TITLE : 魚雷艇学生 魚雷艇学生 島尾 敏雄 目次  第一章 誘導振  第二章 擦過傷  第三章 踵《かかと》の腫《は》れ  第四章 湾内の入江で  第五章 奔《ほん》湍《たん》の中の淀《よど》み  第六章 変様  第七章 基地へ 第一章 誘導振  海軍兵科予備学生に採用された私が、指定された参集場所の呉《くれ》海兵団の営門をくぐったのは、昭和十八年九月三十日の夕方、その翌朝には早速海軍士官服の第一種軍装に着替えさせられた。下着も規定の官給のものと換え、それまで着ていた学生服も下着も、一つの小包にまとめさせられた。あとで家の方に送り返してくれるのだと言っていた。しかしはじめて着る第一種軍装の士官服は、なかなかからだになじまなかった。襟《えり》が何だか高く感じられて窮屈だったし、すぐにホックがはずれて不《ぶ》恰《かつ》好《こう》に前が開いた。学生服ではどんなに背中を曲げた勝手な姿勢をしようと、ボタンがはずれるなど考えられもしなかったが、第一種軍装では、ちょっと前こごみになっただけで、胸の部分のホックがはずれ、一つがはずれるとそれにつれてその上下のいくつかもはずれてしまうから、いつも背筋を伸ばし胸を張っていなければならぬ緊張を強《し》いられることになった。  しかしその服装でからだを包んでいることに、妙に気持の昂《こう》揚《よう》があって、誇らしい気分に誘われた。誇らしい、と言っただけではうまく言いあらわせない。海軍士官の存在は、それまでの私にとって隔絶した世界のものであった。緒戦で戦死した九軍神と言われた海軍の青年士官たちの軍服姿は、及びもつかぬ所に属していた。それと同じ服装を今自分がからだにまとっている! そんなことはとても信じられそうもないことだったのに、ふとしたきっかけで確かに私は、上衣の襟元や袖《そで》口《ぐち》、裾《すそ》廻《まわ》りに縁取り模様のついたあの第一種軍装の士官服を着て、海軍の徽《きし》章《よう》の着いた軍帽をかぶり、列《れつ》伍《ご》を組んで歩いていた。信じられそうもなかった現実が既にはじまっていた。それに包まれた肉体が、気《き》儘《まま》な大学生生活でたとえなまくらになっていようと、又実際の戦闘に役立つ技術を何一つ知らなくても、外から眺《なが》められた私は、海軍の仕組みの内がわの、いつでも戦闘行為の行なえる人間としか見えないにちがいなかった。列伍の中の私はちらと思ったのだ、つい三、四日前までは自分もその中に居た世間の人たちの目で、この姿を見られてみたいと。しかし私たちが歩いていた付近には、一人として人影は見られなかった。右手に小高い岡《おか》のたたずまいがあり、林のあいだを縫って小道が伸び、その奥に洋風の建物が見え隠れしていた。林の樹木はまだ青い葉を茂らせていたが、黄色に紅葉したものもかなりまざり、北国らしくすくすくと丈高く、孤独な感じに見えていた。  呉から運ばれて来た私たちは、旅順の東港から上陸したばかりであった。目の前には、予備学生教育部の白《はく》堊《あ》の兵舎が、左右に両翼を広げた細長いかたちで迫っていた。空は青く澄み、空気は引きしまっていても、まだ寒冷を感ずるほどではなかったのに、あたりはいずれ厳寒の苛《か》酷《こく》を先取りして既に慴《しよう》伏《ふく》の姿勢を準備しているような、静寂の気配に満ちていた。ふと無人の原野に乗り込んでしまったような気分も無いではなかったが、実際は泰西の絵画に描かれたような、どこにも日本らしさの見えない景色が横たわっていた。兵舎もかつてのロシヤ軍隊が建造したものであったと聞かされた。陽《ひ》に映える白塗りの建物は、煉《れん》瓦《が》と石灰で隙《すき》間《ま》なく固められ、窓は二重に装われて外気を遮《さえぎ》り、あの吹きさらしの、くすんだ木造建て日本軍隊兵舎のかげりを、少しも感じさせるものではなかった。勿《もち》論《ろん》この白堊の兵舎にもそれなりのかげりはあったにちがいないが、その建物から受けた私の連想は、外国の小説に出てくる宮廷生活の場面のようなものでしかなかった。私たちは今ちょうどシベリアの奥地の派遣先から任務を終えて帰って来たばかりの将校団ででもあるかのような気分にもなっていたのだ。このことは私を甚《はなは》だ好ましい気分にさせてくれた。私はこの土地この兵舎でこれまでの私を誰《だれ》にも知られることなしに、生まれ変わらせたいと思っていたのだから。軍服の中の私のからだはまだどんな訓練も受けてはいなかったが、私の外観はとにもかくにも第一種軍装で覆《おお》われ、環境は、それまでに馴《な》染《じ》んだものを何一つ思い出すことのない、過去と断ち切れた異国の風物に囲まれていた。  第一種軍装はしかし兵舎にはいり居住区を定められるとすぐに脱がされた。一人一人に与えられたチェストに納めたあとは、当分のあいだそれを身に着ける機会はやって来なかった。代わりに私たちが終日まとったものは、事業服と名づけられたちんちくりんな平常衣だ。木綿の頑《がん》丈《じよう》な生《き》地《じ》で、上衣は水兵服のそれに似て丈が短いから、腰をすっかりは覆うことにならず、どうかするとズボンとのあいだの隙間から、中に着込んだシャツがはみ出してしまうことになった。白の無地のせいで汚れも目立った。もっとも着替えが与えられていて、心掛けて常に洗《せん》濯《たく》をして置かないといけなかったのだが。袖が短く、襟前もズボンも付け紐《ひも》で結ぶことになっていたから、どことなく室内衣の感じがあらわれ、その姿で終日を過ごすことには、中腰のままに放置されたようで落ち着けぬ所があった。折り目も崩れ、膝《ひざ》も抜けやすく、肉づきのよい者など芋虫のようにごろごろした不細工な恰好になった。それは第一種軍装の士官服を着けた時とはまるでちがったものに見えた。まさか第一種軍装のままで訓練が受けられるとは思っていなかったが、青みがかった生地で作られた、簡素ながら上衣の袖も長く、ズボンはバンドでしっかり腰に支え、そのままで外歩きもできるような服装を私はそれとなく予想していたような所があった。しかし実際には、このような事業服が与えられ、起床から就床までをそれに身をくるみ、駈《か》け廻《まわ》る仕儀になっていた。帽子だけは第一種軍装時と同じ正帽をかぶったから一層おとな子供に見えたその恰好で、文字通り駈け廻りはじめたのは、場所の移動には必ず駈け足を要求されたからだ。階段は二段ずつ跳び上がれ。それを怠っている現場が見つかれば、その場で教官から修正を受けた。修正とはこぶしで頬《ほお》をなぐられることだったのだが。休憩時とて立ったままで居た。椅《い》子《す》などに腰をおろしてはいけなかった。走るか立っているか、それが課業以外の私たちの基本的な姿勢であった。  そのように事業服に包まれた私は、程なく深い疲労に襲われていることに気づいた。私にとって、まわりのものは何も見えないのと同じであった。まわりにくらべ私の年齢は高過ぎた。千人近い旅順の予備学生の中で、私より年配の者の数は、そう何人も居なかったのだ。まわりの彼らのほとんどが、活力にあふれ、食事の不満も隠すことなく、大体に於《お》いてがつがつしていた。からだも肉づきがよく、あふれ出る若さのために(二十歳を越えるか越えないかぐらいの者が大部分だった)、規則の間《かん》隙《げき》を敏感にかぎつけ、もぐり込んでも脱け出ようとした。肉体的な疲労を口にはしても、そのためにかえって刺《し》戟《げき》されたそれが裏切って、柔軟に元気を増殖した。第一大方の者はこの教育部を一つの生活の場とすることしか考えてはいなかった。それまでの世間で受けていた学生の特権を放棄するつもりもなく、それはそのまま継続して軍隊の中ででも指揮官として待遇されることを当然のこととして要求していた。しかし私はというと、この所で過去は捨てようなどという奇体な考えに取りつかれていた。指揮官の地位にも執着はなかった。軍隊の仕組みに対してもともと私は嫌《けん》悪《お》感《かん》を持っていたと言ってよかった。分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、とふくれあがって行くあの陸軍の仕組みは一層耐えがたいと思っていた。もしかして戦闘機に乗り込むことができれば、その仕組みの中から脱け出せるのではないかという錯覚から、私は海軍飛行科予備学生の募集に応募していたのだが、厳しい訓練が課されるという飛行科には合格が叶《かな》わずに一般兵科に廻されてきたのだ。既に受けていた徴兵検査に第三乙種合格という劣った格づけが与えられていたのは、その当時私が患《わずら》っていた肺浸潤のせいであったかも知れなかった。しかし一般兵科では厳しい訓練が施されないからなどと言えたかどうかはあやしいものであった。どうもそんなことではなく、私が旅順の兵科予備学生教育部に廻されて来たのは、運命とでも言うほかはないものに導かれてのことだった。だからというわけでもないが、私は食《しよく》慾《よく》も無かったし、規則の外がわに間隙をくぐって自我を広げて行く活力も無かった。私は何を考えていたのだったか。訓練地が旅順という異国の町であったことは(たとえそれが日本租借地と呼ぶ国際法上の位置が与えられた所であるにしても)、私の奇妙な考えを実行する場所として、なかなか恰好な環境にはちがいなかったけれど、本当はどこであろうと差し支えはなかった。私の体格と健康状態では訓練中に或《ある》いは死んでしまうかもわからないことだって、予想しなかったとは言えなかった。もっとも死が何であるかがどれ程もわかっていたのではなかったとしても。  事業服を終日着せられることに意外な感じを持ったと同様に、海軍でも当然陸軍の仕組みと変わらぬ戦闘単位を(もっとも陸軍とはちがってその単位がそのまま戦闘とつながるわけではなかったが)持っていることに、どうしてあらかじめ気づけなかったろう。  もともと海軍の兵団の中では、分隊という、陸軍では最末端の呼称であるものがその中隊ほどの規模を持たされて、基本的な組織単位として設けられていたから、私たち旅順の予備学生も同様に、総員を八つの分隊に編成されることに決められていた。そして一つの分隊に二人ずつ分隊監事付がつけられ、第一期予備学生出身の少《しよ》尉《うい》の連中が配属されていた。(ちなみに私たちは第三期の予備学生であったわけだが)。なおその上、二つの分隊にその総括者としての分隊監事が一人つけられ、私たちのそれには海軍兵学校出身の大尉が任に当てられていた。分隊は更に八つの班に分けられたが、班長には仲間の中から先任の者が選ばれて当たった。十五人の班員を(もっとも私を除けば十四人になるが)、私はほとんど見てはいなかったと言ってよかった。彼らは各自にとっての楽な場所を手に入れるために、仲間を押し除《の》けてでも前に出ようと考えているように見えた。私は彼らの最後尾を辛《かろ》うじてくっついて走るだけが精一杯であった。終日の立ちずくめは、拷《ごう》問《もん》のように思えた。ああ、どこにでも腰がおろせたらどんなにいいだろう、とそのことばかり思った時期もあった。課業の交替の短い休み時間には、兵舎の入口に煙草《たばこ》盆《ぼん》(といってもブリキで裏打ちされた細長い簡素な木箱でしかなかったが)が出ていて、みんなその囲りに群がり立ったまま煙草をうまそうに吸っていたが、それも私は断つことにした。立っていると、からだがふらふらとよろけるような揺れを感じた。腰が無性に凝り、胸もへんに痛み、仲間たちの談笑に嘔《は》き気さえ催していた。学生の頃《ころ》の生活の根がみんな噴き出してくると思うことで、そのようにして患部の痛みが露呈したあとに過去は遮《しや》断《だん》され、多分生まれ変わりができるのではないかと期待する気持が出てはいたのだけれど。  私はひたすら規則通りに従うことにつとめた。抜け道を見つけることには少しも気持が向かなかった。仲間たちが不平をもらすことが理解できずに、かえって白い表情を見せていたはずだ。もし私に不平があったとしたら、人並みはずれて弱い皮膚を持っていることへであったかも知れない。それとても不平というよりは、そのような生まれつきへの歎《なげ》きにしか過ぎなかったが。それはごわごわしたケンバスの吊《つ》り床《どこ》を太目の綱で締めあげる度に、手の指のつけ根の両がわにできた逆《さか》剥《む》けの根もとの肉が裂けてくることであった。自分の背丈を越える長さの吊り床は、たとえ教官が体重をかけて押さえつけても崩れぬように、固く縛りつけなければならなかった。固縛した綱の下にその先端をくぐらせる際、ごわごわのケンバスに逆剥けが引っかかってすりむけ、やがてそれは肉の裂け目となって広がって行った。しかしその治療のことは思案もつかず(手先を使う仕事は際限なく次々に控えているから)、ひりひりした痛みを抱え持ったまま、症状の進行を止めるすべは無かった。  一日のうちで私の自由になる時間といえば、夕食が終わって温習がはじまるまでの小一時間ほどの休息時であった。分隊の居住区は細長いがらんとした部屋に八台の食卓が等間隔に並べられ、外がわは営庭に面した二重のガラス窓、廊下がわの壁には衣料や教科書そして日用品入れの各自のチェストが設けられ、廊下をはさんで対の分隊の居住区と向き合っていた。食卓一台に一個班員十五名がそれぞれの居場所を定められて就くことになっていたが、夕食のあと片づけが終われば、手紙などを書く者を除いての大方は、どこへともなく散ってしまうのが常であった。煙草盆の出ている所に煙草を吸いに行くか、入浴するか、隊内に出張して来ている中国人の理髪屋に散髪をしてもらうか、ほかの分隊に話題を求めて出かけるとか、それぞれに動き廻りたい衝動があって、じっとしている者など居なかったのだ。しかし私のからだは夕食までが限界であった。煙草を吸いたいとも思わず、入浴も面倒であった。ただじっと動かずに居たかっただけだ。木製の共同長椅子に腰をおろし、食卓に崩れるように俯《うつぶ》すと、そのまま酔ったようになって、うつらうつらしていた。まわりの仲間たちの喧《けん》騒《そう》は、まるで潮《しお》騒《さい》のように耳をかすめるだけであった。私にも私なりに休息時でなければできない用事があったのに、からだが言うことをきかず、どうしても上体が起こせなかった。からだが溶けてしまいそうなほどに活力を失い、濡《ぬ》れ雑《ぞう》巾《きん》のようになって私は食卓に俯していた。いつまでもそうして居たかった。頭の中で何かを考えているというのではなかった。何も考えずしびれたように限りなくそうして居たかったのに、時刻はたちまちにして経過し、ほんのしばらくうとうとしただけと思えるのに、温習の時間が近づいたことを知らせる、課業始め五分前、の号令がラッパの合図と前後して、たちまちにして深い安らぎの中に居る私の耳をおびやかしてくるのであった。  既に大学や高等学校の教育を受けた経験のある青年たちを、別の一つの鋳《い》型《がた》に入れるためには、目前の生活が以前とはまるきりちがうことを、からだに覚えさせる具合に、一《いつ》旦《たん》はどうしても溶かし込んでしまう必要があったのかもわからなかった。そのためには短艇撓《とう》漕《そう》と執銃陸上戦闘訓練は、実に恰好な手段と言えただろう。  しかし自我の言い張りに馴れ、喫煙と飲酒に親しんだ者にそれをいきなり突きつけることは、おそらく目的を達するためのよい方法とは考えられなかったにちがいない。私たちの前に海軍体操が与えられたのは、だから甚だ適切な処置であった。入隊直後からしばらくのあいだは、ほとんど海軍体操で明け暮れたという体感の残っているのは、それだけ海軍体操に強い印象を受けたからであった。半《はん》端《ぱ》な余暇が生ずればすぐに海軍体操に切り換えられる状況があった。下士官である教員の、きびきびした号令で、上半身裸かになった私たちは、からだを柔軟に折り曲げ、伸ばし、反らせそしてねじった。海軍体操の特長は、すべての技は極限まで行なうことだと言われた。曲げるにしても伸ばすにしても、ぐん、ぐん、と力一杯できるだけ強く、指示された技をそれ以上には曲げ伸ばせない所に来ても、なお弾みをつけてその先の限界を越えるあたりに進めるつもりで、やらなければならぬと教えられた。実際そうすることによって、何だか自分のからだがバネのように柔かくなってきたと思えたものだ。それに教員の物馴れた号令のかけ方が、体操に融《と》けこませる或る誘いの力を備えていた。イチ、ニイ、サン、シイ、と言っているはずなのに、耳には叱《しつ》咤《た》に似た別のかけ声として聞こえてくるばかり。しかしその意味の不明な声に先廻られ、私のからだは末端まで、ぐん、ぐん、と伸びて行く感じになって行った。海軍体操は又どんなに異なった種類の体操をも、跡《と》切《ぎ》らせることなく律動的に連結させることができた。それを可能にするために、つなぎ目を支え、そしてそこからどのような動作へでも発動できる一つの基本運動の型が考案されていた。両腕を前に真っすぐ伸ばして肩の高さまで持ち上げたあと、急に力を抜いて体側に落とし、そのはずみで又左右に伸ばしたまま肩の高さまで上げることを繰り返す運動である。肩に力は入れず、前、横、前、横、と永久運動の振り子さながらに振りつづける単純なもので、誘導振という名前が与えられていた。海軍体操には数多くの型が定められていたが、号令をかけながら次に移る型をふと決めがたくなった場合など、この誘導振は実に柔軟な効果をあらわしてくれた。ユードーシン、と一度号令をかけて置きさえすれば、次の型を思いつくまではいつまでもそのままにして猶《ゆう》予《よ》を得ることができた。単純な運動だけれど、しかしそれを、要求される正確なかたちで振りつづけることはそれほど容易ではなく、私たちは教員から何度も注意を受けて直さなければならなかった。課業の中で課せられたことだから、自分から進んで行なう気持にはなれない所もあったが、強《し》いられてでもそれをはじめると、やがて快い律動の中にはいりこんでいる自分を発見することができた。  一度だけの経験で終わったが、誘導振だけで二時間ものあいだを振りつづけさせられたことがあった。或る日没近い時刻であったが、練兵場で上半身を裸かにした私たちは、これから休み無しに誘導振をつづけるということを教員から言い渡された。既に外気の中には寒冷の気が潜みこんでいて、裸かの上半身姿ではさすがに身震いするほどの寒さが感じられた。そして号令がかかり、誘導振がはじめられた。寒気を吹き飛ばすつもりで、はじめはむしろ力を入れて振っていたが、やがて血の巡りがよくなりからだがあたたまってくると、専《もつぱ》ら力を抜き、疲労を少なくしてできるだけ長く持たせる工夫をしはじめたのだった。冷気はむしろ快く皮膚を刺戟し、汗をかくことは無かった。時がどのくらいの速度で移るものか、見当がつかなかった。しばらくすると腕のつけ根がしびれる感じに襲われてきたが、誘導振はつづけさせられた。技としてのかたちはとうに崩れてしまっていたが、両腕は真空の中での振り子のように、とどめようがない感じになっていた。もうそれは自分のからだにくっついているとは思えなかった。果たしてこんな向こう見ずの行為は、からだにどのような影響を与えるだろうかなどとちらと頭をよぎらないでもなかったが、人の思いの外の所でどんな境地がひらけるかわからないのだと考えるほかはなかった。あれはどのくらいの時間が経過した頃だったろう。積みかさなるようにして進んでいた疲労と強《こわ》張《ば》りが、ふいに感じられなくなってしまったことがあった。太陽は目に見える速度で西に傾き、冷気も次第に加わってくることがわかった。やがて旅順の町の西の裏山の稜《りよう》線《せん》に近づいた落日は、想像を越えた大きな真っ赤な火の玉となって速度を落とし、そのまま容易に沈もうとはしなくなったのだ。ほわっとした輻《ふく》射《しや》熱《ねつ》が横なぐりに裸かの上半身を包みこんできて、何とも言えない快い状態の中に居ることを気づかされていた。それは一種の至福の気持とも言え、そのままいつまでも振りつづけていたいとさえ思った。しかし遂《つい》に誘導振止《や》め、の号令がかかると、呪《じゆ》縛《ばく》から解かれたようにほっとして、その場にくずおれそうになった。教員は二時間を経過したと言ってねぎらっていた。骨も肉も溶けてしまったような疲労が湧《わ》いてきたが、不思議な快さに全身が襲われていることも確かであった。そしてその快さはそのあともずっとからだのどこかに残り、どうかした折りに甦《よみがえ》って、あのおそろしく大きく見えた落日からの、ほわっと全身を包みこんできた熱のあたたかさまで呼びもどすふうであった。  予備学生仲間の話題は、食事の不満の表明と、いつこの基礎訓練が終わって旅順を去り、横《よこ》須《す》賀《か》などの術科学校の教程に移れるかということの臆《おく》測《そく》に尽きた。しかし私たちはここの教育部に入所してまだ二週間も経《た》ってはいなかった。それらの話題が最も活発に取り交わされる夕食後のひと時を、私は相変わらず食卓にひとり俯してやり過ごす状態から脱け出てはいなかったが、そのほかの場合にも私は仲間の談合にはいって行こうとはしなかったのだ。それらの話題は私にはむしろ耳ざわりに思えた。折角変身をと身構えた私の子供っぽい気持をくじく要素を含んでいると考えたからだろうか。私は総《すべ》てを黙ってただ受容していたかった。しかし基礎訓練の期間が或いは年内に終了の予定で短縮されるらしいといううわさは、私にも甚《はなは》だ悩ましいものとなって刺戟してきた。どうしたって集団訓練には単調な繰り返しがつきまとっていたから、どんな変化でも、当面の事態を変えるものであればそれに飛びつきたい気持になるのは致し方なかった。だから新しい環境への移動でさえあれば、どんなことでも歓迎したかった。基礎訓練期間の短縮ということは、その底に戦況の悪化が横たわり、結果として士官の濫《らん》造《ぞう》につながることにも気づきながら、それでもなお短縮される方を望んでいたのだった。  私の所属した姉妹分隊が二個分隊とも総員修正を受けたのはちょうどそのような時であった。それは又入隊直後のからだほぐしの期間がほぼ終わり(つまりそのあいだは海軍体操をはじめ吊り床訓練、甲《かん》板《ぱん》掃除など、本格的肉体訓練に備えての予備運動のようなことや、始業式とか旅順方面特別根拠地隊司令官の巡視の行事、教育部長の度々の訓示や精神訓話、それに具体的な直立不動の姿勢、目の位置、帽子のかぶり方、靴《くつ》下《した》のはき方、下着のたたみ方やかさね方などの躾《しつけ》が与えられることに当てられていたことになるが)、そして来る日も来る日も短艇、陸戦の課業で埋め尽くされる時期がやって来ようとしているその直前に当たっていた。  一体何が原因であっただろう。いや別に原因などなくても、きっかけは到《いた》る処《ところ》にころがっていたと言えなくもない。私たちはまるきりだらしがないと言われたとしても仕方がなかった。自分たちでさえ、こんなふうで本当に実戦の際の戦闘単位の指揮官としてつとまるだろうかという疑わしい気持が取り除けなかった。しかもそれは、想定の上のことではなく、近い将来に必ずやってくる現実にほかならず、そのことを考えると、或る怯《おび》えさえ感じないわけには行かなかった。ただ日々の疲労が思考をにぶらせるという逃げ道があって、先がどうなろうとそれはその時のこととして他《ひ》人《と》事《ごと》にしていられる状態に居た。だから私たちの日々の行動は、一応軍隊の体制に馴《な》れた教官たちの目から見れば、不細工極まるものであったにちがいなかった。二段ずつ駈《か》け上がるはずの階段を一段一段ゆっくりと上がったり、便所の中で煙草を吸ったり、海軍式の肱《ひじ》の角度の狭い敬礼をつい陸軍式の角張ったやり方に変えてしまったり、わたくしと言わずに自分と言ってみたり、起床前に吊り床の中で事業服を着込むことによって爾《じ》後《ご》の動作を先取ろうとしたり、そのつもりであら探しをされれば、修正の実施の理由には事欠かなかったはずだ。もっともそれまでにもそれらの行動のために個別に修正を受けた者は居たのだが、それが総員修正に発展しようとはちょっと考えがつかなかった。しかし教官たちにその儀式の執行を思い立たせたものは、もっと観念的な原因からだったにちがいあるまい。いわば馴れから生ずる或るゆるみの中に居《い》坐《すわ》りはじめた私たちに、彼らが受けた教育過程の経験から直感した危機のようなものを察知したのかも知れないからだ。私のあのおかしな深い疲労にしても、奇妙なことにもう薄れかかっていて、胸部の痛みもいつの間にか取れ、下腹部のあたりに肉がついてきたのではないかと思わせられていたことだ。煙草がとても吸いたくなってもいた。それが私の変化の端緒だったのかどうかはわからないが、とにかく回復期に似た爽《さわや》かさが近づいていた。それまで追いかけるのに精一杯だった課業も、適当に手控える術《すべ》を使いさえすれば、余裕を獲得しつつこなすことができることもわかってきたし、教官や教員がわのゆるみの部分も見えるようになってきた。それら総てが完《かん》璧《ぺき》だと考えていたわけではないが、そう見たほうが自分の変身願望の踏み台にでき、うまく弾みがつく、と思っていたようでもあった。それにしてもそれらが一様に普段の世間と地続きであることが改めて納得させられるようになっていたのである。  二個分隊の総員に舎外整列の号令がかかったのは夕食後のくつろぎの最中で、夜の温習の時間がやがてはじまろうとしている頃《ころ》おいであった。  予告のない集合命令はいずれにしろ無気味なものであった。私たちは蒼《そう》惶《こう》として舎外に整列して教官の来るのを待った。まだ本格の寒気はやって来てはいなかったが、夜の屋外はさすがに身のひきしまる冷たさがあった。やがて分隊監事の大尉がひとりでやって来た。いつもなら分隊監事付の何人かが影の形に添うようについて来るところであった。分隊監事は背丈はそれほど高くはないが、肩幅の広いがっちりした、しかし肥満を感じさせないしなやかな体《たい》躯《く》を持っていた。着古した第一種軍装がまるで作業衣のようにぴったりからだに着き、どんな姿勢をとったところで、まちがってもホックのはずれるようなことはあるまいと思えた。古びてくすんだ大尉の襟《えり》章《しよう》がなかなか恰《かつ》好《こう》よく思えていた。いかつい四角な顔の中で目が鋭く光っていたが、どことなく信頼しても応《こた》えてくれそうなやさしさもただよわせていた。私も実は彼に気持が引かれていたのだ。恐らく私より年齢が下にちがいないが、ずっと年上のような気がした。態度に泰然とした余裕があり、口数は少なかったが、事を貫徹する気配があふれているように見えた。だから彼が二個分隊総員の前に一人でやって来た時、私は何かこれまでにない新しい体験が得られる、と思ったのだった。それは彼が暗示力に富んだ資質を持っていたからかも知れなかった。私たちに直立不動の姿勢をとらせていた分隊監事は、口を開いた。「近頃の貴様たちの態度はたるみ切っていて甚だ遺憾である」。よく透《とお》る張りのある声であった。そしてやや間を置いて「各員の猛省を促す」と力強くつけ加えただけであとは口をつぐんでしまったのだ。長い沈黙がつづいた。私のところからは見えなかったが、最前列の者は彼に無言のままにらみつけられて往生しているにちがいなかった。舎外の暗がりの中だから、表情はわからぬとしても彼の精《せい》悍《かん》なからだつきの輪郭がふくれあがるような威圧感となっているはずであった。どれほどそのように奇妙な対《たい》峙《じ》のままで立ちつくしていたろう。私は何かを考えるにしても手がかりはなかった。長く直立不動の姿勢をとっていると、前後にゆらゆら揺れる錯覚に襲われてきてへんに律動が湧き、無言の列《れつ》伍《ご》にはかえって無気味な饒《じよう》舌《ぜつ》が感じられるものだ。そのような状態になるのを待っていたように、分隊監事はふたたび口を開き、彼にしてはやや長目の説教をした。「軍隊に必要なのは全世界に普遍妥当であるような原理ではない。危急存亡のときに立たされた祖国を如《い》何《か》に救うべきかの真理を探求するにある。そしてその真理は今日、目前の日常茶飯事の中に於《お》いてしか無い。貴様たちは進んで海軍にはいって来た。そうである以上、貴様たちの日常茶飯事は毎日の課業を全《まつと》うすること以外には無いはずだ。然《しか》るに貴様たちの中には未《いま》だに娑《しや》婆《ば》の学生気分の抜けない者が居る。海軍はそのような者を必要としない。貴様たちからその気分を払《ふつ》拭《しよく》するために、只《ただ》今《いま》から総員修正を行なう」。にわかに空気が激動した。前後左右の間隔を開くために、しばらくは、靴音が乱れた。「足を開いて歯を食いしばれ」と分隊監事はさとし聞かせる調子で言っていた。やがてぼこっというにぶいが激しい衝撃的な音が聞こえた。中には吹っ飛んで地面に倒れる者が居た。「これぐらいで倒れる奴《やつ》が居るか」と叱《しつ》咤《た》する分隊監事の声がした。ぼこっ、ぼこっと肉を打つ音がほとんど等間隔に耳に届いた。そしてそれが次第に近づいて来るのだ。「ふーらふらするなー」と酔ったような声がした。分隊監事は固く握った右手のこぶしで、からだ全体の重みをかけるほども力一杯に一人一人の頬《ほお》をなぐって廻《まわ》った。なぐられた者は瞬間姿勢を崩したが、そのあとは直立不動の姿勢にもどってじっとしていた。あれは不思議な儀式であった。たった一人が時にかけ声を発しつつ暴れ廻っている中で、あとの二百人を越える人数が、沈黙したままなぐられるのを待っていた。そしてその嵐《あらし》の目が近づくのを待つあいだに私は奇妙にからだが震えているのに気づいたのであった。それは小さな恐怖からだったのか、或《ある》いは宙ぶらりんの待ち受ける姿勢が誘う罠《わな》に過ぎなかったのか、又寒さだけの理由からだったのか。その何《いず》れかは知らぬが、とめようとしてもとどめ得ぬ小きざみな震えが、からだの底の方から湧いてきた。しかしいよいよ目の前に分隊監事が立つのを見た時、私は彼に一個の泥《でい》酔《すい》者《しや》を見、そして又なぜか悲しげな殉教者が重なって見えたと思った。なぐられた瞬間は、両《りよう》眼《がん》に刺すような衝撃が走ったが、予想したほどの痛みを覚えることはなく、ただ口内の肉が切れて生ぬるい血のりが噴き出てくるのが不快であった。震えはとたんに止まり、なぜかさばさばした気分になっていたのが解《げ》せぬ思いであった。  そして、あの連日、短艇と陸戦の課業で交互にうずめられる新たな訓練期間が開始されたのである。週末に次週の課業予定が発表されると、午前短艇午後陸戦、午前陸戦午後短艇、と交替して襲ってくる四角で単調な字《じ》面《づら》の感受に私たちはおじけを振るったものだ。季節は十月の後半にはいり、旅順の冬の寒波はまだやってきてはいなかったが、課業がたてつづけの舎外訓練だけにしぼられてみると、冬将軍の到来の前に大あわてで所定の訓練過程を急いでいるようなふしも伺えるようであった。寒気のきびしい日には執銃の手が伸びず、半《はん》端《ぱ》な事業服では、下着をどんなに工夫して着込んでも、ぬくもりは外に散って行くばかりであった。東港港内での短艇訓練は海上を吹く寒風に耳もちぎれんばかり、指はこごえ、櫂《かい》がしっかり握れず、海水に取られて思い切り腹に食いこんだその櫂で息の根を止められることがしばしばであった。撓《とう》漕《そう》のためにどうしても座席で尻《しり》をこするから、皮が赤むけになり、食卓に坐ることもむずかしくなった。天候は大よそ三寒四温の周期をほぼその通りに繰り返し、雨の無い清澄な青天に恵まれたことは幸いであったが、やがて確実にやって来る厳冬がどのようなものであるかの見当がつかず、いささか気がかりが残るようでもあった。果たして旅順での訓練が、いつ終了するかの問題が、そのことともかかわっているように思えていた。予備学生の間にジフテリアが蔓《まん》延《えん》し、二名がそのために命を落とした。ほかに心臓麻《ま》痺《ひ》で死んだ二人のうちの一人は私たちの分隊の学生であった。短艇訓練のあと駈け足で兵舎に帰って来る途中で崩れるようにうずくまってしまったのだった。流れが川石を避けるように、列伍が左右に割れて彼の傍《そば》を駈け抜け、分隊監事付が介抱していたがそのまま蘇《そ》生《せい》することはなかった。その夜は分隊員が交替で通《つ》夜《や》の番に立つことになり、私も真夜中にその番にあたったが、白布をかぶせられて机の上に横たえられた彼が、今にもむくむくと起き上がってくるような錯覚に私は襲われつづけていた。しかし私の疲労は大方危機を通り抜けることができたのかも知れなかった。両手の指の逆《さか》剥《む》けの亀《き》裂《れつ》もどうにかおさまっていた。どうしてそうなったのか私にはわからなかった。だから短艇、陸戦の連続訓練にもどうにか耐えることができた。単独の外出はまだ許されず、その代わりかどうか、東《ひがし》鶏《けい》冠《かん》山《ざん》のロシヤ軍堡《ほ》塁《るい》跡への遠足があった。第一種軍装にゲートルを巻き、弁当の包みと水筒を交《こう》叉《さ》させて肩からたすき掛けにすると、まるで決死隊のようないで立ちになった。総員修正や単独修正にも馴れ、いつ見舞われても平気で受けていられた。朝夕には深い靄《もや》がかかるようになり、兵舎のあいだから宙空にぬっと浮かび上がるふうな塔の形がふとのしかかって見えることがあった。靄にくるまれてぼんやりとかすみ、それはまるで何物かの幻影さながらであった。実体は旧市街の背後の白玉山の岡《おか》にそびえる表忠塔なのだが、私には何か別なものの幻影に見えていたのだ。訓練生活に肉体的に馴れてくると、何やら鬱《うつ》屈《くつ》した気分が甦《よみがえ》ってくるようでもあった。相変わらず仲間のあいだにはいりこむ気力には欠けたままでいたけれど、そういう私に明らかに反発を示す者の居ることにも気づいていた。何かの用事で私が呼びかけてもわざと無視したように返事をされなかったことからはじめて私はそのことに気づいた。彼は私の態度が気に入らぬもののようであったが、致し方もなかった。温習の時間に、必ずしも教科書の復習や予習にばかり向かっていなくてもいいこともわかってきた。すきを見ては手紙を書いたり、居眠りをすることもできた。監督の教官が時間いっぱいを温習室に頑《がん》張《ば》って見張っているわけでもなかったからだ。そして酒保に出たキャラメルをうまくわからぬように口の中に入れて置くことさえ覚えたが、それが原因であのへんてこな事件に出会おうとは、思ってもみないことであった。  私たちは毎朝課業前には営庭に整列して定時点検を受けることになっていた。毎朝のことだから、不動の姿勢などの調整や簡単な服装の点検が行なわれるだけであった。ただじっと課業始めの時刻の到来を待つだけのことさえあった。当直将校に立った教官から、達しや注意が与えられるのもその時間であった。  その朝は、四人の分隊監事の一人である兵学校出身の中《ちゆ》尉《うい》が当直将校に当たっていた。彼は血色のいい白《はく》皙《せき》の青年で、頬のあたりが若々しく、ふっくらと肉づきがよかった。彼が分隊の学生を修正している姿を私は見たことはなかった。甘えたような口調で、しゃべり方はそんなに上手ではなかった。その彼が、少し投げやりな調子で温習の時間にキャラメルを頬張っている不届き者が居る、と言ったのであった。そう言われてもなお重大事とは思えぬ気分で聞いていられた。それがもし私たちの分隊監事であれば、秋霜烈日の気があたりに漲《みなぎ》ったはずであった。当直将校の中尉は、一週間の酒保止めを言い渡したあと、覚えのある者は当直将校室に来たれ、とおだやかな口調で結んだ。課業始め五分前、課業始め、のラッパと号令がかかって、私たちは午前の教課に就いた。短艇、陸戦の訓練も終わりに近づいていた。  午前中の私たちの分隊の教課は陸戦訓練であった。しかも実科考査と称して、執銃の動作や号令のかけ具合を採点されることに費されたから、自分の番が廻ってきた場合のほかは、ぼんやりと休息していることができたのだ。その日の陸戦の教官は年配の下士官を経て進級した特務士官であったが、彼の家庭での着物姿などをつい連想させられるような気配をただよわせている人であった。そして私は常には無いくつろぎの中で、当直将校室に出向こうかどうしようかについて思いあぐねていたのである。その事について私は仲間の誰《だれ》とも相談はしなかった。それは自分一個の心の問題だから人と話し合う筋合いではないと思っていたのだった。温習の時にキャラメルを頬張らない学生など居なかったと言ってもいいことを私は知っていた。だからおそらく当直将校室の前は覚えのある学生で混《こ》み合い、整理させるのに手を焼くだろうとさえ思えたのだった。しかしどんな小さな事《こと》柄《がら》でも自分の過誤を名乗って出ることには、言い知れぬ重さが感じられた。それは何といっても億《おつ》劫《くう》な行為にちがいなかった。黙っていればそのまま済むことではないか。たとえそのままでは納まらぬとしても、総員修正でけりが付くことは凡《およ》その見当がついていたと言ってよかった。それでなくても既に一週間の酒保止めという懲罰が与えられていたのだから、それ以上の追求は打ち切られることだって考えられたのだ。あれを思いこれを考え、課業止めが告げられても、結局どうするかの決心が私にはついてはいなかった。  居住区にもどり昼食までにはまだ十分程も余裕があると知った時、なぜか、つと突きあげられるように私は廊下を当直将校室に向かって駈け足になっていたのだ。済ませなければならぬことは、早く済ませてさっぱりしたい、とむしろ先を急ぐ気分になっていた。しかし当直将校室の前には、それらしい学生は一人も居なかった。私はちょっと狐《きつね》につままれた思いになったが、思い切って扉《とびら》をノックして中にはいった。「S学生、はいります」。中では三、四人の教官が忙しそうにそれぞれの仕事に向かっていた。私は当直将校を見つけると、彼のそばに行き、温習室でキャラメルを食べたことを口に出して言った。そしてふいっと何だかとても馬《ば》鹿《か》げているという気持になっていた。彼は私よりずっと年下のはずだ。その彼に私はキャラメルを食べましたなどと申し立てていたのだ。瞬間の彼は怪《け》訝《げん》な顔付をしたように私には見えたのに、しかしすぐに又顔を紅潮させたのだった。激怒して、というのではなく、むしろ恥じらいを含むように、であった。どうしてだか、私はあのことのためにやって来た学生がほかには一人も居なかったのではないかと思ったのだ。彼は私をじっと見ていた。その目はうるんでいるようにも思えた。そしていくらか受け口である容《よう》貌《ぼう》も見て取った。面倒なことを俺《おれ》にさせやがって、と言っているようであった。しかし彼は何の小言も口にはしなかった。「よしわかった、足を開け」、とそれだけ言い、修正をする身構えになった。言われた通り私は足を開き、歯を食いしばった。そして彼は三つばかりつづけてなぐったのだが、わざと力を抜いているのがわかった。「カカレエ」とふざけるように調子をつけて彼は言い、私は解放された。彼は忙しくて私などに構ってはいられない、という風をしてみせた。私は居住区にもどりながら、これでは解決にならないような何かがまだ引っかかっている気分に襲われた。それにどうしてか羞《しゆ》恥《うち》の思いも湧《わ》いていた。勿《もち》論《ろん》これで済んだんだ、というほっとした気持になったことも嘘《うそ》ではなかったが。そしてこのことは黙っていて誰にも話すまいと心に決めたのだった。  しかしそれはすぐに私の分隊の全員にわかってしまった。食事が済んだ時分に、分隊監事付の少尉が、私の分隊全員を廊下に整列させ、不届き者が一人だけこの分隊の中から当直将校に名乗り出たことを伝えたからだ。