角川e文庫    名のない男 [#地から2字上げ]大藪春彦   目 次  |剥《む》かれた街  目撃者を消せ  平和会議  消えた|囮《おとり》  被害者を捜せ  |虹《にじ》|色《いろ》のダイア  汚れた海  裏切り|埠《ふ》|頭《とう》  |鼠《ねずみ》掃除  敗 北  燃える|覆《ふく》|面《めん》|車《しゃ》  |誘《ゆう》 |拐《かい》     |剥《む》かれた街      1  ちょっとした事件にかかわりあっていたので、私が暴力団関係を専門に取扱う、警視庁捜査四課の第二班主任室に顔を出したのは、一週間ぶりのことであった。  私は警察官ではあるが、いわゆる覆面刑事、つまり秘密捜査官という身分だ。  だから、主任の部屋に入るときでも、新聞記者のように振舞わなければならなかった。ときには、連行された容疑者の役もやらなければならない。もう少しギャラが高くないと引合わない話だ。  私の本当の身分を知っているのは、警視庁でも限られた一握りの首脳部と、四課の暴力団係の同僚の一部だけだ。  だから私の左の|脇《わき》|腹《ばら》には、いまでも、本当の私を知らない警官から射たれた弾傷の跡が残っている。  天井の扇風機が生ぬるい空気を|掻《か》きまぜている主任室で、私は報告を終わった。ヤケに|喉《のど》が|渇《かわ》くので番茶を|啜《すす》るのだが、それが、そのまま汗になっていくようだ。  気のない生返事をしながら私の報告を聞いていた主任の遠藤警部は、しゃべり疲れた私がタバコに火をつけると、 「御苦労だったな。その事件はこれで打ち切りだ。実は君に、新しい仕事をやってもらわなければならん事になったんでね」  と|猫《ねこ》|撫《な》で声で言った。 「この暑いのに、そう馬車馬のように扱わないでくださいよ。ある美人と、今週は上高地のロッジにしけこむ予定になってるんですからね」  私は冗談を言った。  主任は真面目な表情を崩さずに、 「デートは取消しだ。今度の仕事で、また新しい女が出来るかもわからんから、そうガッカリするなよ」  と、言った。 「何をやったらいいんです?」  私は|溜《ため》|息《いき》をついた。 「最近、米軍基地内の兵器庫が次々に破られて、|拳銃《けんじゅう》や実包が盗まれている。四日ほど前には、|朝《あさ》|霞《か》のキャンプ・ドレーク、昨日は所沢のジョンソン基地がやられた。盗まれた数量はいまのところ大したことはないがね」  主任は思わせぶりに言葉をとめた。 「そういえば、新聞にものってましたね。基地の|空軍憲兵隊《ユー・ビー》と|特別犯罪調査局《オー・エー・エス・アイ》と地元の日本警察が合同で捜査してるって……」  私は|呟《つぶや》いた。 「そのとおりだ。盗まれたものは仕方ないが、問題はそれがどう使われるかだ。君も知ってのとおり、いまは麻薬の需要供給のバランスが崩れて、供給量が極端に不足している。末端の中毒者に渡るときの値はインフレ相場を呈している。横浜での騒ぎがいい見本だ。ブドー糖を何倍にも混ぜたものでも引っぱりダコになっている」 「…………」 「と、いうことは、売り手から見れば、現物さえあれば大|稼《かせ》ぎが出来るというわけだ。だから、暴力団同士で、拳銃に物を言わせてでも、相手から現物を|捲《ま》きあげようと|隙《すき》を|狙《ねら》ってるわけだ」  主任は扇子でデスクを|叩《たた》いた。 「それだけ聞けば充分です。それで、私はどこに行けばいいんです?」  私は言ってタバコを|揉《も》み消した。  主任は立上がり、背後の壁にかかっている地図に向かった。今年中に犯罪の行なわれた地点にはピンが刺されている。 「東京周辺の米軍の基地は、北多摩からそれに接した南埼玉にかけて集中した立川グループと——」  主任は、立川、砂川、|福《ふっ》|生《さ》、|朝《あさ》|霞《か》、|新《にい》|座《ざ》、所沢などを竹棒で示し、それから、 「それと、|厚《あつ》|木《ぎ》、|座《ざ》|間《ま》などといった厚木グループの二つに分けられることは知ってるだろう? それに、平塚、戸塚、横須賀などの海軍が加わって日本を防衛している気だ。余談だが、これらの基地は立派な道路によって連結されている。国民はお|芽《め》|出《で》たいから、オリンピック道路だなんて言われて悦に入っているが、事実は歴然たる軍用道路さ」  と、|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めた。 「それで?」 「今度のケースを見ると、拳銃が盗まれているのは立川グループの基地だ。だとすると、地理的に一番近い新宿の連中の仕業かも知れない。しかし、横浜の連中がわざと横須賀や厚木を避けて、遠征してきているということも考えられる。そこで私は神奈川県警に問い合わせてみた」 「カンは当たりましたか?」 「さあ、どうだかな? だけど一つだけ収穫はあった。横浜の山手に勢力を張ってきた山手会の中堅幹部の村岸が、ここひと月ほど姿を隠していると報告してきた。この男だ……」  主任はデスクの上に一枚の写真を投げだした。  |手《て》|札《ふだ》判の印画紙のなかで、三十二、三歳の整った顔の男が、沈んだ目つきをしていた。眼鏡をかけてはいないが、どことなく知性的な表情をしていて、少しもヤクザ臭くない。 「前科はない。人の一人や二人は殺したことがあると|睨《にら》んでるんだが、うまく立廻ってボロを出さないんだ。趣味もなかなか渋いらしい」  だるそうな主任の声が耳に入ってきた。      2  その日の夕方、私は目立たぬ外観の茶色のブルーバードを運転して、立川を抜け、福生に向かっていた。  夕方の五時だというのに、八月の|陽《ひ》は高く、アスファルトの強烈な照り返しは、サン・グラスをかけていても|目眩《まぶし》いような気がする。交差点の赤信号でとまるごとに、車窓から吹きこんでくる熱気で汗が吹きだしてくる。  それでも私は、かたくなにクリーム色の上着を脱がなかった。その下には拳銃を|吊《つ》っているからだ。助手席に置いたソフト帽のなかには、細身の軽いナイフが隠されている。  六十二年型のその車は、ある陰惨な犯罪に使われて没収され、競売に出されたが買い手がつかなかったのを、警視庁が安く手に入れたものだ。しかし、ほとんど私専用と言ってもよく、それに私が機会あるごとにスピード・ショップに持ちこんで機関部を改造してあるから、加速のよさは抜群だ。百二十馬力にチューン・アップしたエンジンとクロース・レイシオの五速ギアの組合わせで、発進から百キロに達するまで十秒を切る。  |昭《あき》|島《しま》を過ぎ、|拝《はい》|島《じま》で車は国道十六号に出た。二級国道百二十九号が昇格したのだ。道行く車の数は数えるほどになった。  拝島の外れで|青《お》|梅《うめ》|線《せん》の踏切りを渡ったところから途端に素晴しい舗装だ。車輪を伝わってくるコンクリートの感じから、戦車が通れるように造ってあることがわかる。日米行政道路なのだ。  道はト型に分かれ、右側は砂川に通じている。私は直進し、車のスピードを上げていった。このあたりから看板はほとんど英語だ。  すぐに右手に横田基地が見えてきた。白い|鉄《てっ》|柵《さく》に白い金網を張り、立入禁止の札をぶらさげた広大な基地が。日本人ガードが拳銃を吊った一番手前のナンバー・3ゲートあたりは、道路をはさんで兵隊と家族向けの店が並んでいる。自転車に乗った娘やショート・パンツの女が原色を振りまき、駐留車ナンバーの車が行き交う。  次のゲートは#3だ。基地の柵には目かくしが続き、道をへだてた左側は官舎だ。  最後のゲートがナンバー1だ。左手にはジャパマ・ハイツと水耕農場、右手の基地は倉庫の並びに続いて、見渡すかぎりグリーンのヤケに広い飛行場だ。戦闘機から重爆にいたるジェット機が金属音と連続する砲声のような|轟《ごう》|音《おん》と地響きをたてて、ほとんど二、三分置きに発着する。  柵の横ではダンプ・カーのアンチャンや修学旅行のバスまでがとまって、生々しい緊張感を伝える光景に見とれている。  私はこの行政道路を幾度となく往復して、建物の配置をよく頭に叩きこんだ。  第三ゲートのそばを車を走らせているとき、道の脇でオンリーか洋パン風の女が三人、海水着に近い格好で立話をしているのに目をとめた。  私は彼女等の脇をすれすれに車をかすめさせた。 「何すんのさ!」 「目が|眩《くら》んだのかよ?」  女たちは野卑な|罵《ば》|声《せい》をあげた。  私は急ブレーキをかけて車をとめると、乱暴にバックさせた。  女たちは強がりを言っていても、|怯《おび》えた表情を見せた。 「済まなかったな……ちょっと尋ねたいんだが、このあたりで一番面白く遊べる店はどこだろうな?」  私は愚問を発した。  女たちは、ホッと体の力を抜いたようだ。顔を見あわせていたが、右端の黄色いショート・パンツに腹を露出させたブラウスの女が、 「そうね。クラブ“サヨナラ”なんかどうかしら? 面白いかどうかわかんないけど、ここでは一番高級だわね」 「どこにあるんだい?」 「あんた、この町ははじめてね?」 「そうなんだよ。案内役が欲しいところだ」  私は言った。実は、二年ほど前に一週間ほど滞在したことがある。 「“サヨナラ”は、そうね、東福生と福生の中間ぐらいにあるわ。もとは将校クラブだったんですけど、今は日本人も入れるのよ。そこで、あたしの妹分の千津子が働いてるから、寄るようなことがあったら、呼んでやってね。ミッチーから聞いたといえばわかるわ」  女は言った。  礼を言って、私は車を走らせた。あまり広いとも言えぬ福生の町を丹念に見て廻って、二年前の記憶を呼び起こしてから、クラブ『サヨナラ』に入った。午後の八時であった。  多摩川と道をはさんで建つそのクラブは、以前私が|覗《のぞ》いたときには、『ハッピー・ホテル』という名前であった。数千|坪《つぼ》の庭園のなかに、クラブ自体とホテルが同居していて、金曜の夜の給料日から日曜にかけては、空軍将校たちが乱痴気騒ぎをやっていたものだ。  ネオンを|蔓《つる》バラで飾ったアーチをくぐると、そこが駐車場になっていた。EやFナンバーの車にまじって日本ナンバーの車もかなり見受けられるのは時代が変わったせいか。  私は駐車場に、見すぼらしい外観のブルーバードをとめた。もっとも、アメリカ人は車の外装にかまわないから、キャデラックにしても、ぶっつけた傷をそのまま放ったらかしにしている。  駐車場から芝生を五十メートルほど歩いたところに、クラブの建物がある。左手の林のなかに頭を|覗《のぞ》かせているのがホテルだ。  ボーイに迎えられてクラブに入ると、内部は極端に薄暗かった。三十ほどあるテーブルにはランプを模した豆電灯が淡い光を放ち、それが客の額とグラスや皿だけを鈍く照らしている。  ステージでは、わずかにスキャンティでおおった局部を誇らしげに突きだして電気マッサージ機のように腰を振る混血女の|股《また》のあいだを黒人がかいくぐるリンボー・ダンスのショーをやっていた。  私は|隅《すみ》のカウンターに腰をおろし、キャナディアン・ウィスキーの水割りを注文して、まわりをさり気なく見廻してみた。  客は黒人をまじえた米人が三分の二、残りが東洋人といったところだ。彼等の相手をしているのは同伴の女とホステスが半々のように見えた。  目ざす村岸の姿は見当たらない。しかし、遠藤主任から高級な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を好む村岸の趣味を聞いている私は、彼がこの店に姿を現わすであろうことを直感していた。      3  カウンターで水割りを五杯|空《から》にしたが、村岸は姿を見せなかった。バーテンにカマをかけてみようとも思ったが、あわててもマズい結果になるから、ダイスを転がしたりショーを|眺《なが》めたりして時間を|潰《つぶ》した。  そのうちに、ちょっとしたことに気付いた。カウンターと従業員の出入口のあいだに、分厚いカーテンで仕切られた戸口があり、そこに入っていった客は、アルコールよりもっと強烈なものに酔ったような様子で戻ってくるのだ。  私はトイレに立つふりをして、そのカーテンをくぐった。途端に目の前に、ボーイの制服を着ているがヤケに図体の大きな男が二人立ちふさがっていた。彼等の肩越しに地下に通じる階段が見える。 「どちらにいらっしゃるおつもりで?」  彼等の一人が薄ら笑いを浮かべて、|馬《ば》|鹿《か》|丁《てい》|寧《ねい》な口調で尋ねてきた。 「トイレを|捜《さが》してるんだ」 「トイレなら、あちらでございます」  男は私の|瞳《ひとみ》から視線を離さずに説明した。  私はもっともらしい顔でうなずいてから本当のトイレに行った。  カウンターに戻ると、バーテンたちが|胡《う》|散《さん》|臭《くさ》そうな表情で私を見た。私はテーブルに移り、 「千津子を呼んでくれ」  と、ボーイに言った。  呼ばれてきたホステスの千津子は、外人好みの丸顔をしていた。ムーン・フェイスというところだが、私から見れば金魚が|麩《ふ》を|頬《ほお》ばっているような感じだ。私の好みの女ではない。 「今晩は。ここは、はじめて?」 「ああ、君の姉さん株のミッチーから聞いたんだよ。君は聞きしに|勝《まさ》る美人だな」 「光栄……何をお飲みになる?」 「キャナディアンと、腹がへったからステーキを頼もうかな」  私は言った。  二人はくだらない会話を交した。私はわざとライターを床に落とし、それを捜すふりをして、千津子のスカートのあいだを覗いた。|暗《くら》|闇《やみ》でもある程度までは視力がきくように訓練した私の目は、彼女の内股についている幾つかの注射針の跡を認めた。  やがて、十一時のショーがはじまった。ウィーンから亡命してきたと称する三十女が二人、全裸に近い格好で、白々まがいの演技をはじめた。  千津子がそれを見つめているとき、私は彼女のビールグラスに、ヘロインを〇・五グラムほど落とした。麻薬捜査のとき|囮《おとり》の役をやるために、私はいつも財布の二重底のなかにヘロインを少量用意してあるのだ。  ショーが終わった。|喉《のど》が|渇《かわ》いたらしい千津子は、グラスのビールを一息に飲み干した。ビール自身が苦いので、ヘロインの味には気がつかなかったらしい。  しかし、普通中毒者に渡る一包は○・○二から○・○四グラムぐらいだ。それも半分以上は混ぜものがしてある。注射でなくて胃から吸収されたとはいえ、私のヘロインは、急激に千津子の体に効果をあらわした。  彼女の瞳は|潤《うる》み、顔色に|艶《つや》が増した。陶然とした表情だ。 「どうだい、ここを出て、どっかで休まないか?」  私は単刀直入に切りだした。 「いいわ——」  千津子は意外なほどアッサリとうなずき、ボーイを呼んで、 「お勘定して、それから、悪いけど、ちょっと外に出てくるとマネージャーに断ってきてよ。それと、あたしのハンドバッグを頼むわね」  と|囁《ささや》いて、ロッカーの|鍵《かぎ》を渡す。私はそのボーイにチップをやった。  勘定書きは一万円を少し越えていた。私に腕をからませてクラブを出た千津子の|足《あし》|許《もと》はフラついていた。 「ねえ、どうしたわけか、急に体が燃えてきたわ。あそこで休まない?」  千津子は、林の奥のホテルを|顎《あご》で示した。麻薬患者も、初期のうちは、麻薬に酔うと肉欲が高まる。 「気に入った。ミッチーに感謝するよ」  私は鼻の下を長くして見せた。任務のためには、女の好き|嫌《きら》いを言っていられない。  ホテルは三階建てだ。フロントの|禿頭《はげあたま》のクラークに千津子が、頼むわ、と言うと、クラークは黙って|鍵《かぎ》を渡してよこした。  部屋は二階の外れであった。壁やドアにシミがついている。 「黒人の仕業よ。白人はダメ。黒人の強いったら、金曜から日曜の晩まで何も食べないでウィスキーだけで過ごす|奴《やつ》もザラにいるのよ。そうして、一時も女の体を離さない。抱いたまま走りまわる奴がいるんで、ときどきすっぽ抜けちゃって、ドアにシミをつけちゃうってわけ」  自分からベッドに寝転がって、もどかしげに服を脱ぎ捨てながら、千津子は説明した。しかし、裸になった腰から下を毛布でおおうのは、内股の注射のあとを見られたくないためか。 「そいつはかなわんな」  私は調子を合わせ、自分も服を脱いだ。任務のためには仕方がない。|腋《わき》の下にホルスターで吊った拳銃は、千津子の目をさけて、上着のなかに包みこんだ。ホルスターには|予《よ》|備《び》|弾《だん》|倉《そう》を入れるポケットがついている。  ベッドで千津子と並んだ私は、手で千津子を刺激しながら、 「村岸がこの|頃《ごろ》、さっきの店に顔を出していると聞いてるんだが」  と、言ってみた。 「村岸? お客さんの名前を一々覚えていられないわ——ちがうったら、もっと下のほうよ」  千津子は体をくねらせた。 「そうだな、年は三十二か三。ハンサムだが、瞳が暗い。インテリ臭いところもあって、君たちにもてそうな男だ」 「じゃあ、山村さんだわね。きっと、そうよ」 「|俺《おれ》は奴と、横浜で一緒に仕事をしたことがあるんだ」 「じゃあ、ますます山村さんよ。あの人、横浜のことを話してくれたことがあるわ」 「奴は、ここで何をやろうとしているんだ? うまい話なら、一口乗せてもらおうと思ってるんだが」 「さあ……」  千津子は表情を|硬《こわ》ばらせた。  私は彼女から離れ、財布の二重底から、〇・五グラムほどのヘロインの包みを出した。それを開いて、 「これが何だかわかるだろうな。純粋の混ぜもの無しだ」 「|頂戴《ちょうだい》!」  千津子はベッドの上に|坐《すわ》った。 「じゃあ、さっきの質問に答えてくれよ」 「あたしも、本当のことは知らないのよ。でも、何のためか知らないけど、バーテン連中に、アメさんとコネをつけてくれるように頼んでたわ。それはうまくいったらしいわね。この頃、山村さん、ジョニー・モーランという将校と一緒に遊び歩いているわ」 「そうか。ところで、ついでに聞くが、君は|薬《ヤク》をどこで手に入れてるんだ?」 「それは|駄《だ》|目《め》。死んでも言えない。しつこく|訊《き》いたりしたら、大声で人を呼ぶわよ。そうしたら、あんたには気の毒なことになるわね。クラブは用心棒をダテで飼ってるわけではないんですからね」  千津子はせせら笑った。 「わかったよ。君の勝ちだ。こいつを約束どおり進呈する」 「サンキュー」  薬包をもどかしげに受取った千津子は、ハンド・バッグを|掴《つか》んでトイレに消えた。  五分ほどしてトイレを出てきた千津子の足はふらついていた。ベッドに体を投げだすと同時に、ヨダレを垂らして眠りこんだ。  私がその胸をひっぱたいても、千津子は目を覚さない。薬がききすぎたのだ。私は溜息をつくと服を着こみ、ドアの横にソファを寄せ、その上に横たわって目をつぶったが眠れそうもない。      4  二人の料金を帳場に払って、私はホテルを出た。まだ午前零時であった。  クラブ『サヨナラ』は、まだ営業していた。私は再びクラブのカウンターで村岸を待ったが、午前二時の閉店時間になっても、|奴《やっこ》さんは姿を現わさなかった。  勘定を払ってクラブを出た私は、ブルーバードに乗りこんだ。どこに行く当ても無かったが、しばらくのあいだ深夜の軍用道路で車を百五十キロの速度でブッとばした。空軍警察のパトカーが巡視しているのにぶつかったが、私の車は日本ナンバーだから何も言われなかった。  車を飛ばしているうちに、いつの間にか|狭《さ》|山《やま》の近くの武蔵町に入った。ジョンソン基地の兵隊目当ての安ホテルが見える。アベックでないので敬遠されたが、私は一軒のホテルの一番安い部屋でベッドにもぐりこんだ。  |轟《ごう》|々《ごう》と響く地響きで目を覚ました。昼近くであった。窓の下の道路を十トン積みの巨大な米軍トラックが五十台ほどつながって疾走していた。  福生に戻ったのは、午後の一時過ぎだ。私は気のきいた体裁のレストランや喫茶店を廻って、ボーイやウェイトレスに、山村と会いたいのだが、と訊いてまわった。クラブ『サヨナラ』で、村岸がそう名乗っているからには、この町での村岸は山村ということになってるのだろう。  東福生の駅前の、喫茶店とバーを兼ねた『エルモ』という店のマネージャーが、村岸はクラブ『サヨナラ』の近くの民家を借りていると教えてくれた。一人だけでなく、部下を二人ほど連れてきているらしい。  礼を言って私は店を出た。車を走らせる途中の草原で、胃のなかで|渦《うず》|巻《ま》いているコーヒーやジュースを|吐《は》き捨てた。  村岸が借りているという家は、すぐに見つかった。家主がオンリー向きに建てたらしく、こぢんまりとしているが洋風の二階建てで、前庭は芝生になっている。  窓にはブラインドが降りているので、室内の様子はわからない。ガレージの|扉《とびら》も閉まっている。私は一度そこを離れ、肉屋に寄ってサラミ・ソーセージを数本買い求めて、村岸の借家のところに戻った。  そこから三十メートルほど斜め前の場所に、雑草がまばらに生えた空き地がある。私はそこに車をとめ、村岸の借家を見張った。  退屈な時が流れた。腹がへってきたので、固いがコクのあるサラミをかじった。|噛《か》みしめるごとに精力がついてくる気がする。三十分ほどかかって二本平らげた。  村岸の家の表戸が開いたのは、ようやく薄暗くなってきた七時頃であった。二十二、三歳の若い男が、ガレージの扉を開き、東京ナンバーのセドリックを前庭の芝生に出した。  家のなかから、目ざす村岸が出てきた。グレーの背広をつけている。セドリックの後部座席に乗りこんでタバコをくわえる。  セドリックは発車した。それが角を曲ってから、私もブルーバードを発車させ、あとをつけた。  都内と違うから、尾行は楽のようだが、かえってむずかしい。都内ならば、あいだに三、四台の車をはさんで|楯《たて》と出来るのだが、交通量の多くないこの町では、まともに|尾《つ》|行《け》て行かないといけないから、気付かれる怖れが充分にある。  村岸たちのセドリックが東京ナンバーなのは、神奈川ナンバーだと目立つからであろう。セドリックは、横田基地の前の軍用道路に出た。  基地のナンバー3ゲートと#3ゲートのあいだの向かいに、『陳の店』というスナック・バーがある。セドリックは、その前にとまった。私も、三、四十メートル離して、ブルーバードをとめた。  セドリックは、半時間ほど動かなかった。私は|苛《いら》|々《いら》してきた。  八時を過ぎかかったとき、ナンバー3のゲートから、ポンコツに近いほど傷だらけのビュイックが出てきた。村岸のセドリックのうしろにとまった。  村岸が車のドアを開いた。ビュイックから降りた制服姿の中尉が、素早くセドリックに乗り移った。  若い男の運転するセドリックはスタートした。行き先はクラブ『サヨナラ』だろうから、私は大分距離を置いて、あとをつけた。  思ったとおりだ。セドリックは『サヨナラ』の蔓バラとネオンのアーチをくぐった。  私はわざと五分ほど間をおいて、クラブの駐車場にブルーバードを乗りいれたが、その前に腋の下からホルスターをはずし、小型で非常に軽量のベレッタ〇・二五口径自動拳銃モデル九五〇を、ズボンの|裾《すそ》をまくって|臑《すね》にくくりつけておいた。  ホルスターは車の座席の下のスプリングのあいだに突っこんだ。拳銃の携帯証明や警察手帳は持ち歩かない。仕事の性質から言って、やむをえないことであろう。  ブルーバードを降りた私は、クラブの建物のほうに歩こうとした。村岸のセドリックは右側のフォード・サンダーバードの向こうに見える。  私が二、三歩あるきかけたとき、サンダーバードの|蔭《かげ》から、二人の男が立上がった。私の前とうしろから近寄ってくる。  前方から私に迫ったのは、セドリックを運転していた男だ。コルト四五口径の軍用自動拳銃を握っていたが、それは細い手とくらべて、グロテスクなほど大きく見えた。 「動くんじゃないぜ。わざわざ、|尾《つ》|行《け》てきて御苦労だったな」  男は低く|圧《お》し殺した声で言った。  背後の男が、私の腰骨の上に硬いものを突きつけた。信じたくはないが、銃口であろう。 「物騒なものは仕舞ってくれよ」  私は答えた。 「うるせえ。両手を首のうしろに組むんだ。そっとだぜ」  若い男は命じた。まだコルト軍用拳銃の撃鉄を起こしてない。  その男が親指で撃鉄を起こしてから引金を絞るまでに、殴り倒すことは出来そうだと思った。だが私は、|大人《おとな》しく両手を首のうしろで組んだ。村岸をおびき寄せなければならない。 「よし、歩け。まず左手の林に入って、あとは奥に奥にと入っていくんだ」  若い男は言って、私の背後に廻りこんだ。  二丁の拳銃に狙われて、私はのろのろと歩きだした。  ホテルの横手を通って、広大な裏庭を奥に入っていった。  林のなかに|築《つき》|山《やま》もあれば池もあったし、小川には|太《たい》|鼓《こ》|橋《ばし》がかかっていた。ところどころに淡く常夜灯が青い灯を投げ、木戸の緑を幻想的に染めていた。 「とまれ!」  という命令を私が受けたのは、|滝《たき》|壺《つぼ》のほとりであった。岩を|噛《か》む水流と|泡《あわ》が、かなりの音をたてていた。  そこではじめて、私はもう一人のほうの男の顔を見た。四十近い、二世風のキザな男で、髪をベッタリと|撫《な》でつけている。  その男は、若い男に耳打ちすると、もと来た小路を引返していった。戻ってきたときには村岸を連れていた。      5 「|俺《おれ》を|捜《さが》してたそうだな。どこの誰だか知らんが、御希望どおりに参上したぜ——」  村岸は|嘲《あざ》|笑《わら》い、若い男に|顎《あご》をしゃくって、 「安西、服を調べろ」  と、命ずる。  右手で拳銃を構えたまま、無遠慮に私の体を|這《は》いまわる若い男安西の左手の動きを、私は|我《が》|慢《まん》した。  安西は、私がソフトに隠したナイフも、ズボンの下の拳銃も見つけることが出来なかったが、財布と運転免許証入れを捜しだした。  それらを受取った村岸は、なかを調べていた。ニヤリとして、 「|鮎《あゆ》|川《かわ》さんと言うのか? 俺に何の用だね」  と、免許証に書かれた私の偽名を言った。私の名は任務によって変わる。 「言え! この庭は広い。五千坪あるんだ。ここで拳銃をブッ放したって、クラブの連中には花火の音ぐらいにしか聞こえねえ——」  安西が|威《い》|嚇《かく》し、 「鉛の弾が嫌いなら、うしろの滝で泳がしてやってもいいんだぞ」 「そう|凄《すご》むなよ。俺はただ、一稼ぎしたかっただけだ、仲間に入れてもらってね」  私は笑った。 「冗談言うなよ。俺たちと一緒なら、なんで一稼ぎ出来るんだ」 「実は、俺はここのクラブを狙ってる。あそこの地下室で薬の取引きがされてることを知ってるだろう?」  私は推理を根拠にハッタリをきかせた。 「それが、どうしたってんだ。俺たちに関係ないことだぜ」  村岸は言った。 「ところが、関係あるようになるのさ。俺一人であそこを襲うのは自信ないからな、あんた等に手伝ってもらおうと思ってね……横浜の会長だって、あんたがゴッソリと薬を運びこんできたら大喜びだ。どうだい、成功したら山分けでは?」 「口のよく回る奴だ、少し痛めつけてやれ」  村岸は安西に命じた。  安西は無造作に、私を拳銃で殴りつけようとした。私は安西の手首を力まかせに捩り折ると、悲鳴をあげる体を、|滝《たき》|壺《つぼ》のなかに|蹴《け》り落とした。絶叫と水しぶきの音が交錯した。  私は奪った拳銃の遊底を一度軽く聞いてみて|装《そう》|填《てん》されてあることを確かめ、銃口を村岸に向けて、 「まず、あんたの腹に一発叩きこんで試してみるかな。ここでの銃声は外に聞こえないとか言ってたな」  と、鼻を鳴らした。 「悪かった、謝まる。実は俺たちはアメリカ兵からかなりの数量の拳銃を売ってもらうことになっているんだ。と、言っても、手引きしてもらうだけだが……どうだ、あんたも一口乗らないか?」  村岸は言った。 「稼ぎになることなら、何でもやるぜ——」  私は拳銃の撃鉄を静かに倒して撃鉄安全をかけ、 「俺にも一口乗らせてくれよ。そうと話が決まったからには、さっきの兄さんには悪いことをしたな。あんた、助け上げてやってくれ」  と、二世風の男に笑いかけた。  村岸が財布と免許証入れを私に返してくれた。私は滝壺から這い上がろうともがく安西を眺めるふりをしながら、コルト四五の遊底を少し引き、遊底前面と銃身とのあいだに砂利をはさみこんだ。これで遊底はわずかながら後退したままの位置にとどまるので、|分離子《ディスコネクター》が働いて、引金を引いても|空《から》|廻《まわ》りするようになる。たとえ撃発したとしても、遊底が閉鎖してない状態で高圧がかかるから、銃は|炸《さく》|裂《れつ》する。  声高に|罵《ののし》るズブ|濡《ぬ》れの安西を連れて、二世風の男が戻ってきた。 「済まなかったな。これをお返しするぜ」  私は細工したコルトを安西に渡した。  それを掴んだ安西は、素早く撃鉄を起こして私を|射《う》とうとしたが、村岸の鋭い制止にあって撃鉄を戻した。 「仕事は今夜だ。手引きのアメさんの憲兵は夜勤で十時にゲートのなかに戻る。その時、あんたと安西は奴さんの車のトランクのなかに忍んで一緒にゲートをくぐってくれ。俺と市川は、柵の外で待つ」  村岸は言った。市川というのは二世風の男のことだ。  腕時計を覗くと、午後の八時五十分を過ぎていた。私たちは駐車場のセドリックに戻り、村岸だけがクラブのなかに入っていった。私は警察に連絡したいのだが、安西と市川がぴったりとくっついているので下手に動けない。  半時間ほどして、村岸は先ほどの将校とセドリックにやってきた。これがジョニー・モーランらしい。酒に強いらしく、見ただけではアルコールが廻っている様子はないが、そばに来ると、強烈なジンの|匂《にお》いがした。市川が滑らかな英語で紹介する。  ゲートとゲートのあいだの向かいに|駐《と》めてあるジョニーのビュイックに、安西と私は移った。ジョニーは空き地に車をまわし、うしろのトランクを開く。そのなかにやっと私と安西はもぐりこんだが、安西はセドリックから持ってきた|南京袋《ナンキンぶくろ》と大型のカッターを運びこんだ。  ビュイックは発車した。トランク室の角や|蓋《ふた》に体が叩きつけられる。苦痛が限界に達したかと思われた頃に車はとまり、トランク室の蓋が開かれた。  私と安西は、夢中で車の外に這いだした。私がトランクの蓋を閉じると、ビュイックは走り去った。  右側に、ブリキ張りで偽装した銃砲倉庫や弾薬庫が並び、そのあいだの空間にはドラム|罐《かん》が積まれている。電信柱にはサイレンのスピーカーが大きな口をあけ、夜空は続々と飛びたつ飛行機の|轟《ごう》|音《おん》で絶えず震動していた。  カッターをかついだ安西と、南京袋を抱えた私はドラム罐の山の蔭に一度身をひそめた。安西が薄い手袋をつけるので、私もいつもズボンの|尻《しり》ポケットに用意しているゴム手袋をつけた。指紋を残さぬためだ。  銃砲倉庫の二重扉の南京錠を切断するのだけは骨が折れたが、分厚いコンクリート壁に囲まれた倉庫のなかに、鎖でつながれた無数の拳銃を見たときは溜息が漏れた。安西は、鎖を切断しては拳銃を南京袋に入れていった。  だが一丁で一キロほどの重量があるコルト軍用拳銃は、そう欲張ってもかつげない。安西は仕方なく、一つの南京袋に三十丁ずつ詰めこむことで我慢した。しきりに時間を気にしているのは、もうすぐパトロールが廻ってくるためであろう。 「出発だ!」  低く|囁《ささや》いた安西はカッターを捨て、南京袋の一つをかつぐと、よろめきながら歩きだした。私も、もう一つの拳銃入りの南京袋をかついで、あとを追う。  建物の蔭を選び、|遮《しゃ》|蔽《へい》|物《ぶつ》が無いところではワニのように這って、二人はやっとのことで柵のところにたどりついた。  柵にセドリックを寄せた村岸たちは、柵の|鉄《てつ》|枠《わく》と金網を別のカッターで破って、脱出口を作ってあった。  こうなれば、私一人で逮捕するほかなかった。私はつまずいたふりをして|片《かた》|膝《ひざ》をつき、|臑《すね》にくくりつけたベレッタ拳銃をポケットに移した。  そのとき、先に柵をくぐって道路側に出ていた安西が、市川に南京袋を渡すと、私のほうを振り向いた。右手に拳銃が握られている。 「気の毒だが、一人で罪をかぶって死んでもらうぜ」  村岸がニヤニヤした。 「くたばれ!」  安西は私が細工してあると知らずに引金を絞った。引金はむなしく空転しただけだ。私は南京袋を捨て、尻ポケットからベレッタを抜くと発砲した。右腕を射ち抜かれた安西は拳銃を放りだし、絶叫をあげて転げまわる。  私は柵の外に抜け、|茫《ぼう》|然《ぜん》としている村岸と市川を柵のなかに追いこんだ。|苦《く》|悶《もん》する安西も、南京袋と一緒に柵のなかに投げこんだ。  私は村岸たちの足許に向けて拳銃を乱射した。村岸と市川は悲鳴をあげ、転げるように基地の奥にむけて走りだした。 「兄貴、見殺しにしないでくれ!」  |芋《いも》|虫《むし》のように這いながら、安西が啜り泣く。私はセドリックに乗りこんだ。エンジンにキーは差しこんだままだ。  セドリックの横腹を柵の破れたところに押しつけて私は車から降りた。これで奴等は出口無しというところだ。  基地のなかからサイレンが重々しく|吠《ほ》えはじめ、サーチライトが|皎《こう》|々《こう》と輝いた。袋の|鼠《ねずみ》となった村岸たちを|威《い》|嚇《かく》射撃する銃声が派手に響いてくる。  私は素早く通りを横切った。クラブ『サヨナラ』の地下室をめがけて歩いているうちに深夜営業のレストランを見つけた。私はそこで電話を借り、本庁にダイヤルを廻した。     目撃者を消せ      1  九月とは言っても、残暑はきびしかった。  しかし、|陽《ひ》が落ちると秋の気配を感じることの出来る季節だから、私のようにいつも上着をつけてなければならない商売の者にとっては大助かりだ。上着は、|腋《わき》の下に吊った拳銃を隠すためのものだ。  その日の昼過ぎ、四谷のアパートで眠りこんでいた私は、|執《しつ》|拗《よう》に鳴る電話のベルで目を覚ました。  口のなかは汚れた|雑《ぞう》|巾《きん》をくわえているような感じで、頭の|芯《しん》がズキズキする。典型的な二日酔いだ。 「どなた?」  私はベッドに横になったまま受話器を取上げた。|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な声になるのは仕方ない。 「俺だ、遠藤だよ。そばに女でもいるのかい?」  受話器から、捜査四課第二班主任の、|猫《ねこ》|撫《な》で声が聞こえてきた。 「とんでもない。女がいるのなら、二日酔いの頭を抱えて|唸《うな》ってなんかいませんや」  私は答えた。 「そいつはお気の毒に。ちょっと話があるんだ。例のところで会いたいんだが……」 「|嫌《いや》とは言えないらしいですな。じゃあ、半時間後に」  私は電話を切った。  この八畳ほどの広さの、バス・トイレつきの一室が、私のアジトだ。このアパートでの私は竹田という名にしてある。電話は直通だが、その登録名も竹田になっている。電話は、本庁が電話局に手を廻して連絡用につけてくれたのだ。  私は裸になった。部屋の|隅《すみ》のキッチン・コーナーのガス・レンジにコーヒーのポットを掛けておき浴室に入った。冷たいシャワーを浴びて三分ほど震えていると、頭痛は我慢出来る程度にまでおさまってきた。  それから二十分後——私はエンジンをチューン・アップしたブルーバードを、平河町の奥にあるレストランの前に駐めた。『ブレーメン』というドイツ料理の店だ。  店はいつも客が少ない。遠藤主任は|月《げつ》|桂《けい》|樹《じゅ》の|鉢《はち》|植《う》えの蔭で待っていた。店に入った私を認めると、カーテンで仕切った奥の個室に移った。  私もそのなかに入った。本庁に私が顔を出してはまずいときには、ここで会うことにしているのだ。 「御機嫌|麗《うるわ》しくないようだな」  主任は唇を歪めた。 「とんでもない。どうやら月給を全部飲んじまったらしいんで、どうやってこれから給料日までやっていこうかと思ってたところですよ。これで、昼飯だけは確保出来たらしい」 「お手柔かに頼むよ。何しろ、予算が少ないんでな」  主任はいやに低姿勢だ。ウェイトレスが注文をとりにきた。主任はビールとフランクフルト・ソーセージ、私は小牛の|腿《もも》のローストとボイルした鶏とポテトを頼んだ。  注文の品が運ばれてくるまで、主任は用件を切りださなかった。私は二日酔いでも食欲は一向に衰えない。 「渋谷の暴力団青葉組の組長吉村が、|恐喝《きょうかつ》と拳銃不法所持と傷害罪で捕ったのは知ってるだろう?」  主任は、さっそく銀|串《ぐし》に刺したローストにかぶりついた私を|呆《あき》れ顔で見ながら言った。 「あのしたたか者も、ついに|尻尾《しっぽ》を出したのかと感慨にふけっていたところですよ」 「今度は起訴されることは免れんだろう。何しろ|奴《やつ》が被害者を拳銃で殴りつけたとき、奴にとって運が悪いことには、渋谷署の刑事が入ってきて目撃してしまったからだ」  主任はビールを一息に飲んだ。 「被害者は、米沢開発とかいう不動産屋の責任者でしたね」 「そう。米沢開発というのもインチキな|代《しろ》|物《もの》で、|柿《かき》|生《お》の山を切崩して分譲地として売りまくったんだが、そいつが基礎工事がロクに出来てないどころか、|颱《たい》|風《ふう》でもくれば土砂崩れが起こるのは確実なんだ。その土地を|掴《つか》まされた連中の訴えが激しくなったので、渋谷署が捜査をはじめたところだった。それで刑事が米沢開発に行ってみると、青葉会の吉村が一足先に乗りこんで|恐喝《かつあ》げようとしてたというわけだ」 「それで、私は何をやったらいいんです?」  私は口一杯に|腿《もも》|肉《にく》を|頬《ほお》|張《ば》りながら尋ねた。 「簡単なことだよ。吉村は起訴となると、保釈を申請してくるだろう。保釈で出れば、奴は何だかんだと裁判を何年も引きのばしておいて、そのあいだに証拠の掴めない悪事を続けるだろう。そこで、検察側としては思いきって三億円という破格の保釈金を積ます予定だ」 「なるほど……」 「青葉組にしたって、三億円という大金を作ることは大仕事だ。それだけの金が出来なければ吉村は保釈を許されないだけの話だろうが、問題は吉村の部下たちが、証人さえ消してしまえば吉村は釈放されるだろうぐらいに思って、その考えを実行するかもわからんということだ。実際、それぐらいの事はやりかねない連中なんだ。まさかとは思うが、一応君に青葉組にもぐりこんでもらって、奴等の行動をくいとめてもらいたい」 「それが簡単なことだ、とおっしゃるんですか?」  私は|溜《ため》|息《いき》をついた。 「君にとってはね」 「冗談でしょう。もっとも、軍資金さえタップリあれば張切れるんですがね」 「|駄《だ》|目《め》だね。予算が無いんだ。給料日までの食事代だけで勘弁してくれよ。それから、よほどの事が無いかぎり、俺のところに電話をくれるなよ。吉村の弁護士が、何だかんだと名目をつけて、四課の部屋をウロチョロしやがってるんだ」  主任は言って、|皺《しわ》くちゃの一万円札を数枚取出した。どうも愛想がよすぎると思ってたら、ひどい事になったもんだ。      2  その夜——四谷のアパートを出た私は、電車で渋谷に出た。  腋の下に吊っていた拳銃は、ズボンで隠して|臑《すね》に結びつけている。主任から受取った一万円札は|靴《くつ》|下《した》のなかに隠してある。無論、警察手帳は携帯しなかった。  電車に揺られていても、私のズボンの下に拳銃が隠されていると気付いた者は一人もいないであろう。二五口径のベレッタ・モデル九五〇は、掌にスッポリとおさまるほど小さくて軽いのだ。  渋谷駅のそばでタクシーを拾った私は、青山六丁目と行き先を命じた。東京日産渋谷営業所のそばをタクシーが通りかかったとき、青山通りに面した小さな青葉興行ビルが見えた。ブラインドは閉じられてあった。  青山六丁目でタクシーを捨てた私は、左手の奥にあるワシントン・ハイツ寄りに狭い道を歩いていった。バーや小料理屋の看板が目立つ。  そのなかに、『ブキャナン』というバーの看板が目についた。青葉組の経営している暴力バーだ。  肩でドアを押し開けて店に入ると、四、五人の女給が歓声を上げた。客の姿は無く、白服のバーテンダー三人が、品定めするような視線で私を見つめた。  私は豪勢に注文した。女たちにも好きなだけとってやった。カクテルと称する色つきの水を飲むごとに彼女たちには割戻しがあるらしく、私が注文してやるごとに私の手をパンティーのあいだに誘ってサービスしてくれた。  二時間ほど私はそこで楽しくやった。会計を頼むと、バーテンの一人が|猿《さる》のような笑いを浮かべながら勘定書きをよこした。七万二千四十円と書かれてあった。  私はそれにライターの火をつけた。 「何をしやがる!」  チーフ格らしいバーテンが、カウンターを跳び越えて、私の|襟《えり》を掴もうとした。私は炎をあげている勘定書きをその男の鼻に差しだした。鼻毛と|眉《まゆ》の焦げる|匂《にお》いがした。その男は両眼を押さえ、床にうずくまって悲鳴をあげた。女給たちは壁にへばりついた。 「野郎!」  あとの二人のバーテンは、カウンターのうしろから|氷掻《こおりか》きと包丁を取出した。黙っているのが怖いらしく、絶えず罵声を口にする。 「一文無しだ。警察に突きだすなり何なりと勝手にやってもらおうか」  私はふてくさった。 「そこを動くな!」  右側のバーテンは、私から目を離さずに左手で電話のダイヤルを廻した。私はチーフ・バーテンを|蹴《け》り倒し、ボックスのテーブルの上に腰をおろした。  拳銃を構えた二人の男が入ってきたのは、それから三、四分もたってなかった。二人とも幹部級らしく、一人前の|面《つら》|構《がま》えをしている。 「こいつか?」  男の一人が、|床《ゆか》に|坐《すわ》って|顎《あご》の血を押さえているチーフ・バーテンに尋ねた。 「|仇《かたき》をとってください」  チーフ・バーテンは古風なセリフを|呻《うめ》いた。  拳銃を構えた二人の男は、私に近寄った。私は両手を上げ、 「御苦労だな。だけど、俺を|射《う》っても一文にもならねえよ」  と、笑った。 「へらず口を叩くな」  右側の男が私の背後に廻りこんで、背中に銃口を突きつけた。もう一人の男が、左手で私のポケットをさぐる。  偽名と|嘘《うそ》で固めた私の運転免許証が、その男の手に渡った。男はなおも私のポケットをさぐったが、硬貨が五、六枚出てきただけだ。 「いい度胸だ。ちょいと一緒に来てもらおう」  男は言った。