[#表紙(表紙.jpg)] 私の映画教室 淀川 長治 目 次   ㈵ 永遠のスター[#「  ㈵ 永遠のスター」はゴシック体]  かわいい女マリリン・モンロー  フランス映画の魂ジャン・ギャバン  脚線美の天使マルレーネ・ディートリッヒ  世界の二枚目アラン・ドロン  不滅のチャップリン   ㈼ 映画、むかしむかし[#「  ㈼ 映画、むかしむかし」はゴシック体]  ドタバタ喜劇入門  ああ、懐かしの連続大活劇  びっくり仰天サイレントからトーキーへ  三大監督、三大名作   ㈽ 素晴しき映画の世界[#「  ㈽ 素晴しき映画の世界」はゴシック体]  ファースト・シーン・あ・ら・かると  漫画映画とウォルト・ディズニー  映画のタイトルについて考えよう  西部劇の神さまジョン・フォード  映画の読み方 [#改ページ]  ㈵ 永遠のスター [#改ページ] かわいい女マリリン・モンロー  はい、みなさん今晩は。  今夜はマリリン・モンローのお話ですよ。まあ、あんた急に起きあがって、ふとんをたたんで、枕も押し入れに入れましたね。  あんた、そんなにマリリン・モンローお好きなの、よかったですねえ。  さあ、ゆっくり聞いてください。 ●妹のようにかわいいモンロー  マリリン・モンローについては、私、なんとなくしゃべりづらいんですね。どうしてしゃべりづらいかといいますと、私のかわいい妹のような気がするんです。それほど、大好きなんです。  ところが、マリリン・モンローといいますと、みんなすぐにヌードだとか、あるいはセックスのシンボルだとか、いやらしいことばっかりいうので腹が立つんです。けれども、今日はマリリン・モンローのほんとうの姿をお話しすることにしましょう。  彼女は、今から十五年も前に亡くなったんですけれども、まるで昨日のような気がしています。一九六二年八月四日、あの夏の暑い晩に、自分の部屋のベッドの上で、なぜかわからないけれども、片手を電話のほうに伸ばしたまま裸で、うつむいて死んでいたんですね。 「睡眠薬をたくさん飲み過ぎてまちがって死んだのだ」、「いやいや自殺なんだ」、「いやいやあの電話は、ケネディにかけていたんだよ」なんていろいろ噂《うわさ》が立ちました。けれどもどんな噂が立とうが、あのマリリン・モンローが三十六歳で死んだなんていうのは、ほんとうにたまらないですねえ。今生きていたら、もっともっと立派な女優になっていただろうと思います。  マリリン・モンローは日本に来たことがありました。ジョー・ディマジオといっしょに。そのとき私は会ったんです。まあ、マリリン・モンローが日本に来たというので、帝国ホテルはいっぱいの人、内も表もいっぱいでした。みんなキャメラを持って大変でした。あの頃は、帝国ホテルの前に小さな池があったんです、プールみたいな。押されて、ジャボーンとはまった人もあるんですね。そのぐらいにえらい人出でした。  私はその頃、映画雑誌の編集長をしておりました。そうして、きれいなきれいな箱に入れた日本の舞扇を持っていってあげましたら、マリリン・モンローは、胸に両手を当てて喜びました。そのかわいかったこと。  そばにディマジオがいました。大きな人ですねえ。ディマジオもにっこりして、「サンキュー、サンキューベリマッチ」といいました。なんともしれんいい夫婦、ああ、いいなあと思いました。その翌日、新聞や雑誌の記者会見があったので、私もノートを持って行きました。  そして、マリリン・モンローがにっこり笑って出て来たときに、ディマジオもいっしょについて出て来ました。さあ、そのディマジオの顔が、初めっからプンプン怒った顔なんですねえ。そうして席に着きました。二人の前のテーブルの上には、マイクがのっとりました。するとディマジオは、黙ってそのマイクをピュッと引きむしって、テーブルの下に入れてしまいました。なぜディマジオがそんなに怒っているのか。  すべての人が「マリリン・モンロー、モンロー、モンロー」「サインをください、サインをください」、あんまりマリリン・モンローにばっかり夢中で、ディマジオにはちっとも注目しないんです。ディマジオなんか突きのけて、マリリン・モンローのほうにばっかりいったんですねえ。この有名な野球王に、みんなが素知らぬ顔をしたんですね。キャメラを、マリリン・モンローにばっかり向けたので、それがディマジオには気に入らなかったのかもしれません。マリリン・モンローは、その様子をハラハラして見ていたんですね。  もうひとつの理由は、二人のほんとのほんとのハネムーンを、二人っきりでいたかったのに、まあ、ファンがいっぱいで、毎日毎日、なんかパーティがあったり、新聞記者のインタビューがあって、それでディマジオは怒っていたんでしょうね。私はそのディマジオの顔を近くで見ました。「ようあんなむずかしい顔をしているな、よくもマイクを取りのぞいたな」と思いました。そのときに、マリリン・モンローは、なんてかわいい顔をしていたでしょう。私たちのほうを見て、にっこり笑って、そうして、ディマジオの顔を見て「あんた、いたずらおやめなさい」といった顔をしたのですよ。そしてテーブルの下のマイクを、にっこり笑って舌を出すようなしぐさで、両手で取り出してテーブルの上に置きました。  それをディマジオは黙って見ておりましたよ。そのときに、私はこの結婚はうまくいかないなと思いました。そのように、マリリン・モンローは、とってもかわいいでした。私は、そのときのマリリン・モンローが忘れられませんねえ。 ●哀《かな》しい少女時代  マリリン・モンローは、一九二六年六月一日に、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。ハリウッドの町に生まれました。いかにも、西部のカリフォルニアの美人の顔をしとりますねえ。こういう顔を、カリフォルニア美人というんですね。キャサリン・ヘプバーンのような顔は、美人とはちょっといいにくいですけど、ニューヨーク美人ですね。キム・ノバクは、シカゴ美人なんですね。  というわけで、この人は私生児、お父さんがいないんですね。この人のほんとうの名前は、ノーマ・ジーン・ベイカーというんです。ベイカーというのは、お母さんのほうの名前なんですね。  お父さんは、エドワード・モーテンスン、そういう名前だったんですが、モーテンスンをマリリン・モンローはつけてないんです。なぜかといいますと、マリリン・モンローが生まれる前に、お父さんは亡くなっていたんだそうです。  これがもう第一の悲劇ですね。生まれたときには実の父親はいなかったんです。そうして、ハリウッドに住んでいましたから、お母さんは、R・K・Oのフィルム・カッターをやってたんですね。フィルム・カッターというのは、フィルムを編集して、ここから向こうは切る、ここから向こうはつなぐ、そんな仕事をやってたんですね。けれども、このお母さんはノイローゼ気味で、ときどき頭が変になるんですね。入院ばっかりしてるんです。ですから収入がほとんどないんです。すごい貧乏だったんですね。  それで親類もないから、マリリン・モンローはあちらこちらと里子にやられるんです。この家からあの家へと、一二軒の家を転々とさせられたんだそうです。里子をすると、月二〇ドルの里親料が入るというので、その月二〇ドルのお金が欲しいために、子供を連れ込んだんですねえ。  そういうふうに、幼年時代を過ごしたマリリン・モンローのことを考えると、なんともかわいそうですねえ。  ところが、もっと残酷なことがあったんです。この子が八つのときに暴行されかけたんですね。そうして、九つのときに孤児院に入れられたんです。食器を片付ける仕事をやりました。それは一ヵ月に五セントの収入になりました。一ヵ月に五セントですよ。  こういう生活をしていたので、とてもつらくて悲しくて、だれかと結婚して、自分の人生を早く浮かびあがらせたかったんですね。それで十六歳で航空機工場の工員さんと結婚したんですね。ジェイムズ・ドハティという人といっしょになりました。相手を好きだったかどうか知りませんけれども、ともかく十六歳で結婚して、それでやっと孤児院から出ることができたんですね。けれども、これはすぐ離婚しました。  この頃に、彼女の写真がいろんな雑誌に出るようになったんです。なぜでしょうね。それにはいろいろわけがあったんです。  まず食うに困ったんです。困っていたそのときにトム・ケリーという写真屋がいまして、その写真屋が、ノーマ・ジーン・ベイカーを使って、カレンダーの写真を撮ろうといったんです。それで彼女は、トム・ケリーのいうままに、五〇ドルでヌードになったんですね。生きるために、五〇ドル欲しかったんですね。このことが、生涯彼女を苦しめたんですね。  そういうヌードカレンダーが出たり、いろんなモデルになったので、それを見て、フォックスが彼女を認めて、週給二五ドルで契約しました。そこでやっと生活の途《みち》がついたんですね。そのときに、マリリン・モンローという名前をもらったんですねえ。これがまた、おもしろうございますね。  グレタ・ガルボとか、チャールズ・チャップリンとか、ダニエル・ダリューとか、そういう芸名には、D・Dであるとか、ブリジット・バルドーのようにB・Bであるとか、C・Cなんて、そんなのがはやるんですね。昔、サイレントの時代には、メリー・マイルス・ミンターという女優がいました。M・M・Mと三つつくんですねえ。マリリン・モンローもそういう意味で、M・Mの名前がつけられたんでしょう。  というわけで、このような経歴が、ずーっと彼女につきまとったんですねえ。 ●生涯ぬぐえなかった陰  この人には、今でもゴシップがいっぱいあって話題になっています。シカゴでしたか、フィラデルフィアでしたか、新聞記者がジョーン・クロフォードと、マリリン・モンローの二人をインタビューするというので、二人ともそれに応じました。ジョーン・クロフォードはちゃんと時間どおりに来ましたが、マリリン・モンローは十五分たっても来なくて、二十五分も遅れてやって来たんですね。ジョーン・クロフォードは、マリリン・モンローが来るまで、新聞記者と雑談してました。そしてやって来たマリリン・モンローのほうを振り向いて「まあ、やっぱり。あんたはね、おからだがご商売ですからね」  といったんですね。衣装を見ますと、マリリン・モンローはイブニングを着てたんです。ジョーン・クロフォードは普通のアフタヌーン着てたんですね。ジョーン・クロフォードは、イブニングを着ているマリリン・モンローを見て、なんともしれん顔をして 「あんたは、おからだがご商売ですからね」  といったのは、あなたはそのからだの曲線を見せるために、時間がきても、一生懸命鏡台の前で、自分の衣装をあれこれと考えていたんでしょうという、あんた、女優じゃないんでしょう、という顔をしたんですね。それが彼女はとってもつらかったらしいですねえ。  なぜ彼女は二十五分も遅れたか。時間に遅れるというこの病気は、ずーっと最後までマリリン・モンローにつきまとったんですね。 「荒馬と女」(一九六一)、この頃はもうマリリン・モンローは一流になってましたねえ。このときにもまた、この病気が出たんです。モンゴメリー・クリフトと、クラーク・ゲーブルの二人を二時間もスタジオに待たしたんです。モンティもゲーブルも、今まで二時間もスタジオで待ったという経験はないんです。相手役がなかなか来ないというときには、さっさと帰ってしまうんですが、このときには、二人とも静かに待っていたそうです。  マリリン・モンローは、なぜそんなことをするのか。ジョーン・クロフォードを待たせ、また、この二人の男優をなぜ待たせたのか。  それが、あとでいろいろわかってきたことは、このマリリン・モンローは、自分は孤児院あがりの、しがないしがない哀れな女だ、ヌードカレンダーにもなった、そんな劣等感にいつもつきまとわれていたんですねえ。  子供の頃に、一度こんなことがあったそうです。里子になって、次から次へと家が変わっていくとき暴行されそうになった。また、寝ているときに、里親に枕を当てられて殺されそうになった。どうしてそんな目に遭うのか知りませんが、よほど貧しい生活のなかの、貧しい悲劇なんでしょうが、それで、はだしでその家を逃げだしたという、そんなおそろしい経歴があるんですねえ。  あれやこれや、そういう幼い時代の暗い思い出や、ヌードカレンダーのことなどが、いつまでも彼女を苦しめたんですね。  ジョーン・クロフォードのような、あんな立派な人といっしょにインタビューを受けるなんて、恥ずかしくてならなかったんですね。ガタガタガタガタ、ふるえたらしいんですね。さあ、そのこわがりが「荒馬と女」のときはもう大スターです。それでも、あのゲーブルと共演するんだといって、家でふるえていたそうです。やっとみんなにせきたてられて、家を出て、スタジオの鏡台の前でも、まだガタガタふるえて、歯の根が合わなかった。それを無理に引っ張り出されて、やっと行ったときには二時間も遅れていた、ということが「ライフ」誌だったかに書いてありましたけれども、マリリン・モンローは、いつまでたっても、その過去の思い出の恐怖にとりつかれた女だったんです。  だから、この人が二度目に結婚したのがディマジオでしたね。彼は一流の野球の選手、大変な人気もの、アメリカのアイドル。あんな強い人といっしょになったら、自分はきっと守ってもらえる、そう思ったんですねえ。子供みたいだったんですね。  そうして、彼と別れてから、今度はアーサー・ミラーという、ほんとうに有名な作家と結婚したんですね。インテリジェンスのあるほんとうのインテリと結婚して、自分のばかな頭を、なおしてもらおうと思ったのかもしれない、いつまでたっても幼い心のままのマリリン・モンローでしたねえ。 ●ディマジオと離婚のもと?「七年目の浮気」 「紳士は金髪がお好き」(一九五三)は、サイレントの頃、同じ題名で一度映画になっているんです。ところが、今度はジェーン・ラッセルと、マリリン・モンローの共演でした。で、この頃は、マリリン・モンローは、まだ映画界では生まれたてのような、まだまだこれからの女優でした。だから、ジェーン・ラッセルのほうが、ずーっと人気がありました。  ところが、ジェーン・ラッセルとマリリン・モンローが共演するんだというので、これが大変評判になりました。さあ、二人は同じ衣装を着けて、同じ格好で、同じステッキを持って舞台で踊るんですね。マリリン・モンローにすると、ちょっとしたテストですね。  そういうわけで、ちょうどこの一九五三年に、私はニューヨークに行っとりました。さあ、ニューヨークのビルディングの看板、あちらこちらの大きなポスターには、ジェーン・ラッセルとマリリン・モンローが同じポーズで立っている。すると道を通る人はそれを見あげて、ジェーン・ラッセルとマリリン・モンローと、どっちがいいと思う? これがその頃の、アメリカのニューヨークのパーティや、電車のなかや、地下鉄での話題だったんですね。  そのように「紳士は金髪がお好き」は、マリリン・モンローにとっては、生きるか死ぬかのこわい作品でした。けれども、みごとに、この金髪のマリリン・モンローは、ジェーン・ラッセルを征服してしまいました。ジェーン・ラッセルよりも、むしろマリリン・モンローで、この映画は大当たりしました。  まあ、これは余談ですけれども、ジェーン・ラッセルは、これですっかり怒ってしまったんですね。フォックスに文句をいったんです。フォックスとしては、ジェーン・ラッセルという大スターを怒らせてしまっては困るので、このあとで、「紳士はブルーネット娘と結婚する」(一九五五)という映画を作ったんです。というような楽屋裏の話があるんですよ。  さて次に「七年目の浮気」(一九五五)。ビリー・ワイルダーのみごとな傑作でしたねえ。これは、ジョージ・アクセルロッドのブロードウェイで当たった舞台劇ですね。そのときの主役のトム・イーウエルが、やっぱり映画でも主役を演じていますね。  まあ、この映画はすごくおもしろかった。楽しかったけれども、これがもとでマリリン・モンローはディマジオと離婚することになったんですねえ。さあ、どんなことでなんのために、離婚することになったか。  それは、この映画でマリリン・モンローの扮《ふん》する人のいい女の子が、地下鉄のあの歩道の鉄板の上に乗って、下を地下鉄の電車が通ると、風でスカートがサアーッと吹きあげられますねえ。クラゲのように、落下傘のように。あれで、彼女は「ああ涼しいわ」といった、あのおもしろいおもしろいシーン。  あれをディマジオが見て、おまえはあんなシーンを撮らしたのかと怒ったんですね。そういうようなことがあったけれども、この映画は、映画としてとてもおもしろかった。  どんなところがおもしろかったかといいますと、ビリー・ワイルダー監督が、マリリン・モンローをさいなむほど上手に使ったんですね。  さあ、この「七年目の浮気」(ザ・セブン・イヤー・イッチ)。イッチというのはむずがゆいこと、それはなんでしょう、浮気のことですね。 「七年目の浮気」というのは、結婚して七年目ぐらいに、そろそろそろそろ、亭主のほうが浮気したくなる、というふうな題名なんですねえ。  トム・イーウエルの扮している、リチャードという男が、妻と子供を避暑にやりました。嫁さんもいなくなったし、子供もいない、ああ、これでほっとしたと思っていると、自分の住んでいるアパートの二階に、きれいなきれいな女の子がやって来たんですね。そこから始まるんですけど、ビリー・ワイルダーはうまいですねえ。  初めてアパートに来た女が、その男の部屋の前の階段を通って、二階にあがっていくようなシーンがあるんです。そこで、まず最初、その女が入って来るところ、足から写して、そうして、階段をあがるところで、腰から写して、それから胸を写すというふうな、いかにもその女の登場を順々に写しながら、まあ、マリリン・モンローのすべてを見せましたね。ビリー・ワイルダーはうまいですねえ。これを見て、このリチャードが、ポカンと口をあけて、まあ、なんてかわいい娘《こ》だろう、おれの嫁さんとはえらい違いだと思ったらしいんですね。  ところが、二階と下ですから、テラスに出ると、両方の顔が見えるんですね。上から、「あら、私、植木鉢を落としましたわ、あんたに当たらなかった?」なんていうんですね。そうして、「今日は暑うございますね」といった話のうちに、この女の子、おもしろいことばっかりいうんですね。「あのね、あたいはね、暑いときには、パンツを冷蔵庫に入れとくの、はくとき冷たくていいの」、それで、下の男はムラーッとくるんですね。そして、空想するんですね。  あの女、いい女だなあ。あの女がこういう格好で出てきたら、おれはどうするだろう。  すると、このマリリン・モンローが、きれいな真っ赤なドレスで、長い長いシガレットホルダーで、煙草をくわえて、しゃなりしゃなりと、モンローウォークでやって来るんですね。そうして、ピアノの前で、ベッタリとこのリチャードに寄りかかるんですねえ。そういう空想と現実、現実はそういう女じゃないんですね。いかにも、ミーちゃん、ハーちゃんみたいなかわいい女です。その空想と現実、このふたつでマリリン・モンローのタイプを見せていくんですね。おもしろうございましたねえ。 ●女優の貫禄を見せた「バス停留所」 「バス停留所」(一九五六)は、あの「ピクニック」(一九五五)の原作者のウィリアム・インジの舞台劇ですね。ですからいかにも、この映画には舞台劇の感覚がありますね。  シェリーという歌手がいるんです。このシェリーは、ハリウッドの女優になりたくて、むずむずしているかわいい女の子ですね。この女の子が、モンタナ行きの長距離バスに乗った。このバスに、もう生まれながらのカウボーイという感じの二十歳《はたち》ばかりの青年が乗っているんですね。ドン・マレイが扮していました。このカウボーイが、シェリーに一目惚《ひとめぼ》れして、まあまあ、ずっとあとを追っかける。すると、シェリーは 「私、カウボーイなんか好きになったりはしないわ。私は芸術家ですよ。ハリウッドに行って女優になるんです。私は、もうここまで来てる、半分以上来たんだから、絶対ハリウッドに行くのよ」  なんていってるんですね。それをこのカウボーイが夢中になってくどく。けれども、このシェリーは、なんといわれてもいうことをきかないんですよ。絶対にいうことをきかない。  けれども、最後の最後、バス停留所のなかで雪に閉じ込められているうちに、だんだんだんだん、愛というもの、恋というものをこのシェリーが知らされていく。このカウボーイが、それをほんとうに教えていくところ、最後にカウボーイが、もうおれはあかんわ、あきらめよう、どうしてもシェリーはハリウッドに行きたいんだなあ、と思うあたりから、また一方、シェリーが、生涯どんなスターになっても、こんな男の人といっしょになれるだろうかと思うあたりから、この最後の段切りが、だんだんよくなってきますねえ。そうして、やがて本気になって 「私、あんたといっしょになるわ」  というあたりから、この青年が喜んで喜んで、出発するバスに乗せるところで、首に巻いていたネッカチーフですか、それをとって女の首に巻いてやる、そのときにシェリーはいいました。 「私、こんなに好かれたこと初めてよ、こんなに愛されたこと初めてよ」  そのときのマリリン・モンローのかわいかったこと。  というわけで、マリリン・モンローは、このシェリーの役をみごとに演じまして女優ここにありという貫禄を示しましたねえ。  マリリン・モンローは、ただのセクシーガールじゃありませんね。 「お熱いのがお好き」(一九五九)、これはごらんになったでしょう。おもしろかったですね。  ジャック・レモン、それから、トニー・カーチス。この二人が女になって、ジャック・レモンなんて、いかにもほんとうの美人になったつもりで、あのしゃなりしゃなりの腰の使い方。  けれども、ビリー・ワイルダーは、にくらしいですねえ。この二人の女装に、マリリン・モンローを共演させるんですから残酷ですね。どんなにジャック・レモンが女らしくなっても、マリリン・モンローの前ではかないませんねえ。しかも、このジャック・レモンとトニー・カーチスが、粋《いき》な粋な女になって、澄ましているところを、マリリン・モンローが、すーっと通るあたり、まあ、にくらしいですね。  というわけで、この作品で、彼女はどんな役をやったか、いかにも女の子、そこらにいる隣のおねえちゃんみたいな感じで出ているんですね。そうして、女ばかりのバンドが、汽車に乗っていくところ、その汽車のなかで彼女は、女にばけているジャック・レモン、トニー・カーチスの前で、プップ・ペ・ドゥというんですね。なんでしょう?  これは、ベティ・ブウプのまねですね。トーキーの初期に、とってもかわいい女の子のかたまりみたいな漫画の主人公がいました。とってもかわいいんです。それを、ビリー・ワイルダーは、マリリン・モンローに演じさしたんです。あれはほんとうはプップ・ペ・ドゥでなく、プップ・ア・ドゥとかいうんですが、発音では、プップ・ペ・ドゥと聞こえるんです。その意味はなんにもないんです。「あら、いいわ」とか、「あら、いらっしゃい」ということなんですね。そういう感じで、マリリン・モンローにベティ・ブウプをやらしたところが、またビリー・ワイルダーの、いかにもオールド・ファン的なところですねえ。 ●アーサー・ミラー脚本の「荒馬と女」 「紳士は金髪がお好き」「百万長者と結婚する方法」(一九五三)みたいな、都会の女を演じたマリリン・モンローに、今度は、ほんとうの西部の一八七五年頃の、ゴールド・ラッシュの、カナディアン・ロッキーを背景にした、いかにもアメリカ映画というのに、彼女を使いましたね。 「帰らざる河」(一九五四)です。彼女は酒場の歌い手で、ケイといいました。ここに開拓をしている農夫がいました。おとなしい、まじめなまじめな男、息子がいます。これをロバート・ミッチャムがやってます。この農夫の親子の情にほだされて、だんだんだんだん、仲良くなっていくマリリン・モンロー。モンローの情夫が馬を盗んで逃げたり、いろいろあって、いかだで激流をどんどんどんどん、逃げていくところ、途中の岸からは、インディアンが、どんどん矢で攻めてくるあたり、いかにもおもしろうございました。  こういう西部劇のなかで、マリリン・モンローを見るのが楽しかった。それと同時に、この「帰らざる河」この題名ですね、「リバー・オブ・ノー・リターン」。もうこの激流に流されたら絶対に生きては帰れないんだ、という題名が示すように、すごい激流に流されていく、そんなマリリン・モンロー。  これはまだシネマスコープがめずらしい頃でした。そのきれいなきれいな大自然のなかのマリリン・モンローは、やっぱりよかったですねえ。  監督は、オットー・プレミンジャー。これもよかった。というわけで「帰らざる河」で、ほんとうのマリリン・モンローの良さが、また出ましたねえ。  マリリン・モンローとクラーク・ゲーブル、それに、モンゴメリー・クリフト、この三人がすでに亡くなってしまった、思い出の「荒馬と女」(一九六一)。これはジョン・ヒューストンの傑作でしたねえ。アーサー・ミラーが、この映画のために脚本を書いているんです。  アーサー・ミラーは、マリリン・モンローのご主人だった人ですね。別れたけれども、アーサー・ミラーは、かつての奥さんのために、脚本《ほん》を書いたんです。おもしろいですね。いかにもおもしろい映画でした。  クラーク・ゲーブルがいいんですね。彼は、野生の馬を生け捕りにして、それを売る商売なんです。その野生の馬を売ってなににするんでしょう。缶詰にするんですね。野生馬を追いかけて捕まえるシーンがあるんです。トラックで追っかけて追っかけて、ロープで捕まえて売る。半年は馬を追っかけて、あとの半年は遊んで暮らしているんです。  リノで離婚して、一人で暮らしているマリリン・モンローとこのゲーブルが知り合って、だんだんだんだん、仲良くなっていくんですね。この二人がいいですねえ。そして、若者のモンゴメリー・クリフトがいっしょにいます。  モンローとゲーブルは、とうとういっしょになって、結婚して、そうしておれの職場をいっぺん見せてやるといって連れて来ます。 「あんた、どんな働き方をしているの」  彼女はそういって、トラックに乗せてもらって、どんどんどんどん、この西部の平原に来ます。野生の馬が走っています。それをずーっと追いかけて、サァーッとロープをかけるんですね。それをゲーブルは、ほんとうに自分でやったそうです。馬にひきずられたところも、自分でやったそうですよ。普通こういう危いところは、代役がやるんですね。  ゲーブルは、この映画のあと、三日目に死んじゃったんですねえ。だから、ゲーブルは「荒馬と女」とともに死んだんですね。まあそれは別にして、お話の続きをしましょう。  モンローが見ていますと、母親が捕らえられたあとを、子馬が走り回っています。それを見ていたら、かわいそうで堪えられなくなってきたんですね。かわいいかわいい馬、きれいなきれいな馬、その馬の足にロープをかける、首にロープをかける、それを見ていたら、彼女は我慢できなくなったんです。そして、大きな大きな声で 「やめて!」  と叫んだんですねえ。すると、ゲーブルは 「これをやめたら、おれは食えなくなる」  といいました。彼女は、そこでトラックを降りてしまいました。 「いや、私、絶対こんなの、見るのもいや」  といって、両手で顔を隠して、飛び降りたんです。男は 「勝手にさらせ、あんな奴のいうことを聞いていたら、おれは食えなくなるんだ」  といって、女をうっちゃらかしておいて、馬を捕まえに行ってしまいました。けれども、あとを振り向いて見ると、モンローのその女が、遠くのほうに突っ立っております。 「いや! いや! 絶対にいや!」  その叫び声がすごいですねえ。ゲーブルは、そこで馬を捕まえるのをやめて、車をバックさせます。そのあたりはおもしろいですねえ。そうして、女が泣いて泣いて泣きわめいているのを、トラックに乗せて、自分の家に帰って行きますね。  この映画の原名は、「ザ・ミスフィッツ」。食い違いですね。男の考え方と、女の考え方とは違うんですね。男は働くためには、こういうこともしなくちゃならないけれども、女のほうは、いくら働くため食うためとはいえ、こんな残酷なことは許されない。ここにこの「荒馬と女」の女の性格がみごとに出て、また女性全体の考え方が出て、マリリン・モンローは、よかったですね。  それに、アーサー・ミラーが、マリリン・モンローのためにそういう女を演じるシナリオを書いているところが、いかにもおもしろいですねえ。  モンローのことは、私、もっともっと話したいのですけど、もう時間がきました。なんて残念なこと。  こんなに長い年月がたっても、まだモンローは、生きている人よりもたくさんの話題になって、ポスターや、コマーシャルになって、私たちの胸に生きていますねえ。  それでは、またお会いしましょうね。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] フランス映画の魂ジャン・ギャバン  はい、みなさん今晩は。  今夜はじっくりと、ジャン・ギャバンの思い出をお話ししましょう。一九七六年の十一月十五日に、あのフランスのみごとな名優のジャン・ギャバンが、パリの郊外の病院で心臓発作で亡くなりました。七十二歳でした。  それを聞いたとき、あのいかにもパリ男、そのパリのにおいが消えたような気がしました。フランス映画の魂が消えた、とまでも思いました。 ●貧しい生い立ち  まず初めに、ジャン・ギャバンが、七十歳のときにうたったシャンソンのこと、お話ししましょう。七十歳になったギャバンがシャンソンをうたうなんて、めずらしゅうございましょう。  ジャン・ルー・タハジという人が作詞しまして、フィリップ・グリーンが作曲しました。このなかでうたっている文句は [#1字下げ]おれは子供の頃は、なんでも知っていた、知っていた、知っていた [#1字下げ]おれはあのことも、このことも知っていた、そう思ったもんだよ [#1字下げ]ところが十八歳になったときに、おれはまた、こんなことも知っていた [#1字下げ]またこんなことも知っていた [#1字下げ]いよいよおれは、世のなかのことは、なんでも知っていると思ったよ [#1字下げ]二十五歳になったときには、おれはもっともっと知ってると思ったよ [#1字下げ]けれども、今考えたならば、おれは地上を百歩も歩いていない [#1字下げ]なんにも知らない、知らなかったんだよ  そういうような意味の、人生の歌をジャン・ギャバンがうたっております。なんとみごとな歌かと、私は聞き惚《ほ》れました。彼は年をとるにつれて、ますます渋く、しかも輝いてきましたねえ。  ジャン・ギャバンは、一九〇四年、五月十七日に、パリ郊外のメリエルというところに生まれました。お父さんは、ミュージック・ホールの芸人で、お母さんも歌手でした。そういう両親をもったジャン・ギャバンは、生まれながらに芸人の魂をもっていたのかもしれませんねえ。そして、きっと貧しかったのでしょう、十四歳の頃から十九歳まで、セメント工場の工員をしたり、人夫をやったり、倉庫係をやったり、下町の労働者として働きました。  なぜ芸人の世界に入らなかったのでしょう。おそらく、お父さんやお母さんと違う生き方、自分だけの生き方をしたかったのかもしれませんね。しかし、やっぱり芸人の血が流れていたのか、お父さんはこの息子を、フォリー・ベルジェールの支配人に紹介し、すぐに採用されて、なんとミュージック・ホールのシャンソン歌手になったんです。そして、オペレッタの舞台にも出ました。  というわけで、ジャン・ギャバンは、ミュージック・ホールでうたっていたときに見出されて、トーキーとともに映画界に入ったわけです。  このギャバンの生まれと青春の入口の道に、やっぱり、今日のギャバンがしみ込んで、育っていることがわかります。  パリっ子で、ミュージック・ホールの空気を吸って青春を迎え、その一方、重労働の世界で、労働者仲間の男の肌を染めた。これが彼の演技のなかに、ひよわな細い一本の線でない、強く厚いものを加えたのだろうと思います。  フランスの、パリの下町を、なめるように知りつくして育ったこのギャバンは、どんどんとその魅力を出してきました。 ●ジュリアン・デュビビエ監督との出会い 「だれにもチャンスが」(一九三一)で、端役としてデビュー。あといろいろに出ましたが、あまりパッとせず、そのあとパプストというドイツの監督が、フランスで作った「上から下まで」(一九三三)になんと一躍主役で出ました。  ジャニーズ・クリスパン、ミッシェル・シモン、ピーター・ローレといった顔ぶれのなかで、ギャバンが主演だったということがとってもおもしろいですねえ。  次にマルク・アレグレが監督した「はだかの女王」(一九三四)、これは、ジョセフィン・ベーカーのみごとな、おもしろいおもしろいミュージック・ホールの楽屋裏の話でした。この作品に、ギャバンが出ていたことは、私には印象がありません。けれどもあとで、この「はだかの女王」のキャストを見ますと、ジョセフィン・ベーカーに次いで、もうジャン・ギャバンが、二番目にキャストに出ています。この人はエキストラから俳優になったんではなくて、脇役から主役になったんじゃなくて、初めっから主役にひき出されているんですねえ。私は感心しました。  そうですねえ。私がほんとうに、ジャン・ギャバンを印象づけられたのは「はだかの女王」のあとに、昭和十一年の二月に封切られた「白き処女地」(一九三四)です。今でもあざやかに思い出しますよ。  ルイ・エモンの小説を、ジュリアン・デュビビエが脚色、監督しています。カナダの森林に住む人たちの物語でした。  なんともしれんきれいなきれいな森、そこにフランスの移民の村があって、その村娘のマリアにマドレーヌ・ルノー、その娘が好きになる森のきこりにジャン・ギャバン、村の娘を恋する都会の青年にジャン・ピエール・オーモンが扮《ふん》しておりました。  ジャン・ギャバン——この俳優は、なんとも妙な顔しとるな、と思いながらも、ジャン・ギャバンの印象ははっきり残りました。それ以来、デュビビエは、ギャバンをつかんで放さなかったんですねえ。その個性をみごとに引き出しました。そして「白き処女地」のあと「ゴルゴダの丘」(一九三五)に出演しました。これはご存知のように、イエス・キリストの物語ですね。  イエス・キリストは、ロベール・ル・ビガンがやりました。とっても品のいい、ほんとうに清らかなイエス・キリストでした。このときにヘロデ王をやったのがアリ・ボールでした。そして、ジャン・ギャバンはなにをやったか。この映画のなかで、いちばんむずかしい役の太守ピラトをやっているんですねえ。ピラトがイエスを磔《はりつけ》にする、その悩みで苦しむ役です。これはなかなかよろしゅうございました。  これに続いて、ジュリアン・デュビビエはいよいよギャバンの個性をつかみ「地の果てを行く」(一九三五)を作りました。これもおもしろうございました。  人を殺した男が逃げて逃げて逃げて、とうとうフランス領のモロッコまで逃げました。そして外人部隊に入りました。そこで同じ仲間の男と、とっても仲良くなっていきます。その男リュカを、ロベール・ル・ビガンが演じています。このリュカは実は刑事なんです。殺人犯のギャバン、そのピエールを追っているんですねえ。それで刑事ということを隠して外人部隊に入り込んでいたんですね。  自分を捕まえようとしている男とも知らず、仲良くなっていくピエール。  やがて、モロッコの女と恋をして、二人は結婚します。このモロッコの女、顔に入れ墨をした、字ひとつ書けない、とっても野性的な女、この女をアナベラがやっておりました。そのうちにピエールは、リュカが自分を追う刑事であることを知ります。そんなとき、戦いが始まり、ピエールは、弾に当たって死にました。リュカは泣きました。殺人犯と刑事の間に友情が生まれていたんですね。  悲しみながら死体を葬って、遺品を持って、モロッコの女を訪ねる、そんなストーリーでした。この「地の果てを行く」は、いかにもデュビビエらしいすばらしい映画でした。そしてギャバンもよかったですね。  さあ、その次が「我等の仲間」(一九三六)です。これもよかったですよ。  五人の仲間がいます。みんなゴロゴロ遊んでいます。その仲間にジャン・ギャバンも入っています。ところが、この五人の仲間に、あるとき一枚の富《とみ》クジが当たったんです。一〇万フラン、さあ大変です。みんな喜んだ喜んだ。それでパリの郊外に居酒屋を作ろうということに相談がまとまりました。  土地を見付けた。さあ、いよいよ家を建てることになりました。この五人の仲間がいいんですねえ。  ジャン・ギャバンは、シャルル・バネルの扮している男と、特に仲がいいんです。ところがこの二人の間に、ビビアンヌ・ロマンスの扮している女が入り込んでくるんですねえ。この女がどんどんどんどん、ジャン・ギャバンを誘惑するんです。また一方でシャルル・バネルを誘惑するんですねえ。そのうちに、この二人の男の間が、だんだん悪くなっていって、我等の仲間の、このパリ郊外の居酒屋の夢が崩れていく、という映画です。  この作品のジャン・ギャバンがよかった。シャルル・バネルもよかった。ビビアンヌ・ロマンスの、このなんともしれんエロティックな女の演技もみごとでしたね。  というわけで、デュビビエは、ギャバンをどんどんどんどん、磨いていきました。そうして、あのみごとな、みなさんご存知の「望郷」(一九三六)を作ったんですねえ。  これは「ペペ・ル・モコ」が原題ですね。アルジェのカスバが舞台です。ここはもう、迷路のようなゴタゴタした町です。ここへ逃げ込むと、警察も手を出せないんですねえ。ですからカスバのなかでは、ペペ・ル・モコは生き生きとしているんですね。ある日、パリからやってきた美しい女に出会いました。この女にミレーユ・バランが扮しています。その女がパリへ帰る。ギャバンはどうしても、もうひと目会いたいと、カスバを出るんですねえ。そして捕らえられてしまいます。  波止場の鉄柵に、手錠をかけられたギャバンがつかまって、船に乗って去っていく女に向かって叫ぶ、あのラストシーンは忘れられませんねえ。そして彼は手首を切って自殺するんですね。  この「望郷」で、ジャン・ギャバンは大変な人気を得ました。ペペ・ル・モコといえばジャン・ギャバン、ジャン・ギャバンといえば、ペペ・ル・モコ、というようになったんですねえ。 ●ジャン・ルノワール監督の「大いなる幻影」  次にジャン・ギャバンが出会ったのが、ジャン・ルノワール監督です。彼は「どん底」(一九三六)で、ジャン・ギャバンに泥棒のペペの役をやらせました。あのゴーリキーの名作ですね。そして男爵には、ルイ・ジューベ。ルイ・ジューベといえばフランスの名優、神さまみたいな人です。そのジューベと、ギャバンを共演させたということは、どんなにルノワール監督が、ギャバンをかっていたか、よくわかります。  次いで、ルノワールは「大いなる幻影」(一九三七)に出演させました。この作品は、内容が反戦的だというので、日本では戦前は何度も封切りのチャンスを失い、ズタズタに切られて、ほんとうの姿は見られなかったのですが、最近、やっと完全なフィルムで見ることができました。  さあこの「大いなる幻影」に出ている、ジャン・ギャバン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ピエール・フレネー、なんと豪華な顔ぶれでしょう。  ピエール・フレネーは、フランスの舞台の名優です。シュトロハイムは、いわずと知れた一流監督であり、映画の歴史に大きく輝く名優でもあります。この人たちと共演したんですねえ。ルノワールが、いかにギャバンを評価していたかよくわかります。  ギャバンとフレネーは、第一次大戦中のフランスの航空隊員です。敵を偵察中に撃ちおとされて、ドイツ軍に捕らえられました。そして捕虜収容所に入れられる。そこにはフランス人もいれば、イギリス人もいます。この捕虜たちが一生懸命になって、脱走するために地下道を掘っています。  ところが、それが発見されて、ギャバンはもっと奥地の古い城のような、もう絶対に脱走できそうにもない牢獄《ろうごく》に放り込まれたんですね。  ギャバンとフレネーと、もう一人の中尉と三人でまたまた脱獄を謀ります。ところで、この古い城のような、がっちりした収容所の所長が、かつては有名なドイツの貴族で、今はけがをして、あごに金属製の環《わ》をはめた、廃人同様の将校なんですね。シュトロハイムがやっています。このドイツ将校と、フレネーはお互いに貴族出身というので、友情を感じていくんですが、このあたりの描き方もみごとでしたねえ。  こういうように、敵と味方で、友情がわくというのは、当時の日本では、だめだったんですね。あまりにも敵愾心《てきがいしん》がないというので、無残にカットされたんです。  やがて三人は逃げます。しかし、フレネーはあとの二人を逃がすために、別の方向に向かって、城壁の上に立って、わざと笛を吹きます。収容所長は「そんなことをして、なんということをするんだ。おまえを殺さなくちゃならないじゃないか」と、目を閉じるようにして、彼は、フレネーの足もとを目がけて弾を射ちました。  その弾は、胸に当たって、フレネーは死んでしまいました。その間に二人は逃げのびていきます。  シュトロハイムの収容所長は、フレネーのフランス将校の死体を見て、この古い城のなかに、ただ一本だけ咲いている自分の部屋のアオイの花を、はさみで切りました。冬なので、どこにも花は咲いていない、このドイツ将校は、敵の将校に、その一本の花を手向けました。このあたりも、とてもきれいでした。  二人は逃げて、逃げて、けんかしながら逃げて、疲れ切って、あるドイツの農家にたどりつきました。もうここで見付けられても仕方がないと思いました。この家には女と小さな子供がいました。この農婦の夫も戦争で亡くなって、女手ひとつで働いています。この農婦にはデイタ・パーロが扮しています。そして二人はここにかくまわれました。  やがてこの農婦と、ギャバンの間に、ほのかなほのかな愛が芽生えていきます。二人は元気を取り戻して、再び逃げていくときに、ギャバンはいいました。 「おれはきっと、ここに帰ってくる。平和がきたら、必ずここに戻ってくる」  そういったときに、相棒がいいました。 「それはなあ、大いなる幻影だよ。人間が、戦争をしないでおられるものか」  その言葉が厳しく、画面からあふれました。二人の逃げていく姿を、小さな子供を抱いて、ドイツの農婦は窓からじっと見ています。ドイツとフランスの国境を越えた愛がありました。  二人は雪のなかを逃げる逃げる。あと少しで国境だ。そのとき、ドイツの兵隊が一〇名ほど巡邏《じゆんら》しておりました。そして二人を見付けました。 「敵だ!」  と、隊長が叫びました。遠くを、二人が転ぶように逃げて行きます。 「銃を構え!」  兵隊は銃を構えました。そのとき、二人はギリギリに国境を越えたんですねえ。隊長は急いでいいました。 「撃つな!」  この映画はここで終りますが、それはなんともしれん、人間愛にあふれた、みごとなジャン・ルノワールの名作でした。 ●かずかずの名作、その面影  さあ、ではギャバンが出演した作品を次々にお話ししましょうね。「愛慾《あいよく》」(一九三七)、ジャン・グレミオン監督です。浮気な女に、めちゃくちゃにされる男の話でした。男はとうとうその女を殺してしまいます。その女を「望郷」のミレーユ・バランがやって、なんともしれん悪女を、演じておりました。  マルセル・カルネの「霧の波止場」(一九三八)がありますね。脱走兵のギャバンが、ネリーという女と仲良くなります。結局は、やくざに撃たれてギャバンは死ぬのですが、港の雰囲気がすごくよかったですねえ。  このあと、ルノワールは、なんとギャバンを使って、エミール・ゾラの「獣人」(一九三八)を映画にしました。とにかく、なにか知らないけれど、親の遺伝で発作が起きるんですね。そうなると女を殺したくなるんです。そういう病気に取り付かれた、鉄道の機関士の悲劇でしたね。こわい作品です。ギャバンはこの機関士になりました。  それから「珊瑚礁《さんごしよう》」(一九三九)、「夜霧の港」(一九四二)、ルネ・クレマンの「鉄格子の彼方《かなた》」(一九四八)、この作品も、なんともしれんよかったですよ。 「港のマリー」(一九四九)、「夜はわがもの」「快楽」(一九五一)。  思えばずい分出ていますねえ。そしてやがて「愛情の瞬間」(一九五二)という、ジャン・ドラノアの作品で、ギャバンはいよいよ、本格的な俳優になってきます。  夫と妻と、妻の恋人だった青年との三角関係で、青年は自殺します。夫にジャン・ギャバン、その妻にミシェル・モルガン、青年には、ダニエル・ジェランでした。思い出しますね。  それから「現金《げんなま》に手を出すな」(一九五二)、「フレンチ・カンカン」(一九五四)。  それから「われら巴里《パリ》っ子」(一九五四)です。マルセル・カルネの監督で、パリの下町の情緒がよく出ておりました。引退した拳闘家をギャバン、その嫁さんをアルレッティ。この夫婦の粋《いき》なこと。そこに入ってきた青年を一生懸命に、一人前の拳闘家に育てようとかわいがるところ、おもしろかったですね。アルレッティが嫉妬《しつと》します。青年は、ローラン・ルザッフルがやっています。  続いて「ヘッドライト」「殺意の瞬間」(一九五五)。まだまだありますねえ。「赤い灯をつけるな」「殺人鬼に罠《わな》をかけろ」(一九五七)。 「レ・ミゼラブル」(一九五七)で、ギャバンは、ジャン・バルジャンをやっています。ジャベール警部は、ベルナール・ブリエでした。  このあといよいよ「可愛い悪魔」(一九五八)で、ブリジット・バルドーとの共演です。ギャバンは弁護士で、その奥さんがエドウィジュ・フイエール。とてもいい夫婦でした。ギャバンが、なんともしれんフランスの香りを放って、いい中年男を演じました。  この夫婦の間に、ブリジット・バルドーのいかれた女が入り込んできます。彼女は宝石店に盗みに入って、見付かり、その店主の妻をスパナで殴って、逃げたんですね。この女の弁護士になったのがギャバンです。弁護しているうちに、だんだんと心を奪われていく、その心の迷うところがみごとでしたねえ。  やがて、みなさんよくご存知の「地下室のメロディー」(一九六三)、「シシリアン」(一九六九)、「暗黒街のふたり」(一九七三)というようにアラン・ドロンを相手に、ギャングの役を渋くやっていますね。 ●中年の渋い魅力がいっぱい  ジャック・ベッケルが監督した「現金に手を出すな」。これはパリの下町を舞台にした、みごとなギャング映画です。  ジャック・ベッケルという人は、リアリズムというのか、その地方色というのか、それをとてもみごとに出す人でした。  ここに二人のやくざな男がいました。マックスという男をギャバン、リトンという男をルネ・ダリがやっています。この二人が五千万フランを盗み出し、ほとぼりのさめるまで、隠しておこうとしたんです。ところが、リトンには情婦がいたんですね。それをジャンヌ・モローがやっています。ジョジという名前のキャバレーの女で、とてもきれいでした。リトンは、大金が手に入ったので、うれしくてうれしくて、その情婦のジョジにしゃべっちゃいました。そのことを、ギャバンは知りません。  ところが、このジョジには、もうひとり、男がいたんですね。そしてその男にしゃべってしまいます。さあ、それがもとで、この映画は大変なことになっていきますね。このもうひとりの男は、リノ・バンチュラがやっています。  彼は、これで初めて出たんですよ。五千万フランをとったり、とられたり、結局リトンは死んでしまい、五千万フランもあきらめてしまうという話ですが、この作品のおもしろさは、パリの下町の味ですね。下町のキャバレーの描き方がとてもみごとでした。これで、ジャン・ギャバンのほんとうの体質が、みごとに出ましたねえ。あのギャングの生活がよく出ておりました。  次に、「フレンチ・カンカン」のことをちょっとお話ししましょう。  今までは、顔役だとか、下町の親分だとか、なんとはなしにそういうタイプが多かったのに、この作品では、すっかり変わった役をやりましたね。  一九世紀末のパリのムーラン・ルージュを作った男、その興行師のダングラールに扮しています。しかもこれは、マリア・フェリックスとか、フランソワーズ・アルヌールなど、女、女、女の世界です。そのなかでギャバンが、フレンチ・カンカンを新しいショーとして女たちに踊らせる、それをいかにも貫禄をみせてやりました。  