[#表紙(表紙1.jpg)] 私の映画の部屋 淀川長治 目 次  ま え が き  チャップリンの世界   アルコール先生といわれてた   すばらしい「キッド」の成功   「サニーサイド」のギャグ   軍部にカットされた「担《にな》え銃《つつ》」(「兵隊さん」)   凝《こ》り性《しよう》なチャップリン   黙っていられないチャップリン   「殺人狂時代」の人間愛と怒り   チャップリンの結婚、離婚、結婚……   チャップリンの日本人秘書  ジェームス・ディーン   「エデンの東」に惚れ込んだ木下恵介さん   ニコラス・レイの「理由なき反抗」   「ジャイアンツ」は遺作になってしまった   生い立ちと下積みの時代   舞台俳優としてのディーン   ピア・アンジェリとの恋に破れて   寂しさと優しさと、そして死  美術としての映画   美術感覚はやっぱりフランス   大人のための絵物語「美女と野獣」   ヒマラヤの山の麓をいく尼僧たち   ライトに踊らせた「赤い靴」   「スリ」の一場面  世界の黒沢 明   三十年来の夢「デルス・ウザーラ」に注いだ情熱   画家志望から映画の助監督へ   助監督時代の黒沢さんと私の出会い   ロサンゼルスで「羅生門」の講演   「白痴」「生きる」「七人の侍」「蜘蛛巣城」   「用心棒」以後の沈黙とカムバック  映画とテレビ   映画は私の家、テレビはお隣さん   テレビで当たる映画といいますと……   「十二人の怒れる男」は初めテレビドラマだった   「めぐり逢い」と「手錠のままの脱獄」もテレビ向き   ここでどうなると思うと、コマーシャル   テレビ映画と映画は、呼吸が違う  女 の 映 画   女流監督の細やかな感触「幸福《しあわせ》」の女   「女はそれを待っている」の母親   「黒衣の花嫁」と「サロメ」の女のこわさ、凄じさ   「マドモアゼル」の女の性《さが》   「裏町」の男一筋に生きる女の哀《かな》しさ   「王女メディア」の激しい恋  粋なゲーリー・クーパー   記念碑的な作品「モロッコ」   長い手足としぐさがにくい   絵かきになりたかったクーパー   ゲーリー・クーパーの命名   「誰《た》がために鐘は鳴る」の接吻シーン   たった一度の、成就しなかった浮気   プレイボーイ役の「昼下りの情事」   すべては神の思し召し  ファン気質あれこれ   ブルース・リーのファンはお嬢さんたち   とことん惚れこんだファンの姿あれこれ   サイレント時代の強烈なファン   声をあげて泣きだしたロバート・フラー   風変わりで、すばらしいファンの神戸の森本さん  おませ監督ルイ・マル   恵まれた少年時代   「死刑台のエレベーター」   再びジャンヌ・モローで「恋人たち」   「地下鉄のザジ」はだんだんこわくなる喜劇   バルドーの実生活にそっくり?「私生活」   「ビバ! マリア」「パリの大泥棒」「好奇心」   最近作「ルシアンの青春」  男 の 映 画   「パピヨン」の男の執念   ロバート・レッドフォードとポール・ニューマン   正真正銘の男の映画「ザルドス」   男のなかの男はだれかしら?   男の愛と、愚かさと、哀れさと、立派さ   男の悲劇「アポロンの地獄」   「お熱いのがお好き」の変な男たち  イタリア映画の星ビットリオ・デ・シーカ   一躍名を高めた「靴みがき」   ネオ・リアリズムの傑作「自転車泥棒」   二枚目俳優だったデ・シーカ   悲しい思い出の「ウンベルト・D」   どれもこれも名人作家の手づくり   恋を描いてもみごと──「ひまわり」  風土に生きるギリシア映画   ジュールズ・ダッシンとメリナ・メルクーリ   「日曜はダメよ」のギリシア女かたぎ   こわかった「死んでもいい」   マイケル・カコヤニスの「エレクトラ」   「その男ゾルバ」のギリシア風土   未来の恐怖を描く「魚が出てきた日」   ニコス・コンドゥロスの「春のめざめ」  話題いっぱいの「風と共に去りぬ」   「風と共に去りぬ」と南北戦争   十五億円の巨費をかけて   アマチュア作家の原作を五万ドルで買う   タイトルの本邦初訳と初公開   父子二代のプロデューサー、セルズニック   ビクター・フレミング監督のこと   ビビアン・リーの登場   「明日という日があるじゃないか」   アカデミー賞とアメリカ映画ベスト・ワン [#改ページ]    ま え が き  責任を感じながら無責任にしゃべっております。あのラジオのことでございます。  無責任というのはタイムのことです。私は何分何秒にしゃべれと命じられますとコチコチになります。  さいわいこのラジオは四〇分ちかくおしゃべりができるのであります。  それがとても私にはうれしく、興がのると私はマイクの前で目を閉じて陶酔しながらしゃべるのです。  目を閉じますから、したがって時計が見えなくなります。だから何分何秒がいつもハミだします。無責任なことです。無責任とはこれなのです。  しかし、その映画に私が陶酔したときがまた、いちばんおもしろく語れます。  現在すでに一四〇回ぶんを語ってまいりました。ずいぶんしゃべりましたよねえ。  その中から一三回ぶんをここに集めていただきました。  私が選びますとすくなくとも一〇〇回ぶんは選びそうです。だから選択はTBSブリタニカの編集部さんに目を閉じて(よく目を閉じますね)おまかせいたしました。  この中の「チャップリンの世界」は地方の高校の先生がテープにとって、教室で教材として使ってくださいました。  どの教室でも生徒さんから歓声が上がって喜んでくださったそうです。胸が温かくなりました。  タクシーに乗っても運転手サンから「聞いていますよ」と声をかけられます。その運転手サンはニコニコ顔です。  地方に行っても、汽車の中でも、ヒコーキの中でも「聞いてます」そう呼びかけられます。ありがたいことです。  それで……これを……しゃべりっぱなし……それは残念ということがあちこちから出てまいりました。  また若い人たちが、あれをテープにとって友人に聞かせたり、自分で何回も聞いたりしているんだというお手紙も拝見しました。  そこで、これを活字にして、本にして、という企画がここにいよいよ実現したわけです。  これこそは私自身のかけがえもない思い出の本となります。それと同時に、みなさんが私をちょいと思い出してくださる本ともなることでしょう。  こんな、私にとってうれしい本を出してくださったTBSブリタニカさんに厚くお礼を申し上げます。    一九七六年六月 [#地付き]淀 川 長 治  [#改ページ]   チャップリンの世界  はい、みなさん今晩は。  今夜は、チャップリンのことをお話しましょうねえ。なんですって? チャップリンのことは聞きすぎたなんて。まあ、あんた憎らしいですねえ。今夜のは特別おもしろいから、じっとこらえて聞いていらっしゃい。  はい、みなさん、チャップリンの楽しいお話をしましょうねえ。 ●アルコール先生といわれてた  チャップリンは、一九一四年、大正三年、あんたがまだ空気だった頃から、もう活動写真に出てるんですよ。そしてその一九一四年、私はもう五歳でした。  チャップリンを見ましたよ。その頃は、チャップリンは酔っぱらいの役ばかりやったので、アルコール先生なんていってました。チャーリー・チャップリンなんて名前がまだ大正三年頃はむずかしかったのね。  チャップリンは、その一九一四年に、キーストンという会社で働きました。一年間に、三十五本も出ました。それから、明くる年の一九一五年、大正四年に、エッサネイという会社へ入りました。  みなそれぞれ、特別の、独立プロダクションみたいな会社ですよ。そこで十七本撮りまして、今度はうんと給料があがって、まあアメリカのハリウッドで最高の給料で、ミューチュアルという会社へ入りました。そこで十二本撮りました。  どれもこれも、私は見ましたが、みんな、チャップリンがなんともしれん、私の頭に焼きつくほど、立派な演技をしました。  ミューチュアルがすんでから、とうとう今度は、ファースト・ナショナルという会社へ入りまして、そこでほんものの自分の映画を作ることになりました。今までも、自分の映画を作ったんですけれど、それぞれのプロデューサーがいまして、年に十二本作れとか、あるいは十七本作れとか、いろいろ命令があったんですね、契約に。それが今度は、好きなように撮りたいと、八本の映画を、自分が思うがままに作りました。その頃のチャップリンは、ほんとうにもう、ハリウッドの最高の演技者と申しましょうか、もう人気者で大変でしたねえ。  はい、この八本は、まず「犬の生活」(一九一八)。もうごらんになったでしょう。あるいはまだの方はごらんになってごらん。この「犬の生活」は、チャップリン誕生のようにみごとな映画ですよ。それから「担《にな》え銃《つつ》」(一九一八)というの撮りました。これは最近再上映のとき「兵隊さん」と改題。これもおもしろうございますよ。それから「サニーサイド」「一日の行楽」(一九一九)、「キッド」「のらくら」(一九二一)、「給料日」(一九二二)、「偽《にせ》牧師」(一九二三)ですね。  チャップリンは一本を作るのに、どんなに力を入れるか、ちょっというときましょうねえ。その例を申しますと、このファースト・ナショナルで最初に作った「犬の生活」、これを完成したときなんか、自分の家でまるまる二日間、寝込んで寝込んで、なんにも食べないで寝たそうですよ。  まあそのくらいに、一本の映画に力を入れたんですねえ。ほんとのドタバタ喜劇ですけれども、チャップリンにとってはライフワークなんですねえ。  そしてまた「のらくら」は、再上映のときには「ゴルフ狂時代」と改題されましたが、なかなか皮肉な、よくも当時こんなものを撮ったなあというくらいの、ちょうど、フェデリコ・フェリーニの「甘い生活」(一九六〇)のようなものを、この頃、もうすでに作っとりました。 ●すばらしい「キッド」の成功  けれどもなんといっても、このファースト・ナショナルで作った映画のなかで、「キッド」全六巻。当時六巻なんていうのは、もうドタバタ喜劇では絶対考えられなかった長尺なんです。しかも、チャップリンの初めての長尺です。ふつうはみんな、一巻とか二巻とかばかりだったんですよ。  さあここで「キッド」のこと、もうみなさんご存知でしょうけれど、ちょっとお話しましょうねえ。  哀れな女がいたんです。哀れな女が男に捨てられたんです。妊娠していて、まあ慈善病院みたいなところで子供|産《う》んだんですねえ。看護婦さんが笑いました。みだらな女は、ああいう目に会うんだわねえ、そういう目つきをしました。女は泣きながら、子供を抱いて出てきました。どうしましょう。明日から食べるあてもないのに、子供を連れてどうしましょう。泣いておりました。  ちょうどその反対、場面が変わりますと、一人の立派な、なんともしれん豊かな絵かきがいました。その絵かきが、絵をかいておりました。その絵をかいている、マントルピースの横のほうに、女の写真が一枚ありました。今の、子供を抱いて泣いていた女の写真なんです。絵かきは、なんだか鼻で笑うような顔をして、その写真をとって、マントルピースの中に捨ててしまいました。写真は燃えました。彼女は完全に捨てられたんですねえ。残酷なファーストシーンですねえ。  女は泣きながら、どうしましょうと思って、立派な立派なお家を探して、その家の表にあった豪華な車、その中に子供を入れまして、どうかどうか、この子をどうか育ててください、そう鉛筆書きして、泣きながら去りました。  ところがそこへ、二人の泥棒がやって来ました。その豪華な自動車を盗んで、走っちゃいました。皮肉ですねえ。ところが途中で、泣き声がするのでうしろを見たら、二人の泥棒はびっくり。まあ、ちっちゃな赤ちゃんが泣いとる。まあ、こんなじゃまなもん困るのう。運転しながら裏町へくると、ごみ箱の横へ捨ててしまいました。  こんなふうにして始まるんですねえ、「キッド」が。ところが、そこへ、ヒョコヒョコ、ヒョコヒョコやって来たのがチャップリンでした。チャップリンは、仕事がなくて、食べもんもなくて、ふらふらしているとき、足元でなにか泣いている。のぞいたら赤ん坊なので、抱いてあやしました。けれども、もうこんなもの拾ったら困ると思いまして、またもう一ペん捨てようと思ったら、向こう側に、おまわりさんが立って見ておりました。「困ったな」また抱いて、ちょっと行きました。ここならいいと思ってまた、そーっと捨てました。また、あのおまわりさんが回ってきておりました。  困ったなあというので、今度はしょうがないから、向こうに乳母車《うばぐるま》があったから、その乳母車の中に捨てました。中にも赤ちゃんがいるんです。その赤ちゃんの隣りへ、その赤ん坊を置きました。すると、それをお母さんが見つけて、怒って怒って、「私、子供あるのに、そんなもんまで入れてもらったら困ります」って両手をあげて怒りました。  チャップリンは、とうとうその子供を抱いて、家まで帰ってきてしまいました。さあ、そこでチャップリンが困って困って、その子供とたたかうところがおもしろうございます。まあ寝小便するし、困ったなあ、あした捨てよう、あさって捨てようと思っているうちに、情が出てきました。自分の汚い汚いワイシャツをはさみで切って、おしめを作ってやりました。まあ、そうして乳を飲ませるところも上手です。  やがてその子供が、四つ五つ六つになってきまして、とうとうチャップリンは、まあ自分の子のようにしてしまいました。「おじちゃん、おはよう」なんていうことになりました。その子が、ジャッキー・クーガン、かわいいかわいい子なんですねえ。まあ、この子を、チャップリンが発見したことが、この映画の成功ですねえ。  そうして、「おじちゃん、もうご飯の用意できましたよ」といいながら、子供が朝ご飯の用意します。そうしてまあ、チャップリンと二人で、食べるところの、その真剣なこと。そこがまた、なかなかみごとでした。やがて子供が、「おじちゃん、先に行ってきますぅ」といいながら、小石をポケットに入れて、石槍《いしやり》鉄砲を持って出て行きます。  さあなにしてるかと思うと、ピュッ、ピュッ、おまわりさんがいないところを見つけては、ピュッ、ピュッ、子供は石槍鉄砲で、小石を台所の窓ガラスにパチーンと当てて、カラカッチャン。また向こうのほうのショーウィンドウをパッチャーン。悪いことをしますね、この子。なにしてるんだろう、そう思ってると、あとからチャップリンが、背中にたくさんのガラスを背負って、「えー、ガラス直しー。ガラスの割れたんありませんかー」。まあ、子供と共同で働いておりました。  チャップリンとその子の、なんともしれん愛情ですね、これがみごとでした。裏長屋といいましょうか、もう貧民街に住んでおります。貧しい貧しい生活です。けどこの親子が……親子とはいえませんね、実の親じゃありませんね、けれどもなんともしれん、いいんですねえ。子供が、まあ、やんちゃで、走り回ります。近所の子供とけんかします。けんかして、近所の子供を押えつけちゃいました。そこへ、その子の親がやって来ました。その親というのが、拳闘家《けんとうか》くずれの大きな大きな乱暴男です。ちょうどそこへ、チャップリンがやって来まして、自分の子供が、その乱暴男の子供を押えつけているのを見て、びっくりしました。今度は自分がやっつけられると思って、だからおべっかを使って、自分の子供を押えつけて、 「まあまあ、お宅の坊っちゃん、強うございますね。わしの子供は、もう弱いからなあ」  なんて、自分で自分の子供の頭を押えつけて、そうして足で自分の子供の尻《しり》を押えつけると、その泣いている子供、自分の子供が殴って負かした子供が、あーあー泣いているのに、その子の手をあげて、 「お宅の坊っちゃんのほうが勝った、勝った。お宅の坊っちゃん、えろうございますねえ」  こういうあたり、おもしろいですけれども、まあ「先代|萩《はぎ》」のように、私は見ていて涙がたまりました。自分のかわいい子を押えつけて、相手の負けた子のほうの手をあげて、坊っちゃん勝った勝ったなんて。それを見て、暴力団みたいな親方が、「うーん、わしの子、やっぱり強いだろう」っていってる姿に、チャップリンはおべっか笑いします。  そのあたり、なかなかよくできておりました。これを、日本の映画の小津安二郎監督が見て、なんてすごいんだろう、そうしてこの映画にヒントを得て、子供中心の映画を作ったことがございます。  ところで、あの子供を捨てた女、その女が、やがてオペラの歌手になって成功しました。成功したけれども、自分の捨てた子供がいったいどこへ行ったことやら、お金持のところのようすをきいても、どうも子供はそこで育てられていないことがわかりました。泣きぬれた、この今は立派なオペラ歌手の女は、自分の子供を捜し回りましたがわからないので、とうとう、しかたがないわ、あきらめましょう、もう死んだかもわからないと思って、それで、毎月のように日を決めて、たくさんのおもちゃを持っては、貧しい家へ恵みに行きました。小さな子供が、「おばちゃん、ありがとう。おばちゃん、ありがとう」ともらうのを、せめてもの、まあ自分の死んだかもわからない捨てた子供への手向《たむ》けと思いました。  ところが、そのおばちゃんの前に、実の子供、自分が捨てた子供、その子がちょこちょこっと来たんです。子供も、おばちゃんが実の母ということはわかりません。もちろんこの母もわが子と知りませんから、 「いらっしゃい」といったら、 「はい、おばちゃん」 「さあ、これあげましょ」 「ありがとう」 「まあかわいいわねえ。あんたのお父ちゃん、お母ちゃん、いるの?」 「はい、お父ちゃんいるけど、お母ちゃんいないの」 「そう、かわいいわねえ」  そのあたりも、なかなかみごとな、なんともしれん美しいシーンでした。やがてまあ、この子供が、実の自分の子だということが、そのオペラ歌手にわかって、そうして引き取りにきます。  まあ、チャップリンと子供が離れることができなくて、泣くあたりもみごとでした。  そういうわけで、チャップリンはついに、ドラマティック・コメディ、ほんとうの人生のドラマを「キッド」で作りましたねえ。まあ話が長くなりましたが、この「キッド」で、もうチャップリンはほんとうに一躍有名になりました。 ●「サニーサイド」のギャグ  というわけで、最初にちょっと申しましたように、大正三年に初めてチャップリンが映画に出てきて、もうそれで、いかに日本でもチャップリンの人気があったかいいますと、出てから二年目には、「活動之世界」という当時の映画雑誌が「チャップリン特集号」を作りましたねえ。そして、その編集長が、こんなことを書いてました、大きな大きな見出しで。 「チャールズ・チャップリン先生に奉《たてまつ》る書」  まあそういう題で、チャップリンのことをとってもほめて「このような喜劇役者はもう二度と出ないであろう」なんて、そんなことを書いておりましたよ。  チャップリンはもう初めっから有名だったんですねえ。それが今なお、こうして人気があるなんていうことは、まあ驚きますねえ。  で、いまの「キッド」は、ファースト・ナショナルで作りましたが、その時代の、「キッド」より二年前の、「サニーサイド」のこともちょっと申しましょうか。 「サニーサイド」というのは日の当たる場所ですね。まあ、タイトルの題名がいいですねえ。そうして、ファーストシーンがきれいですよ。田舎の、水仙の花がいっぱい咲いてる教会があるんですねえ。まあ平和そのものです。けれども、ここに、エバー・グリーンというホテル兼食料品屋があります。常盤《ときわ》館とでもいうとこですねえ。そこに、チャップリンが働いているんです。  チャップリン、朝の四時から働いているんです。寝るのは夜中ですねえ。まあその働きぶりのすごいこと、すごいこと。そうして、もう時間がないので、牛を台所に連れてきてるんですね。台所で、牛のおっぱいから、もうミルクをとって、コーヒー茶碗《ぢやわん》に入れてるんです。それから、雌鶏《めんどり》も連れてきてるんです。それで雌鶏のおなかの下にフライパンを置いて、ポーンとたたくと、コツンと卵が出てくるんです。  さあ、こういうギャグを、チャップリンは「モダン・タイムス」(一九三六)でも使っておりましたけれど、早く早く一九一九年、大正八年に、どんどん使ってたんですよ。  で、このチャップリンは、一日中、二十四時間、その村のベルという娘さんを愛して愛して、愛しきってるんです。  これに、エドナ・パービィアンスが扮《ふん》しておりますが。まあ、そのベルが、都会からきた腹黒い色男、その男に憧《あこが》れています。チャップリンは、その男がライター持ってること、それからまあいい靴はいてること、そんなことでまねするところがおもしろうございますけれども、とにかく、「サニーサイド」でいちばんおかしかったのはチャップリンがいつもいつも働いて、もう夜遅く三時頃寝るんです。そうして四時頃起きるんです。まあ目覚しかけるんだけれど、しまいには、四時頃寝て、四時頃起きるというので、目覚し時計をかけられなくなりました。このあたりがおもしろうございましたよ。 ●軍部にカットされた「担《にな》え銃《つつ》」(「兵隊さん」)  さあチャップリンは、その前の年に「担え銃」も作りましたねえ。新兵さんがテントの中で、ほっとまどろんだときに夢を見ます。その夢が、まあ前線のすごいすごい戦争なんです。で、いかに新兵さんが苦労するか、それがこの「担え銃」の三巻の映画の中にあるんです。  これが軍部でカットされました。こういう、兵隊さんが苦しんでいるところを喜劇にしたらいかん、といわれましたのねえ。ちょうど、第一次世界大戦がもうたけなわの頃です。だから、チャップリンはこの頃からにらまれていたんですねえ。のちに「独裁者」(一九四〇)でにらまれるように。  そういうわけで新兵さんの苦労話なんですが、まあ、この映画、おもしろいとこばっかりです。前線への呼び出しがきます。前線へ行進! 完全武装! なんていうところがあるんですねえ、上官の命令で。完全武装といわれて、チャップリンあわてました。さあどうしたらいいだろうというので、コーヒー沸《わか》しから安全|剃刃《かみそり》から、フライパンから風呂|桶《おけ》から、ネズミ捕りまで全部、背中に引っかけてやってきまして、 「こらっ!」って怒られます。  まあ、前線の塹壕《ざんごう》の中へ、雨がどんどん降ってきます。故郷からの便りが着きました。「おーい、手紙だぞーう」「はーい」みんなもらいます。チャップリンも手を出しましたが、とうとう一通もきてません。ぼんやりしてます。こういうところも、チャップリンらしいペーソスがありました。  そうして、だんだん水が、まあ洪水のようにどんどんたまってきました。塹壕の中は水ばっかり。チャップリンが寝たら、水の下へ入っちゃったので、息ができなくて、あわてて蓄音機のラッパを口にくわえて寝たりしますが、まあそういうわけで、この「担え銃」はおもしろうございましたねえ。  チャップリンはもうこの頃から戦争に対する皮肉を扱っておりました。この人は、「独裁者」でもそうですけれど、いつも、なにか皮肉りますねえ、人生を。やはりファースト・ナショナルでの映画に「偽牧師」というのがあります。この「偽牧師」という題名からして、まあちょっと妙な題名ですねえ。  脱獄囚がいたんです。監獄から逃げて、列車に乗りました。そうして降りました。ちょうど降りたときに、海岸で、牧師が泳いでおりました。その牧師の着物があったから、その着物、ちょろまかして着ました。そうして、うまいこと汽車で逃げました。そして、ある駅にきたときに、まあ、みんなが自分に手を振るのでびっくりして、のぞいたら、 「早く早く早く、待ってました」というので、まあ牧師の服を着たまま降りました。実は、あの泳いでいた牧師が、この駅で降りて、新しい教会に入るはずだったんです。チャップリン、そんなこと知らないで、その男の服を着たんですねえ。だから、実は前科|者《もん》が牧師とまちがえられたんですねえ。  そういうわけで、このうその牧師が、ほんものの牧師になってゆくあたりまでのお話で、まあ、泥棒がだんだん、だんだん、目覚めてゆくところがおもしろいですねえ。 ●凝《こ》り性《しよう》なチャップリン  さあここらで、チャップリンという人の、個人的というと変ですけれど、ちょっとチャップリンの肌を探ってみましょうねえ。  チャップリンが初めて活動写真に出た頃、当時の活動写真の役者は、アドリブ的に、思うがままに演技しました。即席の演技をハプニング的にね。ところが、チャップリンだけは、一つの軽いしぐさをするのにも、リハーサルに三十分もかけたんですねえ。それで、みんなびっくりしたんですね。 「あれ、なにしてるの。三十分、おんなじことばっかりしてる」  チャップリンは凝り性だったんですねえ。  そういうわけで、チャップリンは当時から注目されておりました。変わった奴《やつ》だなあ、といって。だいたいあのチョビひげだとか、山高帽だとか、あひるの歩き方だとか、あんなもの自分で考案したんです。けれども、チャップリンの前に、フランスに、マックス・ランディという喜劇俳優がいたんです。滑稽《こつけい》な役者のなかになにかヒントになるものないかなあと思ったとき、チャップリンがねらったのは、アメリカの俳優でなくて、フランスのドタバタ喜劇役者のマックス・ランディという人なんですね。このタイプにヒントを得たと、チャップリンは自分でいっております。チャップリンでさえ、やっぱりヒントはあったんです。そうして、それをほんとうに生かし切ったんですねえ。だから、あのチャップリン・スタイルが、もうチャップリンそのものになりましたねえ。  ところでチャップリンには、腹違いの四歳年上の兄貴がいます。この兄貴、「犬の生活」にも出てきました。「担え銃」にも出てきております。この兄さん、シドニー・チャップリン、フレッド・カルノ一座の役者でした。それでチャップリンが活動写真に出てきますと、自分も活動写真に入りました。チャップリンを訪ねてやって来まして、この人もキーストン社に入りました。そうして、やっぱりチョビひげを生やして演技したんですけれども、どうしてもチャップリンみたいに軽くいかなかったんですねえ。  私もこの人の出た映画をたくさん見ましたよ。この人は「ベター・オール」(一九二六)という戦争喜劇の長編に出ました。その前に、「チャーリーのおばさん」(一九二五)という、まあそうですねえ、軽いコメディですけれどドタバタじゃありませんね、舞台劇の映画化ですねえ。そういうのに出ましたけれど、どうもチャップリンみたいに、うまいこといきませんでしたねえ。で、この人のことを、どういうわけか知りませんけど、ガッスルなんていって、ガッスル喜劇といいましたねえ。  さて、チャップリンという人は、だいたい、実際のモデルがいつも必要なんです。モデルというたら変ですけれども、自分の頭のなかで脚本書く前に、なにか体験しないと脚本が書けないんです。初期の短編の頃からそうなんです。サンフランシスコに行ったとき、たまたま放浪者と会ったんです。ルンペンと。そうしたら、酒とパンをその人にやって、その人から長い長い身の上話を聞いて、それをヒントにして脚本を書いたそうです。チャップリン映画の、自分の脚本は全部、自分自身の、もう数多い人生経験から生まれてきたんだ、そういってます。  まあ、そういうわけで、チャップリンは自分が作る映画の、脚本、監督、主演、そうしてトーキーになりますと音楽も、みんな自分で凝りに凝ったんですねえ。  チャップリンは「モダン・タイムス」(一九三六)で初めて、トーキーになって、声を出しましたねえ。長い長いことサイレントのキングといわれた人が、この「モダン・タイムス」で声を出しました。いいえ、せりふじゃありません、声ですよ。まあ、ここらあたりが憎いですねえ。  それから、あの「ライムライト」(一九五二)では、バレエシーンが出てきますねえ。アンドレ・エグレフスキーという、ほんものの、立派なバレエダンサーの踊りがあります。あれ、十二分間も演奏されてるんですが、チャップリンが作曲してます。その作曲に、チャップリンはなんと四ヵ月もかけてるんですねえ。なんてこの人は凝り性なんでしょう。チャップリンは、そういう人なんですねえ。 ●黙っていられないチャップリン  チャップリンは、もう「モダン・タイムス」で、映画を作るの終りにしようと思いました。けれども、ナチス・ドイツのヒットラーのいきおいが、それはもう盛んになってきて、たまりかねて「独裁者」を作りましたねえ。「モダン・タイムス」から四年あとの、一九四〇年です。  ところが、この「独裁者」は、まさに命がけですねえ。そして「独裁者」で終ったと思ったけれども、やっぱりチャップリンは、作ります。どうしてかというと、黙っとれないんですね。それで今度は、七年後に「殺人狂時代」を作りましたねえ。一九四七年に。 「殺人狂時代」を作って、チャップリン自身も、「ぼくはもう終りだ、もうこの世の中がきらいになった」というわけで、もう私たちもチャップリンの映画はこれが最後なんだなと思ってると、また、一九五二年に「ライムライト」作りましたねえ。  そういうわけで、チャップリンはいつまでたっても映画を作るんですね。現在(一九七六年)、八十七歳になりましたが、やっぱりシナリオ書いてるんですねえ。なんていうすごい人でしょう。サイレントのあの昔、ほんとに活動写真ができた頃から映画を撮って、まだ生きて、まだ作ろうとしてるんですねえ。こんな映画作家、映画人は、ほんとうに二人とありませんねえ。  私はこの間、大変なものを発見しました。大変なものとは大げさですが、「ライムライト」を作る前、つまり「殺人狂時代」を作ったあと、もう映画から去ったと思ったチャップリンが、こんなことしたんですねえ。一九四九年の終り頃から一九五〇年の頃、ロサンゼルスのサークル劇場というところで、十二月からかかる芝居の演出をしていたんですね。だれも、このことをいってません。チャップリン自身もあんまりいってませんけれど、チャップリンは、エーブン・カルデンという人の原作の、「キティドーン」という芝居を演出してるんですよ。こんなこと、知らなかったですねえ。  人気の落ちかかったハリウッドのスター女優が、カウボーイと結婚する話なんですって。ちょっとおもしろいですね。なんか「バス・ストップ」(一九五六)の裏返しみたいですねえ。主演が、シドニー・チャップリン、チャップリンの息子だったんです。どうも味が出なかったらしくて、ロングランにならないで、あんまり評判にならなかったようですねえ。けれど、チャップリンが「ライムライト」の前に、芝居を演出していることは、ちょっと、びっくりですねえ。 ●「殺人狂時代」の人間愛と怒り  そういうわけで、黙っていられなかったチャップリンは、「独裁者」でヒステリックに怒りました。そうして、そのあと、今度は「殺人狂時代」で陰《いん》にこもりました。陰にこもるというのは、チャップリンがもうこの世の中がいやになったんですねえ。 「ライムライト」はそうじゃないですねえ、悟りを開いて去っていったんですねえ。けど「殺人狂時代」のときには、怒りが陰にこもったんですねえ。この映画は、チャップリンの八十本目の映画といいますけれども、とにかくチャップリンは、今日までに、こんな陰惨《いんさん》な映画を作ったことないんです。陰惨な映画だけれども、陰惨の奥に、やっぱり、チャップリンがいつでも私たちに唱《とな》えている人間愛があふれています。スタイルが陰惨なんですねえ。  この映画のファーストシーンは、お墓なんです。墓場なんです。こんなチャップリン映画、ほかにありません。その墓場の、墓石に「アンリ・ベェルドウ」という名前が彫ってあるんです。一八八○年に生まれて、一九三七年に死んだと書いてあります。この男、もう死んでるんです。そのベェルドウの声から始まります。 「ぼくは、アンリ・ベェルドウです」なんて。「正直な銀行員でした。けれども、一九三〇年の、アメリカの不況のために、ぼくは首になりました」  こんな始まり方、あの「サンセット大通り」(一九五〇)もそうでしたねえ。ウイリアム・ホールデンの青年が、射殺されて、プールにその死体が浮いてます。キャメラは下から、その水に浮いたホールデンを撮ってます。そのときに、ホールデンの声で 「実は、このお話は、こういうところから始まります。──ぼくは、しがないシナリオライターでした」  と、幽霊の声から始まりました。  チャップリンはもっと前に、すでにもう、この「殺人狂時代」で、アンリ・ベェルドウという死んだ男の声から始めることをやっているんですねえ。  さあ、この男は、自分はどうしたら生きられるだろう、こういいました。それで、女をだまして、その女を殺して金をとることを考えだしました。それを自分ではっきり割り切って、商売にしようとしました。まあ大変な商売を考えだしたんですねえ。そうして、これからその商売が、ずーっと映画のなかに出てきます。  パリからは遠い田舎です。ベェルドウの家庭というのは、まあ平和な平和な家庭です。家の庭がまたきれいです。奥さん、一人息子の六歳の男の子、そしてお手伝いさんがいます。そうして、奥さんの両足が、ちょっと動かないんです。車椅子《くるまいす》で、チャップリンのベェルドウさんが押してやってるんです。奥さんを車椅子で押してるときに、ちょうど足元に毛虫がいました。すると、このチャップリンのベェルドウさんは、そーっと、またいだんです。またいだんです、踏まないで。虫も殺さないとは、このことですねえ。  このベェルドウが、表向きはセールスマンになりすまして、遠くへ行って、次から次へ女を殺していくんですねえ。そうして、警察がそろそろ活躍しだしましたねえ。金持の未亡人が蒸発した、どうしたんだ、どうして蒸発したんだろうというところから、追及していきます。けれども、ベェルドウはいろいろに変名して、次から次へと、女を誘惑しては殺していくんですねえ。さあ、殺したあとで、そのお金を勘定《かんじよう》するところ、その勘定のしかたが実に上手なのは、ベェルドウが銀行にいたからですねえ。  そういうわけで、とうとう最後にまた、ある女を毒殺しようとするんですねえ。けれどもその毒殺、ベェルドウはすこーし良心的なことを考えました。まったく痛まないで絶命する、そういう薬ができないものかと、いろいろ調合しました。とうとう、絶対に痛くなくて、いっぺんに死んでしまう、そういうのを自分で作ってみました。けど、それを酒の中に入れてテストしてみたいけれども、自分でテストしたら自分が死んじゃいますから、困って、雨の晩に、そんなことを考えながら家に帰ってきますと、その軒先で、雨をよけてる一人の女がいました、レインコートを着て。  ハハーン、こいつ利用してやろうと思いました。そして「あんた、来ませんか」といいました、女に。女は、自分が夜の女とまちがえられてると思いました。けれども、なんか自棄《やけ》っぱちの女で、ベェルドウについていきました。そうして、ベェルドウの部屋へいったときに、ベェルドウは台所で、ブドウ酒に、その薬を入れました。そして自分のと、二つ持っていきました。自分のはもちろん、薬なし。「さあ、まあまあ元気つけてお飲みなさい」といいました。女は、それを口まで持っていきました。ベェルドウは、よしよし、これでコロリッといけば、次の女殺しにちょうどいいぞと思いました。ところが、口まで持っていったのに、その女はフッとやめて、 「どうしてあんたは、こんなに親切にしてくださるんですか」といったから、 「いや、あんたがかわいそうだから」といいました。 「あら、そう」といいました。 「私、実はね、今、警察から出てきたとこなのよ」 「えっ、なにしたの?」といったら、 「タイプライター、盗んだんです」 「どうして盗んだの」といったら、 「私、タイプライターを借りたんですよ、その人に。ところが、私の夫がずっと病気なんです。もうその日の薬代も、食べ物代もないんです。私、思いあまって、人から借りたそのタイプライター、とうとう質屋に入れたんです。それがばれて、私、監獄に放り込まれちゃったんです。三日四日五日六日、十日、私が入ってる間に、かわいそうに夫は死んでしまったんですよ。私、もうどうなってもいいんですよ。今、監獄から出てきたけれども、もう夫は死んでしまっていないんです」  それ聞いたときに、ベェルドウは、女が飲みかけたそのワインを、 「ちょちょ、ちょっと待って」といいました。 「ちょっとお待ち」といいました。 「その中に、キルクのかすが入っているから、かえてあげます」  といいました。やっぱり、このベェルドウ、その瞬間に人間性がよみがえって、その酒を捨てて、毒の入ってない酒を飲ませて、そうして、いくばくかのお金を与えて帰しました。ベェルドウは初めて、殺人商売に失敗しました。  そういうふうなところがあって、最後の最後、とうとうベェルドウはつかまりました。何人も殺したんです。つかまえられて、監獄に入り、死刑の宣告を受けました。その間に、戦争が奥さんと子供を奪いました。戦火によって、奥さんも子供も死んでしまったんです。ベェルドウは独房に入ったまま、ぼんやりしておりました。  いよいよ死刑台に行くところで、新聞記者が、なにかいうことないかといったときに、そのベェルドウさんは顔をあげて、 「なんにもいうことはない。けれども、おかしいねえ、世の中というのは。わしは、一人二人三人、四人五人六人七人、女の人を殺した。たった七人殺して死刑になるんですねえ。けれども、百万人殺して勲章もらうのもありますなあ。それは戦争ですなあ。私は、あの戦争を企画した人はプロだと思います。わしはアマチュアですなあ。これではだめですねえ。まあいいですわ。私は死刑台にあがっていきますわ。けれど、いずれあんたとも、みなさんとも、向こうで会いましょうねえ」  この映画は、そして終りますねえ。こわいですねえ。なんともしれんこわいもの残しますねえ。なにがこわいか。いずれ向こうで会いましょうねというのは、死の世界でみなさんと会いましょうというんですね。戦争はすべての人を殺していくんですよ。私はたった七人殺して死刑台にあがるなんて、ナンセンスですねえと、いってるんです。なんともしれん皮肉な映画でしたねえ。 ●チャップリンの結婚、離婚、結婚……  さあチャップリンのことで、何度も何度も結婚したとかなんとか、いろいろと噂《うわさ》がありますけれど、チャップリンは何度も結婚する気なかったんですけど、そうなったんです。ちょっと、そのこと、いっときましょうねえ。  チャップリンは二十九歳のときに、十七歳のミルデット・ハリスと結婚しました。一九一八年です。けれども、なにしろ相手は、子役あがりの女の子で十七歳。十七歳では、チャップリンという人がわからなかった。芸術家という人間がわからなかった。それで、いろいろ、いろいろ問題があって、一九二〇年に離婚せざるを得なかった。これは、チャップリンのほうがかわいそうでした。  そのあとでチャップリンは、「キッド」にエキストラで出ていたリタ・グレイという女の人と結婚したんですねえ。そのとき、チャップリンは三十五歳でした。相手のリタ・グレイは、やっぱり十六歳なんです。チャップリンはどうも、若くて、純潔で、まだ恋も知らなかったような、初めて恋をするような女性が好きだったんですねえ。  それがかえって、チャップリンには不幸だったんですねえ。なにしろ相手は子供です。チャップリン、三十五です。もう、このリタ・グレイという人は、わがままで、わがままで、とうとう一人子供ができましたけれども、やっぱり離婚になりましたねえ。その子供が、あとになってよく共演するシドニー・チャップリンです。  そのあとでチャップリンは、今度、ポーレット・ゴダードと結婚しましたねえ。この人は「モダン・タイムス」に出て、結婚したんです。そのとき、ポーレット・ゴダードは二十六歳でした。チャップリンはもう四十七歳です。相手がまだ若くて、まだ人生がなんにもわからなくて、ぜいたく三昧《ざんまい》ばっかりして、とうとうチャップリンの番頭さんの高野《こうの》さんが怒ったんですねえ。 「あんまりだ。ぜいたくすぎる」って。それやこれやで、ポーレット・ゴダードとも離婚になりました。  ですからチャップリンは、三回離婚してるんですねえ。そうたくさんは離婚してませんよ、三回してるんです。  そのあとで、チャップリンはとうとう幸せをつかみましたねえ。ユージン・オニールというあの有名な作家の娘の、ウーナ・オニールと結婚して、ほっとしたんですね。もちろんこのウーナ・オニールも、まだ当時、十八歳の若さだったんです。チャップリンはどうしても、そういう十八とか十七とか十六とかが好きなんですね。ほんとうにまだまだ恋を経験していないようなひとが、自分に初めての恋をするような女性が欲しかったんですねえ。  こんなふうに、あんまり若い相手と結婚するから、相手の理解がなくって、離婚しましたねえ。  けれども、十八歳のウーナ・オニール、チャップリンは五十四歳。五十四歳と十八歳と結婚しましたが、このウーナ・オニールはなにしろ有名な劇作家の娘ですから、芸術家というのをよく知ってたんですね。これで、とうとう落ち着きました。幸せをつかみました。 ●チャップリンの日本人秘書  けど、チャップリンには、まあ、いろんないろんなエピソードがあります。そのなかの一つ、チャップリンには日本人の秘書がいたんですねえ。さっきの高野さんという人。  チャップリンには三人の秘書がいました。マーベリック・テレルいう人と、トム・ハリントンいう人と、高野|虎市《とらいち》という人なんですけれど、チャップリンがいちばーん大事にしたのが高野虎市さんでした。チャップリンがいうんですね。 「日本の人は、アメリカ、フランス、イタリーの人と違って、部屋を、四角の部屋をちゃんと四角に、ほうきで掃く」というんですね。外国人は、四角の部屋をまるく掃く、というんですね。高野さんは特に、四角の部屋はきっちり四角に掃くような立派な人だと、チャップリンはいつでもいってるんですねえ。  そういうわけで、チャップリンとこの高野さんとの関係は、一九一六年、大正五年、ほんとにチャップリンが活動写真に入ってから、ずっと二十年以上も続きました。チャップリンより高野さんのほうが二つ年上です。けれども、チャップリンはもう「コウノ、コウノ」いって、いつでも、ほんとに自分の分身のようにしておりました。  それが、あの「独裁者」のとき、チャップリンのその頃の奥さんでもあったポーレット・ゴダードのことで、けんかになって、とうとう別れたんですねえ。けれども、そのあとで、チャップリンは何度も何度も、高野さんを呼びにいった。呼びにいったけれども、高野さんは、「もう、わしはこの歳《とし》で苦労するのはいやだ」といって別れたそうですけれども、まあ、いろいろおもしろいことありました。  あの「キッド」のかわいいかわいい少年、ジャッキー・クーガン、あれもまず最初は、高野さんが発見したんです。下町の、ダウンタウンの映画館で、映画の幕間《まくあい》に、かわいい子供が親といっしょに舞台で踊ってたんです。それを見た高野さん、あんまりかわいいから、チャップリンに、 「見に行け、見に行け」っていいました。ところが、見に行ったチャップリン、いっぺんに気に入ったんですねえ。 「あれ使おう」といったんですね、「キッド」に。  そういうわけで、いろんなこと、高野さんがチャップリンにすすめると、チャップリンがいつでも、いうこときくんですねえ。あるときも、高野さんがダウンタウンヘ行って、おもしろ半分に剣劇一座の芝居を見たんですねえ、日本の。あんまりおもしろいんで、いっぺんこれ、チャーリーに見せてやろうか、と思いまして、そういいました。日本の剣劇をチャップリンも喜んで見に行ったんですねえ。これがまた、チャップリンの気に入って気に入って、とうとう、こんなのをこんなダウンタウンの、こんなとこでやるのは惜しいというので、自分でもう一座を引き受けて、まあ、山の手の立派な立派なエーベル劇場という最高の劇場へ連れてきました。  そこは、アンナ・パブロワとか、もう最高の芸術家の演じる劇場で、チャップリンは、この遠山満《とおやまみつる》・小春《こはる》という一行の、日本人の剣劇一座の芝居をやったんですねえ。それで、入場料も五ドルという最高の料金、そして観客もタキシード着て来い、イブニング着て来いなんていうことをいって、まあチャップリンは、メリー・ピックフォードから、ジャッキー・クーガンから、まあデミルからと、あらゆる人に二千枚ずつの切符を売りつけて、この一座の興行を大成功させました。  まあチャップリンは、おもしろい人ですねえ。チャップリンのお話してますと、まだまだたくさんありますが、はい、もうすっかり時間がきましたね。というわけで、チャップリンのこと、また思い出してくださいね。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   ジェームス・ディーン  はい、みなさん今晩は。  今夜はジェームス・ディーンのことを、みなさんと思い出しましょうね。  昭和三十年九月三十日、あの人二十四歳の若さで亡《な》くなりましたね。たった二十四歳だったんですね。けれどもジェームス・ディーンといいますと、「エデンの東」(一九五五)、「理由なき反抗」(一九五五)、「ジャイアンツ」(一九五六)、あの三本が忘れられませんね。では順々に思い出しましょうね。 ●「エデンの東」に惚れ込んだ木下恵介さん  この「エデンの東」を私が初めて試写で見たときは、忘れもしません、昭和三十年、一九五五年でした。そして、この映画を見てびっくりしました。あんまりこの俳優がみごとなので、いっしょに隣で見たお友だちと、帰りに真っすぐ帰れなくてお茶を飲みました。そうしてそのお友だちが、「ああいう俳優をもった監督は幸せだなあ」とつくづくおっしゃいました。そのお友だちというのは木下恵介さんです。  あの大きなスクリーン──あの映画は初めての大きなスクリーンですね、シネスコサイズの──あのきれいなきれいな菜の花畑、それから、ず─っと汽車を見るところをキャメラがずーっと移動します。大きな大きな横長のスクリーン、あれを見て、 「映画はああいう大きなスクリーンじゃないとだめですね。カラーでああいう大きなスクリーンじゃないとだめですね」とつくづく木下さんがおっしゃいました。 「今度はぼく絶対にカラーで、大きなスクリーンでやるんだ」そんなこともおっしゃいました。それから一週間ほどたった頃、木下さんから電話がかかりました。 「私ね、大きなスクリーンでカラーを撮るといったが、会社がとってもそんなこと許してくれない。製作費が高くついて、私困っちゃったから今度は小さなスクリーンで作るよ」といわれて、どんなことするんだろう、と思っていました。  ところが、それから木下監督が作った作品が「野菊の如き君なりき」(一九五五)という映画でした。あれは「エデンの東」を見てから作ったんですね。あれはおもしろいことに、画面の上下左右をずーっとボカしまして、なにかちょっと楕円形で、画面が小さくなっているんですね。いかにも回想的な、明治の頃のムードを見せたような画面になっているんですね、黒白で。ああいうふうにスクリーンを小さくしたというのは、逆に「エデンの東」を見たために生まれたんだと思うんです。  試写を見た翌日、ワーナー・ブラザーズの日本の支社から、五枚のジェームス・ディーンという俳優の写真を持ってまいられました。ジェームス・ディーン、初めてです。この人をどう売ろうかというので、五枚のスティールがきました。  にこにこ笑って明るい明るい青春の笑顔でした。そのなかにたった一枚、ちょっと下を向いて、そうして猫背でそんな写真がありました。首にスポーツシャツを巻いておりました。私これがいちばんこの俳優らしいといったら、ちょっとこれ寂しいですねといって、ワーナーは明るい青春スターとして、このジェームス・ディーンを売ろうとしました。  そうこうしているうちに、ジェームス・ディーンが亡くなったことがわかったんですね。だから「エデンの東」は、ジェームス・ディーンが亡くなってから日本で公開されました。  この映画はスタインベックの長編名作ですね。もう、何度も何度もごらんになった方が多いと思います。私の知っている人で、「エデンの東」を三〇回も見たとおっしゃる方もいますので、ここで筋は申し上げませんが、あのエリア・カザンの演出はみごとでしたね。  お父さんは非常に厳格な人で、名前をトラスク、これはレイモンド・マッセイが扮しています。舞台で有名ですね。映画にもよく出ています。そうしてお兄さんはアーロン、弟はキャル、弟のキャルがジェームス・ディーンですね。お兄さんは秀才型で、まじめ一方です。キャルのほうは、なにかしらないけれども落ち着かないような、なにか夢見るような、いかにも青春のなかにもだえてるような青年でしたね。そうしてお兄さんにはエイブラという恋人がいました。婚約している。これをジュリー・ハリスが扮していましたが、このジュリー・ハリスが、いかにもアメリカのこのあたりの女の子という感じがよく出ましたね。  お兄さんの彼女を、このキャルは愛していました。でもお兄さんの彼女だからなんにもいえません。けれどもほんとうに愛していました。好きだけれどもいえない、なにか寂しいんですね。この孤独のキャルはいつも寂しがっていました。そうしてお兄さんと彼女が氷室《ひむろ》の中で抱き合っているのをキャルは見てしまった──この氷室、氷の部屋というのがおもしろうございますね。  お父さんが野菜をどんどん、どんどん都会へ送るのに、そのままでは腐るので、貨車の中に氷を入れて運ぶのです。第一次大戦の頃で、まだ冷蔵庫や冷房装置、そんなものはない頃ですから、貨車に入れるために、氷を用意しておく部屋があるんですねえ。大きな農場ですから。  キャルが氷室から出ようとしたら、お兄さんと彼女が来たんですね。隠れました。隠れなくてもいいのにキャルは隠れるんですね。キャルはそういう青年ですね。