駄目だといっていたのに、いまではそのサイホンは、流しの棚の下で埃にまみれている。伊織がその便利な装置で淹れたコーヒーを飲みはじめたとき、電話のベルがなった。  でてみると、原宿の事務所にいる相沢笙子からだった。午後二時から、二人の来客があり、そのあと、六時から帝国ホテルで、友人の建築家の出版記念会がある。その確認であった。伊織はむろん忘れてはいない。二時前には事務所に着く旨をいって、電話を切った。  伊織の建築事務所は原宿で、青山のマンションから歩いても二十分ほどの距離だから、一時半に出て充分間に合う。自分の手帖でスケジュールをたしかめ、煙草を銜《くわ》えたとき、再び電話がなった。  伊織はひとまず煙草に火をつけ、それから受話器をとった。 「もしもし……」  低く遠慮がちな声だが、その一声で、霞とわかった。 「おう……」と、伊織は自分でも、おかしいと思うほど弾んだ返事をした。 「いま、よろしいですか」 「かまいませんが」 「わたくし、うっかりして、忘れものをしてきたような気がするのです。洗面台の横に、櫛《くし》や剃刀《かみそり》をおいてあるお皿があるでしょう。あそこにピンがなかったでしょうか」 「ピンですか」 「もしかすると、一本くらいおき忘れてあるかもしれません。見ていただけますか」  今朝、伊織は洗面台に立ったが、ピンがあるのには気がつかなかった。 「別に、なかったようですが」 「ご覧になりましたか」  そういわれると自信がない。洗面台に立ったといっても、いつものように歯を磨き、顔を洗っただけで、とくにあたりに気をつかったわけではない。 「本当に、きちんと見て下さい。そんなものがあるのがわかっては、おかしく思われます」  伊織は受話器をおいて、洗面台に行った。正面に蛇口があり、それを囲む白いタイルの右手に、櫛と剃刀がおいてある小皿がある。雑然と二本の櫛が重なりあっている。それを分けて小皿のなかを見ると、櫛の下からU型の細いピンが現れた。霞がいっているのはこのことらしい。伊織はそれを手にして、リビング・ルームに戻って受話器をとった。 「ありました、一本」 「ご免なさい。本当にうっかりして。ご面倒でしょうが捨てて下さい」  ピンを一本おき忘れただけで、慌てて電話をかけてくる霞が、伊織は可笑しくなった。 「いや、大切に、とっておきましょう」 「冗談はおっしゃらず、お願いです。つまらないことで電話をしてはいけないと思ったのですが」 「いや、おかげで二度、声をきけました」  ピンをもてあそびながら、伊織は声を低めた。 「いま、なにをしているのですか」 「なにって……」 「雪はどうなりましたか」 「あのあと、じきやんで、もうほとんど溶けたようです」 「侘助はどうなりましたか」 「………」 「今朝、ここにある花を見ながら、あなたのことを考えていました」  急に話題が変ったので霞は戸惑ったらしい。短い沈黙があってから、 「もう、お仕事はおすみになったのですか」 「いま、少し前に終って、ぼんやりしていたところです。あなたに電話をしようかと思ったのですが、おさえていました」  伊織はまっすぐ棚の上の侘助を見ながらいった。 「かけては迷惑かと思ったのです」 「すみません、ちょっとお待ち下さい」  突然、受話器がおかれる音がして、霞は去っていったようである。すぐ答えない霞の陰に、伊織は夫の存在を感じていた。  そのまま、伊織は霞の家を想像した。辻堂の海に近い邸宅であろうか、南向きの窓からは湘南の海が拡がり、彼方に伊豆半島が見えるのかもしれない。家をつつむ庭の一隅に茶室があり、そのわきに侘助が咲いている。そして古く落着いた家の奥に、夫の高村章太郎がいる。いまは昼で、遅い朝食でも食べているのであろうか、それとも奥の部屋で、客と会っているのだろうか。短い中断は、夫に呼ばれてなにか用事を頼まれたのか。昨夜自分の腕のなかにいた霞は、いま夫にどのような態度で接しているのか……  そこまで考えたとき、近づく気配がして、霞の声が返ってきた。 「ご免なさい。お待たせしました」 「忙しいんじゃありませんか」 「いいえ……」  否定する声に、いま一つ力がない。やはり夫から、なにか用事でも頼まれたのかもしれない。 「それでは切ります。来週の火曜日、いいのですね」  伊織は、昨夜、別れぎわに交わした約束をたしかめた。 「午後六時に」 「はい」  霞は他人行儀な返事をしてから、さらにいった。 「ピンは捨てておいて下さい」 「火曜日に、あなたがきたら捨てましょう」  そういって受話器をおくと、チンと小さな音が一つして、部屋はもとの静けさに戻った。  気がつくと、伊織の右掌にピンがのったままになっている。昨夜、床に入る前、霞は洗面台で髪を解いていた。横をふっくらと張らせ、うしろをワンロールにまとめた髪は、何本くらいのピンで支えられていたのか。二十本くらいか、あるいはもっと多かったのかもしれない。帰るとき、霞はまた同じ型に髪を結いあげた。少なくとも、伊織にはそう見えたが、時間がなくて急いだのかもしれない。そのとき数十本あるピンの一本を忘れたのであろう。  伊織は、ピンを忘れたことより、忘れたことをわざわざ電話でいってくる霞が好ましかった。そんなことは、なにも慌てるほどのことではない。たとえ忘れたことに気が付いても、大抵の女性なら放っておくかもしれない。几帳面なのか、あるいは神経質なのか。それとも、また電話をかけるために、意識的に一本のピンを忘れたのか。  まさか、霞がそんな技巧をつかう女性とは思えない。ともかく、ピンにこだわったことは、それだけ自分のことを考えていてくれた証《あか》しだと、伊織は自分にいいきかせて納得した。  受話器をおくと、ほとんど同時にチャイムがなった。編集者が原稿をとりにくるには少し早いと思って出てみると家政婦だった。 「朝、地震があって、雪が降ったのですよ」  いつも朝の遅い伊織に、家政婦は大事件を告げるようにいった。 「知っているよ」 「地震もですか」  伊織がうなずくと、家政婦は少し拍子抜けした顔になった。 「そんなに早くから、起きていらしたのですか」  家政婦は平川富子といって、五十二歳の、小肥りの女性だった。伊織のところへは一年前からきていて気心は知れている。少し口うるさいところが欠点といえば欠点だが、いわれたことは正確にやる。 「なにかお飲みになりますか」  家政婦は厚いコートを脱いで、キッチンに向かった。 「お茶を一杯もらおうかな」  伊織はそのまま書斎にいって、郵送する予定の郵便物を揃えた。書状が二通とハガキが一枚だが、他に一枚、急いで書きくわえた。それを持って、リビング・ルームへ戻ると、お茶が淹れられている。 「今日は、ずいぶんお綺麗ですね」  富子は、自分も坐ってお茶を飲みながら、あたりを見廻した。 「そうかな……」  曖昧につぶやいて、茶碗をとりあげようとすると、テーブルの上にヘアピンがおいたままになっている。先程、チャイムが鳴ったとき、慌ててそのまま戸口へ出たらしい。  向かい合って坐った二人のあいだで、ヘアピンはベランダからの陽を受けて輝いている。伊織はピンを隠したいが、いま手を出してはかえって目立つ。こういうことには敏感な家政婦だから、すでに気付いているかもしれない。実際、気付いているから、さきほどのような皮肉ないい方をしたのであろう。  迂闊《うかつ》だったがいまさら隠してはかえっておかしい。伊織は腹をきめてお茶を飲んだ。一口飲んで、茶碗を戻すと、富子は丸く肥えた指で、ごみでもつまむようにピンを持上げると、ぽいと横の灰皿に捨てた。 「他に、なにか用事はありますか」 「いや、ない」  伊織は素気なく答えると立上った。  まだ少し早かったが、伊織は出かける準備をはじめた。  朝起きてから着たままだったパジャマとガウンを脱いで、濃い茶のズボンと、同じ茶系の縞《しま》のジャケットを着、ネクタイも茶の無地を選ぶ。寝室のベッドの左手に和箪笥《わだんす》と洋箪笥があり、そこから、伊織は気にいったものを勝手にとり出して着る。妻がいれば、ネクタイから靴下、ハンカチなど、こまごまとしたものを揃えてくれるが、一人ではすべて自分でやらなければならない。  家政婦の富子に頼めば、やってくれないわけでもないが、他人に身の廻りのことを頼むのは、かえってわずらわしい。伊織が富子に頼むのは、プレスと簡単な洗濯ぐらいで、他にはボタンがとれているとき、つけてもらう程度のことである。それ以上、細かいことを頼むと、男と女のあいだだけに、妙なことにならないともかぎらない。もちろん、富子はそんなつもりはないだろうし、伊織とて富子に対して特別の感情はない。富子はお金を出して雇っている使用人にすぎない。  だが、同じ家で顔をつき合わせていると、互いにある種の親しみはわいてくる。それも、ときとして、親しさから女の感情が表に出ることもある。今日、富子が部屋に来るなり、「綺麗に片付いている」といったのも、テーブルの上にあったヘアピンを、ことさらに伊織の前でつまんでみせたのも、その種の感情に近い。五十を過ぎて女であることをあきらめたふうな富子だが、自分が責任をもって任せられている部屋に、他の女性が入ることは、あまりいい気持ではないらしい。それで富子の仕事のやり方が変るわけではないが、自分の領域がおかされたような気になるのかもしれない。  できれば、伊織はそんな感情とは無縁でいたいが、今日のように、一人の女性が、この部屋で休んだことがはっきりしてくると、問題は少し複雑になる。もちろんそのことを富子が直接批判したり、注意することはないが、どことなく態度が素気なくなる。露骨に不快感を現すことはないが、不機嫌な表情になることはある。  なんとも女性をつかうのは面倒なことであると思いながら、といって、自分一人ですべてをやるわけにもいかない。男が一人で生活するには、それなりの気の重さもある。  まだ少し時間は早かったが、原稿をとりにきたら渡すように富子にいって、伊織はマンションを出た。  いつものとおり、青山通りから表参道へ出て原宿へ行く。ときには散歩がてら歩くこともあるが、通りに出たところで伊織は車を拾った。雪はすでに溶け、光りのなかで濡れている鋪道《ほどう》だけが、雪の朝の名残りをとどめている。昼食どきのせいか、道は空いていて、一時少し前には事務所に着いた。まっすぐ奥の所長室に入っていこうとすると、タイプを打っていた相沢笙子が振り返った。 「お早うございます」  もう四年間、笙子は伊織の仕事を手伝っている。他に事務所には十人近い男女が働いているが、秘書的なことのすべては笙子がやっている。伊織は、笙子の朝の挨拶の一言や、そのときの表情で、彼女の機嫌のおおよそを知ることができる。いまの挨拶は明確であるが素気ない。表面はきちんとしているが情感がない。 「宮津君は?」 「図書館に寄ってくるので、遅くなるそうです」  笙子はそういうと、ファイルを二冊持ってきて、伊織の前においた。 「東亜工営からの見積りです。二時に部長さんがお見えになります」  伊織はファイルを見ず、笙子を見た。細面の顔が少し蒼ざめ、陽射しをさえぎったブラインドが、その顔の上に横縞の影を落している。 「昨日は参った。けっきょく十時までかかってしまってね」  伊織はファイルを見ながらいったが、笙子はなにも答えず書棚へ向かう。  事務所はビルの南側の半分を占めていて、所長室はその一番奥にある。五坪ほどで窓を背に伊織の机があり、中央に来客用の応接セットがおかれている。書棚はその右手の壁一面をおおっているが、一個所ガラスの戸が開かれたままになっている。  伊織の位置からは、そこに立って戸を閉めている笙子のうしろ姿が見える。淡いベージュのスーツが、細身の躰にぴったり合っている。 「お茶でよろしいですか」 「そうだな、コーヒーをもらおうかな」  伊織はそのうしろ姿を見ながら、昨夜のことを思いかえす。  昨日は笙子の誕生日で、一緒に食事をする予定であったのを、霞からの電話で急遽《きゆうきよ》変更した。もしかして、笙子の今日の不機嫌は、そのことに関係があるのかもしれない。  だが昨日、伊織が霞に逢ったことを、笙子は知らないはずである。  霞からの電話は笙子が席にいないときだったし、笙子への断りの理由は、宇土名誉教授が急に会いたいといってきたから、ということにした。宇土甚作は伊織の恩師で、簡単に断れない相手であることも、笙子は知っている。実際、逢えないことを告げたとき、笙子は気落ちした表情をしたが、理由をいうと素直にうなずいた。それで納得してくれたものと、伊織は思いこんでいた。  だが、今日の態度はあきらかにおかしい。お茶を淹れて伊織の前においていく動作も、どこかぎごちない。いまドアの方へ去っていくうしろ姿も冷たく硬い。  若い女性は心の振幅が激しい。いっとき陽気に振舞っていたかと思うと、次の瞬間、たちまちふさぎこむ。男からみたらつまらぬと思うことに、深刻に悩むこともある。とくに笙子のように生真面目な性格の女性は、些細なことで考えすぎることが多い。今日の落ちこみは、その種の単なる気紛《きまぐ》れなのかもしれない。伊織は去っていく笙子を呼びとめた。 「昨日のかわりに、来週の水曜日あたりはどうかね」  瞬間、笙子のうなじがぴくりと動いた。伊織はその細く頼りないうなじから胸元の線を愛してきた。 「いいえ、結構です」 「どうして、なにか用事があるのか?」 「そんなに、気をつかっていただかなくても結構です」  笙子のやわらかい髪が前に垂れて、軽くうつ向いた額を狭めている。  拒否されて、伊織はまたファイルに目をとおす。相手が断るのを無理して誘うことはない。たかが、自分の下で働く事務員である。そう思いながら、そのまま突き放せない。その裏には四年間、愛し合い、仕事をまかせてきた者の愛着と弱みがある。 「どうしたのだ、どこか具合でも悪いのか」  笙子は答えず、「失礼します」と一礼すると部屋を出ていった。  一人になって、伊織は椅子の背に凭《もた》れた。半ばほどブラインドで閉じられた窓から、陽がせめぎ合うように射しこんでいる。外は光りが溢れているようだが、部屋のなかは淡い光りのなかで静まり返っている。  その静けさのなかで伊織は、笙子と霞のことを考えた。  年齢は、笙子が霞の七つ下の二十八歳である。女子だけの大学の美術科を出たが、途中から建築のほうに関心をもったということで、工務店にいる知人に紹介されたのが、知り合うきっかけだった。父親が教育者だったせいか、笙子は生真面目で少し融通がきかないところがある。彼女自身もそれに気がついて、自分からその殻を破ろうとした時期があったらしい。伊織の愛を比較的素直に受け入れたのも、そういう気持と無関係ではなかったようである。  だが、生来のきっかりした性格は、深い関係になったからといって、そう変るわけでもないらしい。仕事を正確にするように、笙子は愛においても妥協を許さない。いったん愛したら、その人一筋で、他に好奇心を示すことは、即不潔と思いこんでいるところがある。細く引きしまった躰に似て、ものの考え方も狭く厳しい。もっとも、伊織はその笙子の融通のきかぬところに惹かれたともいえる。ときに厳しすぎて気が重いが、反面、その妥協のなさを好ましいとも思う。とにかく、笙子といると、二十八歳の女性と対しているという感じより、少女と対しているような息苦しさを覚える。  これにくらべると、霞はもっとふくよかで豊饒である。直線的でなく、円く、すべてをつつみこむところがある。といって、霞がふしだらとか、いい加減というわけではない。性格はやはりきっかりとして控え目である。ただすでに結婚して人妻であるという事実が、言葉や態度に微妙な落着きを与えているのかもしれない。  いずれにせよ、几帳面で神経質であるという点では、二人とも似ているのかもしれない。 [#改ページ]    日  永  春の宵がビルのあいだの小路にまで忍びこんでいた。伊織は歩きながら、一瞬、自分が密偵になったような気がしたが、すぐ、それがいまの立場と逆なことに気がついて可笑しくなった。  密偵というのは、他人のあとを従《つ》けて、動静を探るものである。いま探られる立場にいるのは、むしろ伊織のほうである。それを自分が、探る側になったような錯覚にとらわれている。  これも、初めて外で霞と逢うという緊張感のせいなのか。あるいは、春の夜のなまあたたかさが、伊織にそんな気持をおこさせたのか。  約束のホテルのロビーに着いたが、霞の姿はなかった。まだ五分前だから、来ていないのは当然と思いながら、伊織は雑然としたロビーを見て後悔した。  霞と逢うのに、なぜホテルなどにしたのか。ロビーでは沢山の人が行き来して人目につきやすい。もう少し静かな、目立たぬところで逢うべきであった。  だが、霞に場所を告げたときには、ホテルが一番間違いないような気がした。万一、どちらかが遅れたとしても、ロビーなら呼び出してもらうこともできるし、誰かに会ったとしてもいいわけがつく。すぐそこで偶然会ったといえばおかしくはない。  決めたときにはそれなりの理由があったはずだが、実際にきてみると、いかにも人が多すぎる。こっそりと家を出てくる人妻に逢うには、ホテルはあからさますぎる。  しかし、いまさら変えるわけにもいかない。伊織は正面入口の左手の、柱のわきに立った。  夕暮れの、ちょうど人々の出入りの激しいときで、次々と回転扉をおして客が入ってくる。荷物を持った宿泊客や、パーティにでも行くらしい外からの客、若い二人連れなど、さまざまである。  伊織の位置からは、それらの入ってくる客がすべて見通せるが、入口からは、伊織の立っている場所は柱の陰になって見えにくい。とくにわかりにくくしたわけではないが、あとからくる霞を盗み見ようという、意地悪な気持がなかったわけでもない。それに、伊織自身、人待ち顔に立っているところを誰かに見られるのは、あまり気持のいいことではない。  そのまま目立たぬように立っていたが霞は現れない。そっと腕時計を見ると、約束の時刻を十分過ぎている。  女が十分くらい遅れるのは当然と思いながら、伊織は少し落着かなくなる。もしかして、なにか出てこられない事情でもおきたのではないか。落着かなくなる背景には、人妻を誘い出しているという一種のうしろめたさもある。  伊織が立っている斜めうしろに長椅子があり、そこに男と女が一人ずつ坐っている。二人は椅子の両端にいて、そのあいだに二、三人、坐れる余地を残して空いている。  男性のほうが、すぐ前に立っている伊織に、どうして坐らないのかといった表情をする。だが伊織は坐る気になれない。どうせ待つなら、立っても坐っても同じと思いながら、腰をおろすと、待つのが長引きそうな気がする。  そのまままた十分が過ぎる。すでに約束の時間に二十分遅れている。伊織は胸から手帖を取り出して見た。間違いなく、今日のところに、「六時、Tホテル、K」と書いてある。手帖を覗く人がいるとも思えないが、それでも霞の頭文字をとって、Kとだけ記した。  突然、椅子に坐っていた男が、待ち人がきたらしく手を挙げて立上った。現れたのは、同じ年恰好の男性である。女を待っていたのでなく、男であることを誇っているような態度で去っていく。するとそれに刺戟されたように端に坐っていた女性が立上り、回転扉から出てきた男性に駆け寄っていく。  一人取り残された感じで、伊織はポケットから煙草をとり出した。几帳面な霞のことだから、約束を破るわけはない。もし急用ができてこられなくなったのなら、電話くらいはくれるはずである。 「三十分まで待とう」と自分にいいきかせながら、もしかして、電話もかけられない事情がおきたのかもしれないとも思う。  伊織は柱に背を向けて銜《くわ》えた煙草に火をつけた。  霞がロビーに現れたのは、その下を向いた一瞬であったらしい。煙草を喫い、ドアのほうを振り向いた途端、こちらへ近付いてくる和服の姿が見えた。思わず伊織が手を挙げると、霞は軽く頭を下げ、着物の裾をおさえながら小走りに駆けよってきた。 「ご免なさい」  伊織は笑顔でうなずきながら、その一言に、おや、と思う。こういうところで待合わせたのは初めてだが、これまでの霞は、そんないい方はしなかったような気がする。遅れて詫びるなら、「遅れてすみません」とか、「申し訳ありません」というのが普通である。それらにくらべて、「ご免なさい」という言葉は少し親しすぎる。 「途中でお電話をしようかと思ったのですけど、そんなことをすると、かえって遅れそうで、ご免なさい」  もう一度、霞が頭を下げる。相変らずきっかりした態度だが、その言葉には一度体を許した女の甘えもひそんでいる。いったん、伊織はロビーの奥のほうに歩きかけながらきいた。 「なにか、飯《めし》でも食べましょうか」  初回に逢ったときなら、|めし《ヽヽ》などという乱雑ないい方はしない。だが食事といわず、|めし《ヽヽ》といったところに、伊織もある親しみをこめていた。霞は曖昧にうなずきながら、伊織と並んで歩きはじめた。ロビーを行く人が、みな霞に目をとめていく。向こうから声高に話しながら近付いてきた男の二人連れが、すれ違うと同時に振り返ったようである。今日の霞は、白大島の対にさび茶の帯を締め、髪はふっくらと巻き上げている。きっかりとした着方であるが、その隙《すき》のないところに別の艶《なま》めかしさがある。 「洋食、和食、中華、なにがいいですか」  伊織がきくのに、霞は「はい」と、返事にならぬ返事をした。もしかすると食事のことより、まわりの目のほうが気になるのか、一歩遅れて軽く伏目に従いてくる。その姿には夫の目を盗んで密《ひそ》かに会っている意識が、働いているようでもある。  歩きながら伊織はロビーの奥に向かってきたことに、後悔していた。逢ってすぐ外へ出るべきであった。そこで車を拾えば、人目につくことはなかった。 「とにかく、そこで一杯飲みましょう」  ロビーをつき抜けたところの左手に小さなバーがある。入口はロビーと通じているが、外からなかは見えない。そのまま奥の四人がけのテーブルに向かい合って坐る。 「もっと静かなところで逢うべきでした。こういうところは落着かないでしょう」 「あまり、きたことがないものですから」 「でも、逢えてよかった」  伊織は注文をとりにきたウエイターに、とりあえずマティニとジュースを頼んだ。 「ところで、今日は何時まで時間があるのですか」  逢う前から、伊織が気になっていたのは、そのことだった。 「やはり、九時ですか」  霞は戸惑った表情のまま目をそむけた。伊織はその顔を見ながら、これからの時間のことを考える。すでに六時半を過ぎている。このあと食事をして終ると八時を過ぎる。九時に辻堂に帰るのであれば、それから二人だけでいられる時間はほとんどない。 「十時では駄目ですか、九時というのは少し早すぎますよ」  伊織は昔、学生のころ、九時が門限だという女子大生とデートしたときのことを思い出した。 「かまわないでしょう?」  頼みながら、伊織は自分が学生のときのような気分に戻っているのに気が付いた。  ウエイターが霞にジュースを、伊織にマティニをおいて去っていった。 「じゃあ」  伊織がグラスを差し出すと、霞もそれに重ねた。 「さっき、ロビーで待っているとき、いろいろなことを考えました。約束の場所を間違えたのではないか、電車に乗り遅れたのではないか、あるいは急用ができたのではないかなどと……」  来ぬ人を案じながら、人妻と逢うのは気の張ることだと思ったが、そのことまではいいかねた。 「ご免なさい」  霞はまた謝ったが、やはり遅れた理由はいわない。伊織はそのことに軽い苛立《いらだ》ちを覚えながら、でも、謝る度に、辛そうな顔になる霞を見ているのも悪くないと思う。 「食事ですが、このホテルなら二階にわりあいうまい洋食があります。和食なら下になりますが、それとも外へ出ましょうか」 「先生は、どちらがよろしいのですか」  先生と呼ばれて、伊織は一瞬、妙な気がした。他の人にそう呼ばれるのなら驚かないが、霞から呼ばれると、他人のことのようにきこえる。 「僕はなんでもかまいません。さしあたり飲めるところなら、どこでもいいのです」 「じゃあ、ここでいいじゃありませんか」 「食事はいらないのですか」 「そんなにお腹はすいていないのです」  伊織は坐り直すと、霞のために、ジントニックを頼んだ。 「わたしは、ジュースで結構です」 「いや、この前、美味しかったといいましたよ」  この前はそのあと、二人で伊織のマンションにいって結ばれた。今夜も、それと同じパターンになりそうなところに、伊織は少し拘泥《こだ》わっていた。 「あの侘助ですが、まだ咲いていますよ」 「もう、取りかえなければ……」 「�白一重小輪なり 筒咲別名こてうという�という言葉を見付けました。椿花集にでていた侘助の説明です」  そのまま二人は侘助から季節の花の話をした。そのあたりが、一番無難な話題のようであったが、花の話をしながら、伊織は霞を連れ出すことを考えていた。  すでに霞とは肌を許し合っていたが、逢ってすぐ部屋へ誘うことにためらいがあった。誘うことに罪の意識があるわけではないが、すぐにベッドに誘いにくいなにかが霞にはある。  もっとも、それは伊織自身の心の問題ともつながっているかもしれない。正直いって、伊織はベッドにゆく前に小さな手続きを残しておきたい。それは酒を飲むことでも、話をすることでもいい。少し面倒でも情事の前にはその程度のクッションが欲しい。  だが、それまでの時間が長過ぎても辛い。伊織が最終的に待ち望んでいるのは霞の躰である。躰を知り合って深まる愛を伊織は信じている。 「そろそろ、行きましょうか」  伊織がマティニのグラスをおくと、霞は、もう立つのですか、といった表情をした。 「このホテルが気にいりましたか?」  伊織は、場合によっては、ホテルに部屋を借りることを考えていた。この前と同じに、自分の部屋へ連れていくのでは、少し芸がなさすぎるかもしれない。 「部屋にいけば、ピンがあるかもしれない」 「まだ、おいてあるのですか」 「大切なものだから」  霞がかすかに笑う。その笑いを見て、伊織は青山のマンションへ行くことに決めた。  伝票を持ち、レジで払うと、あとはまっすぐ宴会場側の出口から出てタクシーを拾った。  小一時間ほどバーで飲んでいただけで、外は夜になっていた。 「青山」といったが、霞はなにもいわず、シートに坐って前を見ている。当然、これからのことは予測がつくはずだが、そんな気配はまったく見せず、正面から左右に分けた髪が、額からなだらかな傾斜を描いて襟足に流れていく。その髪の下縁から形のいい耳の下半分が見える。  笙子の耳も形よく、髪をかきあげると、耳元から首の筋が美しい。だが、いま目の前にある霞の耳のようなやわらかさはない。そのまま盗み見していると霞が振り向いた。 「なんでしょう」 「いや……」  伊織は悪戯を見付かった子供のように、首から目をそらした。 「今日は、ゆっくりしていってもいいのでしょう」 「………」  霞は答えず、少し辛そうな顔をする。伊織はその辛そうな顔に、また霞の夫の存在を重ねている。  夜の道は空いていて、二十分ほどでマンションに着いた。 「さあ……」  伊織が促すと、霞は一瞬、戸惑った表情を見せた。車に乗ってすぐ青山といったから、行先は知っていたはずである。それをいまさら戸惑うのはおかしい。だが誘われるままにまた男の部屋へ来た自分に、霞は呆れているのかもしれない。  かまわず伊織が先におりると、少し遅れて霞もおりた。 「夜なのに、桜でも咲きそうだ」  春の宵のあたたかさは、人通りの少なくなった夜道にとどまっているようである。  そこからマンションに入り、エレベーターであがるまで、伊織は桜のことから、去年見た京都の御室の桜のおかしさなどを話し続けた。わけもなく饒舌になったのは、かたくなになりかけている霞の気持をほぐすためと、情事へ向かう照れを隠すためでもあった。 「彼岸桜から御室の桜まで見ていると、京都では二カ月以上も桜を楽しめます」  話しながら部屋の鍵をあけてなかに入ると、霞も素直に入ってきた。  出かけるとき、入口とリビング・ルームの明りはつけたままにしておいたが、霞は一度きた部屋を珍しそうに見廻しながら、ソファの端に坐った。 「なにか飲みませんか、ブランディはいかがですか」 「軽いものにして下さい、顔が少し赤いでしょう」  明るいところで見ると、たしかに目の縁が少し赤い。 「ほとんど変りませんよ、少し色づいたほうがいい」  伊織はかまわず、ブランディをストレートに注いだ。 「じゃあ……」  伊織がグラスを持つと、霞もそれに重ね、香りを楽しむように軽く口をつけた。伊織は自分から酔いを求めるように、二度続けて飲んだ。 「やっぱり、新しいお花を持ってくるのでした」  少し萎《な》えた侘助を見て霞がいった。 「もうお捨てになったほうが、この花、椿と同じように散りぎわが淋しいのです」 「その瞬間を、見るのもいいでしょう」  伊織は立上り、キッチンにいってグラスに水を入れると、それをテーブルにおいて霞の横に坐った。 「こちらを向いて下さい」 「………」  そろそろと振り向いた瞬間をとらえて、伊織は素早く唇を近づけた。  正直いって先程立上ったときに、伊織は明りを消すことを考えていた。接吻を求めるなら、少し暗くするのが礼儀かもしれない。だがいきなり明りを消したのでは、求める心があらわになりすぎる。それでは、戸惑いながら入ってきた霞を、かえって驚かしてしまう。  それに、明るいなかで唇を受けている霞の顔を見られない。この前は終始、淡い闇のなかでの行為であった。霞の首も胸元のふくらみも、ぼうと白く浮き出ていただけで、そのときどきの細かな表情までは見えなかったし、見る余裕もなかった。  だが伊織はいまはかなり落着いていた。一度、結ばれて躰をたしかめあった自信が、いままでより大胆にさせていた。 「暗くしてください」  顔をそむけながら霞が哀願したが、伊織はかまわず抱き寄せた。正面からかかえこんだつもりだが、帯の厚みが邪魔して頼りない。 「こっちを向いて」  伊織は命令するようにいうと、一方の手で背をかかえ、もう一方の手を霞の頭に当てて上を向かせた。明りのなかでつんと鼻が上を向いている。それを見届けて伊織はそっと唇を重ねる。  一瞬、霞はむせたように息をつめたが、じき静かになり、やがて躰全体がやわらかくなる。  いまは軽く唇を触れ合わせながら舌を遊ばせても、もう霞の唇は逃げはしない。ときに意地悪に舌を引きかけると、むしろ慌てたように追ってくる。  そのたしかさのなかで、伊織はそっと目を開いた。軽く顎をつき出した霞の顔が目の前にある。額に細い縦皺《たてじわ》が走り、目の縁が小刻みに震えている。苦しさに耐えているように見えて、快楽をむさぼっているようでもある。それを見るうちに、伊織のなかにふと残忍な気持がわく。改めて唇を重ねなおし、いきなり相手の舌を力一杯吸う。  瞬間、霞は小さな声をあげ、細い横一筋の目が泣きそうになる。  もう霞は、明りのことはほとんど気にしていないようである。抱きしめられ、唇を吸われて、霞の躰はやわらかく従順になっている。その優しさをたしかめながら、伊織は光りのなかの切なげな表情を楽しんでいる。  長い接吻のあとのせいか、伊織が誘うと、霞は素直にベッドルームへ従《つ》いてきた。  カーテンで閉じられたままの部屋は暗いが、ここにも春の夜のぬくもりが忍びこんでいる。伊織はドアを閉めると、立ったままの霞を振り返った。 「さあ……」  脱いで欲しいとはいわずに、肩に手をのせた。 「どうしても、ですか……」  闇のなかにやや上を向いた霞の顔が白く浮いている。それを見ながら伊織はうなずく。  霞はなお戸惑っていたが、やがて意を決したように帯締めに手をかけた。それを見て、伊織は先にベッドに入る。  夜になると、外の音はほとんどきこえないはずだが、改めて耳をすますと、彼方から潮騒《しおさい》のような音が風にのってくるようである。それは車の走る音であり、人々の跫音《あしおと》であり、話し声であり、ときに悲鳴もまじっているのかもしれない。それらが一緒になって低いざわめきをつくり出している。伊織は両手を頭の下に当て、その音にきき入ってから部屋の片隅を見た。  ベッドの先に小さな和箪笥があり、その前で霞が帯を解いている。伊織の位置からは、その斜めうしろの姿しか見えない。すでに着物を締めていた帯は解かれ、いまは腰紐《こしひも》を解いているらしい。まだ肩にのせたままの着物はそのままで、うしろからみると両|肘《ひじ》を張らせた脇のところがふくらんでみえる。さらに一本、紐を抜き取ったのか、その右肘の部分がつき出てかすかに動く。  闇に目が慣れてきたせいか、軽くうつ向いた霞の項《うなじ》も、そのうえのやわらかな髪のもりあがりもわかる。 「そこに、衣紋掛けがあるでしょう」  伊織がいったが、霞は答えずうずくまった。その姿勢で足袋でも脱いでいるのか、肩だけが小刻みに揺れる。やがて頭のうしろに手が添えられ、髪からピンを抜く。抜きとる瞬間、掌が返され、袖口から白い二の腕が覗く。  その淡いシルエットに見とれていると、音もなく霞が立上った。しゃがんだまま着物も脱いだのか、いまは白い長襦袢《ながじゆばん》に伊達巻《だてまき》をしめ、両手で襟元をおさえている。 「おいで」というように、伊織は掛布の端を持上げた。  霞は両手を軽く頬に当てたまま近付き、途中で腰をかがめると、ベッドの端からそろそろと入ってきた。その姿が、伊織にふと忍びよる小猫を思わせた。  掛布に半ばほど躰がうずもれたところで、伊織は肩口から引き寄せた。 「逢いたかった……」  襦袢だけになった躰を抱きしめて、伊織は初めて、霞と逢ったことを実感した。  いままでホテルで逢い、酒を飲み、話をしたことは、すべてこのときのための手続きにすぎなかった。ただひたすら、霞を掌中のものにしたいという願いのための時間であった。  床に入って、かえって心が定まったのか、霞は優しく従順であった。伊織が引き寄せるのに合わせるように素直に寄り添い、胸元に顔をうずめる。霞は白い長襦袢にきっかりと腰紐をしめている。いずれ脱がされることはわかっていながら、きつく紐を結んでくるところが、霞のおかしさであり律義なところであった。  だが襟元はすでにくずれ、闇に慣れた目に、胸元と、まるい肩口が白く浮きでている。  伊織はそのぬくもりをたしかめながら、裸にすることをためらっていた。いましばらく、長襦袢姿の霞を楽しみたい。こちらが無理に脱がせるのでなく、向こうから望み、徐々にくずれていくのを見たい。  しかしその計画はすぐ崩れ、伊織自身が耐えがたくなって腰紐に手をかける。結び目を解き横に引くと、紐は簡単に抜け、胸元があらわになる。それに勢いをえたようにさらに裾よけを除くと、前をおおっているものはなにもない。着物のうえから見ると霞の躰は頼りなかったが、脱ぎ捨てると思いがけぬ量感があった。平たく薄いと見えた乳房も、胸高の帯でおさえつけられていたらしく、帯が解かれたいまは、たしかなふくらみがある。 「好きだよ」  伊織は改めて抱きしめ、やわらかな肌のぬくもりを充分楽しんだところで、無言のまま霞のなかに入っていく。  一瞬、霞の躰は逆らう素振りをみせるが、抱き締めた腕に力をこめると、もはや逆らいはしない。  それまでのゆっくりした調子と変って、男の動きは激しさを増すが、女の躰はまだきわだった反応を示さない。見ようによっては感覚をおし殺しているようにもみえる。だが額にはさきほど明りの下で見たより、さらに深く皺がより目が細まる。伊織はその泣いているような顔を見ながら、その先にまだ見ぬ霞の夫の顔を描いている。  悦びからの目覚めは、今度も伊織のほうが早かった。もっともそれは伊織が冷静というより、男という性の特質なのかもしれなかった。  再び闇の静けさがよみがえり、横を見ると、霞が軽くうつ伏せに横たわっている。少し前まで、身につけていた襦袢は脱ぎ捨てられ、掛布の端から肩の先だけが丸くのぞいている。呼吸をしているのか、肩はほとんど動かず、形よくうしろに巻きあげられていた髪が、いまは乱れて頭から項まで、すっぽりおおっている。その姿だけ見ていると、すべての意志を失ったように見えるが、触れ合っている腰から脚には、たしかなぬくもりがある。伊織はしばらくその肌の感触を楽しみ、それから横向きになって、霞を抱き寄せた。  やわらかく骨があるとも思えない、そのくせ燃えるように熱い。その女体がひっそりと、伊織の胸のなかにうずくまる。ほっそりと頼りなくやわらかい。男に抱かれるためにつくられたような躰である。その躰が伊織の胸から腹、そして脚まで触れ合って一分の隙もない。そのたしかさに満足しながら、伊織はその抱かれ方の巧みさに少し拘泥《こだ》わっている。  この自然な姿は、何度か男に抱かれた結果、躰が体得した優しさではないか。初めてでは、たとえ愛していても、こんなにすっぽりと男の腕におさまるのは難しい。だがいまさら、そんなことを考えたところで意味がない。相手の内側に立ち入らないのが人妻との情事の掟《おきて》でもある。 「素敵だった……」  伊織が耳元で囁《ささや》くが、霞はなにも答えない。まだ燃えた名残りに浸っているのか、それとも恥ずかしさをおさえているのか、目は閉じたままである。だが愛撫する手が、肩口から背中のなかほどへ下ったとき、ぴくりと上体を震わせた。乱れた余韻はまだ躰のすみずみまで残っているらしい。 「あたたかい……」  霞のぬくもりを感じながら、伊織は軽く眠気を覚えた。このまま、やわらかい肌と触れ合ったまま眠りたい。霞の肌には眠りを誘う甘さがある。  だが、一度覚めた躰が時間のことを思い出させる。何時なのか、伊織は片手に霞を抱いたまま、上体をのばしてナイト・テーブルの上の時計を見たとき、腕のなかで霞がきいた。 「何時ですか」  九時と知っても、霞はとくに慌てる様子はなかった。時間を気にしているのは、むしろ伊織のほうだった。  この前は五時に逢って、九時には帰っていった。それがいまはまだ二人ともベッドのなかにいる。これから起きて身支度をするのでは、いくら急いでも部屋を出るのは十時近くになる。それから辻堂まで帰るとすると、十二時を過ぎるかもしれない。 「どうする?」 「先に起きてください」  うなずいて少し間をおいてから、伊織は上体を起こした。このまま霞のぬくもりのなかで休んでいたいが、時間のことを気にしながらでは落着かない。  ベッドを出ると、伊織はガウンを着て、洗面台へゆき身づくろいをして、リビング・ルームへ戻った。初めはコーヒーを飲むつもりだったが、途中で気が変り、テーブルにおいたままになっているブランディを飲む。それからテレビをつけて、新聞を読む。  霞がリビング・ルームへ現れたのは、それから三十分ほどしてからだった。来たときと同じく髪はきちんと整え、すでに乱れた名残りはない。いきなり部屋の明りにさらされたせいか、霞は光りをさえぎるように額に手を当てた。 「枕カバーの替りがありますか」 「どうしたの」 「ご免なさい、ちょっと紅がついたのです」  伊織は立上って寝室へ行った。少し前まで乱れていたベッドはきちんと片付けられ、紺のビロードのベッドカバーがかぶせられている。それをよけて枕を見ると、端のほうに薄く紅のあとがある。 「そんなのは、かまいません」 「いいえ、替りがあれば、これをいただいていきます」 「こんなものを、どうするのですか」 「洗ってきます、それとも、今度、新しいのを買ってきましょうか」 「予備ならあります。とにかく、今日はこのままにしておこう」 「いけません、そんなことをしていたら、あとで困りますよ」 「困る?」伊織がきき返すと、霞はかがんで枕からカバーをはずした。 「他の方に見付かったら、面倒なことになります」 「家政婦ならかまいません。どうせ、うすうす感じてはいるのです」 「もっと、他の方もいらっしゃるかもしれないし」 「誰ですか……」  霞は答えず、カバーをたたむと手に持った。 「妻なら大丈夫です」  伊織のマンションに妻がくることはない。妻は一度もここへ来たことがないし、鍵を渡してもいない。ここは伊織一人だけの城である。 「奥さま、どうして、いらっしゃらないのですか」 「来るな、といってあるからです」 「それで、なにも仰言《おつしや》らないのですか」  妻がなにもいわない、というわけではない。いいだしたら無数に不満があるに違いない。だがいまはなにもいわない。来るな、といって、こなくなるまでには、それなりの葛藤があり、時間がかかった。いまここで、それを説明したところで仕方がない。 「要するに、あきらめている、ということでしょう」 「冷たい方……」  霞が軽く笑った。呆れたというより安堵《あんど》した顔である。 「では、今日もここへお泊りですか」 「泊ってはいけませんか」 「あなたの、ご自由です」  瞬間、霞は慌てたように顔を伏せた。いままでずっと「先生」と呼んでいたのを、思わず「あなた」といってしまった。再び愛し合って緊張が解けたのか、その言葉の甘えに、霞自身、驚いたようでもある。 「また、明日、起こしてくれますか」 「お仕事があるのですか」 「ありません、ただ声をききたいだけです」 「それなら、わたしのほうにお電話を下さい」 「してもいいのですか」 「もしかすると、お手伝いの人がでるかもしれません」  霞が自宅に電話をくれるようにいったのは、今日が初めてである。いままでは、わたしのほうから致します、といって、受けようとしなかった。 「お手伝いの人がでたら、奥さんを、といっていいのですね」 「はい、電話番号はご存知でしたね」 「このまえきいたはずだけど、もう一度教えて下さい」  今日逢って、ようやく警戒心を解いたのか、それとも逢瀬を重ねて大胆になったのか、霞は迷わず番号をいう。 「もう一杯、いかがですか」 「でも、もう帰らなければ」  霞が時計を見た。すでに十時二十分である。辻堂まで帰ることを思えば、たしかに暢《の》んびりできる時間ではない。 「じゃあ、失礼します」  霞は立上った。羽織を着てバッグを持つ。その姿を見て、伊織は再び愛《いと》しさを覚えた。 「このまま、泊っていってくれるといいんだが」  伊織のささやきに、霞はかすかに笑った。駄目よ、といっているようでもあり、場合によっては泊ってもいい、といっているようでもある。 「これから、どうやって帰るのですか」 「東京駅から電車に乗ります。たしか十一時少し過ぎのがあるはずです」  そういえば、伊織も一度、藤沢にいる友人に誘われて、十時ごろ、東京駅から乗ったことがあった。夜の電車は酔客がまじって、かなり混んでいたのでグリーン車に乗った。たしか小田原行きの普通車であったが、この線だけはグリーン車がついていた。友人は、この時間帯の電車に乗ると、大体顔ぶれがきまっていて、乗客同士が顔馴染みになるといっていた。 「われわれ湘南族はね……」といういい方に、湘南の高級住宅地に住む男の自負と、人のよさが表れていた。伊織はそのときのことを思い出して、夜のグリーン車に乗っている霞を想像した。  十一時を過ぎて人妻が一人で帰っていく。少しアルコールの入った男達が、勝手な想像をするかもしれない。この女性はお芝居でも見てきたのか、それともなにかの会にでも出席した帰りなのか。まさか情事のあととは思うまい。いや、ひっそりと椅子にかけて夜の窓などを見ていたら、かえって疑われるかもしれない。ひそかにすればするほど霞は目立つ顔である。 「東京駅まで送ります」 「大丈夫です。車を拾いますから」 「いや、待って下さい」  伊織はベッドルームに戻って、いそいでガウンからスーツに着替えた。 「電車は、十一時何分ですか」 「たしか、十分ごろだと思うのですが」  支度を終えて出口に行くと、霞はすでに草履をはいて立っていた。 「やっぱり、帰るのですか」  未練がましく伊織は念をおして、顔を近づけると、霞は素直に唇を合わせた。紅をくずさないように、舌先だけで軽く触れ合う。ちらちらと重ねていると、明りを消した部屋のほうで電話がなった。  一瞬、霞の唇が引きかけたが、かまわず唇を重ねていると、たまりかねたように霞が顔を離した。 「お電話ですよ……」  明りを消した部屋のなかで電話が鳴り続けている。夜のせいかよく響き、長く尾を引いて、もう十回近くは続いている。 「お出にならないのですか」  伊織はベルの鳴る部屋を振り返った。なにか、二人が接吻していたのを見透かしたような電話である。 「いきましょう」  伊織はかまわず、霞の背に手を当てると入口のドアを開けた。霞はなお心配そうにベルの鳴る部屋の方を見たが、黙って外に出た。ドアを閉め、鍵をかけたところで、電話の音はようやく消えた。  二人で廊下を行き、エレベーターにのったところで霞がきいた。 「出なくて、よかったのですか」 「ええ……」  電話の主は誰だったのか、出なかったので確認のしようはないが、ベルをきいた途端、伊織は笙子を思い出した。仕事のことなら十時を過ぎて電話がかかってくることはあまりない。あの時間にかけてきて、長く呼び続けているのは笙子しかいない。  別れぎわの接吻がつまらぬ電話の音で邪魔されて、霞は少し情事の余韻を殺《そ》がれたようである。 「辻堂の駅から、お宅までは遠いのですか」  話題を変えるように伊織がきいた。 「車にのればじきです」  エレベーターを下り、マンションの入口のホールを抜けたところで伊織は立止った。 「お宅まで、車で送りましょう」 「いいえ、もうここで結構です」 「いや、送りましょう。ちょっと待ってくれますか、いま地下の駐車場から車を出してきます」 「本当に大丈夫です。まだ電車もありますから、ここで失礼します」 「僕が送っては迷惑ですか」 「そんなことはありません。でも本当に遠くて、お帰りになるのが大変ですから」 「僕のことならかまいません。夜だから高速にのればそんなに時間はかからないでしょう。とにかく、ここで待っていて下さい」 「大丈夫です」というのを振り切って、伊織は駐車場へかけ出した。  初めは東京駅まで送るつもりだったのが、急に辻堂まで送る気になった。その心変りと、出がけにきた電話とは無縁ではない。  日中、伊織は車に乗ることは滅多にない。  都内はいつも車が混んでいるし、駐車場を探すのに一苦労する。それに毎晩のように会合があり、アルコールを飲むことが多い。たまに休日か夜間、仕事が終ってから気晴しのドライブに出かけるくらいのものである。それなら車を持つ必要はないではないかといわれそうだが、持っていると、いつどこへでも行けるという安心感がある。実際につかわなくても、あるとないとでは心のゆとりが違う。  遠慮する霞の前に、伊織は車を停めた。 「乗って下さい、たいした車じゃないですが」  車はツウドア・タイプだが、ごく普通の国産車である。欧米で日本車が圧倒的に人気があるのに、無理に高くて小まわりの悪い外車を買う必要はない、というのが伊織の考えである。 「先生が、車を運転なさるとは思いませんでした」 「みんな、そういいます」  一見したところ、伊織はいつも仕事のことで頭をつかっているか、さもなくば酒を飲んでいるようにみえるらしい。車を自分で運転するより、タクシーかハイヤーに乗っている姿のほうが似つかわしい、と笙子にいわれたこともある。 「いつから、お乗りになっているのですか」 「一年前からです。でも安心して下さい、これでも腕はいいのですから」  駐車場を出て、マンションのわきから青山通りに出る。十時を過ぎて、開いている店はほとんどない。 「本当に、東京駅までで結構ですから」 「いや、お宅まで送りましょう。青山通りからまっすぐ国道二四六号線を行って、第三京浜に出ればすぐでしょう」  伊織は少し意地のような気持になっていた。 「一年前といっても、免許はもう二十年も前にとっているのです。十年前まではよく乗りました。おかげで二人ほどはねましたけど」 「怖い……」 「いや、みんな向こうが悪いのです。一つは青なのに子供がとび出してきて、もう一つはお婆ちゃんが、急停車したのによろけて、ただ転んだだけなのに、骨盤の骨が折れたのです。子供のほうは打身だけでしたが」 「じゃあ、一年前からではないじゃありませんか」 「事故のあと十年間、謹慎していたのです。でも去年あたりから急に乗りたくなって、やっぱり今日のような機会に役に立つでしょう」  話しながら、伊織は少し自分が調子にのっているかもしれないと思った。  十時を過ぎて道は空いている。環状八号線から第三京浜の高速に入ると、ほとんどの車が百キロ近いスピードで走っていく。 「上手でしょう」 「はい、でも、あまりとばさないで下さい」  霞はまだ、伊織の運転の腕を信用しかねているようである。 「大丈夫、必ず、明方までには家に届けます」 「明方?」 「いや、冗談です」  霞の香りが身近に感じられる。車のなかは暗いが、それだけに密室に二人だけでいる親しみがある。 「少し、音楽をいれましょうか」  初めラジオのスイッチをおしたが適当なのがない。かわりにカセットにすると、電子音がまじったようなテクノポップスが流れてきた。 「こういうのは、嫌いですか」 「なんでしょう」 「イエローマジック・オーケストラです。シンセサイザーで、つい少し前までは、ニューヨークでも、なかなか人気があったグループです」  霞は初耳のようである。美術商の夫とでは、こういう音楽はきかないのか、少なくとも、和服のイメージにはそぐわないかもしれない。 「先生が、こんなのをお聞きになるとは知りませんでした」  いつのまにか、霞は伊織を「先生」と、以前の呼び方に戻っている。「あなた」といったのは、情事のあとの一瞬の勢いであったのかもしれない。  イエローマジックの曲が二曲終ったところで、伊織は別のカセットに替えた。今度は一転して、雅楽を思わせる、ゆっくりしたメロディである。 「これは、きいたことがあるでしょう」  霞は少し考えてから答えた。 「ならやま、でしたか」 「そうです、平城山と書く」  伊織はそれに合わせて、歌を口ずさんだ。 「人恋うは、悲しきものと平城山に、もとおり来つつ、堪えがたかりき……」  続けて二番を歌う。 「いにしえも、夫《つま》に恋いつつ越えしとう、平城山の路に、涙おとしぬ……」  七・五調の歌詞が、憂いを含んだメロディによく合っている。 「いい歌ですね、でもいきなりテクノポップスから平城山に変ったのには驚きました」 「建築というのは、こういうものです。ニューヨークの最先端の流行から、平城京のイメージまで、ときと場所に応じて、重ね合わさなければなりません」 「一度、先生のつくられた建築を見たいと思っていたのです」 「見に行ってくれますか」  伊織は空いている左手を、霞の膝《ひざ》の上にそっとのせた。  車は第三京浜を横浜に向けて走っている。山あいを切り開いてつくった道だけに、ところどころ家々の灯がかたまって見える。道幅は三車線だが車は少なく、みなとばしていく。伊織の車も百キロ近くのスピードで走っているが、ほとんど揺れは感じない。運転しながら軽く手に触れたが、霞は黙ってされるままにしている。それに勇気をえて、自分のほうに引き寄せようとするとたしなめられた。 「運転を間違えますよ」 「大丈夫だよ」 「いけません」  駄々っ子をあやすように、霞の空いたほうの手がぽんと伊織の手を叩いた。 「去年でしたか、先生が賞をおもらいになった作品を見ました」  自分の作品の話になって、伊織は手を握るのをあきらめた。 「雑誌でですけど、やはり洋風と日本的なものがミックスされた感じで、とても素敵でした」  昨年、伊織はM社の建築デザイン賞をもらった。対象になったのは奈良県のK市の美術館の設計で、霞がいうとおり、日本的風土のなかに近代的感覚をマッチさせたということで評価が高かった。 「美術館しか、おやりにならないのですか」 「それしか、できないのです」 「まさか……」  霞は謙遜《けんそん》と思ったようだが、それは伊織の本音でもあった。自分で最も自信があり、好きなのは美術館や博物館の建物で、その種のものをやりだすと、他のものは手がける気になれない。 「村岡先生が、伊織さんは変っている方だと仰言っていました」 「変っている?」  村岡は美術評論家で、パーティで霞を紹介した男である。 「もっと派手に、大きくやろうと思えばできるのになさらない。事務所も、あれだけの才能のある方にしては小さいと」 「いや、いまので充分です」  村岡がどういうつもりでいったのかわからないが、伊織はいまの十人ぐらいのスタッフが手頃だと思っている。伊織の名をきいて、事務所で働きたいといってくる若者もいるが断っている。現在の小さな世帯で、気に入った仕事だけやっているほうが気が楽だし、いい仕事もできる。 「少し、変屈だと仰言っていました」 「ああ、それなら当っています」  伊織がうなずくと、霞はかすかに笑った。その横顔を見ながら、つい少し前、その顔が自分の胸のなかにうずもれていたことを思い出す。  突然、うしろから車が超スピードで近付いてきて追い抜いていく。若者でも乗っているのか、百二、三十キロは出ているようである。その赤い尾灯がカーブの先に消えたとき霞がいった。 「ああいう作品を設計なさるときには、現地に何度もお出になるのでしょうね」 「できあがるまで十回ほど行きました。初めはどうしたらあの地方のイメージを建物に出せるかと、K市のあたりを一週間ほど歩きまわりました」 「生意気なようですが、窓の枠の鋭い感じと壁の古風な煉瓦《れんが》の感じが、うまくとけ合っているように思いました」 「あのあたりは、昔、瓦を焼いていたところで、煉瓦のいいものがあるのです。歩いているときに、たまたまそれを見付けてヒントを得たのです」 「設計といっても、机の上で、考えるだけではないのですね」 「やはり、その土地の特色を現さなければいけませんから。とくにあのあたりは丘陵地で、軽い勾配《こうばい》があって、それをどう利用しようかと何度もいって眺めました」 「知らぬ方がみると、遊んでいるように見えますね」 「いや、実際、半分は遊んでいたのです」  そのとき、助手という名目で連れていったのが笙子である。笙子がK市に滞在したのは三日間で、ホテルでは別々に部屋をとったが、夜は常に一緒であった。 「屋根の線もやわらかくて、ちょっと見ると、女性の方の設計かとも思いました」  むろん霞は気が付いていないが、その美術館の設計にとりかかったのはいまから四年前で、そのころ伊織は笙子に熱中していた。四十をこえて、自分でもおかしいと思うほど、一途な燃え方であった。