大石英司 B‐1爆撃機を追え 目 次  B‐1爆撃機を追え  あとがき 主な登場人物  アメリカ側 〈ホワイトハウス〉 ヒロフミ・アヤセ [#この行2字下げ]国家安全保障問題担当大統領補佐官 元国家安全保障局ソビエト分析官 陸軍予備役准将 ジョン・スタッグス   アメリカ合衆国大統領 ジョセフ・ジャストロゥ   国防長官 元ハーバード大学教授 スマイリー・ジャクソン   国務長官 元国務省高官 サムソン・サンディッカー   副大統領 次期大統領を狙う マーク・ローマン   主席補佐官 スタッグスのスポンサー コルウェル・コンラッド   CIA長官 軍産複合体の利益代弁者 ジェシー・キム   アヤセの部下 〈軍〉 アルフレッド・スターバック   統合参謀本部議長 陸軍大将 ハロルド・ジャービス   空軍参謀総長 ジョージ・フリードマン   海軍作戦本部長 ラムゼイ・ヤング   空軍大佐 新型巡航ミサイルAGM‐99の開発責任者 〈B‐1戦略爆撃機カーチス・ルメイ号乗員〉 レイモンド・スタイガー [#この行2字下げ]機長 第六〇爆撃飛行隊司令 ベトナム戦争におけるエースパイロット ピーター・コリンズ   防禦担当官 マックス・バス   B‐1爆撃機の開発者 〈FBI〉 ジュリアス・グラント   ワシントン支局長 暗号名アイアンマン マーカス・モンロー   大統領特別調査室長 ハイスクール、陸軍士官学校からのアヤセの親友 〈他〉 アイラ・アイゼンバーグ   国務省ロシア語心理分析官 アヤセの恋人 ジャック・ヘンダーソン   すっぱ抜きのコラムニスト  ソビエト側 〈クレムリン〉 ジョーゼフ・アダム   ソビエト共産党書記長 セデス・リトビノフ   首相 アダムのライバル ウラジミール・クジチキン   国防相 中立派 ミハイル・バリア   KGB議長 リトビノフ派 アナトリィ・グレチコ   外相 アダム派 ザネイエフ・ボルコフ   モスクワ市党第一書記 リトビノフ派 ビクトル・アルヒペンコ   レニングラード州党第一書記 アダム派 ゲオルギー・コルニエンコ   アダムの秘書 堂中央委員 〈軍〉 ズデナク・クーシキン   参謀総長 陸軍元帥 アレクセイ・コマロフ   防空軍司令 アレクサンドル・ウイッテ   空軍中将 ソビエト空軍におけるシステム・オーガナイザー  軍事支出の究極的コストといえるのは、政治不安であり、それはやがて戦争に結びつくだろう。 [#地付き]——J・F・ダニガン——  [#改ページ]     序  本編に登場する二人の主要人物、すなわちアメリカ合衆国大統領補佐官(安全保障問題担当)のヒロフミ・アヤセと、同じく合衆国空軍第四三戦略航空団第六〇爆撃飛行隊司令レイモンド・スタイガー大佐は、過去において、ただ一度だけ面識を持ったことがある。  一九九一年の秋となった今では、二人が会った日時を特定することは難しいが、ベトナム戦没者記念碑が披露されたのが一九八二年十一月十一日の復員軍人の日であったことから推して、それ以前ということはないだろう。むろん、二人が現職に就く以前のことである。  当時の二人について説明するならば、ヒロフミ・アヤセは、三十歳手前でスカウトされた国家安全保障局《NSA》の、ソビエト分析官として、めきめき頭角を現わしていた時期だった。もっとも、彼自身は、当時あれ程愛しあっていた妻パメラから三下り半を突き付けられ、生まれたばかりのミライを抱えて、絶望のどん底にあった。  そう、あれはパメラとの離婚が成立し、齢老いた彼の母をロスのリトルトウキョウから呼び出してひとまずミライの世話から解放された頃であったから、八三年の十一月の何日かということになるだろう。  一方のレイモンド・スタイガーは、まだ中佐であったが、パイロットとしての天性の才能を買われ、ロックウェル社が開発したB‐1戦略爆撃機の、軍派遣のテストパイロットを務めていた。  ただ、彼はパイロットとしてよりも、むしろ�B‐1マフィア�のスポークスマンとしての役割のほうが大きかった。カーター政権によって配備凍結となっていた同機を、あらゆる手段に訴えて、議会と将軍連中に売り込んだのである。言うまでもなく、軍備増強を唱えるレーガン政権によって、いささか性能を荒削りされたものの、同機は空軍の目玉商品として蘇ることになる。  パメラと結婚してミライが生まれるまでの幸福だった時代、アヤセの脳裏から、ベトナム戦争の影はすっかり消え去っていた。しかし、自分の汚名を生涯背負い続けるべく生まれ落ちた娘を見た時、ずたずたに引き裂かれた彼の心の中に、唯一憐れみを乞える場として、ベトナム戦没者記念碑の名が忍び込んで来たのは当然のことだったかも知れない。  そして一方のスタイガーは、B‐1爆撃機の性能の復活陳情にワシントンを訪れる度、ベトナムに参戦した者の義務として記念碑のもとに足しげく通っていたのだった。  別名、�|霧の底《フオギー・ボトム》�と呼ばれる国務省。その裏手、リンカーン記念堂隣りに、そのベトナム戦没者記念碑は建っている。そこからポトマック川をアーリントン記念橋でひとまたぎ——もっとも一〇〇〇メートルはあるが、——すれば、ジョン・F・ケネディと合衆国代々の無名兵士らが永眠するアーリントン国立墓地である。それはともかく、横六〇メートルに及ぶ、黒い御影石で造られた�へ�の字形の記念碑には、五万七九三九名のベトナム戦没者の名が、余すことなく彫り込まれている。  その日の夕暮れ時、文字通りのフォギー・ボトムの中を、アヤセは伏し目がちに重い足取りで歩いていた。彼は決して刻み込まれた兵士の名に、視線を与えようとはしなかった。陸軍士官学校《ウエストポイント》時代の友人、共に死線を彷徨《さまよ》った戦友、そして彼の部下。彼の知っているいく人もの名が、そこに刻まれているはずだった。  しかし、それを探すことは彼にとって苦痛以外の何物でもなく、その名を確認することは、恐怖でしかなかった。もとより、彼はそうすることによって、自分がパニックを来たすであろうことも信じて疑わなかったのである。  何しろ、外套《がいとう》に身を包んだスタイガーを数メートル先に発見した時、アヤセはてっきり亡霊が現われたものと錯覚し、「ウッ」という喉の奥深くから絞り出すような呻き声を発してしまったのだから。彼は次の瞬間気を取り直してスタイガーを観察した。年の頃は彼と同じくらいで、頭に凜々しく空軍帽を被っている。彼の呻き声に気付いたスタイガーは、無表情にちらと一瞥《いちべつ》をくれたが、視線はすぐさま、指でなぞった先にもどってゆくようだった。  アヤセはしばらく足を止めて、その右手指の先に吸い込まれるように視線を送った。�エイブ・ダガット�と彫られていた。どこかで聞いたような名だったが、思い出せなかった。 「我々は、永遠にあの橋を渡ることは出来ない……」  スタイガーは鷹揚《おうよう》に呟《つぶや》いた。アヤセは何の橋だろうと思い、「え?」と疑問を返した。 「アーリントン記念橋……。我々は、決してケネディと枕を並べることを許されんのですよ」 「しかし、あそこはもう十万名もが眠っていて、新たな十字架を立てられるような余裕はないでしょう」 「記念碑ひとつ建てる余裕すらですか? 違いますよ。ベトナムは、アメリカにとって不名誉な戦争だった。だから、この五万七九三九名は、過去の英雄と枕を並べることを許されんのです……。これだけの犠牲を払って、我々が得たものは何です? たったこれっぽっちの記念碑を建てるのに十年もの歳月を要したのはなぜです? 挫折感、惨めな敗北、すべてはそのためだ」 「そうでしょうね。アメリカは常に絶対的勝利者であらねばならなかった。我々は結果的に、その約束を反故にしてしまったのですから……」 「しかし、ベトナムは軍事的には勝てた戦争だった。我々は、あろうことか国内の敵に敗れてしまった。無知な大衆。反政府的なメディア。それに迎合する政治家。我々は、国内の政治的混乱によって敗れたのですよ。戦場では勝ったが、戦争では負けてしまった……」  スタイガーは両手を石碑にあてがうと、俯《うつむ》いたまま、激しく首を振った。「見なさい! この累々《るいるい》と並ぶ戦友の名を。まるで無益な犠牲だ! 我々は、外ならぬアメリカのために闘ったというのに、まるで賊軍のような仕打ちに耐えなければならない……」 「いずれ、後世の歴史家が、正当な評価を与えてくれるでしょう」  その言葉は、アヤセ自身にとっての慰めでもあった。 「いつの日か、ですか……」  スタイガーは力無く呟きながら、姿勢を直すと、胸を張り、アヤセに正対した。その瞬間、磨きあげられた�US�の襟章が見えた。  彼は肩に降った露を払い、制帽のつばに一度右手をあてがうと、堅い決意に満ちた言葉を口にするのだった。 「しかし、いつかは彼らの名誉が回復される日が来る。必ず、アーリントンに眠る日がね。我々、生き残った者こそが、その使命を果たさねばならんのです」  スタイガーはアヤセに気を留めることなく、記念碑の�エイブ・ダガット�に向かって、短い敬礼を捧げた。  つられるように、アヤセのポケットに突っ込んだ右手の肘が、反射的に挙がりかける。スタイガーは「グッバイ・サー」と呟くと、踵《きびす》を返して、そそくさと霧の中へ消えて行った。  ひとり残されたアヤセは、�エイブ・ダガット�の文字を見詰めながら、しばらくぽつねんとその場に佇《たたず》んでいた。そして、ふと思い出したように、スタイガーが呑み込まれて行った辺りに、焦点の定まらぬ視線を投げ掛け、胸の内で呟いた。 「しかし、あんたはしょせん、空軍じゃないか。雲の合間から、灼熱の地上に向かって、爆弾を落とすだけ。地上の地獄絵を眺めるだけで、あんたは本当のベトナムを知っちゃあいないんだ。何ひとつ……」  太陽が沈み、夜霧が谷底に滞留する。憮然《ぶぜん》とした表情のアヤセは、まるでシルクのベールを纏《まと》うように、その中に溶け込んで行った。  二人の男、二人のベトナム帰還兵が、互いの名を知ることなく、言葉を交わし、共通する古傷を言わば舐《な》め合ったのは、後にも先にも、この時だけである。日を重ねるにつれ、このほんの数分の出会いは、セピアカラーの写真のように色|褪《あ》せ、記憶という引き出しの片隅に追いやられて行った。  それから八年を経た今では、記憶容量からも完全に脱落し、従って、互いの顔写真を突き付けられても、多少脳髄の一部が、軽い痒《かゆ》みを憶えるぐらいでしかなかっただろう。事実、二人は二度とあのフォギー・ボトムでの出会いを思い起こすことはなかった。  ただひとつ残った事実といえば、二人が、一方は陸上で、一方は空で、成算のない泥沼の戦争を闘ったベトナム帰還兵であるということ。そして付け加えるならば、八年後、共にアメリカ合衆国の存亡を握る、極めて重大な役割を演じたという事実だけ。それだけだった……。    1  グアム  グアム、アンダーソン空軍基地において、KC‐135空中給油機のパイロットを務めるウォルター・マッシュ少佐は、サマーベッドからだらりと右腕を降ろすと、大儀そうにハイボールのグラスを取り上げた。  彼が佇《たたず》むヤシの木陰の真ん前の浜辺では、日本からのハネムーン客がキャッキャッと戯れ合っている。どうせ二、三年もすれば、声も聞きたくなくなるだろうに、目障りな連中だ。彼は眉をひそめながらも、「まあ、しょうがないか……」と、グラスの中の液体で唇を湿らせた。  グアム島の北部一帯を占有しているアンダーソン基地は、島のちょうど北端にタラキのプライベートビーチを保有しているが、あんな所に行く気にはなれなかった。一歩基地の外へ出れば上官も部下もない。一個人としての付き合いがあるだけだと体《てい》のいいことを軍は宣伝するが、そんなことはありはしない。どこまで行っても上官は上官だし、部下は部下でしかありえない。基地の外にまで出て、上官|面《づら》してつんと澄ましていなければならない生活などまっぴらだ。だから、彼は休日は、いつもこのタモン湾南西部のイパオビーチまでわざわざ出掛けて来るのだった。 「どうも、私のような暇無しの都会生活者には、暑さはもとより、こういう雰囲気は苦手だね……」  傍らで淡々と喋《しやべ》り続けている中年の男は、麻の背広を脱ぎながら、初めて、都会生活者という自分のプライバシーの一端を漏らした。もっとも、�統制官《コントローラー》�としか名乗ろうとしないその男が、ワシントンかニューヨーク辺りで窮屈に暮らしてることに疑いの余地はなかった。こんな所までネクタイは締めてくるし、第一、さっきから典型的な東部訛りが耳についている。  その男は、マッシュについてすべてのことを知っていた。彼が離婚歴を持つ独身者で、一週間後に軍を依願除隊することはもちろん、除隊の理由である父親の死まで、詳しく調べているようだった。よせばいいのに、悪友からパソコンの通信販売の共同事業をもちかけられた彼の父親は、代々の大豆畑を売り払って全財産を事業に注ぎ込み、それでも足りなかったのか、二〇万ドルもの借金をしたあげく、交通事故を起こしてあの世へ旅立ってしまったのである。  父親の訃報を聞き、都合の悪い時にくたばりやがってと毒づいたマッシュではあったが、残された借金を返すには、僅かばかりの、軍の退職金を当てにするしかない。彼は、それを元手に、事業を軌道に乗せるつもりでいたのだ。  男はマッシュに会ってから一〇分後にネクタイを緩め、二〇分後にそれを外し、三〇分後に背広を脱ぐまでの間、延々とうさん臭い話を喋り続けた。そして、最後にこう付け加えた。 「君がこの任務を請《う》け負《お》ってくれれば、契約金として五万ドル、成功報酬として五万ドルを支払う。たかが、おしゃかになる給油機《タンカー》一機に、最後の奉公をさせてやろうというのだ。難しいことじゃない。軍の退職金なんてのは、それこそ命を張って国に尽したにしては、慰めにもならんような額だ。第一、君は空を飛ぶことしか知らん。自分がビジネスにはまったくの素人であることを自覚しているはずだ」  悪い話ではなかった。時代遅れとなって引退するKC‐135機を、もう一回だけ余分に飛ばして、男のいう太平洋上のあるポイントで、とある軍用機に空中給油を行う。たったそれだけのことで、一〇万ドルもの大金をせしめることが出来るのだ。彼は喉元から飛び出しそうなOKの返事を噛み殺して、わざとのらりくらりとした反応を示した。 「どうも、大筋ではうまく行くような気もしないでもないが、細部の作戦計画が曖昧《あいまい》だな……」 「よろしい。では今度は君の質問に答えよう。差し支えない範囲でね」 「まず、クルーの問題だが、フライト・エンジニアは必要ないだろう。ナビゲーターを兼ねる副操縦士《コーパイ》がいれば十分だ。しかし、ブームマン、こいつはちょっとやっかいだ。KC‐135の給油ブームは癖があって、熟練した者でなければ務まらない」 「クルーの心配はいらんよ。すでに君みたいなベテランを選別している」 「俺みたいなわけありの男達をねえ……。まあ、そりゃいいだろう。次に、肝腎の燃料はどうする? 俺の乗機の六番機は、ツーソンの|軍用機保管センター《MASDC》へ持って行く予定になっている。軍用機の墓場だ。あそこで、駆動部にたっぷりグリスを塗られた上、あっちこっちシートを張られて半永久的にモスボールされるわけだが、基地に着いた時は燃料は少ないし、墓場へ移されてミイラ漬けされる前に残燃料を抜かれるはずだ」 「実は君の六番機が永眠する場所はもう決定している。先月お蔵入りした五番機の隣り、一番機の真ん前のスポットだ。そこで我々は、一番機にちょっとした細工を施したんだ。二週間掛かって、こいつの給油タンクを満杯にした。六番機が到着した夜中に、こいつをそっくり移し替える手はずになっている。君は本来ならアンダーソン基地で除隊命令を受け、定期便で内地へ帰るはずだったが、たっての望みで、六番機の最後の機長を務めることになった。で、君は到着したツーソンで軍務解除となるわけだが、そこからは民間の定期便でロスの田舎へ帰るつもりなんだろう?」 「ああ」彼は短く答えた。 「こいつを見てくれたまえ」  男は脱いだ背広の内ポケットから一枚の写真を取り出すと、彼の胸元に差し出した。そこには、ディズニーランドの正面ゲートで笑みを浮かべるジーンズ姿の彼、ウォルター・マッシュが写っていた。彼はレーバンのサングラス越しにそれを一瞥《いちべつ》したのだが、おやっと思って、サングラスを持ち上げて、もう一度素通しで眺めてみた。間違いなく自分だ。しかし彼には、ハイスクールを出てからというもの、ディズニーランドを訪れた記憶はなかった。 「なかなか似ているだろう? ハリウッドに行けば、たった一〇〇ドル払うだけで、どんな人物にでも変装してみせるスターの卵達がごろごろたむろしている。その写真の君は、マクドナルドでアルバイトしながら演劇学校に通っている若者だ。一週間、君の代役を務めさせる。君はまず、これからごく少数の友人に、ラスベガスで骨休めしてから田舎へ帰ると漏らす。そして偽者の君がツーソンからいったんフェニックスへ出てベガス行きの便に乗り、君の名でホテルにチェックインし、目立たない程度に遊興する」 「どちらかというと、そっちの役どころのほうがいいね」  男はマッシュの呟きに、にこりともせず話を続けた。 「本物の君は、我々が手配した双発機《ツイン》に乗って、いったんデンバーへ飛んでもらう。南には、宏大な基地群を抱えるコロラドスプリングスがある。ここからが味噌《みそ》なんだが、アンダーソンで新編成なったKC‐10空中給油機隊の一機に事故が発生する」 「墜《お》とすのか?」 「いやいや、ちょっと首脚輪《ノーズギア》に細工するだけだ。着陸する際、足が出なくなる。主脚輪《メインギア》は出るから、首を地面に接しての胴体着陸を余儀《よぎ》なくされる。まあ、機体がおしゃかになることはないだろうが、それでも相当期間を修理に費やさねばならんだろう。言うまでもなく、アンダーソン基地の戦略任務は極めて重要だ。給油機一機が欠けるだけで、任務に重大な支障を来たす。当然、基地当局としては、モスボールに送り出したばかりのKC‐135を呼び戻すだろう。  君はコロラドスプリングスで、他のクルーと落ち合い、偽の身分証明書で、ある基地内に潜り込む。すると、アンダーソン基地からそこに、これこれこういうKC‐135のベテランパイロット達がいるから、至急、ツーソンまで空輸してくれという指令が届くわけだ。むろん、指令は基地の対応より早く、我々が軍のテレックスに介入して出すことになる。あとは君が指揮を執り、グアムまでの必要燃料を積載させて飛び立ち、軍のレーダー管制《カバレツジ》を外れた後、私が教えるコースに乗ってくれればいい」 「問題は給油後のクルーの脱出だな。位置からすると、我々を拾ったクルーザーは日本へ向かうわけだ」 「そう、君らは三日後にヨコハマに上陸し、帰国することになる」 「しかし、我々がパラシュートで脱出した真下に、クルーザーがいるという保証はあるのか?」 「実は、私もその件については苦慮しているんだ。君らはSOS発信機を抱いて降下する。万一迎えがいなければ、米軍でも誰でも救けを呼べばいい。もっとも——」 「もっとも、クルーザーに乗り換えた後、サメの餌食にされる可能性も残るわけだ」 「まさにその通り!」  男は深い相槌《あいづち》を打った。「……まあ、この点ばかりは、我々を信じてもらう他はないね。しかし考えてもみたまえ。五万ドルは前金として入るし、保険にも入っておけばいい。そうすれば、少なくとも君の年老いた母上は、借金に苦しむことなく平和に余生を過ごせる」  マッシュは「フン」と鼻をならしながら、ハイボールの最後の一滴を飲み干した。  ここまで聞いてしまった以上、引き退がるのは癪《しやく》ってもんだ……。 「まあ、あんたがKGBの非合法員《イリーガル》でないことぐらいは察しがつくんだが……」 「どうしてそう言える?」 「あんたらが狙っているのはB‐1だ。それくらいのことはわかる。しかし、もしB‐1をハイジャックしてソビエトへ持っていくんだったら、何も給油する必要はない。B‐1の性能なら、訓練途上からでも、十分沿海州まで飛んでいけるからな。たぶん、アラスカかカナダ辺りにでも隠すつもりなんだろう?」 「それについては言えない。しかし、我々のこの計画こそが、あの忌忌《いまいま》しいSTART㈼条約を葬り去る唯一の方法であることだけは信じてくれていい」 「高貴なる任務というわけだ……」  あの、忌忌しい第二次|戦略兵器削減《START》条約……。マッシュは胸の内で、吐き捨てるように呟いた。無能極まりないスタッグス現大統領が、再選目当ての宣伝効果を狙って敵と結んだ売国条約……。基地内の誰もが、そう広言して憚らない。軍を去る土産として、あの条約を潰すことが出来れば、俺の最後の武勲となる。  二人の目前を、トロピカルドリンクのトレーを掲げたボーイが通り過ぎる。コントローラーがその男に向かってハイボールをオーダーした。 「契約成立の祝杯を上げさせてもらってもいいかな?」  マッシュは、今度はためらうことなく、「ああ」と頷いてみせた。コントローラーがほっとした表情で微笑みながら、右手を差し出す。マッシュはそのしなやか過ぎる程の掌を受けながら、「最後にもうひとつ」と、質問を発した。 「あんたはさっきから、�我々�という言葉を使っているが、いったいどういう組織なんだ?」  コントローラーは、固く握り締めた掌を、冷たく引き離した。 「もちろん、詳しいことは言えんし、実を言うと、私もこの組織について、たいしたことを知っているわけじゃないんだ。ただ、三十年程前結成され、これまで合衆国の国家的危機にのみ、行動して来た。この組織のメンバー、あるいはその存在を知る者たちは、我々のことをこう呼んでいる。�創世《ジエネシス》�、ジェネシスグループと……」     2  ホワイトハウス  ワシントンD.C.は、晩秋の未だ深い闇の中にあった。  ここホワイトハウス西館も、三階の大統領居住フロアーへ通じる階段の踊り場に、海兵隊の軍曹ひとりが、うつらうつらしながら、雑誌プレイボーイのページをめくっているに過ぎなかった。  むろんスイートルームに灯りはなく、合衆国大統領ジョン・スタッグスとミディア夫人は、スタッグス自ら三十年前日曜大工で造り上げたベッドで、安らかな眠りについているはずだった。この、ロッキーから切り出して来た樫の木のベッドをミディアに献上する時、スタッグスは�クレオパトラの寝所�と命名した。それはまだ、二人が共に幸福を感じられた最後の時代のことで、今ではもう、友人にこのハンドメイドのベッドを披露する楽しみも忘れ去ってしまっていた。  スタッグスが上院議員に当選し、政治活動に心血を注ぐようになってからというもの、当然の成りゆきとして、二人の仲は急速に離れて行った。そして、三度目の大統領選挙に打って出た四年前には、うわべの仲睦まじい姿とは裏腹に、スタッグスは時々、ミディアの憎悪にも似た眼差しを感じることさえあった。  最早、私達に安らかな眠りなどありはしないのだろうか……。  ミディアのしつこい寝返りに目覚めたスタッグスは、心の中でそう呟いた。  ホワイトハウス入りを果たした当時のスタッグスは、誰の目から見ても颯爽《さつそう》としたものだった。フットボールで鍛えた強靱な肉体を、ライトブルーのスーツで包み、ウェスタンブーツを鳴らして歩く姿は、しばしばニューヨーカーの表紙を飾ったものだ。軽くウェーブの掛かったブロンドの髪、そつのない微笑は、全米の女性を虜《とりこ》にした。そして、�エネルギーと誠実の人�、このキャッチフレーズこそは、彼のなによりの誇りだった。  しかし、三年間の激務を経た今日、彼の目前にあるものは、夫婦の破局と、ワシントンのマスコミから頂いた�後退と妥協の指導者�というありがたくないレッテルだけだった。  アルコール臭が、彼の鼻をついた。ミディアの吐く息に違いない。昨夜、このクレオパトラの寝所に入ったのは、いつも通り十一時過ぎだった。ところがその直後、ホワイトハウス総務部長から、ワシントンポストの不愉快極まりないスクープ記事の存在を伝えられ、一時間ほどその対応のために、一階の大統領執務室《オーバルルーム》に降りて行った。つまりその間に、ミディアはまたしても、ソビエト共産党書記長から贈られたアルコール度六〇パーセントを超えるウオッカを呷《あお》ったというわけだ。スタッグスはミディアに背中を向けたまま、そう見当をつけた。 「ミディア、起きているんだろう?」 「…………」 「なあミディア、君にはすまないと思っているんだ。私はこの二十年間、何ひとつ夫らしいことをしてやれなかった。本当にすまないと思っている。だが、子供達が成人した、これからこそが、真の夫婦生活の始まりだとは思わないか? 我々はこれからだよ」 「あなたは、勝手な人だわ。いつも、自分の理屈だけを押し付けて来る」  ミディアが、背中を向けたまま、小声を発した。「十年前、あなたは子供達が手を離れるまではと言った。五年前は、ホワイトハウスへ入るまでの辛抱だと言ったわ。結局、私は家政婦と、あなたの単なる選挙道具でしかなかったのよ。あなたの妻であった時代は、もう二十年以上も昔の話……」 「そんなことはないさ。私はいつも君を愛していたし、第一、今日までどうにかやってこれたじゃないか。再選を乗り切るまでの、あと一年の辛抱だ」 「もう、たくさんよ! 世界中の有閑マダムの好奇の眼差しに晒《さら》されながら、柄にもないファーストレディを演じるなんて、もう耐えられないのよ」  スタッグスは何事かを反駁《はんばく》しようと体を起こしかけたが、急に、まるで風船が萎《しぼ》んでゆくような思いにとらわれ、ただぽつんと、呟くに終わった。 「君には休息が必要だ。そして、私にも……」 「お早うございます、大統領閣下。昨夜は急な用件でお呼び立てしまして誠に申し訳ありませんでした。お顔の色が勝《すぐ》れぬようにお見受けしますが、大丈夫でいらっしゃいますか?」  スタッグスは飲み掛けのモカゲシュプリットをワシントンポストの上に置くと、弱冠三十三歳のホワイトハウス総務部長に完璧な笑顔を送ってみせた。 「お早う。アレクサンダー・エッシェンバッハ・ハプスブルグ㈽世君!」  ホワイトハウス内では、イニシャルから�AEH�で通っているアレクサンダー・エッシェンバッハ・ハプスブルグ㈽世の、やたらと仰々しい名をフルネームで発音するのが、スタッグスの一日の始まりだった。この発音の具合によって、彼はその日一日のバイオリズムを推し測ることが出来た。今朝はまあまあの調子だなと、彼は胸の内で呟いた。 「気分は快適だよ。もっとも、君のイートン訛りが、いつになく厭味に聞こえはするがね」 「し、失礼しました、閣下」  無感動な堅物《かたぶつ》紳士と陰口を叩かれているミスターAEHの口許が、ほんの一瞬|痙攣《けいれん》を起こした。 「うん、しかし憂欝な一日になりそうだな」 「よろしければ、定例記者会見の変更も可能かと存じますが」 「いや、それには及ばん」  AEHの窺《うかが》うような問いかけを、スタッグスは当然のごとく否定した。 「では、本日のスケジュールを申し上げます。まず、午前十時から、社会福祉、失業者救済、コンピューター災害補償に関する三つの行政命令について署名して頂きます。関係者への声明、及び記念撮影があります。十一時より、シュレイカー報道官と、記者会見の打ち合わせ。同三十分より定例記者会見」 「揉《も》めそうだな」 「はい。十二時より、昼食を交えながら、NATO諸国外相団との理事会議があります。一時半から、ブラジル大統領の歓迎レセプション及び首脳会談。三時より、世界銀行総裁、財務長官、連邦銀行総裁らとの国際経済についての検討会。四時より、地下軍事司令部へ入って頂きます。で、いよいよ相互視覚通話《MIC》システムの記念通話行事が開かれる予定です」 「ふん……。NATO理事会議で叩かれた後は、モスクワの古狸めと外交辞令《プロトコール》の応酬か……」 「その後、八時より、ブラジル大統領との晩餐会が控えております」 「よろしい。で、問題のジェネシスグループに関するモンロー君との打ち合わせはセットしてくれたかね?」  スタッグスは、ワシントンポストに恨めしげな視線を落とした。 「一応、三時前、二〇分程なら都合がつくかと存じます」 「よろしい。アヤセ君も同席するよう伝えたまえ」 「は?」  AEHは、ローゼンストックのメタルフレームに指を当てながら、一瞬眉をひそめた。 「いや、実は今朝方、思い付いたことがあってね、いいんだ。呼んでくれ」 「かしこまりました。では、間もなく、主席補佐官、教授がお見えになる時間ですので、私はこれで失礼します」  AEHは左腕のローレックスをさりげなく一瞥すると、スタッグスが密かに閻魔帳《えんまちよう》と呼んでいるスケジュールブックを左脇に抱えて、執務室を辞してゆく。スタッグスは、まるで国王か誰かのような優雅な足取りのそのAEHを、「アル!」と親しみを込めて呼び止めた。 「私や君のように、育ちの良さが世間であれこれ言われる者にとって、人種的偏見は命取りになるぞ。政治だと割り切りたまえ。これは理解や認識の問題である前に、忍耐と訓練の問題だ」  AEHはハッと気付いたように立ち止まり、思わず生唾を飲んだ。 「御忠告、ありがとうございます」     3  グアム  レイモンド・スタイガー大佐は、三名のフライト・クルーと、ひとりの特別客を従えて、待機室《アラート・ルーム》を出た。ジープに代わって導入が進められている天蓋付きのハムビーに乗り込む。防禦担当士官のピーター・コリンズ中尉がステアリングを握った。 「さっきの手口だがね、とても素人とは思えない。変装がうまいというだけなら、掃いて捨てるほどいるだろうが、クロロホルムをあてがいながら、鳩尾《みぞおち》に一発喰らわせて、呼吸を強いる。しかも軍人相手に。私が睨んだところ、君らはCIAか何かだな」  特別客でB‐1爆撃機の開発者のマックス・バスが、クルーに化けた二人に向かって話し掛けた。その二人は、ニヒルな笑みを零《こぼ》しただけで、何も答えなかった。 「そんなことより、私は例のKC‐10の事故はまずかったと思いますよ。何にせよ、テロ工作が行なわれていたことを暴露してしまったんですからね」  ピーターは速度を上げながら、隣りのスタイガーに懸念を表わした。 「空中給油の手筈をつけるには、仕方のないことだ。それに、どの道、五人でアラート・ルームを出ざるを得なかったのだからな」 「その代わり、駐機場に監視ポストを設ける破目に陥りました」 「大丈夫。歩哨の伍長は、一ヵ月前着任したばかりで、二人と口を利いたことはない」  コの字形の爆風よけハンガーに守られた駐機場に沿ってゆくと、最深部に、スポットライトに照らし出されたスタイガーの愛機、カーチス・ルメイ号があった。  ロックウェルB‐1D戦略爆撃機。  全長四五メートル。可変翼を最大展張した時の全幅四一・六七メートル。爆弾搭載量五二トン。最大重量二二〇トンを超える強者である。スタイガーは改めて、その、レーダー波を吸収し、熱の放射拡散を促すため特別に開発された真っ黒な|防眩迷彩塗装《ヨーロピアン‐1》に覆われた、しかし優美な機体を見上げた。大きさ重量とも、B‐52とたいして変わらず、爆弾搭載量に至っては、B‐52を遥かに凌ぐというのに、そのラインの優美さは、競うべくもなかった。それは、空力特性と燃料搭載量を増すと同時に、極力レーダー反射を拡散するために採用された、ブレンディッド・ウイング・ボディ方式によるもので、B‐1には、およそ突起物や、角張った部分がないのだ。  しかし、彼の愛機の最大の特徴は、それが従来のB型でなく、発達向上型のD型である点にある。B‐1D型機は、完全な隠密機《ステルス》、つまり見えない爆撃機なのである。  スタッグス政権の誕生により、次期|高度技術爆撃機《ATB》の開発が全面ストップされ、やむなくB‐1の改良型の採用を余儀なくされてはいたが、スタイガーは満足だった。この半年前ロールアウトしたB‐1Dと、ついひと月前から配備が始まったばかりのAGM‐99新型巡航ミサイルの組み合わせがあれば、恐れるものはない。たった一機で、ソビエトの主要都市を爆撃して、無事に帰還が遂げられるのだ。 「あと二年もすれば、全編隊がB‐1Dにとって代わる」 「しかし、君の政治力にも感服するね。B‐1の配備計画のなかったグアムから、さっさとB‐52を追い出して、D型の配備をペンタゴンに認めさせるんだから」  監視ポストから出た伍長が、赤い警告灯を頭上に振っていた。ピーターは緩やかにブレーキを踏んだ。  すでにGE社製の推力一四トンを誇るターボファンジェットエンジン四基が、軽やかな唸りを上げていた。 「整備の男がひとりコクピットにいるはずだ。ポストをクリアしたら、ヘルメットを被《かぶ》ってくれ」  ハムビーは監視ポストの真横で停止した。 「今晩は、みなさん」  人なつっこそうな、黒人の伍長だった。 「ごくろうだね、伍長」 「いやあ大佐殿、我々警備部門の責任ですから」  伍長は、それぞれのIDカードの写真と顔をひとりずつ儀礼的に見比べながら、ボードにチェックサインを入れていった。「えーと、一応、IDカードはお預かりします。それと、マックス・バス博士でしたね?」  バスは、IDカードを翳《かざ》しながら微笑んだ。 「うかがっております。このB‐1の開発者でいらっしゃるとか。お目にかかれて光栄です」 「うん、私も実戦配備されたD型に乗るのは初めてでね。生みの親としては感無量だよ」 「そのアタッシュケースは? すみません。規則でして」 「ああこれか、レコーダー兼卓上コンピューターってところさ」  とバスは、ケースを開けてみせた。 「失礼しました」  バスは四人に続いて、機首直下のタラップへと歩き出した。 「ああ大佐殿!」  一行はギクリと足を止めた。 「ブロウヘッド中佐がおかんむりですよ。遅刻だと」 「ああ、つい寝過ごしてね。往年のエースパイロットも老いたというわけさ」  スタイガーは伍長に手を振ると、機体をひとまわりチェックしてから、最後にタラップを昇った。  B‐1爆撃機のコクピットは、二つの点において、普通の大型機のそれと異なっている。まず操縦桿。大型機は通常、両手で握る操縦輪を用いるが、B‐1は戦闘機並みの一本スティックである。そしてスロットル・レバー。これも普通は中央にワンセット置かれるだけだが、B‐1の場合、機長席の左側にも、もうワンセット据え付けられている。それはつまり、このB‐1爆撃機が、戦闘機並みの運動性能を備えていることの証しなのである。 「やあ、ネベス軍曹。調子はどうかな?」  スタイガーはレフトシートに収まっている整備班長のジェフリイ・ネベス軍曹の肩を叩いた。 「大佐、別に異常な所はないですがねえ」 「そうかね。三日前乗った時は、確かにエンジンが咳込むような感じだったんだがね」  軍曹は豊かな口髭を撫でながら、不服げに席を立った。 「まあ、巡航飛行《クルージング》に移る前、適当にあやしてみてくれませんか? それで駄目なら、バラして交換しましょう」 「了解した」  スタイガーは軍曹が降りたのを確認すると、ピーターにタラップを揚げさせた。 「マックス、ひとまず副操縦士席だ」 「いいのかね? チェックリストを読むぐらいしか出来んが」 「大丈夫だ」  スタイガーは酸素マスクを取ると一〇〇ヤード余り離れた隣りの二番機に話し掛けた。「こちらスターリン。遅れて申し訳ない」 「隊長殿、地上での燃料消費もバカには出来ないんですよ」 「年寄りを苛めるもんじゃない。君らから先に出てくれ」  スタイガーはセレモニーにも似たチェックリストを手短に消化すると、地上走行用のハンドルを握りながら、緩やかに機を誘導路へと導いた。 「滑走路の端で止まればいいんだな?」 「はい、大佐」 「対人レーダーは大丈夫か?」 「中米の基地破りで慣れております」  二人は飛行服を脱いだ。下は普通の軍服だった。  滑走路端の停止線に着くと、スタイガーは最終離陸許可を得る傍ら、パワーを絞った。 「エンジンに吸い込まれないよう気を付けてくれ」 「わかりました。作戦の成功を祈っております」  二人の男は敬礼を捧げると、半端に開いたタラップから飛び降りた。 「スターリン、こちら管制塔。どうかしたか? 離陸許可は出ているぞ」 「すまない。エンジンが不調なんだ」  スタイガーは通信を切って、 「いけるか?」とバスに訊《き》いた。 「V1、V2速、頭に入れた。大丈夫だ」 「そこまでしてもらう必要はないさ」  スタイガーはブレーキペダルを踏んだまま、徐々にスロットル・レバーを前方に倒して行った。心地好い唸りが、シートから伝わって来る。前方を見|遣《や》ると、二号機が放つバックファイアーが闇の彼方に昇ってゆく。スタイガーは両足から徐々に力を抜いて行った。 「よし、出力最大《マツクス・パワー》! レッツゴー!」  二〇〇トンを超える巨体が全身を震わせ、滑走路を疾駆し始める。最早、カーチス・ルメイ号の行く手を阻むものはなかった。     4  ホワイトハウス  アメリカ合衆国大統領補佐官(安全保障問題担当)のヒロフミ・アヤセは、二階のオフィスを出て、ワインレッドの絨毯《じゆうたん》を踏みしめながら、一階の大統領執務室《オーバルルーム》へと向かった。  彼については、これまでいくつかのことが語られて来た。ベトナム時代の、暗号名オメガとしての、およそ信じ難い超人的な活躍を知る陸軍士官学校《ウエストポイント》時代の戦友は、彼のことを、鋼の肉体に仙人の洞察力を備えた男と呼んだ。ジョージタウン大学の戦略・国際政治問題研究所時代の彼を知る者は、ある種の天才であることを認めている。また、就職先を物色中に、非公然の組織を含めて、少なくとも一七の政府機関から熱心なスカウトを受けたにも拘わらず、国家安全保障局《NSA》などという、友人に言わせれば、�モグラとコウモリの巣窟�のような国防総省《ペンタゴン》の一諜報機関に再就職した行為は、今もって謎とされ、理解不能の男として一時期気味悪がられた。  その後、ワシントン周辺で国家安全保障局《NSA》の俊英として知られるようになったが、ある事件で彼と知り合いになったFBIの捜査官は、彼が日系であったことから、ミスターサムライと呼んだ。しかし、彼を最も適確に形容した言葉となると、彼自身の耳へはもちろん、殆ど外部へ漏れることはなかった。ひとつは、国家安全保障局《NSA》での最初の上司が評価メモに奉ったものである。  いわく、悪魔《サタン》の狡知と処女の良心を持つ男。  そしてもうひとつは、ハイスクール、ウエストポイントとずっと一緒だったFBIの悪友が、八年前、ふと共通の友人に漏らした言葉である。彼はあるパーティで、その時グラスを傾けながら、哀れな視線をアヤセに投げ掛け、こう呟いたのだった。  ヒーロー・アヤセ。しかして、その実体は、ただ、傷心の男……。  彼が現在の地位に就いたのは、前任者がコレステロールの摂り過ぎによる動脈硬化で心臓発作を起こし、他界した一週間前のことだった。しかし、国家安全保障局《NSA》におけるソビエト分析のエキスパートとして名を馳《は》せていた彼は、スタッグスとそれほどの面識があったわけではない。従ってこの降って湧いたような地位は、彼にとって望外の出世に違いなかった。むろん、大統領直々の就任要請を、若干、無垢な性格を残す彼は、迷うことなく、「光栄に存じます」と、受諾した。  七日前、いささか有頂天だった彼に、まさか有名人ゆえの、自分の過去《スキヤンダル》が暴露されようなどという疑念は、微塵もありはしなかった。  ゲストルームでAEHに迎えられたアヤセは、彼の「三時十分までには、退席されるよう願います」という、まったく無味乾燥な言葉と共に、大統領執務室《オーバルルーム》へ重い足を踏み入れた。  ドア口で、スタッグスに向かい軽く会釈したアヤセの瞳に、彼が見知った男が、スタッグスと談笑している姿が飛び込んで来た。マーカス・モンロー……。FBIの小役人風情が、なぜこんな所に?  かつて、ビクトリア女王からレゾリュート号で贈られたマホガニー製の通称レゾリュートデスクに歩み寄るまでの束の間、アヤセのその小さな疑問は、立ち所に、ある確信へと変わって行った。こいつ! 奴がスキャンダルの出所なのか!?  アヤセはスタッグスに悟られぬよう、モンローに鋭い一瞥《いちべつ》をくれたが、彼はまるで素知らぬ振りだった。しかし、次の瞬間には、アヤセは国家安全保障局《NSA》の俊英に立ち返り、「お待たせしました」と、着席の許可を求めた。  スタッグスは、ワシントンポストの上で組んでいた両手を解き、左手前の、アメリカンバッファローの鞣《なめ》し革が張られた肘掛け椅子を指し示した。 「掛けてくれたまえ。マーク、アヤセ君が驚いているようだが、ホワイトハウス入りの祝杯は挙げなかったのかね?」 「ああ、いえ。しばらくは彼もそれどころじゃないと思いましたので」  ニックネームで呼び掛けられたモンローは、まんざらでもなさそうな表情だった。アヤセが見た所、二人はかなり親密な仲のようだった。当然、大統領は自分とモンローのことも知っていることになる。 「ひょっとして、君はマークの仕事を知らんのかな?」  微笑み掛けるスタッグスに、アヤセは、「お互い、機密性を要する組織におりますので」と答えた。 「賢明な考えだ。実を言うと、彼は大統領特別調査室長という要職に就いているんだ」 「と言うと偉そうに聞こえるがね、やることと言えば、大統領が任命権を有する役職官吏の身上調査、及び大統領から指名があった人物についての素行調査等々。早い話、街の探偵屋とやることはたいして変わりはしないんだ」 「では、当然私の調査も担当していただいたわけだ」  アヤセはモンローに対して、極力嫌味のない尊敬語を使った。 「なかなか立派なものだったよ。それに、個人的な保証も与えてくれたしね。聞く所によると、君達ふたりは、ハイスクール時代からの友人だそうだね。バスケットボール部の公式戦では、シュート記録を争ったとか」 「もっとも、卒業する時点では、一〇ポイント、マークが勝ちました。私より二インチ、バスケットに近い分だけね」 「ハッハッ、そりゃ残念だったね。しかし、ベトナムでは見事に挽回《ばんかい》したわけだ。敵に包囲され、全滅の危機にあったマークの小隊を、それこそカミカゼのように出現した君が、見事に救ってくれた話。そりゃあもうマークは、何かの冒険活劇のように身振り手振りを交じえて話してくれたものさ。あの話を聞いた時の私は、手に汗を握るようで、大統領選の開票速報に接した時以来の興奮を憶えたものだった」 「大統領、あれはしかし、私にとってはいささか不名誉なエピソードでした。結局、部下は誰ひとり生きて還れず、小隊長だった私自身も、こいつに数十キロも背負われる破目に陥ってしまいましたから」 「そんなことはなかったさ」  自嘲ぎみに喋るモンローを、アヤセは強い調子で否定した。 「私が駆け付けた時のマークは、今の都会的《アーバン》でスマートな雰囲気からは想像だにできないような武勇振りでした。ガジュマルの根本で仁王立ちになり、そうそう、確か数十名のベトコンに対して、両手で四丁ものライフル銃をぶっ放していましたっけ」 「ほう! そうだったのかね。いかんなマーク、物事は正確に話さなきゃあ。この前の話には、君の武勇伝はなかったぞ」 「いえ、その、特に必要ないと思いましたので」  咳払いするモンローは、まったくしどろもどろだった。 「本来なら、ここいらで二人の熱き友情に乾杯といきたい所だが、何はともあれこいつをどうにかせにゃあならん」  スタッグスは語調を堅くし、アヤセの目前にポスト紙を突き出した。「読んだかね?」 