[#表紙(表紙.jpg)] 時には懺悔を 打海文三 [#改ページ]      1  渋谷《しぶや》の公園通りを歩きながら、聡子《さとこ》がそっと肩を寄せていった。 「あたしのことを気に入らないんでしょ?」  佐竹はちらっと眉《まゆ》をあげた。失礼なやつだと思った。業界大手の探偵社であるアーバン・リサーチで、聡子を紹介されてからまだ二十数分しか経っていない。その二十数分間に佐竹が口にした言葉は三つしかない。準備は——。受信機はこっちで預かろう。では——。  だが佐竹は公平な男だったから、聡子の感受性の鋭さを率直に認めた。聡子の指摘は正しい。おれはこの女を気に入らない。 「顔に描いてあるのか」と佐竹はきいた。 「描いてあります」聡子は許さぬ口調で答えた。  そんな素振りを見せたつもりはなかったが、不機嫌な顔をしていたのだろう。だったらかわいそうなことをした、と佐竹は胸のうちで少し詫《わ》びた。  五月下旬の月曜日。快晴。さくら銀行の電光時計がちょうど午前十時十四分を指した。二人は公園通りをNHKの方へ歩いていた。聡子は二十八歳、佐竹は三十九歳。年齢からいえば恋人同士に見えなくもないが、実際の二人の関係は生徒と教官である。これから盗聴の実技の現場へ向かうところだった。  佐竹は数年前までアーバン・リサーチの社員だった。今は独立して個人事務所を開いている。  中野聡子はアーバン・リサーチが経営する探偵スクールのレディース科の第一期生だった。週に六時間、半年で百四十四時間のコースを終了して、今年の四月から上級コースを受けながら、実際の調査の下働きをしていた。  クレープ売りとアクセサリー売りが開店準備をしている路上の屋台を迂回《うかい》した。二人の間に距離ができて、佐竹が二メートルほど前に出た。 「あなたがあたしを嫌ってる理由はわかってるの」聡子はすぐに追いついて、いかにも残念そうな口調でいった。「カルチャーセンターに通うような気分で、探偵スクールに入ってくる若い女に我慢ならないんでしょ?」  街角で〈探偵〉という言葉を平気で口にする無神経さに呆《あき》れた。人を追いつめるような聡子の言い方には腹が立った。そこで佐竹は皮肉たっぷりに答えた。 「きみを嫌っているわけではない。生徒と今日一日つきあわなければならない自分の不運を嘆いているだけだ」  今朝早く、かつての上司であるアーバン・リサーチの寺西から電話があって、担当教官が風邪で休むので代理をやってくれないかと頼まれたのだった。佐竹は、教育と名のつくものは何でも、疑ってかかることにしていた。〈探偵スクール〉なんてものは〈詐欺〉と同義語だと思っている。詐欺の片棒をかつぐ気はさらさらない。だが、寺西から回してもらう下請けの仕事でどうにか食いつないでいたから、代用教官の依頼を断るわけにはいかなかった。  髪をポニーテールにした中年の男が二人の間に割って入った。聡子はさっとよけて離れ、また肩を寄せていった。 「あたしは真剣なんです」 「では頑張りたまえ」ほかにどういえばいいのだ。 「これからあなたとのつきあいは長くなると思うんです」聡子は決めつけた。「この業界って狭いでしょ。今後も仕事をご一緒するかもしれないのに、はじめからこんなギクシャクした関係だなんて、困るんです」  ことさらギクシャクした関係を煽《あお》りたてているのはきみの方ではないか、と佐竹は胸のうちでひとりごちた。それから聡子の耳元でささやいた。 「本気で探偵になるつもりなのか?」 「ええ」 「自分から望んでなるとは——」 「おかしいですか?」聡子はきれいな眉をちょっとひそめた。 「過去も現在も未来も、この稼業は人生の吹《ふ》き溜《だ》まりだよ」  聡子は一歩前へ出て佐竹を仰ぎ見た。びっくりしたような顔をしていった。 「あなた、希望を抱いたことはないんですか?」  希望——希望とはね。旗を掲げろとでもいうのか。〈市民警察〉とか〈民事警察〉とかなんとか。佐竹は笑ってしまった。すると聡子は怒った。 「あなた不幸よ。自分の仕事を憎んでいるなんて」 「——」  聡子の一途《いちず》さは認めてやろう。こんな世相では一途な人間は貴重だとは思う。だが朝っぱらから突っかかるような女には我慢できない。佐竹はいら立ちをにじませていった。 「どんな仕事であれ、自分の仕事を愛してるやつなんて信用しない」  聡子はしばらく思案げに歩いてからいった。 「あなたの気持ちはわからないわけじゃないけど、いかにもヨウジテキね」 「ヨウジテキ?」 「幼児的——赤ちゃん、て意味」 「信号は赤だ」佐竹は意図した以上に声を荒らげた。  聡子は踏み出した足を引っ込めて、佐竹と並んで立った。芥子《からし》色のコットンのブレザーにジーンズのパンツという服装だった。袋状のショルダーバッグのストラップをきつく握って、背筋をぴんと伸ばし、生真面目《きまじめ》な大学生みたいに信号を待っていた。  こんなふうに出会わなければ、聡子に素直な好意を抱いたかもしれない、と佐竹は思った。きれいな眉と涼しい目が魅力的だったし、四角い顎《あご》は意志の強さを主張しすぎるきらいがあるが、幅のある唇と柔らかにひろがる口もとはちょっと好色な感じで悪くない。  二人はパルコの前で反対側の歩道に渡った。人の流れをぬいながら、佐竹は暗号化した短い言葉で手順を確認した。聡子はおしゃべりをやめた。もう現場が近いのだ。  勤労福祉会館の裏にある米本《よねもと》探偵事務所に盗聴器を仕掛けることになっていた。聡子には話していないが、事務所に侵入して盗聴器を仕掛けることは米本の了解を得ている。米本は金曜日の夜に北陸へ調査旅行に出かけて、今日の夕方まで事務所には帰ってこない。  公園通りから一つ路地を入ると、嘘《うそ》のように人通りが絶えた。煉瓦《れんが》の塀をめぐらしたラブホテルがあった。形成クリニックの駐車場にぴかぴかのリムジンが停まっている。小さな花屋があり、窓ガラスに〈SALE〉のステッカーを貼《は》りっぱなしの衣料雑貨店があった。  米本が依頼人との面談に使う喫茶〈ブリュメール〉が見えたところで、佐竹がいった。 「コンサートのチケット持ってるか?」  聡子は無言でバッグの中に手を入れた。マイクと一体型の送信機をスイッチオンにするのだが、なかなか手が出てこない。指先がこわばっているらしい。  これが実際に盗聴するのだったら、軽い冗談でも飛ばしてリラックスさせてやるところだが、佐竹は何もいわない。  どうにかスイッチを入れて聡子がいった。 「事務所に置いてきたみたい」 「じゃあ、後でいい」  打合せどおり、ブリュメールの手前で聡子は左折した。路地に消えてゆく芥子色のブレザーがどことなく痛々しく目に映った。  佐竹はブリュメールの前を通りすぎてから、屋根がマホガニー色にペイントされた電話ボックスに入って、電話をかけるふりをしてイヤホーンをつけた。上着のポケットに受信機が入っている。オンにするとノイズといっしょに聡子の足音が耳に流れこんできた。手探りでボリュームを調節する。FM放送バンドを使う旧タイプの盗聴器だ。これを片方向の無線機代わりに使えば、佐竹は聡子の状況をつかむことができる。  盗聴自体を取り締まる法律はないが、罪となる〈盗聴にともなう行為〉はある。まず盗聴器を仕掛けるために錠を破って侵入しなければならない。そこで刑法一三〇条の住居侵入罪。これは三年以下の懲役。わいせつな内容を盗聴して電波で飛ばせば、電波法一〇八条で二年以下の懲役。有線電気通信法一三条に触れる電話の盗聴をすれば、五年以下の懲役となる。  費用対効果を考えれば、盗聴は割に合わないケースがほとんどだから、好んでこの技術を使う探偵はいない。佐竹が最近手がけた盗聴は、娘の非行を心配した親の依頼で子供部屋の電話を盗聴するという、まったくリスクのない仕事だった。  聡子のリズミカルな足音が変化した。トントンと階段を上がってゆく。ビルの中に入ったらしい。聡子は一瞬も立ち止まらない。それでいいのだが、不安が足を急がせているようだ。  米本探偵事務所は細長い七階建てのビルの三階にある。各フロアーに事務所は一つしかない。階段を使わないかぎり米本事務所の前を通る者はいない。侵入するには比較的楽な構造になっている。  聡子の足音がとまった。三階のドアに達したらしい。バッグからピッキング工具を出す音がする。佐竹は腕時計を見た。十時二十一分五秒前。錠破りは運がよければ三分、聡子にセンスがなければ何時間でも、いつ背後から声をかけられるかと心臓を縮みあがらせながら、鍵穴《かぎあな》を覗《のぞ》くことになる。  妙だな——と思った。佐竹は受信機のボリュームをあげた。電話ボックスから出た。聡子がドアを開けたような気がしたのだ。二十秒もかかっていない。鍵がかかっていなかったのか。すると米本はもう帰ってきているのか?  突然、ヒイー、ヒイーという声が佐竹の耳に届いた。  佐竹は少し大股《おおまた》で歩き出した。状況が正確につかめていない。聡子に危険が迫っているという感触はなかった。送信されてくる音に神経を集中した。ヒイー、ヒイー、という声がまだ聞こえる。泣き声のようにも聞こえる。祖父が息をひきとった時に、母がそんなふうに泣き出したことを思い出した。  灰色のビルの壁に沿ってジュースの自動販売機が二台並んでいる。その陰に二五〇CCのホンダが見えた。米本のバイクだ。  グワッという呻《うめ》き声が途切れとぎれにつづいた。佐竹はビルに入った。聡子がパタパタと駆け出している。呻き声と一緒に何かがぶちまけられる音がした。嘔吐《おうと》。そんな気がした。佐竹は靴音を消して駆け上がった。水がステンレスのシンクを激しく叩《たた》く音がした。  明るい黄色に塗られた鉄製のドアの前にたどり着いた。スモークガラスに白い文字で、〈米本探偵事務所〉とある。ハンカチでノブをつかんでドアを開けた。すばやくからだを内部にすべり込ませる。イヤホーンを外す。息を吐き、ゆっくりと吸い込む。かすかな腐敗臭が鼻腔《びこう》にすべり込んでくる。正面に目隠し用の衝立《ついたて》がある。奥で聡子が吐いている音が聞こえる。左手に一部屋。ドアが開いている。テレビと応接セット。テーブルの中央に大きな造花が活《い》けてある。飾り棚に、米本の女房の作品だという、歪《ゆが》みの強調された備前焼ふうの大皿がある。どこにも乱れはない。  衝立の端をまわった。キッチンにいた聡子が振り返った。ハンカチを口に当ててデスクの後ろあたりを指さしている。二つのデスクが斜めにずれて、三台の電話がバラバラの方向を向いている。  黒い革靴が片方だけ転がっているのが見えた。足首から先がもげているように感じた。足もとに注意を払って近づくと、デスクと壁の間に小柄な男が倒れていた。パソコンを載せたワゴンの脚に、頭をもたれかけている。首の骨が折れているかのように、顎を胸にめりこませた姿勢で硬直していた。ワイシャツの腹のあたりから黒々と染みがひろがって、一枚の布のように床までつながっている。腹を刺されたようだ。からだの下に敷いているように見える黒い布は、干からびた血の海だった。 「誰なんです?」佐竹の背後から聡子のくぐもった声がした。 「米本だよ——手袋を」佐竹は聡子を手招きした。  聡子がバッグから白い綿の手袋を出した。佐竹は手袋をはめ、屈《かが》み込んだ。米本の上着のポケットを探る。財布と運転免許証のケースを取り出し、デスクの上にそっと置く。キーホルダーも見つけた。それもデスクの上に置いた。だが手帳がない。殺人者が盗んだのか? 佐竹は急いで考えをめぐらした。鞄《かばん》の中か? 米本は調査旅行に出かけるはずだった。 「警察に知らせないんですか?」聡子がいう。 「あとだ」 「殺人事件でしょ。警察に任せたほうが」 「探偵が殺される理由は、われわれの方が詳しい。身に覚えがあるから」 「どうするつもりなんですか」 「ちょっとだけ情報がほしい。手伝うのか手伝わないのか」佐竹は押し殺した声で怒鳴った。  二人で手分けして鞄を探した。もう一部屋あった。器材用のロッカーが並び、工作台の上に改造中の受信機があり、工具類が散らばっている。その奥は仕切られて暗室になっている。旅行鞄もアタッシェケースも見当たらなかった。  いつまでも捜索するわけにはいかない。手帳がなければ依頼票だな、と佐竹は決めた。聡子に命じて留守番電話を録音させ、デスクの上のキーホルダーを取ってロッカーを開けた。上段に調査依頼票が二つに分けられてプラスチックの箱に入っている。一つはファイルされた決済ずみの書類で、厚みは一センチほどある。もう一つはバラで二枚。上の依頼票の日付は五月二十一日。調査中の依頼票らしい。  下段は大量の盗聴テープと写真とネガがむぞうさに放り込まれていた。一本だけVHSのビデオテープがある。ラベルは白紙だ。一般的にいってビデオを使うことは少ない。3/4インチのテープを使うことはさらに少ない。プライベートなテープか? ならば鍵付きロッカーにしまい込むこともあるまい。  聡子は録音をすませて待ち構えていた。佐竹はビデオテープを聡子に渡し、 「カメラ」と一言いった。  米本の財布から領収書を抜き取り、デスクの上に並べて、 「撮れ」と佐竹は命じた。  聡子がミノックスの超小型カメラを構えた。 「ばか、一眼レフを使え」  聡子は三百ミリの望遠レンズをつけたままニコンを構えた。佐竹は無言でニコンを引ったくった。バッグに手を突っ込んで、三十五ミリのレンズを取り出し、すばやくレンズ交換をした。 「フィルム感度は?」ときいた。 「一〇〇〇です」と聡子が答えた。  シャッタースピードを三十分の一にセットして、ファインダーを覗いたまま露出を限界まで絞り込んだ。両肘《りようひじ》を脇腹《わきばら》にあてがい、カメラを額に押しつけて、シャッターを切った。カメラを聡子に持たせて、運転免許証ケースの中身をひろげた。病院の診察券、名刺が数枚、躊躇《ちゆうちよ》する時間がもったいないから、とにかくシャッターを切った。次に依頼票を新しいものから順番に予備のフィルムがなくなるまで撮った。  佐竹は撮影済みのフィルムを聡子のバッグに放り込んでいった。 「アーバンに戻れ」 「あの——」 「なんだ」 「家に寄ってもいいですか」 「——ああ」  正直な女だ。黙って家に寄って着替えればいいものを。聡子が失禁していることはわかっていた。 「あの——」 「まだあるのか」 「流しのシンクを汚したままなんですけど」 「それより——」  と佐竹は、ルージュが剥《は》げ落ちて台無しになったセクシーな唇に目をとめて、いった。 「化粧を直してから出て行けよ」  すべてを元通りにした後で、佐竹は白い手袋をくるくると丸めて、その処分についてちょっと思案した。もう一度手袋をはめて子細に調べた。目立つ汚れはないが、手袋から血液反応が出るかもしれない。まあいい。バレたらバレただ。手袋をむぞうさに器材室に放り込んだ。いったんドアの外へ出て、ノブを素手でつかんで中へ入った。キッチンへ行って蛇口のハンドルをハンカチで丁寧に拭《ぬぐ》ってから、ハンドルをひねった。シンクのまわりの至る所に、黒い小さな染みがこびりついている。犯人が血痕《けつこん》を洗い流したのだろう。シンクの縁《へり》をつかんで吐くまねをした。赤味がかった嘔吐物が中央に溜《た》まっている。マッシュルームの切れ端が浮かんでいた。今朝は冷凍ピザでも食ったらしい。聡子の貧しい朝食を笑える立場にはない。佐竹は朝食抜きだ。  デスクにもどって警察に電話をかけた。それから死体の前に跪《ひざまず》き、パトカーが到着するまで、友の死を悼んで黙祷《もくとう》した。      2  同じ日の午後十一時少し前、ようやく佐竹は五月の夜気にからだをさらして、ほっと一息ついた。渋谷署でたっぷりしぼられたのだった。  なぜ米本探偵事務所を訪ねたかと問われて、佐竹は、〈たまたま近くに来たので寄ってみた〉という単純な説明で押し通した。佐竹は、公文書偽造、器物破損、住居侵入等、前科六犯であり、どのみち骨の髄まで大嘘《おおうそ》つき野郎と見込まれているのだから、単純にして明解な嘘に徹することにしたのだ。複雑なストーリーを創作すれば必ず破綻《はたん》し、そこをつけ込まれて思わぬボロを出すものだ。  佐竹はアーバン・リサーチの名前を出さなかった。寺西も救いの手を差し伸べなかった。そこには二人の暗黙の了解があった。こんなことでいちいち警察とのコネを使うのはみっともないという気持ちもあったが、なによりも、フィルムとテープを持たせて聡子を逃がしたことを隠し通したかった。  渋谷駅東口で電話ボックスに入り、寺西の自宅にかけると女房が出た。遺体は司法解剖をすませてすでに家族に返されたようで、寺西は米本の通夜に行っているという話だった。米本の家は浦和にある。ちょっと迷ったが通夜に行くのはあきらめた。  それからウネ子に電話した。鈴木ウネ子はベテランの相談員で、今年の三月一杯まで米本とコンビを組んで営業を担当していた。  留守番電話のテープから、六十歳すぎとは思えない張りのあるアルトが聞こえてきた。ウネ子も通夜に行っているのだろうか。佐竹は〈連絡をとりたい〉とだけ吹き込んだ。  空《す》きっ腹なのに食欲はまったくなく、ただやみくもに喉《のど》が渇いていた。二四六号を渡り、線路沿いの≪立ち飲み≫に入って、何も考えずにグイグイ飲んだ。井の頭線の終電に乗って下北沢《しもきたざわ》の自宅に帰った。  マンションの外廊下に面した四畳半の部屋に明かりが灯《とも》っていた。今年の春、都立高校に入った一人息子はまだ起きている。狭い玄関の壁に背をもたれて靴紐《くつひも》をほどいた。妻からであれ息子からであれ、最後に〈お帰りなさい〉と声をかけられたのがいつだったか、記憶がない。革靴を下駄箱にそっとしまい、仄暗《ほのぐら》いリビングルームに立った。目を凝らして食器棚へ進み、キャビネットを開けてウィスキーのボトルをつかむ。音を立てないようにグラスをつかむ。思い出して——息子の部屋の前で佇《たたず》み、小さな声で「ただいま」といった。気が向けば、これぐらいのことはする。ちょっとした懺悔《ざんげ》の儀式だ。もちろん返事はなく、こんな夜にふさわしいとでもいうのか、部屋からはフルバンドの〈スターダスト〉が薄く洩《も》れていた。  夜明けに喉が渇いて目が覚めた。隣のベッドに人の気配はない。妻はまだ帰っていない。そのまま眠れず、かっと目を見ひらいて、胸のうちでふつふつと発酵している思いに考えをめぐらした。  米本殺しは、自分で調査するつもりだった。友人の弔い合戦をしようという気はないではないが、佐竹を駆り立てているのはそういうものと少しちがっていた。おれは何をしようとしているのか、と彼は自問した。  探偵殺しである。探ってみたいのだった。近い将来の自分の死因を。米本が殺された理由は、遅かれ早かれ、おれが殺される理由にほかならない。  誰かが冗談まじりにいったことがある。 「探偵という人種がどこから来たかと問われたら、警官、極道、労働運動、この三つをあげればだいたい当たる」——と。  もっとも極道の場合はほとんど現役を兼ねてはいるが。  最近の労働運動はからっきし意気地がない。したがって労働界から良質な人材が流れてこなくなって久しい。この数年は金融業界からの転職が目立って増えている。とくに元証券マンだ。そこで新御三家は、警官、証券、極道、ということになった。  御三家であろうとなかろうと、探偵に半端な連中はいない。喪服を着て線香にいぶされたところで、汚物にまみれたその体臭を消せるわけではない。埼玉県浦和市の、荒川に近い閑静な住宅街にある米本家の周辺は、路上にまであふれた黒服のアウトローたちで、異様な雰囲気に包まれた。弔問客のなかに懐かしい顔をたくさん見かけたが、誰にも声をかけることなく、佐竹は見知らぬ人々の群れに姿をひそめていた。 「こんな連中に参列されて、遺族は迷惑に感じているんじゃないのかなあ」と、ささやく者があった。  ちらっと背後を見ると、想像した通りの茫洋《ぼうよう》とした顔がかすかに微笑《ほほえ》んでいた。寺西昭文だった。佐竹はアーバン・リサーチで探偵稼業をはじめた。寺西はその頃の上司である。米本も一時アーバン・リサーチに在籍しており、とくに親密な仲ではなかったが、佐竹とは一緒に家宅侵入罪で捕まった仲だった。 「通夜で久しぶりに古い探偵仲間が集まったんで、帰りに中浦和の駅前で飲んだよ」寺西が小声で愉快そうに切り出した。 「何か情報でも……」 「だめ、だめ」寺西は大げさに手を振って顔をしかめた。「酔っぱらって、くだ巻いて、わけのわからない怪気炎をあげただけさ。米本殺しは、業界の名誉にかけてもわれわれの手で犯人をあげるべきだとかいって、口から泡を飛ばしてさ、結局、おれがやるって言い出す奴《やつ》なんか一人もいやしない」  寺西の口調には、欠陥人間たちへの愛着がたっぷり込められていた。 「ウネ子さんは通夜に来ましたか」ときいた。 「来なかった——と思うが。ウネ子婆さん、また入院してたって話だ」 「肝臓ですか」 「そうらしい」  ウネ子は体力にまかせて浴びるほど飲むのだった。佐竹の知るかぎり、これで三度目の入院ということになる。 「退院はしたんですか」 「四、五日前には家に帰ったはずだ」  葬儀委員長の弔辞がはじまった。元総評議長の息子だと噂《うわさ》のある、高柳という探偵だった。 「で、きみは、調べてみるのか」寺西がきいた。 「そのつもりです」 「ちょっと向こうへ行こうか」寺西が誘った。  二人は会場から離れて、一軒おいた隣の造成地に行った。やや激昂《げつこう》した弔辞が聞こえている。高柳が〈戦友〉だとか〈同志〉だとかいう言葉を使って故人を讃《たた》えているので、寺西が苦笑いした。 「最近、ある本を読んでな」寺西は足もとの小石を革靴のつま先で弄《もてあそ》びながらいった。「突然、愛《いと》しい人間を失った遺族が、いかにして悲哀を癒《いや》さされるか、という精神分析の本なんだ」 「はあ……」 「遺族というのは、いろんな喪の儀式を通じて癒されるらしいんだが、その一つに、〈死んだ原因の究明〉というのがあるそうだ」  佐竹には寺西の話の矛先がぼんやりと見えた。造成地の短く刈り取られた茅《ちがや》の株を踏んで、話のつづきを待った。 「長生きしていて大往生なら、それはそれで遺族にも納得がいく死なわけだ。うちの祖父《じい》さんも祖母《ばあ》さんもそうだった。二人とも死ぬ直前まで、裏山の急傾斜の畑で肥やしを撒《ま》いていて、ポックリいった。通夜なんか飲めや歌えの大騒ぎだ。ところが交通事故なんかで、突然、死が天から降ってきたように感じられる場合は、遺族の心っていうのは複雑な様相を見せるというんだな。たとえば、〈なぜわたしの愛しい人は死なねばならなかったのか〉、その疑問を明らかにすることで、遺族の悲哀が癒されたりするものらしい。この話、何となくわかるだろう?」 「ええ」 「そこで、話を米本にもどす。米本が殺された原因を究明することによって、遺族の悲哀は癒されるだろうか?」 「まず、無理でしょう」佐竹はむぞうさにいった。  寺西は小石を器用につま先にのせてひょいと放った。 「米本がプライバシーをネタに誰かを恐喝して、逆に殺されたのだとしても、誰も驚かないものな」 「驚きません」 「死んだ男の素顔を遺族が知ったら、遺族はもう一度悲しむことになりかねない」寺西は喪服の群れをちらっと見ていった。「米本は昔から小悪党だった。しかし、きみのような男でも、他人の恨みを買ったことはないとはいうまい」 「もちろんです」佐竹は無条件に同意した。  ある日、突然、見知らぬ男に背後から刺されたとしても、佐竹は少しも不思議に思わないだろう。 「ということであれば、米本にかぎらず、殺された探偵の遺族というものは、救いようがない。遺族の悲哀は、はじめから癒される道を閉ざされていることになる」  誰かが米本の名前を呼んだ。ヨウちゃん。洋一っちゃん。柩《ひつぎ》にすがって女が絶叫していた。棒で殴られた犬が悲鳴をあげているような慟哭《どうこく》だった。ざわざわと参列者が後退《あとずさ》りして、霊柩車《れいきゆうしや》への道をあけた。  寺西が顎《あご》を心持ち突き出していった。 「米本が犯した人生の最大の過ちは、小悪党になったことでもなく、探偵になったことでもない。なんだと思う?」 「……さあ」 「むざむざ殺されちまったことさ」  米本の一人息子が、頬《ほお》をピンク色に染めて、悄然《しようぜん》と遺影を抱いていた。やりきれない思いが佐竹の胸をよぎった。中学一年生という話だったが、もっと幼く見えた。  霊柩車が出て行った。黒塗りのクラウンが二台と大型バスが一台、それからマイカーが数台つづいた。まだまだ反省の足りぬ喪服のアウトローたちが、各々の方向へ散りはじめた。 「車か?」寺西がきいた。 「電車です」 「じゃあ、わたしの車で一緒に帰ろう。その裏に停めてある」寺西は空地の向こうの新築アパートを示した。 「片付けを手伝っていきます」  女たちがテントをたたんでいた。 「いいんだ。米本の女房は地元の人間でな、手伝いは大勢来てもらってるから、心配いらないっていわれてる」 「そうですか……」  二人は歩き出した。クラクションを鳴らしてベンツが走り去って行く。佐竹は軽く手を振った。世界経済調査会の林だ。探偵というよりは総会屋だった。 「警察と探偵と、どっちがモラルが高いと思う?」寺西はいつものくだけた調子にもどっていった。 「いい勝負でしょう」 「だろう? ところが殺されたら、あっちは殉職で、こっちは自業自得だとかいわれる。こんな割の合わない話はない」 「でも国家権力と街のゴロツキの差だから、愚痴をこぼしてもはじまりませんよ」 「その差をもっと自覚すべきだといっているんだ。わたしのようなデスクワークでメシを食ってる人間は何の心配もないが、きみらのように現場に出る連中には是非いっておきたい。〈汝《なんじ》、殺されるなかれ〉だ」  佐竹は思い出した。寺西のオフィスに掲げてある額には、自筆で、〈汝、つかまるなかれ〉と書いてある。 「きみが米本殺しを調べてみるというなら、応援するよ」寺西がいった。 「ありがとうございます。でも、マイペースでぼつぼつやるぐらいですよ」  依頼人のない調査は金が入ってこない。刑事事件は依頼されたところで、商業ベースには乗らない。その点は弁護士と同じだった。 「経費はなんとかしよう。経理をちょろまかして捻出《ねんしゆつ》する。器材や人員はいくらでも提供する。ただし条件がある」 「なんです?」 「あの娘をきみに預けるから、しばらく助手に使ってくれ」 「あの娘って?」 「中野聡子」 「断ります」 「なぜ?」 「一人でやる主義ですから」 「それはわかってる。彼女を育ててみたいんだ。やる気は保証する。きみが写したフィルムをポジに焼いて、それをビュアで拡大して見ながら、いちいちワープロで文書にしている。領収書の写真なんかビュアで拡大しないと読めないぞ。今ごろ、まだ会社でカチャカチャやっているはずだ」 「クソ真面目《まじめ》で、使えるようになるとは思えません」 「きみの新人の時を思い出してみろよ」  それをいわれると佐竹は返す言葉がない。  寺西は路上駐車してあるセドリックのドアに手をかけていった。 「殺しを扱うなんて、滅多にないチャンスだ。しかも探偵殺しときた。新人教育にはもってこいだ」  佐竹は両手をちょっとひろげて、しぶしぶ承諾のサインを送った。 「それにな、聡子には前科があるんだ」寺西がうれしそうにいって、車に乗り込んだ。 「まさか」佐竹は追いかけるように助手席に腰をおろした。 「ほんとだ。亭主を刺した」 「——なんでまた」  結婚していたという経歴自体が意外だった。 「聡子が別れ話を持ちかけたんだそうだ。すると亭主の方は、そういう話はベッドの中ですべきだと考えた。まあ、平均的な頭の持ち主だな。聡子が拒むと、腕ずくで実行しようとした。で、聡子は台所へ逃げて包丁を握ったというわけだ。聡子にいわせると、キンタマをかすっただけだそうだが」 「離婚したんですか」 「ああ。ただ四歳の娘がいる」 「娘はどちらが?」 「亭主がとった。娘をどちらが引き取るかで争っている時に、亭主はキンタマを傷つけられたことを思い出して、女房を傷害罪で告訴したんだよ。で、聡子の方も亭主をレイプで告訴した。告訴合戦に敗れて、聡子はわれわれの門を叩《たた》いた」 「人生に躓《つまず》いたからといって、なにも探偵を志願することはないじゃありませんか」  佐竹が複雑な心境をさらけ出したので、寺西はハンドルを叩いて高笑いした。  クラッチが入った。走り出した。そこに探偵が棲《す》んでいたとは思えない、平穏な住宅街のたたずまいが流れて行く。      3  東京へもどる途中で、寺西は車の中から会社に電話を入れて、米本殺しの警察情報を収集させた。佐竹のような個人事務所では、こうかんたんにはいかない。文字通り、個人的なルートをたぐり、接待し、キャッシュで支払い、場合によっては何日もかけて情報を収集することになる。  夕方、虎《とら》ノ門《もん》のアーバン・リサーチ本社に着いて、警視庁との連絡を担当している総務部の男から、メモをもらった。 〈司法解剖の所見。死因は腹部を鋭い刃物で数ヵ所を刺されたことによる、失血死。死亡推定時刻は、五月二十七日金曜日の十五時から十七時の間。以上〉  米本は三日前の午後、北陸へ調査に出かける直前に殺されたことになる。  犯人はおそらく大量の返り血を浴びただろう。手や顔は水で洗い流すとしても、犯人の衣服に飛び散った血痕《けつこん》は隠しようがない。季節がら白っぽい服を着ていた可能性は高い。殺害時刻をさらに一時間ずらして考えたとしても、五月下旬の十八時といえば、あたりは真昼のように明るい。犯人は目立たずに渋谷の街から姿を消すことができただろうか。  車を使ったのかもしれない——。  佐竹は聡子を伴って、JR新大久保駅に近い新宿区百人町の事務所に帰った。  佐竹探偵事務所は、大久保通りから少し北へ入った、無双《むそう》原理研究所とか日本編物資料センターとか、わけのわからない看板が目立つ界隈《かいわい》の雑居ビルの二階にある。一階の路地に面して、ビルのオーナーが趣味で経営する碁会所がある。依頼人が訪れてくる時はそれが目印になる。碁会所では、台湾から来日したばかりの郭《かく》君という青年が、一人静かに碁を打っていた。  部屋に入ると、聡子は眉《まゆ》をひそめて、 「空気を入れ替えましょうね」といった。  幼稚園の先生が園児を諭すような口調だったので、佐竹は小さく腹をたてて返事をしなかった。聡子は、そんな佐竹の反応に無頓着《むとんちやく》に、さっさと窓を開けた。山手線や大久保通りのノイズが太い束となって流れ込んでくる。  佐竹はまずデスクの留守番電話のテープを聞いた。 〈あなたの母です〉と魅惑的なアルトが聞こえてきた。〈ヨネの葬儀に行くつもりだったんだけど、今おまわりさんが来てるのよ。だからダメ。今夜どう? 話が聞きたいわ〉  それだけだった。今日も仕事の依頼は入っていない。 「これ」聡子が困った顔を向けた。  ガスレンジの上の換気扇の紐《ひも》を引いているのだが、換気扇はぴくりとも回らない。  コツがいる。佐竹は換気扇の紐を少し引き、錠前破りのピッキング工具を扱うように、指先の感触を確かめてからパッと紐を放すと、換気扇が勢いよくまわりはじめた。 「米本の電話から採ったテープを聴きたい」佐竹がいった。  聡子はバッグからマイクロ・カセットレコーダーを出して佐竹に渡し、 「お茶いれます」といった。  お茶はいらない、と返答すれば、また何かギクシャクするような気がしたので、聡子の好きなようにさせた。米本の事務所と違って、ワンルームの狭い事務所だった。デスクが一つ、電話が一台、くたびれたモスグリーンの応接セットが一組。花なんかない。不潔な中年男の非合法すれすれの生活をストレートに反映していた。  佐竹がソファに腰をおろしてカセットレコーダーに耳を当てると、聡子が「お茶っ葉はどこに?」といった。それから、「洗剤はないんですか?」「布巾《ふきん》は」「ガスが点《つ》きません」と矢継ぎ早にいった。佐竹は立ってキッチンまで行き、お茶の缶と洗剤と布巾の在りかを教え、電池の切れたガスコンロはマッチを擦って点けた。自分で感心するくらい、佐竹は辛抱強く聡子につきあった。それは聡子とのパートナーシップを築くために努力しているのではなく、人間関係がわずらわしくて、なかば投げやりに振る舞っているにすぎなかった。  家庭でも仕事でも、長い間、佐竹は一人で何でもこなすことに慣れてきた。大がかりな尾行が必要な時はスタッフを雇うが、それはプロ同士の仕事であり、お互いにほとんど言葉を交わさずに〈打合せ・実行・支払い〉まで完遂することができる。  聡子のいれた茶は苦かった。苦い茶を少量飲むのが佐竹の好みだから、これには少しほっとした。  録音テープの最初の声は、年配の男の声で、〈エスエスシーの久保田です〉と名乗った。至急連絡が欲しいと吹き込んでいた。〈エスエスシー〉に記憶があった。 「依頼票を——」佐竹はいった。  聡子が写真のポジからワープロで書き写した依頼票をテーブルにひろげた。  依頼票は厳密にいえば〈契約書〉である。書式に決まり切ったものはない。米本の依頼票はA4サイズの用紙の裏表を使っている。  ちなみに、裏は契約事項が列記されている。契約事項は、一項の〈当社は秘密厳守を云々《うんぬん》〉からはじまって、十項の〈契約書は甲乙二通作成し云々〉まである。そして菊の紋章をあしらった〈東京第一探偵協会〉という架空の団体のスタンプが、透かし彫りで印刷されている。組合に加盟している良心的な探偵社を装っているわけだ。  表に、依頼人の氏名・住所・勤務先、調査事項、調査対象者の氏名・住所・勤務先、参考事項、料金の内訳、支払いの内訳、調査開始・終了・報告書提出、それぞれの予定日、署名欄などがある。  調査中の案件は二つ。  その一つ。※[#括弧付き「株」、unicode3231]SSC東京支社・副支社長の久保田栄作が、五月二十一日に契約している。これが〈エスエスシーの久保田〉であろう。※[#括弧付き「株」、unicode3231]SSCの本社並びに工場は福井県福井市にあり、米本に企業秘密の漏洩《ろうえい》の調査を依頼している。おそらく金曜日の夜に米本が現地に到着しないので、久保田が連絡を入れてきたのだろう。  調査中の残りの一件は、今年の二月に半年契約した盗聴防止の依頼だった。契約内容は週一回の盗聴チェックで月に百万の料金。依頼人は、中国のスパイに狙《ねら》われていると主張している。住所は世田谷《せたがや》区岡本町。この依頼人は妄想狂か。ウネ子なら、この手の上客をコンスタントに釣り上げることができる。  引きつづき録音テープを聴く。〈エピキュリアンのタマミ〉と名乗る女が、飲みに来てくれとしきりに誘っていた。これは土曜日の電話だろうか。最後に入っていたのは、米本の妻の気弱な声で、息子の学校の三者面談には、どうしてもお父さんに出てもらいたいから、火曜日の朝には家にいてほしい、と訴えていた。留守番電話はこの三本だけだった。 「領収書——」  これも聡子のばかていねいな仕事だった。米本の財布に入っていた領収書を、日付順にワープロで打ったものだった。  五月二十四日からはじまっている。ブリュメール・御飲食代・¥五五〇 独りだ。依頼人との面談ではない。それとも客が現れなかったのか。よくあることだった。百本の問い合わせの電話があって、実際に面談に来る客は三人、というのが相場だ。  とん貴・渋谷店・¥一〇八〇 これは昼飯。夜も独りで飯を食っている。仕事もなく一日渋谷周辺をフラフラしている米本の、左肩を下げた後ろ姿が目に浮かぶ。  二十五日。喫茶・マリーベル・¥九〇〇 土浦市|大和《やまと》町□□番地。二人か。もう一人は取材相手か依頼人か。JRの領収書はない。常磐《じようばん》高速道を使っている。  調査中の〈福井の企業〉、〈世田谷の妄想狂〉、いずれも土浦と結びつかない。新規の依頼人か?  五月二十五日に土浦市のマリーベルで米本が会った人物は何者か。佐竹は手帳にマリーベルの電話番号をメモした。 「何か?」聡子がのぞき込んだ。  佐竹は領収書の写しを手渡して説明した。 「依頼票と適合しないというだけだ。米本のプライベートな用事かもしれない」  聡子も手帳を出してメモした。佐竹は残りの領収書を見ていく。米本は毎日ブリュメールに顔を出している。ほかも飲食ばかり。二十六日に浦和の本屋に行っているが、ビデオのレンタルだ。家に帰って映画でも見たのだろう。殺害された二十七日はブリュメールと〈天味〉の御食事代。どちらも一人前。  佐竹は残りの依頼票を調べはじめた。去年の六月の途中の分まで撮影してフィルムがなくなった。およそ百件はある。 「それは解決済みの案件でしょ?」聡子がきいた。 「形の上ではそうだ。だが、依頼人もしくは被調査人とトラブルがあったかどうかは、この依頼票では判断できない。今もトラブルを引きずっているかもしれない」 「土浦の喫茶マリーベルで会った人物と、過去に何かトラブルがあったと?」 「それも一つの可能性だ」  ざっと依頼票をめくった。五月は浮気調査が一つだけ。四月は二件。ところが三月に溯《さかのぼ》ると、処理件数がグンと増える。料金も高くなる。八十万、二百十万、百二十万、五十万、百七十万……。ウネ子がついていたのだから不思議ではないが、佐竹は米本の仕事ぶりを想像して少々うんざりした。売上げの半分は宣伝費で消えるだろう。凄腕《すごうで》の営業ウーマンに好条件で歩合を支払い、数をこなすために器材とクルーを頻繁にレンタルし、佐竹の十倍の家賃を払い、資産家の客を厳選し、法外な料金をふっかけ、やらずぶったくり、米本自身はどれほどの金を得たのだろうか。  そして三月一杯でウネ子が去ると売上げが激減した。ハイテク機器を使うようになって、探偵の技術は平均化される一方だから、昔以上に相談員の話術が売上げを左右する時代になっている。  なぜウネ子は米本とのコンビを解消したのだろうか? 今夜、ウネ子にきいてみよう。 〈土浦のマリーベル〉を頭の隅に入れて、依頼票をじっくり見て行く。五月の浮気調査。依頼人は妻で都内在住。亭主の勤務先は大森。土浦市と関係づけて考えるのは、しっくりこない。  四月の二件をチェックする。失踪人《しつそうにん》調査、浮気調査、各一。  失踪したのは人妻。子供三人を抱えた亭主が依頼している。  浮気調査の依頼人は匿名だった。匿名を希望する依頼人は珍しくない。その場合は割増し料金の上に全額前金になる。佐竹は首をひねった。ほとんど白紙の依頼票だった。日付は平成六年四月七日、調査事項の欄に〈浮気調査〉、調査契約料金合計が二百三十万、報告書提出予定日が五月七日、と記入されているだけで、あとは空欄だった。  自分の素姓を明らかにしたくないばかりか、調査対象者に関する情報も、一切、文書として残したくないということだ。きわめて慎重な依頼人だ。彼または彼女は、何か重大な〈秘密〉を抱え込んでいるのか? 気になるが、白紙に近い一枚の依頼票だけでは、どうにもならない。視界の隅に、斜めに倒した聡子の形のいい脚が見える。佐竹は独りで、集中して考えたかった。  時刻は午後八時をすぎた。 「明日にしよう」佐竹がいった。 「はい……」聡子は腰をあげようとしない。  佐竹は資料を書類封筒にしまった。今夜はこれで〈おひらき〉という露骨なサインのつもりだったが、聡子は何かいいたそうにしている。 「何から手をつけるか、明日までに考えておく」  佐竹はデスクへ行って、引き出しから合鍵《あいかぎ》を出して、聡子に渡した。 「十時には事務所に出ている」 「はい、早めに来ます。——それで」 「なに」 「夜は長いし——」 「だから?」 「今からビデオテープを見てみませんか?」  佐竹はくるっと回れ右して、いら立った表情を隠した。もちろん見る。きみが帰ったら、精神を集中させて、独りでじっくりと見るつもりだ。おれの気持ちがわからないのか。  だが、結局、佐竹は白旗をかかげた。 「ではビデオを見よう。その前に飯を食おう」 「そうですよね」聡子はパッと顔を輝かせていった。「まず腹ごしらえを、しなくっちゃ」  窓を閉めてから、大久保通りの方へぶらぶらと歩いて行った。今夜は、いわば聡子との仕事はじめだから、少し贅沢《ぜいたく》な食事をごちそうしようと思って、 「何が食いたい?」ときいた。 「お蕎麦屋《そばや》さんがいいわ」と聡子は明快に答えた。  おれの好意を無視しやがる、と思った。近江屋《おうみや》に入って、 「何にする?」ときくと、 「カツ重とたぬき蕎麦」聡子は照れもせずにいった。  佐竹はざる蕎麦と冷酒を注文して、 「いつもそれくらい食うのか」ときいた。  聡子は痩《や》せぎみだし、背も高くはない。一メートル五十八くらいだろうか。 「うーん、夜はあまりたべないけど」  では、朝と昼はもっと食うわけか。注文した品が来ると、さすがに聡子は、 「ちょっと多かったかしら」といった。 「残せよ。食うから」  佐竹は、誰に対しても、やや堅苦しい言葉使いをするのだが、今は自分の口調がぞんざいになっていることに気がついた。 「うん」聡子はカツ重をきっちり二つに分け、半分を重箱の蓋《ふた》に盛り、重箱の方を佐竹の前に置いて、「どうぞ」といった。  仕事の話は出なかった。これには及第点をつけてやった。聡子は、むかし聴いたレコードのことを、ずっとしゃべっていた。シンガーの名前は忘れたが、〈夜のカンソン〉というタイトル名のLPで、ブラジルの女性シンガーが歌っている物凄《ものすご》くブルーな曲だという。「最近やっと音楽が聴きたいと思うようになったのよ」と瞳《ひとみ》をきらきらさせていった。  離婚して失ったものは沢山あるのだろうが、むしょうに音楽を聴きたいという瑞々《みずみず》しい気持ちを取り戻したりもするのだろう。だが、そういう内面を大切にしたいなら、探偵稼業はあきらめるんだな、と佐竹はいいかけて、口をつぐんだ。そんなことをいえば、また話がややこしくなる。  聡子はたぬき蕎麦を先にたいらげて、 「汁物、ほしくありません?」といった。 「すこし」と答えたら、たぬき蕎麦の残りをくれた。馴《な》れ馴れしいとは思わなかった。誰とでも飯はこんなふうに食いたいものだ。佐竹は素直に喜んだ。それが表情に出そうになったので、丼《どんぶり》に顔を突っ込むようにして汁をすすった。      4  黒い画面が十秒ほどつづき、パッと明るく切り替わると、それはハンバーガーのコマーシャルだった。画像が歪《ゆが》んでいた。聡子がトラッキングのつまみを調節して、きれいな映像に直した。〈お得なファミリーパックを御用意しました〉というキャッチコピーが流れた。  コマーシャルが終わると、ボスニアのクリスマス休戦のニュースがはじまった。 「テレビの録画ですね」聡子がつぶやいた。  カメラはスタジオの男女のキャスターを写し出した。大柄なおっとりした感じの男と、少し目の飛び出た女のコンビだった。 「Gテレビの十八時からのニュースです」聡子が注釈した。  佐竹は黙って食い入るように見つめた。 〈五元生中継 愛と煌《きらめ》きのクリスマス〉とテロップが入った。札幌の大通公園、ディズニーランド、レインボーブリッジ、相撲部屋、街の商店街、それぞれのクリスマスが紹介されてゆく——。  ふたたびコマーシャル。〈ドアからドアへ、真心をお伝えする□□グループ〉何のコマーシャルかわからないうちに画面は暗転した。 「早送り」佐竹がいった。  聡子がテープを早送りした。暗い画面がつづく。もう何も録画されていないようだ。 「最初から見よう」  巻き戻して、もう一度見た。ボスニア関係が一分半、国内のクリスマス中継が一分半、ぜんぶで三分ほどだった。 「もう一度見ますか」聡子がきいた。 「いや——」  聡子がモニター画面を消してテープを巻き戻した。 「これは去年のクリスマスか?」佐竹がきいた。 「はい」 「たしか?」 「ボスニアのクリスマス休戦のニュースは、ほかの局で同じ映像を見た記憶があります」  今日は五月三十一日。クリスマスはおよそ半年前ということになる。 「クリスマスイブに何か意味があるんでしょうか?」聡子がテープをデッキから取り出してきいた。 「さあ……」 「でも何かわかったみたいですね」聡子が誘うようにいった。 「——仮説をたててみよう」 「はい」 「誰が、このテープを録画したのか」 「……米本さん?」 「米本が録画したと仮定する。では何のために録画したか」 「ニュースの映像の中に、調査の手がかりがあったから」 「ニュースは二種類ある。ボスニアと国内だ。どちらに手がかりがあったのか」 「……たぶん、国内」 「では、調査の手がかりとは何だ」  聡子は頬《ほお》に手をあてて、ちょっと考えた。 「ニュースの中に、米本さんが捜していた人間が写っていた……」 「手がかりは人物。そうだな。探偵はたいてい人を捜しているものだ。では、米本が人を捜していたとは、どういうことだ? 具体的に——」 「たとえば——米本さんが、ある男の浮気調査をしていて、どうしても証拠がつかめない。女の匂《にお》いさえしない。ところが、たまたま見ていたニュースに、その男が若い女と札幌の大通公園を歩いている現場が写っていた」 「そう、ケースはいろいろ考えられる。浮気調査にしろ、失踪人《しつそうにん》調査にしろ、ストーリーは無限にある。ビデオを録画したのは米本ではなく、依頼人だと考えてもいい。依頼人がテープを持って米本を訪ね、〈このテープに写っている、この人間を調査してほしい〉と依頼した」 「そうですね」 「だが、たまたま見ていたニュースを、米本にしろ依頼人にしろ、どうやって録画することができるんだ? つまり、一般的にいって、テレビニュースは一回かぎりだ。自分が調査したい人間が、クリスマスの日のニュースに出ることを、あらかじめわかっていなければ、録画することは難しい」 「では誰が、このテープを録画したんです?」 「状況を考えてみる。誰かがニュースを見ていた。画面のなかに偶然ある人物を見つけた。それは捜していた人物だった。だが、ニュースの画面は一瞬で切り替わってしまった。本当にその人物かどうか、確かめたい。そのためにはもう一度ニュースを見たい。そこで——」 「その誰かさんは、テレビ局へ行ったのよ!」聡子が叫ぶようにいった。 「そうだ。テレビ局へ行けば、一度放映されてしまった画面を録画することは可能だろう。このテープがテレビ局で録画されたものなら、誰が、どういう目的で、録画したのか、わかるかもしれない」 「Gテレビへ行ってきます」聡子はテープをバッグに放り込んだ。 「今夜は遅い」佐竹は壁の時計を見た。  午後九時二十七分。 「テレビ局にとってはまだ宵の口です」聡子はバッグのストラップを肩にかけた。  佐竹は聡子の表情をちらっとうかがった。涼しげな目元が少し険しくなっている。光線のかげんだろうか。そうではあるまい。女の二十八歳は肉体的にはもう若くはない。 「きみがからだを磨《す》り減らして働いても、誰からも感謝されない」 「だって、手がかりを見つけたんですよ」 「今のところ、ビデオテープが米本殺しの手がかりだという根拠はどこにもない」 「それはそうですけど、調べてみなくちゃ」 「急ぐなよ——明日にまわしてもいい仕事だ」 「今すぐ調べたいんです」  疲れた女が訴えていた。佐竹はため息まじりにいった。 「そんなに早く仕事を覚えたいのか」 「——ええ」  聡子は夜の街へ駆け出して行った——。  佐竹は事務所に残り、ふたたび、過去の依頼票と〈土浦市の喫茶・マリーベル〉との接点を探した。依頼票の各項目を拾い読みしながら、心に引っかかる点があれば、仮説を組み立て、そのストーリーが〈土浦市の喫茶・マリーベル〉へと発展して行かないものかと、頭を働かせた。  四十分ほどですべての依頼票をチェックした。接点は見当たらない。見落としがあったかもしれないが、もう少し事態が進展してから、再チェックした方がいい。  電話が鳴った——。 「ビデオはGテレビで録画したものです」受話器から聡子の生気にあふれた声が届いた。 「説明してくれ」 「はい。十二月二十五日、つまり去年のクリスマスイブの翌日に、女性が報道局に来て、昨日のニュースに、幼い時に別れて行方不明になっている妹が写っているかもしれないので、ビデオテープをゆずってくれないかと、頼み込んだそうです」  なるほど——。女は妹を捜していたが、現在の妹の写真が手元にない。だからビデオテープを持って、米本を訪ねたのだ。 「それはニュースのどの部分だった?」 「国内のクリスマス風景ですが、どの場所の中継かはわかりません」 「その女性の名前と住所は?」 「それもわかりません。録画を申し込む用紙があるわけではありませんから、記録は何も残っていないんです」 「彼女は誰かの紹介状を持って報道局を訪ねたという可能性はないのか?」 「飛び込みの依頼です。紹介状もないし、年末の忙しい時期だったので断ったそうですが、その女性の真剣な態度に押されて、ニュースを録画してあげたという話です」 「女性の特徴は?」 「三十代半ばの女性、ということしかわかりません。半年も前の話ですから」 「よくやった。そのまま家に帰っていい」 「そっちへ行きます」 「もう帰れ、十時をすぎた」 「依頼票を調べる必要があります」 「クリスマス以後の依頼票に、失踪人の捜索依頼が一件ある。だが、それは去年の暮れに家出した人妻の捜索だ。依頼人の氏名・住所はわかってる」 「じゃあ、写真の方を調べてみます」 「写真とは——」 「米本さんはビデオプリンターで、ビデオから妹の写真をプリントしてると思います」 「そうだ」 「その写真を探し出すんですよ」 「写真が処分されずにまだ残っていたとしても、警察が米本のロッカーから持って行ったはずだ」 「たしかめてみます」 「どうやって」 「今から米本探偵事務所に忍び込むんです」 「ばかッ」 「どこがばかなんです」 「勝手にしろ!」  佐竹は電話を叩《たた》きつけて切った。あんな女はビルの警備会社にでも捕まっちまえ、と毒づいた。依頼票をロッカーへ放り込み、ウネ子に〈今から出る〉と告げるために電話をつかんだ。  そこで小さなひらめきがあった。妹の写真は警察の手にあるだろうが、こちらでも手に入れることができるかもしれない。  電話すると、すぐにウネ子が出た。 「あとで詳しく話しますが、米本はビデオプリンターを持っていましたか?」佐竹はきいた。記憶では、ビデオプリンターが器材室にあったかどうか曖昧《あいまい》だった。 「持ってなかったと思うな。あたし、そっちはノータッチだから断定はできないけど」 「米本が、器材やスタッフをレンタルするのは、どこの会社ですか?」 「そうねぇ、アーバン・リサーチが多かったんじゃないかしら」  アーバン・リサーチの写真課ならビデオプリンターを持っている。ちらっと光明が見えた。 「早くおいでよ。下の店で待ってるから」 「はい。すぐに」  佐竹は電話を切って、なお考えをめぐらした。もし米本がビデオプリンターを持っていなかったならば、そして米本がどこかでビデオプリンターを借りた時に、誰かにプリンターの操作を任せたならば、あのビデオの中の、どの女性が米本のターゲットだったのか、突き止めることができるだろう。  誰かが、米本の指示で、ビデオから写真をプリントしたとする。米本は死んだが、その誰かは生きている。彼にきけばターゲットは判明する。それとも——彼も死んでいるか?      5  佐竹はポケベルを使って六本木の路上をさまよっていた聡子をつかまえ、有無を言わさずアーバン・リサーチ本社へ行けと命じた。 「昨年の十二月二十五日以降、米本がビデオプリンターを借用した折りに立ち会った写真課員すべてを洗いだし、該当するビデオから写真をプリントアウトした職員を突き止めろ。そのような職員が存在しないならば、今夜はあきらめて明日他社をあたれ。米本事務所に侵入するのは厳禁。禁を犯せば即刻米本殺しの調査から下ろす」  それだけ一方的にしゃべって電話を切った。  ウネ子が〈あたしの特別老人ホーム〉と呼ぶ高級マンションは、恵比寿《えびす》駅から歩いて十分ほどの、明治通りに面して建っていた。一階に薬局とレストラン&バーがあり、二階に美容院とクリニックが入っている。  午後十時四十分ごろ、佐竹はレストラン&バーに入って行った。レストランのフロアは、数ヵ所から小さなスカイライトが落ちているだけで、ぜんたいに黒いベールをかけられたように薄暗かった。二組の老いた裕福そうな客がキャンドルの明かりに浮かんでいる。レストラン・フロアとは対照的に、光源のように眩《まばゆ》いバーカウンターで、銀色の髪の大きな女が振り返った。佐竹がはじめて会った二十年前から、ウネ子は美しい銀色の髪をしていた。  ウネ子は佐竹に気づくと、上機嫌にハーイと手を振った。脚の高いストゥールを回転させてからだを佐竹の方へ向けた。光沢のある黒いドレスが、肌の白さを際立たせていた。  自称、天涯孤独の白系ロシア人。