新潮文庫    戦いの肖像 [#地から2字上げ]大藪春彦     爽やかな仮面      一  十個ほどデスクが置かれた、日欧自動車の第二営業課の部屋であった。ネクタイを少しゆるめた水島哲夫は、鉛筆で額を軽く叩きながら、来月の自動車雑誌に出す広告の文案を考えていた。  日欧自動車は赤坂表町にある。ジレラやモト・グッシイなどのイタリー製二輪車の販売代理店として十五年前にスタートしたが、日本製オートバイの急激な進歩によって、客がイタリー製二輪車にそっぽを向きはじめた七年ほど前から、あっさりと二輪を捨て、外国製四輪の中古車販売店に切替えた。  その商売は当った。そして、五年前、イタリー・フィアットとドイツ・ネッカーの日本代理店の一つになることが出来たのを機会に、日欧自動車はビルを新築したのだ。  やがて、乗用車の輸入が自由化になると、中古の外車を有難がる客が少なくなった。国産乗用車の加速性能が外車に勝るようになったせいもある。  貿易自由化は、また新車の商売の面においても、ディーラーである日欧自動車の首を絞めた。かつて輸入台数に制限が厳しかった頃には人気車種はプレミア付きで売って|大《おお》|儲《もう》け出来たが、今はそうはいかない。それに、アフター・サーヴィスが悪いと客はすぐに逃げるので、修理工場の充実費に金を食われた。  そんな状況のなかで、スポーツカー・タイプの外国製中古車の売買でだけは、まだ甘い汁が吸えた。アメリカ製の馬鹿でかいセダンの中古など月に一台も売れればましなほうだが……。  第二営業課は、新車の輸入業務と中古車の購買や下取り車の査定などの仕事を受持っている。広報課は別に無いから、水島と同僚の|榎《えの》|木《き》がPRマンを兼ねていた。  水島は三十歳であった。爽やかな微笑と、深く涼しげな|眼《め》|許《もと》を持っている。背広をつけると細っそりとして見えるが、その長身は九十キロの体重と|強靱《きょうじん》な筋肉を秘めていた。 「水島君」  一番奥のデスクで電話を受けていた課長の竹森が声をかけた。平べったい顔の男だ。 「はい、課長」  水島は軽く陽焼けした清潔な顔を向けた。 「ウィリアムズ夫人から電話があった。府中に行ってくれ。ポルシェ九一一の売り物が出たそうだ」 「年式は?」 「去年のだから、大丈夫だ」  課長は言った。一昔前は駐留軍人から車を買う場合、日本に持ちこんでから二年以上使ったものでないと通関出来なかったが、今は当年以前の年式でありさえすればいい。 「分りました。出かけて参ります」  水島は立上って頭を下げた。 「ああ、頼んだよ」  課長は書類に視線を戻しながら言った。  水島はデスクの|抽《ひき》|出《だ》しから書類用紙を取出して、小型のアタッシェ・ケースに収めた。隣の席の若い榎木に声を掛け、ロッカー・ルームでトレンチ・コートを着けて廊下に出た。  隣の広い部屋やその奥は、販売担当の第一営業課や役員室であった。階段を降りると、フィアットやドイツ・フィアットのネッカーを飾ったショー・ルームやサーヴィス工場の受付などになっている。サーヴィス工場は、ビルの地下とアルミ屋根を張った裏庭にあった。  水島は受付のカウンターの前に立ち、女事務員から自分の車の|鍵《キー》を取ってもらう。優雅に手を振って表に出た。  昼前であったが、空は鉛色に曇り、風が水島のコートの裾をはためかせた。水島は風に背を向けて、タバコにロンソンの火を移した。  ビルは歩道から八メーターほど引っこんでいた。歩道とビルのあいだに、車が二列にぎっしり|駐《と》めてある。歩道に尻や頭を突きだしている車も多かった。  水島の傷だらけのコルチナ・ロータスの中古車は、ビル側にあった。目立たないように、横腹に引かれたブリティッシュ・レーシング・グリーンのストライプは消して、全体を野暮ったい茶色に塗り替えてあった。  水島は運転席にもぐりこみ、エンジンを掛けると、二千回転でしばらくウォーム・アップする。この車は、米軍の女将校からプレゼントされたものだ。  タバコを吸い終ると、水島は巧みにハンドルを切返しながら、車を車道に出した。すぐ近くの青山通りを左にハンドルを切って渋谷のほうに走らせる。  オリンピックのために拡げられたこの青山通りの制限速度は五十キロであるが、みんな十キロから十五キロはオーヴァーしている。  水島はロー・ギアで七十キロまで引っぱり、略式ダブル・クラッチでエンジンの回転を合わせて、いきなりトップに放りこみ、のんびりと走らせていた。ギア比の高いコルチナ・ロータスは、その速度だとエンジンはまだ眠っているようだ。低く太い、セクシーな排気音であった。昼食時に近いので道は|空《す》いている。  SSやGTなどの国産スポーツ・セダンのハンドルを握る街道レーサーたちが、水島の車のカモフラージュを見破って、強引にかぶせながら抜いていく。  水島は挑発に乗らなかった。テクニックが車自体よりも物を言う曲りくねった道ならともかく、こんな広いストレートでは、かつてはスポーツ・セダンのうちで較べものになる相手がほとんどなかったコルチナ・ロータスも、最近の国産スポーツ・セダンの加速にはかなわないことがしばしばあるからだ。  しかし、挑戦に応じない理由は、それだけではなかった。水島はジャリどもをまともに相手にする気を毛頭持ってないからであった。公道レースなどでスリルを味わうことは、水島のひそかな誇りが許さなかった。      二  日本のモーター・スポーツの夜明けである、十年前の第一回浅間火山レースから、水島は天才ライダーとして二輪界に君臨した。  何かに|憑《つ》かれたように走る水島の速さには|完《かん》|璧《ぺき》のテクニックがともなっていた。三年後、契約しているヤマノ・チームからの給料で大学の夜間部を卒業することが出来た水島は、ロス・アンジェルスに新設されたアメリカン・ヤマノのライダーとして、アメリカやヨーロッパのサーキットを転戦したのだ。  その年は、一二五と二五〇CCにカルロ・ウッビアリ、三五〇と五〇〇CCにジョン・サーティーズの両エースを擁するイタリーの誇り“メカニカ・ベルグエラ・アグスタ”——つまり、MVアグスタ勢の全盛時代であった。  水島の乗る三〇五CCをボア・アップして三五〇CCにした二サイクル単気筒ヤマノ・レーサーはダブル・オーヴァヘッド・カム四気筒のMVにストレートでは問題にされなかった。  しかし、エンジン・ブレーキの効きの悪い二サイクル・レーサーをギリギリまで倒し、|膝《ひざ》を内側に大きく突きだすだけでなく、体もイン・コース側にぶらさがるようにし、接地するクランク・ケースから火花を散らしながら強烈にコーナーを攻めていく水島は——“世界一コーナーを早く回るカミカゼ”として、カーヴの連続であるフランスの|GP《グラン・プリ》クレルモン・サーキットでは、サーティーズのMVを破って優勝したぐらいであった。  しかし、次のマン島TTレースで水島は悪運に見舞われ、二輪レースから足を洗った。霧のバローズ・コーナーをドリフトしながら廻りこんでいた水島のレーサーのミッションがバラバラになり、水島は三十メーター下の谷底に叩きつけられたのだ。  |頭《ず》|蓋《がい》と骨盤の骨折で一週間のあいだ意識不明を続けた水島は、三カ月をグラスゴーの病院で過した。そして、傷が|癒《い》えても、日本には帰らなかった。  レースから足を洗ったのは、命が惜しくなったためではなかった。いや、そのせいもあるが、機械に自分の生死の権利を握られていることに耐えられなくなったからだ。  レース生活に入るまで、戦災孤児として、オートバイ屋をやっている小金井の|親《しん》|戚《せき》に引き取られて辛い青春を過してきた水島は、ヨーロッパの上流階級の|贅《ぜい》|沢《たく》な生活に魅せられた。しかし、レースをやめた水島が彼等に近づく道は一つしかなかった。高級ジゴロになることだ。  冬はサン・モリッツでスキー教師として、夏はニースの水上スキーのコーチとして、水島は年老いた夫を持つイタリーの伯爵夫人や、金のために億万長者と結婚したアメリカ女たちを、足腰が立たなくなるほどベッドで満足させてやった。  東洋のプリンスかと見まがうほどの洗練された容姿と、西欧人には想像もつかぬほどのセックスの持続力によって、水島はたちまちのうちに、金と暇を持てあました女たちのアイドルとなった。一週間相手をしてやっただけで、水島は一万ドルもらったこともあった。  しかし、そんな贅沢な生活も、あまり長くは続かなかった。女の金で生きていくようになってから三年目の夏、水島はカンヌで土地のジゴロ三人に取囲まれたのだ。  三人はナイフやブラス・ナックルを持っていた。だが、勝負は一瞬にしてついた。|頸《けい》|骨《こつ》を|空《から》|手《て》で叩き折られた二人のジゴロは死に、もう一人は|睾《こう》|丸《がん》を|潰《つぶ》されて失業した。  フランス警察に逮捕された水島は、パス・ポートを取上げられた。そして、裁判を受けて無期懲役に服するか、外人部隊に入ってフランスのために命を|賭《か》けるかの選択を迫られた。  水島は後者を|択《えら》んだ。仏領ソマリランドのキャンプで特殊訓練を受けてから、フランスに対して独立を要求してゲリラが立上っている南米ギアナに送られた。  辛い戦いであった。思想の上ではゲリラ軍に同調しながらも、生きのびるためには、殺し、拷問しなければならなかった。  だが、そんなジレンマも、一と月とたたないうちに無感動に変っていった。水島は優秀な殺人機械、どんな状況に追いこまれても生きのびていく、ジャングルのけもののような男になっていた。  二年後、独立運動のゲリラのリーダーを倒したとき、三百人いた水島の部隊はわずか七人しか生残ってなかった。  任務を解かれ、自由を取戻した水島は、日本に送り返された。昨年のことであった。特殊任務についたことを口外しないことの誓約書をフランス政府に宛てて書かされたぐらいだから、日本の官憲は南米時代の水島の過去を知らない筈だ。  帰ってきた日本には、遅まきながら、四輪のモーター・スポーツのブームが起っていた。どのメーカー・チームも、もと二輪グラン・プリ選手の水島に跳びついてきた。  しかし水島は、大事故以来、怖くて町のなかを車で走るのも嫌なぐらいだ、と言って、どの申し出も断わった。  ギアナのジャングルや|市《まち》でゲリラと戦ったテクニックを生かして、水島は大バクチを打ってみたいからであった。そのためには、世間に広く顔を知られることはまずい。  水島の|目《もく》|論《ろ》み通り、一サラリーマンとなった水島の顔と名は、レース・ファンたちのあいだの記憶からも消えていき、今では彼を覚えている者も少ない。      三  甲州街道を東府中駅に向うのと反対に右折すると、並木の左右に米兵向けのクラブやレストランが軒をつらねていた。  並木通りの突当りに、米第五空軍府中エア・ステーションの正門がある。ゲートの脇には、近づいたクリスマスにそなえて、イルミネーションをほどこされたツリーが立っていた。  ゲートの日本人ガードは、顔見知りの水島に|勿《もっ》|体《たい》ぶった笑顔を向けた。詰所の横で車を停めた水島は、 「いつもどうも」  と、言って、途中で買ってきたピースの|罐《かん》を窓からガードに渡した。 「毎度で済まんな。どうも洋モクは口にあわなくて……今日もウィリアムズ大尉のところかい?」 「そうなんですよ。よろしく」  水島は軽く頭をさげた。  ガードは腰に|吊《つ》った四十五口径G・Iコルトを見せびらかすようにしてデスクに向った。訪問カードに書きこむ。  本当は、電話を訪問先に入れて確かめないとならないのだ。しかし、それをやったら、もしウィリアムズ夫妻のどちらも留守のときには、水島をゲートの外で待たせないとならなくなる。タバコの手前、そうはいかなかった。 「有難う」  カードを受取った水島は再び車を走らせた。  府中エア・ステーションは東京周辺では一番小さな基地であろうが、それでもかなりの広さがある。劇場やボーリング場なども|揃《そろ》っていた。  水島は右にハンドルを切った。独身者用のビルの群れを抜ける。ヴェトナム戦線の激化で管制室勤務の独身軍人たちはタイや沖縄に大量に移動しているから、残していった車が雨ざらしになって|錆《さ》びかけている。もっとも、米人は普段も滅多に車を洗うようなことはしないが……。  芝生のなかに二軒一続きの家族持ち用の住宅が散らばっていた。  水島は、D九号のハウスの前の車道についた車置き場にコルチナ・ロータスを駐めた。車から降りると、鮮やかな手付きでローレックスの腕時計を|覗《のぞ》く。芝生を突き切った。  ベルを押すと、待ちかねていたようにドアが開いた。三十近い、|鳶《とび》|色《いろ》の髪と空色の|瞳《ひとみ》のウィリアムズ夫人が、両手をひろげていた。  水島が後ろ手にドアを閉じると、夫人がしがみついてきた。 「待たせたわね、スウィート・ベイビー……」 「御主人は?」 「昼前に勤務に出かけたわ。帰りは明日の朝よ……ねえ、待ちきれないわ。半月ぶりなんですもの」  水島の|喉《のど》に唇を|這《は》わしながら夫人は|喘《あえ》いだ。 「ガツガツするなよ、リズ。まず、商売の話が先だ」  水島は冷たく言い捨て、リズを振りほどこうとした。 「嫌……」 「分ったよ」  水島は左手でリズの髪を|掴《つか》んで仰向かせ、右手を腰にまわす。  リズは、水島に体を押しつけながら反応をさぐった。 「駄目ね、わたしは、こんなに燃えてるのに」  と、|呻《うめ》くように言う。 「そのかわり、燃えたら続くさ」  水島は笑い、リズを軽々と抱きあげて、勝手知った寝室に運んだ。  一時間後、ぐったりとしたリズは目を閉じたまま、横でタバコをふかしている水島に手をのばした。びっくりしたように瞳を見開き、 「本当だわ……まだ元気なのね?」  と、叫ぶ。 「嘘じゃなかったろう? ところで、あとでまた、射場に連れていってくれるだろうね?」  水島は白い歯を|閃《ひらめ》かせて笑いながら言った。リズを抱くのは、基地の射撃場で拳銃を射ちたいからだ。月に一度はトレーニングをしないと腕が鈍る。 「いいわ……あなたのためなら、喜んで」 「どうも……商売の話だが、ポルシェを売ると言うのは?」 「マイルズ少佐の奥さんなの。少佐は、いまヴェトナムだわ。奥さんは来月帰国するの」  水島の髪を|撫《な》でながらリズは言った。 「じゃあ、買い叩けるかも知れないな」 「わたしには、三千ドル以下では嫌だって言ってたわ」  リズは|呟《つぶや》いた。  駐留軍人も、|傍《はた》で見るほど生活は楽でない。日本にいるときは不合理なドルと円の交換レートのお|蔭《かげ》で楽が出来るが、本国に帰ればたちまち赤字家計になる。だからウィリアムズ夫人リズも、中古車の売り手を水島の勤めている会社に紹介してアルバイトをしているのだ。無論、日欧自動車だけでなくほかの会社も軍の機関紙“スターズ・アンド・ストライプス”に広告を出しているが、リズのような同国人が仲に入ると、売り手は日欧自動車が少々安すぎる買い値をつけても、いきなり怒りだすようなことはない。 「じゃあ、電話を入れておいてくれ。行ってみるから」  水島はリズの髪にタバコの煙を吹きこんだ。 「わたしも一緒に行ってあげるわ」 「どうして? 君は電話で紹介してくれさえすればいいんだ」 「だって、あの|女《ひと》、|凄《すご》い男好きなのよ。危なくて、あなたを一人ではやれないわ」 「馬鹿だな。もう僕はダウンしてるよ」 「本当かしら?……大丈夫のようね。じゃあ、電話してあげる。受話器を取って」  リズは言った。  水島が言われた通りにすると、リズはベッドに横になったまま、基地の交換嬢にマイルズ家の番号を伝えた。しばらくすると受話器から、腰部にずしんと響くようなセクシーな声が流れてくる。  二、三分しゃべり交わして、リズは電話を切った。水島は、浴室で髪を濡らさないように気をつけながらシャワーを浴びている。腕など常人の|腿《もも》より太く、ふてぶてしいほどの筋肉であった。     硝煙の匂い      一  府中エア・ステーションを出た水島哲夫のコルチナ・ロータスは、甲州街道を|飛田給《とびたきゅう》のほうに戻った。調布バイパスの左手に、関東村がひろがっている。  オリンピックのために立ちのいたワシントン・ハイツに替るのが関東村だ。水耕農場と飛行場跡を利用しただけに、奥のほうは|霞《かす》んで見えにくいほど広い。  関東村の正門のガードは拳銃を吊ってなかった。車を停めた水島は、マイルズ少佐夫人に面会を申しこんだ。  日本人ガードは、電話を取上げて夫人と話しあっていた。水島に面会カードを渡し、道順を教えた。  マイルズ少佐の住居は、佐官だけに一戸建てであった。ブラインドが降りている。銀色のポルシェ九一一は、|売り物《フォア・セール》と書いた紙をサイド・グラスに|貼《は》られて、カー・ポートで|蹲《うずくま》っていた。ヴェトナムに行っている亭主のものらしいフォードのセダンも見える。  水島は、コルチナ・ロータスのバック・ミラーでネクタイを直してから、玄関のインターフォーンのスウィッチを押した。 「カム・イン」  電話で聞き覚えのあるセクシーな声が返ってきた。水島はドアを開いた。  応接室は薄暗かった。ハイ・ファイがアンディ・ウィリアムズの暖かな声を流している。淡い間接照明が、ソファに脚を横ざまに投げだした女の、プラチナ・ブロンドの髪と白い顔を浮きあがらせている。  女は二十四、五であった。マイルズの後妻かも知れない。 「はじめまして。水島です」  水島は爽やかな笑顔を向けた。 「ミセス・マイルズよ。ルース・マイルズ……ルーシーと呼んで」  女の緑色の瞳に炎がついた。右手を差しだす。アタッシェ・ケースをテーブルに置いた水島は、優雅に体をかがめて、ルーシーの手をとり、その手の甲に唇を這わせた。  水島が手を離すと、ルーシーの唇は、ぬめるように濡れてまくれ上っていた。形のいい小鼻が開いている。リズが言ったように、相当の男好きらしかった。 「掛けて。今日は女中が休みなので、お構いも出来ないけど。一杯飲む?」  ルーシーは向いの|肘《ひじ》|掛《か》け椅子を示した。 「仕事中ですので」  水島は一応遠慮した。 「一杯ぐらい付き合って」  ルーシーは立上った。部屋の隅のカクテル・コーナーに歩く。美事な脚をしていた。  水島はタバコに火をつけ、応接室を見廻した。この家にも銃器ケースがある。ガラス越しに、五丁のライフルと、ホルスターに収まってぶらさがっている三丁の拳銃が見えた。 「飲み物はマルティニでいい?」 「有難う。ドライで」  水島は答え、銃器ケースに歩んだ。  ホルスターから|銃把《じゅうは》が突きだした拳銃のうちの一つは、銃把と撃針の形から、モーゼルH・SCということがすぐに分った。口径七・六五ミリのそのドイツ製自動拳銃は、水島が渇望している銃であった。米国製の軍用銃のように大きくないから服の下に隠すにも便利だし、ダブル・アクションだから|咄《とっ》|嗟《さ》に抜き|射《う》ちするにも便利だ。  あとの二丁はワルサーP38とベレッタ・ジャガー二十二口径の短銃身モデルであった。ワルサーは遠距離からの正確な|狙《そ》|撃《げき》に役立つし、ベレッタはズボンの下に隠せる。 「銃がお好き?」  ソファに戻ったルーシーが声を掛けた。 「失礼しました」  水島はまばたきして瞳の強い光を消し、テーブルのほうに向った。ルーシーは自分が坐ったソファの横を示した。水島が言われた通りにするとグラスを差し出す。二人はグラスを合わせた。ルーシーはグラス越しに水島を見つめる。黒いレースのスリップの裾と、好き心をそそる腿が覗ける。 「いかが、ポーシャは?」  ルーシーは呟いて、グラスに唇をつけた。ポーシャは、アメリカ流のポルシェの発音だ。 「乗ってみませんと」 「どうしても三千ドル欲しいのよ。帰国してから売っても、もっと高いお金になるわ」 「では、なぜ?」 「はっきり言うわ。日本でお金に換えて、そのお金でほかの物を買って帰りたいの。そのほうが儲かるのよ」 「…………」  こっちにしても、一年遅れのポルシェ九一一が三千ドルでは損な取引きではない……と、思いながら、水島は黙ってマルティニを口に運んだ。ジンにヴェルモットの匂いをつけただけのような超ドライなものであった。  ルーシーもカクテルを飲み干した。水島のほうににじり寄ってくる。 「そのかわり、拳銃をつけてあげるわ。三丁とも」  と、水島の腿に手を置いた。 「しかし、御主人が……」 「大丈夫。わたしのものよ。本国にいたとき、射撃好きなボーイ・フレンドからプレゼントされたの。日本に持ってきたときはスーツ・ケースに入れてたから、憲兵隊に登録されてないわ」 「本当?」  水島はルーシーの|顎《あご》に手をかけ、緑色の瞳を覗きこんだ。 「あなたが拳銃が好きなことはリズから聞いているわ」  ルーシーは水島に体をすり寄せて|囁《ささや》いた。左手でズボンの上から|愛《あい》|撫《ぶ》する。 「しかし、君が誰かにしゃべったら? アメリカに帰った君まで警察は追っかけないが、僕はどうなる?」 「大丈夫よ。わたしは絶対にしゃべらない。あなたを|捕《つか》まらすようなことはしないわ」 「どうして信用出来る?」  水島は左腕をルーシーに廻すと引き寄せた。優雅とも言える仮面は消え、その瞳にはジャングルのけものの光が宿っている。 「痛いわ……わたしを信用する方法は一つだけ。もう一つ、お互いの秘密を作ることよ」  ルーシーの瞳に霞がかかり、軽く開いた唇は濡れていた。 「分った」  水島とルーシーの唇はぶつかりあった。ルーシーを抱きあげた水島は、寝室のドアを|蹴《け》とばす。      二  二時間半後、水島は再び府中エア・ステーションのゲートをくぐった。すでに陽が落ちている。コルチナ・ロータスのトランク・ルームのなかには、ダンボールの箱に無造作に突っこまれた三丁の拳銃と、三百発ずつの七・六五ミリと九ミリの実包が入っている。  あれから、ルーシーは飢えきっていたように水島をむさぼったのだ。水島のしたたかな体力に|翻《ほん》|弄《ろう》され、 「あなたは虎よ! 食べて……もっと、食べて!」  と、|譫《うわ》|言《ごと》のように叫びながら、数えきれぬほどの波にさらわれたのだ。  ポルシェ九一一は、今日は三千ドルの契約書だけを交わし、明日半金を持参すると共に、立川にある駐留軍関係の|車輛《しゃりょう》専門の保税倉庫に運ぶことになった。  ウィリアムズ宅に戻ると、リズは御機嫌斜めであった。 「今まで、何してたのよ!」  と、|噛《か》みつくように言う。 「遅くなって済まなかった。試運転したり、値段の交渉が長びいたりしたんでね」  水島は苦笑いしながら椅子に腰を降ろした。 「試運転? 車のかしら?」 「決ってるじゃないか。機嫌直しに、外で夕食をどう?」 「ごまかさないでよ。本当に、あなたからはちっとも目が離せないわ。レスビアンが目が合っただけで同類に|嗅《か》ぎつけられるように、あなたも、色好みの女にはすぐに、そんな清潔そうな顔をしてながら、中味はどんな男なのか見抜かれてしまうんだから」 「よしてくれ。そう体が続くわけがないだろう。さあ、外出の支度をするんだ。その間に、僕は射撃用具を準備してあげるから」  水島は、前に廻ってきたリズの腰に頬をこすりつけた。 「やめてよ——」  リズは言ったが、疑念は解けてきたようであった。 「夕食は用意しておいたわ。あとは火を通すだけ。外だと、あなたと他人行儀に振るまわなければならないでしょう? それに、ハズの友達に見られるかも知れないし」  と、水島の髪を撫でる。  リズが台所に消えると、水島は受話器を取上げ、日欧自動車につないでくれるようにと、基地の交換嬢に言って、番号を知らせた。  会社には課長の竹森が残っていた。水島は書類を届けるのは明日になると連絡し、椅子の高い背もたれに後頭部を押しつけて|瞼《まぶた》を閉じた。  ルーシーの帰国は一カ月後になると言っていた。それまでは、もらった拳銃を使わないことにする。しかし、うまい具合に、憲兵隊に登録してない拳銃が手に入ったものだ。リズの拳銃は憲兵隊に夫が登録させられてあるから、水島がどんなに欲しがっても手に入れることが出来なかったのに……。  そんなことを考えながら、水島は睡魔に引きずりこまれた。  脂のはぜる音と香ばしい匂いが水島の目を覚まさせた。二十分ぐらい眠ったらしい。疲れはとれていた。水島はタバコを深く吸いこんで頭をはっきりさせ、そっと浴室に行って顔に浮いた脂を洗った。  夕食は一キロほどのステーキとサラダとジャガイモ、それにキャリフォルニア・ワインという、ありふれたものであった。  食事が終って一休みしてから、二人は水島の車で立川に向った。後ろのシートには、リズとその夫の三十八口径コルト・ゴールド・カップ自動拳銃を収めた携帯ケースが置かれていた。そのケースには、実包のほかに、監的用望遠鏡や分解掃除道具などが手ぎわよく格納出来るようになっていた。  リズは独身時代、|陸軍《ユー・エス・エー》にいたのだ。|座《ざ》|間《ま》のガン・クラブの主催する二十二口径ピストル・マッチでレディス・カップを獲得したこともある。空軍の夫とは射撃会で知りあった。  立川の街は、今はサラリーマンのベッド・タウン化していた。珍妙な英語のネオンを輝かしたバーやサロンの数は減ってないようだが、客の米兵の多くがタイやグアム島に移されたので威勢はあがらない。酔って暴れる米兵の姿も街には無い。  市内で一番|賑《にぎ》やかな北口の変則十字路に面して基地の正門がある。リズが手を振ると、ガードは水島のコルチナ・ロータスをフリー・パスさせた。  立川ロッド・アンド・ガン・クラブの屋内射撃場は、基地の奥の格納庫の並びにあった。ドアを開けると、大口径ライフルの衝撃波で|腸《はらわた》が揺さぶられる。屋内だから反響がひどいのだ。      三  射場のレンジは五十ヤードであった。二人は三人の大口径ライフル射手が射ち終るまでのあいだ、サロンでセブン・アップを飲んだ。水島から、ワインの軽い酔いは消えている。  二十分ほどでライフル射手たちは射ち終った。そのなかには、水島がキャンプ座間の大口径ライフル選手権大会で知りあった男もいる。二人は冗談を交わした。射座の後ろの幾つものドラム罐からは|空薬莢《からやっきょう》があふれそうになっている。  拳銃射撃は二十五ヤード・ラインまで前進する。椅子の上に携帯ケースを立て、監的スコープを据えた水島とリズは、それぞれの自動拳銃から弾倉を抜いた。  コルト・ゴールド・カップは、|軍用《ジー・アイ》コルトと形は似ているが競技銃だ。三十八口径でも、三十八スーパーの|自動《オートマチック》拳銃弾でなく、三十八スペッシャルの|輪胴式《リヴォルヴァー》の実包を使用する特殊な銃だ。  自動拳銃にわざわざリヴォルヴァーの実包を使用するように設計したのは、三十八口径スペッシャルのミッド・レンジ弾やワッド・カッター弾の、低速だが安定した弾道を利用するためだ。射撃だけにならパンチは必要でない。  しかし、周知のように、大口径自動拳銃実包はリムレスと称され、薬莢の尻のあたりは無起縁になっていて、|抽莢子《エクストラクター》は薬莢の尻に近いまわりにつけられた|溝《みぞ》を引っかけるようになっている。それに反し、リヴォルヴァー実包は|起縁《リムド》といって、薬莢の尻が|鍔《つば》のように張りだしている。  したがって、ゴールド・カップ・モデルは、試作当時は回転不良の連続であった。特にいちじるしい原因は、起縁の出っぱりのために、|装《そう》|填《てん》された実包がクリップ弾倉のなかで、発射の反動で勝手に動くためであった。  水島はレミントンの緑色の弾箱から、弾倉に平べったい鉛アンチモニー合金の弾頭を持つワッド・カッター弾を詰めていった。反動で実包が躍らないように、送弾板のうしろに浅い|窪《くぼ》みがついている。  競技用だから、五発しか詰らない。水島はリズに、 「あれから、旦那様は照門を動かしましたか?」  と、他人行儀に尋ねた。人前では要心深くないとならない。 「さあ、この頃はお金を|貯《た》めることにばっかり夢中で、銃なんか|弄《いじ》らないようよ」  リズは唇を|歪《ゆが》めた。  水島は照門の調節リングを調べてみてから、銃把の弾倉室に弾倉を叩きこんだ。遊底を引いて薬室に初弾を送りこむ。耳栓をつけた。  左手をポケットに突っこみ、楽なスタンスで標的を狙う水島の瞳は冷たく澄んだ。標的の黒円の下際に照準線を合わせて、軽く静かに引金を絞る。親指と人差指で作ったV字の中心に銃把をはさみ、その延長線が真っすぐ手首や腕の骨を通って肩に伝わるようにしていた。  快適な反動と|轟《ごう》|音《おん》が、自分はいま生きている、ということを自覚させた。|打抜き器《ホール・カッター》であけたように|綺《き》|麗《れい》な|弾《だん》|痕《こん》を残すのを特徴とするワッド・カッター弾だから、二十五ヤードの距離では水島の蛮人のように視力のきく瞳には、スコープを使わなくても標的にあいた着弾痕がはっきり見える。  弾痕は、センターからほんの少しさがった十点にあった。オーケイだ。照門を動かさないで次弾を発射すると、十点センターに真ん丸な弾痕があいた。銃身と薬室が暖まって、正規の着弾になったのだ。  十発射つまで、水島は一発も十点圏内から飛ばさなかった。その顔は木彫りの面のように無表情になり、瞳はますます澄みわたる。  リズは七点から八点のあたりにバラ|撒《ま》いていたが、拳銃射撃ではましなほうだ。|素人《しろうと》が射つと、握り方が悪いから、十メーターの距離から畳を狙って外すのはまだしも、自分の足許に土煙をあげて仰天するようなことも珍しくない。  水島は予備弾倉に装置してデスクに並べておき、速射のトレーニングをはじめた。  続けざまの銃声と反動、それに鼻をつく無煙火薬の匂いが、熱砂のソマリランドで特殊訓練を受けていたときの屈辱感、ギアナの泥沼でゲリラの集団に取囲まれて袋の鼠になり、自動小銃を乱射して血路を切り開くまでの腰がだるくなるような絶望感を不意に想いださせた。  いつしか、|冴《さ》えていた水島の瞳に、再びジャングルの|豹《ひょう》めいた光が宿り、その顔には殺気が|滲《にじ》み出た。  水島は半ば無意識のうちに、実戦用の膝射ちやしゃがみ射ち、それに左射ちと目まぐるしく姿勢を変え、素晴らしいスピードで弾倉を替えながら速射を続けた。  着弾は大きくバラつき、七点に飛ばしてしまったことさえあったが水島は気にかけなかった。たちまちのうちに四十発を同じ標的に射ちこむと、憑き物が落ちたようにその顔から殺気が消えていく。 「どうしたの?」  射撃を中止して水島を見つめていたリズが尋ねた。 「済みません。急に酔いが廻ったようです」  水島は呟いた。 「今夜はもうやめましょう」  リズは弾倉を抜いた。親指で弾倉の残弾を押し抜いた。  リズとは、彼女の住居から一ブロックほど離れたところで別れた。明日、ルーシーのところに半金を払いにくるとき、ついでに君に周旋料を持ってくるからどうせまた会えるのだ、と言って、キスだけで勘弁してもらう。  水島は、田園調布の多摩川に近いあたりにある大邸宅の離れを借りていた。引退した実業家である家主の孫三人に週に一度英語を教えるという条件で貸してもらえたのだ。  裏木戸の錠を開いて、水島は車を裏庭に突っこませた。離れは洋風の二間続きだ。植込みやちょっとした雑木林にさえぎられて、芝生のあいだにあるプールやテニス・コートの向うの二階建ての|母《おも》|屋《や》はほとんど見えない。夜は放し飼いにしているドーベルマンが三匹、車から降りた水島に鼻を鳴らして近づいてくる。  水島は犬たちを撫でてやり、裏木戸を閉じてから車のトランクを開いた。三丁の拳銃と実包の入ったダンボールを片手で抱いて離れの玄関を開いた。機械油の匂いがかすかに漂っている。     腕慣らし      一  それから、一カ月が過ぎた。ルース・マイルズは帰国した。  午前五時、水島哲夫は、田園調布の大邸宅の離れに借りている家で目を覚ました。火の気のない寝室で、素っ裸のまま、粗末なベッドから滑り降り、パーフェクションの石油ストーヴに火をつけて|薬《や》|罐《かん》をかけた。  素っ裸のまま、目の|粗《あら》いタオルで乾布摩擦する。|強靱《きょうじん》な筋肉が躍った。  壁が煉瓦、床が板張りになっているその寝室は工作室を兼ねていた。ブラインドとカーテンを降ろした東側の窓の手前に岩乗な工作台が置かれ、銃やモーター・サイクルの部品が転がっている。  工具のほうも、旋盤のような大がかりなものをのぞけば、大ていのものが|揃《そろ》っている。装弾器もあった。標準の下取り値段以下で中古車を買いつけたときには差額の三十パーセントの割戻しが出るから、工具を買う金を浮かせることが出来た。  西側の壁に寄せたスチールと耐火ガラスの銃キャビネットには、正式に許可を受けた一丁の自動散弾銃と幾本もの替銃身、それにライフルが二丁入っていた。  台所に近い床の上には、ホンダCB四五〇を改造したモーター・サイクルが置かれてある。全体を地味なアズキ色に塗り替えてあった。この寝室には、|母《おも》|屋《や》の佐々木家の者でも、誰も入れない。  乾いたタオルにこすられて、浅黒い皮膚が赤味を帯びてきた。薄い下着をつけた水島は、ガウンを羽織って、骨にしみるように冷たい水道の水で顔を洗う。|髭《ひげ》はまだ|剃《そ》らない。  台所の冷蔵庫から、一キロほどのボロニア・ソーセージと黒パン二切れ、それにトマト・ジュースを持ってきて寝室に戻った。ベッドに腰を降ろすとその朝食を平らげた。  立上り、工作台に載っている交流利用のマグネットのコードをコンセントに差しこんだ。そのコイルを捲いたマグネットを持ち、銃キャビネットの横の壁の前に|蹲《うずくま》った。煉瓦は普通のものの倍ぐらい大きい。  マグネットのスウィッチを入れ、壁の煉瓦の一枚に寄せる。マグネットは、煉瓦のほうに引き寄せられた。  水島はマグネットのほうを引いた。壁の煉瓦が一枚抜けてくる。その煉瓦の裏に鉄塊がはめこまれているからだ。煉瓦が抜けたあとに、暗い孔が姿を現わす。  水島は抜いた煉瓦をマグネットで|吊《つ》って床に置いた。かなりの重さだ。マグネットのスウィッチを切る。  暗い孔に左腕を突っこむ。外壁と内壁のあいだに空洞があるのだ。この離れを借りてしばらくたったとき、酔っぱらって壁にハンマーを投げつけた拍子にその空洞を発見した水島は、そこを隠し物入れに利用しようと考えついたのだ。  水島の左手は、予備弾倉入れのポケットがついた|革ケース《ホルスター》に入ったワルサーP38を引っぱりだした。ルースから手に入れた拳銃のうちの一つだ。腰のベルトに吊る形式のホルスターは、肩から吊るように改造してある。  水島はその拳銃を|腋《わき》の下に吊った。右脚にハンティング・ナイフを縛りつけてから、バックスキンのジャンパーと、カモシカの毛皮を裏に張った作業ズボンをつける。上下つなぎの革のレーシング・スーツをつければ寒さを防ぐ上でも単車を操る上でも一番いいが、その格好では目立ちすぎる。  マスク付きの銀色のヘルメットの上にスモークド・ブラウンの|防塵眼鏡《ゴ ッ グ ル》をかけ、水島は薄いゴム手袋をつけてから革手袋をはめた。ストーヴの火を弱め、大きな古靴をはくと、台所に近い床の上に置いたCB四五〇の単車を軽々と押して庭に出す。  もともと百九十も重量のあるその単車は、余分な重量を取り去られ、あるいは軽量の材質のものに替えられるなどして百五十キロまで減らしてあった。  車体だけでなく、動力部分も水島の手でチューン・アップされていた。個人でチューンする場合には二サイクル車のほうが楽な上に安上りだし、効率もいいが、四サイクルにはパワーを発揮する回転数の幅が広いという利点がある。常にエンジンの回転を一万数千に保って走る純レーシング車とちがって、水島はこの車を、公道上で早く走れるように改造してあるから、低速でも走れないことには困るのだ。  離れの横では、水島のコルチナ・ロータスが一月の霜を受けて真っ白になっていた。植込みの向うの母屋はまだ寝静まっているようだ。犬たちも小屋で震えているらしく、庭に姿を見せない。  ホンダを押して裏木戸を出た水島は、木戸を閉じると、多摩川の堤の上まで押し続けた。排気音で近所の人たちを起したくなかった。  その改造車は、スタンダード車ではコーナーで車体を左に寝かしたとき、すぐに接地してしまって危険なメイン・スタンドを外していた。右に寝かしたとき接地するブレーキ・ペダルは取付け位置を上げている。  空冷並列二気筒ダブル・オーヴァヘッド・カムのエンジン部は、ちょっと見たところ、エア・フォーンに金網を張ったレース用CR二連キャブレターが目立つ程度だが、内部は徹底的に研磨されて抵抗をへらしてある。それと、圧縮比やカム・シャフトなども高速用に替えてあるのは無論だが、公道用に、レース用よりはわざと押えてある。  それでも、エンジン部だけでなく、ミッションやスプロケットまで研磨し|磨《す》り合せをしたせいで、エンジン出力八千五百回で四十三馬力であったCB四五〇は、後輪出力でも一万回転で五十馬力以上にあがっている。二万回転以上ブン廻して百馬力ぐらい絞りだすエンジンに改造することだって水島の腕なら出来ないことはないだろうが、そんな無理したエンジンでは半時間と|保《も》たない。      二  水島は燃料コックを開き、エンジン・キーを廻した。チョークを引き、短く切ったキック・ペダルに体重をかけた。セル・モーターは外してある。  キック一発でエンジンはかかった。放熱効果をあげるため、わざと熱で|赤《あか》|錆《さ》びになったままの二本のメガフォーン・マフラーから、低くこもったような排気音が|呻《うめ》き出た。熱膨張を計算してシリンダーとの隙間を大きくとったピストンの打音がうるさい。  しかし、チョークを戻し、アクセル・グリップをひねると、|凄《すさ》まじい排気音が|咆《ほ》え狂い、回転計の針は、一瞬にして一万一千まで目盛ったスケール一杯に跳ね上った。  アクセルを素早く開閉し、四千回転から千五百回転のあいだで五分間ほどエンジンをウォーム・アップした。タコメーターの針が跳ねあがっては跳ね返ってくる。アクセルを一杯に戻し、千二百回転でアイドルさすと、ピストンのラップは消えていた。  午前六時であったが、冬の夜はまだ明けてなかった。河原は闇に包まれている。CB四五〇にまたがった水島は、ゴッグルを目の上に降ろした。  ヘルメットとゴッグルとマスクで、水島の顔は覆面したように隠された。ヘッド・ライトをつける。強烈なロング・レンジの|沃素入り《アイオディーン》のランプに替えている。  ローにチェンジ・レヴァーを踏み降ろし、水島は三千回転で左手のクラッチ・レヴァーをゆるめた。そんな低回転でも、改造車はスムーズにスタートした。チェンジ・レヴァーを|掻《か》き上げていくと、わずか二千回転で五速に入れてもエンジンは苦しがらない。車速わずかに四十キロ。素晴らしく柔軟な改造エンジンであった。  ミッションが暖まると、水島は五速から一速まで一気にシフト・ダウンし、アクセルを開いた。  前輪を宙に持ちあげた四五〇は、強烈な加速に移った。四速一万一千回転で百八十キロに達する。  |物《もの》|凄《すご》い風圧だ。水島は上体を前に倒し、ガソリン・タンクの|窪《くぼ》みに敷いたスポンジの上に|顎《あご》を埋めている。  五速にシフトしたが、百九十五までしかスピードは上らなかった。空気抵抗のせいだ。レーシング・マシーンのように|流線型風防《カ ウ リ ン グ》をつけたら二百二、三十には達するであろうが……。  最高速はたいしたことがないかわりに、加速のほうは、発進してから、四百メーターを走り切るまで十二秒台という凄まじさだ。たちまち水島の単車は、第三京浜の脚下に近づく。そこで通行止めになった道は堤の下に折れている。  ブレーキとギアで百七十までスピードを落した水島は、堤の下の道に加速しながら突っこんでいった。  水島のコーナー・ワークは、イン・コーナーに車体を倒すだけでなく、突きだした|膝《ひざ》も腰も内側に移動させる“ハング・オン”スタイルだ。コーナーの立上りで反対側に体重を移動させるときの腰の動きも鮮やかだ。レース用でないダンロップ・ゴールドシールの高速用タイアは派手に煙を吐いた。  二子橋の手前で厚木街道に入った水島のCB四五〇は、新装なった広い街道を、|沃《よう》|素《そ》ランプで闇を切裂きながら、黒い疾風のように吹っ飛ばす。追い越される四輪は、まるで停っているようだ。  横浜港北区に入ってから、水島は右に折れる山道に単車を突っこませた。舗装は悪いが、マン島TTレースの行われる公道も同じ程度であった。曲りくねった道で、水島の単車のギア・チェンジの|空《から》ぶかしの排気音が悲鳴をあげる。  |柿《かき》|生《お》の先で世田谷—町田街道……旧称大山街道に入ったときには、田園調布を出てから十五分もかかってなかった。  大山街道を左に折れて町田に向う道は、鶴川を抜けてさらに左に折れると、適度のカーヴが連続した快適なワインディング・ロードだ。人家はひどく少なくなる。  はじめ道の左に接していた丘が切れ、右側の丘が道に迫ると、今度は木倉のあたりで道の左右が丘の断面になった。  水島はエンジンを絞った。道の左の丘の手前でブレーキをかける。ギアをセカンドに落し、ガード・レールの切れ目から、落葉が霜で光る、幅一メーターもない農道に突っこませた。  一度街道からくだった農道は、丘の上に登っていた。ギアをローまで落すと後輪が道を掘るおそれがあるので、水島はエンスト寸前にシートから跳び降り、単車を押しあげる。足やタイアの下で、落葉が割れ、霜柱が砕けた。  すぐに、農道の脇に背の高いカヤの茂みがあった。水島は単車をその中に隠し、サイド・スタンドを立ててエンジンを切った。  特製のシートのバンドを外して持上げると、その下の荷箱に、ズックのリュックと工具、それにナンバー・プレートが入っていた。いまCB四五〇についているのは盗品で本物のプレートはこっちのほうなのだ。  リュックを手にし、水島は街道に面したほうに移動した。丘の雑木林はほとんどの木が葉を落していたが、サカキの茂みはまだ青かった。  水島はサカキの茂みの蔭にリュックを敷いて腰を降ろした。もうこれで合計して一週間も、出勤前にここに坐ったことになる。  やがて夜は白んできた。上空をカラスやキジバトの群れが通りすぎ、|畠《はたけ》のへりで、コジュケイが威勢のいい鳴き声を張りあげる。水島はタバコに火をつけ、掌で火口を|覆《おお》って煙を吸いこみながら、今日こそは邪魔者が入らないように、と祈った。      三  週日には一日置きに、八時から八時十分ぐらいのあいだに、日本橋の本店を出発した東和銀行の現金輸送車のうちの一台が、ここを通過する。まず町田支店、次いで大和支店、それから厚木支店で現金類を降ろし、厚木街道を通って本店に戻っていく。そのことを、水島は尾行して確かめてあった。  水島は、野望を達成するための手段の手はじめとして、その現金輸送車を狙うことに決めたのだ。しかし、これまで何回も、他車の邪魔が入って、決行に移る決断がつかなかった。  現送車の連中や目撃者を消してしまっていいのなら、はじめから決行している。しかし水島は、出来ることなら殺しは避けたかった。  ジャングルで、あまりにも殺しすぎ、殺しに飽きたためかも知れない。ともかく、|綺《き》|麗《れい》な仕事がしてみたかった。  水島の野望——それは、|厖《ぼう》|大《だい》な金を握り、自分が支配する地上の楽園を作りあげることであった。  その王国では、善も悪もない。ただ、水島の意思によって、すべては決められる。そこでは、水島が神であり、法であるのだ。権力に反撥してきた水島には、いつの間にか権力への渇望が芽ばえていた……。  三本目のタバコを|揉《も》み消し、銀紙に包んで吸殻をポケットに仕舞ったとき、腕時計のローレックスは七時五十分を示した。  朝日が昇り、街道に車の往来が増えていた。水島は革手袋を脱ぎ、ジャンパーのジッパーを少し引き降ろした。腋の下のホルスターからワルサーP38を抜く。まだ手には薄いゴム手袋がついているから、指紋の心配は要らない。  水島はP38の|銃把《じゅうは》から弾倉を抜いてみた。弾倉上端には、弾頭を極端に削り縮めた実包が見えた。  水島が、弾頭をひどく軽量化し、超高速弾として使えるように改造した実包だ。そのような高速弾は、命中すると自分の弾速で燃え尽きてしまって、ライフル・マークを残さないという利点がある。  それと同じ超高速弾は、薬室にもつめられている。水島はマスクとゴッグルの下で冷たく笑い、弾倉を銃把の|弾《だん》|倉《そう》|枠《わく》に叩き戻した。超高速弾での弾着実験も山の中で済ませてある。  丘の奥のほうでハンターが鳥かウサギを目がけて|射《う》ったらしく、散弾銃の軽い銃声が響いてきた。水島は街道に視線を放って、ワルサーの撃鉄を親指で起した。ダブル・アクションになってはいるが、発射前に撃鉄を起しておいたほうが引金が軽くなって命中率がいい。特に、動く標的には……。  街道に車の姿が消えた。次の瞬間、カーヴの蔭から、青いトヨタ・マスターラインの|二《ツー》ドア・ライトバンが姿を現わし、こちらに近づいてくる。  運転台には三人乗っていた。荷室の窓には鉄格子と金網が張られている。ボディに東和銀行連絡車と書かれてあるが、実際には現金輸送車なのだ。  水島はサカキの茂みから、ワルサーを握った右手をのばした。時速七十で近づいてくる現送車の左前のタイアに狙いをつける。  タイアの動きに合わせて、水島はスムーズに銃口を流しながら二発流し射ちした。  外れとは思わない。現送車から視線を外し、空に舞いあがった二発の空薬莢を左手で器用に受けとめ、まだ熱いそれをポケットに仕舞った。  続けざまの鋭い銃声と共に、現送車は左前輪を射ち抜かれていた。タイアが|炸裂《バースト》し、車はバーストしたタイアを軸にしてスピンした。  半回転したマスターラインは、低いガード・レールを突き破り、一メーター下の|田圃《たんぼ》に鼻先から突っこんだ。|轟《ごう》|音《おん》をたててフロントが|潰《つぶ》れ、ボンネットが開いた車は、ゆっくり横倒しになる。  衝撃でフェインダーははがれ、ラジエーターは大量の湯気を吹きあげていた。ガラスは割れ、ドアは開いている。  マスターラインがガード・レールを突き破ったときから、水島はそのほうに視線を戻していた。  尻に敷いていたリュックを左手に|掴《つか》んで斜面を駆け降りる。手負いの|猪《いのしし》のように|灌《かん》|木《ぼく》の枝を体でへし折りながらの、素晴らしいスピードであった。  走りながら水島は、ワルサーP38の安全弁を親指で押しさげた。撃発されて起きていた撃鉄が自動的に倒れて撃針を叩くが、その前に撃針はロックされているので、撃鉄の打撃力は薬室の実包には伝わらない。ワルサー独特の安全装置だ。  田圃は固く凍りついているので、足がぬからずに済んだ。横倒しになった現送車に駆け寄ってみると、ファンが折れたエンジンはまだ|痙《けい》|攣《れん》するように廻っていた。  運転台では、三人の行員が折り重なって失神していた。水島はガソリンに火がつかないように手をのばしてエンジン・スウィッチを切り、車のうしろに廻る。ワルサーはズボンのベルトに差し、ジャンパーの裾で隠すようにしていた。  衝撃でテール・ゲートのドアは開いていたが、窓ガラスは砕けても、鉄格子と金網のせいで、荷室のなかのものは外に飛びだしてなかった。  水島は荷室のなかにもぐりこんだ。|鍵《かぎ》がかかった三個の革製の箱がある。水島はズボンの裾をまくり、ゾリンゲンの細身のハンティング・ナイフを抜いた。  そのナイフを革箱の一つの蓋に突きたて、一気に円形に切裂いた。紙幣の束と硬貨を棒状に包んだ紙、それに証券類が見える。  水島は五百円札以上の紙幣にだけ手をつけた。札束をリュックのなかに次々と放りこむ。次の革箱の中身も同じようにして、最後の革箱の札束をリュックに移しはじめた。  そのとき、車の外から、 「何をしてる!」  と、いう鋭い中年男の声がかかった。水島は最後の札束をリュックに移し終えるとゆっくり振り向いた。     殺意      一  街道に二台の車が|駐《とま》っていた。軽トラックとライトバンであった。  そして、街道の下の氷が張った田圃に、土建屋風の中年男と作業服をつけた若い男がいた。二人とも、モンキー・レンチを握りしめていた。  振り返った水島の手にナイフが光っているのを見て、二人の男は逆上した表情になった。 「ナイフを捨てろ!」  と、わめく。  水島は横倒しになった現金輸送車のなかから跳び出した。その水島に、若い男のほうがモンキー・レンチを鋭く振り降ろした。  水島は横に体を倒し、片膝を田圃に突きながら打撃を避けた。中年男が水島に体当りしてくる。  水島は一瞬ためらった。しかし、殺しは避けたくとも、自分が危なくなったときは話は別だ。現実は甘くない。  目にもとまらぬスピードで突きだされた水島のハンティング・ナイフは、中年男の|肋《ろっ》|骨《こつ》の隙間をくぐり、心臓を斜め下から貫いた。鹿の角で出来た|柄《え》のあたりまでくいこんだ。  素早く体を起した水島は、バック・ステップして、若い男の第二撃を避けた。がっしりとした体格のその男は歯を|剥《む》きだして、再びモンキー・レンチを振りかぶった。  水島はその若い男とすれちがうようにしながら、右の手刀を相手の|喉《のど》に水平打ちした。重い|斧《おの》のような手刀であった。五寸柱を叩き折るエネルギーを|孕《はら》んでいる。  喉仏が潰れ、|頸《けい》|椎《つい》が砕ける無気味な音がした。若い男は、爆風をくらったように吹っとぶと、|俯《うつ》|向《む》けになって死の痙攣をはじめている。顔は不自然にひん曲り、首のうしろを突き破って骨が露出していた。 「余計な世話を焼くからだ」  水島はマスクの下で|呟《つぶや》いた。  中年男のほうを見る。その男は胸に刺さったナイフの柄を両手で掴んで坐りこんでいた。頭をガックリと垂れ、もう身じろぎもしない。|瞳《どう》|孔《こう》は開きかけていた。  血が自分にかからないように、水島はその男の背後に廻り、肩ごしにナイフを抜いた。傷口のまわりの筋肉が収縮しているので、かなりの力を必要とした。  心臓の動きはとまっているので、血の噴出は大したことがなかった。水島は死体の上着でナイフを拭った。  自分のズボンの裾をまくり、脚にくくりつけた|鞘《さや》にナイフを収めた。現金輸送車の荷室から取出したリュックを背負い、単車を隠してある丘に走った。  丘にたどりつき、雑木林のなかに身を隠したとき、街道の左右から来た車が現送車が引っくり返っているあたりで急停車するのが見えた。車から人が跳び出す。急停車する車の数は増えてつながった。  水島は、百五十キロに減量したホンダCB四五〇をかつぎ上げた。首の筋肉と血管がふくれあがる。杉の木のあいだをホンダをかついで尾根道に登る。その姿は、樹々にはばまれて街道や|田《た》|畠《はた》からは見えない筈だ。  尾根に出ると、ズボンのベルトから抜いたワルサーP38を腋の下のホルスターに戻した。ホンダのエンジンを|蹴《け》り掛け、走り出させながらバックスキンのジャンパーのジッパーを引き上げた。八時十二分であった。  尾根道はまだ固く凍っていたので、ぬかるんでいるよりは、はるかに走りよかった。おまけにタイアの跡も残さない。  狭い尾根道を一杯に使い、次々に現われるコーナーでは、道の脇のカヤや雑草を膝で|薙《な》ぎ倒すようにして、水島は高速でCB四五〇改造車を飛ばした。