これにはなんと、シャンソン歌手のパタシューから、アンドレ・クラボー、ジャン・レーモン、それにエディット・ピアフなど、いっぱい出演しています。こういう華やかな映画に、ジャン・ギャバンは、完璧《かんぺき》に一流の主役をつとめています。私はそういうギャバンに脱帽したいですね。 ●わびしく消えた恋「ヘッドライト」  ジャン・ギャバンといいますと「望郷」のペペ・ル・モコ、とそう思われるでしょうけれど、彼のほんとうの代表作は、「ヘッドライト」かもしれませんね。  アンリ・ベルヌイユ監督で、フランソワーズ・アルヌールがまた共演しとりますね。  五十歳に手のとどくトラックの運転手ジャンは、子供もいますが、貧しい貧しい家庭、陰気な陰気な嫁さん。なんともしれん陰惨な寂しい家庭の亭主です。  このジャンはトラックの長距離運転をやっております。その途中に、ちょっと一服する食堂があるんですね。その食堂に、フランソワーズ・アルヌールの扮する、かわいいかわいい小娘がいたんです。食堂給仕ですね。その娘と、この五十男のジャンが、だんだんだんだん、仲良くなっていくところ、この男が、生まれて初めて、恋を知っていくところ、ギャバンはみごとでしたねえ。  やがて二人はいっしょになって、とうとうその娘は妊娠してしまいました。さあ困った。そのときに、このトラック運転手は、なんと、仕事を失ってしまったんです。金が入らなくなった。困った。  仕方がなく、とうとう堕《お》ろすように頼んで、医者に連れていって、手術をしてもらいました。その翌日、幸運なことに、また仕事が見付かりました。  喜んで喜んで、これからこの娘といっしょに暮らすんだ、そう思って、この子供を堕ろした娘を、トラックに乗せていくところ、まあ、なんともしれんこの二人よかったですよ。  しかし、この娘は、トラックのなかでだんだん弱っていきます。そして、そのいつもの宿屋へ着いたときには冷たくなっていました。  中年男の哀《かな》しみがよく出ていて、ギャバンはみごとでしたねえ。アンリ・ベルヌイユ監督の、これは代表作にもなりました。  秋の枯れ葉が散って、冬を迎えた曇り日で終る感じの、なんともしれん名作でした。 ●悪女に苦しむ「殺意の瞬間」  それから、もうひとつ、これだけはどうしても、みなさんにお伝えしなければがまんできない、ジャン・ギャバンの名作、ジュリアン・デュビビエの名作があります。 「殺意の瞬間」。ごらんになりましたか。「ヘッドライト」のあとの作品です。  ジャン・ギャバンは、パリの中央市場のなかの、レストランの経営者に扮しています。レストランを経営してますから、調理場に入っていって、自分で鍋《なべ》のふたをあけて、全部調べます。頭に、コックの帽子をかぶって、エプロンを着け、調理場を見回しているところ、いかにも彼が料理のなかに生きてる感じがよく出ていました。  ところが、あるとき、一人のおとなしい、あわれな、なんともしれん、かれんな感じの娘が訪ねてきたんです。  話を聞いてみると、その娘は、ギャバンが、二十年前に別れた女の娘なんですねえ。けれども自分の娘じゃありません。別れたあとで、その女にできた子なんですね。その娘がやってきて、いろんな話をしてるうちに、かわいそうだな、おれのところにおいてやろうと思うんですね。  このジャン・ギャバンには、医学生の一人の養子がいるんです。ジェラール・ブランが扮しています。この養子と、この娘をいっしょにさせたらいいなあと、ちょっと、そう思うんですねえ。ギャバンは五十歳ぐらいです。  ところが、この娘というのが、大変なしたたかもので、その養子を誘惑すると同時に、このギャバンをも誘惑しだしました。  そうして、ギャバンとその養子をけんかさせるようなことをしました。なぜそんなことをしたんでしょう。そのわけがだんだんわかってきます。この娘のお母さんは、酒の中毒で、頭が半分狂っているんです。そして、この娘も、いろんな男と関係があって、そんなことを全部隠して、いかにも純情な純情な娘に化けて、ギャバンのレストランに乗り込んでいって、ギャバンを殺して、養子といっしょになり、このレストランを乗っ取ろうと考えていたんですね。そういう、こわいこわい女、この小娘には、ダニエル・ドロルムが扮しています。  ジャン・ギャバンが、どんどんどんどんこの娘に、心がひかれていく、そこのところがこわいですねえ。  ジャン・ギャバンは、この娘をほんとうにかわいい子だなと思っています。すると、娘のほうでは「あなたの養子に毎晩毎晩、くどかれる、それがつらくてつらくて、ほんとにいやだ。私はお年寄りのほうが好きなんです」  そんなことをいわれて、本気になって自分の女房にしようかと思って、田舎の自分のお母さんところへ連れて行きます。そこがいいですね。  中年男が、小娘を連れて、田舎のお母さんのところへ行きました。すると、お母さんはこの小娘をひと目見て、女の勘でこの娘はいけない、といいました。しかし、ギャバンはそんなことはない、といったんですね。  それから、いろいろあって、その娘はギャバンを殺すつもりがうまくいかなくて、養子のほうの、ジェラール・ブランを、車に乗せたまま、川に落として殺しちゃうんです。こわい女です。  ところが、その養子には、いつも連れている犬がいたんですね。その犬がすべてを見ているんです。その犬がこの小娘を、カテリーヌというこの娘を、どんどん追いかけて、やがて、この犬によって殺人のすべてがわかって、ジャン・ギャバンはこの娘の母親に会いに行きます。  さあ、その母親、かつて二十年前の自分の女、もう、ほんとうにドロドロの女になっています。その女を、真正面で見る、そこへ、純情娘に化けていた娘がやってきます——。そのどたん場、三人のその姿、こわいですねえ。  そこへ犬が入ってきて、ワンワン吠えて、カテリーヌを追いかける。そうしてカテリーヌは逃げて逃げて、自分の部屋に入った、犬が飛び込んだ——。そうして、その養子がかわいがっていた犬に、かみ殺されてしまうんです。  これは、ジュリアン・デュビビエの、むごい映画でした。  まるで、歌舞伎の鶴屋南北の物語のようでした。 ●フランスの青春、ジャン・ギャバン  思えば、ギャバンとは四十年の付き合いでねえ。何度も何度も引退の噂《うわさ》をたてましたが、彼はやめませんでした。  日本で公開された、新しい作品は、ソフィア・ローレンと共演した、アンドレ・カイヤット監督の「愛の終りに」(一九七四)です。  そして最後の作品は、日本では未封切の、「聖なる年」(一九七四)になりました。これはフランスでとても当たりました。  ジャン・ジロー監督で、ジロータッチの喜劇スタイルの映画です。  ジャン・クロード・ブリアリと、ダニエル・ダリューが共演しています。懐かしいですねえ。  ギャバンは、五億フランの金を隠して、入獄している囚人です。その同じ牢獄に、神学者という名前の、ジャン・クロード・ブリアリが入っております。その二人が友だちになって、計画をたてて脱獄する、そういうストーリーの映画なんですね。やっぱり、いかにも、ジャン・ギャバンらしい映画、それが彼の最後になりましたねえ。  このフランスの名優、ジャン・ギャバンがパリ郊外のアメリカン病院で亡くなりました。その二、三日前に血圧が高くなって、なんとはなしに入院したのに、ついに帰らぬ人になってしまいました。  ジュリアン・デュビビエが亡くなって、今度は、ジャン・ギャバンが亡くなって、ほんとうに、フランスの青春が消えたような気がしましたねえ。  ギャバンこそ、死ぬ年まで映画に出続けた、まぎれもないほんとうの、映画の俳優でした。死ぬまで、いつも主役級で、彼の演技を見ていますと、その貫禄、その立ち姿だけでも、みごとですねえ。  私は、ほんとうの映画の俳優という意味で、ジャン・ギャバンがとっても好きでした。  さあ、みなさん、一〇〇本近い作品に、主演級で出演して、映画とともに生きた、ジャン・ギャバンの生涯、いかがでしたか。  私も、ここでジャン・ギャバンのこわいろを使って、彼らしい言葉をひとつ、お送りしましょう。 「おれはひと足先に行くが、おまえさんたちは、なにも急ぐこたあ、ねえんだぜ」  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] 脚線美の天使マルレーネ・ディートリッヒ  はい、みなさん今晩は。  今夜はあの懐かしい、懐かしい、マルレーネ・ディートリッヒのお話をしましょうね。  あなたディートリッヒご存知ですか? なに、全然知らない。まあなんて珍しい人でしょうね。それではじっくりと聞いてくださいね。 ●万博で来日したディートリッヒとルネ・クレール  お若い方のなかには、マルレーネ・ディートリッヒを知らない、なんていう人がいるかもしれませんね。でも映画は見てないけれども、映画史には必ず出てくる女優さんですから、名前だけはご存知の方も多いでしょう。  オールド・ファンにとっては、忘れられない人ですね。映画史、映画女優史では、マルレーネ・ディートリッヒは、欠くことのできない女優ですねえ。その妖艶《ようえん》な脚線美のすばらしかったこと、そして驚いたことに、なんと七十歳を過ぎても、なおその美しさは衰えていないんですねえ。  昭和四十五年九月に、大阪で万国博覧会が開かれて、あのフランスの有名な監督のルネ・クレールと、大女優のマルレーネ・ディートリッヒが招かれましたね。もう大変な人気でした。私はそのときにルネ・クレール監督の講演会の司会役をやらされておりました。それでルネ・クレールにずっと付き切りでしたのでディートリッヒのほうには顔を出すことができませんでした。  で、クレールはディートリッヒの主演で映画を一本撮ってるんですね。ですから私は、クレールが、ディートリッヒに会いましょうと、いうと思ったんです。  こういう監督の場合、私のほうから会いましょうなんていいにくいんです。こちらから誘導できません。ほんとうに会いたければ会うし、会いたくなければ会わないし……。  きっと、「今晩、あの懐かしい、いっしょに仕事をしたディートリッヒに会いましょう」というと思ったんですね。けれども、クレールはとうとう一言もディートリッヒのことをいいませんでした。  そういうわけで、クレールに付き切りで万博に来ていながら、実際にディートリッヒのすぐそばにいながら、その姿も見られなければ、歌も聞きそこなってがっかりしました。そういうわけで、ディートリッヒのほうでも、万博でワンマン・ショーをやるについては、クレールが来ていることを知っているはずですが、「クレールさんに会いましょう」とはいわなかったらしいんですねえ。  ここらあたりがデリケートでおもしろいですねえ。クレールはディートリッヒに会いたくなかったのかもしれない。あるいは、ディートリッヒはクレールに会いたくなかったのかもしれない。しかし、そうともいえませんねえ。このくらいの人たちですから、お互いに相手のことを考えるんですね。クレールは講演に来ている。ディートリッヒはワンマン・ショーに来ている。お互いに神経をいっぱい遣って日本に来ているのだし、お互いが相手の時間のなかに割り込むのを遠慮している。あるいはいやがってるかもわからない。  たとえば、クレールは遠慮したのかもしれない。もし会えば昔の思い出話になるでしょう。過去のことをあんまりしゃべるのは、今のディートリッヒが、喜ばないのじゃないか——これは私の憶測です。けれどもなぜでしょう。ディートリッヒはいつまでもいつまでも美しく若くいたい。その女《ひと》に十年前、二十年前のことを思い出させたりしてはわるいと、クレールは考えたのかもわからない。  まあ、あれやこれやで、私はクレールに、ディートリッヒに会いませんかとは一言もいえませんでした。  というわけで私は、ディートリッヒに会えるチャンスを逃しましたが、あとで聞きましたら、まあ大変な人気と感激だったそうです。そのときの記者会見の様子をちょっと聞きました。記者会見のとき、パチパチ、パチパチ写真撮ったんですね。あっちからもこっちからも。それでディートリッヒは怒っちゃったんですねえ。部屋から出て行ってしまいました。キャメラやめてください、といったんですね。カメラマンたちがあやまって、改めて会見をはじめた。「ディートリッヒは気むずかしいんですね」そういう声も聞きました。けど、そうじゃありませんねえ。女優として自分を非常に守るということですね。  たとえば、いろいろな俳優が日本に来ますが、人気のあるアラン・ドロンなんかは男ですから、どんどんどんどん撮らしても、割に平気なんです。ジュリアーノ・ジェンマだとか「エクソシスト」(一九七三)の若い女の子だとか、「個人生活」(一九七四)のアラン・ドロンの相手役の女の子のシドニー・ロームなんか、新しい人はいくら撮られても平気でにこにこしています。  けれども、ディートリッヒくらいになると、なにも今更売り出す必要はありませんし、撮るなら撮るで、ちゃんと撮るようにして撮ってほしいと、キャメラに対して厳しくなるんですねえ。  私、こんなこと思い出しました。昔、ウィリアム・ホールデンが来たときに会見して、写真を一五枚撮りました。そしてその一五枚のカラー写真をネガのまま見せましたねえ。ホールデンは、じーっと見て、「これは使わないでください。これはどうぞ。これは使わないでください」まあ厳しい顔。やっぱり最高のタッチ、最高のポーズ、最高の場所、レンズの角度、それで選びました。あごにしわが寄っていたり、二重あごに写っていると、とてもいやがりました。  ホールデンさえそうですから、ディートリッヒがいやがるの当たり前ですねえ。というわけで、ディートリッヒは、ちょっと怒りましたけど、そのワンマン・ショーはとてもすばらしいものだったそうですよ。 ●テレビで見たワンマン・ショーの美しさ  それからのち、ロンドンかどこかの放送局で撮った、ディートリッヒの、ステージのフィルムが、NHKで放送されました。さあ、それを見たときにびっくりしましたねえ。「フォーリング・イン・ラブ・アゲイン」のきれいなメロディが流れて、バックに若い頃のディートリッヒの線画が大きくかいてある、さっぱりとした舞台装置で、ディートリッヒはきれいなファーコートを着て出てきました。  私はその瞬間に、ああ、もうディートリッヒも自分の脚の線を隠すようになったな、と思いました。そして、おそらくうたいながら、あのすそまで引きずっているファーコートの間から、そっと脚をなかば見せるんだろう、もう七十歳も間近い年になって、看板だったきれいな脚を全部見せられなくなっているんだろう、と思っておりました。  歌はきれいでした。みごとな歌でした。  やがて、第二部に入ったとき、ディートリッヒはそのファーコートを、さっと脱ぎましたねえ。さあ、びっくりしましたねえ。やっぱり全身と脚の線を見せました。全身をきれいなきれいなレースの、からだにぴったりのイブニングドレスに包んで、私はまだこんなにきれいですよ、という感じで見せましたねえ。そうして、そのときうたった歌のきれいだったこと、みごとだったこと。  というわけで、ディートリッヒは私たちにまだまだ衰えていないその美しさを、あふれんばかりに楽しませてくれました。このテレビのワンマン・ショーが終ったあとで、私のところに、たくさんの人から電話がかかってきました。まず最初は、私の姉でした。もう七十歳にもなる姉が涙声でいいました。「ディートリッヒよかったですねえ。前より貫禄がありますねえ。あんなにきれいで、なんてすばらしいんでしょうねえ……」まあ、自分の姉妹《きようだい》がうたったように身びいきで、泣きながらほめました。  次の人も、その次の人もみんな、「淀川さん見ました、見ましたよ、なんていいんでしょうねえ」受話器の向こうで、もうたまらなくなって話しかけてくるのがわかるのです。  こういう人たちはみんな六十歳、七十歳の方でした。ディートリッヒの衰えない美しさ、豪華さにびっくりしたんですね。それを今見られたという、そのうれしさですねえ。ディートリッヒはそんなに、みんなを感激させました。 ●マルレーネ・ディートリッヒの誕生  さあ、ここでマルレーネ・ディートリッヒのことを、みなさんと勉強してみましょうね。この人の本名は、マリア・マグダレーネ・ディートリッヒといいまして、ドイツ人です。一九〇一年の十二月二十七日に生まれましたが、ある伝記の本を見ますと、一九〇四年となっているんですねえ。まあどちらでもいいですけれど、ディートリッヒとか、メイ・ウエストとか有名な美人女優の経歴はどんどん生まれた年が変わってくるんですねえ。ですからほんとのところはわかりません。どちらにしても七十歳はとうに過ぎましたねえ。  で、生まれたところは、今日の西ドイツのシェーネベルクです。お父さんはルイス・エーリッヒ・オットー・ディートリッヒといって王立プロシャ警察の将校でした。お母さんはベルリンの一流の宝石店コンラート・ヘルシンクの娘で、ウイルヘルミナ・エリザベート・ロゼフィーネというんですね。この夫婦の二番目の娘として生まれたわけです。彼女はゲルマン流の非常に厳格な教育を受けて、少女時代には家庭教師がいまして、英語とフランス語の勉強をしました。  この人は非常に貴族的な育ちなんですねえ。ところが、その少女時代に父が亡くなり、お母さんは近衛《このえ》師団勤務のエドアルド・フォン・ロンショという軍人と再婚しました。そういうわけで、二度目のお父さんも軍人関係ですね。この頃から彼女は、ピアノとバイオリンのレッスンを受けました。  ところが第一次世界大戦の終り頃に、二度目のお父さんも亡くなりました。  お母さんは、この娘をベルリンの国立音楽学校に入れました。お母さんは娘を音楽家にしようと思ったんですねえ。ところが、彼女は左手を痛めてしまい、音楽家の道をあきらめました。そして、お母さんの反対を押し切って、マックス・ラインハルトの主宰するドイツ演劇学校に入ろうと思って試験を受けました。マックス・ラインハルトといいますとドイツで一流の、第一級の有名な演出家です。ところがまあ、その試験に彼女は不幸にして落第したんですねえ。  そして今度は、演劇志望のあまり巡業歌劇団に入ってしまいました。このときに「マルレーネ・ディートリッヒ」という名前で舞台にあがりました。  ところが、二十一歳のときに、彼女はまたベルリンに戻ってきまして、またラインハルトのドイツ演劇学校の試験を受けて、ついに入学しました。なかなか、しっかりしていますねえ。  それから在学中に映画のほうから話があって、ちょっとした役で出ました。二十二歳のときです。その映画の監督をしたのがルドルフ・ジーバーですが、この人と結婚してしまったんですねえ。二十三歳のときです。そうして翌年には女の子が生まれてマリアと名付けました。  というわけで、マルレーネ・ディートリッヒはたくさんのドイツ映画に出ました。オールド・ファンの方のなかには、「嘆きの天使」(一九三〇)が彼女の第一回作品かと思い違いをしている人も多いので、ちょっと題名だけでもあげていってみましょうか。 「ナポレオンの弟」「愛の悲劇」「路傍の男」(一九二三)、「人生への跳躍」(一九二四)。それから「喜びなき街」(一九二五)には、グレタ・ガルボといっしょに出ています。そう知ると、今思えば、この作品は大変な映画だったんですねえ。  そのあとで、リア・デ・プティーが主演する「マノン・レスコー」(一九二六)に出ました。それから「モダン・デュバリー」「元気を出して、シャルリー!」(一九二六)、さらに「奥様は子供を欲しがらない」(一九二七)、軽喜劇の「おふざけ男爵」(一九二七)のほか「彼の大ばくち」「カフェ・エレクトリック」(一九二七)と続きますが、ほとんど日本に入ってきておりません。  次に「オララ姫」(一九二八)で初めてディートリッヒが主演になりました。それから歌でも知られる「奥様、お手をどうぞ」(一九二九)では、ディートリッヒとハリー・リートケが主演しています。そのあと「三つの愛」「人非人たちの船」「婚約時代の危機」(一九二九)というふうに出演していたんです。 ●「嘆きの天使」でスターの座に  ところでドイツ人の映画愛好青年に、ジョセフ・フォン・スタンバーグという男がおりまして、貧乏してました。早くからアメリカへ渡り、八百屋さんで働いておりました。一生懸命にお金をつくり、ついにジョージ・K・アーサーという当時三流の芸人と協力して、「救いを求める人々」(一九二五)という映画を作ったんですね。そしてチャップリンのところへ持っていって、「頼みます、頼みます」「見てください、見てください」。お百度を踏みました。ようやくチャップリンが「救いを求める人々」を見て、「うーん、これはいい」といってくれて、ユナイトから封切りました。  これでスタンバーグはいっぺんに有名になって、パラマウントがスタンバーグを招きましたね。それからはジョージ・バンクロフト主演のギャング映画などを撮りまして、えらい人気が出てきました。こうなると今度は、ドイツのウーファーがその人気に目を付けて、スタンバーグを招きましたね。錦を飾って故郷に帰ってきたわけです。そして監督することになったのが「嘆きの天使」(ブルー・エンジェル)です。この主役がエミール・ヤニングスと決まったのですが、相手役に困りました。ローラ・ローラという歌い女《め》、キャバレーの女、それに困りました。いろいろ考えてアメリカのフィリス・フェイバーというブロンドの女優を使おうということになって、アメリカへ連絡しました。しかしフィリスはお金持と結婚して、映画にはもう出ないといいました。  さあ、困ったなあ、困ったなあといっているときに、ドイツのある作家が、今舞台でうたっている、マルレーネ・ディートリッヒという女優がなかなかいいよといいました。スタンバーグは半信半疑で舞台を見に行きました。ところがみごとにいいんですねえ。それで「嘆きの天使」に彼女を使いました。さあ、これでまさにマルレーネ・ディートリッヒの誕生ですね。 「嘆きの天使」、このストーリーをちょっとお話ししましょうねえ。  ある中学校の先生がおりました。ウンラート先生。この先生かたいかたい先生。四十歳になるというのにまだ独身です。ところが生徒たちが、女優みたいな女のブロマイドを持っているのです。あの子もこの子も持っているんですねえ。先生、とっても怒りました。それをみんな取りあげました。そのブロマイドは女が歌をうたってるところなんですね。大股《おおまた》をひろげてうたっている、そのスカートのところに、鳥の羽がうまく張り付けてあります。それを下からプーと口で吹きますと、羽のスカートがめくれて、女のパンティが見えるようになっているんです。  よくもこんなもの持ってるもんだ、と先生は怒りました。あるとき、先生の目の前で、教室から出ようとした級長がひっくり返ったんですねえ。その拍子に級長のノートのなかからもその歌手のブロマイドが飛び出してきたんですね。先生はすっかり怒って、級長まで惑わされているのか、もう放ってはおけないと思いました。  ——これは、なんという女優なんだ!?  ——ローラ・ローラです。  ——ローラ? どこにいる?  ——あるキャバレーでうたっています。  ——どこの?  ——ブルー・エンジェルです。  なんちゅうことだ、この歌い手は。ウンラート先生は出掛けました。さあ、そのキャバレー。まあいかにも安キャバレーなんです。  舞台は朝日が昇る背景になっています。そこに雲があって、天使が電気仕掛けで動いています。その前にふとった女が七、八人、不細工な格好でうたっています。ちょうどここのムードをライザ・ミネリの「キャバレー」(一九七一)が取りあげていますねえ。さあそこへ、ローラ・ローラという女が出てきました。脚のきれいな女で、なんともしれん粋《いき》な格好で出てきました。  ローラは「フォーリング・イン・ラブ・アゲイン」をうたいます。   わたし、また恋しちゃったのよ   恋なんかきらいだったのに  ローラは大胆に足をひろげて、椅子にまたがってうたいます。まあ、太ももの上まで見えて、えらい女やなあ。こういうのを中学生までが見とるのか。  舞台が終ると、先生は楽屋へ怒りにいきました。ローラは、まあ、この先生なにいってるのと、顔におしろいをぬりながら、そのパフのおしろいをピューッと口で吹いて先生の顔にかけました。先生はあわててハンカチで拭きます。それがおもしろくて、ローラは先生をばかにして操りますね。  こうしたことからウンラート先生が、いつの間にかローラに夢中になっていく、こわいこわいお話ですねえ。このすごいローラにひきずられていくウンラートの、この男の痛ましい哀《かな》しさいうのがみごとでしたね。このかたい、かたい先生をなぶっていくところ、もう婚期を逸した四十男をなぶっていくところ。女を知らなかった先生が、どんどんひきずられていくところ、こわいですねえ。  とうとう先生はローラの奴隷のようになって、ローラのカバン持ちになって巡業についていくところ、すごいですね。  二人はついに結婚しました。ウンラートは本気で喜びました。ローラがおれの嫁さんになったと喜んだ。その結婚式、下町の安っぽい芸人が集まっての結婚式です。余興に、一人の男がパッと手をあけると卵が出てくる奇術をしました。そこでローラが、ちょっとウンラート、あんたもなんか芸をやりなさい。まあ、ウンラートは芸なんかできっこありません。かたいかたい中学校の先生だったんですから。困ったなあ。なにかやりなさい。みんなにいわれて仕方なしに、ウンラートは、鶏の鳴き声のまねをしました。コケコッコー。お上手、お上手、なんてみんなが手をたたいて、かわいそうなウンラートでした。  そしてまた巡業のとき、ローラはいいました。あんたもなにか舞台でやりなさいよ。あんたね、顔をピエロみたいにして、そこに立っていればいいの。私がこちらから生卵を投げて、あんたの顔に当たったら、コケコッコーというだけでいいのよ。そこでウンラートは、自分の情婦、自分の憧《あこが》れのローラの前でローラのいうなりに、なんともしれん哀しい芝居をするんですねえ。  ウンラートというまじめな教師が、妖艶な残酷な女に魅せられ引きずり回されていく。こわい映画でした。男のこわさ哀しさ、女の美しさ残酷さがみごとでした。  マルレーネ・ディートリッヒは、この映画で一躍有名になりました。のちにこれと同じテーマでアメリカ映画が作られ、マイ・ブリット、クルト・ユルゲンスが演じましたが、とてもディートリッヒには及びもつきませんでした。 ●アメリカへ渡ったディートリッヒ  この「嘆きの天使」の撮影が終る頃、アメリカからパラマウントの重役がやってきまして、いっぺんにディートリッヒが気に入って「この女優を使って、アメリカで映画を作ろう」と決めました。  そこで、パラマウントの命令を受けたスタンバーグは「嘆きの天使」ができあがるとすぐに、ディートリッヒを連れてアメリカに渡りました。こうして、ゲーリー・クーパーとマルレーネ・ディートリッヒ共演の「モロッコ」(一九三〇)が生まれたんですね。これはもう今更いうまでもなく、みごとなみごとな映画でしたねえ。  このときのディートリッヒは、ドイツの化粧を全部洗い流して、アメリカの化粧に変わりました。アメリカのスタイルになりました。きれいな男のズボン、男の上着、シルクハットのタキシード姿で、キャバレーでうたう。まあ、そのシルクハットを自分の片手でポンと先をたたいて、あみだにかぶってうたう姿の粋なこと。そうして、うたいながら舞台からおりてきます。テーブルについてショーを見ている男と女のカップルのそばに行きますと、相手の女の人の髪の毛をもってチュッと接吻します。男の衣装を着けてますから、そのしぐさの粋なことったらありませんねえ。  日本ではこの映画を見て、水の江滝子さんなんか、当時の少女歌劇のスターが、ディートリッヒ・スタイルに憧れて、一生懸命で男姿のモデルにしたんですよ。  というわけで「モロッコ」はゲーリー・クーパーとディートリッヒを、一躍パラマウントのスターにしました。  スタンバーグは「モロッコ」に続いて、ディートリッヒのためにどんどん名作を作りました。「間諜《かんちよう》X27」(一九三一)、「ブロンド・ビーナス」「上海《シヤンハイ》特急」(一九三二)、「恋のページェント」(一九三四)、「西班牙《スペイン》狂想曲」(一九三五)といったふうに、ディートリッヒのすべてに魂を奪われて、スタンバーグは自分というものを燃やし切ってしまい、あとが続かなくなってしまったんですねえ。かわいそうにディートリッヒにすべてを吸いつくされてしまいました。こうした作品のなかでひとつ、みごとなものがあります。「ブロンド・ビーナス」、これはほんとに「モロッコ」に次いでディートリッヒをみごとに使った映画でした。これはバート・グレノンのキャメラもすばらしいものでした。  ドイツのキャバレーの女がアメリカ人と結婚しましてアメリカへ行きました。一度は家庭に入ったものの、夫が病気になって、またキャバレーに立たなくてはならない、そういう簡単な話で、相手役にハーバート・マーシャル。アメリカでの火遊びのプレイ・ボーイがケイリー・グラント、という配役ですが、よかったのは、彼女がアメリカのキャバレーの舞台に立つところのデザインがすごいでした。舞台全部がアフリカのスタイルで、ダンサーたちがアフリカ土人の扮装《ふんそう》で出てきます。みんな槍を持って、盾を持って、顔をグロテスクに化粧して、すごいアフリカのリズムで踊ります、踊ります。その踊りのなかへキング・コングのようなゴリラが出てくるんですねえ。ゴリラを中央にして土人もゴリラも踊ります。さあ、そのゴリラの踊りがおもしろいんですね。顔もすごいゴリラ、手も足もすごいゴリラ。それが踊るんですねえ。ところが踊っているうちに、そのゴリラが自分の手で、自分のもう片方の手をめくって、はぎ取っていくんですね。まるでゴリラのストリップです。右手も取りました。左手も取りました。  するときれいなきれいなダイヤモンドをちりばめた、きれいなブレスレットを着けた女の手になるんですねえ。さあ、ゴリラの両手が美しい女の手になったんです。その手が、今度はゴリラの首の上をつかんで、すーっと取ったとき、まあ、きれいなブロンドのディートリッヒの顔が現われました。  そして踊りながら、片足をドラムの上にのせて、太ももから下をすーっと取りました。その脚の線の美しいこと、その銀の靴のきれいなこと、バックルのきれいなこと。また片足を取りました。  というふうに、ディートリッヒの脚のすばらしさを、こんなにきれいに出した映画はありませんねえ。 ●ヒットラーを袖にする  というわけで、ディートリッヒはいつでも脚を見せる女優になりました。人形のようにきれいで、映画のストーリーはどうでもよくて、ディートリッヒさえ見せればいい。まるでマネキンみたいになっちゃったんですねえ。パラマウントのポスターは、ディートリッヒの脚を、�百万|弗《ドル》の脚�として宣伝しました。やがて彼女はそんなパラマウントを離れたくなりました。  そのときに、セルズニックという人がディートリッヒをよんで、シャルル・ボワイエとの共演の「砂漠の花園」(一九三六)を作りました。ディートリッヒの初めてのカラー映画でしたね。  しかし、非常に甘いお話の映画で、ディートリッヒの美しさをカラーで見られたというにとどまりますね。この映画にはテリー・ロッシというヨーロッパでの、一、二、三に入るバレリーナが出る。まあ、テリー・ロッシが出てきたら、さすがのディートリッヒもくわれるんじゃないかと思いました。ところがどういたしまして、最初にこのテリー・ロッシが踊りました。トルコのすごい踊り、いかにもきれいでした。けれども、それをじーっと桟敷で見ているディートリッヒの顔は何倍かきれいで、テリー・ロッシのほうがディートリッヒにくわれてしまいましたね。  そのあとで、ロンドン・フィルムによばれて、ジャック・フェーデ監督の「鎧《よろい》なき騎士」(一九三七)に出ました。これがよかったんですねえ。次には再びパラマウントで、エルンスト・ルビッチュ監督の「天使」(一九三七)にハーバート・マーシャル、メルビン・ダグラスと共演しました。  というわけでたくさんの映画に出ましたが、いつもいつも脚を見せるあのスタイル、あのムードが、彼女自身ももう鼻についてきた、それでもう引退しようと思った。ところがそれから二年たって、今度はユニバーサルが声をかけてきました。ウエスタンに出演させたんですねえ。ジョージ・マーシャル監督、ジェームズ・スチュアートと共演の「砂塵《さじん》」(一九三九)がそれです。この作品では、ディートリッヒは、ユナ・マーケルという女優と組んずほぐれつの大格闘を演じたり、しかも歌ありコメディありの西部劇に出たんですね。そのあとでまたジョン・ウェインと共演する映画にも出ました。  私は、「人形のようになったディートリッヒ」といいましたけど、確かにたくさんの映画に出てその脚線美を存分に見せてくれたディートリッヒは、やはりみごとな時代をもった女優だと思います。彼女自身は決して人形なんかではありませんでしたねえ。  第二次世界大戦、ナチス・ドイツのヒットラーがまだ健在の頃でした。ヒットラーはディートリッヒのファンだったんですねえ。そうしてドイツへ来いと、いったんですね。ドイツへ来れば、ドイツの代表的なほんとうの女優にしてみせるといったんですねえ。ディートリッヒはドイツ人です。それがアメリカで活躍していたのですから、ドイツに呼び寄せて、ドイツ軍兵士のために慰問させて役立てようと考えたんですね。  ところが、ディートリッヒは冷たくことわったんですね。ヒットラーはとても怒りました。彼女はことわったばかりでなく、ドイツを攻めている、連合軍の前線の兵士を慰めるために、出掛けて行ったのです。いよいよドイツは怒ったことでしょう。ディートリッヒは、ドイツ人だとか、アメリカ人だとかフランス人だとかという、国とか人種の違いを問題にしないで、一人の人間として、あのヒットラーの、冷たい冷たい戦争を許せなかったんですねえ。  ですから、ヒットラーに向かって戦う人びとのために、どんどんどんどん、前線へ行って、イブニング姿になったこともあるでしょうが、ほとんどは軍服を着てうたいました。ここにディートリッヒが、幼い頃軍人のお父さんに育てられたことを思わせますねえ。  彼女はいろいろな歌をうたいました。もちろん「嘆きの天使」のなかの「フォーリング・イン・ラブ・アゲイン」の歌は必ずうたいましたけれど、ここで兵隊たちをほんとうに感激させ、泣かせたというのは、「リリー・マルレーン」の歌でした。さあ、兵隊たちはこの歌によってものすごく慰められました。喜びました。  やがて軍服を脱いだディートリッヒは、軍服とは正反対の、きらびやかな、ニューヨークとロンドンを合わせたような、ダイヤモンドの感覚のスタイルで、ワンマン・ショーの舞台に立ちました。そしてまだまだ映画にも出演しました。  ところで、たくさんのディートリッヒの映画のなかでいちばんみごとだと思うのは、まず最初の「嘆きの天使」(ブルー・エンジェル)。それとビリー・ワイルダー監督の「情婦」(一九五八)ですねえ。それともうひとつ、ジャック・フェーデ作品の「鎧なき騎士」。この三本がよかったと思います。というのは、ディートリッヒでありながら、いわゆるポスター的なディートリッヒではないからです。「嘆きの天使」のディートリッヒはいかにも悪女でしたねえ。しかもドイツの田舎くさい女になっていました。「情婦」ではタイロン・パワーと共演して、こわい女をやりました。「鎧なき騎士」というのは、ロシア革命を背景にした映画なんです。ディートリッヒはロシアの貴族の女になりました。革命の暴徒にねらわれて、逃げて逃げて、逃げるんですけれども、きれいな衣装を全部ひきむしられ、泥だらけになって逃げる途中で、アメリカ人でしたか、新聞記者に助けられて、その青年と恋におちるんですけれど、ディートリッヒを泥だらけにしてみせるのがおもしろく、しかもそんななかで、美しい脚を出してみせるその出し方がみごとでした。  ディートリッヒのお姫さまは、泥だらけで十日も十五日もお風呂に入ってなくて、泣きだしたいくらいなんですね。すると、青年記者が湯船をみつけてきて、お湯を入れてやって、さあ、ここでお入り、といいました。泥だらけのディートリッヒが一人でお風呂に入ります。自分の足をいとしくいとしくさすりながら、絹のストッキングをはいていた足がこんなに泥だらけ……という顔をするところ、もうお風呂のなかは泥だらけ、そのなかにつかりながら、一本、二本と洗った足をすーっと出すところが、よかったですねえ。きれいな感じを出しとりました。  この三本の映画に、私はほんとうのディートリッヒを見るような気がいたします。彼女自身も、同じように思うかもしれません。 ●脚を大事にしたディートリッヒ  ディートリッヒは、ヒットラーに呼ばれたとき、私はいきません、ときっぱりことわったように、ものごとに非常にはっきりしているんですねえ。  スタンバーグと、ずーっといっしょに作品を撮っていたときに、スキャンダル、二人の間があやしいという評判がたったんですね。なにしろ、ディートリッヒの映画といえば、必ずスタンバーグが監督して、打ち込んでいたのですから。  とうとうスタンバーグの奥さんが怒って、夫を奪おうとするなんて……と大変なお金を請求して、訴訟をおこしたんですねえ。早速、新聞記者がディートリッヒの家へ行きまして「スタンバーグの奥さんが、これこれですよ」といったんです。ディートリッヒは動ずる事もなく、ただ「お気の毒ですね」。弁明もなにもしません。「私はスタンバーグとはなんの関係もありませんよ」なんて、一言も余計なことをいわないんですねえ。頭から、お気の毒ですねえ、でおしまい。それでこの裁判は流れてしまったんですね。  またあるとき、これはずっとあとになってのことですが、グレタ・ガルボがカムバックするという噂《うわさ》が立ちました。有名なガルボのことですから、大変なニュースになるんですねえ。それで、ガルボと同じように年をとっているディートリッヒに感想をきこうと、新聞記者がインタビューしたんですね。 「グレタ・ガルボさんが、またカムバックするそうですよ」 「まあ、おえらいですわね、あのお年で」  といったんですね。まあ、自分のほうが年齢が上なのに、こんなふうにいいました。自分がいつまでも若いという意識、気構えがよくわかります。  ディートリッヒほど自分の美しさを保っている女優は少ないでしょうね。今は七十いくつかになって、それでもすばらしいステージを見せますねえ。ディートリッヒは、自分のからだ、その脚の線をほんとうに大事に大事にしております。それだけに、いろんなエピソードや伝説めいたお話がありますね。  彼女がもうすでに五十歳を過ぎていた頃のこと。ある航空会社が「タイム」という雑誌に、どうしてもあなたの脚を入れた広告を出したいといったときに、「私、コマーシャルなんてやりません」とディートリッヒがことわったんですねえ。けど、航空会社も、どうしてもあなたの美しい脚を使わせてほしい、と引き下がりません。いくらですか、ときいたら、大変な金額なんですね。それで彼女は「OK」といいました。けれども、私を広告に使うなら一ページはだめですよ、二つ折りで二ページにならないと、私の脚のきれいさが出せませんよ、といったんですねえ。  当時「タイム」の広告はすべて一ページ単位で、二つ折りの広告はなかったのです。とうとうその会社は、脚をずーっと伸ばした見開きでディートリッヒを使ったんですね。彼女はほんとうに自分の脚を大事にしました。  それから、ディートリッヒが舞台に出るときに、楽屋からエレベーターでおりないといやだというんですね。階段をおりていくなんて、とってもいやだというんです。しかも、エレベーターから出て、舞台に出て行く間に、もし二段でも三段でも階段があれば、私いやです、といったんです。それで大きな板を張り渡して、その上にカーペットを敷いて、ずーっと歩いて行けるようにしました。  なぜそんなこというのでしょう。実はこれ、ぜいたくでも、わがままでもないんですねえ。舞台に行く途中に階段があったりすると、いつ、靴のかかとをひっかけたり、衣装のすそをひっかけたりして、ショックを受けるかもしれない。脚を傷めるかもわからない。そうしたら、もう舞台で満足にうたうことができない、こわいと思うんです。これほどに彼女は気をつけているんですね。  こんなふうですから、ディートリッヒは舞台に出ると、全身でうたい、魂をぶちまけてうたうんですね。そして、舞台のデザインも色彩も、ライトの照らし方も、全部ディートリッヒが自分で演出するそうです。文字通りのワンマン・ショーなのです。  さあ、ディートリッヒが舞台に立ってうたった。歌が終る頃、舞台にめがけて花がバーッと飛んできました。舞台の上に並ぶくらい、いっぱいになりました。ディートリッヒは、その花をどうしたでしょうか。  彼女は静かにその花を見て、微笑を浮かべながら、花をよけて、踏まないようにして、舞台から去っていったのです。  花をひろいあげて腕や胸にかかえて、ニッコリ笑ったりしませんでした。いかにも冷たそうにみえながら、花をきれーいによけて退場するところは、いかにも粋なディートリッヒらしい退場の仕方でしたねえ。  ところで、彼女は再び日本にやってきて、ホテルのシアター・レストランでうたったのです。そして私はその彼女を、私のテーブルからすぐ手のとどくところで見たのですが、ほんとうに美しいでした。  そしてそのあとの、彼女を囲むパーティにも出席しましたが、楽屋からエレベーターをつけろとか、舞台へゆく途中の階段はいやだとか、ということはまったくの伝説で、ご本人はなんとも優しく、むしろ客人にとても気を遣う女性でした。  さあ、いかがでしたか。まあ、おもしろかったって? よかったですねえ。私もとても楽しみました。懐かしくて、懐かしくて機会があったらぜひまた見たいですねえ。それではまた、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] 世界の二枚目アラン・ドロン  はい、みなさん今晩は。  今夜はアラン・ドロンについてお話ししましょうね。まあ、あんたアラン・ドロンそっくりですねえ。こっちを向いてお笑いになると、耳だけが。  アラン・ドロンのお話をするときには、まずちょっとムード出したいですね。あの「太陽がいっぱい」のあのニーノ・ロータの音楽を思い出してくださいね。 ●映画界に入るまで  アラン・ドロンはパリの南の郊外、ソーというところで生まれました。一九三五年の十一月八日が、この人の誕生日です。  おもしろいことに、この人のお父さんは映画館の館主だったんですね。いいですね、お父さんが館主なら、アラン・ドロンは毎日そこで映画を見たんだろう? 違うんです。かわいそうに彼が生まれて間もなく、お父さんとお母さんは離婚をしてしまったんです。それで彼はまだ幼年時代に里子に出されたんですねえ。お母さんは彼を自分で養わないで、里子に出してしまったんですね。五つ六つ七つ八つまで、彼は里子にやられて、かわいそうに両親の愛を知らないで育ったんです。  それで、彼が九つになったときに、お母さんは再婚しました。彼はとっても美男子ですから、お母さんもきっときれいだったんでしょう。彼は二度目のお父さんの家に連れていかれました。けれども、彼はそのお父さんになじめなかった。それで一家のもてあまし者になってしまったんですね。  そりゃそうでしょう。それまで、お母さんはちっとも彼の世話をしてくれないで、九つになってから呼びにきて、ほんとのお父さんじゃない二度目のお父さんのところへ連れていかれたのですから。  ほんとにつらかったでしょう。九つから十三まで、多感な少年時代を、そのもてあまされた家で過ごしたそうですよ。だから、すこし不良だったかもしれません。一生でいちばん影響を受ける幼年時代を、そんな過ごし方をしたんですねえ。  それから十七歳で海兵隊に入って、インドシナ戦線に従軍しました。十九歳まで軍隊生活をして、現地で一九五四年に除隊しています。  アラン・ドロンは、そのまま家に帰らないで、アメリカに行っちゃったんですね。アメリカとメキシコをうろついたんです。どういうふうにしてかせいでいたか知りません。おそらくあちらで働いたり、こちらで働いたりして過ごしていたんでしょう。それでまた、パリに帰ってきました。しかし、家には戻らなかったんですね。十九、二十、二十一歳の頃は、放浪してどんな生活をしていたか。  昔、ある雑誌を読んでいましたら、アラン・ドロンはパリをはだしで歩いていたと出ていました。だから、悲惨な生活か、それとも非常に自由だったか、ともかく、彼はそういう青春時代を送っていたんですねえ。  そのうちに、ガールフレンドができたんですね。自分より年上の、エステラ・ブランという名の恋人ができました。その彼女に紹介されて、イブ・アレグレ監督の映画に出ることができたんですね。  それがそもそもの、アラン・ドロンの映画入りのきっかけですね。ガールフレンドが女優だったということが、彼の映画界へ入る道だったんですねえ。それまで一回も、映画の経験も、舞台の経験もなかった青年が、ガールフレンドのエステラに紹介されて、その人に映画界に入れさせてもらったということなんですね。  それでまた一方、この美青年は暗黒街の大物のメメ・ゲリーニという親分とも、だんだん親しくなっていったんです。ちょっとこわいですねえ。どうして、こういう暗黒街の親分と親交を結んだか知りませんけれど、きっと放浪生活の果てのなにかがそうさせたんでしょうね。  というわけで、アラン・ドロンの青春は、ずいぶん劇的ですね。 ●アラン・ドロンの人間像  アラン・ドロンは、日本に一九六三、六四、六五年と三回も来ています。そのとき舞台で挨拶したんですね。花束を二つも三つも四つももらって、それを両手にかかえた絢爛《けんらん》たる彼は、その舞台の正面からにっこり笑って、二、三歩うしろにさがって、あのきれいなきれいな顔で、チラッと流し目をしたんですね。その粋《いき》なこと、きれいなこと、まあ、歌舞伎の役者みたいでした。  この人は、ルネ・クレマンにかわいがられたんです。ルネ・クレマンという有名な監督に認められたんです。それから、ルキノ・ビスコンティにも教育を受けたんですね。「山猫」(一九六二)という作品に出ています。それから、プライベートで、ジャン・コクトーにもいろいろと教えてもらっています。ルネ・クレマンとか、ルキノ・ビスコンティとか、ジャン・コクトーという人たちは、すこしホモ的なところがあるんです。きれいな男性を愛する巨匠たちですね。  そういう人たちに愛されたアラン・ドロン。そういうところにもなにか、彼の青年像があるんですねえ。それからこの人は長いことロミー・シュナイダーという女優と婚約したままで、とうとう結婚しなかったんですね。まあ、かわいそうに、ロミー・シュナイダーと二人で、どんどんどんどん、映画を撮ったのにやめちゃったんですねえ。そうしてナタリー・バルテルミーという女優と結婚してしまいました。一九六四年のことです。だからナタリー・バルテルミーは、ナタリー・ドロンになっちゃったんですね。  そして、この二人の間にアントニーという男の子が生まれました。けれども、それから五年ばかりたって別れました。次は、ミレーユ・ダルクと同棲《どうせい》したんです。ちょうどナタリー・ドロンと別れる前後に、ミレーユ・ダルクといっしょになったんですね。共演した映画もあります。それで今でも彼女と同棲してるんですね。  まあ、そういうふうな、アラン・ドロンの人生には、なにか知らないけれども、不思議なにおいがあるんですねえ。  アラン・ドロンが日本に来たとき、アラン・ドロンと私と、私の友人と三人で、あんまり新聞記者がくるので、どこか静かなところへ行こうということになりました。けれども、ナイトクラブや料亭に行っても目立つし、私の友人がとってもいい家に住んでいましたので、そこへ行こうということになったんです。普通の家庭ですよ。そこでトランプをしたことがあるんです。  そのときに、アラン・ドロンがなんともしれん粋な顔というのか、色気たっぷりというのか、そんな顔で私の友人をみつめるので、ブルッとふるえたというんですねえ。そのくらい、彼はあらゆる点で色っぽい人でしたね。  というわけで、彼はいろんな形でおもしろい人でした。ところで、この人はまた大変な事業家なんですね。自分のプロダクションをもっているんです。だから、自分向きのシナリオや脚本を、どんどん集めているんですね。  それから、ヘリコプターの会社も経営してるんです。輸送会社ももっているんですね。えらいもんですねえ。