背後の男が私の背を銃口で小突いた。私は素直に歩きだした。  露地から露地を抜けて、青葉組事務所のビルの裏口に着くまでに、二分ぐらいしかかからなかった。私は拳銃に|威《い》|嚇《かく》された格好で、急な階段を地下室に降りていった。  地下室の照明は裸電灯であった。湿気が地下室に|淀《よど》んでいて、肺のなかが水っぽくなる。私は壁を背にして立たされた。 「ここでブッ放しても、銃声は外までは響かねえ。|大人《おとな》しくしてるんだぜ」  男の一人が言って、入口のドアのそばについているボタンを押した。私は恐怖の表情を見せようとしたが、どうもうまくいかない。二人とも、ほかのヤクザと同じように拳銃の握り方がなってないのだ。それでは、不用意に引金を絞れば手首を|挫《くじ》きそこなうだろうし、懸命に|狙《ねら》ったところで|弾《たま》はそれる。  大分待たされた。そして、薄い眉と無惨に頬がこけた痩身の男が入ってきた。主任から写真を見せられた、副組長の平野だ。  拳銃を構えた男の一人が、私を連れてきた|経《いき》|緯《さつ》を口早に平野に説明した。平野は無表情にそれを聞き終わると、 「痛めつけてやれ。死なねえ程度にな」  と、短く言った。  その言葉が終わった途端、私の右の肩口に拳銃が振りおろされた。私はそれを避けて、床に転がった。 「|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な野郎だ……」  拳銃を持った二人の男は大笑いした。  しかし、半身を起こした私の右手には、臑から取出したベレッタが撃鉄を起こして握られていた。  二人の男の笑いはとまった。私は正確な角度で拳銃を握った右手を突きだし、ピストル・シルエット競技の要領で、続けざまに二度引金を絞った。  二十五メートルの射程で四秒間に五発連射しても|滅《めっ》|多《た》に九点以下に外したことのない私だ。この近距離では、二発の弾は二人の拳銃に命中して、奥の壁にまでフッ飛んだ。  銃声は地下室に凄まじく反響した。二人の男が発した苦痛の絶叫も聞きとれないほどだ。二人は挫けて捩れた手首を押さえて床を転げまわった。  私は薄煙のたつベレッタの銃口を平野の心臓に向けた。平野は表情を変えずに私を見て、 「殺し屋か。|誰《だれ》に|傭《やと》われた?」  と、言った。 「殺し屋だ。だけど、今のところは失業中というわけだ。スポンサーを探してるのさ」  私は答えた。 「腕は確かなようだな。話を聞こう」  平野はニヤリと笑った。      3  こうして私は青葉組に傭われることとなった。そして、事務所の裏にある安アパートの一室をあてがわれた。  私を痛めつけようとして反対に痛い目に会った二人の男は、月岡と古家という名前で、二人とも殺人の前科があるそうだ。さっそくモグリの医者にかかって、手首の治療を受けている。  青葉組の正式の組員は四十五人いる。あとのチンピラは、予備員といったところだ。そして、組のなかでの大幹部は五人、幹部が十人いる。副組長の平野は別格だ。  青葉組に傭われてから四、五日、私は何という仕事もなしに事務所をブラブラしていた。やった仕事と言えば、青葉組の|縄《なわ》|張《ば》りに越境してきた栄会の幹部を二、三人、立っては歩けないほど殴り倒してやったぐらいの事だ。  青葉組の縄張りは、都電青山通りと、新宿に向かうトロリー・バス通りに|挟《はさ》まれた三角型のなかだ。宮下町の半分と美竹町、それに青葉町などがそれに当たる。  そのうちでも、一番ゼニになるのは、映画館やバーやパチンコ屋、それに飲食店などが軒を並べている宮下町だ。青葉組はチャチなパンフレットを発行し、それに対する広告費や賛助費と称して、縄張りのなかの店々から税金を|捲《ま》きあげていた。  それが、組長の吉村が逮捕されてから、今までのような調子では集まらなくなったのだ。ショー・ウィンドーを叩き割ったり客に嫌がらせをしたりすれば、すぐにパトカーが飛んでくるものだから、青葉組は大打撃だ。  今までは、いくら青葉組から|嚇《おど》かされても、百十番に電話をかけようなんて考えもつかなかった|筈《はず》であった。苦りきった平野に頼まれた私は、大口の客に乗りこんで強迫にならないようにうまくショバ代を取立ててきてやったので、幹部たちは私に対する警戒の目をゆるめてきた。  そうしているうちに、吉村は保釈の申請を出し、検察側は予定どおり三億円の保釈金を要求した。  そのニュースが昼前に弁護士から青葉組事務所に伝えられると、副組長の平野は即座に緊急幹部会を召集した。いまは青葉組にとって必要な男となっている私も、オブザーバーのような形で招かれた。  会は、ビルの地下室で開かれた。奥に持込まれたデスクに副組長の平野が腰をおろし、その前に並べられたベンチに、五人の大幹部と十人の幹部が着席する。手首に湿布の包帯を捲いた月岡と古家もまじっている。  私は議決権のないオブザーバーだから、壁のそばに立った。しかし、オブザーバーだけに発言権は認められている。  もっとも会議とは言っても、ほとんど平野の一人舞台であった。平野は組長の保釈金が三億円と吹っかけられたことを伝えたのち、 「そして組長は、弁護士先生に、どんなことをやってもその金を作らせろと伝えてくれと言ったそうだ。俺たちは、どんなことがあっても、三億円を早急に掻き集めないとならん」  と、|嗄《しゃが》れた声で言った。 「どんなに無理しても集められるのは一億円だ。それでさえも|覚《おぼ》|束《つか》ない。だけども、組長を見殺しにしたりしたら青葉組の|面子《メ ン ツ》がたたん。銀行でも襲うか?」  大幹部の市島が言った。 「銀行は無理だが、一つ目星をつけている所がある——」  平野は|呟《つぶや》いた。幹部たちのどよめきが|鎮《しず》まるのを待って、 「銅前金融だ。奴のところは、街の高利貸しとは言っても、そこいらのと違ってスケールが一廻り大きい。金庫のなかには、銀行の閉店時間に間に合わなかった連中にそなえて、いつも四、五千万の現ナマが用意されてるって話だ」 「そいつはいい。だけど、奴のところは書生という名目で用心棒がいつも二、三人寝泊まりしてますぜ」  幹部の一人室岡が口をはさんだ。 「構わん。殺すんだ。一言だけ注意しておくが、目撃者はみんな殺すんだ。その役は奴がやってくれるだろう」  平野は私の方に顎をしゃくった。 「料金次第ではね」  私は不敵な笑いを見せてやった。 「金ははずむ。タダで仕事をやってもらおうなどとは思ってない——」  平野は薄く笑い返し、幹部たちに視線を戻して、 「目撃者をみな殺しにする事には、みんなの考えてる以上の意味があるんだ。つまりだな、銅前金融を襲う前に、渋谷署の畔上を|攫《さら》うんだ」 「組長をパクリやがったあの若造ですな」  室岡が言った。 「そうだ。あん畜生だ。そして銅前から俺たちが金を頂いたら、無論銅前も消してしまう。そして、その死体にハジキを握らせて畔上をそれで射殺する。畔上には別のハジキを握らせておく」 「…………」 「そうすれば、現場には畔上の死体が残る。俺たちが銅前をやったことは奴におっかぶせることが出来るし、組長のやったことの目撃者としての奴も消えるというわけだ。どうだ、ちょいとしたもんだろう。これこそ一石二鳥というわけだ——」  平野は唇を歪め、 「畔上が死んだら、米沢開発の連中なんか一コロだ。ちょいとばかし嚇かしてやったら、みんな|揃《そろ》って健忘症にかかってしまうさ。証人として法廷に呼びだされても、みんな組長なんか今まで見たことも無いって言いだすさ。警察でしゃべったことは、拷問を受けたんで仕方なく|嘘《うそ》を並べておいたんだ、とな……」      4  渋谷署の刑事課捜査係の刑事畔上は二十九歳だ。今日は当番日でない日勤日なので、五時半を少し出ると同僚と別れて帰途についた。  畔上の家は永福にある。渋谷から井の頭線で明大前に出て、そこで京王線に乗りかえて桜上水の駅で降りるのだ。  駅を降りると甲州街道を横切らなければならない。このあたりに来ると車はほとんど六十キロ近くで疾走しているので、広い道を渡り終わるとホッと一息つく。  裏通りの商店街を抜けると、住宅街が続く。しかし、畔上の家はそれを抜けた畠のなかに建っているのだ。  駅から歩いて十五分近くかかる道程だが、たくましい体を持っている畔上にはそれが苦にならない。静かな屋敷町のたたずまいを抜けると、澄んだ水が流れる上水にかかる橋が見えてきた。両岸には、春ともなれば桜が咲き匂うのだ。  狭いが明るい自分の家には、母と妻と二歳になった男の子が彼の帰りを待っている。足を早めかけた畔上は、橋の向こうで車から跳び降りた二人の男が、いきなり殴りあいをはじめたのを見て駆けだした。三人目の男がニヤニヤしながら、それを|眺《なが》めている。 「よさんか、君たち」  畔上は、殴りあっている二人の男のあいだに割って入った。二人の男は、畔上に組みついてきた。 「警察の者だ。乱暴すると逮捕する!」  畔上は二人から逃れようとした。そのとき背後に廻りこんでいた三人目の男から首の付け根に一撃をくらって|膝《ひざ》をついた。  三人目の男は私であった。そして|八百長喧嘩《やおちょうけんか》をやった二人は青葉組の若手幹部なのだ。  私は素早く畔上の服を捜した。拳銃は携帯していない。私は意識が|朦《もう》|朧《ろう》としている畔上を、駐めてある|四扉《フォー・ドア》のフォードのステーション・ワゴンのなかに運びこんだ。  フォード・ステーション・ワゴンの荷物室にはスリーピング・バッグが寝かしてある。二人の幹部も手伝って、畔上をそのなかに押しこむと、外側からロープで強く縛った。口にはスポンジを突っこみ、その上からタオルで覆う。顔と体の上にはキャンバスをかぶせた。  私が運転してステーション・ワゴンを発車させた。二人の幹部は助手席に坐っていた。  畠を抜け、住宅街と商店街を過ぎて、水道道路に出た。畔上はスリーピング・バッグから脱出しようとしているが、それは無駄な努力だ。  水道道路にも車は多かった。明大前に向けて車を走らせていくと、道の左端に公衆電話のボックスが見えた。  私はそのそばに車を|停《と》めた。本庁の遠藤主任に連絡をとらなければならない。午後の二時過ぎに緊急幹部会が終わってから、いつも幹部の誰かが私のそばにへばりついていて、一人きりになるチャンスを与えてくれないのだ。 「何をするんだ?」  車から降りかけた私に、すぐ隣の幹部が浴びせかけた。藤本という男だ。 「電話だ。副組長に仕事はうまくいったと連絡するのさ」 「それなら、俺がしてくる。あんたはここにいてくれ」  藤本は私を制した。私はさり気ない表情で|頷《うなず》いたが、心は|苛《いら》|立《だ》っていた。  電話を終えた藤本が車に戻ると、私は発車させた。スピード違反とか信号無視でパトカーに追っかけさす手はある。しかし、それではこの若い二人の幹部だけは捕まっても、平野たちは無傷で残るだろう。だから私は軽はずみな行動をとれなかった。  車を青葉組事務所の裏口につけたときは六時半近かった。私たちは、一度畔上を地下室に移した。  私と藤本を残して、もう一人の幹部は階上に消えた。私から車の|鍵《キー》を受取ってだ。私は畔上に向けて|鼠《ねずみ》をなぶる|猫《ねこ》のように、 「どうだい、居心地は? 苦しいだろうが、すぐに楽にさせてやるぜ。あんたは、強盗殺人の犯人に仕立てられて死んでいくんだ」  と、言った。この言葉を聞いた畔上が絶望的な勇気を|奮《ふる》い起こしてくれることを願った。 「黙れよ——」  藤本が私に警告し、 「あんまり口が軽いと、取返しがつかねえことになるぜ」  と、つけ加えた。 「いいじゃないか。この男のために組長は苦い目にあわされたんだろう。こいつがくたばる前に思いっきり苦しめてやっても悪いってことはあるまい」  私は言った。 「その気持はわかるけどさ……」  藤本は口ごもった。  ドアがあいて、さっき出ていった幹部が戻ってきた。 「副組長が呼んでるぜ」  と、私に顎をしゃくる。  私は事務所の三階にあがった。そこに組長専用の部屋と応接室があるのだ。いまは、代理の平野が使っている。  応接室には主な大幹部と幹部が集まっていた。平野は私を認めると、 「大勢で押しかけても足手まといになるから、あんたを含めて五人だけで決行する。俺も行くことにした」  と言って、腋の下から四五口径のG・Iコルトを抜いてみる。 「いいでしょう。何時にやります」 「午前零時だ。それまでこの部屋でくつろいでいてくれ」  平野は言い、 「決行に参加する者以外は、普段の日と同じように街に出ていろ。今夜だけお前たちが姿を見せないとなると、あとで怪しまれる」  と、呟いた。  私と平野、大幹部の市島、幹部の室岡と大石の五人が部屋に残った。  私は、 「まだ話をハッキリと決めてなかったけれども、俺の分け前はどれぐらい|貰《もら》える?」  と、尋ねた。  あくまでもプロの殺し屋らしく見せかける必要があるのだ。 「二割だ、銅前の金庫から出てきた金のな。文句はないだろう?」 「その程度で我慢しときましょうかな」  私は呟いた。  時間が私を苛立たせながら過ぎていった。なんとかして主任と連絡を取りたいのだが、トイレに立っても室岡と市島が付き添ってくる。  十一時が来た。私は仕方なくバクチを打つほかなかった。 「俺の拳銃一丁だけでは心細い。もう一丁欲しいんだが……」 「いいとも。貸してやるよ」  平野は尻ポケットから、ブローニング〇・三八口径の自動拳銃を出して私によこした。私はそれを点検して、弾倉に実包がつまっているのを確かめた。  十一時三十分——無言で平野が立上がった。私たちも立上がり、平野のあとにしたがって地下室に降りた。畔上刑事のそばで、藤本たちが軽く頭をさげた。  平野がナイフで畔上を包んだスリーピング・バッグのロープを切断した。バッグから脱け出た畔上は、|猿轡《さるぐつわ》を捨てた。 「さあ出発だ。あんたは、この刑事をよく監視しててくれよ」  平野が私に向けて言った。  裏口には、さっきの四扉フォード・ステーション・ワゴンが駐まったままであった。違っているのは、寝かされてあったうしろの座席が起こされ、狭くなった荷物室にカッターやニッパーなどを収めた工具が積まれていることだ。  私はうしろの座席に畔上をベレッタの銃口で追込み、その右に坐った。左側に室岡が腰をおろした。  前のシートでは、大石がハンドルを握った。その右側に平野と市島が並んだ。大石はフォードを発車させた。  疾走する車のなかで、私は右手のベレッタ拳銃を畔上の脇腹に突きつけながら、左手で取り出したブローニングを、シートのクッションと背当ての間に差しこんだ。|銃把《じゅうは》が|覗《のぞ》く程度にだ。  その作業を、畔上にも室岡にも気付かれずにやった。  銅前金融は、渋谷南平台の高級邸宅街のなかにある。  南平台は、青葉組事務所から車で五分もあれば充分の距離だ。  自宅を兼ねた銅前の事務所は、小さな看板さえ出してなかったら、まわりの高級住宅と変わらない。  大石は、高く長い銅前邸の|塀《へい》に寄せてフォードを停めた。 「こいつを見張っててくれ。俺は電話線を切ってくるから」  私は室岡に頼んだ。  左手を背当てのうしろにのばして道具箱から大型のニッパーを取り出し、車から降りた。  電信柱まで歩かぬうちに、私の期待していたことが起こった。車のなかから銃声が鋭く響き|驚愕《きょうがく》の表情を浮かべた室岡がのけぞったのだ。  私は自分のベレッタを抜き出した。  フォードのドアが開き、高々と手を上げた三人の男がよろめきながら出た。平野と市島と大石だ。  彼等のうしろから、ブローニングを握った畔上が出てきた。 「畜生、いつの間に俺のハジキを……!」  私は大袈裟に叫んだ。 「拳銃を捨てろ!」  畔上が叫んだ。 「射て! 何をしてるんだ」  顔を歪めた平野が私に命じた。 「射ってみろ。この男たちの|命《いのち》は無いからな」  畔上は叫んだ。彼等と私との距離は十メートルほどだ。 「俺は逃げるぜ。捕まったら死刑になるようなことをやってきた男だからな」  私は唇をゆがめると、続けざまにベレッタの引金を絞りながら、素早く後ずさりしていった。  弾は畔上の顔を次々にかすめた。銃声と衝撃波をまともに受けて平野たちはだらし無くその場に坐りこんで頭を抱えた。畔上も射ち返してくるが、動揺しているので|弾《たま》は私をはるかにそれる。  私は|塀《へい》の角をまがると、一目散にはしりだした。     平和会議      1  都下北多摩郡T市は、空軍基地の町として有名であるが、いまは朝鮮動乱時代の沸きたつように乱痴気な様子は無い。基地周辺の店々の英語の看板と毒々しいネオンも、|色《いろ》|褪《あ》せた感じだ。  そして、日本人が主権を取戻した町は、ターミナル都市のような外観を呈している。商店街を住宅街と工場が取巻き、車でこの市を素通りする人は、駅前のメイン・ストリートの|賑《にぎ》わいを池袋のそれに似ていると感じるであろう。ただし、白々と|拡《ひろ》がる広大な基地を無視したらの話だが。  だが、この市にはびこる暴力は池袋も顔負けするほどのものらしい。そうでなければ、私が、命令を受けてこの市に乗りこんでくる|羽《は》|目《め》にはならなかった|筈《はず》だ。  木枯らしが吹きすさんでいるある日の昼過ぎ、例のブルーバードを甲州街道からこの市に乗入れた私は、鳩色のソフトにグレーのトレンチ・コートを羽織り、やはりグレーの|縞《しま》のワイシャツに銀灰色のネクタイを結んでいた。どう見ても、堅気の男とは見えないようにする仕上げとして、濃い|褐《かっ》色のレンズの眼鏡をかけていた。  甲州街道から外れて右に車を向けると、道の左右には自動車屋が目立つ。その道をまっすぐに行ってガードをくぐると、基地の正面ゲートにぶつかるのだ。  だが私は、市内を一巡する前にホテルを捜した。五百メートルも行かないうちに、主任から教えられていたホテル『グリーン』が右手に見えた。見落とすわけはない。道をへだてて、検察庁と裁判所のいかめしく無愛想なビルと向かいあっているのだ。  ホテル『グリーン』は、近代的ではあったが現代的ではなかった。と言うことは、やたらに窓ガラスの多いサン・ルームのような建物ではなく、いわゆるホテルらしい落着きを見せているということだ。  ホテルの前面五百|坪《つぼ》ほどが駐車場と噴水のついた庭になっているので、五階建ての建物自身は道路から外れて騒音から身を守る構えをしていた。  私はガラ空きの駐車場に車を入れた。そのエンジンやミッション関係を改造したブルーバードは、警視庁のものだがほとんど私専用の車と言ってよく、ナンバーもわざと官庁ナンバーでないのをつけている。 「いらっしゃいませ」  駐車場係のボーイが素早く車のドアを開き、私から車のキーを受取った。うしろのシートに乗せてあったスーツ・ケースを取上げると、私を玄関に案内していく。  帳場のクラークは、バーテンにしたほうが似合うような男であった。宿泊人カードに、私は佐原とサインした。ブルーバードの車検証に書かれてある架空の名と同じにだ。  スマートさを鼻にかけたような二十七、八歳のボーイが、私を五階の左端の部屋に案内した。エレベーターを降りて廊下を通るとき、五階の真ん中の部屋がパーティーでも開けそうな広間になっているのに気付いた。  部屋に入ると、私は、ビフテキとコーン・スープとコニャックを注文した。これから先、私が直面しなければならないであろう危険を考えに入れると、予算をオーバーしても、まずい物は食う気になれない。  ボーイが出ていくと、私はスーツ・ケースをベッドの下に放りこみ、部屋のなかを歩きまわった。前と横に窓がついているので、市の|全《ぜん》|貌《ぼう》とまではいかなくとも、大体の様子を見おろすことが出来る。二百メートルほど基地寄りに見えるのが警察署だ。  近日中に、このホテルで——|臆《おく》|面《めん》もなく検察庁や裁判所の向かいのこのホテルで、この市の勢力を握る三派の暴力団の代表者が、大っぴらに平和会議を開くという情報が本庁に入ったのだ。  市の警察も手をつけられぬほどに増長した一握りのネズミどもが、この市は自分たちのものだと|自《うぬ》|惚《ぼ》れ、いがみ合いに終止符を打って縄張りを決めていく会議を開くのだ。私の役目は、彼等の角を突きあわせて殺し合いをさせ自滅させていくことだ。  生きてこの市を出られる自信は私に無かった。警察や市会にもギャングの手はガッチリとくいこんでいるので、私が秘密捜査官であることはこの市の警察署長にも知らされてないのだ。  二十分ほど待たされて、ボーイが注文した料理を運んできた。私がチップをくれてやるとボーイは、 「御注文でしたら、女のほうも色々と取りそろえてありますが……」  と、ニヤニヤした。 「このホテルで飼っているのか?」 「いえ。ですが、電話一本でオーケーってところです」 「そいつは便利だな。だけど、今は彼女はいらない。昼間からでは気がひける」  私は答えた。 「わかりました。私の名前は田所と申します」  ボーイは意味ありげな薄ら笑いを浮かべて部屋から消えた。      2  一時間ほどして私はホテルから出た。駐車係のボーイに、 「|市《まち》を見物してくるよ」  と、言い捨てて表通りに出た。  そうは言っても、私はこの市の地理にはそう|疎《うと》いほうではない。仕事に直接関係はないが、基地の将校に銃気違いの友人がいて、私は月に一度は彼を訪ねて基地内の射場で腕をきそうのだ。射撃のあとは夜の街にくり出していくことが多いから、自然に地理を覚えたのだ。  だがそれかと言って、この市を|隅《すみ》から隅まで知ってるわけではない。私は表通りに出ると、二、三台のタクシーをやりすごし、五つの星のマークのついたタクシーを呼びとめて、それに乗りこんだ。このマークの五星タクシー会社は、ホテル『グリーン』と同じように、黒崎組の息がかかっているのだ。  運転手は三十前後のふてぶてしい顔の男であった。黙って車を走らせてから、 「どこに着けるんですかい?」  と、無愛想に|尋《き》いた。 「市を見物したい。ともかく走りまわってくれ。そして、町名や商店街の名前を教えてくれ」  私は言った。 「御免だね、そんな面倒なことは」  運転手はブレーキを踏んだ。 「よし、料金を倍出そう」  私はわざと財布を見せびらかした。ふくれ上がった財布だが、中身は紙幣とはかぎらない。 「そいつを先に言ってもらいたかったな」  運転手はアクセルに右足を移した。愛想笑いを浮かべて、ダッシュ板の左手のグローヴ・ボックスから市の地図を出し、肩越しに私の膝に|放《ほう》った。そして、観光バスのウグイス嬢そこのけに、通る街の名をしゃべってくれた。  この市を支配する三つの暴力団について私に教えてくれた遠藤警部の説明によると、黒崎組のほかの二組は、神西組と緑会だそうだ。三つとも、戦後派だ。  地図を見てもわかるとおり、市の中心を中央線とそれにつながった青梅線のレールが南北に分けている。そして、国鉄T駅の北口と南口の前から、市を縦断するようにのびた商店街の通りが、西と東の分け目になっている。  だからT駅を中心として、市を大ざっぱに四分してみると、北西部分が基地、北東が緑会、南西が神西組、東南が黒崎組の縄張りと言えよう。  だが、これまでの縄張り争いの結果、縄張りは複雑に入りくんで、三派の小ぜりあいは絶えなかった。今度のギャング三派の平和会議の目的は、その縄張りの境界線をスッキリとさせて、互いに不可侵条約を結ぶことにあるのだ。  四時間ほどでタクシーはもとの場所に戻っていった。しゃべりくたびれたらしい運転手は、 「だけど、お客さんは物好きですな。どう言ったわけで、この市の隅から隅までを知りたいんです?」  と、尋ねた。 「なあに、いまに俺がこの市を俺のものにしてやろうと思ってるからさ」  私は答えた。運転手は|顎《あご》の|蝶番《ちょうつがい》が外れたように口を開いた。  駅前の広場で、私は車を|停《と》めろ、と命じた。タクシーをとめた運転手は、 「料金は倍額払ってくださるんでしたね?」  と、卑屈に笑った。 「倍額どころか一文も払えねえな。取れるもんなら取ってみな。自信が無いんなら、黒崎から払ってもらえよ。俺はグリーン・ホテルに泊まってるから、あとであんたの気がかわったら、いつでも相手にしてやるよ」  車から降りた私は言った。 「畜生、覚えてやがれ! 俺も貴様の顔を忘れねえぜ!」  運転手は私を|睨《にら》みつけていたが、アクセルをヤケにふかしてタクシーを走り去らせた。  腕時計を覗いてみると、午後の五時頃だ。そろそろ、|塒《ねぐら》から|這《は》い出たチンピラどもが街を|闊《かっ》|歩《ぽ》しだし、気の早いネオンがまたたきはじめる。忍び寄ってきた夕暮れに包まれかけた街に、駅から吐きだされた人波が散っていく。  私は駅の南口に廻った。南口の前を走る通りを境界線にして、黒崎組と神西組が睨みあっている。通りの左右は、映画館、バー、パチンコ屋、飲食店などが密集して並んでいるのは、お定まりの風景だ。  キャバレーは、五時から七時までのサービス・タイムをはじめていた。私は黒崎が経営している『グランド・ムーン』というキャバレーに入った。黒崎が直接に経営している店は多いが、このキャバレーはそのうちでもドル箱だ、と私は遠藤警部から聞かされていた。 『グランド・ムーン』は、ホステス数三百名というマンモス・キャバレーだ。地下一階地上一階がブチ抜きになっていて、二階がソープ、三階が女給や従業員の宿舎となっているが、その宿舎に実際に寝泊まりしているのは、黒崎組の平幹部連中だ。黒崎組の事務所は、このキャバレーから歩いて一分とかからぬ所にある。  時間が時間なので、キャバレーの内部は気が抜けたビールのようであった。ホステスはまだ三分の一も出勤してなく、客も数えるほどだ。私はテーブルにつくとボーイに誰でもいいから女を十人ほど呼んでくれと言った。  騒々しい|嬌声《きょうせい》をたてながら女たちが集まってきて、私の膝に乗ったり、|股《また》の上をつねろうとした。私は女たちに、何でも好きな料理を欲しいだけ注文しろと言った。  滅多にないカモが転がりこんできたと思ったらしく、女たちは口々にボーイに料理の名をわめきたてた。それが運ばれてくるとテーブルに乗りきれないほどであったが、女たちは|豚《ぶた》も顔負けするほどの食欲を示した。  私はさらに、ビールを三十本注文し、全部のセンを抜かした。そうしておいて、さり気なくカウンターの横を通って、廻廊を出口に向かった。 「お客さん、ちょっとお待ちください」  いやに静かな支配人の声がかかった。私の豪遊ぶりを警戒して、カウンターに廻っていたのだ。 「勘定なら、グリーン・ホテルまで取りに来い」  私は振りむきもせずに言った。 「何い!」  支配人の声が|尖《とが》りカウンターから出た。同時にカウンターの奥に潜んでいたらしい用心棒三人が跳びだしてくるのが鏡にうつった。私は|尻《しり》ポケットから、革と砂と鉛の|芯《しん》をつめた殴打用の凶器ブラック・ジャックを抜きだしていた。      3  一分後には、三人の用心棒は廻廊のカーペットの上でのたうっていた。一人は顎を割られ、あとの二人は顔がグロテスクに歪んでいる。三人とも鼻と口と耳から血を流していた。  支配人がタキシードの内ポケットに震える右手を突っ込んだ。その右手がブローニング〇・三八〇口径のポケット拳銃を抜いた瞬間、鋭く|唸《うな》った私のブラック・ジャックが手首に振りおろされた。  支配人の右手からブローニングが吹っとんだ。手首の骨が折れたらしい様子だ。絶叫をあげて転げまわる支配人の顔を|靴《くつ》|底《ぞこ》で踏みにじり、私はブローニングを拾って、 「じゃあ、またな……」  と言って店を出た。弾倉を点検してみると六発実包がつまっていた。  それからあとの私は、黒崎の経営している店を五、六軒荒して歩いた。そして、ホテルに戻ったのは、夜の九時頃であった。  私が戻ってきたのを見てホテルの駐車係の顔色が変わったところからして、黒崎組から連絡が来ていることがわかった。しかし私は、素知らぬ顔で彼に挨拶の声をかけ、玄関に入っていった。  ホテルのクラークは、私に部屋の|鍵《かぎ》を戻してくれるとき、唇の端にひきつるような愛想笑いを浮かべていた。  エレベーターを使って五階に上った私は、自分の部屋の前に来ると、ズボンの|裾《すそ》をまくり上げた。|臑《すね》にくくりつけてある護身用の〇・二五口径ベレッタ自動拳銃を抜きだした。  キャバレー『グランド・ムーン』の支配人から奪ったブローニングがポケットにあるが、緊急の場合をのぞいて、私は自分で試射したこともない銃を使う気になれない。  軽量でごく小型なベレッタの撃鉄を静かに起こし、私はドアから体をずらせて鍵を解いた。思いきりドアを|蹴《け》り開ける。誰かがドアのうしろに隠れていたとしたら、壁に叩きつけられている筈だ。  反応は無かった。私は手だけをのばして部屋の電灯のスイッチを押すと、部屋のなかに頭から跳びこんだ。  だが、部屋のなかには誰もいなかった。床に伏せた私は、その自分の姿が喜劇的にみえてきて、思わず失笑した。立上がって調べたが、バス・ルームや衣装ダンスのなかにも誰もいない。  私はベレッタの撃鉄を静かに安全位置に戻し、再び臑のホルスターに戻した。電話を取上げて帳場を呼び、思いつくかぎりの高級料理の名を言って、本物のシャンペンと一緒に部屋に持ってくるように言った。  料理がくるまで私はベッドに横になっていた。ブローニングは、マットのあいだに突っこんでおく。  一時間ほどして、ワゴンに乗せられた料理と銀のバケツで氷に冷やされたシャンペンが運ばれてきた。運んできたボーイは、昼間の田所ではなかった。  二時間ほどかけて、私はゆっくりと料理を味わった。もう、このホテルの勘定を払う気は無くなっていた。スーツ・ケースの中身は古本と着替えのシャツだけだから、気楽なものだ。  食事が終わり、ボーイがテーブルを片付けて去ると、私はドアの前に|椅《い》|子《す》を積み重ねた。上着を脱ぎ、ベッドにでなく部屋の端のソファに横になって毛布をかぶった。たちまち眠りに落ちた。  午前一時半を過ぎたとき、ドアがノックされた。私は反射的に跳び起きると、ドアに近づいた。右手に抜いたベレッタを握り、体を壁に寄せて、 「誰だ?」 「開けてよ。待たせて悪かったわ」  ドアの外から、官能的な女の声がした。 「入れよ。鍵はかかってないぜ」  私は言い、拳銃を握った手を背後に隠した。  ドアを開いた女は、積まれてあった椅子が倒れる音に驚いて立ちすくんだ。私は彼女を抱えあげるとベッドの上に投げとばし、ドアを閉じて鍵を掛けた。鍵孔に鍵を差しこんだまま、部屋の灯をつける。  女は二十二、三であった。|目《め》|尻《じり》に|皺《しわ》があるが、まずは飛びきりの美人だ。 「田所さんに言われて来たのよ。一晩二万円でオーケイだわ」  女は小指を|噛《か》みながら、上目づかいに私を見上げた。思わせぶりに腰をくねらせている。 「オーケイ、後払いだ。まず裸になれよ」 「いいわよ」  女はためらう事なく、素早く服を脱いでいった。素っ裸になったその体は、|牝《めす》そのものであった。  胸の隆起は素晴しく、谷間は深い影になっている。  私はベッドの端に腰をおろした。 「ねえ、早く済ませてよ。じらさないで……」  ベッドに|仰《あお》|向《む》けになった女は、胸を両手で抱えて|悶《もだ》える様子をした。  私は手をのばし、|枕《まくら》の下からブローニングを取出した。左手で女の髪を|掴《つか》み、右手のブローニングの銃口を女の|腿《もも》のあいだに向けた。  女の体が硬直してそりかえった。あまりの驚きと恐怖に声も出せずに、発狂寸前の顔つきになっていた。 「さあ、しゃべるんだ。悲鳴をあげたり、|出《で》|鱈《たら》|目《め》をしゃべったりしたら、容赦せずに引金を絞るぜ。そうしたらどうなるかわかるだろうな? 大事な商売道具がメチャメチャになるだけでは済まねえんだぜ。弾は内臓を引裂いて脳天から抜けるだろうな」  私は女にニヤリと笑いを投げた。      4 「い、言うわ。ひどい事はよして!」  女は|喘《あえ》いだ。 「よし、はじめに平凡だが、あんたの素性から聞こう。一晩二万円のコール・ガールにしては|別《べっ》|嬪《ぴん》すぎるようだな」  私はさらに強くブローニングの銃口を挿入した。 「やめてください!」 「お上品な言い方はやめなよ。さあ、言うんだ」 「黒崎の女の一人よ。放してったら!」 「それが、何のためにここに来た?」  私は尋ねた。 「あ、あんたが、わたしの体に|溺《おぼ》れてるあいだに、黒崎のところの拳銃使いがこの部屋に忍びこむことになっているの……お願い、帰らせて!」  女はわめいた。 「わめくとブッ放すぜ。銃声はあんたの体に吸収されて、外には聞こえねえよ。銃声よりも、あんたの頭蓋骨のカケラが天井に当たってはねかえる音のほうが大きく聞こえる」  私は、ねばっこい口調で|威《い》|嚇《かく》した。 「あ、あんたと抱きあいながら、あたしは電話の受話器を外しておくことにする筈だったの。だから、あんたが一番夢中になってるときが、あの人たちにわかるわけよ」 「やっぱし、ホテル側もグルなんだな」  私は薄笑いを浮かべた。女体からブローニングの銃口を抜く。女は|安《あん》|堵《ど》の溜息をついて失神した。  拳銃をシーツで拭った私は、ベッドのそばのスタンドの豆ランプをつけ、部屋の天井の灯を消した。毛布を丸めて女のそばに置き、女の尻を思いきり銃身で引っぱたいた。  女は唸り声をあげて気絶から覚めた。私は女の意識がはっきりするまで待ってやって、 「さあ、あんたが出す筈になってた声を出してくれよ。俺も合いの手を入れるからさ」 「わかったわ。でも、あたしのヘマで、あんたに見破られたってことは黒崎に言わないでね」 「ああ、約束しよう。張切って頼むぜ」  私は言うと、受話器を外して|枕許《まくらもと》に置いた。  女は自分で自分を|愛《あい》|撫《ぶ》しながら、エロ・テープそこのけの声を続けていった。私は|呻《うめ》き声を混えながらドアの鍵孔を見つめている。  五、六分たった。女は演技だけでなく、己れだけの陶酔のなかに|溺《おぼ》れこんでいるのか、固く瞼を閉じたその表情を見てると、私も興奮してくる。  だが、そのとき、ドアのほうからかすかな金属音が聞こえた。ドアの鍵孔に内側から差しこんであった鍵が|絨毯《じゅうたん》の上に落ち、ロックが外れる音が響いた。私はブローニングを仕舞って、かわりにベレッタを抜いていた。  ドアが開き、拳銃を握った二人の男が跳びこんできた。転がっている椅子に|頬《ほお》をぶっつけて、一人が低い悲鳴をあげた。 「動くな。本気で言ってるんだぜ」  私は彼等の背後から、ベレッタの撃鉄を起こす音を聞かせてやった。二人の男は化石したように体を|硬《こわ》ばらせ、手から拳銃を落とした。廊下を必死の勢いで逃げていく足音がするが、それはボーイかクラークのものらしい。  私はドアを閉じた。二人の男の拳銃を部屋の隅に蹴とばす。ベッドの女は、肩で息をつきながら、ぐったりとしていた。 「さあ立て。立って両手を首のうしろで組んでもらおうか」  私は二人の男に命じた。二人は命令にしたがった。二人とも、二十八、九の|眉《まゆ》と唇の薄い冷酷な顔をしている。  私は二人の体を調べ、ほかに武器を持ってないことを確かめた。ポケットから出てきた運転免許証から、右側の背の高い男が吉井、左側の中背の男が石川という名前であることを知った。もっとも、奴等の免許証も、私のと同じように偽物かも知らないが。  部屋の隅に転がった二丁の拳銃は、三八口径スペシャルのコルトの輪胴式と九ミリ口径のS・W自動|装《そう》|填《てん》式であった。私は彼等の背後でベレッタを臑に隠し、輪胴を開いてみて装填されていることを確かめたリヴォルヴァーを右手に握り、その上からソフトをかぶせた。背広を左肩に引っかけた私は、九ミリ口径S・W自動式をズボンのバンドに突っこみ、 「さあ、歩くんだ。俺が生きてることが面白くない奴のところに案内してもらおう」  と、言った。      5  ホテルの廊下に人影はなかった。午前二時近いのだから無理もない。|滑《こっ》|稽《けい》なのは、黒崎から命令を受けたためか、私を怖れてか、ボーイもクラークも姿を隠していることであった。  ただ、駐車係のボーイだけは起きていた。二人の拳銃使いを見て、 「仕事はうまく行きましたか?」  と、一人前のギャング気取りで笑い、二人の背後の私を認めて笑いを凍りつかせた。  二人は用心深く自分たちの車を使わなかったらしい。石川に私のブルーバードのハンドルを握らせ、吉井を助手席に坐らせた私は、うしろのシートに乗りこんで発車させた。  深夜なので、『グランド・ムーン』のそばにある黒崎組事務所までは、ほんの少しの時間しかかからなかった。  事務所は、鉄筋コンクリートの三階建てだ。窓のカーテンの|隙《すき》|間《ま》から灯が|洩《も》れている。私は事務所のそばで車をとめさせ、ソフトをかぶると、むきだしにした三八口径リヴォルヴァーで吉井と石川を威嚇しながら、事務所に近づいた。  私たちが近づくと、事務所の|扉《とびら》は内側から開かれた。なかに駆けこもうとする二人に、私は、気をつけろよ、と警告した。  一階の事務所に入ると私は後手にドアを閉じた。本庁で写真を見せられた黒崎と二人の大幹部、それに主な五人の中堅幹部が、信じられぬといった顔で私たちを見つめた。 「俺に用があるらしいんで、自分からやってきましたぜ」  私は黒崎に言った。黒崎は、五十二、三歳の浅黒く|精《せい》|悍《かん》な男だ。 「こんなことをやって、生きてこの|市《まち》を出られるとは思ってないだろうな?」  我に戻ったように、黒崎が|錆《さび》のきいた声を出した。 「ところが、そう思ってるんでね——」  私は声を出して笑い、 「組長さん、猿芝居はよしますよ。実を言うと、あたしを|傭《やと》ってもらいたいんで……」 「あんなことをしておきながら、よくも、ヌケヌケと……」  黒崎は唇を歪めた。 「なあに、まともなやり方では、俺の実力を認めてくれないだろうと思いましてね。組長さんにしたって、俺から被った損害のモトをとるには、俺を働かすのが一番利口なやり方じゃないでしょうかね」  私は言い、右手のリヴォルヴァーの弾倉を開いて弾を床に捨てた。 「…………——」  黒崎は唸っていたが、 「どう思う?」  と、大幹部たちに視線を移した。 「確かに腕は立つ……」 「組長の用心棒にはもってこいかも知れませんぜ」  などと大幹部たちは|呟《つぶや》いた。 「よし、働かしてやろう。ただし、今月はタダで働いてもらう。食費ぐらいは出すがな」  黒崎は私の目を見つめながら言った。  こうして黒崎の用心棒となった私は、毎日を忠実に働いて、しだいに黒崎の信用を獲得していった。  黒崎の命令に不服な|素人衆《しろうとしゅう》を痛めつける私のやり方が残忍なことは、三日もたたないうちに緑会や神西組に知れわたった。  市の勢力を握る三派の平和会議が開かれるのは、私が黒崎の下で働くようになってから一週間後の午後十時ということになっているのを知った。  三派とも、代表者と部下三人ずつが会議に出席出来る定めになっている。場所は『ホテル・グリーン』の五階の大広間だ。黒崎は、会議のときには私もそばについていてくれ、と言った。  会議予定の二日前、私は筆跡を崩した無署名の手紙を緑会の会長桑野に送った。その手紙のなかで私は、黒崎が神西と組んで平和会議の名目で集らせた桑野を消そうとしている。特に黒崎が最近傭った殺し屋……つまり私……には充分に気をつけることは|勿《もち》|論《ろん》だが、ホテルには伏兵を張込ませておかないと不安だ、と書いておいた。  神西にも同じような手紙を送った。違うところは、桑野と黒崎が共謀して神西を会議の席で消そうと準備しているという主旨にしたことだ。  だが、この細工だけでは不充分であった。私は黒崎に向かって、 「用心するに越したことはない。まさかとは思いますが、緑会と神西組が黒崎組の縄張りを乗っ取る計画をしてるかも知れません。そのためには、会議の席上であなたを消そうとする筈だ。隣の部屋にも幹部連中を待機させていてはどうです?」  と吹きこんだ。 「そのとおりのようだな」  黒崎は唸った。  十一月五日——予定の日が来た。ホテル・グリーンの五階の大広間には円卓が置かれてその上に市の地図が|拡《ひろ》げられ、おびただしい花輪が飾られた。  黒崎組の幹部連中は大広間の左の部屋に夕方から潜んだが、前日から外人名で予約されていた広間の向かいの部屋には緑会の幹部連中、広間の右の部屋には神西組の連中が集まってきた。  私は掛けた|罠《わな》が成功したのを知った。  約束の午後十時——平和会議ははじまった。しかし、疑心をつのらせた三人の代表は、はじめから喧嘩腰であった。  汚い言葉で|罵《ののし》りあい、一触即発の緊張が生まれた。  拳を振りあげツバを飛ばしてわめく黒崎のうしろに立った私は、左右に並んだ吉井と石川に向かって、 「心配になってきた。留守を|狙《ねら》って事務所が襲われているかもわからん。あとを頼むぜ」  と、言い残して広間を出た。  銃声が起こったのは、私がブルーバードに乗りこもうとしたときであった。誰が最初に発砲したのか知らぬが、ホテルの大広間は乱射の|轟《ごう》|音《おん》に満ちた。  どの組もがほかの組を敵と思っているので、ほとんど|盲射《めくらう》ちらしい。  大広間の銃声が弱まったと思った瞬間、今度はホテルの五階は、以前にも数倍した発射音に震えた。  部屋に隠れていた幹部連が跳びだして射ちあいをはじめたのだ。  私はブルーバードのエンジンをかけ、全速力で市から遠ざかっていった。     消えた|囮《おとり》      1  国道十六号——通称横須賀街道を南下する私専用のブルーバードは、|追《おっ》|浜《ぱま》を過ぎてから、トンネルをいくつもくぐった。  七つか八つ目のトンネルを抜け、少し行くとまたトンネルが見える。しかし、私は一方通行路の左側の陸橋に入っていった。  陸橋をのぼると、突然視界がひらけた。港と船艦と対岸の半島が、左の眼下に姿を現わした。陸橋の下を、立体交差の形で広い道が走っているが、それは横須賀駅で行きどまりになる。  私は陸橋をくだってきた十六号と駅前通りが合致したあたりで車をとめ、そのまま横須賀に入ろうか、それとも駅のほうに戻ってみようかと迷った。  いまは、午後の一時半だ。何でも知っておくにかぎるから、下の道を駅のほうに戻っていく。今度は右手になった港側に浦賀造船の広大なドック、その先に臨海公園、駅の近くにS・P——つまり米海軍の陸上憲兵の詰所が続き、突き当たりの駅は何だか貧弱に見えた。  私は駅前の広場でUターンして車を戻した。