もし、その建築のどこかに、女性的な艶めかしさがあるとすれば、当時の笙子への愛が、のりうつったとしか思えない。 「K市へは、大阪から国鉄で行くのでしょうか」 「それでも行けますが、京都から電車に乗ったほうが早いでしょう。丘陵は桜の樹が多くて、花の季節に行くと見事です」 「ぜひ、一度行ってみたいわ」 「ご案内しましょうか」  伊織はいってから、一人で首を横に振った。K市に行くとすると、やはり前のホテルに泊らざるをえない。人口十万の小さな街だから、他にホテルらしいホテルはない。数年前、笙子と一緒に行ったホテルに、霞と行くのではあまりに無神経である。  車は第三京浜から横浜新道へ出る。いままでの三車線から二車線に変ったが、車は少ないので走りやすい。青山からここまで、まだ三十分しか経っていない。 「この調子なら、一時間くらいで着くかもしれません。十二時までには大丈夫ですよ」 「わたしはよろしいのですが、あなたが……」  霞はまた、「あなた」という呼び方をした。伊織はそれにある艶めいた感情を覚えて、 「僕ならかまいません。同じ道を戻ればいいのですから」 「また、青山にお帰りですか」 「あそこしか、行くところはないでしょう」  反対側から、大型トラックが光りを満載して近づいてきた。それが行きすぎ、闇が戻ったところで霞がきいた。 「本当に、お家にはお戻りにならないのですか」 「たまに、向こうに郵便物がたまったり、用事ができたときには戻ります」 「完全に、別居というわけでもないのですね」 「いや、別居でしょうね。もう一年以上もこういう状態が続いているのですから」 「なぜ、お帰りにならないのですか」  なぜ、ときかれても答えにくい。そこには当事者にしかわからないさまざまな問題がある。 「やはり、愛していないからでしょう」 「まさか……」 「いや、本当です」 「男の方は、みなそんなことを仰言って、その実、奥さまを愛していらっしゃるのでしょう」 「愛しているなら、別れている必要はないでしょう」 「でもはっきり別れていらっしゃらないんだから、愛しているのですよ」 「そう思いたいのなら、思われても結構です」  突き放されて、霞は少し困惑した顔で、 「でも、結婚なさったのだから、愛していらしたことはたしかなのでしょう」 「一応、そういうことになるのかもしれません」 「一応なんて……」 「もう、その話はやめましょう」  妻とは親しい人を介しての見合結婚であった。特別好きでもないが、といって欠点もなかった。そう美しくはないが、妻としては安心できると思った。それを愛といえばいえるかもしれないが、いま霞に対しているような燃えたぎる愛はなかった。だがまわりの人々は、結婚したという事実だけで、愛と結びつけるようである。愛よりも、安定感だけで結婚したという事実を他人に説明するのは難しい。  横浜新道はさほど長くなく、じき国道一号線に出る。この道をまっすぐ行けば藤沢に出るが、辻堂はその少し手前を海側に曲った方角になる。道のまわりには普通の家が続いているが、十一時を過ぎてひっそりと静まり返っている。古くからこのあたりに住んでいる人達の家なのか、門構えも大きくゆったりしている。  道はいったん下りになり、また登っていく。その右手に低い山があり、その上におぼろ月が出ている。ここまでくると、箱根も富士もさほど遠くない。 「まっすぐ、どこかへ行ってしまいましょうか」 「どこかって?」 「もう誰も来ないところへ」 「………」  誘われても、いまの霞の立場では「はい」とはいえない。ただ戸惑い、黙るだけである。それを承知で、伊織はさらに誘う。 「このまま、二人でいなくなったらどうだろう」  伊織はいいながら、霞の家での狼狽《ろうばい》するさまを想像する。朝になっても帰らぬ妻に気付いて、この人の夫はどんな顔をするだろうか。慌てていろいろなところに電話をするか、それとも体面を重んじて、ひたすらじっと帰るのを待つか。 「ご主人は、きっと驚くでしょうね」 「そうでしょうか」  思いがけぬ返事に、伊織はきき返した。 「驚かないのですか」 「ほっとするかもしれません」  前をみたまま、霞がつぶやく。 「わたしなぞ、いなくなったほうがいいと思っているかもしれません」 「まさか……」  これほど美しい妻を、簡単に離してもいいと思う夫はいないだろう。いなくなったほうがいいというのは、妻とうまくいっていない伊織への、霞の義理だてかもしれない。 「ご主人は、あなたを愛しているのでしょう」 「いいえ……」 「無理をしなくてもいいのです。今日も、遅いので、きっと待っているのでしょう」 「あの人は、今日は家におりません」  やはり前を見たまま、霞はきっぱりとした口調でいった。淡い闇のなかで、伊織は霞を盗み見た。 「本当に、いないのですか」 「午後から、京都のほうへ参りました」  淀《よど》まずにいう霞の言葉に、嘘があるとは思えない。  たしかに今日、逢ったときから、霞は暢《の》んびりしていた。約束の時間に少し遅れてきたが、ホテルのバーでも青山のマンションでも、とくに急いでいる様子はなかった。前のときは時間を気にして、九時になると急いで帰ったが、今夜は十時になっても慌てる様子はなかった。むしろ時間を気にしていたのは伊織のほうだった。 「そうだったのですか……」  それならいっそ初めから、そういってくれるとよかった。だがそれは伊織の勝手な思いで、霞のほうから、いい出せることではないかもしれない。秘《ひそ》かに男に逢いにきている人妻が、「今夜は夫がいません」とは告げにくい。少なくとも、霞は自分からそういうことをいう女ではない。 「じゃあ、もっとゆっくりするとよかった」 「いいえ、もう十二時です」  たしかに夫が留守とはいえ、人妻が帰宅する時間としてはかなり遅い。 「ご主人は、いつまでいらっしゃらないのですか」 「二、三日といっていましたが、わかりません」 「でも、帰る日ははっきりしているのでしょう」 「いちおう、三日間のようですが、気紛れですから」 「それより、早く帰ってくることも、あるのですか」 「はい……」  霞の返事に、伊織は瞬間、軽い痛みを覚えた。  自分が離れ難いほど愛している女性が、一人の男の支配の下にある。三日間といって出て、男が一日早く帰ってきたら、そのとき、この人はきちんと待っていなければならない。相手の男の気紛れのまま、愛する女性が拘束されている。それが人妻の当然の努めと思いながら、彼の意のままに縛られている霞が哀れにも思う。 「この次の信号を、左へ曲って下さい」  伊織の痛みとは無縁に霞が落着いた声でいった。いわれるままに、伊織は次の信号を左へ曲った。道は国道を離れて辻堂へ向かう。五分ほど走ったところで踏切りがあり、それを渡ると、もう一度左へ曲る。まわりは急に長い塀と茂みに囲まれた邸宅が増え、その先は鵠沼に続くお屋敷町のようである。 「その角のところで、停めていただけますか」  霞の指さす方向に、外灯が一つぽつんと見える。右手に竹垣があり、それが途切れたところで細い道が交叉している。左右に巨木が茂り、通りは狭い。伊織はその角をこえたところで車を停めた。 「ここで、いいのですか」 「遠いところ、本当にありがとうございました」  車のなかで霞が頭を下げた。それにうなずきながら伊織がたずねる。 「お宅はどこですか」 「その、少し先です」  霞が見やる方角に石塀が続き、その内側はうっそうとした茂みのようである。 「そこまで、送りましょう」 「いいえ、ここで結構です」  深夜遅く帰って、家の前で車を停めるのは気がひけるのか、霞は少し手前の位置をいったようである。伊織も無理に前まで送る気はない。 「お帰りは、大丈夫ですか」 「多分、大丈夫でしょう」  伊織は意識的に少し頼りなげな返事をした。 「この道を左に曲られて、まっすぐ行くと、さきほどの駅へでる道にでます。それを道なりに行くと、国道にでますけど」  伊織はうなずくと、そっと霞を抱き寄せた。一瞬、いやいやをするように霞は首を振ったが、すぐ接吻を受けた。  狭い座席で横向きのままの抱擁は落着かないが、霞の家の前で接吻をしているということが、伊織の気持を高ぶらせていた。  今夜は夫はいないといったが、誰かが通りすぎて、この情景を見ていくといい。そんな意地悪な気持が伊織の頭を横切る。  そのまま唇を重ねていると、耐えかねたように霞は顔を離して、一つ溜息をついた。それから両手で軽く、乱れた髪に触れた。 「その石塀の家ですか」 「はい……」  襟元を合わせながら霞がうなずく。塀の長さからみて、五、六百坪の敷地はありそうである。 「その先を右に行けば、海ですね」 「四、五百メートル行けば、湘南の海岸道路に出ます」 「海まで行ってみませんか」 「これからですか」 「あまり時間はとらせません。またここまで送ってきます」 「申しわけありません、今日は許してください」  淡い闇のなかで、霞が軽く頭を下げた。  伊織はあきらめて、ゆっくりと車をすすめた。霞はなにもいわず乗っている。  石塀の高さは一メートル以上あり、車のなかからは内側の様子はわからない。塀のなかの茂みは赤松らしく、それが海に近いことを思わせる。  石塀がとぎれた先に門があり、そこに門灯が一つ点《つ》き、くぐり戸のわきに「高村」という表札が明りに浮き出ている。家はかなり奥にあるらしく、門の先の茂みのあいだから、白い壁と屋根がかすかに見える。そこからさらに五十メートルほど行ったところで、伊織は車を停めた。 「やはり、帰りますか」 「はい……」  今度は霞はきっぱりと答えた。その言葉には、人妻の決意と凛々《りり》しさがあらわれているようである。 「わかりました、じゃあ帰してあげましょう」 「ありがとう、ございました」  霞は軽く頭を下げるとドアに手をかけた。伊織はそれを椅子の背に凭れながら眺めていた。仕方がない、という気持と、勝手にしろという半ばなげやりな気持とが交錯している。霞はいったん背を見せて外へ出ると、もう一度頭を下げた。 「おやすみなさい」  そのまま車の横をすり抜け、石塀ぞいに門の方へ去っていく。白い大島が闇のなかで浮いているように見えるのを、伊織はバック・ミラーのなかで追った。  門の前で、霞は一瞬立止ったが、すぐ吸われるようになかに消えた。  伊織は相変らず座席に背を凭せたまま、煙草に火をつけた。一服喫い、窓を開ける。夜の屋敷町には動くものはなく、赤松の上に朧月《おぼろづき》がかかっている。ゆっくりと煙を吐きながら、伊織は、霞が最後まで振り返らなかったことに少し拘泥わっていた。  あの人は車を出てから、ひたすら家に向かって戻っていった。ようやく野に放たれた動物が、一目散に巣に戻るように、門のなかへ消えていった。車から外へ出た途端、もう愛しあった男のことは忘れてしまったのか。しかし振り返らず去っていったところが、霞の慎しみ深いところなのかもしれないとも思う。  煙草を一本吸い終って、伊織はようやく車のギアを入れた。人通りのない屋敷町に、いつまでも停まっていては怪しまれる。だが、吸い終るまで待っていたのは、もしかして、霞がもう一度、出てくるのではないかという期待を抱いていたからでもある。  いったん家に戻り、みなが寝静まっているのを見届けて、またこっそりと裏木戸から抜け出てくる。伊織はそんな情景を空想していたが、それは若いときにみた映画のシーンと混同したようである。 「行こう……」  伊織は自分にいいきかせるとハンドルを握った。ここから先の交叉点を右へ曲ると、四、五百メートルで海へ出ると霞はいっていた。初めは夜の海でも見ながら帰ろうかと思ったが、一人になったいまはそんな気もおきない。霞にいわれたとおり、二つ目の交叉点を左へ曲り、まっすぐ行って踏切りを渡って国道へ出る。つい少し前、霞と一緒に来たと同じ道を、いまは一人で戻っていく。伊織は急に疲れを覚えたが、それは霞と別れたから、ということだけでもなさそうである。  これまで、伊織は霞の住んでいるところをいろいろ頭に描いてみた。大きな美術商の妻という立場と住んでいる場所から、海に近い、深い茂みに囲まれた豪壮な家かと考えていた。そしていざ来てみると、そのとおりの家だった。そのかぎりでは予想通りなのに、現実に見たいまは受けとめ方が少し違う。思ったとおりだと納得しながら、現実に霞がその家のなかに吸いこまれていくのを見ると、心が騒いだ。いままでは単純な好奇心から住んでいる家を見たいと思っていたが、どうやら見ないほうが精神の衛生にはよかったようである。  夜のなかを走りながら、伊織は自然に、京都へ行っているという霞の夫のことを想像する。今日、霞と会うまでは、その高村章太郎という男とも会ってみたいと思っていた。銀座と鎌倉にある店のいずれかに、ぶらりと入っていけば、会えるはずである。むろん向こうは気付かぬだろうが、こちらでたしかめておく。それは霞を支配している敵の確認であり、同時に、盗人としての好奇心でもある。だが家を見たいまは、そんな悪戯じみた気持もいささか薄れている。  来るときは、それでもあまりスピードをださなかったが、いまは百キロを軽くこえている。百キロを超えると鳴る警告チャイムが、小刻みに車のなかに響く。だが伊織はかまわずアクセルを踏んでいく。とくに急ぐ必要もないが、なにか飛ばさないといたたまれぬ気持でもある。  先程は、車から出て門のなかに消えるまで振り返らぬ霞に、抑制された美しさを感じていたが、いまは少し違う。振り返らなかった霞に、むしろある冷たさを感じている。いや、それだけではない。帰りの車のなかで霞は、夫は自分を待っていないかもしれないといった。よく旅に出て、いつ帰ってくるかしれない、それだけ家庭をかえりみない、妻を無視している夫であることを強調したかったようである。だがそういう一方で、今夜、遅くまでいた理由を、夫が留守だからといった。それをきいて伊織は安堵したが、それは少し人が好すぎたようでもある。  もし、夫が妻を無視し、妻も夫を無視しているのなら、留守であろうがなかろうが、あまり関係はないはずである。夫がいる夜は慌てて帰り、いない夜に暢んびりするのは、それはまさしく夫を大切に思っている証拠ではないか。少なくとも、霞が自分の立場をわきまえて行動していることだけはたしかである。  もっとも、夫に養われている妻の立場であれば、それくらいの配慮は当然かもしれない。だが、その違いがあまりにくっきり出すぎると少ししらけてしまう。それで腹を立てるというわけではないが、いささか気が滅入《めい》ることは否定できない。 「おかしい……」  ハンドルを握ったまま伊織はつぶやく。相手が人妻であれば、この程度の忍耐は仕方がない。それ以上のことを求めては、人妻との恋は成立しがたくなる。お互い相手の事情を考え、寛容に振舞うのが、人妻との愛を永続させる要諦《ようたい》である。初め霞に逢ったときから、伊織はそのことを自分にいいきかせてきた。感情のまま無理強いして、霞を窮地におとし込むことはしまいと思ってきた。だが、いまはなにか苛立っている。冷静に考えれば、当然と思われる些細なことで霞を責めようとしている。 「もっと、気軽に考えたほうがいい」  そう自分にいいきかせて、伊織は改めて、霞への愛がかなり本気になってきていることに驚く。  渋谷で高速を下り、マンションに戻ると一時半だった。  ドアを開けてなかに入ると、入口とリビング・ルームの明りが点いたままになっている。一瞬、伊織は誰かがなかにいるような錯覚にとらわれたが、鍵をかけていった部屋に他人が入るわけはない。よく見ると部屋は出かけたときのまま、テーブルの上にブランディのボトルがおかれ、椅子の背に、着かけてやめたカーディガンがぶら下っている。  独り身の生活の味気なさは、出かけたときと帰ってきたときと、部屋の姿が変っていないことである。留守中に誰も入らぬ以上、それは当然ながら、侘しさはかくせない。それならいっそ、誰かと一緒に暮らせばいいということになるが、そうしたらしたで別のわずらわしさがある。一人になりたくて家を出て、帰ってきたときが淋しいなどというのは、身勝手というものである。  伊織はキッチンからグラスを持ってくると、テーブルのブランディを注ぎストレートで飲んだ。それからソファに坐って一つ息をつく。すでに一時半を過ぎて、遠く潮騒のようにきこえた街の音も、いまはさらに遠のいている。  霞と部屋を出たのは十時半に近かったから、ほぼ三時間で辻堂を往復してきたことになる。運転しているときはさほど感じなかったが、家に戻ると、さすがに疲れを覚える。伊織はさらにブランディを飲み、ソファに横になった。  つい数時間前まで、ここに霞が坐って一緒に話し、ブランディを飲み、唇を重ねた。だがいまは、霞がいた名残りはなにもない。一緒に飲んだグラスも灰皿も洗われ、ベッドもきちんと整えられている。すべて霞が整理していったが、身近にいたという実感はたしかに残っている。それは静まり返った部屋の空気であり、整然とした部屋のたたずまい、そのものともいえる。その静謐《せいひつ》のなかで、伊織は辻堂へ電話をすることを考える。  霞はお電話を下さいといい、電話番号まで教えていった。だが、いますぐかけたのでは、恋いこがれている気持があらわに現れすぎるかもしれない。 「今夜はこのまま寝よう」  伊織は自分にいいきかせて、永かった春の一日がようやく終りに近づいたことを知る。 [#改ページ]    双  葉  いったん訪れて、しばらく去っていた陽気が、また舞い戻ったようである。  花曇りのなかで、桜が花を咲かせているのがわかる。現実に目に見えるわけでも、音にきこえるわけでもないが、あたたかさのなかで、花が開いていくのが五感のすべてに伝わってくる。  伊織は久しぶりに青山のマンションから原宿の事務所まで歩いていった。部屋を出るときは車を拾うつもりだったが、外へ出ると陽気に誘われてつい歩いてしまったのである。珍しく早く十時に事務所に着いて、自分の部屋に落着くと、笙子がすぐドアを開けて入ってきた。  初め、伊織は事務所のなかに、自分の個室を持つことに反対だったが、一つのフロアで、所長以下みなが一緒にいるというのも、所員達にとっては気づまりなものかもしれない。そう考えた結果だから、個室を持ったのは、伊織の希望というより彼等への配慮からといったほうが当っている。  伊織の部屋は窓を背に机があり、その前に来客用の簡単な応接セットがおかれている。濃い葡萄茶《えびちや》色のテーブルの上には、白く細長い花瓶があり、そこにフリージアが挿し込まれている。ほぼ三日おきくらいに花が替るが、この部屋を掃除し、花を替えるのは笙子の役目である。 「お早うございます」  今日の笙子の声は明るいが、まだ心の底まで陽気になっているとはいいがたい。その証拠に、伊織の前に立つとすぐ事務的に今日のスケジュールを話しはじめた。 「十時半にK市の助役さんがお見えになって、一時から建設省で中央建築審議会が、三時から重層構造物研究委員会が開発技術センターであります。そのあと環境整備懇話会が帝国ホテルで、六時からです」  このごろは単なる建築関係の仕事だけでなく、都市計画から環境整備、交通体系の問題などまで、建築家のかかわる範囲は広がってきている。国から地方公共団体、民間団体などが関係する会合だけで四十はゆうにある。これらの会から、委員にと委嘱してくることが多いが、伊織は極力ことわっている。大体、伊織は人に会うのはあまり好きではないし、その種の会合はいささか官僚的で、退屈なのが多い。それより気の合った友人と酒でも飲んでいたほうが気楽である。いま引き受けているのは、義理で断りきれずに受けたものばかりだが、それでも十をこえる。  今日の笙子は、白のアンサンブル・セーターに紺のスカートをはき、首に細い金のネックレスをつけている。細面の顔に、清楚《せいそ》な服装がよく似合う。 「事務所を十一時に出ていただいて、それから先のお車は、会が終るまでに着くようにしてあります」  笙子がいうのを、伊織は煙草に火をつけながらきいている。過密なスケジュールも、笙子にまかせておけば間違うことはない。 「それから、わたしは今日、お昼から帰らせていただきます」 「どこへ行くの?……」 「金曜日の午後から田舎へ帰ると、この前お話ししたはずです」  たしかに週の初めに、伊織はそのことをきいたおぼえがある。長野の実家で、祖母の一周忌があるので帰りたいと、笙子は申し出ていた。 「そうか、そうだったな」  このところ、笙子のことはあまり念頭になかった。霞に心を奪われた分だけ、笙子を忘れていたともいえる。 「お昼からで間に合うのかね」 「上野を、一時半の急行で発ちます」  それもたしかきいた覚えがある。伊織がうなずくと、笙子は一礼して背を向けた。きっかりとタイトのスカートにつつまれたお臀《しり》が、ドアのほうへ去っていく。それを見ながら、伊織は笙子としばらく関係していないことを思い出す。  半月前、笙子の誕生日に逢えなくなってから、二人でゆっくり話したことはない。約束を破ったつぐないに、次の週の初めに食事に誘ったが、笙子は、気をつかっていただかなくても結構です、と少しつっぱねたいい方をした。それ以来、二度ほど誘ったが、笙子はその都度断っている。  それぞれに、もっともらしい理由をいうが、彼女のほうで避けていることはたしかである。普段なら問いつめ、気持をやわらげもするのだが、伊織は断られるまま黙ってきた。自分が霞に深入りしてしまったという負《ひ》け目があったし、問い詰めれば、逆にそのことをきかれそうな不安もあった。 「長野からはいつ、帰ってくるの?」  去っていく後姿に、伊織は声をかける。 「日曜日です」  笙子がドアに手をかけたまま答えた。 「そうか、気をつけてな」  半ば振り向いたまま笙子はうなずく。そのまま白いセーターがドアから消えて、伊織ははじめて大切なものを失ったような気持にかられる。  笙子が去っていくと、入れかわりに、望月平太がドアをノックして入ってきた。望月は五年前から、伊織の事務所に勤めている若い建築士だが、世話好きなところから、所員達のまとめ役でもある。いつものぼそぼそ髪にワイシャツの袖をたくしあげたまま、ぺこりと頭を下げた。 「実は今夜、みなで花見に行こうということになったのですが、所長はいかがでしょうか」 「夜桜か……」 「天気予報によると明日は雨だということで、それならいっそ、今夜やっちまおうということになったんです。渋谷でやるのですが」 「渋谷?」 「山手通りの手前に、松濤公園というのがあるのです。小さいところですけど、結構桜の木があって、きれいなものですから」  そういえば、伊織もその公園の横を通ったことがある。松濤の、いわゆる高級住宅街にあるひっそりした公園で、中央には池もあったように思う。 「せっかくだけど、今日はちょっと行けそうもないな」  今夜は、懇談会のあと、友人の村岡と会うことになっている。突然いわれても、夜、伊織があいていることはあまりない。もっとも所員達にしても、伊織が出席できるとは思わず、みなが集ってやるのだから報告しておこう、といった軽い気持からのようである。 「じゃあ、足りないかもしれないが寄付しておこう」  伊織はポケットから一万円札を三枚とり出した。望月は恐縮して、 「いえ、みなから会費を徴収してますから」 「まあ、いい、どうせ会費じゃ足りないのだろう。何時からやるのかね」 「できたら、七時ごろからと思っていますが」  事務所の勤務時間は、一応、午前十時から午後六時までとなっている。だが実際はあってないようなもので、設計に熱中しだすと、十時、十一時まで残ることも珍しくない。みな若くて仕事に情熱をもっている者達ばかりだから、遅くなるのは一向に気にしていない。実際、設計という仕事は、時間を区切ってできるものでもない。 「みんな、行けるのかね」 「相沢さんが実家に帰るので行けませんが、あとはみな行きます」  伊織がうなずくと、望月は拝むようにして三万円を手にとった。 「それじゃ、これ、遠慮なくいただきます。助かります」 「初めから、そのつもりだったのだろう」 「すみません」  望月は人懐っこい笑いを浮かべると、頭をかいて部屋を出ていった。  望月の姿が部屋から消えると、伊織は新しい煙草に火をつけた。それから回転椅子を窓のほうへ廻して脚を組んだ。相変らず春の陽が眩しい。この分なら、今夜あたり上野の山も夜桜を楽しむ人であふれるだろう。伊織は所員が酒をくみ交わす情景を想像しながら、そこに笙子がいないことに、少し拘泥わっていた。  望月にきくまでもなく、笙子が今夜、花見に行けないことはわかっていた。そのことに、望月も他の所員も疑っている様子はない。実際、法事で長野へ帰るというはっきりした理由があるのだから、だれもおかしく思うわけはない。だが総勢といっても、全部で十一名しかいない小さな所帯である。そのうち建築士の資格をもっているのは、伊織を含めて六名で、他にアルバイトの大学院の学生が二人、あとは事務や資料の整理をしている女性達である。一人とはいえ、みなで行くとき欠けるのは目立つ。しかしそのことに拘泥わるのは、伊織の思いすごしかもしれない。おそらく、気にする裏には、笙子と特別の関係にある、という負い目があるからに違いない。  だが所員達はみな、伊織と笙子とのことは知っている。他人の愛について、男達は比較的鈍感だが、女性達は独特の勘をもっている。二人のあいだを、真っ先に知ったのは小林という女性だし、一度わかったら、みなのあいだに広まるのはわけもなかった。  所員達のなかで、いまさら二人のことについてとやかくいうものはいない。二人のことはすでに既成事実として、みな納得している。しかし、そうだからといって、二人は勝手に振舞えるわけではない。もともと笙子はそんなことをする女ではないし、伊織もその点は気をつけている。仕事は仕事、私情は私情とけじめをつける。そのかぎりでは、二人は慎重に振舞っているし、あまり問題になることがあるとは思えない。  だが、今夜のような場合、偶然にしても、二人合わせて別行動をとると少し気にかかってくる。ただでさえ、笙子は伊織と関係あるということで、孤立しがちである。仕事はよくやるし、性格もきちんとしているのに、所長と関係があるというだけで、別の目で見られがちである。その意味では、笙子は恵まれているようで、辛い立場にいるともいえる。それだけに、今日のようなことで、笙子がさらに孤立すると、可哀想な気がする。自分のことは別として、笙子もできるだけみなと一緒に、陽気に楽しく遊んでもらいたいと思う。  陽のなかで考えながら煙草を喫っていると、机の上のインターホンが鳴った。事務所の電話はほとんど笙子がとり、それから伊織のところへ廻されてくる。 「お電話です」  そういわれたとき、伊織は一瞬、霞からの電話かと思った。笙子は電話を取り次ぐとき、必ず、どこどこの誰々さんです、ときちんという。なにもいわず、ただお電話です、というときには、女性からの私的な電話のことが多い。もちろん女性からでも、仕事に関係ある人の場合は、相手の会社や職業をいう。そのあたりの区別がなぜつくのか不思議だが、そこは女性特有の勘なのかもしれない。いまも名前もいわず、お電話です、といっただけなので、もしかして霞からかと緊張したが、受話器から帰ってきたのは、若い女性の声だった。 「あのう、伊織さんですか。わたし、わかりますか」  そういわれても、伊織にはわからない。 「どちらさまでしょうか」 「パパ、まり子ですけど……」  それでようやく、上の娘の声だと気がついた。 「なんだ、驚かすじゃないか」 「だって、パパ、すました声を出すんだもん」 「あたりまえだ。仕事をしている最中だからね」  伊織が少し権威をつけていうと、まり子は「そうか……」とつぶやいて、 「いま、ちょっと近くまで来てるんだけど、時間ない?」  伊織は机の上の時計を見た。十時三十分で、約束のK市の助役が来る時間である。そのあと建設省の会議に出かけなければならないが、助役のほうは単なる挨拶だけだから、十分くらいで終りそうである。 「二十分後くらいなら、会えるかもしれないが……」 「じゃあ、そこに行ってもいいですか」 「いや、事務所のビルの一階にティファニーという喫茶店があるから、そこにいなさい。仕事が終ったら、すぐ行く」 「はあい……」  まり子は少しまのびした返事をして、電話を切った。  別居している妻のところには娘が二人いる。上のほうは十五歳で、今年高校に入ったばかりで、下のほうは中学の二年生である。伊織のほうから家を出ただけに、子供達は父親を恨んでいることはたしかである。二人とも女の子だから、夫婦の亀裂はかなり深刻に影響したはずである。だがどういうわけか、上の子のほうは、別居しているいまも、伊織になついてときどき電話をよこす。  娘からの電話が切れて、机の上の郵便物を見ていると、K市の助役が現れた。四年前に、K市の美術館の設計を依頼されて以来の馴染みで、今日は東京に出てきたついでに、時候見舞いをかねて立寄ったらしい。  K市の美術館は去年の秋に、建築デザイン賞をもらっただけに評判がよく、今度は美術館の周辺を特別環境地域に指定して整備したいので、知恵を貸して欲しいという話であった。 「怠けものなので、そちらの希望のときにきちんといけるかどうかわかりませんが……」  伊織は遠廻しに辞退したが、結局おしきられて引き受けることになった。 「改めて、文書で正式にお願いさせていただきます」  助役はそういうと、全国的にも有名なK市の地酒を土産においていった。  伊織はすぐインターホンで笙子を呼び、その酒を今夜の花見にみなで飲むようにいって渡すと立上った。 「それじゃ、出かけてくる」 「審議会に行かれるのですね」 「いや、階下の喫茶店に寄って、それから行く」 「そろそろ出かけなければ、あまり時間はありません。車はもう来てるはずですけど」 「わかった。終り次第、その車に乗っていくから大丈夫だ」  伊織はうしろに掛けてあった背広を着たが、思い出したように笙子を見て、 「日曜日には、何時に帰ってくるの?」 「夜、七時ごろのつもりですけど」 「そのあと、あいている?」  突然いわれて、笙子は戸惑った顔をした。 「ちょっと逢おうか」 「………」 「まっすぐ、家に帰るのだろう」 「はい」 「じゃあ、家のほうに電話をする」  伊織はそれだけいうと、書類の入った鞄を持った。所長室のドアを開け、フロアーに出ると、所員がそれぞれ机に向かって仕事をしている。スタンドの下で設計図を描いている者もいれば、発泡ウレタンの建築模型を前に腕組みしている者もいる。 「建設省に行ってくる。花見ではあまり暴れるなよ」  伊織が、誰にともなくいうと、所員達は笑いながらうなずいた。  事務所を出、エレベーターのなかで一人になって、伊織は改めて笙子のことを考えた。  出がけに、なぜ急に誘う気になったのか、おかしな話だが、伊織自身にもわからない。  朝、事務所に来て会ったとき、笙子の姿が妙になまなましく見えた。タイトのスカートにつつまれた形のいいお臀に惹かれたのかもしれない。だが同時に、笙子が娘からの電話を取り次いだことも無縁ではないかもしれない。娘と電話で話したからといって、別に気がねすることはないが、少し照れたこともたしかである。  事務所からまっすぐ一階の喫茶店にいくと、まり子はすでにきて窓ぎわの席に坐っていた。一人で心細かったのか、伊織を見るとすぐ伸びあがって手を挙げた。紺のブレザーにえび茶のネクタイをしめて、新しく入った高校の制服らしい。 「いきなり伊織さん、なんていうので吃驚《びつくり》したぞ」 「だって、他の人が出たとき、パパといっちゃおかしいでしょう」  伊織が、妻と不和で家を出たことを、まり子は知っているが、その原因の一つが、いま電話を取り次いだ笙子であるとは、気がついていないようである。 「それ、制服か、よく似合う」 「ありがとう。でもこのネクタイ、少し田舎くさいと思わない」 「そんなことはない。もう、学校は始まっているのか」 「来週からだけど、今日はお友達と渋谷まできたの」  まり子はこの春から青山にある高校に入学したが、合格したことは、本人からの電話で知った。 「その、友達はどうしたのだ」 「いま別れてしまったの。パパ、ちょっとお願いがあるんだけど、いい?」  まり子は少し悪戯っぽく、探るような目になって、 「パパはこの前、高校に入ったら、お祝いを買ってあげるっていったでしょう」 「カセット・デッキが欲しいとかって、いってたな」 「でもね、本当はビデオ・デッキに替えて欲しいんだけど」 「それはまた、ずいぶん変ったな」  カセット・デッキなら、せいぜい二、三万だが、ビデオ・デッキだと、安くても十五万はする。 「でも、まり子、これから学校が遠くなるでしょう。忙しくなって、いろいろ見られないテレビが増えるから、どうしても欲しいの」 「高校に行っても、夜の番組は見られるだろう」 「お昼だって見たいのがあるわ。それに日曜日や夜だって、用事で見られないこともあるでしょう。純ちゃんの家だって、中井さんのところだってみんなあるのよ。いまやビデオの時代よ、ねえ、いいでしょう、お願い」  まり子は祈るように両掌《りようて》を合わせる。その上目づかいの目にはすでに女の媚《こ》びがある。 「まあ、考えておこう」 「じゃあ、いいのね、いいんでしょう」 「だから、考えとくといってるだろう」 「でも、買ってくれるわね。パパは優しいから」  伊織は苦笑しながら、妻のことを、きこうかきくまいかと迷っている。  伊織の家は東横線の自由が丘にある。いま住んでいる青山のマンションからは、車で三十分ほどの距離で、閑静な住宅街である。最近、家に戻ったのは、一カ月ほど前で、川崎まで行ったついでに、郵便物だけ受け取って帰ってきたのである。  家を出て青山に住むようになっても、郵便物の一部はまだ自由が丘のほうに届く。一応、めぼしいところには転居通知を出したつもりだが、まだ徹底しているわけではない。本宅のほうに郵便物が届く度に、とりに行ったり、送ってもらうのはなにかと不便である。だが考えようによっては、向こうの家へ届く郵便物だけが、伊織と妻を結ぶ絆《きずな》ともいえる。それがなくなっては、表立って電話をする理由もなくなる。  もっとも、伊織は別れて暮らしている妻に、特別未練があるわけではない。もし向こうが別れてくれるといえば、しかるべき慰謝料を出して別れるつもりでいる。自由が丘の家は百五十坪ほどの土地があるから、時価ではかなりの資産になる。それにもし別れてくれるなら、月々生活に困らない程度の生活費も渡すつもりでいる。経済的な面だけいうと伊織にとっては損な話だが、自分から身勝手なことをして家を出た以上、その程度の負担は仕方がないと思う。  だが妻は、その条件にも応じる気配はない。  すでに愛がない、形だけの夫婦でいても仕方がないと思うが、それは第三者の、無責任な考えかもしれない。結婚と同時にずっと家庭に閉じこもって四十をこしてしまった女としては、離婚したからといって、すぐなにかをするという目途があるわけでもない。別れても別れなくても、家にいる生活が続くのなら、戸籍上だけでも、妻という座を確保しておいたほうがいい、ということかもしれない。あるいは、勝手なことをした夫への、ただ一つの復讐《ふくしゆう》として、離婚を拒否しているのかもしれない。そうだとすると、つまらぬ意地だが、伊織はその気持をわからぬわけでもない。  伊織は運ばれてきたジュースを一口飲んでから、思い出したようにきいた。 「みな、元気か?」 「うん、美子《よしこ》がね、今度見学旅行で倉敷に行くんですって。あそこに美術館があるでしょう。でもあの子、絵なんか見てわかると思う?」 「いいものは、黙って見ているだけでわかるよ」 「だって、あの子達は、ただきゃあきゃあ騒いでいるだけなんだから」  まり子は姉の貫禄をつけていう。 「美子は、勉強のほうは、どうかね」 「相変らず遊んでばかりいて、あの調子じゃ、どこの高校にも行けないかもよ」 「お前が注意してやらなければ駄目じゃないか」 「わたしじゃ、ぜんぜんいうことをきかないんだもん」  苦笑しながら、伊織は自分が捨ててきた妻と娘二人の家庭を想像する。女達だけで、家はうまくいくものなのか。二人の子供を表面から見ているかぎりでは、とくに問題はなさそうだが、心の内側には、父がいないことが、それなりに影を落しているに違いない。 「それと、オスカルがこの前、急に吐いてお医者さんにかかったのよ。いまは元気になったけど」  オスカルというのは、自由が丘の家にいるダックスフントである。三年前から飼っているので、いまでも伊織がいくと馴《な》ついてくる。 「悪いものでも食べたんじゃないか」  伊織はそういってから、何気なくきいてみる。 「お母さんは?」 「うん元気よ」  まり子はそれだけいって残ったジュースを飲む。十五歳だが、父と母とのことについては、あまり触れないほうがいいと思っているらしい。伊織はうなずくと、ポケットから五千円札を出した。 「これ、美子にあげなさい、旅行のお小遣いだ」 「いいなあ、美ちゃんばかり」 「お前には、ビデオだろ」 「でも、ビデオはみんなで楽しむものでしょう」  伊織は仕方なく一万円札をとり出して、五千円札と替える。 「じゃあ、これを二人で分けなさい」  お金を与えすぎてはいけないと思いながら、離れていると、小遣いを渡すことでしか父娘《おやこ》の親しさを確かめる方法はない。 「ちょっと、これから仕事があるのでね」  伊織が時計を見ると、まり子は素直にうなずいた。小さいときから、父親はあまり家にいないで、いつも出歩くものだと思って育ったせいか、こういうところのきき分けはいい。 「じゃあ、ビデオ、いいでしょう。いつ買ってくれるの」 「考えておくから、また電話をしなさい。なるたけマンションのほうにな」 「でも、パパ、いつもいないんだもん」  たしかに夜はほとんど外食なので、マンションに戻るのは遅い。 「むろん、事務所でもかまわないが」  伊織は伝票をもって立上る。会議は一時からだが、その前にメンバーの一人と会う約束になっている。会計をすませて外へ出ると、ビルのはずれのところで車が待っていた。 「霞が関まで行くんだが、表参道まででも乗っていくか?」 「どうして、ここから電車に乗っていったほうが早いでしょう」  娘とゆっくりできなかった穴うめに、少しでも長く一緒にいるほうがいいかと思ったが、まり子は、そんなことはあまり気にとめていないようである。 「じゃあ、わたし、国電で帰るから、バイバイ」  まり子は手を振ると、もう背を向けて歩きだす。その紺の制服姿が人込みのなかに消えるのを待って、伊織は車に乗る。  相変らず陽は明るく、並んで走る車の、よく磨かれたボディが、陽差しを返してきらきら輝いている。伊織はその眩しさに目を遊ばせながら、自由が丘の家のことを考える。  まり子にきくかぎりでは、いまのところは、とくに変ったことはないらしい。父親がいないのだから、決していい状態とはいえないが、それはそれなりに結構、落着いているらしい。  自分が家を出て、子供達は淋しい思いをしているのだろうと思ったが、実際は、そうでもないのかもしれない。今日のまり子も元気で、淋しそうなところはなかった。それどころか、もらうべきものをもらうと、あとはさっさと帰っていく。子供というのは、そういうところは抜け目がない。家を出て気にしているのは、むしろ自分のほうかもしれない。伊織は考えて苦笑する。  政府関係の会議は形式的で、挨拶やわかりきった文書の読み上げでつまらぬ時間をくう。沢山の人が集って時間をかけるわりには内容はなく、時間のロスといった感じが強い。  それでも、建築審議会から重層構造物委員会と、ほぼ時間通りに終って、最後のホテルでの懇談会が終ったのは午後七時だった。伊織はそのまま同じホテルの喫茶室で待合わせていた村岡と会って、食事に行くことにした。 「なににする」 「そうだな、洋食というのは少し重たい感じだから、和食にしようか」 「それなら、ちょっと気のきいたところがある」  伊織は先に立って、ホテルの前で車を拾った。 「市ヶ谷の一口坂をあがったところで、店は小さいが、なかなか気のきいたものを食べさせる」  村岡とは年齢が近いし、仕事も似ているので、よく気が合う。もっとも、村岡の専門は美術評論で、大学の教授も兼ねている。内容はともかく、外見は、村岡のほうがお堅い商売である。 「そこの板前というのが博打《ばくち》が好きでね。この前、徹夜で麻雀をして、五万円ほど巻きあげられてしまった」 「お前も、負けることがあるのか」 「このごろはまったく駄目だ」 「勝負ごとに負けるときは、女性についているというけど」 「それならいいがね……」  伊織はそ知らぬふりをしたまま、霞のことを思った。 「ああいう連中は、強いんだろう」 「強いというより、とにかく好きだ。やり出したらやめるといわない。たしか麻雀荘からまっすぐ魚河岸に行ったはずだ」 「そんな男の料理が、うまいのかね」 「いや、板前はきちんとしているより、少しずぼらでいい加減なほうがいい。きちんとしている男は、かえって腕が悪い。その男も、三十半ばだが、まだ一人でいる」 「しかしそれじゃ、いつまでたっても独立できないだろう」 「こつこつ貯めて、若くして店をもつような板前に、いいのはいない。だいたい料理というのは、そういう、きっかりしたものではないだろう」 「塩を小匙《こさじ》に三杯、てなものじゃないな」 「女性のいい料理人が生まれないのは、そういうところに原因があるのかもしれない」  話しながら、伊織は、霞に料理をつくらせたらどうだろうと思う。あんなに綺麗好きで几帳面な女では、料理の腕だけは、あまり感心できないかもしれない。  車は靖国通りから一口坂の先を曲り、二本目の角のところで停った。そこで降り、左へ曲ると、「やしま」という看板が見えた。店はそこから細い道を五十メートルほど入った、奥まったところにある。入口に小さな竹の植込みがあり、その先の格子戸を開けると、すぐ白木のカウンターがあるが、七、八人も坐るといっぱいになる。 「いらっしゃいませ」と、料理の腕はいいが、ずぼらな板前が声をかけ、それにつられたように暖簾《のれん》の奥から女将《おかみ》が顔を出す。 「ずいぶんお久し振りですね、先生がお見えにならないので、このとおり閑古鳥が鳴いています」 「ここは、空《す》いているところがいいんだ。料理屋が混みだすと、みな味が落ちる」 「いくら空くのがいいといっても、これではつぶれてしまいます」  女将は三十半ばで、目鼻立ちは整っているが、もう何年もバセドウ病を患っているとかで、痩せぎすの躰にくらべて目が大きい。 「こちらは、村岡といって、大学の先生だ」  伊織は村岡を紹介してから、カウンターのなかをのぞきこむ。 「今日はなにがあるのかね」 「いろいろ、ありますが、平目のいいのが入っています。それに鯛《たい》も美味しいと思います」 「じゃあ、まかせる。いま車のなかで、君の腕のいいことを話してきたのだ」  板前はあまり嬉しそうな顔もせず、飲物の注文をきく。 「まず、ビールをもらおう。しかし本当に空いているな」  改めて見廻すが、カウンターには伊織達の他には客はいない。 「四月に入ってから、ずっとこうです。みなどこへ行っているのでしょう」 「桜のせいだ。桜が咲くと、部屋のなかにこもる気になれないからね」 「じゃあ、桜が散ればよくなるのでしょうか」  言葉とはうらはらに、女将はさほど深刻な顔もせずビールを注ぐ。伊織は村岡と軽くグラスを重ねると、一気にビールを飲み干した。 「うまい、今日は花曇りで、気持悪いほどあたたかかった」  カウンターには、まず小鉢に木の芽|味噌《みそ》が出される。白味噌といっしょに、筍《たけのこ》と独活《うど》が和《あ》えてある。  伊織はアルコール類なら、酒でもウイスキーでもなんでもいける。もっとも一番好きなのは清酒だが、こちらは飲みすぎると躰までべとついた感じになるので、ほどほどのところでやめて、途中からウイスキーにする。しかし、和食の料理を前にすると、やはり酒でないと舌のほうも馴染《なじ》まない。村岡もその点は同じらしい。ビールを二本飲んだところで酒に替えた。  料理は、平目の刺身のあとに、新筍の筒切りと若布《わかめ》の炊合わせがで、さらに小さな籠に、アスパラと魚の素揚《すあ》げがでる。 「これは|あまご《ヽヽヽ》かな?」 「そうです。少し塩を振ってありますが」  伊織は一つ食べてから、村岡に酒を注ぎ、それから思い出したようにいった。 「英善堂の高村さんという人は、いくつくらいかな」 「もう、五十はこしているんじゃないかな」  突然、英善堂のことなどきいて、訝《いぶか》しがるかと思ったが、村岡の表情にはそんな気配はない。 「すると、霞さんとはずいぶん年齢が違うわけだな」 「あの人は、三十五、六かな」 「じゃあ、二十近くも違うのか」 「そこまでは違わないと思うが、たしか、高村さんは再婚だからな」 「再婚?」 「娘さんが一人いるが、そろそろ大学にいくはずだ」 「すると、それはご主人のほうの連れ子というわけか」 「そういうことだろうな」  伊織は新しく注がれた盃を見たまま黙りこんだ。英善堂のことも子供のことも、伊織には初耳である。もし村岡のいうことが本当だとすると、霞に抱いていた印象は少し変ってくる。  しかしいわれてみると、たしかにそんな気がしないでもない。どこがどうというわけではないが、霞には、年齢の離れた男と一緒にいるような雰囲気があった。 「しかし、あの綺麗な人が、どうして再婚の相手なんかと一緒になったのかな」 「それはよくわからないな」  村岡は、伊織と霞のことについては、なにも知らない。ただパーティで会って、そのあと、兄を知っていることから、少し話しただけだと思っている。その村岡に、これ以上きくと、こちらの本心まで見透かされそうである。  料理は鯛のさか蒸しとともに、ぽん酢が出された。蒸すときに少し酒をくわえたらしく、香りがいい。 「関西で、ぐじ蒸しというのは、これのことかな」 「あれは甘鯛かと思いますが」 「そうか、そういえば少し味が違うかもしれない」  伊織はこのさか蒸しが好物である。少しさっぱりしたいときには、汁を多くして潮汁《うしおじる》にしてもらう。そのさか蒸しに箸をつけたとき、村岡がきいた。 「その後、霞さんとは会ったか?」 「いや……」  いきなりきかれて、伊織は曖昧に答えた。霞のことを話しているときだから、きくのは当然として、「会ったか?」というきき方は少し妙である。なにか、付き合っているのを見透かしたようないい方である。だが、村岡はそんなつもりではなく、ただなに気なく、きいただけらしい。普通の顔で盃を干してから、 「俺はこの前、国立劇場で会った。歌舞伎を見にいったら偶然来ていた。ご主人と一緒だったが」 「英善堂と……」 「彼女の美しさは、ああいうところでも目立つ。ロビーでちょっと立ち話をしたが、みな振り返っていく」 「それは、いつごろ?」 「先々週の金曜日かな」  金曜日といえば、伊織が霞を辻堂まで送った日の三日あとである。夜、別れるとき、霞は、主人は京都に出かけているといっていた。だが、村岡のいうことが本当だとすると、三日後にはもう帰っていたことになる。 「二人は仲がいいのかな」 「そりゃそうだろう。歌舞伎に一緒にくるくらいだから」  村岡は盃をおいて、碗のなかを見た。 「鯛というやつは、よく見るとグロテスクだな」 「嫌いか?」 「嫌いではないが、こうはっきり顔が見えると、ちょっと怯《ひる》む」 「魚は、この眼玉のところが一番うまい。それと鰓《えら》とがね」  伊織は眼玉とまわりのゼリー状のところを、箸でつまんだ。 「このように、眼が白く濁らず、透きとおっているのがうまいのだ」  口に運んでいくのを、村岡があきれたといった顔で見ている。伊織は少し残酷かと思いながら、そうせざるをえない気持にしたのはお前だ、といいたい気持をおさえている。  潮煮には、ゆがいた短冊の独活《うど》と木の芽がそえられ、汁は薄醤油で、鯛の|あら《ヽヽ》から出た脂がほどよく浮いている。 「この鯛というやつは、くわしく調べると、百以上も種類があるらしいね」  村岡が鰓のところを箸でつまみながらいう。 「しかし、海の魚の王様は、やはり真鯛だな」 「桜鯛というのを知っているか」 「きいたことがないが、そういうのがあるのか」 「いまごろになると、瀬戸内海あたりの鯛は桜色をしているので、そう呼ぶらしい。産卵のために、外海から戻ってくるやつだ」 「魚のくせに、風流な名前をつけられたものだ」 「しかし、この桜鯛が産卵したあとは、麦わら鯛という名に変るらしい」 「それはまた、ひどいイメージ・ダウンだ」 「味も、大分落ちる。そうだろう」  伊織がたしかめると、板前もうなずく。魚の話をしていると、余計なことは忘れて自然に楽しくなる。だが途切れるとすぐ、霞のことが頭に浮かぶ。 「しかし、そんなに年齢の違う人と、どうして結婚したのかな」  また話が霞のことに戻ったので、村岡はちょっと戸惑った表情をして、 「俺にどうしてといわれても、わからないよ」 「でも、二十近くも違うのに……」  そういってから、伊織は自分と笙子とのことに気がつく。他人のことをとやかくいっているが、笙子とのあいだも十七歳違う。自分のことをたなにあげて、とやかくいえた義理ではない。 「やはり、好きだったから結婚したのだろう」  村岡の答えは明快である。だが、はたしてそんな簡単な理由だけなのか、その裏には、なにか隠された事情でもあったのではないか。正直いって、伊織はいま、村岡の口から「霞の結婚は失敗であった」という言葉がでるのを期待していた。「好きではないが結婚した、そしていまは夫を愛していない」といって欲しい。だが、村岡はそんなことは一向にいいそうもない。もともと村岡は霞と夫とのことについては、ほとんど関心はないようである。伊織は少し苛立ってきいてみた。 「いままで霞さんと、そのことについて、話したことはないのか」 「そんなことは、きけるはずがないだろう」  村岡は怒ったようにいうと、自分で酒を注ぎながら、 「お前、霞さんを好きなのか」  男女のことには、あまり関心のなさそうな村岡が、いきなり切り込んできたので、伊織は一瞬たじろいだ。 「まさか……」 「好きになったのかと思った」  伊織はゆっくりと首を横に振りながらいった。 「ただ、なんとなく気になったのでね」 「彼女、綺麗だからな。画家のなかにも何人か、彼女に懸想《けそう》した人がいるらしい」  伊織は身をのりだしかけて、あわてておさえた。好きではないといっていながら、身をのりだしては本心がわかってしまう。 「さる高名な画家が近づいたり、一時は、ある若い画家が熱中したこともあったらしい」 「それは、誰だ」 「まあ、名前はどうでもいいだろう。ただの噂《うわさ》だから」 「それで、彼女はどうだったのだ」 「もちろん、ああいう人だ、おかしなことになるわけはない。それに相手が大画廊の主人じゃ、新米の画家など、手も足も出ない」  伊織は新しく盃を干した。  たしかに霞は几帳面で控え目な女である。たまたま男の一人や二人が近づいてきたからといって、そう簡単に親しくなるわけはない。だが、それとは別に、自分とのことを思うと、伊織は少しわからなくなる。  伊織が霞と結ばれたのは、パーティで知ってから二度目に逢ったときである。そんな簡単な逢瀬のあとで、霞はなぜ許したのか。それだけ彼女は自分に惹かれていた、といえば簡単だし、自尊心も満足できる。口説き方がうまかった、といわれるならそれでもいい。あるいは、かつて霞の兄を知っていたという親しさや、少しアルコールが入っていた、ということも幸いしたのかもしれない。だがそうだとしても、霞があんなに容易に受け入れるとは思わなかった。それを思うと、霞の印象は少し変ってくる。なにごとにも控え目で慎しやかにみえるが、その裏には、意外に大胆な性格が隠されているのかもしれない。まさかとは思うが、懸想したという男とも、案外関係があったのではないか。愛しているが故に、伊織はいま、少し疑い深くなっている。 「一盗《いちとう》二婢《にひ》三妾《さんしよう》」という言葉がある。この理屈からいえば、他人の妻を盗んでいる伊織は、最も恵まれた男だということができる。とくに霞のように美しく、経済的にも恵まれている人妻と近づくことは、男の最大の喜びかもしれない。  だがその喜びは、考えてみると意外に他愛ない面も含まれている。たとえば、他の男の妻と結ばれるのが最上とはいえ、その人妻は、相手の夫にとっては、さほどありがた味のない存在かもしれない。夫にとっては退屈きわまりない、陳腐で見飽きた妻が、他人にとっては、宝石のような存在に思える。いわゆる他所の芝生は青く見える、といった類の錯覚である。他人の妻という緊張感のうえに、愛が成立しているということは、裏を返せば、他人の妻という条件がなくなれば、ただの平凡な女性に戻るかもしれない。 「一盗」とは、盗むという行為の緊張の素晴らしさであり、相手の女性そのものへの正当な評価とは必ずしも一致しないかもしれない。むろん、そんなことをいったからといって、霞の肌を知った伊織の喜びが減じるわけではない。たとえ、人妻という条件を除いたとしても、霞は充分に魅力ある女性である。夫があり、しかもみなが注目する女性を、自分が秘かに掌中にしているという喜びは大きい。だが喜びの裏には、必然的に不安が控えている。  その第一は、愛してはいても、所詮《しよせん》、相手の女性は自分の自由にならないということである。盗むという緊張感で愛は高まるが、いつも逢いたいときに逢えるわけではない。万事、相手の夫の様子をうかがい、目を盗み、密かにことを運ばなければならない。それも楽しいといえば楽しいが、その喜びにはおのずから限界がある。盗むだけで満足しているかぎりはいいが、そこから一歩踏み出すと、たちまち崩れざるをえない。「一盗」は、所詮、盗みであり、そこから前にすすむ建設的なものではない。  してみると、人妻との情事に必要なのは、いわば遊びの心、心から真剣にならないことである。いま伊織が、その遊びの心だけにとどまっていられるか否かは、自分でもはっきりわからない。 「M市の美術館は、やはり富川浩次が手がけるらしいね」  突然、村岡がぜんぜん別のことをきいた。もっとも、それは伊織が霞のことを考え続けていたので、唐突にうつっただけであるが。 「最近は、彼がしきりに美術館を手がけるが、あの男は本当に才能があるのかな」 「注文があるんだから、あるのだろう」  伊織は、素気なく答えた。 