それから、もう一つは、ボクシングのプロモートもしてるんですね。  そんなわけで、映画には、どんどんどんどん出てるけど、映画は自分にとって休息時間だなんてにくらしいこといってるんですねえ。 ●出演した映画の総ざらい  アラン・ドロンは現在までに、いったい何本の映画に出ているでしょう。なんと五〇本の映画に出ているんですよ。考えたら驚きですね。  二十二歳から映画に入って、最初一九五七年「女がからむ時」に出演しました。この映画は日本にはきませんでした。同じ年の「黙って抱いて」、これも日本にこなかった。そうして、一九五八年「恋ひとすじに」というところから、彼は日本に姿を見せはじめました。けれども、彼がどんな役だったのか、思い出せないくらいの役でした。  というわけで、彼がほんとうに日本の映画ファンに認められたのは、ミシェル・ボワロン監督の「お嬢さんお手やわらかに!」(一九五八)からでした。これがとってもよかったんですね。アラン・ドロンがとってもきれいでしたね。ミレーヌ・ドモンジョ、ジャクリーヌ・ササール、それにもう一人、パスカル・プティが出てました。その三人の女の子に追い回される、かわいい坊っちゃんみたいな美青年が、彼の役でした。これを見ていてなんてきれいな男性だろうと思いました。男のくせに、まるでパリの花束のような、パリのすみれのような、なんてきれいな青年像だろうと思いましたねえ。  ミシェル・ボワロンは、ほんとうにアラン・ドロンの美しさをつかみましたね。これは、彼の二十三歳のときです。きれいでした、かわいいでした。  この監督は、続いて今度は「学生たちの道」(一九五九)を撮りました。学生のアラン・ドロンが、自転車に乗って学校から帰ってきて、女の子といっしょにまた自転車に乗って、といった、いかにもかわいい役でした。このまま彼が進んでいったら、ジェームス・ディーンのようになっていたかもしれない、それほど、清潔で繊細でした。  ところが、ルネ・クレマンがこのアラン・ドロンの姿を変えました。どんな姿に変えたか。  はい、それはアラン・ドロンが二十四歳になったときに、もっともみごとな作品「太陽がいっぱい」(一九五九)を作ったんですね、あれがほんとの彼の姿だったんですねえ。監督というものは、いつでもその人間の個性を見てるんですね。私なんかほんとにそう思います。  アメリカに行って、プロデューサーや監督に会いますと、配役でいちばん大事なことは、その役者の顔とか、その役者の演技力以上にその役者の個性です、その人の個性というものをとっても大事にしますね。  だからルネ・クレマンは、「学生たちの道」のかわいいかわいい青年、「お嬢さんお手やわらかに!」の、なんともしれんパリのお金持の坊っちゃんみたいなアラン・ドロンを、映画で見ながらも、そうじゃない、ほんとのアラン・ドロンの個性はこういうのだ、というので「太陽がいっぱい」で彼をつかんだんですねえ。  もう、みなさんごらんになったように、モーリス・ロネは若いくせに大金持で、もう人生にあきているような青年でしたね。それと反対に、貧しくて、なんでも欲しくて欲しくて、モーリス・ロネがもってるものならなんでも欲しい、ネクタイであろうが、ブーツであろうがなんでも欲しい。その貧しい貧しい青年が、アラン・ドロンでしたね。金持の青年と、貧しい青年の両方の姿がよく出ていました。  やがてこのアラン・ドロンが、モーリス・ロネを殺して、財産も恋人も、すべてをうばうという話ですね。  そういうふうな、いじましく哀《かな》しいけれども、非常に野心をもったこわい男、こわい青年をやらせて、ルネ・クレマンはアラン・ドロンをつかんだんですねえ。  ところが、ルネ・クレマンという一流の監督が、アラン・ドロンを、みごとにみごとに画面におさめたときに、今度は、イタリアのルキノ・ビスコンティが、またアラン・ドロンをつかみました。だからアラン・ドロンという人は、とても幸せでしたね。演技力にそろそろみがきがかかるというときに、ルネ・クレマンとか、ルキノ・ビスコンティがつかんでくれたということは、やっぱり彼の顔がきれいだったからでしょうね。あれだけのきれいな顔はちょっといないですからね。  そういうわけで、アラン・ドロンはルキノ・ビスコンティにまたもみがかれましたね。「若者のすべて」(一九五九)、これはレナード・サルバトーレと共演しました。アニー・ジラルドも出ました。クラウディア・カルディナーレも出ましたね。  シシリアから出て来まして、ミラノで洗たく屋になって働いているアラン・ドロンは、実直な実直な男です。ところが、兄貴のほうは拳闘家になりまして、初めはよかったのですが、ばくちをやったり、だんだん悪の道に入って、ヤクザになっていったんですねえ。そのうちに兄貴の情婦だったアニー・ジラルドが、弟のアラン・ドロンを好きになってきたんですね。アラン・ドロンは相手が兄貴の恋人だったからさけていたんだけれど、だんだんつきあうようになって、とうとう二人はいっしょになろうとしたんですね。  それを、兄貴のレナード・サルバトーレが嫉妬《しつと》して、アラン・ドロンの前でアニー・ジラルドを犯してしまうんです。  残酷な映画でしたねえ。さすがルキノ・ビスコンティですね。それでこの女は兄貴のもとを逃げ出して、また夜の女になってしまうんですね。そうしてその兄貴も行方不明になって、アラン・ドロンは兄貴のかわりに、家のために、お金のかせげるボクサーになるんですね。そしてチャンピオンになる。そのうちに、兄貴は尾羽打ち枯らして戻って来ますね。自分の女のアニー・ジラルドを殺して帰って来ます。そういうふうな人生の深い溝を見せた青春像、それにアラン・ドロンは出演して、しかもみごとに卒業してるんですね。ほんものの演技を身につけてきたんですね。  というわけで、この「太陽がいっぱい」と「若者のすべて」は、ほんとうにアラン・ドロンの演技への洗礼でしたねえ。それをみごとに彼は征服し、卒業しましたね。  彼はただ顔がきれいだというだけじゃなく、彼にはやっぱり演技の素質があったんですねえ。  さあ、それから今度は、ルネ・クレマンが、ちょっとコメディタッチで「生きる歓び」(一九六一)というのをやりました。これはうまくいかなかった。やっぱりクレマンもドロンも、コメディはよくないですね。こんなところがおもしろいですね。喜劇はアラン・ドロンは苦手なんですねえ。  それから「素晴らしき恋人たち」(一九六一)のオムニバス第三話に出ました。  さて今度は、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニが彼をつかまえましたね。やっぱり一流がつかんでいますね。「太陽はひとりぼっち」(一九六一)に主演しました。それから、ジュリアン・デュビビエ監督の「フランス式十戒」(一九六二)のオムニバスのうち第六話にちょっと出ました。  そのあと、またもルキノ・ビスコンティが「山猫」に使いました。バート・ランカスターの貴族、その、おいになって出ました。陽気な無邪気な兵隊の役。相手の娘が、たとえ成りあがりもんであっても、金があってきれいだったら、それでいいじゃないかなんていう、若僧の役をみごとにやりました。  バート・ランカスターのいかにもふけと、アラン・ドロンのいかにも若々しい感じの、あの華やかさとがいい対照になって、これもアラン・ドロンの風格を、ひとつあげましたねえ。  いよいよ、アラン・ドロンは俳優として、スターというのか、風格というのか、そういうものを身につけてきましたねえ。 ●大スターへの道  さて次に、フランスのアンリ・ベルヌイユが、彼をジャン・ギャバンと共演させようとしました。まあ、ジャン・ギャバンとですよ。  ジャン・ギャバンはもう亡くなりましたけど、あの人は、フランス映画のなかの男優では、ナンバーワンなんですねえ。そのジャン・ギャバンと共演するなんてことは、ほんとにアラン・ドロンにとっては、からだがふるえるくらいにこわかったでしょう。けれども、アラン・ドロンは、ジャン・ギャバンをつかまえたんですね。  ところがジャン・ギャバンのほうは 「だれ? アラン・ドロンとおれ共演するのか、フン」  といったんですね。あいつと共演するのかといったんです。 「じゃあ、おれの役はあいつをぶっ殺すような役をやらせろ」なんて、ジャン・ギャバンはそんなにくらしいことをいったそうです。けれども、のちにまた二人は共演してますね。つまり、二人は非常に気が合ったんですね、それが「地下室のメロディー」(一九六三)でした。ジャン・ギャバンは監督のベルヌイユと会って、アラン・ドロンと会っているうちに、アラン・ドロンがとってもまじめで、演技に熱中してることを知って、だんだん二人は仲良くなっていったんですね。  そういうあたり、アラン・ドロンは世間の泳ぎ方、処世術といった、そういうところにも長じたものがあったのかもしれませんね。  というわけで、アラン・ドロンはそのあと、「黒いチューリップ」(一九六三)に出ました。もうこの頃は、ほんとの主役になってきましたね。それからまたもやルネ・クレマンが「危険がいっぱい」(一九六三)で、彼をジェーン・フォンダと共演させました。この映画は、喜劇めいたアクションで、ルネ・クレマンは、「生きる歓び」の失敗をもう一度この映画で取り戻そうとしたんです。しかしやっぱりルネ・クレマンも、アラン・ドロンも、喜劇の世界じゃなかったんですね。  それからアラン・ドロンは「さすらいの狼《おおかみ》」(一九六四)を撮ったあとで、「黄色いロールス・ロイス」(一九六四)を撮りました。これはおもしろかった。オムニバスのなかで、シャーリー・マクレーンと共演する部分があります。  シャーリー・マクレーンの役は、どんな役かといいますと、アメリカのギャングの二号さんの役で、まあ、いかにも甘ったれた、マリリン・モンローみたいな役をやっているんですね。そのマクレーンの旦那というのが、ジョージ・C・スコットでした。  彼と彼女がイタリアに行きまして、イタリアの名所見物、ちっともおもしろくない。すると、そこに街頭写真屋がいました。それがアラン・ドロンでしたね。ロールス・ロイスにいっしょに乗っているうちに、マクレーンとドロンがだんだん仲良くなっていく。けれども、もしもこの街頭写真屋といっしょに寝たりしたら、自分の旦那が怒って、この青年を殺すかもしれないと二号さんは考えて、あの坊やみたいな青年は好きだけれども、離れていく。そういうあたりにホロッとさせるものがありましたね。なかなかおもしろい作品でした。  それから「泥棒を消せ」(一九六四)、これはあんまりよくなかった。「名誉と栄光のためでなく」(一九六五)、これもあんまりよくなかった。  そうして、フランスとアメリカとの共作で「パリは燃えているか」(一九六五)に出ました。  次に「テキサス」(一九六六)、これもうまくいかなかった。アラン・ドロンのような、これだけ包容力があって、これだけに社交上手な人でも、アメリカではうまくいかなかった。アメリカの香りとちょっと違うんですねえ。  そのあとでフランスに帰って「冒険者たち」(一九六六)に出て、アラン・ドロンの良さを取り戻しましたね。リノ・バンチュラとアラン・ドロン、そしてジョアンナ・シムカス、その青春像の描き方がみごとでしたねえ。  そして次に、「世にも怪奇な物語」(一九六七)のオムニバスの第二話に出まして、三十二歳で「サムライ」(一九六七)に出ました。これは、ジャン・ピエール・メルビルの作品で、ナタリー・ドロンと共演しています。厭世《えんせい》的な感じをもつギャングに扮《ふん》して、日本のヤクザに似た感じを出してなかなかよかった。  それから「悪魔のようなあなた」(一九六七)でジュリアン・デュビビエ監督が、本格的に彼を使ったんですね。それまではちょっと使っただけ。あんまり彼がきれいすぎてきっと好きじゃなかったんですね。これはなんともしれんおもしろかったですよ。  ある女が、記憶を失った男のアラン・ドロンを利用して、犯人にしようとする。そのうちにアラン・ドロンに記憶が戻ってくるという話で、ドロンを利用する女が悪魔みたいな女なんですね。そういうふうなこわいこわいスリラー、これに彼は主役で出ました。  かわいそうなことに、ジュリアン・デュビビエ監督は、この映画を作ったあとで、自動車事故で死にましたね。  さあ、そのあと「あの胸にもういちど」(一九六七)に出て、いよいよ彼は大スターになってきました。  ところで、アラン・ドロンという人は不思議な人なんですね。野心家という言葉はわるいですけれど、自分の美しさをもっともっと鮮やかに見せたくなってきたんですねえ。そう私は勘ぐるんですね。三十三歳のとき、彼はもっと自分の顔をきれいに見せたいというので、「さらば友よ」(一九六八)で相手役にチャールズ・ブロンソンを選んだんです。かわいそうに、チャールズ・ブロンソン四十八歳、あんな、南京豆《なんきんまめ》みたいな顔、あれと共演したら、おれのきれいなところがもっと引き立つだろうと、そう思ったのかもわからない。けれども、この結果は、みごとにチャールズ・ブロンソンをこの世に生み出してしまいましたねえ。  だから、チャールズ・ブロンソンはアラン・ドロンのおかげで、今日の地位を得たといえないこともないんですね。おもしろいですね。  さあ、それから「太陽が知っている」(一九六八)、「シシリアン」「ボルサリーノ」(一九六九)、「仁義」(一九七〇)と、いよいよこの人はギャングの世界でもみごとな風格を見せました。  そうして「栗色のマッドレー」「もういちど愛して」(一九七〇)と甘いものもみごと。なんでもこなしましたねえ。「レッド・サン」(一九七一)はみなさんご存知の三船敏郎と、チャールズ・ブロンソンが共演していましたね。  続いて「帰らざる夜明け」(一九七一)、「暗殺者のメロディ」「リスボン特急」(一九七二)、やがてイタリアで「高校教師」(一九七二)で本格的な主役をやって、ほんとうにマルチェロ・マストロヤンニに負けないような役者になろうとしましたね。そしてなりました。  というわけで、彼はやがて「暗黒街のふたり」(一九七三)でまたもやギャバンと共演し、「個人生活」(一九七三)という甘い甘い作品を作り、「愛人関係」「ボルサリーノ2」(一九七四)、そして「怪傑ゾロ」(一九七四)とあれやこれやと芸域をひろげて、やがて「ル・ジタン」(一九七五)、「ブーメランのように」(一九七六)と、今度は父性愛の世界に入ってきました。十六歳の息子のいる四十過ぎの、五十ぐらいのおとっつぁんの役をやっているんです。こんなエネルギーのある俳優はいませんねえ。 ●青春像のスターたち  アラン・ドロンといいますとね、ジェームス・ディーンとジェラール・フィリップ、この二人が頭に浮かんできます。ジェームス・ディーンはアメリカの、ジェラール・フィリップはいかにもフランスの青春を代表しましたね。それからあのモンゴメリー・クリフトも浮かんできますねえ。  若さですねえ。それにしても、アラン・ドロンも四十歳を越しました。スターにとってはタイムというものは残酷ですね。  ジェームス・ディーンは、一九五五年に二十四歳で亡くなったんですね。もう二度とかえってこないだけに、ジェームス・ディーンの夢はほんとうに、美しく優しく、いつまでも残りましたねえ。これは悲しいけれど、悲しいなかの幸せですね。  ジェラール・フィリップも、一九五九年に三十六歳で死んでるんです。あの「肉体の悪魔」(一九四七)は、レーモン・ラディゲの小説で、クロード・オータン・ララが監督したフィリップの代表作品でした。とってもきれいでした。このジェラール・フィリップの思い出も非常に若々しい姿で、いまだに胸に残っています。  というわけで、アラン・ドロンは昭和十年生まれ、ジェームス・ディーンは昭和六年生まれ。あのきれいな、非常にさわやかなジェラール・フィリップは大正十一年生まれ。そういうことを考えると、やっぱり年代とともに青年像が変わってきていますねえ。ここいらがおもしろうございますね。  アラン・ドロンはきれいです。最高にきれいです。アラン・ドロンといいますと、試写室がいつもいっぱいになるんです。またアラン・ドロンか、といいながら、いっぱいになるんです。私が試写室に入っていきますと、むずかしい顔をした映画評論家たちが、いっぱいつめかけているところに、やっぱり彼の魅力があるんですねえ。  さあ、そういうふうに、アラン・ドロンの年代のさてそのあとにだれがいるかというと、ちょっといないんですね。まあ、捜してみるとジュリアーノ・ジェンマになってきますね。  ジュリアーノ・ジェンマは、アラン・ドロンよりも三年おくれて生まれてきてるんですね。ローマ生まれです。けれどもやぼったいですね。アラン・ドロンがパリの男なら、彼はなんとなくやぼったい体操の先生ですね。でも私はジュリアーノ・ジェンマのほうが好きなんです。アラン・ドロンはどこか自分の美しさを鼻にかけたところがあって、きらいなんですけれども好きなんです。不思議な、まあ、にくらしいなんともしれん魅力をもった男ですねえ。  そういうわけで、アラン・ドロンにはいろいろなことがありましたね。一九六八年にマルコビッチ事件というのがあったんですね。彼のボディガードが不思議な死に方をしたんです。社会的な問題になりました。それでもめたことありますね。でもそれを乗り越えて今日まで全然ゆるがないで、スターの地位を保っています。このあたりに彼の底力がありますね。  この人は、このキャリア、またいろんな女の事件で、伝記映画の作られる人ですね。彼が生きてる間に伝記映画ができるとして、だれがアラン・ドロンの役をやれるでしょう? 今ふっと考えたら、あのルドルフ・バレンチノを最近映画化しましたね。前に一回作ったんだけれども、バレンチノの雰囲気が出なかったので、今度はルドルフ・ヌレエフという、すごいバレーダンサーがバレンチノをやりましたね。  そういうわけで、ふっと考えたら、アラン・ドロンも、そういう伝記映画の主役になって残る人ですねえ。  モンゴメリー・クリフト。この人もいかにも繊細な感じをよく出しましたけれども、やっぱり線が弱かったですねえ。「陽のあたる場所」(一九五一)では、この人の青年像はとってもきれいでした。「山河|遥《はる》かなり」(一九四七)、これも温かいGIを演じてよかった。けれどもこの人は「愛情の花咲く樹」(一九五七)という映画を撮っているとき、自動車事故で顔がめちゃめちゃになったんですね。ファースト・シーンと途中とでは、顔が変わってきてるんです。三十七歳のときでした。鼻がひん曲っちゃったらしいんです。整形手術をしたんですが、それからあとは顔に対するコンプレックスがあってうまくいってないんですね。だから「ニュールンベルグ裁判」(一九六一)でも異様な顔で出てました。「荒馬と女」(一九六一)では鼻にばんそうこうをはって出ました。  そのほかにも「フロイド」(一九六二)とか「ザ・スパイ」(一九六六)にも出てましたけれども、どこか演技に弱さが出てましたねえ。一九六六年に独身のままで死にました。自殺だという説もありますけれど、四十六歳で亡くなりました。  ジェームス・ディーンは二十四歳、ジェラール・フィリップは三十六歳、モンゴメリー・クリフトは四十六歳。このように若い姿の人がどんどん死ぬなかで、アラン・ドロンは今四十歳を越えて、これから先にどういうふうになるか、おもしろいですね。というところに、アラン・ドロンの魅力は尽きないですね。  先ほどジェラール・フィリップの話をしましたけれど、彼も日本に来たことがあるんです。そして帝劇で挨拶しました。そのときは女の子が帝劇を取り巻いて、場内も大騒ぎでした。彼が舞台に現われますと、キャーッと悲鳴があがりました。それくらい人気があったんですよ。  ところが、この観客席のざわめきに彼はびっくりしちゃって、舞台に出てきて、中央よりちょっとどっちかに寄ったところで、ひざまずいちゃったんですよ。そうして、胸に手を当てて、場内が静まったところで詩の朗読をはじめたんです。フランス語ですから意味はわかりませんでしたが、きれいでしたねえ。あたりはシーンとしました。そして挨拶をして、静かに舞台のそでに姿を消していきました。なんかさばさばした、なんともしれん、演劇と映画と詩人とを合わせもったような青年像がありました。  またアラン・ドロンのことですけれど、彼にはエステラ・ブランに紹介されて映画に入る前に、チャンスが一度あったんですね。パリでぶらぶらしてる頃、カンヌの映画祭をのぞきに行ったことがあるんですって。俳優たちの顔を見てやろうと思ってのことでしょう。すると、その映画祭の雑踏のなかでデビッド・O・セルズニック、あの「風と共に去りぬ」(一九三九)のプロデューサーが、彼を見たんですって。あんまりきれいな青年なので、「君、映画に入らないか。そうしたらアメリカに連れていってやる」といったんですね。けれども、悲しいことに、彼は一言も英語をしゃべれなかったといいます。あれほど、アメリカやメキシコをさまよってたくせに。それで、セルズニックはあきらめたという、そんなこともあったんですね。  というわけで、アラン・ドロンは、私は好きできらいで、きらいで好きで、といっても彼は、やがて映画の歴史に輝いて、あるいは注目されて永久に残るスターですね。  さあ、ここで時間になってしまいました。アラン・ドロンがこれからどんなように進んでいくか、楽しみですねえ。  あら、あなたの顔アラン・ドロンそっくりになってきましたよ。その額のしわ[#「しわ」に傍点]のあたりが……。それでは、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] 不滅のチャップリン  はい、みなさん今晩は。  みなさんもうご存知のように、昨日、チャップリンはとうとう亡くなりました。一九七七年十二月二十五日です。  私はチャップリンとともに生きてきました。あのチャップリンが、八十八歳で亡くなりました。今夜はみなさんとともに、ここでチャップリンを偲《しの》びたいと思います。 ●なんと、クリスマスの日でございました  ライムライトというのがあります。これは、舞台の上のスターに、真正面から当たる華やかなライトでございますねえ。これを題名にした「ライムライト」(一九五二)のチャップリンは、そのライトのなかから去っていく老いた喜劇役者、それを演じておりますね。消えていくんですねえ。「ライムライト」で、このチャップリンは、舞台から落ちて死にました。チャップリンの映画のなかで、自分が死んでいく映画が「ライムライト」でした。  ちょうどこの映画を作っているときのチャップリンは、とても寂しい心境でした。アメリカから追われたときの作品でした。  今、チャップリンは、ほんとうにいなくなってしまったんです。  昨日、そうですねえ、夕方の四時頃、新聞社から電話がかかってきました。チャップリンが死んだ、亡くなった……。私は覚悟しとりました。  ついこの間、日本ヘラルドという会社が「放浪紳士チャーリー」(一九七七)を公開するにあたって、チャップリンへの作文を募集しました。そして、たくさんのたくさんの応募者のなかから数人の方を選んで、その当選のお祝いに、スイスのチャップリン邸に連れていく企画をなさいました。私は立派なことだと思いました。けれども、チャップリンに会うことは、これはいけないことだと、私はひそかに思いました。  もうチャップリンは、二ヵ月も三ヵ月も前から寝たっきりで動けなくなっていることを私は知っておりました。だから、お行きになるのはいいですけど、チャップリンに会うということはどうでしょうか、と申しました。けれども、一行はお行きになりました。そうして、ウーナ夫人に親切にもてなされましたが、チャップリンには会えないで帰ってこられました。私は、チャップリンが人に会えないことをよく知っておりますから、遠慮いたしました。  そういう気持でしたから、実は毎朝毎晩、胸騒ぎがしとりました。テレビ、ラジオのニュースに注意しとりました。それから郵便箱に投げ込まれる五種類の新聞、それをいつでも朝、あるいは夜、トップページに、チャップリンの大きな顔が出ていたらどうしようかしら。チャップリンの写真がトップに出ていたらどうしようかしらんと思っておりました。もうそれは、十日間ぐらい続きました。そして私は、昨日、その死の知らせをついに聞きました。  ……八十八歳。昨日の朝、亡くなったらしいんですね。しかも、亡くなったその日が、クリスマスの日なんですね。チャップリンが、八十八歳の生涯の最後の幕を閉じるときが、なんとクリスマスの日だったんです。私は、この愛の映画の王様が、クリスマスの日に亡くなったことを思いますと、まるで劇のなかのできごとのような気持になって、もう胸がいっぱいになりました。  というわけで、それからはひっきりなしに、電話がどんどんかかってまいりました。もう、どの新聞も電話をかけてこられました。あるテレビ局が私の家に来られまして、数分間、インタビューなさいました。テレビのキャメラ向けられて、私は、どうしてこんなにチャップリンと私を結びつけて世間の方が思ってくださるのか、驚きました。  それは、ひとつには、私がちょうど十月の末に『私のチャップリン』という本を出しました。この本を、チャップリンの生存中に出せたことは、なんとも私には幸せだと思います。亡くなってから、チャップリンの追悼を書くことはつらいです。それで、チャップリンの生存中に、いろんな思い出を二年がかりで書きためたんです。そしてこの本を、スイスにお行きになる方にことづけました。  チャップリンは、とても私の本には目を通されなかったでしょう。けれども、生存中にチャップリンの邸宅に、私のささやかな、貧しいながら一生懸命に書いた本が届いたということは、私にはせめてもの慰めでした。  それから、いろんな電話がかかりましたが、私の驚いたことがございます。ファンの方から私に、「淀川さん、がっかりなさったでしょう」  そういう電話が、次々にかかってまいりました。しかも私が「あなた、おいくつですか」とききますと「十五歳です」「十六歳です」驚きましたねえ。十五歳、十六歳のお方からそういうお電話がきました。そのお電話の声は、半分聞きとれない声でした。泣き声で、涙ぐんだ声でした。ほとんどが少年たち、男の高校生、中学生からの電話でした。そして、みんな泣きながら 「先生、チャップリン、亡くなりましたねえ。先生もつらいでしょう」  私は、こんなにも少年に愛されたチャップリンを、幸せだと思います。  それからのちに、二人の中年の男の方からお電話がありました。それから一人だけ、ご婦人からかかってきました。そのご婦人は、ウーナ夫人に電報を打ちたい、お悔みの電報を打ちたいけど、どこに打ったらいいでしょうか、そうたずねてこられました。どんなにチャップリンが、世間のあらゆる人たちと心をつないでいたか、よくわかりますねえ。 ●私に人生を教えてくれました  はい、私はチャップリンの映画を、大正三、四年の頃から見ております。チャップリンの映画、最初の活動写真の頃、「アルコール先生」といって、ドタバタでみんなを笑わせました。大正三年ですね。私、五歳のときから両親に連れられて見ております。  私は、どんどんチャップリンの映画を見ながら、五歳、六歳、七歳にはよく意味がわからないながら、チャップリンの映画にいろいろと教えられました。  チャップリンの映画は、どんな短編でもストーリーがございました。ほかのドタバタ喜劇役者の短編は、すべて超ナンセンスで、ストーリーもなにもでたらめ[#「でたらめ」に傍点]で、なんにもありません。けれども、チャップリンの映画は、ある瞬間に残酷なもの、ある瞬間になんともしれん悲しいものを含めて、笑わせながらストーリーをもっておりました。  このチャップリンの映画のなかに、私はなにを感じたか。最初には、人生の冷酷さを感じました。冷たい世間、そんなものはドタバタ喜劇のなかにございませんでした。だから、幼年時代から少年時代の頃は、私、チャップリンの映画が好きだったけれどもこわかった。陽気な陽気な笑いじゃありませんでした。  やがてチャップリンは、一九一八年に「犬の生活」を作りました。チャップリンがほんとうの愛を示したのは「犬の生活」からですね。「犬の生活」は、チャップリンの愛の映画のルーツですね。私はもう「犬の生活」から、チャップリンに夢中になりました。  それから「担《にな》へ銃《つつ》」(一九一八)、「サニーサイド」(一九一九)、「キッド」(一九二一)、「偽牧師」(一九二三)と、チャップリンはどんどん名作を作っていきました。そうしてチャップリンは、ドタバタ喜劇のなかに涙を入れました。それは当時、ほかには全くなかったことでした。ほんとに笑わせる喜劇のなかに、涙を同居させました。  これがチャップリンです。チャップリンのコメディを、やがてアメリカではドラマチック・コメディというようになりました。そしてチャップリンは、あらゆる作品のなかに、ドラマを入れていきました。チャップリンが喜劇の俳優でなく、喜劇の監督でなかったら、どんなにこわい、真正面からのドラマチックな名作を作ったかもしれないと思います。  たとえば「黄金狂時代」(一九二四)、ゴールドラッシュですね。あれでは、流れ者がアラスカに行きました。あるいは兇状《きようじよう》もち、悪党が姿をくらますためにアラスカに行きました。あるいは一攫《いつかく》千金の欲のかたまりの男が、アラスカに行きました。そこは、人生の欲の吹きだまり、悪の吹きだまりでした。そういう世界のなかで、飢えと貪欲《どんよく》と、いかにも見苦しい人間たちのなかで、飢えのために自分の相棒の顔がニワトリに見えてきます。これがもしも、真正面のドラマなら、どんなにこわいでしょう。けどチャップリンは、そのなかで愛をつかむ映画にしました。  というわけで、チャップリンは私に、人間のいちばん貧しい姿の、悲しいなかの笑いを、どんどん教えてくれました。チャップリンの映画は、笑いながら人生のあらゆるものを私に教えてくれました。  チャップリンの映画を見ておりますと、食べるところがいつでもおもしろい。あのチャップリンの映画のなかの、食べるシーンは全部、今も目に浮かびます。  けれども、「黄金狂時代」でも「キッド」でも、「犬の生活」でも「街の灯」(一九三一)でも、チャップリンは働こう働こう、いつでも働こうと走り回っています。あの姿も、いま目に焼き付いております。  さあ、仕事があった、仕事があった。一生懸命なチャップリン。そして食べる。チャップリンはいつでも、働いて食べる。働いて食べるけれど、そのうえに、いつでもだれかを幸せにしてやろうと思っている。自分が幸せになるんじゃないんです。いつでもだれかを幸せにしてやろうなんですねえ。「犬の生活」では、あのスクラップという貧しい犬を幸せにしてやろう。「キッド」では、あの捨て子を大事に育ててやろう。  すべて、すべて愛情があふれとります。チャップリンは、食べること働くことのうえに、愛情をおいとります。だから「黄金狂時代」の、あのラストシーン、金を発見したチャップリンは、シガーを口に、そうして毛皮のコート。けれども、その成功者が最後の最後につかんだものは、もっと大きな人間の愛でした。そこで終っています。  チャップリンの作品は、一本一本、どの作品もどの作品もみごとで、いろんな方にききますと、ぼくはチャップリンの全部の映画のなかでいちばん好きなのは「モダン・タイムス」(一九三六)だ、ぼくがいちばん好きなのは「街の灯」だ、ぼくが好きなのは「独裁者」(一九四〇)だ。そういうふうに、それぞれにベストワンをおもちになっている。こんな監督、こんな作家はおりません。  しかも、「犬の生活」も「キッド」も「黄金狂時代」も、チャップリン自身がこの映画の音楽伴奏を作曲しました。長い長い長いサイレント時代の、このパントマイムの王様が、音楽というものをこんなにマスターしていた。ほんとうに、天才とはチャップリンのことをいうのでしょう。けど、チャップリンは、自分を天才とは思っとりません。彼は、天才とは長い長い執念が、積まれて積まれて、そこに生まれるものだといっとります。  チャップリンの作品、そしてチャップリンの言葉は、いつまでもいつまでも私の人生訓になっております。 ●昭和十一年六月、神戸港の船の上で  こうしてお話ししておりましても、チャップリンの、あの名作の画面が、ひとつひとつ目に浮かびますねえ。私はどの作品にも夢中になりました。けれども今、「街の灯」のラストシーンが目に浮かびます。なんてみごとな演出でしょう。  チャップリンは、あの目の見えない娘のために、苦労して苦労して、とうとうぬれぎぬで牢獄《ろうごく》に入りましたねえ。やがて、数ヵ月たって、放免されて出てきました。そして、うろちょろと町に出てきたときの、あの扮装《ふんそう》。あれを見て、日本の監督さんはびっくりしたそうですね。あれだけの尾羽打ち枯らした扮装は、とっても考えられない。いかに落ちぶれた扮装か、わかりますねえ。  チャップリンは、力なく歩きました。子供が、「やーい、やーい、ルンペン」とはやしました。いつものチャーリーなら、この野郎と追っかけるのに、追っかける力もなくなって、「おい、こら」というだけでした。かわいそうでした。  ところがちょうど、人が掃いた道端のゴミのところに、花びらの散りかけた一輪の花が落ちとりました。チャップリンはそれを拾いました。あの目の見えない娘は、どうなっただろうか。どうしてるだろうか。  ガラスのウインドーの前で、チャーリーは花を手にしました。そのウインドーのなかには、その本人の娘がいたんですねえ。目は、チャーリーのおかげで開いた。そうして、ささやかな花屋をやっとります。そのウインドーのなかの娘は、自分の恩人とはつゆ知らないで、「あら、花が好きなルンペンさん」  そのチャップリンがくるりと振り向いたときに、ガラス越しに呼びました。びっくりしました。あら、目が見えるのか、見えるようになったのか。そのチャーリーの目と、娘の目が合いました。  娘は「まあこのルンペンさん、私を見つめて、お花が好きなんですね。さあ、あげましょう」でもチャーリーは、まだ見つめとりました。「あら、それじゃお金あげましょうね。おばあちゃん、ちょっと小銭ちょうだい」目が見えるようになった娘には、このルンペンが自分を助けてくれた人だってこと、わからないんですねえ。  この、ウインドーのガラス、きいてますねえ。一枚のガラスの外と内、このガラスがあるから、この二つの人生、この二人の人間が、どんなにみごとに、圧倒的に私たちに迫ってくることか。  そうして、娘はやがて呼びました、チャップリンを。チャップリンは逃げようとしました。そこで娘は、ウインドーから出てきて、チャップリンを呼んで、はい、はいといいながら、チャップリンに小銭を手渡す。手を握る。あ、この手、目が見えないときに自分を助けてくれた手だってことがわかりました。「あんたですか、あんたなの?」チャップリンはうなずきました。そして、「見えるの、もう目は見えるの?」といいました。娘はうなずきました。  そのときには、もうガラスはありません。そのガラス一枚、もしも最初からこのウインドーのないところで会った場合と、一枚の大きなガラスがある場合とは、ずいぶん感覚が違います。チャップリンは、みごとな演出を見せましたねえ。  そういうわけで、私はこの「街の灯」に泣きぬれました。映画のおもしろさと、演出のたくみさ、音楽の美しさに泣きぬれました。  やがてそのチャップリンが、「モダン・タイムス」を撮りましたあと、日本に寄ったんですねえ。ポーレット・ゴダード、「モダン・タイムス」の相手役ですね。この人と香港《ホンコン》で結婚して、ひそかにひそかに、ないしょで神戸にちょっと立ち寄りました。そのとき私、ユナイテッド・アーチスツ社に勤めておりましたから、それをないしょで知りました。  どうしても会いたい、どうしても会いたい。とうとう私は、そのとき、昭和十一年の六月、「モダン・タイムス」はまだ見ておりませんでしたけれども、神戸の港のクーリッジ号という船の上で、生まれてはじめてチャップリンに会いました。私の二十七歳のとき、チャップリンの四十七歳のときでした。  この人がチャップリンか、そう思いました。胸がいっぱいになりました。そうして、私はチャップリンに、過去のいろんないろんな短編映画のことを、口早に口早に、思わずしゃべってしまいました。原名をどんどんいって、そうしてしぐさをしました。私は自分の目で見たチャップリンのことを、この目の前にいるチャップリンに伝えたい。チャップリンは、両手をこすって笑いながら 「寒いですね、ちょっとなかにお入り」  寒い日でした。五分間の許可だったのに、なんとキャビンに入りまして、四十五分間、二十七歳の私は、四十七歳のチャップリンと、ほんとうに二人っきりで、膝《ひざ》をつき合わせてしゃべりました。私がどうやってしゃべったか、どこまで英語ができたか、もう夢中でした。好きというもの、尊敬というもの、夢中というものは、勇気を与えます。  チャップリンは、そのときにいいました。 「ぼくは『モダン・タイムス』を作った。もうこれで、ぼくの映画は終ったんだ。ぼくはこれで、ぼくの映画は作らない、監督する。あのポーレットで悲劇を監督するんだ」 「どんなストーリーですか」 「はい、台本はもうできてます。シナリオはできてますけど、これはまだ申せません」  そんな感激的な対面もしました。私は胸いっぱいになって、ブリッジを去りました。そうして、その船を見送りながら涙があふれました。 ●もう終り、もう終りといいながら  それから何年たったでしょう。  一九四〇年、昭和十五年ですね。チャップリンは、「モダン・タイムス」のあとは監督だけで、自分は主演しないといったのに、「独裁者」を作りました。やっぱり自分が主演の「独裁者」を作ったんです。びっくりしました。けれども、それを見たとき、「独裁者」がなぜ作られたのか、それがわかりました。  あの最後の演説、なんてすごい演説でしょう。あの演説を思い出して、今みなさんにもう一度お伝えいたしましょう。あの、ヒットラー(ヒンケル)に間違えられた床屋さんが、みんなの前で演説しましたねえ。  ——私は独裁者にはなりたくない。支配はしたくない。できれば援助したい。ユダヤ人も黒人も白人も、お互いに助け合うべきである。他人の幸せを願ってこそ生きるべきである。お互いに憎み合ったりしてはいけない。世界には、全人類を養う富がある。人生は自由で楽しいはずである。貪欲は人類を毒し、憎悪をもたらし、悲劇と流血を招く。思想だけがあって感情がないと、人間性が失われる。知識よりも思いやりが必要だ。思いやりがないと、暴力だけが残る——  この演説を、私は何度聞いたことか。チャップリンはこの演説を、あの有名な作家スタインベックにたのんだり、いろんな作家に書かしましたが、最後には自分で原稿を書いて、自分でしゃべりました。あのサイレントの王様が、この最初の本格的トーキーで、とうとうとみごとにしゃべりました。  ところで、この「独裁者」の演説の最後のほうで、「ハンナ、聞こえるか。ハンナ、聞こえるか」というところがありますね。 「独裁者」をごらんになったある人が、あの最後の演説、あのところで、床屋でなくチャーリー自身になりすぎているんじゃないか、という説を述べられました。けど、大違いですね。あれは、チャップリン自身になってこそ、この映画の生命があります。  あのとき、ヒットラーは生存中です。生きているヒットラー、そのヒットラーに対して、あの演説は命がけだったんですねえ。ほんとうに命をかけておりますね。もしもヒットラーが世界を征服したら、チャップリンは残酷な殺され方をしたでしょう。それなのにチャップリンは、全世界に向かって、あの画面のなかでしゃべりました。そして最後に 「ハンナ、聞こえるか」  といったんですね。ハンナとは、実はお母さんの名前です。ポーレット・ゴダードが扮している娘の名前がハンナですが、ほんとうにチャップリンのお母さんの名前なんですね。だから、「ハンナ、聞こえるか」というのは、もう今は亡き母に向かって、チャップリンが呼びかけたんでしょう。叫んだんでしょう。画面は、雲が流れておりました。雲が流れて、天国のお母さんへのささやきだったかもしれません。  それで、「放浪紳士チャーリー」という記録映画のなかで、このシーンが出てきたとき、この映画の監督は、チャップリンのお母さんのカットを入れたそうです。チャップリンはこの記録映画を見て、お母さんのカットを入れるのはやめてください、といったそうです。  それは、なぜでしょう。それはおそらく、ポーレット・ゴダードの涙の顔とお母さんの顔が交互に出ることをきらったんでしょう。チャップリンがきらったといういい方はいけませんが、今は別れたポーレット・ゴダードよりも、もっともっと母というものを大きく愛していたんでしょう。だから、ここでポーレット・ゴダードと交互に母の顔が映ることに堪えられなかったのかもしれません。  そういうわけで、チャップリンは「独裁者」で、完全無欠にしゃべりました。しかも、二役やりました。  けれども、チャップリンは「黄金狂時代」がすんだ頃、一九二八年、もうアメリカがトーキーに踏み込んだときに考えました。  ——トーキー? なぜ、みんながトーキー好きなのか。トーキーというこの機械、この科学発明は、各国を垣でへだてるかもわからない。私が「サンキュー・ベリマッチ」といったって、日本の方がわかるかしら、イタリアの方がわかるかしら。映画とは、全世界の人がともに楽しむものだ。パントマイムで完全にわかるじゃないか。なぜ、トーキーになるんだ?  けれども世間は、どんどんトーキーになりました。それならぼくはこれを作ろう。チャップリンが作ったのは「サーカス」(一九二八)でした。なんて皮肉でしょう。  ——サーカス、これは目で見るもの。だれがサーカスを説明しますか。あの綱渡りを、だれが説明しますか。あの象使いを、あのライオン使いを、だれが説明しますか。あの道化師のしぐさをだれが説明しますか。見てわかる、子供が見ておもしろがる、大人が見ておもしろがる、おじいさん、おばあさんが見ておもしろがるサーカス、これが私の映画のオリジンです——  チャップリンは「サーカス」を作りましたけれど、どんどんトーキーが盛りあがってきました。そこでチャップリンは、もうこの「サーカス」で私の映画の時代は終った、そう思ったに違いありません。チャップリンは映画を作りながら、いつでも、もう命がけで、これで終りだ、これで終りだと思っています。 「サーカス」のまえにも、ほんとうに最後の作品だというので作ったのが「黄金狂時代」です。なぜでしょう。それは、チャップリンが映画のなかで靴を食べました。自分のほんとうのトレードマークの靴を食べたんです。これで自分の出る映画は終り、そう思ったに違いないんですね。そうでないと靴なんか食べません。けれども、トーキーになったときに「サーカス」を作りました。みんながトーキー、トーキーといっているけれど、映画は目で見たらいいんだと、「サーカス」が必然的に生まれました。  そのときに、お母さんが亡くなったんです。チャップリンは、声を出して泣いたそうです。ほんとにつらかったでしょう。ほんとうに苦しい苦しい人生を、ともになめたお母さんが亡くなったんです。  もう「サーカス」で、自分のパントマイムの映画を終ろうとしたのに、チャップリンはまたもや作りたくなってきました。またもや、母の愛を呼びかけたくなりました。  それが「街の灯」になって生まれたと思います。あの目の見えない哀れな娘を、いたわっていたわって、幸せな幸せな人生を与えてやろうと、自分を犠牲にして尽くしたあの放浪のチャップリン。あの娘はチャップリンにとっては母だったのかもしれません。だからあの映画は、男と女の恋愛映画じゃなくて、母と子の映画だったかもしれない。「街の灯」は、そういうものを私に思わせました。  もう、これで、終り。ほんとに終り。音楽だけ入れた。もう、これで終り。  けれども世間は、まだまだチャップリンに、トーキーを作れ、トーキーを作れと、まあ、世界中の映画館が訴えました。とうとうそこでチャップリンは、それならせりふでなく声を入れましょうということになって、さあ映画館は、チャップリンがトーキーに入ったと大騒ぎになって、�チャップリンしゃべる�とネオンサインを作ったくらいですねえ。  こうして生まれたのが「モダン・タイムス」でした。こんな題名は、今までの映画のなかで一本もございません。いちばんドライな、いちばん干《ひ》からびた、詩のにおいやドラマチックなにおいのなんにもない「モダン・タイムス」という、皮肉な皮肉な題名を用いました。  人間が時計に追っかけられ、機械に飲み込まれていく映画。トーキー時代、科学、それを皮肉った映画。その「モダン・タイムス」のなかで、私は一言だけ声を入れましょうとチャップリンがいいましたのに、さあ、最後の最後、いつまでたっても音楽ばっかり、伴奏ばっかり、チャップリンは一言も声を出さなかった。それが、いよいよ最後の最後の最後で、もうどうにもならない瞬間に、チャップリンは、あのレストランで、みごとなみごとなチチナの歌をうたいました。  そのチチナの歌は、なんときれいな、柔らかなソフトボイス。まあ、チャップリンがいちばん最初の一九一四年から、この一九三六年の「モダン・タイムス」まで、一回もフィルムのなかから出さなかった声を、生まれてはじめて、とうとう出しました。さあ、そのチチナの歌のみごとなこと。あの声の柔らかさ。チャップリンがみごとな声をもっていることを、「モダン・タイムス」で知りました。しかもどこの国にもない言葉。  そうして、私が昭和十一年六月にチャップリンに会いましたとき、「もう、ぼくは『モダン・タイムス』で主演映画は終るんだ。今度は悲劇の監督になるんだ」といったんですねえ。最後の作品になるはずだったんです。 ●チャップリンは生きつづける  チャップリンがもしも、ミュージカルのエンターテイナーになっていたら、みごとなスターになっていたでしょう。チチナのチャップリンの声、なんて立派なんでしょう。けど、それをもっともっと乗りこえた、立派な映画作家としての生涯を終えました。  あの「放浪紳士チャーリー」、あの作品をごらんになって、ずいぶんたくさんの方が泣かれました。そうして昨日、チャップリンの悲しい知らせ、八十八歳でチャップリンが亡くなった、そのことが伝わると、もう今日、あの「放浪紳士チャーリー」、あの記録映画の映画館の前はいっぱいの人になりました。そして一月いっぱい、ロングランになりました。みんな、やっぱりチャップリンを求めております。  だが、あの映画のなかにありますように、チャップリンにはいろんなことがありました。人生はつらいですね、ああ地獄だった、とそういっとります。私はいろんなチャップリンの映画見とりますと、それを感じます。 「サーカス」で、映画とはこれだと叫びました。けれども、やっぱりトーキーになってきた。チャップリンは「モダン・タイムス」を撮りました。さあこれで終るんだと思ったときに、ヒットラー、ヒットラー、なんという奴だろう。そこでチャップリンは、命をかけて「独裁者」を作りました。けれども、アメリカは参戦しまして、軍国主義のような国になりました。チャップリンは我慢できません。そこで「殺人狂時代」(一九四七)を作りました。これも実にこわい作品です、アメリカに対して、戦争に対して、軍人に対して、チャップリンはすごいすごい皮肉な作品を作りました。  さあ、アメリカがにらんで、にらんで、にらみつけました。チャップリンは赤だ。チャップリンは十六歳や十七歳の娘ばっかりと結婚する色魔だ。いろんないろんな罪状をつくりました。チャップリンを追い出そうとしました。なんていう人生でしょう。そのときに「ライムライト」を生んだんですね。チャップリンの心境ですね。ぼくは、もう去るんだ。老いたこの道化師は去るんだ。  私は昭和二十七年、チャップリンのスタジオ、「ライムライト」のセットで、チャップリンにもう一度会いました。私は四十三歳、一九五二年、そのときチャップリンは六十三歳でした。 「あの神戸の少年か」  チャップリンは、二十七歳のときの私を、そう思い出してくださいました。そして私は、これがねえと思える貧しいスタジオに入りました。なかなかスタジオには入れてくれないんですけど、私を入れてくれました。入って、私の目の前で、「ライムライト」の一シーンを演じている、そのリハーサル、本番を、幸いにも私は見ることができました。マイクの下で、チャップリンの髪の毛はグレイになっておりました。  まあ、チャップリンのグレイのヘア。そしてそのときは、時というものは偉大な作家である、そんなせりふをいうときでした。私は涙があふれました。