氷と氷の間から、じっと見ていますと、お兄さんとそのエイブラは接吻《せつぷん》しました。じっと見ているところがなんともしれんジェームス・ディーンの感覚が出ていて、あのシーン、なぜか忘れられませんねえ。  やがて、このキャルはお母さんに会いたくて会いたくて、でも自分のお母さんは行方不明で知らないんです。死んだということになっています。けれども、絶対に生きていると思っているんです。お母さんはきれいなきれいな人。ケイトという名前。手が象牙《ぞうげ》のような。そういうことを聞いておりました。お父さんに突っ放されたこのキャルは、せめてお母さんに会いたい、探して探してとうとう汽車に乗って、お母さんに会いに行くところがあります。  そのお母さんは酒場をやっていると聞きました。いろんな人に聞いて、やっとわかった。  キャルはお母さんに初めて会いました。ところが、この母親は自分の息子を恋しいとか、よく来たとか、そういう顔をしないで、 「出て行け」といいました。 「うるさいわね」といいました。 「あのおとっつぁんのところへお帰り」といいました。キャルはびっくりして、泣きながら家へ帰って来ました。そういうところ、キャルの哀れな青春がみごとに出ております。  今度は、お父さんのほうですが、氷を入れて野菜を運ぶその貨車が故障して途中で止まってる間に、氷がどんどんどんどん溶けて、野菜が腐ってしまったので大損害をうけました。このキャルは困って困って、あの母親のところへ行って金を借りようとします。  そのようにいろいろありまして、このキャルはお父さん思い、しかしすることなすことお父さんに怒られます。お兄さんは、することなすことお父さんにほめられています。キャルはどうしたらお父さんにほめられるだろうと思いました。そうして、ひそかに豆を仕込んで闇《やみ》売りで儲《もう》けました。そしてお父さんの誕生日に、 「お父さん、ぼくが自分の力で儲けたお金です。豆を売って儲けたお金です」  とキャルはいいました。父親はこの息子の顔をじっと見て、そうしていいました。 「今は戦争中だろう。おまえは安い安い金で豆を買ったんだろう。世間の人はみんな飢えている。それをおまえはその豆がどんどんどんどん、値があがっていくその値で売って、この金をつくったんだろう、そんな汚い金をわしにくれようというのかい」  というきびしい父親の顔を見たときに、このキャルがどんなつらい思いをしたか。  父親に会う前に、兄の恋人に、「今日はお父さんに喜んでもらうんだ。お父さんきっと喜んでくれるよ、ぼくを愛してくれる」とそういったそのあとで、この父親にものすごく冷たい顔でにらまれたときに、キャルはもうたまらなくなって男泣きするところ、飛び出していって柳の下で声を出して泣くところ、みごとでしたね。  ディーンの演技、実にみごとでしたね。あの、ほんとうに父親が喜ぶと思ったのにしかられて泣くあたり、なんともしれんキャルの子供っぽい純情さがあふれて、この作品はみごとでしたね。しかも第一次大戦中のカリフォルニアの感じがよく出ていましたねえ。 ●ニコラス・レイの「理由なき反抗」  さあ、ここで今度は「理由なき反抗」ですが、これは「エデンの東」と同じ年に作られたニコラス・レイ監督の作品です。この作品についても、ちょっと思い出しましょうねえ。  ニコラス・レイという人は、この映画で成功しました。このあとで、「キング・オブ・キングス」(一九六一)だとか、「北京の五十五日」(一九六三)だとか、大作を作るようになりました。「理由なき反抗」、これは十七歳のジムという学生、ジェームス・ディーンです。その学生の青春を描いております。ナタリー・ウッド、サル・ミネオも出ております。  この映画はフランスでとっても当たりました。「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」、このなかでフランスでは、「理由なき反抗」がいちばん当たったんですね。私にしますと、「理由なき反抗」がいちばん落ちた気がしないでもない。けれどもフランスはおもしろいですね。どうしちゃったんでしょう。はい、それはここにある父と子の断絶、その青春の悩み、あのイライラ、そんな青春像の作り方に、フランスの若者たちが拍手したんですね。フランスはそういうところがあるんですねえ。昔、マーロン・ブランドが「ワイルド・ワン」(「暴力者」一九五四)というのを作りました。オートバイに乗って走り回る、つまりカミナリ族の映画を作ったことがあるんです。マーロン・ブランドがまだそれほど有名にならない頃です。これがまたフランスで当たったんですね。というわけで、フランスはそういう青春像をとっても愛するんですね。  はい、「理由なき反抗」、これはみなさんよくご存知と思います。十七歳のジムがお父さんのすることなすことが気にいらない。なんて意気地なしなんだろう、お母さんにしかられて、お母さんのエプロンつけて料理しているところを見て、なんてお父さんはつまらないんだろう、男らしくないんだろう。そしてイライラする。十七歳のジムの苦しみだけを描いております。  両親はなぜ子供がイライラして反抗するのかわかりません。そういうふうなことだけの映画ですけれども、いかにもジェームス・ディーンにぴったりの気がしました。そうしてまたこの映画の作られ方がおもしろいんですねえ。  実は、「エデンの東」のあと、いつもジェームス・ディーンはなにか寂しそうなんですね。なんで寂しいのかわからない。ニコラス・レイ監督は、ジェームス・ディーンの個性がとっても好きなんです。そしてジェームス・ディーンが、いつもナタリー・ウッドとかサル・ミネオなどと、ハリウッドでキャアキャア遊んでいるのを見て、この連中だけでいっぺん映画を作ろうと思って、ニコラス・レイ自身が、自分でジェームス・ディーンのために書いたのが、「理由なき反抗」なんですね。この映画は昭和三十一年に日本で封切られました。 ●「ジャイアンツ」は遺作になってしまった  さあ、私たちはここであのジェームス・ディーンの遺作になってしまった作品、みごとな作品、「ジャイアンツ」、あれをちょっと思い出しましょうね。これは日本では昭和三十一年に封切られました。私はこの作品はいろんな意味で思い出があるんです。  ワーナー・ブラザーズはこの「ジャイアンツ」、もうジェームス・ディーンの人気、この大作のスケールに自信をもちまして、日本中宣伝したい。淀川さん、新潟とか北海道とか九州とか講演に行ってくれませんかといわれました。私は「ジャイアンツ」を二回見まして、この作品に酔っぱらっていました。エドナ・ファーバーの原作、これがアメリカだ、という感じの原作にも酔いました。そうしてジョージ・スチーブンス監督のこの「ジャイアンツ」のタッチがみごとなので、私は喜んでまいりましょうといいました。  雪の降る日に新潟へ行きました。駅に着きますと、車が三台ありました。雪が降っとりました。その車の横に、大きな大きな布で、�ジャイアンツ�、そうして�淀川長治来たる��講演�なんて書いたのがありまして、先頭の車のほうで、「ジャイアンツ」のテーマミュージックが演奏されておりました。私は町回りみたいなことをしましたけれども、そういうことをのけて、この映画の良さは、幾回見てもみごとでした。日本では一九五六年に封切られてから、一九六五年、一九七二年にもリバイバルされております。  この舞台はテキサスですね。大牧場主ビック・ベネディクト、大きな大きな五十九万エーカーのリヤタ牧場というのを持っております。この大牧場主にロック・ハドソンが扮しております。このビック・ベネディクトがメリーランド、東部へいい馬を買いに行きますね、種馬を買いに行くんです。そうして名門のお嬢さんのレズリーに一目惚れしますね。レズリーはエリザベス・テーラー、レズリーを嫁にもらって帰ってくるところから始まっていきますね。  さあ、汽車に乗る。長い間汽車に乗る。専用の列車ですね。その寝台の中で夜が明けてきた。ああ、いよいよテキサスに着いた、もう降りるんですか、いやまだ半日は乗ってるよ。というわけで、テキサスの広さを初めからどんどん、どんどん見せて、そうして自分の牧場の入口に列車が止まります。そこから車で家に帰って行くんですけれども、それから家に着くまでが長い。まだまだ、まだまだ家に着かない、何時間乗っているかわからないくらい長いこと乗って──そういうところでもテキサスの広さがわかりますね──家に着いた。  テキサスの広さというのは、いろんな映画のなかでよく出てきますね。この東部の娘レズリーは、このテキサスにびっくりしました。ほこりとそれから太陽と、いかにも野性的な感じにびっくりしました。  ここにビック・ベネディクトの姉さんがいるんですね。ラズという姉さん、これにマーセデス・マッケンブリッジが扮していますが、なかなかうまかったですねえ。この姉さんがこの大牧場を切り回してるんですね。むしろ弟を自分の息子ぐらいに思っている、そんな勝気な姉さんですね。弟が、なんだか、ひよわそうな東部の娘を嫁にもらってきたから、初めっから、気に入らないんですねえ。  けれども、だんだんだんだん、この若妻と姉さんが衝突しながらも仲良くなっていくところがおもしろいですね。このエリザベス・テーラーのレズリーがなかなかよくやるんですね。けれども、この姉さんには、一人のかわいがってる牧童がいるんです。子飼《こが》いの、少年の頃から拾って育てたんでしょう。ジェット・リンクといって、自分の子供のようにかわいがっている牧童、これがジェームス・ディーンでしたね。  そうしてこのジェームス・ディーンが、この東部のきれいなきれいな奥さんに、みとれてしまったんですね。このあたり、よろしゅうございましたね。このジェット・リンクは大牧場主の姉さんにかわいがってもらっているので、ヌクヌクと、割合生意気で、割合ひねくれて冷笑的で、なんともしれん妙な感覚の牧童になっております。  ところが、この姉さんのラズが死んだんですね、馬で。その馬というのは、この東部から来た若奥さんがとってもかわいがっていた馬なんですね。その馬にこの姉さんが乗って、その馬をいじめていじめていじめまくって、めちゃくちゃに走らしたんですねえ。そうして馬から落ちて死んだんですね。  もう、ジェット・リンクはだれにもかわいがってもらえなくなりました。ビック・ベネディクトはジェット・リンクをこの家から、この牧場から、このテキサスから、あいつ、生意気だから、追い出そうと思い、ジェット・リンクを呼びました。そうして、 「おまえ、幾ら欲しい?」 「これだけやるから、おまえ、一旗あげんか」  といいますと、ジェット・リンクは、 「あの、ご主人のラズさんからなにかお手紙か遺言はありませんか」  とたずねました。すると、ビックは、 「ここに手紙があるけどな、おまえにあの土地をやろうと書いてある。あの荒れたちっぽけな、汚いあんな土地を持つよりも、この金のほうがずっといいじゃないか」  とビックがいったときに、ジェットは妙な笑い方をしました。泣いているのか、笑っているのか。そうして、 「わしは、この金より、あの土地がいいわ」  といいました。  このジェット・リンクがどんなに土地にあこがれているか、この広い広い、大きな大きな、テキサスのこの屋敷の中の、ほんの一部の、小さな豆粒ほどの土地、それでも自分が土地持ちになる、土地を持つということにあこがれているこの牧童の、痛ましい、いじらしい感じが、ここでよく出ましたね。そうして小さな土地をもらいました。そうして、そこを測って、ここは自分の土地だと喜ぶところ。足で一歩二歩三歩、十歩と測れるくらいだから、ちっちゃな土地ですわ。けれどもそこにやぐらを組んでその上から、じっと、荒れたちっぽけな、ひびわれした土地を見ているこの若い牧童の感じを、ジェームス・ディーンはよく出しておりました。  この土地にジェット・リンクは小さな小さな家を建てたんですよ。そこへある日、若奥さんが通りかかりました。若奥さんのレズリーは「あんた、割合にこぎれいにしてるわね。まあ、花なんか置いて」といいました。そこでこのジェットが恥ずかしがって、そうして喜んでわざわざ紅茶を入れるところがあります。そこがまたいいんですね。  テキサスとかアメリカの西部では殆《ほとん》ど紅茶なんか使いません。全部コーヒー、コーヒー、コーヒーです。紅茶というのは貴婦人の飲むものです。それをこのジェット・リンクが、いつかきれいな奥さんのためにサービスしたいと思って、どうにかして手に入れたのでしょう。このお茶入れましょうというあたり、いかにも感じがよく出ましたね。  はい、そうしてこの若奥さんは帰りました。ジェットは、ああ寂しいなぁと思ってフッとレズリーの足跡を見ました。まあ、そこらじゅう泥だらけ、泥水になっている玄関の横、その女主人の足跡、じっとなつかしそうに見ていると、その足跡に泥水が浮いている。その泥水がギンギラギンに光っている、紅色に。手でさわってなめてみたんですね。「油だ、油だ、石油だぁ」。さあ、これからこの話は変わっていきますね。  さあ、このジェット・リンクは石油をつかんだんですね。その小さな小さな、小さな小さな土地に石油が出る。このあたりからこの映画は変わってきます。ジェット・リンクは噴き上げる黒い黒いまあ、黒い水のかたまりのようなものを全身に浴びて大喜びして母屋《おもや》に駆けて行きます。そうしてビック・ベネディクトに向かって「ばか野郎」といいました。 「わしは大金持になったんだぞ、おまえに負けんくらい大金持になったんだぞ」  あんまり憎らしいその態度。 「おまえの女房は、きれいだな」  といったときに、とうとうこのビック・ベネディクトは、みんなの前でジェット・リンクを殴り倒しますね。するとこのジェットもご主人のビックをなぐり倒しますね。  もうおれは殴られないんだ、おまえと対等の人間になったんだというあたり、いかにもアメリカの石油の噴出時代の雰囲気がみごとでしたねえ。そういうわけで、この物語はけんらんとなっていきますね。そうして最後は、ジェット・リンクはなんともしれん大富豪、いかにも大金持になりながら、悲しい終りを告げていますね。  大きな大きなホテルを作りました。そうしてたくさんの人を呼びまして、ビック・ベネディクトも自家用の飛行機でやって来ましたね。そのホテルの豪華なこと。そこでいばりくさっているジェット・リンク。ジェット・リンクはいばりくさっている。けれども、このジャイアンツの中身はむなしいんですね。ずっとずっと、レズリーを思って思って思いつめて、もう頭は白髪になっているんですね。そのむなしさをしょっちゅうお酒でごまかして酒びたりになっている。そのジェット・リンクが、広い広い大広間で、たくさんの客人の前で演説するときには、もうへべれけになっていたんですね。しかもその前にビック・ベネディクトと争いがありましたし、メキシコ人のことでもけんかになりました。  というわけで、ジェット・リンクが酔っぱらってフラフラになって、演説の前にパッタリ倒れて、マイクを倒して、いびきをかきはじめましたね。さあ、司会者は困りましたねえ。客人はあきれて、一人去り二人去り、五人去り十人去り、ぞろぞろぞろぞろ、みんな会場から出ていきました。  主人公のジェット・リンクは、もうだれもいなくなったところで、へべれけになってわけのわからぬことを、暗記した演説の草稿をいおうとする、いかにも無残な最後の姿が、あの「ジャイアンツ」のなかにありましたね。  けれども、このあとで実は、もうワン・カット、ジェット・リンクのカットが必要だったのですが、ジェームス・ディーンはこの撮影で、このあとで、事故で死んだんですね。 ●生い立ちと下積みの時代  思い出しても、ほんとうにジェームス・ディーンは惜しい俳優でしたね。二十四歳で亡くなったんですね。  この人は一九三一年二月八日に、インディアナ州のマリオンで生まれておりますねえ。お父さんは歯医者、お父さんはウィントン・ディーン、お母さんはミルドレッドという名前でした。このディーン家は、一八一五年、もうその頃、ケンタッキーからこのインディアナ州に来ている旧家なんですね。代々農業や牧畜をやっておりました。お母さんのミルドレッドの家のほうも、農業と牧畜をやって、いかにもこのマリオンのきれいなきれいな自然が目に見えるようですね。  ジェームス・ディーンが九歳のとき、お母さんは死にました。それも癌《がん》で、二十九歳でした。そうしてディーンはお父さんの妹の一家に預けられました。そうしてお父さんは兵隊に行ったんですね。叔父さんと叔母さんのなかでディーンは少年時代を過しました。とてもかわいがられました。ディーンは九歳十歳十一歳の頃から、物まねが上手で、いつもみんなを喜ばせました。ピアノもダンスもとっても上手、けれどもお母さんが死んでからは、バイオリンだけは一回も手をつけなかったんですね。この子は、バイオリンがこわかった。あの弦を奏《かな》でる音がいやだったんですねえ。お母さんを思い出すのかもしれませんね。非常に多感な子供だったんですねえ。  小学校時代は優等生でした。高校に入ってからは、スポーツに夢中になりました。陸上競技の選手になったんですね。その頃から演劇にも興味をもちまして、ディッケンズの「ザ・マッドマン」というのを朗読して、学校の演劇会で優等賞をもらったんですね。それで叔父さんがとっても喜んだ。叔父さんよりおじいさんがもっともっと喜んで、このディーンに自家用車をプレゼントしたんですね、これがいけなかったんです。自家用車、この高校生のディーンは喜んで喜んで乗り回しました。学校の成績がだんだん落ちてきました。それで今度は演劇のほうにもっともっと興味をもちまして、演劇の教師から、君は俳優になったらいいんだといわれました。  それでサンタモニカのカレッジに入りまして、カリフォルニアでお父さんが再婚している家に行きました。二度目のお母さんは、エセルといいました。このときディーンは十九歳でした。お母さんとうまくいかなくて、学校の寄宿舎に入りました。そうしてその演劇学校の先生、ジム・オーエンという人に推薦されてラジオに出ました。そうしていろいろとクラシックを勉強しました。  お父さんはこの息子が俳優になることに反対しました。法律家になってもらいたかったんです。それで二年間法律の勉強をさせられました。けれども、どうしてもいやでハリウッドに出てきました。  ディーンは、エージェントを頼って、ハリウッドでエキストラになりました。で、初めどんな役をやったか?「底抜け艦隊」(一九五一)なんてのに出たんです。ジェリー・ルイスが拳闘するところで、相手の男のマッサージをする役をやったんですね。それからもう一本撮りました。「だれか僕の恋人を見たか」(一九五二)という映画があります。これに出たんです。ドラッグストアーに入りまして、ややっこしいアイスクリームを注文する青年です。ちょっと不良の役やったんですね。そのあともう一本出ました。「剣つき銃」(一九五三)というのに出ました。あるとき、私にワーナー・ブラザーズから電話がかかってきました。今夜「剣つき銃」をやるから見に来ないかといいました。戦争映画? そんなのいやだね、といったんですけど、再三いうので、私はしかたがないから夜の八時、そのワーナーのスタジオに行きました。そこに十五人ほどその映画の関係者がいました。そうしてそこでフィルムを見ました。これはその当時の朝鮮戦争。アメリカの兵隊が雪のなかで、地雷がずーっと埋めてあるから、だれか一人決死の男を募った。そのときに手をあげたのがいました。そうしてそれが腹ばいになって雪のなかを行くところ、その兵隊の顔がとってもいいんですね。アップで映るんですね。翌日、私はホテルからワーナーに電話しました。 「腹ばいになって行くあの悲しげな兵隊がいましたね、あれなんちゅう俳優?」  するとワーナーでは「ちょっと待ってください」といって調べているんですね。 「ええと、あれですね、ジェームス・ディーンというんです」といいました。ああそうですか、と私いったものの忘れちゃった。だからあの十五人ほどいたスタジオの、あの試写室に、きっとディーンもいたに違いないんですよ。 ●舞台俳優としてのディーン  ディーンはこういうエキストラをやっていてもはじまらないので、今度はジェームズ・ホイットモアという先生に認められてニューヨークに行きました。芝居に入りました。芝居のほうでいいチャンスがやってきました。 「ジャガーを見よ」という芝居がありまして、これで氷室に閉じ込められる性格異常の十七歳くらいの男の子の役をやりました。主演はアーサー・ケネディでした。しかしこの芝居は五日間でポシャっちゃいました。ブロードウェイでは、当たったらどんどんやりますけれども、人気がなくて客が入らないと思うと、パッとやめちゃうんですねえ。  それから今度、テレビに出るようになりました。スタジオワンなどに出ているうちにだんだん人気が出まして、今度また舞台にもどって、アンドレ・ジイドの「背徳者」(一九五四)に出ました。若いアラビア人になりました。そしてデビッド・ブラム賞、ペリー賞などの賞をとったんです。さあ、これで自信がついた。世間でもジェームス・ディーンという舞台俳優を認めてきた。そこで彼はもういっぺんアクターズ・スタジオに入りまして、一生懸命勉強しました。 ●ピア・アンジェリとの恋に破れて  そのとき「エデンの東」の企画はできあがっておりました。「エデンの東」は最初は、モンゴメリー・クリフトを使うはずだったんですね。ところが、エリア・カザンという監督とアクターズ・スタジオの関係などいろいろありまして、ジェームス・ディーンはこの「エデンの東」に出るチャンスをつかんだんですね。抜擢《ばつてき》ですね。  そのときにジェームス・ディーンは、ピア・アンジェリと知り合いになりました。そうしてピアに夢中になりました。けれどもピアはディーンを好きじゃなくて、ビック・ダモンと結婚してしまいました。それでがっかりしてディーンはショボくれてました。そこでニコラス・レイ監督が、このままではあの役者は自滅してしまうというので「理由なき反抗」を作ってそれに主演させました。  けれどもディーンはあんまり元気がなくて、自分の愛車の、ポルシェというのですか、もう車ばっかり乗っておりました。そうして、自動車レースに出て、三種目のうち二種目優勝しました。監督にえらく怒られました。俳優なのだから、そんな危険なことはするなといわれました。  そのうち「ジャイアンツ」になりました。ジェット・リンクの役。これでとっても人気が出ました。この撮影の終り頃、突然ピアの夫のビック・ダモンがやって来たんですね。妻の様子がなにかおかしい、どこかわるいと思う。そんなことをいいに来たんですね。  ディーンはびっくりしたんですねえ。そのときディーンはもう酒飲んでいたんですね。酔っていたんです。けれどもビック・ダモンにいいました。 「彼女、ほんとに幸せなのかい?」  ダモンはいいました。 「もちろん、幸せだよ、ぼくは生涯幸せにしてみせるよ」  それを聞いて、アバヨといってディーンは酔っぱらって出ていきました。ディーンは車をとばしたんですね。一九五五年の九月三十日の夜ですね。 ●寂しさと優しさと、そして死  ディーンはカリフォルニア州のパソ・ローブルというところで、ぶつかって死にました。かわいそうに、まだ二十四歳だったんですね。ピア・アンジェリのことを思って、その夫のビック・ダモンが、生涯彼女を幸せにしてみせるといったことで、二十四歳の若いディーンは、がっかりし、安心し、そうしてピアの幸せをねがって、自分は自殺したのかもしれませんね。  この人、本名はジェームス・バイロン・ディーンといいます。この人はジャン・ジュネが好きだったんですね、作家では。それからピエトロ・ディ・ドナートが好きだったんです。このピエトロ・ディ・ドナートには「コンクリートの中のキリスト」という有名な小説があります。ディーンはなかなか文学的な方面にも造詣《ぞうけい》が深かったんですね。  ディーンの家の宗教はクエーカー教です。クエーカー教というのは絶対にけんかをしない、人と争わない。そんな家庭に生まれたんですね。だからジェームス・ディーンのなかに、なにかそういう優しさがあるんですね。どんな不良の主人公になっても、どこかに優しさがあったんですね。だからあのジェームス・ディーンのまなざしに寂しさと優しさがあった。女性ファンはもうジェームス・ディーン、ジェームス・ディーン、夢中になったんですね。おもしろい思い出があります。  女子高校の大きな大きな講堂でお話したときに、たくさんのたくさんの生徒さんが、みんなガヤガヤしとりました。さあ、これからお話しましょうといっても、ガヤガヤ、ガヤガヤしていらっしゃいました。そのときに、�あのジェームス・ディーンも亡くなりましたね�といったら、いっぺんにシーンと静かになりました。ああ、ジェームス・ディーンはやっぱりすごいなぁと思いましたよ。  この人はほんとうに晩夏、秋の初めになってくるといつでも思い出します。一九五五年、昭和三十年九月三十日に亡くなった。それから幾年たったでしょう。それなのに、まだジェームス・ディーンの人気は消えませんねえ。えらい俳優でしたね。  まあ、あんたも二十四歳で、好きな娘《こ》がいて車がある? だいじょうぶ、あんたみたいなチャッカリした人、なかなか死にませんよ。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   美術としての映画  はい、みなさん今晩は。  今夜は映画美術について、みなさんと楽しみましょうね。私もなかなか映画美術について語れませんけれども、今夜は格闘しながら映画の美を探ってみましょうね。  なに? あんた、もう逃げるの? いっぺん聞いていらっしゃいよ。やっぱりためになりますよ。 ●美術感覚はやっぱりフランス  映画美術といいますと、たとえば、ジョン・フォードの「駅馬車」(一九三九)も映画美術ですね。もう映画でないと出せない感覚を出していますね。けれども、今ここで私が映画の美を探るのは、いろんな種類の映画美ですね。キャメラの芸術ですね。そういうものを探りたいのです。そういえば、ウォルト・ディズニーのあの「ファンタジア」(一九四〇)、あれなんかもやっぱり映画美術ですね。あのディズニーは、おのおのの音楽から幻覚的な美を絵画で描いていますね。こういうものになると、やっぱりヨーロッパですね。私、今ここで映画美術なんていう言葉が浮かんだのは、どうしてもマン・レイの「ひとで」(一九二八)だとか、あるいはデュラックの「貝殻と僧侶」(一九二八)というのが頭に出てくるんですね。  といっても、みなさんピンとこないでしょうけれども、大正の末から昭和の初めには、シュール・レアリズムというのがはやったんですね。そうしてなんともしれんキャメラ芸術というのか、感覚というのか、そういうものの短編がどんどんきたんですね。マン・レイの「ひとで」というのは、筋もなんにもありませんの。ひとでが画面いっぱいに現われるんです。黒白映画ですよ。ひとでが、いつのまにか花になっているんですね。花になってると思うと、そこに波が重なってくるんですね。そういうような、つまり動くキャメラ美術ですね。  それから、「貝殻と僧侶」というのは、もっとややこしいんです。坊さんの頭が上から下に真っすぐに真っ二つに割れるんです。気持わるいですね。割れるとそれが渦巻の大きな貝になるんですね。その貝の上をレースが、きれいなレースが包んでいくんですね。レースと思っていたら扇だったんですね。白い扇。白い扇だと思っていると、波だったんですね。そんなふうなものを見て、昔、私たちは感激したんです。  たとえば、ルイス・ブニュエルという監督と、ダリという妙な妙な不思議な絵をかく人がいますね。サルバドール・ダリというね。この曲者《くせもの》二人が作った作品で、「アンダルシヤの犬」(一九二八)というのがあるんですね。これなんか見てごらんなさい。みなさんごらんになった方ありますか? まあ、きつねにつままれたみたいなもので、ピアノを弾いていますと、ピアノの上に馬の死体が乗ったり、妙なもんなのです。意味はないけれども、感覚があるんですね。  たとえば、女の目がありますね。そのまぶたを男の人が押えるんですね。するとクリッと目玉が出てくるんですね。ちょうど、目のお医者さんにいったときの感覚ですね。その男が、女の目を開かしてなにするのかと思ったら、片っ方の手で、細い細い先のとがったピカピカ光った西洋|剃刀《かみそり》で、キュッと目を切ってしまったんですね。ああいうのを見ているとほんとに気持わるいですね。けれども感覚的にいちばんこわいのは、その目の上に剃刀を当てる、そこがなんともしれん感じで、「アンダルシヤの犬」なんていうのは、「ひとで」とか「貝殻と僧侶」のあとを継いでる作品ですね。  ジャン・コクトーの「オルフェ」(一九五〇)、あれだってこわいですね。きれいですね。それから、最近ではフェリーニの「アマルコルド」(一九七四)、それから同じ監督の「81/2」(一九六三)、イングマル・ベルイマンの「処女の泉」(一九六〇)だってやっぱりそういうものもってますね。みなさんがよくおわかりになるものでは、デビット・リーンの「サマー・タイム」(「旅情」一九五五)、あれなんかもベニスの感覚なんかきれいですし、ラモリスの「すばらしい風船旅行」(一九六〇)も映画美術ですね。  ルネ・クレマンの「太陽がいっぱい」(一九六〇)、あれだってきれいですし、まあ、いちばんみなさんがこれこそ映画美術だとお思いになるのに、キャロル・リードの「|第三の男《ザ・サード・マン》」(一九四九)がありますね。あれなんかは映画の教科書ですね。「サンセット大通り」(一九五〇)もそうですね。けれどもそういうふうなよくできた映画、そのなかで、美術的な感覚をもっときめ細かくもっている作品を、ちょっとここで探してみましょうね。  考えるとやっぱりアメリカ映画は少ないですね。フランスが多うございますね。イギリスにもありますけれども、フランスはやっぱり美術感覚をもっているんですね。そういう映画美術といいますと、ジャン・コクトーが頭に浮かんできますね。  ジャン・コクトーという人は詩人で、それから劇作家で、あらゆる方面のフランスの芸術家ですね。そのコクトーが、「美女と野獣」というので、初めて映画を撮ったんですね。コクトーが映画を撮ったというので、びっくりしたんですね。  私、これ見ました。昭和二十三年でした。ずいぶん昔でした。昭和二十三年といいますと、一九四八年になりますけれども、この映画ができたのはそれより二年前です。一九四六年、まあ、戦争が終った頃ですね。  そうして初めてフランス映画見たときにこれ見たんですね。アンリイ・アルカンというキャメラマンのキャメラがきれいなんです。画面自身がもう驚くべき感覚なんですね。戦争中にまあ、私たちはもう食物がなくて、さつま芋も食べられなくて、さつま芋の葉っぱまで食べて、それから防空壕にもぐり込んで、なんともしれん生活をしとりました。それが昭和二十三年、フランスの香水をかいだんですね。びっくりしました。ここでちょっとこの「美女と野獣」をみなさんといっしょに思い出しましょうね。 ●大人のための絵物語「美女と野獣」  最初タイトルです。これ白黒映画ですね。まあ、そのオーリックの音楽のきれいなこと。けれども最初音楽ないんです。真っ黒のバックに、ジャン・コクトーのあの絵のような文字が、下から上に流れていくんですね、スーッと。そのときにただドラムの音だけするんです。私ちょっと口ではいえませんけれども、まあ、すばらしいぞ、と思いましたね。けれども見ているうちに、だんだん、だんだんなんだかしらないけれども、フランスの何世紀かのお侍が馬に乗って、頭に駝鳥《だちよう》の毛を着けて、よろいかぶとで、槍持って行進しているそういう絵を思い出したんですね。そうして、その前のほうに鼓笛《こてき》隊の少年たちが太鼓をたたいている、そんな感じが、もう最初からしたんですね。  おもしろいな、と思っていると、お話がいよいよおもしろくなってきたんですね。これ十八世紀のフランスのルプランス・ボーモンのおとぎばなしですね。お話はもうフランスではみんな知っている子供のお話です。けれども、それを大人の絵にしているんですね。  お父さんがいたんです。わりに立派な商人です。それが道に迷ったんです。森のなかでどこに行ったらいいかわからなくなりました。やがて歩いて行きますと、大きなお城みたいな家がありました。コンコン、コンコンたたいたんです。返事がないんです。コンコン、コンコン、大きくたたいたんです。やっぱり返事がありません。中に入りました。  さあ、どうでしょう。きれいな広い廊下、石の壁、その壁には男の片腕の彫刻がずらーっと並んで、その手がローソクを持って動いて、家の中へ案内してくれます。次の部屋にはマントル・ピースに火があかあかと燃えて、そしてワインとみごとなごちそう。そしてその次の部屋にはちゃんと絹のベッドが用意してありました。でも、声をかけてもだれもいません。まるで絵のようです。けど、全部、ほんもの。お父さんは「よかった、よかった。こんなところで休ましてもらって」と思いながら、一夜をすごしました。  翌日になりました。よかった、どこのお方か知らないけれども、結構なお屋敷に泊めていただいた、と思って帰ろうとしたときに、白い馬がちゃんと立っていました。きれいな馬でした。そのたてがみにはきれいなきれいな、金の鈴がついていました。お父さんは、馬まで貸してもらってと喜んでホッと庭を見ますと、ばらが咲いていた。あちらに一輪、こちらに一輪。いいなあ、このばらを一輪いただこうと一輪とったんですね。そうして馬に乗った。馬がヒヒヒヒン、と、とびあがったときに、奥のほうから声がしました。 「おまえは、なんというやつじゃ。おれは、このようにおまえを歓待してやったのに。人間とは、なんという欲の深いやつじゃ。そこにあったばらを一輪とったであろう」  という声が聞えました。そうして出てきたのは野獣でした。まあ、王様の衣装は着ていますが、顔も手も野獣、ライオンのような顔をしとりました。お父さんはふるえました。 「おまえの命をもらうが、おまえは一度家に帰りたいであろう。おまえには三人の娘がある。息子もいる。よし、その馬に乗って帰れ、そのかわり一週間たったら必ずもどって来い。命をもらうから。もし命が惜しければ、三人の娘のうちの一人をよこせ」  と野獣はいいました。お父さんはびっくり仰天して家に帰りました。  昨日から帰って来なかったので、家中が心配していた。そこへ白い馬に乗って帰って来たので驚きました。  これこれこんなことでわしはえらいとこへ行った。まあ、その姉妹三人が驚きました。なんて悪い野獣だろう。息子も怒った。ところが末娘のベルという娘、ジョゼット・デイが扮しています。「お気の毒に、その方はなんという立派なお方でしょう。お父さんが、花さえとらなかったらよかったのに、私があやまりにまいります」  一週間たって、この末娘は死ぬ覚悟をして、白い馬に乗って、どこともしれぬ森や林を通って、やがてあの幻のような大きなお屋敷に着きました。野獣を見て、ベルはびっくりしましたが、野獣は、実に紳士的にみごとにみごとに、大事に大事に、そのベルを迎えまして、静かに静かに休ませ、そうしてこわいことはなんにもしない、ただ、一日に一回だけ二人で庭を散歩してくれ、それだけでした。一日たち二日たち三日たち、ベルは、この野獣がなんという立派な人だろう、ただの野獣じゃないことを感じました。  そのうちに、フッと自分の部屋の魔法の鏡を見ました。するとお父さんが病気で苦しんでいます。そこで野獣にいいました。 「私の父が、病気でいかにも危い。この鏡に映っています。どうぞ一度だけ家に帰らしてください」すると野獣は、 「よし、おまえ帰るか、それなら一週間たったら、必ずもどって来るか」 「必ずもどってまいります」と、答えると、野獣は、それなら、おまえの衣装の上にもう一枚、きれいなものを着けて行け、といって野獣は真珠の宝石をくれました。その真珠を渡すときにも、この映画はどんなにきれいか。野獣が手を出しますと、手の中に真珠があるんじゃなくて、半円をかいて、どこからかスーッと真珠の玉が、野獣の手に乗りました。一つ。スーッとまた一つ。闇のなかから、真珠がきれいなきれいな円をかいて、野獣の手に、三つ四つ五つ。それをベルにくれました。  ベルは礼をのべて家に帰って行きました。お父さんの病気は、姉妹の手厚い看護でなおりました。そのとき、村の男が野獣をうちとってやろうというのを、ベルがなだめたりするなどのことがありまして、ベルの一週間の約束が十日にもなって、ベルはあわててもどったのですが、この野獣は、死にそうになっていました。病気になっていたのです。ベルは一生懸命看病しました。野獣はだんだん、だんだん元気を取りもどしました。そのときに、このベルを愛していたあの村の男が、屋敷の中に入り込み、野獣を殺そうとしたときに、──庭にダイアナの彫刻がありました。月の神の弟子の彫刻です。これもきれいなきれいな金属の彫刻です、それは弓を持っております──この彫刻が動き出して、矢をピューンと村の男に当てました。  苦しんで村の男はその場に倒れました。倒れると同時に、その村の男はいつの間にか野獣になってしまいました。またそれと同時に、このお屋敷の主人の野獣は、見る見るうちにきれいな男になりました。これがジャン・マレーなんですね。そうしてベルの顔を見て、 「私は実は王子だったんです。けれども魔法使いのために野獣にされておりました。もう私は王子にかえった。どうかおまえ私の妻になっておくれ」  そうしてそのベルを抱きしめて、ベルと王子は昇天、ずーっと空のかなたへ行くんですね。けれどもその昇天するときに、どんなにきれいなデザインでのぼって行くか、ただスーッとはあがりませんでした。斜めに動いて、円をかいて、ちょうど泰西《たいせい》名画のように、斜めにスーッと天にあがって行くときは、なんともしれんキャメラアングルでした。このお話ではみなさんピンとこなかったかもしれません。けれども、これはなんともしれん昭和二十三年の興奮でした。 ●ヒマラヤの山の麓をいく尼僧たち  美術といいますと、「黒水仙」(一九四六)なんてのは美術と思いましたね。ブラック・ナルシサス、これはイギリスの映画でした。日本で封切られたのは昭和二十六年でした。これはルーマ・ゴッデンの小説の映画化です。  あのジャン・ルノワールの監督した「河」(一九五一)というのがありました。あの人の原作ですね。映画見るときに、みなさんは黒水仙とかそんな題名で、ピンときてほしいですね。水仙というのは、ちょっと自己陶酔におちいることなんですね。ナルシシズムみたいなんですね。清らかなことなんです。それに黒がつくんですね。黒水仙というと、なにかインド人の、なんともしれん麻薬的な香り、これを黒水仙と外国ではいうのです。黒水仙の香水というと、ちょっと悩ましいんですね。  話は尼さんの清らかな清らかな話です。これでデボラ・カーが初めて映画に出てきました。  はい、簡単にお話しますと、ヒマラヤの山また山、真っ白な雪をいただいた山の麓に、お城の跡があるんですね。ここの城主が、ここを引き払って、これを尼さんの学校にして、村の子供たちを勉強さしてもらいたいといったんですね。そこで五人の尼さんがやって来たんですね。  映画はそんな話ですけれども、映画美術というのは、その村の、まあ、ヒマラヤのきれいなきれいな空気のなかを、ろばに乗って尼さんがやって来るところ、なんともきれいですね。ところが、尼さんが入って来たときに、鳥かごを持った案内するばあさんがいて、ここをこう回って、ここにおいでくださいませというんです。まあ、世間知らずの尼さんが、きょろきょろあたりを見ていますと、そのお城というのか、その館《やかた》の中が奇妙なんです、気持がわるいんですね。壁になんともしれんわいせつな絵がかいてあるんです。 「あら、早くこの絵を消しましょう」とデボラ・カーの扮しているクローダという尼さんがいったんです。フローラ・ロブスンの扮してるおばあさんの尼さんも、 「早く消しなさい」といった。  なにかといいますと、裸の男と女が抱き合ってる絵がいっぱいあったんですね。なぜ、こんな絵がここにあるんでしょう? ここは、城主の一号さん二号さん三号さん、みんなが集まっていたハレムだったんですね。しかもハレムのお風呂場だったんですね。まあ、尼さんはびっくりして、全部消しました。そうしてここで尼さんは学校を開き、毎日毎日お祈りしました。ファーストシーンにそういうショックがあったんです。  それで話をとばしますが、その村に山男がいたんですね、とっても体格のいい男がいたんです。デビッド・ファーラーが扮しています。この山男にルースという若い尼さんの一人が夢中になっちゃったんですね。尼さんは清らかな清らかな生活をしているはずなのに、この尼さんはだんだん、だんだんこの山男のからだに夢中になって、気が違いそうになってきました。しかし、この山男は、クローダにとっても親切なんですね。それでルースは、あるとき、鐘撞《かねつき》堂にいるクローダを谷底へ突き落とそうとしたんです。ところが自分が、この恋に狂った尼さんのほうが、谷底へ落ちて死んでしまった。  まあ、こういう映画ですけれども、このカラーのきれいなこと。そうして最後に、やっぱり私たちはだめだった、やっぱり神になれなかった、私たちは人間だったんだ。そう尼さんたちはあきらめて、自分たちは修行が足りないんだというので、この村を去って行く、そこも映画美術だったんですね。ろばに乗って、しおしおと恥ずかしそうに──ルースというあの恋に狂って死んだ、弱い人間の姿、自分たちの修行の足りなさ──帰って行きます。インドです。遠くにヒマラヤの白雪が見えています。こちらのほうの池には蓮《はす》の花がいっぱいに咲いています。  そうして、尼さんたちがうつむいてろばに乗って、ずーっと帰って行きます。風が吹いてきました。すごい風が吹いてきました。ザァーッと雨になりました。その蓮の葉が揺れています。その葉が裏を見せます。そこを五人の尼さんがずっと遠くへ行くところ。  黒水仙の尼さんの人間的敗北ですね。「黒水仙」は、イギリスのいかにも残酷な人間探究ですね。それがおもしろうございました。 ●ライトに踊らせた「赤い靴」  まあ、イギリスといえば、みなさんごらんになりましたか。昭和二十五年に、忘れもしません。私が興奮の極致になった映画がありました。「赤い靴」、レッドシューズ。これはすごかったですね。マイケル・パウエルの監督とエメリック・プレスバーガーの脚本、さきほどの「黒水仙」もこの二人ですね。 「赤い靴」、最初はローソクとバレエシューズのタイトルバックです。そのローソクとシューズがピンク色してるんですね。ピンク色のリボンがついているんです。そのクラシックとモダンな感覚のすごかったこと。ロンドンのあるバレエ団。このリーダー、レルモントフというのがいるんですね。これがアントン・ウォルブルックですね。このリーダーがすごいんです。バレエバレエ、ダンスダンスに夢中の先生なんです。ここで新人を発見しました。青年作曲家のクラスターというのと、それからまだしろうとのビッキーという女だったんです。この女にモイラ・シャーラーが扮しています。この二人を使って新しいバレエをしよう、といってモンテカルロのこのバレエ公演に連れてきたんですね。練習練習、すごい練習をやっておりました。  この一座のプリマバレリーナ、そのバレリーナにリュドミラ・チェリーナが扮していましたが、このバレリーナに恋人ができて結婚するといったんです。するとレルモントフが怒ったんですね。 「バレリーナが結婚するなんてとんでもないことだ、おまえは命をかけて、踊りに一生かけて生きる、そういうつもりでここに来たんだろ、なにが結婚だ」  とうとうクビになりました。そういうわけで、ビッキーは仕込まれて仕込まれて、モンテカルロで練習するところの、キャメラのすごかったこと。その練習のすごかったこと。そうして、とうとうここでアンデルセンの童話の「赤い靴」がバレエになったんです。その初日、まあ、バレエの初日を、私たちはこの映画で胸がドキドキしますね。バレリーナが、もうほんとうにこの舞台が、自分が、生きるか死ぬかの正念場だという感じが出ていてこわかったですね。さあ、映画はバレエになりました。  靴屋が赤い靴を持っていました。一人の少女が、この靴に心を奪われて、もうじっとしていられなくて、とうとう、その靴をもらってはきました。すると、その靴を着けると、踊りが止まらないんです。その少女は、どうしてもどうしてもどうしても踊りたい、だんだん、昼から夕方になってきた。それでも踊りがやめられない。踊りぬく。きれいですね。だんだん、だんだん夕方になってきました。まだ踊ってるんですね。  町の人たちもいなくなりました。変なポプラ並木。だあれもいない。そうして町の辻《つじ》の変なところへ来た。陽が沈んで、暗くなってきた。新聞紙が散っています。その新聞紙が、踊って踊って止まらない少女のところに、サァーッと風で舞ってきました。そうしてだんだん新聞紙が人の形になってきました。少女は新聞紙といっしょに踊りました。まあ、その新聞紙がまるでダンサーになって。そのうちに夜が更けてきた。すると不良少年が、あっちからこっちからやって来ました。悪い連中が、その少女のぐるりを取り巻きました。五人の不良少年はこの少女を暴行しようとしました。こわいこわいシーンがあるんです。  結局この少女は、朝になっても踊り続け、教会にやって来て、お坊さんにすがりついて靴をとってもらいました。靴をとると同時に、その少女は死にました。これがこの「赤い靴」のバレエの幕ですね。そのあとで、気持のわるい靴屋が出てきて、赤い靴を手に持って、ニッコリ笑って、両手で靴を動かしてるところで終るんです。  ところで、この新聞紙になって踊る男、ロバート・ヘルプマン、その気持わるい靴屋、レオニード・マンシーニの二人とも最高のバレエダンサーですね。それが出てきて踊るんだから、まあ、すごかったですね。またキャメラがみごとでしたね。  というわけで、この「赤い靴」はえらく当たりました。もう各地で評判評判、このビッキーはもう有名なバレリーナになりました。また、それといっしょに、それを作曲したクラスターもだんだん有名になってきました。そうしてこの二人が仲良くなって。レルモントフというリーダーに隠れて結婚してしまいました。レルモントフは怒りました。作曲家は彼女を連れて逃げてしまいました。  さあ、それから幾年たったでしょう。再びレルモントフはビッキーをみつけました。「君は、踊りのために生まれてきた、天才だ、なにしてるんだ? 妻になったりして」。そういって連れてきた。ビッキー自身も、また踊りたい、あの赤い靴を踊りたいと、夫にないしょでレルモントフに連れられてもどり、また一生懸命に練習しました。もうダンサーというのは、踊ることに命がけですね。もう子供ですね。もう夢中ですね。そうしていよいよ初日になりました。  今日は久しぶりに赤い靴を踊るんだというのでビッキーは興奮しとりました。そこへ夫が探してやって来ました。 「おまえはぼくの妻だよ。踊りはあきらめてくれたはずだよ。また踊るのか」  と夫がいったときに、泣きました。 「やっぱり踊りたいのです。かんにんしてください。私は踊りたいのです」  夫は妻の顔をじっと見て、 「それじゃ、踊りの世界におまえをもどしてやるよ」といって、涙をためて一人で去っていきました。  ビッキーはメイキャップしました。いよいよ開幕です。開幕五分前のベルが鳴っています。ビッキーは、舞台に行こうか、夫のあとを追おうかと考えて声をあげて泣きました。とうとうビッキーは、私はやっぱり妻だと思って、飛んでベランダに出て、ちょうど夫が乗っている汽車に向かって、ベランダからバレエの衣装を着けたまま飛び降りて、汽車の下敷きになって、全身血に染まって死にました。  開幕のベルです。さあ、レルモントフはびっくりしました。ビッキーの死体が楽屋に運ばれました。だが、開幕です。開けねばなりません。レルモントフのアントン・ウォルブルックが舞台にあがりました。オーケストラボックスから舞台にあがりました。 「みなさん、今日はこれから赤い靴をごらんいただきます。けれども主役のいない赤い靴をごらんになっていただかねばなりません。今、あのバレリーナのビッキーは亡くなりました」  そういったんですね。場内はシーンとしました。そのあとでみんなが手をたたきました。そうして舞台が開きました。前のとおりに音楽が始まり、前のとおりに靴屋が出てきて、そうしてここでビッキーがその靴をはくところ。ビッキーがいません。そこに天井からスポットライトを当てました。そうしてライトがビッキーのかわりに舞台を動きました。そのライトのちょうど小さな円になっている、そのスポットライトのぐるりをバレエの連中が踊りました。主役のいない、ライトだけのままで、この全幕が終りました。さあ、そのみごとだったこと。  というわけで、キャメラというものが、このジャック・カーディフのキャメラがどんなにみごとにバレエをキャッチしたか、やっぱりこの「赤い靴」もみごとなみごとな映画美術でしたね。 ●「スリ」の一場面  ロベール・ブレッソン、フランスの有名な監督ですね。この人が脚本を書いて、撮影はレオンス・アンリ・ビェレルです。きれいなキャメラです。これは「スリ」(一九六〇)という映画です。  ソルボンヌの学生でミッシェルというのがいました。スリの常習犯です。警察につかまえられたんです。証拠不十分で帰してもらいました。この男の母親が死にました。「ぼくこれから絶対にスリなんてやめよう」と思ったんです。ちょっと病的な学生です。三日目になったら、どうしてもスラずにおれない、万引病みたいなこの学生、この貧しい学生のスリにとりつかれた男のこわさがよく出ているんですね。  ここで映画美術という言葉はおかしゅうございますけれども、この男のスッてる姿がこわいんですね。  競馬場なんですね。お客さんがいっぱいいるんですね。女が夢中で競馬を見てるんです。ハンドバッグを下げてるんです。