結婚詐欺の前科アリという噂《うわさ》を考えると、白系ロシア人を自称するのも、ただの冗談とも思えない。悪ふざけしてウネ子の戸籍を調べた男によれば、戸籍上は間違いなく天涯孤独の身であるという。だが、ほんとうの〈鈴木ウネ子〉なる人物が、今どこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのか、誰も知らない。探偵という種族は、金さえ払えば戸籍などどうにでもなる世界に住んでいる。  佐竹がストゥールに腰をおろすと、 「元気にしてたあ?」とウネ子がいった。 「元気です」  ウネ子が長い腕を佐竹の腰にまわしてきたので、佐竹はからだをすくめた。なんの香水か知らない。とにかくウネ子はいい匂《にお》いがした。頬《ほお》の肉はたるみ、深い皺《しわ》が無数に刻み込まれていたが、まだまだきれいな首筋、ドレスの下で揺れている胸のふくらみ、引き締まった腹部、それらをすばやく見て、すばらしいプロポーションは六十歳をすぎた今も変わらない、と佐竹は思った。  バーテンにウィスキーのストレートを頼んだ。 「誰かが死なないと、あたしたち会えないのかしら」ウネ子は愛撫《あいぶ》を求めるように頬をすり寄せていった。  佐竹は軽くうなずいた。ウネ子とは二年ぶりの再会。あの時は、淀川《よどがわ》に投身自殺した探偵仲間の通夜で会ったのだった。 「調べてるんです」佐竹は小声でいった。 「寺西からきいたわ」ウネ子は佐竹の頬にキスをした。  バーテンがストレートを置いて、二人から離れていった。カウンターには、ほかに客はいなかった。  佐竹は葬儀の様子を一通り話してから、さりげなくきいた。 「なぜ米本とのコンビを解消したんですか」  ウネ子は佐竹の目をのぞきこんで、さあどう説明するか、というような間《ま》をおいてから、佐竹の右手をつかんでゆっくりと自分の左胸に持って行った。佐竹は左手でストゥールの背もたれをつかんで、前のめりになった自分のからだを支えた。  左の乳房の豊かなふくらみ。だがちょっとした違和感。  佐竹は、手の指をいっぱいにひらいて感触を確かめて——そっと手を引いた。 「わかった?」ウネ子がきいた。 「——肝臓だと聞きましたが」  視線を落とすと、ウネ子の前には紅茶のポットがあった。 「合併症よ」ウネ子が乾いた笑い声をたてた。 「四月に手術を?」 「そう。それで今年の三月一杯で、とりあえずヨネのところはやめることにしたの」  手術はうまくいったのか、症状は重いのか軽いのか、病気に関することは何も口に出せなかった。佐竹はグラスを一口あおって話題をもどした。 「米本の売上げはかなりあったようですね」 「あたしの失われたオッパイの話は聞きたくないの?」  ウネ子が話の腰を折ったので、佐竹は言葉につまった。 「えー」といった。 「困らせて、ごめん」ウネ子はぺろっと赤い舌を出した。「でも気にしなくていいのよ。あたしのオッパイが男どもの話題にのぼらなくなったら、寂しいかぎりじゃないの」 「——はい」 「で、売上げの話ね。さあ、きいて」 「年商一億ぐらいありましたか?」 「そんなところね」 「宣伝は電話帳で?」 「二十三区ぜんぶに一ページ広告。NTTに五千万は払ってたわよ」 「客はほとんど一本釣り?」 「そう。だから相談員の仕事としてはやりがいがあるわけ」 「一契約あたりの単価がかなり高いようですが」 「百万が目標ってとこ。月に十件で一千万、年に一億二千万円。ちょっと届かなかったと思うけど」 「一本釣りで単価が高い。ふつうに考えると、依頼人との金銭トラブルが気になるんですが」 「あたしがついてたんだもの、そんなヘマはしない」 「トラブルを起こしそうな依頼人は、最初から断るということですか」 「もちろん。話しているうちにわかる。ああ、こいつは二百万までなら出すなと思ったら、百五十万か、せいぜい百八十万で契約する。だからたいてい依頼人から喜ばれるわよ。お宅は良心的な会社だって」 「組関係は?」 「彼らに必要なのは探偵じゃなくて、手錠と弁護士」 「債権取り立てに関する依頼は?」佐竹は執拗《しつよう》にきいた。  暴力金融に引っかかって夜逃げした債務者の居所を捜し出す仕事である。 「うちは、そういうのはやらない主義」 「極道モンが、逃げた女を捜してくれというケースは?」 「たまにある。だけど、逃げた女を追いかけるなんて仁侠道《にんきようどう》に外れるって、お説教して帰すわよ」 「妄想狂とのトラブルは? 二月に半年契約した、中国のスパイに追われている依頼人がいましたが」 「ヨネはね、あんたと違って辛抱強いの。お金のためとはいえ、ああいう気がふれた連中相手の仕事を根気よくやってた。ちょっとしたサイコセラピストってとこよ」  ウネ子の知るかぎりトラブルはなかった、ということなのだろう。佐竹は具体的な質問に移った。 「米本は土浦市に土地勘がありましたか?」 「土浦って、|霞ケ浦《かすみがうら》にある?」 「ええ」 「記憶にないなあ……」 「米本のロッカーに3/4インチのビデオテープがあったんですが、何か知りませんか」 「——わからない」 「内容は去年のクリスマスイブのテレビニュースの録画です」 「ああ、そのビデオから写真をプリントしたんじゃないかってことね」 「ええ。三十代半ばの女性がテレビ局で、そのニュースの録画を依頼しています。ニュースには幼い時に別れたまま行方不明の妹が写っていたそうです」  ウネ子は頭をちょっと佐竹の方へかしげた。手を開いて、カウンターに落ちているスポットライトにかざし、そこに秘密のメモが書いてあるかのように凝視し、やがて手を閉じていった。 「あたしは扱ってない。たぶん、あたしがやめた後の仕事でしょう」 「四月以降の依頼票には該当するケースが見当たりません」 「飛躍した考えだけど——その女と米本の間にトラブルが生じて、女が米本を殺し、身元を隠すために依頼票を盗んだ、という可能性は?」 「整理番号はそろっています。依頼票は盗まれていない。可能性があるのは——四月七日に契約した匿名の依頼人です。ところが依頼票には、〈浮気調査〉、〈料金二百三十万〉、〈報告書提出予定日五月七日〉、これ以外何も記入されていないのです」 「なるほどね……」 「依頼人の心理からいえば、理解できないことではありませんが」 「——待って」 「心あたりが?」 「三月中旬に面談した女——彼女、匿名で調査を依頼できるかどうかを尋ねていたわ」 「で——」 「契約はしなかった。彼女、いくつか探偵社をまわって、信用できるところを探している途中だったのよ」ウネ子は断定していった。  依頼人が、探偵に調査を依頼しようと思い立ってから、実際に契約が成立するまで、事がかんたんに運ぶわけではない。おおむね依頼人は深く傷ついているのであり、ためらい悩み苦しみ、長い期間の葛藤《かつとう》のはてに探偵事務所を訪れるのである。 「もし女が探偵に依頼することを決意したら、ウネ子さんを訪ねて行ったでしょうか?」 「あたしのところに来るはず」ウネ子は自信たっぷりにいった。 「だが、四月にはもうウネ子さんはいなかった。米本は代わりの相談員を雇っていない。女は米本に会って、契約を結んだでしょうか?」 「そこは何ともいえない」 「年のころは?」 「三十代後半。ビデオの女と年齢は合致するでしょ?」 「ええ——で、女が依頼するつもりだった調査内容は?」 「その話はまったく出なかった。彼女がきいたのは、調査の方法、報告書の体裁、料金体系、とくに詳しく質問したのは、秘密厳守はいかにして保証されるか、ということ」 「どんなタイプの女ですか?」 「いい女よ」 「賢そうで、自信にみちている?」 「そういう女は探偵のところには来ない」 「そうですね——では、きれいな女?」 「むしろ地味な女という印象。いい女といったのは、何かをかいくぐって来てる、という感じがしたから」 「かいくぐるって、何を?」 「怒り、哀《かな》しみ、自責、死への衝動、諸々《もろもろ》」 「ウネ子さん、それ自分のことじゃないんですか?」佐竹は笑っていった。 「あのね」ウネ子も笑い、だがすぐに真顔になっていった。「面談の途中で気がついたんだけど、その女は、あたしの人生を想像しようとしてたのよ。興味本意ではなくて——」 「ふーん……どういうことかな」 「なんていうか——いたわり?」  ちょっと信じがたい話だった。匿名を希望する依頼人はだいたい二つの極に分類されるものだ。打ちのめされた人間と、欲望の虜《とりこ》になっている人間と。だが、依頼人の女はウネ子の人生を想像し、いたわりの感情を抱いたという——。 「結婚は?」 「してる。マニキュアはしてない。視力は良さそう。コンタクトかもしれないけど」 「暮らしぶりは?」 「キャリアウーマンじゃない。堅い家庭の主婦。夫婦とも知的水準は高い。子供はいると思う。あたしの感触でいってるのよ」  そこで、バーテンが近づいてきて、 「佐竹様ですか?」ときいた。 「そうだが」 「お電話が入っています」バーテンがコードレスホンを差し出した。 「すぐそっちへ行きます」聡子が息を切らせて電話の向こうでいった。 「どうした?」 「米本さんがプリントした写真がわかりました」 「ほう……」 「米本さんは写真課の宮川って若い子に頼んでビデオから写真をプリントしてたんです。彼に同じ写真をプリントしてもらいましたから、それを持って行きます」 「プリントした日付は?」 「今年の四月八日です」  ——匿名の依頼票の契約日は四月七日だ。間違いあるまい。Gテレビで録画を頼んだ女が行方不明の妹を捜すために、匿名で米本に調査を依頼した。〈浮気調査〉は故意にデタラメを書いたのだ。 「では、待っている」  電話を切ろうとすると、聡子が急いで一言付け加えた。 「あの、変な写真なんです」 「変とは」 「行方不明の妹なんかじゃありません」 「何が写っているんだ?」 「大きな赤ちゃんです」  十数分後、十一階のウネ子の部屋で、佐竹はポラロイド写真に見入っていた。  子供の写真だった。赤ん坊ではない。幼児でもない。もう少し上の年齢のように思われた。では何歳かと自問して、佐竹は考え込んでしまった。想像がつかないのだ。四十年近い人生で、佐竹の脳は、無意識のうちにも様々な世代の子供の像を、記憶しているはずだが、脳にストックされているどんな子供の像とも、写真の子供が結びつかないのだった。  聡子が電話で、〈大きな赤ちゃん〉といった、その心境がわかる気がした。聡子はこの写真を見て戸惑い、適切な表現が思い浮かばなかったのだ。  写真は鮮明ではないが、子供の特徴はよくとらえていた。一枚は子供の顔のアップの写真だった。赤い毛糸の帽子をかぶった面長の顔である。女の子に見えるが、男の子かもしれない。まつ毛の長い切れ長の目をしている。視線を少し左下方に外して、やわらかく笑っている。前歯が二本むき出しになって、かわいい。かわいいのだが、二本の出っ歯は少し大きすぎるという印象を与える。前歯が気にかかると、顔の長さも気になった。それに顎《あご》だ。尖《とが》っているというほどではないが、たとえていえば、ラグビーボールの先端に似ていた。 「三、四歳でしょうか」佐竹は写真をウネ子に見せた。  ウネ子は写真をしげしげと眺めて、 「もう少し歳上ね」といった。 「では、何歳に見えますか?」  ウネ子はまた考えこんで、 「ほんとに変な子ね。何歳だか見当がつかないわ」といった。 「きみはどう思う?」佐竹は聡子にきいた。 「からだの大きさからすると……五歳ぐらいでしょうか」聡子は自信なげに、別の数枚の写真を居間のテーブルにひろげた。  子供の上半身。首から腰のあたりまで。腰から足の先まで。その三枚の写真だった。全身の写真はなかった。子供は緑色のジャンパーを着て、誰かに抱かれていた。  子供を抱いている人物は黒っぽい服を着ており、子供の肩にまわされた左手の骨ばった感じからすると、男のようだった。子供のジャンパーは大きすぎるのか、袖《そで》の中に手が隠れている。だぶだぶの暖かそうな赤いスウェットパンツをはいている。靴下も赤だ。——ちらっと引っかかるものがあった。 「この子は靴をはいていません」佐竹はウネ子に下半身の写真を示した。 「……そう」ウネ子は佐竹と一緒に写真に見入った。  おそらく、もう一人で歩ける年齢だろう。就学年齢に達しているかもしれない。それがクリスマスイブの夜の街で靴をはいていないとは。 「もしかすると——」ウネ子がいった。 「えっ」佐竹と聡子が同時にウネ子を見た。 「この子、障害児かもしれない」  ちょっとした沈黙——。 「脚」とウネ子がいった。  佐竹は子供の脚を見た。黒いコートの袖が子供の膝《ひざ》の裏あたりを支えている。 「この子の脚は膝が折れ曲がらないのよ。右膝が少し曲がっているけど、左膝は突っ張ったまま」  そうだと断定はできないが、ウネ子のいう通りかもしれない、と佐竹は思った。 「そんな気がしてきました」聡子がかすれた声を出した。 「靴をはいていないのは、足が変形していて靴をはけないんだと思うの」ウネ子がいった。  写真で見るかぎり、足の変形は判断できない。ただ、そういう目で見ると、からだと比較して、足が萎《な》えている感じはあった。そういう目で見ると、まつ毛の長さが気にかかった。異常に長いまつ毛だった。そういう目で見ると、顔の長さも気にかかり、さらに毛糸の帽子の中の頭が気にかかった。帽子をとったら、そこにどんな形の頭が隠されているのか、佐竹は気にかかってしようがなかった。      6  奇妙な静けさが訪れた。三人はテーブルの上の写真をのぞき込んで、彫像のように動かなかった。佐竹は確信していた。ほかの二人も、この子が障害児であることを確信していると思った。手がかりをたぐったら、障害の子が出てきた、というそれだけのことで、誰もが押し黙っているのだった。  後になって、佐竹は、その時の沈黙の意味を自分自身に説明しようとしたが、適切な言葉が見つからなかった。  ただし、こういうことはいえるかもしれない、と思った。下北沢の、自宅と駅の行き帰りの道で、佐竹は小学生と思われるダウン症の少女と挨拶《あいさつ》をかわすことがある。はじめに、コンニチハと声をかけてきたのは、少女の方だった。それからは会えば自然に声をかけ合う仲になっている。だが依然として、佐竹は、少女の目を見ることができない。何か心のなかにダウン症の少女の目を見ることを怯《ひる》ませるものがあるのだ。その時の佐竹の心の有《あ》り様《よう》といったものが、赤い毛糸の帽子をかぶった障害児の写真を見た時に陥った沈黙に、似ていた。  あるいはその沈黙は、衝撃度において比べようもないが、ある日突然天から降ってきたように重い障害を持った子が生まれて、その子が惨《むご》い姿を病院の無菌室のプラスチックケースの中でさらしているのを、茫然《ぼうぜん》と見ている両親の心境に似ていなくもない。つまり、何が起きたのかわからないので、沈黙するほかなかった、とでもいおうか。  長い静寂の後で、ようやく佐竹が口を開いた。 「この子が写っているニュースの現場は?」 「府中《ふちゆう》市の商店街の中継です」聡子が答えた。  ウネ子のデッキを借りてビデオテープを再生した。  夜空に色とりどりの光が瞬いて、クリスマスツリーの形を浮かびあがらせている。イブの人出で賑《にぎ》わう東京都府中市の商店街の、衣料雑貨のテナントショップらしい店の前で、明るいグレーのダッフルコートを着た女性アナが声を張り上げてレポートしている。 「こちらは京王線府中駅に近い馬場大門のケヤキ並木です……」  カメラが動き出して人々の表情を拾って行く。小学生ぐらいの子供がVサインを送る。それを押し退けて、パーティグッズの白い髭《ひげ》をつけた女子高生がカメラ前でひょうきんに顔をしかめて見せる。やがてカメラは赤い靴下をとらえた。カメラは舐《な》めるように赤いスウェットパンツ、緑色のジャンパー、年齢不詳の子供のバストサイズへと移動する。そこでカメラはグイと接近し、子供の顔のアップになる。子供は何が起きているのかわからないとでもいうような、キョトンとした表情をしている。その一瞬の間があって、子供は、やわらかく笑った。それを待っていたかのように、カメラはパンしてふたたびレポーターの女性アナにもどる。アナのしゃべりは背後に集まっている群衆の野次や叫びにかき消されて聞き取りにくい。街のざわめき、ジングルベル、ニューミュージック系のクリスマスソング、それらが入り交じって聞こえる騒々しいだけの映像が続く——。  子供が写っている画面は六秒ほどだった。巻き戻し、くりかえし見た。子供を抱いている人物の顔は不明だった。子供の肩にまわした手の指の無骨な感じから、男ではないかと推測された。男だとすれば、近くに女がいる。障害児の母親だ。だが、それらしき人物を画面からは発見できなかった。  聡子が自分の推理を確かめるように切り出した。 「三十代半ばの女性が、ニュースを見て、この子に気づいた。つまり彼女は子供の顔を知っていた。たぶん名前も知っていた。ということは……親の名前も知っていたと思います。でも、どこで暮らしているのかわからない。そこで米本さんに調査を依頼した。そういうことですよね?」 「およそ——」そういうことだろう、と佐竹も思った。 「でも、このビデオに該当する依頼票がないのはなぜです?」  佐竹は、〈四月七日に匿名の依頼人が契約し、翌八日に米本がビデオから写真をプリントしている〉事実を指摘し、その匿名の依頼人がビデオの女であろうという推測を述べた。 「依頼人の女と障害の子とは、どういう関係にあるのかしら」ウネ子が口をはさんだ。 「たとえば……行方不明の兄弟の子供。または親戚《しんせき》とか友人とか、誰か親しい人で行方不明になっている人間の子供」聡子が答えた。 「すると、子供の方は、むしろ手がかりということになるわ」とウネ子。 「そうですね、きっと。彼女が捜しているのは、子供ではなく、その親の方じゃないんでしょうか?」聡子はいった。  そう考えるのが順当だろう。だが、依頼人の女と子供の関係の方が密接な場合もある。 「女と子供が親子、という可能性は?」佐竹は別の仮説を出した。 「その場合、子供を抱いているのは夫、ということですか?」聡子がきき返した。 「そうだ」 「行方不明の男親が子供を育てている」聡子はそういって、自分の言葉に小首をかしげた。「それは、ちょっと考えにくいですね。あたし経験がないからわからないんですけど、一般的にいって、障害の子を育てるのは大変だと思うんです。そうすると、たとえば夫が家出をしたいと考えたとすれば、障害の子は置いて行きます。残された妻が子供と一緒に暮らすことになる。妻は一人で子供の世話をするのが大変だから、逃げた夫を捜す。その逆はないと思います。夫が障害児を連れて家出するなんて、考えられません。妻と夫が入れ代わっても同じです。ようするに逃げた方が単独行動をとる。逃げられた方が障害の子と一緒にいる。ところが、この場合は逆で、妻が、障害の子と一緒に逃げた夫を、捜している、ということになってしまいます。こんな話、おかしいでしょ?」  聡子の推理にかくべつ破綻《はたん》は見られなかった。おそらく女は、障害児を手がかりとして、保護者を捜しているのだろう。  女が米本に与えた手がかりは、〈府中〉、〈写真〉、〈子供と保護者の名前〉、少なくとも、三つある。  子供と保護者の名前は米本の手帳にメモされていた可能性がある。だが、手帳は鞄《かばん》とともに、犯人によって盗まれ、すでに処分されているだろう。  今のところ、佐竹の手中にあるのは、〈府中〉、〈写真〉、この二つだ。  佐竹と聡子がウネ子のマンションを出たのは午前一時をまわっていた。  明治通りで手をあげた。通りかかったタクシーは中央分離帯寄りをフルスピードで走り去って行った。そこで佐竹はふいに胸騒ぎを覚えた。 「気持ちのいい夜だな」佐竹は聡子を振り返った。その仕種《しぐさ》の途中で視界に人影をとらえた。 「ほんとですね」調査が思いがけない進展を見せたからか、聡子が疲れを感じさせない笑顔を向けた。  佐竹は聡子の左の耳のあたりを見つめ、その奥の、すでに明かりの消えたレストラン&バーの駐車場を凝視した。二つの影がバイクにまたがっている。腹に響くようなエンジン音がこちらへ伝わってきた。ライトが眩《まぶ》しく点《とも》るのと、ドンという爆発音がしたのと、ほとんど同時だった。道路に倒れるようにライダーとバイクが一緒に傾き、対向車線へ飛び出して行った。  佐竹はまた手をあげた。今度のタクシーは停まった。聡子を乗せて、佐竹は残った。走り去って行くタクシーを注意深く見送った。追走する車もバイクもなかった。  気のせいだろう——もし監視している者がいるとすれば、それは警察だ。  障害児の写真が米本のロッカーに残っていて、それを警察が手に入れたとしても、その写真が何を意味するか、彼らにはわからないだろう。ビデオテープの存在を知らないのだから。  匿名の依頼票を調べても、何も出て来ないだろう。それはお互い様だが、佐竹の方には手がかりらしきものがある。ウネ子が証言した女の像だ。怒り、哀《かな》しみ、自責、死への衝動、諸々《もろもろ》——をかいくぐって生きてきたような女。  佐竹は警察と張り合うつもりはなかった。協力を拒むつもりもなかった。だが今のところ、障害児の写真を米本殺しと関係づける証拠は何もない。この段階で警察に情報提供したら、探偵はただの密告屋になりさがるだけ。  翌六月一日、午前十一時ごろ、佐竹は事務所で聡子と軽く打合せをした。聡子は、府中で中継したカメラマンから取材するために、Gテレビへ向かった。  佐竹はビデオテープを持って、それから、渋谷へ行った。米本が面談に使っていた喫茶・ブリュメールで朝昼兼用の食事をとりながら、〈四月七日に米本と客が店内で面談しなかったかどうか〉について聞き込みをしたが、成果はなかった。およそ二ヵ月も前のことだから、ウェイターもマネージャーも記憶がないのは当然といえる。一つわかったことは、警察が佐竹と同じ聞き込みをしていること。彼らもまた匿名の依頼人を追っているというわけだ。  午後からアーバン・リサーチへ行った。障害児の写真をネガフィルムで撮り直しするためである。写真課の宮川には、聡子を通じて用件を伝えてあった。  宮川は写真の専門学校を出たという二十歳そこそこの気立ての良い青年で、「ぼくも仕組みはよく知らないんですが、三原色のR・B・Gを、それぞれ、つまり三回露光させるらしいんです」とビデオプリンターの説明をしながら、手際よく作業をすすめた。  ネガから手札サイズの写真をプリントするのを待っている間に、聡子から佐竹に電話が入った。  Gテレビのカメラマンは、某タレントの離婚記者会見の取材のため夕方五時にならないとつかまらないので、聡子は先に土浦へ行くという。喫茶・マリーベルで米本がどんな人物と会っていたのか、確認するためである。こちらは一週間前のことだから、なんらかの証言が得られる可能性があった。  聡子はまだ食事をとっていないというので、「飯ぐらいゆっくり食えよ」と言い添えたが、無駄な忠告だろうと思った。土浦まで往復三時間、とんぼ返りして夕方五時にGテレビでカメラマンをつかまえる。そんなスケジュールを組めば、飯などおちおち食ってはいられない。  ネガは慎重を期して寺西のデスクに保管してもらい、写真だけ持っていったん自分の事務所にもどった。  いつだったか、ウネ子がこんなことをいった。 「学校、病院、監獄、あたし、一通り経験したけど、なんだかどこも似てたわ」 「どこが似てたんですか」と佐竹がきくと、 「何ていうか——強制力?」とウネ子はいった。  あの子が就学年齢に達しているなら、学校から逃れられないだろう。  佐竹はデスクの椅子《いす》に腰かけ、タウンページの東京都多摩東部版をめくっていた。巻頭の総合目次を開いて、〈学校〉を検索した。府中市の小学校、中学校……そして〈養護学校〉を見つけた。これだ。東京都立府中東養護学校。東京都立府中西養護学校。電話番号と住所をメモする。  あの子が就学年齢に達していない場合はどうするか? その時は病院の待合室を監視すればよい。  府中市の総合病院を調べて、電話番号と住所をメモする。そこで、待て、と佐竹は思案した。小児科の待合室で張り込めばいいのか?  あの子は脳神経に障害があると思われる。すると脳神経外科ではないのか? 通院の頻度は? 障害のある子は誰でも、週に一度程度は病院通いしているのか?  下北沢で会うダウン症の子はどうしているのだろう、と考えをめぐらした。あの少女はいつも元気そうに歩いているな、と思い出す。風邪をひいたり怪我《けが》でもしないかぎり、普通の子と同じように病院には行かないのだろうか?  写真の子の生活の輪郭といったものが、漠としてつかめないのだった。あの子はどんなふうにしゃべるのか、あの子は兄弟|喧嘩《げんか》をどんなふうにするのか、あの子は親にどんなふうに甘えたり叱《しか》られたりするのか、まったく想像がつかない。  天井をにらみ見上げたり、ぼんやりタウンページに視線を落としたり、思案をめぐらすうちに、どうして想像力が情けないほど働かないのか、その理由に思い当たった。  障害の子は、おれの体験の埒外《らちがい》に、ある、と佐竹は思った。自分の子供時代、息子の小さいころの記憶、そういう体験からは、あの障害の子の体温や息づかいが、まるでイメージできないのだった。  佐竹は立ち上がった。喉《のど》がいがらっぽい。キッチンに立ち、インスタントコーヒーをいれた。ポットからカップに湯を注ぎながら、思考を逆転させる必要があると思いなおした。ターゲットが普通の子供だったら、調査はもっと困難をきわめるだろう。障害の子だから、特定しやすいはずだ。  カップを手にデスクにもどり、とりあえず府中市の養護学校へ行ってみるか、とつぶやいた。あの子が生徒なら、写真を見せて、養護学校の教師に尋ねれば、すぐに特定できるだろう。  コーヒーを一口やり、佐竹は自分に警告を発した。  四月七日、匿名の女が、障害の子を連れた人物の調査を依頼した。五月二十七日、米本は殺された。この二つの事実の間に関連があるとすれば、障害の子への接近は慎重にした方がいい。  ほんの一ヵ月ほど前には、米本が一度接近しているはずだ。そのことに向こうは気づき、今は警戒していると想定した方がいい。佐竹が身分を偽装したとしても、何者かが接近しつつあることに、子供の保護者は感づくだろう。  気取られずに、子供の保護者を特定し、さらに依頼人の女を特定し、彼らが米本殺しに関係しているならば、その証拠をつかむ。そのためには子供への接近も要注意。  ではどうするか。養護学校の登下校を監視するか?  養護学校の生徒数は? 生徒数は千人もいるわけではあるまい。では何人ていどだ? からだの弱い子もいるだろうから、スクールバスは運行されているのか?  佐竹はボールペンの先でいら立たしげにメモ用紙をコツコツと叩《たた》いた。思考が思うように進まない。知らないことが多すぎる。  ペンをデスクの上に放り出し、カップを手に取り、コーヒーをゆっくりと飲んだ。最後の一滴を飲み干した時には決意していた。電話番号はまだ覚えている。それでも一瞬迷った。  電話をかけた。もう何年もかけるのを迷っていた電話だった。呼び出し音が鳴っている。五つ数えて、壁の時計を見た。午後二時八分。留守か、それとも、もうあの団地には住んでいないのか——。 「——はい」女の低い声が遠くで聞こえた。 「木村さんのお宅ですか?」 「——どちら様ですか?」用心深い声。  だが佐竹は、由紀だとわかった。 「佐竹です……」 「やあ! ほんと佐竹?」由紀はふいにひょうきんな声をたてた。 「ほんとだ」 「どこからかけてるの?」 「事務所」 「新大久保だっけ?」 「そう——話があってね」 「栄次は今、ちょっと——」  木村栄次と由紀と佐竹は、都立F農業高校のクラスメイトだった。 「いや、由紀でいいんだ」 「そう、あたしに話があるのね」由紀はうれしそうにいった。 「障害児のことで、相談に乗ってほしい」  静寂——。 「——生まれたの?」由紀の声はまた遠くなった。 「え——」佐竹は何のことだかわからない。 「佐竹に障害の子が生まれたのかってこと」由紀は一息でしゃべった。 「いや——」佐竹は軽く吐息をついた。由紀は相変わらず勘を働かせすぎると思った。「仕事なんだ」といった。 「ああ——びっくりしちゃった」由紀は冗談めかしていった。  栄次と由紀の下の子は重度の障害児だった。佐竹は、子供たちは元気か、と聞けない。ウネ子に病気の話を聞けなかったのと同じだなと思う。佐竹が黙っていると、由紀が甘えるようにいった。 「昔みたいに、みんなで会いたいね」 「ああ」懐かしさがこみあげてきた。 「会おうよ」由紀は声を張り上げる。 「うん——栄次は今夜遅いかなあ?」 「あいつ、ほかのとこにいるから」 「え?」 「たまに来ることあるけど、別れたの」 「——由紀が大変じゃないか? 下の子の世話で」 「大丈夫よ。うちの神様——死んじゃったもの」      7  たまらなく逢《あ》いたくなって、 「ちょっと出てこれないかな、三十分かそこいら」と佐竹はいった。  何年も前にいうべきセリフだった。由紀は十年前に障害の子を生んだ。そのことを共通の友人からきいて、すぐに電話をかけようと思ったのだが、≪由紀にどんな言葉をかけたらいいのかわからない≫という自分だけの都合で、そのまま今日まで何の連絡もせずに来てしまった。  十年もだ——。  由紀がどんな障害の子を生んだのかも知らなかった。その子はもう死んだという。  仕事がらみだから、今こうして電話をかける気になれたのだと思い、佐竹は小さく自分を責めた。 「あたし、髪の毛がすっごく臭くってさ、外へ出られないのよ」由紀がおもしろがっているような口調でいった。 「どうかした?」 「ひどい風邪ひいちゃって、ずっとお風呂《ふろ》に入ってないから」 「そう——」  佐竹はそっと受話器を耳から離した。残念だが、またの機会にするか。  と、そこで由紀がいった。 「家まで来てくれる?」  行っていいのか? 由紀に逢えるのか? 「三時ごろ」「それでいいか」「すぐ出る」佐竹は上ずった声で矢継ぎ早にいった。由紀が〈やっぱり今日は都合が悪い〉と言い出すのを恐れるかのように、慌ただしく電話を切った。  むかしはバスを利用したものだ。気が向けば歩くこともあった。午後二時四十分ごろ、佐竹は吉祥寺の駅前でタクシーを拾って、都立F農業高校時代の友人に逢いに行った。  農業高校の生徒なんてものは、偏差値で輪切りにされたキュウリの最後のヘタみたいなものだ、と世間が認識している以上に生徒自身がそう考えている。  とにかく僕は勉強ができない。だから僕はここにいる。  その構図は、偏差値という言葉がそれほど流行《はや》っていなかった二十数年前でも、基本的に変わらない。  一ケタしかいなかった大学進学組の一人が栄次だった。栄次は努力家で、一浪して東京農大の農業土木に入り、大手の建設会社に就職した。  由紀はサラリーマンの家庭に育ったくせに、農業志望者という変わり種で、勉強の成績はダントツの一番だった。家庭も一風変わっていて、佐竹も栄次も、由紀の美しい母親から、マージャンをはじめ不純な遊びの一切の手ほどきを受けた。ただしセックスは講義だけで実技はなし。由紀は卒業すると同時に親の反対を押し切って栄次と同棲《どうせい》をはじめ、農業の夢とやらは放棄したかたちになった。  そのころ由紀がいった言葉を、今でも印象的に覚えている。 「F農高に入ったのも、農業志望だなんて口走ってたのも、親が期待してる人間になりたかったからなのよ。近代文明を否定して〈農に生きる〉ってやつよ。うちの親ったら、すっごいインテリだもんね」  自分の意志に反して、親の色に染まろうと努力した反動が、栄次との同棲に走らせたのだと、まだ十八の由紀は自己分析して見せたものだ。  佐竹の場合は——たんなる落ちこぼれで、最初に就いた肉の卸業の配送ドライバーを二ヵ月でやめ、雀荘《ジヤンそう》に入り浸っていると、〈あんちゃん、いいからだしてるね〉と肩を叩かれて、連れて行かれたのはピンク映画の撮影現場だった。そこで照明助手というものをやった。好奇心はあった。歌も詠むという照明技師にずいぶんと可愛《かわい》がられた。だが、そこも三ヵ月とつづかなかった。≪秩序|紊乱《びんらん》≫に生きる——なんて気概はなかった。まだ十八歳だった。自分がいったいどんな人間になるのか、ワクワクして、楽しみに待っているようなところがあった。  それも今は夢のまた夢——。  十九の冬に、探偵の使い走りをやって信号無視でつかまってしまい、その場で引きつづき公務執行妨害の現行犯逮捕された。  受け出しにきてくれた寺西に、 「暴力は許す。どうせ百倍になってきみの方へ返ってくるんだ。だが、力関係がどうあれ、きみが無力であれ敵の方が無力であれ、〈ポリ公〉などという差別用語は二度と使ってはならない」と懇々と諭された。  連れてゆかれた新橋の安酒場で、胃液を吐くまで飲まされ、〈おまわりさん〉を百万遍、復誦《ふくしよう》させられた。  その時たぶん、佐竹は寺西に惚《ほ》れた。その後、業界から離れた時期もあったが、寺西から声がかかると、またのこのこと舞い戻り、いつの間にか探偵稼業から足が洗えなくなっていた。  銀杏《いちよう》並木を見上げて、こんなに緑が豊かに茂っていただろうか、と佐竹は記憶をたどった。古い公団住宅だった。四号棟の入口で、通路に倒れていたアンパンマンの幼児用自転車を起こした。三〇四号室のクリーム色のドアの前に立った。〈木村〉の表札に目をとめ、まだ正式に離婚したわけではないのだろう、と思った。  由紀が自分のティーカップを持って椅子《いす》にすわるのを待って、佐竹はいった。 「ごめん」 「——なにが」 「連絡しなくて」 「ばッかみたい」由紀は笑顔を返した。「それよか、逢えてうれしい」  カップを乾杯するみたいに突き出したので、軽く合わせた。二人は狭いキッチンの食卓テーブルにいた。由紀は黒い大きな帽子の中に髪を隠していた。もともと華奢《きやしや》なからだつきだったが、針金のように痩《や》せ細って見えた。顔色が悪いのは風邪のせいばかりではあるまい。今でも愛くるしい大きな瞳《ひとみ》が、薄く濁っているのに気づいて、佐竹は視線を外した。 「この子を捜している」数葉の写真をテーブルにひろげた。  由紀は、顔の写真から下半身の写真まで、組写真のように並べ変えた。 「あーら、かわいいじゃない」無邪気な声をたてた。 「障害児だと思うのだが——」 「そう言われればそうね」由紀は皿からクッキーをつまみ、ぼりぼり食べながら写真に見入った。「おいしいわよ。つまみなさいよ」 「うん」佐竹はクッキーを一枚つまんでいった。「由紀でも、障害児だとは、すぐにはわからなかった?」 「障害の子って、ほんと、いろんな子がいるから」 「ふーん」佐竹が思い浮かべる障害児は、ダウン症と脳性マヒの子ぐらいのものだ。 「やっぱり顔が変ね、この子」由紀は相変わらずニコニコしながらいった。  障害の種類や程度によって、いろいろな表情の子がいるのだろう。 「からだのバランスもどこかおかしい」由紀が指摘した。「顔と頭が大きくて……胴がつまっていて……脚がすごく長く見える」 「どんな障害を持っているか、わかる?」  由紀はまた写真を見つめ、口をもぐもぐさせ、握りこぶしを軽く唇にあてがい、長い間《ま》をおいていった。 「水頭症かもしれない」  水頭症という病名は聞いたことがある。たしか頭に水が溜《た》まる病気だ。やはり赤い毛糸の帽子の中の頭に異常があるのか? 「どうしてわかった?」佐竹はきいた。 「まつ毛が長いでしょ。あたしが知っている水頭症の子も、まるでお人形さんみたいにまつ毛が長いのよ。カールしててさ。ためしにマッチ棒のせたら、ほんとにのっちゃって」由紀は愉快そうに話した。  由紀と障害の子との暮らしには、笑い出さずにはいられないおかしな一面もあったのだろう。佐竹は少し心がなごんだ。手帳に、〈水頭症? まつ毛長い〉と記入して、話を本格的に切り出した。 「この写真は、クリスマスイブの夜に、府中のケヤキ並木で撮影されたものだ。子供は府中、または府中の近くに住んでいるのだと思う。手がかりは、それだけしかない」  その時、佐竹の背後を誰かが足早に通った。忍び足ではなかった。佐竹は足音にいら立ちを聞きつけた。 「みどり——娘よ」由紀が小さな声で佐竹に説明した。  長女のみどりは佐竹の長男と同い年だった。高校一年だ。もう学校から帰ってきていたのだろうか。 「下の子はいくつだった?」佐竹はきいた。 「九歳。死んじゃったのは去年の夏。肺炎よ」 「どこが悪かったの? その、障害のことだが」 「脳性マヒ。脳性マヒの子には大学に進学できる子もいるけど……うちのはね、勉強ができないというレベルじゃなくて、言葉を話すというレベルで、問題があったの」  排水管に流れ込む水音が騒々しく響いた。——シャワーがタイルを叩《たた》きはじめた。 「名前がわからないから」佐竹は話題をもどした。「この子の顔を知っている人間を捜し出すしかない。そうすると——学校か、病院か——どう思う?」 「学校の方が確実ね。この写真持って行って聞けば、すぐわかるでしょ」 「ああ——」  佐竹の反応に、かすかなためらいを感じたらしく、由紀がすぐにいった。 「そういうのは、何かまずい?」 「できれば、別の方法を探したい」 「こっそりと?」 「うん。犯罪がからんでいる可能性がある」  由紀の顔にちらっと不安の色が浮かんだ。思いなおしたようにいった。 「——じゃ、何か方法を考えましょ」 「まず、この子が学校へ行っているかどうか」 「うーん……からだは小さいけど、もう学校へ行ってるんじゃないのかな」 「脚が悪いようだ。膝《ひざ》が曲がらない」佐竹は写真の脚の部分を指さしていった。 「下半身の機能が麻痺《まひ》してる可能性ありね。歩けないだけじゃなくて、排泄《はいせつ》の機能もだめだと思うわ」由紀は医者みたいに無慈悲にいった。  佐竹はメモして先に進んだ。 「学校のことだが——脳の方に障害のある子と、からだの機能に障害のある子と、学校は別になる?」 「別よ。養護学校という名前でひと括《くく》りにされているけど、正式には三種類に分かれている。精神薄弱と肢体不自由と、えー、病弱養護学校」 「すると、この子は、肢体不自由養護学校の方?」 「どうかなあ……たぶん、この子は精神薄弱で肢体不自由でしょ……かなり障害が重いと思うから、訪問のような気がするなあ」 「訪問とは」 「訪問授業といって、重度の障害児は在宅で授業を受けるのよ」 「先生の方が訪問する?」 「そう」 「訪問授業を受ける子の数は?」 「うちの子の学校で六人ぐらいだった」  そんなに小人数なら——と手ごたえをかんじた。 「担任教師がいるわけだ」 「たしか、二人。一人の教師が三人の子を受け持ってた」 「教師は車で子供の家庭をまわるのかな?」 「システムが知りたい?」 「知りたい」 「じゃ、ちょっと待って」  由紀は席を立った。食器棚の隣の整理ダンスの中を探して、養護学校の名簿らしきものを引っ張り出した。一緒にパンフのようなものも出して、パンフの方を佐竹に渡した。 「これ、みどりの小学校の会報」  由紀が電話をしている間、〈やまびこ〉と題された会報を眺めた。〈特集・登校拒否を考える〉とある。発行は、〈都立|三鷹台《みたかだい》小学校・PTA広報委員会〉、発行日は〈平成元年十二月六日〉、五年前のものだ。  また背後にいら立った足音が通りすぎて行った。引き戸を強くバチンと閉める音。やがてドライヤーがガーガー唸《うな》りはじめた。さっきのは、スポーツの汗を流すシャワーだったとは思えなかった。今日は自主休学で、さっきお目覚めになったところで、今からお出かけだろう。いずこも同じだ。腕時計を見た。三時半をすぎたばかり。十五か十六の娘がこれからどこへ行くのか。  由紀がメモとにらめっこしながら、テーブルにもどった。  由紀の説明によれば、こういうことだった。  一人の教師が三人の子を受け持つ。一人の子は週に三回の授業を受ける。授業の日は、親の都合や子の通院日などの事情を考慮に入れた上で、なるべく月・水・金、というように振り分ける。一回の授業は二時間。時間帯は、午前九時半から十一時半、または午後一時半から三時半、である。  教師は楽器や教材を持ち運ぶので、車を利用して子供の家庭をまわる。子供の家庭が学校からどれくらい離れているかによるが、仮に車で三十分の距離であれば、教師は九時に学校を車で出て、十二時に学校にもどり、昼食をとって午後一時にふたたび学校を出発し、午後四時に学校にもどる、というスケジュールになる。  佐竹は要点を手帳にメモした。 「どう?」由紀がいった。 「この子が訪問授業を受けていれば、誰にも感づかれないで、この子の家を突き止めることができると思う」  養護学校の校門で乗用車の出入りを見張り、尾行すればいいわけだ。ターゲットの車は二台から三台。時間帯は絞り込める。一週間の間に、担任教師は三回、あの子の家を訪れる。ということは尾行できる機会も多い。 「まだ学齢に達していない可能性もあるけど」由紀がいった。 「その時は病院だ。小児科の待合室で張り込むつもりだが、それでいいのかな」 「それでいいと思う」 「脳神経外科ということは? この子は水頭症かもしれないだろう?」 「日常は小児科で管理してもらうの。手に負えなくなれば、検査のために脳神経外科とか泌尿器科に行くわけ。あたし、うちの子を基準にしていってるから、一般化できるかどうか」 「わかった。頭に入れておくよ——で、通院は週に一度ぐらい?」 「そう。あるいは二週に一度」 「少ないもんなんだね」 「一年中、入退院をくり返している子もいるけど、その子なりに普通の暮らしができていれば、そんなに病院に行かないものなの」  佐竹は写真に視線を移した。聡子が〈大きな赤ちゃん〉と呼んだ障害児が微笑《ほほえ》んでいる。由紀のいう、〈その子なりの普通の暮らし〉というのが、よくわからない。 「あとは」と由紀がいった。「リハビリの施設に通っているかもしれない」 「それは、病院と違うのか」 「障害の子供だけを対象に、リハビリをしてくれる都立の施設があるのよ」 「府中近辺なら?」 「一ヵ所しかないわ」  待って、と由紀はいい、バッグから小さなアドレス帳を出して、〈都立療育センター〉の電話番号を教えてくれた。  住所は——府中市|西府《にしふ》町□□番地だった。  クリスマスイブの夜に、誰かに抱かれていた障害の子は、もうほとんど手中にある、と佐竹は思った。そして障害の子の背後に姿を隠している一組の男女を、こちら側へグイとたぐり寄せた実感があった。  佐竹は冷めた紅茶を口に含んだ。舌の上に渋みがひろがって心地よい。「来てよかった」といった。 「この子が早く見つかるといいね」由紀は視線を落とした。「でも」といった。子供の写真の端を指先で押さえ、テーブルの上で小刻みに動かしていった。「この子の親が、犯罪にからんでいるの?」 「その可能性は——」佐竹は言いよどんだ。事件の全貌《ぜんぼう》が明らかになるまでは何も断定的にいえないのだが、あえていった。「この子の親が直接犯罪にからんでいるわけではない」 「それならいいんだけれど」由紀はそれ以上詳しくきかずに、不安を腹におさめた。障害児の母親としては、複雑な心境なのだろう。  佐竹は希望など微塵《みじん》も抱いていなかった。探偵が希望など抱いたら、後で手ひどいしっぺ返しを食らうことになる。 「あたし一人でも」由紀がいった。「この写真さえあれば、この子が、どこの誰なのか、突き止めることができるわ」 「どうやって?」 「母親のルートを使うの。障害児の母親って、学校、病院、リハビリとか、いろんなところで知り合って、愚痴こぼしあったり、悩みごとを相談したりしてるでしょ。だから、子供の障害の種類が違っても、住んでいる地域が離れていても、意外とつながりがあるものなのよ。そういう親たちを掌握しているケースワーカーもいるし、それぞれ〈障害児の親の会〉みたいな組織もある。この子が大阪に住んでいたとしても、何とか捜し出せると思うわ」  それが現実的な方法かどうか、判断がつかなかった。ただ、由紀が、いわば≪哀《かな》しみの底≫で、ほかの障害児の母親たちと深いつながりを感じていることは、佐竹にも想像することができた。 「行ってらっしゃい」由紀がいきなり明るくいった。  佐竹は思わず背後を振り返った。ラヴェンダー色のワンピースがひるがえって、玄関の方へ消えた。小さな手が後ろにはねあげた金色の髪が瞼《まぶた》に残った。  鉄製のドアが軋《きし》んで——閉まるまでの間に、ヒールが痛々しい音をたてて階段を降りて行った。  もう帰ろうと思った。紅茶を飲み干して佐竹はきいた。 「栄次の職場は変わらない?」 「今は小平の営業所にいる」  佐竹は小平の営業所の電話番号を控えた。 「これ、読んだ?」由紀が三鷹台小学校の会報を示した。 「表紙だけ」 「中に、栄次が文章を書いているの」  佐竹はすっかり忘れていた。今度は由紀の話を聞いてやる番だった。      8  三鷹台小学校の会報を開いた。五ページ。上半分はPTA運営委員会の報告。その下半分を使って、栄次が短い文章を寄せていた。「平成元年だから、みどりが小学校の五年、弟が五歳の時の文章」由紀の声が聞こえた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  「弟|想《おも》いの姉へ 木村栄次」   おまえは今、子供部屋で一人で寝ている。私は夜っぴて眼をあけている。お母さんの隣で寝ている弟の寝息は聞こえない。彼の呼吸はいつ途切れてもおかしくないほど、浅い。   弟を車椅子《くるまいす》にのせて、三鷹台小学校の運動会へ連れていった今年の秋、「あたしの弟は障害児」と級友たちに紹介していたおまえの、はにかんでいたような笑顔を私は忘れない。   あの時おまえが、どんな気持ちで弟を紹介していたのか、知らない。いつ死んでしまうかもわからない弟のことを、おまえがいつも、どんなふうに気にかけているのか、私は知らない。   身体の弱い弟はいつまでも生きのびて、私やお母さんが先に死んでしまう可能性を誰も否定できない。両親が死んだ後で、おまえと弟がどうやって暮らしたらいいのか、私もお母さんも何も答えることはできない。   けれども、将来のことについて、いずれおまえと話し合う必要が出てくるのだろう。でも今は無理だ。今のところ、私はおろおろと暮らしているだけだからね。 [#ここで字下げ終わり]  佐竹は、二度目は、じっくり読んだ。……ページを閉じて、由紀の手元にそっと置いた。  と、ふいに由紀のからだが沈み、足もとから一升瓶を取り出してテーブルの上にドスンと音をたてて置いた。 「佐竹、一杯やるか」乱暴な口調でいった。  瓶の底に赤ワインが十センチほど残っている。視線をあげると、エンピツのように細い手指が瓶の口を握っていた。 「飲むのか——毎日」 「みどりが出かけた後で」 「やめろよ」佐竹は小さくいった。  由紀は、ふんふんとうなずいて、瓶から手を放した。帽子のつばをつまんで深くかぶりなおしていった。 「みどりは中二のころから学校を休み出してね——中三の夏、つまり去年、弟が死んだ時にはもう、何ていうの? ヤンキーとかレディース? 昔でいう立派な不良ってやつになってた。……佐竹んところは?」 「同じようなもんだ。うちの息子も」 「話し合った?」 「殴った」 「あらら」 「最低の親父《おやじ》——話し合おうと思った時期が遅すぎたのかな」佐竹にはわからない。 「うちは最初から何度も話し合った。で、わかったことが一つある。みどりは、父親が書いたこの文章が、重荷だったのよ」 「——」 「弟想いの姉、だなんてさ」  佐竹は指で会報を引き寄せた。会報の縁がティーカップの受け皿に引っかかった。結局、ページを開かずにいった。 「栄次の気持ちがよく伝わってくる文章だと思ったが」 「感情がむきだし」由紀はかぶせるようにいった。「現状の把握も露骨なほどリアル」  話が飛びすぎて、佐竹は由紀について行けない。困ったという顔を向けると、由紀が解説した。 「この文章に書かれていることに関して、あたしは、栄次と同じ感情、同じ現状認識を持っているの。だからぜんぶわかる。栄次は、みどりが障害を持つ弟のことをどんなふうに気にかけているのか、知らない。なぜ知らないのかといえば、姉と障害の弟の問題を、まだ幼いみどりに対して、正面から問いかけるようなことはしてこなかったから——」 「それは正しい選択だったんじゃないのか?」 「そう。でもね、栄次は知りたくてしょうがないのよ。みどりが弟のことをどう考えているかって。一方では、知るのが怖いという側面もある」 「知るのが怖い、とは」 「障害児って——必ずしも歓迎される存在ってわけじゃないからね」 「——そう」 「栄次は、障害の弟のことについて、みどりと話し合ってみたいのに、どう話したらいいのかわからない。それなのに勝手に≪弟想いの姉≫というレッテルを、みどりに貼《は》りつけた。わかる?」 「——まあ」 「もう一つ問題がある。〈両親が先に死んだら弟とどうやって暮らしたらいいのか〉なんていう、安易に話題にしてはいけない問題を、栄次は深く考えずに、いわば感情のおもむくままに書いたこと。それを、みどりはまともに受け止めちゃった。かわいそうに、十一歳から数年間、その問題を心に引きずってきた」 「この文章に責任があるとは思えないな。栄次の素直な気持ちが出ているし——」 「あたしも最初はいい文章だと思った。会報が出た時に、すぐ、みどりに見せたの。みどりも気に入ったらしく、会報が欲しいといったので、コピーをとってあげた。みどりはそれを机の引き出しにしまっておいた。それから何年か経って、ある日、突然、みどりはそのコピーをふりかざして栄次を責めたの。お父さんが書いたこの文章であたしは苦しんできたって。だから、あたしは慌てていったのよ。それはお父さんが書いたんじゃない——」  そこでようやく佐竹は気づいた。栄次は文章なんてろくすっぽ書けやしないものな。 「それがきっかけね。別れ話が出るようになったのは」由紀はむぞうさにいった。  由紀がまた一升瓶に手をかけた。それがまるで凶器であるかのように、佐竹は一升瓶のワインを奪い取って、自分の前に置いた。 「下の子が死んだら、栄次は糸の切れた凧《たこ》みたいにふらふらっと出ていった」由紀は空中に手を泳がせた。  佐竹は一升瓶を抱いて、勢いよく栓を抜いた。 「少し——飲もう」 「うん。少しだけ」由紀が破顔した。「グラス持ってくるね」  一杯ずつ注ぐと瓶は空になった。由紀はテーブルの下から新しい瓶を出して、 「ダースで配達してもらってるから」と得意そうにいった。 「由紀の文章、正直すぎるのかな」佐竹は一口やっていった。 「あれ、親が自分を正当化している文章なのよ」由紀も一口飲んだ。 「どこが」 「親は無力だってことを、しゃあしゃあと主張してる」 「自己正当化っていうのは、誰だってするさ」 「でも、親より子供の方が無力だから」 「——そうだな」 「親から面と向かって、お父さんもお母さんも無力だといわれたら、子供の行き場がない」 「でも——みどりは、心の優しい子だって気がするけどな」 「よくそういわれる。お宅のお姉ちゃん、優しい子でしょって」 「そう思うさ」 「どうしてそう思うの?」 「——」佐竹は言葉につまった。 「障害児の弟がいるから、姉は心の優しい子に育っているに違いない、と思ったんでしょ?」 「——」 「世間も親も、みどりに期待してるのよ。心の優しい子に育ってほしいって。それが、みどりにはわかった」 「プレッシャーになった?」 「たぶん——だから今、ヘソを曲げているんだと思う。そうは問屋がおろすものかって」 「それでいい」佐竹はみどりへの共感をこめていった。「世間の思惑に合わせる必要なんてないものな」 「そういうことは、あたし、わかってたつもりなのよ。障害児の弟のことなんか気にしないで、のびのび育ってほしいって。でも実際は、いろいろ、みどりにプレッシャーかけたみたいで……」  佐竹はグラスを飲み干して、新しい瓶の封を切った。ちらっと見ると、由紀のグラスはほとんど空いていない。ワインを自分のグラスになみなみと注いだ。 「でもさ、親の悩みなんて、どうだっていいのよ」由紀はちょっと投げやりにいった。「それより、佐竹が捜してる、その子——」 「——なに?」 「兄弟、いるのかなあ——」  空の青さが深まるにつれ、街の明かりが目に鮮やかに映えてくる初夏の夕暮れ時、午後七時三十七分ちょうど、佐竹はほろ酔い気分で事務所にもどった。  待ち構えていた聡子は、「あの——」といいかけて顔をしかめた。佐竹でさえ、自分が吐き出す息が臭くてたまらなかった。 「府中に行ってらしたんじゃないんですか?」と聡子がいった。  