「ええ、しかし何とも掴《つか》み所がないですね」 「マーク、今まで判明したことは?」 「何ひとつ。ジェネシスグループの存否についてすら」  モンローは両手を広げて、頭《かぶ》りを振った。 「そもそも、この記事をポスト紙へ持ち込んだジャック・ヘンダーソン自身についてはどうなのかな?」 「すっぱ抜きのコラムニスト。奴のおかげで、我が合衆国政府はいく度となく煮え湯を飲まされました。CIAの中には、KGB議長以上の敵だと広言して憚《はばか》らない連中もいますが、残念ながら付け入る隙のない男です。我々FBIは、奴の弱みを握って政府攻撃の矛先《ほこさき》を収めさせようと、数度にわたり綿密な調査を行いましたが、すべて水泡と帰しました。人間としても、ジャーナリストとしても第一級です」 「では、FBIとしては、この記事の信頼度を保証せざるを得ないわけだ」 「はい」 「よかろう。まあ、中段までは、どうということはない。現実の逼迫《ひつぱく》した状況をわきまえん軍拡論者の戯言《ざれごと》だ。こういう頑迷な連中はどこにでも、いつの時代にもいるものさ。問題とすべき点は二つだ。まず第一は、この部分……」  スタッグスはすばやく、且つさりげなく老眼鏡を取り上げると、ポスト紙のその記事を声に出して読み始めた。  ──所で、ジェネシスグループの総帥は、いったい何者なのか?  ──むろん名前などは言えない。しかしリーダーは、我々が通常�内閣《キヤビネツト》�と呼ぶ、政策決定委員会のメンバーの中から、内閣全員の合意をもって、民主的に選出される。それは独裁者ではなく、任期制に基づく、言わば議長のような存在だ。過去もそうだったが、現在のリーダーは、ホワイトハウスの主要スタッフとなっている。  ──それはスタッグス政権の内部にいるということなのか?  ──極めて近いということしか言えない。 「スタッグス政権の内部……。これは、国家安全保障会議《NSC》に出席できる程の地位にある人物と考えるべきだろうな?」 「同感です、閣下」  アヤセが、鷹揚《おうよう》に口を開いた。「この、スポークスマンと名乗った男は、単に極めて近いとしか述べておりませんが、ニュアンスからして、これは頭に、スタッグス大統領に、と付け加えるべきです」 「信じ難いが、個人的に私に近いとなると、やはり国家安全保障会議《NSC》のメンバーということになる。そこで、アヤセ君に調査を担当してもらうわけだ。君は、私の古くからの知り合いではないし、NSCのメンバーとなったのも、つい一週間前だ。君がこのテログループと関わりをもっている可能性は少ないし、国家安全保障会議《NSC》の内部にいて首謀者を割り出すことが可能かも知れない。そして第二点。これは最後の部分だが……」  ──あなたがたはつまり、この場を通じて、スタッグス大統領にSTART㈼条約の破棄を迫っているわけだが、これは最後通牒なのか?  ──その通り。もし、スタッグス大統領が、直ちにこの警告に真剣な回答を出さなければ、我々は直ちに行動を起こす。繰り返すが直ちにだ。  ──それは、例えば大統領を暗殺するということか?  ──我々はテロ集団ではない。しかし、大統領が、不幸な条約を放棄せざるを得ないような状況を招来することになるだろう。 「どう、理解すべきかな?」 「まったくの偽情報《デイス・インフオメーシヨン》です、我々を油断させるための。私は、大統領暗殺の危険が最も高いと思います。連中は、テロ組織そのものですよ」 「まあ、FBIとしては、そうだろうが、私は反対だな。スポークスマンが暗に言わんとしている所は、スキャンダルのようなものを利用してということだろう」 「それは、私のプライベートなものかね?」 「いえ、その可能性も否定は出来ませんが、私はむしろ、政治的、あるいは外交的なものと予測します」 「根拠は何かね?」  スタッグスとモンローは、疑いの眼差しをアヤセに向けた。 「それは、スポークスマンの性癖です」  アヤセは何ら動ずることなく答えた。「まず、インタビューの冒頭をご覧下さい。ヘンダーソンの、『あなたの正体は?』という問いに対して、この男は最初、『ノーコメント』と答えて置きながら、続けて、『まあ、某省の下っ端役人だ』と答え直しています。それから、『ジェネシスグループのリーダーは?』に対して、『名前などは言えない』と答えます。これは極めて重要です。なぜなら彼はここで、ノーコメントと答えることが出来たし、また組織の安全のために、そうすべきだった。なのに彼は、暗に自分はリーダーの名前を知っているような発言をしています」 「スポークスマンは、なるべく正確に答えようとした」 「いいえ、違います。これは自己顕示欲のなせる業です。彼は、自分は単なるスポークスマンではなく、すべてを掌握している重要ポストの人間であることを誇示したがっています。従って、この最後の不幸な条約を云々という答えは、真実の言葉と受け取るべきです。彼は、『条約を放棄せざるを得ないような状況』と述べています。この言葉は、議会での批准を困難にさせるか、条約の一方の当事国であるソビエトとの関係を悪化させるか、いずれかの結果を招来するような事態という意味でしょう。となると、大統領の個人的スキャンダルの影響力には限界があります」 「だといいんだが……」  スタッグスはひとり言のように呟いた。 「閣下、この際ジャック・ヘンダーソンを叩いて──」 「いやいや、論外だ!」  スタッグスはモンローの苛立たしげな具申を、言下に拒否した。 「まあ、それこそスキャンダルになるでしょうね。しかし、スポークスマンは再度ヘンダーソンと接触を持つはずです。そこを押さえる必要はあるでしょう」 「簡単に言ってくれるよ。奴は三十名を超す優秀な�脚《レツグマン》�を抱えていて、俺達を振り回してくれるんだ。情けないが、いまだかつて、一〇マイルと尾行できた例《ため》しがない」 「それは許可しよう。他に気付いたことはないかね?」 「ヘンダーソン自身もインタビューの後記で疑問点として述べていますが、ジェネシスグループのリーダーが大統領の側近にいたというのに、なぜSTART㈼交渉を阻止できなかったのでしょう?」 「それは簡単な理由だよ。私が、いささか強引にやり過ぎたんだ。まあ、今ではスタッフの多くが理解してくれたと信じているが……」  モンローが、その件を突っ込むなと目配せして来た。アヤセは然《さ》り気ない咳払いで了解したと伝え、話を変えた。「まあ、相手の出方を待つしかないでしょうね……」 「FBIとしましては、第一にシークレットサービスに協力して大統領警護に万全を尽くすよう手配します」 「マーク、それは駄目だよ。私の立場をわかっているだろう? これからの時期に、国民との間に垣根を高くするわけにはいかん」 「では、当面は情報収集と、ジャック・ヘンダーソンの監視に尽力します」 「よろしい。君達ふたりには、大統領付与特別非常大権第77号が与えられる。これによって、あらゆる公式資料の閲覧、政府機関及び人員の徴用、尋問が許される」 「ありがとうございます」  モンローが立ち上がりながら、スタッグスに右手を差し伸べる。アヤセもそれに続く。スタッグスは、あの完璧な笑みを見せながら、固い握手を返した。 「ブロードウェイでストリップをやろうが、自由の女神にカウボーイハットを被せようが何をしても構わん。核兵器の発射ボタンに触れる以外はな。とにかく、可能な限り早期に、このテロ組織の正体を暴いてくれたまえ」  アヤセは陳腐《ちんぷ》な台詞だと思いながらも、「最善を尽くします」と答えて、オーバルルームを辞した。 「これからどうする?」 「まあせっかくだから、俺のオフィスでも寄っていかんか? そこで一応の捜査方針を立てよう」  アヤセはぶっきらぼうな調子でモンローに答えると、さっさと階上へ歩き出した。  アヤセの部屋では、彼が国家安全保障局《NSA》から引っ張って来た秘書のジェシー・キムが、書棚の整理に、小柄な体で悪戦苦闘を繰り広げていた。 「ジェシー、すまんがちょっと外してくれ」 「おい、紹介してくれてもいいだろう?」 「どうせこいつのことも調べたんだろう? ジェシー、FBIのマーカス・モンロー氏だ」  キムは、ジェーン年鑑の十年分を書棚に詰め込みながら、「お噂はかねがね」と、意味ありげにウインクしてみせた。 「どんな噂か聞いてみたいもんだな」  モンローは冗談を言ったつもりだったが、アヤセは堅い表情のまま、背広を脱いで、デスク上のニューズウィークを取り上げた。 「ジェシー、悲鳴が聞こえるかもしれんが、気にせんでくれ」  アヤセの荒々しい調子の言葉に、キムはドアを後ろ手に締めながら、「了解です、ボス」と答え、更に「ごゆっくり」とモンローに付け加えた。モンローは、アヤセの顔を呆然と見返しながら、「な、何のことだ!?」と一歩二歩と後退《あとじさ》りした。  ドアが締まった瞬間、アヤセはいきなりモンローの胸倉を引っ掴《つか》んで、ソファーへ押し倒した。呻き声を上げるモンローの鼻面にニューズウィークを叩き付けると、彼は歯を剥《む》いて襲い掛かった。 「おいッ、この記事はいったい何だ!?」 「い、いきなり何だ!? 何の記事のことだ!?」  モンローは顔面を朱色に染めながら、辛うじて言葉を返した。 「�|枯れ葉作戦《エージエント・オレンジ》の不幸な犠牲者、ベトナム傷痍軍人ホワイトハウス入り�。このヘッドラインは何だ!? いったい誰が漏らしたんだ!?」 「そ、そのことか……。しかし、ワシントンには鵜《う》の目鷹《めたか》の目《め》のジャーナリストが数百数千といるんだぞ」 「そうかい!」  アヤセはなす術《すべ》もないモンローに馬乗りになったまま、ネクタイをぐいぐい絞め上げた。 「そりゃあ確かに、国家安全保障局《NSA》の上司も、ベトナムで俺が受けた傷跡については知っていたさ。ダイオキシンを大量に浴びた結果として遺伝子障害を起こし、それによって生まれたミライが、奇形児だったこともな。だがな、このくだりは何だ!? 『妻のパメラは、生まれた子をひと目見るなり絶叫し、ただ一度として娘をその胸に抱き締めてやることなく、夫のもとを去って行った』もっと早く気付くべきだったが、このことを知っているのは貴様だけだ。あの時半狂乱に陥った俺は、貴様の前で散々パメラを罵ってやったからな。そう言やあ、貴様に助けを求めたのは、あれが最初で最後だったな。思えばバカなことをしたもんだ。ええ? そうだろう!?」 「く! 苦しい!」 「まさか貴様は、ベトナムでの恩義を忘れたわけじゃあるまいな。ウエストポイントの恥さらし野郎がっ。貴様の指揮ミスで小隊を全滅に導いたうえ、あの時のザマはなんだ!? ライフルを投げ出し、部下の死体の陰で泣き喚《わめ》きながら両手を結んでいた。え? 教会なんぞ行ったこともない男が、殊勝にも祈っていたというのか!? 俺が虚飾の報告をしなけりゃ、貴様は戦闘放棄罪に問われて、軍法会議。悪くすりゃあ銃殺刑だったんだぞッ」 「二、二十年も昔のことを……」 「よくも言えたもんだな。だいたい将軍の鞄持ちで満足してりゃあよかった男が、物見遊山《ものみゆさん》で出掛けて来たのがそもそもの間違いだったんだ。俺に背負われて野戦病院へ辿《たど》り着くまでの間、貴様は涙ながらに何て言ったけな。耳にタコが出来るほど聞かされたがな。今度は俺が貴様のために命を賭ける。お前のためならいつでも死ねるだとっ。恩を仇で返しやがって」 「わ、わかった。俺がやったんだ。正直に話すから、そ、その手を放してくれ!」  アヤセは、ネクタイを掴《つか》んだ右手を、一度強烈に捻《ひね》ってから弛《ゆる》めてやった。白眼を剥いたモンローは、三〇秒近くもぜいぜい息を切らした。 「まったく、なんて野郎だ! なあヒーローさんよ。頼むから、その、首を絞め上げるのだけはよしてくれ。貴様の手が伸びてくると、本当に首が飛びはしないかと、気が気じゃないんだ。お、俺だってな、貴様が気にやんでいることを好き好んで広言して回ったわけじゃないんだ。大統領補佐官の候補者が数名いたんだ。その身上調査レポートを提出した時のことさ。俺は稀《まれ》に、大統領から個人的な見解を尋ねられることがある。今回もそうだったんだ。閣下はこう言われた。『私としては、この国家安全保障局《NSA》のヒロフミ・アヤセを気に入っている。ウエストポイントを次席で卒業。彼のソビエト・レポートをいくつか読んだが、極めて的確なものだ。加えて、よどみない日本語を喋る。日本の防衛力増強が急務となった今日、彼の登用は、トウキョウの対米イメージ向上に繋《つな》がるだろう。日本への交渉役としても使える。まあ、ヘッドハンター事件で命を救ってもらった件もある。ただ、離婚歴が引っ掛かる。再婚していればまだしも、家庭ひとつ満足に運営できない男に、たいした仕事は出来ないというのが、私の持論でね。どう思う?』  そこで俺はやむなく、貴様とはハイスクールからの知り合いで、かつ離婚の経緯は実はこうなんだと話したのさ。すべては親友を思ってのことだ。感謝の言葉ぐらい欲しいもんだぜ、まったく!」 「ほう……、そしてお前さんは、こう付け加えたわけだ。『閣下、これは再選に向けてのアピール材料として使えます。今やベトナム帰還兵は、アメリカ社会の新指導者層を形成しつつあります。ベトナム傷痍軍人を登用する博愛に満ちた大統領……』」 「そうじゃないさ。ただ閣下が、そのことは公表しても構わんだろうと仰しゃっただけのことだ。それで俺は大統領命令だと受け取って、リークしたんだ。ワシントンで生きてゆくためには、プライベートなことも出世材料に使わにゃならん。それぐらいわかるだろう?」 「俺がヘッドハンターズにいたことも喋ったのか?」 「いやいや、そんなことまで喋りはしないさ。おまえさんの特殊部隊の経歴は、公式書類からはすべて削除されている。もう心配はいらん」  アヤセは大きく溜息をついた。モンローは未だに震える手で、背広のポケットから、押し潰されたマルボロを取り出した。 「ここ一週間、ワシントン雀の間で流行っている小咄を知っているか? �ホワイトハウスはまるでアメリカの縮図だ。黒人もいれば、ユダヤ人もいる。その上今度は、ベトナム帰りのニップが加わった……�」 「よさないか、自分を卑下するのは。ミライちゃんはもう八歳だろう。人間的に目覚めようという時に、親父がそんなに悲観的でどうする?」 「もういい! その話は終わりだ。本題に入るぞ」  アヤセはニューズウィークを憎々しげに引き裂くと、さっぱりした表情で、これもNSAから持ち込んだシンプルなデスクに腰掛けた。ダンヒルを取り出すモンローは、「やれやれ」と呟きを漏らし、一服の後、ようやく部屋を見回しながら口を開いた。 「実は、俺はジェネシスグループの名を、FEO指定文書の中で、たった一度だけ見た憶えがあるんだ」 「何だそりゃあ?」 「|未来においてのみ開封許可《フユーチヤー・アイズ・オンリー》。早い話、合衆国が体《てい》をなさなくなるまで、半永久的に密封される捜査資料のことさ。日米開戦直前、太平洋横断に挑んで行方不明となった女流飛行家エメリア・イアハートが、実はルーズベルトからスパイの密命を受けていたこと。ホワイトハウスの裏面政治を知り過ぎたマリリン・モンローが、ロバート・ケネディの意向を先取りしたCIAによって毒殺されたこと、等々……。FBIに入省したての俺は、まず資料保存課などというまるで暇な部署に配属を余儀なくされた。その時、腹いせにFEO指定文書を片っぱしから開封してやったんだ。その中の最重要機密事件の捜査資料にあった」 「となると、当然ケネディ暗殺事件だな」 「まさにその通り。数万ページに及ぶ資料の、最後に、たった一行出ていたのを憶えている。�ケネディ暗殺を決定、作戦、決行したこのグループは、当該事件以降、何処からともなく、ジェネシスグループと呼ばれるに至っている�」 「しかしお前さんはさっき、何もわかっちゃいないと、閣下に進言したじゃないか?」 「当然だろう」  モンローは口許に嘲笑の気配を浮かべた。「スタッグス大統領は、人も知る熱狂的なケネディ信奉者だ。ケネディ暗殺で登場したなんて言えば、この事件を放っぽり出して、三十年も昔の事件の真相解明を命ぜられたかも知れんからな」 「実を言うと、俺もジェネシスグループの名は聞いたことがあるんだ。ジョージタウン大の戦略研究センターにいた時のことだ。ベトナム戦争時、ニクソン、キッシンジャー・ラインの裏で、国防総省、軍内部の停戦工作に動いたと、小耳に挟んだことがある」 「しかし、矛盾しやしないか? そもそもベトナムは、ケネディの後を継いだジョンソンの失政だった」 「ケネディならうまく立ち回ったと言うのか? そりゃあ幻想だよ。そもそもベトナムに片足を突っ込んだのはケネディだったじゃないか? 彼はあまりに進歩主義的であったが故に消された。ベトナムは、最早軍事力による解決が不可能となったための撤退だ」 「連中は、単なるテロ集団ではないというわけか……。�| K K K 《クー・クラツクス・クラン》�より�フリーメーソン�や�ハイフロンティア�に近い、超保守主義集団と見るべきかな」  モンローはしばらく薄目を閉じ、マルボロの灰が落ちるのも気にせず思いを巡らしていたが、はたと気付いたように瞳を開いた。 「おい! 所でお前さんこそ、なんで大統領に黙っていたんだ?」 「俺がヘッドハンターズで苛酷なミッションに命を賭けていた頃、彼は何をしていたと思う?」 「そうか。少壮の上院議員ジョン・スタッグスは、最も強硬にベトナム反戦を唱え、それによって名を揚げた! 大統領自身が、ジェネシスグループのメンバーだった可能性もあるわけだ……」 「単に名を揚げるために、反戦をぶち上げただけだと思うがね、可能性を否定する証拠もない」 「まあ、その可能性は除外しよう。この上好んで新たな難問を抱えるような暇はないだろう。議会はSTART㈼の批准を渋るし、ミディア夫人はああいう状況だからな」 「と言うと?」 「この頃、夫人の警護が強化されたのを知っているだろう。表向きは、中東筋の暗殺団が潜入した形跡があるためということになっているが、その実、なるべく夫人が他人と接触するのを防ぐのが目的だ。もうアル中の一歩手前まで行っている。真っ昼間から酒を呷《あお》り、目も当てられん状態にあるそうだ。ホワイトハウス詰めの記者連中が気付かないのが不思議なくらいさ。ま、思うに彼女は、ファーストレディの器じゃなかったんだな」  アヤセは肘掛け椅子に深々ともたれ掛かると、両手の指先を合わせ、瞑黙《めいもく》するかのような姿勢をとった。それは彼が思念を集中する時の癖だった。 「しかし、こいつはまるで味方のゴール下からミラクルシュートを決めろというようなものだ。我々の持ち駒と言えば、暴れ馬のジャック・ヘンダーソンだけ……」 「そいつは任せとけ。何しろ特別非常大権を手にしたんだからな。首都警察からCIAまで総動員して、今度こそ必ず尻尾を掴《つか》んでやる。まあ見てろって」  モンローは、テーブル上に無造作に放り出してあった|スズリ≪ヽヽヽ≫にマルボロを押し潰しながら立ち上がった。  ドアの内側に掛けられた鏡で、ネクタイを直す。「まったく、貴様と会う度に、ネクタイが一本ずつおしゃかになってゆく!」  アヤセは、「核兵器のボタンに触れる以外は」と、スタッグスの言葉を反芻《はんすう》した後、弾《はじ》かれたように飛び起き、モンローを送りにドアへ歩いた。 「俺のほうは、軍関係に変わったことがないか、ひとまず教授に当たってみる」  ドアを開けると、キムの秘書席から、コロンビアの苦味のある香りが漂って来た。 「おや、もうお帰りですか? コーヒーをお持ちしたのに」  サディスティックな笑みを湛《たた》えるキムは、モンローの目前に、トレーを差し出した。 「まさか下剤なんぞ入っとらんだろうな?」  モンローの恨みがましい台詞に、アヤセは思わず吹き出した。「あんな昔のことを、まだ根に持っているのか?」 「もちろんだ。ハイスクールのカフェテリアでお前に一服盛られたおかげで、翌日のデートを棒に振ったんだからな」  モンローはその場で、シュガーを二つもぶち込んでから、カップに唇を付けた。 「所でキム君、ホワイトハウスの居心地はどうかな? まあ私はここにオフィスはないが、かれこれ三、四年出入りしているから、君達よりは先輩だ。何でも相談してくれたまえ」  ぞんざいな調子のモンローに、キムは待ってましたと瞳を輝かせた。 「実は、国家安全保障局《NSA》でもそうでしたが、ホワイトハウスのこのフロアーも、女っ気が少なくて、それがまあ、悩みと言えば悩みでして」 「そいつはちと、無理難題だな」  モンローはアヤセに向かって、部下にいったいどういう教育を施しているんだとばかりに、一瞬眉を吊り上げてみせた。アヤセはそれに、さも満足げな笑みを返した。 「いや、しかし案外美人もいるようだぜ」  淡い紫色のシックなワンピース。肩を優しく撫でるブロンド。ハイヒールの足下を気遣《きづか》う薄いアイシャドウの中の瞳……。 「ミス・アイゼンバーグ!」  合衆国の紋章の付いたアタッシュケースを左脇に抱えて部屋の前を通り過ぎようとしたその女性を、モンローは馴《な》れ馴《な》れしい口調で呼び止めた。足を止めて振り返ったその女性は、まず声の主を認めて怪訝《けげん》そうな反応を示し、その男の後ろで立ちすくむアヤセを発見すると、彼が示したとまったく同じように、アッと息を飲んだ。 「アイラ……」  アヤセの唇から、苦しげな呟きが漏れた。 「アイラ・アイゼンバーグ。国務省のロシア語通訳兼心理分析官。半年前|相互視覚通話《MIC》システム要員に抜擢された。アヤセ君と知り合ったのは、確か四年前。ニューヨークで開かれたソビエト問題のセミナーで、でしたね?」  彼女は戸惑うような足取りで近付いて来ると、アヤセに向かって、「どちらの方かしら……」と、伏し目がちに問い掛けた。 「申し訳ない。こいつの悪い趣味なんだ。この男こそは、我が無二の親友というか、いつも皆の足を引っ張ってくれるマーカス・モンロー氏さ」 「もう少しまともな紹介は出来んのか?」  相手の正体を知ったアイラは、いく分落ち着きを取り戻して微笑んだ。 「お、お目に掛かる日を楽しみにしてましたわ、モンローさん」 「おいマーク! 貴様は彼女のことまで調べたのか!?」 「そんな顔をしなさんな。別に趣味でやっているわけじゃない。任務だよ、大統領命令による。俺たちゃ因果な商売でね」 「あのう……、補佐官就任のお祝いを」 「ああ、いや、そんなことはいいんだ」 「何だ。君らは就任以来、初めて会ったのか?」  モンローは二人のばつが悪そうな表情を交互に眺めてから、キムの肘《ひじ》を掴《つか》んで、耳元に囁いた。「どうも、我々は消えたほうがよさそうだな」  キムが深刻な表情で頷く。 「じゃあヒーロー、俺はひと通りヘンダーソンを洗ってみる。明日の夕方にでも報告を入れるよ」  モンローはそれだけ言い残すと、コーヒーカップをキムに渡して、そそくさと消えて行った。 「私……、国務長官の出張デスクに、書類を届ける途中だったの……」 「と、とにかく部屋へ入ってくれないか」  アヤセは強引に彼女を部屋へ押し入れた。「とっ散らかっているが、ソファーにでも掛けてくれ」  アイラがためらいがちに腰を降ろすと、アヤセは彼女の視線を避けるように、書棚の前を行ったり来たりし始めた。 「その……、ミライの、娘のことだけど、いつか話そうと思っていたんだ。もちろん僕自身のことも……。別に隠すつもりはなかった。悪気はなかったんだ。その、誤解しないでくれると──」 「いえ、そうじゃないのよ。あの記事が出てから、迷っていたのよ。あなたが精神的にまいっているかも知れないと思ったけど……。こういう時こそ私が力になってあげなければいけないこともわかっていたけど、何ひとつ慰めの言葉が思い付かなくて……。だから、今日まで逢えずじまい。本当は、私が謝らなければならないの」 「いやいや! とんでもない。何もかも僕の身から出た錆《さび》なんだ」  忙《せわ》しないアヤセの体が、積みかけのジェーン年鑑に触れて、バタバタとそれが床に転げ落ちた。アイラがその滑稽な姿を見て、クスッと失笑を漏らした。 「ごめんなさい。でも、いつも沈着冷静、国家安全保障局《NSA》の俊英と評されたあなたでも、うろたえることがあるなんて、正直言うとホッとするわね」 「君の前では、努めて素直に振る舞って来たつもりだよ」  アヤセはようやくぎこちない微笑みを見せると、往生したように、ソファーに向かい合った。 「私はこの四年間、あなたから私の人生を決定づける言葉を待ち続けたのに、一向にその気配がない。私は結局お遊びの相手だったのかしらと、ずい分疑心暗鬼に陥ったものよ。でも、あなたが躊躇《ためら》う理由はわかった。私も結構辛かったのよ。当然代償を期待したいわね」 「本当に申し訳ない。でも、四年間はオーバーだろう?」 「はぐらかさないで! 往生際《おうじようぎわ》が悪いんだから」  アヤセとアイラは、いつのまにか以前の二人に戻《もど》っていた。 「ねえ、ミライちゃんのことを教えてよ。辛い質問だけど、私には知っておく権利があると思うの」  アヤセは首を左右に傾けてしばらく逡巡《しゆんじゆん》した後、覚悟を決めて重い口を開いた。 「ううん……、お袋が死んだ三年前、ニューヨークの全寮制の養護学校に入れた。幸い知能は正常だが……、しかし、左腕がない。それから、踝《くるぶし》が奇形で、まともに歩けない。そんなことより、君にとっては、僕自身の身体的──」 「さあ! もう行かなくっちゃ」  深刻な表情で耳を傾けていたアイラは、アヤセの言葉を突然さえぎって、立ち上がった。それは、彼女に出来る精一杯の愛情表現だった。  アイラは素知らぬ振りで、左腕の時計を見た。「あら、まだ狂ってるわ……」 「ど、どうかしたの?」 「昨夜、ニューズルームに時計を置き忘れたのよ。私、仕事や新聞を読む時は外すことにしているから、それで、つい……。今朝気付いてみたら、すっかり狂ってて」 「ひょっとして君、あのソニーの特大テレビの上に置いていたんじゃ?」 「ええそうだけど」 「やれやれ、君は心理学の博士号を持っているんだろう? 学者先生も、やっぱり女だね」 「どうしてよ?」  アイラは頬を膨らませて、上目使いにアヤセを睨んだ。 「ちょっと貸してみたまえ。ロンジン、相当な時代物だな。ああそうか、確かお母さんの形見だったね。それにしても、テレビの上に置くなんて、ブラウン管には強力な磁石が使われているんだよ。それでなくても、電気製品の中というのはいろんな電磁波が飛び交っていて他のメカに影響を与えるんだ」 「へえそうなの。でも困ったわ。アパートへ帰ればミッキーマウスの安物があるけど、今夜友達とコンサートに行く予定があるの。九〇年代最高のコンビ、あのムターとアバードが、Bフィルを率いてメゾコンを演奏するのよ」 「じゃあ、僕のを一晩貸してあげよう。君のロンジンは、僕のひいきの店に預けておくよ。まあ、時代物だから直るかどうか保証は出来ないけど」  アヤセはロンジンの針を直してからブレザーの左ポケットに大事そうに滑り込ませると、自分の左腕のセイコーを外してアイラに手渡した。 「このバンドすごいわねえ。足首に巻いても余っちゃいそう。でも、あなたはどうするの?」 「軍隊仕込みの生物時計。と言うより、腹時計があるから大丈夫。それは、明日の朝逢ってもらうための担保さ」 「じゃあ、遠慮なく」  アイラはアタッシュケースの中にセイコーを仕舞うと、アヤセのエスコートを受けて部屋を出る。 「ところで、明日の午後は空いているかな?」 「土曜の午後は、当てもないのに毎週毎週あなたのために空けているのよ。御存じなくて? でも、誤解しないでよ。私はもうこれ以上優しくなんかなれない。もう心の隅々まで引っ掻いて、あなたにすべての愛情を注いで来たんだから……」  茶目っぽく微笑んだアイラは、アヤセの唇に仄《ほの》かな色香を授けると、自らドアを開けて、小走りに去って行った。アヤセは複雑な表情でその後ろ姿を見送り、やがて、ほっとしたように肩を降ろすと、傍らのキムに、「やはり、二晩続けてのクラッシックは飽きるだろうな……」と呟いた。  その唐突な台詞に、キムは「え?」と、怪訝《けげん》そうな反応を示すだけだった。     5  B‐1 「なあレイモンド、ほんとにこの猛り狂った雲の中に突っ込んで行かなきゃならんのか?」  副操縦士席に陣取るマックス・バスは、両手を膝にあてがったまま半身を乗り出し、ぞっとしない表情で、呪わしげに悪態をついた。 「B‐1Dの装備している赤外線探知器は、条件さえよければ、地上の人間の体温さえ探知できる。僚機から逃れるには、他に方法はない。あんたは、俺の腕を信用してくれていると思っていたがね」  機長席に構えるレイモンド・スタイガー大佐は、事もなげに言ってのけると、溜息を漏らすバスの皺《しわ》が目立ち始めた横顔を尻目に、防禦手席《ぼうぎよしゆせき》で浮かれぎみのピーター・コリンズ中尉を呼んだ。 「ピーター、ブロウヘッド機はどこにいる?」 「右八〇〇〇フィート。見えませんか?」  バスが横窓にヘルメットを近づけた。 「なんせ、陽の光が強いんでね。ああ見えた。やや後方に付いている」 「よし、じゃあ始めよう」  スタイガーの言葉に、バスはためらいがちに肩のベルトを掛け直した。スタイガーは操縦桿を握り直すと、編隊通信用のUHFラジオのスイッチをいれた。 「こちらスターリン、フルシチョフ応答せよ」 「こちらフルシチョフ、どうぞ!」  ヘルメットのヘッドホーンから、間髪を入れず応答があった。 「こちらスターリン。フルシチョフ同志、やはりエンジンの調子がおかしい。二番、三番の温度が昇りっ放しだ。一番、四番も通常値を上回っている」  スタイガーは必要もないのに、中央パネルのヒートインジケーターを、わざわざ指で弾《はじ》いてみせた。 「引き返しますか?」 「そうしよう」  自動操縦《オート・パイロツト》を解除すると、スタイガーは徐々に機を左へバンクさせて行った。一八〇度の方向転換が終わると、次は操縦桿を心持ち前方へ倒す。すると機は、ゆっくりと高度を下げ始めた。下界を覆っている密雲が、まるで悪魔が足音を忍ばせて近付くような感じで、ゆっくりと迫って来た。スタイガーは、スロットル・レバーに掛けた左手が、じっとりと汗ばんで来るのを感じていた。  オブラートのような空気の流れに乗って進む飛行機にとって、乱気流を生み出し、雨意をはらむ雲ほど危険な存在はない。彼の愛機は、まさにその悪魔の申し子のような圧倒的なパワーの内懐へ、エンジンを切ってまでして突入しようとしているのだ。 「こちらフルシチョフ。スターリン、どうした!? 高度が下がっているぞ」 「二番、三番を閉鎖。一、二番も絞っている。異常燃焼だ!」 「大丈夫ですか? 隊長」 「再点火を試みる」  スタイガーは高度計を一瞥《いちべつ》した。三万フィート。雲さえなければ、一〇分で五、六十マイル程の滑空が可能だが、雲中飛行となると、せいぜい五、六分が限度だ。  彼が胸の内でそう呟いた直後、機は密雲の上辺を引っ掻《か》いた。まるで鞭打たれたかのように、二〇〇トンを超える巨体が身震いする。そして次の瞬間には、機はすでに、15号台風ジェニファーの外周──気象衛星写真によると、その部分はせいぜい後れ毛程度にしか写っていなかったが──に突入した。窓の外はすっかりミルクをぶちまけたような純白の世界に変わっていた。 「スタイガー! 早く反転を」 「オールエンジン、カット! それが先だ。それに無線を使っている間、反転は出来ない。針路を悟られるからな」  スタイガーはパワーを完全に絞った。エンジンが死んで、風防を切る風の音が、コクピットを支配した。 「ピーター、ブロウヘッド機のラジオを逆探知。位置を報告せよ!」 「了解、ボス。連中は雲の上です。ほぼ真上、高度差五〇〇〇フィート。更に開いてゆく模様! ああ待って下さい。雲の中へ降下を始めました」  スタイガーはすかさず僚機に呼び掛けた。 「フルシチョフ! 接近はするな。爆発に巻き込まれるぞ!」 「しかし! ではラジオをモニターする。発信音を絶やすな」  スタイガーはエンジンに異常事態が発生した時のテキスト通りの復旧方法《レカバリー》を試みた。まだ、隣りで顔面蒼白に陥ったバスを見やる余裕はあったが、それにしてもひどい揺れだ。上下左右、容赦ない平手打ちを喰らっているようだ。やがて大粒の雨が、機体を叩き始める。現在の緯度と高度では、さして着氷の心配はなかったが、揚力が大幅な減衰を余儀なくされる。こういう状況で一番危険なことは、水平感覚を失うことだ。推力もないとなれば、機体がほんの僅か傾いただけで、失速という、飛行機にとっては、心臓にナイフを突き刺されるのも同様の状況に至ってしまう。  スタイガーは夜間飛行の要領で、ただひたすら水平儀と旋回傾斜計を凝視して操縦桿と方向舵を操った。 「バス……、マックス! 高度計を読むのはあんたの役目だろう?」  バスはハッとしたように、瞼をしばたたいた。 「す、すまん。私も二〇〇〇時間を超える飛行時間を持っているんだが、根が技術屋なものでな。高度二万三〇〇〇!」 「ボス、フルシチョフ機は当機の五〇〇〇フィート前方に出た模様。これ以上の追跡は不可能です」 「よし! 連中が戻って来るぞ。赤外線フレア、スタンバイ!」 「こちらフルシチョフ! 隊長、脱出して下さい。そちらの位置がよく掴めない」 「フルシチョフがバンクを描き始めた!」  ピーターが叫ぶ。スタイガーが「了解」とだけ答える。 「フルシチョフ! もう一度だけやってみる。それで駄目なら脱出する。用意は整った。まずはナンバー1エンジンからだ。三、二、一、スタート!」  スタイガーはスタートの掛け声と共に、赤外線ミサイル欺瞞《ぎまん》用のフレア弾の発射ボタンを押した。B‐1の背中に埋め込まれたディスペンサーから飛び出たロケットは、マグネシウムとテトラフルオルエチレンの混合弾頭を発火させ、巨大な炎を引きながら、空中を漂うようにゆっくりと落ちてゆくはずである。 「ボス、巨大フレアを確認! たぶんフルシチョフも探知しています」  ピーターがそう言い終わらぬうち、絶叫に近いブロウヘッド中佐のコールが入った。 「スターリン! スターリン! どうしたか!? 応答せよ、スターリン!」 「成功だ。奴らは俺の機が吹っ飛んだものと錯覚している」  スタイガーはブロウヘッドに応答する代わりに、ラダーを蹴りながら操縦桿を左に倒して、一八○度のターンを切った。 「高度一万二〇〇〇! エンジン点火を急いでくれ。さもなきゃあ、海面に激突して本当におだぶつだぞ」 「ピーター、大丈夫か!?」 「オーケー。この豪雨では探知される恐れはありません。ただし、最初は念のため、エンジン二基で願います」 「了解」  スタイガーは、直ちにエンジン始動の措置をとった。 「マスタースイッチ……、ピッチレバー……、スロットル、ポンプ、ミックスチェア、スタート、ON!」  何の、風防を叩く雨の音以外、何の反応も現われない。 「どうした!? 点かないぞ!」 「うろたえるなっ。外気温はもうプラスだが、途中で凍結したのかも知れん。キャブヒーターを入れてみる」  もう一度、二度! 同じ動作を試みる。三度目に移ろうとスタイガーが決断を下した刹那《せつな》、小さな爆発音が伝わり、第三エンジンの回転数が、もどかしげに昇《あ》がって来た。やがて、確かな振動がシートから伝わって来る。  だが、安心するには早かった。 「高度が五〇〇〇を切った。急げ!」 「第二エンジン、スタート!」  機体内側の第二、第三エンジンが点火し、推力が徐々に戻って来る。しかし、スタイガーは上昇に移ろうとはしなかった。 「高度一五〇〇フィート! スタイガー! 私はこんな所で死ぬために、この機に乗ったんじゃないんだっ」  バスが喘《あえ》ぐように叫んだ。 「雨のせいで、規定の失速速度以上でも、バランスを失う恐れがある。もう少しの辛抱だ!」  白い波濤が視界を埋め尽くす。高度が七〇〇フィートを割った時点で、スタイガーはようやく機体を引き起こした。  バスがヘルメットを脱いで、額の冷や汗を拭う。 「レイモンド、私は見解を改めるよ。今日の今日まで、近代戦争を制するのは、ひとえに技術屋のテクノロジーだと自負して来たが、それを使いこなすプロの兵士達の要素は欠かせない」 「あんたとは、テスト飛行でずいぶん一緒に飛んだじゃないか? 今頃そんなことに気付くなんて、技術屋さんの頭はもっと柔軟だと思っていたが、案外|頑迷《がんめい》な一面もあるようだな」  スタイガーは親指を立てて不敵な笑みを漏らすと、短波通信のスイッチを入れた。ブロウヘッド中佐の、うわずった声が、グアムのアンダーソン基地を呼んでいた。 「スコットランドヤード! こちらグレグスン。ホームズ氏の出動を要請する!」 「こちらスコットランドヤード! ワトソン博士はいないのか!?」 「博士はいない。私はグレグスン警部だ! これから外出する!」 「いや、その必要はない! ホームズ氏は間もなくベーカー街を後にする。貴下は直ちに帰還されたし!」  バスがにんまりと微笑んだ。 「緊急コールにしては、ずい分洒落た暗号だな」 「これで、カデナ、ミサワに警戒線が引かれる恐れはなくなった。ことの次第に気付いた時には、我々はもう攻撃決定最終確認点《フエイルセイフ・ポイント》を越えているわけだ」  ピーターが、探知される危険が完全に去ったことを告げると、スタイガーはもう二基のエンジンを吹かし、適正高度へ上昇を開始した。  その後、このスタイガー大佐指揮するB‐1D戦略爆撃機カーチス・ルメイ号を目撃したのは、直径三〇キロに及ぶ、ジェニファー台風の巨大な瞳だけだった。  ホワイトハウス  いかにも学者らしい、こざっぱりとした部屋だった。装飾品といえば、壁に掛けられた自由の女神のタペストリーと、黒光りする高さ三〇センチほどの木製のブツゾウだけ。他にこの部屋に華やかさを添えているものがあるとしたら、デスクの後ろに立て掛けられた星条旗ぐらいのものだと、アヤセは思った。  国防長官を務めるジョセフ・ジャストロゥ教授は、身を屈めるようにして、キャビネットの引き出しを手前へ引いた。かつてスタッグス大統領と、ハーバードのフットボールチームでクォーターバックを争ったとは思えないほど、小柄な体躯《たいく》だった。デスクには、スタッグスと肩を組んで撮った昔の写真が立ててあった。手持ち無沙汰のアヤセは、何気なくそれを見詰めた。そのわきに、もうひとつ、フレームスタンドがあったが、こちらの方は伏せてあった。 「ずい分太っているだろう? 三十歳ちょっと手前だったかな。十二指腸潰瘍をやってね。それ以来ガリガリだ。私の主治医は、少なくとも以前よりは長生き出来るはずだと断言してはくれるんだが、君みたいにがっしりとした体格の人を見ると、昔が壊しく思われてね」  ジャストロゥ教授は一センチほどもある書類の束をデスクに置くと、一番上のリストをまずアヤセに渡し、自分は一項目めのレポートを取り上げた。 「それが、過去二日間に世界中で起きた国防総省関係の事件事故報告書のリストだ。空中給油機のギアが折れたというのから、フランクフルト基地で起きた同性愛事件まで。まあ、死亡事故の報告がない分だけ、平穏な日々だったと思うね」  アヤセはリストを一瞥すると、報告書の束を取ってパラパラとめくり始めた。 「君も、こちらの趣味はあるのかね?」 「そのブツゾウですか? 親父は凝《こ》っていたようですが、私はどうも」 「我々学者のように分析事を商売とする者は、論理的思考がモットーだからね。東洋芸術のように、論理や数学を超越した領域を理解するのは容易ではない。しかし、君も年がゆけば、いずれこの素朴な哲学を必要とする時が来るだろう……」 「ええ、まあ……」 「もう二十年以上も昔のことだが、私のゼミに、初めて日系人が入って来てね、非常に有能な青年で、私は後を継がせようと願ったのだが、その彼が、いつも父親のことを誇らしげに話していた。かの有名な四四二連隊で闘ったそうだが、君の父上も、鉄条網の中から、出兵されたのじゃないかな?」 「ええ。ただ私の親父は、ヨーロッパ戦線の四四二ではなく、太平洋戦線でした。二世でしたが、日本で教育を受けましたので、最初は情報部の日本語学校で教官を。まあ後には前線にも出たようですが」  アヤセはレポートをめぐりながら答えた。 「そう。それで君が日本語を流暢《りゆうちよう》に喋るわけか。私なんざ、ヘブライ語のへの字も出来ん。初めてイスラエルを訪れた時は恥をかいたよ。私も、先の大戦には参加したんだ。連合軍がライン川を渡ってからというもの、通訳として矢面《やおもて》に立った。しかし、恐らく君の父上程の葛藤《かつとう》はなかったな。当時ホロコーストについてたいした情報はなかったが、祖国を追われたという恨みを抱いていたからね。ためらうことなく銃を取れた」  教授はレポートを手にしたまま立ち上がると、窓際からイーストガーデンの緑を見下ろした。 「しかし、おかしなものだよ。アメリカは移民の国だというのに、少数民族《マイノリテイ》に対しては、やれ忠誠を証《あか》せだ、おまえはいったい何人《なんぴと》だと訊《き》いて来る。黒人がいなけりゃオリンピックには勝てないし、|スペイン系《ヒスパニック》がいなけりゃビルも建たない時代だというのに、我々はいつまでたっても差別され続ける」  アヤセは報告書の束を置いた。ジェネシスグループの端緒に繋《つな》がりそうな事件事故はなさそうだった。 「しかし教授、私もマイノリティの一員ですから遠慮なく言わせてもらいますが、ユダヤ人は成功を収めたと思いますよ」 「そう、それは言えている。他人はとやかく言うが、我々はとにかく一応の権力は持った。二度と、アウシュビッツを繰り返さぬためにね。勤勉さと、弛《たゆ》まぬ努力の賜物と自負したいね。日本が成功したのも、ユダヤ人の発想と共通する部分があったからだろう。ああしかし、私がユダヤ民族を自画自賛したなんて外で言わんでくれよ。何しろ私は、かつてアメリカ外交を牛耳った某教授と違って、謙虚なユダヤ人で通っているんでね」  教授の柔和な顔が一層|綻《ほころ》んだ。 「私はこれで失礼します」  アヤセは謝辞を述べながら立ち上がった。 「何なら、過去一週間のファイルも見せるが」 「いえ、それには及びません。ただ、何か特異な事件でも発生した場合は、私の部屋へ御一報を願いたいのですが」 「ああむろんだ」  二人は、握手を交わした。 「そうだ。もう一つお伺いしたいのですが、さっきの日系の優秀な学生というのは?」  ジャストロゥは、一瞬悲しげな表情を見せると、ぽつりと呟いた。「無事に帰っていれば、君と同じくらいの、今が働きざかりだ」  そのひと言で、アヤセはすべてを悟ってしまった。 「名をマイク・カリヤと言った」  瞬間、アヤセの表情が凍り付く。 「ベトナムヘ旅立つ直前、私は初めて彼の両親と会い、兵舎を訪ねた。町には反戦運動が溢れ、脱走兵を追跡するMPが繁盛していた時分だった。大学に残っていれば、徴兵猶予が適《かな》えられたというのに、彼ときたら、胸を張ってこう言うんだ。『我々は、いついかなる時でも、アメリカ市民として、国家へ忠誠を証す義務がある。それがまた、マイノリティの権利確立の唯一の方法だ』今でもはっきり憶えているよ。帰りの飛行機の中で、私が陰欝《いんうつ》にふさぎ込んでいると、彼の父上が、サムライのハガクレ精神というのを教えてくれた。私はそれを、神父から、たとえ肉体は滅んでも魂は我々と共にありと説教されているような気持ちで聞いたものだ。何でも、ヘッドハンターズとかいう特殊部隊で戦死したとか。  いや、すまない。君にベトナムを思い出させてしまったかな。ただ君を見ていると、彼の面影がよぎってね……」 「いえ、いいんですよ」  アヤセはもう一度握手を求め、心からの礼を述べて教授と別れた。  