そういうわけで、チャップリンのこの「ライムライト」を、あとで見まして胸がいっぱいになりました。  やがてチャップリンは、アメリカを去りました。けれども、フランスでもイギリスでも歓待されました。そのチャップリンを、あとになってアメリカは再び迎えたんですねえ。アメリカも申しわけないと思ったのでしょう。そうして、チャップリンも立派ですね。自分を追い出したようなアメリカに、もう一度チャップリンは姿を見せました。  あの「放浪紳士チャーリー」のなかで、あのオスカー、あのアカデミー賞のシーンが、なんと胸を打ったでしょう。真っ白な頭のチャーリー・チャップリンが、舞台で、サンキュー、サンキューといいましたね。なんというスイート・ピープル、なんてみなさんはいい人でしょう、といいましたねえ。そして、ジャック・レモンがオスカーを渡す、そのシーン。考えたら、八十八歳で昨日亡くなったチャップリンへの、せめてもの、アメリカの最後のはなむけでしたねえ。あのシーン、今、この亡くなったという現在、あのシーン見たらきっと涙があふれて見ていられないでしょう。  チャップリンのような、こんな長い長い経歴をもった映画人はおりません。八十八歳の生涯は、みごとに、いかにも苦しい人生でした。けれども、立派な立派な生涯だったと思います。みごとなものを残してくれました。心から感謝します。  偉大なチャップリンは、これからいつまでも、いつまでも、生涯私の胸のなかに生きていくでしょう。そしてみなさんの胸のなかにも生きつづけますねえ。昨晩おそく十二時、一時ごろ、お電話をかけてきたファンの方々、泣きながら、亡くなりましたねえといった少年の胸のなかで生きつづけますね。  昨日はクリスマスです。おそらく、スイスのベベの、チャップリンの住まいの周りも、クリスマス・ツリーが一軒一軒かざられてると思います。この冬のスイスの、このクリスマスに、チャーリーは去りました。ほんとうに天国へ、ゆるやかにゆるやかに昇天していった、そんな感じがします。  さあ、時間になりました。これで終りです。昨日、チャップリンが亡くなりましたから、やっぱり今夜のこの時間は、チャップリンのことを申しあげなくちゃならないと思いました。  それではみなさん、またお会いしましょうね。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]  ㈼ 映画、むかしむかし [#改ページ] ドタバタ喜劇入門  はい、みなさん今晩は。  まあ、みなさんの元気そうなこと。まだたっぷりお小遣いがあるらしいですねえ。さあ今夜はまだみなさんのお生まれにならない頃の、ドタバタ喜劇について、お話ししてみましょうね。  けれども、このドタバタ喜劇は、目で見るもので、見て楽しむものですから、私のおしゃべりで、そのムードが出せるかどうかわかりません。でも一生懸命にやりますから、よーく聞いてくださいね。 ●ドタバタ喜劇のカムバック  往年のスターがみんな出た「おかしな、おかしな、おかしな世界」(一九六三)、この映画は、スタンリー・クレイマーという監督が、もう一度、あのサイレント時代の喜劇を、みなさんにお見せしようとして作った大作ですね。スタンリー・クレイマーみたいな人が、まあよくもこんな、おもしろいおもしろい、おもしろい映画を作りましたねえ。やっぱり、映画の一流監督は、ウエスタンや、ドタバタ喜劇にあこがれているんですね。この現代になって、もう一度、あのドタバタ喜劇をお見せしようと努力してるんですねえ。  ところでみなさん、スタンリー・クレイマーという人、ご存知ですか。なに、全然知らない? まあ、それでよく呼吸してますねえ。  このスタンリー・クレイマーは「ニュールンベルグ裁判」(一九六一)を監督した人ですよ。それから「動物と子供たちの詩《うた》」(一九七一)という、すごくおもしろい、少年と動物との愛の映画を作ったかたいかたい監督です。それから「招かれざる客」(一九六七)もあり、最近では「オクラホマ巨人」(一九七三)を作った、なかなか骨のある一流の監督ですね。  その人が、こんな「おかしな、おかしな、おかしな世界」を作った。みなさんこのクレイマーという人、頭がおかしな、おかしな、おかしな人だと思わないでください。やっぱり、映画の骨はドタバタ喜劇だと思ってるんですねえ。  広い広いハイウェイを、自動車が走ってます。それが、ひっくり返って、谷底にドーンと落ちた。さあ、それを四台の自動車が見てたんですね。その四台が、まあ、かわいそうに、といいながらどんどんどんどん、下におりて見に行った。親切な人たち。世のなかの人はみんな親切、みんな善人。そうして、下に落ちて死にかけている男に、しっかりするんだ、といっていると、この死にかけている男が、えらいこといったんですね。 「ウー、ウー、おれはもうだめだ。けれど、おれは三五万ドル持っていたんだ。あのロジタ公園って知っているか、あそこに埋めてあるんだ」  といいながら、こと切れてしまったんですね。さあ、えらいことになりました。今の今まで親切な親切な善人だった人たちが、その言葉を聞いたとたんに、カアッとなって、まあ、お金って、実際よくありませんねえ。それ行け、というのでその公園へ向かって、どんどんどんどん大競争。一生懸命になって、公園へ行く。さあ、これからドタバタの大騒ぎになりました。  ドタバタ喜劇の精神とは、追っかけです。車が追っかけ、飛行機も追っかけ、なんでも追っかけですね。この「おかしな、おかしな、おかしな世界」は、ものすごい追っかけ映画で、しかも、その主役が、あのかたぶつのスペンサー・トレイシー、これがまた、悪い悪い男になってるんです。  どうして、スペンサー・トレイシーがこんな映画に出たんでしょう。それはこのスペンサー・トレイシーが「ニュールンベルグ裁判」で、いい役をやったので、ちょいと引っ張られて出たんでしょうね。彼にしては、めずらしい役ですねえ。  そのほか、ミルトン・バール、エセル・マーマン、うるさいおばちゃんですね。それに、ミッキー・ルーニーも出ました。ちらっとね。それに、ジェリー・ルイス、バスター・キートン、まあ、昔の懐かしいスターがずいぶん出ました。そういうふうに、この映画は、懐かしいスターたちが、どんどん応援して作ったわけで、というのはみんなドタバタ喜劇に憧《あこが》れていたんですねえ。  ドタバタには、海水浴のシーンがよく出てきます。これはあとでまたお話ししますけど、「お熱いのがお好き」(一九五九)に、海水浴のシーンが出てきましたね。やっぱりビリー・ワイルダーは、ちゃんとドタバタ喜劇を知ってます。この映画はおもしろかったですねえ。  トニー・カーチスとジャック・レモン、ジャズバンドの演奏者ですね。マリリン・モンローはダンサー。トニー・カーチスとジャック・レモンが女になって逃げました。ギャング映画のパロディですねえ。汽車が出てました、汽車のなかでもドタバタ喜劇のパロディですねえ。  パロディってなんでしょう。それは、こっけいな形でひとつのものをまねしているんですね。ドタバタ喜劇の頃は、パロディがはやったんです。  たとえば「卒業」という映画が当たると、「落第」という映画を作ったんです。「ライアンの娘」というのが当たったら、「ライオンの娘」なんていうのを作る。「十二人の怒れる男」、そういうのが当たると「十二人の笑いの止まらぬ男」と、まあ、ひどいことをしたんですね。  ところで、この「お熱いのがお好き」の終りのほうにおもしろいところがありましたね。ジョー・E・ブラウンの扮《ふん》する金持の男が、ジャック・レモンを女だと思い込んで、追っかけて追っかけて、ジャック・レモンは、自分は男だといえない。とうとう最後に、ボートに乗せて連れ出されました。そうして、ダンスになりました。タンゴ。ジャック・レモンの唇には、バラの花が一輪。ジョー・E・ブラウンは大きな口をした男。タンゴを踊ってます。それが、パッとこちらを向いたときに、ジョー・E・ブラウンの大きな口にバラの花が移っていましたねえ。二人がどんなことになったのか、唇と唇が合ったのかもしれませんね。演出のうまいビリー・ワイルダーは、こんなところでもうまいことやりますねえ。笑わせます。そこで、とうとうジャック・レモンは白状します。 「実は、ぼくはぼく[#「ぼく」に傍点]なんです。あたい[#「あたい」に傍点]じゃないんです。ぼくは男なんです」と白状しますと、その相手の男がいいました。 「いいよ、いいよ。だれでも完全な奴はいないんだからね」と。  この映画のおもしろさは、ドタバタ喜劇のパロディをどんどんもち込んだところにあります。ドタバタ喜劇の懐かしいカムバックでしたねえ。 ●スラップスティックとギャグとジョーク  スラップスティックのこと、ちょっと話しましょうねえ。これは、道化師がもっているパチンと相手をたたくヘラのことなんです。だから、スラップスティックのコメディというのは、荒っぽい喜劇、すなわちドタバタ喜劇ということになるんですね。スラップというのは、平手打ちでピシャンというところからきています。そんなわけなので、だいたいドタバタ喜劇というのは、サーカスのあの道化師の精神ですねえ。このなかには、ギャグというものが、いっぱい出てくるんですよ。  ギャグって、みなさんご存知ですねえ。笑いの種ですね。ここで、ちょっとそのもとのもとの学問的なことをいいますと、ギャグというのは、猿ぐつわをはめること、ものをいわさないようにすることなんです。おかしいですねえ。 「ものいったらいかん」それがなぜギャグなんでしょう。目で見て、おかしくておかしくてしかたがない——目で見るものであって、口でしゃべるものじゃない、これが実はギャグの元祖だったんですねえ。だから、目で見るものが、ギャグだったんですね。笑いの演技の種。  それに、ギャグに似たもので、ジョークというのがありますね。冗談、洒落《しやれ》、冷やかしですね。ジョークは、トーキーになって、どんどんどんどん、出てきましたが、サイレントの頃は、ギャグ。これがこのスラップスティック・コメディ、ドタバタ喜劇にいちばん大切なものですね。  というわけで、ドタバタ喜劇のスターたちは、ギャグマンといいまして、ギャグ専門に、朝から晩まで、人を笑わせる種を考えている人を三人か四人、個々で雇っているんですねえ。寝ていても、夜中でも、ギャグを思いついたらメモをとるんです。お手洗いに行っていても、あ、これだ、と思うと、お手洗いのペーパーにメモする、そんな連中を雇っていたんです。ギャグマンというのは、当時とても高い金をとっておりました。  たとえば、ギャグとはこんなことを考えるんです。ビリー・ワイルダーの「七年目の浮気」(一九五五)でも、女の人がお風呂に入っていて、ちょっと足の指を水の出る蛇口に入れたら、指が抜けなくなったり、手が抜けなくなるところありましたね。あれ、昔よくあったんです。  きれいな女の人が、二階でお風呂に入ってる。そうして、その蛇口のせんをちょっと引っ張ったら、水がジャージャー、あれえ助けてえ、といってるうちに、水があふれてあふれて、風呂おけが外へ流れていっちゃった、街まで流れていった。すると、それを二階で眺めていた人や、電柱で工事をしていた人が、あんまり派手な姿を見たので、上からドスーンと落っこっちゃった。  ギャグとジョーク、おわかりになりましたでしょう。ギャグは目で見るもの、ジョークは口でしゃべるものというわけですね。 ●パイ投げはドタバタの真髄  ドタバタ喜劇は、活動写真と同時に誕生しました。パイって、あのおいしい食物を、人の顔にパチーンと投げつける。このパイ投げが、ドタバタ喜劇のいちばんおもしろいものでした。  なぜ、そんなことをするんでしょう。人の顔にパイを投げつける、パチーンと当てる。これは、むずかしいいい方をすると、実は反逆精神とでもいうんでしょうか。  まあ、級長のあの顔、憎らしいなあ、おれは点数が悪い、あいつは点数がいい、そしていつも澄ましていやがる。あいつに、一度パチーンとなにかぶっつけてやりたい、そんなこと思いますねえ。  あるいは、いやに上品ぶってキザに澄ましたお金持の男と細君がいますね。あんまり上品ぶってそばへ寄ることもできない。あんな二人の顔に、パチーンとパイを投げつけて、それが顔に当たってパイがつぶれたら、どんなによかんべえと思いますね。人間って、みんなそういうこと思うんですねえ。パイを投げればパチーンと当たる。まあ、お客さん喜ぶんですねえ。心のなかで、あら、隣のおばさんに当たったと思ってるんですよ。あるおっさんは、自分のワイフに当たったと思ってるんですねえ。  ところが、あれはほんとうに役者の顔に、パチーンと当たるようにできてるから、当時の役者さんはつらかったでしょう。昔は代役というのがなかったから。というわけで、まあ、そのパイ投げの派手だったこと。  これがドタバタ喜劇のひとつのおもしろさですね。  次は、女の人をいじめる。さあ、そのおもしろいこと。きれいなきれいなイブニングを着たふとったおばさんが向こうからやってきます。眼鏡を手に持って、澄まして、相手を軽蔑《けいべつ》しているような目つきをして。その女の顔に、パッチャーンとパイが当たって、その女がひっくり返って、うしろの泉水の中にピッチャーンとはまる。このこっけいのなかに残酷さがあるんですねえ。  なぜ、そんなに女をいじめたんでしょう。それは、この時代、大正の初めの一九一五年頃は、レディファーストといいまして——、アメリカでの話ですよ。エレベーターに女の人が乗ってくると、男はみんな帽子をとったもんです。そうして、先におりたら、怒られるの。おまけに、テーブルでご飯食べてるとき、女の人が前を通ったら、立ちあがったもんですねえ。  それがあまり行き過ぎてホモがはやっちゃった。当時、あんまり女がいばってたから、このへんでいっぺんやっつけてやるべえと思っても、なかなかそれができない。かわりにドタバタ喜劇のなかでいじめた、それが、えらいことはやったんですねえ。どんなことをしたんでしょう。  さあ、ここは西部の町です。そこへニューヨークから、いばった女がやってきました。オープンカーに乗って澄ましていました。そうして「あら、いやらしい町ね」といって、その町の軒先をどんどんどんどん歩いて、向こう側の家のほうへ行こうとしました。すると、目の前に大きな大きな水たまり、昨日にわか雨が降ったらしい。このきれいなきれいなレースの服を着た女、水たまりが広いから、右に行っても左に行っても、向こう側に渡れません。 「あら、いやだわ」なんていっていました。すると、向こう側で見ていた男が「おれ、確かこんな景色を見たことがあるぞ、昔ウォルター・ラレイってのがあんなことやったな、義を見てせざるは勇なきなり、よし、やってこませ」といって、女のそばに行って、「どうぞ奥さま、お足もとにお気をつけてください」といいました。  女は「あら、あなた、なにしにみえたの」すると、男は「あなたのために、こういたしましょう」といって、この男は、親切に上衣《うわぎ》を脱いで水たまりの上にちゃんとのせてやりました。  そうして「さあ、どうぞ奥さま」。女はしなを作って「あら、あなたは優しいお方ね」といって、すそを持ちあげて、その上衣の上をピョイピョイと渡ろうと思ったら、実は、その水たまりはすごい穴で、ドドドーッと落っこっちゃった、首まで。男は、さあ大変だ、おれはえらいことをした。こんなこととは知らなかった。あわてて一目散に逃げてしまった。その女の人は「ああ、あんまりだわあ、あんた、ちょいと」といいながら、はいあがってくるその姿。泥のかたまり。パラソルも泥だらけ。それをピチッと開いたら、泥が飛び散ったそのおもしろいこと。からだ中泥だらけではいつくばりながら、男を追いかける。  当時これほど残酷に女をひどいめにあわせました。こっけいのなかにも、そんな残酷さがありましたねえ。つまり、レディファーストへの反逆ですねえ。パイ投げは、スノッブたちへの、高慢ちきへの反逆ですね。というわけで、その当時は、ドタバタ喜劇のなかにも反逆精神があったんですね。  それを喜んじゃったところに、ちょっとこわいところがありますけれども、ドタバタ喜劇は、そんな形ですすんでいきました。  その次にはおまわりさんをいじめましたね。なんで、おまわりさんをいじめたのか。おそらく活動写真の初めには、まあ、俳優さんもいろんなことをやりながら、いちばんこわいのはなにか、税金とおまわりさんと思ってたに違いありません。それで、おまわりさんをいじめる映画がたくさん出てきました。当時、キーストン・コップスといいまして、キーストン喜劇のなかには、必ず十人組のおまわりさんが出てきて、そのおまわりさんがえらいめにあうんですねえ。  チャップリンの映画にも必ずおまわりさんが出てきましたね。というわけで、これもまたドタバタ喜劇の種なんです。  それから、もうひとつ悪いことをしたんですね。現実に悪いことができないから、ドタバタ喜劇のなかで、正々堂々と悪いことをしたんですねえ。なにをしたんでしょう。まあ、ドタバタ喜劇がはやったのは、実はこれかもしれません。  というのは、ニューヨークで撮影していたときは、撮影の場所が広くなかった。それがロスアンゼルスやハリウッドにきたら、山もあれば海もあって、広くって自由に撮影ができるというので、今度は海岸で、ドタバタ喜劇をやったんですね。どんなことをするんでしょう。実は、これがねらいなんです。  海岸には、たくさんのチンピラ女優やニューフェイスが海水着美人という名で登場しました。ここでは、堂々とエロティックな姿を見せられたんですね。海水浴だから、裸になるのは当たり前でしょう、というわけなんですね。  その女たちが泳ぐ、それがいつでもニューファッション。今年はあんな形の帽子がはやるの、まあ、あんなデザイン、なんていってるうちはよかったんですけれども、男のほうは、そんなことはおもしろくない。そのうちに、だんだん男のほうがおもしろがるようなことを考えたんですね。  きれいなきれいな女と、おかしなおっさんが泳いでいました。沖のほうへ沖のほうへと泳いでいきました。ところが、それまではよかったのですが、それから、キャメラが水中に入っていきました。そうして、キャメラが水中から泳いでいる人を撮影するときに妙なことになってきたんですねえ。男のほうは、毛だらけの足で泳いでいますし、女のほうは、きれいな足で泳いでいますね。お尻が、ちょっと動いてみえます。首から下の男と半裸体の女というのは、ちょっとばかりあやしいスタイルですね。  そこへ魚が一匹、シューッと泳いできました。その魚が、男と女のお尻を見て、どちらをつついたらいいだろうと考えたんですね。それで、女のお尻をちょこっとつついたんです。今度はキャメラが上にあがります——。女の人は変な顔をしました。「なんだか、お尻が変だわ」といいました。男は笑っていました。また、キャメラは水中です——。魚がまた女のお尻をつついたとたん、二人の顔が映って、女が男の頬っぺたを思いっ切りパチーンとたたくというようなわけで、まあ、男はまさにぬれぎぬどころか、ビチャビチャぬれの、大ぬれぎぬですねえ。 ●花形は乗り物と自動車の追っかけっこ  汽車はドタバタ喜劇の花形です。汽車が、シュッシュッシュッシュッ走ってきます。サイレントですけど、煙が出ていますから音が聞こえるんですな。シュッシュッシュッ、単線です。どんどんどんどん走っています。単線なのに向こうからもやってきて、両方がトンネルに入っちゃった。  それを上からキャメラが撮っています。ボカーンとえらいことになるだろうと思ってると、シュッシュッシュッ、両方が一つのトンネルの向こうとこちらから出てきちゃった。  線路は単線だから、そんなばかなことはないんですけれど、サイレント時代のギャグというものは、超自然的な、めちゃくちゃをやるんですねえ。  飛行機なんかも大変ですわ。飛行機が空の上から、低空で低空で、どんどんどんどん、下りてきて、昔は曲芸飛行士がいたんでしょう。ずーっと下りてきて、よその家の屋根にひっかかって、その屋根ごと空に持っていっちゃったんですねえ。ところが、下ではちょうど朝ご飯食べてた。まあ、今日はいいお天気で、太陽がこんなに明るくって。そんなおもしろいことばっかりやりましたよ。  それから、自動車競走なんかも山ほどありました。前に一台走ってる。それをうしろからどんどん追っかける。いくら追っかけても追っつかない。それでうしろの車に乗ってる男は、自分の椅子の下に磁石があるので、それを前の車のほうに向けたら、キューッとこっちの車にひっついちゃった。そんなこともやりましたねえ。  一台の車がスピードを出して走ってます。走ってるうちに底が抜けてしまいました。運転してる人は底が抜けても、まだ自分の足で走ってる。そんなばかなことはないんだけれども、当時は、それでゲラゲラ笑ったもんですね。  たとえば、船が出てきます。たいがい、ドタバタ喜劇の船は、浮きが沈んで錨《いかり》が浮くんですね。もう決まってるんです。というわけで、船のおもしろいこと、モーターボートの追っかけなんか実に楽しいんですよ。モーターボートが追っかけっこしてるうちに、ガチャンと衝突して二隻が四隻になっちゃうんですねえ。 「グレート・レース」(一九六五)も自動車の追っかけでしたねえ。ごらんになりましたか。ブレイク・エドワーズの野心作でした。これは「おかしな、おかしな、おかしな世界」ができて二年たって、おれだって作ってやるといって、あのモダンなブレイク・エドワーズ監督が作りました。  この作品には、トニー・カーチス、ジャック・レモン、ナタリー・ウッド、それにドロシー・プロバインが出ています。これは、ニューヨークからパリまでの自動車競走の話です。自動車のできたての昔ですから、そのおもしろかったこと。そのクラシック、サイレントの頃のタッチがどんどん出てきて、自動車があの手この手でひっくり返ったり、妙なカルパニアという国が出てきたり、不思議な不思議なアラスカに行ったりして、ほんとうにリアリズムで考えたら、こんなおかしなことはないというような景色が、どんどん出てきました。この映画でブレイク・エドワーズは、もう一度、スラップスティックを取り戻そうとしたんですねえ。  斎藤|寅二郎《とらじろう》監督のある映画のなかのおもしろいシーンで「ここではきものをお脱ぎなさい」というギャグがありました。田舎のお葬式。みんなゾロゾロやってきました。そこへ一人のおばさんがやってきて「ここではきものを……」と張り紙がしてある「は」の字を、思わず気のつかぬままちぎってしまいました。「は」の字が消えたので、妙なことになりました。  次々にやってきたじいさんもばあさんも、なんだ? ここで着物をお脱ぎなさい、へ、きっと別の着物をくれるんだろう、といってみんな裸になって家のなかへ入ってきたから、その家の人たちはびっくり仰天しました。  さて、地面にポッカリと穴がありました。そこへ本を読みながら人がやってきました。ああ、落っこちる、と見ていてはらはらしてると、その人は気がつかぬまま、スタスタと穴をまたいで、無事穴を通り越しました。ああ、よかった、あの人助かった、と思ってると、おれ、忘れもんしちゃった、とクルッと振り向いたとたんドスーン。というわけで、なんでも目で見るおもしろさ。  池がありまして、男と女が楽しげにボートをこいでいました。これは田舎の劇場の舞台です。だから俳優は、こいでいる格好をしている。船は、別の道具係が動かしてるんですね。すると、この船を押してる男が「おまえにバクチで一〇円貸しがあるぞ、あれ返せ」なんていってるうちに、船のほうが先に行って、こぐのがあとになって「あら、ちょっと、船のほうがさきに行っちゃったわ」。そういうのもありましたよ。  さて、これは映画の場面で、銀行なんです。バスター・キートンが銀行で一生懸命お札を勘定しています。ところで、海綿で手をちょっとぬらしてお札を勘定するつもりが、キートンは糊《のり》にさわっちゃったんですね。さあ、大変。今度はお札が手にひっついちゃって札だらけ。それがたくさんの札。そこへギャングがやってきた。彼はあわてて手をポケットに入れたんですね。札が手にへばりついているから。ところが、手をあげろといわれても、手が糊でポケットにくっついてるから手があがらない。まあ、そういうふうに、銀行ひとつでも、こんな具合になるわけです。  また、セールスマンがドーナッツとかホットケーキの実演セールスをやっているんです。「さあさ、みなさん、集まってください。私んとこの作り方はみごとですよ」とかいって、粉をクリクリッと練って、ビチャーッと作るんですけど、メリケン粉で練ったつもりが、隣のセメントを練ったもんだから「さあ、どうぞおあがり」とできあがったドーナッツを食べたら、カッチーンカーン、歯が折れちゃった。こういう無邪気なギャグがどんなにあったか。爆笑また爆笑でした。  ところで、もっともっとしゃれたことをするのもありましたよ。商店のウインドーを一生懸命拭いています。きれいになった、きれいになったと思ってると、目の前の舗道を郵便屋さんが通りかかりました。「あんたに郵便がきてるよ」というと、「あ、そうか」とガラス越しに手を出して郵便を取っちゃったんです。そういうばかなこと、超自然的なことをやるんです。  トイレでもなんでも舞台にします。トイレがありました。「ウーマン」と書いてある、そのウーの字のところに人がもたれて立っていました。マンだけが見えるので、男の人が澄ましてなかに入っていきまして、やがて「ここは女のトイレですよ」といわれて放り出されたんです。こんなの、いっぱいありました。  とにかくドタバタ喜劇ほど楽しいものはありませんでした。私なんかそれをどれほど楽しんできたか。お正月になりますとね、福笑いといいまして、ドタバタ喜劇を五本も六本もやるんです。世のなかには、はしご酒というのがありますが、私は朝の九時から夜の十一時まで、あっちこっち、まあ、はしご映画をしたもんです。怒られました。怒られても映画のことを思い出すとおかしいから、笑うと、怒られてるのに笑っているのか、とまた怒られましたけれど。  正月ですから、もう一階も二階も超満員。終って入れ替わっても、なかなか外へ出られない。すわってる人は、出られないからまた見ようなんていってんの。というのは、おもしろいから何回も見たくなるんですねえ。 ●ギャグはトーキーになってどう変わったか  ギャグは、トーキーになると、漫才に変わってきました。ローレルとハーディ、マルクス兄弟、それにアボットとコステロ、ビング・クロスビーとボブ・ホープ、ジェリー・ルイスとディーン・マーチンみたいに、ギャグは二人組でしゃべるようになってきたんですねえ。これがトーキーになっての変わり方です。  たとえば、ビリー・ワイルダー監督の「アパートの鍵《かぎ》貸します」(一九六〇)でも、ギャグは変わってきてます。最後の最後、ジャック・レモンが喜んで、シャンパンを抜いたらポーンと音がした。すると、そんなことを知らない恋人のシャーリー・マクレーンは「あらっ、彼は自殺したんじゃないかしら」と思うんですね。シャンパンを抜いた音をピストルの音かと思ったんですね。そういうふうにギャグもどんどん変わってきました。  二人の男がいます。片っ方が「おい、あの満月を見ろ」といいますと、相手は「ああ、きれいなお月さんやなあ」といいました。すると、片っ方は「ばか、あれをお月さんといったらいかん。あれはなあ、地球と同じようにいっぱい人が住んでいるんだぞ」といいました。「ああそうか、人が住んでるのか。そんなら、三日月になったら、えらい混《こ》むやろなあ」と相手がいったんですが、そんなように変わってきたんですよ。  マルクス兄弟のグルーチョ、ハルポ、チコ、ゼッポ、この四人組がとてもおもしろいことをやりました。グルーチョはしゃべることで有名です。ある女の人といっしょにしゃべっています。そのグルーチョは、マックス・ベアという拳闘家について一生懸命にしゃべっているのですが、女はマックス・ベアを知りません。グルーチョがベアというから、熊だと思っています。「ほんと、ベアは強うございますね」女はベアは熊のことだと思っているので、こんなこといって話を合わしているうちに、グルーチョは「けど、あれはメスに手が早くてなあ」なんていって、二人の話がトンチンカンになるところが、とてもおもしろうございました。  というわけで、いろいろ傑作なことがありますが、この四人のうちのハルポはしゃべれないことになっていますから、パントマイムというより、いろいろシュールなデザインでおもしろいことをしました。ハルポというのはブロンドでぎょろ目なんです。それでハルポはこんなことやりましたね。  ポケットからハンカチを出しました。すると、相手が「ああ、コーヒーが飲みたいなあ」といったら、そのとたん、ポケットからコーヒー皿と、コーヒーの入ったコップを出したんですねえ。「おまえ、ビールは出せまい」といったとたんに、別のポケットから、ビールのいっぱい入ったジョッキを出したんです。すると、この相手がまた「しかし、おまえ、まさか機関車は出せないだろう」といいました。と、このハルポがバァーッと胸を開きますと、汽笛がピィーッと鳴ったので、もうこの相手は「やめてくれ」といいました。このように、トーキーになると、こっけいなスタイルはどんどんどんどん、変わってきました。 ●チャップリン、ロイド、キートン、アーバックルの喜劇  チャーリー・チャップリン、ハロルド・ロイド、バスター・キートン。この三人は代表的なドタバタ喜劇の王ですね。ところで、チャップリンのドタバタは、ちょっと違うんですね。今のチャップリンの映画は、愛のテーマですが、初期のものは、ちょっと残酷だったんですねえ。  お母さんと娘さんが泳いでいました。二人は泳いでいるうちに溺《おぼ》れかけました。ほんとに溺れようとしました。それを見て、チャップリンは泳いでいって助けようと思いました。どちらを助けるか、両方を見て、お母さんをほっぽって、娘さんのほうを先に助けた、そういうシーンが山ほどありました。この頃のチャップリンの喜劇には、どこか女に残酷なところがありましたよ。  チャップリンは、もう渡し船が出ようとしているときに波止場に駆けつけました。えらいことだ、もう乗れないなあと思っていると、一人のふとったおばさんが、波止場に立って手を振っていました。すると、チャップリンはそのおばさんを突き飛ばした、おばさんの足は陸、手は船にかかりました。ずーっと、おばさんのからだが伸びた、その上をチャップリンは、パッパッのパーと踏んで船に乗り込むというふうに、女の人を残酷に使ったことがありました。けれども、チャップリンの映画にはみんな意味がありました。なんとはなしに人生の諷刺《ふうし》がありました。  ロイドのものにも意味がありました。高いところに登るのがとてもこわい男が、登らなければ仕方がないので、どんどんどんどん登っていく、そのこわさ、その登っていく演技がとてもおもしろいんですけど、とうとうやりとげた。ロイドの映画を見てますと、もうおかしくっておかしくって仕方がないけれども、いつでもやりはじめたらやる、やりとげるんですね。  今度はキートンですね。キートンの映画にも意味がありました。どんな意味かといいますと、コンプレックスのかたまりなんですねえ。みんなが立派なのに、おれだけなんでお尻が大きくて背が低いんだろ、いつでもイカサない男になってるんですね。それが、頑張って頑張って最後にはとうとうやりとげるんですねえ。  というわけで、私はチャップリンもロイドもキートンも、どれほど見てきたかわかりませんが、どんなことでもやる気になったらやれる、という映画をずいぶん見てきました。ところが、アーバックルの映画は違うんですねえ。  アーバックルの映画にはぜんぜん意味がないんです。ただただ見とったらおもしろい。だから、チャップリン、ロイド、キートンは、現代までずーっと語り伝えられ残っているけれども、デブくんのアーバックルは伝えられていない。なぜかといえば、見てておもしろくっても、それを話すことができないんですね。というわけで、デブくんの喜劇のおもしろさはいったいどんなところか。  ひとつの例をとりますと、男と女が仲良くなりました。デブくんとメーベルが仲良くなって結婚して、ホヤホヤで新所帯をもった。すると、メーベルを恋していた別の男が失恋したというわけで、怒って仲間を連れてきて、デブくんとメーベルがいっしょの部屋にいるその小さな家を、一〇人ぐらいでかつぎあげて、それをずーっと持っていって海へピョイと投げたんですね。  二人は、そんなことは知らない、海に投げられたことも全然知らない。ほんとうに、二人は新婚のホヤホヤ。二人はベッドに入りました。愛しあったらこんなに揺れるのかなんて思いながら、接吻、接吻、接吻。そうして、仲睦《なかむつ》まじく寝ているうちに夜が明けました。「まあ、昨日はめまいがするほど愛は激しかったわねえ」なんていいながら、女が窓を開けて「あら、ちょいと海よ」といいました。そうして、またこちらの窓を開けて「あら、また海よ」といいました。「あんた、海だらけよ」といいました。こんな調子で、デブくんのこっけいというのは、ただ見ていておもしろいんです。いつでもおもしろい。というわけで、アーバックルの映画には意味がありませんでした。  ラリー・シーモンというのがおりました。これはスピード、スピード。もう、走る、走る。ハリー・ラングドンというのがおりました。これはペーソス、どことなく寂しいけれど、なんとはなしに人を笑わせました。  チャップリン、ロイド、キートン、それにつづいてアーバックル、ラリー・シーモン、ハリー・ラングドン、このあたりが指折りの代表的な喜劇俳優です。  活動写真、モーション・ピクチャー。モーション・ピクチャーとは動くもの。というわけで、その代表的な喜劇俳優たちが、活動写真の精神をどんなように表現したか、数えあげたらキリがありません。  たとえば、雑貨屋さんだってほんとうにドタバタ喜劇の花形でした。雑貨屋におばさんが犬を連れてやってきた。そうして「あの缶詰ちょうだい」といって、店員がはしごに上ってその缶詰を取ろうとすると、天井の近くの棚に猫がいた。犬が猫をめがけてピューッと跳んだ。犬についてた紐《ひも》がはしごにひっかかって、はしごもろとも店員はうしろにひっくり返った。ひっくり返ったところが、ちょうどセメントの樽《たる》。バッチャーンとその樽の中に入っちゃった。口ではちょっと話しにくいけれども、これをワンカット、ワンシーンでパッパッと見せる。スピーディ、スピーディでやらなくっちゃならない。ここに映画の楽しさがあふれていたわけですねえ。  活動写真のおもしろさを、よくよく見せたサイレントの頃に、この短編ドタバタ喜劇を、全然説明者なしで音楽だけでやったことがあるんです。人を殴ったらドカーン。はしごから落ちたらパチャーン。まあ、擬音ばかりで、ゲラゲラ笑って見られたというのは、今考えたら、映画というのはやっぱり目で見るもんなんですねえ。  というわけで、活動写真の精神は、ドタバタ喜劇にありました。  さあ、いかがでした。もう一度、私もあの懐かしいドタバタ喜劇を見たくなりました。機会があったら、あなたもぜひぜひ、ごらんになってくださいね。では、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] ああ、懐かしの連続大活劇  はい、みなさん今晩は。  さあ今夜は、私の大好きな大好きな、連続大活劇のお話をしましょう。これは大好きだった、といいなおしましょうか、なにしろ、みなさんの、まだ生まれない頃のお話なんですからね。  えっ、もうたくさんだ? そんなこといわないで聞いてください。おもしろいですよ。 ●連続大活劇とはどんなもの  連続大活劇といえば、必ず演奏されるマーチがありました。スーザの「サンダラー」あれがいちばんですね。この曲を聞くと私自身、大正時代のムードにひたってしまうんです。  よく連続活劇というと「天国と地獄」を演奏しますが、あれは少し古めかしくて、連続活劇のうんと初期の頃でしょう。こうしたマーチで大正七、八年頃の連続大活劇は始まりました。連続大活劇ってなんでしょう。今でいえば�007�、これは連続大活劇のスタイルですね。�フレンチ・コネクション�もそうですね。  電車が上、自動車が下の追っかけ、あれは連続大活劇のスタイルですね。追っかけのおもしろさですね。  ところが最近の方、追っかけ[#「追っかけ」に傍点]の魅力といっても、わからないんですね。追っかけってなんですかといわれるくらい、遠い遠い昔の話になりました。連続大活劇は�007�のあのスタイル、たとえば自動車の座席が、ぴゅんと上に飛び跳ねたり、いろいろな仕掛けの武器が出てきました。昔からああいうのが、あったんですよ。SFスタイルのもあったんですよ。  一九一九年、大正八年ですね。あなたなんかのもちろん生まれる前、「人間タンク」という題名の映画がありました。これにはロボットが出てくるんです。悪漢が操縦機をいじると、そのロボットが動き出して、首を絞めにくるんですね。大きな鉄の人間なんですよ。  あるいは一九一四年、パール・ホワイトという有名な連続大活劇のスターが主演した「拳骨」というのがありました。えらい題名つけましたね。  これは悪漢団の名前が�拳骨団�といったんですね。そして正義の味方ケネディ探偵と争うんですね。これにも妙なのが出てきましたよ。血液を破壊する殺人光線です。この頃すでに連続大活劇は、�007�のムードを、いっぱいもっていたんですよ。それからまだありました。 「黒箱」という映画です。私たちはいばって、「ブラックボックス」なんて原名でいってました。ハバート・ローリンソン主演で、これにはもうすでに携帯用の無線電信機が出ていました。携帯用のラジオみたいなんですね。今から六十年ほども前ですよ。連続大活劇は、いろいろなおもしろさをもっていますね。 「ゴールドフィンガー」を見てますと、ジェームス・ボンドが鉄板の上に、がんじがらめにゆわかれてます。そしてその足もとから、ずっと鉄板を焼く怪光線が、上から落ちています。その鉄板をどんどん焼いていきます。みるみるうちにボンドの股《また》のところにきます。やがてボンドのからだは、めちゃくちゃになるでしょう。アッ! というところが連続大活劇のおもしろさですね。  昔は、光線を使うような簡単なことはしませんでした。山小屋とか工場、そういうところに主人公が、がんじがらめに材木や板の上にくくられています。まあ、両手、両足、全部くくられています。口に猿ぐつわをはめられています。そしてスイッチを入れる、その材木がどんどん動いていって、キーッと回っている丸い大きなのこぎりのほうに、頭から近づいていきます。  さあ、主人公の運命はいかに。ここで例の音楽が入って終るんですね。さあ、来週も続き見ましょうね、ということになるんですね。  というわけで、必ず身動きできないほどくくられて、切断機のほうへ流れていくんです。だから「ゴールドフィンガー」を見てると、とっても懐かしくなるんですね。でも、なんと世のなか、下品になったんでしょうね。  あのボンドは、どんな格好でくくられてたでしょう。ボンドは、まあ両足をひろげてくくられてました。しかも光線で頭から焼くんじゃなく、足のほうから焼くんですね。光線がどんどんボンドに近づいた。どんどんどこに近づいたかというと、股の真ん中に、いやらしいねえ。  昔は純情でしたよ。あれよ、あれよといううちに、頭のほうから切断されようとする。今は足のほうから、足の真ん中を切ろうとしますね。いやらしいですね。 ●連続大活劇の歴史  というわけで、連続大活劇というもの、もうちょっと勉強しましょうね。  これはいったい、いつ頃から始まったんでしょう。活動写真はアメリカよりむしろ、フランス、イタリア、デンマークあたりのほうで、ひと足早く盛んになったのです。  イギリスもやりました。ロシアもやりました。けれども連続活劇は、アメリカの独壇場になったんです。  日本で最初に上映された連続活劇は、明治四十四年十一月の十一日「ジゴマ」という映画です。私が二歳のときでした。この映画見ましたが、いくら私でもぜんぜん覚えておりません。ちらちらするだけでした。フランス映画です。  一九一一年完成の映画を、同じ年にもう日本で見られたんです。できたてをすぐ船に乗せて、持ってきたんでしょう。当時は日本も非常にハイカラだったんですね。 「ジゴマ」は上、中、下になっておりまして、まあ、おそらく三巻、あっという間に終るんでしょうけど、みんなびっくり仰天しました。ビクトラン・ジャッセが監督しました。アルキュリエール・リュアベルという人が主演しておりました。原作は、パリのル・マタン新聞に連載された、探偵小説なんですね。  凶悪なピストル強盗ジゴマ。これが殺人、放火、いろんな悪いことをするんですね。あんまりすごいので、当時一度上映禁止されました。今なら、全部上映されますよ。スリルアクション映画。しかし明治四十四年では、放火だけでも禁止になったんです。けれどもこの頃の活動写真には弁士がついていて、みごとにしゃべったんですね。  明治四十四年のこの作品、私はまるで覚えていませんが、この話が伝説みたいに残っています。 �花の都はフランスか、月が啼《な》いたかホトトギス�なんていいまして、きれいなきれいな文句からしゃべりはじめたそうです。  この「ジゴマ」、最初封切ったとき、えらい評判になって大当たりしました。この頃の人はみんな、この映画に大喜びしました。そして明治四十五年、第二部が入ってきました。名探偵のポーリンが殉職したので、ニック・カーターがジゴマの悪漢団と格闘します。さあ大変な人気でした。そして残念ながら、ほんとうは三編、四編と続くんですが、日本ではこの二編で、またも今度は完全に上映禁止になってしまったんです。  けれども、これでこりたりしません。大正二年、フランスからまた、連続活劇がやってきました。活動写真の初めの頃の連続活劇は、ほとんどフランス製でした。そして今度来たのが「プロティア」。  プロティアってなんでしょう。これは女スパイなんですね。その大活躍の話でした。  日本では大正二年封切りです。私は四歳、ちらちらと覚えていますよ。そのプロティアのおっぱいだけ。いやらしいね。 「プロティア」は、やはり「ジゴマ」の監督で、ジュデット・アンドリオという美人女優が主役しました。この女スパイ、実は黒とかげというあだ名がついています。なぜかというとこの女、全身これピタリとくっついた黒衣を着けているんです。まるで裸体みたいな感じなんですね。  というわけで連続大活劇は「ジゴマ」「プロティア」そして大正四年の「ファントマ」へと続いていきました。これは全部フランス製でした。  しかし、アメリカも負けてはいません。日本に来たのは「マスターキー」からですが、それよりずっと前、明治四十五年、一九一二年から「メリーの冒険」というのを作っていました。それから「キャサリンの冒険」「エレーヌの冒険」「ヘレンの危難」なんていうのを、どしどし作っていました。  そして「マスターキー」が、大正四年にやってきました。私は六つでしたが、覚えています。これはマスターキー鉱山をめぐる活劇でしたが、これでおもしろかったのは、女主人公が逃げて逃げて、細い路地に入るんです。レンガとレンガの間の路地を逃げる。しかし突き当たりになっていて逃げ場がない。  さあ、どうしようというときに、悪漢がひとつボタンを押しました。するとそのレンガのへいが、両方からせまってきて、どんどん狭くなってくるんです。しまいに、自分のからだぴったりまでせまってきて、この女、やがてレンガの間で圧死するでしょう。さあ、彼女の運命やいかに……。こわかったですね。  ところが、連続活劇というのは、だいたい三〇編、六〇巻ほどありました。しかし一度にそれ全部やったら大変ですね。そこでたいがい六巻ずつ、あるいは四巻ずつやるんですね。そして、二巻ごとか四巻ごとにこういう危機一髪で終っていて、彼女の運命やいかに、続きはまた来週、ということになるんですねえ。  次の週は、また前回の終りが少しあって、レンガべいがせまってくる場面から始まって、どうなるんだろうと思うと、だれかがほかのスイッチを押す。すると突き当たりのへいが動いて逃げ道ができて、彼女はまたもや奥へ逃げられる、なんてことになるんです。  さあ、当時、大正七、八、九年頃、どんなに連続大活劇が盛んだったかというと、たとえば活動写真の話題の人、これはみんな連続大活劇に出ていたんですね。  パール・ホワイト、これはパテー映画の主役ですが、アメリカの代表的大スターでした。ルス・ローランド、これもきれいな、きれいな有名な女優、みんな出演していました。だから非常に金をかけた大がかりな作品ができたんです。  だから連続活劇にはスターのほかにも、有名な話題の人が出ていたんです。  たとえば大正九年「豪勇ジャック」が封切られましたが、この主役はジャック・デンプシーでした。有名なボクサーのデンプシーですね。同じ年の「深夜の人」。これもボクサーのジェームス・コルベットが主演しました。前にいいました「人間タンク」、この主役はハリー・フーディニ。有名な魔術師、手錠抜けの名人なんです。  こんなふうに、アメリカの話題の人気者はみんな引っ張り出されたんですね。ハリー・フーディニの伝記映画は、のちにトニー・カーチスの主演で作られました。 ●危機一髪で、続きを見に行く  連続活劇は、二〇編とか三〇編とか長い長いものですから、毎週続き続きで、ひと月もふた月も上映しているんですね。  今のようにラジオもテレビもありません。みんな家で退屈していました。だから活動写真がいちばんおもしろい。とくに西洋人の出てくる、この連続大活劇がいちばんおもしろい。隣近所、みんな毎週毎週見に行った、そんな時代があったんですね。  この頃、人気があった作品に「名金」というのがありました。「ブロークン・コイン」といいまして、金貨が二つに割れるんですね。それをとりっこするんです。二つ合わせると、宝物のあり場所がわかるんですね。  こういう映画のとき、いつもいつも始まりには同じマーチがかかるんですね。だからマーチがかかると、もう胸がドキドキするんですね。  大正七年、私が九歳のとき「運命の指輪」がきました。これはもう、よく覚えています。  マーチがかかると、画面に大きな指輪が映ります。そしてタイトルが消えると、指輪が、クルックルックルッと三回転します。するとその宝石の部分がピカッと光ると主演のパール・ホワイトの顔が出てきて、正面と両横の三方に向かっておじぎをするんですね。これは毎週同じ。お客さんは喜んで、手をたたくんですねえ。そのうちみんな、あんぱんの袋を用意して、ここにくると拍手のかわりに、パチン、パチン、あんぱんの袋を割るんです。まあ、えらい騒ぎでした。  今と大違いですね。昔はお客さんのほうが、のっていました。  大正六年封切りでおもしろいのがありました。「鉄の爪」(アイアン・クロー)というんです。エドワード・ジョーゼ監督、パール・ホワイト、クレートン・ヘイルの主演でした。この二人、オールド・ファンなら、とても懐かしい名前ですね。  この「鉄の爪」、これを見て、私が映画に狂ったといってもいいくらい、私の頭に焼きついているんですね。  どんなストーリーか、二〇編からなっていました。ニューヨークに、ゴードンという大富豪がいました。ところがその奥さんが医者と密通しているんです。これが私、八歳のときにわかっちゃったんです。いやらしいですね。  そして、その密通した医者が、奥さんをゆすっちゃうんです。金庫の中の宝石を持ってこいと脅迫しちゃうんです。それをカーテンのかげで聞いたゴードンは怒って、その現場へ行って奥さんを閉じ込めそして医者を引っ張り出してきて、二人の黒人の召使いに命じて、地下室へ連れて行き、右手首を切ってしまったんです。おまけに顔にジグザグの、いやらしい焼き印を押したんです。  さあ、ここで追放された医者が、必ず復讐《ふくしゆう》してやると、右手に鉄のカギ型の指をはめました。そしてこの一家のいちばん大事にしている一人娘、マージャリーを誘拐して、さあこれからマージャリーの悲しい、こわい運命が始まります。  毎回マージャリーがどんな危機一髪になるか、そういう最中に、不思議な男が飛び出すんですね。その男はマスクをかけています。そのマスクの目のあたりが、笑っているような感じになっているんですね。それでだれいうとなく、この怪人のことを笑いの面という。  こういう、とてもおもしろいストーリーの映画でした。 ●アクションばかりじゃない活劇  ところで連続活劇というと、アクションばかりかというとそうではなく、いろいろなものがあるんですね。  大正六年「赤輪」(レッド・サークル)というのがありました。