どこで飲んでた、という詰問する口調だったので、 「三鷹で飲んでた」と佐竹は答え、聡子を振り払うようにキッチンへ行った。知らぬ間に聡子が漂白したらしい真っ白な布巾《ふきん》をめくって、グラスをとった。 「お仕事?」 「仕事だ」佐竹は水道の蛇口のハンドルをひねった。 「連絡がとれないと困ります。携帯電話をお持ちじゃないんですか?」  佐竹はグラスの水を飲み干して、 「そんなものはない」と偉そうにいった。もう一杯水道の水を注ぎ、グラスを手にソファに腰をおろした。 「携帯電話がないと何かと不便ですから、明日にでもアーバン・リサーチから借りてきます」聡子もソファにすわった。 「荷物になるものは持たない主義だ」 「仕事で必要な時って、あるでしょ?」 「ある。電話その他、器材の一式はスタッフとワンセットでレンタルすることにしている」  その点で、佐竹のやり方は米本と同じだった。異なるのは、探偵一人に相談員一人、という小さな会社で数をこなすために、米本はその方法を積極的に採用していたが、佐竹は一人でこつこつ調査するのを好むという点だった。スタッフを雇う必要がある仕事はめったにやらない。 「ではポケベルぐらい持ってください」  ああ、何てしつこい女だ。グラスから顔をあげると、聡子の真顔が佐竹を見ていた。どうして、この女はいつだって真顔なんだ。 「ポケベル」聡子がまたいった。 「あんな犬の首輪みたいなもん、持てるか」といってはみたものの、はじめて会った二日前に、≪幼児的≫だと指摘されたことを思い出して、「机の引き出しにある。今夜から持つことにする」と素直にいった。 「そうしてください」  念を押すような口ぶりだ。嫌味《いやみ》な女だ。佐竹は喉《のど》を鳴らして塩素臭のきつい水を飲んで、おれはちょっとどうかしている、と思った。感情的に聡子にからんでいるとは——。 「Gテレビはどうだった?」さあ仕事だ。 「だめでした——カメラマンの話によれば、フレームの中に子供の赤い靴下が入ってきたので、その流れに沿って子供の顔のアップを撮っただけだと」 「ああいう撮影の場合は」佐竹はビデオカメラをかまえるポーズを作っていった。「ルーペをのぞいていない方の目は、開けていて、まわりの状況を見ているんじゃないのか?」 「その点も説明してくれました。そろそろレポーターにカメラをもどすつもりだったので、彼は右目でルーペをのぞき、左目でレポーターを捜していたそうです。ですから、子供を抱いていたのが男か女かも覚えていないって」 「ほかのスタッフは?」 「あ——」言葉につまった。 「アシスタントは誰もついていなかったのか? ADとか照明とか。レポーターにきいてみなかったのか?」 「——すいません。気がつきませんでした」  聡子は重大な過ちを犯したかのように視線を落とした。まあ、いい。スタッフの誰かが子供の父母を目撃していたとしても、半年前の記憶だ。あてにはなるまい。調査の成否は張り込み・尾行にかかっている。 「土浦は?」佐竹は次の質問に移った。 「米本さんは女性と会っています」 「そう——」土浦の喫茶・マリーベルは一週間前の出来事だ。 「会っていたのは、三分か五分か、たぶん、それくらいの短い時間。四十前後の化粧っ気のない主婦が、コーヒーを注文して、手をつけずに慌ただしく出ていったそうです」 「一人で?」 「はい。米本さんは残りました。もう二分か三分ていどは」 「米本が先に来て、あとから来た女が、すぐに出ていった?」佐竹は確認した。 「そうです」 「その件について警察が聞き込みに来ていなかったか?」 「——すいません」 「確認をとらなかった?」 「はい——」 「警察の動きも知りたい」 「気をつけます」聡子はかわいそうなくらい、しょげた。小さな声になってきいた。「その女性が匿名の依頼人でしょうか?」  さあ、どうだろう。佐竹はグラスの中をのぞいた。空っぽだ。傾けると、底に少し水が溜《た》まった。「おかわりします?」聡子の声がした。いや、と答えた。きみらしくもない。家庭の中でまでお茶くみを強要されたから、男の股間《こかん》を刺したんだろうが。  グラスを持って席を立った。キッチンへ行き、グラスに半分ほど水を注いで飲んだ。グラスを水洗いして水切りケースにおさめ、布巾をかけた。ズボンの尻《しり》ポケットからハンカチを取り出そうとすると、「タオルかけてあります」と聡子の声が応接コーナーから飛んできた。シンクの下のキャビネットの扉に、白いタオルがリング状のタオル掛けに通してあった。手をぬぐい、その場に佇《たたず》んで、考えをめぐらした。  五月二十五日に、米本が土浦で会った女が匿名の依頼人だと仮定しよう。  土浦という場所は何を意味するのか。女の生活圏の中に土浦がある、と考えるのが自然である。だとすれば、女は土浦で米本と会うのは、避けようとするだろう。なぜなら、女は匿名を希望し、調査対象者に関する情報が文書に残ることさえ嫌っていたのだ。その慎重な人間が、自分の生活圏で米本と会うとは、考えられない。  だが女は土浦で米本と会った。なぜか。米本が女の生活圏に近づいて、女を呼び出したのである。米本はなぜ女の生活圏を知っていたのか。女が教えるはずはない。米本は女と障害の子の関係に興味を抱いて、報告書を渡した時に、女を都内から土浦近辺まで尾行したのである。  そして女の素姓を洗った結果、米本は強請《ゆすり》のネタを見つけたのだ。  かくして五月二十五日、土浦の喫茶・マリーベルで米本は女と会った。女はわずか数分で席を立ち、慌ただしく店を出て行ったという。米本が女に何を告げたのか、不明である。  たしかなことは、その二日後の五月二十七日、米本が事務所で殺されたこと。  とはいえ——佐竹はちらっと換気扇を見やって思った。すべては、土浦の女が匿名の依頼人であると仮定しての話だ。  とはいえ——また換気扇を見て思う。あんなにぴかぴかに磨いたりしやがって。よけいなお世話だ。いずれ聡子は、おれに換気扇を磨くことを強要するにちがいない。ほっといてくれ。      9  同じ夜。聡子が帰ったあとで、アーバン・リサーチの総務部の男からファックスが入った。警察情報の二つのメモだった。 〈不審車二台。勤労福祉会館裏に濃紺のベンツ。ラブホテル・紫苑《しおん》の前に白いワンボックスカー。車種型式等詳細は不明〉 〈不審な男。≪花の山田≫の女店員が証言。五月二十七日、午後四時四十分ごろ、四十代の男、身長百七十センチていど、痩《や》せて大人しい感じ、青色のスーツにノーネクタイ、サンポートビルの場所を尋ねる。以上〉 ≪花の山田≫から棒線が引かれ、〈渋 神南《じんなん》十七〉と住所が記入してある。  サンポートビルは米本の事務所が入居していたビルである。佐竹は手帳を開いて確かめた。米本の死亡推定時刻は五月二十七日の十五時から十七時の間だった。  この不審な男が、例の写真の子供の背後に、あるいは匿名の依頼人の背後に隠れているとしたら——とファックスの文面から顔をあげて思った。——警察よりもおれの方が先に、男にたどりつけるだろう。  佐竹は昼間の由紀との会話を思い返して、とりあえず調査の優先順位を決めた。㈰訪問授業 ㈪療育センター ㈫総合病院の小児科——の順である。  寺西に電話して車の手配を頼んだ。  次いで由紀に電話した。由紀が素面《しらふ》かどうか判断がつかなかったが、受け答えはきびきびしていた。〈府中にある二つの養護学校の、訪問クラスの生徒数と担任教師の数を調べてほしい〉と頼んだ。そのていどの調査ならば、ターゲットに不穏な動きを感づかれることはないだろう。  明けて六月二日木曜日。佐竹は聡子の運転する白いバンで府中へ向かった。バンは前夜に手配したアーバン・リサーチの監視用車両で、後部の窓を遮蔽《しやへい》し、覗《のぞ》き穴を細工してある。朝の下りの甲州街道は、比較的スムーズに車が流れていた。  八時二十分すぎ、小柳町の府中東養護学校に着いた。敷地の周囲を車で流した。車の出入りは正門を利用していることを確認して、バンを路上に駐車した。佐竹が荷台にもぐり込み、カメラを手に監視態勢に入った。  八時四十分ごろ、二台の黄色いスクールバスが相次いで到着した。八時五十七分、正門からノーズだけ突き出して白い車が一時停止した。カメラをかまえる。白いカローラがバンと反対方向に走り去って行く。連続して数回シャッターを切った。  九時半までに四台の乗用車が正門を出て行った。  いったん現場を離れ、西府町へ行って、〈療育センター〉の場所を確かめた。二階建ての小さな施設で、駐車場は十台も停めれば一杯だった。中の様子をうかがってきた聡子によれば待合室といったスペースはなく、廊下の長椅子《ながいす》にいたのは、すべて母親と障害児のペアだったという。 「中で張り込もうと思ったら、どこかで障害児を借りてこなくちゃ無理です」と聡子は報告した。  十一時半に府中東養護学校へもどり、正門に入る車を撮影した。午後一時までに正門を入った車は乗用車五台と軽のバンが一台。そのうち乗用車の三台は、朝出て行った白のカローラ、赤のアルト、緑色のミラだった。引きつづき待機し、今度は出かける車を撮影した。カローラとアルトが午後も出て行き、ミラは姿をあらわさなかった。カローラとアルトは訪問授業に向かう教師の車であろうと推測した。  甲州街道沿いのファミリーレストランで昼食をとり、クリスマスイブの夜にテレビの中継があったケヤキ並木を歩いて時間をつぶし、また現場にもどった。  夕方四時すぎ、アルトがもどってきた。それから十二分ほど遅れてカローラが帰ってきた。この段階で、アルトとカローラは訪問授業に出かけた車であると断定した。  夜までに、由紀が依頼事項を調べあげてくれた。府中東養護学校が生徒数八名に対し教師三名、府中西養護学校がそれぞれ五名に二名だという。  府中東養護校の教師三名のうち、一名が使う車がまだ不明だった。もっとも、朝出て昼にもどったミラは、訪問授業に使われている可能性が高い。  佐竹は一覧表を作ってみた。  一人の教師が三名の子供を担当していると仮定すると、一名につき週に三回、計九回の授業である。土曜日は基本的に訪問授業を組まないという話だった。午前一回、午後一回、一日二回の授業だから、月曜日から金曜日までの五日間で計十回の授業を組むことができる。つまり週に一日は、午前か午後どちらか、授業がない日があるはずだ。  今日木曜日の午後、ミラを使う教師の訪問授業はなかったと考えることもできる。  翌、金曜日、車を替えて同じように監視した。カローラ、アルト、ミラの三台が、朝出て昼前にもどり、午後も出かけて夕方帰ってきた。その三台が訪問授業に使われていると断定した。  正味六日かけて行われた尾行の結果、両校合わせて十三名の児童生徒のうち、府中東養護校の一名、西養護校の一名が不明だった。府中東養護校の生徒に関していえば、尾行に失敗したのではなく、訪問授業が行われなかったのだ。  由紀に電話で問い合わせると、「病欠でしょ」とあっさり答えが返ってきた。  後になってわかったことだが、予備調査の段階で教師の動きと児童生徒数が合致したのは、ほとんど奇跡であった。たえず子供たちの誰かが体調を崩しており、入退院をくりかえす子供がおり、そしてある日、誰かが唐突に逝ってしまう。訪問クラスの子供たちにとって死は日常だった。  比較的健康な子供は、表で教師に抱かれてあやされたり、車椅子での散歩を楽しんだりしていた。だが、部屋の中でひっそりと寝ている子供の観察はままならず、部屋のある辺りから教師の歌声だけが聞こえてきた。  府中西養護校で不明のまま残った子供がまさにそれだった。保護者の住所と氏名が判明しているから、世帯全員の住民票を取り寄せて、子供の氏名と生年月日を知った。大迫潤一・昭和五十五年九月二十日生まれ。十三歳、つまり中学二年生だった。どう考えても写真の子供に該当しない。  残るは府中東養護校の、病欠と思われる一人である。  一覧表を眺めれば、どの教師が受け持っているかを特定できる。担当教師は、年の頃、三十前後、赤いアルトを運転する色の黒い痩せた女だった。また、その子供の授業日は、月曜日と水曜日の午後、金曜日の午前中であり、学校から十分以内の近距離に家があることもわかっていた。  六月十七日金曜日。午前九時十分。佐竹と聡子はカローラを府中東養護学校の正門近くに停めた。  九時二十二分。赤いアルトが出てきた。 「授業があるんですよ」聡子の声がかすかにふるえていた。  推定、十日ぶりの訪問授業だった。  アルトが長渕剛《ながぶちつよし》の〈RUN〉をガンガン流しながら目の前を通過して行った。聡子がカローラを発進させた。アルトは住宅街の中の曲がりくねった道を南下して行く。中央自動車道の下をくぐる。右手に多摩川競艇場の巨大なスタンドが見えてきた。アルトは西武多摩川線の小さな踏切を越え、多摩川の堤防に突き当たり、左折した。聡子がアクセルを踏み込む。コーナーを曲がると、八十メートル前方をアルトが走っている。堤防沿いの道を二百メートルほど走り、左折した。カローラが速度をあげ、六、七秒遅れて左折すると、アルトの姿が消えていた。 「どうします?」聡子がいった。 「徐行。右を見てくれ」  道の左右とも住宅だった。三十メートルほど走ると、左側は垣根をめぐらした古い木造の二軒長屋がつづいた。四棟おきに細い路地がある。その奥にちらちらと車が見えた。駐車スペースがあるらしい。二軒長屋の最後の路地を通過したところで、佐竹はカローラを停止させた。車間距離は百メートルもなかった。これ以上先に行ったはずはない。  カローラを少しバックさせ、二軒長屋の路地に入った。表通りと平行に長屋の中央を走る路地に出た。左折する。右手の青空駐車場にアルトが停まっていた。女教師が車からカシオトーンを降ろしている。 「次の路地で左折」  聡子がハンドルを切る。 「左折して停めろ」  元の道に出て左折し、カローラを停めた。 「わたしが降りたら、車を寄せて駐車。南からゆっくり歩いて来い」  佐竹はショルダーバッグを担いで車を降りた。慌てる必要はなかった。一時間あとに来ても、どの家で授業が行われているのか、一目|瞭然《りようぜん》だろう。あの女教師の挙動は調べがついていた。授業中に甲高《かんだか》い声で笑い、元気すぎる声で歌い、カシオトーンは片手でしか弾くことができない、ということもわかっていた。  敷地の中央の砂利道を、北から南へと歩いた。すでに女教師の姿はなかった。右側のスペースは、家が五棟で途切れて、その先は駐車場になっている。ゴミの集積所のわきに赤いアルトが停めてある。駐車場の裏はコンクリート塀になっていて、卒塔婆《そとば》がのぞき、寺の大げさな瓦屋根《かわらやね》が見える。左手はずっと棟がつづいている。一棟ずつ、目の高さほどの植え込みで仕切られている。一軒は六畳二間か、六畳と四畳半の二間だろう。夏草が生い茂る庭があった。いつから人が住まなくなったのか、草に埋もれるように錆《さ》びた自転車が転がっているのが見える。人影はない。人声もない。薄くテレビの音声が聞こえるだけ。トイレは汲《く》み取り式のようだった。便槽から突き出たダクトの先に換気扇が付いていない家もある。どの家も風呂場《ふろば》を建て増ししている。洗い場がせまいのか、洗濯機の置き場がないのか。傾いた物干し場で老婆が洗濯物を干していた。都営か市営の住宅らしかった。老人と母子家庭と生活困窮家庭と——およその見当がつく。近くで鶏がけたたましく鳴いた。誰か飼っているのだ。たくましい住人がいるらしい。鶏の鳴き声にまじって、カシオトーンの伴奏が流れてきた。下手糞《へたくそ》な演奏。すぐそこだ。  佐竹は垣根の切れ目から、抱かれているその子を見た。足を止めずにゆっくりと通りすぎた。「なあ、きみ、やっと会えたな」と胸のうちでつぶやいた。  見たのは一瞬だったが、あの夜、ウネ子の部屋で、気になってしかたがなかった赤い毛糸の帽子の中身を、佐竹はたしかに見たと思った。  坊主刈りのその子は、男の腕の中で、のけぞるようにからだを投げ出していた。後頭部が異様に膨らんでいた。顎《あご》が空に向けて突き出され、喉《のど》がのびきっていた。大きな頭の重量を、首の筋力が支えきれないのだった。  あれが〈水頭症〉だろうと思った。前方の路地から聡子があらわれた。何か言いたげな顔をしている。 「車にいろ」佐竹は短くささやいて、きびすを返した。バッグからカメラを取り出した。三百ミリの望遠レンズ付き。視界に人影はない。聡子の足音が遠ざかる。建物の白壁に当たる光線を見て、勘で露出を決める。距離もおよそ合わせる。  女教師が歌い出した。 〈シンちゃん、おはよう、ございます せんせい、おはよう、ございます——〉  元気な歌声が、シャッター音も砂利を踏む靴音も消してくれる。  足を止め、カメラを振り上げ、縁側で子供を抱いている男を撮った。もう一枚。ズームして男の顔のアップをもう一枚。佐竹は歩き出し、カメラをバッグに放り込んだ。玄関の表札を見て、頭にたたき込んだ。——父子家庭とはね。   府中市小柳町五丁目□□番地    明野哲夫       新  都心にもどる車の中から、佐竹は残りのフィルムをぜんぶ使って、街にいる中年男の写真を撮った。被写体の男たちには共通点があった。三十半ばから四十代後半の、生気に乏しいヤサ男である。  ふだんから佐竹は口数の少ない男だが、その時は極端に寡黙になっていた。精神の高ぶりを強引に押さえ込んでいたのである。何を聞いても生返事ばかりが返ってくるので、聡子は不機嫌になり、少々乱暴なアクセルワークで佐竹の仕打ちに応《こた》えた。  カローラを事務所近くの駐車場に入れて、いつも使っている写真屋へ行き、現像を至急で頼んだ。  早めの昼食をすませてから、写真を受け取った。二枚は父と子のツーショット。一枚は明野哲夫のアップ。三枚とも、いかにも可愛《かわい》げに子供を見ている明野の横顔をとらえていた。正面から撮れなかったのが不満だが、顔の特徴はよく出ている。櫛《くし》の入っていない短めの髪、気弱そうな細い目、脂っ気のない薄い頬肉《ほおにく》。覇気がないというか、影が薄いというか、冴《さ》えない中年男だった。  車の中から撮った男たちのうち、明野に雰囲気が似ている写真を五、六枚えらび、JRを使って渋谷へ向かった。 ≪花の山田≫は、公園通りを勤労福祉会館の先で右折すると、すぐに見つかった。半地下にインポート・グッズの店があるビルの一階にあった。  佐竹はローズ色のサルビアを切りそろえていた若い女に声をかけた。 「おたずねしますが」 「はい、なんでしょう」 「三週間ほど前、五月の末ですが、この奥のサンポートビルで殺人事件がありましたね」 「ああ、あのこと——警察の方ですか?」 「いいえ、殺された男の友人です」 「——はい」 「事件のあった日に、こちらの店で、サンポートビルの場所を尋ねた男がいたそうですが、青いスーツにノーネクタイの——その男と応対したのはあなたですか?」 「そうです」 「似ている男がいるかどうか、見ていただきたい」  佐竹は写真を出した。女は鋏《はさみ》をカウンターの上に置き、前かけで手を拭《ぬぐ》って写真を受け取った。ぜんぶで七枚ある。女はカードを切るみたいにむぞうさにめくり、もう一度めくり、 「これ」と一枚の写真を示した。 「間違いないですか?」 「うーん——似てることはたしか」  その答えでじゅうぶんだった。  佐竹は礼を述べて店を出た。表で待っていた聡子に小さくうなずいた。聡子の目が一瞬、暗く光った。二人は肩を寄せて、無言で公園通りを駅の方へと下って行った。  痩《や》せて大人しい感じの中年男が、≪花の山田≫でサンポートビルの場所を尋ねたのは、五月二十七日金曜日の午後四時四十分ごろだったという。  明野哲夫の息子の新は、金曜日の午前中に訪問授業をすませる。あの日の午後、父と子は、どこにいたのか。  父子《ふし》家庭である。明野は、重度の障害児の新を家に置いたまま、一人で渋谷に出てくることはないだろう。明野は新を車に乗せて出かけ、サンポートビルの近くに駐車したのだろう。  もし明野が米本を殺し、返り血を浴びた衣服の処理に困ったとしても、殺害現場近くに車を止めていたのであれば、誰にも気づかれずに渋谷の街から姿を消すことは可能であったかもしれない。  雑踏の中で、佐竹はそっと手帳を取り出し、小さく折りたたんで挟んであったファックスをひらいて、確認した。  目撃されている不審な車は二台だった。〈勤労福祉会館裏の濃紺のベンツ〉と〈ラブホテル・紫苑の前の白いワンボックスカー〉である。明野の車がベンツであるわけがない。  深夜。佐竹は一人で府中へカローラを走らせて、明野父子が住む二軒長屋へ行った。  黒々とした闇《やみ》に包まれて市営住宅は寝静まっていた。街灯の明かりが届かない駐車場の前を、ゆっくりと通過した。十七、八台の車のうち、白いワンボックスカーは二台あった。いずれもハイルーフである。カローラを南の端のスペースに停めた。  車を降りて、歩いた。砂利を踏む靴音がやけに耳を打った。最初の一台は、タウンエースのバンだった。ちらっと運転席を覗《のぞ》いた。まわり込んで——月明かりが差し込んでいる助手席を見た。  助手席はリクライニングになって、薄いふとんが敷かれていた。シーツ代わりだろうか、漫画をプリントしたバスタオルが掛けられている。佐竹はミッキーマウスの画《え》に目をとめた。ヘッドのあたりには、タオルを巻いた小さな枕《まくら》が置いてある。そして後部の荷台に——組み立てられた車椅子《くるまいす》があった。      10  法律により、探偵には身元調査のための戸籍入手は許されていない。佐竹の場合は〈懇意〉にしている司法書士を通じて〈非合法〉に戸籍調査を行うことにしている。  まず府中市役所から明野父子の住民票を手に入れた。住民票を見れば本籍地がわかる。   氏名 明野哲夫   生年月日 昭和二十四年十二月八日   性別 男  明野は今、四十四歳ということになる。   東京都府中市   住民となった日 平成元年九月二十九日   続柄 世帯主   世帯主 明野哲夫   住所 府中市天神町□□番地   住所を定めた日 平成元年九月二十九日   住所 府中市小柳町□□番地   住所を定めた日 平成四年六月一日   本籍 大阪府堺市下田町□□番地   筆頭者 明野哲夫   従前 大阪府大阪市阿倍野区□□番地   明野は大阪人か?——  明野父子は平成元年の九月に大阪の阿倍野から府中市天神町に転入し、ついで平成四年の六月に小柳町に転入したということになる。府中市役所に問い合わせたところ、小柳町の二軒長屋は市営住宅だった。  子供の住民票を見る。   明野 新   生年月日 昭和六十年七月四日   性別 男   続柄 長男  そう、男の子だった。今八歳。あと二週間もすれば九歳になる。  ふと由紀がいった言葉を思い出した。 「兄弟、いるのかなあ——」  たとえば弟|想《おも》いの長女がいて、母親と一緒に別の場所で住民登録しているのかどうか——住民票だけでは何ともいえない。 「新くんの母親はどこにいるんでしょうね」と聡子がいった。  二人は佐竹探偵事務所のスプリングのいかれた応接セットで、それぞれ明野父子の人生に思いをめぐらしていた。 「戸籍を調べれば、およそのことがわかる」佐竹が答えた。 「母親というのが、依頼人の女性かしら」 「その推論は、きみが一度否定している。障害児と二人で家出するようなオメデタイ男はいない」 「そうですよね」聡子が感に堪えたようにいった。 「それに、子供の医療のことがあるから、明野は逃げられない。住民登録をし、障害者手帳の住所変更もし、普通の市民生活を送らざるをえない。依頼人が母親だとしたら、ビデオは必要ない。父親、つまり明野の戸籍はわかっているのだから、米本が戸籍の附票を取り寄せれば、明野の逃げた経路なんか丸見えになる」  では依頼人と明野父子は、どういう関係にあるのか。次に打つ手は、堺市役所に明野の戸籍謄本を請求すること。米本も同じことをやったはずである。  梅雨入り宣言が出た翌日の、朝からしのつく雨が降る六月二十二日。堺市役所から郵送されてきた明野哲夫の戸籍謄本と戸籍の附票を、聡子が司法書士の事務所から持って帰った。佐竹は早速封筒をひらいた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   本籍 大阪府堺市下田町□□番地   氏名 明野哲夫   婚姻の届出により昭和五拾六年八月七日編製   父 明野哲郎   母   ふみ   四男   夫 明野哲夫   昭和弐拾四年拾弐月八日秋田県南秋田郡大潟村で出生同月九日父届出同月拾六日同村長から送付入籍 [#ここで字下げ終わり]  明野は大阪人ではないらしい。秋田の生まれだった。大潟村といえば、ヤミ米で名を馳《は》せている地域である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   昭和五拾六年八月弐日堀昌美と婚姻届出同月七日大阪府豊中市長から送付秋田県南秋田郡大潟村□□番地明野哲郎戸籍から入籍 昭和六拾参年四月拾九日妻死亡 [#ここで字下げ終わり] 「死んでる」と佐竹がいった。 「は?——」濡《ぬ》れた髪をタオルで拭《ふ》いていた手を休めて、聡子が怪訝《けげん》な顔を向けた。 「明野の女房だ。六年前に死んでいる」  聡子が佐竹の肩ごしに覗き込んだ。  妻の欄をめくる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   父 堀雅也   母  順子   長女   妻 昌美   昭和弐拾九年壱月弐拾壱日大阪府堺市で出生同年壱月弐拾四日父届出入籍   昭和五拾六年八月弐日明野哲夫と婚姻届出同月七日大阪府豊中市長から送付大阪府堺市下田町□□番地堀雅也戸籍から入籍   昭和六拾参年四月拾九日午前拾壱時五拾六分大阪府堺市で死亡親族明野哲夫届出除籍 [#ここで字下げ終わり]  秋田の男と大阪の女が、大阪の豊中市で所帯を持ち、戸籍を女の実家と同じ住所に設けたということになる。そして女は堺市で死んだ——。 「妻の死因は何かしら」聡子がつぶやくようにいって、佐竹の隣のソファに腰をおろした。 「少しは探偵らしくなったな」佐竹は歓迎するように笑った。 「あら、どうしてですか」 「わたしも同じだ。こうやって他人の戸籍を覗く。そこに死亡の記載を見つける。反射的に〈死因は何か〉と考えてしまう」 「探偵という職業に特有の、条件反射みたいなものでしょうか」 「探偵が冒されている病理の一つだ」佐竹はおもしろがっていった。「ウネ子さんは、それをパブロフの犬になぞらえて、〈パブロフ的悲哀〉と呼ぶ」 「悲哀だなんて、いやだわ」聡子が眉《まゆ》をひそめた。  悲哀をいうならば、と佐竹は一瞬真顔になる。おれはむしろ戸籍そのものに人生の悲哀を感じる。〈父・母・出生・送付入籍・婚姻・妻・長男・死亡・届出除籍〉おれは戸籍を覗《のぞ》くたびに、一切の感情を締め出している官吏の文体から、干からびた血の臭《にお》いを嗅《か》ぎつける。  子の欄——。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   父 明野哲夫   母   昌美   長男   新   昭和六拾年七月四日大阪府大阪市で出生同年七月五日父届出入籍 [#ここで字下げ終わり]  新に兄弟はなかった。母はすでに亡く、父とふたりきりだった。  次に戸籍の附票を見る。住所と住所を定めた年月日が、何人もの戸籍係の筆跡で、手書きで記載されている。   氏名 明野哲夫   名 哲夫   住所 大阪府豊中市大島町□□番地   住所を定めた日 昭和五十六年八月二日  以下同様に、   東京都板橋区栄町□□番地   昭和五十七年三月八日   東京都江戸川区中央□□番地   昭和五十七年十一月十九日   大阪府大阪市阿倍野区□□番地   昭和六十年六月二十五日   東京都府中市天神町□□番地   平成元年九月二十九日   東京都府中市小柳町□□番地   平成四年六月一日  妻の昌美の欄は、大阪市阿倍野区に昭和六十年六月に転入するまでは明野と同じである。以下——、   大阪府堺市下田町□□番地   昭和六十年九月八日  そこで昌美の欄は終わる。  新の欄は——、   大阪府大阪市阿倍野区□□番地   昭和六十年七月五日   大阪府堺市下田町□□番地   昭和六十年九月八日   大阪府大阪市阿倍野区□□番地   昭和六十三年十月三日  以下は父親の明野と行動を共にしている。  佐竹は附票を聡子に渡して、 「どう思う?」ときいた。 「附票をざっと眺めて気がつくのは、頻繁に引っ越していることです。十年間に六回。七ヵ月、八ヵ月、二年と七ヵ月、四年と三ヵ月、二年と八ヵ月……転勤とは考えにくいですね」 「転勤の多い職種はたくさんある。全国チェーンのスーパーの支店長クラスなら、新しい勤務先に赴任して半年でまた転勤、というパターンも不思議ではない」 「明野は、どうやって食べてるんでしょうか」 「内職、貯金を食いつぶしている、生活保護、いずれわかる。家賃が一万円に満たない市営住宅に入ったのは、生活に困ったからだ」  そこでふと思った。明野はなぜ新を連れて上京したのだろう。障害児の世話が大変なら、妻の実家に頼るか、秋田の自分の親元に身を寄せるはずだ。——パズルの断片の一つがここにある。〈新を連れて上京〉と頭にしまい込んで、 「ほかに気づいたことは?」ときいた。 「昌美と新は、昭和六十年の九月に、阿倍野区から堺市下田町に転居したのに、明野は阿倍野区から動きませんでした。ということは別居ですよね?」 「たぶん——母と子は実家に身を寄せたんだろう」 「?——」聡子は思い出した。「ああそうか。堺市下田町というのは昌美の実家でしたね」戸籍謄本をめくって確認し、また附票を眺めていった。「明野夫婦は昭和六十年の六月に東京から大阪市の阿倍野に引っ越した。七月四日に新が生まれた。九月に、昌美は新を連れて堺市の実家に転居した」  聡子はちょっと辛《つら》い顔を向けた。 「障害児が生まれたことが原因で別居したんですね、きっと——」  聡子の声には、明野を非難するひびきがあった。障害児の誕生を歓迎せず、母と子を追い払った父親とでもいうように。佐竹は明野を弁護するようにいった。 「昌美が死んだ後で、明野は新を引き取っている」 「そうですね。昭和六十三年の十月に、新くんは父親の住所に転居しています」 「そのころ、明野には保険金が支払われているはずだ。アーバンの大阪支社を使って調査すれば詳しくわかる」 「妻の死亡に関する調査ですね」 「何か出てくるかもしれない」  何か臭えば、保険会社の調査は、金銭がからんでいる分だけ、警察よりも執拗《しつよう》で詳細をきわめるものだ。 「明野の前科も調べてみます?」聡子がいった。 「前科があるとは思えないが……」 「どうしてですか」 「明野が犯人だとしよう。殺害の直前に≪花の山田≫でサンポートビルの場所を尋ねている。つまり彼の犯行には計画性が感じられない。殺意があったにしても突発的な犯行だったのだろう。現場には明野の指紋が残されていたと考えた方がいい」 「明野に前科があれば、指紋が出た段階で、明野は取り調べを受けている、ということですね」 「そうだ」しかし指紋が出たと決めつけるわけにはいかない、と佐竹は思いなおしていった。「念のため前科も調べよう」  こういう時には、業界最大手のアーバン・リサーチが後《うし》ろ楯《だて》になっていると話が早い。アーバンは警察官僚OBに多額の顧問料を支払っている。  聡子は戸籍と附票を封筒におさめた。うつむいたまま、静かな声でいった。 「明野は殺《や》ったんでしょうか」 「断定はできない」 「容疑者であることは間違いないでしょう?」聡子はまた辛そうな顔をあげた。 「そうだ」 「なぜ明野のことを警察に届けないんですか」聡子は佐竹の心のうちを探るようにいった。 「明野と依頼人の女との関係を知りたい」 「警察が明野を取り調べたら、真相はわかるんじゃありませんか」 「明野と女は共犯かもしれない。明野を警察に突き出せば、依頼人の女が姿を隠してしまう恐れがある」 「じゃあ、どうするんです」 「明野は放っておいていいんだ。新がいるかぎり、どこにも逃げられやしない。重要なのは、その女を捜し出すことだ。そして直接、本人から、明野との関係、米本殺しの事実をきく」 「依頼人の女性を捜し出すまでは、明野のことを警察には届けないんですか?」 「そうだ」佐竹には聡子の胸のうちがわかった。 「依頼人の女性を突き止めて、彼女から事件の背景をきき出したら、明野哲夫を警察に突き出すんですか?」聡子は執拗に確認しようとした。 「殺しだからな」佐竹は遮るようにいった。 「——」聡子は口を閉ざした。  真相はまだ闇《やみ》の中だというのに、聡子はもう、あの障害児に感情移入している、と佐竹は思った。明野が警察に突き出されたら、新の生活はどうなるのか、と胸を痛めている。こんなことでは探偵稼業はつとまらない。佐竹は少々ぶっきらぼうにいった。 「行くところまで行くのさ——」  翌日の昼前には、警視庁の情報管理センターから、〈本籍大阪府堺市下田町□□番地 氏名明野哲夫 父明野哲郎 母ふみ 四男 夫明野哲夫〉なる人物に〈犯罪歴なし〉の回答が寄せられた。  その二日後、アーバン・リサーチの大阪支社から本社にファックスが入った。佐竹はファックスを読み、さらに大阪支社の調査員に電話で問い合わせたところ、次のようなことがわかった。  明野の妻、昌美は、昭和六十三年四月十九日午前十一時半ごろ、自転車で近所のスーパーに買い物に行く途中、左折した大型トラックの後輪に巻き込まれて死亡した。ほぼ即死の状態だった。  同年五月十一日、生命保険会社から保険金五百万円と配当が少々、五月十八日、損害保険会社から二千六百万円、計三千百万余円が明野哲夫に支払われた。  生命保険金五百万という額は、主婦に掛ける保険としては妥当な額であったし、警察の実況見分および目撃者の証言からいっても、事故に何の作為もなかったことは自明であった。  保険金支払いの前に、損保会社が若干の調査を行っていた。その調査結果をきいて、佐竹は、明野の職業が調理師であり、事故当時、天王寺の割烹《かつぽう》で板前をしていたことを知った。また、戸籍の附票から類推していたように、当時、明野が妻子と別居中だったことも裏づけられた。  佐竹は、〈しばらく関西に出張してくる〉と言い残して出かけたが、たった二日で帰ってきた。それ以降、じっくりと府中周辺に腰をすえ、明野の日常生活を洗い出すことに専念した。  七月の最初の水曜日だった。佐竹はアーバン・リサーチの調査部長室を訪れ、 「ドライブに行きませんか」と寺西を誘った。      11  雲の切れ目から薄日が射《さ》していた。予報によれば、低気圧が駆け足で関東地方を通過するという。すでに西の空は暗雲がたれこめて、天と地の境目あたりが、かろうじて、細い光を帯びたように明るさを残していた。 「明野|父子《おやこ》が上京して、五年になります」  首都高速四号線を西に向かってワゴンを走らせながら、佐竹は、これまでの経過を説明していた。窓をカーテンで遮蔽《しやへい》した後部座席に寺西と聡子がいる。助手席から軽い鼾《いびき》が聞こえる。技術課の田丸だった。ネクタイ・ワイシャツの上にグレーの作業着をはおっている。 「今年の四月七日、匿名の女が、明野父子に関する調査を、米本に依頼しました。ところが、依頼票が白紙同然でして、調査内容が不明です」  ポツリ、と落ちはじめた。新宿副都心の高層ビルが靄《もや》に煙っている。 「女と米本は五月二十五日に、土浦の喫茶店で会っています。何が話し合われたか、これも不明。そして五月二十七日、米本が殺されました。殺害時刻に、殺害現場近くで、明野が目撃されています。明野が犯人とは断定できませんが、重要参考人であることはたしかです」  四号線の初台ランプをすぎた。 「明野と依頼人の女の関係については何もわかっていません。手がかりは一つだけ。女は障害児の顔を知っていたということです。つまり、明野新が生まれた昭和六十年七月四日以降の九年間、土地でいえば、大阪市阿倍野区、堺市下田町、東京の府中市、そのどこかに、明野と女との接点があったといえるわけです」  佐竹はワイパーを間欠的に動かした。 「子供が生まれる前に明野夫婦が住んでいた板橋区と江戸川区は、調査の対象からはずしました」 「で、きみは関西へ行ったんだな」寺西がいった。 「はい。関西か府中か、そのどちらかといえば——」 「関西が匂《にお》うものな」 「府中に移り住んでからは、明野は新と二人暮らしです。行動範囲は限られています。それとは逆に、関西にいた四年間、明野は女房と別居しています。込み入った女性関係があったと考えてもおかしくありません。女とトラブルがあったので、逃げるようにして上京してきた、と大ざっぱに想定して関西へ行ってみたのです」  フロントガラスが曇ってきた。外気が冷えてきたらしい。佐竹はヒーターをデフに入れてファンをまわした。 「明野夫婦について多少のことはわかりました。損保会社の調査員の話によれば、明野は割烹の板前ということでしたが、その割烹は仕出しをメインにやっている店で、明野は注文取りとして重宝がられていたようです。つまり包丁を握らせるとからっきしダメだが、口はなかなか達者だというか——」 「わかるよ」寺西が軽い調子でいった。「タイプとしちゃ、明野ってやつはわたしに似てる。デスク向きだ」 「女房の方は堅い家です」佐竹は笑っていった。「父親は大阪市の職員で、三代つづくプロテスタントの家系です。娘が障害児を連れて転がり込んできても、温かく迎えて一緒に暮らしていたそうです。ところが娘が、つまり明野の女房が交通事故で突然死ぬと、そのショックで父親が倒れてしまいまして——」 「必ず父親の方が先に倒れる」寺西がため息まじりにいった。  それまで黙っていた聡子が皮肉たっぷりに口をはさんだ。 「精神的に脆《もろ》いというよりも、男って、なんか人間が安っぽく出来てる感じがするんですよね」 「そうそう、男はズルいっていうか」寺西が同意した。 「ほんとズルい」と聡子。 「だが、女は陰険だ」寺西が切り返した。 「そんなことありません」聡子はムキになった。 「とにかく困ったのは母親の方です」と佐竹は話を本筋にもどした。「亭主と障害児の孫と、二人の看病をしなければなりません。そこで、結局、孫を療育施設に預けることになったようです。明野新は、昭和六十三年の六月から九月にかけて三ヵ月半ほど、東大阪市にある〈あけぼの学園〉という療育施設に入所していました」 「でも、明野は新くんを施設から引き取ったわけでしょう?」聡子がいった。 「そうだ」 「口先ばかりじゃなくて、いいところもあるんですよ」聡子が、明野を弁護するというよりも、明野に対する期待をにじませていった。 「問題は、明野はなぜ上京したのか」と佐竹はつづけた。「仕事の関係で上京したのではありません。明野は新を引き取ってから、割烹をやめています。府中の天神町でも現在でも、職についていた形跡はありません。今のところ、女房の保険金を食いつぶして生活しているようです。ようするに、明野が障害児を連れて上京した理由が、不明なのです」佐竹は強調した。 「——なるほど」 「天王寺の駅前のホテルの部屋で、そのことを考えているうちに、これまでの推理で、ちょっとした勘違いをしていたことに気づきました」 「なんだ。勘違いって」 「依頼人の女が米本に与えた手がかりは何だったと思います?」佐竹は逆に質問した。 「ビデオだろ。つまり府中という土地と、障害児の顔。それから……何を調べてほしいのか、女はいろいろ話しただろうが……あとは、少なくとも、明野の名前ぐらいは手がかりとして、女は米本に伝えたはずだ」 「わたしも最初はそう考えました。女はニュースに写っていた子に見覚えがあった。その子の父親の名前を知っていた——と。でも、〈府中〉と〈明野〉さえわかれば、電話帳をめくればいいわけです。明野という名前は珍しいから、すぐに住所を突き止めることができます」 「意味がわからんな。そうやって住所を突き止めて、それから本格的な調査がはじまった、ということだろう?」 「だとすると、なぜ米本はビデオから新の顔写真をプリントする必要があったのでしょうか?」 「……そうだな。どうして写真が必要だったんだ?」 「女は、明野の名前を知らなかった。だから新の写真が必要だった。そう考えるしかありません。そのことに思いあたったら、真相がさらに闇《やみ》の中へ遠ざかってゆく感じがしまして」 「——女と明野の間には何かあるな」寺西がぼそっといった。 「もう一つの犯罪が匂うのです」 「米本は、もう一つの犯罪に気づいて、それをネタに強請《ゆす》った。だから殺されたとでも?」 「何ともいえません——女と明野の接点が明らかにならないと」 「明野の過去を、すべて洗ってみなくちゃならんぞ」 「そこで、関西であてもなく明野の過去を調査をするよりは、現在の明野と女との関係を探った方が合理的だと考えました」 「じっくりと明野を監視すれば、女が接触してくるというわけか」 「すでに接触しているかもしれません」 「そうだな」 「ですから、明野の家を盗聴したいのです」  雨脚が強くなった。佐竹はワイパーの腕振り速度をあげた。  調布インターを降りる手前で突風が吹き、佐竹はハンドルをとられた。現場の下調べをするには好都合な天候になった。この荒れ模様なら車の中を覗《のぞ》かれる危険は少ない。  ワゴンは水しぶきをあげて白糸台一丁目の信号を左折した。横殴りの激しい雨がフロントガラスに叩《たた》きつけた。佐竹は軽く何度かブレーキを踏んで慎重に速度を落とし、ふいに暗くなった視界に目を凝らした。ヘッドライトを点《つ》けて対向車がすれ違ってゆく。  京王線の踏切を南へ渡ったあたりで、雨脚が弱まってきた。  養護学校の正門前を通過した。 「今のが養護学校」  佐竹は時計を見た。午後四時七分前。今日は水曜日。明野新の訪問授業はもう終わって、教師は学校に帰っている時刻だ。 「田丸」佐竹が助手席にいった。 「起きてる」目を閉じたまま田丸が答えた。 「明野が確実に家を空けるのは、毎週木曜日の通院日。朝十一時半ごろ出て、西国分寺駅に近い都立病院へ行く。受付の締切りが十二時だから、遅くとも十一時四十五分には出る。先週の帰宅が三時二十分ごろ、先々週は買い物をして帰ったので四時少し前。十二時から午後三時まで、明野の家は完全に留守になる」 「五分あればすむ」田丸がこともなげにいう。 「明日が木曜日だが——」 「そっちが良ければ」 「では明日だ」佐竹は即決する。  聡子は黙りこくっている。 「人通りは」田丸がきく。 「家は住宅の中の道に面している。だが、人影を見かけることは希《まれ》だ。明野の隣の所帯は共稼ぎの夫婦で、日中はいない」 「なん軒ある」 「三十所帯」 「幼児がいる若い母親、なんてのは?」 「今のところ見ていない。市営住宅なんだ。東京オリンピックのころに建てた廃墟《はいきよ》同然の二軒長屋だ。入居の基準になる月収は十一万以下。普通の所得がある人間は入れない。ウィークデーの昼間、家にいるのは、老人と障害者と明野ぐらいのものだ。その明野は木曜日に病院に行く」 「訪問者は?」 「ガス屋は一昨日《おととい》来た。水道の検針はいつ来るかわからない。エホバの証人が日傘をさして集団で来る。だが布教はたいてい日曜日だ。あとは新聞の勧誘だな。玄関の出入りだけ見られなければいい。何とかなるだろ」 「錠は」 「明野は鍵《かぎ》をかけない」 「どうして」 「ガラス戸の桟が腐っててな、錠前ごと、すっぽり抜けるんだ」  多摩川の堤防沿いの道から市営住宅の方へ左折した。 「あれがアパート」佐竹はハンドルから身を乗り出すようにして窓外を見た。  右側に薄いブルーの洋風のアパートがあった。横壁に〈エステートミズキ〉とある。道路に面して駐車場。斜めに白線が引かれている。 「昨日仮契約しました。二階の一番手前の部屋です」聡子が固い口調でいった。 「感じいいアパートじゃないか」寺西がいった。独り住まいをはじめる娘の不安を打ち消してやるような口調だった。 「左が市営住宅」 「近いな」田丸がつぶやいた。 「明野の家からアパートまでおよそ五十メートル」  住宅の北の端の路地から入った。 「家の構造はどこも同じだ。玄関を入ると四畳半。隣の家と壁で接しているのが六畳間」 「玄関の内側の欄間《らんま》にヒューズボックスがあるな」田丸が指摘した。 「そうみたいだな。玄関の戸がすぐ外れるから要注意。レールがボロボロに錆《さ》びついているうえに、たぶん戸車がバカになってると思う」  田丸が顔をしかめた。駐車場の前を通過する。 「あの白いタウンエースが明野の車」 「新くんを乗せるために、助手席がいつもリクライニングになっています」聡子がいい添える。 「マフラーが落ちかかっているらしい」佐竹はいった。 「どうしてわかった?」寺西がきいた。 「走ると、カタカタ、妙な音がするんです」  今度は寺西が顔をしかめた。 「明野の家です」聡子が注意をうながした。 「表札は出ている。白いポストが目印」佐竹が説明した。  サカキの垣根の照葉が、雨に濡《ぬ》れて光っている。垣根ごしに、軒下に連なっている洗濯物が見えた。 「おしめがなかったな」寺西がなんだか深刻そうな声でいった。 「紙おむつですよ」聡子がいった。 「明野新は一昨日が誕生日。九歳になりました」  表の通りにもどると、待っていたように、 「電話だけでいいのか?」と田丸がきいた。 「電話の盗聴以外に、玄関の出入りを」と佐竹がいった。 「それはヒューズボックスに仕掛ける」 「あとは部屋に一つずつあれば」 「コンセントが使えるだろう」 「長期になるかもしれない」 「わかってる」  エステートミズキの前を通過する。 「中野くんの偽装はどういうことにしたんだ」寺西がいった。 「教材屋の嘱託ということに」佐竹が答えた。 「なんだそれは」 「学力テストの問題作成者です。わたしの友人にいまして。自宅で仕事して、時々出社して編集と打合せする」 「なるほど」  偽装をどうするか思案した段階で、佐竹ははじめて、聡子の前歴が小学校教師であると知った。 「で、引っ越しはいつだ?」 「今度の日曜日にでも」 「盗聴するのはいい。アパート代も出せる。一年でも二年でも好きなだけ盗聴すればいい。だが、本人は納得してるのか?」 「は?——」 「部屋に閉じこもって盗聴するのは辛《つら》いぞ」寺西が諭すようにいった。 「大丈夫です」聡子が答えた。 「独りで、場合によっては何ヵ月もだ」 「承知しています」 「きみはまだ契約の身分だ。うちの会社は社員が捕まっても関知しない」 「それも承知しています」 「この盗聴は悪質だからな」寺西は真面目《まじめ》くさっていった。「下手すれば実刑食らうかもしれん」 「いいんです。どうせ前科者ですから」聡子は寺西をあしらうようにいった。      12  盗聴機器の操作は誰にでもできる。侵入・装着作業を、技術屋なら五分でやるところを、佐竹は七分かかる、という程度の差でしかない。  だから、それが職人魂の証《あかし》みたいに不機嫌な顔をぶら下げて、わざと聞き取らせまいとするかのように短く早口でしゃべる、たいした技術もないのに自尊心ばかり強くて扱いにくい盗聴屋なんかに、仕事を頼むことはない、とデスクや分析屋はいう。  だが、そんなことはお互い様じゃないか、と佐竹は思う。理由は自分でもしかとわからぬが、おれだって不機嫌なんだ、といつも胸のうちでつぶやいている。  盗聴は盗聴屋に任せるのがベスト。頼むからには彼らのやり方を尊重する。ただし態度が悪いのに技術が未熟と判断したら、そいつは二度と使わない。現場近くでアレンジはするが、現場そのものには立ち会わない——それが佐竹のやり方だった。  七月七日木曜日。薄曇り。佐竹は堤防沿いの道に停めたギャランの中にいた。午前十一時半すぎ。明野のタウンエースが、助手席に障害の子を寝かせて、取りつけの甘いマフラーをカラカラと音をたてて北へ向かうのを確認した。携帯電話で田丸に連絡すると、盗聴班はすでに三鷹料金所を出て中央高速道に入っていた。十六分後、都立病院にいる聡子から、明野|父子《おやこ》が到着したと連絡が入った。十二時五分前に近くの工場のサイレンが鳴りはじめたちょうどその時、ルーフキャリアにアルミ製の梯子《はしご》を積んだボンネットバンがあらわれて市営住宅の路地に消え、その六分後には北へ走り去って行った。  日曜日の朝。佐竹は自宅でタンスの中を覗《のぞ》いていた。ジャージは持っていないが、ジーパンはあると思ったのだが、何本もあったはずのリーバイスのジーパンは一本も見当たらなかった。その時、珍しく早起きしてモーニングコーヒーを飲んでいた妻と息子は、何を探しているのかと尋ねなかった。佐竹も口をきかなかった。妻のことはまだしも、そこで息子のことが感情的に引っかかるとは、われながら情けなかった。あいつはまだ十五歳だった。佐竹はジーパンをあきらめて、いつものくたびれた紺のスーツを着た。玄関で靴をはいていると、佐竹が引っかきまわしたタンスの中を整理している妻の舌打ちが、はっきりと聞こえた。  外に出ると、たっぷり湿気をふくんだ空気がまといついてくる。今日も鬱陶《うつとう》しい薄曇りだった。  約束の午前十一時少し前、府中市小柳町のエステートミズキに着くと、すでに引っ越し作業がはじまっていた。写真課の宮川ともう一人の若者が二トントラックの荷台から冷蔵庫を担ぎあげている。荷台にいる若者に見覚えがある。たしか技術課の田丸の助手だ。ジーパンにTシャツ姿の聡子が両手に紙袋をたくさん下げて外階段を上って行った。すれちがうようにして、経理課で借りてきた娘が、黒いタオル地のショートパンツから、小さな顔からは想像もつかない逞《たくま》しい太股《ふともも》をむき出しにして降りてくる。  佐竹は上着を聡子のカリブ4WDの助手席に放り込み、オーディオの梱包《こんぽう》を抱え上げた。汗をかき、快活に声を出し、物を落として小さな悲鳴をあげ、エステートミズキの住人に〈ご迷惑おかけします〉と丁重に挨拶《あいさつ》してまわった。貧しい若者たちの饗宴《きようえん》のように、コンビニで仕入れたオニギリ、サンドイッチ、かき氷、コーヒー、ビールを床に敷いた新聞紙の上にひろげ、笑い声を響かせながら遅めの昼食をとった。買い物があるたびに、こまめにレシートを財布におさめる佐竹だけが、少し浮き上がっている感じはあったが、おおむね全員が、引っ越しを手伝っている職場の同僚の役を、ごく自然な雰囲気のうちに演じ終わった。  受信機をセットした——。  かんたんな試聴をすませてから、技術課の若者が説明した。 「電話の盗聴も室内の盗聴も無線を飛ばしている。受信機は別になっている。右が電話、左が室内用」  オーディオラックのCDデッキの上段に、厚さ四センチていど、手を一杯にひろげたサイズの受信機が二台並べてある。 「電波はUHFを使用。FM式のようにラジオで盗聴がばれる恐れはない。マニア対策として周波数を市販の盗聴器とは少し変えてある」  無線マニアの中には、盗聴電波を検索して楽しむオタッキーが増えている。 「テレコは音声感知式だから、電話盗聴は無人録音できる。念のために二台のテレコをリレー式にした。つまり会話の途中でテープが切れて困るようなことはない。それから外出する時は——」 「どうするの」聡子がちょっと勢いこんできいた。  明野が女に電話をかければ、電話番号解読機で女の電話番号をかんたんに突き止めることができる。女が電話をかけてきて、どこかで会う約束をするようなことになれば、明野を尾行し、次いで明野と会った女を尾行して、その女の素姓を確かめる。——そういう計画だった。  電話があった翌日以降に会うのであれば、盗聴テープをチェックする時間的余裕はたっぷりある。だが、その日のうちに会うということになると、たえず電話をモニターしている必要がある。  交代要員もなしに、聡子が独りで、モニターをつづけたら神経がまいってしまう。そこで外出先から明野の電話を盗聴するシステムを採用した。 「このプラグを留守番電話のジャックに差し込めばいい」と技術課の若者が実際にやってみせた。  それで電話用の受信機と、田丸が改造した留守番電話が接続されたことになる。 「受信機に内蔵されている周波数変換器を介して、盗聴した声が留守番電話に録音されるわけだ」 「へえー」 「留守番電話の転送機能を利用して、さっき渡したポケベルに着信を知らせるようセットしてある」 「これね」と聡子がポケベルをバッグから出した。 「彼の家の電話が使われたら、この留守番電話が録音をはじめる。着信したと同じだ。同時にポケベルが鳴る。そうしたら、きみは外出先からリモコン機能を利用してここへ電話すれば、会話内容を聞くことができる」 「助かるわ」  これで気兼ねなく聡子は外出できる。 「次は室内の方だけど」  若者は室内用のテレコをオンにして、つまみを操作した。