教授、マイクを死地に赴かせたのは、この私ですよ。彼の骨は、誰にも拾われることなく、あのジャングルの中に未だに眠っている。私が見捨てたのです……。  廊下を重い足取りで歩いているうち、教授の秘書官が電話口に向かっている話し声が追い駆けて来た。 「B‐1が!? 核装備のか!?」     6  北太平洋  オケアン級情報収集艦オリガ号の艦長ユーリー・カザンキナ中佐は、右手にしっかりとウオッカの小瓶を抱き、左手でむんずとラッタルの手摺《てすり》を掴《つか》みながら、途中、何度か、もどしそうになるのを、無理に腹の奥へ押し留めて、レーダー室に降りて行った。  オリガ号は、軍艦とは名ばかりの、八〇〇トンに満たない、元トロール漁船である。カザンキナ艦長は、「命令とはいえ、こんなに急いで帰還する必要はなかったんだ」と、胸の内で臍《ほぞ》を噛んだ。こんなオンボロ艦で台風の後ろをノコノコ追ってゆくなんてのは、無謀以外の何物でもない。たかが対空レーダーの故障くらいで、いちいち一万キロも彼方のウラジオストックまで帰らなきゃならない。こんなことだから我がソビエト海軍は、いつまでたっても非能率で、沿岸艦隊のレベルを抜け出せんのだ!  レーダー室では、アンドレイ・コミソワ技術中尉がコンソールに向かっていた。 「同志コミソワ! 職務熱心で大いに結構だ。酔い止め薬を持って来たぞ」  カザンキナはウオッカを、コミソワが覗き込んでいた赤外線探知レーダーのブラウン管上に置いた。 「おかしい……」  忠実なる共産党軍人を絵に描いたようなコミソワ中尉は、ウオッカに目もくれず、頭を抱え込んだ。 「大物が墜落したそうだな」 「ええ、ステルス仕様のB‐1D戦略爆撃機。しかも実弾装備、つまり本物の核を積んだ奴です。しかし、どうも納得し難い面があるんです」  コミソワは交信テープと、赤外線レーダーの記録テープを巻き戻した。 「よろしいですか? 墜落前後の状況を再現します。  UHF交信、これは通常編隊間の通信に利用されるものですが、スターリン機がエンジン不調を訴える。因《ちなみ》にこのスターリン機の機長は、グアム駐留爆撃機部隊の飛行隊長を務めていたレイモンド・スタイガー大佐かと思われます……。  スターリン機がだんだん降下して来ます。通信の逆探知でだいたいの位置が掴めますが、このスタイガー大佐の何度目かの『スタート!』の掛け声の直後、大きな光点が探知されます。これです。フルシチョフ機はこれによって、スターリン機が爆発したものと判断します」 「おおかた、整備兵がネジの一本も締め忘れたんだろう」  艦のローリングで、ブラウン管上のウオッカが滑り落ちる。「おっとっと」カザンキナはそれを、目にも止まらぬ素早さで受け止めた。それはまるで、この世の万物すべてを投げ打ってでも、これだけは決して手放しはしないという、妙ちきりんな気迫に満ちた動作だった。  まったく、この酔いどれ艦長ときた日にゃ、艦が沈むその瞬間にも、部下を放っといて、ウオッカと心中するんじゃなかろうか……。  コミソワは怒りをぐっと飲み込んで、事務的に説明を続けた。 「御覧の通り、スターリン機が爆発したのは、我が艦の後方です。ところが……ここです。本艦左舷八〇〇〇メートル、高度二〇〇〇メートル付近において、突如、光点が出現します」 「別に珍しくもないだろう。いう所のUFO。今まで何度となく探知した」 「あれは普通、かなりの高空から、しかも良好な気象条件下で出現する癖があります。  更に、一〇〇〇メートル前方で光点がエネルギーを増し、やがてゆっくりと高度が昇《あ》がってゆきます。間もなく消えますが、これはもちろん目標が遠ざかってゆくためです」  カザンキナは、まるで北極熊のような巨大な手でコミソワの肩を掴むと、初めて興味ありげにブラウン管に見入った。「どういうわけかな……」 「つまり、スタイガー大佐は、乗機の回復に成功したのではないでしょうか?」 「じゃあ、今、真上をブンブン飛び回っとる連中は何なんだ? 二次遭難の恐れもあるのに。第一、私はグアムからの遭難機に関する、連中は単に航空機が行方不明だとしか言わんかったが、とにかく丁寧な問い合わせを受けている」 「ええ、確かに連中は、スターリン機が墜落したものと判断しています。しかし不思議はないでしょう。スターリン機が爆発のような現象を起こした時、私はたぶん、赤外線フレアを放出したのだと見ますが、僚機はそれ以上のものを探知することは出来なかったし、またUHF通信による直後の呼び出しにも、スタイガー大佐は応えていないのですから。スターリン機は、合衆国空軍の指揮下を離脱したのではないでしょうか?」 「どうしてそう言える?」  僅《わず》か五分前まではとろんとした目で足もともおぼつかなかった男は、今やすっかり視線を定め、激しい揺れの中、仁王立ちしてさも自然にバランスを取っていた。今や彼の脳裏を支配しているのは、未知なる物への狩人的本能と、指揮官としての明確な使命感だった。 「スターリン機が転進したからです」  コミソワは明敏に答えた。「彼らは当初、アクシデント機が通常行うように、基地への針路をとります。従って、滑空中の針路も当然南です。ところが、回復に成功した時は、北へ向かっている。これを説明すべき論理の組み立ては、ちょっと不可能ですよ」 「我々の情報収集能力を試すための、アメリカさんの罠ということは考えられないか?」 「それはあり得ないと思います。我々のおおまかな位置を推定することは出来たでしょうが、我が方のアクティブ・レーダーが故障で、B‐1が直接オリガ号の存在を知ることは不可能だったはずです。それでいて、オリガ号のこれほど近くで、命掛けの芝居を打てるというのはどうも……。それに言っちゃあ何ですが、このオンボロ艦の性能は最早アメリカには筒抜けで、たいしたメリットはないでしょう」 「奴らの目的は何だ?」 「例えば、第三国に核兵器を破格の値段で売り付けるとか」 「いや、違うな」  カザンキナはきっぱりと首を振った。「奴らは、北へ針路をとったのか……。最悪の事態を想定……」 「最悪、というと?」コミソワの声は微かに震えていた。  カザンキナ中佐はインターカムを取った。 「通信室! ボチナの親父は? 寝込んでいるだと!? 叩き起こせッ。緊急事態だ。モスクワへの第一級衛星通信を行う」 「艦長、ウラジオストックか、せめてハバロフスクを通した方がよくはないですか?」 「同志コミソワ! ノルマを無難に処理しているだけでは、進歩はないぞ。我が祖国を蝕んでいるものこそ、この事なかれ主義と、硬直した官僚主義だ。平時においては、私のようにウオッカと共に寝起きするのも悪くはない。しかし、今や一大事と予測される。コミソワ中尉、軍において出世するには、まさにこういう緊急時を利用するのが一番だ。お互い、いつまでもこんなオンボロ艦に居たくはないだろう」  カザンキナはコミソワの、律儀に階級章まで付いた軍服の肩をポンと叩くと、再びインターカムへ向かった。 「親父さん! 起きたかい? 異例だがモスクワへの直通通信だ。暗号電の内容は、 �核装備ノB‐1D爆撃機一機、墜落ヲ装イ、指揮下ヲ離脱、北方ヘ逃避。意図不明ナルモ、厳重警戒サレタシ!�  以上を当艦の現在位置と共に発信してくれ」  カザンキナは北太平洋の広域海図《チヤート》を取り出し、現在位置から沿海州へのコースをいく度となく、まるで舐《な》めるように見詰めた。もちろんそれは、オリガ号の辿《たど》るべきコースではなく、敵の戦略爆撃機の予想進撃コースである。 「なあコミソワ中尉、あのステルス機を、阻止できると思うか?」 「B‐1爆撃機のDタイプは、その性能さえ不明な点が多い最新鋭機です。それに認めたくはありませんが、我が軍は、アメリカに比べて十年は技術の遅れがあります。私は少なくとも、撃墜できるという断言は避けますね」 「ふん」  たった一機の爆撃機がもたらす波紋、脅威、恐怖、そして破滅……。 「どうも、今夜は睡眠薬の助けが要りそうだな」 「もし、明日の朝、世界が消え失せるとしたら、私はせめてこの世の名残りに、ウオッカでも抱いて眠りたいですよ」  オリガ号。この僅か八〇〇トン足らずの情報収集艦には、最早何のなす術《すべ》もなかった。木の葉のように揺れるその船体に似て、乗員の心は、ただ翻弄されるばかりであった。     7  クレムリン  八〇年代の西側を牛耳ったロナルド・レーガンは、果てしない軍備競争というチキンゲームによって、ソビエトを追い詰め、経済破綻を招来させることを目論《もくろ》んだ。だがしかし、そうはならなかった。  辛うじてソビエトがアメリカの軍拡に応じられたのは、牛歩のごとくではあったが、ソビエト自身の着実な経済発展に拠るものであり、その指揮を執ったのが、現在クレムリンの城主を務める、ジョーゼフ・アダム書記長である。  彼はまず、規律強化という鞭を振るい、次にボーナスという飴を与え、西側ではごくあたりまえの方法によって、生産性の向上に努めた。また、西側の経済学者が、彼の国においては奇跡的現象と評した市場原理も導入した。中国や他東欧諸国をモデルとしたこの方式は、市場経済とマルキシズムの危険な綱渡りと揶揄《やゆ》されもしたが、しかし結構なカンフル剤にはなった。  つまり、彼の最大の功績は、社会主義の根幹に関わる、労働思想の改革だったのである。即ち、社会主義革命への奉仕としての労働ではなく、労働者自身の幸福と生活向上のための労働活動……。もちろん、この百八十度ともいえる発想の転換は、旧イデオロギーに固執する勢力から猛烈な反発を受けた。しかしアダムは、極めて慎重に、反対勢力を懐柔し、あるいは静かに失脚させ、自らの身辺を徐々に固めて行った。これらの技術は、彼が官僚テクノクラートを卒業し、政治局員に昇格した八〇年代初期に学んだものだった。あのスースロフ死去に始まるクレムリンの暗闘劇が、アダムを権謀術数の指導者として成長させ、また彼に権力を授けて行ったのである。  遠くで、彼を呼ぶ声がした。浅いまどろみではあったが、何かが呪縛するかのように、意識の覚醒を妨げていた。アダムはそれを振り払うように呼吸を深めた。リュドミラが逝ってからというもの、彼の健康は、すっかり損なわれてしまっていた。アダムは指の間から零《こぼ》れ落ちそうになっていたシェーファーを握り直すと、決裁書類へのサインを続けた。第一秘書のゲオルギー・コルニエンコが、吸取り紙で乾かしてゆく。中央委員でありながら、下っ端の役回りまでこなす便利な男だ。野心もほどほどで、クレムリンきっての小咄《アネクドート》好き。退屈ということを知らぬ男でもあった。 「スターリンはテロリスト、フルシチョフはツーリスト、ブレジネフはモータリスト、アンドロポフはチェキスト、無趣味のチェルネンコは無冠で終わりましたが、あなたは何でしょうな?」 「ほら、この前アメリカ大使と会談した時、彼が言っておったよ。『閣下は有能なビジネスマンですな』」 「語呂合わせはまずいですが、あながち外れてもいませんな」  アダムは渋い表情で頷いた。 「あまり言い触らさんよう、釘を刺しておいた。実業家は革命の敵だからな」 「そう言えば、例のプラウダの経済自由化批判論文の執筆者を突き止めました。計画経済相のマレンコフです」 「リトビノフの子飼いか……。まあ、言いたい奴には言わせておくさ」  コルニエンコは決裁書類を片付けると、ブリーフケースからレポート用紙を取り出した。 「これが、明日の午後、ゴーリキーの半導体工場で行う演説のコピーです。ひと通り目を通しておいて下さい」 「またアネクドートで始まるのか?」 「あなたがモスクワ大学時代におやりになった、密告の奨励やユダヤ人排斥運動とかも効果はありますがね、やはり大衆の心を掴《つか》むには、この方が効果的でしょう。より人間味のある、指導者像の形成ですよ」 「その話はよせ。スターリン時代の苦い思い出だ」 「いえ、私はあなたの変わり身の早さを誉めたのですよ。では、私は最終便でひと足先に行って準備に当たりますので」  コルニエンコは、今にも外に飛び出しそうな重装備で部屋を辞してゆく。小肥りの男がコートを着込んだため、その後ろ姿は、まるでボリショイサーカスの小熊《ミーシヤ》のようだった。かつてのフルシチョフを彷彿《ほうふつ》とさせる愛嬌の良さや、間の抜けた容貌が、他の同志にさして警戒心を与えず、ここまでの出世を可能にしたのであろうと、アダムは思った。  机上のインターホンが鳴った。 「同志書記長、記念通話行事のお時間です」  KGBクレムリン警備隊書記局付きのヨーゼフ・スーベル中佐の声だった。  アダムは「わかった」とだけ答えると、背広のボタンを掛け、コルニエンコの演説コピーを小脇に抱えて部屋を出た。  スーベルが、相変わらず無表情な敬礼で待ち構えていた。この男と付き合い始めてもう二年になるが、アダムは未だに人間らしい会話を交わした憶えがなかった。経歴は申し分ないし、確かに切れる男には違いない。しかし、何を訊いても、いかにもKGB的な紋切り型の無味乾燥な答えしか返ってこない。笑うわけでもなし。ひょっとしてこの男は、子供達と語らう時でさえ、抑揚のない調子で話すのだろうか。  スターラヤ広場に面するソビエト共産党中央委員会本部五階の執務室から地下の軍事司令部へ通じる専用エレベーターの中で、アダムはおもむろに口を開いた。 「中佐、今日は顔色が勝《すぐ》れぬようだが……」  スーベルはまったく無表情だった。 「君は、軍病院で優先的な診察が受けられるはずだが、どうもああいう所は好きではないらしいな」  スーベルの顔に、サッと警戒するものが走った。 「実は、ヤシャナチェフという町医者から報告があってね。いや、彼を恨んではいけないよ。軍や党関係者の病気の報告は、彼らの義務のひとつだからね。肝臓が悪いそうじゃないか?」 「いえ、自覚症状も今では感じない程度のものでして」 「しばらく、静養してみてはどうだね? この所、君はたいした休暇も取ってはいない。確か、十歳の男の子と、七歳の女の子がいたね。子供達も喜ぶだろう」  スーベルは初めて、この二年間で初めて感情の籠った表情を示した。それは、アダムが自分の家族のことまで記憶に留めていることへの驚きと、失脚への絶望感の表われだった。「そ、それは……」 「ああいやいや、君が考えているような意味ではない。君の仕事振りは実に申し分ない。もちろん一時的な休暇だ。私もしばらくは引退を迫られる心配もなさそうだから、君のポストは誰にも渡しはしないさ」 「はあ、しかし……」  エレベーターの扉が開いた。 「まあ、明日にでも精密検査を受けるがいい。私のことを考える必要はない。少しは家族の面倒もみたまえ」  アダムは左手に持ち直したコピーで、スーベルの胸を軽く叩くと、微笑みを残しながら、薄暗いホールへと消えて行った。スーベル中佐は慌てて右手を挙げる。しかしその敬礼は、さっきまでの儀礼的なものではなかった。尊敬と、感謝の念を込めた、彼の心からの敬意の表われだった。     8  ホワイトハウス  ホワイトハウス西館地下六階。アヤセがこの新設なった大統領地下軍事司令部に入るのは、もちろん初めてのことだった。  バスケットボールのコートが二面は入りそうな広さで、中央の天井から、相互視覚通話《MIC》システムのために特別に設計された巨大スクリーンが下がっている。そのスクリーンを挟んで、表側には国家安全保障会議《NSC》のメンバーが陣取るオーバルテーブル、裏側には、全軍への情報通信、命令を統轄する国家情報統制《NIC》センターが設けられていた。  アヤセは自分の席——それは席というよりボックスに近かったが──、ランプが仄《ほの》青く照らすテーブルに着いた。  中央のスタッグス大統領を挟んで、左側に主席補佐官のマーク・ローマン、副大統領のサムソン・サンディッカー、国務長官のスマイリー・ジャクソン、右側に、CIA長官のコルウェル・コンラッド、国防長官のジョセフ・ジャストロゥ教授、その隣りにアヤセ、そして統合参謀本部議長のアルフレッド・スターバック陸軍大将が座っていた。  ジャクソン国務長官が、スクリーンの上の�SONY�のマークを目敏く見付けて、「やれやれ、こんな所まで、日本製品に侵略されましたか」と嘆いた。 「まあ、カリフォルニアの軍需産業界が生き残っている限りは、まだまだメイド・イン・USAにも勝ち目はあるさ。まさかミツビシの戦闘機で、アメリカを守るような日は来んだろうて」  カリフォルニアの軍需産業界において、コンサルタント活動を行っていたコンラッド長官が、自信ありげに答えた。  米軍ハイテク兵器に使用されている半導体製品の、実に七〇パーセントが日本製である事実をアヤセは知っていたが、口に出すのは止めておいた。 「では、御説明申し上げます」  国家安全保障会議《NSC》スタッフの正面、スクリーンの真下に陣取る国務省ソビエト担当国務次官補のロイド・スマッツが、スタッグスが席に着いたのを見て取り、鷹揚《おうよう》に口を開いた。 「さて、マイクのスイッチは私の手元にありますが、個人のカフ(音量スイッチ)は皆様のお手元にもあります。それから、ランプですが、これはカメラとの軸線を考えて置かれています。カメラはスクリーンのほぼ中央に、皆様からは三枚のレンズだけが見えるかと思いますが、これがより自然な視線を形成することになります。そして、もし皆様が他のスタッフ、あるいは部下との内密な会話を交わされる場合は、ランプの笠の部分に唇が隠れるように努められることを願います。ソビエトの映像技術からして、その心配は無用かとも思われますが、読唇術に対応するためです。軍関係のコンソール操作を担当するのは、ウイリアム・ハンレー大佐です」  スマッツ次官補の後ろの、まるで宇宙船のコクピットを想像させる賑やかなコントロールボックスで、国家情報統制《NIC》センターの各種スクリーンを睨んでいたハンレー大佐が、ヘッドセットを掛けたまま振り返った。 「皆様の御命令ひとつで、スペースシャトルの飛行士から、いかなる地域に展開中の一兵卒に至るまで、いつでも交信が可能な状態にあります」 「ひとつお願いしようか、大佐」  スタッグスが面白そうに呟いた。まるで、新品の玩具を与えられた子供のような瞳の輝きだった。「どこか適当な……」 「ああそれなら、グアムのアンダーソン基地を頼む」  ジャストロゥ教授が心配そうに言葉を繋《つな》いだ。 「さっき、B‐1爆撃機が行方を絶ったままなんだ」  教授が言い終わらぬうちに、ハンレーが空軍担当官に衛星回路のオープンを命じた。  一分。 「結構時間が掛かるものだね」 「いえ、すでにグアムは出ております。ただ国家最高指揮権限者《NCAプライム》、大統領の名を使いましたので、恐らく司令部に若干の混乱が生じたものかと思われます」 「お待たせいたしました。こ、こちらはアンダーソン基地を預かるカール・マレン少将であります」  いくらかうわずった声が、スクリーン両脇のスピーカーから流れて来た。 「将軍、行方不明機の捜索状況はどうなっているかな?」 「はい、大統領閣下。現在全力を尽して捜索活動を展開中でありますが、何分、該当ポイントの天候が優れぬために、困難を極めているというのが現状であります」  判で押したような答えだった。 「何も見付かっておらんというわけか……。二次遭難には気をつけてくれたまえ。兵士諸君の献身には感謝するが、安全を第一に考えるよう。それが私の何よりもの願いだ」  アヤセの隣りのスターバック将軍が、嘲けるような失笑を漏らした。その軽蔑は明らかにスタッグスへ向けられたものだったが、アヤセ以外にはもちろん、誰も気付きはしなかった。 「皆様の後方二階席には、国務省、国防総省、CIAの分析スペシャリスト、及びメディカルスタッフが陣取り、適切なアドバイスを下す手はずになっております。それから、左手のエレベーター横に、パーソナルブースが五部屋設けられております。仮眠、もしくは機密性の高い命令事項、及び伝達のためのカプセルとして御利用下さい。また、軍の最新情報は……」  スマッツはハンレーを振り返った。巨大スクリーンの後ろから、ミニサイズのスクリーンが降りて来た。 「ええ、この戦闘情報統制《CIC》スクリーンにテレタイプで映し出されることになっております。むろん通常の映像スクリーンとしても利用できます。さて、そろそろモスクワからのテストパターンが届く頃です」  相互視覚通信《MIC》システムのスクリーンに、浮かび上がるようにワシントン・モニュメントの夕景が映し出された。 「たった今、ホワイトハウスから望んだワシントン・モニュメントの夕景が、MIC衛星を通じてモスクワへ送られました。向こうからは、モスクワ川の対岸から望んだ、クレムリンの夜景が、まずパターンとして送られて来るはずです。クレムリン側の出席者は、恐らく十四名いる政治局員中、党書記を兼務する七名かと思われます。お手元の書類に、その七名の経歴と、最新情報によるパワーバランスを記して置きました。昨年の革命記念日以来、序列に特筆すべき変動はありません。強いて注目すべき点を上げれば、軍参謀総長のズデナク・クーシキン元帥が列席するかどうかです。これで、ある程度、軍の党における権勢を推し量ることが可能でしょう。こちらは、スターバック将軍をオブザーバーとして出席させると、すでに通告してあります」 「しかし、連中はなぜこんな深夜を選んだのだ?」  スタッグスはスクリーン端の、モスクワ時間を示すデジタル数字に視線を向けた。 「あちらの外務省は、アメリカ側に配慮したなどと喧伝しておりますが、恐らく新たな権力闘争の火種になるのを恐れたのでしょう」 「と言うと?」 「つまりこういうことです」  ジャクソン国務長官が部下の言葉を引き継いだ。「向こうとしては、宣伝材料に使うため、記念通話をどうしても、革命記念日前に行いたい。しかしクレムリンは、それに続く党大会の準備で多忙を極めている。日中に行うとなれば、党書記の誰かが、他の誰かに都合を合わせて予定をやり繰りする必要が出て来る。だから、皆を平等に縛れる深夜を選んだのでしょう」 「ふん、相変わらず微妙なのだね」 「では皆様、イヤホンをお掛け下さい。通訳と我々のアドバイスが入ります」  モスクワからの映像が届くまで、かなりの間があった。スタッグスは一度掛けたイヤホンを外すと、掌で弄《もてあそ》び始めた。 「ねえ諸君、米ソのホットラインが、テレックスからファクシミリに発展するのに二十年を要した。私はそれを、僅か一年の交渉で、音声通信を一足飛びにしてテレビ回線の導入に成功した。これだけを取って見ても、私はもう少し評価されて然るべきだと思うがね……」  誰も、何も答えず、相槌を打つスタッフさえいなかった。気まずい空気が流れ、スタッグスが溜息を漏らした刹那《せつな》だった。CICスクリーンに鮮かなグリーンの光沢を放ちながら、テロップが流れ始めた。 ──国家安全保障局《NSA》提供──  トルケスタン、中央アジア、シベリア、ザバイカル、極東ノ各ソビエト軍管区ニ、防空警戒命令発令。 「ふん……、我が方のスクリーンの調子は上々のようだな。しかし大佐、私が書記長と会談中には、こういう物騒なテストパターンは流さんでもらいたいね」 「いえ違います、閣下。これはたった今、通信傍受衛星が、モスクワの防空軍司令部からの命令をキャッチしたものです」  アヤセが真っ先に反応した。 「ハンレー! これは演習ではないのか?」 「違います、将軍《ゼネラル》。そういう情報は入っておりません」 �ゼネラル�と呼ばれたアヤセは、一瞬キョトンとした。空軍要員が多数を占めるフォートミードのNSA本部では、彼は波風を立てるのを嫌って、滅多に陸軍の制服を着ることはなかったし、その上、大統領のお情けで、軍籍を離脱するにあたり、星ひとつをもらって准将に昇進したのは、つい三日前のことだった。 「中国との小競り合いじゃないのか?」  スターバック将軍が口を挟む。 「それも現時点ではあり得ません。中国軍に何の動きも認められませんので」 「何だろうな」 「モスクワからの映像入ります! ただし、会議室のダイレクトな映像です」  相互視覚通話《MIC》システムのスクリーンに、こちら側のテーブルと似たりよったりの楕円形のテーブルが映し出された。違っているものといえば、中央に置かれたミニサイズのソビエト連邦旗ぐらいであろう。  おおかたの西側の人間のイメージと違わず、政治局《ポリトビユーロー》の面々は、ブスッと黙りこくったままで、ただひとり末席を占めるクーシキン元帥だけが、スクリーンの裏側に向かって、何かを話し掛けているようだった。 「まだ音声が届いていませんが、ひとまず皆様に映像を送ります。ロシュトック君、クーシキン元帥の唇を読めないか?」  スマッツは、階上の分析ルームを見上げた。 「待って下さい」  イヤホンを通じて、階上からのトーンバックがスタッフの耳元に届いた。 「ええ、北太平洋に展開中の、海軍艦艇にも……、捜索を命じよ。……しかし、何かの、見誤りということは、ないのか? ……同志コマロフ元帥とアムール提督をここへ……。ええこれは恐らく防空軍参謀長のアレクセイ・コマロフ元帥と、海軍司令官のアルビド・アムール提督のことかと思われます」 「北太平洋か。何の騒ぎだろうな」 「あっと、音声が通じるようです」 「閣下、国家安全保障局《NSA》の情報はなかったものとして、会談を進めて下さい」  アヤセは身を乗り出し、笠に唇を隠しながら忠告を与えた。スタッグスが「もちろんだ」と答えた。  スタッグスは、クレムリンの七名の党書記兼政治局員らがイヤホンを付け終わるまで、更に待たねばならなかった。  タイミングを計っていたスマッツが、右手を挙げてキューサインを出した。スタッグスは両手を柔らかく組むと、唇をひと舐《な》めしてからマイクに向かった。 「ソビエト連邦共産党中央委員会書記局員の皆様、今晩は。  こちらはアメリカ合衆国、ワシントンのジョン・スタッグスであります。この、記念すべき日に、皆様と映像によって直接お目に掛かれることは、実に画期的なことであります。また、アダム書記長閣下と再会し、お互いの健康を祝福できるのも私の喜びであります。戦争の脅威に対抗するため、また両国民が体制の違いを越えて相互理解をなすためにも、この新しいホットライン・システムが十二分に機能し得ることを、私は信じて疑わないものであります」  スタッグスの瞳に、アダムの隣席を占めるセデス・リトビノフ首相が皮肉そうな笑みをこぼしたように映ったが、もちろん彼は気のせいだと打ち消した。 「ああ、親愛なるジョン・スタッグス大統領閣下……」  アダム書記長がおもむろに口を開いた。まとわりつくようなロシア語が、イヤホンの通訳を阻害せぬ程度の音量でスピーカーから流れ始めた。 「閣下のたゆまぬ熱意と努力によって、この進歩的な通信装置が設置されたことに、深い尊敬を表すものであります」  アダムはここで一旦区切ると、演出じみた咳払いを挟んだ。 「ところで、両国の相互理解を一層深いものとするために、早急に解決せねばならない問題が生起しております」  スタッフの間を、軽い緊張感が走った。  アダムの左隣りに座る国防相のウラジミール・クジチキンが、マイクを一、二度弾いた。 「国防長官か、軍の司令官殿にお伺いしたいのだが……」  ジャストロゥ教授が、了解の印に頷いて見せた。 「グアム北方の太平洋海域において、貴国の戦略爆撃機が消息を絶った模様ですが、破片なり、乗組員の収容等は行なわれましたかな?」  ジャストロゥ教授はイヤホンを押さえながら、率直に答えた。「残念ながら、現地が時化《しけ》模様のため、まだ何らの手掛かりも掴《つか》んではおりません」 「そうですか……」  スクリーンの彼方で、何人かの党書記が溜息を漏らした。クジチキン国防相は、クーシキン参謀総長から何がしかのメモを受け取ると、老眼鏡を取り出しながら、顔を俯《うつむ》けて、ぼそぼそと呟いた。 「こんなもんだろうな」という溜息が、しっかりとマイクに入った。 「ええと、一度しか言わんので、よく聞いて頂きたい。実は、貴国の爆撃機が消息を絶った海域を、我が国のトロール漁船が偶然にも航行中でしてな。その船からの報告によると、B‐1爆撃機が墜落を装い、北方へ飛び去ったということだ」  コンラッドCIA長官が「トロール漁船ねえ……」と、鼻であしらうように呟くのと同時に、スターバック将軍が「バカな」と立ち上がった。  スターバックは国家情報統制《NIC》センターへ降りると、直ちに空軍参謀総長と海軍作戦本部長の出頭を要請した。 「大統領閣下、続けてよろしいですかな?」 「え、ええどうぞ」  クジチキンはもう一度、メモに視線を落として、肝腎の部分を確かめた。 「現時点の、限られた情報においては、我々は可能性の、つまり脅威の最大値を評価せざるを得ないものであります。即ち、該当機は依然として飛行を続け、悪意に満ちた目的を帯び、我が国領土への侵入を企図しているものと判断せざるを得ない」 「ちょっ、ちょっと待って下さい!」  スタッグスはクジチキンの冷徹な言葉を遮ってはみたものの、まったく二の句が継げなかった。狂っている……。その台詞しか浮かばなかった。 「閣下、かような判断は拙速に過ぎます。直ちに捜索範囲の拡大と、然るべき検索を行います。それまで、猶予が与えられるべきでしょう」  ジャストロゥ教授は外交的言辞を用い、落ち着いた口調でクシチキンを窘《たしな》めた。  クジチキンは、この何ら動ぜぬユダヤ人を、すぐさま対決すべき相手と見て取った。長年の間培われて来た臥薪嘗胆《がしんしようたん》の対抗意識が頭をもたげて来た。 「教授、言うまでもないが、我々は該当機が国境線を侵した時点で、いつでも然るべき手段を講じる権利と、十二分な能力を有しておる。私はただ、東西関係の平和維持に障害となるようないかなる行為も慎むべきであると考えているからこそ──」 「むろんです、国防相閣下。だからこそ、今しばらくの時間を頂きたいのです」 「よろしいでしょう。事の次第をそちらが確認するまで、体制の違いを越えた相互理解とやらは、お預けだ」  彼の言うべきことではなかったが、アメリカに対しては、何より高飛車に出ることが、最大の外交的効果をもたらすのだ、と自らを納得させた。  相互視覚通話《MIC》システムの音声が途絶え、スクリーンの画像が渋面のクレムリン指導者を映し出したままストップしてしまった。 「戯言《ざれごと》だな。連中ときた日にゃあ、何でもかんでも、すわ大祖国戦争だと騒ぎたがる。あの被害妄想意識はどうにもならんよ」  コンラッド長官は口許に侮蔑の気配を浮かべていた。  アヤセは安全保障問題担当補佐官としての職分について、半ば茫然と考えていた。アドバイス、そうアドバイスこそが私の任務だ! 「閣下、直ちにグアムを囲む空軍、海軍部隊に捜索命令を下すべきです。それも、西はインド洋から北はベーリング海、東は西海岸に及ぶ広範な地域に」 「し、しかし」 「ジェネシス……、まさかジェネシスグループの仕業じゃないだろうな」  副大統領のサンディッカーは、何気なく呟いたつもりだったが、他のスタッフは、ハッと気付いたように、戦懐の表情を示した。 「まさか!?」  アヤセは、今や確信を抱かずにはいられなかった。  ジェネシスグループ。ケネディを葬り、ベトナム停戦を画策した、あの超保守主義集団が再び目覚めたのだ! 「大統領。いずれにせよ、我々はソビエトの情報提供に対し、それを信用したという誠意を示す必要があります」 「外交上の損はないというわけか。いいだろう。念のためだ。アルフレッド、捜索範囲の拡大を命じてくれたまえ」  アヤセのボックスで、インターカムのランプが、心地好いアラーム音と共に点いた。 「私だ」  FBIのマーカス・モンローからだった。 「奴が動き出した。ひょっとして、何か起こっているんじゃないのか?」 「いや、まだ何とも言えん。しかし、彼はジェネシスグループの誰かと接触するつもりだろう。いいか、絶対に眼を離すなよ」  アヤセはモンローが、「俺を誰だと思っているんだ!」と毒づく前に受話器を置いた。 「閣下、ジャック・ヘンダーソンが動き出しました。スポークスマンと接触を計るものかと思われます」  何て厄日なんだ。スタッグスは胸の内で呟いた。ミディアとはつまらんことで喧嘩しなきゃならん。記者会見、NATOの理事会では叩かれる。そうだ、今夜はブラジル大統領との晩餐会もあったんだ。 「誰か地上のAEH君に、晩餐会の予定を三〇分、いや一時間ずらすように伝えてくれ。理由は何でも構わん」  スクリーンが、いつの間にかクレムリンからワシントン・モニュメントの夕景に切り替わっていた。  スクリーンから反射する鮮かなオレンジ色が、国家安全保障会議《NSC》スタッフ、世界を意のままに動かす権力と、手段と、才能という三種の神器を備えた男達を照らしていた。やがて、画面を覆い尽くしていた天恵の輝きが、上辺から迫って来た濃紫のカーテンに支配されてゆく。高さ一六七メートルの頂上にある航空障害灯だけが、彼等に文明の在り処を示す、唯一の証拠となる。  夜の帳《とば》り。すべてを闇に隠す驚異的な世界。長く、辛苦な闘いが始まったのである。     9  グアム  マーガレット・フラチアニ少尉は、ドアの前で、もう三〇分近く涙を流し続けていた。  大佐には、きっと予感があったのよ。未だかつてあんなことを思い付いたことはなかったのに、明日の朝は何か適当な花でも買ってデスクに飾っておいてくれなんて……。何ていう運命の悪戯なのかしら。そうだわ、きっと整備兵が手を抜いたのよ。大佐だって飛行機なんかほっといて、さっさと脱出すればよかったのに。あああの人は生粋のパイロットだから、雲の上で死ぬ道を選んだのね。しようがない人……。  マーガレットはハンカチで涙を拭うと、右手でコンパクトを取り出し、カトレアの花束を抱いた左の掌で開いた。鏡に映った顔は、すっかり化粧崩れしていた。彼女はことさら念を入れて化粧を直した。  ドアのノブに手を掛ける。キーを差し込み、二、三度ためらってから、一気に回した。ドアを開けると、澱んだ空気が彼女の華奢な体を包み込んだ。陽はすっかり頭上にある。暖まった部屋の空気がフロアーへ吹き抜けてゆく。彼女は急いでクーラーのスイッチを入れた。  デスク……。B‐1のプラモデルや、作戦図の類いが乱雑に積み上げられていた。彼女がたまに、片付けましょうかと申し出ると、大佐はいつもこう返したものだ。 「私は部下の進言はなるべく受け入れるようにしているが、いいかね、これだけは絶対に駄目だ。私はどの書類がどこにあるかはむろん、このB‐1のミニチュアが、何度の仰角をもって、どの方角を睨んでいるかまで把握している。合理性はないが、私にとってはこの乱雑さこそが、作戦を練るための冴えた心理状況を産み出す源になっているんだ」  どうせ見ず知らずの誰かが、まったく事務的に彼の荷物を片付けて段ボール箱に詰め込み、彼には不似合いなあの奥方に届けるんだわ。せめて私が、大佐の最期のお世話をしてあげなくっちゃ。私にはその権利と義務があるわ。  花束をゲスト用のソファーに置くと、彼女は早々、整理に取り掛かろうとした。だがデスクの上には、大佐自身が作ったB‐1爆撃機のプラモデルがあるだけだった。彼女が来る前にデスクはすっかり片付けられていたのである。  彼女は一瞬眉をつり上げた。まだ死亡が確認されたわけでもないのに、副官の私に黙ってこんなことをするなんて。許せないわ! マーガレットはそう呟きながら、デスクへ歩み寄った。プラモデルの台座の下に、タイプ用紙が二枚置いてあった。いずれも、見覚えのあるサイン、大佐のサインが入っていた。するとこれは大佐自身の仕業?  彼女はまず一枚目に視線を走らせた。 �親愛なるマーガレット……�自分へのメッセージ? それを読み進むうち、彼女の唇は半開きになって行った。覚悟の出撃? でも何のために?  フロントから足音が近付いて来た。 「何をしているんだね? 君は」  当惑ぎみの声の主を、マーガレットは最初無視したが、二度呼び掛けられて仕方なく振り返った。 「マレン将軍……」  彼女は目尻の涙を拭った。「こんなことになってしまって。デスクの整理をと思いまして……」 「何だね? そのタイプは」  彼女は「はあ」と小首を傾げながら、マレンに二枚のタイプを渡した。マレンは一枚目を無視すると、二枚目、まだマーガレットが目を通していなかった方を喰い入るように見詰めた。  それは、たった三行のタイプに、スタイガー大佐と他、マレンの知らない二名のサイン、それにスタイガーのちょっとした走り書きがあるだけだったが、彼の視線はいく度となく文面を走った。 「少尉、大佐の様子に変わった所はなかったかね?」 「いえ、別に。ただ花を、花をデスクに添えてくれと、昨日言われました」  彼女は何が起こっているのか、まったく理解できなかった。花、花のことなんてどうでもいいのにと、彼女はつまらないことを答えたことを後悔した。 「花か! 覚悟の犯行、計画的な犯行だな」 「犯行?」  マレンはマーガレットの不審げな呟きには答えず、タイプを握り締めると、入って来た時と同じように、大股で出て行った。  茫然と立ち竦《すく》むマーガレットの耳に、マレンの、喉の奥深くから絞り出すような、「悪夢だ!」という唸り声だけが残った。     10  ホワイトハウス  空軍参謀総長のハロルド・ジャービス大将と、海軍作戦本部長のジョージ・フリードマン提督が、オーバルテーブルの右席に陣取った。 「とにかく、燃料はもう尽きております。あれが本当にハイジャックされたのであれば、恐らく日本の何処か、あるいは反転してフィリピンで燃料補給を受ける必要があります」  ジャービス将軍は戦闘情報統制《CIC》スクリーンに映し出された行方不明機のデータを説明した。 「スマイリー、日本とフィリピン政府に協力を仰いでくれないか? 大型爆撃機を真っ昼間に人知れず着陸させることの可能な滑走路が、そうあるとも思えんが……」  半信半疑のスタッグスの言葉に、ジャクソン国務長官が本省へのホットラインを取った。 「所で将軍、該当機のニックネームのカーチス・ルメイ号というのは?」 「あああれは、ランドコーポレーションの創立者であるルメイ将軍のことでしょう。ベルリン空爆で勇名を馳《は》せ、後に第二一爆撃軍団司令として日本焦土化作戦の指揮をとった男です。戦略空軍《SAC》の初代司令官。空軍の大量報復戦略は、彼の発想に基づくものです」 「不吉な名だな」 「機長の名前が出て来ました。我が空軍のヒーローです」  レイモンド・スタイガー大佐の、華々しい経歴がスクリーンに映し出された。 「ベトナム戦争のエースパイロット。御承知のように、五機以上の撃墜でエースの名が付きますが、ベトナムでは五名しか誕生しませんでした。第八戦術航空団《ウルフパツク》の第五五五戦術戦闘飛行隊《トリプル・ニツケルス》で活躍。五五五スコードロンは、五セント硬貨に引っ掛けて、トリプル・ニッケルスのニックネームを持っていましたが、ベトナム戦争を通じて、ミグの撃墜記録《キル・スコアー》を出した飛行隊です。  空軍士官学校《コロラドスプリングス》を次席で卒業。四五機のライセンスを所有。B‐1の採用が正式決定された後、しばらくミグ機による模擬空中戦チームのリーダーを務めています。実戦パイロットとして、申し分のない経歴の持ち主です」 「しかしハロルド、私の記憶によると、確かベトナム航空戦では、百回の出撃で本国帰還の措置が取られたはずだが」  スターバック将軍が、スクリーン中程の�二二五回出撃�の文字を指差した。 「基本的にはそうだったが、本人が申し出れば、前線に残ることも出来た。特にあの時代、朝鮮戦争後の空白があって、空軍は極端なパイロット不足に陥っていたからね」 「しかしジャービス君。一九九〇年再婚とあるが、あれは何かね?」 「閣下、私も気になりましたので調べて見ました。よくありがちなことですが、十年前離婚した彼の前妻は、どうも基地生活に馴染めず彼の元を去ったようです。子供もいません。去年、戦略任務に復帰するため、いやいや再婚したようです」 「ならば──」 「卒直に申し上げまして、我が軍が志願制に移ってからというもの、いくら核兵器のボタンを握るからと言って、厳格過ぎる人事考査基準を順守していては、人材が集まらんのです。むろん彼も、CIAの|人間信頼プログラム《PRP》や、各種心理テストを定期的に受けていたはずですが、才能さえあれば、少々の問題には目をつむっているというのが現状です」 「閣下、アンダーソン基地から緊急電《フラツシユ》です!」  ハンレー大佐がテーブルを振り返りながら叫んだ。 「こちらは、アンダーソン基地のマレンであります。スタイガー大佐のデスクから、大統領閣下へと思われるメッセージを発見しました」  戦闘情報統制《CIC》スクリーンが切り替わった。 ──親愛なる合衆国大統領閣下。  我々は、カーチス・ルメイ号がモスクワへ到達するまでの間、貴殿が、あの恥ずべきSTART㈼条約を破棄、ソビエト政府に正式通告されることを切に望むものであります。  レイモンド・スタイガー。マックス・バス。ピーター・コリンズ。及びジェネシスグループの名において──。  行を空けて、もう一文あった。 ──エイブ・ダガット将軍に報いるため。レイモンド・スタイガー 「最後の文章は、スタイガーの手書きによるものです。ピーター・コリンズは該当機の防禦担当士官ですが、エイブ・ダガットとマックス・バスについては不明です」  グアムからの通信はそれだけだった。オーバルテーブルを、信じ難い衝撃と、絶望感が駆け巡った。スタッグスが、満面を朱に染めて立ち上がった。 「モスクワ! モスクワへ向かうだと! いったい何をするというのだ!?」 「落ち着きたまえ、ジョン」  年長のローマン主席補佐官が、スタッグスの袖を引っ張った。 「わかりました。マックス・バスのデータがペンタゴンのコンピューターに入っています。B‐1爆撃機の開発に参加したカリフォルニア・エレクトロニクス・フロンティア社の技術開発部長です」 「よし、CIAに関係者を当たらせよう」 「エイブ・ダガット将軍については、CIA、FBIのデータにもありません」 「エイブ、エイブ・ダガット……。懐かしい名だ! しかし、もう彼を知らん世代が将軍になるとは」  ジャービス将軍が感慨深げに呟いた。「ハンレー君、空軍の戦死者リストを当たりたまえ。二階級特進で准将になったはずだ」 「知っているのか?」 「大戦後の我が空軍における、殆ど伝説的な人物です。朝鮮戦争で私は彼と同じ中隊にいましたが、天才パイロットでした。私はセイバーに乗って、彼と幾度となくチームを組みましたが、手ぶらで帰還することはなかったですね。彼に助けられた戦友も多いはずです。もちろんエース。ベトナムでは、トリプル・ニッケルスの飛行中隊長を務めた後、第八戦術航空団《ウルフパツク》の副長に昇進しましたが、ラインバッカー作戦の最中、撃墜され、脱出。降下ポイントにおいて、数百名のベトコンに包囲され、激烈な白兵戦を展開し、戦死を遂げました」 「彼のことなら憶えているよ」  サンディッカー副大統領が、冷ややかに口を開いた。「彼がベトナム戦争のエースになった頃、軍に人種差別はないと、君らがプロパガンダに利用した」 「いえ閣下、彼は確かにパイロットとしても、指揮官としても抜きん出ておりました。もし彼が生きていれば、恐らく今私の席に座っていたことでしょう。合衆国軍を通じて、初の黒人司令官になっていたはずです」 「つまり、スタイガー大佐は、そのエイブ・ダガットという英雄から、何がしかの影響を受けたわけだ」  アヤセは、何かが脳髄を引っ掻いたような気がした。戦闘情報統制《CIC》スクリーンに映し出されたスタイガー大佐の顔写真、エイブ・ダガットという名……。どこかで見聞きしたような気がしたが、思い出せなかった。  