真っすぐ行けば玉川学園前に出る。  しかし水島は、途中で左に折れた。道とも言えぬ丘陵地帯のけもの道を、セカンドとローのギアを使って激しく上り降りする。  時には転倒をまぬがれるために足をついたり、窪地や低い|崖《がけ》をジャンプしたり、急坂を押して登ったりする。無論、けもの道でさえないところも通らなければならなかった。  まるで、モトクロス……スクランブル・レースだ。途中、エンジンの力が落ちてきて水島の背筋に冷たいものが走ったが、原因がキャブの金網にへばりついた枯草と分って、|安《あん》|堵《ど》の|溜《ため》|息《いき》が出た。  十五分後、CB四五〇は、鶴川の手前で一度世田谷—町田街道に出た。世田谷方向に一分も走らぬうちに、向うからサイレンを|咆《ほう》|哮《こう》させ赤ランプを回転させたパトカーや白バイが突進してきた。  水島の瞳はゴッグルの蔭でジャングルの|豹《ひょう》のような光を帯びた。しかし、パトカーや白バイは水島の単車を無視して、町田のほうに素っ飛んでいく。  現送車が襲われた現場にいそいでいるのに違いなかった。水島は緊張を解き、マスクの下で唇を|歪《ゆが》めた。  街道は上りになった。柿生とのあいだの坂だ。坂の手前に右に折れる道がある。夜明け前に通ってきた道だ。入口のあたりだけは素晴らしい舗装だ。水島はフラッシャーを点滅させ、鋭くターンしてその道に突っ込む。その道は約八キロ先で厚木街道と交差している。      二  水島のCB四五〇が田園調布に戻ってきたのが八時四十分であった。ラッシュ・アワーにかかっている厚木街道と多摩川堤を、図体の大きな四輪では決して出せない平均スピードで、疾風のように飛ばしてきたからだ。  ギアをニュートラルに入れて惰行させ、離れを借りている佐々木家の裏口に近づいた。裏木戸を開く。番犬たちは陽が出てからは|繋《つな》がれているので、一匹も寄ってこなかった。  コルチナ・ロータスの窓ガラスには、まだ霜が残っていた。水島は離れの台所にCB四五〇を押し入れる。ヘルメットやゴッグルなどを外した。  寝室は石油ストーヴと|薬《や》|罐《かん》の湯気で暖まっていた。水島は背負ったリュックを降ろし、なかの札束をざっと数えてみた。  少なくとも一億は越えている。紙幣は新旧が混り、通しナンバーではない。水島の唇から低く口笛が流れ出た。  札束を壁のなかの空洞に隠した。バックスキンのジャンパーを脱ぎ、腋の下に吊ってあったワルサーP38もホルスターごと空洞に仕舞い、レンガの蓋を差しこむ。  薬罐の湯を半分使って顔を洗い、手早く髭を剃ると、薄く脂が浮いていた|精《せい》|悍《かん》な顔付きが、爽やかな微笑を取戻した。薬罐の残りの湯でナイフを洗う。  背広に着替え、靴もはき替えた。アタッシェ・ケースを持ってコルチナ・ロータスに乗りこんだのが八時五十分であった。  水島の勤めている日欧自動車は、九時半までに出社すればいいことになっているが、それも出社前に客のところに顔を出したと言えば、二時間や三時間遅れたところで文句は言われない。水島が日欧自動車に勤めた理由の一つは、時間の自由が比較的あるからだ。昼間だって、客に会いに出ると言って会社を出れば何をしようと勝手だ。  しかし、今朝だけは、タイム・レコーダーに九時半前には出社した証拠を残しておかなければならない。万が一のときのアリバイ作りのためだ。ヘリコプターでも使わないことには、現送車が襲われた町田の山のなかの現場からラッシュ・アワーの混雑をくぐって一時間二十分以内に赤坂まで行くことが出来るわけはないと捜査陣は考えるだろう。  チョークを引いたまま、水島はコルチナ・ロータスを走らせた。冷えきったギアはひどく入りにくい。霜が溶けきらぬ前窓ガラスは視界をさまたげる。  しかし、そんなことは、豪雨のサーキットでワイパーとミッションのシンクロ・リングのイカれてしまった車で、水煙に包まれた前車を抜いていく想いにくらべたら楽なものであった。  先行車を続けざまに抜きながら多摩川堤を丸子橋に出たときには、水島はチョークを戻し、デフロスターを入れていた。ラッシュの中原街道を都心に向けて吹っ飛ばす。一瞬のチャンスを見て瞬間的に追越しや追抜きをかけるから、水島の車の動きはあまり目立たない。カー・ラジオのスウィッチを入れているが、町田での事件のニュースはまだ放送してない。  いつもなら、本当に急いでいるときには、赤信号にぶつかったときは警官の目を盗んで一度左折し、Uターンして交差点に戻ってもう一度左折するなどの|荒《あら》|業《わざ》をやることがあるが、今朝は万が一にも|捕《つか》まったりしないように交差点では|大人《お と な》しく待つ。  それでも、赤坂表町にある日欧自動車のビルの前のパーキング・ロットに車を突っこませたときは九時二十分にもなってなかった。  トレンチ・コートを羽織った水島は守衛に朝の挨拶をし、受付の女の子に車の|鍵《キー》を預けた。タイム・レコーダーを押す。  二階の第二営業課の部屋に入ると、まだ次長の星野と同僚が二、三人来ているだけであった。お茶を飲みながら、新聞を読んだり雑談したりしている。壁にはめこまれたスピーカーがラジオの音楽を流していた。 「お早うございます」  水島は明るい声で次長に言った。 「やあ、お早う」  次長は答えて業界新聞を再び読みはじめた。  臨時ニュースが朝の音楽を中断させたのは、水島がお茶|汲《く》み嬢の運んでくれた湯呑みに口をつけたときであった。 「……東和銀行の現金輸送車が襲われ、一億円を越す現金が奪われ、その上、目撃者と思われる二人が殺されました。町田署と警視庁捜査一課は合同捜査本部を町田署にもうけ、犯人を捜査中です……今朝八時頃、都下町田市木倉の世田谷—町田街道で東和銀行日本橋本店の現金輸送車が何者かによって前輪をパンクさせられ、スリップして下の田圃に転落させられた上、運転していた東和銀行本店の文書課輸送係の三崎一郎さん三十四歳と同乗していた同じ課の警備係山本吾一さん三十八歳、それに営業部大口|出納係《すいとうがかり》の坂本光夫さん四十歳が気を失っている隙に、現金輸送車に積んであった現金の大部分が奪われました。被害金額は一億二百万三千円と判明しました。  なお、現金輸送車のそばから二つの死体が発見され、運転免許証から、|相模《さ が み》|原《はら》市大沼の建設業森田雄造さん四十五歳と世田谷区|砧町《きぬたちょう》の水道配管業大崎守さん三十歳と分りました。  森田さんは心臓を鋭利な刃物で一突き、大崎さんは喉の気管と首の骨を鈍器様のもので粉砕されたのが死因であり、二人とも仕事先に向う途中で現金輸送車襲撃事件を目撃したために殺されたものと推定されます。  町田署は事件発生の推定時刻から十五分以内に事件現場の周囲五キロの各道路に非常線を張りましたが、犯人はまだ捕まっていません。  なお、合同捜査本部は、現金輸送車のタイアをパンクさせた弾頭様のものの破片を採取することが出来ましたが、弾頭は文字通り粉々になった上に高熱で溶けていて、ライフル・マークが残っていないために、捜査は難航する模様であります。いずれにしても、犯行の手口から見て単独犯ではなく数名の共犯との見方をとっています。現場はただ今、通行止めになっていますので、ドライヴァーのかたは|迂《う》|回《かい》をお願いします……」  再び音楽が流れた。  ニュースの発表が遅れたのは、信用失墜を怖れた東和銀行の必死の工作のためかも知れない。      三 「派手なことをやった奴がいるもんだな」  臨時ニュースに聞き耳をたてていた次長の星野が呟いた。 「一億か。一度は自分の手に持ってみたいですね」  査定係の牛島が言った。 「だけど、犯人は何人もいるらしいって言ってましたね。山分けしたら、大した額にはならないんでないですか? 現金輸送車と言っても、案外金を積んでないんですね」  牛島の隣の入谷という男が言った。 「そりゃ、現金輸送車と言ったって、時と場合によって、何十億も積むことだってあるだろうし、百万単位しか積まないことだってあるさ。まあ、一般的に言えば大企業を沢山ひかえてる支店に運ぶときには、金高はもっと大きくなるだろうがな——」  星野は物知り顔で言い、 「ところで、一億円が手に入ったとしたら、君たち、何に使う?」  と、皆の顔を眺めまわした。 「フェラリとマンションを買って……」 「僕は女だな。一晩五万ずつ女に使ったとしても、二千人の違った女が抱ける……畜生」 「もう一億が手に入った気になったのか?」  水島の同僚たちは空想の羽をのばした。 「水島君、君ならどうする? ニヤニヤ笑ってないで……」  星野も笑いながら言った。 「さあ、一億と言われてもピンときませんが、半分は定期にして、あとの半分は遊びに使ってしまうでしょうね」  水島はもっともらしく言った。 「定期か。マジメ人間だな、君は」 「次長なら?」 「そうだな……うちの会社の株でも買うか。重役になったら、君たちを取り立ててやるよ」  星野は胸をそらせた。  そのとき、始業のベルが鳴り、壁のスピーカーは沈黙した。  その頃から、残りの営業課員や課長がやっと出社してきた。また一しきり、現金輸送車から奪われた金のことで話がはずむ。  水島は、そのあいだ、苦笑いを押えるのに苦労していた。だが、有頂天にはとてもなれない。まだ後始末しなければならないことが残っているのだ。  PRマンを兼ねた水島は、フィアット・ディーノ・ベルリネッタがボンネットを開いて二リッター百六十馬力のV6ダブル・オーヴァヘッド・カムのエンジンを見せている写真を主題にして、あたかもフィアットの全車種にはエンジンではフェラリ、ボディ・デザインではピニンファリナの協力をえているという錯覚をユーザーに持たすような文案をメモに書き散らしていた。  そのとき、電話が鳴った。水島は受話器を取りあげる。  電話の相手は、玉川用賀にあるアバルト・カー・クラブの会長山口であった。 「どうなりました、このあいだの話?」  と、水島に尋ねる。  アバルト・カー・クラブは、三月からはじまる全日本ドライヴァーズ選手権シリーズと四月以降のクラブ対抗レースに、フィアット六〇〇Dのエンジンをベースにしたアバルト一〇〇〇ビアルベロを出場させるについて、日欧自動車の全面的バック・アップを要求しているのだった。  アバルト・ビアルベロは、日欧自動車が輸入してアバルト・カー・クラブに売った。日本グラン・プリには、国産プロトタイプにかないっこないから出場しない。 「出来るだけ御希望に添えるようにと、社長と交渉中です。いまから、また、社長と話しあってみて、結論が出しだい、そちらに伺うことにします」  水島は言った。どんな口実でもいいから、会社から出て自分の家に寄る積りだ。 「アバルト・シムカのほうは、シムカさんのほうでオーケイをくれましたよ。お宅さんのほうであんまりモタモタするんなら、援助はお断わりします。そのかわり、レースのときは、わざとゆっくり走ってフィアット・アバルトの名を落させますから、と社長に伝えてください」  山口会長は|嚇《おど》しをかけてきた。アバルト・カー・クラブは、一三〇〇CC以下のクラスにビアルベロを出すほか、二〇〇〇CCから一三〇〇CCまでのクラスにアバルト・シムカ二〇〇〇も出場させるのだ。いずれも年間生産五十台以上のグループ4のスポーツ・カー(GT)のクラスに出場出来る。 「こいつは手きびしい。分りました。さっそく社長に会ってみます」  水島は電話を切った。  アバルト・カー・クラブの要求は、各レース前の練習時に使うサーキットの使用料、二人のメカニック、それに消耗したり破損したりした部品などを日欧自動車に無償で提供しろというものだった。そのほか、タイアやガソリンなどのメーカーに話をつけて、それらをタダでクラブに使わせるように交渉してくれ、という要求もあった。  水島は課長と次長に声をかけてから、三階の社長室に登った。女秘書に|粋《いき》な笑いを投げながら取次ぎを頼む。  社長の武田は、|痩《や》せこけて背の低い男であった。水島は山口の言ったことを伝えた。 「何だと、それじゃあ恐喝じゃないか?」  武田は葉巻を汚ならしく|噛《か》みながら言った。 「ええ。でも、可愛気があるほうですよ。車自体も貸せというクラブが多いんですから」 「畜生、言うなりになったら月に百万ずつは軽く飛ぶ」 「宣伝費ですから……」 「仕方ない。折れよう。それで、アバルト・ビアルベロが出たら必ず勝算はあるのかね?」 「相手は主にトヨタとホンダのスポーツの八〇〇CCですが、まあ頑張ってもらいたいもんですね」  グループ4に改造したら空冷二気筒のトヨタ・スポーツ八〇〇でさえも直線では二〇〇キロ近く出すのだ。それにロード・ホールディングのよさはアバルト・ビアルベロより一段上だ。     悔恨      一  三十分後、水島は会社を出た。  玉川通りを大橋のあたりに来たところで水島はコルチナ・ロータスを脇道に突っこませて停めた。  酒屋の赤電話で、アバルト・カー・クラブの事務所にダイアルを廻した。会長が電話に出ると、 「水島です。いまお伺いしている途中なんですが、車のミッションがイカれてしまいましてね。修理してからそちらに着くようになると思いますので、二時間ほど遅れます。よろしいでしょうか?」  と、言う。 「そりゃ、大変だな。いいですよ。それで、社長の意向は?」  カー・クラブの会長山口は尋ねた。 「大体、御満足していただく線は出ました。くわしくは、お会いした上で」  水島は答えた。  車に戻ると、再び玉川通りに出た。環状七号から中原街道を通り、田園調布に離れを借りている佐々木家のほうに向った。  佐々木家から二百メーターほど離れた空地にコルチナ・ロータスを|駐《と》めた。歩いて佐々木家の裏口に廻る。午前十一時の高級住宅街に人影は無かった。  裏木戸をくぐって水島は離れに近づいた。離れに入ると、ドアに|鍵《かぎ》をかけ、さっそく作業服に着替えた。  犯行のとき使ったホンダCB四五〇から、ドライヴァーでナンバー・プレートを外す。そのナンバー・プレートは偽造品であった。  外したナンバー・プレートのかわりに、サドルの下の荷箱から外した本物のプレートを付けた。二個のキャブレターのエア・フォーンにゴム・キャップをかぶせたCB四五〇を狭い浴室に運び、水道の水で泥や草の切れ端を徹底的に洗い流した。もし、犯行現場の近くに特有の土質や植物があるとすれば、それが付着しているとまずいことが起るかも知れない。  偽造プレートは、カッターで一センチ四方の破片に切断した。それを麻袋につめ、背広に着替えて屋敷から出た。  コルチナ・ロータスに戻ると、多摩川堤を走らせながら、薄いゴム手袋をつけた左手で偽造ナンバー・プレートの破片を一|掴《つか》みずつ、ゴミ捨て場になっているあたりに来るごとに捨てた。グラインダーで粉末にしてしまったり塩酸で溶かしてしまったりしたら簡単であったが、その作業中の音や刺激臭で、|母《おも》|屋《や》の連中に水島が勤務中に戻ってきたことを知られたくなかった。  二子橋に近づいたあたりで、カー・ラジオに十二時のニュースが入った。ヴェトナムと汚職のニュースに続いて、東和銀行の現金輸送車が町田で襲われたニュースが再び放送された。  ニュースの内容は、はじめのうちは、朝の臨時ニュースと大して変らなかった。しかし、次に水島を不安に追いこむ情報が発表された。  奪われた一億二百万三千円の紙幣のうちの一部はナンバーを東和銀行本店で控えてあり、ただちにそのナンバーは日銀や市中銀行、それに相互銀行などに通知された、と言うのだ。  水島は道の端に寄せて車を停めた。ニュースはほかの話題に移る。水島は気を鎮めるためにタバコに火をつけた。深く吸いこもうとするが、せわしない吸い方になってしまう。  紙幣のナンバーが控えられていることは、ある程度予想はしていた。しかし、紙幣の一部だけがナンバーを控えられているということをわざわざ発表したのは、何か隠された狙いがあるのではなかろうか?  実際は全部の紙幣のナンバーが銀行側に控えられているのではなかろうか? いや、前に会社に出入りする銀行員にさり気なく尋ねてみたところでは、通しナンバーでないかぎり、小額紙幣のナンバーまで記録することはないと言っていた。  そうすると、少なくとも一万円札のナンバーは控えられていることになる。しかし、どうして銀行側はわざわざ発表したのだろう? 俺を不安にさせて、金を使わさないようにするためか? 実際はどの紙幣のナンバーの記録もとってなく、俺を|牽《けん》|制《せい》するのが狙いなのか? それとも……水島は脂汗を|滲《にじ》ませて考え続けた。  無意識のうちに、タバコを五本灰にしていた。水島は気を取直し、ハンカチで顔の汗を拭う。どうせ、奪った金はホトボリが冷めるまで使えないのだ。それまでに、各銀行や金融機関に通知されたナンバーを何とかして調べればいい。  水島は再びコルチナ・ロータスをスタートさせた。  二子玉川のところに来ると、多摩川堤通りと厚木街道から都心側に流れこむ車は検問所に|塞《せき》|止《と》められて、|長蛇《ちょうだ》の列をなしていた。  警官たちも、ノロノロ運転に|苛《いら》|立《だ》った運転者も殺気だっていた。  水島は右にハンドルを切り、玉川通りのオリンピック道路を都心寄りに戻っていった。アバルト・カー・クラブは、グリーン・ベルトが真ん中に走ったオリンピック道路に面したドライヴ・インの裏手にある車のアクセサリーの店“百五十マイル”を事務所にしていた。駐車場に車を駐め、アタッシェ・ケースを提げて事務所に歩く水島の唇には人をそらさぬ職業的な微笑が戻っていた。      二  陽が暮れた。水島は寝室の粗末なベッドに横になり、テレヴィのスウィッチを入れっ放しにして、街頭の立売りや駅売りのスタンドで買ってきた各種の夕刊に目を通した。  どの夕刊にも、現送車が襲われた記事は載っていた。カー・ラジオで聞いたのと内容的には同じだ。しかし、横転した現送車の写真が生々しい。  ある夕刊には、殺された二人の目撃者のことがくわしく出ていた。土建屋の森田は家族にかなりの財産を残した模様だし、妻が専務なので森田が死んでも会社の土台は大して揺がないようだが、配管工の大崎は、若い妻と二歳の幼児を残して還らぬ人となったのだ。  泣き崩れる大崎の妻と、その胸で無心に|円《つぶ》らな|瞳《ひとみ》を見開いている男の子の写真を見て、水島の胸は鋭く痛んだ。  襲ってきたのは大崎たちのほうからとは言え、殺さないでも済ませたかも知れない。気絶させただけで充分だったかも知れない。  しかし、水島は二人に、モーターサイクルのライダー姿をしているところを見られてしまったのだ。気絶させただけでは、意識を取戻したときの彼等の証言が、水島の命取りになったかも知れない。  いずれにしても、ひどく後味が悪かった。水島は暗い瞳で天井を|睨《にら》みつけている。  テレヴィもニュースの時間がきて、現送車が襲われた事件について放送をしはじめた。水島は跳ね起き、ブラウン管を見つめた。  現送車の近くの田圃から、犯人のものらしい足跡が採取されたが、その大きさから見て、犯人は外人の可能性もある、と捜査当局は言っていた。  水島の頬に、引きつるような笑いが浮んだ。犯行のときに使った短靴は、立川基地のゴミ捨て場で拾った十六文の巨大な古靴であったのだ。  いかに水島の体格がよくても、十六文ではブカブカしすぎて、すぐに脱げてしまう。だから水島は、靴のなかに詰め物をして使った。  凍った|田《たん》|圃《ぼ》に万一にも足跡を残すことを怖れて水島はその大きな靴を使ったのだ。万が一の心配は裏目に出たが、そのかわり捜査陣のほうもうまく引っかかってくれたらしい。  水島は、その時になって、まだ犯行に使った靴を処分してないことに気付いた。自分では冷静な積りでも、やはりどこか手落ちがあるものだ。  水島は十六文の靴をナイフで切り刻んだ。ホンダCB四五〇のタイアの跡も採取されたかも知れないから、前後輪を外して、ダンロップ・ゴールドシールのタイアを、走り込んだエイヴォンの高速タイアに付け替えた。  外したダンロップのタイアもナイフで切った。切り刻んだ靴と一緒に離れの裏の焼却炉に突っこみ、固型燃料と共に火をつけた。  タイアと靴が燃え尽きるまで、水島はウイスキーをラッパ飲みしながら時間を|潰《つぶ》した。不安がつのってくるが、|勉《つと》めて何も考えないようにする。今夜だけは、胸を空っぽにして、ぐっすりと眠りたかった……。  それから一週間が過ぎた。  東和銀行日本橋本店の文書課庶務係の|足《あ》|立《だち》登は、三十二歳で独身であった。  五年前、出納係として窓口にいたとき、預金者が七十万の払い戻しを請求した。足立は七十万の現金と通帳を、正当な預金者にでなく、それより一足先に偽造の番号札を窓口に差しだした男に、うっかり渡してしまった。  その男は、とうとう発見出来なかった。それ以後、足立は出世コースを外され、飼い殺し同然の身になった。  足立のアパートは、田端にあった。その夜も足立は、勤めの帰り、駅前の焼鳥屋で二級酒を痛飲した。酔うと、|蒼《あお》|白《じろ》く|痩《や》せた顔が、さらに蒼くなるほうだ。  足立が腰を上げたときは、午後十時を廻っていた。アパートに戻ったところで、冷たいフトンが待っているだけだ。  足をふらつかせながら、足立は|駒《こま》|込《ごめ》動坂寄りにあるアパートに向った。商店街を三百メーターほど歩き、右にそれる。しばらく歩くと、ビニール化学工場の|塀《へい》が長く続き、その塀の下には無料駐車場のように車が並んでいた。  足立のアパートは、その塀が切れてから少し行ったところにあるのだ。工場の横の暗い無人の道に来ると、足立は急に酔いを発して足が大きく乱れた。  塀の下に駐っている車のなかに、目立たぬ黒塗りのクラウンがあった。そのなかに水島がひそんでいる。池袋で盗み、エンジンとバッテリーを直結にして運んできたのだ。  水島はここ五日間ほど会社の仕事を終えてから足立を尾行し、その毎夜のパターンを調べあげていた。土曜の夜は上野のオサワリ・バーかトルコ風呂に寄るほかは、足立は毎夜田端駅前の安い焼鳥屋かオデン屋で飲む。  足立がクラウンの横をよろめきながら通り過ぎたとき、薄い手袋をつけた水島はクラウンから降りた。  足立を殺さないで済むように、水島は女物のナイロン・ストッキングを二重にして頭からかぶって覆面し、|斧《おの》のような手刀を使うかわりに、革に鉛の|芯《しん》と砂を詰めた|棍棒《ブラック・ジャック》を右手に握っていた。ラバー・ソールの靴で足音を消している。  足立は忍び寄った水島に気付かなかった。背後からブラック・ジャックを首の付け根に叩きつけられて、あっけなく崩れ折れる。  水島はその足立をクラウンの後部座席に運んだ。シートに|俯《うつ》|向《む》けにさせ、大型のハンカチで眼隠しをした。首に、投げ縄のように締る針金を捲きつけた。  打撃の力を相当に加減したので、足立は二、三分で意識を取戻しはじめた。|呻《うめ》きながら半身を起そうとする。      三  水島は、足立の首に捲いた針金を引っぱった。針金の輪がしまり、足立は胃のなかのものを吐こうとした。  水島は針金の輪を少しゆるめて、足立が呼吸出来るようにした。 「静かにするんだ、死にたくなかったらな」  と、わざとおかしなアクセントで言う。口のなかに、大きなプラスチックの塊をくわえているので、声自体もいつもの水島と変っている。 「助けてくれ! 金なら内ポケットの財布に入っている……」  足立はかすれた声を絞りだした。 「はした金に用は無い。情報が欲しい。正直に答えてくれたら殺しはしない」 「私は何も知らない……」 「あんたにも分ることがある。東和銀行のことだ。一週間ほど前に現金輸送車から奪われた一億ほどの金の一部は、紙幣ナンバーを銀行に控えられているのは本当か?」 「…………」 「死にたいのか?」 「どうして、そんなことを知りたがる? じゃあ、あんたは犯人……」 「質問に答えろ」 「一万円札だけは記録をとってある……各銀行に通知した」 「本当だな?」 「嘘をついてどうなる? 頼む、命だけは助けてくれ」 「ああ助けてやる。いいことを教えてくれた。俺は、東和銀行からギャング団が頂いた金を全部買い取る積りだが、これで思いきり安く買い叩ける」 「じゃあ、あんたはホット・マニー屋?」 「黙ってろ。それから、あんた、今夜のことを誰にもしゃべらないほうがいいぜ。しゃべったら、銀行の機密を漏らしたということで、あんたの出世は遅れる一方だ。あんたさえ黙っていれば、お互いの得になる。それに、あんたがしゃべったことが分ったら、あんたの命は無くなる」  自分をホット・マニー屋と足立に思いこませたまま、水島は|呟《つぶや》いた。  ホット・マニーとは熱い|金《かね》、|危《やば》い金のことだ。偽造紙幣や盗難ナンバーが届けられている紙幣を犯人から額面の何分の一かで買い取り、日本円を自由にドルやポンドに替えられるホンコンやスウィスに持出して安全な金に替える商売人を、ホット・マニー屋と言うのだ。  たとえ足立が今夜のことを上役や警察にしゃべったところで、水島の正体はますますカモフラージュされるだけのことだ。 「分ったか?」  水島は言った。 「分った。分りました……約束します。まだ死にたくない」  足立は呻いた。  その足立の後頭部を軽く——と、言っても水島の筋力のことだから相当に強烈だが——一撃して再び気絶させた。  ハンカチの眼隠しと、喉の針金を外した足立を抱えてクラウンから出た。二台前に駐っている小型トラックの下に足立を押しこむ。  何分かすれば、足立は寒さで目を覚ます筈だ。水島はクラウンの運転席に移り、コードをつないでエンジンを掛けると発車させた。覆面と口のなかのプラスチックを外す。  荒川堤に盗んだクラウンを捨て、電車とタクシーを使って田園調布に戻った。  現送車から奪った金のうち、三千万円が一万円札だ。足立の言ったことに嘘はないだろうから、全体から三千万円を引いた七千二百万三千円が水島が自由に使える金ということになる。水島は自分が考え過ぎていたことを苦笑する。  だが、有頂天になってその金を湯水のように使ったのでは、すぐに足がついてしまうだろう。水島はまだしばらくは、地味に暮すことにした。しかし、次の犯行にそなえて、別のところにアジトを借りるのに金を使うぐらいのことならいいだろう。  水島は手押しの印刷機とゴム印で、運転免許証の偽造にかかった。もう三日がかりでやっているのだ。細かい緑色の活字で東京都公安委員会と斜めに無数に印刷された下地を作るのに一番手間がかかった。  偽造免許証の名前は、石田幹夫と、水島に何の関係もないものにした。写真だけは本物を|貼《は》り、食いこみ式のスタンプを押す。  本籍は、戦災で区役所の戸籍原簿が焼けて照合出来ない豊島区にする。現住所は新宿にし、ついでに備考欄に、スピード違反で書類送検されたことをゴム印を使ってもっともらしく付け加えた……。  翌朝のテレヴィは、足立のことを何も伝えなかった。足立は自分の立場が不利になることを怖れて、誰にも昨夜のことをしゃべらなかったらしい。それはそれで、水島にとっては好都合であった。  会社の仕事で原宿に仕事場を持つ二流のグラフィック・デザイナーに会いに行く途中、水島は広い表参道にコルチナ・ロータスを駐めた。  道の左右に駐っている車の大半が、車高をさげたり、レーシング・ストライプを入れたり、吹き抜けのマフラーを付けたりしている。  貧しいお|洒《しゃ》|落《れ》をマンガにしたような服装の若い男とミニ・スカートの|膝頭《ひざがしら》に鳥肌をたてた娘が長いキスをしていた。  水島は渋谷寄りの不動産屋を歩いた。|揉《も》み手しながら、専務の肩書きを入れた名刺を差し出す不動産屋に、 「ときどき息抜きに使うんで、マンションを借りたい。だけど、税務署や女房がうるさいから、名前は出したくないんだ。こういう者だが、名刺は勘弁してもらうよ」  と、偽造免許証を差しだした。 「分りました。そういうお客様は大勢いらっしゃいます。お任せください。失礼ですが、石田様はどのような御商売で? いや、おっしゃりたくないのでしたら結構ですが」  不動産屋の揉み手のスピードが早まった。     接近      一  それから二た月が過ぎた。  水島は石田幹夫の偽名を使い、新宿でスーパー・マーケットを経営しているという触れこみで、青山南町の五丁目に、“グリーン・コーポラス”というマンションの一戸を借りた。  地上九階、地下二階のそのマンションは、表参道から青山墓地に抜ける道路に面していた。  地上一、二階が貸し店舗、三階から五階までが賃貸し式の住居、それから上が買取り式であった。  水島の部屋は五〇六号、二年契約で家具付きであった。三部屋と浴室がついている。  そこを借りるとき、ナンバーを銀行関係に手配されている一万円札を使うわけにいかなかったから、権利金や敷金には五千円札を使った。女房の目をかすめて作ったので細かい紙幣になってしまった……と、水島が呟いてみせると、仲介の不動産屋は、ごもっとも、とうなずいた。  水島は田園調布に離れを借りている佐々木家には、この頃は出張が多くなって、と弁解して、週に二、三度はマンションに泊るようになった。  居間のソファに体を投げだしていると、二十五ミリの分厚い窓ガラスにさえぎられて、下を通る車の騒音はほとんど聞えない。水島はドライに作ったマルティニを|舐《な》めながら、次の犯行の計画を検討した。四月に入った日曜のことであった。  現金輸送車を襲った事件のほうは、迷宮入りになる可能性が多いと伝えられてから一カ月がたつ。東和銀行の庶務係の足立を襲って情報をとったことは、新聞にもテレヴィにも出ないまま過ぎた。しかし、実際は足立が警察にしゃべっていて、水島が再び足立に近づくのを刑事が待ちうけていることも考えられるので、水島は二度と足立に接近しなかった。  ソファの横のテーブルに、一流から三流までの経済誌から切取ったスクラップ・ブックが置かれていた。  切抜きは、板橋にある東日信用金庫の理事長松野光一を扱った記事を集めてあった。一流誌はあまり露骨な書きっぷりでないが、二流、三流誌の多くが、松野が東日信用金庫を私物化し、愛人の手当まで信用金庫の公金で払っていることは|勿《もち》|論《ろん》、わけのわからぬ会社に次々と貸しつけては焦げつかされているが、それらの会社のなかには松野のトンネル会社があるのではないか、と書いていた。  二流、三流の経済誌のうちの少数は、松野に買収されたらしく、松野擁護の|提灯《ちょうちん》記事を載せていた。  つまり——松野の父は東日信用金庫の前身である西板橋信用組合の組合長であり、昭和二十六年の信用金庫法によって東日信用金庫が発足してからは松野光一がずっと理事長の椅子に坐り続けているし、理事たちも松野一家なので、とかくワンマン振りが|噂《うわさ》されるのは事実だが、松野自身は人格高潔、預金者の利益を守るために身を粉にして奮闘している、というものであった。  階下のレストランに注文しておいた昼食が運ばれてきた。水島はエビをすり潰したスープ、|合《あい》|鴨《がも》の蒸し焼き……と、ゆっくり平らげていきながら、今ごろ松野は、まだ中村|玲《れい》|子《こ》の部屋で鼻の下をのばしているだろうな、と唇を|歪《ゆが》めた。  一と月半ほど前から、水島は松野をひそかに尾行しはじめたのだ。松野は用心深く、勤務時間を過ぎると、信用金庫の自分の運転手も信用しないでタクシーを乗り継ぐほどであったが、単車で尾行する水島には、かえってそのほうが楽であった。理事長専用のビュイック・スペッシャルのあとばかし追っていたら、松野より先に運転手のほうに気づかれてしまう。  尾行をはじめる前に、水島は偽名を使って、巣鴨にある経済興信所に、東日信用金庫の内容の調査を依頼した。  調査といっても、その興信所は突っこんだところまで調べるだけの能力は持ってないから、報告書はすぐに出来あがった。  東日信用金庫は城北地区に七つの支店を持ち、預金高は約四百億だから、信用金庫としては中堅より大き目のほうであった。理事長松野光一以下、理事や支店長などの役職者は松野一族で固めている。  信用金庫の特色は、大企業を相手にするのでなく、中小企業専門の、会員組織による金融機関だ。したがって、預金は一定地域内の一般大衆から受入れていいが、零細な庶民の預金を保護するために、営業地域は本店所在地の周辺に限定され、一企業に対する貸出し高は、預金担保、不動産担保、それに信用を合わせて三千万が限度であり、それ以上の大口貸出しは禁止されている。  もっとも、その貸出し限度は、色々な名目をつけて、六、七千万ぐらいなら大蔵省から黙認されているのが実状である。東日信用金庫本店は五千万以上の大口貸出し先を三十数社抱えているが、その半数近くが今のところ焦げつきになっている。しかし、理事長は、もう少し待てばそれらの会社も景気が回復して、金庫が貸した金を必ず回収出来ると強気でいる……と、報告書は言い、大口貸出し先の三十数社の名前と所在地、代表者氏名と設立年月日、それと資本金と企業内容を列記していた。大半は東日信用金庫の決算報告書か何かを丸写ししたのであろう。      二  水島がその三十数社を一つ一つ足で当ってみたところ、十社だけは実際に企業活動を行なっていた。板橋という土地柄、プラスチック工場や木工所が多かった。  しかし、残りの二十数社は土地とバラックだけであった。しかも土地は東日信用金庫のほかに何重にも担保に入っている。それらの会社の代表者は松野のロボットであろうし、土地を担保にとった者は松野の一族かも知れなかった。  ともかく、松野が甘い汁を吸っていることは容易に推測出来た。それから、松野の尾行に移ったのだ。  週に二度、松野は夜になると、|常盤《と き わ》|台《だい》にある、引退した父の豪壮な屋敷に顔を出した。そこには、松野の弟や|従兄弟《い と こ》や息子などの各理事や支店長、それに本店の預金課長や出納係長なども集まった。  皆が集まり終ると門は閉め切られ、十匹の土佐犬が庭に放たれるので、水島は床下にもぐりこんで松野一族の密談を盗み聴くことは|諦《あきら》めないとならなかったが、預金者をいかにしてさらに食いものにするかを相談し、警察の内偵が無かったかどうかだとか、タカリ屋にいくら握らせて口を封じたとかの情報を交わしているのであろう。  一族は密談が終ると別々に屋敷を出て銀座や青山のクラブで落合い、野暮用のある者だけを別にして、赤坂や柳橋の待合にくり込む。週に二度のその夜だけは、午前三時を過ぎるとはいえ、松野光一は|雑《ぞう》|司《し》|ケ《が》|谷《や》にある自宅に夜明け前に帰るのが通常であった。  あとの夜は、金を借りたがっている会社の役員と宴会のあと、三つの|妾宅《しょうたく》に交互に泊り、夜が明けてから、運転手が迎えに来て自宅に一度戻るという、五十五歳にしては舌を捲くほどのタフさであった。  もっとも、|妾《めかけ》たちのなかで一番若い中村玲子のマンションに泊るときには、朝になっても帰らないという御熱心さだ。土曜の夕方から日曜の夕方まで玲子とくっついたきりだ。  あとの二人の妾が一目で芸者上りと見抜けるのに対し、銀座のクラブのホステスであった玲子は十九歳、ミニ・スカートがぴったりくるジャジャ馬だ。  昼食が終ると、水島はルーム・サーヴィスに電話して、メイドに皿を片付けさせ、四時に起してくれるように頼んでから、夜にそなえてベッドにもぐりこんだ。  ルーム・サーヴィスの電話で目を覚ました。バスにつかり、スポーティな遊び着をつけてから自動エレヴェーターで一階に降りた。  一階理髪店で髪を整え、|髭《ひげ》を当ってもらう。  鏡に写った水島は輝くような男ぶりであった。広い地下駐車場に降りた水島は、コルチナ・ロータスに乗りこむ。  ナンバー・プレートも偽造なら、車検証も偽造品であった。このマンションを使うときには、水島の正体の手がかりになるものは一切見せるわけにはいかない。  中村玲子のマンションは四谷若葉町にあった。地上は五階建てだ。前庭が駐車場になっている。  二十台ほどの収容力がある駐車場に、玲子が松野から買ってもらったクリーム色のムスタングが見えた。玲子はまだ外出してないらしい。  すでに夕闇が迫っていた。水島は駐車場の端にコルチナをバックで突っこみ、ライトを消した。掌で火口を|覆《おお》ってタバコを吸った。  玲子の部屋は五階の真ん中あたりだ。カーテンから淡い灯が漏れている。二十分ほど待ったとき、漏れる灯は明るいものに変った。  さらに半時間ほど水島は待った。グリーン・キャブのタクシーが坂を上ってきて、マンションの玄関前に停った。運転手が車から降り、管理人室に向う。  少しの間を置いて、エレヴェーターから松野が出てきた。頭はかなり|禿《は》げあがっているが、眉と髭の剃りあとは濃かった。精力的に鼻翼はひらき、唇は厚い。背は低いが、筋肉質であった。  風呂上りらしく、松野の顔は赤黒く光っていた。ゴルフ・バッグをかついでいる。帰宅したときの弁明は、川奈か利根川のカウントリー・クラブに泊りがけで行っていたことにするのであろう。  玲子が出てきたのは、松野を乗せたタクシーが去ってから三時間ほどたってからであった。  前髪の片方が、左の瞳を隠すように垂れていた。|牝《めす》|猫《ねこ》のような顔だ。ヤンピーの短いコートの下で、乳房がスウェーターを突き破りそうであった。膝上十センチのミニ・スカートの下に、長いブーツをはいた脚がのびている。  玲子はハンド・バッグを持ってなかった。ポケットから出したキーで、ハード・トップのフォード・ムスタングのドアを開いた。左ハンドルのシートに坐ると、エンジンを掛け、激しく|空《から》ぶかしさせてから発車させた。  玲子の表情は、怒っているようにも|自嘲《じちょう》しているようにも見えた。  ムスタングの鈍い排気音が大通りのほうに向っているのに耳を澄ましてから、水島はコルチナ・ロータスのキーをひねった。オイルが廻るのを待っていられないから、エンジンがかかると共に、五千まで回転を上げてクラッチを滑らせる。  後ろのタイアは薄煙りをあげ、コルチナは|蹴《け》とばされたように跳びだした。駐車場から降り、アクセルを踏んだまま鋭く右にハンドルを切りこむと、右側の前輪は完全に浮きあがった。車と腕が悪いと後輪が持上る。  都電通りでムスタングに追いついた。それからは三十メーターほどの間隔を置き、あいだに数台の車をはさんでムスタングを追う。左ハンドルのムスタングは、アクセルを踏んで前車との間隔を縮めても視界の関係で簡単には追越せないから、後から行く水島は楽であった。  ムスタングが着いたのは、原宿表参道であった。歩道に寄せて車を駐めた玲子は“フランキー・ア・ゴー・ゴー”と英語でネオンが輝く店の階段を降りていく。      三  そこから水島の“グリーン・コーポラス”までは近かった。自分の車をそこの駐車場に一度仕舞ってこようかと一瞬思ったが、“フランキー・ア・ゴー・ゴー”の店で玲子に接近するのに失敗した場合を考えて、ムスタングから三台ほどうしろにコルチナ・ロータスを駐めた。  車から降りると、少し待ってから、ムスタングに近づいた。シガレット・ケースから先端を潰した二本の針金を取出し、車道に面した助手席のドアの鍵孔に差しこんだ。  キー無しで鍵を開く練習は充分に積んでいた。車のドアなど簡単に開いた。ムスタングに乗りこんだ水島は、左手をのばしてボンネット・ロックを解いた。  手袋をつけて車道に降りる。ボンネットを開くが、歩道を通る若い男女は、誰もそのムスタングが水島のものでないと疑う者はないようであった。  V8エンジンのエア・クリーナーには二八九キュービック・インチ——四七三六CC——二七一馬力と表示されていた。玲子はかなりのカーキチなのであろう。もっとも、アメリカのSAE馬力は補機類に力をとられて、表示の六割ぐらいしか実馬力はない。水島はエンジン・ルームに顔を突っこみ、バッテリーから来たコードとスターターのターミナルのナットを、尻ポケットから出した小さなスパナーでゆるめた。コードはナットをつけたまま、スターターから外れた。  水島は手袋とスパナーを尻ポケットに戻した。ムスタングのボンネットを閉じ、玲子が入った店に歩いた。  階段を降りる途中で、強烈なイエイエのリズムがドアの隙間から襲ってきた。|覗《のぞ》き窓のついた分厚いドアがボーイの手で開かれる。  そこは、穴蔵のような感じの店であった。  三方の壁に沿ってバー・カウンターが並び、スツールが三十以上ある。ボックス・シートは無かった。  スツールに腰を降ろしているのは、踊り疲れて一休みしている連中だけであった。フロアでは、ジューク・ボックスからの耳を|聾《ろう》するリズムと薄暗い光線、それにタバコの煙のなかで、四十人近い男女が汗と興奮に顔を光らせて、ぶつかり合いながら踊っていた。  クロークに上着を預けた水島はまずカウンターのスツールに腰を降ろし、現金引替えでバーボンの水割りを作ってもらい、入り乱れるミニ・スカート群のなかから玲子を目で捜した。  玲子は、細っそりとした十七、八の黒人混血児と向いあって踊っていた。コーク・ハイが入っている大きなグラスを左手でときどき口に運びながら、野性のけもののように踊り狂っている。開いた肉感的な唇と真っ白な歯のあいだから掛声が絞りだされる。  玲子は、松野に閉じこめられた一昼夜の青春をいま取戻しつつあるのかも知れなかった。水島はバーボンを一気に胃に流しこんだ。  そのとき、曲が終った。水島はスツールから降りると、玲子のほうに近づいた。高級ジゴロまでやったことのある水島だ。どんなリズムにも合わせて踊ることが出来る。  そのとき、曲がゴー・ゴーに変った。玲子を食い入るように見つめて、再び踊りだそうとする混血児の横に立った水島は、軽く腰をかがめて耳に口を寄せ、 「消えな」  と、玲子には聞えぬほど低いが、|凄《すご》|味《み》のある声で呟いた。  青年は|怯《おび》えた瞳を水島に振り向けた。次第にその表情が怒りに変る。いきなり|鞭《むち》のようにしなやかな体を|捻《ひね》りざま、素晴らしいスピードの右フックを水島の胃に放ってきた。  水島のバック・ステップはごく軽そうにしか見えなかったが、青年の右の|拳《こぶし》は、あと数ミリのところで水島の胃にとどかなかった。  水島はその拳と手首を両手で|掴《つか》むと、鋭くねじって放した。手首の骨が外れる音は強烈なビートに消された。  青年の瞳に恐怖の表情が|甦《よみがえ》り、褐色の顔に汗の玉が吹き出た。よろめくように戸口に向う。  まわりの男女は、誰もいま何が起ったかを気付かないらしかった。混血の青年が酔ってつまずき、水島に突き当りそうになったぐらいにしか見えないだろう。目の前の玲子にしても、青年が消えるのを不審気に見守っている。  それほどの水島の鮮やかな早業であった。しかも、手首を|挫《くじ》かれた瞬間には、青年はさほどの痛みを感じてない筈だ。 「じゃあ、お相手を……」  やっと振り向いた玲子に、水島は爽やかな笑顔を|閃《ひらめ》かした。  玲子は相手が誰でも、自分だけ夢中になれたらいい、といいたげな表情で|頷《うなず》いた。やがて再び瞳は炎のように燃え、小鼻が開く。  視線で強姦するように玲子を見つめながら、水島も激しく踊った。スタミナの尽きかけたカップルは暗い隅にさがって立ったままペッティングに夢中になっている。 「出よう。|横浜《ハ マ》に凄く|痺《しび》れる店を知っている。本物のバンドが出るんだ。そいつらがみんなペーを打ってから演奏するんだ。|面《おも》|白《しれ》え音を出すぜ」 「いいわ」  玲子は、はじめて水島に笑いを向けた。  しかし、玲子は表に出ると急に考えを変えた。|怖《おじ》|気《け》づいたのかも知れないし、風に吹かれて興奮が|醒《さ》めたせいかも知れなかった。 「やめたわ。友達と約束があるの想い出した」 「残念だな。送っていこう」 「結構よ。車があるから」  玲子はムスタングを|顎《あご》で示した。 「今度はいつ会える? 名前を聞かせてくれ」 「名前は寝たあとで聞くものよ。でも、お|生《あい》|憎《にく》さま。あんたと寝る気は無いわ。少なくとも今夜はね」  玲子は言い捨て、キーでムスタングのドアを開いた。     箱根裏街道      一  玲子がムスタングのエンジン・スウィッチにキーを差しこむのを、水島はズボンのポケットに両手を突っこんで眺めていた。  そんな水島を未練たらしいと思ったらしく、玲子は|軽《けい》|蔑《べつ》するような視線を水島に投げてから、キーをひねった。  スターターは|唸《うな》らなかった。玲子はあわて気味に再びキーをひねり直す。無論、水島がこっそりコードを外してあるから、スターター・モーターは反応を見せない。  今度は玲子は、本当にあわてた。ボンネット・ロックを解いてから車から降り、エンジン・ルームを覗きこむ。もっともらしく、プラグを調べたりしているが、その表情が機械については何も分ってないことを物語っていた。 「どうした?」  水島は歩道から降りた。 「|放《ほ》っといてよ」  玲子は言った。 「見てやろう。君が|綺《き》|麗《れい》な手を汚すことはない」  水島は笑った。エンジン・ルームにかがみこみ、ライターの火をつけて各部を点検する振りをし、 「何だ、スターターのコードが外れている。スパナーかモンキー・レンチがあるだろう?」  と、言う。  玲子は怒ったような表情で後ろのトランク室に廻り、工具箱を取ってきた。  尻ポケットから出した手袋をつけた水島は、工具箱からスパナーの一つを|択《えら》び、たちまちのうちにナットをはめて締めつけた。  ボンネットを閉じ、トランク室に工具箱を収めて、トランクの蓋を閉めた。滑りやすいビニール・レザーの運転席に腰を降ろし、助手席側のドアを玲子のために開いてやる。シートはリクライニング式に改造してあった。  玲子はためらったが、助手席にもぐりこむと、|鍵《かぎ》|束《たば》を水島に渡した。  水島はエンジンを掛けた。ハンドルの根元近くに付けられた見にくくて小さなエンジン回転計の針がゆっくり廻る。朝顔形の胸につかえるようなハンドルは、GT三五〇と同じ木製リムの平たいやつに替えてあった。 「どこに行くの?」 「付いてきたら分る」  水島はエンジンの回転を上げ、重くて入りにくい四速ギアをローに入れて、柔らかなクラッチを放した。  極端なトップ・ヘヴィを隠すために普段から頭を持ちあげた格好になっているムスタングは、尻餅をつきそうになり、しかも奇妙なことに——多分プロペラー・シャフトのトルクの反作用によって——右の後輪を持上げて加速していった。大馬力と、八十キロまでのびるロー・ギアのために、直線での出足はいいが、マシュマロのようにフワフワした乗り心地は何とも頼りない。  一杯に切るには五回転も水車のように廻さないとならないコンニャクのようなハンドルをあやつって、水島は代々木スポーツ・センターのなかを貫く補助二三号の新道を抜け、環状六号から玉川通りに入った。のんびりしたスピードでだ。  深夜の第三京浜に入るまで、玲子は口を開かなかった。水島が制限の八十キロを守って静々と走らせていると、 「これじゃ、バスに乗ってるほうがましだわ」  と、鼻を鳴らした。  そこで水島は、三速にシフト・ダウンし、アクセルを床につくまで踏みこんだ。四速に上げると、限度一杯の二百まで引っぱった。  スタイルだけはスポーツ・カー的だが、典型的なアメリカのファミリー・カーのサスペンションを持ったムスタングは、その速度では浮きあがり、ハンドルを絶えず修正しないと、少しの横風をくらっても酔っぱらったようにふらつく。  水島はわざとハンドルから手を放して車を泳がせた。玲子の顔が|蒼《あお》ざめ、汗が|滲《にじ》み出た。水島はガード・ウォールにぶつかる寸前に再びハンドルを握った。  先行車を追抜くために高速レーンに鋭く入りこむと、車体は大きく傾き、後ろ足を持ちあげる。玲子がオプションでつけたらしいグッドイヤー・イエロー・ドットのタイアだけが頼りだ。  ツルツル滑るシートは、遠心力で玲子の体を水島に叩きつけた。右腕をハンドルから離して玲子を抱きとめた水島は、前車をフル・スロットルで抜きながら玲子の唇を奪う。  恐怖の|瞳《ひとみ》を見開いた玲子は、抵抗するどころでなかった。水島はときどき顔を前に向けて前車を抜いたり、カーヴを車の片足を上げて通過したりしながら、玲子に舌をからませる。  料金ゲートに着いたとき、玲子は肩で|喘《あえ》いでいた。エンジンは焦げ臭い。 「バスよりましだったか?」  料金を払い、再びスタートさせながら水島は尋ねた。 「ちょっとはね」  玲子は言った。負けおしみであろう。  ムスタングは横浜の市街に入った。港に向う。タクシーと同じ七、八十キロに落している。玲子は大きく息をついてタバコをくわえた。      二  山下橋、小港橋と渡ると、小港と|本《ほん》|牧《もく》のT大字路を中心にして、道の左右に米海軍施設がひろがっている。  クラブ・ポートサイドは、市電の本牧三渓園前を左に折れ、米海軍の|埠《ふ》|頭《とう》に突き当る手前にあった。  クラブの前には、日本にはまだ珍しいフェラリGTOから、十年前のモデルのフォードのポンコツまでが並んでいた。ほとんどが駐留軍ナンバーだ。ところどころに手入れの刑事を警戒する見張りが立っている。  水島はムスタングを|駐《と》め、車の右側に廻って、玲子のためにドアを開けてやった。玲子の腕をとり、クラブのドアの前に立つ。  ドアの覗き窓のカーテンが開かれ、少したってドアが開かれた。水島はドア番の青年に五百円札を|掴《つか》ませ、 「いつもの女には内緒だぜ」  と、耳許で|囁《ささや》く。ウィリアムズ夫人と何度か来た店なのだ。 「分ってますよ」  ドア番は器用にウインクした。  回廊のようなところの突当りに再びドアがあった。そのドアが内側から開かれる。  そのなかは、さっきまでいた“フランキー・ア・ゴー・ゴー”よりもさらに暗かった。ただ、ステージとバーのカウンターだけにライトが当っている。  タバコの煙に混って、|大麻タバコ《マ リ フ ァ ナ》の煙の匂いが強かった。ひどく暗いボックス・シートで、ヴェトナム帰りらしい米兵と日本娘や、将校とアメリカ娘がもつれあっている。闇に近いなかに、白い|太《ふと》|腿《もも》が鮮やかだ。  ステージでは、モンキーズ風の異様な|風《ふう》|貌《ぼう》の外人カルテットがわめいていた。しかし、フロアの男女は、アルコールか大麻に酔ったらしく、緩慢な動きを見せていた。  水島はとまどった表情の玲子とバーのカウンターに腰を降ろした。自分に砂糖抜きのジン・リッキー、玲子に砂糖入りをバーテンに頼む。  カウンターの隅に、メキシコ系の中年の男が腰を降ろしていた。くたびれた表情だ。水島はカクテルを受取るとその男に向って差上げ、一息に飲み干した。 「すぐ戻る」  と、玲子に囁き、トイレット・ルームに歩いた。小用を済ませてから少しのあいだ待っていると、トイレのドアの外から、 「ミスター……」  と、声がかかった。捲き舌だ。 「入れよ」  水島は英語で答えた。  カウンターの隅にいたメキシコ系の男が入ってきた。 「何本欲しい?」  と、尋ねる。 「一ダースだ。ジョー」 「三千円でオーケイ? 南米物だ。保証する」  ジョーは言った。  ジョーはインド大麻の|売《ばい》|人《にん》だ。軍用機を使ったルートがあるのだろう。  周知のように、インド大麻は各地で呼び名がちがう。中東ではハッシッシと呼ばれているが、それを吸飲すれば人殺しも平気でやれることから、アサッシン、すなわち暗殺者の語源になった。  