スピーカーから、ブーンという機械音が聞こえてきた。 「これ、何だと思う?」若者がきいた。 「……さあ」と聡子が首をひねった。 「これ古い冷蔵庫。コンプレッサーにガタがきてる。あの家狭くてさ、冷蔵庫が台所と玄関の間を塞《ふさ》ぐように置いてあって、裏側が玄関に向いてるんだ」 「すると、これは玄関の内側に仕掛けた発信機が送ってくる音なのね」 「そう。室内の三ヵ所の発信機が周波数の異なる三つの電波を送ってくる。だからモニターして、適当なチャンネルを選ぶ必要がある」 「わかったわ」  聡子がチャンネルを変えると——ファンファーレが高らかにひびいた。 「なに、これ」 「競馬放送を聴いてるのよ!」  経理課の娘が腰を浮かせて叫んだ。  あんた馬券買ってる? なんレースだ? テレビつけようぜ。テレビやってないだろ。まだ二時前だよ。ラジオだよラジオ。仕事の切れ目は不明のまま、いつものように仕事は唐突に終わる。明野の家から流れて来るけたたましい実況放送にまじって、聡子のつぶやきが聞こえた。 〈あの子、ごはん、ちゃんともらってるのかしら——〉  聡子は食べ物の残がいに視線を落とし、ふっと独りだけの世界に閉じこもっていた。その横顔を盗み見て、佐竹は案じた。いい兆候ではない——と。 〈用事がなくても三日に一度は事務所に顔を出せ〉と佐竹は聡子にいった。〈気晴らしに買い物がしたくなったら外出しろ〉とすすめた。〈学力テストの問題作成者という偽装を破綻《はたん》なく演じるうえでも、それが必要なのだ〉と言い添えた。ただし、〈夜には必ずエステートミズキに帰って、テープをチェックし、就寝前にもチェックし、朝目覚めたら、すぐにまたチェックすることを怠るな〉と戒めた。  聡子からは毎日、〈異常なし〉の電話連絡が入った。週末まで聡子は事務所にあらわれなかった。寺西に問い合わせてみると、アーバン・リサーチに顔を出した形跡もなかった。  土曜日の夜。佐竹は缶ビールの袋を下げてエステートミズキを訪れた。 「いらっしゃい」と聡子は懐かしい友人を迎えるような笑顔を見せた。  佐竹は靴を脱いであがった。 「中へ、どうぞ」  聡子はドアをロックするために佐竹とからだを入れ替えた。一瞬、聡子の肌が匂《にお》い、それにまじって、いがらっぽい臭いが鼻をついた。  キッチンにつながる六畳間に籐《とう》の敷物が敷いてある。聡子はガラストップの低いテーブルにビールを二缶置いて、残りを冷蔵庫にしまった。 「ちらかしてますけど、適当にすわってください」 「グラスいらないから」佐竹は腰をおろして缶ビールのプルトップを引いた。一口やって部屋を眺めた。  隣との壁際にオーディオセット。ケンウッドのレコードプレイヤーもある。モニター中だったのか、ヘッドホーンを安楽|椅子《いす》の背もたれに引っかけてある。 「何もないんですけど」聡子が小皿に塩辛を盛ってくる。 「いいのに」  テレビがつけっ放しなのに気づいた。だが音声は消してある。耳で盗聴をモニターしながらテレビを見ていたのか。 「それねえ——」聡子がビールをやりながらにやにや笑った。「テレビを見ながら、何だかぶつぶつ文句をいっているんです」 「誰が?」 「あいつ」  聡子は明野をあいつと呼んだ。なんだか離婚した亭主を親しみをこめて呼ぶような口調だった。 「テレビに文句をいってるのか?」 「そうなんです」聡子は音声を消したテレビ画面を示していった。「こうやって、画面を見ながら聴くと、あいつが、テレビの誰に、どんな不満があるのかわかって、おもしろいんです」 「たとえば」 「野球中継見てて、監督の采配《さいはい》に文句つけるなんてのは序の口。ドラマだったら大根役者! って連発する。それなら見なけりゃいいと思うんですけど」聡子はのけぞって笑い出した。 「アイドルタレントにはいちいち言葉遣いを矯正してる。昔の名前で食べてるフォーク系の歌手が、グルメ番組か何かでレポーターやってると、おまえには他にもっと命がけでやりたいことはないのか! って、文句つける文句つける」  佐竹は、おれも何だか明野に似ているなと思って、困った。——話題を聡子へ振った。 「まえからタバコ吸ってるのか」 「臭っちゃいました?」聡子は口もとを手で隠した。目が笑っている。 「家の中に閉じこもってるんだろ」 「この一週間で、二回、食糧の買い出しに出ただけ」聡子は正直にいった。「はじめの二、三日は、盗聴するのが何か嫌で嫌で——うしろめたいっていうか——他人のプライバシーを覗《のぞ》き見するってことですものね。それでいらいらしてタバコ吸いはじめたんですけど」 「今は、のめり込んでいる」佐竹は断定していった。 「ええ」聡子は意外にさばさばと認めて、反攻に転じた。「だから、あなたが、探偵をやめない理由がわかりました」 「盗み聞きする愉《たの》しみ——」  佐竹は聡子の指摘を正面で受け止めて、あからさまにいった。たしかに、それもおれが探偵をやめない理由の一つだろう。だが気がかりなのは——と、佐竹は缶ビールを飲み干してテーブルにコツンと音をたてて置き、ここが別れ道だと思って、はっきりときいた。 「自分の仕事を愛せそうか?」 「まだ憎んでなんかいません。希望は捨てていません」  聡子はどうやら初対面の時の会話を覚えていたようだ。 「今はただ、あいつと新くんの生活を調べあげたいんです」 「——少しはわかったのか」 「間違いないと思うんです」 「何が」 「殺し」 「——どうして」 「あいつ、毎晩、うなされてます」  聡子は佐竹の視線から逃れるように、窓の外、市営住宅がある方角の闇《やみ》を見つめた。      13  明野が毎晩うなされている——。佐竹は椅子の背もたれにぶら下がっているヘッドホーンを見つめた。気弱な中年男が、犯した罪の深さにおののく声が聞こえるかのように、耳をすませた。心証としても、明野はクロ、というわけだった。 「うなされているのを聞いて、はじめは新くんの声だと思ったのよ」  聡子は暗い窓から佐竹に視線をもどして、意外なことをいった。 「あの子、〈アー〉とか、〈ウー〉とか、それくらいしかしゃべれないから」 「そう——」 「九歳になったというのに、ぜんぜん言葉をしゃべれないの。明野は一度も、あの子から〈お父さん〉と呼ばれたことがないと思うわ」  聡子の沈んだ気分が佐竹にも伝染した。由紀の子は、どのていどしゃべれたのだろうか、とふと思った。由紀は、たしかこういったはずだ。「言葉を話すというレベルで問題があった」と。  お父さん、お母さん、お姉ちゃん——由紀の子は、愛する人たちに、言葉をかけることなく、死んでしまったのだろうか。  佐竹は明るい話題を持ち出すつもりで、聡子の横顔に声をかけた。 「明日は何時に来ればいい?」  明日の日曜日、聡子は、元の亭主に引き取られた四歳の娘と、デイトする予定だった。佐竹は聡子と交代して、一日この部屋に詰めることになっていた。 「九時半ごろに来ていただけますか」聡子が笑顔を取り戻していった。 「わかった——どこへ行くんだ?」軽い調子できいた。 「決めてません。新宿で待ち合わせて、それから——」 「亭主も一緒か」 「ええ。あたしは娘と二人きりでデイトしたいんですけど」 「そうすればいいじゃないか」 「そうもいかないんです」 「亭主が許してくれない?」 「娘が——」聡子は笑みを浮かべたまま、ちょっと顔をしかめて見せた。 「——」  それはそうだろう。娘にとっては父母がそろってワンセットだ。ばかなことをきいたものだ——。  日曜日。梅雨が一足早く明けたような快晴の朝だった。かっと照りつける夏の日ざしに、エステートミズキの入口にある薄いブルーの紫陽花《あじさい》が色あせて見えた。二〇一号室の窓は開け放たれて、白いレースのカーテンが風に揺らいでいる。  ドアに鍵《かぎ》はかかっていなかった。聡子はすでに化粧をすませ、おろし立てのTシャツにジーンズのパンツをはき、安楽椅子でリラックスしていた。音楽でも聴いているのか、両手でヘッドホーンをそっと押さえ、まるで夢見るように目を閉じていた。 「ちょうどよかった。これ聞いてみてください」と聡子は、はしゃぐようにいって、ヘッドホーンを佐竹に手渡した。  佐竹はヘッドホーンをつけて安楽椅子にすわった。 「いま、新くんにごはんをあげているところです」聡子が説明した。「いつもだとテレビをつけっ放しだから、よく聞こえないんですけど、今朝は珍しくテレビを見てません」  食器が触れ合うような音がたしかに聞こえる。あとはいろいろな音が重なりあって、佐竹には聞き分けられない。 「変な音がするな。ゴトゴトって」 「洗濯機の脱水器です」 「なんだ、洗濯機もガタがきてるのか」佐竹が呆《あき》れた声を出した。 「そうじゃなくて、たぶん、洗濯物をしっかり詰めてないからだと思います」 「しょうがないやつだな——でも毎日洗濯はやってるわけか」 「ええ。やらないわけにいきませんよ。新くんの汚れ物がいっぱい出るんですから」 「紙おむつを使っているはずだが」 「おしめの洗濯はしなくてすむんですが、小さなタオルを毎日たくさん干してます」 「タオル——何に使う?」 「よだれを拭《ふ》くんだとおもいます」  佐竹はヘッドホーンのプラグを抜き、少しボリュームをあげて——尋ねた。 「この、紙がカサカサいうような音は」 「片手で新聞を読みながら、ごはんをあげてるんです」聡子が手真似で示した。  ピチャピチャと猫が水を舐《な》めるような音も聞こえる——。 「これは」 「新くんが食べてるんです」 〈はい、おりこうさん〉と明野がつぶやくようにいった。  また食器が触れ合い、今度は、さっきとは少し違うペチャペチャいう音。 「明野がごはんを噛《か》み砕いてます」 「え?」 「ごはんを噛み砕いてから、スプーンで新くんにあげてるらしいんです」 「彼は自分で食えないのか」 「そう。やっぱり大きな赤ちゃんだったのよ」 「手もだめ?」 「だめ——麻痺《まひ》してるっていうか」 〈シンちゃん、はい、ああんして〉と明野の声がした。何とも情けない感じに聞こえた。 「ちょっと心がこもってないな」聡子が生徒を叱《しか》るようにいった。 「口下手なんだろう」佐竹が弁護した。  ピチャピチャと音をたてて、新が食べている。ゴクンと飲み込む音。また、〈はい、おりこうさん〉と明野が声をかける。 「食うピッチが早いな」 「食欲あるんです」聡子は得意そうにいった。 「なに食ってるんだ?」 「シチューかもしれないけど、たぶんカレー」 「よくカレーだとわかったな」 「火曜日に一度作ってます。その時は何を料理しているのかわからなかったんですけど、金曜日にまた同じ料理を作りはじめたので、ああ、これはカレーだな、って——タマネギ刻んで、あとはジャガイモと人参《にんじん》。そこへ肉をほうり込んで、煮るだけ」 「タマネギ、いためないのか」 「しません」 「アク取りは」 「しませんよ」聡子の口ぶりがふいに皮肉な調子に変わった。「あなたするんですか? あなた家族のために料理することあるんですか?」 「あいつ、板前だぞ」佐竹は自分に向けられた聡子の矛先を強引にねじ曲げた。 「口の方が達者な板前ですよ。包丁を握らせると、からっきし意気地がない板前だって、あなたが調べてきたんでしょ?」 「そうだが……それにしても、週に二度もカレーとは」 「それを二日も三日もかけて食べてるんです」 「ほかに何か作らないのか?」 「いちおう味噌汁《みそしる》は毎日。野菜を摂《と》ろうという意思はあるらしく、ナスやらインゲンやら、野菜は何でも味噌汁にぶち込んでます。その代わり、ほかに野菜料理は作りません」 「料理が嫌いな板前だな」 「たまに干物を焼きますが、大根おろしは作りません。めんどうくさいんでしょう。とにかく、包丁を握るのは一日に一回ていどですから。一人暮らしなら、好き勝手にやっていいと思いますけど、子供と二人で生活してるのに、そんな食事を作っているようでは、父親失格ですよ」  そうはいっても、料理だけでなく洗濯もあるしな、と佐竹は想像するだけでうんざりした。明野のどこか投げやりな日常生活に、ちらっと共感さえ覚えた。自分が同じ境遇に置かれたらどうなるかと自問して、即座に自答した。明野とたいして変わらぬ生活を送るにちがいない。となれば——やはり、おれも父親失格か。 「新と暮らしはじめた六年前は、明野だって、いろいろ料理も考えて作ったんじゃないのかな」佐竹は自分への気休めをいった。 「女性が明野と同じことをしたら、世間に何といわれるか、考えてもみてください」聡子は男一般を許さない口調になった。 「出かけなくていいのか」佐竹は話を打ち切りたくていった。 「もう食事が終わりますから」聡子が壁の時計を見ていった。  九時半を少しまわっていた。食事にかかる時間もわかっているらしい。——やがて、〈はい、クチュクチュしようね〉と明野がいった。 「歯磨き」聡子がすかさずいった。 「へえ……」  ゲエッ、ゲエッ、と子供の呻《うめ》き声。新が喉《のど》を詰まらせたらしい。バシッ、バシッと頬《ほお》を叩《たた》く痛い音。 「なに」 「これ毎回なんです。歯を磨きはじめると、唾《つば》がたまって喉に詰まる。それで頬を叩いて、唾を飲み下すようにさせてる。たぶんそういうことだろうと思います」 〈はーい、おりこうさん!〉とやけに明るい明野の声。歯磨きが終わったらしい。 「これは感じがこもってるな」 「めんどうくさい食事がやっと終わって、ほっとしたという自分の正直な気持ちの表現ですよ。別に新くんに優しく声をかけたわけじゃありません」聡子は手厳しくいった。 〈よいしょっ〉と明野がいった。ほとんど同時に、ブリッブリッ、ブーゥゥゥ、という奇妙な音——。 「やっだあ」聡子が口を大きく開けて笑った。 「なんだ」 「おならッ」 「どっちがやった」 「新くんですよお。あたし、これを聞くのが楽しみなんですよお」  聡子は笑いつづけてバッグをつかんだ。そのまま出て行きかけて、思い出したように立ち止まり、両手で子供を抱くまねをして、にこやかに説明した。 「明野は六畳間の座卓でごはんをあげています。新くんの寝床は隣の家との境の壁際に、敷きっぱなしになってるんだと思います。で、ごはんがすんで、新くんを抱きかかえて、よいしょって、寝床へ移す時に、新くんがやっちゃうんですね、いつも——けっこう臭いらしいですよ」  聡子は哄笑《こうしよう》をまき散らして出ていった。  その日、電話盗聴器は一度も作動しなかった。夜十時近くになって、エステートミズキの前の道から、山口百恵の≪イミテイション・ゴールド≫が聞こえてきた。澄んだ声で、くせのない歌い方だった。歌声は外階段を上ってきて、部屋の中までつづいた。  聡子は四畳半で着替えをしながら最後まで歌い終わった。襖を開け、満足しきった顔をのぞかせて、 「夏休みに娘と二人で旅行をする約束をしたんですけど、休みもらっていいですか」といった。 「もちろん」と答えると、聡子は「ほんとにいいんですか!」と小娘のように喜んで、感謝のしるしとでもいうように、板ガムを一枚くれた。  佐竹が帰ろうとすると、聡子は「お茶を一杯、つきあってください」と引き止めた。聡子は話を聞いてもらいたいのだろう、と佐竹は思った。  だが、そうではなかった。娘とのデイトがどんな具合だったのか、上機嫌でしゃべり出すかと思ったのだが、もう聡子は自分の話は一言も口にせず、今日一日、明野|父子《おやこ》がどんなふうに暮らしていたか、新の健康状態に変化はなかったかどうか、佐竹にこと細かに質問を浴びせかけはじめた。  月曜日の夜、佐竹は事務所からエステートミズキに電話を入れた。聡子は、今日も手がかりがなかったことを伝えたあとで、浮かぬ声でいった。 「新くん、頭、空っぽなんですって」 「空っぽとは——脳がないという意味か?」 「脳の実質がほとんどない、という言い方を明野はしていました」 「明野が誰かと話していたのか」 「担任の教師に説明していたんです」  今日、一学期最後の授業があったという。 「新の病名はわかったか」 「まだ……でも、脳の実質がほとんどない、という明野の言い方は、ちょっとひどすぎると思うんですよね」 「ひどすぎる?」 「だって、ほんとうに頭が空っぽみたいに聞こえるじゃありませんか」聡子の声には憤りが込められていた。 「じゃあ——どういえば、より正確なんだ」 「脳の実質は、少しはある」 「ほとんどない、のと、少しはある、のと、同じことだろ」佐竹は聡子の見解を持て余していった。 「違いますよ。脳は少ないかもしれないけれど、ちゃんと残っているんです。明野はその点に確信を持つべきなんです」聡子は、その僅《わず》かに残っている脳に希望を託すようにいった。 「まあ——ね」佐竹は聡子の熱っぽい口調に押されて、あいまいに答えた。  火曜日。聡子は事務所に顔を出して、「新くんが風邪をひいて三十九度の高熱を出してるのに、明野は病院へ連れて行きません」と訴えるようにいった。明野が担任教師に電話をして、明日の終業式を休むと話していたので、わかったという。  ところが翌日、聡子は電話をかけてきて、 「あれは風邪じゃなかったみたいです。どうも便秘が原因で熱が出たらしいんです。今朝大量の排便をしたら平熱にもどりました」と訂正した。  今や聡子の趣味同然と化した盗聴テープを詳しく分析した結果、意外にも、明野は新の健康状態を冷静に判断していることがわかった。  明野は一種の説明魔で、訪問授業が終わった後でお茶を飲みながら、教師の質問に詳しく答えていた。  新が発熱する原因はおよそ三つあるという。風邪および肺炎。熱性ケイレン。それから尿感染による発熱である。今回の場合、そのいずれにもあてはまらないので、明野は注意深く新を観察していたらしい。  盗聴も二週目に入り、聡子は、気持ちに余裕が出てきたのであろう、口もとからタバコの臭いは消え、たびたび事務所にも顔を見せるようになった。佐竹が事務所でつかまらない日には、自宅にまで電話をかけて長々と報告した。ようするに聡子は、明野父子の生活を誰かにしゃべりたくてたまらなかったのだ。      14  そのころ佐竹は、いわゆる≪自己調査≫の仕事を二件抱えていた。≪自己調査≫とは、自分のアイデンティティは何か、端的にいえば、世間は自分をどう評価しているのか、それを調査してほしいという依頼である。  一人は典型的な窓際族の初老のサラリーマンで、もう一人は、女子大を出て就職したばかりの若い女だった。  初老のサラリーマンには、彼に対する会社の惨《むご》い評価と、それに加えて、近々希望退職者の募集で労使が合意するという内部情報を伝えた。  若い女の依頼に関していえば、最初の面談の時に、佐竹の結論は出ていた。≪入院の勧告≫である。すでに病院のあたりもつけていたのだが、残念ながらベッドに空きがなかった。  この種の仕事は、からだを酷使したわけでもないのに、からだの芯《しん》までボロ雑巾《ぞうきん》のようにくたくたになった。そんな夜に、疲れてむくんだ脚を引きずって事務所に帰ると、聡子が待ち構えていて、待ち切れなかったように、明野新の話をしゃべり出した。 「これ、聴いてください」  と聡子がいった。カセットテレコを応接セットのテーブルの上に置いて、訪問授業の盗聴テープを再生した。 「あの子、歌だって歌えるんです」  テレコから流れてきたのは、訪問授業の〈始まり〉の歌だった。十三人の訪問クラスの生徒を洗い出す過程で、佐竹も何度か耳にした曲だった。 〈シンちゃん おはよう ございます せんせい おはよう ございます——〉 「教師の歌声が元気良すぎて、これまで気づかなかったんですが、新くんは、教師の歌声に合わせて歌っています」  カシオトーンの伴奏と教師の歌声にまじって、たしかに子供の唸《うな》り声が聞こえるが、それが歌声とは信じられなかった。 「これ、歌ってるんです」聡子は強調した。  佐竹が明快な同意を示さなかったので、聡子は上体を軽く揺すりながら、新の口まねをして歌ってみせた。 「アー、ウー、アー、ウー」 「歌うというよりも、音楽に反応しているというべきだろう」佐竹は冷静に感想を述べた。 「歌ってるんですよ。よく聴いてみてください」聡子はいら立ちを見せた。  それでも佐竹が首をかしげていると、聡子は次に、≪赤いくつ≫を聞かせた——。 「新くんの声、聞こえないでしょ?」 「ああ」  新の声はまったく聞こえてこない——。 「つまり、歌ってないんです」 「うん——」そうかもしれない。 「彼、のらないんです。短調の、もの悲しいメロディは——表情がわかりませんから、うっとり聴いているのかもしれませんが」 「ふーん……」 「ちゃんとお気に入りの曲があるんです」  聡子はテープを送りながら検索した。今度は≪七つの子≫の頭を出した。  それは前奏のほんの出だしの部分だった。一小節も終わらないうちに、アー、アーと新が大きな声で唸りはじめた。 「ね、ね、ね」と聡子は一人ではしゃいだ。  やがて女教師が歌いはじめると、新は、その声に負けまいとするように声を張り上げた。アー、アー、という赤ん坊のような幼い声は、どんどん力強さを増して、ウォー、ウォー、という叫び声に変わっていった。 「これは歌ってるんでしょ?」 「ああ、歌ってるな」佐竹も認めた。 「ね、いったでしょう?」聡子は勝ち誇ったようにいった。  曲が終わっても、新は、まだ興奮を引きずって、ウォー、ウォーと叫んでいた。そんな新の様子が可笑《おか》しかったのだろう、女教師のけたたましい笑いが弾《はじ》けた。そして遠くから、明野のどこか干からびた笑いが聞こえてきた。 「明野のやつ、もう少し素直に喜びを表現すればいいのに——」と聡子はのどかな論評を加えた。  聡子の話を聞くうちに、佐竹は、明野が米本殺しの重要参考人であることを、つかの間《ま》忘れた。明野と新が暮らすあの二軒長屋には、濃密な時間が、ゆったりと流れているように思われた。  養護学校が夏休みに入り、長い梅雨も明けようとしていたある日、事務所で報告書を書いていると、米本の妻から小包が届いた。葬儀の日から五十日を経過している。香典返しだろうと思った。そこへウネ子から電話が入り、 「あなたのは、何が入ってた?」といった。  佐竹はちょっと待ってくださいといい、急いで包みを開けた。中には、七七忌にあたり法要をすませたという手書きの挨拶状《あいさつじよう》と、魚を擬した青色の皿が入っていた。 「青い皿で、目玉の飛び出た骨だらけの魚が描いてあります。これは深海魚ですね」と答えると、 「あたしのは、ヒラメみたいなやつ。寺西のは縞模様《しまもよう》の熱帯魚だって」とウネ子は困ったような声を出した。 「何か——」 「彼女、焼き物するの、知ってたでしょ?」 「——はい」 「香典返しの皿を、一枚一枚自分で焼いてるのよ。たぶん百枚以上はあるでしょう。挨拶状も手書きだし——」と嘆息した。 「どうしてそんな手間のかかることを?」 「隠されているのは、自己破壊の衝動よ」  佐竹は、ウネ子が示唆しているものを理解した。事務所の侘《わび》しい光にかざして皿を眺めた。亭主を突然失った女の、常軌を逸した勤勉さの背後にある、哀《かな》しみの深さを思って言葉を失った。  こんな時、ウネ子はいつも、生じている事態に対して、はっきりとした輪郭を与えてくれる。 「自分を責めてるのよ。彼女、もっともっと米本を愛してあげればよかったと、後悔してる。だから、自分で自分を罰しようとしているの」 「——」 「ねえ、どうする? どうすることもできやしないわよね。あたしができるのは、せいぜい一杯つきあうことぐらい。電話してみようかな——迷惑かな——」ウネ子は電話口で自分自身としゃべりはじめた。  佐竹もまた胸のうちでつぶやいていた。自分にできるのは、他者との関係ではいつもそうであるように、発作のように突発的に襲ってくる無力感に耐えること。殺人犯を突き止めれば遺族の悲哀が癒《いや》されるなどと期待しないこと。明野の正体を暴くことで明野と新の平穏な暮らしが壊れることを恐れないこと。設定された具体的な目標に向かって慎重に近づいてゆくこと。とりあえず、謎《なぞ》の女の正体を突き止めること。  依然として、明野と女が接触する兆候は見えてこなかったが、必ずその日が来ると確信して佐竹は待ちつづけていた。  多少気がかりな点があったとすれば、日を追って、聡子が盗聴に熱中して行くことだった。熱中するあまり、盗聴では飽き足らず、盗撮、監視、不必要な尾行、などの手段に訴えるならば、明野を脅えさせ、用心深くさせる危険がないとはいえなかった。  明野|父子《おやこ》を気にかけていたのは、聡子だけではなかった。由紀からは、あれ以来毎週のように電話があった。由紀は賢い女だから、佐竹がしゃべりたがらないことにすぐに気づいて、「また会おうね。何かあったら電話ちょうだい」と、いつも由紀の方から会話を短く終わらせた。由紀の死んだ子供がどのていど言葉を話せたかについて問うと、由紀は「ぜんぜん」と答えた。  ウネ子からも、「あの子、どうしてる?」と度々連絡があって、先週は静養中の蓼科《たてしな》高原の別荘から、新を気づかう電話をかけてきた。おどろいたことに、寺西が調査の進展具合を佐竹に尋ねる素振りの中にも、寺西が明野父子の暮らしぶりを知りたがっている様子がありありとうかがえた。  七月末の木曜日の夜のことだった。事務所で報告書を書いていると、聡子が入ってきて、「昨日、ノボルって子が死んだの」とぽつりといった。  井出登は訪問クラスの小学六年生で、担任は新と同じ佐伯恭子である。食べたものが逆流して肺につまり、あっけなく逝ったという。担任の佐伯恭子は、その日、同僚と一緒にディズニーランドへ遊びに行く予定だったが、予定を急遽《きゆうきよ》中止して通夜に駆けつけた。  その晩、訪問クラスの三人の教師が明野の家に集まって酒を飲んだので、およその経過がわかったのである。明野は台所に立って包丁を握り、どんな料理を作ったのか定かではないが、甲斐甲斐《かいがい》しく働いたようである。 「新くんが入学した年にも、新くんと入れ代わるようにして、訪問クラスの子が一人死んでいます」聡子がいった。 「あの子はどうなんだ。その後、熱を出さないのか」と佐竹はきいた。 「元気です」聡子は勢い良く断定した。「彼は訪問クラスの中で障害の重さは一番なんだそうですが、食欲も一番なんです。めったに風邪をひきません。もう一年以上、入院もしてません」 「ほう」佐竹は軽い驚きの声をあげた。  同時に、疑問が一つ解けた思いがした。由紀がいった、「その子なりに普通の暮らしができていれば、そんなに病院に行かないものなの」という意味が、何となくわかった。 「あたしたちが養護学校の正門で張り込みをしたころ、新くんは授業を休んでいたんでしょ?」聡子がいった。 「そう」佐竹は思い出した。 「あれは新くんが体調を崩したんじゃなくて、明野が風邪で寝込んでいたんです」 「なんだ」佐竹は笑顔で舌打ちした。 「〈タフネス新ちゃん〉と、みんなが呼んでいます」 「だが、健康そうに見えるだけで、実際は、心肺機能や内臓の機能にも、いろいろと問題を抱えているんじゃないのかな」 「それはそうでしょうけど……」  聡子は、あなたはどうして、いつも冷ややかな現実を指摘するの、という顔を向けた。それから気を取り直して話をつづけた。 「教師たちとの会話を聴いていたら、いろんなことがわかりました——明野は去年の春にバスタブを二人用に換えてるんです。どうしてだか、わかります?」 「どうしてだろう」佐竹は首をひねった。 「新くんを風呂《ふろ》に入れるのに、二人用の広さのバスタブが必要なんです」 「あんなにからだは小さいのに?」 「そうですね。まだ学校へ上がる前の子供ぐらいのからだです」 「それでどうして、二人用のバスタブが必要になるんだ?」 「膝《ひざ》が曲がらないからですよ」 「ははあ——」 「大人が一人用のバスに入るところを想像してみてください」聡子はソファの上で膝小僧を抱いて説明した。「あんな小さなバスタブに入れるのは、股《もも》の付け根で一度からだを曲げて、もう一度、今度は膝の部分を股とは逆方向に折り曲げることができるからです。つまり、からだを折りたたむんです」 「——なるほど」 「新くんは股も膝も曲がりません」 「二人用ならなんとかなるわけか」 「それもあと何年持つか、と明野は話しています。今でも、バスタブの対角線に沿って、斜めに新くんのからだを沈めているそうです」 「あの近くに銭湯ないのかな」佐竹は自分の声が急に大きくなったのがわかった。「銭湯に連れて行くというわけにはいかないのかな」 「銭湯は無理ですよ。排泄《はいせつ》の問題があるから」 「そうか——垂れ流しだった」 「おしっこの方は何とかなります。カテーテルというシリコンの管を、尿道から差し込んで、膀胱《ぼうこう》にたまった尿を排泄させていますから、入浴させる直前に排尿させれば、バスタブでおもらしをする恐れはほとんどありません。でも、うんこの方が——」 「お湯にプカプカと浮いてきたりするわけか」 「彼のものは、コトンと下に落ちるそうです」 「コトンと……下に……」佐竹はそこに新のうんこが落ちたかのように、テーブルの上に視線を落とした。 「よくわかりませんが、明野の言い方によると、大きな山羊《やぎ》の糞《ふん》みたいなもので、丸みのある固い物だそうです」 「どんな代物だろう」佐竹は笑った。「実際に見てみたいもんだ」 「養護学校の教師たちも見たがっていました」 「へえー」 「あたし、背中の傷も見てみたい」 「背中の傷って——」 「彼の正式な病名がわかりました。ニブンセキツイ症、といいます。二つに分かれている脊椎《せきつい》、という意味でしょうか。≪二分脊椎症≫」 「聞いたことないな」 「具体的にどうなっているのかわかりませんが、脊椎にひどい傷を負ったまま生まれたそうです。その傷のある場所で、背骨が曲がっています。年齢を経るにしたがって、その変形が進んで、今では九十度ぐらい曲がっている、といっていました」  聡子は両手の指先を突き合わせて、角度を作って見せた。 「九十度というと、すごい曲がり方だぞ」 「曲がるというよりも、折れているという感じですね」 「そんな状態で、よく生きてこれたな」佐竹は嘆息した。 「すごいですよね。新くんの歌声を聴いていると、肉体が持つ生命力というよりも、何かもっと精神的なもの、彼の、もっともっと生きたいという意欲を、強く感じます」 「まったく——写真ではそんなに背中が変形しているようには見えなかった」佐竹はまだ信じられないとでもいうようにいった。 「でも、写真を見た時も、胴の部分がつまっている感じがしてたと思いますけど」 「ああ——」佐竹は思い出した。由紀も聡子と同じことをいっていた。胴がつまった感じがすると。 「脊椎が傷ついた箇所から下の神経は麻痺《まひ》するそうです。当然、下肢の機能に障害が起きます。彼の障害者手帳には、〈両下肢機能全廃〉と記されています。彼の場合は両手も自由になりません。かんたんなものを握ることさえできません」 「だから自分でメシが食えない」 「食事を自分でとれないのは、手の機能障害によるというよりも、大脳の障害のせいですね。つまり、水頭症の方ですが、二分脊椎症という病気は、高い確率で水頭症を併発するそうです」  聡子は自分の頭に手を置いて説明をつづけた。 「脳は脳室の中におさまっています。脳室の中は髄液に満たされていて、脳はその髄液の中でぽっかり浮かんだような状態で、外部の衝撃から守られているんです。ところが何らかの原因で髄液が異常にたまると、髄液が脳を圧迫して脳の発達を妨げます。外からは、頭が膨らんでいるように見えます。これが水頭症です」 「ずいぶん詳しく調べたな」 「このていどは家庭用の医学書にのっています」  聡子は先へすすんだ。 「水頭症の手術はですね。異常にたまった髄液を排水するために、細い管をからだに埋め込んで、脳室から腹膜まで、いわばバイパスを通すんです。そして髄液を腹膜に捨てる。≪シャントの手術≫とかいってました。これは明野が養護学校の教師たちに説明しているのを聞いたんです」 「新も、そのバイパスの手術をしてる」 「もちろんです」聡子は自分の左側頭部の耳の後ろあたりを指でさしていった。「このへんにバルブが埋め込んであって、脳室からきた管が、このバルブを経由して、胸からお腹の方へと皮膚の下を通っているんです」 「なんか、痛そうだ」 「でも、このバイパスで、新くんの脳は守られているんです。小さな脳ですけど」 「そうだな」 「人間の脳細胞の数は、赤ちゃんでも大人でも変わらないってこと、知ってました?」 「いや」 「脳細胞の数って、生まれ落ちた時にもう決まってるんです。大脳皮質の細胞の数は、ある試算によると百四十億個といわれています。ところが、新くんは母親の胎内でひどい水頭症にかかって、脳が十分に発達できなかったために、脳細胞の数が最初から少ないんです」 「ということは、脳細胞の数は、どんな手術をしても、もうこれ以上は増えないということか」 「そうです。でも脳細胞はあることはあるんですよ。けっこうあると思います。今ある脳細胞を、声をかけてやったり、歌ってあげたり、からだを揺すぶってあげたりして、刺激してあげる必要があるんです」 「なあ——」と佐竹は半ば呆《あき》れていった。 「何ですか?」 「きみは養護学校の教師になれば良かったんじゃないのか?」  聡子は満更でもない顔を向けて、含み笑いをもらした。  こんなふうに過ごしてきた聡子と明野|父子《おやこ》の蜜月《みつげつ》の日々は、突然、その夜で終わりを告げた。  佐竹は反射的にナイトテーブルの時計を見た。午前五時七分ちょうど。厚手のカーテンに朝日が当たっている。リビングルームで電話が鳴っていた。隣のベッドで妻が背中をまるめている。寝相の良い妻にしては珍しいことだと思った。まだ電話が鳴っている。佐竹はベッドからそろりと降りた。  リビングルームの壁に掛けた電話をとった。 「佐竹です——」 「中野です」聡子の震える声が佐竹の耳を打った。 「どうした」佐竹は落ち着いた声でいった。 「明野がエンジンを暖めています」 「車か——」 「ええ。家の前に停めて、何か積み込んでいました」 「見に行ったのか」 「まずかったでしょうか?」怯《おび》えた。 「いや——何を積み込んでいたか、わかるか」 「鞄《かばん》を二つ。ほかはわかりません。ちらっと見ただけです。すぐに知らせた方がいいと思って」 「新は」 「最後に乗せるんだと思います。まさか——」 「捨てては行かないよ」 「そうですよね」 「どこへ行くのかわかってるのか」 「いいえ」 「電話はなかったのか」 「ありません」 「きみが寝ている間にも電話はなかったのか」 「テレコを確認しました」 「尾行だ」 「はい」 「わたしは、車を取りに事務所へ向かう」 「こっちへ来てくれるんじゃないんですか」 「間に合うものか」 「——」 「行き先もわからないんだ」 「そうですね」 「まず、きみ一人で尾行」 「はい」 「携帯電話を忘れるな」 「はい」      15  自分の靴音が小気味よく聞こえる。佐竹は自宅マンションを出て淡島通《あわしまどお》りへ向かっていた。午前五時十八分。涼気が首筋からすべり込んでくる。大気はまだ引き締まっている。人影はない。新聞配達が路地の奥をバイクで走りまわる音がしていた。  淡島通りは、自宅から南へ二ブロックほど下ったところにある。そこでタクシーがつかまらなければ、小田急線とJRを乗り継いで事務所へ行くしかない。  携帯電話の呼び出し音が鳴った。もどかしげにイヤホーンを耳に差し込む。 「もしもし——」聡子が奇妙に静かな声で呼びかけてきた。 「はい」 「出ました」 「きみは」 「車で尾行してます」 「新は」 「確認できません。右折しました。養護学校の方へ向かっています」 「見失うなよ」  佐竹は祈るようにいって電話を切った。何時間後に、どこで二人に追いつけることになるのかわからないが、今のところ聡子にすべてを託すほかなかった。  タクシーは淡島通りですぐにつかまった。  山手通りを走っている時に、聡子から連絡が入った。 「甲州街道を新宿方面へ向かっています」  その数分後、また聡子が電話をかけてきた。明野は調布《ちようふ》インターから首都高速四号線に入り、都心へ向かっているという。  佐竹が事務所近くの駐車場からカローラを出した時には、明野のタウンエースと聡子のカリブは首都高速四号線の新宿ランプのすぐ手前まで来ていた。佐竹は二人から十分ほど遅れて、新宿ランプへ入った。  携帯電話を通話状態にしたまま、頻繁に連絡を取った。車は高速六号向島線に入って行った。東北自動車道に向かうのか、という考えがちらっと浮かんだ。明野の実家は秋田県の大潟村である。だが、午前六時すぎには、三郷《みさと》料金所から常磐高速道に入った。その時点で佐竹と明野との距離は、時間差にしておよそ三分につまっていた。  柏《かしわ》をすぎて利根川《とねがわ》にかかる橋を渡っている時に、 「守谷《もりや》サービスエリアに入りました」と聡子がいった。  佐竹はほっと安堵《あんど》のため息をもらした。利根川を渡り終わるとすぐ、≪P≫の標識が見えた。方向指示器を左に出して減速し、広いパーキングにカローラを侵入させて行った。  カリブはレストハウスから離れた位置に停めてあった。聡子が車の外で待っていた。白の綿パンにTシャツを着て、素足にスニーカーをひっかけている。佐竹はカリブの隣に車を停めて、降りた。 「明野は——」そっときいた。 「タバコを吸ってます」  聡子が顔で示した方角を見た。テラスの灰皿の前で、よれよれのTシャツを着た明野がタバコを吸っていた。ブルーの短パンから骨ばった細い脚がのびている。何だか寒そうな風情だった。 「車はトイレの近くに停めてあります。マイクロバスの隣」  マイクロバスの陰にタウンエースの白いボディが見えた。 「新は」 「明野が助手席をのぞき込んでいましたから、いると思います」  明野がくわえタバコで、膝《ひざ》を屈伸させている。 「土浦で降りる可能性がある」佐竹がいった。 「ああ」と聡子は思い出した。 「五月二十五日に、米本が土浦のマリーベルという喫茶店で会った女だ。明野はその女と会うつもりかもしれない」 「インターはどこで降りるんですか」 「あと十五分ぐらいで≪桜土浦≫に着く。その先に≪土浦北≫、土浦方面に降りるインターはその二ヵ所だ」 「女と会う予定なら、連絡を取りあったはずでしょ?」聡子は疑問を投げかける口調でいった。 「そうだ」 「でも、それらしい電話はありませんでしたよ」 「盗聴に気づいていたかもしれない」 「——」 「女との連絡は公衆電話を使っている可能性がある」  明野がタバコをもみ消して、車へ向かった。 「今度は、わたしの後ろにつけてくれ」佐竹は車のドアに手をかけていった。  明野は走行車線を百キロの速度制限をきっちり守って走っていた。佐竹は、明野との間に一台ないし二台の車を入れて、注意深く追跡した。予想に反して、明野は≪桜土浦≫、≪土浦北≫と通過して行った。  聡子が電話をかけてきて、 「降りませんでしたよ」と咎《とが》めるようにいった。 「わかってる」佐竹は不機嫌に答えた。 「この高速道路はどこまで行くんです?」 「福島県のいわき市だ。のんびり走っても、あと二時間もあれば着く」 「食事はどうするつもりなんでしょうか」 「わたしは知らない」 「そろそろおしめを替える時間なんですよ」 「そんなことでいちいち電話するな」佐竹は声を荒らげて電話を切った。  明野はさらに三十分ほど走り、水戸の手前の友部《ともべ》サービスエリアに入った。  佐竹は車の中から、明野が新を抱いてレストランに入って行くのを見届けると、助手席の足もとの黒い鞄をつかんだ。中から角型の発信機を出した。使い捨てライターほどの大きさである。二ヵ所で細い針金を巻き、それぞれ端をのばしてある。電池ケースを開けてボタン電池を装着した。これで九十時間は使用可能である。佐竹は発信機をポケットに放り込んで、降り立った。聡子はすでに車を降りて待っていた。 「発信機を取りつける」と聡子にささやいた。  二人はふらりとタウンエースの後部に近づいた。佐竹は何か落とし物をしたふりをよそおって、すっと屈《かが》み込んだ。スペアタイヤを保持しているパイプに素早く発信機を装着した。  カローラにもどって、受信機をセットした。強い指向性を持つアンテナで、発信機の方向を探ることができる。発信機と受信機の距離は、受信機のパネルに埋め込まれた四つの緑色のシグナルランプが、電波の強弱を利用して四段階で表示する。上段から、五十メートル以内、二百五十メートル以内、五百メートル以内、それ以上、の順になっている。  受信機に上着をかぶせてセットが完了した。  聡子はすっかりリラックスした口調で、 「あたしたちも朝食にしましょうよ」といった。  佐竹と聡子は売店でコーヒーとサンドイッチを買って、かんたんに朝食をすませた。聡子はトイレに行き、佐竹はカローラにもどった。フロントガラスごしに明野の車を視野に入れて、待機の態勢をとった。  聡子が焼きそばのパックを手にもどってきて、 「食べません?」と声をかけた。 「いや——」佐竹は苦笑した。  聡子はカリブの運転席で、膝の上にハンカチをひろげて、焼きそばを食べはじめた。少量ずつだが休みないピッチで口に運んだ。  佐竹は車を降りて、聡子の健啖《けんたん》ぶりを間近で眺めた。自分自身は慢性的な食欲不振に陥っているのだが、他人がいかにもうまそうに食べるのを見るのは好きだった。 「あっちはウナ重食べてます」聡子は悔しそうにいった。 「朝からウナギとはね」佐竹はレストランの方を見ていった。 「チョコレートパフェも」 「聞いてるだけで胸やけがしてきた」 「新くん、甘いもの、大好きなんです」 「そう——」  脳の実質がほとんどない、と聞いていたせいなのか、新がほかの子供と同じように甘いものが好きだと知って、佐竹はちょっとした感銘を覚えた。  聡子は軽く咳《せ》き込んで、 「何か飲み物、買ってくればよかったわ」といった。  冗談だということはわかっていた。聡子はコーヒーを半分も飲まなかった。途中でトイレに駆け込むような事態にならないよう細心の注意を払っていた。  八時近くになって、明野|父子《おやこ》がレストランから出てきた。明野は歩きながら、おどけた調子で新を揺すぶった。新が、アー、ウー、と歓声をあげるのが、佐竹の耳にも届いた。  明野はタウンエースのスライドドアを開けて、後部座席に新を寝かせた。 「おしっこさせるんですよ」聡子が説明した。  排尿は十二、三分かかった。明野は新を助手席に移し、シートベルトをかけた。丸めた紙おむつをゴミ箱に捨てに行った。それからレストハウスの前の電話ボックスに入った。  佐竹は車を離れた。電話ボックスまで八十メートルほど距離があった。明野の手元を盗み見て、相手の電話番号を読み取るつもりだったが、明野はすでに小さなアドレス帳を開いて番号を押している。  相手はすぐに電話に出た。明野は身振りをまじえて何か話している。これから会う人間に、何時ごろ到着するか、教えているのだろうか。  また追跡がはじまった。数ヵ所のトンネルを抜けた。トンネルの合間で右手に光る海が見えた。  明野は日立北インターで降りた。料金所を出て左折し、山あいの曲がりくねった道を走った。  信号待ちをしている間に、道路地図をひろげて現在地を確認した。日立市をすぎて多賀郡十王《たがぐんじゆうおう》町に入ったらしい。東へ三キロほど走れば太平洋であるが、車は西の阿武隈《あぶくま》山系へ向かっていた。  携帯電話で指示し、途中で聡子のカリブと入れ代わった。  車は山襞《やまひだ》に深く分け入って行く。左手にダムが見えた。標識に≪十王ダム≫とあった。佐竹はまた聡子と連絡をとり、ふたたびカローラを前に出した。明野が背後に無警戒であることを祈った。  土ぼこりをかぶった駐在所の前を通過した。深い緑におおわれた小学校があった。  明野のタウンエースは本道から右折して、細い道に入った。小さな集落を抜けると、アスファルトの道は消えた。土が深く掘れ、道の中央で岩がむき出しになる。歩くような速度でしか走れない。  やがて、タウンエースの後ろ姿が見えなくなった。受信機をのぞき込んだ佐竹は、明野との距離が急につまったことに気づいた。すでに五十メートル以内に接近している。車の故障か? どうする? 停止するかどうか、一瞬ためらった時だった。  樫《かし》の大きな幹が、道をかき抱くように枝を垂らしていた。その木陰に頭から突っ込んで停めてあるタウンエースの白いボディを、佐竹は視界の端にとらえた。そのまま車を走らせた。バックミラーを見た。乾いた土ぼこりを巻き上げて、聡子のカリブもついてくる。  さらに二百メートルほど進んで、明るい場所に出た。周囲は杉を伐採した跡地だった。東の方向にのびている林道にカローラを入れて停めた。カリブがつづいて停まった。 「様子を見てくる」  佐竹はそれだけいって、来た道を歩いてもどった。  樫の樹の陰にまだタウンエースはあった。佐竹は木立の背後からしばらく見ていた。緑の梢《こずえ》を渡ってくる風が首筋を撫《な》でた。耳をすませると、水音がやかましいくらいに聞こえる。明野が外を歩きまわっている気配はない。佐竹は足音を消して、そっと近づいた。リアウィンドーから中をのぞいた。座席を倒して、明野が寝ていた。  佐竹は車を停めた伐採地にもどった。 「明野は何をしてるんです?」聡子がきいた。 「寝てるよ」佐竹は額の汗をぬぐった。 「どういうつもりなんでしょう」聡子が訝《いぶか》しんだ。 「約束の時間には早すぎるということだろう」  佐竹は草を踏んで、水音のする低い場所へ降りて行った。 「九時六分です」聡子がついてきて、佐竹の背後からいった。  佐竹は細い清流を見つけた。 「明野にここまで引きずりまわされたという感じがするが——」腰を屈めて、水に手をつけた。ひんやりした感触が腕に這《は》い登ってくる。「彼にしてみれば予定の行動なのかもしれない」 「予定の行動って?」 「新の体力を考えれば、暑い日中に長距離を走るのは避けた方がよい。だから明野は朝早く、涼しいうちに出発したのだ」 「ああ——きっとそうよ」聡子は思わず大きな声を出した。 「そして今は、約束の時間まで木陰で休んでいる。正確には、新を休ませている、というべきだな」 「やっぱり父親なんですねえ」聡子はしきりとうなずいた。 「明野は新のペースに合わせて行動している。われわれも新のペースに合わせよう。どこか木陰に車を入れて、昼寝だ」  佐竹は顔をじゃぶじゃぶと洗った。      16  およそ二時間が経過した——。  午前十一時。カローラの助手席に置いた受信機から、エンジンが吹き上がる音が聞こえてきた。明野は三百メートルほど南に下った地点にいた。さらに遠ざかって行った。道を引き返しているのだ。佐竹は車を発進させた。  土ぼこりを舞い上げている明野の車が前方に見え隠れしたところで、佐竹は速度を落とした。元の幹線道路に出ると、明野は左折した。佐竹は十分に距離をとって追跡した。山から平野部へと向かっていた。ダムの脇《わき》を通過し、やがて平坦地《へいたんち》に出た。常磐線の跨線橋《こせんきよう》を渡った。そのまま二キロほど真《ま》っ直《す》ぐな道がつづき、国道六号に出た。明野は左折して行った。佐竹は強い浜風に潮の香りを嗅《か》ぎつけた。国道のすぐ向こうは太平洋だった。  明野はしばらく北上してから右折し、海岸の方へ降りて行った。≪国民宿舎・鵜《う》の岬《みさき》≫の標識があった。家並から民宿の看板がいくつも出ている。宿をとっているのだろうか、と佐竹は一瞬考えた。丈の低い黒松の林が見えた。水着姿の家族連れが小走りに道を渡る。波の音、レゲエミュージック、海水浴客の喧噪《けんそう》が聞こえてくる。前方でガードマンが車を右側の駐車場に誘導していた。明野が車を停止させた。明野との距離が見る見るうちにつまった。  佐竹は車を路肩に寄せた。それを目ざとく見つけて、ガードマンが鋭く笛を吹いた。前へ進めと手招きしている。路上駐車は禁止だというわけだ。その間に車が一台追い越して行った。佐竹はその車の後ろにつけた。聡子も佐竹につづいた。左手の砂浜に海の家がある。前方の小高い丘の上に白い建物が見える。国民宿舎らしい。  明野は駐車場に車を入れた。佐竹も入口で料金を払って入った。町営の駐車場だった。海水浴場というものは、日本中どこも芋を洗うように満員だと思っていたが、駐車場は四分の一ほどが埋まっているだけだった。佐竹は明野の車を背後から見る位置にカローラを停めた。  明野は、山の中で着替えたらしく、すでに海水パンツをはいていた。タウンエースの後ろのドアから車椅子《くるまいす》を出した。ハンドルに付いているレバーを引いて、背もたれを倒した。車椅子は特注品だった。  新は背中が折れ曲がっているために、椅子にすわらせる姿勢も、仰向けに寝る姿勢もとることができない。いつも横になって寝るだけである。そこで車椅子の背もたれを倒し、ベッドにして、そこへ新を寝かせるのである。  隣に停めたカリブから聡子が出てきて、呆《あき》れた口調でいった。 「まさか、海水浴に来るとは——」  明野は車椅子にストッパーをかけ、荷台からパラソルを出した。 「あの子を海水浴に連れて来るのは、はじめてではないらしい。手慣れているよ」佐竹はいった。  明野は助手席から新を抱き下ろして、ツバ付きの白い帽子をかぶせた。顎《あご》ひもをかけ、帽子をつまんで引っ張った。ゴムになっているらしく、顎ひもが伸びた。ぱっと手放した。すぽっと帽子が新の異様に張り出した後頭部にはまった。明野は笑いながら同じ動作を二度三度とくりかえした。 「オモチャにして遊んだりして」聡子が眉《まゆ》をひそめた。 「あれが、やつの愛情表現なんだろう」佐竹は笑っていった。 「どうします?」 「仕方ない。われわれも海水浴だ」 「水着なんか持ってきてませんよ」 「どこかで買ってきてくれ」佐竹は財布を渡した。  聡子が水着を買いに走った。  佐竹は監視をつづけた。明野は新を車椅子に寝かせ、赤いデイパックを背負った。手元にパラソルを持ち、車椅子を押して浜辺へ向かった。その後ろ姿には、なにやら子連れで討ち入りに出かけるような、滑稽《こつけい》さと悲壮感がにじみ出ていた。  明野は大胆だった。腰の深さで、新を海水に浸けて遊ばせていたのだが、高い波が来た時に、新を海中に落としてしまったのだ。鮮やかなブルーの水着を着た聡子が思わず立ち上がった。 「すわってろよ」佐竹は視界をさえぎった聡子の眩《まぶ》しいからだから視線を外していった。  二人は、パラソルと車椅子から二十メートルほど離れた、浜の上の方で監視していた。 「あいつ、また笑ってるわ」聡子は砂に腰をおろして吐き捨てるようにいった。  明野は照れ笑いを浮かべながら、新を抱いて波打ち際に上がってきた。近くにいた黒い水着の女が心配そうに明野父子を振り返った。 「新のことが気がかりなのは、きみだけじゃないようだ」佐竹がいった。 「え——何ですか?」聡子が聞き返した。 「新の近くにいる人間は、知らないふりをしているが、新のことが気になって仕方ない。新が波をかぶった時の周囲の反応で、それがわかる」 「ほんとですか?」 「きみの視野はひどく狭い」 「——そう」 「探偵失格だ」 「——」 「それにしても」佐竹は望遠レンズを装着したカメラで明野父子の姿を捜していった。「どうしてみんな、新のことがそんなに気にかかるのかな」 「だって——あのからだ」  たしかに、新は惨《むご》いからだを人の視線にさらしていた。くの字に折れた背骨。膝《ひざ》は曲がらずに棒杭《ぼうぐい》のように突っ張り、足首から先が両方ともねじれている。遠目にも、あれでは靴ははけまい歩けまい、とわかる。  明野が新を片腕で抱え、もう片手で、ずり落ちた新の海水パンツを引き上げている。先ほどから何度も見ている光景だった。下肢全体がひどく痩《や》せ衰えている。尻《しり》の肉と股《もも》の肉との境界が定かでない。そのため、水を含んで重くなった海水パンツはすぐにずり落ちてくるのだ。 「股に傷痕《きずあと》がある」佐竹がいった。  新の両方の股の外側に、かなり広い面積でケロイド状の傷痕があった。 「ええ」 「あれは何だ」 「背中の傷を覆うために、あそこから皮膚を剥《は》がして、移植したんですって——」  佐竹は感心したのだが、明野が新を水に浸けている時間はほんの数分だった。水から上がると、すぐパラソルの下の車椅子に寝かせ、新の濡《ぬ》れたからだをバスタオルで拭《ふ》いた。それから体温を確かめるように、手を新の肩や背中に置いて、明野は真剣な表情になる。  明野は今、背中を波に向けて新を抱き、波打ち際にすわりこんでいた。波が押し寄せ、引き返し、新の萎《な》えた脚を荒々しく揺すぶる。時折、波が明野の背中を越えて、新の頭から落ちてきた。 「新くんの表情、わかります?」聡子がきいた。 