そして彼は「S学生、来たれ」と私を名指して呼んだ。列外に出た私はそこで又かさねて修正を受けることになった。しかしそのあとで彼は、冒した行為はよくないが、爾《じ》後《ご》に取った態度は正直でまことによろしい、などと私の名誉を回復するようなことを言ったのだ。私はすっかり意気が沮《そ》喪《そう》した。この事件には理解されにくい要素がこんがらがっている、と私は思った。分隊内の誰彼に顔を見られるのが耐えられなかった。しかし居住区の中のどこに隠れようすべもなかったのだ。私は食卓に向かって腰をおろし、ぼんやり前方に目をやっていた。上気した頭で、どうしてこうなったかを、そもそもの自分の分隊内での態度からその筋道を辿《たど》ろうとしてみたが、刺《し》戟《げき》が強く、堂々巡りばかりして解きほぐせるはずもなかった。これは滑《こつ》稽《けい》なことだ、と思いこもうとしたが、かえって羞恥がふとるばかりであった。同じ班の例の学生の、冷ややかに私に注ぐ目なざしを、私は自分の背中にきつく感じてもいた。 第二章 擦過傷  旅順海軍予備学生教育部に入隊後何日ぐらい経《た》ってからだったか、学生の中から毎日一人ずつが当直学生として勤務に立たされることになった。たぶん当初の準備期間が終わったあたりからだったかも知れない。それは当直将校に立つ教官を補佐して日課を円滑に進行させる役割を担当するはずであった。しかしにわかの軍隊生活で海軍の隊務についてはどれほどもわかってはいないわれわれにその役割通りを勤めさせる期待は最初から持たれなかったろう。要するにこれも訓練の一つ。いずれ任官した所属先で否《いや》応《おう》なく廻《まわ》ってくる副直将校などの勤務がどれ程繁忙を極めたものであるかを予《あらかじ》め経験させることにその目的があったように思う。それは思っただけで肩の凝りそうな仕事であった。多くは隊務を順調に導いて行くことにはならずに、当直将校と列《れつ》伍《ご》の学生からの叱《しつ》正《せい》と突き上げに挟《はさ》まれておろおろする事態になりがちだった。私はできることならその勤務から免《まぬが》れたいと思わないわけには行かない。でもおそらくは私には廻ってこないだろう。なにしろ一千名もの学生が居たのだから、一日一人の割合いで全員を一巡するには三年近くもかかる計算になる。いろいろな噂《うわさ》が流れていてはっきりはしないが、基礎教育が大幅に短縮されそうな気配は感じられていた。そうなれば益《ます》々《ます》その当直に当たる確率は減ってくる。海軍は万事に序列が優先するから成績の余り芳《かんば》しくない私には、その役が先任順に廻ってくるとすればいよいよ可能性が遠のく。とにかくあれはいやだなと思い、しかしまずその勤務に立つことはあるまいと高を括《くく》って、なるべくそのことは考えないようにしていた。ところがそれが私に廻ってきたのだ。避けたいことはかえって免れようなくまともにやってくる、というあれだ。過去にも何度か経験したその観念にまた陥《お》ち込むことになった私は、準備も無いままに激流に飛び入る心境であった。しかしおかしなことにその日一日を私はどのように勤務を果たしたのかその細部の何一つとして覚えてはいない、否《いな》たった一つの小さな突発事を除いたほかは。その日私はどこに居たのだったか。まさか班員と共に居住区に待機していたわけではなかったろう。それでは全体の状況について何も知ることができないのだから。すると当直将校の身辺に近くたむろする部屋でもあったのだろうか。それが思い出せない。それに副直学生が居たはずなのに、私が当直の時のそれは誰《だれ》だったかも思い出せない。確か当直学生の前日には副直学生を勤めることになっていたのに、自分のその姿も一向に目に浮かばない。当日の私は早朝から、赤地に二本の白線のはいった木綿布の腕章を左腕に巻いた人目に立つ恰《かつ》好《こう》になった。一日が何事もなく早く過ぎ去ることを願いながら緊張のためか足もとはうわのそら。その日の当直将校がわれわれの分隊監事であったことは私をより一層緊張させていた。もっとも緊張ばかりでもなく親身な気分の気《き》易《やす》さも無いではなかった。兄の庇《ひ》護《ご》を期待する弟の依存の目つきが自分の中に無かったとは言えない。日課の進め方に分隊の対抗意識をそそるような方策が取られていたことは否めなかったのだから。今日はわが分隊監事が当直将校だぞ、という晴れがましい気分もあった。朝の定時点検で各分隊の人員の異状の有無の報告を受けた私は、まとめてそれを号令台の上に確《かつ》乎《こ》たる姿勢の気配を放散している彼に届けようとしていた。事態が動き出してしまえばそれを遂行するほかはないし、やってみれば想像の中で危《き》惧《ぐ》していた恐れは影の薄いものになってしまう。私は号令をかける自分の声が量も張りも満更捨てたものでもないなどと思いつつ、彼を見上げて総員の敬礼を送っていたのであった。訓練の結果で私もこんなに鍛えられた、と彼に示したい気持も動いていた。と彼は号令台の階段をつかつかと降り、からだを翻《ひるがえ》すような感じで風を切って私に近づいてきた。瞬間私は甘い顔付をしたのではなかったろうか。いきなり彼の右こぶしが私の左《ひだり》頬《ほお》を烈《はげ》しく殴った。私のからだはかしいだだけで崩れることはなかったが、帽子が右前の方に吹っ飛んだ。「にやにやするんじゃない」と彼は鋭く言った。一体何が起こったのか、私は判断がつかなかった。「カカレ」と言われ、からだを屈《かが》めて帽子を拾い、そのあいだが変にのろのろした感じだったが、いそいでかぶり直して彼に敬礼をした。彼はそれ以上は何も言わずに号令台に戻《もど》って行った。帽子をゆがんでかぶったのではないかと気になったがそのままにした。頭の中を熱い風が渦《うず》巻《ま》き騒いでいるようで、冷静に冷静にと自分を戒めるつもりになった。当直の一日がはじまった出《で》端《ばな》に、何ということだ。挫《くじ》けそうな思いも流れたが、このことで反応を起こし極端に態度は変えたくはないと思った。しかしからだがばねのように弾んできて困った。やはり当直将校の修正が効果をあらわしていたにちがいなかった。私は自分がどんな不始末を犯したのか思い当たらない。私のからだ全体に柔弱な気配がただよっていたのだろうか。たとえそうであったとしてもそれがすぐに修正に結びつくとも思えないのに。彼は私を殴った直後に、にやにやするんじゃないと言っていたから、或《ある》いは私は薄笑いを浮かべていたのかも知れない。滑《こつ》稽《けい》な程の緊張でからだを固くしていた私に、笑うなどの余裕はまるで無かったが、もしかしたらその緊張が私の顔付に笑ったようなかげりをこしらえたのかも知れない、と気づいた時に、私は突然顔が赤らんでくるのを感じた。なぜか羞《しゆ》恥《うち》が噴き出してきた。一千名の学生の目の前で(もっともそこで何が起こったかは、最前列のわずかな人数の学生にしか目にはいらないわけだし、彼らの中でさえその突発事の後先きをしっかり見つめ得た者はそれほど多くはなかったのだが)ひどく不様な正体を露呈した思いになったからであった。しかしそのまま役目を投げ出してしまうわけには行かず、ようやく気を取り直してその後の処置の号令をかけ、課業の開始に移しやることができた。それからどんなふうに過ごしたか、ほかの日々にくらべてとりわけ万事の印象があざやかであるはずなのに、具体的な情景はおろか体感のようなものさえ私には残っていない。あとで当直将校にはどう接触できたのかということさえ覚えてはいない。  いずれにしろ短艇と陸戦の課業が交互にうずめられる強行訓練は終わりに近づいていた。寒気のきびしい日もあり、毛布が一枚殖やされて吊《つ》り床《どこ》の中身が太り、それを固く縛るための難儀が重なりもしたが、それでもまだ本格の寒気とでもいうべき季節にはいってはいなかった。その季節にはいれば陸戦はともかくとして海上での短艇訓練は到底実施困難な状態になるだろう。それらの理由があって基礎としての二つの課業が速成の突貫工事さながらに急がれた経緯はわれわれにもうすうすの察しがついていた。それでなくてももともと切りつめられて出発した予備学生の基礎教育の期間が、なお重ねて二箇月も短縮されるらしいなどという噂がささやかれはじめていた。体調をくずして診察を受けた学生が、軍医から早く直して置かないと帰れなくなるぞと言われたのは年内の訓練の終了を予想しての発言だなどと都合のいい観測をする者も居た。そしてそれらの訓練の総仕上げとしての陸戦演習を控えた直前に、われわれにはじめての外出が許可された。もっとも各自の自由な行動にはゆだねられず、引率外出という半ば制限されたかたちでではあったけれど。入隊して丁度一箇月が経過していた。それまでも日曜や祭日に学生舎を出て表忠塔や日露戦跡の砲台跡や東《ひがし》鶏《けい》冠《かん》山《ざん》のロシヤ軍堡《ほ》塁《るい》跡などに連れて行かれたことはあるが、いずれも訓練を兼ねた見学行軍であったから、気《き》儘《まま》にくつろげる気分ではなかった。旅順の町はずれの住宅地帯の一部に学生倶《ク》楽《ラ》部《ブ》と名づけられた幾部屋かが用意されていて、外出の手はじめにまずはそこに引率されて行かれることになった。もっともその後の数少なかった自由外出にはもう私はそこを利用はしなかったけれど。学生の多くは、はじめての外出なのに引率などという制限のつけられたことを甚《はなは》だしく不満に思い口にも出して託《かこ》っていたが、私にはそれほどの不平はなかった。むしろ小学生の頃《ころ》の遠足気分になっていそいそと弾んでいた。それにふさわしく、一本の羊《よう》羹《かん》とキャラメル一箱にりんご二つの酒保も出ていて、それを雑《ざつ》嚢《のう》にしっかり納めていたからかも知れなかった。羊羹は丸い棒状の紙箱に包まれたもので日々の酒保の配給には滅多に出ることがなかった。りんごは旅順近郊の特産らしく、このところ夕食後によく配られていたが、小さいかたちながら甘酸っぱくて肉はやわらかであった。からだを激しく動かすことの多い生活の中で食事以外の嗜《し》好《こう》品《ひん》はこの上ない楽しみであった。殊《こと》に羊羹は待望の最たるものであった。第一種軍装にゲートルを巻き水筒と雑嚢を肩から左右に襷《たす》掛《きが》けした恰好で市中を通り抜け新市街の方に歩きながら、町々の様子を覚え込むことなどはどうでもよく、早く学生倶楽部に着いて酒保の品々を開く場景を頭の中いっぱいに描いていたのである。  倶楽部は新築のあと無人のまま閉ざされていたので、木の香や青畳のにおいが部屋部屋にこもり、安《やす》普《ぶ》請《しん》の跡もあらわで最初は落ち着かぬ気分にさせられた。しかし酒保開けの号令が早々にかかると、思い思いに組んだ仲間と適宜に部屋を選び、あぐらをかいて小学生さながらのせわしなさで雑嚢を解いていたのだ。私は同班の中でどちらかというと気性のおだやかな目立たぬ学生と近づき合うことが多く、結局はいつものそういう組み合わせとなって殊更の仲間意識も無く、ただ仮《かり》初《そめ》の座を組んだのだが、本当は独り切りでゆっくり羊羹を味わいたいと思っていたのだった。それは私が平均年齢を一般より余計に越えていたことから体力的な衰えを自覚したばかりでなく、環境をそのままに受け止めようとするやや頑《かたくな》な姿勢を持っていた故《ゆえ》でもあった。そのため憤《ふん》懣《まん》や不平をみんなと共に勢いよくあらわすこともできず、周囲とは間合いがはずれてしまうことが多かった。気持の上で、これまでの習性を脱け出て変容のきっかけにしたいなどと考えてはいたが、当初新鮮で緊密に見えた軍隊の機構にも万事に馴《な》れが生じてくると、いつの間にか倦《けん》怠《たい》がしのびこみ、ゆるみも見えてきて、どれ程の所期の効果が得られるかに疑わしい気分も抱きはじめていた。それに速成の訓練から生ずる中途半《はん》端《ぱ》な鍛えのままで人も自分も果たして複雑な機械の運用の上に組み立てられた海軍の戦闘の只《ただ》中《なか》にどのようにしてはいって行けるかと考えると、空恐ろしい不安を覚えないわけには行かなかった。それなのに指揮官として何人かの部下を持たされるというやがて必ずやって来る状況は想像もつかぬよそ事に思えたのだ。毎日の課業はなお充分に過重でそして単調ではあったが、このままでは心もとない限り、全くどういう結果になるものか。しかし事態は容赦なく進み、どうしても一個の軍令承行の将校士官の立場の方に押し流されていることは疑いようがなかった。  しかし、倶楽部の中の私は羊羹を頬張ってその甘さに酔い、何も考えてはいなかった。歯にまといつく煉《ね》りのきいた適度な固さも悪くなく、口の中一ぱいに満足が広がっていただけだ。頭にあったことといえばすぐ食べ終わってしまう心配だけ。それはその通りになり忽《たちま》ちにして一本を平らげてしまうと、もっと厭《あ》きるまで食べたいという手のつけようのない慾《よく》望《ぼう》に襲われた。もっとも羊羹をそんなに口にすれば胃や腸がおかしくなって気持が悪くなるにきまっていることも予想していたし、いくらかは既に胃の腑《ふ》にふやけた飽満の気配が生じかかってもいた。それでもどうなるか食べてみたいという渇《かわ》きに似た慾望は押さえかねた。そこで私は煙草《たばこ》を取り出したのだ。実は入隊して以来の禁煙を最初の外出を機会に破るつもりであらかじめ用意してきたのだった。私のからだが日々の訓練に適応を見せてくるに従って煙草が吸いたくなっていた。せっかくやめていたのにと思わないでもなかったが、禁煙にそれほどの重みをかけていたわけでもなく、勢いがついて止《や》められそうもなかったし、何よりも喫煙の仕草を取り戻したかった。「誉」と名づけられた軍隊専用の包装も粗雑な安煙草を、一本抜き出すと私は口にくわえて燐寸《マツチ》をすった。そして最初の一口を深々と吸いこんだのだが、思わず遠くを見やる目つきになっていたようだ。するとどうだろう、口の中に残っていた羊羹の甘味とひびき合って何とも言えぬ快い刺《し》戟《げき》が湧《わ》いてきたのだ。こんなにうまい煙草をこれまでに吸ったことがあるだろうか。それは実に恍《こう》惚《こつ》! とでも言いたい状態で、総《すべ》てを忘却して浸ることができた。私は立てつづけに三、四本は吸ったろう。その恍惚を逃がしたくなかったからだ。しかし最初の一本ほどの忘我のうまさは二度とやってはこなかった。三、四本目あたりでは、久しく吸わなかったあとだけに目まいが起こって軽い嘔《は》き気さえ催してきた。だからキャラメルなどをなめて何かをごまかすよりほかはなかった。そしてなぜか羊羹を口にする前の期待に満ちた飢えた胃の状態がなつかしまれたのである。あとはそれほどゆっくりもしていられない残りの休憩時間さえもて余し、何をして過ごしていいかわからなくなっていた。備えつけの碁盤や将棋盤を持ち出してその遊びに取りかかる者も居たが。このようにして最初の制限外出はあっけなく終わったが、あの一本の煙草の味は忘れることができなかった。そのことを思い出すだけで過去の恍惚の一瞬を容易に呼びもどすことができたのだった。  翌日からは寒波が襲って来た。そしてその次の日には学生全員が五日間の陸戦野外演習に出発したのである。珍らしく空模様が崩れかかっていた。気候は三、四日ほどの周期で寒暖の交替をくりかえしつつ、徐々に厳寒に向かっていたのだが、入隊以来連日のように晴天がつづき、陸戦、短艇に追われる日々にとってはむしろ雨でも降って余儀なく舎内の座学に切り換えられるような悪天候になることを願っていたのだった。皮肉なことに、座学への切り換えの叶《かな》わぬ野外演習が実施されようという矢先に空が曇ってきた。しかし計画して踏み出した事を中止するのは容易ならぬわざなのだ。だから演習の中止される気配など無く、事態は予定通り進行した。われわれは、事業服にゲートルを巻き、水筒と雑嚢を左右の肩から斜め十字に掛けてさげ、剣帯で腰を締めた恰好に、三《さん》八《ぱち》銃を肩にかついでいた。寒波は少なくとも三日はつづくだろうから、夜が思いやられ下着は着こめるだけ着ることにした。帽子は、普段もかぶっている第一種軍装時と同じつばのある軍帽であることに変わりはないが、上下の事業服が白色だからそれと均《つ》り合いを持たせるためか、夏服の時のように白い覆《おお》いがかけられていて、いつもは見なれたその様子がいかにも季節はずれのようで寒々としていた。  営門を出ると同時にわれわれの分隊は警戒行軍という戦闘体勢がとられた。交戦するために敵に接近して行く過程なのだ。物見遊《ゆ》山《さん》ではないから当然の措置ではあるが、充分な防寒具で身を包んでいるわけでもない恰好で寒気の野外にほうり出され、いきなり敵を予想した対応姿勢に駆り立てられると、いずれ似たような状態のつづく五日間もの前途が思いやられるようであった。それはおそらく退屈極まりない日々のようにしか想像がはたらかなかった。しかしこの状況は今はたとえ仮想の演習のこととしても、やがてそれほど遠くもない将来に避けることのできない現前となってわれわれに立ち向かってくるにちがいはなかった。ところであとのことになるのだが、五日間の演習は大学生の時に受けた軍事教練とどれほどもちがうものでは無かった。初めの日に、あとの五日もの先行きを思いやって怖《おじ》気《け》を振るったものの、実際には終始緊張がつづきっ放しであったわけでもなく、息抜きのできる時間も適当にあって、結局訓練そのものは大学の軍事教練を段違いに上《うわ》廻《まわ》るものではなかった。しかし大学生の私にはその場面が現実と重なるかも知れぬという想念は起きず、単位を取るための束《つか》の間《ま》の辛棒に過ぎなかった。しかし予備学生となった今は辛棒というだけではすまされない強迫が生じている。この演習の状況はやがて実際の戦闘と重なるはずなのに、やっていることは、三八銃を一梃《ちよう》ずつ持たされての戦争ごっことしか思えず、あいだに横たわる深い溝《みぞ》の向こうの修《しゆ》羅《ら》場《ば》を想像する力が湧いてこない危機感に襲われたのであった。それと寒さに対する処理の仕方がまるで違っている。大学教練は殊更寒冷のさ中で行なわれたことはなかったし、たとえあったとしても暖房に考慮が払われた宿舎が選ばれたにちがいあるまい。しかし予備学生の演習にはいつも実戦の横顔がちらついていた。寒さを防ぐために当座の間に合わせの工夫は払われていたが、それに耐えられるかどうかは各自の体力次第という切迫した面があった。多分実戦では半ばを僥《ぎよう》倖《こう》に恃《たの》むより以上に十全の準備などできるはずは無いという事実の予習も含まれていたのだ。この演習はつまりは寒さとの戦いといってもよかった。  旅順の町の中心街を過ぎたあたりで私は二、三名と共に尖《せん》兵《ぺい》に選び出された。移動する分隊の前方に出て進むのだからかなり急がなければならぬ。小走りに駈《か》けて行くうちに息切れがしてきた。おまけに小《こ》雨《さめ》も降りはじめた。行く手に先廻ってどんな状況が設けられているかはわからなかった。一千名余の予備学生全員が同じ行動をとらされているのか、或《ある》いは一部は先行して仮想敵としての行動に出ることになっているのかも私にはわかってはいない。ただ陸戦の常識に従って尖兵の役割の適切な反応を期待されているだけである。中心街には主に日本人が住みついていたが町はずれからは当時満人と呼ばれた中国人たちの住ま居が多くなった。土《ど》塀《べい》に囲まれた家々の路地のあいだに青衣を着た少女の逃げるような後ろ姿を目にすることもあった。少女だけでなくそのあたりで見かける人々の大方は甚《はなはだ》しく無表情に見えた。するとどうしても自分が東洋史専攻の大学生であったことを思い出さないわけには行かなかった。まだ一箇月余りしか経《た》っていないのに、もう遠い昔を回想するほどの頼りなさであった。それらのことは総てが無《む》駄《だ》事《ごと》のように思えた。私の前方に待ち構えているのは、一個の下級将校としてどれほど効果的な前線の一小戦闘を戦うかということだけだ。そのような戦闘の重なりのあとでなお生き残り得るかどうかはそれはもう予測のつく事《こと》柄《がら》ではない。走りながら満人たちやその村のたたずまいを横目に見て、ふとこみあげてくる感情があった。村のたたずまいが私の心を強く惹《ひ》いたのだ。本当は私はこの人たちのあいだにはいりたがっていたのだ。もともと私の体力では軍隊生活に耐え得るとは考えられなかった。私は卒業論文に元朝下の西域人の一部族であるウイグル人の活動について書いた。なぜかモンゴルとかトルキスタンに興味があった。だからできることならそれらの地方にもぐりこみたいなどという夢想を抱いていた。もし軍隊にはいるようなことにならなかったならば。在学中の或る一夏を満《まん》洲《しゆう》の旅にあてたことがあって、その時に見たその地方での日本人たちの行動流儀は好きになれなかった。だから自分はちがったやり方でもっと奥地にはいりたいと思ったのかも知れなかった。しかし今私は満人たちの目には刺戟的な恰《かつ》好《こう》を隠すすべもないままに軍事訓練のために彼らの村を通り抜けているのであった。私は自分の立場が浮き上がって感じられた。このような演習を何の不安も抱かずに行ない得ていることが不思議であった。しかも今もし村の人々から不意の襲撃を受けたら私にそれを受けとめて防《ぼう》禦《ぎよ》するどんな方策が立つだろうなどと考えていたのだ。それは土城子周辺の小村の土塀に囲まれた村道の通りすがりにふと頭をかすめた幻想であったが、その危うさは実戦の状況がすぐそばに横たわっている戦《せん》慄《りつ》を味わわされることになった。そのようにして戦争の中心に吸い寄せられて行くのかも知れなかった。  仮想敵にぶつかることも無く私の尖兵の役目は交替させられた。しかし雨足は次第に繁《しげ》くなって遂《つい》に初日の演習は中止、と言い渡された。いつの間にかトラックが廻されてきて、われわれは高《コー》粱《リヤン》畑の中の天井の高い幾《いく》棟《むね》かの倉庫風の建物に運ばれていた。それが演習中の仮宿舎であった。収穫期の高粱の貯蔵場ででもあったろうか、内部には何の調度も無くがらんとだだっ広いだけであった。勿《もち》論《ろん》暖房などあるはずも無く、直接外気にさらされないだけが取り得の寒々とした空《あき》倉庫であった。もっとも外の雨に濡《ぬ》れずにすんだだけでもありがたいとしなければならなかった。コンクリートの床に粒の大きなバラストが敷きつめられたその上に、枯れた高粱殻《がら》が置かれていた。それによってコンクリートからの冷えを防ごうとしたのだろう。しかしこの枯殻の上にどのように寝るのかと不審に思っていると、程なく各自の吊《つ》り床《どこ》が運び込まれたのだ。班別にかたまって殆《ほと》んどくっつくように並べられたが、早く解き広げて中の毛布にくるまりたいと思っていた。学生舎の居住区の中はいかにも殺風景ではあったにしても、あの瀟《しよう》洒《しや》な白《はく》堊《あ》の建物がなつかしく思われてならなかった。夜の寒気をどのように耐えられるかは見当もつかなかった。もっともこのような宿舎でさえ演習故《ゆえ》に準備することができたので、私の脳《のう》裡《り》に貼《は》りついている実戦のさ中での予想し得る限りの苛《か》烈《れつ》な情景にくらべれば贅《ぜい》沢《たく》過ぎるといわなければならなかった。からだの暖まりが期待できないとなると、われわれの慾望は食べ物に向かって行くほかはない。訓練は途中で中止されたが小雨の中を走り歩いたあとだから食慾は熾《し》烈《れつ》であった。殺される前と覚しき豚のきいきいと鳴き立てる声がにわか仕立ての烹《ほう》炊《すい》所《じよ》のあたりから聞こえてきて、学生たちは夕食にはきっと豚肉が出るにちがいないと隠さずに喜色をあらわしていた。もしそれがその通りであれば寒さを吹き飛ばすこともできそうに思えてきたのだ。それに羊羹の酒保が出ればもう言うことのない満足が得られよう。飽食というわけには行かなかったがそれらは大方叶《かな》えられた。手答えのある肉のかたまりのはいった豚《ぶた》汁《じる》も与えられた。するとわれわれはもう教官たちが親身に学生を思ってくれていると安心してしまえた。しかし寒気はじりじり迫ってきて、倉庫の中では動き廻るわけにも行かないからからだのしんまで冷え切った。午前中の小雨で濡れた乾ききらぬ事業服が体温を吸収し、温まるものとて無いのだから、手先も足先もちぢかみ荒《すさ》んだ気分に覆われてしまう。とそこへ分隊監事付の教官たちが、合い間を見てやってきては天突き体操をさせ或いは軍歌を歌わせたりするのだったが、それだけで寒さが幾分はうすらいで感じられ、学生の気分もなごむのが不思議であった。又そうして学生のそばにやって来る教官を見ると確かに気持が慰められたのだ。彼らは第一期の予備学生出身者で中には前線から帰って来たばかりの者も居たのだから、その体験が生かされているふしも見てとれた。次々にからだを動かす作業を何か与えていないと列《れつ》伍《ご》のあいだに荒廃がしのびこむのが防げなかった。しかし何といっても高粱殻の上に横たえ置いた吊り床を広げ、その中の毛布にすっぽりとくるまって眠りに就く楽しみにまさるものはなかった。たとえあたりはひしと寒気に取り巻かれているとはいえ、吊り床の中に身を包むと、自分だけの繭《まゆ》の中にはいったようで、昼間の疲れも手伝い、周囲から遮《しや》断《だん》されて意識の苦痛を免《まぬが》れた世界に赴くことができたからである。もっとも割り当てられた不寝番を勤めるために真夜中の一時間ばかりのあいだは眠りがさまたげられたのではあるが。  次の日からは、晴天とはいえなかったがとにかく雨ははれあがった。日中といわず夜といわず演習はつづけられた。各分隊がそれぞれ攻守を交替して或いは攻撃のがわに廻り転じて陣地の防備に就いた。又遭遇戦も展開され、私は畑の中に散開しながら来たるべき実戦の凄《すさ》まじい状況を思う感慨にふけった。もっともいよいよ実戦に直面したところであたりの自然はどんな変《へん》貌《ぼう》も示さないにちがいなかった。草が萌《も》え花は咲き、風も吹き白い雪とてつもるはずだ。空には雲が悠《ゆう》々《ゆう》と去来して何一つ変わらぬ運行が示される中で、戦うにんげんのあいだに突如として死が訪れてくるのである。夜戦の中で敵襲を待つあいだの寒さはなかなかのものであったが、馴《な》れの中で工夫することもあって最初の日のようなつらさは感じられなくなっていた。そのあいだ、われわれが教官から頬を殴られる修正を再度ならず受けたことは言うまでもない。いくら士官に准《じゆん》ずる待遇を受けていたとはいえ、われわれの能力は新兵と変わりがなかった。遭遇戦の際にのこのこ歩いていた者があるといっては修正され、叉《さじ》銃《ゆう》を崩して修正を受け、休憩時に銃口に頬《ほお》杖《づえ》をついたとて殴られていた。しかし野外を飛び廻る爽《そう》快《かい》さは充分に味わえたのだ。私は又大学教練の際の風景が重なってくるのが振り払えなかった。箱《はこ》崎《ざき》松原地先の埋め立て地で匍《ほ》匐《ふく》前進をしている耳に雲雀《ひばり》の啼《な》き声が聞こえていたっけ。茎の短い雑草が一面に生えていてつい目の先に避《ひ》姙《にん》具《ぐ》の包まれた汚れた懐紙が落ちていた。鉄道に沿った松並み木の道を駈け足した時には仲の良かった学生が肩にかついだ銃が躍って鎖骨を痛めたこともあった。それらははかない遠い思い出ともいえるが、過去が重なり合って見分けがつかなくなるようでもあった。四日目のことだが、演習のあいまを利用して日露戦争にかかわる記念館だという小さな民家跡を見た時も、それほど遠い過去のこととは思えぬ気がしたのだった。つい先《さき》頃《ごろ》のことのようにさえ思えたし、又もしかしたら来たるべき状況の先取りとも受け取れた。そんなあやふやな気持で私はどちらかといえば無感動でさえあった。あれは何という場所だったのだろう。乃《の》木《ぎ》将軍がどうとかした所だなどと聞いたようにも思う。狭い家の中いっぱいにごたごたした品物が並べてあった。もしかしたらロシヤ軍のステッセル将軍と会見した場所だったのだろうか。庭の片《かた》隅《すみ》に棗《なつめ》の古木などがあったのではなかったか。それらを一通りは見たのだけれど私はその場にただ目を向けていたに過ぎなかった。むしろその家の番人だという歳《とし》とった満人の夫婦の方に私の関心は向いていたのだ。それよりも演習の最終日に見学した営《えい》城《じよ》子《うし》の壁画古墳により一層強い印象を受けたのはどういうことであったか。それは過去といっても手がかりのつきようもない程古い大昔のことなのに、ひどくなまなましい近接を感じさせられた。その日まだ夜も明けきらずにあたりが闇《やみ》に包まれている時刻に緊急呼集のラッパでわれわれは叩《たた》き起こされていた。早急に朝食をすませると、宿舎の後始末をし、次いで出発。最初から駈け足のラッパが鳴り、そのまま四里ばかりを駈けつづけた。追撃戦の演習ということであった。一《いつ》旦《たん》休憩して早目の昼食をとり、又駈けた。ふらふらになったがいささか勢いがついていた。仲間の中で年齢を取り過ぎていることにこだわっていたにしても、まだ二十代の半ばを過ぎたばかりの私のからだにはそれだけの弾みが含まれていた。入隊当初の深い疲労感はいつのまにか剥《は》がれていることにも気づいていたし、休み無しに二時間も誘導振を振りつづけることのできた経験も恃《たの》みとなっていた。或る境界さえ越せば馴れの力がはたらきだして感受はにぶってくるものか。だから落伍もせずに営城子に着けた。一つの困難を克服するとそこには寛容の気分がただよってくることもわかった。そのただよいの中で壁画古墳を見たのだ。丸く盛り土のされた塚《つか》があってその地下に降りて行ったのだったか。四囲の壁に描かれた絵があざやかに目に映った。図《ず》柄《がら》の記憶は無くなっているが意外に近代風な感触のあったことは覚えている。それらは私の生活とは全くかかわりのないものなのに甚だ親密な気分を誘い出していたのだ。そしてふと私はその時享《きよう》受《じゆ》していた自分の境遇が呪《のろ》わしくなったのだ。それは故《ゆえ》知《し》らぬ悔いのようなものでもあった。塚の外の広場では、大学の時に考古学を専攻したという学生が名《な》指《ざし》され、その古墳についての解説を加えていた。実にそれは緻《ち》密《みつ》な説明であった。術語や年数なども淀《よど》みなく挙げ、まるでその解説のために準備してやってきたどこか考古学研究所の所員とでもいった調子であった。小銃をかつぎ演習を行ないながら六里の道を駈け通しで来た痕《こん》跡《せき》がまるで見えなかった。われわれは一箇月前までの生活とはまるきり変わった環境の中に投入され、それに馴《な》染《じ》むための葛《かつ》藤《とう》の最中であったから、大学の時の専攻の事柄などいきなり聞かれても思い出すこともできないにちがいなかった。そういう物はみんなどこか暗い闇に吸い込まれてしまっていた。それなのに彼はまるで今大学から出て来たばかりのような顔付でしゃべっていたのだ。大方の者は興味が無くてざわついているにも拘《かかわ》らず、単位を取るために仕方なく出席している聴講生にでも講義する調子で淡々と話していた。中《ちゆう》背《ぜい》の痩《や》せたからだつきに頭の鉢《はち》が目立って開いた広い額の下にさがり眉《まゆ》と金《かな》壺《つぼ》眼《まなこ》がついていて顎《あご》は左右に張っていた。彼のような人がどうして予備学生の中にまざっていたのだろうと、私は改めて驚く気持であった。というよりは、一千名の中にはどんな風変わりな学生が居るかも知れないことに思い及ばなかった迂《う》闊《かつ》さにわれながらあきれていたと言おうか。私は独りぎめに自分は周囲に融《と》け込めないなどと思ってきたことがおかしくなっていた。いろいろな人が居るものだな。彼とは対《たい》蹠《せき》的といえるかも知れないが、演習の最中に満人の子供から生芋やりんごを買い取ったという学生の話を聞いた時もその奇妙な大胆さに私は驚いていたのだった。もっともその場合は温習室でキャラメルを頬張ることとつながる要素があってそれは私も為《な》し得る世界に属するようでもあったが。私は改めて自分の周囲の、不恰好に着ぶくれて見境いのつかぬような予備学生の一人一人をまじまじと見直す気持になっていた。  さて帰途は満洲鉄道の営城子駅から終点の旅順まで列車で運ばれることになった。往路の辛苦にくらべると別世界のようであった。車内はスチームによる暖房もきき、まるで極楽であった。忽《たちま》ちにして娑《しや》婆《ば》の世界に逆流して行くようで、なまじいに与えられた緩和を恨む気持になったのがおかしかった。隊内では外の一般の世界を娑婆と称していたのだが。このようにして野外陸戦演習は終わったものの、あとにどのような訓練が待ち構えているかも私にはわからなかったし、訓練の先に暗い大きな口を開けている戦争の内部も知る由《よし》は無かった。  演習から帰ってからは舎内での座学の課業がぐっと殖えた。海軍生活の万般にわたる知識を主に講義によって教えられたのだ。航海兵器、地文航学、行船、艦砲、潜水艦などという如《い》何《か》にも海軍臭の強いものから、測的、見張、通信、暗号術、軍事学に及ぶ一般兵学に関するものや、軍制、諸法規、分隊士勤務等では関係法規の説明や下士官兵の履歴書の作成、叙勲算定法が含まれ、それに運用術、結索などと隊内生活での必要な手仕事の段取りに至るまで、応接にいとまも無い程に多種類の授業が次々に課せられてきたのであった。そのそれぞれに教科書が与えられたから、ノートとそれを合わせると衣類や日用品も納めなければならぬチェストは一杯になった。そしてどの科目も講義が完了すると一々考査が行なわれ、そのあとで教科書とノートは返納が要求されて私物とすることは許されなかった。教えられた知識は記憶の中に刻みこめということなのだが、うまく行くとはとても思えなかった。これはわれわれの基礎教育がいよいよ急がれていることを示しているにちがいなかった。しかし講義と考査には馴れていたし、何よりも短艇や陸戦にくらべ、教室で受ける課業は格段に楽であった。気候は本格的寒の季節にはいり、舎外に出ると氷上に立つほどの冷気を感ずるようになっていたが、舎内にはスチームが通され、時には調節の加減か温度が上がり過ぎてむんむんした熱気のために汗ばむことさえ起こり、外の厳寒が信じられぬくらいであった。日曜毎《ごと》の自由外出も許可となり、飲食店や料理屋、旅館に出入りすることこそ禁じられたものの、果樹園を訪ねて満腹して動けなくなる程にりんごを食べて戻《もど》ることも覚えた。そのせいか学生たちには贅《ぜい》肉《にく》がつきはじめたようであった。私も何だか醜く太ってきていた。毎日が陸戦、短艇の重なったひと頃のことを考えるとまるで嘘《うそ》のよう。それでなくても馴れが浸透して適当に要領を覚えたわれわれには、一刻も早く基礎訓練の終了が告げられて日本に帰国できることだけが関心の的となった。年内に帰国して正月を各自の家に帰って過ごすことになるかも知れぬという噂《うわさ》が立って騒然となったこともあった。  もっとも舎外での訓練がまるきり無くなったわけではなかった。十分ほどの短い時間ではあったが朝毎に課業始め前には定時点検があって、その際の営庭整列はつづけられていたし、夜の温習の休憩時には外に出て各自がそれぞれ出せるだけの大声を張り挙げて号令の練習を繰り返すことが義務づけられていた。実弾射撃の訓練のためには、町はずれの山かげの谷間にある射撃場まで出かけなければならなかったし、海上の訓練も無くなったわけではない。撓《とう》漕《そう》は終わっていたが帆走による短艇訓練もあったし、機動艇の桟《さん》橋《ばし》への達着訓練もこの時期に行なわれた。しかしそれにしても、まるごとからだを動かしての、あの初発の鍛え直しに似た訓練とはどこかちがってきていた。  実弾射撃は小銃と拳《けん》銃《じゆう》について二日にわたって実施されたのだが、その両日とも悪い天候になやまされることになった。風が吹き粉雪が舞っていたのだ。その訓練中に各自がしなければならぬことといえば、自分の番に廻《まわ》ってきた時のしばらくのあいだを標的に向かって実弾を撃ち放つだけなのだ。そのほかは標的場の壕《ごう》にはいって標的板を回転させたり命中の度合を確かめる仕事もあったが、大方は山かげに吹雪を避けるように寄り集まって、分隊全員が射撃し終わるまでの長い時間を待つだけであった。あれは全くつらかった。はじめのうちは仲間同士で小声で雑談などしていたが、あとはしゃべることが物《もの》憂《う》くなってしまった。みんな顔色も青《あお》褪《ざ》め唇《くちびる》を紫色にして不《ふ》機《き》嫌《げん》そうにだまりこくり、ただ時の経《た》つのを待った。引き金を引く時の音が間を置いて聞こえているだけで、あとはまるで防音された部分に居るような耳を圧《お》さえつけてくる静寂があり、こまかい雪が飛び交う中に周囲の山の景色や裸木が灰色にけむって見えていた。なぜともなく私の目の底には雪中の決闘の現場のイメージがちらつくようであった。手も足も耳もこめかみも凍りついたようで寒いのかどうかの感覚は失っていた。私が頼りにしていたのは、誰《だれ》だったか教官の一人に教えられた、青年士官はどんな逆境にもしれっとしておれ、という心得の言葉であった。しれっとするというのは動じないで平気な様子を保っていることを指すと思われた。しれっとしているように装うことで私はやっと何かを支えている気持になってきたのだ。帰途は分隊監事から早駈けの号令がかかった。早駈けは根限り走ることだ。文字通り早駈けで走った。最初凍え切った骨や肉がばらばらになりそうに思えたほどにぎくしゃくした走り方しかできなかったのに、次第に温《ぬく》もりが生じてきてからだは柔軟になった。途中の雨水でえぐれた谷道などよく引っくり返らなかったものだ。かなりの道のりをすっとぶように営庭にたどりついた時は衣服の下の肌《はだ》が汗ばんでさえいて、又もや奇妙に弾んだ爽快な体感が味わえたのだった。  その時期に休業や軽業の患者が殖えたのは軍隊生活の馴れや訓練のゆるみと関係があったのだろうか。或《ある》いはもっと別な原因も作用したのか。ジフテリアが蔓《まん》延《えん》し学生三名が死んでいた。休業は床に就いて一切の課業を休むことを言い、舎外などでからだを動かす課業には出なくてもいいが座学は受けなければならぬ患者の方は軽業と称し、いずれもその由《よし》をしるした木札を与えられた。軽業患者のことをふざけてかるわざなどと呼んで、いくらかからかいの気分を含めたが、私もやがてその軽業患者の仲間入りをすることになった。しかし明らかに軽業札をさげるようになる前に、その兆候は眼華の再発となってあらわれていた。眼華という言葉があるのかどうかはあやふやだけれど、何かの書物を読んでいてその言葉を見つけたのだ。それは突如として視界の中に欠落が生じ、物のかたちが欠けて見える状態を言うのだ。その時目の周辺には隈《くま》どるような花弁に似たちらつきがあらわれ、ちかちか光りながら廻りはじめる。花弁というよりは歯車といった方が当たっているかも知れない。完全な輪が結ばれているのではなく、どこかが欠け、はじめは小さく鮮明なのが次第にその輪を大きく広げぼやけてきて、やがて後頭部にしりぞく感じになって消えてしまう。入隊前はしばしばその症状に襲われて悩まされたが、自分の持病のようなものだと思っていた。それが旅順に来てからはぴたりと発現が止まったのですっかり忘れていたのに、隊の生活にも訓練にも馴れてくると又しても眼華が発現しはじめたのだ。これがもしも戦闘中の重要な瞬間にあらわれたら、兵器の操作がつづけられるだろうかなどといささか気がかりになってきたのだった。