TITLE : 血の罠 血の罠   大藪春彦    血の罠    取り引き  夜が黄昏《たそがれ》の影を獣の足跡のようにそちこちに振りまきながらしめやかに迫り、青い夕闇がすでに街を包んでいた。目に見えぬ山脈の残雪を孕《はら》んだ風が海に向けて冷たく吹きつけ、銀杏《いちよう》の若葉の物悲しい匂いを吹きとばした。  背の高い男が車掌に軽く顎《あご》をしゃくって、バスから降り立ち、ダスター・コートの襟《えり》をたてた。風に背をむけてマッチの火をタバコに移す。あみだにかむった鳩色のフェラドソフト帽の下にぐっと迫った太い三日月形の眉、冷酷さとユーモアの絶えず入り混る不敵な目、鷹《たか》のような鼻、嘲《あざけ》るように片方をつり上げた薄い唇が光に浮びあがる。褐色に日焼けした皮膚が精悍《せいかん》な顔だちをくっきりと被《おお》っている。  煙を背後にたなびかせながらその男は石畳の上を歩いて行く。逞《たくま》しい体つきだが、身のこなしには豹《ひよう》のようなしなやかさがある。左に折れると、ヘッドライトの目眩《まばゆ》い光線に替り、静かな住宅街の柔らかな門燈が、ひきしまった男の頬に、濃く鋭い影を刻む。  若草の匂いのきつい広場に、鉄筋コンクリートの公営アパートが三棟《むね》並んでいた。少女が打ちかうバドミントンの白い羽根が、窓々から漏れる薄明りに目まぐるしく飛びかい、ラジオの音楽や平和な笑い声がかすかに聞えてくる。  その男はアパートの入り口に止っている鶯《うぐいす》色のシボレーを見て足をとめた。車の蔭《かげ》から二人の男が現われた。背の高さは互いに十センチほど違うが、揃《そろ》いのチェックの背広に蝶ネクタイを結んでいる。 「新田《につた》警部さんですね?」  背の低い方が一礼し、こけた頬に卑屈な笑いをへばりつけて尋ねた。その横で兎の様な顔付きの若者が肩を怒らし、無言でダスターの男を眺めている。 「新田は新田だが、今は警部補だ」唇の端は自嘲《じちよう》につり上がり、人を人とも思わぬような瞳《ひとみ》にチラッと怒りの影が走る。 「お疲れのところ、申しわけありません。一寸《ちよつと》お暇を拝借出来ませんでしょうか? 社長がお近づきのしるしに一献差し上げたいと申しますので……」  頬のこけた男が滑らかな口調でまくしたて、しきりに揉《も》み手をした。 「一体君達は誰だい? 社長といっても大勢いるからな」  新田は左足に重心を移しながら、ふてぶてしい口調で尋ねた。 「これはしたり、申しおくれました。手前どもは斎藤興業の者で、私は並木、この若いのが多田と申します」言葉は丁寧だが、目は、知ってるくせに、とでも言いたげである。 「ほほう漫才コンビでお迎えか?」  新田は白い歯をきらめかしたが、動こうとしなかった。 「御冗談ばかり……社長が待ちくたびれています。さ、さ、早く車にお乗りを」  愛想笑いを浮べた並木が車のドアを開け、新田の腕をとって車に乗りこませようとする。 「手を触れるな」新田の声はポツンと低かったが、その中には並木の腕が思わずダランと垂れ下るほどの凄《すご》みがこもっていた。  唇をそり返した多田の手がすっと腰に廻った。新田はくるっと横に振りむきざま、素早く一歩左足を踏み込んだ。目にもとまらぬ短い右フックを多田の脇腹に叩きこむ。  グウッと肺中の空気を絞り出された多田は、目玉がとび出しそうに見開き、脇腹をおさえて左側にすっ飛び、地面の上に転がった。空気を求める荒い息をゼーゼーと吸いこむ。手からはなれた銃身五インチ、全長八・五インチの自動拳銃《けんじゆう》が、一メートルばかり先の地面に当って跳ね返った。 「これは又、乱暴なことを」  並木が手を広げて情け無さそうな声を出した。新田は鼻で嘲りながら、素早く並木の両手首に手錠をかけ、放り出された拳銃を拾った。露出した撃鉄と把式安全装置《グリツプ・セーフテイ》が後ろ側に突き出したスペイン製ラーマの、四十五口径八連発自動拳銃モデルXAだ。遊底被《スライド》と銃把《じゆうは》の間についた三角柱形の安全装置の形さえ違っていなかったら、G・I《ジーアイ》コルトそっくりの外形をしている。 「凄味をきかす相手を間違えたな」  ラーマ拳銃をポケットにおさめた新田は、薄笑いしながら慣れきった手つきで並木のポケットを軽く叩き、武器の有無をたしかめた。  若造が呻《うめ》きながら膝《ひざ》をついて起き上り、ギラギラ光る目で新田を睨《にら》みつけ、汚ならしい言葉で罵《ののし》り続ける。 「よし、手錠を外してやる。お前が運転して、あの兎公《うさこう》はお前の横に坐らせる。さっそくドライブと洒落《しやれ》るか」  並木の手錠を外した新田は、親し気にその肩を叩いた。 「いらっしゃる積りなら、何も……」  並木が恨みっぽく言いかけたが、狼《おおかみ》のように犬歯を見せて嘲り顔を作った新田を眺めて口を噤《つぐ》んだ。 「手荒なことをしなくてもいいと言うのか? 俺は人に強制されると虫ずが走ってくる。メッセンジャーボーイで無いからな」  新田は軽く目を細めて冷たく言い捨てると、まだ口の中で罵り続ける多田の襟をつかんで車までひきずった。右手の甲でその左頬を力一杯ひっぱたく。多田は運転台のクッションの上に勢いよく尻餅をつき、裂けた唇の間から血と折れた歯を両手の掌に吐き出した。  岩乗な鉄柵《てつさく》の門がレスラーのような門番の手であけられ、シボレーは植込みの間を縫って二階建ての洋館の前に止った。黒いタキシードに身を固めた銀髪の執事の無表情な目は、紫色に腫《は》れ上った多田の唇を見て一瞬ひるんだが、すぐにしかつめらしい顔付きに返った。 「旦那様がお待ちかねでございます。どうぞこちらへ」  執事は恭《うや》々しく一礼し、磨き上げたリノリュームのホールを横切り、螺旋《らせん》階段を先に立って登っていく。並木はよろめく多田を抱えるようにして奥の部屋に消えていった。 「新田様がお見えになりました」  ドアを開けた執事は、部屋の中の肥った初老の男に告げて引き退《さが》った。暖炉を背にした斎藤が満面に笑みを浮べて立ち上った。粋《いき》な鳩色のソフトを帽子掛けに放りつける新田の背後でドアがしまる。 「来ていただけぬかと心配してましたよ」  斎藤は新田の手を握り、ポンプの様に振りながら熱心な口調で言った。  部屋の左側のトルコ式長椅子には、一分の隙もないクリーム色の背広に身を包み、浅黒く整った青年が坐っていた。アルコールに目がかすかに血走っている。頽廃《たいはい》的な美しさを湛《たた》えた女の肩から手を放し、気どった微笑を浮べて新田に軽く会釈すると、卓子《テーブル》からハイボールのグラスを取り上げる。 「心配をかけたな。やんちゃ坊やから貰ったおもちゃだ」  斎藤の手を放した新田は、うんざりしたような口調で言って、ラーマの自動拳銃を斎藤に軽くトスした。ダスターを脱いで、向いあった肘掛《ひじか》け椅子にどっかと腰をおろし、タバコを唇にくわえる。慌《あわ》てて両手で拳銃を受けとめた斎藤の目に、狼狽《ろうばい》の色が走った。 「これは、これは……多田の奴は聞きわけがないので弱ります。あれほど注意しといたのに」弁解がましくつぶやくと、拳銃を自分のポケットに入れて、エヘンと咳《せき》ばらいした。  女が立ち上った。挑発的に腰を振りながらホーム・バーの後ろに廻り、新田の顔を見て溢《あふ》れる様な媚笑《びしよう》を浮べる。 「ウイスキー、スコッチのオン・ザ・ロックにしてくれ」  新田は片目を細めて女にウインクし、口笛を吹く格好に唇を尖《とが》らす。若いハンサムな男の目がキラッと光った。 「御紹介しましょう。あの色男が小松でしてな、抜き射ちは仲々達者だし、頭も切れるし、まあ儂《わし》の片腕と言ってもよろしいかな——」斎藤があらたまった口調で言った。新田の前の卓子にグラスをおいた女にウインクして、 「このレディは愛ちゃんと申します。ナイトクラブ・エンリコのナンバー・ワン……だったな?」と、ニヤリと笑う。  女は体をくねらして、「いやよ、いやよ」とクスクス笑った。席に戻って小松の肩に顔を埋め、そっと流し目で新田を覗《のぞ》き見る。 「ヘッヘッヘ、あれで案外カマトトですわい」斎藤はうれしそうに目を細めた。 「それで?」新田は鼻からタバコの煙を吹き出しながら、気乗りせぬ様子で尋ねた。 「それでですな……」斎藤は新田の顔をうかがいながら言葉を宙に浮かせた。 「用件は何だ? 子分の自慢話か?」  新田は皮肉な声で尋ね、新しいタバコをくわえて、靴の裏でシューッと黄燐《おうりん》マッチをする。  小松の手がさり気なく背広のボタンをいじくり始めた。頬に血がのぼっている。 「あ、いや、滅相もない。ところで、警部さんがこの高杉市に御栄転になって、もう三月《みつき》になりますかな?」  媚《こ》びるような微笑を浮べて斎藤がたずねた。  新田はウイスキーを一息に飲み干した。 「汚職で警視庁を追われて、こんな所に左遷《させん》されたんだが、栄転と言えば聞えがいいじゃないか——」自嘲する様に唇をゆがめて吐き出したが、突然その目が獣じみた光を湛えて輝いた。 「一寸《ちよつと》した手違いで、目の前に転がっている大儲《おおもう》けの口を棒にふった。今度こそうまくやりぬいて見せる」 「頼もしい限りですな。それでこそ、こっちも相談に乗っていただけるわけで——」  斎藤は満足気に低く笑った。ふっと顔を曇らせ、声をひそめて、 「地検の検事正の上島《かみしま》があと一週間で村井の息のかかった小倉に替るという極秘の情報が入ったが、本当でしょうか?」 「耳が早いな」新田の頬にのぼった血は醒《さ》め、気狂《きちが》いじみた目の光も消えている。 「ふーん、やっぱり本当なんだな。それではそろそろ商売の話にとりかかりましょうか」 「どんな話だ。儲けの話なら何でも食いついていくぜ。呑みこむかどうかは、いつも俺自身で決めるけどな」  新田はニヤリと笑って、タバコを丁寧に灰皿で揉《も》み消した。 「では、こちらも筋道をたててお話しましょう。警部さんも御承知と思うが、この市は三つの勢力下にありましてな。儂の所も戦後しばらくは闇市と競輪で随分派手にやってたんだが、土建屋と屑鉄《くずてつ》屋をバックに焼け跡の買い占めで荒稼《あらかせ》ぎした村井組がぐんとのびて来ました。何と言っても子分の数が桁《けた》違いだ。こっちも負けぬ気でやったのですが、県内の競輪やモーターボート・レースは愚か、市内のパチンコ、スマートボール、ダンスホール、キャバレー、バー、高級クラブといった所の縄張りも、喧嘩《でいり》をくり返してるうちに、あらかた分捕られてしまいましたわい。うちの幹部連中も消されたり、寝返りをうったり……子分の数も今では五十人たらず、信用のおけるのは二十人ぐらいに減ってしまった。儂も年で意気地がなくなり、残された縄張りの城西町に辛うじてしがみついているといった具合で」 「それだけでも残ってればたいしたもんだ。城西町と言えば東京の中野、高円寺に当る。ボロい儲けは出来ないが、地道に稼げるだろうよ」  新田は斎藤の顔をさぐるように見る。 「そこが村井の頭のいい所でしてな。逃げ道だけは残しておかんと、窮鼠《きゆうそ》猫を噛《か》むのたとえ通りの事が起りかねませんからな。とにかく村井は大したもんです。今では弁護士の十人も抱えて経済ヤクザにのし上り、市の実権はあいつの手中にあると言ってもいいほどです」  斎藤は苦々しげに溜息《ためいき》をついた。 「市長だって判事だって奴の息がかかっている。知事も俺たちの署長も奴の手玉にとられている。もう一つの勢力は安田組だな」 「村井が衆議院に打って出ようってんで、政界とのワタリをつけるのに夢中になっている間に、暴力団狩りで東京の池袋から流れこんだ安田組が、ヒロポンやヘロインで特飲街の連中を骨抜きにしながら、着々とのして来たんで。  この安田ってのが肝っ玉の据《すわ》った野郎で、儂もあんなに鼻っ柱の強えのは見た事はない。択《よ》りぬきの子分が五人、皆《みんな》そろってハジキにかけては凄腕だが、大幹部の井上ってえ野郎は特にビリー……何とか言いましたな。そう、ビリー・ザ・キッドそこのけの抜き射ちをやらかすもんですから、儂等はともかく、村井の方でも一寸やそっとのことでは手が出ねえ。  村井も今度こそ、今度こそと思ってたでしょうが、そのうちに安田組はアルサロやピンク・キャバレーにも手をのばして来た。中央駅前は今では安田と村井の縄張りが入りくんでるといったわけですわい。それに経済ゴロとしても、村井組にパクられた手形をサルベージするのに安田が凄腕をふるい始めた。両方の取り立て屋は何度かあわや血の雨、と言うところまでいったんですがな……」 「村井には目の上の瘤《こぶ》だな。チャンスさえ与えてやれば、一気に片付けたいだろう」 「そうそう。そこが肝心な所です。検事正まで村井の息のかかった小倉に替ったら、何が起るか見当もつくというもんですわい。そこでまず狙われるのはこっちです。弱体の儂等をまず片付けといて、孤立した安田組を潰《つぶ》していく。現に村井組が殺し屋を呼びよせにかかったという情報が流れて来ましたからな」  斎藤は額に深いしわを寄せて黙りこんだ。 「それで、俺に何をして欲しいんだ?」  新田は毛筋ほども表情を変えずに尋ねた。 「村井組の組織をかき廻して、矛先《ほこさき》をこっちからそらしてもらいたいんで」 「罠《わな》にかけて、安田組と村井組にまず殺し合いをさせろって言うんだな?」 「え、まあ、そんな所で」  斎藤が苦し気に答え、期待に満ちた目で新田を見つめる。 「いくら出す?」  新田は平然と尋ねた。 「二百万出しますぜ」  斎藤が身をのり出した。 「断わるよ」  新田はわざとのようにゆっくりタバコに火をつけ、煙を天井に向けて吐き出す。 「二百万では不足だとおっしゃるんで?」 「当り前だ。署長が村井に顎で使われてるってことを忘れるな。つまり、署の大部分の連中が分け前にあずかっていることをな。俺は一歩間違えば命が飛んでしまう」 「よろしい。あんたを男と見た。二百五十万出す。儂も今度は生きるか死ぬかの瀬戸ぎわだ。お互いに腹の底を割って打ち明けたんだから、儂を男にしてやってください」 「男だとか女だとか、浪花《なにわ》節《ぶし》みたいな寝言は止《や》めろ。俺は仕事に対しては、それだけの報酬を頂く主義だ。五百万ビタ一文も値切れないね、無論税抜きでな」  新田の目の色だけでなく、態度にも声にも軽蔑《けいべつ》の色が濃い。  斎藤はムッとした顔をした。 「そう仰言《おつしや》っても、はたして警部さんにどれだけの腕があるやら……」 「腕の方はおいおい分るさ。逮捕を拒むと見せかけて射殺するという手もあるし、何が何だか分らぬうちに同士討ちさせる事も出来る。こんな事もあろうかと、刑事を一人手なずけているんだが、必要とあれば俺が直接手をくだす」  新田は冷やかに言った。  斎藤の顎がガクンと開いた。低く唸《うな》って、 「聞きしに勝る大した方ですな。しかし三百万以上はどうしても出せません」と言った。  新田は立ち上った。目は細められて凄味を帯び、口のまわりに冷酷な線が刻まれている。 「けちけちする気なら俺は降りる。合法的に人を殺せるのは警官と軍隊だけだ。今、出し惜しみしてて、村井がもっと金を張ってお前達をバラしてくれと申し込んで来た時、俺がそっちに転んだらどうなる?」  斎藤の顔から血がスーッとひいていった。愛想笑いはぬぐったようにかき消され頬が硬くこわばった。新田はさり気なく右手をズボンのあたりに近づけ、横目で小松の方を盗み見た。 「これだけ内輪の話をさらけ出したのに、今となって何を言う! 小松、やれっ!」  斎藤は声をふるわして命令した。  女を突きとばした小松がさっと腋《わき》の下に右手を突っこんだ。その掌に握られたブローニング自動拳銃が半円を描いた時、電光の素早さで腰のホルスターから抜き出しながら、親指で安全止《セーフテイ・ストツプ》を前方におし倒した新田のコルト〇・三二が小さなオレンジ色の炎を吐いた。エジェクターではじき飛ばされた真鍮《しんちゆう》の空薬莢《からやつきよう》が薄い煙を吐きながら空中に舞い上る。  部屋をゆるがす轟音《ごうおん》と共に、三十二口径弾を喰《くら》った口径六・三五ミリ—〇・二五インチ—のベルギー製ブローニングFN—25は、快音を発しながら小松の手をはなれ壁にむかってすっとんだ。小松は衝撃で挫《くじ》けて痺《しび》れた手首を左手でおさえ、長椅子の上をのたうち廻った。甲高い悲鳴をあげた女は、床の絨毯《じゆうたん》の上につっ伏して啜《すす》り泣いている。  新田はコルトの銃口を斎藤の胸に据え、ニヤッと笑った。カチッと安全装置をかけた銃を、渋いツイードの背広の裾の下のホルスターに突っこむ。 「お見それしました」  斎藤は唇の上に浮いた脂汗を手の甲でぬぐって愛想を言った。 「お世辞は有難いが、ビジネスの方が大事だ。今から五分以内に決心しろ」  新田は壁に当ったブローニングを拾いながら言った。銃弾をまともに喰ったスライドが潰《つぶ》れ、使いものにならない。やっと起き上った小松が、口の中で呻《うめ》きながら、女に手首を揉ませている。 「参りましたよ。あんたには逆らっても無駄だ。申し出のあった金額で手を打ちましょう」  斎藤があきらめたように言った時、ドタドタと階段を登る数人の足音がして、扉が激しくノックされた。斎藤は、腰の拳銃に手をかけた新田の顔と扉とに忙しく目を走らした。 「暴発だ。大切な用談中だから誰も入るな!」  ドアの外の足音は重々しく去っていった。 「よしよし、感心だ」  新田はブローニングを捨てると暖炉に近づいた。それに背をもたせて、ゆっくり噛んで含めるようにしゃべる。 「いいか、これだけはよく頭の中に入れておいてもらおう。俺たち警官を殺せるもんなら殺してみろと言う事をな。なるほど俺のバッジは汚れている。悪徳警官というやつだ。しかし、汚れていようと汚れていまいと、ポリが仲間を殺されて黙っているもんか。警官にはほかの連中には分らん独特の誇りがある。俺は奴等のその誇りという弱点を足場にし、武器として利用しているんだ。俺を消そうなんて気を起す前に、何度も何度も考え直した方がいいぜ。分ったな。分ったら俺に手出しをしようなんて気を起すなよ」 「分りました。こっちとしても、あんたに死なれたら元も子もなくなるんで」 「その調子だ。よし、早目に打ち合せを済まして飲み直しといこう。手付けの金は二百万で勘弁してやる。検事正が替るまであと一週間、何とか手を打って見る」 「どういう手を打とうというお考えで?」 「全部の罪をおっかぶせられそうな手頃の男がいる。田島……そう田島君彦という男だ」 「あのボクシングの八百長試合のバクチ打ちですかい? さすがの村井も手を出せないほどのタフな奴ですよ。一すじ縄ではどうも……」 「ふん、やってみるに越した事はないさ。そうだ。ハジキを二丁貸してくれ。口径もメーカーも同じ奴でないと困る。性能の飛び切りいい奴を頼む。俺のは登録してあるから困るんだ。それと目だたぬ車を一台貸して欲しいな……」  テキパキと命令する新田の瞳は不敵な光を湛えて冷たく燃えている。    録音  稲妻が暗い天地を鋭角に切り結び、電柱の碍子《がいし》に青い炎が走った。横なぐりの雨が街路に屋根に飛び散って、機銃掃射を受けたような飛沫《ひまつ》を跳ねあげ、市を貫く詰田川はどす黒い奔流に沸きたっていた。  新田は中古のプリムスをスパイクのついた鉄柵の門の近くにとめた。その右側に坐った刑事の太田は、黙りこんだまま車窓を伝わる滝のような雨水をぼんやり眺めている。酒灼《さかや》けした赤ら顔が、短く太い首を通して分厚い胸につながっている。坐っていても新田の耳から上ぐらい高い。 「じゃあ、見張りを頼むぜ。まさか今夜帰るはずはないと思うが、万が一、田島が戻って来たら、名目は何でもいいから引きとめろ。引きとめといて、俺が今から行く部屋に電話してくれ。おっと忘れてた。お前の好物がある」  新田は車のグローブ・コンパートメントから、オーシャン・ウイスキーの中壜《びん》を出して、太田に手渡した。 「いつもすまんですな。これさえありゃ女房より有難え」  相好をくずした太田は、さっそくキャップを廻しはじめた。  レインコートの襟を立てた新田は豪雨の中にとび出して行った。たちまちソフト帽を伝って雨滴がしたたり落ちはじめた。  アパート「南風荘」は一寸した官庁ほどの大きさを持っていた。大理石の円柱の頭にはオリーブを象《かたど》った彫刻が誇らし気にそびえ、藤紫色の巨大な回転扉の内側から、柔らかな明りが漏れていた。  新田は蔭をえらんでアパートの建物に近づき、裏口から中に入った。エレベーターには乗らずに大理石の階段に水跡を残しながら屋上まで登りつめていく。  屋上に出ると、張りつめた粗い目の金網越しに、街のネオンや燈火が雨ににじんでぼやけているのが見下ろせた。また稲妻が光り、植込みの蘇鉄《そてつ》の肌が毒々しいほど青黒く光った。  新田がベルを押した第五号のペントハウスは、独立した小さな家といってもよかった。しめきったブラインドの隙間から、菫《すみれ》色の燈火がかすかに漏れている。  十秒ほど待って、新田は再びベルを押した。菫色の燈火にさっと青白い蛍光が混ると、ドアが細目に開かれて二十八、九歳の女が光を背にすらっと立っていた。波うつ髪は円光を負って淡く輝き、目は光を反射してリンのように碧《あお》い。ネグリジェを通して、上向きに尖《とが》った乳房の輪廓《りんかく》がくっきりと見える。 「どなたさまでしょうか?」  ふくよかな唇が微笑に軽く開いて、歯が真珠となって煌《きら》めいた。 「田島美知子さんですね? 僕は田島君の友人です。ことづけを持って参りました」  コートから雫《しずく》をたらしながら新田は答えた。 「まあ、主人に何か起りましたの?」  瞳を曇らせた美知子は、哀願するような声で呟《つぶや》いた。豪雨の音に消されてよく聞きとれない。 「大した事ではないんですがね——」  新田はあとを口の中でぼかし、「骨まで濡れ鼠になりましたよ」と苦笑した。 「まあ、わたくしって何て気がきかない。どうぞお入りになって……」  ドアの用心鎖を外した美知子は、舐《な》めずるように目で自分の体を愛撫《あいぶ》する新田を見て頬をこわばらせた。  ドアが勢いよく閉りかけた。新田は素早くドアと柱との間に靴先を差し入れ力まかせにドアを横に開いた。女の体はドアと一しょにズルズルと動いた。 「一体あなたはどなた? 声をあげて人を呼ぶわよ」  居間と玄関の境のドアまで退った美知子は、冷やかな目つきで新田をにらんだ。 「怒ると益々《ますます》お綺麗《きれい》ですな。声をあげるのをお引きとめはしませんが、生憎《あいにく》の雨でね」  新田は後ろ手で閉じたドアに背をもたせ、ソフトを脱いで不敵な笑いを浮べた。再び凄《すさ》まじい落雷の音が空気を震わした。 「何がお望みなの?」  能面のように無表情な顔付きになった美知子は冷たく尋ねた。 「今のところ、びしょ濡れのレインコートを脱ぎたいですね」  おどけた調子で言った新田は、ベルトをゆるめにかかった。  美知子の唇にかすかな微笑が戻ってきた。 「主人がどんな人か御存知? 御存知なら今のうちにお帰りになった方がいいわよ」 「知ってますとも。あさってにならないと帰らないこともね」  新田はレインコートを脱いで、居間のドアを顎でしゃくった。  美知子の顔に恐怖の影が走ったが、捨ばちのように肩をすぼめて、無言でドアをあけた。  居間の調度は渋かった。渋くて金がかかっていた。新田は感嘆の口笛を吹くと、コートとソフトを、空いた卓子の上に放り投げる。 「坐りたまえ」  新田は美知子になれなれしく呼びかけ、安楽椅子にどっかと腰をおろして濡れた靴をぬいだ。 「いいかげんになさらない。私を何だと思っていらっしゃるの?」  女の顔が怒りに青ざめたが、あきらめたように淋しく笑う。 「大した女《ひと》だと思ってるよ。二股《また》かけて澄ましてるとはね」  新田の言葉使いまでぞんざいになってきた。テーブルの上の銀の小箱からウインストンのタバコをとって唇にくわえる。 「何のことでしょう?」  新田の斜め向いのソファに坐った美知子が尋ねた。 「何でもないさ。おとといの晩はお楽しみだったな。田島は知らぬが仏さ。村井の御機嫌はこの頃どうだい?」タバコに火をつけて、煙の輪を吹き上げる。  美知子の瞳の奥にキラッと青い炎が走った。 「そんなこと、あなたの知ったことかしら?」 「えらく強気だな。田島の耳に入った時、そんなセリフが言えるかい?」  長い沈黙が続いた。美知子は覚悟したようにゆったりとソファにもたれかかり、腕をその背後に廻して指でビロードを叩いていた。 「いくら欲しいの?」 「欲張りはしないさ。金も欲しいが、もっと欲しいものがある」  新田は穏やかな声で答えた。 「私が欲しいの?」  美知子は目を伏せた。 「それもいい考えだな。しかし、その件は後廻しにしよう。情報が欲しいんだ」 「何ですって!」  美知子が体を起した。 「そんな声を出すなよ。村井の事で聞きたいことがあるのさ」 「変なこと言わないで! 何も知ってるわけないわ。さあ、早く帰って頂だい」 「そんなに死ぬのを焦ることはないよ。ところで、去年の冬、海に浮いていたボクサーの死体について、田島が何か言っていなかったかね? 殺される直前に、その男が田島と一しょに防波堤を歩いていたのを見た男が現われたんだが」 「変な言いがかりをつけるのね」 「そうかい。恐れながらと警察に届け出たらどうなる。君は厄介払いしたつもりでも、田島の耳に、お前を密告《さ》したのは可愛い美知子さんだ、と吹きこんだら話が変ってくるぜ」 「よして! 主人が信じるわけがないわ」 「君が骨抜きしてあるから、と言うのかい? じゃあ、君と村井との関係を教えてやったらどうなる?」 「証拠がないわ」 「なるほど、証拠か? これでは不足かな? 破っても無駄だぜ。ネガはとってあるから」  新田の白い歯が煌めいた。内ポケットから一枚の写真を出して、女に放り投げる。写真を取り出す拍子に、肩かけケース《シヨールダー・ホルスター》に入ったルーガー拳銃の銃把をチラッとのぞかせる。  美知子の手から写真がずり落ちた。籐《とう》椅子に長くのびた美知子の胸をひろげて、コールマン髭《ひげ》の秀麗な中年男がのしかかっているのが、木蔭をバックに写っている。 「奴の別荘でとった。夜だったから赤外線バルブを使ったのさ。お望みなら、発禁物の写真や、集音マイクで盗聴したテープを持って来てもいいぜ」  新田は暗誦《あんしよう》する様に無表情な声で言って、ニヤリと笑った。  美知子はしばらく考えているようだった。柔らかい絨毯の上から写真を拾って手の中でもてあそんでいたが、媚《こび》を含んだ微笑を新田に投げて溜息をついた。 「分ったわ、こうなれば話が変って来たわね。まずあなたのお名前を聞かせて。随分命知らずの人ね。好きになれるかも知れないわ」 「ハッハッハ、俺は村田と言うんだ。今度安田組に傭《やと》われて来た流れ者のヤクザさ」  新田は慇懃《いんぎん》無礼に頭をさげる。 「そう、村井さんに楯《たて》突こうって気ね。いい度胸だわ。で、何を聞きたいとおっしゃったかしら?」  美知子はソファにくつろいで、なまめかしい声を出した。  豪雨が小降りになっていた。車の警笛や電車の音がかすかに聞えるようになった。 「田島は君のために全財産をはたいてしまったっていう噂《うわさ》だよ。まだ君を——」  新田は突然言葉を切り、ふっと不審気な表情を浮べて耳を澄ました。その頬がドスのきいた微笑に崩れた。 「一寸立ってごらん」  優しい声が喉《のど》の奥から出た。美知子の態度がガラッと変った。唇をひきつらせ、目をつり上げて、いやいや、と首を振ってソファにしがみついた。  新田は無言で立ち上り、美知子を軽々と絨毯の上に放り出し、ソファを引っくり返した。ソファがあった下で、かすかな音をたててポータブルのテープレコーダーが回転していた。 「洒落たことをするじゃないか?」  新田の声は穏やかだが、目は冷たく鋭い。手をのばして、巻き戻しのスイッチに切りかえた。ピーッとテープが逆回転しはじめた。  猫のように跳ね起きた美知子が電話の受話器をとりあげかけたが、新田はその肩をとらえて、くるっと振り返らせた。 「嫌らしい人! 手を放してちょうだい。女に対する礼儀もしらないのね」  氷のような声で美知子は言った。新田は左手で美知子の顎を支えて顔を仰向《あおむ》かせた。 「女にもいろいろあるさ。俺と君は同じ種類の人間だ。いや、二人とも似たような鼠さ。だが、鼠は鼠でも俺が罠にかけられて大人しく捕まるような鼠に見えるか?」  冷たく言い放って、女を肘掛け椅子の上に突きとばした。ネグリジェとスリップの裾がパーッとまくれて、薄桃色の内股にまで燈が容赦なく射し込んだ。  レコーダーのプラグは、ソファの後ろの絨毯の下にあった。新田はコードをのばしてレコーダーをテーブルの上に置き、ソファを元に戻した。タバコに火をつけて、ガタガタ震えだした女に、歯をむき出して笑って見せる。 「どれ、俺の声でも聞いて見るかな」浮き浮きした声で言うと、再生のスイッチに切り替えた。  ソファに腰を下ろした新田を、追いつめられた牝鹿《めじか》のような目で美知子が見つめる。 “……確かに俺がやらせたよ。俺は自分では手を下さぬ主義だから政と安にやらせたが……”  レコーダーから聞えて来た声は、新田の声ではなかった。新田の頬に鋭い線が刻まれだした。 “どうも近頃、奴の様子があやしいと睨んでたんだが、気付かぬふりをして、そっと見張らしといたんだ。奴がピンはねしたのは、たかが四、五十万だが、裏切り者は生かしておけぬと言うのが俺の主義だからな”“この前のノミ屋の時のように?”美知子の鼻にかかった甘ったるい声が流れてくる。  新田はスイッチを切り替えた。フーッと大きな息をつくと、指をパチンと鳴らす。 「うん、この声は村井の声だ。聞き覚えがある」ギラギラ光る目を女に向ける。 「お願い、お金は出すわ。返して」  美知子は新田の袖にとりすがって哀願した。 「ハッハッハ、そうは問屋がおろさないよ。しかし、俺だって氷柱《つらら》ではない。考え直すということもあるさ。まあ、これは一応預かっておく」巻きとったテープをハンカチで包んで、新田はそれをポケットに突っこんだ。美知子は怒りに燃える目を窓の方にそらした。 「まるで強盗ね。村井さんがあんたのことを知ったらどうなるか考えて見て?」 「君は君自身のことを心配した方がいいぜ。何のためにこんな録音をとった? 気まぐれでとは言わさないよ。このテープだけでも、出すところに出せば村井の命とりともなりかねないぜ。村井は裏切り者は生かしておかぬ主義だと言ってたな。もし俺がこのテープを奴のところに売りに行ったら?」  美知子はヒステリックに笑いだしたが、それは段々しゃくり上げるような啜り泣きに変っていった。 「お気にさわること言ってごめんなさい。ね、お願い、何でもあなたの言う通りにするわ。それだけは返して」  美知子は涙を湛えた目で必死に訴える。 「じゃあ取り引きに移ろう。俺はこのテープを担保としてあずかっとくが、君がこれから先こっちの言うとおりにすれば、このテープは誰の手にも渡さん。約束を果してくれたら、二人の目の前で焼きすてよう。まず君にやってもらいたいことはだな、もう少したったら村井のところに行くんだ。村井に会ったら、安田組の新米が恐喝《かつあげ》に来たと言うんだ」 「あなたは安田組なのに、村井さんに楯突こうっていうことを自分から知られたがるなんて変ね」  美知子は泣き止んで不審気な顔をした。 「余計なことは尋《き》くな。君は俺の言うことを聞くよりほかに、手はないんだ。それともう一つは、田島に電報を打って、急用が出来たから、ぜひあすの晩八時までに帰れと言ってくれ。そう怖がるなよ。いやならいやでいい。俺がうつ」 「主人はあのとおりの気性よ。あの人が計られたと知ったら……」 「ふん、変な男がつきまとって困ってるんだと言っとけよ。俺だと言ってもいいぜ」  新田は立ち上った。腰をかがめて美知子を抱き上げる。「何すんのよ!」と抵抗する女の首筋に唇を圧しつけ、「分ってるじゃないか。子供でもあるまいし」とうそぶき、美知子を抱き運んで寝室のドアを蹴《け》り開ける。  雨は止んでいた。雨に洗われた月が血の色に染まり、新しい切り傷のように空にかかっていた。街路樹にたまった水滴が風に吹かれて小きざみに震え、街燈の光を吸ってキラキラ輝きながら歩道に落ちて砕けた。  新田が吹く口笛に乗った嫋々《じようじよう》たる調べと、水を跳ね返す靴音が、寝静まった街の一郭《かく》に高く低くとけていく。  プリムスの車に戻ると、太田はだらしなく口をあけて眠りこけていた。  新田の顔に不機嫌な色が露骨に現われた。額には疳《かん》をたてたように血管がふくれあがる。ドアを開いて、「手を上げろ」と鋭い声で言った。  太田刑事は喉の奥で絞め殺されたような声を発し、もがくように両手を差し上げた。朦朧《もうろう》とした視線が定まると、ごまかし笑いを作って両手をおろした。 「馬鹿野郎、俺が田島だったらどうする。ノックアウトだぜ」新田の顔からはもう不機嫌な色は消え、口調も浮き浮きしている。 「酔いがさめちまった」太田は苦笑して、太い猪首《いくび》をハンカチでごしごしこすった。 「これからは気を付けろよ。どうやら死ぬのは五人や十人では済まなくなったらしいからな」  新田は笑いながら座席に潜《もぐ》りこんだ。 「こっちにお鉢が廻ってきたりしたらゾッとしませんぜ。ところで大分長い間お楽しみで……」  太田は赤く濁った目を細めてクックッと笑う。 「どうせ長くない女だ。たっぷり可愛がってやったよ——」新田は事もなげに言ったが、しばらく黙ってから溜息をつく真似をした。 「死ぬには惜しい体をしてた。尻に可愛いホクロがあってな」夢見るような目で呟く。 「うひー、それじゃあ、こちとらがヤケ酒をあおって不貞寝《ふてね》するのも無理ないでしょう」  太田は分厚い唇を舐めてヒッヒッと笑った。 「そうひがむなよー」新田の声は、もう太田の存在を無視して、自分だけの考えにふけっているようだった。「あの女は、見かけによらず仲々のしたたか者だよ。村井がしゃべった悪事をテープにとっていた。今に村井を強喝《ゆ す》ろうって気だろう。どうせテープは一本だけではあるまい。頭のいい強喝者《ゆすりや》は自分を絶対安全な場所におかないと仕事にかからないからな。何本かのテープは半分にわけて、片っ方はどっか絶対安全なところにあずけて、自分の死と一緒に発表される手筈になっているはずだ。自殺、他殺、病死、あらゆる理由を問わずにな。相手が滅多な手出しが出来ない仕組みさ」 「へえ、テープに録音までとったんですか。そんな細かな用心をしてるとしたら、あの女を人身御供にして田島に暴れさす計画が狂って来やしませんか?」 「心配するな。こうなったらこっち側に大分有利になってきた。あした村井にこのテープを送りつけて、あの女が裏切りをたくらんでいるとけしかける。明日はいよいよ地検の検事正が抜きうち交替される日だ。この市《まち》は完全に村井の天下になる。ドンチャン騒ぎで派手な射ち合いも起ろうってものさ。さっき請求しといた田島の逮捕状も、明日は裁判所から届くだろう。一かばちかやってみる。それで村井が動かなかったら俺があの女を殺《や》る」 「ほ、本当ですか!」太田は目を見開いた。 「手段を択《えら》ぶ贅沢《ぜいたく》は許さないさ。お前は俺の言いつけたとおりのことをしてればいい。これから先、口出しはやめてもらう」  新田は穏やかに言ったが、目は酷薄な光をたたえて輝いている。 「分りました、何も私ゃ……」  太田が口を開いた時、ヘッドライトを煌々《こうこう》と光らして、運転手だけ乗ったタクシーがアパートの構内に消えていった。 「ふん、俺の言いつけた通りにしやがったな」新田は顔色を和らげて呟いた。 「………?」 「なに、あの女に安田組が村井組に歯むかおうとしてると吹きこんだのさ。