グリーン・ベルトの先に米海軍の下士官クラブのビルが見え、左手には浦賀ドックが続いている。まだ勤務中らしく、水兵の姿は街にはあまり見当たらない。  私は下士官クラブの前の|三《さん》|叉《さ》|路《ろ》を右に折れた。それが汐入町のT字路に突き当たったあたりは、安キャバレーと米兵好みの名前をつけたバーが密集していた。  そのあたりをゆっくり車で走ってから、私は駅前通りに車を戻し、臨海公園のなかに車を入れた。すぐ先は入江だ。私は邪魔にならない位置に車をとめておいた。  車のキーは、車の後部ナンバーの裏につけた強力な磁石に吸いつかせて隠した。普通、車のキーは|真鍮《しんちゅう》にメッキしてあるわけだから磁石に反応を示さないが、私のは特別に|鋼《はがね》で作らせてある。  車を離れたときの私の格好は、|暗褐色《あんかっしょく》の服に身を包み、同色のソフト帽を目深にかむり、左腕にやはり同色のトレンチ・コートを抱えていた。  スポーツ・シャツの色も暗褐色だ。靴の色だけが黒であった。ソフトをかぶっているのは|伊《だ》|達《て》のためではない。頭に不意打ちをくらっても骨にヒビが入らぬように用心しているのだ。  腹がへってきた。私は再び下士官クラブの前まで出た。今度は左に折れて歩く。国道十六号でもあるこの通りはやはり、メイン・ストリートであろう。  だが、その通りは基地の街以外ではなかった。左側はまだ浦賀ドックが続いてきていたが、下士官クラブ側の商店は、すべて英語の看板であった。レストランとキャバレーとバーと、写真屋と似顔絵屋、それはスーベニールの店といったたぐいだ。  浦賀ドックの次に、米海軍の基地が控えていた。ゲートの前で通りの反対側を見た私は、朝鮮動乱のアブク景気に沸きたった頃の基地の街がそのまま残っているどころか、マンモス化しているのに一驚した。|臆《おく》|面《めん》もなくブロードウェイ・アベニューと名づけられた諏訪神社への参道の左右は、上陸してくる米水兵相手のオールナイトのクラブ、バー、ヌード・スタジオ、キャバレーなのだ。  私は神風タクシーが疾走する通りを横切り、ブロードウェイ・アベニューに入った。そのアベニューに交差する道の左右の商店も、みんな水商売だ。  私は一軒のレストランに入った。店内は薄暗い。私はビフテキとコーン・スープで腹ごしらえをして、ついでに酔い止めの薬も飲んでおく。  この横須賀の市に来たのは、無論、遊びのためではない。私の同僚の村越が一週間前から、この市で連絡を断ち、いまになってもまだ消息がわからないのだ。  村越は、横須賀に入港する米艦によって、ひそかに台湾や沖縄から持ちこまれる麻薬が、東京の暴力団に渡ってくるまでのルートを捜査するために、三月ほど前から潜入していたのだ。  村越が消されたとまだ断定も出来ないので、当局としては大っぴらに捜査するわけにはいかなかった。そんなことをすれば、村越が万が一、生きているとしても、たちまち|囮《おとり》であることがバレてしまって消されてしまう。  そんなわけで、同じ秘密捜査官である私が、この街に乗りこんできたのだ。村越の二の舞いを演じたりしては……と思うと、あまり居心地のいいものではない。  不安をまぎらわすために、私はゆっくり時間をかけてコーヒーを飲み終えた。勘定は銀座並みのボリかたであった。  店を出た私は、やっと本屋を見つけだして、市内地図を買った。それを片手に市内バスに跳び乗り、町名とその位置、環境などを頭のなかに|叩《たた》きこんだ。  幾台もバスを乗りかえ、そのあいだにタクシーも利用して、午後の六時になるまでには、市内をほとんど一巡した。そして、京浜急行の横須賀中央線のあたりが、日本人のメイン・ストリートであることを知った。  最後に米海軍基地のゲートの近くでバスを降りたとき、陽は落ちきって、|闇《やみ》を狂い咲いたネオンの毒花がはねのけていた。  街には、|裾《すそ》の広い紺の制服と白い制帽の米海軍の水兵があふれ、肩で風を切ってのし歩いていた。もう酔っぱらって千鳥足の黒人兵もいる。帽子も紺色の海上自衛隊の連中は肩身が狭そうに歩いていた。  下士官クラブの前では、白い|棍《こん》|棒《ぼう》を|吊《つ》ったS・Pが|頑《がん》|張《ば》っていた。そこに、日本娘を連れた水兵が続々とタクシーで乗りつけた。  私は先ほど目をつけておいた汐入町のT字路のあたりの歓楽街に歩を進める。囮の村越は、市を二分する暴力団の一つである|若《わか》|狭《さ》組に潜入して、組長の用心棒にまで取立ててもらい、もうすぐ大量の麻薬取引きの場に立会うことになった……と伝えてきてから、プッツリと消息を断ったからだ。  そして、汐入町の歓楽街を支配しているのは若狭組なのだ。私の足が自然にそこに向くのは無理ないであろう。なお、若狭組と対立している湘南興業の縄張りは、ブロードウェイ・アベニューの一帯だ。      2  汐入町のT字路に来た。しかし、正確にはT字路でない。突き当たりにも道は開いてはいる。だが、その道は左右をバーやキャバレーやソープなどにかこまれ、しかも複雑に交錯したカスバなので、よほど慣れた者でないと、車を入れる気にはならない。  カスバの露地には、ところどころに、腕力が自慢らしい水兵が四、五人ずつたむろしていた。そして、店々の軒先には、グロテスクなまでに人工的な化粧をした女たちが、派手な|嬌声《きょうせい》をあげて客を奪いあっていた。その露地を通り抜けられるのは、タックルをかわす名人のラグビーの選手ぐらいのものであろう。  客のほとんどは、上陸してきた水兵であったが、日本人もいないことはなかった。私は意識して冷たく無表情な顔をつくり、右手を上着のポケットに突っこむと、露地のなかに足を踏みいれた。 「あら、イカすじゃない」 「寄ってらっしゃいよ。ハンサム・ボーイさん。スパークしちゃったわ」 「一杯だけでいいのよ。あとのドリンクは、あたしの|奢《おご》りにしてもいいからさ」  イナゴのように私に跳びついた女たちは、反射的に陳腐な誘い文句を並べた。私が左腕にかけたトレンチ・コートを引ったくろうとする女もいる。 「ギャー、ギャーわめくな。邪魔だぜ」  私は無表情な瞳を露地の奥に|据《す》えて、低い|圧《お》し殺した声で|呟《つぶや》いた。そんなときの私は、冷酷な殺気さえも感じさせるそうだ。 「何さ!」 「偉そうな口を叩くじゃないのさ!」  ドレスから|剥《む》きだしにした肩や腕に|鳥《とり》|肌《はだ》だてている女たちは、口々に罵声を発したが、私の顔を見上げると、一斉に身を引いた。私が彼女たちと同じように裏街道を歩く男と思ってくれたらしい。  私は冷たい表情を崩さずに、そのまま歩み去ろうとした。 「チェッ、気取ってやがんの。新入りのくせしてさ」  女たちの一人が私の背に罵声を投げつけた。ほかの女たちが、不器用な声をたてて笑った。  私は振りむいた。女たちは|嘲笑《ちょうしょう》の声を途中で引っこめ、それぞれの店の軒先に跳びずさった。  私に罵声を投げた女は、バー『ダイジョーブ』の女給らしかった。“大丈夫”と“とんでもない”は、片言の日本語をしゃべれる米兵の十八番だが、勘定書きをつきつけられたとき口から出るのは、あとのほうの言葉であろう。 「何なのさ! 何の文句があるのさ」  その女給は、|怯《おび》えの表情を浮かべながらも強がりを言った。年は十八、九とも三十近くとも見えた。厚化粧の下の素顔を想像することは難しい。 「|尋《き》きたいことがある。人をさがしてるんだ。佐々木っていう男を知らないか……」  私は彼女の瞳を見つめながら言った。佐々木は村越の偽名なのだ。 「佐々木なんて男、いくらでもいるよ。それに、あんた一体誰なのさ?」 「佐々木のことを尋いてるんだ。|奴《やつ》が最近このあたりをうろついてるって|噂《うわさ》を聞いたんで、やって来たんだ……年は三十四、五。|痩《や》せ形で背は中ぐらい。眠たそうな、|瞼《まぶた》の厚い目をしている……」  私は村越の特徴を並べた。  だが、私は実際の村越と会ったことはないのだ。私たちの身分を知っているのは本庁でも、ごくかぎられた一握りの主脳部だけであるが、秘密捜査官どうしでも、よほどの場合でないと、互いに相手を知らされてない。  だから、私が村越の存在を知ったのは、彼が消息を絶つという重大事が発生したからであり、そうでなければ、彼は捜査中に顔を会わしたところで、二人とも互いを敵と思ったであろう。私は本庁を出発するときに、上司の遠藤警部から、村越の過去と、クセや体つきなどを教えられてきたのだ。無論、十数枚の村越の顔写真も見せられた。それと、テープに吹きこまれた彼の声も聞かされたのだ。 「知らない——」  女はわめき、 「知らないもんは、知らないよ。何さ、あんた若狭組の新入りかと思ったら、流れ者じゃないのさ。畜生、早く消えちゃいな。それとも、うちの店で遊んでいくかい?」  と、わめいた。厚化粧の下で顔色が|蒼《あお》ざめているように見えるのは、私の気のせいかも知れない。 「それ以上わめくと、歯をへし折ってやるからな。どんなサカリ猫でも、お前さんほど薄汚くねえや」  私は野卑な言葉で応じ、適当な|罵《ば》|言《げん》をさがそうと歯ぎしりしている女に背をむけて、露地のなかにさらに深く入っていった。      3  カスバのなかで、私はバーやクラブを五軒ほどまわった。  どの店も、名前と置いてある女の名前が違う程度で、実質は同じようなものであった。オサスリとオニギリのサービスをするごとに、女のほうが法外な値のついたカクテルと称する色つきの水をガブ飲みしてドリンク料を|稼《かせ》ぎ、男のほうがネッキングでは我慢出来なくなると、二人で二階の個室に消えるといった趣向だ。もっとも、航海中に抑圧されていた水兵たちのなかには、二階に上がる前に女給の手やドレスを汚してしまう者が多かった。  どの店でも、私はカウンターに坐り、水割りのウィスキーを一杯だけ注文した。余計なオードブルの皿など運んでくると、ちょっとばかし|凄《すご》んで見せて、それを引っこませた。  そして私は、バーテンに向かい、 「佐々木という男を捜している。どこにいるのか教えてくれるだろうな?」  と、尋ねてみた。  バーテンは、その質問を受けると、一様に黙りこんだ。しばらくして、 「知りませんね。その|方《かた》がどうかなさったんで?」  と、尋ねかえしてきた。 「お前さんの知ったことじゃない。俺だけに関係のあることなんだ」  私は、いつも素っ気なく答えた。  さらに、三軒の店をまわった。同じ質問をして廻った。その頃になると、私が店に入ると、若狭組の者らしいチンピラが二、三人、いつも店に入ってきて、戸口のあたりでナイフで|爪《つめ》を|磨《と》いだり、バンドに差した拳銃をチラッ、チラッと見せびらかしたりした。  私は|挑発《ちょうはつ》に乗らなかった。彼等は、私が刑事であるかどうかを確かめに来ているのであろう。チンピラが二、三人私に捕まったところで若狭組には少しも痛くない。  だが私はそのうちに、頭の真ん中の|禿《は》げた中老の男が店に入ってきて、|隅《すみ》のテーブルにつくのを見て苦笑いした。その男は、昼間見たことのある似顔絵描きの一人であった。  戸口のチンピラたちは、私に向かい、 「世の中にはケチな野郎がいるもんだな。どこに行っても水割り一杯しか飲まねえんだってよ」 「ゼニがねえのさ。稼ぎが少ねえんでな」  などと|罵《ののし》り、私を彼等のほうに振りむかせようとする。私が彼等のほうを向くと、隅のテーブルの似顔絵描きにも顔を向けることになる。その男は、すでに画用紙を膝の上にひろげていた。 「奢ってくれるとでも言うのか?」  私はその挑発には乗ってやることにした。チンピラどもに顔をむけると、似顔絵描きはいそがしくコンテを走らせた。 「奢ってくれだってよ」 「ケチの上に図々しいときてやがら」 「一丁、可愛がってやろうか……」  チンピラたちは、自分では凄味があると思っているらしいニヤニヤ笑いを浮かべた。  似顔絵描きは、まだるっこしくなったのか、画用紙をテーブルに乗せて、一心にコンテを走らせていた。  私はそれに気づかないふりをしていた。私の顔を、本庁や神奈川県警の刑事の顔写真のなかから捜しだそうとしたところで|無《む》|駄《だ》|骨《ぼね》になるに決まっている。  描きあげたらしく、似顔絵描きは画用紙を掴むと、店から跳びだしていった。私はバーテンに勘定を頼んだ。  勘定書きには、三万七千百円と出ていた。私はそれを破り捨て、 「俺の飲んだ水割りには、金でも溶かしこんであったのかい?」  と、バーテンに言った。 「…………」  バーテンは、ふてくされた笑いを浮かべた。 「じゃあ、看板に出してあるだけのゼニを置いとくぜ」  私は千円札二枚カウンターに置くと、止まり木から降りた。  三人のチンピラは、店の戸口に並んで立ちふさがった。ボックスの水兵たちが英語でけしかける。  私はチンピラに近づいた。 「通してくれよ」  と、穏やかな声を出す。 「通りたければ、まともに勘定を払うんだな」  チンピラのうちの一人の、ベルトに拳銃を忍ばせた男が|嘲《あざけ》った。手足がひょろ長い。これが兄貴株らしい。  私は無言でそのチンピラの|睾《こう》|丸《がん》を|蹴《け》りあげた。チンピラはけもののような悲鳴をあげて潰れた睾丸を押さえ、背中をエビのように丸めてうずくまろうとする。その|顎《あご》を私の靴先が砕くと、仰向けにブッ倒れたまま意識を失った。  左右のチンピラは、瞳に恐怖をむきだしにし、へっぴり腰でナイフを構えた。 「寄るな!」 「近づくと殺してやる……」  と、口から|泡《あわ》を吹きながらわめく。  私は米兵がついているテーブルの一つからビール|壜《びん》を取り上げ、それを左側のチンピラに投げつけた。そのチンピラはナイフを持った右手で夢中でビール壜を防いだ。  私はガラ空きになったその腹に、思いきり右のフックを叩きこんだ。確かに胃袋が裂けた音と|手《て》|応《ごた》えがあった。そのチンピラは、泣きわめきながら、床を転げまわる。  三人目のチンピラは、|扉《とびら》に背を押しつけ、右手でナイフを握って震えていた。私が左手で誘うと、目をつぶってナイフを突きだしてきた。  私は横に跳ぶと、その男の首に右の|拳《こぶし》を叩きおろした。肺中の空気を吐き出され、そのチンピラは勢いよく|尻《しり》|餅《もち》をついた。首が不自然な格好に曲っている。      4  米兵たちは黙りこんでいた。女給たちが派手な悲鳴をあげた。 「救急車でも呼ぶんだな」  私は言い捨てて店から出た。少しばかし上気して頬に冷たい風が気持いい。  店から出た私を見て、|揃《そろ》いの黒い背広の男が二人、素早く露地の暗がりに隠れた。私はカスバの迷路を抜けると、通りがかりのタクシーを拾った。  さっきの黒服の二人が、別のタクシーを捨ったのが見えた。しかし私は、 「どこか、今夜の宿になるようなところはないかい? 鍵のかかる部屋がいいんだが……」  と、タクシーの運転手に尋ねた。 「御案内しましょう」  運転手は愛想よく答えた。客を廻すと、旅館から割戻しがもらえるらしい。  タクシーは国道十六号に出た。さらに三分ほど南下を続けてから消防署の手前を左に折れると、横須賀湾をはさむ半島に出た。ドックと|桟《さん》|橋《ばし》の横須賀湾と対照的に海水浴場になっている小川湾のほとりを走る。二人の黒服を乗せたタクシーは、百五十メートルほど間隔を置いてつけてくる。  私を乗せたタクシーが着いたのは、海辺の|崖《がけ》の上に立つ、ホテル『|美《み》|笠《かさ》』であった。三階建てなので、マンモス化した温泉場のホテルとくらべれば見おとりするだろうが、それはそれなりに風情があった。  すでに時計は午前零時近かった。私は二階の二〇五号の部屋に通された。フランス窓の先にバルコニーがあり、その先に暗い海と安浦にかけての灯が見える。遠く左手の海上に猿島の灯が鈍く光っている。  私をつけてきたタクシーは、ホテルの前庭の手前で引きかえしていったようだ。しかし私は、ベッドに横になってスタンドの灯を消しても、毛布の下でベレッタ小型自動拳銃を握っていた。いつもは、それを|臑《すね》にくくりつけたホルスターに隠しているのだ。  長いあいだ待った。一年ほど前に密輸業者から|捲《ま》きあげたローレックスの蛍光を塗った針が二時半を示したとき、ドアの鍵孔に金属が突っこまれる音がした。  私は腕時計をはめている左手を、素早く毛布の下に戻した。やはり毛布の下のベレッタの撃鉄を静かに起こす。  錠の外れる音がした。廊下から部屋のなかの様子をうかがっている気配がする。私は軽い寝息をたててやった。  一分ほどして、ドアはゆっくりと開いた。薄目を開いてみると、細目に開いたドアから二人の男が部屋に滑りこんでくるのが見えた。タクシーでつけていた黒服の男だ。  一人のほうが私の|枕許《まくらもと》に立つ。もう一人は、壁についている電灯のスイッチを押すと、ドアを閉じた。 「起きるんだ!」  枕許に立った男が、唸るように言った。私は電灯の光に顔をしかめながら、寝ぼけたように、左手で瞼をこすろうとした。 「動くんじゃねえ!」  枕許の男は再び唸った。三十七、八の、顎の張った男だ。右手に握った拳銃を、私の胸のほうに向けている。銃種は、S・W三八口径のリヴォルヴァーだ。銃身は極端に短い。ポケットのなかで発射しても撃鉄が邪魔にならないように撃鉄が引っこんでいるボディガード・モデルだ。  ドアを閉じた男がベッドに近寄った。髪をチックで固め、ローションの匂いを発散させた細面の三十四、五の男だ。  私の脱いだ服は、ベッドのそばの椅子の上に放りだしてある。その男は私の上着やズボンのポケットをさぐった。財布と運転免許証を出し、 「ハジキは持ってないようですぜ」  と、呟く。 「よし、川又。免許証を調べるんだ」  顎の張った男は、私から視線をはずさずに言った。 「大塚道夫、無職、住所は新宿区淀橋三七五となってますぜ」  川又と呼ばれた男は呟いた。 「フン、するてえと、やっぱしこいつは|刑《デ》|事《カ》じゃなかったんだな」  顎の張った男は呟いた。 「だから言ったでしょう? ビクビクしねえで、露地でさっさと片付けちまったら簡単だったんだ」  川又は言った。 「お前は黙ってろ——」  顎の張った男は唸り、私に向かって、 「さあ、しゃべるんだ。なんで佐々木のことを|嗅《か》ぎまわってるんだ?」 「貴様の知ったことか」  私はふてくさって見せた。 「偉そうな口をきくじゃねえか。こいつはオモチャでねえぜ。一発ブッ放してみようか?」 「銃声はどうなる?」 「このホテルの連中は俺たち若狭組の言いなりになるさ。さあ、しゃべるんだ!」 「奴に会ったら、俺が|舐《な》められて大人しくすっこんでる男でないことを知らせてやるんだ」  私は瞳を据えた。 「はっきり言いなよ」 「よし、言おう。俺と佐々木とは、五反田の米屋組で一緒に仕事をやっていた」 「米屋組? 去年、警察と派手に射ちあって全滅してしまったところか?」 「全滅ではないさ。俺と佐々木は生き残ったんだからな。ともかく、俺と奴とは友達だった。それなのに、俺がポリの流れ弾に当たって倒れたとき、奴は俺を見殺しにして逃げやがった。その上、俺の拳銃も持ち逃げしやがったんだ。俺はやっと|這《は》って逃げのびたが、それからずっと、奴を捜し続けてるんだ」  私は主任から教えられた筋書どおりのことをしゃべった。米屋組を|罠《わな》にかけて全滅させたのは、事実、佐々木こと村越の仕事だったのだ。ただし、私はその仕事に関係はない。だが米屋組の大物で生き残ったのは誰もいないから、どうにでも私は言えるわけだ。      5  顎の張った男は、食いつくように私の目を見つめていた。 「どうも信用ならねえ。射たれたときの傷とやらを見せてもらおうか?」  と、唸る。だが、S・Wボディガード・リヴォルヴァーの銃口は私から外れていた。 「いいとも、見せてやる」  私は半身を起こした。毛布をはねのける。右手のベレッタは、その男の心臓を|狙《ねら》った。 「…………」  男は|呻《うめ》いた。だが、発砲するだけの度胸は無いらしい。 「さあ、二人ともお手々を上げるんだ」  私は言った。顎の張った男の手から、S・Wが|絨毯《じゅうたん》に落ちた。二人は|痙《けい》|攣《れん》するように両手をあげた。 「よし、消えろ。だけど、俺の言ったことは|嘘《うそ》じゃないぜ——」  私はシャツを片手でまくって、脇腹の傷痕を見せた。米屋組とは関係なく受けた傷だ。シャツを直し、 「佐々木に会ったら伝えといてくれ、礼は充分にさせてもらうとな」  と、呟く。  二人の男は両手を高々とあげたまま部屋を出ていった。S・Wを拾いあげて弾倉を点検した私は、ベッドの下にフトンをおろし、そこで眠った。  目が覚めたときは昼過ぎであった。身仕度を済ませて階下のロビーに降りると、ソファに並んでいた昨夜の二人組が跳びあがった。 「しつこい奴等だ。また|放《ほう》り出されたいのか?」  私はポケットのなかでS・Wを握った。  だが二人は、不器用な愛想笑いを浮かべていた。バッタのように頭をさげながら、 「昨夜は失礼しました。実はボスが……いや社長が、ぜひあなたとお話をしたい事があるので、お連れしてこいと言いますので……」  と、哀れっぽく言う。 「案内しろ」  私は言った。  ホテルの前に、運転手つきのベンツ二二〇Sが待っていた。二人を助手席にまわし、私はうしろの座席を一人で占領した。その車のなかで、私は顎の張った男の名前が桑田ということを知った。  ベンツは裏手から汐入町の歓楽街に近づいた。そして、とまったところは、五階建てのマンモス・キャバレーの裏口であった。  カスバのあたりは、まだこの時間は活気を呈していない。  車を降りた私は、二人の男を先に歩かせ、そのあとからついていった。  入ったのは、五階にある事務室の隣の広い応接室であった。背後に用心棒をしたがえた五十二、三歳の痩身の男が、|肘《ひじ》|掛《か》け椅子に腰をおろして待っていた。渋い服装には一分の|隙《すき》もない。 「よく来てくださいましたな。私が若狭でございます」  その男は微笑を浮かべて立上がった。私に向かいの椅子をすすめ、桑田たちに顎をしゃくる。二人は隣の部屋に消えた。 「俺に何の用だ?」  私は言った。 「単刀直入に言いましょう。あなたの腕を買いましょう。私のために働いてください」  若狭は無造作に言った。 「佐々木のことかと思ったら、そんな事か。お断りするね」  私はわざと拒否した。 「気の短い人だ。実を言うと、佐々木君も私のために働いてくれている」 「どこにいるんだ!」  私は思わず叫ぶように言った。村越は生きているのだ。私のこれまでの努力が馬鹿らしく思えてきた。 「いまは神戸に行っている。私の全権大使としてね。あなたも知っているだろうが、ここで陸揚げされた|品《ブツ》は、一度神戸に集められる。佐々木君は、それを運んでいったんだ。なに、今日の飛行機で戻ってくることになっている」 「畜生、佐々木の奴……」  私は歯ぎしりして見せた。 「まあ、まあ……人間は誰にでも|落《おち》|度《ど》はある。一度だけ彼を許してやってくれないだろうか? 私が仲に立つから、仲直りしてくれ。実を言うと、あなたのような|凄《すご》|腕《うで》がもし湘南興業に傭われでもすると、私のほうにとっては脅威だからね」  若狭の弁舌はさわやかであった。  佐々木こと村越が生きていることさえ知れば、私は若狭組に用はない。あとのことは村越がうまくやってくれるだろう。だが、その態度を露骨に出してはあやしまれるので、私は|拗《す》ねながらも若狭の申立を承諾した。  そのとき、ドアがノックされた。 「誰だ!」  若狭のうしろの用心棒が鋭く叫んだ。 「佐々木です。ただ今、戻ってきました」  テープで聞き覚えた村越の声が聞こえた。ドアを開いて入ってきた男も、写真で見た村越に違いなかった。  左手にバッグを提げている。 「久しぶりだな」  私は言った。必死のウィンクを送る。  だが村越は、私のサインを見ても、眠たげな表情を変えなかった。 「どうした、佐々木君! トボケなくてもいいんだよ。大塚君は、昔の恨みを忘れて、君とまた仲良くやろうと誓ってくれたんだ。さあ、握手したまえ」  若狭は、物知り顔で言った。 「俺を忘れたわけじゃないだろう? 米屋組で一緒だったこの俺を?」  私はウィンクを繰りかえした。 「あんたなんか知らんね——」  村越は呟いた。その眠たげな瞳に氷のような笑いが浮かぶと共に、 「わかった。こいつはお笑いだ。こいつは|警《サ》|察《ツ》の犬だ、みんな、用心してくれ」  と言って、|腋《わき》の下に右手を走らせた。  私は瞬時にして事態をさとった。ポケットのなかのS・Wボディガードを握ると、そのまま発砲した。  ポケットに火がついた。腹に三八口径弾をくらった村越は、腋の下に隠したブローニングを抜きかけたまま、仰向けに転がった。  若狭と用心棒が、罵声を発しながら腰ポケットの拳銃を抜きかけていた。私のポケットのなかで拳銃が二発|轟《ごう》|音《おん》を響かすと、二人の顔面はトマトを潰したようになった。  即死だ。若狭の口を割らすことが出来なくて残念だが、ポケットのなかに入れたままの緊急発砲なので仕方ない。  私はポケットからその拳銃を抜き、ポケットについた火を叩き消した。  ドアが開かれ、桑田と川又が拳銃を構えて跳びこんできた。私はその二人の顔を射ち抜いて脳天を吹っとばした。  村越が呻いていた。私はその体を横にさせている。床は血の海でベトベトしている。 「まとまったゼニが欲しかった……仲間も欲しかった……覆面刑事なんて|糞《くそ》くらえだ……」  濁ってきた瞳を開いて呟いた村越は、それだけを言い終わると動かなくなった。  私も村越の言ったことに同感であった。しかし、私には任務を遂行する誇りが残されている。傷だらけで、馬鹿げた誇りだが……。私はS・Wについている自分の指紋を|拭《ぬぐ》い、それを村越の手に握らせてやった。     被害者を捜せ      1  放射四号のオリンピック道路は、駒沢を過ぎて世田谷新町に入ると、そこから用賀の先までは、真ん中をグリーン・ベルトで仕切られた広々とした直線道路になる。白バイの気配のないときは百キロを越すスピードで飛ばしている車をよく見かける。  午前三時——その新道を疾走する車の影は見えなかった。だが、道を区切るグリーン・ベルトの植込みにドラム|罐《かん》が見える。用賀町と深沢町の境のあたりのことだ。  そして、下り側の道路の端に、一台のトヨペット・マスターラインの中古車がとまっている。半分ほど開いた運転手側の車窓から、携帯用無線ラジオのアンテナが突きだしていた。  車内には二人の男がいた。雑音をたてていた無線ラジオから短く言葉が流れると、二人の男は車の外に跳びだした。コートの|襟《えり》をたて、スキー帽を目深にかむっているので、顔かたちは定かにわからない。  二人の男は、油がしみた軍手をはめていた。グリーン・ベルトに駆けよると、ドラム罐を二人で道路に転がす。  ドラム罐から、オイルが流れだした。下り側の道幅一杯にひろがっていく。  二人の男は空になったドラム罐をライトバンの荷室に|放《ほう》りこみ、自分たちは運転席のシートに戻った。  その車は二子玉川に向けて消えていった。あとには鈍い|闇《やみ》が残った。  それから二分ほどして、渋谷寄りのほうから、四つ目のヘッド・ライトを怒らせた車が疾走してきた。セドリックだ。九十キロ以上は出していたが、さらにスピードを上げてくる。  車のなかには五人の男が乗っていた。それぞれ、|格《こう》|子《し》|縞《じま》のハンター帽をかぶっている。年は二十二、三歳で、助手席の男だけが三十近い。  路面に流れたオイルの帯に近づいたとき、そのセドリックは百二十キロは出していた。五十メートルほど手前で、セドリックを運転する男は、路面を黒く|濡《ぬ》らしているものがただの水ではないと気がついた。  あわてて、その男はブレーキに右足を移す。その間にも、車は三十メートルほど走っていた。  身を反りかえすような格好でハンドルを握る男は急ブレーキを踏んだ。だが、百二十キロのスピードの急ブレーキは、前のバンパーが路面と接触するほど鼻づらがさがる。車のなかの男たちは、うしろから巨大な|木《き》|槌《づち》でひっぱたかれたように前のめりになった。  それだけでは済まなかった。助手席の男は前窓のガラスに顔を突っこみ、うしろのシートの三人は運転席側にまでフッとばされた。  車はとまらなかった。スリップしながらオイルの帯に突っこんでいく。オイルでスリップはひどくなる。  ハンドルを握る男は、うしろのシートの一人が叩きつけるような勢いでのしかかってきたので、ダッシュ・ボードに額をぶっつけて意識がモウロウとしていた。セドリックは横滑りしてグリーン・ベルトに激突し、|轟《ごう》|音《おん》をたてて二、三度転がると、屋根を下にして火を吹いた。  車はたちまちにして炎に包まれた。ひしゃげたドアから、重傷は負ってもまだ意識のあるらしい男が二人、両手で顔をおおって|這《は》いだした。髪に炎が燃え移っている。オイルの帯にも火が移って、あたりは火の海になった。  車から這いだした二人の男は、夢中で路面を横切った。歩道に坐りこむと|呻《うめ》き声を漏らす。ポケットからこぼれ落ちたらしい拳銃が、オイルに|濡《ぬ》れ、炎を受けて鈍く光る。  セドリックは、窓からも炎と煙を吐きだしていた。やがて、車内から続けざまに|凄《すさ》まじい|炸《さく》|裂《れつ》|音《おん》が起こり、車窓のガラスを吹っとばした。  その炸裂音は、ガス・ボンベか火薬の爆発音らしかった。やがて消防車やパトカーや救急車が現場に駆けつけたとき、|仰《あお》|向《む》けに転がったセドリックは、赤熱して|飴《あめ》のようにひんまがった|残《ざん》|骸《がい》と化していた。  車のなかに残された三人は、骨まで灰になっていた。車から這い出した二人は、いつの間にか姿を消していた。  焼け崩れたエンジンの製造ナンバーから、その車が渋谷を本拠にしている暴力団和田倉興行のものであることがわかった。だが和田倉は、その車が事件の前夜に路上駐車中に盗まれたものであることを主張した。  しかし、捜査陣のねばり強い聞きこみは、災難を受けた五人が和田倉興行の幹部たちであることを確かめた。  重傷を負いながらも身をくらました二人の幹部の|身《み》|許《もと》は、現場近くに落としていった拳銃についていた指紋から割れた。仲川と下田という男だ。  二人の隠れ場を知っているのは、和田倉とその直属の高級幹部だけらしい。和田倉興行のチンピラたちを責めつけてみても、何の収穫もなかった。  道路にオイルをぶちまけた犯人は、同じ渋谷で和田倉興行と縄張りを争っている神泉組の仕業であることは見当がついた。  だが、組長の米沢は、犯行の時刻には、区会議員の大物の一人がナイト・クラブを借りきって深夜の午前一時からはじめたパーティーに出席していてアリバイがあり、部下の主だった連中にもアリバイがあった。  年があらたまった一か月後には迷宮入りを伝えられた。そこで私が乗りださないとならない|羽《は》|目《め》になったのだ。      2  午後九時——渋谷宇田川町の歓楽街は、毒々しいネオンの|洪《こう》|水《ずい》であった。その光に吸いよせられるように、肩を丸めた男たちが店々に入っていく。  私はポケットに両手を突っこんで、ゆっくりと歩いていく。|濃褐色《のうかっしょく》のコートに、同色の背広と靴とタイをつけていた。スポーツ・シャツの色も同色だ。ただ、首に|捲《ま》いた絹のスカーフだけが漆黒だ。  コートの襟を立てても、冷たい夜気は容赦なく首筋にくいこんできた。バーやキャバレーの戸口で客を引く女給たちは、ドレスからむきだしになった肩を|鳥《とり》|肌《はだ》だてていた。  屋台のオデン屋のたてる暖かい湯気が私を誘惑する。私は|鎧戸《よろいど》を閉じた花屋の前にとまった屋台に近づいた。  その屋台のベンチには、カモを待つ|街娼《がいしょう》が二人して腰をおろしていた。私がベンチに腰をおろすと、さり気なく秋波を送ってくる。 「スジとタマゴと焼き豆腐……それに、梅割りの|焼酎《しょうちゅう》だ」  私は頭の|禿《は》げかけた屋台のオヤジに注文した。 「ねえ、あたいにもおごってよ」 「あたいのほうによ。あとでサービスするからさ」  二人の女はわめいた。 「いいとも……あんまり食うなよ」  私は言った。女たちのヒモやシケ張りが、露地や電柱の|蔭《かげ》で見守っている。 「|御《ご》|馳《ち》|走《そう》さま」 「あんたじゃないよ。あたいに言ってくれたんだろ?」  私に近いほうの女が私の顔を見上げる。荒れはてた皮膚を白粉の壁で固めたような女だ。 「二人ともに言ってんだよ」  私は答えて、石油の臭いのする焼酎を一気に半分ほど胃に流しこんだ。味わって飲めるような|代《しろ》|物《もの》ではない。  二人の街娼は、皿に勝手にオデンのタネを取った。私は焼酎の残りを飲み干し、スジのオデンを口に放りこんで|喉《のど》の不快感をのけようとしたが、それはアンモニアの臭いがした。  水でも割ってあるのか、その焼酎は、喉の通りが悪い割には胃で燃えなかった。私は二杯目を注文し、 「ところで、ここは確か神泉組の縄張りだったな」  と|呟《つぶや》くように尋ねる。 「さあね……」  屋台のオヤジは、途端に無表情になった。 「あんた刑事さん?」  横の街娼が腰を浮かした。 「心配するな、刑事でなんかない——」  私は言い、 「神泉組の佐竹に会いたいんだが、どこに行けば会える?」  と、オヤジに向けて尋ねた。佐竹とは、神泉組の副組長だ。私は遠藤警部から神泉組の主な連中の経歴を聞いてある。 「…………」  屋台のオヤジは黙りこんだ。 「|俺《おれ》は|奴《やつ》にひとこと言いたいことがある。神戸の事のお礼さ。そいつを言いたくて、俺はわざわざ出てきたんだ」  私は声に|凄《すご》|味《み》をきかせた。  二人の街娼は、御馳走さん、と早口に言って屋台を離れた。露地に駆けこんで、ヒモたちの耳に|囁《ささや》く。 「どこに行けば佐竹に会える?」  私は繰り返した。 「知りませんな、事務所でしょう。あたしには関係無いことだ」  屋台のオヤジは、しゃがみこんで顔を隠し、プロパン・ガスのコックを調節するふりをした。  露地から、街娼たちのヒモが二人姿を出した。私の横に腰をおろし、何も注文せずに、じいっと私の横顔を|睨《にら》みつける。  二人とも、目の下に|隈《くま》が出来て、|頬《ほお》がこけている。  私は|執《しつ》|拗《よう》に佐竹の居所を尋ね、 「なぶり殺しにでもしてやらねえことには、俺の腹の虫はおさまらねえ」  と、付け加えた。  街娼のヒモたちの目付きが、ますます険悪になっていった。  佐竹の経歴を調べていた、私の直属の上司の遠藤警部は——佐竹が四年前に傷害事件で関東を追われ、神戸の山田組に転げこんでいたとき山田組と対立する秋元組の代貸し柳田を|射《う》って重傷を負わしたことを知った。  佐竹には、デッチ上げのアリバイがあったので、有罪にはならなかった。そして、傷の|癒《い》えた柳田は、佐竹に射たれても射ちかえさなかったために|卑怯《ひきょう》呼ばわりされて秋元組を飛び出し、昨年の五月に九州の若松でデイリに捲きこまれて死んだ。  そして、その柳田の|風《ふう》|貌《ぼう》が私に似ているのだ。柳田の写真を見せてもらったが、|瓜《うり》二つとまではいかなくても、確かに私に似ている。だから、遠藤警部は、数ある秘密捜査官のなかから、私を|択《えら》んで今度の仕事を押しつけたのだ。  かつて私は渋谷で大きな勢力を持っていた青葉組を|罠《わな》にかけて|潰《つぶ》したことがあるから顔を知られている怖れはあったが、何事にも危険はつき物だ。      3  それから五つほど私は屋台を廻り、同じ|台詞《せりふ》を口にした。屋台なら捜査費が安くあがる。  六台目の屋台は、不動産屋のビルの前にとまっていた。私がその屋台に首を突っこんだときには、十一時近かった。安焼酎で胃がダブダブしてきたから、そこに来る前に思いきり吐いて胃を軽くしてある。  私が屋台の腰掛けに腰をおろすと、見えがくれに私をつけてきた二、三人の男が、私の背後に立ち並んだ。先ほどのヒモではなく、|面《つら》|構《がま》えからしていっぱしのヤクザどもらしい。 「あんたか、佐竹の兄貴を捜してるっていう男は?」  彼等の一人が声をかけてきた。神泉組らしい。 「ああ、会わせてくれると言うのか?」  私は振りむきもせずに答えた。屋台の主人である若い男は、後じさりしながら露地のほうに逃げていく。 「調子に乗りやがって……あんたは、佐竹の兄貴を見つけ次第、なぶり殺しにしてやると大きな口を|叩《たた》いてるそうだな」  一人がネチネチとした口調で言った。 「佐竹に会わせてくれるのか、それとも奴から何か伝言をたのまれたのか? そのどっちでもないんなら、さっさと消えるんだ」  言いながら、私はゆっくりとうしろを振りむいた。足も移動させて、素早く立てるようにする。 「こんなところじゃ話が出来ねえ。ちょいと顔を貸してもらいてえんだ」 「暗いところじゃねえと、話は出来ねえってんだな」  私は|愚《ぐ》|弄《ろう》するように言った。  三人の男は私の挑発に乗った。挑発に乗ったと言うよりも、彼等はそれを待っていたようだ。トックリのセーターの上につけた腹巻きの下に右手を突っこむ。  道行く酔客は、捲きぞえをくうのを怖れてか、手近な店に姿を消した。私はゆっくりと立上がった。 「くたばれ!」  さっきから私と言いあいをしていた男が、腹巻きの下から短刀を抜いた。青白い刃がピカッと光ると、柄を両手で握りしめ、体ごと突っかかるような勢いで私を襲った。  私は横に跳びざま、右足でその男の下腹部を斜め横から鋭く|蹴《け》りあげた。確かに|睾《こう》|丸《がん》が潰れた音がした。  その男は、屋台にぶつかりそうになりながらも前進をとめた。短刀を放り出した両手で下腹部をおさえ、背をエビのように丸めて崩れ折れる。|苦《く》|悶《もん》の表情にゆがんだ顔に瞳がつり上がり、額には大粒の|脂汗《あぶらあせ》が吹きだした。  あとの二人は、それを見て考えを変えたらしい。短刀を抜いたことは抜いたが、|狼《ろう》|狽《ばい》した声で|嚇《おど》し文句をわめきたてるだけで、行動に移ろうとはしない。  私は苦悶している男のポマードでねった髪をつかんで無理に引きずりおろし、その顔を湯気をたてているオデンの銅の角ナベに突っこんだ。人間のものとは思えぬ悲鳴をあげて|肢《し》|体《たい》を硬直させたその男は、意識を失ったらしくもう身動きしない。  私がその男を歩道に放りだすと、残りの二人は捨てゼリフを残して逃げだした。はじめは私から視線を離さずに後じさりしたが、一度私に背を向けると、あとは前のめりに両手を振りまわしながら、|家鴨《あひる》さながらの格好で|遁《とん》|走《そう》した。  私は気絶した男を抱えあげた。火傷した顔の皮膚は熟れすぎたトマトのように紫がかっている。  その男を露地の奥に運ぶと、露地に置かれたゴミ箱の蔭に|蹲《うずくま》って様子をうかがっていたオデン屋が、あわてて逃げた。私はそのゴミ箱の蔭に男の体を坐らせ、顔の皮膚を引っぱった。これも、|茹《ゆ》でたトマトの皮のように、その男の顔の表皮が|剥《む》けたが、男はまだ目を覚まさない。  私は平手で二、三度、その男の頬を引っぱたいた。男は唸り声を漏らして意識を取戻したようだが、|瞼《まぶた》が開かない。悲鳴に近い声で、 「目、目が見えねえ! 医者、医者を呼んでくれ!」  と、わめきたてる。 「気の毒にな。いますぐに、救急車を呼んでやるよ。ただし、俺の質問に答えてからだ。佐竹が一人きりでいるところを待ち伏せしたいんだ……」  私はわざと、馬鹿げた質問をした。 「佐竹の兄貴のアパートは、神宮表参道のコンティネンタル・マンションだ。その五〇二号に住んでる……救急車……早く……」  男は呻いて再び意識を失った。  私は肩をすくめ、露地から出た。警棒を振りまわした制服警官が二人、私のほうに駆けてくるのが見えた。  あたりのバーやキャバレーや飲み屋から、ボーイや女給が顔を出して、私のほうを指さしている。 「待て! 逃げるんじゃない!」  二人の警官は私に殺到した。血相を変えている。 「しようがねえな。大人しくお縄を|頂戴《ちょうだい》しますよ。このとおりでさ」  私は苦笑いを浮かべ、両手を|揃《そろ》えて差しだした。 「暴行容疑により緊急逮捕する!」  制服警官は叫んで、銀色の手錠を取出した。二人ともまだ三十前だ。近くの交番の巡査であろう。  素直に手錠をはめられるふりをしておき、私は突然、手錠を持ったほうの警官の|顎《あご》を一撃した。  その警官の顎骨にヒビの割れる音がした。その警官は|尻《しり》|餅《もち》をつくと、街灯に胃を打ちつけて横に転がった。 「抵抗はよせ!」  もう一人の警官が、警棒を私の肩口に振りおろした。左腕でそれを払った私は、その警官の胃に右フックを放ち、四、五メートルほどブッとばしてやった。気の毒だが仕方ない。私は身分を明かすことが出来ないのだ。  私が走りだすと、バーやキャバレーから|覗《のぞ》いていた顔は、小さな悲鳴をあげてすっこんだ。私は露地から露地を伝って逃げ続けた。      4  それから形式的にコンティネンタル・マンションの佐竹の部屋を見張ったが、佐竹は用心してか部屋に戻らなかった。  午前一時を過ぎて、私はその高級アパートを去った。大和田町に入っていく。この時刻になると、井の頭線と東横デパートを結ぶ陸橋の下のあたりは、アブれた街娼が必死に客の|袖《そで》を引いている。  神宮通りから上通りにかけての西側、つまり北谷町、宇田川町、栄通、円山町、神泉町といったところが神泉組の縄張りで——反対の東側つまり宮下町、美竹町、金王町、並木町、大和田町の一帯が、青葉組が潰れてからの和田倉興行の縄張りなのだ。無論縄張りは日々に変わるし、ほかの組も入りこんでいるが……。  だから私は、今度は和田倉興行の縄張りに足を踏みいれたことになる。  スカイラインのネオンが輝く東急本社からあまり離れてない場所に、|手《て》|頃《ごろ》なホテルが見つかった。いわゆるデラックス・ホテルでもなく、そうかと言って連れこみ専門でもないらしい。  ホテルの名前は『サンボア』とネオンが出ていた。三階建てで、大理石を模した外壁を持っている。  ドア・ボーイも、フロントの夜勤のクラークも眠たげであった。料金千五百円をフロントに前払いした私は、階段に近い二階のシングルの部屋に通された。バスはついてない。  ドアの錠は自動的にロックされ、内側からは鍵無しで開くが、外から開くには鍵が要るタイプだ。私は尻ポケットに突っこんでおいた週刊誌の中身を一枚ずつ千切り、雑に丸めて、ドアの内側一杯に敷いた。  