ひょっとするとひとりだけ課業を抜け出てみたいという誘惑に勝てなかっただけかもわからないのだが。しかしたとえ座学であっても授業を休むことは爾《じ》後《ご》の致命傷となって災いを残すのではないかという心配があった。それは杞《き》憂《ゆう》とばかりもいえず、基礎教育の期間が極度に短縮されていたことはその内容が甚《はなは》だ緊密に固められている状態を意味していたのだから。そのどこか一部分を欠くとあとがわからなくなる恐れは充分にあった。しかもそれらの知識と体験は先々に生命の危険にかかわってくるものであった。それでも私は受診の誘いがしりぞけられなかった。遂《つい》に心を決めてその手続きをとった。予想にたがわず診察室は別天地であった。同じ隊内にそのような区画があることが信じられない程であった。否《いな》そこがいつもそうであったのではなく、たまたま私の受診の場合がそのようにあらわれたに過ぎなかったろう。その時の受診者は私一人だけでもあったし。あとで軽業の原因となった左足首の擦過傷を診察してもらった時はもうほかのどの場所とも変わらぬ隊内の一部分でしかなかったから。診察室には軍医長が一人だけ居てほかに衛生兵も誰も見かけなかった。しかも軍服ではなく白い診察衣を着ていたからまるで一般の総合病院で受診しているような錯覚を覚えた。彼は年配の軍医少佐だったが、私の申し立てを丁寧に聴きとり、数々のテストを試みてくれたのであった。態度があまり慎重なので或いは私が重大な疾患を抱えていることが判明し、訓練に耐えることはできないという理由で予備学生が解除されるのではないかなどとあらぬ考えが浮かんできた程であった。結局は病的なものではないと診断されて終わったのであるが。  左足のくるぶしに擦過傷をこしらえたのは柔道の寝技を取っていてのことであった。夕食前の別課の時間に、それまでは体操や軍歌、銃剣術それに手旗訓練などに当てられていたのが、新しく柔道と剣道が加えられた最初の日のことであった。中学の時に正課で練習していた剣道を選んでいれば無難だったかも知れないのに、たまたま高商にはいってから柔道の初段をもらっていたことがあって、気持のゆらぎが生じた結果であった。しかし私の初段は変則のもので、おそくからはじめた試合柔道のために立ち技の基礎は全く無かったから、入隊の際も特技としての武技の欄にはそのことを伏せていた。それをひそかな自負がつい別課に柔道を選ばせた。さて実際に乱取りがはじまると寝技などしている組は殆《ほと》んど見かけられなかった。それでも私は立ち技をつづけるわけには行かず相手を強引に寝技に引き込んだところ、その時に左足のくるぶしを強く畳にこすりつけてしまったのだ。といってもほんの擦り傷、すぐに固まってしまうと気《き》易《やす》く考えていた。ところがそれが一向に治《ち》癒《ゆ》しなかったのだ。そればかりか次第にただれがひどくなって傷口も広がりはじめた。そして二○三高地へ見学行軍が実施された際に全く駄《だ》目《め》にしてしまった。あれは十二月の半ばに近い日曜日であった。自由外出は午後に延ばされて午前中が行軍に当てられた。毎日が摂氏の零下もかなり下廻る寒冷がつづいていたが、その日は突然に空気がゆるみむしろ暖かささえ感じられた。第一種軍装にゲートルを巻いた恰《かつ》好《こう》だったから、傷口を締めつけることになり、いくらか気がかりではあったが歩き出すと傷をこすりつけて膿《うみ》をしぼり出す感じになり、痛みはそれ程も無かった。歩くと暑いくらいの陽気で、二○三高地の頂上部が望める真下まで来た時、そこからてっぺんに向かい突撃することになったのだ。高さも距離もたいしたことはないと思えた。で、とにかくまばらな灌《かん》木《ぼく》を縫ってひた押しに登った。いくら低い山でも走り登るとなると息が切れた。乃《の》木《ぎ》軍の苦戦が実感されるようであった。ところで帰隊してから私の左足は動かせなくなったのである。受診の結果軽業が言い渡された。課業は座学と考査がつづいていたからそれ程の支障は無かった。市中の岡《おか》へ駈《か》け足の訓練や競技などもあったが、それら舎外での訓練や行事にはすべて参加することはなかった。年末が近づいていたのに基礎教育が年内に終了する気配は遂に無く、大《おお》晦日《みそか》に立ち至って部長から教育終了は年の明けた一月二十五日に決定したことが伝えられたのである。  正月三が日には引きつづいての自由外出が許可されたが、軽業患者は当然のことに宿舎に残っていた。それでも祝日だというので第一種軍装を着てはいたが。何もすることがなく、煙草《たばこ》を吸ったり残留者同士で雑談をしてまずまずのんびりした三が日が送れたといってよかった。ただ二日の日に起こったちょっとしたにがい事件を除いては。昼食を過ぎて間もない頃《ころ》であったが、同じ分隊の軽業患者の一人がどこで聞いたのか烹《ほう》炊《すい》所《じよ》で食事の余分があるから希望者は受け取りに来てほしいと言っているという情報を持ってきた。みんなで相談してもらいに行くことになった。私はそれほど関心はなかったのにみんなと行動を共にすることにした。分隊の中には十人ばかりの軽業患者が居た。大方の学生は外出して居ないのだから作り過ぎた分を残留者に増配したのだろうという程度のことに思い、もらってきてみんなで分けて食べた。ところが外出した学生たちの帰隊点検のあとで、ほかの分隊の分隊監事付からわれわれの分隊の残留者が烹炊所に残飯をもらいに行ったことが指摘され、厳しく注意を促されたのだという。われわれは呼び出されて修正を受けるには至らなかったかわりに、分隊員たちが分隊の恥辱とばかりに激《げつ》昂《こう》して、残留者は分隊の居住区に整列させられ、自己反省を迫られることになった。つまり非を悔いて分隊全員へ謝罪をしろというのだ。私は厄《やつ》介《かい》なことになったなと思った。あの場合の行為がこのように発展したことが納得できないだけでなく、そのことを主張する根拠が微妙で理解されにくいのではないかと思えたからだ。私にはあれは残飯をもらいに行ったのとはちょっとちがうように考えられたのだ。残留者たちは一人一人自分の行為を悔い、分隊の名をけがしたことを謝罪した。私の番が来た。口が重くてしばらく黙っていた。「どうした」とか「恥を知れ」「早く謝罪しろ」などという言葉が耳にはいった。「あれは残飯をもらいに行ったのではない」、私がそう言うと、「弁解するな」「盗《ぬす》人《つと》たけだけしい」「貴様は謝罪せんつもりか」などという非難の言葉が返ってきた。同じ班の例の学生のさげすんだ目が見えた。彼も何か言葉を投げつけていた。私はあせっていた。ようやく、「分隊に迷惑をかけて申しわけない」と言ってしまったのだ。なお「それだけか」とか「横着だ」などという言葉を聞きながら重ねて「申しわけない」とぼそぼそつぶやいて頭を下げたのだった。私は自分の考えを貫き通せなかったことにがっかりしていた。いつかもこんな場面があったっけ。  その後に残された一月の日々はあわただしく過ぎ去ったと言うべきだろう。座学は大方終了していたし、すんでいない考査も急いで実施された。寒《かん》稽《げい》古《こ》がはじまって月の半ば過ぎまでつづき、兎《うさ》狩《ぎが》りや大連市の見学旅行もあったが、私の軽業札はなお除かれなかったから参加することもなくて終わった。基礎教育を終了したあとの術科学校についての希望書を提出させられ、私は暗号に一般通信それに魚雷艇の三つを記入して出した。外部の知名の人が何人か来て講演が重なり、分隊毎のクラス会も催された。そしてあとは教育部退隊の確定した日取りを待つだけのわれわれになっていた。 第三章 踵《かかと》の腫《は》れ  同じ予備学生としての訓練ながら、横《よこ》須《す》賀《か》田浦にあった海軍水雷学校での三箇月は、旅順での四箇月とは大分趣が変わっていた。つまり基礎教育と事替わって、いわば術科の専門教育に移っていたからだ。  旅順での教育の終わりの頃《ころ》、そのあとに進む術科学校の希望を呈出させられた際、私は暗号と一般通信(どちらも海軍通信学校に行くことになるが)、それに魚雷艇の三つを記入して出した。結果として私は魚雷艇に廻《まわ》された。三千五百人程の第三期全予備学生の中から割り振られた三百人の仲間と共に、その訓練場所である水雷学校にはいったのは昭和十九年二月六日のことだ。そして翌々日の始業式には第一期魚雷艇学生と名づけられることが決まった。その半数は旅順で基礎訓練を受けた者だが、あとの半数は横須賀第二海兵団にあった予備学生教育部から廻って来た。たった四箇月の短期間だったのに分隊編成の仕組みも双方でいくらかは異なり、所《しよ》轄《かつ》長《ちよう》の教育方針や環境の違いもあって、両者の学生には気分上の隔たりがあったかもわからない。私は余りそうしたことには気づかなかったけれど。それに入校当初に四十名程がほかの術科学校に廻されたことも知らなかった。もっとも当事者の学生を友人に持ってでもいなければ、入校したばかりの不案内でそれに気づく余裕はなかった。彼らは魚雷艇の訓練に不向きと看《み》做《な》されたからだが、たぶん視力などが弱かったのではなかろうか。私が志望の三番目に魚雷艇の名を書きながら内心では余り望んでもいなかったのは、そこが一番海軍らしい潮気がある代わりに最も危険な配置だと言われていたからである。私はもともと戦闘には不向きと考えていたし、手荒な場所ではとても勤まりそうに思えなかった。しかし蓋《ふた》をあけてみると水雷学校行きに決まっていた。なぜそうなったか合点できぬ気持もあった。仲間を見るとみんな背も高く見たぶんでからだの頑《がん》丈《じよう》な連中が多かった。大学時代に柔剣道で勇名を馳《は》せた者も何人か居た。果たしてその中にまざってやって行けるかどうか。何だか鷲《わし》の中にまぎれこんだ鳩《はと》の気分にさえなった。水校行きには無法者が廻されたなどという噂《うわさ》も聞こえていたのだ。海軍部内の事情はどれ程も知らなかったが、それにしても、魚雷艇という名は聞いたこともなかった。何でも日本海軍がアメリカのトーピードー・ボートと称する小舟艇の魚雷襲撃に悩まされたあげく、対抗上必要に迫られ、同種のものを急《きゆう》遽《きよ》建造することになってできあがった艦艇だということであった。そのために艇長の養成が急がれてわれわれが当てられた次第なのであろう。事のはじまりを意味する第一期と冠されたその名称が、その間の事情を明らかに示していると言えた。戦訓の無いたよりなさもあったが、草創の一員だという誇りに似た気分が湧《わ》いていたことも確かだ。いきなりの海軍生活で万事戸惑うことばかりという状況の中で、われわれが脅《おびや》かされたものの第一は、何といっても伝統を背負った習熟の目つきであった。それが魚雷艇に関しては白紙の状態なのである。教官も学生も最初の試みの前に立たされているはずであった。みんなおしなべてしろうとだと思えることには肩の荷がおりたような軽さがあった。しかも乗組員がたった六、七人というではないか。あの多人数の集団から立ちのぼる熱気はおそらく感じないですますことができるだろうと思えたのだ。  私のからだにも馴《な》れが出ていた。平常衣の事業服もちんちくりんな感じのままにとにかくからだについてきた。第一種軍装を着てももう胸前のホックが不用意にはずれることもなくなった。旅順を出て横須賀に辿《たど》りつくまでの、朝鮮半島を南下し、玄《げん》界《かい》灘《なだ》を越え、又博多から、鹿《か》児《ご》島《しま》本線や山陽本線、東海道本線を乗りついでの一週間にもわたる長い旅のあいだに娑《しや》婆《ば》の風を受け、学生舎の内だけの熱い鍛えの上に外の冷却が与えられてようやく軍人としての外見作りもできあがった感じが持てた。中でも玄界灘渡海の折りの体験は、海軍軍人の装いに一層磨《みが》きがかけられたと思えた。私は最《も》早《はや》単なる船客ではなかった。日本がわの制海権は崩れていたから、いつアメリカの潜水艦に攻撃されるかわからぬ状況下にあって、予備学生も臨戦体制の戦闘員と変わりはなかった。はじめはそのことが納得できず、たよりない感覚に揺れていたが、最上甲《かん》板《ぱん》の見張りに立たせられるに及んで、逃れられぬ現実に直面している事実を悟らぬわけには行かず、是が非でも潜水艦の潜望鏡や魚雷の雷跡を未然に発見しなければ叶《かな》わぬことであった。私は真夜中の当直に当たり、小《こ》雨《さめ》まじりの強い風にさらされた輸送船の荒れたがぶりをもろに受けた。外《がい》套《とう》をまとった身に帽子の顎《あご》紐《ひも》をしっかりかけ、深夜の荒い海の面を双眼鏡の目をこらして見つめていると、波頭は様々な物体に変幻して見えていた。いつ襲撃を受けて戦闘にはいるかも知れぬ未知の状態にへんな昂《たかぶ》りが湧き、気がつくと恐れていた船酔いにもかかっていないことを知った。戦闘中にもし船酔いに襲われたらというひそかな胸底のわだかまりが消えて、私に一種の自信が湧いてきたようであった。旅順での訓練中はお互いにとげとげしく競い合っていた学生たちは、移動旅行の中で親しみを抱きはじめ、自分に閉じこもりがちの私も、百五十人の水校行きの仲間とは一《いち》蓮《れん》托《たく》生《しよう》の運命を共にしなければならぬ状態を諾《うべな》わなければならぬようであった。そして水雷学校の古びた木造の学生舎にはいった時の私は、玄界灘の揺れや列車の鉄路の響きがなお一つのリズムとなって体内に残っていたが、これから先の次第にしぼられて行く自分の役割の方に、からだを合わせて行く気負いに任せる気持になっていたと言えようか。  訓練は旅順にくらべると、万事が楽であった。からだの固まったせいもあったろう。旅順ではとてもこたえたのは、或《ある》いは生《き》真《ま》面《じ》目《め》過ぎたのかもわからない。なぜそんな立ち向かいようをしたのだったか。いくらかはそれをなつかしみつつも、しかし新しい楽な状態は手放さずに享《きよう》受《じゆ》するつもりになっていた。はじめの二十日ばかりは魚雷艇に乗ることはなかった。座学や、内火艇を指揮しての岸壁達着の訓練がつづき、もう基礎訓練時のような緊張は感じられなかった。座学は魚雷艇の構造やその雷撃法の説明であって、いずれも数学に向かう際の頭脳の働きが要求されたことは、それがまるきり不得手の私に多少の気がかりは残ったが、いずれ何とかなるだろうと思うほかに方法もなかった。  水雷学校で過ごした二月から四月までの三箇月の日々を振り返ると、堪えがたい寒さと右足の踵《かかと》にできた腫《は》れ物にかかわる記憶が圧倒的である。旅順にくらべると横須賀の寒さなど物の数でもないのに、横須賀の方がどうしようもなく寒く感じられたのは、居住区に当てられた木造の学生舎に暖房設備は勿《もち》論《ろん》火《ひ》鉢《ばち》などの火種一つも置かれていなかったからだろう。旅順では各分隊の部屋部屋にスチームが通り、時としては暖か過ぎて汗ばむことさえあった。屋外での訓練でどれほど寒気に噛《か》みつかれても、凝固したからだはあとで学生舎の暖房で心地よく解きほぐせる期待が持てたために安心していられたのだった。野外演習と実弾射撃で体験した酷寒でさえ、それは一時の我慢だと思える拠《よ》り所があった。しかし横須賀ではそれが無かった。明けても暮れても吹きさらしの状態に放置されているかの如《ごと》くであった。もっともいっそきりりとした気分の湧くことも無いではなかったが。最初のふるい落としに残った約二百六十名の学生が、二個分隊に分けられた階上と階下のそれぞれの居住区には、簡素な食卓兼用の伍《ご》毎《ごと》のテーブルと椅《い》子《す》とが与えられていた。その中で定められた座席が各自の唯《ゆい》一《いつ》の居場所であっても、寒さを癒《いや》す方法は、その席で求めることは叶わなかった。日中は何といってもからだを動かすことが多く、又日の光による暖を取ることができたのに、夜になると(大方居住区で自習することが多かったが)、更に寒気がしのび込み、手をすり合わせたり、手のひらでからだをこすったりするほかにはなすすべとてなく、最終的には寝床の中でのぬくもりが待たれたものの、それも充分には報われる状態ではなかった。上下二段にセットされた簡易な寝台がわれわれの寝場所として備えつけられ、吊《つ》り床《どこ》にくらべると上げ下ろしの手数もかからず、いつも敷き放しのまま、ただ不様にならぬ程度にととのえて置くだけでよかったが、人絹蒲《ぶ》団《とん》のためか手ざわりが冷たいだけでなく横にすべり易くてすぐ肩などが空気にさらされ、折角寝ついても寒気にしびれて目が覚めがちであった。それに寝つくまでが又実に容易ではなかった。昼間の疲れから一刻も早い就眠を求めているのに、すっかり冷えきったからだがさまたげになって一向に眠りは訪れてくれなかった。勢い足をちぢめからだ全体をまるくしてぬくみの籠《こも》るのを待つほかはなく、対の学生の身じろぎでベッドがきしみ揺れると一層不《ふ》如《によ》意《い》の気分が増殖されるようであった。あれは多分当時の私の若さがそれらを辛《かろ》うじて堪えさせた結果にちがいない。しんから冷え切ったからだを冷たい蒲団の中で抱えこみ、ふるえながらも毎夜のその繰り返しに習熟すると、それは一つの儀式と化して、適宜の時間の経過さえ終わればぬくもりが生まれ、深い眠りに落ちて行くことができたのであった。  しかし馴れが習得できると新たな妨げが起こってきた。私のからだは既に娑婆の学生時代にくらべると申し分のない弾力性を得、肉もつき体重は殖え、大方の訓練にそれ程の苦痛を感ぜずに参加ができ、落伍もせずに従える状態に到達し得ていたのに、ほんの些《さ》細《さい》な異和のために、思わぬ蹉《さ》跌《てつ》に見舞われることになった。それは右足の踵にできたわずかな腫れ物であった。全くつまらぬ障害と言わねばなるまい。子供の時分から私は皮膚が弱くてでき物が出《で》易《やす》かったけれど、いわば大事に臨んでその体質があらわになろうとは如《い》何《か》にも残念至極であった。旅順での基礎訓練の終わりに、別科の柔道で作った擦過傷がもとで私は軽業患者になり、体験が望まれた行事の幾つかを見送らざるを得なかったが、横須賀の水雷学校に到着した頃には傷跡も大方回復し、それは忘れて新たな訓練を受容する姿勢ができていた。魚雷艇に決まった当座はふとひるみ心が起こったものの、すぐに旺《おう》盛《せい》な好奇心に転換してしまえた。単調な訓練の繰り返しを重ねるよりは新規な困難を望む気持が勝っていたし、軍隊生活には単調ながら外向きの律動があって、私の姿勢にもそれに合わせて挙措を活発に運ぶ傾向が出てきていたのである。青年士官はいつも甲板に出ていろ、寝ていて人を起こしてはいけない、人と約束をするななどという、若い士官の日々の態度として教官の誰《だれ》からとなく折りにふれ聞かされた心得の言葉は、思わぬ心の支えとなって進退を規制し、それを口の中で唱えると、すっきりと背筋が伸びて律動を完成させ得たのであった。で、私はやはりかつての私から脱皮しつつあったのだろうか。魚雷艇が危険配置であれば尚《なお》更《さら》のこと、しろうとの海軍士官としてまず掌握の可能な小舟艇を(全乗組員がたった六、七名なのだから)、自分なりの戦闘方法のもとに自在に駆使して戦訓をこしらえてみようなどという気持が湧きつつあったのである。  ところが或《あ》る日ふと右足の踵のあたりに異和を感じた。歩くとへんに疼《うず》く箇所のあることに気づいたのだ。そのうち消えてしまうかと気にとめずにいたが、やがてはっきりと膿《うみ》を持ってきた。踵の厚い皮膚のためか、こらえにくいというのではなかったから、座学の多い授業にそれ程の支障はなかった。ただ起床後の駈《か》け足は甚《はなは》だ苦痛であった。しかし受診することには躊《ちゆう》躇《ちよ》があった。おそらく又軽業患者となって訓練や授業を休まなければならない。最早基礎訓練とはちがって、対象は魚雷にしぼられ急速に専門化を進めていたから、どの時間を休んでもあと先が結びつかず、脱落につながるおそれがあった。もし仲間に伍して行けなくなれば魚雷艇学生を罷《ひ》免《めん》されるばかりか、予備学生の除籍も考えられないことではなかった。教官たちの日頃の言動からそれは推測ができた。私はまだ先々の日の具体を(行き着く果てが海洋上の戦闘であることはまちがいないとして)描き出す見通しは無かったが、魚雷艇乗りの道をそのまま進んで行くつもりになっていたし、第一期魚雷艇学生としての自負のようなものが、自分の未熟を知りつつなお生じていたことは確かであった。だから受診する決心はつかなかったのだ。それに腫れは感じても、ただれることは無く、時には腫れが退《ひ》きもしたし、大方屏《へい》息《そく》して見えることさえあった。場所も移動するようで、そのうち根が散ってしまうだろうと高を括《くく》っていた。しかしおさまるどころか次第に膿は一箇所に集まり、その部分がずきんずきんと脈を打つようになった。夕暮れの頃に最もひどく、我慢ができぬまま食後の休憩にマッチで焼いた木綿針の先でつついて穴をあけてみた。周囲を強く押すと黄色いどろどろした膿が流れ出た。しぼれるだけしぼってヨードチンキを塗りようやくさっぱりした気分が取り戻《もど》せた。しかし巡検の時刻が来て寝台に就き、寒さにふるえるからだを屈《かが》めて就眠の姿勢にはいると、又もや踵が呼吸でもするぐあいに高々と脈を打ちだし、からだ全体が踵に集まるようになって、新たに膿のたまる音が聞こえる思いがした。そして毎朝の駈け足に列伍からおくれてどうしてもついて行けなくなったのだ。指導教官のM少《しよ》尉《うい》は、びっこを引いて仲間からはずれて行くその私をいつもじっと見ていた。彼は二期の予備学生出身であったが、からだも大きく腕っぷしが強かった。二期出身の教官は彼のほかにも何人か居て、旅順での一期出身であった分隊監事付の役割も担当していたのだが、われわれとはただの一期違いのせいか、(勿論われわれも軍隊生活に馴れてきていたのだけれど)何となく気易げな感情を抱くことができ、兵学校出の教官にくらべると隔絶の感じが少なかった。中でも多肉質の風《ふう》貌《ぼう》のM少尉からは或る暖か味が感じられ学生も親しみを抱いていた。もっともわれわれの過失に対しては容赦なくその強い腕っぷしを発揮して修正を加えていたのだが。私の不様な恰《かつ》好《こう》は或いは横着な装いとも見えかねないから(旅順では緊張の表情が冷笑と受け取られたこともあったわけだし)、もしかしたらいきなり修正されるか列伍に追いつくように叱《しつ》咤《た》されることも覚悟していたのに、彼は腕組みをして立ち、何も言わず、飼い犬の動きでも追う目付でじっと私を見ていたのだ。彼よりは私の方が年上であることはわかっていたが、私の背中は兄のいたわりの目なざしを感じていたようなのだ。否《いな》いたわりと言っては正確ではない。私の成り行きに手を添えるのではなく、ただじっと見ているだけの、情感を抜き去った透明な目付とも言えた。一声なりと励ましの言葉を期待する気持も私にちらと動いたが、むしろそうでなかったことを良しとして朝毎の苦行を私は繰り返していた。何の障りもない駈け足ができることをどんなにか切望しながら。なぜ私にはこんな状態が重なるのかと思わぬでもなかった。旅順での足の傷につづき、右足の故障に見舞われたのは、不幸な何かの前知らせとも思えたのだ。しかし最早それは運命との我慢くらべに似ていた。人にはおそらく私が腫れ物を楽しんでいるかに見えたかも知れない。伍の者からそれを指摘されたこともあった。私が属していたのは階下の分隊で、それには九つの伍があった。一伍は十四もしくは十五名の学生で構成され、同じ食卓の周辺にそれぞれの居場所を定められていたから、同じ伍の者は私の食後の自家治療を目にしないわけには行かなかったのだ。受診をすすめる者も居たが、「なに、そのうちおさまる」などと、私は毎晩針の先で穴をうがち膿をしぼり出すことを繰り返していた。毎日の意義がそれに集約されてでもいたかのように。おかしなことには緊張の余り寒ささえ中和されていたようなのだ。先のことは考えず、その一点にからだの調子を合わせようとする態度が生まれ、それが一日のリズムになっていた。しかし或る日遂《つい》に歩けぬほどの痛みが来た。厚い皮にさえぎられて内にこもった膿が飽和の状態に達したのかも知れなかった。どうにも動きが取れず、決心して受診の許可を得た。営庭を片足跳びで横切り医務室に行った。はじめ衛生下士官が患部を見て切開した方がいいと言った。あれはおかしな具合で、学生の私の方が階級が上だから(予備学生は兵《へい》曹《そう》長《ちよう》より上、海兵出の少尉候補生の下という序列が与えられていた)、それだけの気位を持つべきだという考えに圧《お》される一方、医師に身《み》柄《がら》を預ける時のすがるような依頼心も消すことができず、気分の統一ができなかった。下士官の方でも同じことだったかも知れない。言葉遣いはていねいでも、態度にはかなり横《おう》柄《へい》でそっけないものがあった。私をうしろ向きにして、別の衛生兵に足をおさえさせ、メスで踵の切開にかかったが、皮膚が厚くてなかなか刃が肉に食いこまない。それを見かねてか部屋の奥から若い軍医長がつかつかとやって来た。白い診察衣を着ていたから、娑婆の大学病院の若手の医員の感じがした。京都の町の通りの名を持った軍医大尉で華族の出だということであった。私はその時なぜほっとしたのだったか。無資格の医介補に患部をいじられている所に、外科部長が出て来たような気分になったのだろうか。ところで軍医長は私の顔など見ようとはしなかった。下士官から無言でメスを受け取り、踵の腫れた部分にあてがうと、片手だけで有無を言わさずに切り裂いた。途端に驚く程の量の膿が吹き出し、軍医長の白衣に飛び散った。顔にも少し飛《ひ》沫《まつ》がかかったろう。思わず私は笑いかけ、勿論それは押さえたが、彼は高い鼻の目立つ白《はく》皙《せき》の顔をしかめていた。ちょっとのあいだまができた。彼は何か言おうとしたが、結局無言で不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに立ち去った。そのあと下士官はなお膿をしぼり、傷口にリバノール液に浸した黄色いガーゼをつめ込んで、大げさなくらいの繃《ほう》帯《たい》を巻きつけて放免してくれた。  一つの事件があっけなく終わった。なぜあんなに私は力んでいたのだったか。精神まで抑えつけられたような陰にこもった痛みは、ひりひりした開放的な肉のそれに変わった。しかしそれももう治《ち》癒《ゆ》へ向かっての余韻でしかない。こんなことで終わるならもっと早く受診すればよかったと思わぬでもなかったが、充分に膿ませたからこそ一挙に根絶できたのかも知れなかった。とにかくもう瑣《さ》末《まつ》な余計事に煩《わずら》わされることなく当面の目標である魚雷艇のすべてに習熟する道を進めばよいと考えられた。事実傷跡は日に日に快癒に向かい、薄紙を剥《は》ぐようにおさまって、やがてそんなことがあったことさえ忘れる程に記憶もうすらいでしまったのだ。季節はなお冬の内ながら、殺風景な水校の構内にもどことなく春の気配がしのび込んで来た。水雷神社の祠《ほこら》のある裏山の桜も心なしか蕾《つぼみ》がふくらみはじめたようであったし、塀《へい》にさえぎられた校庭からも、近くの低い山の頂きは見え、風《ふ》情《ぜい》のない色《いろ》褪《あ》せた樹相に春に向かう息吹きがただよう如くに眺《なが》められた。いつもはそっけなく風にそよいでいるだけであったのだが。  水雷学校での日々の空腹感はいささか異常であったと言えようか。訓練は旅順よりずっと楽になっていたのに食《しよく》慾《よく》の方はむしろ熾《し》烈《れつ》であった。学生の全員がそう感じていて、分量も質も基礎訓練の頃《ころ》よりは低下していると言う者が多かった。ところが或る日突然飯の量が殖えた。といっても食器の盛りあがりがやや高くなったとわかる程度ではあったが。学生は手放しで喜び、学生舎が一時華やいできた程だ。誰言うとなく、それは魚雷艇部長H大佐の肝《きも》煎《い》りのおかげだと噂《うわさ》された。彼は海軍有数の水雷戦術家で、目ざましい戦果の持ち主だと言われていたから、学生の一層の信頼を得たことはまちがいなかった。毎食事時のすさまじいばかりの競《せ》り合いの雰《ふん》囲《い》気《き》を今私はむしろなつかしい気持で思い出すことができる。食事当番が自分の食器にだけ飯を固く押しつけて分量を多くしているという強い非難が出て、伍のあいだに険悪な空気の流れたこともあった。「就ケ」の命令がかかる前の一瞬、両隣りの席の食器の盛りつけ具合をへんな横目で見くらべるなどはあたり前になっていた。食べることに執着する頑《がん》健《けん》な体質の者が居ると、伍の雰囲気は引きずられて殺気立った。私がそれに反発したのは人より多い年齢もさることながら(数え年で私は二十八歳になっていて、同年か年上の者は私のほかにたった四人だけ、魚雷艇学生の総員約二百六十名を平均するとおよそ二十四歳という数が出ていた。私が踵の腫れ物をかばって次第に伍におくれて行く途中では、「おっさん、しっかりせえや」と声をかけて行く者が居た。覚えはないがかげで私はおっさん、おやじと呼ばれていたらしい)、もともと虚弱な体格の私が積極的な活力になじまず、「俺《おれ》は食慾が無いから慾《ほ》しい者にやるぞ」などと、興無げに自分の飯を削って希望者の食器につぎ足すなどのこともした。「貴様本気でそんなことを言っているのか」といぶかし気に顔を見られて、ひやりとしたものだった。それは私の片意地の仕業だったとしても、学生のあいだに低迷した空気が流れていたことも確かであった。所持品入れのチェストが抜き打ちの一《いつ》斉《せい》検査をされた時に、中に手《て》毬《まり》ほどもある握り飯を隠し入れてあるのが発覚した者が居て、中の品物はすべて床の上に放《ほう》り出されてしまったが、その飯はどこから持って来たのだったか。面会が禁止されているにもかかわらず面会人がもたらした餡《あん》パンの持ち込みに成功した学生も居て、私もこっそりその一個を貰《もら》い、廁《かわや》の中に持って行って食べたが、餡パンがあんなにうまいと思ったことは無かった。彼の余程の好意かと思ったものの、或いは隠し場所に困っての処置だったのかもわからない。又巡検後に廁に立ったところを学生舎係の下士官に呼びとめられて、丼《どんぶり》一杯の飯を押しつけられたことがあった。その控え室では既に二、三の学生が肩をすぼめて丼飯をかきこんで居た。常連のようでもあり、何か淫《いん》靡《び》な気配が漂っていた。「早く食べて下さい」と下士官にせかされ、私も無理に急いで腹につめこんだのだ。それほど食べたくもなかったのに、下士官の好意を無下にことわるのもやぼな仕業に思えたからだが、いやな後味が残った。下士官に話をつけるとかなりいろいろな用の足せることに怪《け》訝《げん》な思いがした。餡パンもその経路を辿《たど》ったのだったろうか。菓子類は既に払《ふつ》底《てい》していて期待ができなかったが、薬品は容易に手に入れることができた。誰が考えついたものかエビオスの瓶《びん》を下士官を通じて仕入れることがはやった時期があった。何粒も一度に口の中に入れて噛《か》むと甘苦い陶酔の味があり、口寂しさを一時ごまかすことはできた。飯に振りかける者も居て、下痢を起こしてもその誘惑には勝てぬようであったが、やがて鼻についてきてか、いつのまにか下火になって行ったのだった。  それらの学生の欲求不満は度重なる外出禁止も影響していたと思う。二月から四月末までの三箇月の水校生活のあいだ、外出が許可されたのは、ただの四回だけであった。入校した最初の日曜には外出できたものの、そのあとは面会共々に禁止された。一箇月以上が過ぎ、ようやく許可されたその二回目に、帰隊点検におくれた学生が居て、総員修正を受けたあと再び外出止めの達しが出た。それが解けるまでにも二十日はかかったのに、ようやく解かれてほっとしたと思ったら又点検におくれた者が出た。もっともその後間もなく、われわれは水雷学校を転出し、分校として新設された長崎県大村湾岸の臨時魚雷艇訓練所に移って新しい環境にはいることになったから、当然予想された外出禁止などの処分の沙《さ》汰《た》は無くてすんだ。むしろ転出に際して一週間もの休暇さえ与えられたのである。しかしその前の学生舎の雰囲気にはいささか険しいものがあった。お互いに気が立ち、投げやりな気風が流れた。「待テ」の号令を無視して歩き、総員が寒空の営庭で一時間の余りも不動の姿勢を強《し》いられた時には無言の抗議の気配がふくれあがった。夜の自習時間に突然二階の分隊で床を踏む騒ぎが起き、教官があわてて駈けのぼると、今度は替わって階下で床踏みをはじめて教官をまごつかせるという小事件も起こった。それは予《あらかじ》め計画されたことではなく、もやもやした鬱《うつ》屈《くつ》が偶《たま》々《たま》期せずして噴出したに過ぎなかったのだが。訓練を抜け出し学生舎の屋根裏にもぐりこんで、岩波文庫を読んでいた学生が見つかったのもその前後であったろうか。その書物はヘッセの「クヌルプ」だと言うことであった。  話が前後するが、われわれがはじめて魚雷艇に乗せられたのは、水雷学校に入校して二十日余りが過ぎてからであった。しかし全長二十メートルばかりの木造の小舟艇を見ていささか失望を隠すことができなかった。大きさとか木造であることにではなく、形が小さい割りには軽快でなかったという最初の印象に対してであった。水冷式の航空エンジンを装備していて、爆音ばかりがやたらに高く速力はそんなに出なかった。おまけに故障が多く、予定された操艦訓練が中止されることも度々であった。もともと魚雷艇建造の技術が充分に進展せず、試行錯誤を繰り返している渦《かち》中《ゆう》であったことなど当時の私は知る由《よし》も無く、隻《せき》数《すう》の少なさにふと疑念を持つ程度でしかなかったが。さて魚雷艇に乗せられたといっても、勿《もち》論《ろん》いきなり魚雷戦をなぞる訓練にはいったのではなく、まず手始めとして操艦の習得を課せられたのであった。二期予備学生出身の教官たちにしても、魚雷艇艇長としての教育訓練が終了したあとまだ一、二箇月しか経《た》っていなかった。初歩の段階のわれわれはまず機関の性能を熟知して艇の操艦を充分にこなし得る体験を重ねることが先決であったが、そのためには湾内や外洋を航行する場合の規則も心得ていなければならなかった。水雷学校の施設は横須賀港の一《いち》隅《ぐう》にある長浦湾の奥にコの字型に設けられた港を中心にして布置されていたから、校庭を囲む学生舎や兵舎などの建物のすぐ裏がわは、デリック起重機やダビット(短艇吊り)、それに繋《けい》柱《ちゆう》などの風物で点《てん》綴《てつ》された岸壁に臨んでいたのである。魚雷艇に搭《とう》乗《じよう》して出港するとすぐ、湾内に浮上碇《てい》泊《はく》中の潜水艦や往来する内火艇などと行き合わないわけには行かなかった。だから航行規則を心得ていなければ、湾内の通り抜けさえできないことになった。又魚雷艇は魚雷を用いての戦闘艇であるから、魚雷の性能を十二分に理解していなければならぬことはいうまでもなく、われわれに与えられた授業の重要な部分が、魚雷学とでもいうべき分野で占められていたのは当然であった。魚雷の内部は動物の内臓に似ていて複雑極まる構造を持っていた。教員がその説明に当たると、学生たちは近くではっきりと見定めようとして場所を争うことになった。しかし私はなぜかその気になれず、みんなのうしろに廻《まわ》ることが多かった。そのために授業が縦《じゆう》舵《だ》機《き》、爆《ばく》発《はつ》尖《せん》、頭部などと次第に専門化を深めると、ますますわけがわからなくなってしまったのだ。ちょうどかつて数学や化学の公式が理解できずについて行けなくなった状態とそっくりであった。どこで逸《そ》れてしまったものであったか。或いは腫れ物の受診の後先きで抜けた授業の空白がきっかけになったのでもあろうか。仲間がこぞって競い合うかたちになると、つと身を引きたくなる癖がそうさせたのかも知れなかった。いつのまにか私は魚雷戦を戦わなければならぬ身上にありながら、魚雷が一向に好きになれなくなっていたのだ。実に無《む》駄《だ》なく、必要な機能を胎《はら》む無数の部分を可能な限りに圧しちぢめ、冷たく適度にほっそりした優雅な体形に納めこんだ魚形水雷の外見は、あやしげな魅惑を発散していたのに、なぜか私は、好ましいものからわざと遠ざかるぐあいに、仲間たちの背中越しに或いは肩や腰のすきまから距離を置いた遠い目なざしで眺めやるだけであった。  やがて魚雷艇乗りとしての資性のためされる訓練がはじまった。綜《そう》合《ごう》的な雷撃法がそれであるが、しかしまだ実際に魚雷艇に搭乗しての訓練ではなく、机上演習と言われた方法によるものであった。あれはどんな仕組みになっていたものやら、今以《もつ》て私には不可解に思えてならない。何だか水雷学校でのことはすべて私には靄《もや》の中の出来事に思えるところがある。自分が何をしていたのかさえわかってはいなかった。目の前に生起する事《こと》柄《がら》がどんな意味をもっているかの見通しも無かった。長大なベルトコンベヤーに身柄を預けているが如《ごと》く、どこに運ばれて行くかを知ろうともしなかった気がする。コンベヤーの上の私に、靄の中から前触れも無く出現するかのように、事柄は突如としてあらわれる。机上演習室もそのように私の目の前に突然あらわれた。入口をはいると、外からの光を暗幕でさえぎった部屋の中は真っ暗であった。自分の順番が廻ってきて押し出されるように一人ぽつんと丸い台の上にあがった瞬間、周囲のすべてが動き出したかのような、足もとから湧《わ》き立つ揺れが感じられ、私は魚雷艇の艦橋に立たされたのと同様の状態を覚《さと》らなければならぬ。目の前には操舵のハンドルが突き出ていた。オモーカージ、モドーセ、ヨーソロなどと自らに号令をかけつつそのハンドルを操作すると、私の立つ台は前面にせり出すような気分になった。しかし実際にそうなるのではなく、対象との錯覚が作用しているらしいのだ。部屋の中央は何も置かれていないただの空間であるが、室内の暗さのために、それは海の上に広がるあの空無と異ならなかった。その空《むな》しさを越えた彼方《かなた》にスクリーンの壁があって、私の凝視する目に果てしない波が写っていたのである。その波の写った海は時に応じて薄明ともなり又妙に明るくきらきら輝きもしていた。そして私は艦尾波を立てた進行中の敵の艦影を発見するのだった。大きさはまちまちで私の方に向かって近づいて来ることもあった。さて私は自分がその敵艦を攻撃するために魚雷艇を指揮しながら接近させつつあることを忘れてはならない。魚雷戦用意! と私は大声で叫ぶ。あの敵艦の艦種は何だろう。その大きさ、艦尾波の立てぐあいから判断した速力、それにあの形は私の魚雷艇とどのような角度を保った方向に進んでいるのか、そしてその間に横たわったたよりない距離。それらは咄《とつ》嗟《さ》のあいだに私自身で推測し暗算して割り出さなければならないデータなのだ。早く、早く。しかし私の躊《ちゆう》躇《ちよ》などにおかまいなしに魚雷艇はどんどん進み、敵艦も見る見るうちに近づいて来る。或いはもっと魚雷艇を接近させた方がよいかも知れない。次第にその形を大きくする敵艦。私はその影に向かって突き進んで行く。そして調整した魚雷がうまく命中する位置に到達する絶好の機会を狙《ねら》わなければならぬ。「用意」、私は息をひそめて言う。そして今だ、と思った時に叫ぶ、「撃《テ》ッ」。するすると伸びて行く雷跡が見えるようだ。オモカジイッパーイ。私はUターンして離脱をはかる。