それを村井に伝えにお出かけという寸法だ。あの女が出たら、俺が一人で後をつける。ちゃんと着くかどうか見極めないとな。お前はこれだけ飲み直せ」新田は五千円札を太田に握らした。 「こんなに頂いていいんですか? どうもエッヘッヘッ」  しきりに愛想笑いをしながら太田は車から降りた。大通りに向ってヨタヨタと駆けていく。新田は唇をゆがめて「豚め」と低く呟き、ライトを消した車の中で、掌でおおったタバコをひっそりと吸っている。  美知子を乗せたタクシーが、新田のプリムスの横を、ロケットのように通り過ぎた。新田はクッションの上に身を伏せてそれをやりすごし、百メーターぐらいの間隔をおいて追いはじめた。  大通りに出ると、行きかう車の群れにまぎれて尾行はたやすくなった。美知子は三回タクシーを乗り替え、大理石二階建ての村井の大邸宅に着いた。そのころには新田の目は血走り、額にはびっしょり脂汗が浮んでいた。    殺し屋試験  翌朝九時、古めかしい煉瓦造りの高杉署二階。左右を鑑識課と資料課に挟《はさ》まれた捜査一課の刑事部屋。床にはマッチの燃えがらが散らばり、私服の刑事が五、六人、タバコの煙の中でデスク越しに顔を合わしている。 「とうとう検事正が小倉に替りやがったな。俺たちもますます村井の顎で使われることになるぜ」  不精髭の刑事が、キセルにつめたバットの煙と一しょに、大げさな溜息を吐き出した。 「心配するなってことさ。奴が俺等の給料を払ってくれるってよ」  椅子によりかかってゲラゲラ笑っていた刑事たちは、「お早う」と声をかけて入って来た新田を見て口を噤《つぐ》み、真面目くさった声で挨拶を返した。 「署長は?」  ダスターを腕にかかえた新田は、ソフトに指をあててあみだにずらした。 「もうお見えになってます。朝からやけに張り切ってますぜ」  プロレスラーのような体つきの刑事がヤニに染まった歯を見せて意味あり気にニヤリと笑った。剃《そ》り忘れた髭がまばらに残る顎の先を太い指で撫《な》でまわす。 「そうか……いや、有難う」  グリーンがかったカシミヤの黒い背広に長身を包んだ新田は、不精ったらしい足どりで刑事部屋を出ていく。 「畜生、いつもいい服を着てやがるな。酒と女と服の他に金の使い場がねえって顔をしやがって」  不精髭の刑事が、いまいましげにキセルの雁首《がんくび》をデスクの角に叩きつけた。 「当り前よ。奴さん未《いま》だに独り者だからな。それに前の汚職で大分ためこんだはずだ」 「こっちに移されてから、ヤケに大人しいじゃねえか。てっきり村井組からイの一番に口がかかってくると思ったんだが」  馬づらの刑事が、声をひそめた。 「あいつに任せると、トコトンまで絞られそうだからな。署長も村井も用心して組織に首をつっこまれないようにしてるのさ」  廊下を渡って右側の突き当りまで行った新田は、「署長室」と書かれたドアを押しあけた。秘書代りの若い警官がデスクの後ろから立ち上り、挙手の礼をする。 「やあ、お早う」  新田は気軽に手を振って、仕切りドアの曇りガラスをノックする。 「お入り」  もったいぶった声が聞えた。  デスクの後ろに立った署長が、垂れ下った厚い瞼《まぶた》の下からジロリと新田を見上げた。右手に握った受話器を動かして椅子を示す。  肥満した中背の男だった。薄桃色の皮膚が禿《は》げ上った頭にまで続いている。受話器に向って、 「では又」と呟き、電話を切って肘掛け椅子に腰をおろした。 「署長、お早うございます。さっそくですが、殺人容疑による田島の逮捕状は届きましたか?」  腰をおろした新田が尋ねた。 「うん? あれか。昼までには届けると担任判事が言っておった。何も急ぐことはなかろう。しかし言っとくが、ひっとらえてもしっぽは出さんぞ」  署長は仕立てのいいダブルの背広の胸ポケットから覗くハンカチを気にして直した。 「私は生ぬるい責め方はしませんよ。ところで署長、耳よりな話があるんですが……」  新田はじらすようにゆっくりタバコをさぐり、唇の端にくわえてブランブランさせる。 「何じゃ? 遠慮せずに言うてみい」 「安田組がいよいよ巻き返しに出るそうです」  新田は深く吸いこんだ煙をプーッと吐き出しながら、さり気ない声を出した。 「何? 何じゃと!」  署長は目をむいた。 「囮《おとり》の矢野が今朝早く訪ねてきましてね。検事正が替ったからには、安田組は危なくなった。村井組が攻めてくる前に、こっちから先に殴り込みをかけようと、武器弾薬を買い占めたり、プロの殺し屋を続々傭い入れはじめたって話ですよ」  新田は真剣な声で言う。 「そんな馬鹿な! まさか、検事正が村井の手先だなどという流言蜚語《ひご》を信じてるんじゃあなかろうな? まるで儂《わし》までが村井に使われとるなどと、けしからん噂《うわさ》をする者がおる」  署長は顔を真赤にしてデスクの隅を握った。 「無論、そんなデマは信じません。しかし、安田組が捨鉢《すてばち》の一戦を用意してるのは事実です。現に、手伝ってくれぬかと、それとなく匂わして私にも申し込んできました」 「何っ! なぜそれを早く言わん! それでどうした? ええ、早く聞かせろ」  立ち上った署長は噛みつくように怒鳴った。 「大分、東京での私の悪評を伝え聞いたんでしょう。百万と切り出してきました。しかし、署長、無論断わりました。痩《や》せても枯れても私は山西署長のもとで働く警官だ。そんな不浄な金は受けとれぬと言ってやりましたよ」  新田は大真面目な顔でデスクを叩く。 「フーム。そうか、そうか。よく言ってくれた。容易ならぬ事態になってきよった。で、相手は大人しく帰ったか? 押しかけて来たのは誰じゃった?」 「井上と連れの男二人でした。“お前さんは馬鹿だよ”と捨てゼリフを残して帰って行きました。こっちは生憎《あいにく》、丸腰だったので……」 「いつ始めるつもりじゃろうか?」 「いま準備中だから、あすの晩でしょう。今のうちに先手を打たないと、この町は虐殺の巷《ちまた》と化します」  新田は心配気に言った。 「うむ……しかし、ひっ捕えると言っても証拠不充分だし、署の方にも大分犠牲が出るのは必至じゃ——」  署長はしばらくうなってから、 「よし、分った。考えとく」と言った。  急に愛想のいい顔になって、 「よく知らせてくれた。今まで儂《わし》との間で気まずいこともあっただろうが、よく我慢してくれた。感謝しとるよ。今度こそ警視総監に君の警部復官を申請する。今日の話はしばらく黙っといてくれ。皆が動揺するとあかんから、な、頼む」 「ハッ、有難うございます。では退《さが》らしていただきます」  新田は立ち上って一礼した。  薄暗い警部部屋に戻った新田は唇をゆがめて薄ら笑いした。  デスクを並べる近松警部はまだ出署してなかった。新田は窓ぎわに立ってタバコを吸いながらぼんやりと目を下に向けている。署長のパッカードがスピードをあげてビルの角を曲って行った。新田はニヤリと物凄い笑いを浮べると、デスクに廻されてきた書類をパラパラとめくる。 「なるほど、お話はよく分りました」  村井は署長に向ってうなずいた。  閉めきった村井の応接室。豪奢《ごうしや》な調度品にかこまれ、柔らかな安楽椅子に深々と腰をおろした村井の顔は、不断のマッサージとサウナ風呂によってしみ一つなく輝いている。テーブルの上の灰皿では、細身のコロナ葉巻が柔らかな紫煙をあげている。 「いやあ、昨晩も美知子のところに安田組に傭《やと》われた若造が来て、散々凄んだそうです。唯の嫌がらせかと思ったら、向うはそこまで必死になっているんですね」  澄んだ目を壁にかかったマチスの絵に放って、村井は物憂げな深い声を出した。 「それで、あんたはどうする積りじゃ?」  署長は不安気な表情で村井の目の奥をうかがった。 「どうするもこうするもありませんよ。先手を打つだけの話ですよ」  格好のいいコールマン髭の下の穏やかな微笑は崩さぬが、言葉は刃のように冷たい。 「じゃあ、やるのか?」  署長は口に含んだコーヒーをカップに吐き出して咳《せき》こみながら悲痛な声を出した。 「鉄は熱いうちに打てと言いますからね。斎藤組に向けるはずだったプロの殺し屋を廻しましょう。もうすぐ五人ほど着くことに……」 「おいおい、あんまり派手にやってくれては困るよ。儂の立場も少しは考えてくれ」  署長は泣き声に近い声でさえぎった。 「それは考えてますがね——」  村井は気持のいい微笑を浮べた。 「こっちのことも考えますよ。いいですか、私がこの市《まち》を手中におさめたら、血なまぐさいことは絶対に起させない。しかし、それまでの間には、涙を呑んで嫌な暴力も振わないとね。今のうちに安田組だけでも片付けておかないと、いつまでも流血の惨事が続いていく……」 「しかし……」 「まあ、よく聞きなさい。今この市の勢力は三分している。もとより、私のところのほかは取るに足らぬとも言えるが、小さな癌《がん》でもふくれれば命とりになる。まだ病原菌でとどまっている間に一気に撲滅する。今となっては検事正は私のロボットと同じだ。市長も知事も、それに——」  村井は言葉を切ってピタッと真正面に署長を見すえた。 「あなたが今の職にあるのも、私のおかげ。首になるのも私の言葉一つと言ったらお気に障りますか?」  署長の顔が紫色に近くなった。怒りに燃える目で村井を睨みつけたが、冷やかに澄んだ深い目に会って、力なく目を伏せた。 「分りましたわい。あんたには頭が上らん」  署長の声は震えている。紫色の顔から血が去り、黄色っぽく生気のない顔色になった。 「仲々物分りが良くなられましたな。さてと、それではこうなさってはいかがです。今日の昼すぎから、あすの朝にかけて、県外に視察旅行をなさっては? 留守中の出来事ならあなたの責任も大分軽くなると思いますがね」  署長の顔にパッと生気がさした。 「そうだ。それに決めましたわい。しかし犯人の頭数だけはお願いしますよ」 「その点は御心配なく。どうせ保釈で出られるんだから。箔《はく》をつけたがっている若いのが大分いますから」  村井は穏和な微笑を唇に漂わせた。 「どこでやるつもりですか? うちの部下とあんたのところの者がカチ合わぬように手筈をととのえておかないと」  署長が言った。 「中央駅前の飲み屋街で安田の縄張りが食いこんでるところがある。安田のことだから、今夜も子分の二、三人しか連れずに廻るでしょう」 「なるほど、それじゃあ警部の近松に指揮をとらせることにして、市の反対側で交通整理に部下を駆り出しましょうかな?」 「駅の近くは空けてくださる積りですか? これは痛みいります。近松君なら気心の知れた仲だ。うまくやってくれるでしょう。ところで、フォード・サンダーバードを三台注文しましたよ」 「何ですと?」 「一台は署長さんに進呈しようと思って」 「ほんまかいな!——」  署長は突拍子もない声を出した。 「いつもお世話になって……スポーツカーがあれば、うちの娘の持参金にもなりますわい」 「では、そういうことにして。署長もお忙しいでしょう。今日はこれで失礼を」  村井と握手をした署長が去ると、壁にかかったマチスの絵が横にずれ、隠し窓から一人の男が顔を出した。 「社長、うまくいきましたな」  と、感心したような声を出す。狼《おおかみ》のように筋ばった頬に刀傷が斜めに走り、蛇のような三白眼が土色の皮膚の裂け目から光る。 「政か? うまく豚を言いくるめてやった。今夜の計画を変える。まず目標は安田組だ」  柔らかな村井の声が消えぬ間に、インターホーンから執事の声で、殺し屋の到着が告げられた。  村井と“蝮《まむし》の政”は地下の武器庫兼射場におりた。四方をコンクリートで囲まれた幅十メーター、奥行二十五メーターの射場の右隅はガラス戸のついたキャビネットとなり、中にはライフルや散弾銃が三十数丁きちんと並んで立てかけてある。その前の木製ベンチには、黒っぽい服装の殺し屋が五人腰をおろしてタバコをふかしていた。足もとにはコントラバスやヴァイオリンのケース、ピストルを入れた皮張りの手提げケースがおいてある。  キャビネットの反対側には十・五インチ×十一・インチの二十ヤード・スタンダード・ピストル標的が五個、明るい蛍光燈《けいこうとう》に浮び上っている。十点センターの直径一・一二インチ、七点までが黒点、四点以下は余白となっている。 「御苦労」  村井はにこやかに笑いながら到着の労をねぎらった。ベンチの上の殺し屋たちは一せいに立ち上った。 「こちらが村井社長。右から、中尾、服部、萩原、竜の口、尾島」蝮の政が次々に紹介していく。村井は優雅な身ぶりで皆と握手を終えると、 「どれ、腕前拝見としよう」  と言って、キャビネットの引き出しから望遠鏡を出した。 「そうだ。用意をする間に幹部連中を呼べ。目の保養になる」  望遠鏡を三脚に固定した村井は、隅のソファに腰を下ろして足を組んだ。 「着いたばかりで少々疲れてるから、腕の方は保証の限りでありませんぜ」  萩原と呼ばれる肥満した二重顎の男が、小さなスーツケースほどのピストルケースを開いた。マイクロメーター・サイトのついたスミス・アンド・ウエッソン—S&W—の輪胴式《リヴオルヴアー》拳銃が三丁、ぐっとサームレストのくびれたスマートなハイスタンダード二十二口径自動拳銃《オートマチツク》オリンピック・モデル九一二二が四丁入っている。その十連発オートマチックの六・インチの銃身は大きな照星と下について発射時のぶれを防ぐ安定器《スタビライザー》のために先が太く見える。  萩原はケースの中の引き出しから、リムファイアの薬莢の尻にPと彫《きざ》まれたピーターズ社の小さな二十二口径ハイスピード弾の百発入りの箱と、センターファイアの薬莢の尻にREMUMC38-S &Wと彫られたレミントンのS・W三十八口径弾の五十発入りの箱を出した。  一抹《まつ》の凄味と、見るからにふてぶてしい顔を持つ尾島を残し、残りの三人の手が伸びた。  銃身四インチのS・Wリヴォルヴァーの左側についたラッチを圧《お》し、左横に開いた輪胴《シリンダー》弾倉に六発ずつ実包をつめた服部と竜の口が、カチンとシリンダーをもとに戻した。サイトを二十メーターに合わし、親指で撃鉄を起す。  ハイスタンダード・オートマチックを持った萩原と中尾は、銃の左側についた安全止《セーフテイ・ストツプ》を親指で下に押し、遊底被《スライド》を引いて遊底の先の薬室に一発装弾し、スライドをもとに戻した。銃把の下の方形の弾倉止《マガジン・ストツプ》を押して弾倉を引き抜き、上端から素早く九発装弾する。その弾倉を銃把の下から弾倉室に挿入《そうにゆう》した。  用意のととのった殺し屋たちは、標的から二十メーターのところに引かれた白線上に、体を横向けにして立った。  ドアが開いて、手に手に双眼鏡を持った男が十人ばかり入ってきて、息をひそめて殺し屋たちを見つめている。耳栓をつけていた。 「はじめろ」村井の声が終らぬうちに、地下室は発射の轟音《ごうおん》に震え続けた。  十秒後、中尾のオートマチックから弾《はじ》きとばされた空薬莢がコンクリートの床に当って跳ねっかえる音、自動的に開いた遊底被止《スライド・ロツク》の音が、轟音のこだまの中から乾いた音をたてるとともに速連射は終った。  標的の七点から十点センターにかけて弾痕《だんこん》が集中していた。 「さすがいい腕だ」村井が満足気に言った。薄笑いを浮べた尾島がコントラバスのケースを開くと、村井組の連中から生つばを飲む音が聞えた。  ケースの中には、全長一メーター二十一・四センチのブローニングA1《ワン》自動ライフルがメカニックな美しさを湛えておさまっていた。尾島は引き金の用心鉄の前についた弾倉止のボタンを圧し、二十発入りの長い弾倉《マガジン》をはめこんだ。五個の予備のマガジンのうち三個に、口径スプリングフィールド三〇—〇六の実包を慣れた手つきで装填《そうてん》していく。直径は拳銃の〇・三二インチ口径弾ほどだが、先端がダムダムになった弾頭の長さと量感、でかい薬莢の大きさにおいて親子ほどの差がある。  自動ライフルの安全止ボタンを掌で圧しながら前に廻した尾島は、コックを引いて撃発装置にした。装弾した予備の弾倉を自分の左側に並べておき、銃床をぴたっと肩と頬につけ、左手で弾倉室の把手《とつて》を握る。膝射ちの姿勢をとって、引き金にかけた右人差し指を屈伸させながら、四、五発ずつ点射した。この銃はA1型なのでフル・オートマチック専用だ。  ガガガーッ、ガーと銃は咆《ほ》え、発射の反動で銃口がひっぱられるように上に傾こうとする。遊底から、エジェクターではじき出された長い真鍮《しんちゆう》の空薬莢がザーッと飛び散る。  尾島は弾倉の実包が尽きると、素早く予備の弾倉とつめ替え、次から次に射ちまくった。  標的の黒点は見る間に蜂《はち》の巣となり、千切れて消えてしまった。 「すげえ!」  見まもる男たちは、たちこめる火薬の匂いの中から、上ずった声で尾島を賞める。 「なあに、空になったマガジンに弾をつめかえてくれる者がいたら、一分間に六百発射ちまくって見せますぜ」  立ちあがった尾島は山積みになった空薬莢を蹴とばし、熱く焦げた銃口から煙を吐く自動ライフルを愛撫する。 「よし、腕前は分った。傭うことにする。一週間契約で一日一人五万円。一人消すごとに二十万から百万。どうだ?」  村井が尋ねた。  殺し屋たちは顔を見あわしてうなずいた。 「よし、今夜すぐに仕事だ。くわしい手筈は後で知らせる。上にあがってゆっくり休め。晩までには俺の息のかかったポリ公どもにも紹介できるだろう。顔を覚えとかないと同士討ちは有難くないからな……」  署長は昼すぎから近松警部にバトンを渡して空路東京に飛んだ。新田は署を抜け、ハトロン紙に包んだテープを持って丸善配達会社に現われた。  自分と美知子との会話の部分は切り捨ててあった。  その録音テープを匿名で村井あてに届けてもらってから一時間後、新田は公衆電話のボックスで受話器を握っていた。 「……確かに昨夜凄んだのは、あっしでさあ……ヘッヘッヘ、痛み入りやす、へえ、脱けようと思いやして……安田組から抜けて、おたくの方に移りてえんで……名前ですか? 村田と言うケチな野郎でござんす。安田組に傭われてきやしたが、嫌気がさしやした……まともなやり方じゃ、おたくの方に移れねえんで、あんな下手な小細工を弄《ろう》したってわけで……あのテープですかい? いかにもあの女のところから見つけやした。口はばったいようだが、よそに売ろうと思えば、高く売れたんですぜ。その心意気を買っておくんなさい……何? あれさえ手に入れば用はねえって? そりゃ、あんまり薄情な仕うちですぜ……よし、そっちがそっちなら、こっちもこっちだ……ふん、聞きたいんなら聞かしてやらあ。あの女は昨日から俺のスケだ。あの女から手めえの悪事を聞き出して、警察に密告《さ》してやる。覚えとけ!」  新田はガシャンと電話を切ると、狂ったようにけたたましく笑い出した。笑いがおさまると、 「よしこれで罠《わな》は張った。あとは獲物がかかるのを待つだけだ」しゃがれた声で呟き、冷たく光る目でダイヤルを睨みつけている。  目をそらすと、淡い紫色の雲が風に吹きちらかされて天空に漂っていたが、中心の雲は威嚇《いかく》するように重々しく動かず太陽を遮《さえぎ》っていた。新田はフーッと息を吐き、静かに戸を押して外に出て行く。風をうけたダスターの裾がパアッと勢いよく踊りあがった。    拳銃と唇  海猫の鳴き声に似た霧笛を吠えたてながら、連絡船は高杉の港に近づいた。  左舷《さげん》のかなたに街の燈火が夜空を焦がし、港近くにそそり立つ赤や緑や紫の広告塔のネオンが黒い海面に長々と映り、船のけたてる波にゆれては、無数の光をきらめかし、千切れて砕けた。  田島君彦は襟《えり》をたてた黒皮のジャンパーに包まれた長身の背を矢のようにまっすぐに立て、デッキの手摺《てす》りに軽く手を置いて街の燈火を見つめていた。  浅黒く大胆な顔に深くはまった目は暗く、強靱《きようじん》な意志を秘めた顎《あご》に髭《ひげ》の剃《そ》りあとが濃い。小さな耳は西洋キャベツのように潰《つぶ》れている。硬い唇にくわえたタバコの火が潮風に吹き消されたのも気づかず、食い入るような暗く熱っぽい眼差《まなざ》しを街の夜空に注いで立ちつくしている。  ——いま、彼は心の中で巨大な熔鉱炉《ようこうろ》と化して燃え続けるペリリュー島を見ている。  酷熱の南方の小島で、君彦たちは米軍第一海兵師団の火器に押しまくられていた。  コバルトとエメラルドグリーンの絵具をぶちまけたような空の色を、黒と灰色に塗りかえて殷殷《いんいん》と鳴り響く艦砲射撃の砲弾、入れ替りたち替り雲霞《うんか》のように押し寄せ、小型爆弾を振りまきながら機銃を盲射ちするヘルキャット戦闘機の群れ、十トン級の爆弾を叩きこむPB4Yリベーター重爆機により、堅牢《けんろう》を誇る海岸線の要塞《ようさい》は忽《たちま》ちのうちに粉砕された。  生き残った日本軍は、見る見る蛆《うじ》のわく死傷者の山を残して、奥へ奥へとジャングルを逃げまくった。汗とスコールと垂れ流しの排泄《はいせつ》物で下着は腐り、肌にベトベトとまつわりついた。  五台のタンクと二十門ほどの迫撃砲を持つ三百名ほどの敗残部隊に混って、君彦は奇岩の隙間にはさまれて出来た自然のタコツボにたてこもっていた。  遠方で、右から左から、絶えまない野砲の炸裂《さくれつ》音が島をゆすぶり、戦車隊の轟音《ごうおん》が刻々と近づいて来た。  夜は暗く、死を待つのは辛かった——君彦は血まみれの死闘のすえに敗れたミドル級新人王決定戦の出番を待って、毛布にくるまって震えていた浅草公会堂の選手控室を想い出していた。  気温が急に下ってきた。夜になると周期的に襲ってくるマラリアの発作を、歯を食いしばって圧《お》し殺そうとしていた。目は睡眠不足と疲労と緊張に血走り、重い鉄兜《てつかぶと》の頭は機銃の上にガックリと垂れた。心臓は不規則に乱打し、固くちぢまった下腹は冷汗にまみれ、死人のそれのようにつめたかった。  どうしても死にたくなかった。何としてでも生き帰って、失われた時を精一杯に生き返さなければ、死んでも死にきれなかった。  突然、七百メーターばかり前方から、不気味な音をたてて曳光《えいこう》弾が続けざまに射ちあげられ、あたりを真昼のように照らした。  次いで甲高い悲鳴をあげて落下してきた迫撃砲弾がまわり中に炸裂して火炎を吹きあげ、一瞬にして地獄は再現した。  岩蔭《いわかげ》とシャーマン戦車を掩護《えんご》物として、喊声《かんせい》をあげて突撃してくる緑色の米海兵を狙って、君彦は十一年式軽機関銃の引き金をひき続けた。  マラリアの震えは止っていた。ガッガガガッと軽機は咆哮《ほうこう》して、小きざみに踊り、続けざまにはじき出された空薬莢《からやつきよう》は岩に当って跳ねた。  扇を拡げた形に絶え間なく頭上にまきちらかされて、チューン、チューンとさえずりながら上空を過ぎ去っていたカービンや自動ライフル弾が、鋭い金属音を発して君彦のまわりに集中しだし、銃弾に削られ跳ねとばされた岩片が体中を刺しはじめた。  星弾は夜空を皎々《こうこう》と照らし、敵味方の曳光弾が頭上に半円を描いてシュルシュルと飛びかい、切れ目のない赤や緑や黄色のカーテンをはった。  絶え間なく乾いたおしゃべりを続ける機銃とカービンのはじけるような発射音、迫撃砲弾の空中炸裂音、バズーカから射ち出されるロケット弾の凄《すさ》まじい怒号、それに喊声と絶叫と戦車の重々しい震動音が入り混り、凄惨《せいさん》なラプソディを奏でた。  直撃弾の集中に動顛《どうてん》した味方は、万歳を絶叫しながら銃剣をひらめかし、壕《ごう》から跳び出しては、またたくうちに射ち倒された。  君彦は、悲鳴をあげてブッ倒れる米兵をろくろく見極めもせずに、次から次へと目標を捕えて、正確きわまる死を送った。その後ろではバズーカ弾を喰った味方の戦車が赤黄色い炎を吹きあげ、君彦の背にもその熱気が伝わってきた。前方では敵味方の死体が累々と折り重なって倒れ、血と肉片で岩を赤黒く染めていた。  機銃の上に突き出た弾倉の実包を射ちつくした君彦は、弾倉止を前方に圧しながら弾倉を外し、予備の弾倉を装填《そうてん》して目を上げると、重機関銃を咆哮させながら野牛のように驀進《ばくしん》してくるシャーマン戦車を認めた。  手榴《しゆりゆう》弾の安全ピンを引き抜き、銃床に叩きつけて信管に発火させ、立ち上って戦車に投げつけた途端、左の肩口に物凄《ものすご》い衝撃と焼けるような烈痛を感じて、君彦はタコツボの中にふっとばされた。その上をキャタピラーで岩を噛《か》み砕き、熱い下腹をくねらせながらモウモウとガスを吐いてシャーマンが通りすぎた。——もう二度とリングに立てない——不吉な意識がひらめき、君彦は落下する岩石のかけらに埋もれながら失神した……。  防波堤が間近に迫ってきた。そのはずれの赤燈台の下で、数人の男が点滅する燈火に引き寄せられる魚を求めて、長い釣竿《つりざお》をたれていた。  君彦は火の消えたタバコに気づいた。投げ捨てられたタバコは命を失った蝶のようにくるくる舞いながら舷側にそって落下し、船のたてる波に砕ける銀色の夜光虫の群れの中に吸いこまれていった。  君彦は唇にへばりついた巻き紙を手の甲で強くぬぐって、新しいタバコに火を点《つ》けた。船首に古タイヤを鈴なりに括《くく》りつけたタッグボートが、エンジンをとめた連絡船を桟橋に押しつけた。  けたたましくドラが鳴った。左手にスーツケースを軽々と提げて、君彦はタラップへ急ぐ人波の中にとけこんだ。タラップを渡ると、地鳴りのような街の息吹きとざわめきが足もとから伝わってきた。  雑踏する桟橋駅出口。船の霧笛と、接着する汽車の汽笛が高く低くひびいている。  新田は先ほどから円柱の蔭に立って、鷹《たか》のような目を駅から吐きだされる群衆に注いでいる。その横で太田がタバコをたてつづけに吸いこむ。 「分ったな? 奴には空包をつめた銃を渡すから、いかにも弾が当ったように引っくり返るんだぞ」  新田は太田の方を見ずに、唇だけ動かして低い声で言った。 「そうやって、奴さんをのっぴきならぬ所においこもうって寸法ですね。お安い御用でさあ。だが、奴さん今晩帰ってくるんでしょうかな?」  太田は目を改札口に走らせた。 「あの電報で帰ってくるだろうぜ。女が打ったことは電報局でたしかめた。ほら、噂《うわさ》をすれば影とやら、あの皮ジャンパーの背の高い男だ。抜かるなよ」  新田はしなやかな身のこなしで、自分の横を足早に通り過ぎようとする田島の右横に廻りこんだ。タバコを踏みにじった太田がすっとその後にくっつく。 「田島君彦だな?」  新田は、足をとめずに横目で不審気な視線を走らせる田島に、低く圧《おさ》えつけるような声で尋ねた。 「何か用か?」  田島は能面のように無表情な顔つきで尋ね返し、振り向こうとした。物憂げでよく透《とお》る声だった。 「警察の者だ。足をとめるな、左側に向って歩け。騒ぎは起したくない」  新田は警察手帳を開いて薄く笑いながら田島に渡すが、目は笑っていない。 「それで?」  手帳を返した田島は、再び歩き出しながら皮肉な声で尋ねた。まわりを流れて行く人々で、この一寸《ちよつと》した光景をいぶかる者は見当らない。 「心あたりがないと言うのか?」新田の声にもからかうような響きがあった。  左側に黒々とそびえる倉庫の列にそって、三人の男はしばらく無言で歩いた。次々に変化しながら点滅する広告塔のネオンが頬にあたって様々な色に染めかえる。  人波はとだえ、倉庫の蔭で接吻していた人影が、近づく足音にパッと離れた。蛸壺《たこつぼ》を沈める漁船のカンテラの青い燈が倉庫の切れ間から点々とまたたいていた。  新田が最初に足をとめた。コルト〇・三二の拳銃を抜き出した太田が田島の背に銃口をおしつける。 「田島君彦、自称拳闘マネージャー。ボクサー宮井三郎を海上で殴殺した容疑により逮捕する——」  胸ポケットから折りたたんだ逮捕状をとり出してキビキビした声で読み上げた新田は、 「どうだ?」  と微笑する。 「俺がやったって? あんた新顔だな? 俺を引っぱって行くのは勝手だが、後で泣きづらをかくなよ。アリバイがあるからな、こんなことをしても時間の無駄だぜ」  突然田島は笑顔を見せた。笑うと左の鬼歯がチラッとこぼれる。 「ともかく署まで来てもらおう」  新田は素早く田島の右手首に手錠をかけ、乗り捨てられたプリムスの車を示した。  太田がハンドルを握り、新田と田島が後ろの座席に坐った、中古のプリムスは黒布のような闇をヘッドライトで貫いてノロノロと走った。 「お前の試合を見たことがある。ミドル級のチャンピオンに挑戦した時だった。立派なものだったよ」  遠くを見つめながら、新田は物思わし気な声で呟《つぶや》いた。 「有難う。戦争で肩をぶちぬかれて何もかも駄目になった——」田島は物憂い声で言って、車の床に転がるスーツケースを靴先で蹴《け》っていた。「それにしても、これは署に行く道と違うな」と言って新田を見る。 「そう思うか?」新田はさり気ない声を出す。 「なぜこんなことをする?」 「どう言ったらいいかな——俺はよっぽどセンチメンタルなんだな。お前がむざむざ殺されるのが忍びないんだ。ファンだったぜ……」 「冗談はよせよ」田島の声は鋭かった。 「冗談なら苦労はしないさ。なぜ予定をくり上げて今夜帰ってきた?」 「………?」 「あの電報は署長が打ったんだ。お前に五つか六つの殺人罪をひっかぶせる気らしい」 「ふん、やりたけりゃあ、やったらいい。証拠があるんならな」 「証拠なんか糞喰《くそくら》えさ。今朝、検事正が小倉に替った。もうこの街は村井組の天下だ」  車がとまった。海ぞいの空き地だった。静かな波が歌っていた。  田島の目がかすかに血走り、凄味をおびて輝き、強靱《きようじん》な顎がせり出してきた。 「俺を逃がしてくれる気か?」 「察しが早いな。俺もつくづく警官稼業《かぎよう》がいやになった。運転している刑事の太田は俺の腹心の部下だ。あいつも村井組がでかい顔をしてのさばるのが我慢出来ないんだ」 「親切は有難いが、俺には逃げ場がない。この様子じゃあ、俺のアパートにも張り込んでやがるだろう」  田島は低い声で言った。 「この先を行くと浜だ。それをずっと左に行くと春日町になる。春日町に入る手前に民家から離れた松林が続く。その中に煉瓦造りの一軒家がある。騒ぎがおさまるまで隠れてろ。そのうち俺が何とかしてやる」  田島の手錠を外した新田は、そのジャンパーのポケットに小屋の鍵《かぎ》を入れた。 「行く前にうち合せる事がある。俺が行くまで絶対に外に出るな。村井は、この前、大幹部の政が、八百長試合にからんでお前にひどく殴られたことをまだ根に持っている。今度お前を逮捕しなければならん羽目になったのも奴の差し金だ。へたに出歩くと射殺されても文句がつけられない。分ったな?」 「すまん、折があったら美知子に俺の事を伝えといてくれ。あんたが来た時の合図は?」 「ノック二つ、一つ短く一つ長くだ。それと大事なことがある。このままお前を逃がしたら俺の首が危ない。拳銃をかしてやるから、盲射ちに射ちまくってこの車で逃げろ。俺が声をかけたらそれが合図だ」  田島の頬に鋭い線が刻まれた。 「まさか罠《わな》にかけて後ろから射とうというんじゃあなかろうな?」 「馬鹿な! こっちは空に向けて射つ。計られたと思ったら射ち返せ」 「疑って悪かった。恩にきるぜ。必ずあんたに迷惑をかけない」  田島は骨っぽく笑った。 「気にするなってことよ。声をかけたらそっちから射ってこい」  三人はエンジンをかけっ放した車の外に降りた。太田と新田は腰のホルスターから撃鉄の露出したコルト〇・三二の自動拳銃を出した。新田は拳銃を構えながら、車のドアポケットから出したホルスター入りのドイツ製口径九ミリ八連発のパラブリューム・ルーガーの銃把《じゆうは》を相手にむけて田島に渡す。 「小屋のドアの下に懐中電燈がある」  新田と太田は銃をかまえてジリジリ退《さが》っていく。二十メーターばかり離れて闇に相手の輪郭がぼやけ出した頃、鋭い新田の声が大気を震わした。 「待てっ! 逮捕する。動くと射つぞ!」その声と同時に田島の手の先から小さな閃光《せんこう》がほとばしり、ピーンと空気を裂いて銃弾が二人の頭上を掠《かす》めた。発射の轟音が消えぬ間に第二弾が至近弾となって地面にくいこみ、石をはねとばし土煙をあげた。 「待てっ!」と叫びながら新田と太田はコルトの安全装置を倒し、撃鉄をあげると空に向けて膝《ひざ》射ちで続けざまに発砲した。ガンガン木霊する銃声の中に、田島のルーガーから放たれた弾がチューンチューンと夜気を噛んで三発とびさっていった。 「それっ!」  新田の合図で、太田が恐怖にひきつった顔を振りむけ、ウーンと呻《うめ》き声をあげる真似をして後ろに尻餅をつき悲鳴をあげた。田島の跳び乗ったプリムスは見る見る闇の中にとけていく。新田はコルトに安全装置をかけて腰のホルスターにつっこむと腕の下のショールダー・ホルスターからルーガーを抜き出し、スライドの上にハンカチをかぶせた。 「ひ、ひでえですよ。空包だというから安心してたら、実包が……」起き上った太田は紫色に変色した唇を震わせて不平を言った。  新田は物も言わずにその左胸をルーガーで射ちぬいた。太田はコルトを空中に放り出して後ろにすっとび、地ひびきをたてて地面に転がり、大きく痙攣《けいれん》したきり動かなくなった。  新田は冷たい微笑を浮べ、エジェクターでハンカチの中にはじき出された空薬莢を田島のいた方に力一杯投げつけ、倒れた太田の脈をとって見る。重たい死体を動かして、上着の背にでかい穴を残して弾が抜けたことを確め、 「初めっからこの積りさ、さもなけりゃ、自分の計画をお前に打ち明けるような間抜けな俺か?」と穏やかな声でののしる。  その時ようやく射ち合いの轟音を聞きつけ、ひきつった顔を怖々《こわごわ》覗《のぞ》かせはじめた野次馬に、 「警察の者だ。至急、署と連絡をとってくれ。同僚が射たれた!」と大声で呼びかける。  酔客やアベックがもつれ合って行きかう市の中央駅前広場。華やかな原色のネオンと眩《まばゆ》い蛍光燈《けいこうとう》に、歓楽街は若々しく生気に満ちていた。パチンコ玉のはぜるような音、がなりたてるレコードの騒音、それらを圧倒して電車の轟音が次々と通りすぎる。  アルサロ「黒い豹《ひよう》」のドアボーイが恭々しく頭をさげた。 「安田さん、またいらっしゃってね」「井上さん、待ってるわ」  色とりどりのイブニングドレスを光らせた女給の嬌声《きようせい》に送られて、二人の男が地下になっている薄暗い店内から歩み出た。濃紺の背広に身を固めた中背の安田が、青いソフトをあみだにずらして女給たちへニヤッと笑ってみせ、分厚い唇に二本指をあてて投げキッスをする。  石段を身軽にかけ登った、服もネクタイも真黒な長身の井上が、歩道のふちに立った。精悍《せいかん》な顔を広場のはずれに並ぶタクシーの列に向け、親指をたてて鋭く口笛を吹く。  プリンス・グロリアのタクシーが車道に溢《あふ》れた通行人に気をつけながらゆっくり近寄りかけた。  その時黒塗りのトヨペット・クラウンがローラーコースターのように猛烈にわりこみ、アルサロの前十メーターばかりの所に急停車した。車のドアが大きく開け放たれ、オレンジ色の短い炎が一斉に舌なめずりしたのと、アルサロのガラス窓にポツンポツンと小さな穴があいたのはほとんど同時だった。安田は体中に銃弾を浴びて後ろにすっとび、青いソフトは命がかよっているかの様にコロコロと転がった。  再び一斉射撃が火を吹き、ドアボーイと女給たちは悲鳴をあげて石段を転げ落ちた。砕けたガラスが甲高い音をたてて降りそそぎ、銃声は轟音となってはね返ってきた。  黒ずくめの井上は、腹に二発射ちこまれて尻餅をついたが、素早く抜き出した口径九ミリの十四連発FN・ハイパワー自動拳銃をトヨペットに向けてつるべ射ちした。  