そのうしろに、マルタン・ラッサールが扮しているこのミッシェルが、病的な顔で、貧しい服を着て、うしろにくっついているんです。この細いいかにもきゃしゃな学生がそーっと手を出して、なんにも知らないで見ている、その女のハンドバッグに近づいていって、留金を開けるんです。こっちからキャメラは写していますから、女がなんにも知らないで、こっち向いている顔と、そのうしろに、ハンドバッグをさぐっている男の顔とが二つ見えるんです。だんだん、だんだん手がのびて、その女の留金をはずしたんです。見てますと、手が入っていくんです。女の札束を取っている。女はなんにも知らないで見ている、うしろで必死になってスリをやっている、スリの顔と女の顔がいっしょに見える。これがこわいですね。  映画というのは、こういう感覚で、真正面でスラれる人とスル人を見る、なんとも、どきどきするんですね。結局、この青年はとうとうスリがやめられなくて、みじめなみじめな男になって、しまいには手錠をはめられるところで終りますけれども、映画美術といえばおかしゅうございますが、このロベール・ブレッソンの演出が、キャメラでなんともしれんきれいに撮られておりました。映画美術というかたちで、こういうものを申し上げていいかどうか知りませんけれども、みごとな感覚ですね。 「ベニスに死す」(一九七一)も「太陽がいっぱい」(一九六〇)も「情婦マノン」(一九四八)のラストシーンも、いかにも映画美術ですねえ。  映画美術とは、小説でも絵画でも描けない、舞台では演じられない表現ですね。キャメラによるすごいすごい感覚ですね。それを私は映画美術と申したいですね。まあ、こういう映画美術というのも、人間にとって大切なことですね。  はい、それではもう時間ですね。あんた、逃げなかった、えらかったですねえ。よかったですねえ。ではまたお会いしましょうね。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   世界の黒沢 明  はい、みなさん今晩は。  あら、あなたは、もう枕《まくら》を出してきましたね。すぐ寝る用意をするんですねえ。いやらしい人ですね。  けれども、今夜は、黒沢明の「デルス・ウザーラ」と、黒沢明の作品について語るんですよ。もう、たくさんの、いろんなお話があるんですよ。まあ、あなたは、いっぺんに目を覚ましましたねえ。その目の輝いていること! いいですねえ。  はい、それでは、これから楽しく楽しく、みなさんとともに世界の黒沢明を勉強しましょうね。 ●三十年来の夢「デルス・ウザーラ」に注いだ情熱  この「デルス・ウザーラ」は、一九七五年の最新作ですね、黒沢明の。ちょっと沈黙してた黒沢明が、これを作りました。けれども、これはソビエトのモス・フィルムの作品ですよ。外国の映画なんですよ。監督が黒沢明。さあ、外国の映画で黒沢作品、ここに、日本の映画の歴史に、ひとつの点、歴史の足跡ができましたねえ。  ところで、この映画の原作というのが、アルセーニエフという人が書いた探検記なんですねえ。実際に自分が行って、体験したいろんなこと記録した本なんですが、黒沢さんは三十年も前にこの原作を読んで、どうしても映画にしたくて困ったそうなんですね。黒沢さんて、そんなに昔から、こういうものを勉強してたんですね、えらいですね。さあ、どうしてもやりたいけど、その頃はソビエトまで行ってロケーションできないので、最初はこの舞台を北海道にして映画にしようとしたんですね。そして、脚本を久板栄二郎に頼んで、すでに脚本もできてたんですね。そのぐらいに、この「デルス・ウザーラ」に夢中だった。夢中だったけれども、そのときは実現しませんでした。それが、とうとう希望がかなって、今度、本舞台のソビエトで映画になった、そういうところに黒沢さんの熱の入れ方がよーくわかりますねえ。  さあ、それで、脚本が黒沢明と、それにユーリ・ナギービンという人が協力しております。撮影が中井朝一さんですねえ。中井朝一さんは、あの「七人の侍」も「生きる」も「野良犬」もそうですが、いろいろ撮りましたねえ。黒沢明との名コンビですね。  それから、ユーリ・サローミンという舞台俳優、もう四十歳ですね、この人が探検隊長のアルセーニエフをやっております。それに、シベリアの広大な原野、その大自然のなかに生き抜いていて、隊長の案内役になった土着の人──その人の名前がデルス・ウザーラというんですね。これを、マキシム・ムンズクという人がやっております。この人はアジア系の民族で、顔が日本人にそっくりなんですねえ。ソビエトのなかにモルトバ共和国というところがありまして、そこの演劇学校を出ました。やっぱり舞台俳優なんですね。 「デルス・ウザーラ」のファーストシーンは、一九一〇年、明治四十三年ですね。ずーっと昔ですね。ここに、その隊長が出てきます。もう普通の人の姿で、探検隊のふうしてません。このアルセーニエフが、ぼんやり立っております。あちらこちら、まあ、木を伐《き》ったり土を掘ったり、なにか砂ぼこりが出るような、山深い高原ですね。そうして、そこらを開墾《かいこん》している人にきいたんですね。 「このあたりの、このへんに、デルス・ウザーラの死体を埋めたんだけれども、そこに、こういう木があった。まだここに、そういう木ありますか?」  なんて、探して歩くんですけどわからない。そういうところから、この映画が始まります。  そうして、話は明治三十五年、一九〇二年にさかのぼっていきます。ここにウスリースク、ウラジオストック、ナホトカというところがあります。まあ、このへんの密林、未開の大自然を調査しにやってきた探検隊、その隊長がアルセーニエフです。六名のコサックの兵隊を連れて、どんどん奥地へ奥地へと調査していくんです。道もありません。もうほんとうに原始林です。  そういうところで行き暮れて、困ったなあいっても、どんどん進んで行くうちに、山の奥のほうから、まるで山の|たましい《ヽヽヽヽ》のような老人が、ふらーっとやってきました。そうして、それがデルス・ウザーラという名前だいうことも、やがてわかってきます。このデルス・ウザーラ、ほんとうに山のなかに生きている男です。山とともに暮らしている男です。もう六十過ぎのこの老人は、嫁も子供も天然痘《てんねんとう》で亡くしてしまって、一人で生きている男だったんですねえ。それを、この隊長が頼んで、案内人になってもらいます。さあ、ここから、この映画は、デルス・ウザーラとアルセーニエフとの男の友情、男の友情というよりも、このウザーラの人間性ですね、それがみごとに出てくるんですねえ。  ウザーラは太陽を見て、こんなこといいました。 「太陽、あの人が一番えらい人だね。あの人がいなくなったら、地球上の人間はみんな死んでしまうね。それから、あの向こうのほうに、まだ夜になってないからはっきりしないが、月が見える、あの月、あれが二番目にえらい」  そのいい方が、太陽にも月にも、鳥にも木にも岩にも魚にも水にも全部、自分の人生がそのまま密着して、いかにも愛着を感じていて、それがこのウザーラの魅力なんですねえ。 「ただただ食べられたらいいんだ。ただただ生きられたらいいんだ。毎日、太陽が照る。そうして夜には月がある。ありがたいことじゃ」  そういうウザーラの、ほんとうの純真さ、無欲なこと、その人間性に、隊長はひかれていきます。  まあ話はいろいろありますが、あるとき、ハンカという大きな大きな湖水、そこを調査に行ったんです。二人で。もう晩秋、秋も更けて、そこらはずーっと氷結してきたんですね。さあ、調査しているうちに、ウザーラが風を感じて、雲を見ました。 「あぶない。こらぁいかん。天候がくずれるぞ」といいだしました。  そこで帰ろうと思ううちに、もう、吹雪《ふぶき》になります。そこらあたりの、この中井朝一さんのキャメラがきれいですねえ。さあ、その撮影もすごいですけれど、ここでこのウザーラが、長い長い体験、そういう湖畔の生活の体験をみごとに見せます。まあ、このウザーラが、あわててあわてて、葦《あし》とか枯草、そういうものを鎌でもって、隊長といっしょに切って切って、切って切って、死にもの狂いで刈り集めるんですね。隊長は、 「これ、どうするんだ?」 「とにかく、刈り取ってくれ」  というんで、まあ、二人の男が、風が吹きつける氷の上で、どんどん集めていきます。そうして、このウザーラは、もうあのがんじょうな太い手で、それを束ねて束ねて束ねて、ここに枯草と葦の家を作りました。そして、その中に入って、二人は抱き合って一夜を明かします。二人は助かったんですねえ。凍死するところを、隊長はほんとうにウザーラのおかげで、一命を助かったんですねえ。  そういうわけで、このウザーラと、いかにも原始林のこの気候、その風景、それがまあみごとにとらえられております。黒沢明は、このウザーラの人間性に惚れこむとともに、この原始の大自然を撮りたかったんでしょうね。ほんとうに東京にもニューヨークにもない、ほんものの、自然の生きた姿はこわいですねえ。  というわけで、いろんな、いろんなことがありますが、ウザーラはやがて、「もう、わしは別れます」といいました。そうして、お礼なんかはなにも求めないで、「それでは、また会いましょうかな。いつ会えるかな」っていいながら、みんなが汽車に乗るウラジオストックの駅まで見送って、一人でまた山の奥のほうへ入って行きました。  もう二度と、ウザーラには会えないだろうな──アルセーニエフはそう思っておりましたが、それから五年たって、もう一度調査に出かけることになりました。さあ、隊長は、五、六人のコサック兵を連れて調査しながら、ウザーラがいたらいいのになあ、と何度も何度も思って、ウザーラのことを回想しました。  ああ、ウザーラは鉄砲の名人だったが、気候が変わることもよく知ってたなあ。ほんとうに自然のなかに生きている男だったなあ──と、アルセーニエフはつくづくと、この原始林のなかで思いました。  やがてまた、谷を越え、山を越えて行くうちに、向こうのほうから、忘れもしないウザーラがやってきました。「ウザーラ」「隊長さん!」と、二人は駆け寄って抱き合いました。そうしてその夜、ウザーラと隊長がしみじみと語り合いました。そのとき、たき火をしているコサック兵たちが歌いだしました。さあ、ほんとうに男と男が五年ぶりに会った、友情の美しさ、その風景の美しさ。いかにもそこに、ソビエトにロケーションしたその感覚がよく出ておりましたねえ。まあ、そのときの兵隊たちの歌も、まあ、なかなか気分を出しました。     わが灰色のつばさの鷲《わし》よ     どこを そんなに長く飛んでいたのだ     ──わたしは     静かな山々の上を飛んでいました  そういうふうな意味の歌でしたねえ。  さあ、それから再びウザーラの案内で、隊長たちの一行は原始林の奥へ奥へと進んでいきます。このあたりから、ウザーラに不幸がやってきました。  それは、ある急流にデルス・ウザーラが落ちました。さあ、その急流の撮影もすごいです。デルス・ウザーラはどんどん流されていくのを、隊長と兵隊たちがこちら側から助けようとしますが、いかにも、もう死にそうになるあたり、しかし、ウザーラがなんとか自分自身の力で助かるあたりに、だんだんデルス・ウザーラが弱ってきたという感じが出てまいります。  そうしてまた、あるとき、銃の手入れのあとで射撃の練習をしたときに、デルス・ウザーラはその標的をはずしました。こんなことは、かつてなかった。デルス・ウザーラはそれから元気がすっかりなくなって、 「わしの目がにぶってきた。わしの目がもう老いの目になってきた」  あの元気だった、陽気だったウザーラが、なにかしらん、しょんぼりしてきました。  そこで、ある調査が終ったときに、この隊長はハバロフスクの自分の家にデルス・ウザーラを連れてきました。きれいな隊長の奥さん、かわいい隊長の息子といっしょに、なんの不自由もありませんでした。部屋、ベッド、ガラスの窓、お庭。あの山奥の原始林とはすっかり違います。きれいなソファがあって、そしてベッドにはきれいな毛布がかけてありました。  隊長の息子がデルスのために、ピアノを弾いてくれました。それを、床《とこ》の上にあぐらをかいて、じーっと猫背できいているこのデルスの背中に、なんともしれん寂しさがありました。やっぱりデルス・ウザーラは、文明のなかには生きとれなかったんですね。 「やっぱりわしは、山へ帰るべえ」といいだしました。  それで隊長はどうしても引き止められなくなりまして、それではというので、自分がいちばん大事にしている立派な銃、それをプレゼントしました。デルス・ウザーラはそれを持って、喜んで、山のなかに消えるように去って行きました。そうして、この銃、みごとなみごとな最新式の鉄砲が、実はデルス・ウザーラの命取りになってしまうんですね。  というのは、デルス・ウザーラが山に帰ったときに、この立派な銃に目をつけた暴漢、山賊ですか匪賊《ひぞく》ですか、そういう男のために、撃ち殺されてしまったんです。さあ、その死体、人がみつけたけれども、これはいったいだれなのか。だれも知りません。上着を調べたら、ポケットの中に名刺がありました。それには、アルセーニエフ隊長の名前とアドレスが書いてありました。アルセーニエフのところに知らせが届きました。  隊長はびっくりして現場に駆けつけました。森のなかの大きな木の下に、|こも《ヽヽ》をかけた死体がありました。その|こも《ヽヽ》をそーっと手でめくってみると、デルス・ウザーラが眠ったように死んでおりました。その顔、いかにも平和な老人の顔です。隊長は手を合わせて、その木の下にデルス・ウザーラを埋めたんです……。  それから画面は、ファーストシーンにかえってきます。あれから三年、やっぱりあの場所が気になって気になって、この隊長は、もう一度あの場所を確かめにやってきました。どこだったろう。そうだ、このへんだった。あちらこちら探して、そこへ立ったとき、三年前に死体を埋めたときは曇天だったけど、今はからっと晴れて、開墾地には砂けむりも立っています。ああ、デルス・ウザーラはほんとうに大自然のなかにかえってしまったんだなあ。この隊長は、この世でいちばん純粋な、この立派な人間を一生忘れることができない──これが「デルス・ウザーラ」の物語ですね。  いかにも黒沢明の好きな人間の感じ、善人でほんとうに清らかな男の感じが、この「デルス・ウザーラ」のなかによく出ておりますよ。 ●画家志望から映画の助監督へ  ここでちょっと、黒沢さんの生い立ちのこと、お話しましょうね。黒沢明は明治四十三年の三月二十二日、東京に生まれております。一九一〇年ですね。ちょうど私より一つ年下です。  お父さんは軍人でした。戸山の陸軍士官学校の第一期生だったんですねえ。けど、お父さんはどうしても軍人がきらいでね、スポーツのほうに変わりまして、日本体育協会の人になりました。そして、日本で初めて水泳のプールを作ったんですね。中学校の体育の先生もなさったそうですねえ。  で、黒沢さんは七人兄弟なんですね。お兄さんが三人、お姉さんが三人、その末っ子なんですねえ。これが私、黒沢さんの経歴のなかで非常に興味があります。お姉さん三人の非常にデリケートな感覚、お兄さん三人の非常に男臭い感覚、これを身に着けて、この末っ子の黒沢さんは成長したと思います。私はここに環境というものを感じます。  それで、黒沢さんは小学校時代は級長だったんですねえ。成績よかったんですねえ。そうして、京華中学を出ますと、将来は画家になりたくて、絵かきの塾に通ったんですって。そうして一生懸命に絵を勉強したそうですね。中学時代にもう、二科展に出品して入選したことあるんですね。だから黒沢さんの作品の場面がとてもきれいなのは、絵かきになりたかったという若い頃の感覚が、やっぱりあるんですねえ。けれども、すぐには一本立ちできませんから、婦人雑誌に投稿したりいろんなことして、さし絵やカットをかいて、少しお小遣いにしていたそうですねえ。  そうして、その頃、もう文学に夢中になって、特にロシア文学に夢中になって、ドストエフスキーだとか、トルストイだとか、ツルゲーネフを勉強したんですってね。おもしろいですねえ。だから、黒沢さんの作品は、ロシア文学とも深い関係がありますねえ。  ところで、黒沢さんの運命にひとつの「なにか」を与えたものがあります。それは、すぐ上のお兄さん、丙午《へいご》という人です。この丙午さん、どういうわけか非常に映画が好きで、弁士になりたくて、若い頃に勉強して、とうとう本職になったんですって。須田貞明という名前で、武蔵野館とかシネマ・パレスとかに出られたんですねえ。それをお父さんがとってもいやがって、怒ったんですって。しかも、このお兄さんに好きな女の人ができて、お父さんが勘当《かんどう》したんですねえ。そこでこのお兄さんは家を出て、その女の人と同棲したんですねえ。  ところが、黒沢さんはこのお兄さんが好きで、お父さんに隠れて、しょっちゅう訪ねて行ったんですって。すると、お兄さんが映画館のパスをくれるんで、そのパスでどんどん映画見に行ったそうですね。それは映画だけでなく、寄席《よせ》でも入れる。ですから黒沢さんは、夢中で映画館や寄席に通ったそうです。  これが黒沢さんに大きく影響していると思いますね。それから不幸なことに、このお兄さんは入水《じゆすい》自殺されました。亡くなったんですね。  まあ、そういうことがあって、家でごろごろしてて、とっても家にいづらくて困ってたんですね。そんなときに、新聞でPCLが映画の助監督を募集しているのを見たんです。PCLというのは、今の東宝の誕生したときの名前ですね。もうすっかり映画好きになっていた黒沢さんは、とにかくやってみようかと思って、試験を受けたんですね。まず論文の試験が「日本映画の欠点を指摘せよ」ということで、一生懸命にそれを書いたそうですね。昭和十一年の頃です。五〇〇人から応募したそうですよ。さあ、それから面接の試験。その試験官には、森岩雄さんだとか山本嘉次郎さんがいらしたそうです。そうして、結局、合格したんですねえ。  で、お父さんに打ち明けたところが、お父さんはもう怒らなくて、「それもおまえの人生勉強だ。やりなさい」といったそうですね。そこでまあPCLに入って、いろいろ苦労して、やがて山本嘉次郎さんの助監督になったんですねえ。 ●助監督時代の黒沢さんと私の出会い  そういうわけで、山本嘉次郎さんの助監督として「藤十郎の恋」だとか「馬」だとか「綴方教室」だとかの仕事をしましたが、さあ、この頃の黒沢さんは、そういうことといっしょにシナリオの勉強もしたんですねえ。情報局のシナリオ募集に応募したり、雑誌にどんどん投稿したりして、まあ、「キネマ旬報」なんかが募集したときには、黒沢さんの「ダルマ寺のドイツ人」というシナリオが第一席になったんですね。  その頃はもう、戦争が激しくなってきて、PCLも東宝になっとりましたが、ちょうどその頃、実は私も東宝にいたんですよ。そうして、なんとなしに黒沢さんと友だちになったんですね。黒沢明という人が、ジョン・フォード・ファンなんですね。もうジョン・フォードの映画なら好きで好きで何回でも見る人だというわけで、思わず友だちになったんですねえ。  あるとき、もう話がはずんで、私は黒沢さんが「馬」の助監督したのを知っとりましたから、こんなことをいったんです。 「あのなかで、とってもいい場面がありましたねえ。馬市があって、ずーっとキャメラが移動する、移動する。馬がいっぱいいる。そして馬を売る人がいる。ばくろうがいる。買い手がいる。そこを移動するところ、移動が長いから、あの馬市の広さがよくわかって、よかったですねえ」といったら、 「あれで、とても困ったことがあったんだよ」といって、笑ったんですねえ。 「どうしたの」といったら、こんなこと話してくれましたよ。  まあ、どんどんキャメラを移動していってね、「いいぞ」と思うところで、そこに二軒の馬小屋があって、それがじゃまになって、それ以上は移動できない。これがなかったらいいのになあ、といっても馬小屋をつぶすわけにいかないんですねえ。そこで、馬小屋をなんとかできないかって馬方に頼んだそうですよ。ところが、 「そんな活動写真のために、あの馬小屋つぶせるもんか!」って怒ったんですって。  そこでもう山本嘉次郎さんも、「君、あきらめろよ」っていって、あきらめたんですねえ。けれども黒沢さんは、宿へ帰ってもとても眠れなくて、とうとう一升びん二本持って、その馬方の家へ行ったんです。そうして両手をついて、もう頼む頼む、わしの命だから頼むなんてえらい頼んで、 「どうか助けてください。やらせてください。あとで必ず、家は立派に建て直しますから」  といって、三日三晩、頼みに通ったんですねえ。そして、とうとう、 「そうか。よし、いいぞ。この男のためにひとつ、家つぶせ」  ということになって、その二軒を取りこわして、きれいなきれいな、馬市の移動撮影ができたそうなんですねえ。まあ、私、この場面見たとき、その移動のきれいだったこと! びっくりしました。  そういうわけで、黒沢明という人は、もうこの頃から、たった一つのシーンでも、すごく熱心に撮ったんですねえ。黒沢明という人は、そういう人でしたね。 ●ロサンゼルスで「羅生門」の講演  さあ、昭和十八年、黒沢さんはいよいよ監督としてデビューしました。最初の作品が「姿三四郎」ですね。この映画で、きれいな感覚を見せましたよ。続いて、昭和十九年に「一番美しく」、昭和二十年に「続姿三四郎」、昭和二十一年に「明日をつくる人々」と「わが青春に悔なし」、昭和二十二年に「素晴しき日曜日」、そして昭和二十三年には「酔いどれ天使」を撮りました。さあ、このあたりからみごとな映画作家になりましたねえ。  その次の年の二十四年には「静かなる決闘」と「野良犬」で、いよいよあぶらがのってきましたねえ。それから、昭和二十五年に「|醜 聞《スキヤンダル》」というのを撮りましたが、この映画の女の主役、こんなタイプの女が出てくると、あんまりよくないんですね。三船敏郎、山口淑子さんが出とりましたが、なんかぴったりこなくて、だから私はこの映画を見て、「まあ、黒沢明も、よくもこんな不細工《ぶさいく》な映画、作ったなあ」なんて、本人の前で笑ったことがありますけれども、このあたりで黒沢さんは、 「おれ、今度は、ちょっと変わったもの撮るんだ」といいだしたんですねえ。  ということで、昭和二十五年、一九五〇年、黒沢明は「羅生門」を作りました。もうみなさんよくご存知のように、黒沢明はこの映画で世界的な監督になりましたねえ。昭和二十六年の第十二回ベニス国際映画祭で、グランプリ(大賞)をとったんですね。日本の映画がグランプリとるなんて初めてでしたから、みんなびっくりしたんですねえ。  私は一九五一年、昭和二十六年の暮れにアメリカへ行きました。その頃はまだ「羅生門」といっても、ちっとも評判になっていません。だれも知りません。私はきいてみました。すると、「ああ、それならね、ロサンゼルスのリンダ・リーという映画館でいまやってるよ」っていうんですね。私はそれを聞いて、飛んで行きました。  そのリンダ・リーという映画館は、ロサンゼルスのダウンタウンの日本人街にあって、そこで「羅生門」がボショボショと上映されてました。ところが、見てるお客の半分以上が日本人、もちろんそうですねえ。で、そこから出てきた一人の日本人にききました。 「どうでした? �羅生門�は」 「ウェイスト・タイム(時間のむだ)だね」 「どうして時間のむだなの?」 「だって、同じストーリーが三つあるだけじゃないか」  なんていうので、がっくりしたんですねえ。けれども、気になって気になって、また明くる日、そのまた明くる日も、私はリンダ・リー映画館へ行きました。だんだんアメリカ人が増えてきました。そのうちに一人、毎晩のようにやって来る人で、私のよく知ってるアメリカ人がいるんですね。リー・J・コッブといいまして、有名な俳優、なかなか立派な映画俳優なんですねえ。私はとうとう、リー・J・コッブをつかまえました。 「どうしてあなたは、毎晩のように、これをごらんになるの」といったら、 「感心してるんですよ。日本では、こんな映画をときどき作るんですか?」っていうもんだから、 「そうね、月に一本は、こんな映画作りますよ」  なんて、私はいいました。まだ西洋人がそんなに「羅生門」をかってるとは思いませんから、そんなこと、いったんですね。さあ、J・コッブ、びっくりしたんですねえ。 「私は今日までいろんな映画を見たけれど、こんなに映画的な、こんなに立派な映画を見たことありませんよ」  ということになって、私も大喜びしたんですねえ。とうとうそれがもとで、そこのリンダ・リーの劇場支配人とも、いろいろ話し合ったんですね。そうして私が、 「まあ、アメリカ人でもこんなに喜んでくれてる人がいるんだし、私も黒沢明さんの友だちですから、この映画もっともっと宣伝して応援したいなあ」といったら、 「淀川さん、舞台でスピーチしてください」って支配人がいいました。  まあ、恥ずかしいけど、とうとう私はリンダ・リーの舞台でねえ、講演したんですね。半分日本語、半分英語で、三十分くらい、羅生門とはどういうところか、そしてこの時代、そして黒沢さん、この原作者、それを細かく説明しました。で、私の話が終ったあと、その支配人が舞台に上がって変なこといったんですね。 「ミスター淀川は、黒沢さんのベストフレンドである。そして今、スピーチをしてくれました。これはとっても、私たちがこの映画を理解するのに役に立ちました。それからね、淀川さんはね、この講演料をあげるといったら、ノーノー、いらないといった。おかしいね。なぜ、いらないかというと、黒沢さんのベストフレンドが黒沢さんのことしゃべってお金とるのは、いやだといわれた。おかしいですね、おもしろいですね」  そんなまあ、いらんこといったんですね。それでまあ、私は恥ずかしいから、飛んで逃げて、近くのレストランで二時間、仲間の人といろいろ黒沢さんのことしゃべったりしてましたの。すると、やがて支配人がまたやってきましたの。 「これ、あんたにあげる」っていう|状 袋《じようぶくろ》の中に、チャランチャランお金が入っている。 「どうしたの?」 「さっき見てた人たちが、ミスター淀川のお話でとってもよくわかったから、あの人にあげなさいといって、一ドルくれたり、50セントくれたり、10セントくれたり、みんなまあ事務所にきて、お金を置いてったんですよ。これ、あんたにあげましょう」  まあ、私は羅生門のお賽銭《さいせん》もらいました。  というわけで、まあまあアメリカ人が、この「羅生門」をほめましたよ。  一九五〇年、昭和二十五年、この「羅生門」が黒沢さんの映画の歴史に、ひとつの大きな足跡を残しましたねえ。 ●「白痴」「生きる」「七人の侍」「蜘蛛巣城」  さあ、それから昭和二十六年の「白痴」。これはドストエフスキーの「白痴」ですねえ。けど、気持のわるい映画で、これ、私はきらいなんです。ところが黒沢さんは「ぼくのいちばん好きな映画だよ」といっておりました。  それよりも、その翌年の昭和二十七年の「虎の尾を踏む男達」(製作は二十年)、これはびっくりしました。これには榎本健一、藤田進、大河内伝次郎、森雅之が出てましたが、謡曲の「安宅《あたか》」とか歌舞伎の「勧進帳《かんじんちよう》」をミュージカルにしたんだけど、みごとでした。私はこの「虎の尾を踏む男達」を見て、まあほんとうに、イギリスのすごいミュージカル、あれを思い出しました。そのくらい好きでしたねえ。  それから、この昭和二十七年にはもう一本「生きる」です。この「生きる」はみごとな作品でした。もう感動しましたねえ。  そうして昭和二十九年の「七人の侍」。はい、この撮影中に、私、黒沢さんを訪ねたことがあるんです。ちょうど曇ってきて、ここで五分間休憩なんていうことになったんですねえ。そういうときに行ったもんですから、撮影所のオープンセットからすこーし、そうですね十歩ほど離れてしゃべってたんですねえ。ジョン・フォードの映画のこと、やっぱり「駅馬車」はよかったなあ、もうあの「駅馬車」忘れられんなんて、黒沢さんも私もジョン・フォードのファンで、いろんな話をしてるうちに、黒沢さんは、 「ぼくはねえ、この映画で、ジョン・フォードの、あの馬の感覚、あれをどうしても使いたいんだ」といいました。 「はあー、けれども日本では、なかなかああいうふうに、アメリカ映画のウエスタンみたいに馬が動きませんね」といったら、 「どうにかして、あの馬の感じを撮りたいなあ」  黒沢さんはそういいながら、石をポンと蹴《け》る。そしてまた石を追っかけていって、ポンと蹴ってはしゃべる。またその石を追っかけていって、ポンと蹴る。こんなふうにしゃべっているうちに、どんどんそのオープンセットから離れて、二人は変なとこへ行っちゃったんですねえ。  ところが太陽が照ってきた。これを撮影所ことばで、ピーカンなんていいまして、天気になったんですね。監督がいないよ、どこ行ったんだ。監督がいないよ、なんて大騒ぎして、「黒沢さーん」と遠くから呼んでいるんですね。気がついたら二人は遠くまで行ってたんです。  そういうふうなわけで、「七人の侍」では、キャメラがあの馬をよく撮りましたねえ。それから、「七人の侍」のあの人物がだんだん集まっていくところ、あれは黒沢さんが「駅馬車」が好きで好きでしかたなくて、駅馬車が町を出てから次から次と人がふえていって、最後にリンゴー・キッドが登場しますねえ、あのダッドリー・ニコルスのシナリオがとっても好きだといってましたが、「七人の侍」の集まり方がちょっと似てますねえ。  それから、昭和三十年は「生きものの記録」。これでいよいよ風格を見せました。そして昭和三十二年の「蜘蛛巣城」。これは「マクベス」ですね。さあ、これがこわかった、おもしろかった。黒沢さんのこの感覚のすごいのにびっくりしました。  難攻不落の城がいよいよ落ちるところで、三階四階の城の上にいた城主、さあ、どんどん敵がきた、動く森が全部敵だったというので、この三船の城主がびっくりして、四階から三階、三階から二階へ降りてきました。キャメラがそれとともに降りてくるから、敵がどんどん近づいてくる感覚がよく出てるんですねえ。つまり、敵が浮き上がってくるんですねえ。ちょうど舞台のせり上がりのように。すごかった。  そうして、敵のほうに向いたとき、ピューッと矢が飛んできました。あ、これは「リチャード三世」か、あれをまねたかなと私は思ってました。しまいにきっと、三船敏郎の口の中に矢がシューッと入るんだろうと思いました。まあ、黒沢よくやるぞ、と思ったら、ああもっとうまかった。その矢は、三船の口の中に入るんじゃなくて、右から左へ、首をシュシュッと突き抜けて、右から左へ突き出ましたね。さあ、城主の首に、矢を一本突き刺したわけですねえ。この音! ブスッと入る音! それから、矢が突き刺さったまま、二、三歩、五、六歩と歩くところ、こわかったですねえ。矢の入った首のところから、シューッと血が出てますねえ。  ああ、この音がすごかった。それで私、あとで電話かけて、ききました。 「あの矢がシュッと刺さるところ、ぼくは口ん中に入ると思ったら、君はうまいことやったなあ。最後にシュシュッと、よううまくいったなあ」 「うーん、ぼく、あれ困ったの。音をどうしても出せないので、どうしようかというので、豚の肉だとかいろんな肉を集めて、何度も何度も、矢をシュッシュッとやって、その音を録音したんだけど、なかなかうまくいかなかったんだ」っていってました。 ●「用心棒」以後の沈黙とカムバック  というわけで、「蜘蛛巣城」のそのワンカットだけでもみごとでしたねえ。  それから「どん底」。昭和三十三年の「隠し砦《とりで》の三悪人」、昭和三十五年の「悪い奴ほどよく眠る」。  そして昭和三十六年の「用心棒」あたりから、またもや、いかにもジョン・フォードのタッチというのか、いかにもウエスタンタッチというのか、そういう感じがみごとに出ました。「悪い奴ほどよく眠る」とか、あの「どん底」とか「蜘蛛巣城」で、もう肩にしこりができるように食いしばった黒沢明が、すーっと肩を落として、今度はユーモアを入れた時代劇を撮りましたねえ。「用心棒」の一年あとの「椿三十郎」もよかった。  そして問題の「天国と地獄」になりました。ここで現代劇。昭和三十八年のこの「天国と地獄」は、いかにも黒沢タッチ。まるで二十世紀フォックスのほんとうの拡大スクリーンで見るような、いかにもシャープな感覚で、あの汽車を撮りました。列車のサスペンス、スリル、よかったですねえ。  それから二年たって「赤ひげ」を作りましたね。ほんとうにヒューマンな、ほんとうに人間の美しさを撮りあげたんですねえ。それから「どですかでん」ですが、もう、この頃は超スピードで撮らなければならないので、この人、困りました。黒沢さんという人は、自分がほんとうに納得ゆくまで、もうとことんまで煮つめていって、映画を仕上げていく人ですねえ。それが、日本の映画界のいろんな事情で、黒沢さんの思うようにいかない。黒沢さんの沈黙が続きましたねえ。  一年、二年、三年、とうとう五年たって、ついに黒沢さんは、ソビエト映画「デルス・ウザーラ」を撮ったんですねえ。フィルムも、時間も、ロケも、セットも、もう黒沢さんの思うとおり。  そして大作ができましたねえ。黒沢さんはみごとにカムバックしましたね。  ところでこの「デルス・ウザーラ」が一九七六年の春のアメリカのアカデミー賞で、なんと外国語映画作品の部で、五作品の候補のなかからベスト・ワンに選ばれました。やったぞ! といううれしさがこみあげましたね。  はい、それでは時間がきました。ちょっとスピードかけて黒沢さんのお話しましたね。はい、それではみなさん、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   映画とテレビ  はい、みなさん今晩は。  今夜は映画とテレビについてお話しましょうね。映画とテレビ、さあ、どんなお話になるか、私もこれからお話しながら、探って、楽しんでいきたいと思います。  さあ、みなさん聞いてくださいね。 ●映画は私の家、テレビはお隣さん  私は長いこと「ララミー牧場」の解説をしてまいりまして、映画とテレビということを、まあ、いろいろ考えさせられました。で、映画というものは、私の家のような気がします。テレビは、お隣さんみたいな気がします。今でもそうなんですね。そうして、このようにお話しているこのラジオは、私の兄弟、もっと身近かになるんです。  どうしてかと申しますと、それは私の感覚です。  映画というものは、私生まれたときからもうずーっと付き合っておりましたから、身内になっているんです。テレビはどうしても映画と違うんですね。あの小さなスクリーン、あのブラウン管の中に見えるものは、映画だと私思えないんですね、残念ながら。だから日曜洋画劇場など見ていると、ごめんなさい、ごめんなさい、画面が小さくて、なんて今でもそう思ってるんですよ。ところが、ラジオは、そういうことを考えないんですね。  テレビの画面に対して私がお話してるときには、お父さんお母さんお兄さん弟さん、おばあちゃんもおじいちゃんもいらっしゃる気でしゃべっております。けれども、ラジオはあんたと私、二人っきりでしゃべっているような気がするんです。だからラジオは兄貴であり弟である、そんな気がするんですね。これは私の感覚なんです。だからこれが一般論ではありませんよ。  そういうわけで、私は長いことテレビのごやっかいになっています。するといろいろなことがわかってきましたね。あの「ララミー牧場」を三年あまりやってる間に、はあ、テレビというものは、ずいぶんたくさんの人がごらんになるなあ、ということがわかったんです。  映画もたくさんの人がごらんになっていますけれども、ひっくりかえってもテレビの敵ではありませんね。テレビのほうはもう、一軒一軒、一軒一軒、あなたのお隣さんも、その向こうも、その向かいもみんなごらんになっていますね。なにをごらんになっているか。それは好き好きですよ。けれども、テレビをごらんになってる人の多さにはびっくり仰天ですねえ。  映画狂というのがありますね。映画狂という、いい方はいけませんが、映画が好きで好きでしかたがない人、そういう人たちから、「モロッコ」をやってください、ガルボをやってください。あるいは、あれをやってくださいなんてお手紙きますけれども、その映画好きのお方というのが、ちょうどコップ一杯の水としますと、テレビのお客さんは、大きな湖水ですね。大げさだけれどもそのくらい違いますね。  で、ラジオはまた違いますね。もう、大正の末の頃、大震災が終った頃から、ラジオを勉強してラジオ屋さんになるんだというお友だちもいましたから、私、ラジオというものとの付き合いは相当古く、サイレント映画時代からです。ラジオはここであなたと私と気楽にしゃべれます。テレビは顔が映るから気楽にしゃべれませんね。 ●テレビで当たる映画といいますと……  とにかく、テレビで当たる映画というのは、またちょっと違うんですね。  まず第一にアクションです。だから日本国中のテレビを持っていらっしゃるご家庭では、ほとんどお父さんとお兄ちゃんがテレビを占領していらっしゃるか知りませんが、アクションだったら、絶対パーセンテージがいいんですよね。  たとえば、戦争ものですね。これは絶対当たりますね。  それから、「ゴールドフィンガー」(一九六四)みたいな作品。それから、ウエスタン、それから、マカロニ・ウエスタン。これがもういちばんいいんですね。で、今「ゴールドフィンガー」といいましたね。それがなぜ口に出てきたかといいますと、ショーン・コネリーです。すごい人気でした。それよりももっともっとうえの、オードリー・ヘプバーンだとか、エリザベス・テイラーだとか、そういう大スターが出てくると、また当たるんですね。  スターで当たること。アクションもので当たること、これがいちばんですね。だから、その両方をもっているものには、「ジャイアンツ」(一九五六)なんてあるんですね。  それから、空港ものが当たるんですね。エアポート、飛行機ものが非常に当たりますね。なぜ飛行機ものが当たるんでしょうかね。これはどうも、日本国中のお方が、海外に行きたい、あるいは海外に行きたいだけじゃなくて、東京から九州、東京から大阪、あるいは北海道から東京というふうに、だんだん、空の旅がふえてきたので、あのエアポートのムード、ははーん、飛行機はああいうふうにカバンを預けて、ベルトをああして、なんていうことがなつかしいのか、空港ものがわりに当たるんですね。  それからもうひとつ。心温まる映画というのが強いですねえ。そういうわけで、私が今思い出した、当たった映画をもう一ペんみなさんとちょっと勉強してみましょうね。 ●「十二人の怒れる男」は初めテレビドラマだった  たとえば、「十二人の怒れる男」というのがありますね。ご存知ですか。一九五七年、ずいぶん古い映画です。シドニー・ルメットという人の監督作品で、ヘンリー・フォンダ、そのほかたくさんの男優が出演しております。シドニー・ルメットという監督は、なかなかいい作品を作っておりますね。「女優志願」(一九五八)というのがありました。「蛇皮の服を着た男」(一九六〇)、これはなかなかよかったですよ。アンナ・マニャーニとマーロン・ブランド。テネシー・ウィリアムズの原作ですね。  このほか、「橋からの眺め」(一九六一)、「質屋」(一九六四)、それから「丘」(一九六五)、ショーン・コネリーが出ていましたね。兵隊ものですね。それから「グループ」(一九六六)という作品がありました。それから最近では「セルピコ」(一九七三)、なかなかの問題作を撮ってるんですね。  この監督の「十二人の怒れる男」が、よくこれだけの人がごらんになったなぁという成績をあげました。これはディスカッション映画です。ああだろう、こうだろうとひとつの部屋でみんながしゃべるんです。非常に、テレビ向きなんですね。みんなの顔が映って、一人一人がしゃべるんです。ハハーン、こういうものが当たるんだなぁと思っていましたら、実はこれテレビドラマだったんです。テレビドラマでとっても当たったから映画にしたんですね。  これは別にロマンスがあるわけじゃなし、また別にきれいな女優が出るわけでもないのに、当たったということはうれしかったですね。で、もうみなさんよくご存知ですけれども、ちょっとみなさんといっしょに思い出してみましょうね。  ニューヨークのある町で、父親殺しの子供がいました。十六、七歳でしょうかね。そうしてその子供が、つまり殺人罪で法廷にひっぱってこられました。陪審《ばいしん》員というのがありますね、アメリカには。 「確かにこの男です、有罪です」とか、あるいは「いいえ、違います、無罪です」とか決める、十二人の陪審員。あちらから、こちらからいろんな人を集めてきます。その話が、「十二人の怒れる男」ですね。なにが怒れる男か? おもしろさはここですね。  十二人の人間が、別室で相談するんです。 「確かに、あの男の子だねえ。まちがいないよ。なんとかいう女の人が、見ているんですよ、その殺人現場を。だから、まちがいないですよ」  十二人の人がみんなそういうことを、話し合ってるのがこの映画になっているんですね。もう、みなさん思い出されたでしょう。名前がみんな隠されているんです。あんた一番、あんた二番、あんた三番というふうで、みんな番号なんですね。それで一番の人がリーダーになって、みんなに紙切れを渡して、有罪か無罪か記人させるんですね。すると全員有罪のはずが、一人だけ無罪になっているんですね。 「この無罪と書いた人はだれですか」 「八番です」 「ああ八番、あんたですか、八番は。どうしてこれが無罪なの? これは有罪に決まってるでしょう」 「ちょっと、そう思えんのだ」 「そのくらいのことで、有罪を無罪にするんですか」  といったことで、有罪と書いた連中はいらだってくるんです。  なぜいらだってくるかというと、今晩早く帰ってナイターを見に行きたくて困ってるんですね。キップ持ってるんですね。いま一人は、今晩ごちそうが作ってあるというので早く帰りたいんですね。もう一人は、もう暑くて暑くて──この部屋の扇風機が故障して止まってるんです──こんなところへいつまでもいられるもんか、といった具合で、みんなてんでに自分のことで頭がいっぱいなんです。それに現場を見たという証人もいるんだから早く有罪と決めて、早く帰りたがっているんですね。  ところが、その八番というのにヘンリー・フォンダが扮しているんですけれども、これが「どうも、違う」というんですね。「どこが違うのか」と聞いたら「目が違う」というんですね。 「法廷で、あの子の顔を見ていたら、目が優しすぎる」というんですね。 「あんな優しい目をしていて、おとっつぁんは殺せない」というんですね。そうしてこの八番が一生懸命になってこの子を弁護していくんですね。  この子が持っていたナイフが父親を殺したナイフ、落ちていたナイフに指紋もついているというと、この八番が「ちょっと待ってくれ。この子のナイフかどうかもう一ペん調べさしてくれ」といって、二十分間外出して、どこをどう探したのかわからないけれども、ナイフを持って帰ってくるんですね。 「ほれ、町に同じナイフが売っている」というんです。まあ、あれやこれやそんな話はとばしますが、えらいことですわ。  とうとう、もう一ペん紙を集めたんです。すると最初は十一対一だったのが、今度は、八対四ですか、だんだん変わってきたんですね。無罪というのがふえてきたんです。  そこで、現場を見たという人を連れてきたんですね。向こう側の家から、遠くの窓を見て殺されるところを見たという女の人。法廷で、 「あんた、鼻の横の、ちょっと上のところがへっこんでるけど、普段|眼鏡《めがね》をかけてるのと違うか」と聞くと、 「はい、かけています」といったんですね。 「で、あんた、その晩、ベッドから起きるとき眼鏡かけていたんですか」と聞いたら黙っているんです。 「あんた寝るとき眼鏡とってるでしょう」と聞くと「とって寝ます」というんですね。 「で、あんた、あの晩、寝ていてフッと目を覚まして、見たといったでしょう。そのとき、あんた眼鏡かけたんですか」  なんて、まあ、いろいろあって、この八番がまあ、なんともしれん努力で、この少年の無実を、初めは目が優しかったというヒントだけで、そのうちに、調べていくうちに、本気でかばいたくなって有罪説を崩していくんですね。  十二人のなかには、早く帰りたいだけで有罪にしていた人が、今度は有罪と無罪の比が変わってきたら、無罪のほうについたんですね。とうとう最後に、一人だけを除いて、三番だけを除いて、無罪のほうが多くなったんですね。  その三番ががんばるんです。「子供ちゅうもんは、そんな甘いもんやない」  目が優しいというだけで信用するのかと、この三番が強硬なんです。この三番をリー・J・コッブという、なかなかいい俳優がやっていましたが、これがえらくがんばる。そうしてそのがんばりに対して八番がくいさがる。とうとう、この三番のおっさんがぐうの音も出なくなって泣きだした。 「実は、わしの息子も十六、七で、家出しおって、まあ、あの十六、七はわるい」  自分の子供のことから、世間の少年をみんな憎んでいることがわかって、この一人の男、八番の懸命な弁護で、死刑になろうとする少年が無罪になる。この子は罪人じゃないということが最後の最後にわかるという映画ですけれども、これがテレビで当たりましてね。  そうして、夜明けになって、陪審員たちがフラフラになって部屋から出て行くところが、なかなかよく撮ってあったんです。  みんなが、ああでもない、こうでもないと論議したテーブルの鉛筆、紙、インク壺《つぼ》。そんなものを散らかしたまま、無罪と決めてみんなが出て行ったあとのその机が、上から撮ってあるところがよろしゅうございましたなぁ。移動撮影でずーっと十二人の連中が出て行ったあとを撮っていきます。三番、十番、八番、七番と。それらの机のあとを私たちが上から見おろしている感じで、しかもそれと同時に、神の目のような感じで、十二人が戦かって戦かって、ほんとうに無実の者を助けたという感じがみごとでしたねえ。  そうすると、この「十二人の怒れる男」が、ひっかかってきましたね。どうひっかかってきたか? イエス・キリストのあの十二人の弟子に見えてきたんですね。  そうして外へ出ました。夜が明けてきました。そうすると、五番だったか七番だったかそのじいさんが、 「ちょっと、あんた、あんた八番さんですねえ。わしは、七番です」  まだお互いに名前を知らないんです。 「わしは、ジャック・クラーマン、ところで、あんたは?」  すると八番のこのヘンリー・フォンダは、 「ぼくは、デビッドと申します」  そうして、初めて名乗りあうところが、また面白うございますね。  十二人の名なしの者たちが戦かって戦かって、最後に、ホッとしたときに「ところで、あんたの名前は? そうですか。デビッドさんですか」なんていうところが面白うございましたね。 ●「めぐり逢い」と「手錠のままの脱獄」もテレビ向き 「めぐり逢い」というのがまたテレビで喜ばれましたねえ。もうご存知ですね。レオ・マッケリーが監督しました。「めぐり逢い」は、この監督がよっぽど好きなのか、二回映画にしましたね。最初は「邂逅《かいこう》」、シャルル・ボワイエとアイリーン・ダン。二回目は一九五七年に、ケーリー・グラントとデボラ・カーでやりました。  このレオ・マッケリーという人は、「我が道を往く」(一九四四)だとか「人生は四十二から」(一九三五)だとか「明日は来たらず」(一九三七)など、まあ、渋いみごとな作品をたくさん残しております。けれどもこの人、一九六九年に、七十一歳で亡くなりました。  ストーリーを簡単にいいましょうね。  男と女が船に乗っていました。マルセーユからニューヨークへ帰るんです。まだ飛行機のない頃です。豪華船です。男のほうは絵かきさんで、ちょっとプレイボーイなんですね。で、女のほうはまだそんなに有名でないけれども歌手なんです。男に扮しているのはケーリー・グラント。この男がプレイボーイであることは、デボラ・カーの女のほうも知っているからあまり近寄らない。実は男のほうにも女のほうにも婚約者がいるんです。ニューヨークの港に着いたら、どちらもきっと相手が迎えに来てるんです。だから二人は、ハローと挨拶《あいさつ》するけどただの友だち同士。  ところが、船が毎日毎日毎日、ニューヨークへニューヨークへ近づいて行く間に、まあ、因果なことに二人は好きになったんですね。好きになって好きになって困りましたねえ。とうとうニューヨークに船が着くときに、男がきりだしました。 「あの向こうに、エンパイアビルが見えるでしょう。六ヵ月先の今日、あそこで会ってくれませんか」といいますと、  女は「はい」といいました。  これなかなかいい会話でした。明日会ってくれというんじゃないんですね。六ヵ月先に会ってくれというのは、今お互いに相手が迎えに来ている。だから六ヵ月の間にお互いに今までの愛を清算して、ほんとうにこのぼくが好きなら会ってください。そのために六ヵ月の期間をおいたんですね。女も「なんですか、六ヵ月先ですか」なんていいませんね。ただ「はい」というところが、なかなかこの二人の会話がよろしいですね。  やがて、二人は港に着いてからいろいろのことがあって、六ヵ月たちました。どちらも忘れられない。その当日、男のほうは三時に会う約束なのに朝からエンパイアビルに行って待っていました。女のほうも喜んで出かけました。ところが、女は自分の車とトラックが衝突して病院行きです。入院しても、エンパイアビル、エンパイアビルといって、この女は泣いていました。看護婦さんがどうしてエンパイアビルなんていっていらっしやるの、と不思議がっておりました。  男は待ちぼうけ。とうとう夜になっても来ないので、帰りましたねえ。思い出されるでしょう、ケーリー・グラントが。それから五ヵ月たちました。男のほうは、あの人はどうしているだろう、と思いながらも、おれをすっぽかしたなぁと思っていました。