結果はしかし命中はせず、いつも教官から未熟を宣告されて終わったのだが、私にはなぜかあの薄暗がりの中での机上演習のひとときが救いであった。私はそこでは魚雷の構造を知らずとも魚雷戦が戦えそうな気分になることができた。  四月の二十二日に総員集合があり、魚雷艇学生主任指導官のS少佐から、月ずえの三十日までに川《かわ》棚《たな》の臨時魚雷艇訓練所へ各自が銘々に入所するように申し渡された。そしてそれまでの有余の日々は休暇として与えられ自由に行動することが許されたのである。はじめての長期の休暇に学生一同が欣《きん》喜《きじ》雀《やく》躍《やく》したことはいうまでも無いが、同じ日に、魚雷艇に適性無しと判断されて、四十数名が半ばは他の術科学校に、あとは予備学生を罷《ひ》免《めん》されて水雷学校を去って行った。私はどうにか魚雷艇学生にとどまることができ、軍服姿を父や妹たちに見せようと飛び立つ思いで神《こう》戸《べ》の家に向かっていた。 第四章 湾内の入江で  私たち第一期魚雷艇学生二百十余名が突然のように横《よこ》須《す》賀《か》田浦の海軍水雷学校から長崎県大村湾沿いの川《かわ》棚《たな》町にある川棚臨時魚雷艇訓練所に移されたのは昭和十九年四月末のことであった。はじめそこは水雷学校の分校の性格を持たされていたが、のちに魚雷艇だけでなく震洋、回天、伏《ふく》竜《りゆう》など特攻兵器の訓練場所にも当てられたために人員の増加をきたし規模がふくれあがって川棚警備隊となった所だ。しかしわれわれが入所した当座は、専《もつぱ》ら魚雷艇学生のための施設だけが目立つ急ごしらえの寂しい魚雷艇専用の訓練所であった。大小の岬《みさき》や島に囲まれて海岸線の入り組んだ小《こ》串《ぐし》浦《うら》の、更に奥まった小さな入江の周辺が敷地に当てられ、学生舎はその入江に突き出た片方の高台の方に設けられていた。つまり学生舎のある高台からは、それほど広くはないコの字型の入江とそれを囲む低地がいつも見おろせていて、本庁舎とも言うべき建物の幾《いく》棟《むね》かと、簡単な急ごしらえの桟《さん》橋《ばし》に十隻《せき》ばかりの魚雷艇や内火艇が繋《けい》留《りゆう》されているのが認められるだけであった。まさかそこがあとでは空き地が見られぬ程も多くの兵舎が建ち並んだ場所になるなどとは想像もつかなかった。それ自体小さな岬であった高台に設けられた学生舎は、われわれがはいった時はおがくずなども片づけられぬままの木の香もなまなましい出来たばかりの建物であった。というよりもまだ工事が完全に終わってはいなかった。学生たちは、その完成が待てぬ程にもせかされて移って来たわけだが、入舎後もなおしばらくは仕上げの工事がつづけられていた。施設全体が間に合わせの甚《はなは》だお粗末なものとして目に映り、ふと期待はずれの気分が湧《わ》かなかったわけではないが、すべてに手さぐりの状態が横たわっていて、それはむしろ私には気が楽であった。伝統ある海軍の威圧のようなものを全く感ぜずにすんだのだから。そもそも魚雷艇なるものがそれまで海軍にはなかった新設の部門であって、教官たちでさえ速成訓練を受けたばかりというその状況には、試行に伴うどことはないゆるやかさが漂っていて、私は甚だ気に入っていた。横須賀の水雷学校は気風にも施設にも重層の伝統が沈《ちん》澱《でん》していて呼吸もできない環境にひしと取り巻かれていた。しかしこの臨時魚雷艇訓練所は、外部との境域を区切る柵《さく》さえもまだ設けられてはいなかった上に、歳月を刻みこんだどんな古い建物も目にしなくてすんだ。まわりの風景は全くの農漁村で、顔を挙げて遠いあたりを眺《なが》めると、いつもなだらかな山々の稜《りよう》線《せん》が目にはいってきた。中程に孤立してひときわ高い、丸味を帯びた三角なりの山も見えていたが、それを目にすると私は思わず回想的な気分に引き込まれて行ったものだ。その山の中腹にきのこ取りにでも行ったことがあったかのような、或《ある》いはそこに小さな祠《ほこら》がひっそりと建っていて、その狭い境内にはしめっぽい土の香と落ち葉のにおいがまざり合い漂っているといったふうな、そこはかとない連想が湧いてくるのが常であった。それはなぜかそんなのどかな時間にはもう二度と立ち合えまいという、思いつめた心情とかさなっていた。どんなかたちで襲ってくるかをはっきり想像できたわけではないが、われわれはいずれは全長二十メートルばかりの魚雷艇を戦闘の拠点として血なまぐさい生死の境域に出入しなければならぬことは確かであった。その魚雷艇の操艦と魚雷戦の戦闘方法に習熟するために、われわれは更に訓練の積みかさねを課せられようとしていた。横須賀の水雷学校では魚雷艇の発進、停止、達着などのごく初歩の訓練と魚雷の構造を習ったに過ぎず、この上は机上の演習ではなく実際海面で魚雷艇を駆使しての魚雷戦の戦闘訓練が必要であった。突然のように横須賀から川棚に移されたのは、横須賀港や東京湾のように船舶の往来がはげしい場所では、技術の未熟な魚雷艇学生の訓練場として不適であることが誰《だれ》の目にも明らかであったからだろう。おそらく早急にその訓練海面が探し求められ、そして佐世保にも近い大村湾が選ばれたにちがいあるまい。この湾は魚雷艇が縦横に疾走できる広さがあるだけでなく、航行する大型船舶とては皆無だったから、訓練場としては恰《かつ》好《こう》の場所であったと言わなければならない。戦局の逼《ひつ》迫《ぱく》は魚雷艇の一日も早い戦列参加が待たれていたにちがいなく、日本の海軍艦艇はアメリカ海軍の魚雷艇の奇襲攻撃になやまされつづけていた。それに対抗するための大量な魚雷艇要員の士官養成が、ようやくわれわれ第一期魚雷艇学生の結成となってあらわれていた。しかし昭和十九年の春になってもまだその養成は完了してはいなかったのだ。前年十一月にマキン、タラワ両島の、又十九年にはいってクエゼリン島などのそれぞれの海軍陸戦部隊の全滅が伝えられていたし、六月後半のマリアナ沖海戦での敗北はわれわれの訓練期間とかさなるだけでなく、なお又日本海軍が潰《かい》滅《めつ》的な打撃を受け、連合艦隊の組織的戦闘能力を喪失したレイテ沖海戦は目前の十月末に迫っていようという困難な時期に直面していたのである。当然の結果として軍需生産力の低下に伴う早急の軍艦の補充など叶《かな》うわけがなかったのだから、木造の艇体で間に合う小型舟艇の魚雷艇に藁《わら》をもつかむような望みが託されたのも致し方のない成り行きだったのかも知れない。勿《もち》論《ろん》それらの情勢を当時の私たちが知る由《よし》はなく、ただ当面の訓練に耐えようとつとめつつ、来たるべき配置の状況などは想像もつかぬままに、怖《おそ》れながらもなお一刻も早くその時の到来を待ち望む矛盾した気持を抱いて、単調な訓練の毎日を送っていたと言えようか。この私が果たして魚雷戦が戦えるか、という疑いはいつも脳《のう》裡《り》を離れることはなかったが。  そのような状況の中で横須賀の海軍水雷学校を私があとにしたのは四月下旬のことであったが、途中に与えられた数日に及ぶ休暇を神戸の家に立ち寄って父と妹のそばで費し、無事川棚臨時魚雷艇訓練所に参着したのはその月の最後の日であった。家で過ごした日々はその時の私にはいささか切な過ぎるものがあった。まず父と妹にはじめて見せる自分の軍服姿がなぜあれ程誇らしかったものか。つい半年前にはからだのひ弱な大学生だった私が、今や軍服に身を固め、短剣を腰に吊《つ》って、父と妹に敬礼による挨《あい》拶《さつ》などして見せることができたからか。そこにはちょっと信じられない程の変《へん》貌《ぼう》が横たわっていた。その間勿論旅順での厳しい基礎訓練と横須賀での魚雷艇実科訓練を通過した体験はあったが、それは自分だけの感じにとどめておいて、その労苦は決して口にはすまい、と考えていたのだった。もう大学生のときのような惰弱な身体《からだ》ではないと胸を張ることもできた。学生舎の居住区で疲労の果てにうつぶして酔ったようにうつらうつらしていたことなど忘れてしまっていた。私にとってからだの状態が生《しよう》涯《がい》で最も健《すこ》やかであった時期にはいっていたのだろう。そのせいか背筋を伸ばした自分の姿勢を殊《こと》更《さら》に父や妹に見せたい気分が起こっていた。先行きは全く未知数であったにしても、巨大な海軍の組織の中に抱え取られている感触のために、日々の舵《かじ》取《と》りの不安は感じないですんだのだった。かえって父や妹のがわに、この先の戦時下の日々をその裁量だけで処理しなければならぬだろう頼りなさが感じられて、寂しい憐《れん》憫《びん》が湧くようであった。  ところで軍服を脱ぎ、ふだんの着物に着替えて自分の勉強室にこもると、頼りないことに私はすっかりもとのままの大学生であった自分に返ってしまっていた。私は猫《ねこ》背《ぜ》に戻《もど》って書《しよ》棚《だな》の本を並べ替え、或いは取り出しては中の幾ページかを拾い読みし、机の引き出しの中を片づけてみたり、切り抜きを貼《は》ったスクラップブックのし残した整理をつづけるなど大学生の頃に繰り返した些《さ》事《じ》に手をつけていたのだった。しかしそんなことをして何になるだろう。いつかもう一度見直す機会が期待できればこそそれらの整理は生きてもこようが、私はそれ程遠くない将来に、魚雷艇に搭《とう》乗《じよう》しての戦闘に参加しなければならぬ身の上ではないか。その結果はたぶん死につながる確率が圧倒的に多いことは否定できないことだ。たとえ戦争が終結したとしても(どんな状態でか見当はつかないが、永《えい》劫《ごう》に戦争がつづくなどとは考えられないから)、この勉強部屋にはいり、私が整理した物を眺めることのできる者は一体誰なのかと思うと、言いようのない空《むな》しさに襲われてきたのであった。しかし決定的な時が来るまでは、過去に馴《な》れ親しんだ無《む》駄《だ》のように見える些事をかさねるほかはなかった。自分は何をやっているのだろうとあやしみつつも、私は空しい積みかさねを中止する気にはなれなかった。忽《たちま》ちにして与えられた休暇は過ぎ去り、再び軍服に身を固めた私は、川棚の新訓練地に向かわなければならなかった。大村湾岸の川棚なる町は知らなかったが、長崎で四年間の学生生活を送った私には、同じ県内だという気《き》易《やす》さがあったし、その周辺の大村や嬉《うれ》野《しの》は曾《そう》遊《ゆう》の土地でもあった。もともと九州に何の縁もない私が、宿命のようにその土地に回帰するように見える成り行きを、歓迎する気持さえ私には湧いていた。勝手知ったる場所に舞い戻る気分で私は川棚にやって来たのだった。  当時大村線にはまだ小串郷駅が設けられてはいなかった。臨時魚雷艇訓練所の所在の字《あざ》は、現在は新谷郷の域内にはいるが、私たちは川棚町の小串だと聞かされていた。最寄りの駅は佐世保がわの南風《はえの》崎《さき》か、反対がわの川棚であった。小串浦はちょうどその中間に位置していたが、私は川棚駅で下車し(士官は三等車に乗ってはいけないと教えられ、余り経験のない二等車を利用した)、白い国道を歩いて無事臨時魚雷艇訓練所に到着した。しかしなぜかその時の自分の姿が思い出せない。私はどんなふうに歩いていたろう。おかしなことに転勤袋を肩にかついだ水兵服が目に浮かぶけれど、入隊していきなり少《しよ》尉《うい》候補生の次位である海軍予備学生としての、士官に准《じゆん》ずる待遇を与えられた私が転勤袋をかつぐ筈《はず》もない。それに補充の軍服や下着類などどのようにして水雷学校から臨時魚雷艇訓練所に移したのだったか。それらの細部についての記憶は甚だあやしくなっている。軍隊の外を歩く時には雨が降っても傘《かさ》などさしてはならず、風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包《づつ》みのたぐいを小《こ》脇《わき》に抱えるなども好ましくないとされていたから、おそらく殆《ほと》んど手ぶらに近い恰好で一里余りの道を歩いたのだと思う。そしてまだ金《かな》槌《づち》の音の跡《と》絶《だ》えぬ建設途上の川棚臨時魚雷艇訓練所入りをしたのにちがいなかった。  結局臨時魚雷艇訓練所に私が居たのは、その年の七月十日までのわずか二箇月余りの期間であった(もっともその一箇月あとには、改めて震洋隊の艇隊長として再び戻って来ることになるのだが)。  そのちょうど中間の五月三十一日付でわれわれは海軍少尉に任命され、その時点で第一期魚雷艇学生から海軍水雷学校特修学生と変わったが、訓練内容は予備学生の時のままで、何の変化もなかった。訓練所長(水雷学校の魚雷艇部長)のH大佐は水雷戦の練達者で、それまでに参加した幾つかの海戦に輝かしい戦果を挙げたと伝えられていた。われわれの中にはそれを誇りとして学生隊をH一家などと博徒集団風な愛称で呼ぶ者が居た。海軍部内では水雷屋という言い方があって、専《もつぱ》ら魚雷戦にかかわる軽艦艇の配置に就いている者が、多少は無頼な気《き》儘《まま》さと比較的自由な環境を誇りとしつつ戦闘場裡にあっては強力で不意な戦法の発揮し得る配置だという自負を抱く傾きがあった。魚雷艇学生はいわば水雷屋そのものだとも言えたのだし、しかもそのボスが赫《かく》々《かく》たる戦訓を持つ歴戦の勇士だと思いたい期待が根強く潜んでいたからでもあろう。もっともわれわれ予備学生は、速成の士官であることが予定されていて、とにかく伝統の中に居る兵学校出身の士官とちがうことは承知していた。否《いな》むしろそのちがいをこそ支えとしていたとも言える。海軍各般技術の専門家として未熟であることは当然のこととして、もともと軍人になるつもりはなかった連中だ。非常の時に際し止《や》むなく助《すけ》っ人《と》として海軍に飛びこんだんだと単純な考えを持つ者が多かった。必要がなくなればおそらく海軍軍人として止《と》どまる者は限られた数に終わったろう。技術の未熟な分だけ、どんな部署にでも率先して向かって行ける自在さがあった。そのためか近道をえらんで海軍部内の習慣をないがしろにすることにも頓《とん》着《ちやく》はなかった。それまでの考えからすると、いかにも野育ちの無頼士官が育ちつつあったと言えようか。しかし技術の未熟を覆《おお》うものとして、勢い伝統にこだわらぬ自在な戦闘の発想や、柔軟な個性に自らを期待する方向に傾いて行ったのだと思える。変則な奇襲戦法なら予備士官のものだ、といったふうな。  H大佐が直接われわれと接することは凡《およ》そまれなことであった。外出時間を利用して彼の宿舎を訪れて実戦談や死生観を交歓していた学生も居るには居たが、私にそのような行動は考えつかなかった。しかし一度学生一同が彼から聞いた宮本武《む》蔵《さし》をめぐる兵法講話の印象はかなりあざやかである。話の内容にと言うよりは、それに触発された自分の納得の仕方のようなものにではあったが。どちらかというと肉のしまった小《こ》柄《がら》な彼の体《たい》躯《く》からは兵法家としての自信が充分に感じ取れた。実戦をくぐってきた者の煙硝のにおいがくすぶっているようであった。それがいわば武蔵の剣法とかさなって見えたのだ。大学生時代には私も又吉川英治の「宮本武蔵」をひろい読みしていたが、人生訓に似たものは感じ取れたにしても、小説としての感銘はそれ程に強くはなかった。それがH大佐からまともに傾倒の姿勢を示されると、思わず自分の虚を突かれた気分になった。もともと私は軍人ではないのだから、という脱け道はあっても、既に軍人の仕組みの中にはいり、その結果当然のこととして戦闘の場に臨まなければならぬ立場となっているからは、H大佐が体現している戦訓は甚だ圧倒的であった。彼の経験を一つの目じるしとして死生観を割り切ったものに結びつけることに成功すれば、いくらかは気持が楽になって、積極的な力も湧いてきそうに思えた。私の心情に従って言えば、軍人である状態を厭《いと》いながら、H大佐の颯《さつ》爽《そう》たる容姿に(海兵出の士官たちは、上体をきりりと起こして姿勢がよかった)、心が惹《ひ》かれていたというほかはない。  さてその講話は突然のように夜間の課外を利用して行なわれた。われわれは学生舎のある岡《おか》の上から、急な傾斜の道をおりて、入江奥の訓練所本部の建物の中にはいった。魚雷艇学生全員の収容ができたから急ごしらえの兵舎だったかもしれない(といっても訓練所運営に必要な限られた小人数のほかは、講習を受ける兵員はまだ入所してはいなかった)。小屋掛けのような感じの粗造りの兵舎の板の間にわれわれは詰め合わせて坐《すわ》った。学生のあいだには講話を聞く前からH大佐の言葉を受容する用意がととのっていたと言える。つまり水雷戦にかけては実戦第一人者という人気があったからだ。もっともその実情を知っていた者はどれ程も居なかったろうが。私はそれこそ何一つ知るところがなかった。彼がどんな配置で戦ったのかさえ知ってはいなかった。おかしなことに入隊後の私は戦況がどのように進展しているかにさえ、殆んど関心をなくしていた。新聞も見るつもりがあれば見られないことはなかったのに、一向に読む気持が起きなかった。たとえ読んでいたにしても戦時中新聞に報道される記事だけでは、戦いがどのように戦われているかを知ることは不可能であったろう。全体の実相は戦争が終わって多くの歳月を経過したあとでなければ見えてはこなかった。私が体感していたのは次第に旗色が悪くなって行く緊迫した傾きだけであった。そして自分について言えばいずれその悪化した状況の戦場に出て行かなければならぬという避けられぬ道が横たわっていた。しかも戦闘者としての訓練が誠に劣弱な状態のまま、且《か》つ戦闘単位の指揮官としてさまざまな号令を決断しながら。私の拠《よ》り所は劣った技術を度胸で補う道だけであったのに、その確信は殆んど絶望に近かった。だからせめてものことに実戦を経てきた人の戦訓にじかに触れることは望んでもないことであった。だから彼の言葉を抵抗なく受け入れることができたのだったろう。しかし何やらもう時間がないというあせりが芽を出していた。私のやれることは当面の訓練をしっかりと身につけることしかなかった。しかしそれがなかなか容易でないだけでなく、甚だ無味乾燥なしわざに思えたから、H大佐の講話は一片の清涼剤であった。しかし武蔵やH大佐の戦法をそのまま自分のものにすることなどできはしないこともわかっていた。すると逆にそれが甚だ単純に過ぎるものとして見えてきたのだ。もっとちがったふうに戦えないものか。たとえば小説の描写の中ででも耐えていられるような戦い。おそらくそれは、戦わない世界につながってしまいそうで、考えははたとそこで行きづまってしまうのだった。たぶん私はそのときのH大佐の兵法講話を、別の日に訓練所に訪れて来た巡回慰問演芸団の演《だ》し物《もの》を見たときと同じ心情で聞いていた一面があったのかも知れない。講話の終わったあと、岡の上の学舎への坂道をのぼりながら、当面の自分との落差がまざまざと感じられて、言いようのない悲哀を抱いたのであった。  ところでその慰問演芸団を見物したのは、所長の講話に前後する頃のことだ。同じように暗くなってから本部の方に坂道をおりて行ったのだが、当時考えてもみなかった歌や踊りが楽しめるという期待で、まるで町の芝居小屋の見物にでも出かけて行くような浮き浮きした気分があった。兵舎の前には役者一行の名前を書いた幟《のぼり》なども立てられていたのではなかったろうか。いつもの訓練所の雰《ふん》囲《い》気《き》とは異質のものがはいりこんだ具合で、よくそのようなものの入所が許されたものだといぶかった程だ。別に取り立てて言える演し物とてなかったが、前年の十月に入隊して以来絶ち切ったつもりの世界を再び目の前にして、何か異様な感じを味わったのだ。一座の気配には明らかに頽《たい》廃《はい》が染《し》み出ているのに、修道者の錬成場に等しい訓練所に所長はなぜ呼び入れたのだったか。殊に一座の女役者たちに漂うくずれた様子にそれが強く感じられた。中でも女数人がそろって群舞する場景は異様な熱気さえ伴って見えた。訓練中の学生を配慮してか、いわば勇壮な踊りを装い一様に長《なが》脇《わき》差《ざし》を腰に差した股《また》旅《たび》者《もの》の男姿に扮《ふん》して踊らせたものなどは、かえってへんに女をあらわす効果となっていた。馴れぬ軍隊訓練に外界を見る余裕を失った私は、まだ芝居者の世界が戦前と同じかたちで生き残っていることに驚いたのであった。しかしその結果私は郷愁に似たなつかしさの感情を取り戻すことができた。表向きは士気を鼓舞するさしさわりのないせりふで覆われていたが、その姿態と挙措にあきらかに挑《ちよう》発《はつ》するようななまめかしさがあった。どさ廻《まわ》りらしい稚拙な芸がかえってそれをむき出しにした。私は大学生のときよく見に出かけた大衆演芸場を思い出していた。場末の寛容な気分を吸収することによって気持が安まる思いになったからだが、私には幼少年期に過ごした都会の下町の雑踏にまぎれこみたい願望が潜んでいたのかも知れず、たとえばそれは地方廻りの田舎芝居に刺《し》戟《げき》されて郷愁のように甦《よみがえ》ったにちがいなかった。しかし魚雷艇学生の私の立場では甚《はなは》だ具合の悪い落ち着けぬ気持にさせられることから免《まぬが》れられず、ただそれが直ちに外にあらわれるものでもなかったことだけが幸いであった。いずれにしても自分がこちこちに緊張し過ぎていたことを思い知らされたことに変わりはなかった。私の環境は戦争の中に組みこまれてしまっていたが、しかしこの世にはほかにもさまざまな場所があって、あらゆる状態が存在し得るのだと今更のように思ったのだ。演芸団はそのことを私に思い出させてくれた。それに一座の体質は戦前とどれ程も変わってはいないのに、慰問を標《ひよう》榜《ぼう》して営門をくぐれば、軍隊の心臓部にさえはいりこむこともできるおもしろさにも気づかせられていた。私はようやく緊張のほぐれた自分を発見していたようだ。勿《もち》論《ろん》そこで示された世界に立ち戻ることはできないにしても、なにやら下積みの人々の持つしぶとい生きざまを突きつけられた思いになり、それは世の中の層の厚さを垣《かい》間《ま》見た具合でなぐさめられたのであった。  その夜私は、水雷学校のときと同じ人絹蒲《ぶ》団《とん》の二段ベッドに収まりつつ、久しぶりにからだにうるおいが与えられた状態になっていた。いくら男装を装ってもなお丸味は消せぬ容姿と、誇示するが如《ごと》く直角に差しこんだ長脇差の対比は、一つの律動を作っていつまでもまぶたを離れず、過去の甦りの中に生き直す気持が呼び起こされて、久し振りににんげんくさいなごみを取り戻せたと思った。  岡の下の兵舎での二件の慰安のための集いは例外の事であって、われわれは来る日も来る日も大村湾内を魚雷艇で乗り廻す訓練のかさなりに明け暮れていた。教官は海兵出のR大尉と数人の二期予備学生出身士官であった。魚雷艇訓練はつまるところ魚雷戦の体得であるが、艇長として雷撃戦に臨んだ場合のすべての処置を仮定して自らが号令を下して行く過程の復習である。われわれには、実戦に臨んで、接近、発射を柔軟にあやつることができるようになっていなければならぬという至上命令があった。横須賀の水雷学校で行なった机上訓練とはことなり、大村湾内を実戦海上と見たて、実際に魚雷艇に搭乗してそれを行なうのであった。「魚雷戦用意」にはじまり、想定敵艦へ接近し、距離、敵艦の速力、進行方向、射角などを寸秒のあいだに目測で見当をつけ、その数値を魚雷に調節し、最後に「用意」「撃《テ》」と発射号令をかけるまでは、かなりの時間を必要としたから、一回の訓練で実習できる学生はその数が限られないわけには行かない。すると当然のことにほかの学生はかたわらでそれを見学するだけであったから、肉体的にはつらいものではないせいか甚だ退屈を覚えたものであった。一隻《せき》の練習艇には二十名程が乗れたろうか。結局のところ艇長となる順番は二箇月の全訓練期間中に何回も廻ってきたのではなかった。私もせいぜい二回が当たったかどうかというあやふやな記憶しか残ってはいないのだ。それだけで実戦に向かうなど空おそろしい気もしたが、私は無我夢中で何も見えてはいなかった。自分の配置の実相がまがりなりにも見えてきはじめるのは、実施部隊の指揮官になってからであった。そうなってはじめて、わずかな回数の実習ながらその体験が嘘《うそ》のようにふくれあがり、総体が見える思いを味わったのであった。当然のことに自分の技術の未熟もよく自覚され、もう一度学生にもどれたならと歎《なげ》きつつではあったが。しかし時は過ぎ行き、当面はいつも何も見えていないことが多かった。その容赦なく過ぎ行く姿さえとらえ得ずに、時はまるで限りなくとどまっているのではないかとさえ感じていた。旅順、水雷学校と移り変わるに従って訓練の厳しさの度合はゆるみ、もう毎朝の駈《か》け足のほかは苦痛を覚えることもなくなっていただけ、繰り返しの訓練の単調さは耐えがたいものであった。それに大村湾内のおだやかな景色はその上に眠気を誘うようにはたらいた。訓練の時刻やその折りの天候の具合で、湾内の景色はさまざまな様相をあらわしていた。そのことは如《い》何《か》にも自然が永久に変わらぬ堅固な存在を示しているように見え、それにくらべると、退屈だなどと気儘を言いつつもおだやかな時間を享《きよう》受《じゆ》できている自分が、やがて当面動かしようのない戦争という人為のさ中にはいって行き、自然に反する死に引きずりこまれなければならぬ不《ふ》如《によ》意《い》に気づいてきてとまどうようであった。小さな魚雷艇の上の艦橋(といってもただ甲板の中心の操《そう》舵《だ》する場所をそう呼んでいるのだが)では、当番の学生が緊張の余りにまちがえてばかりいる号令を、その背後に立った若い指導の教官が叱《しつ》咤《た》の罵《ば》声《せい》をするどく発して矯《きよう》正《せい》しつづけていても、なれっこになった私の耳には舷《ふなべり》を打つ波浪の程度に聞き流すことができたのだ。それに航空用エンジンを機関に据《す》えたその爆音が、艇の見かけの小ささに似ぬ耳を聾《ろう》するばかりの轟《ごう》音《おん》を響かせていたから、教官の声もいくらかはやわらいで聞こえていたのだろう。私が組みこまれた練習艇の教官は海兵出のR大尉であった。背丈はそれ程高くない小太りの青年であった。ちょっと色白な坊ちゃん育ちの若者と見えたのに、目立たぬおとがいに唇《くちびる》の厚い口をきつく結ぶと、いかにも意志的な頑《がん》固《こ》さが強くあらわれてくるのであった。骨太とは言いがたい丸味を帯びた太《ふと》り肉《じし》の体躯に似ない、しわがれた大きな声を持っていた。当時は多分まだ二十代の前半に居たと思えるが、悠《ゆう》揚《よう》せまらぬ態度が既に身についていた。訓練に当たっては全身をぶつける具合に色白の顔を紅潮させて、どなりつけるような大声で物を言った。学生がへまをすれば、手にした棒で頭でも肩でも容赦なく叩《たた》いた。つづけざまにどなられるとあわてた学生は一層失敗をかさねるから、それが又R大尉の罵声を誘発することになった。しかしたとえ彼がどんなに荒れても変な恐怖を与えられることのなかったのは、彼が自分の指導態度に少しもためらいを感じなかったからだろう。できるだけ早く学生たちを一人前の魚雷艇指揮官に育てあげなければならぬ使命感を疑ってはいないようであった。彼のその態度をたのもしく感じ、私は安心して叱咤されていることもできたが、しかしなお彼の身辺から発せられる突き放すような隔絶感もはっきりと受けとってはいた。おそらくそれは魚雷戦に必要な数理的暗算に明《めい》皙《せき》な処置のできる頭脳のめぐりのあざやかな人のきわ立ちようや、彼が受けた兵学校での精鋭教育の影響が結果していたのかもしれない。しかもなおしみ出るようなやさしさが彼から感じられたせいで、われわれは彼の叱声を心に逆らわせずに受け入れることができたのだったと思う。それに日本画に描かれたような大村湾の風景がまことにおだやかに作用していることもあった。海岸線の出入りが多く、訓練所の入江から湾の中ほどに出るまでにも大小の岬《みさき》や小島を迂《う》回《かい》しなければならなかったが、一《いつ》旦《たん》湾の中程に出てしまうと、周りのどの海岸も似たような島や岬のかさなりに見えてきて、余程注意深く覚えこんでおかないと帰りの水路に迷うことになった。遠近の具合で濃淡を示した島山の稜《りよう》線《せん》は眠ったような鼠《ねずみ》色《いろ》にうずくまっていた。大村湾は九州の西北部分に突出した西《にし》彼杵《そのぎ》半島に抱えこまれた内海であるが、北の端の湾口の部分には栓《せん》をしたコルクさながらに針尾島が横たわっていて(島の両がわは川と見まごう細長い瀬戸となってそれぞれの対岸と向かい合っているが)、湾内はどこを見廻しても出口のない湖と変わりのない状態を示していた。そして南北に細長い湾をはさんだ両がわに延々と連らなる東西の彼杵の山々が、或《ある》いはゆるやかな、そして時に突《とつ》兀《こつ》とした感じのかたちも含みつつ、影絵のように遥《はる》々《ばる》と見えていたのだ。勿論訓練の日の時刻や天候によって多様な色彩を呈してくれたわけだが、いずれにしても永《えい》劫《ごう》の(とそのときは感じた)眠気の誘われるようなその存在を眺《なが》めていると、どうしても幼なかった日の感受の確からしさが思い起こされるのも防げなかった。するとこのやわらかな風景に取りかこまれながら狭く限られた出入口しか持たぬ湾の中の状況が、自分の置かれているそれにそっくりだという思いを誘い出すようであった。訓練の中ではわれわれは逃げ場を失なった鼠さながらにうろうろしたが、その恰《かつ》好《こう》はまさしくいらだった教官からどなりつけられるときのうろたえ者!の姿そのままにちがいはなかった。しかしいずれ立場が一転して戦闘指揮者にならなければならぬ身を考えると、一体何をしていることかとわれながら嗟《さ》歎《たん》したくなるほどの無力が感じられ、ひたすら際限なく眠り、充分に空腹を満たし、そして今の単調な訓練から脱け出たいなどと無邪気な逃避を願うことに傾くそんな私の視野の中で、大村湾はいつも靄《もや》がかかった定《さだ》かならぬかたちでわれわれの訓練を包みこんでいた。  臨時魚雷艇訓練所での二箇月余りの生活の中で、ちょうど半ばに達した頃《ころ》だったろうか、確かな日づけは覚えていないが、忘れることのできない一日があった。  その日、朝食後のいつもの分隊点検のために、われわれは学生舎のある台地より一段低くなった、ちょうど入江にテーブル状に突き出たかたちの広場に集まっていた。台地上の学生舎に向かって整列していたわれわれの背後にはいくつもの岬に取り囲まれた湾内の海が広がっていたし、左手下には魚雷艇などを繋《けい》留《りゆう》した矩《く》形《けい》の小さな港と訓練所本部や兵舎の建物が見下ろせた筈《はず》だ。そして魚雷艇学生主任指導官の(つまり学生隊長ということだが)S少佐が突然のように思いがけないことを言い出したのだ。課業を休んで一日中思いのままに過ごしてよろしい。S少佐は高い背を扱いかねるようにいくらか前こごみになった感じの骨太の大《おお》柄《がら》な人であった。容《よう》貌《ぼう》もごつく、学生を馬《ば》鹿《か》呼ばわりして口が悪かったが、からだ全体に春風駘《たい》蕩《とう》たる風格を漂わせ、どこに居てもすぐ目につくような人であった。一語一語をゆっくりと間のびした感じでしゃべり、大きな頭に軍帽をややあみだにかぶったところなど、どことなくユーモラスな気配がただよい、茫《ぼう》洋《よう》としたやさしさが感じられた。結果としては所長のH大佐が持つ緊迫した感じをやわらげる役を果たしていたことになるかも知れないが、時として伝統を突出したそうな虚無的な気配を放出させていることがあった。それは海軍の底もすっかり見てきたぞ、といった具合であった。もっともそれは気配だけにとどまったが、その在り方に私は或いは気持が惹《ひ》かれていたと言ってもよかった。(彼は二十年の四月、沖《おき》縄《なわ》突入作戦に失敗して撃沈された海上特攻隊の旗艦「大和」の水雷参謀として艦と運命を共にした)。もっともその日一日の休暇が理由なしに与えられたのではなく、その直前にわれわれは重要な発表を突きつけられていたのだ。彼は先《ま》ずわれわれ魚雷艇学生の海軍兵科将校たらんとして努力した成果を認めた。訓練途上ではその山船頭振りを遠慮なしに指摘していた彼が、短期間内の達成にしてはよくやったと称揚したのだ。その評価の上に立って、魚雷艇学生が特攻隊に志願することが認められたと言った。或いは許可すると言ったのだったか。はじめ私はS少佐の言う意味がよく飲みこめなかった。しかしやがてそれは染《し》みが広がるふうに理解できた。要するに海軍は魚雷艇学生の中から特攻の志願者を募っているのだ。口調はいつもと変わりはなく、言葉に衣《きぬ》をかぶせない言い方もそのままだったが、S少佐の表情の中に、いつもにない切なげなやさしさが感じられた。それはふだんにふと漂わす虚無的なかげりはすっかり影をひそめ、どことなく官僚的な事務処理の説明の調子の勝ったものになっていたのではあったが。私の耳には、彼がわれわれに向かってよく口にした、バーカ、という少しおどけた、しかしいくらかは本音でもあるざっくばらんでしかもあたたかな間投詞が今もなお生き生きと残っている。しかしその時彼の口調から私が感じたのは、苦しげな表情とでも言えるものであった。勿論あからさまに口に出せぬ分だけ、彼のぶこつな容貌はやさしさにあふれていた。マリアナ沖海戦はまだ戦われていなかったが、大方の趨《すう》勢《せい》の見通しはついていたにちがいない。今にして考えると、建造の容易である筈の魚雷艇ですら予定のようには作ることができず、まずは破格なとしか言いようのない特攻戦法に望みを託すやり方に海軍が急速に傾いて行った時期が来ていたことになろう。しかしわれわれがその情勢をどれだけ理解できていたかは疑わしい。戦争は時の経過と共に過激にならないわけに行かず、特攻戦法は殊《こと》に日本人には似合ったやり方として認められる素地が既に準備されつつあったように思う。同期の予備学生の中では最も危険配置と言われた魚雷艇学生の、行きつく先が特攻であることはいくらかは予感されていたと言えなくもない。S少佐は特殊潜航艇のほかにも新しい特攻兵器が既に開発されていることも伝えた。それにはにんげんが操縦する魚雷や羽根のように軽い高速艇などが含まれていた。言葉だけで与えられた物体のイメージは私の想像の中でかえってふくれあがったようだ。ミズスマシのかたちをした鋼鉄でよろわれた平たい特攻艇が海面を裂くように疾走する姿が私のまぶたの中で飛び交うようであった。  長い一日の不意の休暇はそのようにして与えられた。終日よく考えて、その夜就寝前に志願するか否《いな》かの決意を紙に書きしるして出すようにと言われた。しかし実のところ考えるといっても何をどう考えていいかわからなかったと言えよう。のんびりした口調で話すS少佐の声を聞き、やがてその意味を悟った当初、私は自分のからだが宙に浮く感じを持った。なんだか世界がぐらりと傾き、それまで見えていたのとはまるでちがった顔付となっていた。特攻隊などはるかな他《ひ》人《と》事《ごと》であったのに、まさかまともに自分の頭上にふりかかってくるなど思ってもみないことであった。急に入江の海や周囲の山の姿、そして雑草や迷彩を施した学生舎の粗造りの木造の建物にまでへんないとしさを覚えた。実はS少佐の言葉を聞き終わったときに既に、私は結局は志願してしまうにちがいない気がしていた。するとたちまちのうちにも出撃命令がかかってきそうなせわしない気分になった。もうこの世を捨ててしまったのだから、早く整理しなければいけないとせきたてる声が聞こえていた。なにをどう整理していいか、わかったわけではないのに。  とにかく長い長い一日であった。空はおだやかに晴れあがりからだが汗ばむ程であった。その一日をどのように過ごしたかについて余りはっきりした覚えがないのは、たぶん何もしないでぶらぶらしていたからだろう。仲間たちも大方はそうにちがいなかった。特攻志願の問題を語り合う者など殆《ほと》んど居なかった。学生舎にはいってベッドに横たわったり、思い出したように外に出ては、舎外のまわりや岡《おか》の台地、そしていつもは全くおりてみたこともない崖《がけ》下《した》の磯《いそ》辺《べ》を、目的もなく歩き廻るだけであった。だからお互いに訓練所の構内の到《いた》る処《ところ》で事業服姿の仲間がぶらぶら歩いているのを目にすることになった。ちょっとピクニックにやって来た集団の自由解散中といった風《ふ》情《ぜい》があった。時折ふと突きあげるようなあせりに襲われることはあった。もっとよく吟味検討して志願するかどうかを決めておかなければ取りかえしのつかぬことになるのではないか。しかし思考をどこからときほぐしていいかはわからなかった。どうせいずれは危険な魚雷艇の配置につくことがわかっているのに、なにも早まって確実に死を免《まぬが》れることの叶《かな》わぬ特攻にはいることはないではないか、という声はいつも低く胸の底に流れていた。目をつぶって境界をまたいでしまえば、その固縛からしばらくは遠のいていられることなのに。私は誰《だれ》とも顔を合わせたくないと思った。そしてふらふら構内を歩いてばかりいた。どこに行っても学生の姿があってひとりにはなれなかった。そうだ、ひとりぼっちになろうとして一度は崖下の磯の岩のあたりに行ったのだった。しかしそこにも先におりて遊んでいる学生が二人居た。仲良く岩間の海底からうにを取って食べていた。それを見て私はそんなふうな仲間は居ないのだなと省《かえりみ》たのだったか。しかし実際は仲間を避けて一日中ひとりで居たかった。もっとも限られた区域内での集団生活でそんなことのできるわけはなく、ふと湧《わ》きあがる嫌《けん》悪《お》の感情があった。仲間からの話しかけも頑《かたく》なにはずしていたのだ。みんな寂しそうに見えてやりきれなかった。それから私は学生舎裏の谷あいの井戸わきに設けられた洗《せん》濯《たく》場《ば》に行って、下着を一枚だけ洗った。同じような考えの学生も二、三名居たが、お互いに語り合うこともなく、それぞれうつむいたまま洗濯物を洗っていた。これが整理しなければならないことだったのかと私はふと自分があわれに思えた。しかし何かが思考できたというのではなかった。とらえようのない思念がうつむいた頭の中でから廻りするだけであった。私は結局一日中追いたてられるようにうろうろ歩き廻って過ごしてしまった。誰もがふらふらして気が抜けて見えた。ただ申し合わせたように顔を上気させ熱を含んだ目付をしていた。長い一日が暮れ、なお心は揺れていた。夕食の食卓でも特攻の件を話題にする者は居なかった。就寝前に伍《ごち》長《よう》が紙を集めて廻った。私は「志願致シマス」と書いて出した。  翌朝の分隊点検の際、S少佐は全員が志願したと告げた(そう私は思いこんでいたが、三十数年が過ぎた今になって志願しなかった者の居たことを聞いた。私はずっとあのとき全員が志願したとばかり思ってきた)。特攻のことについての話はそれだけで終わった。私はひどくあっけない思いを抱いた。すぐにもそれぞれの特攻兵器への配置区分けなどのことが熱っぽく展開されるものとばかり考えたからだ。しかしそれについてはひと言もふれられることなく直ちにそれまでの魚雷艇訓練の単調な日課に戻《もど》った。S少佐はわざとそれを避けているような気がした。なにか又重大な状況の変化があったのだろうか。特攻を志願すればすぐにでもその新規の生活に移れると考えたのは早飲みこみであったか。たとえ志願してもそれが許可されるまではそれまでの状況の変わるわけもなかった。或いは許可されない場合も残っているのだし、魚雷艇がなくならない以上はその配置に留《とど》め置かれる公算も決してないわけではなかった。