「しかし彼がつくったのは、F市のもG市のも、外観は派手で、見た目には目立つが、内部はあまり感心できなかった。とくにG市のなどは採光がまずいし壁面も落着かない。あれで優れた建築なのかな」 「そのあたりは、建築をどう見るかの問題になるかもしれない」 「自分が美術評論家の肩書きをもって、こういうことをいうのは可笑しいかもしれないが、このごろは一部の評論家が人脈をつくって、地方の美術館の設計から人事にまで口を出しすぎる」  今夜二人で会って村岡が話したかったのは、こうした話題のようである。もっとも伊織もそれに関心がないわけではない。 「別におだてるわけではないが、美術館ならやはりお前だ。K市のもS市のも独創的で、しかも機能的だ」 「そういってもらうのはありがたいが、人それぞれの好みもある」 「いままでは美術館といえば国立だったが、最近は地方自治体がしきりに美術館新設にのり出している。いわば地方の時代だ。もちろんそれは美術界全体に刺戟を与えるのだから、悪いことではない。だが問題は容れものとなか身だ。なにかといえば、郷土作家と世界的な名作、それにモダンアートの三本柱というのでは芸がなさすぎる。そして一、二点、びっくりするような高い外国の絵を仕入れて、それで客を釣るというやり方だ」 「いろいろ、地元のボスが、からむこともあるからな」 「今度のM市だって、建築費だけで四十億だろう。それに年間の購入費が一億はつく。こうなると利権にむらがる蟻《あり》も出てくる。館長人事にしたって、どうかと思うのがいくつかある。美術館というと聞こえはいいが、裏はあまり美しいとはいえない。いろいろと画策がある」 「そんなことをしてまで、俺は仕事を欲しくはない」 「とにかく、富川という男はどうも信用できない」  酒を飲んで、村岡は少し口が軽くなったようである。伊織もよく知っている相手との酒で気は楽である。 「ご飯か、そうめんでもいかがでしょうか」  料理の最後に板前がきいたが、伊織はもう満腹だった。村岡も同様にことわる。  そのあと水菓子がでて、二人が「やしま」を出たのは九時だった。ホテルで村岡と待合わせをして、ここへ来たのが七時過ぎだったから、ほぼ二時間近くいたことになる。盃でちびちび飲んでいただけだと思ったが、外へ出てみると酔っているのがわかった。  どうやら、霞が夫と国立劇場に行っていたと知らされたあたりからピッチがあがったようである。村岡も、地方の美術館ブームの裏面に憤慨して盃を重ね、後半はかなり飲んでいた。 「もう一軒行こうか」  二人とも、このまま別れる気はなかった。伊織は近づいてきたタクシーに手を挙げた。 「しかし、二人で飲むのも久し振りだな」 「この前、パーティで会ったのは、二月の末だったかな……」 「二月十八日だ」  そのあと、霞と二人でホテルのバーで飲んだのが、親しくなる|きっかけ《ヽヽヽヽ》であったのだから、伊織は忘れるわけはない。村岡は座席のシートに背を凭せ、煙草に火をつけると思い出したようにいった。 「ところで奥さんは、どうしている」 「別に、変りはないようだ」  村岡は、伊織が別居していることも、笙子と深い関係にあることも知っている。ともに家を出るとき、理由を問いつめられて、仕方なく白状してしまった。初めは誰にもいわぬつもりだったが、いずれわかることだし、友人の一人くらいには、いっておいてもいいような気がしたからである。だがそのとき、村岡は「わからない」と、一言つぶやいただけだった。小さな感想は洩らすが、それ以上プライベートなことには立入ってこない。そんな抑制のあるところが、伊織は好きだった。 「それで、やっぱり別れてはくれないのか」 「ああ……」  車の左手は靖国神社の茂みで、深い闇になっている。 「彼女は?」 「そのままさ……」  村岡は煙草の火を揉み消してからいった。 「しかし、疲れるだろう」 「なにが?」 「いろいろさ……」  伊織は素直にうなずいた。村岡にいわれるまでもなく、伊織はたしかにこのごろ疲れを覚えていた。 「やはり、家庭というものがないとな……」  村岡のいおうとしていることは、伊織にもよくわかった。別居して一人の生活は自由といえば自由だが、反面その自由さが、確実に疲れさせもする。そのせいか、このごろ伊織はときに自宅に戻り、郵便物などを受けとりながら、いっそこのままここで休もうか、などと思うこともある。その都度、「いけない」と、自分を制するが、そんな気持が頭をもたげるのは、自由に疲れたせいかもしれない。 「しかし、このままでいいのか……」 「いや、よくはないだろう」 「じゃあ、どうするのだ」  そうきかれても、伊織にも答えようがない。 「個人的なことに口出しする気はないが、せっかくのお前の才能をつぶして欲しくないと思ってね」 「才能なんて、もともとないんだ」 「そんないい方はやめろよ」 「わかった。でも、そのことなら、あまり心配しなくていい」  たしかに、安定した家庭のない疲れはあるが、といって仕事への気力まで失ったわけではない。それどころか、最近のほうが一段とやる気がおきている。どうやら、家を出て不安定な状態にあることが、新しいファイトをかきたてるらしい。  実際、伊織はいま、妻と解決がつかぬまま、笙子との関係が宙ぶらりんになり、そこにさらに霞への愛が芽生えている。これでは疲れの原因を自分からつくりだしているようなものである。  だが、その困難さがあるから、新しい仕事にぶつかっていくエネルギーがわいてくるような気もする。 「すべて幸せならいい、というわけでもないだろう」 「それはわかるが、家庭が落着いてこそ、新しい力もでてくるものだろう」 「そうかな……」 「違うというのか」 「違うとはいわないが、そう単純なものでもないだろう」  村岡は大学に籍をおき、できあがったものを評論していく立場だが、伊織は新しくものをつくっていく立場である。いいわけじみるが、ある種の刺戟がなければ、新しい仕事に挑戦していく気力も湧いてこない。  車は九段坂上を右へ曲り、お濠端から銀座へ向かっている。二時間前、来た道を丁度、逆に戻っている。そのまま並木通りの七丁目の角で車を降り、ビルの三階の店へ行く。もう十年来、伊織が通っているところで、L型のカウンターの他に、ボックスが二つあるだけの小さな店である。 「やしま」では清酒であったが、ここでは二人ともウイスキーに変え、水割りにしてもらう。村岡は二年前に胃潰瘍をやり、冷たいのは刺戟が強すぎるといって、お湯割りにし丁子《ちようじ》を二つ入れた。そこで一時間ほど飲み、さらにもう一軒地下のバーへ行ったが、そこも伊織は馴染みで、ボトルがおいてある。 「しかし、M市の美術館の設計は、当然、お前に依頼してくるものだと思っていた」 「いや、その話はもういいよ」  村岡はまた前の話をぶり返したが、伊織はもうそのことはどうでもよかった。  ここでもさらに水割りを飲み、トイレへ行くと、自分でも酔っているのがわかった。じっとしていても、躰が前後に揺れ、正面のタイルの壁に手を当てて目を閉じると、自然に霞の姿が浮かんできた。ぼうと淡い闇のなかで、後姿の霞が脱いでいく。帯は解けているが、着物は肩にかけたまま、袖から片腕が抜きとられる。 「いかんな……」  伊織はとんとんと頭を二度叩き、冷たいタオルを額に当てて席へ戻ると、村岡がきく。 「おい、大丈夫か。このごろ、少し弱くなったんじゃないか」 「いや、大丈夫さ。それより、さっきの霞夫人に懸想したという男は誰だ」  酔っていきなりきくと、村岡は驚いて、 「お前、霞さんを好きなのか?」 「いいから、答えろ」 「そのあと、霞さんと逢ったのか」  問い詰められて、伊織は危うくうなずきかけたが、すぐ首を横に振って、 「そんなことは、どうでもいいだろう」 「忠告しておくが、あの人だけはやめたほうがいい」 「どうしてだ」 「他人の奥さんじゃないか」 「くだらん……」  きいた途端、伊織は気が抜けた。どんな重大なことをいうのかと思ったら、ごく平凡な理屈である。他人の妻に横恋慕していけない、といった程度のことなら誰でもわかっている。その程度の理屈で燃える心をおさえられるものなら、誰も苦労はしない。 「常識をいっていたら、恋などできん」  身勝手だと思いながら、いまはそういわざるをえない自分を、伊織はもてあましてもいた。  結局、もう一軒飲んで、伊織がマンションに戻ったのは午前一時を少し過ぎていた。  もし自宅ならば、こういうとき服を脱ぎ捨てても妻が起きてきてハンガーにかけ、あたたかいお茶を飲むこともできる。だが一人では、部屋の明りをつけるのから、お茶の支度まで、すべて自分でしなければならない。伊織は乾きを覚えて、キッチンで水を一杯飲み、背広だけ脱ぐと、そのままソファに仰向けになった。どれくらい飲んだのか、自分でもよくわからないが、胸元が苦しくてネクタイをゆるめる。そのまま目を閉じると、闇のなかで頭がぐるぐる廻っている。  だが気分は悪くはない。飲んだ時間は長くても、相手が気の合う村岡だったからであろう。  伊織は一つ寝返りをうち、それから部屋の端にある電話を見た。いままでも飲んで帰ってきたときには、いつも電話をしようかと思ったが、その都度あきらめてきた。だが、今夜なら、酔った|いきおい《ヽヽヽヽ》でできそうである。  伊織は立上り、いったん受話器をソファの横まで持ってきて、背広のポケットから手帖をとり出した。それで電話番号を探しながら、伊織は改めて午前一時が過ぎていることに気が付いた。  こんな深夜に電話をして、はたして霞は起きてくるだろうか。たとえ起きてきても、困惑するだけかもしれない。  やめておこう、と思いながら、かけて、少し困らせてやりたいという気持もある。  村岡の話によれば、自分と逢って三日後には夫と芝居を見にいっている。その罰として、深夜の電話の一度くらいは受けるべきである。そこまで考えて、伊織は意を決して受話器を持つ。  手帖を見ながら、プッシュホンを押し終ると、じき呼出音がなる。三回から五回目になったところで、伊織は切りかけた。途端に受話器のはずれる音がして、女の声が返ってきた。 「もし、もし……」  瞬間、伊織は息をのみ、それからおそるおそるきいた。 「あのう、高村さんですか」 「高村ですが」  声は低いが、間違いなく霞の声である。 「伊織ですが……」  霞は驚いたのか、短い間があってから低い声が返ってきた。 「どうか、なさいましたか」  正直いって、伊織は霞がすぐ電話に出るとは思っていなかった。深夜で、普通の人々はすでに寝静まっている時間である。あれだけ大きな家だけに、ベルが鳴ったくらいで簡単に出るわけはない。それに万一、出たとしても、お手伝いの人くらいだろうと思っていた。かけはしたが、伊織は二、三度ベルが鳴ったところで切るつもりでいた。相手は出なくても、霞の家の電話を呼んでいるという実感だけで満足しようと思っていた。それがいきなり本人が出たので、かえって慌てていた。 「こんなに遅くにかけて、すみません……」  伊織は受話器に向かって頭を下げた。 「別に用事はないのですが、ちょっと声をききたくなって、迷惑でしょう」 「いいえ……」  霞の声が遠くから、風のようにきこえてくる。 「いま、少し前に、帰ってきたのです」 「お酔いになって、いらっしゃるんですか」 「いままで村岡と飲んでいたのです。彼と、あなたのことを話しました。もちろん、われわれのことはなにもいいません」  話すうちに、伊織は次第に元気がでてきた。 「今度、いつ東京へ出て来られますか」  この前、国立劇場に夫と歌舞伎を見にきている。それをいいたいのを伊織は辛うじておさえて、 「来週にでも逢えませんか。昼でもかまいません。少し早目にわかれば、なんとかなりますから」 「今月はちょっと……」 「じゃあ、また電話をします。それともそちらからかけてくれますか」 「あのう、今日は遅いので……」 「わかりました。じゃあ待ってます」 「失礼いたします」  伊織は切れた受話器をゆっくりと戻した。  ただ一度、電話をかけただけなのに、なにか大きな仕事でも終えたような疲労感がある。  初めは出なくてもいいと思ったが、やはり声をきけてよかった。だが、霞の応対は、なにか慌てているような、怯えているような様子でもあった。  やはり、電話を受けながら、そのうしろに夫の存在を意識していたのか。それにしても深夜に、霞はどんな姿で電話に出ていたのか。この前、寝室で見たように、伊達巻を締めて白い長襦袢姿であったのか、それとも別の寝間着姿だったのか。まさか情事のあととは思えないが、少し嗄《しやが》れてきこえた声が、耳元になまなましく残っている。 [#改ページ]    春  愁  毎年、春が訪れて暖かくなると、かえって体調をくずす人がいる。ようやく冬が去り、寒い季節が終ったというのに、頭はぼうとし、躰は気怠《けだる》く、いま一つ調子がでない。おそらくは冬の寒さに親しんだ躰が、急に訪れた春のなま暖かさに順応できないためなのだろう。あるいは春の木の芽どきの溢《あふ》れる生気に、躰のほうが負けるのかもしれない。  笙子は、このタイプの女性らしい。毎年のことだが、木の芽どきになると、躰が変調をおこすようである。といって、具体的にどこがどう悪いわけではない。ただなんとなく精彩がなく、自分でもいま一つのりきれない。要するに躰の不調が精神にまで及んで不安定になるらしい。  笙子のように、痩せぎすで低血圧の女性には、こういう傾向が強いのかもしれない。  四月の半ばを過ぎて、伊織は初めて、そのことに気がついた。もう識り合って四年にもなるのだから、当然そのあたりのことについては気がつくべきであった。春先、笙子が軽い変調をおこすことは、前から知っていたことだが、伊織自身が木の芽どきをあまり気にしないだけに、つい忘れてしまう。それにいま一つ、霞に気持を奪われていたことも、うっかりしていた原因かもしれない。  霞との逢瀬が少し途切れて、伊織はようやくそのことを思い出した。笙子の不機嫌は、毎年、木の芽どきに訪れる変調で、他意はない。もちろん、単純にそれだけでなく、他に、伊織と霞とのことを察しての、反撥もあったかもしれない。だが伊織としては、春の変調だと思いこんだほうが気が休まる。  すでに桜は終っていたが、初夏を思わせる陽気の土曜日の夜に、伊織は久し振りに笙子と食事をした。そのとき逢うといきなり、伊織は当然知っていたように、春の変調について笙子にたずねた。 「今年はどうなの?」 「もう大分いいのですけど、まだ体温が少し高いのです」 「それじゃ、熱があるわけかな」 「それとも、違うのですけど」  笙子は前に垂れかかってきた髪を、白さの目立つ手でかきあげた。その手も躰も華奢《きやしや》で、それだけになにごとにも敏感で面倒な躰である。だが伊織は、その敏感で面倒なところに惹かれていたともいえる。  レストランは青山通りの渋谷に近いビルの地下にある。横に細長く十卓ほどのテーブルがあるだけのこぢんまりとしたところである。 「前に銀座の『エスプリ』のシェフをやっていた男が独立したところでね」  伊織は味が気に入って、この店には何度もきている。 「小さくて可愛いわ」 「じゃあ、乾杯」  木の芽どきの変調を振り払うように笙子はワインを飲む。 「少し、体温が高いのに、飲んでも平気かな?」 「軽くいただいたほうが、楽になるのです。酔いで忘れてしまうからでしょうか」  笙子は一口飲むとワイングラスの冷たい感触を楽しむように、白い額に当てた。 「ゴールデン・ウイークは長野にでも帰るのかね」 「いいえ、帰りません、もう実家はこりごりです」 「なにかあったの?」 「この前、帰ったとき、見合いをしろとうるさくいわれたのです。今度帰ったら、逃げられなくなります」  笙子の実家は長野の旧家で、父親は高校の教師だときいていた。古い家だけに、二十八になって一人でいる娘へ、風あたりが強いのであろうことは、伊織にも想像がつく。 「相手はどんな人?」 「する気はないのですから、きいていません」  笙子の躰に似合わぬ勝気な顔を見て、伊織は、夜の窓へ視線を移した。  笙子が結婚する気はない、といってくれるのは嬉しいが、それにどう答えるべきなのか、伊織は戸惑う。女性が男に、見合いや結婚の話をするときは、相手に、なんらかの結論を迫っているのかもしれない。そのあたりまでは察しがつくが、いまの伊織には、それに明快な返事はできそうもない。ウエイターがワインを注ぎにきて、伊織はそれを受けてから、笙子のほうへ顔を戻した。 「それじゃ、ゴールデン・ウイークに、二人でどこかへ出かけようか」  笙子はもうお腹が一杯になったのか、仔牛のクリーム煮を半ば以上残したまま答えた。 「無理をなさらなくて、いいのです」 「無理?」 「いろいろお仕事があるし、ゴルフも麻雀もなさりたいのでしょう」  たしかに、二カ月前、東北のH市から郷土館の設計の依頼があり、その原案をゴールデン・ウイーク明け早々にも、市のほうへ提出する予定になっていた。他にゴルフにも誘われていたし、一晩くらいは暢《の》んびり麻雀をしたいとも思っていた。 「京都にでも、行ってみようか」 「でも、混みますよ。混むのはいやなのでしょう」 「そりゃ好きではないが、奈良ならどうかな。あそこの長谷寺の牡丹《ぼたん》を一度見てみたい」 「わたしのことでしたら気をつかわれなくても結構です」 「君は、このごろ少しおかしいんじゃないか」 「ううん、おかしくなんかありません」  笙子はことさらににこやかに笑うと、ワインに軽く口をつけて、 「宮津さん、この前ですけど、もう少しここにおいてもらおうかな、なんていっていました」  宮津大介は伊織の事務所にもう八年ほど勤めているが、今年の夏には辞《や》めて、自分で事務所を開いて独立する予定になっていた。 「しかし、準備はすすんでいるんだろう」 「いろいろ調べたり、様子をきくうちに、自信がなくなったのかもしれません」  建築業界は一時のブームが去って、いまは往時ほどの活気はない。その影響を受けて、建築家も、仕事があるのはごく一部の人にかぎられ、大半は小さな仕事を、それも厳しい条件で受け入れざるをえない状態になっている。幸い、伊織はその恵まれた数少ないほうの一人で、宮津も、伊織の事務所にいるかぎりは、大きな仕事もできるが、独立してしまうと仕事を選ぶのは難しくなる。そのあたりのことを考えて、弱気になってきたのかもしれない。 「彼が、君にいいにきたのか?」 「いいにというより、この前、お茶を飲んだとき、なに気なく仰言ったんです」  笙子が伊織と親しいのを知って、所員のなかには、伊織に直接いいにくいことを、笙子に洩らすことがある。宮津の話というのも、そのたぐいの一つかもしれない。  伊織は自分の事務所の所員が他へ移ることも、辞めて独立することも、自由にさせている。辞めたければ辞めればいいし、自分でやってみたければやってみるのもいい。  大きな事務所を持っている建築家のなかには、所員の移転から独立にまで、いちいち口を出す人もいるようだが、伊織はそれぞれの考えで自由にやればいいと思っている。むろん相談にくれば相手にはなるが、あまり干渉しようとは思わない。そのあたりが、ときに冷たくみえることもあるようだが、反面、所員達にとっては、気楽でもあるらしい。 「宮津さん、もし辞めたくないといってきたら、このまま、事務所に残ってもよろしいですか」  宮津が、独立したいといってきたのは去年の暮れである。伊織はそのつもりで、この春に一人、若い建築家を採用している。したがって、宮津が辞めないとなると、スタッフが一人余ることになる。だが伊織は、そのあたりのことはあまり気にしていない。いま所員が一人増えたところで、困るわけでもないし、多ければ多いなりにやりようもある。  それより、伊織は去年の忘年会のとき、ある所員からきいた話を思い出していた。その所員は少し酔っていたが、宮津は笙子が好きで、そのために辞めるのだと教えてくれた。それをきいたとき、伊織は自分でも不思議なほど冷静であった。同じ事務所に笙子のような女性がいれば、好きになる男性ができるのは当然だし、それに宮津なら三十二歳で独身だから、笙子と年恰好もあうと、ぼんやり考えた。  結局、その話はそれ以上、宮津にはもちろん、笙子にも問いただすことなく、ただ心の片隅に、一つの噂としてとどめていただけである。  伊織がいま少し気にかかるのは、宮津がいったん辞めるといって気が変ったことを、自分に対してでなく、笙子に告げたことである。そういうことなら、直接自分にいってきて欲しい。笙子が所長と親しいと思って、宮津が告げたとしたら筋違いというものである。  伊織は別に、笙子の意見で仕事や人事を動かしているわけではない。そういう見方をされるのは、伊織にとって迷惑だし、笙子自身にとってもマイナスである。 「それで、君はなんといったのかね」 「わたしはなにもいいません。ただ黙ってきいていただけです」  たしかにそのとおりかもしれないが、笙子はいま伊織に告げている。その場はともかく、結果として、所長の耳に届いたことになっている。笙子の口から、いろいろ所員達の情報が入るのは悪くはないが、しかしフェアではないかもしれない。このあたりは自分自身の責任として考えなければならないと、伊織は思う。 「宮津君のことは、いずれ彼がいってきたら考えよう」  伊織はワインに替えてブランディのストレートにし、笙子はペルノーを頼んだ。 「京都や奈良じゃ、いまからではホテルもないんじゃありませんか」 「じゃあ外へ出るのはやめて、一日暢んびり東京で過ごそうか。なんなら横浜へ行ってもいいが、君はどうかな」 「わたしはかまいませんけど」  ワインを飲んで、笙子の木の芽どきの不機嫌は、いくらかなおったようである。 「そろそろ、出ようか」  伊織は食後のデザートを断って立上った。外へ出ると少し曇って風が出てきたようである。土曜日の夜とあって、若い人達が多い。急に賑《にぎ》やかな笑い声がして、女性の四人連れが近付く。そのグループとすれ違ったところで、伊織は笙子にささやいた。 「ちょっと、部屋に寄っていかないか」  笙子は車が並んでいる信号のほうを見て、少し考えてからいった。 「わたし、帰ります」 「なにか、用事でもあるのか?」  笙子は答えず、伊織から半歩遅れて従《つ》いてくる。一緒に食事をして、笙子の機嫌はなおったように思ったが、どうやら、それはまだ本物ではなかったようである。 「今日は、なにもなかったんじゃないのか?」  伊織はそこから二十メートルほど歩き、歩道の柵《さく》の切れたところで立止った。 「やっぱり、帰るのかね」  夜の微風のなかで、笙子がうなずくのを見て、伊織は近付いてきたタクシーに手を挙げた。 「じゃあ、送ろう」  伊織は停った車に先に乗ると、運転手に笙子の住んでいる駒沢に行ってくれるように頼んだ。  運転手は黙って一つ先の信号でターンして再び渋谷駅のほうへ向かう。  伊織のマンションへ行くのなら、そのまままっすぐでよかったが、笙子の家へ行くとなると、逆の方向になる。ターンして、人であふれる渋谷駅の信号を待つあいだも、笙子はなにもいわなかった。  レストランでいったん和《なご》みかけた笙子の気持は、外に出て再びかたくなになったようである。  やがて信号が青に変り、車は駅のわきのガードを抜け、国道を西へ向かう。たちまち繁華街の賑わいが去り、立体交叉のトンネルに入ったところで、笙子が突然、額に手を当てた。 「どうしたの?」  伊織がきいても笙子は答えず、静かに上体を寄せてきた。そのままの姿勢で二人は動かず、トンネルを抜けて再び明りが迫ってきたところで、伊織はそっと肩に手をのせた。 「戻ろうか」 「………」 「運転手さん、すまないけど、もう一度、青山に行ってくれませんか」 「また戻るんですか、もっと先の信号でなきゃ、戻れませんよ」  初めに方向を変えさせられ、いままたUターンを頼まれて、運転手はいささか不機嫌なようである。 「先でかまわないから、頼むよ」  伊織は運転手にいうと、笙子の肩をそっとひき寄せた。笙子はもう抵抗はしないようである。まだ躰に少しぎごちなさはあるが、伊織のところへ行くことは納得しているようである。  レストランを出て、歩道に立ったときは「帰る」といったのに、いまになってどうして伊織のところへ行く気になったのか。やはり木の芽どきの変調が、笙子の心の振幅を大きくしているのか、それとも、このところ心のなかにわだかまっていた苛立ちが、素直に従いていく気にさせなかったのか。いずれにせよ、若い娘の気持は微妙である。  車は再び、夜の光りのあふれる渋谷へ向かって戻っていく。  もしかして笙子は、光りのあふれる繁華街を去りかけて、急に淋しさを覚えたのかもしれない。つい少し前まで堅かった笙子の躰は、いまはやわらかさとしなやかさをくわえて、伊織の腕のなかで小猫のようにおさまっている。  十分もせずに、車はマンションに着いた。  笙子はすでに、伊織の部屋には何度も来ているが、今夜は少し控え目に、一歩退って従いてくる。初めは行かないといって、途中から気が変ったことに、こだわっているのかもしれない。  ドアを開けてなかに入ると、笙子はいったん立止り、あたりをうかがうように見回した。なにやら自分がこなかったあいだの空白を、目と嗅覚でたしかめているようでもある。 「まだ、飲めるだろう」  伊織は自分には水割りをつくり、笙子にブランディを注いだ。笙子はそれを一口飲んでから、自分が坐っているソファの表面を撫ぜながらいった。 「カバーが変ったのね」  たしかにソファのカバーは、冬の無地のものから春向きの明るい花柄のものに変っていた。 「この絵も……」  笙子が振り向いた壁には、いままでの風景画からモスグリーンの地に桜桃が並べられた抽象画に替っていた。 「一カ月くらい前に、替えたはずだが」 「わたし、一カ月もこなかったんだわ」  笙子はそういうと、立上ってキッチンに行った。 「あの、家政婦さん、まだきているんですか」 「もちろん、彼女がいなければ掃除をしてもらえないからね」 「これ、つかっているのね」  今度は、笙子は豆挽《まめび》きがついたコーヒーわかしをいじっている。その器具は去年の暮、笙子が便利なものがあるといって買ってきたものである。 「そのわりに、変っていないわね」 「当り前じゃないか」 「でも、部屋が明るくなって、なにかいきいきしているみたい。この部屋に、わたし以外の人は入っていないでしょうね」 「もちろん……」  伊織はいったん答えてから、いいなおした。 「お客さんはくるけど……」 「それは、仕方がないわ」  うなずきながら、伊織は、霞のことを考える。はたして彼女も客なのか。広い意味ではそうかもしれないが、ここでの逢瀬を考えると、単純な客とはいい難い。 「休もうか」  伊織が促してベッドルームへ行くと、笙子は黙って従いてきた。  ベッドのわきのナイト・テーブルの小さな明りだけをつけて、伊織が服を脱ぐと、少し遅れて笙子も脱ぎはじめた。  先に伊織がベッドに入って待っていると、キャミソール姿の笙子が、身をかがめて入ってくる。その小猫のような姿態を見ながら、伊織は自然に、霞のことを思い出す。  もしこれが霞なら、こういう具合にはいかない。この前逢ったときも、霞はうしろ向きで、片袖ずつ脱ぎ、最後は長襦袢にきっかりと伊達巻を巻いた姿で、布団の端から入ってきた。  もちろん笙子は洋服で、和服のようなわけにはいかない。洋服の場合はスーツの下のシャツを脱いでしまうと、おおっているものはなにもなくなる。肌を見せたくなければ、一時的にガウンでも借りるよりないが、それがなければ、身をかがめてベッドに駆けこむよりない。実際、笙子は両手で胸をおおい、身をかがめて駆け込んできた。  いまの笙子の仕草が不躾《ぶしつけ》というわけではないし、とびこんできた姿は、むしろ愛らしかった。だが霞とくらべると、笙子の動きはてきぱきと少しさっぱりしすぎているかもしれない。車に乗るときこそ戸惑っていたが、部屋に入ってからは迷うことはない。ベッドに入るのは当然のことのように自分から服を脱いだ。  そこには、霞のように戸惑い、逡巡《しゆんじゆん》するところがない。それは見方によっては、さっぱりしすぎて風情がない、ということにもなりかねない。だが考えようによっては、そのほうが男性にとっては好ましいともいえる。いまさら雰囲気をもりあげるとか、口説の言葉を交わすといったわずらわしさもない。風情にはいささか欠けても、そこには別の気楽さと安らぎがある。  いま伊織は、そのいずれがいい悪いと、比較する気は毛頭ない。そのときどきに応じて、多少|煩瑣《はんさ》でも、風情があるほうがいいと思うこともあるし、それでは面倒だと思うこともある。一人の女性に両方を求めるのは、男の願望であるとともに、身勝手に違いない。  だが、すらすらと服を脱ぐ気楽さが、二人が馴れ親しんだ歳月の結果であることは、まぎれもない事実のようである。笙子も、かつてはそんな簡単にベッドに入ってはこなかった。霞とは違うが、それなりのためらいと戸惑いがあった。いま、それが失せたところに、四年という歳月の長さと重さがにじんでいるともいえる。  笙子と二人のときは、ベッドまでの過程が気楽であるように、愛し合う行為にも、余計な緊張はない。そこには、未知のものに対するときのような興奮や好奇心はないが、反面、馴れ親しんだ者だけに通じる安らぎがある。  行為が終って、いま笙子は、いつものとおり小さく伊織の胸のなかにおさまっている。それは親鳥がつくった巣に、小鳥がすっぽりと入りこんでいるのに似ている。笙子の細い躰はそのままぴくりとも動かず、呼吸のたびのわずかな胸の動きだけが、やわらかな肌を通して伝わってくる。  女は行為を終えてから、末広がりの満ちてくる感覚を味わうのかもしれないが、男はその瞬間から醒めていく。そのあたりが男の少し面倒なところだが、伊織はいま、笙子のあたたかさを全身で感じながら、ある気怠さとかすかな悔いにとらわれている。もちろん気怠さは行為のあとの虚脱感だが、悔いの内容はいささか複雑である。  この一カ月の笙子との冷たい関係は、どうやらこれで解消したようである。原因や|いきさつ《ヽヽヽヽ》はともかく、愛し合ったあとでは、それ以前の争いはすべて他愛なく、些細なこととしか思えない。そのかぎりでは、今日の逢瀬は二人にとって大きな意味があったといえる。  だがその安堵とは別に、これでまた笙子とのあいだが深まっていく。それは伊織が望んだことであり、そのこと自体に不満はないが、その先にある不安と気重さは消えてはいない。一体このまま続けて、笙子とのあいだはどうなるのか。もうずるずると四年も経っているのに結論はでない。その原因は、妻が離婚に応じないからではあるが、その裏には伊織の決断力のなさもある。いまの不安は、そうした状態への苛立ちであり、同時に、上司と下に働く女性という関係の難しさもからんでいる。そしてその先に、霞の姿が垣間見える。  まことに気が重く、とりとめないといえばそのとおりだが、伊織の気持はいま揺れながら、少し投げやりになっている。どうせ誰と結ばれても、結果は同じではないか。初めはどんなに好きでも、やがて緊張は薄れ、倦怠だけがおし寄せてくる。  女はベッドの前でためらい迷うことが多いが、男はむしろ、終ったあとで迷い悩むものらしい。  霞から電話があったのは、伊織が笙子と逢い、再び肌を合わせた翌日の午後だった。 「お仕事場へ電話をかけて、申し訳ありません」  霞はまずそのことを詫びてから、少し声を低めていった。 「明日、東京へ参るのですが、いらっしゃいますか」 「いますが、何時ごろですか」 「それが午後なのですが、三時ごろになろうかと思いますけど」  明日は二時から、新しい建材のサンプルを持ってくる業者と会う予定になっていた。 「夜は、駄目なのですね」 「申し訳ありません、六時からちょっと行かねばならないところがありますので、お忙しければ結構なのです。ちょっとお暇があればと思って、おかけしただけですから」 「待って下さい、それじゃ三時にマンションに直接来ていただけますか」  業者とは事務所でなく、マンションで会えば、そのまま三時に間に合いそうである。 「でも無理をなさらなくてよろしいのです。急なので、あきらめていたのですから」 「大丈夫です、僕のほうはかまいません。三時に来て下さい」 「でも……」 「待っています」  この電話を取り次いだのは笙子ではなかったが、余計なことを話して、他の女性に感付かれては困る。伊織は自分から電話を切った。  だがそれにしても、霞の声をきくのは久し振りであった。考えてみると、村岡と飲んだ夜、電話をしてからだからもう二週間にはなる。深夜のせいもあったが、そのとき、霞は少し迷惑そうであった。そのことが頭にあって、それ以来、伊織は電話をしていなかったが、霞のことを忘れていたわけではなかった。一人でコーヒーを飲んだり、夜の道を歩くときなど、突然、霞が身近に甦えるときがある。  だがこの間、霞からはまったく電話がなかった。このままでは、霞とのあいだは途絶えるかもしれないと思いながら、ときにふと、終っても仕方がないと思うこともあった。いいわけじみるが、昨夜、笙子と結ばれたのも、そうした霞へのあきらめの気持と無縁でもなかった。 「明日、三時か……」  つぶやくうちに、伊織の全身に新しい緊張感がみなぎってくる。この締めつけられるような充実感を、笙子との逢瀬に感じることはほとんどない。  伊織が事務所に出かけるのは、いつも昼近くである。起きるのはそう遅くはないが、午前中は特別のことがないかぎり、マンションで原稿を書いたり本を読む時間についやす。事務所に行くと雑務に追われ、夜は会合が多いので、午前中が一人で過す貴重な時間でもある。  霞から電話があった翌日、十時に、伊織が事務所に電話をすると笙子が出た。 「お早うございます」  二日前に二人だけで会ったせいか、笙子の声は明るい。伊織は軽い安堵を覚えて、今日、事務所に行けない旨を告げた。 「でも、午後二時にMK建材の加藤さんがお見えになりますし、そのあと、丸友商事の方ともお会いになる予定になってますが」 「二人とも、僕が直接会わなくてもいいだろう。かわりに浦賀君に頼んでくれないか」  浦賀三郎はもう十年以上も、伊織のところで働いているベテランの建築士で、伊織が最も信頼している男である。 「それじゃ、今日はずっとマンションのほうにいらっしゃるのですか」 「少し仕事がたまったので、部屋のほうが落着くのでね」 「わかりました。なにかあったらそちらへ連絡します」  電話が切れて、伊織はほっと息をついた。なにごとも嘘をつくのは気が重い。今日、事務所に出ない本当の理由は、午後に霞がマンションへくるからである。笙子はむろんそのことは知らないし、疑っている様子もない。そのかぎりではうまくいったようだが、あざむいた後味の悪さは消えない。  大体、伊織はこの種の嘘は苦手である。嘘をついたつもりで、あとでいつのまにか|ばれ《ヽヽ》ている。とくに白状したり、尻尾をつかまれるわけでもないが、自然に態度に出るらしい。根が善良といえばきこえはいいが、少し緻密《ちみつ》さにかけるのかもしれない。  もっとも、これは伊織だけでなく、男全般にいえることかもしれない。総じて、男より女のほうが嘘はうまそうである。その原因は男のずぼらさにもあるようだが、それ以上に、嘘をつくときの心構えの違いかもしれない。  嘘をつくなら、どっしり腰をすえてつくべきである。その点、いざとなると、女のほうが度胸がよさそうである。男はいろいろ策は弄《ろう》するが、根は女より小心なのかもしれない。  笙子のほうはなんとか理由をつけて誤魔化したが、もう一人、家政婦がいる。こちらのほうは同じ部屋にいるのだから、いささか厄介である。  家政婦富子は昼少し前にきて、伊織の朝昼兼用の食事をつくり、そのあと部屋の掃除をし、頼んでおいた雑用をして帰っていく。一日中、伊織はマンションにいることはあまりないので、家政婦の細かい動きまではわからないが、大体、三時か四時ごろに帰るらしい。  今日は霞が三時にくるのだから、その前に帰ってもらわなければ困る。  単に家事を手伝ってもらっているだけだから、霞が現れたところで遠慮することはないはずだが、実際にはそうはいかない。富子は表面は大人しそうだが、その実、伊織の私生活には結構、関心をもっている。  この前、霞がきたあと、ヘアピンを目敏《めざと》く見付けて、これ見よがしに目の前の灰皿に捨てたほどである。今日、霞と直接会ったら、そのときの女性だと、すぐわかるに違いない。  家政婦を早く帰すにはどうしたらいいのか、考えるうちにチャイムが鳴って、富子が現れた。 「いまその角で、タクシーとバイクがぶつかって、バイクに乗っていた人は怪我をしたらしく、救急車がきて大変な人だかりですよ」  富子は部屋に入るなり、いつも外で起こったことを報告する。今日は電車が混んでいたとか、雨が降り出したことまで、富子がいうとすべて大事件のようにきこえる。 「今日はここでずっと仕事をしたいのでね。掃除が終ったら、帰っていいよ」 「でも、お食事はいらないのですか」 「それはもらうけど、二時ごろからは一人で大丈夫だ」 「今日は洗濯屋さんがくるし、お天気だからベッドパットを干そうかと思っていたのですけど、隣りの部屋で仕事をしていてはうるさいですか」 「そんなこともないけど、ちょっと難しい仕事なので一人でゆっくり考えたいと思ってね」  早く帰っていいといわれたら喜びそうなものだが、富子はぷいと顔をそむけてキッチンに向かう。勘のいい女だから、あるいは女性と密会することを感付いたのか。しかし早く帰っていい、といっただけで、わかるとは思えない。いずれにせよ、自分の部屋で女性に逢うのさえ、いちいち気をつかわなければならないとは、自業自得とはいえ、なんとも不自由なことである。  そのまま伊織は書斎にこもり、昼すぎに、家政婦の富子がつくってくれた、遅い朝食をとった。以前は、トーストと野菜といった簡単な朝食だったが、最近は特別のことがないかぎり、朝はお粥《かゆ》にしている。一年前、京都に泊った朝、旅館で出してくれた粥がうまかったのが|きっかけ《ヽヽヽヽ》だが、パンよりこのほうが、すっきりして胃にもよさそうである。  もっとも、一口に粥といってもなかなか難しい。餅米《もちごめ》から直接点火で炊くのはもちろんだが、なかに榧《かや》の実か赤|棗《なつめ》、秋には栗なぞをいれる。棗なら湯に漬けてもどさなければならないし、栗は鬼皮としぶ皮をむき、水に漬ける手間がかかる。こういうのは、若い家政婦ではなかなかやってもらえないが、富子は齢がいっているせいか、億劫《おつくう》がらずにやってくれる。極端なことをいえば、この朝粥のつくり方がうまいので、富子を頼んでいるといえなくもない。  伊織は食事をしているあいだに、書斎のほうの掃除をしてもらい、終ったところで、今日は二時に帰っていいと、もう一度念をおした。 「でも、こちらの部屋の掃除はまだですよ」 「いまからやれば間に合うだろう」  富子は食器を片付けはじめたが、ふと手を休めてきいた。 「先生は、わたしがいては邪魔なのですか」 「いや、そんなことはないけど、ちょっと面倒な仕事があるのでね」  富子はそのまま黙って食器を洗いはじめた。うしろ姿からは顔の表情はわからないが、激しい水の出し方や、肩に力をこめて洗う仕草に不機嫌さが現れている。  なんとも、女性をつかうのは面倒なことだが、もとはといえば、日中、人妻と逢おうという、伊織の考えが身勝手なのだから仕方がない。  こんなことなら、いっそ外で逢って、どこかホテルへでも誘ったほうがよかったかもしれないが、それでは霞が嫌がるだろうし、伊織とてそんなところへ昼間から入る勇気はない。  再び書斎にこもって、机に向かっていると、小一時間ほどして富子が現れた。振り返ると、すでに外出着で、手に紙袋を持っている。 「それでは、二時ですから帰らせていただきます」  言葉は丁寧だが、あきらかに刺《とげ》がある。 「明日は、こないほうがいいでしょうか」 「いや、もちろん頼むよ」 「では、お先に……」  富子は馬鹿丁寧な挨拶をして去っていく。そのままドアが閉まる音がして、伊織は戸口へ行ってみる。たしかに富子の靴はなく、帰ったことをたしかめ、ドアの内鍵をしめると、伊織はようやく安堵した。  それからの一時間、伊織は机に向かっていたが、ほとんど仕事ははかどらなかった。一人で落着いてやらなければならない仕事があるのは事実だったが、霞がくることを思うと、熱中できない。こういう感情は、もう数年来、味わったことがなかった。いい年齢《とし》をして、大人げないと思いながら、しかしこうした緊張感にとらわれている状態も悪くないと伊織は思う。  年相応という言葉があるが、それは世間態《せけんてい》を第一に考えたことで、そんなのに合わせていたら老けるばかりで、自分の才能まで枯渇させてしまう。再び机に向かい、ときに窓を見て、落着かぬうちに三時になったが、インターホンはまだ鳴らない。  伊織のマンションは、入口のドアがリモートコントロールになっていて、来客は入口のわきのインターホンで来たことを部屋へ連絡し、それを受けて応対する方が、部屋にあるボタンをおして開けるようになっている。  霞はこれまでに二度ほど来ているが、いずれも伊織と一緒であったので、開け方がわからず戸惑っているのかもしれない。そう思って立上ったとき、電話が鳴った。瞬間、伊織は事務所からかと思い、身構えて受話器をとると、霞の声だった。 「いま、すぐ近くなのですけど、お伺いしてよろしいですか」 「もちろん。下のドアはロックになっていますから、インターホンで連絡して下さい」  三時を十分ほど過ぎているが、近くまで来て、一度電話をよこすところが、霞らしい要心深さである。実際近かったらしく、それから五分もせずに霞は現れた。やはり今日も和服で、紺の結城《ゆうき》に淡いグレイの地の帯を締め、手にバッグと小さな紙包みを持っている。 「よろしいですか」 「どうぞ」  伊織は霞をなかへ入れると、ドアを閉め、鍵をかけた。 「待っていたんです」  もろもろの気持をこめて、伊織が少し怒ったようにいうと、霞はそっと頭を下げた。 「すみません、おしかけてきたりして。お仕事は、よろしいのですか」 「いいから、入って下さい」  霞はうなずき、うしろ向きにかがみこんで脱いだ草履をなおす。立っている伊織の眼下に、霞の襟足が見え、形よく抜けた襟元から襦袢の衿《えり》の白い地がのぞかれる。伊織は襟元のまぶしさから目をそらして、リビング・ルームへ戻った。霞はそのあとを従いてきて、キッチンのほうを見た。 「お花を持ってきたのですけど、この前の花瓶、ありますか」 「前の侘助は、ずいぶん楽しませてもらいました」 「これは、お気に入るかどうかわかりませんけど」  霞が手に持っていた白いつつみの紙を除くと、なかから白い芍薬《しやくやく》が一輪、現れた。 「こちらで、活けてよろしいですか」  霞はそのまま流しに立つと、平たい箱から花鋏をとり出して、活けはじめた。  伊織はソファに坐り、花を活ける霞のうしろ姿を見ながらいった。 「この前は、突然、電話をかけたりして、済みませんでした」 「こちらこそ、失礼致しました」 「あんな遅くかけたほうが悪いのです。あれ以来、いささか反省しています」 「村岡さんと、ご一緒だったとか」  霞は芍薬を手にかざし、見定めてから葉を落していく。 「初めは軽く飲むつもりだったのが、つい飲みすぎて、でも最後に、村岡に忠告されました」 「忠告……」 「あなたを、好きになってはいけないと」  霞はきこえぬように花を挿し、両手で茎の中程をおさえた。 「彼はまだなにも知らないのです」  伊織がいったとき、霞が振り向いた。 「どこにおきましょうか」  大きな飾り棚の中程に、テレビをおけるほどの空間がある。伊織がそこを示すと、霞は花瓶を捧げ持つようにして、その位置に置いた。 「お邪魔かも、しれませんけど」 「いや、見事です」  白い芍薬の大輪と、それと寄りそうように残された一枚の葉が、渋い備前の花瓶によく似合う。花をそえ、部屋は華やかな風格をそなえたようである。 「芍薬は華やかな花だと思いましたが、こうしてみると、淋しい花なのですね」 「自慢していうわけじゃありませんが、白芍薬の、それも一輪だけが、よろしいでしょう」  伊織はうなずき、「あなたに似ている……」といいかけてやめた。たしか侘助を持ってきてくれたときも、霞に似ているといいかけてやめたはずである。そのときどきに似ているといっては、実がなさそうにきこえるし、その台詞自体が少し|きざ《ヽヽ》かもしれない。だがいま似ていると思ったことは、まぎれもない事実である。侘助のときは、白く控え目な姿が、いかにも霞らしいと思ったし、芍薬の沈んだ華やかさも、またよく似ている。  花を横に見て、二人は向かい合って坐った。 「お忙しかったんじゃ、ありませんか」 「いや、それより、もしかすると、あのまま逢えないかもしれないと思って焦っていました。あなたが電話をくれないので」 「わたくしから、連絡せよと仰言るのですか」  一瞬、霞は厳しい表情になって伊織を見た。  伊織は改めて、霞が人妻であることを思い出した。二度、肌を触れ合ったからといって、女性のほうから電話をよこせというのは、酷なことかもしれない。 「深夜に、変な電話をしたので、かけづらくなっていたのです。今度は日中にします」 「お手伝いさんがでるかもしれませんが、その人は、よくわかっている子ですから、大丈夫です」  伊織は、「おや……」と思った。霞がこんな積極的ないい方をするのは初めてである。いままではいつも逃げ腰で、誘われるので仕方なく、といった感じであった。 「どこかに寄ってきたのですか」 「ちょっと日本橋のデパートのお花の展覧会へ行ってきたのです。つまらないものですが、出品しているものですから」 「それは、ぜひ見たい」 「とてもお見せするようなものではありません」  伊織はもう一度花瓶の花を見た。平凡な一輪であるが、活けられた姿には非凡さが現れている。 「それじゃ、六時からは……」 「ホテルで、その会の方達と会うのです」  展示を見て、そのあと懇親会でもあるのであろうか。そのあいだのわずかな時間をぬって、霞は逢いにきたらしい。だが六時というと、あと二時間少ししかない。伊織はまた花を見ながら、霞をベッドへ誘うきっかけを考えていた。  女の心を正確に読みとることは難しい。日中のわずかな時間をさいて、部屋まで逢いに来た以上、霞が自分に好意を抱いていることは間違いない。あるいは、もう「愛」といいきっていいのかもしれない。だがといって、ベッドまで従いてきてくれるかとなると、伊織は自信がない。男がわからなくなるのは、そこから先である。  すでに体を許し、いまは二人だけで向かい合っている。これまでの|いきさつ《ヽヽヽヽ》からみれば、当然、許してくれるはずである。だがその状態でも、女はなお断ることもある。そんなつもりではない、というかもしれないし、ただ会いにきただけです、というかもしれない。欲しいという気持をあらわにだしすぎると、女はかえって退っていく。  もっとも、だからといって、「いや」というわけでもない。駄目だと思ってあきらめていると、あとになって、「あの人は意気地がない」といわれることもある。要するに、女性にとっては、その場の雰囲気が大切なようである。ベッドまでゆくのは、理屈というよりタイミングかもしれない。ごく自然にゆきやすい状態の下で誘ってくれれば従いていける。男はなぜそうしてくれないのかと、女は歯痒《はがゆ》がっているのかもしれない。  だが、どうすればゆきやすい状態にできるか、ということになると、これがまた難しい。雰囲気を盛り上げるといっても、人によって好む雰囲気はさまざまだし、それをすぐつくれ、といわれても困る。とくに、ベランダから明るい陽の射し込む、午後の時間ではやりにくい。昼の情事は、余程愛を重ねた男女でないかぎり、成り立ちにくい。  伊織はそっと時計を見た。三時半である。このままでは、六時の会にでるとして、あと二時間しかない。しかも着物を着る時間を考えると、一時間あるかなしかである。「急がなければ……」と、自分にいいきかす。  だが、「ベッドへゆこう」と直接いうのもおかしなものだし、手を差し出すのも妙である。できることなら、霞の、そして伊織自身の自尊心も傷つけぬ形でベッドへ移りたい。  それにしてもまずいのは、向かい合って坐っている二人の位置である。これが横に並んでいるのなら、そっと肩に手をかけて、唇を求めることもできる。だが向かい合っていては、手を差しのべたところでさまにならない。  仕方なく、伊織は立上ると、いったんキッチンへ行って水を飲み、それからなにか探すような素振りで霞のうしろへ立つ。形よく抜けた襟足がすぐ目の前にある。 「いまだ……」小さな声が伊織のなかで囁く。愛は深さもさることながら、タイミングもまた、重要である。「あのとき、こういってくれたら」「こうしてくれたら」という悔いは、男と女のあいだには無数にある。そのときなら受け入れられたものが、いまは受け入れられない。逆に、いまなら受け入れられるものが、そのときは受け入れられない。タイミングが悪くて、消えていった愛はかぎりなくある。それは、一生を左右するほど大きなものでなく、現実に二人が結びつく場合でも同じかもしれない。  いまこのまま自分の席に戻っては、また霞と向かい合って話すだけである。花のことにせよ、仕事のことにせよ、とりとめもないことを話して、時間が過ぎるだけである。それも楽しいといえば楽しいが、それでは部屋で二人で逢った甲斐がない。いや、それ以上に、愛が深まった、という実感はえられない。  女は逢うだけで楽しいかもしれないが、男は逢った以上は肌を触れたくなる。少なくとも、一度深い関係になってしまうと、それより淡い逢瀬はみな無意味に思えてくる。  数秒のあいだだが、うしろにつっ立っている伊織を、霞は不審に思ったらしい。どうしたのか、と振り向こうとした瞬間、伊織の手が霞の肩をとらえた。振り向きざまの上体をとらえられて、霞は小さく首を振った。 「いけません……」といいかけるのに、伊織はかまわず、顔をうしろにひき寄せた。 「そんな……」と、つぶやき、霞はもう一度いやいやをした。  だが伊織はもう言葉はきいていなかった。言葉より、いま信じられるのは、躰の反応のほうである。  いったん逆らった躰は、じき優しくなり、やがて唇が開き、舌を受け入れる。  奇妙な、と気がついたのは、長い接吻のあと、伊織がそっと目を開いたときだった。霞は上体は椅子に坐ったまま、首だけうしろにひねられた姿勢で接吻を受け、伊織は椅子のうしろから肩を抱いたまま跪《ひざまず》いている。カーテンから洩れる午後の光りは、容赦なく霞の顔の上にふりそそぎ、痛みに耐えるように軽く眉根を寄せた目の端が、小刻みに震えている。  一つのきっかけさえできれば、あとは迷うことはない。そこから先は、以前きた道をたどるだけである。実際、接吻まですすんであきらめては、かえっておかしいかもしれない。伊織はもはやとどまる気はない。引きずるように寝室まで誘ってくると、霞は哀願するようにいった。 「本当に、六時までに行かなければいけないのです」 「わかっています。必ずそれまでに帰してあげますから、お願いです」  口を耳にふれるほど近付けて伊織が頼むと、霞はようやくあきらめたらしい。 「じゃあ、待って下さい」  そういって、うしろ向きになって帯を解きはじめたが、また思い出したように手をとめた。 「やっぱり、明るすぎます」 「だから、暗くしているでしょう」  伊織は改めてベッドの先のカーテンを寄せた。だがレースと厚地と二枚のカーテンでは、閉じても午後の陽の明るさはなお部屋に漂っている。 「いやだわ……」 「決して、見ません」  先にベッドにもぐって伊織が誓ったが、霞はなお納得しかねるように解きかけた帯を持ったまま立っている。 「本当に、このとおり」  さらに伊織が両掌で目をおおうと、霞はそろそろと脱ぎはじめた。 「目を開けていないでしょうね」 「もちろん」  きっぱりと答えて、伊織は掌のなかで目を開いた。指のあいだから、霞が帯を解いていくのが見える。いつものように、着物は肩にのせたまま、下着の帯を一本ずつ抜いていく。  伊織はそれを盗み見ながら、「至福」という言葉を思い出す。至福とは、まさしくこの瞬間をいうのかもしれない。このままじっとしていれば、霞は自分のなかにとびこんでくる。それは掌中に入った玉も同然だが、正しくはまだ掌に入っていない。すでに現実ではあるが、なお未来の余地を残している。喜びは完全な現実より、わずかに先のほうが、より強いのかもしれない。至福の思いのなかで遊んでいると、長襦袢一枚になった霞がベッドの足元で身をかがめた。 「入って、よろしいですか」  伊織は答えず、毛布の端を開けた。それを見ながら、霞が小さくつぶやいた。 「いやだわ……」  前と同じでも、今度の言葉には、白昼、着物を脱いで男に抱かれようとする自分への、困惑の気持がこめられているようである。  表面は同じ繰り返しでも、二つの逢瀬がまったく同じということはない。今度は三度目という親しさから、伊織は前より大胆に求め、霞もそれにこたえてさらに奔放であった。  やがて激しいときが終え、安らぎとともに、小さな倦怠が訪れたが、それは笙子のときとは少し違う。いま伊織に訪れている倦怠は肉体的なもので、精神的なものとは無縁である。それどころか、これで霞をさらに捉えたという実感が、気怠さのなかに、ある充実感をもたらしている。  もっとも、捉えたといっても、霞がそう直接いったわけでも伊織がたしかめたわけでもない。  だが、結ばれたときの霞の反応と、防禦体勢を失った肢体から察することができる。  いま、霞は軽くうつ伏せに、伊織の胸元に、顔をおしつけるようにして横たわっている。ベッドに入るときは、しっかりとつけていた襦袢も裾除けも失せ、全裸の躰が、小さな呼吸だけをくり返している。しばらく、そのぬくもりを楽しんでから、伊織は改めて霞を抱き寄せると、軽く開いた股間に、自分の肢をおし込む。そのまま、軽く肢を遊ばせると、秘所を圧迫される刺戟を感じてか、霞の下半身がゆっくりとうねる。  いままで二回のあいだには、こんなことをする勇気はなかったし、霞自身にも、それを受け入れるだけの余裕はなかった。三度、肌を触れ合って、二人はようやく自然に振舞えるようになったらしい。  