コートと上着を脱いでベッドにもぐりこんだが、私はズボンは外さない。ズボンに隠された|臑《すね》に、それだけを私が頼りにしている小型自動拳銃ベレッタ〇・二五口径を|括《くく》りつけてあるのだ。  待つのは辛いことだ。だから私は眠ることに決めた。夢も見ずに眠った。  目を覚ましたのは、カサカサと鳴る紙の音によってであった。薄目を開けてみると、開かれたドアから二人の男が入ってくるところであった。私はさり気なく寝返りをうちながら、臑につけた拳銃を掛けブトンの下で抜いた。  二人の男は、床に敷かれた紙が騒音をたてるのに小さな罵声を送った。ベッドの私のそばに立ち、 「起きなよ」  と、|圧《お》し殺したような声で言う。 「誰だ? もうちょっと眠らせてくれ」  私ははじめてそのとき目を覚ましたように、左手で瞼をこすった。  私を覗きこむようにしている二人の男は、共に三十の後半に入っていた。分別くさい顔をしている。警部から見せてもらった写真のアルバムを頭のなかで手操ると、杉森と浜村という和田倉興行の幹部の名前が二人の顔に合致した。  二人とも、コートのポケットに深く右手を差しこんでいる。ポケットの角ばったふくらみ具合から見て、そのなかで拳銃を握りしめていると見当がついた。 「早々とお出迎えか? そう簡単に俺はくたばりはしねえぜ。佐竹はどこだ?」  私は言ってみた。 「カン違いするな。俺たちは和田倉興行の者だ。社長があんたにお会いしたい、と言うんで連れにきた」  左側の杉森が言った。私の計画は図に当たったらしい。だが私は、それでもわざと、 「そうかい?」  と、鼻で笑って見せた。 「俺たちと神泉組は、血を見ずにはおさまらねえ間柄なんだ。ひと月ほど前には俺たちは三人の死者を出した。昨日の晩のあんたの武勇伝は聞いたぜ。胸がスーッとした」 「本気か?」 「|嘘《うそ》じゃねえよ。さあ、一緒に来てくれ。悪いようにはしねえ。初対面の俺たちを信用出来ねえのも無理ねえだろうから、俺たちが先に出てもいいんだ。このとおりさ……」  杉森は言い、両手をさらすと私に背を向けた。浜村もそれに倣う。 「よし、わかった。ちょっとのあいだ、そのまま動かないでいてくれ」  私は唸り、素早く臑のホルスターに拳銃を戻し、服とコートをつけた。三人で廊下に出たとき振りかえってみると、ドアの鍵孔にはホテルのマスター・キーが差しこまれてあった。      5  まだ夜は明けきってなかった。六時すこし過ぎでしかない。私はホテルの前にとまっているフォード・コンサルに乗せられて、道玄坂の渋谷東宝の裏手にある和田倉興行の事務所に連れていかれた。浜村がハンドルを握り、杉森が助手席に坐って、私が一人でうしろのシートを占領した。  和田倉興行の事務所は、地下が駐車場、地上は四階建てになったこぢんまりしたビルにある。一階を事務所として使い、二階から上に和田倉や幹部級のうちの独身者が住みこんでいると、私は聞いている。  駐車場からエレベーターで直接に四階にのぼった。廊下に出た私たちは、社長室と書かれたスチールのドアの前に来た。ドアに覗き窓がついている。  覗き窓のカーテンが内側からはぐられ、ドアが開かれた。ガス・ストーヴで暖められたその部屋は二十五畳敷きほどの洋室で、そのなかに十名ほどの男が集まっている。 「連れてきました、社長」  杉森が言って後手にドアを開いた。 「御苦労——」  部屋の左手の奥で、ガウンをまとって|肘《ひじ》|掛《か》け|椅《い》|子《す》に体を埋めた五十男が答えた。和田倉だ。中肉中背、手入れのいい皮膚はシワ一つ無く、冷たい|瞳《ひとみ》の光だ。私に視線を向けて、 「こっちに掛けたまえ」  と、自分の向かいの、空いている椅子に顎をしゃくる。  私は言われたとおりにした。和田倉はガウンの胸ポケットから葉巻を出して私に勧め、 「君かね、佐竹を捜しているのは? 確か、名前は柳田と言ってたな……」  と、私が扮している人物の名前を言った。夜のうちに相当調べたらしい。 「それがどうした。まさか、俺をからかうために、ここに呼んだんじゃないだろうな」  私は葉巻のセロファンを破って火をつけ、煙を和田倉に吹きつけた。 「強がりはよすんだ。落着いておれの話を聞け——」  和田倉は|一《いっ》|喝《かつ》し、一変して穏やかな声に戻って、 「知ってのことと思うが、ひと月ほど前に|柿《かき》|生《お》の山に拳銃の射撃練習に出かける途中のおれの部下が五人乗った車がやられた。やったのは、佐竹とその用心棒の柏木の二人だ」 「確証は?」 「警察のような口のきき方はやめてくれ……おれは神泉組にスパイを送りこんである。そいつが誰だかは言えんがね。もっとも、神泉組のほうもおれ等のところにスパイを入れてる。そのスパイが、射撃練習のことを神泉組に知らしたので、あんな事が起きたというわけさ。だけど、もう心配は無いだろう。おれ等のところにもぐりこんでいたスパイは処刑したから」  和田倉は笑った。笑うと、ますます冷たい声になった。 「どうやって見つけたんだ?」  私は、つりこまれたように尋ねた。 「簡単だ。幹部級の一人一人に本物に見せかけた偽情報を知らせておく。スパイならその情報を神泉組に伝えるだろう。そいつが神泉組に伝わったかどうかは、おれが送りこんだスパイが知らせてくる。だから、神泉組のスパイはすぐにわかったよ。半月ほど前にな。そいつは何と、おれの秘書だった」 「…………」 「余計なことをしゃべりすぎて、君を退屈させたようだな。おれの言いたいことは、佐竹はおれ等和田倉興行と君にとって共通の敵だということだ。だから、おれと君は手を結んだほうが得策と思うわけだ。それに、君は昨日ポリ公を傷めつけてるから、組織のなかに入ってないと損だ」  和田倉は言った。 「ちょっとの間、考えさしてもらいたい」  私はわざと深刻な表情をした。 「いいとも、好きなだけ考えなさい」  和田倉は私の顔を見つめた。  私は瞼を閉じ、葉巻の煙を吐きちらしながら考えこむふりをした。葉巻が指を焦がしはじめたとき、それを灰皿で|揉《も》み消して、 「よろしい、やりましょう。こちらからも、よろしくお願いします」  と、頭をさげた。 「そいつはよかった。じゃあ、幹部諸君を紹介しよう。だが、その前に、君に劣らぬぐらい佐竹を憎んでいる二人の男を紹介する。仲川と下田だ。さっき言った五人のうちの生き残りだ。おれの別荘で治療してたのだ」  和田倉は杉森に顎をしゃくった。  一度部屋を出た杉森は、別室から仲川と下田の二人を連れてきた。顔面に火傷のひきつりはほとんど残ってないが、|眉《まゆ》がひどく薄く髪が短かすぎるのは、それを一度火で失ったためらしい。  和田倉は私とその二人を引き合わせ、 「三人で手を組んで、佐竹とそれにつながる神泉組を壊滅さすんだ。無論、和田倉興行としても全員一致して協力をおしまない」  と、いった主旨の演説を一席ブッた。  それから一週間、私と仲川と下田は、和田倉が提供してくれた南平台の貸し家をアジトにして、佐竹を|狙《ねら》った。  その一週間のあいだにも私は本庁と連絡をとって、報告を終えていた。本来なら私の仕事はここで切上げてもいいのだが、しかし、ここで神泉組や和田倉興行に手入れを行なったところで、神泉組組長米沢や和田倉に殺人教唆罪を適用しようとしても証拠不充分だ。和田倉の秘書の死体は東京湾に浮上したところを発見されたが、本庁としては秘書に直接手をくだしたのが誰かということより、それを命じた和田倉自身を捕えたいわけだ。  一週間後の金曜日——次の日曜日に佐竹と米沢と彼等の用心棒あわせて四人が、霞ケ浦の麻生にある米沢の別荘からモーター・ボートを出してカモを追うという情報が、スパイを通じて和田倉に伝えられた。  和田倉はすぐに私たち三人を、麻生に直行させた。私が本庁と連絡をとる時間などない。素晴しい舗装の水戸街道をはずれ、竜ケ崎からのお話にならぬ悪路をセドリックで走破し、夢のように帆をふくらませたワカサギとりの|打《うた》|瀬《せ》|舟《ぶね》が点々と散らばる霞ケ浦を見渡す麻生についた。  船宿に日曜日のモーター・ボートを予約しておき、土曜日の私たちは裏山で襲撃のための望遠照準鏡つき三〇—○六口径ガーランドM1ライフルの照準を合わすことで一日を過ごした。  米沢の別荘と、私たちの船宿とは狭い入江をはさんで向かいあっていた。その夜九時過ぎに佐竹たちが別荘に着いたのを確認した私たちは、前祝いに痛飲した。  私は仲川と下田のウィスキーに睡眠薬を混ぜて酔い潰させ、船宿を出て麻生の警察署を尋ねた。  署長は私の言うことを頭から信じてなかったが、東京に長距離電話して本庁の遠藤警部の口から私の身分を教えられると、気の毒なほどの|狼《ろう》|狽《ばい》ぶりであった。遠藤警部も、茨城県警に協力を要請するとともに、本庁からもさっそくトラック一台の機動隊を出動さすことを約束してくれた。警部自身も、その指揮をとるためにやって来るという。  これで網は張られたことになる。明日の日曜日、私たちの船と佐竹たちの船が射ちあっているところに、猟船に乗ったハンターの格好をした機動隊が突っこんでくるという寸法であろう。  無論、私も形式的に逮捕されるだろうが、神泉組と和田倉興行にしても無傷で済むわけはない。  佐竹はいつかは口を割るだろうし、仲川たちにしても自分たちだけが犠牲になることはないと考えるようになるだろう。  今度霞ケ浦に来るときには、今のような野暮な用でなく、女の子でも連れてカモ射ちに興ずることが出来る身分になりたい、と思いながら私は船宿への帰路をいそいだ。     |虹《にじ》|色《いろ》のダイア      1 「平田が射殺死体となって今朝発見された。頭と背中に二発くらって、豊州の石炭|埠《ふ》|頭《とう》に投げこまれたんだな。死後三日はたってるという監察医の話だ。コンクリートのおもりをつけられて、あの汚れきった海の底に沈められてたんだが、何かの拍子にロープが切れて死体が浮きあがったという次第だ。体はハゼにつつかれてたが、自動捲きの腕時計だけは無心に動いてたよ。ローレックスだった。君がはめているのと同じやつだ」  アパートのベッドに横たわったまま受話器を取上げた私の耳に、上司の遠藤警部の声が聞こえてきた。感慨深げな口調だ。 「|嫌《いや》だな、主任。いつかは俺も平田と同じような姿になると想像してるんでしょう」  私は苦い声で言った。 「そんなことはない。君は生き残る。そうだとも。生き残ってくれないことには困る——」  慌て気味に遠藤警部は打ち消した。口調を変えて、 「君はどう思うね?」 「主任の御希望どおりに俺が長生き出来たら文句ないんだが、どうもこの頃は不安でしようがないんですよ。いつまでこんな綱渡りを続けられるかと思って……覆面刑事なんか廃業したい」  私は受話器に向かって言った。本気であった。 「何の寝言を言ってるんだ。俺は平田はなぜ殺されたかについて、貴様の御高説をうけたまわろうと言ってるんだ」  主任の声が荒くなった。 「知ってるわけはないでしょう。まあ、常識的に見て仲間割れというところでしょうな。ギャングが分け前のことで仲間割れして自滅してしまったら、裁判にかける費用がたすかって、納税者に喜ばれますよ」  私は答え、タバコに火をつけた。 「仲間割れか。それも一つの見方だな。平田を殺した弾は二発とも貫通してしまってるんで、どの拳銃から発射されたかはわからんが……ところで、池袋の丸山組が、例のギャング団を必死になって捜してるという情報が入ってるんだが……」 「なるほどね。丸山組としては、自分たちの縄張りのなかで、よその連中に飛び切りの甘い汁を吸われてしまったわけだから、アタマにくるのも無理はない」  私は唸った。 「そのとおりだ。丸山組は、トンビにアブラゲをさらわれてしまったから、今度はそいつを奪い返そうとしてるんだ。一億二千万もの大金ともなれば何をやらかすかわかったもんでない」  主任は|忌《いま》|々《いま》しげに言った。 「じゃあ、丸山組が平田を捕まえて、口を割らそうとして、射ちあいになったとでも……」 「その可能性もあるわけだ」 「それで、俺に出馬を御要請というわけですか?」  私は、うんざりした口調で言った。 「当たり前だ。そうでなかったら、君に電話などするもんか」 「給料を|貰《もら》ってる手前、嫌とは言えないようですな。それで、捜査費の点は?」  私は尋ねた。 「まかしとけ。今度だけは気前よく出せる。これは大きな声では言えないが、丸金デパートから捜査本部に差し入れがあったんでな。そのなかから三十万円を君に廻す」  主任は言った。 「そいつは豪勢だな」 「金は、午後二時きっかりに、四谷見附のレストラン“ベルン”のカウンターに預ける。君はそこに行って、桜田が預けたものを渡してもらいたいと言えばいい」  遠藤は言った。 「わかりました。そのとき一緒に、これまでの捜査報告書も渡してもらえるんでしょうな?」 「いや、ダメだ」 「なぜ?」 「丸金デパートを襲った連中の、顔も名前もわかってることなんだ。ただ、|奴《やつ》等がその後、どこに隠れてるかがさっぱりわからんだけの話だ」 「…………」 「そこに、池袋の丸山組が飛び入りしてきた。ジャの道は|蛇《へび》で丸山組のほうが我々よりも先に強盗団の隠れ場所を見つけ出すかも知れんのだ。だから、君は丸山組にもぐりこんで、丸山組の動きを我々に知らせてくれればいいんだ」 「なるほど」 「したがって、レストランには、丸山組の主脳部の顔写真と、一人一人の特徴や性格、過去などを書いたノートを置いておく。それを頭のなかに刻みこんだら、資料のほうは焼き捨てるんだぜ」 「言われなくてもわかってますよ。捜査費がタップリあるんで、主任も気が強くなりましたね。少なくとも俺に対してだけは……」  私は|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めた。 「そういったとこかな——」  主任は受け流し、 「じゃあ、頼りにしてるからな」  と言って電話を切った。  アパートの交換台を通さずに済む直通の電話の受話器を掛台に戻した私は、ベッドで大きなアクビをして、ローレックスの腕時計を覗いてみた。  午前十一時半であった。二日酔いではないが、昨夜赤坂のクラブで拾って下北沢のアパートまで送ってやった女が情熱的で、朝の六時近くまで眠らせてくれなかったから、どうも体がだるくてかなわない。      2  しばらくベッドのなかで、このまま眠りたい欲望とたたかったが、二本目のタバコを灰にしてやっと私はベッドを離れた。  隣のダイニング・キチンのガス・レンジにコーヒー・ポットを掛け、ベッドの下に積んである新聞を引っぱり出した。  キルティングのガウンをまとい、舌が焦げるようなコーヒーを|啜《すす》りながら、私はダイニング・キチンのテーブルで新聞を読み返した。一週間ほど前の分からだ。  事件は一週間ほど前の日曜の夜に起こった。午後六時、閉店まぎわの池袋丸金デパートだ。  ソフトのヒサシを下げ、コートの襟を立てた五人の男が、それぞれ片手にスーツ・ケースを|提《さ》げて丸金デパートに入ってきた。店内はクリスマスをあと半月後にひかえて|混《こ》んでいたが、デパートの警備たちは、すぐに彼等をマークした。  したがって、五人の男が三階の売り場から従業員専用の階段に足を踏みいれたとき、彼等の背後にはすでに四人の警備員が迫っていた。  警備員たちは、言葉づかいだけは丁重に、 「お客さま、道を間違われたようですね。どの売り場に行かれるのでしょうか? 御案内いたしましょう」  と、彼等に言った。 「ゼニを売ってる所にだ。案内してくれ」  ソフトの男たちの一人が笑った。 「御冗談でしょう。もし、その御言葉が本気なら、保安部の部屋まで来ていただかなければなりませんが……」  緊張しながらも警備員は愛想笑いを浮かべた。 「こいつを見せると、保安部の部屋まで連れていってくれるか?」  ソフトの男たちは、一斉にポケットから拳銃を抜いた。  だが、このところオモチャの拳銃を使った強盗が続行しているので、刑事上がりで柔道三段の警備員が、ソフトの男の一人に体当たりしていった。  途端に、五丁の拳銃が|轟《ごう》|音《おん》と共に|閃《せん》|光《こう》を舌なめずりし、刑事上がりの警備員は巨大なハンマーで殴られたように吹っとばされて階段を転げ落ちた。  当然、三階の売り場は大混乱になった。客も店員も逃げ場を求めて半狂乱になり、二人の幼児が踏み殺された。  三人になった警備員は、震えながらギャングたちを六階の経理部の部屋に案内した。ギャングたちは、警備員を拳銃で威嚇して持ってきたスーツ・ケースに、売り上げのうちから千円札以上の紙幣を詰めこませた。そのあいだ、経理部員たちは、壁に向けて並ばせられた。  五つのスーツ・ケースが一杯になると、五人のギャングはそれを左手に提げ、部屋の天井に五、六発拳銃を射ちこんでおいて屋上に駆けのぼった。  その頃には、ラッシュで身動きならない車の群を無理やりに|蹴《け》ちらして、五台以上のパトカーや十台以上の白バイが丸金デパートに殺到しかけていた。池袋マンモス交番の巡査たちも駆けつけていた。  犯人たちは、逃げ道をふさがれたに違いないと思われた。だが、屋上のヘリポートに駆けのぼった犯人たちが、デパートのヘリコプターのエンジンに拳銃弾を射ちこむと、上空を旋回していた中型ヘリコプターが、高度を落として屋上のヘリポートに着陸した。  五人乗りこむと、そのヘリコプターは、やっとデパートのまわりに駆けつけたパトカーや白バイを|尻《しり》|目《め》に離陸し、灯火を消して高度を上げていった。  それから一時間後——芝浦にある富士山航空から、東京湾一周の観光用ヘリ一機が、午後五時半に飛びたったきり行方不明になったという知らせが警視庁に入った。八人乗りのヘリだが、料金前払いで吉田というはじめての客が借り切ったということだ。  その夜は、警視庁あげての徹夜の捜査にかかわらず、ついにそのヘリコプターの行方はわからなかった。そして、ヘリを借り切ったのが、平田という本名の、自衛隊航空学校上がりの前科三犯の男であることが判明した。  デパートから奪われた金は一億三千万にのぼった。そして、犯罪者手帳に|貼《は》られた写真から、デパートの経理部員や生き残りの警備員たちは、五人のソフトの男たちを指摘した。井上、沼倉、妹尾、有川、堤。いずれも長い犯罪歴を持つしたたか者ばかしであった。  富士山航空のヘリコプターは、翌日の昼すぎに、山梨県大月市から十五キロほど離れた|姥《うば》|子《こ》山の谷間で発見された。  発見したのは、土地の猟師であった。ヘリコプターのそばには射殺された操縦士と副操縦士が転がっていた。  そして、ヘリコプターが放置された近くから、ジープが|灌《かん》|木《ぼく》をへし折りながら強引に|麓《ふもと》の村に向けてくだっていったあとが見つかった。  だが、それだけのことであった。それからのちの強盗団の消息はとぎれ、今朝になって一味の一人平田が射殺死体となって発見されたわけだ。      3  新聞を読み返し終わると、私は再びベッドにもぐりこんだ。そして、目覚めたときは午後の五時頃であった。  暗色の服をつけ、ズボンの下の|臑《すね》に小型のベレッタ拳銃を携帯し、私はアパートを出た。アパートは四谷にあるから、主任から指定された、『ベルン』というレストランまでは歩いても五分ほどしかかからなかった。  愛車は使わなかった。 『ベルン』は名前からして想像出来るようにスイス料理の店であった。重厚の|樫《かし》の木と|白《しら》|樺《かば》をふんだんに使った山小屋風の構えだ。  店のウェイトレスは、チロル風の|刺繍《ししゅう》の入った制服をつけていた。客はまばらだ。私はカウンターの前に立って、 「桜田の預けたものを渡してくれ」  と、白服のバーテンに言った。  バーテンは、封をクリップでとめた大型の封筒をよこした。私は|隅《すみ》のテーブルに移り、店が自慢出来る料理を四、五皿持ってきてくれ、とウェイトレスに言った。  運ばれてきた料理は、さまざまなチーズと羊肉が主体になっていた。それを平らげた私は、大型封筒を破って、そのなかに入っている小さな封筒を取出した。  約束の三十万円がそのなかに入っていた。勘定はそのうちから払い、私は店を出た。近くにカソリック系の総合病院があるのを見つけて、なかに入る。  |病棟《びょうとう》を素通りすると、中庭があり、その奥に教会があった。私はその礼拝堂のベンチに腰を落着け、祭壇に|膝《ひざ》まずく坊主や|尼《あま》さんを無視して、大型封筒に入っている丸山組の主だった連中の顔写真と説明書を見くらべた。  教会には二時間ほどいた。中庭の焼却炉に千切った大型封筒の中身を|放《ほう》りこみ、私は病院を出た。  タクシーを拾った。牛込から戸塚を通り、環状五号の明治通りを池袋に向かった。ラッシュ時なので、タクシーはなかなか進まない。  それでも、やがて西武デパートを中心とする池袋東口に近づいた。横に長くのびた西武の手前、工事中のビックリ・ガードへ西口への間道が折れるあたりに、地上七階地下三階の、細長い丸金デパートが建っている。  その丸金デパートの前で、私はタクシーを降りた。デパートに入っていく。  早くもクリスマスのデコレーションで飾りたてられた売り場は、予想したほど混雑してなかった。強盗団がデパートの経理の部屋を襲ったとき、客からも死者が出たのがたたっているのであろう。  だが、混雑はしてないとはいえ、売り場の客数はそう少ないわけではない。私は一階の売り場から七階の貴金属、宝石売場までを幾度も往復した。階段を使ったり、エレベーターを使ったりしてだ。  時計や高級喫煙具の売り場もある七階に五度目に入ったとき、私は特選スイス時計展示台と銘打ったショー・ケースにかがみこんでいる男二人が、さり気ない視線を私のほうに投げたのに気づいた。この売り場には客が少ない。  はじめて七階の売り場に入ったときからその男たちはいたのだ。客をよそおった刑事、ないしは保安要員と私は見た。  私は宝石を並べたショー・ケースに近づいた。ガラスのケースのなかで、『永遠の炎』という名と千二百万の定価のついたダイアが私の目を吸いつけた。千二百万と言うからにはウズラの卵ほどもの大きさがあるかと思ったが、実物は二二口径の弾頭ほどもなかった。値段表の横には十カラットと書いてある。百ポイントすなわち一カラットは〇・二グラムだから、このダイアの重さは二グラムなのだ。  私は天然宝石の値はポイントとカラットにしたがって幾何級数的に高くなるということを思いだした。一カラットで五十万とすれば二カラットでは百万ではなく、二百万とはね上がる。しかも、値は色と輝きと透明度によって大きく違ってくる。  私がその『永遠の炎』を見つめているのを知って、|蝶《ちょう》ネクタイの店員が近づくよりも早く、スイス時計のショー・ケースの所にいた二人の男が私の左右に立った。  私はタバコに火をつけ、七階の売り場全体を見廻した。客の数は三十人、店員の数は十二、三人いる。  私は一度宝石のショー・ケースを離れ、トイレに入った。臑に隠しておいた拳銃をズボンのポケットに移す。  二人の私服は、再び時計売り場に戻っていた。私が近づいて行ってもわざと素知らぬふりをしている。  私はいきなりベレッタ拳銃を抜いた。左側の私服の背後から、拳銃でその|頸動脈《けいどうみゃく》を強打した。その私服は尻餅をつくようにして|昏《こん》|倒《とう》した。  右側の私服が、大声でわめきながら振りかえり、上着の|裾《すそ》の下に右手を突っこんだ。私は|膝《ひざ》でその男の|股《こ》|間《かん》を蹴りあげ、|呻《うめ》いて体を折るところを拳銃で耳の上を殴りつけた。ショー・ケースに激突して、その私服も昏倒する。  |茫《ぼう》|然《ぜん》としていた店員や客たちが悲鳴や叫び声をあげた。 「動くな。みんな、死にたくはないんだろう?」  拳銃を腰だめにした私は威嚇し、宝石のショー・ケースに走り寄ると、そのガラスを銃身部で叩き割った。『永遠の炎』と名づけられたダイアをポケットに捩じこみ、ゆっくりと階段に向けて歩いた。 「俺が出ていって五分たつまでみんな動くんじゃない。このなかには、客のふりをした俺の仲間を残しておく。警報ベルを鳴らしたり、逃げだしたりしたら、仲間が一発くらわせることになっている」  階段へ通じる出入口の所で私はハッタリをきかせ、階段をゆっくりと降りていった。  客も店員たちも、一週間ほど前に起こった事件のことを忘れてなかった。恐怖に化石したように動けない。  六階に降りてからは私は足を早めた。一階に着いたときは、ほとんど駆け足であった。そして、デパートを脱出したとほとんど同時に、デパートのなかは|蜂《はち》の巣をつついたような大騒ぎになった。      4  丸山組の事務所は、都電池袋東一丁目より雑司ケ谷寄りの飲食街のなかにあった。狂い咲くネオンの花に取りまかれた、三階建ての小さなビルだ。  丸山産業と看板をあげたそのビルは、ほとんどの|鎧戸《よろいど》を閉じていた。私はそのビルの斜め向かいにある喫茶店に入った。  喫茶店の名前は『紅十字』といった。コール・ガールを待合わせる場所に使われているのか、薄暗い客席に坐った男たちは落着きのない視線を戸口に|釘《くぎ》づけにし、手に丸めた週刊誌を持ったり、襟に造花を差したりしていた。  レモン・スカッシュを注文しておき、私はトイレに入って、ポケットの拳銃をズボンの下の臑につけたホルスターに戻した。席に戻ると運ばれてきた飲み物を半分ほど胃に収め、レジスターの近くに置かれた電話に近寄った。  電話帳を開いてみるまでもなく、私は丸山組事務所の番号を頭のなかに畳みこんでいた。無愛想なレジの娘に断ってから、ダイアルを廻す。 「丸山産業でございます」 「社長にお会いしたい」  電話に出た若い声の相手に私は言った。 「どなた様でしょうか?」  相手は愛想よく尋ね返してきた。近頃は暴力団もスマートになったものだ。 「出してくれればわかる。いい話があるんだ」 「お名前を聞かして下さらないことには……」  相手は答えた。  それで、丸山が事務所にいることがわかった。 「じゃあ、いいんだ。悪かったな」  と言って私は電話を切り、飲み物の料金を払って外に出た。  丸山産業の表口には|鍵《かぎ》はかかってなかった。そして、一階の部屋は、まともな中小企業の商事会社のように、もっともらしくデスクや帳簿が並べてあった。  だが、部屋の真ん中に置かれた英国製の石油ストーヴを囲んで話しあっている四、五人の男たちは、まともなサラリーマンと言うには目付きが暗すぎた。 「やあ」  私は軽く手を上げて、階段に近づいた。社長丸山の部屋は三階にあるのを知っている。  階段を二、三歩のぼったとき、一人の男が私を追ってきた。写真で知った真鍋という男だ。会計係だ。 「もし、もし。断りなしに上に登られては困りますが」  と、|上《うわ》|目《め》|遣《づか》いに私を見上げながら、丁重だが|凄《すご》|味《み》を帯びた声で言う。 「わかってるよ」  私はかまわずに登った。追いすがる真鍋が私の肩に手をかけた。私は振りむきざま、真鍋の胃に右フックを叩きこんだ。  手加減した積りだが、真鍋にはきいた。体を二つに折った真鍋は、脂汗を滲ませたまま動けない。ストーヴのまわりの男たらが総立ちになった。  二階の大部屋には、ソファや肘掛け椅子が置かれていた。ソファに坐って受話器を握っている顎の尖った男のまわりを五、六人の男たちが取りまいている。私が入っていくと、男たちは一斉に私を睨みつけた。丸山組の幹部連中の一部だ。 「社長に会いたい。俺は警察に追われている。社長と取引きしたいんだ」  私は先手を打って言った。  幹部たちの殺気だった表情が|硬《こわ》ばった。私を追って階段を駆けのぼってきた一階の男たちも足をとめた。 「何のことだ。くわしく言ってみな」  顎の尖った男が電話を切って立上がった。大幹部の村松だ。 「まだニュース放送でやってないから知らんが、俺は丸金デパートで一仕事してきた」  私は言った。 「いま、電話でそのことを聞いたんだ。ここにノコノコやってくるとは大した度胸だ」  村松は唇を歪めた。  そのとき、三階に続く階段から、左右に用心棒をしたがえた小柄な男が降りてきた。四十三、四歳の、土色の肌をした男だ。丸山だ。階段の途中で立ちどまり、 「よし、あとは俺が話を聞く。俺の部屋まで来てくれ。村松と菅原も一緒にだ」  と言うと、私に背を向けて三階に引き返す。二人の用心棒は、ポケットのなかで握っているらしい拳銃を私に向けて、後じさりしながら階段を戻った。  三階の奥にある、社長専用の応接室は渋く落着いた調度品で統一されていた。背後に二人の用心棒を控えさせて肘掛け椅子に坐った丸山と私は向かいあい、私の背後には村松と、菅原という大幹部が立った。 「さてと、何の話だったかな」  丸山はだるそうなポーズで|瞼《まぶた》を閉じた。  私は丸金デパートを襲って千二百万のダイアを奪ったことを話し、ポケットからケースに入ったダイアを取出してみせた。ケースの|蓋《ふた》を開くと、光を吸ったダイアは|虹《にじ》|色《いろ》に輝いた。  丸山たちの瞳も光った。私は、 「こいつを金に替えたい。定価は千二百万だが、俺だってその値段では売れないことはわかってる。半分の六百万ではどうだね?」  と、言った。 「吹っかけたな。そいつが右から左にさばける品でないってことは知ってるだろう? 三百万といったところだ。それも、まず専門家に鑑定させてからのことだ」  丸山は紫色の舌で唇を|舐《な》めた。 「馬鹿な。こいつだってカットし直して形を変えてしまえば『永遠の炎』だとはわからなくなる。そうすれば、一千万とはいかなくても、七、八百万ではさばけるんだ」 「じゃあ、そうしたらいいだろう。警察には黙っといてやるよ」  丸山は言ったが、瞳は|渇《かつ》|望《ぼう》に|潤《うる》んでいた。 「ところが、俺はそう出来ないわけがあるんだ。こう見えても、俺にだって、宝石に関しての少々の心得はある。これだけ美事にカットされた|奴《やつ》の形を変えたくはないんだ」  私は言った。 『永遠の炎』のカットが美事かどうかは実のところわからないが、形を変えられては困るのだ。この宝石が闇に流れてしまったのでは、私は刑務所行きになってしまう。 「よし、三百万出す」  丸山は叫ぶように言った。  私は嫌だ、と言った。そして、最後には五百万で折れあった。      5  二十分後、私は六十年型のシボレー・ベルエアーに乗せられた。宝石鑑定人の所に運ばれるのだ。  ダイアは、再び私のポケットに仕舞われてある。  用心棒の一人前岡が車を運転し、その隣に丸山ともう一人の用心棒泉田が坐った。丸山は現ナマを詰めこんできたという大型封筒で内ポケットをふくらませている。  うしろのシートでは私をはさんで大幹部の村松と菅原が坐った。  車は環状五号を王子に抜け、|飛鳥《あ す か》|山《やま》を廻って荒川の近くに出た。工場と倉庫と煙突の並ぶ地帯に車は入っていく。煤煙と|錆《さび》にくすんだ大きな倉庫に着いたときは午後九時であった。残業している工場は少ない。  用心棒の泉田が鋼鉄張りのドアをノックすると、それは内側から開かれ、倉庫番らしい男が一行を招き入れた。丸山が五千円札を渡すと、しきりに頭をさげながら暗い街に去った。  倉庫には裸電球がついている。床の左側には木箱が山積みになっていた。五分ほどして倉庫に入ってきたモグリの宝石鑑定人は、懐中電灯と拡大鏡で私の差しだしたダイアを綿密に調べると、 「本物だ」  と、短く言った。  それが合図のように、私の背には村松の拳銃が突きつけられた。動くな、と唸った菅原が私の服を調べる。臑に隠した拳銃は発見されなかった。 「気の毒だが、こいつは頂いておく。早く消えるんだ。命があるだけ有難いと思えよ」  ダイアを握った丸山は|嘲《あざ》|笑《わら》った。 「頼む、二百万でいい。高飛びの費用が要るんだ……百万でもいい」  私はコンクリートの床にひざまずいた。哀れっぽく丸山ににじり寄る。丸山たちは頭をのけぞらせて笑った。  私は素早く臑のベレッタを抜くと、うしろを振り向きざま、村松の拳銃を射ちとばした。轟音が倉庫を震わし、村松は空になって痺れた右手を見つめて茫然としている。  立上がった私は、ベレッタの銃口を丸山の胃にくいこませた。 「みんな、お手々を上げるんだ」  と命じる。男たちは|痙《けい》|攣《れん》するように両手を上げた。 「約束のものを頂くぜ」  と、小刻みに震えはじめた丸山の内ポケットから封筒を奪った。 「ま、待ってくれ。射つのは待ってくれ。その中身は新聞紙だ。五百万なんて現ナマは、すぐには集められん!」  丸山は唇から|泡《あわ》を吹いた。  私は驚いた様子をして、ふくらんだ封筒の中身を調べた。中身は新聞紙を切ったものであった。  私は丸山の手からダイアを取りかえし、 「はじめっから俺に一杯くわせる気だったな。死んでもらうぜ」  と呟く。 「待ってくれ。二度とあんな真似はしねえ。約束する。五百万は、必ず近日中に都合する」  丸山はわめいた。 「どうかな」 「嘘じゃねえ。あんたも知ってるように、一週間ほど前に、六人組が同じ丸金デパートで一億二千万の|荒《あら》|稼《かせ》ぎをやったんだ。俺たちは奴等から稼ぎの半分を吐き出させる」 「奴等がどこに隠れているのか知ってるのか?」  私の|脈搏《みゃくはく》は早くなった。 「わかりかけてきた。六人組の一人の平田というのが、麻薬無しでは三時間も持たねえペー患なんだ。その平田が、横田に薬を買いに府中に現われたって情報を、前から俺たちが連絡をとってた地元の連中が知らせてくれた。情報代は百万だ。平田を引きとめておいてもらって、俺たちは府中に駆けつけた。そして、平田をここへ連れこんだ。平田を禁断症状にさせて口を割らそうとしたが、奴は隠れ家が昭島にあるとだけはしゃべったが、|隙《すき》を見て逃げようとした。村松と菅原が威嚇射撃したんだが、|手《て》|許《もと》が狂って命中してしまった。この倉庫は銃声が外に漏れない。三日前のことだ」  丸山は夢中でしゃべった。 「…………」 「うちの幹部たちが、手分けして昭島じゅうを捜しまわっている。大分いい線に近づいてきた。明日あたり確実な報告を聞ける|筈《はず》だ。そうすれば、五百万なんてすぐ出せる」 「なるほど。もっともらしいな。信用することにしよう」  私は銃口を丸山から離した。 「わかってくれたか? どうだ、あんたも一口乗らないか? 高飛びするよりは、うちの事務所に隠れているほうが安全だし、あんたほどの拳銃の使い手が手伝ってくれれば、昭島に隠れた連中との話し合いがこじれたときに助かる」  丸山は調子づいた。 「分け前さえ貰えば文句ないさ」  私はニヤリと笑って見せた。  翌日の昼間、丸山組の事務所から脱けだした私は主任に電話を入れて経過を報告した。主任は怒り狂ったが、三日間だけ私に時間をくれることに折れて、丸山組事務所のまわりに昼夜三台の覆面パトカーを張込ますことを約束してくれた。  強盗団の隠れ家は翌々日の夜になってわかった。昭島の外れの市営住宅にひそんでいるのだ。  話し合いとは言うものの、実際は彼等を襲撃するための丸山組のジープに乗りこみながら、私は不安に|怯《おび》えた。丸山たちは、襲撃に成功したら、邪魔者となる私を消してしまうのは確実だ。  だが——畠のなかにある目的の市営住宅の前に急停車した三台のジープから私たちが跳び降りようとし、建物の窓から五丁の拳銃やカービン銃が突き出された途端、四方の畠から強烈なサーチ・ライトが照射された。主任の声がマイクを通して降服を呼びかける。  私からの報告を受けた主任は、捜査の重点を昭島に置いて、丸山組よりも先に強盗団の隠れ家を突きとめ、丸山組を待ち伏せていたらしい。私はホッと肩の力を抜くと共に、自分だけの判断でデパートの宝石売り場を襲ったことに対してどのような処罰をくらうかと考えて憂うつになった。     汚れた海      1  寒波の襲来した暮れの二十五日。道行く人々は背を丸めて白い息を吐き、車道につまって一寸刻みにノロノロと動く自動車の群は、|尻《しり》から灰色の煙を吹きだしてスモッグの原因を作っていた。  だが、近代建築を誇る都庁にある出納室は熱気でむせかえるようであった。  暖房のせいだけでない。出納室につめかけた人々の人いきれとタバコの煙、それに興奮が温度計の水銀をふくらませているのだ。  難航した東京湾埋立て補償額が決定し、今日はその支払い日なのだ。  漁業権を放棄した十七漁業組合、さらに都漁協組連合会、都信用漁協組連合会など十九団体に支払われる漁業補償金総額は三百三十億円——約三千六百世帯で一世帯平均九百万円の巨額は史上最大のものと言われている。  出納室には百五十名を越す人々が集まり、怒号と野次が乱れとんでいた。フラッシュが|閃《ひらめ》く。  十九漁業団体の代表約百人、都補償課の課長と次長、出納課の職員たち、農林省や建設省の事務官、私服の刑事、取材の報道陣など……これらが部屋のなかで右往左往している。  大きなテーブルが間隔をあけて二つ置かれ、奥の一つには一万円札を詰めこまれたミカン箱や公債、小切手などの束が積まれている。そのまわりに|人《ひと》|垣《がき》をつくっているのは、出納課の職員と私服刑事だ。  もう一つのテーブルのうしろに並んでいるのが補償課長や次長、出納課長、それに農林・建設の事務官などだ。 「早くしろ、|木《こ》っ|葉《ぱ》役人!」 「全部を一円玉でよこせ!」  野暮ったい服をつけた各組合の代表者たちは塩辛声を張りあげ、節くれた|拳《こぶし》を振りまわしてわめいた。前祝いに一杯引っかけてきたのか、渋茶色の顔をレンガ色に染めている者もある。 「俺も漁師の|伜《せがれ》に生まれてくりゃよかった」 「それが無理なら、百姓でもいい。農地を宅地に変えるだけで、何千万も転げこむんだからな」  記者たちはぼやきあった。  |天《てっ》|辺《ぺん》が|禿《は》げかけた頭を薄くなった髪で巧みに隠した補償課長がマイクを手にした。 「みなさん、御静粛に……ただ今より、契約書にしたがって補償金のお支払いをしたいと思います」  と、言って契約書の束を両手で抱えこむ次長に視線を走らせる。 「こんな|端金《はしたがね》で俺たちが丸めこまれると思ったら大間違いだぜ」 「そうだとも、海を追われた俺たちはどこに行ったらいいんだよ!」  組合の代表たちは怒鳴ったが、出納課長たちが|札《さつ》|束《たば》の箱を近くのテーブルに移しはじめると、押さえきれぬ欲望に血走った|瞳《ひとみ》に|虹《にじ》を浮かべた。開いた口からヨダレを垂らしたり、ズボンの下で|勃《ぼっ》|起《き》させている男もいる。 「では、現金で要求されました江戸川区の堀枝漁業組合から始めます。組合長の岩田さん、恐れいりますが……」 「ここにいるぞ!」  代表者たちのなかから、百八十五センチ近い大男がデスクに駆け寄った。年は五十七、八だ。カバンを提げた小男の組合次長が、その岩田のオーバーにすがりつくようにして、一緒にテーブルの前に立った。 「七億八千万円でしたね。数え終わりましたら、受取に署名|捺《なつ》|印《いん》願います」  出納課長が言った。  出納課の職員が四人がかりで、四つのミカン箱に詰めてあった一万円紙幣の札束をテーブルの上にブチまけた。百万円ずつの束にしてある。  岩田も組合次長も、横っ面を張りとばされたような顔付きになった。ほかの組合の代表者たちが|喊《かん》|声《せい》をあげる。報道陣は生ツバを|呑《の》んだ。  カメラマンたちのフラッシュが一斉に|閃《ひらめ》き、部屋は目も|眩《くら》むほどの明るさになった。逆上した岩田は、テーブルに跳びあがり、オーバー・コートをひろげて札束の山の上に身を投げ、 「やめろ! どんなことしても、貴様たちブン屋に分けてなんかやるものか!」  と、わめく。発狂したような目付きであった。  その岩田に、更に容赦なくフラッシュが浴びせられた。  堀枝漁業組合の用心棒らしいヤクザ風の男が、 「よせって言ってるのがわからんのか!」  と、カメラの一人に跳びついたが、素早く近づいた私服刑事に押しもどされて罵声を吐き散らした。  組合長の岩田は、札束の上に|腹《はら》|這《ば》いになったまま、札束を|頬《ほお》ずりしていた。組合次長も、異様な呻き声をたてて、岩田のコートの下からはみ出ている札束に抱きついた。 「さあ、あとがつかえていますから、早く勘定してください」  出納課長が薄笑いしながら催促した。  岩田と組合次長は、やっとテーブルからおりた。全身を小刻みに震わせながら、札束の数をかぞえる。 「た、確かに……」  五分ほどして、組合長の岩田が呻いた。 「では、ここに署名捺印を」  出納課長は受取を出した。  岩田はやっと署名出来たが、組合次長がカバンから出した印鑑を受取って捺印するときには、手が痙攣を起こしてうまくいかず、出納課長が|肘《ひじ》を支えてやらなければならなかった。  札束は、再び四つのミカン箱に詰めこまれ、カバーをかけられた。補償課長が握手の手を差しのべたが、岩田と組合次長は、ミカン箱をかつぐと、 「どけ、どけ!」  と、わめきちらしながら出口に進む。組合の用心棒と二人の私服がその二人を守る。  廊下に並べられたソファには、漁業団体員のなかから|択《え》り抜かれた屈強な体格の若者が多数待機していた。岩田たちが出ていくと、そのなかから堀枝漁業組合の若者五人が走り寄った。      2  都庁の建物を出た一行は、中庭にある駐車場に行く。そこには、抜け目なく駆けつけた銀行や証券会社の送迎用高級車が旗を翻していた。  一行の姿を見て、クラクションをわめかせながら、二台のセドリックが近づいた。二台ともヴァンと称する八人乗りのステーション・ワゴンだ。  その二台のハンドルを握っているのは、堀枝漁業組合の事務員だ。一行の横に車をとめる。  私服刑事を残して一行は二台のセドリック・ヴァンに分乗した。岩田と組合次長は札束の詰まったミカン箱を抱えて前のセドリックの中列のシートに、用心棒はその車の助手席に、護衛の組合員のうち二人が最後列におさまった。  後のセドリックには、残り三人の組合員が坐った。  |嗅《か》ぎつけた銀行マンや証券マンが駆け寄って来た。 「ぜひとも当銀行に!」 「いや、株はこれからは値上がり一方です!」  などとわめきながら名刺を差しだす。  しかし、組合の男たちは、わざとのように大きな音をたててドアを閉じた。 「お気をつけて……」  と、頭をさげる私服刑事たちに一顧もあたえず、銀行マンや証券マンにたっぷりと排気ガスを浴びせて二台のセドリック・ヴァンはスタートした。ミカン箱を積んだ車をもう一台がうしろから護衛する形だ。午後二時半のことであった。  事件はそれから三十分後に発生した。