車の中から苦痛の呻きがもれ、白ハンカチで顔を隠した男がドサッと転げ落ちた。  また、一斉射撃の猛火が木霊した。井上のベルギー・ブローニングはひきずられるようにさがり、ガシャンと歩道の敷石に落ちて跳ねた。  銃身を短く挽《ひ》き切った一二番《ゲージ》のフランキ・マグナム五連発の散弾銃《シヨツト・ガン》を両手でひっつかんだ覆面の男が車からとび出した。坐りこんでがっくり頭を垂れた井上に向けて引き金をひく。井上の肉塊は血まみれのボロ布と化した服から爆《は》じけ出た。覆面の男はその肉塊に向けて再び続けざまに二発射ちこみ、すでに虫の息となった安田にとどめの一発をぶちこんだ。  自動装填銃は四度グウンと後ろに反り返り、煙のたつでっかい緑色の空薬莢が弾《はじ》きとばされた。鼓膜が破れるほどの発射音が街をゆるがし、通行人は手当りしだいに間近の店内や駅の待合室にとびこんだ。  自家用車は弾道をよけようと狂ったように逃げ廻り、店々は戸を閉ざし、燈火は一瞬にして消えた。逃げおくれた人々は掩護物を求めて息をきらして走り、腰のぬけた人々は硬いアスファルトや石畳に身を投げかけて啜《すす》り泣いた。  ショット・ガンを握った男が倒れた仲間を車内にひきずりこむと、暴徒は動物的な喚声をあげながら夜の街をフルスピードで遁走《とんそう》した。  アルサロから安田の部下が三人おどり出て、その車めがけて拳銃を乱射した。その時もう一台の灰色のトヨペットがアルサロの前を通りすぎた。車窓から突き出した短機関銃はガガガガと耳ざわりなおしゃべりを吐きちらした。安田の部下たちは腹と胸をズタズタに千切られてすっ飛んだ。  灰色のトヨペットの窓ガラスを銃身で叩き割った男たちは、車窓から拳銃をつき出し、あたりかまわず死と炎の雨を撒《ま》き散らしながら逃げ去った。  銃弾はアスファルトを削り、青白い火花を散らしてキーン、キーンと夜気を噛んだ。  凶弾の一発は踵《かかと》の高い皮サンダルを脱ぎすてて逃げまどう田島美知子の藤色のスーツの背を引き裂き、左乳に目もあてられぬほど無慙《むざん》な射出孔を残して活動を停止した。  美知子は右向きに回転しながら前につんのめり、左の後頭部をアスファルトに砕かれて身動きもせずに静かに横たわっていた。  生命を失った蒼白《そうはく》な顔は、今となっては苦悶《くもん》の影をとどめず、閉じた瞼《まぶた》の下の漆黒の睫毛《まつげ》が開いた扇子《せんす》の形をなして濃い翳《かげ》を作っていた。かすかな彎曲《わんきよく》を見せて反った形のいい鼻の下に、薔薇《ば ら》の唇が見はてぬ夢を見続けるようにわずかに開いていた。    殺気  目も眩《くら》むようなヘッドライトの光を浴びて、ひねこびた松林が怪奇な影を綾《あや》なした。林の繁みに車を隠した田島は、新田に教えられた隠れ家を鋭い目で捜し求めた。  密集した松の中に狭い空き地が開け、煉瓦造りの小屋が見えた。燈火は消えていたが、小屋の右手にはポンプと汲《く》み上げタンクが黒々とした輪廓《りんかく》を見せ、一寸《ちよつと》離れたところに便所がついていた。  戸口に置いてある懐中電燈に点火した田島は、スーツケースを下に置き、鍵で錠を外すと、右手にルーガーを抜き出して、扉を足で蹴とばした。開いた扉の前で素早く膝をついて、懐中電燈の光をサーッと部屋の隅から隅に走らす。  八畳ぐらいの広さの部屋だった。ホーッと安堵《あんど》の息を吐いた田島は、ルーガー拳銃を腋《わき》の下のショールダー・ホルスターに収めた。  天井からランプがぶらさがっていた。田島はそれにライターの火を移し、外に置いたスーツケースを持って戻った。  部屋の突き当りと左側に窓がつき、カーテンが固くおろしてあった。突き当りの窓の下にベッドが見え、床には擦り切れた絨毯《じゆうたん》がしかれ、ベッドの向いには皮ばりのソファがすえられていた。入って右手には洗面台と戸棚がはめこまれている。  屋根裏へ続く大きな息ぬきの穴が天井に無気味な口をあけていた。田島はテーブルをずらして踏み台にし、その上に登って見た。天井の穴に十分手が届いた。ニヤリと笑って低く口笛を吹いた田島は、テーブルから跳び降りて扉に鍵をかける。  スーツケースを開いて、そのポケットのジッパーを引き、鞣《なめ》し革のホルスターに入った青色の小さな自動拳銃と弾薬の入った皮サックを抜き出した。全長わずか十センチのイタリア製V・Bベービー二十五口径六連発オートマチックには初めから照星がついていない。全体が掌より小さなため、半月型の引き金の部分が大きく見える。  ベークライト製の銃把と引き金の間の安全止を圧し下げた田島は、銃把の左後ろについた蛇の目模様のボタンを圧して遊底被《スライド》を引き、薬室にウインチェスターのセンター・ファイア弾を一発装填し、スライドをもとに戻した。撃針がスライドの後ろに突き出して撃発装置になっているのを示している。安全止を押し上げて、銃把の弾倉室から弾倉を引き抜き、五発装填して弾倉室にもどす。  拳銃をホルスターに収めた田島は、ズボンの右裾をまくって、脚に革帯で括りつけた。  しばらくの間むさぼるようにタバコを吸っていた田島は腋の下からルーガーを引き抜く。一寸《いつすん》角の松板を十枚近くぶち抜く高性能自動拳銃のスマートな外形を憑《つ》かれたように見つめている。弾倉止ボタンを圧して引き抜いた細長い弾倉にはレミントンの弾薬が二発バネでおし上げられているのが、横にあいた穴から見える。尺取り虫状のリンクがついた遊底の先の薬室の一発と合わせてまだ三発残っていることになる。  溜息《ためいき》をついてルーガーをホルスターに突っこんだ田島は戸棚を開いた。罐詰《かんづめ》やビールやハムがたっぷりあった。ソーセージを一本、ビールで胃の中に流しこみ、ソファのクッションをベッドの上に並べて掛けぶとんでおおい、自分はベッドの下に潜《もぐ》りこんで毛布をかぶってみる。  ベッドの下から出てランプを吹きけし、再びベッドの下に潜りこんだ。田島君彦はタバコを口にくわえ、両手を頭の下にあてがって闇とタバコの火口を睨《にら》みつけている。  ——次に目覚めた時は、米軍の野戦病院にいた。梅雨時に肩の傷跡が疼《うず》き、その苦痛にも増して彼の心に痛ましい傷を残した。  復員した君彦は直撃弾を喰って全焼した父の鉄工場の焼け跡に立っていた。父も母も妹も逃げおくれて死んでいた。焦げたコンクリートや石塊の間から雑草がたくましく生い繁り、ひん曲って赤さびた鉄材が醜い顔をのぞかしていた。ルツボのような真夏の太陽が焼け土に反射し、かすかな微風にも乾ききった地上から黄色い砂煙がまき上った。千切れ雲が金色を帯びた空に物憂げに流れ、その空はジェット機の飛行雲に真二つに断ち切られていた。  リングへのカムバックの望みを断ち切られた彼の内部では、砕けた夢がにがく疼いていた。しばらく叔父の家に身を寄せた君彦は、東洋日報のスポーツ記者の職を得た。焼け焦げた街はまたたく間に復興して戦前を追い抜き、それにしたがって夜の世界もアメーバーのように膨脹《ぼうちよう》していった。  闇市に替って競輪や競艇など大がかりの公営賭博場で札束が舞い狂い、それには必ず八百長がつきまとった。大きなレースがあるごとに、スポーツ記者の彼にも口止め料が渡され、それは給料の幾倍かになっていた。  工場の焼け跡にまで商店街はのびてきた。その土地を売った金を叔父と分けた君彦は、八百万ばかりの金を握った。  梯子《はしご》酒に泥酔して翌朝見知らぬ女の胸で目を覚ますむなしい遊びにも飽いていた——。  風に乗って遠く街の方からかすかな銃声がしばらく続いた。田島はベッドの下で身をひきしめて待っていた。 「馬鹿な!」  近松警部はいかつい顔を紅潮させ、デスクを叩いて新田に喰ってかかった。 「まあ、落着いて下さいよ。こっちだって最善は尽しましたよ。駅から出る田島をその場で逮捕しようと思いましたが、奴が拳銃を懐ろに呑んでいるのが分ったんでね」  新田は気を悪くしたような顔で乱暴にタバコを揉《も》み消した。 「あんなヤクザが恐《こわ》かったのか?」 「御冗談を。唯、あの人混みで射ちあえば、死人が出るのは一人や二人でないと思いましてね」  新田は笑顔を浮べて悲し気に頭を振った。 「そう言えばそうだな」  警部は椅子に腰を下ろしたが、まだ疑いは去らぬ様子だった。 「無用の被害者が出ないところでと思って連行しようとしたが、田島の奴も気づいたとみえて海岸ぞいに歩き出したんでね」 「なるほど、そして君達が躊躇《ちゆうちよ》している間に、むこうから射ってきたというわけだな」  近松警部はパイプに桃山をつめてパッパッと吹かし、指でタバコをおさえて、その上に又タバコの粉を少しつぎ足した。 「田島がくるっと振り向いたので、射たれるなと直感しました。こっちが拳銃を抜いた時は、弾はもう私の耳をかすめてましたよ」 「そうかそうか、それは危なかったな」  警部はパイプの煙の奥からなだめるような声を出した。 「こっちは空に向けて威嚇《いかく》射撃しましたが、続けざまに狙い射ちしてくるじゃあありませんか。覚悟をきめて奴の脚を狙いましたが、何しろ暗闇だったので……こっちは命びろいしたものの、太田は不運にも……」  新田は口惜《く や》しそうに唇を噛む。 「残念だったな。しかしピストル・シルエットで九十七点を割ったことのない君が射ちそんじたとは、ちょっと腑《ふ》に落ちんがね」 「やはり、人間と標的は違いますよ」  タバコに火をつけた新田は暗い声で言った。 「今まで何べんも犯人を射殺した君がか?」 「太田が射たれたのをもっと早く知ってたら、情容赦なく田島の尻をぶち抜いたんですが」 「太田は心臓を一発でやられてたからな」  近松警部はようやく納得した顔付きになって、煙のたつパイプをそっと愛撫《あいぶ》した。 「そうですよ。ウンともスンとも言わずに死にました。たとえ太田が悲鳴をあげても、何しろ物凄い銃声の中でしたからね。一緒に追おうと思って太田の方を見たら……」 「驚いただろう?」  警部は間の抜けた声で言った。 「脈をとっている間に、田島は闇の中に消えてしまいましてね。岩壁につないであるボートで逃げたらしいです」 「弱ったな。署長はあいにく留守だし……ともかく始末書を書いてくれよな」 「分りました。ともかくよろしくお願いします」  新田は殊勝気に目をふせたが、キッと目を上げて強い口調で言った。 「近松さん、お願いがあります」 「何だね?」 「太田の殉職の責任はすべて私にあります。どうしても田島を私自身の手で捕えないと虫がおさまりません。私を田島の特別捜査官に任命してください」  警部はしばらく真剣な新田の瞳《ひとみ》を覗きこんでいた。 「無理もない。署長が帰ってきたら、手筈をととのえる——」言い終らぬうちにデスクの電話が鳴った。警部は受話器をわし掴《づか》みにした。 「何? 中央駅前で射ち合いだと?……安田達は即死した?……よし、分った。すぐ署員を緊急召集しろ」  電話を切った警部は興奮した面持で新田を見上げた。 「安田と幹部連中が射たれた。そうとう派手な殺《や》られ方だったらしい。さあ、新田君、急ごう」  もどかしそうにコートをつかみながら、席を蹴ってドアに向う。その後を追う新田の目はギラギラ光り、唇にはサタンめいた微笑がこみ上げている。  ドアをノックする音に田島はパッと目を覚まし、反射的に腋の下のホルスターからルーガーを引き抜くと、右肩を下にベッドの下で転がった。親指で安全装置を外した拳銃を両手で握ってドアの方に狙いをつける。再びひっそりとノックの音がした。 「入れ」  田島は肺一杯に吸いこんでいた息をゆっくり吐き出した。安堵に力の抜けた腕が垂れ、ルーガーは絨毯に当って柔らかな音をたてた。 「俺だ」  低い新田の声と、鍵の廻る音がした。扉があいて薄い光線が暗闇の部屋に射しこみ、冷たい空気が舞い込んだ。  日の出前だった。光を背にして新田がドアの敷居の上に濃いシルエットを作っていた。 「どこにいる?」  いぶかし気に新田が尋ねた。  田島は銃に安全装置をかけてホルスターにつっこみ、乾いた声で短く笑いながらベッドの下から這《は》い出した。 「用心深い奴だな」驚いたような声を出した新田はランプにマッチで火を点けドアを閉めた。ランプの光に、やつれて脂汗の浮いた新田の顔が黄色っぽく光る。  田島は照れたようにニヤッと笑ってベッドの上に腰をおろし、新田にテーブルのむこうの椅子を示した。新田は椅子に崩れるように坐ると、無音でパッパッとタバコを吸い込んだ。 「大変なことが起った」  タバコを乱暴にテーブルの角にこすりつけ、眉をしかめて鼻から重苦しい息を出す。 「何だ?」田島がポツンと尋ねた。 「君の奥さんが射たれた」  言いにくそうに新田は重い声で言った。 「何っ!」  田島は顔色を変えて立ち上った。 「ヤクザの出入りに捲《ま》きこまれた。つい六時間ほど前、中央駅前で村井組が安田組に殴りこみをかけたんだ。その時奥さんが流れ弾に当って即死した」 「本当か?」  田島は荒い息の下から言った。冷たく光る目に凶暴な炎が燃えている。 「気の毒だった。すぐここに駆けつけようと思ったが、何しろ大騒ぎで抜けられなかった」  新田は低い声で弁解した。 「やったのはどいつだ?」  腰をおろした田島の声は不気味なほど静かだった。 「まだ分らない。村井の子分だとは馬鹿でも見当がつくが、そのうちの誰とは……ともかく、村井をはじめ幹部連中は姿を消したままだ。ほとぼりのさめるまで隠れている気らしい」 「美知子は捲きぞえを喰ったと言ったな?」 「アルサロ“黒い豹”を出た安田と井上は、車から十数発ぶち込まれて死んだ。逃げる車を追って店から跳び出した安田の子分三人は、次に襲ってきた車から短機関銃でズタズタに射ちまくられた。後に残った死傷者の中に美知子さんが混っていた。弾は背中から入って心臓を貫き、左胸にぬけていた。襲った車は盗難届の出ていたトヨペット・クラウンだった。公園のそばで見つけたが、指紋はふきとられていた」 「美知子はどうしてあんなところに行ったんだ?」 「知らない。君の帰りを待って張り込んでいた刑事をまいたらしい」 「そうか、よく知らせてくれた。俺は今から出かける——」  田島はギラギラ怒りに燃える目で、固く握りしめた自分の拳《こぶし》を睨みつけた。 「俺は必ず美知子の仇《かたき》をとってやる。あれを殺したヤクザは絶対にあんたたち警官に渡さない。あれが喰ったと同じ所に、熱く焦げた弾をぶちこまれて、俺の顔を見つめながら死んでいくんだ。俺はそいつの顔に痰《たん》を吹っかけ、脳味噌が飛び散るまで叩きつぶしてやる」  憑《つ》かれたような声で誓う。ざらざらした喉声《のどごえ》には血に飢えた響きがある。 「君の気持は分る。しかし今ここを出ることは出来ないぜ」  新田は穏やかな声でさとした。  田島は首を振って立ち上った。 「俺はあんたに借りがある。しかしいくらあんたでも俺を止められない。止めるんなら腕ずくでも出る」  新田は悲し気に微笑した。 「出られないわけを言おう。太田——俺と同行した刑事が君の弾を受けて即死したんだ」  田島の顔に不意に血がのぼってきた。食いしばった歯の間からゼーゼーと息を吐き出す。 「俺の腕はまだそう鈍っているもんか! 絶対に当てぬように気を配ったんだ!」目が冷たく据《すわ》り、頬にはふてぶてしい冷酷の影がおおってくる。殺気を感じた新田が舌なめずりする蛇のような素早さで腰からコルト〇・三二を引きぬくのと、田島の手の中でルーガーがランプの光を鈍く撥《は》ね返すのと同時だった。二つの拳銃はピタッと相手の心臓を狙った。 「参った!」  間髪を入れずに新田が叫んだ。 「銃を捨てろ!」  田島が鋭く命じて、親指にかけた安全止を廻した。 「このままでは相撃ちだ。俺が一センチ銃口をさげるから、そっちも同じだけさげろ!」 「そんな手に乗るもんか」  田島はひややかに言った。目が不気味に細められている。 「田島、君は俺の言ったことを誤解している。太田は地面に当って跳ねっかえった弾を喰ったんだ。こうなった以上俺にも責任がある。俺と君は一つ穴のむじなだ。二人で射ち合うのは愚の骨頂だ。君が出るのを止めるのは、今の武装では君が危ないからだ」  新田は田島の目から目を離さず、熱心な口調で早口に言った。 「なぜ俺を助ける? 前のようにごまかすなよ」  田島は唇を歪《ゆが》めて鼻を鳴らした。 「よし、手のうちを晒《さら》け出そう。この市《まち》に移されてから村井組がでかい顔をしてのさばるのが腹にすえかねてたんだが、俺の女が村井の右腕の“蝮《まむし》の政”に寝取られた。蓮っ葉女だったが、おかげで俺の顔は丸潰れだ。誰も俺が黙って引き退るとは思ってない。気はあせったが、署長からして村井の顎で使われてるんでどうにもならなかった」 「俺と組もうと言うんだな? 分るような気もする。俺だって女を寝取られたら黙っていない……すまん、凄んだりして。気が立ってたんだ」  田島は瞳の凶暴な光を消して拳銃をさげ、恥ずかし気に笑った。笑うと硬く冷たい外殻が破れ、頼りな気なほど若々しい面影が甦《よみがえ》った。新田もニヤリと笑ってコルトを腰のホルスターに収めた。 「今まで射ちそこなったことのない俺だ。君のことで言い逃れをするのに苦労したぜ。ともかくこうなった以上村井組に吠えづらをかかしてやろう。俺は警官だ。署長の打つ手の一歩一歩先を越して、村井や警察側の動きを連絡してやるよ。新聞やラジオの言うことは信用するな。奴等も村井とグルだから」 「すまん」田島は口の中で呟いた。 「そうだ、これ……要るだろう?」新田はポケットから七発入りのルーガーの弾倉と、口径九ミリのレミントン百二十四グレイン弾を三十発近くつかみ出してテーブルの上に置いた。  田島の目が異様に輝いた。一発一発ハンカチで丁寧にぬぐってREM-UMC9LUGERと彫られた薬莢の尻を下にして立てていく。 「じゃあ、俺は帰る。明日は又いそがしくなるだろう。向うはたんまり武器を持っているから用心しろよ。昼間は顔を見られるから夜でないと出歩けないぜ」  新田は立ち上った。 「わざわざ済まなかった。これだけの弾を射ちまくったら、五人や十人死ぬだけでは終らんだろう」  田島は乾いた声で笑った。 「その意気だ。何と言っても奥さんの弔い合戦だ。俺は一度見ただけだが、あんな立派な女の人は見たことがない……おっと、車はもらって帰るよ」  田島から車のイグニッション・キイを渡された新田は、そっとあくびを噛み殺しながら出ていく。  エンジンの音と車の遠ざかる音がかすかに聞えた。田島は弾薬を磨く手を休めずに、鼻から重苦しい息をついていた。血走った目が細まって吊《つ》り上り、気狂《きちが》いじみた光を湛えている。  ——秋は深く、冷たい夜気は刃で切断出来るほど澄みきっていた。夜は若く、星屑《ほしくず》は銀の雨を降らしていた。並木の銀杏《いちよう》は、はらはらと舞う金色の落葉を二人の肩にふりそそぎ、歩道に積った枯葉は靴の下でカサカサと音をたてた。  君彦の胸に美知子の体温が伝わり、頬には黒く泡《あわ》だつ滝のような髪がふれた。二人の足はどちらともなく止り、二人の熱い息は交わった。固く抱擁した二人は一体となり、星は頭上にくだって二人を包み、外界との間に透明な帷《とばり》をおろしたかに見えた。  毎朝毎夜、美知子は変貌《へんぼう》し、日ごとに新鮮さと美しさを増した。  えくぼの浮く肘《ひじ》までエプロンをまくりあげて、明るい声で歌いながら皿を洗う美知子。 「え、なあに? 何ておっしゃったの?」小首をかしげて、弾んだ声で尋ねる美知子。  電蓄から流れる音楽に合わせて踊る、羽のように軽く、スポンジの弾力を持つ美知子。  優しく烈しく、烈しく優しく反応する白い腰に光る、目が覚めるように鮮やかな黒子《ほくろ》——。  夜が明けそめかけ、霧笛がヒューンヒューンと腸《はらわた》にしみて遠吠えをした。田島はルーガーを抜き出して弾倉に補弾し、予備の弾倉をジャンパーの内ポケットに入れた。  テーブルを片付けて洗面台の蛇口をひねって手を洗おうとしたが水は出なかった。低い声で「畜生」と呟いた田島は外に出た。ポンプをおしてタンクに水を溜《た》める。  松林の隙間から海が見えていた。海も空も霧のために、一様に灰色にくすみ、灰色の鴎《かもめ》が高く低く舞っていた。    復讐《ふくしゆう》の鬼 「約束通り残金を頂くとするかな」  新田は、コカコーラのコップを置いて、身をくねらせる愛子の尻を撫《な》でながら、上機嫌で言った。 「止《よ》せっ!」  小松がソファから腰を浮かしながらザラザラした声を出した。挫《くじ》けて腫《は》れた右手首にはサロンパスをベタベタはりつけている。 「これこれ、そう興奮するなよ」  斎藤は小松をたしなめておいて、新田に仏頂づらを向けた。 「お払いはしますがね……しかし警部さん、昨夜のやり方は一寸まずかった、いや、大いにまずかったですよ」  声も露骨に不機嫌である。 「安田のほうがボヤボヤしてたんだ。そんなことは俺の知ったことか?」  新田は鼻の先で嘲《あざけ》った。 「そんな無責任な!」 「無責任? 俺はやるだけのことはやったんだ」 「そうは仰言《おつしや》られても、ああバッサリ安田達が討死《うちじ》にときちゃ、次は必ずお鉢が廻ってくるじゃあありませんか」  新田はイライラした顔で斎藤の言い分を聞いていたが、とってつけたような笑顔を作った。 「まあ、そう気を揉むなよ。だからこそ田島という人身御供をでっち上げたんだ。これから派手に村井組を掻《か》き廻さすよ」 「しかし……」  斎藤は太い指をポキポキ鳴らす。 「しかしも糞もない。捜査を受け持つことになった。滅多なことで奴は死なせない。それでも俺に残金をよこさぬ積りか?」  新田は不気味なほど穏やかに言った。 「いえ、決してそんな積りでは」 「ふん、そんならこっちも文句はない。ともかく、これまで漕《こ》ぎつけるには、一寸やそっとの苦労ではなかったぜ。これから後が又大変だ」  新田は疲れたような笑顔を見せた。 「田島は一体どこにいるんです?」 「俺だけの知ってる所に隠してある。奴だけ逃がしたんなら言い逃れにそう苦労せずに済んだかも知らぬが、太田まで射たれたんだから、署長の野郎に散々油を絞られた。うまく村井がこっちの手にのって安田組を襲ってくれたから助かったものの、もう一寸《ちよつと》でこっちの首が飛ぶとこだった」 「逃げたと言えば、村井達は一体どこに隠れたんでしょうかな? 替え玉にしろ犯人が自首して出たんだから、もうそろそろ姿を現わしてもよさそうなもんだ」  斎藤は唇を突き出して額の皺《しわ》を深めた。 「それはこっちが知りたいぐらいだ。ともかく罪をかぶってノコノコ出て来やがった連中と、署長の馴れ合い尋問はドタバタ喜劇より面白かったぜ。つめかけた記者団に、特別捜査本部はこれにて解散する、と大見得を切りやがった。花束でも投げてやりたいぐらいだったよ」  新田は皮肉な微笑に唇を歪める。 「村井の隠れ場所が分ったら教えてくださるでしょうな」 「ああ、カマをかけて、署長から聞き出したらな。しかし、村井には生え抜きの殺し屋がついてるぜ。まだ隠れてるところを見ると次の計画を練ってるんだ。早まったらあんたの所は全滅するぜ」 「分りましたわい。これからもよろしくお願いしますよ」  斎藤は泣き笑いの顔になった。 「よし、よし。今日はこれまでだ。すぐに署に戻らないと疑われる。さあ出すものを出してもらおう。こっちはさっきからウズウズしてるんだ」  新田は腰を上げた。 「あなたにかかっては、こっちは完全にお手上げですわい。仕方がない、お払いします」  斎藤は溜息をつくと金庫に近寄った。新田はふてぶてしく笑って女にウインクする。  紫がかった青い闇の中で街の燈火がまたたき、夜露に洗われた銀杏の若葉が淡い街燈の光を吸っては撥ねかえし、エメラルドで出来た無数の蝶のように輝いていた。  田島はアパート「南風荘」の屋上を、自分達の住んでいたペントハウスに駆け寄った。ブラインドが固く下ろされているため、内部の様子はわからない。鍵を差し込んで扉をあけ、スイッチをひねると、部屋の中は薬《ヤク》の切れた麻薬中毒患者が荒れ狂ったような惨状を呈していた。  居間の絨毯はまくれ、ソファやディヴァンはズタズタに切られて醜い詰物が顔をのぞかし、壁の油絵は床に落ち、額縁は踏み砕かれていた。テーブルは脚を折られて床に転がり、かざりの絵皿や花瓶《かびん》は粉々に割れ、引き出しは凡《すべ》て床に放り出されている。  胸のあたりまで届く電蓄のケースは叩きこわされ、引っぱり出されたラジオの受信器やプレーヤーは横倒しに転がっていた。テープレコーダーに至っては、原形をとどめぬ残骸と化している。  扉を蹴って寝室に入ると、田島の瞳は残忍なほど冷たく燃えた。香水の匂いの残る羽根枕や蒲団は切断されて鳥の羽の巣のように羽毛が散乱し、剥《む》き出しのマットからはスプリングが突き出していた。  開かれた洋服ダンスは華やかな衣装の洪水だった。みなポケットが裏返しになっている。手提げ金庫は鋼鉄の地肌をさらけ出してこじあけられ、中身は空っぽになっていた。  田島は身をかがめて、床に落ちているアルバムから美知子の写真を数枚剥《は》がし、ポケットから出した財布に入れた。バスルームの薬入れからモルヒネの錠剤を探しあて、ふと姿見に目をやった田島の顔が化石したようになった。  開け放された曇りガラスのドアを通して、浴室の天井近くについた小さなタンクの蓋があいているのが鏡に写っていた。近づいて見ると、その陶器製の蓋には最近セロファン・テープを剥がした跡がまざまざとつき、残されたテープの一本が垂れ下っていた。  田島は唇を噛んでそれを睨みつけていたが、フーッと鼻から息をつき、クルリと踵《きびす》を返して外に出た。玄関の扉に鍵をかけ、人の通らぬのを見澄まして、階段を二段ずつ走り降りる。  ——しかし、美知子との結婚生活はどこかうまくいかなくなった。彼女の父母はすでに死んでいた。売り食いに近い生活をしている彼女の兄は、度々アパートを訪れて、役にたたぬ骨董《こつとう》品と引き替えに、多額の金を無心した。  美知子は、気に入れば値段におかまいなく何でも買いこんだ。最高の品でないと気に入らなかった。君彦の預金は急速にへっていった。  新調したロディエのドレスによく似合うからと言って、美知子はネクタイでも択《えら》ぶような気安さで、スター・ルビーのブローチを買って帰った。ソファに腰をおろした君彦の膝の上で、美知子は両腕を彼の首にまきつけ、麝香《じやこう》の匂いのただよう可愛い顔を近寄せ、鼻声で甘えながら唇を求めた。  君彦はその美知子を膝から払いのけ平手で頬を打った。美知子は小さな悲鳴をあげてすっ飛び、ペルシャ絨毯の上を転がった。  君彦の怒りは瞬時にして消え、後悔と愛憫《あいびん》の波が襲ってきた。美知子は赤く掌の形の浮いた頬をおさえて立ち上った。涙ぐんだ目は淋しげに美しかったが、その奥には今まで見たことのない光があった。砕けたハイボールのグラスの横に、置き忘れられたタバコがくすぶっていた——。  ロビーでは、太った夫婦が外出の途中、管理人の舟橋と立ち話をしていた。アパートと言ってもホテルのフロントのような構えである。夫婦が待たせてあるタクシーへ乗り込むのを見とどけて、田島は舟橋に近寄った。 「た、田島さん!」  管理人の艶々《つやつや》した桜色の顔から血が引いていった。禿《は》げかけた頭に手をやって救いを求めるような視線を囲《まわ》りに走らせる。 「怖がらないでもいいぜ。美知子が殺されてから誰をあそこに通した?」  田島は受付のカウンターにさり気なく手を置き、油断なく四方に目を配りながら、静かに尋ねた。 「へ、へい。刑事さんがお見えになって、長い間調べてました。帰りがけに、しばらくの間、誰も通してはならぬと言うきつい御命令で。それより、田島さん、一体これまでどこに隠れてたんですか? 大騒ぎですよ」 「どんな男だった?」  田島は舟橋の問いを聞き流した。舟橋は乾いた唇を舐《な》めた。 「それが二人連れでしてな。一人は目だたない地味な服装をして、いかにも刑事らしい人でしたが、もう一人の刑事さんは、金目のかかったスカッとした服を着ているのに、何だかまともな方とは思われませんでしたよ。ボストンバッグを持っている左の小指の先がプッツリ切れていて、頬には切り傷までありまして……」目を落着きなく動かしながら、ベラベラ早口でしゃべる。 「蝮の政だな」  田島は低い声で呟いた。 「何とおっしゃいました」 「何でもない。ところで美知子の殺された晩のことだが……」田島は管理人を凝視しながら言った。 「へ、へい。それはですな——」舟橋は頬をひきつらしてしきりに揉み手した。 「あの晩六時頃電話がかかってきまして、奥様に取りつぎました」  田島の瞳はキラリと光ったが、唇は物憂い微笑を作った。 「ふーん、男から女から? どんなことを言ってた?」 「男の方からでした。しかし、お話の内容は私どもは聞いてはならぬことになってますので」 「どんなことを言ってきたかと聞いてるんだ」 「えー、私としましては、盗み聞くなんて気は一切無かったわけですが、唯ついレシーバーを外すのを……」  舟橋の揉み手が忙しくなってきた。唇に卑屈な愛想笑いを浮べて上目で田島をうかがう。 「弁解はいいから、何と言ってた?」  田島の目は細められ、声は冷たい。 「へえ、“美知子か? すぐ来てくれ”とだけ言うと、すぐガシャンと切れました」 「誰の声だか見当はつかないか?」 「さあ、ハンカチで受話器を覆ったような声でしたので……奥様はそれから二十分ほどして出ていかれたようです」 「変った様子は見えなかったか?」 「別に……ところで、お部屋の方はいかがいたしましょう。家具やお荷物など?」 「そっちに任せる。俺が来たことを誰にも言うなよ」 「へえ、決して」管理人はしきりに愛想笑いした。田島はつっと体を傾けると、カウンター越しに稲妻のように右腕を伸ばし、猛烈なストレートをその喉笛に叩きこんだ。軟骨の潰れる音と共に、舟橋は後方にすっ飛び、思い切り後頭部を床にぶち当てた。気絶した舟橋の口からしたたる血と唾液《だえき》の音が雨だれのように聞える。 「可哀想だが、口が軽すぎるからな」  田島は右の掌を撫でながら静かな声で呟き、足早にアパートを出ていく。壁の暗がりにへばりついていた新田がそっとその後をつけていく。  アルサロ「黒い豹」はまだ戸を閉めていた。ガラスは、新品と取り替えられていたが、点々とあいた壁の弾痕《だんこん》が生々しい。  街には毒々しいネオンがあふれ、パチンコ屋やスマートボール屋の前や横の暗がりには、黒や緑のサングラスにマンボズボンをはき、ダスターの肩を怒らせた景品買《ばいにん》や地廻りのアンチャンがたむろして、通りすぎる人々に睨みをきかせている。飲み屋やバーには、派手なふさのついた飾り紐《ひも》で吊ったギターを抱え、流しの艶歌師がひっきりなしに出入りした。香具師《や  し》から一個百円のサングラスを買った田島は、中央駅前半径三十軒ほどの店を択んで聞き込みにかかった。  モウモウたるタバコの煙で奥がかすむスマートボールの店では、満員の客が黙々と玉をはじいていた。景品交換所の娘は髪を黄色く染め、青いアイシャドウをまぶしていたが、どう見ても丸まっちい鼻とそぐわなかった。 「保険会社から廻されて来た者だが、昨日の晩の射ち合いで殺されたこの女が、どういう風に射たれたか聞きたい。礼は出す」  美知子の写真を差し出す田島の声は、低くさり気なかったが、娘は塗りたくったお白粉《しろい》の壁を通してそれと分るほど顔色を変えた。 「知りません。何も知らないわ!」  絶叫に近い声に、満員の客はいぶかし気な視線をむけたが、すぐに興味を失って、台に向き直った。次の店も次の店も何の収穫も無かった。その頃から田島は二人の尾行者を意識しだした。その二人組は洒落《しやれ》たツイードの背広のポケットにさり気なく手をつっこみ、肩を怒らせていなかったが、彼等の背へ挨拶を送るチンピラどもと比べ、一段の凄味をきかせていた。  指に巻きつけられた千円札に口を開きかけたズボンの叩き売りのテキ屋も、田島の背後に無言で立つ二人の男を見て、口をつぐんで首を横に振った。  田島は大通りを外れると、暗がりを択んで歩いた。皮ジャンパーのジッパーを胃のあたりまで引きおろし、抜き射ちの態勢をととのえている。その背後十メーターばかりから二人の靴音がコツコツとつけてきた。広告塔や映画館から流れるレコードの騒音も遠のき、人波も絶えた。田島は雑草の生えた空き地へ足を踏み入れた。 「兄さん、待ちな!」  空き地の中央まで来た時、田島の背後からドスのきいた声がかかり、二人の足音が早められた。  田島はくるりと向きなおり、ゆっくりサングラスを外してポケットに入れた。両手をだらんと垂らし、ふてくされたような唇のあたりにけだるい微笑を浮べて、静かに立っていた。降るような月光のもとで、まるで寛《くつろ》いででもいるかのように見えた。しかし靴先でバランスを保った強靱《きようじん》な筋肉は、爆発を待って張り裂けんばかりに引き締っている。  近づいた一人はサラシを巻いた右手に自転車のチェーンを握り、もう一人は左手に白い鞘《さや》を構え、ドスを持った右手を背後に隠している。 「てめえはどこの身内だ? 人の縄張りへ顔を突っこみやがって。仁義を切れ!」  チェーンを振りかざした二十七、八の苦み走った長身の男がジリジリ迫ってきた。 「どこの身内でもない。三下はすっこんでろ」  田島は唇のはたの物憂い微笑を消さずに、淡々とした口調で答えた。 「舐めるな!」  その男は舌なめずりして一歩踏みこんだ。田島の微笑が深まった。さっと体を落しざま、相手の睾丸《こうがん》を左足で蹴り上げた。 「チーッ」悲鳴をあげ、両手でズボンのボタンを抱えて身を折るのへ、八十五キロの全体重を乗せた獰猛《どうもう》な右フックをボディに放った。胃が裂け、背骨にひびが入った不気味な音がした。その男は目を吊りあげながら海老《え び》のように体を折ったまますっ飛んだ。 「くたばれ!」  もう一人の背の低い声が叫び、ヤニに染まった歯をむき出し、左手の白鞘を真すぐに伸ばしたままつっかかってきた。それを刃と間違えてよけようとするために出来る体の崩れに、右手のドスを刺しこもうという気だ。  田島は左足を引いて、体を斜めに開いた。空を切って流れる鞘を握った左手の甲の関節を両手で押えて逆手に取り、その左腕を乗せ、全身の重みをかけて捩《よじ》った。  男は悲鳴をあげてドスを放すと、自分の左腕をテコにして空中を一回転し、ドサッと地ひびきを立てて落ちてきた。田島はその腕をさらにねじった。冴《さ》えた音をたてて男の左腕は肩から外れた。その腕を離した田島はドスを闇の中に蹴とばし、転がっているチェーンを拾った。  長身の男は目を閉じて地面に横向きに転がっていた。空気を求める荒い息の中から、呻き声と共に晩飯と血をそこら中に吐き散らしている。 「今度、でかい口を叩く時はハジキを持ってくるんだ」  冷たく言い放った田島は、チェーンでその顔を斜めに払った。絞め殺される鶏のような悲鳴と共に、チェーンは皮膚と血と肉をくっつけて、手もとに跳ね返ってきた。  血と汚物にまみれて気絶した男から目を離し、田島は左腕の外れたヤクザを見た。その男の目は恐怖にひきつり、涙と脂汗が頬をつたってしたたり落ちる。 「チ、チ、畜生」  と呻きながら右手で左腕をおさえ、しきりに立ち上ろうとするが、したたかに地面に叩きつけられた腰が抜けたと見え、意のままにならない。  田島は中腰になって、その男の襟首を掴んだ。 「俺が知ってはまずいことがあるんだな? 誰から頼まれた? 美知子が射たれた時のことをしゃべるんだ。お前の相棒《だ ち》のように顔の形が変りたくないだろう?」  低い穏やかな声だったが、その中には底無しの恐怖を感じさせる冷やかさがこめられていた。 「苦しい、放せ! しゃべる。しゃべったらいいんだろう。あの女は車から出た所を射たれた」荒い息の中から苦し気な声を絞り出す。 