やがて霞が、「あっ……」と、小さくつぶやく。再び感じはじめようとする自分の躰に、狼狽したのか。伊織はその反応を楽しみながら、さらに揺らす。 「やめて下さい……」  再びつぶやき、しがみついてきたところで、伊織は秘所を圧迫していた肢をゆるめる。 「あん……」  かすかに不満に似た声をあげて、霞がそっと顔を離す。 「どう?」 「………」 「よかった?」  その質問も、これまではできなかったものである。 「素敵だったよ」  伊織が囁くと、霞は安堵したように、再び黒髪でかくれた顔を胸元に寄せてくる。  霞の髪はやわらかく、触れるとさらさらと指のあいだから落ちる。来たときは形よくうしろに巻きあげていたのに、いまは根元から解け、項《うなじ》から肩口までおおっている。伊織はその黒髪を、あいたほうの手でもてあそびながら、ある想像をふくらませていく。  やはりいまと同じことを、霞は辻堂の家でもしているのであろうか。あの高村章太郎という男の前で、いま自分にみせたと同じ乱れ方をし、同じような従順さで胸元につっ伏しているのであろうか。  満ち足りたあとに、なぜそんなことを思い出したのか、満ち足りたからこそ、そういう想念がわいてくるのか。霞に愛着を覚えれば覚えるほど、霞が他の男性と馴染み、睦《むつ》み合う姿が気がかりになる。  一体、このやわらかな女体は、自分ともう一人の男のあいだをどのようにさまよい、漂っているのであろうか。 「こんなことを、彼とも……」とききたい衝動を辛うじておさえている。どんなに知りたくても、そこまで立入っては、二人のあいだは崩れてしまう。男も女も、あるところ以上には立入らない。そこからさきは無言でいることが、愛を持続させる要諦《ようたい》かもしれない。  そう知りながら、伊織のなかでなお嫉妬の感情がくすぶる。 「どうして……」再びいいかけて、伊織は口をつぐむ。  どうやら、伊織は霞の夫と自分との関係を、逆転して考えているようである。もともとは、霞の夫が先であったのに、彼のほうがあとから入りこんできたように錯覚している。間夫《まぶ》は伊織自身であるのに、自分がコキュででもあるような、嫉妬と苛立ちを覚えている。 「しかし……」  伊織はいままでの想念をふり払うように、つっ伏している裸の霞を抱き寄せた。 「離したくない」  それに答えるように、霞もそっと顔をおしつけてきた。 「帰したくない」  伊織がもう一度いったとき、霞が腕のなかでつぶやいた。 「じゃあ、このままここにおいて下さいますか」 「………」 「本当は、お困りになるでしょう」  霞の声は意外なほど醒めていた。  恋に関しては、男より女のほうが現実的なのかもしれない。表面だけみると、女のほうがロマンチストにみえるが、それは愛し合うまでの過程で、そこから一歩すすむと、女はむしろ現実的になる。  いま、「帰したくない」というのは、伊織の本心ではあるが、同時にいっときの感情の溺《おぼ》れからの言葉であり、そうしたいという願いを告げたにすぎない。現実に、手許にとどめておく自信はなくても、愛しさのあまり、男達はついこの種の言葉を口走る。だが女はそれを、雰囲気に酔ったあまりの台詞とは思わない。言葉どおり、それでは本当に帰らなくてもいいのか、ときき返してくる。言葉をあるがままの意味で理解し、遊びの部分を考えない。それだけ女は言葉に対して真面目だが、同時に融通性がないともいえる。  もっとも、霞とて、伊織がいったことを、そのとおり受けとめたわけではなさそうである。「本当はお困りなのでしょう」と、素早く伊織の心を見抜いている。「帰したくない」といったから、このままとどまるというほど子供ではない。だが、「困るのでしょう」という言葉の裏には、たしかな自信もないのに、いうべきではないという軽い皮肉もこめられている。  なまなかなことをいわれると、女はかえって迷う。現実性のないことなら、いっそいわないでくれたほうがいい。一つの台詞が、一瞬、男と女のあいだで微妙な火花を散らす。 「そろそろ、起きなければ」  霞はもう、先程の言葉は忘れたように、あたりを見廻す。優しさから洩らした伊織の言葉が、かえって、霞に現実を呼び醒まさせたらしい。 「まだ、四時を過ぎたばかりだよ」 「でも、髪もなおさなければいけないし……」  たしかに、これから髪をなおし、着物を着ることを考えると、あまり時間はない。 「本当に、あなたがここにいる気なら、僕は一向にかまわないのです」  伊織はまだ、先程の台詞にこだわっていた。 「あなたが、帰ってしまうと、また他人のようになってしまう」 「でも、わたしはずっと、あなたのことを考えていました」 「じゃあ、どうして一カ月も、電話をくれなかったのですか」 「多分、怖かったのです」 「怖い?」  霞は小さくうなずいてから、 「わたし、自分が怖かったのです」  伊織は、抱いていた胸をゆるめて霞を見た。 「自分が怖いから、電話をくれなかったのですか」  うなずきながら、霞は腕から離れて仰向けになった。 「こういう気持、男の方には、おわかりにならないでしょうね」  そう決めつけられては困るが、いま一つわからないことはたしかである。 「自分の、なにが怖いのですか。別に、怖がることはないでしょう」 「もしお電話をして、お声をきいたりしては、おしかけてくることになります」 「いいじゃありませんか。僕はずっと待っていたのですから」 「だから、困るのです。あなたは、のこのこ出てきた女に逢えば、それですむかもしれませんが、わたしはそんなわけにはいかないのです」  たしかに男と女とでは、一つの愛の行為でも、その影響するところは違うかもしれない。とくに霞は人妻だけに、その影響は、伊織が考えている以上に大きいかもしれない。 「逢うとまた、お逢いしたくなるかもしれません」 「それは、僕だって同じです」 「でも、女は駄目なのです」  霞は仰向けになっているが、顔の半ば以上は黒髪におおわれて表情はわからない。 「考えだすと、四六時中、そのことだけが頭のなかを占領して、男の方のように、上手に切り換えられないのです」  そのあたりの感じは、伊織にも漠然とわかる。たしかに女のほうが、思いこみは強いかもしれない。だが、男もそういい加減に、女性のことを考えているわけでもない。 「それで、電話をくれなかったというのですか」 「お電話をすると、逢いたくなって、あなたに迷惑をかけるし、自分自身も、収拾がつかなくなるかもしれません。そんな自分が怖かったのです」  収拾がつかなくなったらどうなるのか。伊織はふと、その収拾がつかなくなった霞をみたいとも思う。 「でも、お互いに逢いたいのですから、逢ってもかまわないでしょう」 「いいえ」  霞は顔を隠したまま、きっぱりと首を左右に振ってからいった。 「そんなことをしては、けじめがつかなくなります」 「しかし……」  けじめがつかなくなるといいながら、現実に、霞は裸のまま横たわっている。その矛盾はどうするのか。たずねたいという気持とともに、再び霞への愛しさが、伊織の胸のなかにあふれた。逢わぬように耐えてきたといいながら、現実に逢って肌を許している。その矛盾のなかで戸惑っている姿が、男には好ましい。とくに、霞のようにきっかりした女が|ちぐはぐ《ヽヽヽヽ》になっているところが、おかしくいじらしい。  伊織は優しさをこめて、うつ伏せになっている霞の肩を静かに撫ぜた。 「ありがとう……」  愛撫している本人の言葉としては少し妙だが、それは偽らざる伊織の実感でもあった。なによりも霞が電話をくれて、逢えたことが嬉しかったし、一カ月の空白が、逢ってはいけない、という思いからの空白だと知って安堵した。 「今日、逢えてよかった」  もう一度、つぶやくと、霞はそっと顔を引き、軽く背を見せたままいった。 「いい加減な女だと、お思いになっているのでしょう」 「まさか……」 「本当に、もうお逢いしないでおこうと思ったのです。今日も、お顔だけ見て、すぐ帰ろうと思ったのです」 「わかっています。でも僕は欲しかったのです」  女は常に|いいわけ《ヽヽヽヽ》という装いが必要なのかもしれない。たとえ自分から逢いにきても、「相手の男が強引であったから……」、「帰してくれなかったから……」といういいわけがあれば納得できる。納得とまでゆかなくても、それでずいぶん気持は楽になる。  伊織はいま、すすんで自分から悪者になる気持でいる。こちらが強引に誘ったからという理由で、霞の負担が少しでも軽くなるなら、それでいい。 「また、逢ってくれますね」  伊織は背を向けた霞の腰に手を触れた。裸のお臀が、まだ情事の余韻を残してほんのりと熱い。 「もう、なにも考えず、逢ってください」 「………」 「逢っているときだけは、みんな忘れて」 「わたし、家にいるときだって、あなたのことしか考えていません」  瞬間、霞の脚がぴくりと動いた。そのまま向きを変えると、霞は顔を伊織の胸に寄せてきた。 「もう、ヤクザにしないでください」 「ヤクザ……」 「そう、お願いしたはずです」  伊織がヤクザで、霞は強引にその仲間にひきずりこまれたとでもいうのか。奇妙ないい方だが、恋に堕《お》ちた人妻は、ヤクザの手に落ちた女と同じだというつもりだろうか。  伊織はなにもいえず、霞のぬくもりだけを感じていた。ヤクザといわれたのは意外であったが、考えてみると、そんな気がしないでもない。恋はたしかに、どちらかがどちらかを、ヤクザに引きずり込むことなのかもしれない。この人と、こんなことをしていてはいけないと思いながら、ずるずると深みにはまりこむのが、恋の素晴らしさであり、怖いところでもある。  だが、怖さのない恋なら、初めから燃えはしない。いま、伊織と霞といずれがヤクザかといえば、いずれともいい難い。霞は自分が、ヤクザの掌中に落ちたと思っているようだが、伊織からみれば、逆に霞の魅力の海に溺れたようなものである。少なくとも、霞がこれほど魅力的でなければ、伊織とて、引きずられることはなかった。  具体的に手を出したのは男だとしても、出させるようにし向けたのは女である。直接、なにもしなくても、魅力的な存在であったということ自体が罪である、といえなくもない。ここまですすんで、いまさら、いずれがいい悪いとはいえない。  だが霞が、あなたはヤクザだというのであれば、伊織は甘んじて受けるつもりである。「恋のヤクザ」といわれるのは、男にとっては、むしろ好ましいことかもしれない。 「それじゃ、もう諦めて、ヤクザになってください」  伊織が頭を下げると、霞が小さく笑った。 「わたしは、抜け出したいのです」 「いや、もう手遅れですよ。ほら……」  いきなり、伊織は力一杯抱き締めた。 「あっ……」と、霞は小さく声をあげ、苦しげに首を振るが、かまわず抱き締め、やがて力を抜くと、霞は一つ大きく息をついた。 「骨が折れてしまいます」 「折ろうとしたのです」 「それじゃ人殺しじゃありませんか」 「そう、殺そうと思ったのです」 「ひどい方……」  霞は軽く伊織を睨《にら》んで、 「もう、何時でしょう」  そのまま上体を伸ばしかけて、二の腕が見えたのに気がついて、慌ててひっこめた。 「時計を見てください」 「自分で見ればいいでしょう」 「意地悪……」  いい合っているうちに、二人の心はまた近付いていく。どうやらこの調子では、霞はヤクザから逃げ出す心配はなさそうである。伊織は安心して、ナイト・テーブルの上の時計を見た。 「四時十分です」 「あ、大変………」  霞は起きあがろうとして、慌てて気がついたようにいった。 「先に起きてくださいますか」  このまま寝ていれば、裸のままの霞は起き出せず、当惑するかもしれないが、伊織はそこまで困らせる気はない。  さきに起きてシャワーを浴び、再び寝室のドアをあけると、霞が小さく悲鳴をあげた。 「いや……」  霞は足袋を穿《は》きかけていたらしい。鏡の前に長襦袢のまま胡座《あぐら》をかいて、片手で小鉤《こはぜ》のあたりをおさえている。 「そこに、シャツはなかったかな」  伊織がいうと、霞は襦袢の前をあわせ、ベッドの端によけてあったシャツを持ってきた。 「シャワーはつかわない?」 「いいえ」  霞は起きかけの顔をかくすように、顔をそむけるとすぐドアを閉めた。  伊織は自分の部屋で服を着ながら、この前のときも、霞がシャワーを浴びずに帰ったことを思い出していた。別に、霞がシャワーを浴びなかったからといってどうということはないが、伊織は情事のあとであることに少し拘泥《こだ》わっていた。このまままっすぐ帰って、夫に感付かれたりはしないのか。敏感な男なら、妻が他の男に抱かれてきたことを察知するかもしれない。  あるいは帰ってから、一人で風呂に入るのかもしれないが、霞が人妻であるだけに少し気になる。  もっとも伊織は、情事のあとに、さっさと浴槽に行って、シャワーを浴びる女をあまり好きではない。かつてそういう女がいて、派手な水の音をきいて、殺風景な感じにとらわれたことがあった。それからみると、情事のあとそのまま着物をつけているのを見ると、愛の名残りを大切にしているような気がして好ましい。  ある宴席で、七十をこえた老妓が、「このごろのお嬢さんは、殿方に抱かれたあと、すぐシャワーを浴びたりするようですが、ああいう気持がしれません。わたし達は男性の移り香を大切にしたくて、一晩中、そのままの躰で寝たものです」といっていた。  もし霞も、それと同じ気持からシャワーを浴びないのなら、嬉しいが……  それにしても、いま垣間見た霞の姿は淫《みだ》らであった。もともと女が男のポーズをとると、婀娜《あだ》なものだが、霞は胡座をかいていた。足袋をはくためとはいえ、腰を落して両股を開いたポーズは妙に生ま生ましかった。あの姿勢で、霞は洗いたての白い足袋をはくのであろうか。四枚小鉤の、きっかりした足袋をはく霞だけに、その胡座姿はいっそう艶めかしい。  霞が髪を整え、着物を着て、リビング・ルームに現れたのは、五時を少し過ぎていた。紺の結城に渋いグレイの地の帯を締めた姿には、すでに情事のあとの名残りはない。  だが夕暮れの陽はまだ明るく、それをさえぎるように霞は額に手を当てた。 「コーヒーを飲むでしょう」 「ご免なさい。このまま失礼しますけど」  伊織はうなずいて立上る。なにやらあわただしいが、もともと、かぎられた時間であったのだから致し方ない。霞が手提を持ったので、伊織は仕方なく戸口まで送っていった。 「また、逢えますね」 「………」  霞は声に出さず、うなずいた。 「今度、奈良へ行こう」 「いつですか」 「六月の初めです。この前、行きたいといっていたでしょう」  霞は考えるように軽く横を向いた。巻きあげて、半ばほどでた耳にほつれ毛がかかっている。 「一泊ですから、いいでしょう」 「また、お電話をします」  一瞬の迷いを振り払うように、霞は顔を戻すと頭を下げた。 「ご免なさい」  伊織がうなずくと同時に、紺の着物が、すいとドアのあいだから抜けて、視界から消えた。  マンションの重い扉が閉って、伊織は一つ息をついた。どうやら、これで真昼の情事は終ったようである。  一人になって、伊織は椅子に背を凭せ、長々と脚を投げだした。  春の暮れの陽が、長い影を絨緞《じゆうたん》の上に落している。暑くもなく、寒くもない。夕暮れの街にも、気怠さが満ちているようである。そのなかを、霞がみなが待っている約束の場所へ急いで行く。きっかりと帯を締め、手にバッグを持ち、まっすぐ前を見て行く。それを見て、誰も情事のあととは思わない。それどころか、むしろ顔は爽やかに、肌はしっとりと潤いを増している。  だが伊織はいま、気怠さと、とりとめもない虚《むな》しさのなかに漂っている。美しい女体を堪能し、満足して、なお虚しさにとらわれるとは……  男の我儘なのか、それとも仕事を怠けた悔いなのか、あるいはそれが男という性の頼りなさなのか。 [#改ページ]    余  花  銀座並木通りの角に、白い七階建てのビルがある。その一階の入口に、「ギャラリー英善堂」と、縦書きの看板がでている。ビルは道路に面して細長く、他にレストランと洋品店も入っているが、英善堂は角の一番いい位置を占めている。  画廊は絵を見てもらうためにあるのだから、通りすがりの者がぶらりと入っても一向にかまわない。いわば無料の美術館でもある。だが、慣れないとなかなか入りにくい。絵を買うわけでもないのに無料で見て歩いては、という負《ひ》けめもあるが、展覧会場のように、沢山の人がいないのも、入りにくい原因かもしれない。  大抵は入ってすぐのところに小机があり、そこに女性が坐っている。さらにホールの一隅には応接セットがあり、画廊の主人や画家達がコーヒーなどを飲みながら雑談している。その人達に、この客はなにものかと見定められるような気がして、落着かぬこともある。  銀座あたりの画廊から、絵を買おうという人は、いちおう経済的に余裕がある人達だから、見るだけではなかなか入りにくい、ということにもなる。  伊織は「ギャラリー英善堂」と書いた入口のところまで来て、一瞬立止り、それから道路に面した壁面に飾ってある絵に目を移した。少しでも絵に関心のある者なら誰でも知っている、日本画の大家の絵が二枚、並んでガラスのなかに納められている。六月の夕暮れどきで、陽はまだ明るいが、勤め帰りらしい人達が、しきりに行き交う。  どういうわけか、銀座を行くサラリーマンには、家路に急ぐという感じはあまりなく、これから飲みにいくか、宵の街を散策するといった感じの人が多い。いまも伊織のうしろを、陽気に話しながら過ぎていく四人連れの男があり、そのすぐあとを若い二人連れが笑いながら行く。  この一帯は銀座の、いわゆるクラブ街でもあるので、華やかに装って出勤してくるホステスの姿もまじる。これから息づく銀座の夜の予兆と期待が、街全体にあふれている。伊織は背中でその賑わいを感じながら、ガラスのなかの絵に目を向けている。  一見すると、絵に惹かれ、見とれているようにも見えるが、頭のなかは、まったく別のことを考えている。つい少し前までは、ここに着いたら、まっすぐなかに入ってみるつもりであった。絵を見にきたのだ、と思えば一向にかまわない。  だが現実に、霞の夫がなかにいたらどうするのか。こちらが知っていても、向こうが知らないのだから問題はないとは思いながら、いざとなるとやはり緊張する。  表に出ている絵を見ながら、伊織は心を決めると再び入口まで戻り、ガラスのドアを押した。思ったとおり、入ってすぐ右手に机があり、そこに女性が一人坐っていて、軽く頭を下げた。伊織はそれに目礼して、あたりを見廻した。  フロアは二十坪はゆうにあり、ベージュの絨緞が敷かれ、それを取り囲む壁面に絵が飾られている。十号から、大きいのは五十号くらいのまであるが、いずれも日本画である。  鎌倉にある英善堂の本店には陶磁器が多いときいたが、こちらは日本画が中心らしい。表にあった高名な画家のをはじめ、ほとんどが百万から、一千万もするかと思われる高級品ばかりである。伊織はそれらを見ながら、フロアの右端の応接セットのほうへ視線を移した。  二人の男性が向かい合って坐っているが、話しているのは一人で、もう一方のほうは腕組みしてきいているだけである。他に男性が二人と女性が一人、絵を見ているが、それは一般の客のようである。  伊織はあらかじめ、高村章太郎のことを村岡からきいていた。五十四、五歳の、長身で眼鏡をかけて、一見学者風の人だときいていた。だが坐っている二人は、いずれも四十前後で、一人は眼鏡をかけていないし、一人は小肥りである。伊織がそちらを見ていると、小肥りの男性のほうと視線が合った。二人は画廊の人なのか、それとも画家なのか、いずれにしても顔は知られないほうがいい。伊織は慌てて視線を壁面に戻した。  そのまま絵を見るうちに、フロアの奥にさらに二つの部屋と、二階に陶磁器の展示場があるのに気がついた。さすがに英善堂だけあって、地価の高い銀座に、かなりの大きなスペースを占めている。だがいずれにも、高村章太郎らしい人物はいない。  とくに、今日、彼がここにきているときいたわけでもなく、ただ銀座に出たついでに寄ってみただけだから、いなくても当然と思いながら、なにか気勢を殺がれた感じは否めない。  再び、入口の女性の目礼を受けて伊織は外へ出た。 「せっかく来たのに……」  そう思いながら、一方では会わなくてよかった、という安堵の気持もある。  霞の夫に会ってみようと思いついたのは、いまに始まったことではない。初めに霞と逢ったときから、その気持は伊織の心のなかにくすぶっていた。  もっとも、霞と逢っているときは、夫の存在などはほとんど忘れ、二人だけの時間に没頭していた。だがいったん逢瀬が終って、霞が帰り支度をはじめたり去っていく姿を見ると、途端に夫の存在が気がかりになってくる。霞の家に電話をしようと思ったり、向こうからかかってくるときも、いま、彼女の夫はどうしているのだろうと考える。  霞が妻という立場である以上、夫の存在を無視せよ、というのは難しい。だがといって、当の本人に一目でも会えばことが済むというわけでもない。村岡の話では、霞の夫は、画廊の主人とは思えないもの静かな人らしい。そんな相手と会っては、かえって自信をなくするかもしれない。  かつて伊織の友人で一人、人妻とつき合っていた男がいた。彼は偶然だが、その女性の夫と会ったが、それ以来、その男性の顔がちらついて離れなくなった。人妻のほうには、とくに変ったことはなかったが、その男性のことが頭から離れず、結局、別れることになってしまった。そんな話を思い出すと、会うのは考えものかもしれない。なまじっか顔を見て霞との関係がまずくなっては、元も子もなくなる。  だが、会ってみたいという気持は依然消えていない。自分が関係している女性の夫に会うなど、盗人が盗んだあとの家を見に行くようなもので、盗人たけだけしいというべきかもしれない。図々しいのは百も承知だが、見たいという気持はもっと本能的なものらしい。それは単なる好奇心とか、優越感を満足させる、といった類のものとも異なる。その証拠に、見る側も結構怯えている。結局、怖いもの見たさの好奇心、とでもいったらいいかもしれない。  一度見てさえおけば安心する、そう思って、久しぶりに銀座に出たついでに勇気を出して寄ってみたが、やはり余計なことだったようである。結果として会えなかったからよかったが、もし会えたら、かえって面倒なことになったかもしれない。 「とにかく、もう、彼のことは考えないことにしよう」  伊織は自分にいいきかせて、明りのつきはじめた並木通りを新橋のほうへ向かう。  そのまま、新橋に近い昭和通りに面したホテルに行く。  今日、銀座へ出てきたのは、このホテルでおこなわれる同期会に出席するためであった。高校のときの同期会で、卒業してもう三十年近くなるが、熱心な幹事のいるおかげで毎年続いている。  会場になっている二階の部屋へ行くと、すでに四、五十人が集まって、はじまっていた。中央にいくつかのテーブルがあり、そこに食べものがおかれている立食式のパーティだが、早くもくたびれたのか、壁ぎわにおいてある椅子に坐りこんで話している者もかなりいる。  高校は共学であったので、三分の一くらい女性もまじっている。同期だから、ともに四十四、五のはずだが、女性が入るとやはり華やかである。だがいずれも、かつての女学生のころの初々しさは消え、貫禄がついている。それは男達も同様で、以前の紅顔の美少年が、赭《あか》ら顔のでっぷりした中年男に変貌している者もいる。  同期で、建築の世界に入ったのは伊織だけなので、高校時代の友達と会うのは、こうした機会以外はほとんどない。去年と一昨年は都合が悪くて出られなかったので、みなと会うのは三年ぶりである。久しぶりに会って、まず最初に出てくる言葉は、「元気か」とか「どうしている?」といった近況の問い合わせである。なかには、伊織が建築の賞をもらったことを知っていて、お祝いをいいにくる者もいる。 「今度、俺の会社のビルを建て直すんだが、お前に頼もうかな。しかし、そんな賞をもらったんじゃ、設計料も高いんだろうな」  同期会の楽しいところは、お互い昔に戻って、ざっくばらんにいい合えることである。いずれも四十半ばに達して、いまが働きざかりである。  同期会に出て伊織はいつも思うのだが、みな、それぞれの職業が身についていることである。教師になった者は教師らしく、銀行員になった者は銀行員らしく、商売をしている者は商人らしくなる。いずれもかつては同じ高校生だったのに、その変り方がおかしく楽しい。  もっともクラス会に出てくるのは、仕事が順調にいっている者達が中心で、事業に失敗したり失意のなかにいる者は、ほとんど出てこない。しかしそのなかでも、おのずと、威勢のいい連中と、いささか人生をあきらめたタイプと二つに分かれる。前者は、いわゆる陽の当るポストにいて、部長とか重役になろうという者に多いが、後者は将来に見切りをつけたサラリーマンである。  会の半ばで、伊織が一人になるのを待っていたように近付いてきた岸本は、そのどちらともいいがたい。高校時代、岸本は伊織と同じクラスにいたが、小柄でややひ弱な感じのする男だった。学生のころからとくに目立つ存在ではなかったが、気性のいい男で、家が近かったせいで、よく一緒に帰った。  岸本について、伊織が一番印象に残っているのは、いつも鉛筆をきれいに削っていたことで、電気削り器のなかった当時としては、特異な才能の持主のように思えた。いま会っても、岸本は髪はふさふさとして中年太りもせず、仲間のなかでは若く見える。 「このごろあんたの事務所のある前を、いつも通っていますよ」  同級生だが、岸本は少し敬語をまじえて話しかけてきた。 「気がつかなかった。あのあたりに勤めているの?」  伊織がきくと、岸本は少し照れながら、名刺を出した。 「こんなことをはじめたのでね」  名刺を見ると、岸本秀夫という自分の名前の右上に、「バー・ジャニー」とすりこまれている。 「小さな五坪ほどの店だけど、あんたの事務所の少し先の、GBビルというとこではじめたので、よかったら、寄ってくれないか」  そういえば、たしかに事務所の先の明治通りにGBビルという、バーやパブなどが沢山入っているビルがあった。 「それで、会社はどうしたの?」  伊織の記憶では、岸本は中堅の商事会社に勤めていて、数年前にもらった名刺では、たしか課長という肩書きであった。 「あれは、去年の暮で辞めてね」 「それは知らなかった、どうして?」  岸本は困惑した表情になったが、やがて、他の友達には内緒にしてくれ、といって話しはじめた。  それによると、岸本は同じ会社の女性を好きになり、同棲にまですすみ、それが原因で会社にいづらくなって辞めたらしい。そのあと、退職金を出しあって、この三月から名刺にあるバーを始めたという。 「じゃあ、家のほうはどうなっているの?」 「それがなかなかうまくいかなくてね。ワイフには小さいけど川崎にある家も渡すし、生活費も一応出すといったんだが、承知してくれないんだ」  改めてみると、若いと見えた岸本の顔にも年齢相応の皺が浮かんでいる。 「子供がいるんだろう」 「上が今年、大学で、下は高校だけど、彼等は一応わかってくれているんだ。でも女はなかなか難しくてね。本当はこんなごたごたなしに、あとでまた気持よく会えるような感じで、別れたかったんだけど」  岸本の話をきいているうちに、伊織は妻のことを思い出して息苦しくなった。  さらに顔馴染みの友達が近づいてきたが、伊織は手で合図だけして岸本を見た。 「じゃあ、サラリーマンは辞めて、バーのマスターになったってわけか」 「マスターというわけでもないけど、会社を辞めて、やる商売といったら、そんなものしかないしね。彼女もやってみようというもんだから」  およそ商売っ気など、ありそうもない岸本が、バーの経営などできるのか。きいただけで心配になるが、彼とて、充分考えたうえでのことなのであろう。 「彼女は、いくつなの」 「俺と同じ年齢だけど」 「じゃあ、結婚もしていて……」 「やはり大学生の娘が一人いるけど、彼女のほうはもう離婚しているんだ」  四十半ばにもなって、色恋沙汰で会社を辞めること自体珍しいのに、その相手が同じ四十代の女性ときいて、伊織は驚いた。だが、生真面目な岸本の顔を見ていると、そこに男の誠実さを感じないわけにいかない。 「それじゃ、大変だな」 「だから、飲むことでもあったら、寄って欲しいと思ってね、さっき、熊川にも頼んだんだ」  どうやら岸本は、親しい友達に、店に来てもらうよう頼みたくて同期会にきたらしい。伊織はその心細そうな顔を見るうちに、なんとか、岸本を応援してやりたい気持になってきた。 「それで、バーには毎晩でているわけ?」 「一応、彼女がママということで出てるから、俺は目立たないように、十一時ごろに行くんだけど。あんたが来てくれるんだったら、いつでもいくから、名刺のところに電話をくれないか」  岸本は、昔、同級生であったことを忘れたように頭を下げる。外見はひ弱そうに見えるこの男のなかに、離婚を決意し、会社を辞めてまで、一人の女性と添いとげようとする情熱があったとは、伊織は改めて岸本を見た。 「しかし、よく決心したな」 「迷ったんだけどね……」  伊織はうなずきながら、霞のことを思い出していた。もし霞が、自分と一緒になりたいといって夫と別れてきたら、自分はどのような態度をとるだろうか。伊織の場合、サラリーマンではないから、職を投げうつこともなさそうだが、岸本のような誠実さで受けとめることができるだろうか。考えながら、伊織は自分が試されているような気持になってきた。  近く、店に行くことを約束して岸本と別れ、昔、隣りの席に坐っていた梅沢のほうへ行くと、まわりに女性達が五、六人集まっている。もともと梅沢は陽気な男で、いまも女性達にもてている。 「ねえ、今度、一緒にゴルフに行きましょうよ」  明るい声で誘っているのは、内科医に嫁いだ女性である。いまはなんというのかわからないが、旧姓はたしか庄内といった。 「今度、この会で定期的にやりましょうか」  庄内に賛成しているのは、たしかクラスで一番早く結婚した女性である。それに合わせて、他の人妻達も「賛成」と手を挙げる。  女性は結婚してからは、ほぼ経済的に同じレベルの者同士が集まるようになるらしい。夫の職業や収入によって、昔、仲が良かった者が疎遠になったり、近づいたりもする。もっとも、結婚しているか否かの差も大きく、独身の者は独身同士でかたまる傾向がある。 「伊織さんも、いかが」  庄内という女性が声をかけてくる。高校時代から美人で、常に仲間の中心的な存在であったが、いまもその傾向は変らない。だが、さすがに目尻の皺はふえ、ウエストも太い。それでも彼女の場合はまだいいほうで、「賛成」と手を挙げた二人は、どっしりと重戦車のような感じである。 「伊織さんは忙しくて駄目よね、この前、素敵な人と歩いているのを見たわよ」  突然いわれて、伊織はぎくりとしたが、ただ通りすがりにちょっと見ただけらしい。 「どこかの、素敵な奥さま、という感じだったけど、誰か、わたし達も誘ってくれないかなあ」  アルコールが入って、女性達も酔ってきたらしい。 「年齢はとっても、わたくし達だってまだまだいいはずよ、ねえ」  一人がいうのに、みなが「そうよ、そうよ」とうなずく。伊織は笑いながら女性達の前を離れた。  女も四十半ばを過ぎると、かなりはっきりものをいうようになる。とくに、昔の同級生という気安さもあるのかもしれないが、いまのように露骨にいわれると、いささか気が滅入る。あるいは、それが本音かもしれないが、ことさらに男の前でいうこともないのではないか。古いかもしれないが、やはり女は抑制のあるほうが好ましい。そんなことを思いながら、伊織はまた霞を懐しく思い出す。  同期会は二時間ほどで終った。久し振りに会ったせいか、途中で帰る者もほとんどなく、終ってからも会場からホテルの出口までぞろぞろと一緒になって行く。  多くの仲間は、まだこのままでは帰りたくなさそうである。女性達も、子供に手のかからぬ年齢だけに、たまに銀座に出た機会なので遊んでいたいらしい。なかには、親しい者だけで約束して、飲みに行くところを決めた者もいるようだが、大半はどっちつかずに、相手の様子をうかがっているようである。  そのあたりを察してか、幹事の一人が、「よかったら、これから近くのビヤホールに行って飲みましょう」と提案する。「ただし会費は割勘です」といって笑いがおこる。  伊織は会の途中で、藤井という出版社に勤めている男と飲みに行く約束をしてあったので、ホテルの出口でみなと別れた。藤井とは高校のときから気が合って、一緒にアルバイトをしたこともある。今日、会った仲間のうちでは親しい方だが、といって同期会以外で会うことはないし、仕事の上でも、とくにつながりはない。  もっとも藤井は大手の出版社のノン・フィクション部門の部長をしているし、伊織は建築の本を書いたこともあるので、まったく無縁というわけでもない。  おかしなもので、同期会は旧交を温めるためとはいえ、実際に会って親しくなるのは、ある程度、仕事に共通性があるとか、似た立場にいる相手にかぎられてくる。とくに選ぶわけではないが、仕事の上でも経済的にも、あまりかけ離れている者同士では、話題が途切れてはずまない。  有楽町のほうへ向かいながら、どこへ行こうか、ということになったが、二人とも、まだきちんと食べていなかった。それで、まず藤井の案内で、並木通りの裏手の小料理屋へ行き、腹ごしらえをすることにした。 「どうも、俺はああいうところでは、あまり食べる気はしなくてね」  藤井がいったが、それは伊織も同感だった。  小料理屋に小一時間ほどいてから、今度は伊織が、村岡とも一緒に行ったことのあるバーへ誘った。 「お前、今度、うちから本を出してみる気はないか」  新しい店へ着くなり、藤井がいい出したが、伊織は霞に電話をかける時間が近づいていることのほうが気がかりだった。 「京都や奈良の古い建物の写真と一緒にいれたら、結構、面白いものになる」  高校の同期会は、旧交をあたためるためとはいえ、最後にはやはり仕事の話がでてくる。このあたりが、職業から離れられない男の困った習性かもしれない。藤井は、伊織の書く随筆をときどき新聞や雑誌で読んでいるらしく、それらを「建築散歩」といった感じでまとめてみないかというのである。 「そのうち、考えてみるよ」  伊織は曖昧に答えるが、藤井は酔った勢いも手伝って強硬である。 「そのうちじゃ、いつできるかわからん。近々に、そちらのほうの部長を紹介するから会ってみろ。なんなら俺のところで出してもいい。お前も建築専門のお堅い本ばかりでなく、たまには一般向けの読みやすいのも出せ。そのほうが名前も売れるぞ」 「名前なぞ、売れなくてもいいよ」 「欲のない奴だ。コマーシャルに出ている建築家だっているじゃないか」  伊織は苦笑すると、「ちょっと失敬」といって立上った。  電話はカウンターの端にある。コードを延ばしてもらえば届かないわけでもないが、藤井の横ではいささか話しにくい。端までいって時計を見ると、霞との約束の十時より五分ほど過ぎている。ナンバーは暗記しているので、手帖を見るまでもなく、プッシュホンを押す。 「もしもし……」  まわりがうるさくてききとり難いが、間違いなく霞の声である。 「僕です……」といいかけて伊織は、少し改まった声で、「伊織です」といいなおした。  藤井はママを相手に話しているし、他の客も、自分達の話に熱中しているので、きかれる心配はなさそうである。 「いま、ちょっと友達と飲んでいるものですから」 「賑やかそうですね、どちらですか」 「銀座です。同期会があったものですから。ところで、旅行のことはどうなりました?」 「本当に、行ってもよろしいのですか」 「もちろん。黙って従いてきてくれればいいのです」 「それじゃ、お言葉に甘えて、お伴をさせていただきます」 「本当ですね」  思わず笑いがこみあげてきたが、藤井がこちらを見ているのに気が付いて、慌てて堅い表情をつくる。 「わかりました。じゃあそのつもりで手配します。明日の朝、マンションに電話をください。もう本当に変更はありませんね」 「大丈夫です」  低いが、霞の声はきっぱりしている。  席に戻ると、待っていたように藤井がきいた。 「嬉しそうじゃないか、なにかいいことでもあったのか」 「別に。ちょっと仕事のことでね」  平静を装ったが、喜びは自然に現れるらしい。藤井は改めて伊織を見て、 「なにかいきいきとして見える。お前は今日集まったなかでも若く見えた」 「冗談じゃない、俺は前から老けて見られるたちで、前に黒田と飲みにいったとき、同期生だといったら、そこのママに伊織さんは何年落第したのか、といわれた」 「黒田のような、のっぺりした顔は駄目だ。いい年齢をして深みがない。その点、お前は美男ではないが、いい顔になった」 「ほめているのか、けなしているのか?」 「もちろん、ほめているのだ。四十を過ぎて美男などといわれては気持が悪いだろう。お前の顔は、いま|のっている《ヽヽヽヽヽ》顔だ。やはり男は仕事が順調にいっていなければいかん。それとも女性のほうかな」 「まさか……」  伊織が否定すると、藤井は簡単にうなずいて、 「しかし、お前の奥さんにもずいぶん会っていない。一度家に行ったことがあるけど、五年前だったかな」 「そうかもしれない」  家庭の話になって、伊織は急に口が重くなったが、藤井はかまわず続ける。 「子供は二人だったな。上は高校生くらいだろう」 「ああ……」 「俺のところは、来年はもう大学だ。俺達が老けるのも無理はない」  藤井の家庭は円満らしく、息子のほうが背丈が高いとか、早朝マラソンでは、下の息子にかなわないといった話をする。それをききながら、伊織は次第に気が滅入ってくる。  藤井は健全に家庭を守っているというのに、自分はこれから人妻と一緒に旅行をしようとしている。いまのいままで、妻や子供のことなどは忘れて、霞のことだけを考えていた。  同じ年齢で、これではあまりに違いすぎる。 「どうだ、これからちょっと俺の家に寄っていかないか、深沢だから、どうせ通り道だろう」 「いや、もう遅いからやめよう」 「かまわん、家のワイフは慣れているんだ」 「本当にいい、俺は行かない」  自分の家庭が乱れているせいか、伊織は他人の円満な家庭を見るのは気が重い。  家に行こうという藤井を断って、伊織は一人になった。十時をすぎているが、銀座はまだこれからである。まっすぐ帰るには、少しもの足りないし、といって一人で飲むのでは意気があがらない。中途半端な酔い方である。そのまま新橋のほうへ、並木通りを歩いていくと電話ボックスがあった。二つ並んでいずれもあいている。  伊織は立止り、それから手前のボックスに入った。とくに、どこにかけるという当てがあったわけではない。ただ一人で歩いていて、即座に行く当てもないまま入ってみた、というだけのことである。だがボックスのなかは素通しで、なにもせずに立っていてはおかしい。伊織はひとまず電話に向かい十円玉をいれた。  初めは誰か、友人にでも電話をして呼び出そうかと思ったが、ダイヤルに手をかけると、自然に自宅の番号を廻していた。呼出音が三度続いて、受話器がはずれる音をきいて伊織は狼狽した。 「もしもし……」  声は間違いなく、長女の声であった。 「あ、まり子か」  伊織がつぶやくと、娘の驚いた声が返ってきた。 「パパ……どうしたの、なにか用事?」 「いや、たいした用事はないんだが、元気か」 「うん、この前、ビデオありがとう。あれとっても便利よ、今度見にくる?」 「そのうちにね、新しい学校は馴れたか?」 「朝の早いのがちょっと辛いけど、でももう大丈夫よ。今度また帰りにパパのところに寄っていい、あそこの下のお店のクレープが好きなの」 「じゃあ、みんな元気なんだな」 「そう、ママを出す?」 「いや、いい。ちょっとどうしているかと思っただけだから。今度、暇があったら寄りなさい」 「わかったわ」  明るい長女の声で電話は切れた。伊織は受話器をおきながら、突然、家に電話をする気になった自分が不思議だった。藤井が家庭や息子のことなどを話しはじめたので、思い出したのか。それとも霞と旅行に行くうしろめたさが、電話をする気にさせたのか。  家に電話をしたせいか、伊織はもう飲む気は失せていた。そのまま近づいてきたタクシーに手を挙げて青山へ戻る。シートに背をもたせながら、伊織は再び思いを霞に集中した。  このところ、霞とは比較的よく逢っている。四月の末に逢って以来、三度だから、ほぼ十日に一度のわり合いになる。しかもそのうちの二度は日中であった。やはり霞は、夜より昼間のほうが出やすいようである。  もっとも、霞がそうはっきりいったわけではない。だが夜では、食事をし、少し話をしていると、たちまち帰る時間になってしまう。青山から辻堂まで、電車の乗り降りの時間など考えると、一時間半はみなければならない。十時に別れたとしても、家に着くのは十二時近くになる。  霞が帰ったとき、夫が家にいるか否かは伊織にはわからない。そこまできいたことはないし、霞も話さない。遅く帰るときは、多分夫がいないときか、いても遅くなってかまわないときなのであろう。  それはともかく、人妻が夜遅く帰るのは難しいことなのかもしれない。湘南へ向かう遅い電車に、一人で乗っているのは目立つだろうし、深夜、家の前で車を停めるのも、気をつかうに違いない。前に送ったときは、家の前を少し過ぎた先で車を停めたが、静かなお邸町《やしきまち》だけに、車の音も意外に響くのであろう。古いまわりの人々はことさらに他人に関心をもつのかもしれない。そんなことを考えると、夜間出づらいことはよくわかる。幸い、伊織は忙しいとはいえ、日中でも二、三日前にわかっていれば、多少時間のやりくりはつく。 「それでは、午後ではいかがですか」伊織が誘うと、霞は必ずつぶやく。 「そんな、明るいときにですか……」  いかにカーテンで暗くしたとはいえ、日中、男に抱かれるのは気がひけるのであろう。 「でも、夜は出づらいのでしょう」伊織がいうと霞は沈黙し、やがて答える。 「それでは、参ります」  まるで牢獄にひかれていく罪人のようないい方である。だが以前の霞なら、戸惑った末でも、昼間、のこのこ出かけてくるようなことはなかった。  やはり前に日中に逢っていることが、霞を大胆にしているようである。なにごとも一度体験すると、それが自信になり、やがて習慣となり、不安を感じなくなる。いま霞は、日中逢うことに、少しずつ抵抗感を失ってきているのかもしれない。  霞は、伊織のマンションへくる度に、花を持ってきた。初めは侘助を、それから一カ月後には白い芍薬を、さらに鉄線とあけびを、そしていまは河骨《こうほね》が飾られている。それぞれに季節のいろどりが鮮やかだが、伊織はそのどれも、霞の一面を伝えているように見える。  侘助の開ききらぬ花の姿は、霞の控え目な態度を、白の芍薬は清潔な豊饒さを、鉄線の紫は霞の品のよさを、そしていま飾られている河骨は可憐な妖《あや》しさを思わせる。いずれのときも、霞は花の数を極力おさえている。芍薬のときは一輪であったし、鉄線と河骨はともに二輪であった。少ない花のなかに、むしろ抑制された美しさがある。  伊織が、旅行に誘ったのは、霞が白い芍薬を持ってきたときだった。 「一泊だけですから、奈良へ……」  そういったとき、霞は、「あとでお電話をします」とだけ答えた。それから、逢う度に誘って、今日、霞はようやく行くことを承諾した。  伊織が奈良へ誘ったのは、環境問題について、奈良の県庁にいる人と会う用事があったからだが、それは一時間もあればすむはずだった。それに、六月のいまの季節に、どうしても行かねばならぬというわけでもなかったが、いずれ行くのなら、暑くならないうちがいいことはたしかである。  それにしても、霞とこんなに早く旅に出られるとは思っていなかった。何度も誘い、初夏の古都の美しさを強調しながらも、多分、駄目だろうとあきらめていた。現実に誘いながらも、それは夢のなかのことのように思いこんでいた。  それだけに、今日、霞が承諾したときは、喜びとともに驚きがあった。「そうか」と思い、同時に「しめた」とでも叫びたい気持であった。  だがいま一人になって、伊織のなかに新しい不安が芽生えはじめている。本当に、霞は旅に出られるのか。もし出られるとして、家でどんないいわけをいってくるのか。  行くのは、六月の第二金曜日である。その日は伊織がいいだしたのに霞が従ったまでだが、その日、霞の夫は家にいないのだろうか。向こうが行くというのだから問題はないのだろうが、本当に大丈夫なのか。ようやく約束ができたというのに、また新しい心配が伊織をとらえる。  マンションに着いたのは十一時に近く、入口のあたりはひっそりと静まり返っている。伊織はいったん扉の手前にある郵便受けを見た。昼過ぎ出かけるときに見たせいか、新しいものはなく、一枚紙片が入っていて、小包が届いているから管理室へとりにくるように、と書かれている。だが管理人はすでに休んだらしく、入口の横の窓はカーテンでおおわれている。  伊織は紙片だけを持ち、ポケットから鍵を取り出して扉を開けた。正面のロビーは広く、奥に四組の応接セットがおかれているが、そこもいまは明りが消されて暗くなっている。そのまま伊織がホールの右手のエレベーター前へ行きかけたとき、突然、ロビーの奥から人影が近づいてきた。  一瞬、暗くなっているのでわからなかったが、よく見ると笙子である。 「どうしたのだ」 「もう、お帰りになると思って、待っていたの」  笙子は会社の帰りのままなのか、午後、事務所で見たと同じブルーのスーツを着て、手にバッグを下げている。 「八時から、ずうっと待っていたのよ」 「そんなに……」 「ううん、本当は十分前にきたの。いままで渋谷で桐谷君達と飲んでいたんだけど、もしかしているんじゃないかと思って……」  笙子は酔っているらしい。喋り方が少し巻舌だし、手に持ったバッグをぶらぶら揺らせている。 「どうしてロビーに入れたのだ?」 「インターホンを鳴らしていたら、管理人さんが見えてあけてくれたの」 「なにか、用か?」 「用がないと、きてはいけないの」  伊織は軽く首を横に振って、下りてきたエレベーターに一緒にのった。 「まさか、ここで待っているとは思わなかったでしょう。でも十一時迄には、きっと帰ってくると思っていたの」  偶然なのか、あるいは霊感とでもいうべきか。こういう勘のいいところが、笙子の不気味なところである。 「驚いた?」 「いや、そんなことはないけど……」  伊織は平静を装うが、驚いたことはたしかである。いま一人だからよかったが、これがもし霞と一緒であったら大変だった。もっとも、夜遅く霞とマンションに戻ってくることはないが、出ていくことはありうる。そんなとき、入口ででも偶然逢ったら、いまのようなわけにいかない。  伊織は安堵しながら、しかしよく待っていたものだと思う。今日、同期会があったことは、笙子も知っているはずだが、そのあと藤井と飲むことはいっていない。むろん、小料理屋とバーへ行って、いまの時間に戻ることなど知るよしもない。それも偶然で、もう一軒、飲みに行けば、もっと遅くなるはずであった。笙子は簡単に勘だというが、その鋭さには呆れてしまう。  だが、もともと笙子には、そういう勘の鋭いところがあった。いまから五、六年前の、二十代の前半のころにはとくに鋭かったらしく、長野にいるはずの母が怪我したのがわかったり、友達が電話をかけて、いおうとすることが先々とわかったこともあるといっていた。それ以前には、一時流行したスプーン曲げができたこともあるらしい。一種の予知能力というか、感ずるところがあるらしく、はたからみると羨《うらやま》しく思えるが、当の本人にとってはむしろ苦痛らしい。 「みんなに気味悪がられて、わたし自身も面倒でいやだったんです。でも二十四、五のときから急に鈍くなりました」  笙子は冗談めかしてそんなことをいっていたが、二十四というと伊織が笙子を知った年齢である。してみると、伊織を知って急に勘が鈍くなったということなのか。そのとき、伊織は苦笑しただけだったが、笙子のいうことは満更、嘘ではないのかもしれない。  たしかにあの種の勘のひらめきは、処女の、それも思いこみの強い女性に多いのかもしれない。その点では、笙子はまさしく適《かな》っている。いまは大分鈍くなったとはいえ、まだまだ伊織などには想像のつかぬ勘をもち合わせているようである。  エレベーターを下りて廊下を歩きながら、伊織は部屋のなかのことを考える。今日、マンションを出たのは十二時過ぎであったが、そのときはまだ家政婦がいて、掃除は終っていなかった。伊織が出たあと、家政婦は食事のあと片付けをし、掃除をして帰ったに違いない。霞がこの部屋に最後にきたのは二日前だから、もうそのときの名残りはないはずである。いま突然、笙子が部屋に入ったからといって、とくに怪しまれることはない。  伊織は自分にいいきかせて鍵でドアを開けた。思ったとおり、あがり口には、伊織の室内用のサンダルだけが揃えておかれ、リビング・ルームもキッチンも、きちんと片付けられている。 「相変らず、お綺麗ね」  酔って明るい声だが、伊織にはそれが少し皮肉にきこえる。 「ブランディをいただいて、いいですか」 「かまわないが、そんなに飲んで大丈夫かね」 「ぜんぜん、このとおりきちんとしているわ」  笙子は立ったまま両手を拡げてみせると、自分で飾り棚のガラス戸から、ブランディのボトルとグラスを取り出して自分で注ぐ。 「飲みませんか」 「いや、いい……」 「わたしとでは、いやなんですか」 「そんなことはない」  伊織は背広を脱ぎ、ネクタイをはずした。笙子はグラスを片手に持ったまま、飾り棚の花瓶を見ている。 「きれいな、お花ね」  伊織は答えず、テーブルにある煙草をとって火をつけた。 「あのお花、なんというか知っていますか」  花は二日前、霞が持ってきて活けていったものである。 「|こうほね《ヽヽヽヽ》、というのだろう」  初夏のころ、池や小川の浅いところに生えて花を咲かせる。花は黄色く可憐なのに、「河骨」と書くところが、妖しく無気味に思えて伊織は覚えている。 「花言葉は、ご存じですか」  伊織はそこまでは知らない。ただ以前、宇治川に近い、小さな寺の池の畔《ほと》りに、雨のなかで二輪咲いているのを見たことがある。 「教えてあげましょうか、�危険な恋�というのです」 「危険な恋……」  伊織は改めて飾り棚の河骨を見た。やはり二輪、備前の花器に長い茎と短い茎と、高低のバランスよく活けられている。はたしてその花言葉まで知って霞は活けていったのか、ただ季節の花として持ってきてくれたように思う。  それにしても小さく慎ましやかな花が、何故「危険な恋」という花言葉なのか。もっとも花の黄色は「嫉妬」を現すところから考えると、そのような意味をつけられるのも無理はないのかもしれない。  だが河骨の花は、黄というより金色に近い。雨もよいの日など、その金色が艶《つや》を帯び、あたりの水面一帯が輝いて見える。とくに流れに茎が小刻みに揺れ、それにつれて花も揺れるさまは、可憐であでやかでさえある。花言葉を考えた人も、黄色とはいえ、そのあたりの風情を察して、「恋」という言葉をつけざるをえなかったのかもしれない。 「このごろは、いつも素敵なお花があって、いいですね」  伊織は答えず、笙子のついでくれたブランディを飲んだ。  週に一、二度、花の心得ある人に頼んでいる、とでもいえばいいのかもしれないが、そんな嘘は、すぐ見破られそうである。笙子はすでに、花のうしろに、もう一人の女の影を見ているようである。  伊織はキッチンに立って、冷凍庫から氷を取り出した。ブランディのストレートでは強すぎるので、お冷やで口を洗いながら飲んだほうがよさそうである。だが氷皿から取り出しかねて、氷塊が二個まわりにとび散った。こんなとき、いつもの笙子ならすぐ立って手伝ってくれる。だが今日はソファに坐ったまま素知らぬ顔で飲んでいる。  新しく活けられた花を見て、笙子はまた不機嫌になったのか。こんなことなら、はじめから部屋に入れるべきではなかったかもしれない。だがいまさら悔いても手遅れである。花があることに気が付かなかった自分が、迂闊《うかつ》といえば迂闊だが、といって今夜の場合、あまりにも唐突すぎた。あれでは花を隠す暇もなかった。いままで可憐に部屋を静めていた花が、いまは笙子との新しい争いの原因になろうとしている。  笙子は酔うと陽気になりお喋りになる。明るいいい酒だが、今日は少し様子が違っている。口数も少なく、ひたすらブランディを飲む。なにか自分から酔いを求めている、といった感じである。 「君は、原宿のGBビルというところに行ったことがあるか」  伊織は話題を変えるようにきいた。 「そこに、同期の男がバーを開いたらしい」  そこまでいったとき、電話のベルが鳴った。瞬間、二人は同時に部屋の端にある電話を見た。夜だけにベルはよく響く。雨でもきそうな空模様のなかで、空気が部屋のなかにこもっているようである。四回鳴ったところで伊織が受話器をとると、慌てたような女性の声が返ってきた。 「あのう……」  それだけで、伊織は霞の声とわかった。 「いらしたのですね」 「ええ……」  伊織は曖昧に答えて受話器を耳におしつけた。 「いらっしゃらないかと思ったのですが、あのまま、すぐお帰りになったのですか」 「いま、少し前です」 「実は、さっきの旅行の件ですけど、向こうで泊るホテルは決っているのでしょうか」 「いえ、それはまだ……」  もっと親しみをこめて話したいが、すぐ横に笙子がいてはそうもいかない。気遣ううちに自然に他人行儀になるのを霞も察したらしい。 「どなたか、いらっしゃるのですか」 「ええ、ちょっと……」 「じゃあ、またにします。べつに急がないのですが、もし決ったら、教えていただきたいと思いまして」 「わかりました」 「おやすみなさい」  霞がいうのにうなずいて、伊織は受話器をおくと笙子を見た。  だが笙子は顔をそむけたまま、グラスを顎《あご》の先に当てている。  いまの霞の声はきこえたのか……  洩れぬように、耳朶《みみたぶ》が痛くなるほど受話器をおしつけていたはずだが、夜の部屋は静まり返っている。話の内容まではともかく、相手が女性であることくらいはわかったかもしれない。