これなんか変わってるんですね。  一四編からなりますが、悪の血に苦しんでいる男がいました。自分のからだに悪の血があるんですね。いつも知らぬ間に犯罪を重ねていってしまうんです。  あまりのことに自分の血を呪《のろ》って、この男は自殺するのですが、けれどそのとき、自分だけ死んでもだめだ。自分の種、自分の子も殺さなくちゃいけない。  そこでこの男、妻に去られたこの男は、赤ん坊を絞め殺して、自分も死にました。ここで悪の種はつきたわけです。映画はここから始まっていきます。ところが事件は、えらいことになってきたんですねえ。  大富豪の奥さんが、病院で赤ん坊を産む。この赤ん坊と、悪の血に苦しんでいる男の赤ん坊が、ちょうど同じ病院で生まれたので、知らない間に入れ替わっていたんです。  だから悪の血をひいた赤ん坊は、大富豪の娘として育てられていく、こういう運命物語も連続活劇にはありました。やがて花よ蝶よと育てられたこの娘も年頃になりました。まあ、いかにも優しい、きれいな女の子でしたが、ときどき、変なことになってきました。それは自分が友だちとしゃべっているとき、あるいはなにかのとき、ふっと自分の頭が少し変な感じになったとき、自分の右手の甲に、赤い血の輪が現われてくるんですね。  そしてこの輪が現われたとき、このかわいいお嬢さんは、なんともしれん、犯罪を楽しむ女に変わっていくんですね。ルス・ローランドという女優さんが主演していました。 ●彼女の運命やいかに……  こんな話してたらきりがありませんが、連続活劇は、題名だけでもおもしろい感じがするでしょう。 「電光石火の侵入者」(ライトニング・ライダー)というのもありました。大正九年封切り、パール・ホワイト主演でした。この(ライトニング・ライダー)を日本では、「電光石火の侵入者」とつけたんですね。  女の宝石泥棒と中国人の怪盗の争いです。パール・ホワイトは女の宝石泥棒の役でした。  中国人の怪盗がおりまして、サンフランシスコに住んでいます。すごい家に住んでいるんです。そこへ宝石泥棒が入って、ついに中国人のウーハンと真正面から一対一で向かい合うことになりました。  この女賊はピストルを向けました。ウーハンは武器を持っていません。しかたがない、両手をあげました。場所は中国風のこわい絵の描いてある部屋です。うしろに竜の絵がかいてあります。いかにも中国らしい部屋です。  女賊は、これでこの家の宝石は全部、私のものだといっています。するとウーハンは、上にあげた右手を、竜の顔のところへもっていきました。目の部分に親指を当て、ピッと押すと、その瞬間、女泥棒の足の下の床が開いて、下へまっさかさま。  しかし女泥棒も瞬間、両手を床のふちにひっかけました。さあ、上へはいあがろうとします。けれど上から、怪盗ウーハンが足でけりつけます。下は入江の水が引き込んであり、大蛸《おおだこ》がいます。その蛸が女泥棒のぶらさがった足にからんできます。  さあ、彼女の運命やいかに……。  大きな蛸、今のみなさんならゲラゲラ笑うかもしれませんが、当時は、さあどうなるべえと、みんな、胸をドキドキさせたんです。  これからも、当時の連続活劇のおもしろいスタイルが、わかっていただけるでしょう。  連続活劇、いろいろな題名のあることを勉強してきましたが、「蛸の手」という映画もありました。大正九年の封切りでした。  アメリカでは蜘蛛《くも》とか蛸は、悪魔の化身といわれているんです。ですから蛸を非常にこわがったんです。その頃西洋人に蛸なんか食べさせたら、ひっくり返ってしまったでしょうね。これはエジプトの古跡を掘っている九人の学者が次々に殺されていきます。その謎《なぞ》を、考古学者の娘が解いていくお話でした。  ほかに「灰色の幽霊」(グレイ・ゴースト)というのがありました。大正六年頃ですね。  大正十一年には「ハリケーン・ハッチ」なんていうのも来ました。これには自動車や汽車の追っかけ、特に、主人公のオートバイの冒険が呼びものでした。こういうふうに、アメリカ映画は、連続活劇で世界を征服したんですね。  もう私たちはその頃「呪いの家」「護る影」、こういうタイトルを見ただけで、ゾクゾクしたんですね。  さあみなさん、少しは連続活劇の味、わかっていただけたでしょうか。  こんなムードで、私たちは楽しんだんですね。ああ、懐かしの連続大活劇よ! というところです。では、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] びっくり仰天サイレントからトーキーへ  はい、みなさん今晩は。  今夜はサイレントからトーキーへ。トーキーという最初の時代は、いったいどんなものだったのでしょうか。それをみなさんとともに楽しみましょうね。  その頃のことをご存知の方たちも、だんだん少なくなってまいりました。それで私、一生懸命に思い出してお話をいたしましょう。さあ、聞いてくださいね。 ●最初のフォノフィルムとパート・トーキー  長い長い長い昔、明治二十六年頃�活動写真�が生まれましたね。それから明治の末から大正にかけていよいよ�活動大写真�として世界中の人気を集めまして、そのうち�映画�という名前に変わりました。  やがて、どんどんどんどん、サイレントの美しい映画があふれてきまして、大正の終り頃これに音がつく、トーキーになるという動きが出てきました。  私は、サイレントに慣れて慣れて、サイレントに溺《おぼ》れ切った頃にトーキーというものが出たときに、びっくり仰天しました。今では映画に�音�と�色�とがあることなんて、当たり前になっていますけれど、そのときの驚きは大変なものでした。今の若い方たちにはちょっと想像もつかないでしょう。どう表現したらいいのかわからないくらい、驚きましたね。  忘れもしません、大正十四年でした。私が十六歳のときに、アメリカの「フォノフィルム」が公開されました。アメリカでは一九二三年(大正十二年)に作られたのが最初でしたが、日本には、少しおくれて入ってきたんですね。  ダンスの場面が映ると、ダンスの音楽が流れて、音楽に合わせて踊っています。バイオリンを弾くと、その弦に合わせて、その動きにぴったり合って、画面からバイオリンの音がする。びっくり仰天して、その晩は興奮して眠ることができませんでした。  最初の頃は、音楽短編映画で�サウンド版�ともいったんですね。それが�パート・トーキー�といって、劇映画のなかの一部分だけ、会話なんかの音が出るようになりました。映画が色をもったときも、やはり初めは一部分だけがカラーになっていて、�部分テクニカラー�と呼んだりいたしました。  それが�総天然色�といわれるように、全編が色に、カラーになったんですね。サイレントからトーキーへのときも、同じような変わり方をしたんですね。  テレビもそうでしたね。一日の番組のうちで目玉番組だけがカラーになって、それから今日のように全番組がカラーになったんですね。  さあ、音楽短編や、パート・トーキーが現われてきて、これは映画というものが、間もなく、すっかりトーキーになるぞ、という空気になってきました。  サイレント映画の、独特の映画説明、活弁のことですね。それや、生《なま》の伴奏音楽のあのムードが好きで惚《ほ》れ込んだ人たちは、「もう映画の時代は終ったのだ。なんと悲しいことだろう」といいました。  それから、音楽が音をもったことで、映画は新しくなると思った人は「映画は、ますますすばらしくなる。なんとうれしいことだろう」と喜びましたね。舞台だけじゃなく、映画でも活躍していた古川|緑波《ろつぱ》さんは「もうこれで映画は終り」なんていっておりました。私は両方の気持がまじって、とても複雑な気持でした。 ●トーキーの音楽とせりふ  というわけで、日本では昭和四年、とうとう本格的にトーキーになってきました。そして国産トーキー「戻り橋」(一九二九)という作品を、牧野省三監督が発表しましたね。それから同じ頃に「大尉の娘」もオール・トーキーなんていって作られました。  こうなりますと、まあ映画館は軒並みに全部音楽の洗礼を受けて、どこもかしこも、音楽、音楽、音楽なんですね。ひとつの映画とひとつの映画の間に、洋画は音楽短編映画が必ず上映されて、いろいろな音楽が映画館にあふれた感じでしたねえ。  ウエスタンの民謡、アイルランドの民謡、あるいはハンガリーの民謡、あるいは名曲、そしてジャズダンス音楽をテーマにした、短編映画がどんどん入ってきまして、私たちは、この映画音楽の楽しさを勉強しました。たとえば「スマイリング・アイリッシュ・アイ」という曲がありますと、あのメロディでその画面では、きれいなきれいなアイルランドの風景、それとともにその画面に歌の文句が英語で入ってくるんです。楽譜もちゃんとついて、おまけにピンポン玉みたいな玉がピューンと飛んできて、ランララララン……まあ玉がうまいことうまいこと、その曲のテンポに合わせながらはずむんですね。  それを見ているお客さんが、日本のお客さんが、それを見ているうちに、みんながランララララン……パンパパパン……。  まあお客さんがみんな口のなかで、調子を取りだして、そのおもしろかったこと!  そんなわけで、映画のなかの音楽が、たちまちはやったものでした。  けれども、映画のせりふとなると、また大変でした。洋画の場面で、音楽ならそのままでいいのですが、俳優さんがしゃべるせりふが聞こえてくると、ペラペラと早口の英語のままでは、見ている日本人には意味がまるっきりわからないんですね。ですから、トーキーになってもまだ説明者が、横で説明したんですね。今の人たちにはちょっと想像できないでしょうねえ。  サイレント映画では、ところどころでせりふが字幕になって出ました。それがトーキーになるとなくなりました。当然ですねえ。  だから、映画のテンポ、場面のテンポが速くって、外国人のせりふなんか聞いていると、ペラペラペラペラ、ペラペラペラペラしゃべる、その速いこと。説明者がお客さんにその内容をよく説明しようと思うんだけど、速くて追いつけない。弁士も一生懸命、ペラペラペラペラ、ペラペラペラ。  私が、神戸のキネマクラブという映画館で見ておりましたとき、舞台で弁士がしゃべってしゃべって、もうしゃべりきれなくなって、卒倒したことがあるんです。ほんとうの話です。声がかれて、息が続かなくなってしまったんですねえ。  せりふといえば、俳優さんのほうでも苦労しました。サイレントの俳優さんは、せりふの演技をきちんとやってませんから、会話の勉強、言葉の勉強で大変なことになった。けれども長い長い間サイレントで慣れているから、なかなかうまくしゃべれないんですね。アメリカ映画でいいますと、ブロードウェイの劇場で活躍している有名なスターを、どんどん映画界に入れました。せりふに慣れている俳優さんばかりです。  エドワード・G・ロビンソン、フレドリック・マーチ、クローデット・コルベールといった人たちや、モーリス・シュバリエもそうでした。  そして、ブルース・シンガー、ジャズ・シンガー、つまり、舞台の歌い手や、踊り手がたくさん、たくさん映画界に入ってきました。  参考までに申しあげますと、昭和六年日本封切りの「モロッコ」(一九三一)で初めて、映画にスーパー・インポーズの文字が入ったのでありました。  私の好きな、懐かしい思い出の映画に、「リオ・リタ」(一九二九)があります。この主題曲は、いかにもスイートなものでした。やはりまだ説明者がついていて、音楽に酔ったり、画面を見たりでややこしいことでした。あとで改めてトーキー台本というものを買って調べたくらいでした。  当時たくさんやってきたシンガーのなかで、なんともしれんきれいな男前で、粋《いき》な粋な男がおりました。美男子です。それはだれでしょう。モーリス・シュバリエですね。彼はトーキーとともにやってきました。  まあ、美男子のナンバーワンという男でした。「昼下りの情事」(一九五七)でおじいちゃんになって出てきましたが、あの人は、ほんとうにパリの、ニューヨークの花のような男でした。いかにも愛嬌《あいきよう》があって品もいいところから、アメリカでの評判もよく、このあとずっとアメリカにおりました。  そして「ラブ・パレード」(一九二九)に主演しました。このなかでモーリス・シュバリエは「ルイズ」という曲をうたいました。それがこの人の当たり歌になったんですね。  からだをゆすりながら、親指と人差し指とで丸い輪をつくって、その手を動かしながらうたう、どういうわけでこういう格好をしたのか知りませんが、「ルイズ」をうたうときにはこうなりました。  シュバリエというと「ルイズ」。アメリカでも大ヒットで、「モーリス・シュバリエ、オー! ルイズ・ド・シンガー。ルイズ、ルイズ」といいます。  シュバリエはこの歌をうたうとき、歌詞の一節の「アイ・ラブ・ユー」のところを、「アイ・ロブ・ユー」というので、まあブロードウェイ、マンハッタンのお客さんがキャーッと喜びました。いかにもそのフランス訛《なま》りが魅力的だったんですねえ。  シュバリエは、このあとも「恋の手ほどき」(一九五八)に出て「ジジ」という歌をきれいな声で聞かせてくれましたし、ほかにもたくさんの歌がありますねえ。  もうひとつの懐かしい名曲の映画が「フーピー」(一九三〇)です。そのときの、ブロードウェイでヒットしたレビューを、そのまま映画化したもので、ほんとうの一流の歌を聞くことができました。その主題歌曲の「フーピー」をうたったのは、エディ・キャンターという当時有名なミュージカルのスターでしたね。アル・ジョルスンという人が、黒人のメーキャップでうたいましたが、このエディ・キャンターも顔を真っ黒にして、陽気にうたうんですねえ。  いかにもタップダンスのできるような、あのジャズスタイルのメロディ。日本でもすごくはやりまして、宝塚少女歌劇でも「フーピー」という題でレビューになりました。そしてこの曲を絢爛《けんらん》と聞かせました。  というわけで、当時昭和五、六年頃にはどんなにジャズがはやったか、エディ・キャンターがどんなに人気があったか、遠い遠い遠い昔の話ですけれども、みなさんちょっと想像してくださいね。 ●松竹映画|蒲田《かまた》時代のテーマミュージック  まあ、「フーピー」だとか「ルイズ」だとかは粋な歌ですね。これはマンハッタンの、ちょっとカクテルを一杯飲んでから聞くようなメロディなんですね。そういうものばかりでなく、トーキーはいろんな映画を生みだしました。そのひとつがオペラです。パラマウントが、有名なオペラ「バガボンド・キング」(一九三〇)を映画にしました。  日本では「我もし王者なりせば」と訳されて封切られたのですが、ジャネット・マクドナルド、デニス・キングといったスターのほかに、リリアン・ロスという有名な俳優も出ました。このリリアン・ロスは、のちに伝記映画が作られたほどの、すばらしい女優さんでした。  ところでこの「バガボンド・キング」の主題曲が日本で大流行しましたねえ。おそば屋のあんちゃんまで、出前の自転車を走らせながらランランラランラン……。口ずさんだり口笛を吹いたりして、映画館にも大勢の人がおしかけたんですね。それで、あんまりはやったのでおもしろいことが起こったんですね。  日本の映画会社の第一級に松竹映画がありますね。それが大船へいく前、蒲田に撮影所があった頃、そのときトーキーになったわけですが、まあこのメロディを、ランランラランラン……。会社のテーマミュージックにしちゃったんです。  映画のいちばん最初のタイトルが出るところで「バガボンド・キング」の主題曲を使いました。今なら、えらい盗作で怒られますねえ。私たち洋画をよく見ている人たちは、それが「バガボンド・キング」の曲だとよく知っていましたけれども、洋画を見つけていない人たちは、「あっ、あれは松竹蒲田映画のテーマ音楽だ」ということで、「蒲田行進曲」なんていいました。  それでこの曲が、すっかり「蒲田行進曲」ということで通用するようになってしまいました。おもしろいですねえ。  まあともかく「バガボンド・キング」は本格的なオペラの映画化で、絢爛たる音楽を聞かせてくれました。 ●ミュージカル映画「ショー・ボート」  レビューやショー、踊りと音楽のミュージカル映画が出てきたなかで、ただ踊ったり、うたったりばかりでなく、メロドラマをミュージカルに仕立てたものも生まれました。名作の小説をミュージカルにした「ショー・ボート」がそれです。これは、トーキー初期の頃から三回も映画化されているんですね。初めは一九二九年に一部トーキーで作られました。次に一九三六年です。初演のときのスターがほとんど出演して、とてもすばらしいものでした。三回目が一九五一年で、これはちょっと先のものにくらべるとおちますね。  私がここでお話しするのは、二回目の「ショー・ボート」の作品のことです。  その頃のミュージカル映画は、ブロードウェイの舞台の感覚をそのまま取り入れたところがあって、いくつかのさわり[#「さわり」に傍点]の曲の場面では、キャメラ・アングルはいろいろに変わっても、曲をしっかりと聞かせました。そして次の場面に移っていきました。それでいて映画のおもしろさを出そうとしていました。  この「ショー・ボート」はとても悲しい物語なんですね。きれいな曲のたくさんある映画でした。  まあ、ショー・ボートの興行主のおとっつぁん、おっかさん、娘、そこに雇われるシンガー、女の歌うたい、黒人と白人の混血の歌手、そういう人たちの人生をずーっと音楽で暗示して流す。ミシシッピー河の港から港へ、芸人を乗せたショー・ボートがめぐってゆきます。  その興行主の夫婦には、大事に大事に育てた娘が一人いたんですね。夫婦は、娘を堅気にしたい、芸人にはしたくないと思っていたのに、その娘が、ばくち打ちの男を好きになってしまったんですねえ。そしていっしょになってしまいます。  やがて子供が生まれたんですね。ところがばくち打ちの男は、娘と妻の幸せのために、自分がいないほうがいいのだと考えて、姿を隠してしまいますね。そういった寂しい悲劇的なミュージカルでした。このなかで、黒人歌手のポール・ロブソンは最高ですね。この人の「オールマン・リバー」。これはもう名曲で、ずーっと残って、今でもみなさんご存知の方が大勢いらっしゃるでしょう。  ほかにはヘレン・モーガン、アイリーン・ダンなどが出ています。私はポール・ロブソンの「オールマン・リバー」の場面を見、歌に聞き惚れて、ブロードウェイへ行って、ミュージカルをじかに見たいとつくづく思いました。 ●ジェームズ・キャグニーの「フットライト・パレード」  さあ、いろんな勉強のついでにもうひとつ。ジェームズ・キャグニーといいますと、ギャング映画を思い出す人が多いかもしれませんねえ。確かにキャグニーは「Gメン」(一九三五)などのほかたくさんの活劇で、パンパンパンパーン。いかにも元気いっぱいに拳銃を使ってみせましたね。でもこのキャグニーがトーキー初期にはどんなだったか。主演映画では踊ったりうたったり、とてもダンスがうまかったのです。  もともとキャグニーは「ソング・アンド・ダンスマン」といって、ブロードウェイの舞台で踊っていて、ことにタップダンスがうまい人でした。のちに、キャグニーの一世一代の名作となった「ヤンキー・ドウドゥル・ダンディ」(一九四二)。これは、有名な舞台芸人ジョージ・M・コーハンの伝記映画ですが、その主役を演じて芸達者なところを披露しました。  昭和五、六年の頃、私は「フットライト・パレード」(一九三三)でキャグニーのみごとなタップダンスを見ました。みなさんちょっと想像してみてください。キャグニーが水兵になりまして、中国の女に扮《ふん》したルビー・ケラーと二人で、中国の酒場のバーの台の上でタップダンスを踊るんですね。あのキャグニーが踊るんですか、って? キャグニーはジーン・ケリーの先輩なんですね。だからそのタップのうまいこと、その両手の使い方のうまいこと! 懐かしく忘れられない場面です。そういうわけでこの映画の歌とダンスシーンの「上海《シヤンハイ》リル」は懐かしい懐かしいメロディです。  このキャグニーのトーキー初期の作品「フットライト・パレード」の彼はどんな役かといいますと、キャグニーはレビューの演出家の役なんですね。この演出家が町を自動車でずーっと行ってゴーストップで止まる。止まるとちょうど目の前で、水道の栓が破裂して、シャーシャーシャーと噴水のように水が跳ねているんですね。  これを見て、これはいける、と思ったんですね。そこで場面が変わって、舞台の上にサーッとすごい噴水が出ます。その周りを、大勢のレビュー・ガールが踊り跳ねる——こんなふうに展開していくところが新鮮でした。  こういったわけで「フットライト・パレード」も、前にお話ししました「フーピー」も「ショー・ボート」も「ラブ・パレード」も「スマイリング・アイリッシュ・アイ」も、その主題曲がレコードになって売り出されると、どんどん売れました。  みんな争ってレコード屋へ飛んで行きました。海水浴に行くのにも、レコードと携帯用の蓄音器を持っていって、海岸でガリガリガリガリと、ゼンマイを手で回しながらかけたもんですねえ。 ●ビング・クロスビーの「ダイナ」  この頃にビング・クロスビーという人が出てきました。残念なことに一九七七年に七十三歳で亡くなりましたね、あのおじいちゃん。けれどもその頃はブロンドの髪の美青年でした。アメリカの代表的な歌手で映画に出てきたんですねえ。ところが、日本はまだ音楽ものに慣れておりませんから、ビング・クロスビーの歌もその良さがわからなくて、あまりはやらなかったんですねえ。プレスリーだって初期には、はやらなかった。  ですから、次の作品がくると、映画館の主人は「クロスビーの映画、困ったねえ」なんていう時期があったんです。それが「ダイナ」をうたったとき、日本でもヒットしました。「ダイナ」からそろそろ粋な感覚になってきましたね。やがてクロスビーがあのブロンドで、きれいな顔でうたうと、まあ場内はため息をついたもんです。この歌は日本の流行歌の仲間入りまでしました。  というわけで、フランク・シナトラも、このビング・クロスビーのこの歌「ダイナ」を聞いて「ぼくも、あんな歌をうたえるような歌手になりたいなあ」と思ったそうなんですねえ。クロスビーは、シナトラの生みの親になったんですねえ。  のちに有名になったシナトラは、自分の映画のなかに、先生のクロスビーを招いて、ディーン・マーチンを加えての、三人いっしょに踊ってうたっての場面をつくりました。私たちは「ダイナ」のメロディに合わせて「この本を読んでちょうダイナ[#「ダイナ」に傍点]」なんていうふうな言葉遊びをしました。  おもしろかったですねえ。当時のアメリカのにおいを、映画によって、映画の音楽によって私たちはかぎました。トーキーに慣れ、アメリカの音楽に慣れてくると、もう映画の世界が、たまらなくおもしろく楽しくなってきたんですねえ。 ●やっぱりトーキーになってよかった  トーキーになった驚きはまだあります。英語のせりふ、アメリカの音楽ばかりではなかったんですねえ。フランス語のせりふ、フランスの音楽も入ってきたんですね。巻き舌のように鼻にかかって消えてゆく、フランス語の調子。アコーデオンの伴奏で、流れるようにうたわれるシャンソンに、びっくりしたんですねえ。これがフランスのシャンソンなのか、という気持で聞きました。  大正の頃に、天勝《てんかつ》という奇術の一座がありまして、これがアメリカでえらい成功したんですねえ。で日本に帰ってきて、奇術と奇術との間に、ジャズの舞台演奏を入れました。なんと、奇術師によって、かすかにジャズとはこんなものかと教えられました。  ああ、これがジャズか、と思っているうちに、次には、宝塚の少女歌劇が、ジャズとかシャンソンの音楽を取り入れて、シャンソンとはこんなものかと教えられ、そのうちに本格的なトーキーの時代となって、ブロードウェイのにおいや、パリのにおいを入れてくれたんですねえ。  フランスの最初のトーキー作品は、ルネ・クレール監督の「巴里《パリ》の屋根の下」(一九三〇)、日本では昭和六年封切りです。サイレント映画でアバンギャルド映画を作っていたルネ・クレールは、初めて音を取り入れたこの作品をみごとな出来にしました。映画音楽として、シャンソンを上手に使いました。これはミュージカルではありませんでしたが、まるで新しいミュージカルのような雰囲気が感じられたほどでした。  ですから、ルネ・クレールは翌年に、フランスのミュージカル映画「自由を我等に」(一九三一)を生み出しましたね。いかにも映画でないとできないミュージカルにしました。ここに友情に結ばれた二人の男がいます。一人は大レコード会社の社長になりますが、最後にはその地位を捨てて、かつての友と、真の自由を求めて旅に出るのです。ラスト・シーンで、はるかに続く田舎の一本道を、二人が踊るように歩きながら「自由を我等に」をうたいます。  どんなに金持になっても、なによりも欲しいのは自由だ、金がなくっても自由がいい。自由こそはほんとうに自分たちのものだ。空を見なさい、あの鳥を見なさい、あの花を見なさい、みんな自由ですね、という諷刺《ふうし》のこもった作品で、前の「巴里の屋根の下」とともに、フランスのトーキー作品のすばらしさを世界中に示しました。  フランス映画ばかりではありませんね。ドイツ映画でも、「会議は踊る」(一九三一)というすばらしい作品が作られて、その曲もまた名曲でした。いかにもドイツらしいメロディと感覚で、ああ、おもしろいなあと思いました。  そんなわけで、トーキーの初期のことをお話ししているとキリがないくらいです。もっとくわしくおしゃべりしたいのですけど、ここでは「ほんとうに映画から音が出るんですか?!」とただただびっくり仰天の、そんな頃に入ってきたトーキーを、どういうふうに受け止めたかを、みなさんに知っていただきたいと思いました。  映画の音楽にしても、今なら曲を楽しんで聞きますけれど、その当時は、もう楽しむというよりは驚いていたんですね。そして、これがアメリカのジャズというんだなあ、ああこんな曲なのか。フランスは全然違って、これがシャンソンなのか、おもしろいなあ。ドイツの映画音楽も悪くないなあ——というわけで、洪水のように音楽が入ってきて、巻き込まれました。そうして名せりふ、洪水のようなせりふにも巻き込まれました。フレドリック・マーチ、エドワード・G・ロビンソン、あるいはヘレン・モーガンのせりふ、せりふ、せりふ。ははあ、こんな声の響きなのか、こんなきれいな文句のせりふなのか。生きた言葉が伝わってくるんですねえ。  そして、音をもった映画は、サイレント時代の傑作とはまた別に、次々と名作を生み出していったんです。  私は、「やっぱりトーキーになってよかったなあ」と感激しました。  はい、みなさん、ながいこと聞いてくださいましたねえ。私はもう、昭和五、六年頃の音楽風呂に入ったようで、もうのぼせあがっていますけど、あなたはどうですか。おもしろかったですか。なんです? ずーっと寝てた。まあ、いやらしい人ですね。今度は絶対寝させませんよ。では、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] 三大監督、三大名作  はい、みなさん今晩は。  今夜は、アメリカ映画を、今日の隆盛に導いた三人の監督の作品についてお話ししましょう。  その三人とはだれでしょう。まず、デイビッド・ワーク・グリフィス、それからセシル・B・デミル。デミルくらい知ってるぜ……ですって? 当たり前じゃないですか。そしてエリッヒ・フォン・シュトロハイム。この、それぞれ個性的な三人の監督のお話です。 ●D・W・グリフィスの「散り行く花」  D・W・グリフィスは、いつも美しい愛を謳歌《おうか》する映画を作り、愛こそ人生の最も美しいもの、と唱えてきた監督でした。  一八七五年一月二十三日に、ケンタッキーで生まれて、小さい頃から本が好きで、自分でも小説などを書いていました。三十二歳のとき、バイオグラフ撮影所に入り、やがてだんだんに認められて「国民の創生」(一九一五)を作りましたね。  それから「イントレランス」(一九一六)、「散り行く花」(一九一九)など。そして「世界の英雄」(一九三〇)を最後の作品にして引退しまして、一九四八年の七月に亡くなりました。  さあ、この「散り行く花」、日本では大正十一年に封切られました。私は十三歳のジャリでしたけれど、この映画を見て、ほんとうに胸がいっぱいになって、ハンカチがビチョビチョのビチョになりました。原作はトーマス・バークの詩ですね。  お話は中国のお寺の、仏教学校の卒業式に始まります。ここに、チェン・ハンという名前の生徒がおります。チェン・ハンは、仏陀《ぶつだ》の道を広める大志を抱いて、イギリスにやってきます。けれども、なにしろ二十歳の青年です。暮らしも豊かではありませんから、汚い汚い下町の波止場で、チェン・ハン・ストアという小さな雑貨屋を開きながら、仏陀の教えを広めようとしていました。  この町に、ルーシーという美しい女の子がおりました。ルーシーは生まれて間もなく、母親に捨てられ、父親のバトリング・バローズは非常に無情な、残酷な父親で、拳闘家くずれ、やくざな男なんですね。  そして、自分の実の子でありながら、このルーシーを殴るけるのすごい仕打ち。生傷の絶え間もなく、ひがんでひがんで、笑いというものを知らない子になってしまいました。  ですから、夕食の仕度をして、皿を父親の前に出すときも、からだがガタガタ、ガタガタふるえる。そうして笑えない。  こういうルーシーに、父親はいつも「スマイル、スマイル」笑え、笑えといって、ルーシーの顔を殴るんですね。  そういう痛ましい痛ましいルーシーにも、楽しみが二つあった。父親が夕食を食べて出ていったあと、ルーシーは残飯をむさぼり食いながら、だれもいない玄関のわきの、床のレンガを一枚はずして、新聞紙でくるんだ小さな包みを取り出し、そっと開く。なかには、母親が自分を捨てるときに、自分の頭につけてくれたリボンが入っているんですね。それを見るのが楽しみだったのです。  そしてルーシーは、食物の買出しに市場へ行く。その行き帰りに銀紙を拾う、たばこの銀紙ですね。それがもう一つの楽しみ。  この、たった二つの楽しみがルーシーの生きがいでした。あとはなにもない。持ち物もなければ、愛してくれる人もいない、ひがんだ哀れな少女のルーシーでした。  そんな哀れな女の子のルーシーを、リリアン・ギッシュがやっております。リリアン・ギッシュはいつもいつも、悲しい物語の哀れな女の役をやって、大変な人気でした。  そのルーシーが、ある日、思いもかけぬ物を見た。それがチェン・ハンの雑貨屋でした。その雑貨屋のウインドーの、なんとみごとなきれいな品々! キラキラ光る刺しゅうの中国の靴、中国のお茶わん、ルーシーはびっくり仰天。  朝に晩に、汚い汚いぞうりのような靴をはいてウインドーをのぞく女の子。チェン・ハンは、いつも霧のなかから現われて、霧のなかに消えてゆく、そのかわいい女の子を「白い花」と呼びました。そうして、彼女の詩を書き、彼女が来るのを心待ちするようになりました。  あるとき、ルーシーが、家に帰るのが遅かったといって、父親にむちゃくちゃに殴られて、あまりのひどさにルーシーは家を飛び出して、チェン・ハンの雑貨屋の近くで、とうとうバッタリ倒れて気絶してしまったんですね。チェン・ハンはびっくりしました。あの白い花が、まるで散っているように倒れている、なんとひどいことだろう。  チェン・ハンは、その娘を自分の家に連れて帰り、介抱してやりました。汚い汚い着物を脱がして、背中を拭いてやろうとしたら、まあ、背中にいっぱいむちの跡があるんですね。「まあ、この女の子はいったいどうして、こんなにむちを当てられたのだろう」と思いながら、きれいな柔らかい、絹の中国服に着かえさせ、髪をとき、中国のかんざしをつけてやりました。  ソファーに横たわったルーシーは、中国のお人形そっくりでした。チェン・ハンは、そのそばでじーっと、ルーシーの目が覚めるのを待っていました。  やがてルーシーは気がついて、ふっと顔をあげた。すると、自分はなんともしれんきれいな着物を着ている。夢かと思って自分の頬をつねりました。 「こんなところに寝ていたら、お父さんに殺される!」  ルーシーは泣きだしました。チェン・ハンは 「それなら、帰らないでずっとここにいらっしゃい、私が守ってあげるから」  といいました。ルーシーはとうとう、チェン・ハンにいわれたとおりに、目を閉じて、彼が語る中国のおとぎ話に聞き入り、やがて眠ってしまいました。  夜通し、ルーシーを枕辺で見守っていたチェン・ハンは、朝になって、おいしいおいしい中国の料理を作ってやろうと思って、市場へ出掛けて行きました。  朝霧のなかを、あたりがだんだん明るくなります。天窓から陽が差し込んできました。ルーシーはふっと目を覚ましました。 「やっぱりここにいたのかしら」  そう思って、枕もとの鏡を見た。するとそこに、なにかが映った。  驚ろいて振り向くと、父親の悪い仲間が、ハンチングをかぶり、仁王立ちになっているではありませんか。 「きのうから、夜通しかかって捜したんだぞ。お父っつぁんが心配してるぜ」  そういって、その大男はルーシーを引きずり出し、中国服をはぎ取り、ルーシーの汚い服をかぶせるように着せて、父親の家に連れて帰りました。  キャメラは、朝霧の流れる波止場を引きずられてゆく、ルーシーの哀れな哀れな姿を、移動で見せておりました。  やがてルーシーは、部屋の真ん中に仁王立ちになっている、父親バローズの足もとに、パタンと放り出されました。父親はルーシーをにらみつけながら 「おまえはゆうべ、どこに泊まった! おまえがどんな罪を犯したかわかるか!」  といって、むちを取りあげ、ルーシーの頭を殴ろうとしました。  ルーシーはもう殺されると思った。それで小さな戸だなの中に飛び込んで、中から鍵《かぎ》をかけてしまいました。父親は、まさかルーシーがこんな反抗をすると思わなかったので、ますます怒って、むちでパチーン、パチーンと戸だなをたたきました。  戸だながむちで打たれて、パチッパチッと動くたびに、ルーシーは真っ暗闇のなかで、えびのようにからだを曲げて、ふるえていました。  まあ、これはサイレント映画なのに、むちの音が、ヒューッ、ヒューッと聞こえてくるような気がしました。そのむちの鳴る音と同時に、キャメラがだんだんだんだん、ルーシーのほうに寄っていきます。やがて、むちではドアが破れないとさとった父親は鉈《なた》を持ってきて、ガーンガーンとたたいた。とうとうドアにひびが入って、ワーッと戸だなが開いてしまいました。  ルーシーの、こわさにゆがんで汗のいっぱいの顔に光が差したとき、父親の大きな手が、ガッとルーシーの髪をつかみ、ルーシーをひきずり出して床に投げつけました。ルーシーは倒れたまま動きません。父親はそばにきて、足でけりながら「ルーシー、ルーシー」と呼びましたが、返事がありません。  父親は、やっと娘が死んでいることに気がつきました。なんといっても、自分の実の娘、それを殺してしまった。バローズは、さすがに興奮から覚めました。  そのときです。うしろからパーン、パーンと二発。サイレント映画ですから、やっぱり銃声は聞こえるはずがありません。でも、煙が、パーッ、パーッ。  いかにも銃声が聞こえるようでしたねえ。そして、もんどり打って父親が倒れたとき、そのうしろに、チェン・ハンが、拳銃を手に持って立っておりました。  チェン・ハンは、息を引きとったルーシーを抱いて、再び自分の家へ連れて帰りました。  そして、からだを洗ってやり、髪をとき、顔を拭いて、昨日のとおりに絹の中国服を着せ、髪にかんざしをさし、人形を抱かせました。チェン・ハンは紙に「東は東、西は西というけれども、愛に国境はない。私は、この白い花を守って、黄泉《よみ》の国までいっしょに行きます」と書き、寝台の下から短刀を出し、自分の胸にグサッと突き刺しました。  ここでこの映画は終ります。エンド・マークのあとに、釣鐘が映り、撞木《しゆもく》がガーンと当たります。いかにもその響きが聞こえるようでした。 「東は東、西は西というけれども、愛に国境はない。愛こそ最高のものである」というタイトルが映って終りますが、いかにも、グリフィス映画の感覚をあふれさせた映画でした。 ●セシル・B・デミルの「男性と女性」  次は、セシル・B・デミル監督です。デミルの映画といいますと、みなさんは「クレオパトラ」(一九三四)だとか「サムソンとデリラ」(一九四九)だとか、「十戒」(一九五六)などの古典劇を思い出されることでしょう。  ところがデミルは、初めの頃は現代劇で、デミルの現代ものの映画ほどおもしろいものはなかったんですね。デミルは次のような映画作りの哲学をもっていたんですね。  映画というものは女性に見せるものである。女の人はたいてい一人では行かない。彼氏を連れて行く。だから一〇万人の女性の心をつかめば、二〇万人が見にくる、まあそんなことを考えたんですねえ。女性のために映画を作る、それにはまずファッション、そして喜ばせるために三角関係でなければいけない。そして彼氏のために用意したのが、チャンバラなんですね。ですからデミルの現代劇には、必ずそのなかに劇中劇、古典劇が入っておりました。  その例が「男性と女性」(一九一九)です。私はこれを十一歳で見てびっくり仰天しました。あと一度も見ておりませんけれど、どのくらい覚えているか、ちょっとお話ししてみましょう。  まず豪華な豪華な、富豪の家が映ります。ここにメリーという娘がいます。さあ、朝起きる。召使いが二人で「お嬢さま、お嬢さま、お目覚めあそばせ、もうお昼の三時でございますよ」と起こす。  私がいちばん感激したのはそこでした。この娘はお昼すぎの三時に起きるんだ、いいなあ、と思いました。それからこの映画にどんどんひきつけられました。  召使いは続けてこういうのです。「さあさあ、今晩もパーティがございますよ」  このメリーを、グロリア・スワンスンがやっていました。  メリーはあくびをしながら、お風呂に入る。風呂からあがるときれいなきれいなガウンを着て、パーティに着る衣装の品定め、靴の品定め、そしてヘアのデザイン、ネックレス、イヤリング。それが全部ファッション・ショーになっているんです。  やがてすごいパーティが始まった。いかにもデミルの映画の豪華さが出ていました。鏡の部屋、大理石の部屋。すごいすごい衣装のデザイン。豪華な華やかな都会生活を見せて、一生に一度はこんな生活をしてみたい、と思わせて、私たちを酔わせていきます。  この大金持のお父さんが、娘、おい、友だち、そして使用人たちを連れて、ヨットで南洋に遊びに行くことになりました。使用人たちはヨットで主人たちの世話をしている。  ところが、このヨットがハリケーンに襲われます。ヨットがもみくちゃになっているところが、どうやって撮影したかと思うくらいすごい撮影。  ヨットはたたきつけられ、めちゃめちゃに壊れてしまいました。そして漂流して、ある島に着いたんですね。  さて、夜が明けた。昨日まで富豪の遊び人だった連中が、みんな半ば裸のぬれねずみ。人っ子一人いない無人島、呼べど叫べど人はいない。みんな途方にくれました。  やがて、金持のおいが、木をこすって火をおこそうとしたけれど、なかなかおこらない。すると使用人のウィリアムが、自分の腕時計のレンズを取り、枯葉を集めて、太陽の光線で火をつくり、みんなをあたらせる。  そして石で火を囲み、海にもぐって貝を採り、火で焼いて食べさす、このウィリアムの機転にみんなびっくりします。そして次々と機転をきかせて、掘っ立て小屋を建てるなど、生活の設備をつくっていきました。一日、二日、三日とたつうちに、ウィリアムの立場と主人の立場が代わってきたんですね。  ウィリアムがみんなに命令するようになった。こうなると使用人がいかにも立派に見えてきました。筋肉隆々たるその男。  メリーは、初めはばかにしていて、目もくれなかったその使用人に、男性的な魅力を感じるようになったんですね。  しかしこのウィリアムには、やはり使用人のトゥイーニーという恋人がおりました。トゥイーニーは、お嬢さんが私の愛人を横取りしようとするなんてあんまりだと、いつも木陰で泣いておりました。一方メリーも、私の男をあんな女が横取りするなんて、とトゥイーニーにつらく当たります。トゥイーニーは悔しさのあまり、メリーを山猫のいる谷に、野ぶどうがたくさんあるといっておびき出したんですね。  そして、山猫がまさにメリーに飛びかかろうとしたとき、矢が飛んできて、山猫に当たりました。メリーは危うく一命をとりとめたんですね。それはウィリアムの放った手作りの矢でした。さあ、この三角関係どうなっていくでしょう?  さて、野獣の牙《きば》から救われてほっとしたメリーが、おもしろい話をしはじめます。そこから場面が一変して劇中劇になります。  それはバビロンとアッシリアの戦いです。さあ、戦車、戦車。槍、槍、槍。すごい戦い、戦い、戦い。  やがてバビロンはアッシリアに滅ぼされました。バビロンの王様の娘は、手も足も鎖でくくられ、アッシリアの王様の前に引き据えられました。王は、バビロンの娘があまりにも美しいので 「そなたが、もしわしの第四の妃《きさき》になれば、命を助けてやるぞ」  といいました。それを聞くとバビロンの娘は、王の顔に向かってつばを吐き 「私は、死んでもそなたの側女《そばめ》になぞなるものか!」  といいました。怒った王は 「この女を死刑にせよ。それもただの死刑じゃない、飢えた野獣の餌食《えじき》にせよ!」  といったんですね。三日後、娘は白|孔雀《くじやく》の冠に、真っ白なレースの上着という死の衣装で飾られ、野獣の檻《おり》に運ばれました。娘は堂々と檻の中に入っていきます。  そして彼女は、野獣の牙にかけられました。王や側女や、家臣たちが、その無残な姿にすっかり興をそがれて去ったあと、ひとりの女が残っていました。  彼女は、檻の中の、バビロンの女の上着を引きずり出して、こういいます。 「そなたは、なんたる愚かな女じゃ。私ならまず妃になって、それから王を毒殺してやるのに」  ここで、場面はもとの無人島にもどります。  とうとう一年がたちました。もう都会には二度と帰れそうもありません。メリーは、トゥイーニーの悲しみをよそに、ウィリアムと結婚することになりました。指輪も、バイブルもない、原始的な結婚式。  ところが、丘の上でひとり泣いていたトゥイーニーが見たものは、海のかなたの、黒い船でした。彼女は急いでのろしをあげ「船が来た! 船が来た!」と叫びました。  みんなびっくり仰天して、結婚式なんかほったらかしにして、丘の上に登ってきました。そして両手を振って、てんでに「助けてくれ!」と叫びました。  やがて、みんなは再び、豪華な館《やかた》に戻ってきました。そこへ新聞記者が集まってくる、雑誌記者が集まってくる。そして自慢話がはじまる。  ウィリアムとトゥイーニーは、もとどおりの姿で、皿を運ぶ、酒を運ぶ。  メリーは、もはやウィリアムになんの魅力も感じなくなり、結婚話も、立ち消え。  ウィリアムは、なんという社会、なんという冷酷な連中、と愛想がつきた、さすがに主人は、島での礼として西部にもっていた土地をウィリアムに与え、トゥイーニーと二人で行けといったんですね。トゥイーニーは大喜び。ウィリアムは初めてトゥイーニーの真心に打たれ、二人ははるか遠い西部へと発って行く。  というわけで「男性と女性」は終ります。いかにもデミルらしい大作でした。  私、思い出しました。「男性と女性」は一人で見に行ったんです。十一歳で生意気ですね。そしてこの映画があんまりおもしろかったので、映画館の事務所に飛び込んで、電話を借りて家にかけました。 「この映画とってもおもしろいから見にきませんか、お父さん、お母さん」っていいました。ところが「おまえなにしとったんだ」と怒るのが当り前なのに 「そうかそうか、そんなにおもしろいなら場所をとっておいてくれ」  といったんですね。まあそれから二十五分ほどしたら、お父さん、お母さん、それにおばあちゃん、姉までいっしょになって、ぞろぞろぞろぞろやってきた。私の家はそんな具合で、私はこんな人間にとうとう踏み迷ったわけです。 ●E・v・シュトロハイムの「グリード」  三大監督三大名作、D・W・グリフィスの「散り行く花」と、セシル・B・デミルの「男性と女性」をお話ししましたが、三番目は、エリッヒ・フォン・シュトロハイムの代表作「グリード」(一九二三)です。  シュトロハイムは、一八八五年にオーストリアで生まれました。二十歳でアメリカへ渡りまして、新聞記者やなにかをやって、それから映画に関係してきたんですね。 「アルプス颪《おろし》」(一九一八)、「愚かなる妻」(一九二一)などのあと、MGMで「グリード」を作りました。  俳優としても、あの「サンセット大通り」(一九五〇)で、グロリア・スワンスンが演じた、かつては大女優で、今はだれも見向きもしないノーマ・デスモンドという女の、お抱え運転手をやりましたねえ。ルノワール監督「大いなる幻影」(一九三七)にも出演しました。  エリッヒ・フォン・シュトロハイム、サイレント時代のみごとな、みごとな監督でした。一九五七年、パリで亡くなっております。  さあ、「グリード」、グリードとは「貪欲《どんよく》」という意味です。有名な小説「マクティーグ」を映画化したものですね。  ここに、マクティーグという、人の好い大男の歯医者がいました。場所はサンフランシスコ。このマクティーグに扮《ふん》しているのは、ギブソン・ゴーランド。その友だちで犬猫病院の清掃人のマーカスをジーン・ハーショルトが、その愛人トリナをザス・ピッツがやっていました。  みんな美男美女でなく、醜男醜女、これがシュトロハイムのリアリズムだったんですね。  マーカスはトリナと結婚することになった。マーカスは、宝くじを買ってトリナにプレゼントしました。トリナは、歯並びがあんまり悪いので、結婚式までに歯を直したいといいまして、マーカスは、ふつうの歯医者は高いから友だちのマクティーグを紹介します。マクティーグ、これがもぐりの歯医者なんですね。  ところが、トリナの歯の治療をしているうちに、マクティーグは、トリナというこの妙な女に、だんだん引きつけられていきました。トリナは、いかにも粗野で、女というものをまったく知らないような、もう中年になりかかったマクティーグを誘惑してみたくなりました。  そして、歯を見せながら、だんだん自分の唇をマクティーグに寄せていく。マクティーグは、それから逃れられなくなりました。  とうとうトリナは、許婚《いいなずけ》のマーカスを捨てて、マクティーグに走りました。それを知ったマーカスは、あまり美人でもないんだからと思って、トリナを友だちのマクティーグに譲ったんです。  晴れてマクティーグとトリナの結婚式。でも、外は雨。二人は所帯をもちましたが、そのあとがいけなかった。  マーカスがプレゼントした、あの宝くじが当たって、トリナは五〇〇〇ドルを手に入れたんです。マーカスは恨む恨む。それまでなんともなかったのに、五〇〇〇ドルのために、急に嫉妬《しつと》の炎が燃えあがってきた。  幼稚で、貧しい育ちのトリナは、生まれて初めて手にする大金を銀行に入れるのもこわくて、巾着に入れてベッドの下に隠しました。そして、毎晩、寝る前に数える。  トリナは、ますます貪欲になっていきます。亭主の食事もだんだん粗食にし、しまいにはスーパーで 「私の家のワンちゃんに食べさせる肉、ありますか?」  というようになりました。  マーカスのほうは、そんな二人の生活が幸せに見えて幸せに見えて、我慢できなくなり、マクティーグが歯医者の免許をもっていないことを、警察に密告してしまいます。歯医者をやめさせられたマクティーグは、重労働をして働きました。でも、働いた金はぜんぶトリナが取りあげてしまいます。  人の好いマクティーグもさすがに腹が立ち、深酒を飲んでは暴れるようになりました。トリナは、お金を取られることを心配して、ある日、お金を持って逃げてしまいます。  マクティーグはトリナを捜して、捜して、捜して、とうとうトリナの居場所を見付けました。なんとトリナは、幼稚園の清掃女になっておりました。  その晩もトリナは、小さな汚い屋根裏部屋のベッドの上に、金貨に替えた五千ドルを広げます。この場面だけ、金貨がカラーになってキラキラキラキラ、光りました。そしてその上に、トリナは全身、裸になって寝て、タオルを上からかけて、からだに金貨が冷たく当たるのを喜んでいました。  そこへ、天窓を破って入ってきたのが夫のマクティーグ。