「車から出た所?」 「初めの射ち合いが終ってから、次に通った車から突き出された。その時に弾が当ったんだ。それより、早く医者を呼んでくれ。畜生、腕が折れやがった。気が狂いそうにズキズキしやがる……」泣き声をたてて哀願する。冷やかに向う見ずな田島の瞳は、凄まじい光を帯びてきた。 「言えっ! 車の中に誰がいた?」  男の右手をとり、背後に廻って逆にねじ上げた。 「イテ、イテ……知らねえ。知らねえったら本当に知らねえ! 暗くて見当がつかなかった。放せ、アッ、アッ、右の腕も折れる!」  男は背を丸めて俯向《うつむ》き、ゼーゼー喉を鳴らしている。田島はその腕を少しゆるめた。 「じゃあ、なぜ俺のあとをつけた?」 「兄貴の命令だ。変な真似をする野郎は、おどかして追っぱらえと。おめえは田島だろう、おたずね者の?」 「ふん、そんな所かな。今、兄貴といったな、あのチェーンの若僧じゃないだろう?」 「違う。名前は言えねえ。俺だってヤクザの端くれだ。舌が切れても言えねえ!」 「うまい事を言うじゃあないか」  田島は嘲笑って、徐々に腕をねじり上げた。 「殺せ……」  血の気を失った男の全身から滝のような脂汗が流れ、食いしばった歯の間から唾と胆汁が糸をひいた。 「分った。教えるから放せ」喉の奥から聞きとれぬほどの声が漏れた。 「よし、早くしゃべれ」  田島は力をゆるめた。男はしばらく荒い息をついていたが、息が鎮まると、捨てばちな声で言った。 「幹部の石川兄貴だ」 「あいつなら見た事がある。今どこにいる?」 「知ってるはずはねえ。俺と同じで住所不定ときてらあ」  男は自嘲《じちよう》した。 「お前の名前は?」 「そんな事が聞きてえのかよ? 坊主の久だ。俺たち村井組に楯《たて》つこうなんて気狂いざただぜ。よく覚えとけ、必ずお礼はするからな」 「どうだかな?」  田島はことも無げに言い捨て、久の右腕にかけた力をグッと強めた。ポキーンと快音を発して右腕も肩から外れ、坊主の久は急速に闇の中に落ちていった。  その体中を田島はチェーンで殴打した。ツイードの服が破れて肉はそげ、骨はバリバリと砕けた。 「猿め」  田島の目は冷たく据《すわ》り、浅黒い顔は怒りにドス黒くなっていたが、低く穏やかな声は自分に言い聞かせるように物思わし気だった。  久の両足を持って体を引きずり、焦げた煉瓦山の蔭《かげ》に隠し、その上に相棒の体を重ねて思いきりチェーンでひっぱたく。    火を吐く小銃 「坊主の久の使いだ。村井組の石川兄貴を捜している」  再びサングラスをかけた田島は、流しのギター弾きやチンピラに当ってみた。七人目の獅子《しし》舞いが、石川は「菊屋」の離れ座敷で飲んでいた、と教えてくれた。  繁華街をぬけて三味の音の漏れる色町に着くには歩いて十五分ばかりかかった。「菊屋」は待合風の小料理屋だった。細い通りの表では床机《しようぎ》に腰をおろした看板娘が並んで客を引いていた。 「あら、お兄さん、いい男ね。一杯だけでいいからつきあってよ」 「女から養ってもらってる身だぜ。タダでやれるのをゼニを出してやる気はねえよ」  田島はヤクザっぽい身のこなしで嘯《うそぶ》き、口笛を吹きながら露地を廻って裏手に出た。  塀《へい》は高く、裏木戸には内側から閂《かんぬき》がおりていたが、財布の定期入れになっているセルロイドを木戸と柱の隙間に差し入れて外した。  裏庭は中庭に続き、古風な燈籠《とうろう》に照らされた植込みの間に泉水が光っていた。鯉が跳ねて、たゆたう月は飛沫《ひまつ》に砕け散った。三つの座敷では宴会が酣《たけなわ》と見え、三味や黄色い嬌声《きようせい》が騒々しい笑声と混って田島の耳に伝わった。長い渡り廊下の先の六畳の離れから漏れる電燈が植込みに黄色っぽい光を投げている。  田島は拡げたジャンパーの左の胸元に手をつっこみ、ルーガーの銃把《じゆうは》に軽く指をかけ、身を低くして離れた座敷の縁側の前に立った。部屋の左右と後は鶯《うぐいす》色の壁になり、障子にはもつれた二つの影が写っていた。 「兄貴、兄貴、開けてくれ。坊主の久の使いで来た。急用だ」  田島は声を潜めて言った。部屋の中から女の立ち上る影が障子に写った。障子があくと、パーマをかけた芸者が右手で柱につかまり、左手で乱れた髪を直しているのが見えた。食いちらかされた皿や銚子《ちようし》の乱立した膳の後ろに赤く酔った角刈りの石川が、鏡台と京箪笥《きようだんす》を背にし、楊子《ようじ》で歯をせせっていたが、田島を見て楊子を吐き出し、丹前の内懐ろに右手を突っこんだ。 「誰だ、手めえは? 見た事のねえ野郎だ」  と怒鳴りつける。  田島は右手を腋《わき》の下につっこんだまま、左手でサングラスを外した。 「畜生、田島だな!」石川は中腰になって叫ぶ。 「邪魔か?」田島は冷やかに言って、ラバソールの靴のまま縁側に上った。 「何よ、土足で! 自分で邪魔だと分ってんなら、早く消えておしまい。イーさん、こんな宿無し一コロでないの。早く追っぱらってよ」  芸者は鼻の穴をふくらまして田島を睨んだ。お白粉《しろい》の壁が所々はげて、酔いに染まった赤い地肌が覗《のぞ》いている。 「見そこなうな! 俺を村井一家の者と知ってか?」  石川はドスを握って立ち上った。  田島は電光の素早さでルーガー拳銃を抜き出し、左から横なぐりに芸者の顔を払った。部屋の中に踏み込み、後ろ手で障子をしめる。  ガーンと頬骨の砕ける音と共に、芸者は銚子や膳を倒しながら、石川の足元まで転がった。照星でえぐられて皮膚の裂けた頬を押さえ、血まみれの口を開けて悲鳴をあげかけたが、死の穴をあける銃口を見て、ガクンと頭を後ろに反らして気絶した。  田島は茫然と立ちすくむ石川の心臓にルーガーを向け、銃の左についた安全装置のレヴァーを押してゆっくり前に廻し、カチッと撃発装置に変えた。石川はドスを投げ捨てると腕を組んで坐りこみ、ふてくされたようにアグラをかいた。 「糞《くそ》っ、何の恨みがあるか知らねえが、殺すんなら殺しやがれ。ハジキぐらいでビクともするような俺じゃねえや」勇ましくタンカをきるが、酔いの醒《さ》めた顔は汗で黄色っぽく光り、頬はピクピク痙攣《けいれん》している。宴会の手拍子や嬌声が座敷から漏れてくる。 「お前のような虫けらを踏みつぶすのも面白いが、この前の喧嘩《でいり》の時殺された俺の美知子を車から突き出した野郎の名が聞きたいだけだ。口を割るまで痛めつけてやる」  木彫りの面のように無表情な顔で、田島は他人《ひ と》ごとのように淡々としゃべった。石川から目を離さずに、手さぐりで京箪笥の上のラジオのスイッチをひねる。腰をおろして、芸者の坐っていた座蒲団を引きよせて右手に握ったルーガーにかぶせた。 「サイレンサーはなくても大きな音をたてずに射つ方法は色々あるぜ」 「知らねえ、俺は何も知らねえ!」  石川の顔付きは一変し、張り裂けそうにつり上った赤い目で、何の感情も現わさぬ狙撃《そげき》兵のような田島の瞳《ひとみ》を見つめた。紫色になった唇からとめどもなく唾液《だえき》が流れ落ちる。 「想い出すんだな。想い出すまで、まず両脚の関節から射ちぬいていく。一生ギプスにくくりつけられて過すんだ」  腰をあげた田島は、ルーガーを石川に向けたまま、ラジオのヴォリュームを段々あげていった。それにつれてストラヴィンスキーのいらだたし気な不協和音が部屋を震わした。 「まだ想い出さないのか?」  田島は静かに尋ねて、座蒲団でおおった拳銃を石川の膝《ひざ》に向けた。目に凄《すさ》まじい殺気が宿り、唇には酷薄な線が刻まれた。  石川の顔は魚の腸《はらわた》のような色に変った。漏らした小便が見る見る丹前の前を濡らして、黒い大きな汚点《し み》をつけていく。 「射つな! 想い出した。政兄貴だった。『蝮《まむし》の政』兄貴だった。今どこにいるかは全然知らねえ!」 「まさか」田島は唇をゆがめた。 「本当だ。今さら嘘を言ったってはじまらねえ。大きなことを言って済まねえ。俺は村井組では、まだ小物だ。大幹部でねえと親分や兄貴とは連絡がとれねえ。な、頼む。俺がしゃべったと言わねえでくれ。親分に知れたらなぶり殺しになる」  石川は手を合わせて哀願した。 「身から出た錆《さび》だ」  田島は薄く笑って発砲した。銃は二度激しく跳ね返ったが、座蒲団の中にこもって弱められた発射音は、シンバルや太鼓が暴れまわるシンフォニーにまぎれて、自転車のタイヤのパンクほどにしか響かなかった。  石川は左の股《また》に食いこんで大腿骨《だいたいこつ》を砕いた百二十四グレインの銃弾に、左足をひきつるように跳ね上げながらひっくり返ったが、右腿《みぎもも》から畳に抜けた二発目で完全に失神し、芸者と並んで長々と横になった。吹き出る血は小便と混って畳に吸いこまれていく。  焼け焦げた綿が臓腑《ぞうふ》のようにとび出た座蒲団を放り投げた田島は、ハンカチを巻いた指でラジオのヴォリュームを弱め、スイッチのつまみを拭うと部屋を出た。  ルーガーに安全装置をかけ、左腋の下のホルスターにつっ込み、足早に裏木戸から出た途端、後頭部に物凄《ものすご》い衝撃を受けて膝をついた。クラクラッとかすむ目の前で、黒い背広の男が銃身を握った自動拳銃《オートマチツク》の銃把を振り上げた。  膝をつきながらも、田島は本能的に腋の下に右手を差し入れたが、肩のつけ根に自動拳銃の銃把でしたたかな一撃を喰って、だらんと右腕を垂らした。続けざまに襲ってきたリヴォルヴァーの打撃は、体をひねって顔から外《そ》らしたが、左の肩に鈍い音をたてて叩きこまれ、田島は膝をついたまま前向きにブッ倒れた。 「よし、ここで片づけたら面倒が起る。運ぼうぜ」  黒服の殺し屋の一人萩原が、ハイスタンダードの自動拳銃を肩掛けケース《シヨールダー・ホルスター》に突っこみながら、うんざりしたような顔で言った。肥満した体にグッショリ汗をかいている。  神経質な顔付きの連れの殺し屋服部は、S・Wの輪胴拳銃《リヴオルヴアー》の銃把を眺め、「ひでえ石頭だ、銃把のクルミが少し凹《へこ》みやがった」とぼやいて拳銃をしまい、倒れた田島の左腕をとった。  萩原は田島の右腕をかかえ、ベットリ頭から血のにじむ体を引きずって、十メーターばかり先のビュイックに連れていく。 「いやに重てえ野郎だ」服部が罵《ののし》った。  服部が運転台におさまり、グロッギーになった田島を後ろのシートの左側に坐らして、その横に萩原が腰をおろした。 「いいのを持ってやがる。最高級品じゃねえか。ルーガーだぜ」  田島のジャンパーをはぐって自動拳銃を奪った萩原が、薄い手袋をはめた掌で銃身を愛撫《あいぶ》した。 「ドイツ製だな、俺は前から欲しい欲しいと思ってたんだ」  服部がスターターを回しながら後ろを振り向いて舌なめずりした。 「残念だが、これは頂けないぜ。ヤバイことになる」  萩原は車の床にベッと唾を吐いた。 「チェッ」  舌打ちした服部は、勢いよくアクセルを踏みこみ、乱暴に発車させた。その衝撃で田島は目を覚ます。焦点の定まらぬ目をパチパチ開けたり閉じたりして、呻《うめ》きながら頭を振る。 「さあてと、やっとお目覚め遊ばしたか? ちょっとばかし、ドライブでハイキングと洒落《しやれ》ようぜ」  奪ったルーガーを田島の脇腹に押しつけた萩原が、のんびりした口調で言った。重たげな瞼《まぶた》の下の細い目には、いかにもこの仕事に慣れっこになっているような色がある。 「畜生、頭の芯《しん》にリベットを打ちこまれてるようだ」  焦点の定まった田島は苦し気な声を出し、右手を頭に上げかけたが、低く呻いて手を垂らした。 「ハッハッハ、もうちょっとの辛抱だ。今に何も感じなくなるぜ。おっと、手はちゃんと見える所に置いとけ」  萩原が短く笑った。服部がそれに合わして騒々しく笑う。  田島は眉をしかめて歯をくいしばっている。 「どこに連れていく?」 「ちょいとばかり遠い所さ。人に聞えねえような所でな——」萩原は喉《のど》の奥で柔らかく笑い、 「どうせお前には帰り路《みち》はないんだ。片道切符の行く先は着くまでのお楽しみさ」と嘲《あざけ》る。 「村井に傭《やと》われたんだな?」  額から血のたれる田島の瞳は据《すわ》ってギラギラ光っている。 「お座敷がかかって来たら嫌とは言わねえ。こっちはアルサロの女給と同じさ。指名料さえもらえば、事情も何も知らなくたって、金を出してくれた奴にサービスするだけさ」  萩原は田島の脇腹につきつけたルーガーの力を抜かずに自らを嘲笑った。  四つ辻《つじ》で制服の警官が赤いランタンを振り廻して車を止めた。近寄って車の窓から顔を突っこみ、 「あっ、服部さん、失礼。今夜田島が暴れだしたのに乗じて安田組の生き残りが不穏の形勢を示しだしたので、非常警戒……」と言いかけ、薄暗い後部座席の田島と萩原を見て顔色を変えた。 「萩原さん! 早くしてください。もうすぐ白バイが廻ってくる時間だ。この角をまっ直ぐ行って次の角を左にまがると警戒が手薄です」目をあわただしく四方に配りながら、早口で懇願する。 「いやあ、御苦労様。服部、お礼を差し上げろ」  田島にルーガーをつきつけたまま、萩原が鷹揚《おうよう》に言った。目も田島から離さない。  服部が財布から五千円札を四枚とり出して、警官の胸ポケットにそっとつっこむ。 「これはどうも……早く、早くお願いします。村井さんとこの若いのが、仕返しに安田組の事務所に殴り込みをかけるらしいから、もうすぐ交通止めになりますよ」 「アバよ、又親分——いや、社長の所で会おうぜ」  ニヤリと笑った服部がクラッチにかけていた足を外した。車窓の外をネオンと行きすぎる車が流れていく。 「いくら欲しい? そっちは傭われ殺し屋だろう。金さえ出せば文句はないはずだ」  田島は突然あきらめたように言った。額に薄く浮いた脂汗が血と混って光る。 「弱気を出しはじめたな。いくら出す気だ?」  萩原がからかうような口調で尋ねた。 「兄貴、よせよ」  バックミラーから目を離さずに服部が鋭い声で警告する。 「百万円出す」  田島は静かに言った。 「命一つがひどく安いな。もっともお前が百万の金を持っているとも思えんがね」 「銀行にある。お前だって俺に何の恨みもないはずだ。頭を働かせて稼《かせ》いだらどうだ?」  田島は萩原の黄色っぽい瞳の奥を覗きこみながら熱っぽい口調で言った。声がざらざらとしわがれている。 「ハッハッハ、冗談さ。現金でないと、一文の価値もないぜ——」萩原は左手でポケットから出した銀のシガレットケースを開き、田島から目を離さずに器用に唇でタバコをくわえて抜いた。ケースをポケットにおさめ、ライターの火をタバコにあてて、フッーと煙を田島に吹きつける。 「それに、俺たちの商売は信用が第一だからな。傭われたら必ず料金にふさわしい仕事はするよ。そうでないと、物騒がってお客がつかねえからな。商売、商売さ」悦に入った声でクックッと笑う。  街をはなれると、行きかう車も数えるぐらいになった。豆をいるような銃声と爆発音が街の中心部から聞え、田島の物問いたげな目に、萩原は唇をとじたまま不敵に笑った。  前方からサイレンを鳴らしっ放しにして警察用のジープが時速百キロを越すスピードで近づいてきた。強烈なヘッドライトが黒いアスファルトに反射して、あばただらけの道路に深々とした影を投げる。遠くから聞える銃声の数は益々《ますます》烈しくなってきた。 「兄貴?」  服部が上ずった声で尋ねた。萩原が口を開きかける間もなく、そのジープはビュイックの横をサーッと通り過ぎて行った。 「いよいよはじまりやがったな」  萩原が呟《つぶや》く。  淡い月光を浴びて燻《いぶ》し銀のように流れる飛鳥《あすか》川を渡ると、道路の左右には黒々とした麦畠《むぎばたけ》がひろがり、十秒おきにサーッと廻る飛行場のサーチライトが天空を灰色に染めた。ヘッドライトに誘《おび》きよせられた蛾《が》の群れが車のウインドウ・シールドにぶつかって雨のように落ち、密殺する牛を満載したトラックが地ひびきをたてて通りすぎ、そのあとには悲し気な鳴き声が耳に残った。 「どうして俺が『菊屋』に廻ったのを知った?」  田島は目を閉じて眉をしかめたまま尋ねた。 「それはだな——」萩原はじらすような口調で口を開いた。 「兄貴!」服部が鋭い声でたしなめる。 「ハッハッハ、心配するな。黙ってるよ」 「な、俺はどうせ死ぬんだ——」田島は苦し気に言った。「どうせ死ぬんだから、一つだけ教えてくれ。お前は安田を襲った時加勢したろう? なぜ俺の美知子が殺《や》られたのか。どうして彼女《あ れ》が殺られないといけなかったのか、それだけでいいから教えてくれ。それを聞いたら俺も安心して死ねる」 「ハッハッハ、いくらか殊勝気なことを言いだしたな。だまされないぜ。お前のツラは死にたいってえツラか」 「どうして美知子は殺られないといけなかった?」  田島は執拗《しつよう》にくり返した。 「お前は万が一のチャンスを待ってるんだ。そのチャンスがお前に廻ってこねえとは誰も言えねえよ。だから俺は何もしゃべれねえ。さあ、墓場に着くまで無言の行と洒落ようぜ」  ビュイックは右にカーブを切った。山に続く上り道だった。こんもりした低い山が近々と迫ってきた。 「兄貴、後ろから車が一台つけてくるぜ——」服部がいらいらした声で沈黙を破った。「さっき角をまがった時、後ろの車も百メートルぐらい離れてついてきやがった」 「気にするなよ。田舎の大尽が芸者でもつれて来てるんだろうぜ」  萩原がのんびり言う。 「そう言えば、どっかに消えちまいやがった。もうライトが見えねえや」  服部が照れくさそうに言って、ぐっとアクセルを踏む足に力をこめた。田島の瞳の奥で一瞬、ギラッと不気味な炎が燃える。  上り坂が急に角度を増し、まがりくねった山道の両脇に灌木《かんぼく》が目につきはじめた。ビュイックは石ころを跳ねとばしながらジェット・コースターのように登って行く。  石切り場に出た。ダイナマイトで爆破された大理石の巨大な塊が広場に転がり、その突き当りには切りたった断崖《だんがい》が硬い石の肌をさらしてそびえ、その天辺《てつぺん》には山の草木がのしかかっている。  崩れかかった番小屋には燈がついてなかった。キーッとブレーキをきしませてビュイックは停車した。S・Wリヴォルヴァーを握った服部が運転台から降りて、後ろのドアが開いた。 「降りろ。手は頭の上に組め。番人はいないから、変な真似をすると射つ」  萩原が先ほどとうって変った冷酷な声で命じた。田島は右手を試しに動かして見た。動くことは動いた。両手を頭の上に組んで硬い土の上に降りたつ。 「石が積まれている所まで歩け」  背後から二丁の拳銃に追われて、田島はゆっくり歩いていく。目は血走り、そっと自分の足先に向けられている。 「止れ! もう手を下ろしていいから、こっちを向け」  萩原が命じた。  田島は、勝手にしろと言いたげな、ふてくされた顔を見せて振り返り、細長い大理石の上に腰をおろした。その右手はさり気なくV・Bベービーの拳銃を隠した右脚の裾にさがっていく。背は猫のように丸め、靴先に力を入れている。 「運が悪いと諦《あきら》めろ。お前は自殺したことになるんだ。良心の呵責《かしやく》にたえかねて自殺したと言うことになれば、人聞きがいいじゃないか。お前が死んだら、このハジキを握らしてやる。遺言《ゆいごん》を書きたかったら書いてもいいぜ」  萩原が歯をむき出して嘲笑い、カチッとルーガーの安全装置を外した。引き金にかかった手袋の指先にかすかに力が入った。田島の右手がズボンの裾にふれた。  銃声が鳴った。ガーンと吠えた銃声は木の間を縫いゴーッと山に木霊した。  萩原は独楽《こ ま》のように横向きに回転して四、五メーターすっ飛び、ドサッと地ひびきをたててブッ倒れた。空中で暴発したルーガーの弾頭が凄《すさ》まじい轟音《ごうおん》を発しながら大理石に当って青白い火花を散らした。  銃声の一瞬前に、田島は体を後ろによじって転がりながら、右脚にくくった小さな自動拳銃を抜き出した。  リヴォルヴァーの撃鉄をあげた服部が、銃声のした右側の林に向けて扇射ち《フアンニング》で盲射ちしたが、再びその方角から銃声が吠えると、左腕をぶちぬかれて「ギャーッ」と悲鳴をあげて横倒しになった。息をつかさずに襲った第三弾はその心臓を貫き、服部は手足をピクピク痙攣させたが、すぐに動かなくなった。胸や腕からだけでなく、口や鼻からも鮮血がほとばしる。  田島は石の蔭《かげ》に身を伏せて、安全装置を外した全長4・インチの小さな二十五口径自動拳銃の狙いを七十メーターばかり離れた林につけた。ウインチェスター〇・三〇八口径の小銃から引き抜いた箱型弾倉に、人差し指ほどの弾薬《カートリツジ》を補弾しながら、新田が駆け寄ってきた。田島はそっと自動拳銃を脚につけたホルスターにしまい、新田の名を大声で呼びかけながら立ち上った。急に体中に脂汗が吹き出て、筋をなして胸や背を伝ってしたたり落ちはじめた。    疑惑の影 「大丈夫か?」  細長いライマンの望遠サイトをつけたレヴァー・アクション小銃《ライフル》に箱型弾倉を押しこみながら、走り寄る新田が大声で尋ねた。鹿射ち用の五連発〇・三〇八口径のウインチェスター・モデル八十八だ。 「有難う。怪我は大したことない。モルヒネの錠剤があるから……」  ハンカチで頭から垂れる血をぬぐった田島は、ピクピク痙攣しはじめた唇にタバコを押し込んで、ライターの火をあて、地面に転がった自分のルーガーを拾った。 「君が殺し屋に連れ去られたのを知ったんで、あとをつけて来た。行き先はこの前ストがあって、ここしばらく閑古鳥が鳴いている石切り場と見当をつけてたから、途中で近道して待ちぶせしてたんだ」  新田は萩原に近寄り、血しぶきの飛びちった背広の胸を開けて、肩から吊《つ》ったホルスターを外してハイスタンドのオートマチックを奪った。ホルスターのポケットには予備の弾倉まで入っている。  萩原の頭はまったく原形をとどめてなかった。銃弾の入った右の額の穴は小さかったが、銃弾の抜けた左半分は頭蓋骨《ずがいこつ》がきれいに吹っ飛び、脳味噌と血がとびちっていた。二トン近くの圧力をはらんだ百八十グレインのダムダム弾の衝撃を受けて、残った右目は眼窩《がんか》からどろっとはみ出て、凄まじい形相を呈している。  新田は靴先で仰向《あおむ》けに倒れた服部をひっくり返し、唇を尖《とが》らせて低く口笛を吹いた。背広の裾がまくれ上り大きくギザギザに裂けたワイシャツの間から赤黒い腸がはみ出、体のまわりは血の海であった。  その手から離れたS・Wを拾った新田は輪胴形《シリンダー》の弾倉を開いて排莢子桿《エジエクテイヴ・ロツド》を操作し、ザラザラッと空薬莢《からやつきよう》を捨てた。左手の親指で弾倉を左に回転させながら、残っていた三発の実包だけを輪胴弾倉の薬室に又つめ直した。弾倉を閉じ、左の親指を起立した撃鉄の前にはさみ、右の親指で撃鉄を軽く圧しながら引き金をひく。撃鉄が動き始めると共に、引き金にかけた人差し指と撃鉄の前の左親指を外し、右の親指にかけた力を加えて、静かに撃鉄を倒した。「もう俺のポケットには重たくて入りきれんよ」白い歯をきらめかしてS・W三十八口径のリヴォルヴァーを田島に投げてよこす。 「さあ、急ごう。話は車の中でだ。ここから二百メーターばかり廻った山蔭に停めてある」  新田はウインチェスターを肩に吊って先に立って走り出した。林の間をくぐり、険しい小道を滑るように降りて、二人の男は乗り捨ててあったプリムスに乗りこんだ。 「君が運転してくれ」  シートの右側に寄った新田は、倍率六のライマン望遠サイトを手早く十円玉でウインチェスターのマウントから外しはじめた。田島の運転するプリムスは巧みに方向転換して下り坂を七十キロのスピードで滑りおりていく。 「よく俺が危ない目にあっているのが分ったな?」  ハンドルにかけた手をすべらしながら田島がいぶかし気に尋ねた。 「うん、俺が目にかけてやっている囮《おとり》が知らせてくれたんだ。ところで、今夜は大分暴れたそうではないか?」  新田は短く笑った。 「あれだけ痛めつけてやったら、俺のことは今夜中にも街中のヤクザに伝わるだろう。先ほどの奴等の話しぶりでは、安田組の残党に村井組の連中が殴り込みをかけているらしい。もう街ぐるみ火がついたようだな」  田島も乾いた声で笑った。 「面白くなってきたな。おっと、そこの道を左にまがってくれ。街へ出る近道だ」  銃ケースのポケットに望遠サイトをしまった新田が言った。 「俺は自分の体を張った囮の鴨《かも》のようなもんだ。俺をなぶり殺しにするために、奴等は血眼で俺を追っかけ、束になってかかってくるだろうぜ」  田島の声は深く物憂気《ものうげ》だったが、もう躊躇《ちゆうちよ》も焦慮も無く自分だけに直面している者の声だった。言葉を切って黙りこみ、自嘲《じちよう》するようにつけ加える。 「俺だってヤクザだが……」 「しかし君は自分を頼りにし、奴等は衆を頼りにする。俺が出しゃばらなくても、君は何とか自分で切り抜けたに違いない。君は射たれたって自分で包帯を捲《ま》いて射ち返すだろう」  新田の声だけでなく、目にも軽い称賛の色があった。  しばらく言葉がとぎれた。 「村井の居所はまだ分らないのか?」  ヘッドライトに照らされる黒いアスファルトのリボンを見つめながら田島が尋ねる。 「まだだ。署長は知ってるらしいが、俺には知らせてくれない。高倉山の別荘にもいない」 「安田達を襲った連中は?」 「犯人は今朝雁首《がんくび》をそろえて自首して来やがった。新聞で見たと思うが、五人とも飼い殺しの老いぼれとポン中の廃人ぞろいだ。身代りに決っている。署長が取り調べに立ち合ったが、打ち合せ済みの筋書き通りさ。バクチで敗けて口惜《く や》しかったからだ、村井と何の関係もない、社長にトバッチリがかかって済まねえと思って自首して出た、とぬかしてる。事件はこれで解決したそうだ。何しろ特別捜査本部には豪勢な貢ぎ物がきたから、デカたちもここしばらくタダ酒にありつけるわけさ。ブタ箱にブチ込まれた連中は皇太子なみの扱いだ。さばききれねえ差し入れ物は、看守がおすそ分けにあずかってるよ」  新田が噛《か》んで吐き出すようにしゃべっている間、田島は物言いたげに唇を舐《な》めていたが、思い切ったように口を開いた。 「調べていくと、おかしなことが分って来た。美知子の死は偶然ではなかったらしい」 「何?」  新田の瞳が一瞬たじろぎ、ついで険しく光ったが、つとめてさり気なく尋ねた。 「美知子は村井に呼び出されたらしい。呼び出されて射ち合いの時、車から突き出されたらしいんだ。“蝮の政”の手で……」  田島は苦し気に言った。新田はそっと息を吐き出して、田島の横顔を見つめた。 「そうか。いや、黙ってて悪かった。この前打ち明けようと思ったことがあるんだが、君がカッとなってとびだしたら、君の命が危ないと思って……」 「何だ?」  田島はおさえつけたような声で尋ねた。暗い目が車窓にうつって陰鬱な影をつくっている。 「村井は美知子さんを強引に自分の物にしようと焦ってたらしい」  新田は言いにくそうに言って、溜息《ためいき》をついた。 「本当か?」  烈しい口調で田島が尋ねた。 「いつか署長が冗談にまぎらして話してた。しかし美知子さんは、あの通り貞淑《ていしゆく》なんだ。君が旅に出た留守に、村井の奴、しつこく言い寄ったらしいが、いつもこっぴどく撥《は》ねつけられたという噂《うわさ》だ」 「俺には初耳だ」 「奥さんは、そんな不愉快なことを君の耳に入れたくなかったんだろう」  再び重苦しい沈黙におちた。しばらくして、田島が口を開いた。 「アパートがかきまわされていた。刑事《で か》といっしょに“蝮の政”が来たそうだ」 「本当か? 署から正式に行ったのは安西と大久保だ。じゃ政と一緒に行ったのは村井に給料をもらってる下衆《げす》野郎だな」 「どうしてあんなことをするんだろう?」  田島がききとれないほどの低い声で呟いた。憔悴《しようすい》した顔に、うつろな瞳が苦悩の色を秘めている。 「さあ、俺にも見当がつかんが、村井のラブレターでも取り返しに行ったんではないかな。美知子さんがそれを焼いてしまってたかどうかしたのを知らずに、奴等はあっちこっち引っくりかえしたんでは……」  新田は言葉をにごした。田島の唇が開いたが、それ以上尋《き》くのをやめた。ゆっくり閉じた下唇を噛んで、アクセルをさらに強く踏んだ。  ——あの事があってから、表面は和やかな家庭だったが、美知子との間にポッカリと深い溝《みぞ》が割れたような気がした。君彦はそのふちに立って美知子の内部を覗きこみたい衝動に駆られた。金につまった彼は、ボクシングの八百長バクチ打ちに転向していた。敗けるに決っているボクサーに勝たせ、そのボクサーには五対一、七対一でこっちが賭《か》けている……それに勝たすのが彼の腕だった。広島のヤクザから捲き上げたV・B・ベービーの小さな自動拳銃《オートマチツク》は彼の脚にぴったり密着し、靴下留めと変らぬようになった。十四年式軍用拳銃で満点を記録したこともある鋭いカンと感覚が甦《よみがえ》った。彼はその小さなオートマチックを自分の五本指の一つのように、正確で自由迅速にあやつるようになった。青黒く冷たい光を反射する手慣れた銃器は、もはや一個の物体ではなく、意のままに死を送る自分の分身として感じた。それと、拳《こぶし》の関節にすっぽり被《かぶ》さるメリケンサックは、しぶとい一匹狼《ローン・ウルフ》として、したたかなバクチ打ちとしての彼の地位を着々と築きあげていった。  しかし——、巡業試合を追って、夜おそく旅から帰った彼は、しばしば美知子が家を明けているのを見た。そんな時、憔悴した額に鋭い縦皺《たてじわ》を刻んだ彼は、たて続けにタバコを吸いながら、灰皿から溢《あふ》れた吸い殻にも気づかず、窓の外を見つめて坐りこんでいた。 「ただ今、ごめんなさい。遅くなってしまったわ。旅行どうでしたの? お怪我なくって? ……あたし、富士子さんに誘われて映画見てたの。早く帰りたくてウズウズしてたのよ。でもあの人、久しぶりに会ったんだからゆっくりしようって、どうしても放してくれないの……そんなお顔なすってどうしたの? まあ、苦しいわ、放して。着がえするまで……」  彼は無邪気な顔でいぶかる美知子を強く抱きしめ、レモンの香りのする髪に顔を埋めて荒い息をついた。そしてその体を寝室に運び、肉の陶酔のうちに自分を忘れようとつとめた——。 「あと四、五分で街に入る。この銃を持って車の荷入れ《トランク》に隠れてくれ——」新田はケースのジッパーを引いてウインチェスターを取り出した。「窮屈だろうが、生きるか死ぬかの瀬戸ぎわだ。見つからぬとは思うが、見つかったら、目撃者は一人残らず射ち殺してくれ。俺と君がグルだと知れたら、とんでもないことになる」 「銃の操作方法は?」  車のスピードを落しながら田島が尋ねた。 「見たらわかる通り、レヴァー・アクションだ。弾倉《マガジン》に四発、薬室《チエインバー》に一発つまる。弾倉は弾倉ボタンを圧すと外れる。安全装置のボタンは引き金の用心鉄の右横についている。安全装置が外れて、撃発装置になったら、ここに赤く塗られた印が出る。ともかく、一発射つごとに掌にはさんだレヴァーを起して又もとにもどしたらいいんだ。弾薬はケースのポケットに三十発ぐらい残ってるよ」 「これから先、俺はどうしたらいい?」  車を停めた田島は、ウインチェスター小銃を受け取って、その狂暴な武器の重さを試してみる。 「そうだな。うまく街を抜けたら、この銃をトランクの中に残して、海岸ぞいに小屋に戻って、じっと隠れててくれ。まさかの場合があるから、ベッドに寝ないで、天井裏に寝るんだな。俺はこれから署長の所へ行かないと……あすは何とかして、村井組の殺し屋をおびき出してやる。どこか都合のいい所におびき出したら、君に知らせる。そいつらを痛めつけたら、村井の隠れ場が分るだろう。さあ、降りてトランクに入ってくれ。幸いだれも通ってないや」  車から降りた新田はトランクの蓋をあけた。銃のケースとウインチェスターを持った田島も車の後ろに廻った。体を海老《え び》のようにまげてトランクの中に入り、ウインチェスターを胸に抱える。 「トランクのロックは壊しておいた。窒息したら困るし、いざという時とび出せないからな」  トランクの蓋が閉り車は動き出した。車のバウンドにつれて体が跳ね上り、硬い金属にぶちあたった。トランクの蓋はパクパク動き、田島の頭は再び出血しだし、銃が胸に食いこんだ。  街の入り口に当る国鉄ガードの下には、パトロール用のジープや白バイが二台とまっていた。ランターンを振りまわした制服にヘルメットの警官がガードの蔭から跳び出して、ホイッスルを吹いた。新田はプリムスに急ブレーキをかけて車の外に降り立った。 「あっ、警部補殿!」  近寄った警官は驚きの声をあげて、挙手の礼をした。ジープからも三人の警官が出て新田のまわりに集まり、帽子に手をやった。 「報告します——」年かさの警官がキビキビした声で言った。 「署長さんが、さきほどから、しきりに警部補殿と連絡を望んでいられます。今夜十時二十分頃、村井組の暴徒が大きょして安田組の事務所を襲いました。村井組の幹部二人とチンピラが十人死に、防戦した安田組二十数人はほとんど全滅です。事務所に火の手が上りましたが、大事にいたらずに消しとめました」 「御苦労。すぐ現場に直行すると署長に伝えてくれ。実は、三十分ほど前、田島らしき男と二人の男がこの道路を車で飛ばしていたと知らせがあったんで、すぐに追ったが見つからなかった。異状はなかったか?」 「はッ、我々が警備のため現在位置についたのはほんの二十分ほど前でありましたから——」年かさの警官は言葉をきって羨《うらや》ましそうに笑った。「警部補さんが車を持たれているとは知りませんでしたよ」 「このオンボロ車か? 中古品を月賦で買ったのさ。月賦を払いきるまでにはクズ鉄屋行きだよ」新田はニヤリと笑った。まわりの警官はさもおかしそうに笑い声をあげた。 「では、急いでいる。ぬかりなく頼む」  新田は真面目くさった顔付きに戻って車の中に入った。 「トランクの蓋がよく閉ってませんよ」  若々しい警官が口を入れて、車の後ろに廻った。トランクの中の田島の体中にびっしょり脂汗がにじみ、心臓がドッドッと早鐘をつき出した。 「放っとけ、放っとけ。うまく閉らないんだ。そこがオンボロ車の所以《ゆえん》さ」  新田は剽軽《ひようきん》な声で言いすて、スターターを回した。腋の下は汗にまみれている。  警官たちの爆笑を後に、プリムスはトランクの蓋をパクパクさせながら街の中に入っていく。田島の体中から吹き出た汗が夜気に冷えて、マラリアにとりつかれたような震えがきた。  ガソリンと煙と血の匂いの充満した安田組。モルタル二階建て事務所の窓という窓はすべて割れ落ちていた。道路側の壁は焼け崩れて、水びたしの内部は、巨象に踏み荒された小人《こびと》の家のような残骸をとどめている。その事務所の左右とむかいの家がガラスも割れ、壁には弾痕《だんこん》が生々しく浮んでいた。  ロープのこちらで目白おしに密集した野次馬を逞《たくま》しい肩でかき分けて、新田は現場に近づいた。 「こらっ!」ロープをくぐる新田を認めて一喝する警備巡査の鼻づらに警察手帳を叩きつけて、うんざりした顔で行き来する鑑識課の連中と会釈を交わしながら新田は歩を進めた。  血と泥に汚れた蓆《むしろ》のかぶさった死体の列の近くに集まる刑事の一団から少しはなれて、署長は苦虫を噛みつぶしたような顔で横ぐわえにした葉巻の煙を吸いこんでいた。救急車に片腕をちぎられた負傷者を運んでいたインターンが新田に声をかけた。それを聞いた署長は葉巻をベッと吐き出して新田の方に体を向けた。 「何をぐずぐずしとったか!」  顔を真赤にした署長が怒鳴りつけた。かすかにアルコールの匂いがする。 「ぐずぐずとは手厳しい。田島を追っかけて、郊外の景色を満喫して来たところですよ」  新田は左の眉をつり上げて皮肉な微笑を作り、愚弄《ぐろう》するように一礼する。 