後にも先にも、アヤセの脳裡に、国務省《フオギー・ボトム》うらのベトナム戦没者記念碑での出会いが、微かに蘇ろうとしたのは、この時だけだった。 「諸君、私は友人として忠告したい」  スタッグスは眉根を押さえながら、沈痛な調子で口を開いた。「もし、諸君の中に、ジェネシスグループとやらの指導者がいるとしたら、ぜひとも考え直してくれたまえ。狂っている。私は今日まで、諸君らに全幅の信頼を寄せて来たし、私の君らへの尊敬の念は、これからも変わらない。私は諸君の意見を十分に取り入れて来たし、これからもアドバイスに応えるつもりだ。こんな狂気じみた手段に訴えることはやめてくれ!」  スタッグスの、まるで祈るような問い掛けに、反応はなかった。しかしアヤセには、テーブルに着く誰もが、自分の表情を、無表情という仮面で隠しているように見えた。  誰だ? この中に必ずグループのリーダーがいるはずだ。 「閣下、万一のために、ことの次第をソビエトに通告すべきです」 「アヤセ君、私は反対だな」  ジャクソン長官が、見事な禿げ頭をひと撫《な》でした。「ルメイ号の燃料補給の時間を考えると、彼らは、フィリピンへ向かったにしろ、日本へ向かったにしろ、まだ我々の防空識別圏内にいる可能性が大きい。まずは術を尽くしてから、外交上の措置を講ずるべきだろう」  ジャクソン長官の言葉には、陰に籠った響きがあった。アヤセは、国務省対、国家安全保障問題担当補佐官の確執という、伝統的、且《か》つホワイトハウスで最もエキサイティングな闘いに巻き込まれようとしていた。彼の望む所ではなかったが、ここで引き退がるわけにはいかなかった。 「ハンレー、もう一度、アンダーソン基地を呼び出してくれ」 「何をするつもりかね?」 「スタイガー大佐には、彼らの行動が露見するタイミングのシナリオがあったはずです。スパイ船の発見でそれは狂いましたが、恐らく、大佐のデスクのメッセージが発見される時間がそれです。そしてそれが発見され、我々が友軍に警報を発した時には、彼ら自身はすでに安全圏へ逃げ延びていることを企図したはずです」  アンダーソン基地の、一層沈んだ声のマレン少将が出た。 「将軍、大佐のメッセージが発見された状況を教えて下さい」 「発見者は、大佐の副官の少尉です。大佐から、今朝は花をデスクに飾っておくように言われ、その時発見したそうです」 「少尉は、定刻の出勤時間に部屋へ入ったのですか?」 「いや、それが彼女は、その……、マーガレット・フラチアニ少尉ですが、ドアの前で三〇分ほど泣きじゃくっておりまして、大佐のオフィスに入ったのは、こちらの九時頃のようです。私も彼女の後を追って入りました」 「ジャービス将軍、もしあなたがスタイガー大佐なら、どのコースを採りますか?」 「そうだな。コースは三つある。一番安全なコースは、中国大陸を横切ってウラル山脈を越えるやつだ。ここは、敵の防空網が比較的手薄な部分だ。ただルートの開拓がなされていないという難点がある。攻撃決定最終確認点《フエイルセイフ・ポイント》との絡《から》みもあって、我々の戦略コースにはない。  第二は、日本列島を北上し、オホーツクを横切り、一旦北極海へ抜けてから、モスクワを狙う極東コース。第三は、グアムから一旦北米大陸へ向かい、北極を横断する大圏コース。�赤体制《コンデイシヨン・レツド》�の発令が予測される場合、グアムの部隊が選択するコースだ。一見|迂回《うかい》するように見えるが、これだと大陸での補給と援護が可能だ。さて、君ならどれを選ぶね?」 「当然、極東コースでしょうね。大陸コースだと、かなり長時間、敵の領土内を飛行することになるし、いざという時、アメリカへ引き返せない。他方、北米大陸のコースを選択すると、我が空軍の防空網が待ち構えている。となると、極東コースを進んだほうが無難でしょう」 「私も同感だ。しかし、タイミングが合わんなあ。大佐がメッセージの発見を予定していた頃には、ようやくミサワの防空識別圏に飛び込んだ所だ」 「B‐1Dはステルスでもあることだし、発見できんのじゃないか?」  スターバック将軍が口を挟んだ。 「何とも言えんな。ミサワのF‐16部隊は、すでにスクランブルを終えている。現地の天候は良好だし、レーダーには映らずとも、F‐16の優秀な赤外線探知器から逃れるというのも、ちょっと難しいだろう」 「例えば、地上に降りて燃料補給する手間を省いたとしたら、もっと遠くへ行っているはずですよね?」  アヤセは何気なく呟いたつもりだったが、何かが思考の片隅に浮かんだような気がした。燃料補給、給油……、空中給油。 「教授、確か空中給油機の事故の報告がありましたね?」 「ああ、KC‐10のギアが出ずに、胴体着陸したという事件があったが。確かグアムだったな」 「グアム……。ハンレー、現地の事故調査担当官を呼んでくれ」 「どうかしたのか?」 「将軍、アンダーソンは第一線基地ですから、給油機がたとえ一機でも使えないとなると、戦略任務に支障を来たすことになりはしませんか?」 「そうだな。しかし当然予備機の配分とかが……、まさか!?」  ジャービスも、アヤセと同じ閃きを得たようだった。  アンダーソン基地が出た。 「こちらは給油機隊司令を務めるリック・ホワイトン中佐であります」 「中佐、昨日のKC‐10の不時着事故で、変わったことはなかったですか?」 「まったく不可解な事件です。上級機関への報告書にも書いたことですが、明らかに破壊工作です。ジョッグ・ストラットへの、これはまあ、ギアを出し入れする支柱と考えて下されば結構ですが、それに命令を伝える回線が、焼き切れておりました。その後の調査で、粘着性のマグネシウム爆弾が使用されたことが判明しました。機が離陸して、ギアが収納されると同時に、発火した模様です」 「手動装置は使えなかったのか?」 「はい、参謀総長。試してはみたそうですが、駄目だったようです。肝腎のカムが外されておりました。非常に手の込んだ妨害工作です。犯人はどうも、墜落させるつもりはなかったようですが、未だに犯行声明らしきものもなく、その意図を計りかねる——」 「それで、予備機の手配とかはどうなっている?」 「幸い三日前、ツーソンの|軍用機保管センター《MASDC》へKC‐135を送ったばかりでしたので、昨日のうちに、モスボールを待ってくれるよう連絡しておきました。今日中にも正式書類を整え、現役復帰させるつもりです」 「ええい、何てことだ! ハンレー君、MASDCを呼んでくれ」  アヤセは直ちに、次の行動に移った。 「ジャービス将軍、ルメイ号が空中給油を受けたとなると、すでにホッカイドウの上空に達している頃です。捜索範囲の集中を願います」 「わかった」  ジャービスがインターカムを取り上げると同時に、MASDCが出た。 「こちらは、当直のユージン・グローバー中佐であります。残念ながら基地司令は、三〇分ほど前に帰宅しました」 「中佐、グアムに届いたKC‐135はどうなっている?」 「あああれですか。まったくついている奴です。グアムで新型機が事故を起こしたらしく、今朝方には、墓場から古巣へと飛び立ってゆきました」 「グアムの方は、まだ復帰の命令は出していないはずだが」 「そんなはずは……わかりました。早急に調査します」 「ルメイ号は、給油機と一緒なのだろうか」  スタッグスはぽつりと呟いた。 「いえ、KC‐135は通常機です。レーダーに反応しますので、別途の行動をとるでしょう。今のうちに発見できれば、少なくともルメイ号が帰還するコースは押さえられるはずです」 「帰還? モスクワを核攻撃してから、帰還するコースかね?」 「たいそう孤独な帰還になるだろうな。連中が無事な帰還を果たした時、いったいこのアメリカ大陸に、どれだけの人間が生き残っていることやら」  ミスター皮肉屋《アイロニツク》のニックネームを持つコンラッド長官が、ひとくさり漏らした。  五分後、ファクシミリが届けられた。 「命令書は完璧なものです。第九〇九空中給油機隊、第六〇爆撃軍団、第三航空師団、及び空軍省から。グアムまでの空輸のパイロットについては、コロラドスプリングスより移送とあります」 「ただし、そのパイロット達は実在しません」  パイロット・クルーを照会していたハンレー大佐が、すげなく言葉を継いだ。 「で、中佐。そのKC‐135は、給油用の燃料を積んで行ったのか?」 「いえ。ただ、気になることがありまして。該当機の離陸に関わったすべてのグラウンド・クルーに、緊急の報告を命じた所、機を給油所まで引っ張って行ったレッカー車のドライバーが、アクセルが重かったと報告しております。あるいは、すでに機内タンクに燃料を搭載していた可能性があります」 「ええい! 何て忌忌《いまいま》しい奴らだっ」  ジャービス将軍は悪態をつきながら、ペンタゴンに詰めるバトルスタッフへのホットラインに命令を下した。 「ターゲットはオホーツクのフェイルセイフ・ポイントを越えつつあるものと予測される。ミサワ沖のF‐16部隊を北方へ向かわせよっ。チトセの航空自衛隊にも全機スクランブルを要請せよ。構わん! 命令系統に介入しろ。外交問題は後で片付ければいいことだ」  ジャービスは視線をジャクソン長官に向けて、許可を求めた。長官が無言のまま頷く。 「それから、太平洋軍《PACAP》、|アラスカ軍《AAC》に追加命令。太平洋上に指揮下を離脱したKC‐135機が存在、直ちに発見に努めよ!」 「閣下、一刻も早くクレムリンに通告を」 「無駄だよ。発見は不可能だ……」 「長官、今はとにかく、我々の義務の履行に努めるべきです。  指導者間の信頼醸成措置《CBM》が、やがて役に立つでしょう」 「いざという時、あのアダム書記長が、我が国への報復攻撃を思い留まってくれるとでも言うのかね? キューバ危機から三十年にもなるが、フルシチョフの愚を犯すようなバカはおらんよ」  ジャクソンが触れたのは、フルシチョフとケネディの奇妙な友情についてだった。それは後々、キューバ危機でのソビエトの不名誉な撤退、そしてフルシチョフの失脚へと繋《つな》がった。この手の、西側指導者との融和姿勢は、クレムリン政治局内の微妙なパワーバランスの上に鎮座する書記長にとって、極めて危険な問題なのである。 「いや、アヤセ君に賛成だ。スマッツ君、モスクワを呼んでくれたまえ。まあ、損はないだろう」 �損はない�。スタッグスは、その内輪での口癖を憮然《ぶぜん》として発した。 「しかし、そう大騒ぎする程の問題ではないかも知れん」  主席補佐官のマーク・ローマン、�氷の男�の別名を持つ、常に沈着冷静な男がひとりごちて呟いた。 「奴らは確かに戦略爆撃機を乗っ取りはしたが、核ミサイルの発射は出来んのじゃないかな。例えば暗号とか。そこいらへん、どうなのかね? ジャービス将軍」 「御承知のように、核兵器に関しては、�二人一組《ツーマン》ルール�が確立されております。つまり二人が一緒に、発射キーを回すという奴ですが、加えてこういう異常事態に対処するため、例えば|大陸間弾道ミサイル《ICBM》においては、他基地からの拒否権の行使が可能となっております。また戦略潜水艦においては、四名が発射キーを持つシステムが確立されております。戦略爆撃機においては、三名が必要です。機長と副操縦士が発射キーが入っているイエローボックスのキーを持ち、中の二つのキーのうち片方をいずれかのパイロットが持ち、もう一つを発射システムを統御する攻撃担当士官が握ります。現在のところ、ルメイ号には四名の正規クルーと、マックス・バスが搭乗したことになっていますが、メッセージの件を考えると、断定は禁物です。  まあしかし、フェイルセイフ・ボックスがある限り、安全とみていいでしょう。これは海上、宇宙、空中を含む支援基地から発信された大統領の暗号命令を自動的に翻訳する装置です。これさえあれば、モスクワへ到達しても、何も出来ますまい」  その時、不機嫌なクレムリンが出た。 「親愛なるアダム書記長閣下。極めて遺憾なことでありますが、核装備の爆撃機一機が、合衆国政府の指揮下を離脱したことが判明しました。該当機は現在、オホーツク海を、その……、モスクワに向けて北上中かと思われます」  相互視覚通話《MIC》システムのスクリーンの向こうで、大きなどよめきが起こった。テーブルの片隅で、ひとりの軍人がインターカムを取り上げるのが見えた。トーンバックから、防空軍司令のアレクセイ・コマロフ元帥であるとの説明があった。  スタッグスはクレムリンの動揺が収まるのを待って、更にジェネシスグループの存在と、その脅威について、簡潔に述べた。  リトビノフ首相が「縁起でもない」と頭《かぶ》りを振った。外相のアナトリィ・グレチコがマイクの前に身を乗り出して来た。 「閣下、ジェネシスグループに関するワシントンポストの記事は、私もつい先ほど読みました。どうも、貴方のスタッフの中に、裏切り者がいるような気がしてならないのですが……」 「それは、まだ何とも言えませんが、鋭意調査中です」 「そうですか……。結構、大いに結構です」  グレチコは、わざとらしく頷いて見せた。 「大統領!」  クジチキン国防相が、マイクに噛《か》みつかんばかりに呼び掛けて来た。「念のため確認しておきたいのだが、該当機の処分は任せてもらえるのでしょうな?」 「もちろんです。一刻も早い発見と、撃墜を願います」 「そう。では、もうこんな役立たずのホットラインに用はない!」  MICスクリーンは、クジチキンの残忍な台詞によって再び跡切れてしまった。  ハンレー大佐がそれを待っていたかのように、「グアムのマレン少将から最優先情報です!」と叫んだ。 「こちらはグアムです。ルメイ号の副操縦士と攻撃手が、シャワールームのロッカーにて発見されました。クロロホルムを強く吸わされて、未だに意識不明ですが、副操縦士が首に掛けておくべきイエローボックスのキーが見当たりません。またこの二名は、ルメイ号が離陸直後、基地のゲートを出たことになっております。推測するに、この二名に化けた何者かが、スタイガーら三名と一緒にいったんB‐1に乗り込み、その後滑走路移動の最中に機を降りたものと思われます。ルメイ号に乗っているのは、スタイガー、バス、コリンズの三名だけです!」 「攻撃手がいないとなれば、あれはただの輸送機だ」  ジャービス将軍が、ホッと溜息を漏らした。  トーンバックから、カリフォルニア・エレクトロニクス・フロンティア社のジェフリー・マードック社長が電話に出ている旨《むね》、報告があった。 「繋《つな》いでくれたまえ」 「今晩は、大統領閣下。こちらはCEF社のマードックであります」  ひどく、おどおどした声だった。 「マードック社長、空軍参謀総長のジャービスです。おたくのマックス・バスは、いったい何をしでかそうというんです?」 「お久し振りです、将軍。実は、彼とはその……、半年程前にちょっとした意思の疎通がありまして。彼が突然、特許権云々を言い出したのです。私はおおかたの新技術は軍事機密に属するので、特許の出願は無理だよとなだめたのですが、彼は辞表まで持ち出す騒ぎでして、その時は破格のボーナスで収まったのですが、あるいはその件への復讐かも知れません」 「彼はB‐1Dの開発にどの程度関わっているのかね?」 「すべてと言って結構です。彼はその、いわゆる天才の類いに入る人間でして、コンピューターのみならず、システム工学のエキスパートでもあります。自ら操縦桿も握りますし、B‐1の攻撃システムの開発すべてに何等かの形で携わっております」 「核兵器を扱う知識も持っているのかね?」 「例えば、攻撃命令が下ってから、何十秒で巡航ミサイルを発射できるかというようなことも、彼の研究分野のひとつでした」 「しかし、フェイルセイフ・ボックスには触れんだろう?」 「ご存じないんですか!? ボックスを納入しているのは我が社で、暗号照合装置を開発したのは、バス自身ですよ」 「ああ、悪夢だ!」  サンディッカー副大統領が、嗄《かす》れ声で呻いた。  アヤセは、国家情報統制《NIC》センターの各種スクリーンに注目していた。そこには、米ソの陸海空宇宙軍の動きが、余すことなく映し出されていた。  空軍スクリーンには、オホーツク海が大映しにされていて、スクリーンの下方から、十数個の青い輝点《ブリツプ》がゆっくりと北上を始めていた。ホッカイドウの中心部からも、数個の輝点《ブリツプ》が出現していた。アヤセにも、前者がミサワを発進したF‐16であり、後者がチトセから舞い上がった日本のF‐15であるとの察しはついた。ブリップの下に、M一・三すなわち迎撃機の速度はマッハ一・三であると表示されていた。更に、オホーツク海上空には二十数個の赤いブリップが交錯していて、それはたちまちのうちに、サハリン、カムチャツカ半島に現われたおびただしい数のブリップと重なって行った。 「八三年のKAL機撃墜事件以来じゃないか? ハロルド。こういう情報収集が可能なのは」  海軍作戦本部長のフリードマン提督が、ジャービス将軍の耳元で囁いた。 「信じられない。イオウジマ西方でB‐1が行方を絶ってから二時間、防空軍に警報が発せられてからまだ一時間と経っていないのに、すでにミグやスホーイを一五〇機以上スクランブルさせている。我々の計算では、二時間で一〇〇機が限度だと思っていたのだが……。極東空域での作戦を練り直さなきゃあならん」  ジャクソン国務長官とローマン主席補佐官が相槌を打った。こんな時に非常識な発想をする将軍だなどと窘《たしな》める余裕のあるスタッフはいなかった。 「将軍、ちょっと訊きたいんだが」  ジャストロゥ教授が、おもむろに口を開いた。ローマンに負けず劣らず、冷静な性格の持ち主である。 「オホーツク海の北半分は、我が方のレーダーカバーが及ばないはずではないのかね?」 「仰しゃる通りです、教授。現在、合成開口レーダーを積んだ人工衛星によって、海面上の移動物体はほぼ完全に掴《つか》めるようになりましたが、空中の飛行物体の探知までには至っておりません。そこで我々は、日本、カナダ、西欧の各国に、超水平線《OTH》レーダーを設置しました。通常のレーダー波は直進するので、水平線の向こうは探知できませんが、電離層と反射を繰り返して地球の裏側まで達する短波を利用することにより、四〇〇〇キロ以上先まで、レーダーの視程に収めようという試みです。しかし、精度の信頼性が甚だ劣るため、ミサイルの誘導には使えません。今我々が見ている映像は、日本が南西諸島に設置したOTHレーダーと、海軍さんがアリューシャン列島のアムチトカ島に設置したものを合成したものです」 「で、どうかね?」 「駄目です」  ジャービスはいかにも軍人らしく、いっさいの楽観抜きでずばりと答えた。「我が方の追撃機は、とても間に合いません。ソビエトの迎撃機も駄目でしょう。数だけで、まるで統制のない非能率な索敵行動です。  優秀な赤外線探知器に加えて、あらゆる周波数に対応するレーダー警戒システムによって、ルメイ号は敵の接近を逸早《いちはや》く察知することが可能です。そして、敵の赤外線探知器のカバーに入る前に、逃げ出すことが出来る。これは、チェスに透明なキングを持ち込むようなものです。敵は攻めてはいるが、肝腎のキングが見えない。一方こちらは、敵の動きを十分に掴《つか》みながら、キングを好きな所へ隠せる。まったく一方的なゲームですよ」  B‐1撃墜の唯一の可能性に思い当たった時、ジャービスはちょっとした罪悪感を憶えた。発見は絶対に不可能なわけではないのだ。赤外線探知器の死角、すなわちエンジンの排気熱で探知器が麻痺する後方に、いっさいのレーダー類を消して接近するというチャンスに恵まれさえすれば、B‐1に悟られることなく、絶好の攻撃ポイント、テールポジションを得ることが出来る。  もし、ソビエトの迎撃機すべてが、B‐1に探知を許してしまうレーダーを停止し、幾何学的な索敵行動を行えば、発見は、必ずしも不可能なものではないだろう。現地の天候は、快晴とは言えないまでも、雲は跡切れ跡切れに浮かんでいるだけだ。ハバロフスク、サハリン、ペトロパブロフスクを結ぶライン上に一〇〇キロ間隔でミグを並べる。北方からは、これは目視に頼る外はないが、五〇キロ間隔で迎え撃つ。B‐1は当然、南から追い上げて来る──それは極めてスローモーな動きだが──ハンターをやり過ごすため、何度か反転を試みるかも知れない。そのため、追撃は数波に及び、空に格子《こうし》模様を描くようになる。ミグやスホーイが、八三年のKAL機撃墜の時のように燃料をけちらず、B‐1を上回る速度でことに当たれば、発見はなお容易になる。  極東防空軍は、完全な混乱状態に陥っている。ジャービスは、彼らに適切なアドバイスを与えることが出来たし、ミサワやチトセを飛び立った友軍機に、高速追撃に移るよう命令を下すことも出来た。帰りの燃料はなくなるが、それはソビエト軍基地に着陸を誘導してもらえばいいことだ。もし彼が、大統領にその件を進言すれば、彼は藁《わら》をも掴《つか》むようにそれを受け入れ、ソビエトに、宴《うたげ》の後始末を然るべく取り計らってくれるよう交渉してくれたに違いない。  しかし、ジャービスは、いっさいの必要を感じなかった。このことで彼が罪悪感を憶えたのは、合衆国軍人として、大統領への正確かつ完全なサポートを怠ったからというより、自分が神の教えに背いて、ささやかな嘘をついたからだった。それは、幼い頃、母親に隠れてトカゲやカエルを納屋の片隅で飼っていた時のような、ちょっとしたスリルを感じさせる、その程度の罪悪感だった。     11  B‐1  カーチス・ルメイ号は、オホーツク海上空|僅《わず》かに一八〇フィートを、時速五〇〇マイルのゆっくりした速度で北上中だった。前日通過した低気圧のおかげで、海面には白いうねりが立っている。付近に船影はない。防禦手のピーターが、船舶レーダーをモニターして、スタイガーへ針路の微調整を促しているためでもあった。 「まあ、私がウブだったんだな」  バスは悔いるように話し続けた。「私の会社は軍需品ばかり開発しているわけではなく、軍需品の開発過程で派生した技術を、民生部門へ回すということもやっていたんだ。私がマサチューセッツ工科大学の大学院を出て、入社したのが二十年前。当時は、従業員が四十名いたかどうか。あの頃は私も若くてね、大学に残ってもよかったし、研究設備の整った大企業からの誘いもあったんだが、フロンティア精神に燃えていたわけさ。半導体、高速演算素子の発明。航空機の航法システム、レーダー。何でも手を出した。偉大な発明や研究は、なにもIBMやベルの専売特許じゃないってことを証明してやりたかった。全部が全部、私の功績というつもりはないが、今では研究部門だけで千名のスタッフを抱える大企業になった。会社は最初、私が入社したてに発明した新製品の特許料は、その一〇パーセントをサラリーに上乗せすると説明した。確かに給料は上がったが、特許の申請者には会社名が使われていた。まあ、それでも我慢したさ。技術屋ってのは、こういう問題には無頓着《むとんちやく》だからね。  私は、間もなく軍に関わるようになるんだが、ここでは機密保持のため、特許申請はなされない。ところが、この春のことだが、大学時代の友人から、私が発明した周波数自動検知器について詳しく教えてくれないかという依頼があった。これは、レーダーに使用されている従来の検知器を十分の一の大きさにまで縮小した画期的なもので、公表できれば、民生品への波及効果も期待できたものだ。しかし軍相手の開発品だから、特許申請はしなかったはずなんだ。ところが、会社は機密性が薄れたという理由で、それを公表していた。調べた所、過去私が発明した多くの製品が、会社名義で特許申請してあった。私は十年以上にわたって、体よく騙《だま》され続けてたわけさ。辞表を叩き付けてから、一ヵ月後だったな、ジェネシスグループのコントローラーから接触を受けたのは……」  ピーターが右一二度の修正を命じた。スタイガーは自動操縦の針路ダイヤルを中央から右寄りに回し、心持ち機首を東へ向けた。 「つまり、あんたにとっては、これは会社への復讐であるわけだ」 「いや。それも無きにしもあらずだが、我々には唯一の不安があってね。自分の開発した製品が、いざという時、本当に役に立つかどうか。机上の計算やシミュレーション、訓練とかいうものではとうてい予測できないことが多々あるもので、いつも考えるんだ。もしこれが実戦ならば……、とね。  あんな会社に未練はない。辞めるとなれば、私が心血を注いだこのB‐1爆撃機を、一度くらい好きに使わせてもらってもよかろう」  バスは、ニヤッと笑みを洩《もら》した。 「ボス、いよいよ敵さんのお出ましです!」  ピーターが嬉々《きき》として叫んだ。「後方より目標数十機。東方、西方より二十数機。前方より十数機が接近を開始しました。一番近い奴は、オホーツクを飛び立ったばかりの八機。前方一二〇マイル。相対速度マッハ一・五。一〇分後に触敵」 「見つかりそうか?」 「恐らくミグ‐29フルクラムかと思われますが、高度差が一万フィートあります。まず大丈夫でしょう」 「敵の動きが早過ぎるような気がするが」 「これからどうする?」 「このまま海面をランニングして逃げ切るか、それともスパートをかけるために高度を上げるか。地上から発見される危険は増すが、燃料消費率と速度を秤《はかり》に掛けて、上昇だ! ツンドラ地帯を北上し、東シベリア海に出る。北極海に抜けさえすれば、あとはもう追って来るものはいない」  スタイガーはオートパイロットを解除すると、緩やかな上昇を開始した。  ホワイトハウス  空軍の展開状況を示すスクリーンの隣りは、海軍のそれになっている。もっともこちらは展開地域の広大さに比して、極東全域が描かれ、韓国、北朝鮮、中国の展開状況まで映し出されていた。  アヤセはオホーツク海に明滅する赤青三十個余りの輝点《ブリツプ》を凝視していた。 「フリードマン提督、お伺いしたいのですが、あのオホーツク海に映っている艦艇は、すべて水上艦ですか?」 「そうだな……、サハリンの周辺に固まっている奴はそうだと思うが、ここ二、三日オホーツクは荒れ模様だったからな。ハンレー君、オホーツクにズームインしてくれないか?」  スクリーン上のオホーツク海が拡大してゆくと、赤と青の輝点《ブリツプ》が、寄り添うように点滅しているのがわかった。更にブリップの上に、それぞれの艦種と、艦ナンバーが表示された。 「ああ、やはり沿岸部にいる奴は、港へ避難した極東海軍の艦艇のようだな。何隻かはすでに行動中のようだが、連中がB‐1を発見するのは無理だろう」 「あの、寄り添うようなブリップですが……」 「そう。赤は、デルタ㈽、及びタイフーン・クラスの戦略潜水艦。青は、それを追うこちら側のロスアンゼルス級攻撃型原潜だ。もっとも、ホッカイドウ寄りの一隻は、海上自衛隊の奴らしいが」 「頭の、あのマイナスの数字は何ですか?」 「あれか。マイナス7、マイナス31。水面下の潜水艦はレーダーで捕えるわけにはいかんからね、それぞれの原潜の位置が、こちらの対潜活動で判明した時間を示している。ただ、完全なものではない。探知の難しさは言わずもがなでね。しかし原潜というのは、同士討を避けるために、一定の海域からは出ないように命ぜられている。だから、未来予測も計算に入っている。あれは、当たらずとも遠からずのデータだと理解してくれたまえ」  オホーツク海に散らばっているロスアンゼルス級巡航ミサイル装備原潜は、合わせて七隻いるようだった。 「確かロス級原潜は、今年から艦対空ミサイルを装備するようになったはずですが?」 「そう。F‐14戦闘機が装備している最強無比の空対空ミサイル�フェニックス�に海面ジャンプ用のロケットブースターを付けた�シーフェニックス�ミサイルを、二基から四基装備している」  快活に答えたフリードマン提督は、アヤセが言わんとしていることにハタと気付いて表情を曇らせ、首を横に振ってみせた。「あれは駄目だよ」 「しかし、高性能の赤外線探知器を持っている彼らをルメイ号の捜索に当たらせれば……」 「それは名案だ」  ジャストロゥ教授が賛成した。 「しかし、彼等に浮上を命じたとしても、その警戒ボックスの大きさは知れています」 「彼らと連絡を取る方法はあるのかね?」  今度はスタッグスが興味を示した。 「ありますが……、しかし閣下、私は海軍を預かる者として、賛成しかねます」 「なぜ? ほんの三、四十分浮上させるだけではないか。発見されたとしても、実害はあるまい。ソビエトの当局者も、我が軍の潜水艦がオホーツクに存在することぐらいは知っているだろうし、第一あそこは公海だ」 「いえ閣下、そうではないんです。つまり彼らは、浮上している間に、追尾中の敵艦を見失う恐れがあります。平時ならそれも構いませんが、これからその……、起こるかも知れないことを勘案しますれば、いざという時、取り返しのつかない事態を招来する危険があります。彼らが追尾中のソビエトのタイフーン・クラスは、ただ一隻で二四〇発もの核弾頭を打ち上げることが可能です。ただ一隻で、北米大陸へ十分な報復核攻撃を行う能力を有しているのです」 「ありがとう。よくわかった」  スタッグスは冷厳そのものだった。 「では、浮上命令を出したまえ」 「しかし!」 「大統領命令だ。急いでくれ」  フリードマン提督は、一瞬アヤセを恨めしげに見|遣《や》ると、渋々インターカムを取った。 「私だ。オホーツクに展開中の潜水艦隊に指令。 �敵艦追尾中ノ各艦ハ、急速浮上。指揮下ヲ離脱シタB‐1爆撃機ノ発見、撃墜ニ努メヨ�  ……ツベコベ言うな! 大統領命令だ」  ペンタゴンから発せられた最優先命令《フラツシユ・オーバーライド・ゼロ》は、直ちに艦隊衛星通信《リーサツト》システムの中継を受け、極東ゾーンに届けられた。  まず、偶然にもオホーツク海上空を作戦行動中だったTACAMO機がこの命令をキャッチした。この、任務に就き、出動するという意味を略したTACAMO、EC‐130Q機は、グアムのアガナ基地に所属し、彼らがアリューシャン列島やオホーツク海への中継基地として利用するアツギ基地を夜明けに飛び立ったものだった。  リーサット衛星からの通信を受けたTACAMO機は、長さ一〇キロに及ぶ曳航アンテナを垂直に垂らすため、旋回飛行を続けながら、超長波《VLF》を出力二〇〇キロワットで、ムーンライトセレナーデの音楽──もちろん暗号化された──と共に送信した。  そしてもうひとつのルート。キャンプ・ザマを経由し、持久核戦争を遂行するための、|最小限不可欠緊急通信システム《MEECN》の中核をなすヨサミ通信所の、高さ二四〇メートル、長さ一五〇〇メートルの巨大アンテナ群からも、超長波《VLF》による緊急通信が発信された。  この時、オホーツク海に潜む七隻のロスアンゼルス級原潜が、海面下数十メートルに、これまた長大なワイヤーロープを曳航し、現世からのホットな情報に耳をそばだてていた。     12  オホーツク海  サハリンの北端オハから北東へ四〇〇キロ、オホーツク北端の街マガダンから南へ三〇〇キロ、ベルホヤンスク山脈から延びる大陸棚がオホーツク海に緩やかになだれ込む深度一〇〇メートルの地点に、ロスアンゼルス級原潜が作戦行動中だった。四十隻建造されたロスアンゼルス級原潜のうち十番艦ブレマートン(六〇〇〇トン)である。  建造後すでに十年以上を経ており、いささか古めかしい印象は拭えないが、乗組員の誰ひとりとしてそんなことは思っていない。平均年齢二十四歳という集団にあっては、艦の年齢をしのごの言える立場にはないのだ。ただ、今年四十三歳になる艦長のロス・デイ中佐だけは、この時分の艦が、最も脂が乗り切って扱いやすいのだという確信を抱いていた。  彼らが現在追尾中の敵は、西側コード名、デルタ㈽と呼ばれるもので、爆発威力一メガトンの核弾頭三個を装着した射程四〇〇〇カイリのSS‐N18ミサイルを十六基装備している強面《こわもて》の原潜である。デイ艦長は、この、我々アメリカ海軍軍人に任務を授け、ありがたいことに給料まで与えてくれる源に、愛情を込めて�アンナ�というニックネームを捧げていた。  デイは、ソナールームで、音紋分析のスペシャリストであるジム・ウイットニー大尉の肩越しに、オシロスコープに見入った。 「間違いないのか?」 「ええ、速度は一五ノット。間違いなく浮上しています」  大尉が予備のヘッドホンをジャックに差し込むと、デイは片方だけ耳に当てた。確かに、水上航行の特徴である、水面が泡立つような音がスクリュー音に被さっている。大尉が何種類かのフィルターを掛けると、そのエコーは一層明瞭になった。 「何のアクシデントかな」 「少なくとも、原子炉ではないですね。冷却水のポンプは、可もなく不可もなく、正常に回転しています」 「火災の可能性は?」 「だとすると、当然原子炉を急速停止するので、ポンプに異常回転が認められるはずです」 「となると、我々が推測できる理由は、あと乗組員の反乱か、エアクリーナーの故障ぐらいだな」 「そういうことになります」  ウイットニー大尉が事務的な口調で賛成した時、赤ら顔の通信長、リオス・モント大尉がピンク色の通信紙を持って現われた。 「ワシントンからのフラッシュです。それも、最優先《オーバーライド・ゼロ》ランクの」  デイはすばやく視線を走らせた。ウイットニーがヘッドホンを外してデイの横に立ち、それを覗き込んだ。 「いずれにせよ、なり振り構わずタンクをブローして浮上するなんて、まともじゃありませんよ」 「わかったよ」  デイは通信紙をウイットニーに見せた。「つまり、連中も我々と同じ命令をモスクワから受けたわけだ」  デイはハッチを潜って発令所へ抜けた。  コーヒーカップを持った戦務長のハーマン・クローク少佐が、腫れぼったい瞼を一生懸命見開きながら、ソナールームへ向かおうとしていた。 「どうしたんだ? 君との交替までには、まだ数時間あるぞ」 「いや、急に艦の速度が落ちたものですから、目が冴えちまいましてね。何でも、�愛しのアンナ�が取り乱して浮上したとか」 「あんまり冴えているという目じゃないが、まあ、職務熱心なのを責める理由はない」  デイは豊かなヴァンダイク髭をひと撫でした。それが、彼が小気味よい皮肉を漏らす時の癖であることを皆は知っていた。 「しかし、アンナの御乱心の理由はわかったよ」  クロークは渡された通信紙を一瞥すると、半分出掛かっていた欠伸を慌《あわ》てて仕舞い込んだ。 「B‐1が! どうするんです!?」  デイはキャプテンシートに付いている赤いボタンを押しながら、「命令に従うしかあるまい」と、渋面で答えた。  昼光灯が戦闘用の赤色警告灯に変わると同時に、甲高い高周波のアラームが、断続的に鳴り始めた。デイはインターカムを取った。 「当艦はこれより対空戦闘に入る。各員直ちに配置に就け。なお、これは演習ではない。ただし、敵は我がアメリカ空軍の指揮下を離脱した戦略爆撃機である。以上!」 「ちょっと待って下さい、艦長!」  クロークは瞳をパチクリさせながら、もう一度念入りに通信紙に目を通した。 「リオス、この命令書は本物か?」 「極めて異例なことです。何しろこの最高ランクの暗号に、通信長解読許可の符牒が付いて来るんですから。しかし大統領コードは正確です。本日の国家最高指揮権限者《NCAプライム》コード�AXG75356・ナーバス�。間違いありません。よほど急いでのことでしょう」 「ナーバスというのは?」 「敵の無線解読を攪乱するための、単なる戯《ざ》れ文句の類いです。一応これも大統領コードの内ですが、別に意味はありません」 「しかし、今日の大統領はさぞかし、神経質《ナーバス》なことだろうよ」 「艦長、冗談を言っている場合じゃありませんよ。とにかく、私は反対です。悪くすれば核戦争も起こりかねないという時に、まあ浮上しているアンナは見失わないにしても、海中のハンターが自分の姿を海面に晒《さら》すというのは、最悪ですよ」  デイは一応頷きながら、航海長のグレゴリー・ウエッブ少佐に意見を求めた。「航海長、浮上した場合の被発見率は?」 「そうですね。一時間前TACAMO機が送って来た気象情報では、波浪三メートル以上とありました。航跡も熱も、波が消してくれるでしょう。司令塔は一応ステルス化がなされていますから、レーダーによる発見も、それほど心配する必要はないでしょう」 「しかし、もし我々の後ろにビクター級の追撃艦でもいたら……」 「それを考えるときりがないぞ。まあ、案ずるより産むがやすしだ。針路変更三‐三‐〇!  ESM警戒措置省略。上げ舵二〇! メインタンク、スロースピードでブローだ。航海長及びダイビング士官は浮上の指揮を執《と》れ!」  パイロットが飛行機のそれとそっくりな操舵輪を心持ち手前へ引き寄せると同時に、排水速度調節のダイヤルが回され、メインタンク・ブローの空気圧バルブのスイッチが押された。  士官居住区から、対空戦闘担当のエドガー・スノー中尉が、ネクタイを首に引っ掛けながら現われた。 「エド、撃墜は可能だな?」 「はい、艦長。シーフェニックスは百発百中です。ただしそれも、発見できればの話ですが」 「よろしい。一番、二番発射管にシーフェニックスを装填!」と艦長。  スノー中尉は差し出されたブラックコーヒーのカップを握り締めると、デイ、クロークに続いて兵器指揮所に降りた。スノーは、三基並んだレーダーコンソールの後ろに仁王立ちした。そして一気にコーヒーを飲み干すと、彼よりひと足先に着席していた三名のオペレーターに、二言、三言技術的な問題を話し掛けた。 「艦長、今のうちに説明して置きますが、探知は三段階によって行います。まず、この一番右の赤外線探知器によって、航空機の存在を確認します。そして真ん中の、パッシブレーダーによっても同じ作業を行います。なぜ両方が必要かというと、赤外線は気象条件に左右される上、飛行機がこちらに鼻を向けている場合、遠方における探知能力が低下するからです。一方パッシブレーダーは、その飛行機が尻を向けている場合、レーダー波は前方へ発射されていますので、我々にはその存在を知る術がありません。もっとも、下方監視能力を持った機が、上空にいる場合は別ですが」 「つまり、両者は、お互いの欠点を補完し合う関係にあるわけだ」 「そうです。そして最後に、左のアクティブレーダーを使います。一〇〇〇億ヘルツ台のミリ波を、モノパルスで、つまりたった一回だけ発信します。これも、霧や雨に弱いという欠点がありますので、もし役に立たなければ、通常波を使います」 「敵に探知される可能性は?」 「あります。しかし少なくとも妨害を受ける心配はない。何しろ、たった一回の発信ですむわけですからね」  艦が浮上したことを知らせるブザーが鳴った。発令所のウエッブ航海長が艦橋へのラダーに取り付いて昇って行ったはずだ。艦のローリングが激しくなった。 「ちょっと待ってくれ、エド。とすると、もしB‐1が我々の後方から我が方に向かっている場合は、まったく探知できないわけだ」 「そうですね、戦務長。その場合、赤外線探知器にも引っ掛からず、レーダーにも映らず、当然向こうはレーダーなど発していないから、パッシブにも反応はないわけです。ですから、B‐1が後方から接近中であるものと仮定して、しばらくの間は、浮上したまま耳目を見開いている必要があるわけです。もっともB‐1は、ジェットエンジンを四基も吹かしていますので、たとえ前面からでも、ある程度の探知は可能なはずです」 「まるでハムレットじゃないか。発見するまで姿を晒《さら》さなきゃならん。発見してもアクティブレーダーを使わなきゃならんなんて……。何で海軍が、空軍さんの尻拭いをしなきゃならんのだ」 「そう言うな、ハーマン。何事でも、退屈な潜水艦生活にあっては、変化はありがたいと思わなきゃあ」  ブリッジに達したウエッブの声が、スピーカーから流れた。 「ひどい時化《しけ》ですよ、艦長。流氷は見当たらず。爆音が何機か聞こえますが、姿は見えません……ああと、一機見付けた。旅客機ですな。飛沫が乱舞していて、こりゃあ赤外線探知器の性能は落ちますなあ」 「了解。ESMレーダーマスト、揚げ!」 「待てよ。突然、赤外線スクリーンの前方に輝点《ブリツプ》が出現するとなると、それだけでB‐1だという証拠になるんじゃないか? そうすれば、アクティブレーダーを使う必要はなくなる」  クローク戦務長は、しつこいほどの粘りをみせた。 「仰しゃっている意味はわかりますよ。つまり、おおかたの飛行機はレーダーを装備していて、我々に向かっている分については、赤外線に引っ掛かる前にパッシブレーダーに反応が出るから、というわけですね。でも、それだけでB‐1と判断することは危険です。なぜなら、ソビエト軍機の何パーセントかは、常にレーダーが故障したまま任務に就いているからです」 「レーダー、展張完了!」 「よーし、電源を入れろ!」  三人は、直径五〇センチ程の円形ブラウン管の、右二台を交互に見詰め始めた。まるで霧が湧き上がるように、ブラウン管に生気が蘇って来た。 「ああ、航海長が仰しゃった通りですね。湿度が高過ぎて、水平線上一五度以下は探知不能です。このスクリーンの真ん中に反応がありますが、速度、マッハ〇・八で北上中。さっきのアエロフロート機でしょう。パッシブレーダーのほうは……、ほう! こちらはすごいですねえ。五十以上のターゲットがこちらへ向かっている。前方からも十数機が南下して来るようです」 「アクティブを使うかね?」 「まだです。今の所それらしき奴は見当たりません」  戦務長のクローク少佐は、このまま何事も起こらないことを願った。敵の内懐深く、こんな所まで侵入した上に、ミサイルをぶっ放そうなんてのは、まったくの自殺行為だ。スノー中尉は部下に、赤外線探知レーダーの映像を真ん中のパッシブレーダーのスクリーンに重ねるよう命じると、デイ艦長を顧みた。 「もし、発見した場合は、間髪を入れずシーフェニックスを赤外線パッシブモードで発射する必要があります。そして間を置いて、二発目も放り出します」 「なぜ? さっき君は発見できれば百発百中だと言ったじゃないか?」 「ええ、少なくとも私は、このミサイルを回避する術を知りません。しかし何と言っても、空軍の奴らは飛び道具のエキスパートですからね。一刻も早くミサイルを放り出すにこしたことはないですよ。それに、百一発目が外れるかも知れない」 「で、発見できる可能性は?」 「我が艦の位置からして、我々より北にいる戦闘艦は、敵さんの沿岸警備用ミサイル艇くらいでしょう。�愛しのアンナ�は西にいるわけですから、可能性としては我が艦が一番高いわけです。しかし、この赤外線探知器の僅か直径一〇〇キロのカバレッジにB‐1が飛び込んでくれなければ、どうにもならないわけですからね、そうそう幸運は見込めんでしょう」  しかし、幸運の女神、クロークにとっては災厄の邪神が、彼らに微笑み掛けた。二分後、スクリーンの水平線上に、二個の新しい目標が出現したのだ。 「二機とも、レーダーを使っていません。この左の、北西方向へ飛んでいる奴は……、ふーん。高度一万五〇〇〇フィートを毎時四〇〇マイルで北上中。たぶんターボプロップ推進。輸送機か、流氷観測機だと思います。右の奴は、高度五〇〇〇フィートから上昇中。赤外線探知器の反応は、明らかにジェット機。クサイですよ、こいつは。ジェットがこんな低空を飛ぶはずはない。当艦の右舷二五キロを北上中です」  デイ艦長はブリッジへのインターカムを取った。 「航海長! 三時から二時方向、高度五〇〇〇。何か見えないか!?」  五秒を経ずに応えが返って来た。 「駄目です! 何も見えません」 「この揺れの中で、二五キロ彼方の物体を見付けろと言っても、まあ無理だろうな」 「艦長、モノパルスレーダーを使います。いいですね?」 