都心のラッシュを抜けた二台のセドリック・ヴァンが|葛《か》|西《さい》|橋《ばし》を渡り、江戸川区のはずれにある堀枝町に向けて田園と工場の入りまじった地帯を横断し、右に折れて左近川の橋を渡ろうとしたときだ。  二台のセドリック・ヴァンが五メートルほどの間隔をとって橋の上に来たとき、前方から一台のダンプが進んできた。  そのダンプ・カーの運転台には、運転手だけで助手は乗ってなかった。狭い橋の真ん中を進んでくる。  先頭のセドリックはクラクションをわめかせた。ダンプが左に寄ってくれないことには、すれちがうことが出来ないのだ。  しかし、濃いグリーンのサン・グラスをかけた、ダンプの運転手は、右にも左にも寄ろうとしなかった。スピードをわずかにゆるめてはいるが、とまろうともしない。  先頭のセドリックは急ブレーキを踏んだ。しかし、ダンプはそのまま突っこんできた。  衝突の轟音はすさまじかった。先頭のセドリックはフロントのボンネットとフェンダーを千切られ、うしろに跳ねとばされた。なかに乗っている男たちは、車内でぶつかりあった。  後のセドリックも急停車していた。そのなかの四人の男たちは、口々にわめきながら車から跳び降りた。そして、背後から突っこんでくる別の|有《ゆう》|蓋《がい》トラックを見て、あわてて橋の|欄《らん》|干《かん》に抱きついた。  その有蓋トラックは、後のセドリックから二十メートルものあたりで、ダブル・クラッチの空ぶかしの音をたててギアをローにブチ込んだ。運転手はタオルとマスクとサン・グラスで顔を隠していた。  急激なシフト・ダウンによって有蓋トラックのボディは|軋《きし》み、車輪は薄煙をあげてスリップした。  強いエンジン・ブレーキがかかってトラックのスピードがガクッと落ちる。しかし、トラックは逆にアクセルをふかして、うしろのセドリックの尻に激突した。  橋が崩れそうに揺らいだ。欄干に抱きついていた四人の男は、下の川に跳びこんだ。心臓麻痺を起こしそうな水の冷たさだ。  衝撃をモロにくらった後のセドリックは、前のセドリックに叩きつけられ、その圧力で前車のドアが開いた。  血まみれになった男たちが前のセドリックから転がり出た。岩田と組合次長は、車の床に|踞《うずくま》ってミカン箱を抱えている。  停車した後方のトラックの、有蓋荷台の後扉が開き、三人の男が跳び出してきた。それぞれナイロンのストッキングを頭からかぶって顔を隠し、銃身を短く|挽《ひ》き切った横二連の散弾銃を腰だめにしていた。  三人の男は、組合長と組合次長の残っているセドリックに一斉射撃した。ガラスはとっくに砕け散っていたが、その車のボディやドアに無数の小さな弾痕が散り、はねかえったバラ弾は、車から転がり出ている組合員や用心棒の皮膚にくいこんだ。  組合員たちは川に跳びこんだ。散弾銃を構えた男たちが近づくと、組合長の岩田と組合次長はミカン箱を車から放り出し、自分たちは橋から川に身を投げた。  散弾銃の男たちのうち二人が、その箱を抱えて後のトラックに戻った。もう一人は前のダンプに銃口を向けた。  グリルとバンパーがひんまがったそのダンプの運転手は|愕《がく》|然《ぜん》としたようだ。夢中で上体を沈める。同時に覆面の男の銃が火を吹いた。  ストッキングで覆面した男は低く|罵《ののし》り、銃を折った。薄煙を吐きながら、二つの大きな|空薬莢《からやっきょう》がとびだした。男はポケットから二発の弾を出し、あわただしく|装《そう》|填《てん》しようとする。  ダンプの男は、その|隙《すき》にドアを開いて跳び降りていた。ダンプの後にまわると、息を切らして走り逃げる。  ダンプの男が四十メートルほども走ったとき、覆面の男はやっと二連銃の機関部を閉じた。流し射ちに二発ブッ放す。ダンプの男はつんのめるように倒れた。  後のトラックがクラクションを鳴らした。散弾銃の男はその車の有蓋の荷台に駆け戻る。トラックはバックし、メリメリと音たててセドリックから離れた。  橋のはずれを過ぎたあたりまでバックで戻ったトラックは、空き地に尻を突っこんで向きを変え小岩のほうに向けて姿を消した。それを見たダンプの男は呻きながら立上がり、よろめきながら立去った。  四分後にパトカーと救急車が現場に到着した。川から這いあがっていた漁業組合の男たちは軽い肺炎を起こしただけで、命に別条は起こらなかった。  現場近くの農家の納屋にひそんでいたダンプの男は逮捕された。銃身を短く挽き切ったために威力が落ち、男の体じゅうにくいこんだ二十数発の五号弾は筋肉のなかにとどまっていた。  警察病院に収容されたその男の名前は渡辺と判明した。三十二歳、強盗と恐喝と殺人未遂で青春の大半を刑務所で過ごしている。ダンプは盗品であった。  渡辺は口を割らなかった。盗んだダンプの運転を誤ってセドリックにブッつけたのは悪いが、補償金強奪事件に関しては自分は被害者にすぎないと主張した。  散弾銃の男たちが使ったトラックは今井橋のそばに乗り捨ててあった。それも盗難車であった。      3  年が改まり、事件から半月が過ぎた。七億八千万円の天文学的な札束を奪った男たちはまだ捕まらなかった。  窮地に立った捜査当局は、傷の|癒《い》えた渡辺をわざと釈放することにした。泳がして、渡辺の行動から一味をさぐるのだ。  そして、その渡辺に近づく仕事が、私——覆面刑事である私に押しつけられたのだ。  その夜は、手袋を脱ぐと指が凍るほどの寒さであった。このところ連夜気温は零下五度をくだる。  午後六時、桜田門の本庁から出てきた渡辺は、二人の私服刑事に付きそわれていた。二人の私服は渡辺を日比谷の交差点のそばまで送ると、 「じゃあ、達者でな……」  と渡辺に声をかけ、本庁のほうに戻る。  渡辺は平べったい顔をした男だ。交差点を渡りながら素早く振り向く。二人の刑事は踵を返し、わざと目立つように渡辺を尾行していた。  渡辺は舌打ちした。有楽町の駅に向けて歩き続けると見せ、客を降ろしてドアを閉じようとしているタクシーにいきなり跳び乗った。タクシーは発車し、二人の私服はあわてて空車を捜すふりをした。  走り出したタクシーのなかで、振り向いてそれを見とどけた渡辺は薄ら笑いを浮かべた。しかし、そのタクシーを尾行しはじめた一台の地味なブルーバードには気付かないようだ。  そのブルーバードは私のものだ。本庁を出たときから渡辺を車でつけていた私は、赤信号を無視し、Uターン禁止など|糞《くそ》くらえで渡辺の乗った車のうしろに廻りこんだのだ。今夜だけは私の車を止めるな、と、丸の内、京橋署にナンバーが通達されている。  渡辺は用心深かった。神田、九段下、虎の門の各所でタクシーを乗り換え、新橋を抜けて銀座のほうに戻った。たっぷり一時間半はかかった。  銀座四丁目の交差点の近くで最後のタクシーを降りた渡辺は、築地のほうに向けて歩きだす。|雑《ざっ》|沓《とう》のなかで十五日ぶりのシャバの空気を吸いこんで、キョロキョロという陳腐な形容詞をそのままに、ショーウィンドーやすれちがう女の顔を見廻し、尾行者がいないかと、思いだしたようにうしろを振り向く。  私は車に乗ったまま尾行を続けていた。ラッシュのなかでは大変な技術を要した。  渡辺は何軒かのバーに入りかけてはやめた。築地を過ぎて右に折れ、中央卸売市場に通じる大通りに入る。通りの右側には料亭、左には魚市、野菜市に早朝押しかける人々のための食堂や|鮨《すし》|屋《や》が並んでいる。私は道の端に車をとめ、鍵をバンパー・ガードの裏に隠した。  渡辺は、料亭のあいだの露地を入り、江戸正銀という鮨屋に入った。私も三分ほどしてそこに入る。左側が座敷で、右がカウンターであった。客の入りは七分ぐらいだ。渡辺はカウンターで、ビールを早いピッチで空けている。付け台にはツマミが盛りあげてある。  私は渡辺の左隣に坐った。酒を注文する。渡辺はビールを酒に切りかえ、コップ酒を|呷《あお》る。  五人ほどいる板前たちは、|滑《こっ》|稽《けい》なほど|粋《いき》がって見せていた。 「うちじゃ、ツマミだけの注文はお断りしてやして」  と言い、渡辺のと同じ刺身を付け台に置く。  しばらく飲んでから、私は腕力を渡辺にPRすることにし、 「おい、アンチャン。マグロをもっと切れ」 「握りますか?」  目の前の板前が高慢な顔付きで言った。 「シャリは要らねえよ」 「さっき言っといた|筈《はず》ですが……ツマミの注文はお断りしやす」 「客の言うことが聞けねえってんだな」  私はコップの|熱《あつ》|燗《かん》をその板前の顔に浴びせた。  板前は小さな悲鳴をあげて顔をおおった。ほかの板前たちは反射的に包丁を握り直す。 「面白え。貴様たち、死にてえのか?」  私はニヤリと笑い渡辺にも見えるように、コートと背広の左胸をはぐった。三八口径の銃身の鋭い輪胴式が肩|吊《つ》りホルスターに収まっている。愛用のベレッタは|臑《すね》に隠してある。  板前たちは包丁を落とした。渡辺の|瞳《ひとみ》が光る。 「サツにタレこんだりしたら命が無いぜ。さあ、さっき言われたとおりにするんだ」  |圧《お》し殺した声で言った私は|嘲《あざ》|笑《わら》った。板前は命令にしたがった。ほかの客たちは沈黙した。  板前の一人が落着きなく瞳を左右に走らせながら奥のくぐり戸の向こうに消えた。五分ほどして、かつてはヤクザであったらしい、片眼の潰れた店のオヤジを先頭に、体じゅうにヤクザのレッテルを|貼《は》った男が五人近づいてきた。 「お客さん、ちょいと店の裏に廻って頂きてえんで……」  と、オヤジがドスのきいた声で言う。  |椅《い》|子《す》から滑りおりた私は、渡辺のビールの|空《あ》き|壜《びん》を|掴《つか》んだ。物も言わずにオヤジと五人のヤクザをビール壜で床に這わせた。壜はギザギザに割れた。床は血の海だ。  私はカウンターの内側で煮えたぎっているヤカンの湯を彼等に浴びせる。絶叫のコーラスがあがった。客たちは体がすくんで動けない。  私は勘定も払わずに外に出た。予想したごとく、 「待てよ」  と、渡辺が声をかけてきた。 「貴様も死にてえのか?」 「話があるんだ。損はさせねえ」  渡辺は私の左腕を掴んだ。 「放せよ。話ってえのは何だ」 「ここじゃ話せねえ。まあ、早くここをズラかろう」  渡辺は言って大通りに歩き出る。折りよく通ったタクシーを呼びとめて私を押しこみ、渡辺も乗った。  運ばれたのは新橋|烏森《からすもり》の安キャバレーであった。渡辺が仲々用件を切り出さないので、私は肥りすぎのスピッツのような女給に一万円札を見せびらかし、 「手を使わずにこいつをあそこに|挟《はさ》んでみな。うまくやれたらくれてやるぜ」  と言って、それを八つ折りにした。  一万円札は店のチラシを千切ったのとすりかえてある。  花弁に何とかそれを挟んだ女は、トイレに消えた。  渡辺は私を|睨《にら》みつけるようにして、 「あんたの腕が借りたい。|傭《やと》いてえんだ」  と、切り出してきた。 「何のために、と|尋《き》くのは野暮かな?」 「|復讐《ふくしゅう》のため、とでも言っとこうか。それも実利的な……」 「いくら出す?」 「一応五十万。あとはまた相談だ」 「景気のいいこと言う。持っているのか?」  私は疑ってみせた。 「今は無い。だけど、確実な口があるんだ。いまからそこに取りに行く。一緒に来てくれるだろうな。そこに行ったら、あんたは何もしゃべらねえでいいから、俺の横で拳銃の睨みをきかせてくれりゃいい」  渡辺は言った。私の計画はうまく進行しそうだ。  トイレから戻ってきた女給は怒り狂っていた。私と渡辺は外に出てタクシーを拾った。      4  葛西橋で荒川放水路を越えると、江東のゴミゴミした街から一変して田園風景に変わる。しかし、その田園もアミーバのようにしたたかな繁殖力を持つ工場に食い荒されていた。  タクシーのなかで、渡辺は押し黙っていた。タクシーはやがて犯行があった左近川の堀枝橋を渡る。  このあたりに来ると水郷地帯を思わすような夜景だ。  漁業を兼ねた農家が|田圃《たんぼ》のなかや小沼のほとりに点在している。  堀枝町の役所や公民館、それに商店街や漁業組合などは、入江に出来た小さな港沿いにあった。  補償金目当てに出来たらしいバーやパチンコ屋、小料理屋などが乱立しているが、|肝《かん》|腎《じん》の補償金が消えてしまった今は客の足も無いらしく、ネオンまでがうら|淋《さび》しい。  木造二階建ての漁業組合の建物には灯がついてなかった。渡辺は組合長の自宅に行く道順をタクシーの運転手に教える。  私は心のなかで笑った。七億を|超《こ》す補償金の全部が自分のものではないのに逆上しきっていた都庁での組合長の言動から見て、私は組合長とギャングどもがグルでないかと思っていたところなのだ。  組合長の岩田の家は、商店街のはずれにあった。道をへだてて港に面している。|石《いし》|垣《がき》を積みあげた大名屋敷のような構えだ。道の向かいは岩田の倉庫と専用の船着き場があり、町一番の資産家らしい。  岩田の家の前でタクシーを帰した。私と渡辺は、山門のような門に近づくとベルを押した。|潜《くぐ》り戸が開いて、六尺棒を持った書生が跳び出してきた。 「頼む……」  渡辺が私に声をかけた。私はその書生の首筋を|腋《わき》の下から抜いた拳銃で一撃して|昏《こん》|倒《とう》させた。  その体を庭に引きずりこみ、ベルトで手足を縛って、潜り戸を内側から閉じた。前庭には樹木が多かったが手入れは悪い。ガレージに続くらしい車道が横にそれ、樹々の奥の建物には灯がついていた。  玄関を開いた。廊下の奥から駆けてきた組合長岩田の用心棒は、私が腰だめにした拳銃を見て反射的に両手を上げた。 「心配するな。あんたの安っぽい命なんか欲しくねえ。組合長のいる部屋に案内するんだ」  渡辺は低く命じ唇を歪めた。用心棒はゼンマイ仕掛けのようにギクシャクした体のこなしでうしろ向きになると、廊下の奥に案内していく。私と渡辺は土足のまま上がりこんだ。  長い廊下の突き当たりの部屋の扉の前で用心棒は立ちどまった。私はその背に銃口をくいこませる。 「誰か来たのか?」  部屋のなかから、岩田のものらしい塩辛声が聞こえた。私は左手でドアのノブを廻し、銃口に力をこめて用心棒を突きとばす。  用心棒は部屋のなかに転がりこんだ。三十畳敷きほどの広さの洋室だ。飾りつけは成金趣味だ。部屋には三人の男がいた。私に続いて入った渡辺が後手にドアを閉じる。  写真で知った岩田、組合次長の岡本、それとロマンス・グレーの髪に上品ぶった|口《くち》|髭《ひげ》をたくわえた六十近い男だ。私は頭のなかのアルバムをめくってみて、それが浅草の暴力団吉住組の顧問弁護士伊村であることを知った。 「貴様ら、何の用で断りも無しに入った!」  岩田が私と渡辺に向けてわめいた。用心棒は床に倒れたまま、動けないふりをしている。 「分け前を頂きに来たんだよ」  渡辺はふてくされた口調で言った。 「馬鹿なことを言うな。|儂《わし》は破産寸前だ!」 「俺が何も知らねえと思ってやがるのか?」  渡辺はニヤリと笑い、 「俺は仕事には一丁乗ったが、連絡はいつも奴等から受けるだけの一方交通だった。アタマにきて一度連絡係を|尾《つ》|行《け》て、|奴《やつ》がここに入るのを見たことがあるんだ。だから、今度の補償金強盗のことは、貴様が手引きしたことぐらいわかってるんだ。貴様とお隣の組合次長が、漁師たちの金を一人|占《じ》めしたくてな……」 「それがどうした。帰れ!」  岩田は怒鳴る。岡本はおびえ、伊村は超然とした薄ら笑いを見せていた。 「奴等は飛び入りの俺……顔を知ってる俺が邪魔だった。仕事が終わると俺を片づけようとした。一番バカを見たのは俺だ。あんたもタップリ稼いだろう。何億とまでは言わねえから、二千万ほど分けて頂きてえと思ってやってきたのさ。ゼニをケチって死ぬよりはマシだろうからな」  渡辺は毒々しく笑い、私が構えている拳銃に瞳を走らす。私は音たてて銃身の短いリヴォルヴァーの撃鉄を起こした。 「帰れと言ったら帰れ。それとも貴様、あの連中の隠れ場所を知ってるのか?」  岩田が床に|唾《つば》を吐き散らしながら言った。 「おい、一体何の意味だ」  渡辺は呻いた。  そのとき私は、廊下を忍びやかに近づいてくる足音を聞いた。一人でなく二人の足音だ。私はさり気なくドアの前から体を離し、分厚い壁に背をもたせかけた。 「それで何でも知ってるつもりか! 儂と同じ間抜けだな」  岩田は言った。 「何い!」 「奴等は儂を裏切りよった。七億八千万の震えがくるような大金を持っていったまま|音《おと》|沙《さ》|汰《た》|無《な》しだ……息子を信用した儂が間抜けだった」 「貴様の息子も一味の一人だったのか? 似た顔の奴はいなかったぜ」  渡辺は嘲笑った。 「女房の連れ子だ。五年ほど前に家出してたんだが、ひょっこり帰ってきて大それた計画を打ちあけた。魔がさした。今となっては、組合の皆さんに申しわけない気持で一杯だ。儂は何としてでもあの金を取戻す」  岩田の黄色っぽい瞳はギラギラ光る。 「本当かよ」  渡辺は当惑した表情だ。私は廊下を近寄ってきた足音がドアのところで|停《と》まるのを聞いた。 「あんた、奴等の隠れ場所を知ってるんだろう? 教えてくれ。儂は前に教えられた奴等の巣に行ってみたが空っぽだった。巣を変えやがったんだ!」  岩田は言った。 「どうもあんたの言うことは信じられねえ……だけど、奴等ならそれぐらいのことやりそうだな。そいつは誰なんだ?」  と、伊村のほうに顎をしゃくる。気落ちした表情だ。 「浅草吉住組の弁護士先生だ。ギャングの奴等の隠れ家を突きとめて補償金を奪い返すのに吉住組の力を借りたいと思ってな。だけども、あんたが奴等の隠れ家を知ってるんなら話は簡単だ。隠れ家を教えてくれたら分け前をはずむ。どうだ、知ってるんだろう。儂にだけ教えてくれ」  岩田は分厚い唇を舐める。 「そ、それでは約束が違う。契約違反だ!」  伊村が顔色を変えた。 「そりゃ、知ってるが……いや、ちゃんと知ってるとも。ただし、前金で頂かねえことには教えるもんか。いくらよこすつもりだ?」  渡辺は慌て気味に言った。  本当は強盗団の隠れ場所を知らないのであろう。  そのとき、廊下から歯切れのいい銃声が続けざまに起こり、ドアが裂けた。背中を射たれた渡辺が声も立てずに床に顔を突っこむ。岡本が絶叫をあげた。  私は壁に身を寄せたまま、ドアのほうに拳銃の向きを変えた。銃声はいつやむとも知れず、ドアに大きな孔があき、そこから三〇口径のカービン銃の銃身が三センチほど突っこまれた。  銃口は角度を変えて火を吐き続ける。  少なくとも百発の弾が部屋に射ちこまれた。死角にいる私は若干耳が痛んだだけであったが岩田たちは皆殺しにされ、その上に家具のかけらや|漆《しっ》|喰《くい》が降り落ちる。電灯も射ちとばされた。  銃声がやんだ。 「みんなくたばったようだぜ」 「これで俺たちの素顔を知ってる者は誰もいねえってことだ。とどめを剌して早くズラかろうぜ」  ドアの向こうからささやき声が聞こえ、孔だらけのドアが開け放たれ、三十連の弾倉をつけたカービンを構えた男が二人、不用意に入ってきた。  廊下から射す光を頼りに、私は一発で一人の右手首を射ちぬき、もう一発で次の男のカービンを吹っとばした。  手首をやられた男は|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な悲鳴をあげて転げながら気を失った。私は這って逃げようとするもう一人を|仰《あお》|向《む》かせ、その目に拳銃の熱い銃口を突っこみ、 「強盗団の一匹だな。金はどこに隠した? 仲間のところに案内しろ。言うことを聞かねえと、このまま引金を絞るからな」  と威嚇した。出来ることなら、このまま本庁には報告せずに強盗団の隠れ家を襲い、七億八千万の金を猫ババしたいような気分であった。     裏切り|埠《ふ》|頭《とう》      1  港には濃いスープを流したような夜霧がたちこめていた。二十メートルも離れると物の輪郭も定かにはわからない。  私はライトを消したヴォルヴォ一二二S——乗用車のボディを持ちながらスポーティ・カー並みの加速性能と操縦性を持つスエーデン生まれのヴォルヴォの運転席で、一心に霧と|闇《やみ》をすかし見ていた。  深夜の午前二時半——横浜と言っても川崎寄りにある宝町|埠《ふ》|頭《とう》だ。日産自動車の塗装部門と日石の大工場が埠頭の大部分を占めている。霧をすかして、巨大な石油タンクの塔が幻のように見えている。  風が無いから波は少なかった。しかし、うねりだけはリズミカルに岩壁を叩いている。  ヴォルヴォの助手席に一人、そしてうしろのシートに三人、|腋《わき》の下のホルスターやポケットのなかの拳銃を握りしめた男たちが緊張を続けている。私と同じように、四月の夜だというのに濃いサン・グラスをかけていた。  いつもなら対岸に見えるマリーン・タワーのネオンも税関埠頭の船の灯も霧に隠されていた。  突然——銃声が鈍く響き、近くの海から銀色の照明弾があがった。照明弾の輝きも鈍かった。 「予定より半時間も遅れたな。やっと来たか。フォッグ・ランプをつけろ」  私の背後の男が、葉巻臭い息を吐きかけながら言った。光井という名だ。私は命令にしたがって、ライト・スイッチのツマミをひねった。フォッグ・ランプの黄色い光線が二筋霧を貫く。イギリス製ルーカスの霧灯だから、国産のゴマカシ物と違って濃霧を物ともしない。  車の先十五メートルほどが岸壁の外れであった。鉄製の繋柱が十メートル間隔でオブジェのように並んでいる。 「よしフォッグを点滅させるんだ。約束の回だけ、三秒置きにだぜ」  光井の葉巻臭い息が再び命じた。  私は言われたとおりにした。  私が運転席にいるこのヴォルヴォは、大森の荒井産業の車だ。そして、乗っているのは荒井組の大幹部たちだ。私だけを除いて……。  約束の十度フォッグを点滅させたあと、私はその黄色いライトをつけたままにしておいた。車窓のガラスを少しおろす。  ゴム・ボートを|漕《こ》ぐオールの音がかすかに聞こえると、スタンションに二本のロープが海面から投げられた。  ロープはスタンションを捕えた。ロープが張り、それを伝って岸壁に二人の男が|這《は》いあがってきた。二人とも日本人ではなかった。中国人だ。機械油にまみれた作業服を着けていた。|痩《や》せているのに、腹のまわりが不自然にふくれている。船員帽を目深にかぶっていた。  ヴォルヴォのうしろのシートから二人の大幹部が降りた。光井と米田という男だ。光井は葉巻の吸い殻を横ぐわえにしている。  二人とも、両手を外から見える位置に出していた。光井は黒革のバッグを提げている。  車内に残った二人の大幹部は、それぞれ拳銃を抜きだしていた。助手席の男が牧田、うしろのシートに残った男が谷川という。  フォッグ・ランプの光が霧をはねのけたなかで、二人の中国船員と二人の荒井産業幹部は、二メートルの距離をとって立ちどまった。  光井は葉巻の吸い殻を吐きとばした。米田にバッグを渡すと、ギザギザに切られた千円札を財布の二重底から出した。それには複雑な線で中国文字が書きこまれている。  右側の中国船員が左の小指にはめていたゴムのキャップを引き抜いた。船員はそのなかから|捲《ま》いた紙を取出してのばした。  それも千円札の半片であった。船員と光井は一歩踏みだし、互いの半片を近づけた。ギザギザは合い、文字は合った。  二人は握手し、互いの半片を交換した。船員は受取った半片をゴムのキャップに、光井は財布の二重底に仕舞った。  光井はバッグを米田から受取った。二人の中国船員はベルトをゆるめ、胴巻きをひきずりだした。バッグには五万ドルに及ぶ百ドル|札《さつ》と千ドル札の|束《たば》、二つの胴巻きにはヘロインが四キロずつつまっているのだ。  平凡な……と、言って悪ければ、スタンダードなやり方の取引きであった。私はほとんど彼等のほうを見ずに、左右に視線をくばった。  サーチ・ライトが四方から彼等を照らし、サイレンが|唸《うな》ってスピーカーが|吠《ほ》え、麻薬取締官と刑事たちが殺到してくる|筈《はず》なのだ。だが、まだサーチ・ライトはつかなかった。ぐずぐずするな、と私は胸の中で|罵《ののし》った。サイレンが吠えたとき、覆面刑事である私の任務は終わるのだ。  しかし、なかを調べもせずに光井と中国船員がバッグと二つの胴巻きを交換し終わっても、サーチ・ライトはつかなかった。巡視艇のエンジンの響きも聞こえない。  バッグを受取った船員たちはスタンションに|繋《つな》いだロープのほうに戻っていく。胴巻きを丸めて胸に抱えた光井と米田は、わざとのようにゆっくりと車のほうに戻ってくる。  船員たちはロープを伝ってゴム・ボートに滑り降りた。光井と米田はヴォルヴォのうしろのシートにもぐりこんだ。  車のなかに残っていた二人の大幹部が長い|溜《ため》|息《いき》をついて拳銃を仕舞った。私も溜息を吐きだした。  大幹部たちのは|安《あん》|堵《ど》の溜息だが、私のは失望のだ。ついに、何も起こらなかったのだ。  手違いがあったに違いなかった。いつも荒井産業の幹部連中に監視されている私が、ソバ屋の出前持ちになって荒井産業事務所に出入りしている連絡員花田に|符牒《ふちょう》で|言《こと》|伝《づ》てた今夜の取引きの情報が、どうしたものか本庁にとどかなかったのだ。 「さあ、出発だ」  光井が上機嫌で声をかけた。新しい葉巻をくわえると、米田がライターで火をつけてやる。光井が大幹部のなかでも一番ランクが上なのだ。  私はエンジンをかけると、ヘッド・ライトもつけた。鋭くハンドルを切りながら車を跳び出さす。  Uターンしたヴォルヴォはローでたちまち五十キロを越えた。セカンドにギアをブチこむとスピード・メーターはすぐに八十キロにはね上がる。素早くサードにシフトすると、たちまち百キロを越えた。 「馬鹿。スピードを落とせ、ポリに目をつけられたらどうするんだ! ポリの一人や二人|射《う》ち殺すのは簡単だが、今夜はまずいのがわからんか」  米田がわめいた。      2  子安から第一京浜に入って都内に向かった。交通パトカーに追われないように、ほとんどとまっているがごとき六十キロのゆっくりしたスピードでヴォルヴォを走らせながら、私は心のなかで罵り続けていた。  荒井産業という輸出入商事を看板にした知能派暴力団荒井組に、私が潜入してから三か月。その間の苦労が水の|泡《あわ》になってしまったのだ。  大幹部たちは、緊張がゆるんだせいか、放心したような表情をしていた。今夜の大量の麻薬の取引きの相手は、香港のヴィクトリア・ピークの丘上に宮殿のような邸宅を構え私設軍隊百名を抱えている麻薬王|楊《ヤン》財金の使者なのだ。  品物は調べてみるまでもなく、純度の高いものであろう。楊の信頼を裏切ったりしたら、世界じゅうどこにいても殺し屋につけ狙われるから、使者たちは混ぜ物をしてカサをふやしたりはしない筈だ。  荒井組は、関東における楊の輸入総支配者と麻薬保管業と大口販売業を兼ねている。これは麻薬ルートの十三階段と称されている、この複雑に分業化された世界では珍しいことであった。それというのも、荒井産業の社長は、戦時中は中国における特務機関員であって、その時代から楊と組んで荒稼ぎをやっていたため、楊は荒井の|辣《らつ》|腕《わん》に信頼を置いているかららしかった。  荒井組は決して小口の販売は扱わず、都内の大口な暴力団に四倍の利益で麻薬を流す。つまり一グラム二万五千円で仕入れて十万円で売るのだ。それが末端に渡るときには、ブドー糖などで薄められ、実際にはグラム五十万以上になるわけだ。  今夜の取引きの現場を押さえていたら、荒井組は麻薬取締法違反のほか闇ドルを行使した為替管理法違反の罪状、それに銃砲刀剣類等所持取締令違反で潰され、楊の組織を一時的にせよ破壊することが出来たのだ。私はどうして手違いが起きたのかと考え続けた。  京浜急行平和島駅のそばから左に折れ、環状七号に入って三百メートルほど進み、その通りが東邦医大通りと交差する辺りに、鉄筋四階建ての荒井産業ビルがある。地下は車庫になっている。  私の運転するヴォルヴォがそのビルに戻ったときは午前三時半に近かった。地下に通じる車の廻廊にヴォルヴォを進め、車庫に入れた。  十台ほど収容出来る車庫には、五台ほどの車の姿があった。見張りの準幹部が二人、詰所から跳びだしてきて頭をさげた。私に対してではなく、光井たちにである。  準幹部たちに車を預け、私たちはエレベーターで四階まで昇った。光井はヘロインを|呑《の》んだ胴巻きをコートに包んで胸に抱えている。  ビルの一階はありふれた事務所、二階が倉庫になって、三階は幹部級の私室になっている。そして四階にはサロン風の広間と社長荒井の私室がある。  荒井は四階のサロンで、密輸のコニャックのグラスを掌で暖めながら待っていた。その背後には、トイレのなか以外には荒井から離れたことのない用心棒の有沢が立っていた。荒井が女を抱いているときも同じ部屋にいるという|噂《うわさ》だ。  荒井は五十を少し過ぎた痩身の男だ。顔だちは鋭いが、インテリ臭く、医者だと言われても通用しそうな風格さえある。キルティングのガウンをまとっていた。 「御苦労だったな。うまくいったか?」  荒井は|鷹《おう》|揚《よう》な笑いを浮かべた。 「このとおりです」  光井は二つの胴巻きを荒井の横のテーブルに乗せた。財布から割符を出して荒井に渡す。 「結構なことだ。さあ、みんな、腰をおろして勝手にやってくれ」  荒井は言った。荒井の前に二つのソファが並んでいる。ソファにはそれぞれコニャックとスコッチの|壜《びん》とグラス、それにキャビアを盛った|鉢《はち》などを乗せた|銀《ぎん》|盆《ぼん》が置かれている。  大幹部たちは言われたとおりにした。私も左のソファの|隅《すみ》に腰をおろした。グラスにバランタインのスコッチを|注《つ》ぐ。  荒井はガウンのポケットから飛びだしナイフを出して刃を開いた。胴巻きの一つからふくれあがったゴム袋を出し、それにナイフで小さな切れ目を入れる。  こぼれる白い粉末をナイフの刃先に受けて掌に移した。|匂《にお》いを|嗅《か》いでみる。  荒井の顔色が変わった。  荒井は掌の粉末を|舐《な》めた。突然立上がり、 「畜生、こいつは|偽《ガセ》ネタだ! ブドー糖だ」  と、わめいた。上品そうな仮面は吹っとび、|噛《か》みつきそうな表情になっていた。      3 「何ですって!」  光井たちは腰を浮かした。私の|眉《まゆ》も|吊《つ》りあがった。 「動くな——」  荒井の用心棒が叫んだ。殴られ専門のボクサーのように変形した顔を持つ男だ。素早く銃身の短い輪胴式を抜き、 「動いたらブッ放す。手を見えるところに置くんだ」  と、命じる。  大幹部たちは腰をおろして|喘《あえ》いだ。 「そんな、馬鹿な……」 「俺たちは言われたとおりやったんです……」  と、呻く。 「そうか?」  荒井は切れ目を入れたゴム袋をナイフで引き裂いた。中身の白い粉一キロほどをテーブルにブチまけ、 「ベンジンを持ってこい」  と、用心棒の有沢に命じた。  有沢は拳銃を構えたまま後じさりし、|戸《と》|棚《だな》の|抽《ひき》|出《だし》からベンジンの壜を持って戻った。  荒井はコニャックを捨てたグラスにベンジンを注ぎこみ、それに白い粉を一つまみ落として振った。  白い粉は溶けた。それを見て、荒井は血走った瞳を上げた。 「このとおりだ。溶けてしまった。ヘロインが水やアルコールに溶けても、エーテルやベンジンに溶けないことを知らない筈はないだろう」 「一杯くわされたのは、あたしたちも同じです。あたしたちは、てっきり本物だと思って金を渡しただけのことで……」  光井の顔は|蒼《あお》ざめ、|唇《くちびる》が震えている。 「誓うか?」 「誓います!」  男たちは叫んだ。  荒井は虚空を|睨《にら》みつけていたが、もう一度|罵《ば》|声《せい》を発してから用心棒に顎をしゃくった。用心棒は拳銃を仕舞った。  荒井はベンジンが揮発していくグラスをテーブルに投げ捨て、 「お前たちが裏切ったのでないとすると、|香《ホン》|港《コン》の|旦《だん》|那《な》の仕業か? いや、|奴《やっこ》さんがこんな下手な真似をする筈がない。そうすると、奴の使者のやったことか?」  と、自分に尋ねるように|呟《つぶや》く。 「あたしたちには見当もつかない次第で……」  光井は首を垂れた。 「江蘇号は朝五時の出港だったな。これからあの船を追っかけても間に合わない。ともかく、香港の旦那と電話で連絡を取ってみないことには……これから、陳の店に行ってみる。|糞《くそ》、二千万の大損だ」  荒井は呻き、テーブルの受話器を取上げダイアルを廻した。私はその指の動きをさり気なく見つめた。五九一局の五七八×、新橋だ。  しばらく待たされてから、相手が出たらしい。荒井は、 「また、電話を貸してくれ……ああ、ここからではまずいんでな。礼は払う——」  と、言って電話を切った。大幹部たちに向けて、 「俺が戻ってくるまで部屋を出るなよ。まだ俺には割切れないんだ。有沢をここに残しておくから変な真似はよしたほうがいい」 「しかし社長……」  有沢が口をはさんだ。 「心配するな。ボディ・ガードには佐藤を連れていく。ちょっと、待ってろ」  荒井は私の偽名を口にした。隣の私室に消え、出てきたときには背広とコートに着替えていた。  私と荒井はエレベーターで地下に降りた。  見張りの準幹部が最敬礼する。荒井は彼専用のベンツ二二〇Sの後部シートに乗りこんだ。イグニッション・キーをひねってエンジンを|咆《ほう》|哮《こう》させた私に、 「“李芳蘭”にやってくれ」  と、有名な中国料理店の名をあげた。  私は|頷《うなず》いて発車させた。エンジンはまだ冷えていたが、エンストするようなことはない。  午前四時近く、路上を通る車は数えるほどであった。私は八十から百のスピードで飛ばした。 「幹部連中は反対したが、俺はお前の拳銃と運転の腕を見込んで取立ててやったんだ」  荒井は呟いた。 「御恩は忘れません」 「本当にそう思ってるんなら、俺の質問に正直に答えてくれ。あの薬は光井たちがすり替えたんだな? 無論、タダで教えてもらおうとは思ってない。薬を取返してくれたら五百万出した上に、お前を大幹部として扱ってやる」 「残念ですが、あれは光井さんの言われたとおりなんで……」  私は答えた。本当に残念であったが、いま荒井と大幹部たちを仲間割れさせても仕様がない。 「そうかな」  荒井は鼻を鳴らして黙りこんだ。 『李芳蘭』は田村町寄りの都電通りに面した、けばけばしい中国宮殿式の建物だ。十分もかからずにベンツはその前に着いた。 「ここで待ってろ」  荒井は私に命じて車から降りた。店の横のくぐり戸を開くと奥に消えた。  私は二分ほど待った。車から降り、わざと歩道の電柱に立小便した。五十メートルほど右手に公衆電話のボックスがあるのを横目で睨む。  荒井組に潜入してから、はじめて一人きりになれたチャンスだ。荒井の電話は国際電話だから、すぐには車に戻らぬであろう。私はこのチャンスに|賭《か》けてみることにした。  電話ボックスに入った。遠藤警部はもうとっくに自宅に戻っているのではないかと思ったが、本庁捜査四課二係の主任室にダイアルを廻した。 「遠藤警部ですが」  と言う、噛みつきそうな声に私は溜息をつき、 「俺ですよ。一体、どうしたんです。連絡は聞かなかったんですか?」  と、怒鳴りつけた。 「そっちこそ、一体どうしたんだ。竹芝|桟《さん》|橋《ばし》で取引きがあると連絡員から聞いたんで、部下や麻薬取締官を待機させているんだが、さっぱりその気配がない。取引きは中止になったのか!」 「芝浦の竹芝桟橋? おかしいな。俺は横浜の宝町埠頭と言った筈なのに!」  私は呻いた。 「何!」 「もう取引きは終わりましたよ。血圧が二百を越すほど口惜しかったが本当の話です」 「畜生、そうすると奴等はもうヤクを事務所に運びこんだんだな。よし、もうこうなったら破れかぶれだ。竹芝桟橋に待機している連中を呼び戻して、荒井のビルに踏みこます」 「残念ながら、それも無駄のようですね。ペーのかわりにブドー糖しかない。ブドー糖を押収したって何にもならない」 「何!」 「今度だけは荒井も一杯くわされたというわけですよ。五万ドル払ったのはいいが、受取ったのはブドー糖……カンカンになって、いま田村町の“李芳蘭”という店から香港の|楊《ヤン》に国際電話してますが、恐らく楊のほうもアタマにくるでしょうな」  私は言った。 「本当か!……ちょっと待て。“李芳蘭”の電話を盗聴させるから」 「盗聴しても、荒井と楊は|符牒《ふちょう》でやりとりするでしょうから、言ってることはわからんでしょう。それより連絡員はいまどこにいるんです?」 「わからんのだ。こっちから連絡をとろうとしてるんだが……」 「そうですか。それで、俺にもちょっとはわかりかけてきた」  私は吐きだすように言った。 「まさか、奴が……」 「ともかく、奴が自分から顔を出したとしても、何でもないふりをしてください。そして、俺のほうには、もう一人ほかの連絡員をつけてもらいたいんだ」 「わかった。|読唇術《どくしんじゅつ》が出来る者を、荒井ビルの向かいのビルの|窓《まど》|拭《ふ》きにやらす。その男の目じるしはジャンバーの背中にKCのマークをつけてることだ」 「じゃあ、また連絡します」  私は電話を切り、ベンツのほうに戻った。  荒井がベンツに戻ってきたのは一時間ほどたってからであった。崩れるようにシートに腰をおろす。 「いかがでした?」  私はベンツを発進させながら、遠慮がちに尋ねた。 「貴様の知ったことじゃない!」  荒井はわめいたが肩を落として、 「香港の旦那は驚いてた。それから怒った。商売の仁義を破るわけがないと言うんだ。二人の使者を草の根わけても捜しだして口を割らしてみせると言ってる。そして、使者たちから真相を聞いた上で善処するそうだが、それにしても時間がかかる。次のヤクが届くあいだ、品不足でこの前のハマの黄金町のような騒ぎが起こったりしたらマズい。警察がうるさくなるからな」  と頭を抱えた。  荒井のビルに戻ると、大幹部たちはヤケ酒を浴びていた。荒井は、 「さっきはアタマに来てたんで心にもないことを言った。さっきのことは水に流してくれ」  と、大幹部たちに軽く頭をさげた。窓の外では東の空が明るみかけていた。      4  三階の狭い私室で目を覚ましたときは午後一時を過ぎていた。カーテンを開くと、通りをはさんだ向かいの飯田ビルの窓に、窓拭きの格好をした新しい連絡員がへばりついているのが見えた。  私は顔を洗い、廊下に出た。階段の近くに置かれたソファで中堅幹部の一人の安山が寝ころんで新聞を読んでいる。階段を降りていく私を視線で追った。  一階の事務所に降りてみると、光井と米田がデスクに足を乗せてテレビを|眺《なが》めていた。 「やあ……」  と私は声をかけ、私は電話でいつものソバ屋に五目ソバを持ってくるように言った。  しかし、注文の品を届けてきたのは、花田とは違っていた。十六、七の学生だ。 「新入りだね?」  私は尋ねてみた。 「店の者じゃないんです。|親《しん》|戚《せき》の者なんですよ。手伝いに来させられたんで……」  少年は不満気であった。 「ほう、よっぽどあの店は繁盛するんだな?」 「いえ。いままで出前持ちをしてた人が殺されたんですよ」 「…………?」  私は息をとめた。花田は殺されたんだ。 「テレビのニュースでもやってますよ」  少年は言うと帰っていった。  私は腕時計を|覗《のぞ》いてみた。二時のニュースの時間までに素早く五目ソバを胃に送りこみ、光井たちの横のデスクに腰を乗せた。光井たちは無言だ。  テレビは政治関係のニュースを終わると、花田の死を伝えた。無論、ソバ屋に住込んだときに使った花岡という名であった。しかし、顔写真はまぎれもない花田のものだ。  花田は心臓と太股と脇腹を短刀のようなものでメッタ突きに刺されて死んだらしい。死体が発見された場所は羽田空港に近い穴守神社の空き地の建材置き場、推定死亡時刻は今朝の五時頃だという。なぜ殺されたかは調査中、と伝えていた。 「人の生命ってのはわからんもんですね。あの出前持ちが殺されたとは……」  私は呟いた。もしかしたら、花田の死は本庁が発表した偽情報ではないか、とも思ったが、わざわざ偽の発表をする必然性がない。 「誰でも一度は死ぬのさ。お互いに気をつけようぜ——」  米田がニヤニヤしながら答え、 「ちょっと出かけてきますぜ」  と、光井に声をかけて立上がった。 「ああ、頼むよ」  呟いて、光井は大アクビをした。 「どうも眠り足らんらしい——」  私もアクビをして三階の私室に戻った。窓ぎわに立ち、花田が殺されたというのは本当かどうか? 本当なら帽子を脱いで顔を拭き、|嘘《うそ》なら帽子を目深くかぶり直してみてくれ、と唇だけ動かして窓拭きの連絡員に呼びかけた。  連絡員は、帽子を脱いで、それで顔をぬぐった。これで、花田が本当に殺されたことがわかった。私は、楊の使者が約束よりも半時間も遅れたことについて、光井が荒井に何も報告しなかったことを考えてみた。  それから一週間の日が過ぎた。その夜、私は荒井の私室に呼ばれた。  畳数にすれば三十畳以上はあるイギリス風の洋室で、荒井は落着きなく歩きまわっていた。用心棒の有沢は、暖炉の横に立って、目ばたきもせずに私を見つめる。 「御用ですか?」  私は頭をさげた。 「都内の暴力団に俺のところから渡っていた薬がストップしてから、もう大分たつ。これまでの例でいけば、奴等は一刻も早く薬を渡してくれと騒ぎたてるところだ。それなのに、今度は静かなもんだ。そんなに奴等がストックしてる筈もないのに、いつものとおり商売を続けてる。おかしいと思わんか?」  荒井は言った。 「社長のおっしゃるとおりとすれば確かに変だ」 「だから、お前が行って調べてみてくれ。まず渋谷の金山組で聞きだしてみる。お前が行くことは、俺のほうから連絡しといてやる。少々、暴れてもかまわんから、真相を聞きだしてくれ。ヴォルヴォの車を貸してやる」  荒井は言って、車のキーを差し出した。  私は頷いて、地階の駐車場に降りた。ヴォルヴォに乗りこみスタートさせた。路上に乗り出すと、すぐあとから、セドリックが追ってくるのが見えた。セドリックのハンドルは米田が握り、助手席には光井が乗っている。  下手な尾行ぶりだな、と思いながら、わざと彼等が尾行しやすいように私はヴォルヴォのスピードをゆるめた。  ヴォルヴォが中央にグリーン・ベルトが植込まれた薄暗い環状七号予定路に入ってしばらく行くと、セドリックが左から横腹をすりつけてきた。米田が車窓を開いて私に停車を命じる。  私は道の左に寄せて車を停めた。左腋の下に吊ったモーゼルHSC自動拳銃の重みを意識する。いつも臑につけて隠している軽量のベレッタ自動拳銃は最悪のときがくるまで抜かない。  セドリックはヴォルヴォの前に|停《と》まった。米田と光井がその車から降りる。