「それで、それで捕まえたか!」  署長は赤く濁った目をギラギラ光らせて叫んだ。 「駄目でしたね。田島らしき男が車で通ったという情報が入ったんで、県道第五号を追って見ましたが、影も形もありませんや。どうやら連れがいたらしいですよ。殺し屋に連れられて行ったようですな」  新田は、知ってるはずだと言いたげに、署長を見下ろしてニタッと笑った。 「気味の悪い笑い方をするな」  署長は睨《にら》みつけて、あたりに目を配った。 「役者でないですからね。そう生れつきの笑い方は変えられませんよ」  新田はそう嘲って再びニタリと笑った。 「き、貴様いつの間に! 警部復官の申請は取り消しだ!」  署長はゼーゼー喉を鳴らして怒った。  警部の近松やまわりの刑事がチラッと署長と新田に視線を走らす。 「村井の隠れ場もまだ見つけられないような、無能な署の警部になったところで、しようがないと思いませんか?」  新田はゾッとするような微笑を唇のあたりに漂わした。 「何をぬかしおる! 俺を脅迫する気か? 村井の居所ぐらいちゃんと知っておる!」  怒りに逆上した署長は口ばしったが、ハッと気がついて口を閉じた。 「お教え願いましょうか?——」低い圧《おさ》えつけたような声で新田が尋ねた。「さあ村井の居所を教えていただきましょう。私も署員として知る権利がありますからね」  署長の顔が紫色に変色した。食いしばった歯の間からシューッシューッと荒い息をついている。窮地に陥った目が救いを求めるようにキョロキョロ左右に走る。  ラジオ・カーから跳び出した警官が駆け寄り、署長の横で止って挙手の礼をした。 「署長、ただいまパトロールカー第十二号から連絡がありました。署の南東二十五キロ離れた、黒部山の石切り場跡から、死体が二個発見されました。銃声に目を覚ました開墾者夫婦が二キロばかり離れた現場に駆けつけて見ると、黒服の男が二人、一人は頭、一人は腕と胸を射たれて死んでいました。近くにビュイックの車が一台乗り捨ててありました。村の電話までそうとう離れているので、知らせが遅れたそうです」 「田島の兇行《きようこう》だな」  新田が即座に言った。  署長の紫色の顔から血が引き、蛙《かえる》の腹のような色になった。醜くゆがんだ顔で、しばらくその警官を睨みつけていたが、ゼーゼー息を切らしながら、部下達に向って噛みついた。 「黒部山で事件が起きた。田島が又二人殺した。新田を行かせるから細木と室岡もついて行け」  命令しているうちにかすかに血色が甦ってきた。ニヤリと笑って猫撫《ねこな》で声を出す。 「さあ、新田君、余計なことは聞かずに、すぐ現場に直行してくれ。村の青年に竹槍や猟銃を持たせて大がかりな山狩りをするんやな。草の根分けても捜し出すんだ。見つけしだい射殺してくれ。今度こそ逃がしたらあかんぜ。さあ急いだ、急いだ」    暗い怒り  窓の外には夜の帷《とばり》が降りかけていた。  念入りに髭《ひげ》をあたった田島は、冷たい水で体をぬぐい、スーツケースから出した藤色の背広に長身を包んだ。  隠れ小屋を出て海に出ると、波は白い歯をむいて岸壁に噛みついていた。遠くを通る遊覧船のマストにまたたくクリスマスツリーのような燈光が、ただよう霧ににじんでいた。  ——盲目の獣のように白い歯をむいて咆哮《ほうこう》する海を見ると想い出す。三年前の夏、残暑にうだるような夜だった。君彦は美知子のすすめで三日おきぐらいに行く夜釣りに出た。 「たくさん釣ってきてね」  美知子は彼の首にすがりつき、長い接吻を与えた。するりと抱擁から抜けてポロシャツの背に顔を圧しあてた。背に熱い息がふるえて、彼は目を瞑《つむ》った。海に着くと潮が変り、強風が岸に向けて吹きつけてきた。岸壁のはずれには、三、四人のアロハの男が三間竿《ざお》をたれ、百メーターばかり横手には大型のヨットが錨《いかり》をおろしていた。誰かが撒《ま》き餌《え》でもしてあったのか、彼の竿は次々と八寸から一尺の大物の強引な引きにしなった。水を切って黒鯛《くろだい》は舞い上り、ビクの中で勢いよくはねた。 「動くな!」  耳ざわりなしわがれ声と、タバコのヤニ臭い息が吹っかけられ、彼の背に硬い拳銃の銃口が押しつけられた。背筋を棒のように固くして、着弾の衝撃にそなえていると、肩の古傷がうずきだした。  背後で高くホイッスルが鳴った。錨をあげたヨットはジグザグを描きながら波を蹴《け》たてて近寄った。「蝮の政」がヨットのマストに手をかけ、歯をむき出して笑っていた。 「手をあげて、こっちを向け!」  アロハ・シャツの一人が、旧式のリヴォルヴァーの撃鉄を起して命令した。口径〇・四五五のイギリス製ウエブリーのでかいリヴォルヴァーをつきつけられた田島のポケットを調べ終った男達は数歩横に退《さが》った。 「よし、むこうを向いてヨットまで歩け」  田島の背に銃口がくいこんだ。岸壁に作られた石段を踏みしめて、ゆれるヨットに移った途端、後頭部から足先までキーンと激痛が走り、彼は砂袋のようにデッキの上に転がった。  バケツで頭に浴びせかけられる海水の冷たさが、彼の意識を甦らせた。サク岩機でも射ちこまれているかのようにガンガン頭が痛んだ。それを押えつけようとして腕が動かぬのに気づいた。マストを背に、ロープで両手首をゆわえられていた。焦点が定まると、街のネオンが染めた赤紫の空がはるかかなたに見えてきた。  左の頬から顎《あご》にかけて鉛色の刀傷のついた政が、カヌーとニッパ椰子《やし》を染めぬいたアロハ・シャツを着て目前に立っていた。 「よくも今日、レスラーの遠東と交渉中の子分を殴りやがったな。入院した二人の子分のお礼に一寸《ちよつと》ばかり痛い目にあわしてやる。バラしてもいいが、もっといい慰みがある。半殺しにして海に叩きこんでやるぜ。ちっとは頭が冷えて、俺たち村井組に楯《たて》ついたらどうなるか気がつくだろうぜ」 「貴様は『蝮の政』だな。指をつめさせられたようなヤクザがでかい口をきくな。俺にそんな威《おど》し文句がきくと思うか?」  田島は苦痛に顔を歪《ゆが》めながらも罵った。 「ぬかしやがれ!」政は蝮の目を据えて右腕を後ろに廻し、力一杯の荒っぽいスウィングを田島の顔面に送った。  すっと頭をそらした頬をかすめて、拳はマストにぶち当り、グシャッと潰《つぶ》れた。政は悲鳴をあげて右の拳を押えキリキリ舞いをした。「この野郎、くたばりやがれ!」口々に叫びながらアロハ・シャツの男たちが殴りかかってきた。口の中に甘ずっぱい血が広がったが、ヤクザ達のパンチは口ほどでもなかった。息を切らし、手首をくじいた彼等は、ズック袋にパチンコ玉をつめた兇器を握った。  肋骨《ろつこつ》はミシミシ音をたててひっこみ、打撃のたびに肺の空気が絞り出された。血まみれの口は酸素を求めてあえぎ、体中の肉と骨は熱を持って疼《うず》き、苦痛を通りこして痺《しび》れが襲い、彼は再び昏倒《こんとう》した。 「もういい。これだけ痛めつけたら、一寸は思い知るだろう。死んでしまったら親分にお目玉をくらう。ロープを解いて海に放り込め」腫《は》れ上った拳を舐めながら政が吐き出すように命じた。  ロープがドスで切断され、田島の体は大きな飛沫《ひまつ》をあげて海に落ちていった。冷たい海水と、傷にしみる塩の激痛に彼は目をあけた。体中を包む暗黒の世界に彼は一瞬パニックにおちいり、魚雷を喰った輸送船から放り出されて重油の海を二昼夜漂ったサイパンの沿岸と錯覚した。しかし、いまは目じるしとなる燈火があった。彼は水を呑みながらも、しびれて疼く体を無理やりに陸地めがけて押し出した。  それから一カ月後、彼は政とバーでかち合った。政は三カ月の重傷を負って床の上に転がった。肋骨が七本折れていた。それ以来、村井組の者は、田島をそっとしておくことになった。今度のことが起るまで——。  暖かな物を食えるのも、今夜が最後になるかも知れない。すっかりネオンまたたく夜の街についた田島の足は、中華料理店「北京楼《ペキンろう》」に向いた。  薄暗い隅のテーブルについた田島を見て、コックのチャンの皺《しわ》だらけの顔に一瞬いぶかし気な表情が浮んだが、そ知らぬ顔つきで飛び散る脂に燃えるフライパンを持ち上げた。  地味な服を着た一人の男がカウンターの前に腰をおろし、チャップスイをつつきながら老酒《ラオチユー》を舐めていた。店の装飾は変っていたが、運ばれてきた二人前の焼餃子《ぎようざ》は、昔のままに舌が焦げるほど熱かった。  五つめの餃子に箸《はし》をのばした田島の手は、裏がえしになった伝票を認めてとまった。 「お客は刑事さん。この店で射ち合いは困る。代金は不要。裏から早く出てください」と、鉛筆で達者に走り書きしてあった。  田島はその伝票を握りつぶし、残りの餃子を急いで食い終った。百円札を皿の下に突っこみ、ハンカチで顔をぬぐいながら、便所を探すふりをして裏口から抜け出た。昼間新田から渡してもらった地図入りの書きつけをポケットから出してチラッと眺め、ライターの火で焼きすてる。炎に、軽く血走った沈痛な瞳がキラッと光る。  グランド・バー「フェニックス」。  薄暗い照明のボックスの奥に鮮明に浮びあがるステージでは、もみ上げを長くのばした歌手が、クリーム色のジャケツに包まれた身をよじって「さらば愛《いと》しの君よ」の悲痛な歌を絞り出していた。フロアでは目をつぶった男女が腰だけを動かしてチーク・ダンスを踊り、ボックスでは女給の肩に腕を廻した男達がひそひそ声で甘い言葉を囁《ささや》いている。  スタンドの止り木に片尻を乗せた黒ずくめの服装の男が二人、あたりの嬌声と忍び笑いをよそに、むっつり黙りこんだまま飲んでいた。数人のバーテンや女給は、その男たちの腋の下からかすかに分る拳銃のふくらみにチラッチラッと目をやっては、あわてて視線をそらしている。  油ぎった精力的な顔を棚に並んだ洋酒の壜に向け、思い出したようにグラスのブランデーを口に運ぶのは、殺し屋の中尾である。その左に腰かけた竜の口は、まだ二十歳をあまり出てなかった。蛙のような顔に、ニキビの赤さが目だつ。磨き上げたカウンターにこぼれた氷水に、小指につけたアプサンを一滴たらした。水がパッと割れ、しばらくすると白く濁ってきた。 「兄貴、もう七時二十分ですぜ」 「うん」中尾も腕時計に目をやった。 「一体あの新田っていうポリ公は何の話があるって言うんです?」 「田島の野郎の居所に心当りがあるらしい」 「まさか罠《わな》にかかったんじゃあないでしょうな」竜の口は唇を尖らした。 「慌《あわ》てるな。まだ約束の七時半は来てない。それに——」中尾は唇だけでニヤリと笑った。「みすみす罠にかかって大人しく手を上げる俺様か。伊達《だ て》にハジキは持ってねえや」 「そりゃ、そうですが」 「ふん、奴が来なくとも元々だ。おい、バーテン、酒を替えろ。こんな不味《ま ず》いブランデーは初めてだ。この店には安酒しかおいてねえのか? ナポレオンかヘネシーぐらい持ってこい」  中尾はチューリップ・グラスの中身をバーテンの胸にぶっかけた。二枚目のバーテンの顔にサッと血がのぼったが、カッとして開きかけた唇は、嗜虐《しぎやく》的な笑いを浮べた二人の殺し屋の冷たい目を見て、あわてて閉じられた。 「馴らした猿は安くつく。この淫売屋《いんばいや》では客に対する礼儀も教えねえのか?」  中尾が無理に圧えつけたような声で言った。バーテンダーの視線は烈しく動揺した。 「済みません。不作法をいたしまして。では次の分はこの店の最高品を私の奢《おご》りにさせていただきます」 「ふん、ではお前のために乾杯してやるぜ。お前が死なずに済んだ祝いにな」  その時、女給の嬌声に迎えられて田島が入って来た。黒紫色の回転戸がその背後で静かにしまる。  二人の殺し屋の背が緊張した。鏡に写る田島を眺めながら、右手を背広の襟《えり》のあたりに走らせて腰を浮かせる。田島は止り木の殺し屋には目もくれずに、奥のボックスに向って歩み去った。 「チェッ、新田かと思ったら人違いだった」  竜の口は止り木に腰を落着けて罵る。中尾も苦笑して新しく注がれたブランデーをすすっていた。 「待てよ。あのつらは、どっかで見たことがある……誰だっけな——」中尾はふっと眉をしかめて考えこんでいたが「そうだ!」と叫んで、胸ポケットから田島の写真を二、三枚引っぱり出した。  竜の口の顔から軽い酔いが吹っとび、サッと腋の下に手を突っこんで止り木からずり降りた。中尾も千円札をカウンターに投げ出して立ち上る。  ボックスの並びを通り越した田島は、一番奥の左横手についた非常口のドアを押した。薄暗がりの中に、夏だけ野外パーティやビヤガーデンとして使う庭園が見えた。樺《かば》の木のテーブルが十数個、夜目にも白々と浮んでいる。  扉が開いて背後から重い足音が追って来た。田島は庭の真中で立ちどまり、クルッと後ろを振り向いた。 「兄さん、出口はあっちだよ」ニヤニヤ歯をむき出したゴリラのような用心棒が田島の肩をつかもうとした。  田島はすっと身をひいた。木彫りの面のような無表情な顔に、瞳だけが物凄い光をおびて細められている。腋の下からルーガー拳銃を抜き出し、黒豹《くろひよう》の身のこなしで、用心棒の首の付け根に力一杯銃身を叩きつけた。頸《けい》動脈に一撃を喰った用心棒は、声もたてず、朽木《くちき》が倒れるように地べたに崩れ落ちた。その耳を靴先で蹴っとばした田島は、銃の安全装置を外して暗い壁にへばりついた。  ポケットに移した拳銃を握りしめた二人の殺し屋が、勢いよく非常口の扉を押し開けて跳び出て来た。地面に倒れた用心棒に走り寄ってかがみこもうとする。 「動くな!」  その背後から鋭い田島の声が夜気をつんざいた。殺し屋たちの体が化石したように固くなった。 「銃を離して、ポケットから手を出せ。ふざけた真似をすると二発で二人とも心臓をブチ抜く。この近さで射ちそこなうと思うな!」  低い声で罵りながら、殺し屋たちはギクシャクと一寸刻みに両手を頭上に差し上げた。  田島はルーガーを左手に持ちかえて、足早に二人の殺し屋に近寄った。 「待ってたぜ。遅かったな」  物憂い微笑に田島の唇が綻《ほころ》びた。左足を一歩早く踏み込み、解剖学的な正確さで約半トン近くの爆発力を持つ右フックを中尾の左顎《あご》に叩きこんだ。  ガラスのように顎は砕け、回転しながらすっ飛んだ中尾の体は、地面の上を二、三度大きく跳ねた。首の骨が折れたらしく、顔は不自然な角度に曲り、鼻と口から鮮血が吹き出る。  ニキビづらの竜の口は、さっと手を降ろすと、慌《あわただ》しくポケットからS・Wのリヴォルヴァーを引き抜き、親指で撃鉄を起そうとしたが、その目に写ったのはピタッと自分の眉間《みけん》を狙ったルーガーの死の銃口だった。若僧の顔色は緑がかった色に変り、ニキビだけが借り物のように点々と赤く浮いた。 「銃を捨てろ」  田島の声は鋭く短かった。ドサッと竜の口の足元に拳銃が落ちた。 「オーケイ、そこの壁まで歩け。手は首の後ろに組むんだ」  壁に額をこすりつけた殺し屋の頭は、田島の顎あたりまでしかとどかなかった。ポマードの甘ったるい匂いが鼻をつく。  田島はルーガーの銃口を竜の口の背に圧しつけながら、小きざみに震える服を軽く上から下に叩き、ズボンのヒップ・ポケットから財布と鍵束《かぎたば》を取りあげて、自分のそれに移した。鍵束の中には車のイグニッション・キーも混っている。後ろに退って地面に落ちているS・W三十八口径のリヴォルヴァーを拾い、自分のズボンの左ポケットに突っこむ。安全装置を外したままのルーガーを背広の裾で隠した。 「よし、手をポケットに入れて歩け。車まで何も変った事のなかったような顔で歩くんだ」 「フェニックス」の外に出ると、ゲイ・バーとの間の狭く暗い露地にチンピラが三人たむろして、タバコとコカコーラを廻し飲みしていた。青緑色のクライスラーが一台「フェニックス」の左五十メーターばかりの所に乗り捨てられている。そのクライスラーのドアを開いた田島は、殺し屋をハンドルの後ろに坐らせ、自分はその右側に斜めに腰をおろした。  鍵束のイグニッション・キーをスウィッチに差しこみ、右手のルーガーは殺し屋の脇腹にぴったり圧しつける。 「丸善石油のタンク置き場だ」  殺し屋の顔にひきつるような恐怖の表情が走ったが、ルーガーの銃身をぐりぐり右脇腹に食いこまされると、震える足でアクセルを踏んだ。  煌々《こうこう》たるヘッドライトは闇を貫いて、クライスラーは国道に抜けた。絶え間なく行き来する車の波に、つけて来る車の有無は分らない。田島は左手でタバコの箱をさぐって二本を唇にはさみ、ライターで火を点《つ》けた。フーッと煙を殺し屋の顔に吹きつけ、パチンとライターの蓋をとじる。  唇にくわえたタバコの一つを、殺し屋の紫色に変った分厚い唇に差しこんだ。タバコの吸い口は、あぶくのように吹き出る唾液に濡れてぐしゃぐしゃになっていく。竜の口はその火に命を託するかのように、せわし気に吸いこんだが、強く吸い込むごとに赤い光に照らされて前窓のガラスに写る己れの間抜け顔を見て、ベッとタバコを吐き出した。  国道を外れると、行き交う車は数えるほどになり、工場の立ち並ぶ海岸ぶちに出た時には、車の影は一つもなくなった。  低く重い霧のたちこめた暗い海は灰色の波を蹴たてて満ちはじめていた。波と霧の間から漁火《いさりび》がチカチカ明滅した。  十数メーターの高さを持つ巨大なタンクの並ぶ工場のはずれで、田島は車を停めさした。「車から出ろ。殺しはしない。聞きたいことがあるだけだ」  低い声は穏やかで、憐憫《れんびん》の表情があったが、竜の口はそこに死の匂いをかぎつけた。 「助けてくれ! 殺すな!」啜《すす》り泣きながらハンドルにしがみつき、背を震わせている。漏らした小便が湯気をたてはじめた。  イグニッション・キーを抜きとった田島は車の外に降りたった。ハンドル側のドアを開け放って、ルーガーを左手に持ちかえる。奪ったリヴォルヴァーの銃身を右手に握り、殺し屋の左腕の付け根を胡桃《くるみ》と鉄の銃把で力一杯斜めにひっぱたいた。肉の潰れる鈍い音と、男の悲鳴が入り混り、挫《くじ》けた左腕はガクンとハンドルから外れて垂れ下った。  田島はリヴォルヴァーをポケットにしまった。ヒーヒー喉の奥で喘《あえ》ぎながら、まだ右腕でハンドルにしがみつく男の喉に腕を廻して、車の外に引きずり降ろす。 「おとなしく出りゃ、痛い目をせずに済んだのに」  暗い声で言って、すぐに有無を言わさぬ冷酷さを声にこめた。 「立て、立って歩け。逃げようとしたら、膝の後ろを射ちぬく。一生松葉杖《づえ》の世話になりたくないだろうな」  工場裏の空き地は、左側を崩れた石垣でかこまれ、前方は海に続き、あたりには錆《さ》びて泥のつまったドラム罐《かん》が転がっていた。  煤煙《ばいえん》を含んだいがらっぽい濃霧がうねうねと海から漂い、視界に灰黒色の厚いヴェールを張りめぐらしはじめた。それにつれて、遠くを行き来する船の霧笛や自動車のクラクション、地蜂《じばち》のうなりのような街の騒音が、打ち寄せる波のリズムを越えて、思いがけぬ近さに伝わってきた。  錆びついたドラム罐が転がる石ころだらけの空き地を、痺れた左腕を右手で支えて、男はよろけながら進んでいった。 「停《と》まれ! こっちを向いて腰をおろせ」  海は間近だった。咆哮する海の暗く巨大なエネルギーが腹の底まで響いてきた。 「誰に傭われた? 政にだろう?」 「言ったって、生かしてはくれめえ」 「それはそっちの返事しだいだ。今奴はどこにいる? さあ、死にたくなかったら、政と村井の居所を言うんだ」  田島の声は血に飢えたようにしゃがれていた。殺し屋は目を閉じて胸を波うたせ、乱杭歯《らんぐいば》を見せて開いた口から荒い息をついている。閉じた瞼は痙攣を起し、こぼれた涙が闇の中に光の筋をつけた。  田島は殺し屋の後ろに廻って、仰向けに引きずり倒した。片膝を立てて蹲《うずくま》り、その頭にルーガーの銃口を圧しつける。遠くでブレーキの軋《きし》む音がした。 「『蝮の政』は今どこにいるか、と聞いてるんだ。これから俺の言うことをよく聞いて、自分の頭でよく考えて見ろ——」  田島の声に再び物憂げな翳《かげ》が宿った。 「お前だって、プロの殺し屋だろう。俺の言うことが分らぬような間抜けではあるまい。お前はまだ若い。生きてさえいれば、これから先可愛い娘が何人も抱ける。村井に傭《やと》われたのも金のためだろう? 俺に何の恨みもなかったはずだ。それをつまらぬ義理だてをして、どこの馬の骨かも分らぬ俺になぶり殺しになったんでは、せっかくもらった金もフイになる。さあ、教えてくれ。俺の聞きたいのは、村井と政の居所だけだ。三十秒余裕をやる。俺が人を殺せぬなどと思ったら当てが外れるぜ。一人殺すのも十人殺すのも同じだからな」  田島は乾いた声で低く笑うと、文字板と針の蛍光《けいこう》がボウッと光る腕時計をつけた左手首を、殺し屋の耳に圧しあてた。蒼黒《あおぐろ》い殺し屋の顔から脂汗が吹き出し、喉はゼーゼー鳴った。田島は全身の感覚を耳に集めてその口を見つめていた。目は冷やかに澄み、頬は硬くひきしまっている。 「分った。しゃべるから時計を耳から外してくれ! 気が狂いそうだ——」割れた声が緊張を破った。 「兄貴は、兄貴は、今……」  田島は思わず頭をさげて、その言葉を聞きのがすまいとした。    非常警戒 「ピシッ!」  突然、鋭く空気を裂いて田島の頭上すれすれを衝撃波と銃弾がかすめ、ピューンと甲高い唸《うな》りを発して後方に飛びさった。同時にウォーンと咆哮《ほうこう》する銃声が前方の石垣から響いてきた。  田島は本能的に横に転がった。その回りに鋭い音をたてて銃弾が地に食いこみ、石をはじき飛ばし、あるいはチューンと尾をひいて空にそれ、腸《はらわた》をゆすぶるような発射音が息もつかさずにとどろいた。  田島がドラム罐の後ろに転がりこむと同時に、逃げそびれた殺し屋に弾が命中した。すさまじい絶叫を発した殺し屋は手足を空中に跳ね上げながら地面にぶち当って跳ねっ返った。爪をたてた手で苦しまぎれに地面をかきむしったが、続いて体中にブスブス銃弾が食いこむと足先まで震わした痙攣《けいれん》と共に息絶えた。  銃声と、銃弾が当ったドラム罐の悲鳴が大気を震わし、銃を操作する金属音を消した。  ドラム罐の隅から覗《のぞ》くと、四十メーターばかり先の石垣の後ろから、極く小さな閃光《せんこう》が二秒おきぐらいに死の息を吐くのが、視界をさえぎる重い濃霧を通じて、鮮やかに見えた。  田島のすぐ横のドラム罐が弾を喰って裂け、耳を聾《ろう》する轟音《ごうおん》を発して転がった。田島の心臓はドッドッと早鐘を打ち始め、息苦しさがたえられぬほどになった。  瞳《ひとみ》を細めて、遮蔽《しやへい》物としたドラム罐の隅から一心に見つめていると、黒い石垣の崩れの後ろで小銃を乱射する五人の男の黒い影が、はっきり形をとりはじめた。  ピーンという金属音を残して、田島の耳もとを再び弾がかすめた。田島はさっと身を伏せた。最初の、あのウォーンと咆哮する銃声には、覚えがあった。象やライオンをも倒す三連発ボルト・アクション小銃、マインリッヘルの〇・四五八マグナム口径の巨弾だ。  霧と闇に照星が翳《かげ》って、銃弾が上に逸《そ》れたのだ。さもなくば四十メーターの至近距離で狙った大口径ライフル銃弾が命中しなかったとは、奇蹟《きせき》でしかありえない。  田島は身を伏せたまま自分の右側のドラム罐に一発射ちこんでおき、ルーガーを握って肘《ひじ》と膝《ひざ》で匍匐《ほふく》しながら、じりじりと左横に廻り込んで行った。その不自然な姿勢と銃声、かすかに漂う無煙火薬の匂いは、焦げて腐った死体の上に砲弾が炸裂《さくれつ》する悪夢のペリリュー島を思い起させた。  田島の右方に銃弾が集中し出した。はるか遠くから、熊ン蜂《ばち》のうなりのようなパトカーのサイレンの音が、風に乗って伝わってきた。  片膝をたてて身を起した田島は、一瞬射撃を中止した五人の男のうち、真中の男にルーガーの狙いをつけ、慎重に引き金を絞った。  闇を裂く閃光と共に跳ね上った自動拳銃から、わずかな光を反射して空薬莢《からやつきよう》が空中にビーンと舞い上った。九ミリ口径弾は真中の男の鼻梁《びりよう》の右から入り脳味噌をメチャメチャにえぐって、左の後部頭蓋骨《ずがいこつ》を完全に吹っ飛ばした。  残りの四人は、後ろ向きに小銃を乱射しながら、身をひるがえして逃げた。  この暗さでそれを追うのは弾薬の浪費だ。田島は先ほどの殺し屋の若造に向って走った。俯向《うつむ》けになった背広の背に三カ所、手足に四、五カ所小さな穴があいているのが、ライターの火で見えた。  体の下の地面は血溜《ちだま》りだった。  パチンとライターの蓋を閉じた田島は、ルーガーに安全装置をかけて、腋《わき》の下のホルスターに突っ込んだ。  ズボンのポケットから奪ったリヴォルヴァーを取り出し、空中に向けて五発ファンニングで扇射ちした。ハンカチで手早く指紋をぬぐい、死んだ殺し屋の右指をこじあけて握らす。引き金にかけさせた死人の人差し指を引っぱり、つんぼになりそうな発射音が消えた時、再びルーガーを抜き出した田島は、石垣に向けて走り出していた。  咳込《せきこ》むようなエンジンの響きが、ゴーッという音に変ると、男達を乗せたダッジ・コロネットは全速力で逃げ去った。  田島は石垣の崩れを乗り越えた。後頭部を吹っとばされた長身の男が、血にまみれて横向きに倒れていた。空を向いた黒靴の下に銃身そっくりのチューブ・マガジンのついた二十五連発二十二口径レヴァー・アクション銃が転がっていた。マーリン・モデル81—DLだ。その近くと石垣の間には、夜目にも鈍く光る大小さまざまの空薬莢が四散している。  田島は一瞬瞳を曇らせたが、それはすぐに冷たい怒りの色と変った。マーリン小銃を拾うと、乗り捨てたクライスラーに向けて転がるように走った。  タイヤは切られてなかった。車に飛び込んだ田島は、ルーガーを右ポケットに入れ、小銃をクッションの上において、イグニッション・スイッチに鍵《キー》を差しこんで廻した。  野次馬が怖々《こわごわ》家の蔭《かげ》から覗く国道に出ると、車を街と反対側に廻し、アクセルにかけた足に力をこめた。八十……百……百二十……百四十……と速度計は跳ね上り、右の端でブルブル震えている。轟々とエンジンはうなり、霧を貫くヘッドライトの二本の光の筋の中を、畠《はたけ》や人家が目まぐるしく後ろに飛び去った。道行く人々や自転車やオートバイは、道路のわきにすっとんで難をさけた。  前方に一しきり人家が密集しだした。市と近接する高島町に入ったのだ。キーッとブレーキを軋《きし》ませながら、海に続く支道に逃げこもうと右に急カーブを切った途端、視界に木製のバリケードが飛び込んできた。 「ふん、まったく我ながらいいザマだったぜ。奴が殺《や》られたとたん、無我夢中で逃げ出したんだからな。政兄貴にまたコッテリ絞られるぜ」  疾走するダッジ・コロネットの中で、サヴェージ・三〇—三〇のボルト・アクション小銃の弾倉に実包をつめ替えながら、魚のような目をした男が鼻を鳴らした。  街の方角からサイレンを鳴らしっ放して、パトカーがフルスピードで近寄って来た。 「ちぇっ! まずいことになった。どうせ八百長だが、派手に射ちまくって逃げたという事にしねえと、格好がつかんだろう」  ハンドルを握る肩幅の広い男が後ろを向いていった。一味の兄貴株と見える。残りの三人の男は、車の窓から一斉に小銃を突き出した。銃口を上に向けてつるべ射ちする。ガンガン震える轟音の中をパトカーが横を通りすぎようとした。ニヤニヤ歯をむき出した警官が二人、気乗りせぬ様子でリヴォルヴァーの銃口をダッジのトランクに向けてまばらに射った。左手を車窓から突き出してパトカーの車輪を射てと合図する。 「分った、分った」と言うように笑った、ずんぐり背の低い男が、ダッジの後ろ窓ガラスを銃身で叩き割り、すれちがってからすでに五十メーターほど後ろに引き離したパトカーの後部車輪に向けて、マインリッヘル〇・四五八に狙いをつけた。ダブルのセット式引き金《トリガー》の後ろを引いておき、前についた引き金を軽く絞る。  耳が痛くなるような轟音と共に、パトカーは車輪をぶち抜かれて停車した。 「うまいぞ!」  仲間に賞めそやされて、その男は照れたように頭をかき、ボルトを引いて大きな空薬莢をはじきとばす。  ダッジは街に入り、市中を東南に走る観光道路を驀進《ばくしん》していった。まわりの車はあわてふためいて歩道よりに身を寄せる。 「まったく、腰抜けポリぐらい、辛《つれ》えのはいねえだろうな。うちの村井社長からいくら貰ってるのか知らねえが……」  ハンドルにかけた手を滑らしながら兄貴株の男がいった。 「人の心配してたら、頭が禿《は》げますぜ。署長や警部の近松が、うまく取り計らってやるんでしょう……おっ、兄貴、あれは何だ!」  魚のような目をした男が上ずった声で叫んだ。ヘッドライトの中に、枕木を積みあげたバリケードが浮び上り、続けざまに銃声が起った。シリンダーと前輪を二つともブチ抜かれたダッジは大きくゆらぎながら、十字路の真中でエンコした。 「一体どうしやがったんだ!」  口々にわめきながら、車の中の男達は銃をひっつかんでドアを開け放した。バリケードの後ろから、目も眩《くら》むようなサーチライトが浴びせかけられた。 「武器を捨てろ! 逮捕する。大人しく手をあげて出て来い!」  スピーカーから新田の声が高々と響いた。それと共に、十字路の両側からもギラギラするサーチライトが目をむき、ダッジを照らした。 「畜生、眩《まぶ》しくて目が開けられねえや」  車の中の男たちは掌で目をおさえて毒づいた。 「手を上げて出ろ! これが最後通告だ!」  横に立つ制服警官にマイクを手渡した新田は、背広の裾の下のホルスターからコルト〇・三二のオートマチックを抜き出し、親指で安全止を倒し、露出した撃鉄を起した。胸の高さのバリケードの後ろに並ぶ七、八人の警官も、S・W四十五口径のリヴォルヴァーの撃鉄を起した。 「何かの手違いだろう。ここは大人しく出た方がいいようだぜ」  車のハンドルを握っていた兄貴株の男が囁《ささや》いた。 「嫌だ! ポリ公に舐《な》められてたまるか。俺は逃げるから、掩護《えんご》射撃を頼む」  ずんぐりした男が言い残し、腋の下からモーゼルの自動拳銃を抜き出した。つんのめるようにしてダッジから跳び出した途端、右脚をブチ抜かれてキリキリ舞いしながらブッ倒れる。汚ならしい言葉を吐き散らしてモーゼルをサーチライトの方に向けたが、掌《てのひら》を射ちぬかれて拳銃を放り出し、悲鳴をあげながらゴロゴロ転がった。  新田は薄く煙のたつ拳銃を構えたまま「手をあげて出て来い!」と叫ぶ。  ギラギラする白熱の光線の中に、高々と手を差し上げた三人の男の姿が浮び出た。バリケードの後ろからバラバラッと警官が走り出て、罵《ののし》り続ける男たちに手錠をかける。 「糞《くそ》っ! 気狂《きちが》い野郎め、とうとう俺を不具にしやがった」掌に肉の爆《は》ぜた大きな穴をあけられた男が、警官に助け起されながら、泣き声で新田を罵った。服じゅうに血が飛び散っている。  バリケードの後ろに、一台のパッカードが急停車し、肥満した署長が体をゆすって駆けつけてきた。新田は安全装置をかけたコルトをホルスターに仕舞って署長の方に振り向き、ひどく驚いたような顔をした。 「あっ、署長さん。大捕物です。田島を袋の鼠にしようと手ぐすねひいて待っていたら、ほかの鼠が四匹かかりました……一体どうなさいました? 顔色がお悪いようですが?」 「なに、何でもない……そうか、それはでかしたな」  署長は口で賞めたが、苦虫を噛《か》みつぶしたような顔は朱に染まり、ゼーゼーと喘《あえ》ぐように荒い息をついている。  避ける間はなかった。田島の乗ったクライスラーはもろにバリケードに突き当った。へし折られ、跳ね飛ばされたバリケードは、駐車していた警察用ジープにぶち当って、ウインド・シールドを微塵《みじん》に砕いた。  バンパーやフェンダーは凹《へこ》み、車体に物凄《ものすご》い衝撃が来たが、クライスラーはほとんど速力を緩めずにそこを通り抜けた。  ポリボックスから飛び出した警官が、S・Wの制式拳銃を乱射した。数弾がクライスラーのトランクに当り、金属は不気味な音を発して裂けた。バックミラーには、向きを変えたジープが追跡にかかるのがチラッと写った。田島はハンドルにおおいかぶさるようにして、ジグザグ道をフルスピードで逃げまくった。道の両脇は、下腹を切りたった石崖《いしがけ》にかこまれた丘となり、突き当りは海沿いの県道四号線と交わり、その先は断崖《だんがい》となっていた。  後方五百メーターばかりの所から、サイレンの唸《うな》りがくっついて来た。道は左へそれた。右側だけ残ったクライスラーのヘッドライトは、県道の黒いアスファルトの帯と、赤と白のペンキで染めわけた鉄柵《てつさく》と、その前方に波うつ黒い海をとらえた。  田島はアクセルにかけていた足を外すと、急ブレーキを踏み、右へ軽くハンドルを切った。  ドアを力一杯開け放ち、空中で身をよじりながら、右肩を下にして道路に転がり出た。体中に激痛が走り、頭がガーンと鳴った。霞《かす》む目を海に据えると、凄《すさ》まじい轟音を発して鉄柵をひん曲げたクライスラーは、弾《はじ》かれたように空中で回転しながら視界から消えていった。痺《しび》れた右肩から裾にかけて、服はビリビリに裂け、すりむけた皮膚に血が滲《にじ》んできた。全力を振り絞ってヨロヨロ立ち上ると、胸中に数千本の針が刺し込まれるような気がした。肋骨《ろつこつ》の二、三本が折れるか、ひびが入ったに違いない。  断崖の下方から爆発音が大気をゆるがし、茸《きのこ》状の赤黒い火煙がモクモクと吹き上った。  四つん這《ば》いになった田島が左側の石崖を遮二無二《しやにむに》這い登った時、赤いスポットライトを点《つ》けたジープがキーッと急停車した。ジープの尻の震えが止らぬうちに、ヘルメットを頭に頂き、右手に拳銃を握った警官が四、五人大声で叫びながら車からとび降りた。吹きあげる火煙を認めて、一斉に断崖のふちに駆け寄り、拳銃を腰のホルスターにしまう。  クライスラーの残骸は、波に洗われる岩と岩との間に挟《はさ》まり、風に煽《あお》られ、暗い海を血の色に染めて炎々と燃えさかっていた。置き捨てたマーリン銃の小口径弾が熱に爆ぜている。  田島は密集した灌木《かんぼく》の下生えの蔭に身を伏せ、荒い息をつきながら力の甦《よみがえ》るのを待った。やがて痺れた右腕にも感覚が戻り、痛みに耐えがたいほどになってきた。投げ出した右手の近くにルーガーを置き、近づく足音があれば直ちに射殺する気であった。  待つほどもなく県道の右手からサイレンを鳴らしっ放してパトカーが到着した。警官たちはパトカーに無線連絡員だけを残し、へし折られた鉄柵のまわりに集まるジープの警官たちと合流した。不気味な火炎に染まりながら、二十メーターほど下の岩間で燃えさかる車を覗き下ろしている。  パトカーのトランクから縄梯子《なわばしご》がひっぱり出された。それが折れてない鉄柵に結ばれると、仲間の喚声に送られて、警官たちは次々に断崖を降りはじめた。田島は痛む体をひきずって、丘のふちに這い寄った。光線の蔭になった石崖にへばりつきながら、音もたてずにジリジリ滑り降りていく。その目には祈りにも似た色がある。  パトカーの警官は若かった。細面の顔にはまだソバカスが残っていた。本署との連絡に夢中になり、全精神を超短波ラジオから流れる指令に集中していた。  気配に振り向いたその若い警官が見たのは、一メーターと離れぬ近さから睨《にら》むルーガー拳銃の果てし無い死の深淵《しんえん》だった。顔色を変えてマイクを落し、すっと腰の拳銃に手をやりかけたが、祈りにも似た田島の凄まじい瞳には、追いつめられた野獣の持つ殺気が宿り、その光にはどうしても拳銃から手を放させずにはおかぬ、得体の知れぬ酷薄な力があった。  