私はなんだか気の抜けた思いになっていた。揺れ動く気持の果てに志願を決意した理由の一つに、その兵器の操作が単純にちがいないと予想されたことがあった。魚雷艇による魚雷戦を効果的に戦うには一応は数理がこなせる頭脳が必要なのに、その点で私は全くあやしく、勘にたよるだけの拙劣な戦いしか戦えそうにない不安を抱きだしていたのだ。特攻は自分自身が兵器自体を操縦して敵艦まで持って行くのだから、錯覚やまちがいが起こるわけもなく、距離の目測や射角がどうのこうのという心配などの一切が不要と考えられた。それにひとの命と引き換えなのだから、おそらく海軍はその兵器に可能なかぎりの爆発力と防備を準備してくれるにちがいあるまい。いわば特等席に坐《すわ》ったままで戦死できるわけだ。だからすぐにでもそちらの方へ事態がどんどん進むことを期待していた。それなのに全く音《おと》沙《さ》汰《た》なしの何日かがつづいた。魚雷艇訓練そのものまでどことなく張りがなくなってしまった。ふと、戦況が好転してもう特攻など必要でなくなったのではないかと考えることもあった。単調な訓練の繰り返しがいつまでもつづきそうに思えて、かえっていらだたしい気持になった。何やらだらだらと日が流れて、一刻もないがしろにできぬ時間を無《む》駄《だ》にしていると思えて仕方がなかった。  しかし事態は確実に進んでいたのだ。まず最初に五十名の者が魚雷艇訓練から抜けて退所して行った。P基地に行くということであった。訓練場所の表記にPという字を宛《あ》てるなど如《い》何《か》にもあやしい響きが感じられた。誰にも知られることのないPというその秘密の場所でとてつもない効果的兵器がその五十名を待っているにちがいあるまい。彼らを送り出したあとは急に櫛《くし》の歯が欠けたような寂しさが残った。なんとなくハンモック・ナンバー(成績席次)の上位の学生が居なくなったふうで、一層その思いが強かった。彼らの兵器は甲標的だということであった。その名称もどことなく優秀な兵器である気配を漂わせていた。もっとも甲標的が緒戦の際真珠湾に侵入して遂《つい》に帰還しなかった特殊潜航艇であることはわかっていた。その前後に私もまた先の特攻志願は許可され、配置が確定した。マルヨンと呼ぶ高速小舟艇で数字の四を〇で囲んであらわされるということであった。つまり〓なのだ。いかにもそっけなく、そこにごろっと無気味な物体の転がっている感じがあった。同じ特攻兵器にしても海中に潜航するのではなく、海面を疾駆するだけという条件に或る軽さも感じられた。目的に到達するまでに敵機にやられてしまうのではあるまいか。特攻はなぜか海にもぐって突っ込んで行くというイメージが先にあった。子供の頃から海底に沈んだ第六潜水艇の佐久間艇長への畏《い》敬《けい》と恐怖の感じが尾をひいていたのかもしれない。それだけに海底を潜行する暗い情景が特攻にふさわしいと思えた。第一次世界大戦のときのドイツのUボートにかかわる映画の印象も影響していたろうか。ところが自分の配置が甲標的ではなく、又人間魚雷(もっとも当時はそんな呼び方はなく、〓と似た発想の呼称のが使われていた)ともちがって、こっぱのように海面を飛び跳ねて行く〓兵器であることは、それだけの軽さの自分とかさなったかと思えたのだった。  しかし遂に特攻と決まった事態に、私は興奮しないわけには行かなかった。夕食のあと暗くなった学生舎の岡の、構域の外がわにある崖の上から、向かいの岬《みさき》の起伏にはさまれてにぶく光る細長い入江の海や、その手前の森のあいだに散見する漁村の家々のたたずまいを見おろしながら、胸は淡い痛みにしめつけられるようであった。炊煙がたなびき、子供と母親の呼応する声や犬の鳴き声などが聞こえてくると、日常が私の心中にむせかえるようにたちのぼり、もう戻ることはできないという断絶の思いにせつなさがこみあげてきた。めっきりその数を増した蛙《かえる》たちの鳴き音にいくらかはなぐさめられながら、その冥《めい》想《そう》的な響きが、自分がえらんだふしぎな立場を神秘的に包みこんでくれるのだと感じたかった。  季節は真夏に向かおうとしていたのに、学生舎の中は何やらあわただしく秋風が吹きはじめた感じになった。新しい配置に応じて、それぞれに赴任する学生たちの退所がなしくずしに行なわれだしたからである。そして私も含めた〓配置の三十名が、再び横須賀田浦の海軍水雷学校行きを命ぜられて臨時魚雷艇訓練所を出たのは、昭和十九年七月の十日のことであった。 第五章 奔《ほん》湍《たん》の中の淀《よど》み  再び横《よこ》須《す》賀《か》田浦の海軍水雷学校行きを命ぜられた〓《マルヨン》配置の三十名は、先任者が引率し、途中寄り道することなく目的場所に参着する条件が付されていた。私たちは既に一箇月余り前に海軍少《しよ》尉《うい》に任ぜられたが、従来のまま魚雷艇取扱いの講習を受ける学生身分の状態がつづいていた。ただ任官の時点で名称が第一期魚雷艇学生から特修学生と変わってはいたが。しかし既にそのすべての教程は終わりを告げ、私たちは新たに魚雷艇ではない〓艇の配置に就こうとしていた。もう教育を受ける学生としてではなく、任官後、日はなお浅いが、一人前の海軍将校の任務を分担する立場と替わっていたわけだ。川《かわ》棚《たな》臨時魚雷艇訓練所を出発するに当たって、私たちは引率の先任者から半ば強制する具合に或《あ》る了解を取りつけていた。つまり横須賀まで一緒に行動するのではなく、訓練所を出た後は適宜に解散し、四日後に大船駅で勢《せい》揃《ぞろ》いした上で一同水雷学校に向かおうという計画をだ。それは誰《だれ》が発案したのだったか。赴任途中で勝手に休暇を取る行動の歴然としたこの計画は、かなり大胆なやり方であったにもかかわらず、大方の者が賛成したし、責任を背負った先任者も、あっけない位、というよりむしろ積極的に事態を了解したのが妙であった。もっとも彼はどことなくおっとりとした性格の青年であった。おそらく何らかの処分を受けるかも知れぬ結末を思いつつ誰もが否《いな》む気持を起こさなかったのは、やはり愈《いよ》々《いよ》特攻要員と決まった上は、水雷学校に参着してしまえばいつ出撃を命ぜられるかもわからぬ、という切迫した気分に圧《お》されていたからかも知れない。いずれ近いうちに死んでしまうのだから、という言いわけに殊《こと》更《さら》頼っていなかったとは言い切れない。とにかく私は神戸で下車し、家に寄って、からだを休めた。四月末に入隊後はじめて帰宅した時とはちがい、既に第二種軍装と呼ばれる白い制服に変わっていた。上衣には濃紺の第一種軍装のようなホックではなく、金ボタンがついていた。又最初の帰宅とは二箇月余りしか間隔が無かったから、それだけ緊張も薄れ、まるでかつての大学生の頃《ころ》に休暇で帰ったような調子があった。しかし四月の時とは事情はまるきりちがっていた。私は既に特攻を志願し、死は必ずやって来る筈《はず》であった。そのことを父や妹に感づかれないように私は行動した。もう少尉に任官しただけでなく、一人前の士官なのだからいつでも帰宅できる機会には事欠かない、という態度を装った。幸いなことに奉天に嫁いでいた上の妹が来ていた。二番目の子供を生んだあとの里帰りのつもりのようであった。すっかり人妻らしくなっていて、娘時分の遠慮みたいなものが取れ、平気でそばにも近寄るので、私は何やら面《おも》映《は》ゆい気持にさせられることが多かった。生まれて間もない赤ん坊が居たせいもあってか、乳のにおいがあたりにただよい、まるで自分が結婚して新居を持ったかのような気分にさせられた。一つちがいのその妹とは小さい時から夏休みの田舎帰りなどに二人だけの旅行をしたものだ。私はずっと妹は容《よう》貌《ぼう》もからだつきもひとに劣っていると思いこんできたところがあった。私の友人の多くが君の妹は美しいと言っていたのに。だから一緒に旅行することは余り好ましくなく、そのあいだ中私は甚《はなは》だ無愛想に振舞い、自分のしたくないことなどみんな妹にさせたものだ。それにも拘《かかわ》らず妹は疑いをはさまずに私を兄として慕っていた。見合による新婚旅行から帰った直後だったけれど、お兄ちゃん、あの人は弱虫なの、この結婚は失敗だったわ、と泣きくずれたっけ。既に母を亡《な》くしていた妹にとって、未熟な体験で処理しきれぬことは、兄の私に訴えるほかはなかったのだろう。それは早飲みこみによる杞《き》憂《ゆう》に過ぎなかった。翌日には妹はもう前の日に泣いて訴えたことなど忘れた顔付をしていたが、私の方は或る強い衝撃を受けないわけには行かなかった。それは妹の女としての宿命のなまの断面をまざまざと見たつもりになったからだったか。しかし特攻の配置の決まった今は、二人の子供を抱え普段の家庭の気配をどこにでも撒《ま》き散らし何やらひどく瑞《みず》々《みず》しくなった妹の様子が、もう遠いかなたの世界のこととして映った。羨《せん》望《ぼう》などの気持は湧《わ》かず、自分の代わりに後の世に血筋を伝えてほしいという願望に似た心の動きが感じられた。妹は美しいひとかも知れぬと思えた。抱き取った赤ん坊から、やわらかいが弾みのある手の指で耳をつかまれたりすると、言いようのない幸いな気分に満たされた。そしてこの赤ん坊や、妹たち、父などが先の世に生き延びるための犠牲であるのなら、自分の特攻死も諾《うべな》われそうに思えたのだった。  昭和十九年七月十四日、予《あらかじ》めの約束をたがえずに大船駅で落ち合った私たち三十名は、無事海軍水雷学校に参着した。その日の当直将校から、途中の日数がかかり過ぎていることを指摘されて訝《いぶか》しげな目なざしを受けたものの、それ以上の詮《せん》索《さく》はなく、別段の咎《とが》めだても受けずに済んだ。  結果としては、翌月の十六日までの一箇月余りをその水雷学校で過ごしただけで、私は再び川棚の訓練所に戻《もど》ることになるが、三十名がすべて同じ経路を辿《たど》ったのではない。既に私たちは集団としての学生身分を脱け出していたから、爾《じ》後《ご》の行動は各自がそれぞれの配置に向かってひとり歩きしなければならぬ境遇にはいっていた。それにしてもその一箇月は私にとってかなり中途半《はん》端《ぱ》な時期であったといえる。まず〓艇の訓練を充分に受ける機会に恵まれなかったから(というより一度も〓艇には乗らなかったのだが)、自分の所属する部隊もはっきりしないままに過ぎた。つい二箇月前まで魚雷艇学生として訓練を受けた折りの学生舎だった建物の、二階のがらんとした広い部屋がひとまず私たちの詰所に当てられ、適当に並べた事務机を各自一つずつ与えられた。しかしそこでやらなければならぬ所定の仕事があるわけではなかった。訓練もなし、といって他の仕事もなしということになれば、ただぶらぶらしているほかはない。もっとも新任少尉の身分としては当直将校の使い走りである副直将校の当番勤務が当然のことに廻《まわ》ってきたが、一箇月の在任中に一度当たったかどうかというのんびりしたものであった。   特攻要員と決まった時は、情勢は甚だ逼《ひつ》迫《ぱく》していると思えた。しかも海軍の上層部が特攻作戦の採用を決意した以上は、充分に準備を整えた上で要員への志願を促したのだと考えていた。だから私たちが任地に赴けば、そこには完備された新兵器と組織が待ち受けているとばかり期待して来た。  しかし実際はそうではなかった。差し当たって二個部隊ばかりが編成されてはいたが、どこで訓練をしているのかもわからなかった。狭い長浦湾ではとても無理だから、いずれ横須賀港外に出て行ってのことであったろうが、私の目にふれることは遂《つい》になかった。もしかしたら訓練に取りかかる段階にも至っていなかっただけでなく、部隊の編成さえまだ発令以前の仮のものだったのかも知れない。だからその指揮官や(海軍兵学校出身の大尉や中尉であったが)先発して来ていた魚雷艇学生仲間の艇隊長たちも、おくれて参着した私たちと同じように、緊急の任務に追われている様子などどこにもなく、退屈をまぎらせつつぶらぶらと日を消しているとしか見えなかった。  水雷学校参着の直後、私たちは心急《せ》かれるままにまず岸壁に出向いた。自分の命を終《しゆう》焉《えん》に導く快速特攻艇の姿を一目でも早く見たかったからだ。勿《もち》論《ろん》そこには、上質の鋼鉄でよろわれた平たいミズスマシのかたちに似た特攻艇! といった期待の像が画《えが》かれていた。それを担当の特攻兵が常に輝くばかりに磨《みが》きあげているにちがいない。しかし私が見たのは、うす汚れたベニヤ板張りの小さなただのモーターボートでしかなかった。緑色のペンキも褪《あ》せ、甲《かん》板《ぱん》のうすい板は夏の日照りで既に反りかかった部分も出ていた。その貧弱な小舟艇の数《すう》隻《せき》が舫《もやい》綱《づな》につながれ、岸壁の石段のあたりで、湾内を航行する内火艇などの艇尾の余波に押し寄せられ、不《ふ》斉《せい》一《いつ》に揺れ動いていた。私は何だかひどく落胆した。これが私の終《つい》の命を託する兵器なのか。思わず何かに裏切られた思いになったのがおかしかった。自分の命が甚だ安く見積もられたと思った。というより、果たしてこのように貧相な兵器で敵艦を攻撃し相応の効果を挙げ得られるだろうかという疑惑に覆《おお》われた。既に私たちは命を投げ出す決心をしたのだから、それに見合った、検討を重ねた末の充分に装甲された効果甚《じん》大《だい》な兵器が与えられて然《しか》るべきではないか、と思わないわけには行かなかった。何だか精一杯力んでいた力が抜けて行くふうであった。それもしかし今更詮《せん》のない話だ。私の運命はしっかりと固縛されたも同然であった。だから結局は目前の兵器で満足しなければなるまい、という考えに傾いて行った。既に命を捨てた以上、どんなおかしな状態にぶつかっても愚図愚図した態度は取るまいと思おうとしたかのようだ。そうなるとたとえ一目見て気に入らなかった兵器でも、よく観察し、努めて親しんで行かなければならなかった。出来の悪い子供に不《ふ》愍《びん》が一層加わるようなものであったかも知れない。というより気がすすまぬひととの結婚を承諾した気分に似ていたといえようか。といってもこの兵器に搭《とう》乗《じよう》して敵艦船に体当たりしなければならぬ自分の運命を避けることなど考えてもみなかった。結局水雷学校に居た一箇月余りのあいだ、私は〓艇をただよそ目に眺《なが》めていただけに終わった。内実は〓艇程の簡易な兵器の製造でさえ、予期したようには進《しん》捗《ちよく》させ得なかったのだろう。その結果、その気で逸《はや》っていた特攻の将校要員の多数を、一箇月余りも組織化せずに遊ばせて置くことになった。資源と資材の乏しい現実がからみ合ってすべての作業はうまく噛《か》み合わず、かえって無《む》駄《だ》を発生させ、随所に歪《ゆが》みを生じていたようであった。当時の私はそんな事情は察知できず、ただ怪《けつ》態《たい》に思うばかりであった。なぜどんどん事を進めないのだろうか。旅順の基礎訓練でもその後の魚雷艇訓練でも、一日を争う程に先を急いで教育が進められたのではなかったか。しかしそう思いつつも、実の所内心私はほっとしていたのだ。つまりそれは特攻出撃のX日が順送りに先に延ばされることを意味したからだ。戦況が逼迫し、急に〓艇の出撃が要求されても、今の状態では即刻の対応を取ることができないことはわかりきっている。たとえもし直ちに艇が与えられたにしても、部隊の編成、訓練、出撃基地への進出などを考えれば、両三日ぐらいで片がつく事態ではなく、一週間や二週間、否一箇月以内にでも特攻出撃の命令を発する可能性の無いことに気づかないわけには行かなかった。もっともその時の私には出撃の際の基地の状況は想像もできずにいた。そら、お前は〓の特攻要員だ、と押し出され、闇《やみ》雲《くも》に突っ走って水雷学校にやって来ただけの有様で、どんな戦闘にも、相当の計画と準備とその間の生活が付随することに考え及ばなかった。特攻要員と決まったからにはどれ程の間も置かずに突っ込むつもりになっていた。  周囲の雰《ふん》囲《い》気《き》もその気分を助長したと思う。あれは着任して間もない頃のことだが、既に仮に組まれた部隊の指揮官の中で先任の海兵出身の大尉が、後続の私たち予備少尉を引率して海軍士官専用の一軒の料《りよう》亭《てい》に繰り込んだことがあった。海軍には新任の少尉を、同じ部署に居る若手の上官が率先して料亭に連れて行きその遊び方を教える風習があった。私たちの中には入隊前の学生生活の中で既に料亭遊びを経験した者も居なくはなかったが、任官はしたもののまだ特修学生として大村湾の入江の周辺で魚雷艇訓練継続中の時点でそのようなことはなかったから、いわば任官後はじめての通過儀礼を受けたかたちになった。横須賀の何という料亭であったか。宏《こう》壮《そう》な二階屋の構えで、数多い部屋があった。先任大尉を上座に据《す》えた私たちは意気軒《けん》昂《こう》たるものがあったが、既にその時に私の耳はX日は八月の某日だ、と誰かが言ったのを聞いたのだった。その大尉が言ったとも思うがはっきりはしない。X日とは即《すなわ》ち〓出撃の日のことだ。とするとあと一箇月しか猶《ゆう》予《よ》がないな、と私は思ったのだった。しかし既に心を括《くく》ったつもりの私に、その日がいつであろうとかかわりがない気持であった。出撃現場の具体的なイメージを描くことなどとてもできなかったのに、それは侵すべからざる輝きに満たされていた。命を賭《か》けての行動を妨げ得るものなどある筈がないと考え、かたちを成さぬまま光はじける栄光に包まれていてまぶしかった。ただその時限り自分を取り巻くすべての現実が全くの無に帰してしまうという底知れぬ暗黒をふと肌《はだ》に感じ、居たたまれぬ恐ろしさに襲われるのも防げなかった。それを打ち消すかの如《ごと》く、私は〓艇の高速の恍《こう》惚《こつ》や十字砲火の叫喚による麻《ま》痺《ひ》を考えようとした。つまりは異常な興奮の高まりの極みに敵艦諸《もろ》共《とも》に爆砕して果てることを期待したのだ。ふとあの岸壁に繋《けい》留《りゆう》されたみすぼらしいただのモーターボートの姿をちらと思い浮かべながら。その時の私からは部隊構成のことなど脱落し、まるで出撃の日に突如としてそのすべては現前するとでも思っているかのようであった。大尉はまた私たちにいずれ参謀肩《けん》章《しよう》をつけることが許可されるだろう、とも言った。もっとも敗戦までそのようなことはなかったが、あの縄《なわ》のよじれとしか見えぬ黄金色のモールを、どこかくすぐったい気持は抱きつつも、自分の軍服の肩につけて町なかを歩くのも悪くはないと思う気分がおさえられなかった。その宴席では、私たちの気分をあおりたてる何か華やいだ調子が感じられた。私は特攻死までは厳格な鍛錬に追われる禁《きん》慾《よく》的な日々だけを予想していたが、その場の雰囲気の中には、特別な任務をひそかに背負った私たちの前に禁じられた何物も存在しないかのような甘いささやきがたゆたっていた。仲間の一人は、「われらのゼロ・フォアに乾杯!」などと大声で叫んだりした。それが〓の言い換えであることは明らかにわかった。彼は日頃海軍の高官を身近な親族に持つことを口にしていたので、そのもたらす情報は的を射ていると思われていた。X日が八月中だと言ったのも彼であったか。しかしそれらの軽率な態度でさえ否定されるような雰囲気ではなかった。むしろそれをあおりたてる煽《せん》動《どう》の気配さえあった。たとえそこが海軍専用の料亭であるにしろ、芸《げい》妓《ぎ》や仲居たちの中にそのつもりで聞き耳を立てる者が居れば、この若い士官のグループが特殊な軍機部隊の要員にちがいないことは容易に察しがついた筈だ。そこでゼロ・フォアなどと鍵《かぎ》の言葉が与えられれば、謎《なぞ》は一気に解けてしまうだろう。女たちの口を封ずることはできることではない。しかしいずれ死に行く者の多少の放散な態度は許されるべきだとする趨《すう》勢《せい》が支配的であった。若さにまかせての酒の痛飲もそれを助長した。どこに行ったのかいつのまにか仲間の数が減っているのに気づきながら、私は気持がふっ切れずに座を立ちかねていた。私には気を許した仲間は居なかった。大勢が自分の立場を自負する勢いを身につけているのに、私にはそれが欠けていたからかも知れない。年齢も数えで二十八歳、平均の二十四歳をかなり越えていたし、どことなく分別臭い暗い感じで受け取られていたように思える。徒党を組んで出歩くこともなく、そこに行くのが好まれた水交社にも足を向けたことはなかった。自分を海軍将校として見ることにためらう気分が除けなかったのだ。やがて私はなお居合わせた仲間と酔余のまま広間からどこか小部屋の方に流れて行ったが、その日はなぜか客が少なく空いた小部屋が目立って、無人の大屋敷の気配が感じられた。既に惰性で盃《さかずき》を重ねるだけの状態であったから、小部屋に移ってからは何を話したかもわからない。どんな経緯があったものか一座の中に先任大尉もまざっていた。私は彼に近づくつもりはもともとなかったから偶《たま》々《たま》そういう結果になったまでだ。その以前も私は彼と直接話を交わしたことはなかった。だからその時も端っこで目を光らせ黙って飲んでいたと思う。誰であったか、近くの部屋で技術士官が飲んでいるぞ、という情報をもたらした。小用にでも立ったついでにそれと知ったのだったか。すると一座は、すわ、とばかりに立ち上がる気配を示した。あいつらはけしからん、とっちめてやりましょう、と息巻いて大《たい》尉《い》を誘うふうに言う者が居た。実のところ私には何のことかわからなかったのだが、既に周知の情報が行きわたっていてそれが技術士官に向けられている気配だけは察しがついた。その前後を知らぬのは私だけといった感じがあった。仲間の多くは先行の指揮官たちに近づき、雑談を取り交わす中で〓艇にかかわるさまざまな情報を吸収しようとした。ところが私はといえば与えられた詰所の事務机を離れることは少なく、直接の命令や指示を待ち受けるほかには自分の取る姿勢がないかのように日を過ごしていた。あの一箇月のあいだ私は何を考えていたのだったか。胸の奥では、特攻を志願した自分のいずれ必ず死に直面する実相に対し、真の覚悟ができずにぼんやりしていたのかも知れない。一応部隊未結成のままの一個艇隊を預かってはいたが、年配の先任下士官が取りしきっていて私は何もしなくていいようであった。私の生活はまるでどこかの官庁の事務職員と変わらなかった。仲間たちが自分の位置を確立しようと貪《どん》慾《よく》に動き廻るのをよそ目に、私は束《つか》の間《ま》にちがいないおだやかな日々をむしろ奇貨として、休息を貪《むさぼ》っていたことになろうか。私は特攻出撃の日をできるだけ先に延ばしたかったのだと思う。だから技術士官を目にしても何の感慨も起こりようがなかった。先行の指揮官や私たち仲間のあいだでは恐らく〓艇のデータについての欠点や問題点が指摘されていて、それは既に常識となっていたのだろう。そのために酔った目で技術士官を見た時、或《あ》る怒りが湧《わ》き立ってきたにちがいない。海兵出身の大尉は、よし、その場に案内しろ、と頼もしげに言い放った。私たちは(といっても仲間は三、四人だったが)、どやどやとなだれ込む感じで技術士官の居るという部屋に押しかけて行った。三人ばかりの男が、上衣は脱ぎ白いシャツの袖《そで》をまくりあげた姿で静かに酒を酌《く》み交わしているのが認められた。私は彼らが中年のサラリーマンのように見えた。同じ海軍士官とはいっても、所属の科のちがいによっては差別の感情の淀《よど》むことから免《まぬが》れ得なかった。兵科の士官だけに将校の名称が許されていることには私たちまでが一種の誇りを抱いていた。もっとも予備学生出身の将校はその中でなお軽んじられる傾向にあったのではあるが。だからその技術士官たちの年配から見て、おそらく上級の士官であることは見て取れたのに(咄《とつ》嗟《さ》のこととはいえ脱ぎ置かれた上衣の階級肩章さえ確かめなかった)、ひるむ心が殆《ほと》んど起きてこなかったのだった。むしろこちらの不作法がなじられて然るべきであったのに、彼らの方に怯《おび》えを伴った動揺が見て取れたのが私には意外であった。しかも私たちのがわの大尉は特攻隊要員であることを名乗った上でだが、のっけから〓艇の欠陥について一つの質問をなげかけ、それは技術士官の怠慢ではないか、と語気を荒げてつめ寄ったのであった。具体的に〓艇のどの部分の欠陥を突いたのか、私にはわからなかったのだが。私は〓艇を遠目に眺めていただけで、機関の点検も運転も試みておらず、まして炸《さく》薬《やく》である〓兵器がどんな形のものかさえ知らなかったのだ。事の勢いから〓艇の欠点を指摘してその責任を問うているのだろうくらいに思っていた。或いは製造の遅延をなじっていたのかも知れなかった。後者の理由なら、そのために部隊も組めずに少しも特攻要員らしくない無駄な日々を送っている当面の現実から、私にも察しがついたのだった。技術士官たちは彼らの立場からの苦衷を披《ひ》瀝《れき》していた。その態度は甚《はなは》だ真《しん》摯《し》ではあったが、どことなく弱々しさが先立っていたのが、私には解《げ》せなかった。なぜもっと強く内実を主張しないのか。もっとも私たちに荒法師めいた乱暴な態度のあったことは否めない。名乗りによって彼らが技術大尉であることは既にわかっていた。海兵出身の大尉を除いてはまだ少尉になったばかりのしかも予備学生出身の私たちが、彼らにくらべどんな優位に立てたろう。つい十箇月ほど前までの私たちは彼らのがわの世界に居た。たかだか一箇年足らずの兵科訓練をくぐって来たに過ぎないのに、何やら彼らの行為をなじるような振舞いに出ていたのは笑止といえた。ただ海兵出身の大尉の威丈高なそれを楯《たて》にしていたことににがい酔いはあった。本当は私に仲間と行動を共にするどんな理由もなかったのに、私はその場を離れなかった。海兵出身の大尉は欠陥のある兵器しか作れなかったことを認めるかと技術大尉たちに詰め寄り、彼らはそれを認めた。彼らは屈辱をかみしめたふうな冴《さ》えない表情を辛《かろ》うじて支えていた。私は何かいたましいものを感じた。彼らはいずれ組織の末端で限られた能《あた》うかぎりの仕事しかできなかったろう。しかしたまたま戦線の先端に飛び出そうとしている特攻要員の若い将校群につかまってしまったのだ。日ならずして、彼らとて責任の一端に連なるべき兵器に搭乗して死に突っ込む若者たちを前にし、彼らはどんな言葉が用意できたろう。彼らはただ静かに状況の不《ふ》如《によ》意《い》を説明するほかはなかった。しかし私たちのがわの大尉は容赦はしなかった。不備な兵器でしか死んで行けないこの若者たちに手をついてあやまれ、と言った。彼らは並んで正座し、申しわけない、と言って頭を下げた。しかし〓がわの大尉はそれでは満足せず、私たちに、この技術士官たちに修正を加えろ、と言った。修正とは殴ることであった。どんな理由があったにしろ、上官を殴るのが許される筈《はず》はあるまいと思い、私は思わずひるんだ。〓がわの大尉は彼らに向かい、異存はあるまいな、と念を押した。彼らは顔面を痙《けい》攣《れん》させつつも異存がないと言った。〓がわの大尉は、「掛カレ」、と私たちを促した。私たちは代わるがわる上官である技術大尉たちを殴った。彼らは殴られるままに私たちをじっと見ていた。殴った私の腕に何かが逆流してくるような変な感触があった。はて、しかし私はその時本当に彼らを殴ったのだったか。勢いづいて殴りかかる仲間を眺めながらじっとしていたのではなかったか。そのどちらであったかを、しかと覚えていないのはどういうわけだろう。殴られた彼らはこのことを恐らく忘れることはあるまいに。いずれにしても仲間に加わってそこに居た私は殴ったことと変わりはなかった。あと味の悪い感触が私をおびやかした。それはもしかしたら後日上官侮辱のかどで罪に問われるかどうかを心配したからではない。その点についていえば、たとえそうなったとしてもどうということはない気持だった。恐らく特攻出撃を目前にした者には厳しい処分は猶予されるだろうと高を括るところもあった。特攻死によってすべて相《そう》殺《さい》される、などと思っていたかどうか。私は本当のところ海軍の仕組みも〓艇の実体も具体的には何も知らなかった。宴席の勢いのまま仲間と行動を共にすることになった。海軍の中《ちゆ》枢《うす》部《うぶ》につらなっていると考えていた海兵出身の大尉が誘導していることへのもたれかかりもあった。その曖《あい》昧《まい》さの中で行動した自分がすっきりしなかった。技術士官たちの、鬱《うつ》屈《くつ》した何かに怯《ひる》んだ受身の表情は私をおびやかすに充分であった。しかし私の内がわの反応がどうであったにしろ、私たちはその場を意気揚々と引きあげた。もやもやしたものがとれ、いつ出動を命令されてもいいという構えができた気分になった。  とにかく水雷学校付としての一箇月余は誠に中途半《はん》端《ぱ》な期間だったから、思い起こせることはすべて輪郭が定《さだ》かでなく、夢での経験のようにあやしげだ。先の技術士官とのいきさつなど、最も印象づけられた唯《ゆい》一《いつ》の事件といってもいいくらいだ。他《ほか》には三、四度程東京や横須賀の町に外出したろうか。既に任官していただけでなく、特修学生の教程も卒業し、いわば士官として一人立ちの水雷学校付になっていたのだから、勤務時間外の外出など自由であった筈なのに、なぜか学生期間と同じ日曜だけに外出をしていたような感受が残っているのは、或いは私たちには特別処置が施されていたのだったろうか。もっとも外出しても行く所とてなかったから敢《あ》えて控えていたのかも知れないが。一度ひとりで浅草界《かい》隈《わい》に出たことを覚えている。この世の見納めに下町の雑踏を目にして置きたかったのだろう。天気が悪くて時折小《こ》雨《さめ》も降った。町なかの人々は戦争も知らぬげに行き交っていたが、町も人も色《いろ》褪《あ》せて寒々と見えた。やがて特攻で突っ込んで死んでしまう青年が今ここをさまよい歩いているぞ、と思おうとしたが昂揚した気持にはなれなかった。ただ何やら切なく閊《つか》える物が胸のあたりを塞《ふさ》いでいた。いたずらに町筋を歩いただけでひどく疲れた。その夜は上野駅前の小さな旅館に投宿した。調度のない四畳半の部屋の中で、私はうらぶれた気分に抑えつけられるようであった。残り少ない日々をこんなつまらない使い方をして何ということかと頭の隅《すみ》で思っていた。とにかくそんな具合に外泊ができたのだから以前のような制限はもう無かったかも知れないが、外出してみても、一種の乾きに似た胸のうちの空虚は満たされることはなかった。  まるで勤務など何も無かったような、大《おお》凡《よそ》が忘却の底に沈んだ日々の中から、二つの体験が、濃霧の中の立木を見定める程の不確かさで浮かんでくる。どちらも行船にかかわるものだ。私は副直将校に立っていたらしい。或る将官が横須賀湾内の軍艦に出向くのだという連絡を受けた。副直将校の私は内火艇の艇指揮をつとめて彼をその軍艦まで届けなければならない。しかしそれにはそれだけの準備が必要だろう。さて、私は副直将校の象徴としての小さな革《かわ》鞄《かばん》を肩から腰にかけていたのだったか。それさえ思い出せぬ程に海軍のしきたりに無《む》頓《とん》着《ちやく》であったが、しきたりをはずしては何事も勤め了《おお》せることでもない。私は必ず革鞄を斜めに吊《つ》るし、当直将校を助けてさまざまな準備に駈《か》けずり廻《まわ》っていた筈だ。まず内火艇の準備だ。ところで内火艇には練達の下士官が艇長として乗り込んでいる。艇指揮に当たる私が、予備学生あがりの新任少《しよ》尉《うい》であることなど彼は先刻承知といわなければならぬ。彼は未熟な艇指揮の号令通りに動けばとんでもない事故を引き起こすぞと腹を括《くく》っているかも知れない。私の仲間の一人は自分の号令と艇の動きが殆んど一致しなかったのに、内火艇は無事目的の岸壁に達着したと言っていた。艇長に一言、ネヤス(願います)と言っておけばいいんだよ。そう言った仲間の言葉にさえ私は胸の鼓動が高鳴りがちであった。自分はどんな崩れた姿勢を作ってその一言を下士官である艇長に向かって言えばいいのかと思うと、むしろその方が一層の難関と思えた。それに将官ともなれば船室に敷く敷物の色も定められているし、その人の乗艇を示す旗も用意しなければならないのかな。それらを一体どこに交渉してどんなふうに運びこんだらいいのか、など気がかりは一杯なのに、誰《だれ》彼《かれ》に気軽にたずねることにも気が塞ぎ、とにかく内火艇を見ておこうと岸壁に出て見ると、当の内火艇は既に岸壁に接岸しており、艇員の水兵がしきりと外装の手入れ中で、船室内をのぞくと所定の色の敷物が早々と敷かれているのが確かめられた。何だこういうことだったか、といくらか気持が楽になった私は、艇長を呼び、副直将校のS少尉だが、願いますよ、とどうにか軽口がきけたのだった。あとは予《あらかじ》め通達されていた時刻の五分前に岸壁に立って某将官の到着を待つだけだ。定刻に従員をしたがえた彼がやって来る。私は緊張した敬礼の姿勢のまま、S少尉、艇指揮を勤めますなどと申告したのだったか。彼が船室に乗り込んだのを見届けてから、身軽に乗り移り、前方が見通せる、操《そう》舵《だ》室《しつ》の背後の立台に立って、伝声管から中の艇長に号令を伝えるのだ。出港用意、機関発動、表《おもて》離せ、前進微速、オモーカージ、モドーセ、ヨーソロ。ところで、私は果たしてそんなふうに内火艇の艇指揮を勤めたことがあったかどうか。勿《もち》論《ろん》海軍士官である限りは当然の勤務内容のものだからそれは日常茶飯の事に過ぎないが、任官と同時に特殊な任務を背負った私たちは、万事変則な過程を歩ませられてきたので、新任少尉として当然勤めなければならぬ当直や分隊隊務も、勤めずに済んだ傾きが無いではなかった。だから艇指揮勤務の緊張も、なるべく避けていたいと願った思いがかえってなまなましい具体を描き出す結果となって、まるで実際に体験したかのようにからだに刻みつけられてしまったのかもわからなかった。  さてもう一つの体験は、律動に似た体感の名残りがなお一層強いのだが、実際には内火艇の艇指揮を勤めるより可能性は少なかったかも知れない。何という艦種の船であったか、恐らく三、四百噸《トン》は排水量があったと思える船の達着時の行船指揮を勤めた時のそれだ。予定された訓練過程のものではなく、偶《たま》々《たま》突発的な機会が利用されて私たち予備少尉の行船の技量が試される成り行きだったように思う。二十噸ばかりの魚雷艇しか経験のない私たちにとって、三、四百噸の船は、図《ずう》体《たい》の巨大な手に余る存在として目に映った。艦橋に立つとその位置は殊《こと》の外《ほか》高々と聳《そび》え立つようで、はるか先方の舳《へ》先《さき》の尖《とが》りが恐ろしく、その外がわの真下に、そそり立つ断《だん》崖《がい》に似た高さを隠し持っているというめくるめきを覚え、既に私の耳は間合いを取りそこなって達着に失敗した船体が、がりがりきしみつつ岸壁にめりこんで行く音を先取りして聞き取っていた具合であった。それでも東京湾内の航行中は面《おも》舵《かじ》や取舵の号令も比較的のんびりと繰り返していればよかったが、横須賀港内にはいると、行き交う艦船が殖えそれらを縫っての指揮は次第に緊張の度を増さざるを得なかったが、まだ番の廻ってこない者にとっては、最終の埠《ふ》頭《とう》の岸壁達着の時に自分が当たるのではないかという恐れが、大きな圧迫となってのしかかっていたのであった。最悪の状態は自分の所にやってきて、私は遂《つい》に着岸の指揮の番に当たったのだった。既に犠牲の祭壇に載せられた生き物と変わらず、どうあがいてものがれられぬと覚悟が決まれば、それなりの度胸はおのずから湧いてくることがやがて私にわかってきた。ぶつけたらぶつけたまでのことだ。恐らくは訓練のためだけで艦艇を破損する状況をみすみす見過ごす事例もあるまいから、私の号令の間合いが悪ければ、指導の教官がそのまま放置することはない、とでも思ったのだったか。私は思いのほかに大胆な号令を下していて、原速で走っていた船に、前進微速の号令をかけて速力をおとし、ついで停止、後進、停止、と全く祈る思いで追いかけつつかけた号令が、嘘《うそ》のように船を順調に動かし、ぴたりと岸壁に接岸させることができた。それは実に快い感触であった。なんだ、二十噸も四百噸も変わりがないではないか、などと気持が大きくなったのだが、本当に私はそれだけの噸数の艦船の達着号令をかけたのだったかどうか、これも又実際のところははっきりしないといわなければなるまい。或いは私の夢の中での行為だったかもわからず、いずれにしてもそれだけの大きさの船を動かし得たという体感は、あの時期の私の僅《わず》かな体験の名残りとして、残っていることに変わりはないようだ。  海軍水雷学校付のあいだ、私に〓艇とのかかわりが全然なかったわけではない。もっとも直接〓艇とのかかわりではなく、分隊隊務的な面でのそれに過ぎなかったが。奇妙というほかはないがそれは事実であった。背後には恐らくそれだけの事情があったのはまちがいないが、それが私たちにまでは伝わらず、いぶかりつつも、その束《つか》の間《ま》の安らぎを享《きよう》受《じゆ》する結果となっていたのは致し方なかった。X日が八月中だと暗示をかけられ、当座は死に急ぐ気持に傾いたのに、落ち着いて考えれば、特攻出撃が直ちに可能となるための準備がととのえられるまでには、かなりの日数が与えられなければ叶《かな》わぬ筈であった。ということは、その猶《ゆう》予《よ》の期間だけまだ私は生きていることができる保証となったといえよう。それはどんな権力を掌中にした人でも奪うことはできないものだ。だから私はむしろその曖昧な状態の期間がいつまでも続くことを願わなかったとはいえなかった。分隊隊務的なかかわりというのは、前にも少し触れたが、一個艇隊の下士官兵十四名を預かったことだ。しかしそれが一向に要領を得なかった。私はその隊員たちの艇隊長の筈であった。いや、その時期はまだ小隊長と呼ばれていたが、私は彼らと一度も訓練を共にしたことがないだけでなく、それまでに訓練を受けたことがあったかどうかについてさえ彼らに訊《き》きただしもしなかった。だから彼らの毎日がどのようであったかなど知ることもなかった。その時の私は特攻部隊にかかわる諸事万端はしかとかたちをととのえ、ただそれぞれの指揮官の着任を待つだけの状態とばかり思っていたのだったが、用意など何一つとしてできてはいなかった。私が預かった十四名も、〓艇要員として発令され水雷学校に参集したものの、肝心の艇の操縦訓練さえ施されぬまま、雑多な使役に廻されていたにちがいなかった。既に仮部隊を組んで訓練に取りかかっていた先行の二個部隊にしても、充分な練習艇が与えられていたかどうかはあやしいものであった。〓艇の部外向けの名称は震洋艇であるが、その名もその時定まっていたかどうか。私は与えられた艇隊員と接触することに或る恐れを抱いた。私は当初飛行科予備学生を志願したが、それは飛行機乗りなら集団の軍隊生活が免《まぬが》れると錯覚したからだ。結局は兵科に廻されて経過してきた。さて愈《いよ》々《いよ》〓艇の艇隊長の地位が与えられてみると、私にはその初心の恐れが再び頭をもたげてきて、なるべくならそのかかわりを避けていたいと思ったのであった。幸か不幸か状況がそれを私に許した。一個艇隊の人数はそろったものの、訓練の手段が整わぬまま、私は艇隊員とじかの接触を持たずとも先任下士官とだけ連絡を保っていればよかったからだ。