私もヴォルヴォから降りた。 「どこに行く?」  光井が言った。 「社長の命令ですよ。金山組のところに、近頃はどこからヤクを仕入れてるのか尋ねにね」  私は肩をすくめた。 「なるほど……だけど、お前さん一人じゃ心細いだろう。俺たちも一緒に行ってやる。金山組と言えば、ハジキを使いたがってウズウズしてる奴が多い。お前さんをムザムザと犬死にさせたくないから、俺たちがうまく奴等から|尋《き》きだしてやる。お前さんは、それを自分が尋きだしたように社長に言うんだ」 「そいつは有難い」  私はニヤリとした。 「よし。俺たちの車についてこい」  光井と米田はセドリックに戻った。  金山組の事務所は宮益坂の渋谷電話局のそばにあった。不動産業の看板をかかげた三階建てのビルだ。 「ここで待ってろ」  二人は私に命じて、そのビルに入っていく。私は待った。しかし、待つほどもなく、ビルから高級ヤクザのレッテルを体じゅうに貼りつけたような男が歩道に出てくるのが見えた。タクシーをとめようと上体を車道にのりだす。  私はタバコをくわえた。モーゼルを抜いて背広の|裾《すそ》で隠し、その男に近よる。 「火を貸してくれ」 「何だ、てめえ……」  私に|凄《すご》|味《み》をきかそうとしたその男の声は途中で切れた。私のモーゼルの銃口が腹にくいこんだのだ。  その男を、隣のビルの裏の暗がりに連れこんだ。 「さあ、言え。貴様の組は、この一週間、どこからヤクを仕入れてる?」 「気が違ったのか! 誰だ、てめえは! こんなところでハジキをブッ放せると思ってるのか?」  男は呻いた。 「ああ、俺は気違いだ。言うことを聞かねえ奴をブチ殺すのが一番楽しみなんだ」  私は男の髪を左手で掴み、銃口をその男の口に|捩《ね》じこんだ。 「ま、待ってくれ。射つな——」  震えがきたその男の歯は銃身に当たってカタカタと鳴り、 「しゃべる。五反田の大崎組から仕入れてる。どうしたわけか、大崎組が大量にヤクを手に入れたらしくて、卸しをはじめたんだ……射たないでくれ……」  と、悲鳴を漏らす。  私はその男の口から銃身を引き、頭部をそれで強打した。男はカエルのように地面に叩きつけられる前に気絶していた。  車に戻って三分ほどして、光井と米田がビルから出て来た。 「金山は|登戸《のぼりと》の二号のところだそうだ。この車で一緒に行こう」  と、ヴォルヴォのうしろのシートに入りこんだ。  二十分後、私の運転するヴォルヴォは|和泉《いずみ》多摩川を越え、登戸に入った。二つ目の交差点を過ぎ、しばらく行ってから右手に車首を向けさせられた。砂利道が続き、人家から離れて雑木林にくる。 「よし、ここでとめろ。両手を首のうしろに組んで車から降りるんだ」  私の首筋に米田が拳銃の銃口を当てた。私は命令にしたがった。米田が私の左腋の下からモーゼルを抜きとる。  二人の男は私の前に並んだ。 「貴様が|刑《デ》|事《カ》だということは知ってたぜ。花田が教えてくれたんだ」  光井が嘲笑した。 「奴を殺ったのはあんたたちか?」  私は尋ねた。 「悪いか? 奴があんまり欲をかきやがって、分け前を三割もよこせと言うからだ」 「俺が刑事だと知ってながら、どうして生かしといたんだ?」 「荒井の次の取引きを横取りしてから、お前がデカだということを荒井にバラして、荒井の損害はみんなお前のせいだってことにして、それからゆっくり料理する積りだった。だけど、お前が生きてると荒井を|誤《ご》|魔《ま》|化《か》しきれねえようになってきたんでな。死んでもらうぜ」  光井は言った。米田が私から奪ったモーゼルの撃鉄を起こした。  私はそのモーゼルの薬室は空けている。私は右のフックで米田の顎を砕いた。左の|蹴《け》りで光井の腹を|潰《つぶ》した。尻餅をつきながら米田は引金を絞ったが、撃針は空を打った。  私はモーゼルを奪い返し、遊底を引いて弾倉の弾を薬室に送りこんだ。続けざまに二度引金を絞る。一発は米田の耳、もう一発は光井の頬をかすめた。二人とも尻餅をついたまま絶叫をあげた。私は二人の拳銃を奪い、 「俺は|刑《デ》|事《カ》はデカでも、今はヤクザってことになってる。ヤクザ同士の射ち合いなら文句はねえだろう。二人とも、一寸刻みになぶり殺しにしてやる」  と、言った。 「悪かった!」 「助けてくれ!」  二人は泣きわめいた。散々じらしてから、 「貴様たちと五反田組の関係をしゃべれ。死んでからは、しゃべれねえぜ」  と、私は威嚇した。 「荒井ばっかし稼いで俺たちに廻りが少ないんでアタマに来てた。大崎組も、二年前に荒井と|揉《も》めたことがあってから、荒井がヤクを|卸《おろ》してくれないんで困りきってた。だから、この前の取引きのとき、俺たちは大崎組に連絡した。大崎組は楊の使者を待ち伏せした。この前の使者は、大崎組が|傭《やと》った中国人だ」  光井が|啜《すす》り泣きながら言った。 「分け前は?」 「ヤクは大崎組、俺たちはドルだ」 「俺のことを大崎組に知らせてあるのか?」 「いや。荒井組がサツから目をつけられてることを知ったら、大崎組が用心して話に乗ってこないと思って……」 「それだけ聞けば充分のようだな。念仏でもとなえてろ」  私はニヤリとした。 「ま、待ってくれ! 金を出す!」  二人は胸をかきむしった。 「なんでそれを早く言わねえんだ。俺は刑事なんて商売が嫌になってるんだ。一稼ぎしたいのさ。あんたたちには社長を裏切った弱味がある。それがバレたら楊の殺し屋に狙われる。そして俺には、デカだという弱味がある。お互いに荒井には知られたくねえ秘密があるってわけだ。一緒に手を組めば、仲良くやっていけるぜ。今度の麻薬取引きのときには知らさねえでおく」  私はニヤリとし、二人に拳銃を返した。ただし、用心して実包を抜いてからだ。二人は命が助かったと知って、かえって震えだした。  荒井のもとに戻ってから、私は都内の暴力団に流れこみだしたヤクは神戸ルートらしいと報告した。荒井は、渋谷では一暴れしたらしいな、と私の肩を叩いてから、 「香港から電話があった。使者の二人は船に戻らなかったそうだ。埋め合わせに、この前と同じ量のヤクを送ったそうだ。半値でいいと言っている。十日後に取引きだ。割符は、二、三日のうちに届くだろう」  と、言った。  その夜遅く、私は光井から二万ドルを受取った。そして、十日後の取引きの夜、楊の使者と、使者から薬を受取った荒井組の大幹部たちは、私から連絡を受けて包囲していた捜査陣と射ちあって、半分が死に残り半分は逮捕された。無傷だったのは私ぐらいのものだ。楊の使者を襲うべく海上で網を張っていた大崎組の連中は、その前に水上警察の手で捕えられていた。しかし私も、二万ドルを捜査四課長のデスクに差しだすときには、心も手も|疼《うず》いた。     |鼠《ねずみ》掃除      1  その日は朝からツイてなかった。  前日の夜、上野駅前にたむろしている白タクの客引きの紹介で、酔った私はコール・ガールと湯島天神下の旅館に泊まったのだ。  朝になって|泥《どろ》のような眠りから覚めてみると、寝床に女の姿は無かった。そして、|枕許《まくらもと》には一目で刑事と知れる、|風《ふう》|采《さい》の上がらぬ男が二人立っていた。  いきなり枕を|蹴《け》とばされた。私が枕の下に隠してあった小型自動|拳銃《けんじゅう》ベレッタが、|鞣《なめ》し|革《がわ》のホルスターに入ったまま部屋の|隅《すみ》に飛んだ。  一人の刑事がそれに跳びついた。枕を蹴ったほうの刑事が、 「何をしやがる」  と、わざと下品にわめいて|素《す》|肌《はだ》にスポーツ・シャツだけをまとった上半身を起こした私の右手を小手返しに|掴《つか》み、手錠を|叩《たた》きつけた。手錠のもう一方を私の左手首にくいこませる。  その気にさえなれば、枕を蹴られた瞬間、二人の刑事を殴り倒すことも出来たかも知れない。しかし私だって警官だ。騒ぎは引き起こしたくない。 「立て」  私に手錠をかけた刑事が肩で息をつきながら命じた。三十五、六の中肉中背の男だ。無事に私を逮捕出来た安心感からか、額に汗が吹きだしてきていた。 「一体、何の真似だ。逮捕状はあるのか? 警察手帳を見せてくれ」  私は言った。下はパンツ一枚なので、雪さえちらつく今年の三月の寒さに我慢出来ずに震えがきた。 「逮捕状は必要ない。そのハジキが証拠だ。銃砲刀剣類不法所持の現行犯で逮捕する」  刑事は薄く笑った。 「わかったよ。だけど、そいつが枕の下にあったからって、|俺《おれ》のものとはかぎらねえ」  私は言った。  自分が警官であると名乗り、財布の革の中に縫いこんである身分証明書を見せれば、事は簡単に終わるのだ。彼等は笑って私に謝り、私も気にしてないからと答えるであろう。  しかし、私は同じ刑事でも覆面刑事、つまり秘密捜査官なのだ。私の身分については、本庁の一握りの首脳部にしか知られてはならないのだ。 「言いわけは署で聞こう。ハジキについてる指紋と貴様のを照らし合わせてみれば、すぐにわかることだ」  刑事は言った。 「警察手帳を見せてくれ」  私は言った。二人が偽刑事とは思わないが、本来なら最初に警察手帳の呈示をする|筈《はず》なのだ。 「文句あるのか?」  刑事は内ポケットから日章の下に金文字で警視庁と表示された手帳を出し、私の鼻先に突きつけると、すぐにそれを引っこめた。 「もっとよく拝ませてくれ。中身もな」  私は言った。 「この野郎、甘えるな!」  刑事は|一《いっ》|喝《かつ》したが、パラパラと手帳を開いて見せた。U署保安課警部補岡田と書かれてあるのが一瞬見えた。 「この湯島は、本富士署の管轄じゃなかったかな」  私は言った。  岡田という刑事が|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めた。  ベレッタを拾いあげてから、私が脱ぎ捨ててあった服を調べていたもう一人の刑事が、 「うるせえな、早く服を着ろ——」  と、私の背広やズボンを、私の足許に投げだし、 「所持品は、ありふれた物ばかしで、身許の手がかりが掴める物は無いですぜ」  と、岡田に言う。 「指紋台帳を当たってみればすぐに誰だかわかるだろう。それに載ってなかったら、ゆっくり絞めあげりゃ泥を吐くさ」  岡田は答えた。 「寒くてたまらねえが、両手に手錠がくいこんでるんじゃ服を着れっこねえな」  私はふてぶてしく言った。 「そうかい?」  岡田は|呟《つぶや》き、|腋《わき》の下のホルスターからブローニングを抜いた。 「何をする気だ」  私の声が低くかすれた。 「しばらくのあいだおとなしくしてもらう。ビクビクするなよ。服を着せるあいだ一眠りしてもらうだけさ」  岡田が陰気な笑いを見せた。 「馬鹿な真似はよせよ。あんたに暴行を受けたと検事にしゃべるぜ」  私は言いながら、左指の関節を右手で外しはじめた。手錠は後手にかけられているから、その動きは二人の刑事に見えない。  |揉《も》め事は|嫌《いや》だが、|脳《のう》|震《しん》|盪《とう》のプレゼントを受けるのはもっと有難くない。おとなしく署に連れていかれてから本庁捜査二課の遠藤主任に来てもらい、身柄を本庁移しという名目で|貰《もら》いさげてもらうつもりであったが、相手がこんなに荒っぽいのでは考えを変えた。 「貴様が抵抗したからだと言ったら? 射殺しても俺たちには申し開きが出来るんだぜ」  岡田は言ってブローニングを振りあげた。  同時に私は、指の関節を外した左手首から手錠を抜きだした。 「目をつむってろ」  岡田はブローニングの銃身部を力一杯に私の頭に振りおろした。      2  私は右に跳んだ。跳びながら右手を振った。手首につながった手錠が、鋭い|唸《うな》りを発して岡田の耳を強打した。  岡田は背骨を射ち抜かれた猫族のようにジャンプした。拳銃を|放《ほう》りだし、悲鳴を絞りだしている。畳の上に落ちてくずおれたとき、岡田はすでに意識を失っていた。  もう一人の刑事は、上着の下から拳銃を抜こうとしていた。しかし|狼《ろう》|狽《ばい》しきっているらしくホルスターの安全止革のボタンを外すのを忘れているので、うまくいかない。  私は二跳びでその刑事に迫り、手錠の右手を振った。その刑事が体を沈めて手錠の打撃をさけようとするところを、足で|顎《あご》を蹴りあげた。  |襖《ふすま》を破り倒して、その刑事は|昏《こん》|倒《とう》した。刑事たちに言い含められているからか、廊下に女中の足音は聞こえない。  私は外しておいた左手の指の関節をはめ直した。岡田の内ポケットから|鍵《かぎ》を奪って右手の手錠を外し、もう一人の刑事からベレッタを奪い返した。  服を着け、自分の持分をポケットに戻した。手錠やコップや水差しなどに残した指紋をハンカチで|拭《ふ》き消して廊下に出た。午前八時半だ。  廊下に人影は無かった。私は玄関に歩くと|下《げ》|足《そく》|棚《だな》から自分の|靴《くつ》を出してはき、温泉マークを出た。朝日が|眩《まぶ》しい。  都電通りに出ると、街には無数の通勤客が背を丸め、白い息を吐きながら足早に歩いていた。私はその群集のなかにとけこみ、お茶の水の駅に向けて歩を進めた。昨夜は思いきり飲み歩くつもりで車をアパートに置いてきたのだ。  寝覚めが悪いので四谷のアパートに戻って熱いシャワーを浴びてからベッドにもぐりこんだ。再び覚めたときは、十二時近かった。  冷蔵庫から出したトマト・ジュースを胃に流しこんでから、私は本庁捜査四課の第二係主任のデスクに電話を入れた。 「遠藤警部だが……」  適当に威厳を持たせた声が聞こえてきた。 「俺ですよ、主任。そばに誰かいますか?」 「何だ、君か? まあ、ちょうどいいや。こっちのほうから連絡しようと思ってたんだが、休暇中の君に仕事の話も何だと思ってね」 「主任にそんな思いやりがあったとはね」 「俺だって人間さ。ところで何の話だ?」 「実は面目ない話で、U署の連中と|一《ひと》|揉《も》めしちゃいましてね——」  私は今朝起こったことを報告した。 「警察官のくせにコール・ガールを買うなんて不謹慎な! けしからん!——」  遠藤は怒鳴ったが、 「そのことで話がある。二時に例の所で待っていろ」  と言って電話を切った。  例の所というのは、いつも主任と|密《ひそ》かに落合う場所に使っている平河町のレストラン『ブレーメン』だ。約束の二時に私が『ブレーメン』の店内に入ると、仏頂面の主任がすでに隅のテーブルで待っていた。  私たちはカーテンで仕切った奥の個室に移った。主任のお説教を聞かされる前に腹ごしらえをしておこうと、私はウェイトレスに羊の蒸し焼きを注文した。 「君には手を焼くな——」  主任は呟き、 「罰として、あと二日残っている休暇は取消しだ。文句は無いだろう?」 「仕方ない。今度の仕事は何です?」  私は|溜《ため》|息《いき》をついて見せたが、内心では意外に軽い懲罰に一息ついていた。 「実は、記録を調べさせてみたが、U署からは君を逮捕しそこなったという報告はとどいてないんだ」 「ほう?」 「U署に問いあわせるのは、わざと保留しておいた。わけがあるからだ。U署の保安課には確かに岡田という者がいる。君が見たのもこれだろうな?」  主任は写真の|束《たば》をテーブルに置き、その一番上の写真を示した。制服姿の岡田が写っている。 「確かに……」  私は答えた。 「よし。もう一人も、この中にいる筈だ。この写真の束には、U署の保安と捜査課の連中が全員|揃《そろ》っている。みんなの顔をよく覚えとけ」 「待ってくださいよ、主任。今度の仕事というのは、U署の内部に関係しているんですか?」 「そういったとこだ。このところ、U署の管轄である上野では、白タクとコール・ガールと暴力バーがのさばり返っている。警察と|馴《な》れ合いでないかという投書が俺たちの所に殺到しているし、法外な寄附を毎月強要されて弱っているという、業者からの|匿《とく》|名《めい》の投書もあった」  主任は唇を歪めた。 「|泥《どろ》|試《じ》|合《あい》ですな」 「上野の夜を支配している大手筋は車坂組だ。無論、U署全体が汚れてはいないだろうし、俺はそうと信じたくない。だけど、U署に警察官のツラ汚しの一部がいるのは事実と思える。そんな奴等をのさばらせておくことは許せぬ」  主任の顔に血がのぼってきた。 「わかりましたよ。ついでに、白タクやコール・ガールを操っている車坂組のほうもどうにかしろ、と言うんでしょう?」  私は肩をすくめた。 「当たり前だ」 「俺はスーパー・マンじゃないのにな……」  私は呟いたが、写真の束をめくりはじめた。一枚一枚の裏に、名前と階級と所属部署が書きこまれてある。 「これが車坂組の幹部の写真だ。もっとも奴等は|襟《えり》には大きなバッジを光らせてるから、すぐにわかるけどな」  主任は別の写真の束を内ポケットから引っぱりだした。      3  |夕《ゆう》|闇《やみ》が迫ると、ネグラから|這《は》いだした細身のズボンのネズミどもが、しゃぶりつく餌を求めてうろつきはじめる。  一匹のネズミは弱いが、群をなしたネズミは気が強い。  まして、背後に組織のバックを控えたネズミたちは、力に酔っぱらったような表情で市民たちを|竦《すく》ませている。  人と車でごったがえす上野駅南口。そこは、|楕《だ》|円《えん》を半分に割ったような形のタクシー車道が出札所の前を走り、一段さがった下の広場が自家用駐車場と貨物駐車場に分かれている。  タクシーは南口を正面に見て左側からの一方通行でノロノロと駅玄関にのぼり、そこで客をタクシーに乗せる。白ナンバーや貨物車は右から入るようになっている。  私は南口玄関に近い『はとバス』案内所の壁にもたれ、夕刊で顔を隠すようにして、|雑《ざっ》|沓《とう》のなかを|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》にのし歩くネズミどもを見守っていた。  一目で家出してきたとわかるチグハグな服装の娘に言いよるシロネズミ、渋紙色の肌のお|上《のぼ》りさんにスイス製と称するオモチャの時計を数千円で売りつけるドブネズミ、そして競輪の予想屋のように大っぴらに白タクに客を呼びこむクロネズミ……私から見える範囲だけでも、ネズミは少なくとも三十匹は|超《こ》えた。そして、要所要所に、銀色のバッジを光らせたクマネズミが|睨《にら》みをきかせている。  私が立っている場所からは、駅玄関前のタクシーの通路も、下の駐車場も見通しだ。駐車場からはネズミどもの手で一般の車は追いはらわれ、次々に白タクが戻ってくる。  改札口の向こうの派出所の巡査たちは、ネズミどもの|貪《どん》|婪《らん》ぶりに目をつむっている。私は車と人波をすかして、駅の玄関で客を呼んでいる昨夜の白タクの客引きの姿を追っていた。  三時間ほど待った。何人かの銀バッジが、わざと私に体をぶっつけてきた。私が目障りらしい。そのたびに私は場所を変えた。  昨夜の白タクの客引きが仲間に声をかけ、銀バッジの幹部に頭をさげてから駅を離れたとき、私は東口の地下鉄出入口のそばにいた。  白タクの客引きは通りを横切り、ガード下のアメ横のほうに歩いていく。私は足早にそれを追った。  車の列は這うような速度で一寸刻みをくりかえしているから、広い通りを横切るのは楽であった。車の渋滞は、緑色の腕章を|捲《ま》いた車坂組の行動隊が、黄旗を振りまわしながら勝手に交通整理を行ない、組と契約している以外の会社のタクシーを追い払って白タクを割りこますせいもある。  私が|狙《ねら》った客引きは、アメ横のマーケットのなかを横切り、裏通りに出た。オート三輪や軽トラックがその一方通行路に並び、駅から追っぱらわれたタクシーが入りこんできている。  客引きが『満州楼』という中華料理店のドアを押そうとした。五メートルほどうしろに迫った私に気付いて振り向く。二十一、二の黄色っぽい目の|痩《や》せた男だ。  男の青白い顔は私を認めてさらに|蒼《あお》ざめた。しかし、努力してふてぶてしい笑いを浮かべて私に向かってくる。私はその男とすれちがいざま、|肘《ひじ》まで埋もるような右フックを胃に叩きこんだ。  男は体を二つに折ると、前のめりに倒れた。悲鳴をあげることも出来ない。胃が裂けたのだ。アバタだらけのアスファルトを|爪《つめ》でかきむしっている。  通行人が立ちすくんだ。タクシーが急停車してクラクションをわめかせた。私は|苦《く》|悶《もん》する客引きの襟を掴んでタクシーに引きずり、タクシーのドアを乱暴に開いた。 「何しやがる!」  運転手は発車させようとした。 「動くと殺す」  私は命じ、客引きをうしろのシートに放りこんだ。自分も乗りこんでドアを閉じる。 「さあ、早くここを遠ざかるんだ。荒川に出ろ。交番の前で車をとめたりしなかったら、あんたをどうする気も俺にはないんだ。こいつはあんたたちの商売を妨害している車坂組の白タクの客引きだ。さあ、行け」  私は運転手の肩を叩いた。  セドリックのタクシーは|尻《しり》を蹴とばされたような勢いでスタートした。 「俺を乗せたことが車坂組に知れたら、俺に拳銃を突きつけられて言うことをきいた、とでも言っとけよ」  私は|怯《おび》えきった運転手に声をかけた。  運転手は、車坂組に恨みを持っているらしかった。裏通りを|択《えら》び、日暮里から尾久を抜けて荒川に近づく。途中、客引きは何度ももがいたが、そのたびに私の手刀で|頸動脈《けいどうみゃく》を強打されて意識を失った。  |荒寥《こうりょう》とした工場の並びを抜けると荒川であった。巨大な変電所がスパークの火花を夜空に散らすあたりで、私はタクシーから降りた。 「御苦労さん。だけど、警察に知らせたら命は無いぞ。ナンバーを覚えとくからな。お|釣《つ》りはいらん」  と言って千円札を握らせた。  タクシーはUターンして遠ざかっていった。私は口から胃の血をこぼす客引きをかついで、土手を越えた。  干上がった河原で客引きの腹を蹴とばして目を覚まさせた。意識がはっきりしてくるのを待つ。意識が確かになると、男は鶏のような悲鳴をあげた。 「昨日は世話になったな。|刑《デ》|事《カ》を呼んだのも貴様か?」 「ち、違う。俺はチンピラだ。兄貴のやったことだ! 頼む、殺さねえでくれ。何でもしゃべる!」  男はだらしなくわめいた。再び口から血があふれる。 「本当のことを聞かせてくれたら殺さぬ」 「あんたがハジキを持ってることを、朝になって女が知った。電話で堀井の兄貴に知らせてきたんだ。兄貴がオヤジ——組長に相談したらしい。ハジキを持ってるとこを見ると|縄《なわ》|張《ば》り荒らしかも知らぬからブチ込んでくれるように保安課に頼んだらしい。あんたにやられた刑事は入院したが、昼には退院してあんたを捜してるそうだ。俺の知ってることはそれだけだ」 「貴様の名前は? 堀井というのは、白タク関係を組長から任されてるのか?」 「お、俺は加山だ。堀井の兄貴はコール・ガールの係りだ。白タクのほうは園井の兄貴だ」 「堀井のネグラは?」 「鶯谷の三島マンションの五〇七号……痛い。このままだと、俺は死んじまうよお……怖い。早く医者の所に連れてってくれ」  加山は呻いて再び気を失った。私はその加山を揺り起こしてもっと聞きだしたいと思ったが、風に乗って近づいてくるパトカーのサイレンの|咆《ほう》|哮《こう》を聞いて、逃げだすことにした。タクシーの運転手が|怖《おじ》|気《け》づいて警察に知らせたらしい。      4  鶯谷の三島マンションは、正確に言えば上根岸町にあった。国電とトロリー・バスにはさまれた三角形のなかにある三島神社の近くの、七階建ての高級アパートだ。その地下は駐車場になっている。  午後十時——私は自動エレベーターを自分で操作して五階に昇った。五階は五〇一号から五〇九号室まである。  それぞれの部屋の玄関にはインターフォーンがついている。私はハンカチを指に捲いて五〇七号のインターフォーンを押した。 「どなた?」  投げやりな女の声が聞こえた。 「U署の者だ」  私は潜めた声で答えた。  しばらく待たされてドアが開いた。  ネグリジェの上に|繻《しゅ》|子《す》のガウンをまとった二十二、三の女が立っていた。派手な顔だちの女だ。 「お邪魔するぜ」  私は部屋に入り、後足でドアを閉じた。自動的に錠がおりる。入った所は十二畳ほどの洋風の客間で、奥には幾つかの続き部屋があるらしい。ソファやテーブルが適当に置かれた客間の隅には、ゴルフ・バッグがある。 「あんた誰よ。本当にU署の人?」  女は顔色を変えた。 「ああ、堀井の帰りを待たせてもらうぜ」 「出ていって!」  叫びながら女はドアのほうに走ろうとした。私はその髪を掴んで引き倒した。ネグリジェの|裾《すそ》が割れ、虚空を蹴る女の|腿《もも》の奥の、何もはいてない部分までがむき出しになる。私がそこを狙って蹴りつけると、呻き声と共に女は気絶した。私は靴先のねばりを|絨毯《じゅうたん》で|拭《ぬぐ》った。  女を抱えて奥の部屋に移った。十畳ほどの寝室だ。ダブル・ベッドにまだ|温《ぬく》もりがある。それに、つい今しがたまで男と女が寝ていた|匂《にお》いがこもっていた。  私はベッドに女を放りだし、洋服棚を開いた。ベッドの下も覗いてみた。誰もいない。私は突き当たりのドアを開き、薄暗いダイニング・キチンに跳びこんだ。  唸りを発して、|棍《こん》|棒《ぼう》状のものが私を襲った。私が自分から|尻《しり》|餅《もち》をつきながら横に転がらなかったら、頭か肩の骨を砕かれていたとこだ。  三十四、五のスマートでハンサムで薄っぺらな感じの男が、ドアの|蔭《かげ》から出て再び右手を振りあげた。死にもの狂いの表情だ。右手に握っているのは、アイアンのゴルフ・クラブだ。  しかし私は、転がりながら|臑《すね》に隠したホルスターからベレッタの軽量自動拳銃を抜いていた。撃鉄を音たてて起こし、 「そんなに死にたいのか?」  と|圧《お》し殺した声をかけた。  男はゴルフ・クラブを振りあげたまま化石したように動けなくなった。長い時間が過ぎ、男の手からクラブが落ちた。 「見逃してくれ!」  男は呻いた。 「どうした、色男。あんたは堀井じゃないな。そうすると、堀井の女と寝てたところを奴に知られてはまずいわけだ」  私は笑った。 「頼む、俺を逃がしてくれ。浮気だったんだ。二度と美沙子に近よらないから……」 「名前を言え。何の商売かもな。言わなきゃ、堀井から聞くまでだ」 「長谷川だ。広小路のガソリン・スタンドを任されている……」 「車坂組はガソリン・スタンドまでやってるのか。もっとも、白タクの使うガソリンも自前だと安上がりになるだろうからな」  私は唇を歪めた。 「タンク・ローリー車から俺のスタンドで抜きとるんだ。かわりに安い白灯油をタンク・ローリーに積みこむ。だから、白タクの使うガソリンはリットル当たり二十五円ぐらいしかかからない」 「石油会社のタンク・ローリーの運転手にも車坂組の息がかかってるんだな」  私は唸った。 「もう、これくらいで勘弁してくれ。堀井の兄貴に俺がここにいることを見つかったら、半殺しにされる」  長谷川は悲鳴に似た声をあげた。  そのとき私は、玄関の自動錠の鍵孔に鍵が突っこまれる金属の|軋《きし》みを聞いた。いきなり長谷川の水月を拳銃で突きあげた。長谷川は骨抜きになったようにくずおれた。  玄関のドアが開く音がした。荒々しい足音が寝室に近よる。私は素早く寝室に戻った。ポケットに右手を突っこんで立ちすくんだ|精《せい》|悍《かん》な男に、 「待ってたぜ、堀井さんよ。両手を見える所に出すんだ。ゆっくりとな」  と、声をかける。 「畜生、殺してやる。俺の女を|嬲《なぶ》り者にしやがって!」  堀井は歯ぎしりした。 「残念だが、その女に興味はない。色男はダイニング・キチンでオネンネしてるよ」  私は堀井に近づき、上着の右ポケットから平べったいブローニング〇・二五を取りあげた。それを自分のポケットにおさめ、堀井をダイニング・キチンに突きとばす。 「この野郎、よくも俺の女を!」  堀井は倒れている長谷川を殴りつけ踏みにじる。長谷川は悲鳴をあげて這いずり廻る。私はダイニング・キチンに電灯をつけてそれを見物した。      5 「貴様は誰だ!」  激情が|鎮《しず》まったとき、肩で息をつきながら堀井は私を見上げた。長谷川はボロ布の塊りのように転がっている。 「忘れたのか? 貴様が今朝、U署のデカに始末してくれと頼んだ男だ」 「やっぱりそうか! 絞め殺してやる」  堀井は立上がり、よろめくように私に歩みよった。 「|坐《すわ》れ」  私は左手で堀井を張り倒した。堀井の口が裂けて犬歯がむきだしになった。 「畜生。あの間抜けな刑事め、俺に言われたとおり、貴様が抵抗したと見せかけて、踏みこんだ途端に貴様を射殺したらよかったんだ」  堀井は血の塊りを吐いた。  寝室では、女が気絶から覚め、玄関のドアのほうに這いよっていく音がする。私はわざとそれを見逃した。 「U署の刑事は、みんな車坂組の言うなりになるのか?」  私は尋ねた。 「知るもんか。だけど、貴様、用心しろよ。今度見つけたらその場で射殺すると奴等は言ってた。さあ、こんなところでグズグズしてねえで、早く逃げろよ。死にたくなかったらな」 「御忠告は有難いが、まだ今朝のお礼をしてない」  私はベレッタを臑のホルスターに収めた。いきなり堀井に襲いかかると、右手を逆手に取り、人差し指を捩じた。  堀井は絶叫をあげた。人差し指が折れた。その音にまぎれて、女が廊下に出る音が聞こえてきた。私は堀井の中指を捩り折り、親指に手をかけた。 「わかった。悪かった! 許してくれ。もう大きな口は叩かねえ!」  堀井の全身は脂汗にまみれた。 「じゃあ、しゃべるんだ」 「何でも言う!」 「U署の連中のなかで、汚れたバッジの刑事の名を言え」 「捜査四課の半数と保安の連中全部だ。特に岡田と森山はうちの組の用心棒みたいなもんだ」  堀井は呻いた。 「森山というのは、今朝岡田と一緒だった奴だな?」  私は尋ねた。 「そうだ。でも、一番あくどいのは保安係長の広島だ。うちの組は毎月五十万ずつ保安に|貢《みつ》いでるが、そのうちの二十万を広島が一人|占《じ》めにしている」 「まさか、領収証は取ってないだろうな?」 「奴等が裏切って手入れなどしやがったら居直って本庁にバラしてやる積りで、オヤジは係長に毎月のゼニを渡すとき、いつもテープに録音してる」 「テープはどこだ?」  私は堀井の親指をさらに捩じた。 「よしてくれ。そんなこと聞いて、どうする積りだ?」 「係長を|恐《かつ》|喝《あげ》て、|稼《かせ》ぎのいくらかを吐きださせるのさ」 「東洋信託銀行の貸し金庫だ」 「名義は?」 「上野という名だ。こんなことをしゃべったとオヤジに知れたら殺される……」  堀井は失禁した。 「貸し金庫のなかは、テープだけじゃないだろう?」 「知らん」 「知らんのか?」  私は堀井から離れた。勢いをつけて、堀井の右腕に跳び乗る。堀井の腕は、肘から脱臼した。絶叫をあげる堀井の口を蹴って歯をへし折る。 「わ、わかった。組の収入と支出の明細を書いた帳簿がそのなかに……」  堀井は聞きとれぬほどの声で呟くと、ガックリと頭を垂れた。  私は三つの部屋の蛍光灯を豆ランプに切替えた。寝室からは、やはり女の姿は消えている。玄関は自動錠だから、内側からだけは、鍵無しで開くのだ。私は玄関のドアを細目に開いた。ダイニング・キチンに戻り、そのドアの横に堀井と長谷川の体を積む。窓のカーテンを開くと、バンガローの下にマンションの裏庭が見えた。非常階段は廊下の外れにしかない。  この鶯谷は坂本署の管轄だ。サイレンを鳴らして坂本署のパトカーが殺到すれば私はお手上げするほかないが、私には別の予感があった。  長くは待たされなかった。マンションの裏庭に黒塗りのシボレー五十三年型のずんぐりした姿がとまった。屋根に四角くはめこまれた|蓋《ふた》はスポット・ライト用だ。覆面パトカーだ。  その車から降りたのは、耳にガーゼを|貼《は》った岡田と、顎が|腫《は》れあがった森山であった。建物の壁に沿って、マンションの正面玄関に廻りこむ。私はダイニング・キチンのドアの横で待った。足許の二人の男は、まだ意識が|朦《もう》|朧《ろう》としている。  やがて、五〇七号の玄関のドアが乱暴に開かれた。 「出てこい! 抵抗すると射殺する!」  岡田が叫び、二つの拳銃から放たれた弾が天井の壁のコンクリートを砕いた。銃声は部屋に反響して耳が痛いほどだ。  岡田と森山はあせっているらしい。車坂組に突つかれてヤケクソになっているとも思われる。 「抵抗する気か!」 「銃を捨てろ!」  などと、まだ見えぬ私を|威《い》|嚇《かく》する。そして、私が抵抗したと見せかけて射殺する気だ。  私はドアの敷居に、長谷川の体を突きとばした。同時に岡田と森山の拳銃が|吠《ほ》え、長谷川の体を弾が引き裂いた。  二人の刑事は|驚愕《きょうがく》の声を出した。私は右手にベレッタを握り、堀井を左手に抱えて|楯《たて》として跳びだした。ベレッタの弾を二人の顔すれすれに送った。二人の刑事は、夢中でブローニングを乱射しながら逃げた。そのうちの一弾が堀井の肺を貫き、私の|肋《ろっ》|骨《こつ》に当たってとまった。  尻餅をついた私が立上がったとき、コンクリートの破片が宙に舞う室内には無煙火薬の匂いと血の匂いが残っているだけで、二人の刑事の姿は見えなかった。  私の右胸は血にまみれていた。しかし、それは自分の血よりも、堀井の射出孔から噴出した血が多くついているのだ。私はベレッタに撃鉄安全をかけてズボンのポケットに仕舞い、右胸の傷を押さえて部屋から歩み出た。野次馬が逃げまどう。  肋骨の二本や三本折れることは、私の商売では珍しいことではない。裏庭にまわってみると、血迷った岡田たちは覆面パトカーを置きざりにして姿をくらませていた。  私はそのシボレーのエンジン・スイッチを直結にして発車させた。血がなかなかとまらない。私は目白の裏通りでシボレーを捨て、路上駐車しているクラウンを無断借用して四谷のアパートにたどりついた。  ナイフをアルコールで洗って、右の第五肋骨に刺さっている〇・三八〇口径のニッケル・ジャケット弾を取出した。傷口をアルコールと止血剤で処理して|繃《ほう》|帯《たい》を捲いてから、ベッドに横になって遠藤警部に電話を入れた。  岡田と森山が私を殺そうとして、二人の幹部を射殺したこと、車坂組がガソリンの抜きとりもやっていること、車坂組の帳簿や贈賄の証拠が銀行の貸し金庫にあることなどを報告したが、手荒い手段で彼等の口を割らせたことはしゃべらなかった。  警部が電話を切ると、私の意識は薄れた。  目が覚めたときは昼を過ぎていた。ベッドのそばに、新聞の勧誘員に扮した遠藤警部が立っていた。  警部は、二人の幹部を射殺されてアタマにきた車坂組の行動隊が岡田と森山の二人を襲って森山を殺したこと……U署が反撃に出て車坂組と派手に射ちあい車坂組が壊滅したこと……貸し金庫から出てきた証拠でU署から悪徳警官を一掃出来るだろうということ、などを教えてくれた。私が意識を失っている十数時間のあいだに、いろんなことがあったらしい。 「怪我の具合はどうだ? お気の毒だが、それも、もとはと言えば、君が助平気を出してコール・ガールと遊んだりするからだ。自業自得だな。特別に一週間の休暇とボーナスを取ってやったが、おとなしくベッドで寝てるんだぜ」  警部は私の腹を叩き、薄い札束を枕の下に突っこんだ。 「畜生、這ってでも遊びに出かけてやる」  私は呟きながら、再び眠りにおちた。     敗 北      1  事件が発生したのは三月十五日——つまり、所得税の確定申告の締切日であった。  三軒茶屋に近いS区税務事務所は、通称大山街道あるいはS通りと言われる国道五十一号線の表通りから、若干引っこんだ位置にある。表通りは駐車禁止になっているからかも知れない。  午後四時近く、税務事務所の前の通りの左右には数十台の車が駐車していた。そして、納税者を運んできたタクシーが、道一杯にひろがって行き来する人々にクラクションを浴びせかける。  税務事務所の玄関の前には、明治調の八の字|髭《ひげ》をはやした緑色の腕章の交通巡査が、無秩序に駐車しようとするオートバイやモペットに|睨《にら》みをきかしていた。  税務事務所の内部では、幾つもに区分された窓口から、長い行列が続いていた。人々は不機嫌な表情を露骨に示していた。  玄関の内側の横に、案内員のデスクがある。刑事上がりらしい五十男が警備員の腕章を|色《いろ》|褪《あ》せた背広の腕に捲いて、そのデスクについていた。無愛想な肥大漢だ。  そのデスクから離れた左側に、税務事務所の委託を受けた脇明銀行が、税金の出納の窓口を受持っている。行列はその出納窓口からのびたのが一番長かった。  平日では出納室に入ってくる金は百万ぐらいのものだ。だから銀行から派出された行員、すなわち特別出納員は三、四人しかいない。  しかし、三月十五日をはさんだ数日は、一日に億を超す税金が入ってくるのだ。その種類は、大は法人税から小は自転車税や畜犬税に及ぶ。  その多額の税金を扱うために、出納室は係員を増していた。午後四時における特別出納員——すなわち脇明銀行から派出された行員の数は六名であった。  午前中に入ってきた金はすでに銀行のほうに廻していたが、午後の分もすでに締切近かった。その紙幣や小切手は、|扉《とびら》を開いたロッカーのなかに積まれていた。  行列はゆっくりと動き、|真鍮《しんちゅう》の|柵《さく》が|嵌《は》めこまれた出納室の窓口に、トレンチ・コートの襟を深く立てたロイド眼鏡の男の番が廻ってきた。肥った男だ。  その男は窓口に立つと、ポケットをさぐりまわした。 「済みません。あとがつかえてますから、お早くお願いします」  出納係の女の行員が疲れた声で言った。 「…………」  トレンチ・コートの男は無言でポケットをさぐり続けた。  そのとき、出納員室のうしろ側のドアが開いて、ストッキングで覆面した二人の男が入ってきた。振り向いた行員たちの目には、二人が構えた拳銃が見えた。二人は左手に大きなズックの袋を提げている。  行員たちは総立ちになった。 「動くと殺す」  |闖入者《ちんにゅうしゃ》たちは圧し殺したような低い声で言う。窓口の外に立ったトレンチ・コートの男は、広い肩で窓口の内側を行列している人々から隠すようにする。  恐怖に麻痺した行員たちを|尻《しり》|目《め》に、二人の闖入者は拳銃を構えたままロッカーのなかの札束をズックの袋に放りこみはじめた。  税務事務所の建物の前では、髭の巡査が五〇CCのモペットの二人乗りを捕まえて油を絞っていた。所内の警備員は、中年の婦人に二階にある十二番の窓口の位置を教えている。ざわめいた空気はさきほどと変わっていなかった。  その雑然とはしているがそれなりに均衡がとれた|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が破れたのは、トレンチ・コートの後で順番を待っていた飲み屋のマダム風の女の鋭い悲鳴によってであった。その女はトレンチ・コートの男がグズグズしているのを待ちきれずに、男を押しのけるようにして窓口の内側を|覗《のぞ》きこんだのだ。 「黙れ!」  トレンチ・コートの男がマダム風の女の和服の肩を掴んだ。 「強盗です!」  眼球を|剥《む》いて女はわめいた。行列の人々は一瞬立ちすくんだ。  警備員が、年に似あわぬ|敏捷《びんしょう》さで出納の窓口に駆け出した。トレンチ・コートの男が、コートの下から銃身を短く|挽《ひ》き切った水平二連の散弾銃を出した。  警備員の足がとまった。マダム風の女が再び悲鳴をあげてコンクリートの床に|蹲《うずくま》った。行列が乱れ、納税者たちはたがいに手近な人々を突きとばすようにしながら、出入口のドアのほうに走った。  だが、そこには、これもナイロンのストッキングで覆面した上にソフトを目深にかむった別の男が立ちふさがっていた。コートの下から、三十連の長いバナナ弾倉をつけたカービン銃を出して腰だめにしている。  人々は意味をなさぬ叫びをあげてその場に坐りこんだ。騒ぎを聞きつけて顔を充血させた髭の巡査が跳びこんできたが、カービンの銃口を脇腹に突きつけられるとだらしなく震えはじめた。  出納室の二人は手早く札束の全部をズックの袋に詰めこんでいた。窓ガラスを拳銃で叩き破ると建物の外に跳びだす。その音を合図のように、カービン銃の男が銃身で巡査の頭を殴りつけて|昏《こん》|倒《とう》させ、後じさりしながら外に出た。  散弾銃の男がそのあとを追った。警備員が散弾銃の男の腰に組みついた。散弾銃の男は銃口を警備員の頭に圧し当てて引金を引いた。  |凄《すさ》まじい銃声とともに、警備員の首から上が一瞬にして消失した。人々は頭を抱えてコンクリートの床に顔をこすりつけた。その上から警備員の血が降り落ちる。  散弾銃の男は血迷ったらしい。人々のなかにもう一発の散弾を射ちこむと、トレンチ・コートの裾を翻して外に走り出した。  税務事務所の玄関の前にはホロを張ったジープが急停車していた。四人のギャングはホロの荷台にもぐりこんだ。ジープは全輪駆動をかけて邪魔になる車をはねとばしながら|遁《とん》|走《そう》した。運転手はヘルメットと|防《ぼう》|塵《じん》眼鏡で顔を隠していた。      2 「……と、いうわけだ。ほかの窓口の所員からの通報でパトカーが駆けつけたときにはジープは消えていた。そのジープは事件現場からあまり離れていない代田一丁目に乗り捨ててあった。無論、盗難車だ。奴等はマンホールを通って逃げたらしい」  四谷のアパートのソファに横になっている私に、新聞の勧誘員の格好をした不景気な顔の五十男が説明した。私の直属の上司である遠藤警部だ。 「新聞で読みましたよ。射たれた傷が痛むんで、昼間はゴロゴロしてましたからね。新聞やテレビでも眺めてないことには金がかかって困る」  私は言った。 「もう、すっかり治ったんだろう?」  遠藤主任は、|狡《こう》|猾《かつ》な表情になって、私の機嫌をとるように尋ねた。 「お蔭様でね。笑いすぎるとチクッと痛みが走る程度ですが、それほど笑いたい材料も無いし」 「退屈だろうな? 君の気持は分かるよ」 「冗談じゃない。ネオンが輝く夜になれば退屈なんて吹っとんでしまいますよ。ただし、軍資金の欠乏が痛いけど……」  私はニヤリと笑った。 「それで、税務事務所が襲撃された事件についてだが……」  主任は|肘《ひじ》|掛《か》け|椅《い》|子《す》の上で坐り直した。 「痛快ですな。俺だって、血税を納めてきた晩は、必ずといっていいほど税務事務所を襲う夢を見るぐらいですからね」 「無責任なことを言っちゃいかんよ。冗談はよしてくれ。君にも一丁乗りだしてもらいたいと思ってやって来たんだ」  主任は言った。 「主任のほうこそ、冗談はよしてくださいよ。捜査本部が一月もかかってまだ犯人の見当もつけてないのに、僕にやれることなんか何も無いですよ。