トリナはあわててあわてて、金貨を集め、ベッドの下に隠しました。マクティーグは 「少しでもいいから金を貸せ。もう昨日から食うもんも食ってねえ」  といいました。けれどもトリナは、逃げようとするばかり。  マクティーグは、女房のあまりの冷たさに怒り、ベルトでトリナの首をキューッとしめて殺してしまいました。そして金貨、銀貨のザクザク入っている革袋を持って逃げていきました。  しかし、指紋から犯人がマクティーグであることがわかって、追及、追及、追及。これを新聞で知ったマーカスは、マクティーグが憎くて憎くてもうたまらない。おれこそ、あいつを捕まえてやる、と保安官の先頭に立って捜し回りました。  マクティーグは死の谷に逃げ込んだことがわかりました。死の谷、デス・バレーこそは、一度入ったら絶対に出てこられないところ。水の一滴もないような、ひからびた、ひからびた灼熱《しやくねつ》の砂漠。死の谷を知っている連中は、あんなところに行けばもう死ぬだけだといって引きあげました。  しかしマーカスだけは、おれが必ず捕まえるといって、手錠をもって追って追って、追っていきました。キャメラが二人をとらえました。だんだん、だんだん、マーカスが近づく、近づく。  パーン、パーン。  マーカスが拳銃を撃ちました。弾丸がマクティーグの水筒に当たって、水はたちまちかわいた地面に吸い取られる。マクティーグとマーカスのすごい格闘。とうとうマーカスは、マクティーグの手にがちゃんと手錠をはめ、その片方を自分の手にかけてしまった。  そのとき、手錠の鍵は地面の裂け目に落ちて、二人はもう絶対に離れられなくなりました。そのまま格闘、格闘、格闘。マクティーグは目がひきつってきて、口から泡を出して倒れてしまいました。  でも、金貨の革袋を握った指は、引いても引いても動きません。マーカスは思い切って革袋を引きちぎりました。金貨がパラパラパラーッと飛び散った。それを必死で集めようとするマーカスもとうとう力尽きて、マクティーグの上に重なって倒れてしまいました。  風が吹いて、金貨の上をさらさらさらさら、砂が流れていきます。おそらくこの砂嵐は、金貨を、そして二人の死体も埋めていくでしょう。  人間が、もしも貪欲という悪魔にとりつかれたらこんなになるかもしれませんよ、そういうことを、「グリード」はみごとにみごとに教えました。  というわけで、シュトロハイムはいかにもリアリズム、デミルはなんといってもおもしろさ、そしてグリフィスは愛というものの美しさを唱えた、それぞれ個性をもった三大監督をご紹介しました。  今日は、ずいぶん勉強しましたね。それでは、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]  ㈽ 素晴しき映画の世界 [#改ページ] ファースト・シーン・あ・ら・かると  はい、みなさん今晩は。  今夜のお話は、映画のファースト・シーン。映画は、なんといってもみなさん最初から、このファースト・シーンからごらんにならなければいけませんよ。映画を途中から見はじめて、また途中まで見て帰る、こういうのはいちばんいけないことなんですよ。  あなた、ラジオの前のいつものあなた、今日は最初から聞いてますね。えっ、テーマミュージックから聞いてたって? えらいですね。映画も、かならずファースト・シーンからごらんになってくださいね。 ●タイトル・バックからファースト・シーンへ  テーマミュージックといいましたら、ここで私、みごとなファースト・シーンを思い出しました。ファースト・シーンというより、これはファースト・タイトル・デザインですね。それは、サードマン、「第三の男」(一九四九)です。  この、「第三の男」のタイトルは、あの、ギターのような、マンドリンのような、大正琴のような、チターという楽器ですね。そのチターの弦が、うまくうまく、タイトル・バックに使ってありました。 「ザ・サードマン」と書いたタイトルのうしろに、弦が何本も何本も並んでいます。あの弦が、テーマソングのメロディに合わせてピィン、ピィンと動きますね。ここから始まっていくんですね。  もう音楽が、ちゃんとファースト・シーン・タイトルに計算されて、お話が始まりますね。しかも、そのお話の最初はお葬式でしたね。これが曲者《くせもの》ですね。このお葬式は、実はニセのお葬式。  悪い男がいてねらわれてます。だからおれが死んだことにして、姿を隠しておいて、また悪いことをしてやろうと思って、ニセのお葬式をしているところから始まるのが、おもしろいですね。  やがてこの男は、最後には本物のお葬式で葬られるという場面で終るのですが、この対比があって「第三の男」のファースト・シーンが、やっぱりおもしろくなるのですね。  というわけで、映画はファースト・シーンでムードを作ります。ムードたっぷりの印象的なファースト・シーンを思い出してみましょうか。あの、みなさんの大好きな「シェーン」(一九五三)。「シェーン」というと、みなさん、きっとあの音楽も思い出されますね。「遥《はる》かなる山の呼び声」、さあ、そのファースト・シーンは、あの、ちっちゃな子供がいました。  あの坊やがひとり、ワイオミングの草原で遊んでいますね。家の前ですね。そうして鉄砲を持ってパンパン、パンパン。自分で口で、パンパン、パンパンといっていますね。  あれがいいですねえ。あの、おとっつぁんの鉄砲持って、弾でも入っとれば大変ですけど、ちゃんと、子供が遊んでもいいように、弾が抜いてあるところに、子供が自分でパンパンといっているところに、親の子供への心遣いが出ているんですね。  ああいうところからして、いい映画のいい監督は、いい演出をしますね。この監督、ジョージ・スティーブンスですね。  さて子供が鹿を見て、パンパンやっているうちに、遠くから馬に乗ってだれかやってきます。あれが「シェーン」のファースト・シーンですね。  だんだん近づきました、近づきました。 「おかあちゃん、おかあちゃん。向こうからおじちゃんが来るよ。おじちゃんが来るよ」  そうしてシェーンは、馬の上から子供を見て、ニッコリ笑います。子供もシェーンを見て、知らないおじさんだけれども、いかにもうれしそうに、ニッコリ笑いますね。  このファースト・シーン、なんともいえんほど、いいですね。  遠くからたった一人で、ワイオミングの草原をやって来る、このロンリー・カウボーイ。寂しいカウボーイ。孤独のカウボーイ。それと、だれも友だちがいなくて、たった一人で遊んでいるこの子供。  さあ、ここで孤独と孤独の握手があるわけです。「シェーン」はそういうところから始まりましたね。  いい映画のおもしろさは、ファースト・シーンで、すでになにかを暗示しますね。そういうわけで、映画は、おもしろさのエッセンスが入っているファースト・シーンから、まず見てくださいね。  こんなファースト・シーンもありました。  いつだったか、テレビでも放映されましたが、「ハリケーン」(一九三七)という映画です。これは、きれいなきれいなメロディで始まりました。ジョン・フォードの作品でした。  いちばん最初、船の甲板からアマチュア・カメラマンがキャメラで、ずーっと沖のほうを写しているときに「実はその沖のほうにね、以前はサンゴ礁の島があったんですよ、今はもうなにも見えませんね。けど、そこには島があったんですよ」、そこから話が始まります。  島があった。けど今はなくなっている。そうして、やがてその島の物語が始まっていくところに、なんともしれん、ロマンというのか、伝説というのか、そうしたものが感じられました。  だから、ファースト・シーンというのは味がありますね。 ●「モダン・タイムス」の時計の意味  なにか暗示を与えているファースト・シーンというと、「モダン・タイムス」(一九三六)があります。  チャップリンは、ファースト・シーン、ファースト・タイトルから、なんという敏感さというのか、すごい感覚を出していますね。 「モダン・タイムス」、これ、ごらんになったでしょうね。  最初、タイトルが出てきました。大きな画面いっぱいに、時計が映ります。この時計からして、みなさんが、�うーん、そうか、うーん、そうか、そうか�とわかられたらいいんですね。  なにが�そうか、そうか�なんて、びっくりしないでくださいよ。  時計なんですよ。コチ、コチ、コチ……。  今、私がみなさんにお話ししていますね、このマイク。このマイクの向こうに、大きな時計がおいてあるんです。で、私がお話ししながら�あとこのくらいで、この話は終りにして次にいこう�と、やっぱり、時間に、セコンドに追われているんですね。  この現代、モダンの人間はみんな、�時�というもの、�時間�というものに追われて暮らしているんですね。つらいですね。だからみなさん、都会を離れて遠くに遊びに行きたくなるんでしょうね。 「モダン・タイムス」の最初のタイトルは時計ですね。コツ、コツ、コツ、コツ……。  やがてファースト・シーンは、いっぱいの人が、地下鉄にどんどんどんどん、乗っていくところですね。いっぱいの人、それはやがて、いっぱいの羊の群れが、檻《おり》の中から出て行く場面に変わります。  人間も動物も同じようなんですね。  この「モダン・タイムス」のこの現代の人間の哀《かな》しさを、ファースト・シーンは、よく出していました。  というわけで、ファースト・シーンには、その映画の生命が、もう最初から、ちょっとほのめかされているおもしろさがあります。  さあ、そういうわけで、私がおもしろいなあと思ったファースト・シーンには、こんなのがあるんですよ。  これはみなさん、ごらんになってないはずですが、「昼下りの情事」(一九五七)や「サンセット大通り」(一九五〇)を作った、あのビリー・ワイルダーが、アメリカで初めて認められた出世作に「失われた週末」(ロスト・ウィークエンド)(一九四五)というのがあるんですね。 「失われた週末」、これの意味するのは、もうこの人は遊べないんだ、休みがないんだ、めちゃくちゃな人生なんだという、タイトルなんです。  この映画、多分、ごらんになっていないと思いますから、ファースト・シーンの部分、少しお話ししてみましょうか。  この「ロスト・ウィークエンド」のタイトル・バックには、アパート街が見えます。  そのアパート街にキャメラがどんどんどんどん、寄っていくところから始まるんです。さあ、その四階。その四階にだんだん寄っていくと、その窓に変なものがぶらさがっています。これ、タイトル・バックですよ。もっと近寄ってみると、それはなにかビンがぶらさがっているのがわかってきます。  どんどんどんどん、行って、とうとうそのビンにまでキャメラが寄ったところから、ファースト・シーンになるんですね。それは酒のビンなんです。  やがてキャメラは、その家のなかへ入ります。するとここに、一人のアル中の男がおりまして、そのアル中男の兄貴が、こいつは酒、酒、酒で、もう骨まで酒だから、こんなことしとったら死んでしまうというので、酒のない生活をさせるために、トランクにシャツとか靴下とか全部詰めて、一ヵ月ぐらい、田舎へ連れて行く場面になるんです。  さあ、ところがこの男、酒がなくては死んだほうがいいというくらいだから、兄貴の目をかすめて、酒ビンを取りあげられる前に、一本だけロープに吊《つ》って、窓の外にぶらさげてたんですねえ。そうして、兄貴が横を向いているすきに、さっと取って、トランクの底に酒ビンを入れる。そこから始まるんです。  いかにも、この男の酒地獄のファースト・シーンすごかったですよ。 ●思いがけない出だし  というわけで、映画はファースト・シーンから見ないとおもしろくないのです。  ここで私が、ほんとうにおもしろかった、というよりも、恥ずかしかったことを、ひとつ申しましょうね。  みなさん、これはごらんになったでしょう。「アラビアのロレンス」(一九六二)。デビッド・リーン監督のいい映画で、ピーター・オトゥール、よかったですね。えっ、この映画見なかったんですって……。まあ、そんな人、この世にまだおるんでしょうかねえ。  この「アラビアのロレンス」、実は戦争前に、ずーっと前に、いっぺんレスリー・ハワードで作ろうと思ったんですね。レスリー・ハワード、ご存知ですか。監督じゃありませんよ。役者、「風とともに去りぬ」(一九三九)、あれでアシュレやった人です。バトラーはクラーク・ゲーブル、こちらはご存知ですね。アシュレ、おとなしいほうの男の人がレスリー・ハワード、そのレスリー・ハワードという、有名な役者を使って、「アラビアのロレンス」を作ろうと思ったんですね。  ところがむずかしくてむずかしくて、そのロンドン・フィルムという会社は、二巻ほど撮りかけて、やめてしまったんです。  それから戦争になって、ずーっとたちました。  そして今度は同じ映画を、ピーター・オトゥールなんて、あまり知られない役者がするという話を聞いて、へえ、そうかいなあ、と思ってましたの。  さあ、いよいよ完成しました。私は楽しみで試写にとんでいきました。  さあ始まります。ファースト・シーンが出る前、きれいなきれいな音楽が流れてきました。あのシンフォニーの、なんともいえん、いい音楽ですね。さあ、どういうシーンから入っていくだろうか。  このファースト・シーン。私は私なりに、勝手に考えていたんですね。  アラビアのロレンス。あのアラビアの砂漠と太陽に魅せられた男の悲劇、人生。そういうストーリーのファースト・シーンだから、私は、砂漠、砂漠、砂漠の遠く彼方《かなた》に、キャラバン隊のような、ラクダ隊のようなんが、ずーっと通っている。夕方、あるいは夜明け。いかにもそのシルエット的なムードのなかで、アラビア風の音楽が入ってくる、なんて想像していたんです。  ところが、デビッド・リーンいう監督は、そんな泥くさい、そんなばかばかしいタイトル・バック、ファースト・シーンは作りませんでした。  ああ、淀川長治は三流だなあということが、つくづくその瞬間にわかりました。  この映画のファースト・シーンは、なんとすごいんでしょう。  この「アラビアのロレンス」のタイトル・バックは、舗道でした。びっくり仰天ですね。アラビアのロレンスだから砂漠、砂漠と思ってたのに、なんと憎らしい、アスファルト。しかもタイトルがどんどん変わる間に、そのアスファルトの舗道の端にあったオートバイにだれかが乗って、やがてタイトルが終った頃には、ブルン、ブルン、私たちがオートバイに乗っているような感じになりました。  バリバリバリ、ドバンドバン、どんどんスピードを増して走っていって、ついにそのオートバイはどこかに突き当たって、それを運転していた男は死んでしまいました。この男が、ロレンスなんです。そこから始まりました。  そうして、教会になりました。  大きな大きな教会で、ロレンスのお葬式が終って、たくさんの人が白いカーネーションをつけて、そうして女の人は白い衣服、黒い衣服で広い大きな階段をおりてきます。  キャメラが動き回って、いろいろな人物をとらえていきます。 「ロレンスは、立派なお方だった。あれこそほんとうの軍人ですね」  またキャメラが動きます。するとこちらでは 「ロレンスって、あれ山師でしょ。あの人ちょっとおかしいわね。売名的な男ね」  いろいろな噂《うわさ》を聞かせながら、やがてロレンスの、生前のロレンスの生活に入っていきます。やっぱり、デビッド・リーン監督はうまいですね。 ●ファースト・シーンとラスト・シーン 「戦場にかける橋」(一九五七)というのがありました。これもデビッド・リーン監督です。「アラビアのロレンス」よりも、ちょっと前に作りましたね。  これもみなさん、ファースト・シーンがいいんですよ。どんなファースト・シーンだったか、もう思い出されたでしょう。なに、あの口笛のメロディしか思い出せない? それと、橋がドーンと爆破されて、汽車が、本物の汽車がおっこちたところ? まあ、そうでしょうかねえ。  この「戦場にかける橋」、これは太平洋戦争、ビルマ国境の話ですね。日本軍の捕虜になっているイギリスの兵隊たちの話、将校の話ですね。  日本軍が国境の川に、どうしても橋を作らなければならない。それがどうしても、どうしてもうまくできない。とうとう、イギリスの捕虜たちに協力させることになりまして、イギリスの将校が、もっと、もっと設計をこうやって、こういう橋を作らなくちゃだめだなんていうんですが、それはともかくとして、この映画のファースト・シーン。  それは、森の、ジャングルのそのずーっと上から、キャメラがなめるように、ジャングルを円形に動きながら撮影しましたねえ。  その撮り方は、見ていますと、ちょうど鳥が、ピーヒョロロ、ピーヒョロロとなきながら、円形に舞っている感じなんですね。空から見おろしている感じなんですね。  これがすごいですね。ここに、遠く離れて、命がけで戦争をしている人間の姿、その悲劇の姿を、遠く、上から見ている、そこに神の目を感じさせますね。  さあ、神の目になってジャングルを見おろしている。ジャングルのなかで、この天然のすごいすごいジャングルのなかで、美しさのなかで、人間はなにをしているのだろう。残酷な殺し合いをしている。  ラスト・シーンも、やはりこの戦いを見おろしているところで終ります。  みなさんも、こうした、なにかを暗示するファースト・シーンを、舌なめずりしながらごらんになると、映画のおもしろさが何倍も何倍も増してきますよ。  キャサリン・ヘプバーンの主演した「旅情」(一九五五)、このファースト・シーンもようございました。汽車がベニスへ、ベニスへと近づいていくところが始まりですね。  やがて汽車の窓から海、また海が見えてきますね。  この汽車に乗っているのはアメリカの、ちょっと中年になりかけた、まだ結婚していない婚期の遅れかけた女で、ベニスへ来て、「さあ、私はこれからベニスを楽しむんだ」というこの主人公は景色を楽しむのか、ロマンチックなものを楽しむのか、いかにも燃えあがってベニスへ行くんだというファースト・シーンはすごいですね。  やがてラストで、同じ汽車に乗って終るところが、やはり名作なんですね。 ●「唐人お吉」と「雨」  いろいろなファースト・シーンがありますが、たまには日本の作品の話もしてみましょうねえ。  日本映画のファースト・シーンで、私が今ぱっと思い出しましたのは、「唐人お吉」(一九三〇)。へえ、そんな映画あったの、というぐらい前のですね。これ、溝口健二監督で、梅村|蓉子《ようこ》がお吉をやった映画ですが、まず下田の港の、ちょうど夕日が映ります。  エンヤコーラ、エンヤコーラ。さあ、一〇人ぐらいの若者が、一生懸命、網を引っ張ってます。なかに、じいさんが一人いまして、そのじいさんの女房でしょうか。「じいさんや、あとは若い者にまかせて帰りましょう」とやって来ました。 「そうじゃのう」といいながら、散らばっていた小魚をかごに入れて、そうして婆さんといっしょに帰っていくところがファースト・シーンなんですねえ。  婆さんは、手に提灯《ちようちん》を持ってます。まだ火は入ってません。二人が並んで歩く姿を、キャメラが後から、ずーっと、その同じ速度でついていきます。  向かって左側、画面に向かって左側が海。右側は砂地。その海と砂地の境を、婆さんとじいさんが歩いていく、歩いていく。歩いていくうちに、景色が、風景が暗くなってきます。  白黒映画ですけど、きれいです。溝口健二の、このファースト・シーン、みごとでした。だんだんだんだん暗くなっていく。 「さあ、もう火をつけようかのう」なんてことになって、婆さんが提灯に火をつけた。提灯を前にさげて歩くので、じいさんと婆さんは、いよいよシルエットになってきました。  また、キャメラが二人を追いました。どんどん、どんどん追いました。あたりは暗くなってきました。暗くなってきました。  岸辺に、ざあっと寄ってくる、その波頭、白く、レースのように波頭が寄せてきます。そこを、二人が歩いていきます。  そして二人が止まりました。キャメラが、ずーっと二人に寄ってきます。提灯に寄ってきました。提灯が下にさがってきました。下にさがってきました。すると、提灯の、その光に浮いたのは、女の下駄、きれいな籐表《とうおもて》の下駄が、波打ち際にこちらに一つ、向こうに一つ、散らばっていました。  すると同時に、女の足、うつぶせになって倒れている、白い足袋の女の足が見えました、提灯の灯の光りに浮かびあがって見えました。  提灯が、だんだん、その女の乱れた裾から、からだの上のほうへあがっていきます。あがっていきます。西陣の帯が乱れて、くずれてます。 「……水死人かの。いや、ぬれてないの」  提灯が上へ、上へ照らしていきます。ベっ甲のかんざし、かんざしが落ちてます。 「じいさん、これはお吉じゃないかのう」 「そうじゃ、これは唐人お吉じゃ。ばかめ、このばち当たりめ。このかんざしひとつで、わしら、一生食えるのにのう」 「ほんとうにばち当たりの女《おなご》じゃ……」  キャメラが上にあがって、さあ、そのうつぶせに倒れたお吉の頸《くび》すじのきれいさ。乱れた髪、やがて提灯の光に全身が映ります。これがファースト・シーンですね。みごとでした。 「唐人お吉」のファースト・シーンと似たムードのものに、アメリカ映画、ルイス・マイルストゥン監督の「雨」(一九三二)というのがありました。これがまた、みごとな幕開きの仕方をするんですね。  これは、あるサンゴ礁の、小さな島のお話です。  最初、タイトルが映ります。  さあ、椰子《やし》の木がきれいです。やがて太陽が雲のなかに入った。入ったと同時に、まるで雲から後光が差しているように見えるんです。  タイトルはそこで�ザ・レイン�、そして監督ルイス・マイルストゥン、主演ジョーン・クロフォードなんて出てきます。  さあ次は、キャメラが風で揺れている椰子の葉に寄っていくところから、ファースト・シーンに入っていくんです。  その椰子の葉に、雨がポツポツと当たります。この頃、タイトルが全部終ります。  パラパラパラッと雨が映ったと思うと、今度はロングカットになるや、ザーッとジャングルの上に雨が当たっているんです。  やがて、次のシーンでは、その雨はまあ、どしゃ降りになって、一軒の居酒屋の表が映ります。どしゃ降りで、家の横の樋《とい》は水があふれています。  ドアをくぐるように、なかにキャメラが入ると、五人ぐらいの人が、トランプをやっています。牧師がいます。その奥さんもいます。安宿の亭主もいます。そこの泊まり客もいます。彼等がトランプをしながらしゃべっています。 「えらい女が来ましたねえ」  といいました。 「あの女が来て困る」 「なんて女?」 「サディ・トンプソン。あいつはね、あんまり悪いことをしたんで、追放されて、この島に流れ込んできたんだ」 「あいつがここへ来たときはね、まあ、なにひとつ持っていねえ。靴下のなかに金を隠してたけど、トランクもなにもねえんだよ。ウイスキー一びん、片手にレコード一枚、それでフラフラとやって来た。酒を飲むか、酒を飲まないときはそのレコードをかけるだけ。今は寝とるが起きりゃ�セントルイス・ブルース�かけるんだ」 「やな女ねえ、あの女は」  そうしゃべっているところを、ずっとキャメラが移動しているうちに、かすかにかすかに、セントルイス・ブルースが聞こえてきました。  ははあ、その女が起きてレコードかけてるな、という気持になったとき、キャメラはずーっと廊下を通って、這《は》うように音楽のするほうに近づいていきます。音楽は、近づくほど徐々に大きくなっていきます。あるドアの前で、ずーっと大きな音に盛りあがった。  ははあ、このなかに、その問題の女がいるんだなあ、とわかります。  やがて、ドアがバーンと開いた。開いたと同時に、キャメラがうんと寄って、女の手がまず映りました。  柱を押さえている手。その手は、ブレスレット、腕輪をいっぱいつけたいかにもいやな手です。また、こっちの手がぱっと映ります。こっちの手も、まあマニキュアで、まっ赤な爪しとります。  今度は足が、パッと映りました。その足はハイヒールで、足首にも小さな銀の輪をはめてます。両方の足が映り、両手が映ってパッとキャメラが引くと、ジョーン・クロフォード扮《ふん》する、サディ・トンプソンという酔っぱらい女の、いま起きたらしい、その全身が映ったときに、セントルイス・ブルースの音楽が盛りあがります。 ●ファースト・シーンは映画の命  ファースト・シーンは、やっぱり映画の命です。映画を途中から見るなんて、困りますよ。  けれども最近は、ファースト・シーンも、どういうのでしょうか。神経的に、細かくなってきましたね。  みなさんがご存知の、みなさんの時代の映画に移って、ファースト・シーン、見てみましょう。  ここで、もうみなさんご存知のフェリーニの「甘い生活」(一九六〇)、いかにもみごとで、いかにもこわい、その、ファースト・シーンをしゃべってみましょう。  この映画、みなさんお気づきでしたか、ファースト・シーンに音楽、テーマソングなんて入っていないんですね。  音楽がないかわりに、タイトルが出ると、パラン、パラン、おや、なんだろう、これは……と思っていると、さあ、空の上にヘリコプターが浮いていましたね。  今度はヘリコプターから、逆に下を写しました。そのヘリコプターは、大きなキリストの像をぶらさげているんですね。キリストを、ある寺院に納めるために、運んでいるんです。  さあこれをごらんになって、みなさん、どう思われたでしょう。  ローマの上空を低空で、ずーっとキリストが通っているんですね。神々しい神の目で、人間世界をながめている、そんな感じがいかにもよく出ていますね。両手を広げたキリストの像が、その雰囲気を、とてもよく出していますね。  これがファースト・シーンです。  ところが一台、その後にヘリコプターがついているんです。これは、キリスト像を寺院に納めるまでを記事にしようとしている新聞記者が乗っているんですね。  ところが寺院に着くまで用事がないから、その新聞記者は、あくびなんかしています。この男、陽気な男で、ちょっと下を見ると、低空飛行だから、ビルの屋上がよく眺められます。  時間は昼休み時。屋上にはイタリア娘が日光浴をしています。たいてい、まっ裸になっているんです。というのは、だれも見ていないと思っているからですね。  それを上から見て、いいぞ、いいぞと思って、「今晩、遊びませんか」なんて字を書いて見せたんです。ところがその娘たち、「いやですよ。あんたなんか」といった顔を見せます。低空だからそれがよく見えるんですね。  次のビルへ行きます。やはり娘さんがいます。そこでまた、「あんたの電話番号知らせ」、その娘さんは、「なにいってんの、エッチねえ」  その上と下とのやりとりのおもしろいこと。  さあ、このいかにも人間くさい、人間くさいヘリコプターと、神の姿のヘリコプターが二機並んで飛んでいく。いかにもみごと、いかにもこわいファースト・シーン。そう、お思いになりませんか。  この「甘い生活」も今ではもう古い、ですって? まあ、あなたおいくつ? それじゃもう、最近も最近、つい最近のファースト・シーンのこと、申しましょう。 「スケアクロウ」(一九七三)、これなら、あなたもきっとごらんになって、そのファースト・シーンも、きっと覚えていらっしゃるでしょう。ジーン・ハックマンとアル・パシーノ、いかれた男二人の友情ですね。  一人は六年間、けんかして六年間、監獄にいっとった男が、ようやく出てきて、さあ、これからおれ、仕事するんだといって出てきたんだけれど、なにしろ西部の真ん中の田舎道。町にはまだ遠い一本道、だあれもおらん。なにか通ったら、トラックでも来たら乗せてもらおう、そう思ってます。  ところが、向こうのほうに、妙な男がいました。その男もヒッチハイクしようと思ってる。こっちの男もヒッチハイクしようと思ってる。 「困っちゃうな、あんな奴がいやがると」  そう思ってます。そこから始まるんですねえ。  そうして、大男と、向こうは小男です。大男のほうが、ライターで、古びたシガーに火をつけようとしてるんですが、パチパチ、パチパチ、火がつかない。これがファースト・シーンなんですね。  ところが、向こうにいる小男が、それをじいっと見て、やがて道を横切ってやってきて、マッチを持って、一本持って、つけてやろうかという顔します。  大男は、バカヤローと思ったけれど、どうしてもつかないライター。  仕方がなく「つけてくれ」いいます。そこでつけるところ。風がきつくて、根無し草、根の無い枯れ草が、さあっと、マリのように転がっていきます。いかにも、西部の風の強い、冬の姿がよく出ています。  そこで二人の男が、からだを寄せ合うようにして、重なり合うようにして、マッチに火をつけました。そこから、この映画は始まっていきます。  二人はやがて、ほんとうに離れられない友だちになっていくんですね。  このファースト・シーン、冬の、風のきつい曇天の、そのなかの道をへだてた二人の男が、やがて互いに知り合う。友情をもつ。それを、マッチの、一本の火で表わしている。そこが、なかなかうまいですね。  遠くのほうは曇天なんです。ひと雨きそうです。そういう風に、いかにも、最初のシーンで、この映画の命を見せました。  はい、というわけで、もうすっかり時間がきました。今日は最初から聞いてくださったあなた、いかがでしたか。これからは、タイトルとファースト・シーンだけ見て回る?   いつも、いつも憎まれ口ですね。それでは、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] 漫画映画とウォルト・ディズニー  はい、みなさん今晩は。  今夜はウォルト・ディズニーの足跡を、みなさんともう一度、たどってみましょうね。なに? 足音? いいえ足跡です。あなたちょっとひっこんでいらっしゃいよ。さあ、あの人を追い出して、みなさんと私で、ゆっくりと思い出しましょうね。 ●漫画映画の発生  まず初めに漫画映画から入っていきましょうね。漫画映画というのは、一秒間に二四コマですので、一秒間に二四枚の画をかかなくちゃならない。けれども、そんなことしていたら死んでしまいますから、動画というのは、一秒間にだいたい一二枚かくようになりました。というのは、そのほうが効果があるんですね。きちっと二四枚かいたりしたら、ほんとうの人間の動きになっておもしろくないんですね。漫画のおもしろさというのは、誇張があっておもしろいんですね。  たとえば、男が高いところから落ちますね。ところが、男のからだは落ちながら途中で止まって、観客に向かって 「ヘルプヘルプ、助けてくれ!」  と叫ぶ、そしてまた落ちていくんですね。漫画映画はそういうことができるんですね。だからおもしろいんです。  さあ、漫画映画というのは、いったいいつからできたんでしょうね。みなさん、そんなことお考えになったことがありますか。動く魅力ですね。私の小さいときに、ニュースとか、いろんなものをやっている映画会社がありまして、そこのタイトルは、ランプの油差しの口から、ちょうどチューブから流れ出るように、その会社名の文字が出てくるんですね。  あのチャップリンの「キッド」(一九二一)など作ったファースト・ナショナルのマークというのは、アメリカの地図を黒く塗って、それを画面いっぱいに出して、その周囲は鎖が輪になっていて、その輪がクルクルクルクル、動くんですね。それがうれしくてうれしくて、というわけで、漫画映画というのは、大正の初めからひとつの魅力でした。  けれども、こういうふうなものを考えた人は大変ですねえ。三万年前のスペインの洞窟《どうくつ》に行きますとね、牛の絵がかいてあるんですね。ところがその牛の足が八本あるんです。それは、牛がだーっと走ってる感覚を出そうとしたものですって。そういう動いているものをかきたい、作りたいという気持があったんですね。  それから一八二四年、昔の話ですねえ。フランスのポール・ロジェという人が、一枚の丸い紙の表と裏に、鳥と鳥かごを別々にかいて、糸でこの紙をつるして回したら、鳥が鳥かごの中におさまったというんです。  そういうわけで、トリックなんてそんなところから生まれてくるんですね。フランス人はトリックがとても好きだったんですね。それで一九〇八年、明治四十一年、エミール・コールという人が、動画の短編をはじめたんですね。  アメリカは一九〇九年、明治四十二年に、ウインザー・マッケーという人が「恐竜ガーティ」というのを作ったんです。そうして、このマッケー自身も映画のなかに出たんですね。恐竜の背中に乗ったり、ふざけたりしてね。  けど、フランスはもっと前にやってるんですよ。一九〇二年、明治三十五年、ジョルジュ・メリエスという人が、「月世界旅行」というのを作りました。それは芝居の場面みたいなもので、ロケットがすーっと地球から出てきまして、月にパァーンと当たったんです。月の目玉に突き刺さって、月の目玉からポロポロ涙が出てきた、なんていうのを作っているんです。  日本に初めて動画ができたのは、大正四年ですね。活動画なんていったんですね。それから、大正五、六年頃に、「デコ坊」なんていうのが出たんです。私これ見たんですよ。線画です。  お父さんとお母さんが食事をしようとしているの。その食堂の向こうには、二階へあがるてすりのついている階段があって、お母さんが呼んだんですね。「坊や、ごはんですよ」、すると、「おっかちゃん、ごはん?」「おっかちゃん、ごはん?」といって、何人もおりてくるんです。びっくりしました、これは同じフィルムを回していたんですね。「もうさっきから数えていると六〇人だよ」なんて、まあ昔の人はよかったねえ。全然影もなんにもない線画でしたよ。 ●ポパイとベティさんとクモのシャーロット  漫画映画というのはディズニーだけじゃないんですよ。 「ポパイ」というのがありました。セーラー、水兵さんですね、山のようなホウレン草食べてね、すごく強くなるの。いつもパイプをくわえていて、腕がものすごく太い男。 「ベティ・ブウプ」というのもあります。彼女は八等身やないの。四等身か三等身で、顔が大きくて、ちょっと不細工だけど、いかにも色っぽいんです。このポパイやベティ・ブウプを作った人は、フライシャー兄弟といって、この兄弟と、ルイスとジョージとエセルとの五人で漫画を作り出したんです。ハイカラでした。  やがて、ディズニーのあのきれいさに負けていったんですけど、ベティ・ブウプはえらい人気があったんですよ。これが出てきたのは昭和七年、一九三二年。これ少しセクシーな、背も少し低くって、むっくりふとった女の子ですね。そしてあんまり上品じゃない。そこがまたおもしろくて人気がありました。  このベティ・ブウプが画面のなかで「プップ・ア・ドゥ」というんですね。それが、「プップ・ペ・ドゥ」と舌たらずに聞こえたんですね。そういうところがかわいいんですね。これいったいどういう意味でしょう、意味なんにもないんです、なんとなしにうれしくなるんです。ビリー・ワイルダーの「お熱いのがお好き」(一九五九)あれごらんになったでしょう、あのなかで、マリリン・モンローが、「プップ・ペ・ドゥ」というところありましたね。 「ポパイ」のほうは、ポパイ・ザ・セーラーマンといって、強くて強くて大騒ぎ。というわけで、ちょっとこのポパイとベティ・ブウプは大人向きだったんですね。都会的感覚だったので、あんまりどんどん発展しなかったんですね。  それから「シャーロットのおくりもの」(一九七二)というのがありました。この映画は、E・B・ホワイトという有名な短編作家が書いた立派なおとぎばなしを、チャールズ・ニコルズとイワオ・タカモト、この二人で監督しました。どうして二人で監督したのか、それは、イワオ・タカモトがすーっとスケッチしてから、ブタとかクモとかガチョウなどをきれいに画にかくと、チャールズ・ニコルズがそれを動かすような方法でスケッチするんですね。  この映画が日本にきたときは、シャーロットの声を岸田今日子さん、ウイルバーというブタを谷啓さん、テンプルトンという愉快なネズミをなべおさみさん、それとおせっかいなガチョウをハナ肇《はじめ》さんがやりました。これとてもよかったです。  ある農場があって、そこで一匹のブタが生まれましたが、弱くって死にそうで、もう殺して食べちゃおうといったときに、この農場の娘が、「だめよ、だめよ、かわいそうだから、私がもらって育てる」といって、ウイルバーという名をつけて育てました。  ウイルバーがだんだん育って大きくなっていくので、おじさんのところへあずけました。そこには、ガチョウがいて、ネズミがいて、いろんなのがいて、みんなウイルバーに向かっていいます。「あんた、いつ来たの」なんていいます。すると、ウイルバーは「昨日来たんだ」と答えました。  すると、ガチョウがおせっかいですね、「もうすぐクリスマスでしょう、だから、あんたはもうじき殺されてハムになるのよ。ふとっていていいわね、おいしそうだわね」なんていいました。ウイルバーはぞっとしました。悲しくなって泣き出しました。  すると、そのときにどこかで声がしました。遠くのほうで、「元気をおだし、私がお友だちになってあげるわ」という声が聞こえました。ウイルバーが、「どこにいるの」といいますと、「ここよ」という声がします。  ウイルバーが豚小屋の上を見あげると、クモが巣を張っていて、その巣から一匹のクモがおりてきました。そのクモがシャーロットという雌のクモでした。そうして、このかわいいクモはウイルバーを助けようといろいろ考えました。  ところが、どんなことをしたら助けられるかわからない。そこで、ひょうきんもののネズミのテンプルトンを呼んで相談すると、テンプルトンは、「いっちょうまかしとき」といって町の公園を走り回って、紙くずをいっぱい拾ってきました。そうして、雑誌の紙切れから、「これごらんよ。ほら、すばらしいってかいてあるでしょう。あんたね、ウイルバーの小屋の上にきれいに巣を張って、このようなことクモの糸でかいてあげなさいよ」。シャーロットは、「まあ、それはいいわねえ」といって、夜通しかかって、ウイルバーの寝ている小屋の上に、�サム・ピッグ�とかいたのです。サム・ピッグとは、大したブタだ、いいブタだ、ということなんです。それをクモの糸でかいたのです。  農場主が朝早くそこにやって来ました。そうして、豚小屋の上を見て、びっくりしました。「なに、立派なブタだって、ファー、これは奇跡だ。あのブタには神がついてるのかもしれない」。そんなこといって、次第にこのウイルバーは、神の子の扱いを受けて、とうとう殺されないですむことになりました。そして、ウイルバーは村いちばんの人気者になってきました。  ある日、シャーロットは疲れ切った顔をして出てきました。「もうあんたともお別れよ」とウイルバーにいいました。そして、「ちょっとあの屋根裏のとこ見てちょうだい」といいました。白い袋が見えました。シャーロットは、「あれは私が産んだ卵の袋なの。五一四個も入っているのよ。一晩中かかって産んだのよ」といいながら、だんだん声に力がなくなって、急に年をとりました。  そうして、「クモの掟《おきて》として赤ちゃんを産んだら死ななくちゃならないの」。そういってすーっとシャーロットは屋根裏に隠れてしまいました。  やがて、春がやってきました。ウイルバーは、ああ、あのシャーロットはどこへ行ったんだろうなあと思っとりました。大地は緑に包まれて、花が咲きはじめた頃、シャーロットの巣から、たくさんのたくさんのクモの糸がたれてきて、春風にのってパァーッと四方に散っていきました。 「やあ、今日は。ぼく、あんたたちのママと友だちだったんだよ」とウイルバーがいいますと、そのクモの子たちは、町や村や林に喜んで風にのって飛んで行きました。そのうちの二匹だけが、ウイルバーのそばにやってきて「ぼくたち、あんたのお友だちになってあげる」「まあ、うれしいねえ」というのがこの映画なんですね。お聞きになっていて、かわいいなあと思われるでしょう。 ●ミッキー・マウスの誕生  ウォルト・ディズニーは、一九〇一年十二月五日に、イリノイ州シカゴで、四番目の男の子として生まれましたの。お父さんは建築請負業でしたけれども、そんなにお金持じゃなかった。そうして、九歳から十六歳まで、ずーっとミズーリ州カンザス・シティで新聞配達をしました。それから、シカゴに戻り、美術のほうが好きなので、週に三回美術学校の夜間部に通ったんですね。えらいですね。  十八歳で広告会社に入って、十九歳のときに、初めてCMの動画ですね、それをかかしてもらうようになりました。それから独立して、おとぎばなしを題材にした一巻もののアニメを六本作ったんですが、倒産したんですね。それで二十一歳のときにハリウッドへ行きました。そして、兄さんのロイにも出資してもらって、「漫画の国のアリス」というのを一本作ったら、それがとても評判がよかった。  それで、短編のシリーズものを作ることになって、それにはおもしろいモデルを使ったんですね。女のモデル。ところが、その漫画が売れてきました。すると、その女のモデルが給料をあげろあげろといいだしたんです。ディズニーは困った。儲《もうけ》はみんなそのモデルの給料のほうにいっちゃったんですね。これではなんのために働いているかわからなくなった。文句をいわない、そんなモデルはいないものかと考えた。  しかし、そんなのはなかなかいないので、初めっから自分で画をかいて、その漫画の画を主役にして、全くモデルを使わないで、動物を使ってなにか作ってやろうと思ったんですね。それでウサギの漫画をかきだしたんです。  そのウサギの漫画「オズワルド」がなかなか評判がよくって、どんどんどんどん、売れてきた。ところが、パテントをとらなかったので、あっちでもウサギの漫画、こっちでもウサギの漫画、本家のディズニーがだんだん食われてきたんですねえ。それで、がっかりしたんですね。  ある日、郊外に行く汽車に乗っていたときに、その汽車がトンネルに入って、汽笛がピーッと鳴ったときフッとひらめいたんですね。自分のスタジオの、片隅に住みついたネズミを主人公にしてやろうかしらと思ったんですね。  アメリカではね、ご婦人たちはウサギとか、イヌとかネコは、とってもかわいがりますけど、ネズミはだめなんです。ネズミが出ると、「キャーッ」といって、まあびっくり仰天して、美しいポーズで、とってつけたように卒倒するんです。そうしないと、女のこけん[#「こけん」に傍点]にかかわるんですね。  ネズミが出ても、「まあ、かわいい」なんていったら笑われる。ネズミ見たら、「キャーッ」といわないといけない。それじゃネズミがかわいそうだとディズニーは考えて、ネズミを主人公にして、漫画を作ってあげましょうと思ったのね。  ディズニーという人はおもしろい人ですねえ、このとき彼は二十六歳でした。そうして、どんどんどんどん、ミッキー・マウスを使って、えらく当たりました。  一九二五年、この頃に映画はサイレントからトーキーへとかわってきました。さあ、トーキーになったら、漫画は困っちゃった。今でこそトーキーは、ピーン、ポーン、カーンなんておもしろい擬音でふざけたことできますけど、当時はそんなこと思いつかなかったの。音が入ったら、漫画はどうしようと思ったんですね。  しかし、ディズニーは頑張りました。とうとう一九二八年、ディズニーは「蒸気船ウイリー」というミッキー・マウスの短編を完成しました。  その漫画のなかで、ミッキー・マウスが第一声をあげました。 「ハロー・エブリボディ」というんですね。私はびっくりしました。「あら、漫画があんなこといったぜ」、今なら普通のことですけど、このときはびっくりしました。  ところが、その声はディズニーが自分で入れたんですって。このときディズニーは二十七歳です。えらいですねえ。  ディズニーは、ミッキー・マウスでいろいろと音を使いましたが、それだけではあきたらずに、いろんなことやりたくなってきた。それで、「シリー・シンフォニー」というのを考えたんですね。シリー・シンフォニーというのはばかばかしい演奏ですね。いろんなおもしろいおとぎばなしを音楽でやりたくなってきたんです。  というわけで、ミッキー・マウスの声のあと、一年ぐらいあとで、「骸骨の踊り」(一九二九)というのをやってみたんですね。それ、黒白ですよ。サン=サーンスの交響詩「死の舞踏」をもとにしたんですね。  骸骨というのはスケルトンですね。墓場のなかから、たくさんの骸骨が出てきた。一、二、三、四、五、骸骨が並んじゃった。それが音楽に合わせて踊りだした。まあ、グロテスクですね。スケルトン・ダンスです。  どうしてそんなグロテスクな画をかくのかといいますと、いつも子供相手にきれいな画をかいている漫画の絵かきさんは、こんな画ばっかりかいていていいのかしらと、ノイローゼになったんですね。もっと変わった画をかきたい。たとえば禿鷹《はげたか》だとか、墓場から出てきた鬼だとか。そういうディズニー・スタジオの連中を、グロテスク派というんですね。その連中に作らしたのが、この「スケルトン・ダンス」なんですね。  自分のアバラ骨を取って、相手のアバラ骨をコロンコロン、パランパランとたたく。すると、片っ方も自分のアバラ骨をひとつ取って、相手の頭をポーンとたたく。骸骨同士がシロホンごっこをやってる。それがとってもおもしろいんですね。  というわけで、この作品が、またもやディズニーを有名にしたんですね。 ●アカデミー賞が二九個  ところが今度、一九三二年、昭和七年に、またディズニーは冒険しました。漫画に色をつけたんですね。その頃は、まだテクニカラーは劇映画にはこわくて使えなかった。漫画だったらいいだろうというので、ディズニーは思い切って「森の朝」(一九三二)という短編に色をつけました。さあ、その色のきれいだったこと。すごいすごいブルーのタイトル・バックに、シリー・シンフォニーと、楽譜の感じでタイトルが出るんです。  ああ、きれいだなあと思っていますと、今度は、森のなかをちょうちょうが二匹飛んでいるんですね。白いちょうちょうと黄色いちょうちょう。それがもつれて飛んでいる。その黄色の色、白の色、きれいでした。  というわけで、「森の朝」はびっくり仰天のみごとなカラーでした。そして、これでディズニーは初めてアカデミー賞をもらいました。  続いて「三匹の小豚」(一九三三)がまたまたディズニーを有名にしました。これはおもしろうございました。  三匹の小ブタの兄弟がいました。一番上の兄さんも、次の兄さんも遊んでばっかりいるんですね。ところが末っ子の小ブタは一生懸命働いているんです。上の二人は、ワラをちょいちょいと積んで細い枝を集めて、そのなかにねころがったりして、朝から晩まで遊んでいるんですね。ところが、末っ子だけは、土をこねて、レンガを重ねて、きちんとしたきれいな家を作りました。末っ子の働くのを見て、兄たちは、あいつはばかだなあ、といってるんですね。  ある日、すごい大風が吹いて、兄貴たちのワラの家はいっぺんにふっ飛んでしまった。さあ、兄貴たちは困ってしまって、あちらへ逃げこちらへ逃げして、とうとう末っ子のレンガの家のドアをトントントントン叩いて、「助けてくれ」といったんです。「それみなさい、さあ、お入り」というところで、いよいよおもしろくなって終るんですけど、いかにも楽しい漫画でした。これもシリー・シンフォニー・シリーズのひとつなんですね。  それから日本の�ウサギとカメ�と同じ話が外国にもあるんですね。あれ、外国の話を日本流になおしたんでしょうか。「ディズニーのもしもし亀よ」(一九三四)もおもしろうございましたよ。  カメはね、競走しながらモソモソモソモソ歩いてるんですね。どないしても速く走れないの。その音楽のリズムがいいんです。そのカメは妙な顔をしてますの。ところが、ウサギのほうはいい格好してるんですね。きれいな運動シャツを着て、顔もいいんです。  それがピューッと走る。カメはモソモソモソモソ。ウサギはあんまり速く走りすぎて、ずーっとうしろのほうにカメがいるから、安心して「ヘーイ」と笑ってピュッと止まる。その止まり方が粋《いき》なんですねえ。その止まるときのブレーキのかけ方、それは自動車のブレーキみたい。  まあ、女の子がいっぱい寄って来て「あんた速いわねえ」。そこでウサギは喜んで喜んで、遊んで遊んで、ここらで一服、なんて、グーグー寝ちゃうんですね。片っ方のカメは、モソモソモソ、モソモソモソ、最初から同じスピード。ウサギはえらいいびきをかいて寝ているんですね。  けれども、ゴールインはカメでした、なんてあのお話をディズニーはすごいリズム感でみごとに描きましたねえ。  さて次は「チュー公の赤《あか》毛布《ゲツト》」(一九三六)、都会ネズミが田舎ネズミに「遊びに来いよ」といって電報を打ちました。