インド産はチャラス、あるいはガラヤ、またはバングと呼ばれ、メキシコではマリファナだ。日本では、チャオと言えば通じやすい。  大麻の一種だから、マニラ・ロープや下駄の鼻緒を作るために栽培されたり|旺《おう》|盛《せい》に自生繁殖する日本産の麻でも代用にならないことはない。しかし、その葉は、禁断症状に苦しむ者が苦しまぎれに使うだけであって、快感は無いに等しい。日本産は毒性ばかり大きな最低品だ。 「オーケイ」  水島は三枚の千円札をジョーに渡した。  ジョーは、三十個以上ついたチョッキのポケットから、プラスチックのフィリップ・モリスの箱を一つ取出した。  水島はその箱を開いてみた。薄い褐色の紙で捲かれた緑色のタバコが十二本入っている。本物のモリスより太巻きだ。  水島は匂いを|嗅《か》いでみた。 「信用するよ」  と、言って、大麻タバコの箱をポケットにおさめ、トイレット・ルームから出た。  玲子は長い足のついたゴブレットに注がれたジン・デイジーに切替えていた。 「踊るか?」  水島は言った。 「疲れたわ」 「じゃあ、ボックスに移ろう」  水島は立上った。  ボーイにチップを握らせると、一番隅のボックスに二人を案内してくれた。そこまで歩きながら、玲子は途中のボックスで喘いでいるカップルから目をそらすようにした。  二人はボックスに並んで坐った。水島はジンの|壜《びん》と氷を持ってこさせ、 「腹はすいてない?」  と、玲子を見つめる。 「ないわ」  玲子は首を振った。牝猫のような瞳が暗いなかで光る。 「何をしたい」 「帰りたいわ」 「来たばっかしだ。タバコは?」  水島は、大麻タバコの箱を開き、親指で底をはじいて一本跳びださせた。  玲子はそれを唇にくわえた。水島がダンヒルのライターの火を移してやると、一、二度吸いこみ、 「これ何よ?」  と、冷たく言った。 「あきれたな。君がそんなウブとは知らなかった。こいつのほうが、睡眠薬遊びよりは気がきいてるぜ」  水島も一本くわえて火をつけた。 「知ってるわよ。チャオでしょう? こんなの平っちゃらよ」  玲子は強がった。深く吸う。  水島も深く吸った。ジャングルで闘っていたとき、飢えと苦痛を鎮めるために、よくこのマリファナを吸ったものだ。それに、マリファナには、麻酔感や|恍《こう》|惚《こつ》感や|酩《めい》|酊《てい》感や幻覚を生じさせるほかに、時間の観念の混乱と|羞恥《しゅうち》心の喪失という副産物があるから、ヨーロッパで上流夫人の相手を勤めさせられる時にもよく使った。      三  久しぶりのマリファナは水島の全身にしみていった。急に玲子が、この世のものと思えぬほど美しく見えだす。  これではミイラ取りがミイラになってしまう。水島は、それからは、口のなかでふかすだけにした。  しかし玲子は、マリファナははじめてらしかった。吸うにしたがって顔が蒼ざめ、脂汗が出てくる。  一本を吸い終らないうちに玲子は大麻タバコを|揉《も》み消し、よろめきながら立上った。  水島も自分のマリファナを揉み消して立上った。玲子の腕をとる。玲子がどこに行きたがっているかは分っていた。タバコでも、マリファナでもヘロインでも同じだが、はじめての者は快感でなく、反対に気分が悪くなることが多いのだ。  歯をくいしばって玲子はトイレット・ルームに歩いた。水島がトイレの外で待っていると、玲子が|嘔《おう》|吐《と》する音が聞える。水島のほうは、|強靱《きょうじん》な体の抵抗力によって平常に戻っている。  しばらくしてトイレから出てきた玲子は、いきなり背のびするようにして、水島の頬に平手打ちを放った。顔はまだ蒼い。  水島は動かなかった。まともに平手打ちをくらったが、痛みはほとんど感じない。もっとも、音は派手であった。 「|卑怯者《ひきょうもの》! こんな汚ない手を使わないと、女も|口《く》|説《ど》けないのね」  玲子はさげすみの声を出した。 「君が気に入ったよ。山猫のようだ」 「寄らないで!」  玲子は再び手を振りあげようとした。  水島は笑いながら、その玲子の体に腕を廻した。|右《みぎ》|肘《ひじ》の神経のツボを|圧《お》す。玲子の腕は力を失って垂れた。 「さあ、席に戻って、カクテルで口をゆすぐんだな。そうでないと、今度キスしたとき、汚なくていけない」 「|自《うぬ》|惚《ぼ》れないでよ」  玲子は唇を|歪《ゆが》めた。  それでも玲子はボックスに戻り、カクテルの残りを飲んだ。水島は勘定を払った。  ムスタングの助手席に乗りこむと、玲子は|瞼《まぶた》を閉じた。急に、マリファナをはじめて吸った者によく現われる眠気が襲ってきたらしい。  水島はムスタングを静々と走らせた。保土ケ谷に戻ったが、東京に帰る第三京浜にでなく、横浜バイパスに車を乗り入れた。玲子は軽いイビキをたてている。  戸塚の終夜ドライヴ・インで、眠っている玲子をそのままにしておき、フランクフルト・ソーセージの|串《くし》|揚《あ》げを三本平らげてスタミナを補充した。  揚げたてのフランクフルトを十本ほど包ませ、|罐《かん》ジュースと共に車に運び、後ろのシートに置いた。尻ポケットに突っこんだままになっていた自分のスパナーを捨てる。  藤沢バイパスを抜け、大磯、小田原を通って、箱根の旧道を登っていく。かなりのスピードだが、水島の抜群のテクニックによって、適度のパワー・ドリフトを保っている。  宮ノ下を過ぎて、仙石原に抜けるほうの裏街道に入ったときは午前二時を過ぎていた。こっちの道は陸送車や長距離トラックの群れは滅多に通らない。政界の大物の別荘があるせいか、かつてはひどい悪路であったのが、今は全面舗装だ。  |強《ごう》|羅《ら》の旅館の並びが切れたとき、水島は一度車を停めた。玲子の頬を軽く引っぱたいた。  玲子は目を開いた。|朦《もう》|朧《ろう》とした瞳で、 「あんた、誰?」  と、|呻《うめ》いたが、次第に瞳の焦点が合うと、 「ここ、どこよ!」  と、わめいた。 「箱根だ。俺の運転が、バスよりちょっぴり早いだけでなく、だいぶ早いことを見せてやろうと思ってな」  水島は冷たく言った。 「|大人《お と な》|気《げ》ない真似はしないでよ」  水島の瞳の光を見て玲子は軽く身震いした。 「シートに、しっかりしがみついてることだな」  水島は言い捨て、ムスタングを再び発車させた。今度は本気だ。  水島のコーナーリングは、シフト・ダウンすると共に、軽くブレーキをかけて、コーナーに深く早く突っこみ、クリップ・ポイントをコーナーの|頂点《エイペックス》よりずっと奥にずらすものだ。“ファースト・イン、ファースト・アウト”と“レイト・エイペックス”だ。もっとも、登りだから、ブレーキはほとんど使用しない。  アウトからインに|凄《すさ》まじく突っこんでいくと、柔らかなスプリングは大きくたわみ、ショック・アブソーバーとタイアは悲鳴をあげた。  コーナーでは全車重は、ほとんど外側の前輪にかかり、一本足で廻っていく。ボディは大きくカーヴの外側に傾き、外側フェインダーの下縁はアスファルトにこすれて火花を散らす。持ち上った内側の下廻りは、横から見ている者があれば、プロペラー・シャフトまで覗けるほどだ。  ガード・レールが|跡《と》|切《ぎ》れているあたりに来た。薄笑いを浮べた水島は、右カーヴを水島以外には信じられない速度で廻りこみながら、車の右半分を|崖《がけ》の外にはみださせた。どうせ、車重は左側の車輪にかかっていて、右は浮いているのだ。  崖からはみ出た助手席の玲子は、けもののような絶叫をあげた。水島は薄笑いを浮べたまま、|逆ハンドル《カウンター・ステア》とスロットルの絶妙な操作で、左側のアウト・コースに車をドリフトさせた。短い直線で車体の右側も路上に戻り、軽いショックと共にタイアが接地する。 「やめて!」  玲子は叫んだ。発狂寸前の表情であった。 「まだ、まだ。バスより早く走らせたいんだろう?」  水島は、これもガード・レールの無い次の右カーヴで、車の右側三分の二を崖からはみださせながら廻った。 「やめて!」  玲子は歯を鳴らしながら目を覆った。そのコーナーを抜けて右車輪を路上に戻した水島は、気楽そうに笑っていた。 「お願い……お願いするわ。わたし、悪かった。許して。もう二度と大きな口を叩かない……」  水島を見る玲子の瞳には恐怖のほかに尊敬とも言うべきものの光があった。     |生《いけ》|贄《にえ》      一 「分ったら、それでいいんだ」  水島は|呟《つぶや》くと、車のスピードをゆるめた。ヒーターを入れる。  すでに、ムスタングは|乙女峠《おとめとうげ》の有料道路に近づいていた。無論、人家は一軒も見えない。霧が降りていた。  水島は、深山のなかの脇道に車を突っこませた。箱根裏街道からかなり入ったところで車を停める。エンジンは廻したままだ。  停車すると、水島は、ドアの|肘《ひじ》|掛《か》けについた、パワー・リクライニングのスウィッチを二つ押した。  運転席と助手席の背が、水島と玲子を乗せたまま後ろに倒れた。さらにボタンを押し続けると、シートは前進し、シートの背もたれは後ろのシートに平行してベッドになった。  仰向けになった玲子は瞼を閉じていた。  水島は体を横に向け、玲子に唇を合わせながら、ミニ・スカートのなかをまさぐる。玲子は|火傷《やけど》しそうになっていた。水島の首に両腕を捲きつける。  霧は濃くなり、車窓の外は、もう何も見えない。水島は靴を脱いで足の指でヒーターのスウィッチを「強」に入れ替え、玲子を脱がせていった。  松野が夢中になるだけあって、玲子の体はヴィーナスのようであった。玲子が|愛《あい》|撫《ぶ》に耐えきれなくなって水島のズボンに手をかけてから、水島ははじめて自分がつけているものを脱ぎ捨てた。  衣服に隠されていた|獰《どう》|猛《もう》なほどの水島の筋肉を見て、玲子は呻き声を漏らした。水島はその玲子の腰を引きつける……。  一時間後、二人は裸身の上にコートや背広をかけ、一本のタバコを廻し飲みしていた。ヒーターのせいで、寒さは感じない。車窓は分厚く曇っていた。 「名前は何て言うの? 名前なんかは、寝たあとで聞くものだと言っていたが……」  水島は呟いた。 「生意気なこと言っちゃったものね。でも、あなたが怖かったから、あんなこと言ったのよ……玲子、中村玲子って言うの。あなたは?」 「石田幹夫——」  水島は偽名のほうを名乗り、 「好きだよ、君が」  と、わざと、ぶっきら棒に言う。 「わたしもよ——」  玲子は呟いたが、急にその唇が歪み、 「一度ぐらい寝たからって、わたしをモノにしたなんて思わないでよ」  と冷たく言う。 「気が強いお嬢さんだ。そのジャジャ馬みたいなところも好きなんだよ」 「お嬢さん、なんて言うのよして。男は何人も知ってるわ」  玲子は言った。 「悪かったな」  水島の表情も冷たくなった。車窓を細く開いてタバコの吸殻を捨てる。ミルクのような霧が流れこんできた。 「御免なさい。わたしって、すぐこうなの。淋しいわ。強く抱いて」  玲子は再び急に態度を変え、水島にしがみついてきた。 「俺は淋しくない。君がいるから——」  水島は玲子の髪を|撫《な》でた。玲子の耳に唇をつけ、 「それに、さっきのやつを吸うと、もっと淋しくなくなるぜ」  と、熱い息で玲子の官能をくすぐった。 「あなた、ヤクザ?」 「馬鹿なことを言うなよ。そんな、くだらない者ではない。これでも、小さな事業をやってるのさ。ただ、遊ぶときは徹底して遊ぶのが俺の主義でね」  水島は、背広の胸ポケットから、|大麻タバコ《マ リ フ ァ ナ》の入ったフィリップ・モリスの箱を取出した。  一本抜いて火をつけ、今度は深く吸いこむ。 「さっきは君、はじめて吸ったんだろう? 今度は気分悪くならないよ」  と、呟いて、玲子の唇にその大麻タバコを差しこんだ。自分はもう一本つける。  玲子は、はじめは口だけでふかしていたが、次第に深く吸いこむようになった。山猫のような瞳が、夢見るような趣きを帯びてくる。  水島のほうも効いてきた。一本吸い終った頃から、玲子がこの世のものでないほど美しく見えてくる。そして、自分が不死身のように思えてきた。  玲子の唇から大麻タバコがシートに転げ落ちた。 「気が遠くなりそう」  と、呻く。  水島には、シートを焦がしはじめた吸殻をドアの肘掛けの灰皿に突っこむだけの冷静さがわずかに残っていた。吸殻を片付けてから、玲子を抱きしめる。  幻のような悦楽が何時間も続いた。時間の観念がどこかに飛び去る。二人は車内で転げまわったが、ついに体を合わせたまま|昏《こん》|睡《すい》した。      二  陽のまぶしさで水島は目を覚ました。腕時計は午前十時を示している。エンジンはまだ廻っていた。  水島は半身を起した。頭がかすかに痛む。車のダッシュ・ボードの燃料計はほとんど最低を示し、電流の警告灯が赤く光っていた。  エンジン・スウィッチを切った水島は、手早く服をつけた。木洩れ陽にまだらな影が出来た玲子の体には、ドアのレヴァーにぶつかって出来たらしいアザがところどころに見えた。  タバコをくわえた水島は車から降りて、ゆっくり小用を済ます。杉林の上に富士が間近であった。  タバコを捨てて深呼吸していると、背後で玲子が起きて服をつけた。車から出て、振り向いた水島に恥ずかしそうに笑う。寝不足で|腫《は》れぼったい瞼に、強烈な色気がある。 「もう、わたし、あなたのものだわ」  と、水島の胸に顔を埋める。 「ああ、俺も君とは、ただの遊びではなくなった」  水島は呟いた。 「本当?」  玲子は顔を上げた。 「本当だとも。愛しているよ」  水島は唇を合わせた。しばらくして唇を離すと、唾の筋が朝陽に光る。  玲子は腰を落した。 「見ないでね」  と、囁くと、|灌《かん》|木《ぼく》の茂みに駆けこむ。  水島は車に戻るとシートを元通りにした。後ろのシートの前の床に転げ落ちていたフランクフルト・ソーセージの串揚げの袋と罐ジュースを拾いあげ、グローヴ・ボックスの開いた蓋の上に置いた。  しばらくして玲子が戻ってきた。 「どう?」  水島はソーセージの紙袋を破いた。 「いつの間に用意したの?」  玲子は|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に眉を|吊《つ》りあげた。 「昨夜さ。何だか、予感がしたんでね」 「悪い人ね」  玲子は笑った。  ソーセージは冷えきっていたが、夜の奮闘でかなりのエネルギーを使い果したあとであったから、味などどうでもいい。二人は互いの瞳を見つめあって|貪《むさぼ》り食った。  ジュースを飲み終ると、玲子が言った。 「ねえ、教えて、石田さん」 「幹夫と呼んでくれ」 「幹夫さん、奥さんはいないの?」 「ああ。今までは、女房にしたいと思う女にめぐり会わなかった」 「…………」 「君は?」 「結婚はしてないわ。でも、ある男の世話になってるわ」  玲子は瞳を伏せた。すぐに頭をあげ、水島のタバコを取上げると、投げやりなポーズで煙を吹きあげる。 「|爺《じじ》いか、そいつは?」  水島はとぼけた。 「そうよ。嫌らしい奴……生きていくのにお金が要るでしょう? 一緒にいるときは、死んだ積りになって我慢してるの。でも、いつもアタマにきてしまう。今じゃ、顔を見ただけで吐き気がするわ」  玲子は吐きだすように言って、乱暴にタバコを揉み消した。 「…………」  水島は同情する表情を作った。 「爺いのくせに……それとも、爺いのせいだからか、ひどくしつこいの。そのくせ、いざとなると駄目なときが多いんだから、こっちがおかしくなっちゃう」 「それは、それは……」  水島は笑った。松野はとんでもなくタフな奴だと思っていたが、実際は違うらしい。 「あなたのこと|尋《き》いてもいい?」 「何だい?」 「お仕事は?」 「外車のブローカーだ。マンションを仕事場にしている。表向きの商売は|親《しん》|戚《せき》がやっているスーパー・マーケットの役員ということになっているが」  水島は真面目な顔で言った。 「車を扱うお仕事なの? それで、運転もうまいのね?」 「まあな」  水島は苦笑した。 「今日一日、わたしの我がまま聞いてくれる?」 「いいよ」 「今夜はあなたのところに泊めて。いいでしょう?」 「ああ。それじゃあ、甲州街道を廻って、ゆっくり帰るとするか」 「もう、あんな怖い運転は嫌よ」  玲子は小さく笑った。  一度仙石原に戻ってガソリンを入れ、車首を戻して乙女峠を越えた。昨夜のハード・ドライヴィングでタイアのトレッドは|潰《つぶ》れ、ショールダーのゴムは千切れているから、水島は玲子に言われなくても大人しく走らせる。  御殿場から|須走《すばしり》を走る。右に入れば富士スピード・ウェイだ。水島が勤めている日欧自動車が宣伝のために援助しているアバルト・カー・クラブの練習や試合の状況をチェックするために、水島は今年に入ってから幾度も富士スピード・ウェイに通った。  アバルト・クラブのドライヴァーのテクニックはひどいものであった。したがって、試合でも国産車のメーカー・チームに負けてばかりいる。これでは宣伝上逆効果だから、と水島が日欧の社長に進言して、四月からは援助を打切らせたのだ。  援助打切りには、もう一つの理由があった。二輪から四輪に転向したかつての同僚や知人が、アバルトのパドックやピットにいる水島に懐かしげに近づいてきて、もしかしたらあのグランプリ・ライダーの水島自身ではないだろうか、と尋ねるのを避けるためだ。そのことを質問されるたびに水島は、あの有名であった水島とは同姓同名だし、顔も少々は似ているか知らないが、実は|従兄弟《い と こ》にすぎないのだ、と逃げていた。      三  山中湖畔で昼食をとり、河口湖に廻ってから、富士スバルラインを利用して五合目に登った。足の下にひろがる雲の海は神秘的であった。  そんな寄り道をしたので、都内に戻ったときにはすでに夕暮れ近くであった。水島は、調布バイパスにあるガソリン・スタンドで給油させている間に、そこの事務所の電話を借りて日欧自動車に連絡した。  水島の上役である第二営業課長の竹森が電話に出た。 「どうしたんだね。お|顧客《と く い》|先《さき》にでも廻ってるのかね?」  と、のんびりしたものだ。 「早く連絡しなければ、と思ってたんですが、ドライヴとゴルフに付合わされましてね。慣れないゴルフなんかやったもんですから、すっかり|風邪《か ぜ》引いちまいました。済みませんが、今日は休ませてもらいたいと思いまして」  水島は言った。 「若いのにだらしが無いな。まあ、いいだろう。今度私が、ゆっくり本式のゴルフをコーチしてやるよ」  ゴルフ|天《てん》|狗《ぐ》の竹森は豪傑笑いして電話を切った。ヨーロッパで鍛えた水島の腕がシングルのハンディであることを知らない。  続いて水島は、自分のマンションの部屋の係のルーム・メイドに電話をして、居間のテーブルに置いてあるスクラップ・ブックを、本棚の|抽《ひき》|出《だ》しに仕舞ってくれるように言った。水島としては、玲子をこうも早く自分の部屋に迎えるようになるとは予想してなかったからだ。  スタンドのサーヴィス・マンに勘定を払って車に戻ると、玲子が唇を|尖《と》がらせていた。 「どこと電話してたの?」 「お客さんにだ。今夜の訪問の約束は取消すって」 「女のお客さん?」 「男も女もだ」  水島は笑った。 「さあね」  玲子は水島の腕をつねった。  青山南町のマンション“グリーン・コーポラス”に着いたときには、陽は沈んでネオンが毒々しい花を咲かせていた。水島は地下駐車場の自分のパーキング・ロットに玲子のムスタングを突っこませた。  冗談を交わしながら、二人は自動エレヴェーターで五階に昇った。廊下を歩きながら玲子は、 「本当に大丈夫? 奥さんのヒステリーを見るのなんて嫌よ」  と、笑う。 「信用ないんだな。まあ、すぐに分るさ」  水島も笑った。  五〇六号の続き部屋に入ると、玲子は女が一緒に住んでいる形跡が無いか調べるらしく、素早く視線を走らせた。水島のほうは、居間のテーブルから、東日信用金庫の資料を集めたスクラップ・ブックが消えているのを見て安心する。  玲子はヤンピーのコートとブーツを脱ぎ捨て、はずみをつけてソファに腰を降ろした。水島は下のレストランにシャンペーンと料理を二人前注文し、浴槽の湯栓をひねって居間に戻ってから、 「これで分ったろう?」  と、玲子の横に坐る。 「うれしい」  玲子は水島に身を投げた。  水島は玲子を抱えあげて、寝室に運んだ。 「もう? こわれちゃうわ。夕食のあとまで待ってよ」  玲子は|喉《のど》を鳴らした。 「馬鹿。まず風呂だよ」  水島は声をたてて笑いながら玲子を降ろすと、寝室に服を脱ぐ。わざと、ズボンのポケットから運転免許証入れをはみ出させておいた。 「先に入ってて」  玲子は囁いた。  やがて二人は浴室でふざけあう。ふざけているうちに玲子が押えきれなくなってきたので、水島は冷水をぶっかけて冷やしてやった。  玲子が髪を洗っているとき、インターフォーンのブザーが鳴った。化粧室のバス・タオルを取上げ、水島は寝室を出た。ズボンからはみださせてあった免許証入れが、ポケットのなかに戻されている。  玲子は免許証を調べて、本当に石田という名なのか確かめてみたに違いない。無論水島は、石田名義の偽造運転免許証を使っていた。  唇を歪めて笑った水島は、バス・タオルを腰に捲いて居間に戻った。インターフォーンで応答する。  レストランの給仕がワゴンを押して入ってきた。水島がチップをやり、 「セルフ・サーヴィスでやるよ」  と、言うと、給仕は浴室の物音のほうに向けて物知り顔にウインクしてから去っていった。  料理はオレンジ詰めのキジを主体にしたものであった。料理の皿は銀の容器に入り、さめないようにアルコール・ランプで暖められていた。シャンペーンは、氷をつめた銀のバケツで冷やされている。  そのバケツに酒棚から運んできたソーテルヌの白を突っこんでおき、水島はもっともらしく経営学や経済学の本を並べた本棚の下の抽出しを開いた。スクラップ・ブックはちゃんとおさまっていた。水島はテーブルにローソクを立てる。  やがて、玲子が浴室から出た。薄化粧をしている。汚れてしまったパンティははかずにいきなりミニ・スカートを着けようとする玲子に、バス・タオルを外した水島は、 「そのまま、そのまま。二人だけのパーティだ。生れたままの姿で|晩《ばん》|餐《さん》というのも|一興《いっきょう》だぜ」  と、声をかける。 「嫌ね」  と、口では言いながらも、玲子は水島の言う通りにした。居間に移り、電灯を消してローソクに火をつけ、銀の容器の蓋をとると、思わず|溜《ため》|息《いき》をつく。水島はキジにコニャックを振りかけ、青い炎を燃えたたせた。  シャンペーンとキャビアからはじまる夕食がはじまった。ローソクの光で、水島の筋肉の束の動きが強調される。 「まるであなた、ヴァイキング時代の海賊みたい」  玲子は笑った。 「それよりも、君のこと聞かせてくれ。君を世話してる助平爺いって誰なんだ?」  水島はさり気なく話を持っていった。     ハイティーン      一 「嫌よ。せっかく夢を見ているところなのに、夢を壊さないで——」  キジ肉に合わせた白ブドウ酒のグラスを置いて玲子は|呟《つぶや》いた。しかし、軽く溜息をついて、 「どうせ分ってしまうことだから、言うわ。わたしが世話を受けているのは、松野という男なの。東日信用金庫の理事長をしているわ。わたしのほかにも、何人も囲っているの。本当に嫌な奴」 「じゃあ、理事長ともなれば、相当に給料をもらってるんだな」  水島は、玲子のためにオレンジ詰めのキジのローストを切り分けてやりながら、少しうらやましそうな表情で言ってみた。 「まさか——」  玲子は鼻で笑い、 「それは、大分給料はとってるでしょうけど、それだけではあんなにお金を使えるわけはないわ。信用金庫の金を使っているのよ」  と、あっさり言った。 「本当かい?」  水島は驚いて見せた。 「本当よ。でも、そんなこと、どうでもいいでしょう。絞れるだけ絞ったらあんな奴に用は無いもの。せっかくロマンチックな夜を過しているのに、嫌な奴のことなんか想いださせないで」  玲子は言った。かなり酔ってきている。|瞼《まぶた》は赤らんでいた。 「悪かったな。じゃあ、その話はやめよう。機嫌を直してくれ」  水島は一度引きさがった。  水島も玲子も、アルコールで食欲を|掻《か》きたてられたせいもあって、料理の皿をみんな平らげていった。  大麻やヘロインのせいで食欲が無くなり、|痩《や》せこけて衰弱しきってしまう、というのは、よほどの胃弱者の場合をのぞいて、嘘っぱちらしい。  麻薬の常用で骨と皮になるまで痩せこけるのは、|薬《ヤク》|代《ダイ》に追われて、食いたくても食うものが手に入らないからだ、と言う。  それが証拠に、食いたいものが食える上流社会での麻薬中毒者は外観からは見分けにくいし、ホンコンの中毒者|矯正《きょうせい》キャンプで見た男たちは、充分な食事と軽い肉体労働のせいで、ストレスに悩むホワイト・カラー族よりも健康そうであった。  食事が終ると、二人はコニャックのグラスを手に、ヌードのままソファに移った。水島は、ステレオのFM放送のスウィッチを入れ、|大麻タバコ《マ リ フ ァ ナ》の入ったフィリップ・モリスの箱を取ってくる。  二人はローソクの淡い光のなかで、コニャックとマリファナを交互に口に運んだ。FMは、アンディ・ウィリアムズの暖かな声を流している。  抵抗力の|強靱《きょうじん》な水島には今夜のマリファナは大して効かなかったが、玲子のほうは一本のマリファナで夢の国にさまよい出たようだ。 「幸せよ。とっても……こうしていると、もう、あなただけしか欲しくない。これから先、どうなってもいいわ」  と、水島の|膝《ひざ》の上に横ざまに乗って、胸に顔を埋める。 「俺だってさ」  水島は玲子の髪に唇を当てながら呟いた。玲子が熱く濡れてきていることを知って、自分もかすかに感じてくる。 「何を考えてるの?」 「君のことだけさ。君が悦ぶのを見たいだけ……愛しているからな」  玲子を仰向かせた水島は、首筋から乳首に唇を|這《は》わせる。まだ黒ずんでない乳首は、水島の口のなかで硬くなる。  水島の首に両手を廻した玲子の|瞳《ひとみ》は|霞《かすみ》がかかったようになっていた。アルコールのせいで、マリファナの効き目は強められたらしく、 「意地悪……わたしのことしか考えてくれてないのなら、どうして早くわたしの好きなことをしてくれないの?」  と、|囁《ささや》く。  水島は軽く声をたてて笑いながら、その玲子をマリファナの箱と共に寝室に運んだ……。  二時間後、やっと水島を求めやんだ玲子は、荒い息をつきながら泥のように眠りこんだ。しかし、水島のほうは完全に|醒《さ》めていた。  早いところ松野のことを玲子から|尋《き》きださないことには、自分のほうも大麻中毒になってしまいそうだ。しかし、あせっては元も子も無くなる。それに、今度の仕事では玲子に人質役も勤めてもらう計画だから、玲子の体をしっかりと|掴《つか》んでおかないとならない。  立上った水島は、浴室で熱いシャワーを浴びた。素肌にガウンをまとい、居間に移った。酒棚から出したキャヴィアの|罐《かん》を開き、パンにバターを塗った上に分厚く塗る。  そのオープン・サンドウィッチを筒形に丸めて口に運び、ゆっくり味わいながら、計画を再検討してみる。  東日信用金庫の理事長松野が、どこに横領した金を隠してあるかは、|惚《ほ》れきっている玲子にも簡単に教えはしないだろう。  しかし、松野が横領した金の総額さえ分れば水島にはいいのだ。そして、玲子を使って松野をおびき出し、監禁して少し痛い目に会わせてやる。  そこで松野に取引きの話を持ちだすのだ。東日信用金庫には大損害だが、松野にとっては犠牲は払うにしろ、身の破滅は免がれることの出来る話だ。  ただ問題は、松野が話に乗ったような振りをして、土壇場で居坐り直った場合だ。東日信用金庫を食いものにしているのは松野光一理事長だけでなく、金庫の役職を占めている松野一族だからだ。  一族は自分たちの利益を守るために、暴力団を使って立ち向ってくるかも知れない。だから水島は、松野やその一族を黙らすためにも、松野の背任横領に関する具体的な証拠……それが無理なら情報が欲しかった。      二 “夜はシャンペーンを水がわりに、キャヴィアを夕食がわりにし……”という表現があるように、キャヴィアには強精効果があると言われている。  しかし、水島には精力剤としてのキャヴィアは必要でなかった。水島は意思の集中によって不随意筋をコントロールする修業を積んでいる。  キャヴィアを一罐、バター付きのパンで平らげ、四、五本のタバコを灰にしてから、水島は寝室に戻った。  玲子は目を開いていた。瞳の焦点は定まらないようだが、ともかく瞳を開いている。 「もう起きたのか?」  水島は玲子の横にもぐりこみながら声をかけた。 「不思議ね。まだ、あなたがわたしのなかにいるみたい」  乳房を抱きしめながら玲子は呟いた。 「いいことを教えてやろう」  水島はマリファナ・タバコをほぐした。マリファナの葉を使って玲子を|愛《あい》|撫《ぶ》した。  マリファナのエキスは直接的に吸収された。|腰《よう》|椎《つい》を強烈に刺激して大脳に伝わっていった。  二分もかからないうちに玲子は気が狂ったようになった。水島に激しくせがむ。 「俺と一緒に暮したいか?」  水島は玲子の求めに応えずに言った。 「|勿《もち》|論《ろん》よ。ねえ、お願い……」 「二人で遊んで暮すには金が要る。これから、どうする?」 「何とかなるわ。早く……気が狂いそう」 「しかし、君のパトロンの松野に気付かれたら? 君は放りだされるぜ」 「あんな奴、殺してしまって!」  玲子は|譫《うわ》|言《ごと》のように叫んだ。 「何だって?」 「びっくりした顔をしても駄目よ。あなたが、どんな男か分ってるわ。どうせ、まともな商売じゃないでしょう? でも玲子、それでもいいの。松野から絞り取る話はあとでゆっくりしましょう。いまは、わたしを抱いて」  玲子は体をぶつけてきた。  水島は応えた。やがてマリファナのエキスは水島にも吸収され、水島はこの世のものとは思えない夢を見た……。  二人の意識がはっきりしたのは、熟睡したのちの午前九時頃であった。  水島は玲子のタバコに火をつけてやった。充分に眠ったのに、何か|虚《むな》しい気分だ。気力を掻きたて、 「自分の言ったこと、覚えている? 夜のことだけど」  と、呟く。 「覚えてないわ。覚えているのは、無茶苦茶に楽しかった、ということだけ。おかげで今日は駄目だわ」  玲子は言った。 「君は、松野を殺してくれと言ったよ。あの助平爺いを殺してくれってね」  水島は笑った。  水島の脚が触れている玲子の体が急に硬直した。しかし、すぐにそれはゆるみ、 「あら、そんなこと言ったかしら……まあ、半分は本心ね。でも、あいつが、ただ死んだだけじゃ、つまんないわ。わたしたち二人のために、うんとお金を遺してくれないと。そうでしょう?」 「…………」  水島は煙の輪を吐いた。この様子では調子よくいきそうだ。 「ねえ、わたしの目を見て」 「どうした?」  水島は涼しく澄んだ瞳で玲子の瞳を|覗《のぞ》きこんだ。 「あなた、人を殺す度胸ある?」 「殺すことはない。金さえ手に入ったら」  水島はニヤリと笑った。  玲子は声をたてて笑った。タバコの灰がシーツに落ちる。 「分ったわ。もう|肚《はら》のさぐりあいはよしましょう。二人の考えてることは同じよ。松野の助平爺いが信用金庫から勝手に引きだしているお金のことでしょう?」 「…………」  水島は否定にも肯定にもとれる|曖《あい》|昧《まい》な笑いかたをした。 「それが狙いで、わたしに近づいたのね?」  玲子は言ったが、その表情には怒っている様子は無い。 「それは君の考えすぎだよ。君があんまり……」 「生意気そうだから、からかってやれと思ったの?」 「いや、あんまり美しいんで欲しくなったからだ。松野のことは、君から聞いて思いついた」 「まあ、どっちでもいいわ。いまも、わたしを好き?」 「好きだとも。愛してるよ」  水島は二人のタバコを灰皿に捨て、玲子の胸の谷間に顔を埋めた。  玲子は水島の頭を抱えて引きつけた。 「言ったでしょう? わたしはもうあなたの|虜《とりこ》よ。どういう積りであなたがわたしに近づいたかは、今になってはどうでもいいこと。大事なのは今だわ。それに、これからの二人が、アクセクしないで暮していけること。そのためにはお金が要るわ。千万、二千万ではどうにもならない。もっと、もっと、まとまったお金が欲しい。あなたは?」 「俺もだ——」  水島は顔を上げた。軽く|自嘲《じちょう》するように笑い、 「外車のブローカーなんかやってたって、結局はその日暮しに終ってしまう。君のパトロンが信用金庫からかすめた金に興味が無いとは言わないよ」 「じゃあ、二人の狙いは同じね。わたしを信用して。二人でやれば、うまくあの爺いから捲きあげることが出来るかも知れないわ。いえ、きっと出来るわ」  玲子は言った。      三 「分ったよ。これで話は早い。松野のことを教えてくれ」 「東日信用金庫の理事長をしてるってことは話したかしら。理事や支店長は、みんな松野の一族なの。わたし、松野一族がよく来る、銀座の“レオ”っていうクラブに出てたの」 「まだ|二十歳《は た ち》になってないんだろう、君?」  水島はわざと言った。 「そう、十九よ。でもこの通り大人よ……男を知ったのは、静岡の高校のとき。十六だったわ。相手は英語の先公よ。でもそいつ、調子いいことばかり言って、わたしのほかにも何人も生徒に手をつけてたの。それを知って、わたし睡眠薬を飲んだわ。若かったのね。でも、死にきれなくて、|郷里《く に》を飛びだしてきたの」 「…………」 「東京には出てきたけど、ヤサグレにありつける仕事といったら、水商売しかないでしょう? 振りだしは品川だったわ。不思議なもので、|郷里《く に》を捨てて来たくせに、少しでも郷里に近いほうが気が安まるのね。ちょうど、錦糸町に千葉や茨城のヤサグレが集まり、東北の女がまず上野のあたりに足をとめるように……ともかく、品川から新宿と渡り歩いて、銀座にたどり着いたのが去年の秋よ。そこで、あいつに見初められたってわけ」  玲子は唇を|歪《ゆが》めた。 「奴は気前はいいかい?」 「はじめは、そう思ったわ。マンションを買ってくれるし、車も買ってくれたわ。お手当も月に三十万ということだったの」 「それが?」 「マンションも車も、名義はわたしでなくて、わたしの全然知らない会社なの。あいつの作った幽霊会社に決ってるわ。毎月の手当も二十万に値切って、自分が死んだら、一億の遺産を渡すように弁護士に指示してあるから我慢してくれ、なんて言うの。殺してやりたいわ」  玲子は氷よりも冷たい眼付きになった。 「君のほかに世話をしている女にも、奴はその調子なのか?」  水島は二本目のタバコに火をつけた。 「あら、どうしてほかにも奴の女がいるって知ってるの?」 「だって、君が言ったじゃないか。俺にせがんだとき」  水島は言った。これからも、玲子が疑念を口にしたときには、そのセリフで通すことにする。 「言ったかしら。忘れてしまったわ……ほかの女の人には、月に七万だけですって」 「なるほど。それで松野は、自分の金を——勿論信用金庫から横領した金だろうが——どれぐらい蓄えてるんだろう? 見当つく?」 「さあ。でも一度酔っぱらって、自分には二十億あるから、東日信用金庫なんて、いつ|潰《つぶ》れたって構わない、なんて自慢してたわ。もっとも酔いが醒めてからそのことを尋きただしてみたら、八十になるオヤジが死んだらの話だ、と言ってたけど」  玲子は言った。水島の唇からタバコを取上げて自分が吸う。 「二十億か」  水島は呟いた。松野光一自身が懐ろに収めた金はそんなものであろう。一族が私腹をこやした額を合わせれば、その数倍になるだろうが……。 「|口惜《く や》しいわね。二十億あったら、銀行利子だけで年に一億……わたしたち二人で使い切れないほどじゃない? 何とか手に入れる方法を考えてよ」  玲子は再び山猫のように瞳を光らせていた。物欲に渇いた唇を|舐《な》める。 「畜生。あんな奴に持たせておくなんて|勿《もっ》|体《たい》ない。俺たちが使ってこそ、金も生きてくる。二十億あったら、世界中を勝手なことをしながら旅して廻れるしな」  水島は玲子にムードを合わせ、飢えた|狼《おおかみ》のような表情を見せた。 「やってよ。あいつの金を捲きあげて!」 「君にも手伝ってもらわないとならない」 「手伝うわ。たとえ殺しでも」 「殺しは最後の手段だ。君がまずやることは、奴に思いきりサーヴィスして、君の命と引換えるためなら、五億や十億は惜しくない、という気持にさせることだ」 「わたしの命?」  玲子は顔色を変えた。 「落着いてくれ。俺の言いかたがまずかった。俺たち二人で大芝居を打つんだ。つまり、奴が俺の言うことを聞かなければ、俺は君を殺すと言っておどかす。本当に君を殺したりはしないさ。俺に出来るわけがないだろう。無論、奴も痛い目に会わせるが、君にも痛い思いをした振りをしてもらう。そうしたら、奴は君に裏切られたことが分らない」 「裏切りじゃないわ。|復讐《ふくしゅう》よ。わたしの青春をケチな金で買えたと|自《うぬ》|惚《ぼ》れているあの|爺《じじ》いにお釣りをもらうんだわ」 「分ったよ。俺たちは同志だ」 「恋人でもあり、同志でもあるわけね。さっそく、今夜から、腕にヨリをかけて、あいつを骨抜きにしてやるわ」 「でも、奴は土曜から日曜にかけてでないと君のマンションに来ないんだろう?」 「そんなことまで言ったかしら。ええ、その通りよ。でも、それはわたしが嫌だといってるからよ。週に一度という約束であいつに囲われたの。わたしさえいいって言ったら、あいつ毎晩でもわたしのとこに押しかけてくるわ」  十九歳の玲子は誇らしげに言った。     待つ      一  昼前になって水島は会社に出た。無論、背広に着替えている。  玲子には、商用で二、三日のあいだ岩国の基地に行くと言ってある。玲子のマンションの近くで別れるとき、水島は彼女に残りのマリファナを渡しておいた。  日欧自動車の第二営業課の部屋に入ったとき、その部屋には課長の竹森と次長の星野だけが残って、あとの者は出払っていた。 「どうした、風邪はもう直ったのかね?」 「まだ、ちょっとやつれてるようだな。無理することないよ」  二人は言った。  やつれているとしたら、玲子との激しい情事のせいだ、と思いながらも、水島は苦笑いを真面目な表情に変え、 「御心配かけました。慣れないゴルフなんか付き合わされたお蔭でひどい目に会いましたよ。でも、もう大丈夫です」 「冗談でなく、今度私がコーチしてやるよ。それで、契約はまとまりそうかね?」  竹森は言った。 「それがどうも……相手はユダヤ系なんでなかなか計算が細かくて……まあ、気長にやろうと思っています」 「ユダさんじゃ苦労するな。そう、そう、英字新聞に出しているうちの広告を見て、座間のアメチャンが、アストンDB五のエア・コン付きを売りたい、と言ってきた」 「年式は?」 「六五年だそうだ。まだ一万マイルしか走ってないと言ってる。体が大丈夫だったら、見てきてくれないか?」  竹森は言った。 「行きましょう。アメリカではエア・コン付きのDB五の六五年の売り値は大体七千五百ドルというところでしたね。日本ではひどく高いですが」 「程度によるが、八千ドルまでなら出してもいいと社長はおっしゃってる。日本にはアストン・マーチンはほとんど入ってきてないから、七百万円ぐらいでも物好きにすぐ売れる筈だ。エア・コン付きで一千万円近くする新品を買う成金もいるんだからな」  竹森は言い、売り手の住所と電話番号を書いたメモと十万円の手付けの小切手を水島に渡した。  水島は売り手のサンダースという男の家に電話を入れてみた。今日は非番で家にいるから、すぐに来てくれ、という返事であった。  玲子を彼女のムスタングで送ったから、水島は車を自分のマンションの駐車場に置いてある。水島はタクシーを拾って、青山にある自分のマンション“グリーン・コーポラス”に戻った。  駐車場に置いてあった自分のコルチナ・ロータスに乗って出発したが、直接座間には向わずに田園調布にある自分の表向きの住所、借りている離れに寄った。  煉瓦壁にマグネットを当てて煉瓦を壁から抜き、ルース・マイルズから手に入れた三丁の拳銃のうちの一丁であるベレッタ・ジャガー自動拳銃をホルスターごと壁のなかの隠し物入れから取出した。  壁に煉瓦を戻して隠し物入れに蓋をし、水島は西側の壁に寄せた銃キャビネットの|抽《ひき》|出《だ》しから、正式に公安委員会から許可を受けた二十二口径アンシュッツ・スポーツ・ライフルに合った二十二口径ロング・ライフル弾箱と、ニコンの双眼鏡を取出す。  赤い紙箱に五十発入ったその二十二口径弾も、正式に許可を受けて銃砲店で買ったものだ。被銅弾頭の先端に孔があいて|炸《さく》|裂《れつ》効果を大きくした猟用ホロー・ポイントのハイ・スピード弾であった。  水島は、そのほかに、小口径ライフル用の二号標的を数枚取出した。それらと押しピンをボストン・バッグに入れ、コルチナ・ロータスのトランクに積んだ。運転免許証は本物のほうをポケットに入れていた。  広い庭に人影は無い。水島は、偽造のナンバー・プレートを、トランク室の二重底に隠してあった本物のものに取替えた。「東」と刻まれた後側のプレートの鉛の封印など、本物そっくりに作ったのが幾つも用意してある。  車検証も本物のほうを取出し、偽物のほうは前後の偽造ナンバー・プレートと共にトランク室の二重底の下に仕舞った。  それだけのことを終えてから、水島はゆっくり車をスタートさせた。世田谷—町田の街道を通れば座間に行くのに近いが、それでは銀行の現金輸送車を襲った現場を通らなければならない。二人の目撃者を殺してしまったことを想いだして水島の心は重くなった。  水島はコースを変え、国道二四六号の厚木街道を通った。たとえ白バイやパトカーに停められたとしてもトランク室を開かれることはないだろうが、要心するにこしたことは無いから、スピード制限は黙認されている五十キロ以上は越さない。  有馬を過ぎて少し行くと、有料道路かと見間違えるほど道幅は広く美しくなる。その新装なった厚木街道の左右の土地は、街道に沿って新しく電車を走らせる私鉄の大資本が、タダ同然に数年前に買い占めてある。大資本を持った連中は抜け目がない。  スカイラインGTBや車高を下げたブルーバードのスリーSが、右のフラッシャーを点滅させながら百九十から百七十で猛然と水島のコルチナ・ロータスを追抜いて行く。水島は左の車線をゆっくり走らせ続けた。      二  大和の|下《しも》|鶴《つる》|間《ま》で右に折れた水島は、八王子—横浜の行政道路を八王子側に少し走った。  上鶴間の小田急の陸橋を渡り、十字路を左に折れると、英語の看板が目につくようになる。走っている車も駐留軍ナンバーが多い。  一キロちょっと走るうちに、道の右側に駐留軍ハウスの群れが見えた。しかし水島はその横を素通りし、右に折れて相模原病院の正門に突当った。  病院の裏の悪路を進んでいくと、雑木林がひろがっていく。水島は車が通れるギリギリのところまで車を突っこませた。左手に座間の基地がある筈だが、それは見えない。はるか後方の|桑畠《くわばたけ》の先に農家が見えるだけだ。  車のトランクからスーツ・ケースを出した水島は、そのなかに車の工具箱にいつも用意してあるハンマーとヤスリも入れた。  バッグを提げて雑木林のなかに歩いていく。午後二時の陽の光には春の暖かさがあった。  雑木林のなかの空地で足をとめた水島は、ケヤキの幹に標的紙を押しピンで止め、歩測で二十五メーターほど|退《さが》ってから、首に十六倍の双眼鏡を|吊《つ》った。  短い銃身のパブロ・ベレッタの小口径自動拳銃を取出し、弾倉を|銃把《じゅうは》から抜いて二十二口径弾を八発詰めた。  慎重に|射《う》つ。はじけるような銃声は雑木林に吸収される。双眼鏡で標的を覗くと、零点三時、つまり、着弾は標的の余白に外れている。  さらに二発射って初弾の近くに着弾したことを確かめた水島は、小さな照星の頭をヤスリで慎重に削った。後ろの照門の高さが調節出来るようになっているのなら照門を上げればいいが、それが出来ないから、照星の高さを削って照門を上げたと同じことにする。  一発一発と確かめながら、照星をほんの少しずつヤスリで削っていった。  十発目に高さは合った。あとは左右の修正だ。水島はアリ溝にくいこんでいる照門の右側に|空薬莢《からやっきょう》を当て、ハンマーで空薬莢をひっぱたいた。  照門は左に動いた。そこで試射してみると、まだ着弾は右に寄っている。  次は照門を左に動かしすぎて失敗し、再び右側に戻した。五発目にやっと十点に着弾した。  標的を|貼《は》り替えて弾倉に|装《そう》|填《てん》し直した。時間をかけて三発射つ。三発とも、直径一・二四センチの十点圏に引っかかった。射撃専用銃どころか、銃身が短い超軽量銃にしては、驚異的な記録であった。  水島は、弾倉に残っていたあとの五発を二秒間で速射した。五発は直径約四・五センチの八点圏内にまとまった。  水島は満足し、拳銃や使用した標的などをボストン・バッグに仕舞った。乱舞した空薬莢は下草のあいだにまぎれてほとんど発見出来ないので、見つかった分だけ土のなかに靴で埋めた。  アストン・マーチンを売りたがっているサム・サンダースの家は駐留軍ハウスの群れのなかにあった。  アストンのDB五は、カー・ポートの下でブリティッシュ・レーシング・グリーンの肌を重く光らせていた。車を磨くなどということはしない米人も、アストンとなると手入れがいい。  サンダースは七尺近い針金のように痩せた五十男であった。女房のクララは小さいほうではないが、それでもサンダースの胸のあたりまでしかない。  足許に寝そべるスパニッシュ・セッターの頭を長い手をのばして愛撫しながら、中佐だというサンダースはほとんど挨拶もそこそこに商談に入ってきた。  水島は、はじめは六五年物のDB五の標準値は五千ドルだと持っていった。輸入税や物品税がひどく高いことも説明する。  怒ったサンダースは、 「馬鹿者! 試乗してみてから値をつけるもんだ」  と、怒鳴り、水島を引っぱって庭に出た。  水島は外装の傷や工具などを点検してからボンネットを開く。売りにそなえて、サンダースは四リッターのエンジンも綺麗に磨いてあった。  次に水島はエンジンを掛けてみた。待っているあいだにサンダースが充分にウォーム・アップしていたらしく、水温計の針はいきなり八十度Cに達する。  型通りにアクセルに対するエンジンの反応やクラッチの滑り、ギアの入れかたなどをチェックし、 「ちょっと試乗してみていいでしょうか?」  と、サンダースの顔色をうかがった。 「ああ、私も一緒に行く」  サンダースは助手席に乗った。  水島は四段階に後輪のダンパーの硬さを調節出来るセレクターのダイアルを最強の四に廻し、ワイパーのスウィッチにローレックスの腕時計をぶらさげた。  病院の横から基地の裏門に通じる直線通路に来ると一度車を停め、腕時計を|睨《にら》んでいたが、クラッチを滑らせて猛然とスタートさせる。バック・ミラー一杯にタイアの煙がひろがった。  五速ギアのうちの四速で二百二十まで引っぱったとき、ゲートが間近に迫ってきた。日本人ガードがあわてて跳びのく。水島はヒール・アンド・トウでブレーキを強く効かしながらギアをローまで落し、九十五キロで左のガタガタ道に|逃《のが》れた。転覆寸前であった。  サンダースは、体を棒のように突っぱらせ、思いきり足を突っぱらせていた。顔色は紙のようになり、心臓が|喉《のど》から跳びだしそうになっている。 「性能は、まあ、まあ、といったところですね。六千ドルではいかがでしょう?」  サンダースがショックから立直らないうちに、水島は笑いながら言った。 「まあ、まあ、とはひどい。こんな|物《もの》|凄《すご》い性能の車は日本にはあんまり数は入ってきてないんだぞ」  サンダースはやっと声を出した。怒鳴る元気は無くなっている。 「そうでしょうかね? さっき腕時計で計ってみたんですが、発進してから二百キロぐらいまでなら、レースに出ているダットサンのフェアレディと大して変りませんでしたよ」  水島は手放し運転しながら、ワイパー・スウィッチに引っかけてあった腕時計を手首に戻した。 「嘘をつけ! ダットサンと同じだと?」 「本当ですよ。もっとも二百を越えてからは、向こうはこのアストンにかないっこありませんがね。いかがです、六千五百ドルでは? これがギリギリですよ」 「八千ドルだ。車は加速性能だけが問題じゃない」 「それは充分に承知しています。それでは、どこかのインチキ・ブローカーに八千ドルで買ってもらってください。そのかわり、金を払ってくれるかどうかは疑問ですがね」 「七千ドルだ。そうでなかったら、話は無かったことにしよう」  サンダースは|忌《いま》|々《いま》しげに言った。 「オーケイ。これで話は決りました。もしこの契約にうちのボスが文句をつけるようでしたら、私が自腹を切りますよ」  水島は調子よかった。  これで会社のほうは、通関手続きを済ませ、カモに売りつけるだけで、二百万ぐらいの|荒《あら》|稼《かせ》ぎが出来るのだ。もっとも、水島の懐ろのほうにも、八千ドル引く七千ドルの千ドルに対する三割の報奨金十万八千円が月給のほかに会社のほうから入ってくる。      三  会社に寄って契約書とサンダースの受取りを課長に渡した水島は、社長の|誉《ほ》め言葉を神妙に聞いた振りをしてから家路に向った。拳銃の入ったバッグは、すでに座間から赤坂の日欧自動車に戻る途中、自宅に置いてきてあった。  火曜日の夜は、水島が田園調布に離れを借りている佐々木家の孫三人に英語を教えることになっている。したがって、夕食は佐々木家の者と一緒にとる。  かつて造船王と言われた佐々木老人は、大邸宅に老いた秘書と運転手とコック、それに五人の女中に囲まれて暮していた。  佐々木の息子たちは独立して別居しているから、水島に孫たちに英語を教えてもらう本心は、高校生や大学生になった孫たちを週に一度だけでも自分の膝もとに集め、ふんだんに与える小遣いの代償として孫たちに甘えてもらいたいということらしかった。だから、水島は適当に勤めを果せばいい。  水島が|母《おも》|屋《や》の広い居間に入ったとき、ロータス・エランやトライアンフを駆って集まった佐々木の三人の孫は、スポーツ・カーやヨットに化ける小遣いを捲きあげるために、祖父の御機嫌を巧みにうかがっていた。三人とも、モヤシのような連中であった。  大食堂で格式ばったフル・コースの食事のあと、水島たちはサロンに移った。  青年たちに水島は易しい英会話を二時間ほど教える。八十になった佐々木老人はサロンの隅で目を細めて孫たちを眺めているが、彼等は車のファッションやポピュラー・ソングの題名に関した英語なら水島が|呆《あき》れるぐらい知っているくせに、基本英語になると、いつまでたってもまるで分ってない。  水島は離れに戻り、パンツ一枚になってベッドに横になった。すぐに睡魔に襲われた。  モヤシ・ボーイたちが帰っていくスポーツ・カーのマフラーを抜いた排気管のけたたましい音に水島は寝返りを打った。ほんの一時間ほどしか眠らなかったと思うが、目が|冴《さ》えてきて再び寝つけない。  水島は玲子のことを考えてみた。いまごろ玲子はベッドで腕によりをかけて松野理事長を骨抜きにしている最中であろうか? 