女のほうは、とうとう私は行けなかった、あの人はきっと来ていたんだろうにと思っていました。  彼女は事故のために松葉|杖《づえ》です。そうして、もうそろそろ外出してもいいことになって、もう年の暮れです。バレエを見に行きました。男のほうも行ってたんですねえ。そうしてバレエがはねて帰るときに、ぱったり会ったんですね。女のほうは足がわるいからまだ腰かけていました。はねてみんながどんどん帰るのに。その女の横に、彼女は車椅子で帰らねばならないので、それを世話する男の人が立っていました。  ケーリー・グラントはそれを見て、彼氏だと思ったんですね。「ハハーン、やっぱり彼氏がいたから、エンパイアビルに来なかったんだなぁ」と思って、「今晩は」といっただけです。女も、立ち上がって「あんたのために、足がわるくなった」。そんなこといわなかった。ただ「今晩は」といったんですね。ここらもよかったですね。それで二人は別れました。  ケーリー・グラントは、なんだかこのまま別れるのがつらくて、電話帳を調べて調べて、いよいよ明日が正月というときに会いに行きます。ぼたん雪が降っていました。ドアをノックして入ると、女は腰掛けて、足に毛布をかけたまま立ち上がってくれなかった。男は、冷たいなあと思ったんです。それでも、「まあ明日は正月ですね」なんて話をしました。そうして、プレゼントを渡したら、「ありがとう」といいました。「お茶でも、おあがりになりませんか」といって、それでもすわったままでお茶を出さないんですね。  それでもいろいろ話して、もう帰ろうと思ったときに、いったらいけないと思っていたことを思わず、 「あのエンパイアビルねえ」  と、すると女が 「はい」といいました。 「ぼく、あのエンパイアビルに行かなかったんですよ。行けなかったんですよ。ごめんなさい」  男はそんなこといったんですね。すると、女はこんなことをいったんですね。 「あら、私は行きましたのに。私は行ってお待ちしておりましたのに」  あれっ、そんなばかな。この女うそついてると男のほうは思った。けれども女は、もしも私があのとき行かなかったといったら、この人の夢をつぶすかもしれない。私は行って待っていてあげたといったほうが、この人の追憶はきれいになる。私はこの人の追憶をつぶすまい。この人は行かなかったのか、私はあんなに急いだのに、逆にそう思いました。  男は、あ、そうか、この人はうそをついてるなと思って帰りかけた、でも帰れないんですね。どうしても帰れないので、話を始めました。 「ぼく、あんたのスケッチを、ずいぶん船の中でかいたでしょう。あのスケッチを一つにして、あんたの立ち姿を、油できれいにかきあげたんです。で、この間、ニューヨークで個展を開いたときに、その絵も入れておいたんですよ。そうしてぼく、南米に行っていたんです。その個展が終るときに、ニューヨークから電話がかかってきたんです。そうしてこういうんですよ。──あの、あなたのお好きな非売品の絵がありましたね。女の人が立っている絵。あれを毎日、車椅子に乗って見に来る女のお客さんがいるんです。その女の方が、その絵に見とれているんです。もう、明日で個展が終るというときに、どうしてもあの絵を売ってくれ。あなたこの絵を手放してくれませんか──。  でも、ぼくね、あんたの絵だから、売りたくないんだけれども、その相手の女の人が車椅子に乗っているということが気の毒でね。よっぽどその絵が気に入っているらしいので、お金はいらないから、差し上げてくれとそういったんですよ。その人きっと喜んでくださったでしょう」  といいかけたときに、自分の目の前の彼女が、ソファーにすわったままで、毛布を膝《ひざ》にかけていること、バレエの晩にも立たなかったこと。フッとそれを思って女の顔を見たら、目に涙があふれている。ああ、この女《ひと》かと思って、彼は思わず勝手に歩いていって隣のドアを開けたら、あの絵が掛けてありました。 「あんただったの」  女は黙ってうなずきました。これが「めぐり逢い」のラストシーンのいいところでしたね。  こういうのが、なかなかテレビでも、一般の人々の心を打つんですね。これをごらんになった方はとても多かったですね。  スタンリー・クレイマーという監督がありますね。「渚《なぎさ》にて」(一九五九)、「ニュールンベルグ裁判」(一九六一)、この人、なかなかいいですね。「招かれざる客」(一九六七)もこの監督です。「手錠のままの脱獄」(一九五八)、これごらんになったでしょう。簡単にお話しましょうね。これがまた、とっても当たったんです。当たったという言葉はわるいですけれども非常に喜ばれました。  黒人と白人が脱獄したんですね。  黒人の片手と、白人の片手が一つの手錠につながれていたんです。その二人が逃げた。どちらが逃げたのか、どうも白人のほうが逃げるというので、黒人が引っ張っていかれたんですね。この二人、白人のほうはトニー・カーチス。黒人のほうはシドニー・ポワチエ。  まあ、白人がその黒人を軽蔑《けいべつ》してね。「おまえみたいな奴といっしょに行くのはいやだけど、しかたないから行ってやるわ」とかねえ。だんだん、だんだんけんかしていくうちに、いよいよ最後になってきたときに、お互いに助け合ったからここまでこられたとか、一人では物事はできない、二人協力したからできるんだということになってきた。つまり世のなかを象徴していますね。一人では世間は生きられない、協力してこそ生きられる。つまり人という字が、棒が二本もたれあってるでしょう。あれと同じことですよ。二人だったから、うまく逃げられたという話なんですね。  心のなかでは、二人だから逃げられたと思っていても、表向きは、「この野郎」なんです、両方とも。この野郎、ばか野郎、二人くっついたままけんかしながら行くんですね。最後にはやすりで鎖を切ることができました。さあ、早くおまえ行け、おれこっち行くというわけですね。二人は自由なんです。もう三日も四日もいっしょにくっついていた手が離れたんですから。けれども二人はやっぱり同じ方向に歩き出した。 「おまえ、どこへ行く」 「おれ、あれに乗るから」  ちょうど、向こうから汽車が来たので、どちらかが残って、一人は汽車に乗って逃げることになったんですね。黒人のほうがその汽車に乗ることになった。そうか、別れるのか、別れよう。そうして黒人が、ちょっと歌をうたいだしたんですね。汽車が来た。いよいよ汽車が来た。黒人が飛び乗った、アバヨというわけですね。ところが、片っ方が、腹でも痛いのか苦しみだした。逃げればいいのに、黒人は飛び降りた。 「おまえ、どうした」 「二人で逃げるとき撃たれた傷が痛むんだ。おれはもうだめだ」というから、 「ばかいうな、おれの肩につかまれ」といって、肩にかついで逃げようとしたそのときに、もう追手のグループが取り囲みつつあったんですね。  黒人は汽車に飛び乗るとき、追手が迫っているのを感じてたのに、相手の苦しむのを見て飛び降りた。そうして、とうとう二人はつかまえられてしまった。まあ、手錠がはずれたときに二人の心は結ばれた。これが当たったんですね。この映画なんか見ていると、映画館ではそうおわかりにならないところが、テレビだとおわかりになるんですね。というのは家の中では気楽にごらんになれるんですね。  二人の男が逃げたり、またもどったりするときに、汽車の鉄橋が、二人のうしろによく見えるんですね。どうもこの橋が、二人の心と心を結んでる友情ということがよくわかるんですね。テレビを見てますと「うん、そうかぁ。この監督、おもしろいなぁ」ということになるわけですね。 ●ここでどうなると思うと、コマーシャル 「サンフランシスコ大空港」というのがありました。これもね、テレビ映画だったんです。それを洋画劇場に出したんです。これやっぱりテレビで作ったから、いいんですね。  テレビの映画というものは、みんなコマーシャルが入るんです。コマーシャルからコマーシャル、ちゃんと考えてあるんです。コマーシャルの前までがひとつの山という具合に作ってあるからおもしろいんです。NHKで「刑事コロンボ」なんてありましたね。あんなのコマーシャル入らないでしょう。けれどもコマーシャル考えてあるから、あら、ここでどうなると思うと、ちょっと場面変わるんですね。あれほんとうはコマーシャルが入ってるんですね。だからテレビの映画というのはわりにおもしろいんですね。 「サンフランシスコ大空港」というのはね、そういうコマーシャルとは関係ありませんけれども、バン・ジョンソンとかタブ・ハンターが出ましたが、なかなかおもしろかった。どこがおもしろいかというと、アメリカの今日の空気があってね。はあと思うんですね。  飛行場でね、お父さんお母さんに連れられた十四、五歳の男の子がね、飛行機が好きだから、キョロキョロ、キョロキョロしながら、飛行機がたくさん並んでいるところまで出ていってしまった。ファー、このボーイングきれいだなぁなんて見ているうちに、小型飛行機があったんですね。赤い小型飛行機。これいいなぁ、これ二人乗り? 一人乗りみたいだなぁ。男の子、その飛行機に乗り込んだ。そうして、あっち押したり、こっち押したりしている。  お父さんお母さんはそんなこと知らないんですね。ピュッとさわったり引っ張ったりしているうちに、ガタガタガタガタ、ブルンブルン、ブルンブルン、ブルブル、ブルブル、いいだした。胴体が揺れているうちに、スーッとあがっていきおったぁ。この子全然操縦できないのにあがってしもうた。  えらいこっちゃ。サンフランシスコの上までずーっとあがっていくので、泣きだした。 「どないしょう」と。  けれどもあがっていくんです、まだまだ。さあ、今度はそれがわかって空港のほうから、それを助けに小型機があがっていくんです。どのようにして助けるでしょうねえ。白い小型機が追っかけて行くんです、追っかけて行くんです。そうして二つ並ぶんですよ。あのサンフランシスコの橋の上をずーっとね。赤と白とが並ぶところ、映画ですねえ。  赤は少年ですね。白はそのパイロットですね。教えているんです。「それ持て、それを耳にはめろ」なんて教えているんですね。パイロットのいうとおりにしたら声が聞えてきたんですね。 「さあ、その左の、そのスイッチを上げるの。それからこっちのを下げる。あ、それを引っ張った引っ張った。うん、よしよし。それで真っすぐになるよ。あわてちゃいかん」と教えているんです。  すると少年は、あわてないで、いわれたとおりにする。まあ、見ていると、ああいわれたら私も操縦できるなぁと思うぐらいの気持になってくるんです。  そうしてうまいことリードされて、白がずーっと教えながら赤についていくところ、よろしいなぁ。これが映画ですねえ。  そうして下は青い青い海。赤と白の小型機がずーっと並んでいくところ、まあ涙が出ますね、その教え方。片っ方の少年が教えられたとおり、一生懸命やってるところ。 「はい、降りるんですよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ。心配しないで」いいですねえ。  やっと空港に着いた。ストップ。上出来といいました。  お父さんお母さんは、もう心配で心配で抱き合って泣いていました。着いたぁ。白のほうからパイロットが降りてきて、あんたんところの子供は無事だ、よかった、よかった。息子は、悪いことをしたというのでベソをかいて降りてきた。すると、お父さんは怒らなかった。それが日本の映画だったら、パチーンと頭でも殴って「この野郎、なんてことしたんだ」というでしょうけれども、怒らなかったですね。  良くやったね、といいました。そうして「こんなことをすると、もう二度と飛行免状をもらえんぞ」といいましたね。初めに、「よくやった」そのあとで「こんなことをすると、……」というあたりに、やっぱり社会性がありましたね。  というわけで、そういう社会性のある映画が、ご家庭で、そうかなぁ、そうかなぁとわかるし、楽しく教えられることがテレビでいちばん大事なことなんですね。 ●テレビ映画と映画は、呼吸が違う  やっぱり、きめの細かい女性タッチの、心の底から楽しむフランス映画なんてのは、テレビでは当たりませんね。非常にデリケートな感覚のフランス映画、私なんかそういうフランス映画好きですけれども、当たりませんね。ここらあたりに、ちょっと考えなければならんことがありますね。  ジョージ・ロイ・ヒルという監督は「明日に向って撃て」(一九六九)、「スティング」(一九七三)など作った監督ですね。この人が、「マリアンの友達」(一九六四)という十四、五歳のやわらかい「若草物語」のような、ニューヨークの「若草物語」のような、なんともしれんかわいい少女の映画を作ったことがあるんです。  ニューヨークのこの十四、五歳の少女がコンサート・ピアニストにもう夢中になって夢中になって、友だちと二人でファンクラブみたいなもの作って大騒ぎする映画なんです。けれどもやがて十七歳ぐらいになって、「まあ、あの頃は、あんなことで喜んだのね。でも今、私、自分のメーキャップのこと、自分のヘアスタイルのことで、もっと気を遣わなくちゃ」というような映画なんです。こんな映画当たらないのですね。日本のお父さんたち、こういうものちっとも見てくれないのね。 「ララミー」とか「ローハイド」を見ておりますと、いかにもテレビ向きに作ってあるんですね。十五分、十五分とワクをとって作ってあるから、見るほうでもちょっと呼吸ができるんですね。  映画の場合は、一時間半とか二時間で長いですからね。テレビの映画とちょっと呼吸が違うんです。映画の場合は、一、二、三、四、五、六、七ぐらいで呼吸するけれども、テレビの場合は、一、二、三、四ぐらいで呼吸できるんです。テレビ映画の呼吸と、映画の映画の呼吸とは違う。だから映画のものをテレビで出しますと、どうも長い気分がするときがあるんですよ。不思議なもんですね。  たとえば「ローハイド」、「ララミー」もそうですが、お父さんもお母さんも、おばあちゃんも子供さんも見ているから、お父さんが見たらお父さんがおもしろいし、子供が見たら子供がおもしろいようにできていますね。テレビの場合は、家族の人みんなをつかむんですね。そのあたりうまいですね。  私は映画の人間だから、映画を自分の家だと思っております。テレビはお隣さん。だからテレビ見ても忘れることが多いんです。「刑事コロンボ」見ていても、あれどうだったかなと思うんですよ。映画だったらそういうことありません。じっとにらんで見てます。テレビは気楽に見ています。それだけに、テレビはテレビでおもしろいのですね。  まあ、あんたあわててテレビの前にとんでいきましたね、ラジオはイヤホンにして。それで両方聞こえますか。でも、こっちはもう今日は終りですよ。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   女 の 映 画  はい、みなさん今晩は。  今夜は、女の映画のお話をしましょうね。あら、あんた、目をあけましたね。あんた、男だったんですね。  まあ、女の映画といったら、どんな話になるか、私もみなさんとともに楽しみたいと思いますから、私自身、今ここでドキドキ楽しんでいますから、さあ、聞いてくださいね。 ●女流監督の細やかな感触「幸福《しあわせ》」の女  この「幸福」(一九六五)では、タイトルに大きな大きなひまわりが出てきましたね。あのひまわり、あれは幸せのシンボルかもしれませんね。この映画を、私がどうしてまず最初に取り上げたかといいますと、この映画では、女の優しさがなんともしれん形で出ておりましたねえ。これは女流監督のアニェス・バルダの作品です。  ここにフランスの若い大工さんがいました。この大工さんには、二人の子供と奥さんがいました。まあ、かわいいかわいい娘のような奥さんでしたね。そして、この大工さんは、お休みの日に子供を連れて、公園に行って、森の木陰でみんなでお昼寝するのが好きでした。だから幸せそのものでした。女の人も幸せそのもの、旦那さんも幸せそのものなんです。  ところが、この大工さんが、まあ、車でちょっと五時間くらい乗って行くところでしょう、そこへ出張しまして、お仕事しとりましたね。そして、いつでもいつでも奥さんに手紙を送っていたんですね。ところが、その手紙を送っていた郵便局の女ですが、とっても優しくてかわいくて。その郵便局の女の人が、その大工さんに、「私んところの棚を直してくださいな」といって、そのうちに仲良くなっちゃったんですねえ。  まあ、困りましたね。とっても好きな奥さんがいるのに、その郵便局の女の人も好きになっちゃったんですね。人間は二つの愛をほんとにもてるのかしら? この男は、この二つの愛のなかで、幸せを身に着けておりました。  けれども、なにしろこの大工さん、単純で、いい男ですから、あるとき、奥さんと子供を連れて、いつものようにピクニックに行きまして、木陰でお昼寝するところで、しゃべっちゃいました。「ぼく、実はこんなことあったんだ。その女はとってもいい人なんだ。相手もとってもぼくを好いてくれたんだよ」と。まあ、男はさっぱりと話したんですねえ。ほんとは隠さなくちゃならないことを、奥さんを愛しているから、ちゃんとしゃべっちゃったんです。さあ、幸せはここで、どんなかたちになったでしょう?  その奥さんは、旦那さんがお昼寝しているときに池に入って死んでしまいましたねえ。ここに女がみごとに出ておりましたね。どういうかたちで出ていたか? 旦那さんは非常に単純な人、善良そのもの、純粋な人。だから、自分の嫁さんがいなくなったので探し回っていたら、人に教えられました。 「あの人はね、そこで草を取っててね、花を取ろうとしたら、すべって池に落ちて、おぼれちゃったんですよ」ときかされて、びっくりしてその溺死体に抱きついて泣きました。  すると、その溺死体に抱きついて泣いているその旦那さんの頭のなかの感覚は、パッ、パッ、パッとカットバックで映画のなかに出てきます。奥さんが助けてくれ助けてくれと、足を踏みはずして苦しんでる光景が出てきました。死にかけている光景が出てきました。旦那は、自分がなぜいっしょにいなかったんだろう、と思いました。旦那が頭のなかに描いたその奥さんは、あやまって死んでいく姿でした。  とんでもない。ほんとうはこの奥さんは、旦那さんに打ちあけられて──自分の幸せが去ったけれども、夫の幸せは大事に大事に守ってやろう。私はあやまって死んだことにしてあげよう。これが夫へのほんとうの命をかけた愛だろう──と思いました。だから旦那さんは、あやまって死んだんだから自分に罪はないと考えて、その郵便局の女と今度は秋の暮れに近所の人にすすめられて結婚したのでした。ここに、旦那さんの幸せはまた訪れるに違いない、というふうにこの映画は感じさせました。  女の人の愛、なんという哀れな愛、なんという強い愛、なんというきれいな愛。私はこの「幸福」を見て、そう思いました。 ●「女はそれを待っている」の母親  ここで私、ちょっと思い出しました。もう昔の、一九五八年の名作ですからずいぶん古いんですけれど、スウェーデンのイングマル・ベルイマンが監督しました作品で、カンヌ映画祭で最優秀賞とりました「女はそれを待っている」という映画を思い出しました。  これは、妊産婦がえらいえらい苦しんで、難産で難産で、うめいてうめいて、とうとう子供が死んで生まれてくる映画でした。ストーリーはほとんどありません。けれども、この映画を見て、あのうめき声、あの難産、ああすごいなあ、あれこそ女なんだなあ。男にはない、男には死んでも体験できない姿なんだなあ、女とはこわいなあと思いました。そうして、それと同時に、女は子供を産むんだな、男は子供を産めないんだな、男は協力するだけだなと思いました。  そして、母と子ということを、あの映画でほんとうに身にしみて感じました。陣痛、そしてお母さんのからだを傷つけて子供が出てくる。まあ、母と子の結びつきは鮮やかに出ておりました。この子供を産むという大変な責任、そして、その子供を抱いて、一歳《ひとつ》から二歳《ふたつ》になる間に、お母さんの性格が子供に移るということまで、「女はそれを待っている」という映画見ていますと、身にしみて感じました。男より女のほうが人間形成のうえではえらいんですね。 ●「黒衣の花嫁」と「サロメ」の女のこわさ、凄じさ  ここらでひとつ、女のこわい話のほうに入っていきましょうね。女の美しさは山ほどありますけれども、女というもののこわさというんでしょうか、執念というんでしょうか、それをちょっと思い出してみましょうね。 「黒衣の花嫁」(一九六八)という作品があります。フランソア・トリュフォの監督で、やっぱり、フランソア・トリュフォくらいになりますと、女の描き方がこおうございますね。  この女は、幼なじみの、好きで好きでしかたなかった男性と、とうとう結婚することになりましたね。二人は教会で結婚式をあげました。そうして、女はウェディングドレスで表へ出てきました。旦那さんもテールコートで表へ出てきました。その女の白いウェディングドレスの白いベールが風になびいてきれいな風景でした。幸せはそこにやって来とりました。  その花嫁花婿を取り巻いている群衆のほかに、遠く上のほうから見ている者があったんですねえ。向かいのビルディングの上のほうで、五人の男が見とりました。ライフル銃を持っていて、あの教会の上の風見《かざみ》の鶏《とり》を撃とうかなといってうかがっておりました。  すると、なかの一人が風見の鶏をねらっているライフル銃の銃口を、おもしろ半分に下のほうへおろしていきました。どんどん、どんどんおろしました。ちょうど結婚したての若夫婦のところへ向けて、銃口がおりてきました。ここで、パーンとやったらおもしろいぞと思いましたが、まさかそんな悪いことできません。ところが困ったことに、そこでその銃は暴発しました。思いもかけない暴発で、その弾丸は花婿さんの胸を射抜きました。  この花嫁がえらいことになってくるんですね。この五人の男を次から次に殺していくんです。これをジャンヌ・モローが演じておりましたが、なんともしれんこの執念ですね。  最初には、一人をベランダから突き落として殺してしまいました。相手を殺したということに、なんの後悔もありませんでした。澄ました澄ました顔で、冷たく冷静に殺してしまいました。みんなのアドレスを調べて、さあ、誘惑しては殺す、あるいは学校の先生になりすましては殺す、そして次はこんなかたち、というふうに四人の男を殺しました。  最後に、とうとう一人だけ見つからないんです。どこにもいないんですね。あたりまえでした。この男は、悪いことをして監獄に入っていたんですねえ。ところが、それがわかると、この女は自分も監獄に入れられるようなことを、わざとやって、監獄に入り込んで、探し探して見つけました。そうして、とうとう模範囚になりまして、囚人たちに食事を配る役を受け持って、その食事を配るときに相手に近づき、ナイフで殺してしまいました。  もちろん、この女も死刑になるでしょう。けれど死刑なんかこわくないんですね。自分がほんとうに愛した男を殺した男たちを殺すことが、それが愛だったんです。自分の愛した愛した愛した男への、手向《たむ》けだったんですねえ。女というのはこわいですねえ。  というわけで、そんな女の人ばっかりではありませんけれども、映画が描く、芝居が描く、あるいは小説が描く女のなかには、その思う一念を貫くという女のこわさがよく出て、男は勝負に勝つ、女は愛に勝つ、ここらに女の性《さが》というか、女の中身が出てきますね。そういうこわい話のなかで、みなさんがよく知っていらっしゃる女の話をひとつ取り上げましょうね。  これも幾度も映画になりました。はい、みなさんよくご存知のオスカー・ワイルドの「サロメ」。サロメなんてのは女のかたまりですね。オスカー・ワイルドは、まあ、ずっと昔、一八九一年に書いたんですけれども、このサロメこそ女のかたまりですね。これはサラ・ベルナールというフランスの有名な女優が舞台にあげて、そうして一躍「サロメ」は有名になりましたが、ただちに上演禁止になりました。こんな生首を手に抱くようなこんなこわいお話、しかも聖書をこんなかたちで見せることは許されません、ということで上演禁止になりましたが、その後、世界中で注目するようになりました。  ユダヤの王国にヘロデ王がおりましたね。このヘロデ王は、ヨハネに変なこといわれました。あのバプテスマという、イエス・キリストの教えを広めたあのヨハネが、ヘロデ王を恨みましたね。そこで王に、おまえは必ず残酷な死に方をするぞといったんですね。ヘロデ王はおっかなくなって、このヨハネを自分の王宮の中の、井戸の中に放り込んで、永久に虜《とりこ》にしました。  まあ、悪いことはできませんねえ。なんとヘロデの義理娘のサロメが、このヨハネに懸想《けそう》したんですね。ヨハネという男はチャールトン・ヘストンが一ペん演じましたが、あんな男前じゃないんですね。もっとセクシーじゃない男、これがヨハネだったんですね。それを、こともあろうに、絶世の美人のサロメが好いたんです。  ヘロデ王も、この義理の娘が好きだったのです。おもしろいのは、この女はもうあらゆる男という男に愛されて、みんなに命がけで恋されているのに、井戸の中の囚人、むさくるしいヨハネが好きだったことですねえ。サロメの美しさには、男はたちまち参っちゃう。これほどの美人になると、自分の手に入らないものが欲しくなるんですね。  サロメは、どうしても井戸の中の男が欲しくてしかたがないから、まあ七つの門をくぐり抜けていきます。その門の鍵《かぎ》を握っている侍たちに、うまいこといいますね。今度のお祭には、私はあなたのほうを向いておみこしで通っていってやろう。それだけで鍵を取っちゃうんですね。次の侍には、今度のお祭にはあなたのほう向いて笑ってやろう、それで鍵を取っちゃったんですね。まあ、それほどサロメは命がけで侍たちに愛されたんですね。  とうとう、うまいこといって井戸のそばに行きました。サロメはいいました。 「ヨカナンや、ヨカナンや。ここへ出ておいで」  階段をあがって、鎖でくくられたヨハネ、ヨカナンがあがって来ました。サロメがいいました。あなたの唇はなんてきれいでしょう。こんなきれいな唇見たことない、といいました。すると、ヨハネがいいましたね。 「さがれ、ユダヤの娘!」  まあ、その怒り方、ヨハネの。そばへも寄せつけませんね。それをきいたときに、このサロメは怒って怒って、なんだ、おまえの唇の汚いこと、ちょうどイチゴが腐って腐ってくずれている唇だ、なんていいましたねえ。まあ、罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせて、サロメはヨハネを苦しめました。けれども、やっぱりヨハネが欲しくて欲しくて、とうとう最後に、王様の前で、裸踊りをして自分の意に従わなかったヨハネの首をとっちゃいましたね。そこに、女の執念がみごとに出ていました。 ●「マドモアゼル」の女の性《さが》  どうも私は、映画から女のこわさをまざまざと感じて、それでとうとう独身で一生過ごしたなんて、映画のためにえらい運命におちたのかもしれませんね。ここでトニー・リチャードスン監督の「マドモアゼル」(一九六六)のお話をしましょう。これはこわい映画でしたねえ。あんたごらんになりましたか? なに? ごらんにならなかった。ああ、よかった。この映画見たらゾッとしますよ。  これはイギリスの映画です。フランスのジャン・ジュネが、映画のために、ジャンヌ・モローのために書いたお話ですね。この監督のトニー・リチャードスンは、「蜜の味」(一九六一)、「長距離ランナーの孤独」「トム・ジョーンズの華麗な冒険」(一九六三)と、まあみごとな作品の監督です。この「マドモアゼル」も、ただの映画じゃありませんね。こわいこわいお話ですね。  フランスの田舎です。小学校の先生がいます。それがジャンヌ・モローですね。この先生、独身です。もう三十二、三歳になってきました。この先生が自分の部屋に入るところから映画は始まります。部屋に入りました。大きな鏡がありました。誰か映りました。ハッと思うと、それは自分の全身でした。先生は自分の顔をじっと見ておりました。その部屋は、向かって右側に窓がありますが、カーテンがうすく閉めてあります。まあその部屋の陰気なこと。鏡に映ったのは自分の姿だけ。孤独。だあれもいない。独身の女の先生の部屋。いかにも寂しい部屋でした。  この先生は、学校で子供たちを教えながら、ほんとうに聖女、清らかな女という感じで、村の人たちに愛されとりました。けれども、この女の人は、妙な人なんですね。自分のセックスが燃えあがって燃えあがって困るんですねえ。それを押えて押えて、ほんとうに聖女のような、セント・マリアのようなきれいな女になりたいと思っているのと、燃えあがるセックスとが葛藤《かつとう》するんですね。  とうとうこの女の先生、えらいことをしました。町に放火したんです。家がめらめら燃えるのを見て喜んだんですね。ときには、池の水門を開きました。まあ、その池の水がどんどん村へ流れていって、馬小屋から鶏小屋から、農家なんかがどんどん泥水の中につかっていくのを見て喜んだんですねえ。この先生は、放火したり水門を開いて水を流したりして、自分のセックスの燃えるのを押えてたんです。  けれども、全然そんな顔しないで学校へ行っておりましたから、みんな、この先生はいい先生だと思っておりました。  ところが、一人の子供が、放火があったときに紙切れを拾いました。放火するときに使った、半分燃えて、半分燃え残りの紙切れ、それは先生のノートでした。子供はそれを見て、あの先生が放火したんだということを知りました。小学校の五年生の男の子です。けれども、この男の子は、先生が好きで好きでしかたがないから、それを黙っておりました。村のなかで知っているのはこの子だけです。先生のほうは、そんなことちっとも知りませんでした。  そして、あるとき、先生は山のなかへ散歩に行って、林のなかで本を読んでおりました。なるべくきれいな気持になりたい、自分のセクシイなものを洗い流したい、それで本を読んでおりました。ところが、その向こうで、きこりが三人ほど、トンカン、トンカンと木を伐《き》っておりました。すると、その一人が、大きなたくましい男が、つかつかっと前のほうに来て立小便をしました。その向こうに先生なんかがいることを知りません。先生のほうからは、その男の真正面から立小便する姿を見ました。先生は、ドキッとしました。  やがてある日、また森に行ったときに、先生はそのきこりと会ってしまいました。きこりがいいました。おまえはおれが欲しくはないか、といいました。先生は横向いて、けがらわしいという顔をして逃げました。けれども、その次の、次の次の日に、先生はこのきこりをすごいかたちで誘惑しはじめました。そのきこりはいっぺんに参って、まあ、すごいかたちで、驚くようなかたちで、きこりと先生とのセクシイな場面が出てきました。しかも雨が降ってきました。雷が鳴ってきました。雨のなかで、雷鳴のなかで、セックスはまたまた燃えあがりました。  そうして、夜が明けました。先生はその激しいセックスでからだ中が燃えあがって、衣服が破れ、髪が乱れていました。けれども先生は、そのかたちのまま自分の村へ帰って来ました。みんながびっくりしました。 「先生、あんたどうなさったんですか?」  先生は黙っとりました。黙っとりましたが、ただ一言、 「イタリア人のきこりに……」  といいました。それはどんな意味でしょう? 村の人たちは、イタリア人のきこりが先生に暴行したと思いました。それで、みんなが怒りだしました。  あんな優しい先生、神様みたいな先生を、あのきこりがこんな目に合わせたのか。みんなは、シャベルを持って、クワを持って、棒切れを持って、その山を探し回りました。きこりは昨日からのものすごいセックスのあとで疲れとりましたが、いつものように木を伐っていますと、村の連中が男、女合わせて、どんどんどんどんやって来て、シャベルと棒でそのきこりを殴って殴って殴って、殴り殺してしまいました。  先生はそしらぬ顔で、やがて、転勤しますわといって、この村から逃げようとして、トランクに物を入れて、次の村の学校へ転勤するところで、この映画は終ります。  だれも先生の罪を知りません。そしてみんな、惜しがりました。いよいよ先生の乗った馬車が去って行くとき、それを見ていて、一人だけエイと唾《つば》を吐いた子供がいます。それがあの男の子で、先生の放火をちゃんと知っていた子でした。それなのに、ついにいわなかったんですねえ。唾をかけただけで終りました。かわいそうに、この子供はやっぱり先生を愛しとったんですねえ。好きだったのですねえ。 「マドモアゼル」は、女のこわさをこんなかたちで見せました。 ●「裏町」の男一筋に生きる女の哀しさ  ところでみなさんは、ご存知かしら?「バック・ストリート」──「裏町」という映画のこと。これは、アメリカのファニー・ハーストという立派な作家がいますね、女の作家が。その作家のベストセラーが原作なんですね。しかも、もう四回も映画になっているんです。というのは、女の哀しさがみごとに出ているからですね。  最初、ジョン・M・スタールの監督で、アイリン・ダンが出た映画は、みごとにきれいでした。思えば一九三二年、ずいぶん古い作品ですが、今でも私、頭にこびりついております。その後、マーガレット・サラバン、スーザン・ヘイワード、それに、確かラナ・ターナーもこの役をやりました。  雑貨屋さんの娘がいました。おとなしい娘さんです。それが、一人のボーイフレンド、彼氏ができました。その彼氏は、とってもいいところのお坊っちゃんです。そして二人はだんだん仲良くなって結婚したくなりました。とうとう彼氏が、お母さんに打ち明けました。お母さんは、それなら一ペん、その娘さんにお会いしましょうということで、公園の音楽堂で息子といっしょに、その娘を待つことにしました。  その娘は喜んで喜んで、晴着を着てとんで行こうとしたときに、妹が泣きついてきて、私、彼氏とけんかしたの、助けてください、私の彼氏と会ってください、深刻にそういったもんだから、とうとうその彼氏に会ってやった──その時間。十五分、二十分、二十五分、その時間のために遅れて、音楽堂へとんで行ったときには、もう彼氏も、その彼氏のお母さんもいませんでした。そのお母さんは非常に立派なお母さんでしたけれども、厳格でしたから、十五分も二十分も二十五分も遅れてくるような娘さんとは、おまえ結婚したらいけませんよ、というわけで、この二人の仲は、それっきりになってしまいました。  やがて彼氏は、別の女の人と結婚してしまいました。そうして、二人の子供ができまして、もう二度とあの娘とは会えないだろうと思っていました。そう思っていたところが、オハイオのシンシナティで、雪の日に、二人はばったり会いました。女はまだ結婚しとりませんでした。その彼氏のことをほんとに想って想って、一生独身で暮らそうと思っておりました。その男は、とってもつらい思いをして、罪の償いをしたいといいました。けれども離婚はできない、というわけで、とうとう彼女は彼氏の二号さんになってしまいました。裏町とはそれですね。彼女は裏町で、一週間に三回、彼が来るのを待ちわびる女になってしまいました。  いつもいつも階段で足音がすると、飛び上がって喜びました。けれどもそれが違う人、自分の部屋には入らないで、また違う方向に足音が行ったとき、いかにも悲しげに寂しがりました。男一筋に生きたこの女は哀れでしたねえ。  やがて幾年も幾年も、二人のあいびきは続きました。そうして、もう男は初老になって亡くなりました。立派な家庭の主人が死んだので、立派なお葬式になりました。けれども彼女は、そのお葬式に参列などとってもできません。かげから、黒いベールをかけて、自分の彼氏の、そのお葬式を見ておりました。  その後、亡くなったお父さんのいろんなことを調べた結果、お父さんには思いもよらない二号さんがいたことを、息子は知ってびっくりしました。女がいた、大変だ、お父さんに女がいたぞ。そして調べて調べて、その裏町に息子が訪ねていくところはかわいそうですね。きっとお父さんは、その女に毎月毎月、大変なお金を与えていたんだと思ったところが、その二号さんの部屋は粗末な部屋でした。そして、もう白髪がすっかりふえたおばあさんになった彼女が 「まあ、あなたが息子さんですか」そういって迎えました。そのおばあさんの前に、お父さんの写真が飾ってありました。息子がたずねました。 「お父さんは毎月、あなたに幾らあげてたんですか」 「まあ、お恥かしい、そんなこと」彼女は帳面を出しました。キッチリと家計簿をつけておりました。それには、思いもよらない、なんという少ないお小遣いが渡されていたことか。まあ、この息子は、そのおばあさんの手を握って泣きました。 「裏町」は、いかにもかわいそうな、愛の一念に生きた女の話でしたよ。 ●「王女メディア」の激しい恋  それでは最後に、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の名作「王女メディア」(一九六九)のお話をしましょう。さあ、この作品、みごとでしたね。王女メディアには、あの有名なマリア・カラスが扮していましたね。  コルキスの国の王様は、金色の羊の皮というみごとな宝物を持っておりました。これは国宝でした。王女メディアももちろん、この宝物を大事に守っておりました。これを、ギリシアの英雄たちや各国がねらっておりました。  あるとき、ギリシアの英雄のイアーソンというのがやって来まして、この国宝をねらいました。ところがなんと因果なことに、メディアは、このギリシアの英雄のイアーソンに一目で惚れてしまいました。愛してしまいました。そのイアーソンの美貌《びぼう》に心を奪われました。メディアはそのイアーソンのために、自分の父の宝物を与えてしまったんです。女は恋をすると、こんなかたちで愛を守ろうとするんですねえ。メディアは、イアーソンにその宝物を与えると同時に、自分を連れて逃げてくれといいました。イアーソンは宝物が手に入ればいいので、メディアを連れて戦車に乗って逃げていきました。  そして、お姉さま、お姉さまといって追ってきたメディアの弟の首をかき切って投げ、その間に二人は逃げました。  メディア、この女は恋した男のために、こんなことをしてしまいました。自分の家の宝物を与え、自分の肉親の弟まで殺して、イアーソンを守りました。愛というもの、恋というもの、女の恋はこんなに激しくこわいものなんですね。  やがて二人は家を持ちました。きれいな家、そうして森、川。ほんとにメディアは、ここに幸せをつかみました。そして二人の間にはかわいい男の子が次々に生まれました。メディアの幸せ、ドリーム・カム・トルゥー、夢はここに実りました。メディアは喜んどりました。けれどもイアーソン、この夫は、宝物をとりたいばかりにメディアのいうなりになったことと、それからメディアのきびしいほどの激しい愛のなかに抱かれているうちに、苦しくなってきました。  やがて、イアーソンは隣の国のおとなしい娘が好きになりまして、とうとうその娘と結婚することをひそかに計画しました。娘の親も喜んで、イアーソンに自分の国を継がそうと思いました。  それを知ったメディアは、怒りでふるえあがりました。あんまりだと思いました。そこで花の冠《かんむり》を作って、二人の子供に、自分の夫を横取りしようとしたその女のところに持っていけといいつけました。その花の冠には、メディアの呪《のろ》いで、花びらの一つ一つに、葉の一つ一つに、すごい毒が含められておりました。だから、その女が喜んで、まあ愚かしくもその冠を頭につけたときに、たちまち毒がからだに回って、苦しんで苦しんで死んでしまいました。  メディアはまた神に祈りました。神に祈って、その女の父親《てておや》を殺そうとしました。日の神様、太陽の神様、あの娘の父御《ててご》を殺してくださいませ、どうか殺してくださいませ。まあ、メディアの魔の力は、その王様のからだに火を燃えつかせました。そして、王様はもだえ苦しんで死にました。王様のそばにいたイアーソンは、びっくりしました。  その頃、こちらで、メディアはいったいどういうことをしたでしょうか。自分の二人の子供を風呂に入れました。そうして、白い着物を着せて、さあ、さあおやすみなさい、右と左に寝かせましたね。それからメディアは泣きながら、刀を出しました。二人の子供は私の子供だけれど、私とイアーソンの間の子供。あの裏切った裏切ったイアーソンの血を継いだ子供。許せ許せといいながら、残酷にもえぐり殺してしまいました。メディアはそこに泣き伏しました。もう泣いて泣いて、泣きくれて窓から外を見ますと、三日月が空に出ておりました。  ここで不思議な音楽がはいってきました。日本の上方《かみがた》の地唄《じうた》のメロディー、あの太三味線の音。やがて日本語の声で、きれいなきれいな地唄の伴奏で歌が流れてきました。これは、熊野《ゆや》の唄でした。どうしてこんな伴奏の音楽になったかわかりませんが、これがメディアの苦しみ、悲しみにまったくぴったりでした。パゾリーニは、この映画の音楽監督にもあたっております。そして「この地唄の熊野の意味はわからないけれども、このメロディーはメディアの苦しみにぴったり合ったから、私はこれを使った」といっております。  メディアはそこで泣きぬれて、夜が明けました。すると、イアーソンが飛んで帰ってきて、許せ許せ許せと、城門の外からわめきました。それを聞きながらメディアは、わが家に火をつけて、許すものか許すものか許すものかと、炎の中で首をふりながら焼け死んでいきますねえ。  ここに、メディアというものに、女というものがよく出ていますね。愛ですね。女は愛ですね。そうして、裏切りに対する嫉妬《しつと》ですね。その嫉妬、愛、女とはこんなにこわいんですねえ。  さあ、みなさんいかがでしたか。女の人のいろんな愛のかたち、よおくおわかりになりましたね。それではまた、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   粋なゲーリー・クーパー  はい、みなさん今晩は。  今夜はゲーリー・クーパーについてお話しましょうね。  なに、あんた、男の話なら聞かなくていいって? あら、待ちなさいよ。ちょっとこっち向いてごらん。あんたの顔ちょっとクーパーに似てますね。そしたら、あんたあわてて、まあ、ラジオの音、大きくしてすわりましたね。案外、単純ですね。  というわけで、さあ、今夜は楽しいゲーリー・クーパーの話をしましょうね。 ●記念碑的な作品「モロッコ」  ゲーリー・クーパーといえば、みなさんどうかしらないけれども、私はやっぱり「モロッコ」(一九三〇)がよかったですね。あの、スタンバーグ監督の「モロッコ」で、まあ、いっぺんにクーパーのファンがふえましたね。ところでこの映画では、スタンバーグがマルレーネ・ディートリッヒを初めてアメリカに連れてきて主演させましたね。それでパラマウントの大きなポスターには、ディートリッヒの「モロッコ」、そして助演がゲーリー・クーパーなんていうのが出たんですねえ。  そのポスターが日本に輸入されて映画館の表に貼《は》り出されると、日本のクーパーのファンが怒って、ディートリッヒの主演でクーパーの助演なんてとんでもないといって、パラマウントの東京支店に、どんどん、どんどん抗議にいきましたね。そのことを支店からアメリカの本社へ通知したら、ポスターを刷り直したという話があるんです。というわけで「モロッコ」は今思い出してもいいですね。  そうして、この映画で初めて、スーパー・インポーズ、スクリーンの右に文字が入ったんですね。そういう意味でも「モロッコ」は記念碑的な作品でした。そうして「モロッコ」以後の外国の映画は、すべてスーパー・インポーズ方式ということになりました。 「モロッコ」のあのファーストシーン、霧のなかから船が来るところがよかったですね。そうして女が一人、甲板の手すりにもたれて、ぼーっとしてましたね。もう人生を捨てたような女ですね。このアミー・ジョリーという名の歌手にディートリッヒが扮していましたね。それを遠くから見てるのが、アドルフ・マンジューの扮しているフランスのプレイボーイの中年男。その男が、ディートリッヒを見て、アミー・ジョリーの顔を見て、いっぺんに好きになったんですね。男は、アミーに近づいて、 「なにかご用があったら、いつでもぼくにおっしゃってください」  といって、名刺を渡したんですね。それがファーストシーンですねえ。  するとアミーは、名刺を手袋をはめたまま手に持って、じっと霧の海を見ておりましたね。やがてその男が立ち去ると、彼女は名刺を細かく破って、手のひらに乗せ、パァーッと海に散らしてしまいました。いかにもスタンバーグ・タッチでしたね。  そうしてアミーは、モロッコの酒場で歌うんですけど、そのディートリッヒもなかなかよかった。けれどもそこに、背が高くて、ハンサムで、粋な外人部隊のトム・ブラウンがやってきたんですね。ゲーリー・クーパーです。どことなく上品で、そうして茶目っ気があるというのか、サパッとして、そういうクーパーがよく出てましたね。  そうしてこの酒場女が、またもや、忘れたはずの恋をするようになるんですね。で、クーパーのほうもほんとうに好きになるんです。けれどもトム・ブラウンは、そのアミーがあのフランスの金持のパトロンと結婚したほうがいい、おれのような外人部隊の兵隊で、いつ、どこへ行かされるかわからない男と世帯をもっても、一生楽に暮らすことはできまいと思って、とうとうあきらめるところがよかったですね。  そこで、トム・ブラウンは、このアミー・ジョリーに、もう、おれはおまえなんかあまり好きじやないよ、というような顔しながらも、テーブルの上にナイフで、�アミー・ジョリー�と刻《きざ》むところもよかったですね。そこにアミーが来て、トム・ブラウンがあわててトランプでその刻んだ女の名前を隠しますね。それをあとになって、アミーが見つけるあたり、なかなかおもしろい演出でした。  いよいよ最後のほうになって、トム・ブラウンは決心したんですね。アミーの部屋を訪ねましたが留守だったので、女の口紅で、 「あばよ、もう、おまえとは二度と会わないぞ」  と大きな鏡に書いて出ていったあとで、アミーがその鏡を見て、シャンパン・グラスのお酒を投げつけて、鏡の文字を消すあたりもなかなかおもしろうございました。けれども最後に、あんな男といっしょになったって、やっぱり損なんだと思って、その金持男と婚約しました。そうして、婚約|披露《ひろう》で、お客さんを集めました。みんなが席に着いて食事が始まろうとしたときに、そのときに、     タンタンタン タラタラタン  外人部隊が出発するんですね。その太鼓が、その太鼓の音が、すごくいいんですね。     タンタンタン タラタラタン  思わずアミーは立ち上がって、右に行ったり左に行ったりしはじめました。太鼓がいよいよ近づいてきましたね。     タンタンタン タラタラタン     タンタンタン タラタラタン  すると、アミーは、自分のネックレスをパァーッと引きちぎったんですね。さあ、真珠のネックレスがパラパラーッと散ったときに、この女は覚悟したんですね。──私はやっぱりトム・ブラウンが好きなんだ。あの人といっしょに暮らすんだ。あの人とともに苦労するのがほんとうなんだ。  というわけで、このラストシーンがすごいんですね。  外人部隊がどんどんどんどん、砂漠へ向かっていきます。そのうしろから、部隊についていく女たちがいるんですねえ。すでに、女房になった女もいるんですね。おかみさんたちが荷物を持って、その部隊のうしろのほうから、五人、十人とかたまって歩いていきますね。そのいちばんあとからディートリッヒのアミー・ジョリーがハイヒールで追いかけてきたんですね。そうして、みんなのあとからついていきます。けれども砂に足をとられてうまく歩けません。アミーは、ハイヒールを投げ捨て、そうして追っていきます。トム・ブラウンはあの部隊のなかにいるんだ、私の彼氏はそこにいるんだ。というわけで、追っていくんです。  砂漠の風がサァーッと吹いてきて、外人部隊の旗が、パタパタパタパタ、と風にはためいているところで終るんですね。  さあ、これで人気が出ました。ゲーリー・クーパーはいっぺんに人気が出ましたけれども、フランスでは、あまり当たらなかったんですね。なぜかといいますと、モロッコはフランス領でしたから、フランス人はモロッコをよく知っています。スタンバーグは、モロッコに行かないでこの映画を作ったんですね。フランス人が笑ったんですね。だって、女の人が靴を脱いで砂漠を追いかけたら、熱くて熱くて、足をやけどして、とってもそんな歩けるもんじゃない。フランスでは、そんな邪険な見方をしたんですね。 ●長い手足としぐさがにくい  日本では、この幕切れが、とっても評判になりました。それと同時に、この「モロッコ」で、ディートリッヒとクーパーが、�あばよ�というところで両方がおもしろい格好するんですね。それは、クーパーの扮しているトム・ブラウンの、いつでもやるくせなんですけれども、それをディートリッヒのアミーがまねて�あばよ�と二本の指を額のところに当ててサッと動かすあたり、なかなかよかった。思い出したら、ゲーリー・クーパーって、いい役者でしたねえ。  まあ、ゲーリー・クーパー、品があって、粋で、どこか茶目っ気があって、坊っちゃんらしいところが魅力ですね。たとえば「七日間の休暇」(一九三〇)は世界中で評判になりましたが、スコットランドの兵隊さんに扮していい演技をしましたね。  ともかくゲーリー・クーパーは、長身で、手も長いし足も長い。そうして、その長い手足を実にきれいに動かします。その長い手で煙草を吸うと、その吸い方がとってもいいんですね。まあ、仮にクーパーが地下鉄に乗って吊革《つりかわ》をもつと、その吊革をもつ手の演技がうまいんですね。それから、役柄でよく汽車に乗ります。昔の汽車に乗ります。