仲間の中には預けられた自分の艇隊員と積極的な接触を試みようとした者も少なくなかったから、或いは隊員名の覚え込みに努め、体操の指導をしたり、又隊員を個々に詰所の事務机に呼び寄せて身上調査などを施し、何かと艇隊長としての影響を滲《しん》透《とう》させようとした。しかし彼ら下士官兵には予備学生出身の新任少尉を疎《うと》んずる傾きがあって、その態度を露《あら》わにすることも隠さなかったから、その傾向にいらだつ仲間の中には、腕力で解決しようと試みる者も出始めていた。それは私たちが基礎訓練或いは魚雷艇学生や特修学生の時に教官たちから受けた修正と称する殴打による矯《きよう》正《せい》手段を忘れてはいなかったからだろう。いってみれば、私たちは既に特攻要員の身分に組みこまれていたにしても、日々の軍隊生活の中では、集団のにんげん同士の普段のかかわりを無視するわけには行かぬことにやっと気づいたのだといえる。そこではやはり世間事の様相が除外されることなく重なっていた。しかしその世間的な経験さえない、そして更に基礎や術科訓練期間が極端に短縮された結果軍隊の熟練度さえ未熟な私たち予備学生出身者にとっての唯《ゆい》一《いつ》の拠《よ》り所は、少尉たる階級の誇示しかなかったといわなければならぬ。勿論結局は入隊前に受けた教育や人《ひと》柄《がら》にやがて頼らなければならぬことがわかってくるにしても、まず以《もつ》ての艇隊員たちの服従を、自分も体感させられた修正によって誘いこむほかの余裕は起きなかったようであった。それだけでなく外出先で欠礼した兵《へい》曹《そう》長《ちよう》を殴ってきたなどという勢いづいた話題が耳にはいるようにもなっていた。もっとも前線帰りの古参の少尉をうっかり見過ごして「待テ」をかけられ、欠礼をなじられた上で修正を受けたなどという逆の場合も生じてはいたのだが。  その時期の私の気分は甚《はなは》だくすみ込んで、このままで果たして自分は戦闘に臨めるのかという当初からのためらいが一層強くなっていた。そのせいか仲間たちの態度が私には殊更に成熟した確固たるものに映りはじめ、既に一人前の士官の振舞いがすっかり身についたかに彼らが見えていた。教官たちに追い廻されていた頃《ころ》の姿が思い浮かばぬ程の変身で、海軍の事情に未熟で頼りなげな出発当初の危《き》惧《ぐ》は思い過ごしだったかのように思えた。下士官を詰所に呼びつけ大声で叱《しか》り飛ばす態度など、かたわらの私まで緊張させられる程迫力が出ていた。一般に魚雷艇学生に採用された連中は、背丈も大きくてからだの頑《がん》丈《じよう》な者が多かったが、その外観も手伝ってか威丈高な態度をとってもなかなかに恰《かつ》好《こう》がついていた。入隊前の学生時代に柔剣道や銃剣術の選手であった有段者も多く、それだけに力に自信があったことも手伝っていたろう。思わず出るそれぞれの地方訛《なま》りもかえって凄《すご》味《み》が出たが、九州訛りなどは一層効果があったといえようか。私には何やら、時勢に流されて各藩から集まった明治維新前夜の青年群像を彷《ほう》彿《ふつ》と眼前に見る思いがあった。しかし私の気分はなぜか反対にくぐまって行ったのだ。彼らと同じ行動に出るなどとてもできぬわざであった。それだけの勢いが私になかったことは事実だが、そんなふうにではなく、自分のやり方に従ってやっていこうという頑《かたくな》な気持も少しあった。むしろ積極的に緩慢な態度を示そうとしたのだ。だから艇隊員のことは先任下士官に任せっきりにした。それに私は彼らに感ずるひけ目が克服できなかった。彼らの境遇にくらべれば何といっても私のそれが安楽であった事実は否《いな》めないが、私は彼らが立ち向かったようには自分の境遇に立ち向かってはこなかった。流れ寄せられるように容易にそうなったところがあった。しかも彼らは軍人の階級を最低の所から一歩一歩順次に克服しつつ獲得するあいだに、海軍の底辺の実情を内がわから体感してきたにちがいなかった。私がそれに対抗できるどんな具体を持っていたろう。私は情報にうとく、軍服を脱いでしまえば市《し》井《せい》の一学生に立ちどころに舞い戻《もど》ってしまう状態にしか居なかった。偶《たま》々《たま》十箇月余りの短い訓練を中腰で通り抜けてきただけで、彼らを部下とする立場を与えられたものの、彼らが動かなければ何事も押し進めることはできなかった。彼らは海軍の基底の広がりの中で、実務の生活を中心に居て動かしているにちがいない、と思うと背筋が冷え冷えとしてくるようであった。それは半ば私が肥大させた想像にはちがいなかったが、私を牽《けん》制《せい》するには充分であった。さて身近に接触した彼らの実体は、私が考えていた海軍兵とは必ずしも趣を同じにしていたのではなかった。軍艦の甲板や階段を機敏に動き廻る軽快な挙措がなぜか感じられず、態度にどことなく横着な翳《かげ》りが見られた。或《ある》いは特攻兵としての将来に希望を失い投げやりな気分に包まれているのではないかとさえ思えた。私の艇隊の先任下士官が既に若さを失なった中年の年配者であったことが、私の当初の気合いをくじき、ほかの艇隊員までをみんな世《しよ》帯《たい》苦《く》の染《し》みついた世間人のように映しだしたのかも知れなかったが、特攻要員に組みこまれたことを不本意と思う者も居て、全員が荒れ気味であることは察しがついた。酒保も含めた給与は一般にくらべてずっと良いといわれていたから、酒を飲む機会が多かったからかも知れないとも思った。まだ厳しい訓練にかかってもいない前に給与だけが先に過分に支給された感じもないではなかった。中でもそれら支給物品の管理にあたる倉庫係の下士官は、ひどく傲《ごう》慢《まん》な態度を示した。背丈がある上に骨格も太く、肉の厚い面《おも》高《だか》の顔付で、或いはからだのどこかに刺《いれ》青《ずみ》が見出せるのではないかと思わせる雰《ふん》囲《い》気《き》を持っていた。先任下士官も彼には一目置いているふうで、ひどい時は日中でも酒気を帯びた気配があった。予備学生出身の私を蔑《ないがし》ろにした態度も隠そうとせず、特攻要員で而《しか》も倉庫を預かる立場を利として、その出《すい》納《とう》についてはまるで自分の所有品を扱うふうに気《き》儘《まま》に采《さい》配《はい》を振るっている口振りももらしていた。私は甚だ厄《やつ》介《かい》な隊員を預かったものと思わないわけには行かなかった。彼をどのように扱えばいいのか。私は海軍の分隊生活は全く経験してはいないのだから、その仕組みに暗く、倉庫係がどんな職権を持っているのかも見当さえつかなかった。とにかく彼が、部隊未結成の曖《あい》昧《まい》な状態のあいだを最大限に利用していることは凡《およ》その察しはついた。私はいわば分隊長の補佐役たる分隊士の役割であるが、確かな発令がなければ、どこまで隊務に介入してよいのかわからなかった。もっと自分の地位が固まった上で、と当面の不《ふ》明《めい》瞭《りよう》な部分はしばらくそのままにして置こうとでも思ったのだったか。私は彼を服従させる体験のないことが残念だったが、一応の身分の上位を利用して押さえつける気持は持ち合わせなかった。或いは仲間の何人かが示したように、いきなり大声を出して彼の非を指摘するのも一つの方法だとは思いながら、それを敢《あ》えてする弾みがつかめなかった。たとえ勢いのままに一時はその手段に踏み出せても、そのあと同じ状態を引きついで持続させることができないのはわかっていた。恐らく軍隊の中でなければ殆《ほと》んど彼に立ち向かうことなどできないにちがいないと思うと、妙にためらう気分が除けなかったが、とにかく軍隊の中でのかかわりの御《お》蔭《かげ》で、鞠《きつ》躬《きゆう》如《じよ》とした姿勢とはいえなかったが、一応は上官の私にした手に出ている彼を見るのは、どことなくおかしかった。食べ物でも私に要求があれば、何でもすぐに作ってくることができると彼はほのめかしていた。果たしてどんな形の倉庫がどこにあるのかなど確かめる気は起きなかったが、私は白壁の土蔵に似た物品収納庫がどこかにあって、そのようなもののある筈《はず》はないが、とにかく彼はその入口の鍵《かぎ》を保管し、その出し入れにはかなりの裁量の余地が与えられているのだろうと想像していた。だから彼の体格が中年太りを思わせる贅《ぜい》肉《にく》がついているのは、多分規則の適当なくぐり抜けの結果、余計な太り方を背負いこんだにちがいないと思っていた。先任下士官や倉庫係、そしてそのほかの艇隊員にしても、もともと海軍での生活を望んで入隊した志願兵で、入隊前にはそれぞれにたとえば農家の次、三男とか、大工や職工など労働仕事に従事した者が多かったが、以前の職の気配をすっかり払《ふつ》拭《しよく》しているわけでもなかった。恐らく私たちが速成の将校であるのと同様に彼らも充分な基礎訓練を重ねないままに進級してきたかもわからないのに、私はそれに一向気づかなかったのだ。いずれ部隊の組織が確定し、〓艇の訓練にはいるようになれば、共々同じ初心者として立ち向かうのだから、彼らにどれほども引けを取ることなく、指揮官としての私の位置は自《おの》ずと定まってくるだろう、と私はその時をゆっくり待つつもりになっていたし、軍隊階級の差によってではなく、別のやり方で彼の横着な態度も攻略できるのではないか、などと考えていたのだった。  仲間たちの艇隊に、いくらかきびきびした秩序があらわれはじめても、私の艇隊はその気配をなかなかに示さなかった。私のやり方は軍隊の中では適切でなかったろうか。艇隊員たちも一向に私に気持を寄せようとはしなかった。やはり伝統的な荒っぽい習慣に頼るのがよかったのかと迷いを抱きはじめた時、私は再び川棚の臨時魚雷艇訓練所へ新たな所員としての転勤命令を受けた。私はその場所でいよいよ確定的な部隊の編成が期待できるだろうと思って気持を新たにすることができた。それでなくても転勤は、馴《な》れて単調を覚えだした生活からの脱出の趣があって、歓迎すべき事態ではあったが、その時期の私は、どこに力を入れてよいかわからぬ状態の中でかりそめの艇隊員との間合いもうまく取れずにいたのだから、その命令には飛びつく思いをしたのであった。しかも転勤先は勝手のわかった九州である上、軍隊伝統はうすく、美しい自然に囲まれた長崎県大村湾岸なのだから、気持にくつろぎも保て、私はいささか活気づいてきたのだ。恐らく私はいそいそとしていたにちがいなく、艇隊員と別れることにも別段の感情は湧《わ》かず、むしろ新任地での新規編成の隊員との改めてのかかわりを期待する心づもりの方が強かった。すると思いがけないことに、艇隊員たちが私に惜別の気持を寄せているらしいことに気づいたのだ。わざわざやって来て、その出身地が私の本籍地の福島県相馬郡に近い場所であることを伝える者も居た。そして転勤に際して必要だろうからと衣類や手廻りの品物を入れる木の箱を、私は断ったのに全員で作りあげてしまった。それらの経緯は私に目を見張る思いを抱かせた。軍隊は軍務だけが行なわれる場所でもなく、もしその意志があればたいていのことを立ちどころに出現させ得る可能性も内包しているようであった。特攻兵だけの十四名の艇隊員が、どのようにして転勤箱の材料を集め、工具をはたらかせて作り出したものか。ところで出来上がった白木の箱を彼らが誇らしげにかつぎこんだのを見た私は、思わず息を飲んだのだ。なぜならそれが形の小さな柩《ひつぎ》に見えたからだ。彼らの厚意を受け入れるつもりになった時、恐らく海軍内の慣習による形式があるものと考えてどんな注文も出さずにいた。しかし出来上がったものを見ると、いささか大き過ぎるだけでなく、何事も簡素を旨《むね》とする軍隊向きのものではないように思えた。どことなく周囲にそぐわぬ大きさがあって、蓋《ふた》の部分に飾りまでついたかなり念入りな頑丈な一個の櫃《ひつ》、而もどことなく死体を入れる棺を連想させる白木の櫃が出来上がっていた。ふと死を目前に控えた私に覚悟を促す前兆かとも思い、気持の引き締まるのを覚えたのだった。彼らは果たして私の命令に従って私と共に敵艦に突っ込むつもりになっていたのだろうか。私が自分の性格を越えることは容易でなく、そのままにあらわれていたのは致し方ないが、それを彼らがどのように受けとめていたのか、私は我ながらわからなくなっていた。きっと自分で管理できると思っているよりもっとはみ出たものを私は表現していて、究極のところ彼らはそれに対応しなければならなかったにちがいなかった。私がやっとそのことに気づいた時は、私は彼らと別れて転勤する事態となっていた。私はもっと積極的に彼らと接触してその中にはいろうとしなかったことに淡い悔いを抱いた。しかし結局それだけのかかわりだったと思うほかはなかった。私の気持は既に川棚に動いていた。遂《つい》に未熟でくすんだかかわりしか持てなかった、いわば最初の部下となった十四名のそれらの艇隊員と私はあっけない別れを告げた。川棚に赴任するに当たっては、それまでのような集団の行動ではなく、各自それぞれの経路をとったので、同じ時期の同所への転勤者が十数名であったことは、あとになってわかった。私たちの運命が奔《ほん》湍《たん》にさしかかる手前のあたりで、少しずつその流れを早めていることはそれとなく感じられたが、誰《だれ》がどの配置に廻《まわ》されるかは互いにそれほど気にならない事態にはいっていた。  昭和十九年八月十六日、横須賀田浦の海軍水雷学校を退所した私は、途中神戸の父と妹、それに福岡の知人を訪ねてそれとなく別れを告げ、十八日、川棚の臨時魚雷艇訓練所に着任した。 第六章 変様  それまでの私は何といっても決意が定まらなかったと言うべきだろう。近い将来明らかに最先端部隊を指揮しなければならぬ立場が定まっておりながら、果たして自分にそのような行動がとれるかどうかに迷いがあった。それは既に少《しよ》尉《うい》に任官し、将校としての身分を得ていながら、なお基礎訓練当初以来の予備学生の習慣がすっかりは剥《はく》離《り》していなかったからにちがいあるまい。  しかし二度目に大村湾岸の川《かわ》棚《たな》臨時魚雷艇訓練所にもどって来て、やがて終《つい》の部隊を組み、基地に進出するための待機のあいだを針尾海兵団で過ごすに至る約二箇月の期間に、私はそれまでとはかなりちがった人《ひと》柄《がら》に変化させられたとしか思えない。それまでは決意が定まらなかった、と書いたが、ではそのあとは決意が定まったのかどうか。身辺が急に騒々しくなって、日常のすべては行動が先に立ち、考えに荒っぽさが加わっただけのことかも知れなかったのに。  訓練所端の岡《おか》の上には相変わらず学生舎が見えていて、われわれを追うように新規に入舎した第二期魚雷艇学生が魚雷艇の訓練を受けており、その中にはわれわれの同期生さえ何人かが教官配置で居残っている筈《はず》であった。しかし私は二箇月のあいだ殆《ほと》んどそちらを意識することはなかった。第二期生が居たかどうかさえいぶかしく思える程に無関心であった。しかし岡の下の、ということは魚雷艇や震洋艇が繋《けい》留《りゆう》され又それらが発着する桟《さん》橋《ばし》のある小さいながら港として整備された大村湾内の入江の一つを取り囲むように広がった、かつては雑草の生い茂った空き地でしかなかった土地には、新しく建設された多数の兵舎によって、私がたった一箇月ばかり見なかった空白のあいだに、以前とは全く様相の変わった世界が展開されていたのであった。兵舎はにわか造りのバラックとでもいうほかはない粗製濫《らん》造《ぞう》の建物で、床なども歩けば撓《しな》ってきしりの音をたてる程のものであったが、岡の上の魚雷艇学生舎とちがって、祭りに似た賑《にぎ》わいと、雑然たる活気があったのが奇妙であった。まず第一に鼻につく異様なにおいから免《まぬが》れられなかったというだけでその状態が容易に想像されるだろう。それは急ごしらえの便所の不備と下水道の不完全な排水装置の結果にちがいなく、又兵舎群の裏がわのあたりは、各分隊の烹《ほう》炊《すい》の後始末の水や食べ物の屑《くず》があたりに溢《あふ》れ出て淀《よど》んだ水《みず》溜《たま》りを作り、いやなにおいを沸き立たせていた。いってみればそこには難民生活の趣さえ存在していた。しかし私はそれを自分に与えられた当然の環境のように受け取ってもいた。漠《ばく》然《ぜん》とではあるが戦局の傾斜が覆《おお》いようもない状態に追いつめられている状況は私にさえ感じ取られていたのだったし、その上期待した特攻兵器の実体を熟知すれば、それに大きな望みをかけることが如《い》何《か》に夢の如《ごと》きものであるかもはっきりとわかってきた。先行きの見当など全くつけようがないとしても、余程覚悟を決めなければならぬ事態であることは予想ができた。いずれにしろここでの生活はその途中の束《つか》の間《ま》の腰掛けのようなものだ。ほんのしばらくの経過を我慢しさえすれば、次の段階への移動はすぐ目の前に待っているのだと思っていたから、当面の環境には何の執着もなかった。それに私の何よりの気休めは、出来たばかりのこの川棚臨時魚雷艇訓練所(既に再度着任の半月ばかり前に川棚警備隊へと組織をふくらませた変《へん》貌《ぼう》を遂げていたのだが)の伝統の無さである。毎日といっていい程准《じゆ》士《んし》官《かん》以上や下士官兵が新規に転勤して来ていたが、そこには海軍生活ずれをした横着さと徴兵されたばかりのおどおどした卑屈さとが綯《な》いまざり、まだ伝統の芽生えさえも見せぬ新規の訓練所兼警備隊の中で奇妙な調和と混乱を見せていたからである。どちらかというと中継地の気楽な自由さとでもいう雰《ふん》囲《い》気《き》があって、たとえば基礎訓練中や海軍水雷学校でのような規律に囲まれた堅苦しさを、それ程感ぜずにすんだ。われわれ水雷学校から再び川棚にもどされた第一期魚雷艇学生出身の震洋隊要員は十五人程だったろうか。当初はバラック兵舎の一郭に居住区を与えられ、海兵出の大尉が監督するかたちで、次々に入所して来る震洋隊員に対する一つの訓練担当者グループを形成していたのだった。ところでその大尉の名前さえ思い出せぬ程、われわれはその環境からは何の束縛も受けなかったといってよかった。肝心の訓練隊員の個性についても、はじめの頃《ころ》はその名前を覚えようともせず、ただ横《よこ》須《す》賀《か》鎮守府在籍の下士官兵であることを確かめ得て、多少ほっとしたことを覚えているだけだ。なぜならいずれ敵艦船に突撃死する際は、郷里に近い地方の特攻隊員と一緒に突っ込みたいなどと思っていたからだ。もっとも私自身両親は東北出身ではあったが、彼らの郷里に住んだこともなく、横浜で生まれたあといくつかの都市を移住し歩いて、どの場所にも故《ふる》里《さと》の意識など持ってはいなかったのに。ただ何とはなしに、耳のそばで父母たちの残し持っていた訛《なま》りに似た言葉を聞きながらなら突っ込んで行き易《やす》いなどと半ば感傷的になっていたのだったろうか。いずれにしろ当時の私は、与えられた日課の予定表に従って一個艇隊(十二隻《せき》)の震洋艇を引率し、小ぢんまりした港を出て行き、大洋というわけには行かないとしても、見たところは広々と感じられる大村湾内を勝手気《き》儘《まま》に走り廻《まわ》って一定時間を過ごしたあと帰港して来るのが毎日の仕事であった。炸《さく》薬《やく》無《む》装《そう》填《てん》の震洋艇は普通のモーターボートとどことて変わったところはなかったから、速力をあげ、若い隊員たちを叱《しつ》咤《た》しつつさまざまな陣形をなぞって海上の諸作業や各種戦闘法の訓練を行なう外見は、一般の若者がモーターボートの集団競技に興ずるのとどんな区別も見つけることはできなかった。ただ一つちがっていた点は、われわれのモーターボートは、やがて炸薬の塊と化してそのまま敵艦船に体当たりをし若い肉と骨と共々にその小さな船体を木《こつ》端《ぱ》微《み》塵《じん》に散らさなければならないという軌道上に乗せられていて、刻一刻とその現場に近づきつつあった運命の軛《くびき》を背負っていたことである。いずれにしろ十二隻の震洋艇が自在に疾走展開するには大村湾は適度に充分な広さを持っていたと言わなければなるまい。つい一、二箇月前まで魚雷艇学生として同じこの大村湾で魚雷艇の訓練を受けていた時の私の目に映っていた対岸の西《にし》彼《その》杵《ぎ》半島や右岸の東彼杵郡の山並みの、何か目に染《し》みるような無常な思いへの触発が、どことなくふっ切れていたことに、私は気づいていなかったようだ。むしろやがて進出する基地では果たしてこのような訓練ができるかどうか、或《ある》いはその景観はこの大村湾周縁とどのようにちがうかなどという、未知の日々への好奇心によって気持が奪われていた。いずれにしても未《ま》だ一度も敵襲に遭遇していない私の訓練は、モーターボート遊びと変わりがなかったといっても差し支えなかったろう。そしていつとなく私の気持からは感傷の部分がどこかに吹き飛んで行ってしまったと思われる。訓練中の私に見聞きできるのは、小さな艇体の割にまるで飛行機とまごう程も高い爆音を立てる機関の音響と、艇尾波が跡づける航跡、それにへまをして予想された陣形をなかなか的確に形づくることのできぬ搭《とう》乗《じよう》員《いん》たちの未熟な恰《かつ》好《こう》だけであった。私は勢い荒々しく声を張りあげて叱咤する結果にならざるを得なかったが、考えてみればつい一、二箇月前までは、魚雷艇の操縦もままならず、魚雷の発射操作に至ってはまるきり飲みこめずに、教官から罵《ば》声《せい》をあびせられ、指揮棒代わりの棍《こん》棒《ぼう》でこづき廻されていた私ではなかったか。それはおかしな具合に意識の中で現在と二重写しになりながら、震洋隊一個艇隊の艇隊長としての配置を与えられただけで、滑《こつ》稽《けい》なくらい自信に満ちた態度で彼らに訓練を施す姿勢が執れている自分を見つめているもう一人の私もいたのだった。実際のところ私にどれだけ震洋艇の知識があったものやら。田浦の水雷学校で震洋艇に乗った記憶はなぜか少しも思い出せないのだ。といって震洋艇戦法の図上演習が持たれたという記憶もない。あの一箇月のあいだわれわれ十五名ばかりは上層部の都合で殆んど無為にただ何かを待たされていたに過ぎなかった。ようやく配置を得て再び川棚にもどってきたわれわれを待っていたのは、いきなり隊員への震洋艇の取扱訓練であった。艇隊長としての特別な訓練を受けた覚えもないのに、私はむしろ陽気であった。艇の操法など頗《すこぶ》る単純そのものではないか。陣形の訓練とてどれ程の複雑性も有してはいない。われわれ艇隊長には、パンフレット風な〓艇操法教書の如きものが与えられていたろうか。たとえそのようなものなどなかったとしても、大村湾内を疾走しているあいだに私は一種の指揮官としての呼吸を体得して行ったようであった。私自身震洋艇の素《しろ》人《うと》なら私から訓練を受ける隊員たちは一層寄せ集めの素人であった。もっとも兵《へい》曹《そう》長《ちよう》や上級の下士官にはそれまでの経歴による熟達した別の技術があったとしても、震洋艇については全く未知の状態のままで、この訓練所に放《ほう》りこまれた。それは、魚雷艇学生の折りに感じた、新規の部内のせいで教官も学生も同じ出発点に立っているのだという気易さをずっと上廻っていたといってよかったろう。隊員たちにくらべるととにかく私はたとえ震洋についての学習は殆んどしなかったとしても、水雷学校で震洋艇の周辺で生活した一箇月の長があったと言わなければなるまい。私は訓練を数回程重ねただけでいっぱし震洋艇の専門家の気分になっていたのがおかしかった。もっともそれだけ単純な兵器だったということなのかも知れなかったが。特攻要員という終局的な重苦しさを除けば、魚雷艇から震洋に廻されたことで私は実にほっとしていたのだった。もうあの複雑な発射のための目測や計測のいずれをもやらなくてもいい状態になったのだから。爆発物自体を自分自身で操縦して目標の敵艦船に近づくのだから、こんな楽な戦法がほかにあるだろうか。あとはただ気力と僥《ぎよう》倖《こう》だけ。ただ機関についての私の無知が多少気がかりではあったが、その点の心配も先《ま》ず必要ではなかった。隊員の中には専門の機関兵曹が何人も居たし、殊《こと》に艇隊長艇だけは二人乗りで操縦担当の下士官が乗り組んでいたから、彼にまかせておけば何の支障もなかったのだった。  この臨時魚雷艇訓練所を中核とした川棚警備隊では、草創の混乱期だからというだけでなく、われわれ第一期魚雷艇学生出身の艇隊長配置組の新任少尉たちには、思いのほかの気儘が許されていたと言わなければなるまい。おそらく根っこの所ではやはり特攻要員であることがさまざまな面での許容を与えられた原因だったことになろうか。警備隊としては海軍組織内の一個の施設、そして戦闘部隊となり得る機関であるから、さまざまな日常勤務が控えていた筈なのに、それらを充分に務めたという記憶が脱落しているのはなぜだろう。或いは緊急を要する特攻訓練に専念させるために、それらの煩《はん》瑣《さ》な日常勤務からわれわれは免除されていたのでもあったろうか。ただそこで二箇月余りを過ごしたあいだに一度副直将校を勤めたことだけをはっきり覚えているのは、その時の私がかなり横着な勤務ぶりをあらわにしたからであった。なぜかあの年(昭和十九年)の夏は頗る暑かったという印象が強い。折《おり》柄《から》震洋隊員の艇取扱講習(つまり部隊を組織する前の操縦や艇隊運動の訓練を意味するが)は第三次を数えていて、講習を受ける者は千三百名余りも居たが、それら受講者を十五名ばかりのわれわれと、多分五十名前後は居た兵曹長とが訓練を受け持ったことにならざるを得なかった。部隊の指揮官には兵学校出身将校が配置される予定と聞いていたが、講習期間中に着任した例を覚えてはいないのだから。すると自分の艇隊だけの訓練というわけには行かなかったのだったろうか。それはそれとしてそれら兵曹長たちにはわれわれとは別の居住区が与えられていたが、佐世保界《かい》隈《わい》に家庭を持つ者が少なくない彼らの多くは、毎日自宅から通勤していたようであった。そんな環境の中で魚雷艇学生時代とはちがって、私は自分の仕事に過重な重みを感じなくなっていたのも一つの変化と言えようか。むしろ甚《はなは》だ楽な勤務の配置だと考えていた。課業終了の時刻のあと、翌朝の課業始めまでは自由に外出して差し支えなかったから、夕刻以後はその気になればいつでも警備隊の外に出て行って娑《しや》婆《ば》の(と軍隊外の世間を呼んでいたが)空気を吸収することができた。重ねて書くことになるがその夏はとても厳しい暑さが感じられた。第三次の講習期間は八月十六日から九月十五日までだったという記録が残っているから、いわば暑中から残暑にかけての時期に当たっていたわけだ。寒暖計が示した温度計数は例年とどれだけ変わっていたのかわからないが、私にはその夏は甚しく猛暑の日がつづいたという感覚が鮮かに残っている。連日の震洋艇訓練のせいか眠くて眠くて仕方がなかった。昼食後午後の課業始め前までの短い自由な時間を私は居住区にもどってむさぼるようにして眠り、それが実に快い体力の回復を誘った。しかしもっともっと昼寝がしたいと無性に思った。いかに気儘な行動が許されていたとはいえ、まさか課業中の時刻に昼寝などすれば甚しく常軌を逸した行為となったろう。しかし私は今顧みると度々常軌を逸してひそかにその快楽を盗み味わっていたように思う。私は次第に横着な考え方に麻《ま》痺《ひ》して行ったかの如くであった。たぶん心の底にはどうせ特攻死になだれ落ちこんで行くんだという思い上がりがなかったとは言えない。実は一度だけ勤めた副直将校の当直中にさえ、どうにもおさえられぬ睡魔に襲われ、居住区の自分のベッドにもぐりこむ誘惑から脱《のが》れられなかったことがあった。私は身も世もなく眠った。ふと或る気配を感じて目覚めた私の前にその時の当直将校があきれ果てた感情をむき出しにして立っていた。当直中に昼寝をする士官など聞いたことがない、と彼は言った。そしてすぐ勤務にもどりなさいと鋭くつけ加えた。予備学生あがりの士官にも困ったものだ、と彼が口に出して言ったかどうか。しかしその表情には明らかにそう言いかねまじい一種の嫌《けん》悪《お》の表情がみなぎっていた。彼は下士官、兵曹長を経て進級した特務士官であった。私はとんでもない失策をしでかした自分を恥じた。自分ばかりでなく予備士官一般を辱《はずか》しめた気分にも襲われた。私のその行為にはどんな弁解の余地もなかった筈だ。自分が全くだらしない未熟な士官に見えて居たたまれぬ思いになった。しかしその底でどこか恬《てん》澹《たん》と構えているもう一人の自分が居ることも感じていたのだった。もし処分されるものならどんなそれも平気で受けますよ、とでも言いたげな気分がむくむく湧《わ》いてきそうであった。それはおそらくその時の私の姿勢や態度にあらわれていたにちがいあるまい。それまでの私には考えられない心情と態度であった。だから私は外見は少しも悪びれた風を見せずに、当の当直将校に向かい合っていた。私は修正を受けることをまず覚悟していたのに、彼はそれは控え、匙《さじ》を投げた恰好でむしろ寂しげな後ろ姿を私に見せて遠ざかって行った。そのためその日の私の勤務はたいへん気まずいものになってしまったが、あとでその件で私は何の処分も受けることはなかった。しかしその当直将校のどこかうら寂しい後ろ姿はしばらくのあいだ私の瞼《まぶた》から離れることがなかった。  そのような雑然とした日々の中から、如《い》何《か》にして部隊が結成されて行ったかの筋道が、私に順序よく思い出せないのはむしろ怪《け》訝《げん》なくらいだ。実はその過程で私には忘れることのできない事態が起こっていたのに。というのは私が最初に担当した横須賀鎮守府籍の艇隊員を、同期生Nの受け持っていた佐世保鎮守府籍のそれと交換したという事実が存在するからだ。しかもその艇隊員の誰《だれ》一人としてその名前を私が覚えていないのは奇妙でさえある。その上それが極《ごく》初期の頃だったのか、或いはほぼ部隊の輪郭が形づくられつつあった時分だったのかさえもう思い出すことができない。結局私が交換した艇隊員を含めて編成された第十震洋隊はフィリピンのコレヒドール島で全滅してしまった。もっとも何人かは生存者が居たのかも知れず、現に私はその一人の名前を知らされているが、今その人を尋ねあてて会おうとするにはなかなかにためらいが妨げとなって決心がつき難《がた》い。とにかく第十震洋隊は全滅の悲運に遭遇した。担当艇隊員を艇隊長が勝手に交換などできるものかどうか確かではないが、現にわれわれはそれを行なった。北海道出身のNがどうしても横須賀鎮守府籍の隊員と共に特攻死を遂げたいと強く希望した結果、私に佐世保鎮守府籍の隊員の訓練を押しつけるようにして引き受けさせたからだ。(ちなみに一般士官の場合は、特務士官を除いてどの鎮守府にも属さず、海軍省の直属下にあった)。そのようなことが可能だったのは、或いは訓練開始当初だったからという可能性は大きい。とにかく結果として、海兵出身の指揮官を迎えた彼の部隊はコレヒドール島に進出して全滅に遇《あ》い、私が彼から引き受けた佐世保鎮守府籍の艇隊員によって形成されかかっていた部隊は、なぜか指揮官の着任もおくれ、基地への進出ものびのびになっているあいだ、一時は先発する部隊の欠員補充部隊と化したりしながら、最終的に第十八震洋隊として奄《あま》美《み》諸島の加《か》計《け》呂《ろ》麻《ま》島が基地だと指示された十月の中旬には、当然数の多い当初の佐世保鎮守府籍の兵員の他《ほか》に、他部隊に引き抜かれたあとの補充として呉《くれ》鎮守府籍と横須賀鎮守府籍の者が多数混入してきていて、いわば海軍用語で三鎮競技会風な多様な籍を持つ混合部隊が出来上っていて、海兵出の士官は遂《つい》にあらわれず、結局先任将校且《か》つ第二艇隊長たるべき私が代わりに指揮官として発令されたのであった。そして第十震洋隊のように全滅の悲惨には遭遇せず、八月十三日に特攻戦が発動されはしたものの、発進の号令がかからぬままに敗戦を迎え、隊員を一名も死に追いやることなく全員が生き残ったのであった。  私が今なお所蔵する海軍の「履歴書副本」には、「昭和十九年十月十五日、補大島防備隊付」と書きこまれた一行が見られるが、つまりその日、第十八震洋隊としての部隊が正式に編成され、指揮官として予備学生出身の私が任命されたのであった。警備隊の上層部では、各次講習終了後も各部隊指揮官予定者(つまり海兵出身将校)の着任の遅延にいらだっていたふしがあったと推測される。しかし戦況は日に増して悪化の状態を辿《たど》りはじめていた故《ゆえ》に、震洋艇数の不足と故障頻《ひん》発《ぱつ》なども作用し講習員各自の平均操縦時間は一箇月の講習期間中平均して十一時間という不満足な結果しか得られなかった事情もあったものの、とにかく一応予定の講習を終了した以上は、そのあととて次々に新規の講習員が入所してくる状況とも考え合わせ、一刻も早く部隊を編成させてそれぞれの基地への進出を進めたかったにちがいなかったろう。その結果心ならず、学徒出身少尉たる先任艇隊長を部隊の指揮官うめとして部隊編成にふみ切った傾きのあったことがうかがい知れるのである。おおよその成り行きは十月十五日以前にもうすうす感じられてはいたが、さていよいよ部隊の指揮官に決定すると、私は少なからざる重圧を感じないわけには行かなかった。Nと担当艇隊員を交換してからのことだが、私はまず艇隊長としての二人の兵曹長を知った。彼らはいずれも鹿《か》児《ご》島《しま》県出身者だが際《きわ》立《だ》って対照的な性格を持っていた。片方の内攻的な性格の兵曹長は後に少尉に進級し、第二艇隊長を担当して第十八震洋隊の先任将校となった。海軍兵学校で生徒たちの訓練に当たる教員の生活を長く送っていたということで、自他に厳格な端正な顔付の壮年であった。もう一人は第三艇隊長となった兵曹長で、小《こ》柄《がら》な、しかし小太りの陽気で気さくな人なつこい性格を持っていた。勿《もち》論《ろん》当初私は彼らとは同じ艇隊長(もし海兵出の指揮官が着任すれば、私が先任将校たる第二艇隊長になる筈であったわけだが)として同僚の立場にあったことになる。任官してはじめて同じ配置内の同僚として接した兵曹長という階級の者に、私はどうしても或る緊張を感ぜざるを得なかった。彼らは志願して海軍に入隊し、長い歳月をかけて兵から下士官の各階級を順次に進級した上で、頂点としての地位に進んだ者たちであるから、海軍内の日常生活に頗る通《つう》暁《ぎよう》しており、それぞれの部門のいわば最高技術者としての体験と実力の所持者であった。それに比べると如何に階級が上であるとは言え、私は海軍にはいってまだ一箇年も経《た》ってはいない。それは何といっても体験的な威圧を感ぜざるを得ない状況であった。ただ当面の配置は、彼らにとっても全く未知の新兵器であり、その点に関しては私の方が少なくとも一箇月は先にその兵器に馴《な》染《じ》んでいるという優位があった事実が、いくらかは私を強気にしていた所があったと思う。もともと気《き》儘《まま》な伝統の無い新設警備隊生活の中でのことだから、私は当初から海軍の伝統にはこだわらぬ素人としての立場を守る考えを通すつもりでいた筈だ。それにいずれは先任艇隊長になるとしても、同僚としての艇隊長仲間なのだから、年配も私より上でもあるし、私は最初から彼らを階級をつけては呼ばずに何々さんなどとさんづけで呼んだのであった。これは私が指揮官となってからも変えず、敗戦までに、ちょっと私が息まくような小さなもめ事が起こった折りに、二、三度何々兵曹長! と階級名をつけて呼びつけたことがあるくらいであった。  当初は部隊の輪郭もはっきりとは知らされていなかったから、中でもわれわれ(二人の兵曹長を含めて)特攻要員たる艇隊員のあいだに、より親近感を抱き合う状況が生じたのは当然だったと言えようか。部隊の艇隊員は四個艇隊の編成であったから、私と二人の兵曹長だけではもう一人艇隊長が足りなかったことになるが(本来の指揮官さえ着任すれば、即《すなわ》ち彼が第一艇隊長も兼務して、四人の艇隊長が揃《そろ》う手《て》筈《はず》になっていた)、その分はわれわれ三人が交替で担当していたのだったろう。結局私が最終的に指揮官に任命された時点で私は第一艇隊長を兼務する事態となったために、いわば第四艇隊長たるべき者が欠員となり、他の兵曹長の補充がないまま、部隊の先任下士官であった上等兵曹がその任に当てられた。その頃《ころ》印象に鮮かに残っていることに、陽気で気さくな、あとで第三艇隊長となった兵曹長が、訓練前の課業始めの整列の折りに、S少尉! と私の名を呼んで、この部隊にはS少尉と同郷の方が何人か居《お》ります、と人なつこい微笑を浮かべて言ったことがあった。後に三鎮混成部隊となった第十八震洋隊ではあったが、その時はまだ佐世保鎮守府籍の者ばかりであった。生まれは横浜だが、本籍は東北の私に、佐世保鎮守府関係に同郷の者は居ない筈と、彼がそれと見当をつけた隊員の名前をたずねると、山《ヤマ》城《シロ》、仲《ナカ》村《ンダ》渠《カリ》、城《シロ》間《マ》という姓を挙げたのだった。ああ、私の郷里は沖《おき》縄《なわ》じゃないですよ、と笑って答えると、彼は甚だ恐縮した態度を示して、失礼しました、などと言っていた。私の姓が平凡な字の組み合わせながら、南島的な感じのものであっただけでなく、若い頃の私はどことなく南の島の若者らしい感受を人に与えていたのかも知れなかった。一般的な言い方しかできないが、東北の者の容《よう》貌《ぼう》と南島の者のそれのあいだには、中央部分の者よりは似通った所の要素がより多いように感じられるから、その兵曹長も私をてっきり沖縄出身と受け取ったのであろう。私はその時何か晴れ晴れとしたのびやかな思いになったことを覚えている。そしてその山城や仲村渠、そして城間と名乗る隊員を早く見てみたいと思ったのだった。彼らは艇隊員ではなかったので、ちょっと会う機会がなかったが、そのうち、城間は基地へ先発の他の部隊に引き抜かれたらしく、第十八震洋隊員からは姿を消していた。  つまり部隊が艇隊員だけでなく、他の、たとえば基地隊とか、整備隊、本部付と称する構成を持っていることが私にわかってきたのはそれ程早い時期ではない。それらのことに関心が出てきたのも、おそらく海兵出の指揮官が着任しそうもない状況がうすうす感じ取られはじめたからかもわからなかった。となると私がどうしても指揮官の配置に就かなければならず、それは逃げ出したい程にも重圧が感じられたものの、しかし私の気分の中には、既にやや投げやりな放胆が芽生えはじめていたことは、前にも書いた通りである。基地隊は艇の搬出搬入に当たる兵員で、召集を受けたばかりの年配の初年兵が主体で、他に〓兵器の炸《さく》薬《やく》関係を取扱う専門の下士官も含まれていた。整備隊には、震洋艇の機関の整備員のほかに、木工兵、金工兵も加わっていた。本部付というのは部隊を一つの分隊(海軍の兵員教育訓練単位)と見立て、分隊員の経歴の事務処理を担当する分隊士の役割を受け持つ者の下に、主計兵、衛生兵、通信兵などが配属されていた。基地隊長、整備隊長、本部付にはそれぞれ、海軍生活に経験の豊富な兵《へい》曹《そう》長《ちよう》が当てられていたために、結局の所私は二人の艇隊長と合わせて五人もの練達の兵曹長を直接の部下にしなければならぬ立場に立たされそうな予感を抱きはじめていたのだった。それは如何にも荷《に》厄《やつ》介《かい》な事態の到来と私には感じられた。彼らとの出会いはいずれも正式なかたちを踏んだものではなかった。二人の艇隊長とも、訓練をはじめるようになって何となく一緒の部隊に属することになるらしいと考えられる程度の近づき方であった。あとの兵曹長もそれぞれ別々に初対面をした。彼らの方から近づいて来て、基地隊長だ、整備隊長だと名乗った。本部付の兵曹長に至っては、Sさん、と私をさんづけで呼んで前からの近づきがあるかのような馴れ馴れしさをあらわにして接近して来た。