松野と玲子の情事のシーンを想像してみて水島は|嘲《あざけ》るような笑いを浮べた。|嫉《しっ》|妬《と》の感情など、これっぽっちも|湧《わ》かない。ただ、松野が張りきりすぎて卒中の発作でも起したことには、水島の計画は水泡に帰してしまう……。  目がますます冴えてくるので、水島はシャツとズボンをつけ、|左腋《ひだりわき》の下にベレッタのホルスターを吊った。ベレッタの撃針を痛めないように、空薬莢の形に自分で作った硬質ゴムの空射ちケースを薬室に装填した。  腋の下のホルスターにベレッタを突っこみ、抜射ちの訓練にはげむ。一時間ほどその練習を続けたが、頑強な水島の体は、そんなことぐらいで疲れて眠たくなることはなかった。  水島は拳銃とホルスターを壁の隠し物入れに戻し、睡眠薬をウイスキーで|噛《か》みくだいた。  やがて眠気がしてくる。眠りに落ちながら水島は、東日信用金庫から金を頂戴したときに裏切りや手違いで警官隊に追われたときの逃げ道をもう一度調べ直してみようと心で呟く。  翌日は会社の通関係を連れてサンダースの家に行き、七千ドルの半金の三千五百ドル分に当る日本円の小切手と引替えに、アストン・マーチンを受取った。残金は通関が終ってから払うことになっている。  通関係が立川にある駐留軍人の|車輛《しゃりょう》専門の保税倉庫にアストンを放りこむのを水島は手伝った。二人が会社に戻ったのは午後になってからであった。  会社に戻っても、さし当って何もする仕事はなかった。水島は|顧客《おとくい》|廻《まわ》りをしてくるから、話がまとまったとき以外は今日はもう会社に帰ってこないと課長に言って会社を出た。東京駅に車を廻し、有料駐車場に車を置いて、地下の全国名店街で、瀬戸内海名産の|鯛《たい》の浜焼きを買った。玲子には岩国に行っているということになっているから、お土産ということにするのだ。  車に戻った水島は車首を原宿に向けた。代々木スポーツ・センターの先にある広い空地の木蔭に車を突っこませ、素早くナンバー・プレートを偽造のほうのものに付け替える。  青山南町のマンションに戻り、玲子の電話を待った。よほどのことがないかぎり、水島のほうから玲子のほうに電話を掛けないことに決めてあるのだ。無論、松野が玲子の横に居合せて、水島の電話の声を覚えたりしないようにだ。そんなことになれば、あとで水島と玲子が大芝居を打つとき、松野は二人の関係が本当はどんなものだか見抜いてしまうかも知れない。     不覚      一  午後五時まで待ったが、玲子から電話はかかってこなかった。玲子は多分、水島がまだ出張から戻ってきてないと思っているのであろう。  水島は、声を変えても通じる合言葉を玲子と決めておくべきであったと後悔した。しかし、ただ待っているだけでは芸が無いから、今晩は、東日信用金庫からの逃走通路の研究にまわすことにする。計画に|破《は》|綻《たん》が生じて、警察や暴力団に追われることも考えに入れないとならない。逃げるのに、ちょっとした方法を思いつく。  ベレッタ拳銃はホルスターに収めてビニールに包み、トイレの水洗タンクの中に隠してあった。しかし今夜はそれを身につけずにコルチナ・ロータスに乗った。東日信用金庫がある板橋に向いながら、何軒かの店で、|股《もも》の上まである釣用のゴム長靴やゴム手袋、作業服やランプのついた工事用ヘルメット、それに、太いマジック・インクやバールやズック靴などを買いこんだ。  東日信用金庫の本店は、板橋一丁目にあった。中仙道を走る都電板橋駅前から東上線下板橋のほうに抜けるかなり広い道路と、これも中仙道にあって荒川寄りの都電板橋五丁目と国電板橋駅を結ぶ、旧中仙道の商店街が交差する角にある。  商店街の通りは駐車禁止になっているが、交差する通りのほうは終日駐車可であった。水島は東日信用金庫の斜め向いに車を停める。  三階建てのビルの東日信用金庫は、すでにシャッターを降ろしていた。ビルの前と歩道のあいだには、客用の駐車スペースがある。ビルの左の中仙道寄りに、車が一台だけなら通り抜けることの出来る通用門がある。  その通用門も閉っている。通用門をくぐると、ビルの後ろに車が六、七台|駐《と》められる裏庭があることを水島は知っている。  ビルの表側の窓は灯が消えていた。二人いる自衛隊上りの警備員のうちの一人と当直の職員が夜警していることも水島に分っている。  しかし、いま水島に関心があるのはそんなことでなく、道路のマンホールであった。万一のときには、下水道を伝って逃げるのだ。遠く離れたマンホールの近くに逃走用の車を用意しておけばいい。その出口のマンホールの位置を決めるには、実際に下水道にもぐってみることが一番確実だ。  商店街には人通りが絶えなかったが、水島が偽造ナンバーをつけた車のなかで待っているほうの通りには人影はまばらだ。陽は沈み、東日信用金庫も屋上でネオンを輝かせている。  水島は車のなかで背広の上下を作業服に着替え、ポケットの中身を移した。釣用の長靴をつけ、手にはゴム手袋をつける。ズックの靴は作業服の上着のポケットに突っこむ。  一時間後、水島が車を停めた通りに、完全に人影が消えた何分間かのときがきた。水島は素早くヘルメットをかぶり、七十センチ近い鉄のバールを持って車を出た。  マンホールの一つは、車から五、六メーター斜め右の路上にあった。ヘルメットのランプに点灯した水島はバールでマンホールの蓋をこじ開けた。  強い筋肉で蓋の一端を起し、バールで支えた。マンホールにもぐりこみ、コンクリートの内壁に突きだした足がかりを伝わって下水道に降りながら、バールの支柱を外してマンホールの蓋を閉じた。  下水の深さは尻の近くまであった。下水道の本流だ。黒い汚水には|人《じん》|糞《ぷん》や鼠の死骸が浮んで流れていく。はじめは悪臭が鼻をついたが、すぐにそれに慣れた。  下水道の壁はところどころがコンクリートで、あとは煉瓦であった。マンホールの近くに長い竹の試験棒が掛けられている。  水島は下水道の下流のほうに歩いていった。トンネルの壁の破れから排水が流れこみ、二メーター近くある天井の壁は路上を重量車が通るたびに揺れて、水滴を水島のヘルメットや肩に振り落した。  百メーターから二百メーターごとに頭上のマンホールへの足がかりが見え、やはり同じぐらいの間隔で支流が暗い口を開いていた。  水島は、曲るごとにその角の煉瓦にマジック・インクで小さなしるしをつけながら、支流に別れて歩き続ける。支流の水深は浅くて歩きやすかった。  やがて別の本流に出た。その本流を二十分ほど歩くと、頭上の壁は全然揺れなくなった。路上を車が通ってないのであろう。  五、六分のあいだ水島は立ちどまっていた。思いきって近くのマンホールの蓋を細目に押しあげ、外の様子を|覗《のぞ》いてみた。  車の音がしないと思ったら、マンホールのまわりは長さ三百メーターほどに渡ってアスファルトがはぎ取られていた。道路の補修工事の最中であろう。マンホールから五十メーターほど離れたところに砕石の山が積まれ、パワー・ショベル車やローラー車がその脇に置かれていた。その近くで、二、三十人の労務者が大きな|焚《たき》|火《び》を囲んでいる。  道の右手に、校舎と|塀《へい》が見えた。どこかで見たことのある学校だ。思いだした。|西《にし》|巣《す》|鴨《がも》女子高校だ。  ここは、大塚から環状五号の明治通りに抜ける道であることが分った。水島はいつの間にか豊島区まで歩いたのだ。  水島はマンホールの蓋を閉じ、再び地下水道の汚水に足を降ろした。女子高校の裏手に廻りこめるようにと見当をつけて支流に分け入る。      二  水島のカンは的中した。次に水島がマンホールの蓋を押し開けたとき、目の前には女子高校の裏庭の塀と、淋しい裏通りがあった。  水島はマンホールから出ると、工事用ヘルメットのランプを消した。女子高の裏塀に沿って、無料駐車場がわりに道を利用している車が何台か見えた。女子高の反対側は、プラスチック工場の塀の金網らしい。工場の灯は消えていた。  このマンホールの近くに、水道局かガス会社の小型トラックを置いておけば、もしマンホールから|這《は》いだしてくるところを誰かに目撃されても不審に思われないだろう、と水島は考えた。  水道局やガス会社の工事車を盗むことも考えてみる。しかし、そんな目立つ車を盗んだら、すぐに手配が廻って、たとえ偽造ナンバーをつけておいてもパトカーか自転車でパトロールしている警官に捕まるのは目に見えている。  |完《かん》|璧《ぺき》を期すためには、普通の小型トラックを手に入れて、工事車そっくりに塗り替えてしまうことだ。手間はかかるが、やって出来ないことではない。  水島はマンホールから、下水道に戻った。曲り角ごとに小さくつけたマジック・インクのしるしをたどり、東日信用金庫の斜め前のマンホールの下に戻ってきた。井戸水と同じで夏は涼しく冬は暖かな下水道を歩くことは、悪臭に慣れてしまった今はさして辛いことではなかった。  頭上の道路は疾走する車によって揺れていた。水島は支流にそれてから、マンホールを見つけて鉄蓋を押しあげる。  下町風の住宅が並んだ暗い道であった。水島はゴム長とヘルメット、それにゴム手袋を捨て、ズック靴をはいてマンホールから這い出した。捨てたものは、また買えば済む。異様な風体で路上を歩きまわっているところをパトロールの警官に見つけられたりしたら、また無益の殺しをやらないとならない羽目になるかも知れない。蓋の支えをしてあったバールも下水のなかに投げこんだ。  自分の車を駐めてある、東日信用金庫に面した通りはどの方角であるかは、すぐにわかった。  歩いて二分もかからずに車のそばに戻った水島は、車のなかで作業服を背広に着替え、青山のマンションに戻っていく。  尾行されている感じを持ったのは、大塚のあたりまで来た時であった。一台のスカイラインGTBが、百メーターぐらいの間隔を置き、時には水島の車とのあいだに何台かの他車をはさんでつけてきているようだ。  シグナル・グランプリを挑んでくる積りなら、交差点や横断歩道の赤信号で水島がストップしたとき、その車は横に並ぶ筈であった。  しかし、その車は、赤信号で水島が停ると、極端にスピードを落して、水島の車に追いつかないようにする。  車種からして、覆面パトカーでは無いようであった。水島は、赤に変りかける黄信号を突き切って、その車を振り切ろうとした。  その車は強烈な加速で水島の車に続き、赤に変った直後の交差点をくぐり抜けた。水島の車に追いつくと、再びスピードをゆるめる。こうなると、水島がつけられているのは明らかであった。  その車には、二人の男が乗っていた。二人とも三十歳を越している感じだ。はっきりした顔付きは分らない。  次の交差点で、水島は黄信号で停ると、信号が赤になって何分の一秒か待ってから、いきなりアクセルをふかし、クラッチを滑らせながら猛然と跳びだした。  左右の道から発進していたタクシーが、フォーンをわめかせながら急ブレーキをかけた。危く左右のタクシーの鼻先をかすめた水島の車は交差点の外に逃れることが出来た。  バック・ミラーを覗いてみると、赤信号なのにスカイラインGTBは左折をはじめていた。水島が緊急のときよくやるように、一度左の道に出てUターンして交差点に戻り、今度は左折して追ってくる気らしい。  水島は脇道にそれた。狭い道を|出《で》|鱈《たら》|目《め》に走りまわっているうちに、|白《はく》|山《さん》通りに出た。もうさっきの車はつけてきてないようであった。水島は車を走らせながら、不安の表情を顔に|滲《にじ》ませている。  あの連中は、ただ俺をからかっただけなのだろうか? それとも、もう松野が俺の意図に感づいて、暴力団か悪徳私立探偵に俺をつけさせて、俺の正体をさぐらせようとしたのだろうか……と、考え続ける。今度また奴等がつけてきたら、待伏せして締めあげ、泥を吐かせてやる……。  マンションに戻った水島は、居間の電話が鳴っているのを知った。受話器を取上げ、水島です、と思わず|喉《のど》まで出かかった言葉を押えて、 「はい、石田です」  と、答えた。 「わたしよ、玲子よ」 「よかった。さっき岩国から戻ってきたところだ。君のお土産も買ってある」 「松野は、今しがた帰ったところだわ。今から、そっちに行ってもいい?」  玲子は鼻声を出した。 「さっき帰った? 誰かと連絡をとってる様子は無かったか?」 「さあ? 昨日の晩からここに閉じこもりきりだったけど、誰にも電話してる様子は無かったわ。一体、どうしたの?」 「いや。何でもない。それでは待ってるよ」  水島は言って電話を切ったが、さっきの尾行者のことが気にかかる。松野が|傭《やと》った者ではないらしいことは、松野がついさっきまで玲子の部屋にいたまま、外の誰とも連絡をとらなかったことから見当がついた。      三  半時間後、和服姿の玲子は水島の部屋に入ってきた。目が落ち|窪《くぼ》んだような感じであった。 「淋しかったよ。随分長いあいだ会わなかったような気がした」  水島は玲子を強く抱きしめた。風呂に入って、下水の汚臭を消してあった。 「くたびれたわ。もう、くたくたよ」  玲子は水島を押しのけるようにして、ソファに崩れるように腰を降ろした。 「何か飲む? ちょうどいい|肴《さかな》がある。君のために瀬戸内海から運んできた鯛の浜焼きだ」 「じゃあ、なるべく弱いものがいいわ。マンハッタンか何か」 「いいとも」  水島はホーム・バーでマンハッタンのカクテルを二つ作った。大皿に載せた鯛の浜焼きのワラ包みを開き、 「どうだった?」  と自分のグラスを差しあげながら尋ねた。 「色んなことが分ったわ——」  玲子は言った。 「一番|肝《かん》|腎《じん》なのは、東日信用金庫の金庫に時限装置がついてないってことよ」 「本当?」 「警報装置は色々あるわ。でも、時限装置はついてないの。考えてみれば当り前ね。松野が好きなときに金庫のお金を勝手に取り出せるように、わざとタイム・ロックはつけて無いのよ」 「なるほど」  水島は低く|唸《うな》り、笑いに唇の両端を吊りあげた。タイム・ロックが無ければ、深夜でも東日信用金庫を襲うことが出来るわけだし、松野に金庫を開かせるのにも都合がいい。 「警報装置は?」 「赤外線のシャッターと金庫の非常ベル。でも、どっちにも隠しボタンがついていて、それを押せば電流は切れるそうよ」 「いいことを聞いてくれた」 「そのかわり、松野に|渾《こん》|身《しん》のサーヴィスをしたのよ。今夜は、あんまり自分が汚れているような気がして、あなたに抱かれるのが嫌なほどなの」 「苦労かけたな。それで、松野一族が私腹を肥やした金額は全体でいくらになったのか分った? このあいだは、理事長の松野だけで二十億とか言っていたが……」 「それはとうとう|尋《き》き出せなかったわ」 「…………」 「何かあいつ、大蔵省の会計監査とかをしきりに気にしてたわ。あと一と月後ぐらいにあるんですって」 「なるほど。帳尻を一応もっともらしく合わさないとならないからだな」  水島は|呟《つぶや》いた。  そのとき、一つの考えが|閃《ひらめ》いた。会計監査にパスさせるように、焦げつきの金を松野に形だけでも回収させ、それを金庫に入れさすのだ。そうやって金庫にたまった現ナマをゴッソリといただく。水島の|瞳《ひとみ》は|凄《すご》|味《み》を帯びて輝いた。 「どうしたの、顔色を変えて?」 「いい計画を考えついたからだ」 「教えて」 「口では説明しにくい。ほかに収穫は?」 「松野には、暴力団がついているわ。池袋の東星会よ。暴力団狩りで解散したことになってはいるけれど、実際は経済ヤクザとして生きのびているの。両方が、持ちつ持たれつの関係だわ」 「…………」  それでは、さっきの尾行者は東星会の者で、東日信用金庫の近くで不審な者を見かけたら追うように命令されていたのだろうか、と水島は眉をひそめた。 「松野に暴力団がついていても、あなた怖くない?」  マンハッタンを飲み干して、玲子は尋ねた。鯛には手をつけない。 「別に」  水島は鼻で笑って見せた。 「心強いわ。ところで、さっき電話で何を言おうとしたの? 松野が外に連絡をとろうとしたかどうか知りたがっていたけど」  玲子は言った。 「さっき、俺の車を尾行しようとした車があった。うまく|撒《ま》いたが」 「誰でしょう?」 「分らん。俺の車より性能がいいところを見せたかっただけかも知れないし」 「でも、気になるわね」 「警察の車では無いようだった。今度また奴等に会えたら片をつけてやる」  水島は低く押し殺したような声で言った。 「じゃあ、またね。今夜は、さっき言ったように一人で寝たいの。帰らせてもらうわ」  玲子は立上った。 「送っていこう」 「有難う。でも、自分の車で来たから大丈夫よ。それより、お願いがあるの」 「何?」 「マリファナがもう少しで切れそうなの。この前の店の名前を忘れてしまったし、わたしだけで行っても売ってくれないでしょう? あなた、今度会う時までに、買ってきてくださる?」  玲子は、すがりつくような表情をした。 「分った。じゃあ、駐車場まで送ろう」  水島も立上った。  玲子のムスタングは、水島が酷使したタイアを取替えてあった。 「じゃあ」  水島は、玲子を優しく抱き寄せて額に軽く唇を当てた。松野の|玩具《おもちゃ》になった直後の玲子と寝ないで済ませるのは有難い。 「お休みなさい。また松野から情報を入れておくわ」  玲子は|囁《ささや》き、車に入った。  駐車場を出ていく玲子の車に優雅に手を振る水島の唇には、|嘲笑《ちょうしょう》が隠されていた。  自動エレヴェーターで五階に戻った。内側のボタンを押しておくと自動的にロックされるエール錠を、ズボンのポケットから出したキーで解く。  ドアを開いて玄関に足を踏み入れた途端、人の気配を感じて跳びしざろうとした。一瞬遅く、頭部に強打を受けて水島は床に|膝《ひざ》をついた。  そこへ、再び頭を強打された。足の爪先まで伝わった激痛とショックで床に突んのめった水島の意識は|昏《こん》|迷《めい》していく……。  底無し沼に引きずりこまれるのを必死に這いあがる悪夢を見ているうちに、水島は目を覚ました。頭の|芯《しん》はドリルを打ちこまれているように痛み、瞳の焦点はなかなか合わない。  三人の男が水島を覗きこんでいた。その顔と体が水島の瞳のなかで揺れる。一人の男が遠ざかり、戻ってきたかと思うと、バケツの水が水島に浴びせかけられる。  身震いした水島は半身を起し、頭を振って髪の水を払った。頭痛は去らないが瞳の焦点は合い、目の前に立っている三人の男がはっきり見えてきた。  真ん中の男が一番背が高かった。陽気に見えるほど大胆な顔付きであった。  その右側の男は、ウエルター級のボクサーのようにバランスのとれた体つきと、ラテン系の美男を思わす|伊達男《だ ておとこ》であった。  その二人は、水島を尾行した男たちであった。左側の男は小柄で|痩《そう》|身《しん》、そして|山羊《や ぎ》のように穏やかな顔を持っていた。あとの二人が三十台の前半であるのに、その男だけ四十歳をかなり越えている。まわりは地下室の壁のようであった。  右側の男がニヤニヤ笑いながら自分の上着の裾をはぐった。ズボンのバンドに差したホルスターからベレッタ二十二口径の自動拳銃を抜いて、 「これに見覚えがあるだろう? あんたのものだ。水洗のタンクから見つけた。|射《う》たれたくなかったら、これから質問に答えるんだ」  と、凄味の効いた声で言った。     |地《ち》|下《か》|牢《ろう》      一 「あんたたちは誰だ?」  頭痛をこらえながら、水島は|呻《うめ》くように言った。 「誰でもいい。君こそ誰だね? 石田幹夫というのは偽名だろう? 君の運転免許証はよく出来ているが、偽物だ」  向って左側に立つ、小柄で穏やかな表情をした男が冷たく言った。 「どうして、ここが分った? 途中で撒いた筈だが……」  水島は呟いた。 「女を|尾行《つ け》たからだ。松野理事長が玲子のマンションから出てしばらくして、あの女はここにやってきた」 「あんたたちは、東星会の者か? いや、そうは思えないが」 「質問に答えろ。|不具《かたわ》になりたくなかったらな」  右側の男が言い、ベレッタの引金を絞った。地下室に鋭く銃声が反響し、二十二口径ハイ・スピード弾は水島の右の肩の上を通過した。 「本名は石川だ——」  水島はわざと言った。 「|刑事《デ カ》のような口を叩かないでくれ」 「口だけは達者じゃないか? 今度はもうちょっと顔の近くにタマを通してやる」  右側の伊達男は、再び発砲しようとした。 「まあ、待て」  左側の小柄な男が口をはさんだ。 「君も東日信用金庫を狙っているようだな?」 「俺も?」  水島は眉を|吊《つ》りあげた。 「そう。我々と同じようにだ」  男は言った。  しばらくのあいだ、重苦しい沈黙が地下室を支配した。  水島は突然、はじけるように笑いだした。 「こいつは面白い。商売敵というわけだな」 「気に入った。いい度胸をしている。君なら使えそうだ」 「使える?」 「そう。一匹|狼《おおかみ》もいいが、チーム・ワークも悪くない。特に、銀行の金庫を狙うときにはな。私たちに協力すれば、分け前はやる」 「断わったら?」 「死んでもらうだけだ。セメント|樽《だる》は用意してある」 「…………」 「分るだろう?」 「分った。だけど、俺は安くは身売りしない。俺には、いい計画があるんだ」 「|獲《え》|物《もの》は山分けにしよう。それで文句は無いだろうな?」 「四分の一か? 馬鹿馬鹿しいが仕方ない。鎮痛剤をくれ。頭が割れそうだ」  水島は言った。 「|贅《ぜい》|沢《たく》言うな。貴様の計画を聞かせろ」  伊達男のほうが、水島の拳銃を構えたまま言った。 「拳銃を返してくれ。対等の立場でないと話は出来ない」  ゆっくり立上りながら水島は言った。もう脚は|痺《しび》れていず、|強靱《きょうじん》なバネを取戻している。 「そのデカい口を叩き|潰《つぶ》してやる」  伊達男はベレッタの撃鉄を親指で押えながら引金を引き、撃鉄をハーフ・コックの位置まで戻して撃鉄安全をかけた。そして、銃身部で水島の頬を一撃しようとした。  水島は上体を後ろにスウェイさせてその打撃を避けた。左足は反射的にその男の|股《こ》|間《かん》を|蹴《け》りあげる。  危く腰を引いたその男は、|睾《こう》|丸《がん》を潰されるのだけはまぬがれたが、|鼠《そ》|蹊《けい》|部《ぶ》に凄まじい蹴りをくらった。拳銃を放りだしながら、両手で股の付け根を押えて|蹲《うずくま》る。  水島は空中で拳銃を受けとめた。親指で撃鉄を起しながら、コンクリートの床の上を転がった。  転がりながら水島は、真ん中の不敵な面構えの男が、腋の下のホルスターから、モーゼルH・SCの自動拳銃を抜くのを見た。  水島はベレッタの引金を絞った。発射音と金属音がほとんど同時に響き、男の手からモーゼルが吹っとんだ。吹っとんでいるその拳銃がまだ空中にあるうちに、水島は三発続けざまに射ちまくった。  空中で火花を散らしながら奇妙なダンスを踊ったモーゼルは、コンクリートの上に落ちたときには遊底や機関部が被弾でひしゃげて、使いものにならないようになっていた。  水島は立上りながらニヤリと笑い、左側の小柄な男に銃口を向けた。股を蹴られて蹲っている伊達男の|顎《あご》を軽く蹴って|昏《こん》|倒《とう》させた。 「お美事。気に入った。確かに君は使いものになる。これまでの無礼の段は許してもらいたい」  小柄な男は一礼した。次の瞬間、右の袖口から、日本製ミクロの上下二連デリンジャー拳銃が滑りでた。  水島とその男は同時に発砲した。しかし水島の二十二口径ハイ・スピードのホロー・ポイント弾のほうが、一瞬早く、低速の二十二口径ショート弾を使用したデリンジャーに命中する。  射ちながら、水島は体を倒していた。その右手を、デリンジャーから放たれた弾がかすめた。  小柄な男は、拳銃を吹っとばされて空になった右手を、信じられないものを見るように見つめていた。 「失礼。俺は|舐《な》められては我慢出来ない人間なんでね」  今度は水島が|小《こ》|粋《いき》に一礼した。      二  二十分後、水島を混えた男たちは、隣室のテーブルで、スコッチのグラスを合わせていた。  小柄で穏やかな表情をした四十男の名は|長《は》|谷《せ》|見《み》。三人のうちのリーダー格のようであった。陽気で不敵な面構えの男が片平、そして、蹴られた顎を|撫《な》で、口のなかの傷にしみるアルコールに顔をしかめている伊達男が、|粕《かす》|谷《や》という名だ。 「美事だった——」  長谷見がくり返した。 「あれだけの拳銃の腕をどこで身につけたのかね? もし私が君の顔を想い出さなかったら、|警察《サ ツ》の秘密捜査官……覆面刑事と間違えるところだった」 「俺のことを想いださなかったら、と言うと?」  水島は眉を吊りあげた。 「君の本名は石田ではない。石川でもない。水島哲夫。違いないだろう?」  長谷見は水島の瞳にぴたっと瞳を据えた。 「参った。よく覚えてましたね?」 「こう見えても、隠れた二輪レースのファンでね。現役当時の君はタイガーだった。まさしく虎だった。種々の劣勢な条件を克服しながら、明らかに優勢な敵に向って必死に戦いを挑んでいく虎のようなライダーだった。君が仲間になったとはうれしい」 「どうも……」 「あんたが、あの“走るために生れてきた男”と言われた水島か?」  自尊心を傷つけられ、それに肉体の苦痛が加わって不機嫌な表情であった粕谷が、呻くように言った。驚きと共に、軽い尊敬の|眼《まな》|差《ざ》しになっている。 「事故を起してから、どうしてたんだ?」  片平が尋ねた。そう尋くからには、二輪時代の水島のことを聞いたことがあるらしい。  水島は、フランスの外人部隊に加わってジャングルで闘ったことを簡単に話した。東和銀行の現金輸送車を襲ったことまではしゃべらない。 「そうか。いまは?」  長谷見が言った。 「表向きは、日欧自動車というところで働いている。しかし、狙いは、あんたたちがカンづいた通りに東日信用金庫だ。俺のことばかりしゃべらされたようだな。あんたたちのことも話してくれ」  水島は言い、オン・ザ・ロックスにしたスコッチをコップに半分ほど一口に飲んだ。 「私たちは、芸術家だ——」  長谷見は言った。 「そう、銀行や大企業の金庫専門の芸術家だ。私は自衛隊の爆薬処理班にいた。粕谷君と片平君はレインジャー部隊の精鋭だった。五年前に私たちははじめて組み、それ以来、芸術的な仕事をしてきた。ただし、今年のはじめに町田で起った現金輸送車事件は私たちの仕事でないがね」  と、静かに笑って水島の顔を見る。  水島は苦笑いし、ローガンのスコッチをグラスに残った氷に注いだ。 「東日信用金庫に目をつけたのは、あそこの金庫室を作った会社の人間を買収して、時限のタイム・ロックがついてないことを知ったからだ。しかし、ただのダイアル・ロックでも、聴診器と指先を頼りに合わすには、何時間かかかることがある。しかも、苦労して開けてみたら、金庫のなかは空っぽだった、ということも考えられる。だから私たちは、東日信用金庫の裏庭を覗けるビルの貸し事務所を一つ借りて、現金輸送車の出入りを観察する一方、理事長の松野や預金課長などを尾行して、奴等の口からいつ現ナマがあの金庫に大量に入ってくるかを盗み聴こうとした。そしたら、網のなかに君が飛びこんできた、という次第だ。君はどうして、あそこに目をつけた?」  長谷見は言った。 「俺は、松野自身に金庫を開かせる計画を立てたんだ。それが出来ないなら、金庫のダイアル番号を知らせてもらうだけでもいいが……奴は焦げつかせた東日の貸し金の穴埋めに、きっと俺の話に乗ってくる。ただ問題は、松野一族には、暴力団の東星会がついている、ということだ。奴等を俺一人で相手にするのは面倒だが、あんたたちがついていてくれれば心強い——」  水島は言い、計画を簡単に打ちあけた。  会計監査の帳尻を合わすということで、焦げつきになっている貸付金を現ナマで金庫に戻させておき、それをごっそり|戴《いただ》こうという計画は長谷見たちを夢中にさせた。 「面白い。それでいこうぜ。まず、前祝いだ。逃亡経路についても、あんたの計画している下水道に賛成だ。俺たちは、ガス会社の工事車ぐらいすぐにデッチ上げて見せるよ」  片平がグラスを差しあげた。  粕谷も乾杯した。長谷見が再び水島とグラスを合わせながら、 「これまでに君が|稼《かせ》いだ金については、私たちは何も口を出さないと約束しよう。しかし、もし金は手に入ったが、そいつが紙幣ナンバーが控えられている“熱い金”で、使いたくても使えないということがあるのなら、こっちで安全な冷たい金に換えて差しあげよう。もっとも手数料は戴くが」  と、微笑した。  それから水島は、男たちのアジトになっているその建物のなかを案内された。地下にはもう三部屋あり、一つには自衛隊や米軍の武器庫から盗んできた銃器類や火薬が仕舞われ、もう一つの地下室は工作室であった。さらに一つの地下室には食料や飲料が積まれていた。  地上は、平凡な四十坪ほどの木造洋風の平屋建てで、置いてあるものは、普通の家庭と変りない。しかし、庭は広く、雑木林にさえぎられて塀は見えないほどだ。|築《つき》|山《やま》のようなものの腹に、地下駐車場への入口が開いていた。 「ここはどこです?」  水島は尋ねた。 「世田谷の喜多見町。しかし、今にもっともっと大きな仕事をやったら、都心に地下王国を築きあげる」  長谷見は答えた。      三  二週間が過ぎた。  水島は、中村玲子のフォード・ムスタングを運転して、広げられた環状八号に近い長谷見グループのアジトに向った。助手席にはミニ・スカート姿の玲子が坐って、タバコを吸っている。  夕方であった。|上《かみ》|馬《うま》の交差点に来て赤信号で停ったとき、水島は胸ポケットから、三角型をしたツルのあいだにまでレンズが入ったサン・グラスを取出して玲子に渡した。  黒いレンズは、まったく光線を通さないように長谷見が特殊加工をしてくれてあった。  玲子はそのサン・グラスをかけた。顔の横までレンズで隠される。 「何にも見えないわ。わたしを信用してくれないのね」  玲子は鼻を鳴らした。  水島は短くなったタバコを玲子の指のあいだから取上げ、灰皿で|揉《も》み消した。 「だから言ったろう? 俺は君を信じている。君が命だ。だけど、奴等にいきなり君を信じろと言っても無理だ」 「でも、奴等はいまはわたしたちを見ていないんでしょう? こんなもの外していい筈よ」 「分らん。奴等のことだ、|尾行《つ け》てきているかも知らんのだ」  水島は言った。長谷見に、玲子が裏切ったときのことを考えに入れて、アジトの所在地を玲子に知られないようにしてもらいたい、と言われている。 「でも、あなたには、ちょっぴり失望ね。独り狼の気概はどこに行ったの?」  玲子は軽く唇を歪めた。 「仕方なかった。だが、全面的に屈伏したわけではない。いまに俺があのグループのリーダーになってみせるよ」  水島は呟き、青信号に変った交差点を渡った。車を走らせ続けながら、絶えず横目で玲子の様子をうかがう。玲子がサン・グラスを外す気配はなかった。  |祖《そ》|師《しが》|谷《や》|大《おお》|蔵《くら》で左に折れ、第三京浜に続く環状八号に入る。第三京浜と見まちがうほど立派な道だ。  環八を右に折れて三百メーターほど入ったところに、アジトを包んだ雑木林が|畠《はたけ》と建売り住宅のあいだに見えた。雑木林は金網の|柵《さく》に囲まれている。  門は開いていた。水島は雑木林のなかの曲りくねった砂利道に車を乗り入れる。建物の前で車を駐めると、 「まだだよ。いま、手を引いて案内するからな」  と、声をかけ、車から降りて右のドアのほうに廻った。玲子を抱きかかえるようにして降ろす。 「怖いわ。怖くなってきたわ……わたし、本当に拷問されるんじゃないでしょうね」  玲子は水島にしがみついた。 「大丈夫だとも。演技だ。ちっとは痛い目に会うかも知れないが、そのときは|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に悲鳴をあげればいい」 「嫌よ、ちょっとでも痛い目に会うなんて!」 「心配ない。俺が君を本気で殴るとでも思うかね?」  水島は優しく玲子の背を撫でた。玲子の手を引き、玄関から建物に入った。靴をはいたまま廊下を渡り、一番奥の部屋についた地下室への階段の上で立ちどまる。  玲子を抱き抱えた。玲子は水島の首に両腕を廻した。階段を降りた地下の廊下で水島は玲子に軽く口づけし、 「さあ、もう眼隠しをとってもいいよ」  と言った。  玲子は廊下に立ち、サン・グラスを外した。そこが荒塗りのコンクリート壁の地下室であることを知って顔が|蒼《そう》|白《はく》になった。  水島は、一番近くのドアを開いた。水島がはじめに尋問のために連れこまれた部屋だ。いまは、天井の滑車からロープが垂れさがり、部屋の隅に太い革のベルトとバーナーが置かれている。反対側の隅のプラグに電話のコードが差しこまれていた。  そして長谷見と片平が、顔をナイロン・ストッキングで覆って立っていた。玲子は呻き声を漏らして水島の胸に倒れこもうとした。 「ようこそ、お出ましを。名演技を見せてくださるのを楽しみにしていますよ」  長谷見が、こもった声で言った。 「嫌! 帰らせて!」  バーナーや革のベルトから視線を|逸《そ》らしながら玲子はわめいた。 「いまさら無理を言われても、お聞きするわけには参りません。少し気持を落着かせてから、松野理事長に電話してもらいたいですな」 「…………」 「お願いしますよ」  ストッキングの覆面をつけたまま、片平が愛想よく玲子にアルミ・パイプの椅子を差しだした。  水島は、玲子の肩を押えつけるようにしてその椅子に坐らせた。恨めし気な瞳を向ける玲子に、内ポケットから、フィリップ・モリスのプラスチック箱を取出して渡す。マリファナ・タバコ入りだ。  玲子の瞳が輝いた。水島は玲子に、警察の手入れがクラブ・ポートサイドにあって、このところマリファナの入手が難かしくなったのだ、と話して一日二本の割りでしか玲子にマリファナを渡してない。玲子はクラブ・ポートサイドに一人で行ってマリファナを手に入れようとあせったようだが、水島がドア・ボーイや見張りに、玲子はサツの犬のような気配がする、と言ってあるから、玲子は一人ではクラブに入ることも出来ない。  モリスの箱を開き、なかに十二本の太巻きのマリファナが入っているのを見て、玲子は悲鳴に近い|溜《ため》|息《いき》を漏らした。もどかしげに一本抜いて口にくわえたところに、水島はタイミングよくライターの火を近づけた。  玲子は深く煙を吸いこみ、長いあいだ肺に溜めておいてからゆっくりと吐きだした。吐きだされる煙はほとんど無色になっていた。次第に玲子に陶然とした表情がひろがっていった。  長い時間をかけて吸い終った玲子は、吸い殻を、モリスの箱と共に仕舞った。ふらふらと立上って電話の受話器を取上げる。     襲撃      一  松野光一は、東日信用金庫本店の理事長室で、どうやって大蔵省の会計監査官を買収しようか、と思いをめぐらせていた。買収に失敗したときには、日頃政治献金という名目で貢いでいる代議士にまた金を積んで上から圧力をかけてもらうほかない。  そのとき、デスクの専用電話が鳴った。舌打ちしながら受話器を取上げた松野の耳に、甘ったれた玲子の声が聞えてきた。 「わたしよ、パパ。お分り?」 「お前か? ここにはなるべく電話してくるな、と言ったろう」  松野はあわて気味に言った。 「だって、淋しいんだもん。帰りに、また寄ってくれる?」 「さあ、|儂《わし》はいそがしいんでね」  松野は分厚い唇を好色な笑いに|歪《ゆが》めながら答えた。 「意地悪。そんなら、いいから。玲子、ボーイハントに出かけるから」 「分った。分ったよ、小猫ちゃん。会議で遅くなるだろうが。七時にはそっちに着く」 「じゃあね」  キスの音と共に電話は切れた。松野はしばらくのあいだニヤニヤしていたが、迫ってきた会計監査のことに考えが戻り、苦虫を|噛《か》み|潰《つぶ》したような顔になる。しかし、帳簿上は|辻《つじ》|褄《つま》を合わせてあるのだから、あとは焦げつきがいかに不可抗力であったかを認めさすだけだ、と思うと、少し気が軽くなる。松野は別室の秘書を呼んで、腹心の部下たちに集まるように伝えさせた。  背は低いがガッシリした体格の松野が、要心深くタクシーに乗って、四谷にある玲子のマンションに着いたときは七時を十五分ほど廻っていた。  五階にある玲子の部屋のブザーを押す。インターフォーンから返事は返ってこなかった。 「買物かな?」  と、舌打ちした松野は、キー・ホールダーから|鍵《かぎ》の一つを|択《えら》び、ドアを開いた。応接室には、淡い灯がついている。  松野は玄関に足を踏み入れた。その途端、後頭部に一撃をくって崩れ折れる。ドアの|蔭《かげ》に潜んでいた水島が、ブラック・ジャックを振り降ろしたのだ。  水島は、運送会社のマークの入った作業服をつけていた。ドアを閉じると松野の体を抱えあげる。  寝室から、|把《と》っ手のついたアルミの箱をかついだ片平が姿を現わした。やはり、運送会社のマーク入りの作業服をつけている。  長方形のアルミの箱は、|柩《ひつぎ》ほども大きさがあった。片平はその箱を降ろして蓋を開く。なかには、薄いマットが敷かれ、猿グツワと眼隠し用の布が置かれてあった。手足を縛るロープもだ。  二人はその箱に松野を閉じこめて、マンションから運びだした。ひっそりと静まり返ったマンションのなかでガードマンに顔を合わせたが、その男は二人に何の不審も抱かなかったようだ。  マンションの前に、二人の作業服と同じ運送会社のマークの入ったトヨエースのパネル・ヴァンが|駐《とま》っていた。運転席に粕谷の顔が見える。  その車の荷室には、空気抜きのほかには、小さな|覗《のぞ》き窓があるだけだ。それもカーテンで|覆《おお》われている。  二人は天井に豆電球がついた荷室にアルミの箱を運びこむ。自分たちは荷室に備えつけのベンチに腰を降ろした。  五十分後、その車は世田谷喜多見町にある一味のアジトに着いた。松野は車がスタートしてからしばらくして意識を取戻し、アルミの箱のなかでもがいている。  地下室にアルミの箱ごと松野を運びこんだ。スリップ姿の玲子はロープで両手を縛られて椅子に腰を降ろし、長谷見は頭からストッキングをかぶったまま、その口のあたりに小さな穴をあけてタバコをくわえている。  水島、片平、それに粕谷の三人は、作業服を脱いで、マークの入ってないジャンパーに着替えた。ストッキングの覆面をつけ、アルミの箱を開いた。粕谷は、まだ軽くビッコを引いている。  打合せておいた通りに、玲子が悲鳴をあげた。アルミの箱のなかで眼と口をふさがれ、手足を縛られた松野は、必死にもがいている。水島がその体を床の上に放りだすと、玲子が再び悲鳴を絞りだした。  片平がアルミの箱と皆の作業服を別室に隠した。その片平が戻ってきたとき、水島はナイフを抜いて、松野の目と口と手足を自由にした。  松野は跳ね起きた。同時に長谷見が、滑車を通じて玲子の手首につながっているロープを引っぱる。体重をかけていた。  片平が頑張っているドアのほうに突進しかかった松野は、|宙吊《ちゅうづ》りになりかけた玲子を見て足をとめた。 「助けて! パパを待っていたら、いきなり殴られて、ここに連れてこられたの!」  玲子は叫んだ。 「やめてくれ、何が欲しいんだ!」  松野はナイロン・ストッキングの覆面をした男たちを恐怖に歪んだ表情で見た。水島は革のベルトを提げて玲子のうしろにまわった。 「取引きがしたい——」  長谷見が静かに言った。 「あんたが自分の信用金庫から横領した金の半分を頂戴したい。そのかわり、あとの半分はあんたが自分の懐ろに入れたままで済ませる方法を考えてある」      二 「何を言う! 天地神明に誓って、儂は信用金庫の金を着服した覚えは無い」  松野はわめいた。血の気を失った顔はさらに|蒼《あお》ざめ、震えが|膝《ひざ》から|這《は》いのぼってくる。 「言うことは|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》だな。じゃあ、この女がなぶり殺しになってもいいかね? この女の死体が発見され、あんたが囲っていた女ということが分ったら、ちょっとしたスキャンダルになるぜ。この女が苦しみながら死んでいくさまを、ゆっくり見物していてくれ」  長谷見は言い、水島に|顎《あご》をしゃくった。  水島は革のベルトを玲子の背に叩きつけた。|唸《うな》りを生じてベルトは玲子を襲うが、水島は途中で巧みにベルトが|撓《しな》うようにした。松野からは見えない玲子の背後でベルト自身が叩きあって派手な音をたて、勢いを弱められてから背中に食いこむ。  それでも、玲子にとっては、かなりの苦痛に違いなかった。弓なりにのけぞりながら玲子は空中で足を突っぱる。上体の筋肉が苦痛にふくれあがり、スリップとブラジャーのストラップがはじけるように切れた。  スリップがずりさがり、ブラジャーが飛んで、絶叫を振りしぼる玲子の乳房が|剥《む》きだしになった。水島は再びベルトを引きつけた。  しかし第二撃を加える必要は無いようであった。松野は頭を抱えて崩れ折れ、 「やめてくれ!」  と、|呻《うめ》いた。 「立て!」  長谷見が松野に命じたが、松野は回教徒が祈っているときのように額を床につけ、頭を抱えこんでいるままだ。  粕谷がガソリン・バーナーを手にした。ノズルに火をつけ、噴出する炎をのばして松野に迫った。  熱気を感じて涙に汚れた顔をあげた松野は、あわてて壁まで転がった。 「助けてくれ! 儂が悪かった。何でも言う通りにする」 「ここは法廷ではない。ビジネスの話をする場だ。お互いの得になる話をする。分ったな?」  はじめて水島が口をきいた。 「分った。玲子を降ろしてやってくれ」  松野は哀願した。  長谷見は引っぱっていたロープをゆるめた。床に尻餅をついた玲子は、首を垂れて失神する。  粕谷はバーナーの火を消した。 「今まで、トンネル会社に融資して着服した金の総額は? こっちは、とっくに調べあげているが、あんたの口から聞きたい」  水島は言った。 「三十億……しかし、その金は、儂だけのものでない」 「松野一族がくすねた金か? いずれにしろ、あんたが自分の懐ろに入れたのも同然だ。そのほかに、貸したあと焦げつきになっているのは?」 「十億ほど……」  松野は魂が抜けたようになって|呟《つぶや》いた。 「そいつを回収するんだ。大蔵省の会計監査が迫ったことを理由にな」 「それが出来たら、儂は苦労しない。白状する。儂のトンネル会社以外で焦げつきになっている会社は、みんな東星会の関係しているところだ。儂の一族がやっていることを|嗅《か》ぎつけられた口止め料だ」 「そして、東星会は、あんたへの疑惑がひろまることを押えてくれる仕事もやっている……しかし、一度形式的に返してくれたら、監査が済んだあとで、今までの倍額融資をしてやる、と持ちかければ話は違ってくると思うが」  水島は言った。 「…………」 「そうだろう?」 「東星会との約束を破ったら、儂は殺される」 「あとの心配をする必要は無い。いまの我が身を心配していろ。それに、東星会のことなら心配ない。俺たちが奴等を片付ける」 「そんな!」 「いいか、よく聞け。俺たちは、あんたのことを大いに考えてやってるんだぜ。俺たちは三十億と十億の合計四十億のうちの半分の二十億だけもらえばいいんだ。あんたは、会計監査の前までに、四十億をすべて回収したことに帳面づらを合わせておいて、実際には二十億を金庫のなかに入れておけばいい」 「…………」 「俺たちは金庫からその二十億を奪い取る。あんたは四十億全部が奪われた、と発表すればいい。あんたの取り分の差し引き二十億は俺たちが持っていったことにすればいいんだ」  水島は言った。 「分らん。頭が混乱してきた。もう一回説明してくれ」  松野は呻くように言った。 「無論、俺たちはあんたの信用金庫に押し入るときには、あんたにも一緒に金庫室に入ってもらう。警報装置に引っかかるのは御免だからな。それに、あんたを俺たちが|嚇《おど》しているところを夜勤の守衛や宿直の職員が見たら、俺たちが強盗に入ったことが嘘でないことが誰にも分ってもらえる。あんたの取り分の二十億は災難に会ったということで助かるさ」  水島は言い、計画をくわしく説明してやった。  松野は分ったらしい。次第に血色が|甦《よみがえ》ってきた。震えはとまり、|狡《こう》|猾《かつ》な表情も戻ってくる。 「本当に、約束を守ってくれるかね?」  と、呟く。 「あんたのほうにこそ、約束を守ってもらいたい。だから、人質として、この女は預かっておく。約束を破ったら、女を殺すだけでは済まさない。あんたの命も頂戴する」 「分った」 「念のために、金庫室の警報装置と、ダイアル錠の組合せナンバーも聞いておこう」  長谷見が口をはさんだ。      三  東日信用金庫に対する会計監査が翌日に迫った五月十五日。その夜は、昼の雷雨が夏のような蒸し暑さを追いはらい、寒いほどの気温であった。  午前一時、理事長の松野光一は、青山のサパー・クラブ“グレン”を、日頃献金している大物代議士の秘書花田と共に出た。花田が、銀座の店から連れだしたホステスも一緒だ。 「じゃあ、ここで。少ないが車代だ。先生によろしくな」  ボーイに送られて歩道に出ると、松野は花田のポケットに封筒を|捩《ね》じこんだ。 「こんなことをなされては困りますよ——」  花田は言ったが、ニヤリとして、 「それでは、有難く……お休みなさい、理事長」  と、軽く頭をさげ、女と左腕を組んで空車のタクシーを視線で追った。タクシーを見つけて手をあげる。  タクシーは停った。運転手は夜なのにサン・グラスをかけ、マスクで顔を覆っている。 「どうぞ、理事長、お先に」  花田は小腰をかがめた。 「じゃあ、失礼して」  松野は後ろのシートに乗りこんだ。  運転手は水島であった。はじめから、松野と打合せしてあったのだ。サン・グラスとマスクが目じるしであった。タクシーは強奪品で、本物の運転手は気絶させてトランク室に押しこめてある。  ディーゼル・エンジンの音を響かせ、ベレルのタクシーは板橋に向った。今夜松野が花田と会ったのは、いずれは強奪品と分るタクシーに松野が知らずに|拉《ら》|致《ち》されたということの証人を作ることと、政治家がからむと捜査の追及が鈍ることを計算してだ。  水島は一度も松野を振り返らない。松野が沈黙の重苦しさに耐えきれなくなったように、 「仕事が終ったら、本当に玲子を返してくれるんだろうな?」  と、声をかける。 「大丈夫さ」 「でも、返してもらっても、もう駄目だ。君たちの慰み者になったあとではな」  松野は薄くなった髪を|掻《か》きむしった。 「その心配は無い。俺たちは女に飢えてはいないからな。丁重に扱っているよ」  水島は松野を慰めた。  玲子がどんな女になっているのか本当のことを知ったら、松野はどんな気がするだろう、と水島は唇を歪めた。地下室に閉じこめられたまま一歩も外の空気を吸えない玲子はマリファナに|溺《おぼ》れ、水島のほかの三人の男に自分から身を任すようになっているのだ。はじめは水島の目を盗んでほかの男と楽しんでいたが、いまは大っぴらにやっていた。  はじめてその事実を知ったとき水島の自尊心は傷つけられたが、今は何も思わない。どうせ、利用するために近づいた女だ。ただし水島は、いまは共同便所のような玲子に全然触れない。  タクシーは、板橋一丁目にある東日信用金庫のビルの前の客用駐車スペースに乗りあげた。薄いゴム手袋をつけた手でフォーンを軽く短く三度鳴らしてから、 「後ろ向きになって目をつぶってろ」  と、松野に命じた。  バック・ミラーに、松野が命令通りにするのが見えた。水島はサン・グラスとマスクをポケットに仕舞い、ナイロンのストッキングで覆面した。  バックスキンのジャンパーのジッパーを引き降ろし、|腋《わき》の下のホルスターから、ベレッタを抜いた。 「よし、もういい。うまくやってくれよ。守衛と顔が合ったら、適当に震えて見せるんだ」  と、言う。 「分った」  松野は大きく|頷《うなず》いた。しかし、本当に震えはじめて、 「用が済んだら、儂を射ち殺すんじゃないだろうな?」  と、呟く。 「安心しろ。さあ、降りるんだ」  水島はタクシーのすべてのライトを消し、先に歩道に降りた。松野もノロノロと降り立った。  ビルの正面には無論シャッターが降り、通用門は閉っている。松野はキー・ホールダーを取出したが、肩越しに手をのばした水島が通用門の|潜《くぐ》り戸を押すと、あっさりそれは開く。潜り戸の錠は、すでに粕谷と片平が針金で開いているのだ。  二人がその戸をくぐり、裏庭に廻ると、駐めてある送迎用や事務用の五、六台の車の蔭から、これもナイロン・ストッキングで覆面した粕谷と片平が立上り、軽く手を振って合図した。  ビルの裏口にもシャッターが降りていた。その横についたインターフォーンのスウィッチを押す松野の背後で、水島は拳銃を左手に持ち替えて、右手は尻ポケットの殴打用の凶器ブラック・ジャックを抜く。 「誰?」  守衛のらしい眠たげな声がインターフォーンから返ってきた。 「儂だ。松野だ。大事な書類を忘れたので取りに来た。夜分、迷惑だろうが……」 「これはこれは、理事長さんで。迷惑だなど、とんでもないことでして」  守衛は嬉しそうに言った。松野の話だと、夜になって金庫室に金を取りに来るときには、かなりの心付けを守衛に払ってやっているという。守衛が喜ぶのは、そのせいであろう。  モーターの唸りが聞えた。水島は素早く横に跳んで、シャッターが開いたときに守衛の視界に入らないようにした。  シャッターは開いた。松野は打合せた通りに、恐怖に歪んだ表情を作った。 「どうなさいました?」  四十五、六の骨太の守衛が松野に近づいた。そのときになってはじめて水島の姿に気付き、唸り声を漏らして腰の警棒に手をかけた。  水島はその守衛の頭を横殴りにブラック・ジャックで払った。守衛は松野に抱きつくようにし、膝から崩れる。  水島は念のために守衛の頭の|天《てっ》|辺《ぺん》を一撃しておき、裏庭の車の並びに向けてブラック・ジャックを振った。車の蔭から、粕谷と片平が大きなズックの袋をかつぎ、音もなく近寄ってくる。     報い      一  近づいた粕谷が、かついできた大きなズックの袋を降ろした。  そのなかから、三丁の短機関銃を取出し、一丁を自分が首から胸に吊り、あとの二丁と六個の予備弾倉を片平と水島に配った。  口径四十五のM3サブ・マシンガンだ。箱型弾倉は三十連。引出し式の金属性銃床が受筒両脇のチューブ内に押しこまれている今、銃の全長は二尺ほどしかないコンパクトさだ。  不格好な形が自動車のグリース・ポンプに似ているために、グリース・ガンと俗に呼ばれている銃を、水島と片平も首に吊った。  本物の短機関銃を|目《ま》のあたりにして、松野理事長は腰が抜けたように坐りこんだ。予備弾倉をポケットに突っこんだ水島は、|昏《こん》|倒《とう》している守衛の体を建物のなかに引きずりこんだ。  宿直室は、裏口から近かった。鍵がかかってないドアを開くと、宿直の若い職員がサイド・テーブルに男性週刊誌のカラー・ヌードのページをひろげ、枕を抱きしめて眠りこんでいる。  宿直室の警報ベルのボタンは、松野が言った通りに、デスクの下についていた。片平がそのデスクの前に立って宿直の職員の接近を防ぎ、粕谷は松野の|襟《えり》をうしろから|掴《つか》んで松野をベッドに近づける。  