たとえわからなくても、ぎごちない返事の仕方で、普通の相手でないことくらいは察したに違いない。  電話のあとの|きまずさ《ヽヽヽヽ》を隠すように、伊織はまたキッチンへ行った。だがとくにすることはない。結局、冷蔵庫からチーズを取り出して笙子の前におく。 「食べないか」  笙子はうなずくと、軽く溜息をついていった。 「いろいろと、お忙しくて大変ね」 「べつに、そんなことじゃない」 「いてはお邪魔なようですから、わたし、帰ります」  笙子は手に持っていたグラスをかちんとテーブルにおいた。  こんなとき、なんというべきなのか。伊織は咄嗟《とつさ》に言葉が浮かばない。「もっといなさい」といいたいが、そのあとの二人だけの気まずさを思うと気が滅入る。といってこのままでは、明日、事務所に行っても後遺症は残りそうである。 「それじゃ……」  笙子はさらに残りのブランディを飲み干して立上ったが、途端に上体が揺れた。 「少し、休んでいきなさい」 「いいえ、大丈夫です」  笙子はどんどん戸口へ行くと靴をはき、思いなおしたように向きなおった。 「明日は、十時から、環境整備委員会が建設省でございます。午後二時から東北プロジェクトの打合わせが事務所で、そのあと四時に帝京工務店の井上部長がお見えになります」  一気に喋ると、ドアに手をかけた。 「おい待ちなさい」 「いやです……」 「いま車を呼ぶから、そんなに酔ってちゃ無理だ」  うしろからとめようとするのを腕で振り払う。だがそれが空振りになって、笙子の上体がくるりと一廻転した。そのまま重心を失ってよろめいた躰を、伊織はうしろから受けとめた。 「離して……」 「落着きなさい」  叱りつけ、かまわず抱き締めると、笙子は急に静かになり、それから額を伊織の胸におし当てて泣きだした。小刻みに泣きじゃくる度に、笙子の軽くウエーブのかかった髪が揺れる。それを見下したまま伊織は、二カ月前に、この同じ場所で霞と接吻を交したのを思い出した。  一体、自分はどちらを愛しているのか。改めて考えると、伊織自身もわからなくなる。いま、霞に焦がれ、霞との愛を大切にしたいと思っていることは、まぎれもない事実である。霞と逢うためなら仕事のスケジュールを替えてでも逢いたいと思っている。逢うための繁雑さや、そのための時間のロスなど気にならない。一人のときはもちろん、わずかな仕事の合い間にも霞のことが頭をよぎる。いつであれ、霞のことを思うと息が詰まるような、ある切なさにとらわれる。  それにくらべると、笙子のほうはそれほどの切実感はない。仕事を怠けてまで逢おうとは思わないし、無理に時間をやりくりすることもない。それどころか、ときには二人で逢うことさえ億劫になることがある。笙子のことを思い出すといっても、暇で余裕のあるときで、その度に息づまるような気持にとらわれることもない。  だが、それでは笙子を愛していないかというと、そうともいいきれない。笙子が少し不機嫌になったり、沈んだ様子をしているとやはり気になる。原因はなにかと思い、すぐ手を差しのべてやりたくなる。いま、泣き出した笙子を優しく抱いているのも、その一つである。厄介で、面倒なことだと思いながら、帰るという笙子をそのまま突き放せない。  たしかに、笙子に対しては、霞に対するときのような|ときめき《ヽヽヽヽ》はないが、それは、結ばれてから四年という歳月と、毎日事務所で逢えるという安心感が底にあるからかもしれない。無理に時間のやりくりはしないが、それは、しなくても逢えるというたしかさが、伊織を少し怠け者にさせているだけである。どうやら、笙子との出逢いは、すべて日常の平凡さのなかにとりこめられているようである。それは、一見、愛の緊張感を薄めているが、その分だけ深く、二人のあいだに忍びこんでいるともいえる。  それにしても、これほど霞に燃え、霞もこたえてくれているのに、なお笙子を捨てきれないのはなぜなのか……  歳月と仕事がからまった絆《きずな》の強さ、といえばそのとおりだし、笙子の若さへの愛着もある。二十四歳のときからいままで、自分が引きずってきたという責任感もある。だがそういったところで、それらは所詮、理屈にすぎない。もし新しい愛に熱中しているのなら、それらはすべて古紙ほどの価値もないはずである。  それが捨てきれないとは、見方によっては、伊織は二人の女性を天秤《てんびん》にかけているともいえる。笙子というものがいて、なお霞を追うとは調子がよすぎる。霞と逢った翌日、事務所で笙子に逢ったときなど、伊織はいまさらのように、自分の身勝手さに呆れた。  もし本当にどちらかを愛しているなら、そのいずれかにするべきである。二人を同時にというのは欲張りすぎている。だが、そう思いながら、いざとなると両方手離す気になれない。 「いま一番愛している人は?」ときかれたら、即座に霞の名を挙げる。といって、笙子と別れる気持もない。向こうから、どうしても、といってきたらともかく、いま自分からすすんで切っていこうとは思わない。  いいわけじみるが、伊織は霞と笙子、二人のなかに、それぞれのいいところを見出しているともいえる。霞は人妻の抑制と豊饒さを、笙子は若い女の一途《いちず》さと厳しさを持っている。その各々は一人一人に備わったものであり、一方から他方へは移せない。結局、伊織は霞と笙子と、二人の女性のなかに、一つの理想像を見ているのかもしれない。  だが愛するほうはそれでいいとして、愛されるほうは、それではたまらない。これではつねに三角関係の渦中におかれていることになる。これではやはり一人よがりで、身勝手といわれても仕方がない。そこまで考えて、伊織は胸元にいる笙子に囁く。 「さあ、戻ろう」 「ご免なさい……」  いっときの感情の嵐が去って、笙子はようやく冷静さを取り戻したらしい。 「少し、飲みすぎたんです」  すぐ怒り、またすぐ機嫌をなおす。そんな女心の動きの激しさに辟易《へきえき》しながら、その稚《おさな》いところが、また愛しいとも思う。 「もう少し、休んでいったらいい」  笙子のやわらかな髪を撫でながら、伊織の頭のなかで、霞の存在が遠くなる。  とやかくいっても、霞はいま、辻堂の大きな邸で夫とともにいる。どう呼びかけたところで、これから出てくるわけにいかない。所詮は家という囲いのなかにいる人妻である。そのあきらめが、笙子への愛を好ましく新鮮なものに甦《よみが》えらせる。 [#改ページ]    若  竹  六月の第二金曜日の午後、伊織は東京駅の十八番ホームに立っていた。霞と約束の時間は二時で、新幹線「ひかり」の発車は二時十分である。  伊織は五分前に着いて、いま時計は二時を廻ったところである。昨日、霞に電話で確認したから、遅れるわけはないと思いながら気がかりである。いままでのように、ホテルのロビーやマンションで待合わせるのと違って、今日はこれから一緒に旅に出かける。それに遅れてはせっかくの予定が台無しになる。  伊織はもう一度、時計を見、それからホームの売店で買った週刊誌を開いた。霞のことが気になるが、あまり人待ち顔にあたりを見廻しているのも、恰好のいいものではない。そのまま目は頁へ向けながら、神経は鋭くあたりに配っている。するとじき、左手のほうに人の気配を感じ、顔をあげると、霞が立っていた。 「ご免なさい、二時に着いたのですけど、間違って向こうのホームにあがってしまいました」  思ったとおり、霞は和服を着ていた。紺の塩沢紬《しおざわつむぎ》の単衣《ひとえ》に白の絽綴《ろつづれ》の帯を締め、右手にやや大きめのバッグを持っている。まわりで待っていた人達は、和服の霞に素早い視線を送る。 「切符は僕が持っています」  まわりの視線を意識して、伊織はことさらに素気なさを装う。 「今日は遅れてはいけないと思って、必死でした」  霞がいったとき、車内の清掃が終ってドアが開いた。金曜日の午後で、ゴルフバッグを持って出かける人もいるが、乗客はさほど多くはない。グリーン車の中程にすすみながら、伊織は注意深くあたりを見廻した。先程、ホームで見かけたかぎりでは、知っている人はいないようである。たとえいたところで、伊織は困ることはないが、霞は迷惑するかもしれない。  指定された中程の席に並んで坐って、伊織は窓を見た。 「梅雨になってしまったね」  先週までは関西でとどまっていたのが、二日前から関東でも梅雨入り宣言がだされていた。 「わたくし、梅雨はそれほど嫌いではありません」  霞は白い袂《たもと》の奥をのぞかせて、そっと髪に手を当てた。伊織はうなずきながら、霞との二人の旅には、むしろ梅雨空のほうが似つかわしいかもしれないと思う。  列車は定時に出発した。ホームを離れ、窓の下に東京の街が拡がって、伊織はようやく落着いた。このままじっとしていれば京都へ着く。どうやら旅の一歩は、無事にすんだようである。その思いは霞も同じらしい。伊織が横を向くと、霞も笑顔を返した。 「もう、戻れませんね」 「名古屋まではこのままです」  雨は降っていないが、東京の街は低い雲におおわれ、午後二時だというのにビルの明りが見える。 「昨夜は心配で、よく眠れませんでした」 「子供みたいなことをいう」 「でも、こんなことは初めてなのです」  妻という立場の女が、夫以外の男性と初めて出る旅に、不安にならぬわけはない。たとえ大丈夫と思っても、万一ということを考えると落着かなくなるのは無理もない。 「もしこなければ、くるまでホームで待っているつもりでした」 「お約束したのに、こないわけはないでしょう」 「しかし正直いって、顔を見るまで心配だった」 「久しぶりに昨夜は興奮して、小学生のころ遠足に行く前の晩のような気持になりました」  車掌が切符を点検にきた。伊織は切符を差し出しながら、二人はどんなふうに見られるだろうかと考えた。ひっそりと寄り添っているが、どこか他人の目を意識しているところは、普通の夫婦と違うかもしれない。だが、年恰好からいったら、さほどおかしくはない。少なくとも、笙子と一緒のときよりは、はるかに自然である。 「どうして、泊るところを京都にお変えになったのですか」 「せっかくだから、東山で食事をしたいと思ってね。奈良は明日の朝に行くことにします」 「奈良は、高校のとき、修学旅行に行って以来です」 「京都へは、何度も行っているのでしょう」 「五年前に行ったきりです」 「でも、ご主人は……」伊織がそこまでいいかけたとき、霞がきっぱりと首を横に振った。 「わたくし、一緒に行ったことはありません」  思いがけぬ強いいい方に伊織は黙った。  列車は新横浜に近づいたようだが、雲はさらに低く、少し降りはじめたのか、車窓が雨滴で濡れている。その窓に、霞はいまの気持を強調するように、白い指でそっと線を引いた。  雨が本格的に降りはじめたのは、箱根をこえてからだった。といっても梅雨で、さほど強くはない。トンネルの合い間に見える海も山も雨のなかで烟《けむ》っている。その外の情景に合わせるように、霞も伊織の横でひっそりと息を潜めている。二人ともなにもいわず、雨にうたれる窓を見ているだけで満ち足りていた。  刻々と東京を離れて行く、という思いが、互いの気持をさらに近づけていくようである。  どこまでも続くと思った梅雨も、名古屋のあたりから晴れはじめ、京都に着いたときはあがっていた。だが雲はなお低く、夕暮れの京の街には早くもネオンがつきはじめている。二人は駅前からタクシーに乗り、予約してあった加茂川べりのホテルに着いた。  フロントに行き、宿泊カードに名前を書きかけて、伊織は一瞬、戸惑った。自分の名前はいいが、霞のことはなんと書くべきか。「伊織祥一郎」と記して、その下に「霞」とつけくわえるか。それとも名前は書かず、「他一名」と書き添えるか。  いずれにしても、部屋はダブルである。少し迷って、伊織は名前の下に、「他一名」と書きくわえた。フロントの係りは簡単にカードを見ると、ボーイを呼んで鍵を渡した。  部屋は六階で窓を閉ざしていた障子をあけると、すぐ下に加茂川が見えた。正面は東山で左手に大文字から比叡の山並みが見えるはずだが、半ば以上は雲におおわれている。まだ日没には少し間があるが、梅雨空で陽は翳《かげ》り、ほの昏《ぐら》さのなかで、むしろ山裾《やますそ》の緑が色を増している。 「ここへくると、しみじみ京都へ来たと思う」  伊織はこの窓からの加茂川と、東山の眺めが気にいっていた。 「あそこに見えるのが八坂の塔で、その右手が円山公園から清水寺に続くのです」  雲は厚いとはいえ、山裾の霧は少しずつ動いているようである。 「これから、食事に行くところは、あの清水に行く手前のあたりです」  霞がうなずくのにつれて香りが動く。袂に匂い袋でもしのばせているのか、甘く沈んだ香りである。その香りに誘われるように、伊織は霞の肩に手をのせ、そっと抱き寄せた。 「こんなところで……」  開かれたままの窓に、霞は躊躇《ちゆうちよ》したようだが、伊織はかまわず、香りのなかで唇を重ねた。  夕食の約束は六時半からで、まだ少し間がある。伊織は先に軽く風呂を浴びることにした。 「一緒に入らないか」  誘ってみたが、霞は慌てたように首を左右に振った。 「お一人で、入って下さい」 「いいじゃないか、頼む」 「いまからでは、時間がありません」 「じゃあ、帰ってきてから」 「早く、お入りにならなければ遅れますよ」  霞は駄々っ子をあやすようにいうと、窓ぎわの椅子に坐った。  伊織はあきらめて風呂に入った。  簡単に汗を流し、バスルームから出ると霞がいない。フロントにでも行ったのであろうか、そう思いながら髭《ひげ》を剃《そ》っていると霞が戻ってきた。 「ちょっと、地下の売店まで行ってきました。小さいけど、素敵なホテルですね」 「京都に来ると、いつもここに泊ることにしているのだが、部屋がないこともあってね」  そのまま霞は鏡台に向かい、伊織は髭を剃り終えて服を着た。梅雨どきの旅なので、ラフなスタイルにしたかったが、結局、淡いベージュのスーツにネクタイという恰好になった。  二十分ほどで支度を終えて、二人はホテルの前から車に乗った。雨もよいの空は相変らず上空をおおい、夜に入っても蒸し暑さは去りそうもない。車はすぐ加茂川を渡り、東大路を南へ下り、三年坂を山ぎわへ入る。 �阪本�はその坂の上り口のところにある。東山の山ぞいに広大な庭をもつ料亭で、伊織は五年前、初めてここにきて以来、京都にくるとときどき訪ねる。今夜は霞と二人きりだが、池に近い眺めのいい部屋に案内してくれた。二十畳ほどの部屋に二人では空間がもったいないが、そういう贅沢《ぜいたく》をできるのも、京都の老舗《しにせ》ならではである。  初めに、お抹茶がでて、すぐ女将《おかみ》が挨拶にきた。 「ようこそ、おこしやす。お久し振りどす」  年齢はまだ四十半ばだが、京の料亭の女将らしく地味な人である。伊織と霞に挨拶をしてから、改めて霞を見て、 「東京からどすか、お綺麗な方どすね」 「恐れ入ります」  霞は恐縮して頭を下げるが、こういうところへきても、和服姿の霞はよく映える。  庭からの涼風が簾《すだれ》をとおして抜けていき、梅雨空の湿気も開け放たれた座敷ではあまり感じない。 「ここの蛙はどうしました。今夜はまだお休みですか」  伊織は蹲踞《つくばい》の先の池を見ながら女将にきいた。一年前、七月であったが、ここへ来たとき蛙が鳴いていた。一匹だが広い庭を我もの顔に「ぐわ、ぐわ」と、大きく悠長な声だった。 「今日はどうしたんどっしゃろ。昨夜はうるさいほど鳴いていたんどすけど、大人しくしてます」 「食用蛙の一種だが、もう数年来、この庭の池に棲みついて、主《ぬし》のようなつもりでいるらしい」  伊織が霞に説明するが、蛙は一向に鳴き出しそうもない。 「ほな、お飲物は、ビールでよろしおすか」  女将は注文をきくと立上って、部屋は霞と二人だけになった。 「いいところに連れてきていただいて、きた甲斐がありました」  霞は改まった調子でいって床を見た。すっきりとかけられた一行物《いちぎようもの》の左手に、涼しげな籠がおかれ、姫百合が二輪、活けられている。  花に関心のある霞は、姫百合をまじまじと見て、 「わたくし、こういうひっそりした活け方が、好きなのです」  伊織も華やかさを競う洋花より、秘めやかななかに品のある茶花《ちやばな》のほうが好ましい。  やがて、仲居が向付《むこうづ》けとビールを持ってきた。霞はそれを受けて、伊織のグラスに注いだ。向付けは旬《しゆん》のじゅん菜で、落し芋をかぶせて食べやすくしてある。 「可愛い入れものですね」  霞は丸い木の器の手付けに左手を軽く添えて、網杓子《あみじやくし》でじゅん菜をすくい、小椀の山葵酢《わさびず》にうつす。それから懐紙をとり出し、二つ折りして左手に持ち、箸の動きに合わせて動かす。さらにグラスを口に当てるときも、きっかりと伸ばした左手の先をそっと糸底にそえる。  左手は女の優しさと艶めかしさを生み出すが、霞はそのあたりのことをわきまえているのか、とにかく霞の仕草は見ていて心地よいが、その秘密は左手の動きにあるのかもしれない。霞の美しさは顔だけでなく、そうした嫋《たお》やかな仕草のなかに潜んでいるようである。  たとえば、車を降りてから料亭への石だたみを歩くとき、霞は左手にバッグを持ち、右手をそっと着物の裾に当てていた。入口で草履を脱ぐときも、右手で上前《うわまえ》を引き、うしろ足の踵《かかと》を軽くあげていたが、それも足首を露骨に見せないための心くばりのようである。さらに上ってから、うしろ向きに膝をつき、伊織の靴の向きを変えてから自分の草履をなおし、石台のすみにそっとよけたが、そのとき軽く躰を斜めにしていたのも、待っている人にお臀《しり》を見せまいという配慮からに違いない。  だがそのとき、立ったまま見下している伊織には、草履を揃えている霞の背と、軽く抜いた半衿の白さが淡い明りのなかで覗かれ、いっそう艶めかしかった。伊織は一瞬、それに見とれていたが、そのあと石台におかれた草履の鼻緒が、きっかりと立っていたのも、いかにも穿く人の清潔さを思わせて心地よかった。  さらに部屋に入って卓の前で座布団に坐るとき、いったん両手で布団の端を持ち、軽く膝をのせてからゆっくりとにじり寄って坐る。そのあと伊織の話をききながら、両手を膝の上に重ね、上体をすっと伸ばした姿が、いかにもすがすがしい。  たまに料亭やお茶屋に行って、伊織がいつも感心することは、芸妓達の坐った姿の美しさである。それも、前はもちろんだが、斜めやうしろ姿もきちっときまっている。食事の途中で踊りが入り、みなが舞台の方を向いたとき、お酌《しやく》の芸妓達も少し退って舞台を見る。その背から腰へ流れる線と、白足袋が逆八の字型になったうしろ姿が、見事な一幅の絵となっている。  それらは、肥っているとか痩せていることに関わりない。長年、作法を教わり訓練してきた人だけが身につける、自然の美しさのようである。  いまの霞の美しさもそれに負けない。一体、霞はそんな作法をどこで身につけてきたのか。お茶ででも教わったのか。それもあるかもしれないが、それ以上に、家庭の躾《しつけ》がよかったのかもしれない。  学生時代、二、三度会っただけだが、霞の母親は、古風で律義な人であった。もののいい方など少し丁寧すぎて、応答するのが億劫な気さえしたが、そういう穏やかさのなかに厳しさも秘めていた。おそらく霞のたしなみのよさは、そうした家庭の躾と本人の感性の豊かさから、自然に身についたものに違いない。  それにしても、その霞が、いま人妻の身で他の男性と一緒に旅に出ている。もしこのことを、すでに亡い霞の母が知ったらなんというか。改めて伊織は霞の顔を盗み見る。  料理はじゅん菜の山葵酢のあとに、あわびの酒蒸しと山桃、それに花山椒《はなさんしよう》が添えられている。皿をつかわず杉板にのせたところが、すがすがしく涼を呼ぶ。 「今度は、奈良にはお行きしまへんのどすか」  女将は、伊織が奈良の美術館を設計する仕事で、度々京都までも来たことを覚えている。 「明日の朝、行く予定です。今夜はここで料理を食べたくて、泊るのも京都にしたのです」 「それはおおきに、ありがとうございます」  女将が頭を下げて、落し芋のじゅん菜がのっていた容器をおろしていく。  二人だけになって、伊織は改めて庭を見る。池の先の小山の中程に茶室があり、そこまでの道が置行灯《おきあんどん》でぼんやり照らされている。淡い闇のなかで微風がおき、それが縁から部屋を抜けて、端にある座敷すだれの裾をかすかに揺らす。 「こういうところには、泊めていただけないのでしょうね」 「そんなことはありません。あらかじめ頼んでおけば大丈夫です」  京都に泊ろうと決めたとき、伊織はここに部屋を頼んでみようかとも思った。だが和風の旅館は門限が早いし、なにかと気をつかう。広い庭に囲まれた部屋で一夜を過すのもいいが、ホテルのような密閉された感じはない。なぜともなく、伊織は霞と二人だけの夜なら、閉ざされた部屋のほうが好ましいと考えた。  女将のかわりに仲居がきて、あこう鯛とおくらの吸物を運んできた。続いて|※[#「魚+反」、unicode9b6c]《はまち》のレモン添えと鮎《あゆ》の塩焼きがでた。さらに加茂なすと小芋の炊合わせがでて、強肴《しいざかな》ははまぐりの酒蒸しであった。  会席料理は口に馴染みやすいように、脂とあっさりしたもの、ほどよい温かさのものと冷たいものと、ころ合いを見計らって順に出してくる。それだけに、出てくるとすぐ手をつけるのが礼儀で、変な遠慮をしては出すほうが迷惑するが、霞は気持よくみなに手をつける。だがさすがに、最後のゆかりご飯までは食べられないらしく断った。 「とても美味しゅうございました。お腹が一杯で、残して申し訳ありません」 「梅雨どきは、どうしても食が細りますし、ただいま果物をお持ちいたします」  食事は終っても、蛙はまだ鳴き出しそうもない。空は相変らず雲がおおっているらしいが、いくらか風がでて凌《しの》ぎやすくなったようである。 「静かですね」  霞が横向きに庭を見ている。夜の静寂のなかで、頬から首の線が白く浮き出ている。伊織はそれを見ながら、ある淫らな想念を重ねていく。  水菓子がでて食事が終ると八時半であった。 「お伴が参りました」その声に伊織が立上ると、灯籠《とうろう》の明りが浮いている池で蛙が鳴いた。どうやら客が腰をあげるのを見定めて、鳴きはじめたようである。 「見慣れない奴が帰ると知って、安心したのかな」 「お見送りの、ご挨拶でしょう」  伊織の冗談に、仲居が笑いながら答えた。  水を打った入口のわきに、赤い緋毛氈《ひもうせん》の台がおかれ、そこから門までの両脇に置行灯が並んでいる。霞の白い足袋が、その薄明りに照らされながらゆっくりとすすむ。相変らず、空には月も星も見えないが、雲は動いているようである。 「明日は、晴れるかもしれまへんなあ」  いわれて振り返ると、すぐうしろに東山の黒い山肌が迫っている。さくさくと砂利道を行く足音だけがあたりに響き、日中、観光客で賑わった清水の森も、いまは寝静まったようである。 「おおきに、またおこしやす。ありがとうございました」  仲居の声に送られて伊織が車に乗り、霞が続いた。 「今日は本当に楽しゅうございました」  車が動き出し、坂を下りかけたところで霞が改まって頭を下げた。すでに何度か逢瀬を重ねているのに、霞にはこうした律義なところがある。体を許し合ったからといって、礼儀は礼儀として守る。そういう几帳面なところが霞の好ましいところでもある。 「ああいうところへ、わたしを連れていって、これからお困りになりませんか」 「平気です。それに、あの女将達は余計なことをいう人ではありません」  伊織はそっと時計を見た。まだ九時前である。これからまっすぐホテルに戻るのは、少し惜しいような気もする。せっかく二人だけの京都の夜である。 「少し、街をぶらついてみようか」  花見小路のあたりには、伊織が知っているバーが二、三軒あるが、そういうところに霞と一緒に行くのはどうかとも思う。考えた末、いったん東山のドライブウェイから将軍塚に行き、京都の夜景を眺めてから河原町で車を降りた。そこから四条通りを八坂神社のほうへぶらぶら歩く。  梅雨空で鬱陶《うつとう》しいが、かなり人がでている。霞とすれ違う人は、みな目をとめ、なかにはわざわざ振り返る人もいる。京都においても霞の美しさは目立つらしい。  四条の大橋をこえ、花見小路の手前を北へ上ったところに、伊織が二、三度行ったことのあるバーがある。京都に多いいわゆるホーム・バーで、和室にカウンターがあり、足元は坐りやすくくりぬいてある。もともとはお茶屋の一室で、それだけにこぢんまりと落着いている。そこで一時間ほど飲み、ホテルへ戻ると十一時を過ぎていた。 「ずっと、着物を着ていて疲れたでしょう」  伊織がネクタイをはずしながらいうと、霞は脱いだ背広をハンガーにかけた。 「着なれていますから、着物のほうが楽なのです」  そんなものかとも思うが、長いあいだ着たままで着くずれしないのが不思議である。 「大分、涼しくなったが、まだ蒸し暑い。約束通り風呂に入ろう」  伊織が誘ったが、霞は軽く笑って、 「二人では、狭くて落着きません。どうぞ先にお入りになって下さい」 「一人では、さっき入っているから、一緒でなければ意味はない」 「こんなお婆さんと、一緒に入っても仕方がないでしょう。お湯をとりますからお先に」 「お婆さんどころか、君の躰は綺麗だ。綺麗なものを見たいというのは、自然の欲望だろう」 「なにも三十をこえた女の躰など、ご覧になる必要はないでしょう。美しい、若い方をご存知でしょうに」  伊織は、一瞬、笙子のことをいわれたのかと、ぎくりとしたが、霞はさりげなく、 「殿方というのは、若い方の躰に関心があるんじゃありませんか」 「いや、若ければいいというものではない。若くても躰の汚い人は沢山いる。美しさは若さとは別です。女性が本当に美しくなるのは三十をこえてからです」 「慰めていただいて、ありがとうございます」 「慰めているのではない。本当にそう思っているのです。とにかく入ろう」  さらに伊織が誘うが、霞は容易に納得しそうもない。これでは残念だがあきらめるよりなさそうである。仕方なく浴衣に着替えて、バスルームに入る。  湯を満たし、浴槽のなかで手足を伸ばして、伊織はいま霞がいったことを考える。  若い人を知っているといったが、それは単に映画やヌードでといった程度のことらしい。そのつもりで伊織は答えたが、本当にそれだけの意味なのか。まさか、笙子のことを知るわけはないと思いながら、少し不安になる。  やがて伊織がバスルームからでると、かわりに霞が入った。あるいはと思ってドアに触れてみたが、内側から鍵がかけられているようである。部屋が一つだけのせいか、バスルームの前に脱ぎ捨てられた霞の着物が、小山のように盛り上っている。下着や帯をたたみ、一番上に着物がかぶせられているが、端のほうから伊達締めがのぞいている。伊織はふと、その小山のなかを探りたい衝動にかられたが、それを辛うじておさえる。  そのまま窓ぎわの椅子に戻り、室内にある冷蔵庫からビールを取り出して飲む。霞は湯船につかっているのか、水の音はしない。  伊織は障子を開けて窓の外を見た。すぐ下に加茂川が見え、堤にそって何人かの人が坐っている。涼を楽しんでいるのか、なかには暗がりを利用して、抱き合っている二人連れもいるようである。  ホテルに着いたとき、正面に見えた濃い茂みも八坂の塔もいまは見えず、曇り空に緩い起伏の東山の輪廓《りんかく》がぼんやり浮き出ている。その山ぎわより一段高く、左手に見える明りは、比叡の頂きらしい。その黒い山並みを見ながら、伊織はふと家のことを思い出す。  まり子や美子はもう寝たろうか。十一時を過ぎているから下の子はもう寝ているかもしれない。そして妻は……  考えるうちに、自分一人こんなことをしていていいのか、と急に平凡な男の頭になる。  だが次の瞬間、奈良に行くのは仕事で、たまたまそのついでに京都に泊っただけだと思いかえす。  今夜、京都に泊ることを知っているのは、笙子だけである。事務所の責任者として、常に居場所だけははっきりさせておかなければならない。  笙子はいまなにをしているのか。出かけるときは、さほど不機嫌ではなかったが、いまごろは自宅でテレビでも見ているかもしれない。とりとめもなく考えていると、バスルームのほうで音がして、霞がでてきた。浴衣を着て帯を締め、裾から出た素足が少し赤味をおびている。 「ビールを飲まないか」 「いただきます」  霞はいったん返事をして、着物をワードローブのなかへ移すと、伊織の横にきた。軽く夜の化粧をしたのか、近付いただけで淡い香りがする。 「あそこの二人は、さっきから身動き一つしない」  伊織は眼下の堤を指さした。若い男女なのか、夜の川面を前にして両肩を寄せあったまま微動だもしない。それを見下しながら、伊織は湯上りのしなやかさを増した霞の指先を握ってみる。  風呂あがりのぬくもりが、霞の指先から伊織の指に伝わってくる。伊織はその指先に軽く力をこめ、ベッドへ誘った。 「待って下さい」  霞は手を離して窓を障子でおおい、入口の小さい明りだけを残してすべて消した。 「暗すぎる」  伊織が訴えたが、霞はきこえぬように、テーブルにのっていたグラスを片側にのけた。すでに十二時を過ぎて、ときたま加茂川の橋を行く車の音以外、なにもきこえない。あたりが暗くなって、障子の白さがかえってきわだったようである。  ベッドはダブルで、思いきり手足を伸ばしても、充分の余裕がある。その端から、いつものように霞がそろそろ入ってくる。  一つ床に身を寄せ合って愛を重ねる。同じことのくり返しだが、旅に出て、帰る必要がないという安心感が、霞の気持をかきたてたのかもしれない。珍しく床に入ると霞は、自分のほうからしがみついてきた。そのやわらかく、香りのいい躰を受けとめてから、伊織は浴衣の紐をとく。  霞の躰は、肥ってはいないが量感がある。骨が細いせいか外見は痩せてみえるのに、ごつごつした感じはない。紐を解き、片袖ずつはずし、最後に浴衣を取り払うまで、さほど時間はかからない。  全裸にしたところで、唇を吸い、さらに耳を探ると、解き放たれた霞の髪が二、三本、口元にからんでくる。それを指で除けながら、耳朶のうしろに唇を寄せる。 「あっ……」と、霞は首をすくめ、上体を震わせる。  霞が耳のまわりの接吻に鋭敏なのを知ったのは、二度目の逢瀬からである。回を重ね、行為に大胆さを増すほどに、女体の秘密は一歩ずつ露《あら》わになってくる。  首から耳の愛撫を受け、いままた、赤い実のようにつき出た乳首を責められて、霞の躰は走りはじめたようである。下半身にそえられた伊織の手に、燃えている証しがしっとりと触れる。  だが伊織は、そのゆるやかな動きをくり返しながら、最後の行為はなお控えている。耐えがたい思いのままじらさせて、むしろ霞のほうから哀願してくるのを待つ。  愛が高じて、いま伊織はいささか残忍になっている。  やがて、霞の顔は歪《ゆが》んで泣き顔になり、小刻みに震える唇の端から、「ねえ……」と、せがむ声を発する。それをきき届けて、伊織ははじめて躰を重ねる。  瞬間、悲鳴に似た声が洩れ、その声の激しさを恥じ入るように、霞は慌てて自分の口に手を当てた。  最近、伊織は朝早いのが、あまり苦にならなくなってきた。深酒でもした場合は別として、大体、六時ごろには目が覚める。といって、そのまま起きるわけではない。新聞に軽く目を通したり、考えごとをしているうちにまた眠り、床から出るのは結局、八時か九時になってしまう。  年齢をとってくると早起きになるというが、それは健康なのとは少し違うようである。むしろ体力が衰えてきたために、長く眠り続けていられない。おかげでこまぎれな睡眠になり、それが結果として早く目覚めることになるらしい。睡眠にも一種のスタミナがいる、ということかもしれない。  もっとも、伊織はいったん目覚めてもすぐ起きないのだから、実際は寝坊ということになる。夜が遅いとはいえ、とくに仕事がなければいくらでも寝ていられる。その意味では目が覚めても、早起きとはいささか異なる。  京都のホテルでの朝、伊織は五時半に目が覚めたが、といって、頭から躰まですべて目覚めたわけではない。ホテルのベッドに躰が馴染みきらぬまま、なんとなく目が覚めた、といった感じである。徐々に頭がはっきりするなかで、白い障子と天井を見て、ここがホテルであることを知り、京都に来ていることに気がつくまでしばらくは時間がかかる。  霞がいないのを知ったのは、それからあとだった。  ふと手足を伸ばすと横に誰もいない。そのままベッドのなかで足を動かしても、なにも触れない。慌てて頭をおこし、まわりを見廻すが、霞の姿はすでにない。 「おい、おうい……」  伊織は二度呼んでみたが、寝起きの声が壁に吸いこまれただけで部屋は静まり返っている。  今度は本当に目覚めて伊織ははね起き、バスルームまでのぞいてみたが、霞はいない。ワードローブを開けると、そこにおいてあったはずの着物もバッグもない。  わけのわからぬまま、伊織は昨夜のことを反芻《はんすう》した。たしか十一時過ぎに部屋へ戻ってきて、風呂に入り、十二時過ぎにはベッドに入ったはずである。いつになく霞は燃え、ときに自分の声を恥じて口をおおったりもした。そのあと伊織は満ち足りて眠ったが、むろん腕のなかには霞が横たわっていた。  その霞がいないとは……  もう一度、部屋の中央に立ち尽し、あたりを見廻すと、ナイト・テーブルの上に白い紙片が一枚おかれている。  紙片はホテルのメモ用紙で、そこに霞らしい几帳面な字で記されている。 「お目ざめですか、昨夜は楽しゅうございました。お一人のほうがお楽かと思って、別の部屋で休みます。ご用があったらお部屋(七〇二号室)のほうへお電話を下さい。 霞」  読み終えて、伊織はゆっくり髪を掻きあげた。やはり昨夜のことは夢ではなかったようである。  昨夜、霞は伊織が眠ったのを見届けてから部屋を出て、別の部屋で休んだらしい。  しかし、なぜそんなことをしたのか。  メモには、一人のほうが楽だろうからと書いてあるが、それは考えすぎというものである。多少、狭くても、二人でベッドをともにしていたほうが好ましいにきまっている。実際、そのためにダブルベッドをとったのだし、二人で寝ても充分の広さはあるはずである。  だがともかく、同じホテルにいることだけはたしからしい。伊織は安堵して窓ぎわに立った。  霞がいないのに慌ててすっかり目が覚めたが、まだ六時前である。窓の障子を開けると、正面の東山は半ばほど霧におおわれているが、加茂川は明け方の淡い光りのなかで、白く輝いている。右手の橋は、まだ車の姿もなく、自転車にのった新聞配達の青年と、牛乳を配る車だけが過ぎていく。伊織は、昨夜からテーブルの上においたままになっている煙草に火をつけて、椅子に坐った。  霞がいないと知って真っ先に思ったことは、東京へ帰ってしまったのではないか、ということだった。なにか家で急用でもできたか、それとも初めから夜中に帰るつもりで来たのか、と疑ったりもした。  だが霞がそんなことをするわけもないし、それならそうとはっきりいうはずである。  一人では狭いだろうと、寝入ったのを見届けて別の部屋に去っていくのは、考えてみるといかにも霞らしい。気付いたときには狼狽したが、そこには彼女らしい思いやりがありそうである。  だが、霞はいつ、自分の部屋を予約しておいたのか。伊織がチェック・インするときは、霞は黙ってうしろに立っていたから、そのときではない。とすると着いてすぐ、伊織がバスルームに入っているとき、地下の売店へ行ってきたといっていたが、そのときにでもしたのだろうか。もしかすると、旅に出かける前、泊るホテルの名前をたずねてきたのも予約をするためだったのかもしれない。霞らしい周到さだと伊織は感心しながら、ふと、本当にその部屋にいるのか、不安になってきた。  ホテルの部屋から部屋への通話は、いったん2番を廻し、それからルーム・ナンバーを廻せば自動的につながるようになっている。それにならって、まず2を廻し、それから霞の書いたナンバーを廻そうとして、伊織は手をとめた。  まだ早いから、霞は休んでいるかもしれない。昨夜、自分が寝ついたあとに移ったとすると、一時過ぎか二時ころであろう。それからでは、まだ数時間経っただけである。伊織はいったん受話器をおき、それから改めてフロントを呼んできいてみた。 「高村霞さんの部屋は、何号でしょうか」  明方、いきなりの質問に、フロント係りは戸惑ったらしく、少し間をおいて答えた。 「七〇二号室ですが」 「いま、お泊りになっていますね」 「ええ、いらっしゃると思いますが、……」  伊織は礼をいって電話を切った。ともかくこれで、霞がメモに書いていったとおり、同じホテルにいることだけはたしかである。  伊織は煙草に火をつけて再び窓を見た。東山に低く垂れこめていた朝靄《あさもや》はいくらかあがって、加茂川のあたりも明るさを増してきている。そろそろ人が動き出したらしく、橋と対岸の堤を車が過ぎていく。  伊織はしばらく、その朝の静かな風景を眺めてから、再び窓の障子を閉めて床に入った。いままで二人で休んでいたダブルベッドに一人で寝るのでは、空間が広すぎて落着かない。いま霞がここにいてくれたら、と伊織はやわらかい肌を思い出すが、休んでいるのを起こすのも可哀想である。 「ともかく、もう少し寝よう」  伊織は自分にいいきかせて目を閉じるが、また霞のことが思い出される。  それにしても、何故、余分に自分の部屋なぞとったのか。一人で休むほうが楽だからといっても、それならツインでもよかったはずである。もしかして、家から電話がくるときのことを考えて、別の部屋をとったのではないか。部屋が別なら、辻堂から電話がかかってきても自由に話せるし、一人で京都に来ている証拠にもなる。 「そうだったのか……」  だが次の瞬間、「そんな理由からではない……」と自分にいいきかす。  メモに記したとおり、純粋に一人のほうが楽だと思って移っていったのである。男が眠ったところで去っていくのが、女のたしなみだと霞は考えたに違いない。  あれこれ思いながら、床のぬくもりのなかで伊織の頭は次第に眠りに落ちていく。  再び伊織が起きたのは八時だった。床に入ったときのまま、窓は障子に閉ざされているが、陽は大分高いらしく、わずかに開いた隙間から細い一筋の光りが部屋を横切り、ベッドの端までのびている。  八時を過ぎたら、もう霞も目覚めているかもしれない。伊織は陽の洩れる窓を見てから受話器をとった。部屋から部屋への直通のダイヤルを廻すと、すぐ霞が出た。 「お早うございます。いまお目覚めですか」  大分前から起きていたのか、霞の声は明るく爽やかである。 「実をいうと、二時間ほど前に、一度起きたのです。でも横にいないので吃驚《びつくり》しました」 「ご免なさい、あまりよくお休みになっていたので、黙って出てきたのです」 「まさか、別に部屋をとっているとは思わなかった。どうしてそんなことをしたのですか」 「そのほうが、お楽かと思ったので……」 「ダブルベッドは二人で寝るためのものですよ。せっかく旅に出たのだから、ずっと一緒にいたかったのに」  つい責める口調になると、霞は少し声を低めて、 「わたしも、お側にいたかったのですけど、女は着物を脱いだり、お化粧をしたり、いろいろ殿方に見せたくないこともあるものですから……」  受話器を持ったまま伊織はうなずいた。たしかにホテルの一部屋では、男に隠れて装うのは難しい。それに寝顔や寝乱れた姿を見られることもあるかもしれない。霞はそのことを避けて、別に部屋をとったらしい。 「部屋は初めから、予約をしてあったのですか」 「あなたがお風呂に入っているあいだに、チェック・インしてきたのです」 「どうして、それをいってくれなかったのですか。初めは逃げられたのかと思いました」 「まさか、一緒にお伴をしてきて、逃げたりはいたしません。あらかじめお話ししては、反対されるかもしれないと思ったので黙っていたのです」 「ところで、もう起きているのですね」 「はい、先程から起きて、電話をお待ちしていたのです」 「じゃあ、すぐこられるのですね」 「はい、『こい』と仰言れば」 「じゃあ、ただちに『こい』」  命令して、伊織は床のなかで一つ伸びをした。それから思い出したように起きて、ドアを内側から軽くあけたままにして再び床に入った。  旅に出て、伊織が期待していたことの一つは、朝方、霞にそっと起こされることである。目覚めたとき、霞の笑顔が横にあって欲しい。子供じみているが、男は愛する女に母親のイメージを抱くこともある。その願いが、いまようやくかなえられそうである。伊織は目を閉じ、眠ったふりを装って霞を待った。  あたりの部屋でも起きはじめたのか、廊下で人々の話し声がきこえる。女性のようだが、いまから食事をして観光に出かけるようである。その話し声が去って、あたりが静まったところで、入口のチャイムがなった。  伊織は慌ててドアの方に背を向けて目を閉じた。入口で霞は戸惑っているらしい。もう一度チャイムを鳴らし、それからドアが開いているのに気が付いたのか、なかに入ったようである。かちっとドアの閉まる音がして、そろそろと入ってくる。目にはみえないが、近づく気配を感じながら、相変らず伊織は背を向けている。  やがて、裾をさばく音がして、霞の声が耳元できこえる。 「まだ、お休みになっていたのですか」  伊織はそれを、天上からの声のように感じながら、なお目を閉じている。 「もう八時半ですよ」  再び耳元に声を感じて、伊織は軽く頭を振り、ようやく気が付いたというように目を開ける。淡い闇のなかに、まさしく霞の顔が浮いている。伊織は一瞬、侘助を見たような気がして瞬《まばた》きをした。 「さあ、お起きになって下さい」  霞がシーツに手をかけようとする。その手を、伊織はいきなりとらえると手許へ引き寄せた。 「なにをなさるのですか」 「………」 「もう、朝ですよ」  霞がいうのをかまわず抱き寄せると、ベッドのなかへ引きずりこむ。すでに髪も整え、着物も着ている躰がはずみをうけて、脚が宙に舞い、裾が乱れる。 「いけません」  いいかけた唇に、上から閉じるように重ねてから、伊織はつぶやいた。 「夜中に、逃げていった罰です」  身をすくめようとする霞の胸元を、伊織はかまわずおしあけ、やわらかい温もりを掌のなかにとらえる。 「待って、待って下さい」 「じゃあ、すぐ脱ぎますね」  初め逆らった霞は、すぐあきらめたらしい。自分から着物を脱ぎ、髪を解いてベッドの前にうずくまる。伊織は一瞬「虜囚」という言葉を思い出す。これはまさしく虜《とらわ》れた美女に違いない。  ホテルの朝は、まわりの客が起きているし、そのうちメイドが掃除をはじめる。そんななかで情事をおこなうのは落着かないが、それがまた緊張をたかめるともいえる。  それに一泊旅行では、いまを逃しては、もう二人だけで肌を触れ合う機会はない。伊織は虜囚の女を相手に再び燃えた。  だがその激しさも静まり、朝の情事を終えて二人はまた軽く仮眠したようである。  そのあと、今度も、先に目覚めたのは霞であった。もっとも、伊織はそれを知らなかったわけではない。霞がそろそろ起き出して下着をつけている、それを頭の片隅で知りながら、心地よくまどろんでいた。やがて霞が部屋を出ていき、しばらくして電話が鳴った。 「お寝坊さん、まもなく、十時ですよ」  それをきいて、伊織は枕元の時計を見た。 「奈良へ行く用事がおありでしょう。わたくしのほうは、もう支度ができています。ロビーでお待ちしています」  一階の喫茶コーナーで会う約束をして、十五分後に伊織が下りていくと、霞はすでに席に坐って庭を眺めていた。 「お先に、いただいていました」  霞がコーヒーカップを持つ、その表情には、すでに朝の情事の名残りはない。 「奈良で、お会いになる方とのお約束は、何時でしたか」 「十二時半です」 「それじゃ、もう時間がないじゃありませんか」 「いや、大丈夫です。特急に乗れば、四十分くらいで行くでしょう。それよりまだ、頭が少しぼうっとしています」 「あんな、無茶をなさるからです」 「きみが、美味《おい》しすぎるからだ」 「美味しい……」  霞はいい返してから、慌てて顔をそむけた。正面は広いガラスで、それを通して緑の生け垣が見え、その先に東山から比叡の山並みが、薄曇りの空の下で淡く浮き出ている。窓から見るかぎりでは、靄がかかった春の情景と変らない。 「お腹が減ったでしょう。なにか少し食べていったほうがいい」  伊織はそういってから、霞を見詰めて、 「少し、顔が変りましたよ」 「わたくしの顔ですか?」 「昨日、東京で会ったときより、しっとりと艶っぽくなった」 「おかげさまで、ありがとうございました」  軽く笑いを浮かべて頭を下げる。その笑顔にも、匂うような女のやわらかさがあふれている。  ミックスサンドとコーヒーの軽い朝食を終えると、二人はホテルから京都駅へ向かった。駅へ着くと、ちょうど十分ほどで橿原神宮行きの特急が出るところであった。それに乗って西大寺で乗り替え、奈良に着いたのは十二時であった。伊織はいったん駅のロッカーに荷物を預けてから、車を拾った。 「僕はこれから県庁へ行って、約束の人と会ってきます。二時間もあれば終るでしょうから二時半に、奈良ホテルのロビーで待合わせよう」  伊織がいないあいだ、二時間ほど時間があくが、その間、霞は車で東大寺や春日大社など、近いところを見て廻ることにして、伊織は県庁で車を降りた。 「二時半に、奈良ホテルですね」  霞は少し不安そうな顔で車のなかからきき返した。 「大丈夫です。運転手さんがよく知っているから」  伊織は笑ってうなずいたが、霞が乗った車が去ると急に淋しさを覚えた。まさか白昼、間違うことはないと思うが、見知らぬ土地で、一人で手離すと心配になる。もっとも、それは愛しているが故の取りこし苦労にすぎないこともわかっている。  県庁は土曜で半休なので急いでいくと、仕事を終えた建築部の担当者が部屋で待っていてくれた。早速、近くの会館の食堂で昼食をとりながら、飛鳥地区の新しい環境整備について相談する。細かくは、いずれ模型や写真ができたところで検討することにしてホテルに行くと二時半であった。  霞はまだ着いていないかと思ったが、入口を入ると右手のロビーで待っていた。 「早かったんだね、どこを見てきたの?」 「東大寺から薬師寺まで行ってきました。でも一人ではなにか落着かなくて……」  二時間ほど離れていただけだが、霞は懐しそうに伊織を見る。 「お腹が減ったでしょう。少し食べたほうがいい」  そのままホテルの食堂へ行って、霞は遅い昼食をとり、伊織はビールを飲む。 「素敵なホテルですね。前にこのホテルの写真を見て、一度来てみたいと思っていたのです」  霞は珍しそうにあたりを見廻す。 「古いから独特の風格がある。たしか部屋は天井も高く、暖房は、昔の山型になったスチームが入っているはずです」  初め伊織はここに泊るつもりであったが、京都で食事をすることから、急遽《きゆうきよ》ホテルも京都に変えてしまった。だがその裏には、前にきたとき笙子と一緒にここへ泊ったという思い出がある。別の女性と泊ったホテルへ、いかに雰囲気がいいとはいえ、いままた泊るほどの勇気はない。いや、それは勇気というより、一つの|けじめ《ヽヽヽ》とでもいうべきものかもしれない。  食事が終ると三時半だった。霞は今日中に戻ればいいということだが、辻堂へ帰るとすると、東京へは十時迄に着かなければならない。奈良から京都へ一時間、それから新幹線で三時間として、六時ごろには奈良を発たなければならない計算になる。とすると、あと二時間少しの余裕しかない。 「せっかく奈良まで来たのだから、少し寺でも見ましょうか。東大寺と薬師寺は見たのですね」 「早足で、駆けて参りました」 「奈良をゆっくり見るには、三日は必要です。時間さえあれば室生寺か長谷寺とか、まだまだ案内したいところが沢山あるのですが」  一泊ではいかにも短かすぎる。伊織はそのことをいいたかったが、それから先は恨み言になってしまう。 「どこか、素敵なお寺がありますか」  寺に素敵とは、奇妙ないい方だが、いかにも女性らしいいい方かもしれない。 「浄瑠璃寺もいいが、これからでは遠すぎるし、秋篠寺にでも行ってみようか」 「あなたと一緒なら、どこでもいいのです」  以前なら、霞はそんないい方はしなかったが、旅に出て気持が大きくなったのかもしれない。  伊織はホテルの前で車を拾って、「秋篠寺へ」と告げた。  この寺を伊織が初めて訪れたのは、まだ学生のころであった。「あきしの」という名の優しさにひかれて、地図を頼りに行ってみると、名のとおりの優雅な趣きのある寺であった。それから数回訪れているが、行く度に気持が和む。寺は奈良時代の末期、光仁天皇の勅願により、薬師如来を本尊とし、僧正善珠大徳の開基になるといわれている。一時は真言密教の道場として栄えたこともあるらしいが、のち兵火などにあって、当時の荒々しい面影はとうにない。いまは自然林のなかに、国宝の本堂だけがひっそりと静まり返っている。  この寺にも、伊織は一度、笙子と来ている。規模が雄大で華やかな寺の多い奈良のなかで、この寺の控え目なところが好きで連れていったのだが、思ったとおり笙子は喜んだ。 「もし好きな人と別れたら、きっとここへくると思います」  笙子がそういった寺へ、霞を連れていくとはどういうことなのか。伊織は自分のしていることに呆れながら、車の前を見ている。  寺に着くと、伊織は運転手に、右手の駐車場で待っていてもらうようにいって、東門から入った。秋に来たときには、そこにひっそりと萩《はぎ》が咲いていたが、いまは緑の葉が午後の微風に揺れている。  苔《こけ》の深い雑木林を抜けていくと受付があり、そこから構内に入ると正面に本堂が見える。瞬間、霞は立止った。一面に敷きつめた玉砂利の先に、黒い柱と白壁と、二色でまとめられた本堂が梅雨空の下でひっそりと建っている。 「どうです」  伊織は自然に、自慢する口調になった。 「優しいわ、お寺のようではないみたい」 「大体、奈良のお寺は、京都のに較べるとゆったりとして、あまり抹香くさくないのです。この建物も鎌倉時代に大修理をしたというだけに素朴だが、左右の均整のとれているところはいかにもおおらかで、奈良時代らしいでしょう」  霞はうなずいて、玉砂利を歩きはじめた。土曜の午後だが訪れる人はほとんどなく、右手の鐘楼のあたりで若い女性が二人、写真を撮っている。京都にくらべて、奈良のお寺はどこも静かで落着いている。 「変な話ですけど、わたくし、この建物を見た瞬間、素敵な着物のことを思い出したのです。なにか、こういう感じの柄があるような気がして……」 「たしかに、白と黒はすべての柄の基本です」  相変らず陽はかげっているが、曇り空の下で、白壁はいっそう鮮やかさを増しているようである。正面の階段を上り、低い廻廊を左手に行くと本堂への入口がある。そこから一歩足を踏み入れると、一瞬、ひやりとした冷気にとらわれる。  ここには、本尊である薬師如来を中心に、愛染明王、帝釈天、日光菩薩、月光菩薩など、十体以上の仏像が保存されている。なかでも最も有名なのは、吉祥と芸能を主宰し、諸技諸芸の祈願を受けられるという伎芸天である。頭部は天平時代に創られた乾漆造《かんしつづくり》で、胴部はのちに補われた寄木造《よせぎづくり》といわれているようだが、軽く伏目がちにたたずむ姿は、芸能の神様というにふさわしい妖しさと生々しさを伝えている。  その前に霞は立って微動だもしない。伎芸天とそれを見上げている霞と、その対峙《たいじ》している姿を、伊織は一幅の絵として見詰めている。  堂内をひととおり見終えて、二人は本堂を出た。霞はあとに従うが、伎芸天の妖しさにうたれたのか、一言もいわない。そのまま本堂のまわりを一周し、鐘楼の手前のベンチに腰を下した。  閉門は四時半だが、まだ二、三十分は時間がありそうである。先程、伊織達の隣りで熱心に見ていた若い女性が去り、かわりに老夫婦らしい一組が入っていく。人の姿はそれだけで、他に動くものはない。曇り空の下でさらに陽がかげり、白と黒の本堂に夕暮れが近付いている。 「素敵な仏様を見せていただいて、ありがとうございました。前に一度、写真で見てはいたのですが、あんなに美しいとは思いませんでした」 「僕は、あなたと伎芸天と、一緒に見ていました」 「そんな、おそれおおいことを……」 「いや、実はとても失敬なことを考えていたのです。呆れるかもしれませんが、昨夜のことを……」  霞が眉を顰《ひそ》めたが、伊織はかまわず続けた。 「昨夜、あんなに乱れた人が、今日は仏様のように見えた」  霞は目を伏せたが、それがまた伊織に伎芸天の伏目を思い出させた。 「もう、そのことは仰言らないで下さい」 「いや、実は喜んでいるのです。ただ一瞬、女というのが不思議に思っただけで」 「わたくしも不思議なのです」 「不思議?」  伊織がきき返すと、霞は本堂の方へ目を遊ばせたままうなずいて、 「わたくし、いままで、あんなふうになったことはないのです」 「………」 「恥ずかしいことですけど……」  伊織はそっと、膝におかれた霞の手に自分の手を重ねた。うしろの雑木林で黒鶫《くろつぐみ》らしい声がきこえ、本堂からいま一人、スケッチブックを持った女性が出てきて門の方へ去っていく。整然とした玉砂利にまた人影が途絶え、夕暮れの雲だけがゆっくりと動いていく。  伊織に手をあずけたまま、霞はふと顔をあげると前を見たままいった。 「わたくし、家ではああいうこと、していません」 「………」 「あなたしか、受け入れられなくなったのです」  つぶやく霞の目は、まっすぐ本堂を見詰めている。  一瞬、伊織の胸のなかを喜びと当惑とがつき抜けていく。霞が、他の男性とでは得られなかった悦びを感じている、といってくれたことは、伊織にとっては至上の喜びである。愛する女性にそういわれることぐらい、男冥利《おとこみようり》に尽きることはない。だが同時に、霞は、他の男性の愛を受け入れられない、ともいう。 「あなたを愛し、悦びで満たされるが故に、他の男性に肌を許す気になれない」  それは男への愛の証《あか》しであり、同時に一人の男性のために、操を守ることへの決意の表明ともとれる。しかし、霞はれっきとした人妻である。他の男性を受け入れられないということは、とりもなおさず、夫を受け入れられないということでもある。