「よろしくたのみますよ。あんまり気張らんでやりましょう」などと言いながら。彼は以前は潜水艦に乗っていた機関兵曹長ということであった。これらの兵曹長たちはいずれも佐世保鎮守府籍の者ばかりであったが、このような出会いの状況を考えると、指揮官はなお決まらぬながら、警備隊の上層部では部隊の輪郭がほぼ出来上がっていて、それぞれの部門の分掌担当者を送りこんでいたとしか考えようがなく、知らなかったのは私だけだったのかもわからない。それは儀式的な部隊結成の行事などが行なわれたのではなく、いつのまにか部隊らしきものがなしくずしに形成され(その間先発部隊への欠員補充で隊員を引き抜かれ改めて又別の鎮守府籍の兵員が送りこまれなどしながら)、指揮官待ちの状況の中で、私はいわば先任艇隊長且《か》つ部隊全体の先任将校としての地位が定まって行ったのだから。当の私だけがそれに自覚的ではなかっただけで、それぞれの兵曹長はその経緯を充分に認識した上で、基礎訓練をさえ繰り上げを重ねた上に海軍入隊以来まだ一年にもならぬ予備学生あがりの新任少《しよ》尉《うい》に対応していた筈であった。彼らはみんな妻帯者で佐世保界隈に家族を住まわせていたから、当直さえなければ夕刻になると帰宅し、朝方出勤して来るという日々を送っていた。艇隊長を別としてあとの三人の兵曹長たちが何をしているのか私には殆《ほと》んど見当もつかなかった。顔を合わすこともそれほど多くはなかった。彼らに隊員への日《ひ》毎《ごと》の訓練などは無かったから、或《ある》いは基地進出までの日々は彼らにとって一種の思わぬ特別休養期間のようなものであったかも知れない。時折それぞれに当面かかわっている仕事を私に報告することもあったが、私にはその内容はよくわからなかった。各自の受持ち範囲の仕事はそれぞれにまかせておくに如《し》かず、などと考え、私は一切の干渉を加えずに彼らのなすがままにまかせた。私はひたすら震洋艇の訓練に没頭し、いずれ敵艦船に突っ込んで行く身の上だから、あとの部隊経営はあなたたちが存分に腕を振るってください、とでもいうような態度を示したのだった。いずれ指揮官が着任すれば、先任将校としても当然部隊経営の実態を知っておかなければならぬことはわかっていたつもりでも、最終的な責任者としての指揮官にすべてを手渡してしまえばよい、という考えが根のところにあったからかもわからない。いずれにしろ私はかなり横着をきめこんでいて、なるべくそれぞれの担当者にその担当部分の裁量の自由を預けたかたちをとって、彼らの仕事の中にはいることを控えていた。それぞれに個性が強く、自分の受持ちの仕事を進めるについての上でも私にその自信を表明し、私の海軍部内の無知につけ入る姿勢などもちらつかせつつ、なかなかに手《て》強《ごわ》い相手であることは充分感得できたが、私はかえって無知を押し出すことによって対応していたのかも知れなかった。それがよかったのかどうかわからないが、私のその態度がかえって彼らの責任感を誘発した事情が生じなかったわけでもないように思い返せる。結果として第十八震洋隊は、各部隊に起こりがちであった事故を目立ったかたちでは誘いこむことなしに敗戦を迎えた。それは各責任者の兵曹長がそれぞれに各自の責任内で万全の処置を施してくれていたからのようにも思う。軍隊という社会が、初め私が考えていたようにはいわゆる世間と切り離された別世界の純然たる規律の世界でないことは次第にわかってきてはいたが、兵曹長たちと直接接触することにより、むしろいわゆる娑《しや》婆《ば》の世間よりももっとあらわな世間が凝結している世界のようにも感じ、身構える所があったのは、私の若さにちがいなかった。私は大学からいきなり海軍にはいり、基礎訓練や魚雷艇訓練を経過し、震洋に移って次第に海軍内での生活単位である部隊を形づくって行く中で、そして結果としてその部隊の指揮官配置に位置づけられて行った日々の中で、いわゆる世間というものをがっちりと覚えさせられたと言って差し支えなかった。私は一般世間に出てから世間を覚えたのではなく海軍の部隊生活の中で、それも特攻隊などと呼ばれる特殊な環境に囲まれながら、いわゆる世間というものを確かに教えこまれたと思っている。そしてそれらの教師の頂点に立っていたのが、部下の兵曹長たちであったと言えようか。下士官兵からも多くのことが教えられたが、直接私と密接な交渉を持つことになった兵曹長たちがそれぞれに私に世間の顔を示してくれたのであった。今から省《かえりみ》ると私はすぐれた兵曹長たちに恵まれていたのだったのかもわからない。そしてそのことは当時の私にわかる筈がなかった。彼らとどれだけ接近し、或いはどれだけ距離を取るかについてたぶん私は甚《はなはだ》しく神経を悩ませていたのだった。  取り立てては目立った事件のないそのような日々の中で、一度だけだがやや大がかりな全艇隊の合同突撃演習を、佐世保湾まで出かけて行って実施したことがあった。佐世保湾に行くためには、東《ひがし》彼杵《そのぎ》郡と西彼杵半島に囲《いに》繞《よう》された大村湾の北端の入口のあたりをコルクの栓《せん》でも詰めこんだかたちの針尾島の、東西両彼杵とのあいだに通されたそれぞれの長い狭い瀬戸を通らなければならない。東がわの早《はい》岐《き》瀬戸の方は中級河川ほどの広ささえなく、しかも早岐の町寄りの湾への入口には水門が設けられていて通行は容易ではなかったから、従って西がわの伊ノ浦瀬戸(今では針尾瀬戸と呼ばれているようだが)を通過するしかなかった。しかしそこは潮の満《みち》干《ひ》の交替時に、潮が泡《あわ》立《だ》ち逆巻き、渦《うず》を巻きながら奔流のような状況を呈する頗《すこぶ》るざわめいた場所であった。たとえ正体はどれ程恐ろしい特攻艇であったとしてもベニヤ板張りの五米《メートル》程の小さな外見しか持たぬモーターボートが、この瀬戸を乗り切って通過しおおせるにはかなりの準備と検討が必要なことは当然であったのに、私はどれ程の考慮を巡らすこともなく、決行に踏み切ったのであった。もっとも事前に内火艇を使って自ら佐世保湾までの通り抜けを実施してはみた。両岸は削《そ》ぎ立った拒否的な岩がそそり立ち、急流がぶつかり渦巻いている場所が何箇所もあり、中でも瀬戸の南寄りのまん中のあたりはいくらか流れの幅が広がってはいたが、かなり急な曲り角を示しているだけでなくその中央に小さな祠《ほこら》を祭った小島が居《い》坐《すわ》っているために、水流は複雑な様相を示し、余程速力を挙げて注意深く舵《かじ》取《と》りをしなければ、島や岸に吸い寄せられて叩《たた》きつけられそうな懸《け》念《ねん》が感じられたのであった。震洋艇よりずっと機動力の強い内火艇でさえ、横すべりする具合に舵取りが思うにまかせぬ状況を示したことが何度もあった。その小島の西がわの対岸のあたりに伊ノ浦の集落が、潮の満干の狂奔にいどみかかる恰《かつ》好《こう》で流れに向かい挑《ちよう》戦《せん》的な構造を固めている外容は、何かこの世を捨てた場所で生活する人々のすさまじい抵抗の意志をさえ感じさせられた程であった。要するに伊ノ浦瀬戸の私の見学は、四十八隻《せき》の震洋艇の一《いつ》斉《せい》通過はかなりの危険の伴うことを覚悟しなければならぬことを痛感させられ、両岸の風景については日の当たらぬ冥《めい》界《かい》染《じ》みた暗さが印象づけられたのであった。しかし私は決行を思いとどまろうとは思わなかった。心の片《かた》隅《すみ》に不安が無いではなかったが、いずれ体当たり死を実行するわれわれに行く手を遮《さえぎ》るものは何もないという昂《たかぶ》った思いにもなっていた。それにどうしても軍艦を標的として突撃を試みる訓練をしておきたかった。想像と、たとえどれ程貧しくとも体験の上で身体《からだ》に覚えこませるのとでは大きな開きがあるように思えた。それが白昼の味方の軍艦であっても、或る形の存在に向かって突撃の突っ込みをかけた体験は、実戦の混《こん》沌《とん》の際にも何かの支えとなって甦《よみがえ》るように思えた。  それからどれ程も日を置かずに、われわれ四個艇隊は、私が指揮する第一艇隊を先頭に、川棚警備隊の小さな港の埠《ふ》頭《とう》から出発した。第二、第三艇隊長はそれぞれに兵曹長、第四艇隊長には着任者欠員のまま先任下士官たる上等兵曹を当てた。もっともまだ部隊としての第十八震洋隊は結成されてはいなかったが、しかしやがてそうなる頃おいの時期であったと思う。  たとえ予《あらかじ》め潮の満干の適当な時期を考慮してはおいたにしろ、四十八隻の震洋艇を奔流の常ならぬ瀬戸を通過させることは、いざ実行の段に直面してみると、かなり危険度の高いものであることが身を以《もつ》て感じられた。故障の多いエンジンがもしストップした時はどのような処置を取ればよいかなど、現場に来て改めて甚しい不安の種となった。私はたぶん声を嗄《か》らして大声を挙げつづけていたように思う。いや或いは黙ってじっと到《いた》る処《ところ》に無気味な渦巻きをこしらえつつ、変な早さで流れる潮の動きを見つめながら、とにかく早く通り過ぎることをのみ思いつづけていたのだったかも知れないが。  しかしやがてわれわれは佐世保湾に抜け出ることができた。薄暗い闇《やみ》の国からいきなり明るい真昼の国に躍り出た思いであった。  それにしても何と伊ノ浦瀬戸は予想以上の難所であったことか。私には事故を起こすことなくどうにか通り抜けることができたのは奇《き》蹟《せき》のように思えたのだった。もっとももう一度そこを通って帰らなければならぬという不安と懸念が潜んではいたが、それにも増して今手にした安《あん》堵《ど》と重なり、佐世保湾の、軍港周辺らしい華やかさに私は圧倒されていた。大村湾とて震洋艇の疾走には充分過ぎる程の広さはあったものの、意識の底では北方を針尾島で栓をされた閉ざされた湾内としての閉鎖性が感じられていた。それにたまに航行する船は、いずれもどれ程も大きくはない漁船か運搬船のようなものに過ぎなかった。狭くて浅い伊ノ浦瀬戸を通過して外部からはいって来る船の大きさには制限があったからである。それにくらべると佐世保湾内には大小の海軍の艦艇はいうまでもなく、湾口を出さえすれば茫《ぼう》洋《よう》たる大海に連なった開放が与えられていた。そして、いつもモーターボート程の小舟艇を乗り廻《まわ》している目に巨大なと映った艦船が、碇《てい》泊《はく》し航行している状景を眺《なが》めた私には、田舎の寒村からいきなり大都会の中心部に出て来たような気おくれと戸惑いをさえ感じたのであった。何やら佐世保湾(それはさまざまな島や入江や岬《みさき》で複雑に重なり入り組み合ってはいたが)が真夏の日に輝くばかりのまぶしさの賑《にぎ》やかな場所として映ったのであった。  さて、しかし私は全艇隊突撃訓練の目的を担《にな》ってわざわざ伊ノ浦瀬戸突破の危機を冒して出かけて来たのであった。まぶしさに気おくれを感じておめおめと引き返すわけには行かないのだから、まず標的とすべき艦船を物色することが念頭から離れなかった。すると幸運と言おうか、実に適切な位置に(というのはその周辺に邪魔になるような艦船の碇泊もなく)、一隻の軍艦が、胡坐《あぐら》をかいてゆったりと居坐った感じで碇泊しているのを見つけた。大きさもちょうど手《て》頃《ごろ》、といっては何だが、もしかしたらわが震洋艇でさえ、突撃箇所がうまく選定されていれば、二隻ぐらいで或いは轟《ごう》沈《ちん》できそうな小ささ、に見えたのだった。震洋艇本来の突撃標的は輸送船を選ぶのが好ましく、機関部ともう一箇所中央部のやや前方のあたりを二隻で前後して突っ込めば多分撃沈が可能であろうなどと考えられていたらしいが、この軍艦なら、どうにかわれわれの艇二隻でもやっつけられそうな気がしたのがおかしかった。あの軍艦は果たして何という名前の軍艦だったろうか。今にして思えば、どことなく小《こ》柄《がら》で愛らしく、しかし軍艦としての威厳もどしりと備えた、恰好の獲物として私の目に映じたのだった。果たしてその後どのような経過を辿《たど》ってその生《しよう》涯《がい》を終えたものやら。  ところでまさかいきなり碇泊中の軍艦に向かって四十八隻の震洋艇を散開させ突撃を行なうわけにはいかないことには私とて気がついていた。海軍の慣習に全く馴《な》染《じ》みのうすい私ではあったが、やはりどこの世界にでも横たわる一種の儀式を踏まなければなるまいと考えたのだった。しかしどのようにしてどの部分にその意を通じたらよいかがあらかじめわかっていたわけではない。しかし小舟艇ながら四十七隻の震洋艇を引率して佐世保湾内に進入して来た私には、或る勢いがついていたと言うべきだったろうか。そして胸の奥底には、俺《おれ》は特攻要員だという、免罪符を持ってでもいるかのようなおごりがわだかまっていたのも確かだ。私は四十七隻を艇隊毎に適宜停止させ、私の艇一隻だけ白波を蹴《け》立《た》ててその軍艦に近づいた。実は私はその時まで軍艦の内部にはいったことはない。それなのに殆んど何のためらいも無かった。タラップをおろしている舷《げん》側《そく》に近づき、操縦者の搭《とう》乗《じよう》員《いん》を艇に残し置いた私は、タラップを勢いよく駈《か》け上がった。上部の舷門には銃を持った当直水兵が立っていて、私が駈け上がって来たのを見ると捧《ささ》げ銃《つつ》の礼をした。とにかく私の着衣の襟《えり》には少尉の階級章がついていたのだから。私は軽い答礼の敬礼を返しながら、「当直将校はどこに居《お》られるか」などと聞いたと思う。舷門番兵は、「あちらにおいでです」と答えたにちがいない。私はその方を見た。するとどうだろう。煙突の下のあたりの甲《かん》板《ぱん》の上に籐《とう》椅《い》子《す》を出してそれぞれにからだをもたせかけて休憩をしていた高級士官たちが、半円形にずらりと綺《き》羅《ら》星《ぼし》の如《ごと》く(と私には見えた)居並んでいる状景が目に飛びこんできた。まさかそのような場面は予想だにしていなかったから、飛んで火に入る夏の虫さながらに、ただ気負いだけで後先きの考えや正確な海軍の作法の知識もなく軍艦の内部に乗りこんだ私は、不作法をとがめるが如き彼らの余裕ある多数の瞳《ひとみ》に鋭く射《い》竦《すく》められたと思ったのであった。それにそれぞれの肩の階級章の意匠の複雑さが一遍に目に飛びこんできておびやかされるふうでもあった。その時私は搭乗服を着ていたろうか。いやたぶんまだそれは給与されていなかったような気がするし、たとえ既に給与を受けていたとしても、ふだんの訓練に私はそのような大《おお》袈《げ》裟《さ》な恰好をすることはなかったと思う。恐らくふだんの簡易な作業用防暑服を着けていた筈だから、略装の私の襟に甚だ単純な一本の細い金の筋の上に桜の徽《きし》章《よう》が一つしかくっついていない現実を意識して、寒々とした軽さを感じていたと思う。しかし私には海軍の慣習に習熟しようとする考えは全くなく、それらを飛び越してでも勤まり得る新規の特攻兵器の担当者であることに気休めと、いわば誇りのようなものさえ持っていた。一《いつ》旦《たん》は軍艦の甲板上に展開されていた一種の階統の重さのようなものにたじろぎはしたものの、私はこれらの煩《はん》瑣《さ》を乗り越えた場所で海軍にかかわっているのだという確信があった。私は彼らの目にむしろ稚気を許す好奇心が動いたのを見て取った。私はまず自分の配置と官姓名を名乗った。その時はまだ部隊は結成されていなかったから、第十八震洋隊指揮官などというおさまりのいい部署名が言えたのではなく、先任将校たる一介の少尉である名乗りをしただけであった。震洋艇の体当たり突撃訓練を行ないたいので貴艦をその標的にさせてもらってもよろしいか、というような口上を緊張気味で述べたと思う。短絡はまずい、とちらと頭の隅《すみ》で考えはしたが、結局のところ当直将校を無視していきなり艦長らしき人に向かって、というよりそこにたむろしていた将校たち全員に聞かせる具合に短絡して語ったのだった。おそらくこのような特攻兵器の出来たことも御《ご》存《ぞん》知《じ》ないだろうという昂《たかぶ》りも押さえることができずに。既にわれわれ予備学生出身者もその階級を名乗る際に予備を付加する慣習は廃されていたから、私も海軍予備少尉とは言わずにただ海軍少尉とのみ名乗ったが、私が予備学生出身であることは彼らにはすぐ見て取れたと思う。一瞬ざわざわと好奇の歎《たん》声《せい》が発せられたと思えた。しかしそれは好意的なものであることを私は感じ取った。彼らはどんな条件もつけずに、存分に標的として突撃訓練をするようにと許可を与えてくれた。何やら私は職員室で先生たちに善行をほめられた小学生のような気分になっている自分を感じていた。余り簡単過ぎて気抜けした気分がしないでもなかった。しかしなぜか私は意気揚々としていた。私は舷門からタラップをできるだけ早く駈けおりて、待たせて置いた震洋艇に乗り移った。操縦の下士官に甲板上での様子を見せたかったと思った。何となく誇らしい思いもしていた。いわば一つの関所を難なく越してきたようなものだからだ。それはかなり小型な軍艦であったが、極小の震洋艇上から舷側を垂直に見上げると、巨大な鉄の固まりに見えた。いずれアメリカのこれに似た物体に向かって体当たりするのだな、とちらと思ったが、別にどんな実感も湧《わ》かなかった。その日は実に申し分のない晴天であった。たとえそこに戦をするための船が浮かんでいたとしても、実際の海戦のむごたらしさなど想像することはできなかった。私はまだ空襲の現場一つにも出会ってはいなかったのだから。私は待たせておいた全艇隊の場所にもどった。そして今から目前に碇泊中の軍艦を標的として突撃訓練を行なう旨《むね》の命令を手旗信号で各艇隊に伝えた。さて戦闘体形に移ってからの艇隊長の各搭乗員への命令の伝達には、昼間は手旗を用い、夜間は発光部分を赤色の紙で覆《おお》った懐中電灯を使うという甚だ簡易な方法が採られていた。接敵、散開、集合、突撃などさまざまな陣形へのそれぞれの指示が単純な旗の振り方や電灯の点滅によって定められていたから、それを使用することによって艇隊を動かすことが期待されていた。まず初めは私が直接に引率していた第一艇隊から、標的の軍艦に接近し、適宜散開させ、やがて全速力に切り換え各艇各個に突撃を敢行させて引き返し、やがて全艇を収束して後方に廻ると、引きつづき第二、第三、第四の艇隊が同じ行動を繰り返したのであったが、折角の機会と思い、一回にとどめず二回ばかりは重ねて行なっただろうか。全速に切り換えて突っ込む時の一種の爽《そう》快《かい》な気分もさることながら、全体としての印象はやはり若者の集団モーターボート遊びと変わりはなかった。もっとも実際の突撃はこのような白昼、敵からのどんな攻撃も受けることなく、悠《ゆう》々《ゆう》と艇隊の陣形を組み、散開し、突撃できるなど考えることはできはしない。恐らく実戦に当たっては夜襲にしか使用できず、夜間に五十隻近い震洋艇を指揮し効果的に敵艦船に近づくことがどれ程困難な行動であるかは、貧しい想像力を働かせただけで思い半ばに過ぎるものがあった。それに重ねて書くが私はそれまでにどんな戦闘の体験も無かったのだから。どうしたって今行なっている行動は、全く効果が無いとは言えないとしても、戦闘訓練としては如《い》何《か》にも単純に過ぎる夏の日の舟遊びとしか思えない頼りなさが、私の心の底に残らないわけには行かなかった。果たしてこんなことで実戦場《じよ》裡《うり》に立ち向かえるのだろうか。しかしそれは誰《だれ》にも相談できることではなく、もし海兵出の指揮官が着任しなければ、私自身が工夫し対応し決断し、戦闘の中にはいって行かなければならぬことだと思うと、戦争というもののかたちまで、私には何やらつかみ所のないあやふやな幻想じみた物に見えてくるのだった。しかしその瞬間が遂《つい》にやってきたならば、そこには脱《のが》れようのない無残な血なまぐさい地獄の状況が展開されることにまちがいはなかった。  とにかくはた目には甚《はなは》だのんきな突撃訓練を実施し終えた私は、もう一度軍艦の舷門を駈けのぼって、たとえば当直将校に訓練の終了したことと標的に使用させてもらったことの礼を述べたのだったかどうか。おそらくそれだけの挨《あい》拶《さつ》を済ませたあとで佐世保湾をあとにしたのだったろうが、やはりどれ程単純な訓練であろうと、小舟艇ながら快速を出して湾内を縦横無尽に疾走したあとの快さは否定することができず、一種の軽い興奮に包まれつつ艇隊順に適宜な陣形を反復しつつ、帰路についたのであった。往路に緊張を強《し》いられた伊ノ浦瀬戸も、ずっと気楽に通過できた。しかし実際は潮の交替時期に接近していたせいか、往路よりは瀬戸の流れは険しい表情をあらわしていた。気持には余裕があったかも知れないが、私は一層声を大にして危険に近づく震洋艇を牽《けん》制《せい》するのに夢中にならざるを得なかった。如何に一噸《トン》ばかりの小舟艇であったにしても、一つ操縦をまちがったり、或いはエンジンが故障でもしようものなら、危険はどれほど接触してしのびよっていたかも知れぬと思うと、とにかく無事瀬戸を通過し終えて、おだやかな大村湾にはいった途端に、私は肩が浮き上がる程にも安堵を覚えたのであった。  前に述べたように、つまり私は昭和十九年十月十五日付で第十八震洋隊指揮官となったが、それまで隊員たちからS少《しよ》尉《うい》と呼ばれていた私は、その日から隊長と言われるようになった。どことなく面《おも》映《は》ゆいものが無いでもなかったが、そのことはやや予想されてもいたし、小部隊ながら(といっても総員百八十名余りが居たが)、自分の上には上官が誰も居ないという状況の生まれたことに異存はなく、責任の重さはそれとして、自在な気分を持ちつづけ得られる状態を得としたのだった。最《も》早《はや》部隊を結成し、基地も指定されたのだから、すぐにも基地への進出が進められるべきと思えたが、兵器(震洋艇や炸《さく》薬《やく》、高射砲、小銃など)の受取りや食料の他《ほか》各種需品の獲得戦(といってもいい程にさまざまな商取引的なかけ引きの余地は海軍内でも充分にあった)、輸送船の割り当てなど様々な条件が複雑に重なりあって、部隊結成直後直ちに基地へ進出というわけにも行かぬようであった。結局われわれが目的の加計呂麻島呑《のみ》之《の》浦《うら》の基地に向かって佐世保港を出港したのは、ほぼ一箇月近いあとの十一月十一日であった。私がその日をはっきり覚えているのはその日が母の命日だったからである。それらの日々をわれわれは、ひとまず大村湾口を塞《ふさ》いでいるかたちの川棚に近い針尾島に新設された針尾海兵団でしばらく待機させられ、そのあいだ基地に持参する物品の受領を確認しつつ、やがて出港日が目前に迫った時点で更に佐世保市内の佐世保防備隊に移り、敵の空襲状況を考慮しながら、基地への出港を待っていたのだった。  ほんのしばらくのあいだではあったが針尾海兵団では八個部隊が兵舎を並べて待機することになった。その八個部隊にはどの部隊にも第一期魚雷艇学生出身の同期生が居た。半数に当たる四個部隊には海兵出身の指揮官が当てられていたが、残り半分はわれわれ予備学生出身者が昇格のかたちで指揮官に任ぜられていた。やがてそのうちの五個部隊はその基地であるコレヒドール島に向けて先に出陣して行った。私と最初の隊員を交換したNがその中の一部隊に属していたことは既に書いた。それらの部隊のうち、輸送船が途中で敵襲に遇《あ》った三個部隊は海没、辛《かろ》うじて二個部隊がコレヒドール島に辿《たど》り着けたものの、いずれも所期の突撃が叶《かな》わぬまま、震洋艇はすべて敵襲によって爆破され、隊員の殆《ほと》んどは戦死した。Nはコレヒドール島に到着できた部隊に居たが、たまたま生還することを得た同部隊の生存者の言によると、震洋艇全艇を失ったあと、Nは何人かの部下を引率して切り込みに出たまま遂に帰らなかったという。私が属した第十八震洋隊は、一つ隊番の若い第十七震洋隊と共に、先のコレヒドール島進出部隊よりややおくれて佐世保を出港し、十日余りもかかってとにかく加計呂麻島の大島防備隊に着任することができた。八個部隊のうち最後の第十九震洋隊は(この隊の同期生は先任将校の役割に就いていたが)われわれより又少しおくれて、その基地である八《や》重《え》山《やま》諸島の石《いし》垣《がき》島に無事到着した。この八個部隊に属した八人の同期生のうち五人は死に、三人が生き残った。 第七章 基地へ  針尾海兵団には半月も居たろうか。その時は基地出航待ちの震洋隊の八個部隊が同居するかたちになったが、新設の、というより建設中の針尾海兵団の構内が甚《はなはだ》しく広かったために、八個部隊総《すべ》てが肩を寄せ合って、というふうではなかった。そのうちの四個部隊は隣接し合う建物だったので、各隊に配属された同期生とも顔を合わす機会も少なくなかったが、あとの四個部隊はどこに居るのかもわからぬ状態であった。一体どれだけの施設があるのやら見当もつかぬ広さがあった。もっとも予定の施設が未建設のために、用地ばかりが徒《いたず》らに広がって目に映じていたせいかも知れない。われわれの部隊に与えられた兵舎も、いってみれば荒野のただ中にぽつんと置き忘れられた大きな倉庫のような感じに見えた。そもそもこの海兵団の本部はどのあたりにあったのやら。われわれの兵舎は構内の端っこだったから、その先は埋め立てて間のない空き地が、はるかな大村湾内に面した海端の方へどこまでも広がっているふうであった。訓練のために集団駈《か》け足で海端の空き地の方に行くと、大地が上下にゆさゆさ揺れて、場所によっては海水がにじみ出てくる所もあった。足下が不安定に上下して揺り籠《かご》にでも乗ってゆさぶられる気分になり、ふと脈絡もなく幼い日の田舎の鎮守の森の風景などが思い出されたりしたものだ。もっとも訓練とはいえ、もう震洋艇操縦のそれではなく、日課時を無《む》駄《だ》に過ごさせぬための作業や体操などに変わっていたのではあったが。  艇隊長を除く兵《へい》曹《そう》長《ちよう》たち(つまり基地隊長、整備隊長、本部付)は兵器並びに軍需品、日用の物品などの獲得、受領、保管のために毎日の仕事はかえって忙しくなっていたかもわからないが、それまでに寧日のなかった艇隊長や艇隊員の方が、今度は逆に台風の目にでもはいりこんだ具合に手持無《ぶ》沙《さ》汰《た》の安穏な日々に見舞われた次第であった。  ところで私は一層退屈な日々を迎えていた。そして川《かわ》棚《たな》警備隊の頃《ころ》とはちがい、新たに隊長室が与えられた。随分と広い部屋で、二十畳近くもあったろうか。調度品としてはベッドと机のほかには何も無かったから、一層がらんと感じられたのかも知れない。おかしなもので、そのように私の所在が特別に囲われてしまうと、それまではやや同僚気分の気《き》易《やす》さに傾いていた兵曹長たちも、入室の際には少し改まった気配を示すようになった。ノックのあと姓と階級を名乗って許可を待つ姿勢を取らなければならぬ状態が、そのような心理を誘い出したのだろうか。私としても単なる艇隊長ではなく、百八十人余りもの隊員を統率する指揮官としての態度を身につけなければ叶《かな》わぬわけであった。自分では以前と別に変わらぬつもりで居たが、やはり自然に、応待や発言の調子に微妙にちがった雰《ふん》囲《い》気《き》が漂いはじめたのは致し方なかった。そこでの私の日《ひ》毎《ごと》の仕事といえば何もないのと変わらなかったから、気持の赴くところ、自分がその全体を指揮しなければならぬ事態となった部隊の隊員を把《は》握《あく》したい気持が起こってきていたのは当然と言えようか。まず手始めに艇隊員だけでなく基地隊員や整備隊員などの名簿も見たいと思った。しかし隊長室におさめこまれた私は自分自身にかかわることのほかは、何事を為《な》すにしても、改めて部下の誰《だれ》かを隊長室に呼び入れ、その者に命令するかたちを取るのでなければ事は進行しないという仕組みに改めて気づかなければならなかった。それに馴《な》れてしまえば抵抗はそれ程感じなくなるだろうとしても、当時の私には新しく当面した全く馴れない現実であった。しかし命令するという行為には、命令されるがわの組織に精通していなければ、その効果を充分には発揮できない側面があることにすぐ気づくことになる。例えば隊員名簿が見たいと思ってもその意向を誰に通じさせればいいかは見当のつかぬことであった。川棚警備隊の時なら直接兵曹長たちに気軽に相談もできたであろうが、今の私の立場はその頃とは既に変わってしまっていたのだ。まず彼らの一人を隊長室に呼びつけなければなるまいが、そのやり方でいいかどうかなどと、指揮官になったばかりの私は余分な戸惑いを覚えないわけには行かなかった。隊長室のドアが厚い鉄の扉《とびら》のようにも感じられ、自分の指揮下の部隊でありながら、何か全く見知らぬ、内部に複雑な機能を備えた侵入不可能の荷《に》厄《やつ》介《かい》な有機体を抱え持った気分になりそうであった。自分に能《あた》う限りの権限が与えられながら、それを行使するには面倒な手続きを踏まなければならぬ妙に疎《そ》外《がい》された不自由な感じもあった。しかし実際は大変に便利な機構が与えられていたわけで、たとえば隊長付の従兵の存在など、その最たるものであったろうか。従兵! と一声口にすれば、隊長室に接した部屋で待機している彼が立ち所に私の部屋にはいって来る順序になっていて、私は必要な用事は彼を通してどのようにでも按《あん》配《ばい》ができたからである。だから仮に部隊の先任下士官を呼びつけたければ、その旨《むね》を伝えさえすれば彼は即座に先任下士官を探し出して連れて来るだろう。つまり私はそのようにして先任下士官に隊員総員の名簿が見たい旨を告げたのだが、しばらくして、その写しは確実に私の机上にもたらされていたのであった。しかし私がその内部を知《ち》悉《しつ》せぬ組織は、本当はどういう要《かなめ》の場所を押したらよいのかの見当のつかぬことが甚だ多かった。先任下士官を頼りきりにしていればいいのか、しかし或《ある》いは彼には彼の過重な仕事があって、私の思いつきの用事など押しつけられると、いずれ不都合な歪《ゆが》みが生ずる原因となるのではないかなどと考え過ごしたりした。とにかく部隊を掌握しなければならぬ私は、どのようにでも動かせる立場に立ちながら、それをどう活用すればよいかの方途には全く暗かったと言わなければならない。それだからこそまず手始めに総員名簿の写しを持ってこさせ、それを眺《なが》め見ることによって、その手がかりを見つけ出そうと考えたのだったにちがいない。或る寂《せき》寥《りよう》が私をして名簿中の大学卒業者を探す目付にさせた。それは百八十余名の中に、ただ二人だけ居た。一人は衛生の、他は主計の下士官であった。私は彼らを一人ずつ隊長室に呼んでみた。別にどんな魂胆があったわけでもないが、なぜか会ってみたかった。対面したところで私に特別な心づもりはなく、彼らとて他の隊員と殊《こと》更《さら》に変わった外観をあらわしていたのでもない。むしろ隊長室に呼びつけられたことで何事が起こったのかと、一種の緊張を強く示していた。出身大学の名前を聞いてみたが、どことなく迷惑がっている素振りさえ感じられた。娑《しや》婆《ば》の大学の頃のことを、全く環境の異なった今になって聞かれても、扱いにくい乖《かい》離《り》の気分が生ずるだけのようにも思えた。大学を出ていながら水兵を経て下士官の道を選んでいる事実の裏には、それだけの理由があったからにちがいない。今の私と彼らの立場は埋めようのない溝《みぞ》で遮《さえぎ》られている。彼らの態度は礼儀正しい従順さで覆《おお》われていたが、ふと私は或る虚を突かれた如《ごと》き批判の目なざしも感じ取っていた。その目はもうあなたと私たちは世界がちがうのですよと頑《かたくな》な拒否の意志がにじみ出ているようであった。私は何を求めて彼らを呼び入れたのかあやしくなった。どこかに甘えた気分が淀《よど》んでいたと思え、それは払《ふつ》拭《しよく》しなければならぬと反省した。その直後追い打ちをかけられたように、私は第一艇隊の先任下士官から苦言を受けた。というより、至極尤《もつと》もな忠告だったと言わなければなるまい。第一艇隊は、いわば私の親衛隊たる直属の艇隊だから、その先任下士官としては、全部隊の指揮官のというよりむしろ第一艇隊長としての私の行動に危なっかしさと危《き》惧《ぐ》を感じたにちがいなかった。彼は度に過ぎた恐縮の態度を示しながらも、大学出の隊員に特殊なかたちで関心を示さないでほしい旨を口にしたのだった。隊長の気持はわかるが、それでは他の隊員にしめしがつかないとも言った。私はおそらくいくらか青《あお》褪《ざ》めていたろう。やはり新米の隊長だけの動きしかできなかったことが省《かえりみ》られると同時に、或いは私にはまだ掴《つか》み切れぬ上級下士官集団の挑《ちよう》戦《せん》かも知れぬと勘繰ったりしたのだった。私は大学出の二人の下士官に何か特別の行為を示し与えたというのではなかった。いわばその行為自体に或る不協和を感じながら、つい調子づいたに過ぎなかった。しかし先任下士官の反応は噂《うわさ》の伝《でん》播《ぱ》が持つ程の素早さを伴っていた。私は成心があってのことではないのだから今後は注意しようと返事をしながら、大学出のあの二人の下士官の隊内での今後の居心地は或いはぎこちないものになるかも知れぬとも思っていた。私の何げない一挙手が、思わぬ波紋を広げていることに妙な無気味さを感じ、この先この仕組みの中で過ごしていかなければならぬ鬱《うつ》陶《とう》しさにふと嫌《けん》悪《お》と気おくれを感じた。私はしばらくは脱力感を残したままでいたが、いつまでも残ってはいなかった。私の周囲には日と共に指揮官、つまり隊長としての雰囲気が、雪が降り積もるように濃くなって行ったからである。酒保の配給と称して、ウイスキーの角《かく》瓶《びん》や虎《とら》屋《や》の円筒形の羊《よう》羹《かん》などすぐには消化しきれぬ程沢山持ち込まれた。私の知らないところで兵曹長たちは需品の獲得に奔走し、それは忽《たちま》ち、部隊の細胞の隅《すみ》々《ずみ》に浸透し、どんな手続きが取られるものか、隊長室の私の所にまで奔流の如く流れてきた。三度の食事は甚だ簡素なものであったが、たとえば夕食後の寂寥をまぎらわそうとウイスキーを飲むためのつまみが慾《ほ》しくなり、従兵に一言もらしただけで、普段の食事には見たこともない部厚なビーフ・ステーキが運びこまれ、その処置に戸惑ったことさえあった。それは一体彼らがどこから手に入れどこで消尽していたものやら。やはり部隊は私にとってなお一個の謎《なぞ》であった。海兵団の埋め立てたばかりの練兵場が固まらずなお浮動を収めずに時折膿《うみ》のように地底の海水を湧《ゆう》出《しゆつ》しているように、私にとっての部隊は、まだ固まり切らぬひ弱な脆《もろ》さを内部に抱えこんでいたのか。いずれいつかは膿のように噴出するかも知れぬ不安もあった。それにも拘《かかわ》らず外観は日に日に一個の特攻部隊としての体裁を整えつつあったのも事実だ。  某日第十八震洋隊にも乗用車とトラックと四輪駆動車が一台ずつ運びこまれた。艇隊訓練のなくなった私にはすることがなかったから、それらの自動車の運転の真《ま》似《ね》事《ごと》遊びは恰《かつ》好《こう》の暇つぶしとなった。練習場としてはやたらに広い未完の練兵場が、目の届く限り広がっていた。その上運転指導の教師として機関科の隊員がつききりで見守ってくれたから、私の運転技術は急速に上達したかに見えた。最初は小型の四輪駆動車を用いて練習したが、すぐにトラックも動かせるようになった。すると海兵団内だけでなく、団外の一般道路も走ってみたくなった。要するに無免許なのだから、普段なら考えも及ばない筈《はず》なのに、私は殆《ほと》んど何の躊《ちゆう》躇《ちよ》もなくそれを実行した。もっとも助手台には必ず機関科の隊員を同乗させて、いざという時に手助けをしてもらう態勢はとっていたが。娑婆の警察がとがめだてするかも知れぬなどという気づかいは殆んど頭になかった。たぶんそれは私が軍服を着ておりしかも特攻隊長だという状態に寄りかかっていたからこそできた仕業ででもあったろうか。どちらかというと小《こ》廻《まわ》りのきく四輪駆動車を使うことが多く、すぐ自分ひとりででも乗れる気分になった。或る日私は少し遠乗りをしてみようと思い、ひとりだけで営外に出た。いずれ周辺は田《たん》圃《ぼ》に囲まれた田舎道だから、他の車にぶつかることもあるまい、と高を括《くく》っていた。ところで営門を出たばかりの場所で、何やら先を急ぐらしい他の部隊の兵曹長と下士官に呼び止められた。列車の時刻が切羽つまっているので差し支えなければ駅迄《まで》便乗させてほしい、と言っていた。私には別に目的の行先きなどはないのだから、受け容《い》れる気になって彼らを乗せた。田圃のあいだの小道を運転して行くと、運の悪いことに対向車が来た。小型トラックだったのに、反射的に肝が冷えるのを覚えた。いずれにしろ二つがすれちがうには道が狭過ぎるという判断を持ったからだ。それをうまく操作できる技術を私が持っている筈もなかった。しかしとにかく何とか切り抜けなければならず、思い切って前に進めるより致し方がなかったが、案の定、脇《わき》に寄せ過ぎて田圃の間の溝に車を引っ繰り返してしまった。私と兵曹長たちは田圃に放《ほう》り出された。地面が軟かであったせいか、誰も掠《かす》り傷一つ負わなかったのがもっけの幸いであった。小さな駆動車だから、対向車の人の手伝いも加わり、容易に溝から路上に引き揚げることができた。私はひどく面目のない思いをしたがどうしようもなかった。兵曹長たちに階級が上の私がどのように詫《わ》びてよいか、その言葉遣いに戸惑った。彼らもいきなりの転倒で肝をつぶしたかの如くであった。駆動車をもと通りにすると、汽車の時刻が迫っていることを理由に、浮かぬ表情で敬礼をすませると急ぎ足で立ち去って行った。こんな運転手の車にはもうこりごりだという気配があらわであったが、私もむしろその方が気楽であった。しかしその先の散策はもうする気にならず、そのまま隊に引き返したのだった。  しかしその事件で私が自動車の運転に懲りたわけではない。隊のさまざまな公用の用《よう》達《た》しのために海軍施設の多い佐世保の町まで隊のトラックは往復する事態が多かった。どういうきっかけからだったか、今度はそのトラックの運転に私が関心を向けたのだ。勿《もち》論《ろん》整備隊員たる機関科の下士官が運転に当たっていたわけだが、私は彼を助手席に押しやって、ハンドルを握ってみた。四輪駆動車とちがって車の図《ずう》体《たい》の大きさの見当がなかなか掴みにくくて弱った。かなり広い往還ででも、対向車が同じトラックのような大型の場合には、車体が接触して、がりがりといやな音を立ててすれちがったりもした。向こうの運転手は怒気もあらわに、ののしりの言葉を口にしようと殺気さえはらませて運転窓から首を出すのに、われわれの軍服姿を認めると、仕方なげに不満は消さずに口をつぐんでしまうのが常であった。あの時期私はなぜそのように無法を承知で我《わが》儘《まま》な振舞いに興じたのだったか。佐世保の町なかにはいれば人や車の往来がはげしくなり、さすがに同乗の機関兵曹に運転の座を返したが、自分がトラック程の大きな自動車を運転しおおせたという言うに言えぬ充足感が、私の普段の性格を麻《ま》痺《ひ》させたのかも知れない。佐世保の町に着けば私はトラックを捨てて気儘な散策を試みたあと、列車に乗って帰隊するのが常であった。そのような状態を幾度か重ねたあと、私は甚だ恐ろしい思いを味わった。それは、やはり佐世保へ出かけるトラックの運転をしていたさ中のことで、それまでに一度も運転をしたことのない場所で起こった。