水島はグリース・ガンを片手で握って、ベッドのなかの職員の首を銃身で|撫《な》でた。パジャマ姿の若い職員は、前を押えて跳ね起きた。  ナイロン・ストッキングで覆面した三人の男と鈍く光る銃、それに虚脱したような理事長松野を見て、若い職員は叫び声をあげようとした。  その頬を、水島はグリース・ガンの銃身で一撃した。頬が裂けた職員は、ベッドから転げ落ちて足の先まで|痙《けい》|攣《れん》する。  片平が守衛の体を運んできた。かついでいるズックの袋から、数本のロープと、もう一つのズック袋を出した。  水島は銃をベッドに置き、渡されたズック袋の負い革に両腕を通した。ロープで職員の体を縛っていく。  片平のほうは守衛の体を縛っていた。水島と片平は、縛った二つの体をベッドに結びつけた。 「さあ、金庫室に案内してもらおうか?」  粕谷は圧し殺した声で松野に言った。 「分っとる。その前に、鍵だ。金庫室に通じるドアの鍵を……」  松野は|喘《あえ》いだ。 「こいつか?」  片平が、デスクの前の壁にかかった鍵束を外した。松野が|頷《うなず》く。片平は松野に鍵束を渡した。  金庫室は、地下にあった。地下室にたどり着くまでに三つの鋼鉄製のドアを開かなければならず、そのいずれにも板橋署と直通になった警報ベルがついている。  松野は震える手で、それぞれのドアの警報装置の隠しスウィッチを切り、鍵束のキーを使ってドアを開いていった。  金庫室の扉には、ダイアル錠がついていた。その前にきたとき、松野は、 「駄目だ。儂には出来ない。誰か替ってくれ」  と、呻いて坐りこもうとする。 「やるんだ。いまさら、何を言っている」  粕谷が松野の背にグリース・ガンの銃口を突きつけ、弾倉枠の後ろのロッカー・アームを引いた。|排莢子孔《はいきょうしこう》のカヴァーが開き、遊底は後退する。  その金属音を聞いて、松野は決心をつけたらしかった。ダイアルを廻す。粕谷は、安全装置を兼ねている排莢子孔カヴァーを閉じた。  金庫室のドアのロックは解けた。水島と片平は、ハンドルを廻してドアを開いた。  金庫室は畳数に直すと三十枚ぐらいの広さであった。中央の突当りに大金庫があり、その左右にロッカーが並んでいる。  左右の壁に、床の上十センチのあたりから、十五センチ間隔で天井近くまで、埋めこまれた赤いガラスの球が眼球のように光っている。  目には見えない赤外線の筋が金庫室を横切っているのだ。その光の筋を何かが突っ切ると、信用金庫内にベルが鳴り響き、屋上のスピーカーはベルの音を夜の街に伝え、同時に板橋署につながった直通の電線を通じて署の警報ベルも鳴ることになっている。  赤外線の筋が一本なら、くぐり抜けるか、跳び越えるかのいずれかで、光線の流れを|遮《しゃ》|断《だん》せずに大金庫に近づくことが出来るであろう。しかし、十五センチ間隔では猫でもくぐり抜けられない。 「赤外線を切る隠しスウィッチはどこにあるんだ? この前、あんたが言ってた位置に見当らないようだが」  粕谷が松野に言った。  震えていた松野の顔に、ふてぶてしく狡猾な表情が浮んできた。 「ああ、ここには無い」 「嘘をついてたのか? どういう気だ?」  粕谷が呻いた。ストッキングの覆面の下で、水島と片平の表情も変った。      二 「君たちは、金庫から金を取上げたら、儂を殺す積りだろう?」  松野は言った。 「誤解だ。何度言ったら分る? はじめっからあんたを殺す気なら、あんたの取り分を残させたりはしない」  水島が言った。 「いや、儂が横領した金の半分だけをこの金庫に戻させたのは、そうでないと儂が納得しないと思って、仕方なしに、それだけで我慢したんだろう?」  松野は言い返した。 「今になって、何をガタガタ言っている。あんたが、赤外線装置の隠しスウィッチの位置を教えてくれなくても、こっちは一つも困ることは無い。電気室のメイン・スウィッチを切ればいいだけのことだからな」 「ところが、そうはいかないんだ。メイン・スウィッチを切ったり、署に通じている警報線を切断したりすると、署のなかの警報ベルが鳴るようになっている」  松野は|嘲《あざ》|笑《わら》うように言った。 「そんなに死にたいのか?」  粕谷が松野の背にグリース・ガンの銃口をくいこませた。 「死にたくはない。だけど、金庫を開けたら、どうせ儂は殺されるんだ。さあ、殺すんなら、殺せ。そのかわり、貴様たちは宝の山を前にして、無念の涙を呑まないとならん。大金庫のダイアルの合せ番号も、この前に教えたのは嘘だ」 「…………!」 「だから、もし貴様たちが赤外線の|罠《わな》をくぐり抜けることが出来たとしても、|肝《かん》|腎《じん》の大金庫を開くことは出来ない。儂を甘く見て、貴様たちはアセチレン溶接器もダイナマイトも持ってきてないようだから、手さぐりでダイアルを合わせるとなると、何日かかるだろうかな」  松野は引きつった声で笑った。 「一体、何が望みなんだ?」  粕谷が苦い声で言った。 「死にたくない。だから、自分の身を護るために武器が欲しい。銃を一つ儂に渡してくれ。そしたら、赤外線装置の隠しスウィッチの位置も教えるし、大金庫のダイアル番号も教える」 「馬鹿な。寝言もいい加減にしろ。大体、あんたに銃が扱えるのか?」 「戦時中は機関銃手だった。何とかなるだろう」 「じゃあ、なおさらのこと、あんたに銃を渡すことは出来ない」 「じゃあ、勝手にしてくれ」  松野は腕組みして坐りこんだ。  粕谷は|罵《ののし》り声を漏らし、 「こいつは、俺が見張っておく。あんたたち二人で隠しスウィッチを探してくれ。金庫室でなくて、どこかほかの部屋にある筈だ」  と、呻いた。 「俺がこいつの口を割らせてやる。いい方法があるんだ」  水島は怒りを押えた声で言った。 「駄目だ。儂の覚悟は決っている。どんなに殴られても口を割るもんか」  松野は言った。 「どうだかな?」  水島は冷たく言い捨て、ゾリンゲンのナイフを抜いた。松野を仰向けに突き倒し、 「みんな、こいつの手足を押えつけていてくれ」  と、言った。  粕谷と片平は、何をする気だ、と暴れる松野を押えつけた。水島はその松野のズボンのジッパーを引きおろし、恐怖に縮こまったものを|剥《む》きだしにした。 「これで、あんたは命は助かっても、何のために生きているのか分らない人間になるわけだな」  と、嘲笑い、ナイフの刃を剥きだしにしたものの根元に当てた。  絶叫を絞りだした松野は、必死の力で粕谷と片平をはねとばそうとした。その拍子に、ナイフの刃は、松野の男性の皮膚を破り、肉に浅くくいこんだ。 「助けてくれ! 分った、しゃべる。赤外線装置の隠しスウィッチは、理事長室のデスクの裏側についている。青い色のスウィッチを倒せばいいんだ。赤い色のスウィッチは、警報ベルのスウィッチだ」  松野は痙攣しながら叫んだ。 「本当だな?」 「嘘は言わない」 「もし、青いスウィッチを倒して警報ベルが鳴ったとしたら、あんたは二度と女に用がない体になる。分ったな?」 「分った……」  呟き終らずに松野は失神した。 「信用出来るだろうか、奴の言うことは?」  片平が言った。 「信用するほかは無い。だが、その前に、警報ベルが鳴らないようにしなければならない。こんなこともあろうかと、グリースの圧縮ボンベを用意してきたろう」 「そうだったな」  粕谷はズックの袋から、グリースがつまった太い農薬噴霧器のようなものを取出した。  水島は自分のズック袋に入っていたランプ付きのヘルメットをかぶった。ランプのスウィッチを入れ、一階に登る。  建物のなかの要所要所にある警報装置に、グリース・ボンベの中身をノズルで吹きつけた。警報装置の内部に噴射されたグリースは、ベルの共鳴板のあいだをふさぎ、たとえベルが鳴ろうとしても音が出ないようにさせた。  全部の警報装置を役に立たないようにし終えたのは、二十分ほどたってからであった。水島が金庫室に戻ると、粕谷が理事長室に登っていった。  三人の心配は|杞《き》|憂《ゆう》に終り、しばらくすると、金庫室の左右の壁で赤く|輝《ひか》っていた赤外線バルブの光が消えた。安堵の溜息を漏らした水島は、松野の|尾てい[#「てい」は「骨」+「低のにんべんをとったもの」Unicode="#9AB6"]骨《びていこつ》を軽く|蹴《け》って意識を取戻させた。      三  松野の手で大金庫のダイアル・ロックは解かれ、その扉は開かれた。大金庫に積まれているおびただしい札束を見て、三人の男は小さな感嘆の叫びを漏らした。  三人は、空っぽにしたズックの袋に札束を詰めこんでいった。大きな袋にぎっしりと詰る。  大金庫を空にすると、三人はバールでロッカーをこじ開けたが、書類や手形や証券類ばかしで、現金は入ってなかった。現金でないと足がつく怖れがあるから、三人はロッカーの中身には手をつけなかった。  三人は、ズックの袋から出してあったゴム長をはき、脱いだ靴はその袋に仕舞った。片平と粕谷もヘルメットをつけた。  重いズック袋をリュックのように背負い、首から短機関銃を吊した三人は、松野を先に立てて裏庭に出た。 「|射《う》たないでくれ……射たないで……」  と、松野は|啜《すす》り泣いている。 「黙ってろ」  粕谷が松野の頭をグリース・ガンで一撃した。あっ気なく昏倒した松野の頭を粕谷はさらに二、三度殴りつけ、五分や十分では気絶から覚めないようにした。  三人は裏口から路地に出た。裏通りに出てそれを横切り、蓋を開いて待っているマンホールがある通りに抜けようとしたとき、駐車していた車の列のうちの三台から銃火が|閃《ひらめ》いた。少なくとも十丁の拳銃が毒々しい炎を舌なめずりする。射程は三十メーターほどだ。  銃弾は三人をかすめ、商店のシャッターを貫いたり、アスファルトを削って紫色の火花をあげたりした。大部分は夜空に消えていく。  不意打ちをくらった三人の男は、ジグザグを描いて走りながら、グリース・ガンの遊底を引いた。重い札束と|腿《もも》の上まであるゴム長のせいで、|敏捷《びんしょう》には行動出来ない。  待ち伏せていた男たちは再び乱射してきた。粕谷がキリキリ舞いをして、駐っているクラウンに倒れかかる。  水島と片平は、粕谷をクラウンの蔭に引きずりこんだ。この車を|楯《たて》にして、グリース・ガンを掃射した。銃は痙攣しながら跳ねあがり、四十五口径自動拳銃弾の|空薬莢《からやっきょう》が舞いあがった。サブ・マシンガンは拳銃弾を使用する。  待ち伏せていた三台の車のガラスが|微《み》|塵《じん》に砕け、ボディは孔だらけになって歪んだ。拳銃の銃声のかわりに悲鳴と絶叫が交錯していた。  たちまち弾倉を射ち尽した二人は予備弾倉をつけた。そのとき粕谷が立上る。 「大丈夫か?」  片平が声をかけた。 「らしい。ズック袋に当ったんだ。その衝撃で、ちょっと気が遠くなっただけだ」  粕谷は答えた。  三人は路地を抜け、マンホールが口を開いている通りに出た。マンホールのまわりには黄色の工事灯が点滅する柱が数本立っている。三人はマンホールから下水道にもぐりこんだ。ヘルメットのランプをつける。  三分ほど歩いたところで、粕谷が口を開いた。 「畜生、奴等は誰なんだ?」 「|警察《サ ツ》じゃない。サツなら、警告も無しに射ってくるわけはない。東星会の奴らだ。松野とグルなのか、それとも松野が俺たちに嚇されていたことを嗅ぎつけて、横から獲物をさらおうとしたんだろう」  水島は言った。  しばらくしてから三人は、西巣鴨女子高校の裏手にあるマンホールから這いあがる。ガス会社のゼブラ模様に塗ったトヨエースのパネル・ヴァンの荷室のドアを開いて長谷見が待っていた。  荷室にもぐりこんだ三人は銃に安全装置をかける。三人は床に坐りこんで覆面をはぎ取り、タバコに火をつけて深く吸いこんだ。長谷見が運転する車はゆっくりスタートする。  タバコを吸い終った片平が札束の詰った袋を降ろし、運転席と荷室の仕切りについた小窓を開いて、東星会と射合ったことを長谷見に報告した。そのあいだにも、サイレンを|咆《ほう》|哮《こう》させて気が狂ったように素っ飛んでいくパトカーに次々とすれ違った。  一回の停車も命じられることも無しに、ガス会社の工事車を装ったトヨエースは、世田谷喜多見町にある一味のアジトに滑りこんだ。 「御苦労」  運転台から降りた長谷見が三人に声をかけた。三人は、グリース・ガンとズックの袋を建物の地下室に運んだ。  車を|築《つき》|山《やま》の腹にある地下駐車場に隠した長谷見も地下室に入ってきた。三人のグリース・ガンや予備弾倉を預かって武器庫の部屋に仕舞いにいく。  戻ってきたとき、長谷見は玲子を連れていた。玲子は、粕谷と片平がズックの袋から出して大きなテーブルに積みあげた札束を見て、|痴《ち》|呆《ほう》のような表情になって立ちすくんだ。 「水島君、君は拳銃を持っているね?」  長谷見が静かに声をかけた。 「それが、どうかしましたか?」  水島は尋ねた。札束を数えるのに夢中になっていた粕谷と片平が水島のほうを向き、乾いた唇を|舐《な》めているのを見て、不吉な予感を覚える。 「玲子を消せ。もう玲子に用は無い。いや、それだけでなく邪魔だ。我々の暗い顔を知っているからな」  長谷見は無表情に言った。 「嫌! いやよ! 助けて!」  玲子はわめき、壁まであとじさった。見開かれた|瞳《ひとみ》がとびだしそうであった。 「いや、俺には出来ない」  水島は悲し気に首を振った。 「じゃあ、私がやる。拳銃を渡したまえ」 「…………」 「さあ、君のセンチメントのために、我々四人が捕まるようなことになってもいいのか?」 「あんたが、そんな阿呆とは知らなかったよ」  粕谷と片平は|嘲笑《ちょうしょう》した。  水島は|溜《ため》|息《いき》をつき、ショールダー・ホルスターから抜いたベレッタ二十二口径オートマチックを長谷見に投げた。自分は玲子と反対側の壁にさがる。  長谷見は無表情に、恐怖に|痺《しび》れている玲子の心臓に三発射ちこんだ。その間に、水島は背中に差してあったH・SCモーゼルを抜き、背後で隠し握った。  崩れ折れた玲子にはもう目をくれず、長谷見は水島にベレッタの銃口を向けた。 「君にも死んでもらう。君と玲子は心中したことになる。よく働いてくれて礼を言うよ、御苦労さん」  と、冷笑した。  転がりながら水島が放ったモーゼルH・SCの七・六五ミリ弾の|轟《ごう》|音《おん》は地下室を揺がせた。右腕を貫かれた長谷見はベレッタを放りだして尻餅をついた。 「動くとブッ放す」  粕谷と片平に鋭く声をかけた水島は、素早く長谷見に駆け寄り、床に落ちたベレッタを部屋の隅に蹴とばした。 「俺を舐めるな、と言ったろう? 俺がこれからはボスだということをよく教えてやる」  と、血に飢えたような声で呟き、三人の男の|肋《ろっ》|骨《こつ》がへし折れ、顔がフット・ボールのように|腫《は》れあがるまで殴りつける。     ウラルの星      一  強い陽差しがアスファルトに逃げ水を呼ぶ季節になった。  セメント|樽《だる》に詰められた玲子の死体は、太平洋の深海で次第にミイラ化していった。玲子と共に水島も消そうとして手ひどく痛めつけられた長谷見たちも、今はすっかり傷が直っている。  逆襲したあと、水島は長谷見たちに無益の殺人を犯さないことを誓わせたのだ。水島を信じきれなかった彼等も、水島が|獲《え》|物《もの》を山分けしてやると、心底から水島に気を許したようであった。  東日信用金庫から奪った現ナマは、総額で十九億を越えていた。紙幣は通しナンバーでなかったから、すぐにでも使える。ただし、東星会の放った拳銃弾で約二千万円分は|弾《だん》|痕《こん》がついていた。その分は、万一のことを考えて焼却処分にした。  銃声を聞いて東日信用金庫に駆けつけた捜査陣は、東星会の生残りを逮捕し、気絶から覚めた松野理事長や警備員たちに任意出頭を求めた。  松野は、犯人たちに|虜《とら》われの身になり、銃を突きつけられて、やむなく金庫室に犯人たちを案内したことを主張した。警備員や宿直の職員は松野の主張を裏づけた。  一方、逮捕された東星会の連中は、犯人たちが信用金庫から逃げだすところにたまたま遭遇して銃火を交えた。目的は犯人を捕まえることであったのだから、犯人逮捕に協力して自分たちが逮捕されたのでは割りにあわない、とヌケヌケと主張した。  松野と組んでいたにしろ、松野を脅かして水島たちの襲撃を知って待伏せたにしろ、そのことを口に出せば、松野と東星会の腐れ縁が明るみに出てしまう。東星会としては、ホトボリがさめてから、松野に返した|替え玉《ダ ミ ー》会社への融資金を松野から取返す気であった。  無論、捜査陣は、松野や東星会の言い分を信用したわけではなかった。松野が犯人たちを手引きし、犯人たちが信用金庫から奪った金を東星会が襲い、金は生残りの犯人たちが持って逃げたことにして、松野と東星会が山分けする、という筋書きを読んでいた。そうでなければ、いくら会計監査が迫ったといえ、二十億近い融資金が回収されて金庫に戻るわけはない。  しかし、推測だけでは捜査は出来ない。証拠が必要だ。刑事たちは毎日靴をへらしながら歩きまわった。  水島にとって一番気がかりであったのは、長谷見が玲子を殺したために、捜査陣が姿を消した玲子に不審を抱き、玲子と水島の結びつきを調べあげることであった。  松野は玲子のマンションを訪れる際には自分の運転手さえも使わず、タクシーを乗り替えるほど要心していたが、水島は玲子をすぐには消してしまう気はなかったから、自分のマンションで玲子と一緒のところを人に見られている。他人には無関心なマンション族の習性を頼りにするほかない。しかし、玲子のマンションも車も松野の名は全然出ない幽霊会社名義になっているのが水島にとって救いであった。  そして水島は、偽名で借りた青山のアジト“グリーン・コーポラス”を引払い、長谷見たちが株式組織にして所有している新宿のビルの一室で“カー・コンサルタント”という看板を出していた。  東日信用金庫を襲撃してから一カ月後、水島は日欧自動車を退職していた。その退職金でビルの部屋を借りたという形にしたのだ。  広告も出さなかったから水島の事務所を訪れる客は一人も無かったが、水島は毎日帳簿に一、二万円の相談料が入ったことにして記入していた。税務署用にだ。そうしないと、これから先、自分が犯罪で|稼《かせ》いだ金は一切、表に出しては使えない。税務署は過少申告に対しては敏感だが、まさか過大申告とは思わないであろう。  自宅のほうも水島は、田園調布の離れを引払い、一味のアジトに近い世田谷区成城町の屋敷町に敷地百坪、建坪三十坪の|瀟洒《しょうしゃ》な家を借りていた。マンションと同じようにその高級住宅街でも、隣人が何をしているのかの関心を表に出す者はいない。  その家の庭に水島は深さ三メーターの穴を掘り、東和銀行の現金輸送車を襲って奪った現ナマの残りと、今度の仕事の山分けぶんから一千万ほどを引いた残り約四億六千万を隠しておいた。  傷の|癒《い》えた長谷見たちと水島は、週に二度ずつ世田谷喜多見町のアジトに集まって、次の犯行について相談した。  長谷見たちは、それぞれが合法的にやっている会社からの収入で、本名を出すことの出来る家やマンションを持っていた。水島は彼等の自宅に招待されたこともある。  一番の堅実派は、やはり長谷見であった。高円寺に大邸宅と妻と中学に行っている二人の息子、それに二人の女中を持っている。P・T・Aの会長をやっている妻は、長谷見が石油のボーリング会社をやっているので地方への出張が多く、そのために家を留守にしがちなのだと信じきっているようであった。  粕谷と片平のほうは独身であった。赤坂のマンションに住んで、好きなことをやっているらしい。|伊達男《だ ておとこ》の粕谷は女の千人斬りを目ざしていて、関係を持った女の唇の押し型をコレクションしたアルバムを持っていた。その数はすでに九百を越えていた。      二  築地二丁目の新大橋通りに面して、東洋一の高さを誇る、地上四十二階の新しい超高層ビルがそびえている。  ビルの正式の名は新築地ビルというが、皆は|桜《おう》|庵《あん》ビルと呼んでいる。怪物と|渾《あだ》|名《な》される太田桜庵の所有物であるからだ。  桜庵は若いときには、正夫という平凡な名であった。院外団の壮士の息子として生れた彼は、大学を中退すると満州馬賊に身を投じ、しいたげられた満人のためと称して中国人豪商を次々に襲い、彼等を皆殺しにして財宝を略奪した。  大陸に戦火がひろがりだした頃、太田は約千人の部下をひきいる馬賊の頭領になっていたが、日本軍の特務機関に身売りして、満州と中国の日本軍の慰安婦の元締めとなる一方、軍の方針にしたがって、日本で精製したヘロインを大陸に流す組織のボスとして、今の金にして数十億の大金を|掴《つか》んだ。  戦局が日本に不利になると太田は突如出家し、名を桜庵と改めて日本に帰ってきた。現金のほとんどを宝石や美術品に換えて日本に運んだのは無論のことだ。  帰国した桜庵は、伊豆に買ってあった三十万坪の桜の園に寺を建て、悠々自適の毎日を送った。  敗戦になると、桜庵は|還《げん》|俗《ぞく》し、占領軍の高官に女と宝石を贈って巧みに近づき、米兵相手のパン助ハウスを他人名義で関東周辺の各基地の町に経営するかたわら、旧軍の隠退蔵物資の摘発に手心を加えてもらうようにG・H・Qに働きかけて、隠退蔵物資を資金源とする、当時の内閣や右翼の大物たちに顔を売った。  世の中が落着いてくると桜庵はパン助ハウスを廃業し、政治家と実業家の汚職パイプの役をする商売をはじめていた。  売春防止法審議会会員を買って出て、昭和三十一年の売春防止法成立の立て役者となった。  今の桜庵は、麻薬撲滅連盟の会員を買って出て名を売りながら、政治経済の評論家としてテレヴィにもよく顔を出し、政治家への転身を狙っている。新築地ビルは、馬賊時代に築地に買っておいた三千坪の敷地の上に、伊豆の土地を銀行に担保に入れて作ったという形式にした隠し金で建てたものであった。  そのビルは貸しビルであるが、|天《てっ》|辺《ぺん》の四十二階は財団法人太田美術館にして、桜庵は自分の所持している宝石や美術品を有料で展示している。七十を越した桜庵は、名誉欲と共に、自分の財力を誇示したい衝動を押えきれなくなったのだ。もっとも、自分の死後の相続税を考えに入れて、宝石や美術品は財団のものにして妻子を理事に据えてある。  アジトでの会合のとき、水島は太田美術品のことを口に出してみた。 「展示されている宝石と美術品だけでも、時価五十億と言われているそうでないか。今度の仕事としては不足ない。それに俺は、ああいった太田のような鉄面皮な奴を見ると一|泡《あわ》吹かせたくなる。それは、俺だって悪い奴には違いないが、奴のような悪人とは、どこか違うと|自《うぬ》|惚《ぼ》れてるんだ」 「太田美術館か……手ごわいぜ。拝観者は一日に百人に制限して、その上に、確かな紹介状がないかぎり入場出来ないから昼間は無理だ。十人の警備員はみんな刑事上りだし、非常ベルを押すと、すべての出口は閉じられてしまう」  長谷見が言った。 「分っている」 「あの階には窓は一つもないし、壁の厚さは一メーター半もあるということだ。非常ベルが鳴ったときと閉館後は、それぞれが十トンもある鉄のドアが電動で瞬間的に閉じるほか、エレヴェーター・ボックスと階段の前にも、重い鉄の仕切り戸がせりあがってきて、四十二階にいる者は完全に|罐《かん》|詰《づ》めになる。だから、美術品の当直警備員などは、夜が明けて交代要員がやってきて仕切りとドアを開けてくれるまで、外界と完全に|遮《しゃ》|断《だん》されるわけだ。しかも、仕切りとドアの電動装置にはタイム・ロックがついていて、予定の時間がこないかぎり開かない」  長谷見は|忌《いま》|々《いま》し気に言った。 「じゃあ、あそこを襲撃するのは不可能だと言うのか?」 「いや、そうは言ってない。何ごとにも不可能ということは無い筈だ。しかし……」 「あんたたちは芸術家じゃなかったのか? 易しい仕事ばかりをするのが芸術家ではなかろう? 難かしい題材が創造意欲をそそると思うがな」 「…………」  長谷見は黙りこんでタバコをふかした。 「どうだい、あんたたちは?」  水島は粕谷と片平の顔を見廻した。 「面白い」 「やって見るか」  二人は不敵な笑いを浮べた。 「多数決では仕方ない。やろう。ただし、|勿《もち》|論《ろん》のことだが、やるとなった以上、失敗は許されない。それに、獲物をどう処分するかだ。宝石は闇の世界の専門家にカットし直させたら何とかなるだろう。しかし、問題は美術品だ。聞いたところでは、古代中国の土器や陶器や刀剣が多いそうだ。みんな、重要文化財として登録されているものだ。国宝クラスも多い。処分したら、一ぺんで足がつく」  長谷見は慎重な口調で言った。 「国外に持ちだすほかはないな」  片平が口をはさんだ。 「中共にでも売りに行くか」  粕谷が冗談を言った。 「中共は文化大革命で古いものを破壊しているから|骨《こっ》|董《とう》|品《ひん》には目もくれないだろう。だけど台湾政府なら|喉《のど》から手が出るほど欲しがることだろうな。一昔前のことだが、祖国の宝を略奪した日本の|盗《ぬす》っ|人《と》は国際裁判にかけてやる、と息巻いてたからな」  水島は笑った。 「国府の大使館を相手に取引きの話をするのもいいが、日本の警察に|嗅《か》ぎつけられたのではまずい。それより、日本に住んでいる中国人の金持ちを相手にしたほうが楽だ。さて、それでは、太田美術館を|覗《のぞ》いてみるか?」  長谷見が言った。 「紹介状は偽造するんだな?」 「当り前さ」  長谷見は言い、電話帳をめくった。美術雑誌の編集部の名をかたって、著名な美術評論家に次々に電話を入れる。三番目の北川という評論家が北海道に旅行中で、帰りは三日後とのことであった。 「失礼しました……いえ、ただアンケートに答えていただけたら、と考えていたのですが……では、のちほどまた」  電話を切った長谷見は隣の工作室に移った。五分もたたないうちに、簡易印刷機で刷った北川の名刺を持って戻る。その手には、よほど気をつけないと分らないほど薄く透明なゴム手袋がつけられていた。万年筆で、ここに紹介する四人は熱心なアマチュアの美術鑑賞家|揃《ぞろ》いだから入館の便宜を計ってくれるように、と偽造した名刺の裏に書きこんだ。      三  一行が新築地ビルに着いたのは午後三時近かった。アジトから乗って出た粕谷のB・M・W二〇〇〇CSは近くのホテルの駐車場に|駐《と》めてあった。  まわりの高層ビルが平べったく見えるほどの新築地ビルの高さであった。百五十メーターはあるから、東京タワーの中ほどにある展望台よりもはるかに高い。窓一つない最上階が異様な印象を与える。  水島たちは百台近い車が駐った前庭を通ってビルに入った。広いロビーの奥には二十数台のエレヴェーターが並んでいる。十階止りと二十階止り、それに四十一階止りが四、五台ずつだ。そのほかに、四十二階と屋上に直通するエレヴェーターが二基ずつあった。  一行は四十二階に直通するエレヴェーターに乗りこんだ。背広はつけてはいるが一と目で警備員と分る男がエレヴェーターを操作している。  エレヴェーターは、相当のスピードで上昇していった。少々耳鳴りがしてきたところで静かに停った。  廊下の中央には、仕切りの鉄板がせりあがってくるための三十センチ幅もある|溝《みぞ》が見え、鉄板が頭を覗かせていた。  美術館の出入口のドアは二つしかなかった。いずれも三十センチ近い厚さの鋼鉄のドアだ。トイレは館内にあるらしく、廊下には見当らない。  エレヴェーターに近いドアに近づくと、受付のカウンターが見えた。カウンターの奥には、眼鏡を光らせた女史タイプの中年女と、二人の警備員が見える。受付の小ホールと館内のあいだにはさらにドアがあるという厳重さだ。 「いらっしゃいませ。どなたの御紹介で?」  受付の女は尋ねた。 「北川先生の……」  長谷見は皮膚と区別がつけにくいゴム手袋をつけた手で偽造名刺をポケットから引っぱり出してカウンターに置いた。 「失礼します——」  受付の女は名刺を取上げ、印刷されてある電話番号にダイアルを廻した。しばらく電話の相手と話をしていたが、電話を切り、 「それでは、皆様、ここにサインなさって、入場料をお払いください」  と、帳面を差出した。 「いくら?」  粕谷が言った。 「一人千円でございます」 「高いな」  |呟《つぶや》きながらも、四人は偽の紹介状に長谷見が書いた偽名を筆跡を崩してサインした。長谷見が四人前の入場料を払う。  警備員がボタンか何かを押すと、小ホールと館内の仕切りのジュラルミンのドアが開いた。  広い館内に人影はまばらであった。警備員が十メーター置きぐらいに壁の一部に化したようにひっそりと立っている。  宝石を集めた二十メーターほどの長さのショー・ケースのなかは圧巻であった。これまで日本には無いとされていた七十カラット級のクッション・カットのブルー・ダイアには「ウラルの星」と名づけられ、神秘の光を放っている。  ダイアはさらに二十カラット級のものが十数個展示されていた。十カラット以上のものになると、五、六十個ある。ルビーやサファイアとなると百カラット近いものもあり、ヒスイやオパールなどは巨大な原石のままだ。  四人の視線は「ウラルの星」に吸い寄せられた。  美事だ。歴史を秘めて、その奥から|虹《にじ》か炎のように輝きでる無限の色彩を見つめていると、魂が溶けてしまいそうな気になる。水島はそのダイア一つだけでも盗みだすためには、命を|賭《か》けても悔いないような気がしてくる。  警備員が|咳《せき》|払《ばら》いをした。水島は夢から|醒《さ》めたように「ウラルの星」から視線を外し、説明文を読んでみる。千七百年代にウラル川上流から発見された二百七十カラットの原石からカットされたそのダイアは、ロマノフ王朝の歴代の王や女王の即位式の宝器にはめこまれた宝石の一つになったが、革命後ソヴィエトから亡命した元|近《この》|衛《え》士官の手で中国に持ち運ばれ、それを狙う男たちの血を何人も吸ったあと太田の手に移ったことが書かれてあった。  警備員が再び咳払いした。長谷見がそれに気付き、あまり物欲し気な視線で「ウラルの星」を凝視していた自分にも気付いて、ゆっくりと歩きはじめた。  水島もそのダイアから無理やりに視線を外して歩きだした。あとの二人も続く。  宝石の次は貴金属であった。金や銀やプラチナの精巧な細工物が無数といっていいほど並んでいる。  次いで古代中国の刀剣や|甲冑《かっちゅう》類であった。そこを過ぎると、陶器や南画だ。一行は美術鑑賞家ということになっている手前、入念にそれらを見て廻るが、少なくとも水島の心は上の空だ。  南画の並びの奥に、警備員の詰所のものの出入口らしいドアがあった。水島はそのドアを開いた。  詰所というより宿直室であった。炊事場からバス・トイレ、それにベッドが五つほど置かれている。無論、窓は無い。  宿直室でデスクで電話を受けていた警備員が、|咎《とが》める目つきで水島を|睨《にら》んだ。 「失礼。トイレかと思いまして……」  水島はあわてたように口ごもった。 「トイレは右の端です」  警備員は冷たく答えた。 「どうも……」  水島は頭をさげ、ドアを閉じた。トイレに歩きながら宿直室のドアから美術館の右端のトイレまでの距離を歩測する。     ヘリの奪取      一  翌日の午前、水島は久しぶりに府中基地に住んでいるウィリアムズ夫人を訪ねた。前日電話を入れて、夫が三沢基地に三日間の予定で出張していることを確かめてあった。 「どうしてたの、スウィート・ベイビー。会社をやめて替りの人を紹介してくれたのはいいけど、それっきり|音《おと》|沙《さ》|汰《た》なしとはひどいわ。ビジネスに関係なしに、わたしはあなたを愛してるのに」  ネグリジェの上にガウンをつけたリズ・ウィリアムズは、|瞳《ひとみ》と唇を潤ませた。期待に上気している。 「許してくれ。新しい仕事をはじめたんで、くたくたになって電話する気力も無くなってたんだ。でも、もう何とかメドはついたよ。一息ついたら、君のことがなつかしくて」 「やっと想いだしてくれた、ってわけ?」 「そう責めないでくれ。愛しているよ」  水島はリズの母性愛を刺激する、捨て犬のような表情を作った。 「分ったわ。苦労したんでしょう? ミスター・オカダ——あなたの替りに来てる人——から聞いたけど、カー・コンサルタントっていう仕事をはじめたんですって?」 「そう」 「お|腹《なか》すいてない?」 「飢え死にするほどじゃないが、何か食べさせてもらおうか」  水島は笑った。  コールド・ビーフとカリカリしたコーン・ホットケーキを水島が平らげると、リズは愛している証拠を見せてくれと言った。  水島はリズをベッドに運び、リズの期待に応えた。飢えきっていたリズは、浅ましいほど狂乱した。  一時間ほどかかってリズが仮死状態におちいると、水島も浅く眠った。目を覚ましたとき、リズは水島の体を湯で拭いてくれていた。午後二時であった。 「有難う。さっぱりした。ところで、僕の今度の商売のお客さんに航空機マニアが多くてね。僕はそのほうはさっぱりだろう? 話を合わせるのに苦労するんだ。立川の格納庫でも覗けたら、奴等に自慢出来るんだがな」  水島は言った。 「わたしも、一時はマニアだったの。それで、空軍の夫と結婚する羽目になったのね。知りあったのは、射撃場でだけど」  リズは言った。シャワーを浴びたあとらしく化粧を落している。|小《こ》|皺《じわ》が目立った。 「初耳だな。じゃあ、連れていってくれる?」 「いいわよ。そのかわり、化粧を直し終るまで目を|瞑《つむ》っていて」  リズは言った。  水島は言われた通りにした。化粧台に向ったリズに背を向けてタバコをふかしながら会話を続ける。 「立川から飛び立つ武装ヘリコプターには、弾薬を積んでいるのかい?」  と、水島が切りだしたのは、リズの化粧が終りかけた頃であった。 「どこに向って飛ぶかによるわね」 「ヴェトナムに輸送機で運ばれるやつには?」 「輸送機には積んでいるけど、ヘリには積まないわ。そうね、富士の演習場に向うヘリは機関銃にもバルカン砲にも|装《そう》|填《てん》してるわ。もちろん、ロケットも積んで行くわ」 「そいつは|凄《すご》いな。マニアの客に見せてやったら、狂喜するだろうな。演習ってのは、しょっちゅうあるの?」  水島は無邪気そうに言った。 「今月は、二十四日だってハズが言ってたわ。二十四日の午前二時に二十台が降下部隊員を乗せて飛びたって、富士で夜間の模擬戦闘をやるの」 「ゲリラ戦だな?」 「ええ。富士に、ヴェトナムのジャングルと泥沼をそっくり再現させた訓練場を作ってあるんですって」 「模擬戦でも実包を使うのかい?」 「ええ。相手のヴェトコンは、電気仕掛けの人形だから。さあ、もうこっち向いてもいいわ」  リズは屈託のない声で言った。  水島は体を起した。化けて|粧《よそお》うことが化粧とはよく言ったもので、リズの顔からは小皺が消え去っている。|鳶《とび》|色《いろ》の髪は波打ち、空色の瞳は輝いている。 「|綺《き》|麗《れい》だ。素敵だよ」  水島はリズの顔を見つめて手の甲に唇をつけた。手早く服をつける。  ウィリアムズのポンティアック・ルマンを夫人が運転して立川基地に向った。夏のような陽気であった。  甲州街道を立川に近づいたとき雷の音がした。と、思うと空が一瞬にして暗くなり、冷蔵庫の氷塊大の|雹《ひょう》が突風と共に猛然と叩きつけてくる。雹は車のボディやガラスに当って大きく跳ね返る。豪雨も交り、いくらワイパーを廻しても、ライトをつけても、視野ばゼロに近くなる。温度の急変で、車窓は分厚く曇った。  水島はリズに車を道の端に寄せさせ、ライトとフラッシャーをつけたままにさせた。雹はガラスが破れ、ボディが|窪《くぼ》むのではないかと思われるほど激しくなる。|怯《おび》えたリズは、水島に抱きついた。フォーンをわめかせながら盲目運転で強引に走り続けようとしたトラックも、閉口して二人の乗った車の前に停った。  三十分ほどして、雹と雨は、突然降りやんだ。車窓を開くと、雹は車道に薄汚れた氷砂糖のようになって分厚い吹き|溜《だま》りになっている。空には、いままでのことが嘘のように陽が再び輝く。空気は冷々と|爽《そう》|快《かい》であった。  突然の天候異変で立ち往生していた車が一斉に動き出したので、立川まではノロノロ運転が続いた。リズは正面ゲートから基地に車を乗り入れた。格納庫は基地の東側にある滑走路の奥に並んでいる。      二  六月二十四日、午前零時近く、立川米空軍基地の裏手、第四ゲートと第三ゲートのあいだの金網の柵の外を通じる砂利道を、黒塗りのフォードのステーション・ワゴンが走ってきた。  砂利道を|外《そ》れた車は、鉄工所の倉庫の裏に当る空地に停った。ナンバー・プレートはよく調べれば偽造のものと分るであろう。盗難車であった。  車のなかには三人の男がいた。長谷見と粕谷と片平であった。  三人とも、薄いゴム手袋をつけていた。米空軍憲兵隊の制服をつけ、背には|落《らっ》|下《か》|傘《さん》を背負って、首からはニコンの軽い双眼鏡を|吊《つ》っている。  車を停めた位置からは、基地の倉庫と倉庫のあいだから、滑走路の向うにある格納庫の並びがよく見える。  二人は双眼鏡を目に当て、焦点調節のリングを合わせた。格納庫の前では、ベルUH1イロコイスの野戦用ヘリが二十台引っぱりだされ、整備兵の手でエンジン調整や各作動部の点検がなされている。  迷彩がほどこされたそれら十三人乗りのヘリの機首の下には、A1Aの五七ミリ・ロケット砲の砲身と、二〇ミリ・バルカン砲の六丁組合せの銃身の先についた砲身が突きだしていた。|搭乗員《とうじょういん》席からは、口径〇・五〇のM2機関銃が覗いていた。 「水島が言ったことは正確でしたね。ぴったり二十機だ」  粕谷が言った。 「まあな、もう一度、格納庫近くの建物の配置図を頭に刻みこんでおけよ」  長谷見は、一枚の紙を粕谷と片平の前に出し、万年筆型の懐中電灯でそれを照らした。部品倉庫や弾薬庫や地下のガソリン貯蔵タンクなどの正確な位置を水島が書いたものだ。  二人が充分にそれを見終ると、長谷見は車のなかでそれを焼却した。煙は開いたテール・ゲートの窓から流れでる。時刻は、零時五十分に近づく。 「みんな、伏せてろ。そろそろパトロールが廻ってくる時間だ」  長谷見が言った。|空軍憲兵隊《エ ー ・ ピ ー》のパトカーが大体四十分置きに廻ってくることを水島から聞いてある。  三人は車のなかで体を低くした。長谷見はプリズムを利用した潜望鏡のようなものを車窓に当てた。  基地のなかを、左のほうからA・Pのパトカーがゆっくり姿を現わした。倉庫と倉庫のあいだを入念にパトロールし、格納庫のほうに去っていった。  長谷見の合図で、男たちは体を起した。掌でタバコを覆って、ニコチンに飢えきったように吸いこむ。  午前一時二十分、全ヘリのエンジンは停止し、燃料タンクが満タンにされてから、弾薬の積込みと装填がはじまった。  三人の男は、ステーション・ワゴンの荷室の毛布をはぐった。三丁のM16自動ライフルと弾倉帯、それに、二丁の洋弓と矢筒、大きなニッパーなどが見えた。  洋弓は八十ポンドの張力を持ち、矢の|鏃《やじり》は猛獣射ち用のがついている。弓の両端のチップにゴムを捲きつけて垂らしているのは、|弦《つる》の音を消すためだ。弓のサイトには蛍光を塗って、暗闇でも照準をつけやすくしてある。  弾倉帯と矢筒を腰につけた片平は、一丁ずつの弓と自動ライフルを持つと共に、ズックの袋を腰の弾倉帯につけた。  粕谷は弓と銃で武装した上に大きなニッパーを手にした。長谷見は銃だけだ。  エア・ポリスの制帽をつけた三人は車から降り、基地と日本をへだてる金網に忍び寄った。  粕谷は、刃が三十センチもあるニッパーで金網を切断していった。金網は、まるで|植木鋏《うえきばさみ》で小枝を扱うときのように断ち切れていく。  L字型に切った金網を開いて、三人は基地にもぐりこんだ。内側に移ると開いた金網を閉じ、片平がズック袋から取出したペンチと針金で元通りに見せかける。  三人は、倉庫の近くの|空《から》のドラム罐が積まれた|蔭《かげ》に身をひそませた。粕谷と片平は、ポケットから出した指当てやシューティング・グローヴを手につける。  長谷見は、片平のズック袋のなかから、兎の縫いぐるみを取出した。ラジコンの送信機も出た。  兎の縫いぐるみをドラム罐の前に降ろし、送信機のスウィッチを入れてレヴァーを動かした。  胴のなかに入っている受信機とモーターとギアによって、縫いぐるみの兎は、本物そっくりに跳びはねた。左右の動きも自由自在だ。水島のアイデアであった。  長谷見は、その兎をドラム罐の並びに引寄せた。そのとき、前方からA・Pのパトカーが近づいてくる。  パトカーが三十メーターほどの近くにきたとき、ドラム罐とドラム罐の隙間から覗いていた長谷見は、ラジコンを操作した。  本物そっくりに、その兎はパトカーのほうに跳んでいった。パトカーは急ブレーキをかけた。  乗っていた二人の空軍憲兵は、パトカーから降りた。白人の将校とニグロの下士官であった。  二人は、笑いながら、兎を追いかけた。ラジコンで兎を逃がしながら、長谷見は自分の顔を見つめている片平と粕谷とに|頷《うなず》いてみせた。  矢をつがえた弓を引きしぼりながら、二人の男はドラム罐の蔭から立上った。  それぞれが自分に近い憲兵に素早く照準をつけて矢を放した。ほとんど音もなく、矢は二人の憲兵に吸いこまれた。わずか十メーターの距離だから外れっこない。      三  二本の矢は、白とニグロの憲兵の胸から突き刺り、背に抜けていた。長谷見も立上って、倒れた二人の憲兵を見おろした。  鏃が回転しながら内臓組織を破壊していっているから、二人は助からないだろう。 「水島が見たら怒るぜ。殴りつけて気絶させるだけ、という約束だったのだからな」  粕谷が後ろめたそうに呟いた。 「仕方なかったんだ、と言っておけ。憲兵が拳銃を抜いたので、やむをえなかった、とな。男の戦いにセンチメントは禁物だ」  長谷見は|囁《ささや》いた。 「しかし、俺たちが弓を用意してきたのを水島が知ったら?」 「万一のときのことを考えて用意したのが役立ったと言え。そしたら、奴に対して、俺たちは感謝される番になる。それに、いくら文句を言ったって、奴はヘリコプターの操縦にかけてだけは、俺たちのようなエキスパートじゃない。俺たちがいないことには、この仕事は出来ないんだ。さあ、しゃべっている時間じゃない。行動開始だ」  長谷見は、いつもとちがって、冷酷無惨な表情になっていた。  三人の男は、弓矢やニッパーなどを捨てた。二人の憲兵をドラム罐のあいだに引きずりこむ。長谷見は兎のロボットとラジコン送信機をズック袋に仕舞い、粕谷と片平は憲兵のG・Iコルトを奪った。  三人はパトカーに乗りこんだ。粕谷が運転し、ダッジのパトカーは格納庫の前に並ぶヘリの群れに静々と近づいた。  弾薬をヘリの搭載武器に装填し終った整備兵たちは、ヘリから少し離れたコンクリートの上に円陣を作って腰を降ろし、タバコを吸いながら女の話をしていた。  降下部隊員やパイロットがジープでやってくるのを待っているのだ。近づいたパトカーに注意を払うものは誰もいない。みんな丸腰であった。  パトカーは整備兵のサークルの近くに停った。目のあたりだけに孔をあけたナイロン・ストッキングの覆面をつけ、M16の自動ライフルを腰だめにした長谷見たちはパトカーを降りた。M16はAR15の空軍と陸軍の制式名だ。 「|畜生《ガッデム》」 「|神よ《ガッド》!」 「オー・ノー」  整備兵たちは、銃を突きつけられて、あっさりと手を上げながら顔を恐怖にひきつらせた。銃の威力を充分に知っているからこそ恐怖も強い。  三人は銃のセレクターを廻して、フル・オートマチックで発射出来るようにした。 「騒ぐな——」  長谷見が硬い英語で言った。 「下手に動かなかったら射ちはしない。もっとも、こっちは血に飢えてるんだ。一人二人騒いでくれて、射ち殺したほうが面白いがな」 「共産スパイだ!」  整備兵の一人が呟いた。残りの者はもう声も出ない。 「よし、みんな、|腹《はら》|這《ば》いになれ。腹這いになって、手を首のうしろに組むんだ」  長谷見は命じた。広大な基地の隅で行われている寸劇に警備の者はまだ気付いてないらしく、サイレンの音は聞えない。  整備兵たちは命令にしたがった。彼等を長谷見が銃で威嚇しているあいだに、粕谷と片平がヘリの群れに走った。  手近な二台を残し、あとのヘリに這いあがって、胴体上部のガス・タービン・エンジンや回転翼の要所要所を尻ポケットから出したモンキー・レンチで破壊していった。  手早くその仕事を終えると、二人は完全なまま残しておいたそれぞれのヘリに乗りこみ、スターターを廻した。ライカミングのエンジンが|唸《うな》り、主回転翼がゆっくり回った。二人はそれぞれの機の計器をチェックし、ロケット砲とバルカン砲のコントロール・ボタンの位置を確かめた。背後のM2ブローニング機関銃は三脚に据えられ、ベルト弾倉が千発入りの保弾箱にのびている。  長谷見が、後じさりしながら粕谷のヘリに近づいた。首をあげて長谷見に顔を向けようとした整備兵は、自動ライフルから三発の高速弾を至近距離から浴びせられてコンクリートに抱きついた。  長谷見が粕谷のヘリに乗りこんだとき、基地の要所要所につけられたサイレンが無気味に唸り、サーチ・ライトの光の筋が闇を貫いた。  二台のヘリは、最大一一〇〇馬力二千六百回転のタービンをフル回転させて垂直に離陸した。  粕谷機の副操縦席には長谷見がおさまり、ロケット砲のコントロール・ハンドルを廻して、地下燃料貯蔵庫のスタンドに照準を合わせた。一機につき五発の五七ミリ・ロケット砲弾を積んでいた。  地上が急激に遠ざかっていった。跳ね起きた整備兵が、残ったヘリの機関銃にとびつこうとするところへ、片平が二〇ミリ・バルカン砲の雨を浴びせる。  六つの銃身が回転して一分間四千発の|凄《すさ》まじい発射速度を持つバルカン砲なので、弾薬を節約するために、ヘリ|操縦桿《ピッチ・レバー》の頭についた発射ボタンは押した途端に放さなければならない。それでも数十発ずつ発射された砲弾は、地上のヘリに当って火を吹かせた。  パトカーと共に、降下部隊員が仰角で自動ライフルを乱射しながらジープで駆けつけてきた。|曳《えい》|光《こう》|弾《だん》が二つのヘリの下で交錯する。  そのときには、二つのヘリは三千メーターほど上昇していた。少々息苦しい。長谷見はロケット砲の発射ボタンを押した。  ロケットは炎の筋を|曳《ひ》いて燃料貯蔵庫のスタンドに吸いこまれた。スタンドが吹っとんでからしばらくは、黒煙が吹きだしているだけであったが、突如、貯蔵庫の上のコンクリートが割れ、火炎が一キロ近くの上空まで吹きあげた。  二台のヘリは、爆風で大きく揺らいだ。貯蔵庫の数百万リッターのガソリンやジェット・ケロシンが爆発したのだ。滑走路一面に炎の渦と煙がひろがる。長谷見たちは、ヘリに用意されてあった酸素マスクをつけた。  上昇を続けようと思えば六キロ半以上昇ることが出来るが、それではレーダーに|捕《ほ》|捉《そく》されたり、ジェット戦闘機の標的にされてしまう。基地を離れた二台のヘリは低空で町並みをかすめ、時速二百キロで海上に出た。海面すれすれを、浦賀水道を抜ける。すべての灯を消していた。     ジェットとヘリ      一  伊豆大島の東南三十キロのあたりに、小さな無人島があった。|湧《わ》き水がないのと、島のまわりが|断《だん》|崖《がい》絶壁になっているので、人が住まないのだ。  その無人島は、周囲五キロメーターほどであった。島は亜熱帯樹のジャングルと雑草に|覆《おお》われている。  海面すれすれに飛んできたベルUH1イロコイスのヘリ二台は、その島に近づくと高度をあげた。  島の中央で、サーチ・ライトが上空に向けて点滅した。二台のヘリは、そのサーチ・ライトの上にちょっとのあいだ浮んでいたが、ゆっくりと高度を下げた。  腰の近くまでのびた雑草を回転翼で波打たせながら、二台のヘリはジャングルを切開いた空地に着陸した。エンジン・スウィッチを切っても、回転翼はしばらく廻り続けている。  手押し車に積んだサーチ・ライトの横に立っているのは水島であった。ヘッド・ランプをつけたヘルメットをかぶっている。  二台のヘリから、長谷見と粕谷、それに片平が、M16自動ライフルを肩に|吊《つ》って跳び降りた。 「御苦労さん。よくやってくれた。いま、ラジオで臨時ニュースを聞いてたところだ。基地は大騒ぎらしいな」  水島は、作業服のポケットのトランジスター・ラジオを叩いた。 「あんたに|誉《ほ》められたのは、はじめてだよ。俺たちは、憲兵を|殺《や》っちまったんで、また文句を言われるのかと思ってた」  粕谷が|呟《つぶや》いた。 「|殺《や》ったのか? 知らなかった」  ヘッド・ランプの下で、水島の|瞳《ひとみ》がスッと細まった。 「まあ、まあ、そういきりたちなさんなよ。奴等を|殺《や》らないことには、こっちが殺られるところだった。そんなことより、早くヘリを隠そう。近頃は、夜が明けるのが早いから、あんまりグズグズしてはいられない」  長谷見が言い、サーチ・ライトを乗せた手押し車に積んであったヘルメットをかぶった。ヘッド・ランプ付きだ。 「分ったよ。ともかく、御苦労さん。いつ米軍や自衛隊の飛行機に見つけられて撃墜されるかとハラハラしてたんだが、無事でよかった。ヘリが無いことには今後の仕事は出来ないからな……」  水島は言った。  水島は手押し車をジャングルのなかに移動させた。長谷見たちは、ヘリの上にカモフラージュ用のネットをかぶせはじめた。  そのビニール製のネットには、本物の雑草とそっくりの色をした繊維が一面にくっつけてあった。空から見れば、草と見分けがつかない筈だ。  水島もネット張りを手伝った。空の警戒がゆるむまでヘリは動かせない。  作業が終ると、男たちはジャングルに入った。シュロの林を少し行くと、低い丘があり、その裾に、大きなシダや|蔓《つる》|草《くさ》に隠されるようにして、|洞《どう》|窟《くつ》の入口があった。  入口は狭いが、ヘッド・ランプに照らされた洞窟の内部は広い。真ん中に置かれたテーブルを中心に、四つの簡易ベッドがあった。そして、洞窟の奥の暗がりから、波の音が聞えてくる。  水島は、床の岩に置かれた携帯発電機のスターター・ベルトを引いた。発電機のエンジンが|唸《うな》り、天井の裸電灯がついた。エンジンの排気はパイプで洞窟の外に逃がすようにしてあるから、中毒する心配はない。  ヘッド・ランプを消したヘルメットを脱いだ長谷見たちは、テーブルのまわりの椅子に、崩れるように腰を降ろした。 「まあ、一休みしててくれ。今夜は俺がサーヴィスする」  水島は言った。壁の岩棚に置いた大型ラジオのスウィッチを入れてから、洞窟の奥に歩いた。足許は斜面になる。  斜面を降りると、プールのような水面があった。そこに、三十フィート級のクルーザーが|錨《いかり》を降ろしている。後部甲板には二〇〇リッター入りのドラム|罐《かん》が四十本ほど積まれている。  そこも洞窟の続きであった。海に面した断崖の下にある狭い入口は今はほとんど見えない。干潮のときだけ、クルーザーが通り抜けるだけの空間が出来るのだ。  この洞窟を発見したのは、ヨットと潜水の趣味を持っている粕谷と片平だ。二年前のことだそうだ。そのときには、海に通じる入口は人間がやっとくぐることが出来るだけの隙間しか無かったのを、一同が十日ほど前に爆薬を仕掛けて拡げたのだ。  