田島は車中燈を消したままのパトカーのドアを開き、渾身《こんしん》の力をこめて、ルーガーの銃身で横なぐりに警官の顔を払った。首の骨を折られた警官は、ガクンと頭をそらしてクッションの上に崩れ落ちた。素早くそのリヴォルヴァーを奪った田島は車の外に出た。ルーガーをポケットに突っこみ、リヴォルヴァーの撃鉄を起す。十メーターばかり離れた断崖の上に残った二人の警官が罵声《ばせい》をあげて拳銃を抜き出した。  その二人の胸を狙って田島はファンニングで五発続けざまに扇射った。すさまじい発射音が海に丘に木霊し、頭がガーンと鳴って痺れた。二人の警官は弾かれたようにすっとび、絶叫をあげて鉄柵にぶつかった。  リヴォルヴァーを海に向けて投げ込んだ田島は、ジープに駆け寄って超短波ラジオのマイクを引きちぎり、力一杯アスファルトに叩きつける。抜き出したルーガーをジープの車輪に圧しつけるようにしてタイヤをぶち抜いた。  パトカーから虫の息の若い警官を放り出して、田島はそのハンドルを握った。サイレンを鳴らしっ放し、パトカーは街の方角に向けて夜の県道を驀進した。愕然《がくぜん》とした警官が二、三人崖の上に這い登り、拳銃をブッ放したが、すでにパトカーは有効射程をはるかに外れていた。  霧が薄れて暗い空に弱々しい星がまたたいていた。前方の海は、黒藍色の肌をネオンのベルトに五色に変えていた。赤いスポットライトが車のフードに反射し、流れ去るアスファルトの黒いリボンを一心に見つめる目は痛み、コチコチになった首を持ちあげるのに脂汗が滲んできた。超短波ラジオは、至急現在位置を連絡せよ、と緊急呼び出しを続けていたが、すぐに暗号放送が飛び乱れはじめた。  市の入り口は車の洪水だった。ランターンを振り廻した警官隊が、郊外へ抜ける車をせき止めていた。その中に田島はサイレンを鳴らしっ放したままのパトカーを突っこんだ。  衝突を避けようと、蜘蛛《く も》の子を散らすように道の両脇に逃げまどう車にパトカーは脇腹をぶっつけ、凄まじい金属の火花を散らし、右に左にと跳ねっ返りながらもフルスピードで通り抜けた。  追跡しようとした二台のパトカーは、パニックに陥って逃げまわって衝突を起した民間車やトラックに遮《さえぎ》られた。その間を縫って追った白バイは、街角で急カーブを切りながら死の息を吐く田島のルーガー弾を喰って転倒した。  サイレンを切り、スポットライトを消した田島のパトカーは、花街のはずれで停車した。露地に歩を進めると、三味や嬌声《きようせい》が流れてきた。田島はルーガーの弾倉《マガジン》をつめ替え、高い塀《へい》の蔭にへばりついて待った。  肥満したブローカー風の男が、呂律《ろれつ》のまわらぬ声でわめきながら、フラフラと露地に入ってきた。塀にもたれて目を閉じ、長々と放尿しはじめた。その男はズボンのボタンをかけ終ってから五時間後、頭に三センチの裂傷を負って、赤十字病院のベッドで目を覚ますことになった。  田島は倒れた男を露地の奥にひきずり込み、派手なチェックの上着をはぎ取った。ビリビリに破れた自分の背広のネームを引きちぎり、ポケットの中身をチェックの背広に移した。その服をつけて、田島は露地の反対側から街路に歩み出た。  何度か非常警戒のパトロールにぶつかりそうになりながらも、暗がりから暗がりを択《よ》って歩いた田島は、半時間後隠れ小屋の松林に着いた。木蔭を縫って走った。肋骨の痛みに歯を食いしばっている。安全装置を外したルーガーを構え、小屋の戸口の前にうずくまって耳を澄ました。聞えるのは、ドッドッと高鳴る心臓の鼓動と、遠くからウォーンと伝わる街のざわめきと潮騒《しおざい》の音だけだった。  戸に鍵《かぎ》を差し込んで廻し、扉を蹴《け》り開けた。自分は横向きに跳びじさって、外側の壁にへばりついた。扉の跳ねっ返る音が銃声のように鋭く響き、心臓は巨人の手に握りつぶされたようにちぢまった。弾は飛んでこなかった。それがかえって神経をかきむしった。田島は暗闇の部屋を盲滅法に扇射ちしたい衝動に駆られた……。  これ以上待つのは耐えきれなかった。田島は身を伏せながら頭から部屋の中に跳び込んだ。    襲撃  人いきれとタバコの煙でむっとする村井の住居の地下。武器庫兼射場。  コンクリートの床の上には、三つの大テーブルと十個近くのソファが運び込まれ、上着を脱いで肩から吊《つ》ったホルスターの拳銃を見せびらかした三十人近くの男たちがたむろしていた。思い思いの格好でソファの上に腰を下ろしたり、横になってタバコの輪を吹き上げたり、ひきよせたウイスキーの壜からラッパ飲みしたり、あるいは落着きなく床の上を歩き廻ったりしている。  右の端のテーブルの上には弾薬の小箱が五十個と、レミントン・スピードマスター自動装填《そうてん》小銃が二十丁並んでいる。銃身の下に平行したチューブ状の弾倉《マガジン》には、ロング・ライフルからショートにおよぶ薬莢の長さにしたがって、二十二口径弾が十五発から二十発収容する力がある。  その横のテーブルにはごつごつした銃床に頬付け部分《チーク・ピース》がぐっと彫れ、モーゼルの機関部を使ったウェザービー〇・三七五口径のボルト・アクション小銃が十丁横たわり、左の端、一番奥のテーブルには、銃口に絞り《チヨーク》のついた六連発スライド・アクション散弾銃《シヨツト・ガン》スティーヴンス・モデル・七十七が十五丁置いてある。スライドと銃身に挟まれたチューブ状の弾倉に五発、薬室に一発、口紅のケースを大きくしたような十六番《ゲージ》の散弾がつまる。 「遅いなあ、水谷の野郎どうしやがったのかな?」  戸口近くの長椅子に坐った四十がらみの赤ら顔の男がぼやいた。大幹部の堀、別称“ヤッパの安”である。その左横に坐った幹部の中村が腕時計を覗きながらなだめた。 「もう九時半近いから、今に帰ってくるでしょうぜ」 「畜生、あの殺し屋の連中、でかいことを言ったのに何でえ。生き残ったのは自動ライフルのアンチャンだけじゃねえか。奴は親分のそばにへばりついてるが、いざとなったらどうだか分りゃしねえよ。それにしても、こっちも、もう一寸《ちよつと》慎重にやらねえと、ひでえ目に会うぜ。田島の野郎を今まで見くびりすぎていた」  赤ら顔の安が眉をしかめながら言った。 「まったくで。バーから田島に連れ出された殺し屋を助っ人に行った中西たちまで、ドジを踏んでブタ箱入りとくりゃあ、あっしらも泣きたくても涙も出ねえ」中村が相槌《あいづち》をうった。 「おまけに、藤田の奴は、新田とかいうポリ公に脚と掌を射ちぬかれて入院したってよ。馬鹿にしてやがらあ」 「ともかく、水公が兄貴の所から色よい返事を持って帰ってくれねえと……」 「当りめえだよ。何と言っても今ブタ箱にブチ込まれてる連中は、射撃の腕だけは確かだからな。どうしても取り戻さねえと、たちまち差し支《つか》えが出来る」 「ここの連中も——」中村はソファの上に並ぶ子分達を顎《あご》で示した。「虚勢を張ってやがるが、内心ビクビク物らしいですぜ。だから呼び出しをかけたら、あわててすっ飛んで来やがった。一人でいるのが怖くてたまらねえらしい。ハッパをかけてやらねえと……」  ドアが激しくノックされた。  安がガッチリした体を向け、「入れ」と短く言う。  ドアが勢いよく開き、大きなスーツケースを持って赤銅色の若者がとび込んで来た。クリーム色の背広をつけ、真赤なスカーフを首に巻いている。 「おう」と大声をあげて男達は立ち上った。  赤銅色の肌の若者は安と中村に軽く頭をさげ、ソファの男達に向って威勢のいいポーズをとった。 「遅くなってすいやせん。ただ今、政兄貴の所から戻ってきやした。社長はずい分署長と交渉されたが、署長の野郎、外聞が悪いってんで、どうしても中西兄貴たちの釈放に首をタテに振らねえそうです。今までスッタモンダやって、結局牢《ろう》破りなら目をつぶるってことになったそうです。今、デカ連中は田島を追っかけまわすのにあらかた外に出てるから、署にはこっちの仕事のやりやすい連中ばかり残しといてくれるってことになりやした。その代り、ポリに一人あたり十万ずつ、デカに二十万の現金を渡せってんで、持って参りやした」  言葉を切って足元においたスーツケースに目をやる。  安がゆっくり立ち上った。頬が紅潮している。 「皆、今の話を聞いたか? 手荒なことはしたくねえが、ブタ箱にいる連中はどうしても出てもらわねえと、斎藤組とぶつかった時差しつかえが出来る。それに第一、社長の顔が丸つぶれだ。今夜横田から重機関銃を持った兄ちゃんがここに着く。それまでにこっちも人数をそろえとかねえと、斎藤組にしてやられたりしたら大変だ。じゃあ、今から五人の選抜隊を作って、サツのブタ箱を襲う。獲物は小銃《ライフル》だ。散弾はどこに当るか分らねえから、ケガ人が出る。何遍も言うが、絶対にポリ公を殺すなよ。一人にでも間違って当てたら大事《おおごと》になる……さあてと、俺が選抜隊をひき連れて出るから、残りの者は二階で警戒してろ。ドサクサにまぎれて斎藤組が奇襲して来そうな気がする……」  三十秒待ったが、何も起らなかった。田島は左手に取り出したライターに点火して素早くあたりを見廻し、肺一杯に吸い込んだ空気を吐き出した。  右手のルーガー拳銃が機銃のように重くなり、腕はひきずられるように床に垂れた。ランプに火をつけ、ルーガーに安全装置をかけてホルスターに突っこむ。先ほど銃の弾倉室から抜き出してポケットにしまっていた空の予備弾倉に七発、全弾装填して、奪った服を黒皮のジャンパーに着替えた。  筋肉と関節が、熱と鈍痛をともなって、脈搏《みやくはく》のたびにズキズキ疼《うず》いた。モルヒネの錠剤を飲んだ田島は、テーブルをずらして、天井の息抜き穴の下に置いた。その上に椅子を積んでランプを吹き消す。  天井裏は埃《ほこり》っぽかったが、まい上った埃もおさまった。モルヒネがきいて来た。苦痛が鎮まると、気が遠くなるような睡魔が襲ってきた。  田島は天井の裏に仰向《あおむ》けに横たわり、胸の上にルーガーをのせて眠りにおちた……。  ガシャンと窓ガラスが割れる音に、田島はルーガーを握って体を転がし、俯向けになって一心に目をこらした。背筋が凍りついて脂汗が吹き出た。  ベッドの斜向《はすむか》いの窓ガラスのカーテンがはねのけられ、闇夜に咲く巨大な青灰色の星のような窓枠《まどわく》の間から、自動ライフルのスマートな銃身が鼻づらをつき出していた。ガガガガガッと不快な音を発して、青白い閃光が絶え間なく舌なめずりした。  十分に経験を積んだ射手は、高く低く、端から端へと、フル・オートマチックで縦横無尽に部屋中を掃射した。  テーブルの上の椅子は吹っ飛び、ランプや鏡や洗面台、それにベッドの横の窓ガラスは甲高い音をたてて微塵に砕け、飛びちった漆喰《しつくい》と煉瓦のかけらが、もうもうと部屋中に立ちこめ、鼻をつく火薬の匂いと入り混った。射ちとばされた置き物が空中で踊りながら床に跳ねっかえり、戸棚の中では罐詰《かんづめ》が乱舞していた。  田島はわざと絶叫をあげると、それを呻《うめ》き声に変え、血を咳込む音を作って、天井裏にぴったり顔を伏せた。  わずかのあいだ断絶していた銃火が又一しきり激しくなった。ベッドの横の窓を砕いた数発が、怒り狂った熊ン蜂のような羽音をたてて飛び去った。続いてベッドの下から、スーツケースが跳ねながら転がり出た。  突然、巨大なタイプライターを叩くような連続音が止《や》んだ。 「どうやら、うまく仕止めたらしいな」 「もう大丈夫でしょうよ」  窓の外からヒソヒソ声が漏れてきた。田島は天井穴から首を突き出し、全身の神経を窓に集中した。首筋がおかしくなってきた。金属のふれ合うカチッという音から見て、また新しい弾倉につめ替えたらしい。再び連続掃射が一、二秒部屋をゆるがし、ベッドの向うのガラスのなくなった窓桟が銃身で叩き折られた。  ぼやけた月光を受けた広い肩と頭のシルエットが浮び、自動ライフルを持った男が窓を乗り越えて部屋の中に立った。  田島は左腕で体を支えておき、ルーガーを握った右腕を一杯に伸ばし、その殺し屋の下腹部にしっかり狙いをつけた。  九ミリ口径銃の轟音は、木霊となって跳ねっ返った。殺し屋は絶叫をあげると、ガラスの破片を、さらに砕いてバリンと尻餅をつき、壁に背をぶっつけた。  両手に握った自動ライフルは、痙攣するように数度毒々しい炎を吐き、銃弾は鋭い音を発して床にくいこんだが、その銃をもち上げるには、ひどく重すぎるように見えた。窓の外に、痩身《そうしん》の男のシルエットが浮び、その手の先の拳銃がオレンジ色の火を吐いた。銃弾は田島の頬をかすめて軽い火傷《やけど》を与え、屋根をぶち抜いて飛び去った。目をつむりながらも、田島は本能的にその男に向って引き金をひいた。右の目をぶっ飛ばされた男は勢いよく地面の上にすっとんでいった。  空になった自動ライフルの弾倉に次々に装弾していた、分厚いロイド眼鏡の助手は、悲鳴をあげて弾倉を放り出し、死に物狂いで逃げ去った。  尻餅をついた殺し屋が最後の力を振り絞って自動ライフルを持ち上げた。田島は慎重にその右肩を狙って引き金を絞った。弾きとばされた空薬莢がすぐ近くの天井に当って跳ねっ返ると共に、殺し屋の手から自動ライフルが滑り落ち、その男は苦痛に呻きながら崩れ折れた。  田島は床にとび降りると、窓の外を見た。身を返して瀕死《ひんし》の殺し屋、尾島のそばに蹲《うずくま》る。心臓の鼓動は、まだ荒かったが、憤怒《ふんぬ》と恐怖は鎮まっていた。糸をひく暗い怒りだけが残って疼いていた。  ジポーのライターの燈りをつけると、まだ空中に舞う漆喰と煉瓦のこぼれのヴェールを通し、雑巾をミシンで無茶苦茶に縫ったような穴が壁中にあいていた。 「苦しい。水! 水!」  左手で喉《のど》をかきむしって喘ぎ続ける殺し屋の尾島を仰向けに寝かした。洗面台の蛇口は銃弾にひしゃげ、細い水がチョロチョロこぼれていた。田島はつぶれかけたアルミのコップを鎖ごと引きちぎると、それに水を満たして殺し屋の所に戻った。 「苦しいだろう。気の毒だったな。さあ、水だ。水をやるから政と村井の居所を教えてくれ。な、頼む。奴等から廻されてきたんだろう?」  田島の口調は穏やかで、微塵も威嚇《いかく》の色は無かった。その左頬には、かすめた銃弾が残した火ぶくれの筋が赤く走っている。熱にうかされた殺し屋の目は、コップを見つめ、脂汗にまみれて茶色く光る喉は、逆流する血を呑みこもうとグリグリ動いた。肩と腹から流れる血が黒服を染め、床を濡らしては見る見る血溜りと化していった。血に色どられたガラスの破片が、ライターの光を受けてキラキラ輝く。 「あ、兄貴は、あんたの住んでいたアパートの部屋にいる……水! 水! 喉が焼ける!」 「合図は?」 「ノック四つ……早く水! 医者だ! アーッ、死ぬ……死ぬ……」ゴクゴク水を飲み込んだ殺し屋は、血の混った赤い水を吐き出し、全身痙攣を起しはじめた。  田島はルーガーをしまい、手がふれられぬほど銃身の熱い自動ライフルを抱えて、安全装置をかけた。南方の戦場で射殺した米軍下士官から奪ったことがある〇・三〇口径のブローニングA1《ワン》だった。  ライターも熱くなっていた。窓を乗り越えると、おびただしい空薬莢の上に転がる死体と、開かれたコントラバスのケースが目についた。二十発入りの弾倉《マガジン》が五つ落ちていた。ケースの蓋についた弾帯には百発近い口径三〇—〇六スプリングフィールドの実包が残っている。弾倉の一つには半分しか実包がつまってなかった。田島はその弾倉の上端から補弾して、自動ライフルのマガジン室から引き抜いたマガジンにも補弾した。  田島が予備の五個のマガジンを左右のポケットにつっこみ、ズボンのポケットにバラの弾薬を二十数発入れた時、松林のはずれから喊声《かんせい》があがった。  大型モーターボートを砂浜に乗り上げた八、九人の男たちが、小屋の方角にむけてライフル銃を乱射しながら駈けつけてきた。  田島は太い松の木の蔭に右膝をついた。その田島を狙って弾が集中しだした。銃弾は枝を吹きとばし、木の皮を削り、足もとに食いこんで砂煙をあげ、あるいは後ろにそれてチュンチュンさえずった。十分な距離まで彼等をひきつけておき、田島は肩に銃床を圧しつけた右肘《ひじ》をあげた。低めに狙いをつけた自動ライフルの引き金にかけた人さし指を屈伸させながら、チーズでも切るように銃口を横に払った。  一種の軽機関銃とも呼べるその銃は軽やかに踊り、閃光が続けざまに淡い月光を切りきざみ、エジェクターで跳ねとばされた長い空薬莢が、黄色い雨のようにきらめきながら飛び散った。  ズタズタに千切られた男達は、絶叫をあげながら、砂の上を芋虫のように転がった。田島はひきぬいた弾倉にズボンのポケットから出した弾薬を次々に挿入《そうにゆう》しながら、海岸にそって、街をめがけて走り出した。ジャンパーのポケットに入れた長い五個のマガジンがひどく重たかった。  街に入って四つ辻《つじ》を横切ろうとした途端、警官の呼び笛が甲高く吹き交わされた。 「待て! 止らないと射つぞ!」  四、五人の警官が、靴音を鋭く響かせ、息せききって迫ってきた。深夜の街に威嚇射撃の発射音がガーン、ガーンと木霊し、銃弾の一発は、田島のジャンパーの左の袖を引きちぎった。  くるっと振り向いた田島は野獣のような叫びをあげて片膝をつき、次から次へと目にもとまらぬ確実な死を送った。追跡に移ったパトカーも、たちまちシリンダーを射ち抜かれて停車した。  空になったマガジンを捨てて予備のマガジンを弾倉室に挿入した田島は、身を伏せるようにして走りながら、自動ライフルを後方に向け断続的に盲射ちした……。 「新田さんもまずいことをやったもんだな」蛍光燈《けいこうとう》が白々と光る高杉署の一階。反っ歯をむき出した制服警官川崎が顎をなでながら、ボソボソ言った。 「まったくだよ——」  向いのデスクの、茶色っぽい髪を短く刈った菅原が相槌をうった。 「村井の子分たちを捕まえるだけならまだしも、藤田の手足を射ちぬいたんだからな。その間に肝心の田島は雲隠れと来りゃあ、署長の御機嫌斜めなのも無理はなかろうさ」 「そう言えば、そうだけどさ。おかげで俺たちは十万ずつ頂けるんだからな。棚からボタ餅とはこのことだぜ」  頬骨の尖った巡査星野がニヤリと笑ってウインクする。 「金をくれるっていうのを、断わる訳にはいかんが、それでも村井のやり方は一寸アコギすぎると思わんかね?」  川崎が声を潜めた。 「贅沢《ぜいたく》いってる場合じゃないぜ。後始末は署長がうまくやってくれるよ。十万といえば、こちとら安サラリーマンには大金だぜ。これでやっと人並みにテレビが買えると言うもんさ」  星野が言い返した。 「しかし、何といっても胸糞が悪いや。こんな事は警察はじまって以来の不祥事だぜ……俺も落ちぶれたもんだ」  川崎が溜息《ためいき》をつく。 「ふん、人聞きのいい事を言うじゃないか? さも昔は聖人みたいに聞えるぜ。三年前お前がここに入ったのは、どうしてだ? 学歴も特技もなくて食いはぐれたからではなかったのかよ?」  星野が嘲《あざけ》った。 「何い! そういうお前は何だ? 新制高校をやっとビリで出たきりで、生っ白い大学生に好きな女を寝取られたもんだから、学生運動のデモ鎮圧の時だけヤケに張り切りやがって……」  中腰になった川崎が負けずに言い返す。 「まあ、まあ、そうイキリ立つなよ。内輪もめは止《よ》してくれ——」  菅原が立ち上ってなだめた。 「どうせ人間なんてロクな奴はいないんだ。稼《かせ》げるうちに稼ぐ事だな。それにしても、刑事《で か》連中に二十万、俺たちに十万とは不公平すぎるぜ」 「そうだよ。奴等はその他に家を建ててもらったり、電気冷蔵庫やテレビをもらったりしてるんだぜ。俺たちがボーナスに頂けるのは、せいぜいラジオかビール五、六ダースじゃないか」  腰を落着けた川崎が忿懣《ふんまん》の吐け口を方向転換して、いきり立った声でまくしたてた。 「しっ! 二階の近松さんに聞えたら大事だぜ。我慢するんだ。我慢をな。これが組織というもんだからな。今に俺たちも……」 「誰か俺の名前を言ってたようだな?」  二階の刑事部屋から角ばった顔の近松警部がゆっくり降りて来た。平巡査たちは慌《あわ》てて起立した。 「もうすぐ例のことがはじまる。ちゃんと用意しておいてくれ」  近松は苦しそうな声で言い捨て、足をひきずるように二階に戻っていく。  漆黒の肌を光らせた大型キャディラックが二台、署の前にキーッと急停車した。一斉に車のドアが開き、跳び出した黒覆面の男が六人、レミントンやウェザービーの連発小銃を握って署の石段を駈け登っていく。  受話器を握っていた受付の警官は、頭上を掠《かす》めた数発の小銃弾に高々と手をあげた。デスクの上に落ちた受話器が大きく跳ね返る。川崎以下の三名の警官もニヤニヤ笑いながら手を上げた。 「ブタ箱は地下だ。手っとり早く頼むよ」  丸々と肥った受付の石原がイライラした口調でせきたてる。 「済みませんが、みんな、隅の方に寄ってくださいませんか? ちょいとばかり暴れる真似をしねえと……それからこれ、現ナマで持って来ました。デカさん達と分けてください」  覆面の安が札束のつまったバッグをデスクの上に放り出し、ウェザービーのボルトを起して後ろに引き、再び遊底をもとに戻した。耳を押さえた巡査たちは広い部屋の右隅にかたまった。轟音と共に再び壁に向けて続けざまにパパパパッと十数発が白煙を吹き、削られた壁の煉瓦と漆喰がパシッ、キーンと鋭い音を発して跳ね、細かな粉末が飛び散った。  ライフル銃を構えて照れくさそうに笑う二人の覆面男を残し、安を先頭に立てた四人の暴徒は喊声をあげながら地下に駈け降りた。  二人の護衛警官は足もとにロープと鍵束を置き、すでに手を上げて待っていた。 「痛くないように縛ってくれ」  と頼む。留置場の内側では、捕まった連中のうちの三人が、口笛を吹き鳴らしながら、平手で鉄格子を乱打している。安が大きな鍵で鉄格子を開けている間に、残りの連中が警官をロープで縛り上げ、腰の拳銃を取り上げた。 「お礼だ!」  ブタ箱を出た男の一人が、奪った拳銃の尻で縛られた警官を殴りつけようとするのを、安が鋭い声で制した。天井と壁に向けて銃を乱射しながら、牢破りの連中は暗いコンクリート階段をひしめき登る。  一階に残って、二階の刑事部屋へ続く踊り場に銃弾を叩きこんでいた連中と合流した安たち一行は、二台の車に跳び乗り、空に向けて銃火を吐き散らしながら遁走《とんそう》した。  キャディラックが充分に有効射程を外れるのを見とどけて、石段まで走り出た巡査たちと二階から駈け降りた刑事連は地面を狙って拳銃を乱射した。まったく気乗りせぬ顔付きだった。銃声に怖々《こわごわ》顔を出した野次馬はクモの子を散らすように逃げまくり、アスファルトを削った銃弾はシューッと青白い摩擦光を発して跳ね、家々の壁やガラスをぶち割った。    警部補の陰謀  日東レイヨンの会計課長丸星明はまだ若かった。色白の優形《やさがた》の顔に繊細な体つきをしている。キャバレー「ドミノ」で豪遊し、店の女給ひとみを乗せたビュイック・スペッシャルを街角の暗がりに停め、ネッキングに夢中になっていた。  悪運は彼等を田島の道筋に当らせた。ブラジャーからむき出しになったひとみの乳首に吸いついて喘いでいた丸星は、乱暴に開け放たれた車の音に、ドレスの裾につっこんでいた左手を引っこめて跳ね起きた途端、キーンと頭を銃身で砕かれて昏倒《こんとう》した。 「ちゃんと股《また》ぐらい閉じとけよ」  田島は腰の抜けた女にことも無げに言い放つと、自動ライフルの焦げた銃口で、ふくれ上った左の乳首をグンとついた。マスカラのとけた目をひきつらせ、丸い銃口の形の火傷を負った女は物も言わずに気絶した。  その二人を車の外に放り出し、田島はイグニッション・キーを廻した。すでに一時をすぎていた。ビュイックは不吉な唸りをたてて、無人の街を疾走した。  長距離輸送の十トン積みトラックが轟々と地響きをたててすれちがった。バックミラーを覗いた田島は後ろからしつこくつけてくる白バイを認めた。  田島はビュイックを鋭くUターンをさせ、右手で握った自動ライフルで、前窓ごしに、風のように迫る白バイの運転手を射った。ビュイックの窓ガラスと空薬莢は目があけられぬほど烈しく飛び散ったが、体中に穴のあいた警官は、空中に踊り上って即死した。乗り手を失ったオートバイは街路に横倒しになり、車輪だけが街燈を跳ね返して生き物のように回転している。  自分達の住んでいたアパート「南風荘」の裏手五十メーターばかりの空き地に車を停めた田島は、空っぽになった自動ライフルのマガジンを引き抜いて捨てた。新しいマガジンを弾倉室に挿入し、コックを引いて撃発装置にする。  淡い街燈の光の中に、風を受けたポプラの葉がカサカサとはためいていた。鉄柵を乗り越えた田島は小走りにアパートの建物に向った。  非常用の階段を登って最上段に腰をおろし、火を点けたタバコを掌でおおって胸一杯に吸い込んだ。深く吸いこむと肋骨が痛んだ。吸うごとに掌がボウッと赤く輝く。  タバコを揉《も》み消すと銃を胸に抱え、第五号のペントハウスにさり気ない足どりで歩み寄る。  軽くドアをノックした田島は、一歩さがってブローニング自動ライフルを構えた。  屋内からかすかな足音がした。田島は銃口で軽く四度ドアを突き、潜めた声で、 「兄貴、俺だ」  と呼びかけた。  鍵が廻る音がして、キーッとドアがあいた。光を背に受けた男は確かに「蝮《まむし》の政」だった。  政は、信じられぬ、と言ったように目と口を開いた。顎がガクンと垂れたが、右手はサッと派手なガウンのポケットに突っこもうとした。 「よせ!」  田島は鋭い声で命じた。政の右手が凍りついたように止り、ダランとさがった。  ドアの用心鎖を銃身で跳ね上げて外した田島は、銃口を政の心臓に突きつけ、肩でドアを開いて屋内に入った。銃から左手を離して後ろ手にドアをしめる。  ズタズタに引き裂かれた居間のソファや肘掛け椅子は新しいのと入れ替えられていた。 「待たせて悪かったな。手を見える所に出して、ガウンとズボンを脱げ。ハジキに手をやろうとしたら、両手両足をブッ飛ばしてやる」  硬い唇に薄ら笑いを浮べた田島の声は冷たい。政のナイトガウンが床に落ちて、ガタンと音をたてた。続いてこわれたエレベーターのようにガクガクしながらズボンがずり落ちた。 「壁に向いて立ってろ」  黒紫のガウンの右ポケットから、口径六・三五ミリの七連発小型自動拳銃モーゼルM—25が出てきた。田島はそれを自分のベルトのバックルの後ろに差し、肘掛け椅子の下を探った。 「オーケイ、その椅子に坐れ。話がある」  薄緑の縞の入ったワイシャツにパンツ姿の政は、唇の端を痙攣させながらも不敵に笑おうとし、惨めにも失敗した。血の気を失った土色の顔色と鉛色の刀傷の区別がつかなくなっている。崩れるように肘掛け椅子に坐りこみ、卓子《テーブル》からキャメルのタバコをとって唇にくわえる。震える手でマッチをすろうとして、五本ばかり無駄にした。  火がつくと、ふてくされた顔で天井にタバコの煙を吹きあげた。 「とうとうやって来やがったな。しぶとい野郎だ。何人殺し屋をむけてもまだ生き残っていやがる。ずっと前に海で殺しときゃあ、安く済んだのに」  と、毒々しく笑う。  田島は政の前に自動ライフルを構えて立っていた。その全身から発する冷たい殺気に、政の嘲笑《ちようしよう》は途切れた。 「いいか、よく聞け。お前はこの頃、自分に手出しをするだけの度胸がある奴は無い、と自慢してるそうだな。この前もそうだった。それだけの度胸の奴が居るかいないか俺が決める。今から一晩がかりでなぶり殺しにしてやるぜ」  田島の声は低く、血に飢えたようにしわがれていた。カサカサに乾いた冷たい怒りが体中でもがいていた。政の空威張りのポーズがガクッと崩れ、タバコが唇からこぼれ落ちた。顔も喉も脂汗にヌルヌル光りはじめる。 「立て! 立って床の上に横になれ」  田島の言葉は刃のように冷たい。細められた瞳は碧《あお》く輝いている。  政は椅子から崩れ落ちると、床に両膝をついて胸をかきむしった。啜《すす》り泣きながら懇願する。 「待て、待ってくれ! 俺が悪いんでない。みんな親分の命令だ。俺は唯の使い走りだ。助けてくれ! 助けて……」 「見苦しい。それが“蝮の政”と言われるお前の正体か? まあいい、お前だって生きたいだろう。俺の尋ねることに正直に答えたら、命は助けてやる。美知子を車から突き出したのはお前だな?」田島の声に、柔らかな、物思わし気な趣が加わってきた。 「しゃべる。殺すな! 俺は親分のいいつけどおりにやっただけだ」  必死に哀願する政の赤く濁った目に生気が甦ってきた。 「美知子を射ったのもお前か?」 「違う! 信じてくれ、俺でない。俺はそんなにいい腕をしてない。あの女《ひと》を射ったのは殺し屋の一人だ。そいつはもうあんたに殺《や》られてしまった」 「村井は美知子にどんな恨みがあった?」 「知らねえ。親分の胸のうちは誰にも分らねえ。あの女《ひと》は親分の情婦《い ろ》だったんだ」 「そうか?」  田島はさり気なく聞き返したが、心臓はしめつけられ、口の中に胆汁が逆流してきた。頭がガーンと鳴りはじめ顔色が黄色っぽく蒼《あお》ざめてきた。 「何かのことで親分の機嫌をそこねた。親分が騒ぎにまぎれて片付けろ、と言ったんだ。な、許してくれ! 悪かった、悪いことをした。だけど、あんたの奥さんは、あんたが思ったような女《ひと》でない。そんな女のために俺までが死ぬんでは、死んでも死にきれねえ。頼む、殺さないでくれ、一生の恩にきる」  政は涙に汚れた醜い顔をあげて、哀れっぽい声を振り絞った。 「ふん、もう今の俺は俺自身の仇《あだ》をうつために生きてるんだ。街中をドブ鼠のように追われて、俺がじっと殺されるのを待っているとでも思ってたのか。俺はそんなお人好しでないぜ……さあ、村井の居所を教えてもらおう。村井は今どこに隠れているかと聞いてるんだ。俺が今聞きたいのはそれだけだ」 「教えたら、見逃してくれる気か?」 「くどい」  田島は叩きつけるように言った。 「市長の別荘だ。富田のゴルフ場の先を五キロほど上っていった山口湖のほとりだ。杉や松林の中にある山の中の一軒家だから、すぐに分る。電話線をたどって行けばいい」 「嘘ではあるまいな?」 「嘘ではない。嘘だと思ったら俺が案内する」 「有難う。礼を言うぜ」  静かな声で言った田島は自動ライフルの銃口をピタッと政の左胸に据え、引き金にかけた人差し指にかすかに力をこめた。政は白目をむいてヒーヒー悲鳴をあげた。パンツの下の毛ずねが、マラリアにつかれたように震えだす。 「しゃっ、しゃべったら殺さぬと言った!」 「俺は覚えてないよ。誰がそんな約束をした?」  田島はカサカサに乾いた唇を歪《ゆが》めて嘲笑い、引き金にかけた指に力を加えた。  短く、たて続けに咳込みながら、銃弾は政の胸を無茶苦茶に潰《つぶ》し、背中に擂鉢《すりばち》状の大きな穴を残した。続いて顔と左右の腕が肩から千切れてフッ飛んだ。着弾の衝撃で床の上を跳ねまわる血まみれのボロ人形のような政の下腹部にも、弾倉の弾が尽きるまでたっぷりブチ込んだ。肉と骨と内臓が露出して四散し、床に喰いこんだ弾が鋭い音を発して部屋をゆるがした。続けざまの発射の反動で、田島の肩と胸もズキズキ痛み、苦痛にやつれた顔はかすかにひきつっている。 「もう、こうなった以上、あんたの方から先手をうつ他に手はない——」  新田警部補は、斎藤の目を見据えて、烈しい口調で言った。憔悴《しようすい》した頬に黒々と不精髭《ぶしようひげ》が生え、ダークグレーのイギリス製背広のズボンはよれよれになっている。 「この高杉の市《まち》はまるで賭場になった。まさか気に入らないとは言わさないぜ。あんたの望んだ通りにことを運んでやったんだからな」 「それはもう、どう感謝してもしきれないほどで……しかし、しかし、今、村井組を襲っても果して勝ち目があるかどうだか……」斎藤は貪欲《どんよく》な目を光らせて舌なめずりをし、ふてくされたような顔で黙々とタバコの煙を吹き上げている腹心の部下、小松の方をチラッと盗み見る。 「問題はそこなんだ——」  新田もタバコをくわえて、ゆっくりマッチの火を移す。 「俺は村井組のチンピラに、田島があの小屋に隠れていることをふれて廻った。俺の計算が図に当れば、そのことが政に伝わり、今ごろは例の自動ライフルの殺し屋が田島を襲ってる頃だろう。  田島には屋根裏に隠れていろと注意しといたから、きっと殺し屋を仕止める。今夜も——と言ってももう朝の一時だが——又、虐殺の巷《ちまた》となるぜ。田島のことだから、きっと殺し屋から“蝮の政”の居所を聞き出して、芋づる式に村井の……」  電話が鳴った。斎藤は新田を手で制して受話器を取り上げた。明るい色の背広をバリッと着こなした小松も軽く腰を浮かす。 「そうだ、儂《わし》だ……何……よし、分った。新しい情報が入ったらすぐ知らせろ」  斎藤はガシャンと電話を切り、もみ手をしながら新田に笑いかける。  新田は「どうした」と言いたげに左眉をつり上げた。 「仰言《おつしや》るとおりですわい。今、地廻りの子分から、田島らしき男が自動ライフルを射ちまくりながら、白バイの追っ手をのがれたと言ってきました」斎藤は満足気に溜息をつく。 「そうか、そうか。俺の計算も仲々確かだったな。田島の行く先は村井か政の隠れ家に決っている。こうなれば署長と警部は村井の隠れ場に先廻りして待ち伏せるはずだ。その隙にあんたは子分達に村井の邸宅を襲わせるんだ。あそこには怖気《おじけ》づいた村井の子分が集まっている。あんた達に殴り込みをかけるどころか穴の中で震えているだろうぜ。奴等があんな派手な芝居をうって牢破りをやったのもよっぽど数に困っているんだ。あんたも弱気を出さずにやって見るんだな。一コロだぜ。無論あんたの方にも少々は犠牲者が出るだろうが、それぐらいは覚悟しないとな」  新田は目をギラギラ光らせながら熱心に口説いた。手でテーブルの端を握りしめている。 「署長達が先まわりすれば、村井は生き残るじゃあありませんか?」  斎藤が濡れた分厚い唇を一舐《な》めして言った。目が烈しく動揺している。 「あんたも年だな。組織がブッ潰れたら、親分なんて屁《へ》と同じだ。村井の子分を全滅させたら村井は手足をもぎ取られた床の間のダルマみたいなもんだぜ。それに、田島が村井や署長を殺《や》りそこなったとしても、俺が殺ってやる」  新田はニヤリと笑った。 「へえッ!」  斎藤は目をむいた。 「俺は署長を殺らなければならないわけがあるんだ。署長の野郎、あの間抜け頭でも、さすがにそろそろ俺のことを疑《うたぐ》りはじめた。俺は田島の特別捜査官は首になったよ。この乱痴気騒ぎが終ったあと、ひょっとしたはずみで奴が俺のことを調べ上げぬとも言いかねまい。そうすれば俺は街中の拳銃に狙われる……あんたの所からは別としてな。ともかく、俺が生き残るには、どうしても奴さんに死んでもらわないと、都合が悪いんだ」 「なるほど、なるほど。こっちとしても、あの禿茶《はげちや》びんに死んでもらったら大万歳ですわい」 「ハッハッハ、しかし俺が村井を殺るのは、俺のためでない。あんたの為《ため》なんだぜ。ここの所をよく頭に入れておいて貰わないとな。俺が村井を殺るにせよ、田島がやるにせよ、あと百万は欲しいな。田島をそう仕向けたのは、俺様の力だからな。あんたは、ここでじっと坐ってただけで、甘い汁が吸えるとは有難い話じゃないか」 「まったく、こう言っちゃあ何ですが、警部補さんは煮ても焼いても喰えないお方ですな。儂だってそのために随分ゼニを貢ぎましたぜ。この上にまだよこせとは……」  斎藤は口ではそう言ったものの心は上の空だった。空間を見つめる目が、野望の達成を目前にひかえて泣いたように濡れている。 「お前さんが天下を取るチャンスだ。たった百万は安いよ」  新田は穏やかに言った。 「いいです、いいです。持って行きなさい。で、儂の子分に村井組の本拠を襲わせる時間は?」  斎藤は視線を新田に戻した。 