「よく見えない」 「明野は歌を歌っているんじゃありません?」 「口は動かしている——話しかけているのか、歌っているのか、わからない」 「あたし、明野が歌うの、聞いたことあるんですよ」聡子は笑いを噛《か》み殺していった。「念仏みたいな歌い方で、ぜんぜん感情がこもっていない。何ていうか、義務で歌っているという感じ」  佐竹にはわかっていた。こんなふうに、いつも聡子は明野のふるまいを責めるようにいうが、口ぶりとは裏腹に、義務感からでも何でもいいから、新に歌ってやってほしいと、聡子は願っている。  たえず声をかけてやり、歌ってやり、揺すぶってやる父親と一緒に暮らしているのだから、新は幸せなのかもしれない。その暮らしにも終わりがある。確実にその終わりが近づいていることを、佐竹も聡子もじゅうぶんに自覚していた。だが、お互いに口に出すことは決してなかった。  明野は海の家からアイスクリームを買ってきて、新に与えていた。新は、はじめの一口、二口は、ゆっくり口を動かしていたが、すぐに飲み下すように食べはじめたので、明野がスプーンで口に運ぶのが間に合わなくなった。 「困ったわ」聡子は、日焼けして赤みをおびた太股に砂をかけながら、のんびりいった。 「何が」 「あたし、またお腹すいちゃった」  正午まで後三分少々という時刻だった。明野父子が見せているのどかな風情が、監視している探偵たちの緊張をやわらげていた。  そこで佐竹は、明野の視線が新からふっと上がったのに気づいた。  パラソルから四、五メートル離れて、ほっそりしたからだつきの女が立っていた。麦わら帽子をかぶり、水玉模様の黒っぽいワンピースを着ていた。右腕に布製のバッグを提げて、左手に黒いヒールをぶらさげている。  女はあきらかに明野を見ていた。明野は数秒間、女を見ていたが、また新に視線をもどしてアイスクリームを与えはじめた。女は立ち去らなかった。 「あの女性」聡子も気づいていった。  いつから女がそこにいたのか、佐竹はわからなかった。もう長い時間、遠くから明野父子を観察していたのかもしれない。  女はパラソルの方へ足を踏み出した。弁当をひろげている家族連れを迂回《うかい》して、近づき、明野父子の前に立った。明野が顔をあげて何かいった。女は膝を折って、新をのぞき込んだ。麦わら帽子が女の表情を隠した。 「正面にまわって写真を撮る」佐竹はささやいた。「きみを撮る振りをする。わかるな」 「はい」  二人は波打ち際へ移動した。聡子は車椅子を背にして立った。佐竹はカメラをかまえ、手真似で腰をおろせと伝えた。聡子が腰をおろした。佐竹はファインダーをのぞいて、女の表情をとらえた。優しい感じのする嫌味《いやみ》のない顔立ちだった。目に涙があふれてくるのがわかった。急いで数回シャッターを切った。女の顔がくしゃくしゃに歪《ゆが》んだ。ハンカチが顔を隠した。佐竹はカメラを下ろし、荷物のある場所にもどった。 「きみ、先に着替えろよ」佐竹は女から視線を外さずにいった。 「はい」聡子がビニールバッグを手にとった。  明野が新を抱いたまま膝立ちした。女に新を抱けといっているらしい。女は怯《ひる》む仕種《しぐさ》を見せ、後退《あとずさ》りして立ち上がった。明野に背を向けて歩き出した。明野が見送っている。女は道路の方へ上がって行く。 「急げ」佐竹は聡子に追いついて、低く唸《うな》った。「わたしは女を尾行する」 「着替えたら、どうします」 「車で待機だ」  佐竹はサングラスをかけて女の後を追った。  女は丘の上に通じる道を登って行った。道の両側は庭園になっている。車で来ているはずだと思った。町営駐車場に車を停めているのではないようだ。丘の上には国民宿舎がある。そこの駐車場に車を停めているのか?  丘の頂上に三階建てほどの建物があった。その手前に駐車場があるが、女は見向きもしないでエントランスの石段を登り、建物の中に入った。女は受付の男に何か聞いている。男が指さした方向に電話ボックスが二つあった。女はその一つに入った。  佐竹はちらっと迷ったが、自動ドアを開けて、玄関に入った。女の隣の電話ボックスは空いている。ボックスの白い格子ドアを開けて中へ入った。受話器を手にとった。コインを入れるマネをする。女はすでに話している。声は聞こえない。でたらめに番号を押しながら、電話の上の張り紙に目をとめた。二つのタクシー会社の名前と電話番号が書いてあった。女はタクシーを呼ぶのだろうか?  女は電話ボックスを出た。エントランスに出て、片手を柱に当ててからだを支え、足の砂を払った。ビーチサンダルからヒールに履きかえた。サンダルをビニール袋に入れて、手に提げていた布製のバッグにしまった。そのまま表で立っている。間違いないと思った。女は最寄りの駅からタクシーで来て、今またタクシーを待っているのだ。  佐竹は玄関から表に出た。エントランスの屋根の下にいる女の脇《わき》を通った。やや短めのストレートの黒い髪。ちらっと見えた表情は硬かった。年の頃、三十代半ば。髪や服装からは、とりたてて特徴のある女ではない。ゆっくりと道を下った。最寄りの駅はどこになるのか、と考えた。常磐線を跨《また》ぐ陸橋から駅が見えたことを思い出す。川尻《かわじり》という駅だ。あの駅に駅前タクシーがあれば、五分ていどで国民宿舎まで来る。建物のエントランスが見えなくなってから、携帯電話で聡子を呼び出した。 「ちょうど車に着いたところです。更衣室が混んでいて」聡子が荒い息づかいでいった。 「女はタクシーを呼んだらしい。駐車場の出口の近くまで車を出して、待機しろ」  黒塗りのタクシーが町営駐車場の前を通過して、国民宿舎の方へ登って行ったのは、それから八分ほど経過してからであった。佐竹はすでにカローラの中で着替えをすませていた。すぐにタクシーが降りてきた。女が乗っているのを確認して、佐竹はカローラを出した。聡子のカリブがつづいた。  予想通り、タクシーは五分ほどで川尻駅に到着した。佐竹と聡子は、駅前ロータリーの中央にある一般車のパーキングに駐車した。駅舎に入って行くと、女は改札口の上に掛けてある時刻表を眺めていた。現在、十二時三十七分。上りに、四十二分発の勝田行きがある。下りは、四十八分発の平《たいら》行きだ。だが、下りということはあるまい。  女は自動券売機の前へ行き、路線図をちらっと眺め、切符を買った。佐竹は女の手元を確認した。二段になっているボタンの、下の段の右端だ。女が改札口から中へ入り、プラットホームを左の方へ向かうのを見届けてから、佐竹は切符を買った。一五九〇円と書かれたボタンの上には、≪土浦≫≪荒川沖≫の文字があった。  四十二分発の勝田行きに乗った。佐竹は隣の車両に、聡子は女と同じ車両に乗った。勝田で五分の待ち合わせの後に、上野行きの各駅停車に乗り換えた。十四時五十一分、土浦に着いた。女は降りなかった。次の荒川沖でも降りなかった。  十五時六分。女は牛久《うしく》駅で降りた。改札口で乗り越し料金、百九十円を払った。女は西口へ出て、駅前でバスに乗り込んだ。  女は刈谷《かりや》四丁目というバス停で降りた。佐竹は反対側の歩道を歩きながら、聡子は女の背後から女を尾行した。比較的新しい閑静な住宅街だった。クリーニング屋と小さなスーパーマーケットがあった。女はバス通りから右折し、路地の一番奥まで行き、とある家の門扉《もんぴ》を開けた。女は鍵《かぎ》を出して玄関の錠を開け、中へ入った。  佐竹と聡子は肩を並べて、その家にゆっくりと近づいた。グレーの瓦屋根《かわらやね》の二階建ての家だった。敷地は三十坪ていど。狭いが手入れの行き届いている庭。洗濯物が風にひるがえっている。男物のパジャマ、少女のものらしいブラウスやスカート、パンツ、白い靴下……。車庫はあるが車は出払っている。亭主が通勤に使っているのか。車庫の奥に自転車が三台、きちんと揃《そろ》えて置いてある。三台とも婦人用だった。娘が二人、あるいは老いた婦人がいるのか。表札は≪尋津《ひろつ》≫とだけ書かれていた。住所を記憶した。牛久市刈谷四丁目□□番地。  女の家の前を通りすぎた。二人とも昂揚感《こうようかん》から押し黙って長い距離を歩き続けた。  どれほど歩いただろうか、住宅の切れ目から、きらきら光っている水面が見えた。牛久沼だった。聡子が佐竹の肘《ひじ》にそっと手をあてがってきた。ひんやりした感触があった。佐竹は足をとめた。聡子の手のひらは冷たい汗をかいているようだった。聡子も足をとめ、佐竹の顔を仰ぐように見て、沈黙を破った。 「どうしましょう」といった。 「どうするって——」 「だって——とうとうつかまえちゃったのよ」  聡子は何かに怯《おび》えていた。      17  別れ話が持ち上がっている男と女のように、二人は微妙な距離をおいて、ふたたび黙りこくって歩きつづけた。  バス通りに出た。佐竹は、刈谷四丁目のバス停で時刻表にちらっと目をやり、次のバスが来るまで何分待つことになるのか頭の中ではじき出す前に、また歩きはじめた。聡子は何もいわずについてきた。記憶では牛久駅まで歩いてもたいした距離ではなかったが、神経の高ぶりを鎮めるために日ざかりに肉体をさらして歩きたかったのかもしれない。佐竹にも聡子にも、自分の意志で足を運んでいる気配はなかった。  途中で見かけた電話ボックスに入り、電話帳をめくって、≪尋津真一郎≫の名前を確認した。佐竹が手帳にメモしてボックスを出ると、 「明日は土曜日で市役所は休みです」と聡子がそそのかすようにいった。  今すぐ尋津真一郎の戸籍を調べてみたいという気持ちは、佐竹も同じだった。コンビニを兼ねる酒屋で尋ねると、市役所は駅の反対側にあるという。十五時三十八分だった。まだ間に合う。どちらからともなく足速になった。  さらに十分ほど歩いて駅に着いた。西友ストアの文房具売り場に行ってみたが、≪尋津≫の三文判はなかった。印鑑の回転ケースをまだ眺めている聡子の、あきらめきれない横顔に、佐竹はささやきかけた。 「あの女にしろ、明野にしろ、今さらどこにも逃げられはしない」  二人は、川尻駅前に放置してある車をとりに、下りの列車に乗った。  八月一日月曜日。夜。佐竹が別件の取材を終えて事務所に帰った時には、すでに尋津真一郎の住民票と戸籍謄本が届いていた。佐竹は封筒を手にしてソファにからだをあずけ、足を投げ出した。 「何か飲みますか」聡子がいった。  聡子の声は聞こえたが、意識がそちらに向かずに、返事をしないで書類を取り出していると、 「あの女、後妻に入ってます」と聡子がいった。  佐竹はちらっと聡子に視線をやり、飲み物を尋ねられたことを思い出し、「コーヒー、熱いやつ」とだけいって、戸籍謄本に見入った。  本籍は現住所と同じだった。尋津真一郎は昭和二十七年十一月九日生まれ。四十一歳である。≪妻 紀子≫にバツ印。妻の欄を読んだ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   昭和六拾参年八月弐日午前五時拾九分茨城県牛久市で死亡親族尋津真一郎届出除籍   長女の春香、昭和五十九年生まれの十歳。二女の舞子、昭和六十二年生まれの七歳。   そして、もう一人の妻の欄——。   父 羽田 守   母   きく   三女   妻 民恵   昭和参拾五年五月弐拾五日石川県|珠洲《すず》郡内浦村で出生同年六月弐日父届出入籍   平成参年弐月拾八日尋津真一郎と婚姻届出石川県珠洲郡内浦町市之瀬□□番地羽田守戸籍から入籍 [#ここで字下げ終わり] 「珠洲郡内浦町というと——」佐竹は書類に視線を落としたままきいた。 「能登《のと》半島の先端に近いところです。輪島《わじま》市と反対側で、富山湾に面しています」聡子が説明した。 「民恵は現在三十四歳ということになるな」 「ええ」 「民恵は三年前、三十一歳の時に、尋津真一郎の後妻に入った……」  佐竹は顔をあげた。聡子がキッチンに立って、一袋ずつパッケージされたドリップ式のコーヒーをいれていた。あんなものを買った覚えはない。聡子が自腹を切って買ってきたのだろうかとふと思い、頭の片隅では、民恵と真一郎はどこで知り合ったのだろうか、と考えをめぐらした。  佐竹の沈黙の意味を理解したらしく、 「二人は同じ町の出身なんです」と聡子がいった。  そうだったな——。佐竹はあらためて真一郎の欄を見た。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   夫 真一郎   昭和弐拾七年拾壱月九日石川県珠洲郡内浦村で出生同月十日父届出 [#ここで字下げ終わり] 「最初の妻の紀子は、二女の舞子を生んで約一年後に死んでいます」聡子がコーヒーカップを佐竹の前においていった。「妻に先立たれて、娘二人の養育に困っていた尋津と、やや婚期を逸した三十一歳の民恵との縁談を、村の誰かが取り持った、というありふれた構図が浮かんできますが」  佐竹はコーヒーに口をつけて、 「彼らの結婚はそうだったかもしれないが、結婚する以前の民恵の過去には何かがある」といった。 「そうですね——」聡子は同意を示して、佐竹の胸のあたりを見つめた。  二人は同時に、三日前の浜辺の光景を思い浮かべていた。民恵は明野新に接近し、熱い砂地に膝《ひざ》をつき、新をのぞき込んで、泣いたのである。佐竹が撮った写真にも、民恵が泣く直前の、顔が歪《ゆが》み出す瞬間が鮮明にとらえられていた。  そのことについて、二人はこう推測している。あの女は、新の肉親か、ごく親しい関係にある人間である——と。 「明野新の、九年間の人生のどこかで、新と民恵との接点があるはずだ」  ロッカーから明野の戸籍および附票を取り出して、新の人生の軌跡を確認した。  新は、昭和六十年七月四日大阪府大阪市で生まれている。  昭和六十年九月八日、母親の昌美と一緒に大阪府堺市の母親の実家に転居した。この転居は、新の重い障害をめぐって父母の間に何か意思の疎通があったことをうかがわせる。  母親が交通事故で死ぬと、昭和六十三年十月三日、父親の哲夫のもとへ転居した。  平成元年九月二十九日、父と一緒に上京して東京都府中市天神町に転居。平成四年六月一日現在の府中市小柳町に転居。 「次は、民恵の戸籍調査ですね」聡子がはやる気持ちを隠して、ことさらに静かな口調でいった。  佐竹は黙ってコーヒーを飲んだ。  民恵は、平成三年二月十八日に尋津真一郎の戸籍に入籍する以前に、どこで、どんな暮らしをしていたのか——。  翌八月二日。≪懇意≫にしている司法書士の事務所を経由して、速達で、返信用の封筒も速達扱いにして、民恵の実父の羽田守の戸籍謄本および附票を、石川県珠洲郡内浦町役場に請求した。  聡子は朝から府中市小柳町のアパートにこもっていた。  佐竹は待つ身の辛《つら》さに耐えかねたように、カローラで牛久市へ行った。尋津家の前の路上で、二人の少女が何か罵《ののし》り合いながらサッカーボールを蹴《け》っていた。すでに車はなかった。昼食後、リュックを背負った先ほどの少女二人と民恵が外出した。民恵はハンドバッグだけの軽装だった。夏休みだから、子供二人で能登の父母の田舎にでも行くのだろう、と思った。  家の中には誰もいないはずだった。侵入して盗聴機を仕掛けるか、という考えがちらっと浮かんだが、すぐに打ち消した。戸籍と附票を洗ってゆけば、やがて民恵と新の関係に推測がつくだろう。その段階で、民恵に直接問いただせばよいのだ。明野との関係を。米本殺しの真相を。  佐竹はあてもなく車を走らせ、気がつくと霞ケ浦をのぞむ観光道路に入っていた。湖面を渡る風に、明野新の歌声を聞いたような気がした。牧場がいくつもあった。中央競馬会|美浦《みほ》トレーニングセンターの中へ迷い込んだ。頭の中が空っぽになるまで、飽かず馬を眺めた。  八月三日早朝。佐竹は、前夜アーバン・リサーチで借りたパルサーに乗って出かけ、勤めに出る尋津の車を尾行した。尋津は、つくば市の鉱業技術院筑波研究センターの微生物工業技術研究所の施設に入って行った。  佐竹はつくば市の喫茶店に入って軽い朝食をとった。聡子に電話して、名簿業者にあたって尋津の素姓を確かめるよう、指示を出した。  各種の名簿の販売や閲覧は、ビジネスとして成立している。名簿業者のところへ行けば、大学・高校の卒業者名簿をはじめ、官庁や企業の職員名簿、あるいは≪社外秘・仕入れ先名簿≫の類《たぐい》、特殊なルートを通せば≪住民台帳の写し≫さえ閲覧が可能である。  佐竹はパルサーを牛久市に向けて走らせた。民恵を呼び出す日が近づいている。それまでに、民恵がどんな妻や母を演じているのか、探っておくつもりだった。  猛暑に怖《お》じけづいたかのように、尋津家の庭にも窓にも、そして周辺の道路にも人影はなかった。パルサーを、売れ残った造成地の路肩に停めて、窓を開け放った。営業マンの仮眠を装いながら待つことにした。リクライニングシートに横たわり、顔にかぶせたハンカチの下から尋津家を視野に入れた。そのうち意識がふっと遠くなった。うつらうつらしてきた——。  十一時を少しまわった時だった。道路から立ちのぼる陽炎《かげろう》の中から、二人の男が姿をあらわした。二人とも肩幅があった。手にしているのは上着だけだった。  刑事だ——。  そう思った瞬間、佐竹の背中の毛穴がいっせいにひらいた。噴き出した汗がシャツを濡《ぬ》らし、シャツを通してバックシートを濡らした。  彼ら特有の暴力的な体臭がにおった。凶悪犯人とたえず対峙《たいじ》しているがゆえの底無しに暗い彼らの素顔を、佐竹は垣間見《かいまみ》たと思った。  眠気が消し飛んでいた。佐竹はカメラをつかんだ。白髪まじりの男が尋津家のインターホンのボタンを押した。若い方の男は、といっても四十半ばの中年だが、車庫の中をのぞいていた。佐竹は汗で濡れた手でカメラのシャッターを切った。  二人の男が尋津家に入るのを見届けて、佐竹は車を出した。男たちが来た方角の路地を流したが、それらしい車は見当たらなかった。彼らはバスで来たのだろう。パルサーをさらに遠ざけて停めた。尋津家の出入りを辛うじて確認できる位置だった。  二十数分で、男たちは尋津家から出てきた。佐竹は二人がバス停に立つのを確認すると、先回りして駅へ向かい、駅前の西友ストアの駐車場にパルサーを乗り捨てた。牛久駅で新宿までの切符を買い、改札口を見渡せるハンバーガーショップに入った。ひりついた喉《のど》をアイスティーで潤しながら待ち受けた。  十二時六分前。二人の男があらわれた。無表情だった。佐竹は尾行をはじめた。  午後一時八分。上野駅に到着した。二人は構内の立ち食い蕎麦屋《そばや》に入った。蕎麦屋を出ると、初老の男は東京方面のホームへ、中年の男は池袋方面へと別れた。  佐竹は反射的に初老の男の後を追った。京浜東北線に乗って、ドアが閉まったとたんに、選択を誤ったな、と思った。初老の男の行き先はもうわかっていた。有楽町でJRを降り、桜田門の警視庁にもどるのである。  通産省の職員名簿から、尋津は東工大卒の通産省技官であることが判明した。  同じ日の夜だった。事務所で聡子から報告を受けたあとで、佐竹は刑事を尾行したことを話し、めずらしく深刻な顔になって、 「もう一人の刑事を追うべきだった」といった。 「どうしてです?」 「あの二人は、警視庁と所轄署のコンビという可能性がある」 「そうですね」 「年配の方は実際に警視庁の刑事だった。そのことは東京方面のホームに降りて行く彼の後ろ姿を見た時に、わかっていたんだ。だから、若い方の刑事を尾行すべきだった。そうすれば、所轄署がどこなのか、突き止めることができたかもしれない」 「あら」と聡子は佐竹の話が理解できないという顔を向けた。「所轄署って渋谷警察でしょ」 「米本殺しの所轄署は渋谷署だ」佐竹は厳密にいった。 「だから、もう一人の刑事は渋谷署にもどったんですよ」 「彼は池袋方面に向かった。渋谷に行くなら、東京方面の山手線を利用するだろう」 「どっち回りでも、同じぐらいの時間で着きますよ」聡子は佐竹の推理を否定した。 「有楽町で降りる同僚と一緒なら、品川経由で渋谷へ行く。それが普通の感覚だ」 「そうですね」聡子は半ば佐竹の意見を認めたが、なおも食い下がった。「でも、彼が直接所轄署にもどるとはかぎりません」 「結局、渋谷署にもどったという可能性はある。だが、われわれが想像もつかない所轄署にもどったという可能性もある」 「渋谷署以外にこだわる理由はなんですか」 「刑事を尾行している間、ずっと考えていたのだが——」佐竹は逆に質問した。「米本殺しで民恵が聴取されたのなら、警察は、どのような経路で民恵に辿《たど》り着くことができたのか。つまり警察はどんな手がかりを持っていたか」  聡子は沈黙した。腕を組み、ふたつの乳房を持ち上げるような仕種《しぐさ》をしてから、手帳をひらいた。手帳のページを次々とめくり、なお考えをめぐらして——、 「まず、匿名の依頼票」といった。 「依頼票には何が書いてあった?」 「契約の日付が四月七日。調査事項は浮気調査。料金が二百三十万。報告書提出予定日が五月七日」聡子は手帳を見ながらいった。 「それ以外には」 「それだけ」 「何の手がかりにもならない」 「新くんの写真が、米本さんのロッカーに残っていたかもしれません」 「ビデオがなければ、警察が新の写真を入手していたところで、何の意味もなさない。ビデオの存在を知らなければ、Gテレビでビデオの録画を頼んだ三十代半ばの女、つまり民恵の存在に気づくことはない」 「ええ」 「さらにいえば、ビデオを見なければ、府中の街で撮影された障害児であることがわからない」 「その点に関しては反論があります。写真だけでも障害児であることはわかるわけですから、東京の養護学校を調べれば、新くんと明野を突き止めることができます。とすれば、警察は明野から民恵の存在を聞き出すことも」 「新の写真さえあれば明野を突き止めることができる。たしかにその通りだろう」佐竹はさえぎるようにいった。「だが、もし警察が明野を突き止めたとしたら、もう彼は逮捕されているよ」 「明野が犯人だとは断定できません」聡子は強がりをいった。 「万が一、彼がシロだとしても、かんたんな事情聴取ではすまない。指紋の照合。花屋の証言。現場近くで目撃された白いワンボックスカー。明野が殺害時刻に殺害現場にいたことは明らかなんだ」 「——ええ」 「警察が明野に接近したという感触を、きみは持っているか」 「いいえ」 「ということは、警察は新の写真を手に入れなかったということだ。あるいは手に入れたのに、彼らは新の写真に関心がないのだ。少なくとも現時点では、警察は明野の存在に気づいていない」 「そうですね」 「それでも警察は民恵にたどり着いた。なぜだ」 「——あなたよ!」聡子がふいに叫んだ。自分の言葉に驚いたように目を見張った。「警察が民恵にたどり着く道をつけたのは、あなたよ」 「それも考えたさ」佐竹は聡子の大発見に苦笑した。 「なんてったって、あなたは死体の第一発見者ですもの」聡子は怖い顔つきになった。「警察がずっと佐竹三郎を監視していたとしても不思議じゃないわ」 「刑事が尋津家に入って行った時、まず頭に浮かんだのが、そのことだった。わたしは尾行されていたんじゃないのか、とね」 「あなたは花屋で明野の写真を見せているわ」聡子はさらに証拠をあげつらった。 「花屋の線から、わたしが要注意人物と目されている恐れはある」 「そうでしょう」 「だが、もしわたしが尾行されていたのなら、車の中で張り込んでいる探偵の目の前で、刑事が無警戒に民恵の家を訪れるわけがない。この事件がはじまって以来、街でもどこでも警察の尾行には気をつけている。事務所に出入りするたびに盗聴はチェックしている」 「すると、警察はどうやって民恵にたどり着いたんでしょうか」 「≪米本殺し≫には、もう一つの事件が隠されているのかもしれない。その別の事件を追っている所轄署が、民恵に関心があるということだ。だからわたしは渋谷署以外にこだわっている」 「別の事件って?」 「民恵と明野が関係している、もう一つの犯罪。今のところ、そうとしかいえない」 「新くんも関係している?」 「待てよ」 「何を待てばいいんです」  聡子が向けた熱っぽい視線から逃れて、佐竹はいった。 「もうすぐ終わる。戸籍調査が」      18  八月五日午前中。佐竹は、小田急線|狛江《こまえ》駅近くの喫茶店で、公文隆三と会った。公文は警視庁記者クラブに所属するA新聞の記者で、寝起きなのか無精髭《ぶしようひげ》をのばし、サンダルをペタペタいわせて社宅アパートから歩いてやってきた。  何年か前にA新聞が≪情報と人権≫の特集を組んだことがある。その時、≪盗聴≫および≪戸籍調査≫の手口と実態について、佐竹は公文に、A新聞本社の天井の高いサロンで詳細なレクチャーをした。それだけの仲だが、二人の間にひと悶着《もんちやく》があったので、奇妙な友情が芽生えていた。  悶着というのは、公文が≪探偵のモラル≫をからかう態度を見せたので、佐竹が噛《か》みついたのである。探偵が≪モラル≫について議論するなどというのは、天に唾《つば》を吐くようなものである。そんなことは百も承知の上で、「政・官・財・マスコミ、その四大権力の一つであるきみらに、モラルについてとやかくいわれる筋合いはない」と佐竹は怒鳴りちらした。「大新聞本社を訪ねてくる者は誰でも、玄関のぴかぴかに磨かれた豪奢《ごうしや》な大理石の階段の下から、ロビー受付の小娘を仰ぎ見るような構造になっている、この神殿建築の思想は何だ」と問いかけ、「権力をかさに世間を見下すマスコミの本質がここに剥《む》き出しになっている」と断罪し、「きみらの仕事の動機は、スキャンダルを面白がるという劣情、それしかない」と決めつけた。  すると公文は、佐竹の罵詈《ばり》雑言を、「きみのいう通りだ」とあっさり認め、ニタニタ笑って、「ようするに似た者同士じゃないか。違いは権力があるかないか、それだけ」といった。  公文がコーヒーを飲みながら、楽しそうにその時の話を蒸し返したので、佐竹は少々うんざりした。昔話が一段落ついたところで、佐竹は二枚の顔写真を見せた。どちらも鋏《はさみ》を入れて背景を切り落としてあった。 「刑事だ。知ってるか?」ときいた。 「花村文雄——六階の住人」公文は初老の男の写真を指さしていった。 「捜査一課だな」 「ああ」 「もう一人は?」 「知らんな」 「花村が手がけている事件を知りたいのだが」 「どこで撮った?」公文は質問で返した。 「いえない」  公文はちらっと考えるそぶりを見せ、写真を眺め、視線を佐竹にもどして、 「死体を発見したんだってな」とうれしそうにいった。  佐竹は公文の察しの良さに顔をしかめて、 「わたしが容疑をかけられているわけではない」といった。 「花村が探偵殺しを追っているかどうか、知りたいんじゃないのか?」 「何を追っているかだ」 「話を聞かせろよ」 「書かれちゃ困る」 「ニュースソースは明かさないさ」 「とにかく今はだめだ」 「しゃべったら、誰かの人権を侵す恐れあり、とでもいうのか」 「そうだ」 「探偵にモラルがあったとはね——」公文はあたりを憚《はばか》ることなく哄笑《こうしよう》した。  結局、公文は佐竹の依頼を引き受けたが、カマをかける以外に手はないので成果は保証できない、といった。  もう一人の中年の刑事は、他県の警察から来ている可能性もあった。写真を振りかざして新聞社の全支局を尋ねて歩くわけにもいかない。こちらの方は、花村の調査がすんでから方針を立てることにした。  喫茶店を出る前に司法書士の事務所に電話を入れると、聡子が内浦役場からの返書を持って出たあとだった。  事務所で——聡子は興奮を隠し切れない様子で待っていた。羽田守の戸籍謄本および附票を示して、 「尋津民恵は稲城《いなぎ》市に住んでいたんですよ」といった。  佐竹は戸籍謄本を手にとり、民恵の欄を探した。  三女・民恵の戸籍欄——。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   昭和五拾八年九月弐拾日志賀功と婚姻夫の氏を称する旨届出東京都稲城市百村□□番地に新戸籍編製につき除籍   昭和六拾壱年拾壱月参日志賀功と離婚届出東京都稲城市百村□□番地志賀功戸籍から入籍   平成参年弐月拾八日尋津真一郎と婚姻届出茨城県牛久市刈谷四丁目□□番地尋津真一郎戸籍に入籍につき除籍 [#ここで字下げ終わり]  民恵には離婚経験があった。つまり、もう一つの家族の存在——。  佐竹は次に附票を見た。民恵は十八で故郷を離れて練馬区の石神井《しやくじい》に住んだ。上京の理由が進学か就職かは不明である。二十歳で中野区の野方《のがた》に引っ越し、二十三歳で結婚するまでそこに住んでいた。  附票と戸籍を照合してみると、民恵と志賀との新居は、入籍した戸籍と同じ地番であった。 「稲城市って、知ってますよね」聡子が辛抱できずに、佐竹の思考を中断させた。 「知ってる」佐竹の視線の端で、聡子が東京区分地図をひらいていた。  稲城市は府中市の南に接し、境界を多摩川が流れている。 「小柳町の明野の市営住宅から多摩川はすぐ近くです」聡子が稲城市の地図を示した。 「歩いて一、二分で多摩川に出る」佐竹が応じた。 「あたし、堤防の上を散歩したことがあるんですよ。あそこから稲城市が見えます」  聡子は眺望を示すように、佐竹の目の前で、手を左から右へとゆっくり払った。 「街の背後に多摩丘陵が東西にのびていて、東の方角には、よみうりランドの施設が見えます。西の丘陵の上には、新しい団地がひろがっています。民恵が住んでいた百村という地域は、その団地があるあたりなんですよ」  佐竹は稲城市の地図を眺めた。向陽台《こうようだい》という団地の東南に≪百村≫。その一キロほど東に≪稲城市役所≫。 「民恵が志賀功という男と所帯を持って暮らしていた稲城市と、現在明野が住んでいる府中市が隣接していることに、何か意味があるのでしょうか」聡子がきいた。 「どうだろう」気にはなる。「民恵が稲城市に住んでいた時、明野はどこにいた?」佐竹は民恵の戸籍欄を確認しながらきいた。「つまり昭和五十八年九月から昭和六十一年十一月までの間だ」  聡子は手帳をめくって、 「重なる期間がありますね」といった。 「東京にいたのか」 「はい。昭和六十年六月二十五日に大阪へ転居するまで、江戸川区中央に妻の昌美と住んでいました」  そのころ、明野は民恵と知り合ったのか。いや、稲城にこだわる必要はない。民恵は十八歳の時から東京で暮らしていたのだ。 「明野はいつから東京にいた」ときいた。 「昭和五十七年三月から。最初は板橋です」 「しかし」と佐竹は自分の考えに疑問を投げかけた。「新が生まれたのは、大阪へ転居してからだ。出生は昭和六十年の七月四日だ。すると新と民恵の接点はどこにあるんだ?」 「附票から判断するかぎりは、民恵は志賀との離婚後、すぐに石川県の実家に転居して、尋津真一郎と入籍するまで、実家を離れていません」 「入籍は平成三年だ」 「新くんはもう府中市にいます。天神町ですけど」 「しかもわずか三年前のことだ。ピンとこないな」佐竹は勢いよく席を立った。「司法書士の大先生に電話してくれ」 「何て電話するんです」  佐竹はロッカーの上に積んであるハローページの電話帳から多摩東部版をつかんでいった。 「午後二時間ほど、からだをあけてくれ、と頼むんだ」  電話帳で調べると、志賀功名義の電話番号が記載されていた。住所は稲城市東長沼□□番地である。  午後三時すぎ、佐竹は司法書士を連れてカローラで稲城市へ向かった。聡子も同行した。  稲城市の北にはJRが、南の丘陵地帯には京王線が走っていて、新宿から四十五分ていどで着く。車で入る場合は、中央自動車道の調布インターで降りて、鶴川《つるかわ》街道を南下することになる。明治以前から川の氾濫原《はんらんげん》に梨が植えられて、都市化のすすんだ現在でも二百軒に近い観光梨園が残っている。めざす稲城市役所は梨園に囲まれた田園地帯に建っていた。  稲城市役所で志賀功の戸籍謄本を入手して、司法書士を京王線稲城駅まで送った。  駅は山の中腹にあった。眠っているような駅前ロータリーに、駒沢《こまざわ》女子短大行きのバスが乗客を待っていた。路肩に車を停めて、戸籍謄本を読んだ。聡子が助手席からのぞき込んできた。  志賀功の本籍地は以前と同じ百村にあった。父親の富夫の本籍地に同じである。  夫・志賀功の欄を見る。民恵と離婚後、再婚している。  妻・民恵の欄を見る。名前の上にバツ印。出生、入籍、離婚届出除籍。  そして子供の欄——。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   父 志賀 功   妻   民恵   長男   拓。——バツ印。   昭和六拾年弐月九日東京都稲城市で出生同月十日父届出入籍   平成四年六月拾参日死亡とみなされる平成四年拾弐月壱日|失踪《しつそう》宣告の裁判確定同月参日父志賀功届出除籍 [#ここで字下げ終わり]  佐竹は長男・拓《ひらく》の欄に視線をそそいだ。  やがて——ほっと息をつき、妻・順子の欄、長男・克也の欄に、ざっと目を通した。志賀は再婚し、また男の子を授かったということだ。バックシートにからだをあずけ、戸籍謄本を聡子に渡して、 「どういうことか、わかるか」ときいた。 「ええ。だいたいは——」聡子は戸籍謄本を指でなぞりながらいった。「拓という子供が失踪して七年間が経った。それで、その子は死亡したと見なされたわけですね」 「そうだ」  民法三十条は、失踪者が七年間行方不明の時は、利害関係者は家庭裁判所に請求して、失踪宣告を出すことができる旨を規定している。 「ここのところが、ちょっとわかりません——平成四年六月拾参日死亡したとみなされる、とあります。この平成四年六月十三日という日付は何を意味しているのですか」 「失踪した日から満七年目の日付だ」 「すると、ちょうど七年前の六月十三日に、拓という子供が失踪したということですね」 「そう。拓は、昭和六十年六月十三日に失踪したのだ」 「出生が昭和六十年二月九日ですから……その日、拓くんは、生後四ヵ月になったばかりですよ」聡子の声がふるえた。 「本人の意思で失踪したということはありえない。神隠しにあって消えたわけでもない」 「つまり——もう一つの犯罪、ですか?」 「そのことを、米本は嗅《か》ぎつけた」 「新くんが生まれたのは、昭和六十年七月四日です。拓くんが失踪して、三週間後に新くんが生まれたことになります」 「拓の失踪と新の誕生」 「何か関係が」 「志賀拓が明野新である可能性はある」佐竹は静かな声でいった。 「その場合、拓という子は、重度の障害児だったということになります」  佐竹はイグニッション・スイッチをまわした。 「民恵と拓が住んでいた場所を見に行こう」  当時、民恵は志賀の実父と同じ住所に住んでいた。  駅から山を下って、鶴川街道へ出た。看板の文字が煤《すす》けた食料品店で、志賀功の父親の名前を出すと、ていねいに道を教えてくれた。  鶴川街道を町田方面に向かい、小さな橋を渡って右折した。道は丘陵を登って行き、農家の面影を残す大きな家をぬって走った。古い柿の木がおおいかぶさって木陰を作っていた。 「この家——」と聡子がいった。  竹林の脇《わき》に石の立派な門柱があり、≪志賀≫とあった。志賀功の実家だった。奥にケヤキの古木と化粧造りの大きな屋根がちらりと見えた。 「民恵はどこに住んでいたんでしょうか」聡子が車の窓ごしに探した。 「実家に同居していたか、もしくは隣近所だ」  左手に、まったく同じ造りの新しい建て売り住宅が三軒、右手に比較的古い住宅が二軒ならんでいる。 「十一年前に結婚して住んだのだから、この建て売りではないな」佐竹がゆっくり車を走らせながらいった。 「じゃあ、こっちの二軒の家のどちらかしら」 「志賀に会ったら、きいてみるよ」佐竹は本気とも冗談ともつかぬ口ぶりでいった。  ふたたび鶴川街道に下りて、JRの北側にある志賀功の家に向かった。佐竹は小さな商店が並ぶ狭い道路を慎重に運転しながら、 「米本も、この道を車で走ったのかもしれないな」と、ぽつりともらした。 「あたしたち米本さんと同じ道をたどっているんですね。明野の戸籍、尋津真一郎の戸籍、羽田守の戸籍、志賀功の戸籍。そして志賀拓の失踪宣告にたどり着いた。それから——米本さんはどう動いたんですか?」 「失踪の真相を調べた」 「それから?」 「民恵と明野を強請《ゆす》ったのさ」佐竹はにべもなくいった。  稲城市東長沼の志賀功の家は、五十坪ほどの土地に建てられた、モノトーンを基調にした瀟洒《しようしや》な家だった。まだ幼い植え込みの枝葉に、オレンジ色を帯びた斜光線が照り返している。もう午後五時をまわって、日が傾きかけていた。 「JRの稲城長沼駅から歩いても近い」佐竹がいった。 「十二、三分ですよ。坪百万としたって、五十坪でいくらですか」聡子がうらやましげな口調でいった。  志賀の家から二百メートルほど走ると多摩川の堤防に出た。 「降りてみるか」佐竹がいった。 「ええ——」  二人とも手足をのばしたい気分だった。河川敷《かせんしき》のパーキングに駐車して、堤防の上に登った。涼しい風が吹き抜けていた。 「一つ、気にかかってることがあるんですけど」と聡子がいった。 「なんだ」 「拓くんが失踪して満七年が経ったら、すぐに志賀が、家庭裁判所に拓くんの失踪宣告を請求していることなんです」 「ああ」佐竹には考えたくない話題だった。 「親の情からすれば、そうかんたんに失踪宣告しないと思うんです。まだどこかに生きているって——」 「拓という子供を早く忘れたかったのかもしれない」 「どうして志賀は、拓くんを忘れたかったんですか」聡子は執拗《しつよう》だった。 「では、そのことも志賀に会った時にきいてみよう」佐竹は話題をそらした。 「尋津民恵にも、いろいろと、きいてみたいことがあるんですよ」聡子は真剣な顔を向けた。  事件が佳境に入るにつれて、佐竹には、聡子の仕種《しぐさ》のひとつひとつが、熱っぽく感じられるようになった。それは聡子の胸のうちでたぎっている、熱い心の反映であろう。そういう聡子の率直さを、わずらわしく思うこともあるが、それが聡子を輝かせて見せているのも事実であった。  佐竹は聡子の視線から逃れて、向こう岸を眺めた。ぼやけた青い空がひろがっていて、その下に霞《かす》んで見える家並は、明野|父子《おやこ》が住む小柳町あたりであった。  くっきりと輪郭を描いているわけではないが、事件のかたちが少し見えてきた。ごくごく近い将来のある日、突然、その全貌《ぜんぼう》が姿をあらわしてくるような気がした。      19  聡子を小柳町のアパートへ送る車中で、 「明日の朝、志賀を尾行して、勤務先を突き止める」と佐竹はいった。 「どうして、そんなことをする必要があるんですか?」聡子は佐竹の真意をはかりかねていった。「今夜にでも呼び出して、会えばすむことでしょう?」 「家族のもとに帰った男は要注意だ。不用意に手を出したら、牙《きば》を剥《む》かれて手こずったという苦い経験がある」 「ああ、わかります、わかります」勘の鋭い聡子は引き取っていった。「男って、女房子供と一緒だと、むやみに強気に出たりするんですよね」 「一度そうなれば、高まったテンションはかんたんには鎮まらない。後々まで始末に負えなくなる」 「厄介な動物ですね」聡子が笑った。 「外に出ている時の男の方が扱いやすい」佐竹はつまらない話題を扱うようにいった。「格好つけているが、あんなもの、裸同然だよ」  翌八月六日は土曜日だった。会社が休みということも考えられたが——朝七時二十七分、長身の男が薄いアタッシェケースを手に志賀家を出た。佐竹がすぐに尾行した。聡子は、あらかじめ見当をつけていた梨園の間の農道にカローラを駐車して、二人の後を追いかけ、JR稲城長沼駅で合流した。  志賀は下りの電車に乗り、終点の立川駅で中央線に乗り換えて、豊田《とよだ》駅で降りた。三十六歳のはずだが、ずっと若く、三十そこそこに見えた。佐竹は出勤してくる職員の群れにまぎれて、駅北口の塗料メーカーの門をくぐり、志賀が事業開発部のタイムレコーダーを押すのを確認した。  外の公衆電話から志賀を呼び出し、探偵を名乗り、長男・拓の失踪事件につき面会を求め、拒否したら三十秒後に会社に乗り込むと、有無をいわさず告げた。志賀は沈黙し、そして電話を切ろうとしなかった。佐竹は駅前の公衆電話を指定し、「夕方六時でどうか」というと、志賀は意外にしっかりした声で、「五時十分にしてくれ」といった。  佐竹は指定した公衆電話の前で待っていた。夕方五時十分ちょうど、志賀があらわれた。 「志賀さんですね」佐竹がいった。  志賀は黙ってうなずいた。やや茶色がかった髪の、甘いマスクの男だった。 「家まで車で送りましょう」佐竹が手をあげていった。  聡子が運転するカローラが二人の前にすべり込んできた。 「それともどこか寄る予定がありますか?」 「いや——」志賀は、聡子が運転しているのに気づいて、ちらっと戸惑いの表情を見せた。 「では、どうぞ」  佐竹がドアをあけ、二人は後部座席に乗り込んだ。聡子が車を出した。駅前商店街を走った。 「米本という探偵を知っていますね」佐竹が切り出した。 「ああ」志賀は低い声で答えた。 「会ったのは、いつ?」 「五月……中旬だったか」 「どんな話を?」 「わたしに、どういう用事があるんだ?」志賀が怒気をこめていった。 「米本は殺されました」佐竹は簡潔にいった。 「新聞で読んだ。しかし、わたしには関係のないことだ」 「米本の事務所のロッカーから、志賀さんの戸籍謄本が出てきたんですよ」佐竹はおだやかな口調で嘘《うそ》をついた。 「——何がいいたい?」 「あなたを疑っているわけではない。米本が何を調査していたのか、知りたい。——米本との話の内容は?」 「息子の病名を教えてくれと」 「拓くんの?」 「そうだ」 「病名は?」 「二分|脊椎《せきつい》症」  聡子がハンドルを左に切りながら、ちらっと背後をうかがう仕種を見せた。 「脊椎が背中で傷ついていて、背骨がエビのように曲がっている?」佐竹は身振りをまじえてきいた。 「——そう」  カローラは豊田駅の西で中央線の跨線橋《こせんきよう》を渡り、南へ向かった。 「ほかに、米本が尋ねたことは?」  志賀は押し黙った。 「最近、警察が訪ねてきたはずですが」佐竹は角度を変えて攻めることにした。 「答える必要はないね」 「警察は、あなたを疑っている」佐竹はゆすぶってみた。 「どうして」 「九年前の、拓くんの失踪事件に関して、米本は真相をつかんだ。そこで米本は、あなたを強請《ゆす》った。あなたには米本殺しの動機がある」  聡子が驚いたような横顔を見せ、志賀は、「ばかな」と吐き捨てた。 「警察が訪ねてきた」佐竹は重ねていった。 「きたよ」志賀は認めた。「しかし、あの探偵が殺されたこととは関係ない」 「では——」 「誘拐犯人から、その後連絡はなかったか、ときかれたんだ」  佐竹の頭は一瞬パニックに陥った。志賀がいった言葉に考えをめぐらした。カローラはまた跨線橋を渡っているところだった。京王線のクリーム色の電車が見えた。混乱した頭を整理するために質問を再開した。 「きかれたのは、〈誘拐犯人から連絡がなかったか〉それだけですか?」 「そうだ」 「警察がきたのは、いつ」 「はじめは……六月の上旬」 「それから?」佐竹はうながした。警察が志賀を訪ねたのは一度ではないらしい。 「先月の二十五日ごろだったかな」  警視庁の花村ほか一名の刑事が民恵の家を訪問したのは八月三日だ。あれも二度目の訪問だったのか? 「二度目に警察が来た時の話の内容は?」 「同じだ。何か妙な感じだった」 「妙な感じとは」 「突然の話だったからさ。拓が誘拐されて九年が経つ。その間、警察からは何の連絡もなかったんだ」 「刑事の顔を覚えていますか?」  佐竹は二枚の写真を見せた。志賀が手に取って見入った。聡子が赤信号のかなり手前で車を停め、後部座席を振り返った。 「……この二人だ」志賀が断定していった。  佐竹は写真を上着のポケットにしまって、 「名前は?」ときいた。 「花村——警視庁の刑事だ」 「もう一人は」 「渡辺、だったと思う」 「どこの警察署でしたか」 「多摩中央署だ」志賀はむぞうさにいった。  なるほど、多摩中央署ね——。渡辺という中年の刑事は、志賀拓誘拐事件の所轄署である多摩中央署からきたのだ。 「最初に警察が来たのが、六月の上旬、これはたしかですか?」 「うーん……そのころだと思う。探偵が殺されたという新聞記事を読んだ後だよ」  佐竹はすばやく記憶をたどった。米本が殺されたのが、五月二十七日。死体発見が、五月三十日。そして六月上旬、米本殺しが発生して日を置かずに、警察は志賀を訪ねて、誘拐犯人について問い合わせたことになる。なぜだ?——。 「待てよ」志賀が佐竹の思考をかき乱していった。「じゃあ、拓を誘拐した犯人が、あの探偵が殺された事件に、関係しているのか?」  佐竹は志賀の問いに答えなかった。右手に高幡不動《たかはたふどう》の森が見えた。カローラは川崎街道に入っていた。 「誘拐事件のことですが——」と質問をつづけた。「犯人の顔を見ていますか」 「民恵が見ているかもしれないな」志賀は他人事《ひとごと》のようにいった。「前の妻のことだ。そうか、きみらはもう民恵に会っているんだな」 「まだです——誘拐された場所は?」 「慈林医大病院」  調布市にある大学病院だった。志賀と民恵が当時住んでいた百村からは、鶴川街道を利用して、ほぼ一本道である。 「拓くんが通院していた病院ですね」 「そう。小児科の待合室で、ちょっと目を離したすきに、拓が消えたんだそうだ」志賀は民恵の落ち度をほのめかした。 「誘拐犯人からの連絡は?」 「その日の夜にあった」 「犯人の要求は?」 「一億だ、一億。ばかをいえ、と怒鳴ってやったよ」志賀は奇妙な余裕を見せていった。 「警察への通報は?」 「犯人の電話があった後で一一〇番した」 「誘拐されたのは昼間のはずですが」佐竹はタイムラグに疑問を抱いてきいた。  昼間に誘拐され、夜になって犯人から身代金の要求があり、それから警察に通報した、というのでは理解に苦しむ。 「わたしが会社から帰った時、民恵はふとんをかぶって寝ていた。見ると、ベビーベッドにいるはずの拓がいない。それで、どうしたんだときいて、はじめて、何が起きたのか、わたしは知った。そこへ、犯人から電話がかかってきた。その後だ。警察に通報したのは」 「どういうことなんです?」 「民恵は、拓の姿が消えたというのに、会社にいるわたしにも連絡しなかったし、警察にも届けなかったんだよ」 「なぜ」 「民恵にきいてみたらいい」  民恵は、拓が誘拐されたままもどってこないことを望んでいた、とでもいうのか。  志賀の皮肉な口ぶりに民恵への非難を聞きつけて、聡子がアクセルとブレーキをポンポンと交互に踏んで応《こた》えた。そのたびに男たちのからだが弾んだ。聡子のいら立ちを無視するように、佐竹は、ことさら事務的にきいた。 「金の用意は——」 「親父《おやじ》に頼んで、二日後ぐらいに、五千万用意した」 「金の受け渡し交渉は」 「犯人が最初に指定したのが、甲州街道のデニーズだった。たしか布田《ふだ》の店だったと思う。わたしが五千万を入れたビニールバッグを持って歩くと、わたしの後から刑事がゾロゾロくっついてきたよ」 「それから」 「環八《かんぱち》沿いに埼玉まで行ったり、大田区まで下がったりして、同じようなレストランを三つか四つ移動した。また甲州街道にもどって、最後に、金は神代《じんだい》植物公園の入口の公衆電話ボックスに置け、ということになった。ボックスに入ってみると、≪赤ん坊は新宿駅のコインロッカー≫というメモがあった」 「ロッカーの鍵《かぎ》は?」 「番号が書いてあっただけだ。警察がすっ飛んで行って、コインロッカーを開けたが、拓の姿はなかった。それでお仕舞い。金も無事だ。公衆電話ボックスには誰もあらわれなかった。それから今日まで犯人の連絡は一切ない」 「犯人に心あたりは?」 「ない。誘拐事件の真相は、これだけのことだ。だから、わたしが、米本という探偵に強請《ゆす》られる理由はどこにもない」志賀が語気を強めていった。  佐竹は軽くうなずいた。米本は、明野新が志賀拓である、という証拠が手に入れば、それで満足しただろう。それには、拓の病名を知ればよかった。だが、と思った。誘拐事件の真相が、これですべてのはずはない。 「拓くんが生きている可能性について、どう思いますか」佐竹はさりげなくきいた。 「あの子は百パーセント死んでるよ」 「根拠は」  志賀は、あんた気が狂ってるんじゃないのか、という顔を向けた。 「犯人にしてみれば、金は一銭も入らなかったんだ。その時、まだ拓が生きていたとしても、犯人の手元に残ったのは、死に損ないの障害児なんだぞ」 「育てるのは大変でしょうね」 「あんな事件がなくたって、拓は、そうは長くは生きていられなかった。かかりつけの医者が、拓のことを何ていってたと思う?」 「——何と」 「この子は生きているのが奇跡、だとさ」 〈では奇跡が起きたのさ〉  佐竹は胸のうちでそうつぶやいた。また幻聴がした。また新の歌声が聞こえてきた。あれは拓の歌声でもあるのだと思った。誘拐犯人は赤ん坊を殺さなかった。殺されなくても、赤ん坊は生きているのが奇跡だという重い障害を持っていた。彼はもう死んでいると、誰もが思った。だが彼は、生きたいという意欲を持ちつづけることによって、奇跡を起こしたのだ。  カローラは丘陵地帯に入って行った。間もなく稲城市だった。      20  JR稲城長沼駅に近い川崎街道で、志賀を下ろした。志賀は威厳を保つように肩をそびやかして、商店街の方へ去って行った。  佐竹はひとつ深呼吸して、 「運転を代わろう」といった。 「大丈夫です。こんどはどこへ」  敵意を感じるまではいかないが、明らかに不機嫌な声だった。佐竹は軽くたじろいだ。そそくさと助手席に乗り込んでいった。 「きみのアパートへ」  小柳町へ行くには、川崎街道をもどって是政《これまさ》橋を渡れば、十分とかからずに着く。聡子は左折した。Uターンする場所を探しているのかと思ったが、そのままJRの踏切を越えた。多摩川の堤防に出るつもりなのだろう。その方が少しは近道になるかもしれない。依然として聡子の機嫌が悪そうなので、佐竹は黙っていた。ところが、いつまでたっても堤防が近づく気配がなかった。カローラは古い住宅街の狭い未舗装の道に入って行く。 「どこへ行くんだ」そっときいてみた。 「道に迷ったんですよ」見ればわかるでしょう、とでもいいたげだった。聡子はいたく感情を害したようだ。  佐竹はまた沈黙した。いつだったか、ずっと若いころ、ある年上の女に似たような反応をされて、「生理がはじまったのか」と軽口を叩《たた》き、ひどくたしなめられたことを思い出した。  ついにカローラは袋小路に迷い込んだ。聡子は、他人の家の庭先に車を乗り入れてUターンした。なんとか多摩川の堤防沿いの道に出ると、精神状態も安定したのか、 「どうしてあのこと、きいてくれなかったんですか」と聡子がいった。 「あのことって」 「志賀が急いで拓くんの失踪《しつそう》宣告を出したことですよ」 「事件とは直接関わりのない事柄だ」 「関係あります」音がうるさいとでもいうようにクーラーのファンを止め、聡子は怒りをこめて窓ガラスを開けた。「志賀が、重い障害を持ったわが子のことをどう考えているのか、これは大問題ですよ」 「——」佐竹は用心深く口を閉じた。あの男はあの男で人知れず苦悩を抱えているのだ、と主張したら、今の聡子はせせら笑うだけだろう。 「あたし、思い出したんです。明野の戸籍と附票を——」  佐竹も否応《いやおう》なく思い出していた。 「新くんが生まれた昭和六十年七月四日というのは、明野夫婦が偽造した出生届けに書いた日付ですよね」聡子がいった。 「そう——」  出生届けには出生証明書の添付が義務づけられているが、出生証明書は役所で手に入るし、偽造はかんたんにできる。 「同じ年の、たしか九月に、新くんは明野と別れて、明野の妻と一緒に暮らすようになりました。あれは、明野が新くんを歓迎しなかったということです。そのことは、あなたとも話したことがあります。それとまったく同じ問題が、かつて、新くんと実の父母との間にあった、と志賀の話からうかがえます」 「そうだな」 「志賀は民恵が新くんを遠ざけていたように仄《ほの》めかしましたが、両親ともそうだったかもしれない」 「たぶん」 「その問題は今も解決されないで、残っている。そう考えた方がいい。あたしの話、わかるでしょ?」 「わかる」 「いつか、明野は逮捕されるでしょう?」 「——」 「明野がいなくなったら、新くんはどうなるんです?」  長い間、二人の間でタブーになっていた話題を、聡子はしびれを切らしたように持ち出してきた。  佐竹は答えなかった。聡子の問いかけに耳をふさいだ。何も考えずに、はるか南にひろがる多摩丘陵をぼんやり眺めた。