クルーザーに跳び移った水島は船室に入り、大きな冷蔵庫からポリエチレンの水筒やワインの|大《おお》|壜《びん》、それに食料などを取出した。それらをバスケットに入れて、長谷見たちのところに運んだ。  ワインを飲み、サラミ・ソーセージやチーズをかじりながら、男たちは桜庵ビル襲撃の打合せをくり返した。深夜のムード・ミュージックがしばしば中断され、ディスク・ジョッキーは立川基地で起ったことを臨時ニュースとしてしゃべった。基地の燃料貯蔵庫はまだ燃え続け、ヘリコプター八台も燃え尽きたらしい。  米軍側の発表として、犯人たちは国際共産スパイであり、奪ったヘリで国外に脱出したと思われる、と伝えられた。奪われたヘリは日本海に抜けて某国——ソ連のことであろう——の艦船に収容された可能性がある、とディスク・ジョッキーがしゃべったとき、水島たちは、ワインにむせながら腹を抱えて笑った。      二  それから一週間がたった。  午前二時、水島たちがひそんでいた島から、二台のヘリが舞いあがった。  一番機には長谷見と粕谷、二番機には水島と片平が乗っている。二台とも、燃料タンクをほぼ一杯にしてある。  二台は、今度も計器類をのぞくすべての灯を消し、海面近くを本州に向っていた。エア・ボーンのレーダーが頼りだ。  四人とも、米軍の戦闘服をつけていた。腰のズックの弾倉帯には拳銃のホルスターを吊り、胸の大きなポケットには|手榴弾《てりゅうだん》を入れていた。  ベルUH1は十三人乗りだ。機関銃座と電動式クレーンにはさまれた後ろの座席には、自動ライフルやズック袋やアルミの箱などが置かれている。  片平機の副操縦士席で水島はレーダーを見つめながら、掌で覆ったタバコをふかしていた。漁船や貨物船とぶつかるのを避けないとならないから神経を使う。  波がときどきヘリのソリに当って砕けた。ヘリが海のなかに引きずりこまれるような錯覚におちいる。  浦賀水道をくぐった二台のヘリは、第二|海《かい》|堡《ほう》を過ぎたあたりから、千葉側に寄って東京を目指した。  江戸川放水路のあたりから、二台のヘリは高度をあげた。乗員は酸素マスクをつけ、六千メーターまで上昇する。そこまで上昇すると、地上にはほとんどエンジンや回転翼の音は聞えない筈だ。  無計画にひろがった東京の灯が眼下にあった。粕谷機のほうは前進スピードを落した。二台の間隔は、たちまち開いていく。  たちまち荒川をまたぎ越えた片平機は、築地の新大橋通りにそびえる地上四十二階の桜庵ビルのはるか上に来た。  一方、粕谷機は、深川|豊《とよ》|洲《す》の石炭|埠《ふ》|頭《とう》にある東京ガスの球型タンクの真上に来た。  副操縦士席の長谷見が五七ミリ・ロケット砲をレーダー照準し、そのガス・タンクに狙いをつけた。発射ボタンを押す。  ヘリに軽い衝撃があり、噴射炎を|曳《ひ》いてロケットは球型ガス・タンクに吸いこまれた。一瞬の間を置いて点火されたガスの炎が大きく吹きあがる。隣のタンクも誘爆した。さらにその隣と爆発はひろがっていった。  炎は天に向って吹きあがるだけでなく、石炭埠頭一杯にひろがっていった。たちまちパトカーや消防車などが埠頭に駆けつける。  その火は、水島たちにもよく見えた。都内のパトカーが豊洲に急行する時間だけ待ってから片平機は高度をさげていった。  ビルの四十二階の裏側と同じ高さまでヘリは降下した。  水島は五七ミリ・ロケット砲の照準を窓のない四十二階の壁の一点につけた。その壁の奥に、警備員の宿直室があるのだ。  ヘリとビルの間隔は約三百メーターであった。水島は弾道落差の自動修正装置のダイアルを合わせ、ロケット砲の発射ボタンを押した。  ビルの四十二階の壁に|閃《せん》|光《こう》が走った。黒煙と共に大きな穴があく。水島は、もう一発ロケット砲弾を同じ位置に射ちこんだ。厚さ一メーター半もあるコンクリート壁に完全に穴が開き、そのまわりに大きくヒビが入った。  ヘリは再び上昇した。今度は少しだ。屋上より少し高いだけだ。  水島はヘリの後部ドアの内側に据えられたクレーンから、ロープを垂れさがらせた。ロープには、滑り止めがところどころ付けられている。  左の腰にズック袋を吊った水島は、ロープにぶらさがった。ビルに接近したヘリは、ロケット砲があけた穴に水島が近づけるようにする。  壁の破れからはまだ煙が吹きだしていた。酸素マスクをつけたまま、水島はヘルメットのヘッド・ランプをつけ、宿直室にもぐりこんだ。ホルスターの自動拳銃を抜く。  宿直室は無茶苦茶になっていた。美術館との仕切りの壁も崩れかけ、仕切りの|鉄《てっ》|扉《ぴ》は爆風で吹っとんでいる。  警備員たちも爆風をくらって|昏《こん》|倒《とう》していた。水島は停電して真っ暗な美術館のなかに足を踏み入れた。ヘッド・ランプのために、物を見るのに不自由は無い。こちらのほうは煙は薄かった。  水島はまずズック袋から大きな革製のナップ・ザックを取出すと、宝石を集めたショー・ケースに走った。ケースのガラスを拳銃で叩き割ると、真っ先に「ウラルの星」を取上げ、内ポケットに仕舞う。  あとの二百を越す宝石は、腰のズック袋に放りこんだ。  貴金属の細工物は手当り次第にナップ・ザックに放りこんだ。そのとき宿直室から足音が聞えた。  水島は、ワルサーP38の銃口を足音のほうに向けた。  しかし、入ってきたのは粕谷であった。水島は酸素マスクの下で苦笑いし、拳銃をホルスターに戻した。  粕谷は、貴金属をナップ・ザックに入れるのを手伝った。ナップ・ザックが一杯になると、金や銀やプラチナの重さで三百キロ近い。  二人がかりで、そのナップ・ザックを壁の破れ目まで引きずっていった。ヘリから垂れたロープの先のフックにナップ・ザックのバンドを引っかける。  クレーンでロープが捲かれ、ナップ・ザックは引上げられていった。煙が薄らいでいるので、二人は酸素マスクのマウス・ピースを外した。 「あんたのほうのヘリは?」  水島は尋ねた。 「予定通り屋上だ」  粕谷は答えた。      三  再び垂れさがったロープのフックはアルミの箱をくわえていた。水島と粕谷は、アルミ箱を使って、美術|骨《こっ》|董《とう》|品《ひん》を片平機に移す作業をくり返した。  作業が終ると、二人は片平機にロープを使って乗った。はるか下では、パジャマの寝巻きの上にコートや羽織を引っかけた人々が、|痴《ち》|呆《ほう》のように口を開いて見上げている。警官たちが拳銃の銃口を上向けているが、ロケット砲やバルカン砲、それに機関銃までがヘリから突きだしているのを見ては、発砲の決心がつきかねるようであった。  水島がバルカン砲、粕谷が機関銃の銃口を下に向けた。群集は警官たちと一緒にあわてて近くのビルの玄関先に避難した。押しあい転がりあって悲鳴が交錯する。  片平機は、桜庵ビルの屋上に一度着陸した。すでに屋上にいたもう一台のヘリから長谷見が走り出て、片平機に乗り移った。  片平機は上昇を開始したが、無人のもう一台も、北東に向けて飛びあがった。そして、三十秒に一度ずつバルカン砲と機銃を点射する。  水島のアイデアで、横田基地のほうに向けてフラフラしながら飛んでいく簡単な自動操縦装置をつけ、小型モーターとギアとカムの組合せで三十秒に一度ずつ鉄棒がバルカン砲と機銃の引金ボタンを|引《ひ》っ|叩《ぱた》くようにしてあるのだ。  片平の操縦するヘリは、無人機と反対側に逃げた。そのとき、三台の海上保安部のヘリが海のほうから突っこんできた。  水島はその三台のシコルスキーにバルカン砲をレーダー照準した。シコルスキーの軽機関銃の射程に入る前に水島は発射ボタンを押した。  バルカン砲の二十ミリの巨大な銃弾を百発ずつくらって、三台のシコルスキーは文字通り|木《こっ》|端《ぱ》|微《み》|塵《じん》になった。海に出たベルUH1は、一週間前のように、レーダー網を逃れるために、海面すれすれを飛ぶ。  一方、酔っぱらったようにフラフラしながら高度五百で横田に向う無人ヘリコプターは、すぐにレーダー網に捕えられた。  横田、厚木等の米軍基地、それに|入間《ジョンソン》や|下総《しもうさ》の自衛隊基地にスクランブルが発せられ、ロッキードF104スターファイターやマクダネルF4ファントム㈼などの超高速ジェット戦闘機が金属音で夜気を切裂いて舞いあがった。  マッハ一は時速にすると約一二二〇キロ、F104もF4㈼も、最高速は優にマッハ二を越える。低空では最高速の半分ぐらいしか出ないが、それにしても時速一五〇〇キロ近い速度で襲いかかったジェット戦闘機の群れは、たちまちのうちに無人ヘリコプターを包囲した。  包囲したと言っても、一瞬のうちにすれちがって何十キロも離れてしまうのだから、ヘリを相手にするには小鳥に大砲を向けるようなものであった。  そこにもってきて、ちょうどそのとき、ヘリは|出《で》|鱈《たら》|目《め》な方向にとはいえ、バルカン砲と機関銃を|盲射《めくらうち》した。  ジェット機群のサイドワインダー発射装置の電子頭脳は、ヘリのターボ・エンジンの排気が発する微弱な赤外線をとらえ、発射オーケイのオール・ライト・トーンを発していた。  そこにヘリが発砲したのだから、血迷ったジェット戦闘機のパイロットたちは、サイドワインダー・ミサイルの発射ボタンを押した。  確かに一瞬後、無人ヘリは一番機の初弾をくらって破片と化した。しかし、急上昇しながら|凄《すさ》まじいスピードですれ違おうとした各ジェット戦闘機は、向いあった相手が発射したサイドワインダーを、強烈なジェット・エンジンの排気熱で引きつけた。  当然ながら同士討ちとなった。五千リッター近い燃料を抱えたジェット機の群れは、次々に凄まじい爆発を起して神宮|外《がい》|苑《えん》の森に墜落し、あたり一面を火の海と化す。生き残った戦闘機は必死に逃げまくった。目標を失ったミサイルは郊外に落下する……。  水島たちの乗ったヘリは、無人ヘリが引き起した混乱にまぎれて、伊豆大島東南の無人島に無事着陸した。  桜庵の美術館から略奪した品はただちに洞窟に運びこまれ、ヘリの上にはカモフラージュのネットがかぶせられた。  男たちはそれぞれのベッドに引っくり返って大笑いした。テーブルの上にはすでに、ウイスキーや島のまわりでとった|黒《くろ》|鯛《だい》の刺身や|伊《い》|勢《せ》エビのボイル、それにアワビやカニなどが並んでいる。 「それでは、乾杯といくか?」  水島は起上った。 「ああ。今夜の酒は、特にうまいでしょうな」  長谷見が答え、皆のグラスにローガンのスコッチを注いだ。 「我らプロのために……」  水島が音頭をとった。四人の男は、ダブル・グラスのスコッチを一息に|喉《のど》に放りこむと椅子についた。 「酔っぱらう前に断わっておく——」  水島は言った。 「この前の仕事でも、|稼《かせ》ぎは皆で平等に山分けした。しかし、今度の仕事で、俺はリーダーとして一つだけ我がままを聞いてもらいたい」 「と、言うと?」  男たちは顔を|硬《こわ》ばらせた。 「“ウラルの星”だ。これは俺がもらう。売りには出させない」  水島は内ポケットから、数奇な運命を秘めた七十カラットのダイアを取出した。ダイアは鈍い裸電灯のもとで、月光を浴びた夜露のように光る。男たちの瞳がスッと細められ、唇のまわりが白っぽくなった。長谷見が|咳《せき》|払《ばら》いし、 「しかし、そいつを持ってたんでは、足がつくんじゃないかな」  と、穏やかな口調を作った。 「無論、カットし直す。あんたには、カット師に知合いがいるんだろう?」 「しかし……しかし……そのダイアには、魔物のような魅力がある。欲しいのは、私たちみんながだ」 「そうだ」  粕谷と片平が同時に言った。 「考え直してくれ。この四人のうちの誰が持とうと、そのダイアは不吉な運命を招くような気がする。それに、あんたがそいつを一人占めにして、俺たちに恨むな、と言っても無理だ」  長谷見は言った。 「あんたの言うことは分る。しかし、俺はこいつが欲しい。ただ欲しいだけでなく、俺がこいつを自分のものに出来るか出来ないかということは、俺をあんたたちが本当にボスだと認めているか認めてないか、という問題なんだ」  水島は乾いた声で言った。     下準備      一  真夏の太陽がアスファルトを溶かす季節になった。  水島たちは、軽井沢の千ケ滝の奥に一軒の別荘を借りていた。緑の林のなかにある洋風のその別荘は、一番近い隣家と三百メーター以上離れている。  朝夕には霧が立ちこめ、|雉《きじ》が鳴いた。長いあいだ鳥獣保護区になっているので野鳥が多い。  五部屋ある別荘のなかの北側の書斎が、今は作業場になっていた。  ダイアモンドを切断するソーイング・マシーンや、宝石の胴を丸めるブルッティング・マシーン、それに研磨機が据えられたポリッシング・ベンチなどが置かれ、床に落ちた研磨用の|屑《くず》ダイアの粉が光っている。  その仕事場では、三人の男が働いていた。宝石のカッティングにかけては、日本でも指折りと言われた連中であった。  彼等はまともに働いていても財を残したであろうが、手っとり早く金になる仕事——つまり、盗品や強奪品、それに密輸品に手を入れる仕事を専門にやることになった。十年前のことだ。  それからの彼等は闇の世界でないと生きていけない人間になった。今度も、一人当り二百万円の契約で、水島たちが太田美術館から奪った宝石をカットし直したり、原石を大割りしてからカットする仕事を、もう二カ月も続けている。  カット師たちのリーダー格は、|三《み》|室《むろ》という名であった。もう五十の半ばを越えていて、髪には白いものが混っている。アル中で、いつもジンの壜をそばに置いておかないと震えがくる。  あとの二人は、岩田と中橋といった。この二人はペー中、つまり、ヘロインの中毒者だ。三人とも、アルコールとヘロインのせいで女に対して無感動であるから、水島たちとしては扱いやすかった。女に夢中になる連中だと、細工中の宝石を持ちだしては女にくれてやったり、そんなことから警察に目をつけられることがある。  その日水島は、新しく買った百八十三馬力チューンのB・M・W二〇〇〇T・Iの右ハンドル車に乗って、東京から軽井沢に向った。ヘッド・ライトの奥には、岩田と中橋に与えるヘロインの包みが入っている。粕谷が横浜のブローカーを襲って手に入れたうちの三十グラムだ。これだけあれば、重症の二人でも、一カ月は|保《も》つ。  |碓《うす》|氷《い》を越えると汗が引っこんだ。かつてはショート・パンツに自転車が多かった軽井沢も、近頃はメガフォーン・マフラーから|轟《ごう》|音《おん》をたてて街道レーサーが我がもの顔に走りまわっている。  水島は中軽井沢で車を右折させた。星野温泉を過ぎて緑の樹々のあいだの上り坂を進んだときには、汗に濡れていたシャツが冷たく感じられた。  |柵《さく》に囲まれた|白《しら》|樺《かば》とカラ松の林のなかにある別荘の門は、固く閉じられていた。車から降りた水島が門柱のベルを押すと、林に隠れた建物から片平が歩みでた。薄手のジャンパーのポケットのなかで拳銃を握りしめていた。 「やあ、あんたでしたか。あれから、どうでした?」  片平は陽焼けした顔に笑いを浮べ、右手をポケットから出した。門を開く。 「まあ、まあ、というところだ。あとで話す。奴等の仕事ははかどってるかい?」  運転席に戻りながら水島は尋ねた。 「順調です」  片平は答えた。  水島は車を玄関の前に廻した。トランク室の工具入れから出したドライヴァーで、右のライト・カヴァーと右外側のライトを外し、その奥からビニールの小さな包みを取出した。ライト・カヴァーを元通りにする仕事を、歩いて門から戻った片平が手伝った。  二人して、建物の奥の作業場に入る。戸口に近い揺り椅子で三室たちを監視していた長谷見が、立上ると、パイプを軽く差しあげて水島に挨拶した。  三室は、円いソーイング・マシーンの刃に、オリーブ油で混合した加工用ダイアの粉を塗りつけ、二十カラットのダイアを|挽《ひき》|割《わ》っていた。  岩田は二つのダイアをブルッティング・マシーンにかけて|共《とも》|磨《ず》りさせていた。中橋はカットし直されたダイアをポリッシング・マシーンで磨いている。七十カラットの“ウラルの星”は水島が自分だけのものにしたから、ここには無い。 「こっちは涼しくていいな。東京は砂漠だ」  水島は呟いた。 「話はつきましたか?」  長谷見は水島に椅子を勧めながら言った。 「まあな。外でゆっくり話そう」  水島は答えた。片平が運んできたコーラを一気に飲む。 「替ってくれ」  長谷見は片平に命じ、先にたって歩きだした。水島は片平にヘロインのビニール包みを投げてから、長谷見のあとを追った。  長谷見は庭に出て、林のなかのベンチに腰を降ろした。 「ここなら、誰にも聞えない。話してください」 「現物を見てからでないと、値はつけられない、と言っている。まあ、当り前の話だな。そのかわり、額がどんなに大きくなっても、値段の折合いがついたら、まとめて引取る、ということだ——」  水島は言った。      二  奪った宝石と貴金属を|捌《さば》くために、水島は|日《ひ》|比《び》|谷《や》にあるセント・ルーカス銀行に接近を試みていたのだ。  セント・ルーカス銀行の本店は、ニューヨークにある。しかし、実質上の本店はイスラエルのテルアビブにある。  セント・ルーカス銀行の実態については、水島はヨーロッパで高級ジゴロをしていた頃、相手をしたユダヤの財閥の未亡人から聞いたことがある。それと言うのも、水島が二輪の国際ライダー時代、契約していたアメリカン・ヤマノには日本の本社からセント・ルーカス銀行を通じて正規でない金が送られてきていたことを知っていたから——好奇心を起して、かなりくわしく相手の未亡人に尋ねたのだ。  セント・ルーカス銀行東京支店長のビル・ゴールドバーグは、日本の敗戦と共に、C・I・Aの直属であるハーマン特務機関の一員として来日した。アイザック・ハーマンも、名前から分るようにユダヤ系であり、アメリカのユダヤ人協会の資金調達係であった。  ハーマン特務機関は、旧日本軍の銃砲火薬や貴金属等の隠退蔵物資の摘発に|凄《すご》|腕《うで》をふるう一方、セント・ルーカス協会を四谷に作りあげ、その協会をトンネル機関にして、アメリカから送られてくる救援物資を横流しし、莫大な隠し金を作った。  また、ヤミドルの操作や、セント・ルーカス協会からグリーン・ファマシーという輸入品専門のデパートを通じて売った無為替輸入品による莫大な利益もある。一千億円を越えるそれらの利益は、ハーマン機関の来日に少しだけ遅れて設立されたセント・ルーカス銀行東京支店を通じて、イスラエル独立運動資金としてアメリカに送られた。  一九四八年にユダヤ人はイスラエルにやっと祖国を持つことが出来たが、アラブに取囲まれたイスラエルは、何よりも武器とパンを買う金を必要とした。ゴールドバーグは、米国からの救援物資のなかに麻薬を仕込ませて送らせ、日本で売りさばいて巨利を得るという新手を考えだして、ハーマンに大いに認められた。  講和発効後、ゴールドバーグはセント・ルーカス銀行東京支店長になった。ヤミドル操作は無論のこと、ユダヤ系のウィーン航空と結んで、その銀行は麻薬の密輸入で稼ぎまくり、テルアビブに武器購入資金を送り続けている。日本円を預かることが出来る建前になっている外国銀行は円預金については大蔵省の監督下に置かれているのだが、一度も検査が行われてないのは、政財界の実力者がセント・ルーカス銀行を通じてスウィス銀行に預金しているためと、選挙のたびに金をばらまくためだ……。  水島がたてた作戦は、セント・ルーカス銀行の密輸した麻薬の、日本における密売組織を断ち切ることであった。  販売ルートが無いことには、いくら密輸しても金に替えることが出来ない。麻薬から金が入らないとなると、資金はほかの手段で求めざるをえない。アメリカ政府の軍事援助と世界各国のユダヤ人の献金にもかかわらず、イスラエルは痛切に金を必要としていた。  セント・ルーカス銀行の麻薬の販売ルートを知るためには、銀行の庶務課長の永沢という男を締めあげるだけで充分であった。  眼隠しされて世田谷喜多見にある水島たちの隠れ家に連れこまれた永沢は、坐っているのも困難なほど震えていた。粕谷がその永沢を素っ裸にさせて椅子に縛りつけた。  眼隠しを外され、目の前にナイロン・ストッキングで覆面した水島と粕谷が立っているのを見て、怪鳥のような悲鳴をあげ、椅子ごと転がって逃げようとした。  粕谷がガソリン・バーナーの炎を下腹部に近づけると、永沢は一たまりもなく口を割った。 「取引きの相手は、山崎組関東支部だ!」  と、叫ぶ。 「山崎組か……」  水島は呟いた。  山崎組は、暴力団狩りの嵐のなかでほかの組織が次々に|潰《つぶ》されていったなかで、あくまでも解散はしないと頑張っている。日本一の規模を誇る広域暴力シンジケートだ。 「今はタイに移ったハーマン特務機関が、セント・ルーカス銀行と山崎組とのコネをつけてくれた」  永沢は自分からしゃべった。  ゴールドバーグに自分たちのことをしゃべったら、永沢が簡単に口を割ったことを知らせる、と警告してから、水島たちは深夜の街角で再び眼隠しをつけておいた永沢を放りだしたのだ。  次に水島たちは、翌日の夜、ゴールドバーグの|妾宅《しょうたく》にしのびこみ、日本娘の|妾《めかけ》とベッドを共にしている彼の前に覆面姿を現わした。  ゴールドバーグは、妾を突きとばして、椅子に掛けてある上着に跳びつこうとしたが、怒張しているものが邪魔になって、一瞬遅れた。  上着の内ポケットに入っていたワルサーPPKは粕谷の手に移った。上着めがけて突進してきたゴールドバーグのチンパンジーのような額に粕谷は拳銃の銃口を突きつけた。額が切れる。  ゴールドバーグは無様に尻餅をついたが、特務機関で鍛えられただけあって、銀行と山崎組の関係を認めようとはしなかった。女はシートをかぶって震えていた。  粕谷は、見る見る|萎縮《いしゅく》していくゴールドバーグの男根にナイフの刃を当てた。しかし、脂汗を流しながらも、ゴールドバーグは口を割らなかった。      三  そこではじめて、水島はダイアやエメラルドなどの|見本《サンプル》をゴールドバーグに示したのだ。 「宝石は全体で時価三十億円分ある。察しの通り、まともな手段で手に入れたものではない。だから半値で売ろう」  と、英語で言った。 「馬鹿な。私の銀行はギャングは相手にしない!」  ゴールドバーグは|呻《うめ》いた。 「山崎組は相手にしてもか? 心配ない。カットし直してあるから、担保流れということで、銀行から売りに出すことが出来る。お得意のウィーン航空を使ってヨーロッパで売りに出すことも出来る」 「駄目だ」 「そうかい? 考え直すわけにはいかないか?」 「返事はノーだ」 「よろしい。今夜はこれで引きあげる。だけど、麻薬の販売ルートが潰れたときには、あんたのほうから頭をさげてくるようになるさ」  水島は覆面の下で不敵な笑いを浮べた。粕谷がゴールドバーグと女を拳銃で殴りつけて気絶させた。  一週間後の朝、山崎組関東支部長の村田は、目黒駒場町の自宅のバルコニーで鉢植えの花に水をやっているところを、五〇口径の巨弾に胸を射ち抜かれて即死した。  射ったのは、水島であった。二キロ離れた世田谷梅ケ丘の羽根木公園から射ったのだ。  使った銃は奪った二台のヘリが積んでいたブローニングM2機関銃をアキュライズ——つまり自動車で言えばチューン・アップして、ユニヴァーサルの五十倍の望遠照準鏡をつけたやつだ。粕谷に射撃を任せたのでは失中の恐れがある。  村田の告別式は、刑事たちに見張られて、玉川|等々力《とどろき》の寺院において盛大に行われた。花輪の列は百数十メーターにも及ぶ。そのなかには、政治家からのものも多く混っていた。  |境《けい》|内《だい》には、山崎組関東支部の最高幹部が|勢《せい》|揃《ぞろ》いして、参列の客を迎えた。関東支部副部長は無論のこと、東京の各地区や千葉、神奈川、静岡、群馬などの事務所長が顔を揃えている。名古屋にある本部の最高幹部も出てきていた。組長だけは、入院中のために顔を見せない。  男たちは、真夏の太陽のなかで黒背広に身を包み、汗を拭き続けている。多摩川のはるか向うの丘陵に注意を払う者はない。  寺から二キロ離れたその丘陵の雑木林のなかで、水島は|腹《はら》|這《ば》いになり、三脚をつけたブローニング機関銃のスコープの接眼レンズを|覗《のぞ》いていた。  近くの土に差した線香の煙が風の向きと速さを示している。水島は、風速修正度スコープのクリックを廻した。その近くのカバンには、さっき距離を正確に計るのに使ったレンズ・ファインダーが入っている。こう遠距離になると弾道の落下度が大きいから距離を正確に知る必要が絶対にある。  その横では、粕谷が百五十倍の巨大な望遠鏡を三脚に置いて寺を覗いていた。右手は、機関銃の装弾ベルトを支えている。 「いまだ、チャンスは。奴等はかたまった」  粕谷が低く叫んだ。  水島は|遊《ゆう》|底《てい》|桿《かん》を二度引いて初弾を|装《そう》|填《てん》した。スコープで山崎組の幹部たちの左の端の男に狙いをつけ、引金ボタンを両方の親指で押し続けると同時に、銃口を左から右にごくわずか——つまり角度二度ほど——移動させた。遠距離射撃なので、ごくわずかな銃身移動が、目標位置では大きく拡大される。  続けざまの発射の反動で、スコープの映像は大きく揺れた。たちまち機関部の下に大きな|空薬莢《からやっきょう》が|円《えん》|錐《すい》|形《けい》の山のように積っていく。  二百発が一連のベルト弾倉を射ち尽してから、水島は粕谷を見た。百五十倍の望遠鏡を覗く粕谷が、 「最高だ! 奴等は全滅した!」  と、叫んで、ボストン・バッグに望遠鏡を仕舞う。二百個の空薬莢と弾倉ベルトのリングも別のバッグに拾いあげて仕舞った。  水島は機関銃の銃身に、用意してあったビニール袋の水をぶっかけた。焼けはじめていた銃身が湯気を吹きあげる。  重い機関銃を大きなゴルフ・バッグに仕舞った水島と二つのボストン・バッグを提げた粕谷は静かに立上った。少し離れたところに駐めてあった盗品のジープに乗りこみ、丘陵地帯を横浜側に越える。用意してあったB・M・Wに乗り替えて姿を消した……。  山崎組関東支部の最高幹部たちが一まとめに殺されたことは、山崎組に大きな動揺を与えた。そして偽装解散しながらも山崎組の縄張りを隙あらばと狙っていた、関東の暴力団は、隠してあった武器を掘りだして、山崎組に襲いかかった。  |餓《が》|狼《ろう》のような各暴力団が山崎組関東支部を壊滅させるまでには、さほど日時はかからなかった。関東で獲得した山崎組の縄張りは、実に三十数団体の暴力組織に分割された。  水島は再びゴールドバーグと連絡をとった。  今度はゴールドバーグは、馬鹿気たことだ、とは言わなかった。本部の指令が届くまでのあいだ待ってくれ、と言った。  そう言って時間を稼ぎ、ゴールドバーグはヨーロッパから運ばれてきた三キロのヘロインを横浜の根岸組に卸した。根岸組は、かつて山崎組の支配下にあった。  根岸組がヘロインを売りにだすと、たちまち横浜中の暴力団が根岸組に襲いかかった。ヘロを奪い、ついでにヘロのルートを乗っ取ろうとしてだ。  根岸組も全滅した。  ゴールドバーグは、送られてくるヘロインの始末に困った。それかと言って、苦しまぎれにどれかコネのなかった暴力団に売ったりしたら、そこから|嚇《おど》される危険がある。その暴力団だけでなくて、セント・ルーカス銀行がヘロインの卸し元であることを各暴力団が知って、それぞれが銀行に押しかけてくることになるかも知れなかった。  そこでゴールドバーグは、ハーマンの指令で水島たちと再び会うことにした。面会場所は、深夜の多摩川ゴルフ場と決った。  約束の時間に現われた水島と粕谷は、前と同じようにナイロン・ストッキングで覆面し、薄い背広の下に防弾チョッキを着こんでいた。ゴールドバーグは、C・I・Aの暗殺者出身のボディ・ガードを二人連れていた。 「話は分った。全部の再カットが出来あがり次第、現物を調べてみてから値をつける。支払いは日本円でする。二十億や三十億の日本円は、いつでも銀行に積立てられている。支店長室の直通電話番号を教えておくから、出来上り次第、すぐに連絡をとってくれ」  ゴールドバーグは苦虫を|噛《か》み潰したような表情で言った。     取引き      一  太田美術館から奪った宝石の再カットや原石のカットと研磨の仕事が終ったのは、九月に入ってからであった。三人のカット師は、それぞれが二百万の現金と、ランクに応じたボーナスをもらって、早くも秋の気配が忍び寄った軽井沢の秘密作業場から去った。  水島たちも、レンタ・カー会社から借りた中型トラックを使って、カッティング・マシーンや研磨機などの工具を、世田谷喜多見の隠れ家に移した。秘密作業場として借りていた軽井沢の別荘も引き払った。  そうしてから、水島はセント・ルーカス銀行の東京支店長室に直通電話を入れた。 「準備は出来た。現物を見てから、値をつけてくれ」  と、言う。 「分った。どこで会おう」  支店長のゴールドバーグは興奮を押えた声で言った。 「海の上は?」 「よかろう。私はヨットを持っている。スクーナーだ」 「知っている。|油壺《あぶらつぼ》につないである“トロイ”号だろう?」 「…………」 「こっちは、モーター・クルーザーだ。よし、分った。城ケ島の南で落合おう。今夜十二時に」 「正確な位置は?」 「北緯三十五度五分、東経百三十九度三十八分」 「了解。合図は?」 「ライトの点滅だ。サーチ・ライトを、二度長く、三度短くつける。その反対だと、巡視艇の付け馬がついてきたから、別行動をとってくれ、という合図だ」 「分った」  ゴールドバーグは答えた。  その夜、三浦半島の|矢《や》|作《はぎ》にある黒崎マリーナーから、片平と粕谷の三十フィート級のクルーザー“ゼウス”号が滑り出た。乗っているのは、片平だけであった。  ヴォルヴォの百十馬力マリーン・エンジンを四基と非常用プラット・アンド・ホイットニーの五百五十馬力ガス・タービン・エンジンを積んだそのクルーザーは、防波堤を抜け、波島の横をかすめると、黒崎ノ鼻と呼ばれている|岬《みさき》の突端近くに|舷《げん》|側《そく》を寄せてエンジンを空転させた。  岩の|崖《がけ》の松林のなかで懐中電灯が点滅した。片平はやはり懐中電灯で合図を返した。  崖から、水島と長谷見、それに粕谷が波打際に降りた。粕谷は、キャンヴァスに包んだ機関銃をかつぎ、長谷見はジュラルミンの箱を提げている。  片平がロープを投げると、手があいている水島がそれを松の幹に捲いた。長谷見と粕谷が荷物を持ってクルーザーに乗り移る。水島は一番あとから乗った。  クルーザーは|相模《さ が み》|灘《なだ》に出た。粕谷が前部デッキの下のフロアにブローニング重機関銃を降ろし、|艇尾板《トランサム》に書かれた艇名をガムテープを|貼《は》って隠した。  水島は重機関銃の三脚をたて、長谷見が運びこんだアルミの箱から太い赤外線|照準鏡《スコープ》を取出した。小さなバッテリーがついたその赤外線スコープを機関銃に据えつける。  二百連の五〇口径のベルト弾倉をチャージし、遊底桿を一度引いておく。そして、その機銃の上にゴム・ボートをかぶせて隠した。  合計約千馬力を絞りだすことの出来るそのクルーザーは、最高速百三十キロが可能であるが、時間はたっぷりあるから、今は四十キロしか出さなかった。  片平に操縦をまかせ、あとの三人はキャビンのベッドに腰を降ろして、ポーカーをやった。宝石は、袋に入れて水島たちが内ポケットに仕舞ってある。何しろ、ダイアだけだと、コーヒー・カップに一杯の量で——たとえそれがみんな安い小粒の一カラット物であったとしても——軽く十億円を越えるのだ。  油壺の沖を通って南下したクルーザーは、城ケ島の灯を左手に見て、ゴールドバーグと約束した位置に近づいた。水島たちはナイロン・ストッキングで覆面する。  五十フィートのスクーナー“トロイ”号は、三本のマストの帆を降ろして待っていた。午前零時きっかりに、“ゼウス”号は、“トロイ”号に向けてサーチ・ライトを点滅させた。“トロイ”号からも、ライトの合図が返ってきた。  片平のクルーザーは、巧みに“トロイ”号に接舷し、イカリを降ろした。  粕谷を機関銃手として“ゼウス”号に残し、水島たちはスクーナーに乗り移った。無論、上着の下に武装している。  スクーナーの|操《そう》|舵《だ》|室《しつ》の横には、多摩川のゴルフ場で顔を合わせたことのあるゴールドバーグのボディ・ガード二人が立っていた。下手な日本語で、 「約束通りですね。どうぞ、サロンに」  と、言って一礼する。  サロンは、前甲板の下にあった。ゆったりしている。天井も高い。|皺《しわ》だらけの赤ら顔のゴールドバーグは、肩まで垂れた真っ白な長髪と|髭《ひげ》に顔を包まれた、ユダヤの老予言者のような男とソファで待っていた。テーブルには黒いビロードを敷きつめ、スタンドの天然灯の光が輪を作っていた。      二 「挨拶は抜きだ。現物を見せてくれ。ここにいるのは、名前を言えば、宝石の世界に生きているものなら誰でも知っている、世界的な鑑定家だ。オランダのアムステルダムから、わざわざ飛んできてもらった」  向いの|肘《ひじ》|掛《か》け椅子を水島たちに勧めると、ゴールドバーグはビジネス・ライクに切りだした。 「オーケイ。しかし、その前に、ボディ・ガードの諸君を、あんたのうしろに廻らせてもらいたい。背中を狙われるのは愉快でないからな」  水島は達者な英語で言った。 「失礼した」  ゴールドバーグは|呟《つぶや》き、水島たちの背後に立つボディ・ガードたちにヘブライ語で命じた。ボディ・ガードは、カニのように横に歩いて、ゴールドバーグたちの斜めうしろに廻った。  水島はゆっくり右手を動かし、内ポケットから、モロッコ革の宝石箱を取出した。続いて、長谷見と片平も、宝石箱を出してテーブルの中央に置く。  水島は、最初の宝石箱の蓋を開いた。朝露の|虹《にじ》のような輝きがあふれ出た。百個近いダイアのなかに、十カラット以下のものは一つも無い。ブリリアントやローズにカットし直されている。  ゴールドバーグが太い|溜《ため》|息《いき》をついた。ボディ・ガードたちの|瞳《ひとみ》もダイアに吸い寄せられる。  しかし、鑑定家だけは、専門家だけに冷静であった。ダイア取引きの本場アムステルダムでは百カラットを越すダイアでさえも見慣れているのであろう。ルーペを|眼《がん》|窩《か》にはめ、ダイアを大型のピンセットではさんで、天然灯の光で調べていく。一つ一つを、何を単位にしているかは分らぬ数字でメモをとった。  次の箱は、エメラルドやサファイアやルビーなどであった。百カラット近いものもある。  最後の箱の中身は、原石からとった巨大なヒスイやオパールだ。鑑定人は全部を調べ終ると、ヘブライ語でゴールドバーグに|囁《ささや》いた。  ゴールドバーグはしばらく暗算していた。 「十五億円で引取ろう。時価の半値とは良心的な値だと思うが」  と、言う。 「了承した」 「それでは、いま現金を払う。続きナンバーでない古い札束だから、安心してくれ」  ゴールドバーグは葉巻のセロファンを破った。 「現金を用意してきたのか?」  水島は覆面の下で頬をゆるめた。はじめの話では今夜は宝石の鑑定だけということであったから、思いがけないことであった。 「そう。君たちを疑って悪かったが、君たちがニセの宝石を|餌《えさ》にして、こっちの現金を奪おうと計画していると思ったんでな。しかし、今は疑いが晴れた」 「無理もない、こっちは気を悪くしてはいないから」 「それでは」  ゴールドバーグは、サイド・テーブルの卓上ライターを取上げて葉巻に火を移した。  そのライターに呼出しの仕掛けがあるのか、ゴールドバーグの背後のドアが開いた。  秘書らしい若い男が二人、それぞれ左右の手に大きなジュラルミンのケースを提げて出てきた。腰がふらついている。その二つをいかにも重そうにテーブルに載せてからさらに二つずつのケースをテーブルに運び、一歩さがる。 「どうぞ、遠慮なく開けたまえ」  ゴールドバーグは水島に言った。 「いや、そちらで……」 「君はスパイ映画の見すぎだよ。蓋を開けた途端に毒ガスやタマが飛びだすとでも思っているのかね?」  ゴールドバーグは笑い、金髪の秘書に|顎《あご》をしゃくった。秘書は八つのジュラルミンのケースの留金を外した。蓋を開くと、まぎれもなく札束だ。  水島は長谷見に顔を向けた。長谷見は薄いゴムの手袋を脱ごうか脱ぐまいかと思案した。前者を|択《えら》んで、札束の一つを取上げ、素早く中身を調べる。札束の一つ一つが、一万円札千枚ずつであった。紙幣は足のつきやすい新品ではない。無論、通しナンバーでもない。  長谷見が残り百四十九の札束も大まかに調べ終えたのは、二十分ほどたってからであった。黙って|頷《うなず》き、全部の札束を八つのジュラルミン・ケースに仕舞って留金を掛けた。 「取引きはこれ一回で終らせたくない。互いに利益を追求する以上はな」  ゴールドバーグはラ・コロナ・コロナの煙と共に言った。 「と、言うと?」 「君たちは、思いきったことをしてくれた。お蔭で麻薬を|捌《さば》くことが出来なくなった。名古屋の山崎組の本部と直接取引きしてもいいが、分らず屋の××県警がC・I・Aの命令を無視して、意地になって山崎組本部を|潰《つぶ》しにかかっているから、うっかりあそこに麻薬を持ち込めない」 「…………」 「そこで、君たちのルートを通して捌いてもらいたい、と思うのだが」 「麻薬の話なら断わる。銀行を襲ったところで、一般の預金者に損をかけるわけでない。権力と結びついて莫大なアブク銭を|掴《つか》んだ連中から捲きあげたところで、泣くのはそいつだけだし、自業自得だ。だけど、麻薬はちがう。泣くのは、何十万という国民とその家族だ」  水島の声が|凄《すご》|味《み》を帯びた。 「分った——」  ゴールドバーグは、わざとらしい溜息をついた。唇を|歪《ゆが》めて、 「それでは、別のビジネスの話をしよう。君たちが手に入れた貴金属、それに古代中国の美術品や|骨《こっ》|董《とう》|品《ひん》はまだ買い手がついてないだろうな?」 「…………」  水島は相手の表情をうかがった。 「隠さなくてもいい。太田美術館を襲った仕事は派手だったからな。貴金属の細工物は、地金に|鋳《い》|潰《つぶ》さないと、日本では売れないだろう。地金だと純金でキロ六十万前後、プラチナでキロ百七十万、銀だとキロわずか一万円そこそこだ。だから、潰して売ったのでは馬鹿安くなる。特に骨董や古代中国の美術品となると、日本では売ることが出来ない。宝の持ち腐れだ」 「…………」 「しかし、原形のままでも、ヨーロッパに運んだら、美術館にでも堂々と売れる。売った者は善意の第三者ということにしとけばいい。特に共産圏に売りつけたら、面倒な|穿《せん》|鑿《さく》はされないだろう。はっきり言う。宝石の残りの収穫を全部で十億で買ってあげよう」  ゴールドバーグは淡々と言った。      三  三日後、水島たちのクルーザーとゴールドバーグのスクーナーは再び相模灘で落合った。  今度こそは、ゴールドバーグたちが不意に襲いかかってくるのでないかと水島たちは緊張をゆるめなかったが、その心配も|杞《き》|憂《ゆう》に終って、取引きは無事に終った。  札束を詰めこまれたセント・ルーカス銀行のジュラルミン・ケースが水島たちの“ゼウス”号のキャビンに運びこまれ、水島がゴールドバーグと別れの握手をしたとき、ゴールドバーグが言った。 「また、ぜひ、あんたたちと取引きをやりたい。こっちからそっちに連絡をとるときには、どうすればいい?」 「三大新聞に広告を出すんだ。“ジョー、すべてを許すから帰れ。メアリー”と……そうしたら、こっちからあんたのところに電話を入れる」  水島は答えた。 「もう、私を信用してくれてもいい頃だと思うが……まだ君たちの顔も見てない。不公平だと思わないかね?」 「今夜の金をまず無事に持って帰らないとな」 「いい加減にしてくれ。あんたたちを|儲《もう》けさせる話がある。無論、同時に、こっちも儲けるが」 「どういう話だ?」 「こっちを信用してくれない以上はしゃべれない。凄い単位の金になる話だが」 「…………」 「麻薬ではない」 「よし分った。明日また会おう。そのときは覆面をとってくる」 「了承した。それでは、三日後の午後六時、ホテル・オータカの一階ロビーで。合言葉は、“ナザレ”と“イザヤ”だ」 「分った。仲間を一人連れていってもいいな?」 「好きなように。こっちも部下を連れていく。君たちを警戒するわけでなく、私には敵が多いからな」  ゴールドバーグは言った。  水島は“ゼウス”号に戻った。クルーザーとスクーナーは、別れの挨拶のフォーンを交わした。  スピードを増していくクルーザーのキャビンで、水島は覆面をとった。タバコに火をつけて深く吸いこみ、長谷見たちにゴールドバーグとの会話の内容を伝えた。 「どういうことだろう? 何かの|罠《わな》かも知れないと思いますがね」  長谷見は呟いた。 「俺もそれは考えた。しかし、罠だとしても、こっちは引っかかりようがないじゃあないか。奴等が俺たちのことを警察に密告して|捕《つか》まえさせたところで、俺たちの手に入った現金は取戻せないし、大体、証拠も無しに俺たちが逮捕されるわけはないしな」  水島は言った。 「だから、何か罠を仕掛けて、俺たちが逮捕されるように持っていこうとしているんじゃないでしょうか?」 「そうだろうか? 警察に弱味があるのは、こっちだけじゃない。いくらゴールドバーグにC・I・Aの息がかかっていると言ったって、奴もマスコミに正体を素っぱ抜かれるようなことにはなりたくないだろう」 「…………」 「ともかく、セント・ルーカス銀行は、麻薬ルートが潰れて以来、イスラエルに送る資金をかき集める手段に困っている。だから、俺たちを利用して、また一儲けをたくらんでいるんだ。俺たちの損になる仕事なら断わるが、俺たちの儲けにもなるらしい。利用された振りをして利用してやったらどうだろう?」 「そう言われてみると、そんな気もしますね。いずれにせよ、会って仕事の内容をくわしく聞くことにしよう。ただし、もしそのとき警察に踏みこまれたら、拳銃を身につけていると逮捕の口実になる。私がこのところ研究を重ねて作りあげた万年筆型拳銃を持っていきましょう。あれなら、身体検査をされても凶器とは気付かれない。それと、|手榴弾《てりゅうだん》ライターと、ワイシャツのカフスに爆薬のカプセル……」 「そうだな。用心深いのにこしたことはない。用心がほんのわずか足りなかったせいで死んだ連中の二の舞いはやりたくない」 「じゃあ、これで話は決った、と……それでは、地下|要《よう》|塞《さい》を建設する計画に話を移しましょう。せっかくヘリが手に入ってるんだ。地下に秘密のヘリ・ポートを作らないという手は無い」  長谷見は笑った。 「ミサイルも基地から頂戴してくるさ」  水島も笑った。     餌      一  ホテル・オータカは、赤坂|氷川町《ひかわちょう》にある。タクシーに乗った水島と長谷見は、地上十五階のそのホテルに着いた。午後五時半であった。  二人とも、ダーク・スーツに身を包んでいた。内ポケットに万年筆型拳銃、サイド・ポケットに手榴弾ライター、そしてワイシャツのカフスに爆薬のカプセルをしのばせている。  一階ロビーでは、先に白ナンバーの車でついた粕谷と片平が、ヴァイオリンのケースを|膝《ひざ》のあいだにはさんで、ソファに腰を降ろしていた。それらの楽器のケースには、二つに分解されたAR15自動ライフルが入っている。  二人は、万が一にでもゴールドバーグが警察に通報した場合にそなえているのだ。だから、入ってきた水島たちをわざと無視し、関係ない振りをする。  水島と長谷見は、粕谷たちの目のとどく位置にあるソファに腰を降ろした。眼前を、高級コール・ガールやエロダクションの女優が気取って通り抜ける。  ゴールドバーグが姿を現わしたのは、水島がエジプト・タバコ、クレオパトラの三本目に火をつけたときであった。  ゴールドバーグは、アタッシェ・ケースを提げた金髪のほうの秘書を連れていた。ロビーを、ゆったりした足どりで歩く。  その二人が近づいたとき、水島は立上った。 「ナザレ」  と、合言葉を口に出した。  ゴールドバーグは、軽い驚きの表情になった。 「イザヤ——」  と、合言葉を返してから、 「君がこんなにハンサムな青年だったとは、予想外だった」  と、呟く。 「どうも」 「部屋をとってある。夕食を付合ってくれるだろうな」 「|勿《もち》|論《ろん》」  水島は答えた。長谷見も立上って、ゴールドバーグと握手した。  ボーイに案内され、四人はエレヴェーターで最上階に昇った。粕谷がフロントに近づき、クラークにチップを掴ませて、ゴールドバーグの部屋の隣を借りる交渉をする。  最上階の一二七五号室の窓からは、国会議事堂から皇居の森にかけてが一望のもとに見おろせた。夏の午後六時はまだ明るい。  ボーイに氷やグラスなどを運ばせ、ゴールドバーグの秘書がマルティニを作った。 「儲け口の話と言うのは?」  二杯目のカクテルに口をつけた水島は切出した。 「やはり、ダイアだ。ダイアを奪ってもらいたい。こっちは高く引取る」  ゴールドバーグは答えた。 「どこのダイアを?」 「保税工場のダイアだ」 「保税工場と言うと?」  水島は眉を|吊《つ》り上げた。そのとき、二人の給仕がシャンペーンのバケツや料理を乗せたワゴンを押して入ってきたので、会話は中断された。  給仕はシャンペーン・グラスと、キャヴィアやフォアグラなどのオードブルをテーブルに並べた。秘書がチップをやり、 「あとは、私がするから」  と、上手な日本語で言った。  給仕たちは、しきりに礼を呟きながら引きさがった。  ゴールドバーグはフォアグラをシャンペーンで呑みこみ、 「甲州……山梨県は、西ドイツのオーベルシュタインに次ぐ、世界第二の宝石加工地だ。もともと甲州は水晶王国だったが、明治の後半に入ると、水晶の採掘量が目に見えてへっていったために、伝統の技術を生かして、クリスタル・ガラスの細工が発達した。そして今は、世界各国の自然石、合成石、模造石が山梨県に集まって、研磨されたり彫刻されたり指環のセッティング加工をされて、再び世界に散っていく。無論、日本でとれる水晶や真珠やメノウなども大半が山梨で加工されて、輸出のドルを|稼《かせ》いでいる」  と、言った。 「なかなか、日本についてくわしいですな」 「茶化さないで聞いてくれ。ダイアモンドの研磨工場も山梨の|韮《にら》|沢《さわ》にある。ダイアモンドの研磨はアムステルダムとアントワープが本場だったが、日本人は器用で細工が上手な上に、工賃が安いので、外国の会社が日本人の技術と労力を利用してダイアを磨かせはじめた。韮沢のダイア研磨工場は従業員五百名で、いまや世界一の大きさだ」 「なるほど」 「それがすなわち保税工場だ。製品は工場の外に持出すことを許されない。もし許可を受けて、持出すことがあるとすれば、関税と物品税がかかってしまう。だから、ダイアは研磨されると、また真っすぐに、もとの国に送り返される。もっとも、保税工場でも、日本の宝石屋が政府から原石の輸入許可を受けて研磨を委託している、国内用のダイアを扱うこともあるが……」  ゴールドバーグは言って、水島たちの表情をうかがった。      二  水島は、ウズラを切りわけていたナイフの動きをとめた。 「世界一の加工工場なら、一度に引受ける原石の量は大きいでしょうな?」 「そう。ロンドンやウィーンの宝石会社だと、一度に一万カラット以上を送ってくることがある」 「どうして知っているんです?」 「加工費や保険料が、我々のセント・ルーカス銀行を通じて支払われることが多いからだ。それに、現物は我々の銀行と密接な関係にあるウィーン航空で運ばれることが多い」  ゴールドバーグはニヤリと笑った。 「宝石が空を飛んでくるときには、護衛はつかない。ウィーン航空便に宝石が乗っている間か、税関に渡すまでの間に奪おうと思えば出来るわけだ。なぜ、それをしない?」  長谷見が下手な英語で言った。 「なぜかって? 考えても見たまえ。ウィーン航空の信用が丸潰れになったのでは、我々ヘブライ民族にとって大きな痛手になる」  ゴールドバーグは、|軽《けい》|蔑《べつ》するような笑いを頬に走らせた。 「それで——」  シャンペーンで舌を洗った水島は言った。 「飛行機で日本に送られた原石は、どうやって韮沢の工場に運ばれるんです?」 「原石は、ジュラルミンのケースに仕舞われて日本に着く。保税扱いで空港税関を出た原石のケースは、工場から来た輸送係二人の片方ずつの手首に鎖で縛りつけられるんだ。鎖の錠は、工場に戻ってから社長の持っている|鍵《かぎ》を使わないと開かない」 「…………」 「輸送係は、工場側の警備員四人と、保険会社のガード・マン二人に護られる。それだけでなく、××県警のパトカー二台も護衛の任に当る。何と言っても、県に外貨を稼がせてくれる大事な品だからな」 「警備員やガード・マンは何台の車に?」 「まず一台に、原石のケースを縛りつけた二人の警備員が乗りこむ。運転手は別にしてな。その車の前後を残り二人の警備員と二人のガード・マンの車がはさみ、さらに一番先頭としんがりをパトカーで固めるというわけだ」 「そいつは物々しい」 「パトカーは、絶えず警視庁や××県警と連絡をとっているということだ。しかも、輸送は白昼に限られる」  ゴールドバーグは言った。 「それでは、いくら甲州街道の山のなかで襲っても、成功はむつかしいようですな」  水島は呟いた。 「工場を襲うとしても、一筋縄ではいかない。それというのも、工場は韮沢警察署の真裏にある。署の二階から工場の裏庭が|覗《のぞ》けるのだ。それだけでない。夜は工場敷地に十数匹のシェパードが放たれるし、二十人からいる警備員はみんな自衛隊出身の|猛者《も さ》ばかりだ。工場の警報装置や金庫室の設備も|完《かん》|璧《ぺき》に近い。それに、襲撃に成功したとしても、あの山国では主要道路が封鎖されたら、袋のネズミだ。どうだね、ファイトが|湧《わ》いたかね?」  ゴールドバーグは挑発した。  水島と長谷見は顔を見合せた。長谷見がニヤリと笑う。水島はゴールドバーグに向き直り、 「輸送中を襲うにしろ、工場を襲うにしろ、絶対に不可能ということはない。特に、ヘリを使えば……」  と、言った。 「そう。君たちはヘリを持っているんだったな。勿論、私はそのことを前提にして物を言っているんだ」  ゴールドバーグもニヤリと笑った。 「工場の図面は?」  長谷見が口をはさんだ。 「図面のほうは、県の建築課にあるやつを複写したものだ」  ゴールドバーグは秘書に顎をしゃくった。  秘書はサイド・テーブルに置かれたアタッシェ・ケースを開いた。写真と数枚の図面を取出す。  写真は、“真美社”と看板が出たダイアモンド研磨工場のものであった。一枚は正門の前から撮ったものでもう一枚は韮沢署の二階か屋上から撮ったものであった。  図面は、工場の外構図、平面図、立面図、それに断面図もあった。工場がどこに建っているかを示す案内図もある。  工場は、ゴールドバーグが言った通り、韮沢の町を貫く甲州街道に面した韮沢署の裏庭と|塀《へい》でさえぎられていた。工場の正門は、中央線を横切る佐久街道に面している。  工場は敷地一万坪の中央に建っている。地上三階だ。正門と左右の横門の近くに警備員が宿泊するための建物がついている。ダイアを収める地下室は本館の地下にあった。  