妻の立場にありながら、そんなことをいって夫を拒み続けていけるのか。  もし夫が強引に求めてきたらどうするのか……  そこまで考えると、初めの喜びとは別に、伊織は急に息苦しくなる。ただ単純に喜んでいられない、そんな責任と戸惑いを覚える。  正直いって、いままで伊織は、霞と夫のあいだにも躰の関係はあるのだと思っていた。いまは多少、自分のほうを好きかもしれないが、夫が求めてきたらそれなりに受け入れているのだと想像していた。むろんそう考えることは、精神の衛生にあまりいいことではなく、霞が夫を受け入れている情景を想像すると心が揺らぐ。嫉妬と、一種のマゾヒスティックな気持で落着かなくなる。  それだけに、伊織は極力考えないようにしてきたが、その考えまいとする気持の裏には、ある程度そんな関係があっても仕方がない、というあきらめもあった。なくなって欲しいが、そこまで求めるのは勝手すぎる。その程度は我慢しなければならないと自分にいいきかせてきた。  だが、霞はいまはっきり、夫とのあいだにはなにもないといいきった。まさしく、伊織が願っていたとおりの状況が現実となったようである。これでさっぱりとして気が晴れるはずである。  だが、実際はそうはいかない。男冥利のはずの喜びが、むしろ困惑に変っている。 「このままいくと、どうなるのか……」  考えながら伊織は、いま罪深い一組の男女が、秋篠寺の前に坐っていることに改めて気がつく。  かつて学生のころ初めてこの寺を訪れたときは、伊織は清純であった。罪深い男女がここを訪れるなど、思ってもいなかった。  曇り空のなかで、西のほうがかすかに色づいている。梅雨空にも少しずつ夕暮れが近づいているようである。伊織はその空を見ながらつぶやいた。 「行こうか……」  夫にも躰を許していないという霞の告白に、伊織はなにも答えていなかった。もっともそれは、答えを求めていったのではないかもしれない。霞はただそのことをいっておきたかっただけかもしれない。しかしいずれにせよ、伊織は答える言葉がわからなかった。「ありがとう」というには軽すぎるし、といって他に適切な言葉も見当らない。  無言のまま伊織が立上ると、霞も着物の前を払って立上った。先程、本堂に入った老夫婦がこちらへ向かってくる。それに追われるように二人は歩き出した。 「男のかたには、女のこういう気持は、おわかりにならないでしょうね」  玉砂利を踏みしめながら、霞がつぶやいた。 「でも、女はだめなのです……」  一瞬、伊織は、玉砂利の軋《きし》む音が、霞の悲鳴のようにきこえた。 「いや、男だって同じです」 「でも、あなたは、お家に帰ったら、奥さまにお優しいのでしょう」 「優しくなんかありません。だいたい、家に帰らないのですから」 「それはお仕事が忙しいからで、お暇になったらお帰りになるのでしょう」 「前にもいったとおり、われわれはもうそんな仲ではないのです。いま、僕の生活はほとんど青山のマンションで一人暮しです。それは、あなたも見て知っているはずです。いまさら、家に帰ろうなどとは思っていません」 「なぜ、お帰りにならないのですか」 「はっきりいって、愛していないからです」 「………」 「信じたくなければ、信じなくてもかまいませんが」 「でも、結婚なさったのだから、お好きだったのでしょう」 「初めは、多少……、しかし誰でも、結婚したから好きというわけではないでしょう。あまり好きではないけど、ことの行きがかり上、結婚するということだってあるでしょう」 「では、行きがかりで結婚なさったと仰言るのですか」 「そう、はっきりしたものではなくても、なんとなく、そのときはそれでいいと……」  静かな秋篠の寺の境内を、中年の男と和服を着た女が行く。はたから見ると、仲|睦《むつ》まじい夫婦が奈良へ遊びに来ているとしか見えないかもしれない。  霞はなお納得しかねるようである。軽く首を傾け小刻みに玉砂利をすすむ。  伊織は次第に苛立ちを覚えていた。結婚しているから愛し合っていると考えるのは、あまりに平凡すぎる見方である。世の中には、仲睦まじく、似合いの夫婦に見えて、その実、いがみ合っている夫婦もいる。結婚という形は整っていても、心が離れている夫婦は無数にある。だが、その事実を他人に説明するのは難しい。一つ一つ例をあげても、当事者以外には単なる夫婦喧嘩としかうつらないかもしれないし、そんなことを力説したところで自慢になるわけでもない。  しかし最低条件、霞にだけは知ってもらいたい。霞だけ苦しめているのでなく、自分も苦しんでいることをわかってもらいたいとは思う。 「世の中には、うまくいっている結婚も、失敗だった結婚もあるでしょう。僕の場合はただ、その失敗のほうだった、というだけのことです」 「でも、伊織さんの奥さまは、おきれいで優しい方だと、村岡さんが仰言っていました」 「彼は第三者だからどうでもいえるでしょう」 「でも、そんな方に冷たくするなんて、悪い人です」 「いい悪いではありません。ただ、いまは愛せなくなった、というだけのことです」 「我儘なのですね」 「そう、我儘です。それは充分承知しています。しかし、人を好きになったり、嫌いになるということは、もともと我儘な行為でしょう」  話すうちに、受付の前まで戻っていた。二人はいま一度、梅雨空の下で静まり返っている本堂を振り返ってから雑木林の小径に出た。 「要するに一口でいえば、合わないということです」 「でも、結婚なさったのだから、合わせるようにしなければ……」 「そう努めて、できることならとうにしています。しかしできないから、みな悩んでいるのでしょう」  突然けたたましい啼《な》き声がして、林のなかを鳥影がぬっていく。それが去り、再び静寂が戻ってから霞がいった。 「世の中には、愛し合っている夫婦は意外に少ない。大半の人は、本当は愛し合っていないのかもしれませんね」 「僕がそうだから、そう思いたいが……」 「でも、どうしてうまくいかないのでしょう」 「それは多分、人間のなかに飽きるという困った本性があるからでしょう」 「怖いわ……」  霞は突然立止ると、梢の先の空を見上げた。 「わたし達も、いつか飽きるのでしょうか」  本堂がある境内を出て、雑木林のあいだの径に入ると、陽は急にかげり、青葉からの木漏れ陽が鈍く苔を照らしている。 「どんなに愛し合っても、だめなのでしょうか」 「そんなことはありません。男と女は飽きる場合もあるし、飽きない場合もある。それは人それぞれによって違うでしょう」 「でも、あなたは奥さまを……」 「そんな比較はやめて下さい」  金堂跡の塀にそって行くと径が三叉路になり、左へ行くと南門に出る。伊織は少し立止って、その径を選ぶ。 「一生愛し合う、というわけにはいかないものなのでしょうか」  半歩遅れて歩きながら、霞がきく。 「不可能というわけではないでしょう。でも弓がいつまでも張っていられないように、緊張した時間が、そう長く続くというわけには、いかないかもしれません」 「じゃあ、やはり……」 「でもかわりに、長く親しんできた安らぎや信頼というものが、生まれてくるでしょう」  小径の左手の林のなかには、以前の東塔の跡の礎石があり、右手には西塔の跡がある。その手前の径のわきに会津八一の歌碑がある。  秋篠のみ寺をいでてかへりみる生駒がたけに日はおちむとす  いまはまだ陽が落ちるには少し間があるが、緑に囲まれた小径はすでにほの昏い。 「以前は、寺を出ると西の方にすぐ、生駒の連峰が見えたのですが、最近は家が建てこんできて、眺望が悪くなったようです」 「奈良も、変っているのですね」  再び、東門の方へ向かって歩くと、霞がふと思い出したようにいった。 「結婚というのは、かえって、いけないのかもしれませんね」 「いけない?」  伊織がきき返すと、霞はそっとうなずいて、 「いつも一緒にいて、緊張がなくなるんじゃありませんか。わたくし、好きな人とは一緒にならないほうがいいと思うのです」  雑木林の静寂のなかを、霞の声がつき抜けていく。伊織はその声の強さに驚いて息を潜めた。  径の左手は本堂を囲む塀で右手だけ林が続き、少年が二人、虫でも追ってきたのか、かがまって樹の根元をのぞいている。 「でも、好きになれば、いつも一緒にいたくなるものではありませんか」  駆けていく、少年の後姿を見ながら伊織がいった。 「もちろん、そうできたらいいのですが、女は甘えるものですから」 「女に甘えられて、怒る男はいないでしょう」 「男の方に甘えるということでなく、自分にも甘えてけじめがなくなるものですから」  霞はそこで少し間をおいてからいった。 「女は、好きな人に、いつも綺麗で美しいところだけを見て欲しいのです」 「もちろん、男もそれを願っています」 「でも一緒に棲むと、それは難しくなります」  伊織はようやく、霞のいおうとしていることがわかってきた。結婚し、一つの家に棲んでしまうと、男も女も互いに地を見せ合うことになる。女は美しく装っているだけでなく、素顔から、ジーンズやショートパンツをはいた普段の姿を見せることになる。そういう日常性のなかで、二人のあいだの緊張感が薄れていくことを、霞は恐れているようである。 「あなたが昨夜、別の部屋をとったのも、そのためですか」 「無駄なことと思われたかもしれませんが、朝はまた、きちんとした顔でお逢いしたかったのです」 「そうとも知らずに、つまらぬことを考えました」  霞が別の部屋をとったと知ったとき、伊織は一瞬、夫の目を誤魔化すためかと疑った。その狭量さを、伊織はいま反省している。 「男も女も、装う心を忘れては、終ってしまう」 「なにごとも、近付きすぎてはいけないのですね」 「しかし、好きになったらそんなことをいってるわけにいかない。どうしても、好きな人に自分の側にいてもらいたくなるのが、人情というものでしょう」 「でも、そんなことをしたら、とめどがなくなります」 「なくなったって、いいじゃありませんか」 「そんなことを仰言って、よろしいのですか」 「いけませんか?」 「わたくし、走り出したら止らなくなるといったはずです」  霞がきっと前を見た。径は少し広くなり、正面に東門の茂みが見える。伊織は答える言葉がないまま、霞との歩みを合わせた。  寺を囲む林を抜けると急に視野が開け、間近に雲が流れているのがわかった。一日中、鉛のように重たかった梅雨空も、夕暮れとともにようやく動きはじめたようである。  伊織はさらに、霞と大和路を歩きたい衝動にかられた。西の京から斑鳩《いかるが》、そして室生寺あたりまで足をのばせば、大和の思い出はさらに深まる。 「でも、もう一日、泊るわけにはいかないでしょうね」  未練がましくきくと、今度は霞はかすかに笑って、 「お仕事がおありなのでしょう」 「いや、僕のほうはなんとかなります」 「でも、帰りましょう」  そのまま東門を出て、左手の駐車場へ向かおうとすると、運転手のほうで先に見付けて車が近付いてきた。 「じゃあ、帰りましょうか」  伊織は霞がいったことを復唱するようにいって、車に乗った。 「まっすぐ、西大寺駅にやって下さい」  そろそろ四時半で、これから別の寺に廻るのは難しい。それに東京へ戻るには、ちょうどいい時間でもあった。 「もう少し、ゆっくり案内できるとよかったのだが」 「でも、とっても素敵なお寺を見せていただいて、いい思い出になりました」  そのまま西大寺駅へ着くと、十分後に京都行きの特急があった。そのシートに並んで坐って、伊織はようやく二人の旅が終りに近付いているのを知った。 「一泊では、やはり短かすぎます。せめて二泊くらいできればいいのだけど」  遠ざかっていく夕暮れの街を見ながら伊織がいうと、霞がつぶやいた。 「わたくし、どうしても泊れと仰言れば、泊ってもいいのです」 「本当ですか」 「でも、そうなったら、あなたがお困りでしょう」 「………」  伊織はまた言葉に詰って、暮れなずむ空を見た。 「泊れと仰言れば泊ります」という言葉には、あきらかに開きなおりの感じがある。「それでは、あなたがお困りでしょう」といういい方には、軽い皮肉もこめられているようである。  もう一泊したいと伊織が誘ったときには、どうせ誘っても駄目だろうというあきらめがあった。誘っても泊らないと思いながら、その言葉の雰囲気だけを楽しんでいるところがあった。だが霞は、そうした伊織の心の裏まで見抜いているようである。  妻が夫に無断で外泊するのは、家を出る決心をしたときである。家を出てどこへ行くにせよ、霞が頼るのは伊織しかいない。そうなっては、一番困るのは伊織自身である。それでもいいのかと、霞は問いかけているようである。男が軽く、言葉の雰囲気だけに酔っていうことを、霞はなじっているのかもしれない。たしかに受け入れるという自信もないのに、甘い言葉をいわないで欲しいと訴えているようである。  改めて、伊織は自分自身の胸にきいてみる。 「いま、霞を無理に引きとめて、その結果に責任をもてるのか……」  もし霞が家を出て、自分のところへきたらどうするのか。さし当り、青山のマンションで同棲するとすれば、霞と夫、そして伊織自身の周辺にも相当波風がたつ。いまだに離婚の成立しない妻とのあいだはもちろん、笙子とのあいだも|ただ《ヽヽ》ではすまない。それらの障害をのりこえて、なおしっかりと霞をとらえる勇気と実行力があるのか。  窓の外はすでに大和の平野は遠のき、電車は木津川ぞいの山ぎわを走っているようである。左右から低い山稜が近付くとともに、夕暮れがさらに迫ってくる。 「お疲れになったでしょう」  考えこんでいる伊織を、霞は疲れていると思ったらしい。 「この程度では平気です。それより、きみのほうが疲れたでしょう」 「わたくしは、ただ、あとを従いて歩いただけですから」  帰途について、霞の横顔も少し淋し気である。  伊織はこれから訪れる夜のことを考えた。  いま夫婦のように睦まじく寄添っている二人が、数時間後には別々の帰路につく。男は、他の女性と逢瀬を重ねたマンションへ戻り、女は夫の待つ家へ戻る。昨夜、あれほど同じベッドで燃えた二人が、次の夜は離れ離れに、まったく別のところで休む。最大のアヴァンチュールと思えた旅も、一夜過ぎてみればまたもとのところへ戻るようである。 「今度、また一緒に旅に出たい」  伊織はそっと、霞の肩に自分の肩を触れながらいった。なぜともなく、いま伊織は、躰を触れ合わせていたい衝動にかられている。それは、やがて終る旅への愛惜と、昨夜から馴染んだ肌への愛着なのかもしれない。 「七月に、弘前まで行く用事があるのです」 「弘前といったら、青森より遠いんじゃありませんか」 「汽車ならそうですが、飛行機で行けばずっと早い。京都へ行くより早く着きます」 「行きたいけど、飛行機は怖いわ」 「大丈夫ですよ」 「だって、空を飛ぶのでしょう」  飛行機が空を飛ぶことは自明のことである。それをいまさら大切な理由のようにいっているのが可笑しい。 「一緒なら、いいじゃありませんか」 「でも、なにかあったら、わかってしまいます」  どうやら、霞の危惧していることは、単純に飛行機が怖い、ということではなく、他人の目を忍ぶ旅に、万一のことがあっては困る、ということらしい。  その気持は、伊織もわからぬわけではない。新幹線や車の旅なら、社員や家政婦に嘘をついてもあまり気にならない。今日の出発を明日といったところで、着いてしまえば同じだと思う。だが飛行機に乗るときは、なんとなく嘘をいいにくい。万一のことが起きたらどうなるのかと考える。ましてや二人だけの秘密の旅に、飛行機をつかうのは不安である。 「列車ならいいのですか」 「いいというわけではありませんが、やはり安心でしょう」 「じゃあ、暑くならないうちに、もう一度、京都へ来ましょうか」 「誘ってくださるのはありがたいのですが、わたくし、本当に|けじめ《ヽヽヽ》がなくなるのです」  本当に霞がけじめをなくして遊びまわるときがあるのだろうか。とやかくいっても、霞は結局、辻堂の邸へ静かに戻る人のように思える。 「あなたはいままで好きな人のことを思って、狂おしくなったことなどあるのですか」 「狂おしいかどうかはわかりませんが、好きになったことはあります。若いときに、憧れた人もいました。笑われるかもしれませんが、伊織さんもその一人でした」 「まさか……」 「いいえ、兄にこっそり伊織さんてどんな方かと、きいたこともあるのです」  霞の兄が健在なころ、二、三度家に遊びに行ったことがあるが、霞がそんなことを考えていたとは知らなかった。 「で、お兄さんは、なんといったのですか」 「才能はあるし、なかなか女性にももてる男だって。それで、なあんだ、と思ったのです」 「なあんだ?」 「女にもてる人など、いやだから」 「お兄さんは冗談半分にいったのでしょう。それにしてもずいぶん簡単にあきらめるのですね」 「わたしは、いつも頭のなかだけで恋したり、失恋したりしていたのです」  いた、という過去形に伊織は少しこだわった。 「じゃあ、本当に好きになったのは、いまのご主人だけですか」  霞は一瞬、戸惑った表情をしてから、 「わたくし、あの人を愛してなぞいません」  思いがけなくきっぱりしたいい方に、伊織のほうがたじろぐと、 「あの人とは、年齢が一廻り以上も違うのです」 「年齢が離れているから、うまくいかないということですか」 「年齢などいくら違っても好きならかまいません。もともとわたしは父を早く亡くしたせいか、年齢上の人が好きでしたから」 「じゃあ、それで結婚された?」 「いいえ、わたし達は見合いです。父の昔のお友達で、世話して下さる方がいらして……」 「見合いでも恋愛でも、結婚してしまえば同じでしょう」  秋篠寺のときとは違って、今度は伊織が攻める立場になっていた。 「はっきりいって、わたくし、あの人の考え方についていけないのです」 「ご主人のことは、村岡にちょっときいたことがあります」 「村岡さんは、なんと仰言ったかわかりませんが、わたしはあの人の、いまのやり方にあまり賛成できないのです」 「やり方……」 「よくはわからないのですが、あまり仕事を拡げたり、利益ばかりを追うことはないと思うのです」 「………」 「以前はそうではありませんでした。本当に焼きものや絵が好きで、それに惚れこんでいたのです」  どうやら霞は、夫が美術品の愛好家から、利益だけを求める商人になっていることに不満があるようである。 「しかし、仕事である以上、利益を求めるのは仕方がないでしょう」 「それはわかるのですが……」  霞はそこで急に気がついたように軽く笑って、 「つい、お恥ずかしいことを話してしまいました」 「しかし、ご主人はあなたを愛しているのでしょう」 「どうなのでしょうか。たしかに、こんな我儘をさせていただいているのですから、愛されているのかもしれません。でも他に、好きな人がいることもたしかなのです」 「どうして、そんなことがわかるのですか」 「なんとなく勘で。でも、そうだと思います」 「それで、黙っているのですか」 「わたしも、こんなことをしているのですから、文句をいう権利なぞありません」  伊織はうなずきかけて、しかし、とも思う。自分達は最近だが、霞の夫は大分前からではないか。だが、といってそれで自分達の仲が許されるわけでもない。 「でも、ご主人は、あなたと別れる気持はないのでしょう」 「多分……」 「あなたも、同じように……」 「別れても、行くところがありませんから」  すでに薄く、墨を流したような空を見ながら霞がつぶやいた。  電車は山あいを抜けて、京都へ続く平地に出たようである。行く手に視界が開け、新開地なのか似たような新しい家がいくつも並んでいる。その家々の上にも夕暮れが迫り、ところどころに明りがついている。そろそろ六時で、一般の家庭では夕食の時間なのかもしれない。土曜日のせいか、家々のまわりには週末の夕方の長閑《のどか》さがある。  その情景を見ながら、伊織は霞の辻堂の家を思い出す。いま目の前に見える家々からみると、霞の住んでいる家ははるかに大きく豪邸である。はたから見ると、どんな幸せな人が住んでいるのかと羨み、憧れるに違いない。だがその実、そこに住んでいる夫婦の心は離れている。豪壮な家に住みながら、心は満たされていない。それは不幸とよぶべきなのか、単なる我儘なのか。なまじっか経済力があり、大きな家に住んでいるから、不満が生じたということなのか。  だが、霞達夫婦のあいだに亀裂があったから、霞に近付けたともいえる。彼女が夫を愛し、貞淑であったら、どう思いを寄せたところでいまのような状態にはならなかった。その意味では霞と夫とのあいだの亀裂は、伊織にとってはむしろ幸いだったというべきかもしれない。 「もう一つ、きいていいですか」  伊織はいま、ここまできたらすべてきいておこう、という気持になっていた。 「お子さんは、高校生ですか」 「そのことも、村岡さんから、おききになったのですね。正直に申しあげますと、あの子はわたしの子ではないのです」 「………」 「主人が結婚する前に関係のあった人の子供です。その方が事情があって育てられなくなって、引き取ったのです」 「結婚前に、そのことは知らなかったのですか」 「知りませんでした。初めお逢いしたときには、そんな方とはとても思えませんでしたから」  霞はそこで急に明るい声になって、 「でも、わたしは、あの子をとっても愛しているのです。自分のお腹を痛めた子供ではありませんが、五つのときからずっと育ててきたのですから」  伊織は一度、霞の家に電話をしたときに出てきた、若い女の声を思い出していた。きっぱりした口調で、「高村です」と答えた。伊織は驚いて、そのままなにもいわずに電話を切った。 「そのお子さん、なんという名前ですか」 「かおりというのです。あの人がつけたのですが素敵でしょう。一緒に歩いていると、姉妹だと思う人もいるようです」  霞はまだ三十五だから、そう見る人がいるのも当然かもしれない。 「ご主人とは、そのお子さんとのことが原因で……」 「いいえ、わたくし、そのことではなにも恨んでいません。むしろ、あの子がいてくれたおかげで、これまでやってこられたのですから」  伊織は新しい煙草に火をつけた。すぐききたいことがあったが、続けてきくには不躾かもしれない。ゆっくりと煙草を喫い、吐いた煙が二人のあいだの空間に消えるのを待ってきいた。 「じゃあ、お子さんはそのお嬢さんだけ……」 「結婚した翌年から、あの子がいましたから……」 「そのお子さんのために、つくらなかったのですか」 「そういうわけでもありませんが、あの子の世話をしているだけで楽しくて、他のことは考えられなかったのです」  伊織はうなずいたが、少し納得しかねるところもあった。たとえ夫に連れ子があったとしても、本当に夫を愛していれば、自分の子供を欲しいと思うものではないのか。 「ご主人は、なんと仰言っているのですか」 「あるいは、欲しかったのかもしれませんが、もうこんな年齢ですから」 「しかし、まだ……」 「いいえ、本当にあきらめています」  伊織は昨夜、自分の腕のなかにあった霞の白い肌を思い出した。いまだに、霞は全身を露わに見せたことはないが、ベッドで垣間見た姿態は均整がとれて、くずれたあとはない。 「じゃあ、もうずっと……」  霞はうなずいてから、急に悪戯っぽい笑いを見せた。 「でも、好きな人ができたら、どうなるかわかりません」  静かで控え目に見えながら、霞はときどき、思いがけぬ大胆なことをいう。なに気なく話していながら、一瞬、ぎくりとすることをいう。 「泊れと仰言るなら、泊ってもいいのです」といったときにも戸惑ったが、いままた「好きな人の子供なら、生むかもしれません」といわれて、伊織はたじろいだ。むろん、それは冗談半分で、霞の顔にはかすかな笑いさえ浮かんでいる。だが逆に、余裕ある落着いたいい方だから、もしかして、と思わせるたしかさもある。  そういえば、これまで霞は、自分から生理のことについて、なにもいったことはなかった。伊織の求めるままに許し、受け入れる。肌を触れ合うたびに、伊織はきこうと思いながら、きいたときのしらけた雰囲気を思ってあきらめた。今度の旅行のときも、たしかめようと思いながらききそびれた。霞がなにもいわぬことを、伊織は自分を信用してくれているからだと解釈していた。 「今日は危ない」とか「今日は大丈夫です」ということは、女性からはいいにくい。だから、いわずともそのあたりは察して欲しい、ということなのだと思っていた。実際、伊織はそう考えて、ある程度、自分でコントロールをしてもいた。  だが、いまの言葉をきくと、相手を信用していた、というだけでなく、妊娠するならしてもいい、と開きなおっていたのかもしれない。たとえそこまで思わなくても、なったらなったときのことだと覚悟を決めていたのかもしれない。 「でも、こんな年齢になってはいけませんね」 「いや……」  伊織はゆっくりと首を振りながら、霞が妊娠したときのことを想像した。この着物につつまれた躰が、お腹をせり出し、重たげに歩くのだろうか。そんな姿態は到底想像できない。  だが、一つ間違えば、その状態が訪れないとはかぎらない。霞自身が求めたら、いままでもそうなる機会はありえた。女は常に豹変《ひようへん》する可能性をもっている。そして霞もいつ変るかわからない。  伊織はその霞の白い横顔のなかに、豹変する可能性を見て怖いと思う。  電車が京都に着いたのは、それから三十分あとの六時二十分だった。曇り空の下の京の街は、すでに夜になっていた。  少し時間でもあれば、駅に近いホテルで夕食でもとって新幹線に乗るつもりだったが、この時間ではゆっくりできそうもない。そのまま休む間もなく、二十九分発の新幹線に乗った。 「食堂車にでも行きましょうか」 「お腹はそうでもないのですが、少しお酒をいただきたいのです」  それには伊織も賛成である。切符の点検が終ってから、二人で食堂車に行き、向かい合って坐ると、スコッチの水割りを頼んだ。小さなボトルがきて、グラスに注ぎ、氷と水をくわえたところでグラスを重ねた。 「楽しかった?」 「ええ、とっても……」  二人は目を見合わせて乾杯した。伊織はもう、霞の家庭のことについてたずねる気は失せていた。それはきいたところで、心が和むことではないし、霞にとっても楽しいことではないはずである。それよりウイスキーで、旅の疲れをいやすほうがいい。 「東京へお帰りになったら、またお忙しいのでしょう」 「忙しいといったら忙しいし、暇といったら暇です。今度はいつ逢えるだろうか」 「また、逢ってくださるのですか」 「もちろん、僕は毎日でもいいのです」 「そんなに逢ったら、飽きられてしまいます。わたしは月に一度でいいのです」 「どうして、そんな情けないことをいうのですか」 「でも、あなたの、お好きな人の邪魔をしてはいけないから」 「好きな人?」 「あなたになら、きっと沢山、いらっしゃるでしょうから」 「馬鹿なことは、いわないでください」  霞は笙子のことは知らないはずだが、どうやら誰か、他に女性がいるとは思っているようである。 「いま好きなのは……」  伊織はそこであたりを見廻し、声を低めていった。 「あなただけです」 「いまは、そう信じることにいたします」  揺れながら飲むせいか、酔いのまわるのは早い。じき霞の目の縁が淡く朱を帯び、伊織も軽く酔いを覚えた。  食堂車の窓のなかに、霞と自分と二つの顔が向かい合っている。伊織はこんな情景をどこかで見たような気がしていた。  食堂車から席に戻ったのは、名古屋を少し過ぎたころだった。それから伊織はシートを軽く倒して眠った。それに誘われたのか、霞も少し眠ったようである。途中で伊織が目覚めると、霞は軽く背を向け、顔にハンカチを当てて休んでいた。それを見届けて伊織はまた眠った。  再び目覚めたとき、霞はすでに起きて窓を見ていた。 「いま、どこだろう」 「そろそろ、熱海です、お疲れなのでしょう?」 「そんなわけでもないが、ウイスキーが効いたらしい。それに今朝のが……」 「なんでしょう」 「君が素敵だったから」  一瞬、霞は、怪訝《けげん》そうな顔をしたが、すぐ気がついたように目を伏せた。今朝、目覚めの淋しさに耐えかねて、霞を部屋に呼んで朝の情事を重ねた。その疲れが一日中、躰のすみに残っていたようである。 「君も、少し眠っていた」 「いいえ、顔にハンカチを当てていただけで、起きていたのです」 「それは知らなかった。せっかく、横にいてくれたのに眠って損をした」 「でも、あなたが横に休んでいるのを見ながら、旅をするのも素敵です」 「このまま、まだ続くのならいいが……」  伊織はそこまでいって黙った。すでに奈良から京都へ向かうときにいったことを、いままたくり返しては未練になる。 「東京に着いたら、どうしますか」 「わたしはまっすぐ、湘南電車に乗ります」  時計は八時五十分で、このまま行けば、東京には九時二十分ころに着くようである。 「今度、いつ逢えますか」 「わたしのほうから、またお電話をいたします」  家に帰ってみなければ、今後の予定はつかないということなのか、伊織はまた霞の家のことを思った。今夜、霞の夫は家で待っているのか。そして、自分の子同然だという娘はなにをしているのか。霞は土産らしいものを買った様子はなかったが、なにも買わぬ手ぶらの旅を、夫にどういい訳するのか。考える伊織の視野のなかで、山あいの明りがゆっくりと動いていく。  東京駅に着いたのは、定時の九時二十分だった。伊織は旅行用の鞄を持ち、霞は小型のバッグを手にして、昨日、出発したときと同じ姿で新幹線の改札を出た。 「ホームのところまで送りましょう」  伊織はもう未練がましいことをいう気はなかった。東京へ着いたら、そこから先は別の世界である。旅のことは一つの思い出として、いさぎよく別れようと、心で決めていた。  土曜日の夜で、ホームへの通路は混雑していた。地方から東京へ出て来た人と、これから出かけようとしている人といりまじり、さらに梅雨どきの熱気が通路にあふれている。  湘南電車の乗り場は八番ホームであったが、その階段の上り口で伊織は立止った。 「それじゃ、僕はここから、まっすぐ南口のほうへ出ます」  霞は一瞬、戸惑った表情をしてから頭を下げた。 「本当に、ありがとうございました。とても楽しゅうございました」 「電話を待っています」 「はい」  霞はきっぱりと返事をすると、もう一度、伊織を見た。相変らず人の波が気ぜわしく流れていく。それを背にして伊織は、行きなさい、というように階段の上のほうを見た。霞はもう一度、頭を下げると、くるりと背を向けて階段をあがりはじめた。  目の高さに霞の着物の裾が見え、白い足袋と草履が垣間見えたが、すぐ続いて登る人のかげにかくれて消えた。伊織はその位置から一歩下り、霞の姿が完全にホームに消え去るのを待って、通路を歩きはじめた。  東京駅の南口を出て、タクシー乗り場に立って、伊織ははじめて霞との旅が終ったのを知った。伊織は待っていたタクシーに乗ると、「青山」と告げた。週末の丸の内は閑散として、ビルが黒い骸《むくろ》のように並んでいる。やがてお濠端に出て、闇につつまれた皇居の森が拡がり、行く手に東京タワーの赤い灯が夜空で明滅している。  伊織はそれを見ながら、霞はもう電車に乗ったろうかと思ったが、すぐその思いを振り切るように一つ溜息をついた。それは旅の疲れであり、無事に帰り着いた安堵であり、華やかな旅が終ったあとの虚しさのようでもある。 [#改ページ]    青  芒  右手の飾り棚の、区切られた空間には睡蓮《すいれん》があり、左手のテーブルの上にはグラジオラスがある。  睡蓮は四角い花器に剣山をおき、その上に、径七、八センチに開いた花が一つ、そのうしろに蕾《つぼみ》が一つと藺《い》が一本添えられている。花器の水面につかるがごとくに軽く浮かせた花と、軽やかな曲線を描く藺がバランスよく空間をおさめ、そのまわりには静謐《せいひつ》な優しさがあふれている。  一方のグラジオラスは、十数本の花がまとめてガラスの花瓶に投げこまれ、こちらは明るく威勢よく、若さにあふれている。 「また、お花がふえましたね」  家政婦の富子は、なに気なくいうが、それぞれの花を持ってきた人のことは、ほぼ察しがついている。いうまでもなく、睡蓮は霞で、グラジオラスは笙子である。  三日前に、霞がきて睡蓮を活け、昨日、笙子がきて、グラジオラスをおいていった。そのときは、飾り棚の空間が睡蓮に占領されていて、なに気なくテーブルの中央にグラジオラスをおいたのだが、いまこうしてみると、右と左に対照的に位置を占めている。  ともに夏の花でも、睡蓮は花の華やかさをおさえるように低く控えめで、いかにも霞らしい。 「一度、お持ちしようと思っていたのですが、なかなかなくて。今日、ようやく頼んでおいたお花屋さんで手に入ったのです」  霞はそういってから、「すいれんのすいは、水ではなくて睡ですね」ときいた。 「むろん、正しくは睡でしょう」 「そのお花屋さんに、水蓮と書いてあったものですから」  黄昏《たそがれ》とともに、睡蓮は自然に花を閉じ、朝陽とともに再び目覚める。そこからつけられた名前だから、当然、「睡蓮」と書かなければならない。 「この花、未草《ひつじぐさ》ともいうのですね。未の刻の午後二時に、花を閉じて睡るからだとききました」  字まで繊細な睡蓮にくらべて、グラジオラスはアフリカが原産地というだけに、花の色も姿も、いかにもくっきりと鮮やかである。別に、「オランダあやめ」とか「唐菖蒲《とうしようぶ》」ともいうらしいが、睡蓮にくらべたら、花の印象はいささか単純である。  笙子はこの花をガラスの花瓶にいれながら、 「グラジオラスは、剣のグラデュースという意味からきているのです」といった。  たしかに、いまグラジオラスは、向かい合って静まる睡蓮に、剣を向けているようでもある。  昨夜、笙子が部屋に来たとき、伊織は霞が活けていった睡蓮を、目立たぬところに移そうかと思った。この前の河骨のときのように、花から別の女性の匂いを感じて不機嫌になられてはたまらない。だが、隠そうと思っても咄嗟に適当な場所は見付からないし、せっかくの花を隠すこと自体がいじましく、卑劣に思えてやめた。  活けられた以上、花に罪はないし、美しいものを隠しだてすることもない。笙子も、この前のように大人気なく、不機嫌になることもないだろう。伊織のこの考えはほぼ当っていた。睡蓮を見ても、笙子は無表情だった。そこまでは考えたとおりだったが、笙子が花を持ってくるとは思っていなかった。誤算といえば、それが誤算であった。 「相変らず、きれいなお花があるわね」  笙子はそれだけいって、自分の持ってきたグラジオラスをガラスの花瓶に挿しこんだ。 「お邪魔かもしれませんが、わたしの花も、お部屋へおいてあげて下さい。飾り棚のほうは、どなたかの指定席のようですから、こちらにおかせてもらいます」  笙子のいい方には、皮肉がこめられていた。  グラジオラスが、「剣」の意味だといったのは、そのあとであった。たしかに、グラジオラスの葉は剣状になっている。花の色は淡桃と淡黄色のにまじって、緋紅の花がひときわ目立っている。花言葉は「用心堅固」ということらしいが、朱のグラジオラスは、その印象とはいささか違う。愛憎そのものといった感じが強い。  伊織は、睡蓮については、なにもいわなかった。なまじっかいえばいいわけになるし、話しだすと霞のことが表に出てしまう。そのあたりは笙子も察していたのか、それ以上きいてはこなかった。  睡蓮とグラジオラスと、二つの花にはさまれて、笙子と伊織はコーヒーを飲み、ぼそぼそと話した。それも当りさわりのない、会社や、最近見た映画のことについてであった。その間、笙子の視線は一度も、睡蓮に向けられなかったが、それがまた、睡蓮を意識している証拠のようでもあった。  伊織がグラジオラスを見ながらそれらのことを思い出していると、富子が花瓶に手をかけた。 「これ、お邪魔でしょう。ベランダに出しておきましょうか」  たしかにグラジオラスは茎も花も長く、テーブルの上ではいささか邪魔である。  だがそれにしても、ベランダとは少し可哀想な気もする。笙子は花を持ってきたとき、「お邪魔でしょうから」といって、いまのテーブルの上においたのである。しかし、富子はさっさと花瓶を持ってベランダへ運んでいく。  富子はもちろん、笙子には何度か会っている。初めのころは、仕事の打合わせにくるのだと思ったようだが、すぐ伊織との関係を察したらしく、それ以来、二人のあいだはなんとなく冷たくなったようである。  それでも笙子は、伊織の家事については、富子に一歩ゆずり、富子は笙子をある程度たててもいた。だがそれはあくまで表面だけのことで、裏では反撥しあっていたのかもしれない。  誰であろうと、富子は伊織に近づく女性には冷ややかである。なにも関係のない事務所の女性にも、どこか無愛想である。女性で富子が許すのは、ただ一人、伊織の妻だけである。妙なことに富子は、妻にだけは好意をもっているらしく、たまに急ぐ郵便物があったりしてとりにいってもらうと、ついでにあがりこんで話してくることもあるらしい。 「本当に、いい奥さまですね」  帰ってきてから、富子はそんなことをいったこともある。おそらく富子は、妻が伊織と別れて一人でいることに同情し、伊織が勝手なことをしている分だけ、妻が可哀想だと思っているのかもしれない。 「こちらの花は、この前、河骨をもってきて下さった方が活けたのですね」  グラジオラスを外に出して、今度は富子は睡蓮を見た。最近よく自分のいないあいだに、このマンションに女が出入りしているらしい。それは笙子より年上の落着いた女らしい。まだ見ぬ相手に、富子は好奇心と軽い妬《ねた》みを感じているようである。 「また、暑くなりそうだな」  伊織は富子の問いには答えず、ベランダを見た。盛夏の陽を受けて、ベランダのグラジオラスは、いっそう愛憎の色を増したようである。  今年は冷夏だという予報だったが、梅雨が明けると、急に猛暑が訪れた。連日、日中は三十度をこし、夜も二十五度をこす熱帯夜が続く。七月の半ばに、雨があって凌ぎやすい日が数日続いたが、末から再び暑さがぶり返したようである。  今日も朝から、鱗雲《うろこぐも》のあいだから陽が洩れ、暑くなりそうである。当然のことながら、暑くなると食欲は落ちる。いままで食べていた朝粥も、暑さを思うといささか食傷気味である。富子は粥に自信があるだけに、断るとあまりいい顔はしないが、さすがに今日は食べる気はおきない。 「事務所の近くで、お客さんと一緒に食べなければいけないんでね」  伊織はいいわけをいって十二時にマンションを出ると、通りに面したそば屋に寄って、ざるそばを食べた。それから表参道の樹陰ぞいに歩いて事務所に着くと、一時を少し過ぎていた。  一時から世田谷に新しくつくるビルの打合わせをすることになっていて、すでに会議室にスタッフが揃っていた。  今度のビルは、大手の協和デパートからの依頼である。城南の住宅地の婦人を対象に、比較的高級品を扱う店をつくるとともに、地域の一種のコミュニティ・プレイスにしようというプランであった。場所が住宅地だけに、あまり高くできないし、乗用車で来る人のために、充分の駐車場のスペースも必要である。それにファッション・コミュニティとしての機能ももたせるため、モダーンで瀟洒《しようしや》でなければならない。  デザインの最終決定は伊織がするが、一応、設計にくわわるスタッフから、まずアイデアをきく。住宅地につくるこの種のデパートは初めてだけに、みな張切ってアイデアを出した。  主任格の浦賀は、高級イメージを出すために、全体として欧風で、中心部にシンボルとして塔屋を建て、シルバーを基調としたものにしたいという意見であった。もう一人の金子は、欧風は欧風でも、屋根にゆるやかな勾配をつけ、孔雀《くじやく》の羽根を広げたような形にしたいという。さらに、松本は、建物そのものを二重の円形にして、そのあいだに庭園をつくり、ショッピングをしながら、庭を楽しめるようにしたいという。  それぞれにユニークで、高級イメージの下で女性客を引きつける、という基本からはずれていないようである。  伊織は、建築は一つのコミュニケイションだと思っている。すべての建物は、見る人々へ語りかけ、人々は建物からひとつのメッセージを受け取る。ものはいわなくても、建物は無数の言葉を語りかける。建物について、伊織が最も不快に思うのは、饒舌すぎる建物である。自分だけ目立とうとして、まわりの状況を無視しているものがある。たとえば、最近ときどき見かける黄色の建物もその一つである。たしかに黄色は事故防止にもつかわれるほど、よく目立つ色である。だが大きなビル全体を黄色に塗りこめては、目立つのをこえてグロテスクでさえある。とくに、まわりの環境が落着いているときには、異様な不協和音をかなでる。  もともと日本人は、建物を建てる場合、周囲への配慮が足りなさすぎる。人間個々は、世間|態《てい》とか他人の目を気にするくせに、建物となると、急にエゴイスティックな面を現し、欧米のように、まわりの雰囲気に合わせるという配慮がない。こういうのは、日本人の公徳心の欠如と無縁ではないのかもしれない。  伊織が、美術館とか博物館のような建物に関心を持つようになったのも、それらが周囲と比較的隔絶され、まわりの建物にわずらわされることが少ないからである。建物が密集している場合、それひとつだけ、いかに洗練されたものをつくっても、周囲の俗悪なものに打ち消されて精彩を失う。いかに斬新なデザインでも、まわりと馴染み、バランスがとれていなければ無意味である。今度の設計も、周囲の環境をこわさないという原則は守らなければならない。こわさないままに、瀟洒でユニークなものが欲しい。  各人のデザインは、まだ青写真の段階で、アイデアを披露したにすぎない。伊織個人としては、庭園をあいだにはさんだ円形か、五、六角形の建物が面白いと思うが、いささかスペースをとりそうである。  他に塔屋をおいたり、曲線の屋根も、それなりに魅力がある。それらについて、伊織は自分の考えを述べたうえで、来週までに、スペースや予算についていま一歩、具体的に検討することにして、打合わせを終えた。  そのまま、自分の部屋へ戻って、郵便物に目をとおしていると、笙子がお茶をもって入ってきた。メモ用紙を片手に、会議中にあった電話の内容を告げてから、急に改まった口調でいった。 「来週からお休みをいただきたいのですけど」  笙子とは昨夜逢ったはずなのに、休暇のことについてはなにもいわなかった。伊織は机の前に立っている笙子を見上げた。  毎年、事務所では七月の末から八月の旧盆にかけて、各人が、一週間前後の夏季休暇をとることになっている。といっても、十人そこそこの小さな所帯なので、三、四人ずつ、仕事に支障がないかぎりで融通し合って日を決めるようにしている。  この間、伊織はとくに休暇をとらない。現実に、独身と同じ伊織にとって、休暇をとって家族と一緒に過すという当てはない。普段、地元との打合わせや現場の調査などで地方に出かけることが多いので、夏のあいだぐらい家でじっとしていたい。お盆で人々の減った東京で暢んびり過し、八月の末か九月の初めころ、暇を見て二、三日、ゴルフにでも出かけようかと思っている。  しかし、笙子の休暇は八月の十日から一週間という予定になっていたはずである。それが来週からとなると、急に一週間くり上ったことになる。 「なにか、用事でもできたのか」 「ちょっと、どうしても行きたいところがあるのです」 「どこに?」 「山陰の松江のほうです」  一週間の休暇に、郷里の長野に帰るのかと思っていたが、行先は違うようである。 「しかしずいぶん急だな、昨日、どうしていわなかったんだ」 「今朝、決めたんです」  伊織は少し不快になった。一週間も休暇をとるのに、今朝きめたから欲しいといわれても困る。それに今週から一部の者が休んで、人手が少なくなってきているときである。 「誰か、替りをやってくれる人がいるのか?」 「坂井さんがいます。今朝、お願いしたら、いいといってくれました」  事務所には建築士以外に女性が三人いる。笙子が休むときは、他の二人が替りの仕事をするが、そのうちの坂井という女性が承諾したらしい。 「しかし予定を勝手に替えられては困る」 「すみません……」  こちらが許しもしないのに、勝手に友達に頼んで休むやり方に、伊織はいささかむっとした。 「いかん、といったらどうするのかね」 「でも、有給休暇があります」  軽く目を伏せているが、笙子の表情は思いがけなく険しい。 「山陰に、なにしに行くのだ」 「望月さんや、宮津さん達と一緒に旅行するのです」  宮津ときいて、伊織は軽く窓のほうへ視線を向けた。 「宮津君達と、急に旅行に行くことになったというわけか」 「前から誘われていたんです」  ただ旅行に行くというだけなら、伊織は少し叱言《こごと》をいうつもりであった。たとえ有給休暇があるとはいえ、突然、来週からというのでは勝手すぎる。今日は金曜日だから、実質的には、明日から休む、といっているようなものである。だが宮津と一緒ときいて、伊織は戸惑った。  誰がきいても、笙子のいい方は急で我儘である。一般の所員が申し出てきても当然、叱言をいわねばならない。しかし、宮津と一緒の旅というのでは少し事情が違ってくる。  宮津が笙子へ好意を抱いていることは大分前から知っていた。それは他の所員からもきかされたし、宮津の態度からも感じることはできた。  それはともかくとして、笙子が宮津をどう思っているのかはわからない。少なくとも伊織のいる前で、笙子は宮津に親しげな態度をとることはなかった。だが、特別の関係ではないとしても、自分に好意を寄せてくる男性を憎く思うわけはないだろう。それに、宮津は少し坊ちゃんタイプだが、仕事もよくできる。そういえば、鳥取の出身で、たしか旅館の息子ときいていた。その関係で、今度の旅行は、彼が中心に計画したものなのかもしれない。  その旅に笙子が行くというのに、反対するのは少し大人気ないような気もする。それでは自分が嫉妬して、妨害しているようにとられかねない。伊織は、若い人の行動をおさえるような叱言をいいたくない。ましてや、所員の恋愛や行動にまで、いちいち干渉する気はない。それらからは超然としているのが所長であり、年輩者である伊織の矜持《きようじ》でもある。 「そうか……」  宮津という名前を出されたことで、伊織はかえって寛容な態度をとりかけていた。 「じゃあ、仕方がないだろう」  一瞬、笙子の頬がぴくりと動いた。本当にいいのですか、と半信半疑のような表情である。 「用事はそれだけか?」 「はい」  笙子はうなずくと、「すみません」と、一礼して部屋を去っていった。  一人になって、伊織は陽のあふれる窓を見ながら、マンションを出がけに見たグラジオラスの朱を思い出していた。  正直いって、笙子が休暇を欲しいといってきたとき、伊織は、自分に甘えているのかと思った。所長と親しいから、それくらいの我儘は認めてもらえると、たかをくくっているのではないかと考えた。  だが、どうやらそれは違っていたようである。急に、宮津達と旅行に出かける、という理由の裏には、あきらかに伊織への反撥があるようである。そうでなければ、几帳面な笙子が、そんな我儘を突然いいだすわけはない。  ではどうして、笙子が急にそんなことをいいだしたのか……  昨夜、二人だけで逢ったときは、逆らうような素振りはまったくなかった。ドアを押して部屋に入ってきたときには、手に花を持って微笑さえ浮かべていた。そのあと、持ってきたグラジオラスをテーブルに飾ってくれた。すでに飾り棚の上に活けられていた睡蓮を見ても、不機嫌になったり、疑わし気な眼差しをすることもなかった。  そのあと、マンションの近くのレストランに行き、食事をしたときも、長野のそばの話や、友人がニューカレドニアに泳ぐつもりでいったら、向こうは冬だった、という話などを愉快そうに話していた。  そういう笙子の態度を、伊織は一種の成長した結果だと好ましく見ていた。活けられた花などを見て、見知らぬ女に嫉妬をもやすような、なまなましい感情は、おさえられるようになったのだと思っていた。  だが、それは伊織の思い過しだったようである。表面は明るく振舞っていながら、内心はやはり嫉妬の炎を燃やしていたのかもしれない。その証拠に、食事のあと、伊織が部屋に戻ろうとすると、「今日は田舎からお友達がでてきているので帰ります」といって帰っていった。部屋に戻れば抱かれることになるのを察知して、事前に避けたのかもしれない。  だが、お人好しというか、伊織はまだ楽観していた。笙子の態度から、そのとおり、友達が出てきているから帰ったのだと思いこんでいた。しかし、そのいつもより明るい態度が、曲《くせ》ものだったようである。宮津との旅行は、昨夜、帰ったあと、すぐ決めたのかもしれない。  やはり、睡蓮の花を見て、行く気になったのか……  伊織は改めて、「グラジオラスは剣という意味なのです」といった笙子の言葉を思い出した。剣のかわりに、笙子は、この週末から宮津と旅に出るというのか。それが、霞ともつき合っている自分へのみせしめだというのか。 「わからん……」  伊織は軽く髪を掻きあげた。大分、女の気持はわかったつもりだったが、まだまだ、本当のところはわかっていないようである。  その日一日、伊織は極力、平静を装った。笙子が他の男性と旅に出るときいたところで動揺なぞしない。伊織はそう自分にいいきかせ、そうつとめようとした。  笙子の態度も、普段と変りなかった。いつものように電話を取り次ぎ、来客があるとお茶を持ってくる。途中で、伊織が用事を頼むと、素直に「はい」と答える。その様子には、休暇を申し込んできたときの、開きなおったような態度は微塵もない。だが、表情はいつもより硬い。気のせいか返事をしたりうなずくとき、伊織の心を探っているようにも見える。  夕方、笙子が帰る時間がきて、「失礼します」といったときも、伊織は黙ってうなずいただけだった。宮津と行きたければ勝手に行くといい、少し大人気ないが、伊織はいまは意地を張っていた。  笙子が帰ったあと、宮津がまだ事務所に残っていたが、伊織はなにもいわなかった。  途中で一度、宮津が新しく設計する美術館の内装のことで相談にきたが、必要なことだけを指示した。宮津の態度は、笙子と行くことを意識してか、少しぎごちなかった。仕事の話が終ったあとも、なにかいいたそうな顔をしたが、結局、そのまま立去った。  しかし話しかけたいのは、むしろ伊織のほうだった。山陰の旅行はどんな日程で、他に誰が行くのか、どことどこへ行き、どれくらいの費用がかかるのか。 「君、山陰に行くそうだね」そう喉《のど》から出かかるのを辛うじておさえた。  夜、四谷のホテルで、友人の建築家の出版記念パーティがあったが、伊織はそれには簡単に顔だけ出して、すぐ村岡と誘い合わせて外へ出た。例によって、行く先はこの前、一緒に行った銀座のバーだった。そこでも、伊織は笙子のことをいいかけたが、やはりおさえた。  村岡はまだ自分と霞のことを気がついていない。その相手に、笙子のことをいったところで、今回の微妙な行き違いをわかってもらえるとは思えない。それに、いまさら未練らしく笙子のことをいうのも面倒である。  心にわだかまりを抱いたまま飲んだせいか、酔いがうちにこもり、二軒目の地下のバーに行って、突然発散したようである。 「どうした、今日はずいぶんピッチが早いな」 「睡蓮とグラジオラスが争ってね、グラジオラスに胸を刺されたんだ」  伊織は自分にだけわかることをいいながら、さらにグラスを干した。  いささか泥酔してマンションに戻ると、午前一時だった。伊織はスーツとワイシャツを茶の間の椅子に脱ぎ捨てた。  こういうとき、背広をハンガーにかけたり、ズボンを折りたたんでくれる人がいると便利である。だが独り身の自由を楽しむ以上、そういう贅沢はいえない。かわりに、寝室から夏用のガウンを持ってきて着ると、ソファに横になった。  飲んでいるときはさほどでもないと思ったが、一人になると大分酔っているのがわかる。仰向けに天井を見ると、電灯のプラスチック・カバーが揺れているように見える。 「いかん……」  伊織はとんとんと自分で頭を叩いてから、無意識に電話を引き寄せる。一瞬、笙子のことを思うが、すぐ振り切るように首を振って、霞の番号を思い出す。  こんな深夜にかけては悪いと思うが、今夜はどうしても声をききたい。  それでも、少し時計を見て考えるが、すぐベルを鳴らすぐらいはかまわないだろうと思う。  三度鳴らして、出なければ切ればいいのだ……  こういうことは素面《しらふ》ではとてもできない。それだけに酔った勢いのある、いまがチャンスである。霞の番号は、どんなに酔っていてもすらすら浮かんでくる。  プッシュホンをおし、呼出音が二度鳴ったところで、女性の声が返ってきた。 「もしもし……」  ゆっくりとした口調で、すぐ霞とわかる。 「ああ、僕です」 「やはり、そうでしたか、そんな気がしたのです」 「もう休んだと思って、三度鳴らして出なければ切ろうと思ったのです」 「飲んでいらっしゃるのですね。わたしも、いま少し飲んでいたのです」 「一人で……」 「今夜は娘もいなくて、一人なのです。十二時にいったん床に入ったのですが、なんとなく眠りそこねて、そのまま……」 「じゃあ、いまは寝間着ですか」 「そんな……」  霞は小さく笑ってから、 「簡単に、上に羽織っています」 「逢いたい。今夜は本当に、凄く逢いたいのです」 「本当でしょうか」 「嘘なんかいいません、今日は一日中、あなたのことを考え続けていたのです」  自分でも少しオーバーかと思いながら、伊織の頭のなかから、次第に笙子が消えていく。  そのまま霞と話して逢う約束ができたことで、伊織の気持はいちおう納まった。霞が優しく応対してくれたことで、宮津と旅に出る笙子のことは、自分とは無縁なことのように思えてきた。  だが、翌朝、目覚めて、床のなかでぼんやり考えていると、再び笙子のことが気になってきた。  はっきりした予定はわからないが、笙子達は今日から出かけるようである。山陰の松江のほうだというから、飛行機かと思うが、もしかすると列車か、あるいは車なのかもしれない。宮津の他に望月も行くといっていたから、三、四人のグループ旅行なのかもしれない。  ともかく、こんなに気にかかるのなら、笙子が休暇を欲しいといってきたとき、もう少し詳しく様子をきくべきだったかもしれない。