そうして、その汽車の席の狭いところで、足を曲げて困ってるところ、いかにも窮屈《きゆうくつ》そうに足を曲げるところ、その格好がいいんですね。  それから、もうひとつおかしいことですけど、食事するときに、パンの食べ方がとっても上手ですね。フランスのジャン・ギャバンも食事の食べ方がうまいですね。パンを小さく手でちぎって、口の中へそっと投げ入れる。ビフテキ食べるときでも、ナイフで切って、ちょっと口に入れる。その入れ方が非常にスピードがあるんですね。その、口に放り込む放り込み方が、そうしてその噛み方がいいんですね。  ゲーリー・クーパーは、食べるとき、煙草を吸うとき、歩くとき、すべてが粋で、上手だったですねえ。  この人のほんとうの名前は、フランク・ジェームス・クーパー。モンタナ州はヘレナ生まれです。あんた、モンタナ州というのは、どこかご存知ですか? なに、知らない? あんた、なんにもご存知ないのね。  モンタナ州というのはね、アメリカの中西部ですね。西部劇の「シェーン」(一九五三)や「ララミー」で知られるワイオミングのもっと北ですね。モンタナ州のヘレナという鉱山町で、一九〇一年にクーパーは生まれました。ロッキー山脈の盆地ですね。  お父さんは、チャールス・ヘンリー・クーパーといって、イギリスからの移民で、牧場を経営し、そのかたわら判事にもなりました。なかなか偉いんですね。  お母さんは、アリスといって、モンタナ生まれの娘ですけれども、祖先はイギリス人です。そのようにお父さんもお母さんもイギリス系というのですからほんとうのイギリス人ですね。だから、このゲーリー・クーパーは、生まれたときから、イギリス人のもつ品のよさがあったんですね。  このフランク・ジェームス・クーパーは、九つのときに、六つ年上の兄さんといっしょに、お父さんの故郷であるイギリスのレッドフォードシャーに連れて行かれて、そこの小学校に入りました。だから、小学校時代はイギリスだったんですね。そうして、ヘレナに帰ってカレッジに入りました。それからグリネル大学へ進みましたが、自動車事故で足をくじいちゃったんですね。松葉杖をついてたんですね。それで困って、足を動かさないようにして馬に乗ったんですね。この馬に乗ったことが役に立ちました。クーパーはカウボーイ役をよくやりましたが、このときの乗馬が役に立ったわけですね。 ●絵かきになりたかったクーパー  学校を出て、なにになろうかと思ったとき、お医者さんになろうと思ったんですね、外科のお医者さんに。おもしろいですね。  ところが、どうもうまくいきそうにないので、考えを変えました。そうして、大学時代に、一生懸命ヘレナの中央新聞に、漫画をかいたり、イラストをかいたりして、どんどんどんどん原稿を送ったんですね。絵かきになろうと思ったんですねえ。ときどき採用されました。  そういうわけで、ほんきで絵かきになろうと思って、大学を途中でやめて、シカゴヘ行って商業美術の勉強をしました。どこかのデパートのデザイナーになろうかと思ったが、うまくいかない、どうも|うだつ《ヽヽヽ》があがらない。がっかりしました。  その頃、お父さんはロサンゼルスに出て立派な弁護士になってたんですね。それでクーパーも、ロサンゼルスのお父さんのところに行きました。外国の人はお父さんのそばにいっても、|すねっかじり《ヽヽヽヽヽヽ》なんかしないんです。自分でどうにかして食べていこうと思うんですね。クーパーも、イラストや漫画をどんどん、どんどんかいて、「ロサンゼルス・タイムズ」だとか、ほかの新聞社へ売り込んだけれども、なかなか買ってくれないんですね。それで、クーパーは、とうとう町の商店の看板を引き受けてかいたんです。ゲーリー・クーパーが、あの町の看板かきをやったなんて、おもしろいですね。けれども、それだけでは食べていけなかったんです。二十三歳の頃ですね。  そんなある日、クーパーが、ロサンゼルスのはずれ、ハリウッドのブールバールの道を歩いていますと、少年時代の友だち二人と、ばったり出会ったんですね。その二人は、カウボーイの姿をしてるんですね。 「君たち、なにしてるんだい?」 「おれたちは、映画のエキストラさ」  クーパーは、映画のエキストラがどんなものかわかりません。 「なぁに、こうして、カウボーイになって一日じゅう馬に乗ってればいいんだよ。一日で、五ドルくれるよ」 「おれも、入っていいかい?」 「いいさ、馬から落ちたら、一日十ドルくれるよ」 「落馬したほうが、よけい金をくれるのか」  といったわけで、とうとうゲーリー・クーパーは映画の世界に、まあまあ、アルバイトで、エキストラで入ったんですね。 ●ゲーリー・クーパーの命名  この頃のクーパーは、まだフランク・ジェームス・クーパーです。まだ、ゲーリー・クーパーじゃありませんね。ノーア・ビアリーという人の映画に出たり、ジャック・ホルトの映画に出たり、トム・ミックスやリチャード・ディックスの映画に出ました。もちろん名前なんか出ませんよ。もう端役《はやく》の端役、エキストラですから。バレンチノの「イーグル」(「荒鷲」一九二五)というロシアを舞台にした映画で、コサック兵になって出たんですね。この頃から、ちょっとよくなってきたんですね。それで、名前をつけなくちゃいけないな、ということになったんですね。ところが、フランク・ジェームス・クーパーだと、フランク・ジェームスという俳優がいたんですね。まぎらわしくて困るというので、クーパーのほうをなんとかしなくちゃならないというわけで、パラマウントの宣伝部の人というのが女の人で、クーパーにいいました。 「わたしの故郷の町の名前、あなたにあげましょうか。インディアナ州のゲーリーって町だけど」 「じゃいただきましょう」というわけで、ゲーリーという名前をもらったんですね。ゲーリー・クーパーが本式に誕生しました。  さあ、ゲーリー・クーパー。いろんな、いろんな、いろんな役に出ましたね。いちばん最初に名前が出たのは「夢想の楽園」(一九二六)という映画で、カウボーイの役でした。  それから、まあ、クララ・バウの映画に出ましたし、まあ、いろいろ出ましたが、この人が日本で注目された映画は、五本目くらいの映画でしょうか。「つばさ」(一九二七)では、助演者として出ました。当時有名なウィリアム・ウェルマンの監督で、クララ・バウ、リチャード・アーレン、バディ・ロジャースなどが主演しました。  この「つばさ」というのは、第一次世界大戦で活躍したアメリカ空軍の戦闘機隊の物語で、若い若いゲーリー・クーパーのパイロットが、上官の命令で、出撃するんですね。ちょうど上官の命令を受けたとき、──その上官にはリチャード・アーレンが扮していました──ゲーリー・クーパーの若い航空兵は、テントの中でチョコレートをかじっていたんですね。そこへ上官がやってきて、 「おい、すぐ出動だ! 出撃だ!」  というわけで、若い航空兵はあわてて身じたくをして出ていったんですね。それから、一時間、二時間もしないうちに、この若い航空兵は、飛行機とともに散華《さんげ》してしまったんですね。飛行機は墜落したんですねえ。  キャメラが、もう一度、先ほどのテントの中へ入っていきます。机の上の、なかば食べかけのチョコレートを映しておりました。あのチョコレート、こういうところが、見ている者の胸にじーんとくるんですね。この役どころが、クーパーの人気を呼んだんですね。ことに日本の女性たちが、キャーキャー、ゲーリー・クーパー、ゲーリー・クーパーと大さわぎしたんですね。  というわけで、この「つばさ」という映画で、これで、まあ、ゲーリー・クーパーは有名になってきましたねえ。 ●「誰がために鐘は鳴る」の接吻シーン  アーネスト・ヘミングウェイの有名な小説を映画化した作品「誰がために鐘は鳴る」(一九四三)では、ロバート・ジョーダンというアメリカの青年に、ゲーリー・クーパーが扮して、スペインの娘にイングリッド・バーグマンが扮しましたね。これは、まあ、バーグマンがとってもきれいでしたね。  バーグマンの扮しているスペイン娘は、お父さんもお母さんもファシスト派のために殺されて、ゲリラ隊に入っていますね。クーパーの扮しているアメリカ青年も仲間に入って加勢しているうちに、二人は仲良くなっていきますね。  私はこの映画を見ていて、とってもおもしろいことがありました。それは岩の上で、この二人が接吻するんです。クーパーもバーグマンも鼻が高いんですね。おまけに、バーグマンが、「この鼻がじゃまにならないかしら」なんていうせりふが、確かあったと思うんです。だから、私あの場面をよく覚えているんです。  ところが、それから、ずっとあとのことですが、プロ野球のジャイアンツの王さんとお話する機会がありました。私は野球のことはよく知りませんが、こんな話をしました。 「あんた、小さい頃、映画好きでしたか?」 「うん、ぼくね、子供の頃見た映画で忘れられない映画があるんですよ」 「どんな映画見たの?」 「それが�誰がために鐘は鳴る�という映画でした」 「あ、そう。それで、どうでした?」 「うん、あの映画のなかでいちばんおもしろかったのは、クーパーとバーグマンが接吻するところがありましたね」 「ええ」 「あそこで、鼻がじゃまになるところが、いちばんよかった」 「まあ、王さん。そんなとこ覚えてたんですか」 「誰がために鐘は鳴る」は、とってもきれいなバーグマンと、すてきなクーパーでしたね。 ●たった一度の、成就しなかった浮気  ほかの代表作品も思い出しましょうね。「摩天楼」(一九四八)というの、これが、またよかったですね。キング・ビダーが監督しまして、パトリシア・ニールという女優さんが共演しましたね。理想主義の建築家の話ですね。自分の理想どおりの建物ができあがらないと、せっかく完成したのに爆破してしまうという、ほんとうに、まあ、片意地な建築家の話でしたね。これ、なかなかよかった。  キング・ビダー監督は、初め、ゲーリー・クーパーを使う気はなかった。ハンフリー・ボガートを使いたかった。けれども、ゲーリー・クーパーになった。クーパーはみごとにこの建築家のあの気質を出したんですね。  この頃、ゲーリー・クーパーは、四十六、七歳になっていました。ここで、ちょっと問題が起こったんですね。ゲーリー・クーパーという人は、非常にかたい人で、奥さん孝行で、もう、パーフェクト・ジェントルマン。ハリウッド中でこんな立派な紳士はいないくらいなんですね。ところが「摩天楼」で、パトリシア・ニールと共演して、心が動いたんですね。パトリシア・ニールという女優さんは、うまい演技力をもっているだけでなくて、人間もサバサバしていて、少しも澄ましたところがない。スタジオヘも、サンダルはいてやってきて「ハロー」なんていって平気でいる。ほかの女優さんたちと違うんですね。クーパーは、参っちゃったんですね。  ゲーリー・クーパーは、もう、パトリシア・ニールが好きで好きで、好きで好きで、彼女のためなら奥さんと別れてもいい、なんてことになったんですね。でも、スキャンダルにはならなかった。パトリシア・ニールはゲーリー・クーパーを好きじゃなかった。あるいは、賢い女だから、好きでも奥さんのためを思って、ゲーリー・クーパーから逃げたんでしょうね。  というわけで、ゲーリー・クーパーは奥さんと別れず、立派に生涯をおわりましたが「摩天楼」ができあがってパトリシア・ニールと会えなくなると、一時は失恋状態になって、お酒ばかり飲んでいた時代があったそうですね。ゲーリー・クーパーだって、やっぱり男ですねえ。そういうことがあったんですねえ。  私はあるとき、二十世紀フォックスのレストランで、パトリシア・ニールと会って、いっしょに食事をしながらいろいろ話をしました。「摩天楼」よりずっとあとのことです。 「私ねえ、今度あの人と共演することになって、またあの人が大根でねえ」  向こうのあの人が大根? タイロン・パワーが向こうにすわっていました。 「タイロン・パワーを大根だなんて、あんた、まあ、きついことをいいますね。そんなこと聞えたら、あんたクビになりますよ」 「あら、こんなとこ、クビになったら、また舞台に出るわ」  なんて、パトリシア・ニールはいっているんですね。もっともこのタイロン・パワーとの共演の映画は、うまくいかなくて、撮影をスタートしてから、三ヵ月目に中途で取りやめになったそうですよ。  それで、私がキャーキャーしゃべって、相手もキャーキャーしゃべって、とっても楽しくなった頃、こんなときなら、|あのこと《ヽヽヽヽ》を聞いてもいいだろうと思って、 「あの、ちょっと質問していいですか?」 「OK、なんでもおっしゃい」 「ほんとに、なにを聞いてもいいですか?」 「OK、どうぞ、どうぞ」 「あんたほんとにゲーリー・クーパーとロマンス、あったんですか?」  そんなことぼくがいうとは思わなかったんでしょうね。あの、まあ、なにごとにも平気なパトリシア・ニールが、真っ赤な顔をしてソファに身を沈めるようにして、まあ、淀川さん、あんた、よくそんなこと聞きますわね、といった顔をして、 「半分はほんとうで、半分はうそよ」  と、それだけいいました。だから、うそじゃなかったんですね。ほんとうのところがあったんですね。ぜんぜんうそ、とはいわなかったところがおもしろうございましたね。 ●プレイボーイ役の「昼下りの情事」  ビリー・ワイルダーという監督は、あのかたいかたい、いかにも真面目な、あのゲーリー・クーパーをアメリカの大金持のプレイボーイにしましたね。その相手役の娘には、オードリー・ヘプバーン。そして、その娘の父親にモーリス・シュバリエです。この父親というのが人の浮気などのスキャンダルを見つけては、それをたねにして商売する私立探偵。まあ、このモーリス・シュバリエのうまかったこと。パリでは色男第一号として艶《つや》めいた役ばかり、色ごと師の代表ぐらいに見なされているシュバリエを、逆に色ごとを調べる役回りにしました。こうしてできたのが「昼下りの情事」(一九五七)ですね。  ヘプバーンを軸にして、クーパーもシュバリエも、ともども逆とも思えるタイプの人間を演じさせ、三人の個性をよくつかみましたねえ。ビリー・ワイルダー監督の魔術ですね。この映画のラストシーン。よかったですね。クーパーの乗っているその汽車が走りはじめると、ヘプバーンがそのあとを追いながら一生懸命強がりをいうところ、そしてとうとう、とうとうクーパーが列車にヘプバーンを抱きあげるところ。それを父親のシュバリエが見送っているところ。いいでしたねえ。というわけで、ゲーリー・クーパーは、初老に近いプレイボーイの感じをよく出しましたね。  ゲーリー・クーパー主演の映画について、いろいろお話していたら|きり《ヽヽ》がありませんが、ともかくゲーリー・クーパーは、いろんないろんな役をやりました。 「モロッコ」の外人部隊の兵隊、「七日間の休暇」のスコットランド兵、「摩天楼」の特異な建築家、「昼下りの情事」のプレイボーイ、「誰がために鐘は鳴る」のゲリラなどのほか、「友情ある説得」(一九五六)のクエーカー教徒の真面目な父親、「真昼の決闘」(一九五二)や「ベラクルス」(一九五四)のガンマン、「生活の設計」(一九三三)の都会センスの男、「ヨーク軍曹」(一九四一)の若い農夫、「打撃王」(一九四二)のニューヨーク・ヤンキースの打撃王ゲーリック……どんな役をやっても、みごとでしたね。この人は、無器用に見えて、なかなか器用ですね。どれもこれも、ゲーリー・クーパー・タッチでやってるところがみごとなんですね。やっぱり、ゲーリー・クーパーは天下一品の俳優だったということをつくづく感じますねえ。 ●すべては神の思し召し  ゲーリー・クーパーは二度もアカデミー主演男優賞をとっていますね。一九四一年に、「ヨーク軍曹」で、一九五二年に「真昼の決闘」で。  ところが、一九六一年五月三十一日、六十歳で肺癌《はいがん》で亡くなりましたね。その亡くなる一ヵ月前の四月に、アカデミー賞の発表がありました。それでアカデミー協会は、このゲーリー・クーパーに特別賞を与えております。だから、三回この人はオスカーをとっているわけですね。  もう最後の時が近づいたことを知ったゲーリー・クーパーは、ベッドの中でこういったそうです。 「すべては神の思し召しだよ」  この最後の言葉は、きれいでしたね。少しももがいたりしていない。立派ですね。  クラーク・ゲーブルも死に、ゲーリー・クーパーも死んで、ハリウッドのあの輝かしい時代は去ったんですね。作家も、たとえばヘミングウェイもやっぱり亡くなりましたね。人間だから、いつかは死ぬんですけれども、映画だと、今日でも生きているクーパーを見ることができます。カラー映画なら、いかにも艶々した顔で、クーパーが出てきますね。しゃべりますね。今はいないんですね、この世には。けれども小説と違って、映画は、まだ、生きている感じがしますね。  ゲーリー・クーパーが、そこにいて、いかにもゲーリー・クーパーらしく、茶目っ気のあるしわをよせて笑うあたり、それが生き生きとして、不思議なこわさですね。不思議なおもしろさですね。  映画とは、なんともしれん不思議なもんですねえ。おや、あんた真面目な顔して、ますますクーパーに似てきましたよ。いつもそういう顔してらっしゃいね。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   ファン気質あれこれ  はい、みなさん今晩は。  今夜は、映画ファンかたぎです。いろんな映画ファンの方がいらっしゃいますね、そのお話をしましょうね。なんです? あんた、立ち上がって、そして手拭いを下へ置かれて、またすわられましたね。どうしたんですか?  なに、なんです? お風呂に行きたかったけれども、今夜だけはおもしろそうだからすわってやる? まあ、ありがとうございます。  さあ、みなさん、ゆっくり聞いてくださいね。 ●ブルース・リーのファンはお嬢さんたち  はい、ところでまず最初に、熱心な映画ファンというところで、ブルース・リーのファンの方がたくさんいらっしゃいますねえ。どうしてあんなに人気があるんでしょうねえ。それは、見ておりますと、あの口元ですね。あの口元がとってもかわいいんですね。あの前の歯がちらっと見えるところ。  それからね、足をあげたとき、手をあげたときなんかの、あの動きがほかの人と違って、とっても美しい。躍動美というんでしょうか、いかにも全身が動いているんですね。ははあ、やっぱり、こういうところに人気があるのかな、と思いました。どうして、あんなにきれいな動きがあるんだろうと思いました。ところが、ききますと、ブルース・リーはロサンゼルスで、ダンスの先生もしとったんですってねえ。あ、そうかなあと思いました。  このブルース・リー、不思議な人ですねえ。この人は一九四〇年に、サンフランシスコで生まれたんです。お父さんは広東《カントン》の舞台俳優でしたし、お母さんは上海《シヤンハイ》生まれの方で、どちらも中国のお方ですけれども、アメリカヘ渡って来て、ブルース・リーが生まれたんですねえ。二世だからブルース・リーという名前もらって、ロサンゼルスで空手道場をひらいたりして、だんだん有名になりました。この人の空手道場には、スティーブ・マックィーンだとか、みんな習いに行ったんですってねえ。もう、そんなことは、ブルース・リーのファンの方は、とっくに知っていらっしゃるでしょう。  ところで、このブルース・リーの映画が初めて日本にきたとき、私は、こんなの、みなさんがごらんになるだろうかと思いました。ですから、まあ、私の近くの家の上品なお嬢さんに、 「あなたも、たまには映画見にお行きになって、ブルース・リーなんていう人の出てる映画も見てごらん。おもしろいですよ」  といったら、そのお嬢さんが、 「はあ、あたし、あのブルース・リーの映画、もう四回見ました」  びっくりしましたねえ。どういうわけで、そんなに好きなんですかといいたいくらい、私はびっくりしました。  というわけで、まあ、ブルース・リーはお嬢さん方の鋼鉄人形、ほんとうの特別人形ですね。そうして、男性の方も好きですねえ。北海道には、ブルース・リーの映画をなんと三〇〇回、三〇〇ですよ、三〇〇回もごらんになった人があるんですって。この方がまた、ブルース・リーの一周忌の追悼の会に、わざわざ北海道から東京へみえたそうですね。  まあ、こんなにも熱心なファンのいるブルース・リーが、なんと三十二歳の若さで亡くなったんですねえ。一九七三年の七月二十日でした。惜しいですねえ。けれども、亡くなってもまだ、ファンの方はまだまだ大勢いらっしゃる。まあ、大変な人気なんですねえ。  というのは、ブルース・リーが亡くなって、一年たって、七月十九日に、ファンクラブの方たちが集まったそうなんです。このブルース・リーのファンクラブ、最初は四国の高知から始まって、それが全国に広まったんですって。まあ、四国の高知からなんて、おもしろうございますね。  それで、この七月十九日の集まり、まあ、えらいことになったそうですよ。私それによう行きませんでしたけれど、あとで聞いたことを、そのままお話しましょうね。  まず東京の日比谷公園に、ファンクラブの方が集まられたそうなんです。そうですね、五〇人くらい集まられて、ブルース・リーの一周忌のお祈りをする新橋の会場まで、そこから行進したんですね。先頭の人が、ブルース・リーの遺影、黒枠の写真を持って、しずしずと行進したんですって。プラカードなんか掲げたいけど、そんなことしたら怒られるので、写真だけ持っていかれたそうなんですねえ。まあ、そういうことは、あのジェームス・ディーンのときでもやらなかったですねえ。  そういうわけで、新橋の会場は、大変なもう超満員、いっぱい。席はもう余すことなく若い方が集まられたそうなんですねえ。でまあ、その式の祭典のいろんなこと、その記録がここにあるんです。ちょっと読んでみましょうか。  まず最初にねえ、山口洋子さんが司会の役をやられたそうなんです。 「一九七三年七月二十日、あの人は逝《い》ってしまった。太陽と風のなかで情熱と愛と勇気をたずさえて、ただ微笑《ほほえ》みだけを残して、あの人は逝ってしまった。激しい夏の季節が今、私たちの頭の上で大きく手を広げている。もうあれから一年たってしまった」  そういうことをいわれたんですねえ。まだありますね。 「それではまず、みなさまにお持ちいただきましたその美しい花々を、ステージで待っている彼のもとへお届けください、そして、彼とお話しになってください」  これがまず開会のあいさつなんですねえ。たくさんのたくさんの女の方が、みんな花を持ってらっしゃって、しずしずと、ほんとに泣きながら、その舞台の、ブルース・リーの写真の前に花を捧げたそうなんですね。  そこでまた、小森和子さんが涙をあふれさせて、ブルース・リーをしのばれたそうですね。まあ、みんなほんとうに嗚咽《おえつ》、涙をいっぱい流して、ブルース・リーの冥福を祈って黙祷《もくとう》されたそうですねえ。  まあ、ブルース・リーはそれほどみんなに愛されたんですね。この日には同時に、大阪でも、厚生年金ホールというところで、やはり同じように追悼の会が催されたそうですね。そのときはまあ、二〇〇〇人からの応募があったそうですよ。それを見に行かれた方の話を聞きますと、まあほんとうに、大阪では激しく声を出して泣かれたお嬢さんもいたそうなんです。  ほんとにまあ、ファンというそういう人たちが、自分がほんとうに愛しているスター、自分の心のアイドルというのか心のスターですね、それをそんなに愛していらっしゃるということは、もったいないほどうれしいことですねえ。  けれども、ジェームス・ディーンの亡くなったときだって、こんなこと、やらなかったんです。ブルース・リーは不思議ですね。私たちのファン列伝のなかに残る、みごとな、不思議な事件でございましたね。 ●とことん惚れこんだファンの姿あれこれ  さてそこで、まあ、いろいろありますけれど、今度はチャップリンのファンの方のことなんかも、ちょっと申し上げましょうね。  このチャップリンの映画も、どんどん封切られましたね。そして、どんどん、どんどん若い人がチャップリンに夢中になられて、私も手紙をたくさんいただきますが、そのお手紙ですね、お手紙のレターペーパーに驚くんです。封筒の裏側、それからレターペーパーに、チャップリンのシルエット、あるいはチャップリンの顔、そういうのが全部印刷してあるんですね。それを使ったお手紙で、チャップリンの映画の美しさを、もうたたえていらっしゃいます。  そういうわけで、この前、私のところに、ちょうど畳の一畳ぐらいの大きな大きな荷物が届きましたので、私、びっくりしたんですね。これ、なにが来たんだろう、見ると、東北のほうから送られてきているんです。そうして開けてみますと、ガラス張りの、きれいな額縁《がくぶち》の、大きな横長の額が出てきたんです。それは、チャップリンが花を一本持っている「街の灯」(一九三一)のポスターでした。それがまあ、小さな小さな色紙《いろがみ》、いろんな色紙を、どんどん貼っていって、遠くから見たらまるで油絵のような感じで、きれいな貼り絵になってるんですね。まあ、チャップリンの立姿が、みごとにできてるんですねえ。  そして、手紙が添えられていました。一年かかって作りました、というお手紙を読んでいるうちに、なんという、まあ、すごいファンの方がいらっしゃるんでしょうかと、びっくりしました。  私はこうしてラジオで、みなさんとお話している、あるいはテレビで、みなさんとお話しているので、いろんな方からのお手紙いただきますけど、ついこの間、あるご婦人から一冊のアルバムをいただきました。そのアルバムはなんと、全部が「制服の処女」(一九三一)。みなさんご存知かどうか、昭和の初め頃封切られましたドイツ映画の名作の「制服の処女」、そのブロマイド、写真、新聞の切り抜き、いろんなものを集めて、みごとにそのアルバム一冊に貼っていらっしゃるんですね。まあ、写真だけでも、五十二、三枚ありました。  その方は、よほどこの「制服の処女」という作品がお好きだったに違いありませんね。立派な筆跡のお手紙のなかには、「私もいまは二人の孫のおばあさんになりました」と書いてあるんですねえ。おばあさんが若い頃、そういうふうに一本の作品に夢中になられたということが、うれしゅうございましたねえ。  まあ、そういう話をすれば、|きり《ヽヽ》がなくなるんですよ。いま、思い出しました。ジョン・フォードのファンで、こんな人がありました。ジョン・フォードが私と握手している写真を映画雑誌にのせたことあるんですね。すると、それから半年くらいして、大きな、きれいな刺繍《ししゆう》、そのジョン・フォードと私の姿をそれはみごとな刺繍にして、私の家まで送ってくださった方があるんです。あんまり立派だったので、私はそれをジョン・フォードさんに送りました。サンキューという手紙がきました。まあ、刺繍といっても、ジョン・フォードのあの顔、眼鏡かけた顔、それに私の妙な顔、それを細かに刺繍するなんていうこと、やっぱりファンの方はありがたいですねえ。 ●サイレント時代の強烈なファン  さて、そういうわけで、戦争前のもっと前の、ちょうどサイレントの終り頃のことですよ。「幌馬車」(一九二三)、カバード・ワゴンという、すごいウエスタンがやって来ました。まあ、この写真はよかったですねえ。ちょうど、ウエスタン大作の第一号のような作品でした。  これを、キネマ・クラブという映画館が封切りましたときに、神戸のあるファンの方が、あんまりこの映画がいいので、自分で入場券を三〇枚買って、そうして一〇枚、五枚と毎日持って出て、そうして、キネマ・クラブの前に立って、 「君、この映画、見たまえ。君、この映画、見なさいよ。おまえ、この映画、見なくちゃだめだよ」  なんていいながら、通る人に切符をあげてるそうなんですね。それで映画館の方がびっくりして、 「まあ、こんなまあ立派なことしてくださいまして、あなた、これからこのキネマ・クラブはもう永久に無料でお入りください」  そういったそうなんですねえ。ところが、その人は、 「ばかいえ、ぼくはほんとうに自分が好きでやっているので、ぼくはやっぱり金出して映画見ますよ」  なんていいまして、この人は、いかにも「幌馬車」という映画に夢中だったそうですよ。  そういうことは、まあ、いろいろありました。サイレントの頃は、トーキーと違いまして、映画館の中で伴奏の音楽をやりますねえ。毎日のように映画館へ行って、その音楽を聞くんだけど、もうたまらないというお客さんがありました。レコードはないんです。その方がとうとう、もう辛抱できなくなって、この映画の伴奏する人たちを、一晩自分の家に呼んで、それを演奏してもらいたいということになりまして、それで、お金出して、しかも映画が終ってから夜の十二時頃に、自分の家に呼んで、お茶出して夜食出して、演奏してもらったそうなんですねえ。 ●声をあげて泣きだしたロバート・フラー  ところで、みなさんご存知の、もうぬれきったようなあの目つき、そうしてあのきれいな顔、あのマツ毛の長いこと、いうまでもなくアラン・ドロンですねえ。まあ、いま聞いていらっしゃる、あなたそっくり、男性というところだけは……。  というわけで、このアラン・ドロン、ほんとうに、えらい人気になりましたね。そして今でも、このアラン・ドロンに夢中のお嬢さんは、どれだけいらっしゃるかわかりません。このあいだ、私の知っている人がいいました。息子さんというのが、もうアラン・ドロンに夢中の高校生なんですね。 「びっくりしましたよ」 「どうしたんですか?」 「いや、こないだね、息子が昼寝してて、寝言いってるのを聞いたんだ。それが、アラン・ドロンのテレビのコマーシャルの寝言いってる。おれもう、びっくりしたよ」  なんて、いってるんですねえ。そういうわけで、まあ、そのコマーシャルまで寝言に出てくるなんていうところに、いかにも、この頃のファンの、ほんとうに好きだという感じがよくわかります。  もう私、ここでみなさんに申しておきたいことは、若いときにはこんなことがあるんですねえ。あんまり純粋すぎて、自分の好きな俳優に夢中になるあまり、ほかの俳優をちっともほめない、なんてことがありましてねえ。昔、映画の友の会で、イングリッド・バーグマンが好きな人と、それからもうジューン・アリスンが好きでたまらない人とが、廊下で格闘したそうなんですね。あいつはきらいだ、おれは彼女が好きだなんていって、けんかしたそうなんですね。そんなことないようにしてくださいね。  それからまた、私は以前、もう三年一ヵ月もの間、テレビで「ララミー牧場」の解説をさせていただきましたが、ジェスとスリムの主人公、これがえらい人気になりましてねえ。ことにジェスをやりましたロバート・フラーがえらい人気で、とうとうこの人を日本に呼ぶということになりました。外国のテレビスターを呼ぶということは、あんまりなかったんです。けれども、思い切って呼んだんですね。  羽田へ着いたのが、たしか夜中なんです。二時頃ですね。まあ、羽田にいっぱい集まりました。驚きました。ロバート・フラー自身、びっくりしましてね、「おれ、どうしてこんなに人気あるんだ?」なんていっておりました。  そうして、スタジオヘ行きまして、いよいよこの人の歓迎の番組を放送するということになったんですね。そのときに、そのTV局の表にファンがいっぱい集まったのでね、このロバート・フラーが、二階のテラスですか、そこへ一人で出て行って、じーっとしてましたから、 「あんた、なにしてるの?」って、私、そばへ行きました。すると、う、う、う、うって、声出してオイオイ泣いてるんですね。もう感激してるんですね、この俳優自身が。「ぼくのママに、この姿を、この人気、この歓迎を、ママに見せたい」といっておりました。  まあ、そういうわけで、今、思い出しますと、このロバート・フラーといっしょに大阪へ行ったときも、えらいことでした。御堂筋の向こうまで、人で人でいっぱいで、自動車が進まないんですねえ。オープンカーに、私とロバート・フラーと乗っておりますと、その両脇《りようわき》に、中学生や小学生の男の子がくっついて、 「だめですよ、あんた、降りなさいよ。こんなところへくっついて、乗ったらだめです」 「いや、おじちゃんね、うしろから押されて、降りられないの。ぼくの足、あがってるんだよ」だなんて、そんなこといっておりましたねえ。  なにしろまあ、ファン、ファン、ファンで、サインしてもらおうと思って色紙《しきし》持ってきた連中が、とうとうサインしてもらえないということがわかった。もう、あんまりもみくちゃで。そこで、遠くからその色紙を投げるんですね。ピュッ、ピュッ、ピュッと投げるのが、まあ、ジェスのロバート・フラーと私の頭へ、コツーンと当たるんですね。あれ、痛いんですね。横からヒューと飛んできて角が当たると。  そればかりじゃありませんよ。遠くの女の子が、もうこれは絶対にだめだとおもって、「このプレゼント、受けとってくださーい」いうて、こけし人形を投げるんですね。コツーンと頭に当たったら痛かったこと。  というわけで、まあ、「ララミー牧場」のこのファン、すごかったですねえ。私は、そのすごさに驚きました。羽田、あるいは九州の、飛行場がいっぱいの人。飛行機が着くときに、ロープを張ってあるんですねえ。ところが、一人がくぐり抜けた。さあ、みんながくぐり抜けて、だだだだあーと、その飛行機の、そのタラップのところへ走ってくるとき、ちょうどウエスタンのスタンピードでしたね。あの、牛の大群なんかの暴走ですね。地響きしましたねえ。  というわけで、まあ、ファンというものは、ほんとうにうれしいものですね。 ●風変わりで、すばらしいファンの神戸の森本さん  さあ、ここらで、最もおもしろい、私の好きな人でファンの方のお話をしましょうね。  昔々、そうですねえ、昭和の六、七年の頃でしたか、「自由を我等に」(一九三一)という映画がありまして、私は神戸におりまして、このルネ・クレールの名作が非常によかったので、みんなで集まって座談会したんですねえ。自由座談会ですから、二〇人でも三〇人でもいいということになって、神戸の喫茶店でやることにしました。それが前もって、神戸の新聞に案内が出まして、自由参加なんていうんで、あちらこちらから集まってこられて、私もまだ若いから、もうルネ・クレールのことを、えらいほめておったんです。  ところがそこへ、五十から六十歳がらみのおじいさんが来ました。今でいったら、おじいさんではありませんね。私ももう、六十を過ぎてますわね、とっくに。でもそのときは、あら、えらいおじいさんが来たなと思いました。詰襟《つめえり》の黒い服を着とりまして、このグループに参加させてくださいとおっしゃった。どうぞ、ということになって、みんなが「自由を我等に」をほめているのに、そのおじいさんは、 「あれがおもしろいんですかなあ。わしは、初めのうちこそ見てましたが、途中からぐっすり寝てしまいました」というので、みんなが怒ったんですねえ。 「なんですか、あんた。どういうわけで、この会へ来たんですか」 「いや、みなさんが、そんなにほめられるのを、一ぺん聞きたいと思って来たんです」そこでみんなが怒ったんですねえ。  その会は、ちょうどそのときから毎月一回やることになったんですね。ところが、次の会のときにも、その人が来たんですねえ。あら、あのおじいさん、また来たなって、いってると、 「あれからね、私、みんながあんまりおほめになるので、また見に行きましたら、少しわかってきたんです。膝《ひざ》をたたいて、これがほんとうにフランスの映画なんだな、おもしろいな、やっと私にもわかりました。私、この年で、映画だけは勉強しておりませんので、みなさんといっしょに映画の勉強がしとうございます」  なんていわれて、まあ、大喜びでその方を迎えました。森本|凉《すずし》という神戸の有名な、実は弁護士さんだったんですね。  で、その方に、私はいろんな映画のお話をしまして、その方の映画の先生ということになりました。そうして、その方はまあ一〇〇枚、二〇〇枚のハガキに、私のアドレスと名前を印刷なさって、いつも二、三枚をポケットに入れられて、映画ごらんになったあとすぐに、喫茶店から、あるいは駅のホームでちょっと走り書きをして、その自分の寸評、自分の印象ですね、それを私に送ってこられた。この森本さんの情熱といったら、すごいものでしたねえ。  そういうわけで、この方は、モーリス・シュバリエの「ラブ・パレード」(一九三〇)がとっても気に入って、二回も三回も見に行かれたんですね。 「どこがおもしろかったですか?」 「ともかくとってもおもしろいけれど、一ついい場面があってねえ」  その場面というのが、ジャネット・マクドナルドの扮している、すごくきれいな女王さんが、お風呂へ入るところなんですね。私も思い出しました。エルンスト・ルビッチが監督しております。その女王がお風呂に入るところ、全身をタオルで隠しております。昔ですからねえ。今だったら、まあ見せたでしょうけれど、昔は隠しました。そうして、しずしずとお風呂のとこへ行かれて、そうして、きれいな湯船をまたぐところで、下《しも》半身をうしろから撮りました。さっと、タオルが下に落ちました。そのときの、腰から下の肢《あし》のきれいなこと! そのきれいな肢がすーっと湯船の中へ入っていきますねえ。  この森本さんは、まあきれいだなあと思って、家へ帰ってこられると、 「おえんさーん」ていいました。おえんさんて、奥さんですね。 「いっしょに、風呂へ入りませんか」っていったら、奥さんが、 「あんた、今日に限って、どうしていっしょにお風呂に入りますの?」 「いや、たまには、いっしょに風呂へ入りましょう」  なんていったんですね。それで入るとき、 「おまえが先に入りなさい」って、いったんですって。 「どうしてなの?」 「なんでもいいから、お入り」  奥さんはなんにも知らないで湯船をまたぎました。それをうしろから、旦那さんの森本さんが見ていらっしゃって、 「ああ、汚いな」って、いったんですってね。奥さんはなにもわからないから、 「なにが、汚いんですか」 「いや、わしのことだ」って、いったそうなんですね。  そういうわけで、まあ、この森本さんのおもしろかったこと。そうして、奥さんはあんまり映画をごらんにならない。ご家族の方も、あんまりごらんにならなかった。けれども、あるとき、すごい映画だから見なさい見なさいというわけで、「トレイダー・ホーン」(一九三一)というアフリカ探検の映画に、森本さんはみんなを招待して連れていきました。ところが、奥さんも親戚《しんせき》の方も、あんまり映画をごらんになっていないから、その映画は初めから終りまで、アフリカのジャングル。ジャングルに、太鼓のドラムの音、ドンドンドンドンドンドン……という音で、みんな頭が痛くなって、 「よくも、あんないやらしい映画、見せられてしまって。気持わるくて、気持わるくて」  なんて、森本さんはもう、みんなにしかられたそうなんです。とうとう、みんなにあやまってあやまって、最高のうなぎをごちそうすることになって、えらい目にあったといわれましたけど、この人は、映画好きということでほんとうに神戸の名物男になられました。  そういうわけで、学生が自分たちで映画会を開くときなんかには、必ずこの方に映画の切符を買ってもらいに行きます。まあ、森本さんはお金持ですから、 「よろしいですよ。あんた方、どんな映画やるんですか。はい、この映画なら切符買ってあげましょう」「ああ、メアリー・ピックフォードの映画ですか。はい、よろし」「これ、なんですか……」  というわけで、いつでもパトロンになって、三〇枚、四〇枚、ときには五〇枚も一人で買ってくださったそうです。そうして、その切符は全部、親戚《しんせき》からなにから、みんなに配るそうなんですね。ですから、みんなカモにして、さあ今度もまた森本さんに切符買ってもらおうというわけで、森本さんは、学生たちの映画の神様になってたんですねえ。  ところが、あるとき、二〇枚、三〇枚と切符買いました。そうして、それが全部まだはけないうちに、第一回の上映のときに、森本さんはそのホールに見に行きました。すると、そのホールの映写のしかたがとってもわるかったんですって。映写の設備がわるかったんですね。ときどき音が止まって、口だけパクパク動くんです。それ見て、途中で帰られたそうなんですね。そうして、まだ二五枚くらい残っている切符を、次の日、三日上映だからまだ配れると思っていたのに、だれにもあげないことにしたそうですね。  やがて、その学生さんが集金にきました。あのう、切符代ください、といったときに、残った切符をさっと渡して、 「あなた方は詐欺《さぎ》師ですか」といったんです。「あんな設備のわるいところで映画を上映して、途中で口がパクパクあいて音がしない。ああいうもの、見せていいんですか。映画館と違って、ああいうところには、ご家族のほとんど、あまり映画をごらんにならない方もたくさんくるでしょう。それなのに、あんな設備で上映したんでは、映画のほんとうの楽しさが台なしじゃありませんか。私はこの、あまった切符は全部お返しします。お金も払いません」なんて、そういうときには、とってもこわかったそうですよ。  けれども愉快な人で、とってもおもしろい人でした。まあ余談になりますけれど、「映画というものから、ユーモアがどんなに大切かをわしは知った」というわけで、いつでもにこにこと楽しいんです。  あるとき、森本さんの奥さんが、いかにして安くて栄養のある料理を作るかなんていう会を開いて、森本さんと私と見に行きました。  次から次へと説明してもらって出てきてから、森本さんがおっしゃいました。 「淀川さん、あんなもの食べとったら死んでしまうぞ。だからいちばん高いもの、いちばんうまいものを、これから食べに行こうなぁ」  なんていって、二人でいちばん高いもの食べに行きましたが、そういうお方が映画好きになったということも、そのユーモアですね。そのユーモアが映画のなかにあった、それをこの森本さんがほんとにエンジョイなさったんでしょうねえ。  はい、もう時間がきましたねえ。というわけで、映画ファンにはおもしろい方がたくさんいらっしゃいます。あなたはどんなファンの方ですか? ではまたお会いしましょうね。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   おませ監督ルイ・マル  はい、みなさん今晩は。  今日のお話はルイ・マルです。ルイ・マルってだれかって? あんた、まあ黙って聞いてなさいよ。  ルイ・マルは、フランソワ・トリュフォとともに、フランスの最も有名な、新しい監督ですね。新しい監督といいましても、もう四十四歳になりました。ちょっとここで、ルイ・マルの経歴をみなさんといっしょに調べてみましょうね。 ●恵まれた少年時代  ルイ・マルは、一九三二年十月三十日、ベルギーとフランスの国境のノールというところで生まれています。ここはフランスの東北《ひがしきた》にあたります。  このルイ・マルの一家は、とってもお金持で、お父さんが砂糖工場の大きなのを持っておりましたから、ルイ・マルはたいへん恵まれた豊かな家庭の少年でした。そうして中等教育を受けて大学の入学資格を取りました。けど、大学にはいかなかったんですね。パリに行っちゃったんです。それはルイ・マルの十九歳のときです。一九五一年です。十九歳と二十歳、この二年間、パリの映画高等研究所で勉強しまして優秀な成績で卒業しました。いいですね。パリには、そういう立派な映画研究学校があるんですね。  映画高等研究所を卒業しましてからあと三ヵ月間は、テレビの演出の見習いをやりました。ちょうどテレビが出たての頃ですね。それから、二十一歳と二十二歳、一九五三年から五四年に、あのクストーの海底探検記録映画の助手になったんですね。映画というもの、沈黙の世界というもの、海底、そういうものに魅せられたんですねえ。そうして、あの「沈黙の世界」(一九五六)という記録映画の、クストーの助監督をやったんですね。  それからまた勉強しまして、ロベール・ブレッソンという監督と知り合いました。そうして、ロベール・ブレッソンの、非常に地味な作品、アートシアター向きの、「田舎司祭の日記」(一九五〇)を見学して、勉強しました。そうして、ブレッソンに認められて、ブレッソン監督作品の「抵抗」(一九五六)の技術監督になったんですね。そのとき、二十四歳。そうして、とうとうフランスの監督になりました。 ●「死刑台のエレベーター」  ルイ・マルの第一作、これはなんと彼の二十五歳のときの作品ですね。私からみたらジャリみたいなもの、それなのにこの「死刑台のエレベーター」(一九五七)は、なんともしれないみごとな作品でした。たちまち、ルイ・デリュック賞、新人賞ですね。これをとっております。天才ですね。  しかも中身がとってもおませですね。ルイ・マルは、この映画ができたときに、マイルス・デビスを呼んできて、わけもなく、ムード的な部分だけを映写して見せて、ストーリーについてはなにもいわないで、「どうか、伴奏を考えてみてください」といって、ピアノの前にぶどう酒をおいたんですね。  ジャンヌ・モローが雨の歩道を歩いてるところ、あるいは違う場面を。その、まあ、黒白のキャメラのきれいなこと。そのムード。マイルス・デビスは、いっぺんになにかインスピレーションを感じて、ジャズを作曲しました。ムードを作曲したんですね。これが「死刑台のエレベーター」の伴奏の入れ方です。  私もこの映画見ました。みなさんもごらんになったでしょう。  ジャンヌ・モローが、大きな会社の社長の若奥さんで、フローランスといいますね。そうして、電話をかけるところから始まります。公衆電話です。 「私は、あなたが好きですよ。好きですよ。あなたがいないと、死にますよ。あなたがいないと、私は、もう、死んでしまいます」  すごい愛のファーストシーンです。ジャンヌ・モローのその愛の告白のすごいこと。けれどもだんだん聞いていますと、こわくこわくなるんですね。 「だから、あなたにお願いしたんです。あなたに、夫を殺していただくように、お願いしたんです」  だんだんこわくなりますね。やがて、みなさんもご存知のように、ジャンヌ・モローのフローランスが、夫の会社から少し離れた喫茶店のテラスで待っている。すると、モーリス・ロネの扮してるジュリアンが、フローランスの夫を殺して、エレベーターでスーッと降りて、表に待たしておいた車に乗って、フローランスと逃げる、そういう用意の電話でした。  ジュリアンは、みごとに準備しまして、ちょうど社長が一人で出張するために、自分のデスクで、最後の書類を調べているところに行ってうまく殺してしまいました。  もうその会社は、オフィスタイムが過ぎていますから、社員は、どんどんどんどん退社して、残ってる人はいなくなって、守衛だけになっておりますが、守衛もうまくごまかして逃げるように、このジュリアンという男は用意してありましたねえ。さて、社長を殺して、うまくドアを閉めて、サァーッとエレベーターに乗った。  五階、四階、三階、いよいよ表の車に乗れるという、四階から三階のところで、表に車があるというのに、エレベーターが止まってしまいましたね。  どうしてエレベーターが止まったのでしょう? 守衛は、社員はみんな帰ったと思って、スイッチを、電源を切ったんですね。さあ、エレベーターが途中で止まったから、このジュリアンは、どうすることもできませんねえ。上にもあがれない、下にも降りられない。ジュリアンは困りました。困って、もうどうしよう、と思っています。表には、車がありますね。ジュリアンの車が。  ちょうど、その車のそばに、花屋がありまして、花屋の売り子に、ちょっとチンピラ娘がおりましたね。その娘とボーイフレンドが話をしている目の前が、そのジュリアンのきれいな車です。このボーイフレンドにジョルジュ・プージュリが扮しておりますね。「禁じられた遊び」(一九五二)のあの男の子、ミッシェル。少し大きくなって、少年になっています。その少年が、ジャンパー着て、車にさわっています。そうして車の中へ乗りました。車の持主はエレベーターの中です。その娘が、「だめよ」といっているのに、「おいおまえ乗れよ、ちょっと動かしてみようか」といいました。  エレベーター。そうして、表の車。そうして少し離れた喫茶店では、彼女が、フローランスが待っています。  この三つのシチュエーションがとってもおもしろいですねえ。  とうとうこの少年は、少女が止めるのに、スピード出してどんどんどんどん走りましたね。ちょうどジャンヌ・モローのフローランスが待っている喫茶店の目の前を、ジュリアンの車が、命がけで愛したジュリアンの車、ハッと見たらかわいい女の子が乗ってるんですね。まさか、まさかと思いながら、彼女は、ジュリアンが違う女と逃げたと思ったんですね。  ところが、こちらはエレベーターの中ですね。  さあ、私たちはこの三つの場面を同時進行で見るわけですね。ルイ・マルはすごい作品を作りましたね。  エレベーターの中では、ジュリアンが困って困って、あちらの板をはずし、こちらの板をはずし、ライターであちこち照らしてみて、すきまから手を出すと廊下に当たるんですね。それでもエレベーターは動かないんです。エレベーターの天井のほうから手を出して、四階の廊下をさわっているとき、私たちはこわい気持になるんですね。なにがこわいか。エレベーターというものは、しょっちゅう動いている、上下に動くものという感覚が頭にありますから、この、人を殺した男が、手を出しているときに、もし急にエレベーターが動いたら、手が切れますねえ。切断されてしまいますね。ゾーッとします。そういう感覚で、この映画は、おもしろいかたちで三つが進んできました。  ジュリアンはエレベーターの中。  フローランスは町をさまよいます。その車を探して、私と約束した場所をまちがって、どこかのクラブの前に行ってるんじゃないだろうか。このジャンヌ・モローのフローランスは、夢中になって車を探します。暗くなってきました。こぬか雨が降ってきました。それでも夢中になって探しています。  ところが、片一方の少年と少女は、走った、走った。