裏塀に接した建物は犬舎であった。庭の要所要所に水銀灯の柱が立っている。 「塀の上には高圧電流を通した有刺鉄線を|這《は》わせてある」  ゴールドバーグが説明した。 「夜は、警備員は本館のなかに入れないのか?」  長谷見は尋ねた。 「警備係の責任者が鍵を持っているが、火災のときと、警報ベルが鳴ったときだけしか本館に入るのを許されてない。会社は、警備員も全面的には信用してないらしいな。それに、本館のなかには、図面を見ても分るように、随所に紫外線警報装置が仕掛けてあるから、本館のなかを警備員がウロチョロすると、警報ベルが鳴りっ放しになる」 「図面を見たところでは、工場は自家発電装置を持ってないようだな」  水島は呟いた。 「いいことに気が付いた。工場には甲府と|諏《す》|訪《わ》の二つの変電所から送電されていて、一方に不都合なことが起ったときには、正門側の警備員室にあるメイン・スウィッチでもう一方の系統に切換えられるんだ」 「甲府と諏訪か。野越え山越えして電気は送られてくるわけだな」 「そう。人目のまったくない山の中にも送電塔は立っている」  ゴールドバーグは再びニヤリとしながら言った。 「二つの系統とも電流がとまったら、工場に仕掛けられている紫外線警報装置は役に立たなくなる」 「そういうことだ。いま真美社の工場に入っているダイアの原石は二千カラットほどしかない。しかも、みんな三カラット以下の小さいやつばかしだ。しかし今に、何万カラットとまとまった原石が送られてくる。そのときは君たちに知らせるから、出来るだけ、電話だけでいいから、連絡を絶やさないでくれ」  ゴールドバーグは言った。      三  翌々日の早朝。水島たちは、粕谷の運転するB・M・W二〇〇〇T・Iに乗って、甲州街道を山梨に向っていた。  B・M・Wのサスペンションは素晴らしい。悪路になるほど乗り心地とコーナーリング性能のよさが感じられるのは、独立懸架式の後車軸が三分割されていて、タイアのトレッドがどんな|凸《でこ》|凹《ぼこ》|道《みち》ででも、真っすぐに接地するからだ。  しかし、粕谷はレース・チューンした百八十三馬力エンジンを持てあまし気味であった。|大《おお》|垂《だる》|水《み》の峠道では、絶えず逆ハンドルを切っても、車はうしろを向きそうになる。そのかわり、ポルシェ九一一Sが追ってこれないほど速かった。  相模湖を過ぎてカーヴがゆるやかになると、水島は緊張をゆるめた。 「ゆっくりやってくれ。野郎同士の心中は御免だからな」  と、粕谷に言う。 「この車だと、つい調子に乗りすぎてね」  粕谷は袖で額の汗をふいた。 「ゴールドバーグは、どうやら信用していいようですな」  片平が呟いた。 「今のところはな。だけど、油断したら足をすくわれる」  水島は言った。  富士五湖に向う車で道は詰りはじめたが、その車たちが大月で左に|外《そ》れてからは再び道はすいた。|笹《ささ》|子《ご》トンネルを抜け、暑くなりはじめた甲府の街を過ぎたのが午前七時頃であった。  韮沢は甲府から約十五キロ。|釜《かま》|無《なし》|川《がわ》に沿ってのびた町だ。かつては|土埃《つちぼこり》でひどかった、このあたりの甲州街道も、数年前から舗装が完成している。  粕谷はレース用五速ギアを二速に入れて、ゆっくりと韮沢の町を抜ける街道を走らせた。警察署は鉄筋の二階建てだ。その向うに、真美社ビルの三階が見える。  粕谷は右にハンドルを切った。真美社の高さ三メーターはある横塀に沿って車を動かす。やはり塀の上には有刺鉄線が這い、高圧電流が通じている証拠に、黒焦げになったスズメの死骸が見えた。  正門に廻ったが、午前七時半のいまは、まだ鉄の門は閉っていた。工場から少し離れたところで車を停めた粕谷は、運転用の靴をバスケット・シューズにはき替えた。  片平のほうは、はじめから登山靴をつけていた。二人ともジーパン・スタイルだ。二万分の一の地図を入れたケースと水筒を腰から吊り、リュックをかついで車から降りた。|杖《つえ》を手にしている。 「じゃあ、約束通り、午後七時に甲府駅前で落合おう。どっちかが約束通りの時間に姿を現わさないときには、事故があったものと考えること」  水島は言った。 「了解」  ハイカー風の格好をした二人は、空を見上げるようにしながら左右に分れて歩み去った。工場にきている電気の送電塔のうち、人家に離れていて、しかも道路からあまり離れていないものを捜すのだ。  水島と長谷見は、車のなかで鶏の|空《から》|揚《あ》げとクロワッサンの朝食をとった。水島が運転して、韮沢駅裏の無料駐車場に車を廻す。駅は通勤者でにぎわっていた。  九時に、始業のサイレンが、真美社の工場のほうから聞えた。ネクタイをきちんと結んだ二人は、カメラ・バッグを肩から吊って駅に歩き、表口のほうからタクシーに乗った。  乗ったと思ったら、タバコを半分も吸わないうちに工場の正門についた。正門側の塀は佐久街道から五メーターほど引っこんでいて、そこには工員たちのバイクや軽四輪が二百台以上並んでいる。  二人が正門に近づくと、二人の門衛と三人の警備員が立ちふさがった。 「昨日電話した東京の光芸出版社の者です。技術主任の岡本さんに取次ぎ願いたい」  水島は高飛車に出た。手廻しの印刷機で刷った、光芸出版社の名刺を出す。  門衛は名刺を受けとると、詰所の電話を取上げた。電話に頭を下げながら話していたが、 「どうぞ、お通りください」  と、名刺を返した。  本館に向う水島たちに、警備員が二人くっついてきた。広い庭は、芝生の緑が鮮やかであった。  岡本は、本館の玄関先まで迎えに出ていた。 「昨日は電話で失礼しました。ぜひ、この工場のことを、今度うちで出す“宝石百科”という本に取上げさせてもらいたい、と思いまして」  水島はなめらかに言った。名刺を差出す。岡本は自分の名刺を出し、 「光芸出版さんの本なら、読んだことがありますよ。写真をお撮りになるんですか?」  と、愛想よく言った。 「ええ。写真も……」 「分りました。御案内しましょう。しかし、職人たちが手もとを狂わせてはいけないので、フラッシュを|焚《た》くときには断わってからにしてください」 「分っています」  長谷見は言った。  それから水島たちは、各作業場を案内され、岡本の説明を受けた。警備員たちは、二人にへばりついている。  もっともらしく岡本に質問したり、工員や機械にカメラを向けたりしながら、二人の関心はドアの鍵の形状や、紫外線警報装置にあった。地下金庫室の扉のところまでも岡本は案内してくれた。     ニトログリセリン      一  ヘッド・ライトの|光《こう》|芒《ぼう》に、道端に咲き誇る|彼《ひ》|岸《がん》|花《ばな》が鮮やかに浮びあがった。  長谷見と粕谷、それに片平は、それぞれ別々の車を運転して甲州街道を韮沢の町に向っていた。  三台の車は、いずれも盗品であった。ナンバーは偽造品に付け替えてある。車検証も偽造品をダッシュ・ボードのグローヴ・ボックスに付け替えてあった。それに、近頃の検問の警官は、まずエンジン・スウィッチを懐中電灯で照らしてみるから、|鍵《かぎ》|束《たば》につけた合鍵をスウィッチに差しこんである。  一昨日、水島がゴールドバーグに電話を入れると、そのセント・ルーカス銀行東京支店長は、至急会ってもらいたい、と返事してきたのだ。  今度は、閉店後の銀行の支店長室で会った。ゴールドバーグはロンドンのピーター・ラムゼイ・アンド・サンズ商会のダイア原石三万九千カラットが日本に着き、韮沢の保税工場に運ばれたことを伝えた。原石だから研磨後の|歩《ぶ》|留《どま》りを八割と見て、最低二百億円に売れる。それを、百億で引取る、とゴールドバーグは言った……。  甲府から八キロほど行った塩沢で、粕谷の車は右に折れた。狭い山道を奥に進むと、人家を最後に見てから三キロほど過ぎて、甲府の変電所から韮沢の市内変電所に通じる高圧線の鉄塔の並びが見えてきた。  夜空をバックにそびえる鉄塔の一つの近くに車を停めた粕谷は、車のトランクから、スキン・ダイヴィング用のゴムのウェット・スーツを取出した。  感電を避けるためだ。背中と胸に大きなポケットをつけていた。  腕時計などの金属製品を外し、下着の上にウェット・スーツをつけた。ゴム手袋と足のゴム・フィンもつける。  磁石の吸盤と時限装置をつけたプラスチック爆弾と雷管をトランクから取出してゴム・ポケットに収めた粕谷は、鉄塔に登りはじめた。眼は血走っている。  風に揺れる鉄塔の頂上近くにくると、韮沢の町の灯がよく見えた。粕谷は、|碍《がい》|子《し》が集まった近くにプラスチック爆弾を吸いつかせ、雷管を差しこんだ……。  一方、長谷見は、韮沢に近づくにつれ、体から|滲《にじ》みでる脂汗を押えることが出来なくなった。ときどき、気が遠くなりかける。思わずアクセルをゆるめがちになる。  無理もなかった。運転しているひどく柔らかなサスペンションのシトロエンDS一九のトランク室には、|藁《わら》とオガクズに包まれたニトログリセリンのゴム・チューブが入っているからだ。ニトログリセリンの液体ほど震動に対して敏感なものはない。  だから長谷見は、韮沢の町の裏にある釜無川沿いの国道から石ころだらけの河原に無事に車を降ろしたときには、追いたてられているかのようにエンジンを止めた。  しばらくのあいだぐったりとしていたが、脂汗が乾くと、深呼吸して車から降りる。目の前に、|暗《あん》|渠《きょ》の地下道をくぐり抜けて釜無川に流れるダイアモンド保税工場の廃水溝があった。  廃水溝は深さ一メーター半、幅二メーターほどだが、工場が活動していない夜間の現在は、二センチほどの深さの白っぽい廃水がごくゆっくり流れているだけであった。  長谷見はインターナショナルの腕時計を|覗《のぞ》いた。蛍光は午後十一時半を示している。  時間はまだ充分にある。充分にあり過ぎるぐらいだ。長谷見は自分にニトログリセリンの運搬役を押しつけた水島を|罵《ののし》った。そして、河原に|駐《と》めた車にお節介な警官が近づいたときにそなえ、車のなかに戻り、|腋《わき》の下からルーガーP08拳銃を抜いて、大きな消音器を銃身前部に装着しはじめる。  諏訪変電所から韮沢の市内変電所に通じる送電線に時限爆弾を仕掛けてきた片平が、長谷見用のシトロエンの横にクラウンを着けたのは、午前零時近くであった。粕谷のブルーバードもやってきた。二人とも、ウェット・スーツを作業服に着替えている。  片平が、クラウンのトランク室から、酸素とアセチレンがセットになったボンベを二組取出した。ボンベには、溶接器がついている。  粕谷のほうは、折畳み式の|衝《つい》|立《た》てを取出した。二人とも、薄いゴム手袋をつけ、ゴム長靴をはく。ウェット・スーツや短靴などは、腰に|吊《さ》げたズックの袋に仕舞っている。  酸素アセチレンのボンベを背負い、ヘッド・ランプ付きのヘルメットをかぶった二人は、河原の廃水溝に降りた。  長谷見が見張りに立つ。粕谷と片平は、土手の下の暗渠の入口に出た。暗渠を一メーターほど入ったところに、鉄格子の|柵《さく》がつき、扉には五個の岩乗そうな|南京錠《ナンキンじょう》が降ろされていた。  粕谷が、自分たちの背後に衝立てを拡げて立った。南京錠などは、どんなにいかめしく見えても針金やピンセットで簡単に開くが、二人はもっと手っとり早く、溶接器のノズルにライターの火をつけた。黒いサン・グラスをかける。  ノズルからほとばしる炎に南京錠のバーは火花をあげ、ルビー色に溶けはじめる。腰に差していた小型の|斧《おの》で粕谷たちが一撃すると、簡単に切断された。その鉄格子の柵の五十メーターほど奥に、さらに鉄格子があった。今度の柵は上下三カ所に円筒錠があった。  二人はそれも焼き切った。ゆるく曲った地下水道をさらに四百メーターほど行くと、鋼鉄の扉があった。  水が流れることが出来るだけの十センチほどの隙間が下側にあるだけで、錠はついていない。電動で上に引きあげられるようになっているのだ。  それが、廃水処理室に通じる扉であった。研磨や|洗滌《せんじょう》に使われた水は一度処理室のプールに貯えられて、貴金属の粉や宝石の微細なかけらをプールに沈めてから川に流れていく。二人はすでに、ダイア保税工場の建物の下にたどり着いたわけだ。      二  長谷見は、粕谷たちが地下道に消えてから一時間以上たって、土手の上に登った。腕時計を見る。目の前をすっ飛ばしていく車の連中は、そんな長谷見に何の関心も払わないようであった。いや、みんな百キロ近く出しているので、長谷見の姿が目に入らないのだ。  午前一時半、韮沢の町の灯という灯が同時に消えた。ダイア保税工場真美社の灯も消えた。無論、片平か粕谷のどちらかが仕掛けた爆弾が送電線を吹っとばしたのだ。  二、三十秒ほどたって、真美社のビルと構内にだけ電灯がついた。しかし、それも五秒とたたないうちに消える。  それを見届けて、長靴姿の長谷見は堤を降りた。車からズックの袋を取出してズボンのベルトに引っかけ、木箱の藁とオガクズを慎重に|掻《か》き分けて、魚肉ソーセージほどの大きさのゴム・チューブを二つ出した。すでに、ライト付きのヘルメットをかぶっている。  二つのゴム・チューブを手にした長谷見は、慎重に廃水溝に降りた。粕谷たちが開いた鉄格子の柵を抜ける。もし滑ってゴム・チューブを落したりしたら、長谷見の体は文字通り煙になるかも知れないから、一歩一歩を綱渡りのときのように歩く。  廃水処理室に通じる鋼鉄の扉は、すでに人間が楽に通り抜けられるだけの大きさに焼き切られていた。  その扉の破れをくぐった長谷見は、何段階にも深さを変えた廃水処理のプール室に入った。粕谷と片平は、廊下に通じる鋼鉄のドアの前で待っていた。  二人のヘッド・ランプの光を浴びた長谷見は、 「完全に停電になったから、紫外線警報装置を気にする必要は無くなった」  と、いうしるしに、大きくゆっくり|頷《うなず》いて見せた。  粕谷たちは、さっそく仕事にかかった。廊下に通じる鋼鉄のドアの錠のあたりを焼き切りはじめた。  二十分後に、そのドアは開いた。金庫室は、地下の廊下の突当りにあった。  長谷見を金庫室の前に残して、粕谷と片平は一緒に登った。一階の各室の窓には鉄格子と金網が張られている。  片平が裏口、粕谷が玄関の|鉄《てっ》|扉《ぴ》を受け持った。ポケットから取出した溶接棒をそれらの扉の錠の鍵孔に差しこみ、溶接器の炎を浴びせた。  錠と溶接棒は溶けて、鍵孔をふさいだ。これで、警備員たちが外から鍵を使って扉を開こうとしても不可能になる。  一方、長谷見のほうは、金庫室の扉に挑戦していた。厚さ五十センチ、重さ十トンの電動式のその扉は、焼き切ろうとすれば何日かかるか分らない。  だから長谷見は、ニトログリセリンを使うのだ。扉と支柱のあいだに、腰の袋から出したゴム粘土で大きな受皿をくっつけた。床の近くにだ。  そして、その受皿に、ゴム・チューブから、ゆっくりニトログリセリンの液体を流しこんだ。手の震えを必死に押える。  ニトログリセリンは、|滲《しん》|透《とう》|圧《あつ》の作用で、扉と柱の隙間を満たしていった。一つのゴム・チューブを|空《から》にした長谷見は、長さ一メーターほどの導火線付き雷管を、ゴム粘土の受皿にそっと差しこんだ。  その作業を終えると、足音を殺して階段を登っていった。屋上に通じる鉄扉にも、もう一つのチューブのニトログリセリンを仕掛ける。  一階に長谷見が降りてみると、地下室への階段の踊り場で粕谷と片平が息を殺していた。長谷見は大きな|溜《ため》|息《いき》をつき、思わず踊り場の床に|膝《ひざ》をついた。 「しっかり!」  粕谷と片平が、長谷見を助け起した。 「大丈夫だ。ちょっと|眩暈《めまい》がしただけだ。気がゆるんだもんで……」  長谷見は苦笑いした。  三人は腕時計を覗いた。少し待ってから、三人は地下室に降りた。粕谷と片平は金庫室から三つほど部屋をへだてたトイレット・ルームに隠れ、長谷見だけが金庫室の前に|蹲《うずくま》った。導火線にライターの火を移す。  燃える導火線の無気味な音を聞きながら、長谷見は床を震動させないように、ゆっくりとトイレに歩いた。  導火線の燃える速度は、一メーターにつき百秒から二分ぐらいだ。だから、落着いてゆっくり歩け、と長谷見は自分に命じながらも、トイレの近くにくると、自制心を失ってトイレに駆けこんだ。  粕谷たちは、すでに大便用のクローゼットに隠れていた。長谷見も、一番奥のクローゼットに跳びこんでドアを閉じた。  心臓が|喉《のど》にせりあがってくるような気持であった。便器の蓋の上に腰を降ろした長谷見は、両耳を押えて首をすくめる。  爆発はなかなか起らなかった。長谷見には、永遠とも思われる時間が流れたあと、|凄《すさ》まじい爆風と|轟《ごう》|音《おん》と共にビルが揺らいだ。  天井にヒビが入り、コンクリートのかけらがヘルメットを叩いた。ガラスが吹っとぶ音、各部屋のドアが千切れる音は、爆発の轟音に|痺《しび》れた耳には聞きとれない。  ヘルメットや肩にコンクリートの粉を浴びながら、三人の男は爆風で|歪《ゆが》んだクローゼットのドアを開いて跳びだした。粕谷と片平は溶接器やボンベを捨てている。トイレのドアは吹っとび、煙が渦巻いて流れこんでくる。      三  金庫室の分厚い扉は大きく開いていた。三人は、まだ落下を続けるコンクリートの粉と煙のヴェールをヘッド・ランプの光で透かし見て、爆発の衝撃で端がめくれたロッカーの扉に跳びついた。腰のズック袋から出したハンマーとバールを駆使する。  四万カラット近いダイア原石は、その一つ一つが十カラットから二十カラットほどのものであった。  原石であるから、輝きは鈍い。四万カラット近いといっても、全体で一升五合ぐらいの量だ。三人は、ズックの袋に原石を放りこんだ。  一階まで登ったとき、ビルの外で大騒ぎしている男たちのわめき声が、かすかに聞えた。三人は、二階に足を向けた。  そのとき、三階の上の屋上から、まぎれもない爆発の衝撃が襲いかかってきた。よろめいて階段に尻餅をついた三人は、爆発音の鋭さに一瞬意識を失いそうになった。  屋上に通じるドアに仕掛けておいたニトログリセリンが爆発したに違いない。三人はよろめきながら立上ると、ズボンのベルトに差した拳銃を抜いた。 「どうしたんだろう、誘爆したのか?」  粕谷がわめいた。 「いや、それにしては、時間がずれ過ぎている。屋上に警備員が上ってきて、扉を開けようとしたのかも知れない。ともかく、手間がはぶけた。さあ、急ぐんだ」  長谷見がわめき返した。  三人は屋上のほうに走り登った。  屋上に通じるドアは消えていた。そして、屋上に、五、六人の警備員の残骸が散らばっている。  警備員が扉を開こうとしたときの摩擦がニトログリセリンにショックを与えたらしかった。  三人が屋上に跳びだすと、暗い上空から、ヘリコプターが急降下してきた。米軍のマークは消してあるが、ベルUH1のヘリだ。  操縦しているのは水島であった。ヘリを隠しておいた無人島の近くで猛訓練を受けて、ヘリの操縦をマスターしたのだ。  ヘリが屋上にソリをつけるかつけないかのうちに、身をかがめて回転翼の下をくぐった長谷見たちが機内に跳びこんできた。  水島はスロットルを全開にし、ヘリを急上昇させた。工場敷地で拳銃の銃口をヘリに向けた韮沢署の警官たちに、催涙弾をお見舞いする……。  超低空で海を越えたヘリが、伊豆大島東南の無人島に生還したのは、午前四時を過ぎていた。  水島たちは、ヘリをカモフラージュのネットで|覆《おお》うと、|洞《どう》|窟《くつ》のなかの秘密居住区に入った。  テーブルの上に、奪ってきたダイアの原石を並べ、男たちはコニャックで乾杯した。しばらく、黙々とグラスを傾ける。  今夜は、珍しく長谷見のアルコールを口に運ぶピッチが早かった。ニトログリセリンを扱ったときの恐怖が響いているのであろう。 「さて、この原石を、トラブル無しにセント・ルーカス銀行に渡し終えて、百億の金が入ったら、待望の地下王国の建設に取りかからないとならない」  三杯目のマーテルのコニャックを空けてから、水島はポツンと言った。 「私は——」  長谷見が言った。 「ビル街に地下の秘密基地を作るのは反対だ。あまりにも、解決しないとならない問題が多すぎる。構想としては魅力があるが……しかし、アル・カポネ程度の規模のギャングなら、地上はスマートなビル、地下は|蟻《あり》の巣のような秘密基地というのも格好いいが、ミサイルやヘリなどを地下に持ちこむとなると………」 「俺もそう考えるようになった。ビルの中庭を油圧や電動で移動させるようにしたら、ミサイルを発射したり、ヘリを飛びたたせたりすることも、不可能ではないだろう。しかし、ミサイルの発射音やヘリの発着音まではごまかしがきかない。やはり、都心のビルでは無理だ」  水島は苦い声で言った。 「分ってくれたか?」  長谷見の言葉遣いが荒くなった。 「ああ。ただ、俺の言ってるのは、地下の秘密基地のことで、地下王国のことを言ってるんじゃない」 「それは、こっちも分っている」 「それならいい。はじめは、地下の秘密基地と、地下王国を同じところに作る必要はない。どうだろう、まずこの島に、本式の地下基地を作り、それから地下王国を作るための土地を狙ったら? 王国のための土地は、少なくても何千平方キロかは要る」  水島は提案した。 「よかろう」 「いいだろう」  粕谷と片平は答えた。 「仕方ないようだな」  長谷見も|勿《もっ》|体《たい》ぶって同意した。 「よし、決った。しかし、資材を運ぶ船をチャーターしないとならないし、技術者や労務者をどこから連れてくるかだ。何といっても、口が固い連中でないとならない。ちょっとでも外部にしゃべられたら、取返しがつかないことになる。あんたは、うまい方法があるようなことを言っていたが……」  水島は長谷見に向って言った。 「船会社は知らないが、秘密の工事を請負ってくれる建設会社を知っている。暴力団の武器工場や麻薬の精製工場、有名な外国ブランドの万年筆やライターなどの偽造品の密造工場……といったものを専門に扱ってきた会社だ。ただし、料金は、まともな相場の三倍は覚悟しないとならないが」 「…………」 「その会社なら、技術者や労務者を眼隠ししてここに連れてくる筈だ。口封じのためにみな殺しにする必要はない。船会社のほうは、何とかいい手を考えよう」  長谷見は水島を見つめながら言った。     |罠《わな》      一  翌日の深夜、日比谷公園に近いセント・ルーカス銀行東京支店の広い裏庭に、二台の乗用車が滑りこんだ。守衛は、二台の車が通ると同時に、裏門の鉄扉を再び閉じた。  二台の車から降りたのは、水島と長谷見であった。車はやはり盗品だ。長谷見はアタッシェ・ケースを提げている。  銀行の建物は、地上五階であった。地下は何階あるのか水島たちは知らない。一階の窓からだけ灯が漏れている。建物の裏口に、支店長ゴールドバーグの秘書の一人が立っていた。ダニエル・フックマンという金髪のほうだ。 「支店長がお待ちかねです。案内いたしましょう」  ダニエルは、ぎこちない日本語で言った。薄暗い廊下と階段を通って、地下一階にある第三応接室に二人を連れていく。  その部屋は、かなり広かった。床は白と黒のチェッカー模様になった大理石張りだ。壁には、数点の大きな抽象画がかかっている。  部屋の中央より奥のほうに、巨大なスチールのデスクが置かれ、その上に黒いビロードが敷かれていた。  デスクの上に天然灯がつき、そのうしろに真っ白な長髪と|山羊《や ぎ》|髭《ひげ》の宝石鑑定家が坐っているのも、“トロイ”号のときと同じだ。今夜は|天《てん》|秤《びん》も置かれている。  ゴールドバーグは、鑑定家の右側に坐っていた。背後にボディ・ガードが二人立っている。ダニエルも、ゴールドバーグたちの背後に廻った。 「まず、襲撃成功にお芽出とう、を言おう。ロンドンの保険会社は半狂乱だ」  立上ったゴールドバーグは笑いながら手をさしのべた。 「保険会社は|儲《もう》けすぎてますからね。たまに損をしても、税金の控除に役立って、かえって喜んでるんじゃないかな」  水島もニヤリと笑い、握手を交わした。  そのとき水島は、背後に鋭い視線を感じた。しかし、さり気なく、スチール・パイプの椅子に腰を降ろした。視線は、背後の壁の絵のあたりからきているらしい。 「それでは見せてもらおうか?」  ゴールドバーグが言い、薄い書類を内ポケットから引っぱりだした。ダイア原石の目録が書かれてあるらしい。  長谷見がアタッシェ・ケースを開き、中身のダイア原石の群れを、ビロードの上に山積みにした。三万九千カラットある筈だ。  鑑定家は、ゴールドバーグから目録を受取った。ダイア原石の一つ一つを、ルーペで調べ、天秤で計る。目録にチェックしていった。  沈黙が一時間以上にわたって続いた。水島は十本近くのタバコを灰にした。ユダヤ人の鑑定家は最後の原石を調べ終ると、山羊髭をしごきながら、ゴールドバーグに向って重々しく頷いた。  ゴールドバーグは類人猿のような顔に笑いを浮べた。水島たちに、 「オーケイだ。よくやってくれた。手を上げてもらおうか? ゆっくりとな。君たちは背中を狙われている」  と、言う。|瞳《ひとみ》は笑ってなかった。  水島の動きは早かった。椅子から腰を素早く外しながら、腋の下のホルスターからワルサーP38を抜いた。抜きながら、親指で安全装置を外すと共に、体をうしろにひねる。  水島は、ためらわずに、背後の、レリーフのように見えるほど怪奇な色の絵の具を塗りたくった抽象画に向けてワルサーの引金を絞った。  銃声は部屋に凄まじく反響する筈であったが、実際には相当に小さくなった。|空薬莢《からやっきょう》がはじけ飛ぶ音に混って、|弾《だん》|痕《こん》があいた抽象画の後ろから、人間のものとは思えぬほどの苦痛の絶叫が聞える。  水島はさらに二発射ちこんでおき、体をひねり戻してゴールドバーグに銃口を向けた。長谷見も、もがくように拳銃を抜きだしている。  そのとき、二人の足許の、大理石を|貼《は》ったコンクリートの床がガクンと落下した。落し穴になっていたのだ。  二人は、スチール・パイプの椅子と共に、悲鳴を押し殺しながら落下した。下を見ると、真っ黒な水が渦巻いている。  二人はその水面に叩きつけられた。一度底まで沈み、もがきながら浮上した。水島はまだ拳銃を手放さない。  水面から落し穴の上まで八メーターは優にあった。二人は底に足がつかないので、立泳ぎを続ける。落し穴のまわりは、ツルツルに磨かれたコンクリートだ。手がかりや、足がかりになる突起は無い。  三メーター四方の落し穴のコンクリートの蓋は、左側が岩乗な|蝶番《ちょうつがい》で床につながれ、右側を下にしてほぼ垂直に垂れさがっている。厚さは十センチほどだ。  長谷見は、発狂しそうな顔付きになっていた。水島はその耳に口を寄せ、 「|諦《あきら》めるのは早い。どこか底のほうに排水孔がある筈だ。そいつの蓋を吹っとばすのだ」  と、|囁《ささや》く。拳銃を握った右手に、手榴弾型ライターも持って、なるべく水に濡らさないようにする。防水装置はついていても、万が一のことを考えないとならない。ワイシャツの袖には、爆薬のカプセルも忍ばせてある。      二  そのとき、落し穴の上から、ゴールドバーグの|哄笑《こうしょう》が聞えた。|射《う》たれる危険を避けて、姿はさらさなかった。 「うまく|罠《わな》にはまったな。どうだね、冷たい水の味は? 私が|舐《な》められて大人しく引っこんでいる人間でないことが分ったろう? ダイア原石はどうも有難う。君たちには、百億円の夢でも見ながら、ゆっくり死んでもらうんだな。ついでに言っておくが、この銀行の地下には強力な吸音装置がついているから、さっきの銃声は外には漏れてない。助けを待っても無駄だ」 「畜生、|殺《や》るなら早く殺れ!」  長谷見がわめいた。 「そう簡単に死んでもらったんでは楽しみが無くなる。気が付かないか、|水《みず》|嵩《かさ》が増してきていることを? 君たちは、長い恐怖の時間を過したあと、もがき苦しみながら|溺《でき》|死《し》するんだ。その水は、多摩湖のものと同じ成分だ。微生物や水藻も入っているから、死体の肺や胃を解剖されても、君たちがここで死んだとは気付かれない。死体は多摩湖に移してやるよ。じゃあ、君たち。サヨナーラ。永遠にサヨナーラ」  ゴールドバーグは再び哄笑した。  モーターの|唸《うな》りがかすかに聞え、落し穴の蓋のコンクリートが、ゆっくりともとに戻っていく。  水嵩は、二人が落下したときよりも、三十センチほど増していた。底まで三メーターほどだ。 「こいつはうまいことになった。もっと、もっと水が増えてくれたらいい」  右腕を水中に差しあげた水島は暗闇のなかで不敵な笑いを浮べた。 「気が狂ったのか? こんなことになったのも、あんたのせいだ。ユダヤ野郎を信用して、銀行での取引きに応じたからだ」  長谷見は|呻《うめ》いた。 「誤りは認める。しかし気が狂ったわけでない。あんた、自分で考案したこいつのことを忘れたのか?」  水島は拳銃を口にくわえ、ライター兼手榴弾の、ライターのほうに点火した。服が濡れきって重いので、立泳ぎを続けるだけで、かなり体力を消耗する上に、水の冷たさが体温を奪っていく。  長谷見は、急に冷静さを取戻した。 「分った。取乱して悪かった。やっぱし、あんたにはかなわない」 「じゃあ、いいな。天井に手が届くぐらいに水嵩が増したら、落し穴の蓋を爆破する。そうでないときには、排水孔の蓋だ」  水島は囁いた。  長谷見は大きく頷いた。その拍子に水を呑んで|咳《せ》きこんだ。水島はライターの火を消す。水嵩は刻々と増していた。  半時間後、水面の高さは、天井の蓋から約一メーター半のところまで達し、そこで止った、水島はコムラ返りを起して|苦《く》|悶《もん》する長谷見を支えてやっていた。空気が不足してきたらしく胸が苦しい。 「もう大丈夫だ」  長谷見は呻いた。 「よし、肩を貸してくれ。それから、あんたの爆弾も」  水島は言った。長谷見と自分のワイシャツの袖口から、特殊プラスチックのカプセルに入った爆薬を出した。  拳銃から水を払い落して、長谷見の体に乗った。体重を背負った長谷見は水中に沈んだが、水島の手は天井の蓋のコンクリートに触れることが出来た。  左手でライターに点火した水島は、天井の蓋の蝶番に近いあたりに、至近距離からワルサーを射った。はね返る衝撃波で強烈な反動があったが、九ミリの高速弾はコンクリートに五センチほどの深さの孔をえぐって燃え尽きた。  水島は、その弾痕から一メーターほど離れたところにも射ちこんだ。安全装置になっているカプセルの栓を抜き、そのあとに現われた小さなダイアルを「2」のマークに合わせて、弾痕の孔に差しこんだ。もう一つのカプセルも同じようにして、ほかの弾痕に|挿入《そうにゅう》した。  ライターを消して、長谷見から降りる。長谷見は水面上に跳びあがって、必死に空気を|貪《むさぼ》った。 「俺が、よし、と言ったら、潜るんだ。力のかぎり」  水島は叫び、腕時計の音を聞いた。一分三十秒を過ぎたとき、よし、と合図する。  二人は潜った。底にへばりついて腕で耳を押えたとき、強烈なショックが水を伝わり、二人は肺の空気を叩き出された。耐えきれずに浮上しかかったとき、第二の衝撃が二人を底に押し戻す。  夢中で二人は浮上した。そのまわりをコンクリートのかけらが沈んでいく。二人は勢いあまって腰のあたりまで水面上に跳びあがる。  天井のコンクリートの蓋の半分は吹っとんでいた。千切れた鉄筋もめくれあがって、人間が楽に通れる穴があいていた。薄い光が射しこんでいる。  水島は長谷見を踏み台にし、|剥《む》きだしになった鉄筋に左手をかけて床の上に跳び上った。跳びあがりながら、ワルサーの残弾を盲射ちする。  応接室の壁や天井は、コンクリートの破片で目茶苦茶になっていた。用心棒や秘書が、コンクリートの塊りで体を砕かれて、血の海に倒れている。鑑定家もだ。  そして、大きく歪んだデスクの下敷きになって、ゴールドバーグが呻いていた。灯火は、爆風に吹っとんだドアの向うの廊下から入ってきている。  水島はワルサーの|銃把《じゅうは》から弾倉を抜き、ホルスターのポケットに入っていた予備弾倉を挿入した。空になった弾倉にバラの実包を|装《そう》|填《てん》しているとき、廊下の左側から、十数発の拳銃が斜めに応接室に射ちこまれた。  全弾とも水島をはるかに外れていた。しかし、壁を斜めに削って、跳弾となって部屋じゅうを跳ねまわる。相手は自分たちの体を水島にさらす愚を避け、跳弾を利用して水島を倒そうとしているらしい。      三  水島は、体を低くして、ドアがあった場所の横に跳んだ。ダンヒル型ライターの蓋を開いて|捩《ね》じ外し、三つ数えてから、まだ続いている銃声の方角に投げた。壁に体を押しつけ、両手で耳をふさぐ。  爆発の|閃《せん》|光《こう》で、あたりが真昼のように明るくなった。衝撃で壁が崩れかける。爆煙が少しおさまってから、拳銃を構えて水島は廊下に出た。  正確には分らないが、五、六人は死んだのであろう。死体はバラバラになっているからだ。壁に肉片がこびりついている。  そのとき、落し穴のなかから、救いを求める長谷見の弱々しい声が聞えた。水島は吐き気をこらえて応接室に戻り、死体からバンドを奪ってつなぎ合せ、|溺《おぼ》れかけている長谷見に|掴《つか》まらせた。長谷見を引上げる。  ゴールドバーグの瞳は、水島が近づくと、|上瞼《うわまぶた》の裏に隠れた。失神したのだ。水島は、ゴールドバーグの体を押えつけている鋼鉄製のデスクを|渾《こん》|身《しん》の力をこめて転がした。  ゴールドバーグは、デスクの角で、背中に傷を負っていた。胸の下に、長谷見が運んできたアタッシェ・ケースがある。  水島はそれを引っぱりだして開いてみた。ダイア原石は、そっくりそのなかに収まっていた。アタッシェ・ケースの蓋を閉じ、やっと人心地がついたらしい長谷見に渡す。  ゴールドバーグのポケットをさぐって、武器を持ってないことを確かめた。サイド・ポケットにあったロンソンのライターを取上げ、炎の調節リングを大きく廻した。  ライターに点火すると、炎はバーナーのようにのびた。水島はその炎でゴールドバーグの髪を焼いた。  気絶から一度に|醒《さ》めたゴールドバーグは、髪が焦げ縮れた頭を抱えて転げまわった。 「御愁傷さま。俺を見くびったら、どういうことになるか分ったか?」  水島は|嘲笑《ちょうしょう》した。 「参った。助けてくれ! 魔がさしたんだ。はじめは、|騙《だま》す気はなかった」  死体の群れを目前に見て、ゴールドバーグは、もう虚勢を張る気力を失っているらしかった。 「それでは、そういうことにしておこう。約束の百億を払ってもらいたい。現金はどこにある?」  水島は言った。 「金庫室だ……」 「じゃあ、案内してもらおう」 「立てない」 「立たせてやるさ」  水島はゴールドバーグの|襟《えり》|首《くび》をうしろから左手で掴んで引っぱり起した。ゴールドバーグは、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な苦痛の声を漏らした。 「さあ、歩け。金庫室の時限装置はどうなっている?」 「解除してある」  ゴールドバーグは、一歩ごとに呻きながら、ゆっくり歩きはじめた。破れた背広の背に、再び血がひろがった。水島に続いて、死体のそばに落ちていた三十八口径のリヴォルヴァーを拾いあげた長谷見が続いた。  廊下の惨状を見て、ゴールドバーグは、こみあげてくる黄水を吐き散らしながら、目を|瞑《つむ》るようにして歩いた。|血脂《ちあぶら》で滑って尻餅をつきそうになる。  大金庫室は、地下二階にあった。時限装置は解かれてあって、ゴールドバーグがダイアルを合わせ、チョッキに鎖でつないだ鍵を差しこんで廻すと、ロックが解ける音がした。 「警報装置は?」 「それも切ってある」 「よし」  水島は扉のハンドルを廻し、体重を掛けて扉を開いた。  大金庫室には、紙幣の山を運ぶための手押し車が三台見えた。部屋の左右にロッカーが並び、突当りに二メーター四方の扉を持つ金庫があった。それにも、ダイアル錠がついている。  苦痛の唸りを漏らして背をかがめたゴールドバーグは、ダイアル錠を解いた。水島が手をのばす前に自分で金庫を開くと、深手を負っている人間とは思えぬ素早さで、札束が積まれた金庫のなかに手を差しこみ、隠してあった拳銃を取り出して振り向うとした。  水島より先に長谷見が射った。崩れ折れながらも、ゴールドバーグは発砲した。その銃弾が水島をかすめる。  水島は衝撃波を受けてよろめきながら、ゴールドバーグの心臓にワルサーから必殺弾を射ちこんだ。長谷見が、倒れたゴールドバーグの頭にとどめの一弾を放った。  吹っとんだ|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》が大理石の床に当って乾いた音をたてた。水島は死体のチョッキから鍵束を引き千切った。  金庫のなかは、日本円とドルの山であった。百億円ではきかない。二人はそれを手押し車に乗ったアルミの大きな箱に移した。二つの手押し車が満載になった。  ロッカーを、奪った鍵束を使って開く。証券類が多かったが、一つのロッカーに、プラチナのインゴットが詰っていた。二人はそれも、残りの一つの手押し車のアルミ箱に、積めるだけ積みこんだ。  はじめに、紙幣を積んだ手押し車を一台ずつ押して、二人は大金庫室を出た。もし、生残りの相手が射ってきたら、手押し車は|楯《たて》としても役立つであろう。長谷見はダイア原石の詰ったアタッシェ・ケースも手押し車の上に乗せている。  一階に通じる階段の横に、手押し車専用の傾斜のゆるい滑り台のような通路があった。滑り台とちがうのは、真ん中に一列に、足が滑らないための突起物がついていることだ。  地下一階に登っても、地上一階に登っても、銃声は起らなかった。二人は裏口から庭に出る。  守衛の姿は見当らなかった。廊下でライター型手榴弾をくらったなかに守衛も入っているのであろう。水島たちが乗ってきた車はボンネットを開かれていた。  パトカーが銀行の塀を取囲んでいる様子もなかった。地下室の轟音は、ゴールドバーグが言っていたように、外にほとんど漏れないらしい。  水島は|閂《かんぬき》を外し、裏門を開いた。ロンソンのライターの火で合図する。  裏通りに|駐《とま》っていた、ホロ付きの六トン積みトラックが裏庭に入ってきた。運転席の粕谷が、|驚愕《きょうがく》の表情で、 「どうしたんです、濡れ鼠になって! 待ちましたよ」  と呻く。 「罠にかかったが、|噛《か》み破った。積込みを手伝ってくれ」  水島は答えた。片平がトラックの荷台の|後《あと》|枠《わく》を降ろし、長い踏み板を地面にのばす。  はじめの計画では、札束を積んだ盗品の乗用車を、銀行から少し離れたところでそのトラックの荷台に呑みこんで走る筈であった。いま水島たちは、手押し車を直接トラックに押しあげる。     巨大な狙点      一  ヘリの隠し場所にしている、大島の東南約三十キロにある無人島は、I開発という会社が持主であった。  水島たちは、資本金五千万円で、南伊豆レジャー・アイランドという株式会社を設立した。所在地は、長谷見が持っている新築のビルに置いた。  社長には、一番年長者の長谷見を据えた。そして、株式会社南伊豆レジャー・アイランドは、登記を終えると、I開発と無人島の譲り受けの交渉をはじめた。  |湧《わ》き水も無く、まわりが|断《だん》|崖《がい》絶壁になって船がつけられないその島を、I開発はもてあましていた。しかし、営業部長や営業担当重役は、そんなことは顔に出さず、 「弱りましたな。うちとしては、あの島に釣りセンターを建てて|儲《もう》けさせてもらおうと計画中でしてね」  と、|牽《けん》|制《せい》する。 「いや、うちのほうでも、ぜひに、とは申しませんよ。何しろ、船着き場から作っていかないとならないんでは、レジャー施設に金をかけても、採算がとれるようになるまで、何十年かかるか見当もつきませんからね。ただ、私も専務も釣りとスキューバ・ダイヴィングが大好き……と、言うより、気違いのほうですから、商売のほうは、あんまり当てにしないで、あの島に遊びの基地を作ろうと思いまして……」  長谷見は悠然と答えた。  カモが舞いこんだと見たI開発は、水島と長谷見を無人島に案内しようと申し出た。  もしI開発がヘリを飛ばして島に着陸させようなどと言ったら、水島たちは急用を思いだした、と言って断わる積りであった。  しかし、I開発は、自分の会社のグラマンUF—2アルバトロスの水陸両用飛行艇を用意した。  羽田から飛びたった双発のグラマンは、時速約三百五十キロで巡航した。二十分もたたないうちに、目的の無人島の上空に達した。  島に隠したヘリは、上空からは、まったく雑草と識別出来なかった。周囲約五キロメーターほどの小島の上空を旋回する飛行機のなかで、I開発の営業部長は、このあたりが磯釣り用の魚の宝庫であることを力説する。  島の値段が決ったのは三日後であった。千七百万円であった。金は現金で払われ、所有権移転の手続きがとられた。  建築資材を満載した東海道海運の一万トン級の貨物船二隻が、その島の近くに|投錨《とうびょう》したのが一カ月ほどのちの早朝であった。  船は、富士見建設がチャーターしたものであった。富士見建設は、秘密の工事を専門に請負う。技術者や労務者は、みんな前科者だが腕が立った。  島には、麗々しく、|石《いし》|鯛《だい》|島《じま》レジャー・アイランド建設予定地という看板が立っていた。水島たちのヘリは、十二、三キロほど離れた|珊瑚礁《さんごしょう》群に避難させてある。  岸壁がなくて島に|接《せつ》|舷《げん》出来ないため、貨物船に積まれた資材や富士見建設の連中は、船に乗せられてきた十台のシコルスキー・スカイクレーンの輸送用大型ヘリに|吊《つ》られて島に陸揚げされた。  その形がよく似ていることから“カマキリ”と|仇《あだ》|名《な》されるスカイクレーンは、通常のヘリからキャビンを取り去ったような外観をしている。それによって|搭《とう》|載《さい》量が増大するほか、そこにつける貨物の形状に制約を受けることが無い。また、キャビン内搭載にくらべて、貨物の積み卸しの時間を大幅に節約出来る。  十台のヘリはフル活動し、日没前までに、二隻の貨物船の荷を陸揚げし終った。島では北側の草原に、資材や工事機械の格納庫と宿舎が組立てられる。  貨物船は去っていった。島では、巨大な軽油発電機から電源をとった灯のなかで、富士見建設の百名を越す男たちが酒宴をはじめた。水島たちは顔を出さない。  地下基地の建設工事が完成したのは、年が明けてからであった。  外から見たのでは、島の南側に|瀟洒《しょうしゃ》な平屋建ての小ホテルが建っているだけであった。しかし、島は小さくても、地底はもし必要なら、無限の広さをとることが出来る。  島の中央の、雑草地帯約二百坪ほどが、地底へのヘリの出入口の|覆《おお》いになっていた。電動と油圧の巨大なジャッキで上下し、左右に移動するその覆いは、雑草と一メーターの厚さの土の下は五十センチの厚さの特殊鋼板だ。  ヘリを出入りさせるときには、ジャッキで二百坪の覆いを十メーターほどさげる。そして、地下基地の岩天井の下に、巨大なジャッキと共に、横にずらせて引っこめるのだ。  地下の広さは、海面下に約一万坪をとってあった。発電室、指令室、レーダー室、居住区、武器格納庫、一千万リッターのガソリンと軽油を入れた燃料庫などに囲まれて、一段と高くなった基地中央部には、地底から地上三十メーターの高さまでせり上げることの出来るロケット・ランチャーがあった。無論、まだロケット本体は無い。  そのランチャーの西側に、数十台のヘリや飛行機を置けるだけの広さの台がある。そこから、島のなかをくり抜いた滑走路が、西側の断崖の中腹にのびている。滑走路の出口には岩石に見せかけた電動式の|鉄《てっ》|扉《ぴ》がついていた。  島のなかで、くり抜かれているのは滑走路だけでなかった。将来、火砲を据えつけたときの用意に、八方に向けて、断崖に銃眼がついている。  もとからある|洞《どう》|窟《くつ》のプールは、海面下の出入口を拡げられていた。用の無いときは、岩の扉でふさぐようにしている。地下基地を作るために掘りだされた莫大な量の岩石を利用して、島の南の建物の先に、百五十メーターの|埠《ふ》|頭《とう》が築かれ洞窟とつながっていた。  総工費五十億円は、富士見建設に、韮沢の保税工場から奪ったダイア原石で払われた。富士見建設は、盗品を処分する会社も持っている。原石をカットする秘密工場も持っている。カットした原石は最低百億以上の金になる。互いに|臑《すね》に傷持つ身だから、富士見建設は水島たちの秘密基地のことを外に漏らさない筈だ。      二  石鯛島レジャー・アイランドにも、釣り気違いが観光船やクルーザーに乗って押しかけてくるようになった。  しかし、彼等は、みなが怒りの表情を|剥《む》きだしにして、三日と|逗留《とうりゅう》することなく帰っていった。  石鯛どころか、|雑魚《ざ こ》も釣れないのだ。無理も無かった。水島たちが毎日、島のまわりの海水に、魚が嫌う薬品をひそかに|撒《ま》いているからだ。  それに、水島たちが働いているホテルの食事がひどかった。腐臭の漂う料理を出されるのだ。せめて水でもましならいいが、これはヨードチンキのような悪臭を出した。  客たちは、二度とこんなところに来るものか、と捨てゼリフを残して去っていき、本土に戻っても石鯛島の悪口をいいふらした。釣りの専門誌やスポーツ新聞にも、石鯛島レジャー・アイランドには、まったく魚影が無い、ということが書きたてられた。調査に来た税務署員は、あまりにも客が少ないことにも|呆《あき》れはてて帰っていった。  お蔭で、春を過ぎた頃には、島を訪れる者は誰もいなくなった。水島たちも釣り雑誌やスポーツ新聞に、経営不振のために、しばらくのあいだホテルを閉じる、と広告を出した。  亜熱帯の植物の生長は早く、工事中に荒された草木は、もとにも増して繁茂した。ホテルもジャングルの中に埋まり、移住させた十匹の兎は、たちまち数百倍に増えて、新鮮な肉を水島たちに供給した。薬を撒くのをやめたために、島のまわりは、すぐに魚族や貝類の宝庫に戻った……。  その石鯛島のことが人々から忘れられた、秋のある朝のことであった。  金融業エメラルド商事の社長鈴木正治は、脱税でしこたま儲けた四十歳のプレイボーイであった。  鈴木の趣味は、狩猟と釣りと自家用飛行機、それに女であった。会社名義で、単発のセスナ一八五スカイワゴンと、双発のパイパー・ツウィン・コマンチを持っている。  鈴木は早朝|麹町《こうじまち》にある自宅を出ると、ベンツ二五〇SLを|駆《か》って、|信《しな》|濃《の》|町《まち》にある矢島|毬《まり》|子《こ》のマンションを訪れた。  毬子は赤坂のクラブ“エリート”のナンバーワン・ホステスであった。鈴木は毬子とはじめて会ったときから、何としてでもこの女を物にしよう、と決意した。そして、やっと、八丈島に一緒に釣りに出かける約束をとりつけたのだ。  鈴木はマンションの地下に車を|駐《と》めると、バック・ミラーでネクタイを直してから、車を降りた。自動エレヴェーターに乗込み、七階に向った。細っそりとした長身と、インテリ・ヤクザを甘くしたような顔を持っている。  毬子のフラットの玄関のブザーを押した。インターフォーンで挨拶があったのち、ドアが開かれた。  毬子は体にぴったりしたスーツを着ていた。ウエストは、|蜜《みつ》|蜂《ばち》のそれのようにくびれている。栗色の髪とグリーンの|瞳《ひとみ》が似合っていた。毬子は、進駐してきた英軍将校と日本人の母とのあいだに生れた混血娘だ。 「今朝は特に美しい。目がくらみそうですよ」  鈴木は薄化粧しかしてない毬子の、水蜜桃のような肌を見つめた。手の甲に唇を寄せる。 「コーヒーでもいかが?」  毬子は言った。 「いいですね。あなたに会って、眠気は一度に吹っとんでしまったが」  鈴木は笑った。  毬子に案内されて、居間に入った。  すでに、そこには先客があった。若い粕谷と片平であった。愛想笑いを浮べて立上る。  鈴木は軽く眉をしかめ、非難の|眼《まな》|差《ざ》しで毬子を見た。 「御免なさい。今まで黙っていて……あなたを、びっくりさせてあげようと思って。こちらの二人は、南伊豆レジャー・アイランドの専務さん。あなたとわたしを、石鯛島とか言うところに案内する、と言うのよ」  毬子は言った。鈴木を尾行して、毬子に熱を上げていることを知った粕谷たちは、毬子を買収してある。 「石鯛島? 聞いたような名前ですね。そう、そう。思いだしましたよ。私もあの島に飛行場があれば一飛びして、と思っていたのですが、皆の|噂《うわさ》では、魚影が薄すぎて訪れる人も無く、ホテルも閉鎖したとか」  鈴木は言った。世慣れた微笑に戻っている。 「まあ、掛けてちょうだい——」  毬子は鈴木に言った。 「あの島のまわりから魚がいなくなったのは、埠頭を作る工事のせいだったらしくて、今は|凄《すご》く釣れるんですって。それに、島に飛行場を作ったそうよ。一度だまされたと思って島に飛んできて、大漁してもらいたい、とおっしゃっているの。宣伝に使わせてもらうから、宿泊料その他は、一さいサーヴィスですって」 「飛行場が出来ましたか? 初耳だな。私は早耳のほうですが」  鈴木は、粕谷のほうを向いて言った。 「まだ、認可は受けていません。形式は道路です。しかし、幅三十メーター、長さ六百メーターの直線ですから、あなたの腕なら楽々と離着陸出来ると思いますが……」 「それだけあれば十二分ですよ。例えばパイパー・ツウィン・コマンチの離陸滑走距離は八百四十メーター、着陸滑走距離は五百七十メーターということになっていますが、その数字は充分に余裕を見た上のものですから、特に着陸の場合など、私なら三百メーターも必要としませんね」  鈴木は胸を張った。 「かねがね、あなたの操縦技術の素晴らしさについての噂はよく存じています。石鯛島の飛行場は進入や離陸の際に邪魔になる防波堤や山は一さい有りませんから、特に楽だと思います。ぜひ、あなたに一番乗りしていただきたいもので……」 「それは光栄ですね。しかし、疑うわけではありませんが、本当に釣りは出来るんでしょうか?」 「それでは、これを見ていただきまして……」  片平が写真を数枚取出した。  八キロ以上もある石鯛五十匹の山を前にした粕谷や、二十キロ近い寒鯛二匹を両手でぶらさげた片平の写真がある。埠頭につないだボートの上に転がる百キロ近いマグロ五、六本の姿も写っている。 「こいつは凄い!」  鈴木は叫んだ。 「|餌《えさ》のサザエは、島のまわりで、いくらでもとれます。皆様の不評を買いました飲み水の件に関しましても、新式の|濾《ろ》|過《か》装置を入れましたので御心配なく。何日でも逗留を歓迎しますよ」 「分りました。さっそく八丈島行きを変更しましょう。御案内願いたい……。ところで、あなたがたと毬子さんとの御関係は? 野暮な質問ですが……」 「あら、この方たち、うちのクラブを社用で利用してらっしゃるだけよ。わたしが何かの拍子にあなたのことを口走ったら、ぜひ紹介してくれとおっしゃって……」  毬子は鈴木を誘いこむように笑った。      三  調布飛行場を飛びたった四人乗りのパイパー・ツウィン・コマンチは、約三百四十リッターの燃料を積んで、時速三百キロ少々で巡航すると、千五百キロ以上飛び続けることが出来る。  