それよりはっきり「駄目だ」というべきだった。  二人だけの旅ではないとはいえ、なにも笙子を好きな男性と一緒に、旅に行かせることはなかった。伊織は悔いを覚えながら、そんなことで悔いている自分がわからなくなる。  いったい、自分は笙子と霞と、どちらを愛しているのか。以前はともかく、最近は間違いなく霞のほうを愛していると思っていた。笙子となら、一度や二度、都合で逢えなくなっても、どうということもなかったが、霞との逢瀬が一度でも欠けたら落着かなくなる。霞と逢うためなら、仕事をあとまわしにしてでも逢いたいと思う。  だがいま、笙子が宮津と旅に出たと思うと、笙子のことばかりが気にかかる。黙って行かせて、なにかひどい過ちをしたような気持になる。いままで笙子をあまり大切に思わなかったのは、身近にいていつでも逢えたからで、いなくなってみると、その存在が急に大きく見えてくる。こんなことになるまで気付かないとは迂闊だが、そこが男の身勝手さかもしれない。ともかく恋においては、追ってくる人より去っていく人に愛着を覚えるのが、定法《じようほう》というものらしい。  もしかして、笙子はそれを承知で、宮津と旅に出たのか……  実際、そうでなければ、宮津と行くことを、わざわざ告げるまでもない。伊織を傷つけたくなければ、旅行に行くというだけで充分である。なにも一緒に行く男性の名前までいう必要はない。それをことさらにはっきりいったのは、一つの挑戦ででもあったのか。  まだ昨夜の酔いの残っている頭のなかで、休暇を欲しいといってきたときの笙子の硬い表情が頭から離れない。  週末が終った月曜日の昼、伊織は事務所に出かけて、一瞬、別のところに来たような錯覚にとらわれた。たしかに原宿の事務所だし、内装や机や椅子も変っていない。それなのに、どこか違うと思ったのは、笙子がいないかららしい。  いつも伊織が事務所に着くと、笙子は真っ先に顔を見せて、「お早うございます」と挨拶をする。昼をすぎていても、笙子は初めに逢うと「お早うございます」という。それに軽くうなずいて所長室に入ると、すぐお茶を淹れて持ってくる。それを飲みながら、一日のスケジュールをきく。  今日、笙子のかわりに、坂井和子という子がやはりお茶をもってきて、スケジュールの説明をした。そのかぎりでは同じはずだが、やはりどこか違う。笙子だと任せきって安心していられるが、ほかの女性だと、こちらが気をつかわなければならない。仕事について新しい指示を出し、いろいろな調べものをするのにも、笙子となら|阿※[#「口+云」、unicode544d]《あうん》の呼吸とでもいうのか、すぐ通じるところがあるが、他の女性とでは、どことなくぎくしゃくする。  そのせいだけともいえないが、一日を終えて、伊織のなかに軽い苛立ちが残った。  いままでも笙子が休んだり、外出したりする度に、他の女性が秘書のかわりをやってくれたが、大抵は一日か、せいぜい長くて二日である。だが、今度は一週間である。しかも、若い男性と旅に出たための空白である。苛立ちは、むしろそのことへの不満が原因なのかもしれない。  夜、出版社に勤めている藤井と食事をしたあと、一人になって、伊織は笙子のことを思った。  いまごろはどこにいるのか、行先は山陰の松江といったが、そこから出雲、そして津和野から萩のあたりまででも行くのであろうか。考えながら、伊織はまた笙子のことを考えている自分が腹立たしくなってきた。  八月に入ると、半ばにお盆休みを控えているせいか、さまざまな会合が前半に集中していた。  週の初めに、まず建築審議会があり、さらに建設技術開発会議、環境保全技術開発部会など、五つほどの会議が続く。外に出かける用事が多くて、その分だけ、一時的にだが笙子のことを忘れることができた。  だが水曜日にマンションに戻ってみると、笙子からの手紙がメイル・ボックスに入っていた。絵葉書で、表は宍道湖の夕焼けの風景で、裏に笙子らしいきっかりした字で書いてある。 「でかけるときは、勝手をいってすみません。いま松江です。表の絵とそっくりの夕陽を見て、感動したところです。とても楽しい旅です。久しぶりに自然に接して気持が洗われました」  伊織はそれを読むとテーブルの上に置き、ウイスキーのボトルをとりだして、グラスに注いだ。そのままストレートで一口飲んでから、もう一度絵葉書を見た。  笙子は旅に出ると手紙をよこすが、今回はくるとは思っていなかった。外国とか北海道へでも出かけたのならともかく、山陰で、そんな長い旅でもない。しかも出かけるときは、なんとなく気まずい別れ方だった。それだけに意外だったが、「すみません」と書いてあるところをみると、旅に出ながらやはり気にしていたのかもしれない。  そこを読むかぎりでは悪い気はしないが、そのあとの文章が少しひっかかる。  まず、〈とても楽しい旅です〉というのはどういうことなのか。たしかに、宍道湖の落日や、落着きのある松江の町並みなどは美しいかもしれないが、手紙の文章は、風景のことだけをいっているのではなさそうである。少し|うがち《ヽヽヽ》すぎかもしれないが、その言葉は、宮津との旅が楽しい、と語っているようにもとれる。さらに、〈自然に接して、気持が洗われました〉というのも、皮肉にきこえる。東京では気が重くなるということでもあろうか。  伊織はさらにウイスキーを飲んで、もう一度、絵葉書を見た。松江大橋の先からでも撮ったのか、手前に嫁が島の松が見え、その先の広い湖面を黄金色に染めて、夕陽が沈もうとしている。七、八年前だが、伊織も松江に行って、その美しさに見とれたことがある。  その夕陽を、笙子は宮津と見たのであろうか……  考えるうちに、伊織はこの絵葉書が、笙子の自分への挑戦状のように思えてきた。  笙子から葉書が届いた翌日、伊織は有楽町に近いホテルのロビーで霞と逢った。  その日、伊織は夕方から時間があいていたが、電話をすると、霞は用事があって出られないということだった。それを強引に頼んで、二時間だけという約束で出てきてもらったのである。  初めの予定では、翌週の月曜日に逢うことになっていたが、それまで待てそうもなかった。駄々っ子のように無理強いしたが、その裏には、笙子の手紙に刺戟されたところがなくもない。目には目を、というと大袈裟だが、向こうがその気ならこちらも、といった気持がなかったわけでもない。  それにしても、男は身勝手な生きものである。自分が二人の女性と際《つ》き合っているときは当り前と思っていて、いったんその女性が別の男性と旅に出ると、たちまち嫉妬の焔を燃やす。自分の浮気は正当化して、他人のことは許そうとしない。それも、笙子が浮気をしているという確証があるわけではない。ただ好意を寄せている男性と旅に出たというだけで、もう落着かなくなっている。 「あきれたものだ……」  伊織は自分の身勝手さに、いささか呆れてもいる。四十も半ばになり、冷静に考えれば、自分が我儘であることはよくわかる。すでに霞へ心を動かした以上、笙子が宮津へ近付いたとしても仕方がない。だがそうは思いながらも、どこか違うはずだとも思う。  このあたりの気持はうまく説明しづらいが、男と女の生理の違いのような気がしないでもない。男はたしかに、好きな女《ひと》がいながら、もう一人の女に心を動かしていくことは多い。好意から躰の関係まですすむことも、よくあることである。  だがそうなりながらも、男はどこか醒めているところがある。肉体的に結ばれながら、心はそれ程のめりこんでいない。 「浮気」とは、もしかすると、気持が浮いている、ということなのかもしれない。それは妻や決った女性から気持が離れている、という意味ではなく、躰は関係していても気持は宙に浮いている、というように解釈すべきかもしれない。躰はともかく、心までのめりこんでいないから、男の浮気の多くはやがてもとの鞘《さや》に納まる。  だが女の場合はそうはいかない。躰とともに心まで相手にのめりこんでいく。関係はしていても心は別、というわけにはなかなかいかない。いわば浮気より、本気になりやすい。そう思わせる一途さが女にはあるから、男は女の浮気を本能的に怖れるのかもしれない。 「しかし女は、いったん浮気をしたら本気になる」といっても、すべての女性がそうなるとはかぎらないし、男でも、好きになったら、ひたすらその女性しか見えなくなる場合もある。そのあたりは人それぞれ、個人差というべきかもしれない。  だがそれにしても、笙子が男性と旅に出たから霞と逢う、というのでは、いささか大人気ない。それでは笙子への腹いせのために逢っているようなものである。  しかし、恋というのはすべて純粋で美しいものばかりではない。ある種の嫉妬や憎しみが、エネルギーとなってかえって燃えあがり、それが意外な結末を引き出すこともある。美しいものより、なまなましくどろどろしたもののほうが、恋の起爆力になりうるらしい。  とりとめもなく考えていると、ロビーの端から近付いてくる霞が見えた。それを見届けて、伊織は安堵の息をつく。もしこのまま、霞に逢えなければどうしていいのかわからないところだった。苛立っていた気持が、その姿でたちまち静まっていく。 「ありがとう」  いきなり、伊織が妙な挨拶をしたので、霞は不審そうな顔をした。 「無理をいったので、駄目かと思ったんですが、逢えてよかった」 「急いだので、こんな恰好で来てしまいました」  珍しく、霞は洋服を着ている。水色に小花模様のローズのワンピースを着て、ゆっくり開いた胸元に細いプラチナのネックレスが見える。和服のときより四、五歳は若く見える。 「洋服、おかしいでしょう」 「いや、なかなか似合う」  いままで着物ばかりであったので、よく見る機会はなかったが、霞のプロポーションはなかなかいい。すらりとして足は細く、胸とお臀は小気味よくふくらんでいる。 「でも、いつも和服を着ていて洋服を着ると落着きません、洋服はやっぱり若い人のもので、お婆さんは着物を着るべきだとつくづく思いました」 「家では、洋服を着ていることが多いのですか」 「半々くらいですが、やはり洋服のほうが多いでしょうか」  伊織はうなずくと、エレベーターのほうに歩きはじめた。 「ちょっと、このホテルに部屋をとってあるのです」  夕暮れにはまだ少し間がある時間で、ホテルのロビーは閑散としていた。入口のベル・ボーイは手持無沙汰に立ちつくし、いつもは四、五人はいるフロント係りも、いまは二人しか見えない。その前を横切って、伊織と霞はフロントの先にあるエレベーターに乗った。  なにも知らぬ人が見ると、中年の夫婦が二階のレストランに、午後の軽い食事をとりに行くように見えるかもしれない。二人がこれからホテルの部屋で、短い情事を楽しみに行くとは誰も思わないだろう。  今日、伊織はできることなら、青山のマンションで逢いたかった。そこなら勝手を知っているし、他人の目を気づかうこともない。  だが霞は時間がなく、四時から六時までとかぎられていた。東京駅まで出てきて、そこから青山に行ったのでは、往復で一時間近くロスすることになる。二時間しかない逢瀬のあいだで、一時間は貴重である。それにマンションには日中、富子がいる。あらかじめ、早く帰るようにいっておけば富子は帰るが、それで変に勘ぐられるのも気が重い。  実をいうと、伊織は今日、霞と一緒にラブホテルに行くことを考えていた。その種のホテルなら、時間が短いとき、二人だけで逢うには最適である。だが、陽の明るいうちから入るには相当な勇気がいるし、霞も尻込みするに違いない。それに伊織自身、最近は行ったことがないので、よくわからない。  以前、笙子と知り合ったころは、何度かいったことがあるが、この種のホテルは、いかにも情事のためといった感じが強くて、いささか抵抗がある。それに外見は瀟洒《しようしや》に見えても、なかに入ると意外に薄汚なく、布団など前の客につかったのと同じような気がして落着かない。  それでも、ラブホテルにはそれなりの工夫がこらしてある。部屋の照明はムードをだすために赤や淡いピンクに彩られ、ベッドのわきには、大きな鏡が据えられているところもある。さらに浴槽が部屋から覗けるようになっていたり、自分らの情事を映すビデオまで備えられているところもある。ビデオを見るほどの悪趣味はないが、白い霞の姿態が、鏡のなかで乱れる姿を見るのは悪くない。  エレベーターを降りて廊下で二人だけになると、霞がきいた。 「お部屋を借りたのですか」 「時間がないと思って。たまに雰囲気を変えるのもいいでしょう」  最初、霞と待合わせをしたのも、このホテルのロビーであった。逢ったあとバーへ誘ったが、話しながらも伊織は二人になることばかり考えていた。だがいまは逢えば二人だけになり、躰を求め合うのだと互いに思いこんでいる。その証拠に、部屋を借りたといっても、霞は慌てる様子はない。 「どこか、ラブホテルのようなところに行ってみようかとも思ったのだけど……」 「こんな明るいときに、恥ずかしいわ」 「じゃあ、今度、夜にでも行ってみようか」 「あなたは御存知でしょうが、わたしは行ったことがありませんから」 「別に行かなくても、よく週刊誌なぞに書いてあるでしょう。ベッドのまわりにいろいろな仕掛けがあって、最近は夫婦連れでも行くらしい」 「今日はどうかなさったのですか、おかしなことばかり仰言って」  霞は巧みに話題をそらすが、といって行かない、といっているわけでもない。強引に誘えば、あるいは従《つ》いてくるかもしれない。  徐々にではあるが、このごろ、霞は淫らな話題にも関心を示すようになってきた。もちろん、自分からいいだすことはないが、その種の話をしてもあまり厭《いや》な顔はしない。  初め霞に逢ったときは、防衛堅固といった感じで、とてもそんな話にはついてくるように思えなかったが、いまは大分やわらかくなったようである。 「わざわざ、今日逢うために、お部屋をお借りになったのですか」 「そうです、ここなら二時間たっぷり、貴女を独占できるから」  ドアを開けると、右手にダブルベッドがあり、左手にソファとテーブルがおかれている。窓は二面になっていて、厚手のカーテンでおおわれているが、中程のわずかに開かれたレースのカーテンから、午後の陽が射しこんでいる。 「こっちを……」  向いて、というのは声に出さず、伊織は振り返った霞を抱き寄せると唇を触れた。 「逢いたかった……」  いままで着物の霞にばかり見馴れてきたせいか、洋服の霞は新鮮である。和服では襟元を開いても、軽く指先を差し込めるくらいで崩れにくいし、抱き締めても帯が邪魔して密着感は薄い。だが洋服なら、着たままでも胸元は開くし、抱くとウエストからお臀のふくらみまで、手に直接感じることができる。そのまま唇を吸っていると、霞は耐えきれぬようにずるずるとしゃがみ込み、ベッドへ倒れた。  カーテンから洩れる淡い午後の明りのなかで、伊織は舌で霞の乳首をなぶりながら、空いた右手をスカートの下から忍びこませる。  瞬間、霞は「あっ……」とつぶやき、「そんな……」と首を振る。  だが伊織はかまわず手をすすめ、霞の秘所の上にそっと指をおく。なまあたたかいやわらかさのなかに、少し汗ばんだ感触がある。夏の薄着が、伊織には好都合で、霞には逆に酷な条件になっている。  そのままの姿勢でゆっくりと舌を遊ばせるうちに、乳首は堅くなり、下のほうの濡れた感触がじかに指先に伝わってくる。  この数カ月、霞の躰は急速に鋭敏になってきたようである。初めの控え目な態度からは想像もできぬ大胆な反応を示す。いまも確実にのぼりつめていく過程で、苦しそうにつぶやく。 「やめて……」  その声が愛しくて、伊織がさらに指を左右へ震わせると、霞はいきなりとびはねるように躰をひいた。 「駄目です、やめて下さい」  襟元を合わせると、霞は慌ててまくれたスカートの裾を寄せた。 「やめない、いや、やめられない」 「じゃあ、いま脱ぎますから待って下さい」 「ここで、脱ぐところを見ている」 「悪い人……」  霞は軽く睨むと、乱れた髪を掻きあげてベッドを下りた。伊織は少し気勢を殺《そ》がれたが、自分から服を脱ぐという霞の言葉を信じることにする。 「あの、カーテンを閉めて下さい」 「閉めたら、君の素晴らしい躰が見えなくなる」  伊織がいったが、霞はかまわず自分でカーテンを閉めた。 「ちょっと、シャワーを浴びてきていいですか」 「じゃあ、一緒に入ろう」 「いけません」  霞はソファの上にあったバッグを持つと、バスルームへ入って鍵を閉めた。  カーテンのあいだから洩れる午後の陽はなお明るい。伊織は一人でベッドに仰向けになりながら、ナイトテーブルの時計を見た。四時四十分である。霞が帰らなければならない六時までには、あと一時間少ししか残っていない。  日中の時間に追われる情事は気ぜわしいが、それだけに充実しているともいえる。いま逢っているわずかの時間に燃焼させなければ、という思いが刺戟になり、さらに燃えあがる。  もっとも、それには二人の求め合う気持がぴったり合っていなければならない。いずれかが、そのあわただしさに苛立ち、落着かぬようでは、満足より不満足だけが残ってしまう。その点、伊織と霞は最も好ましいカップルといえるかもしれない。  もともと、男が女と逢う目的の大半は情事そのものである。途中、食事をしたり会話を交わしたり、映画や芝居を見ても、それらはすべて情事へ至る一つの過程に過ぎない。女性をいたわり優しくするのも、究極のところ、その女性と関係したいという願望を抱いているからである。  あとはその気持をいかに表現するかの差だけになる。逢った以上、男は女の躰を求める、それさえ得られれば、逢った目的の大半は達せられたと思い、あとの会話や雰囲気は多少まずくても、いちおうは納得できる。  正直いって、伊織もいまはその気持に近い。男女のあいだの難しい手続きは別として、かぎられた時間に確実に霞と結ばれたい。  いまの伊織には、今日は逢えないという霞を、無理に呼び出したというひけ目がある。悪い、と思う気持が、さらに欲求をかりたてる。一方の霞は、無理をして東京まででてきたという気恥ずかしさがあるに違いない。日中、人妻が男と逢うために、一時間以上も電車に乗って出てくるのは余程のことである。しかも逢ってすることといえば、ホテルでの情事だけである。それでは、いかにも躰だけを求めているようで、動物的である。  しかし、愛が昂《たか》まれば、男も女も最後は動物と変らない。動物的というからきこえは悪いが、それこそ生きているものの自然の姿、と思えば抵抗感は薄れる。そのあたりも計算して、伊織は霞に恥ずかしい思いを抱かせぬため、逢うとすぐにホテルの落着いた部屋へ案内した。そこでごく自然に情事へ誘いこむ。  今日、二時間と区切ったのは霞のほうである。言葉には出さぬが、二時間で情事を堪能しようというのは、逢うときめたとき、すでに二人のあいだに交わされた暗黙の了解でもある。情事について暗黙の了解を交わせるほど、二人は親しみ、好色になったともいえる。  性の愉楽からの目覚めは、今日も伊織のほうが早い。  だからといって、伊織は起き出すわけではない。仰向けに寝て、左手は霞の背にまわしたまま、ぼんやり天井を見ている。霞はうつ伏せのまま目を閉じているが、肌は情事の名残りをとどめていくぶん汗ばんでいる。  行為もさることながら、霞は行為のあとの気怠《けだる》い時間を好んでいるようでもある。満たされたあと、男の腕に軽く抱かれたまま目を閉じている。その静謐《せいひつ》のなかに、愛されている幸せを感じているのかもしれない。  伊織は腕を貸したままじっとしている。いま、情事のあとの余韻に浸っている霞を、現実に引き戻すのは可哀想である。  都心にあるホテルだが、午後のせいか静まり返り、左手の窓ぎわの棚におかれた百合とカーネイションがかすかに揺れている。密閉された部屋なのに不思議と思うが、向かいの換気孔から流れる冷気が当っているらしい。  その花を見ながら、伊織は時間のことを考える。すでに五時を過ぎているだろうが、六時に帰るとすると、もう起きなければならない。しかし、それはこちらで考えることではなさそうである。いま起きたところで、霞は辻堂の家に帰るだけである。どんな用事があるのかわからないが、いずれにしても伊織には関係ないことである。  起きるのなら、自分から起きればいいのだ……  伊織はまた意地悪な気持になって、花へ視線を移し、目を閉じる。とろとろと気怠く、再び眠りに落ちそうになるが、やはり落着かない。そして霞は相変らずうつ伏せのまま身動き一つしない。  六時には帰るといったのに、大丈夫なのか。これから起きて服を着たのでは間に合わないかもしれない。早く帰らなければならないといったのは、霞のはずなのに……  なお数分間、伊織はそのままの姿勢でいてから、そろそろと横向きになり、胸元に貼りついたように伏せている霞の頭を指先で軽く突ついた。 「いま、何時だと思う?」  伊織の動きを感じて、霞はむずかるように首を振ってからきいた。 「何時ですか?」 「六時を過ぎたよ」 「本当ですか……」  霞は慌てて上体を起こしかけたが、寝乱れたままの顔であることに気がついてか、すぐ手で顔をかくして、ナイト・テーブルの時計を見た。 「この時計、遅れているのですか」 「いや……」 「じゃあ、五時半じゃありませんか」  時計をのぞいている霞の丸くふくよかな肩口が目の前にある。伊織はそこへうしろから、唇を近づけた。 「ああん……」  瞬間霞は首をすくめたが、伊織はかまわずうしろから抱きしめた。 「いけません、もう起きなければ」 「そんなことをいって、起こさなければ、まだ寝ていたろう」 「いいえ、起きなければいけないと、ずっと思っていたのです」  起き出そうとする霞を追いかけて、伊織はいきなりシーツをはね除《の》けた。 「あっ……」  裸の全身を露出されて、霞はたちまち海老のように丸くなって毛布の端を引っぱる。 「やめて下さい」 「だめだ、罰だ」  もう何度も関係を重ねているのに、伊織はまだ霞の全裸の姿を見たことがなかった。  霞はシーツを引き寄せて隠そうとし、伊織はシーツを奪おうとする。だが霞は必死である。かなわぬとみて、今度は伊織は足を狙っていきなり持ち上げる。瞬間、霞の白い肢が宙に舞い、悲鳴とともにばたつかせたところに、今度は上からおおいかぶさる。シーツをはさんで、裸の男と女がからみ合い、もつれ合う。それは争っているようで巫山戯《ふざけ》合い、同時に馴染み合っているともいえる。  互いに息を荒らげ、疲れ果てて静かになったのは、それから数分後であった。再び、霞はしっかりと躰をシーツでおおい、伊織はそのとなりに大の字に横たわっている。 「悪い人……」  シーツをまとって、顔だけ出した霞がつぶやく。 「今度は、眠っているうちに、みんな見てしまう」 「いいえ、わたしは眠りません」 「そのうち、必ず眠る」  初めのころ、霞は行為のあとで寄り添っていても、どこか落着かず、戸惑っているようなところがあった。だがいまは、胸からお腹、そして足先まで、一分の隙間もないほど触れ合ったまま身動き一つしない。つい少し前に演じた裸の巫山戯《ふざけ》合いも、以前ならとてもできなかったことである。 「さあ、起きなければ。先にお風呂に入って下さい」 「いや、入らない」  霞は困惑した顔でもう一度、時計を見た。その顔がいかにも困ったようで、伊織は少し可哀想になって、バスルームに入った。  そこで湯にだけつかり、体を拭いて出てみると、霞はすでに服を着て、ベッドをなおしている。 「もう着たの?」 「洋服は簡単で、とっても楽だわ」  着物なら、髪をなおして着付けるまで小一時間はかかるが、服なら十分もあれば着られる。 「時間がないときは、洋服がいいわね」  霞はそういってからはしたないと思ったのか、「ご免なさい」といってバスルームへ入った。  伊織はワードローブのなかにおいてあったズボンとシャツを着て、ソファに坐った。  つい少し前まで乱れていたベッドは、きちんと整頓され、頭側に枕が二つ並んでおかれている。  四時に逢って、話をする間もなく部屋に入り、そのままベッドに沈みこんだ。そして行為が終ると、もう身支度をして、帰る準備をしている。時間がなくて仕方がなかったとはいえ、いかにも行為だけを求めて、むさぼり合ったという感じがしないでもない。それを動物的という人がいるかもしれないが、切実に躰を欲しいということは、とりもなおさずその人を愛している証拠でもある。特別のことは話さなかったが、ボディ・ランゲジそのままに、互いの躰が話しあったと、伊織は信じている。  いつものことながら、洋服を着て髪を整えた霞には、情事の名残りはない。だが気をつけて見ると、耳のまわりがほんのりと朱を帯び、ゆったりと開いた胸元は潤んで、女の匂いがあふれている。 「ゆっくりできなくてご免なさい」 「いや、無理をいったのはこちらのほうだ」  今日は出られないというのを、伊織が強引に誘い出したのである。 「じゃあ、今度は月曜日だね」 「また、お逢いするのですか」 「初めからその予定だったでしょう、今日はとび入りだから」 「でも、そんなに逢ったら、飽きてしまいますよ」 「いや、飽きない、ここが素敵だから」  伊織は、向かい合って立っている霞の下腹のあたりをそっと撫ぜた。 「こら……」  霞は、やんちゃ坊主を叱るように、軽く睨んでから、 「来週になると、駄目かもしれないのです」 「駄目?」 「あの、躰のほうが……」  霞の困惑した顔で、伊織は、それが生理のことだと気がついた。 「でも……」  逢うだけの約束なら、生理だからといって中止することはない。しかし逢えばきまって求め合うことになるのだから、困ることはたしかである。 「いつまで?」 「いちおう、週末になれば大丈夫だと思うのですが」  霞は恥じらうように、頬に両手を当てた。 「じゃあ、土曜日ならいいのかな」  霞はうなずいてから、慌てて「でも、おかしいわね」とつぶやく。  いままで、霞は自分から生理について話すことはなかった。駄目なのです、というだけで、あとは適当に他の理由をつけて誤魔化していたようである。それが、いまははっきりと理由をいう。それだけ二人は親しみが増し、馴れ親しんだということかもしれない。 「行こうか?」  伊織はもうこれ以上、霞を引きとめる気はなかった。  初めは駄目だといったのに、無理に出てきてくれたことに、いまは素直に感謝していた。それに正直に、自分の生理まであかしてくれたことに、伊織はある親しみを覚えていた。露骨にいうと不潔になるところを、戸惑いながらいう霞の風情が、それを救っていた。 「じゃあ、来週の土曜日に」  伊織は一歩前に出て顔を近づけた。いまつけたばかりの口紅を落さぬように、唇は軽く触れただけで、舌の先をからませる。ちらちらと先だけ触れる感覚のほうが辛いのか、途中で霞は小さな悲鳴をあげると唇を引いた。 「もう、いけません」 「じゃあ、出よう」 「待って下さい」  霞はなじるようにいうと、コンパクトを出し、唇をたしかめてから廊下に出た。 「この前、睡蓮を持ってうかがったとき、未草《ひつじぐさ》といわれるのは、未の刻の午後二時に、花を閉じるからだとお話ししたでしょう」 「洒落た名前だと思いました」 「でも別の本を読んでいたら、午後二時から開くからだと、書いてあったのです」 「じゃあ、正反対のことになる」  廊下に人影はなく、左手にエレベーターの乗り場が見える。 「それから、気になっていろいろ調べてみたのですが、まちまちなのです」 「僕の友人に、植物学者がいるから、きいてみようか」 「でも、わたしは睡蓮は午前中に咲いて、二時ころに閉じるような気がするのです。睡蓮という字から考えても、眠る時間のほうが大切でしょう」 「そういえば、この前の睡蓮も、事務所に出かけるころに開きはじめていたようだが、帰ってくると、いつも閉じていた」 「あなたがお帰りになるのは、夜中ですから」  霞は小さく笑ってから、 「あのお花のなかに、少し砂を入れておくのでした」 「花のなかにですか?」 「そうすると、いつも花が咲いています。多分、砂の重みで閉じないのだと思います」 「それも、なにかに書いてあったの?」 「わたしが勝手に考えたのです。お花には少し可哀想だけど、いつも睡っているのでは淋しいでしょう」  些細《ささい》なことだが、そんなことを考えだす霞を、伊織はいっそう好ましく思う。 「ずいぶん知識がふえた」  かぎられた時間とはいえ、霞に逢ったことで、伊織の心は満たされていた。そして満たされた濃密な逢瀬が、笙子への記憶を遠くさせていた。  いまごろ、笙子は松江から出雲への旅をしているのであろうか。出雲は縁結びの神として有名だが、そこで宮津と掌を合わせているかもしれない。普通なら、その想像の一つ一つが心を波立たせるのだが、いまはさほどでもない。  もし二人が一緒になりたいのなら、それでもかまわない。笙子がその気なら、勝手に行くがいい。いま笙子に去られても、身近には霞がいる。もしかすると、今度、笙子が宮津と旅に出たのは、神の啓示かもしれない。笙子か霞か、いずれか決着をつけねばならない。その|きっかけ《ヽヽヽヽ》を与えてくれたのかもしれない。  これで笙子と別れることになれば、霞一人となり、かえってさっぱりするというものである。  考えるうちに、伊織はそれが以前から望んでいたことであり、いままさに、そのとおりの形になりつつあるのだと思えてきた。  週末、伊織はすっきりした気持で、建築家の仲間と黒磯へ一泊のゴルフ旅行を楽しんだ。スコアーは思ったほどのびなかったが、それでも気分は爽快であった。  日曜日もワン・ラウンドして上野へ着き、そこから車を拾って帰ることになった。竹内という仲間が恵比寿に住んでいるので、伊織は彼と一緒に車に乗った。 「どこかで、晩飯でも食べていかないか」  途中、みんなで食堂車に行ったが、ビールとウイスキーを飲んだだけで、きちんとした食事はしていなかった。 「せっかくだが、今日はまっすぐ家に帰ることになっているのでね」  竹内が申し訳なさそうにいってからきいた。 「日曜日も、外食なのか?」 「自分じゃつくれないからね」  他の日なら、仕事の関係でほとんど外で食事をするが、日曜日は一人である。ぶらりと近くの店へ行って食べるか、部屋へ出前でも持ってきてもらうか、あるいは笙子と一緒に食事をするかの三通りである。 「それじゃ悪いけど、先に失敬する」  高速を高樹町で下り、恵比寿のほうへ少し入ったところで、竹内は車を降りた。  日曜日の夜、一人で食事をするのは少し侘《わび》しい。伊織はそのままマンションへ戻り、近くの寿司店から出前をとって夕食を済ませた。  世田谷のファッション・コミュニティの建物の設計の期限も近づいていたし、いろいろ読みたい本もあったが、すぐ机に向かう気になれない。自分でお茶を淹れて飲みながらメイル・ボックスから持ってきた手紙を見ていると、オランダにいる東野という友達からの手紙があった。  彼は初めは絵の勉強に行っていたのだが、途中から焼きものに凝り出し、北部のレーウワルデンという街で、自分で窯《かま》をもって焼いている。日本の青磁に似た淡いブルーの色調のものが多いが、オランダ特産のタイルに、日本的な色調を配したものを焼き、地元でも結構人気があるらしい。日本でも二度ほど個展をやって、異色の陶芸家として注目されている。年齢は伊織より三つ下の四十二歳だが、オランダの女性と結婚し、子供もいるので、当分、日本に帰る気はないらしい。  十年前、パリで会ったのが識り合うきっかけだったが、それ以来、妙に気が合って、彼が日本にくる度に会っていたし、伊織もヨーロッパで一度会ったことがある。  だが窯のある北部オランダまでは、まだ足をのばしたことがない。手紙のたびに誘ってくれるが、今度の手紙にも、この秋にはぜひ来て下さいと書いてある。 「秋のヨーロッパか……」  伊織は、白黒のゴッホの素描の描かれている絵葉書を見ながらつぶやいた。  ヨーロッパには都合六回行っている。初めのころ、パリからスペインのほうを一カ月近くぶらぶらして過したこともあった。そのときはまだ若く、さまざまな建築を見て驚き、感動もしたが、いまは洋風建築にさほどの関心はない。西洋建築はどう素晴らしくても、所詮は西洋人のもので、日本人の感覚とは異なる。それにあまり向こうのものばかりを見ていると、無意識のうちに影響を受けてオリジナリティを損なう危険もある。最近はヨーロッパより、むしろアメリカやカナダの建物のほうに興味がある。  だが、手紙を読むうちに、久し振りにヨーロッパに行くのも、いいような気がしてきた。前に行ったのは三年前だから、もうかなりご無沙汰をしていることになる。 「彼女と一緒に行けるならいいが……」  伊織の脳裏に、秋のヨーロッパに佇む霞の姿が浮かんでくる。  一人でお茶だけ飲むのではもの足りなくて、伊織はサイドボードの棚からレミイのボトルをとり出して、ブランディグラスに注いだ。それを飲みながら、改めて、霞と外国へ出かけることを考える。  六月の奈良までの旅は一泊であったがヨーロッパまで行くとなると十日か、少なくとも一週間は必要である。霞がはたしてそれだけの時間をとれるだろうか。  独り身ならともかく、人妻という立場で、十日もの期間を、しかも外国へ出かけるのは不可能に近い。たとえ友達と一緒とか、ツアーでという理由にしたところで、霞の夫が許すかどうかわからない。それにそんなことで隠しおおせるとも思えない。  奈良への一泊の旅でさえ、霞にとっては大変な冒険であったようである。まだ新幹線だったからよかったものの、飛行機では国内でさえ行く勇気はないといっていた。 「そんな霞が、外国などへ行けるわけもない……」  考えた未、伊織は自分にいいきかせてあきらめる。そのままブランディを飲むうちに、軽い酔いを覚える。日曜日の夜のせいか、車の音もほとんどきこえず、まわりの家々も夜の団欒《だんらん》を楽しんでいるのか、ひっそりしている。  伊織はふと、自由が丘の家のことを思う。  いまごろ、妻と二人の娘はどうしているだろうか。食事も終って、長女が好きだという大河ドラマでも見ているのか、それとも風呂にでも入っているのか。このところ、渋谷の高校にきている長女からも連絡はない。便りがないのは、元気な証拠だとは思うが少し気になる。こちらから電話をかけてみようかとも思うが、用事もないのにかけるのは未練がましいような気もする。つまらぬ意地だと思うが、そんなことをして乱すまでもないとも思う。  だが、それにしても今夜は妙に人恋しい。もともと日曜日の夜は嫌いだが、今夜はいささか気持まで萎えているようである。日曜日に一人で食事をした侘しさが尾を引いているのか、だがそれは今夜にかぎったことではない。これまで、日曜の夜には笙子と逢うか電話で話していた。その相手がいないことが、気持を沈ませているのかもしれない。  ヨーロッパへの思いから霞のこと、そして家のことへと、とりとめもなく思いを巡らしながら、伊織の頭は自然に笙子のことに移っていく。  正直いって、伊織はいま笙子からの電話を待っていた。それははっきり意識していたわけではないが、ゴルフから戻ってくる途中でも、ときたま頭のなかを去来していたようである。竹内と別れてまっ直ぐ家に戻り、部屋で食事をする気になったのも、もしかして、笙子から電話がくるかもしれないという期待があった。  それだけ気にしているのに、無意識というのはおかしいかもしれないが、伊織は極力、そのことは思い出すまいとしていた。笙子のことはもういい、そう思いながら、その実、気になっていたことはたしかである。  どこかへ旅行に出ると、笙子は必ず連絡をよこした。電話で、「いま帰ってきました」ということもあったし、「何日には、家に戻っています」と手紙を寄こすこともあった。その例からいえば、今夜あたりは当然、電話をかけてくるはずである。休暇はすでに終り、明日から事務所に出てくる以上、今夜は確実に部屋に戻っているに違いない。  すでに十時に近く、香りを楽しむように飲んでいたブランディがきいてきたのか、伊織は次第に酔いを覚えてきた。だが部屋の片隅にある電話は静まり返ったまま、鳴り出す気配はない。  伊織は電話を待ちながら、一方では、今夜にかぎって、笙子から電話はかかってこないかもしれないとも思っていた。旅に出るときの感情の行き違いや、宮津と一緒に出かけたことなどを考えると、笙子は電話をよこさないかもしれない。帰ってきたからといって、すぐ電話をよこすには、心のわだかまりはまだ解けていないともいえる。  こないのは当然だと思いながら、反面、伊織は笙子からの電話を待っていた。なんであれ、「いま、帰ってきました。長いあいだ留守をしてすみませんでした」とでもいってくれれば気持よく受けとめることができる。宮津のことはともかく、それで一応、気持も落着くというものである。  さらにブランディを飲み、酔ううちに、伊織は心のなかである賭けを試みていた。 「もし今夜電話がかかってきたら、笙子とのあいだはもとに戻るが、かかってこなかったら、このまま終る……」  いずれでもいいと思いながら電話を待つうちに、霞のことも家のことも遠くなっていく。そのまま十二時になって、伊織はグラスに残ったブランディを飲み干すと、笙子とのことはこれでいい、と自分にいいきかせてベッドへ入った。  翌日、月曜日の朝、伊織は珍しく十時に事務所に出た。十時半から二人の来客と会う約束があったが、こちらが希望すれば午後にできないわけでもなかった。それを午前中にしたのは、今日から笙子が出てくることを意識していたからでもある。  はたして笙子はどんな顔で出てくるだろうか、そして逢ってすぐなんというだろうか。さらに宮津は……そんな二人を早く見たい。昨夜、一晩、こない電話を待って、伊織は少し苛立っていた。  十時に事務所に入っていくと、笙子は一瞬、慌てたように立上った。伊織のスケジュールは先週の末に別の女性に伝えてあったので、今朝早く来ることはわかっていたはずだが、それでも少し緊張したらしい。 「お早うございます」  気のせいか少しくぐもったような声に、伊織は無愛想にうなずいた。そのまま所長室に入り、カバンから書類を取り出していると、いつものとおり笙子がお茶を持ってきた。伊織がかまわず書類を見ていると、笙子はお茶を机の上においてから、改まった口調でいった。 「先週は勝手に休暇をいただいて、すみませんでした」 「いや……」  伊織はことさらに素気なく答える。 「今日は十時半に、丸越商事の水口さまが、そのあと十一時に……」  笙子が一日のスケジュールをいいはじめた。伊織は目を書類に向けたまま、いい終るのを待ってきいた。 「旅行は、楽しかったかね」 「ええ……」  正直いって伊織は、「楽しかったが、でもやはり退屈でした」とか、あるいはもう少し素直な言葉で、「ご免なさい」という言葉を期待していた。くる早々、謝りはしたが、その言葉は少し他人行儀で、そのあとすぐ、事務的なことをいいだしたのが伊織には少し不満であった。  だが笙子はそのままなにもいわない。 「ちょっと、望月君を呼んでくれないか」  伊織は、もういいというように、見ていた書類を閉じた。笙子はさらになにかいいたそうな顔をしたが、そのまま軽く頭を下げて出ていった。小さく引き締ったお臀が、気のせいか淫らに見える。まさか宮津とはなにもなかったろう、そう思いながら、伊織の気持は落着かない。  そのままその日一日、伊織は笙子に対してほとんど口をきかなかった。ときたま、話しても仕事のことだけで、それ以上立入るすきを与えなかった。少し大人気ないと思うが、宮津と一緒に旅に出たことに、自分は不快なのだということだけは示しておきたかった。  午後になって、外出していた望月が新しい建材のことで相談にきた。話をきいてから、伊織は陽焼けした顔を見ていった。 「大分、黒くなったようだな」 「少し泳ぎましたから、山陰のほうは水がきれいで快適です」 「昨夜、帰ってきたのか」 「いえ、僕は木曜日に戻りました」  そういってから、望月は急に戸惑った表情になった。伊織はそれを見逃さなかったが、軽く笑ってうなずいた。 「それはよかった」  書類を持って望月が部屋から出てゆくのを見届けてから、伊織は回転椅子を窓のほうへ向け、煙草を銜《くわ》えた。窓ぎわまで延びた街路樹の葉が、夏の風を受けて気忙《きぜわ》しく揺れている。それを見ながら伊織は考える。  望月が木曜日に戻ったということは、そのあとは宮津と笙子と二人だけでいたということなのか。山陰への旅は、望月も含めて三、四人の旅だと思っていたが、全員が同じ行動をとったわけではなさそうである。  考えるうちに伊織は次第に落着かなくなってきた。いままでは、少し我儘な笙子の行動に、不機嫌さを現せばいいというだけの気持だったが、それだけではすまないようである。まさかと思うが、もし旅の終りに、宮津と笙子と二人だけで過したとすると、事情は異なってくる。  落着かぬまま、伊織は仕事をしている所員達のあいだをゆっくり廻ってみた。設計図を引いているもの、資料を調べているもの、ウレタンの建築模型を手元に考えこんでいるものなど、さまざまである。その一人一人に適当に声をかけながら、ときに相談を受ける。そのまま右手の奥の机に向かっている宮津のところまで行く。もともと色白の男だが、あまり陽に灼けた様子はない。製図机の上の蛍光灯のせいか、むしろ蒼ざめて見える。 「どうかね」  なにくわぬ顔で、伊織は声をかける。 「ええ……」  宮津は曖昧にうなずいたまま、書きかけていた設計図から目を離さない。 「夏休みの旅はどうだったかね……」そうききたい気持をおさえて、伊織はまた自分の部屋へ戻った。  そのまま伊織は、表面は平然とした態度をとり続けた。もっとも平然といっても、そういう態度をとろうとすること自体が、すでに自然とはいいかねる。笙子の前ではことさらに無関心を、宮津の前では、いままでどおり理解のある所長でいようとしたが、ぎごちなさはおのずとでるものらしい。気のせいか、笙子の表情にはなにか窺《うかが》っているような様子が見え、宮津の態度にはどこか伊織を避けている気配がある。  そのまま二日が過ぎて、三日目の夜、笙子から電話があった。環境整備委員会の会合があり、少し酒をのんで十時過ぎてマンションに戻ったときだった。 「あ、いま、お帰りになったのですか」  まだいないと思ったのか、笙子の声には驚きがあった。 「さっきから、二度ほどお電話をしたのです」 「なんの用だ……」  懐かしさを覚えながら、伊織は故意に素気なくきいた。少し大袈裟にいえば、いま、向こうに合わせて優しくきき返したのでは、男の沽券《こけん》にかかわる、といった気持でもあった。笙子は少し間をおいてからいった。 「あのう……いつか、お逢いできないでしょうか。ちょっとお話ししたいことがあるのですけど」 「話なら、会社でもいいだろう」  伊織は少し自分が意固地になりすぎていると思いながら突っぱねた。 「でも、会社では落着きませんし」 「じゃあ、いま電話では?」 「この前の旅行のことですけど、所長は誤解されているのではないでしょうか。わたしはなにも宮津さんとは……」 「そんなことは全然気にしていない。誤解しているのは、むしろ君のほうだろう」  笙子のいうとおり、宮津との仲を疑っているのに、伊織は無関心を装う。 「でも、なにか違うので……」 「君はいつ、帰ってきたの?」 「土曜日です」  笙子はそういってから、 「これから、そちらへおうかがいしてもいいですか。きいていただきたいことがあるのです」  笙子のほうから電話をかけてきたことにほっとしながら、伊織は心とは別のことをいった。 「今日はもう遅いから、またにしたらいい」 「どうしてもいけませんか」 「急用というわけでもないだろう」  来たいという笙子を断って、伊織は軽い悔いを覚えた。あのまま素直にうなずけば、いまごろはベッドをともにしていたかもしれない。深夜にくるという以上、求めたら笙子は許したに違いない。  先週はまる一週間逢っていないから、もう十日以上も笙子と接していないことになる。  この三日間、冷たい態度をとり続けたが、内心では、笙子のほうから折れてくることを待っていた。もし向こうから謝ってくれば、すぐ受け入れるつもりでいた。それを何故断ったのか。伊織は自分でもよくわからない。  ただ一つはっきりいえることは、電話があった瞬間、伊織は少しいい恰好をしすぎたようである。  つまらないことに我を張ったものだが、ともかく、笙子がこの三日間、自分の態度を気にしていたのだと知ったことは、大きな収穫であった。  正直なところ、このまま笙子がなにもいってこなかったら、苛立ちはいっそう昂《こう》じたかもしれない。不機嫌な態度をとった以上、途中から折れるわけにもいかず、笙子とますます気まずくなったかもしれない。今夜、逢わなかったのは残念だが、明日逢えば同じことである。笙子と二人だけになる機会が、一日のびただけのことである。  だがそれにしても、先週、霞と逢っているときは、笙子なぞもういなくてもいいと思いながら、いまになってこれだけ執着しているのは、どういうことなのか。  これでは、いなくてもいいと思ったのは、一種の腹いせで、宮津と旅に出たと知った口惜しさのあまり、そう思いこもうとしただけのようである。  霞がいればそれでいいと思いながら、その実、霞と笙子とではまったく違う。霞で満たされるものと、笙子でえられるものとはまったく違う。睡蓮とグラジオラスほどの違いがあるが、内面の性格から躰まで含めた差はさらに大きい。  外見は、霞のほうが落着いていながら、二人だけの時間のときは、むしろ霞のほうが奔放である。控え目な人妻の外見からは想像もつかぬ淫らさをみせる。それにくらべて、笙子のほうは単純で直線的である。二人だけになって乱れても、どこかに堅さがあり、それだけ変化に乏しい。  だが、といって、笙子がつまらないというわけでもない。二人それぞれに魅力があり捨てがたい。悪いたとえだが、二人のあいだには和食と洋食ほどの違いがある。  翌日の夜、午後七時に、伊織は笙子と渋谷で逢った。  真夏なのに風があり、それが湿気を帯びて、なにか南の海に面した街にいるような錯覚にとらわれた。  どういうわけか、伊織は中華料理を食べたくて、宮益坂の途中にあるビルの最上階のレストランに行った。冬の初めのころなら、ここから富士を望めるはずだが、いまは暮れかけた街に、一斉にネオンがつきはじめている。 「ずいぶん、高いところですね、三十二階でしたか」  笙子は窓ぎわの席から下をのぞき込む。眼下に高速道路が走り、光りの帯が闇のなかに消えている。 「向こうは世田谷から、川崎のほうになる」  説明しながら、伊織はその光りの先に霞がいることを思って、あるうしろめたさにとらわれた。  料理は初めに水母《くらげ》と鮑《あわび》の前菜がでて、ビールを飲む。  今日、ここへ向かいながら、伊織は自分がどういう態度をとるべきか迷っていた。正直いって、笙子が宮津と旅に出たことはもうどうでもよかった。それは終ったこととして、いまは以前の二人の安定した関係に戻ることを望んでいた。  もちろん、霞のことを忘れたわけではないが、いまは素直に、笙子が欲しかった。この数カ月、霞に溺れた分だけ、笙子を求めているようでもある。  だが、それをどうきり出していいものか……  笙子が昨夜のように素直に近付いてきてくれるとやり易いが、もう喧嘩はこりごりである。すでに二人の和平の条件は整い、あとは仲を戻すだけである。ただ、そのとき願わくば、笙子のほうから下手に出てもらいたい。いま面と向かって、「ご免なさい」と一言いってくれれば、すべては氷解する。  だが、今日の笙子の態度は少し違うようである。昨夜のやわらかさとは違って、どこか緊張しているように見える。なにかいいたいことをおさえながら、ころ合いを見計らっているようにも見える。しばらくビールを飲み、メインの肉料理がでたところで、笙子が意を決したようにいった。 「今度の旅行のこと、本当になんとも思っていませんか」 「もちろん……」 「でも、宮津さんと二人になったことは、おききになったのですね」  伊織は食べかけた箸をおいた。笙子はさらに自分の気持を落着けるように、短い間をおいてからいった。 「最後に、わたしと宮津さんと二人だけ残ったのはたしかです」 「………」 「みんなと日曜日に出かけて、望月さんや他のお友達は木曜日に帰りました。初めはわたしも一緒に帰るつもりだったのですけど、米子に大学時代のお友達がいて、電話をしたらぜひ会いたいから、寄って欲しいといわれたのです。それでわたし、一人で米子へ行くことになったのですが、宮津さんが同じ方向だから送ってくれると仰言って……」 「宮津君の家はどこなの?」 「鳥取です。凄く大きな旅館で、一晩ですけど、みなで泊めてもらいました」  笙子は前に垂れてきた髪を軽くかきあげた。瞬間、耳のまわりの白い肌が見えたが、すぐまた垂れてきた髪にかくされた。 「それで、望月さんたちは出雲から列車で帰りましたけど、わたしは米子まで宮津さんの車で送ってもらって、そこでお友達と会ったんです」  それだけなら、別に問題はなさそうである。伊織はわずかにあいた笙子のグラスにビールを注いだ。 「僕は、なにも気になんかしていない」 「それならいいのですけど……」 「それで、東京へはいつ帰ってきたの?」 「土曜日です」  鳥取で宮津と二人だけになったことより、東京に戻ってきて、すぐ電話をくれなかったことのほうが、伊織としては気になる。 「僕は土曜日からゴルフに出かけたが、日曜日の夜には帰っていた」 「わたし、余程、電話をしようかと思ったのです。でも……」  笙子はそのまま、ビールが溢れそうになっているグラスを見た。ウエイターが新しい野菜のクリーム煮を持ってきたが、肉料理もまだ半ば以上残っていた。 「でも、どうしたのかね」  促すように伊織がきくと、笙子はもう一度、髪をかきあげてからいった。 「なんとなく、かけてはお邪魔かと思ったのです」 「そんなことはない、待っていたのだ」  笙子が一生懸命弁解したことで、伊織はもう疑う気はなかった。もし気持が離れたものなら、こんなに弁解はしないはずである。些細なゆき違いから宮津と旅に出はしたが、笙子の心は自分のほうにあったようである。伊織はようやく安堵して、老酒《ラオチユー》を頼んだ。  笙子は、老酒は苦手だといったが、砂糖をいれてやると、そろそろと飲んで「美味しい」といった。ようやく笙子の顔に笑いが甦ったようである。  老酒を飲み、最後のご飯は伊織だけ食べて、レストランを出ると九時だった。相変らず湿気をおびた南の風が、人通りの少なくなったビルのわきの小路まで忍び寄っている。  伊織は表通りに出てタクシーを拾い、青山のマンションへ向かった。 「宮津君は長男だろう、そんな大きい旅館なのに、家を継ぐ気はないのかな」 「妹さんが一人いるようです」  伊織は、宮津が一度、事務所をやめかけて、中止したのを思い出した。それほど資産があるのなら、やめても心配はなさそうに思うが、やはり建築家として生きていきたかったのかもしれない。 「彼にまた、結婚して欲しいといわれたんじゃないのか」  ごく気軽にいったつもりだったが、笙子は硬い表情になった。 「やっぱり、いわれたのか」 「でも、わたしはそんな気はありません」 「しかし、いい縁談かもしれない」 「所長は、わたしが、結婚したほうがいいと思っているのですか」 「いや、そんなことはないが……」  奇妙なことに、ついいましがたまでは、宮津にプロポーズされたのではないかと嫉妬を覚えていたが、笙子が受け入れる気がないときくと、今度はもったいないことをしたような気がする。これも離れそうになると引留めたくなり、離れる気がないと知ると突き放したくなる男女の微妙な心の揺らぎかもしれない。  夜の道は空いていて、五分もせずにマンションに着いた。当然のように伊織が降りて先に行くと、笙子も黙って従いてきた。そのままドアを開け、部屋に入るとすぐ、伊織は笙子を抱きしめた。不意を受けて、笙子はたじろいだが、すぐ静かに唇を合わせてきた。  笙子と接吻をするのは何日ぶりなのか。この前逢ったときは一緒に寝ても接吻はしなかったような気がする。男と女は慣れ親しむと次第に接吻をしなくなるものなのか。あるいはそれだけ男が怠慢になるのか。笙子との久しぶりの接吻を、伊織は新鮮な気持でたしかめると、そのまま寝室へ誘った。  笙子とはもう何度、肌を重ねてきたことか。識り合って四年の歳月が経っているのだから、数えるときりがない。おそらく馴染み合った回数からいえば、最も多いかもしれない。  だがベッドへ向かう笙子には、いまだにある堅さがある。  寝室は暗く、わずかに開かれたドアのあいだから洩れる明りが、入口を縦に鋭い三角形に区切っている。その先の壁ぎわに立っている笙子の輪廓はぼうとして、顔の表情もわからない。  伊織はその淡い闇のなかで向かいあったまま、左手は笙子の肩におき、もう一方の手でブラウスのボタンをはずした。笙子はされるがままに、両手を壁に当てたまま立っている。  ブラウスのボタンが三つ開いたところで、伊織は手を止めそれから胸の中に手を差し込み、ブラジャーの留め金をはずす。笙子の乳房はあまり大きくない。一度きいたとき、Aカップの七十五だと答えたことがある。ブラジャーをはずし、ボタンもすべてはずしたところで、今度はスカートのベルトに手をかける。笙子はタイトのスカートをはいていることが多く、いろいろなベルトを締めているが、金具の様子は大体見当がついている。指先でまさぐるうちに自然にはずれ、横のジッパーを開くと、少しとびでた腰の骨に触れる。そのとき、笙子はかすかに躰をよじったが、伊織はかまわず、スカートとパンティストッキングを一緒に下げていった。  闇のなかで、ときに接吻をし、ときに乳首に軽く触れながら、気忙しく動いているのは伊織だけで、笙子は軽く壁に背をもたせたまま、聖女のようにつっ立っている。  ブラウスを脱がされ、スカートを足元まで落されて笙子はスリップ一枚の姿になった。腕を抜かれるとき少し逆らったせいか、スリップの肩紐が肩の下まで落ち、胸が広がって見える。  伊織は笙子のスリップ姿が好きだった。二十八になっているが、まだどこかに少女の名残りをとどめている。すでに何度も、男の愛撫を受けていながら、笙子の躰には成熟しきっていない稚《おさな》さが潜んでいる。たとえば小さな胸から、へこんだお腹、そして片手でやすやすと廻せるお臀、細い首から胸元へ移る頼りない線なぞがそうだった。  