田舎ネズミが都会にやって来ました。パーティです。こんなにご馳走があるかとびっくりしながら、そこにあったコップの水をペロペロなめた、それはシャンパンだったんですね。「う」しゃっくりが出てきました。さあ、酔っぱらってきた。あちこち酔っぱらって歩いていると、ゼリーがあったんですね。そのゼリーに自分の顔が映った。そのゼリーを手で押さえると、ゼリーがブルンブルンと揺れた。すると、自分のからだもブルンブルン。  まあ、そんなわけで、田舎ネズミはみごとなみごとなご馳走の山に、びっくり仰天して、あちこちご馳走ぜめになるところ、いかにもチャップリンそのものの感覚でしたね。  それからいろんな事件があって「もうこんなところにおれない」といって、あわてて田舎へ逃げ帰るところ。ずーっと線路がありました。線路の高さと変わらない小さなネズミが、枕木のところをピョンピョン帰っていくところ、おもしろうございました。  やがて、空が青くなり暗くなって星が出てきました。田舎ネズミは、一生懸命に田舎へと逃げていきました。  というわけで、「チュー公の赤毛布」もみごとでした。  シリー・シンフォニー・シリーズの最後の作品に「白鳥の子」(一九三九)があります。  一つだけ白鳥の卵が、赤くて茶色くて汚いアヒルの卵に混っていました。これをアヒルのお母さんは知らないで温めて、すべて卵がかえった。かわいいヒヨコが生まれてきた。一羽だけちょっと違うの、ちょっと白い色なの。  すると、ほかのヒヨコの連中がその子をいじめるんですね。やがて、その子が大きくなってきた。ほかのアヒルの子も大きくなってきた。一羽だけ色の変わったその子は、とても悲しんでいつも一羽だけ離れて泳いでる。その寂しさがみごとに出ていましたね。  泳いでると、向こうのほうに子供の捨てた玩具《おもちや》、木で作った水鳥が、ギッコンギッコン波に揺れていました。それを見たアヒルでないほうの子が、あ、向こうにぼくのほんとうのお母さんがいる、そう思って、そちらのほうへ泳いでいきました。ギッコンギッコンやっているから、その木で作られた水鳥のそばにいって、一生懸命に喜んで甘えました。  ところが、波が強くなってきた。その玩具の水鳥は上下に揺れはじめました。波が強いので、ほんとうに自分のお母さんだと思って甘えてる子の頭をゴツンとやった。揺れているから勝手にゴツンと当たるんですね。すると、その子はいじめられたと思って、水のなかで泣くところがかわいそうでしたね。  というわけでディズニーのアカデミー賞の受賞作品は、このほかにも「家なき仔猫《こねこ》」(一九三五)、「丘の風車」(一九三七)、「ミッキーの子ねこ」(一九四〇)、それから「プーさんと大あらし」(一九六八)などとたくさんあります。  そして合計で二九個もオスカーをもらっています。今までに、いちばん多くアカデミー賞をもらっているんですねえ。 ●短編から長編漫画へ  ディズニーは短編ばかり作っているうちに、漫画だって立派なんだから、短編だけで映画館のそえものになるのはいやだといいだしたんですね。もっと立派なものを作ってトリ[#「トリ」に傍点]にしなくちゃ、呼びものにしなくちゃいけないと考えたんです。  そうして、一九三七年、昭和十二年、とうとう「白雪姫」を作りました。これはみんなびっくりしましたの。こんな長い漫画は途中であきますよといった人もあるのね。漫画なんていうのは短いほうがいいといった人もあるんですけど、この「白雪姫」はすごいシナリオで、きれいなきれいな感覚で大成功をおさめました。  さあ、これでディズニーは自信がついたから、それから三年たって一九四〇年「ピノキオ」を作りました。  私は「ピノキオ」の制作のときの話を聞きました。へえ、そこまで気を使うのかなと思ったことがあります。ディズニーを中心に一〇人くらい集まって制作会議をひらいたんです。「ピノキオ」を作る会議ですね。そのときに、みんなしてピノキオの顔をかいたんですね。すると、みんなピノキオのとんがった鼻の画をかいたそうです。するとディズニーは、「そんな鼻はだめだよ」といったんですねえ。「こんなとんがった鼻にしたら、子供たちがナイフで削って、そんな鼻をした玩具を作って、もしも顔に当たったり目を突ついたりしたらどうするんですか、そんな鼻はだめです。もっと丸い鼻にしなさい」といったんですね。しかし、みんなは反対したけれどもディズニーは頑張って、ボタンノーズ、丸い鼻に変えたんですねえ。  そういうように、教育というのか、これを見る子供たちに対するディズニーの心掛けは厳しかった。それに、もっとおもしろい話を聞きましたよ。  いよいよピノキオの画ができました。チロルハット、それにいかにもかわいいボタンの鼻をつけました。そのときに、チロルハットをかぶってるピノキオの額に三本の毛をたらしました。額に三本の毛がひっついているんですね。それを見て、ディズニーはそれはオーバーアクト、演技が過剰だといったんですねえ。  その意味は、三本なんて大げさだ。一本にしなさいといったんですね。みんなは一本だったら、寂しいでしょうといったんですね。ディズニーは一本だから品があるんで、三本つけたらいやらしいというんです。こびてるというんですね。そういうふうに、ディズニーは考えて考えて、一本一本作品を作るんですね。  というわけで、「白雪姫」「ピノキオ」とえらいお金をかけましたが、当たりました。とても楽しかった。きれいな映画でしたねえ。 「ファンタジア」は一九四〇年の作品で、一時間五十六分なんですけど、当時では大長編でした。これは幻想曲ですね。音楽からの幻想ですねえ。  スクリーンがあります。そこに楽団のメンバーが入ってくるんです。そうして、ピーピートトン、なんてオーケストラの用意をしてるんです。そうして、いよいよ始まるというときに、バッハのきれいな音楽で始まったときに、その演奏者たちの影が、なんにも映っていないスクリーンにすーっと映ってくるんです。はっきりした影じゃなくぼんやりした影が映ってくる。  その影が、やがて線になったり円になったり、バッハの「トッカータとフーガ」がいろんな形になってくるんです。たとえば、パイプオルガンがトントントトトンだったら、パンパンパパパンと小さな円盤が飛んでいくんですね。音曲によって線になったりスパークしたり、いろんな形になって音が遊ぶんですね。  やがて今度はチャイコフスキーの「くるみ割り人形」になってきます。金平糖《こんぺいとう》の踊りがあってそのきれいだったこと。そして、きのこがいっぱいあって、そのきのこが音楽にのってどんどん動いてるうちに、中国の傘になるんですね。頭にのせている傘。まあ、小さい人たちがみんな動いてる、その踊りのきれいなこと。  そうやっていろいろ出ているうちに、川の流れに花がクルクル舞いながら落ちて、川下へ流れていくときに、その花びらがスカートになって踊りになっていく。そうして、昔のロシアのダンス、アザミの花がその帽子になって、長靴はいた昔のロシアのコサック・ダンスになっていく。  音楽がオリエンタルムードになっていきます。アラビアンナイトみたいな、あの音楽になって。  すると、きれいな赤い金魚が水のなかを線になったり円になったりして泳ぐんです。そのスカートみたいなしっぽがきれいでしたねえ。  その五、六、七匹の赤い金魚が円をかいて、長い長い赤いしっぽをすーっとみんな上にあげると、ちょうど蓮の花のつぼみみたいになってくるんですね。するとそのなかに黒い光が入ってきたんですね。やがて、しっぽを落とすと蓮の花が開いたように中から黒い金魚が出てくるんですよ。唇だけが赤くって、それが目玉をキョロキョロさせて踊るんです。なかなかおもしろいでした。ハレムの黒い女王みたい。  そしていろいろあって、今度はドラマになってくる。ポール・デュカスの「魔法使いの弟子」。ここでミッキー・マウスが出てくるんですよ。あの有名なストコフスキーが指揮しているところへミッキー・マウスが、「ハロー」なんていって出てきて、ストコフスキーと握手するんですね。それがまたおもしろかった。  ポール・デュカスの音楽がすすんでいくと、魔法使いが、「わしはちょっと用足しに行くから、おまえは留守番をして、井戸から水をくんでかめをいっぱいにしとけ」とミッキー・マウスにいいつけるんです。ミッキー・マウスは「イエース」といって、井戸から水をくんでかめに入れる。それをなんべんも繰返していたがなかなかいっぱいにならない。「疲れたな、なんかいいことないかいな」とミッキー・マウスは考えて、「よし、術を使ってやれ」というので、そこにあったほうきに、「おまえ二つになれ、三つになれ。さあ、水をどんどんくめ」といいつけました。ミッキー・マウスはほうきをどんどんふやしました。まあ、そのほうきが一列になって、みんな水くみにいく。  そこらがおもしろいでしたね。ほうきにどんどん水をくまして、ミッキー・マウスは遊んでるんですね。そのうちに、かめの水があふれてきたんですね。あふれてあふれて、「もうおまえら、そんなに水はいらない、早くやめろ」  ところが、ミッキー・マウスは魔法使いにほうきをふやすことは教えてもらったけど、止めることは教えてもらってなかった。「えらいことをした、どうしようどうしよう」と思ってるうちに、どんどんどんどん水があふれて、天井まで水になって「助けてえ」といってるところ、おもしろかったですねえ。  その天井までの水のなかを、ほうきが井戸まで水をくみに行って、まだかめに水を入れているんですねえ。おもしろいですね。ディズニーはやっぱり芸術家ですね。  やがて、それが終りますと、ストラビンスキーの「春の祭典」、地球の誕生ですね。音楽が画のなかで、ほんとうに幻想的にいろんな形をつけていく。そんなところにディズニーの腕がありますねえ。  それから、ベートーベンの「田園交響曲」になってきます。まあ、いろいろいろいろあって、月の神のダイアナが矢をピュッと放つと、その矢がヒューと飛んで向こうでパッと光ると星になるんですね。そのきれいなこと。やがて、虹《にじ》がかかるあたり、すごくきれいでした。  今度は、バレエになってきます。みなさんびっくり仰天です。どんなバレエでしょう。ダチョウが出てくるんです。ダチョウがバレエやるんです。そのダチョウの踊りのすごいこと。それから、ワニがタップダンスやるんです。そうして、カバがほんとうに「白鳥の湖」を踊るんですよ。そのすごいこと、おもしろいこと。  というわけで、今度はディズニーに、おまえたちはだめだといわれたグロテスク派の連中の出番になりました。さて、なにをやったか。  ムソルグスキーの「禿山《はげやま》の一夜」の音楽と同時に、真夜中に鐘がガーンと鳴ると、あちらの墓場、こちらの墓場、向こうの十字架の下から、のっそのっそと出てきたのは、半分顔の腐った女で髪を振り乱しています。こっちからはシャレコウべ、向こうからは子供の幽霊。  みんな死体ばっかり。それがどんどんどんどん這《は》いあがってくるんですね。さあ、あっちからこっちから集まってくる、真夜中。グレイの深い色ですね。月なんかありません。  幽霊たちが、そのグレイのなかで、「フッフッフ」と笑いながら手を組んで肩を組んで、パレードする。やがて、その幽霊たちが何十人何百人と円をかいて、どんどんどんどん空にあがって行く。あるいはシャレコウベが鎌を持ったりしてあがって行く。  キャメラは遠く向こうから、お化けがだんだんこちらに寄って来るところも写しますから、お客さんは「キャーッ」というわけです。  けれども、こんなことで終ったらあんまりだというので、いよいよ最後はシューベルトのきれいなきれいな「アベ・マリア」の音楽で終るんですね。  尼さんたちがみんなローソクを持って、尼寺のお庭を通る。そのお庭には池があって、ローソクを持って通る尼さんたちの姿が池に映って、上と下とローソクの光。それに、尼さんたちが黒い服を着て並んで行くあたり、アベ・マリアのきれいなきれいな音楽で終っていきます。  というわけで、映画というものはこんなにも楽しいものか。もしこの世に映画がなかったならば、こんな「ファンタジア」は生まれなかったかもわからない。いくら本で書いても私がこんなにしゃべっても、これは目で見なくちゃだめですねえ。 ●私のディズニー・スタジオ見聞記  私はディズニーが「ピーター・パン」(一九五三)を作っている頃、ディズニーの撮影所に行きました。まあ、画をかいている人だけで二〇〇人もいましたよ。  机の上で目をかいてる人は目ばっかり、隣の人は、頭の毛ばっかり、みんな分担ですね。そうして、ウナギの寝床みたいな大きな机、また机、その机のところのどこにも灰皿がないの。「煙草吸えませんの?」と聞いたら、「煙草は外で吸ってください」というんです。「なぜ?」と聞いたら、「煙草の煙が絵の具についたら困るんですよ」。まあ、色を大事にしてましたねえ。  私は撮影所で、みなさんといっしょにいろんな話ししましたけど、「淀川さん、紫の色をひとつ使うにも、紫が何種類あると思いますか?」とたずねられました。私はディズニーさんのことだから「一五種類くらいはあると思います」と答えたら「よろしい、ついていらっしゃい」といって絵の具の置いてある地下室に案内されました。すると、紫だけで七〇種類ありました。そんなにたくさんあるとは思いもしませんでした。  というわけで、ディズニーの撮影所のなかは、ほんとうに色彩、色彩、色彩でした。  おもしろかったのは、下絵のスケッチをかく人がいるんです。画になる前に、エンピツですーっと下絵をかくんですね。この人たちがシナリオの会議に出るんです。下絵をすーっとかいて、「この顔どう?」なんていうんですね。「いいね、その顔いいね。けど頭の毛がちょっといかんね」なんていってね。そんなスケッチする人が五〇人もいるんですよ。いろんな画かくんですね。私そういう光景見まして、五〇〇人ぐらいの、いろんな人が集まって、映画を作ってるのを見て、感心しました。  私は食堂に行きました。その食堂は、ディズニーであろうが、下のほうの人であろうが、小僧さんであろうが、みんな同じもん食べていました。私は同じテーブルで音楽の人たちといっしょに食事をして、またスタジオに戻りました。いかにも楽しい人たちでした。  向こうのほうにマーガレットの花がいっぱい咲いていました。その花が風に揺れていました。すると、そこにいた音楽家のおじさんが、揺れているマーガレットにメロディをつけました。「ユーララランラ、ララン」なんていって。「あら、あんたなにいってるの」といいますと、「あれ、メロディがあるでしょう」。また向こうのほうで、ポプラの葉が、二、三枚パラパラと落ちてきました。すると「パピンポン」といいました。  私はなんだか頭のいかれた連中と遊んでいるのかと思いました。それくらいすべてがリズムやメロディになるんですね。やっぱりこんな連中によって、音楽は生まれるんだなあと思いました。  というわけで、楽しくて楽しくて、ディズニー・スタジオに毎日毎日遊びに行きました。それはまるで、私自身が不思議の国のアリスみたいでしたね。  絵かきが四人、朝から晩まで、じーっとガラスの中を見ていました。「なにを見てるの?」大きなガラスの中には魚がいっぱい泳いでいるんですね。あっちに行ったり、こっちに来たりそこらを泳ぎ回っている。その魚の、その動きを研究してるんです。「そんなことするよりも、撮影してそのフィルムを見とったらいいでしょう」といったら、「それではだめなんです」といいました。あの人たちは生《なま》の動きを見とらないと、我慢できないんですね。  まあ、あっちもこっちも変わった連中ばっかり。そういう人たちが集まって、ひとつの立派な立派なアニメーションの芸術が生まれるんですねえ。  ウォルト・ディズニーは、一九六六年、昭和四十一年、十二月十五日に六十五歳で亡くなりました。六十五歳、まだ若いですね。  二十年間に漫画のほかに劇映画とか、動物や自然のドキュメンタリー・シリーズなどいろんなもの、六〇〇本くらい制作してるんですね。彼は若い人にいつでも、「若者は、自分がほんとうに愛することのできる仕事をやりなさい」とずーっといっていました。  このディズニーの最後のほうは、だんだんだんだん個性がなくなってきた。「ジャングル・ブック」(一九六七)が、ディズニーがプロデュースした最後の作品になりましたねえ。  どうして、ディズニーの、あのとってもおもしろかった個性がだんだんだんだん、なくなってきたか。それを考えてみたら、ディズニーは手を広げすぎた、ディズニーランド、それから玩具《おもちや》やなんか、幅を広げすぎた。そうして、本業の映画がだんだん味が薄まってきたということをちょっと感じました。  というわけで、みなさん、漫画というものをあんまりばかにしないで、どうか童心というものを三十になっても、四十になってももつようにしてくださいね。「白雪姫」「ピノキオ」「ファンタジア」、「ダンボ」(一九四一)、「バンビ」(一九四二)、「こぐま物語」(一九四七)、「シンデレラ姫」(一九五〇)、「不思議の国のアリス」(一九五一)、「ピーター・パン」(一九五三)、「わんわん物語」(一九五五)、みんなごらんになりましたか。  やっぱり見といたほうがいいですねえ。夢があって、楽しくて、心がきれいになるみたいですよ。  さて、ディズニーの亡きあと、だれがあの生命を継ぐでしょうねえ。あの精神は若い人が受け継いでいってくれると思いますけれど。ディズニーのみごとなみごとな作品が、いつまでも残るといいですねえ。では、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] 映画のタイトルについて考えよう  はい、みなさん今晩は。  今夜は、映画の題名というものがどんなにおもしろいか、いろんな例をあげてお話ししましょうね。あんたなにしてるの。そこでまたふとんを敷きはじめましたね。あんた寝るのなら隣の部屋へいってらっしゃい。  なに、寝ながら聞く? 気持わるいですね。はい、そういうわけで、いやらしい人が一人いますけど、今晩もまたごいっしょに楽しみましょうね。 ●題名で内容がわかる 「ペーパー・ムーン」(一九七三)、この映画は、日本でもえらく当たりましたねえ。無責任なパパみたいな男と、生意気な小娘の二人が、バイブルを売りにゆきます。そして、インチキしますね。ところが、このちゃっかり娘が、なかなかうまいんですね。  チャップリンの「キッド」(一九二一)というのも、おとっつぁんのようなチャップリンと、五歳ぐらいの男の子が二人で商売する。このいかにも生活の厳しさのなかで、元気いっぱいに働く、大人と子供のこのムードというのはいいものですねえ。だから、アメリカが「ペーパー・ムーン」を作ったのは、もう一度、そういう元気な気持でいきましょう、そういってるんですねえ。  この映画はおもしろい映画でしたけれども、ここでこの題名です。「ペーパー・ムーン」。みなさんご存知のように、これは紙で作ったお月さんですね。で、この映画のポスターも、看板も、あの女の子とおとっつぁんのような男の二人が、ちょこんと三日月《みかづき》に腰掛けている絵がかいてありますね。それは、その当時とてもはやった音楽の題名でもありますけれども、その心は、たとえ、紙の月でも、一生懸命本気で働いたならば、空の月のように輝きが出てくるぞ、という意味があるんですね。この音楽は、アメリカでよくはやり、映画も当たったんです。  なぜ当たったかといいますと「ペーパー・ムーン」という、この題が、ヒットの原因になったんです。あちらでは、ペーパー・ムーンといいますと、日本の昭和の初めの頃の一九二〇年代を思い出すんですね。ノスタルジーなんです。  昔々、レビュー、ミュージカル、演芸の寄席など、そういうところでは、必ずといっていいほど、花形の人気スターが、男でも女でも、舞台の天井の高い上のほうから、音楽にのって三日月が下りてきて、その三日月にちょこんと腰掛けて下りてくるんですねえ。  英国の第一級のミュージカルシンガーの、ガートルード・ローレンスなんていう人、あるいは、ビアトリス・リリーなんていう花形が、これはまた、きれいな銀の三日月に、イブニングドレスで乗って、シガレットホルダーの長いのを粋《いき》にくわえながら、にこにこしておりてきて、ヒットソングをうたいます。  一九二〇年代、その前後、ああそうか、あのけなげなおもしろいジャズのはやった頃の、あの時代の映画かとわかるんですねえ。  今度は同じペーパーでも、ムーンではなくて、チェイスですねえ。「ペーパー・チェイス」(一九七三)。この頃、映画の題名には原名が多くなりました。映画の題名というものが、ほんとうに、その映画の心、その映画のヒントや鍵《かぎ》を与えますから、あまり変化をつけると、その映画の空気が抜けるんですねえ。  ペーパー・チェイス。これはいったいなんでしょう。チェイスというのは、追っかけることですね。追跡ですね。すると、ペーパー・チェイスというのは、紙を追っかけることになりますね。  これ、外国では紙撒《かみま》きごっこというんです。子供同士がジャンケンポンで、鬼が目をつぶります。そして、逃げるほうが、逃げながら、または隠れながら、あちこちに紙をちょろ、ちょろと捨てていくんです。  そうすると、追いかけるほうは、もういいかい、といいながら、その紙の散らばっているところを、ずーっと捜しながら、その、隠れているところを追っかけるという、そういう子供の遊びなんです。  で、この「ペーパー・チェイス」という映画は、どういう映画かといいますと、この遊びをヒントにして、あの有名な、いちばんむずかしいといわれているアメリカのハーバード大学のお話なんですね。この大学の試験の話です。  ティモシー・ボトムズが主演しています。その試験のまあ、むずかしいこと。そしてまた、その法律科の先生のこわいこと。  この先生は、ジョン・ハウスマン、これでアカデミー賞の助演男優賞をとりましたね。たいへんこの先生が厳しかったですね。  この先生が、法律の、あるいは、いろんな犯罪の、また、いろんな事件について、いろいろと子供に質問しますね。子供といっても立派な、もう二十歳《はたち》すぎの学生ですよ。すると、その学生の答が、まちがっていると、先生は、鼻で笑いますねえ。そうして、マイナス点をつけますね。その試験の厳しいこと。ペーパー・チェイスは、その試験のことを意味してるんですねえ。  この頃の日本の大学の学生さんは、このペーパー・チェイスをごらんになったら、ぞーっとなさったでしょう。  まあ、ハーバード大学は、こんなに苦しむのかと、思われたでしょう。というわけで、この主人公の青年は、勉強して勉強して、さあ大変です。もう、おしまいには自分の家で勉強できないから、ホテルに泊まって、三日三晩、勉強しますねえ。そうして、試験を受けました。終ってからこの学生は、海岸に遊びに行きました。  ところが、そこへ試験の発表、進級するかしないかの封筒がきました。さあ、私たちは、実は、その試験の採点を先生がつけたのを、先に見ているんです。むろんこの学生は知りません。  この学生は、その封筒を開きかけました。開きかけたのに、もういっぺん封をして、その封筒のまま、四つに折っちゃいました。  なにしてるんだろうと、思ってると、この青年はその封筒を、飛行機の形に折って、海岸の岩の上から、ピューッと海めがけて、投げ捨ててしまいました。その紙の飛行機は、試験の採点ですね。つまり結果ですね。  その紙は、くるくる回って、波間に水のなかに沈んでしまいました。  これは、なにを意味してるんでしょうね。ペーパー・チェイス。試験ということですねえ。試験なんて無駄だ、試験なんていうものがあるから、点数だけのために勉強して私たちはいじけるんだ、なんてそういうふうな映画ではありませんね。  これは、この青年が、やるだけのことはやった。結果なんか、どうでもいいんだ。おれは勉強を征服したんだ。進級しようが、落第しようが、かまうものか。おれは、やっちゃったんだという、そこに、この映画のおもしろさがありますねえ。 ●題名は映画の精神と感覚を表わす  あの「パピヨン」の音楽。みなさんご存知でしょう。あの哀《かな》しいメロディ。  この映画「パピヨン」(一九七三)は、何回も何回も、一人の男が脱獄する。捕まえられると逃げる。また捕まる。また逃げる。  とうとう、独房に入れられました。二年間の独房。まあ、このスティーブ・マックイーンのかわいそうな囚人。ぬれぎぬですねえ。前科があった。非常に悪い前科があって、そのために、フランス人という国籍もとられて、南米のギアナというところの監獄に閉じ込められたんですねえ。  その独房のこわいこと。脱獄して、捕まえられると、二年間の独房なんです。ところが、この男、また逃げた。また捕まえられた。今度は、五年間の独房ですね。しかも、その牢獄《ろうごく》というのが、まるでキリギリスのかごのように、天井も横も全部あいていて、檻《おり》に柵《さく》がついてるんですね。上からも、横からも見られるんですね。そんな中に、ひとり入れられていたら、どうなるでしょう。  この映画の題名は「パピヨン」ですね。パピヨンとは、もう、みなさんご存知ですね。蝶々、バタフライのことですね。アメリカでも「パピヨン」という題で、このフランス映画は発表されました。  パピヨンという言葉が非常にきれいだから、その題名で出したんですけど、これは、ちょうちょうのことですね。なぜこの映画は、蝶々という題名なんだろうか。ごらんになった方は、もうおわかりのように、この囚人、このぬれぎぬで放り込まれている男の胸には、蝶の入れ墨がしてあったんです。  この男は、なんとしても逃げたいが、二年、三年と、独房の中で、貧しい貧しいおかゆのようなものを食べさせられているうちに、栄養不良になってきました。歯が、ぼろぼろと抜けてきました。えらいもんですねえ。歯ぐきがはれて、歯が抜けるんですねえ。頭の毛も、まだ三十過ぎなのに、白くなってきました。  けれどもこの男は、まだ逃げるという意志を捨ててはいません。逃げるエネルギーをためたいために、なんでも口の中に放り込みました。その独房の中にいるゴキブリを、手でパチンとたたいて、むしゃむしゃ食べましたねえ。コウモリやトカゲがいたら、喜んでひきむしって食べました。  そんなにまでもして逃げたい、そういう脱獄にかける執念の映画ですけれど、この映画の題名が、パピヨンなんですねえ。  それは、傷だらけの蝶々だけれども、もういっぺん、かごの中から出たい、たとえ、一時間でも自由に空を飛びたい、青空を自由に飛び回りたいという、この映画の精神が、この題名でわかりますねえ。どうにかして、自由になりたい。かごの中で、パタパタパタパタするんでなく、外へ出て、思い切り空気を吸って、もういっぺん大空を飛んでみたい、そうしたら死んだってかまわない。そういうところに、この題名の味がありましたねえ。  もう一つ、例をあげましょう。「シンデレラ・リバティー」(一九七三)、ごらんになりましたか。  マーク・ライデルの監督で、あのジェイムズ・カーンとマーシャ・メイスンという新人が、非常にいい芝居をしましたねえ。一人の水兵さんが、外出で外に出て、街の女といっしょになるんです。その街の女というのが、マーシャ・メイスンですが、そのマーシャ・メイスンがとてもうまかったですね。  この女は、玉突き場と喫茶店とバーがひとつになってる所に行って、玉を突きながら、客をつかまえるんです。とても玉突きがうまくって、その玉突きで賭《かけ》をして、その勝った金で生活してるんですね。ところが、いくらなんでも負けるときがありますね。そうすると、負けたときにはその相手の男を、自分の家に引っ張り込んで、自分のからだを売って、金をもらったんですね。つまり淫売ですねえ。  ところで、この水兵、ジェイムズ・カーンの水兵は、その女に玉突きで勝って、そして女の家に引っ張り込まれたんですねえ。なかなか粋な女だから、この水兵さんも、ちょっとよろめいて、その女の家について行きました。そして、その女といっしょに寝ようとすると、隣の部屋でなにか音がしました。  のぞいてみると、そこには、十二、三歳の白人と黒人の混血の男の子が、ベッドの上でナイフをにぎってにらんでいるんです。  女の息子なんですねえ。もちろん亭主はいません。そのうちにこの二人が、だんだんだんだん結ばれていく話なんです。 「シンデレラ・リバティー」というのは、原名のままの題名です。シンデレラ・リバティーって、なんだろべえと思うでしょうが、シンデレラの自由という意味ですね。シンデレラというのは、みなさんご存知のように、シンデレラがきれいな姿になって楽しく楽しく踊っていて、真夜中の十二時がカーンカーンとなると同時に、汚い汚い、おさんどんのもとの姿に戻るので、あわてて逃げるんですねえ。  それで、シンデレラ・リバティーというのは、水兵さんが一日外出して帰るときの、夜のぎりぎりの門限が十二時なんですねえ。そういうところからつけた題名なんですねえ。「シンデレラ・リバティー」、人生のぎりぎりのところでつかんだ愛、という意味です。しみじみとした映画でした。 「パピヨン」がフランス語のままで、アメリカで封切られたように、日本映画の「羅生門」(一九五〇)もアメリカではラショーモンの名で封切って、とっても当たりました。これはラショーモンという、この発音がいいんですね。これがもしも、ラショーゲイトでは当たらなかったかもしれません。ラショーモン、この感じ、この発音が、外国の人たちにも発音しやすいんですねえ。これと同じように、パピヨン、この発音が好きだったんですね、デリケートなもんですねえ。   あの「ポセイドン・アドベンチャー」(一九七二)も、その題名のままで、日本で封切られましたね。このむずかしい言葉、ポセイドン・アドベンチャー、ちょっとむずかしいですね。ポセイドン、これがまた魅力があったんですねえ。  ポセイドンとは、ギリシアの海の神さまの名前ですね。ニューヨークからギリシアへ行く船のお話ですねえ。そして、ギリシアの海の神さまの名前が、ポセイドン。ポセイドンの冒険、海の神さまの冒険、こういう題名です。  けれども、アメリカではポセイドンだけではわかりにくい。ほんとうは、ネプチューン・アドベンチャーといったほうが、ずっとわかりいい。アメリカ人は、ネプチューンといったら、海の神さまということは、よく知っていますから。それを無理にポセイドンとしたところに、この映画の感覚、味があるんですねえ。  ネプチューンなら、ネプチューン・アドベンチャーといったら、きっと、海の神さまがあばれまわる、大波小波があるんだろうと思うんですね。海の冒険の映画だろうとわかるんですねえ。ポセイドンでは、ちょっとわかりにくい。ホワット・イズ・ポセイドン? きっと、そういったでしょう。ポセイドンとは、なんだろべえといったでしょうね。「あんた、知らないの、ほんとに、知らないの、ギリシアの海の神さまよ」といったでしょう。その神さまというこの感覚。   この映画において、ポセイドンが神だということが、神が人間を試しているんだということが、この映画の骨であることをわかってくれたらそれでいいんですね。 ●日本名に訳すとわかりにくくなる  日本の題名になって、わかりにくくなった例を一つあげてみましょうか。そうですねえ。「わが緑の大地」(一九七一)という映画がありました。なかなかいい映画でした。ごらんになりましたか。なに、ごらんになってない。それでは、ちょっと説明しましょうね。  これは、ポール・ニューマンの監督なんです。もちろん知っているでしょう。あの粋な味のある俳優ですねえ。この映画で主演もしています。  彼とヘンリー・フォンダ、リー・レミック、マイケル・サラザン、とてもいい顔ぶれですよ。オレゴンの森林の材木切り、それとその材木運びをしている、スタンパーという一家のお話です。  昔からの材木切り、きこりですね。その、今は三代目。だから、この仕事に対して、非常に誇りをもっています。おとっつぁんは、ヘンリー・フォンダ。材木を切って、いかだを組んで川を、ずーっと流していくんですね。  ヘンリー・フォンダの息子のハンクになるのが、ポール・ニューマン。弟のリーになるのが、マイケル・サラザン、嫁さんがリー・レミックですねえ。そういう一家の一生懸命に働く姿がよく描かれています。  ところが、働いて働いて働いて、喜びをもって生活しているのに、やっぱりこのオレゴンの山奥にも、ストライキが入ってきたんですねえ。きこりの連中が、全部ストライキで仕事をストップしたんです。ところが、昔かたぎでがんこなおとっつぁんのヘンリー・フォンダが怒ったんですねえ。  おまえたちは、ストライキなんかしやがって、働くということを忘れたのか、というわけで、この一家がとことんそのストライキの連中と闘うんですね。村八分にもされちゃうんです。  そんななかで、おとっつぁんのヘンリー・フォンダは、倒れてきた大きな木に腕をもぎとられて、命をおとしちゃうんですね。そこで、この息子たちは、最後におれたちだけでも材木を運んでみせるぞと働くので、みんなに妨害されますが、どんどんどんどん、材木を切って、いかだにして、そのいかだをたくさんたくさんたくさん作って、それをランチで引いていくんですねえ。そのランチのへさきに死んだおとっつぁんの右腕をくくりつけて、ちょうど空を指差してるようにくくりつけてですよ、もう、紫色に変色している腕をしばりつけて、そうして、川下の港へ材木を運んでいくところで、この映画は終ります。  ストライキをした連中も、それを見ては、もう怒れなくなったんですね。その連中も、一人、二人、三人と帽子をぬいで、そのおとっつぁんの死に対して冥福《めいふく》を祈るという、感激のラスト・シーンでした。これを日本では「わが緑の大地」という題で上映しました。けれども、この映画の原名は、ちょっと違うんですね。「ネバー・ギブ・アン・インチ」というんです。おれたちは、一インチもゆずるもんかという題なんですねえ。そういう題が「わが緑の大地」では、ちょっと気分が違ってきますねえ。 ●おもしろく、しゃれた題名  昔のサイレント時代にも、なかなかおもしろい題名の映画がありましたよ。「ドント・テル・エブリシング」、なんにもいったらいけません、という題名がありました。こういう映画を「いわぬが花」(一九二一)、しゃれた題名をつけましたね。  サイレント時代ですよ。それからもっとおもしろいのがありましたよ。外国にこういう言葉があるんですね、「プレイイング・ウィズ・ファイヤー」。おもしろいですね。  日本と同じでね、火遊びなんですね。火とともに遊ぶ、そういう映画の題名、それが日本でどんな題名になったかといいますと「薄氷を踏む女」(一九二一)だって、うまい題名をつけましたね。薄い氷の上を踏んで歩く女、そういう題名になってるんですね。  しかし、ときにはえらい失敗もしましたね。パラマウントの映画で、とっても粋な映画があったんです。「キッス・アンド・メイキャップ」という映画があったんです。ところが、この映画にパラマウントの宣伝部が「接吻とお化粧」(一九三四)という題名をつけました。ところがなんで接吻とお化粧か、映画を見てるとわからないんですね。キッス・アンド・メイキャップというのは、ほんとうは接吻して仲直りだったんですね。メイキャップとは仲直りのことなんですね。  それをそのまま直訳して、接吻とお化粧という題名で出したんですね。まあ、そんなことをするとほんとに困っちゃいますねえ。  あの有名なフランソワ・トリュフォー監督のもので、アカデミー賞の外国語映画賞をとった「アメリカの夜」(一九七三)という映画がありました。この映画の原名をご存知ですか。「デイ・フォー・ナイト」といいます。アメリカの夜とはだいぶ違いますね。デイ・フォー・ナイトというのは、夜のための昼ですねえ。おもしろい妙な題ですね。これはなんだろうと思われるでしょう。  映画というものは、昼に撮影して、それで夜のムードが出せるんだ、キャメラで。だから、昼撮影しても夜のシーンになるんだ、そういう題名なんですねえ。この映画には、ジャクリーン・ビセット、それにバレンティナ・コルテッゼ、ジャン・ピエール・レオなどが出演しています。  この映画は、撮影のスタートから終りまでが、そのまま映画のなかにあって、しかも、撮影している映画のおもしろさと、その映画を演じる人たちの実際の生活、私生活ですね、それがいっしょになって、どんどんどんどん、進んでいく映画で、映画というものは、みなさん、こういうものですということを、フランソワ・トリュフォーは、みごとにおもしろく描いています。  いちばん最初に、リリアン・ギッシュとドロシー・ギッシュが共演している映画の写真がパッと出てきます。そんなところから始まります。これは「見えざる敵」(一九一二)という映画で、まあ、その時代のサイレント映画の写真がパッと出るのは、活動写真が始まった頃から、こういうわけで作られるんですということを見せてるんですね。映画というものは、一本のペンで書く小説じゃありません。  人間がたくさんたくさん集まって、何時間か何日間の間に作っていくんです。だから人間は、みんな生きて、それぞれ生活をもっている、その人たちが集まって映画を作る、そのむずかしさ、その楽しさ。たとえば、猫が一匹やってきて、お皿のミルクをなめる。映画ではパッとなめるけど、ほんとうに撮影するとなると、猫だってそう簡単にはなめてくれません。何度も何度も撮影しなくちゃ、うまいことなめてくれません。  というわけで、これが人間だった場合、一ヵ月、二ヵ月と長期撮影していると、その連中の間で、ロマンスが生まれるかもわからない、あるいは、死ぬ人がいるかもわからない。また、セックスの問題が起こるかもしれない。そういうなかで、一本の映画を作るという、人間が人間を集めて、人間の手で映画を作るということのむずかしさ、おもしろさ。  雪だって、あの深いすごい大雪だって、人工で、どんな形に作るか。みんなデイ・フォー・ナイト、夜のシーンも昼作るんですよ。映画とはおもしろいでしょう、ということを、このトリュフォーの「アメリカの夜」は見せてくれますねえ。  でも「アメリカの夜」という題名よりもデイ・フォー・ナイト、「夜のための昼」のほうがその意味を探るおもしろ味がありますね。 ●原名のままのほうがいい場合 「暗黒街のふたり」(一九七三)、これはジョゼ・ジョバンニが自分で脚本を書いて監督した映画ですね。ジョゼ・ジョバンニという人は、ほんとに暗黒街にいて、牢獄生活も体験した人で、この人は牢獄のことなど、自分の体験記を「穴」という小説に書いています。「穴」というのは、男が数人で脱獄する話なんですね。このジョゼ・ジョバンニは、初めの頃は、そんな小説を書いておりましたけれど、だんだん人気が出てきて、自分で映画の監督するようになってきたんですね。  この「暗黒街のふたり」は、アラン・ドロンとジャン・ギャバンの共演、いい顔合わせですね。アラン・ドロンもえらくなりましたねえ。アラン・ドロン主演、ジャン・ギャバン助演なんて、まあ、えらいことになりました。  話は、アラン・ドロンの扮《ふん》する男が、強盗で十二年の刑を受けました。ところが、非常にまじめにまじめにしているので、十年で、もうこの刑を勘弁してやろうといったのが、ジャン・ギャバンの扮している保護司なんです。  ジェルマンという保護司が、あの男はとてもまじめに刑をつとめているから、助けてやろう、許してやろうと思い、そのことを監獄長にいうと、おまえ、責任をもつかということで、アラン・ドロンの扮しているジイノという青年は、外に出て、まじめにまじめに働いて、そうして、やっと生活というものに、生きがいをみいだしたんですね。  ところが、ここにゴワットルという刑事がおりました。この刑事が、アラン・ドロンの扮しているジイノが強盗をしたときの、係の刑事なんですね。この刑事が、このジイノを許さない。疑って、ずーっとあとをつけ回して、最後に、このジイノがなんにもしないのに、やっぱりあいつは銀行強盗をたくらんでいるという疑いで、とうとうこの青年を、また監獄に引き戻して、最後には、えらいことになっていく話なんです。  この映画は「暗黒街のふたり」という題名では、ちょっとムードが違うんですね。実は、この映画の原名は「街のふたり」というんです。「街のふたり」なら、よくわかるんですね。アラン・ドロンとジャン・ギャバンのふたつの人生、愛ですね。「街のふたり」。それが「暗黒街のふたり」では、しっくりしません。そこらが、ちょっと困りますねえ。  それから、あの鼻の大きなスターのバーブラ・ストライサンドと、ロバート・レッドフォード、この二人の作品で「追憶」(一九七三)というのがありましたねえ。追憶、リメンバーですね。この映画も原名は、追憶じゃないんです。  原名は「ザ・ウェイ・ウィ・ウワァー」。私たちが進んできた、歩いてきた道なんですねえ。それは、追憶とちょっと違います。だからこの原名でこの映画を見ると、よくわかります。  一九三七年頃の大学で、男の学生と女の学生が仲良くなりました。ところが、この女の学生は、ちょっと思想的に左翼的というのか、非常に気性が激しいのです。この二人が夫婦になりました。  そうして、旦那さんがシナリオ・ライターになったんです。それで、妻になった彼女のほうは少しはおとなしくなった。しかしもって生まれた気性だから、おとなしくなり切れないんですねえ。とうとう夫婦別れしました。  それから、何年かたちました。このシナリオ・ライターは、有名になりました。ちょうどその頃、ハリウッドで赤狩りがありました。その赤狩りをこの男はうまく逃れました。もう、一流のシナリオ・ライターです。ある日、久しぶりで、別れた彼女に会ったんですね。バーブラ・ストライサンドの扮する別れた嫁さんは、二度目の亭主があるのに、まだ街でビラをまいているんですねえ。その別れた嫁さんを見て、寂しい顔をして別れていく。これが、ロバート・レッドフォードです。  これが「追憶」という題名になっている。まあ、追憶でもわからないことはないけれど、原名のように、私たちが歩いてきた道、このほうが、ほんまものですねえ。  それから「オクラホマ巨人」(一九七三)という映画、ごらんになりましたか。スタンリー・クレイマーという人が監督で、ジョージ・C・スコット、フェイ・ダナウェイ、ジョン・ミルズが共演してます。  なかなかいい映画でした。一九一三年、オクラホマに石油が出はじめた頃、一人の女が自分の土地から石油が出たので、命がけでそれを守る話でしたね。「オクラホマ巨人」、ちょっと気分が出ませんね。  これは原名では「オクラホマ・クルード」といいまして、オクラホマの原油、つまり油のもとですね。そういう題名なんです。  みなさんも題名で、映画のヒントをつかんでくださいね。題名は、よくその内容を教えてくれます。  さあ、もう時間がなくなってしまいました。おや、あんた寝ないで聞いてくださったんですね。もっとおもしろい題名知っているって。なんてにくたらしい。今度、教えてくださいね。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] 西部劇の神さまジョン・フォード  はい、みなさん今晩は。  さあ、今夜は、ジョン・フォードについて、みなさんといっしょに勉強し、追憶しましょうね。  なに? ジョン・フォードってだれかって? 引退したアメリカの大統領? まあ、あなた、なんて方ですか。大統領の話なんか聞きたくないなんて、ジョン・フォードは大統領なんかじゃありません。そんなこというと、私、めまいがしてきましたよ。  あなた、そこで寝てなさい。いつものようにね。 ●私とジョン・フォードの出会いは「駅馬車」  ジョン・フォードというのは、ウエスタンの名作、「駅馬車」(一九三九)を監督したアメリカの大監督です。今更こんなことをいうと笑われますね。  なに? ジョン・フォードは知らなかったが、「駅馬車」なら知ってるですって。えらいですね。ついでに「駅馬車」の、あの音楽、西部の荒野を走る、あの駅馬車の音楽! もう私の耳に、いやいや、胸にしみ込んでいますよ。あのメロディ!  さっき私、ジョン・フォードについて追憶しましょうと申し上げましたが、すでにジョン・フォードは、一九七三年の八月三十一日、カリフォルニア州パームスプリングスの自宅で亡くなりました。七十八歳でした。  七十八歳といえば、そんなに悲しんだらいけないのかもわかりませんけど、おしいですねえ。私は、ジョン・フォードに、もっともっと映画を作ってもらいたかった。  私、ジョン・フォードが亡くなったというニュースを聞いたときのこと、よーく覚えているんです。  というのは、ちょうどジョン・フォードの「騎兵隊」(一九五九)という映画をテレビでやることになって、そのために、試写室でこれを見ようとしていたときに、新聞社から電話がかかってきましたの。  そうして、その電話を聞いて 「なに、ジョン・フォードが亡くなったんですか!」  びっくりしたあとで「騎兵隊」を見ましたから、なんだか胸がつまりました。  その晩、家へ帰りますと、まあ、いろんな方からお電話がかかりました。ある方は、女の方でした。その方、四十歳ぐらいの女の方でした。私に 「ほんとうになんてお気の毒なの。あなた、もう今晩はお休みになれないでしょう。けど、お力出してくださいね」  私は、その方がなんだか涙声でおっしゃったので、また胸がつまったんですけど、まるで私の親が亡くなったみたいに優しく、優しくおっしゃったんで、またも胸がつまり、ボーッとした気持になりました。  ジョン・フォードを、それほど私と結びつけたのが「駅馬車」。チャップリンとジョン・フォードは、私の人生に、映画の仕事に、非常に影響しています。とくに「駅馬車」は、私の人生の追憶とさえ申せましょう。思えばいろいろなことがありましたよ。  というわけで、ジョン・フォードといいますと、私にはやっぱり「駅馬車」ですね。 「駅馬車」は、一九三九年、ジョン・フォードが四十四歳のときの作品です。もう立派な、第一級の監督として活躍していた頃の作品です。  ジョン・フォードがこの作品を撮っていた頃、いえ、もうちょっと前の頃でしょうか。私、その頃ちょうどユナイテッド・アーチスツという会社におりました。その会社の東京支社の宣伝部におりまして、この「駅馬車」の宣伝をやりました。  この作品がニュースになって入ってアメリカ本社からきたのは、完成した一九三九年より一年半前で、向こうから、アメリカから、今度ジョン・フォードが「ステージコーチ」という映画を作ることになった、というたった一行のニュースだったんです。  ジョン・フォードが「ステージコーチ」、なんだろう、思ったんですね。  というのは、この人、その頃は、ずっとウエスタンなんか撮ってなかったんですね。西部劇作っていなかった。だから「ステージコーチ」と聞いても、ジョン・フォードの西部劇だとはちょっと瞬間、思えなかったんですねえ。最初は「ステージコーチ」、ははーん、これは舞台監督のことだな、なんて思ったんです。  出演者を見ますと、クレア・トレバー、ジョージ・バンクロフト、ジョン・ウェイン、トーマス・ミッチェル、いろいろ出てますけど、その頃、ジョン・ウェインていうのは、あんまり有名でなくて、よく知らなかった。ああ、そんな若手がいたなあというくらいで、配役を見ても、まだ西部劇に結びついてこなかった。  そのうちに、だんだんだんだん、わかってきて、これはウエスタンである、有名なあの西部短編小説の映画化であるということがわかってきました。  そしていよいよ「駅馬車」が来ました。  さあ、見てびっくりしました。私、この「駅馬車」は自分で宣伝したんですけど、もう朝、昼、晩と、毎日毎日、試写しまして、伊藤大輔さん、稲垣浩さん、それからほかにもたくさんの方たちに見ていただいて、みんなが喜んで喜んでごらんになったこと、今でも目に浮かんできます。  もうひとつ、思い出しますことは、日本語のタイトルですね。最初から「駅馬車」になったんではなくて、初め「地獄馬車」なんて題名はどうかなんて相談されたんですよ。 ●「駅馬車」とジョン・ウェイン  さあ、この「駅馬車」、みなさんごらんになっていらっしゃると思いますから申し上げますが、なんともしれん、映画とはこれだ、という感じにあふれていますね。  ファースト・シーンから、みごとな、みごとな調子でこの映画は進みます。この馬車に、いろんな人が乗りますね。そうして、この馬車がスタートします。途中で、銀行の金を持ち逃げした男も乗ってきます。  いろんな男を乗せて、いろんな女を乗せて、この馬車は走ります。そうしてこの馬車が、いよいよ砂漠の入口にさしかかったとき、一人の男、リンゴー・キッドがバーンとライフル銃を撃ちました。