「許可する」  左端のアクティブレーダーのスクリーン上を、走査線が三秒余りで半周すると、そのまま、映像が固定された。左のターボプロップ機とおぼしき目標は、くっきりとブリップを残したが、右のジェット機は、何の反応も示さなかった。 「ステルス機です!」  スノーがそう叫ぶ前に、オペレーターが、一センチ角の照準サークルを、赤外線レーダーのスクリーン上に走らせて、ターゲットをその�箱�の中に閉じ込めた。サークルが点滅を始める。ターゲットのデータが、魚雷発射管の中に収まっているシーフェニックス・ミサイルの追跡コンピューターに搬送《リンク》中であることを示していた。 「一番、二番発射管に注水! 続いて発射管扉開け!」 「敵味方識別装置《IFF》は使わんのか?」 「駄目です! B‐1に我々の存在を誇示するようなものです。それに、私がパイロットなら、とっくにIFFは切っておきますね」  点滅が止まって、サークルがひときわ明るく輝いた。シーフェニックスのコンピューターが、母艦からのデータを、完全に自分の頭脳に記憶し終えた印だ。  スノーは�|空中へ《TTTA》�と書かれた赤いカバーを外すと、冷たいスイッチに指を掛けた。 「一番、発射《シユート》!」  一番発射管から、重量四〇〇キロ、長さ四メートルのシーフェニックス・ミサイルが発射された。凍てつくような海中を三〇〇フィート助走した後、推進プロペラを切り離し、海面ジャンプ用のロケットブースターが点火して、トビウオよろしく海上へ躍り出るのだ。  スノーは二番の発射まで一五秒待った。最初のミサイルが、外れるものと仮定しての措置だった。 「後は、神にでも祈りましょう……」 「うん。君はそうしてくれ。さて、戦務長。これで我が艦の秘匿性の意義は失われたわけだ。すべてのデータを、指向性ビームに乗せて、TACAMOに送りたまえ。直ちにだ! 平文で構わん」  クロークは溜息をつきながらも、辛気臭《しんきくさ》い声で、「アイ・アイ・サー!」と答えた。  デイ艦長はそれで満足だった。数十日間も海に潜りっ放しの世界で、すべての命令にオウム返しで従う部下だけでは滅入ってしまう。クロークの存在は私にとって、精神の緊張度を保つための薬でもある。しかし、そろそろデスクワークに帰して、昇進と艦長就任の準備をさせなきゃあならん頃だな。デイはヴァンダイク髭に右手を当てると、まあしょうがないかと、ほくそ笑んだ。そしてスノーのように祈りを捧げた。百三十名の、同じ釜の飯を喰らい、生死を分かち合って来た部下達を、無事に家族の元に送り届けられるよう。そして、彼らが夜毎夢に見る、緑なす故郷が灰燼《かいじん》に帰してしまうことがないように……。     13  ホワイトハウス 「捕まえた!」  ハンレー大佐が叫んだ。「オホーツク最深部にいたブレマートンがB‐1を発見! 艦対空ミサイルを発射した模様です」 「よくやった!」  スタッグス大統領は万感を込めて叫んだ。ジャービス空軍参謀総長が、口の中で、腑甲斐《ふがい》ない! と呟いたが、誰にも聞こえはしなかった。 「閣下、�コンドル�テレビ衛星が、オホーツク上空を通過中です。B‐1を捕捉できるかも知れません」 「やってくれ!」  二〇秒を経ずに、戦闘情報統制《CIC》スクリーンに、地上一五〇キロ彼方からの、オホーツク海を俯瞰《ふかん》した映像が映し出された。カメラがズームインを始めると、スクリーンは一瞬真っ白になり、やがて紺碧の世界に変わった。海面に砕ける白い波を視認できるようになった所でズームが止まった。そして今度は、上下左右とカメラが首を振り始めた。スクリーンの右隅っこに、経緯度が、秒単位で表示され、それが目まぐるしく変化する。スクリーンはその度に、まさに流れるように海面を映し出した。そして数秒後、一点に固定された。 「いた!」  スターバック将軍が、スクリーンの右上方を指差した。そこに映し出されたB‐1爆撃機の大きさは、僅か三インチにも満たず、コクピットの風防すら確認できないものだったが、国家安全保障会議《NSC》スタッフの体内で、アドレナリンを一気に放出させるには十分過ぎる大きさだった。  B‐1  ピーターはレーダーコンソールを叩いた。 「モノパルスレーダーだっ。友軍の波長パターン! たぶんロス級原潜です」 「距離は?」  スタイガーは冷静な口調だった。 「恐らく、三〇マイル以内! 八時方向です!」  スタイガーは直ちにスロットルレバーをファイティング・ポジションにまで持ってゆき、可変翼を一杯に退げた。「どのくらい稼げる?」 「たった今発射したとして、水中航行を計算に入れても、五〇秒が限度です!」  ルメイ号の加速を計算に入れたとしても、フェニックス・ミサイルは、それ以上の加速能力を有している。確かに五〇秒が限度だと、スタイガーも弾いた。 「マックス、カウントダウンをしてくれ」  副操縦士《コーパイ》席のバスは、まったく青ざめた表情で、どうにか加速度に逆らって左腕を挙げた。「四五……」 「ピーター、手は?」 「小型炸裂弾《パラグレネード》を放出します!」 「いかん! コンドルが覗いている。あれは最後まで取って置くぞ」  推力対重量比が〇・三そこそこの爆撃機では、三、四十秒で上昇できる高度など知れている。しかし、今は高度だ! スタイガーは何度も胸の内で叫んだ。  バスが「三〇秒!」と叫んだ瞬間、スタイガーはアフターバーナーを点火した。 「ピーター、高速ヨーヨーで正面を向く。赤外線探知器を使え!」 「そんな無茶な!?」  ホワイトハウス  戦闘情報統制《CIC》スクリーンの上でも、B‐1が上昇加速を速めているのがわかった。 「やっこさんら、気付いているようだな。だが、手遅れだね。申し訳ないが、フェニックス・ミサイルは百発百中だ」  フリードマン提督がジャービス将軍に慰めの言葉を掛けたが、ジャービスは「そうかな」と反駁《はんばく》するように答えた。 「君だって覚えているだろう。七〇年代にフェニックスを装備した我が海軍のF‐14と、スパローを装備したおたくのF‐15を何十回と模擬空中戦させたが、君らが勝ったことはなかったじゃないか?」 「確かに。だが忘れんでくれ。スタイガーはエースパイロットだ」  奴なら、きっと回避策を見付け出す。ジャービスは胸の内で、期待を込めてそう言葉を繋《つな》いだ。  B‐1 「一五秒! 赤外線フレアのカムフラージュは、完全じゃないんだぞ!」 「わかっている」  スタイガーは外側二基のエンジンを切って、高速ヨーヨーの態勢に入った。この上昇反転はひとつ間違うと失速する恐れがあったが、旋回半径を短く、つまり通常の旋回より時間と距離を短縮できるという利点があった。スタイガーは上昇の最高点に近付くと、フレア弾を一発、二発と発射した。そして中央二基のエンジンも極力絞りながら、最高点で更にロールバンクを打って鼻面をミサイルに向けた。  反転を九〇度切った所で、頭上に、ミサイルの白煙らしきものが見えた。しかし、そのミサイルが狙っているのは幸い、囮《おとり》の赤外線フレアだった。  更に一二〇度に達した所で、ピーターが「第二弾接近!」と叫んだ。二発目は正確に、B‐1の主翼前面から空気との摩擦によって発せられる微量の赤外線を捕えていた。  B‐1は背面飛行の状態にあった。スタイガーも、コクピットの前面に迫って来るミサイルの白煙を発見した。もうフレア弾の発射は間に合わない。やるべきこと、可能な手段はひとつしかなかった。  スタイガーは、スティックの裏側にある二〇ミリ・バルカン砲のセフティカバーを人差し指で弾いた。最早、ヘッド・アップ・ディスプレイにターゲット・スコープを起こしている暇もない。ベトナムの空で培《つちか》った戦闘機乗りとしての抜群の勘と戦闘本能が、彼を背面状態にありながら、ミサイルとのドッグ・ファイトへと駆り立てた。  バスが「あそこだっ」と叫んだ時には、スタイガーはもう、引き金に掛けた人差し指に力を込めていた。  機首真下の二〇ミリ・バルカンの六本の砲身から、初速一〇三五メートルの劣化ウラン弾が、毎秒一〇〇発という高速で発射された。比重の重いウラン弾が炸裂した時の威力は絶大である。  スタイガーは背面飛行のままスティックを操り、三連射した。  二連射目の何発かが、爆発した。ウラン弾の破片を喰らったミサイルのロケットモーターが爆発したのは、B‐1の僅か三〇〇〇フィート前方だった。  破片を吸い込まぬよう、スタイガーは方向舵《ラダー》を蹴って左旋回しながら、機を正常な姿勢に戻した。  ブレマートン  スノーは、まったく無味乾燥に説明した。 「つまり、一発目をフレアでかわし、二発目を機関砲で墜とした。信じられませんが、そういうことです」 「百一発目も、外れたわけだ」  デイ艦長が慨嘆した。「まだ追尾は可能かな?」 「駄目です。彼らは本艦の死角に入りつつあります。波が崩け散る超低空を飛行して、赤外線による探知をかわそうとするでしょう」 「手持ちのミサイルもなくなったことだし、我々がここにいる意味も消えたわけだ。  戦務長、TACAMO機へ撃墜失敗を報告」 「そして、潜航ですね?」 「よかろう」   B‐1 「レイモンド・スタイガー大佐の勝利だな」  バスは、まったくのお世辞抜きで、機長を誉めた。 「別に私の腕が優れていたわけじゃない。タイミングが良かっただけのことさ」 「いやいや、謙遜することはない。それに、二〇ミリ・バルカン。D型にあれを装備するよう強硬に主張したのは、外ならぬ君だったじゃないか」 「うん。軍の指導部というのは、いつまで経っても、同じ過ちを繰り返すものだ。ベトナム戦争においても、当初F‐4ファントムは、バルカン砲を装備していなかった。あの頃は戦場の無人化論争が盛んで、戦闘機など、単なるミサイル・ランチャーぐらいにしか考えられていなかったからな。だが、我々が失業することはない。核兵器が地球を吹き飛ばすという時代に、やはり歩兵は存在する。結局は人間が自ら引き金を引き、自ら敵地に旗を立てなきゃならん。今も昔も変わらぬ、戦争のセオリーさ」 「もっともだな」  高度が三〇〇フィートを切った所で、スタイガーはレーザー高度計を始動させ、高度一五〇フィートを保つようコンピューターをセットした。速度は、マッハ〇・七。 「ピーター、追撃機に異常は?」 「後ろの奴は特に……。オホーツクを飛び立った奴らが降下を始めています。さっきのミサイルの爆発が探知された模様です」 「全方向から攻められるとやっかいなことになるな。どうする? 電子戦《ECM》をやるか?」 「その方がベターです。敵さんのレーダーと通信に、最大級のECMをプレゼントしましょうや」 「よし、やってくれ」 「しばらくは安全だろうね?」  バスが肩のベルトを外して、アタッシュケースを取り出した。 「燃料を喰うが、コースを変えて北東へ離脱する。こっちは大丈夫だ」 「よし。じゃあ私は、そろそろフェイルセイフ・ボックスの解読に取り掛かろう。あれは装置を開発した者でも、簡単には触《さわ》れんような仕組みになっててね、設計者の私でも、何時間掛かることやら」  バスが立ち上がって攻撃オペレーターのボックスに収まったのを確認すると、スタイガーは、機を徐々に北東へUターンさせて行った。     14  ホワイトハウス  B‐1爆撃機から発射された赤外線フレア、愚かにもその中へ飛び込んで行ったフェニックス・ミサイル。旋回するB‐1、背面状態から発射されたバルカン砲の曳光弾の輝き、そして爆発するミサイル。すべて、余す所なく戦闘情報統制《CIC》スクリーンに映し出された。僅かに三〇秒。あっという間の出来事だった。  国家情報統制《NIC》センターの空軍オペレーターが、拳を掲げてガッツポーズを取った。空軍参謀総長のジャービスも凱歌を叫びたい気分だったが、如何せん彼ほどの地位にもなると、自分の立場や他人の視線というものを考慮せずには置かない癖が身に付いてしまっている。しかし、ジャービスは胸の内で称賛を送らずにはおれなかった。空軍テキストの新しい材料が出来た。タイトルは�大型機における|追跡ぶっち切り《ブレイク・ザ・トラツク》、及び空対空戦闘マニュアル�がよかろう。 「し、信じられない!?」  隣りのフリードマン提督は、身を乗り出して海軍の活躍を見守っていたが、ミサイルが撃墜されると、放心したように椅子に座り込んだ。「あのフェニックスが撃墜されるなんて……。しかも爆撃機に」 「信じられないことはないさ。ベトナムでは、おたくのプロペラ機や、うちのB‐52がミグを撃墜したことがあったじゃないか。もっとも、正面切って機関砲でミサイルを墜としたというのは記憶にないがね」  ジャービスは事もなげの結果のように、フリードマンを慰めてやった。 「提督、ブレマートンはなぜ攻撃を続行しないのかね?」 「不可能だからです、教授。あれはシーフェニックスを二発しか積んでおりません。ロス級原潜は、排水量六〇〇〇トンで巨大艦のように思われがちですが、実際は原子炉の周辺システムに場所を取られていて、搭載している兵器は、魚雷二十数本に過ぎません。この中に、シーフェニックス、水上艦攻撃用のハプーン、アスロック等、初期のものは巡航ミサイルまで含んでおります。あのクラスの戦力と言ったら、微々たるものです」  フリードマンはショック状態にありながらも、しっかりと新型SSN‐21タイプ艦の必要性をスタッフに認識させることだけは忘れなかった。 「モスクワだ! クレムリンを呼び出したまえ」  スタッグスは吐いて捨てるように命じた。戦闘情報統制《CIC》スクリーンに横縞が走って映像が乱れ始めた。やがて画面が暗くなり、完全に映像がロストした。 「どうした?」 「これ以上修正できません。コンドルは極軌道衛星ですので、静止は不可能です」  CICスクリーンにテロップが流れた。 ──国家安全保障局《NSA》提供──  B‐1 ECMヲ開始。位置不明。  モスクワが出た。  大統領スタッグスは、合衆国の艦艇がB‐1を発見し、発見と同時に攻撃を行ったが、失敗したことを、そのアウトラインだけ説明した。  国防相のクジチキンが斜に構えたまま、無愛想に口を開いた。 「大統領。そちらから、あのB‐1に伝えて下さらんか? 間もなく、彼らが領空侵犯をすることを。何しろこちらは、地上のレーダーサイトから迎撃機に至るまで、通信妨害を受けている始末で、B‐1の発見位置を迎撃機に伝えてやることすら出来んのです。爆撃機の分際で、弾幕妨害《バレージ・ジヤミング》を仕掛けるなど、しかもあんな低空から……」 「それは……、国防相閣下」  スタッグスには返すべき言葉が無かった。  アヤセが助け船を出した。「国防相閣下、我々は現在、この時間にもジェネシスグループの摘発に全力を尽くしております」 「当てはあるのかね?」  アヤセはイエスと答え掛けて、慌《あわ》てて言葉を飲み込んだ。この中にグループの総帥《そうすい》がいるのだ。迂闊《うかつ》なことは言えない。 「当てはありません。しかし必ずや、グループの正体が露見するであろうことを、私は信じて疑いません。ですから──」 「結構なことだ」 「ですから、その間、貴国の優秀なる防空部隊の活躍に期待したいのです。彼らの脅迫の道具であるB‐1を追い詰めることさえ出来れば、この事件は半日を待たずに解決します。START㈼条約を確固たる存在にするために、貴国の協力を仰ぎたいのです」  ホットラインの音声が切れて、相互視覚通話《MIC》システムのスクリーンの向こうで協議があった。アダム書記長とクジチキン、それにグレチコ外相が激しく言葉を交わしているようだった。グレチコが防空軍司令のコマロフ元帥に何事かを話し掛けて終わった。分析ルームのロシュトックが、僅かに「それでも保証しかねます」というコマロフ元帥の唇を読んだ。  グレチコ外相が、マイクのカフを上げた。 「大統領閣下、我々は、当然の権利として、B‐1爆撃機、それもD型のすべてのデータを要求します」  スタッグスの「考慮しましょう」という返事と、ジャービスの「論外だ!」という怒りの声が重なった。スマッツがマイクを切った。 「何てふてぶてしい奴らだ!」 「ジャービス君、直ちにデータを準備させたまえ」 「閣下、まったく理不尽な要求です。無視すべきです」と、ジャービスはバンバン、テーブルを叩いた。 「B‐1のD型は、二十一世紀まで任務を遂行できるよう設計されております。ノースロップの全翼ステルス機がキャンセルされた交換条件として、D型は採用されたのです。我々にとっては、もう後がないのです。そのB‐1の機密を渡してしまえば、核の三本柱《トライアツド》のうちの一本は、完全に倒壊してしまう」 「将軍、君の言っていることは理解できるが、もっと、事の重大性を認識しようじゃないか?」 「私も反対だな」  ジャストロゥ教授がジャービスに同調した。 「たとえデータを渡したとしても、彼らがそれを分析し、対応策を見出し、手を打てるだけの時間的余裕はないと思う」 「しかし、何か渡さんわけにはいかんだろう……」  アヤセが折衷案を出した。 「将軍、B‐1を妨害できるようなヒントを与えられるだけのデータは渡せませんか?」 「B‐1は不死身だ。弱点は無いし、妨害など不可能だ」 「では、こちらが推測できる侵入コースや、有効的な迎撃フォーメーションなどを教えることぐらいは可能ではないですか。そう遠くない将来に性能更新が可能なパーツと、あと発見に繋《つな》がるノウハウを抱き合わせにして送ってやれば、こちらの損失を最小限に押さえられるはずです」 「君は陸軍の出身だから、簡単に言うがね、迎撃フォーメーションというのは、防空基地の配置と、それを行う航空機の性能いかんに掛かっている。それにノウハウと言っても、彼ら自身の戦術というのがあって、それをハイそうですかと急に変えられるようなものでもないんだよ」 「いや、その程度のものでも、この際渡そうじゃないか。向こうの心証をこれ以上悪くするのは得策とは言えん」  ジャクソン国務長官が、外交上の判断を下した。ローマン主席補佐官と、サンディッカー副大統領が賛成し、コンラッドCIA長官が反対票を投じた。  スタッグスは音声の回復を命じ、クレムリンに、B‐1の発見、撃墜に必要な情報を一時間後に提供する旨、そして専門的な質問があれば、MICシステムの予備回線で、いつでも空軍のスペシャリストが回答する旨を告げた。  スクリーンが消えて、オーバルテーブルに静寂が蘇った。スタッグスは顔を俯《うつむ》けると、誰へともなく「休みたい」と呟いた。しかし、インターカムが非情なアラームを鳴らし始めた。スタッグスはさも大儀そうにそれを取った。 「ああ、アルか。そうだな、晩餐会があったな。すまないが中止の手配を取ってくれ。理由? 何か適当な理由はないか?」 「急病はどうだね?」  サンディッカー副大統領が提案した。 「再選を前に、病気はまずいだろう。要は、マスコミに真実を悟らせないことだが……」 「私に考えがあります」  実を言うと、アヤセはスタッグスが晩餐会の遅れをホワイトハウス総務部長のAEHに命じた時から、そのことを考えていたのだった。 「コンラッド長官、腕《うで》っ扱《こ》きの工作員を、ひとり二人貸して下さい」 「どうする?」 「準備が整ったステートダイニング・ルームか調理場の屋根裏で、漏電によるボヤが発生というのはどうでしょう。規模は小さくとも、消火の際の放水で、料理を滅茶苦茶にすることぐらいは出来るはずです」 「そして晩餐会はお流れというわけか……。名案だと思う」 「いいだろう。アル、晩餐会は予定通りだ。そうだ、変更はない」  いつの間にかコンラッド長官の後ろに影のような男が、恐らく副官のひとりだろう、現われて、二、三会話が交わされた。  アヤセにも、その断片が聞き取れた。 「時間が……」 「警備に当たっている者でもよろしい」 「しかし彼らは……」 「そう。ではひとりしかおらん。昔取った杵柄《きねづか》で頑張りたまえ」  その男は、「とんだとばっちりだ」と漏らしながら、エレベーターへと急いだ。 「ジャービス君、あのルメイ号は、核を積んでいたのかね?」  スタッグスは、今に至って、ふと思い付いたように質《ただ》した。 「前部、後部兵器倉に|核巡航ミサイル《ALCM》を八発。中央に核、非核の|短距離ミサイル《SRAM》を八発搭載しております。胴体下にも一四発のALCMの搭載が可能ですが、整備上の都合から平時には装備しません」 「なぜこんな平和時に、実弾を積んだ爆撃機を飛ばす必要があるんだ」 「空軍の展開スクリーンをご覧頂ければわかりますが、現在も、米本土上空で二機、大西洋上空で二機、太平洋上空で二機のB‐1及びB‐52爆撃機が警戒飛行を続けております。ペアの片方は常に核装備が義務づけられておりまして、二十四時間に亘《わた》って、最低二つのグループが空中にいるよう飛行計画《ローテーシヨン》が練られております。一九六〇年代にも、このような滞空警戒措置が取られていましたが、墜落事故の続発によって、しばらく打ち切られておりました。B‐1の配備と共に、航空機の安全性が向上したものと判断され、再開された経緯があります」 「私はそんなことは聞いとらんぞ」 「レーガン政権の決定事項です」 「君らは、|大陸間弾道ミサイル《ICBM》も持っているし、戦略潜水艦もあるじゃないか?」 「ICBMは第一撃に対し、極めて脆弱です。戦略潜水艦は、あれは海軍さんのものです」 「核兵器に、ゴキブリ的生命力を持たせた所で、いったい何が出来るというのだ」 「それが、抑止力というものです」 「とにかく、機長の、あの何とかいう大佐の背景調査を急ぎたまえ」  スタッグスの弱々しい声に追い討ちをかけるように、戦闘情報統制《CIC》スクリーンにテロップが流れた。 ──国家安全保障局《NSA》提供──  バレンツ海ヲ警戒飛行中ノブラックジャック爆撃機二機ニ、大西洋方面フェイルセイフ・ラインヘノ前進命令、下令。  全ソビエト防空軍、及ビワルシャワ条約機構軍ニ、警戒命令、下令。  偶発核戦争への第一歩は、計らずも、米ソ指導者の手の中で、完全なる監視の下に記されたのだった。     15  ワシントンD.C.  FBI本部からペンシルバニア通りを隔てた郵政省ビル内にあるFBIワシントン支局の通信指令室に、マーカス・モンローはもう二時間も待機させられていた。FBIマンの彼も、ここではまったくのお客さん、というより他所者《よそもの》である。彼の大統領特別調査室長という肩書きはかなり特異な代物だったが、同席するジュリアス・グラントのワシントン支局長という肩書きに比べれば、若干見劣りがするのもやむを得ない。  もっともこのグラントとて弱みはあって、明らかに太り過ぎであることだ。彼にとってFBIの体重制限に関する細目は、議会筋があれこれ難癖をつけて迫って来るFBIの行動制限以上に疎《うと》ましい存在だった。ただ幸いだったのは、スマートであることが最上の美徳であったフーバー時代に、安月給が多少なりとも彼の食生活に好ましい影響を与えてくれたことだった。 「まかり間違って、あんたがFBI長官の椅子に収まるような日がくれば、おおかたの同僚は、フーバーの帝国時代を懐かしく想うようになるだろうな」 「なんで? いいかげん、ブレザーのボタンをわざとらしく外したストイックなFBIマンの印象は捨て去るべきだよ。親しみある連邦警察。これからのFBIは、大衆路線でゆくべきだと思うがね」 「よく言うよ。FBIのボスが小太りの好々爺なんてことになれば、スパイ小説や推理小説の作家から、苦情が出やしないかね」 「やれやれ。この頃誰もが、フーバー時代の規律と威厳を持ち出しちゃあ、俺に厭味を言いやがる。まったく差別だよ、こりゃあ」 「心配しなさんな。誰もあんたの出世を阻めやしないさ。その知識と経験に適《かな》う奴もいないしな」 「そういうお世辞は有り難いねえ。何しろ私は、ヘンダーソンを監視するために、ワシントン支局の三分の二のセクションを割いて協力しているのだから」  グラントは満足げに頷くと、デスク上のワシントンの作戦図に視線を落とした。そこには、メリディアン・ヒル公園の向かいにあるアパートメントから、ジャック・ヘンダーソンが今日一日|辿《たど》ったコースが、漏れなく記入されていた。彼の現在地点であるニューハンプシャー通りの高級フランス料理店ル・プロバンサールの上には、黄色い虫ピンが刺してあった。 「こちらはステーション7のハレー。旦那はブルマンを三口飲んだ後、化粧室に入りました」 「ハレー、こちらはアイアンマン。誰かを中へ入れろ」 「了解」 「あんたがアイアンマンだなんて。フォアグラのほうがお似合いだよ」 「それじゃあ暗号の意味がなくなるじゃないか」  グラントはモンローの皮肉をさらりとかわすと、しかし不安げな眼差しを示した。店内だけで五名、外には三台の追跡車、更にル・プロバンサールを囲むワンブロックを四台で包囲している。しかし、向こうが、FBIによる監視を覚悟の上で動き回っていることは明らかで、ヘンダーソンには何度も煮え湯を飲まされているのだ。 「こちらはハレー。旦那はベンチに座ったようです」 「投函所《デツド・ドロツプ》で接触を計るつもりじゃないのか?」モンローはグラントの注意を促した。 「どうかな。ハレー、化粧室は調べたか?」 「ちょっと待って下さい。調べました。締まっていた奥のベンチを除いて、水槽の中まで調べたそうです」 「ジェネシスグループがメッセージを渡すだけなら、何もヘンダーソンを介する必要はないだろう。ミスターアヤセの読みは正しいと思うな。スポークスマンは自己顕示欲の塊《かたま》りだ。奴はちょっとしたディープスロートの気分に浸っている。必ず直接の接触を計るはずだ」 「だが、ひとつ締まっていたそうじゃないか?」  グラントは再度ステーション7のハレーを呼び出し、奥のベンチについて質した。ハレーからは、奥は現在開いているとの答えが返って来た。 「そろそろ俺達を撒《ま》きに掛かってもいい頃だがな……」 「半年前、商務省の|もぐら《モール》を摘発した一件を覚えているか?」 「ああ、例の多国籍企業の脱税を商務省がわざと見逃していた奴だな。久々、ヘンダーソンに一矢報いることが出来た」 「うん。実を言うと我々は一年前から、国防総省の漏洩事件絡みで、ヘンダーソンの長期監視を続けていたんだ。そこで、取っ捕まえたモールに、接触場所と日時を吐かせて、ヘンダーソンの行動記録を洗い直してみた。接触は都合三回。いずれもシェラトン・パークホテルにおいてだ」 「パターンでも見付かったのか?」 「いや、ただ、ヘンダーソンは我々を煙に巻く前、必ず二度、ホテルの通りを走っていることがわかった」 「前もって哨戒というわけだ。この場合、二度走った道路というと……」  モンローは口をへの字に結んで地図に見入った。「マサチューセッツ、ニューハンプシャー、インデペンデンス通り。めぼしい建物で、この時間も開いているとなると、ユニオン駅、デュポン・プラザホテル、後はバーやレストランの類いが無数。どうも漠として見当がつかんなあ。あんたは当然、目星がついているわけだ」  その時、ステーション7からの無線が入った。 「旦那はレジを払って外へ出ます」 「了解。ステーション4へ交代、フォーメーション・デルタで追跡を続行せよ。どうも、撒《ま》かれたような気がするんだが……」  グラントは、分厚い脂肪に喰い込んだスラックスのベルトに無理に右手を差し込んで、二、三度腹を掻いた。 「なあアイアンマンさん、教えてくれよ。いったいヘンダーソンは何処で接触を計るつもりなんだ?」  無線機の前で、疑いに囚われようとしていたグラントは、仕方なくモンローの問いに先に答えることにした。 「この、インデペンデンス通りだが、おかしいと思わないか? 二時間前に一度、アーリントン記念橋を渡って入っているが、問題はル・プロバンサールへ向かう二度目だ。三番ストリートから入っているが、普通なら、ワシントン・モニュメントを迂回《うかい》して、一旦ペンシルバニア通りへ出るのが早道だ。ところが彼は、ゆうゆう、ポトマック沿いにケネディセンターを見てからニューハンプシャー通りに入っている。これまでの彼の行動には矛盾がまったくない。例えば、友人のパーティに顔を出すとか、病院に花を届けるとか。とにかく、何がしかの辻褄の合う理由を付けて動いているんだ。なのに、この一マイル足らずの、しかも狭苦しい道を走る理由が見付からん」 「なるほど、確かにな……」 「こちらステーション4のオリオン。旦那は一台目のキャブをやり過ごし、二台目の霊柩車を掴《つか》まえました。モニターします」 「やったぞ!」  グラントは膝を叩いて快哉を挙げた。霊柩車とは、FBIが緊急時に借用するキャブのことを指していた。運転手は本職だが、実はまったくの協力者、グラントに言わせれば、愛国心に満ちた市民で、車内には高性能のマイクとFM発信機が埋め込まれていた。 「こちらステーション4。旦那はパーク・セントラルをオーダー……。待って下さい……。偽者です! 運転手が世間話をしかけていますが、テノールの、せいぜい三十代の声です」 「ヘンダーソンはプリンストン大学のコーラスに入っていた。噂によると、あの時代から見事なバリトンだったそうだ」  グラントは苦々しい調子で解説を加えた。 「さっきの化粧室だな。ステーション7を呼び戻すか?」 「いや、もう遅い。今頃別人に化けて、レストランを出ている。それより、ポトマック沿いのインデペンデンス通りに賭けよう」  長年、FBIの第一線で培われて来たグラントの経験と知識が、即座に決断を下した。彼は無線機の周波数をオールチャンネルに切り替えた。 「アテンション! |全員に告ぐ《アテンシヨン・オールハンド》! ステーション4は霊柩車の追跡を続行。それ以外の全ステーションは、これよりマラソンを始める。コースは、ケネディセンターから農務省までのインデペンデンス通り。この区間で停車した車両の搭乗者をすべて尾行。男と女と構わずだ。直ちに移動せよ!」  グラントはモンローに、一〇〇ヤード間隔で巡航を繰り返すマラソン警戒について説明した。「走行車が不審車を発見した場合は、発見車はそのままやり過ごし、後続車の乗員が尾行任務に就く。いささか不経済だが、最も有効な方法だ。走行車はコースを一周するごとに、ナンバーや運転手を変装させる。この時間帯に、西公園のど真ん中で停まる車や、人間はいやしないだろう」 「ヘンダーソン程の男が、こんな時間帯に、あんな場所を接触ポイントに選ぶなんてのは、不合理な気がするが」  モンローはグラントの推理に疑問を投げたが、グラントは確信ありげに答えた。 「そう。だから場所の設定は、スポークスマンから一方的になされたと判断するね。スパイ小説の読み過ぎというわけさ」 「これだから、叩き上げには適《かな》わんのだな。私は現場に出向いて、朗報を待つことにしよう」 「いいだろう。しかし、逮捕はうちのベテラン共に任してくれよ。他所者に獲物を横奪りされたとなると、後がうるさいんでね」  モンローはその忠告をうわの空で聞きながらも、儀礼的に「了解」とだけ返事をしてやった。  ホワイトハウス  アヤセがパーソナルブースに入ると、ジェシー・キムが受話器を差し出した。 「FBIワシントン支局長のジュリアス・グラント氏がお出になりました」 「ありがとう。それから、BBCワシントン支局長のウイストン・ヘイワールを捜してくれ。今頃はどうせ、階上をうろついているだろうが……」  頷くキムが出てゆくと、アヤセはブースのドアを締めた。 「ミスターサムライ! ヘッドハンターズ事件ではお世話になりましたな」 「グラントさん。あの事件は忘れるという約束でしたよ」 「ああそうでしたな。残念ですが、モンローは今ヘンダーソンの追跡に出てゆきました。そちらへ回しましょうか?」 「いえ、あなたに用があるんです。実は、何も訊かずに、ある特殊技能を有する人物を、こちらへ派遣してもらいたいのです」 「私の部下でよろしかったら喜んで」 「それが、民間人というか、すぐには捕まらないかも知れない人物なんです」  アヤセは突っ拍子もない依頼を持ち出すのに、内心冷や汗を掻かずにはおれなかったが、グラントは、 「じゃあ、こちらのリストを当たって発見できなければ、首都警察に直ちに話を回しましょう」と、快く応じてくれた。  ブースの外では、困惑げなアイラが待っていた。 「ヒロ……、私は本来は分析ルームの人間なのよ。ひょっとしてあなたの命令?」 「その通り。スマッツ君の隣りに座ってくれ。スクリーンのテレビモニターがあるから、クレムリンの観察も出来ないことじゃないだろう。もっとも君の第一の任務は、国家安全保障会議《NSC》のスタッフを観察することだが」 「じゃあやっぱりこの中に!?」 「何しろ、ここで信用できる人間といったら、君しかいないんでね」 「ああ! 今夜はコンサートの後、リブ・ゴーシュで焼きハマグリと分厚いステーキにありつけるはずだったのよ」 「おや。フランス料理は健康によくないって、この前聞いたような気がするが」 「そう。コレステロールと結婚するなんてまっぴらよ。でも、今夜だけはダイエットを忘れようと思っていたのも事実」 「うまく狂信者を見付け出してくれたら、スシでもおごって上げるよ」  アヤセはアイラを恭しくスマッツ国務次官補の隣席に座らせると、戦闘情報統制《CIC》スクリーンが反応したのを見て、急いで自分の席に戻った。 ──空軍提供──  行方不明ノKC‐135機ヲ東経一六〇度五〇分、北緯三七度六〇分地点ニテ発見。高度三万フィートヲ東南方向ヘ飛行中。呼ビ掛ケニ応答ナシ。  |F T 《フライング・タイガー》‐747輸送機ガ接近中。 「どういうことかな?」 「恐らくクルーは脱出した後でしょう。B‐1の性能なら、二度目の給油を受けることなく、モスクワを空爆して北米大陸に帰着できるはずです」  ジャービス将軍がそつのない解説を示す。  トーンバックから、ユージン・メンデル退役空軍中将が電話に出ていると報告があった。ジャービスは「はて、誰だったか……」と、一瞬思いを巡らしたが、ハンレー大佐が即座にメンデル将軍の経歴をCICスクリーンに映し出してくれた。  第八戦術戦闘航空団司令。エースパイロット。第二次大戦より、通算二一機撃墜。という文字が真っ先に飛び込んで来て、ジャービスは「私としたことが」と、臍《ほぞ》を噛んだ。 「将軍、ハロルド・ジャービスです。お元気でいらっしゃいますか?」 「ああジャービス君か。遠慮なしに言うが、最悪の気分だ。化学療法《キーモ》という奴で、副作用のせいさ。エースパイロットも癌には無力でね」 「それは、どうも……」  ジャービスが言葉に詰まると、隣りのスターバック将軍が、「それどころじゃないよ」と肘を突いた。 「将軍、実は、レイモンド・スタイガーについてお尋ねしたいのですが、覚えておいでですか?」 「はーん、こんな夜中に半死人に縋《すが》って来た所を見ると、奴め、何かしでかしおったな。貴様はエイブ・ダガットを覚えておるか?」 「もちろんです。空軍士官学校のテキストにも登場する。空軍軍人の鑑でした」 「うん、立派な男だった。スタイガーは彼の部下だった。ところで、ダガットの最期について、どの程度のことを知っている?」 「後方からミグに不意撃ちを喰らったダガット中佐は、レスキューを待つ間もなく、ベトコンの集団から攻撃を受け、果敢に応戦、数十名を倒した後、壮烈な最期を遂げました」 「加えて──」 「ええ、加えて、彼は最期の最期という瞬間に照明弾を打ち上げ、友軍機に一帯の爆撃を誘導した。少なく見積もっても、敵の一個大隊は殲滅《せんめつ》できたはずです」 「その通り。そしてその爆撃を行ったのが、誰あろうスタイガー中尉だった。奴はそのことで、責任を感じていたようだ。ちょっと融通の利かん所があってな、まあ戦闘機乗りとしては優秀なんだが」 「ところで、ダガットですが、生前、特に変わった所はなかったですか?」 「あれは、戦死する少し前だった……。私は奴に喰って掛かられたことがあったよ。貴様も知っての通り、平素の彼はまったく冷静そのものの男なんだが、あの時ばかりはどうしたものか。 『これはまったくナンセンスな戦争だ。背後の本拠地、北京とモスクワを叩かない限り、我々の闘いには、何の意味も生まれはしない』と、激白されてな。まあ、あの時はラインバッカー作戦が発動されたばかりで、私はこの作戦しだいだよと言って、奴を宥《なだ》めすかしたんだ」 「あの、与えられた任務には、何ひとつ不平を漏らさなかった男がですか。いや、どうもありがとうございました」  会話を終わろうとしたジャービスを、スタッグスは右手を挙げて制した。 「メンデル将軍、私はジョン・スタッグスです。心より、将軍の御回復をお祈りいたします。何かお困りのことでもあれば、個人的に──」 「これは、これは大統領閣下。直々のお励まし、誠に痛みいります。しかし私に慰めの言葉を掛けて下さるのであれば、ひとつ老兵が後顧の憂いなく死ねるよう、START㈼条約を破棄するとでも約束して下さらんかな?」  スタッグスは、老人へのほんの労りの気持ちから、言葉を掛けてやったつもりだったが、とんだヤブヘビになってしまった。スタッグスが言葉に迷っているうち、誰かが回線を切ってくれた。 「ダガットに心酔していたスタイガーが、遺言としてさっきのような台詞を聞いていたら、影響を受けるだろうな……」 「それはどうですかな? コンラッド長官。軍人はむろんですが、西側の知識人の多くは、結局のところ、モスクワを核攻撃でもして、共産主義の根幹を潰さない限り、世界平和の到来は永遠に不可能だと心の奥底では考えているはずです。何も彼らだけが、超タカ派であるわけではない」 「しかしスマイリー。我々は少なくとも、もしそんなことをすれば、どういう事態を招くかぐらいは知っている」 「確かに……」  再びCICスクリーンにテロップが流れ始めた。 ──空軍提供──  FT機ヨリ発信。該当機ヲ発見。左翼ノ格納庫ドアガ見当タラズ。操縦室ニモ人影ハ見エズ、機ハ無人飛行ノ状態ニアル模様。  ウォルター・マッシュ少佐は、最後の任務を無事達成したのである……。 「敵は常に、我々の一歩先を歩いているというわけだ」  スターバック将軍は、やんぬるかなという表情で慨嘆した。  ジャービス将軍のインターカムが、短い電子音を発した。国防総省からのものであることを示す、赤いランプも点いた。 「こちらはジャービス」 「参謀総長、兵器開発局《システムズ・コマンド》のラムゼイ・ヤングであります。実は、EMP弾の使用を考慮して頂きたいのですが」  ジャービスは眉をひそめると、会話が外へ漏れぬよう、受話器を然《さ》り気なく、耳に押し当てた。 「使えるのか?」 「はい、プロトタイプのものが二発完成しております。来週中に、F‐15に装着しての飛行実験を行う予定でしたのでエドワーズ基地に置いてありましたが、現在東海岸へ向かっております」 「威力は?」 「弾頭威力は最大五〇キロトン。最大爆発で、レニングラード、モスクワ両市の都市機能を完全に麻痺させることが出来ます」  ジャービスは胸の内で、「余計なことを……」と呟いた。 「しかし、B‐1Dには完璧なEMP防禦が施してあると聞いている。効果はないのではないか?」 「仰しゃる通りです。D型の防禦システムはほぼ完璧です。しかし、巡航ミサイル自体は不十分です。EMP効果は、言わば雷が走るようなものですから、対象が小さくなるほど、つまり容積が狭まるほど、避雷効果は減衰するわけです。  向こうの気象条件からすると、もし巡航ミサイル、それもあのAGM‐99が発射されたら、発見はまず不可能です」  ジャービスは、気象衛星スクリーンを、ちらと見遣った。スカンジナビア半島から、雪性の低気圧が、大陸へと張り出していた。 「そうすると、まず場所が限定され、爆発のタイミングが問題となって来る」 「はい」  ジャービスは、直ちに作戦の問題点を検討した。 「ヤング大佐、私は以下の三点から、EMP弾の使用は不可能だと判断する。第一に、これからソビエトへEMP弾を運んでいたのでは、間に合わない。第二に、スタイガーが、複数の巡航ミサイルを使用すれば、EMP弾の使用は意味がなくなる。第三に、これが最も困難な点だが、ソビエトが受れ入れまい。都市機能だけならまだしも、モスクワ、レニングラード間の軍事通信網も破壊されることになる」 「第一点につきましては、解決できます。ケネディ空港に駐機中の、英国航空の|SST《コンコルド》を借り上げて、フランクフルト基地まで飛ばします。弾頭は機内で装着します。そしてF‐15に搭載し、後は給油機と共に壁を越えさせるだけです。F‐15の火器管制《フアイア・コントロール》コンピューターにEMP弾用のユニットと、吊り上げ用の特殊パイロンを装備しなければなりませんが、調整に三〇分弱、ギリギリ間に合うと思います。第二点につきましては、彼らとしては、なるべく兵力を温存したいと考えるでしょうから、やみくもに、核ミサイルを乱発するような愚は犯さないと判断できます。第三点につきましては、EMP弾は元来、効果範囲の縮小をもくろんで開発されたものです」 「と言っても、大規模な都市機能の損失は免れ得ない」 「残念ながらそればかりは政治の問題です。大統領が、いかにクレムリンを説得するかです」 「そんなことは不可能だよ。なかなかの妙案であることは認めるが、まあ忘れることだな。それに実を言うと、私は先月、ソビエトがEMP弾の開発に成功したというCIA報告を受け取っているんだ。もしそういう事態に陥れば、連中は自分の奴を使うさ」  ヤング大佐が、納得し難い雰囲気のまま、電話を切るのがわかった。ジャービスは胸の内で、ものは言いようだと思った。確かにソビエトは、EMP弾の開発を急いではいたが、連中が成功したのは、弾頭部の設計についてのみだった。これから、地下核実験を初めとして、種々のハードルをクリアしなければならない。連中が理想的なEMP弾を完成させるのは、早くて二年後の話だ。  サンディッカー副大統領が、そろそろSTART㈼条約の破棄について、真剣に考慮すべきだと発言したため、ちょっとした議論が起こっていた。おかげで幸い、ジャービスの会話に耳を傾けている者はいなかった。そう、ジャービスは�幸い�と思った。  彼は、空軍参謀総長として、またひとつ、良心の呵責を積み重ねたのだった。     16  ワシントンD.C.  FBI大統領特別調査室長マーカス・モンローは、コンスティテューション通りを汎米協会まで通り過ぎた所で、国務省横へシボレーを入れるよう命じた。部下のアロンソ・マルドナードが、見事なステアリング捌《さば》きで、国立アカデミー方向へ右折した。国務省横を通り、二十三番通りへ出た所で、モンローは停車を命じた。  待つこと二〇分、投げた網に手応えがあった。 「こちらステーション5、シルバーのビューイックが減速しつつあり。西公園への入り口付近。注意されたし」  続いて、 「こちらステーション3、二号車。ビューイックは完全に停車」 「こちらステーション1、三号車。アーリントン記念橋を潜った。ハンターを降ろす」 「こちらステーション2、一号車。ドアが開いている。獲物が降りるぞ。間違いない! 旦那だ」  グラントの声が入った。 「こちらアイアンマン。網を狭めるぞ。ステーション6、7はジョージメイソン記念橋から十四番通りに布陣。5はアーリントン記念橋の東口付近一帯を。3は二十三番通りからインデペンデンス通りに。追い込みはステーション1、2が担当する。ウォーキートーキーの周波数は、チャンネル7。指揮はステーション1のアンタレスが執る。抜かるなよ!」  モンローもシボレーの発進を命じた。 「リンカーン記念堂からインデペンデンス通りへ抜ける小道があるだろう。そこへ突っ込め」  マルドナードは、バイパスを一〇〇ヤードほど入った所で、シボレーのエンジンを切った。