はじめて乗った自家用機の副操縦士席で、毬子は興奮していた。鈴木は海上に出ると、超低空で飛びながら尾翼で海面を叩く、いわゆる「トンボの種つけ」などを披露して、毬子がしがみつこうとするのを楽しむ。  後ろの座席で粕谷と、片平は、薄笑いを浮べていた。石鯛島に向う、と航空管制官に報告しようとする鈴木を、まだ石鯛島の飛行場は認可されてないから、と説きふせて、行先は八丈島という報告をさせることに成功していた。  たちまち、石鯛島が眼下に近づいてきた。 「おかしいな。飛行場なんか、どこにも無いじゃないですか。道路さえも!」  鈴木はわめいて振向いた。  粕谷が、ニヤリと笑って、鈴木の額に拳銃を突きつけた。鈴木の眼球は、とび出しそうになった。  毬子は悲鳴を絞りだした。粕谷たちに、鈴木を石鯛島に行くように誘ってくれ、とは言われたが、暴力の用意をしているとは知らなかった。  片平が、毬子の頭をブラック・ジャックで殴りつけて気絶させた。 「何をする気だ!」  鈴木は|呻《うめ》いた。 「分ってるだろう? このオモチャを頂戴するのさ」  粕谷が言った。 「渡すもんか! 射つなら射て、そのかわり、私が死んだら、このパイパーは、海に墜落だ」 「|自《うぬ》|惚《ぼ》れるなよ。俺たちは、あんたのような|素人《しろうと》と違う。航空自衛隊上りさ」 「…………」  鈴木は震えはじめた。唇から唾がたれる。 「スロットルをゆるめろ。そして、水平飛行にするんだ。それから、女の安全ベルトを解け」  粕谷は命じた。  鈴木は命令にしたがった。粕谷はその頭を拳銃で殴り、毬子と同じように気絶させた。  粕谷は、鈴木の体を後ろに移し、自分が|操縦桿《そうじゅうかん》を握った。機を旋回させて島のほうに戻らす。水島たちの乗ったクルーザーが島から離れた。  粕谷は、海面すれすれに高度をさげ、失速寸前の時速百二十キロでクルーザーのほうに機を近づける。  片平が風圧にさからって強引にドアを開き、毬子と鈴木を海に放りだした。ドアを閉じる。粕谷はスロットルを開き、操縦桿を引いて機を上昇させた。  二千メーターまで上昇したとき、クルーザーが、海に漂う二人を拾いあげるのが見えた。パイパー・ツウィン・コマンチは挨拶がわりに翼を振り、|硫《い》|黄《おう》|島《とう》と沖縄の中間の方向に機首を向けた。  日本に向う米海軍の航空母艦を発見したのは、それから約四時間半後、東京から約千三百キロの海面上であった。  米極東第七艦隊の対潜空母キルラージ。基準排水量三万トン、全長二百七十五メーターだ。甲板とハッチに、翼を畳んだ三十五機のマクダネル四Bファントムを積んでいる。  連日の太平洋の|哨戒《しょうかい》に疲れた将兵に命の洗濯をさせるために横須賀に向っているのだ。いまその空母キルラージは、かなり前から飛来してくるパイパーのちっぽけな姿をレーダーでとらえ、八基の連装式高射砲と、艦載用対空近距離ミサイルのターター四基、射程百二十キロのミサイル・タロス連装二基が、パイパーに照準をつけている。艦腹にひそかに積んでいるA二型射程二千八百キロの核弾頭ミサイル・ポラリスの出る幕は無い。  粕谷は、計器の配線を超小型のバーナーで焼き切った。バーナーを窓から捨て、 「こちら、JA三三三〇。計器故障。燃料の残量はごくわずかと推定される。貴艦に緊急着艦の許可を請う。こちらJA三三三〇……」  と、空母キルラージに無線で呼びかける。     空母キルラージ      一 「こちら、U・S・ネーヴィ・CVS四四キルラージ。JA三三三〇機に告ぐ。貴機の着艦は許可しない。すみやかに上空から立去ることを要求する。当艦は貴機を撃墜する準備を完了している。アウト」  空母から、歯切れのいいブルックリン|訛《なま》りが無線で伝わってきた。二基のスチーム・カタパルトにはマクダネル・ファントム機が据えられて、ジェット・エンジンをウォーム・アップしている。  粕谷は再び無線マイクのスウィッチを入れた。 「こちらJA三三三〇。指示は了解した。しかし、当機の燃料はあと十五分も|保《も》たないと推定される。海上に不時着したときの救助を頼む。オーヴァー」  と言う。硬いが正確な英語だ。 「|了解《ラージャー》」  キルラージ号は返答した。  粕谷と片平は顔を見合せた。 「畜生、真夏ならいいが、いま頃一泳ぎしないとならんとはツイてないな」  粕谷が言った。 「でも、ここは南洋に近い。水はそう冷たくないだろう」  片平は言い、安全ベルトを外すと、後ろのシートの背後の荷物置場に吊られた救命チョッキを外した。  そのとき、無線のスピーカーが、空母キルラージからの呼びかけを伝えた。 「CVS四四からJA三三三〇へ。指示を変更する。燃料ゼロになってから着艦せよ」 「了解。貴艦の好意を感謝する」  粕谷は答え、スロットルと操縦桿を引いた。燃料噴射式百六十馬力エンジン二基が身震いし、パイパー・ツウィン・コマンチの風防の前には空と雲だけしか見えなくなる。  滑空距離は高度の八倍近くあるから、実用上昇限度の五千六百メーターに達すれば、エンジンがストップしても、四十キロ以上滑空出来るのだ。  昇りきったところで、粕谷は操縦桿を水平に戻した。はるか下の空母を片平が双眼鏡で|覗《のぞ》くと、飛行甲板のマクダネル四Bファントム・ジェット機が格納甲板に移され、飛行甲板に着艦制動ロープとナイロン・フックが張られるのが見える。 「奴等は用心深い。俺たちが着艦を強行しようとしたら、ロケット弾で粉々にされてたろう」  片平が言った。 「そうだな。奴等は、このパイパーが共産国の偽装機でないことを府中に問合せてから、着艦を許可したんだろう。拳銃は捨てたほうがいい」  粕谷は答えた。  二人は拳銃を分解し、細く開いた窓から捨てた。空母の数キロ先の海面に落下していく拳銃の部品は、空母上の肉眼にもレーダーにも映らないだろう。 「CVS四四からJA三三三〇へ。当艦の救護準備オーケイ。防火準備オーケイ」  無線が伝えた。  パイパー・ツウィン・コマンチは旋回を続けた。やがてエンジンが不吉な音をたてて異常震動し、プロペラの回転が目に見えるようになる。 「JA三三三〇からCVS四四へ。当機の燃料ゼロ。スウィッチ・オフにして着艦体勢に入る」 「了解」  パイパーは、旋回を続けながら高度をさげていった。そして、空母の上甲板の左に斜めにのびた二百二、三十メーターの飛行甲板に突っこんでいった。甲板やブリッジなどが見る見る大きく迫ってくる。  粕谷の腕なら、最大限百メーターの滑走距離があれば悠々と機を停めることができる。飛行甲板の後端から滑走しはじめたら、その中央近くに張られた着艦制動ロープの世話にならないで済む。  しかし、粕谷はわざと、飛行甲板の後端から四分の一ほどのところで車輪を接艦させた。ディスク・ブレーキが|軋《きし》んだが、着艦ロープが迫ってくる。  着艦フックの無いパイパーは、ワイヤー・ロープでプロペラをへし曲げて停った。たちまち機は化学消火剤の|泡《あわ》に包まれた。  しばらく待ってから、二人は甲板に跳び降りた。水兵たちが、その二人にM14自動ライフルを向ける。  G・Iコルトを握った将校四人が近づき、粕谷たちの背広やズボンをさぐり、武器を携帯してないかを確かめた。それが終ると、 「オーケイ。失礼した。不意の客を歓迎する」  と、手を差しだした。  粕谷たちは握手した。 「有難う。この空母を発見出来なかったら、私たちはフカの餌になっていたところだ」  と言う。  そのとき、艦長らしい勲章だらけの男が近づいてきた。 「一体、どこに向けて飛んでいる積りだったんだ?」  と、笑いながら言う。兵士たちはライフルの銃口を空に向けた。 「御迷惑をかけて済みません。|奄《あま》|美《み》大島で釣りを楽しもうと思いまして……ところが、屋久島上空で雷雲に捲きこまれ、計器も故障してしまって、方向を見失ってしまった」 「君が鈴木機長か?」 「いや、私は粕谷という。キャプテン鈴木はパラシュートで、八丈の近くの小島に降下した。その島は彼の秘蔵の釣り場で、ほかの誰にも近づかせない」 「御婦人だけは例外というわけかね?」 「そういうことです」  粕谷は動揺を隠して笑って見せた。JA三三三〇のことは、すっかり調べられているらしい。 「なるほど……予定着陸地の八丈島空港から、まだ君たちの機が姿を現わさないが、どこかに不時着したのではないか、と管制塔に何度も問いあわせがあったそうだ。さっそく無電で、ここに舞い降りたことを知らせてやろう。君たちは、ゆっくり休みたまえ」 「感謝します。ここは一体、どのあたりでしょう?」  粕谷はとぼけた。 「知らないのか? 計器故障では無理はない。現在位置は北緯二十六度、東経百三十六度の近くだ。沖縄の東方約七百キロと言ったほうが早いかな」 「どっちに向っているんです?」 「日本。横須賀だ。君たちの飛行機があんな有様になったんでは、応急修理はおぼつかない。日本まで運んであげるよ。日米親善のためにもな」  艦長は、|牽《けん》|引《いん》|車《しゃ》につながれて格納甲板に移されていくパイパーの、へし曲ったプロペラを指さした。      二  巡航速度二十五ノット——時速約四十六キロ強で進んでいく空母キルラージの将校用大食堂で、粕谷と片平は分厚いステーキとジャガイモとコーン・スープの昼食をふるまわれた。  昼食後二時間は、当番兵を残して休憩時間になった。将校や兵士は、デッキにキャンバスの椅子をひろげたり、|蚕棚《かいこだな》式のベッドに寝転んで|猥《わい》|談《だん》を交わしたり、コミック・ブックを読みふけったりする。クラップのサイコロ|博《ばく》|打《ち》に夢中になる者も多かった。  粕谷は将校食堂の隣の酒保に移り、将校たちにビールを|奢《おご》ってもらって、東京の遊び場や、女を世話してくれるクラブなどについて質問攻めに会った。粕谷は調子よく、ハッタリを混えて質問に答えていく。  一方、片平のほうは、英語はほとんどといっていいほど話せない、ということになっていた。粕谷から離れ、下甲板に通じる階段を降りた。  キルラージ号の構造は、艦船の専門誌を見て研究してある。熱い下甲板の廊下に人影はなかった。  下甲板の下が二重構造になった艦底だ。その容積を利用して、燃料や海水や飲料水、それに|洗滌水《せんじょうすい》のタンクが設けられている。  飲料水タンクは、艦底のうちでも、艦首に一番近いところにある。片平はハッチの鉄蓋を開き、|鉄《てつ》|梯《ばし》|子《ご》を伝わって飲料水タンク庫に降りた。  薄暗い電灯がついたその船倉は、カビ臭く湿っていた。十万リッター入りの巨大な飲料水タンクからは二本の太いパイプが天井につながっている。  鋼鉄製のタンクには計器もついていた。現在は八分の一の残量があることを指示している。横須賀に着いたら、上質な日本の水を補給するのであろう。  片平は、梯子を使って、タンクの上に身を移した。空気抜きがついたキャップが見える。片平はニヤリと笑って、ズボンを降ろした。パンツもずり降ろす。  |股《こ》|間《かん》から下腹にかけて、ゴム製の三角型の袋がつけられていた。結構、二リッターほどの容量がある。  片平はタンクのキャップを外し、ゴム袋の口を開いた。なかに入っている白い粉をタンクに注ぎこむ。  ゴム袋をタンクと隔壁との隙間に置いて、片平は素早くタンクのキャップを締めた。パンツとズボンを元通りにし、タンクから降りて、梯子をもとあった位置に戻した。  そのとき、頭上のハッチから足音が伝わった。片平は心臓が|喉《のど》からせり出してくるときのような表情になったが、そっとタンクの蔭に廻りこむ。  ハッチが開き、足音が鉄梯子を降りてきた。一人ではない。二人らしい。足音はタンクの前でとまった。  そして、男同士の熱っぽい|囁《ささや》きと接吻の音がし、ズボンのベルトの金具が床の鋼板にぶつかる音が聞えた。  やがて、|喘《あえ》ぎと圧し殺したようなわめき声が交錯した。片平は心臓が破れそうになりながらも、そっと位置を変えて盗み見た。  若い水兵が鉄の椅子にしがみついていた。そのうしろから犯しているのは、髪に白いものが混った佐官だ。  二人は同時に|痙《けい》|攣《れん》した。佐官は制服を正して下甲板に去った。  水兵もしばらくしてから去った。片平は唇を|歪《ゆが》めてタンクの蔭から出る。鉄梯子を登り、ハッチの蓋に耳を当て、下甲板に足音が聞えなくなるのを待って、ハッチを開いた。  酒保に戻ってみると、粕谷はまだ将校たちに日本での遊び方のコーチをやっていた。目ざとく片平を見つけて、尋ねる目付きになる。  片平は|顎《あご》を|撫《な》でた。仕事はうまくいった、という合図であった。カウンターにもたれ、日本円を払ってコーラを注文する。  よく冷えたコーラで渇いた喉を鎮めながら、先ほど飲料水タンクに投入した粉末のことを考える。  粉末は、LAD。ライ麦の穂先に出来る|麦《ばっ》|角《かく》|菌《きん》に含まれるリゼルグ酸から作ったLSD——つまり、リゼルグ酸ディエチルアミッド——を、特殊アルカリで変化させた幻覚剤であった。  LSDがわずか百マイクロ・グラム、つまり一万分の一グラムで、人を目覚めたまま幻想の世界に旅させるのに対し、LADは、人を眠りに引きこんだのち幻覚症状を起させる。そして、LSDがときどきそうであるように、効果は飲用後四、五時間してから発揮される。そして、眠りと幻覚は三十六時間にわたって持続するのだ。一億円を払って、富士見建設が建てた麻薬密造工場から手に入れた品であった。      三  キルラージ号の乗組員たちが|朦《もう》|朧《ろう》としはじめたのは夕食を終えた頃からであった。粕谷と片平は、疲れたから失礼する、と言って夕食の席にはつかずに、|宛《あて》|行《が》われた中甲板の来賓用私室でソファに腰を埋めていた。 「様子を見てくる」  粕谷は、トイレを探すふりをして、三つの大食堂を覗いて歩いた。すでに廊下に何人も転がっているから大体の見当はついていたが、どの大食堂もひどい有様であった。  テーブルに突っ伏している者、床に重なっている者、壁にもたれて眠りこんでいる者……という具合で、まだ薬の効いていない者はごくわずかであった。彼等も、眠りこんだ連中を揺り起そうとしているうちに、自分たちも襲ってきた眠気に耐えられずに転がってしまう。  粕谷は、眠りこけている将校の腰からG・Iコルトを奪い、一度片平が待っている私室に戻った。二人とも、昼食後は水を飲んでいない。そのかわり、雑役兵に清涼飲料の|壜《びん》を何本も運ばせてあった。  さらに三十分ほど待ってから二人は廊下に出た。真っ先に、千名近い水兵を収容出来るマンモス食堂に行ったが、目を覚ましている者はいない。  下士官食堂も、将校食堂も寝室と化していた。艦長も高イビキだ。機関室にもミサイル誘導レーダー室にも起きている者はなかった。  二人は小火器庫の前にくると、眠りこけている衛兵から|鍵《かぎ》を取上げてその扉を開く。  千数百丁のライフルや二百丁近い軽機関銃、拳銃、それに無数の弾薬の箱のほかに、数千発の|手榴弾《てりゅうだん》もあった。  二人は肩からM14ライフルを吊り、ベルトに予備の拳銃を差した。手榴弾をポケットに突っこみ、上甲板に登っていく。  上甲板でも、当番兵がマグロのように転がっていた。司令塔のレーダー室もミサイル管制室も、そして操縦室も、眠っている人間ばかりであった。  しかし空母は、自動操縦で、二十五ノットを保ったまま日本に向い続けていた。 「やれ、やれ。これで一安心だ。だが、念のために上甲板でいい夢を見ている連中を下に移そう。アメリカ軍の哨戒機が近づいてきて、あやしんだらまずいから」  粕谷は言った。  その作業が終ったのが、午後八時であった。粕谷たちはそのあと、全員の武器を取上げて小火器庫に仕舞う。キルラージ号の乗員約千五百名のうち武装しているのは二百名ぐらいであったから労力がはぶけた。|搭《とう》|載《さい》|機《き》のバルカン砲弾や機関銃弾は火薬庫に入っている。  粕谷が無線通信を受持ち、片平がレーダーを|睨《にら》みながら、|舵《だ》|輪《りん》を握った。無線室に置かれてあったコード・ブックを参照しながら、粕谷は米海軍極東第七艦隊司令部からの暗号無電に対し、ボロを出さずに返電することが出来た。  紀伊半島突端の東南二百キロのあたりを通過したのが翌日の午前八時頃であった。  そのとき、米海軍のグラマン・ホークアイの哨戒機が三機編隊で超低空から姿を現わした。二人はいざとなったらミサイル制御室に跳びこんで応戦する覚悟でグラマンの編隊を見守った。  しかし哨戒機の群れも、空母がたった二人に占領されているとは知らない。 「U・S・ネーヴィE二七六五よりCVS四四へ。異状ないか? 応答頼む。アウト」  と、指揮官機が無線ラジオでのんびりと呼びかけてくる。 「異状なし。退屈で死にそうだ」  粕谷は笑いながら答えた。 「もう少しの辛抱だ。予定通りに行けば、今夜は日本の女が抱けるぜ。幸運を祈るよ」 「有難う」 「不時着した日本人は?」 「眠ってる。奴等は、お礼にコール・ガールを紹介してくれるそうだ。飛び切り|別《べっ》|嬪《ぴん》の女をな」 「うまくやりやがったな。じゃあ、バイ・バイ」  グラマンの群れは翼を翻し、瀬戸内海のほうに飛び去った。粕谷は、額に浮んだ脂汗を袖で乱暴に拭った。  午後二時過ぎ、キルラージは、八丈と波島のあいだを抜けた。暗礁や小島が多いので、舵輪を握る片平は眼を血走らせていた。  そして、波島の先で大きく左に廻った空母は、二時間後、石鯛島の埠頭の突端に近づいた。  長さ百五十メーター、幅百メーターの埠頭は、断面が|梯《てい》|形《けい》に近かった。外から見ただけでは、岩石だらけだ。断崖の高さに合わせて、上端の高さは五十メーター以上ある。  その埠頭の突端の腹に、パックリと大きな口があき、巨大な|暗《あん》|渠《きょ》のようなものが姿を現わした。埠頭突端の腹をふさいでいた、外からはただのコンクリートとしか見えない隠し扉が、海底下に電動と油圧で引っこめられたのだ。  暗渠は海水をたたえたドックであった。ドックの左右には、三十数メーター幅の道路がある。ドックはそして、同じ深さと幅で、島の下で拡げられた洞窟プールにつながっていた。  ドックの右側の、ガラス張りのコントロール・ボックスで水島がスウィッチを操作していた。いまもスウィッチの一つを押すと、高い岩天井に埋めこまれた十個のサーチ・ライトがついた。  そのドックの口が開いたとき、二キロほど離れてはいたが、片平は空母の動力伝動装置を切った。  三万トンのキルラージの惰力はなかなかゆるまなかった。それでも、ドックの入口に艦首が突っこまれたときには五ノット近くに落ちていた。  片平はプロペラを逆転させた。ドックは、長さ二百七十五メーター、幅三十メーターの空母をゆっくりと呑みこむ。ブリッジの上のレーダー・マストが岩天井につかえそうだ。  空母は停止した。片平はメイン・スウィッチを切る。ドックの扉がせり上った。  海上では長谷見が乗ったヘリが空母の残した航跡に消泡剤を振り撒いていた。     予告      一  日本近海で消息を断った空母キルラージの捜索に、米軍と海上自衛隊は半年の月日と数十億円の金をかけた。  捜索の網は、日本海、ベーリング海、東シナ海にまでひろげられ、そのためにソ連や中共の|哨戒艦《しょうかいかん》と小ぜりあいを起して、国連の安全保障理事会が大騒ぎしたほどであった。  しかし、大捜索は失敗に終った。  キルラージに積まれている三十六発のA二型ミサイル、ポラリスの核弾頭、それに原子力潜水艇二隻の原子炉から発せられる放射線をガイガー・カウンターでさぐる、という捜索方法にも失敗があった。  一発が〇・五メガトン、つまり広島原爆級の約二十五倍の威力を持つ水爆型核弾頭三十六個は、石鯛島の地底五百メーターの貯蔵庫に、厚さ三メーターの鉛のコンテナーに包まれて眠っているのだから、石鯛島に近づいた捜索機や捜索艇、それにフロッグ・マンたちのガイガー・カウンターが反応を起さないのは無理もなかった。原子力潜水艇も、トレーラーで貯蔵庫に運ばれていた……。  キルラージを地底ドックに隠したあと、水島たちは、まだ眠りこけている千五百名近い乗組員を、その空母に積まれているジープや水陸両用車を使って、地下|要《よう》|塞《さい》の居住区にある|俘《ふ》|虜《りょ》収容所に移したのだ。  そして、自分たちは、放射能|防《ぼう》|禦《ぎょ》|服《ふく》とマスクに身を固めて、ポラリスの核弾頭と潜水艇を貯蔵庫のコンテナーに移し替える仕事だけをやっておいた。  俘虜収容所は、一つの房に十名ずつ収容出来るようにしてあった。無論、分厚いコンクリートと鉄格子でそれぞれがさえぎられている。全員を一まとめにすると、暴動が発生するかも知れないからだ。百五十近い房は半円形に配置され、監視するのに便利になっている。  薬の効力が去って眼を覚ました俘虜たちは、長い甘美な眠りのあいだに濡らしたズボンを気持悪そうにずりさげ、鉄格子にしがみついて、口々にわめいた。 「ここは、どこだ!」 「出してくれ! 何をする気だ?」 「ここは中共か? 処刑しないでくれ」  水島たちは、全員が目を覚ますさまを、監視用テレヴィで眺めていた。男たちは、次第にわめきくたびれ、ズボンとパンツを脱ぎ捨ててベッドにもぐりこむ。脱出できないように穴を小さくした特殊プラスチック製の便器にまたがる者もいる。|喉《のど》の渇きに耐えかねて、水洗の海水に口をつけ、あわてて吐きだす者もいた。  全員が目を覚ましてから六時間後、片平と粕谷が、食料と水を積んだトラックと、着替えを積んだトラックに乗って、収容所ブロックに姿を現わした。 「裏切者!」 「よくもだましたな。八つ裂きにしてやる」  乗組員たちは騒ぎたてた。 「オーケイ、キルラージ乗組員の諸君——」  そのとき、天井のスピーカーから、水島の声が流れた。 「分っているだろうが、君たちは捕われの身になった。しかし、ここは中国ではない。我々は地上に楽園を建設する目的で結成された団体であって、君たちを洗脳する気は毛頭ない。しかし、反抗したら即座に死刑の判決をくだす。処刑も、また迅速だ」 「黙れジャップ!」  第十三号房に閉じこめられた、艦長ウエストレーク中将が叫んだ。 「誰が貴様らの命令を聞くもんか。貴様らの命令に服従する合衆国海軍の将兵は、誰一人としていない!」 「いや、そうでないことを、いま見せてやる。全員に水と食料を配るが、みんなが喉の渇きと空腹を鎮めようとするのを、艦長命令で制止できるかな?」  水島は笑い声を混えて言った。 「当り前だ。名誉ある合衆国海軍の将兵は、敵の恵みを受けたりはしない」 「昔の日本軍みたいなことを言うなよ」 「みんな、よく聞け。艦長命令だ。出されたものに口をつけるな!」  艦長は吠えた。  片平と粕谷は、鉄格子についた食器入れの窓から、水とバター・パンそれに|乾《ほし》|肉《にく》とオレンジの食料を差し入れた。容器は、それを細工してナイフなどを作られないように、柔らかなビニールで出来ている。フォークやスプーンは使わせない。  将兵は、ほんのちょっとのあいだためらっただけで、喉を鳴らして水と食料に跳びついた。  片平は、今にも|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》を起すのではないかと思えるほど顔を真っ赤にして怒り狂っている艦長の房にも差入れを行なった。  艦長は、水の容器を|足《あし》|蹴《げ》りにしようとした。その横の准将の肩章をつけたドナルドソン副艦長が、あわてて艦長を突きとばした。 「軍法会議にかけてやる!」  尻餅をついた艦長は|呻《うめ》いたが、副艦長や同房の部下たちは、争って食器に手を出した。  粕谷たちは、全部の房に水と食料を配り終ると、今度は着替えの下着と作業服を配る。倒産したスーパー・マーケットから二束三文で買った品だ。  何しろ、千五百人の将兵だから、衣服を配り終えた頃には、粕谷も片平も、相当にくたびれていた。二台のトラックに乗って去る。  そのとき、スピーカーから再び水島の声が流れた。 「艦長。素っ裸になれ」 「黙れ!」  ウエストレークは呻いた。 「副艦長。それに十三号房の諸君。艦長を裸にさせろ」  水島は命じた。  男たちは命令にしたがった。暴れ狂う艦長を裸にする。  そこで水島は、第十三号房の鉄格子の扉の電動スウィッチを開いた。  素っ裸のウエストレークは、奇声をあげて房から跳びだした。あとの連中は、どうしたらいいのか迷っている。  水島は、第十三号房の扉を電動で閉じた。  ウエストレークは、 「みんな、力を合わせて立上るんだ。海軍魂はどこにいった!」  と、わめき、各房の鉄格子を|拳《こぶし》で乱打しながら走り廻った。 「見える者は、よく見ていろ。俺たちに反抗したら、どういうことになるのかを」  水島はスピーカーを通して言い、ボタンの一つを押した。  ウエストレークの頭上の天井から、|火《か》|焔《えん》の筋がほとばしった。右の肩に炎を浴びたウエストレークは、絶叫をあげて逃げまどう。  水島は、テレヴィでウエストレークの位置を知り、スピーカーで|苦《く》|悶《もん》の声を聞きながら、スウィッチを次々に押していった。  天井のいたるところがら火焔がのび、力つきたウエストレークの体は炎に包まれ、死の|痙《けい》|攣《れん》をはじめた。水島はスウィッチから指を離し、 「これで分ったろう。それから、諸君に言っておくことがある。諸君が、水に混ぜられたのを気付かずに飲んだ幻覚剤には、習慣性がある。一週間以内に再び服用しないと、諸君は禁断症状を起して狂い死ぬ。ヘロインの何百万倍もの毒性を持っているからだ。だから、諸君が万が一、ここから脱走したとしても、禁断症状で悶死するだけだ。世界中捜しても、その薬品は俺たち以外からは手に入らない」  と、ハッタリをかけた。      二  幻覚剤LADに習慣性がある、と水島が言ったのは本当であった。  週に一度ずつ、長い甘美な眠りのうちに桃源郷を|彷徨《さまよ》った俘虜たちは、一と月もたつと、薬を与えられる日を、指折り数えて待ちのぞむようになった。  女の問題も、夢のなかで処理出来るから、欲求不満が|昂《こう》じて暴れ出す者も出なかった。ホームシックの問題も、夢の中で妻子に会えるから、耐えきれないほどのことはないようであった。  水島たちは、俘虜をはじめは炊事や洗濯などの雑役に使ってみた。百名単位でグループに分けてだ。  暴動の気配はなかった。俘虜たちは、いよいよ、ドックに閉じこめられた空母キルラージの兵器を地下要塞に据えつける作業をはじめさせられた。  重量十トン近いポラリスA二型ミサイルの弾体三十六発は、その三分の一の個数が、発射管と一緒に、地下基地中央部のロケット・ランチャーのまわりに据えられた。ロケット・ランチャーは、弾体に核弾頭をつけるときに役立つであろう。  ポラリスは水中からも発射出来るが、あとの二十四発は、島のまわりの|断《だん》|崖《がい》にあって、カモフラージュの|覆《おお》いをつけられている銃眼のうしろに配置された。無論、発射管も空母から移された。  島の地上のまわりの店のあいだに、迷彩をほどこされた八基のレーダーが置かれ、ジャングルには、対空ミサイルのターターとタロス、それに連装式高射砲も隠された。  艦載機のマクダネル四Bファントム三十五機は、それぞれが二〇ミリM61バルカン砲二門と|弾倉《ガンポット》の実包七百五十発、空対空ミサイル、スパロー六基、それに七百五十ポンド爆弾二個を積んだまま、半数が地下滑走路後端の駐機場に移された。  艦載のシコルスキー・シー・スタリオンのヘリコプター十台も、駐機場に移された。そのヘリは、管制装置も含めて、二発の地対空ミサイル、ホークを持っている。  一番日数をくったのは、空母の二基のスチーム・カタパルトを分解して、地下滑走路の出口近くに装備し替える作業であった。  その作業には、俘虜を三交代で昼夜働かせても四カ月かかった。米軍と海上自衛隊の大捜索が失敗に終った頃、カタパルトの作業は終った。  その頃には、俘虜のあいだに、階級意識は無くなっていた。水兵が高級将校を平気で殴ったりする。  特に、幅をきかせるようになったのは、技術将校や整備兵などであった。カタパルトの移動が終った夜、水島は俘虜たちに、一人三分の一リッターずつのバーボン・ウイスキーを振るまった。  再び春が訪れようとしていた。  水島たちは薄い手袋をつけた手で、新聞から印刷文字をハサミで切取っていた。  印刷された文字で文面を綴った。 「自分たちの要求を呑まなかったら、東京にミサイルの核弾頭を射ちこむ」  と、いう警告文であった。  水島たちの要求とは、|駿河《するが》湾の先、海上三カイリの領海と公海にまたがるあたりに、淡路島の三倍の大きさの人工島を政府の予算で作りあげろ、ということであった。  その手紙を五十通ほど作った。差出人の名は書かない。宛名は、現内閣とマスコミの大手筋に向けた。手紙の束を持った片平が東京に向った。      三  反応は翌々日の新聞、テレヴィ、ラジオなどに出た。首相は脅迫状を読んで一笑にふし、もし東京に水爆が落ちようとも、人工島を作るだけの予算がある筈はない、と言っていた。  マスコミも、政府の息がかかっている社は脅迫状を|嘲笑《ちょうしょう》したが、そうでない社は、昨年秋に空母キルラージが消息を断ったことと脅迫状を結びつけて考えたところも少なくなかった。  水島たちは、すぐに次の文面を作った。 「人工島を作るための予算は、第三次防衛計画の二兆三千四百億円をすべて流用されたい。この要求を拒絶した場合には、三日以内に日本近海のどこかに核弾頭をブチこむ。はじめは東京にと考えていたが、愚鈍な為政者のために、罪もない都民が全滅するのを見ることはしのびない。しかし、核爆発が現実に起ったあと、なおも我々の要求を拒絶するならば、首相官邸に狙いをつけて第二弾を発射する……」  その要求も、政府に気違いの寝言だとして片付けられた。しかし、政府としても万一のことを考えているのか、伊豆諸島を越えて外海に向う哨戒機の数が増えた。  政府の反応が電波に乗った翌日の夜、石鯛島から全長三十メーターの原子力潜水艇が滑り出た。  海底を四十ノットの快速で、魚雷のような潜水艇は|鹿《か》|島《しま》|灘《なだ》の沖に飛ばした。  操縦しているのは片平であった。弾倉には、ポラリスの巨大な弾頭が積みこまれている。粕谷は、|水中音響探信器《ソ  ー  ナ  ー》を受けもっていた。  三時間後、原子力潜水艇は水戸から五十キロほど東方に位置する深海の、海面下三百メーターのあたりでエンジンを空転させた。 「オーケイ?」  弾倉ボタンの安全止めに指をかけながら、粕谷は声をかけた。 「オーケイだ。権力に|溺《おぼ》れきっている首相たちが|泡《あわ》をくうさまが目に見えるようだぜ」  片平は笑った。  安全止めレヴァーを引いた粕谷は、弾倉ボタンを押した。電動で艇の下腹の弾倉が開き、鉛のコンテナーに包まれた核弾頭が、五百メーター下の海底に、揺れながらゆっくり沈んでいく。その核弾頭には、時限装置がセットされていた。  ソーナーで、鉛コンテナーが海底の砂に届いたことを確かめてから、粕谷は弾倉を閉じ、片平に発進を命じた。  熱交換器とタービンが|唸《うな》り、原子力潜水艇は加速していった。濃縮ウランを原料とするこの艇は、三カ月間潜りっぱなしでいられることもできる。 「あとは、風向きが変ってくれないことを祈るだけだな。気象庁は、西風が朝まで吹き続けると言っているが、当てにはならんからな」  片平が|呟《つぶや》いた。 「まあ、急に東風に変るということはないだろう。そんなことになったら、東風が本州に死の灰を運んでくる。俺はなんぼなんでも、二十世紀の暴君ネロなんて呼ばれるのは嫌だよ」  粕谷が言った。  旋回した潜水艇は、石鯛島の方に向って潜航した。  深度百メーターで千葉の九十九里沖百キロのあたりにきたとき、粕谷の表情が|硬《こわ》ばった。ソーナーが右上の海面を移動する艦船をキャッチしたのだ。そして、潜水艇につけられた対敵ソーナー受信装置が、海面上から発せられるソーナーの音をキャッチした。 「駆逐艦だ。深いほうに向って逃げろ!」  粕谷は叫んだ。小型サブロック・ミサイルの自動照準装置に体を向ける。  潜水艇は、深くもぐりはじめた。そのとき、駆逐艦が、頭上に急激に近づいてきた。粕谷の耳に、水中聴音器を通じて、対潜爆雷が発射される音が聞えた。 「潜水中止。全速で|面《おも》|舵《かじ》一杯!」  粕谷は叫んだ。  片平の操作で、艇は右に素早く逃げた。艇が寸前までいたあとを、ヘッジフォッグの爆雷が二十四発、環状にひろがって沈んでいった。  片平はスロットルを引きっ放しで逃げた。駆逐艦のソーナーとエンジン音が遠ざかったと思ったとき、五百メーターほど斜め左下の海底で爆雷の一つが|炸《さく》|裂《れつ》する|轟《ごう》|音《おん》が響いた。次いで、残りの爆雷が次々に誘発していく。  衝撃が襲ってきたのは、潜水艇が一キロほど離れたときであった。その距離でも、小さな潜水艇は、今にもバラバラになって仰向けになりそうになる。  やっと艇がバランスを取戻したとき、粕谷は柱にぶっつけて切った唇を|舐《な》めると言った。 「畜生、お返しをしてやる。艇首の向きを変えてくれ」 「分ってるよ」  片平は答えた。  駆逐艦との距離は三キロほど離れていた。艇の自動照準器の電子頭脳が、サブロックの発射オーケイの合図を出した。粕谷はボタンを押した。  潜水艇用の小型サブロック・ミサイルは、おびただしい泡と共に発射された。永遠とも思える時間が過ぎ、駆逐艦の横腹がサブロックの炸薬に引裂かれる轟音が伝わってきた……。  やがて、能力一杯の三百メーターの深度をとって潜航した潜水艇は、石鯛島の地底ドックに帰還した。  水島と長谷見は、島のホテルの、北に面した窓ぎわで待っていた。二人とも、黒いゴッグルをかけている。双眼鏡を首から|吊《つ》っていた。  粕谷と片平も、水島たちの横に坐って黒いゴッグルをかけた。駆逐艦を撃沈した話で、しばらく笑い声が続く。水島の双眼鏡に、駆逐艦の炎が写ったそうだ。  やがて、東の空が白んできた。  午前五時、鹿島灘に|閃《せん》|光《こう》が走った。閃光は白熱した光の筋となって見る間に天を指してのぼっていく。そして、核特有のキノコ雲が無気味に傘を開いた。見る見るキノコ雲は幾重にもかさなっていく。鹿島灘は真昼のように明るくなった。  そして、轟音を二百キロ以上離れているこの石鯛島でもはっきり聞くことが出来た。衝撃波でガラス窓が震える。  四人は双眼鏡で、現実のものとは思えない光景に見とれていた。やがて陸から吹きつける風でキノコ雲が外洋のほうに崩れていく。水島が|安《あん》|堵《ど》の|溜《ため》|息《いき》をついた。  長谷見がラジオのスウィッチを入れた。 「——東京は大混乱……パニックにおちいりました!……水素爆弾……予告は本当でした!……日立方面の被害はいかほどでしょうか……こんな、神を怖れぬ仕業が許されていいのでしょうか?……」  アナウンサーは恐怖に舌がもつれていた。     楽園      一  駿河湾の先にある、北緯三十×度、東経百三十×度の、日本領海と公海の境い目に向けて、新田子の浦港から土砂やセメントなどを満載した輸送船団の列が続いた。  政府がチャーターした船だ。核爆発の威嚇に屈した政府は、水島たちの要求通りに、淡路島の三倍の面積を持つ人工島を作りあげる羽目になったのだ。  水島たちの要求は、ただの平らな島でなく、山あり谷ありの複雑な地形の島を作れ、というものであった。  したがって、|厖《ぼう》|大《だい》な金がかかった。増税しては暴動が起きる危険性が大きかったので、政府はやむなく、第三次防衛計画の予算のうちから、二兆円以上を人工島建設費に廻さなければならなかった。自衛隊員の多くが、人工島建設に労力を提供させられた。  二つの|大《だい》|桟《さん》|橋《ばし》を持つ広大な人工島が、ほぼ完成したのは、一年間が過ぎてであった。島には湖や川などが作られ、山には植林までされていた。白い砂浜もある。  それだけでなく、島には舗装道路が走り、港の近くには、二十のマンモス・ホテルを含んだ一つの町さえも出来ていた。無論、発電所も作られている。地表上の町の下には、|蟻《あり》の巣のような地下街を作らせた。水島たちが、政府に追加要求して作らせたのだ。  水島は、完成間近い人工島を、天体望遠鏡を使って石鯛島から監視しながら、ポラリスの核爆弾が水戸沖五十キロで爆発してからの日本の混乱状態を思いだした。  西風のせいで、放射能をたっぷり含んだキノコ雲が外洋に押し流され、日本に死の灰が降らずに済んだので、水島たちは後味の悪い思いをしないでもよかった。  核爆発が直接の原因で死んだ国民はいなかった。しかし、鹿島灘沿岸の人々は、恐怖に|駆《か》られて家を捨てて他県に逃げこんだ。  それに、関東一円の市民たちは、死の灰を怖れて、一週間のあいだ、よほどやむを得ない場合のほかは外出を控えた。したがって、公共の交通網と産業活動は|麻《ま》|痺《ひ》した。暴動が起らなかったのは放射能に対する恐怖から、みなが家に閉じこもったからかも知れなかった。  核爆発が起った直後、閣僚とその一家どもは放射能よけをつけた公用車に乗って、都内某所の地下にある水爆シェルターに逃げこんだ。そこには、たとえ全国民が死んでしまっても、五十年間のあいだ潜ったままで首相と閣僚の家族が生きのびていけるだけの空気と食糧が準備されている。  首相とその一族は真っ先に、水爆シェルターの要塞に逃げこんでいた。ただちに会議が開かれ、水島たちの要求に応ずることが決定された。  自分たちだけが生き残ったところで、権力の振いようが無いことに気付いたのであろう。決定は、ただちに全マスコミを通じて発表された。マスコミの取材マンだけは、|廃《はい》|墟《きょ》のようになった街を歩きまわっていた。  核爆発は鹿島灘の魚類に大きな被害を与えたが、汚染された海も、半月もたつと、放射能は許容量を下廻った。  人工島の完成を待つあいだ、水島たちは女狩りにとりかかっていた。人工島に女が必要になってくるからだ。  水島たちは、まず、銀座にある超一流のクラブ“|瞳《ひとみ》”を乗っとることにした。 “瞳”のマダム中原典子のひそかなパトロンは、引退した高利貸しの大崎金平であった。大崎のことを調べていくうちに、大崎自身も金になることが分った。  若くして土木請負業で財をなした大崎は、戦中から戦後の混乱時代に、あくどい|儲《もう》け仕事にすべて手を出し、今から十五年前にすでに五十億の財産を築いていた。  それからの大崎は高利貸しに転業し、蓄財を五倍以上に殖やした。そして、三年前に高利貸し廃業の宣言をして、貸してあった金をすべて回収した。  大崎は、銀行を信用しなかった。回収した二百億を越える金は、すべて現金にして、杉並善福寺にある大崎御殿に作った地下金庫室に貯えてあった。  大崎に妻子はいない。若い頃から、悪質な病気で精子の製造能力を失っていた大崎は、毎年新橋や赤坂の芸者を|落籍《ひ か》して|同《どう》|棲《せい》しては別れていたが、高利貸しを廃業して悠々自適の生活に入ると、常に十五、六人の若い芸者をはべらせて、ハーレムの王様気取りの毎日を送っていた。  ホステスをしていた中原典子と知りあったのは五年前であった。典子は、自分のほうから大崎に身を投げだしてきた。  例によって御殿に典子を引き入れた大崎は、典子が商才にたけていることを見抜き、クラブ“瞳”を開店させた。クラブの権利書は自分が握り、典子には利益の三分の一を与えている。  今年六十歳になる大崎は、何としてでも、あと三十年は生きる積りであったから、三人の主治医を抱え、性生活をのぞいては、臆病なほど自分の体を大事にした。病気による死を予防するだけでなく、暴力による死に見舞われないように、九人のボディ・ガードを|傭《やと》っている。  大崎はまた、自分の死後に残された者がどうなるかについて、まったく関心が無かった。自分のために全世界が存在するのだ。自分が死んだら、この世界は無だ。だから大崎は、自分が死んだあとは、金庫室の札束は焼却するようにという遺言状を弁護士に預けてあった。      二  大崎御殿は善福寺池の林に接していた。三千坪の敷地は武蔵野の自然の面影を残し、|数《す》|奇《き》をこらした庭には、|湧《わ》き水を利用した広い池がある。  鉄筋コンクリート平家建ての母屋は、延べ四百坪ほどだ。地下金庫室には、大崎の寝室の床の間の掛軸の裏側についた隠し扉から出入り出来るようになっている。  大崎の寝室は、母屋の中央にある。大崎は寝るときにはいつも、十五、六人いる|妾《めかけ》のなかから交代に二人を|択《えら》び、その二人のあいだにはさまれて眠る。寝室を囲む四つの部屋には、カービン銃を抱いたボディ・ガードが二人ずつ一組になって泊るのだ。九人いるボディ・ガードのうちの一人は交代で休みを与えられる。  水島たちは、毎日毎夜大崎に大尽ぶりを見せつけられてアタマにきているボディ・ガードたちを買収した。  その夜、二台のホロ付きトラックを大崎御殿の裏口に寄せた粕谷と片平のために、ボディ・ガードの一人である河上が扉を開いた。二台のトラックは惰力で裏庭に滑りこんだ。ライトを消す。河上が裏門を閉じた。  河上に案内されて母屋の裏口に近づいた粕谷と片平は、黄金バットの仮面をかぶった。ホールでは残りのガード・マンたちが、カービン銃を抱き、ニヤニヤ笑いを浮べて待っていた。  ガード・マンの責任者の阿部が、粕谷と片平に手を差し出した。握手が交わされ、大崎の寝室の|鍵《かぎ》が渡された。  粕谷と片平は消音器をつけた拳銃を抜いた。寝室のドアを鍵で開いて踏みこむ。午後十時であった。  |痩《や》せこけて、皮膚にシミが浮んだ大崎は、右手に小さな|刷毛《は け》を握り、仰向けになった二人の裸の女の左側のほうの|膝《ひざ》のあいだに顔を埋めている。  若い女の精を吸って、回春剤にするのも、大崎の健康法の一つだ。刷毛は右隣の女を|愛《あい》|撫《ぶ》している。  |雪《ぼん》|洞《ぼり》の淡い灯が、その怪奇な姿と派手なフトン、それに脱ぎ捨てられた女たちの|衣裳《いしょう》を照らしていた。  |闖入者《ちんにゅうしゃ》を知り、素っ裸の大崎は絞め殺されるときの鶏のような声を絞らして、床の間の非常ボタンを押した。  しかし、すでにボディ・ガードの手でその配線は切られているから、非常ベルは鳴らない。二人の女は、頭から掛けブトンをかぶって震えた。  |狼《ろう》|狽《ばい》した大崎は、床の間に飾られた日本刀に跳びつこうとした。片平の拳銃が圧し殺されたような鋭い銃声をたて、日本刀の柄に|弾《だん》|痕《こん》がついた。被弾の衝撃で、刀は壁に叩きつけられる。 「|曲《くせ》|者《もの》だ! みんな出合え!」  大崎は、大時代なわめき声を張りあげた。 「ボディ・ガードはみんな片付けた。大人しく地下金庫室に案内してもらおうか」  粕谷が言い、床の間に近づいて、薄いゴム手袋をつけた左手で、幅広の掛軸を引き外した。掛軸があった裏側の壁は、見ただけでは隠し戸と分らない。 「誰が金庫を教えるものか! さあ、殺せ。|儂《わし》を殺してから、金を取って見ろ」  大崎は呻いた。  粕谷は、その大崎を拳銃で殴りつけて|昏《こん》|倒《とう》させた。片平のほうに|顎《あご》をしゃくる。片平は、近くのフトンをめくって、顔と胸を両手で押えている女の脇腹を軽く蹴った。 「恥ずかしがっているガラかよ。このジジイが金庫室に降りていくところを盗み見たことがあるだろう? どうやって、隠し戸を開くんだ?」  と、尋ねる。 「床の間の違い棚の上棚を持って手前に引っぱると……」  女は呻いた。  粕谷は女が言った通りにした。棚は動いた。そして、かすかなモーターの音と共に、床の間の壁が後退し、地下に通じる出入口が暗い穴をあけた。  仮面の下で、片平が低く口笛を吹いた。ガード・マンたちが寝室になだれこんでくる。助けがきたと思って跳ね起きた二人の女を押えこんで縛りあげ、猿グツワを|噛《か》ませた上で、手や足の指を使って悪ふざけをした。  片平と粕谷は、気絶している大崎を地下室に引きずりこんだ。壁についた電灯のスウィッチを入れる。地下金庫室の|鉄《てっ》|扉《ぴ》にはダイアル錠がついていた。  粕谷が、大崎の|尾てい[#「てい」は「骨」+「低のにんべんをとったもの」Unicode="#9AB6"]骨《びていこつ》を蹴って意識を取戻させた。薄くなった髪を|掴《つか》んで立たせ、ダイアルを合わせるように命じた。 「嫌だ。渡すもんか。このなかの金は、儂が地獄まで持っていく金だ」  大崎は泣きわめいた。  そこで片平が西洋カミソリを取出した。大崎の皮膚を一寸刻みに切り裂いていく。しなびた男根にカミソリの刃が当ったとき、大崎はガックリと首を垂れて、ダイアル錠に手をのばした。  金庫室に積まれていた一万円札の山は、あとで数えたところでは、約二百三十億円あった。それに、大崎御殿や熱海や軽井沢などの別荘の権利書もある。バー“瞳”の権利書や典子とのあいだに交わした契約書もあった。  厖大な量の札束を運びださせるために、粕谷は大崎のガード・マンを呼んだ。救いが来たと思って狂喜した大崎は、阿部がカービンの銃口を向けてニヤリと笑うと、あまりのショックに心臓|麻《ま》|痺《ひ》を起して、二度と息を吹き返さなかった。  二台のトラックには札束と大崎の|愛妾《あいしょう》十六名が積みこまれ、大崎のボディ・ガードが同乗した。トラックは、南伊豆レジャー・アイランド株式会社が買いこんだフェリー船に、竹芝桟橋から積みこまれた。  フェリーを|操《そう》|舵《だ》しているのは長谷見だ。水島は機関室で、いまは水島たちに絶対服従を誓っている元キルラージ号乗組員が、万が一にでも|叛《はん》|乱《らん》を起さぬように見張っていた。  フェリーが沖に出ると、大崎のボディ・ガードたちは、|攫《さら》ってきた大崎の妾たちに襲いかかった。毎夜痴態を見せつけられてきたから男たちの欲求は激しかった。  粕谷たちは、それをとめなかった。どうせ、妾たちは、キルラージ号の捕虜たちの慰安婦にさせられるのだ。      三  大崎の死から半月ほどたった。  クラブ“瞳”のマダム典子は、店の事務所で、面会を申しこんできた粕谷を職業的な笑いで迎えた。二十六歳になる、一見気品のある美貌を持っている。  粕谷は無言で、“瞳”の権利書を開いてデスクに置いた。夢にまで見た権利書を目の前に見て、典子は思わずそれを引ったくった。 「いかがです?」  粕谷は微笑を浮べた。 「どこから、これを手に入れたの?」  典子は|喘《あえ》いだ。 「ある男から買ったんですよ。誰だかはしゃべるわけにはいかないが……」  粕谷は呟き、素早く典子の手から権利書を奪い返した。 「返して!」  典子は叫んだ。 「御冗談を。タダでは渡せませんね」  粕谷は笑った。  結局、その夜、粕谷と典子は、典子のマンションでベッドを共にした。そして、粕谷は権利書を典子に渡し、自分は“瞳”の経営に加わることになった。 “瞳”の人事権を握った粕谷は、大々的にホステスの募集をはじめた。“瞳”の名声と二万円の日給という条件に釣られて、よその店や喫茶店のホステス、それにデパート・ガールや女子学生たちが押しかけてきた。さすがに、あまり顔やスタイルのまずい女はいない。  粕谷は、押しかけてきた女をみんな採用した。そして、銀座一のクラブのホステスとしてのマナーと教養とプライドを身につけさすために三浦半島にある寮で一週間の教育を受けさせると称し、採用した女たちを次々にフェリーで石鯛島に送りこんだ。  石鯛島に着いた女たちは、地底ドックの空母キルラージの居住区に閉じこめられた。世話係は、軽飛行機の持主であった鈴木と毬子だ。二人とも、計り知れぬ地下王国の武装に度肝を抜かれて、まったく反抗する気を失っている。石鯛島に連れてきた女の数が五千を越したとき、粕谷は典子の前から姿を消した……。  人工島は完成した。水島たちは政府にさらに追加要求して、一万名の人口が五十年間生きていけるだけの食糧を人工島に運びこませ、巨大な倉庫や冷凍倉庫に貯蔵させた。野山には家畜や野獣を放させる。  人工島が完成してから、水島は、はじめて、空母キルラージが自分たちの手中にあることを全世界に発表し、もしキルラージにいかなる国が攻撃を仕掛けてきても、日本全土に核弾頭ミサイルのお返しを叩きこむことを宣言した。  ある濃霧の夜、石鯛島の地底のドックの口が開き、空母キルラージが幻のように滑り出た。レーダーを頼りに、人工島に向って加速していく。  空母を動かしているのは、もともとからの米海軍の乗組員であった。約千五百名のうちの大半だ。空母は五千人の女を積み、粕谷と長谷見が総指揮をとっていた。  水島と片平は、石鯛島の地底基地にあるレーダー室で、空母が攻撃を受けたときの報復のそなえをしていた。約三百名の元米海軍将兵が、ミサイルやロケット砲の発射準備をととのえている。  しかし、攻撃してくる者はいなかった。キルラージは安全に人工島の大桟橋に着くことが出来た。  三日のあいだ水島たちは石鯛島で警戒を続けた。その間に長谷見が人工島に建てさせた放送局を通じて、日本本州から三カイリ以上に位置する部分の独立宣言を行い、ユートピア共和国と名付けたことを発表していた。  三日後、水島はユートピア共和国に原子力潜水艇で渡った。そして、女たちのうちから五百名を択んで自分たちのハーレムの専属とし、あとの約四千五百名を、ボディ・ガードや元米海軍の連中に与えた。  それから数年が過ぎた。水島たちは、優秀な電子工学者を世界中から集め、石鯛島のミサイルを、ユートピア共和国からリモート・コントロールで操作する装置を完成させた。それと共に、世界中から、あらゆる娯楽設備を輸入した。山野の植物は生長し、自然動物園そのもののように野獣は繁殖した。  一九七×年、ユートピア共和国は、観光客に門戸を開いた。  そこでは、売春、麻薬、バクチ……すべて自由だ。バクチは、元米海軍将兵が働く各ホテルにカジノが付属し、売春は、あぶれた女たちが自分自身の楽しみのために行なった。麻薬は島で育ったケシでモルヒネや阿片が作られる。副作用の大きなヘロインに精製することだけは水島が許さなかった。  日本からの観光客はパス・ポートもヴィザも無しにこの国にやってくることが出来た。外国からの客もヴィザは不要だ。屋外スポーツを楽しみたい客には、有料猟区やサーキット、それに大遊園などが用意されてある。島のまわりは魚の宝庫だ。  観光客はこの国に殺到し、湯水のように金を使った。税金のないこの国に移民したいという申込みが多すぎて、断わるのに水島たちは苦労した。ただし、男を喜ばせる能力を持った女だけは無制限に移民を許可する。  地下街にあるハーレムで、二百名を越す世界各国の美女にかしずかれ、水島はこのような楽園が現実に地上に存在するようになることを、本気で考えた者は俺のほかに何人いたろうか、と唇を|歪《ゆが》めた。  しかし、楽園はいま、現実に存在しているのだ。北緯三十×度東経百三十×度上のユートピア島に……。 この作品は昭和四十二年十二月新潮社より刊行され、昭和五十二年八月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time 戦いの肖像 発行  2003年1月10日 著者  大藪春彦 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861249-3 C0893 (C)OYABU・R.T.K.1967, Coded in Japan