風はそよとも吹いていない。湿気を帯びた熱い空気の固まりが窓から侵入してくる。なんで聡子は窓を開けたりしたのだ、と口には出さずに聡子を責めた。 「新くんの本名が志賀拓ということが公になったら、どうなるんです?」聡子は逃げにかかった佐竹に追いすがっていった。  佐竹は慎重に言葉を選んだ。 「保護者は養育する責任がある」といった。 「保護者って、誰です」聡子は訊問《じんもん》口調になった。 「志賀功と尋津民恵」 「志賀は、誘拐された子供が生きていると知ったら、どうすると思います?」 「引き取って育てる」 「嘘《うそ》つき」聡子はぴしゃりといった。「志賀なんて男は信用できません。新くんのことを死に損ないの障害児だなんて、あれは何ですか」吐き捨てた。 「ちょっと話しただけで、そんなふうに決めつけるわけにはいかない」 「じゃあ、民恵は?」 「さあ——」 「彼女は、去年のクリスマスのニュースを見て、わが子を発見した。米本さんに依頼して明野父子を突き止めた。誘拐された子が生きていることを確認した。実際に浜辺で新くんと会って泣いていたわ。でも……彼女が新くんを引き取る気配は、今のところ、まったく感じられない」 「なんともいえない」 「志賀も民恵も、新くんを引き取るのを拒否したら、どうなるんでしょう?」 「行政に任せておけよ。新を保護する施設を探してくれるさ」 「ああいう子は、親と一緒に暮らすのが一番幸せです」 「親というのは取り替えがきかない。親の愛が薄ければ、どうにもならない。誰にも、どうにもできない」そういいながら、佐竹はちらっと、自分の息子が親を見る時の辛らつな顔を思い浮かべた。  相変わらず風は吹かない。車内の冷えた空気はすっかり窓から逃げてしまった。聡子はやっとそのことに気づいたらしく、窓を閉め、ファンをまわしていった。 「あなた、そのうち、警察にぜんぶ話すんでしょ?」 「話す——」  佐竹は、聡子に〈佐竹さん〉と呼ばれたことがないことに、今はじめて気づいた。〈あなた〉と呼ばれることに違和感はなかった。そういう素っ気ない呼ばれ方は、むしろ佐竹の生理になじんでいた。聡子の問いかけから逃れようとして、思考があらぬ方角へ流れて行くのが、自分でもわかった。 「警察に事情を話す。明野は逮捕される。新くんは一人ぼっちになる」聡子は数え上げるようにいった。「そういう日が必ず来る。それがいつになるか、あなたの判断次第です」 「そうかもしれない」 「その日が来たら、新くんはどうやって暮らしたらいいのか、あなたは今から考えておくべきですよ」 「考えても、どうにもならない」 「投げやりにならないでください」聡子は佐竹を励ます口調になった。「さっき、あなたがいったように、親は取り替えがきかないのだから、ターゲットは、志賀功と尋津民恵、この二人です」 「ターゲットとは、どういう意味だ」 「二人が新くんを育てる意志があるかどうか、調べるんです」 「調べて、どうする」 「新くんを受け入れることに難色を示すようだったら、説得します」 「新を受け入れるか、施設に預けることにするか、それは彼らの問題だ」 「探偵の問題じゃない?」  すでに聡子のフラストレーションが限界にまで達していることはわかっていたが、佐竹はほかにいいようがないので、 「もちろん」と答えた。 「ああ、ばかばかしい!」  聡子は癇癪《かんしやく》を起こした。片手でハンドルをビシバシ叩いた。いきなりホーンが鳴り響いたので、聡子はびっくりした。そのことが一段と聡子を不機嫌にさせた。 「もう、あなたなんかと口をきかないから!」  実際、それからエステートミズキに着くまで、二人は口をきかなかった。その状態は、さらに数日間つづくことになった。  事務所にもどると、留守番電話に公文の伝言が入っていた。 「花村は、いったん探偵殺しの捜査本部に配属されたが、今は別のヤマを手がけている。なぜ探偵殺しから外されたのか、どんなヤマを手がけているのか、いずれも不明だ」  不明な点はすでに明らかになっている。探偵殺しの捜査線上に、九年前の誘拐事件の手がかりが浮かんだのだ。  では手がかりとは何だ?  佐竹は天井を仰いで意識を集中させた。  戸籍調査の書類が米本の事務所から出てきたのか。明野の戸籍謄本が出たとしたら、明野はとっくに逮捕されているだろう。たとえ彼がシロでも執拗《しつよう》な取り調べを受けているだろう。そんな兆候はどこにもない。  あるいは、志賀功または尋津真一郎の戸籍謄本だけが発見された、と考えられなくもない。どちらからでも志賀と民恵の二人にたどり着くことができる。志賀拓が誘拐された事実も明らかになる。しかし、戸籍謄本の手がかりだけで、二度も訪問して、「誘拐犯人から連絡はなかったか」などと、九年前の誘拐事件にこだわる理由は見出《みいだ》せない。  もう一つ、民恵から情報提供があった場合だが、これはありえまい。  佐竹は単純明快な結論に達した。  探偵殺しの現場から、誘拐犯人の≪指紋≫が出たのだ。九年前に誘拐犯人は指紋を残していたのだ。  捜査本部はどこまで明野を追い詰めているのか?  佐竹はキッチンへ行って、生ぬるい水を飲んだ。顎《あご》に垂れた滴《しずく》を手の甲でぬぐい、志賀の話をあらためて検討した。「誘拐犯人から連絡はなかったか」と刑事は尋ねたという。あれはどういう意味なのか。  恐ろしい推論を頭に浮かべて、佐竹の胸は一瞬、凍りついた。ばかげている。自分で立てた推論をただちに打ち消した。そう考える根拠はどこにもない。  頭では否定していた。だが胸の高まりはおさまらなかった。心臓の鼓動が聞こえる。激しくなった動悸《どうき》に後押しされるように、デスクへ行って電話をつかんだ。公文の名刺を出して、記者クラブの番号を押した。六時半だった。公文は外に出ていた。佐竹は電話に出た記者に伝言を頼んだ。  午後八時少し前、公文から電話が入った。佐竹は花村の情報の礼をいってから、 「また頼みがある」と切り出した。 「なんだ」 「昭和六十年の六月に、調布市の病院から生後四ヵ月の赤ん坊が誘拐された事件がある——知ってるか?」 「いや——そのころ、おれは山形支局にいた」 「未解決の事件だ」 「——ほう」公文の声はたちまち何かを嗅《か》ぎつけていた。 「その事件を担当していた記者を紹介してほしい」 「誘拐だと、記者クラブのメンバーが手がけてるな」 「事件の概略が知りたい」 「公開捜査に踏み切った時点で、報道されてるんじゃないのか」公文はじらすようにいった。  新聞記者という人種はまったく可愛《かわい》げがない。佐竹はちらっと迷ったが、 「知りたいのは、報道の裏側」といった。 「探偵殺しと関係あるんだな」公文は切り込んできた。  こうなれば、どう答えても公文の判断に影響を与えないだろう。 「関係ない」といってみた。  すると公文はへらへら笑って、 「花村が、その未解決の誘拐事件を調べているんだな」勝手に先へ進んだ。 「では協定を結ぼう」今はこれ以上しゃべりたくなかった。 「おれにスクープさせろ」 「わたしの情報を過大評価するな」 「いいや、お前は知ってる」 「時期が来たら、捜査本部よりも先に、おまえに洗いざらい話してやる。それで納得しろ」 「まあ、いい」口調とは裏腹に、公文が勢い込んでいる気配が、受話器から伝わってきた。  菜華《さいか》飯店の油で汚れたカウンターにすわって、チャーハンをビールで流し込んだ。隣でラーメンを注文したパンク風の若者が、「化学調味料を入れないでください」と言い添えるのを耳にはさんで、少し頭が混乱した。  ずっと思考をめぐらしていた。事務所にもどって電話の前にすわり、手帳をひらいて考えつづけた。今日は八月六日。もうすぐ盆休みに入る。尋津家の娘二人は、あれはやっぱり能登の田舎に行ったに違いない。民恵も今頃は娘と合流しているのか。帰京はいつになるのか。  手帳をめくると、八月十日の欄に≪S子≫とあった。聡子のことだが、さて何のことだったか。棒線が十三日まで引かれている。三泊四日か。思い出した。聡子は娘と二人で旅行する予定だった。たしか黒姫のペンションに泊まるといっていた。  新も、明野と一緒に秋田の田舎に帰るのだろうか。障害の子を連れて田舎に帰る——想像して、なぜか、せつない気持ちになった。そんな佐竹の胸に、由紀の声が侵入してきた。 「障害児って、歓迎される存在ってわけじゃないからね」  由紀に連絡するつもりだった。なおしばらく迷いつづけてから、電話をかけた。 「——木村です」ひどく憂鬱《ゆううつ》な声。 「佐竹ですが——」ちょっとした緊張。 「はい——」ゴツンと受話器を置く音。  そうか。声が似ていた。電話に出たのは娘のみどりだろう。 「やあ、佐竹?」今度は由紀の明るい声がひびいた。 「そう」 「どうしたの」 「由紀は、母親のルートを使っていろいろ調べることができるって、いってたね」 「ああ、この前の、あの写真の障害児のことでしょ」 「うん。頼めるかな」手帳を出した。 「話を聞いてから」  由紀の声に厳しいものを感じて、佐竹は手帳をひらく手を止めた。 「——なぜ調べたいのか、きちんと話す」といった。 「佐竹を信用してないわけじゃないのよ」 「わかってる」 「じゃあ話して」 「名前は志賀拓。ヒラクは開拓の拓」 「ちょっと待って」メモ用紙をめくってペンを走らせる音。「いいわよ」 「生年月日は昭和六十年二月九日。東京都稲城市生まれ。両親の名前は志賀功、民恵、当時二十七歳と二十五歳の若い夫婦だ。拓という子は、同じ年の六月十三日に調布市の慈林医大病院で誘拐された」 「誘拐されたって——」語尾がふるえた。 「誘拐」佐竹は落ち着いた声でくり返した。「誰かに連れ去られた。まだ生後四ヵ月ちょっとの赤ん坊だった」 「で——」 「行方不明のままだ」 「慈林医大は、その子が通院していた病院?」 「そう——障害の名前は二分|脊椎《せきつい》症。知ってる? 二分脊椎症って」 「知ってるわ——だけど、待ってよ。佐竹が捜していた写真の子のことを話しているんでしょ?」 「そうだ」 「水頭症の子でしょ。あのまつ毛のカールした、可愛い子のことでしょ?」由紀は混乱していた。 「誘拐された子が、生きていたんだ」佐竹は明快にいった。 「なんてこと——」由紀が言葉を飲んだ。 「ほんとだよ」 「何が知りたいの?」声がうわずった。 「彼の肉親または近親者の中に、彼を引き取る意志のある者がいるかどうか、知りたい」  ふいに沈黙が支配した——。  やがて佐竹は言葉が足りないと思って、 「彼はいま、誘拐犯人と暮らしている」といった。 「まあ」 「彼は、もうすぐ一人ぼっちになる」 「犯人がつかまるってこと?」 「そう」 「急いだ方がいいわね」由紀はきびきびした口調になった。「両親とは会ったの?」ときいた。 「父親と会った」 「で、どうなの」 「事情があって、子供が生きていることを教えなかった」 「子供が生きていると知ったら?」 「父親がどんな反応を示すか、断定はできない。だが、感触からいえば——」  佐竹は言葉を探した。 「父親が、その子を歓迎して家に迎え入れるとは思えない」といった。  また、ちょっとした沈黙があって、 「母親は、どうなのかしら」と由紀がいった。 「彼女が、何とか、子供を引き取ってくれないか、と望みを持っている」 「これから会うのね」 「会う前に、九年前のことを知っておきたい。つまり、わずか四ヵ月のことだけれど、母親と障害児が、どんなふうに暮らしていたのか」 「その四ヵ月の間に、母と子の間に絆《きずな》ができていたかどうか、でしょ? 絆があったら、それが今も有効かどうか、でしょ?」 「そう——」佐竹は、由紀の方が佐竹の依頼内容と依頼の理由を的確にとらえていると思った。「付け加えると、子供が誘拐されて一年後に、両親は離婚している」 「あーあ」由紀はため息をもらした。「あたしんちも同じようなもんだけど」軽いノリでいった。 「ほかに、知っておく必要があることは?」 「関係ないことだけど——その子、兄弟は?」 「同じ両親の兄弟はいない」 「親が別れてから、弟か妹ができたのね」 「まあ——そう」 「誘拐された時、稲城のどこに住んでいたの」 「百村□□番地」 「その子のからだの特徴が、もう少し詳しくわかるといいけど」 「背骨がひどく曲がっている。九十度に近いな。両方の太股《ふともも》から皮膚を移植して背中の傷をふさいだらしい。これは生後四ヵ月の間に手術が行われたのではないかもしれないが。あとは……下半身の神経は麻痺《まひ》している。膝《ひざ》が曲がらない。ええ……障害者手帳には両下肢機能全廃と書いてある。手も使えない。光に反応するけれど、ほとんど目は見えない。言葉はまったくしゃべれない」 「今はどうなの。元気そう?」 「元気だ。もう一年以上入院していないそうだ。とにかく食欲がある。おならは臭い」しゃべるうちに佐竹にも元気が出てきた。「うんちは丸くて固い。山羊《やぎ》の糞《ふん》の大きいやつを想像してみればいい。その固いやつは、湯船でもらすと、水面に浮かないで、底にコツンと落ちる」  二人で声をたてて笑った——。 「いるいる、そういうやつ。憎たらしいほどタフな感じの子って」由紀がはしゃいでいった。 「彼は歌だって歌えるんだぜ」佐竹はなんだか得意そうにいった。      21  八月九日の夜、事務所の電話が鳴った。由紀だろうか、と思って取ると、 「——中野です」と電話の声がいった。  もう口をきかないと宣言されてから、まだ三日目だったが、久しぶりに声を聞いたと思った。 「明日から四日間、お願いします」聡子は休暇に入る旨をぶっきらぼうに伝えた。  どこか命令口調だった。照れ臭いのを強気な態度で隠そうとしているのだろう。 「では——」  と聡子が電話を切ろうとしたので、佐竹は、黒姫のペンションの電話番号をきいた。聡子は事務的な口調で番号をいった。佐竹はメモして電話を置いた。  聡子は緊張を強いられる日々がつづいていたから、娘と二人だけの小旅行は適度な骨休めになるだろう。  盗聴の目的はほぼ達していた。あとは、もう少し材料を集めて、民恵と会うだけだった。  同じ夜遅く、約束していた恵比寿のレストラン&バーへ行った。ウネ子と寺西がバーカウンターで待っていた。佐竹はウネ子の左隣に腰をかけた。 「これ飲んでみない?」とウネ子が自分のティーカップを示していった。 「は——」  ウネ子はカウンターの上に置いてあった桐《きり》の箱を引き寄せ、中からティーポットほどの大きさの白い壺《つぼ》を取り出した。  金箔《きんぱく》の文字で≪高麗人参《こうらいにんじん》茶≫とあった。寺西が、シールに印刷されているハングル文字を怪しげな口ぶりで読んだ。ウネ子はバーテンを呼び、佐竹のためにティーカップ一杯の高麗人参茶を作らせた。  壺の中の原液は、色も粘り気もタバコのタールにそっくりだった。湯で割ると薄い紅茶色になった。口に含むと微《かす》かに甘みがあった。強い香りがしたが、佐竹は嫌いな味ではなかった。 「米本の女房がウネ子さんの健康のために、買ってくれたのだ」寺西が説明した。 「会ったんですか」佐竹はウネ子にきいた。 「浦和まで行って、彼女と焼肉食べてきたのよ」とウネ子は、ひと仕事やり終えたような充実感を見せて答えた。 「息子も一緒に?」 「おいしいものはね、ガキを寝かせつけてから食べに行くものなの」 「彼女、どうでした?」 「大きなピアスして、きれいにお化粧してて、もうめちゃくちゃに明るくてさ、ダジャレがぼんぼん飛び出て——」そこでウネ子はふと表情を翳《かげ》らせていった。「会うのははじめてだったんだけど、電話の感じでは、あんな人じゃなかったと思うのよね。はっきりいえば、陰鬱《いんうつ》な感じの女という印象だった」  確かに——と佐竹は、米本の留守番電話に吹き込まれていた女房の気弱な声を思い出した。 「明るすぎる?」佐竹は確認した。 「度外れな躁《そう》状態ね」ウネ子は断定した。 「これ、高価なプレゼントなんだぞ」寺西が壺を撫《な》でまわしながらいった。「もちろん焼肉も彼女の奢《おご》りで、なんなら一財産全部くれそうな気前のよさだったそうだ」 「こういうことなのよ」  ウネ子はティーカップの縁を美しい指で弾《はじ》いた。澄んだ音色に耳をすませ、静寂がもどってからいった。 「あちらは金に不自由はしてなくて、心身ともに健康でまったく問題なく、心を痛めてるのは、あたしの方の健康状態というわけね。そんなふうに決めつけた自分と他者の関係を、彼女は精力的に演じているんだと思うの。常識外れの活力よ。香典返しの焼き物を思い出しちゃったわ」  話からすると、米本の妻の挙動の一つ一つが、彼女の内面で崩壊が進行しつつあると、警告を発していた。 「次のステージが、どんなふうに幕が開くのか——それが心配だな」と寺西がいった。 「怖い」とウネ子は簡潔にいった。 「誰か、そばについていて、彼女のばかげたふるまいを、何でも赦《ゆる》して受け入れてくれるような人間が、必要なんだろうな」と寺西がいった。 「それこそ本来は亭主の仕事なのよ」ウネ子は何か男への憤りに駆り立てられるように言葉をつづけた。「これまでのデタラメな人生の反省として、大いなる償いとして、ヨネこそが、女房の傷ついた魂とからだを、慰撫《いぶ》してあげるべきなのよ」  だが米本が殺され、その悲哀で遺族が打ちのめされているのだ。では誰が、そのような白馬の騎士の役割を演じることができるだろうか。悪質な盗聴に熱中している探偵の任ではないし、詐欺師まがいの辣腕《らつわん》を振う相談員の仕事でもないことは確かだった。  精神科医のところへ連れて行けばよいという乱暴な考えしか浮かばなかったので、佐竹は口をつぐんでいた。 「実家の両親とか兄弟とか、彼女の近くにいる親しい者の誰かに、その仕事を引き受けてもらうしかないな」と寺西がいった。 「今、彼女のそばを、ついて離れないのは、中一の息子だけよ」とウネ子がいった。  そう、あの息子はどうしている? 彼は父親の死をどう受け止めている? これまで慎重に避けて通ってきた問題に至ると、三人はふいに沈黙した。  やがて寺西がグラスを高くかかげ、少々|自棄《やけ》な口ぶりではあったが、舞台俳優のセリフのように気取っていった。 「自分で悲哀の種を無尽蔵に作り出すくせに、とことん無力な人間というこの手に負えぬ生き物に、乾杯!」ながながと琥珀《こはく》色の液体を喉《のど》に流し込んだ。 「あたしも乾杯」とウネ子が笑顔を取りもどして応じた。「無力だってところが、人間の愛《いと》しいところなのよね。そうでしょ? 誰だって悲哀に打ちのめされる経験を持つものよ。まったく人間は無力な生き物。だけど無力な人間が、痛ましい悲哀から癒《いや》されるプロセスにこそ、心をふるわせるものがあるわけでしょ」  佐竹は二人の年長者の言葉に耳を傾けながら、思考は米本の遺族から民恵へと移ろって行った。民恵はどんな悲哀に遭遇したのだろうか。彼女の悲哀は癒されたのだろうか。  翌八月十日午後、日比谷公園の松本樓《まつもとろう》で、佐竹は公文に紹介されて司法クラブキャップの船尾浩司に会った。船尾は九年前に乳児誘拐事件の取材チームを率いていたという。  船尾が話した誘拐事件のあらましは、次のようなものであった。  昭和六十年六月十三日午前十一時四十七分ごろ、東京都調布市の慈林医大病院小児科外来の待合室で、志賀民恵(二十五歳)がトイレに立った数分の間に、備えつけのベビーベッドから民恵の長男拓(生後四ヵ月)が行方不明になった。  赤ん坊と一緒に、合成革製の花柄の手提げバッグが持ち去られていた。バッグの中には、紙おむつ、タオル、携帯用の哺乳瓶《ほにゆうびん》、ミルク等のほかに、保険証、障害者手帳も入っていた。  後に、当日の小児科外来受診者全員を洗った結果、待合室にいた不審な人物が浮かびあがった。目撃者の証言を総合すると、三十代半ばの痩《や》せた男が、事件発生時刻に現場から立ち去っていた。その男が赤ん坊を抱いていたかどうか、明確な証言はなかった。  同日午後九時五十分ごろ、稲城市百村の会社員志賀功宅に、男の声で、「赤ん坊は預かっている。六月十五日までに一億円用意しろ」と電話が入った。  同日午後九時五十二分。志賀功から、長男拓が誘拐されて身代金を要求されていると、警察に通報が入った。  六月十五日午後九時五分。男の声で、「金は用意したか」と電話。志賀が、「五千万しか用意できない」と答えると、男は、「明日午前中にまた電話する」と電話を切る。  六月十六日午前十時五十一分。同じ男の声で、「金を持って十二時に調布市布田の甲州街道沿いの≪デニーズ≫で待て」と電話。  同日午前十一時五十八分。デニーズに男の声で電話があり、志賀を呼び出して、「午後一時に埼玉県和光市和光陸橋近くのレストラン≪アン・パテ≫で待て」と指示を与える。  同様にして、同日午後一時二十三分、アン・パテにいた志賀へ犯人の電話が入り、「午後二時半に大田区田園調布のレストラン≪クレッセント≫で待て」と。アン・パテもクレッセントも環状八号線に面していた。  犯人はクレッセントの次に、神代植物公園入口の公衆電話ボックスを指定した。それが犯人からの最後の電話になった。  午後三時十六分。指定された公衆電話ボックスで、志賀は犯人が書き残したと見られるメモを発見した。メモには、コインロッカーの番号と〈新宿西口のコインロッカーの中を探せ〉という走り書きがあった。  犯人が指定した新宿駅のコインロッカーには、赤ん坊の代わりにボストンバッグが入っていた。バッグは出張で上京した長野県庁職員の持ち物で、事情聴取の結果、その職員は事件と無関係であることが判明した。  以降、犯人からの連絡は一切途絶えた。  報道協定解除後に事件はかんたんに報じられた。公文のA新聞はわずか二十三行の記事であり、他の新聞も似たような扱いだった。扱いがかんたんになった理由として、船尾は二つあげた。一つは、過剰な憶測を呼んだ事件であるにもかかわらず、手がかりが極端に少なかったことである。二つ目に、当時グリコ・森永事件が急展開を示していたことをあげた。青酸ソーダ入りチョコレートが東京でも発見されており、デスクの頭も取材チームの編成も、≪かいじん二十一面相≫の過熱した取材合戦にふりまわされていた。  乳児誘拐事件捜査本部は事件発生から約三百日後の、昭和六十一年四月十日、事件解決の糸口を見出《みいだ》せないまま解散した。  事件経過の説明がひと通り終わると、佐竹はすぐに立ち入った質問をはじめた。 「手がかりが少なくて、過剰な憶測を呼ぶというのは、むしろ記事にしたくなる性格の事件ではありませんか」  と佐竹は、記事の扱いがかんたんになった理由の矛盾点をついた。 「では、ひとこと付け加えよう」  船尾は佐竹の指摘を受け入れていった。事件記者というよりも、大学教員といった感じの、四十半ばの物静かな男だった。 「過剰な憶測とは、微妙な倫理的問題に関するものであって、それゆえ、確かな裏づけなしには記事にできなかった、ということだ」  佐竹はちらっと公文の横顔を盗み見て、考えをめぐらした。  船尾の隣にすわっている公文は、顔を窓外の森に向けているが、会話が核心に触れるのを息を殺して待っていた。  佐竹は具体的な質問に移った。 「子供が誘拐された後の、母親の行動に引っかかる点があるのですが」といった。 「そうだな」船尾は口もとに微笑を浮かべていった。 「警察への通報が、ずいぶん遅れていますね」 「それで——」船尾は佐竹の腹を探る気配を見せた。 「子供が誘拐された午前十一時四十七分から、警察に通報があった午後九時五十二分まで、十時間と五分もかかっています。その間、志賀夫妻、とくに母親が、どんな行動をとったのか、教えていただけますか」 「母親は」と船尾がいった。「子供の姿が消えても、病院の中を捜しまわることをしなかった。彼女は急用ができたからと受診をキャンセルして、家に帰ってしまった。そして警察にも亭主にも連絡をとらなかった。夜、亭主は家に帰ってはじめて、子供が行方不明になったことを知った。妻の話に不明な点があるので押し問答をしていると、犯人から電話がかかってきた」  船尾の話は、志賀の証言とおおむね一致していた。 「どうして母親はそんな行動に出たのでしょうか」と佐竹はきいた。 「ひどく精神的に脆《もろ》い女でね、子供が消えたことに強くショックを受けて、精神的に錯乱していたんだな。取材してわかったことだが、母親は病院から帰ると、雨戸を閉めたらしい。昼間からだ。そして家の中に引きこもった。警察どころか亭主にもすぐに報告しなかったのは、亭主に叱《しか》られるのを恐れたからだろう。ばかげているが、考えられないことではない」 「そうですね」 「ところが、消えた赤ん坊が障害児であってみれば、話は少々趣が違ってくる。わかるかな?」 「ええ、まあ……」 「きみは知ってたようだな」船尾の探るような目が小さく光った。「赤ん坊が障害児だったことは報道されなかったはずだが」 「彼は知ってますよ。それもかなり詳しく」  それまで黙っていた公文が口をはさんだ。 「知っています」佐竹は船尾に答えた。 「どのていど重い障害だったかも?」 「およそ——」 「あの両親は、重い障害を持って生まれた赤ん坊に愛情を注いでいたとは思えないんだが、そのことも知っていたか?」 「確証はありませんが」佐竹は肯定した。 「確証はあるよ」 「というと」 「誘拐された時の赤ん坊の服装は、ヨットパーカーにパジャマのズボンだった。東京の六月だ。着せすぎじゃないかと、小児科の看護婦に疑問をぶつけてみた。すると、母親は神経質なぐらい、赤ん坊のからだの奇形を隠そうとしていた、というんだな」 「——」 「水頭症の頭に、きっちりとヨットパーカーのフードをかぶせ、だぶだぶのズボンでねじ曲がった脚を隠していた、という話だ。かわいそうに、あの赤ん坊はアセモだらけだったそうだ。そこでさらに突っ込んで取材すると、ひどい話がボロボロ出てきた。赤ん坊は生まれてから二ヵ月ばかり、病院の中から出られなかったんだが、母親が見舞いに来たのは、退院間際の一度だけだそうだ。父親の方は退院の時にも姿を見せなかった。ようするに記事になるネタだった」  船尾は言葉を切り、コップの水を飲んだ。口もとに微笑をとりもどしていった。 「父親は誘拐犯人から電話が入った直前の、午後八時四十五分ごろ帰宅したと供述しているが、実際には六時ちょっと前には家に帰っていた。裏も取ってある。犯人から電話があるまで、三時間近くも夫婦で押し問答をやってたらしい。二人で何を話し合っていたのか、推測するしかないが、少なくとも、こういうことはいえる」  船尾はまたコップの水に口をつけた。 「両親は、誘拐された子が、そのままもどってこないことを、心のどこかで念じていた——取材したわれわれは、そう確信したよ」  佐竹は船尾の話を聞きながら、民恵が新を引き取ることを期待するのは、やはり無理がある、と思った。 「そういうことであれば、事件の様相は変わってきますね」佐竹は先をうながすようにいった。 「身代金目的の誘拐とは考えにくい、ということだ。きみも察しがついていたと思うが」 「ええ」 「おまえが持っている情報に照らしても」公文が好奇心を見せていった。「身代金目的の誘拐とは考えにくい、といえるのか?」 「そうではない。わたしは父親の志賀功に取材して、その感触を得たのだ」 「ふーん……」  公文が推理を働かせはじめたので、佐竹はすかさず釘《くぎ》を刺した。 「母親にも取材する予定だ。わたしが会うまで、そちらで志賀夫妻に接近するのは我慢してほしい」 「なるほど」公文は曖昧《あいまい》にいった。  公文が言質《げんち》をとられないように明快な返事を避けたので、佐竹は意識して語気を強めた。 「時期がきたらすべて話す。スクープできるタイミングで話してやる。だが約束を破ったら、おまえには何も教えない。絶対に」 「——わかったよ」公文はしぶしぶ了承した。 「身代金目的の誘拐ではないとしたら」船尾が話を引きもどしていった。「きみが考えたストーリーは、どういうものなのかな」  ストーリーという言葉には、他人の人生をもてあそぶような響きがあるな、と佐竹は感じた。コーヒーを一口飲んだ。 「誘拐は、実は狂言ではないのか、という疑惑を持ちました」佐竹がいった。 「主役は?」船尾がさそった。 「母親」 「なぜ」 「父親と共犯という可能性もありますが——」  佐竹はちらっと考えをめぐらした。志賀が狂言を打ったとは思えなかった。あの男の軽い印象は、罪の深さを感じさせない。そんなことを話しても意味がないので、論理的に述べた。 「赤ん坊は親に愛されていなかったのだとしたら、誰かが赤ん坊を連れ去ったと主張しなければ、疑われるのは母親の方です。どこかへ置き去りにしたのではないのか、と疑われるでしょう」 「犯人に金を渡して、赤ん坊を誘拐させた、ということかな」 「ええ。すでに裏で取引があった、と考えることも可能です。誘拐直後の母親の奇妙な行動は、さっき船尾さんがおっしゃった説明を、そのままあてはめることができます。いざ計画が実行されると、彼女は気が動転してしまった」 「まあ、そうだな」 「あなたがたも、そういうストーリーを組み立てて取材したと思いますが」 「その通りだ」 「まず金の流れをつかむ、ということになりますね」 「裏が取れなかった」 「警察が描いたストーリーは?」 「彼らも狂言説に強い関心があった。事件発生以前に金の動きがなかったかどうか、父親と母親、両方の線から、警察が調べていたのは確かだ。若い夫婦だから金はなかったが、実家に出させたという線もある。母親の能登の実家は、小さな商人宿を経営していて裕福とは思えないが、父親の実家は、団地に山が売れてかなりまとまった収入があったしね。だが、警察も裏を取れなかった」 「金の流れの裏を取れなかったということは」佐竹は内心ほっとしていった。「狂言説の根拠は薄れますね」 「そういうことになる」船尾は肯定したうえで、冗談めかして本音をいった。「しかし、それでは紙面に活気が生まれない」 「愛されていない障害児が誘拐されたとなると、怨恨《えんこん》説も、ちょっと考えにくいですね」 「そうなる」 「二人の交遊関係で、警察が関心を持った人物は?」 「ないと思う。捜査本部が何か隠している可能性はあるが、重要な容疑者が浮かんだ形跡はなかった」 「遺留品から手がかりは?」 「電話ボックスのメモだが、手のひらサイズのメモ用紙をちぎったもので、入手経路も製造元もつかめなかった」 「メモから指紋は?」 「検出されなかった」 「新宿駅のロッカーは……あれは無関係でしたね」 「いや、まったく無関係でもない。犯人は、そのロッカーに実際に赤ん坊を一時預けていたらしい」 「何か遺留品でも」 「匂《にお》いだ」 「は——」 「刑事がロッカーからボストンバッグを取り出して、中に何か残っていないかと、のぞき込んだら、ミルクの匂いがしたというんだな」  船尾の語尾が少し感傷的にひびいた。  佐竹は考えながらいった。 「犯人は赤ん坊をロッカーに入れた。取り出したのも犯人以外には考えられない。すると——なぜ犯人は、赤ん坊をいったんロッカーに入れておいて、また出したんでしょう?」 「どこへ処分するか、迷っていたんだろう」 「ロッカーの中で赤ん坊が泣き出したら、不審に思われるでしょう?」 「死んでたら泣きはしないよ」船尾はあっさりといった。 「——そうですね」  だが新は生きていたのだ。明野が新をロッカーに入れ、また出して、結局は育てることになった経緯について小さな疑問が湧《わ》いたが、すぐに頭にしまい込んで、佐竹は用心深く次の質問に移った。 「新宿駅のロッカー、または神代植物公園の電話ボックスから、犯人のものらしい指紋が出たという話は?」 「聞いていない」 「なぜ指紋にこだわる?」公文が飲みかけたコーヒーの手を休めて鋭くいった。  ちょっとした間。  佐竹は、しゃべっても明野を突き止める手がかりにはならないと判断して、 「探偵殺しの現場から、九年前の誘拐犯人の指紋が出た、と思ったからさ」といった。  船尾の顔が一瞬凍りついた。公文はふっとため息をもらして、コーヒーカップを置いた。カップの底が受け皿に触れて嫌な音をたてた。 「だから、花村は多摩中央署を使って誘拐事件の洗い直しをはじめた、と考えたわけか?」公文がいった。 「そうだ」 「しかし、誘拐犯人は指紋を残すようなへまはやらなかったらしいじゃないか」公文が否定的な見解を述べた。 「誘拐事件の捜査本部が、犯人の指紋を検出したことを隠している可能性は?」佐竹は静かな声で船尾にきいた。  船尾がかすかにうなずいた。  公文がまだ何かいいたそうにしているので、佐竹は、あらためて釘を刺した。 「もう少し待てよ」声に意図した以上の怒気がこもっていた。  小男の公文がせわしなく脚を交差させてついてきた。  佐竹は日比谷公園の中を大股《おおまた》でグイグイ歩いた。肩をそびやかしていたが、顔は俯《うつむ》きかげんだった。  事件が発覚すれば、新も明野も、民恵も志賀も、マスコミの前に無抵抗な姿をさらすことになるだろう。新聞が火をつけ、テレビ、週刊誌が追いかけまわす。マイクで小突き、容赦なくフラッシュを浴びせる。  そうなれば、関係者は否応《いやおう》なしに、自分がどんな人生を選択したかを、世間にあまねく知られることになる。望みもしない同情を受け、謂《いわ》れのない謗《そし》りを受け、世相との関連で手際よく解剖され、いいように料理される。ようするにオモチャにされる。  平穏に見えた家庭が、一つや二つ、破滅するだろう。その破滅に至る道を切り開いているのが自分であることを思うと、佐竹は緊張に胸がふるえた。  公文が追いすがって、 「何をそんなに怖い顔をしてるんだ」といった。 「生まれつきの顔だ」佐竹は足を速めた。 「とてつもない悩みを抱え込んでいるように見えるぞ」 「悩みなんかあるか」佐竹は声を荒らげた。 「なあ、おまえ、ほんとに探偵なのか?」公文が背後からなおもいった。  佐竹は内心ぎくりとした。ちらっと振り返った。そこに、公文の真顔があった。  その夜、七時から八時にかけて、ポケベルが二度鳴った。聡子は娘と旅行に出かけていた。佐竹は聡子のアパートに電話をかけて、留守番電話の録音テープから、明野にかかってきた通話内容を確認した。一度目は、どこでどう間違えたのか、新に学習教材をすすめるばかげた電話で、二度目は穀物取引のセールスだった。  午後十時。佐竹は聡子の部屋に入った。居間のガラストップのテーブルに、歯ブラシと真新しい二枚のタオルと再生紙の便箋《びんせん》に書いた置き手紙があった。手紙には、冷蔵庫の食料品の賞味期限に関する注意や、ふとんは一組しかないので、それを使ってほしいなど、男っぽい文字で細かい指示がいろいろと書いてあった。  テレビをつけ、チャンネルをニュースに合わせ、わずらわしくなってすぐに消した。暗いブラウン管に映っている、小さな歪《ゆが》んだ自分の姿をぼんやり眺めた。聡子と二人でいる時は何も気づかなかったのだが、こうして一人でいると、妻のものではない、女の匂いが部屋にたちこめているのを感じた。それは性的な感じは薄く、どこかミルクの匂いがして、そのまま新の匂いへと連想がつながった。九年前の六月十六日。新宿駅西口のコインロッカーに残っていた、新の匂い。  生きている赤ん坊を、コインロッカーに放置したり、取り出してみたり、あれは迷いがあったということだ。明野のことだから、残忍な気持ちにはなりきれなかったのだろうか。  明野と新のことを頭から締め出したくて、ヘッドホーンをつけ、聡子のレコードを聴いた。 ≪奇妙な果実≫——。  ハスキーで甘くて可愛《かわい》らしい、ビリー・ホリディの歌声。英語の歌詞カードを眺めていたら、佐竹の貧しい英語力でも、≪奇妙な果実≫とは何であるのか理解できた。それは、ポプラの木に吊《つ》り下げられている、私刑《リンチ》された黒人の死体、だった。≪ストレンジ・フルーツ≫とはね。そうつぶやいたとたん、心は≪ストレンジ・フルーツ≫が喚起するものにとらわれはじめていた。  私刑される障害児。両親から愛されず、水もミルクも与えられずに、干からびてゆく小さな生命。  佐竹はレコードプレイヤーを止めた。受信機、アラーム、テレコのスイッチを確認し、部屋の明かりを消した。  深夜だった。物音がした。午前一時四十二分。佐竹は襖《ふすま》をそっと開けて居間をのぞいた。受信機の小さなシグナルランプが緑色に発光している。アラームが鳴ったわけではないらしい。また音が聞こえた。玄関だ。佐竹が下着姿のまま、足音を消して近づいた。遠慮がちなノックの音が聞こえた。身構えて、 「どちら様ですか」ときいた。 「——あたしです」心細い声が返ってきた。  聡子は黒姫のペンションにいるはずではなかったのか——。      22  ドアの向こうに聡子がいる——佐竹は壁のスイッチボタンに指をかけて、ほんの数秒、暗い玄関ドアを見つめた。 「一人か」と警戒を解かずにきいた。 「——一人です」沈んだ声。だが、何かを臭わせているニュアンスはない。 「娘は?」 「父親の家に送り届けました」 「どうして?」 「どうして? はやくドアを開けてくださいよ!」聡子はいきなり声を荒らげた。ドアをいら立たしげに叩《たた》いた。「なんでこんな場所で話さなくちゃならないんです!」  佐竹はあわてて玄関の明かりを点《つ》けた。「ちょっと待ってくれ」といい、寝室にもどって着替えをすませてから、チェーンロックを外した。  夜気と一緒に聡子がすべり込んできた。怖い顔だった。ひどく疲れてもいた。さっと腰を屈《かが》めて、だらしなく脱ぎ捨ててある佐竹の靴をきちんと揃《そろ》えた。無言で佐竹の鼻先をかすめて居間へ行き、大きな旅行|鞄《かばん》を襖の陰に音をたてて置いた。テーブルの上の≪奇妙な果実≫のレコードケースに不審な視線を落とし、床から歌詞カードを拾い上げ、すべてをラックにもどした。置き手紙を、ことさらに細かくちぎってゴミ箱に捨てた。  佐竹が四畳半の部屋でふとんを畳みかけると、 「あたしがやります」険のある声で制し、「くちゃくちゃにされたら困るもの」と付け加え、バタバタとふとんを畳んで押し入れにしまった。  今はもっと冷え冷えとした関係だが、数年前までの妻の仕打ちと似ている——佐竹が妙に関心していると、 「すわってください」聡子がたしなめるようにいった。  佐竹は籐製《とうせい》の敷物に腰をおろした。  聡子は手を洗い、指を立てて髪を整えてから、テーブルの向こうに膝《ひざ》を崩してすわった。ガラストップに両ひじをつき、両手で小さな顎《あご》を支えて、 「さっきは、何を勘違いしてたんです?」といった。 「——明野のことを考えていた」と佐竹は答えた。 「どういう意味?」聡子は生意気そうに小首をかしげた。時折見せる教師の口調と仕種《しぐさ》だった。 「きみの背中に、明野が、凶器を突きつけている可能性を、考慮した」 「まさか」ちょっと驚いた。 「仕事中だ。深夜二時近い。無警戒にドアを開けるべきではない」 「——そうですね」聡子は素直に認めた。 「あるいは尋津民恵も一緒か、とも思った」 「え——どうして?」 「とっさの判断だから、自分がどこまで突きつめて考えていたか定かではない。要は、不測の事態に備えた、ということだ」 「そうですね」  聡子はまた相づちを打った。うつむいて何か考えをめぐらしていたが、やがて思い切ったように顔をあげた。小さな笑みが浮かんでいた。 「じゃあ、飲みましょうか」といった。  何が、〈じゃあ〉なのかわからなかったし、夜も遅かった。船尾から聞いた誘拐事件の経過は、明日にでも話すことにしよう。 「帰る」と佐竹は腰を上げかけた。 「いいじゃありませんか」  聡子は快活にいって、隣の部屋へ行き、押し入れを開けて箱入りの洋酒を取り出した。洋酒を大事そうに抱えて居間にもどりながら、 「あたしセコイんです」のけぞり、声をひそめて笑った。「隠してたんです。あなたに飲まれちゃ困ると思って」  洋酒はバランタインの十七年ものだった。聡子は冷蔵庫から氷とミネラルウォーターとチョコレートを持ってきた。佐竹にロックを、自分のために水割りを作った。軽くグラスを合わせて一口やり、「おいしい」と聡子はいった。 「で、さっきの話のつづきですけど、明野と尋津民恵とあたしと、その三人が一緒だというのは、どういう発想なんですか」 「明野が逮捕された後で、誰が新の世話をするかという問題に関して、その三人が話し合ったんだろうな——もちろん会議を招集したのは、きみだ」  佐竹は、自分がこしらえたフィクションを、半ばおもしろがっていったのだが、一面、真実を突いていた。聡子はそれを繊細に受け止めて、 「ごめんなさい」といった。 「何が?」佐竹は、唐突な聡子の反応にとまどった。 「あたし、そういうことやりかねないもの」 「——」(そのとおりだ) 「やっぱり探偵失格ですか」 「探偵という職業に、重い荷物を背負わせようとしても無理がある」 「そう決めつけることはないと思いますけど」聡子は軽く反発した。 「ロックは生き方だ、という言い方はありえるかもしれないが、探偵は生き方じゃない」 「職業に徹しろと?」 「そして、すべての職業は卑しい」 「ああ、あなた最低」聡子は喉《のど》を鳴らしてグラスをあおった。  またこの話になった。この一杯を飲んだら、ほんとうに帰ろうと思った。そこで佐竹は気がかりな点について、一言だけきいた。 「娘との旅行は延期になったのか」 「無期延期ですよ」聡子はむぞうさにいって、自分のグラスに氷をバンバン放り込んだ。  佐竹はスコッチを飲み干して、 「では帰る」といった。 「何が、〈では帰る〉なんですか」聡子が水割りを作りながら言い掛かりをつけてきた。「まだ帰らないでくださいよ。話があるんですから」 「話とは——」佐竹は聡子のグラスに目をとめた。やけに濃厚な水割りだった。 「あなた質問しておいて、答えをぜんぶ聞かないうちに、帰っちゃうんですか」明らかに聡子は怒っていた。 「——」佐竹は、聡子のいうことも、もっともだと思った。 「あたしの私生活に興味がないんでしょ」どこか嫉妬《しつと》する口ぶりになった。 「そういうわけでは」 「聞かれたことないもの」 「聞きにくい」 「不幸な家庭生活を背負っているから?」 「まあ——」 「わかるわよ。その気持ち」聡子はへっへっと鼻で笑った。水割りを一口やり、顔をしかめた。「だからあたしも、あなたの家庭のこと聞きにくいのよ」  聡子の逆襲を食らって、佐竹は笑ってしまった。 「不幸の影がさしていない家庭などない」といった。 「どんなに幸せそうな家庭でもそうなんですよねえ」聡子は感慨深げにいった。「あれは、なぜなんでしょう」 「他人と暮らすっていうのは難しいからな」 「奥さんとうまくいってないんですか」聡子は自分のグラスを見つめていった。 「女房のことはどうでもいいんだが、息子のことがね」軽くため息が出たので、佐竹は自分に腐った。 「息子さん、いくつです?」 「十五かな。高一だよ」 「親子断絶?」 「親子関係以前の問題だな。どういったらいいのか——息子に限らず、子供というものと、どう付き合ったらいいのか、よくわからない。どんなふうに口をきいたらいいのか、まったくわからない」 「≪子供というもの≫だとか、≪どんなふうに口をきいたら≫だとか、あなたらしいわ。あれこれ、ぐちゃぐちゃと、考えすぎなんですよ」  聡子はそこまでいって、ふと沈潜した。チョコレートの小さなかけらをつまんで、小刻みに齧《かじ》った。きれいな歯がのぞいた。ゆったりとした口もとは、いつ見ても好色そうな感じがして、魅力的だった。 「娘が泣き出したんです」聡子がグラスをかかげていった。 「——」 「〈どうして泣き出したんだ?〉とか何とか、聞いてくださいよ。どんどん質問してくれないと、話したくても話しにくいから」聡子は叱《しか》るようにいった。 「どうして」佐竹はボトルをつかんだ。 「お家《うち》に帰りたいって」聡子は佐竹のグラスに氷を放り込んでから、言葉をつづけた。「娘のお家っていうのは、もちろん、ここじゃないわけです」 「亭主の家か」 「元亭主の家」聡子は強い口調で訂正を求めた。 「娘の父親の家」 「そうです」  聡子はグラスをあおった。今度は顔をしかめなかった。気合いが入っているみたいだった。 「黒姫のペンションには無事着いたんです。長旅で疲れていたから、あの子、夕食の途中で眠りはじめちゃって。それで急いでお風呂《ふろ》に入れて、寝かしつけたんですけど、さあそれから眠らない。眠いのに眠れない。添い寝してあげて、本を読んで、十曲以上歌を歌って、そしたら泣き出しちゃった。お家に帰りたいって。あたし抱きしめて、めちゃめちゃキスを浴びせて、〈じゃあ明日は予定を変更して、お父さんも誘ってディズニーランドへ行きましょう〉とかおいしい話をいっぱいしたんですけど、もうどうやってもだめ。仕方ないから、車すっ飛ばして、東京へ帰ってきたんです」 「今まで、娘と二人で外泊したことは?」 「はじめて」 「そのせいじゃないのかな。大人でも枕《まくら》が変わると眠れないというやつもいるし」 「いくつかの要因が重なっているのは確かですけど、決定的なことがあるんです」 「——なに」 「娘は、あたしに、怯《おび》えてるんです」 「——」 「怖いんですよ。父親の股間《こかん》に切りつけた狂暴なママが」聡子は平然といった。 「ほんのかすり傷だったんだろう?」 「中身は無傷ですよ。ズボンのチャックの脇《わき》を十センチほど切り裂いちゃったけど」 「おしいことをしたな」佐竹は意識して軽口を叩《たた》いた。 「ほんと、チョン切っちゃえばよかった」聡子はむちゃくちゃなことをいった。 「きみはあれか、〈すべてのセックスは強姦《ごうかん》である〉と考えるようなタイプか」佐竹は、何年か前に妻がそんなタイトルの本を読んでいたことを思い出して、きいた。 「それに近いと思います」聡子はやけに生真面目《きまじめ》な口調でいった。 「だったら娘がきみに脅えるのも無理はない」 「ひどい言い方ですね」 「きみが自分でそういったんだ、娘が脅えてるって。それにこういう問題は解決するには時間がかかる」 「もう取り返しがつきません」 「まだ四歳の幼児だ」 「四歳の娘の心を傷つけたから取り返しがつかないんです」 「傷口はいつかはふさがる」 「母親に捨てられた方はそうかんたんにはいきませんよ」 「裁判の結果なんだろ、娘が父親の籍に入ったのは。きみが娘を捨てたわけじゃない」 「世間が、娘に、あなたの母親はあなたの母親の資格がないと告げたんです」 「それが唯一の真実であるはずがない」 「あたしの方にも、娘を失ってもかまわないという気持ちがありました」 「ほんとうか」 「心の隅に。でもそれは確かにあった」聡子は平然といった。「親権をめぐって裁判になって、そうなれば負けるかもしれないと思ったけど、軽蔑《けいべつ》してる男と暮らすなんて、地獄でしょ。つまりあたしは娘の人生より自分の人生に関心があった」  聡子の言葉が佐竹に妻のことをまた思い出させた。妻が自分のことをどう考えているか、関心が無くなって久しい。妻にしても同じだろう。佐竹は聡子にどんな言葉をかけてやったらいいのか、わからない。とりあえず「あまり自分を責めるな」といった。 「娘が大人になって、人の苦しみを理解できるようになっても、四歳の自分を捨てた母親を決して許さないと思います」 「結論をそう急ぐな」  聡子はグラスを飲み干して、また水割りを作りはじめた。 「嫌な話いっぱい聞かせたりして、ごめんなさいね」 「慣れてる」 「依頼人から、私生活の立ち入った話を、いろいろ聞かされることがあるんでしたね」聡子が微笑《ほほえ》んでいった。 「最近、ノイローゼのお客さんが増えてるから、なおさらだよ」  聡子は乾杯する仕種《しぐさ》をして、 「心配してるんじゃ、ありません?」といった。 「何を」佐竹も応じて軽くグラスをあげた。 「あたしは娘を失ったも同然だから、これでますます新くんに愛情を注ぐことになる。そんな気がする。絶対そうなる。あたしは、とにかく、新くんに首ったけ」  聡子の口ぶりに、佐竹は恫喝《どうかつ》の気配を感じた。酔っているせいばかりではあるまい。 「慎重に行動してくれ」といった。 「電話して、今から明野を呼ぼうかな。あたし、もう何をするかわからない」聡子は逆らうようにいった。 「心配しているのは」佐竹は落ち着いた声でいった。「きみが騒ぎたてて、明野を追いつめ、その結果、明野がばかなマネをしてしまうことだ」 「ばかなマネって」 「新を捨てて逃げ出す。あるいは新と心中する。ガス、放火、身投げ、入水《じゆすい》、他人のばかなマネまでいちいち読み切れない」  聡子はひとつ、こっくりとうなずいた。水割りをながながと流し込んだ。ふーっと息を吐き出し、赤い目をちらっと向けて、 「迷ってるんでしょ、あなた」といった。 「迷いはない」 「強がりいっちゃって」聡子は乱暴な口調になり、きれいな眉《まゆ》が吊《つ》り上がった。「民恵の素姓を確かめたんだから、あとはもう警察に任せておけばいいのよ。そうでしょ?」 「——」(酔っぱらっているくせに、話は明晰《めいせき》だ) 「答えなさいよ」 「探偵殺しは、厳密にいえば、明野も民恵も容疑者ではない。重要参考人にすぎない」 「そうよ。だから二人は警察に行って、知っている事実を包み隠さず話すべきなのよ。それをやったら、誘拐事件の方が明かるみに出るんだけど、やっちゃったことはしょうがないでしょ。罪を償ってもらうしか」 「ここまで調べあげた。あと少しだ。誰でも、最後まで自分の手でやりたいと思うものだ」 「それもあるかもしれない。でも未《いま》だに警察に通報しないのは、もう一つ理由があるから」 「ない」 「新くんのことよ」聡子は佐竹の否定を無視していった。「あなたも彼のことが気がかりなんでしょう?」 「気がかりだ」佐竹は率直にいった。 「誰が新くんの世話をするか、その問題に見通しが立たないから、まだ明野を警察に突き出さないんでしょう?」 「民恵のことだが——」佐竹は遮るようにいった。 「そう。民恵のことよ」 「誘拐事件に関して、警察は志賀と民恵に容疑をかけていたらしい」 「どうして」聡子は顔色を変えた。  佐竹は聡子の背後の置き時計を見た。午前二時四十七分。視線をもどしてグラスをのぞき込んだ。では、話すか——。  船尾から聞いた誘拐事件の経過と、捜査本部ならびにマスコミが描いていたストーリーを、かいつまんで語った。  聡子は、佐竹の話に耳を傾けながら、休みなくグラスを口に運んでいた。一言も口をはさまずに最後まで聞き終えると、また水割りを作り、頬《ほお》に冷えたグラスをそえて、 「あなたも疑ってるんですか」ときいた。 「複雑な金の流れがあったとは思えない。事前に明野へ金が渡っていたとしたら、それほど苦労せずに、警察は裏づけを取っただろう、と思う」 「そうですよ」聡子は力をこめていった。 「誘拐された新が、両親から歓迎されていない重度の障害児だったために、うがった憶測を呼んだのだろう」 「やりきれない話ですね」 「だが——」 「なんです?」 「船尾の言葉を忠実に再現するなら、九年前に民恵が、〈誘拐された子が、そのままもどってこないことを、心のどこかで念じていた〉ことも、確かな事実だったように思う」 「そうだったかもしれないけれど、今は違うかもしれないじゃないですか」 「とにかく民恵に会う。それまで警察には知らせない」 「あなた、いつも言葉が足りないわ。民恵に会って、どうするつもりなんですか。もっとはっきりいってください」 「新のことは、民恵に期待している。わたしに出来ることがあれば何でもしよう」  聡子の顔がぱっと明るくなった。 「きみに一言いっておく。決めるのは民恵だ」  聡子が神妙な笑顔でうなずいた。  佐竹はグラスを空けて、立ち上がった。 「もう帰るんですか」聡子が見上げていった。寂しそうな声だった。 「午前三時をまわっている」佐竹は鞄《かばん》をつかんだ。  玄関へ足を向けた。居間との境の暖簾《のれん》をかき分けた。その時、背後で聡子の声がした。 「あたしは、かまわないんですけど」  意味がわからなかった。佐竹は一連の動作を止めなかった。聡子が立ち上がる気配はなかった。玄関で傷だらけの黒い革靴をはいた。そこでまた聡子が何かいった。 「泊まっていきません?」  そう聞こえたような気がした。だが、か細い遠い声だった。空耳だろう。おれは少しどうかしている。佐竹はドアに手をかけて、「おやすみ」と声をかけた。  返事はなかった。佐竹はドアを開けて外廊下に出た。ドアを押しもどした。ドアが閉まり終わる寸前だった。怒りにふるえた聡子の声がはっきりと耳に届いた。 「卑怯者《ひきようもの》!」  佐竹はすべてを了解して、破顔した。玄関にすっ飛んでくる足音が聞こえた。内側で、聡子はドアロックを掛け、ドアの上下にもロックを掛け、ガチャガチャ音をたててチェーンロックを掛けた。その間、佐竹はニヤニヤ笑いながら、ドアごしにささやきつづけた。好きだよ。会った時から好きだった。ほんとだ。今のは、タイミングが合わなかったんだ。  