モンローはウォーキートーキーを腰に装着すると、ブローニングのマガジンを確認した。 「ボス、ここは支局《ブランチ》の連中に任せましょうや。何も俺達が出てゆくことはないでしょう」  マルドナードは、半ば猫撫で声で、血気に逸るモンローを諫《いさ》めた。 「何を言うか。ヘンダーソンには散々コケにされているんだ。この手で恨み晴らさでおくものか。さっさとジャケットを着ろ。それからそのバクラバラ帽も」  モンローは険しい調子でマルドナードを窘《たしな》めると、バックシートを振り返って、一転して嬉々とした声を発した。 「じゃあリンダ、深夜のデートと洒落ようじゃないか」  コートの袖に腕を通すリンダ・カーター嬢は、複雑な表情だった。 「あの……ボス。それは私も、一日中デスクワークじゃ、偶《たま》にはスリルも欲しいですけど、こんな時間に、あんな淋しい所でデートだなんて」 「ええい、君らには燃えるような愛国心はないのか!? せっかく国家の緊急時に活躍するチャンスを与えられておきながら……」 「そりゃあまあ任務は果たしますよ。けど、こういう設定は、季節がら無理があるような気がするんですがね。この寒い時に、青カンを楽しむアベックと、それをつけ狙う強盗だなんて、ナンセンスですよ」  マルドナードがぶつくさ零《こぼ》しながらも、バクラバラ帽を目深に被って、サングラスを掛けた。 「結構似合っているじゃないか。どこから見てもFBIには見えんぞ」 「ええ、ええ、どうせ私はヒスパニックですよ。ゴロツキが似合ってますわな」 「じゃ行くぞ!」  モンローは強引にリンダと腕を組むと、インデペンデンス通りを歩いた。イヤホンを耳に掛けた男が、道路脇の茂みに潜んでいた。モンローは立ち止まることなく、「アンタレスは何処にいる?」と尋ねた。 「川縁りの公園入り口です。それより、後ろに付いて来る奴は何者です?」 「ただのゴロツキだと本人が言っている。気にするな」  トーキーに、初めて肉声が入って来た。 「こちらアンタレス。ステーション2の連中は何処だ?」 「こちらステーション2のペガサス。公園南側より進入中。三角路付近に人影が見える。そっちからはどうだ?」 「何も見えん。そちらは何名か?」 「私も含めて六名」 「ようし、五〇ヤード以内に近付くな。話が終わるのを待とう」  モンローはインデペンデンス通りを渡り切って、公園の中へ堂々と入って行った。 「ボス、アンタレスと一緒に待つんじゃないんですか?」 「連中は連中だ」  二人は更に、息を潜めるアンタレスの前を横切り、公園のジョギングコースであるオハイオ・ドライブに出た。右手はポトマック川を挟んで、ペンタゴン、アーリントン国立墓地である。 「ミスターモンロー、いったい何のつもりです!?」  さっそくアンタレスの抗議がイヤホンに伝わったが、モンローは足並を乱すことなく歩いた。ただ、トレンチの右ポケットの中で、ブローニングを握り直した。  モンローは結構大きな声で、「リンダ、素敵な夜景じゃないか。まるで二人のために輝いているようだ」と呟き、更にリンダの耳元で、「もっと肩を寄せないか」と囁いた。  しばらく歩いてゆくと、確かに男二人の囁き声が聞こえてきた。ひとりは紛れもなく、ジャック・ヘンダーソンの声だ。  モンローは小さな声で、「じゃあ、そろそろ熱烈なキスといこうか」 「そ、そんな無茶な!」と、リンダの小さな声。  モンローは、聞こえよがしの声で、「いいじゃないか!? 私は君を愛しているんだ!」  リンダも大声で、「いけませんわ! あなたには奥様が」。続けて小さく、「こんなの横暴ですわよ!」。「役得というもんだ」  モンローはリンダの華奢な肩を左手でひしと抱き締めると、唇を重ねようとした。リンダは形だけ抗《あらが》った後、恨めしそうにモンローを見上げて言った。「議会に訴えてやるんだから」  二人は明らかに気付いているはずだが、素知らぬ振りをしているようだった。モンローは一応|据《す》え膳《ぜん》は頂いとこうと、リンダの薄い唇に、自分のそれを重ねて行った。やはり若さは素晴らしいと、余計な思いが脳裡をよぎった。  観念したリンダが、抵抗を弱めた刹那だった。リンダの体を通して、モンローの全身に鋭い衝撃が伝わった。リンダが「ウッ」と呻き声を発してモンローの腕の中に崩れ落ちると、続いてシャンペンを抜くようなサイレンサーの発射音が数発響いた。  モンローは倒れ掛かるリンダの体を左腕で支えながら、ブローニングを、発射音が響いた方向へやみくもに発射した。 「くそッ!」  駆け寄るマルドナードに続いて、四方からドッと人影が湧いた。堤防にひらりと人影が躍り上るのをモンローは認めたが、「あそこだっ!」と叫ぶのが精一杯だった。  南から接近していたステーション2の数人がそれを追ったが、けたたましいエンジン音を轟かせて急発進したボートに、十数発の弾丸をお見舞いしたに留まった。 「リンダは?」とマルドナード。  モンローは、「たぶん肋骨が折れたかひびが入ったかしているが、大丈夫だ。ケブラーチョッキが守ってくれたようだ」と苦々しく答えた。 「ミスターモンロー!」  駆け寄って来た声は、アンタレスだった。「もしあなたが大統領付与特別非常大権を持っていなかったら、査問委員会に訴えてやったのにっ。右耳のイヤホンは何です!? 灯りを受けて、ピカピカ光っているじゃないですか」 「しかし、君らだって、バックアップがいることを予測できなかったじゃないか。旦那の具合はどうだ?」  モンローはリンダを芝生の上に静かに寝かせると、修羅場と化した三角路に近付いた。捜査官が、腰を屈めて、倒れた男二人を囲んでいた。 「ヘンダーソンは一発、右胸に喰らっています。助かるとは思いますが、しばらく意識は戻らんでしょう。気を失う前に、聞き取りました」  モンローは差し出されたメモをひったくった。 ──BBC海外向け短波放送による破棄メッセージ。アナウンサーはマイク・アンドリュース。男は、国務省中南米局書記官ロリーン・ストラトキン── 「そっちの奴は、スポークスマンはどうだ?」 「胸に二発喰らっています」  スポークスマンは、路上で何言かを喚《わめ》いていた。「コ、コントローラーめ。こんな約束はな、なかったのに……」  モンローはスポークスマンの胸倉を掴《つか》んで、むりやり起こした。 「おい、貴様がストラトキンか!?」  僅かに頷く。 「ようし、俺の声は聞こえているんだな。よく聞けよ。貴様はもうじき地獄へ堕《お》ちる。暗く冷たく、淋しい世界だ。しかし、そこへ旅立つ前にすることがある。最期の懺悔《ざんげ》だ。貴様はカソリックか? プロテスタントか? まあそんなことはいい。さあ俺が聞いてやる。誰だ? ジェネシスグループの総帥《そうすい》は誰だ。うん?」  男の唇が微かに動いた。モンローは耳を近付けた。 「…………」 「わからん! もう一度」 「…………」  男は急に咳込んで、モンローのトレンチに大量の血反吐を吐き出した。そして、事切れた。 「何か、言いましたか?」 「言おうとした……。だがその前に、悪魔に連れ去られた。永遠にな」     17  クレムリン  書記長秘書、党中央委員のゲオルギー・コルニエンコが事件の発生を知ったのは、アエロフロートの最終シャトル便がゴーリキーに到着してからだった。彼は、ロシア人の相変わらずの呑気な性格と、情報伝達の不手際を呪いながら、今しも目の前を通って滑走路へ向かっていたイリューシン‐76型旅客機を指差して、ひと言「止めろ!」と命じた。  その旅客機が何処へ向けて飛び立とうとしているかなど、彼の知ったことではなく、おかげでレニングラード発、ゴーリキー経由、ハバロフスク行きの便に乗っているつもりだった二百六十名の無垢な乗客は、目が覚めたら夜明けのモスクワに舞い戻っていたという憂き目を見る破目になった。  地下軍事司令部のエレベーターが開くと、傍らにヨーゼフ・スーベル中佐が、まるで何かの銅像のように、直立不動の姿勢を取っていた。  コルニエンコは「どんなあんばいだね?」と、スーベルの耳元で囁いた。 「今、侵入機を見失ったことで、ちょっと揉めています。それと……、アルヒペンコ党書記に気をつけて下さい」  警護以外のいっさいの党務にノータッチであることを厳しく要求されている彼にとっては、それだけを耳打ちするのにも、相当の勇気を必要とした。もちろん、さっきから三回も、リトビノフ首相がレニングラード州党第一書記のビクトル・アルヒペンコを物陰に誘い、何やらよからぬことを唆《そそのか》している事実までを伝える気にはなれなかった。  一方のコルニエンコとて、露ほどの関心を示さず、ただ頷いただけで、さっさとオーバルテーブルの陰へと歩いた。  参謀総長のズデナク・クーシキン元帥が、気炎を吐いていた。 「七年前、同志オガルコフの警告に、党が真剣に耳を傾けていてくれたなら、こんなことにはならなかったのだ! 出来もしない核戦争のために、無駄金を核兵器開発に注ぎ込んで来た結果がこのザマだ。せめて十年前、予算のウェイトを戦略兵器から、先端技術開発を主眼とした通常兵器部門に移していたなら、あんなアホ共の乗った爆撃機など──」 「しかし、あれがステルス機となれば、発見できんのも仕方ないではないか。それに、我が軍もステルス機を保有していることだし」  KGB議長のミハイル・バリヤが穏やかな口調で反論した。 「そんなことは気休めにもなりはしない。西側はすでに、ガリウム砒素素子を使った小型高出力のアンプやコンピューターを開発することに成功し、超高性能レーダーの航空機搭載を始めている。またレーザーレーダーの衛星搭載にメドがついたようだと、つい二ヵ月前、KGBのニューヨーク支局がレポートを送ってよこしたばかりではないか!? 連中はたぶん、我が方のステルス機の所在を正確に捉えているに違いない」 「同志クーシキン。党と軍に、戦略の基本方針を巡って、長い間意見の相違が続いていることは、私も残念に思っている……」  おもむろに口を開いたアダムは、喉にいがらっぽいものを感じ、ミネラルウオーターの小瓶に手を伸ばした。中には、グルジア産の最高級の鉱泉水が入っている。彼はそれをコップに半分程注ぐと、軽くひと口、喉へ流し込んだ。 「だが、これは党にとっても、辛い選択なのだよ。安上がりだが、使えない核兵器開発に金を使うか、それとも、役には立つが、天文学的な予算を喰う通常戦力に重きを置くか……。  だが、考えてくれたまえ。もし我々が、全勢力を先端技術開発に注ぎ込んだとしても、西側のそれに勝ることが出来ただろうか? 資本活動に裏打ちされた意欲的な技術開発には、残念ながら、我が国の現状では及びもつかない。不本意だが、これは我々が認めなければならない厳粛な事実だ。ならば、我々が、核兵器の圧倒的な破壊力と、量によって、アメリカとのバランスを維持しようと選択したのは、賢明だったと断言できるはずだ」 「そうだな。例えばSS‐20は大正解だった」  グレチコ外相が、過去を懐かしんだ。「あれのおかげで、西ヨーロッパと極東に恐怖を撒き散らし、軍備競争への無力感を蔓延《まんえん》させることに成功した。外交上、戦略兵器の対西側優位は欠かせないものだ」 「この際、国防省の見解を述べさせてもらうが、核戦略の分野においては、我々は最早プロパガンダとしての謙遜でなく、本当に西側との�|おおよその均衡《ラフ・パリテイ》�を受け入れざるを得ないと考えている」  グレチコ外相の右隣りに座るクジチキン国防相が、上半身を乗り出して、皆の注目を促した。 「六〇年代後半、核兵器の分野においてアメリカとパリティの状況に達した時、結局の所、核戦争は起こせないという、核戦争全面不可能論が、軍内部で高まった。この考え方は、その後のSTALT㈼の失敗、レーガン政権の軍備増強下でも、変わることはなかった。  もちろん、イデオロギー上の建て前や、対米交渉上のレトリックとして、党と軍が一貫して、核戦争辞さずの姿勢を取り続けたことは、誰もが理解していることだと思う。  だから七年前、本音を──それは戦略上の純粋論としては正しかったが──述べたオガルコフ参謀総長の解任は、いささか止むを得ない所だった。  しかし一方においても、我々は安上がりの労働力と、粗削りではあるが安価な兵器を大量生産し、通常兵力の分野において、長く西側を凌駕し続けた。これには、西側が核抑止論に酩酊して、通常戦力を疎かにしてくれたことも幸いした。  ところが、八二年のフォークランド紛争で、西側は、通常戦力の価値に改めて着目し、また、カダフィやカストロが、第三世界における革命の尻拭いを我々に拝んで来るに及び、一気に不正規戦まで脚光を浴びる始末となった。  核の競争だけで精一杯というのに、またぞろ通常兵器まで競わねばならん!」 「そう。だからこそ我々は、核戦略急降下理論《ニユークリア・スプリツト》に同調を示し、START㈼では、大幅な譲歩を受け入れてやったのだ。なのに、あの独善者めらが!」  グレチコが、吐いて捨てるように口を挟んだ。 「賢明なる同志諸君は、すでに気付いているものと思う。我々は現在、新たなジレンマに直面している。即ち、軍の中で台頭しつつある極めて悲観的な考え方、通常戦争不可能論だ。我々は従来、質的な遅れを量によってカバーして来た。ところが、兵器は一層複雑化し、単価は桁違いにハネ上がる有り様だ。  戦後、西側は全体的に豊かになった。安全保障の分業化も進んだ。一方、我が東側は、東ヨーロッパは相変わらずのお荷物で、中国も離反し、東側防衛の責務は、益々ソビエト一国の肩に重く伸し掛かるばかりだ。  皮肉なことに、兵器が複雑化したおかげで、一個の兵器に携わる人員が増え、兵力の全体数に変化は起こらない。その一方、兵器の個体数が減少し、通常戦力の分野においても、そう遠くない将来、西側とのラフ・パリティを受け入れざるを得ない破目に陥るだろう。  つまり、兵隊は減らんのに、戦車や戦闘機は目減りを続けるわけだ。  我々は、今日明日にも、重大な決断を迫られるだろう。このまま、核、非核両分野のラフ・パリティを甘受すべきか、それとも、どちらかを犠牲にして、他方の決定的優位を維持すべきか」 「まったく! これだけの予算を注ぎ込み、これだけの大兵力を保持しておきながら、君は、核戦争は戦えず、今や通常戦争でも勝てないと言うのか!?」  バリヤが呆れ顔で抗議した。 「そうじゃない。今ならまだ間に合う。核は十二分にバランスを保持しているし、通常兵力に至っては、圧倒している。だが少なくとも十年後、つまり二十一世紀に向けては、我が戦闘力が、継続的に漸減してゆくということだ」 「私はラフ・パリティで構わんと思うが……。今更、世界革命でもあるまい。中国との和解は順調だし、今や西側との貿易は、双方にとって不可欠なものだ」  アダムは、噛んで含めるような調子で、やんわりと軍備偏重を批判した。「時代の移り変わりというものだよ。ひと昔前なら、すべてを犠牲にして、軍備増強に打ち込めたかも知れない。人民に、イデオロギーという味はないが見映えのするパンを与えていればよかった。しかし、今や人民は、肉食を覚え、また断続的なデタントで、尖鋭的な対立もなくなった」 「しかしっ──」 「まあ」とアダムは、クーシキン元帥の反駁《はんばく》を押し留めた。「こういう重大な問題は、またの機会に話し合おうではないか? 今は何より、目前の危機回避が先決だ」  コルニエンコはリトビノフ首相の後ろで、失笑を漏らした。アダムの常套手段だ。前もって、自分の見解をほんの触《さわ》りだけ述べ、ムードを形成し、討議の方向付けを行ってしまう。彼しか持ち合わせていない、絶妙のテクニックだ。彼は、ゲオルギー・コルニエンコ、ここにあり! の報告も兼ねて、ミネラルウオーターの代わりを持って背後からオーバルテーブルに近付いた。その瞬間、リトビノフ首相の呟きが耳に入った。 「今ならまだ間に合う……」  コルニエンコが、このクジチキン国防相が発したさっきの台詞の重大性に気付くのは、後のことであり、その時には、彼に為す術《すべ》はなかった。     18  ホワイトハウス  ジャービスがこれほど忙しい目に遭ったのは、一九八二年のフォークランド紛争で、英国空軍との調整役を務めさせられて以来のことだった。十年前は、二日や三日の徹夜を難なくこなしたというのに、日付けが変わっただけのまだ浅い時間帯に、つい睡魔に囚《とら》われてしまう。  彼は「年だな……」と呟きながらも、目の前のインターカムには、動物的に反応した。 「ジャービスだ」 「グアムのマレンであります。実は、やっかいな事実を発見しました……」  ジャービスは先を促すことなく、次の言葉を待った。 「フェライト剤の入った混合ボンベが一本、消えております」 「ステルス用の奴だな。どの程度処理できる?」 「一本で、最高四基の巡航ミサイルをフェライト処理することが出来ます」 「わかった。ありがとう」  この件をソビエトに通告すべきだろうか? いや、その前に大統領に伝えるべきだろうか? 兵器開発局の、あの天才プランナー、ヤングは、ミサイルの発見はまず不可能だと述べた。それが、完全にステルス化されるとなると、これはもう絶対に不可能と言い切っていい。  しかしだ……。とジャービスは自ら反駁《はんばく》した。戦略核兵器の最終弾体のステルス化を制限した一九八九年のベルン協定のことも考えねばならない。ことが公けになれば、あのスタッグスのこと、空軍の責任問題にも発展しかねない。  そう、今更大袈裟に考える必要もなかろう……。またひとつ、ジャービスは、細やかな良心の呵責を重ねたのだった。そしてこの会話も、スタッグスの激した台詞にお株を奪われて、誰ひとり気を留める者はいなかった。 「無意味だッ。まったく無意味ではないかッ。徒《いたずら》に危機を煽《あお》るだけで、いったい何の意味があるというのだ!?  私がひと度、START㈼を破棄すると発表しても、後で撤回すれば、すべては元の鞘に収まる。彼らの行動はセンセーショナルなだけで、何ら合理性がないではないか!?」 「そうは思えません」  アヤセは冷静に反論を加えた。 「彼らは、極めて有効な移動手段を備えた核爆弾をハイジャックしたのです。その気になれば、いつ何時、何回でも、ブラフを掛けることが可能です」 「しかし、一時的なはったりを打つことは、当面の危機を回避するには有効ではないかね?」と、ジャクソン国務長官。  ジャストロゥ教授がそれを継いで、「私も一時|凌《しの》ぎにはなると思う。だが、公表となると、大統領の威信を著しく傷付けることにはなりはしないかね」 「それともうひとつ。果たしてジェネシスグループが、それを受け入れ、レイモンド・スタイガー大佐が、グループの命令にすんなり従うかどうかです。加えて、ソビエトの同意も必要です」 「とにかく、今は威信のどうのこうのと言っている場合ではない。一刻も早く、ジェネシスグループの要求を飲むべきだ」  副大統領のサンディッカーは、厳として言い放った。  スタッグスの眉がピクリと吊り上がったが、次の瞬間には、平静さを取り戻した。「ジャービス君、B‐1Dの発見、撃墜は不可能なのかね?」  ジャービスは墓穴を掘らぬよう、慎重に言葉を選んだ。 「閣下、B‐1D爆撃機は、完璧な強行突破兵器《ペネトレーター》として開発されました。外観こそ、B‐1Bとたいして変わりませんが、B型とD型はまったく異世代の爆撃機と断言することが出来ます。オホーツク海では、迎撃側は、事実上四方から包囲することが可能でした。しかし今や、北極海の沿岸ぞいに西進するルメイ号を、足の短い迎撃機が、横方向から追跡する必要に迫られております。B‐1Dが装備している巡航ミサイルは、海岸線から発射しても、十分モスクワまで到達できますが、よしんば、ルメイ号が陸上に侵入したとしても、撃墜は難しいでしょう。率直に申し上げて、私がF‐15部隊を指揮して迎え撃ったとしても、撃墜は保証しかねます」  保証は出来ないが、かなりの確率はある。とジャービスは、胸の内で白々しく言葉を繋《つな》いだ。  スタッグスは明らかに、ジャービスの助言に、一縷《いちる》の望みを懸けていたが、それが断ち切られたことがわかると、まるで子供が自分の殻に閉じ籠もってしまうように、唇をきつく結んで、沈黙した。彼が大統領の職分に目覚めるには、相当の勇気を必要としたに違いなかった。 「よかろう。考慮する。しかし、しばらく……ほんのしばらく時間をくれたまえ」  アヤセは席を立って、エレベーターへと歩き出した。自分の出る幕ではないという気がした。これは大統領個人の、そう極めて孤独な決断を要する問題なのだ。  自分が無力であることの、腹立たしさが沸いて来る。  ジェシー・キムが後ろから呼び止めた。 「ミスターモンローが、ブースのインターカムに出ておられます」 「奴め、オーバルテーブルに報告する面《つら》もないのに、何の詫びを入れようと言うんだ」  アヤセはブースに入ってドアを締め、インターカムを取るなり捲《まく》したてた。「しくじったんだってな!? グラント支局長が報告してくれたよ。まったく! 現場の経験も浅いくせに、功を焦るから、こういう破目になるんだ」 「俺は、ウッドロー・ウイルソン・メディカルセンターからかけているんだ。危うく生娘をあの世へ送り出す所だった」 「ああ! またしても|とんま《ドンキー》なモンローの犠牲者発生か!? FBIもいい迷惑だぜ」 「がみがみ言うな! 俺だってやるだけのことはやっているんだっ。それより、スポークスマンのダイイング・メッセージがある」 「奴は何も喋らず逝ったんじゃないのか?」 「最期に、リーダーの名前を言い掛けたが、息が続かなかった。頭文字だけをどうにか聞き取れた。最期の最期に息を抜いて�S�を発音した」 「断末魔に喘《あえ》いだだけのことじゃないのか? それにSと言っても、名前じゃなく、とんまなFBIに向かって『|まぬけ野郎《ストピイツ》!』と叫ぼうとしたのかも知れん」 「俺は気が立ってるんだっ。つまらん冗談はよせ。あの目は確かに事実を喋ろうとしていた。間違いない」  アヤセはちょっと困惑げに言葉を詰まらせた。 「センターラインから、ぶっち切りでドリブルシュートをかけようとしていたんだ。貴様のおかげで、バスケットが増えちまった。どれに入れりゃあいいんだ」 「そんなことあ、自分で捜せ。俺はこれからスポークスマンの家宅捜査と、国務省の捜査を指揮せにゃあならんのだ」  アヤセは憂欝な気分でブースを出た。相互視覚通話《MIC》システムのスクリーンの陰から、アイラが心配げに見詰めているのに気付くと、右手を少し挙げて手招きした。 「モンローが、ジェネシスグループのリーダーの名の頭文字が、Sだと言うんだ……」 「それは国家安全保障会議《NSC》のスタッフの中にいるわけね」  アイラは、オーバルテーブルの列席者の後ろ姿を鋭く一瞥《いちべつ》しながら、名前を挙げて行った。「サムソン・サンディッカー副大統領。それから軍の人間だけど、アルフレッド・スターバック将軍。もちろんスタッグス大統領も入るわね。この三人と……そうそう、国務長官も」 「何だって!?」  アヤセは電撃に打たれたかのように驚嘆の声を発した。 「ジャクソン長官のファーストネームは、スマイリーよ。彼が怪しいの? 国務省の人間だから言うわけじゃないけど、私が仕えたボスの中では、シュルツに次いで有能な男よ。それに、それほど保守的でもないし」 「いやいや、そうじゃないんだよ」  アヤセは一転晴れ晴れした表情に変わって、ひとり、しきりに頷いた。 「それより私、何となく、空軍参謀総長のジャービス将軍が気になるわ。どこか秘密めいた所があって。そう、愛人との密会を終えて帰宅した、一見理想的なファミリーパパって感じがするのよね」 「それは将来への布石かい? まあ、何にせよ、偉大な心理学者に感謝だ! 君は僕の女神だよ」  頬に軽いキスの感謝を受けたアイラは、まるでキツネに摘《つま》まれたように、きょとんとした反応を示した。  アヤセは、「これで正しいんだ!」と呟きながら、飛ぶような足取りで、エレベーターへ駆け込んだ。     19  二階のオフィスに上がると、頭の禿げ上がった男が、ソファーにふんぞり返って、カレール・ダンコース女史の「崩壊した帝国」を、所在なげに開いていた。疲れているように見受けられたが、それがBBCワシントン支局長のウイストン・ヘイワールであることは一目瞭然だった。 「お待たせしたかな」  ヘイワールは弾けるように上体を起こして、しげしげとアヤセを見詰めた。アヤセはデスク脇の段ボール箱から、中米産の蜂蜜の栄養ドリンクを二本取り出し、一本をヘイワールに投げてやった。そして自分も腰を降ろした。 「何年振りかな。ジョージタウン大の戦略研究所から、忽然《こつぜん》と消え去って以来だから、二十年近くにもなるかな」 「悪く思わんでくれ。国家安全保障局《NSA》にスカウトされた時、ジャーナリストとの接触は一切断つように命令されたのでね。それに君とて、あの後すぐ本国へ帰ったようだし……」 「うん。まあ、まずはホワイトハウス入りおめでとう。それと、娘のことは大変だったな」  アヤセは伏し目がちに頷いた。 「実を言うと、私もこの頃、肝臓の具合が悪くてね。今頃になって、ピューリッツァー賞のツケが回って来たというわけさ。あの頃は若さに任せて、平気で、敵陣に乗り込んで行ったもんだ。私の子供がまともだったことを考えると、まあ、日頃の不摂生も相当影響しているようだが。ところで……」  とヘイワールは、話の調子を変えた。 「ブラジル大統領との、晩餐会がお流れになったようだが?」 「うん。何でも会場でボヤがあったと聞いている。残念なことだ」  アヤセは、無味乾燥に答えたが、ヘイワールは昔のように唇の端をピクリと上げて嘲笑った。 「NATO外相団はホワイトハウスの説明がないと怒りまくっているし、ペンタゴンは扉を閉ざして上を下への大騒ぎ。壁を挟んだ東西両軍は、夜明け前というのに突如として軍団規模の|抜き打ち訓練《TAC・EVA》を始めている。一定規模以上の演習について事前通告することを取り決めたヘルシンキ宣言に違反する行為だ」 「さあ……、そういう話は聞いていないが」  ヘイワールはアヤセの瞳の奥を刺すように見詰めると、いきなり哄笑しながら言った。 「やれやれ! |ネバー・セイ・エニシングNSA《だんまり屋のNSA》、すっかり国家安全保障局《NSA》に染まっちまったなあ。CIAはもちっと口が軽いもんだが。じゃあ私から言ってやろう。カーチス・ルメイ号がジェネシスグループに乗っ取られ、モスクワへ向かっている」  アヤセは眉をひそめた。 「ニックネームまで漏れているのか!」 「実を言うと、二時間前、モスクワで�|窓の会《ウインドー・パーテイ》�が開かれた。例によって出席者は、英、西独、仏、中国、日本の各大使館の一等書記官。ブリーフィングは、外務省の第一次官エフゲニー・シニーツィンが行った。これはちょっと異例だがね」  ウィンドー・パーティのことは、もちろんアヤセも知っていた。ソビエト政府の高官が、党、あるいは外交の重大問題について、西側にまったく非公式に公式のブリーフィングを行うことから、数少ないクレムリンの窓として、この名が奉られているのだった。 「恐るべきはBBC! ウィンドー・パーティでの発言内容は、少なくとも二十四時間はマスコミにリークしないという取り決めがあったはずだが」 「問題が問題だからね。第一、この件に関してモスクワには何の責任もない。いざという時、モスクワに罪をなすり付けられては適《かな》わないというわけさ。むろん我々も、ことが丸く治まれば、すべては忘れるという条件で、情報を貰ったわけだが」 「じゃあ話は早いわけだ。レスター・サイムズ教授を覚えているか?」 「もちろんだ。今朝、いやもう昨日か。ワシントンポストを開いた瞬間に思い出したよ。戦略研にいた頃、教授のパーティに呼ばれたことがあったが、客は私と君だけ」 「そこでベトナム戦争における、ジェネシスグループの活躍の一端を聞いた。最初は戦争のベトナム化に尽くし、やがては、撤兵のため、ペンタゴンの説得に努めたと……。そして教授に勧誘を受けたわけだ」 「だが、教授の線から、ジェネシスグループを洗うことは出来ない。我々がしばらく考えさせてくれと言っている間に、教授はボンでの学会に出掛け、帰りに立寄った中東で、不慮の航空機事故で亡くなられた。私もジェネシスグループについては、あれ以上のことは知らん。だからざっくばらんに行こうじゃないか。何を知りたい?」 「たいした情報交換は出来んのだが、ジェネシスグループが、BBC海外短波を通じて、START㈼の破棄を発表せよとメッセージを送って来た」 「スタッグスは要求を飲んだのか?」 「いや、まだだ。しかし、時間の問題だと思う。形だけは飲まざるを得ないだろう。私が了解を出したら、観測記事程度のスクープを流してくれ」 「ちょっと待った」  ヘイワールは立ち上がってデスクの電話を取り、外線を押してオフィスの番号をプッシュした。そして、相手が出ると名乗りもせずに、 「リア王をケント伯爵が迎える。受け入れを準備せよ」と命じた。  再びソファーに転がると、ドリンクの封を開けてひと飲みした。「この頃、内輪のスクープ合戦が盛んでね、自分のオフィスへ電話するにも暗号を使わにゃならん。ラジオなら二分、テレビなら四分でフラッシュ・ニュースを流せる態勢を取らせた。で、私は何を教えればいい?」 「知っての通り、私は一週間前ここへ投げ込まれたばかりで、ホワイトハウスのお家の事情については何も知らんのだ。スタッグス大統領と国家安全保障会議《NSC》スタッフについて、特にSTART㈼条約に対する立場を知りたい」 「よかろう。だがその前に、君はなぜ自分が補佐官の地位にありつけたか理解しているかね?」 「残念ながら、私は凡庸な男でね、自分の才能に自惚れを感じたことはない。国務省界隈で囁かれていることは、まったく正確だと思うね。要するにスタッグス大統領は、ニューフェイスを登用することによって、補佐官を人形と化し、START㈼に横ヤリを入れさせない策を取ったわけだ」 「たいした謙遜だが、スタッグスの狙いはそんな所だろう。じゃあまず、スタッグス大統領から説明しよう。親父はかつて英国大使を務めた、典型的な東部エスタブリッシュメント。ハーバード時代の成績は、お世辞にもいいとは言えない。何しろ英語もろくに喋れなかったクラスメートのジャストロゥ教授に数学を教えてもらう有り様だったというからな。ただ、フットボールではクォーターバックとして鳴らした。いつもスタンドにいたベッピンさん、つまり今のミディア夫人を教授と争ったことは周知の所だ」 「なぜミディア夫人は、スタッグスを選んだのかな?」 「まあインタビューなどでは、いろいろ彼の性格的な魅力とかを言っているようだがね、理由なんぞありはしないさ。一方は天才といえども、着の身着の儘《まま》でドイツから脱出して来たユダヤ人。一方は頭は悪いが、親父は当時、ニューヨーク選出の下院議員だった。ミディア夫人の父親は高校の音楽教師で、典型的な中産階級《アツパーミドル》。二十歳に満たない小娘に、伴侶としての本当の必要条件が何かを説くのは酷というものだよ。戦時中は徴兵猶予で逃げ、朝鮮戦争でも、親父のおかげで後方勤務ですんだ。彼が国防の何たるかを知らんのは、戦場の経験がないからだという声がもっぱらだ」 「相変わらず、毒舌家だな」  アヤセはドリンクを開けて、チビチビ飲み始めた。 「ニューヨークで弁護士を開業する傍ら、政治運動に身を投じ、若くして上院に当選。彼が一躍脚光を浴びたのは、ベトナム反戦運動でだが、これについては言うまでもない。あの当時は、安楽椅子に座ったイミテーション・リベラリストと皮肉られたものだがね。大統領選に初めて挑んだのは、八〇年。三回目にして当選。幸運な方だな。子供達もそつなく成人したし、まあ問題と言えば、ミディア夫人のアル中ぐらいだろう」 「ほう、そいつは初耳だな……」  アヤセは興味を示した。 「なぜ報道しない? 面白そうなネタなのに」 「おいおい、BBCは、我が大英帝国の良識だぜ。おたくらの四大ネットワークとは、格も客層も違うんだ。プライベートなスキャンダルに興味はないね。もっとも、スポークスマンのシュレイカーとは二、三取り引きをしないでもなかったがね」 「じゃあ、次に主席補佐官のマーク・ローマン」 「こいつはウォール街の実業家。一応スキャンダルはないことになっているが、ろくな噂はない。乗っ取りや、株の不正売買とか。趣味は政治と答える男で、スタッグスの弁護士時代からのパトロンだ。副大統領のサムソン・サンディッカー。人呼んで血迷った黒人。神父のくせに、非常に尖鋭的な言動を取って来たことから、典型的白人層《WASP》から嫌われているが、何しろ黒人には圧倒的な支持があるのでね、初の黒人副大統領に収まった。国務長官のスマイリー・ジャクソン。国務省の|生え抜き《プロパー》。スタッグスが外交委員会にいた頃、知り合った。柔軟な発想の出来る男で、まあNSCスタッフの中では、教授とただ二人、まともな人材と言っていいだろう。  次に、国防長官のジョセフ・ジャストロゥ。元ハーバード大学政治学教授。彼が、祖国を捨てたユダヤ人と陰口を叩かれるようになったのは、七〇年代の終わり、ヘブライ大学からの招聘《しようへい》を、政治的な理由、つまりイスラエルの強引な対外政策に賛同できないという理由で断わった時、一部の強硬なシオニストによって奉られてからだが、本人はあまり気にしていないようだ。八三年に、ベイルートの海兵隊司令部爆破事件で、ひとり息子を失い、四年前、妻にも先立たれた。今はハウスキーパーと二人暮らし。  それから、CIA長官のコルウェル・コンラッド。人呼んでミスター・アイロニック。逆説的な皮肉を呟くことを何よりもの快感としている。それだけに舌禍事件も絶えないが、記者仲間では、コンラッドがいなけりゃ、物価高のワシントンで、我慢してスタッグス政権の取材に努める唯一の面白味がなくなるともっぱらだ。元々は、スタッグスが毛嫌いしているカリフォルニア軍需産業界の経営コンサルタントとして活躍していたが、産軍複合体の政権への不信感を拭うため、参画したいきさつがある。  最後に、統合参謀本部議長のアルフレッド・スターバック陸軍大将だが、まあこれは君のほうが詳しいだろう。人呼んで悲劇の将軍。ベトナム戦争で枯れ葉作戦の指揮官を務めたが、その下で掃討作戦に従事した息子は、十数年後肝臓癌で死亡。今また、その息子が、リンパ腺癌と闘っている」  アヤセはドリンクを飲み干すと、壁のデジタル時計を睨んだ。 「じゃあ、START㈼条約との関係を聞こうか」 「よろしい。アメリカでよく言われることだが、一期目の大統領は、再選を第一に目指し、二期目の大統領は、歴史に名を残すことを心がける。スタッグスは、その両方を目指した。つまりカーターの愚を犯したというわけだ。ここでまず理解しておかねばならないのが、ジャストロゥ教授が十年前編み出した、核戦略急降下理論《ニユークリア・スプリツト》だ。君はどう思うね?」 「教授自身も言っていることだが、あの理論はかなり誤解されていると思うな。発表された途端《とたん》に軍のタカ派が飛び付いて、戦略防衛構想《SDI》の理論的根拠にしてしまった。教授の真意は、世界中に蔓延《まんえん》するペシミズムの払拭にあったはずだよ。悲観的な考えが、過去多くの戦争を起こして来たからね」 「論旨は、簡単に言うとこうだ。通常兵器の発達、及び宇宙兵器の発達によって、|大陸間弾道ミサイル《ICBM》の九九パーセント以上を撃墜できるようになる。巡航ミサイルについてもだ。そうすると、どういう現象が起こるか? 核戦略が先祖返りを起こすと言うんだな。つまりICBMが、前進配備された小型の戦略潜水艦から発射する中距離弾道弾に取って代わる。早い話、敵の反応時間《レスポンス》を極力短いものに留めようとする努力が払われる。ところがこれすらも、発達した地対空ミサイルがある以上は、万全とは言えない。最終弾頭をたとえ一〇〇〇発持とうが一〇万発持とうが、目的を達しうるのは、せいぜい一〇〇発に満たなくなるだろうと言う。  そこで、核戦略が、対兵力《カウンターフオース》から対都市《カウンターバリユー》ヘ先祖返りするというわけだ。一〇〇発程度の命中率では、敵の報復核戦力はもとより、|通信網《C3I》すら叩けないからね。昔は、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる式の軍事思想が幅を利かせていたが、二十一世紀に完成される防禦網を突破して破壊の限りを尽くすには、それこそ一〇万発の弾頭を、まったく同時に着弾するよう発射する必要が出て来るだろう。むろんコンピューター技術を駆使すればそれも不可能ではないが、例えば一万基のミサイルを常時、警戒態勢に置くなんてことは、これまた不可能、且つ甚《はなは》だ不経済なことだ。だから結局のところ、発射基の総数は、双方合わせても二〇〇〇基程度に落ち着くだろう。すでに一基当たりの単弾頭化《デイマーブ》が始まっている事実もある。この残されたミサイルに、あらん限りの突破技術が詰め込まれるわけだ。  しかし、恐らく二〇五〇年代頃には、我々は宇宙兵器を中心とした極めて有効でクリーンな核兵器の監視役を手中にし、ここが肝腎なんだが、核抑止力が崩壊することなしに、核戦力を急激にレベルダウンさせることが可能になるだろうということだ。過去百年間、増殖の一途を辿《たど》った核兵器が、急激に減少すると言うんだな……」 「しかし、移行期の一時的な急上昇というやっかいな問題があった……」  ヘイワールはそこで一度、話を止めると、段ボール箱から勝手にドリンク二本を取り出し、「こいつは効きそうだ」と、一本をブレザーのポケットに、もう一本を胃袋へと流し込んだ。 「核戦力の劇的な急上昇が、九〇年代の終わりから次世紀にかけて起こると、教授は分析している。なぜかと言うと、数も揃わず、まだまだ性能も未知数の宇宙兵器が、その有効性だけ誇張され、それに対抗する唯一の方法として、核ミサイル及び、弾頭数を劇的に増やす手段が講じられるからだ」 「同感だね」 「教授の提案はこうだ。まず、核戦争が招来する深刻且つ世界的規模の影響について、米ソ双方の指導者の認識を一致させるため、信頼醸成措置《CBM》を取る。これは第三国科学者組織によるレクチャーとして、すでに実現されている。そして、戦略兵器削減《START》ではなく、戦略兵器制限《SALT》交渉への復帰。これをして、彼をタカ派だと断言する者もいるが、要するにラディカルに核廃絶を叫ぶより、段階的核軍縮の方が実効的だと教授が分析しているからなんだ。実際、急激な軍縮論は、保守主義者に敵国への過剰な警戒心を抱かせ、他方、いわゆる平和主義者に、ゆき過ぎた安心感を与え、国際情勢への監視力を奪ってしまう」 「それも同感だね。事実、SALT㈵が締結された後の、幻想のデタントが、八〇年代の緊張をもたらしたと言える」 「さて、そこでSTART㈼だ。実を言うと、教授は、最初からこの交渉には反対だったらしい。一年前、オフレコを条件に話を聞いたことがあったが、交渉を始めるのが四年早過ぎたと断言したよ。加えて、スタッグスは交渉を急ぐあまり、かなりの譲歩をソビエトに許してしまったと、おおかたのアメリカ人は見ている。君もそうだろう?」 「何とも言えないね。SALT㈼と似たようなもので、こういうのは、どうしてもラフ・パリティで収めざるを得ない。どっちが有利かは、審判の立場によるさ。ただ経済が悪い中で、ソビエトに妥協を諮《はか》ったことは、レーガン時代の強力なアメリカを鮮明に記憶している大衆に、ある種の敗北的なイメージを連想させる結果になっただろうね。つまりスタッグス大統領の目論見《もくろみ》は、今のところ、まったく裏目に出ているわけだ」 「問題は、スタッグスの再選の確率とも絡んで来る。まずマーク・ローマン。彼は条約には賛成している。なぜなら、とにかく軍事費を削って、民需に回し、ウォール街に活気を戻さないことには商売にならないと広言しているくらいだからね。ただ次期政権からは抜けるだろう。ワシントンに八年もいたんじゃ、いくら奴のような阿漕《あこぎ》な実業家でも、素寒貧になるのは避けられないからね。だから、スタッグスの再選も望んではいない。選挙費用を出すのも奴だからな。  サンディッカー副大統領。この儀典用副大統領は、この三年間、ただひとつのことに精進して来た。黒人の選挙人登録運動だ。おかげで、次の大統領選挙では、黒人票がすべてを決すると言われている。彼としては、次の四年間を選挙運動に費やし、九六年の選挙を狙いたい所だ。そこで、スタッグスの再選を阻止するという意味から、条約に反対している」 「選挙運動をやるというのなら、副大統領のほうが有利じゃないのか?」 「そこが素人の考えさ。例えばスタッグス政権が次の四年間ワシントンに君臨したとしてだ、まあある程度経済は回復するとしても、八年間も幻滅的イメージに彩られたホワイトハウスにいた男を、大衆が再び支持すると思うかね? 大衆てのは、飽きっぽいものだよ。変革を求めるさ。  そしてジャクソン国務長官。これも反対だ。この条約の交渉は、熱烈な平和主義者だった君の前任者が独占していたからね。彼は国務省が蔑《ないが》しろにされたと思っている。  次にジャストロゥ教授だが、正面切って反対は言い辛いだろうね。これほどスタッフの心がスタッグスから離れてしまっては、最後まで面倒を見てやれるのは自分しかいないことも理解しているだろうし。カリフォルニア・マフィアを代表するコンラッドについては言わずもがな。最後にスターバック将軍。すでに辞表を叩き付けたという噂がある」 「やれやれ!」  アヤセは心痛の呻き声を発した。 「つまり、今や皆が、スタッグス大統領から離反してしまったというわけか! スパイ小説のようにはいかんものだな」 「なんだそりゃあ?」 「フィクションの世界じゃ、ページが進むに連れて、ターゲットは絞られてゆく。なのに今度の事件じゃ、タイムリミットが迫っているというのに、怪しい奴がまたひとりと増えてゆく。私はいったいどう判断すればいいんだ!?」 「ハッハッ! 七面鳥撃ちの才能を持ってしても、不可能なことはあるのかね?」 「七面鳥撃ち?」 「戦略研にいた時、キューバ危機の仮想シミュレーションをやったことがあったろう。あの時、君はフルシチョフ役を務めて、アメリカ側に回った我々をキリキリ舞いさせたじゃないか。あの後、サイムズ教授が君を評して言ったんだ。『我々が夢想だにしないような選択肢を、彼はまるで七面鳥をハンティングするような容易さで産み出して来る。あれはまったくの天才だ!』と」 「サイムズ教授こそは、完全無欠の天才だと思っていたがね、あの御仁《ごじん》も人物判断では過ちを犯したというわけだ」  その時プッシュホンが鳴った。地下軍事司令部のキムからだった。 「大統領がSTART㈼条約の一時破棄を決断されました。それと、ソビエトが�大脱出《エクソダス》�にゴーを下した模様です。すぐ降りて下さい」 「わかった」  アヤセは受話器を置くと、ヘイワールに向き直った。 「大統領が決断した。観測記事を流してくれ。但し、カーチス・ルメイ号の件は一切触れずにだ」 「もちろんわかっている。私とて、母国が、パニックに陥る様は見たくない。出来れば、そう出来れば、死が突然に、予感することなく訪れてくれることを望みたい」  楽観者《オプチミスト》を自認するヘイワールは、しかしひどく虚ろな瞳で、力無く答えたのだった。     20  アヤセは再び、その暗く陰欝な空間へ降りてゆかねばならなかった。彼はまるで、断崖絶壁の深淵を覗き込むような、えも言われぬ恐れを抱いていた。自分は間違った結論を下したのではないだろうか。ターゲットを絞り込むのを、急ぎ過ぎたような気もする。