そうしてここでえらいことになってくるんですね。みなさんご存知のように、スピード競争みたいなことをして、相手のドイツ人の車と衝突して、するとそのドイツ人は、たいへんな金持で、この少年と少女を、まるでハネムーンの金持の坊ちゃん嬢ちゃんかと思って、自分のモーテルに連れてきて一杯飲んでるうちに、殺人事件がおこるんですね。  というわけで、この三つのシチュエーションはどんどん、どんどん同時に進行して、最後は自分の夫を殺させたこのフローランスが、刑事につかまるところで終っていきますね。  刑事に、リノ・バンチュラが扮していましたね。  映画が終るところで、彼女のアップになって、 「これでいいのよ。これでいいんだわ。私が何年、刑をうけても、彼ともう別れなくて、いいんだわ。彼だって、刑をうけてるんだ。私も刑をうけてる。そうして、二人が、いつか出てきたら、結ばれるんだ。愛してます。愛してます。ジュリアン。ジュリアン。私はあなたを愛してます」  そういうところで終るんですね。まあ、ルイ・マルは二十五歳で、不思議な映画を作りましたね。 ●再びジャンヌ・モローで「恋人たち」  それでは、第二作目の「恋人たち」(一九五八)のお話をしましょうね。第一作「死刑台のエレベーター」で、非常に世界の注目をうけたその次の作品ですね。二十六歳で作ったんですよ。二十六歳でよくもこんなおませなタッチが生まれたと思うぐらい、ルイ・マルはおませですね。それとジャンヌ・モローの、この女のすごい感覚は、あきれるばかりですね。アンリ・ドカエのキャメラがまた、すごくきれいですねえ。  これも、もうみなさんお話をご存知のように、パリのずっと郊外の、新聞社の社長の奥さんが、子供はあるのですが退屈で退屈でしかたがない。アラン・キュニー扮する夫と暮らしているのに、もう窒息しそうになってきた。それで、月に二回、パリに遊びに行くことを許してもらって、パリに行く。けれども、この奥さんは火遊びしてるんですねえ。  女友だちとうまく打ち合わせて、女友だちに電話をかけてもらって、表向きその女友だちと遊ぶということになってますが、実は、キザなキザな、ポロの選手の中年男と浮気をしておりました。  ところが、主人がそれに気づいて「おまえの女友だちと、そのポロの選手をいっぺん呼ぼうじゃないか」といったんですね。  このジャンヌ・モローの若奥さんは困ってしまって、自分が一足先きに帰って素知らぬ顔をして、その女友だちとポロの選手とが恋仲であるかのように見せてやろうと思って、急いで家に帰る途中、車が故障して、見も知らぬ、若い不細工なベルナールという考古学者に助けてもらう羽目になりまして、その男の車で、自分の家に帰ってくる。  そのときに、すでにポロの選手と女友だちと自分の主人とが肩を並べていて、三人に迎えられたそのくやしさ悲しさ、自分の計画がすっかりだめになったときに、このジャンヌ・モローの若奥さんは、その若い田舎者のような、なんともしれん考古学者を、自分の彼氏のような顔をして「あなた、知らなかったの、この人が実は私の彼氏なの」という顔で、亭主の顔を見るところに、いかにもこのジャンヌ・モローの若い奥さんの感覚があふれていて、なんとも不思議な映画を作りました。  そうして、一夜のうちにその若い考古学者と、この奥さんとが肉体関係を結ぶという、こわい夏の晩の、まるで恋の夢みたいなお話ですけれども、この映画で私たちに魔法をかけるのはいったいなんだろうか。なんでもないんですねえ。ルイ・マルみたいな育ちの人は、こんなことするんですね。  この若奥さんが、満月の晩に庭で、お互いにからだを許し合って、そうして風呂に入るところがあるんです。その風呂に入るときに、この奥さんは真珠の首飾りをはずして、風呂の手前のマントルピースの大理石の上のワイングラスの中に入れる。その音。真珠の首飾りがガラスに当たる、そういうところに不思議な不思議な感覚があるんですねえ。 ●「地下鉄のザジ」はだんだんこわくなる喜劇  ルイ・マルは二十八歳のとき、「地下鉄のザジ」(一九六〇)というドタバタ喜劇を撮りました。  これは、レイモン・クノーの小説です。ドタバタ喜劇ですけれどもこわいこわいお話です。ちょっと申し上げましょうねえ。  ここに、ザジという女の子がいました。十歳です。カトリーヌ・ドモンジョという子役がやってます。この子のお母さんが「あのね、私このザジを連れて、パリを見物さしてやりますわ」近所にそういってパリに来ましたが、それは大うそ。  このお母さんはたいへんなお母さんで、もうすでに、パリには彼氏がいたんです。ザジにはお父さんはいません。そうして、ザジは駅でほったらかされるんです。そうして、お母さんはザジを突き放して、彼氏の胸に飛び付くんですね。ザジは、パリの駅でお母さんから突っ放されました。けれども、そのお母さんのお兄さんが、迎えてくれました。つまり伯父《おじ》さん、これにはフィリップ・ノワレが扮しています。ザジはその伯父さんの家に行きました。ママがどこに行ったかちっともわかりません。ママは男と浮気しているわけですねえ。  ところが、この伯父さんというのも変わっています。昼は遊んでいて、夜働いているんです。そうして、ザジが家の中で遊んでいると、その伯父さんがでかける用意をするんですね。トランクの中に、女の衣装と、口紅を用意して出て行くんですね。この伯父さん、なにしてるんだろう? 奥さんがいます。実はこの伯父さんは、パリのナイトクラブで女装して踊る、そういう伯父さんなんですねえ。  まあ、そういうわけで、パリの下町の不思議なところで、ザジはもう行くところがないからいるんですけれども、一人ほったらかされているので、一人で遊びに出て行きます。出て行きますと、口ひげをはやしたあるおじさんが、「おおかわいいね、ぼくと遊びましょう」なんていいまして、この中年のおじさんが、この十歳の少女を連れ回ります。ジーパンを買ってやったり、アメを買ってやったりして、見ているとだんだんこわくなってきます。  ところがこの少女は平気です。そのおじさんの前でも、ちっとも心配しておりません。でもこのおじさんにはなにかこわい野心がありそうです、この十歳の少女に。変質的なおじさんかもわかりません。けれどもこの子を連れて、おじさんがレストランに行ったときに、おじさんがごちそうした貝の料理をおいしそうに食べながら、ザジは夢中になってしゃべりながら、こわい話をしますね。  ザジは、小学校のそうですね、三年生ぐらいです。お父さんはお酒で頭がいかれておりました。ときどき、いかれるんですね。ザジが家へ帰ってきますとお母さんがいませんでした。お父さんだけです。お父さんの横を通って、自分の部屋に入ろうとしますと、お父さんが「おまえ、こっちこい」といいました。お父さんが、この幼いザジに妙なことしようとしたんです。ほんとうのお父さんがですよ。それをお母さんが見たんですね。お母さんがそれを見て、ザジを引き離して、お父さんの頭に斧《おの》をたたきつけて、お父さんを殺したんですね。  そうしてお母さんは警察に行きましたけれども、事情がわかって、罪にならずに放免されたのだということを、このザジはペラペラペラペラ、まあ、まるで愉快な歌のように、ひばりのようにしゃべって、ペロリとご飯食べて、このおじさんが「もっとどこかへ行こう」といいますと、スッとすり抜けて、家へ帰ってしまいました。  ザジは、けっして社会のこわいこわい泥に負けない子になっているんですね。  そうして一日たちまして、ママは帰ってきました。ママはすっかり満足した顔をして、ザジを連れて、また田舎へ帰りました。  そのお母さんの相手の男が、出てきますけれども、お母さんにあんまりセックス的にいじめられて、大きな男がベッドでのびてるワンカットがあります。こわいお母さん、そうしてこのザジは、いったいこれからどうなっていくんでしょうね。  これが、「地下鉄のザジ」。ルイ・マルはこわい映画を作りましたねえ。 ●バルドーの実生活にそっくり?「私生活」  それでは、今度はルイ・マルが三十歳、一九六二年に作った「私生活」という映画の話をしましょうね。これも、アンリ・ドカエのカラーがきれいでしたね。  これ、ブリジット・バルドーが主演してます。カバーガールですね。カバーガールで映画に呼ばれました。そして映画に出たところが、この裸がとっても有名になりまして、三年間で、もうたいへんな人気が出ました。そうして相手役といつでもゴシップ、ゴシップ。ゴシップでいよいよ人気が出たんです。まるで、ブリジット・バルドーそっくりですねえ。けれどもあんまり人気が出たので、もう神経衰弱になって田舎へ帰ったんですね。このジルという、ブリジット・バルドーの扮している映画女優は故郷へ帰り、初恋の彼氏に会ったんですね。ファビオに会ったんですね。このファビオにマルチェロ・マストロヤンニが扮しています。  二人は抱き合いました。けれども、ゆっくり抱き合うことも許されないんですね。もう自分の家は、映画ファンが取り巻いて「あ、向こうにいるいる。ちょっと向こうにジルがいるよ」。まあ、塀にのぼって中をのぞかれるんで、この女はじっとしていられない。便所の中で、初恋の人と接吻するしまつで、部屋の中にもいられない。どこから来たのか、ニュースマンがフラッシュでパッパッと、写真撮るんですね。  そういうわけで、辛《つら》い辛いスターのプライベイトライフを描いておりますが、初恋のこの男も演出家になっております。そうして、たまたまその自分の故郷で野外のオペラをやろうとしてるんですね。さあ、それを彼女がのぞきに行くと、そのリハーサルがめちゃめちゃになるんです。みんなが、ジルを見るんだ、ジルを見るんだというので、どんどん、どんどん来て、野外劇がめちゃめちゃになるから、恋人が怒っちゃったんですね。 「おまえ、部屋にいておくれよ」といいました。  彼女はしかたがないから、いよいよこれから本番が始まるというときに、自分の部屋の、四階五階六階あがって、屋根にあがって、屋根|瓦《がわら》の上にしゃがんで見なくちゃならない。かわいそうにこのジルは、屋根の上からじっと見てたんですね。いよいよオペラが始まりました。  この野外のオペラの、赤いビロードのそのカーテンのきれいなこと。彼女は「まあ、なんてきれいだろう」と見とれていると、ファンが気がついた。 「向こうにいる、あれはジルだ、あれはジルだ」。屋根の上にいるのが見つかって、ライトがパァーッと当たりました。そうしてフラッシュがパッパッ、パッパッ。屋根の上のジルは目が回って、アッという瞬間に、足を踏みはずして、地上に落ちて死にました。  これが「私生活」ですね。  このすごいすごい人気の、火花のようなこの人気の映画女優は、自分の生活がどうしてももてなくて、最後にこんなかたちで残酷に死にましたね。そうしてこの映画のいちばんおもしろいところは、追われて追われて、まあ、自分の生活が全部なくなって、ほんとうに見ていてかわいそうですね。ゾーッとしますね。すぐにファンに見つけられて、ワァーと寄って来てサイン、サイン、サイン。  このジルが最も幸せだった瞬間は、いちばん幸せに見えた瞬間は、なんと残酷に、屋根の頂上から落ちる瞬間でした。そのときに初めて、彼女は幸せのなかにうずまっているかのような感じがしました。  というのは、その頂上から落ちるときに、このアンリ・ドカエのキャメラは、みごとなスローモーションで、彼女が髪をふり乱して、ふり乱した髪がまるで海底の海草のように、やわらかくやわらかく揺れて、彼女はうすら笑いを浮かべて落ちていきます。その落ちていく姿がまるで恋の天使のような感じで、彼女がほんとうに幸せにうずまっている瞬間は、ほんの数秒間です。それを彼女は生涯の幸せとして死んでいく感じで、やっぱりルイ・マルは、すごい映画を作りましたね。 ●「ビバ! マリア」「パリの大泥棒」「好奇心」  はい、そういうわけで、次は「ビバ! マリア」(一九六五)ですね。これはブリジット・バルドーと、そうしてジャンヌ・モローの二人のマリアを合わせたシャレですね。いかにもユーモアを含んだ女、女、女の感じで、なんともしれんこわい映画です。  この映画、これはジャンヌ・モローが旅回りの芸人ですね。マリアという女。ところが、そのマリアの相手役の歌手が男に捨てられて死んだんです。そこから始まるんですけれども、このファーストシーンでもすごいですね。ルイ・マルのタッチは。  ジャンヌ・モローが、つかつかとその死んだ女のそばに行きます。自殺した女の前に、表情も変えないで。そうしてこのジャンヌ・モローのマリアが、死に顔の、つけまつげなど、ピュッピュッと取るところから始まります。 「おまえさん、死んでまで、つけまつげいらないのよ」  そういうところから始まるんですね。なんともしれん女のタッチがありますね。 「ビバ! マリア」を作ったあとで、その翌年にジャン・ポール・ベルモンドで、泥棒のおもしろさに取りつかれた男の話を映画にしました。それが「パリの大泥棒」(一九六六)です。「ビバ! マリア」で、女、女、女。「パリの大泥棒」で、男、男、男。そうしてその次には、「世にも怪奇な物語」(一九六七)で、ロジェ・バデムとフェリーニといっしょにオムニバスの三部作を作りました。これはアラン・ドロンとバルドーのおもしろいお話ですね。その次が「好奇心」(一九七一)、これがこわい映画でしたね。みなさんごらんになりましたか。 「好奇心」というのは、お父さんとお母さんと息子、そうしてお兄さんのお話ですけど、この息子が、お母さんが好きで好きで好きで、もう自分の恋人みたいに好きなんです。お母さんが、お父さん以外に彼氏ができたことを、許してやるどころかむしろ喜んでいる。お母さんが幸せなら、ぼくもうれしいのよといった具合に。フランスですね。ルイ・マルですね。お母さんが彼氏とデイトしているのを見て「ぼく、かまわないよ」という。  この子供が、やがて十四歳から十五歳になるときに、お母さんに抱かれて寝て、セックスを教わるんですね。まあ、このお母さんにレア・マッサリーが扮していましたが、なんともしれんその不潔なこわい感覚が、まるで春風のように描かれているんですね。そうして「この瞬間を、後悔したらだめよ。やがてこれが貴重な貴重な思い出になるのよ」。このお母さんは子供に、セックスを実際的に教えました。「好奇心」はこわい映画でしたね。 ●最近作「ルシアンの青春」  ルイ・マルはパリの匂《にお》いがしみこんだフランスの監督ですね。フランスの監督といっても、どういうんでしょうかね。フランスの自堕落《じだらく》さというんでしょうか、ぜいたくのなかから発散する、なんともしれん不思議なものを持った人ですね。そうしてこのルイ・マルはしばらく映画を作らなかった。久しぶりに、一九七四年に「ルシアンの青春」という映画を作りました。ちょうどルイ・マルは四十二歳になりました。  四十二歳になったルイ・マルは、今度は恋の酔い方が変わってきました。そしてこわいこわいかたちで、一人の青春期を迎えた少年の話を描いております。やっぱりこわいですね。ピエール・ブレーズという、まだ映画に出たことのない田舎の少年を使っております。相手役の女の子は、オーロール・クレマン。これもしろうとの子供です。そういう男の子と女の子を使って映画を作りました。製作も、脚本も、監督もルイ・マルです。  さあ、どういうお話でしょう。  一九四四年六月、第二次大戦中、連合軍がフランスのノルマンディに上陸したときですね。ザ・ロンゲスト・デイ、あのいちばん長い日、あのときですね。連合軍はノルマンディに上陸しました。ドイツ軍は、どんどんどんどん、フランスの西南部の山のほうへ山のほうへ逃げながらも、まだまだ、ドイツの権力をもっております。そういうフランスの田舎の、これはお話です。  その田舎に一人の少年がおりました。十七歳。ルシアンという男の子。このルシアンは、町の病院の掃除夫でした。雑巾《ぞうきん》がけをしております。顔を見ますと、ほんとうにナッシング、感情のない顔。といっても冷たい顔ではありません。いかにも童顔、童顔のまま十七歳になった男の子です。疲れております。仕事もあまり好きではありません。休暇で、自転車に乗って家に帰ってきました。家に帰ってみますと、お父さんはドイツの捕虜になっとりました。で、お母さんは、なんと村長の女になっとりました。  家に帰ってきてもおもしろくもなんともないから、ルシアンは自分の家の鶏を押さえつけて首をむしり取るようにして殺したり、走り回っているかわいいうさぎを銃で撃ったりして、それをちっとも残酷とも思わない。うさぎや鶏は食物、けっしてかわいい動物なんては思っていません。ルシアンはそんな少年でしたね。  このルシアンは、この村がレジスタンス運動をやっていることを知っております。そのレジスタンスをやってる連中が、なんとも格好いいんですね。十七歳のこの少年は、ただその格好のいいことに自分も加わりたくて、「ぼくも仲間に入れてください」といいました。そのレジスタンスの隊長というのが、自分の中学校の先生なんですね。すると、先生がルシアンを見て笑いながら「おまえは猟はとってもうまいけど、頭が弱いからだめだ」といいました。  自分の母親は村長の女、そうしてその村長の息子もレジスタンス、自分も入りたいと思っていても、だれも相手にしてくれないので、舌打ちをして、また病院へ帰っていきました。途中で、自転車がパンクしてしまいました。  夕方になりました。ぼんやり自転車を引っ張って歩いていると、電気がいっぱい輝いているホテルの前に来ました。このホテルは、実は、ナチのゲシュタポの集まるところなんですね。そこをぼんやり外から見ておりました。  ルシアンがのぞいていますと「おい、おまえこっちへこい」といわれました。見ると、おいしそうなご飯やお酒。ルシアンはなにも考えないで、つかつかとなかに入って行きました。「おまえ、こういうこと知ってるか」。なんでもかんでも質問されて、しゃべってしまいました。しゃべるたんびに、ごちそうが出される、しゃべるたんびに一杯飲まされるので、喜んでなんでもしゃべって、酔ってそのホテルに泊まってしまいました。  その翌日、中学校の先生は捕えられました。ルシアンがしゃべったからです。密告ですね。けれどもルシアンはそんなことまったく頭にありません。ルシアンには政治とかイデオロギーなんて爪《つめ》の垢《あか》ほどもありません。ただあるのは、ゲシュタポの手先になれば、なんでも食べられるということです。格好よくなる。ああいう長靴がはけるかもしれない、あんな服が着られるかもしれない、ルシアンの興味はそれだけでした。  そうして上役が、いい服を作ってやろうといって、町のオルンという洋服屋へいきました。オルンというのは、パリから逃げてきた一家です。お父さんと娘とおばあさんだけ。オルンはもともと洋服屋じゃないんです。仕立ができるので、それを表向きにしてこの田舎に隠れている、実は金持のユダヤ人一家だったんです。そこへルシアンは連れていかれました。そうして洋服を仕立ててもらいました。  幾度か来たときに、奥でピアノの音がしました。「おい、奥になにがあるのか、開けろ」。ルシアンはゲシュタポの手先になって、だんだん命令をするようになっていました。オルンはしかたがないから開けますと、そこにフランスという娘がピアノを弾いておりました。きれいな娘でした。おそらくルシアンよりちょっと年上でしょう。ルシアンは、きれいな娘だなと思ったけれども、別にそれ以上はなんとも思わない。けれども、フランスのほうがルシアンを見て、ちょっと鼻の先で笑いました。どういうことでしょうね。そうしてルシアンとフランスはしゃべるようになり、だんだん仲良くなり、仮縫が本縫になった頃に、二人はとうとうホテルで一夜を明かしてしまいました。  オルンは娘を怒りました。 「おまえは、淫売か」といいました。 「そうじゃないのよ。お父さん、あの男を利用しなさいよ。そうすれば、家中無事に逃げられるわよ」といいました。  すると、オルンは、 「おまえのからだを売ってまで逃げたくないよ」といいました。  けれども、ルシアンはみごとにこの娘にだまされて、やがてこの一家を連れて逃げて行くことになりました。しかし、このお父さんのオルンは、ユダヤ人であることがナチにわかって連れ去られました。ルシアンは「おれも、もうゲシュタポの手先から逃げて、あんたとおばあちゃんを助けてやるよ」といって、フランスとおばあちゃんを連れてどんどんどんどん逃げて行くところでこの映画は終ります。けれども、この映画のなかで、この十七歳の少年が、まるで十歳ぐらいの顔をして、青春というものをもっていなかった、恋なんか知らなかった、そうして初めて自分では気づかないでほんものの恋におちて行くところが、この映画のこわいところですね。そして美しいところですね。  そうして、この映画のラストシーンが終ったときに�ルシアンは、この二年後に銃殺されました�というタイトルが出てきます。少年はこの少女に命を捧げたわけですね。すごい映画ですね。  この映画のなかで私が感じたことは、ルイ・マルが、あんなに女、女、女、女の、デリケートな恋に夢中になる女を描いたのに、四十を過ぎたら、今度はルキノ・ビスコンティのように戦争中、あるいは戦後、そのあたりの青春や男の子を見つめて、ただ、ただ格好いい軍服に憧れて、全然感覚のない、感情もないような少年にも、恋というものはしみこんでいくんだな、そうして、しみこんだときには、命をかけるような恋をするんだな。そんなことをルイ・マルはこの映画でいってるような気がするんです。  やっぱり、ルイ・マルは、いつでもラブ、ラブ、ラブ。愛の映画を作る監督ですねえ。  はい、もうすっかり時間がきましたねえ。この次は、ちょっと変わったお話をしましょうね。あんた、今、目をパッチリあけましたねえ。あんたは変わったものなら好きなんですねえ。はい変わってますよ。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   男 の 映 画  はい、みなさん今晩は。  さあ今夜は、男と女の映画のお話をしようと思いました。ところがねえ、「男だけにせい」なんて、まあ憎らしいこという人がありましてね。今夜は男と女を分けて、悲しいかな、男だけの話をしましょうねえ。  あら、あなた、目を覚ましましたの? なんですって? 自分のことをいわれているみたい、ですって? まあ、あなたは男でしたか。どうも失礼しました。それでは、今夜は男の話をいたしましょうねえ。 ●「パピヨン」の男の執念  さあ、男ってなんでしょうねえ。アダムとイブの昔から、男は女にだまされてますねえ。ちょっとばかですね、男は。だから、私好きなんですねえ。この男というもの、映画のなかでも、いろいろなかたちで出てきましたね。  あなた、男の映画というとなにを思い出しました? 「パピヨン」(一九七三)ですって? イエス。そうです、これは男の映画ですねえ。まあ、なんたるばかでしょうねえ、いえ、あんたじゃありませんよあの男、パピヨンは。あのパピヨンという名前のように、パピヨンはちょうちょのことですが、あの男は胸にちょうちょの入れ墨をしておりましたね。  そうして、かわいそうなことに、ぬれぎぬで、妙な妙な、すごい地獄のような、あの囚人生活をしましたねえ。けれども彼は、どうしても逃げたくて逃げたくて、脱走また脱走。そうして、独房に入れられ、また独房に入れられ、とうとう最後は独房の中で、ごきぶりまで口の中に入れて、エネルギーつけて逃げようとしましたねえ。  あんなにまで、しなくってもいいですねえ。あんなにまで逃げたいのかしら。でも、これが、私、男だと思うんですね。男は、勝負で勝つこと、つまり、あのパピヨンの男は勝ちたかったんですねえ。人生に、そして自分に。それで、とうとう最後の最後、もう栄養不良で歯がポロポロ抜けて、まあかわいそうに髪の毛が白くなったのに、ついに脱出しましたねえ。あの男、脱出して、うまくいったかしら?  この「パピヨン」のお話は、実話でありまして、ほんとうに逃げおおせたんですねえ。逃げることに人生の大半を使ってしまって、けれども逃げおおせたというところに、男の執念があるんですねえ。男といったら、もう計算をはずれたそういう執念をもってるんですねえ。だからおもしろいんですね。 ●ロバート・レッドフォードとポール・ニューマン  さて、「スティング」(一九七三)という映画、これはおもしろかったですよ。ごらんになったでしょ?  これ、ちょっと粋な映画なんですねえ。で、このスティングとはなんでしょうね。それから、この映画には二人のだまし屋が出てきますが、だまし屋ってなんでしょうねえ。この、だまし屋のことを向こうでは、コンというんですね。コン・マンていうの。市川崑さんじゃありませんよ。ですから、この映画は、だまして、だまして、だましあげる話なんですから、コン・プレイといってもいいですね。さあ、スティングってなんでしょうねえ。  この映画の男は、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォード、いい顔合わせですねえ。で、ポール・ニューマンがゴンドーフという名前の男になります。まあ、権太郎《ごんたろう》みたいな名前ですねえ。それから、ロバート・レッドフォードがフッカーという男に扮しますね。まあ、フッカーなんて、まるでフカみたいですねえ。この権太郎とフカ野郎が、二人で組んだわけなんですけれども、それにもう一人、大親分が出てきます。それがロネガンといいまして、ロバート・ショーが扮しました。いい役者なんですよ、ロバート・ショーは。このロネガン大親分、ロバート・ショーの演技によって、この映画はおもしろくなります。  というわけで、出てくる三人の男が、ロネガンに、ゴンドーフに、フッカー。スティングなんていう名前の男は出てきませんねえ。はい、スティングというのは、うまくだました瞬間のことなんです。相手のポケットから、うまいこと財布を抜きとった瞬間を�スティング�というんです。  まあ、この題名みたいに、この映画は、派手に、春のアカデミー賞で七つものオスカーをかっぱらったんですねえ。この、だまし屋の映画が。作品賞に、監督賞に、オリジナル脚本賞。オリジナル脚本というのは、この映画のために書きおろした脚本です。小説の映画化ではありません。それから、美術賞。一九三〇年代のセットがいいんですねえ。それから編集賞、フィルムの編集です。それから編曲賞、音楽ですね。それから、衣装デザイン賞。一九三〇年代の男の衣装デザインがいいんですねえ。ハンチングにね、サスペンダー。まあ、みなさん、またまねしたくなりますよ。もうヒッピーのスタイルなんか、アウトオブファッションになってきましたねえ。  さあ、この「スティング」というのは、実は、こういう話なんですよ……。こういうことでねえ、この男が、こんなことになっちゃったんですよ。それからねえ、まあ、えらいことでしたよ。さあ、ここからこの男、こんなことするんです。相手がここで、こうなるんです。ところが、それをね、またうまいこと、こうしたんです。そうして終りのほうでね、こうなってね、えらいことになったでしょう。というわけで、最後は、あっと驚いたでしょう?  なんですか? ちっともわからない? あたりまえですよ。この映画の話を細かくしたら、あなたが損をしますよ。この映画は、だまし映画ですから、初めっからだまされるんですよ。そこを見てもらいたいから、私は、ちょっとみなさんのために、ストーリーを話しませんでした。なんですか? 少しぐらいはいいなさい? そう、少しぐらいは、いわないけませんわねえ。ちょっと、いいましょうか。  ニューヨークとシカゴ、その間にちょっとした町がありました。ここに、ちょっとした|こそどろ《ヽヽヽヽ》がおりましてねえ。|こそどろ《ヽヽヽヽ》といっても、ちょっとコン・マンなんですねえ。だまし屋なんです。これがフッカーです、ロバート・レッドフォードの。このフッカーが、もう一人の黒人といっしょになって、うまいこと一人の男をちょろまかしました。そうして、金を奪いました。ところが、奪ったその金があんまり多くて、びっくり仰天したんですねえ。まさか、こんなに金を持ってるなんて思わなかった。  それも、そのはずです。そのだまされた男は、ニューヨークの大親分の子分でありまして、ちょうど集金に回っていたんですね。なんの集金か、私は知りませんよ。そうして、集めた金を持って、シカゴへ行くところだったんですね。その金を、フッカーと黒人とがちょろまかしたんです。  さあ、えらいことした、と思っていたところが、フッカーの相棒の黒人は、ちょろまかしたことが相手にわかって殺されてしまったんですね。殺される前にその黒人は、あぶないからおまえはシカゴのゴンドーフのところへ逃げろと、フッカーにいったんです。ゴンドーフは、シカゴのちょっとした顔役なんですね。さあ、フッカーが訪ねて行ったところが、ポール・ニューマンが扮するゴンドーフはもう、しけこんで、しけこんで、ナワ張りを取られてしまって、情婦の家で風呂に入ってたんですねえ。  というところから、フッカーとゴンドーフの二人が組んで、うまいことうまいこと、ニューヨーク一のロネガン大親分をちょろまかしていく話なんです。  さあ、これでおわかりになったでしょう。けれども、ちょっとしかわかりませんね。そこがいいんですよ。ともかく、だまされますから。この映画のなかの大親分だけでなくてね。最後のところ、フッカーとゴンドーフがどんなことになるのか。  というわけで、この映画は監督がジョージ・ロイ・ヒルなんですねえ。なんですって? ジョージ・ロイ・ヒルは「明日に向って撃て!」(一九六九)の監督だろうって? まあ、あなたは詳しいですねえ。はい、ジョージ・ロイ・ヒルは「明日に向って撃て!」でポール・ニューマンとロバート・レッドフォードを使って一躍有名になりましたねえ。けど、この監督のものには、「マリアンの友達」(一九六四)なんて、まあ粋な、なんともしれんニューヨークのマンハッタンの女の子の青春を、みごとに描いた作品がありますよ。あんな、マンハッタンの十四、五歳の女の子の青春をきれいな映画にする監督が「明日に向って撃て!」とか「スティング」を作るところに、ジョージ・ロイ・ヒルの芸の幅がありますねえ。それから「ハワイ」(一九六六)、「モダン・ミリー」(一九六七)を撮ってました。  それから、ポール・ニューマン、みなさんご存知ですね。青い目の、いかにももう名優にだんだんなってきた男ですねえ。  それから、ロバート・レッドフォード。この人は、「雨のニューオリンズ」(一九六六)、「裸足で散歩」(一九六七)、「夕日に向って走れ」(一九六九)、「白銀のレーサー」(一九六九)、「お前と俺」(一九七〇)、「大いなる勇者」(一九七二)と、最近ついてきましたね。「追憶」(一九七三)なんていうのが、えらい評判ですねえ。あんな鼻のお化けみたいなおばさん──バーブラ・ストライサンドと共演しましても、えらい入りがありました。これはロバート・レッドフォードに人気があったからでしょう。けれども、あのおばさん歌もよかったですよ。ロバート・レッドフォード、もう大変な人気で、とうとう「華麗なるギャツビイ」(一九七四)の、大作の主役になっております。  ところで、ポール・ニューマンは四十八歳、ロバート・レッドフォードは三十七歳。まあ、どっちも粋なとこですねえ。この二人の男は、男の匂いがぷんぷんします。だから、男の映画というと、この二人を語らねばなりませんねえ。というわけで、「スティング」のことは、このへんで終りにして、さあ、ここらで話題をかえましょうか。 ●正真正銘の男の映画「ザルドス」  妙な映画があるんですよ。「ザルドス」(一九七三)といってね、さあ、みなさん、なぜこの映画をとりあげたか、ちょっといいにくいんですけど、そーっと聞きなさいよ。テープになんかとったらだめですよ、あなた。  この「ザルドス」という映画、ショーン・コネリーが出てるんですねえ。監督がジョン・ブアマンですね。え? 知りませんか? 「脱出」(一九七二)というこわい映画がありました。男ばっかりがカヌーに乗って、谷川をくだるこわい映画です。あの監督です。ちょっとこわいことする監督です。どんなこわいことしたかといいますと、「脱出」でも、一人の男が、一人の男に犯されそうになりました。男が男に犯される……そんなことは、まあ、どうでもよろし。そんな映画を監督したジョン・ブアマンが、今度は大作の「ザルドス」を撮りました。「ザルドス」とはなんでしょうね。これに肩書がついてます。「未来惑星──ザルドス」と。  で、ショーン・コネリーの、そのポスターを見ますと、赤ふんどしひとつ。いやらしいねえ。あのショーン・コネリーは胸に毛があって、いかにも肉体的美男子だから、そんな姿したんかなと思って、この映画を見ました。ところが、この「ザルドス」というのは、けったいな、妙な映画でしたよ。  この映画、二二九三年のことなんです。まあ、ずいぶん先ですねえ、三百年も先ですねえ。どうせ、あなたも私も、その頃にはいないから、無責任な映画ですよ。むちゃくちゃな映画を作っていますけれども、なかなか妙な映画なんですわ。  もう地球上には、人がみんないなくなってきた。さあ、えらいことになってきたんです。そうして、あるところに、エリートの、頭の優れたなんとも賢い賢い、私とは関係のない、非常に頭脳|明晰《めいせき》な連中ばっかりが集まって、そこにボルテックスという一つの小さな都市を造ったんですね。都市というんでしょうか、集団を造ったんですね。まあ、その連中は、もう「永遠」の世界に来てるんですねえ。歳《とし》をとらないんです。歳をとっても、生命がなくなっても、またよみがえってくるような、不思議な不思議な超科学的な世界に住んでるんですねえ。  もちろんそこには、セックスがないんです。まあ、いやらしい、セックスのないとこなんですわ。男も女も、澄ましこんでるんですねえ。エリートの極致ですねえ。この連中が、地球にはまだ人間があちらこちらに残っているのを知ってるんです。自分も人間だけれども、自分たちはもう神の姿なんですね、感覚的に。だから、人間というものが残っていることは困る、人間というものはセックスがあって繁殖するから困るねえ、というので相談して、まあ、このボルテックスの連中が妙なものを造ったんですねえ。  それがザルドスです。なんでしょう。それはまあ、帝国ホテルぐらいの大きさ、TBSのビルくらいの大きさの、大きな大きな岩石の人の顔なんです。それに機械を装置しまして、空中に浮かばせるんですね。大きな大きな顔が目をむいて、歯をむき出している。その岩石のかたまりを、空中にずーっと操作させるんですねえ。それを、もう原始の世界に入った人間が見て、びっくりして、神だ、神様だと思うんです。  ところが、それが空中から降りてきて「さあ、殺せ殺せ、みんな殺せ」なんていいまして、口の中から、どんどんライフル銃を洪水のように地上に投げるんですね。ここに、獣人というのがおるんです。人を殺す人なんですねえ。それが馬に乗っとるんです。それがライフル銃をとりまして、人間が人間を撃ち殺して行く……。  そうして、ザルドスというお化けの口の中に、穀物をどんどん放り込むと、ザルドスはまた空中にあがっていくんですねえ。まあ、このザルドス、このボルテックスの連中は、いいかげんなことしてますねえ。人間を増やさないようにして、自分たちのエサだけ取ってたんですねえ。そして、その獣人ですね、人を殺す狩人《かりゆうど》の一人にショーン・コネリーがいたんです。  まあ、なんでこれが男の映画かって? ちょっともうすこし先まで聞きなさいよ、もうすぐやめますからね。  このショーン・コネリーの赤ふんどしが、このザルドスのお化けの中に入り込んだんですよ、そーっと。そんなこと知らないで、ザルドスは空にあがりました、あがりました。そして、とうとう、秘境といいましょうか、不思議なボルテックスの世界に降りてきました。まあ、ショーン・コネリーの赤ふんどしは、なんにもわからないから、キョロキョロ見てるうちに、つかまりました。そうして、みんなの前で「これが人間なのよ」といわれました。ショーン・コネリーは目をむいとりました。 「あら、これが人間なのね」といいました。 「人間というのはね、セックスがあるんでしてね」といいました。 「どうして、セックスがあって、どういうときに、セックスができるの」なんて、まあ、えらいこといいましたねえ。  これ以上、この先マイクでしゃべると、おこられるかもわかりませんねえ。というわけで、まあないしょで、そーっと聞きなさいね。  そこでまあ、もう学者的な頭脳をもった男と女が集まりました。そうして、ショーン・コネリーのぐるりを取り巻いて、 「あら、この人がどうやってセックスするの?」といったときに、 「はい、これは男なのよ。女じゃないのよ。男はね、セックスの前に興奮状態に入るのよ」といいました。 「あら、興奮状態って、どういうことになるの?」いやらしいねえ、このまあボルテックスのカマトトは。そうして、 「興奮状態になるというのはね、男の方の、その生殖細胞が興奮してくると、あるものがね、だんだん立派になるのよ」なんて、いいましたのね。いやらしいねえ。それも図解しましたのねえ。もう、これ以上はやめときましょうか。  それで、「あら、それなら、そういう興奮状態になるようにテストしましょう」というわけで、まあショーン・コネリー、えらい、いい役ですわねえ。女の人に取り囲まれて、みんなの前で。「どうして興奮さすの?」「これはね、こういうことになるんですよ」と、そこにスクリーンを出しました。で、そこにね、まあ、日本のいやらしい絵を映し出しましたの。見に行きたいって? いやらしいねえ、あんた。そうして、次々にいろいろなヌード写真をいっぱい写して、 「人間というものは、こういうのを見て男が興奮するから見てらっしゃい」といいましたねえ。  けれども、このショーン・コネリーの赤ふんどしは、もうそんなものに馴《な》れているのかどうか知らないけれど、憎らしいことに、全然興奮しなかったの。 「あら、どうともなりませんわ」  キャメラは下のほうにおりていきませんけれども、女の人たちは、ショーン・コネリーのおへそのあたりを、じーっと見ておりました。ところが、 「あら、どうともならないじゃないですか」 「あらそうかしら。人間て、たいがい興奮するんですけどね、男は」  といいながら、一人のきれいな女の人が、まあきれいな肉体的なタイプの女が、赤ふんどしのショーン・コネリーのそばへ寄っていきましたの。だんだん寄っていきましたの。もっともっと寄りましたの。すると、みんなが、 「そらそら、そらそら、あれ見てごらん。ああなるのよ」  といって、ショーン・コネリーの下のほうを見ました──なんて、いやらしい映画ですね、「ザルドス」は。けれども、「ザルドス」はまちがいもない男の映画ですわねえ。  さあ、こんなばかなこといってますと、まあほんとに、私のこと「あいつ、どうかしてる」と、みなさんに思われますから、ここらで話をかえましょうね。 ●男のなかの男はだれかしら?  ジョン・ウェインなんて人は、男の映画の大将ですねえ。それから、あの自動車競走なんかに出てくるレーサー、あれが男ですねえ。どっちが勝ってもいいのに、死にもの狂いになるんです。いやらしいですね。勝ったって負けたってかまわないのに、もう死を賭《か》けてレースをするのが男ですねえ。それから、拳闘もそうです。それから、ブルース・リーも男でした。男のなかの男です。けれども、この人の映画はね、女の人のほうが好きなの。私も知り合いのお嬢さんに、 「ブルース・リーなんていう、いやらしい人の映画を見たことありますか? あなたなんか、そんな映画ごらんにならないでしょう」っていったら、 「あら、私、もう四回目です」  なんて、いやらしいねえ、ブリース・リーの映画は、女のために作った映画みたいですねえ。  というわけで、「007」も、もちろん男のなかの男ですが、男の映画は、どこかみな頭が変ですねえ。けれども、ジョン・フォードのウエスタンなんていうのは、やはり男のなかの男ですよ。さあ、「三人の名付親」(一九四八)というのがありました。スリー・ゴッドファーザーズ。あれなんか、男の善良さをみごとに見せてますねえ。  三人の悪党がおりました。銀行から金をとって、逃げた逃げた。ネバダの砂漠のなかへ逃げた。ところが、インディアンにやられた一台の馬車にたどり着きましたが、そこには、赤ちゃんを産んだばかりの、息を引き取りかけた若い母親がいましたねえ。この若い母親、悪党の三人に「赤ちゃんを助けてください」といって、とうとう死にました。この三人は、死んでいった母親のために、自分たちが保安官につかまえられるのに、この赤ちゃんを町まで届ける話です。途中で、一人死に、二人死にして、最後の一人がとうとう町の教会で、赤ちゃんをみんなに届けて、もう倒れていく……。  男には、こういうところがあるんだということを、ジョン・フォードは見せてますね。  それから、さっきもちょっとお話しましたけれど、ロバート・レッドフォードが扮しました「大いなる勇者」では、大いなる勇者のジェラマイヤ・ジョンソンという男が、山へ入りました。マウンテンマンですね。山へ入って、まあ、熊とる、きつねとる、いろんなものをとる。そんなことをしなくても町で暮らせばいいのに、この男は山のなかで雪と戦い、アメリカのほんとうの大自然のなかで生き抜くんですねえ。ここにも男があります。 ●男の愛と、愚かさと、哀れさと、立派さ  というわけで、男の映画にはいろいろありますけれど、ここでちょっと、男の複雑さというのか単純さというのか、それをちょっと勉強しましょうねえ。 「鍵」(一九五八)という映画があります。ごらんになりましたか。キャロル・リードが監督しましたイギリス映画ですねえ。これは、なんともしれん男の映画でした。  第二次大戦中、ドイツにやられて航行不能になった船団、輸送船団を、うまいこと軍港へ連れて帰る決死の役目をする、そういう海軍の兵隊の話でしたねえ。トレバー・ハワード、ウィリアム・ホールデンが出ておりました。ソフィア・ローレンも出ております。  明日にも死ぬかもわからない海軍の兵隊さんの、そのまあ恋人がわりみたいな相手役をする女、それがソフィア・ローレンの女です。それで、トレバー・ハワードも、その女を愛しましたけれども、明日は海に出て行く、どうせ死ぬかもわからない、というので、ソフィア・ローレンのアパートの鍵を持っとりますが、その鍵を、今度交替にやってくるウィリアム・ホールデンに「さあ、この鍵やるよ」っていいました。その鍵は、ソフィア・ローレンと遊べる鍵なんですね。 「よし、おれもこの鍵、持っていいのか」 「あの女をかわいがってくれな」  というわけで、ソフィア・ローレンは、兵隊さんに次から次と渡っていく女です。そうして、その兵隊は死んでしまうんですねえ。ウィリアム・ホールデンも、鍵をもらったものの、やがて、やはり海洋に出て行くというので、友だちに鍵をやってしまいました。ソフィア・ローレンは、 「鍵をなぜやるんですか」といいました。「なぜあんたは、鍵を持ったまま海へ出ていかないんですか」といいました。  ここに、男の愛と女の愛との違いがよく出てるんですねえ。男は、おれが死んだあと、あの女の生活をだれかがみてくれないと困るんだ、だからこの鍵は、あの女のためにおれの仲間にやるんだという勝手な考えですね。女は、そんな愛はきらいですね。  まあ、そういうこといってますと、「アラビアのロレンス」(一九六二)なんかも男の映画でしたねえ。これはデビッド・リーンの監督で、同じ監督の「戦場にかける橋」(一九五七)なんていうのは、ことに男の映画ですねえ。  なんのために、あの日本の兵隊、早川雪洲の扮してる斎藤大佐ですか、あれがまあ、アレック・ギネスの扮してる英国の兵隊といっしょになって橋を作る。みんながもう、死にもの狂いになって橋を作る。そうして最後には、あの橋を爆破して、みんなが死んでしまう。まあ、そんなこと、やらなくてもいいのに。男は、そういうむなしさのなかに、自分の誇りというのか、自分の任務というのか、それを、まあ、まあ、最後まで遂行するところに、男の愚かさと、男の哀れさと、男の立派さがありますねえ。  ちょっと話がかたくなりましたが、まあ、男の愚かさはいろいろありますわ。「オセロ」(一九六六)だって、あのイアーゴという悪い奴に、あのオセロがだまされて、 「あんたの奥さん、デスデモーナはちょっとあやしいよ」といわれただけで、だんだん自分の嫁さんを疑っていくあたり、単純ですねえ。ちょっと頭の細胞が単純なんですねえ。  さあ、それからここで、「スケアクロウ」(一九七三)も思い出してみてください。これも男と男の話でしたねえ。あの男と男の愛情は、なんともしれんもので、女と女のお友だちとは違うおもしろさがありました。みごとな幕切れでしたねえ。片一方の男が、けちでけちで、金をためてためて、自分の商売をやろうと思ったのに、この金も最後には投げ出しましたねえ。というわけで、これもなかなか粋な映画でした。  それからまた「セルピコ」(一九七三)にも、男がありますね。セルピコは、イタリア系のおまわりさんです。警察学校を出まして、勇躍、ニューヨークの分署に着任しました。 「おれはおまわりさんになったんだ」という誇りをもっとりましたが、それがたちまち夢破れました。というのは、この映画のニューヨークのおまわりさんのいやらしさといったらないんですね。|わいろ《ヽヽヽ》もらって、|わいろ《ヽヽヽ》もらって、大変なんですねえ。 「おれはそんなもの、絶対に欲しくない」といいました。  けれども、「もらっとけ」といわれて、びっくり仰天するんですね。部長がそういうんです。ここで、セルピコが、 「とんでもない。おれは、そんなおまわりになってたまるものか」  と、最後の最後まで、がんばってがんばって、とうとう顔の真正面を撃たれてしまうという映画ですねえ。けれども、ここに、男がいますねえ。|わいろ《ヽヽヽ》を絶対にもらわないと貫き通す男がいるというところで、これはおもしろい映画でした。 ●男の悲劇「アポロンの地獄」  ところで、もうひとつ、なんともしれん男の映画がございます。ちょっとむずかしい映画で、「アポロンの地獄」(一九六七)といいます。ピエル・パオロ・パゾリーニという有名なイタリアの監督、その人の作品です。もうとっくにごらんになりましたって? まあ、ご立派ですねえ。  この映画、ギリシアの悲劇詩人ソフォクレスの名作「オイディプス王」が原作なんですねえ。そうして、この映画はまさに男のかたまりです。  ある男がいました。この男、小さいときに捨てられたんです。どうして捨てられたか。このお父さんは王様です。このライオスの王様が、自分のお小姓《こしよう》をかわいがったんですね。ホモなんですねえ。それで、カミさんが怒って「お前の息子に呪《のろ》いをかけてやる」といいました。びっくりした王様は、赤ちゃんの息子を山へ連れて行って殺してこいと、その部下に命令しました。  ところが部下は、あんまりかわいそうで、殺さないで山に捨ててきたんですね。そうして、この子供はある夫婦に救われて、立派に育ちました。こうしてかわいがって育てられたオイディプスは、まあ生意気な青年になりました。二十歳《はたち》ぐらいの、ある祭の日に、占いを見てもらいました。自分はあまり気がすすまないけれど、「おまえの顔はちょっとおかしい」と占い師にいわれて、占ってもらったんですねえ。すると、えらいことをいわれました。「おまえは、おとっつぁんを殺して、おっかさんといっしょになるぞ」  あんまりのことで、このオイディプスは頭がカーッと、もうのぼせあがって、家へ帰るのも忘れて、そのライオスという国におれは行ってくる、おれのほんとうの親のところへ行ってくる、と出かけるところから「アポロンの地獄」が始まりますねえ。  そして、この若者が、どんどんその高原を歩いて行くと、向こうから「お通りじゃ、お通りじゃ」といって、行列が来るんです。え、お通りだって? なにばか野郎、おれはこの道をよける必要なんかないぞ。この若い、勇ましいオイディプスは、両手を広げて、その行列を止めたんですねえ。 「無礼者め!」といって、部下たちがオイディプスを殺しにかかってきました。バチャンバチャン、バチャンバチャン。みんな、やっつけた、勝ったんですねえ。「おれは強いんだぞ」といいました。そうしますと、行列のおみこしの中から「そなたは何者じゃ」と、もう白髪がはえてきたおじいちゃんが、出てきた。それを、ぐーっと、突き刺したんです。「無礼者め!」といって、このオイディプスのほうが怒って殺したんですねえ。  これが、男のかたまりですね。そこまで残酷にしなくってもいいのに、自分が勝ったんだということで、この男は燃えあがったんです。おれは英雄なんだというわけですね。  そうして、ある国へたどり着きました。すると、その国では、まあ変な病気がはやっていまして、山の奥の奥の山の奥に、病気の神様が住んでいるのでこうなるのだ、というんですね。それを聞いてオイディプスは、よしおれがやっつけてやると、その山奥の森へ行きまして、その病気の神をみごとに突き殺しました。  さあ、オイディプスはその国のえらい英雄になりました。あの方のおかげで国が救われたといって、みんな喜びました。オイディプスは胸を張りました。「おれがこの国を守ってやる」といいました。ここに、男の本性、いよいよ男の夢が実ってきました。  ところが、そこに、きれいな王妃《おうひ》がいました。その王妃がオイディプスを迎えて、 「そなたこそ、この国を守ってくださるお方です。きっと、神が与えてくださった私の相手でしょう」といいました。  オイディプスよりも年上の女でした。けれどもオイディプスは、その女の腕に抱かれて、やがて、この王妃といっしょになりました。この女の夫は、何ヵ月か前に行方不明になって殺されたんですね。今は後家《ごけ》です。その後家がオイディプスといっしょになって、やがて二人の子供ができました。幸せはほんとうにオイディプスの全身を包みました。