聡子は許してくれなかった。  佐竹は声を出さずに笑いつづけながら、アパートの外階段をきびきびした足どりで、降りて行った。      23  同じ日の夕方である。  狭いキッチンのテーブルで、縮みのジンベエを着た図体《ずうたい》のでかい男がビールを飲んでいた。  栄次のやつ、亭主面してやがる……。  聡子のアパートから事務所に直行すると、 「明日の夕方だと、栄次の都合がいいから、おいでよ」と、由紀の伝言が留守番電話に入っていたのである。  十年ぶりの再会だった。 「やあ——」  栄次は、目尻《めじり》にいっぱい皺《しわ》を寄せて、懐かしさ半分、照れ臭さ半分の笑顔でいった。 「元気そうじゃないか」  佐竹は、テーブルの上に新宿マイシティの食品売場で買った小さな包みを置いた。 「何だ、それ」 「山葵《わさび》の葉っぱのつくだ煮」 「へえー、うまそうだな、食ってみようよ」  風呂場《ふろば》の方から、由紀が濡《ぬ》れた手をエプロンで拭《ふ》きながらあらわれて、 「佐竹のグラス、出てるの」と咎《とが》めるようにいった。 「今、出す」  栄次は図体のわりに軽い身のこなしで、ひょいと立ち、冷蔵庫からきりきりに冷えたグラスを出した。むかしから神経の行き届いたやつだった。  テーブルに山葵のつくだ煮を盛った小鉢が出た。由紀も席について、乾杯した。 「太ったろ」栄次が口を拭《ぬぐ》っていった。 「顔が昔の二倍ぐらいでかくなってる」  それでも、痩身《そうしん》の美少年だった面影が、スマートな鼻筋や涼しい目もとに残っていた。 「家出してる間に太っちゃったのよ。嫌味なやつね」由紀が楽しそうにいった。  由紀は相変わらず針金のように痩《や》せ細っていたが、二ヵ月ほど前に会った時とくらべれば、顔色は格段に良く見えた。肩に軽くかかった黒い髪は艶《つや》やかに光っていた。 「話をすませちまえよ」栄次が佐竹のグラスにビールを注ぎながら、鷹揚《おうよう》にいった。 「そうだな」佐竹は注ぎ返した。  栄次は、団地の狭いこのキッチンに、完璧《かんぺき》になじんで見えた。佐竹が来るというから顔を出しただけなのか、今夜また出て行くのか、お盆の間は泊まって行くのか、あるいは元の鞘《さや》に完全におさまったのか——そんなことを考えていると、 「あの事件——」と由紀が切り出した。「多摩地区の人はたいてい知っていたわ。何人かと電話で話した。それで服部《はつとり》さんという女性を紹介してもらって、会いに行ったの」 「すまない」 「いいのよ。これ重要なことなんだから」 「ありがとう——で、服部さんて、どういう人?」 「あの子、≪二分|脊椎《せきつい》症≫でしょう?」 「そうだ」 「≪二分脊椎児者と共に生きる会≫という組織があって、服部さんは、九年前に、その≪生きる会≫の多摩地区の世話人をしていたの。もちろん服部さんも二分脊椎症の子供の母親よ。志賀民恵さんは、病院のケースワーカーから≪生きる会≫があるのを教えられて、国分寺の服部さんの家を訪ねて、いろいろ相談に乗ってもらってたわけ」 「話を聞くのに、ふさわしい人を紹介してもらったね」 「そうなの。で、志賀さんが服部さんを、はじめて訪ねて行ったのは、四月の上旬のある日。桜の花びらがいっぱい散ってたって」 「服部さんはよく覚えていたな。桜が散っていたとは」佐竹が何かに感嘆していった。 「印象的な出会いだったから」 「そうか」 「玄関の呼び鈴が鳴った時、時間は約束していたから、ああ志賀さんという人が来たんだなと思って出てみると、門柱の陰に隠れるようにして、ちょっと幼い感じの志賀民恵さんが立っていた。その日は荒れ模様の天気で、雲がどんどん流れていて、その空から吹き出されるように落ちてくる桜の花びらが、志賀さんのお下げ髪や、タータンチェックのスプリングコートの肩に、いっぱいついていて——」  由紀は息を切らせた。ビールを一口やって言葉をついだ。 「志賀さんを見た時の、服部さんの第一印象はね——家出した少女が桜の木の下で自殺を考えている」 「おれ、わかるよ」栄次がいきなり短くいって、すぐに口をつぐんだ。  しばらくの間、静寂が支配した。 「その時、志賀さんは一人?」佐竹が沈黙を破ってきいた。 「一人。拓くんはまだ入院中」  佐竹は思い返した。志賀拓の出生は二月九日である。病院で生まれて、そのまま二ヵ月ほど家に帰ることができなかったという。民恵が一人で服部を訪ねたのが四月上旬だとすると、拓が退院する直前のころの話であろう。 「わたしが聞いた話では、赤ん坊は二ヵ月、病院から出てこれなかった。母親が見舞いに行ったのは、退院する間際に一度だけだと」 「その話も服部さんから聞いてる。志賀さんは、拓くんに会いに行く勇気がなかなか持てなかったと、正直にいってたって。だけどね、志賀さんは拓くんと会ったから、服部さんに相談しに行く気になれたと思う。一度赤ちゃんと会いさえすれば、母親の考えは、がらっと変わるものなのよ」 「変わるとは」 「まず可愛《かわい》いと思う。抱きしめたいと思う。だけど最初は保育器の中に入っているから抱きしめられない。それでますます赤ちゃんが愛《いと》しくなる」 「すべての母親がそういう反応をするとはかぎらない」栄次が、冷ややかにいうのではなく、由紀に冷静な説明を求める口調でいった。  栄次がいるから、由紀は安心して自分の憤りにまかせてしゃべることができるのだろう、と佐竹は思った。二ヵ月前に二人きりで話した時には、由紀は終始、冷静だったが——。 「そうね」由紀は熱を帯びた自分の口調を鎮めていった。「でも、障害の子が生まれたという現実から、逃げ出したがっている親にとっては、その子との対面が、あらゆる意味で第一歩になる。そこを通過しなければ何もはじまらない。そうでしょ?」由紀は栄次に同意を求めた。 「もちろん」と栄次が答えた。 「そして、志賀さんは、決心するまで二ヵ月近くもかかったけれど、恐る恐る拓くんに会いに行って、劇的に変わったのよ。この子は惨《むご》たらしいからだをしているけれど、可愛い、抱きしめたい」 「由紀は、自分のことを話してるんじゃないのか」栄次がいった。 「同じなんだもの。あたしの場合と。服部さんから聞いた志賀さんの話は。他人事《ひとごと》とは思えないのよ」  佐竹はゆっくりとビールを飲み干した。栄次がすぐに瓶をつかんで佐竹のグラスに注いだ。 「由紀もさ」と栄次はいった。「志賀って人ほどじゃないけど、なかなか子供に会いに行けなくてさ」 「三週間かな」由紀が話題を引き取った。「それで、はじめて子供に対面した時、ベッドの手すりにしがみついて、〈ごめんなさい〉って、あの子に泣いて謝ったの、昨日のことみたいに覚えてる」  佐竹はちらっと由紀の表情をうかがった。由紀は佐竹の視線に気づいて、小さく笑った。思い出したことがあったのか、ふいに悲しい目付きになった。 「これ、うまいな」栄次は、舌の先に出した山葵の茎を指でつまんで、しげしげと眺めながらいった。「おまえ、ゴボウの間引き菜って、食ったことあるか」と話題をそらした。 「ある。八王子の農家へ実習に行った時に食わせてもらった」佐竹が答えた。 「ゴボウの葉っぱと似てないか、これ」 「似てるって、何が」 「歯ごたえもそうだけど、味が似てるのよ。とくに苦味が」由紀がいった。 「そうか?」佐竹にはさっぱりわからない。 「おまえ、味覚ゼロだな」 「ゴボウの葉っぱ食ったのは、二十年以上も前だ。どんな味がしたかなんて忘れたよ」 「これだけ似てるってことは、山葵とゴボウは同じ仲間かな」 「ぜんぜん違う。山葵はアブラナ科、ゴボウはキク科よ」由紀がかつての秀才ぶりを見せていった。 「で、さっきの話だけど」と栄次は話をもどした。「由紀はわが子と対面した後は、その子が死ぬまで、障害児と共に一直線に生きたわけだ。〈この子、命〉、みたいな感じで。だけど障害児の母親といったって」由紀の方へ顎《あご》をしゃくっていった。「こういう強い性格の、鬼みたいな人ばかりじゃないってことなんだよな」 「志賀民恵のことをいっているのか」佐竹が確認した。 「そうなんだろう?」栄次は由紀に振った。 「そうなんだけど」由紀はちょっと眉《まゆ》をしかめた。「志賀さんは劇的に変化したといったけど、精神的に不安定な状態はつづいていた。でも、それもあたしと同じなのよ」 「そんなふうには見えなかったぞ」栄次がいった。 「あんたが、あたしを支えてくれたわ」 「おい、聞いたか」栄次は照れ臭いのか、茶化すようにいった。 「支えてくれたといっても、世間の男と比較すれば、それなりに努力はしてくれたな、というていど」由紀は冷ややかにいった。 「まあ、そんなところだろうな」栄次はあっさりと認めた。 「でも感謝はしているのよ」 「うれしい」 「栄次がちょっと支えてくれて、栄次の両親も、あたしの父も母も、娘のみどりも、みんなが少しずつ支えてくれたから、何とかやってこれたの」 「だが、志賀民恵の場合は違った?」佐竹がきいた。 「残念だけど、そうだったみたい」 「志賀さんが服部さんに相談したのは、そのことかな。つまり家族の問題」 「すぐその話にはならない」 「どうして」 「家族のことって、他人には相談しにくいでしょう?」 「そうだね」 「それに、はじめから家族の問題が決定的に重要だと気づく人は少ないと思うの。志賀さんにも、最初のうち、その自覚はなかったらしい。服部さんは、その点をもうじゅうぶんに知りぬいているから、初対面の時から、〈どう? ご主人、協力してくれる?〉とか、さりげなく聞いて、≪危ないな≫と感じた」 「危ない、というのは」 「父親が障害児を疎《うと》ましく思っていて、母親に協力しようとしない。母親は一人で何とか踏んばっているけれど、いつまで持ちこたえられるか、という不安ね」 「なるほど——その時は、家族の問題で突っ込んだ話は出なかった。すると、志賀さんは、最初、どんな相談をもちかけたか」 「どうしたらいいかって」 「どうしたらいいか、とは」 「困っちゃったな」由紀は天井を仰ぎ、それから手のひらに視線を落としていった。「最初は、何もかも、どうしたらいいのか、わかんないのよ。これじゃあ説明にならない?」 「何となく、わかるが——」 「由紀の言い方が一番正確なんだけどな」栄次が助け船を出した。「ふつうは、たとえばうちの長女の場合だと、育児ってのは、見よう見まねで何となくできるわけだ。人がやってるの見てるし、本はいっぱい出てるし、親にも聞けるし。その後の人生もだいたい予想がつく。学校行って、何年かツッパリやって、びっくりするほど早めに男を知って——」 「あの子、いるのよ」由紀が奥の部屋へ視線を流し、低い声でたしなめた。 「いいんだ。あいつとはいつも話してることだから」栄次は無頓着《むとんちやく》につづけた。「それである時期が来ると、なぜか今度は一転して保守的になる。堅い職業についてる男を物色する。そのうち背広着たつまんない若僧を家に連れてくる。そいつと親の目の前でいちゃいちゃする。おれはその洟垂《はなた》れ小僧に娘の過去をぶちまけたい衝動にかられる。実際にそういう場面に遭遇したら、おれは、二人ともぶん殴ると思う」 「その気持ちわかる」佐竹がぼそっと賛意を表明した。 「あんたたち」由紀が怒った。「子供の前で胸張って話せる過去を持っているとでもいうの?」 「ようするに」栄次は由紀の声が聞こえなかったように話をつづけた。「生まれてから死ぬまで、長女の場合は想像がつくんだ。もちろん、誰の人生だって、一筋縄ではいかないってことはわかってる。だけど、あるていど想像できるということは、親の不安を解消させてくれるんだよ」 「障害児の場合は、そうはいかない」佐竹がいった。 「見たことないんだから。障害児なんて。≪障害児≫って一括《ひとくく》りにするのもよくない。症状によってそれぞれ違うんだから。そうなると、正直いって、とくに育児の段階なんて、どうしたらいいか、ぜんぜんわからない。わが子を見てたら、離乳食の時期が来るなんて、信じられなかったぜ」 「でも、離乳したんだろ?」 「そうなんだよ。口からはじめて食ってくれた時は、ほんとうれしかったよ」 「じゃあ、具体的なことをいうわね」由紀が議論の混乱から抜け出すためにいった。「志賀さんは、いろいろ勉強したいといって、服部さんから本を借りていったの」 「どんな本」 「≪二分|脊椎《せきつい》症の子どもとの接し方≫とか、翻訳物で、≪セックス≫という障害者のための性の手引き書とか、それからあたし知らなかったけど、水上勉さんの小説で≪くるま椅子の歌≫とか」 「志賀さんは、意欲じゅうぶんだった」佐竹は自分に言い聞かせるようにいった。 「そう。二度目に会ったのは、本を返しに来た時で、志賀さんは退院した拓くんを連れてきた。服部さんは拓くんを見て、ちょっと驚いたといっていたわ」 「障害が重いから?」 「そう。とくに、拓くんの奇形ね。服部さんの息子さんは、同じ二分脊椎症だけれど、ずっと軽いの。知能障害はないし、自分で歩けるし。でも志賀さんの様子は、最初に会った時の思いつめた感じが消えて、明るくなっていたそうよ。二人はね、お互いの子供の背中の傷を見せ合いっこ、したんですって」 「何だか和やかな雰囲気が伝わってくるな。実際はどうか知らないが」 「ううん。いい雰囲気だったって。打ち解けてきたら、志賀さんは、家族が協力してくれないと、ちらっとこぼしたらしい。それで服部さんは心配になったけれど、他人の家族の問題はどうにもならないでしょ。〈協力してほしいことがあったら、何でもいってね〉と服部さんはいって、別れた」 「そして、あの事件か」 「まだあるわ」由紀の声に厳しいひびきがあった。  佐竹はグラスを置いて、由紀の言葉を待った。 「最初に会った時に、服部さんは志賀さんに、慈林医大病院に通院している、別の二分脊椎症の子供と母親を紹介していたの。たいてい特定の小児科医が障害児を診てて、診察日は週に二日ぐらいある。で、志賀さんは、その母親と同じ通院日にしてたわけ。あの事件が起きた何日か前に、その母親から服部さんに電話があった」  由紀は喉《のど》が渇いたのか、グラスを飲み干した。そして話をつづけた。 「志賀さんの様子が、だんだんおかしくなってきている、というのよ。一時は、家族の問題も含めて何でも話し合えるようになっていたのに、最近は声をかけようとすると逃げて行く。拓くんのからだの奇形を、帽子や服で隠している感じがする。そして五月の末から六月のはじめにかけて、志賀さんと拓くんは、二週つづけて病院に来なかった。その母親が心配して志賀さんに電話したら、妙なこと口走ったらしいの」 「妙なことって」佐竹は急《せ》かすようにいった。 「拓は死んだほうが幸せかもしれないって」  栄次がゆっくりと立った。床のフローリングが軋《きし》む音がした。からだを反転させて冷蔵庫からビールを出した。ポンと栓を抜く音。栄次は佐竹のグラスに注ぎ足しながら、 「よくある話さ」といった。 「で、服部さんは」佐竹がきいた。 「志賀さんに電話した。電話じゃ埒《らち》があかないと判断して、稲城市の志賀さんの家まで行った」  由紀は栄次がビールを注いでくれる間、話を中断して、またつづけた。 「もうそのころには、志賀さんの亭主が、拓くんが死ぬことを望んでいることを、はっきりと口に出していることはわかっていた。亭主の実家が、障害児を生んだ嫁に冷ややかな態度をとっていることもわかっていた。だから服部さんは、〈一緒に御主人を説得しましょう〉と申し出た」 「そこまでやる人間は少ない」栄次がいった。 「あたしにはできない」由紀がいった。 「由紀ならやりかねない」栄次がいった。 「志賀さんは服部さんの申し出を断った」由紀は話をすすめた。「それでも服部さんは、拓くんと一緒に生きる道を探しましょう、といった。能登の志賀さんの実家へ一時身を寄せることは可能かどうか、そういう提案もしたけれど、志賀さんは両親に迷惑がかかると断った。実をいうと、志賀さんは田舎の両親に障害児が生まれたことを隠していたのよ。いくら話しても志賀さんは、〈この子は死んだほうが幸せ〉だという考えを捨てなかった。でもね、拓くんを病院へ連れて行くことだけは、約束してくれたのよ」 「志賀さんは、約束を果たした」佐竹がいった。 「そして、あの事件が起こった」由紀が話にピリオドを打った。  また静寂が訪れた——。  長い沈黙の後で、栄次が口をひらいた。 「多少、事情を知ってた人間は、志賀さんを疑ったろうな」からっとした口調だった。 「そうなの。服部さんも、いけないことだけれど、ちょっと嫌な感じを持ったって」 「でも、おれだってさ、志賀さんの亭主とたいして変わらないぜ」栄次がいった。 「障害児が生まれた後の、心の動揺が?」佐竹がきいた。 「うん。おれが生まれたばかりの子供を見た時に、どんな感想を持ったと思う?」 「さあ」 「≪ローズマリーの赤ちゃん≫が生まれたぞって」 「やだ」由紀が小さく顔をしかめた。 「映画の≪ローズマリーの赤ちゃん≫か?」佐竹がいった。 「そう。原作はアイラ・レヴィンの小説だ」 「あれは悪魔の赤ちゃんを生む話だろ?」 「だから、由紀が悪魔の赤ちゃんを生んじゃったと、一瞬、思ったわけだ」  栄次は穏やかに話していたし、口調の端々には、死んだわが子への愛情がにじんでいた。だが、佐竹は言葉を失ってグラスに視線を落とした。 「子供が生まれたばかりのころ、あたしは精神的にまいってて、子供に会いに行くのが遅れたから、栄次がそういう感想を持ったことを、とやかくいえないのよ」由紀がいった。 「とやかくいわれたって困るさ。一瞬思い浮かべたのは、ほんとに、≪ローズマリーの赤ちゃん≫だったんだから。すぐに、そんな思いは消えて、子供に会うたびにどんどん可愛《かわい》くなってゆく。それはそうなんだが、子供が生まれて半年ぐらいは、やっぱり志賀さんと同じように、〈この子は死んだほうが幸せ〉だと思っていた。ちょっと気取っていうと、何度も何度も、心の中で、わが子を殺したわけだ——由紀にも、そんな思いが、ちらっと浮かんだことがあるかもしれない」  由紀が微《かす》かにうなずくのを、佐竹は見た。胸がつまった。 「志賀さんには時間が足りなかったんだろうな」栄次がいった。 「時間とは」佐竹がきいた。 「拓という子との絆《きずな》を作るための時間がさ。たった四ヵ月しかなかったんだろう」 「子供と会ってからだと、二ヵ月しかない」 「時間があっても、志賀さんの場合は難しいわね」由紀がいった。「あたしが聞いたかぎり、永遠に家族の協力が見込めそうもないんだもの。そんな話は多いでしょ」 「あるな」栄次が同意した。 「典型的な例なのよ。まず障害児が孤立する。母親が孤立した障害児を守ろうとする。そうなれば、母と子が孤立する。子供って、だんだん親の手から離れてゆくもんでしょ。でも拓くんの場合はそうじゃない。一生介護を必要とする子は、母子家庭で育てるわけにはいかないのよ。勤めになんか出られないわよ。買い物だっておちおちできないんだから。そうすると、孤立した母と子はどうなるか」  由紀が、疲れてはいるが今でも愛くるしい瞳《ひとみ》で、佐竹の顔をのぞき込んでいった。 「佐竹、どうなると思う?」 「自殺するか——さもなくば子を捨てる」 「子を捨てる」由紀がなぞっていった。「でも、そういう心境に追いつめられた母親を、誰が責められる?」 「志賀さんは、そういう心境にあった、ということだね」佐竹がいった。 「そうだと思うわ」由紀は民恵をかばうような口調でいった。  佐竹は、ふと明野のことを思った。よくぞここまで新を捨てなかったものだ。いや、そうではないな。新にしてみれば、そうかんたんに捨てられては、たまらないものな。佐竹の思考は錯綜《さくそう》した。いずれにしろ、と思った。明野の役割はもう終わっているのだ。 「肝心の問題だが」佐竹はいった。「由紀はどう思う? 志賀さんが子供を引き取るのは、やはり難しいだろうか」 「希望を捨てないで——」そうとしか、いいようがない、という口ぶりだった。  由紀がそっと佐竹に視線を合わせてきた。その目が一瞬、光を帯びた。 〈あたしに声をかけてちょうだい。そしたら志賀さんを説得するのに加勢してもいいわよ〉  由紀の目がそう語ったような気がした。だが、佐竹は何もいわなかった。 「それにしても難しいぞ」栄次が忠告する口調でいった。「志賀さんて人には、別の家庭があるんだろ」 「後妻に入って、先妻の十歳と七歳の娘がいる」 「大変だな。旦那《だんな》が、どんな男かもわからないし」 「男は見かけによらないから。いざという時じゃないと、男の価値って計れないものなのよ」由紀が何かを仄《ほの》めかしていった。 「おれのことか」栄次がいった。 「栄次はね、障害児が生まれたら、何十年ぶりに、オネショがはじまったのよ」 「バラすな」 「あたしが知ってるだけで、五回も」 「その話、終わりッ」栄次は背伸びをしていった。「おい、メシの支度しなくていいのか。もう六時をすぎてるぞ」 「亭主みたいな口、きかないでちょうだい」由紀が立ち上がった。「急いで用意するわね」と佐竹にいった。  そこで、 「あたしがするから、いいわ」と、背後でちょっと不機嫌な声がした。  佐竹の視界の右隅から、金色の長い髪の少女が入ってきた。テーブルと食器棚の間で母親とからだを交差させた。背の丈は少し娘の方が高い。 「あたしのお客さんだから」由紀がいった。 「だったら話があるんでしょ。たまにはいいわよ」娘は相変わらず不機嫌そうにいった。  髪に隠れて、横顔がちらっと見えただけだが、きれいだった。声も似ているし、若い時の由紀にそっくりだと思った。 「いい女になりそうだろ」栄次が声をひそめた。 「聞こえてるわよ!」由紀の叱咤《しつた》が飛んできた。  娘は屈《かが》んで何かをはじめた。米を量る音が聞こえてきた。 「気になったことがあるんだけど」由紀が立ったままいった。 「なんだい」佐竹がきいた。 「拓くんと生活してる人を、捜したいと思うとするでしょ」  佐竹は、由紀の奇妙なものの言い方にとまどった。考えをめぐらした。警察が明野の所在を突き止める場合を、想定していっているのか。 「たとえばの話だね」佐竹はうながした。 「そう。かんたんな方法があるのよ」由紀の目に不安の色が浮かんだ。 「どうすればいい?」 「発想を、ほんの少し、変えればいいの」 「どう変える?」 「拓くんが、生きている、と想定すれば、後は、かんたん」 「彼らは、そうは考えていない」 「でも、生きていると想定しさえすれば」 「——なるほどな」佐竹は、かろうじて平静な口調を保った。 「年齢はわかっているでしょ。病名もわかっているでしょ。養護学校を調べれば」  由紀が示唆したことが、現実のものとなるかどうか、判断材料を持っていない。だが、専従捜査員の誰かが、たとえば花村が、由紀のいうように、発想をほんの少し変えるだけで、一夜にして明野の逮捕に至ることになる。 「電話を借りるよ」佐竹は立ち上がった。  由紀は声が出ないとでもいうように、頭を縦に振った。コードレスホンを佐竹に渡した。 「和室を使えよ」栄次がすかさずいった。 「はい——尋津です」  輪郭のはっきりした、感じのいい声だった。 「お母さんでいらっしゃいますか」佐竹は軽い調子を心がけてしゃべった。 「はい——どちら様でしょうか」 「伸学舎と申しまして、お宅様の春香ちゃんと舞子ちゃんの学習教材のことで——」 「申しわけありませんが——」民恵は電話を切った。  民恵はまだいる。今夜出かけるだろうか。明日は十二日だ。もう盆休みがはじまっている。今夜でなくとも、明日か明後日《あさつて》は田舎へ出発するかもしれない。佐竹は急ぐことにした。もう待つ必要もないのだ。  由紀に応援を頼もうか、という考えをちらっと浮かべて、すぐに打ち消した。探偵稼業の裏側を見られたくない、という計算が働いていたことも事実だが、由紀をこれ以上、巻き込みたくなかった。何が起きるか、わからないのだ。  計画通りに、ウネ子の電話番号を押した——。  由紀と、それから娘のみどりに謝って、佐竹は食事ができるのを待たずに、団地の部屋を出た。栄次が外まで送ってきた。  薄闇《うすやみ》が迫る銀杏《いちよう》並木の下で、 「ここでいいよ」と佐竹が足を止めていった。 「そうか。気をつけろよ」栄次がいった。 「栄次」 「なんだ」 「由紀のところへもどるのか」 「どうかな」栄次は曖昧《あいまい》にいった。 「決めかねてるのか」  佐竹は視線を落とし、下駄をつっかけている栄次のばかでかい足指を見た。中指の爪《つめ》が両方とも潰《つぶ》れていた。なぜだろう、とふと思った。拳《こぶし》をぎゅっと握りしめて、散漫になりかけた神経を集中させた。距離が少し足りないと思いつつ、視線をもどして、 「おれにおまえを殴る資格はないが——」といった。 「前置きをするとは、いかにも佐竹らしい」栄次は、何が起きるか承知しているらしく、軽くうなずいていった。 「殴りたいから殴る」  決心が鈍るのを恐れて、ぜんぶ言い切らないうちに、殴った。栄次の巨体がのけぞった。だが、ナックルが当たらなかった。子供の喧嘩《けんか》みたいなオープンブローだった。パーンという、みっともない軽い音が、耳に残った。      24  かつてウネ子がアーバン・リサーチの主任相談員だったころ、上客の面談に利用したり、若い探偵たちを酔わせて口説いていたのが、虎ノ門の会社の近くにある全日空ホテルのバー≪ダビンチ≫である。  その≪ダビンチ≫を、ウネ子は民恵との待ち合わせ場所に指定した。  民恵は、今日十六時十分の小松行きの便で、亭主より一足先に能登の田舎へ帰ることになっていた。そこで空港に向かう途中、ホテルに寄ってもらうことにしたのである。全日空ホテルからタクシーを飛ばせば、羽田空港行きのモノレールが出る浜松町駅まで五分足らずで着く。  落ち着いて話ができるよう、ホテルに、隣り合わせの二部屋を確保していた。  佐竹はロビーの応接セットに身を沈めて、タクシーから降りて来る客に視線を送りつづけていた。ドアを押して入ってきた和服の中年女が視界の中を横切っていった。  佐竹は思い返していた。昨夜、ウネ子は佐竹の依頼内容を理解すると、率直に話す以外に手はないと判断して、何のためらいもなく民恵の家に電話をかけた。「米本探偵事務所の相談員をしていた鈴木です」と名乗り、「お子さんのことで、緊急に話したいことがある」といった。そして民恵は了承した。民恵が誘いを拒まないという自信が、ウネ子にはあったにちがいない。  今年の三月中旬に、ふたりは一度だけ会っている。話し合われたのは、調査方法、報告書の体裁、料金体系、依頼人の秘密保証、等々——営業システムに関する事柄に限定されており、民恵は自分の依頼内容については一切触れていない。  その、やり手の相談員と面談に訪れた匿名の女との、一度かぎりの出会いで、ウネ子と民恵は、相手の人生を想像して、相手にいたわりの気持ちを抱き、お互いに相手の心の動きを見抜いた。ウネ子はそう断言し、佐竹はウネ子の言葉を信じた。  米本殺しが発覚した直後に、恵比寿のレストラン&バーで、佐竹が匿名の女の印象を問うと、ウネ子は「いい女よ」といった。いい女と答えたのは「何かをかいくぐって来てる感じ」がしたからであり、かいくぐった何かとは「怒り、哀《かな》しみ、自責、死への衝動、諸々《もろもろ》」であるといった。  ここまで事件の性格が明らかになってみれば、佐竹ならずとも、ウネ子の人間観察の目を信用しない者はいまい。  ふと、耳に吐息が降りてくるのを感じた。背後にそっと聡子が屈み込んでいった。 「来ますよね」 「来る——」  腕時計に視線を落とした。午後一時十九分。約束の一時に少し遅れている。視線を上げた。タクシーから降りたのは、若い女の二人連れだった。アークヒルズの方から背の低い白人が入ってきた。 「ウネ子さんの様子を見てきたんですけど」聡子がいった。  ウネ子が待っている≪ダビンチ≫はフロントの上の階にある。 「また、マンハッタンのお代わりしてるんですよ」  聡子の声に咎《とが》めるひびきがあったので、佐竹は思わず微笑を浮かべた。いいぞ、ウネ子の飲酒にもっと干渉しろ。そして——ウネ子の左の胸の傷をちらっと思った。  タクシーが着いて、白いワンピースの女が降りた。 「あれだな——」佐竹がつぶやいた。  髪型を変えているが、民恵にまちがいなかった。小さなバッグを手にしていた。荷物は宅急便で先に送ったのだろう。  民恵が吹き抜けのホールに入ってきた。少し不安気な顔で上の階を見上げながら、佐竹の数メートル手前まで来て、足をとめた。明るい茶色に染めた髪に軽くパーマをかけている。小さな顔に赤い小さな唇。化粧映えする顔だった。民恵は視線をめぐらして、≪ダビンチ≫の所在を確認した。背中を向けていた。ひとつ深呼吸するのがわかった。狭い肩が息づいて、白いドレスが背中にはりつき、ブラのストラップが微《かす》かに透けた。  佐竹は部屋の隅に置いてあった紙袋の中から黒革製のアタッシェケースを出した。聡子が受け取って丸テーブルの上にそっと置いた。留め金を外す。蓋《ふた》を開ける。中に受信機と三台の音声感知式テレコが組み込まれている。すでに最初の一台がまわっている。聡子は急いでイヤホーンを二つテレコに接続する。一つを佐竹に渡す。二人はテーブルについてモニターをはじめた。  隣の部屋でウネ子が深みのあるアルトでしゃべっていた。  佐竹は目を閉じた——。 「ゆっくり話がしたかったのだけれど」とウネ子がいった。「時間がないようだから、急いで話すわね——まず事実経過を確認しておきたいの」 「——」 「米本が殺されたの、知ってるでしょ」 「——はい」 「あなたは、去年の十二月二十五日に、Gテレビへ行って、ニュースの録画を頼んだ」 「——はい」 「今年の四月七日、米本に、テレビニュースに映っている子供の素姓を調べてほしい、と依頼した」 「はい」 「あなたは、子供を捜す手がかりとして、そのビデオテープのほかに、何か米本に教えたり、渡したものがある?」 「子供の年齢と病名を——」  それだけの手がかりがあれば——と佐竹は壁のこちら側で思った。米本は、かんたんにビデオの子を突き止めることができたはずだ。府中近辺の養護学校を調べ、明野の家を覗《のぞ》き、市役所で戸籍調査をして調査は完了する。一日か二日で終わる。それだけの仕事に、米本は調査料金二百三十万も請求したのだ。  ウネ子は、米本が民恵から法外な料金をせしめたことには何も触れずに、次の質問に移った。 「明野哲夫の名前も教えた?」 「いいえ——明野さんの名前を知りませんでしたから」落ち着いた声だった。 「明野は誘拐犯人?」 「——はい」 「彼がそういったの?」 「はい」 「昭和六十年に子供が誘拐された時、警察もマスコミも、あなたを疑っていた。そのことを知ってた?」 「——はい」 「そういう疑惑の目で見るとね、あなたが明野と面識がなくても、あなたが誰かに、子供を誘拐することを依頼して、その誰かが、明野に誘拐の実行をやらせた、という考えが成り立つわけ」  静かな間《ま》。 「あなたが潔白だと信じているけれど、警察はまだその考えを捨てていないと思うの」とウネ子がいった。 「——はい」 「米本が殺されて何日か経ってから、警察が来たでしょ」 「はい」 「八月三日にも」 「はい」 「犯人から連絡はなかったか、と聞かれなかった?」 「いいえ」 「どんな話だった?」 「拓の誘拐事件のことですが——あのころは御苦労なさったでしょう、とか、思い出話のようなことを、いろいろと——」 「警察は、あなたの反応を見てたのね」 「——そうだったと思います」民恵の声に乱れはない。 「あなたが潔白であろうとなかろうと、明野のことで、いずれ警察に呼ばれて、事情聴取を受けることになる。裁判がはじまれば、証人として呼ばれる。マスコミが騒ぐ。覚悟しておかなくちゃだめよ」 「はい——」 「亭主とは話し合ったの?」 「いいえ」 「何も?」 「何も」 「タバコ吸うんだったら、どうぞ」 「吸いません」 「ねえ——」と聡子が掠《かす》れた声でいった。  佐竹が目を開けると、聡子はテーブルの上の開いたアタッシェケースを目で示して、 「なんか、ヤクの取引みたいですね。ブツのクォリティを確かめるんで、試しにキメてるっていうか——」とばかなことをいった。  聡子は頭がおかしくなったのではなく、緊張しているのだと思った。ウネ子がしゃべりはじめたので、佐竹は何もいわずに、また目を閉じた。 「話をもどすわね。四月七日に米本に依頼した。報告書を受け取ったのはいつ?」 「五月のゴールデンウィークが終わってからだったと思います」 「次に米本から連絡があったのは、いつ?」 「五月の二十日前後でした」 「米本はなんて?」 「志賀拓くんのことで話があるから、会いたい、といいました」 「それで、米本に秘密を握られたことが、わかったわけね」 「はい」 「で——」 「断りました」 「ホテルの部屋で会いたいとか、米本にいわれたの?」 「いいえ——でも怖かったので、すぐに電話を切りました」 「探偵、怖い?」 「——はい」  ウネ子の複雑な心境を示すような、奇妙な間が生じた。 「また米本から連絡があったでしょ?」ウネ子の気を取り直したような声。 「はい——五月二十五日に、土浦で会いました。あの時は家の近くから電話がかかってきたので、仕方なく、あたしの方から土浦のマリーベルという喫茶店を指定しました」 「あなたは、コーヒーを頼んでおいて口もつけずに、三分か五分で店を出て行った」 「そんな細かいところまで調べてあるんですか?」ちょっと怖《お》じけづいた声だった。 「しつこい探偵が調べたのよ」ウネ子は意識してか、うんざりした声を出した。「で、その時の話は?」 「米本さんは、志賀の戸籍謄本と明野さんの戸籍謄本を見せて、明野哲夫は誘拐事件の重要参考人だから、警察に通報する、といいました」 「それで」 「警察に通報するのはやめてください、と頼みました」 「どうして」  間。 「明野が警察に捕まれば」とウネ子が民恵の代わりにいった。「明野新という名前の子が、あなたの子だとわかってしまうからでしょ?」 「——」 「困る?」 「——はい」  長い間。  次にウネ子の口をついて出たのは、佐竹も抱いた疑問だった。 「米本は、あなたを強請《ゆす》るような素振りは見せなかったの? 警察には通報しない代わりに、お金とか、性的関係を求めるとか」 「いいえ」 「そう」小さな驚き。 「会う前は怖かったんですけど——米本さんて、そういう人だったんですか?」 「そんなことないわよ」  ウネ子は場違いに明るい声で否定して、自分に言い聞かせるようにいった。 「米本はね、胡散臭《うさんくさ》い男に見えたかもしれないけど、あれでいいところもあったのよ」  そして、ウネ子の長い長い安堵《あんど》のため息が、隣の部屋でモニターしている佐竹と聡子の耳に、はっきりと届いた。 「あなたは警察に知らせないでくれと頼んだ。で、米本はどう答えたの?」ウネ子は話をもどした。 「あの子、可愛《かわい》いじゃないか、といいました」  小さな間。 「あの子、可愛いじゃないか、と米本がいった」ウネ子の声は意外な展開にとまどいを見せていた。「つまり何かを、あなたに伝えようとしたわけでしょ」 「ええ、拓を引き取れ、といいたかったんだと思います」 「で、あなたは」 「逃げ出しました」  また小さな間。 「あの子を引き取れといわれるのが、一番|辛《つら》い?」 「——」民恵は答えない。 「米本と別れてから」ウネ子が声に厳しさを込めた。「あなたは明野と連絡をとった」 「——」 「明野に何といったの」 「——」 「誘拐犯人であることがバレたから、逃げてほしい」ウネ子がまた代わって答えた。 「——」 「子供を連れて逃げるわけにはいかない、と明野は答えた」 「——はい」やっと小さな返事。 「そして、あなたは米本事務所の場所を教えた」 「——はい」 「なぜ教えたの」 「——」 「なぜ明野に米本の事務所を教えたの」ウネ子は重ねてきいた。 「明野さんは、米本さんと話してみるから、電話番号を教えてくれと——」 「何の話をしてみるって?」 「ただ、話してみるからと」 「どんな話になるか、想像はついたでしょ? ようするに米本の口を封じたいわけだから」 「——」 「意地の悪い質問だったわね。でも、その点は後で問題になるかもしれない」 「——」 「あなたは二十五日に米本に会った後で、明野に米本の事務所を教えた。そして明野は五月二十七日の夕方、米本が殺された時刻に事務所を訪ねているのよ」  小さく息を飲む音。 「明野が殺《や》ったな、と誰でも思う」 「——」 「犯人が別にいることを祈りましょ」 「——」  長い間を置いて、ウネ子がいった。 「その後、明野から連絡があったでしょ?」 「はい」 「子供を引き取ってほしいと」 「はい」 「明野に自宅の電話番号を教えた?」 「いいえ」 「じゃあ、明野は米本の死体からアドレス帳を盗んだのね」  気まずい間。 「あなたは、子供を引き取ることを、拒みつづけた」ウネ子は話を先に進めた。 「はい」 「でも会いたい気持ちはあった。だから、七月二十九日に、海水浴場で拓くんと会った」 「はい」 「あれは約束していたの?」 「いいえ、突然の電話でした。あの日の朝、今、常磐高速道のサービスエリアにいると電話がかかってきたのです」 「あの時、九年ぶりに子供に会ったんじゃないの?」 「そうです」 「可愛かったでしょう?」  間。  民恵は答えない。 「引き取って育てたい気持ちにならなかった?」  長い間があって、 「いいえ」民恵はきっぱりといった。 「尋津の家があるから?」 「はい」 「状況はわかってるんでしょ」 「わかっています」民恵の口調が決然としてきた。 「亭主に話してみたら」 「できません」 「九年前にも、服部さんていう女性から、一緒に御主人を説得しましょう、といわれたんでしょ」 「——」 「九年経って、男もちっとはマシなのに代えただろうし、あなたの気持ちも変わってると思うけど」 「——」 「二人の娘を育てるの大変?」 「はい」 「だめね」ウネ子はふいに投げ出すようにいった。「佐竹」と声を張って呼びかけた。「あたしじゃ、だめよ」  佐竹は、ウネ子が弱音を吐くのをはじめて聞いた、と思った。 「ウネ子さん、どういうつもりなんでしょう」聡子が腰を浮かしていった。 「もう、彼女にはすべてが見えている」断言した。 「何がですか」  佐竹は何も答えない。目を閉じたまま、民恵の決意の固さを思う。 「まだ話ははじまったばかりじゃないですか」聡子が憤っていう。 「無理だ。人選を誤ったのだ」佐竹がさえぎる。 「ウネ子さんには荷が重い?」 「そうだ」 「だって彼女ほど、包容力があって、人間観察の鋭い人はいないって、あなた、いったじゃないですか」 「その能力を使って、ウネ子さんが本領を発揮するのは——」  佐竹は目を見開いて、聡子にではなく、女王ウネ子の寵臣《ちようしん》としての自分自身に、はっきりと告げた。 「≪詐欺≫の分野だけ。そのことに、ウネ子さんは、今はじめて気がついたらしい」  佐竹はまた目を閉じて、ウネ子の病理と哀《かな》しみを思った。  ウネ子が隠しマイクを通じて佐竹にしゃべりつづけていた。 「あたし、子育ての経験がないんだもの。それどころか、子供をまともに生んだことさえないんだもの。闇《やみ》から闇へというやつよ」  ウネ子は乾いた笑い声をたてた。  民恵は沈黙している。  ウネ子は酔ってくだを巻く時の口調になった。 「ねえ、何とかならない? あたしの男友達を総動員して応援するからさ。ケチな探偵ばっかしだけど。あたしの目をちょろまかして、依頼人の女性から金品せびったり、からだをほしがったり、そんな連中だけど、彼らは複雑な良心を持ってるのよ。自分の都合のいい時だけ良心的になれるってやつ。それだって、ないよりマシだわ。たとえば米本だって、あの子の前では良心の権化みたいになれるってことなの。ねえ、罪深い探偵業界のカスみたいな良心だって、かき集めれば、けっこうな量になるんだし——」  聡子はいたたまれなくなって、イヤホーンをかなぐり捨てた。ロケットのように部屋を飛び出して行った。佐竹が追いかけて行くと、聡子は隣の部屋のドアを激しく叩《たた》いていた。 「開けてください!」 「大声を出すな」佐竹は聡子の腕に手をかけた。その手を振り払って、聡子は怖い顔で睨《にら》み返してきた。ドアが内側から開いた。聡子が吸い込まれるように入った。佐竹もつづいた。 「あらあら——」ウネ子が強盗に押し入られたかのように両手を高く上げた。  ウネ子の背後で、びっくりした顔をしている民恵の方へ、聡子は突進した。 「あたしからも話があるんです」さっと椅子《いす》を手で示して、「民恵さん、すわってください」といった。  民恵は聡子の剣幕に押されて後退《あとずさ》った。 「もっと穏やかに、話しなさいよ」ウネ子が間のびした口調でいった。 「お願い、話を聞いて」聡子は哀願調に変わった。 「あなたは」と民恵がきいた。 「探偵です」  民恵はとまどいの表情を浮かべて、椅子に腰をおろした。聡子がベッドに腰をかけた。ウネ子も椅子にすわった。パットがずれたのか、左の胸を揉《も》みほぐす仕種《しぐさ》を見せた。  佐竹は女三人から離れて、ベッドの端に腰をかけた。もう聡子はしゃべりはじめていた。 「民恵さん、明野は確実に逮捕されます。そうしたら何が起きるか、わかるでしょ?」  民恵は無言で、聡子のきちんと揃《そろ》えた膝《ひざ》のあたりに視線を向けていた。 「新くんは一人ぼっちになる」聡子がつづけた。「新くんを誰かが受け止めてやらなくちゃいけない。それができるのは、民恵さん、あなたしかいない。そうでしょ?」 「あたしにはできません」民恵が視線を外したまま、落ち着いた声でいった。「あの子は施設に預けることになるでしょう」 「いやです!」聡子は握り拳《こぶし》を作り、子供がだだをこねて泣きじゃくるように、短い振幅で激しく振った。 「あたしが黙っていても、志賀がそうするでしょう」民恵がいった。 「そんなこといわないでください!」聡子は卒倒しかねない声でいった。「とっても辛《つら》いことだけれど、人間って、試される時があるのよ。そこで頑張ってほしいんです。あたしにできることがあれば、何でもします。ほんとです。だから——」 「なあ——」と佐竹は辛抱できずに声をかけた。 「なんです」聡子が涙で赤く腫《は》らした目をむいた。 「もうやめろよ」 「やめません」聡子は唇をねじ曲げた。「自分でも何とかいったらどうですか。〈わたしにできることは何でもする〉なんて、調子のいいこといってたくせに」 「民恵さんはもう決めている。何もかもだ」 「そんなことはわかってます。心に決めちゃったことを変えてもらおうと思って、こうして話してるんじゃないですか。ばかッ」  聡子はさっさと佐竹に関心を失って、熱っぽい口調で民恵に語りかけた。 「あたし、おせっかいなんです。これ性分なんです。そんなことはどうでもいいんです。心配なのは、娘さんたちのこと。新くんが突然あらわれたら、びっくりするでしょうね。新くんを憎むかもしれない。あなたを憎むかもしれない。でも時間をかければ解決できます。必ず新くんに心を開いてくれます。そうは思いませんか?」  民恵は静かに心を閉ざしている。  ウネ子はまたパットに触っている。佐竹は目の前のバスルームのドアを見つめて、ウネ子は心理的な不安を覚えると失われた乳房を思い出すのだろうか、とあらぬことを考えた。 「そのほかにも、娘さんたちは、自分で解決しなければならない問題をたくさん抱えるでしょうね。たとえば結婚。新くんの存在が障害になるかもしれない。だけど、そんな結婚はやめてしまえばいいんです。乱暴な言い方ですけど」  ほんとうに乱暴だと佐竹は思った。  聡子は委細かまわず突撃をつづけている。 「相手の女性に障害者の兄弟がいるからって結婚をためらうような男は、はっきりいって、スカですから。大外れですよ。そんな男は無視すればいいんです。それでもなお、娘さんたちは問題を抱えています。両親が老いたときに、新くんの世話をどうするか。両親が先に死んでしまったらどうするか。今はまだ小さいからいいけれど、大きくなったら介護するのは大変だと思います。寝たきりで自分で御飯も食べられないし。あたしがざっと考えただけで、これだけの大問題がある。実際に障害児を抱えている家族には、ほかにもたくさん悩みがあると思います。あたしは無責任にものをいっているのかもしれない。でも、いいたいんです。だって、家族の悩みっていうけど、みんな自分の悩みにばかり関心があって、新くんの悩みには関心がないみたい。そうでしょ? 彼はもっともっと生きて、大勢の人に愛されたいんです。兄弟に声をかけてもらいたい。お母さんの腕に抱かれて、歌を歌ってもらいたいんですよ」  民恵は聡子から視線を外してはいたが、俯《うつむ》いてはいなかった。青ざめてはいたが、その表情には動揺は微塵《みじん》も見られなかった。 「新くんは、そんなふうに、いつも受け身でいるわけじゃありません。それどころか、彼はたくさんのものを与えてくれます。大事なものを。精神的なものを。素晴らしい人間関係を——」 「あの子は——」と民恵は静かな声でさえぎった。「尋津の家に入れるわけにはいきません」 「——」聡子の目に一瞬、暗い光が点《とも》った。 「主人とは話しました」民恵はウネ子にいった。 「そう——」ウネ子が元気のない声を出した。 「主人と意見が一致しています。あたしは尋津の家庭を守ることで精一杯です。能力以上のことはできません。尋津だって自分がどのていどの器かわかっています。自分の器以上のものを背負《しよ》い込んだら、家庭が壊れてしまいます」  民恵は立ち上がった。  今度は聡子が沈黙していた。もう激情を使い果たしたのか、俯いて、立ち上がることもできない。その頭上に民恵の言葉が降りてくる。 「あたしの身勝手で、娘たちの人生に、重い荷物を背負わせるようなことはできません。あの子を引き取るということは、そういうことです。あたし自身が拓を受けとめ切れずに、心が壊れてしまった経験があるというのに、娘たちを試すようなことはできません」  民恵がテーブルから離れた。佐竹は立ち上がって、通路を開けた。  ふと幻を見た。桜吹雪が舞っている。幼い感じの民恵が、他人の家の門柱の陰で自殺を考えている。  あれからの歳月を思った。  今は一つの家庭を築いている者のしたたかさをただよわせて、民恵が近づいて来る。そのしたたかさの背後に、佐竹は癒《いや》しがたい傷痕《きずあと》を見ている。目の前をよぎった民恵のドレスの白さが瞼《まぶた》に残った。喪に服しているような白さだった。ドアがゆっくりと閉まり、カチリとロックがかかった。  ヒー、ヒー、と誰かの死を悼んでいるような嗚咽《おえつ》が聞こえた。ウネ子に肩を抱かれて、聡子がからだをふるわせていた。  佐竹はそっと部屋から出た。聡子が火がついたように泣きじゃくり出す前に。      25  すべてを明かるみに出す前に、明野の家に仕掛けた盗聴機を撤去する必要があった。撤去する期日を、新の受診を済ませてから着手したいという心理的な理由から、八月十八日木曜日、新の通院日に決めた。同時に聡子の部屋の受信装置も撤去し、夜になったら佐竹が明野に自首をすすめる。後は、誘拐事件も米本殺しも、一切を警察の手に委《ゆだ》ねる。そういう計画だった。  知り合いの女性弁護士を、五反田駅近くの法律事務所に訪ねて、新の緊急保護措置について策を練った。打合せの途中、思い立って由紀に電話をかけた。三鷹の由紀の家なら新の通院にも便利だと考えたのだが、番号を押しながら、この頼みを聞いてもらうのに由紀は最適の人間であることに気づいた。  佐竹は由紀に事情を話して、十八日の夜に例の子供を連れて行くから、しばらくの間、何とかしてもらえないだろうか、といった。 「あたしにやらせて」と由紀は待ち構えていたかのようにいった。「翌日になったらすぐ、その子の掛かり付けの医師のところへ相談しに行くからね」と先のことまで言い出した。「なんなら、ずっとあたしが……」そこまでいって、「でも母親の説得をあきらめちゃだめよ。栄次をぶん殴る熱い気持ちがあるんなら、もっと頑張って」と継続的なアクションをうながした。  栄次を殴ったことに関していえば、≪熱い気持ち≫というよりも永年の≪嫉妬《しつと》≫がらみの行為であったことはまちがいないし、民恵の問題に関しては、佐竹の頭は判断停止の状態だったから、由紀の助言を聞いて少し腐った。  電話を終えてから、「母親を説得するのはもう無理だ」と思わず愚痴をこぼした。すると、その生意気な女性弁護士が、「由紀さんという人の意見に賛成よ」と佐竹の弱腰をあげつらったので、「母親の説得活動こそ、人権擁護の旗をかかげるきみたちの仕事ではないか。むしろきみの方が積極的に引き受けるべきだ」といい返した。そこでつまらない口論になり、佐竹はなおさら腐った。  佐竹の心の片隅には、さらに民恵を説得しつづければ、激しい煩悶《はんもん》のはてに、やがて民恵は新を引き取る決断を下すのではないか、という感触はあった。  だが、そのような重大な選択を民恵に迫ることなど、自分には許されていない、と佐竹は思っていた。  なぜなら、選択することによってリスクを背負い込むのは、民恵であって佐竹ではない。民恵とその家族が深く傷つくかもしれない決断を、これ以上民恵にうながす資格は、安全地帯にいる自分にはない。それが、佐竹が陥った袋小路であった。  次々と幕が開き、どのステージも無残な結末を予告していた。  深夜自宅へ寺西から電話があり、「今、浦和署だ。酔っぱらい運転のもみ消しに来てる」といった。  米本の女房が泥酔して住宅街をネズミ花火みたいに走りまわり、さる民家の道路に面したブロック塀をそっくり倒したという。息子がただちにウネ子に知らせ、ウネ子が寺西に号令をかけた。息子の通報に関していえば、〈父親の友人なら事件をもみ消す力があるだろう〉という判断が働いたに違いない、と寺西は注釈した。  幸い怪我人《けがにん》はなく、本人も軽い打ち身だけだが、念のために病院で精密検査を受けていた。病院へはウネ子が駆けつけた。「これで厄払いができた」と強引に主張して、ウネ子は病室にこっそり持ち込んだウィスキーで米本の女房と杯を酌み交わしたという。  一通り説明した後で、寺西が「どう思う」と聞き、佐竹は間髪を入れずに「自殺未遂ですよ」と答えた。  誰の目にも、事態はすべて破局に向かっているように思われた。  明野に自首を勧告する日が近づくにつれて、佐竹はますます不機嫌になり、押し黙り、人目を避けるようになった。多少救いだったのは、その間ずっと、聡子が音信不通だったことである。佐竹の方からも連絡をとることはなかった。こんな精神状態の時に、若い雌鳥みたいにキャーキャー騒ぎたてられたら、たまったものじゃないというのが、佐竹の正直な胸のうちであった。  盆休みのUターンラッシュがピークを迎えつつあった十七日、決行前夜の十時すぎのことである。事務所の下の、いつにもまして閑散とした碁会所で、まだ日本語を一言もしゃべれない台湾人の郭君と、静かに五目を並べて七戦七勝した。たわいなく喜び、意気揚々と事務所に引き揚げたところで、電話が鳴った。不吉な予感がし、そして的中した。受話器を取ると、 「あなた、携帯電話を持ってなかったでしょ」  と聡子がいきなりいった。 「用件は」佐竹はさえぎった。 「明野が飲んでるんです」 「酒ぐらい飲む」 「線路|脇《わき》の岐阜屋《ぎふや》という店なんです」 「どこの線路脇だ」語気を強めた。 「新宿」 「——相手は?」 「一人で」 「きみは」 「立ち食い蕎麦屋《そばや》の前です」 「真ん中の通りか?」 「はい。そこで待って——」  佐竹は最後まで聞かずに受話器を放り投げて部屋を飛び出した。  新宿駅西口の線路脇に、通称、≪ションベン横丁≫と呼ばれる飲食店街がある。電話を切ってから六分足らずで、佐竹は横丁の中央の路地を駅の方から入って行った。道は微《かす》かに下り勾配《こうばい》になっているのだが、佐竹は深い地下の洞窟《どうくつ》へ降りて行く感覚にとらわれた。路地の真ん中あたりにある立ち食い蕎麦屋の前で、水色のスカートをはいた聡子が待っていた。  佐竹はからだを寄せて、 「まだいるか」とささやいた。 「ええ」  数軒下った右手に、白のアクリルに黒く、≪岐阜屋≫と素っ気なく書いた看板がある。 「誰かを待っている様子か」佐竹はゆっくり歩き出してきいた。 「違うと思います」聡子がついてきた。 「どうして、そう思う」 「誘われたから」 「——きみが?」 「コマ劇場の前で、あたし、声かけられちゃったんです。一杯やりませんかって」ナンパされたみたいにいった。 「尾行がバレたんだな」 「——たぶん」聡子が情けない声を出した。  ちらっと店の中が見えたところで、佐竹は足をとめた。 「すぐ右側です。カウンターの奥に」聡子がいった。  佐竹はそっと足を踏み出して、店内をうかがった。