モンローがこれ以上の情報を発見できるとも思えない。しかも、相手は大物。証拠もなしに告発すれば、元も子もなくなる。今となっては、予測通りに相手が動いてくれ、且つ、いささか罪悪感を憶える例の作戦が成功してくれることを祈るだけだ。もっともこれとて、肝腎の物があそこに収まっているという確証はないが……。  戦闘情報統制《CIC》スクリーンに、緑色のテロップが点滅を繰り返していた。提供される情報量が増えて来ると、人間の感覚は徐々に鈍くなり、注意力も散漫になって来る。それに対処するため、特に、緊急度、重要度の高い情報については、右から出て来たテロップが、流れ去ることなく画面上で固定され、なお且つ点滅して、高官らの注意力を喚起《かんき》するわけである。  アヤセはテーブルに近付きながら、それを読んだ。 ──国家安全保障局《NSA》提供──  全ソビエトニ、エクソダス2発令。  テロップの最後に、�五四〇�と表示が付け加えられていた。一秒ごとに、数字が加算されてゆくことから、それが時間の経過を示していると判断できた。つまり、命令が下ってから、九分が過ぎているのである。  大脱出。十年前、国家安全保障局《NSA》でその西側コードネームを付けたのは、外ならぬアヤセだった。かつてジミー・カーターが命じた大統領指令《PD》59によって強化されたアメリカの単一統合作戦計画《SIOP》に対するソビエト側の反応が、この�大脱出《エクソダス》�であった。PD59が目指したものは、不完全だった対都市理論《カウンターバリユー》から�より平和的な�対兵力理論《カウンターフオース》への戦略思想の転換を、より徹底することにあった。そのため、明らかに攻撃能力を超える四万以上の目標が設定されたが、ソビエトの反応は当初冷ややかなものだった。  しかしPD59が目指したもうひとつの側面、即ち核戦争を短期決戦ではなく、長期の損耗戦として捉え、それに耐え抜くための通信網の整備という事実に気付いた時、彼らは、事態を深刻なものと考え始めたのだった。しかし、ソビエトを囲むように膨大な海外基地を保持するアメリカと、技術に格段の遅れがあるソビエトとの優劣もまた、明らかだった。そこでソビエト軍当局者が考えたのが、取り敢えず、指導者だけを、安全な場所に避難させ、国家の骨組みだけは死守しようという、いささか短絡的なものだった。  アヤセが席に着くなり、スターバック将軍がスクリーンへ顎をしゃくった。 「アヤセ君、これは君の専門だ。連中が退避行動を完了するまで何分を要する?」 「レベル2の計画ですから、約十万名が参加します。二年前行なわれた訓練では、モスクワ、レニングラードなどの都市部で六〇分、地方都市で一二〇分を要しました。因《ちな》みにレベル1では、全人民が避難計画に組み入れられますが、もっともこちらは、今まで訓練が行なわれた形跡はありません」 「大統領閣下、統合緊急退避計画《JEEP》を実施すべき段階であると判断します。JEEPが完了するには、九〇分を要します。これ以上の遅れは致命的です」 「結果的に、ソビエトを挑発することになりはしないかね? それに、選ばれた人々だけ生き残ることにでもなったら……」  言葉尻を濁すスタッグスに、スターバックは語気を荒げた。 「閣下! これはあなたのお好きな、平等や博愛とかの嗜好とは、別の次元の問題なのですよ。我々が隙を見せれば、連中に先制核攻撃《フアースト・ストライク》の誘惑を与えることになる。力とは、そういうものです!」 「待ってくれ、将軍」  主席補佐官のローマンが相変わらず落ち着いた口振りで、言葉を挟んだ。 「ジョンが恐れていることは、退避計画のリストに、NSCスタッフの家族が含まれているからだと思う。もしこの中に、ジェネシスグループのリーダーがいるとしたら、つまりその人物の家族を優先的に保護することになるからね。どうだろう? 我々の家族は、リーダーの正体が割れるまで、一時的にリストから外すというのは」 「反対だな、マーク」  とジャストロゥ教授。「この中では、私ひとりが幸いにも天涯孤独の身の上なので言わせてもらうが、スタッフの心理面に及ぼす影響を無視できない。究極に至ってもなお冷静な判断力を維持するため、家族は、今のうちに無縁な存在にして置くべきだ」 「いや……」  スタッグスは頭《かぶ》りを振った。「統合緊急退避計画《JEEP》は許可しよう。但し、我々スタッフの家族は除外。それと、大統領位継承者も、サムを除いた下院議長からにしてくれ。いいね? サム」  サンディッカー副大統領が、「当然だよ」と頷いた。アヤセは、その無表情さが気に掛かった。 「じゃあ、せめてミディアだけでも避難させようじゃないか?」 「好意は嬉しいが、結構だよ。これは私の責任でもあるからね」  スマッツ国務次官補が右手を挙げた。 「クレムリンが出ます!」  相互視覚通話《MIC》システムスクリーンに、まるで霧が湧き上がるように、オーバルテーブルが浮かび上がった。テーブルの向こうに陣取ったポリトビューローの長老らは、明らかにやつれ、疲れ果てていた。呼び掛けるスタッグスの唇もまた、ひどく重々しかった。 「親愛なるアダム書記長閣下、並びに政治局員の皆様。甚だ遺憾ながら、私は間もなく、START㈼条約の破棄に関する記者会見を開こうと思います」  スクリーンの中で、クジチキン国防相が、「記者会見! なんと無意味なプロパガンダだ!」と語った。音声はカットされたが、分析ルームの口唇術のベテラン、ロシュトックが見事に読み取った。 「もちろん、この措置は一時的な緊急避難であり、事態を収拾後、直ちに撤回する予定です」  アダムは、何の反応も示さなかった。椅子に深々と全身を沈めたまま、まるで死人のように微動だにしなかった。  スタッグスが何がしかの言葉を繋ごうとした刹那《せつな》、グレチコ外相が溜息混じりに口を開いた。 「大統領閣下。外交を司る者として、一国の元首に向かい、このような無礼な発言をせねばならないことを、残念に思います。率直に申し上げて、貴方はすでに、米国民の支持を失っておられる。たとえ今回のごたごたを収拾できたとしても、大統領の権威は失墜し、一層民心は離れて行くでしょう。共和党はもちろん、民主党の中にさえ条約への反対者がいるというのに、貴方はこの上、議会で批准を得られる自信がありますか? 私は、貴方がニクソンやカーターの二の舞いを演じることを恐れています。サンディッカー副大統領閣下。貴方は、条約の批准に漕ぎ着ける自信はおありですか?」  グレチコが言わんとしていることの意味を悟ったサンディッカーは、一瞬ニヒルに白い歯を見せたが、そつなく「もちろん、最善を尽くしましょう」と答えた。 「それで、大統領。ジェネシスグループの捜査は進んでいるのですかな? ……」  テーブルの左端に座るモスクワ市党第一書記のザネイエフ・ボルコフが冷ややかに質した。スタッグスは、この馴染みのない男が、アダムの反対勢力の一員であることを思い出し、慎重に言葉を選んだ。 「現在、鋭意調査中であります。遠からず、その正体が露見されるでありましょう」  アヤセは目の前の──と言っても二〇フィートは離れていたが──アイラに注目していた。彼女はインターカムを握り、時折、分析ルームを見上げては、何事かを熱心に話し込んでいる。そのうち険しい表情で、スマッツにひと言耳打ちしたようだった。  トーンバックに、スマッツの声が入った。「ミスター・アヤセ、ミス・アイゼンバーグが個人的にお話ししたいそうです」  アヤセはさりげなく席を立ち、ことさら悠然とカメラの死角へ歩いて行った。 「どうした?」 「アダム書記長は、追い詰められているわ」 「今のボルコフか、KGBのバリヤ議長だな」 「あの二人は当然だけど、後ろで操っているのは、首相のリトビノフよ」 「リトビノフ? 彼は首相に祭り上げられて、権勢を殺《そ》がれたはずだ。根拠は何だね?」  アヤセは感情を殺して質した。 「私のセクションは、視点座標値決定分析器を持っているの。あの、テレビに映った人間の眼が、何処を向いているかとかを分析する装置。あれで、レニングラード州党第一書記のビクトル・アルヒペンコを観察していたら、わかったの。彼は書記長の一派のはずだけど、その視線は常にリトビノフに向いている」  アヤセはスマッツの肩を叩いた。 「大統領に、適当な理由を見付けて、パーソナルブースでの書記長との個人会談を呼び掛けるよう伝えてくれ」  そしてアイラに向き直って、「ところで、サンディッカー副大統領をどう思う?」 「ああ、さっきのあれね。若干、興味を示したような素振りだったわねえ……。考えてみると、あの人だいぶ今度の事件で点数を稼げるのじゃなくて」  スタッグスが、「新たな信頼醸成措置について、個人的にお話したい」とアダムに申し込んだ。  アダムが気怠るそうに上半身を起こし、「まあ、いいでしょう」と答えた。  アヤセが席に戻るまでに、すでにスクリーンからクレムリンは消えていた。 「どうかしたのかね? アヤセ君」 「閣下、アダム書記長は、現在極めて微妙な立場にあるものと予測できます。お手元の資料を見て頂ければわかりますが、政治局内では圧倒的な権勢を誇るアダム書記長も、党書記だけを拾うと、僅かにリトビノフ派を上回っているに過ぎません。七名いる党書記の中で、外相のグレチコ、レニングラード州党第一書記のアルヒペンコを子飼いとし、国防相のクジチキンを取り込んで数的な優位を保っておりますが、クジチキンは一方のリトビノフと閨閥を結んでおり、いざとなればどちらへ転ぶか判断しかねる所です。加えてアルヒペンコは、七人の中では最も新顔です。リトビノフの揺さ振りにどこまで耐えられるか疑問です」 「どうすればいい?」 「アダム書記長は、過去一、二年程、党内部において、西側に妥協的であったとの批判が高まっております。それは、主に市場原理の積極的な導入への反感が増幅されたものですが、この際、彼にエールを送りましょう。アダム書記長が、アメリカに対して、より強硬な態度に出たと印象づけられるようなものです。漸減報復戦略《デイスカレーシヨン》について、提案すべきです」 「マクナマラ! マクナマラ! あの|分析バカ《アナリシス・パラリシス》のディスカレーション理論か!」  スターバック将軍が、憎々しげに叫んだ。 「奴さえいなければ、ベトナムは勝てたんだ! 戦場に経営学が持ち込まれたおかげで、兵士から名誉、義務、愛国心が消え失せてしまった。理論の蟻地獄に陥るだけで、ディスカレーションなど、いざ実戦となれば誰も見向きはしない。私は反対だ」 「私もそのことは承知しているつもりです。しかし、少なくとも戦端が開かれるまでは、有効に機能してくれるはずです」 「具体的には、どうするのかね?」 「ディスカレーション理論の中核は、もし核戦争に突入した場合、報復攻撃を行う際、相手方より爆発威力を小さくして、戦争のエスカレーションを、ディスカレーションへ持って行こうというものです。ですから、もしルメイ号がモスクワを核攻撃した場合、敵のブラックジャック爆撃機に、ワシントンを攻撃させる権利を予《あらかじ》めアダム書記長に保証するのです。もしレニングラードなら、ニューヨークという具合にです。もちろんこれは、アダム書記長が、我々に高飛車に突き付ける恰好《かつこう》を取る必要がありますが」 「我々も灰燼《かいじん》と帰すわけだ」  コンラッド長官が嘆じた。 「妙案だと思う。かなりの効果を期待できるだろう」  ジャストロゥ教授が賛成した。 「そして、我々は弾頭威力のディスカレーションを条件に、アダム書記長のブラフを渋々飲むわけです」 「よろしい。その線で──」 「閣下、悪い知らせです」  スマッツが割り込んで来た。 「ジョーゼフ・アダム書記長は、喉頭癌に冒されております」 「何!?」  スタッグスはあまりの驚きに、名状し難い声を発した。 「国務省嘱託のスイートナー博士が説明します」  全スタッフは、椅子を回して、頭上の分析ルームを見上げた。  メタルフレームの眼鏡を掛けた初老の男が、下方へ張り出したガラス越しに、インターカムを握って喋り出した。 「実は三ヵ月前、CIAが入手したミンスクでの演説テープの分析で疑いを持ったのですが、録音状態が芳しくなかったので、判断しかねていたものです」 「間違いないのかね?」とスタッグス。 「はい。声紋分析で百パーセント診断が付きます。老人性の癌ですので、転移の速度はかなり遅いものと見ていいでしょう。数ヵ月以内に手術すれば、十分に助かるはずです」 「しかし、声帯を失うのではないかね?」 「仰しゃる通りです。げっぷを利用した発声法や、初期の段階であれば、整形技術を駆使して新たな声帯の形成などが可能ですが、直接診断しない以上、はっきりしたことは申し上げかねる所です」 「となると、失脚は時間の問題だな……。アダム自身や、他の連中は知っているのだろうか?」  とサンディッカー副大統領。 「しかし、化学療法とかもあるのじゃないかね?」 「はい、閣下。ベストな手段は、電磁波温熱療法《ハイパーサーミア》です。これなら声帯を失わずにすむかも知れませんが、残念ながら、この技術は西側しか持っておりません。どの道、再発を抑制するために、副作用のある放射線や化学療法を続ける必要があります」 「やれやれ! なまじ、音声に映像と欲張るから、いらん心配までしなきゃあならん。ファクシミリで我慢すればよかったんだ」  コンラッド長官が、相変わらずの皮肉を漏らした。 「閣下、これ以上アダム書記長に肩入れするのは危険です」 「なぜ?」  スタッグスは憔悴しきった表情をジャクソン長官に向けた。 「もし彼が遠くない将来に失脚するとなれば、この次登場する政権との間に、払拭し難い溝を掘ることになります。指導者間の奇妙な友情によってもたらされた一時的な緊張緩和は、後に登場した者にとっては不愉快な存在です。ケネディ—フルシチョフの後を継いだジョンソン—ブレジネフ・トロイカがそうでした。ベトナム情勢は悪化するばかりで──」 「じゃあ、どうすればいいと言うのだ! 今さら、リトビノフに頭を下げて、今後ともよろしくと、微笑みを見せればすむとでも言うのかね!? クレムリンで権力闘争が起きている間に、モスクワは消えてなくなるじゃないか。消えて、消えて……」  興奮ぎみの大統領の声は、しかしやがて打ち震えるような涙声に変わって行った。 「ジョン……」  教授がスタッグスに優しく呼び掛けた。「アダム書記長がブースに出ている。行きたまえ。彼も一国の指導者だ。君と同様、自分の義務を遂行することに全霊を傾けている。今さら引き返すことは出来ないんだ」  アヤセは立ち上がって、スタッグスの後ろに歩み出た。教授が「頼むよ」と呟く。  スタッグスが今にもよろけそうに立ち上がるが、アヤセは決して彼を支えようとはせず、あくまでも後ろに従い、ブースに入った。スタッグスが簡素な席に座る。アヤセはメインのインターカムを恭しく差し出すと、自分は立ったまま、予備のそれを掴《つか》んだ。  耳にあてがうと、「ハロー……ハロー……」と、跡切れ跡切れに聞こえて来る。アダムの肉声だった。  スタッグスも「ハロー」と応じた。 「こちらは、ジョーゼフ・アダムです」英語だった。  アヤセはロシア語で名乗りを上げた。 「書記長閣下、私は国家安全保障問題担当補佐官のヒロフミ・アヤセであります。拙《つたな》いロシア語ではありますが、通訳を務めますので母国語で結構です」 「ああ……、ロシア語を喋る高官かね……。実はまだ君についての報告書を読んどらんのでな。しかし、どうやら君のロシア語教官は、ウクライナ地方の出身のようだな。私もドニエプル・マフィアには可愛がってもらった。ブレジネフとかな……」  アヤセはある意味を込めて、ゆっくりと喋った。「回線の、調子は、いかが、ですか?」 「調子? ああ、心配ないとも。レコーダーぐらいは回っとるだろうが、年寄りの秘め事を盗聴しようなどという暇な連中はおらんよ」 「書記長閣下……」  アヤセがロシア語で反芻《はんすう》する。 「このようなことになり、お詫びの言葉もありません」 「世の中には、平和の尊さを理解できない人々が多過ぎるのです。いちいち気に病んでいたら、キリがない」 「そこで、実は貴方からこのシステムを通じて、我々に提案してもらいたい件があるのです」  アヤセは、スタッグスの言葉を受け継いだ後、漸減報復戦略について説明した。  アダムは一分近く黙っていたが、意外という感じで口を開いた。 「つまり、私に援軍を送ってくれると言うのかね?」 「双方の利益のためです」アヤセは答えた。 「余計なお世話だと言いたい所だが、お受けしよう。時間稼ぎにはなるだろう」  スタッグスが最後に呼び掛けた。 「書記長閣下、お体の具合はいかがですか?」 「ああ、先月心臓病の噂が出回ったことですな。いつものことですよ。ただ今日は喋り過ぎたせいか、喉が少々いがらっぽい程度です。大丈夫、いざという時、倒れたりはせんよ」  くそ! 彼は何も知らんのだ。アヤセは胸の内で苦々しく呟いた。  回線は向こうから切れた。スタッグスは茫洋《ぼうよう》とした仕草《しぐさ》でインターカムを母機に戻すと、瞑目するかのように瞳を閉じた。 「アヤセ君……。本当にジェネシスグループの総帥は、私のスタッフの中にいるのだろうか?」 「います。確信があります。スポークスマンは、BBC放送でメッセージを流せと遺言を残しましたが、これは恐らく、ルメイ号に作戦の成功を伝えるためです。少なくとも、我々にそう判断させるためでしょう。アナウンサーの指定までありますが、しかし短波放送など、いくらでも細工が利きます。加えて、ここ一ヵ月、太陽の黒点異常が続いており、極付近の通信はかなり劣悪な状況にあります。従って彼らは、必ず軍の、より高度な通信システムを利用するはずです。現在も、三人のクルーの上司や友人らによって、あらゆる説得工作が続けられておりますが、これらは心理学、言語学のエキスパートによって完全にモニターされ、特殊な暗号を差し挟む余地はありません」 「となると、権力を持ったこのスタッフの中のひとりが、何か奇妙なアイディアを出して、ルメイ号に成功を伝えるしかないわけか……。  皆、私の友人だった……。ジョセフ、マーク、スマイリー、サムソン。コルウェルにしても、思想は相容れずとも、互いにライバルとして認め合って来た仲だ……。私は、間違っていたのだろうか……」  仄《ほの》かなルームランプに照らし出されるスタッグスの素顔を、アヤセは無言のまま見詰めた。エネルギーと誠実の人をキャッチフレーズに登場したその男は、今や力を失い、絶望に打ち拉《ひし》がれ、病みさらばえたひとりの老人と化した姿で座っていた。  スタッグスは一、二度ひきつった呻き声を発すると、皺《しわ》だらけの両手で、顔面を覆った。 「た、助けてくれ! アヤセ君。私にはもう、どうすればいいのか……」  アヤセはスタッグスの肩に、静かに右手を触れさせた。 「閣下、合衆国大統領は、絶対不可侵の存在です。あなたに、過ちは許されないのですよ。誰もあなたを救うことは出来ないし、もとよりあなたに、その職責を放棄するような権利もないのです。さあ! お立ちなさい。闘いはまだ続く。たとえすべてを失おうが、あなたには、最後まで闘う義務がある!」  スタッグスは最初弱々しく、やがて渾身の力を振り絞るように立ち上がった。孤独な闘いに帰ってゆくために……。     21  ──一九七二年ベトナム──  エイブ・ダガットという男は、まるでプロテクターを付けたアメリカンフットボールの選手並みの体躯《たいく》をしていた。腰にはコルト‐45のリボルバーを下げ、愛用のヘルメットには黒人の誇りであるブラック・パンサーが雄々しく描かれている。当然スタイガーが想像するダガット中佐は、怠惰にガムを噛みながら、上目使いに白人を睨む粗野そのものの男だった。従ってタイのウボン基地の第五五五戦術戦闘飛行隊《トリプル・ニツケルス》に配属されて、ダガットと初の対面をした時、彼のいかにも白人的な発想は、あっさりと崩れ去ってしまったのである。 「君の噂は聞いているよ、中尉。コロラドスプリングスを次席で卒業。すでにF‐105Dで一機撃墜をマーク。私と勝負したいそうだね? 黒人がいい恰好《かつこう》をしているのは気に喰わないか」  ダガットの口調は、完璧に洗練されたものだった。 「いえ、ファイターパイロットとして、剣を競いたいだけです」  スタイガーはすげなく答えた。 「君はすでに、所定の出撃回数を消化している。何もこんな所に留まって、命を縮めることもあるまい。本国へ帰って、出世のエスカレーターに乗った方が無難ではなかったかね?」 「中佐殿から、そういうお言葉を頂くのは心外であります」 「君を笑ったわけじゃない。そう聞こえたら許してくれ」  ダガットはその体躯《たいく》に似合わず、ちょっと困った表情を示した。「ただ君のようなのが、時々いるんだ。パイロットとして天才的な才能を持ち、指揮官としても有能。愛国心に満ち、敵愾心《てきがいしん》も程々に持っている、申し分ない若者がね。祖国がこういう混乱した状況にあっては、むしろそういう存在は貴重とも言える。だが、そういう人間に限って、自尊心が人一倍強く、スタンドプレーに走りやすい。とりわけファイターパイロットは、もともと孤独癖を持っている」 「自分は、任務には忠実であったつもりです」 「うん……。だが、知っての通り、君がこれから乗るF‐4Dには、機関砲が装備されていない。レーダーは始終故障し、サイドワインダーは四割が不発、我々が多用するスパローに至っては、一〇発撃って四発しか当たらないという信じ難い状況にあるにも拘わらずだ。その上、複座だ。よりチームワークが要求される。我々は海軍さんのレーダーに頼り、後部を僚機に守ってもらい、その上で、ミサイルの運搬役としての務めを果たす。その点を肝に銘じておくように」  連日、つまらない任務が続いた。北が南へ浸透してゆくだけというのに、北爆は許されず、退屈極まりない哨戒と、形ばかりの訓練で、お茶を濁す日々の連続だった。アメリカの厭戦気分に付け込んだ北の挑発行為は、パリ和平会談を実り無きものとし、ベトナムは、まったくの手詰まり状態にあった。  四月に入ったある日。 「私はあなたを尊敬に値いすべき人物だと思っていました。しかし、あなたは|腰抜け《チキン》だ。こんなつまらない任務に甘んじ、事勿《ことなか》れ主義で、この戦争を終わらせようと願ってらっしゃる」  ダガットはピクリと眉を上げたが、すぐさまいつもの柔和な顔に戻った。 「事勿れ主義。それで何が悪い。共に死線を潜り抜けた戦友や、君のような将来ある若者が死んでゆくのを見るのは悲しいことだ。戦場において、勝利という要素は絶対的な存在だ。しかし、兵士は生きて還ることも至上命令であることを認識せねばならない。軍人はこの二律背反する義務を遂行せねばならんのだ。手柄がないのは、決して恥ずかしいことじゃない」 「私が言っているのは──」 「わかっている。君は、私がこの戦争の成り行きに満足しているとでも思うのかね? 地上では多くの兵士が……」ダガットは一瞬言葉を詰まらせた。 「多くの、黒人が、無作為に、無思慮な政治と滅茶苦茶な作戦の犠牲となって死んで行った。この悲しみが、君にわかるか!? それでもなお、黒人向けの宣伝ニュースで、軍隊はいい所だとはしゃいで見せる、この私自身の腑甲斐《ふがい》ない気持ちが、君にわかるかね!? ……」  ダガットは、この歴戦のエースパイロットは、あろうことか目頭を押さえていた。スタイガーは、そのあまりに人間的な仕草に、雷に全身を貫かれたような衝撃を受けた。彼はその瞬間、真実の指揮官に出会ったような気がした。誇りを持ち、気高く、勇気に溢れ、なお悲しみを忘れない。今や、人間コンピューター、マクナマラがもたらした災難で、形骸と化した軍隊にあって、真の軍人の気骨を見たのである。 「い、いや……、指揮官にあるまじき台詞だな。今の言葉は忘れてくれ。いずれ、北爆が再開されるだろう。その時こそは、奴らに、今日までの借りを、たっぷり利息を付けてお返ししようじゃないか、レイモンド」 「はい、ボス。ありがとうございました」 「ありがとう? 何のことだ?」  五月四日。ボー・グエン・ザップ将軍による南ベトナム最北省のクァントリ市への公然侵略を理由として、ニクソンはパリ和平会談の無期限中断を決定した。更に五月八日。北ベトナム港湾の機雷封鎖と、陸上ルートの撃滅を目的としたラインバッカー㈵作戦が発動された。待ちに待った北爆再開である。  この日、エイブ・ダガット中佐と、レイモンド・スタイガー中尉は、それぞれ一機のミグ撃墜を記録した。  そして運命の五月十日。目標はハノイど真ん中にある、ダガット中佐に言わせれば、馴染み深いポール・ドーマー橋と、イエン・ビエン鉄道操車場である。五五五飛行隊の任務は、F‐4ファントム三二機からなる攻撃部隊の援護。いわゆる戦闘空中哨戒《ミグ・キヤツプ》である。  二日前の戦果で、士気は最高に上がっている。ダガット中佐自ら指揮する四機編隊は、五〇マイル前方にレーダーコンタクトを得ると、それぞれが互いをカバーし合うフルードフォー編隊を組んだ。一番機のダガット中佐の上方一〇〇〇フィート、左一八〇〇フィートにスタイガーが位置して最小戦闘単位のリードエレメントを編成する。三、四番機は右翼後方にそれぞれ約四五〇〇フィートの幅を取って、同じく第二エレメントを組む。  初めの数十秒は、まったく順調だった。舞い上がって来たミグを、まず一機、ダガット中佐が血祭りに揚げ、間を置くことなく、スタイガーが通算三機目を撃墜《ヒツト》した。しかしその瞬間、辺りは、前方から接近するミグの後続部隊がやみくもに放ったミサイルで、花火をぶちまけたような状況に陥った。フォーメーションはたちまち崩れ、スタイガーは自機への脅威に対処することで手一杯となった。  不幸なアクシデントが重なった。第二エレメント三番機のレーダーが故障し、後方の警戒能力が低下した。スタイガーの後ろに座る火器管制官《WSO》のカール・シュール中尉は、二機目をロックオンした。しかし発射したミサイルは、目標の遥か手前で誤爆してしまった。二発目を発射せねばならない。とその時、下方から追撃して来た一機のミグが、パワー配分を誤ってダガット機の前方三〇〇フィートに|踊り出て《オーバーシユート》来た。F‐4Dに機関砲はない。かといってレーダー誘導には、接近し過ぎている。  ダガットは、距離を取れるよう、スピードブレーキを開いた。ダガット機は、スタイガー機の脇腹に潜り込むような恰好となった。見事なテクニックである。右へバンクして攻撃をかわそうとするミグを、ダガットは冷静に追尾し、スパローを発射した。そして発射と同時に、パワーを上げ、以前の体勢を回復しようと試みた。ミグはバンクを終える前に爆発した。  息をつく間もなく、前方に四機のターゲットが出現した。スタイガーは、それへの対応に忙殺され、新手が後部から接近中なのに、まるで気付かなかった。目の前をミサイルが走ってゆく。幸いダガット機に辿《たど》り着く前に爆発してくれた。  スタイガーは右へロールする。彼の真横一〇〇〇フィートにミグが占位していた。 「後方よりミグが攻撃中! 右へ回避《ブレイク》!」  スタイガーは咄嗟《とつさ》に叫んだ。  二発目が発射される。 「ブレイク! ボス、右へブレイクせよ!」  ミサイルは一直線にダガット機に向かい、爆発した。ダガット機は、たちまちスタイガーの視界から消え去って行った。  バスが肩を叩いた所で、スタイガーは目を覚ました。びっしょり汗を掻いていた。 「終わったよ……。暗号を解除した。目標の選択も。念のため、一発目は、レニングラードをプログラムして、遠いモスクワは二発目にした。  一ヵ所、どうしても理解できない回路があってね、ちょっと手間取ってしまった」 「あんたが、自分で設計したんじゃないのか?」 「いや、私が作った回路じゃない。後で加えられたものだ。どうしても、私の侵入を許さんのだ。君は何か聞いていないかね?」 「設計者にわからんことを尋ねられてもな。じゃあ発射は出来んのか?」 「いや、発射は可能だ。どうも、AGM‐99だけに関する何らかのデータリンクのような気がするんだが。それはともかく、さっきブレイクとか、うわ言を聞いたが、またベトナムの夢かね?」 「ああ、ラインバッカー㈵作戦の、いやな夢だった……」 「あの、ダガット中佐を戦死させた、ベトナム戦争史上、最大規模の空戦だな」 「私の責任だったんだ。あの時、功を焦って加速をかけてしまった。もっと中佐と距離を保って置くべきだったのに……」  第二エレメントが、パイロットひとりの脱出を確認したが、中佐かどうかは不明だった。直ちに、ウボン基地から、コンバット・レスキューチームが出動した。  スタイガーは戦闘が一段落した所で、ダガットの行方を探すつもりでいたが、燃料が基地への帰投距離ギリギリのビンゴに達しつつあった。ひとまず、空中給油のポイントまで後退することにしたが、途中、ダガット機の後部|火器管制官《WSO》のジェームス・ロード大尉の無事と、ダガット中佐が、敵地上軍の集落付近に降下したらしいことを知らせる通信をキャッチした。  スタイガーは即座に、基地へ新たな爆撃部隊の出撃を要請すると共に、自らも給油を断念し、一目散に基地へと引き返すと、今しも離陸しようとしていたF‐105Dの前方に立ち塞がり、パイロットを強引に引きずり降ろして飛び乗った。  彼が再度、戦線に復帰した頃、ようやくロード大尉の救出が始まろうとしていた。夕暮れが迫っていた。夜間の救出は困難を極める。ダガットは地元のベトコンに包囲されつつあった。ブッシュに引っ掛かったパラシュートが、いい目印になってしまったのだ。更に悪いことに、ダガットは足を折っていた。爆撃で援護しようにも、ダガットの正確な位置が掴《つか》めない以上、スタイガーには為す術《すべ》がなかった。  長さ二四〇フィートものスリング・ケーブルを装備したHH‐53C全天候ヘリが、ジャングルの|覆い《キヤノピー》と恐れられる欝蒼《うつそう》としたブッシュの中からロード大尉を救出するのに一五分を要した。ダガット中佐を救出するため、異例な出撃を行ったAC‐130Aハーキュリーズが、地上の掃討を開始する。四〇ミリ砲、一〇五ミリ榴弾砲の雨が、左翼をぶち抜いたオープンドアから地上へと降り注ぐ。  ダガット中佐も戦闘中だった。普通、敵地上空へ飛行するパイロットには信号弾、発煙筒の類いはもちろん、あらゆる銃器の装備が許されている。ベトナムで散々な評判を頂いたM‐16ライフルは、元はといえば、空軍が導入したのがきっかけだった。ミグ・キャップのパイロットが、装備の点で地上兵と違うのは、手榴弾を持っていないことぐらいである。  ダガットは、四方から包囲され、二時間以上必死の防戦を繰り広げていた。コマンド・ポストを務めるHC‐130Pが、時折りトランシーバーのダガットと連絡を取っている。ヘリが数度の接近を試みたが、その度に、地上からの猛烈な反撃を受ける始末だった。スタイガーは歯軋りしながら、救助の指揮を執るキャスパー・ボーグ中佐と、ボスのやり取りを聞いていた。 「こちら、キング。エイブ、夜中まで、持ち堪《こた》えられんか? そうすれば救助兵を降ろして、逃走脱出《EE》ネットを張らせる」 「そいつは駄目だ。私はすでに四方を囲まれているし、残念だが赤外線ストロボも壊れて夜間の接触は不可能だ。無駄な犠牲を払う必要はない」  ダガットの声は、冷静そのものだった。 「じゃあこうしよう。最後の手段だ。武装ヘリを前後に配して、弾幕を張りながら、ケーブルを降ろす。うまくゆけば三〇秒。長くとも六〇秒でそこを離脱させてみせるぞ」 「キャスパー、わかっていないなあ。奴らは、私の目と鼻の先にいるんだよ。少なく見積もって一個大隊。ロケット弾まで装備しているんだ。三〇秒が命取りになるのは目に見えている。そろそろ決断すべきだよ。上空に、サンダーチーフの羽音が聞こえるが、爆弾はまだ残っているか訊《き》いてくれ」  スタイガーは、初めて口を開いた。喉がカラカラに渇いていた。 「ボ、ボス、スタイガーです。ナパームを積んでいますが、威力が大き過ぎて、手の出しようがありません」 「そいつは申し分ない、レイモンド。ライフルのマガジンがあとひとつ、リボルバーには三発の弾丸が残っているだけだ。私も足を折り、左肩に銃創を作ってしまったが、四十人は倒してやった。もっともまだ視界内には、五十人以上が見え隠れしている。連中にはどうやら私を今ここで殺すつもりはなさそうだ。捕虜にして、拷問の挙句、なぶり殺しにしようというわけさ。だが、そうはいかん。ひとり残らず道連れにしてやる。君が今度上空をフライパスした後、私はライフルを撃ち尽くす。リボルバーは、自分用に一発取っておこう。そして君がターンを切った所で、照明弾を打ち上げる。それがターゲットだ。外すなよ! キャスパー、それでいいな?」  ボーグ中佐は、断腸の思いで沈黙を押し通した。彼がダガットにしてやれることは、それしかなかった。 「駄目だッ、そんなのは駄目です、ボス! レスキューを受け入れて下さい。あなたを救うためなら、少々の犠牲は止むを得ない。あなたは、軍にとって必要な人材なんですよ!」 「無茶を言うな。冷静に考えたまえ、中尉。せめて、部下の手で葬ってもらえることを、私は幸運に思っている」 「そんな、私には、私には出来ない!」  スタイガーは、ダガットの上空を、失速速度ギリギリでパスした。ヘルメットのレシーバーに、ライフル銃の連続的な発射音が響いた。 「なあレイモンド、連中の幼い表情を見ていると、私は情けなくなるよ。こんな無垢な連中を解放の美名の下に、無益な同胞殺人に駆り立てたものは、いったい何だろうな?」  スタイガーは右旋回を描きながら、爆弾投下の安全装置を解除した。 「我々は、こんな所へ来るべきじゃなかった。闘うべき相手を間違えたのだ……」  スタイガーは完全にターンを切った。リボルバーの発射音が、やや間を置いて二発。 「これで十名追加だ!」  サンダーチーフに俯角《ふかく》を与えて、爆撃態勢に入る。 「レイモンド、生きて還れよ! 達者でな!」  照明弾が煌々《こうこう》と輝きながら宙を昇る。スタイガーは、その残照にターゲットを絞る。涙で、スコープが揺れ始める。投下ボタンに当てた親指が震え出す。 「エイブ! ……」  叫びながら、スタイガーは渾身の力を親指に込めた。七五〇ポンドナパーム弾八発が、地上へ降り注ぐ。辺りはたちまち巨大な炎に包まれる。コクピットのバックミラーが真っ赤に燃え上がったが、最早スタイガーには、振り返る勇気はなかった。レシーバーに、まるで亡霊の声のようなボーグ中佐の呼び掛けが入って来た。 「こちら、キング。エイブ、聞こえるか? ……。エイブ、こちらキング、応答せよ……。エイブ? ……」     22  ホワイトハウス  奇妙極まりない記者会見だった。  生中継したBBC、四大ネットワーク他の各放送局は、午前三時が、一国の元首が記者会見を行うには、いささか非常識な時間帯であることにはまるで触れず、まったく客観的に、ほとんど何のコメントも付け加えず、放送したのだった。BBCにおいては、特に海外短波担当のマイク・アンドリュース氏が、五分置きにスタッグス大統領の肉声入りでライブの放送を続けていた。START㈼条約破棄の理由は極めて単純である。議会工作の自信を失ったというもので、記者はすんなりと、それを受け入れ、ソビエトのリアクションにはとうとう触れずじまいだった。  スポークスマンのシュレイカーが、頃合いを見計らって、然《さ》り気なくストップを入れた時、僅かに、「状況はどうか?」と質問が発せられた。シュレイカーが、すでに中継が終わっていることを目配せすると、スタッグスは苦渋に満ちた表情で、「危機回避に全力を尽くしている」とだけ答えた。  イーストルームの後ろのドアが開いて、スタッグスは吸い込まれるように後ろを振り向きかけたが、ヘイワール記者の、大英帝国を体現するかのような荘厳な調子の呼び掛けが、それを押し留めた。 「大統領閣下。あなたは、この事件がもたらす影響を、どの程度のものと考えておられますか? つまり、個人的にということですが……」 「ミスターヘイワール……。今日まで私が採って来た選択は、決して間違ってはいなかったと、今でも確信している。アメリカの利益と国際平和を守るために、すべてを投げ打って来たつもりだ。しかるに、こういう形でしか評価されないというのは、甚だ残念なことです。今は、それだけです」  スタッグスがそう言い残してくるりと後ろを向いた瞬間、フラッシュの嵐が、彼の老いさらばえた背中を照らし出した。スタッグスは、まるで電撃を浴びたかのように一瞬立ち竦《すく》んだが、次の瞬間には、世界で最も威厳に満ちた男に立ち返るべく、力強い一歩を奥の院へと進めていた。  両サイドからドアが完全に閉じられるまで、カメラの放列は、その姿を執拗に追い続けた。そこには、惨めな敗北者ではなく、闘い続ける男の姿があった。全人類の命運を背負う、孤独な男の背中を、カメラは掴《つかま》えたのだった。  ドアが締まった瞬間、スタッグスは右の拳を高く掲げ、あのニューヨーカーの表紙を飾った独特のガッツポーズを取った。その姿は誰にも見られることなく、拍手ひとつ聞こえたわけでもなかったが、スタッグスは満足そうに頷いた。神より授けられた、最も崇高なる義務を果たすのが、私の任務だ! ……  B‐1  カーチス・ルメイ号は、薄明の北極海を横断し、この季節|陽《ひ》の昇ることのないコラ半島に接近しつつあった。 「レイモンド、本当に大丈夫なのか? ムルマンスクと目と鼻の先じゃないか?」  コーパイ席に収まるマックス・バスは、すっかり冷え切ったポットのコーヒーに唇を運びながらも、不安げな表情だった。 「あんたの懸念は半面では正しいが、私が敵の防空軍司令官だったら、まさかこんなヨーロッパ最大の海軍基地近くから侵入して来るなんて、つゆほども予測しはしないね。知っての通り、防空基地はフィンランドからスウェーデン、ノルウェーに至るラップランド方面を厚く睨んで置かれている。比較的薄いのは、ウラル山脈から西南へ下る方向だ。だから連中は、我々がすでにそちらから領土内に入ったものと仮定し、捜索網を東北方面に集中させていることだろう」 「もし、そう判断しなかったら? あのコースだと、我々は数時間も人間が住む地域を飛ぶことになる。連中は、そのことも考えているはずだ」 「この宏大な土地で、誰がB‐1を見付けるんだ?」 「少なくとも爆音は聞こえる」 「それなら心配する必要はないね。今頃敵さんの司令部は、侵入機の爆音を聞いたという報告が数十、いや数百ヵ所から寄せられてうんざりしているさ。爆撃機と戦闘機の音色を聞き分けられる人間なんて、数えるほどだ」  ピーター・コリンズ中尉が、コース選択を終えたことを告げる。 「オードブル・アルファ19より侵入し、メインディッシュ・オメガ86、デザート・ラムダ59を経由してモスクワへ侵攻。白海を横断し、カレリア地方をフィンランド国境沿いに南下し、レニングラードを掠《かす》めるコースです」 「雲に入れるのか?」 「出発前の衛星写真から推測すると、もう一〇分もしないうちに低気圧に突入するはずです。何ならレーダーを使いますか?」 「いや、気象レーダーはまずい。発見される恐れがある。修正は任す。うまくやれよ」 「ヘイ、ボス。ところで、スタッグスの名演説を聞きませんか? 入りはあんまりよくありませんが……」 「もう必要ない。切っておけ」  スタイガーは外していたベルトを締め直すと、地上二〇〇フィートをマッハ〇・八二という、地面を這う燕の飛行を可能にするための、|地形読み取り装置《テライン・フオロイング・システム》を起動させた。これからが、B‐1の真価が発揮される時なのだ。  そしてスタイガーは、雲という乱気流の中を飛行するリスクと、燃料消費を計算した。燃料。それはスタイガーに邪悪な誘惑を授ける源泉でもあった。帰還は可能だろうか? ……。もし不可能ならば、とスタイガーは、確信に近いものを感じ始めていた。そうとも。少なくとも私は、闘うべき相手と、場所を心得ている。そして、手段も。  ホワイトハウス  戦闘情報統制《CIC》スクリーンは、今にも悲鳴を上げそうな状況にあった。 ──空軍提供──  敵ブラックジャック爆撃機、我ガ防空識別圏内ニ突入セリ。 ──北大西洋条約機構軍《NATO》提供──  IL‐76・書記局空中指揮機《クラムシエル》、スデニ離陸ノ模様。搭乗者不明。他複数ノ空中指揮機、モスクワ軍管区数ヵ所ヨリ、一〇分以内ニ離陸ノ模様。 ──国家安全保障局《NSA》提供──  クラムシェル搭乗者ハ、三名ノ政治局員。他、四名ガ、ソレゾレジルニテ現在モスクワカラ脱出中。政治局員候補七名ガ、三〇分後ニ、ウラル山中ノ地下軍事司令部ニ到着ノ模様。 「クレムリンの七名は、動かないということかな……」  ローマン主席補佐官が、テロップを追いながら小首を傾げた。 「恐らく、永久にテーブルを離れることはないでしょう。ひとりでも欠けると、ポリトビューロー内のパワーバランスを崩すことになりますから」アヤセが答えた。 「付き合わんわけには、いかんだろうな。ところでジャービス将軍。我が方はどうなっている?」 「すでに四機のE4‐B空中司令機が、給油機を伴って空中待機しております。またアンドリュース空軍基地においては、国家緊急事態空中指揮所《NECAP》となるべきEC‐17Bナイトウォッチが、大統領の到着を待って、一時間前よりエンジンを回しております」 「間に合うのかね?」 「巡航ミサイルなら、十分避難の余裕はあります。ただ弾道ミサイルの場合、状況からして、基地まで辿《たど》り着き、乗りかえる暇はないでしょう。従って、ひとまずヘリで、なるべく遠方へ待避し、中継地でランデブーするほうが賢明かと思われます」  キムがアヤセの肩を叩いた。「ミスターグラントが、上で足留めを喰っています」 「間に合ったか!」  相互視覚通話《MIC》システムのスクリーンが反応していたが、アヤセはブースに飛び込んでインターカムを取った。 「グラントさん! 手配はいかがです!?」 「大丈夫です。この分野においては、第一級の技術の持ち主です。任せてもらえます。しかし、警備の海兵隊が入れてくれんのです」 「責任者を出して下さい」 「警備主任のメナハム・スローカム大佐です」 「大佐、私は大統領命令で動いている。直ちにグラント氏と、その人物を入れたまえ」 「しかし将軍、グラント氏はともかく、こんな胡散臭い連中まで──」 「連中? 複数なのか? まあいい、とにかく責任は私が持つ。もう一刻の猶予もならんのだ!」  アヤセは返事を聞く前に、受話器を放り出し、外で待っていたキムに、降りて来るグラントにあらゆる便宜を計るよう伝え、席に戻った。  スクリーンの向こうのメンバーに変動はなく、グレチコ外相が、万一B‐1の撃墜に失敗した場合、こちら側の報復核攻撃を受け入れるよう提案している最中だった。 「……我々が、決して感情的な復讐に走るのではないという証拠に、攻撃兵器の存在を前もって通知して置きましょう。現在、西側コードネームでブラックジャックと呼ばれている爆撃機が、ワシントンを目指して飛行しております」  アヤセは弾《はじ》かれたように身を乗り出すと、マイクのカフを切って、ジャービス将軍にインターカムを取って適当に喋るよう要請した。ジャービスは、アヤセの意図を瞬時に悟った。それは、我々がまったくブラックジャックの存在を探知していないというジェスチャーなのだ。 「そして我々は、貴国が、該当機が任務を遂行するのを妨害しないという確約を、今、貰いたいのです」 「|駄目だ《ニエツト》!」アヤセはカフを上げて叫んだ。 「すでにSTART㈼の破棄を発表した。