そうして、馬がヒヒーンと飛びあがって止まりました。  キャメラが、ずーっとリンゴー・キッドの顔のほうへいきました。それが、ジョン・ウェインの登場でしたね。  いかにも、ジョン・ウェインの登場を、この作品がみごとに飾って、とうとう彼を一流にしたんですね。  この主役のジョン・ウェイン、実はジョン・フォードが発見した俳優なんですねえ。  ずーっと昔に、「駅馬車」の十年ほど前に、こいつ、いけるなと思って、ちょっと目を付けたんですね。まだ学生だったジョン・ウェインを、まあ、ものになるかなあと思った程度で、いい個性をもってるなあぐらいで、そのときは気にとめただけでした。  でも、そのあと、自分の親友のラオール・ウォルシュ監督に、こいつ使ってみろ、なんて渡したんですね。そして、ラオール・ウォルシュが使ったんですけれど、ものにならなかった、ということがあったんですね。  そして十年、うっちゃらかしておったけど、考えたら、あれからぜんぜん芽が出ないままで二流西部劇ばかり出ているじゃないか。調べてみると、リパブリックとかそういう会社で、ろくでもない西部劇を五〇本以上。  ジョン・ウェイン、もうすっかり二流になってしまってた。二流の、西部劇役者。かわいそうだな、あいつ、ひとつ売り込んでやろうかと、そういうことを考えて、「駅馬車」は生まれたんです。  まあ、そういう意味で、これはほんとうに、ジョン・ウェインが今日あるのは「駅馬車」のおかげでしょうね。そして、ジョン・フォードのおかげでしょうね。  だからまあ、ジョン・フォードが亡くなって、ジョン・ウェインは、それこそ私じゃありませんが、おやじが亡くなったという気持になったでしょう。ジョン・フォードのお葬式の写真を見ましたが、ジョン・ウェインは大きなからだで、しょげた顔しておりました。  ジョン・ウェインが扮《ふん》してますのは、リンゴー・キッドというお尋ね者の西部の若者です。ほかに、この駅馬車に乗り合わせた人物、みんなみごとに描かれておりました。  ウイスキー商人、アルコール中毒のお医者さん、それからダラスという、夜の女、町から放り出された夜の女、それぞれ人生に傷をもってる人間たち。そうして、妊娠していて、赤ちゃんを産むなら、私は前線にいる騎兵隊の夫のところで産みたいという、けなげな南部の女、まあ、いろんな人生を乗せて、馬車は走ります。  あの馬車が人生、あの馬車が社会ですね。そして、それがどんどんどんどん走る。  初めはみんな、あんまり仲良くなかった。それが、だんだん仲良くなってきた。なぜ、仲良くなってきたか。いろいろありましたね。妊娠していた若奥さんが産気づいてきて、アルコール中毒のお医者さんと、あの夜の女が力を合わせ、赤ちゃんを産ませました。オギャー、オギャー、みんな喜びましたねえ。  でも、赤ちゃんを産んだばかりの奥さんも寝てなんかいられません。こわい、こわいインディアンが来るかもわからない。しかもその恐怖がやってきた! 次の朝、すぐ駅馬車は出発。  しかし、とうとういちばんこわい、インディアンが襲ってくる場所を、この駅馬車は、うまくうまく、うまく通り過ぎた。もうこれで安心と、みんなが喜んだ。けちんぼのウイスキー商人までが 「さあ、みなさん、飲んでくださいませ」  なんて、ウイスキーをふるまって、バンザイと喜んだ。  映画を見てる私たちも、ホッとしましたねえ。  ところが、キャメラは、その走る馬車を撮りながら、すーっと左へ急に向きを変えた。すると崖《がけ》の上に、ジェロニモ、あのインディアンが大勢の部下を連れて、じーっと禿鷹《はげたか》のように、馬車を見ておりました。はるか向こうの平原には、なにも知らぬ馬車が走っている。  そのあたりの感覚はすごいですね。  なんにも知らないで馬車は行く。馬車は走る。けれども、こちらからはインディアンが見つめている。次のカットは馬車のなかですね。なにも知らないで、よかった、よかった。インディアンの目から逃れえた。バンザイといったときに、プスーッ。ウイスキー商人の胸に矢が刺さります。  さあ、ここから盛りあがってきます。あの音楽とともに馬車は走る。逃げる。インディアンがどんどんどんどん、追いかける。  このときのキャメラの感覚がすごい。インディアンのスピードで馬車を追えば、だんだん馬車が近づいてくる。馬車のスピードにキャメラを合わせると、インディアンがじりじり迫ってくる。  あの感覚、あのタッチは、追われる恐怖をみごとに表現していました。  結局、駅馬車はどんどんどんどん、追いつめられます。もう、ジョン・ウェインも、ほかのみんなも手にした銃の弾がなくなってきました。ピストルも、もう空っぽ。ジョン・ウェインは駅馬車の屋根の上、馬車のなかでは、賭博師が最後に一発残った弾をピストルに込めて、ついに、若奥さんにねらいをつけます。  赤ちゃんを産んだばかりの若奥さん、この上品な南部の美しい奥さんが、捕まってインディアンにひどい目に遭わされるよりは、自分が殺してやろう、と思ったんですね。この賭博師も、もとは南部の貴族だったのですね。  そのときやっと、遠くのほうから騎兵隊のラッパが聞こえてきます。旗をなびかせて、どんどんどんどん、馬車に近づいてくる騎兵隊、思わず拍手したくなりましたねえ。  やはり「駅馬車」は、西部劇としてだけでなく、映画として、ほんとうにみごとな名作でした。  そしてこの「駅馬車」を、最も高く評価したのが、日本とフランスでした。アメリカでは、「駅馬車」自体は立派と認めたけれども、この一九三九年という頃には、いまだにウエスタンというものを、映画の第一級のレベルのものとしては認めていなかったんですね。  たくさんの西部劇の名作があったけれども、アメリカは西部劇に対して少しコンプレックスもってたんですね。いかにも野性っぽい、いかにも野暮ったいと、そう思ったのでしょうか。  ところがフランスは、この映画に敬服しました。あらゆる批評家が、これこそ映画であるといったんですね。  日本でも、「駅馬車」はみごとに当たりました。  というわけで、ジョン・フォードの「駅馬車」は映画の歴史に、大きな大きな足跡を残した作品でした。一九三九年、昭和十四年の名作でした。 ●「荒野の決闘」「黄色いリボン」「騎兵隊」  ジョン・フォードの「駅馬車」とともに忘れられないのが「荒野の決闘」(一九四六)です。これはきっとご存知でしょう。あのきれいな、きれいな曲�いとしのクレメンタイン�が、ずっと流れていましたね。そういえば、原題も「マイ・ダーリン・クレメンタイン」というのですね。  これは、実際にいた西部の男、ワイアット・アープと、ドク・ホリデイが、クラントン一家の父子と決闘するという話でしたね。  ワイアット・アープにヘンリー・フォンダ、ドク・ホリデイには、ビクター・マチュアが扮していましたね。この西部劇も、男の哀《かな》しさがとても詩的に出ていましたねえ。 「駅馬車」では、ほんのちょっとしか出てこなかった騎兵隊、このあとジョン・フォードは騎兵隊をとりあげて、何本か撮りました。「アパッチ砦《とりで》」(一九四八)、「黄色いリボン」(一九四九)、「リオ・グランデの砦」(一九五〇)、そして「騎兵隊」(一九五九)などですね。  こう申し上げますと、ジョン・フォードをいかにもミリタリズム、いかにも戦争愛好者のように思われるでしょうけど、そうじゃないんですね。「騎兵隊」のなかにも、「黄色いリボン」のなかにも、哀しい男、男の哀しさが不思議に出てくるんですね。ここが、この監督のよさでしょうね。 「黄色いリボン」、これもジョン・フォード、ジョン・ウェインのコンビです。今度はジョン・ウェイン、ふけ役ですね。もう、ジョン・ウェインが、騎兵隊で人生のほとんどを費やして、そうして退役しなくっちゃならない。けれど、おれはインディアンに女房も娘も殺され、そうして、これからどうしよう。なにをしたらいいんだろうか。  まあ、老眼鏡取り出して自分の時計を見るところ、そうして、女房と娘のお墓参りするところ、あの夕焼け、赤い赤い夕日が、西部の夕日が沈もうとするところで、この、もう頭が白くなったじいさんが、自分の女房の墓に退役のことを告げるところも、かわいそうでしたね。  いかにも老人の男の、男一匹が枯れていく姿が、この「黄色いリボン」にみごとに出ています。やっぱり名作でした。  けれども、こういう騎兵隊の男の感傷、それと同時にまた、ジョン・フォードは勇敢な騎兵隊も描きましたね。 「騎兵隊」はまたまたジョン・ウェインと、それにウィリアム・ホールデンです。  しかし、このジョン・ウェインの騎兵隊の男も、実は自分の愛する妻を医者の手違いで殺されたというので、医者を憎んでいます。そこへウィリアム・ホールデンの医者がやってきて、二人はいっしょに、この、北軍の軍隊のなかで働く。お互いに憎み合う、というような仕組みになってますが、ここにもかつて愛する妻を失った男が登場しますね。 「黄色いリボン」も、「騎兵隊」も、やっぱりその音楽が実によかった。 ●ジョン・フォードも端役から出発  というわけで、ジョン・フォード、いろいろお話ししてきましたけれども、だいたいジョン・フォードという人の経歴を、ここに一口で申しましょうね。  ジョン・フォードの両親は、アイルランドからの移民です。そしてジョン・フォードは、一八九五年、明治二十八年に、メイン州で生まれました。ほんとうの名前は、ショーン・アロイシャス・オフィーニーといいます。  このオフィーニー少年の兄さんの一人が、ブロードウェイで舞台に出ておりました。初めは端役、それから少しはましな役、そのうちにこの兄貴が、舞台で自分が演じた役の名前をとって、フランシス・フォードと名乗るようになりました。  やがてこのフランシス・フォードは、活動写真でも活躍するようになりまして、とうとう、監督・脚本・主演なんてことまでやるようになりました。  まあ、フランシス・フォードの連続大活劇、私もたくさん見ました。楽しかった、楽しかった。  ジョン・フォードは、この兄さんを頼ってハリウッドへ行きました。十八歳のとき、ハリウッドができたての一九一三年頃ですね。そうして、いろんな雑役をやりました。そうして働いているうちに、兄貴のフランシス・フォードという名前にならって、ジャック・フォードという名前をもらいました。そして、端役、チョイ役で、兄貴の映画にも出るようになりました。  このジャック・フォードが二十二、三歳になった頃、ハリー・ケリーという、当時なかなか有名な西部劇役者がおりました。ジャック・フォード、のちのジョン・フォードは、この人にいろいろと映画のことを教えてもらおうと思って、ハリー・ケリーが主演する映画の監督をさせてもらったんです。はじめは短編、だんだん長編も撮るようになりました。  ハリー・ケリーの作品、私、ずい分見ました。が、これがジャック・フォード——ジョン・フォード監督作品とは、まあその頃は気がつかなくて、ただ、ハリー・ケリー、ハリー・ケリーって見てました。  大正六、七年、私が九つか十の頃でしょうねえ。その頃です。たいがいその映画は、シャイアンから来た男、シャイアン・ハリーというのが主役で、いつでもシャイアン・ハリーの映画で、私はまあ、そんな映画を毎週、毎週楽しんだものです。  なにしろこの間に、ハリー・ケリー主役でジョン・フォードは二六本ほども撮っているんです。みんな西部劇、今では西部劇といいますが、当時のは西部人情劇だったんです。いかにも人情味にあふれた西部劇だったんです。  いつもカウボーイが主役です。ハリー・ケリーです。そのカウボーイが、自分の好きな彼女、それは学校の先生でした。カウボーイは学校へ行って、待ってました。先生の授業がすむまで、校庭で待ってます。  なかなか授業が終らない。そばにマーガレットの花が咲いている。それをとってきて、花びらをひとひら、ひとひら、めくりながら 「シー・ラブズ・ミー、シー・ラブズ・ミー・ノット」  サイレントですから、タイトルが出て、その頃は弁士が 「彼女はぼくを愛してる。彼女はぼくを愛してない。彼女はぼくを愛してる」  なんて、ひとひら、ひとひら、取るごとに、恋うらないしてるんですね。  最後の一枚、最後のひとひらが「彼女はぼくを愛してる」、ああ、よかった、なんていう、そんなカウボーイだったんです。  この男、先生と話をするときになっても、ぼくはあなたが好きですなんて、とってもいえない。内気で、内気で 「あなた、お元気ですか」  ぐらいしかいえない。結婚なんて申し込めない。  そのうちに、キャトル・トレイル、自分はまた出かけなくちゃならないので、そこで学校に出かけていって、その女の先生に 「わしはまたキャトル・トレイルでなあ、行ってきますわ。お元気で」  なんていって別れました。  そのキャトル・トレイル、牛運びが、なんと一年半、やっとこさ帰ってきたところ、その学校の先生、ほんとうに、ひそかに愛していたその先生は、もう結婚しておりました。  そしてこのカウボーイは、その先生の新婚家庭をのぞいたら、若い旦那さまと仲良く、仲良くして、赤ちゃんが生まれてて、二人は揺りかごの前におりました。カウボーイはそれを見て、寂しく寂しく、口笛を吹いて去っていきました。  ジョン・フォード、こんな映画撮ってたんですよ。  やがて二十四歳で、ジョン・フォードは「マークド・メン」(一九一九)(のちに再映画化された「三人の名付親」)というみごとな作品を仕上げました。やっぱりハリー・ケリーの主演でした。大正八年ですよ。あなた方、まだ生まれてないでしょ。私の十歳の頃です。  そして「村の鍛冶屋《かじや》」(一九二二)、いよいよ大作の「アイアン・ホース」(一九二四)、アイアン・ホースというのは、西部大陸鉄道、鉄の馬というのは汽車のこと、インディアンが汽車のことをアイアン・ホースと呼んだんですね。  この映画でジョン・フォードは一躍、一流監督の仲間入りします。それから、いろんないろんなものを撮りましたが、私が忘れられない作品に、「血涙の志士」(一九二八)というのがあります。  原題は「ハングマンズ・ハウス」、これは私、びっくりしましたなあ。  アイルランドの首切り役人のおじいさんの話で、おじいさんは昔、いろんな人間の首を切った。今はもう引退しているけれど、このおじいさんが暖炉の前でじいっと火を見てますと、その火のなかから、一人、また一人、死刑にされた男の幽霊が出てくるんです。  自分が首切った男の娘がいます。その娘が、ある男にだまされて自殺してしまう。そのだました男を、アイルランドの男がやっつける。そういう筋でしたが、これ、なかなかよかった。いかにもアイルランドの感じがよく出てました。  この「血涙の志士」、昭和三年に、これにもう、ジョン・ウェインがちらっと出てました。群集のなかに、ちらっといたのだそうです。  そのあと一九三〇年、四〇年、いろいろいろいろ、いい映画撮りました。「怒りの葡萄」(一九四〇)、「わが谷は緑なりき」(一九四一)なんかも、忘れられませんねえ。 ●幡随院《ばんずいいん》長兵衛みたいなジョン・フォード  ところで、ジョン・フォードといえば、私ね、おもしろい思い出があるんですよ。おもしろいといっていいのかどうか、感激の思い出があるんです。  昭和二十三、四年でしたか、ジョン・フォードがちらっと日本に立ち寄ったことがあるんです。けど、そのときは海軍の記録映画のことかなんかで来てまして、軍属で来ましたから、映画監督で来ていませんから、新聞も何も発表しなかったの。  読売新聞だけが、一〇行ほど、ジョン・フォードが日本に来て、帝国ホテルに泊まってる、明日帰るという記事を小さく載せたのです。  私、飛びあがっちゃったんですね。ジョン・フォードが目の前の帝国ホテルにおると思うとまあ、気が違いそうになってきたんですね。  とうとう、私、帝国ホテルへ電話しましたの。そうして、ルームナンバー聞きましたの。そこで私ははじめ、どうしようかなあと思ったけど、とうとう、もう思い切って二〇三号室へ電話したんですね。マネジャーがいらっしゃったら、その方にこんこんと説明して、私はジョン・フォードさんに会いたい。実は映画雑誌の編集長してますから、やっぱり会ってもいいでしょう、なんていおうと思って電話かけたんですね。  ジョン・フォードさんいらっしゃいますかといったら、太い声で 「アイ・アム・ジョン・フォード」  といったので、びっくり仰天して、目の前に、この電話の向こうにジョン・フォードがいると思って、私まあ、びっくりしました。そして、ハリー・ケリーのこと、ジョン・フォードのお兄さんのこと、お兄さんの連続大活劇のことなどを話しまして、会ってくださいませんかと、まあ舌をかみながらしゃべったんですねえ。  すると、古い映画を大分見てるらしいな、知ってるなと思って信用したのかどうか 「よろしい、オーケー。一〇分間だけ会ってあげよう」  私、ジョン・フォードに一〇分間会えるので帝国ホテルへ飛んで行きましたら、ジョン・フォードはロビーで待っててくれました。  そして私は、ジョン・フォードとさしむかいで一〇分間しゃべったんですけど一〇分ですまなくなっちゃったんですね。話がどんどんどんどん、はずんで、といってもジョン・フォードはあんまりしゃべらなくて、私ばっかりしゃべってて、ジョン・フォードはときどき「うん、うん」というだけなんですが、話が通じ合うんです。 「今まで作ったうちで、いちばん好きな映画、なんですか?」  と聞いたら 「うーん、�駅馬車�と�わが谷は緑なりき�だなあ」  なんていうんですね。  ちょっとまあ、幡随院長兵衛みたいなおじさんでしたねえ。  そうして私が、「駅馬車」の宣伝で実は大変働いて、プロデューサーから記念の時計をもらったことがあったんです。その時計をジョン・フォードに見せたら、「よかったのう」といって、私の背中ポンとたたいてくれた。でも、私にすればポンじゃなくて、ドシンときて、強すぎて、ひっくり返りそうになったんです。  まあまあ、そんなことがありました。そういうわけで、ジョン・フォードを駆け足でお話ししましたが、なにしろ、大正の三年か四年頃から映画界に入って長く長く活躍した人、こんな人はジョン・フォードとチャップリンくらいですね。  この両方が亡くなって、ひとつの映画の歴史が去ったという気がして、私は寂しく寂しく思います。  でも、ジョン・フォードの作品は残っています。これからも、まだまだ、まだまだ、あの「三人の名付親」(一九四八)、そして「静かなる男」(一九五二)、そして「長い灰色の線」(一九五五)、「黄色いリボン」「リオ・グランデの砦」、まあ「バファロー大隊」(一九六〇)、まだまだまだまだ、それらの再上映でジョン・フォードを抱きしめたいと思います。  はい、もう時間きましたね。あら、あなたいつの間に目を覚ましてたの。「駅馬車」の音楽のところからですって? まあ、それじゃよく聞いてくだすったんですね。めずらしいこと! では、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ] 映画の読み方  はい、みなさん今晩は。  今夜は、映画のポイントのお話ですよ。映画の読み方、本を読むのとはまた違って、映画をどう見るかということですね。  でも、安心してくださいね。ちっともかたいお話じゃありません。映画のことだから、楽しい楽しいお話。まあ、映画のポイントなんて知りすぎている、ですって、にくらしいねえ。そんなことおっしゃるあなたは、枕を持ってきて早く寝なさいよ。 ●美的感覚を見る  さあ、映画の読み方、見方、これいろいろありましてね。ときにはね、ぼくは一ヵ月に三五本見ます、なんていばってる学生さんもいるんですね。けど、そんなに三五本も見るというのは、どっちかというと毒なんです。いい映画を選んでごらんになって、よくわからなかったら、もう一回、二回、三回とごらんになるほうがいいんですね。  ところがね、「偉そうなこというけど、おまえは試写室で、タダで映画を見てるんじゃないか。おいらは金を払って見てるんだから、同じ映画を二回も三回も見られるか」なんて叱られますけれども、私のいうのは、月に二五本も三〇本も無理して見るくらいなら、たとえばいい映画、むずかしい映画、みんないい評判たててるのに、ちょっとわかりにくいなあと思われたときに、もう一回二回と、お金払ってごらんになっても、損しないと思うんです。  きっと、そういうとき、二回目、三回目のときに、うーん、そうか、そうだったのかと、ひざをたたかれたら儲《もう》けものなんですね。  というわけで、あの「キャバレー」(一九七一)なんかでも、ライザ・ミネリのあの歌い方がいいなあ、あの足がいいなあ、おっぱいがいいなあとか、メイキャップがいいなあとか、いろいろ見方があるでしょうけれど、あの映画見ていちばんおもしろいのは、ドイツのあの時代を感覚的につかまえてることなんですねえ。  つまり、ドイツがだんだん、ナチにむしばまれていきますね。だんだん傷がついて腐っていくところのムードを、あの「キャバレー」という映画がみごとに出しております。  だから、あのライザ・ミネリのメイキャップも、すごくどぎついですね。そうして、キャバレーで、ライザ・ミネリがうたっているときの、あのあたりのほかの連中、ダンサーたち、グロテスクなふとった女、醜い女、女装してる男、その感じにあの映画の生命があるんですねえ。  そんなむずかしい見方をするのかと、おっしゃるかもしれません。けど、これは、むずかしい見方じゃなくて、肌で感じるように勉強してもらいたいんです。  昔、マルレーネ・ディートリッヒの「嘆きの天使」(一九三〇)という映画がありました。スタンバーグが監督しました、あの「嘆きの天使」を、がらっと変えて、もっとモダンにしたのが「キャバレー」なんですね。ですから「嘆きの天使」にはなかった、いかにも、今日の感覚で見たドイツのにおいが「キャバレー」にあるんです。  まあ、そういったことは「キャバレー」だけではありませんね。ルキノ・ビスコンティ監督の「地獄に堕《お》ちた勇者ども」(一九六九)なんかもそうです。いかにもこれは「キャバレー」に相通じたこわさをもっていますねえ。どんどんどんどん、ドイツが崩れていくときのこわさがあるんです。  ドイツというところは、昔から非常に文化的に高かった。そして、大正の終り頃から昭和の初めには、ドイツの美術というものが世界を牛耳《ぎゆうじ》ってたくらいなんですね。どういう牛耳り方かというと、フランスはいかにも美術の国、アメリカはいかにもモダンアートの国、けれどもこのドイツというところは、クラシックのいかにも古めかしい美術と、最もモダンな美術の、その両方をもっていたんですね。だから、この頃のドイツの美術は、とっても日本にも影響しました。  あのオカッパ頭の、髪の毛を切ったモダンガールが出てきましたが、あれも、もともとはドイツの女から始まったんですよ。それくらいにドイツは、当時いちばんのモダンだったんですね。だから、昭和の初めのこういうときに、ディートリッヒが生まれてきたんですねえ。  そういうわけで、「キャバレー」「地獄に堕ちた勇者ども」は、グロテスクな、こわいドイツの美術をもっているんです。そういう見方も必要なんですよ。  さあ、それで思い出しました。ビスコンティの作品に「ベニスに死す」(一九七一)というのがありましたね。これ見て、なんだろべえと思われたでしょう。なんかジャリみたいな男の子に、あのおっさんがまいって、追っかけて追っかけて、ようあんなばかな話あるなあ、なんてそういう見方の人もあったでしょう。けれど「ベニスに死す」は、美術品なんですねえ。キャメラもきれい、音楽もきれい、あの主役もいいし、あの少年もきれいでした。ほんとに全部が、明治の美術のような感じでしたねえ。  それだけではないんです。この映画で、みなさんの心にしみとおるのは、美に耽溺《たんでき》する男の姿ですね。純粋の美を求めて、もう恥もなにもなく、そのほんとうの美に対して最敬礼する、この男の精神に触れたとき、この「ベニスに死す」はみごとになってきますねえ。  美、ですよ。男でもない、女でもない、本物の美を、この作曲家は見ちゃったんですね。それは、あのタジオという少年、みごとなみごとな美貌の少年です。美貌というよりも、からだ全身から出てくる詩のにおい、詩、ポエムなんですね。これを作曲家が発見して、とりこ[#「とりこ」に傍点]になって、とうとう最後に、その少年にほんとにあこがれて、その少年の面影を胸に抱いて自分は病気で死んじゃいます。少年は、おじさんがそんなふうに死んだほんとうのことは、なんにも知らないんですねえ。残酷ですねえ。  けれども、ここにあるものを、みなさんが吸収して、ははあ、美に対してあんなにも耽溺するのかな、というところでやっぱりなにか精神的に役立つんですよ。そういう見方をしていただきたいと思いますね。 ●目で楽しみ心で楽しむ  ところで、もっともっと、映画はおもしろいんだという見方も必要ですね。たとえば、セシル・B・デミルという監督の作品なんかは、エンターテインメントとはこれだというおもしろさを見せますねえ。  デミルの「征服されざる人々」(一九四八)でも、「サムソンとデリラ」(一九五〇)でも、「地上最大のショウ」(一九五二)でも、「十戒」(一九五七)でも、まあ、サイレント時代から、デミルはおもしろい作品を作りました。アメリカの映画は、デミルの映画からまたどんどん発展しましたねえ。 「十戒」を見ても、まあ、そのスケールの大きなこと、あの紅海が真っ二つなんかもおもしろいですねえ。  デミルはどの映画でも、お客さんが喜ぶことをねらいます。そのもと[#「もと」に傍点]のもと[#「もと」に傍点]のもと[#「もと」に傍点]として、どんなことを考えているかといいますと、映画はまず女のために作らなくちゃいけない、というんですね。  なぜ女のために作らなくちゃいけないか。女の人は、一人では見にこない。たいがい彼氏と二人でくるから、女の人がくれば倍くることになる。そうしておまけに、女の人は映画見たあとで黙っていない。男の人だったら、だれかが「いい映画か」ときいたって「ウン」というだけなのに、女の人は自分が感激すると、まあ、電話かけたり手紙書いたり、いろんなことして、どんどんそれを宣伝してくれる。だから女の人に向けてこそ映画は作るべきである。デミルは、そんなこといってるんですねえ。  で、そのためには、まず第一に、三角関係《トライアングル》が必要である。ラブロマンスのなかで、女が一人、男が二人、あるいは男が一人、女が二人、これは絶対に必要なことである。そういう考えをもっています。  その次は、ファッション・ショー。映画のなかにはショーがなくてはいけない。いつでも映画のなかには流行、いちばん新しい先端をきる衣装、靴、ネックレス、腕輪、イヤリング、それがなくちゃいけない。  そういうわけで、デミルのサイレントの映画は全部、グロリア・スワンスンをマネキンにして、どんどんファッション・ショー的な映画。おまけに三角関係を盛りこんで、大パーティのすごいすごい豪華な景色を見せて、「あーあ、いっぺんあんな豪華なパーティしたいなあ」というお客さんの気持をくんだ映画を作っておりました。  ところが、そういうふうな映画を作っているうちに、彼女は必ず彼氏を連れてくるんだから、彼氏も喜ばせなくちゃいけないな、というわけで、彼氏も喜ぶサービスをはじめたんですね。モダンな映画のなかに、劇中劇でチャンバラ入れたんですねえ。とにかく、大戦争、大合戦、そんなもの入れたところが、えらいえらい人気が出てきて、とうとうデミルは、しまいにチャンバラの専門になって、「サムソンとデリラ」だとか、「クレオパトラ」(一九三四)だとか、「十字軍」(一九三五)だとか、「十戒」というふうに、男が喜ぶ映画のほうへ変わってきたんですねえ。  というわけで、デミルの映画をごらんになるときは、のんきにのんきに、ごらんになっていいんです。なにもかたくなって見ることはないんですよ。  けれども、若い人はよく、映画というものをひとつの線に結んじゃいますね。独立プロダクションの映画がいちばんいいんだ、あるいはまた、映画とはニューシネマがいちばんいいんだとか、そういうふうに片っ方にずっと寄せて見る人がありますね。けれど、ビスコンティを見る気持、それと同時にデミルの映画を楽しむ気持、そんなものを全部おなかのなかでふくらまして、映画を見てほしいですね。デミルのなんか娯楽映画だ、だからきらいだなんていうのは、考え方が非常に貧乏くさいですねえ。デミルの映画も愛しましょうね。  こっちの映画見てるとおもしろいし、こっちの映画見てるとむずかしい。こっちの映画見てるとエロティックだけど、こっちはまるで宗教的だ。そういうふうに私たちの心は、いろんなかたちで鍛えられるんですね。  さあ、そういうわけで、デミルとはえらい違いの、ジャン・コクトーなんて人がいますねえ。デミルの美術というのは、いかにもレビュー的で、豪華で、回り舞台がどんどん絢爛《けんらん》とくりひろげられて、みなさんが見て、目で楽しい。でも、コクトーのは美術的に楽しいですね。美術的に楽しいなんてのはややっこしいですけれど、「美女と野獣」(一九四六)でも「オルフェ」(一九四九)でも、なんとなしにわかってくる。ちょっとわかりにくいけど、なんとなく美の陶酔に入っていけるんですねえ。  それは、どこからきてるんでしょう。感覚ですね。その感覚、どういったらいいでしょう。  たとえば、オルフェが死の世界に入って行きますね。自分の妻が死んだから追っかけるわけです。その死の世界が、モダンな建築物なんですね。そこをガラス屋が、背中にガラスを背負って通ります。一枚、二枚、三枚、四枚、大きな大きなガラスが大・中・小という感じになって背中にくっついていて、その重なりがキラキラ光って濃淡ができて、ちょうど天使の羽に見えてくるんですねえ。ガラスの羽ですね。そのそばで、子供がなわ飛びしてますが、その子供まで、なんとなしにエンゼルに見えてくる。そういう感覚、みごとですねえ。  というようなかたちで「オルフェ」見たり、「美女と野獣」のいかにもすごいファンタジー見てると、コクトー美術がわかってくるんですね。「そんなもの勉強して、コクトーの美術がわかってどうなるんだ」と、おっしゃるかもしれません。ところが、やっぱり人間には、それがいるんですよ。  この、透きとおったようなジャン・コクトーの美術に対して、「サテリコン」(一九七〇)の監督のフェリーニは、いかにも、赤、青、黄色、紫、全部を織りまぜたような、ベっとりした美術を見せる人ですねえ。ここに、ジャン・コクトーのフランスの美術と、フェリーニのイタリアの美術との違いがありますね。コクトーの場合は、フランスの香水のにおい。フェリーニは、ちょうどミラノのあの色ガラスの感じですね。  さあ「サテリコン」、これ、いったいなんでしょうね。はい、これは「キャバレー」とか「地獄に堕ちた勇者ども」「ベニスに死す」に、ちょっと近づいたものですね。「サテリコン」というのは、ちょうど、熟した柿が、もう熟し切ってパタッと落ちる前の美しさ、そういうものをもっていますねえ。  けど、この人は、そういうものを作る反面に、自分の伝記「81/2」(一九六三)、「フェリーニのローマ」(一九七二)、「フェリーニのアマルコルド」(一九七四)なんかも作っております。それからまた「甘い生活」(一九六〇)みたいなものも作っていますね。「甘い生活」は、いかにもフェリーニの貴族趣味ですね。そうかと思うと「道」(一九五四)、「カビリアの夜」(一九五七)みたいなもの、「青春群像」(一九五三)みたいなものも作ってます。この「カビリアの夜」とか「道」とか「青春群像」が、「アマルコルド」のなかに入ってきていますねえ。  というわけで、この人は、人間探究というか、人間というものを手でしっかりつかんで、そこから美術を生み出してきますね。コクトーのほうは、空気のように、まるでにおいのように美術をつかみますね。コクトーの映画見たり、フェリーニの映画を見ていますと、だんだん豊かに豊かに心が温まってきます。そこに、映画の、まあ勉強の価値があると思うんですよ。 ●アメリカタッチのおもしろさ  さあ、ここらで急転しまして、あのヒッチコックのおもしろいおもしろい感覚、もうごらんになっておわかりのサスペンス、スリル、ショック、まあ、どきどきするお話ししましょうね。  ヒッチコックの「フレンジー」(一九七二)をごらんになった人は、もうたくさんいらっしゃるでしょう。ここに、ぬれぎぬを着せられた男、ぬれぎぬを着せた男、二人の男がいるんですね。ぬれぎぬを着せた男は殺人魔なんです。女の首をしめて殺すのが好きなんですね。そういうこわい男、それを知らないで、自分が殺人者というぬれぎぬを着せられた男が、その犯人に助けを求めにいくんですねえ。  ここらあたりの、ヒッチコックの手さばきがおもしろうございますね。いい男と悪い男の二重奏ですね。ヒッチコックだからこんなにおもしろく作れるのかなあ、というところで、ものを見る目が肥えてくるんです。  あ、そうそう。この監督、「見知らぬ乗客」(一九五一)というのも作ってますよ。おとなしい男がいて、その男が列車のなかで、ちょっと足が当たった男と、つい話しだしたんですねえ。この、つい話した男が妙な男で 「あんた、きらいな人、いるの?」なんていうから 「うん、きらいな人ないことないね。ぼく、あの人あんまり好かないな」 「そう、あんた、その人を殺しなさい」といったんですねえ。 「まさか、ぼくその人殺す気はないよ」 「いや簡単にやれるんですよ。実はぼく、殺したい男がいる。あんたが殺したい人をぼくが殺すから、あんたは、ぼくが殺したい男を殺しなさい。それは絶対に警察にあげられることないから大丈夫。だってその相手を殺す理由がないんだから。やってみなさいよ」  こわいこといわれて、びっくりするんです。 「いやだね、ぼく、そんなことできない」  けど、だんだんだんだん、片っ方の男が殺人を強いてくるんですねえ。人なんて殺したくないというのに、どんどん殺せ殺せ殺せ、とせまる。この話がこわいんですねえ。  これも、健康な男と、こわいこわい不健康な男、殺人魔との二重奏ですね。ヒッチコックがこういう映画を作ると、やっぱりおもしろく演奏するんですねえ。おもしろいなあということが、だんだんわかってくる。そういうことわかってきて、いったいどうなるかって? 知りませんよ。けれど、おもしろいということがわかってくるんです。  たとえば、この「見知らぬ乗客」というのは、原題が「ストレンジャーズ・オン・ア・トレイン」と書いてあるんです。汽車のなかの知らない者同士という題ですね。あ、そうか、うん、なるほどね、そうかなと思って、ポスター見たりプログラム見たりしていると、ヒッチコックっておもしろいことするなあ、ということがわかってくるんですねえ。 「ストレンジャーズ」という綴りは、「STRANGERS」ですね。他人、知らない者ですね。ところが、ポスター見ますと、この言葉の綴りのなかに、男の足を一本入れているんです。この映画、足と足とがくっつくところから始まるんですねえ。あのとき、足さえくっつかなかったら、こんな殺人のこわいこわい渦のなかに巻き込まれなかったのに、あの男の足がカチンと当たった、その足のために、事件が起きるんですねえ。  さあ、そこでこの監督は、ポスターの字のなかに一本の足を入れたんですねえ。それがちょうど、L[#「L」に傍点]という字のかたちに見えました。L[#「L」に傍点]という字が入ったら、どうなるか。 「STRANGL[#「L」に傍点]ER」という言葉が、実は英語にちゃんとあります。どういう意味かといいますと、首をしめる人のことなんですね。  ですから、まあまあ、「ストラングラーズ・オン・ア・トレイン」といったら、列車のなかの首をしめる人間、そういうことになるんですねえ。いたずらもここまでくると、まさにもう芸術になってくるんです。  そういうわけで、この人の「裏窓」(一九五四)なんかでも、窓というのが問題なんですねえ。ニューヨーク、マンハッタンに行きますと、窓、窓、窓、窓、窓だらけです。  ホテルあるいはアパートにおりまして一五階、二〇階の自分の部屋から外を見ますと、もう裏に、窓、窓、窓、いっぱいあるんです。だから、いやでも窓のなかが見えちゃうんですねえ。  あら、あの人、午後の一時だのに、今頃歯みがいてる。こちらのほうを見ると、奥さんが旦那さんといっしょに立ってコーラ飲んでいるんですね。夏の晩ですねえ。あら、あんなことしてるわ。  窓のなかの景色がずっと見えるとともに、窓のなかの人生までがちょっと見えるんですねえ。そういうふうな窓のなかの人生を、離れて見ている男。それを映画にした「裏窓」。やっぱりヒッチコックの映画は、ただのスリラーではないですね。こわいんですねえ。そういうようなことが、だんだんわかってくるとおもしろいですよ。  というわけで、もともとはドイツ人なのに、みごとなアメリカのタッチで映画を作る人がおりますよ。ビリー・ワイルダーですねえ。  この人はなかなか才たけた人で、昔からおもしろい映画をたくさん作りました。「失われた週末」(一九四五)、「サンセット大通り」(一九五〇)なんかみごとでしたねえ。けど、このあたりはまだ、ちょっとドイツくさかった。いかにもドイツの作家の感じがしました。ところが、「第十七捕虜収容所」(一九五三)、それから「麗しのサブリナ」(一九五四)、「七年目の浮気」(一九五五)と、あのあたりからだんだん、アメリカのタッチを身につけてきましたね。いかにもアメリカ映画ファンの感じですね。  それから「翼よ! あれが巴里《パリ》の灯だ」(一九五七)は、もう完全なアメリカ映画になりました。それから「昼下りの情事」(一九五七)、「お熱いのがお好き」(一九五九)、いかにもアメリカタッチになりました。ドイツ人のくせに。  ところがここに、ポーランド人のロマン・ポランスキー、この人も実に強い個性のある監督ですよ。たとえば「反撥」(一九六五)。これはイギリスで作りましたが、いかにもヒッチコックタッチでした。それから「袋小路」(一九六六)。これはジョン・ヒューストンタッチですねえ。それから「吸血鬼」(一九六六)。これもイギリスで作りましたが、なんということなしにアメリカ映画の感じがあります。しかしみんなポランスキータッチ。  それからとうとう、アメリカに呼ばれました。そうして「ローズマリーの赤ちゃん」(一九六八)を撮りました。マンハッタンの悪魔の話がおもしろかったですね。これを撮ったときに、この人の奥さん、ヒッピーに惨殺されました。それでアメリカがいやになって、あわてて逃げましたね。イギリスに行って「マクベス」(一九七一)を作りました。上手でした。それからまたアメリカに帰って、こんどは「チャイナタウン」(一九七四)作りましたねえ。これがまた、アメリカタッチなんですねえ。  このポランスキーという人、ポーランドで作った「水の中のナイフ」(一九六二)で当たったんです。この題名からしていいですねえ。ポランスキー感覚なんですね。これが「水の中の石」だったらおもしろくありませんよ。水の中のなんだってもおもしろくない。水の中のナイフだからいいんですね。  ナイフというのは、刃先がキラキラ光って、水の中では、水ざわりといいますか、いかにも妙な感覚があるんですねえ。これが、空気の中のナイフだったら、ちっともおもしろくない。ポランスキーは、そういう感覚がある人なんです。「チャイナタウン」でも、なんとはなしに、そういう感覚がこわいですよ。  ビリー・ワイルダー、ポランスキーと、こうくらべてみると、ワイルダーは陽性ですね、ポランスキーは陰性ですねえ。そういうこともおもしろい。 ●感覚勉強、人生勉強  映画というものは、感覚の勉強にいいんです。  チャップリンの映画、これはもうストレートでわかります。働くこと、生きることですね。食べることですね。愛することですね。夢をもつことですね。チャップリン、みごとです。  あのロイドの喜劇も、やったらやれる、そういってますね。いいですねえ。 「奇跡の人」(一九六二)もそうですね。あのアニー・サリバン先生がいなかったら、ヘレン・ケラーは、あんなにはなれなかった。立派にはならなかったでしょう。やったらやれるんだ、奇跡は起こりうるんだ、これがアメリカ映画にある精神ですね。 「暗くなるまで待って」(一九六七)もそうでしたね。どんなに人間が弱くっても、弱者でも、いざとなったら勝てるんだ。あの盲目の、優しい優しい妻が、殺し屋に勝ちました。  そういうわけで、映画は、ストレートに私たちに教えてくれるものもありますけれど、感覚勉強、これもすごいですねえ。感覚、これがいったいどう人間に役立つか。つまり感覚がすぐれてると、やっぱりものの見方に深味が出てくるんですねえ。そういうことも、とても大切なんです。それが映画で感覚勉強をしているうちに身につくんですね。わかってもわからなくても、だんだん見ているうちに、いつの間にか勉強していくんです。 「ロミオとジュリエット」(一九六八)は、もうみなさん、ごらんになってると思いますけれど、これはいかにもシェークスピアの感覚がみごとに出た映画でした。おまけに、あの衣装のすごいこと、キャメラのすごいこと、ロミオとジュリエットが、初めて一目惚《ひとめぼ》れするときのあの宴会のすごいこと。あのときの宴《うたげ》は、みごとな芸術品ですねえ。  この映画は、シェークスピア、そうしてその古典、イギリスの古典の感覚を教えてくれると同時に、ロミオとジュリエット、この二人の子供、十四歳の女の子と十五歳の男の子のことが胸に焼きついて、まあみごとでしたねえ。  この二人が恋をしまして、ロミオがちょっとしたはずみで人を殺して、えらいことになりました。隣の町へ逃げなくちゃならない。当然会えなくなりますね。だから、ロミオが泣きました、ジュリエットも泣きました。そうして、ロミオはジュリエットに、一晩でもいいから夫婦になって、といいだしたんですねえ。とうとう二人はいっしょになりましたね。けれども、いよいよ最後に、この映画はえらい悲劇になりましたねえ。  これは、若い若い恋の浅はかさです。もっと落ち着いていたならば、もっともっとハッピーエンドになるのに、わずか十四と十五の女の子と男の子、この年でえらいことしてしまったなあ、あわてたんだなあ、ということがわかってきます。十四、五歳でもこわいな、恋をするんだなということもわかってきて、これも勉強ですね。  そのほうの勉強、つまり人間の恋の勉強も、映画はいろいろの姿で教えてくれるものなんですねえ。  たとえば、男とはいったいなにか、女とはいったいなにか。 「荒馬と女」(一九六一)というのがありましたね。これはみなさんごらんになってるでしょうから、ちょっとサンプルにいいでしょう。クラーク・ゲーブル、マリリン・モンローの主演で、名画でしたねえ。  この映画で、男は野性の馬を生け捕りにするんですね。なんのためにでしょう。それは馬肉の缶詰にするんですねえ。それが仕事で、一生懸命に働いています。この男、ゲーブルがマリリン・モンローが扮《ふん》する女といっしょになったんです。そうして、いっぺん仕事場に連れていきました。その荒馬を生け捕るところを見せたんです。  荒馬を捕るところは、すごかったですねえ。馬が逃げますね。追っかけますね。追っかけて、ロープで引っかけて、さあ、大の男が二人も三人もかかって引っ張りましたねえ。馬はなきましたね。馬はひっくり返りましたね。そして押さえつけられましたね。  そんな景色を見ていて、女はもう堪えられなくなったんです。マリリン・モンローが、「やめて!」といったんですねえ。トラックから飛びおりて、「やめて、やめて、やめて」というあたり、おもしろいですねえ。マリリン・モンローがからだをふるわせて怒りました。  さあ、ここに、男と女が出てきましたねえ。男は荒馬を捕まえるのが仕事、これで食ってるんです。これで月給をもらってる。だから命がけで働いているんです。だから、馬といったって商売の物[#「物」に傍点]なんですね。ところが女にしてみたら、とんでもない、生きものです。あの平和な高原を走り回っている野生の生きものです。それを捕まえて殺すなんて、とんでもないことだ。女は怒っちゃったんですねえ。  男は、そうしないと食えないんだといいましたね。食えなかったらなにかほかのことをしてください、女はそう思ったんです。これが、男と女の違いですねえ。この映画は「荒馬と女」という題になってますけれど、原名は「ザ・ミスフィッツ」、食い違い、そういう意味なんです。  そういうわけで、男とはなにか、女とはなにかを、まあ、映画のなかで私たちに上手に教えています。  イタリア映画の「アポロンの地獄」(一九六七)は、男のにおいがプンプンしました。「王女メディア」(一九六九)は、女のにおいがプンプンしました。  もっと違う方面で「噂《うわさ》の二人」(一九六二)のあの少女は、ひねくれていましたねえ。あの子供は、先生に怒られて怒られて、先生に復讐《ふくしゆう》するために、自分のおばあちゃんに告げ口しました。あの先生とあの先生は同性愛なんですよ、あの学校いやなとこですよ。そんなむちゃなこといいましたねえ。  子供の残酷さ、大人が気づいていないほどの残酷さを、子供がもってることも、映画で描きました。子供はこわいものをもっているんです。悪魔的なものをもっているんですね。だから、ただ子供はかわいいとはいえませんねえ。子供に対しては、愛情と同時に警戒もいることが理解できます。映画見てると、そんなことも教えますから、いろんな点でおもしろいですねえ。  それから、フランソワ・トリュフォーが前に作った「大人は判ってくれない」(一九五九)という映画は、この人の少年時代の話なんです。十二歳の少年が、お父さんとお母さんと三人で暮らしていました。ところが、あるとき、お母さんが町で、自分の知らない男の人に抱かれているのを見て、がっかりしたんですねえ。そして、あくる日、学校へ行って、お母さんは昨日亡くなりました、といったんです。お母さんがそれを知って、とっても怒りました。さあそれから、その子は家へも帰らないで、お父さんの会社のタイプライターを盗んで、不良少年になったんです。そうして少年鑑別所に入れられたんですねえ。  けど、この子は、そこからも逃げ出して、どんどん走りました。走って走って、とうとう海が見えるところまできて、止まったんです。 「ぼく、どこへ行ったらいいの。大人はわかってくれないんだ」  こういう映画のなかに、子供というものの、童心を傷つけることのこわさが、よく出ていますねえ。 ●美を食べよう  さあ、そろそろ時間がせまってきました。  いろいろと、駆け足で話してきましたけれども、映画こそは、もうあらゆるものが見られますねえ。スクリーンの向こうから、あれもくるし、これもくるし、いろんなものがやってきます。それを吸収する、ほんとうにいいチャンスだと思うんです。  知らない間に、自分が勉強したくもないのに「ハムレット」(一九四八)の勉強させられたり、「野生のエルザ」(一九六五)を勉強させてもらったり、「キャバレー」「十戒」と、まあこんなふうに、いろんな方向に私たちの目を向けさしてくれる。  ここに、映画のおもしろさがあると同時に、今夜いちばん最初に私がいいました、あの美術、「ベニスに死す」とか「キャバレー」とか、コクトーとか、そういった美術をどんどん飲み込んで、おなかのなかで温めていると、今みなさんがはっきり理解できなくとも、五、六年たったら、だんだんそれが実になってくるんですね。これが映画の見方のポイントなんですよ。  いちばん大事なことは、若いときに美を食べることですね。そうすると、生活のうえで、美があなたの生活を豊かにするんです。どんなかたちに豊かにするのか。「ロミオとジュリエット」が頭にあれば、少年少女に理解がありますね。それから、花見ても、空見ても、海見ても、山見ても、深い気持でその美に酔えますね。そうして、自然のありがたさ、こういうきれいなきれいな青い空、きれいなきれいな夕方の空、夜の星座、あるいは月、あるいはまた太陽、あるいは桜、あるいはチューリップ、それを与えてくれた神に感謝するといったら大げさですけど、そこまで豊かな気持になれますね。そういう人間は、生活のなかで、ほんとうの、人間の美しさをつかむことができるんです。  話はえらい大きくなりましたけれど、そういうふうに映画を見てくださると、なにか最も大切なものを、映画からつかめると思うんです。  はい、もう時間になりました。あなたも、そうして私も、どんどん映画を見て、もっともっと豊かになりましょうね。それでは、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。