どう淫らなことを強制しても、その清楚な爽やかさは揺るがない。白いスリップの一枚が、すべての卑猥《ひわい》をおおって立っている。闇に慣れた目で、いま一度、その姿を見詰めると、伊織は再び唇を重ね、右手をそっと股間へ近づけた。  先程、スカートを脱がされたとき、パンティも一緒に下ろされて、スリップの下につけているものはなにもない。細く形のいい肢の皮膚はすべすべとして、手を上に動かすにつれて、スリップの裾がまくれていく。  だが、軽く頭を壁に圧しつけられたまま接吻を受けているせいか、笙子はそこまで気を配る余裕はなさそうである。それに力をえたように、伊織の手が内股に近づいたとき、笙子ははじめてぴくりと腿《もも》をよじった。その抵抗に慌てたように伊織は手を止め、やがてころ合いを見て、またそろそろと手を這《は》わす。それを数回くり返すうちに、笙子の躰はその淫らさに慣れ、自然に受け入れる気持になったらしい。  やがてあきらめたように、かすかに股が開き、そのわずかな隙を逃さず伊織の指先がついと忍びこむ。瞬間、笙子の下半身がぴくりとうしろに退ったが、一度とらえた指は離れない。やわらかくあたたかい、その一点に、息を潜めるように指はしばらくとどまり、それからまた思いだしたようにゆっくりと上下運動をくり返す。  唇は吸われ、秘所には指を当てられたまま、笙子は相変らずスリップ姿のまま立っている。一見すると、大きな男に圧しつけられ、受難に耐えているように見える。スリップの下の下半身は、いつのまにか指の動きに合わせてゆっくりと揺れている。  これまで何度か、伊織は意地悪をして、燃えかけた途中で手を止めたことがあったが、そんなとき笙子は軽く下半身を波うたせながら、それ以上は要求してこなかった。  もし同じことを霞に試みたとしたら、小さく拗《す》ねたような声を出すか、軽く首でも振って、いやいやの仕草をするに違いない。そのあたりが、霞と笙子との違うところで、笙子は性においてはいくらか引っこみ思案で、抑制的だが、霞は積極的で貪欲《どんよく》だといえそうである。  だが、伊織はいまはそんな悪戯をする気はない。というより、そんな余裕がないほど、伊織のほうも燃えていた。今度は自分が服を脱ぎ、ワイシャツのボタンをはずす。そのあいだも、笙子はスリップ一枚のまま、壁に凭《もた》れて立っている。 「さあ……」  脱ぎ終って、伊織が手を引くと、笙子は動きかけるが、足元にスカートと下着が落ちたままになっている。そこで笙子ははじめて気がついたように、片足ずつスカートを抜き、それを拾ってたたむ。そういうところも霞とは違っていて、霞なら伊織が脱いでいるあいだに、自分の身につけていたものは、きちんと脱いでたたんでおくに違いない。  もちろん、いずれがいい悪いというわけではない。ただ、日中は同じきっかりした女性と見えても、男を迎え入れるまでの態度はそれぞれに違う。そこが男にとっては楽しく、味わいのあるところだともいえる。  実際、二人の違いは数えあげたらきりがない。すでに伊織はベッドに入って待っているが、笙子は自分の脱いだものをたたみ終ったのに、なお入ってこようとしない。  いずれベッドに入ることははっきりしているのに、もう一言、「おいで」といわないかぎり入らない。霞も初めはそうだったが、いまはそんなことはない。長襦袢姿になると、「いいんですか」とつぶやきながら、片手で顔を隠すようにして入ってくる。 「さあ、早く……」  伊織にいわれて、笙子はようやく心を決めたらしい。いったん明りの洩れているドアのほうをふり返り、きっかりと閉めてから意を決したように入ってくる。霞のスムーズさにくらべると、いささか唐突でぎごちない。それは慣れ親しんだ年月とは無関係に、各々が生来身についた癖というべきかもしれない。  霞のスムーズさも笙子のぎごちなさも、それぞれに伊織は好ましく思う。笙子のぎごちなさは相変らずだが、そのぎごちなさを四年経ったいまも持ち続けていることに、伊織は初々しい感動を覚える。  これまでも伊織は笙子にあまり変ったことを求めたことはなかった。ごく自然の、ありきたりといっていい態位を続けてきた。関係ができて四年にもなれば、それなりに奔放な遊びもくわわりそうなものだが、笙子にそれを試みたことはほとんどない。なぜともなく、笙子には、その種のものは似つかわしくないといった感じがある。といって、笙子の躰が稚く、もの足りないというわけではない。伊織が積極的に動けば、笙子はそれなりに応え、最後には小さく震えながら悦びを訴える。  そのあたりも霞とは違っていて、男が奔放さを求めれば、霞は自然に、それに従ってくるような柔軟さがある。実際に求めなくても、求めれば素直に受け入れてくれるだろうと思わせる寛大さがある。  これもやはり、それぞれの女性が持っている雰囲気の違いとしかいいようがない。霞のほうが年上だから柔軟性に富んでいるといえば簡単だが、それだけでもない。笙子にはいくら年をとっても、いまの一途さを崩さないと思わせる|かたくなさ《ヽヽヽヽヽ》がある。  むろん、伊織はそのかたくなさを愛している。ときに単調ではあるが、そのかたくなさのなかに笙子という女の誠実さを感じることができる。いま、伊織はその証しを求めている。かたくなな躰が、それなりに燃えあがり、小さな震えに達する瞬間を待ち望んでいる。  だが、今日の笙子の反応は少し違うようである。燃えていることはたしかだが、今夜はいつものペースではない。これまでは常に伊織がかきたて、笙子が不承不承従いてくるのが、いまは笙子のほうから先に走っている。早く燃えあがろうと、自分から焦っているようでもある。  いつにない笙子の積極さに伊織はいささか戸惑っていた。何故こんな動き方をするのか、今日はいつもと違うと思いながら、伊織はむしろ醒めていた。  さらに不思議な思いにとらわれたのは、ともに満ち足り、静かな時間が訪れてからだった。  笙子はしっかりと伊織に抱きつき、自分からぐいぐい躰をおしつけてきた。小さい胸から平たい腰まで、一分の隙もないほど寄ってきて身動き一つしない。  行為のあと、笙子がこんなに近寄ってくることは珍しい。どんなに満ちても、終ると笙子はいまの乱れを恥じるように少し躰を離し、ひっそりと息を潜めていた。そこに、笙子のかたくなな愛らしさがあったが、いまは別人のような積極さである。 「どうしたの……」  伊織がきいたが、笙子は答えず、やがて小刻みに肩が震え嗚咽《おえつ》が洩れてきた。  伊織にはまったく見当のつかぬ涙である。いまあれほど燃え、そのあと貼りついたようにしがみついてき、今度は一転して泣きじゃくる。声は低いが、肩が震えるたびに小判みな振動が伊織の胸元に伝わってくる。 「どうしたの?」  さらにきいても笙子は答えず、嗚咽だけが続く。伊織は目の前の小さく波打つ肩口までおおっている髪にゆっくり触れながら、今夜のことを考えた。  寝室にきて、ベッドに入るまではとくに変ったことはなかった。少しおかしいと思ったのは、躰を求め合ってからだった。いつにない積極的な笙子の態度に、伊織は面食らい、不思議に思い、一瞬、腕のなかにいるのが別人のような気さえした。終ったあと、しっかりと躰を寄せてきたのも珍しい。 「なにか、あったの……」  もう一度きいたとき、いやな予感が、伊織の脳裏をかすめた。まさか、と思いながら、伊織はたずねた。 「そうなの?」  その問いを、笙子は自分に向けられたと思ったようである。そのまま少し間があって、伊織の腕の上にあった笙子の頭がかすかに揺れた。 「わたし、正直にいいます。わたし、一度だけ、宮津さんと……」  伊織は髪を撫ぜていた手を止めた。 「宮津さんに、抱かれました」 「………」 「ご免なさい」  そこまでいって、笙子が再び泣き出した。今度は前よりはるかに激しく、肩も髪も震えている。その震えを全身で受けとめながら、伊織は意外に落着いていた。  いま、もしやと思っていた予感が、そのとおり当ったからなのか、それとも予想だにしないことにまだ感情が従いていけず、呆《ぼ》んやりしているのか、伊織はそのままの姿勢でそっと天井を見ていた。闇と思えた部屋に天井が浮かび、その中程に、白いプラスチック製の明りのカバーが白く浮き出ている。 「わたし……そんな気じゃなかったんです、絶対に……ただ、宮津さんが強引にホテルまで送ってくれて……」  そこで、笙子はふたたび伊織の胸にしがみつくと、胸に顔をうずめたままいった。 「お願いです、わかって下さい」  伊織の胸のなかに、笙子の躰がすっぽりと抱きかかえられている。小鳥が親鳥の羽根で庇護《ひご》されているように、笙子の全身が伊織の腕で守られている。  だが伊織には、それが自分とは無縁の一つの物体のように思えた。ぴたりと胸から肢まで触れ合っていながら、血の通っていない人形を抱いているようである。  伊織は自分の急な気持の変りように、自分で驚いていた。笙子から突然、宮津と一度だけ関係があったときかされた瞬間から、相手が急に別人のように思われる。その一言になんと答えればいいのか、わからぬほど狼狽している。  もっとも慌てているのは、頭より躰のほうなのかもしれなかった。きかされた瞬間、頭のなかでは「なるほど」と思い、「やはり」とも思った。だが、躰のほうはそれほど器用に納得してはいないようである。頭より躰のほうが不器用というか、正直なようである。  伊織は軽く咳払《せきばら》いをすると、笙子の頭の下になっている自分の腕をそろそろと抜いた。それから少し躰を難し、仰向けになった。 「怒った?」 「いやあ……」  ひどく間延びした声だと思いながら、その返事とともに、「いやだなあ」という気持が全身に広がってきた。 「でも、本当に仕方がなかったのです。どうしても、部屋に入れてくれないと帰らないといって……」  笙子の弁解を、伊織はレストランの隣りの席からきこえてくる男女の会話のようにきいていた。声はすぐ横できこえていながら、自分とはまったく無縁の言葉である。 「わたし、本当にそんなつもりじゃなかったのです。絶対に……」  笙子はまた泣きだし、そしてうなずいた。 「わたし、苦しかったんです。苦しくて、いっそ正直にいったほうがいいと思って……」 「………」 「あんなことをして、黙ってなんかいられません。そうでしょう」  同意を求められて伊織もかすかにうなずいた。 「ごめんなさい。でも、好きです、大好きです」  笙子がぐりぐりと頭をおしつけ、それとともに、伊織の胸に涙が落ちる。それを拭きたい気持をおさえて、伊織はなお仰向けになっていた。 「わかって下さい」  わかるはずだと伊織は自分にいいきかせた。たとえ笙子は奪われても、本当に好きなのは、この自分なのだ。そしてその気持はいまも変らない。だから正直に告白して謝っているのである。そこまでわかっていながら、伊織のなかにまだ素直に「そうだ」とはいいきれない自分が残っている。  淡い闇のなかで笙子の嗚咽がなお続く。だがそれも次第に低くなり、小刻みな泣きじゃくりになり、あとは小さな肩口の震えだけになって途絶えた。つい少し前からは想像もつかない静けさが、ベッドの上をおおっていた。  何時だろうか。いま重大な告白をきかされたというのに、時間のことを考える自分を可笑しいと思いながら、伊織はナイト・テーブルの上の時計を見た。  十時二十分だった。食事をして部屋に戻ってきたのは九時半ごろだったから、二人になってまだ一時間も経っていない。この短いあいだに、自分の気持も笙子の状態もすっかり変っているのに、伊織はむしろ驚いていた。 「さあ……」  伊織は半ば自分にいいきかせるようにいうと、上体を起こした。 「どうするの」  慌てて笙子がきくのに、伊織はかまわず起き上った。 「待って下さい、わかってくれたんですね」 「………」 「許してくれたんですね」  伊織はいまはなにも答えたくなかった。笙子が奪われても、宮津が強引に迫っても、そんなことは、どうでもいい。それよりいまはベッドからいっときも早く離れたい。  そのままナイトガウンを着るとバスルームへ入った。  よく見もせず、いきなりシャワーを出して、熱さに驚いて水をくわえ、それを頭からかぶってごしごしとこする。それを数回くり返したところでシャワーを止め、タオルで全身を拭く。  それからガウンを着てリビング・ルームへ行って、テレビを入れた。とくに見たいドラマでもないのにヴォリュームをあげて、ブランディを飲んでいると、笙子が現れた。  服を着て、髪もきちんと整えているが、泣いたせいか目のあたりがはれぼったい。 「お茶でも淹れましょうか」 「いや、いい」  伊織がテレビへ視線を向けたまま答えると、笙子は明りをさけるように顔をそむけながら、前のソファに坐った。  伊織はこんな情景をどこかで見たような気がした。恋人が他の男に奪われ、そのことを女性が告白したあと、二人で向かい合って坐っている。男は女が告白したことに納得し、仕方がなかったと思いながら、なお許しかねている。女は許してもらえたのか、半信半疑のままうつ向いている。テレビか、あるいは昔見た映画か、それとも小説ででも読んだのか、そんな情景に自分が立合ったらどうだろう、と想像したこともあったような気がする。  いまがまさしくそのときだと思いながら、はたして自分達がいまそんな状態にあるのか、まだ夢を見ているような気さえする。  そのまま数分が経ち、画面がコマーシャルに変ると笙子が立上った。 「それでは、わたし帰ります」  気持のなかでは引きとめようと思いながら、適切な言葉がでないまま、伊織も立上った。 「ご免なさい」  今度は立って向かい合ったまま笙子がつぶやいた。なにか、心のわだかまりを吐き出してほっとしたような表情である。 「じゃあ、帰ります」  笙子はもう一度、たしかめるようにいうと伊織を見た。しみじみと、いま一度、優しい言葉を欲しいと訴えているようでもある。その目差《まなざ》しに誘われるように、伊織は笙子の肩へ手をおいた。 「マンションまで、送ろうか」 「いえ、まだ早いですから」  うなずきながら、いまそんな優しい言葉をかける自分がわからなかった。 「じゃあ、気をつけて……」  そのまま向かい合っていると、笙子がまた泣き出しそうな気がして、伊織は肩から手を離した。笙子は明りを避けるように、目頭に手を当てたままいった。 「明日は事務所に十一時に、東大の宇土教授がお見えになります。それから午後は東営工務店の村上さまが……」 「わかった」  伊織がうなずくと、笙子が初めて笑顔を見せた。つい少し前、他の男性に奪われたことを告白したとも思えない、あどけない笑顔である。 「おやすみなさい」笙子はそういうと、くるりと背を向けて出口へ向かった。その平たい肩と小さなお臀を見ながら、伊織の脳裏に再び宮津の顔が甦る。  あの肩も腰も、宮津に抱かれている……  そう思ったとき、笙子が靴をはき終えて振り向いた。 「おやすみ」  笙子はうなずくと外へ出た。小さなハイヒールの音がマンションの廊下に響いて遠ざかっていく。その音が消えたのをたしかめて伊織はドアの鍵を閉めた。  部屋に戻ると、テレビの画面は白いランジェリーが風に吹かれているコマーシャルに変っていた。  伊織はいったん流しへ行き、水を一口飲んでから、ソファへ戻った。なにかひどく疲れたような、そのくせ興奮しているような、奇妙な気持である。落着かぬまま煙草に火をつけ、グラスに残ったブランディを飲み干した。 「やはり……」  一人でつぶやき、一人でうなずく。いまになって考えると、帰ってきたときの笙子の態度も、宮津の様子もみなおかしかった。少し気をつければわかるものを、気がつかなかったのは迂闊だった。だが迂闊といえば、それ以上に、笙子を今度の旅にやるべきではなかった。休暇をもらいにきたとき、一言「駄目だ」といえばそれで済んだことである。前の晩に「行かないで欲しい」といえば間に合ったはずである。それを変に理解のあるところを見せようとして、痩せ我慢をした。行きたければ勝手に行け、笙子などいなくても平気だ、そんな強がりを見せたところが、裏目に出たようである。  それにしても、笙子は何故、奪われたのか。宮津が強引で逃れられなかったといったが、本当に防ぐ気があれば防げたのではないか。無理に部屋に入ってきたというが、部屋に入れるような隙があったから、入ってきたのではないか。  正直に告白してくれた気持はわからぬでもないが、そのなかに宮津を非難する言葉がなかったのが、少し気にかかる。本当に憎かったら、もう少し口惜しがるなり、相手へ復讐することなどを考えるべきではないか。  もしかすると、笙子は宮津に奪われたことは恨んでいても、彼の熱情は認めているのかもしれない。その甘さがあるから、こんなことになったのではないか。 「いい加減なことだ……」つぶやきながら、「しかし……」とも思う。笙子が旅に出ていたあいだ、自分は霞とホテルで情事を楽しんでいた。いい加減といえば、こちらも同罪である。  そもそも、笙子が突然、旅に行く気になったのは、霞の存在を感じたからである。  グラジオラスが睡蓮に嫉妬の炎を燃やした。そしてその火をつけたのは、自分自身である。 「わからん」  伊織はもう一度、溜息をつき、あいたグラスにブランディを注ぐ。 [#改ページ]    秋  思  八月の初めこそ三十度をこす夏らしい日が続いたが、半ばころから気温が下り、曇りがちの日が多くなった。この調子では今年も冷夏かと、農家の人達は気が気でないようだが、都会に住んでいる人々にとってはむしろ凌ぎやすい夏ではある。もっとも凌ぎやすいとはいっても、照りつける太陽がなくては、いささかもの足りないともいえる。  七月から八月にかけて東京にいた伊織は、二十日を過ぎてから休暇をとって、軽井沢へ出かけた。以前から約束してあった旅で、村岡ら気の合う数人とゴルフでもしながら暢《の》んびり過そうというわけである。もう三年来、恒例のようにやっていて、一応、三泊か四泊で、男達だけということになっていたが、なかにはこっそり女性を連れてくる者もいる。お忍びではあるが、よく知っている仲間なのでお互い口は堅い。  去年、伊織はこの旅に笙子を連れていった。伊織は昼間ゴルフに行くが、笙子は軽井沢に友達がいるということで、退屈はしなかったようである。だが、今年は一人であった。  今度の旅に出るとき、笙子は「軽井沢ですか」ときいた。休みはとっても、居場所をはっきりさせておく必要があるので、行先はわかっているはずだが、笙子は念をおした。それに、伊織は黙ってうなずいた。すでに夏の休暇をとってしまった笙子が、今年も一緒に行くことを期待していたとは思えないが、なにかを探る眼差しではあった。  だが、笙子がなんといおうと、伊織は今年は初めから一人で行くつもりであった。笙子なら去年一緒に行って、仲間もみな知っている。また連れて行ったところで、とやかくいわれることもないが、やはり誘う気にはなれない。一人で行こうと決めた裏には、宮津とのことが、まだ尾をひいていることはたしかであった。  宮津とのことはいっときの間違いで、笙子はいまも自分を愛している。正直に告白してくれたのがその証拠で、好きな人に隠しだてしたくないという正直な気持からでたことである。そう自分にいいきかせ、納得したつもりだが、なお心のどこかで引っかかるものがある。  宮津とのことを知らされて以来、伊織は笙子を抱いていなかった。つまらぬことは忘れて、以前の二人に戻ろうと思いながら、伊織のなかに拒絶するなにかがあって、素直に笙子に対する気になれない。  このところ、伊織は自分で自分にてこずっていた。  笙子から初めて宮津とのことを告げられたときには、正直いって、驚き、慌て、腹も立ったが、時間がくれば自然に忘れられるものだと思っていた。関係があったとしても、ただ一度のことであり、笙子自身が自分を愛している以上、傷はじき癒《い》えるものだとたかをくくっていた。  だがそれが意外にスムーズにいかない。仕事のことで、笙子と話しているときでも、ふっと宮津とのことが思い出され、そうなると急に相手が不潔な存在に思えてくる。所長室で二人だけで向かい合い、少し親身な感じになってくると、たちまち警報器が鳴るようにその感情が甦る。  宮津と会うときは、さらに激しく、彼のほうが真剣に仕事のことを話しているのに、頭のなかは一方的に熱くなる。この男が笙子を奪ったのだ。ぼんぼんのような顔をして、隅におけない好色漢だ。他人の女を奪っておきながら、一遍の挨拶もないとはなんと図々しい不徳漢か。「よせ……」と自分で制しながら、次々と他愛ない怒りが湧きあがる。  これまで、伊織は自分を、もう少し寛大な余裕のある男だと思いこんでいた。たとえ好きな女性が、若い男の許へ去っていったとしても、静かに見詰めてやる。それが幸せになることなら、快く手離し、場合によっては祝福してやる。その程度のおおらかさと、ものわかりのよさはもっているし、もてるはずだと思いこんでいた。  だが、いざ現実になってみると、事情は大分違うようである。  恥ずかしいことだが、伊織の心のなかにはいま、口惜しさと嫉妬が渦巻いている。あんな若僧に自分の女を奪われた。しかも女はぬけぬけと、そのことをベッドのなかで告白する。涙など流してもっともらしいが、その実、結構楽しんだのではないか。「いやだ、いやだ」といいながら、結局許して、本当は若い躰に憧れていたのではないか。そして宮津という男は、若さをフルに利用して笙子に迫り、奪ったのではないか。考えるうちに、伊織は次第に苛立ち、全身が熱くなってくる。 「おい、冷静になれ、つまらぬことを考えるな」  自分を叱り、圧《お》さえるが、それも一瞬で、次の瞬間、また口惜しさと憎しみが湧いてくる。なんとも醜態だと思いながら、一度荒れ出した感情は圧さえ難い。そのくせ、宮津と笙子と二人の前ではことさらに平然とした態度をとろうとする。乱れたところを見せたくないという見栄と、嫉妬が心のなかでぶつかり合い、からみ合い、それがいっそう心の落着きを揺さぶる。  軽井沢にいるあいだ、伊織は笙子のことは忘れることにした。日中はゴルフをし、夜は仲間と酒を飲んだり、麻雀をして時間を過す。それで気持はまぎれるつもりであったが、深夜、ホテルの部屋で一人になると、また笙子のことが思い出される。  いまごろはどうしているのか、自分のいないのをいいことに、宮津はまた強引に迫り、笙子もまたずるずるとひかれていくのではないか。そのまま、二人は二度目の関係を結ぶのではないか……  東京を出てくるとき、伊織は、急用でもないかぎり、連絡をよこすな、と笙子に念をおしてきた。休暇をとって東京から離れた以上、仕事や俗事にはわずらわされたくない。  だがそのやり方は間違っていたようである。  笙子は遠慮して電話をよこさないようにしているらしいが、それがかえって苛々を亢《こう》じさせる。自分で余計な電話はよこすなといっておきながら、どうして一度くらい様子をうかがう電話をよこさないのかと、内心では待っている。連絡がないのは無事な証拠と知りながら、まったく連絡がないとかえって不安になる。  二日間、我慢したあと三日目に、伊織はたまりかねて自分のほうから事務所へ電話をかけた。 「変りはないか」  電話の向こうの笙子に、伊織は意識的に不機嫌な声を出した。 「とくに変りはありませんが、大興建設から見積り書と弘前から依頼書、そのほかお手紙がいろいろきていますが」 「どうして連絡をよこさないのだ」 「事務所宛のは封を開きましたが、とくに急ぐのはなさそうでしたので。そちらにいらっしゃるのは、今週一杯ですね」 「そのつもりだが……」  事務所のこともさることながら、伊織がききたいのは、笙子と宮津のことだが、こちらからはいいだしにくい。 「所員の連中はどうしている」 「望月さんが出張しましたが、他の方は変りありません」  一番ききたい宮津のことは、笙子はなにもいわない。 「よし、わかった」  そういいながら、なお電話を切りかねていると少し声を低めて笙子がいった。 「そちらは涼しいですか?」 「まあね、朝夕はちょっと肌寒い感じさえする」 「いいですね」  笙子のいい方には、少し甘えがこめられていると思いながら、伊織は「じゃあ」とことさら素気なくいう。  笙子との電話を切ってから、伊織はまた悔いを覚えた。いつまでも、笙子と宮津との関係にこだわっている自分がいやだったし、同時に、せっかく優しい言葉をかけてきた笙子を、拒絶した自分のかたくなさにも腹が立つ。どうして、もう少しさっぱりと話すことができないのか。今度のように、自分に苛立ち失望したのは初めてである。  こんなことでは軽井沢にいても静養にならない、できることならこのまままっすぐ東京に戻りたいが、前々からみなと約束してきた旅を、個人的な理由から勝手に帰るのも悪い。それにたとえ東京へ戻ったからといって、気が晴れるあてがあるわけでもない。  そのまま二日間、伊織は表面は陽気に振舞いながら、心の底には重石《おもし》がつかえているような状態のまま過した。  不思議なことに、笙子とのあいだが悪くなったら、その分だけ霞への思いがつのりそうなものだが、それが必ずしもそうでもない。もう、あんな女のことは忘れて、霞一筋にと思って、夜など受話器をとりあげるが、辻堂のダイヤルを廻しかけて途中でやめる。せっかく霞が電話にでても、いまの状態では楽しく話せそうもないし、ふとしたもののいい方から、笙子とのことを察知されてもまずい。他の女性とのあいだがうまくなくなったから、急に接近してきていると感付かれては困る。実際、そこまでわかるはずはないと思いながら、女性は勘がいいから油断はならないとも思う。  とにかく、笙子とのあいだがまずくなるにつれて、霞への思いも下火になるとは不思議である。もしかすると、霞への執着は、笙子が身近にいた反作用のようなもので、笙子がいたからこそ、燃えていた部分もあったのかもしれない。  いずれにせよ、いまの伊織の最大の関心事は笙子である。今後、笙子をいかに遇し、彼女との関係をどのようにもっていくか、それが決まらないことには落着いて霞と逢う気にもなれない。  五日間、東京を離れて過してみたが、結論らしい結論はでてこない。  六日目の土曜日、東京へ戻って次の月曜日、事務所に着くと、宮津が待っていたように近づいてきた。 「いま、ちょっとよろしいですか」 「かまわないが……」  伊織がうなずき、所長室に入ると、宮津は黙って従いてきた。そのままドアを閉め、二人だけになったところで、宮津は一礼すると、なにか本でも読んだような調子でいった。 「勝手ですが、ここを辞めさせて下さい」  宮津が直接、話があると部屋に入ってきたときから、普通のことではないと思ってはいた。単に仕事のことなら、改まってそんないいかたはしないだろうが、まさか、会社を辞める決意表明だとは思ってもいなかった。  おかしなことに、話があるといわれた瞬間、伊織は、宮津が謝りにきたのかと思った。笙子とあんなことになりはしたが、あれはいっときの興奮の結果で、いまは心から後悔している。このままでは気まずいので、正式にお詫びしたい、そういって頭を下げる。しかし、それは伊織の虫のいい思い違いであったようである。  たしかに考えてみれば、力ずくで女性を奪った男が、その恋敵である男性に謝りにくるわけはない。たとえ相手が上司とはいえ、宮津はそれを知ったうえでやったはずである。恋に上下はないし、それはあくまでプライベートなことで、表立って謝るべき筋合いのものではない。一瞬とはいえ、伊織は自分の考えの甘さにあきれた。自分の調子のよさにいささか憮然としながら、改めて宮津を見上げた。 「辞めて、どうするのかね」 「別に決めていませんが……」  余程の決心でいいにきたのか、伏目の宮津の顔が蒼ざめている。それを見るうちに、伊織は目の前に緊張して立っている青年が、少し可哀想になってきた。  笙子を奪ったとはいえ、この男は根は純情なのかもしれない。純粋で一途だから、上司の彼女であることを承知で強引に迫った。その結果、躰こそ奪ったが愛情はえられず、逆に責任を感じて自分から辞めようとしている。 「君は建築事務所を開くんじゃなかったのか」 「いずれはそうなるかもしれませんが、すぐは無理かと思います」 「じゃあ、辞めてどうするのかね」 「しばらくは、ぶらぶらしています」  その言葉をきいて、伊織にまた新しい不安がわいた。  いま宮津が事務所を辞めれば、そのときから、彼は部下ではなくなる。そのあと、彼が笙子を誘い、迫ったとしても、伊織はなにもいうことはできない。いままでも、二人のことについて干渉がましいことをいった覚えはないが、事務所にいるかいないかで事情は大分違ってくる。辞めてしまえば、宮津は拘束されるものはなく自由である。  もしかして、この男はそれを狙って辞めるのか……  一瞬、疑わしくなるが、三十二歳にもなる男が勤め先を辞めるのは、大変な決心に違いない。伊織は顔は宮津のほうを向き、目だけ軽く窓の方に向けたままきいた。 「しかし、何故、辞めるのかね」 「前にも一度、辞めようと思ったこともありますし、少し暢んびりしたいと思いまして」  あらかじめ考えていたのか、宮津はスムーズに答える。 「でも、ずいぶん急じゃないか、なにかあったのかね」  笙子のことが原因で辞めるのだろうと察しはついたが、伊織はことさらに平然ときいてみる。 「このごろ少し、元気がないようだが、躰でも悪いわけじゃないんだろう」 「別に……」 「それならいいが、当分はここにいるときいていたのでね」 「すみません」  宮津がそっと頭を下げる。その青年らしい清潔な首の線を見ながら、伊織はこの機会にきこうかきくまいか迷っていた。  君は夏の旅行で、強引に笙子の躰を奪ったのだろう。それが原因でいたたまれなくなってやめるのだろう。一体、その責任はどうしてとるつもりなのか。単に事務所を辞めたくらいで、とれると思っているのか。辞めてはたして今後、笙子に手は出さないと、しっかり誓えるのか。言葉が喉元まであふれてくる。  だがそれをいっては、すべてがご破算になりそうである。いま辛うじて保っている冷静さを失った瞬間から、自分は所長でなく、一介の男になってしまう。そしてその時点から、自分と宮津は対等な恋のライバルになってしまう。そんな修羅場を現出してまで、問い詰める必要があるだろうか。いま互いに真相は知っていながら、まるで知らぬ顔で向かい合っている。それが男同士の思いやりと含羞《がんしゆう》というものかもしれない、伊織はゆっくりと自分にいいきかす。 「一応、君の考えはわかったから、考えてみよう」  伊織はそれだけいうと、もう帰ってもいいというように、机の上の書類へ目を向けた。  宮津が部屋を出て行くと、伊織は煙草に火をつけ、それからインターホンで笙子を呼んだ。 「なんでしょうか」  今日の笙子は珍しく白地に細かい花柄のワンピースを着て、胸元に細い金のネックレスをつけている。タイトのスカートにブラウスという地味な恰好が多いので、いつもより華やいで見える。 「いま、宮津君が会社を辞めたいといってきた」  うかがうようにいったが、笙子は無表情だった。 「理由は、しばらく暢んびりしたいということらしいが、彼が辞めることを君は知っていたんじゃないのか」 「………」 「そうだろう」  もう一度念をおすと、笙子は静かにうなずいた。 「三日前に、電話でおききしました」  三日前というと、伊織が軽井沢から戻ってきたときである。 「理由はきいたんだろう」 「わたしがきいたわけではありません、宮津さんが勝手に話したのです」 「で、なんといったのかね」 「やはり同じようなことでした」 「それで、君は……」 「別に、わたしとは関係のないことですから」  笙子は軽く顔をそむけた。 「これは僕の推測にすぎないが、彼は君とのことがあって、いづらくなったんじゃないのかね」 「………」 「このあと、どこかに勤めるという目処《めど》もないらしい」  伊織はそこでまだ長いままの煙草をもみ消すと立上り、窓のほうに向かって歩きながらいった。 「まあ、彼が辞めたいというのをとめる理由もないから、受け入れることにしようと思っているが、君はそれで異存はないだろうね」 「わたしが、どうして……」 「もしかすると、君はもっと、彼にいてほしいのかと思ってね」  いったん考えておこう、といいはしたが、伊織の気持は決っていた。宮津が辞めたいというものを無理に引きとめても仕方がない。宮津が事務所を辞めてしまえば、自分の手の届かないところに行ってしまうが、といって毎日、事務所で、笙子と関係があった男性と顔を合わせるのも鬱陶しいことではある。仕事の面では、宮津は新しく多摩地区に建設される自然公園のプロジェクトにくわわっているが、数人いるスタッフの一人だから、いま彼が抜けたからといってすぐ影響がでるわけでもない。  考えてみると去年から、宮津にはあまり責任ある仕事は与えていなかった。とくに意識したわけではないが、笙子へ好意を抱いている男だという気持が、伊織のなかで微妙に働いていたといえなくもない。今度、辞めるといってきたのも、そうした伊織の態度が原因の一つであったのかもしれない。  してみると、宮津を退職に追いやったのは自分の責任のような気もしてくるが、そこまで考える必要もなさそうである。宮津が辞めるのは時間の問題であったし、彼がいままでいられたのは、むしろこちらの好意の結果である。  三日後、伊織は再び宮津を部屋に呼んだ。  初めて辞めることをいいにきたとき、宮津の表情は堅かったが、いまはもう落着いていた。 「やはり、気持は変らないのかね」 「すみません」  宮津は頭を下げたが、意志は堅いようである。 「それじゃ残念だが仕方がない」  伊織はそういって壁にかかっているカレンダーを見た。すでに八月は終っているが、九月に入ってまだ三日目である。 「すぐといっても、仕事の引継ぎがあるし、君もいろいろと準備があるだろう。勤めるのは今月までとして、辞めるのは九月末日ということにしてはどうかね」 「しかし、引継ぎは一日あればできますから」 「それはわかるが、辞めるのをそんなに急ぐこともないだろう。今月一杯というのは形式だけで、事務所には出てこなくてもいいんだ」 「でも、そんなことをしていただいては申し訳ありませんから、八月末で辞めたことにして下さい」 「給料のことなら気にすることはないよ」 「いえ、八月末にして下さい」  一カ月の余裕は、伊織の最後の好意のつもりだったが、いまの宮津は、一日も早く事務所を辞めることしか考えていないようである。 「そうか……」  ゆっくりうなずきながら、突然、ある企みが稲妻のように伊織の頭に芽生えた。 「ちょっと、きてくれないか」  伊織が机の上のインターホンを押すと、すぐにドアをノックして笙子が入ってきた。瞬間、宮津は顔をそむけたが、笙子は無表情のまま軽く頭を下げた。 「なんでしょうか」 「宮津君が、どうしても八月一杯でやめたいといっている。九月までいることにしてはどうかといったが、一日でも早いほうがいいらしい」 「………」 「残念だが本人の希望なので仕方がない。早速、退職のほうの手続きをしてくれ」 「はい……」笙子は小さく返事をした。 「所員には、今日これからでも話すことにしよう。仕事の引継ぎは、一応、望月君に頼むようにしてくれ」  そこで、伊織は改めて並んで立っている二人を見た。気のせいか、宮津は叱られてでもいるように目を伏せ、それに対して、笙子はほとんど感情を現さず立っている。  伊織はふと、ここで二人を問いつめたい衝動にかられた。 「お前達は勝手に旅に出て、肌を許し合った仲だろう。お前はこの女を奪い、君はこの男にさして抵抗もせず許した。しらじらしい顔をして、よく並んでつっ立っていられる、淫蕩《いんとう》で好色なやつめ」そういいたいが、いまは二人を見詰めているだけで充分かもしれない。なにもいわず見詰められることが、二人にとっては最も辛いはずだし、実際、いま二人は、白州《しらす》に引き出された罪人のように項垂《うなだ》れている。一緒に並ばせられ、沈黙が続くあいだ、二人はひしひしと、こちらの怒りを感じているに違いない。  だが苦痛は、若い二人だけではなさそうである。彼等を見ている伊織も、同様に痛みを感じている。お前達は姦夫《かんぷ》と姦婦《かんぷ》である、そう思いながら、女を寝とられ、口惜しがっているのは伊織自身である。肌を許し合った二人と対しているのは、女を奪われた哀れなコキュである。  向かい合っているうちに伊織のなかに次第に自虐的な感情が芽生えてくる。とやかくいっても、お前は寝とられた男ではないか。若い二人は心の底では、寝とられた男を笑っているのだ。  三人が明るいビルの一室でつっ立っている。まさしく三角関係そのままに、三人は向かい合ったまま、粛として声はない。  宮津が伊織の部屋に再び現れたのは、その三日あとだった。今度は仕事中のラフなスタイルでなく、きちんとスーツを着てネクタイを締めている。 「仕事の引継ぎと、退職の手続きのほうも今日で全部終りました」 「じゃあ、今日でもう来ないわけだな」  伊織がきくと、宮津は少し淋しそうな顔をしてうなずいた。 「長いあいだ、いろいろとお世話になりました」  初めに、辞めたいといってきたときには、少し開き直ったような態度だったが、いまは素直な気持でいっているのがわかった。それを受けて、伊織も穏やかな口調でいった。 「ご苦労さん。せっかく一緒にやってきたのに残念だ」  考えてみると、宮津がこの事務所に入ってきたのは四年前であった。大学を出てしばらく、ある大手の建設会社にいたのが、途中から伊織を慕って移ってきたのである。特別、優秀というわけではないが、こつこつと地道にやる男であった。彼のようなタイプは、大手の会社にいればそれなりに伸びたかもしれない。それが伊織のところにきたばかりに、妙なことから辞める破目になってしまった。不運といえば不運である。 「またいつでも、暇があったらきたまえ、仲間もみな知っているんだから。僕でできることがあったら、相談にのるよ」 「すみません」  宮津がもう一度、深々と頭を下げた。その姿を見るうちに、伊織はこの青年になにか悪いことをしたような気持になってきた。 「昨日は大分飲んだのかね」 「ええ、少し……」  昨夜、宮津の送別会を新宿のビヤホールでやったが、伊織は初めに簡単な挨拶だけして、次の会合に出た。無理をすればもう少しいられなかったわけでもないが、長居しないほうがいいと初めからきめていた。  所員達は、宮津の退職が急だったことから、笙子とのあいだを疑っているようである。だが笙子と関係があったことまで、はっきりわかっているものはいないらしい。宮津は気はいいが、少し坊ちゃん的なところがある。そんなところから、辞めるのは金持の息子の気紛《きまぐ》れと思っている所員もいるらしい。 「じゃあ、元気でやりたまえ」 「はい」  宮津がうなずいたとき、伊織は思わず手を出して握手をした。青年らしく、やわらかでしなやかな手である。それを握って、伊織は初めて、この手が笙子を抱きしめたのを思い出した。  伊織が笙子と二人だけで逢ったのは、宮津が辞めて一週間後の夜だった。それまでとくに忙しかったというわけでもない。逢う気になればその翌日にも、少し遅いが逢うことはできた。その週の日曜日の夜も伊織は空いていた。だがなんとなくずるずるするうちに、一週間が過ぎた。いってみれば、この一週間は宮津が辞めた余韻を打消すための期間でもあった。  九月の初めに、再びぶり返した暑さが大雨で去り、九月の半ばにしてはいくらか気温の低い夜だった。  今日逢うことを約束したのは二日前だった。笙子が部屋に書類を持ってきたとき、それを見ながらなに気なくいった。 「明後日、あいていたら食事でもしようか」  笙子は一瞬首を傾け、それから「はい」と小さく答えた。うなずきながら、本当にいいのですか、と探るような眼差しであった。  伊織にしても、なぜ誘ったのか、自分でもわからないところがあった。笙子とは、このまま少し逢わないでおこうと決めていたが、同時に、もう宮津もいないのだから、過去のことに拘泥《こだ》わることはないという気持もあった。その日はたまたま、後者の心のほうが表に出たということかもしれない。  六時に会議があった霞が関からまっすぐ、約束の青山のステーキ店に行くと、十分遅れて笙子がきた。少し肌寒いせいか、笙子はベージュのツーピースを着て首のまわりにモスグリーン地のネッカチーフを巻いていたが、その沈んだ色合いが近づく秋を思わせた。 「もう、事務所の連中は帰った?」  二人で鉄板のあるカウンターに坐ったところで、伊織がきいた。 「まだ浦賀さんと望月さん達が残っていましたけど」  伊織はうなずき、白のシャブリのワインとフィレ肉を頼んだ。  考えてみると、二人だけで逢うのは、笙子が山陰から帰って、宮津とのことを告白して以来だから、ほぼ一カ月になる。久しぶりに二人だけになってみると、笙子の頬はいくらかこけ、肩のあたりの肉も薄くなったように見える。全体に少し痩せ、その分だけ細面の顔に愁いが増したようにもみえる。  伊織は改めて笙子の横顔を見てグラスを重ねた。いま、なんというべきなのか、「お目出とう」か「ご苦労さん」か、それとも仲直りの挨拶か。あるいはただ食事の前の儀礼的なものなのか、不思議な乾杯だと思いながら、伊織はワイングラスを口につけた。  ステーキのソースは、初め赤ワインにバターと胡椒《こしよう》をくわえたのにしたが、少しくどいので、途中から醤油に切り替えた。  どういうわけか、伊織は、女性が濃いソースをかけ、血のしたたるような肉を食べる図をあまり好きではない。とくにサーロインのように、脂の強い肉を美味しそうに食べている女性を見ると、いささかげんなりする。それは伊織自身が、あまり脂の強いものを好まないせいもあるが、同時に、伊織が抱いている女性への好みが、肉を食べる女というイメージとそぐわないことにも原因があるのかもしれない。  もともと、伊織は体臭の強い女性が苦手である。外人のように、近づいてむっとするような体臭を感じると、たちまち気が萎える。その強い臭いがいいという人もいるようだが、伊織には理解できない。  もっとも、肉を食べて体臭が強くなるものなのか、専門的なことは伊織にはわからないが、なんとなく強くなるような気だけはする。したがって、伊織が女性の肉を食べる姿を好まないのは、肉食から体臭という連想の結果で、いささか個人的ないいがかりといえなくもない。要は、肉を食べようと食べまいと、女体は清澄で無臭であって欲しい、そんな願望が伊織のなかにある。  いうまでもなく笙子も霞も体臭は薄い。肌を接していてもほとんど感じない。伊織が二人を愛しているのは、外形や性格はともかく、そのすがすがしい皮膚の感覚である。  いま笙子はフィレの四角い肉片に軽く醤油をつけて口に運んでいく。むろんニンニクはつけない。フィレなら焼き方が弱くても脂のしたたる感じはない。一〇〇や一五〇グラムのステーキを食べたくらいで、体臭が強まるとは思えない。  伊織がソースを赤ブドウ酒から醤油に変えると、同様に笙子も変えた。この一カ月、笙子の躰の上を大きな嵐が通りすぎたが、笙子の好みは変っていないらしい。やはり濃いソースより淡い醤油を好む。それは笙子の躰や感情とは無関係な、単なる食べものの嗜好《しこう》にすぎないが、伊織はそのことに、笙子の躰も心も不変であることを見ようとしている。  二人が店を出たのは、それから三十分あとであった。  食事をした店から伊織のマンションまでは、車で数分の距離である。店を出て伊織がタクシーを拾おうとすると、笙子がつぶやいた。 「もう少し、飲みたいわ」 「どこで……」 「どこでもいいわ」  秋を思わせる夜風のなかで、笙子の髪が揺れている。伊織は近付いてきた車に乗ると、「六本木」と告げた。笙子と同じように、伊織も少し飲み足りない気がしていた。いつもそんなに飲むわけではないが、今日はいま一つ気勢があがらない。このままマンションに行って二人だけになるには、少し早過ぎるかもしれない。  だがいままでも食事のあと、すぐマンションに行ったことはある。今日にかぎって二人がともに飲みたいと思ったのは何故なのか。  車に乗ってから、伊織はそれが宮津とのことと関係があるような気がしてきた。食事のあいだ中、伊織も笙子も、宮津のことについてはなにも触れなかった。二人とも彼のことは忘れたように別のことを話していた。だが、宮津のことを無視していたことは、まさしく意識していた証拠かもしれない。話題が会社や仕事の話になり、宮津のことになりそうになると、お互い話をそらす。彼のことに触れぬように気配りしているうちに、二人は快く酔う機会を失したようである。  六本木のバーはビルの二階の十坪ほどのこぢんまりとした店だった。カウンターとボックスがあり、片隅にギターがおいてあるが、いまは休みの時間なのか弾く人はいない。このあたりは夜が遅いせいか、客もカウンターに一組いるだけである。伊織はいったん奥のボックスに向かいかけて、途中でカウンターに戻った。落着くことからいえば奥の席のほうがいいが、そこで笙子と二人だけでいるのは少し億劫な気もした。カウンターならママも話し相手になってくれて気が紛れる。 「なににしましょうか」とバーテンがきくのに、笙子は迷わず、「ニコラシカがいいわ」といった。そんな強いのを大丈夫ですか、というようにバーテンが笙子の顔を見る。  今日の笙子は少し投げやりな感じで、自分から酔うことを願っているようである。二人だけだから酔ったところで問題はないが、それが宮津とのことと関係があるとすると、少し気が重い。  そのまま一時間ほど飲んで店を出たとき、笙子はかなり酔っていた。二階なので階段を降りたが、途中でふらついて転びそうになった。 「大丈夫か」  腕を抱えて外へ出ると、「気持がいいわ」と笙子は雲が流れている夜空を見上げた。伊織はビルの先に待っていた車に乗ると、「青山」と告げた。  一時間のあいだに笙子はニコラシカを四杯飲んだ。ブランディの入ったリキュールグラスの上にレモンスライスと砂糖をのせ、それを口にほうり込むようにして一気に飲み干す。強いので伊織でもそんな早いピッチでは飲めない。それでも店にいるときは一応きちんとしていたが、立上って急に酔いが廻ったらしい。車を降りてマンションに入ると同時に、笙子はソファの上にうずくまった。 「どうした、具合が悪いのか」  伊織が肩に手をおくと、突然、笙子が両手で髪をかき上げて起き上った。 「大丈夫よ、しっかりしているんだから」  珍しく蓮葉《はすつぱ》ないい方をして首を左右に振ったが、またすぐソファに倒れた。伊織は流しに行き、グラスに水を入れた。 「あんな強いのを急に飲むからだよ、少し水を飲みなさい」 「大丈夫……」 「いいから、ほら」  伊織が無理に飲ませようとすると、笙子が目を閉じたままいった。 「抱いて……」  明るすぎる光りに、伊織が戸惑っていると、宙に両手をつき出す。 「ねえ、早く」  伊織はしばらく荒い呼吸をくり返す笙子の胸元を見てから、そっと唇を重ねた。瞬間、強いアルコールの匂いに触れ、唇を引こうとするといきなり両手で伊織の首に抱きついてきた。 「いやっ……」  笙子は小さく叫び、さらに腕に力をくわえる。それにひきずられるように、伊織は床にひざまずいた。そのまま長い接吻のあと、笙子がつぶやいた。 「知っているわ、知っているのよ」 「………」 「宮津さんのこと、まだ怒っているのでしょう、まだ、まだ……」  いいながら思いきり首に巻きつけた腕を振る。されるままに伊織はしばらくじっとしていたが、やがてころ合いを見て顔を抜くと笙子を抱き上げた。 「なにをするの……」  伊織はかまわず寝室まで運び、ベッドに横たえると、笙子は軽く背を向けた。首元に巻いてあったネッカチーフはすでにとけ、呼吸をする度に開いた胸元がかすかに動く。横になるときにまくれたスカートの裾から、形のいい脚がベッドカバーの上に投げ出されている。  伊織は立ったまましばらく、その長々と伸びた女体を眺めてから、そろそろと胸元のボタンをはずしはじめた。なにをされても笙子は逆らう気はないらしい。自分から「抱いて」といった以上、それは当然かもしれないが、「もう少し飲みたい」といったときから、抱かれることを予期していたのかもしれない。  だが、そのすべてを許しきっている姿勢に、伊織はあるもの憂さを覚えていた。いつからそうなったのかわからないが、いま切実に笙子を抱きたいという感情はわかない。もし笙子が酔って眠いのなら、このままじっとしておいてやってもいい。  二日前、笙子を誘ったときはそんな気持ではなかった。久し振りに二人だけで一夜を楽しみたい、宮津がいなくなったいま、過去の幻影は捨て、以前の秘めやかな愉悦の世界に戻りたいと願っていた。そしてその思いは今日、逢って食事をし、店を出るまでは続いていた。店を出て、すぐマンションへ行こうと思ったのもそのためである。  その気持が消えはじめたのは、六本木のバーへ行って飲み始めたころからなのか。そこで笙子がたて続けに強い酒を飲み、酔いはじめるとともに、伊織はむしろ醒めてきた。笙子が足元が怪しいほど酔い、マンションに着いたときには、伊織はいささか鬱陶しい気持になっていた。  それにしても、笙子はなぜ、今夜にかぎってこんなに酔ったのか……  やはりまだ宮津のことにこだわっているのか。彼の影を振り払いたくて、立って歩けぬほどに酔ったのか。そうでもしなければ、抱いて欲しいと自分からいいだせなかったのか。もしそうならその心情を愛しいと思いながら、伊織の気持はいま一つ燃えあがらない。  いま、笙子はすべての防禦本能を失って、ベッドに仰向けに倒れている。伊織がどのような方法で笙子に挑み、犯したところでなんの抵抗もしない。目の前にあるのは、酔って抑制を失った一個の女体にすぎない。  その女体を、伊織はある残忍な思いと軽い義務感で脱がせていく。  淡いスタンドの明りの下で、笙子が身につけているのは、ブラウスとブラジャーだけで、下半身をおおっているものはなにもない。横になっている笙子からはブラウスより、スカートやストッキングのほうが脱がせやすい。それが上だけおおって下がないという、奇妙な恰好をつくり出している。  もっとも笙子は最後のスキャンティを脱がせられたとき、脚を縮め、無意識のように残っていたブラウスで下をおおった。おかげで秘所は隠されているが、その端からかすかに茂みが見える。  笙子のそこはさほど濃くはない。伊織は茂みの深いのをあまり好まないが、それは脂のしたたるビフテキを食べる女性を好まないのと共通しているかもしれない。容貌がいかに美しくても、茂みの深さを知ると興味が殺がれる。茂みの濃さが、体臭の濃さとつながるような連想が働く。  幸い、笙子も霞もそこは淡い。だがどちらかというと、若い笙子のほうが濃く、霞のほうがいくらか薄いかもしれない。  どういうわけか、伊織は薄いほうに淫らさを覚えるが、たしかに薄い分だけ、霞は淫らかもしれない。  それに較べれば笙子はいくらか毛深いが、その毛深さのなかに、伊織はある一途さを感じてきた。しっかりと茂みがある分だけ、誠実で情も深い。このあたりは伊織の勝手な思いこみにすぎないが、たしかな実感でもある。いま伊織は、そのたしかな茂みの上にそっと手をのせている。特に堅いというわけではないが、そこにはあるたしかな手応えがある。そのくせ指でなぞるとすぐひれ伏し、ひっそりと息を潜めている。  もう四年以上、伊織はそこを愛し、馴染んできた。その茂みの誠実さに安堵し、信じてもきた。  だが、いま伊織はそこに別のものを見ている。  同じ茂みでありながら、その印象はむしろ濃密である。いままで誠実を思わせた茂みが、今日は淫らさだけが顔を出している。まさか笙子の躰が変ったわけではないのに、この違和感はなになのか。違うと思うのは、伊織の一方的な思いこみなのか。  だがその濃密さを感じたときから、伊織の気持は萎えていく。突然、目の前の笙子の躰が、不潔で薄汚いように見え、その心の乱れを振り切るように、伊織はいつもより荒く笙子のなかに入っていく。  それから先の伊織は、ひたすら動いたという記憶しかない。なにもそんなに、一途になる必要もなさそうなのに、一瞬も休まず動いて終える。  そしてその果てに、倦怠とある寂寞《せきばく》とした感情だけが残る。  笙子はほとんど仰向けの姿勢で眠っている。まだ酔いは消えていないようだが、平たい胸も小さなお臀も、茂みの濃さも以前のままである。  だが伊織はその躰に別のものを感じている。どこをどうとはっきり指摘はできないが、なにかが違ったという思いは振り捨てられない。  今日の笙子は酔いすぎて反応は鈍かったし、珍しく無防備な姿をさらしていた。いつもの、初めは無愛想でやがて燃えていく、男を楽しませる過程もなかった。  だが、いま伊織のなかにとどまっている違和感は、そうした単純なことではなさそうである。それは躰のことより、むしろ精神的な不燃焼とでもいうべきものかもしれない。  もっともそれさえ、伊織が一方的に想像の羽根を拡げ、一人で錯覚しているのかもしれない。  だがたとえ錯覚であろうとも、違う、と思った事実は無視できない。それは、はっきりした理由はないが、ないだけにかえって始末におえないところもある。 「どうしたのか?」  淡い闇のなかで伊織は自分にきいてみる。 「なにが違ったのか……」  もう一度きいてみるが、答えはでず、そのくせ、違うという実感だけが強くなる。  どうやらこの違和感は、今日、笙子と逢ったときから芽生え、酒を飲み、ベッドへ入り、交わるとともに次第にふくれあがったのかもしれない。 「終るのか……」  ふと、頭の一点でささやく声がする。自分の声なのに、その声に驚き、伊織はもう一度きき返す。 「本当か……」  つぶやきながら、伊織は横で仰向けに眠っている笙子にある倦怠《けんたい》を覚える。  以前はこんなふうではなかった。行為のあと、笙子はきまってうつ伏せになっていたし、脚もひっそりと縮めていた。吐く息も小さく匂いもなかった。今は偶然、酔ったからとはいいながら、その一つ一つが気になる。  男と女が別れるというのは、こういうときなのかもしれない。いままで淡いと見えたものが濃く見え、好ましいと思えた淫らさが不潔に思える。 「もはや素直に笙子を愛せなくなったのか……」  伊織はそれをある懐しさと、哀惜とともに自分にきき返す。 [#地付き](上巻・了) 〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年十一月十日刊