新聞だって、はじめのうちは散弾銃の男のモンタージュ写真を派手にのせて書きたてたけど、この頃はサッパリあの事件の記事にお目にかからんようですな」  私は|眉《まゆ》を|吊《つ》りあげて見せた。 「このところ、新聞は選挙違反と|誘《ゆう》|拐《かい》事件の記事ばかしだからな。君がそう思うのも無理はない。しかし、実は発表を伏せてるんだが、例の散弾銃使いの男とそっくりの男が近藤星作の屋敷の離れに|匿《かくま》われてるというタレコミが昨日あったんだ。もっともロイド眼鏡は外してるが……」  主任は唇を|噛《か》んだ。 「近藤星作……よく聞く名ですな」 「大物だ。そこいらのチンピラ・ボスとは格が違う。総長よりも会長よりも格が上だ。何しろ、法務大臣まで務めた男だ。今は表面は政界から引退してはいるが、忠君愛国という錦の|御《み》|旗《はた》を振りかざして、政界の黒幕として君臨している」 「警視庁がまともにブツかっていったんじゃ勝負にならんというわけですか?」  私は唇を歪めた。  主任はそれには答えず、 「タレこんできたのは近藤の屋敷に出入りしてる呉服屋だ。タレこみの電話に自分の店の電話を使ったんで、すぐに突きとめられた。そこで、俺は一課の連中と一緒に、その呉服屋とひそかに会った」 「…………」 「奴さん、はじめは警視庁に電話した覚えなど無いと言い張ってたけど、電話の声をテープに取らしてもらったとハッタリをかけてやったら、やっと認めたよ。近藤がこの三年間の勘定五百万ほどを一文も払ってくれないんで、アタマにきてるらしい。まあ、それは別として、奴さんが近藤の屋敷で見たという男は、モンタージュ写真にそっくりだそうだ。今までは近藤の家にいなかった男だそうだ。門下生と称して近藤が飼ってる二十人近くの私兵の一人でも無いらしい」  主任は呟いた。 「近藤が呉服屋に借金があるのなら、何とかして呉服屋に被害届けを出させて、まず詐欺容疑で近藤の屋敷に踏みこみたいとこでしょうね。もっとも相手が近藤じゃ……」 「そう、相手が大きすぎる。俺のクビなんか一発でとんでしまう。そこで、君に御出馬を願うというわけだ。まあ、しっかりやりたまえ」  主任は、貰いものらしいゲルベゾルテを箱ごと私のほうに突きだした。 「調子いいな、主任は」  私はトルコ葉の香りのきついそのタバコを一本抜いた。主任は、無器用な愛想笑いを見せてライターの火を差しだし、 「君に任せばなんとかなるだろうからね」  と、言う。 「僕はクビになったって怖くないですからね。それどころか、一刻も早くこんな商売はやめさせて貰いたいぐらいですよ。だけども、あの事件で一人が死に、三人が重傷を負った。重傷者の一人の娘さんは、目に散弾銃がくいこんで失明したそうじゃありませんか。税務事務所の金を取返すために働くと思えば嫌になってくるが、失明した娘さんの仇は何とかとってやりたいもんですね」  私は言った。      3  近藤の屋敷は西落合にある。哲学堂に近く、風雨に耐えた黒ずんだコンクリートの|塀《へい》にかこまれた敷地は、五千|坪《つぼ》をくだらないと見えた。  その夜、私は近藤の屋敷から二百メートルほど離れた目白通りにある、『たこ八』というオデン屋で、二級酒をチビチビ飲みながら網を張っていた。靴もボロ靴に替えたので、いつもの靴の|踵《かかと》に隠してある拳銃携帯証はつけてない。午後十時近く、|数《じゅ》|珠《ず》つなぎになって一寸刻みを繰りかえしていた車のラッシュも解消し、地響きをたててトラックが疾走している。  そのオデン屋は小料理屋も兼ねて、|粋《いき》な造りであった。L宇型のカウンターには十五人分ほどの椅子があり、水を打ったコンクリートの土間の横に二つの座敷がある。  マダムは芸者上がりらしく、意識的な色っぽさが身についていた。二人いる手伝いの娘も美人のうちに入るであろう。  客は、近くの商店の|旦那衆《だんなしゅう》がほとんどであった。風呂上がりの顔をアルコールで光らせ、マダムや手伝いの娘をからかっている。  カウンターの隅の私は、質流れの古着屋で買ってきた安物のギャバジンの服をだらしなく身につけていた。昨夜から髭を当たってないので、顎から|頬《ほお》にかけてが黒ずんでいる。私は不機嫌な顔で黙りこんでいた。  午後十時を少し過ぎた頃、黒のオープン・シャツに黒の背広を着た五人の男が、ノレンを肩で分けて入ってきた。私が待っていた連中だ。近藤の親衛隊の一部だ。  五人の男は一様に肩を怒らせ、不必要に眼光を強めていた。カウンターに並ぶと、それぞれの注文を叫ぶ。 「はい、はい。今すぐに——」  マダムは愛想笑いを消さずに言った。私に一番近い席の黒服の男の耳に唇を寄せて、 「先生に伝えてくれたの? もう勘定が六十万から|溜《たま》ってるのよ。何しろ、こんなに小さな店でしょ。仕入れに廻すお金が無くて……」  と|囁《ささや》く。 「分かってる。分かってる。心配するな。俺たちのツケが百万になったら先生がスッパリ払ってくれるさ。五十万、六十万なんてゼニは、先生の眼中に無いんだ。さあ、ママさん。大船に乗った気でニッコリ笑ってお|酌《しゃく》してくれよ」  男はわざとらしい豪傑笑いをした。この班の班長らしい。遠藤主任から私が聞いた話だと、近藤の親衛隊は、大体五人ずつが一班になって四班あるらしい。 「本当にお願いしますよ」  マダムは手を合わせた。 「くどい。早く酒だ」  班長は凄味をきかせた。  カウンターにいた三人の客が慌てて出ていき、私と五人の男たちだけが残った。私は黙りこんだまま、特級酒で刺身やオデンを胃に流しこむ黒服の男たちに目を|据《す》えていた。  男たちには私が目障りらしかった。チラチラと私のほうを見やりながら、しきりに大臣や財界の大物の名前を口に出しながら、腐敗した日本を救えるのは近藤先生と自分たちのほかに無いと|気《き》|焔《えん》をあげた。その合間に、手伝いの娘の胸に手をのばす。  頃合いを見はからって、私は馬鹿笑いの声をたてた。  男たちが一斉に私のほうに振り向いた。 「おい、そこの不景気づら、何がおかしい?」  班長がわめいた。 「貴様らだ。タダ酒をくらって大言壮語しやがって、それでこんなケチな店の女を|嚇《おど》かしてりゃ、自分たちの天下が来るとでも思ってるのか?」  私は言った。 「何だと、この野郎!」  男たちは立上がった。 「やめて、やめてください!」  マダムが金切声を出した。 「俺を五人がかりでやっつける気か? 面白え、やってみな。俺はな、近藤先生に|憧《あこが》れてはるばる北海道からやって来たんだが、貴様らを見て俺の夢は砕けた。近藤なんてインチキ野郎だ。郷里に帰ったら皆にそう言ってやる」  私は言った。 「|天誅《てんちゅう》を加えてやる。先生を侮辱した奴を五体満足なままでは帰さねえ」  班長がわめいた。私の襟を掴んで引起こす。私は引かれるままに立上がると、|膝《ひざ》でその男の睾丸を砕いた。  絶叫を上げてその男は|蹲《うずくま》ろうとした。私はその体を抱えあげ、煮えたっているオデンの角ナベのなかに顔を突っこませてやった。男は失神した。  |蛮《ばん》|声《せい》で|威《い》|嚇《かく》しながら、残りの四人が一塊りとなって私に殺到した。私は気絶した班長を放りだすと、手近な椅子を掴んで振りまわした。  椅子の脚は完全に折れ飛んだが、三人の男は頭や額から血を流してコンクリートの土間に転がり呻き声を漏らした。一人の男は、|喉《のど》から心臓がとび出しそうな顔付きになって表に逃げだした。  オデン屋の女たちは、抱きあうようにして立ちすくんでいた。一度表に出た私は、看板を引っくり返して休業札にし、店のなかに戻ってガラス戸を閉じると、内側からカーテンを引いた。 「警察には知らすな。心配するなよ、椅子を|毀《こわ》した金は払ってやる。さあ、俺にも特級酒を一本つけてくれ」  と、言い、倒れている男たちの頭をもう一度ずつ別の椅子で殴りつけて気絶させた。それぞれの内ポケットから財布を奪ってカウンターに積んだ。  予想以上に待った。十五分ほどして、表通りに二台の車が急ブレーキをかける音が続いた。乱れた足音が店に近づいた。表戸が乱暴に開かれ、先ほど逃げた男を先頭に、十人ほどの黒服黒シャツの男たちが店になだれこんだ。みんな、ポケットや服の内側に片手を突っこんでいる。店の女たちが|喘《あえ》ぎ声をたてた。  男たちは、土間に転がっている仲間を見て|唸《うな》り声を漏らした。その男たちのなかから、四十五、六のインテリ臭い男が私のほうに歩み寄った。 「先生が君に来て欲しいとおっしゃられている。断る積りは無いだろうな?」  と、低い声で言う。 「断ったら?」  私は言った。 「ここにいる者は、みんな先生のためになら命を捨てる覚悟が出来ている。君が死にたいと言うのなら勝手だが、まず先生に会ってからにしたまえ」  男は言った。遠藤主任から見せてもらった写真では、この男が近藤の左腕と言われている池内だ。      4  車に乗せられて私は近藤の屋敷のなかに運ばれた。うしろの車には、私が少々痛めつけてやった男たちが積みこまれた。  想像していたとおり、近藤の屋敷の庭は広かった。正門の内側には門番の小屋があり、庭のなかには江戸時代を|偲《しの》ばせる雑木林がある。  雑木林のなかを車道が通っていた。車道の突き当たりが玉砂利を敷いた広場で、その奥に武家屋敷さながらの|母《おも》|屋《や》が広い面積を占めている。母屋の斜めうしろに、長屋風の建物が見えた。 「降りろ」  池内は私に命じた。その手がのびて、私の服をさぐる。しかし、私の愛銃ベレッタは、臑にくくりつけてズボンの裾で隠しているから、池内の手に触れなかった。  玄関の式台のところで、私の背中に池内が拳銃の銃口を圧し当てた。池内と二人の班長が、折れ曲った長い廊下の奥に私を追いたてる。残りの男たちは長屋風の建物のほうに向かった。  近藤は、三十畳は優にある奥座敷にいた。奥座敷一杯に|緋《ひ》|毛《もう》|氈《せん》を敷きつめ、両側の壁には戦国時代の|甲冑《かっちゅう》が並んでいる。床の間を背にした近藤は、|熊《くま》の皮の上に御丁寧にも|虎《とら》の皮をひろげた上で、|脇息《きょうそく》にもたれている。私なら左手だけで絞め殺せそうな男であった。  だが、六十男の汚らしいシミを浮かべた|萎《しな》びた顔に|瞳《ひとみ》だけは射るような光を放っている。私は池内たちによって、近藤の前に正座させられた。臑の拳銃が邪魔だが仕方ない。 「馬鹿野郎! |儂《わし》がインチキ国士だと!」  近藤は異様に嗄れた声で怒鳴った。 「つい、興奮してましたので……」  私は両手をついた。 「貴様のような小人に、儂の大志が分かるもんか! だが、よい。貴様の命はこの近藤に預けろ」 「入門を許してくださるので?」  私は胸のなかでニヤリとした。 「生意気な奴だが貴様には骨がある。だが、そう言われたからといって有頂天になるのは早い。貴様のは勇気があるのではなくて、何も知らぬから怖がらないだけだ。儂のところで鍛えてやる」 「有難うございます」 「名前と出身地は?」 「北見良夫……北海道帯広の産です……」  私は遠藤主任が用意してくれた偽の運転免許証を取出した。 「よし、退れ……池内、遠慮せずにこいつを鍛えてやれよ」  近藤は|傲《ごう》|然《ぜん》と言い放って|瞼《まぶた》を閉じた。 「かしこまりました」  池内は私の襟を掴んで立上がらせた。  私は長屋風の建物に連れていかれた。そこは広い道場と、十畳ほどの部屋が七つついている。  道場には、私に傷を負わされた四人をのぞく近藤の親衛隊員が全部といっていいほど揃って私を待ちうけていた。殺気だった眼付きだ。 「これが北見だ。入門を許された。みんなで順番に|挨《あい》|拶《さつ》してやれ。まず、俺が最初にやってやる——」  池内は男たちに向けて言った。私に向き直り、 「歯をくいしばってろ」  と冷笑してから、私の鼻柱に|渾《こん》|身《しん》の力をこめた|拳《こぶし》を突きだした。  私は反射的に横に跳んだ。そしてこれも反射的に、右フックを池内の胃に肘まで叩きこんだ。  池内は胃が裏返しになったような呻き声をあげて膝をつこうとした。こうなったら仕方無いから、私は池内の髪を左手で掴んで引起こし、その内ポケットから九四式の自動拳銃を奪った。九四式の安全装置を外し胆汁と胃液を逆流させる池内の口に銃身を突っこんだ。 「ふざけちゃいけねえ。さっきのは、売られたケンカを買っただけの話だ。それだからと言って俺が袋叩きになるのは御免だぜ」  と、言う。  男たちは|茫《ぼう》|然《ぜん》としていた。拳銃を口に突っこまれた池内は、|蛙《かえる》の腹のような顔色になって全身を|痙《けい》|攣《れん》させている。ズボンの|股《また》に黒いシミがひろがっていく。 「わ、分かった。さっきの事は水に流す。参謀からハジキを離してくれ」  班長の一人で、頬のホクロに長い毛がはえている男が、悲鳴に似た声を出した。 「分かってくれたら文句は無い。ただし、俺だって射たれるのは嫌だから、このハジキは預かっとくぜ」  私は言って池内を突きとばした。拳銃は銃身を自分の安物の服で|拭《ぬぐ》ってポケットに突っこんだ。ポケットのなかでも握りしめる。  池内は|仰《あお》|向《む》けに倒れ、テンカンにかかったように焦点の合わぬ瞳を剥いて口から|泡《あわ》を吹いている。 「年寄りの冷や水ってのは確かに体によくないらしいな。さてと、俺の寝床はどこだい?」  私はふてくされてみせた。 「案内しよう。俺は大塚だ。三班の班長だ」  ホクロの男が言った。  私はどうも御親切に、と言ってその男と並んで歩きだした。眼の隅では、道場の格子窓の外から|覗《のぞ》いている一つの顔をとらえている。その男の肥った顔は、税務事務所襲撃事件のとき散弾銃を使った犯人のモンタージュ写真にそっくりであった。      5  私にあてがわれた部屋は、道場と反対側の一室であった。畳はすり切れ、襖は破れかかっている。四十ワットの裸電灯が薄暗い。 「便所は道場の横だ。ここは朝が早いから、すぐに寝たほうがいいぜ」  大塚は部屋の隅に畳んである粗末なフトンを蹴とばしてみながら言った。そのそばに灰皿がわりのバケツが置かれている。 「世話になった。お休みなさい」  私は頭をさげた。 「お休み」  大塚は後じさりしながら廊下に出て襖を閉じた。私はポケットのなかで九四式拳銃に安全止めを掛け、部屋をよく見廻した。  七畳の部屋だが、天井には節穴があき、出窓の|磨《す》りガラスにはヒビが入っている。出窓の雨戸は上下にも|隙《すき》|間《ま》があいて、ちょっと力を入れれば簡単に外れそうであった。  私は十四年式と並んで旧陸軍の制式銃であった、不格好な九四式の弾倉を抜いてみた。八ミリ弾が五発つまっている。銃の遊底を引いてみると、薬室にも一発つまっていた。  だが、私はこんなチャチな銃に命を託す真似は出来ない。機関部にさえ|鋳《い》|物《もの》が使われ、安全装置も頼りにならない。安全止めをかけておいても、露出した逆鉤に手が触れると暴発するほどだ。だから、私は薬室の実包を弾倉に戻し、薬室を空けて遊底を閉じた。弾倉を|銃把《じゅうは》に叩きこみ、ズボンのポケットに突っこむ。  フトンを敷いた。なかにもぐりこむと、ヤケに重くてゴツゴツし、漬物石のようであった。おまけに、|黴《かび》と安ポマードの悪臭がする。枕はサンド・バッグのようであった。  私は半身を起こして裸電灯を消した。もう一度フトンにもぐりこむが、こんなところで眠る積りは無かった。私に|舐《な》められて、近藤の親衛隊が黙って引っこんでいるわけは無い筈だ。  私の瞳はすぐに|闇《やみ》に慣れた。私は音をたてぬように気を配ってそっとフトンから抜けだした。固いフトンの中央部を私が寝ている形にふくらませ、枕をそれに寄せた。押入れに向かって|這《は》う。  物音をたてずに押入れを開くのに三分ほどかかった。なかは、ほとんど空っぽだ。私はそのなかにもぐりこみ、臑につけて隠していたベレッタを抜いた。押入れの襖は、三分の一ほど開けておいた。  膝を立て、そこに顔を伏せて目を休ませながら、私は待った。神経を耳に集中する。  出窓の外に忍びやかな足音が近づき、雨戸が小さいが耳障りの音をたてたのは、|袖《そで》|口《ぐち》で隠したローレックスの夜光塗料を塗った針が午前一時を示した時であった。  私は出窓のほうと廊下の襖のほうに交互に視線をくばった。出窓のほうの音は|牽《けん》|制《せい》かも知れないのだ。  雨戸が外れ、鈍く弱々しい月の光がヒビの入ったガラス窓に射した。窓に鍵はついてない。ぼんやりした人影が磨りガラスに浮かび、やがて窓が開いた。  一人の男が部屋のなかに肥った体を重そうに移した。喘ぐような呼吸が私の耳に達する。男は後手で窓を閉じると、私のフトンに四つん這いで近寄った。右手に、銃身が三十センチほどしかない散弾銃を握っている。銃床も握りの部分から後を切り落としている。  私はベレッタの撃鉄を起こした。その乾いた金属の音にかぶせて、 「動くな。大きな声を出すと容赦なく引金を絞る」  と、低く圧し殺した声で命じた。 「見当違いだ。助けてもらいにやって来た。頼む、射つな」  男は喘いだ。 「じゃあ、銃を捨てるんだ」 「嫌だ。こいつを体から離したら、俺は不具同然になる」 「よし、わかった。そのまま動くなよ」  私はベレッタ拳銃を突きだしながら、肘と膝で這いだした。男の額に横側から拳銃の銃口をつける。  近くでよく見ると、やはり、税務事務所襲撃犯の一人のモンタージュ写真にそっくりの男だ。 「あんたをどっかで見たことがある。そうだ、手配者のモンタージュ写真だったな」  私は言った。 「隠したって仕方ねえ。確かに俺だ」 「名前は?」 「まあ、上田とでも呼んでもらおうか。助けてもらいに来たんだ。その言い方が嫌なら、取引きの話を持ってきたとでも言おうか」  男は囁いた。 「聞こう」 「俺が税務事務所でカッとして銃をブッ放して死人が出たもんで、仲間に吊るしあげをくった。強盗だけならいいが、殺しが重なったとなると、サツは草の根わけても追ってくると言われた。その上、俺のモンタージュ写真が出たんで、奴等にとって俺がますます邪魔になった。それに、俺がいなければ奴等の分け前がふえる。だから俺は、消される前に逃げだした。ポケットに、詰めこめるだけの札束を突っこんでな。だけども、奴等のところから逃げだしたのはいいが、どこへ行っても安全な場所はない。そのとき、遠い|親《しん》|戚《せき》の近藤のことを思い出したんだ」 「それで、ここにやって来たのか?」 「ところが、近藤は俺よりも何枚も上手だ。俺の顔を見て俺が何をやってきた男か知ると、仲間の隠れ場所を教えろとネチネチ責めたてるんだ。俺が教えたら親衛隊に隠れ家を襲わせ、それからゆっくり俺を料理しようという|魂《こん》|胆《たん》だ。俺はここから逃げだそうとチャンスを狙ったが、正門と裏門には見張りが三人ずついるし、塀の上には高圧線が張られてる」  上田は呻いた。 「それで、俺に逃げるのを手伝えというわけか?」 「タダでとは言わん」 「あんたのポケットのなかの|端金《はしたがね》じゃ嫌だよ。俺もここんとこ不景気続きだから、ここらで一発大勝負といきたい」  私はニヤリと笑って見せた。 「分かってる。だけど、仲間の隠れ家を教えるわけにはいかねえよ。あんただけに甘い汁を吸わせたくねえ」 「じゃあ、今あんたから聞いたことを近藤にしゃべるぜ」 「いいとも。やってみな。だけど、一つだけ忠告しとく。あんたもどうせここで殺されるんだ。夜中は用心してるだろうから、朝方になってあんたが疲れて眠りこんだところを襲うと言ってたぜ」 「じゃあ、俺とあんたは、三すくみ、ならぬ二すくみといったところか。だけど、どうせこのままじゃ二人とも殺されるんだから、バクチを打ってみたほうが利口だぜ、俺と二人なら、何とかここを抜けだしたら、隠れ家を襲ってもムザムザと返り射ちになることも無いだろうよ」 「よし、分かった。だけど、あんたの分け前は三分の一だぜ」  上田は臭い息を私に吹っかけた。 「いいとも、分け前だけの働きは見せてやる」  私は軽く上田の肩を叩いた。 「どうやるんだ?」 「見てろ、簡単だ」  私はベレッタの撃鉄を安全位置に戻し、上田から視線を外さずにそれをズボンのポケットに突っこんだ。フトンを板壁に寄せ、空気の流通をよくするために掛けブトンの真ん中を折って敷きブトンのあいだに空間をつくった。池内から奪った九四式拳銃の弾倉から六発の実包を抜いた。弾頭を銃口に突っこんで|薬莢《やっきょう》から捩じ抜く。|壜首型《ボトル・ネック》の薬莢なので簡単に抜けた。  薬莢から取出した火薬を敷きブトンと畳にひろげ、ライターに点火して敷きブトンと掛けブトンのあいだに置いた。ジポーのライターなので、|蓋《ふた》を開いておくと、燃料と空気があるかぎり火は消えない。 「さあ、逃げるんだ」  私は上田を出窓に押しやった。  二人は植込みの蔭を|択《えら》び、前庭の雑木林に逃げこんだ。私は再びベレッタを握っている。正門に近い雑木林の外れまで来たとき、長屋風の建物の方角から火がのぼるのが見えた。火はたちまち勢いを強め、天を焦がしはじめた。  正門の見張りは一人だけを残して、火元のほうに駆けだしていった。遠くから消防自動車のサイレンと半鐘が近づいてくる。  私は右手の拳銃を背後に隠し門衛の小屋に近づいた。見張りの男が抜き身の日本刀を提げて歩み出た。 「どこに行く!」  と、大声で怒鳴る。  私は返事のかわりにベレッタの引金を絞った。弾はその男の軽く開いた股のすぐ下を抜けた。  見張りの男は|股《こ》|間《かん》に衝撃を受けて、てっきり睾丸を吹っとばされたと思ったらしい。日本刀を放りだして地面に芋虫のように転がった。その間に上田が門を開く。  道路には野次馬が集まりかけていた。通りがかりの車も徐行したり停車して、火事を眺めようとする。私はブルーバードを|停《と》めて炎に見とれているサラリーマン風の男を車から放りだした。気の毒だが仕方がない。  私が運転し、上田が助手席でコートの襟を立てている。初めの赤信号に来て、はじめて二人は靴をはいてないことに気がついた。二人とも銃は仕舞っている。  上田が私を案内したのは、多摩川を越えて町田市のはずれに入った山のなかであった。クヌギ林のなかにコンクリート造りの、がっしりした二階建てが一軒だけそびえているのが、かすかに見えた。  上田はその家から三百メートル手前で私に車を停めさせ、 「あそこだ。表面は土地ブローカーをやっている仲間の一人が借りている。地下室があるんだ。ホトボリの冷めるまで、みんなあそこに|籠城《ろうじょう》することになっている」  と、言った。  それだけ聞くと、私はいきなり上田の頭を拳銃で殴りつけて昏倒させた。  散弾銃を奪い、上田の体を車のトランクに詰めた。トランクにロープがあったので、それで体を縛っておく。  車を脇道に突っこんでおき|裸足《はだし》で歩いて|麓《ふもと》の交番に着いた。財布の中に縫いこんである身分証明書を巡査に見せて電話を借りた。  新聞記者をまいた機動隊のトラックがやってきたのは一時間ほどしてからであった。遠藤警部が指揮をとっていた。そして彼等が見たのは、分け前を争って射ちあった結果らしい地下室の四つの死体であった。札束が死体のそばに散乱していた。  その記事が新聞に出たとき、死者のなかに北見名の私も混っていた。写真も出ていた。近藤の復讐の手から私を守るために主任が細工してくれた事だ。  近藤について記事は何も触れてない。私は敗北感を噛みしめた。     燃える|覆《ふく》|面《めん》|車《しゃ》      1  その年は三月十五日で猟期は終わり、それから十一月に解禁になるまでは射撃シーズンだ。毎日何十万発からの弾が、クレーを砕いたり標的板に孔をあけたり、あるいは|虚《むな》しく土中にめりこむだけで消えていく。  五月半ばの土曜日、相模原にあるキャンプ|座《ざ》|間《ま》で、立川基地のガン・クラブと座間基地のそれのあいだで、拳銃射撃の対抗試合が行なわれた。立川は空軍、座間は陸軍だ。  私は立川のクラブの会長ビル・マクナリーと親しい。立川の基地内にある室内射撃場もたびたび利用させてもらっている。  その関係から、試合を見学かたがた私も特別参加してみないか、という話がビルからあった。そして、翌日の日曜には秋川渓谷で|鱒《ます》|釣《つ》りを楽しもうというのだ。  ここのところ私が駆りだされなければならない事件も無かったから、私は即座にオーケイと言った。そして、土曜の朝八時、私は自分のブルーバードを、昭島にあるビルの私邸に着けた。ビルは五十一歳の極東空軍軍事顧問なのだ。  ビルは広い芝生の庭に出した六十二年フォード・サンダーバードのハード・トップ付きの車に銃器や弾薬を積んで待っていた。背はあまり高くないが肩幅は私と同じくらいある。  運転席には、マクナリー家の次男で府中のエア・ステーションに勤務している空軍中尉のダニーの姿があった。助手席にはダニーと同じ二十八、九の年頃の男がいた。ダニーの同僚だそうだ。  私はブルーバードからサンダーバードに移り、ビルの隣の後部座席に体を沈めた。六・四リッター・三百馬力の強力なエンジンがうなりだす。  自動変速機のレヴァをD2に入れ、ダニーは発車させた。重く巨大な車体のせいで馬力の割には鈍い加速力、水車のようにグルグル廻さなければならない軽いハンドル、フワフワしたバネと高速ではふやけてしまうブレーキ……どれをとってみてもサンダーバードはスポーツ・カーとは言えないが、ダニーはかなりのスピード狂らしく、タイアを|軋《きし》ませ横転しそうにカーブを切って楽しんでいる。助手席の同僚が、ダニーをけしかける。  八王子から国道十六号の日米行政道路に入り九十キロ平均でとばし、原町田から右に外れてキャンプ座間に着いた。  試合は、私の目からみればドングリの背くらべのようなものであったが、わずかな差で座間のクラブが勝ちを握った。  私はビルから三八口径スペシャルのS・Wリブ付き六インチ銃を借りて六百点満点のうち五百七十八点を射ったが、特別参加だからカップはもらえなかった。優勝者は五百三十点ほどであったと思う。  試合は夕暮れ近くに終わったが、陸軍の優勝に狂喜した座間ガン・クラブの会長モートン大佐は、ビルを厚木じゅうのバーやナイト・クラブに案内した。私やダニーたちも御相伴にあずかった。  モートン大佐とビルが酔い|潰《つぶ》れたのは、午前三時を過ぎていた。大佐を運転手を兼ねた従兵にまかせ、私たちはビルをサンダーバードに運びこんだ。  サンダーバードのハンドルはダニーの同僚のキース中尉がした。車は厚木街道を大和市に向かう。大和から日米行政道路に入るのだ。  ビルは私の隣で|大鼾《おおいびき》をかき、ダニーは声高にキース中尉と|猥《わい》|談《だん》を交わす。私が少々露骨な話をしてやると、二人は中学生のようにその先を知りたがった。  厚木街道には深夜便の長距離トラックが時々行列を作っていたが、国道十六号の日米行政道路に入って八王子に向かうと、行き交う車は滅多に無かった。  キース中尉の運転はダニー以上に荒かった。  サンダーバードの巨体は右に左にロールし、後輪はしばしばスリップする。直線路では約百三十キロで中尉は飛ばした。  原町田を過ぎたあたりで、道路の左端をアンテナを長くのばした日新自動車のマイクロ・バスが八十キロほどの速度で走っていた。中尉は大きく右にふくらんで派手にそれを追い越す。  |畠《はたけ》と雑木林と低い丘陵が道の左右に交錯しはじめた。そのとき背後から強烈なドライヴィング・ランプの光線の|束《たば》が襲いかかった。  キース中尉は急激にアクセルを踏みこんだ。ゆるやかなカーブの連続する道だが、百五十キロを越えたサンダーバードは、カーブを曲るために|凄《すさま》じい音をたててスリップするタイアから白煙を吐き、遠心力で巨体は外側に振りまわされ、内側の車輪は五センチほど宙に浮きあがり、重力の移動した外側前輪はフェンダーを噛み、そのフェンダーの下縁はアスファルトに接触する寸前だ。私はシートにしがみついた。  だが、背後から襲ってきたライトは上下に光軸を切り替えて追い越しのサインをすると、バリッ、ブオーンと力強い排気音をあとに残し、一瞬にしてサンダーバードを抜いていった。直角に近い感じで車線を移しても、スリップどころかロールさえも見せない。  その小さな車は、神奈川の仮ナンバーをつけた覆面車であった。しかし見ると、遠ざかっていくその低いボディの車の輪郭には見覚えがあった。日新パンサーの面影がある。  私の|脳《のう》|裡《り》に、つい先日読んだモーター・アンド・カーの新車予想ニュースが|甦《よみがえ》った。 「第一回全日本グランプリのスポーツ・カーB㈼部門に外国車を圧倒して優勝した日新パンサーは、次回グランプリにも連続制覇を狙うため、ボディをさらにエアロ・ダイナミック化して空気抵抗を減らし、信じられぬほど強力なエンジンとクロース・レイシオの減速比のトランスミッションと強化されたクラッチ、それにガーリングと提携して朝日ブレーキで開発中であったディスク・ブレーキを全輪に装備した新型車パンサー・スペッシャルをテスト中と言われている。  伝えられるところでは、このスペッシャルのエンジンは千五百CCと排気量は変わらないが、圧縮比を十一に高めて気筒数を六に増し、SUタイプのキャブレター三個とダブル・オーヴァヘッド・カムシャフトをつけ、七千五百回転で百七十最大馬力を発生し、八百五十キロの軽いボディをロー六十五キロ、セカンド百十キロ、サード百八十キロ、トップ二百三十キロ以上まで引っぱることが出来、ゼロ発進して八十キロ時に達するまで約四秒半、百キロまで六秒の|駿足《しゅんそく》を誇り、発進してから四分の一マイルを走り切るのに、わずか十三秒と言われている。それが事実とすればジャガーEタイプも問題にせぬ加速力であり……」 「畜生!」  キース中尉は抜かれてあたまにきたらしい。アクセルを床まで踏みこむ。デフは今にもバラバラになりそうに唸り、丸太のように酔っぱらったビルが私に倒れかかる。 「やめろ——」  私は大声を出して言った。 「やめないとこの車はこわれる。本物のスポーツ・カーとサンダーバードのようなスポーツ風の車の違いは、加速性の差だけじゃない。操縦性と安定性の差なんだ」 「じゃあ、あの車はホンダか?」  キース中尉は呻いた。 「まあな」  私は答えた。キース中尉が日本で速い車として知っているのはホンダだけであろうと思ったからだ。 「じゃあ、仕方ない」  中尉はアクセルをゆるめた。酔った顔に汗が吹きだしている。ブレーキを踏んでさらにスピードをゆるめようとしたが、すでにブレーキは焼けていて踏みごたえが無かった。中尉の顔から汗がしたたり落ちた。  そのとき遠くのほうから銃声のような音が高く低く二度ほど聞こえたような気がしたが、私はシートにかじりつくだけで精一杯であった。後輪が滑りはじめて猛烈に尻を振ったサンダーバードは、やっと徐々に減速しはじめた。覆面のテスト・カーの姿はもう見えない。道は一キロほど先で大きくカーブし、道の片側に丘陵の|崖《がけ》が立ちふさがって視界をさえぎっているのだ。  次の瞬間、丘の向こうから|轟《ごう》|音《おん》が聞こえた。サンダーバードのエンジン・ブレーキの音をとおしてはっきりと聞こえた。  カーブの手前でサンダーバードは四十キロぐらいに減速していた。そして、カーブを過ぎて視野が|拡《ひろ》がったとき、半キロほど先の次のカーブの右手の丘の向こうの闇が毒々しい炎の色に染まった。 「やったな」 「ざまあ見ろ」  二人の中尉は、かすれた声で呻いた。米国車が日本車に必死に競走を|挑《いど》んであっさりと敗れたのがよほど口惜しかったらしい。  日新パンサー・スペッシャル——というより、その|残《ざん》|骸《がい》は、次のカーブを廻った先の崖面に叩きつけられて、炎に包まれていた。路上にはスピンしたタイアの跡がべっとりとくっついている。  原型を完全に失っていた。吹っとんで路上に転がっている仮ナンバーのプレートと、黒い覆面カヴァーが無かったら、さっきのテスト・カーだとは気づかぬほどであった。  テスト・ドライヴァーのものらしい血と肉の塊りは、千切れた安全ベルトと共に車の残骸より三十メートルほど先に叩きつけられていた。折れたハンドルの柄が、胸と思われるあたりから背に突き抜けていた。  現場に近づくとサンダーバードはセレクターを|L《ロー》に変えて強くエンジン・ブレーキをきかせて徐行した。ダニーもキース中尉も蒼ざめていた。汗の粒に赤黒い炎が反射する。 「とめてくれ」  私は頼んだ。 「駄目だ。パトカーが|AP《エア・ポリース》の車に連絡したら、僕は酔っぱらい運転で捕まる」  キース中尉は呟いた。アクセルを踏みこんでいく。仕方無く私はシャツのポケットからハイライトの箱ほどしかないキヤノン・デミを取り出し、車窓からそれを突き出して素早くシャッターを切り続けた。射撃場で使うために高感度|三S《スリー・エス》のフィルムを入れてあるが、七十二枚撮りだからフィルムはあまっている。      2  翌日の夕刊には、その事件の記事が小さく出た。ただし、日新自動車が大いに運動したらしく、テスト・カーであることは伏せられていた。  日新自動車追浜工場の技師和田宏さん(三十五歳)は、二十日午前四時頃神奈川県相模原市矢部の通称八王子街道で小型乗用車の運転を誤り、崖に激突して即死し、車は大破炎上した。原因は、居眠り運転と見られる……というのがほとんどの新聞の記事の主旨だ。  だが、私の耳からは、テスト・カーが崖に激突するより前に聞いた銃声のような音がなかなか消えなかった。  だから、直属の上司の遠藤警部と雑談しているときにそのことを述べたりしたのだが、それからのち面白くもないパクリ事件の秘密捜査に手間どったりして、あの夜のことは記憶の|筐《はこ》の底に埋もれかかった。  私の記憶を呼び覚まさせたのは、六月に入ってしばらくして、日新をのぞく各自動車メーカーの御用新聞やPR雑誌に、炎上するパンサー・スペッシャルの写真と、テストマンの死の暴露記事が続々と出はじめたためだ。  各紙こぞって、パンサー・スペッシャルがカーブでスピンしてテスト・ドライヴァーの悲劇を招いたのは、|無《む》|闇《やみ》に馬力を上げたエンジンを積んだからときめつけていた。  ほかのページでは各社ともそれぞれ高性能エンジンの宣伝に血道をあげているくせに……四谷のアパートのソファに寝転がって各社のPR誌を読みながら苦笑いした私は、事故車を写したどの写真もが、同じようなカメラ・アングルで、しかも手持ちでは撮影しにくい五百ミリ級の望遠レンズで写したものだと気付いた。  車で通りかかったプロのカメラマンやセミ・プロの写真にしては露出が下手すぎる。それに車の残骸の被写角からして、丘の上か中腹から撮ったようであった。偶然そこに居合わせたにしたら話が出来すぎている。  私がぼんやりとそんなことを考えていたとき電話のベルが私を現実に戻した。受話器を取上げてみると遠藤警部の声だ。 「君にまた仕事が出来たらしい。いつもの所に来てくれ」  と、言う。  三十分後、私は平河町のドイツ料理の店『ブレーメン』に入った。遠藤は隅のテーブルで私を待っていたが、私を認めると奥の個室に移る。そのあとに続いて個室で警部と向かいあった私は、ウェイトレスに勝手に料理を注文した。 「実は、今度の事件は本来なら私立探偵に任せたほうがいいんだが……」  警部は口を切った。 「と、言いますと?」 「なあにね、君がこの前に言ってた、日新パンサー・スペッシャルのことさ。あの車がスピンして崖に叩きつけられた原因は、前輪のタイアがパンクして|炸《さく》|烈《れつ》……つまり、バーストしたためなんだな。七十Rのコーナーを時速百四、五十キロで廻る際に前輪がバーストしたんでは一たまりもない」 「じゃあ、俺が聞いた爆発音は、やはりタイアのバーストする音だったのかな。でも、確か爆発音は二度聞こえたような気がしてならないんです」 「まず私の話を聞け……それでだな、日新自動車が言うには、テスト・カーのあとから距離を置いてついていった救急車兼用の無線連絡用のマイクロ・バスが、事故車に駆けつけて積んであった消火器で火を|鎮《しず》めたんだが、火が消えてから調べてみると、テスト・カーのエンジンのうちかなりの部分が消えてしまっているのに気づいたそうだ。  テスト・カーのシリンダーやメイン・ベアリングなどは、ニッケル・クローム鋼の五倍の耐久力と耐熱力を持ちながら三分の一の軽さの日新の新発明鋼で、ほかのメーカーにこっそり真似されるのを警戒してまだ特許申請もしてないほどの代物だそうだし、ピストンにしても従来の五倍の性能を持つ特殊合金だと言ってる。日新の救急車のあとから本社の警備員や技術者が駆けつけて、事故車の残骸に警官が触れることさえ阻止したほどの新合金らしい。そんな新合金を使っているからこそ、あのパンサー・スペッシャルの物凄いエンジンは連続回転させても焼きつけを起こさないのだ、と日新の連中は言ってたよ」  警部はメモを見ながら言った。 「わかりました。誰かが事故車から新合金を盗んでいったわけですね。ほかのメーカーに売れますよ。破片でも分析してみれば原料から製造過程まで分かることが出来るそうですから」  私は呟いた。 「そのとおり……もうプリンセス自動車が日新のパンサー・スペッシャルのエンジンと同一の合金を使って、千九百CCエンジンを試作しているそうだ。最終目標は百九十馬力で、そのエンジンをプリンセス・スポーツのボディに乗せて次回グランプリの優勝を狙っている」 「それで、こっちは何をしたらいいんです?」 「そこなんだよ。日新自動車に言わせると、事故を起こしたパンサー・スペッシャルのテスト・カーにつけたタイアは、丹念に千キロの慣らし走行をやったあとので、カーブを切ったぐらいでバーストするわけはない。何かの細工が行なわれた筈だという」  警部は呟いた。 「バーストしたタイアをあとで調べてみましたか?」 「焼け焦げてはいたが、灰になってはいなかった。|弾《だん》|痕《こん》らしいものは見当たらなかったね」 「…………」 「ともかく、日新の掴んでる情報では、ある特定のメーカーと契約してほかのメーカーの新車テストの妨害をしたり、技術や新製品のアイデアを盗んだりするグループがいるそうだ。我々としては民間会社の新車争いにまで手を出せないと突っぱねてはみたんだが、君も知ってるように法務大臣は日新の大株主だから、大臣からもわざわざ我々の部屋に挨拶に来てくれた。そうなると断るわけにもいかなくなった。そこで、秘密捜査官のあんたに一働きしてもらうわけだ」  遠藤は、とってつけたような愛想笑いをした。      3  翌日、私は神田錦町に事務所を借りた……と言えば豪勢に聞こえるが、正確にはデスクを一つ借りたわけだ。  裏通りに面した崩れかけの五階建ての竹川ビルの四階だ。二十畳ほどの板張りの部屋に八つのデスクがあり、その一つ一つに別々の会社の名札が乗っかっていた。業界新聞だとかエロ器具の通信頒布会などもあれば、地方のハッタリ会社の東京支社の名札もある。  私はさっそく、『月刊自家用車レジャー』という名札をデスクに立てた。社長と編集長とを兼ねるわけだ。古本屋で一冊二十円で仕入れてきた自動車関係の古雑誌をデスクに積むと、何となく格好がついた。  部屋の隅のデスクには電話が二本乗っている。デスクのうしろには、肥えすぎの|兎《うさぎ》のような三十女が|頑《がん》|張《ば》って、外から掛かってくる電話をさばいている。この部屋にデスクを持つ者たちが三千円ずつ出しあって、共同で彼女を|傭《やと》っているのだ。田辺洋子という名だ。  私は近くの小さな印刷屋に行って、待っている間に名刺を刷らせた。名刺には月刊自家用車レジャー編集長という肩書きと、黒川という偽名を使った。平河町の喫茶店で遠藤警部に偽の運転免許証を交付してもらい、竹川ビルの四階に戻ると、私は、 「田辺さん。プリンセス自動車の広報部長に面会したいから、ちょっと電話を入れてください。うちの社名を言うときにはレジャーというところをあまりはっきり言わないようにね。こっちは編集の者だと言って……」  と、電話のあるデスクの横に立つ。『月刊自家用車』ならかなり知られている名前だ。  洋子は|頷《うなず》いた。ダイヤルを廻すと、姿に似ぬ可愛い声で、 「こちらは月刊自家用車……の編集部ですが、部長さんお願いします」  と、言う。やがて、相手が出たらしく、 「恐れいります。唯今電話を替わりますから」  と、言って私に電話を渡す。 「はじめまして、黒川と申します。実は、プリンセス・スポーツにまったく新しいエンジンを乗せる準備が進んでいるそうですが、そのことについてしゃべって頂こうと思いまして。今からお伺いしてもいいでしょうか?」  私は言った。 「来てくださるのは光栄ですが、どこからそんな情報が入ったんです? デマですよ」  広報部長は笑った。湯川という名だと警部から聞いて知っている。 「じゃあ、お会いしてから……」 「本社の地下のグリルで昼食でも御一緒にいかがです。十二時半では?」 「結構ですな。では十二時半に……」  私は電話を切った。時計を見ると十一時だ。  工場は田無にあるが、プリンセス自動車の本社は杉並の上高井戸にある。私は自分の車は使わず国電と井の頭線を利用して杉並に向かった。  プリンセス・ビルは水道道路に面していた。周囲のビルや商店を圧倒する巨大なビルは、広大なモーター・プールを持っている。正面のショー・ウィンドーにはプリンセスが出している乗用車やライトバン十数種が陳列してあった。  私は受付の娘に、魅力的……と信じているとっておきの微笑を投げかけながら軽く手を振り、ビルの中に入った。エレベーターを使うほどのこともないので、階段を歩いて地下に降りる。地下はちょっとした商店街のように売店が並んでいた。私はグリルの紫色のガラス扉を押した。  グリルのなかは、ナイト・クラブの照明を思いきり明るくしたような様子であった。ウェイトレスに黒川と名を名乗ると、左の壁ぎわのテーブルに案内してくれた。  広報部長の湯川は写真よりも若かった。四十七、八の如才無さそうな小肥りの男だ。  私たちは名刺を交換した。私の渡した名刺に形式的に視線を落とした湯川は、急に当惑した表情で名刺を読み直す。 「何の御用ですか? 失礼ですが、お宅さんの雑誌を拝見したいので……」  と、横柄な表情になった。 「はじめたばかしで、まだ見本刷りも出来ませんが、これから末長くプリンセスさんで可愛がって頂こうと思いましてね」  私は卑屈な笑いを浮かべた。 「何を召上がりますか? 私はちょっと用事を思いだしたので失礼しますが、伝票には私のサインをしときますから、御遠慮なく」  湯川は注文を待っているウェイトレスのほうに視線を走らせた。腰を浮かす。 「ふざけるな!」  私は低いが凄味のきいた声を出した。湯川は反射的に椅子に腰を戻し、ウェイトレスは背を硬直させた。