男は、女に見込まれ、臣下たちに見込まれ、英雄、父、まあ男のあらゆる夢が実りました。  そうしたときに、オイディプスはこわいことを聞きました。風の便り、あるいはこじきの便り、旅人の便りで、 「今、そなたの結ばれている妃《きさき》は、実の母じゃ」  びっくりしました。びっくりした、まだその上に、 「かつて、そなたが道中で無残にも殺した、あの老人こそは、実の父じゃ」  オイディプスはほんとうに胸をえぐられる思いがしました。ふるえあがりました。そうして、わが家にとんで帰りましたが、そのことをもう知っていたその母親は、首を吊《つ》って死んでおりました。この母親を、シルバーナ・マンガーノが演じて、みごとでしたね。そして、オイディプスを、フランコ・チッティがやっておりまして、またみごとでした。  やがてオイディプスは、この業《ごう》、人間のこの業、この苦しみ、この罪に、もう耐えられなくなって、我が手で、我が両眼をえぐって、さまよって行くのです。  男が、勝負に勝つこと、みんなに頼られること、そうして美しい女をめとること、そしてまた父として立派に我が家を守ること。この男を、「アポロンの地獄」はオイディプスに托《たく》して、その男のなかの男を見せながら、こんな地獄の世界に突き落としましたねえ、男への戒《いまし》め、というのでしょうか。  さあ、この映画を私は見まして、このピエル・パオロ・パゾリーニという監督の人間探究、男の探究に驚きました。この監督は、「テオレマ」(一九六八)、「王女メディア」(一九六九)、「豚小屋」(一九六九)など、どの作品もこわいですね。ことに「王女メディア」は、女のかたまりですねえ。 ●「お熱いのがお好き」の変な男たち  こういうふうに、映画というものは、男の性《さが》というんでしょうか、男というものを、あらゆるかたちで作っていますねえ。そして、こわいかたちでなくて、まあまあ、もっとおもしろいお話には、あんなのがありましたねえ。「お熱いのがお好き」(一九五九)という映画、ごらんになったでしょう。  あれなんかにも、男が出てきてそれが、男が女になりました。妙な映画ですね。あのジャック・レモンとトニー・カーティスは、バンドマンなのに悪党に追われ女だけの楽団に入り込むために女装したんですねえ。その女装したジャック・レモンのおもしろかったこと。ことに、この二人の間に、マリリン・モンローというほんとうの女、女のなかの女が出てきて、このジャック・レモンの女装の、まあ、いやらしいこと。トニー・カーティスの女装の悲しいこと。  ところが、世のなかにはいろんな人間がありまして、ジョー・E・ブラウンの扮してるアメリカの大金持が、こともあろうに、マリリン・モンローがおるのに、女装したジャック・レモンの女に惚れちゃったんですねえ。ここに、いかにもおもしろさがありました。このジョー・E・ブラウンの扮してるアメリカの大金持が、ジャック・レモンを追っかけ回したんですねえ、おれの女だ、おれの女だって。まあ初めは喜んで、ちょっと相手になってましたが、もうタンゴダンスなんかしているうちに、こんなじじいといっしょになったら大変だというので、まあ、このジャック・レモンの扮してる女は逃げようとしたんですねえ。それを、ガーッと握って、抱いて、 「おい、おれの愛人よ」といったときに、ジャック・レモンがいいました。 「私は、女ではございません。そらっ」といって、かつらをとって「このとおり、私は男でございますよ」  といったときに、ジョー・E・ブラウンの扮している、この男のおっさんがいいました。 「かまうものか。人間には完全無欠のものがないんだから、これでいいんだよ」といいました。  まあ、ここにも男がありました。男とは、あらゆる意味で、勝手なもんですわねえ。  はい、もう時間がきました。というわけで、男の映画、いろいろとおもしろうございましたねえ。ではまた、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   イタリア映画の星ビットリオ・デ・シーカ  はい、みなさん今晩は。  今夜はデ・シーカの追憶ですね。ビットリオ・デ・シーカの名作の思い出を語りましょうね。この人は、一九七四年十一月十三日に、パリで、病気で亡くなりました。七十三歳でした。  今考えますと、デ・シーカは、ロベルト・ロッセリーニ、ルキノ・ビスコンティといった人たちとならんで、戦後のイタリア映画というものを世界的なものにしたんですね。いかにも映画人らしい、きびしく、おもしろく、楽しく、こわい映画を作りましたねえ。この人が七十三歳で亡くなったということは悲しいことですね。 ●一躍名を高めた「靴みがき」  デ・シーカといいますと、どうしても、最近の「ひまわり」(一九六九)のずっとずっと昔、私たちがデ・シーカの出現に感激した頃、その頃の「靴みがき」(一九四七)とか、「自転車泥棒」(一九四八)を思い出しますね。  この「靴みがき」は、昭和二十二年に作られていたのに、日本で封切られたのは何年もあとの、昭和二十五年でした。けれども、まあ、その映画作りのきびしさ、いかにも戦争のあとの悲惨さをみごとに描いておりましたねえ。  この映画、十二、三歳の二人の浮浪児のような少年が、仲良く靴みがきをしとりますね。戦後のローマでした。パスクヮーレとジュゼッペの二人。この二人の少年は、馬が欲しかったんです。どないかして馬を一頭、自分たちの馬を持ちたかった。少年の夢ですね。汚い汚い、もう戦火でくずれた町で靴をみがきながら、心は緑の野原を走る馬を、夢みたんですね。なんてかわいい少年でしょう。  そして、一生懸命に靴をみがきましたねえ。日本のお金にすれば、五万円ためれば馬が買えると思って、せっせっせっせと働きましたね。三万いくらたまりました。あと一息、そういうところで、二人はあせりました。ほんとうに馬が欲しいので、とうとう進駐軍の物資を横流しする闇屋になりました。それで二人はつかまりましたねえ。牢獄《ろうごく》に入りましたねえ。そうして、取り調べを受けました。  二人の子供は、別々の部屋に入れられました。ところが、調べられている間に、片一方の部屋で、仲間の少年がウウンとなんだかうめいている声が聞えました。あ、拷問《ごうもん》にあっているんだなぁ、苦しめられているんだなぁと、思ったから、そして、しゃべれば二人とも拷問しないといわれたから、とうとう一人の少年がすべてを白状してしまいました。  これ、ほんとうは取り調べをする人の芝居だったんです。けれども、もう白状してしまったからだめですねえ。もう一人の少年のほうは「クソ、あいつ、しゃべりやがったな」と怒ったんですね。そして、ある晩、あんなに仲良かった二人なのに、片一方は片っ方を捨てて逃げました。そのあとで、どこへ逃げて行ったろうと警察が探すときに、片っ方のパスクヮーレ少年がいいました。あいつは、きっと、ぼくの知ってる馬小屋に逃げたに違いないといいました。  それで警察の連中といっしょに、このパスクヮーレ少年は、逃げたその仲間、逃げたジュゼッペ少年を探して、その馬小屋へ行くと、やっぱりいたんです。そうして、ジュゼッペが怒って怒って、パスクヮーレと激しいけんかをしたんですねえ。ところが、そのとき、ジュゼッペがはずみで橋から落ちて死んでしまったんです。さああやまって殺してしまった。パスクヮーレ少年は、その死んだ友だちを抱いて、まあ、ほんとうに泣いて泣いて、これが「靴みがき」の悲しいラストシーンでした。  戦後の、あの混乱、みんなもう食べるのがやっとというなかでも、この二人の少年は夢をもったんですねえ。それなのに、なんとか夢を実現させようと一生懸命になって働いたのに、世のなか、現実のきびしさに踏みにじられていく悲しさを、デ・シーカはみごとに描きましたねえ。この作品で、デ・シーカの名は世界に広まりました。 ●ネオ・リアリズムの傑作「自転車泥棒」  というわけで、「靴みがき」は二人の少年の話でしたが、「自転車泥棒」では、七歳くらいの男の子とお父さんの話で、やはり戦後のローマでしたねえ。  この「自転車泥棒」は、日本で封切られたのが「靴みがき」と同じ年の、昭和二十五年でしたけれど、作られたのは「靴みがき」から一年あと、昭和二十三年なんです。私は、この二つの映画を続けて見たとき、ここにビットリオ・デ・シーカがほんとうの作品を作る立派な監督だということを知りました。 「自転車泥棒」は、ローマの町の片隅《かたすみ》に住んでいる、お父さんと息子とお母さんの話でしたねえ。あ、そうだった、そうだったとお思いになるでしょう。この俳優さん、実はみんなしろうとなんですね。お父さんのアントニオ、これほんとうにある町の労働者で、機械工をしている人が選ばれて主演しました。息子のブルーノも、八百屋さんの息子なんです。そして、お母さんのマリアもしろうとなんです。  そういうふうに、当時、イタリアの映画はいかにも、リアリズム、ネオリアリズムというのでしょうか、実際に、ほんとうの生活の匂いをもった俳優さんを使うようになりましたねえ。俳優じゃない、しろうとを使うようになりましたね。そのあたりに、とっても、デ・シーカの魔法というのか、演出の美しさがよく出ました。  お父さんは失業しとりました。それが職安の紹介で、やっとひとつの仕事にありつきました。ポスター貼りの仕事でしたね。ところが、自転車がなかったら、ポスターを貼《は》って歩けません。その自転車は、もう貧乏に貧乏なので質屋に入れてしまってあるんです。もう困って困って、それを質屋に取りに行くあたりも悲惨でしたねえ。汚い家の、自分のベッドのシーツをはがして持っていって、それと引き換えに自転車を出してきたんですね。日本でいえば、自分の家のたった一枚の布団を持っていくみたいなもんですねえ。  さあ、その自転車に乗って、ポスターを貼りに出かけました。息子も、その七歳くらいの男の子も、自転車の荷台に乗せてもらって、お父さんについて行きましたねえ。そうやってポスターを貼るとき、ちょっと道ばたに自転車を置いときました。そのちょっとのすきに、大事な大事な自転車が盗まれたんです。さあ、困りましたねえ。  犯人らしい男が向こうへ行く。どんどん、お父さんが追っかけました。追っかけました。ところが、その男が、泡《あわ》をふいて倒れましたね。びっくりしましたね。そういうあたりにも、いかにも汚らしい町のなかの、ざわめいた空気がよく出ていました。けれども、やっぱり犯人じゃなくて、自転車はどこへとられたんだろうと探して探して、一日がたって、また明くる日も、探し歩いたんです。  さあ、もう疲れて、見つからなくて、お父さんはいらいらしとりました。ついてきた息子にもつらく当たりましたねえ。そして息子が、ちょっとの間、お父さんと別れ別れになったんです。そのとき、子供が川にはまって死んだ、そういう騒ぎが起こりました。びっくりしてこのお父さん、自分の息子のことかと思って、とんで行きますね。ところが、その溺死《できし》した子は息子じゃなかった。そこへ息子がやって来て、息子は無事でした。お父さんは、しっかりと息子を抱きしめましたねえ。このあたり、今思い出しても、とってもこの親子がよろしゅうございましたね。  お父さんは、ほっとしました。そこで、なけなしの財布のお金で、子供にご飯を食べさせてやります。レストランに行きましたね。そして、お父さんはそこで息子に、自分の仕事のいろんな計画をしゃべりました。息子はお父さんとご飯たべる前にその話を聞いて、まあ、ちっちゃなかわいい坊やがナフキンを取って、ナフキンの紙に、「お父さんのその収入、いくら入るの」といって計算するあたり、顔を伏せて、鉛筆をなめなめ書くあたり、お父さんがそれを見るあたりは、かわいそうでしたねえ。  こうして結局、いくら探しても見つからなくて、お父さんと息子は、サッカーの競技場の前を通りかかりました。そこにはもう、ずらっと自転車が置いてあるんですねえ。お父さんは、あっと思って、息子に「おまえ、先にバスに乗って帰れ」といいました。お父さん、自転車をとろうと思ったんですね。人の自転車を。こわいところですねえ。もうこうなったらしかたないわ。自分の女房子供を養うために、おれだって自転車とられたんだから人の自転車をとってやろう。この人のいい、やさしいお父さんが、そんなことを考えたんですねえ。  息子は、行きかけましたけれど、なんだかバスに乗って帰る気がしなくなったんです。離れたところで、じっと、お父さんのほうを見てたんですね。するとお父さんが、一台の自転車をサッととって、サッと乗りました。乗るなりそれが見つかって、五、六人の男がサッとすぐ自転車を止めて、ひっくり返して、お父さんをみんなで袋だたきにたたきましたね。息子が人混《ひとご》みの間から、それを見ました。お父さんが殴られてるのを、じっと。そして、息子は走って行って、お父さんのズボンにしがみつきました。殴ったみんなは、「もう行け。おまえ、いいから行け」っていったんですねえ。そして息子が、立ちあがったお父さんの手を引っぱったとき、悲しいでしたね。お父さんはそこで、息子と並んで、とぼとぼ、とぼとぼ歩いて行くところで終りますね。  いかにもこわい作品でした。これで一生涯、この子供はお父さんが泥棒して殴られたことを、ずっと胸にやきつけてしまうでしょう。お父さんもまた、子供に見られたことを、どんなにつらく思うでしょう。戦争というものが、こんな悲惨な家庭を生みましたねえ。  というわけで、デ・シーカという人は、きびしく、こわい作品を作りました。 ●二枚目俳優だったデ・シーカ  ここでちょっと、この監督の育ちについてお話しましょう。この人は、ローマの南のソーラ生まれです。お父さんはナポリ出身の銀行員です。銀行員ですが、とっても苦しい生活をしたようです。そうして、このビットリオ・デ・シーカも、青年時代はたいへん苦労しまして、やっと会計士の免状をとりました。けれども、そういう仕事に興味がなくて、やがてタチアナ・パブロワという劇団に入りました。これは歌劇団で、二十歳《はたち》のとき初舞台に出ました。  やがてデ・シーカは、アルミランテ・マンツィーニという劇団に移りました。その劇団の座長アルミランテ・マンツィーニは、映画にも出ておりました。イタリア映画の、史劇として有名な「カビリア」(一九一三)でも主演しておりました。そういうわけで、デ・シーカも、だんだん映画のほうに入ってきました。  一九二八年、昭和三年ですね、この年にデ・シーカは映画俳優となって、それ以来、三十五本の映画に出演しました。監督でなく俳優として出演しました。私もこの人の出演した映画を見たことがあるんです。やがてこの人は、映画のスターになってきました。私は思い出します。一九三八年、「ナポリのそよ風」というミュージカル映画がありました。あんまりおもしろい映画ではありませんでした。それに出ているビットリオ・デ・シーカは、いかにも二枚目で、もう顔にちょっと白粉《おしろい》をつけてるような感じの男で、まあ、にやけた、いやな俳優だなと思いました。また、演技もたいしたことないし、あんまり魅力のない俳優だなと思って、私はこの人をあんまり認めませんでした。  ところが、この「ナポリのそよ風」の翌年、三十七歳のときに、ビットリオ・デ・シーカという二枚目俳優が監督に転じました。そうして、「紅バラ」(一九三九)だとか、「品行不良のマッダレーナ」(一九四〇)だとか、「テレサ・ベネルディ」(一九四一)なんていう作品を監督しました。けれど、まだ日本にそんなの入ってきません。「僧院のガリバルディ党員」(一九四二)なんての作りました。それもまだ日本に入っていません。この監督の作品は、日本に来なかったんです。  そうして、初めて監督として世界の注目を集めるようになったのが、一九四二年、四十歳のときの作品「子供たちは見ている」です──といっても、この映画も、日本で封切られたのは一九五四年ですから、ずいぶんあとのこと。「靴みがき」や「自転車泥棒」よりさらに四年もたってからなんですねえ。ともかくデ・シーカの作品で日本に最初に入ってきたのは「靴みがき」なんですね。  この、「子供たちは見ている」はどんなお話か、まあ、一言でいいますと、お母さんが情夫と逃げました。残された子供は病気になってしまいました。そこでお母さんがもどってきました。そうして、子供がよくなったら、また、お母さんは逃げてしまって、お父さんはそのために自殺しました。子供は一生涯、この母を愛しえないでしょう、という作品でした。いかにもこわい作品を作りました。  というわけで、このあとに「靴みがき」、「自転車泥棒」と続いて、みんな、きびしい映画を作っていきますねえ。でも、ただきびしいんじゃありません。愛情を込めて見つめてるんです。そこがやはり、ビットリオ・デ・シーカなんですねえ。  だから、この監督は、一九五〇年には「ミラノの奇蹟」というファンタスチックな、童話的な、やわらかい、心温まる喜劇を作りましたねえ。これで私たちは、このデ・シーカがいろんな才能をもっていることを知りました。  ちょっと申しときますと、一九五二年に、デ・シーカは俳優として「明日では遅すぎる」、レオニード・モギー監督作品で主演しましたね。性に目覚めてくる頃の少年、少女を導く先生の役をしとりました。 ●悲しい思い出の「ウンベルト・D」  はい、ところで「昨日・今日・明日」(一九六四)とか、「ひまわり」、そのあたりはみなさんもよくご存知でしょう。けれども、「靴みがき」、「自転車泥棒」といった作品を作っていた頃のデ・シーカ、そのデ・シーカの最もすぐれた作品のひとつに、「ウンベルト・D」というのがあります。  これは一九五一年、昭和二十六年の作品です。これが日本に入ってきて上映されたのは、それからもう十年以上もたった昭和三十七年でした。なぜ、こんなにも遅れて封切られたか。これは、あまりにもこの作品が悲惨な映画だったから、当時の日本でこういう映画はうけない、それで映画館が買わなかったということがあったんでしょう。  主役がおじいさんなんです。カルロ・バッティステーというおじいさんです。それ一人だけ、あとはだあれも知らない俳優ばっかり。しかも、このカルロ・バッティステーもだれも知らない。実はこの人、フィレンツェ大学の言語学の教授なんです。それをデ・シーカは主役に使いました。だから、ノースター、だれも知らない、しかもお話が老人の悲惨な話。それで日本では長い間、封切られませんでした。  けれども、私がここでこの映画のお話をしようと思ったのは、実はこのウンベルトという老人、それが、ビットリオ・デ・シーカのお父さんの思い出だそうです。だからこわいんですね。  どんなお話か、ちょっと申しましょうね。舞台はローマです。おじいさんたちが大勢、プラカードを立てて、恩給の値上げをしてほしいといってデモっておりました。ところが、それと関係なく、一人の上品なおじいさんが犬を連れて歩いてきました。犬がそのデモ隊にワンワン、ワンワンほえるので、デモの連中がとっても怒りました。そのおじいさんは、あわててその犬を抱えて、その場から去って行きました。そういうところから、この映画は始まっていきます。  このおじいさんが、ウンベルト老人なんです。元役人だったのが、今はもうその地位もなくなって、一人ぼそぼそと、汚い下宿屋で、たった一匹の犬といっしょに暮らしているおじいさんでした。そしてまあ、小さな部屋なんです。ベッド一つきり。洗面所には蟻《あり》がいっぱい集まってきていて、女中が来て、新聞紙に火をつけて、この蟻を焼いています。それを、おじいさんがじっと見ております。そういうような下宿なんですねえ。  あるとき、おじいさんが犬を散歩させて下宿へ帰ってきますと、自分の部屋に鍵がかかっております。そうしてその入口の番をしている娘にわけをききますと、 「ちょっと、あんたの部屋、貸してね。あんた、下宿代を払ってないでしょう。あっちの屋根裏部屋で寝てください」といったんですね。 「どうしたの」ときいたら、 「いえ、ちょっとね。いいカップルが来たからね、ちょっとそこへ泊めたの」  まあ、なんか若い男と女が来て、一日そこで浮気する、そのためにおじいさんの部屋が使われたんですね。  そういうわけで、おじいさんは時計も本も質屋に持っていって、わびしい下宿住まいをしとりましたが、ついにもう、暮らしていけなくなってきました。それである日、まあ、誇り高かった元役人だったおじいさんが、なんとなく人がいっぱい通っている町の角に立って、思わず手を出したんですね。それはなんのまねでしょう。片っ方に犬を抱いて、片っ方の手をじっと出していたら、だれかがこの手の上に小銭をのせてくれるかもわからない。けれども、手を出しかけたおじいさんは、やっぱり、とってもそれができなくて、思わずまた手をひっこめてしまいました。わしは、こんなことだけはできない。やめてしまいました。  そういうわけで、どうにもこうにも、食うこともできなくなってきました。そのうちに、下宿代がたまって、とうとう下宿を放り出されました。おじいさんの行くところは、もうありません。もう死ぬしか道がなかったんです。それで、わずかに、わずかに残ったお金で、郊外のどこかへ行って、死んでやろうと思いました。犬を隠して抱えて、電車に乗ったんです。そして、あてもなく行って、あるところで電車から降りました。そうして、歩いて歩いて、汽車の線路まで行きました。ここで、向こうからくる汽車に飛び込もうと思いました。ところが、線路をはさんで向こう側で、かわいがってきた自分の犬が、じっとこちらを見ていました。  追っても追ってもじっと見ています。おじいさんは死ぬことをやめて、再び犬を抱いてあてもなく歩き出しました。  これで、この「ウンベルト・D」は終ります。  けれども、これがデ・シーカのお父さんの思い出とすると、なんという悲しい思い出でしょう。それにしても、老人の孤独というものを、きびしいかたちで描きましたねえ。  というわけで、デ・シーカはこわいような映画を続けて作りましたけれども、「ウンベルト・D」のあとになると、これまでとは違う映画を作りはじめましたねえ。 「終着駅」がそうです。一九五三年、昭和二十八年に作りましたこの映画、ジェニファー・ジョーンズとモンゴメリー・クリフトの主演で、青年と、それから旅に出た人妻との恋を描きましたねえ。最後のところで、あのローマ駅、大きな終着駅で、ジェニファー・ジョーンズが恋心の未練を断ち切って、列車に乗りました。モンゴメリー・クリトフがそれを追ってきましたね。女を乗せた列車が走りだすと、男がその列車に飛び乗ろうとして、転げ落ちますねえ。終着駅が、恋の別れの場になりました。  そして、デ・シーカはこのあともいくつもの作品を作りましたが、日本で封切られたのは「屋根」(一九五六)、続いて「ふたりの女」(一九六〇)これもすばらしいでした。それから「アルトナ」(一九六二)、そして一九六四年の「昨日・今日・明日」、続いて「ああ結婚」になって、デ・シーカはけんらんたる作品を作りましたね。みごとでしたねえ。もうこの頃は、デ・シーカは六十二歳になっとります。 ●どれもこれも名人作家の手づくり 「昨日・今日・明日」のおもしろかったこと。みなさん、ごらんになりましたか。六十二歳のデ・シーカが、なんというか、もうあぶらぎったほどの演出力で、おもしろい、しゃれた映画を作りました。この「昨日・今日・明日」は、題名のように三つのお話になっているんですね。そして、それぞれの女主人公にソフィア・ローレンが扮しておりました。男のほうは、マルチェロ・マストロヤンニでしたねえ。その変わり身の演技ひとつをとってみてもおもしろい作品ですね。  さあ、「昨日」はどんなお話か。まあ、下町の、貧乏長屋のおかみさんが闇の煙草を売っとりますね。ふつうなら警察につかまります。けれども、イタリアの法律では、おなかの大きな妊娠している女がそういうことをしていても、おなかが大きい間はつかまらないというので、このソフィア・ローレンの扮してるおかみさんは、まあ子供がたくさんあるのに、闇商売を続けたいものだから、亭主に子供をつくれつくれといって、いつでも妊娠している──いかにもおもしろい映画でした。  そうして、その亭主がマルチェロ・マストロヤンニ、あんまりおかみさんに子供をつくれつくれと迫られて、やせてげっそりしてね、いかにもおもしろいスケッチでした。けれども、考えたら悲惨ですね。そんなことまでして生きねばならないなんて、むちゃくちゃですね。とうとう終りに、亭主のほうが、おれはもういやだといったときに、このおかみさんは、隣の旦那を呼んできて、ちょっと子供つくってくださいといって、隣の旦那がびっくりしましたね。いかにも驚いたお話でしたねえ。 「今日」はどういうお話か。この「今日」では、ソフィア・ローレンがすっかりメイキャップを変えて、有閑マダムのすごい顔になりましたね。眉毛《まゆげ》を細くかいて、口紅をきれいにさして、きれいな衣装をつけて、まあ「昨日」の場合は腹ボテの貧乏人のおかみさんだったのが、この「今日」のパートでは、みごとな、派手好きの女になっていましたねえ。しかも大金持の嫁さんですね。それが|つばめ《ヽヽヽ》の男を連れて、きれいな高級車に乗っています。そのつばめ、それがマルチェロ・マストロヤンニで、いかにもベタベタして、ソフィア・ローレンのマダムに寄り添っていました。  二人は、睦言《むつごと》、睦言、まあ二人は甘く甘く、こんな恋が、いったいあるだろうかと思うくらいに話しとりました。ところが、夢中になって、マストロヤンニがハンドルを握って走っているうちに、ガッチャン、自動車はぶつかりましたね。そのとき、この奥さん、この有閑マダムはどういったでしょう。 「なんて人ですか、あんたは。私のいちばん好きな新しい新しい車を、こんなにめちゃめちゃにして、なんですか!」  さっきの恋は、どこへとんだんでしょう。まあ、この奥さんは、自分のいちばん大事なのは、この|つばめ《ヽヽヽ》ではなく、自分の亭主ではなく、自分の車だったということがわかりますね。そのときの、この女の手のダイヤモンドの指輪、なんともしれん感じが出ておりましたねえ。 「昨日」に続いての「今日」の、このソフィア・ローレンの演技のおもしろかったこと。そして「明日」は、いかにもまた、すっかりスタイルを変えて、高級コール・ガールですね。夜の女ですね。まあ、そのあでやかというのか、網のストッキング、濃い口紅といった姿になりました。そうして、その情夫《いろおとこ》、|ひも《ヽヽ》ですね、|ひも《ヽヽ》がマストロヤンニです。この二人の、まあなんともしれんあだっぽさ、いかにも下品なところがおもしろうございましたねえ。  ところが、この二人が住んでるマンションの隣に、おじいさん、おばあさんがおりました。そのおじいさん、おばあさんの孫が、夏休みに帰ってきました。孫というのは、神学校に行ってる真面目な真面目な、少年から青年にかけての男の子、十六歳から十七歳くらいの子でした。さあ、帰ってきて、隣の部屋のいかにもあでやかな女の人、ソフィア・ローレンを見たんですね。けれども、この少年は、そのあでやかな女が、まさか夜の女なんてぜんぜん思いませんでした。  そんなこと知らなかった世間知らずのこの子が、やがて、そのお隣の女に夢中になって、夢中になって、ほんとうの恋をしてしまいました。ところが、こちらのソフィァ・ローレンのほうは恋をされてうれしいような、悲しいような、恥ずかしいような、けれどもこれがほんとうの恋なのかしらん、あんなに私のことを思いつめて、あれが恋というものかしら、きれいなもんだな、いいもんだな、私だって恋をされるときがあったんかしら……喜んだんですねえ。そして、ちょっと浮気をしようかなと思ったときに、隣のおじいさんとおばあさんが、あんまり心配で心配で、とうとうその子がいないすきに、女を訪ねてきましたね。 「どうか、あの子だけは誘惑しないでください。助けてください。あの子は神学校に行って立派な牧師になる人です。どうか誘惑しないでください。お願いいたします」  おじいさんとおばあさんが、ほんとに手をついて頼んだときに、ソフィァ・ローレンは笑いました。 「とんでもない。私、あんな子供、相手にしませんわよ」といいました。  そうして、その子が今度来たときに、きれいに愛想《あいそ》づかししました。男の子は涙をためて、そうしてあきらめて、カバンに教科書を入れて、シャツやズボンをきれいにたたんで、やがて学校に帰って行きます。それをベランダからソフィア・ローレンの女がじっと見てました。これが「明日」でしたね。デ・シーカはなかなかしゃれた映画を作りますねえ。 「ああ結婚」、これも同じソフィア・ローレンとマストロヤンニの顔合わせです。ローレンが扮しているのは、夜の女になってまだ二日目、まだ生娘《きむすめ》なんですね。まだ町に出ないで、その娼家《しようか》のなかでちょっと手伝いしとりましたが、さあ客をとれといわれたときに、やってきたのがマルチェロ・マストロヤンニでしたね。  それで、「おまえをおれの女房にしてやるよ」なんてうまいこといわれて、その男の家に行きましたけれど、女房とは口ばっかり。その男のお母さんの下《しも》の世話をしたり、まあ家の中を掃除したり、ていのいい召使い、なにもかもやらされる召使いなんですね。そして旦那というのは一日中いなくて、家の商売は全部その嫁さんにさせて、あんまりだ、あんまりだと思っているうちに、今度は、若い若い女とほんとに結婚するということを聞きました。まあ女の恨みを知らないか、というのでこの女が大芝居をするのが、「ああ結婚」ですね。  お坊さんにも頼み、お医者さんにも頼み、みんなに頼んで、この女は、いよいよ臨終《りんじゆう》の芝居をしました。もう死ぬ、死ぬ死ぬ、というのでお坊さんは、その枕《まくら》もとで拝みました。知らぬは亭主だけ。呼びにいかれて、亭主は帰ってきました。もう嫁さんはうわごといってました。もう顔の色が青くなっていました。これ、芝居ですよ。けれども亭主は知らないんですね。  坊さんが拝んでおりました。そのときに、この嫁さんは一言いいました。 「私が今、死ぬときになって、一つ、一つぜひ、お願いがあります」といいました。 「なんでもかなえてやるよ」といいました、相手は死ぬと思っているから。 「それではどうか、ここにお坊さんがいらっしゃいますから、今ここで、祝言《しゆうげん》して、私をあんたの籍に入れてください」  目の前で死にかかっているその女を見て、その男は本気になって、 「よしよし、ほんとにおまえをおれの女房にしてやる。ほんとに籍に入れます。さあ、お坊さん、どうかどうかお坊さん、ここで二人を結んでください」  お坊さんも、二人をめあわせて、ほんとに神の前で契《ちぎ》らせました。そうして結婚がすんだときに、うわごといって今にも死にかけていた女が、むっくと起きあがって、 「あんた、私の亭主よ」  まあ、ここで男はうろたえた、びっくりしました。けれども、もうしかたがない、とうとう亭主にされてしまいました。  いかにもおもしろいですねえ。しかも、そのあとで、まだまだこの亭主はいじめられていきます。ソフィア・ローレンの名演技ですね。  というわけで、デ・シーカのこの作品、まあ、どれもこれも、いかにも名人作家の感じが出てますね。 ●恋を描いてもみごと──「ひまわり」  はい、この人が恋を描いていかにうまいか。それを、みなさんがごらんになった、あの一九七〇年の「ひまわり」で思い出してみましょうね。  これは、初めのところがナポリでしたね。お針子のジョバンナ、ソフィア・ローレンですね、それと、予備兵のアントニオ、マルチェロ・マストロヤンニです。この二人が仲良くなって結婚しました。けれども、旦那のほうはすぐに戦争に連れられて行ってしまいました。ロシアの戦線へ。  そうして、女のほうは亭主のお母さんとずっといっしょに、長いこと待っておりましたが、戦死したという噂《うわさ》、ほんとうに戦死したという知らせはきてないけれども、そういう噂。一年二年三年、四年、五年とたって、もう死んだに違いない、あきらめなさい、みんなにいわれても、ソフィア・ローレンはあきらめ切れない。戦争は終っています。復員兵を見つけては亭主の写真を見せて、たずねました。そうして、ウクライナの雪のなかで別れ別れになったという話をききました。  どうしてもあきらめ切れないで、とうとう、亭主の写真を持って、ソビエトまで旅に出ました。イタリアからソビエトまで、女一人でカバン下げて、いったいどこにいるのか、ソビエトって広いですね、それでもかまわない、私はあの人はきっと死んでいないと思います、と。いかにもイタリア女ですねえ。写真一枚持って、ソビエトの戦死者の墓を次から次と探して行きました。  ところで、この亭主のほうですけれど、この戦争で、まあ見渡すかぎりの広い広い雪の広野、その吹雪のなかで、この男は負傷して失神してしまいました。もう、倒れて、雪に埋もれて、もう死ぬだろうというときに、ちょうどそこに村娘が通りかかって、その娘が男の足を引っ張って、からだをたたいて、自分のからだであたためて、自分の家へ連れて行きました。この村娘をリュドミラ・サベーリエワがやりまして、この女優がいかにも田舎娘のかわいさを出しました。  そうして、この男は、介抱《かいほう》され看病されて、一月二月とたつうちに、そのまま、この娘といっしょになってしまいました。戦争も終って、もう、帰るに帰れなくなりました。  さあ、こちらはそんなこと知りませんから、ソフィア・ローレンは、あちらこちら探すうちに、この写真の男は向こうの村におるということを教えられ、とうとう「あの家ですよ」というところまで、追いつめました。  やって来た、やって来た。ここですよ、その男はここにいますよ。そこへ行った。ひまわりが咲いて、そうして洗濯物が干してありました。そこへ、一人の娘のような女が出てきて洗濯物を取り入れました。あら、こんなところにいるのかしら、と思いました。そうして、そのソビエトの女のそばに行って、写真のこの人知ってますか、ときいたんですね。そのソビエトの女は、はっとしました。目と目、女の目と目で、二人は互いに、もはや感じとりました。  ソビエトの女が、この訪ねてきた女を家の中に入れました。イタリアの女が中に入って、あたりを見ておりました。マルチェロ・マストロヤンニの写真が飾ってありました。そのときに、このイタリア女は、ドアの隙間《すきま》から、向こうにベッドがあるのを見ました。二つの枕、そして、そこからちょこちょこと出てきた子供。いつの間にか二人の間に女の子ができておりました。もうここで、イタリア女は帰ろうと思いました。もうだめだと思いました。私はもうこれ以上この家庭に入ってはいけない、と思いました。  そうして、この女は、イタリアへ帰ろうと、駅へ行きました。ちょうど汽車に乗るときに、働いて工場から帰ってきたマルチェロ・マストロヤンニが降りてきた、こちらは乗ろうとする、二人の目と目があったときに男は「おまえ、おまえ」といいました。けれど女は、逃げるようにその汽車の中に入りました。ああ、汽車が出て行くときに、このソフィア・ローレンの泣きくずれる姿が、いかにもすごいでした。  やがて、それから何年かたちました。もうこの物語は終るはずが、ある雨の、すごい雨の日に、今度はこのマルチェロ・マストロヤンニが、どうにも忘れられなくて、ソフィア・ローレンを探しにイタリアにもどってきました。  どこにいるのか。どこにいるのか。電話帳を調べて、とうとう見つけて、電話をかけました。出てきたのは、ソフィア・ローレン。「だれ、だれ、だれ」「どなた、どなた、あんた、あんたですか」といいました。やがて男は、そこに訪ねてきました。雨が降っとりました。そうしてそこに訪ねて行ったときに、ソフィア・ローレンのその女は、かつての忘れることのできなかった、ソビエトまでたずねていった、その男が入ってきたのを見て、はっとしました。  男と女の目が合いました。そして、二人はどういっていいか、わからない。胸がいっぱいになりました。そのときに、雷鳴と夕立。停電しました。真っ暗ななかで、二人は顔を見合わせました。相手の顔は見えませんでした。そして、隣の部屋で、子供の泣き声、赤ん坊の泣き声がしました。二人はローソクをつけました。顔を見合わせました。そうか、男は、そうかと思いました。もうこの女にも亭主ができて、子供ができたのかと思いました。女も、そうですよという顔をしました。  ローソクの光で、二人は顔と顔を見合わせました。もう、相抱くことも、接吻することも、ローソクをへだてた二人には許されませんでした。そうして二人は、隣の部屋へ入っていきました。女にさそわれて。そこに、揺籃《ゆりかご》に、かわいい男の子が寝ておりました。女が、ローソクの光でその子供を見せました。もう私にも子供ができたのよ、という知らせをローソクの光で見せました。  男が、そうかそうかと思ったときに、パッと停電の電気がつきました。明るくなりました。その明るさで、二人の心の覚悟がはっきり決まりました。もう、二人はいっしょになれないんだなあ、やっぱりそれぞれの家庭を持ったんだなあ。二人の目と目が、覚悟のあきらめの顔を、ほんとうに涙をためてしたときに、この映画は終りますが、まあ、この停電、そうして電気がつく、二人の覚悟、みごとなみごとなものでしたね。  はい、もう時間がきましたね。  というわけで、デ・シーカの映画、次から次と思い出しますと、どれもこれも立派なものでしたねえ。このデ・シーカが、もう亡くなったということは、ほんとうにイタリア映画のほんとうの一つの明るい明るい星が消えたような感じがいたします。ではまたお会いしましょうね。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   風土に生きるギリシア映画  はい、みなさん今晩は。  今夜はギリシア映画のお話をしましょうね。あなたも聞いてくださいよ。なにしてるんですか。もう出て行きかけてるって? ギリシア映画なんてつまらない? まあ、聞きなさいよ、たっぷりとね。  ギリシア映画いいますと、みなさん、あまりなじみがないかもしれませんけれど、すばらしい映画がありますよ。「日曜はダメよ」という音楽ならご存知でしょう。きれいな曲でしたね。映画も「日曜はダメよ」(一九六〇)という題名でしたねえ。音楽は、マノス・ハジダキスという人ですね。まあ、ギリシアの名前はむずかしゅうございますねえ。 ●ジュールズ・ダッシンとメリナ・メルクーリ  この「日曜はダメよ」という映画は、メリナ・メルクーリとジュールズ・ダッシンの二人が協力した会社、メリナ・フィルム・プロダクションの作品ですね。そうして、メリナ・メルクーリはギリシアの人ですけれど、ご主人のジュールズ・ダッシンはアメリカ人ですねえ。それが、どうしてギリシアヘ行って、こんなにギリシアに夢中になったんでしょうか。ちょっと勉強しましょうね。  ジュールズ・ダッシンという人は一九一一年に、アメリカのコネチカットで生まれたんですねえ。生粋《きつすい》のアメリカ人ですね。ところがこの人、二十三から二十四、五歳の頃、ヨーロッパで演劇の勉強をしましたの。そうして映画に帰ってきました。それで、ユダヤ人劇団の俳優になったんです。この人、俳優なんです。ところが、やがて映画に興味を持ちまして、RKOラジオという会社に入ったんですけれど、そこにアルフレッド・ヒッチコック監督がいたんですねえ。そしてジュールズ・ダッシンは、このヒッチコックの助監督になったんですねえ。そして勉強しました。  やがて、ジュールズ・ダッシンは、監督として一本立ちしました。一九四〇年、「心の秘密を洩《も》らす」を撮ったんですね。けれども、この人の名前をほんとうに有名にしたのは、「真昼の暴動」(一九四七)のあとで作られた「裸の街」(一九四九)でしたね。立派な映画で、ドキュメンタリー・タッチなんですねえ。ニューヨークの夏の夜、事件を追っていく警察官の話ですね。これでほんとうに私たちは、ドキュメンタリー、記録映画タッチというのをアメリカ映画から感じました。  それからこの人、フランスに行きましたの。フランスで、「男の争い」(一九五四)というみごとな映画を作りました。いかにもおもしろい映画を作りました。それから「宿命」(一九五七)を作りました。また、「掟《おきて》」(一九五九)という奇妙なむつかしい映画を作りました。  そうして、今度は奥さんのメリナ・メルクーリといっしょに、ギリシアヘ渡って、「日曜はダメよ」を作ったんですねえ。奥さんになったメリナ・メルクーリは、「宿命」から出てるんですねえ。  さあ、ギリシアでこの人は、続いて「死んでもいい」(一九六二)を作りました。だんだんギリシア・タッチに入ってきましたねえ。それから、「トプカピ」(一九六三)なんていうおもしろい宝石泥棒の映画を作りました。これは「男の争い」をもっともっと漫画化した泥棒の話でしたね。  ところで、俳優だったジュールズ・ダッシンは、自分の作品の「男の争い」や「日曜はダメよ」や「死んでもいい」なんかに、自分も出演しているんですね。 ●「日曜はダメよ」のギリシア女かたぎ  というわけで、なんといっても、メリナ・メルクーリという女優と、ジュールズ・ダッシンという監督のコンビの代表的作品は「日曜はダメよ」ですね。みなさん、ごらんになりましたか? この映画、ギリシアの女、ギリシアらしさといったものが、実によく出ておりましたねえ。  この映画、ギリシアの港町ですね。タイトルバックに女の腰、足が映りましたねえ。五、六人の女が、まあ腰を振って歩きますね。そのときに、この「日曜はダメよ」の音楽がいかにも感じを出しましたねえ。どんどん歩いていく、元気そうな足、いったいこの女の人、なんだろうと思いました。これが全部、この港の娼婦なんですねえ。夜の女ですねえ。それが、いかにも胸をはって元気なところ、決して恥ずかしがらない、私たちは男を楽しませてやるんだよ、という感じなんですねえ。  さあ、そのなかに、イリヤという娼婦がいるんです。これが情熱的な、いかにもボスなんですねえ。このイリヤという女は、毎日毎日、お客をとって金をもらっているだけではばかばかしい。さあ、たまには自前で遊びましょうというわけで、日曜日には自分の好きな客を全部呼んで、自分で、自前でおごってやるんですね。まあ、いかにもこのイリヤという女がおもしろくって、ほかの朋輩《ほうばい》も、イリヤさん、イリヤさんと喜んでいるんです。  こういう女たちのいる港町に、さあ、ホーマー先生というアメリカ人のインテリ紳士がやって来たんですねえ。これがジュールズ・ダッシンなんですね。イリヤは、メリナ・メルクーリです。というわけで、このホーマー先生は、なにしにギリシアにやって来たかというと、そんな女なんかに目もくれませんよ。ギリシア美術に夢中になってたんです。本をいっぱい持って、ギリシアの研究しとります。ギリシアこそほんとうの世界の古典の宝庫であるというので、遺跡なんかを一生懸命に調べておりました。ところが、だんだんにそういう遺跡が崩れていって無くなっていくのを、とっても嘆いて、眼鏡をかけて、まあまあほんとに、ギリシアの古典が崩れていくなんて、なんという悲しい姿だろうと思ったんですねえ。ところが、この娼婦のイリヤと仲良くなって、だんだんイリヤに感化されて、まあ、ギリシアの気風とはなにかということがわかるお話なんですねえ。  さあ、この映画のおもしろいとこは、この娼婦の仲間たちが全部、親方にピンハネされてるんですね。客からもらう金がみんな、ちょっとハネられてるんです。それに怒って、ストライキやるところがありますね。さあ、港に船がやって来ました。さあ、その船、海軍さんの船で、今日はえらい忙しい。そのときに、みんながストライキしちゃったんですねえ。客をとらない。さあ、そこで親方が困るところ、おもしろいですねえ。  というわけで、「日曜はダメよ」というのは、いかにもギリシア女の気風がよく出た映画でした。こういう映画をみなさんがごらんになっておもしろくておもしろくてしかたがない、それと同時に、ギリシアの性格というもの、あのパッショネートな、というのか、気の強いというのか、いかにも負けじ魂というのか、このギリシアの性格がおわかりになったら、得ですね。 ●こわかった「死んでもいい」  それではここで、あの、なんともしれんこわい映画、とても忘れられない映画の「死んでもいい」のお話をしましょうね。やはり、ジュールズ・ダッシンの製作、監督ですね。そして、主役のフェードラがメリナ・メルクーリでしたねえ。この映画、原題を「フェードラ」といいましたよ。  造船会社の社長で大金持、ダノスといいましたね。このダノスにラフ・バネーロが扮《ふん》しましたが、この男の新しい奥さん、後妻になったのがフェードラです。まあ、フェードラはご主人にもらったきれいな大きな指輪をはめていました。ダノスは、新しく造った船に、自分の妻の名をとって�フェードラ�と名付けます。まあ、すべてがハッピーだったんです。  ところが、この主人には、アレキシスという息子があったんですねえ。この息子は、遠く離れたところで勉強してたんです。ですから、お母さんになったフェードラが、そこへ会いに行きました。このアレキシスという息子というのがアンソニー・パーキンスで、最初のアンソニー・パーキンスの登場がいかにもあざやかですねえ。さて、お母さんと義理の息子が、初めて会ったんですねえ。  そのときに、このお母さんは、その息子に一目《ひとめ》で惚《ほ》れてしまったんです。好きになったんですね。こわいですねえ。ところが、息子が笑いながらいいました。 「ぼく、ガールフレンドがあるんだよ」といいました。  お母さんはショックを受けました。 「なんなの、どんな娘《こ》なの?」といいました。 「これなの」といいました。見ると、それは車だったんですね。ショー・ウインドーに、きれいなきれいな車があったんですねえ。これがぼくのガールフレンドだといったとき、お母さんは笑って喜んだんですね。そして、 「そんな車なら、私、買ってあげる」といいました。 「お母さん、高いんだよ」といいました。  お母さんは、夫からもらった立派な立派な指輪、それを抜いて、息子の目の前で河へポイと捨てたんですね。息子はびっくりしたんですねえ。 「私、このくらいお金があるんだよ」といいました。  ここで、お母さんは、お母さんから女に変わっていったんですねえ。やがて、話はとばしますが、だんだんお母さんとこの息子は仲良くなっていきました。ある日、暖炉の前にいました。雨が降ってました。雨が降ってました。暖炉に火が燃えておりました。その燃える火が、まるで恋の炎に見えてきました。そうして、お母さんと息子は、禁じられた恋の世界に入っていきました。あたりがかすんできました。そこに、男と女の姿、母と子でない姿がだんだん、だんだんはっきりしますね。  そういうわけで、この二人の関係をお父さんはぜんぜん知らないで、息子とお母さんが海にいるとき、そのヨットに、高く高く飛んだヘリコプターから花をまいたんですねえ。夫の花がヨットの上に落ちてきました。そのヨットには、お母さんと息子というより恋人同士が乗っているという、まあ、いかにも、いかにもこわい感覚で、この映画、進んでいきますねえ。  それから、フェードラには女中がいたんですね。この女中、好きでもない夫と結婚しているフェードラを、いつも慰めておりました。これがちょうど、芝居でいうならば黒子《くろこ》みたいに、しょっちゅうフェードラの運命を引っぱっていく感じでした。フェードラはこの女中に少し少し、同性愛的な感覚をもっていました。そういう、この映画は、なんともしれん雰囲気をもっておりました。  そうして、こういう港町ですから、船で夫を死なせた未亡人がたくさんいます。そんな連中は、黒い黒い衣服を着とります。その黒い黒い衣服を着た連中が、造船主、フェードラの夫のところへ訴えに行くところも、なんともしれんギリシア劇の感じがします。  やがて、お父さんは、自分の妻と息子との関係を知ってしまいました。びっくりしたお父さんは、その息子を殴りつけました。殴って殴って、殴りつけました。息子の顔から血が出ました。その頃、お母さんは自殺をしました。すると息子が、 「お母さんなんか死んでしまったっていいんだ。お母さんなんか、死んでしまったって、いいんだ。ぼくはまだ二十四歳だ。まだまだ先があるんだ」  そういって出て行きました。まあ、血だらけの息子が、自分で顔を洗って、そうして、お母さんに買ってもらった車に乗って走って行く。ぼくは、ぼくは死ぬんだ。ぼくはもう死んでもいいんだよ。さあ、その車、すごいすごいスピードで走る車、やがてどこかの断崖《だんがい》から落ちるか、なにかにぶつかるかでしょう。  これが「死んでもいい」のラストシーンでしたねえ。こわい映画でした。それと同時に、このお母さんのメリナ・メルクーリが、すごくよかったですねえ。まるで男のような太い声で、そしてその義理の息子を愛してしまう。なんともしれん悲しい、女のなかの女の匂いがよく出てこわい映画でしたねえ。 ●マイケル・カコヤニスの「エレクトラ」  さあ、今度は、生粋のギリシア人の映画作家のことを申しましょうか。その第一の人といいますと、マイケル・カコヤニスという人があります。この人、一九二二年、キプロスの生まれなんですねえ。  マイケル・カコヤニス、いかにも妙な名前ですねえ。ギリシアには、いろいろとむつかしい名前がありますねえ。私がニューヨークで知り合った、レストランのコックさん、それがとってもおもしろい人でした。名前をクリス・パンポーキスといいました。 「まあ、クリス・パンポーキス、あなたの名前は変わっていますねえ」 「はい、私はギリシアの人間です」  といっておりましたが、いかにもいい人でした。  それから、サイレントからトーキーになる頃に、エディ・キャンターというおもしろい喜劇役者がいました。その共演者がギリシアの俳優で、その男の人の名前、むつかしい名前でしたよ。カルキヤ・カルキスという名前でした。そういうわけで、ギリシアの名前は、ちょっと変わっていますねえ。  ところで、ギリシアには、ソフォクレスという有名な悲劇詩人がいましたね。紀元前のギリシアの人です。