「いま何人駆り出せる?」 「二階で見張りしてるのが十人、奥の部屋に二十人ほどいますわい。呼び出しをかければあと十五人は集まるでしょうかな。指揮は小松がとってくれます——」  斎藤は言葉を切って小松の方を見た。 「小松っちゃん、うまく頼むぞ」  と頭をさげる。小松は整った顔に不敵な微笑を浮べうなずいた。 「それだけ人数が揃《そろ》えば充分だ。武器はあるだろうな?」新田が尋ねた。 「ハジキからダイナマイトに至るまで、たっぷりありますわい」  斎藤は腹をゆすってヒッヒッと笑った。 「そうか、田島が村井の隠れ家についた頃を見計らって襲ったらタイミングがいいだろうぜ。約一時間半後と見たらいいだろう。その時は俺が知らせる。俺もグズグズしておられない。署の連中は今ごろテンヤワンヤで大騒ぎしている所だろう。早く金を出してもらおう。おっと、忘れていた。あんたとの連絡はどうしたらいい?」  新田は立ち上って尋ねた。瞳の奥にかすかな碧い炎が燃えている。 「儂ですか、儂はここにいなかったら、鳥鹿島《とがしま》の別荘に身を潜めてますわい」斎藤は気軽に答えた。  胸算用に忙しい斎藤に別れを告げてプリムスに戻った新田は、分厚い札束をそっと愛撫《あいぶ》した。 「いつ見ても悪くないな。それにしても、署長は俺の口車に乗って、さっき村井の所にお出かけ遊ばしたとは、さすがの斎藤も御存知あるまい」  と呟《つぶや》いて、車を発車させた。薄い唇には人を人とも思わぬような皮肉な微笑が漂っている。 「確かにその話は本当でしょうな?」葉巻の煙をイライラ吸いこみながら村井が署長に尋ねた。そのソファの横には銀髪の市長が、渋紙色の額に脂汗を浮かせて、居心地悪そうに体を動かしている。灰皿の上には火をつけては捨てた吸い殻があふれそうにたまり、卓子の上のハイボールの氷は溶けっ放しになっている。 「警部補の新田が言うことやから本当とは思うがな。あいつどうもこの頃、斎藤と脈を通じていると儂は睨《にら》んどるんじゃが、そうだとするとなおさら聞き捨てならん事態じゃよ。新田は斎藤側の内情を知っとるから、今度の情報も確かなもんかも知らんで」  署長は眉をしかめた。 「ふーん、そう言えばそうですな。いずれにせよ、用心するに越したことはない。さっそく手筈を整えさせましょう——」  村井は優雅な身振りで立ち上り、受話器をとり上げてダイヤルを廻した。 「安か?……うん、私だ……今、署長さんがわざわざ来てくれた……斎藤組が私の屋敷を襲うそうだ……うん、本気らしい。充分の手筈をととのえといてくれ……呼び寄せた機関銃手はどうした? ……そうか、着いたか。抜かりなくやれよ……政は? ……連絡がつかないって? ……しょうがないな……田島が暴れてる? ……自動ライフルの尾島も殺られたって? ……それじゃあ、ますます斎藤組が気勢をあげるだろう。お前達も敗《ま》けずにしっかりやれよ……政に連絡がついたら、こっちに戻るように言ってくれ……じゃあ、朗報を待ってるぞ」  村井は受話器をおくと、唇の上のコールマン髭の間に浮いた汗を軽くハンカチで押さえ、崩れるようにソファに腰を下ろした。  しばらく沈黙が部屋をおおった。しばらくして村井が重苦しげに口を開いた。 「やられましたよ。私は田島を舐めすぎていたらしい。これでさし向けた五人の殺し屋は全滅してしまった。おまけに騒ぎに乗じて、斎藤組までが……」  その村井の言葉は途中が絶ち切れた。けたたましく電話が鳴ったのだ。 「誰だ? ……安か? ……何っ! 政が、殺られたって? ……田島に殺られたと! 何をぼやぼやしてたんだ? ……田島は車に乗って姿を消したって? ……よし、よし。こっちも田島一人を仕止めるだけの用意はしてある。私の心配はいいからそっちの警備を固めといてくれよ」  ガシャンと電話を切った村井は、額の脂汗をぬぐって、署長の方に救いを求めるような眼差《まなざ》しを投げた。 「署長さん!」 「何じゃ?」  署長はイライラした声を出した。への字に結んだ唇が蒼ざめている。 「とうとう政までが……」  村井は力なく頭を垂れて、署長を上目づかいに見上げる。 「聞いた。儂も現場に急がなければならんじゃろう」  署長は、蒼ざめた唇を舐めた。 「署長さん——」キッと目を据えた村井が熱した口調で言った。「しばらく、ここに残っていただけませんか? どうやら、この様子では田島はここに押しかけてくるらしい」 「しかし、儂も職務があって……」 「今さら、何を仰言います。この騒ぎも田島さえやっつければ何とか方がつく。私の屋敷に斎藤組が殴り込みをかけた所で、機関銃で全滅させます」 「…………」 「ここには私の身内は三人しか残っていないので——」  村井は、扉の後ろと窓ぎわに無言で立つ子分を顎で示した。 「署長さんに残っていただけば、たとえ田島が暴れ込んで来た所で心強い。田島さえうまく片付けてくだされば、私としても署長さんに充分のお礼はします。署長さんが今から退職なさっても贅沢三昧《ぜいたくざんまい》に食っていけるような」 「そう言われれば儂もいやとは言えんわい。もっとも年で腕の方は落ちたが……」  署長はクックッと喉の奥で笑って、胸に勲章の輝く制服の腰に吊《つる》したスミス・アンド・ウエッソンのリヴォルヴァーを引き抜き、撃鉄を軽く起した。左の掌で輪胴《シリンダー》をはたいて勢いよく回転させる。    血の修羅場  蜂《はち》の巣をつついたような大騒ぎとなったアパートの住民からの連絡でパトカーが駆けつけた時、田島はフル・スピードで疾走するビュイックのハンドルにかじりついていた。  その目は暗く、重い唇は硬く結ばれ、髪ははためき、額から垂れる脂汗は、ガラスの割れたウインド・シールドから吹きこむ烈風に乾いていく。  眠りをむさぼる街をすぎ、燈火の消えた田舎道を通りぬけ、生き物の影もない山道にエンジンの唸《うな》りが響いていく。  山の杉林がヘッドライトに浮んでは次々に飛び去った。頭が持ち上げられぬほど首筋のこわばりがひどくなってきた。  左側の林が切れると、突然、ビロードを敷きつめたような湖が開けてきた。黒藍色の水面には弱々しい月の鎌が映ってたゆたい、その彼方《かなた》には——、雪を頂いた山脈がのしかかるように聳《そび》えていた。  道路は一キロばかり先で、湖沿いの県道と、右横にそれる私道の二つに別れていた。そこから百メーターばかり手前で田島は車のギアをニュートラルにし、イグニッションを切って鍵《キー》をポケットに入れた。  猛スピードで驀進《ばくしん》するビュイックも、上り坂にぐんぐん速度が鈍り、二股《また》の手前で停車した。ハンド・ブレーキをかけライトを消した田島は、自動ライフルを持って車から降りた。  半キロほど先の丘の高みに、燈火の漏れる一階建ての洋館が見えた。田島は車道をそれて、丘の木の間を渡りながら進んだ。脚に当って弾《はじ》ける下生えの乾いた音が神経に鋭く響き、音のたびごとに田島は歩みを止めた。  別荘の前の広場を見下ろす丘の端に着いた時には、自動ライフルの重さが鉛の塊のように身にこたえた。ジャンパーの下に肩から吊《つ》ったルーガー拳銃とポケットに入れた予備の弾倉の重さに体が地中にひきずりこまれる気がした。  広場の中央の植込みの中に、天使の像をかたどった噴水がついていたが、今は水が出ていなかった。水槽《すいそう》の水も乾いていた。  田島は自動ライフルを杉の幹に立てかけ、組んだ両腕の上に顔を乗せ、腹ばいになって烈しい息をついていた。警官の放った拳銃弾に千切られた皮ジャンパーの袖から血が滲《にじ》んでいる。体中の筋肉はこわばり、肩の傷跡と、ヒビの入った肋骨《ろつこつ》は息をつくごとに疼《うず》いた。  胸ポケットから出したモルヒネの錠剤を呑みこむと、苦痛を麻痺《まひ》させる睡魔が襲ってきた。ここで眠り込んだら最後だ。田島は首を振って無理に頭をあげ、自動ライフルを引き寄せてコックを引いた。もうポケットには残りの弾倉は三本しか残っていない。  市長の別荘まで、たっぷり五十メーターはあった。きらめく光はカーテンの隙間から漏れていた。  田島は立ち上ると三メーターばかりの丘の斜面を滑り降り、天使の像の噴水のついたコンクリート台の蔭《かげ》まで這《は》っていった。 「出てこーい、鼠ども! 穴から出て俺をやっつけて見ろ!」  力一杯叫び、コンクリート台の蔭に身を沈めて、別荘の方をうかがった。  燈火はたちまちにして消え、表戸がパッと開いた。長い銃を持った三つの人影が踊り出て地面に伏せた。  山は凄《すさ》まじい発射音に震え、天使は翼をすっ飛ばされ、コンクリートを削った弾は、青紫の閃光《せんこう》を発して縦横無尽に跳ねた。  散弾のかけらが数個ピチッピチッと田島の脚に食いこんだ。唸り声を漏らした田島は、台の右横に転がり出ながら、低く狙いをつけた自動ライフルの引き金を絞りながら、銃身をザーッと横に払った。遊底からはじき出した長い空薬莢《からやつきよう》が鋭くその顔を叩く。  ミシンを踏むような発射音と煉瓦壁を砕いた銃弾の轟音《ごうおん》が山に木霊して跳ねっ返った時、三人の男は顔面や肩や胸から、背や肛門《こうもん》に抜けた弾を浴びて、虫の息となっていた。血溜《ちだま》りの中に口径三〇—三〇のマーリン・モデル三三六の七連発カービン銃が二丁と、空薬莢が遊底の下から飛び出す五連発二十番《ゲージ》のイサカ散弾銃が転がって鈍く光っている。腰だめにした自動ライフルを扉や窓に向って二、三発ずつ点射しながら、田島は建物に向って駈け寄った。窓ガラスはバリバリと砕け、扉には星のような穴があき、木片が乱舞した。  扉を蹴《け》りあけた田島は暗闇の空間中を左から右に掃射しはじめたが、突然部屋の右端から小さな閃光が闇を切り刻んだ。田島は腹に物凄《ものすご》いショックを受けて自動ライフルを放り出し、勢いよく尻餅をついた。ベルトのバックルの後ろに差した政のモーゼルM—25に弾が命中したに違いない。くらくらする頭を振って、腋《わき》の下のルーガーへ手をやった途端、再び轟音が部屋をゆるがした。左の脇腹を熱い鉛の弾に引き裂かれた田島の体は、半回転しながら後ろにすっとんだ。  ホロを張った米軍軍用トラックを先頭に、ライトを弱めた大型のフォードが三台、深夜の街をのろのろと村井の大邸宅に近づいていった。  トラックのボディに張ったホロの下では、両側のベンチに目白押しに腰を下ろし、膝の間にライフルや散弾銃を挟《はさ》んだ三十人近くの男達が、震える手つきでタバコを吸ったり、圧し殺したような小声で話を交わしたりしている。一ように目が興奮と恐怖にギラギラ光っている。 「兄貴はヤケに威勢のいいことを言ってたが大丈夫かな? いくら相手が手薄だといったって、やっぱり心配になってきたぜ」  髪をテカテカに光らせた若者が愚痴っぽい声で言った。 「畜生、早くこのオンボロ車が止らねえかな……さっきから小便がしたくてたまんねえ」  その横の、栗色《くりいろ》の髪を垂らした若者が、蒼白《そうはく》となった顔をしかめて体をゆすった。 「手めえは戦争に行ったことはねえだろうな。その年では……戦争と思えば気楽なもんさ、俺が初めて実戦にぶつかった時なんざあ、ケツの穴を閉じとくのに無我夢中だったもんさ」  こけた頬に髭《ひげ》の濃い年かさの男が、視線を宙に上げて想い出にふけるといった顔をする。 「でもよお。俺だけがクタばるんなら文句は言わねえ。どうせ死んだと思った体だからな。だけど、俺が消えちまったら泣いてくれる女もいるんだぜ……」  髪を光らせた若者が陰気な声で呟《つぶや》いて、手にしたタバコを踏みつぶす。 「ふざけるない。嫌なヒモがいなくなったってんで、思う存分羽をのばしやがるだろうぜ」 「馬鹿野郎——」  髭の濃い年かさの男が口をはさんだ。 「湿っぽい話は止《よ》しやがれ。ここはお通夜の席じゃあねえぞ。ともかくこの戦に勝ちゃあ、俺達は又この市《まち》で羽振りがきくようになるんだぜ。羽振りどころか、俺たち斎藤一家の天下になる。村井組のチンピラに寝取られた俺の女《すけ》を、また腹の下で呻《うめ》かしてやるんだ」カサカサに乾いた唇をベロッと舐《な》めてホッと溜息《ためいき》をつく。 「いよう、切ない声を出すじゃねえか」  野次が入れられて、ホロの下の男達の間に力無い笑い声が起ったが、すぐに重苦しい沈黙と不安感がのしかかってきた。 「あれに一発喰ったら、俺たちは人工衛星までフッ飛んじゃうぜ」  チューインガムを噛み続ける子供のような顔付きの男が、両側のベンチの中間におかれたアルミニューム製の箱にベッと唾をはいた。その中には長さ二十五センチのダイナマイトが詰めこまれている。 「まったくだぜ。考えただけで寒気がしてきやがった」  その横の男が相槌《あいづち》をうち、背広の襟《えり》をたてて首をすくめる。背広のポケットは押しこんだ弾薬の重みにぶざまに垂れ下っている。  トラックの助手台では、右手首にあてた副木《そえぎ》に包帯を捲《ま》いた小松が、彫ったように形のいい唇にタバコを横ぐわえしイライラと足をゆすっていた。首からホイッスルを吊り、左ポケットには十四連発の大きなブローニング九ミリ口径自動拳銃をつっこんでいる。  トラックは曲り角に近づいた。 「ここで停めろ」  小松は短く命じた。クラクションを鳴らした肩幅の広い運転手は左にカーブを切りながらゆっくりトラックを停めた。後に続く三台のフォードがそれにならい、各車からジャンパー姿の代表者がとび出した。小松は足早にトラックの後ろに廻った。三人の代表者とトラックの中の男達が、おびえたようにギラギラ光る目をむける。 「いいか、あと一キロで目的の場所だ。みんな銃を点検して、ダイナマイトを持って、いつでもとび出す用意をするように言え。注意しとくが、導火線に火をつけても、すぐには投げつけるなよ。投げ返されたら大変だ。それと、せまい場所では小銃は不便だ。奴の屋敷の中に入ったら、小銃や散弾は捨てて、ハジキを使え……怖気づくなよ。こわがってるのは奴等も同じだ。俺達は必ず勝つ」  両足を軽く開いて立つ小松は一語一語ゆっくりと言った。 「降服して来る奴等はどうします?」  顎の張ったずんぐりした体つきの男が尋ねた。 「ここには、国連の監視官はいねえよ、引きつけといて射ち殺せ——」  小松は浅黒く整った顔にニヤリと冷たい笑いを浮べる。 「栗本の指揮する車は裏口に廻れ。車をバリケードにして、逃げる奴等を狙い射ちするんだ。鼠一匹も逃がしてはならん」  言い捨てた小松はトラックの運転台に戻り、代表者はバラバラッとフォードに駈け戻る。  子分達は銃の遊底を引いて撃発装置にし、予備の弾倉にもポケットの弾薬をつめた。アルミニュームの箱が開かれ、皆我勝ちに折り重なって、柄をつけて投げやすくしたダイナマイトを左手に握った。しかしまだ箱の中には二十個近く残っている。手の中のダイナマイトをおっかなびっくりひっくり返して眺めながら、子分達はジャンパーのジッパーを引きおろし、あるいは背広のボタンを外して、肩から腋の下に吊った拳銃をズボンのベルトに差し込む。  四台の車は、高いコンクリート塀《べい》に囲まれた二階建て大理石造りの村井の大邸宅に、百メーターほどの近さに進んだ。突然、ピシッと鋭い音と共に、トラックのホロが大きく鈎《かぎ》形に裂けた。  ついでピーン、ピーンと数十発の銃弾が邸宅の方角から襲い、一斉射撃の轟音が伝わってきた。  ボディのベンチに腰をおろした栗色の髪の若者が両足を投げ出して硬い金属の床にずり落ちた。右の額からスーッと血が垂れている。その横のリーゼントのアンチャンが、あわてて床に転がったダイナマイトを拾った。  トラックの中は罵声《ばせい》と悲鳴で大混乱となった。トラックはジグザグを描きながら驀進したが、建物の二階の窓から再び一斉射撃の銃火が吠え、トラックの前窓を木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》にし、ボディのホロを大きく破った。  一発は、前窓を砕いて小松の髪を四、五本吹っ飛ばしながら背後の金属を裂いて耳ざわりな轟音を発した。  小松は首から吊ったホイッスルを唇にあてて鋭く笛を吹いた。鉄柵《てつさく》の門の前に急停車したトラックと二台のフォードから、右手に小銃、左手にダイナマイトを持った男達が跳び降りた。栗本の指揮するフォードは角を廻って消えていく。トラックのまわりに驟雨《しゆうう》のように弾が襲い、パパパパッとアスファルトから火花が散った。二人の男がたちまち胸と足を射ち抜かれて転がる。  左手にブローニング自動拳銃を抜き出した小松が再びホイッスルを吹いた。 「糞《くそ》っ、今に見てろ」  と呟いた長身の男が、ライターで導火線に点火したダイナマイトを、十メーターほど離れた正門の鉄柵に投げつけた。  目も眩《くら》むような閃光がひらめき、あたりは真昼のように明るくなった。物凄い轟音と共にひん曲った鉄柵と崩れたコンクリートの破片が空中に吹っとび、爆風をよけようと身を伏せた男達の上をくるくる舞いながら、ゆっくり落下してくる。  逃げそびれた男が一人、降ってきたコンクリートの塊に頭をぐしゃぐしゃに潰《つぶ》されて即死した。先ほどの長身の男に二人の男が加わって、火をつけたばかりのダイナマイトをコンクリート塀に叩きつけ、トラックの下やフォードの後ろにのり込んだ仲間の方にかけもどろうとしたが、長身の男はダイナマイトを投げつけた途端、肩を銃弾にぶちぬかれ絶叫をあげて尻餅をついた。  再び耳が聾《つんぼ》になりそうな轟音が響き、コンクリート塀は五メーターの長さに渡って爆破された。  斎藤組の男たちは喊声《かんせい》をあげてボディの下から跳び出し、車を掩護《えんご》物として、狂気のように小銃や散弾銃を射ちまくった。建物のガラスは粉々に割れて飛び散り、村井組の男が悲鳴と絶叫のルツボの中から離れ、二階の窓から真逆さまに落ちてきた。  小松が再びホイッスルを吹いた。五、六人の斎藤組の男が左手に握った拳銃を乱射しながら、火のついたダイナマイトを右手に振りかざし、崩れた塀を乗り越えて建物に走り寄った。  突然、豆の爆《は》ぜるような小銃や腸にひびく散弾銃の発射音、鋭く短い拳銃の銃声の中から、カタカタカタカタッと重機関銃が絶え間ないおしゃべりをわめきだした。重機関銃は建物の屋上から発射されていた。土煙を跳ね上げる機銃弾は地上に円を描きながら、ダイナマイトを持って走り寄る男達の足もとに近づきはじめた。十発に一発ずつ詰った緑色の曳光《えいこう》弾が、鮮やかな光の筋を作って、あたりを浮き彫りにする。  先頭の男は、二階の窓に向けてダイナマイトを投げこんだ途端、脚を射ち抜かれてクタクタッと坐りこんだ。その男につまずいて、すぐ後ろの男が転倒した。その手から離れたダイナマイトがシューシューと火を吐きながら地面にぶつかる。  後《あと》の四人の男は、はずみをつけて二階の窓にダイナマイトを叩き込んだが、たちまち機銃弾を喰って尻餅をついた。建物の窓からパッと火が吹き、壁の一部がふっ飛ぶのと、転倒した男の落したダイナマイトが爆発するのと、ほとんど同時だった。閃光と爆音が消えた後に残ったのは、擂鉢《すりばち》状にあいた地面の穴に降ってくる土砂と、バラバラの肉塊だけだった。  半壊した建物は、紅蓮《ぐれん》の炎をあげて燃えていたが、銃火はさらに激しかった。重機は一瞬のためらいもなくさえずり、緑色の曳光弾は流星のように飛び、またたく間に斎藤組の男が四、五人射ち倒された。  頬を小銃弾で削られ、血まみれの形相になった小松は、タイヤを射ち抜かれ、銃弾を受けてガンガン木霊するトラックやフォードの蔭で、震えながら盲射ちする男達の後ろを、駈けずり廻った。トラックのホロはすでにビリビリに裂けている。 「出ろ! 出てあの機関銃を黙らしてこい!」  小松は声をからして叫んだ。 「自分でやんなよ」  と呟いて、紫色の下唇を舐めながら、髭の濃い年かさの男が、口径三七五ホーランド・マグナムのウインチェスター・モデル・七十Fのボルトを引き、死の炎を舌なめずりする重機関銃に狙いをつけた。引き金を絞る。  〇・三七五の重量弾は重機の防弾楯《たて》に当って空《むな》しく跳ねっ返った。 「糞野郎!」  その男はベッと唾を吐いて、重機の射手の左側で保弾帯を支えている助手の頭の先を射ち抜いた。  建物の玄関の扉が開き、ワーッと喊声をあげて、十人近くの男が跳び出した。服は焦げ、火ぶくれになった顔に歯をむき出して、あたりかまわず拳銃を乱射する。重機の助手を射ち倒した髭づらの男は、脳天をえぐられてすっ飛んだ。  銃弾の煙幕をかいくぐって躍り込んで来た村井組の一団の最後の一人が地べたに転がった時には、斎藤組の三人が死に五人の男が傷を負って喘《あえ》ぎ、トラックはガソリン・タンクに引火して黄色っぽい炎を吐きはじめた。 「ダイナマイトを掴《つか》み出せ!」  小松が叫んで拳銃をポケットにつっこみ、自らトラックのボディに駆け登り、残ったダイナマイトの二個をひっつかんで地面にとびおりた。  目を恐怖に吊り上げた若い男が積み残された数個のダイナマイトにとびついた時、一寸《ちよつと》の間沈黙していた重機が再び乾いた連続音をたてた。その若造は、喉をつかんで仰向《あおむ》けに倒れた。曳光弾がアルミニュームの箱をぶち抜いて続けざまにダイナマイトに叩きこまれる。 「伏せろ!」  横だおしに転がりながら叫んだ小松の声が終らぬうちに、積み残したダイナマイトが火を吹いた。火柱が天を焦がし、爆風を喰った斎藤組の男たちは、颱風《たいふう》にあおられた稲穂のように横倒しになった。  満身に打撲傷を負った生き残りの十二、三人の男は、悲鳴とも喊声ともつかぬ絶叫をあげながら、小松を先頭に機銃弾のカーテンをかいくぐって建物に殺到し、ダイナマイトを叩き込み、炎と煙に包まれた部屋々々を所かまわず拳銃で射ちまくった。  突然、ワーッと鬨《かちどき》の声をあげて、地下の武器庫から新手の男達が跳び出して来た。狭く細長い廊下は、火煙と硝煙がたちこめ、鼓膜が破れそうな銃声と悲鳴が入り交った。  小松は左手に握ったブローニングの弾倉を射ちつくし、折り重なった死体の蔭に身を伏せて、慌《あわ》ててポケットの弾倉をさぐったが、背後から味方の射ったそれ弾に当ってガクンと首を反らして崩れ落ちた。パニックに陥った両軍は、ろくろく狙いも定めずに引き金をひき続け、相手に倒されたり、同士討ちしてほとんどの者が死傷を受けた。  一方、裏口に廻った斎藤組の男達は、何の抵抗もなく、出口の門と塀を爆破していた。フォードのフードとトランクの後ろに身を潜めた四人の男達は、小銃の狙いを裏の出口につけている。車体には燃えさかる建物の照り返しが赤々と映り、男達の頬を血をなすりつけたように染めている。  建物の中の銃声が途絶え、吹っ飛ばされた裏門の奥から弱々しい声が漏れてきた。 「参った! 出ていくから射つな!」 「貴様は誰だ?」  車の後ろで、ひょろ長い栗本が叫び返した。 「大幹部の堀だ。貴様らには、“ヤッパの安”と言ったら分りがいいだろう……仲間《だ ち》が二人残っている」 「よし、大人しく出てこい。三人とも横に並んで、両手を高くあげて出てくるんだ」  銃を構えた栗本が叫んだ。  裏戸口から、焦げた袖に包まれた両手を高々と差し上げ、爛《ただ》れた目を半眼に開いて、三人の男が、夢遊病者のようによろめき出た。千切れた服はくすぶり、顔は火ぶくれし、髪と眉が白っぽく焼けてチリチリに縮れている。フォードの後ろの男達は、物凄い笑いを唇に浮べて車の前に廻った。 「地獄にでも行きやがれ!」  罵《ののし》った栗本が安にむけてレミントン小銃の引き金をひくと共に、歯をむき出した左右の男達も続けざまに発砲した。  安たち三人が、胸や腹をブチ抜かれて後方にすっ飛んだ時、カタカタッと乾いた連続音をたてて、建物の屋上から再び重機関銃が吠えはじめた。栗本たちは悲鳴をあげ、小銃を放り出して地べたに転がった。その体からパッパッパッと千切れた服地が舞い上る。  炎に包まれた屋上では、体中を火傷《やけど》した傭《やと》われ射手が唯一人、蜂の巣となった死体を狙って、三脚に乗せたヴィッカース式重機弾を叩き込んでいた。ラジエーターの水はゴボゴボと沸き返り、保弾帯が左から右へ、コンベアーのように流れ、空薬莢が山積みになり、悪鬼のような形相の射手の目はもう人間の目ではなかった。  この時やっと、遠くからとり巻いてなすことなく惨劇を見守っていたパトカーや消防車の群れが、勇ましくサイレンを鳴らして跳び込んで来た。火炎に包まれた建物が轟音をたてて崩れ、オレンジ色の火の粉と赤黒い燃えかすが夜空を焦がして舞い狂った。    逆襲  銃弾に蜂の巣となったフォードが、深夜の街を異様なうなりをあげて斎藤の邸宅の前に駆けこんできた。車のドアが開き、胸から腹にかけてぐっしょり血に濡れた男がよろめき出てくる。  その胸にピタッと据えた、レスラーのような門番の散弾銃がガクンとたれた。 「兄貴! どうしました?」  崩れかかる血まみれの男を支えながら、門番が悲痛な声を出した。 「うっ、裏切られた! ポリの新田に裏切られた。奴等は待ち伏せしやがってた。俺達は全滅だ。小松兄貴も……」  その男はそれだけ切れ切れに言い終ると、口からゴボゴボ血を吐き出して冷たい玉砂利の上に膝《ひざ》をついた。頭が力なく前に垂れる。 「兄貴、兄貴!」  門番は絶命したその男を狂気のようにゆさぶったが、喉《のど》の奥で悲鳴をあげながら、詰所のボックスに跳び込み、インターホーンのスイッチを入れた。 「執事さん? 執事さん? 大変だ! 吉田兄貴が今、門の所で息をひきとった。新田の野郎が裏切って、こっちの計画を漏らしたらしい。小松さんを初めみんな全滅した……」  天蓋《てんがい》のかぶさった豪華なベッドでは、真赤なローブにくるまった斎藤が、小松の情婦愛子の素っ裸の胸に頭を乗せ、左手でその太腿《ふともも》を愛撫《あいぶ》しながら、目を細めて囁《ささや》いていた。 「なあ、愛ちゃんよ。いよいよ俺が村井に替って本物の大親分になれる。待ってた、これを待ってたんだ……さあて、もうすぐ小松達が帰ってくるじゃろう。そろそろ化粧を直してうまくつくろってくれや」 「大丈夫ったら。今までも一回だってバレなかったんだもん」  崩れた口紅の唇の間から、女はかすれ声を出して、斎藤の頬をつねる。  その時、激しく寝室のドアがノックされた。 「誰だ?」  斎藤は半身を起して、不機嫌に尋ねた。女は身をすくめてくるっと向うをむく。 「私です。村井の屋敷に廻った方々は全滅なさったそうです」  扉の外から、執事が興奮をおさえつけた静かな声で告げた。  斎藤はベッドから跳ね降り、天蓋のカーテンを開いてドアに駆け寄った。口紅の跡がついた頬から血の気がひいている。はだけたローブの前を慌《あわ》ててかき合わしながら、勢いよくドアを開いた。 「冗談もほどほどにしろ」  と、蒼ざめて立っている執事に怒鳴りつける。 「決してそんな……小松様以下全員が、村井組の迎え討ちに会ってやられました。生きのびて戻って来た吉田も、門番にそれを告げて息をひきとり……」 「畜生! 計られた」  斎藤はドアの把手《とつて》にすがりついて、膝の力のぬけた体を支え、喘ぐように叫んだ。 「で、私はいかがいたしましょうか?」  執事は氷のような冷静さを取り戻して尋ねた。 「儂《わし》はここを出る。しばらく留守を頼む」  斎藤は執事にすがりつくような視線を投げ、扉をバタンと閉めてベッドに走り寄った。  ベッドの上に身を起して、おびえ切った目で見つめる女に、斎藤はギクシャク頭を振り、不器用に抱きしめる。 「やられた。完全に失敗した。新田の糞野郎が儂《わし》らまで罠《わな》にかけやがった。儂の命も狙われるから、島の別荘に逃げることにする」 「あたいも連れて行って!」 「こうなったら、いやだといってもお前を離すもんか。さあ行こう。ぐずぐずしてたら村井組の連中がおしかけてくるじゃろう」  斎藤は女から腕を離し、慌てて服をつけはじめた。体が小きざみに震え、絶え間なく「畜生、畜生!」と連発する。  金庫にあるだけのキャッシュと、ハイスタンダード・スーパーマチック十連発の自動拳銃《オートマチツク》を持った斎藤と女は、転げるようにシボレーに駆け込み、海岸に向けてフルスピードでつっ走った。  車を捨てた斎藤は、波しぶきをあげ続けるモーターボートの中で狂ったようにハンドルにしがみついている。 「寒いかい? 我慢するんだ」  イライラした声を出す。 「風邪ひくわ、止めて、止めて!」  はためく髪をネッカチーフでおさえ、スラックスの膝をかかえて身震いしながら、放心したように女は言い続ける。  黒い海の先から、三キロばかりの長さの小島が迫ってきた。ゴツゴツした岩の間に、狭い砂浜が月光を浴びて青白い光を撥《は》ね返している。斎藤はスロットルを全開にしたモーターボートをその砂浜に乗り上げた。スクリューと艇腹でザザーッと砂を噛《か》み、ボートは踊るようにして浜の真中で止った。  右手に札束の入ったグラッドストーンのバッグを持ち、左手で女の手を引いた斎藤は、息せききって走った。柔らかな砂上に靴が食いこみ、鮮やかな足跡を残していく。  島を走る低い岩山は、真中を亀裂のように割った、幅五、六十メーターほどの谷によって二分されていた。右側の岩山の天辺《てつぺん》に出来た平台に小さな別荘が見え、チラチラ燈火がもれている。 「もう動けないわ、死んだ方がましよ!」  咳《せき》こみながら苦しがる女を引っぱって、汗まみれの斎藤は岩を刻んだ石段を喘ぎ登った。  近づく足音に煉瓦作りの別荘の扉がパッと開き、カンテラを提げた老人がサーッとその光を二人に浴びせた。 「旦那様!」  皺《しわ》くちゃの顔を笑いにクシャクシャにして、別荘番の爺やは太い声で叫んだ。 「爺やか? 大変な事になった。誰も追っかけて来てないだろうな?」  荒い息をつきながら、斎藤はせきこんで尋ねた。女は喉の奥で泣き声をたてて、クタクタッと地面に腰をおろす。 「誰も……何のことだか分りましねえが、まあどうぞ中にお入りになって」  カンテラをおろした爺やはオロオロ声で言いながら、二人のまわりを気ぜわし気に行ったり来たりする。 「水、水をくれ!」  台所の木張りの床に置いた硬い椅子に崩れるように腰をおろした斎藤は、胸をおさえて苦し気に命じた。 「爺や、儂は追われている。食糧を用意してくれんか? それにどっかいい隠れ場はないか?」  差し出された水を、口の端からあふれさせながら飲み干した斎藤は、頭をあげて嘆願するように老人を見上げた。  爺やは額の皺を深め、目をつぶって考えこんでいたが、ポンと手をうって笑顔を作った。 「あすこになさったらどうですう? ほら、谷の崖《がけ》になった所に洞穴《ほらあな》があるでがしょうが。旦那様がどんな事情なのか分りましねえが、あすこに二、三日お隠れになったら、爺がうまく追っぱらって見せましょう」 「そうだ!——」  斎藤の顔にパッと生気がさした。あわただしく取り出した財布の五千円札を二十枚近く爺の手に握らせ、 「もう頼りになるのは爺やだけだ」  と卑屈な笑顔を作る。  爺やは札の皺をのばしながら、ペコペコ頭をさげた。 「イッヒッヒ、こんなに頂いてヒッヒッ、毛布を持って行きなされ」  乾いた唇をなめて札を汚れたポケットにそっと入れるが、目尻にヤニのたまった瞳《ひとみ》には、貪婪《どんらん》な光がギラギラ宿りはじめた。  サーッと浴びせかけてくるヘッドライトを背に受けて、新田は急ブレーキをかけ、プリムスのシートに身を沈めた。その左右の車窓に放射状のヒビが入り、微塵《みじん》に割れたガラスが降りかかってきた。銃声とヤケ糞な高笑いを残して、一台のワゴン車が通り去った。  頭をあげた新田は抜き出したルーガーを膝の上に置き、ニヤリと唇をゆがめて薄笑いし、タバコを口にくわえてゆっくり火を点《つ》ける。  トヨペットのワゴン車は斎藤の邸宅の前に急停車した。車の窓から続けざまに銃声が木霊し、散弾銃を握って跳び出した門番は、体中を蜂の巣にされてゴロゴロ転がった。 「それっ!」  リーダーの合図で、村井組の生き残りの暴徒七人は、あたりかまわず拳銃を乱射しながら玄関に殺到した。  閉め切った扉も、鍵穴《かぎあな》を銃弾でブチ抜かれ、力まかせに肩をぶっつけられては、メリメリ音をたてて一たまりもなく開いた。鋭い銃声がホールを引き裂き、真先に跳び込んだニキビづらの男は、ポツンと小さな穴のあいた喉を押さえて、崩れるように坐り込んだ。  二階へ続く階段の踊り場の手摺《てす》りの後ろに膝をついた執事が、コルト・スーパー三十八自動拳銃の引き金を再び絞った。リヴォルヴァーの狙いを手摺りに上げた中年男の顔半分が綺麗《きれい》にふっ飛んだ。サーッとあたり中に血と脳味噌がとび散る。執事は素早く天井からさがったシャンデリアを射ち落した。甲高い悲鳴をあげてガラスが降りしきり、パニックに陥った暴徒は互いにぶつかりあいながら、つるべ射ちに盲射ちした。  胸と腹に三発弾を喰った執事が手摺り越しに真逆様に落ちてきた時、硝煙と血の匂いのたちこめる薄暗いホールでは、村井組の三人の男が絶命し、一人は肩、一人は膝を射ちぬかれて呻いていた。残りの二人の男は、死体と化した執事のタキシードに、たて続けに弾を浴びせかけていたが、空になった弾倉に気づき、気が狂ったような絶叫をあげながら、乗り捨てたワゴン車に泳ぐように駆け戻ろうとした。  斎藤の邸宅で起った銃声に聞き耳をたててプリムスから抜け出した新田は、ワゴン車の蔭に廻って待ち伏せしていた。門番の死体に蹴つまずきながら駆け込んでくる二人の男に、冷静にルーガーの狙いをつけ、薄ら笑いを唇から消さずに一瞬の間に、二度たて続けに引き金を絞った。  木霊となった銃声が街角をわたり、エジェクターではじき出された空薬莢がワゴンのボディに当って乾いた音をたてた時、心臓をぶち抜かれた二人の男は、アスファルトの上に蛙《かえる》のように叩きつけられていた。  新田は薄く煙のたつルーガーを握ったまま車の蔭から跳び出した。血みどろになって転がる死体には目もくれずに、身をかがめて建物の玄関に駆け寄った。  ポマードで固めた髪を振り乱した若い男が、膝の負傷にもめげず、リヴォルヴァーの弾倉の空薬莢を実包とつめかえ、腹ばいの姿勢をとって、駆け寄る新田に発砲した。  足もとの小石を跳ね上げた拳銃弾に、新田は横むきになって転がった。その頭上を鋭く空気を裂いて第二弾が飛び去った。暗闇のホールからパパッと小さな青紫の炎が舌なめずりした。新田は左肘《ひじ》で体を支え、ルーガーを握った右腕をのばして慎重に射った。ブスッと肉に食いこむ弾の音と、頭の天辺から絞り出したような悲鳴が漏れてきた。蛇の鎌首は舌なめずりをやめ、血を咳込む音と変っていく。新田は身を起して建物の横に廻りこみ、ルーガーの銃把《じゆうは》で窓ガラスと桟を叩き割り、暗闇の部屋にとびこんだ。  二十分後、プリムスのトランクからウインチェスター〇・三〇八レヴァー・アクション小銃のケースをひきずり出した新田は、すでに戸を閉めきった貸ボート屋のドアを叩いていた。ふくれっつらの亭主は、鼻先につきつけられた警察手帳に寝ぼけ眼をこすり、混合油の燃料罐《かん》をもって一も二もなくモーターボートに案内した。  手に唾をつけ、何回も何回も五千円札を数えてはヒッヒッと忍び笑いをしている別荘番の爺やは、背後からひっそり近寄った新田に気づかなかった。 「騒ぐな!」  ピタッとその背にルーガーを突きつけた新田は、低い圧し殺したような声で言った。爺やの手から紙幣がこぼれ落ちる。 「強盗っ!」  素っとんきょうな声を張り上げる皺くちゃな唇を、新田は軽く左手ではたいた。悲鳴をあげて台所の床に転がる爺やに、警察手帳を開いて突きつける。 「警察の者だ。斎藤はどこにいる!」 「知りませんねえ! 儂ゃ、この頃旦那様にお目にかかったことはねえす」  爺やはルーガーの銃口を見つめながら、かたくなに首を振る。 「白ばっくれるな、その金はどうした?」 「こ、こりゃあ、儂のヘソクリで……」 「笑わすな。