私は、一変して|猫《ねこ》|撫《な》で声で、 「部長さん。早合点しては困りますよ。私は昼飯をタカリに来たわけじゃないんでね」 「私は何も、そんな意味では……」  湯川は呟き、ウェイトレスに目で合図する。ウェイトレスは引きさがった。 「買って頂きたいものがあるんですよ」  私は、再び卑屈な表情に戻り、手札型の数枚の写真をテーブルに置いた。キャンプ座間からの帰りに撮った、炎上する日新パンサー・スペッシャルだ。 「これは?」  湯川は写真を見て、再び愛想よくなった。 「御覧のとおりです。お宅さんやほかのメーカーで使ってる、同じ角度からの写真ばかりよりも、このほうが迫力があるでしょう?」 「分かった。営業部と相談してきますから、どうぞ何か召上がっていてください」  湯川は写真を置いて立上がった。  そのとき、社員バッジをつけた肩幅の広い護衛が三人、湯川に静かに近寄った。私のほうを|睨《にら》みつけている。湯川は心配ない、と言うように彼等に手を振り、グリルから出ていく。一人の護衛が湯川にしたがい、残った二人は私の近くのテーブルで無表情に私を見つめる。  私はウェイトレスを呼び、ロースト・ビーフとオクラ・スープを注文した。 「俺に文句があるんなら追いだしたらどうだ? 出来るもんならな。貴様らは調教された|猿《さる》だ」  と、護衛たちに毒づいて実力行使を挑発しようとするが、彼等はそれに乗らない。  ゆっくりと私が食事を終わったとき湯川が戻ってきた。五十二、三歳の禿頭の男を連れている。 「こちらは、白州営業部長です。写真は全部で五十万。それがギリギリの値ですよ」  湯川は私に言った。 「百万といったとこですな。ネガごと日新に持っていけば、もっと高く買ってくれると思いますがね」  私は薄ら笑った。  湯川は別のテーブルに移り、営業部長と小声で相談していた。戻ってきて、 「七十五万。それで嫌なら、どうか日新さんのほうに行ってください」  と、言う。 「分かりました。手を打ちましょう。現金で頂けるでしょうな?」 「その前に質問したい。どうやってこの写真を手に入れたんです?」  湯川は尋ねた。 「答える前に私のほうからも尋ねましょう。あなたのほうはどうやって、雑誌に載せてる分の写真を手に入れたんですかな?」 「ノー・コメントといきましょう。そんなことを|尋《き》いてどうする気です。私の質問のほうにお答えください」 「簡単ですよ。私が撮ったというわけでね。現場を偶然に通りかかったもんで」 「なるほど……失礼ですが、運転免許証をお見せ頂けませんか?」  営業部長が口をはさんだ。 「いいですとも」  私は警部から渡された黒川名義の偽の免許証を見せた。住所は竹川ビルになっている。湯川がそれを素早くメモした。      4  七十五万の札束を内ポケットに|捩《ね》じこんでプリンセス自動車の本社を出た私には尾行がついた。刑事上がりらしい貧相な男が二人、交代で私のあとにつく。私はわざと彼等に気がつかぬふりをし、電車を乗りついで神田に戻り、竹川ビルに入った。四階の事務所に入り窓からゴミゴミした路上を見おろす。  尾行者は電柱にもたれてしきりにポケットをさぐるふりをしながら竹川ビルに視線を走らせていたが、やがて都電通りの角にある公衆電話のボックスに入っていくのが見えた。  私はデスクに腰を乗せ、脚をブラブラさせながらほかのデスクの男たちのケチ臭くあくどい商売ぶりを眺めていた。内ポケットにある七十五万のことは、上司には報告しないでおくことにした。私がカメラで|稼《かせ》いだ正当な金なのだ。  電話係の洋子が私を呼んだ。湯川から電話がかかってきたと言う。 「やあ、先ほどは失礼しました。これからも面白い写真なり情報なりがあったら、またお知らせください」  湯川は愛想よく言ったが、本心は私が実際に竹川ビルを仕事場にしているのかどうかを確かめたかったのであろう。|陽《ひ》|暮《ぐ》れまで、私はもっともらしく自動車関係の雑誌を読んで時間を潰した。六時になると竹川ビルを出る。  中華ソバ屋で夕食を済ませ、尾行者がいたとしてもそれを振り切るためにタクシーを何台も乗り換えて、麻布一ノ橋で降りた。湯川は最近は一ノ橋の高級アパートに囲った女に夢中になっていることを、私は遠藤警部に見せられた資料で知っている。その高級アパートは|芙《ふ》|蓉《よう》マンションといった。十一階建てのビルだ。マンションの前庭は二、三十台の車が駐車出来るパーキング・ロットになっている。  湯川が青山のクラブから引抜いて囲った女の部屋は七〇三号だ。女の名前は洋子という。私はエレベーターで七階に登った。湯川が洋子の部屋に来てなかったら、無断で待つ積りだ。  七〇三号のドアには、ほかの部屋のドアと同じに、シリンダー錠がついている。内側からロックのボタンを押せば、内側からは鍵無しで開くが、外側からは鍵が無いとロックを解けない形式の錠だ。  しかし私は、ズボンの裾の折り返しに先端を潰した針金を数本用意してある。それを使えば、自動車のドアのロックでも開くことができる。  私は二本の針金を鍵孔に突っこみ、四、五分で鍵を解いた。音をたてぬように気を使ってドアを開く。廊下には滅多に人は通らず、通るにしても他人のやっていることには無関心だ。  ドアの奥が玄関になり、その先が|洒《しゃ》|落《れ》た家具を揃えた二十畳ほどの居間兼客間だ。その部屋の奥の左手にダイニング・キチンのビーズのカーテンが垂れ、右手に寝室らしいドアがある。灯は、細目に開いた寝室のドアの隙間から|洩《も》れていた。そして、まぎれもない男女の呻き声も洩れてくる。私は唇を唾で湿し、シャツの胸ポケットからキヤノン・デミのカメラを取り出して絞りを解放にし、寝室に忍び寄った。  ベッドでは洋子のほうが上であった。背を反りかえらせている。二人とも何も身につけていない。私はドアの隙間からカメラを差しこみ、三十分の一のスロー・シャッターを切った。  シャッターの音を聞き、二人は激しい動きをとめて、化石したようになった。私は素早く捲上げレヴァーを動かし、次のシャッターを切る。  わめき声をあげて湯川は洋子から離れようとした。しかし|驚愕《きょうがく》した洋子の蜜壺が|痙《けい》|攣《れん》を起こし、男にしっかりと抱きついているので、湯川は離れることが出来ない。私は|苦《く》|悶《もん》する二人を、容赦なく幾度もフィルムにおさめた。後手で寝室のドアを閉じる。 「やめてくれ。金はあるだけ払う!」  湯川は涙をこぼした。  私はベッドに近づき、苦しむ洋子の脇腹を殴りつけて気絶させた。湯川はやっと洋子から離れ、あわてて、シーツを体に捲きつける。 「頼む。フィルムを買わせてくれ!」  と、私に手を合わせて拝む。 「金もいいが、|尋《き》きたいことがある。昼間あんたの会社で俺が尋ねたことだ。日新のテスト・カーの炎上写真は誰から買った? 無論、俺の写真でないほうのだ」  私はベッドの横の椅子に腰をおろした。 「誰か知らない者が広報部に郵送してきたんだ。差出し人の名も書かずに……」 「なるほど。いま撮った写真を奥さんや会社の連中に配ってもいいんだな?」 「待ってくれ。しゃべる。だけど、どうしてそんなことを知りたがる? あんたは日新に傭われてるのか?」  湯川は震えだした。 「そうじゃないさ。だけどな、俺の見るところでは、日新のテスト・カーの炎上写真を俺より先にあんたに流した奴は、相当にいい稼ぎをしたらしい。俺がこれからその商売を乗っ取ってやろうと思ってな」 「何でもしゃべったら、そのカメラのフィルムを渡してくれるか?」 「本当のことを言ってくれるなら……」 「赤井産業企画研究所の連中だ。研究所は日本橋にある。研究所の看板をあげてはいるが、やることは産業スパイ顔負けだ。日新パンサー・スペッシャルの新エンジンの合金の成分を知ることが出来たら一千万円出しても惜しくないと私たちが言ったら、それから半月ほどして新エンジンの部品と炎上写真を持ってきて、二千万でどうだと言うのだ。断った。そうしたら、奴等は私たちの命令でテスト・カーのタイアをバーストさせたと世間に公表する、と言うんだ」 「…………」 「とんでもない言いがかりだ。そしたら奴等は録音テープを持ってきた。聞いてみると、私たちの言ったことをうまく編集して、いかにもうちのプリンセス自動車が奴等に命じて日新テスト・カーに事故を起こさせたようになっている」  湯川は震えがとまらなかった。 「それで金は払ったわけか?」 「千五百万で折れあった。写真はうちの会社で焼き増しして、|匿《とく》|名《めい》で各社に送った」 「奴等は、どうやってテスト・カーのタイアをバーストさせたんだ?」 「それは本当に知らない。もうフィルムを渡してくれ!」 「あんたの話が本当かどうかを確かめてからだ。警察に俺のことを知らせたりしたら、あんたはきっとあとで悔むぜ」  私は言い捨てて部屋を出た。  電話帳を調べると、赤井産業企画研究所は日本橋の東海生命ビルにあった。しかし私は、赤井研究所の連中が待ち伏せするだけの時間を置いて、神田錦町の竹川ビルに戻っていく。  湯川が赤井研究所の連中に連絡をとるのは必至だと思ったからだ。途中、カメラからフィルムを抜いて、顔見知りの四谷のDP屋に預け、新しいフィルムをカメラに|填《おさ》めた。  午後十一時の竹川ビルには、二階の玩具輸出商社の窓だけから灯が漏れていた。残業しているらしい。ビルの玄関のドアには鍵がかかってなかった。薄暗い廊下と階段を四階に登った。四階の事務室のドアを開いて暗い部屋に入った途端、乾いた金属音をたてて二丁の拳銃の撃鉄が起こされる音がした。 「動くとブッ放す!」  圧し殺した声がし、私の背に銃口がくいこんだ。幾つもの手が私の服を|撫《な》でまわす。しかし臑にくくりつけてズボンの裾で隠した愛銃ベレッタは発見されないで済んだ。 「よし、ハジキは持ってないようだ。所長のところに連れていこう」  年かさの男の声で、私は頭から麻袋を掛けられて、眼隠しされた。それから車に乗せられた。  車は一時半頃にとまった。私は拳銃を突きつけられて歩かされる。石段を降りさせられてから眼隠しを外された。  地下室であった。コンクリートの壁や天井の破れ目から水滴がしたたり落ちる。  そこには五人の男がいた。腕を組んで|嗜虐的《しぎゃくてき》な笑いを浮かべる五十男が所長の赤井らしい。 「さあ、何もかもしゃべれよ。ここは林のなかの一軒家だ。銃声はどこにも聞こえはしない」  所長は言った。 「しゃべれ!」  一人の若い男が、私の頬を拳銃で殴りつけた。私はよろけるふりをして尻餅をつき、立ち上がりながら臑のベレッタを抜いて発砲した。  銃声は地下室にこもって凄じく反響した。天井が割れそうな音だ。拳銃を持った右腕を射ちぬかれた男は、絶叫をあげて転げまわる。残りの男たちは反射的に両手をあげて喘いだ。 「邪魔者を全部片付けりゃ、俺の天下がくるわけだな」  私は所長に銃口を向けた。 「ま、待ってくれ! 別にデカイ仕事を計画中なんだ。あんたも仲間になってくれ!」  所長は呻いた。散々嚇かしてやってから、私は仲間に入ることを承知した。  そして、彼等が日新のテスト・カーの前輪をパンクさすために使ったのは、二二口径スウィフトの小口径射撃専用小銃の薬室を改造し三七五ホーランド・マグナムの強装弾薬莢を使用出来るようにして発射した秒速四千メーター級の物凄い高速弾であったことを知った。それだと、弾はタイアに当たった瞬間、あまりの弾速に敗れて燃え尽きてしまい、|痕《こん》|跡《せき》を残さない。  所長の赤井が大仕事と言ったのは——日新自動車が発明した新合金を使ってもプリンセス・スポーツの試作エンジンが計算どおりの馬力を出さないことを知って、日新のエンジン部門の設計主任の息子を|誘《ゆう》|拐《かい》し、息子と引きかえにパンサー・スペッシャルのエンジンの設計図を手に入れて、プリンセスに高値で売りつけることであった。  しかし、日新の設計主任の息子をアジトの地下室に運びこんだ途端に、私の知らせを受けた遠藤警部たちに包囲されて、赤井たちは逮捕された。私はプリンセスから稼いだ金をマネー・ビルでもして、日新の新スポーツ・カーが完成したら買いたいと思っている。     |誘《ゆう》 |拐《かい》      1  今をときめく弱電大メーカー『パブリック』の副社長宮下徳次の息子と娘が|誘《ゆう》|拐《かい》されたことは、どの新聞にも載らなかった。犯人は、警察や報道機関に知らせたら、ただちに人質を殺す、と宮下に通告したからだ。  秘密捜査官である私は、所属している本庁に毎日顔を出すわけでない。まして私は暴力団犯罪を主に扱っている捜査四課員であるから、直属の上司の遠藤警部から呼びだされて仕事を押しつけられることになった時まで、誘拐事件については何も知らなかった。  事件は五日前に起こっていた。  パブリック電気株式会社は、関東の弱電部門では三指に入るメーカーだ。現会長の宮下徳兵衛のワンマン会社であった。  徳兵衛は|丁稚《でっち》上がりの成功者の例にもれず労働組合を|毛《け》|嫌《ぎら》いし、毎朝七千人を越える本社工場従業員を体育館に集めて精神訓話を一席ぶつと共に、パブリック万歳を社員たちに三唱させるので有名であった。  徳兵衛は、したがって会社がマンモス化した現在でも、要所要所の人事は親族で固めていた。社長の徳一、副社長の徳次は、みな徳兵衛の息子である。  副社長の徳次は今年四十一歳だ。労働組合を骨抜きにして御用組合にしてしまった手腕は、日経連の大者たちからも高く評価されている。  徳次は三十歳を過ぎてから結婚した。相手は保守党の実力者川原一郎の娘恵子である。二人のあいだには恵一と徳子という子供が生まれた。恵一は小学二年生、徳子は四年生である。  パブリック電気の本社は日本橋にある。工場は調布にあった。会長徳兵衛は工場に近い深大寺に十数万坪の庭をもつ屋敷を構えている。しかし、社長の徳一と副社長の徳次は、それぞれ芝白金町と青山南町に住んでいた。どちらの邸宅も一万坪近い敷地を持ち、高級住宅街のなかでも群を抜いている。  徳次は息子の恵一と娘の徳子を目白にあるブルジョア相手の学校学修院の初等部に通わせていた。二人の子供のために堤という初老の運転手を別に傭い、ベンツ二二〇Sで送り迎えさせていた。徳次はベンツ党で、自分用には三〇〇SE、妻の恵子には一九〇SLのスポーツを持っていて、堤を含めてお抱え運転手を三人傭っている。  事件が起きた朝——堤はいつものように、青山南町の屋敷から、二人を乗せたアズキ色のベンツ二二〇Sを出した。昨夜から降り続いた雨は小降りになっているが、まだやんでいない。五月の終わり近くの金曜日のことであった。  堤の年は五十近い。宮下家に住み込むようになる前は、ずっとハイヤー会社で働いていた。だが、そのハイヤー会社にとってパブリック電気は最大の顧客であり、社長が宮下の友人なので、宮下から真面目な運転手を一人廻して欲しい、と言われたとき、ハイヤー会社の社長はすぐに堤を宮下に世話したのだ。  堤の給料は十万五千円であったが、宮下の屋敷のガレージの二階に住み込んでいるので住居費と食費はタダだから、気楽なものであった。ハイヤー会社をやめるとき貰った退職金の利子も月に三万何千円か入ってくる。働けなくなったらアパートでも建てて家賃で食っていく積りだ。  |氏《うじ》より育ちというのか、二人の小学生はマネキン人形のようにこぢんまりと整った顔をしていた。堤がひたすらに安全運転を心がけてベンツ二二〇Sを目白の学校に近づけているあいだ、二人ともうしろの座席でおっとりと坐っている。  学修院は目白通りに面して広大な面積を占めていた。一キロほどの長さの|石《いし》|垣《がき》とツツジの|塀《へい》の上から、桜が歩道に張りだしている。  初等部は、駅とは反対側に当たる、環状五号の明治通り寄りにあった。正門には門衛の詰所があって、いつも二人の門衛が見張っている。雨はやんでいた。  堤は門衛に通行証を示し、ベンツを学校の構内に乗りいれた。校舎の前で宮下の二人の子供を降ろし、自分は車を校舎の横手に廻していく。  校舎の横手、武蔵野の自然を残した雑木林の奥に、迎送車用のモーター・プールがある。ほとんどの子供は自家用車で送り迎えされているが、それでも一日じゅう運転手に学校で待たせる家庭が全部ではないから、モーター・プールには百五十台ほどしか収容能力がない。  モーター・プールは、さながら外車ショーのようであった。国産車は一九〇〇CCクラス以下の車は見当たらない。  その突き当たりに運転手用の控室の建物があった。食堂もついている。お抱え運転手たちは、そこで碁盤や将棋盤を囲んだり、畳の部屋で寝転んで雑誌に目を通したりして時間を潰すのだ。無論、外に出てパチンコをやったり映画を|覗《のぞ》いたりするのも自由だ。  だが、堤は金を|溜《た》めることに夢中の年頃であった。だから、昼はいつも控室の食堂の三百五十円のカレーライスで済ませ、毎日支給される千円の昼食代の大半を浮かせていた。  その日も堤が食堂のテレビを眺めているうちに午後の三時が来た。今日は恵一と徳子の授業は三時に終わる。  二人の授業時間の終わりは一致するように学校で取りはからっているのだ。何かの都合で二人のうちの一人が早く終わったときには、もう一人は図書館で待つことになっている。  堤がベンツのエンジンやタイアを調べていると、控室のスピーカーが堤の名を呼んだ。門衛の詰所にマイクがついている。下校する生徒は門衛に申し出ると、車が廻っていくことになっている。  堤はベンツを発車させ、雑木林のあいだの道をゆっくりと走らせる。  その道を、灰色の背広をキチンと着た、ロイド眼鏡の男が片足を引きずるようにして歩いていた。手をあげて堤の車を呼びとめる。四十五、六の男だ。 「何の御用でしょう?」  堤は尋ねた。 「五年C組担任の森教諭です。正門のところまででいいから、乗せていって貰えないだろうか? ちょっと足を痛めているのでね」  男は言った。 「御苦労さまです」  堤はパワー・コントロールのスイッチの一つを押して後部座席のドアを開いた。 「有難う——」  と、乗りこんだ男は、再び発車させた堤に、 「生徒は誰?」  と、尋ねる。 「宮下徳子様と弟様の……」 「ああ、宮下君か。徳子君が四年、恵一君が二年生だったな。来年は僕が徳子君のクラスの受持ちになる予定だ」  男はかぶせるように言った。 「私からも、よろしくお願いいたします」  堤はバック・ミラーに頭をさげた。 「ところで、宮下君の自宅は青山だったね。僕はこれから女子中学部に寄らないといけない。ちょうど君たちの帰り道に当たる。済まないが、あそこで降ろしてくれないか?」 「承知いたしました」  堤は疑いを持たなかった。女子中学部は女子短大と並んで戸山にある。  正門の近くで、ランドセルを背負わずに提げた恵一と徳子は待っていた。迎えの車を待って、ほかにも二十人ぐらいの生徒が見える。  ベンツが停車すると、男は微笑を浮かべてシートの隅に寄った。恵一たちは一瞬不審気な表情をしたが、すぐに礼儀正しく男に頭をさげて車に乗った。  門衛に手をあげて挨拶した堤は、目白通りを右にコースを取り、千登世橋の手前で急坂を降りる。男は二人の子供に穏やかな声で話しかけている。  坂をくだった所でベンツは右折し、環状五号に入り、千登世橋をくぐった。そこから学修院の女子中学部までは五分とかからない。  早稲田通りと交わる戸塚の交差点を過ぎ、諏訪神社のそばで大通りを外れて左折すれば、女子短大の塀に沿って中学部に行ける。ベンツは人通りの少ないその道に入った。  半ばほど堤が車を進めたとき、 「ここでいいよ。教師がベンツで乗りつけたのでは問題になると困るから」  と、男が言った。  堤は言われたとおりに車をとめた。自動変速機のレヴァーをニュートラルに戻した途端、後頭部を鈍器で一撃されて|昏《こん》|倒《とう》した。      2  堤が意識を回復したのは十分ほどのちであった。ベンツは道の端に寄せてとめられ、堤は運転席に昼寝でもしているような格好で横にされていた。エンジンはとまっている。  意識がはっきりすると、堤は痙攣するように体を起こした。割れるように痛む頭を押さえてうしろのシートを見たが、二人の子供の姿は無かった。無論、森と名乗った男の姿もない。  堤の老いた血管に血が逆流した。警察に車を走らせようとして、ハンドルからぶらさがっている紙片を認め、あわててそれを開いた。  ——子供は預かる。警察にしゃべったら子供の命は無い。主人にだけ知らせ、連絡を待つように伝えろ——あらかじめ用意しておいたらしく、その紙片には雑誌から切りとったらしい活字が、不揃いに|貼《は》りつけられていた。  知らせを受けた宮下家は地獄の苦しみにブチこまれたが、警察には知らせなかった。警察に知らせたために人質が殺された事件がこのところ続いているからだ。それとなく学校側に問いあわせてみたが、森という先生は学修院初等部に存在しなかった。  犯人からの電話はその夕刻にあった。身代金一億円を用意しておけ、というのだ。続きナンバーの新しい札では駄目だと犯人が言うので、犯人の希望どおりの一万円札を一万枚用意するために宮下は一夜をついやした。  二度目の電話は、翌土曜日の午後十時過ぎにあった。受けたのは宮下の妻恵子だ。はじめの電話の時、警察に気付かれないように普段のとおりの生活をしろ、と犯人に命じられていたので、宮下徳次は小金井のクラブに接待ゴルフに出ていた。二人の子供は風邪で休ます、と学校に告げてある。  二度目の電話で犯人は、 「用意した金をショッピング・カートに入れ、奥さんがそれを引っぱって渋谷駅に来てくれ。駅についたらハチ公の像と新宿向けの山手線のガードのあいだを、ゆっくり何回も歩いて往復しろ。そして、誰にでもいいから、カートを預かりましょう宮下さん、と声をかけた者にカートを渡すんだ。|御《ご》|亭《てい》|主《しゅ》にも金を渡し終わるまでは黙ってろ」  と命じた。 「子供たちは無事ですか!」  恵子は|喉《のど》の潰れたような叫びをあげた。 「大丈夫だ」 「お金を渡したら、すぐに子供たちを返して! 警察にはひとことも知らせてないわ!」 「分かってる。だが、あわてるな。札に下手な細工がしてないか一枚一枚紫外線を当てて調べてみてから返す。まあ十二時間はかかるだろうな」  犯人は電話を切った。  恵子は、彼女に劣らず反狂乱になっている堤に、彼女用のベンツ一九〇SLを運転させ、渋谷に向かった。一九〇SL専用の運転手でなく堤に運転させたのは、犯人が彼女を見つけるより先に犯人を見つけてくれるのではないかと思ったからだ。もっとも、そんなことをしたところで何もならない。  堤は運転しながら何度か接触事故を起こしそうになった。それでも何とか渋谷に着くと、ハチ公の像の前の狭い駐車場にベンツのスポーティ・カーを強引にとめた。自分は車に残り、血走った|瞳《ひとみ》でおびただしく流れる人波を|睨《にら》んでいる。  恵子が指定されたコースを一往復し、再び国鉄ガードに向けて歩こうとしたとき、群衆のなかからジーパンとデニムのジャンパーをつけた十二、三歳の少年が彼女に近づいた。 「カートを預かりましょう、宮下さん」  と、合図の言葉を出す。 「…………?」  恵子は信じられぬと言った表情で息をのんだ。少年は再び合図の言葉をくりかえし、恵子の手からショッピング・カートをもぎ取るようにした。茫然と立ちすくむ恵子に背を向け、紙幣で重いカートを|曳《ひ》いて改札口のなかに消えた。  そして、十二時間どころか翌日の日曜になっても二人の子供は戻ってこなかった。その上、犯人は日曜の午後、さらに一億を用意しておくようにと電話で命令してきたのだ。  ここにいたって、ようやく宮下夫妻は警察に誘拐の事実を訴える決心がついた。ただちに赤坂署と警視庁本部の捜査一課のベテランが動員され、宮下家のなかと周囲は固められ、電話には盗聴装置とテープ・レコーダーがそなえつけられた。  ところが、犯人は警察が乗りだしたことを知ったらしく、それっきり連絡を断ったのだ。 「だが、まだ二人の子供が殺されたとは断定出来ん。だから、子供の死体が見つかるまでは、あくまでも公開捜査をさけるのが首脳部の意向だ」  遠藤警部は私に言った。 「分かりました。だけど、どうして俺なんかを引っぱりだすんです?」  私は首をかしげた。 「そこなんだよ。誘拐犯人に渡す紙幣に肉眼では見えないが紫外線を当てると浮かびあがる特殊の蛍光塗料でしるしをつけることなどは素人では知らない。それに、警察が乗りだした途端に犯人は連絡を断った。どうやら犯人は、警察と関係がある者に違いないと考えられるわけだ。だから、おそらく犯人は、今度の事件にたずさわっている連中の顔を知っていると見なければならない。だが、秘密捜査官の君のことは、本庁でも私と最高幹部だけしか知らない。だから、現在事件の捜査をやっている連中は、電話の盗聴関係のほか二、三人を残して全部引上げさせ、犯人に油断さす。君が宮下の屋敷を見張るんだ」  遠藤警部は溜息まじりに言った。 「そうすると、犯人は現職の警官ですか?」 「そうとは断言出来ない」 「モンタージュ写真は?」 「運転手の堤が発狂した。ヨダレをたらして、わけのわからんことばかし呟いている……学校の門衛にくわしく人相を尋ねてもいいが、それではますます警察が事件に介入したことがハッキリしてしまうし、|新聞屋《ブンヤ》に|嗅《か》ぎつけられる。新聞に一行でものれば、子供は必ず殺される。まだ、生きているとすればの話だがな」  警部の口調は重かった。      3  それから、宮下が撮影したというカラーの十六ミリのフィルムを映写して、私は宮下の二人の子供や宮下夫妻、それに宮下家の使用人の顔と姿を頭に刻みこんだ。  それから私は、官庁ナンバーでなく、普通の白ナンバーをつけた私専用のブルーバードを運転して青山町に廻った。車は外観は野暮なブル公そのままだが、エンジンをチューン・アップし、ミッションをクロース・レイシオの五速に変えている。  放射四号の大通りを離れ、青山五丁目から墓地のほうに入っていくと、クラクションと工事の騒音が|嘘《うそ》のように遠のいた。午後一時過ぎだ。  宮下の屋敷は、聞いていたとおりに堂々たるものであった。コンクリート塀のなかには樹々が深くて、外からは建物が見えないほどだ。私は警察官である身分を忘れ、狭い東京でこれだけの広さの土地を持っていることに怒りを覚えたほどだ。  宮下の屋敷の裏手に道路を|挟《はさ》んで五階建てのマンションがある。私のはじめにやらなければならない仕事は、その一室にもぐりこむことであった。  マンションの四階から上の部屋からは、宮下の屋敷のなかが見おろせる筈だ。  青南マンションと英語のネオン管が走っているその建物の事については、遠藤警部から聞いてあった。道路から五メートル幅ほどのエントランス・ウェイと称する私道が引っこみ、その先に建物がある。地下駐車場と各室直通電話が完備しているそうだ。部屋代は月に五万から七万だ。それでも全部の部屋がふさがっている。全部で二十室もある。  マンション五階の一室に、密輸洋酒のブローカーをやっている吉岡という男が住んでいることを私は警部から教えられていた。まだ証拠が掴めないので逮捕出来ないらしい。  私は吉岡には興味が無いが、彼の住んでいる部屋に用があった。エレベーターで五階にのぼると、吉岡の部屋の鍵を針金で開く。五〇三だ。  入ったところがポーチとダイニング・キチンだ。キチンの左手に浴室とトイレのドアがある。奥の居間のカーテンが開かれ、一番奥にある寝室のドアが見えていた。  私は後手に玄関のドアを閉じ、居間に入った。派手な飾りつけだ。寝室のドアを開いてみる。  吉岡は三十五、六の肥った男だ。体が沈みそうなベッドでまだ眠っている。酒臭い息が部屋じゅうにこもっていた。  私はその吉岡を床にひきずりおろした。手早く羽根枕の下をさぐると、二二口径アストラの小型自動拳銃が出てきた。 「何をしやがる!」  吉岡は素っ裸のままわめいた。睾丸が縮みあがっている。 「いい部屋だな。俺もここに住みたくなった」  私は言った。 「だ、誰だ貴様は?」 「うるさい。貴様がやってることは調べあげてある。その資料を持って警察に駆けこんだら、あんたは四、五年のあいだ臭い飯を食うことになる。さあ、出ていけ。服を着て、身の廻り品を運び出すあいだぐらいは待ってやる」  私は言い、アストラで吉岡の頬を殴りつけた。両足を空中に投げだして不様に倒れた吉岡は、悲鳴と共に折れた歯を血まみれの口から吐きだした。 「くよくよするなよ。俺もサツに追われてるんだ。気が向いたらここから出ていく。ひと月もここにいりゃ飽きがくるだろう。俺のことをサツにしゃべったりしたら、あんたの体のお望みの場所に一発ブチこんでやるぜ」  私は遊底を引いて、弾倉の実包を薬室に送りこんだ。 「わ、わかった。分かりました……」  吉岡は頭を垂れた。  半時間後——身の廻りの品をまとめた吉岡は、部屋から出ていった。  寝室のカーテンを開いてみると、ベランダの先に宮下の屋敷が|俯《ふ》|瞰《かん》出来た。庭の樹々が邪魔になって細部までは分からないが、ある程度までは観察できる。  私は打合わせてあった偽名を使って本庁の遠藤警部を呼びだし、マンションの五〇三号にもぐりこめたことと、部屋の直通電話の番号を教えた。高性能の双眼鏡と、ここ数年のあいだに懲戒免職あるいはそれ同様にして刑事をやめた連中の写真、それに食料品を届けてくれるように要求した。  要求した品は、メッセンジャー会社の者が運んできた。私はカーテンを細目に開き、椅子を窓ぎわに寄せて、宮下の屋敷やそのまわりを観察する。私のブルーバードは、管理人に自分は吉岡の留守番だと断って、地下の専用駐車場に入れてある。  夜になっても私は部屋の灯をつけなかった。  サラミ・ソーセージやチーズをかじり、トマト・ジュースを胃に流しこんで窓ぎわから離れない。宮下の屋敷の裏手に特に変わったことも起こらない。  夜中の午前一時近く、 「五〇三号さん、電報です」  と、ドアの外から声が聞こえた。  私に電報が来る筈はない。私は双眼鏡や写真をベッドに隠し、枕を持って玄関のドアに近づいた。 「ドアの下から入れてくれよ」  と、言ってみる。 「受取り人払いの電報ですので……」  ドアの外の声は言った。少なくとも廊下に三人は居る気配だ。  私は部屋の灯を消したまま、ドアの横に体をずらせ、ドアの自動錠を解いた。三人の男が玄関ポーチになだれこむ。  私は手近な男の頸動脈をアストラ拳銃で思いきり引っぱたいて昏倒させ、次の男の胃に銃口をくいこませておき膝で睾丸を蹴りあげた。  呻きを漏らして|蹲《うずくま》るその男を放っておき、私は残りの一人に銃を向けた。左足で玄関のドアを蹴り閉めながら、枕を持った左手で電灯のスイッチを押す。  三人とも二十五、六の、暴力団のレッテルを顔じゅうにへばりつけたような男たちであった。 「俺に用か?」  私は高々と両手をあげ、口から泡を吐いている男に尋ねた。 「射たねえでくれ! 吉岡に頼まれた。ただ、軽い気持で来ただけなんだ」  男は呻いた。 「そんなことか。体が|蜂《はち》の巣のようにならねえうちに出ていけ」  私は音を殺すために拳銃を羽根枕で包むようにし、ソファに向けて発砲した。男は自分が射たれたように跳びあがった。  私は床に倒れている男と、両膝をついてエビのように背を丸めている男の二人を蹴りつけた。手を上げている男に、 「運びだせ、二度とここに来るんじゃねえぜ」  と、命じた。  男たちが逃げていくと、再び私の見張りははじまった。  しかし、私の能力では何の収穫も無かった。  朝になると眠気が来た。私は服を着けたままベッドに横になって体を休めているうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。      4  |執《しつ》|拗《よう》に鳴る電話のベルで目を覚ました。反射的にローレックスの腕時計を覗いてみると、十時過ぎだ。 「どうしたんだ?」  受話器を取上げると、遠藤警部の怒鳴り声が聞こえた。興奮している。 「ちょっとトイレに……」  私は言った。 「犯人から連絡があった! 今度は電話ではなくて、宮下の屋敷の郵便受けに入っていた」 「ここからは、郵便受けは見えませんよ」 「黙れ! 君の責任だとは言ってない。いいか、手紙は活字を切り抜いて貼りあわせたやつだ。一緒に、二人の子供のノートも郵便受けに入れてあった。——警察が動いているのを知っている。裏切ったな。一思いに子供を殺しても貴様たちは文句が言えない筈だが、あと一回だけチャンスをくれてやる。刑事には内緒で、正午になったら奥さんは用意した一億円をボストン・バッグに入れて、ベンツ一九〇SLに乗れ。自分で運転するのだ。奥さんの顔がよく見えるように、それに刑事が乗って隠れたりしていてもすぐ分かるように、ホロを取ってオープンにして走れ。  放射四号に出たら、三軒茶屋を過ぎ、そのまま駒沢の先の新道を、中央分離帯のグリーン・べルトに寄せて、右折のフラッシャーを出しながらゆっくり走れ。  俺はグリーン・ベルトのどこかにはいる。奥さんの車を認めたら、左手を頭の上で振りまわす。俺のそばを通るとき、奥さんはボストン・バッグをグリーン・ベルトに投げだすんだ。  今度こそ十二時間以内に子供は返す。約束する。そのかわり、奥さんも約束を守ってサツにしゃべるな。子供は生きている。証拠を見せてやる——。  これが犯人からの手紙だ。そして二人の子供の字で、早く助けて、と書かれた昨日の夕刊が一緒に入っていた」  警部は言った。 「よく奥さんが、手紙を見せてくれましたね。警察に捜査を頼んではみたものの、子供が生きていることを知って、考えが変わったと思われますが……」 「なあに、庭に張込んでる刑事が、奥さんより先に手紙を読んだんだ。さっそく指定された場所に張込みをさせたが、君は奥さんの車を尾行してくれ。ほかの車も尾行するが、顔を知られてるとマズいから、あまり近づけない」 「紙幣のナンバーは控えてあるでしょうね?」  私は尋ねた。 「ああ。だが続きナンバーでないから、犯人の手に金が入ってからたどっていくことはむつかしくなる」  警部は言った。  私は部屋にある写真を集めて、紙袋に入れ、九倍の小型強力なニコンの双眼鏡をポケットに押しこみ、ジュースの|罐《かん》を二、三本持った。エレベーターで、地下の駐車場に降りる。  駐車場には十五台ほどの車が収容出来る。紙袋をブルーバードのトランクに仕舞った私は、エンジンを暖めながら五分ほどかけて各主要部分を点検する。  生ぬるいジュースで喉の渇きを|鎮《しず》めてから発車させた。午前十時半だ。中途半端な眠りのために首筋が凝って頭が重い。  |苛《いら》|立《だ》った宮下の妻は、十二時を待たずに家を出ることであろう。私は彼女の車を宮下邸のそばで待ち伏せるか、それとも放射四号の都電通りで待とうかと迷ったが、結局宮下の屋敷の前から放射四号に抜ける通りで待つことにした。車首を放射四号に向けて|駐《と》め、シートの背もたれに頭を乗せて居眠りしているように見せかけながら、フェンダー・ミラーとバック・ミラーを覗いていた。  シルヴァー・グレーのメルツェデス・ベンツ一九〇SLは、十一時半に姿を現わした。ハード・トップの屋根を取りさってオープンにし、恵子夫人が運転している。  自分で運転することはあまりないのか、夫人の運転ぶりは下手くそであった。不安と緊張でひきつっているが、その翳の深い|容《よう》|貌《ぼう》には残りの色香があった。  |脇《わき》|目《め》もふらずにハンドルにしがみつくそのスポーツ・カーが私の車の横を通るとき、私は夫人の横の助手席をさり気なく覗いて見た。茶色革のボストン・バッグが見えた。  私は三十メートルほど間隔を置いて一九〇SLを追った。左折して放射四号に入るときには、間隔を十メートルほどに縮めていた。私の車のあとからも、かなり離れて刑事の乗っているらしいクラウンがついてくる。  渋谷を過ぎ、放射四号の路面を玉電が通るようになった頃、私はスズキ・コレダの単車が常に一九〇SLの左後方十五メートルほどのところを離れないことに気づいた。  その単車のライダーは、ヘルメットに黒いゴッグルで顔の上半分を隠し、|埃《ほこり》よけのマスクで下半分を隠していた。顔のうちで見えるのは顎だけだ。一九〇SLがカッコいいからついてきていると考えるにしろ、少々しつこすぎる。私はいつも臑に|括《くく》りつけている愛銃ベレッタの小型拳銃を尻ポケットに移した。  環状七号と交差する上馬交差点を過ぎ、オリンピック道路に近い真ん中のT字路の赤信号で一九〇が停まったとき、スズキの単車が急に右に寄ってきて、一九〇SLの横についた。  男が何かを夫人に言ったが、あいだに一台のヒルマンをはさんだ私にはそれが聞きとれない。私に分かったのは、夫人の顔色が変わって、十五キロ近い重さのボストン・バッグを単車の男に渡したことだ。  男はボストンを受取ると、その|把《と》っ|手《て》をハンドルにかけた。赤信号が続いているのを無視し、アクセル・グリップを思いきりひねって、左側の道に逃げようとする。グリーン・ベルトで待つと言ったのは、捜査の裏をかくためだった。  私も反射的にハンドルを左に切り、アクセルを踏みこんだ。改造を重ねてツイン・キャブ百二十馬力にしてある私の小さな車は、蹴とばすような加速で単車を追った。  単車が左折を終わり二十メートルほどいったところで、私の車はそれに追いついた。バンパーで単車の後輪をはねとばす。  単車は横倒しになり、男は十メートルほど吹っとんで頭から路面に叩きつけられた。だが、ヘルメットのために大した怪我は無いらしく、よろめきながら立上がる。商店の人々が跳びだしてきた。男のゴッグルは外れていた。四十過ぎの男の瞳だ。殺気に満ちた瞳であった。 「済みません。病院にお送りしましょう。本当に済みませんでした。弁償させていただきます」  急停車した私は、車から降りて、うろたえたように言った。 「うるさい。放っといてくれ!」  男は呻いた。 「お名前だけでも、お聞かせください。それと住所を……|轢《ひ》き逃げと思われたくないので」  私は熱心に言った。 「構うな!」  男は倒れた単車に歩み寄った。ゴッグルを拾う。そのときになって、私はその男が誰かを知った。遠藤警部から渡された免職刑事の写真のなかにもその男はいた。  津田文夫。五年ほど前、会社乗っ取り屋の横田英雄を|狙《そ》|撃《げき》した安東組の殺し屋青葉をかくまってクビになった、捜査一課の切れ者の元警部だ。  クビになってからは安東組の参謀になったと言われている。そうして、現在でも煙たがられながら捜査一課の部屋に出入りしている。かつての同僚や部下が一課に多いし、安東組と対立している暴力団の正確な情報をよこすので、一概に刑事部屋への出入りを差しとめるわけにはいかないのだ。 「津田さん」  私は思わず呟いた。彼なら捜査一課の動きが充分に分かるはずだ。  津田の瞳がスッと細められた。素早くゴッグルをかけると、 「俺はそんな名前でない。だけど、打った頭が痛んできた。あんたの車で病院に送ってもらおう」  と吐きだすようにして言い、単車を電柱に立てかけるとボストン・バッグを提げて私の車に乗りこむ。その|気《き》|魄《はく》に|呑《の》まれたのではないが、私は運転席に戻った。いま下手に津田に逆らうと、二人の子供の生命が危い。津田の仲間が様子を|窺《うかが》っているかも知れないのだ。  ハンドルを握る私の腰に拳銃の銃口が圧しつけられた。三八口径のその銃身の短いリヴォルヴァーは津田が握っていた。 「スタートさせろ。犬め!」  津田は圧し殺した声で命じた。その拳銃は、車の外の人々には見えない位置にある。  私は車を発車させた。刑事の乗ったクラウンがあとをつけてくる。 「スピードを上げろ。駒沢の競技場に行くんだ」  津田は言い、私が無意識に左ポケットに突っこんであったアストラ拳銃を取上げる。私が一丁だけしか拳銃を身につけてないと思ったらしく、尻ポケットのベレッタには気がつかない。  津田はバックミラーを直して、それに写る追ってくるクラウンを睨みつけていた。アストラはポケットに仕舞う。右手の拳銃は私の腰から離さない。  砂利トラやダンプのために荒らされたガタガタ道の右手に、国立競技場の建設工事現場が見えてきた。クレーンやヤグラが林立している。競技場のビルの骨組みだけは出来かかっている。 「右に折れて、そこの空地でとまれ」  津田は命じた。私はブルーバードを、工事現場の近くの空き地でとめた。現在の工事はその空き地と反対の方面で行なわれているので、周囲はコンクリートブロックや鋼材の山だ。働く人影は小さく見える。  追ってきたクラウンは、空き地の手前でためらっていた。津田は私の後頭部に三八口径を突きつけて車から降ろし、自分も降りて、 「追うな。近づくとこの男の命は無い。それに、俺を捕まえたりしたら子供の命は無くなる。俺が二時間以内に戻らないと、仲間は子供を殺して逃げることになってるんだ」  と、クラウンに向けて叫ぶ。  クラウンはバックしはじめた。津田は私の首筋に拳銃を振りおろしてきた。  私は横に体を倒してその打撃を避けた。倒れながら、尻ポケットからベレッタを引き抜き、素早く撃鉄を起こす。津田は私に向けて発砲した。轟音と衝撃波と共に、私の顔の近くで土煙が舞った。私は引金を絞った。弾は津田の右手首をつらぬいた。リヴォルヴァーを放り出した津田は、手首に噛みついて転げまわる。 「さあ、言ってくれ。子供はどこだ? そうでないと、次は左手首を射ちぬく。これが俺の商売だから仕方ない」  私は津田の左手首をかすめる一弾を放った。 「子供は真鶴の安東の別荘だ……安東の二号が大事に扱っている……畜生、五年前の乗っとりのとき横田に金を出してたのは宮下だ。狙撃事件の前に、宮下の傭った殺し屋が乗っとられ側の東和精糖の副社長を襲って失敗したことを俺は|嗅《か》ぎつけて一人で捜査しはじめていた。今度のことは、宮下と取引きして俺を追いだした本庁のお偉方をキリキリ舞いさせてやりたかったんだ」  津田は呻いて意識を失った。私は上着を脱ぎ、シャツを破いて作った包帯で津田の右手首を縛ってやりながら、人質にされながらも優遇されているという大金持ちの宮下の子供と、毎日が戦いの連続だった私の少年の頃を心のなかで較べてみていた。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地から2字上げ](角川書店編集部) |名《な》のない|男《おとこ》  |大《おお》|藪《やぶ》|春《はる》|彦《ひこ》 平成14年7月12日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Haruhiko OYABU 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『名のない男』昭和53年4月25日初版発行