このソフォクレスの作品に、あの有名な「オイディプス王」があります。それから「アンティゴネ」があります。まだまだ「エレクトラ」というのがありますねえ。  この「エレクトラ」を、マイケル・カコヤニスが脚色しまして、自分で監督しましたねえ。音楽がミキス・テオドラキスで、いかにもギリシアの感覚が出てました。映画の「エレクトラ」を撮って、マイケル・カコヤニスは、ギリシア映画の代表として世界に有名になりましたねえ。一九六一年、「日曜はダメよ」の明くる年でした。  エレクトラというのは、昔のギリシア国王の王女で、このエレクトラに扮しているのがイレーネ・パパスです。トロイ戦争から凱旋《がいせん》して帰ってきた国王は、自分の王妃が家臣のアエギシウスという男と恋をしていることを知りました。そして、自分の妻とその男のために、お風呂場で殺されてしまいました。しかも、国王の血を継いでいる王子、エレクトラの弟のオレステスまで殺されそうになりました。  そこでオレステスと家庭教師は、国外へ逃げました。お父さんを愛した王女のエレクトラは、国内にとどまりました。そうして新しい父を憎みました。お母さんを憎みました。復讐《ふくしゆう》をしようとしました。エレクトラはやがて成人しました。義理のお父さんは、このエレクトラを城から遠く離れた貧しい貧しい農夫の嫁にしてしまいました。農夫はエレクトラを哀れんで、王女として仕えました。エレクトラは父の墓の前で復讐を誓いました。  やがて、王子オレステスも成長して姉のもとへ帰ってきました。不幸な姉と弟は、抱き合って泣きました。ある祭礼の晩に、オレステスは旅人に化けて、そうして義理のお父さんに近づいて、みごとに父の仇《かたき》をうちました。夫が殺されたというので、その復讐のために現われたお母さんも、エレクトラとオレステスの二人のために殺されてしまいました。まあ、きびしい復讐ですねえ。ところが、この二人、結局は国外へ追放されてしまうんですねえ。  これが「エレクトラ」ですね。こわいですねえ。いかにも復讐というのか、一念というのか、このなんともしれん怨《うら》みの一念というものが、このギリシア劇のなかにはみごとに出てきますねえ。そういうわけで、ギリシア劇は悲劇のオリジナルというものを私たちに与えてくれますね。 ●「その男ゾルバ」のギリシア風土  それからまた、マイケル・カコヤニスは、現代のギリシアの男も描きましたよ。「その男ゾルバ」という、一九六四年の映画です。そのゾルバを、アンソニー・クインが上手に扮しておりました。そしてこの映画、ニコス・カザンツァキスというギリシアの作家の原作なんですねえ。  さあここに、英国人のバジルというエッセイスト、つまり作家ですね、作家がクレタ島にやって来ました。お父さんが亡くなって、その遺産である炭鉱がクレタ島にあるというのですね。このバジルに、アラン・ベーツが扮しておりました。  そうしてやって来たものの、まあ、なにもかもがうまくいかなくて、がっくりしているときに、一人の男が「おれが助けてやる」といって現われました。アンソニー・クインの扮しているゾルバです。そうして、バジルがどんなに失敗しても、立ち上がるように元気づけるんですねえ。初めのうちは英国人のバジルが、クレタ島のギリシア人なんて田舎者さ、とばかにしてたのに、とうとうゾルバに感化されて、ギリシア魂を持つまでの映画でしたねえ。まあ、いかにもおもしろいでした。  そうして音楽は、ミキス・テオドラキス。この音楽で、なかなかにギリシアの音楽の勉強をしました。まあ、ギリシア音楽とはこういう音楽か、というわけですねえ。それから、最後のほうで、アラン・ベーツとアンソニー・クインが肩を組んで踊るところ、なかなかおもしろくて、ギリシアの踊りをあれで私は教えられました。  この映画、いろいろありますが、イレーネ・パパスという女優が扮している、村の美しい未亡人、その美しい未亡人が炭鉱の若い息子と結婚するはずだったんですね。ところが、英国から来たバジルと仲良くなった。そして関係した。それでまあ、村八分になりまして、あの未亡人はなんていやな女だろうといわれて、とうとう、みんなが集まったなかで石をぶつけられて、殺されるところがあります。まあ、いかにも昔のギリシアから伝わっているような、こわいこわい掟《おきて》があるんですねえ。  また、このクレタ島には古い古い旅館がありました。その旅館の女主人のホーテース、これをリラ・ケドロワという、とってもいいギリシアの女優がやっとりましたが、これがまたすごかったですねえ。ホーテースは、前にパリで夜の女していまして、そのときに、自分の相手は立派な人ばっかりだったということが自慢で、それが今は、ゾルバの女になっているんですねえ。  そういうわけで、やがて最後にゾルバと結婚するんですけれど、結婚した晩にこの人は病気で死んでいくんです。いよいよ死ぬあたり、すごいですねえ。さあ、いよいよ死ぬとなったときに、村の女の人みんなが、その死んでいくホーテースを、まあまあ、おがみに来るんです。  まだ生きているのに、おがみに来るのはいいけれど、ホーテースのベッドのぐるりにあるものを、次から次へと持っていくんですねえ。もう死んでいく人の形見だといって。机の下にあるもの、ランプの横にあるもの。ランプまで、椅子まで全部持っていく。まあ、家の中になんにもなくなっていく。  そのなかで、ホーテースが息を引きとっていくんですねえ。いかにもこわいですねえ。生きている間に、死んでいく女のものを持っていくんですねえ。ここにも、いかにもギリシアのこの地方色、クレタ島のなんともしれない地方色がよく出ておりましたよ。 ●未来の恐怖を描く「魚が出てきた日」  マイケル・カコヤニスは、今度は、未来の恐怖を描きました。自分で脚本を書いて、監督しました。「魚が出てきた日」という作品です。一九六七年の作品です。主演がキャンデス・バーゲン、トム・コートネー、おもしろい顔ぶれですね。  お話は、一九七二年の夏の話になっとります。この映画の製作が一九六七年ですから、未来の話になっております。ギリシアのエーゲ海の上空を飛行機が飛んでおります。アメリカ軍の爆撃機です。さあ、それが事故を起こしまして、飛行不能になりまして、積んでいた原爆二個と、金属製の箱とを、その、海のなかへ落としちゃったんですねえ、上から。さあ、それが大変なことになってきたんです。そんなもの、そこへ落としたらえらいことになるんですねえ。  それで、アメリカ軍部が緊急会議をしまして、軍部の連中がそこの近くの島へ駆けつけていって、そうして海底を探すけれども、それは世界には秘密ですからはっきりいえません。みんなホテル業者に化けまして、調査に来たことにするというわけなんです。さあ、大ホテルができるというので、島民は大喜びしたんですねえ。しかも、それが世界の注目を浴びて、あの島はいまにえらい観光地になるぞというので、どんどん世界中から、その土地でホテルをしようかなと思って、やって来た、やって来た。  大変な人になりまして、その島の小さなホテルは超満員になったんですねえ。毎日毎日、パーティがあって、飲めや騒げですねえ。  けれども、ほんとうはえらいことになっているんです。さあ、軍部の連中がその海を探す。  とうとう原子爆弾だけは発見したんです。ほっとしたんですねえ。けど、もう一つの箱その箱が問題なんですね。どこを探してもその箱が見つからない。ところが、この島の山の上に、羊飼いの夫婦がいたんですねえ。その夫が、海ばたで妙な箱を拾ってきたんです。さあ、これいったいなんだろうといったんです。石でたたいたけれど開かないんですね。まあ、こんな箱なんかしかたないといって、その箱をまた、高い岩の上からパーンと海へ捨てたんですねえ。それだけのこと。  けれども、岩の上から遠くへ投げられたその箱は、海底で蓋《ふた》を開いたかも知れません。というのは、まもなくその海岸にどんどんどんどん、魚の死体があがってきました。さあ、だれもそのわけを知りません。けれども、アメリカ軍部だけは、ドキンとしました。実は、もしもその箱の蓋が開いたならば、やがて地球はどんどん毒されて、滅びていくんじゃないかというこわい問題を残して、この「魚が出てきた日」は終るんですねえ。カコヤニスは、そんなこわい映画を作ったんですねえ。 ●ニコス・コンドゥロスの「春のめざめ」  さあ、ここでひとつ、違う方向に目を向けましょうね。きれいなきれいなギリシアの詩のような作品がありましたねえ。そうです、「春のめざめ」(一九六四)です。これ、ギリシアの映画ですね。ギリシアのミノス・フィルムという会社の映画です。  これは、ニコス・コンドゥロスという人が監督にあたっております。この人は、一九五四年に「魔法の都市」という作品で監督になりましたけれど、この監督の名が一挙に世界に広まったのは、なんといっても、この「春のめざめ」ですねえ。 「春のめざめ」の原名は、「ヤング・アフロディーテ」という英語の名前がついていますね。�若きアフロディーテ�です。アフロディーテってなんでしょう。これはギリシア神話のなかに出てくる、美と愛の女神ですねえ。これをローマ神話では�ビーナス�というんです。みなさんには、ビーナスのほうがピンとくるかもしれませんねえ。  というわけで、この音楽も、非常にこのギリシアの古典の感覚を入れて古風な美しさですねえ。だから、とってもきれいな音楽です。ジョン・マルコプーロスという人が作曲しました。  さあ、この映画は、主演しているのがクレオパトラ・ロータという少女、女子高校生の十六歳の少女と、バンゲリス・ジョアンデスという少年です。しろうとなんですねえ。  真夏です。青いエーゲ海がいかにもきれいです。ここに、クロエという十五、六の少女がいます。海岸で遊んでおりました。かわいい女の子です。ところが、山から羊の群れがおりてきました。羊飼いたちが、たくさんの羊を追いながら、土煙を立てて、海岸へおりてきました。まあ、長い長い旅、水がなくなって、水を求めておりてきました。そうして、雨の降る秋まで、この海辺で、小さな川の流れているその水を飲みながら、野宿をしてとどまることになりました。  この牧童たちのなかに、スキムノスというかわいい少年がおりました。このスキムノスという少年が、やがてこの海岸でクロエと出会って、この二人は姉弟のように遊びました。クロエは十五、六歳。スキムノスは十一、二歳でしたから。  海辺の漁村では、男たちがみんな漁に出て、女たちだけが寂しく寂しく家を守っておりました。そんな女の一人、アルタは、牧童の若者との恋におちました。このアルタは、エレン・ブロコビュという女優がやっておりましたが、女優というよりも、実は古典舞踊の有名な踊り子だそうです。  まあ、クロエとスキムノスは、そんなことに関係なく、楽しく楽しく遊んでおりました。やがて雨が降りだしました。そうして雨があがりました。秋がやってきたんですね。牧童たちはまた山に帰ることになり、そろそろ旅の用意を始めました。そこで、あの漁師の妻のアルタと牧童のツアカロスという若者が別れを惜しんで海岸の岩陰で、何度も何度も接吻しているうちに、肉体的に結ばれました。岩陰で人妻と牧童が抱き合っているその姿を、少年と少女、クロエとスキムノスが見てしまいました。少女のクロエは、初めてそんなもの見てびっくりしました。  やがて、みんな旅立って行きます。少年も旅立って行きました。でも、このスキムノスという少年は、クロエがとっても忘れられない。どうしても、あのお姉さんが忘れられない。自分の好きな好きな、あのお姉さん、どうするだろう、自分たちが行ってしまったあと、どうなるのだろう。そう思って、駆けおりて海岸にもどって来ました。そして、クロエを探しました。  するとクロエは、まあ、驚いたことに、まだ旅立っていなかった一人の牧童、若い牧童でものがいえない白痴的な男に押さえつけられて、手ごめにあっておりました。暴行を受けておりました。まあ、少年のスキムノスはびっくりしました。あの、今朝《けさ》、岩陰で見た人妻と牧童のあの姿と同じことをクロエに見まして、びっくりして、震えました。ところが、もっと驚いたことには、その少女、十六歳のクロエが、暴行を受けながら、にこにこ笑っていたんですねえ。しかも、その男に抱きついていたんですねえ。  それを見て、スキムノスはすっかり、がっかりしました。少女と遊んだその白痴の男は、少女を捨てて、さっさと行ってしまいました。そこにクロエが一人残って、まだ満ちたりぬ顔で、ぼんやりしていました。それを見て少年は、駆け出すように逃げて来ました。逃げながら、そのお姉さんのクロエがいつも抱いていた白鳥を見つけて、その白鳥をつかまえると、力いっぱい岩にたたきつけました。かわいそうに、その白鳥の羽根が飛び散りました。少年はまた白鳥をたたきつけて、とうとう殺してしまいました。  少年は、無残にも毛が抜けて首筋に血が流れている白鳥を抱いて、いつまでも、いつまでも泣いておりましたが、やがて、海の波が少年の足を洗いはじめると、まるで、それを待っていたかのように、海に抱かれていく感じで、白鳥を抱いたまま、沖へ沖へと歩きはじめました。そして、とうとう海のなかへ沈んでいきました。もう、少年は二度とあがってこないでしょう。  これが「春のめざめ」ですね。いかにも、なんともしれん詩の匂いがしますし、古典の匂いがします。しかも、いかにもまだ性に目覚めない少年の清らかさが、最後の死に出ていましたねえ。そうして、音楽がきれいで、景色がまたきれいだったんですねえ。白黒映画でしたけれど、砂、それに岩、真夏の青い海の青さが、みごとに出ているんですねえ。  それだのに、景色がこれだけきれいなのに、人間のこの悲しい姿……。このけがれを知らない少年が、けがれを知った。この少年の心にはすごいショックだった。それは�けがれ�といっていいかどうか、大人から見ると�けがれ�とは思わないけれども、この性の目覚め以前のこの少年にとってなんともいえない悲しさ。それを抱いたまま少年が死ぬ。ここに自然と人間とのギリシア的感覚、いかにもギリシア映画というものを「春のめざめ」はみごとに見せましたねえ。  というわけで、ギリシア映画もすばらしい作品がたくさんあるんですねえ。ただ、残念なことに、あまり数多く公開されてませんねえ。おや、ちょっと、さっきから静かですねえ。あんた聞いていらっしゃるんですか? ちょっと起きてくださいよ。また寝たんですか、いやですねえ。  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。 [#改ページ]   話題いっぱいの「風と共に去りぬ」  はい、みなさん今晩は。  さあ、今夜は「風と共に去りぬ」ですよ。あんた、ごらんになりましたか? まだなんですか? まあ、そんな人もいらっしゃるんでしょうかねえ。  今夜は、あのなつかしい、映画の歴史に残る大作、そしてアメリカの文学やアメリカの歴史ともつながりの深い、この「風と共に去りぬ」を、みなさんとともに、楽しく勉強し、遊んでみましょうね。 ●「風と共に去りぬ」と南北戦争  はい、「風と共に去りぬ」のお話をする前に、まず、南北戦争の時代、そういうことも考えましょうね。で、南北戦争というのは、アメリカが二つに分かれるなんて、えらいことになった時代の戦争ですね。ハウス・ディバイデッドという言葉、家を二つに割るという言葉がありますね。南北戦争は、そのアメリカを二つに割ってしまうかもわからない危機|一髪《いつぱつ》の頃でしたねえ。  ところが、この南北戦争に火をつけたのが、原因はたくさんありますけれど、その一つに、ハリエット・ストウという女の人の有名な小説で「アンクルトムス・キャビン」というのがありましたね。あれ、一八五二年に発表されたんです。黒人|奴隷《どれい》が、もう大変に残酷な、いかにも動物以下の憂《う》き目をみる小説でしたね。それでもう、奴隷に対する同情がわいてきたんですねえ。  その一八五二年から八年たった一八六〇年の頃、南部諸州の黒人、まあ大人も子供も合わせた黒人奴隷が、四〇〇万人もいたそうですね。そういう時代のことを思いながらこの映画を見ると、またおもしろうございますが、最近、はっきりそういうものを真正面から見せた映画もきましたよ。あのねえ、「マンディンゴ」なんていう題名なんです。マンディンゴってなんでしょう。マンディンゴってのは、アングロサクソン系の黒人奴隷のことなんですね。で、この映画、一八四一年頃のお話なんです。それから二十年たって南北戦争が起こりましたから、まだほんとうに、黒人奴隷がまったくもう動物以下だった頃の、その時代を描いたのが「マンディンゴ」という映画なんです。  こわい作品ですね、ものすごく。ああ、奴隷というものをこんなにまで残酷に扱っていたのか、ということが「マンディンゴ」でよくわかります。これは、あの「トラトラトラ」のリチャード・フライシャーが監督してます。そして、ジェームス・メースンとかスーザン・ジョージとかが出てますけれども、まあ、この作品、リノ・デ・ロレンティスというイタリアのプロデューサーが作ったんですねえ。  というわけで、南北戦争は、その時代から二十年たった一八六一年から始まって、一八六五年まで続きました。そして、南部が負けました。で、その戦争の間に、リンカーン大統領が奴隷解放令を出しました、一八六三年に。  みなさんもよくご存知ですねえ。  けど、このリンカーンは、南軍のリー将軍が北軍に降伏した一八六五年四月九日から、わずか数日のあと、四月十五日に、ワシントンの劇場で暗殺されました。  まあ、この南北戦争の時代に、アメリカ中が激しく揺れ動きましたけど、それが「風と共に去りぬ」の背景にあるんですね。そんなこと、ちょっと考えて「風と共に去りぬ」を見ますと、またおもしろいですねえ。  というわけで、この「風と共に去りぬ」はいろいろな思い出をもってますね。Gone with the Wind─風と共に去っていった、という題名どおり、この映画に出た俳優さんも、みんなこの世を去りましたねえ。  アシュレイになった役者、レスリー・ハワードは不思議な亡くなり方をしました。一九四三年、リスボンから飛行機に乗ってロンドンへ行く途中、その飛行機が行方不明になったんですね。そのまま帰ってこなかった。五十三歳でした。  それから、この映画で、初めて黒人俳優がアカデミー賞とりましたが、太った太った召使いのおばさんになったハッティ・マクダニエルという人、この人も一九五二年に五十七歳で亡くなりました。  そして、レット・バトラーに扮したクラーク・ゲイブルも、一九六〇年に五十九歳で亡くなってますし、それから、スカーレット・オハラをやった主役のビビアン・リーも、一九六七年に五十三歳で亡くなっていますね。  ところがまだまだ、スカーレット・オハラのお父さんになったトーマス・ミッチェルも亡くなりましたし、プロデューサーのセルズニック自身ももう亡くなってますねえ。六十三歳で。それから、原作者のマーガレット・ミッチェルは一九四九年の早くに亡くなりましたし、監督のビクター・フレミングも一九四九年、六十七歳で亡くなっておりまして、まあ、過去帳をひっくり返すような映画になりましたけれども、ほんとうにこの題名どおり、人間というものは生まれてやがて死んでいくんですねえ。風と共に去りぬですね。  そういうふうに、まあちょっと裏側のことも考えながら、この映画を見ますと、また身に迫りますねえ。 ●十五億円の巨費をかけて  さて、なにから話していいか、わからないくらい、いろいろありますけれど……この「風と共に去りぬ」は一九三九年に完成しました。昭和十四年です。で、その頃の製作費というの、ちょっと考えてみましょうね。この映画、十五億円でできあがりました。十五億円、大変な金ですねえ。  けれども、「風と共に去りぬ」をもう一度呼びもどそう、大当たりをとろうとして作った映画があるんですねえ。エリザベス・テーラーとモンゴメリー・クリフトの「愛情の花咲く樹」(一九五七)という大作、あれ十八億円なんです。  ところが、もっとあるんですよ。「八十日間世界一周」(一九五六)というのが、これ二十億円、えらい金かけてますねえ。そうして、アメリカ映画の「戦争と平和」(一九五六)は、二十九億円かけてるんです。まだありますねえ。デミルの「十戒」(一九五六)、あれほんとですかね、四十八億六千万円かけてるというんですね。そんなこと思うと「風と共に去りぬ」の十五億円は、そんなに高くないんですね。  それにしたって、これ、今の十五億円と違いますよ。昭和十四年という戦前の時代の十五億円ですから、やっぱり大変ですねえ。ところが、まあ、日本のものと比べてみましょうか。黒沢明の「蜘蛛巣城」、あれ大変な大作でした。昭和三十二年ですよ。それでも当時、一億三千万円でひっくり返ったんですねえ、えらい金かけたなあっていったんですね。それから「明治天皇と日露大戦争」(一九五七)というのありましたが、あれが二億円、当時、びっくり仰天して、二億円もかけたかあ! っていいました。  というわけで、「風と共に去りぬ」の十五億円、いかにもスケールが大きいですねえ。この製作費だけでなくて、この映画、いろんないろんなお話のタネもってますね。 ●アマチュア作家の原作を五万ドルで買う  これ、原作は、マーガレット・ミッチェルという人の作品ですね。小説です。ところが、マーガレット・ミッチェルのことを、まあ、世界の作家や評論家たちは�アマチュア作家�というんですね。というのは、この人はこれ一つだけ書いて亡くなった人、これ一本しか書いてないんですねえ。ところが「大地」なんかのパール・バックなんていう人は、プロの作家、もうたくさん書いているんですね。そういうのに比べると、一本だけ書いた、アマチュア作家がこんなもの書いた、というので評判いいんですね。  それではここで、ちょっと、この原作者の勉強もしましょうね。マーガレット・ミッチェル、この人、ジョージア州のアトランタの生まれですね。一九〇〇年に生まれました。  それで、お父さんという人はどういう人かというと、アトランタの歴史研究会の会長さんで、本職が弁護士なんですね。そして、お兄さんという人が南北戦争の研究家なんですね。こういうふうなお父さんとお兄さんを持ってたんですよ。  それで、マーガレットは、最初は医者になるつもりだったんです。ところが、早くにお母さんが亡くなって、アトランタ・ジャーナルという新聞社の婦人記者になったんです。六年間つとめたんですねえ。そうして、この新聞社の広告部長のロバート・マーシュという人と結婚したんですねえ、一九二五年に。  で、この人、新婚生活中に、二階の階段から落ちて、足をけがしました。松葉杖ついたんですねえ。それで思うように外へ出られなくなって、家にじっとしている間に考えて、その翌年から原稿を書きだしたんですねえ。  そうして、まあまあ、十年もかかって、一つの小説に十年もかけて、この大作を書き上げたんですねえ。子供の頃両親に聞かされた話だとか、自分の召使いの黒人の女の人から聞いた話、それをどんどん参考にして書いたんですねえ。その根気といいますか、情熱といいますか、大変なことですねえ。一九三六年、昭和十一年、マーガレットが三十六歳のときですよ。  さあ、この「風と共に去りぬ」が本になったとき、これがベストセラーになったんですけど、まあ、一日に五万部売れたんです。一日に五万部、毎日毎日売れたんですって。まあ、えらいもの書きましたね。  というわけで、いろいろ注文がきましたけれど、もう書きませんでした。この人、マーガレット・ミッチェルがいっているんです。 「私は、自分の持っているあらゆる能力と経験を、すべてこの一作に注《つ》ぎこみました。もう私は、このほかにペンをとるだけのなにものもありません」  そしてもう、あとは書かないで、一九四九年、四十九歳のときに交通事故にあって亡くなりましたね。まるで「風と共に去りぬ」のために生まれてきたような作家ですねえ。  というわけで、一九三六年に、この「風と共に去りぬ」の小説が書き上がったんですけど、その頃、おもしろい話があるんです。  みなさんご存知のように、映画の「風と共に去りぬ」をプロデュースしたのは、デビッド・O・セルズニックですね。このセルズニック、うまいこと偶然に、この「風と共に去りぬ」の映画化権を手に入れたんですねえ。  セルズニックは、ふだんから五人くらいの�ストーリー・スカウト�をかかえてるんです。こういうプロデューサーになりますとね、あらゆる小説、あらゆる戯曲、そういったものをどんどん調べさせるんです。それをストーリー・スカウトというんですね。その人たちがしょっちゅう、これがいい、あれがいいなんて持ってくる。それをよおく検討して映画化するんですねえ。  そのストーリー・スカウトの一人に、キャサリン・ブラウンという女の人がいたんです。このキャサリン・ブラウンは、このセルズニックのいちばん腕利きのストーリー・スカウトだったんです。この人が休暇もらいましてねえ、夏に。それで自分の故郷へ帰ったんです。ところが、その故郷というのがアトランタ、おまけに、むかしからの学校友だちがマーガレット・ミッチェルだったんですねえ。  そしていろんなおしゃべりしてるうちに、 「あたしねえ、小説を書いたのよ」マーガレット・ミッチェルがいったんです。  キャサリン・ブラウンは、おそらく短編小説でも書いたんだろうと思っていましたら、マーガレットが家から原稿を持ってきました、ホテルへ。マーガレット・ミッチェルが持ってきたその原稿というのは、トランクいっぱいなんですね。キャサリン・ブラウン、びっくりしたんですねえ。 「こんなにたくさんとても読めないわ」といいながらちょっと読みはじめたら、おもしろくておもしろくて、とうとう夜明けまで読み続けてしまったんですねえ。  そして、あわてて、あわてて、キャサリン・ブラウンは自分のボスのセルズニックに電話かけたんです。ところが、そのデビッド・O・セルズニックは、 「なに? なんていう作家の小説なの? なに、マーガレット・ミッチェルいうても、そんなの知らないね。どこの作家なの?」 「いいえ奥さんでね、しろうとで、初めて小説を書いた人ですよ」 「そんなのが映画になるか、バカッ」  そういって切っちゃったんですねえ。セルズニックは大プロデューサーだから、アマチュア作家のものを映画にするなんて考えもしなかったんです。もう相手にしなかった。ところが、キャサリン・ブラウンはあきらめきれないんですね。アトランタに一週間泊まっているあいだ、ずーっと毎日、電話かけたんです。セルズニックのほうは、うるさくて、うるさくて、とうとうしかたなしに、そんなに熱心にいうならキャサリン・ブラウンのためにプレゼントしてやろう、よろしい、五万ドルで買ってあげようっていったんですね。キャーッと喜んで、キャサリンとマーガレットが抱き合ったという話があるんですね。  これ、五万ドルで買ったなんて、えらい得しましたねえ。  さあ、そこで今度は、マーガレット・ミッチェルが、出版社に話を持ち込んだんですね。ニューヨークにあるマクミランという有名な出版社、そこの人に「これ、映画になるんですよ」といって、出版をすすめてみたんです。まあ、いろいろあって、ともかく原稿を見ましょうかというわけで、その出版社の人がアトランタまで来ましたけど、その原稿見たらあんまり多いので、「ノー、ノー、ノー」といって突っぱねましたね。「こんなに部厚いものは、なかなか本になりませんぞ」  とうとう読みもしないで、ニューヨークヘ帰る汽車に乗りました。  ところが、マーガレット・ミッチェルの友だちが、その原稿を、そーっと、出版社の人の乗ってる寝台車の中に入れちゃった。そして汽車が出てから、何度も電報を打ったんです。その汽車が走ってるあいだじゅう、車内電報で「もう読みましたか」「まだ読んでませんか」「もうお読みになりましたか」「まだお読みになりませんか」。まあ、どんどんそんな電報きたからうるさくて、せめて、半分読んでこませ、三分の一、五分の一読んでこませなんて思って、そのマクミランの出版社の人がぶつぶつ怒りながら読んだら、おもしろくっておもしろくって、びっくり仰天して、もうニューヨークヘ着くなりすぐ、アトランタヘ電話かけて、 「マーガレット・ミッチェルさん、この小説、百万ドルで買いましょう」  そういったんですねえ。セルズニックがプレゼントのつもりで五万ドルで買ったのを、出版社の人は百万ドルで買ったんですね。まあ、そういうわけで、えらいことになりました、この作品。そうして本になったとき、大ベストセラーになったんですねえ。しかも、この小説「風と共に去りぬ」、明くる年にはピューリッツァ賞とりましたね。 ●タイトルの本邦初訳と初公開  そういうわけで、このセルズニックが「風と共に去りぬ」を映画にするときに、日本にもそういうニュースがきたんです。ちょうどその頃、私はユナイトの宣伝部にいたんです。それで、向こうからタイプライターで打ったものがきて、私が手にとったんですね。  ──セルズニックという人が、マーガレット・ミッチェルという人の小説、いよいよこれから発表される、まだ発表前の、本になっていない "Gone with the Wind" そういうものを映画化する──と。  それだけきたんです。役者がだれで、監督がだれでともなんともいってないんですね。けれども、やっぱり、セルズニックがこういうのを映画化するというニュースを書きたい。Gone with the Wind をどう訳したらいいだろうと思ったんですね。困っちゃって、うーん、そうだな、と考えて「風と共に飛び去った」と書いたんですね。おそらく日本でいちばん最初にこのタイトルを訳したのが私だと思います。  これ、日本で初めて公開されたのは、ずーっと遅れて、昭和二十七年でした。戦争中はずっと上映できませんでしたから、十数年もたって、戦後の昭和二十七年、一九五二年ですね。この年になってやっと公開されました。そのあと、一九五三年にまた、さらに一九五五年にまたリバイバルされまして、それから五年たってまたリバイバルされまして、それから一年たってリバイバルされまして、また翌年リバイバルされまして、それからまた五年たってリバイバル……もう、うるさいねえ。というわけで、日本だけで十四回目だっていうんですね。  ところが私、十四回目もまた見てくれっていわれたんですね。私、また見に行くいうても、この忙しいのに三時間五十一分、まあ、あんな長ったらしいもん、もうよく見てよく見て、もう、うるさいぐらい見て、おまけにいちばん最初、映画の台本がきたときに、私は読んでいたんです。この台本、できあがった映画とはちょっと変わってるんです。それをもう頭にやきこんでるくらいに、まだ映画で発表されない前に、ずーっと頭に入れてたんです。今でもそれは頭にしみこんでます。  スカーレット・オハラが、きれいなきれいなレースの手袋をはめて、大きなベッドの枕元についてる真鍮《しんちゆう》の棒を、ぐっと持ってるのがクローズアップなんです。その手が、うん、うんと動くんです。なに動いてるの、と思うとキャメラーがずーっと引いて、あの太った太った召使いの女の人に、コルセットはめてもらってるんです。 「お嬢ちゃん、あんた今日のパーティヘ行って、あんまり蜂蜜《はちみつ》とかそんなもの食べたらだめですよ、また太りますよ」  なんていって、うーんとコルセットをしめるんで、引っ張られるたびに、ベッドの棒を握ってる手が動くんですね。それが、ファーストシーン。それから大パーティに行く、というのがいちばん最初のシナリオでした。  だから私、ずーっとそれが頭に入っていて、そこから始まっていくんだと思っていたんですけど、映画が日本にきて、それ見たとき、そんなファーストシーンじゃなかった。大きな大きなお屋敷のテラスのところで、男に囲まれた美人のスカーレット・オハラが、右に左に、男の子に口説かれるようなシーンから始まって、いかにも美人のスカーレット・オハラの登場でしたねえ。私が頭に入れてた最初のシナリオとは違ってたんですね。  というわけで、昭和二十七年から何回も何回も、リバイバルのたんびにこれを見るのつらいなあと思ってましたが、三時間五十一分、見始めたらもう完全に見とれてしまって、なんておもしろいんだろうなあと思うんですねえ。そういうわけで、この「風と共に去りぬ」、いつ見ても、何回見てもおもしろいでしたねえ。 ●父子二代のプロデューサー、セルズニック  ここらで、セルズニック、この大作を残した人のことちょっとお話しときましょうねえ。  この人、お父さんも有名なプロデューサーだったんですって。ルイズ・セルズニックっていいまして、私、このお父さんの作品、たんさん見ております。けどお父さん、あんまり豪華な大作、もう金ピカ映画ばっかり作ってねえ、破産したんですね。ちょうど、このデビッド・セルズニックが二十二歳のときに破産したんですね。  けど、がんばってがんばって、このデビッド・O・セルズニックはMGMに入って、脚本部で勉強したんですね。そうして「キングコング」だとか、グレタ・ガルボの「アンナ・カレーニナ」だとか、「デビッド・カッパーフィールド」、そんなのをプロデュースするようになったんですねえ。  で、ビビアン・リーも、ジョーン・フォンテーンも、ジェニファー・ジョーンズも、ジョセフ・コットンも、イングリッド・バーグマンも、フレッド・アステアも、キャサリン・ヘプバーンも、みんなこの人が発見したんですねえ、映画のなかに連れてきたんですねえ。アラン・ドロンも、一九五七年のカンヌ映画祭で見て、セルズニックが「いいなあ、これはスターになるぞ」と思ったけど、当時のアラン・ドロンは英語が全然できなかったので、セルズニックはあきらめて帰ってきた、なんてことあるんですねえ。  まあ、のちにこの人は「レベッカ」(一九四〇)だとか、「白昼の決闘」(一九四八)とか、「第三の男」(一九四九)とか「終着駅」(一九五三)など、たくさんの傑作をプロデュースしましたねえ。  それからこの人は、いつでも自分の映画を宣伝するのに、とってもおもしろい方法とりました。たとえば、こんなことしたんですねえ。かつて「砂漠の花園」(一九三六)というディートリッヒとシャルル・ボワイエの映画作ったときに、ニューヨークの映画批評家を全部ハリウッドへ飛行機で招いたんですけど、その飛行機の中で「砂漠の花園」の試写会をやったんですね。その頃はまだ、飛行機のなかで映画を映すなんて、だれも考えておらなかった。ところが、飛行中に映写したというので、えらい評判になったんです。  そういうことをする人ですから、さあ「風と共に去りぬ」でも、完成しないうちからどんどん宣伝しました。なにしろ原作料にたった五万ドルしかかけなかったから、宣伝費をどんどんかけたんですね。  で、この映画の監督、最初はロバート・レオナードだったんです、発表しましたときに。それを急にやめて、キング・ビダーにしたんです。これもまた取りやめて、ジャック・コンウェイにしたんです。これも取りやめて、とうとうジョージ・キューカーという人、「マイ・フェア・レディ」(一九六四)のあの監督で撮影を開始したんですね。さあ、ところが、二十日たったところで、また中止したんです。監督をかえちゃったんですねえ。そして、ビクター・フレミングにしたんです。  どうしてこんなに監督をかえたんでしょう。まあ、プロデューサーと意見が合わない、意見が合わないというんですけれども、そうした変更のたびに、それが新聞に出るんですね。もちろん、監督を変更すれば、契約違反でたくさんのお金をその中止した監督に払うんですけれども、そのお金払っても、新聞に書かれるのをうれしがってたんですねえ。 ●ビクター・フレミング監督のこと  というわけで、ビクター・フレミングがこの映画を監督しましたが、みなさん、案外このビクター・フレミングという監督ご評判でないんです。なぜかというと、みなさんあんまりご存知ないからです。この人も、この映画でアカデミー監督賞もらってますからねえ、一応いっときましょうねえ。  この人、一八八八年に生まれたんですね。そして映画の初めの頃、サイレントの初期の頃に、活動写真のキャメラマンだった人ですね。当時有名なダグラス・フェアバンクスという大スターの作品のキャメラを、どんどん回しておりました。それからやがて、ダグラス・フェアバンクスの作品の監督をやるようになりまして、パラマウントヘ移ってからは「狂乱船」(一九二五)──さあ、そんなのご存知ないでしょうけど、ごらんになってないから、まあ、名前だけ聞いてください──そして「人罠」(一九二六)、これクララ・バウの映画です。「決死隊」「肉体の道」(一九二七)、それからクララ・バウの「フラ」(一九二六)、「アビイの白|薔薇《ばら》」(一九二九)、さあ「アビイの白薔薇」なんていいますと、オールド・ファンはああ、あの大作がビクター・フレミングか、なんて思い出されるかもしれませんねえ。  それからトーキーになりました。「狼の唄」(一九二九)、これはゲーリー・クーパーの第一回トーキー作品ですねえ。これもビクター・フレミングが監督しております。「バージニアン」(一九二九)、これもゲーリー・クーパーの有名な作品ですねえ。ウォルター・ヒューストンも、リチャード・アレンも出てきます。これもビクター・フレミングの監督ですね。  それから、ダグラス・フェアバンクスの「世界一周」(一九三一)。「ホワイト・シスター」(一九二三)、これ、コールマンとリリアン・ギッシュが出てますねえ。これもビクター・フレミングの監督。ジュディ・ガーランドのあの「オズの魔法使い」(一九三九)。それから、スペンサー・トレーシーの「ジキル博士とハイド氏」(一九四一)、イングリッド・バーグマンとラナ・ターナーが出てきますね。これもそうですね。クラーク・ゲイブルとグリア・ガースンが共演した「冒険」(一九四六)、これもビクター・フレミングの監督。  というわけで、この人、まあ最高の、映画生えぬきの監督ですよ。 ●ビビアン・リーの登場  この映画、監督さんも何度もかわって話題になりましたけど、主役のスカーレット・オハラ、これがまた大変だったんですねえ。一四〇〇人の女の人を、次から次、テストしたということなんですねえ。  ベティ・デービスから、キャサリン・ヘプバーンから、ポーレット・ゴダードから、ミリアム・ホプキンスから、ジョン・クロフォードから、タルラア・バンクヘッドから、まあ、シャーリー・テンプル以外は全部テストされたなんていわれて、当時大変だったんです。そして、最後にとうとう、スーザン・ヘイワードで決まったんですね。  さあ、スーザン・ヘイワードがスカーレット・オハラをやるというので、えらいことになりました。スーザン・ヘイワードが、パーティを開いたんです。それはなんのパーティかいいますと、この「風と共に去りぬ」のパーティなんですね。だから、お客さんは全部、南北戦争時代の衣装着けてやってきたんですね。で、スーザン・ヘイワードは、ロングスカートの、スカーレット・オハラの衣装で出てきたんですねえ。さあ、ずいぶん写真撮りました。明くる日の新聞、それから映画雑誌はみんな、スーザン・ヘイワードのスカーレット・オハラで出たんですね。  ところが途中でまた、「やめた」っていったんですね、セルズニックが。さあ、スーザン・ヘイワードは卒倒したんですね。あんまりなことで。その次には、ポーレット・ゴダードに決まるだろうなんて評判がたったんです。  とうとう、スカーレット・オハラが決まらないまま、撮影が始まったんです。どんどん、どんどん。  そうして、アトランタの火災のシーンを、もうMGMの大きな大きなセットでやってたんですね。そのときに、ビビアン・リーが見学にきたんです。というのが、ビビアン・リーは、その頃、ローレンス・オリビエと恋人同士だったんですねえ。で、ローレンス・オリビエが「レベッカ」(一九四〇)に出るんでカリフォルニアに来た、ロサンゼルスに来た。そういうことがありまして、ビビアン・リーがあとを追っかけて来たんですね。そして、ローレンス・オリビエといっしょに、そのセットを見に行ったんですね。  そうして、その大火災を見てたときに、セルズニックが、その火事の炎が映《は》えているビビアン・リーの横顔を見て、絶対にスカーレット・オハラは彼女だと、びっくり仰天するぐらいにショック受けて決めた、という記事が明くる日の新聞に大きく出たんですねえ。  まあ、初めっからこれは、いろいろ、いろいろ計画してたかもしれません。それでまあ、ハリウッドの女優という女優がみんな怒ったんでしたねえ。こともあろうに、アメリカ南部の女をイギリスの女優がやる必要ありませんなんていったんです。けれども、スカーレット・オハラはビビアン・リーに決まった、というわけです。  まあ、いかにもきれいな、きれいなビビアン・リーです。けれども、さすがにプロデューサーですね。ただ美しいだけのビビアン・リーじゃないんですねえ。やっぱりその、彼女のもってるもの、非常に多感というのか、感情が激しいというのか、その性格的なものを見抜いたんでしょうね。実際、このビビアン・リーは、私生活でも、今日は喜んでるかと思うと、すぐあとでヒステリックになるような女の人でした。煙草吸うとき、煙草に火つけてると思うと、もう消すんですねえ。  ローレンス・オリビエは非常にビビアン・リーを大事にしましたけれども、彼女のなんともしれんテンペラメント、それに耐えられなくなったんでしょう。しまいには、つらくて、つらくて、おしどり夫婦といわれてたのに夫婦別れしましたねえ。  だから彼女は、あの「欲望という名の電車」(一九五一)なんかの、あのブランシュみたいな役がいいんですねえ。それを早くも見抜いたセルズニックは、この人のこの表情の変化、心の変化はおもしろいぞ、というわけでスカーレット・オハラにしたんですね。だからやっぱり、ビビアン・リーのスカーレット・オハラはよかったですね。いかにも当たり役でしたね。ビビアン・リーはみごとでしたねえ。 ●「明日という日があるじゃないか」  この映画、一八六一年の四月、その夕方、南ジョージア州のタラですねえ。これ、オハラの家です。そのポーチから始まりますねえ。で、このスカーレット・オハラ、とっても気の強い女で、自分がきれいなこと、ほんとうにもう男という男が、みんな自分にあこがれていることをよく知っていますね。  ところが、自分がいちばん好いているアシュレイというおとなしい男、これがどうも自分になびかないんですね。アシュレイのほうは、スカーレットが気の強い女だから自分とは性《しよう》が合わないと思って、さけているんですね。ある日のパーティで、スカーレットがアシュレイを口説いていると、アシュレイが、 「ぼくは君を好いています。好いてますけど、愛することできません。夫婦になれません」なんていいます。そんなこといわれたことのないスカーレット、怒っちゃったんですねえ。だから、そばにあった灰皿をパーンとぶつけたんですね。アシュレイに。アシュレイがよけたんです。パーンと向こうに飛んで割れたんですね。そうしてアシュレイは出ていきました。スカーレットは、男に棄《す》てられるなんて考えたことなかった、こんな恥ずかしい目に会ったことなかった、そして唇をかんだんですね。  そのときに、パーンと割れた灰皿の向こうのソファーから、男が一人、立ち上がったんです。「お気の毒に」といったんですね。それがあのレット・バトラーだったんです。レット・バトラーは、まあ船乗りかなんかで、闇でもうけている不思議な男ですね。スカーレットはいっぺんに怒ったんですねえ。──というところから、この映画、始まっていきますが、いかにもスカーレット・オハラのあの感じがよく出てますね。  そうして、アシュレイがおとなしい女のメラニーと結婚してしまうと、腹を立てたスカーレットは、メラニーの兄さんのチャールズと結婚しました。けれども、南北戦争でアシュレイも夫のチャールズも出征《しゆつせい》しました。そして、チャールズは戦死。スカーレットは結婚後数ヵ月で未亡人になりました。スカーレットは、メラニーといっしょにアトランタに行きますと、南北戦争が激しくなってきて、その戦火の最中に、メラニーがアシュレイの赤ん坊を産むことになったんですねえ。  このあたりから、いよいよおもしろうなりますねえ。医者もいない、だれもいない、もうしかたがないから、スカーレット・オハラが赤ちゃんを取り上げなければならない。憎らしい相手、恋がたき、嫉妬《しつと》のもうかたまりのメラニーが、自分がまだ心のなかで好いているアシュレイのかわいい子を産むんです。それをとりあげるのがスカーレット。このあたりのすごいこと。この原作のおもしろいところですねえ。  そのあとも、まだスカーレットはアシュレイを忘れることができませんね。でも、スカーレットは、また材木商の男と結婚して、その男もまた死にました。それでもまだアシュレイのこと思っている。それをレット・バトラー、じーっと横から見てるんですね。そのあたりの人間関係もおもしろうございますね。  実はこのレット・バトラー、ほんとうにスカーレットのことを愛していて、ようやく結婚しました。いつかはアシュレイのこと、あきらめるだろうと思った。けど、スカーレットはまだあきらめませんね。二人の間に、レット・バトラーとスカーレットの間に、ボニーという女の子ができました。レット・バトラーはもう嫁さんのことはあきらめて、その子を大事に大事にしましたのに、この子が五つか六つぐらいになったとき、子馬に乗って遊んでいて、子馬がひっくり返って、この子供が死んじゃったんですねえ。  ちょうどそのあと、メラニーが二度の妊娠で、とうとう死にました。そのとき、スカーレットはメラニーのほんとうの心を知りましたね。そして、ただ泣きくずれているアシュレイ、この甲斐性《かいしよう》のないアシュレイ、メラニーを立派に守れなかったアシュレイに、はじめて愛想をつかすところがよろしいですねえ。生涯かけて、もうアシュレイを自分の命と思ってきたのに、メラニーが死んだときに、初めてこの男を少しも理解していなかったこと、恋の幻想を抱いていただけなんだということを、スカーレットは知ったんですねえ。このあたりがおもしろうございますねえ。どうしておもしろいかといいますと、これでアシュレイはひとり者《もん》になったわけですから、自分が結婚できるいちばんのチャンスですね、そのチャンスに愛想つかすというところがおもしろうございますねえ。  さあ、そういうわけで、スカーレットはレットへの愛に目覚めたんです。そして彼のもとに走って帰りましたけど、もうレット・バトラーは愛する娘にも死なれて、自分一人で、スカーレット・オハラを置いたまま出て行きますねえ。もうこれで、スカーレット・オハラにはなんにもなくなってしまった。そのときに、この夕方の空ですか、赤い空を見て、いいましたね。「明日という日があるじゃないの」  というわけで、もう一度、レット・バトラーの愛を取りもどそうって思うんですね。そういうところでこの映画しめくくっているから、なかなかおもしろうございますね。  実はこの「風と共に去りぬ」、原作者のマーガレット・ミッチェルがいちばん最初につけた題は Gone with the Wind じゃなかったんですって。いちばん最初はねえ、Well, Tomorrow will be Another Day という題にしたんですって。これ、「明日は明日の風が吹く」とか「明日という日があるじゃないか」ということなんですね。そういう題だったのが、キャサリン・ブラウンとか、マクミランの出版社の人なんかみんなと相談してるうちに Gone with the Wind これがいいなあ、ということになったんだそうですねえ。 ●アカデミー賞とアメリカ映画ベスト・ワン  というわけで、この作品、アカデミー賞をたくさんとりましたね。一九三九年度のアカデミー賞で、作品賞とりましたね。それから、ビビアン・リーの主演女優賞。あの太った黒人の召使いのハッティ・マクダニエルの助演女優賞。それから監督のビクター・フレミングが監督賞とりましたね。脚色がとりましたね。色彩がとりましたね。それからセットがとりましたし、編集がとりましたねえ。八つですよ、八つとりました。まあ、立派なもんですねえ。  そのほかに特別賞というのがあるんです。これもとりました。それから、プロデューサーのアービング・サルバーグいう人が、毎年、賞を出していますが、これもセルズニックがとりましたねえ。というわけで、けんらんたるものなんです。  ところが、こんなに賞をとったのに、あのレット・バトラーのクラーク・ゲイブルがないなんて不思議ですね。どうして主演男優賞をとれなかったんでしょう。考えてみますと、もうレット・バトラーかクラーク・ゲイブルかというぐらいですね。原作からして、まるでクラーク・ゲイブルを思わせるんでしたねえ。こんな適役はほかにいない。あんまりぴったりしていて、あれはもう演技じゃなくて、地《じ》のままでいいんだなと思われたらしいんですね。  それから、これを封切ってからちょっとのちですけれど、一九四六年、アメリカの「バラエティ」という映画演劇の大きな新聞が、読者投票をやったんですね。これまでのアメリカ映画のなかで、みなさんがいちばんおもしろいと思った映画を投票してください、というのを読者に募集したことあるんです。これまでといったって、映画が生まれてから五十年、六十年、七十年、八十年とたってますね。この間で一番おもしろい映画というのがなんと「風と共に去りぬ」だったんですよ。二番がグリフィスの「国民の創世」(一九一五)、三番がワイラーの「我等の生涯の最良の年」(一九四六)になりましたね。  そういうわけで、この「風と共に去りぬ」は、ほんとうにみごとな作品なんですねえ。  はい、もう時間がきてしまいましたね。また機会があったら、ぜひ、「風と共に去りぬ」見ましょうね。それでは、  サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。  単行本 昭和五十一年六月TBSブリタニカ刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十年五月二十五日刊