浜にボートが乗り上げてあった」 「知りましねえ。ありゃどっかのアベックが乗ってきたんでやしょう」  爺やは新田を警官と見きわめて、ニタリと笑った。  新田の頬が物凄い微笑に歪《ゆが》んだ。 「おい、爺さん——」  冷酷な声が喉の奥から出た。 「俺がポリだから、人権擁護で手ぬるくやると思ったら当てが外れるぜ。斎藤をどこに隠した? しゃべらぬのなら殺す。死んだらそこにあるゼニは何にも役に立たなくなるぜ」  言い終えると、バタバタ暴れる爺の襟首をつかまえた。食いしばった義歯をルーガーの銃身で叩き潰し、血まみれの口の中に銃身をつっこむ。 「さあ、白状するんだ。十数え終るまでにしゃべらねえと射つぜ。ここで引き金をひいたら手めえの脳天は天井までフッ飛ぶ。これじゃあしゃべるにも口がきけねえだろうから、しゃべりたくなったら右手で自分の膝を叩け」  赤黄色い目をポカンと見開き、銃身をくわえた口から血とよだれを垂らしていた爺やは、夢から醒《さ》めたように呻き声をたてて、バタバタ自分の膝を叩いた。 「感心なこった。やっと思い出したか?」  新田は嘲《あざけ》って銃身を爺やの口から引き抜く……。  断崖の中腹に自然に出来た三畳敷きほどの洞窟《どうくつ》。高さ一メーター、幅二メーターほどの入り口を覆った蔦蔓《つたかずら》の隙間から、青白い月光が斜めに射し込んでいた。洞窟のまわりと天井は硬い岩石に囲まれていたが、下の床は柔らかな砂だった。  毛布にくるまった斎藤は太ってブヨブヨした脚をスラックスを脱ぎすてた女の脚にからませ、腕で相手の腰のくびれを強く抱きしめていた。 「な、愛ちゃん。機嫌を直せよな。小松のことも忘れるんだな。騒ぎが一段落ついたら一緒に外国に逃げよう。このバッグには五千五百万近くの金があるんだ。どこにでも行ける。儂もつくづくこんな血なまぐさい市《まち》は嫌になってしまった。どっかスイスあたりの静かな村で新規蒔《ま》き直しの生活を始めようや。二人っきりの水入らずでな。その前にどこを見物しようか? ホンコン、シンガポール、コペンハーゲン、ニューヨーク、ロンドン……」  女の目はかすかな光に青く輝き、真珠の歯は微笑にこぼれた。「ウフッ、それにパリ……」  夢見るような瞳を天井の岩に投げて甘い声で囁き、斎藤の耳を軽く噛む。 「いいとも、パリだろうとローマだろうと」  斎藤も熱っぽく囁いて女の首筋に接吻し、ブラジャーからはみ出した乳房に唇を移した。 「斎藤、出て来い!」  突然、遠方からふてぶてしい新田の声が伝わって来た。洞窟の中の二人は息を呑んで抱きあい、固く目をつぶった。歯の根が合わぬほどガタガタ音をたてて女の体が震え始めた。 「怖い!」 「心配するな。ここが奴に分るはずがない」  二人は圧《お》し殺した声で囁き交わす。 「大人しく出て来い、命は救《たす》けてやる!」  再び新田の声が響いてきた。 「もう騙《だま》くらかされんぞ。奴は口止めに儂等を殺す気だ。愛ちゃん、じっとしておいで。儂が様子を見てやる」枕元に置いたハイスタンダード自動拳銃を握った斎藤は、震える女の肩に接吻して毛布から這い出た。入り口をカムフラージュしている蔦蔓を細目に開いたその顔が醜くひきつった。五連発ウインチェスター・レヴァー・アクション小銃モデル八十八に、ライマンの光学照準遠望サイトをつけた新田が、七十メーターほどの谷間をへだてた断崖の中腹の岩上に膝をつき、引き金の用心鉄の右側についた安全装置を外し、レヴァーを操作して撃発装置にしていた。 「危ない! 奴は鉄砲を持っている。横に寄れ!」  斎藤は慌《あわただ》しく叫んで、洞窟の岩壁に身をへばりつけた。その声が終らぬうちにパッと蔦の葉が千切れて飛び散り、ウインチェスターの銃声がゴーッと響き渡った。  女の顎を叩き潰したダムダム弾は洞窟の岩を削って不気味な火花を散らした。血まみれの口をあけて悲鳴をあげた女は、ガクンと頭を後ろに反らして転げまわった。続けざまに襲った第二弾が女の頬から入り、頬骨の内側にそってえぐり上り、頭の天辺を吹っとばした。女は大きな穴のあいた頭蓋骨から黒髪の間に血しぶきを吹き上げて弓なりに反ったが、間髪を入れずに襲った第三弾に胸をぶち抜かれて洞窟の奥に叩きつけられた。その死体にブスブス弾が食いこむ。  洞窟の左端にちょっと突き出た岩の後ろに横向きになり、自動拳銃を放り出して壁にへばりついている斎藤の体中から冷汗が吹き出た。喉の奥から絞め殺されたような悲鳴がもれ、ズボン下を濡らした小便が湯気をたて始めた。 「出てこーい!」  薬室と弾倉に新しく装填《そうてん》した新田は、体の位置を変えて続けざまに射った。岩を削って跳ねとばした弾は、パパパと青白い小さな閃光を発して、狭い洞窟の両側や天井を物凄いスピードで跳ね回り、平べったく潰れては砂の中に食い込んだ。  弾き飛ばされた岩片の鋭いかけらが斎藤の頬を打った。悲鳴を発した斎藤は、両手で目をおおって啜《すす》り泣いた。  弾倉をつめ替える一寸の間、銃声がやんだ。脂汗にまみれた斎藤は血でベトベトする女の死体を抱えて楯《たて》とし、洞窟の隅に縮こまって体を海老《え び》のように曲げ、カタカタ歯を鳴らして震えていた。  再び銃声が響き、跳弾の一発は女の肩を破り、続いて襲った銃弾は死体を支えた斎藤の右腕を叩きつぶして、女の腹に食い込んだ。死体を放り出した斎藤は、絶叫に近い悲鳴をあげて傷口をおさえ、洞窟の中を這いずり回った。ピタッと銃声が止《や》んだ。 「出て来い! これが最後だ。持ってる金をあっさり吐き出したら、命は救けてやる!」  新田の声は不敵さを増した。  斎藤の震えは止り、目は憎悪に燃えてきた。砂上に落ちた自動拳銃を左手で握り、砕けた右腕にかかる体の重みに呻きながら腹這いで、入り口に近づいた。  すでに入り口の蔦蔓はウインチェスターの銃弾でバラバラに千切れていた。そのため、谷をへだてた岩上に小銃を構えて片膝をついた新田の姿が意外に近く見えた。  斎藤の自動拳銃は小刻みに踊り続け、小さな空薬莢が舞い上った。ピーンと銃声は鋭かったが、谷をへだてる七十メーターは二十二口径拳銃の有効射程を外れていた。小さな銃弾は新田の下方五メーターほどの岩に当って空《むな》しく閃光を散らした。  ニヤリと笑った新田は、狂気のように射ち続ける斎藤に、ウインチェスターの狙いをつけた。  倍率六のライマン光学サイトに、汗と血にまみれ醜くゆがんだ斎藤の顔が大きく浮び上った。  ウインチェスターの引き金にかかった人差し指に力が入り、発射の衝撃に新田の肩が後ろに反った。それが斎藤の五十一歳の生命の終りだった。  先端が柔らかな構造の〇・三〇八のダムダム弾は斎藤の左眼窩《がんか》の下から入り、頸骨《けいこつ》をへし折り、ザクロを踏みにじったような射出口を残して背中に抜け、洞窟の岩を削って活動を停止した。    最後の銃声  田島は自分の喉から漏れる唸り声に正気に戻った。部屋には明りがつき、白々しい蛍光燈《けいこうとう》が錐《きり》のように目を射した。  がっくり垂れた頭の下の両手首には手錠がかかっていた。血にまみれた下腹に、手は焼けるように痛み、ムカムカ吐き気がした。熱炉の中に叩きこまれたように喉が渇《かわ》いていた。  田島は朦朧《もうろう》とかすむ目を据え、グラグラする頭を振った。意識がはっきりしはじめた。肩からつったルーガーと、ベルトに差したモーゼルの重みが取りのぞかれていた。  広い部屋だった。マントルピースから部屋の左隅にかけて、バラ模様の壁紙に点々と弾痕《だんこん》がつき、黒っぽい地肌がギザギザの穴をさらしていた。  部屋の中には三人の男がいた。テーブル越しに、肘掛け椅子にくつろいでいる男が村井だった。艶《つや》のいい秀麗な顔に片目鏡をかけ、コールマン髭《ひげ》をチックで固めている。桜色の唇は皮肉な笑いにうっすらとゆがんでいる。  その横で長身痩躯《そうく》の市長が居心地悪げにモジモジしていた。輝く銀髪は七三にくしけずられ、一分の隙もないグレーの背広の胸から真白なハンカチが覗《のぞ》いている。  マントルピースに背をもたし、警察署長の山西が制服の腰につったリヴォルヴァーに軽く右手をあて、足を開いて立っていた。禿《は》げ上った頭や額に湯気がたつほど汗を浮かせ、ニヤニヤ笑いに歪む唇から太い葉巻が突き出ている。 「まだ生きていたか? 執念深い奴だ」  村井がわざと圧《おさ》えつけたような冷たい声を出した。ハバナ葉巻のセロファンをゆっくり破る。田島はこみあげてきた血を村井に向けて吐きつけた。どろどろした血の塊は村井に届かずテーブルの上に力なく落ちる。  村井の瞳が怒りに緑色の光を放った。市長が慌ててハンカチを胸から抜き取り、テーブルの汚れをぬぐいとる。 「しぶとい奴だ。署長がいてくれなかったら、こっちが蜂の巣になる所だった。私の所の社員にも、お前のようなタフな奴が一人欲しかった」  村井の瞳は再び冷やかに澄みはじめた。葉巻にマッチの火を移し、紫煙をフーッと田島に吹っかける。肘掛け椅子にそっくり返って足を組み、見なれぬ獣でも見物するように田島を見上げ見下す。 「苦しいか? 我慢するんだな? 今に楽にしてやるよ。お前が手にかけた大勢の者のことを考えれば、それぐらいの痛さは何ともないだろう」 「楽にしてくれる? 御苦労なことだ」  田島の瞳は苦痛にしなびていたが、ドスのきいた声で嘲り返した。  電話が鳴った。重苦しい空気を破って、けたたましく鳴った。署長が歩み寄って受話器を取り上げた。濁った目が昂奮《こうふん》にギラギラ輝いていく。 「何っ? 近松君か? ……えっ、本当か? ……人数は? ……そりゃ大事《おおごと》だ……分った。今すぐ行く……うん、うまく食い止めた……まだ死んでいない……よし、よし。儂が着くまでよろしく頼むぞ」  受話器を置いた署長は、村井のそばに立った。 「村井さん。事態はますます容易ならんことになりましたぞ。この騒ぎに勢いづいて、斎藤組があんたの所を襲って大乱戦だそうですわい。儂は今から至急駆けつけんとならんが、そっちの方を取り鎮めたら、近松や部下を連れて戻りますからな。この男から目を離さんように頼みますぜ」 「そうですか? とうとう斎藤の馬鹿が大それた気を起したか。まあいい。馬鹿どもも今度こそ思い知るだろう……ところで署長さん、お願いがあるんだが……」  村井は言葉尻を濁した。 「分っておる。この男ならお好きなように処分したらよかろう。止めたって無駄じゃろうからな」  署長は苦々し気な声を出した。 「さすが署長さんですな。仲々物分りがよくなられた。では、御苦労様。あとでお礼は充分にさせてもらいましょう」  村井は署長に握手を求めた。署長の掌から村井に手錠の鍵が渡された。帽子をかぶった署長は、腰のホルスターのベルトをしめ直し、玄関から足早に立ち去った。  別荘の裏手からエンジンの活動音が軽やかに響き、その音は表に廻り、遠く消えていった。  それに耳を傾ける村井の瞳に、生け捕りにした小鹿を弄《もてあそ》ぶ黒豹《くろひよう》の表情が宿ってきた。その視線を市長に向け、「何か飲む物を」と命令する。  市長は弾かれたように立ち上った。長い脚をひきずって奥の部屋の扉を押したが、間もなくボールに入れた氷とグラス、それにバレンタインのスコッチの角壜を盆に乗せて戻った。 「ちょっと、席を外して頂きたい」  オン・ザ・ロックスにした豊潤なウイスキーをカチカチ振りながら、村井は市長に顔を向けずに言った。市長の顔にサッと血がのぼり、唇の端が二、三度ピクピクと動いたが、無言で奥の部屋に去った。ドアの閉る小さな音には死の宣告の重みがあった。  村井はコップに八分目ぐらい注がれたスコッチを一息に飲み干し、角壜から新しく注いだ。田島から取り上げたルーガーをポケットから取り出し、安全装置をカチカチ掛けたり外したりした。それにつれて紳士の仮面が剥《は》げ落ち、流血の争いの末にここまでのし上った身だしなみのいいギャングの素顔だけが残った。田島の眉間《みけん》に向けたルーガーの銃口が醜い穴をあけていた。 「お前は殺しすぎた。確かに殺しすぎたよ。おまけにお前の気狂《きちが》いざたに便乗して、街中に火がついた。今まで、俺が苦労して築き上げた組織に、たった三日で穴をあけてくれたな。だが、俺だってお前のような気狂いに、いつまでものさばられて黙っているもんか。このハジキでお前の体を蜂の巣にしてから、お前の手にあの自動ライフル《ギ  タ  ー》を握らせとくよ。体中にもハジキを括《くく》りつけといてやる。文句なしの正当防衛だ。これは俺のためだけでなく国家のためだ。裁判にかかる莫大な費用を節約させてやるんだからな。俺は功労賞をもらえるぜ。どうだ、気に入ったか?」 「気に入ったよ。お前のようなドブ鼠は、身動き出来ない奴の背中の後ろからしか射てないってことが分ったのがな」  田島は力無い声で罵《ののし》った。村井の顔が憤怒《ふんぬ》に蒼白《そうはく》となった。 「もう一度言って見ろ!」  ルーガーに安全装置をかけ、引き金の用心鉄の前に人さし指を移す。食いしばった歯の間から荒い息が漏れる。 「ああ、何度でも言ってやる。お前はドブ鼠だ。自分より弱い者にしか歯向えないんだ。お前から金とバックを切り離したら何が残る?」 「ふざけるな!」  村井の罵声《ばせい》が部屋を震わせた。すっと椅子から立ち上り、力まかせにルーガーの銃身を田島の耳の上に叩きつけた。サッと頭をダッキングしてその打撃をかわそうとした田島の右頬に、切り返してきたルーガーの銃身が音をたててめり込んだ。  田島は低く呻いて、口から血を吐き出した。銃の照星にえぐられた頬からも鮮血がしたたり落ちた。 「まだ大きな口が叩けるか?」  荒い声の中から村井が言った。日頃の上品さはどこかにけし飛んでしまっている。 「ああ、出来るよ。お前はドブ鼠だ。痛いところをつかれて荒れ狂うのは小物の証拠だ」  田島はグラグラする歯と血の間から嘲った。 「何おっ!——」村井はルーガーを振りかぶったが、しばらくそのままの姿勢を保ってから腕をおろした。 「ふん、好きなだけぬかしやがれ。今にしゃべりたくてもしゃべれなくなるさ」  と毒づき、ルーガーをテーブルの上においた右手の近くにひきよせた。左手でグラスを傾け、喉の奥にスコッチを流しこむ。 「まだ夜が明けるには時間がある。このまま殺したんでは楽しみがなくなるから、今から面白いことを聞かせてやる——」なみなみとグラスに注いだスコッチを舐めながら、村井がねちっこい口調で言った。片目鏡を左手でおさえている。その目は嗜虐《しぎやく》的な笑いに光っている。 「お前は美知子の仇《かたき》をとるつもりだったんだろう。ええ? そこがお前の間抜けな点だ。美知子はお前だけの可愛い女房だと思ってたのか? よくもそれだけ骨抜きにされたものだな。ヘッ、お前の可愛い可愛い女房は、お前の目をかすめて俺と寝てたんだぜ」舌なめずりして、一気にグラスの半分ほど喉に放りこんだ。 「嘘だ! 汚ない嘘はよせ!」  苦痛と疲労に凋《しぼ》んでいた田島の瞳が、凄まじい光を発しはじめた。食いしばった血まみれの顎はかたくなにせり出し、眉は烈しく迫り、顔の皮膚は硬くこわばってきた。心臓は早鐘を打ち、体中の痛みが焼けるような力でぶり返してきた。 「ええ、驚いたか? 嘘だと思うか? まさか、それまでとは知らなかったろうな? 間抜けな奴だ。美知子はお前のような小物と一生連れ添う気がなかったんだ。金の切れ目が何とかって言うじゃないか。お前の景気が悪い時、あの女が俺様と会ったのがお前の運のつきさ。美知子は俺に寝返ったよ。俺があの女と初めて関係を持ったのは三年前だったかな。俺は政たちに命じて、お前を海の上で袋叩きにさした。お前が怖気《おじけ》づいてこの市《まち》からズラかると思ったからだ。だけど、お前は強情だったな。あとで政がお前に半殺しの目に逢った時、俺はこう思ったんだ。あんなタフな奴の目をかすめて遊ぶのも、スリルがあって一層面白いだろうってな……」  熱に焼けたぎる田島の頭の中に、自分を釣りに出した時の、美知子の媚態《びたい》が生々しく甦《よみがえ》った。そうか、あの接吻の優しさは、自分を売り渡すユダの接吻だったのだ——。  猛烈な悪寒《おかん》と吐き気が襲い、乾ききった口の中に血と胃液が逆流し、脂汗が胸を伝わった。しかし、頭脳の一部は不思議なほど冷静だった。もう田島は村井の言うことをほとんど聞いていない。自分を束縛するあらゆるものを前において、壁を突き破る計画を練っている。  手錠をかけられた両手が、そろそろと下に垂れ、ズボンの下の右脚につけた小さなV・Bの自動拳銃に這っていった。 「ところがどうして、あの女も仲々のしたたか者だったよ。あんなに綺麗であどけない顔をしてて、好きなのは、金と贅沢《ぜいたく》と自分自身だけだった。俺ともあろう者がうまうまと手頃の道具にされたもんだ——」  アルコールが廻ってきた村井の目は、兇暴《きようぼう》な光が鎮まった。遠く見つめるような瞳には自嘲《じちよう》と郷愁の混った沈んだ色が加わり、口調にも物思わし気な趣が漂った。 「あの女の体は素晴らしかった。あれまでに仕たてたお前がうらやましかった。俺は完全に参って骨抜きにされていた。蜘蛛《く も》の巣にがんじがらめにされるまで気が付かなかった。  あの女は俺がしゃべった悪事や商売の密談をテープ・レコーダーに吹きこんでいたんだ。おまけに俺が骨抜きになってヤニ下っている間に、会社乗っ取りの時などのヤバい書類の写しまで盗んでいた。あとでこの俺様を恐喝するという気だ。俺が気づいたのは半年ほど前だった。しかし、恐喝をやろうと企むほどの女が、そう易々と馬鹿な尻尾《しつぽ》をつかませない。着々と準備をととのえたらしいが、俺は何も知らん顔をして勝手に泳がしておいた。  それが——、そこに新手の恐喝者《かつあげや》が現われた」  村井は言葉を切って、己《おの》れの言葉の効果を確かめるように田島を見据えた。ガックリ頭をたれた田島は上体を傾け、目を半眼に閉じ、苦し気な息をついている。 「そいつが美知子を逆に恐喝《ゆ す》った。おまけに美知子から、俺に不利な証拠物をまき上げやがった。そしてそれを俺に売りつけようとした。見本を送って来たんだから、俺も考えこんだ。俺は美知子を呼びつけて口を割らした。証拠物の半分は絶対安全な所にあずけてあると白状した。それがどこかは、どうしても言わねえ。可哀そうだが、少しばかりヤキを入れさせた。そしてとうとうそれが地方検察庁だと目星をつけた。都合のいいことには検事正が俺の部下だった小倉に替った日だった。小倉なら検事正だから秘密書類入れの大金庫のダイアルを知っている。美知子も俺が小倉に検察庁の金庫を開かせて、証拠物件を盗み出さすとまでは思ってなかったらしい。  ともかく俺は決心した。裏切り者は裏切り者の報いを受けるのだ。俺はあの女を、ドサクサにまぎれて消させた。辛かったがな……政に殺《や》らす前に、たっぷり可愛がってやったよ。そういう時の味はまた、格別……」  鋭く小さな銃声とともに、村井は言葉を呑んで、グウッと体中の息を吐き出し、ポツンと真白なシャツにあいた穴から赤いしみの拡がる胃を両手で圧えて身を折り、田島の方に放心したような目をやった。  田島はすっと立ちあがった。傷に脇腹がひきつり、その目はカサカサに乾いていた。右脚に隠したホルスターからひき抜いた、六連発二十五口径のヴェルナリディリV・Bのオートマチックをテーブルの蔭から持ち上げた。 「気を持たせて悪かったな」深い悲しげな声が喉の奥から出た。それとともに血がこみ上げてきた。  田島は口にたまった血を村井の顔に吐きつけた。手錠のかかった両手の中の、小さな青色の自動拳銃が、五度軽やかに踊り続けた。キラキラ光る小さな空薬莢が薄い煙を吐いて舞い上った。  肘掛け椅子に縫いつけられた村井の片目鏡が微塵に飛び散った。左右の目は血しぶきをあげて裂けた。悲鳴を発した喉から声帯が露出した。  田島はV・Bのオートマチックを捨て両手を伸ばして、テーブルの上のルーガーを握った。 「美知子の恨みでない。俺の腹の虫が据えかねるからだ」自分に言い聞かせるように物憂気な声だった。  続けざまに起った二発の九ミリ口径弾の轟音が、ビリビリ窓ガラスを震わした。メチャメチャに顔面を砕かれた村井の後頭部は吹っとび、左胸を抉《えぐ》った弾は擂鉢状の射出口を背にして椅子を貫いた。  田島は、ふらつく足を踏みしめて、奥の部屋のドアを蹴り開けた。寝室だった。市長はベッドの上に身を投げ、銀髪を両手で抱えてガタガタ震えていた。 「市長だな、女中は?」 「みっ、みんな、ひ、暇をとらした。救けてくれ! 命だけは救けてくれ!」 「お静かに願いたい。さあ立て! 客間に戻って村井のポケットから手錠の鍵を出すんだ!」  田島は、膝をガクガクさせて立ち上った市長の背に、ルーガーの熱い銃口をつきつけた。  村井の死体に近づいた市長は、クタクタッと絨毯《じゆうたん》の上に坐りこんだ。 「鍵は確か奴の上着の右ポケットだった。そう怖がらずに……」  立ったまま命令する田島の声が途中でフッと消えた。サッと体を伸ばした市長が、血に濡れた村井の左ポケットに右手をつっこんだ。 「馬鹿!」  田島の右足が的確な半円を描いた。市長の右手から黒光りする、自動拳銃がすっ飛び、絨毯の上を不規則に跳ねながら壁に当ってはね返った。 「ヒーッ」  と悲鳴をあげ、市長は指の潰れた右手をおさえて転げまわった。 「さあ、市長さん。お年寄りの冷や水はいいかげんにして、早く手錠の鍵を外して頂きたい」  田島は穏やかに言った。市長の細長い手が村井のポケットを探った。血の気を失った顔をひきつらせている。田島はルーガーを握った両手を差し出し、銃口を市長の胃におし当てていた。  震えのとまらぬ手で手錠の鍵を外した途端、市長は胃を引き裂き、肺を貫通した熱い金属の衝撃を喰って、勢いよくすっ飛んだ。断末魔の痙攣《けいれん》にひきつる手足を見下ろしながらも、田島の心には何の感情も起らなかった。  壁ぎわに転がった小型拳銃は、コルト〇・二五の六連発だった。まだ安全装置がかかっていた。部屋の左端の窓ぎわにソファがあった。その上に、ブローニングの自動ライフルA1《ワン》と予備弾倉が三つ寝かしてあった。ルーガーの実包をつめた皮サックの横に、ひしゃげたモーゼルM—25が転がっていた。潰れた硬い鉛の弾頭が、銃の遊底部分に海星《ひとで》のようにへばりつき、食いこんでいた。  田島はルーガーに安全装置をかけ、弾倉を引きぬいて補弾した。肩から吊ったホルスターは外されてなかった。それにルーガーを突っこみ、自動ライフルの弾倉をつめ替えた。カチンという冷たく乾いた音が高く響いた。  動かぬ足をひきずり、別荘内の動かせる家具を全身の力をふりしぼって客間に運んだ。寝室に続くドアと、玄関に続くドアの後ろに家具でバリケードを築く。  ソファのクッションを、表の広場に面した窓の後ろに敷き、電燈を消し、ガラスの破れた窓を大きく開け放った。クッションの上に坐りこみ、自動ライフルのコックを引いて撃発装置にした。それを膝の上に乗せ、自分の左側に点検した村井のコルトと残った自動ライフルの細長い弾倉をおいた。  ズキンズキンと痛む脇腹から滲み出る血のため、顔面は蒼白さを通り越して黄色っぽくなり、熱っぽい体中に震えがきた。胃から甘酸っぱい血と液体が逆流してきた。筋肉は鉛のようだった。頭は朦朧《もうろう》とし、胸の中は途方もなくむなしく、割れんばかりに痛んだ。 《そうか、美知子、やっぱりお前は俺を裏切ったんだな。美しい顔に無邪気な微笑を湛《たた》え、心の中には金色の毒蛇がとぐろをまいていたのだな。俺はもうすぐ死ぬ。だが、こんな死に方はどうしてもいやだ。どうせ死ぬなら、二人が初めて接吻を交わした夜、お前を信じたまま、降る星にうたれて死んでいた方がよかった。年月はすべての物を醜くし、汚ならしく色褪《いろあ》せさせる。俺はバクチ打ちになり下り、お前は強請者《ゆ す り》か。似合いの夫婦だ……。  お前の影に踊らされて、どれだけの人が空しく死んでいったろう。もう俺には数えるだけの力は無い……ペリリュー島の時もひどかった。しかし、あの時にはまだ、生きて帰った後の希望が残っていた。今、俺に残されたのは幻滅と虚無と銃だけだ。だが、俺は弱音は吐かない。生きる価値なき世界と対決して戦い抜く。こうなったら、生きようが死のうが銃だけの知ったことだ。銃だけは俺を裏切らない。弾倉の弾の尽きるまで、射って射って射ちまくってやる……》  田島の重い頭は、膝に抱いた自動ライフルの照門の上に垂れ下りはじめた。  夜明けが近づいてきた。暗い青灰色の空に、青紫と灰色が明るさを増してきた。山の蔭から射す朝日の筋を受けて、雲は幾つもの色と光の層に分れ、虹《にじ》のように輝きだした。  田島の頭の中で、悪夢のペリリュー島が鮮やかに甦った。銃火を吐きながら驀進するシャーマン戦車が、胸の上に轟々とのしかかり、田島はハッと目を覚ました。  戦車と思ったのは、獲物を求めて広場に驀進してきた二台のパトカーだった。パトカーのドアが開け放たれ、拳銃を握りしめた制服警官が五、六人バラバラッと跳び出し、車のそばに片膝をついて蹲《うずくま》った。建物から三十メーターほど離れた一台目のパトカーから肥満した署長、その右横に並ぶ次の車から、唯一人私服の近松警部がゆっくり降り立った。  田島の瞳が静かな光を湛えて澄み渡った。憔悴《しようすい》した頬に厳しい線が浮き彫りになった。全身の力を振り絞って、窓越しに自動ライフルの銃身を突き出した。左手で把手を握り、引き金と握把にかけた右指につながる右腕は、銃床を肩と頬にぴったり圧しつけた。百メーターに照尺を合わせた照門と照星の一直線上に、気どった格好で右手を振り上げ、警笛を口にくわえた署長の心臓部が重なった。引き金にかけた田島の人差し指に力が入っていった。  今にも分解しそうに不気味な音を発して疾走するプリムスの横を、烈風が渦まいて飛び去っていった。ハンドルを握る新田の黄色っぽい顔は、べっとり湿って硬くこわばり、血走った目は兇暴な光を放ってギラギラ燃えている。  夜明けの湖は乳色の靄《もや》におおわれ、雲は虹となって輝きはじめたが、新田の瞳は黒々と襲いかかるアスファルトを睨《にら》んで動かない。  前方に、右横にそれる私道が浮び、黒い肌を光らせたビュイックが乗り捨ててあった。新田はクラッチを踏み込み、右にむけて急角度にカーブを切った。ゆるやかな曲線を見せて延びた私道の五百メーターばかり先から、広場と洋館が近づいてきた。広場にはパトカーが二台停車し、そのまわりに黒っぽい制服の警官が群がっている。  急ブレーキをかけた車から跳び出した新田は、左側の丘に駈け登った。丘の木立ちを縫って転げるように広場を目がけて走り寄る。その時、先頭のパトカーのスポットライトが真紅の片目をむいた。血の色をした光の筋が建物に食い込んだ途端、窓ぎわから自動ライフルがガガガッと青紫の死の息を吐き散らした。  絶叫をあげて後方にすっ飛んだ署長の胸から血と肉片が爆《は》ぜた。罵声を発してまわりの警官はパトカーの蔭に駈けこみながら、窓の銃火を目がけて乱射した。  田島の顔を銃弾に削られた煉瓦や木片が刺し、一発は左耳を射ち飛ばして、マントルピースを砕いた。轟音が反響し、喉の奥で呻いた田島は自動ライフルの銃口をザーッと横に払った。顔の半面に血がとびちっている。逃げおくれた警官が二人地上にもんどり打ち、パトカーは自動ライフル弾を喰って凄まじい金属性の悲鳴をあげた。  狼狽《ろうばい》と憤怒に歯をむき出した近松警部は、先頭のパトカーの後ろから顔と腕をつき出し、慎重に狙いを定めてブローニング自動拳銃の引き金をひいた途端、眉間から入って首筋に抜けた弾の衝撃に、硬い地面に叩きつけられた。手から放れた拳銃が空中に踊り上る。  田島は、自動ライフルを右手で握ったまま、左の肩口を左手でおさえて尻餅をついた。穴のあいたジャンパーの肩から胸にかけて、見る見る鮮血に染まっていく。唸り声をたてて、ヨロヨロッと立ち上った頭をかすめ、鋭い摩擦音を残して警官の拳銃弾が飛び去った。  サッと両膝をつき、脚で抱えた自動ライフルの弾倉を、右手で新しい弾倉とつめ替えた。右手で握把を堅く握り、銃尾を肩にピッタリ密着さす。膝をついたまま再び銃を窓越しに突き出す。  その時、死に物狂いで駈けつけた新田は、広場を見おろす丘の端にたどり着いた。二台のパトカーの近くに四つの死体が転がり、S・Wのリヴォルヴァーを握った三人の警官が車の後ろで息をひそめている。向って右側のパトカーには連絡員が残っていると見え、ガラスの破れた車窓の間から黒い影が見える。  新田の口もとに狼《おおかみ》のような笑いが浮んだ。肩掛けホルスターから九ミリ・パラブリュームのルーガー拳銃を抜き、安全装置を外して左膝をついた。轟音とともに、パトカーの後ろの警官の背からパッと布ぎれが飛び、車のトランクに勢いよく叩きつけられたその男はズルズルッと地面に崩れ落ちた。  狼のような微笑を口許《もと》から消さず、新田は薄く白煙のたつルーガーを次の目標に移したが、背後からの奇襲に動転した警官二人は、頭の天辺から絞り出すように悲鳴をあげて、パトカーの後ろから跳び出した。  建物の窓ぎわで自動ライフルが痙攣し、ミシンを踏むような連続音が、射ち倒された二人の警官の絶叫と交って消えていった。  新田が立ち上りかけた時、右側のパトカーの微塵にガラスの破れた後窓から、大きなリヴォルヴァーが突き出された。 「スカンク野郎!」  その警官の罵声と轟音と共に、新田のすぐ左横の枝が射ち飛ばされた。続いて、身を伏せた新田の近くの幹がパパパッと皮をひんむかれた。  新田はニヤリと笑った。目のまわりに笑い皺が出来た。両手でルーガーを支え、一発でその連絡員の眉間を射ち抜いた。  しばらく不気味な沈黙が視界を支配した。 「射つな、田島! 俺だ、新田が手伝いに来たんだ!」  大声で新田は叫び、息をつめて返答を待った。精悍《せいかん》な瞳に、暗く危険なきらめきが光った。 「あんたか? 村井は仕止めたが、お抱えのポリに体じゅう射ちまくられた」  苦し気な田島の声が弱々しく伝わってきた。新田は立ち上った。立って拳銃を上着の裾に隠し、三メーターばかりの丘の斜面を滑るように降りる。 「心配するな。俺が介抱してやる!」と叫び、落着いた足どりで五十メーターほど離れた別荘に近寄っていく。  パトカーのまわりは、惨憺《さんたん》たる光景だった。あたり中に血が飛び散り、血を吸って赤黒く変色した地面に、銃弾を喰った警官たちが芋虫のように転がっている。ズタズタに胸を射ち抜かれて仰向けになった署長の死体に鼻を鳴らし、新田は素早くあたりに目を配る。制服警官のうち二人はまだ死にきっていなかった。そのうち一人は、唸りながら地面をかきむしってうごめいている。  唇を歪めて嘲笑った新田は、下腹部をおさえて坐りこみグッタリ頭を垂れた若い警官にたいし、裾の下のルーガーをむけた。  建物の方角で物音がした。玄関の扉が開き、血の吹き出る左肩を圧え、ふらつく足を踏みしめて田島がよろめき出た。左耳が千切れ、蒼白な顔は血にまみれている。  新田はサッと振り向いた。裾の下から自動拳銃を出して田島に向ける。冷やかに澄み始めた瞳には殺気が宿っている。その時、血のしたたる下腹部をおさえて身を折っていた若い警官が顔を起した。歯を食いしばり、焦点の定まらぬ目を憎悪にひきつらせ、血でぬるぬるする両手で、足もとの四十五口径S・Wリヴォルヴァーを持ち上げた。 「田島、済まん。死んでもらいたい」  新田は二十五メーターほど離れた田島の心臓に、ルーガーの狙いをつける。  田島の体がサッと下に沈んだ。新田はその動作にタイミングを合わせて引き金を絞った途端、物凄い轟音と共に襲った四十五口径S・Wの大きな鉛弾に左腕の皮膚を焼かれてキリキリ舞いをした。ルーガーの銃口が上に反り、九ミリ口径弾は田島のはるか頭上を、チューンと尾をひいて飛び去った。  身をたて直した新田は、力なくリヴォルヴァーを垂れてつんのめった警官に一発射ち込んでおき、パトカーの蔭に跳びこもうとした。 「そうだったか!」  悲痛な声を吐いた田島は、身を沈ませながら腋の下から電光のようにルーガーを抜き出して安全装置を外した。身を伏せて、目にもとまらぬ早さで人差し指を屈伸させ、たて続けに三発射った。  パトカーの後ろに跳びこもうと、体を横向けにして空中に浮いた新田の右脚《あし》がバシッと鈍い音をたててねじれ、次いで左靴の踵《かかと》が鋭い音を発してフッ飛んだ。  辛うじて車の蔭に這いずり込んだ新田の額や首筋に、脂汗が吹き出ている。左足はしびれ、肉をえぐり取られた右脚からドックドックと血があふれ出てズボンを濡らして地面に垂れ、警官の弾に火傷を受けた左腕から滲む血も、破れた袖をゆっくり染めていく。 「出てこい! まだ死んでない筈だ。地獄の道連れにしてやる!」  断続的な銃声の中から喘ぐような田島の声が切れぎれに聞えた。パトカーのフレームやホイールのリムに当った銃弾が火花を散らして新田の廻りを跳ねっ返る。跳弾の一発は新田の右膝のすぐ下に食い込んだ。呻き声をあげた新田は、ルーガーを地面におき、左の尻ポケットから捕縄《ほじよう》を出した。取り輪を左手でつまみ、斜め上にひくと共に、右手を後方にひいて素早く解く。それで右脚の銃傷の上を縛って止血した。  銃声は止《や》み、虚《むな》しく乾いた音をたてていた撃針の音もやんだ。新田は歯を食いしばって這いながら、ジリジリ車の反対側に廻りこんでいく。呻きながら転がり出た新田が見たのは、ルーガーを握ったままコンクリートの敷石の上に倒れ伏した田島の姿だった。血まみれの顔はガックリ垂れ、左手は虚空をつかんで動かない。  長い溜息をついた新田は、苦痛に顔をしかめて立ち上った。用心深く拳銃を構え、びっこをひきながら近寄って行く。近寄ってみると、田島はすでに死んでいた。かすかな息も口から洩れていない。  新田の瞳を沈痛な翳《かげ》がおおってきた。田島のそばに片膝をつき、脈をとってみる。黄色っぽく蒼ざめた顔は脂汗に濡れ、唇の端がピクピクひきつっている。 「田島、お前もとうとう死んだか——」  新田は無理に嘲笑《ちようしよう》を浮べようとしたが成功しなかった。そして喉の奥から深く悲し気な声が出た。 「よく、これまで頑張ったな。弾薬が尽き体力が尽きはてるまで、お前は弱音を吐かずにやりぬいた。俺の罠にかかったところで、村井達への復讐《ふくしゆう》はとげた。約束は果したのだ。  おまけに、俺にとっては面白くないが、この高杉も平和な市《まち》として生れ変るだろう。  田島、聞いてくれ。死んでいても、これだけはどうしても聞いて欲しいんだ。お前は死ななければならなかった。俺が来なくても、お前は必ず死ぬ。市には自衛隊が出動しているんだ。お前の苦痛を早く終らしてやろうとして俺は急いだが、その必要もなかったな。  これは、お前の死を悼《いた》む弔砲《ちようほう》だ。俺だって、たまには人間らしくなることもある。安っぽいセンチメンタルかも知れない。だけど……お前は惜しい男だった」  新田の目は暗い。口のまわりには沈痛の影をとどめて、その顔は木彫りのように無表情だった。  突然、その口許がほころびた。不敵な笑いだった。その笑いが夢見るようにおだやかな微笑に変った。ルーガーの銃口を空に向けて瞳を細めた。清冽《せいれつ》な空気を破り、一発、二発……と、とむらいの銃声が轟然と湖を渡り、山を越え、朝焼けの空に消えていった。 この作品は昭和五十六年十一月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    血の罠 発行  2003年3月7日 著者  大藪春彦 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.shinchosha.co.jp ISBN4-10-861257-4 C0893 (C)OYABU・R.T.K. 1959, Coded in Japan