ステンレス製の味も素っ気もないカウンターの一番奥で、明野が宙をぼんやり見つめて、ビールのグラスを傾けていた。手前の席には誰もいない。店の奥は広いようだが、盆休みのためか、客の姿はまばらだった。 「きみが外で見張っていることも、彼は知っているわけだ」佐竹が不機嫌な声でいった。 「ええ」 「すると、彼は、きみが入るのを待っているんじゃないのか」 「あなたもよ」と聡子は意外なことをいった。 「わたしも?」 「明野は、尾行に気づいたのに逃げようとはしない。つまり、あたしが仲間を連れてくるのを待っているのよ。だからあなたに電話したんじゃないの」  聡子の論理は飛躍が多すぎるが、的を射ているのかもしれないと思った。佐竹は、明野の奇妙な行動の裏にひそむ心理を推し量った。  追いつめられたことを悟って、自首する気になったのか?  佐竹は少しためらってから、店に入った。明野はすぐに気づいて振り向いた。まず佐竹の背後の聡子に、それから佐竹に、小さく会釈した。 「明野さん、ちょっといいですか」佐竹がいった。 「——探偵さんか?」明野の声は干からびていた。 「はい」  明野は納得がいったのか、一つうなずいた。写真で見るよりも老けている感じがした。目の下の肉がたるみはじめ、皮膚に小さな染みがたくさん浮かんでいる。固そうな髪に白いものがまんべんなく入り交じっていた。あと五、六年も経てば、おれもこういう顔になるのだろう、と思った。  佐竹は明野の隣にすわり、カウンターの中へ、「ビール」といい、明野の食べかけの餃子《ギヨーザ》の皿を見て、「餃子」と付け足した。 「あの——」と聡子が立ったままいった。 「すわれよ」佐竹がいった。 「新くん、一人なんでしょ?」聡子は心配そうな顔を明野に向けた。 「大丈夫だよ。あいつ動けないから」明野はむぞうさにいった。 「だって、もしも何かあったら」 「火事でも起こったら心配だよな」明野は聡子の言葉を引き取っていった。手酌でビールを注ぎながら言葉をついだ。「だから気になって、なかなか外で飲む気になれない」  だが今夜は、逮捕を覚悟したから外で飲む気になったというわけか。  ビールとグラスが届いた。グラスは一つしかこない。佐竹が、「グラスをもう一つ」といいかけたが、聡子はすわるつもりがないらしく、 「鍵《かぎ》貸してください。あたしもどって、新くんを見てますから」といった。 「じゃあ、もう一本飲んだら、一緒に帰ろうよ」明野が馴《な》れ馴《な》れしくいった。 「待てよ」佐竹は低い声でいった。「きみらは以前から知り合いなのか」 「ちがいます」聡子がびっくりした声を出した。 「顔は見かけた」明野がいった。「海水浴へ行った日の朝かな、あんた、おれの車、のぞいてたろ」 「あ——はい」 「それで探偵だと気づいた?」佐竹がきいた。 「そうじゃない。オンボロ市営住宅にいるのは婆さんばかりだ。どうして、こんなきれいな女がいるんだって、気になっただけだ。それから、時々見かけるようになった。多摩川の公園を散歩してる時にも会ったし、おれが庭で、ほら、ビニールのプールで新を水浴びさせてたら、あんた垣根から見てたろ」  聡子は顔をそむけ、佐竹は顔をしかめた。 「ちょっと飲もうよ」明野が聡子を誘った。 「——はい」聡子は椅子《いす》に腰をおろした。 「おにいさん、ビールとグラス」と明野はカウンターの中へ声をかけ、また聡子に、「餃子食わないか」ときいた。 「食べます」今度は迷いのない口調だった。 「餃子もッ」と明野は中へ声を張った。 「いつ探偵だと気づいたんですか」聡子がきいた。 「今日だ」明野は屈託のない口調でいった。「競艇場前駅から尾行されているような気がしてた。新宿に着いて、ああ、これは尾行だと思った。刑事かなと思ったが、米本って探偵のことが頭に浮かんでね——」  新しいビールとグラスがカウンターに置かれた。店員が去るのを待って、聡子はいきなり核心に触れた。 「あなたでしょ、米本さん、殺したの」 「おれじゃない」明野はちょっと怒った。  佐竹はちらっと店内の反応をうかがった。振り返る者はいなかった。 「わたしの事務所へ行きませんか。すぐ近くですから」佐竹がいった。 「おれ、久しぶりなんだ、新宿で飲むの」明野はビールをあおった。 「——」 「わかってるよ」明野が投げやりに言葉を足した。「人に聞かれたら困る話をしたいんだろ。いいじゃないか、警察がすっ飛んできたって」  明野は逮捕されるのを望んでいる、と佐竹は思った。今夜、ここで逮捕されても、明日の予定が一日早まるだけだ。おれにしても、一晩待つ辛《つら》さを味わわなくてすむ。だが——、 「自首しましょう」と佐竹がいった。 「どっちだっていいんだ。そんなことは」明野は手酌でビールを注いだ。  佐竹は軽くいら立ちを覚えた。ビールをながながと飲み干して、腹の虫をおさめた。思い直して、そっときいた。 「明野さんが、事務所に行った時には、米本はもう殺されていたんですか」 「何いってるんだ。生きてたさ」明野は声を落とさずに平然といった。  聡子がビールをつかんで佐竹のグラスに注いだ。佐竹は泡が盛り上がるのを見つめ、明野の言葉をどこまで信用していいものか、と考えをめぐらしながらきいた。 「米本の事務所を訪ねる一日か二日前に、尋津民恵から電話がありましたね」 「あった——調べはついてるのか」明野は関心のない素振りでいった。 「多少は——民恵は、米本があなたが誘拐犯人であることを突き止めたから、逃げろといった」 「そう。だけど新と二人じゃ逃げられやしないさ」 「だから口封じのために」 「よせよ。警察に突き出すのは、もうちょっと待ってくれって、頼みに行ったんだ」 「新の世話を誰がするか、という問題があるから?」 「まあ、そういうこと」明野はちょっと照れ臭そうにいった。 「米本は」 「わかってくれたよ」 「なるほど——で、米本は、民恵を説得したらどうかと提案した」 「彼は、新の母親の名前と電話番号を教えてくれた」 「その後で殺したんじゃないの」聡子が佐竹の背中から明野の方へ身を乗り出して執拗《しつよう》にいった。 「やめてくれよ」明野は蠅を追い払うみたいに鼻の前で手を振った。  佐竹は、軽くいなす明野の仕種《しぐさ》から視線を外した。この男がシロだとしたら、では誰が殺《や》ったのか——。 「ゆっくり飲んでもいられないのよ」聡子がいら立ちを見せていった。それは、急いで帰って夕飯の支度をしなければならない女のいら立ちに似ていた。「あたしも、いろいろ聞きたいことがあるから、席を替わってくれません。そっちへ行きたいわ」とカウンターの奥の壁際の席を示した。  男ふたりが入口の方へ一つずつ席を移動した。聡子はグラスを持って奥の席へ行き、壁に背をもたれて、 「あなたが殺しをやってないのだとしたら、ほんとにうれしい。だけど、なんで誘拐なんてばかな真似をしたの?」といった。  どこか飄々《ひようひよう》としていた明野の表情に、ふっと影がさした。グラスを飲み干して、そっと置き、 「女房が子供好きでさ」といった。 「昌美さんのことね」聡子は死んだ友人を語るようにいった。 「うん。おれは子供ってやつは、どうも苦手なんだけど」 「そうみたいね」聡子は冷ややかにいった。 「籍を入れる四、五年前から同棲《どうせい》してたんだが、子供ができなかった。わかる?」 「バース・コントロールしてなかったのに」聡子が素っ気なくいった。 「そう」 「どっちに原因があったの?」 「おれ」 「種なしね」聡子はあからさまにいった。  餃子が二皿届いた。明野が一皿取って聡子の前に置いた。佐竹が酢と醤油《しようゆ》をまわした。聡子は餃子の上からまんべんなく酢をふりかけた。餃子を一つ、箸《はし》でつまんで口に入れ、まあまあの味だったのか、ふんふんとうなずいた。 「医者とも相談したり、いろいろあって」と明野が話をつづけた。「結局、病院の新生児室を見て歩いた」 「?——やだ、それ——赤ちゃんを盗むつもりだったの?」 「女房がどうしても欲しいというんだ」 「昌美さんのせいにすることないでしょ」 「まあ、そうなんだが——いざとなると踏ん切りがつかない。あの病院でも一度、新生児室を見に行った。それから小児科の待合室に降りてきて——新を盗んだ」  店員がちらっと振り返った。三人は沈黙した。店員は話を聞くまいとするかのように、三人のいるカウンターからさらに離れて行った。 「ちょっと待って」聡子が少し声のトーンを落としてきいた。「あなた、身代金が目的で誘拐したんじゃなかったの?」 「はじめは赤ん坊がほしかっただけさ」明野がぼやくようにいった。 「障害児だって、わかって盗んだの?」 「わかってたら盗まない」 「新はフードで頭を隠し、パジャマのズボンで萎《な》えた脚を隠していた」佐竹が言い添えた。 「それだって、どこか、おかしい子だとわかるでしょ?」 「からだを調べてる余裕なんかなかった。急いで病院から車で逃げ出した。途中で女房が、この子おかしい、と騒いだ。ひどいからだしてるってわかった。返しに行けって、女房はいうんだ。だけど病院の方じゃ、もう大騒ぎになってるだろうから、返しに行くなんてことはできないだろ?」 「間抜けね」聡子がどこか同情する口ぶりでいった。 「とにかく早く現場から遠く離れたかったから、調布インターで高速に乗った。ところが高井戸あたりで、新の様子がおかしくなった。チアノーゼっていうのか、唇だとか手の指先の色が青くなった。それで新宿で降りて、都立大久保病院へ担ぎ込んだら、医者は脱水症状だといった。すぐに点滴を受けた。二本も」 「盗んだ手さげのバッグに入っていた、保険証と障害者手帳を、使ったんですね」佐竹が確認した。 「そう」 「で、初診だから、診察カードを作った」 「なんでそんなことを聞くんだ?」明野がいった。 「指紋よ」聡子が説明した。 「——指紋ね」 「診察カードを作る書類から、指紋が出たのだ」佐竹が断定した。「事件が発生してから何週間後、何ヵ月後でもいい。新が生きていると仮定しさえすれば、病院を洗うことになる」  そこまで説明して、佐竹はグラスに視線を落とした。あの時、捜査員の誰かが、新が生きていると仮定したのだとしたら、九年後の今回もまた、新が生きていると仮定して、養護学校を洗ってみる気にならないだろうか。佐竹はその考えをすぐに打ち消した。誘拐犯人が殺さなくとも、新は、生きているのが奇跡と呼ばれた、痛ましいからだの障害児だ。九年後も生きているとは、誰も夢にも思うまい。 「指紋が出たら、どうなるんだ?」明野が他人事《ひとごと》のようにいった。 「米本さんの事務所からも、あなたの指紋が出たのよ。だからあなたは、探偵殺しでも警察に追われていることになる」聡子が説明した。 「そうか」明野はちょっと困った声を出した。  気ぜわしいパトカーのサイレンが近づいてきた。新宿署は目と鼻の先だ。サイレンは大ガードをくぐって靖国通《やすくにどお》りの方へ遠ざかって行った。 「病院で新が点滴を受けた。それから——」佐竹が先をうながした。 「その間に、おれは保険証の名前と住所を電話帳で調べて、母親に電話をかけた」明野が話を再開した。「その時もまだ、金を取ろうという気はなかった。母親に一言、子供はもうすぐ返すから心配するな、といってやりたかった。電話を逆探知している刑事に聞かせるつもりもあったかもしれない。なんていうのかな、おれは犯罪者じゃないとでも、いいたかったんだろうな」 「それは昼間ですね」佐竹が軽い驚きを見せてきいた。身代金を要求した夜の電話の前に、民恵と明野は話し合っていたのか。 「二時とか三時という時間さ」明野が答えた。 「電話に出た母親の反応がおかしかったんですね」佐竹が決めつけていった。 「そう。警察にはまだ知らせてないっていうんだな」  志賀功から警察に通報が行ったのは、夜九時五十二分だ。 「彼女はほかに何か?」佐竹がきいた。  明野はビールを一口やり、視線を冷えた餃子《ギヨーザ》に落とし、しばらくためらってからいった。 「早くどこかへ行ってくれ、というような意味のことを、母親はいったよ」 「子供は——」 「返してくれとは、いわなかったな」  聡子が寒いとでもいうように自分の肩を抱くのを、佐竹は見た。民恵はもっと露骨な言い方をしたのだろう。それを明野は曖昧《あいまい》な表現に変えている、と思った。 「その時は、母親がいった言葉の意味がわからなかった。逆探知が怖いから、電話をすぐに切った。待合室にもどると、女房が、医者に叱《しか》られたといった。水分の補給が足りないとか、ミルクはいつから飲ませてないんだとか、かなり手厳しくやられたらしい。で、そういうところは、女の方が敏感だなと思ったのは、この障害児は親に可愛《かわい》がられていないんじゃないのかって、女房がいうのさ。それで、おれにも、母親のおかしな反応が理解できた」 「なんで、そのまま新くんを連れて逃げなかったのよ。なんで、夜、身代金を要求する電話なんか、かけたのよ」聡子がすねて抗議するようにいった。 「そうはいってもさ」明野は反発するようにいった。「あんなひどいからだの子は、すぐに死んじまうと思ったし、正直いって、とんでもない子供をつかまされたって感じかな」自分のヘマをおもしろがる口ぶりになった。「まるで詐欺にあったみたいなもんさ。赤ん坊が欲しかったのに、新を盗んじゃったんだから」 「よかったじゃないの、あんなに可愛い子で」聡子が口を尖《とが》らせた。 「おれがそう思うようになったのは——盗んでおいてヘンな言い方だけれど、何年も後の話だよ」  正直な男だ——と、佐竹はひとりごちた。 「とにかくあの時は、頭に血がのぼってカッカッしてた。自分の間抜けさかげんにも、母親が新に冷たい態度をとっているのにも、腹が立った。こっちは、どっちみち誘拐犯人なんだから、金ぐらい取らなきゃ損だと思ったのさ」 「ばかなやつ」聡子は悔しそうにいった。「単純な未成年者誘拐と身代金目的の誘拐じゃあ、刑の重さがぜんぜん違うのよ。単純な誘拐ならもう時効になってるのよ」 「刑の重さを考慮して犯罪を犯す者はいない」と佐竹は口をはさんで、つまらないことをいったと思った。 「結局、金は一銭も入らなかったしな」明野はツイてないという口ぶりでいった。 「新宿西口のコインロッカーに新を入れましたね」佐竹は事件の経過を思い出してきいた。 「ああ、入れたな」 「泣き出して、怪しまれるとは考えなかったのですか」 「新は、あのころ、ぜんぜん泣かない子だった。声を出さないんだ。アーともウーとも」 「いつごろ? 声が出るようになったのは」聡子が自分の関心だけできいた。 「さあ——女房が死んで、おれが新を引き取った時には、三歳ぐらいかな、もう、うるさいぐらいにおしゃべりだった」 「そうか、あなた、そのころ、新くんから逃げまわってたんだ」 「だけど、結局、新を引き取ったんだぜ」明野が不満そうにいった。 「少しほめてあげてもいい——どうして新くんを育てる気になったの?」 「女房のおふくろにがんがんいわれてさ」  明野の妻が事故死した後、そのショックで妻の実父が倒れた。そこでやむなく、新は一時療育施設に預けられていた。 「叱《しか》られなくちゃ、男って、育児を引き受けないものなのね」 「それだけじゃないな、新の場合は。少し違う」 「どう違うの?」聡子の目にちらっと真剣な光が宿った。 「よくわからないが」明野はゆっくりとグラスを傾けて、言葉をついだ。「新を引き取って療育施設から帰る時に、タクシーに乗って運転手と新のことをいろいろしゃべってたら、その運転手がいうのさ」 「なんて——」 「その子は神様かもしれないから、大事にした方がいいですよ、って」 「ああ——」佐竹は思わず声をもらした。 「障害の子を尊ぶという信仰があるのよ」 「信仰なんてカケラもない感じの若い運転手だったぜ」 「いいな」佐竹はちょっとした昂揚感《こうようかん》に衝《つ》き動かされていった。「そういうのがいい。宗教心など鼻で笑っている人間が、新の前では何か人間を超えた存在を感じる——」 「あなたも、そういうことを感じたの?」聡子が明野にきいた。 「どうかな」明野は自分自身をいぶかる口ぶりでいった。「なくもなかったが、気がついてみたら、新と一緒に暮らしてたってとこだろうな」 「新くんと上京したのはなぜ?」 「いちいち、なぜなぜ、ときかれても困る。深く考えて行動したわけじゃないんだ。新に手を曳《ひ》かれて、おれはここまで来たようなもんなんだから」 「新くんに手を曳かれて——その感じはわかる。だけど実際は、あなたが新くんを引きずりまわしているんじゃないの」 「まあね」 「なぜ上京したの?」 「新を母親に返そうと思ったんだろうな、たぶん。母親の考えが変わっているかもしれないじゃないか」明野は聡子に同意を求めるようにいった。 「そうね」と聡子は答えて、すぐに追及する構えを見せた。「あなた、新くんの世話するのが、めんどうになったんでしょ」 「あたり」明野は妙に快活にいった。「でも、新を手放したくないという気持ちもあったんだぜ」 「わかってるわよ」 「だから、なんかいろいろ迷いながら上京して、何となく新が生まれた場所の近くに住んだ、というのが正確かな。父親の名前と稲城市に住んでいたことは覚えていたから、調べて、家の近くまで行ったことはある。それだけのことさ。おれは新を返したいのか、新と別れたくないのか、自分でもよくわからなかった。あのな、新の世話してると、時間が経つのが早いんだ。五年や六年、あっという間だったな」  明野は新との暮らしを懐かしむように笑った。細かい皺《しわ》が顔中に広がった。  聡子が明野のグラスにビールを注いだ。  佐竹は話を引きもどして、 「新を一度ロッカーへ入れて、また引き出したのは、なぜですか?」ときいた。 「あれはね、新を段ボール箱に入れて、おれがロッカーに放り込んだ。女房が鍵《かぎ》をかけた。鍵はどっかへ捨てちまえ、といったんだが」 「奥さんが鍵を捨てなかったのね」聡子がいった。 「それを、おれは知らなかったんだ」明野は小さく笑みを浮かべた。「おれは一人で車で出かけて、金の受け渡し場所を見張ってたら、刑事がうじゃうじゃいるのがわかった。いくつか場所を変えたが、途中で金はあきらめて、新だけでも返そうと思った。はじめからそういう計画だった」 「それで電話ボックスにメモを残した」佐竹がいった。 「そうだ。厄介払いは済んだし、善行を施したみたいな気分もあったし、さばさばして小岩のアパートに帰ったら、女房が新のおしめを替えてたんだよ。まいったね、あの時は。親が捨てたがっているなら、あたしが育てるって、女房がきかないんだ」  明野は干からびた声で笑った。グラスを飲み干して、 「じゃあ、帰ろう」といった。 「どこへ——」  そう佐竹は問いかけて、誰の声だろうと一瞬、耳を疑った。感情のこもらない、むぞうさな、少し不機嫌な気配のする、あのくぐもった声は、おれの声に決まっている。  明野はどこへ帰るというのだ。帰って、新といつまでも暮らすというのか。そんなことが可能だというのか。  重苦しい静寂が支配した。しばらくつづいた沈黙の中から、ピチャピチャという物音が聞こえてきた。  佐竹の視界の隅で、聡子が器用に箸《はし》を使っていた。聡子は自分の皿を平らげると、「もう食べないでしょ」と小さくいって、明野の皿に一つ残っていた餃子《ギヨーザ》をつまんだ。それも食べてしまうと、抑揚のない声で佐竹に、「あなた、ぜんぜん食べてないじゃないの」といった。  佐竹は皿を渡す時に、ちらっと明野を見た。明野はカウンターに片方の肘《ひじ》をつき、手で顎《あご》を支えて、静かな表情を浮かべていた。 「信頼できる弁護士を紹介します。新を緊急に保護する態勢はできています」  佐竹は表情のない声でいった。 「新を解放して自首しましょう」 「——そうねえ」明野は関心のない声で答えた。 「民恵さんには、新くんを引き取ってほしいって、話したのよ」聡子がいった。 「ダメだった」明野が先に結論をいった。 「あたしにちょうだい」小さな声だった。 「何を」 「新くん」 「——」 「あたし前科あるけど、軽いもんよ。罰金五百円」 「——」 「バツイチの女の見習いの探偵で、ほとんど無収入」 「——」 「ダメ?」  明野は空のグラスを見つめていた。  聡子はまた箸を動かしはじめた。  佐竹は、聡子が餃子をていねいに食べ終わるのを待って、店員を呼んだ。  勘定をすませて表に出ると、明野と聡子が、病弱な夫と彼を支える若い勝ち気な妻とでもいうような、どこか痛々しい風情で待っていた。  明野が何か言いたげな視線を投げかけてきた。  佐竹と二人の間に、数人の学生風の男たちが割って入り、だらしなく通りすぎて行った。  佐竹がからだを寄せた。  明野が声をひそめていった。 「米本が殺された件だが——」 「何か」  明野の顔が青ざめて見えた。 「さっきのあんたの口ぶりだと、死亡推定時刻というやつが、おれが事務所に行った時間と重なるみたいだな」 「——そうです」 「米本に、息子、いないか?」 「います」声がふるえた。明野が何を言い出すのか、わかった。 「からだは大きいけど小学生かな」 「中学一年です」佐竹は、葬儀の日に米本の息子がひどく幼く見えたことを思い出した。 「帰る時に、ビルの入口で入れ違いになったんだ。米本とよく似た顔の子供と」 「明野さんが出る時に、その子が入って行った?」佐竹はなおも確認した。 「そうだ。気にかかっていたんだ」  佐竹は、聡子の怯《おび》えた目が、じっと自分の横顔に注がれているのを感じた。飲食街の煮炊きする生暖かい空気が首にまといついてきた。 「調べてみましょう」佐竹はかろうじていった。  胸に、大きな穴が、ぽっかりと空いた。生暖かい風が吹き抜け、風が運んできた血の臭《にお》いに、佐竹は咽《むせ》んだ。  米本の旅行|鞄《かばん》が消えた理由が、これではっきりした、と思った。息子は返り血を浴びた衣服を脱いで鞄につめ、父親の着換え用の服を着て家へ帰ったのだ。      26 「寝てろよ」  と寺西の声がした。 「大丈夫です」  自分でも情けないほど力の無い声だった。佐竹は顔をしかめて、事務所のソファから起き上がった。頭を鉄の輪でギリギリと締めつけられるような痛みだった。寺西には前夜、酔いつぶれる前に、明野が米本の息子を目撃している、と電話で伝えてあった。すでに日は高く昇り、薄汚れた壁の掛け時計の針が午前十一時四十九分を指していた。 「盗聴機の撤収は聡子に立ち会ってもらったらどうだ」寺西がいった。 「もともとその予定ですし、もう撤収がはじまる時刻です」 「そうか——で、聡子と朝まで飲んだのか」 「一人です」 「どこで飲んだ」 「五反田です」  寺西は脚を組み替えた。しばらく考え込んでから、 「例の女弁護士と飲んでたんだろ」といった。 「ほんと、一人ですよ」 「まあ、いい——五反田なら、粋な≪お座敷サロン≫を知ってる。今度一緒に行こう」  話題が核心からどんどんズレてゆく。 「はあ——」頭の痛みと話の混迷ぶりに、また顔をしかめた。  そこで寺西は唐突に主題の方へ引き返した。 「米本の女房と電話で話したよ」 「——」 「彼女、知ってるようだったな」 「では——」 「間違いないだろう。息子の部活が午前中に終わるというんで、午後一時に訪ねることにした——明野の方を頼む」 「今夜、説得してみます」 「とにかく意外だった——」寺西が小さく嘆息した。  佐竹はそっと視線を外した。 「探偵というのは、調査がらみのトラブルで殺されるか、さもなくば自殺するものだと思ってたよ」寺西がぼやくようにいった。 「自殺は、ちょっと大袈裟《おおげさ》ではありませんか」 「われわれの仲間が飲みすぎでイッちまうのは、あれは何だ」 「——自殺」佐竹は認めた。 「となれば、探偵の死因の第一位は、自殺だ」 「——そうかもしれません」  寺西はちらっと時計を見た。午後一時に約束しているのなら、そろそろ出かけた方がいい。だが、出て行く素振りを見せずに、 「あの息子、剣道やってるそうだ」といった。  男二人が、狭い部屋で顔を突き合わせていると、なかなか決断ができないものらしい。 「剣術といえばいいのに、どうして剣道などと呼ばせるのかな」寺西が軽く問いかけた。 「精神的なモノを求めているんでしょう」佐竹は深く考えもせずに答えた。 「誰が求めてるんだ」 「大人が」 「大人が子供に求めてる」 「そうです」 「あの息子、剣道強いのかな」 「弱いような気がします」 「なるほど」 「子供のやることなすこと、ぜんぶ——見てるの、辛《つら》いですよ」 「きみはダメなやつだ」 「どこがですか」 「息子と飲むことあるか」 「まだ十五です」 「息子に、〈おまえを殺《や》っちまいたかった〉と、殺意を告白されたことはあるか」 「まさか」 「わたしはある」 「嘘《うそ》でしょ」 「嘘だ」寺西は真面目《まじめ》くさった顔でいって、ようやく重い腰をあげた。ドアから消えて行く寺西の寂しげな背中に向けて、〈息子から殺意を告白されたことがあるんですね〉と、佐竹はそっと問いかけた。  米本の死体を発見した五月下旬の夜に、佐竹の心を占めた一つの考えを思い出していた。 〈米本が殺された理由は、遅かれ早かれ、おれが殺される理由にほかならない〉  あれは、平穏に見える市民社会の裏側で逆巻いている、どす黒い欲望が招く事件が、しばしば探偵という職業の飯のタネになるがゆえに、佐竹でさえも、いつの日か思いもよらぬ恨みを買って、見知らぬ男に背後から刺されることもあるであろう、という想《おも》いであった。  その予感からいえば、米本が殺されたのは予想外の理由によってだった。だが、息子に殺されたのであれば、やはり、〈米本が殺された理由は、遅かれ早かれ、おれが殺される理由にほかならない〉のかもしれない。  言葉はいらなかった。米本がどのような家庭人だったのか、父と息子の関係はどうだったのか、そのような詮索《せんさく》は無用だった。佐竹にしろ寺西にしろ、息子に殺意を抱かれたとしても、理解を示すつもりはないが、決して予想外だとは思わないだろう。  佐竹は手と顔を洗った。床に落ちていたネクタイを拾いあげ、丸めて上着のポケットに突っ込んだ。汗で蒸れた靴下を我慢してはいた。いったん下北沢の自宅に帰って、着替えをするつもりだった。上着を手にして事務所を出ようとした。  そこで電話が鳴った——。 「はい。佐竹探偵事務所です」 「公文だ」 「どうした」 「今、都庁にいる。花村刑事の後を尾行したら、第二庁舎の二十九階にきた。彼が何をしてたか、わかるか?」 「第二庁舎の二十九階には何があるんだ」佐竹は、公文のもったいぶった口ぶりにいら立った。 「教育庁がある。花村はここで、二分|脊椎《せきつい》症の児童を調べた。都が把握している小学生の二分脊椎症の児童数は、十九名」 「それで」 「わかったのは、そこまでだ」 「花村は何時にそこを出た」 「二、三分前だ」  佐竹は時計を見た。十二時四分すぎだ。予定通りであれば、盗聴機の撤収が終わる時刻である。だが万が一、予定が狂って時間がズレ込んでいるとしたら——。 「わかった。夜、また話そう」佐竹は話を打ち切ろうとした。 「待てよ」公文が食い下がった。「二分脊椎症というのは、誘拐された赤ん坊と同じ障害のはずだ」 「そうだ」 「どういうことなんだ。花村はいったい何を調べているんだ?」 「ぜんぶ話してやるから、夜まで待て!」佐竹は怒鳴って切った。  すぐに聡子の部屋に電話した。呼び出し音が鳴っている。聡子が出ない。八つ数えて切った。何かあったのか。  落ち着け、と佐竹は自分に言い聞かせた。花村が十二時ジャストに都庁を出て、明野の家に直行したとしても、まだ三十分はかかる。  それに、誘拐された重度の障害児が生きていると、確信しているわけではあるまい。花村は半信半疑で捜査しているに違いない。また時計をちらっと見た。彼らは急いではいない。今から昼飯が入るだろう。十九名の二分脊椎症の小学生の中で、九歳の児童が明野新ただ一人だとしても、明野の家に着くのは一時をすぎると見るのが、妥当な考えだ。  手帳を開いて、撤収班の携帯電話の番号を調べた。念を入れても慎重すぎるということはない。番号を押した。 「——はい」若い男の声。 「佐竹だ——田丸はいるか」 「ちょっと待ってください」  すぐに田丸が出て、「何だ」といった。 「済んだか」 「済んだ」 「聡子は立ち会ったか」 「あの姉ちゃん、何の連絡もない」 「わかった」電話を切った。  聡子の行方がわからない。どこかで酔いつぶれているのか? まあいい、と思った。明野の家の撤収さえ終われば、一安心だ。  さあ、どうする? 佐竹は事務所から走り出しながら考えた。弁護士へ電話するか。由紀に今から待機してくれと連絡するか。いや、明野の身柄を確保する方が先決だ。刑の軽減のためには、まず新を解放させて自首させた方がいい。外階段を駆け降りた。明野は病院にいる。刑事は明野|父子《おやこ》が家にいないと知ったら、次に病院へ向かうだろう。電車を利用した方が確実で早い。迷わず中央線大久保駅方面へと走った。      27  西国分寺の都立病院は、明野の身辺を洗った際に二度訪れている。正門の前に着いたのは、午後一時三分すぎだった。まだ待合室にいるだろう、と思った。  長いエントランスの歩道を急ぎ足で歩いた。駐車場は満車だった。七、八台の車が列を作って待っている。正面玄関近くの障害者専用スペースに停めた白いタウンエースをちらっと見た。  正面玄関から入り、階段を使って二階に上がった。そこに眼科や小児科外来の待合室がある。ゆったりとしたフロアに、クリーム色のベンチが佐竹の方に背を向けて、二十ほど並んでいた。人影は少ない。男の姿はなかった。反対側の通路に、新の特注の車椅子《くるまいす》が置いてあった。背もたれを倒して、ベッド状態になっている。そこに新の姿はなかった。一時四分数秒前。診察を受けているのか。  佐竹はベンチに腰かけて待った。五分ほどで、赤いデイパックを片手に提げ、もう片腕で新を抱いた明野が、診察室から出てきた。明野はまっすぐに車椅子のところへ行って、新を寝かせた。  佐竹は近づいて、声をかけた。 「こんにちは」 「やあ、あんたか」明野は顔をあげて、ちょっと寂しげな笑みを浮かべた。  佐竹は新をのぞき込み、口の中でコンニチハといった。新は唾《つば》で小さな風船を膨らませて遊んでいた。上手じゃないか——。佐竹は腰を曲げたまま、声をひそめていった。 「刑事が、明野さんの家に向かっています」  返事がなかった。佐竹はちらっと明野の反応をうかがった。明野は腕時計を見ていた。表情が微《かす》かに曇っている。 「もう着いているころかもしれません。それから、こっちへくるでしょう」  明野は無言でデイパックのチャックを開けた。中から長さ三十センチほどの円筒状の透明の容器と、パッケージされた洗浄綿と、蛇腹のついた小さな容器を出した。 「自首しましょう。そうすれば早く出てこれます」 「オシッコさせてからだよ」明野は新のパンツを脱がした。 「車の中で、できませんか」佐竹は低い声で語気を強めた。「とにかく病院を離れましょう」 「薬をもらわなくちゃならないし——」明野は新の紙オムツの、二ヵ所で留めてあるテープを、ビシッ、ビシッと音をたてて外した。  佐竹はいら立った。捕まるか、自首するか、迷っている時間はない。肉が削《そ》ぎ落とされたような小さな新の尻《しり》を見つめ、それでも辛抱強くいった。 「薬は後で、わたしが取りにきましょう」  明野は答えないで、パッケージの口を引き破り、洗浄綿を出した。その手を止めて——、 「新はどうなる」といった。 「わたしの友人が責任を持って、預かります」 「友人って」 「障害児の母親です。その子は去年亡くなりましたが」  明野は話を納得したように、一つ、ゆっくりとうなずいた。ちょっと考えをめぐらして、 「おれが刑務所から出てきたら?」といった。 「——というと」意味がわからない。 「あんたの友人は、新を放さないだろうな」 「——」 「ようするにおれは、新とは永遠にお別れだ」 「先のことは、その時になったら考えましょう」佐竹は誠意をこめていった。人生はすべて、そのようにしてしか解決できない。  明野の手が動きはじめた。指先を洗浄綿で拭《ふ》きながらいった。 「刑期が何年だろうと、どうでもいいさ」 〈じゃあ勝手にしろ〉と佐竹は口には出さずに吐き捨てた。階段の方へ視線をやった。刑事が来たら来たでしょうがない。立ち会って、新の保護について刑事と交渉しよう。  腕時計を見た。一時十一分。はっと胸を衝《つ》かれた。今ごろ、寺西が米本の息子と会っている。少年の辛《つら》さを、母親の嘆きを、ちらっと思った——。  視線をあげると、明野も時計を見ていた。捨てばちな態度をとっているが、明野も刑事があらわれるのを恐れているようだ。  明野は、新の片脚を持ち上げて、自分の肩で支え、開いた新の股《また》に顔を入れた。  佐竹は新の陰毛がびっしり生えているのに気づいた。  明野は慣れた手つきで新のペニスをつまみ、包皮を剥《む》いた。小さな亀頭を露出させる。亀頭を洗浄綿で拭く。円筒状の透明の容器から細いシリコンの管を出す。蛇腹の容器からゼリーを絞り出して、シリコンの管の先端に塗る。亀頭の尿道へシリコンの管を差し込む。するすると入って行く。十センチほど残して止まる。同時に管から黄色がかった尿がチョロチョロと出てきた。それを確かめて、明野は肩から新の脚を外した。  新が「アアー」と声をあげた。大きな欠伸《あくび》だった。すると管の先端からピュッ、ピュッと尿が勢いよく飛んだ。 「はいはい、おりこうさん」明野が気の無い声をかけた。  スピーカーからチャイムが聞こえてきた。新の目に光が宿るのがわかった。患者の名前が呼ばれている。新の口もとが微笑《ほほえ》んでいる。こんなありふれた音や声にも、好奇心を示しているらしい。  十歳ぐらいの少女が自分で車椅子を動かして近づいてきた。新の頭を撫《な》でて、 「新くん、もう終わったの?」といった。 「うん。キヨミちゃんは?」明野がいった。 「あたし、これから」少女はもう一度、新の頭を撫でて、「バイバイ」と去って行った。  こんな光景も、これで終わりになると思うと、佐竹は不思議な感じにとらわれた。間もなく明野は舞台から去って行くのだ。  階段の方をうかがった。人があらわれる気配はない。手前のエレベータのドアが開いて、幼児を抱いた初老の女が出てきた。視線をもどすと、明野がまた時計を見ていた。つられて佐竹も見た。一時十九分。  想定したほど緊急の事態ではないかもしれない、と佐竹は思い直した。花村は確信を持って新を捜しているわけではない。都庁で二分|脊椎《せきつい》症の児童を調べはしたが、午後は別の手がかりを追っている可能性もある。 「あの子も二分脊椎症なんだ」ふいに明野が声をかけてきた。 「そう——」  佐竹は車椅子の少女へ視線を移した。診察室の受付の近くで、母親らしい背の高い女と何か話している。 「あの子と比べると、こいつは手がかからなくて、楽ちんだよ」明野が新を顎《あご》で示していった。 「どうして楽なんですか」佐竹は逆だろうと思った。 「動きまわらない。腹を空《す》かせても泣かない。進学、就職、結婚で悩むこともない」 「それは可能性が閉ざされているという意味で——」佐竹は明野が絶望を語っているのだと思った。 「おれだって悩みがないわけじゃない」明野は自分が親のような口をきいたからなのか、ちょっと照れ笑いを浮かべて、つづけた。「だけどほかの障害児の親を見てると、大変だなと思うよ。そこへいくと、新なんか、とくに性の問題で悩むこともないし——」 「まだ小さいじゃないですか」 「頭、空っぽなんだぞ」明野はなんだか威張っていった。「一生、性欲に悩まされるなんてことはないさ」 「そうですか——」 「タマはあるけど」 「タマとは」 「袋の中のタマだ。ないと思ってたんだ。そしたら去年、風呂《ふろ》に入れてる時に発見してな。新の股に手をやったら、何かコリコリしたものがあったんだ」 「それで気がついたんですか」佐竹は笑った。 「将来使えるタマとは思えなかったが、赤飯炊いて、お祝いしたよ」 「立派な陰毛が生えてるようですが」佐竹は軽口を叩《たた》いた。 「薬のせいなのか知らないが、こういう子は早いもんらしい。女の子は初潮も早いって聞いた」  明野が新の尿道からシリコンの管を抜いた。トイレへ行って管を水洗いし、元のケースにおさめた。新しいオムツをあてがい、パンツをはかせた。  その間に、佐竹は由紀に電話して、念のために待機するよう頼んだ。  一時二十六分。まだ刑事はあらわれない。 「このアロハ似合うだろ」明野が得意気にいった。  新は、緑と赤を基調にした派手なアロハと、対の短パンをはいていた。なかなかオシャレだった。 「似合いますね」佐竹は心からそう思った。 「だいたい派手なものが似合うな——なぜだか、わかるか」 「さあ」 「顔が派手だからだよ」  佐竹は苦笑して、新の顔を見た。突き出て、膨らんだ大きな頭。カールした長いまつ毛。生涯にわたって、怒りや憎しみを決して見せないであろう、きれいな瞳《ひとみ》。 「これだけ顔が派手だと、絶対、衣装負けなんかしないぜ」まだ明野が自慢している。 「薬をもらいに行くんでしょう?」佐竹がうながした。 「うん。下だ」明野がデイパックを背負った。車椅子《くるまいす》を押してエレベータに向かった。  幼児を抱いた初老の女が、コンニチハと寄ってきた。ひどく顔色の悪い幼児だった。明野はそっと車椅子を止めた。 「新くん、頑張ってね」初老の女が新に声をかけた。  明野は軽く会釈して、また車椅子を押した。 「みんなが新を励ましてるようですね」佐竹がいった。 「逆だよ」明野がぶっきらぼうにいった。「みんなが、新に励まされてるんだ。声をかけてる本人にも、そのことはわかってるさ」  佐竹は初老の女と幼児の方をちらっと振り返った。明野のいう通りかもしれないと思った。 「今の子は、心臓の奇形なんだ。婆さんが一生懸命に孫のめんどうを見ててな」明野がいった。  階段の手前のエレベータの前に来た。佐竹は下りのボタンを押した。そこで階段を駆け足で上がってくる靴音がした。  ヒールの音だった。  佐竹が気づき、聡子も同時に気づいた。 「民恵さんを連れて来たわよ」聡子が息を弾ませていった。      28 「民恵さんが、新くんを引き取るって、決心したのよ」と聡子が言葉を重ねた。  それでも一瞬、佐竹には何が起こっているのか、理解できなかった。  エレベータのドアが開いた。  聡子がドアを手で押さえる。明野が車椅子を押して中へ入ろうとする。 「待った」佐竹が制した。「別の出口はありませんか」と明野にきいた。 「奥に階段が」明野が長い廊下を示した。 「では、そっちへ」  明野は佐竹の意図を理解して、素早く車椅子を旋回させた。佐竹がつづいた。聡子が追いかけて佐竹にいった。 「どこへ行くんですか?」 「刑事が来るかもしれない」 「!」 「後で話す——車か?」 「ええ」 「民恵は」 「車で待ってます」 「では、きみの車を使おう」 「どこへ停めたんだ?」明野がきいた。 「裏の駐車場。表は満車だったから」聡子が答えた。  明野が少しスピードをあげた。新が「アー、アー」と喜びの声をあげた。  泌尿器科の前で看護婦が、「あーら、新くん、そんなに急いでどこへ行くの」と、にこやかに声をかけた。 「今朝から民恵を説得してたのか」佐竹が足を速めてきいた。 「ずっとよ。毎晩、能登の民恵さんに電話をかけっぱなし」 「民恵はいつ東京へ」 「昨日の夜遅く、一人で。あなたが、どこかの女の部屋で酔いつぶれていたころ、あたしは民恵さんと話し込んでたの」 「よくやった」 「よくやったですって?」聡子は気分を害した。たっぷり皮肉をこめていい返した。「あなた、いろいろ解釈するのはお上手のようですけれど、解釈するだけでは世の中、何も変わらないのよ」  何とでもいえ、と佐竹は思った。民恵が新を引き取り、明野を自首させれば、それでなんの不満があろうか。  佐竹の完敗、聡子の完勝であった。佐竹はためらったが、聡子は一途《いちず》な気持ちで民恵をゆすぶりつづけ、その固い心の扉を押しひらいたのである。  聡子は、向こう見ずであるかもしれないが、一人よがりで無責任な行為をしたのではあるまい。新を引き取ることで、民恵とその家族が傷つくことが起こりえたにしても、聡子はそれを自分の問題として引き受ける覚悟をした上で、民恵を説得したのだろう、と佐竹は思った。  階段まで来た。明野が新を抱き上げた。佐竹はさっと車椅子を担いだ。「駆けるな」佐竹が注意をうながした。階段を降りた。左手に表の駐車場が見えた。明野は新を抱いたまま、建物の中を右へ横切って、裏門へ出た。そこで明野は新を車椅子に移した。佐竹は背後をうかがった。こちらへ注意を払っている人影はない。  一般道を渡り、砂利を敷いた広い駐車場へ入った。車輪を砂利にとられて車椅子が弾んだ。新が「アー、アー」と歓声をあげた。佐竹はまた背後を振り返った。明野の車は表の駐車場にある。もう安全だろうと思った。  民恵が、聡子のカリブの外で待っていた。車の中からもう一つの人影が降り立った。遠目にも、素晴らしいプロポーションだとわかる、銀色の髪の大柄な女だった。 「どうしてウネ子さんが!」佐竹が思わずいった。 「今からウネ子さんの蓼科の別荘に行くの」聡子がいった。 「何をしに」 「明野から民恵さんへ、新くんの引継ぎをするのよ」 「引継ぎとは」 「オシッコのさせ方、食事、入浴、熱が出た時の判断。そういうことは、どんな名医よりも母親の方が詳しいもの」 「そうだな」 「つまり、明野にはいろいろ教えてもらわなくちゃならないことがあるでしょ?」 「ある——」 「明野が、引継ぎをする必要があるといったのよ」 「彼は、きみたちが来ることを知っていたのか?」 「もちろん伝えてあった。明野はぜんぜん信じてないみたいだったけど」  だから、明野は自首をためらっていたのか、と佐竹は思い返した。時計を気にしていたのは、半信半疑ながらも、民恵が到着するのを待っていたのだ。 「今朝、民恵さんが決心を固めた段階で、明野に電話して相談したんです。それから、ウネ子さんに頼んで別荘を使わせてもらうことに」  そこまでしゃべって、聡子が足を止めた。佐竹も足を止めて——見た。  明野が民恵の前に立っていた。  民恵はうなだれて、ハンカチを握りしめた手で顔を覆っていた。七月の末に海辺で見た光景に似ていた。あの時は民恵は怯《ひる》んで逃げ出したのだ。  明野がむぞうさに新を差し出した。  民恵は反射的に両手を顔から外して、胸の前でひろげた。新が民恵の腕の中に降りた。民恵がよろめいた。 「重いですよ」明野がいった。  民恵は新のからだに顔を埋《うず》めた。ギリギリと骨が軋《きし》む音がするほど抱きしめた。新は何がうれしいのか、また「アー、アー」と声をあげた。民恵はそのまま崩れ落ちそうになった。明野が腕をのばして支えた。 「ねえ、佐竹」ウネ子が優しく呼んだ。 「はい」 「オシッコする時間はないわよね」  佐竹は微笑《ほほえ》んだ。ウネ子は〈急げ〉といっているのだ。聡子は真に受けて、 「そんな時間はありません」とキツイ口調でたしなめた。  ウネ子が素早い身のこなしで助手席に乗った。明野がドアを開けて、民恵と新を乗り込ませた。佐竹が車椅子を折りたたんで、後部の荷台に積んだ。  明野が佐竹に薬の処方箋《しよほうせん》と診察カードを渡した。 「車のキーも。薬は送ります」佐竹がきびきびといった。  佐竹は車のキーを明野から受け取ると、運転席の聡子に、 「民恵の家族は知っているのか」ときいた。  家族の口から、民恵の所在がバレる恐れがあった。 「知ってるわけないでしょ」聡子は素っ気なくいった。 「——家出か」 「当たり前じゃないの」 「——」 「女が決断する時には、まず家出するものなのよ」  佐竹一人が残った。  聡子の運転するカリブが、必要以上に砂利を撥《は》ね飛ばして走り去った。      29  新の薬は二袋あった。上着のポケットにしまい込んで、佐竹は正面玄関を出た。  すぐ左手の障害者専用のパーキングエリアに停めた白いタウンエースに近づいた。助手席が倒され、バスタオルが敷かれている。  運転席に乗り込んだ。窓を全開して、熱い空気が逃げて行くのを待った。  新の匂《にお》いが残った。九歳になったというのに、赤ん坊の匂いがした。  イグニッション・スイッチをまわした。点火するが、エンジンがかからない。燃料の送りが悪い。チョークが見当たらなかった。アクセルを連続して踏み込んで、スイッチをまわした——ためらいがちに、エンジンが吹き上がってきた。ギアをバックに入れた。サイドミラーを見た。男の姿が映っていた。  佐竹はゆっくりとギアをニュートラルにもどした。クラッチペダルから足を離した。  関節の短い、厳《いか》つい肉体労働者の手が、窓枠をつかんだ。佐竹は視線をあげた。赤銅色に日焼けした額に、深い溝が何本も刻まれている。花村刑事だった。背後に人影はない。相棒の刑事は病院の中を捜しているのだろう。 「その手をどかしてくれませんか」佐竹がいった。 「あなたの車ですか」言葉使いはていねいだが、花村は手を外す気配を見せない。  佐竹はアクセルをちょっと踏み込んで、いら立ちを伝えた。怒鳴り散らしたくなった。だが——二十年前の寺西の忠告を思い出して、「おまわりさん」といった。「手をどかしてください」  花村は佐竹から視線をそらさずに、そっと手をおろした。 「明野哲夫という人の車です」佐竹がいった。 「あなたは」 「A新聞の公文の友人」 「——」 「彼は二、三日のうちに明野を自首させるそうです」 「公文が明野を隠したのですか」 「取材してスクープ記事を書くつもりなのでしょう」 「どこへ隠したのですか」 「逮捕状を持っていないはずですが」 「——」 「緊急逮捕をする必要もない。明野は子供を放り出して逃げるわけにはいきませんから」 「——」花村は視線をひたとあてたまま、佐竹の言葉に想像をめぐらしていた。 「緊急に子供を保護する必要もないはずです。奇妙な言い方ですが、あの子は明野と一緒にいる状態が、一番安全なのです」 「——」花村が微《かす》かにうなずいた。  佐竹は花村の目に、人間の罪業を見つづけて来た初老の刑事の深い疲れを見ていた。心に留めていた疑問を口に出した。 「あなたは、九年前の誘拐事件も、担当しましたね」 「——」花村は答えない。 「犯人の指紋を、都立大久保病院で検出しましたね」 「——」  佐竹は花村の沈黙を肯定したと受け取って、質問をつづけた。 「なぜ、病院を洗ってみる気になったのですか」 「——」 「なぜ、誘拐された子供が生きていると、考えたのですか」 「——」 「そんな考えは誰にも浮かばなかったと思います」 「——」また花村が微かにうなずいた。 「あなたが病院を洗ってみる気になったのは、子供が生きていてほしい、と願ったからだ」佐竹は断定した。 「——」花村が手の甲で汗を拭《ぬぐ》った。 「あれから九年も経ったのに、あなたの感傷的な気持ちは、変わらなかったようですね」 「——」 「子供は生きのびている。そんな奇跡が起こっていてほしい。そう願ったから、養護学校を洗ってみる気になった」 「——」 「結果として犯人を突き止めることができたが、褒められた捜査方法とはいえない」 「——」  佐竹はこみあげてくる愉快な気分を隠し切れず、口の端に笑みを浮かべていった。 「今回は奇跡が起った。でも世間は、いつもいつもあなたの願いをかなえてくれるわけじゃない」 「——そうだな」花村が表情を変えずに答えた。  佐竹はシフトレバーに手をかけた。ギアをバックに入れた。  花村がゆっくりと半歩退いた。そしていった。 「探偵殺しは解決したよ」  佐竹は聞こえなかったかのように、無言で車をバックさせた。佐竹の表情からはもう笑みが消えていた。花村の姿がゆっくりと視界から遠ざかって行った。      30  探偵殺しのその後の展開についていえば、渋谷署は少年法に基づいて、事件を児童相談所に通告した。通告から二ヵ月が経過した秋たけなわ、児童相談所は措置を決めた。措置の内容は、プライバシーにかかわるとして明らかにされなかったが、児童相談所は、家庭裁判所への送致ではなく、米本の長男の将来を考慮して教護院へ送致することに決定した。  新聞報道によれば、警視庁は、相談所の措置決定に、「引き続き長男に対する任意の調査は可能だが、あらためて事情聴取する予定はない」としている。  ウネ子は、自然な成り行きではなく、ある決意をもって、米本の女房の飲み友達になった。ウネ子は近ごろ、「生きのびた方が勝ちよ」と口癖のようにいっている。  佐竹は年末に一度、恵比寿のレストラン&バーで米本の女房とグラスを交わした。一生つづくであろう≪癒《いや》しのドラマ≫がはじまったばかりであり、まったく予断を許さぬ状況ではあったが、とにかく表面上は、米本の女房は平静を保っているように見えた。ウネ子が次々と繰り出す≪男を騙《だま》した武勇伝≫に、きれいな笑顔で耳を傾けていた。  年が明けて——佐竹にもいろいろと心境の変化らしきものがあり、十六歳になった息子に「一杯やらないか」と声をかけてみた。息子の明快な返事がなかった。照れがあるのかと思ったが、佐竹の方には赤面するほどの照れがあったので、二度と誘わなかった。  それに比べると、聡子の娘に対する態度は真摯《しんし》であった。自分の方から二度と外泊を誘わず、投げやりにもならずに娘との日帰りのデイトを重ねていた。「いつか、娘が子育てを終わったころでいいの、あたしはすごいお婆ちゃんになってるだろうけれど、そんなころにでも、娘と二人でゆっくり旅行ができるような関係になれればいいの」と、明野の公判で会った時にワックスの臭《にお》いが立ちこめる地裁の廊下で、佐竹に洩《も》らした。  明野の裁判はかなりのスピードで審理が進み、三月の末には判決が下る見込みだった。  身代金誘拐罪は、無期または十五年以下、三年以上の懲役刑である。明野は新を解放しているから、≪被誘拐者解放による軽減≫が適用される。有期刑ならば七年六ヵ月以下、一年六ヵ月以上の懲役刑に減軽される。そのうえ自首しているし、情状酌量の余地はじゅうぶんにあった。実際に刑の減軽嘆願書は、民恵ばかりか志賀功からも寄せられていた。弁護士の希望的観測によれば、下限ぎりぎりの一年六ヵ月の実刑が出るのではないか、ということであった。  何度も何度も襲いかかってくる暴風雨のようなマスコミの愚行の数々にもめげず、尋津家の人々も何とか生きのびているようであった。こちらも予断を許さぬ状況にあると、聡子がくり返し指摘していた。今のところ、民恵の中央突破の強行策に、亭主も娘たちも引きずられているのが実態であるという。  あれ以来、佐竹は下北沢の街でダウン症の少女と何度か挨拶《あいさつ》を交わした。だが依然として少女の目を正視することができず、その理由も依然として佐竹は自分に納得がゆく説明ができないでいた。そんな時に新のことを思った。新とは一度も会っていなかった。  由紀とも一度も会っていなかった。会いたい気持ちはあった。いつも会いたいと強く願っていたが、いつも栄次が、あの団地の狭いキッチンで亭主面をしていると思うと、むやみに腹が立ち、二の足を踏んでいた。  間もなく明野の判決が下るという三月。寒の戻りがあって、日中も凍《い》てついたある日、佐竹は一葉のはがきを受け取った。≪レディース探偵社≫開業の案内状だった。キャッチコピーに、≪女性専用≫とある。聡子が「男はもうこりごりよ」と嘆いていたことを思い出した。   所長 中野聡子   カウンセラー 鈴木ウネ子  実務経験が数ヵ月の若い女が開業するとは、無鉄砲でも大胆不敵でもなく、たんなる破廉恥である。その破廉恥なところが、仕事を離れてしまえば、好きだと佐竹は思った。  案内状の余白に、男性的な文字で、聡子が何か細々と書いていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   夏になったら一緒に海へ行こうねって、   民恵さんと約束してたんだけれど、   新くん、よくないの。   この二ヵ月で三回も入院。   食欲が落ちて、なんと!   脱水症状になって入院。   風邪気味じゃなかったのに、   肺炎になって入院。これはね、   食べた物が逆流して肺に入ったんだって。   そのほかいろいろ、体調が一変してる。   脳外科医は奇形が原因ではないかという。   新くん、頭が後ろにそっくり返ってるから、   それで延髄が圧迫されているらしい。   民恵さん、責任感じて、落ち込んでるわ。   明野には何も知らせてないの。知ったら、   あいつ悲しむからね。   でも、夏まで何ヵ月もあるし、   あの子、精神的にタフだから、   きっと持ち直すと思う。   そしたらみんなで海へ行くの。   あなたも、   行く? [#ここで字下げ終わり] 本書は、一九九四年九月に小社より刊行された単行本を文庫化したものです。 角川文庫『時には懺悔を』平成13年9月25日初版発行]