早《はい》岐《き》瀬戸を針尾島がわから早岐の町に渡る橋の上でのことだ。針尾島がわの道路は瀬戸に沿ってつけられていたから、橋の場所に来てそれを渡る際に、ハンドルを右九十度に切らなければならなかっただけでなく、橋を渡り終えた所でも道は同じく直角に左に曲がっていたのだ。橋《はし》桁《げた》が太鼓橋さながらに中央がふくれあがっていたので、渡り始めには坂道を登るが如き操作をし、渡り終えた直後に今度は下り坂を直角に曲がらなければならなかったのだ。しかも橋の向こうがわのたもとの正面には道路より低目な姿勢で人家が塞《ふさ》がるが如くに建っていた。その場所の運転がかなり困難であることを、何回か通りながらなぜ気がつかなかったろう。私は渡り始めに、ギヤーを変えつつ急角度のハンドル廻しを辛《かろ》うじてやってのけたすぐ直後に、目の前の坂下に人家が大写しに迫ってきたことを知って呆《ぼう》然《ぜん》となった。しかもその人家直前の傾斜を左に直角に曲がる難事が控えていたのだから。私はどんな操作をしたかを覚えてはいない。無我夢中で何かと格闘した疲労のような感覚が残っただけだ。とにかく人家にすれすれの間合いで、どうにか突っ込みを躱《かわ》すことができた。たぶん私は顔色が変わっていたろう。助手席の下士官がひどく大きく見えた。いずれにしろ私は或る事故から免《まぬが》れることはできた。しかしその頃いくらか配置に馴れた考えに傾いていた私は、きびしい灸《きゆう》を据《す》えられた思いになった。へんに口数が少なくなった自分に気づきながら、それを下士官に打ち明けるわけにも行かなかった。適当な所でハンドルを彼に返した。そのあと私はトラックの運転は避けるようになった。その時のハンドルを持つ手から伝わってきた一種の恐怖、結果として事故は起きなかったけれど、起きたかも知れぬ危険とすれすれの感受は、かえって私を言いようのない恐れにおとし入れたようであった。そして私は自動車の運転遊びから遠ざかったのだが、しかしそれはその時の恐怖の直接の結果というより、或いはその遊びにも厭《あ》きがきていたからだといった方が正確かも知れない。ところが実はその前後にそれと変に重なるような事件が起こってもいた。同じく基地への進出待ちで針尾海兵団に仮《かり》逗《とう》留《りゆう》させられていた部隊の中の一人の若い指揮官が、私と同じように無免許で自隊の自動車を運転している最中に、市中の一人の老《ろう》婆《ば》をあやまって轢《ひ》き倒し大怪我をさせた事件である。その老婆は既に死んでしまったとも噂されていた。そのことは私の心情にとって大きな衝撃であった。しかも自分の無免許運転は棚《たな》上《あ》げにして、その指揮官の行為にどうしても許せぬ思いを抱いたのが我ながら解《げ》せなかった。彼は私よりずっと歳《とし》は若く、海軍兵学校の出身で中《ちゆ》尉《うい》の階級にあったが、無邪気な程に威厳を表わそうとする態度を示し、行動も荒々しく、時にはそれが乱暴なとも受け取れることがあった。階級が下の私にも、押しつけがましい教訓的な物言いをしたのに、構えのない幼さがあらわれていて憎めない性格のようにも思えた。しかし何となく馴《な》染《じ》めぬ堅さが私には気になった。一度彼に佐世保の町の裏山の傾斜にびっしり建てこんだ民家の中の一軒の家に連れて行かれたことがあった。その家の縁先からは佐世保の下町が視界の限りに見渡せて、爽《さわや》かな明るさがあった。突然の訪問なのにその家の家族は挙げて無条件に彼を受け入れる様子を見せた。まるで特別な賓客をでも扱うかのように下にも置かぬ応待を示したのだ。家族といっても年配の夫婦と一人の娘だけであって、そんなに広い家ではなかったが、そのすべてを彼の自在にまかせるふうな雰囲気があった。娘はいそいそと気持をはずませてかしずくかのように彼に接した。その様子には如《い》何《か》にも一《いち》途《ず》で可《か》憐《れん》な風《ふ》情《ぜい》があったので、私はつらい思いを強《し》いられた。なぜなら、彼はその家に行く前に、自分に過度なもてなしをする家があるが、余り気が進まないけれど行ってみようなどと私に話していたからである。その中尉は背丈の高くない小太りのからだつきに丸い愛《あい》嬌《きよう》のある容《よう》貌《ぼう》を持っていた。どちらかといえば鈍重な感じさえ受けたが、周囲から自分が遇される丁重な扱いを、当然と受け取り、それを少しも疑わずに滑《こつ》稽《けい》なくらい泰然たる態度を、遠慮せずにあらわすようなところがあった。その家でのあの日のひとときを思い返すと、今でも私は落ち着きを欠いた或る不思議な感情にとらわれる。なにやら迷路に迷いこんだ気持だとも言えようか。娘は彼と結ばれることをまるで疑っていないひたむきな傾きに酔っているように見えた。どんな顔立ちをしていたかは思い出せないが、如何にも娘々したふくよかな感受だけは残っている。私はすぐ忘れてしまうにちがいない筈のかかわりなさの中で、わけのわからぬ軽い羨《せん》望《ぼう》の気持が湧《わ》いてくるのを扱いかねていた。もう四十年以上も過去のことになったが、彼がそのような家族とどのようにして知り合い、その後その娘はどんな人生を辿《たど》ったかを思うと、大河の流れに巻きこまれてしまいそうな苦いがしかしどことなく甘い果《は》かなさに襲われる。彼はその家の中で旦《だん》那《な》然と振舞い、言葉遣いもそばの私がはらはらする程の横《おう》柄《へい》な調子があった。彼が事故を起こしたと聞いた時に私の脳《のう》裡《り》を過《よぎ》ったのは、この訪問の日の場景であって、それは如何にも彼の生き方とつながっていると思えた。そのことがあってしばらくは彼の姿を見なかったのだが、警察で一応の取調べを受けているらしいという噂が伝わってきた。それから程なくして会った時の彼は、心持ちやつれた感じもないではなかったが、別にそれまでと変わったふうとてなく、いわば愛嬌のちらついた相変わらずの威張った口調で私と応待していた。事件のことについて私は何もたずねはしなかったが、無事に帰隊できたところを見ると、別段の事もなくて済んだにちがいなかった。  さて第十八震洋隊全員は針尾海兵団の仮住ま居から姉妹隊の第十七震洋隊と共に佐世保防備隊に移動した。他の六個隊が一緒だったかどうかの記憶ははっきりしない。いよいよ基地への進出が迫ってきたことは明らかであった。基地隊長や整備隊長並びに本部付の仕事に一層目がつまってきた様子は、彼らの気配で察しがついたが、私を含めての艇隊長や艇隊員はいよいよ為《な》すこともなく輸送船への乗船命令を待つだけの日々となった。勿論そこに居た期間が短かったせいもあるが、そこでどのような日々を送ったかが余りはっきりしない中で、ただ木造兵舎を背にして隊員と記念撮影をしたことはよく覚えている。それはいずれ死に行く形見として家族の者に送るために行なわれたものであったろう。誰《だれ》の発想によったかはわからないが、私の考え出したことではなかった。私はどんな証拠も残さずにいつのまにか消えて行く状況がむしろ望ましいとさえ思っていたのだから。被写体となった隊員は第十八震洋隊全員ではなく、特攻要員たる艇隊員に限られていたことも今となっては片手落ちに思われるが、当時はそれが当然と感じられていたふしがあった。准《じゆ》士《んし》官《かん》以上は第三種軍装にゲートルを巻き、それぞれ日本刀をひざの前に斜に構えた恰好に立てて前列の椅《い》子《す》に坐《すわ》っていたが、隊員たちはにわか作りの雛《ひな》壇《だん》風な台上に目白押しに並び立って写った。今その写真を見ると、隊員たる作業服のままの下士官たちの履いているのは布とゴムで作った地下足袋である。しかも丸腰のままだから、これが自らを爆薬と化して突撃死する特攻隊員とはとても思えようもなく、今から土方作業に出かけようとでもしている若者の集団のようにしか見えない。話をいきなり四十年後の今にもどすことになるが、一昨年末第十八震洋隊の戦友会がはじめて開かれた。それまでわれわれの隊員たちのあいだでそのような集いの持たれる機会はなかったが、一昨年になって戦友会を開きたいという二、三の元隊員が現われた時に、私は四十年近い歳月のあいだ敢《あ》えてそれを避けてきた淡い意志のようなものは閉じることに決心したのだった。その後先きのかかわりの中で、甚《はなは》だ解《げ》せなかったのは、私には頗《すこぶ》る印象的なこの記念写真を、実は記憶していた艇隊員が殆んど居なかった事実である。所持もしていなければ、写したかどうかさえも覚えてはいないと言っていた。するとこの写真は或《ある》いは准士官以上にだけ配ったものだったのか。私はこの写真は写された者全員に手渡されたものとばかり思っていたのに。いずれにしても狐《きつね》につままれたような思いに私はなった。他の震洋隊では、基地進出の際に連合艦隊司令長官から特攻要員全員に一振りの短刀が支給された隊もあったと聞いているが、第十八震洋隊にはそのようなこともなかったし、高官臨席の壮行会などもなかった。ただ時が熟し果物が地面に落下する具合にいつもと変わりないおだやかな一日、すべての準備を終えたあと誰に知られ或いは見送られることもなく、母体を離れ行くが如く佐世保港の岸壁をひそやかに離岸したのであった。それはいわば私の思いに叶《かな》っていたと言えようか。額に白《しろ》鉢《はち》巻《まき》をして訣《けつ》別《べつ》の盃《さかずき》を酌《く》み交わしたり、長官からの短刀授与式が展開されたりする儀式に巻きこまれる場面がなかったことは私にはむしろ幸いであった。ただそうすることによって隊員たちが死への恐怖を麻痺させる幻想が多少でも持てたとすれば、それを私がなお遮《さえぎ》る考えはなかったのだけれど。しかしささやかなたった一つの死の出撃への儀式とも言える記念撮影のその写真の所持はおろか、写した記憶さえ彼らには無かった事を知った私は、言うに言えぬ衝撃を受けたのであった。それは単なる忘却の結果に過ぎないのか、又は彼らと私の、特攻隊体験のこだわり方にどこか違いがあったのか。しかしそのような写真が一枚は厳として私の手《て》許《もと》に残っている事実は、覆《おお》うことができない。  基地進出に当たって、艇隊員に限って記念写真を撮影したほかは、壮行にかかわるどんな儀式もなかったと書いたが、おおやけの全隊的な行事でこそなかったものの、私にとってはどうしても一つの儀式だったとしか思えぬ小事件があったことをしるしておかなければなるまい。  基地への出発準備の万端がほぼ終了しかかった時期だったが、隊の准士官以上(といっても少尉の私のほかはみな兵《へい》曹《そう》長《ちよう》であったが)の六人で合同宴会を催すことになった。それまで各自がそれぞれの出発準備作業に従い、共々に酒を酌み交わすなどの機会もなかった六人が、仕事の目安もつき、いよいよ隊の最後の拠点となるべき基地への出発が目前に迫った時点で、お互いの親《しん》睦《ぼく》をはかっておこうという程の趣旨であったろうか。発案は誰ということのない自然に赴いた結果であって、設営の万般は本部付の兵曹長が当たった。場所は佐世保市内の料《りよう》亭《てい》が選ばれたが、いわゆる海軍の士官専用のそれではなく、市中一般の料亭であった。六人だけの小人数の宴会だから別段のこともなく進行し、その中で私も既に部隊の指揮官としての居場所に適宜な姿勢で坐ることができるようになっていた。本部付が万事心得顔に事を運び、やや甘い言葉で私を立てようと試みる傾きはあっても、それを私はむしろ都合のよい状態と考えていた。彼は鹿《か》児《ご》島《しま》県の出身だったから都合三人の兵曹長が鹿児島県ということになるが、残りの二人とて県はちがっても九州の出身であった。私だけがひとり、出身がどことはっきり言いにくい経歴ながら本籍を福島県に持つ東北方の人間だったということになろうか。それに軍隊の経験はやっと一箇年を経過した浅さしかなかったので、奇妙な組み合わせだったにちがいない。しかも過去に海軍が経験したことのない独立の特攻部隊だった故《ゆえ》、すべての点で甚だ素《しろ》人《うと》くさい雰《ふん》囲《い》気《き》が漂っていた筈《はず》だ。潜水艦の乗組みが長かったという機関兵曹長の本部付は、他の二人の同県人とは対《たい》蹠《せき》的に甚だ能弁な、いわゆる世事に長《た》けた如才のない態度をもろにあらわして一向に隠そうとはしない人《ひと》柄《がら》であった。私への接近の仕方も、その役どころがいわば副官の性格を帯びていたせいばかりでもなく、隊長、隊長と人なつこい呼びかけで、時には度を越えた親密ささえちらつかせつつ私の意を迎える趣があった。料亭がわとの折衝も要領よく、時には強引な態度も示して、事が円滑に運ぶ様子がよく見てとれた。万事私に任せなさい、と胸を叩《たた》いて頼もしげに引き受けてみせるような豪放な一面も感じられた。私は実は内心彼を警戒しながらも、そのやり口を許容し、彼の流儀に従っていた自分を認めないわけには行かない。その時部屋には芸《げい》妓《ぎ》がはいっていたろうか。早調子の三味線に合わせて本部付が、手なれた手つきと腰さばきで、手踊りをしていた姿が瞼《まぶた》に残っているから、おそらく何人かは呼んでいたにちがいない。本部付の宴席での遊び上手にかなう者は他の兵曹長の中には一人も居なかったろう。武骨に黙りこくって盃を重ねる者や、或いはそれぞれのやり口で本部付の独り舞台になりがちな雰囲気を変えようとする者も居ないわけではなかったが、当の本部付は少しも意に介さぬふうであった。そして達者な身振りで踊りながら、ふと隣室とのあいだの襖《ふすま》が開け放されているのを指摘して、ここを開けて置くのはよくないですから閉めましょう、と素早く襖を閉めてしまうようなことをした。その時に隣室には客は居らず、開けておけば広々とゆったりした気分になれたのだが、敢えてそれを閉めこんだために、こちらの部屋はこぢんまりととじこめられた感じになった。しかし私は本部付のやり口に一つの戦訓とでもいうべき意味を感じとっていた。彼はやはり実戦を経てきた人間だなと感じ入った次第だった。それを神経質な思い過ぎとは受けとれず、起こり得る危険への注意深い予防だと思えたからだ。  それからどれだけ時が経《た》ったか、すっかり酔った私には記憶に陥没があって見当がつかないが、突然隣室からかなりの人数の男たちが間の襖をさっと開けて乱入して来たのを認めた。というよりつと気づいた時は見知らぬ男たちがこちらの部屋になだれこんでいた。芸妓たちはとっくに引き揚げていたが、まずいきなりのこととて何のことかわからなかった。隣室にいつ客がはいったのかも気づかなかったくらいだ。兵曹長たちはさっとばかり立ち上がり、本部付が最初に何か大声を出していた。瞬間私は先程彼が襖を閉めた行為を鮮かに思い起こした。結果として効果はなかったが、彼の防《ぼう》禦《ぎよ》措置は的確だったのだ。われわれと同じように乱入の男たちも上衣は着けていなかったから、私は彼らがどのような人たちかもわからず、なぜこんなことになったか見当のつけようもなかった。しかし兵曹長たちは彼らが海軍の下士官であるのを見て取っていたことはその言葉遣いですぐにわかった。われわれが特攻隊であることなども口にしながら、兵曹長たちはなぜ襲撃をかけてきたかをなじっていた。しかしそれはかえって火に油をそそぐ結果でしかなかった。特攻隊が何だ、自分たちも何々だ、とか何とか叫びながらいきなりなぐりかかってきた。私も立ち上がった。それでもなお私は彼らはまちがってこちらの部屋にはいって来たのだろうぐらいに思っていた。まさかわれわれの隊を目当てにしての襲撃とはどうしても思えなかった。既に双方入り乱れての殴り合いになっていて、小柄ながら勝気の先任兵曹長など、顔を真っ赤にして上官に手向かうかなどと調子はずれの高い声で叫びながら、闖《ちん》入《にゆう》者《しや》に立ち向かっているのが見えた。何しろ相手がわの人数が多い故、とどめようのない乱れた形勢となった。はじめ私は双方の間に割ってはいるつもりで、やめろ、やめろ、やめんか、などとどなっていた。つかまえた相手のからだや腕の感触では、これはみんな相当腕っ節が強いな、という印象であった。と、その瞬間私は一人の男から顔にしたたかな一撃を受けた。一瞬目がくらむ程の衝撃であった。鼻に近かったらしく血が大量に奔出し、白いシャツが鮮血にまみれた。反射的に私はむらむらと湧き上がる押えようのない怒りを覚えた。私は手当たり次第に向こうがわの男たちを殴り返した。私はそれまでに人と腕力で争った覚えはない。一度小学六年の時にクラスの班長ととっ組み合いの喧《けん》嘩《か》をしたが、殴り合うことはなく床をころげ廻《まわ》ったぐらいなものだ。あとは商業学校の時に仲の良かった友人と齟《そ》齬《ご》をきたし口喧嘩をしたが、言い負かされてみじめな思いをした。唯《ゆい》一《いつ》の例外は母親に乱暴な言葉で口答えする弟を思い切り殴ったことだが、逆に弟から下《げ》駄《た》で額を叩き返されて血が出た。私はわざと血をぬぐわずに弟の目にさらしておくような仕打ちに出たこともあったっけ。そんな私が、いわばしん底から怒りを覚え、体力の限りを尽して見知らぬ屈強な男たちと殴り合ったなどと、今考えても、ひと事のような思いになる。やはり私が軍隊の階級の仕組みにまるごと寄りかかっていられたからだろうか。おそらくその場では私が一番上の階級に居た。われわれのがわの兵曹長が相手が下士官であることをとうに見破っていたのだから。しかし明らかにわれわれを上官と知り、且《か》つ特攻隊員とわかってもなぜ彼らは乱暴を中止しようとしなかったのか。その点に思い至ると、私には理解のできぬ不透明な何かを感じ、怒りは一層あおられるようであった。でもそれはいわば日々の鬱《うつ》屈《くつ》の爽《そう》快《かい》な発散の儀式だった思いもする。私自身気持の中に納得しかねるしこりを持ちながら、肉体の活劇からは甚だ単純なからだの解放と快さがもたらされてくるのを否定できなかった。何がきっかけであったか、潮が退《ひ》くようにさっと彼らが引きあげたあとも、何だかもっとつづけていたいようなあっけなさを感じた程だ。私の鼻血はすぐにとまったが、返り血を浴びたような恰《かつ》好《こう》には、ちょっと凄《せい》惨《さん》な趣が漂っていたのかも知れない。やはり私が一番喧嘩下手ということだったのだろうか。兵曹長たちは、隊長も派手にやりましたですな、などと冗談を言いつつ、いたわりを見せてくれた。もしかしたらこの共同防衛の乱闘で五人の兵曹長とのあいだに気持の上の或る近寄りを進めたかも知れなかった。本部付の姿が見えぬと思ったら、早々と情報集めに機敏に動いていたことがわかった。どこでどう聞き込んだものか、乱入の者はやはり全員海軍の下士官だったことや、特殊な部隊の者ではなく、佐世保在海軍常設の機関に属する者で、その隊長なる人が二階の別室で飲んでいるということまでしらべてきた。その上彼はその隊長の大《たい》尉《い》に会って抗議を申し入れ、自分の部隊の隊長を連れて来るとも話してきたのだと言う。向うがわの隊長が兵曹長を経て昇進した特務士官であることまで突きとめていたが、本部付はなぜか敵意をむきだしにあらわすようであった。内実を知った者のやっかみかも知れぬとふと思った程だ。隊長がよその隊の下士官から殴られたことがうちの隊員に知れれば士気にもかかわることです、などと私をたきつけていた。特定の下士官から第十八震洋隊隊長と知っての上で殴られたのではなく、お互いに階級もわからぬ上衣無し姿の乱闘中でのことだから、私にそのような考えは持ちようがなかったが、本部付はへんにそのあたりに力を入れ、やつらをこらしめてやりましょうなどと意気込んでいた。何の魔がさしたか、私はつい本部付の提案を受け入れる気になった。相手をこらしめるなどという発想ではなかったが、この事件についてのけじめはつけて置きたいと思ったことは確かだ。階級の下である私は、たとえ被害を受けたがわであったにしても、その大尉の居場所にこちらから出向くかたちになるのは致し方あるまい、などとへんに堅苦しい考えで自分を納得させながら、本部付と共に、二階に上がって行った。四畳半の小部屋で彼は二、三の部下の士官と静かに酒を飲んでいた。私には、長年海軍で叩きあげてきた隙《すき》間《ま》のない世なれたいかつい顔付の年配の士官がそこに傲《ごう》然《ぜん》と威厳をつくろった態度であぐらをかいていると見えた。本部付がどことなく陽気な調子で、自分の隊長を連れてきた旨《むね》を伝えたが、何の話だというふうに空とぼけた表情を作っていた。私は自分の配置を名乗り、貴隊の隊員の理不尽な襲撃を受け大変迷惑を蒙《こうむ》った旨の大《おお》凡《よそ》の経過を述べた。しかしこのような言い方では経験を積んだ彼の前でどれだけの攻撃力を持つものやら、いささか頼りない気持になっていた。そう思いながら私は本部付の存在を意識した。つまりここに出向いて来た以上何らかの収穫というか、出向いただけの証《あか》しが得られなければ、彼に負債を作ってしまうだろうなどと考えたのだった。私は、自分が乱闘をとめにはいったのに貴隊の下士官から殴られ、一個の特攻隊を預かる身としては面目のない立場に立たされた、という点をつい強調する始末となった。内心は別にそんなふうには感じていなかったのに、その点で押すより致し方ない気持であったのがおかしかった。と、何が感情を刺《し》戟《げき》したものか、思わず私ははらはらと涙をこぼしてしまった。それは実に唐突なそして思いがけないことであった。私は少しも悲しくなどはなかった。大尉は、ではどうすれば納得するのか、とぽつりと言っていた。感情など金輪際表にあらわすような人ではなさそうだったのに、ついほだされたか思わず折れてしまった口振りであった。私は、この事件について謝罪をしていただきたいと言った。ところが本部付がそばからしつこく口をはさんで、ただ口先の謝罪だけではうやむやになってしまうから、はっきりしたかたちで結末をつけてもらいましょうと、相手の大尉に聞こえよがしに私をあおりたてていた。つまり白シャツが鮮血にまみれる程も暴行を受けたことは歴然としているのだから、同じような方法で大尉にも私の仕返しを受けてほしいと言っているのだった。階級の下の者から暴行を受けたままで引き下がったとなれば、基地への出発を目前に控えた特攻隊員の士気を阻害すること夥《おびただ》しいという理屈もつけ加えながら。本部付の口振りにははじめからの陽気な調子があっただけでなく、執《しつ》拗《よう》に食い下がって相手の大尉の受諾を迫る勢いがあった。私も思いもせぬ涙を落とした醜態のつくろいのためにも、その決着は致し方あるまいと思いはじめていた。いわば敵の牙《がじ》城《よう》に侵入した以上手ぶらで帰るわけには行かぬではないか。このままでは部隊には帰れませんなどと私も口走ったのだった。どこまで本気なのか自分ながらわからない状態に陥っていた。もしかしたら刺し違えもしかねまじき気配が伝わりでもしたのだったろうか、目前の未経験な学生上がりの若僧が何を小《こし》癪《やく》なとばかり、突き放した態度を終始隠そうともしなかった大尉が、殊勝にも私の申し入れを受け入れようとしたのだ。私はもっと手《て》強《ごわ》い相手と勝手にきめこみ、それだけの覚悟はきめていたのに。さていざその段になって解決がついてしまうと、私は急にもうどうでもよい気分になっていたのだが、まるで切腹の座にでも就く感じで、その特務大尉はずいと前に出ると正座の姿勢をとったのだ。顔には不本意な苦い表情をみなぎらせていた。彼にしてみれば、そばには自分の部下たちがこの始末のあと先をずっと見ているという意識が取り除けなかったにちがいない。しかも事の赴くままこのような事態に立ち至った。私は以前横《よこ》須《す》賀《か》の料亭で技術大尉たちをやはり不本意で殴った光景が思い浮かんだ。その時は海軍兵学校出の大尉が、〓要員になったばかりの私たち新任少尉にそれを命じる恰好になっていた。しかし今度は自分の意志で、ということになるが、そばの本部付が焚《た》きつけなければ、このようなことにはならなかったにちがいあるまい。そこのところが私の心の底にへんにわだかまっていた。しかし勢いに乗った私は、結局介《かい》錯《しやく》でもするような恰好でその特務大尉を殴ったが、何だか割り切れぬにごった思いが残った。四畳半の部屋にはやや殺気立った気配が立ちこめたと思え、私と本部付は長居は無用とばかり、すぐに引き上げたが、私にはどうにもすっきりしない気持がしこりとなって尾を引いた。隊長よくやりました、これでいいのです、などと本部付がはしゃいで言っていたが、私はどんな言葉も聞きたくはなかった。ただひたすら一人になりたかったので、兵曹長たちとは別れ、防備隊には戻《もど》らずに、そのまま町の山の手に寄った場所にあった海軍士官専用の料亭に行って泊まった。白シャツの血のりは上衣を着ければ袖《そで》に隠れてわからなかったが、私はいつまでも拭《ぬぐ》い取らずに、そのまま多くの人の目にさらして置きたい思いになっていた。しかし翌朝、シャツの血は奇麗に拭い取られてあった。私はひどく孤独な思いに陥っていた。こんなふうでこれから先百八十名余りの隊員を率いて基地に赴き、そこを根城として特攻戦にはいってなどいけるものだろうか、と甚だ頼りない気持にさいなまれたのであった。  本部付がその夜の事件をどのように隊員たちに言いふらしたか、私の耳にまでは届いてこなかった。私の気持には本部付の思惑に乗ってしまったという悔いがうっすら残って消えなかったが、それ以来兵曹長たちが以前よりは親しげな態度を私に見せるようになったと思われた点だけは、或《ある》いはおかしな収穫だったというべきであったろうか。  辰《たつ》和《わ》丸と称する輸送船が佐世保港をひそやかにすべり出たのは、昭和十九年十一月十一日のことであった。その船には奄《あま》美《み》の加《か》計《け》呂《ろ》麻《ま》島を守備する大島防備隊付として送りつけられる諸部隊とその兵器が搭《とう》載《さい》されていた。同島内配置の砲台部隊二、三の他《ほか》に、姉妹隊の第十七震洋隊と共にわれわれの第十八震洋隊の、兵員、兵器、何年間分の(たぶん二箇年分ぐらいだったと記憶するが)食糧や諸《もろ》々《もろ》の需品が積みこまれていたことは言うまでもない。ただ第十七震洋隊指揮官のH大尉だけは直接飛行機で着任する由《よし》であった。それ故《ゆえ》輸送船がわを別とすると、乗船部隊の責任者たちは、第十七震洋隊先任将校のW少尉(彼は魚雷艇特修学生終了時私よりは先任、つまり成績席順が上位であった)と私とは勿《もち》論《ろん》、各砲台長も皆三期予備学生の砲術学校出身者だったために、全員期せずして速成の予備士官ばかりということになった。護衛として巡洋艦だったか駆逐艦かが一隻《せき》ついていたが、輸送船のそば近くたのもしげにその姿を見せていることは至って少なく、たいていはかなた水平線のあたりにようやく認められるか、又はもう任務が解かれて帰ってしまったのではないかとあやしまれる程も、海上のどこを見廻してもそれらしき点さえ見えぬはるかな位置に離れて航行していた。もし敵の潜水艦が近接した場合、それではとても間に合うまい、と思わないわけには行かなかった。その時はたぶん海没の事態に遭遇するわけだが、その場に臨んで指揮官としての自分がどうしたらいいかについては、甚《はなは》だあやしい対応しか思い浮かばなかった。というより具体的な行動を予想しようとしても、自分に与えられた兵器が完全装備の施されぬまま船底に眠っている以上、どんな戦闘場面にも手をこまねいて眺《なが》めているよりほかはないことに気づくのが落ちであった。たとえ児戯に等しいものでしかなかったにしろ、若干の戦闘用具が与えられている輸送船の方では、戦いの姿勢を示さなければならなかったろうが、それは輸送船がわの要員に課せられたもので、われわれの容《よう》喙《かい》の許される余地はないというべきであった。現にわれわれには辰和丸がどんな行動を取っているかなどについての情報は一切与えられてはいなかったのだから。しかし実を言うと、それは私にとっては、むしろ救いでありもしくは休養だったと言えようか。なぜなら、どのような事態が生じても、私はただ成り行きにまかせていればよかったのだから。われわれ三期の予備少尉たちは上甲板に接した、しかも震洋隊要員の二人にはよりゆったりした個室が与えられていたから、たとえ雷撃を受けたとしても、船内からの脱出は甚だ容易と考えられたのだった。勿論船底に詰めこまれた下士官兵の修《しゆ》羅《ら》場《ば》の現出という犠牲と引き換えにしての妄《もう》想《そう》ではあったが。だからといって海没の事態が現前した時に、私にどんな特別の行動が期待できよう。私はひたすら途中の航海中何事もなく目的地の加計呂麻島に到着できることを願うほかに術《すべ》はなかった。それは祈りに近かったといえるかも知れず、しかも頼りないことながら私はその祈りのききとどけられることを半ばは信じていた。その時の私の祈りは亡《な》くなった母に向かって為《な》されていたが、それまでも私は度々母に祈ることによって危機が避けられたという思い込みを持っていた。祈りがきき届けられたといっても証拠は漠《ばく》然《ぜん》としているが、事の起こりが母の命日に当たっていたことによるそれは、どうしても私を神秘的な状態に導くようであった。今度の基地への進出の日も、偶然のこととはいえ、その十一月十一日であったことは、私に或る落ち着きを与えてくれていた。だからたぶん辰和丸は途中無事な航海を全《まつと》うして加計呂麻島に行き着くにちがいないと、私は半ば自分に信じ込ませていたのであった。  それが叶《かな》えられたのかどうか、辰和丸は一《ひと》先《ま》ず鹿児島市沖合いに無事に投《とう》錨《びよう》し得た。私ははじめ当然普段の寄港とばかり思っていたが、一両日の碇《てい》泊《はく》ではないことが結果としてわかってくると、やはり戦況の悪化による待避と考えないわけには行かなかった。もっとも辰和丸の航行予定など知らされてはいないのだから、たとえばこちらの上陸行動もその日まかせにならざるを得なかったが、まあ大《おお》凡《よそ》の見当はつけることもできたので、鹿児島市内に宿泊する機会も無くはなかった。ただし上陸が自由なのは殆《ほと》んど准《じゆ》士《んし》官《かん》以上と公用使としての上級下士官に限られていて、隊員の大方は、うす暗い船室にとじこめられたまま、時に甲板に出、眼前の鹿児島の町の展開や桜島の横に広がった荒れた山《やま》肌《はだ》に向かい合えても、輸送船を離れてそちらの方に行ってみることはできない相談であった。隊員の中からは上陸を許可してほしい旨の要望が強く出されていたが、許可する以上は全員に及ぼさなければならず、そうすると辰和丸の予定行動が不安定な状況の下では、収拾のつかなくなる恐れが懸《け》念《ねん》されて、私の決心はつかず、結局船底に閉じこめ置く結果を見過ごすだけの方策しかとれなかった。如才のない者は何とかもっともらしい理由にかこつけ脱出するかの如《ごと》く上陸しているのも私には察知されていたが、それとて目をつぶるようにして気づかぬふりをしているほかはなかった。鹿児島県出身の隊員も少なくなかったので、鹿児島湾に投錨しながら、上陸の叶わぬ不満はへんなくすぶりを潜めていたにちがいなかった。しかもわれわれ准士官以上は、別段の用事はなくても、気散じにさえも上陸を為し得ていたのだから。たとえもう二度と本土を見ることはあるまいという思いに覆《おお》われていたにしても、その心情はほかの隊員にとっても少しも変わりのあるものではなかった。そのような日々の中で突然の如く隊員の中から赤痢患者が発生した。基地進出の途次の中休みか何かのつもりで気持のゆるんでいた私には、それは天罰とも考えられる鉄《てつ》槌《つい》として感受された。私にとっては普段の生活の中でいきなり戦闘用意をかけられたも同然であった。気になりながらも敢《あ》えて訪ねることをしなかった船底の下士官兵居住区に私ははじめて降りてみた。そしてその濁って悪いにおいをわきたたせている空気の中で、私は底光りのする敵意のこもった隊員たちの眼《め》に取り囲まれたことを感じた。その眼光はそれまでの隊員には見られなかったもので、殺気をさえはらんでいたと言えようか。しかし私はこの部隊の指揮官ではないか、と思い直し、肩を崩すことのできない苦衷を味わった。それにしても、その時私が為すべき事は、衛生下士官が診断した赤痢にかかった隊員三名(しかも三名とも特攻兵たる艇隊員であっただけでなく、その中の一人は第二艇隊の先任下士官であった)を一刻も早く船外に伴い、どうにか方法を講じて、赤痢の治療の可能な場所(それは病院と名のつくどこかということになるわけだが)に彼らを送りこむことであった。その日偶《たま》々《たま》私が鹿児島市内に上陸せずに船内に留《とど》まっていたのは幸いであったと言わなければなるまい。日は既に西の空に傾こうとしている時刻であった。隊員の中には衛生兵が三、四人は居たが、応急の処置は行なえても、彼らにそれ以上の責任を負わせるわけには行かない。患者をどのような病院に導くかについて、輸送途次の状況下では、すべて私が動いて方策を見つけるのでなければ、感染の危険を野放しにしたまま他の多くの隊員と枕《まくら》を並べて船底に放置することになる。さあ、S少尉、この状況をどう判断し、どのような処置をとるか、そう私は自分に言いきかせ、当面の困惑を多少でも軽くしようと試みたのであった。私は在船していた兵《へい》曹《そう》長《ちよう》と衛生兵を伴い、三人の患者をとにかく船底の居住区から鹿児島市に連れ出すことにした。どのように処置すべきかについて私には皆目見当がついてはいなかったが、いずれにしろ動き出すほかはなかった。大発で港に着くと岸壁には停泊中の諸般の利用のために船から陸揚げさせていた隊のトラックが待っていた。日はすっかり暮れていた。患者をトラックの運搬台に寝かせはしたが、さて、どこに行けばよいものやら。しかももう世間は夜の帳《とばり》の領域にはいってしまっていた。市内には海軍武官府と称する事務処理の出先機関のあることが兵曹長から教えられていたが、それとて執務時間が切れていては連絡のとりようもない。はた、と途方に暮れた私の目に、少し離れた場所の別の岸壁に白い病院船の接岸しているのが見えた。地獄で仏に会ったという心情はこんな場合をでも指すのだろうか。あれは船種を明らかにするために特別の照明を施していたのだったか。暗《くら》闇《やみ》の中に、その船だけが純白に浮きあがるように見えていたのだから。船腹に赤い十字の印をはっきりと刻印して。それが私にはまるで白衣の天使のように感じられた。いうまでもないことだが、私はトラックを直ちにその病院船に向かわせた。近づいてみると、陸軍所属のものであることがわかった。乗員の服装だけでなく肌に伝わる気配に、海軍とはちがって或る固さを受けたことですぐそれと察しられた。しかしその時の私に躊《ちゆう》躇《ちよ》の余裕はなかった。満潮のせいか岸壁と舷《げん》門《もん》は殆んど同じ高さにあった。カーキ色の服装にゲートルを巻いた番兵にやや異和の感情を抱きながら、私は、陸軍のしかも病院船ででもそう呼称するかどうかはわからぬまま、当直将校に会いたい旨を伝えたのだ。すると、すぐに余り背の高くない一人の士官が、赤の色の目立った細長い布を襷《たすき》がけにして現われたので、どことなく調子のちがう思いを抱きながら、前後の事情を手早に説明して、私は三人の赤痢患者をとにかく一晩だけ預かってもらいたい旨をがむしゃらに懇願した。幸いなことにその当直の士官は、快くすぐに引受けてくれた。それはちょっと拍子抜けがした程容易にであった。しかし私はどんなにほっとしたことか。当面の難事をひとまずは切り抜け得たのだから。いうまでもないことながら、衛生兵をもその船に残して、その夜は一《いつ》旦《たん》辰和丸に引き返したのであった。  翌日、途中でいろいろな戸惑いはあったものの、最終的に三人の患者は鹿児島の避病院が預かってくれることになって、そこに入院させることができた。鹿児島の町の様子のわからなかった私にはその病院がどのあたりにあったのやら見当もつかないが、町はずれの閑静な場所に、木造でどことなく温《ぬく》もりの感じられる、大きな屋敷の離れのような病室を持っていた。院長が年配の温厚な人《ひと》柄《がら》であったのも安《あん》堵《ど》の種であった。私は三人の患者に、基地で待っているから早くなおって追いかけて来いよ、などと口に出して言ってみたものの、治療が長引いて入院をつづけているあいだに、部隊が特攻出撃を果たしてしまうこともあるわけだな、と思い、ふと羨《せん》望《ぼう》に似た感情が軽く浮いて流れるのを感じた。と同時に四十八隻の特攻艇の中から二、三隻が欠落したとて大勢に決定的な影響の及ぶわけもないから、折角の機会だから適宜に快《かい》癒《ゆ》をおくらせて、彼らが出撃に間に合わぬことを望む気持も生じていたのだった。それはちょっと奇妙な感情で、危険な最前線から突然呼び戻されて安全な配置に帰り行く同僚を見送る場合に似てもいたろうか。  さて彼らの始末をつけたあと、まるでその事の終了を待ちあぐねていたかのように、辰和丸は鹿児島湾奥から碇《いかり》を揚げ、そそくさと、と形容したい程唐突に湾外へ航行を再開した。どのような敵状判断の下での決行かわからなかったが、今にして当時の戦況を振り返ってみれば、幸運な、としか言いようのない偶然の重なりで、辰和丸は昭和十九年十一月二十一日、奄美大島と加計呂麻島のあいだの多くの岬《みさき》の入り組んだ静かな大島海峡に辿《たど》り着くことができた。海峡も両岸の岬の山々も、折りからの小《こ》雨《さめ》でしっとり濡《ぬ》れそぼっていた。そしてその日のうちに大島防備隊に無事着任したのであった。その時期に前後して佐世保を出た、針尾海兵団で共に出航待ちをしていた八個部隊のうち三個部隊は途中敵襲に遭遇、輸送船が海没して隊員の殆《ほと》んどが命を失い、勿論〓兵器も無くなって解隊していたことを知ったのは、敗戦後何年か経《た》ってからのことだ。われわれ第十八震洋隊は(そして第十七震洋隊も同様であったが)、ひとまずは海没の非運に遇《あ》うこともなく予定された基地に到着し得たのだ。それは母が守ってくれたのだったかどうか。しかし予《あらかじ》め基本的な設備を既に設けてあると聞いてきた基地は、南海の島かげに奥深く眠るが如くに横たわる、山上湖ともまごうおだやかな自然のままの入江であって、浮《ブ》標《イ》一つ用意されてはいなかった。澄み切った入江の青い海は、両岸の樹木の影を深々と写し、古代さながらの清らかな静けさに満ちていた。私はどれ程そこに基地の施設などは作らずにいつまでもそのままにそっとして置きたい思いにかられたことか。しかし既に特攻隊の基地として定められた以上、両岸の樹木は次々と伐採され、兵舎が建てられ、特攻艇の格《かく》納《のう》壕《ごう》としての三十メートルも奥行のある横穴が、十二個も掘削されなければならなかったのだ。そしてわれわれは、その作業をほんの端緒を設営隊に手伝ってもらっただけで、残り殆んどを、自隊の兵員による突貫工事による完成を余儀なくさせられる如き状況に囲まれていたのであった。 Shincho Online Books for T-Time    魚雷艇学生 発行  2000年9月1日 著者  島尾 敏雄 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町七一     e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp  URL: http://www.shinchosha.co.jp ISBN4-10-861007-6 C0893 (C)Miho Shimao 1985, Corded in Japan