我々はジェネシスグループの要求を呑んだのです。すでにB‐1爆撃機は、帰還途上にあるものと判断されます。この上、そんな協定を結ぶのは無意味だ!」 「ま、待ちたまえ、アヤセ君」  アヤセのロシア語によるすさまじい捲《まく》したて様に、スタッグスは唖然《あぜん》とした反応を示した。 「書記長閣下、しばらく協議の時間を下さい」 「送信、カットします!」スマッツがトーンバックに告げた。 「アヤセ君、何を血迷ったかと思ったよ」 「申し訳ありません、閣下。クレムリンの要求が、理不尽なものであるとの印象を、リトビノフ以下の一派に示唆する必要があったものですから」 「悪魔《サタン》の狡知と、処女の良心を持つ男! よく言ったものだな」  アヤセの右隣りに座るスターバック将軍が、感嘆げに耳打ちした。 「何のことです?」 「いや、おたくの長官に、君の人物評を尋ねたら、即座にこう返って来たんだよ。悪魔《サタン》の狡知に、処女の良心を持つ男だとね」 「将軍、言っちゃあ何ですが、うちのボスはホラ吹きで通っているんですよ。彼の事大主義のおかげで、国家安全保障局《NSA》は、年々予算を増やして来たんですから」 「いやいや、たいしたものだよ」  アヤセのインターカムが鳴った。 「こちらグラント、いつでもオーケーです」 「そちらの判断で構いません。始めて下さい」 「しかし、何だな」  と、コンラッド長官が溜息を漏らす。「レーガン張りの役者までこなさなきゃならないとなると、この通話システムは取っ払った方がいいんじゃないか?」 「同感ですね」  と、ジャクソン長官。「今日まで人間は、便利さや、正確さばかりを追求して来ましたが、外交交渉に関する限り、ある程度コミュニケーション手段に制約があった方が、むしろ相手の意思伝達をスムーズにさせると判断すべきです。このシステムは、以前のファクシミリにもどす必要があります」 「やれやれ、先祖返りは戦略だけかと思っていたが、あるいは産業革命以来の工業化のパラダイムは、限界に達しつつあるのかも知れんな」 「閣下、そろそろ漸減報復戦略《デイスカレーシヨン》を交換条件に、提案を受け入れることを表明して下さい」  スマッツがはや右手を挙げて言った。  MICスクリーンにクレムリンが出た。  スタッグスは、「万にひとつの事態に陥った場合」と、慎重に前置きしながら、ディスカレーション攻撃の原則を、双方の軍事指導部に徹底させることを条件として提示した。 「理想としては理解できるが、いささか荒唐無稽な発想だな」  クジチキン国防相が、懐疑的な返事をよこした。 「いや、我々としては、エスカレーションの可能性など毛頭も感じていないのだから、この程度の条件は飲んでも構わんだろう」と、グレチコ外相。 「まあ、その条件は受け入れよう」  アダムが、さも大儀そうに答えると、映像は向こうから跡切れた。  アヤセはスターバックの隣りに座る、ジャービスを顧みた。 「将軍、念のため、巡航ミサイルのエキスパートをひとり、こちらへよこしてもらえませんか?」 「なぜ? 尋ねたいことでもあれば、ペンタゴンを呼び出せばいいじゃないか?」 「しかし、継続的なアドバイスを受けるためには、やはり身近にいてくれた方が無難ですから」 「ううん……」  ジャービスは、思考回路にアフターバーナーをかけて、拒否するに論理的整合性を備えた理由を見付け出そうと焦った。「しかし、いや、向こうでも、スペシャリストが集まって、万一ミサイルが発射された場合の撃墜策をあれこれ探索中だと思うんだ。ひとりでも欠けるとなると」 「そうですか。それは……」  アヤセは、ジャービスの深層心理を覗いてしまったことで、自分がいささか苦境に立たされたことを悟った。後ろを振り返って、キムを呼ぶ。 「急いでブースに、エドを呼び出してくれ」 「陸軍省航空本部次長のエドウィン・スコービル少将ですね? わかりました」  それからインターカムを取って、二階の分析ルームを呼び出した。「ピアモント博士を下へ」そして更に、アイラを手招きして席を立った。  アイラを連れてブースに入る。 「ルメイ号は、帰って来るかしら?」 「甚だ疑問なところだね」  アヤセは忌忌《いまいま》しげに頭《かぶ》りを振った。「かつて、自分の戦友や崇拝していた上官の命を奪い、あまつさえ自分が信じていた理想や名誉を、完膚なきまでに叩きのめしてくれた張本人が目の前にいる。そして自分は、そいつを永久に黙らせる手段を持っている。そんな状況で、振り上げた拳を、静かに収められるほど、人間の理性の力というのは優れてはいない。この誘惑は、殆ど本能的に働くんだ!」  ゲリー・ピアモント博士が入って来た。 「どうです? らしき人物は見付かりましたか?」 「いや、やはり駄目です。声紋分析というのは、今でも相当、不確定要素が支配する領域なんです。あなたやスターバック将軍、それから国務長官のジャクソン氏などは、さすが鞍数《くらかず》を踏んでいるだけあって殆ど周波数に乱れはありません。戦争経験者、外交官。共に我々のサンプルとしてはやっかいな存在です。それからコンラッドCIA長官。毒舌家だけあって、度胸が据わっています。ローマン氏とジャストロゥ教授も、冷静さを競うだけあって、少なくとも裁判所へ提出できるようなデータは取れていません。大統領とサンディッカー副大統領。感情的なブレが時折見受けられますが、意図的に嘘をついているという証拠は見当たりません」 「そうですか……。問題はこれからです。私は大統領に、直接ルメイ号の乗員に呼び掛けるよう提案するつもりですが、大統領に続いて、他のスタッフも説得に加わるでしょう。恐らく、ジェネシスグループのリーダーは、その中に、何らかの暗号文を挿入し、ルメイ号に作戦の成功と帰還を命じるはずです」 「しかし、そういうことなら、むしろ国家安全保障局《NSA》で暗号解析に携われたあなたの方がご専門でしょう?」  アヤセは一瞬苦笑してみせた。 「それはもう随分《ずいぶん》昔のことですよ。ここ数年はもっぱら、解析が終わった情報を集めて、トータルな分析を下すのが私の仕事だったのです。こうしましょう。オーバルテーブルに配られた国務省のパンフは、背表紙の色がブルーです。私はそれを開いて置きますが、もし私が怪しいと気付いた発言があったら、閉じて表紙を出します。二階のモニターで、その動作はわかるはずです。そしたら、それについてアドバイスを下さい。トーンバックの回線は繋《つな》ぎっ放しにして置きますから。アイラ、君もだ」  二人はひとしきり頷いて出て行った。  アヤセがブースに消えたのを確認したジャービス将軍は、副官のディック・モーゼル中佐を呼んだ。 「ペンタゴンへ急げ。巡航ミサイル関係のスタッフを何処かへ隔離するんだ。特に、ヤング大佐」  ジャービスは声の調子を低めて、「私が言っていることの意味がわかるな?」と付け加えた。 「はい、将軍。理由は、より安全な秘密司令部への移動ということで……」 「よかろう。貴様に任す」  ジャービスは、ついに、はっきりとした意思の下に、行動を開始したのだった。 「ボス、スコービル将軍を掴《つか》まえました」  ペンタゴンという世界最大を誇る巨大組織のコミュニケーションの非効率性という頭の痛くなる問題と格闘していたキムは、案外早く、意中の男を探し出してくれた。  アヤセは礼を言う間もなく、インターカムに「一番のブースへ!」と叫んだ。 「ハロー! 鋼の肉体に仙人の洞察力を備えた男よ!」  この期に及んでも、相変わらず陽気な奴だとアヤセは思った。 「何て野郎だ!? こんな時に。それに言っちゃあ何だが、もう鋼の肉体はボロが出ちまった」 「それは失礼しました、補佐官閣下」 「どうしたんだ!? その他人行儀な台詞は。皮肉のつもりか?」 「皮肉のひと言も言いたかならあな。貴様とは地獄まで付き合う仲だと思っとったがな、あの娘の件は何だ!? 貴様が娘の話をしたがらんと不思議に思ってりゃあ、ああ俺は情けないといったらありゃあしねえ……」  アヤセは胸の内で臍《ほぞ》を噛んだ。 「その件なら、いくらでも謝まるさ。今はそれどころじゃないんだ。空軍の巡航ミサイルのエキスパートを探している。お前さん、ずっと航空畑を歩いて来たから、当然空軍さんとの付き合いもあるんだろう」 「そう。遺憾ながら、我が陸軍航空隊は、空軍さんの協力と支援がなけりゃあ、にっちもさっちもいかん。空軍のクソッタレめ! ああ、だが、そこにはジャービス空軍参謀総長も居るんじゃないのか?」 「それが、どうも協力してくれそうにないんだ」 「ほう。どうやら空軍さんは、本気でやるつもりらしいな。見敵必殺、与えられた最小限のチャンスを最大限に生かすのモットーを、実践するわけだ」 「ものごとには、善悪というものがある」 「ごもっとも。俺が理事を務めている全米|超軽量模型飛行機《フエザー・プレーン》協会のメンバーに、空軍のプランナーがいる。D型搭載用の新型|核巡航ミサイル《ALCM》の開発を指揮したはずだ。名前は確か、ラムゼイ・ヤング。大佐だ」 「こっちの側に付いてくれそうか?」 「技術屋だからな、政治的な問題には疎い。何とか丸め込めるだろう」 「他の連中に悟られぬよう引っ張り出して、ホワイトハウスに連れて来てくれ」 「と言われてもな。俺は今、自分の居所を知らんのだ。ワシントンから半径三〇〇マイル以内に設けられた二十余の地下軍事司令部の何処かにいることになっている」 「そうか。要するに、お前さんがヘリ部隊を指揮して、政府、軍の要人を避難させたわけだ。メリーランド州のレイブンロック山から駆け付けるとなると、ちょっと面倒だな」 「バラしちまえば、そういうことだ。しかし、デスクワークってのは損な役だよ。肝腎な時に、真っ先に避難して下さいと来る」 「じゃあこうしよう。マークに頼む。俺は奴と共同で、ジェネシスグループの摘発に当たっているんだ」 「おお、ノー! 口八丁手八丁、舌先三寸のモンローちゃんか!? あのFBIに拾われた。あんな奴が、この事件を担当しているようじゃ……」 「とにかく、奴をペンタゴンへ迎えに行かせる。お前さんは、何とか手を回して、そのヤング大佐を連れ出せるよう、話をつけてくれ」 「了解した。ところで、俺は来週末、空中散歩《ソアリング》に出掛けるんだが、どうだ? 久し振りに付き合わねえか」 「おいおい、朝には、人類文明が消え失せるかも知れんというのに、どういう神経の持ち主だ!?」 「俺はまるで心配してないね。貴様がホワイトハウスにいて、孤軍奮闘繰り広げているうちは、俺は高枕で眠らせてもらうさ」     23  アヤセはキムにモンローへの連絡を託すと、席に戻った。 「どうだろう。私が直接、ルメイ号の乗員を説得するというのは?」  スタッグスはアヤセが提案するつもりだったくだんの件を自ら持ち出していた。  サンディッカー副大統領が、「まあ何もしないよりは……」と、賛成を示した。 「せっかくですが、閣下、私は反対です」  スターバック将軍は、明確な態度で反意を表した。「ベトナム戦争に、屈折した思いを持つ者にとって、閣下は好ましからざる人物です。あの、長く辛苦な時代、あなたは殆ど一方的に、軍の敵として振る舞われた」 「それが、アメリカ国民のためと、私が信じたからだ」 「その通り。だからこそ、あなたは今その席に座ってらっしゃる。しかし、少なくともスタイガー大佐は、快くは思っておらんでしょう。閣下の呼び掛けは、彼を逆上させることはあっても、決して説得することにはなりますまい。  その役は、むしろ私やアヤセ君のように、あなたが仰しゃった所の|不道徳な戦争《インモラル・ウオー》の体験を共有する者の方が適任です。副大統領や、教授のようなマイノリティも……」 「私は、ここでは除け者というわけだ……。よかろう。説得は君達に任す。ハンレー君、準備を」  中波《MF》、超短波《VHF》、通信衛星を使う極超短波《UHF》、|マイクロ波《SHF》、|ミリ波《EHF》と、あらゆる通信手段が用意される間に、コーヒーが運ばれて来た。アヤセはカップを受け取りながら、今夜、何杯目だったかなと、ふと思った。  隣りのジャストロゥ教授は、カップを取り損ねたらしく、コロンビア産の上ものをブレザーやスラックスに飲ませる始末だった。「すいません」と畏《かしこ》まるトレーを持ったスタッフに、教授は、「ああいいんだ」と呟やきながら、ハンカチを取り出す。別なスタッフが駆け寄って、ナプキンをあてがった。  まず、スターバック将軍がマイクに向かった。アヤセは右手をパンフレットの、ソビエト政治局員の経歴を紹介しているページに置き、全身を耳にして、将軍の説得に耳を傾けた。理路整然とし、時に感傷に訴えるテクニックは見事なものだった。続いてジャービス将軍。そつはないが、形式的なものだった。そして教授が、「国防長官としての責務を果たさねばならん」と、マイクに向かった。  アヤセは、ジャストロゥ教授の説得を聞きながら、教授の、苦難に満ちた人生を想った。  ユダヤ人として生を受け、ナチスの迫害を逃れてアメリカへ渡り、ハーバードへ入学したのも束の間、たちまち戦場に駆り出され、帰米した時には、すでに両親は不帰の人となっていた。大学へ帰った彼は、偏見ばかりでなく、貧しさとも闘わねばならなかった。研究を続ける傍ら、夜は家庭教師のアルバイトをして弟妹を養わねばならなかった。ハーバード大学教授のポストを手に入れるまでの彼は、まさにガッツとチャレンジの、アメリカン・スピリッツの忠実なる履行者であり、そしてホワイトハウス入りを果たした彼は、アメリカン・ドリームの申し子と言ってよかった。しかし、教授のポストに就いてからの彼の人生が、順風満帆だったわけではない。一九八三年のベイルートでの海兵隊司令部爆破事件が、彼の人生に、再び苛酷な試練をもたらしたのだ。  アヤセは、あの時のCNN放送のインタビューをまだ鮮明に覚えていた。 「今時軍隊に入るのは、有色人種《カラード》と貧乏人だけだという認識が世間に広まっている時、あなたはなぜ、ひとり息子を志願させたのです?」  教授は、泣き腫らした夫人を傍らに、毅然《きぜん》として答えたのだった。 「だからこそ、私は息子を一兵卒として志願させたのです。さあ、今までおまえを育て、守ってくれた国家に、今こそ体を以って恩返しする時が来たと。息子が死んだのは、従って私の責任だ。しかし、私は後悔はしていない。誰かが昼夜を分かたず、そこに歩哨として立ち、我々の生活と財産と、そして自由という何物にも代え難い価値観を守らねばならない。息子はそのために死んだのです。崇高なる義務を果たして……」  キムが突如、アヤセの肩を叩いた。 「ありました、ボス」  持って来たファイルを開いて見る。アヤセは一瞥《いちべつ》をくれると、「グラント氏に礼を言ってくれ」と受け取った。  悪魔の狡知と、処女の良心を持つ男……。違う。アヤセは違うと思った。自分は処女の良心なんか持ち合わせてはいない。私が持っているのは、悪魔にも似た、ずる賢い狡知だけだ。教授はこれまで、アメリカの安全に数々貢献して来たし、これからの世界平和にも、必要欠くべからざる存在だ。なのに私は……。  教授の説得が終わろうとしていた。アヤセは、パンフに置いた右手の掌が、じっとりと汗ばんでゆくのを感じ取った。 「……もうこれ以上前進してはいけない。君達の任務は、核戦争を引き起こすことではなかったはずだ。これ以上危機を煽る必要はない。君達は勝利した。帰ってきたまえ」  アヤセは静かにパンフを閉じ、ブルーの背表紙を見せた。  アイラがトーンバックに驚きの声を上げた。「え!? 教授が……。ドラマチックな文章だったことは認めるけど、でも!? ……」 「こちらピアモント。『君達は勝利した』の部分で、微かな周波数の上昇が認められましたが、しかし断定は出来ません」  アヤセは、事ここに至っても迷っていた。ハンレー大佐が、「今テープに取ったものを、エンドレスで再生させます」と告げるのを瞑目しながら聞いていた。誰にとっても、これは残酷この上ない仕打ちになるだろう。しかし教授、あなたは絶対に間違っている! アヤセは瞳を見開くと、隣りの教授に、厳しい視線を投げ掛ける。そして、叱責するような調子で言い放った。 「教授、ジェネシスグループの総帥《そうすい》は、あなたですね!」  B‐1  B‐1のコクピットでスタイガーは、航法コンピューターに残燃料を入力して、帰還の可能性について計算を行いながら、バスに話し掛けた。 「ロックウェル社の宣伝文句によると、こいつは無給油で、モスクワを爆撃してアメリカ大陸へ帰着できることになっている。ところがそれは、適正高度を飛行した場合に限ってのことで、燃料をバカスカ喰う低空侵入、低空離脱を行った場合、その限りでないことは、七面鳥程度のパイロットでも知っていることだ。我々はまず、オホーツクで低空侵入を行い、北極海へ離脱する際も、低高度を飛んでしまった。そして予想外にも、オホーツクでのミサイル相手の空中戦で、アフターバーナーまで使ってしまった。ほんの数十秒で使った燃料は、膨大な量に及ぶ」 「で、どうなんだ?」  スタイガーは弾じき出された数字を喰い入るように見詰めてから、つっけんどんに「無理だ」と答えた。 「グリーンランドなら確実に、どうにかすれば、カナダ北東部に辿《たど》り着けるかも知れんが、アラスカは無理だ」 「君が何を考えているか、わかるよ」  バスは冷徹な表情で、口を開いた。 「告白すると、私はユダヤ人でね。多くの同胞が、ナチ時代と変わらぬ迫害を、この国で受けているという噂をいく度となく耳にして来た。私は、人道的理由からは、反対しない。第二次世界大戦を、より少ない犠牲で終結させるために、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下は、正当な措置だった。人道に反するという理由から、このことを未だに非難する連中がいるが、それは間違っていると、私は考えて来たひとりだ。都市をひとつ、ふたつ壊滅させるだけで、共産主義の恐怖政治を終わらせることが出来れば、こんなに素晴らしいことはない。東ヨーロッパは解放され、アフリカの政治的な飢えも無くなり、何より、バカげた軍拡のスパイラルに終止符を打つことが出来る。もし、全世界で、毎年軍事のために投資される一兆ドル以上の金を、せめて半分でも民生部門に投資させることが出来たら、やがて人々は、我々の行為をあれは正しかったと認めてくれるだろう」  バスは、ここで言葉を区切ってから、ぽつりと零《こぼ》した。「しかし……、全面核戦争を導く破目になりはしないだろうか……」 「私にも、その懸念がまったくないわけじゃない。だが……。  核戦争は、たった三分間でミサイルの撃ち合いが終わり、三〇分後には、地球は死滅すると主張する連中がいるが、実際は、そうならないだろうと私は思っている。賢明な指導者なら、良心の呵責と闘い、より低いレベルで核戦争を収めようと努力する。結果として、我々は非常にゆっくりとした速度で、エスカレーションの梯子《はしご》を昇ることになる。米ソ両国が、互いの国を完全に破壊するには、恐らく半日かそれ以上を要するだろう。私はこのタイムラグに、賭けるだけの価値があると思っている。つまり、クレムリン内で、良識派が立ち上がるだけの時間的余裕を見込むことが出来るんじゃないかな。当然軍隊内にも、反体制派は存在するはずだ」 「もし、指導者が自暴自棄に陥って、一斉に核ミサイルの発射を命じるようなことがあったら?」 「そういう状況が滅多にあるとは思わないが、君は米ソの科学力についてどう思う?」 「連中も進んでは来たが、しかしグローバルに評価するなら、言わずもがなってところだね」 「戦略防衛構想《SDI》はまだまだだが、我々の防禦技術は、敵よりかなり進んでいる」 「ボス! 暗号キャッチしました。『君達は勝利した』、聞きますか?」  ピーターがレシーバーを通じて二人の会話に割り込んで来た。 「暗号発信者は誰だ?」 「ジョセフ・ジャストロゥ国防長官です!」 「ほう! あの教授がジェネシスグループの総帥《そうすい》だったとはな……」 「どうする? そろそろ決断してくれ」 「さっきのBBCで、本来なら我々はUターンしなければならなかったが、誰もそうしようとは言い出さなかった。今更引き返すことに利益はない。ピーター、貴様はどうする?」 「いいですねえ、ボス。世界史に名を留めるのも悪くはない。明日には、俺達の名はFBI、CIAの特別犯罪者リストに載ることになるでしょうが、十年も経てば、英雄だ!」ピーターの声は、快活そのものだった。  スタイガーは思った。若いってのはいい。どんな無謀な冒険でも、挑戦してのけられるだけの、恐怖を知らぬ勇気を育くんでくれる。薄明の雲中飛行を続けながら、レイモンド・スタイガー大佐は決断を下した。 「レニングラード、モスクワを抜いて、ワルシャワ、東ベルリンへ向かう。初弾は、レニングラード、モスクワの中間点において、両都市へ向け発射。以降、ソビエト軍の駐留、司令部を目標に攻撃を続行。ポーランド、東ドイツにおけるソビエト支配への反革命の惹起を促す!」  カーチス・ルメイ号は、今やコラ半島を横断し、フィンランド領空へ侵入しつつあった。邪悪な意思を伴って!     24  ホワイトハウス  反応の激しさからすれば、むしろスタッグスの方がオーバーだった。教授が茫然とアヤセを見詰め返したのに比し、スタッグスは椅子から飛び上がらんばかりに、 「何だって!」と叫んだ。  アヤセはもう一度、硬い口調でジャストロゥを告発した。 「教授、すべては、あなたの計画ですね?」 「アヤセ君、突然何を言い出すんだ!? なぜジョセフが、ジェネシスグループなんかと」  アヤセは、これからが勝負だと腹の底で自分に言い聞かせた。アヤセは状況証拠と、せいぜい心理的動揺を狙う小道具しか持ち合わせていないのだ。 「教授、私は声紋心理学のエキスパートに、今の呼び掛けをモニターさせました。この通信の中に、必ずや、作戦の成功を伝えるメッセージが含まれていると踏んだからです。あなたの『君達は勝利した』という部分で、顕著な反応が認められました」 「しかし、それは……」  ジャストロゥは眉根を押さえて、ひどく困惑した表情を示した。 「もうひとつあります。実は私は、B‐1がハイジャックされ、給油のために、グアムのKC‐135が同伴していることに気付いた時から、ジェネシスグループのリーダーはあなたではないかと睨んでいたのです。  昨日、私が教授の部屋を訪れた時、私は国防総省関係の事件事故報告書を拝見しました。しかしその時、教授は一番上に載っていた、グアムでのKC‐10の擱坐《かくざ》事故の報告書を手元に残してから、私にファイルの束をよこしたのです。その報告書には、事故は人為的な妨害工作によるもので、その動機を計りかねる旨、記されていたはずです。そのことは、グアムのリック・ホワイトン中佐が、『上級機関への報告書にも書いたことですが……』と、皆様が聞いている前で、答えてくれました。  教授、あなたは私に、たわいない妨害工作にしては真意を計りかねる、あの奇妙な事件の報告書を読ませまいとした。私が万一疑念を抱いて、突っ込んだ調査を行うかも知れなかったからです」 「アヤセ君、目の付け所はいいが、しかし声紋やポリグラフの証拠能力というのは、未だに学会に論争のある所だし、その報告書の件にしても、偶然として片付けられないこともない」  ジャクソン長官が、当惑げにアヤセを窘《たしな》めた。「いずれにせよ、状況証拠ということになりはしないかね?」  アヤセはほんの数秒間沈黙すると、スタッグスを見遣った。彼の瞳は、動揺と、アヤセへの侮蔑を宿していた。 「大統領……」  アヤセは、噛んで含めるように語り掛けた。「あなたが、何をお考えかわかります。せめてひと言、事前に耳打ちぐらいしてくれるべきではなかったか?」  スタッグスはまったく鷹揚《おうよう》に、「まあ、そうだな」と答えた。明らかに非難の雰囲気が読み取れた。 「ふたつの理由から、それが出来なかったのです。まず第一は、物証が何もなかったこと。第二は、証拠もなしに教授を告発するには、閣下と教授が、あまりに親しい友人だったからです」 「五十年来、公私に亘り、苦楽を共にして来た仲だ。当然だろう」  ジャストロゥは、ひたすら空虚な表情で沈黙を守っていた。 「教授、なぜ私に反論なさらないのです? 口を開けば、今度こそはっきりと、上擦《うわず》った声を分析器に掛けられる破目になるからですか?」 「よさないか、アヤセ君!」  スタッグスは、不快の念を露わにした。「これ以上ジョセフを侮辱することは、私が許さない」 「そうですか……」  アヤセは、今度は一〇秒近くも黙っていた。それは、彼がまだ幼かった頃、父から習ったケンドウ、ジュウドウにおける、次の決定的瞬間に移行するための、|マアイ《ヽヽヽ》のテクニックだった。  アヤセは、キムから渡されたファイルに、まったく何気なく右手を挟み入れた。そしてジャストロゥに向き直り、やんわりと「教授」と呼び掛けた。  ファイルから抜かれるアヤセの右手、そこに現われた一枚のキャビネ判のポートレート、唐突に見るジャストロゥ……。次の瞬間の、彼の驚愕の表情! 反射的にブレザー左胸の内ポケットへと動いた右手が、すべてを告白してしまった。  ジャストロゥは、放心したように肩を落とすと、やるせない表情で、静かに瞳を閉じた。 「先ほど、教授のスラックスにコーヒーを零《こぼ》したのは、ここのスタッフではありません。ミスターグラント!」  アヤセに呼ばれたグラントが、暗闇の中から悠然と現われた。 「私は、FBIワシントン支局長のジュリアス・グラントであります。実はアヤセ補佐官から、スリの特殊技能を有する者の派遣を要請され、馳《は》せ参じたしだいです。先ほどのふたりは、トム&ジェリーと言いまして、この業界では、ちょっと有名な連中です。全米の高級ホテルを専門に荒らし回っておりましたが、ニューヨーク州刑務所に服役中だったのを、特赦を条件に連れて来ました。ブレザーの内ポケットから財布をすれる、数少ないテクニックの持ち主です」 「ありがとうございました、ミスターグラント」  アヤセはグラントに礼を述べると、再び話し始めた。 「教授の部屋に入った時、私は奇妙なことに気付いたのです。ポートレートのフレームスタンドが二組ありました。ひと組には、大統領と肩を組む、ハーバード時代の写真が収まっていました。ところがもうひと組は、伏せてあったのです。それも何かの拍子に倒れたというような感じではなく、整然と、デスクの脇に伏せてあったのです。教授の部屋にお邪魔したのは、昨日が初めてでしたが、そこに亡くなられた夫人と御子息の写真が入っているだろうことを推測するのは容易でした。果たして写真はまだ、その中に収まっているのかどうか? あの時は気にもなりませんでした。しかし、教授が怪しいと確信するにつれ、俄然、あのフレームの中身が気になって来ました。そこで私は、部下に命じて、確認させました。答えは、 『今はない。しかし、今朝までは、確かに、御子息が海兵隊に入隊した時、家族三人で撮った写真が入っていた』  なぜ教授は、ポートレートをフレームから外したのか? またそれは何処へ行ったのか? 理由は敢えて申しますまい。教授にとって、今日は一世一代の賭けを打つ日であり、また長年の友人を心ならずも裏切らねばならない辛い日でした。ポートレートの行方については、これは単純な推理でした。あれはキャビネ判で、普通の大きさのポケットには窮屈ですし、第一中身は丸見えです。しかし、三年前ホワイトハウス入りを果たされた教授が、あるエピソードをタイムのインタビューで話しておられました。『研究の性格上、私は世界中を旅するんですが、いつも身の回り品の置き場所に困ってしまうんですよ。ヨーロッパの某国へ出掛けた時、あり金全部をすられて、ひどい目に遭ったことがありましてね。で、私は内ポケットに何でも詰め込めるよう、特別に内ポケットは大きく、丈夫に作ってもらうんです』。右か左か、これはちょっと迷いましたが、グラント支局長に相談したところ、右利きの人間は、だいたい本能的に左ポケットを多用すると聞いて、あとのことは専門家に任せたしだいです。そして、これが問題の写真です」  アヤセは、海兵隊の制服を凜々《りり》しく決めた息子を、夫婦が微笑みながら囲んでいる、かつてのアメリカの標準的家庭なら、何処にでも一、二枚はありそうな、しかし何より誇りと威厳を放つポートレートを、頭上に掲げて見せた。 「なぜです、教授。これが、息子さんへの贖罪《しよくざい》だとでも仰しゃるんですか!?」 「息子が死んだ……、年だった。ジェネシスグループに入ったのは」  ジャストロゥは瞑目したまま、ポツリと呟いた。 「本当に!? 本当に君なのか!? ジョセフ……」  スタッグスは遂に立ち上がって叫んだ。 「ジョン……。君はSTART㈼で無理をし過ぎた」 「しかし、君は理解してくれたではないか!? 再選のためには、宣伝材料が、四年間の私の成果が必要だったのだ!」 「いや、君は今期限りで、ホワイトハウスを去るべきだ。ミディアの、そうミディアのためにも……」  アヤセはアッと息を飲んで、ジャストロゥを顧みた。そうか! そういうことだったのか。苦い思いが、口の中に広がって行った。 「私達の友情は、いったい何だったのだ」  スタッグスは崩れるように、椅子にへたり込んだ。 「今はそれどころじゃない」  ローマンが窘《たしな》めた。「ジョセフ、連中は確実に帰って来るのか?」 「BBCの放送で、ひとまず針路を変え、私の暗号通信で、|短距離核ミサイル《SRAM》一発を、北極へ向け発射する。それは二〇分以内に、高度一万メートルで五キロトンの小規模爆発を起こす。早期警戒衛星がそれを探知し、私は彼らが帰還途上にあることを確認するという作戦だ」 「メッセージの発信から何分経った!?」 「およそ五分です!」ハンレーが間髪を入れず答える。 「着陸基地は?」 「アラスカ。具体的な場所は知らない」 「ジャービス君、手配を」 「はあ。しかし、アラスカには大小六〇〇もの滑走路があります。あまり期待は出来ませんね」  ジャービスは義理堅くインターカムを取り上げて、形式通りの警報を発した。 「教授、あなたは、スタイガー大佐が引き返して来ると思いますか?」  アヤセは、しかし仮借ない態度で、ジャストロゥを問い詰めた。 「帰って来るという約束だ」 「違う! 連中は帰って来はしない!」  アヤセは、自分が動転していることに気付いていた。しかし、どうしようもなかった。スタイガーと同じく、ベトナムで苦汁を舐《な》めた者として、どうしようもなく、辛く、悲しい気分に陥らざるを得ない自分を、腹立たしくも思えた。それはまるで、懺悔《ざんげ》するような口調だった。 「あなたは、いやあなたがたは、何も理解してはいない! 私達がベトナムで、どれだけの傷を負ったか。たった三〇秒という瞬間の戦闘に、人生のすべてを凝縮してしまった若者の痛みを、あなたがたが理解できるはずがないんだ! あのレイモンド・スタイガーは、絶対帰って来やしませんよ。帰って来るわけがないんだ!」 「ヒーロー、落ち着いて!」  トーンバックに、アイラの優しい声が入った。「あなたが、ここで敗北すれば、ベトナム帰還兵、ひいてはあなたの世代のすべての評価が決してしまうのよ。いつもの沈着冷静なヒーロー・アヤセに戻りなさい。明晰な頭脳を誇るNSAの俊英に返るのよ! 私が、あなたのそばにいてあげるから……」  アヤセはハッと気付くと、アイラに向け、ありがとうと目配せした。そして深呼吸し、エネルギーの復活を計った。 「閣下、クレムリンが会見を求めています」 「よろしい。このままの状態で応じる」  スクリーンに、疲れ果てたポリトビューローの面々が映し出された。クジチキン国防相の後ろに、垢抜けた軍人が立ち、インターカムを握っていた。 「お久し振りです、ジャービス将軍。アレクサンドル・ウイッテです」滑らか過ぎるほどの英語だった。  ハンレーが、CIAのファイルに当たってくれた。出身地、経歴、家族構成等が、列挙される。アヤセは、それを見るまでもなく、相手の素性を知っていた。モスクワ大学物理学部卒の空軍中将で、アメリカ駐在武官も務めた、ソビエト空軍におけるシステム・オーガナイザーである。 「先ほどまでペンタゴンの専門家の皆様とお話ししていたのですが、どうもあの方々は、エビエーション・ウィークすらお読みになっていないようで、まるで埒《らち》があかないのです。二、三、直接お伺いしたいのですが……」  スタッグスが、「何でも訊いて下さい」と答えた。 「ジャービス将軍、B‐1は、我が領土内を依然進行中と思われますが、その気配すら掴《つか》めません。なぜです?」  ジャービスは失笑を漏らした。 「将軍がお考えのことはわかりますよ。ソビエトの科学技術は劣っている。発見できなくて当然だ……。しかし、そのことは誰より私が認識しているのです。B‐1Dはまったくのステルスです。あれはレーダーに反応しない。しかし、地形を読み取るには、レーダーを使わなくてはならない。私はB‐1が通過すると思われる地域に、電波傍受部隊を派遣しましたが、まったく梨のつぶてです」 「例えばの話だが、地形読み取りに、拡散の少ないミリ波を、モノパルスで発信するという方法を取れば、探知は難しいでしょう」 「ええ、B‐1Bのシステムは存じています。しかしそれでも、絶対に逆探知されないという保証はない。我々は、D型の|地形読み取り装置《テライン・フオロイング・システム》について、ある情報を得ています。数年前、日本で開発されたガリウム砒素素子コンピューターと、光ファイバージャイロの技術が、極秘裏に貴国に提供されたという情報があります。これは事実ですね」 「…………」 「そしてあなたがたは真っ先に、B‐1Dの地形読み取り装置にそれを応用した。これは認めますね?」 「…………」  ジャービスは腕組みをして、拒否の意思を伝えた。 「親愛なる大統領閣下、ジャービス将軍に、私の質問に答えるよう要請して頂けませんか?」 「将軍、命令だ。答えたまえ」 「しかし閣下、これは国家安全保障上、極めて重大な損失を招きかねない──」 「一刻の猶予もならんのだッ。答えろ」スタッグスは腹立たしげに怒鳴った。 「ウイッテ君、ホオジロザメの嗅覚を持つ君のことだ。どうせたいがいの情報は掴《つか》んでいるだろうから、洗いざらい教えてあげよう。我々は確かに、ガリウム砒素素子コンピューターと、光ファイバージャイロの技術提供を受けた。B型と、D型の性能の最大の違いは、まさにここにある。まず、シリコン素子に代わるガリウム砒素素子の使用によって、コンピューターの情報処理能力が格段に増大した。そして、光ファイバージャイロの登場。これは虫メガネから電子顕微鏡に代わったぐらいの画期的な進歩がある。このふたつの組み合わせによって、D型は事実上、レーダーを発して自動航法装置を修正する必要がなくなったのだ」 「じゃあ、あのフロリダを宵闇に離陸し、いっさいの電波を発せず、あらゆる地上施設の航法援助を受けず、カナダを横断し、アラスカのエルメンドルフ基地まで、超低空の夜間飛行を行ったというのは、事実だったのですね!? 信じられない!」 「途中、給油機とのランデブーがあったがね」 「B‐1を発見する方法は?」 「唯一、赤外線探知に拠るしかないが、しかし、その低気圧の中では、よほどの偶然が重ならない限り、発見は不可能だ。残念だが、私がF‐15やF‐19の一個師団を率いて参加したとしても……」 「そうですか。もうひとつ。その地形読み取り装置は、あのダモクレスの剣にも導入されたのですか?」  その質問には、ジャービスは眉をひそめながら、「そうだ」と答えた。  ウイッテ中将の、いかにも儀礼的な「どうも」という声と共に、クレムリンの映像はプッツリと跡切れてしまった。  スタッグスが、「ダモクレスの剣とは何だね?」と尋ねた。 「新型巡航ミサイルAGM‐99に、技術者のひとりが皮肉を込めて奉ったニックネームです」 「ルメイ号はすでに、モスクワを射程内に収めているはずだが……」 「その通りです。すでに大陸に上陸したものとみてよろしいでしょう」 「では、そのダモクレスの剣は、発射された可能性もあるわけだ」 「いや、それはないでしょう、閣下」  スターバック将軍が、やんわりと否定した。「我々はベルン協定を遵守しております。あの協定の骨子は、核兵器の最終運搬手段のステルス化に制限を加えたものでした。ですから、巡航ミサイルは、敵のレーダーに微かながらエコーを映すはずです。もしスタイガー大佐が血迷って、モスクワを核攻撃しようとしたら、当然発見の確率を最小限なものとするため、可能な限りモスクワへ接近して発射する方法を取るでしょう。なあジャービス?」  同意を求められたジャービスは、フェライト剤ボンベ紛失の一件を思い出し、「あ、ああ……」とあやふやに答えた。 「あと何分だ?」 「一五分が経過しました」  まんじりともしない五分がついに経過した。 ──統合宇宙計画参謀本部《JPSS》提供──  全テノ早期警戒衛星ハ、正常ニ機能中。核爆発反応ヲ認メズ。 「まあ、一、二分の遅れはあるだろうし……、ルメイ号が暗号を聞き逃がしたということもあり得る」とサンディッカー副大統領。  ジャービスは胸の内で、軍人、とりわけパイロットの時間の観念は、原子時計並みに正確なんだと呟いた。  ジャストロゥ教授は、右胸の内ポケットからシガレットケースを取り出すと、中から銘柄のわからない煙草を一本取り出し、火を点けた。  アヤセはその作業の一部始終を、無関心を装って観察していた。微かに、教授の指が震えているように見えた。何かが、脳裡を引っ掻いた。何だろう? 灰皿……。灰皿がどうしたというのだ? アヤセは自問した。灰皿は隣席との中間に、使用する時だけ引き出すよう、テーブルに埋め込んである。今は仕舞われている。いや、このテーブルに着いた昨日から、一度として教授の灰皿が使われたことはなかった。そうだ! 灰皿。教授の部屋にも灰皿はなかった。  アヤセは立ち上がる間もなく咄嗟《とつさ》に腰を捻って、右手を伸ばした。教授が三口目を唇へ持ってゆこうとしていた。アヤセの右手が、教授のその腕を、万力のように掴み押さえた。  アヤセは、静かに言った。「教授、あなたは煙草を吸われないじゃないですか?」 「サ、サムライの情けというのを、掛けてはくれんのか……」  哀願するようなジャストロゥを、アヤセは首を振って、きっぱりと拒否した。 「駄目です、教授。あなたは、裁きを受けねばならない。それがアメリカ。かつて私の父やあなた自身が、自らの血で変わらぬ忠誠を誓った、それが……、それがこの国の民主主義への、我々の義務というものです」  コンラッド長官の副官が、影のように現われ、ジャストロゥの煙草を取り上げた。 「かなりの骨董品ですな」と呟きながら臭いを嗅ぐ。「うちがかれこれ十五年前、フグ毒を主成分に自殺用として開発したものです。大丈夫、半分以上吸わないと死にません。誰か担架を!」  男は教授の両脇に手を差し入れると、軽々と抱き上げて担架に寝かせた。ジャストロゥの瞳は、微かに焦点を失いつつあった。  スタッグスが歩み寄り、彼の両手を堅く握り締めた。「ジョセフ……。僕らは今日まで、無二の親友として支え合って来た。僕は君に、どういう感謝の言葉を捧げればいいのかわからないが……、しかし……」  言葉に詰まったスタッグスは、一瞬表情を強張らせると、呻き声を発した。「ジョセフ! 僕らは、これからも永遠に友人だ!」  ジャストロゥは痺れ始めた唇で、「あ、ありがとう……」と答えるのがやっとだった。  スタッグスは右手の人差し指で、目頭の涙を拭いながら、ジャストロゥを見送った。  アヤセはハタと気付いて、担架を追うと、意識を失い掛けたジャストロゥの胸に、想い出のポートレートを差し入れてやった。アメリカ市民に与えられた崇高なる義務と、誇るべき理想を象徴する一枚の写真を……。     25  国防総省  ディック・モーゼル中佐は、総延長二七キロメートルに及ぶ長大な廊下を抱えるペンタゴンの巨大さを呪いながら、すでに二〇分以上もただひとりの男を捜して駆けずり回っていた。  国務省の捜索を手ぶらで切り上げたモンローは、久し振りの古巣に帰っていた。彼は、その空軍大佐が、どういう人物か全く知らなかったし、たいして興味も無かった。実際、モーゼル中佐が血相を変えて、その男を横取りしようと現われるまで、なぜFBIのエリートが、ボディガードなどというつまらない役回りを務めなければならないのか、アヤセに苦情を言ってやるつもりだったのである。  モーゼルはようやく、陸軍省のガードルームでラムゼイ・ヤング大佐を捕まえることに成功した。 「大佐! ひどいじゃないですか!? この忙しい時に陸軍なんかで油を売っているなんて」  モーゼルは激しい息遣いで、今しも外へ出掛けようとしていた一行を呼び止めた。  ヤング大佐は右手に持ったポケットコンピューターを右のポケットに仕舞いながら、訝《いぶか》しげにモーゼルを顧みた。 「確か……、ジャービス参謀総長の副官を務めている……」 「モーゼルです。ディック・モーゼル。あなたはBチームの要員でしょう? 早く避難して下さい。将軍がご心配なさりますよ」 「それなら、余計な心配だったな。私はこれから、ホワイトハウスへ入らなきゃならんのだ」 「そういう予定外の行動を取られては困ります。ホワイトハウスへは、他のエキスパートを回せばいいでしょう」 「いや、それが……」  ヤングはばつが悪そうな素振りを示すと、モンローに助けを求めた。 「モーゼル君、すまないがね、私は急いで大佐をホワイトハウスへ連れて行かねばならんのだ」 「あなたは?」  モーゼルの、明らかに蔑むような視線に、モンローはカチンと来た。FBIカードを仰々しくかざして、 「大統領特別調査室長のマーカス・モンローだ」と答えた。 「中佐、そっちは参謀総長だか何だか知らんが、こっちは大統領命令だ。邪魔はせんでもらいたいな。行こうか、大佐」  モンローは少々横柄にヤングを促しながら歩き始めた。中佐が焦り出す様子がわかって、いささか愉快だった。 「軍曹、ヤング大佐を逮捕したまえ!」モーゼルは非常手段に訴えた。  モンローは腹立たしげに振り返った。「中佐、言っとくがな、ここは私の古巣なんだ。空軍の奴らに好き勝手にされちゃ、私の顔が立たん。とっとと失せな」  モーゼルは険しい表情で、再びMPの軍曹を促した。「軍曹、銃器を用いて構わん。このFBIを黙らせて、大佐を逮捕しろ!」 「はあ、しかし……」  軍曹は困惑げに立ち上がりながらも、腰のホルスターに手を掛けた。 「中佐、容疑は何だ?」 「抗命罪、命令不服従罪」 「わからんのか!? 私は大統領命令で動いていると言ったはずだ。すべての命令に優先するんだ!」  モンローは苛々しながら、ディスプレイの前に座る伍長に、FBIカードを投げてよこした。「伍長、私のFBIナンバーを照会してみろ? 何と出ている」 「ああ……はい。待って下さい……。ええと。大統領付与特別非常大権第77号保持者。貴下、あるいは貴組織は、本証明書提示者に対し、あらゆる便宜を計り、また絶対的に服従せねばならないことをここに命ずる。合衆国大統領ジョン・スタッグス……」 「そういうことだ、中佐。じゃ行こう」  モンローは勝ち誇ったようにモーゼルを睨むと、伍長が恭しく差し出したFBIカードを尻のポケットに収めて、今度こそ立ち止まるまいと歩き出した。 「待て!」 「な、何を中佐!?」  モーゼルは後ろから軍曹のホルスターに収まっていたコルトのリボルバーを抜いて、両手で握り締めていた。 「鞄持ちさん、おふざけもいいかげんにしなよ。貴様がセフティを外して一発目を撃つ前に、俺のブローニングが火を吹くことになる。ガンの扱いにかけちゃ、こっちはプロなんだからな」  幸いなことに、軍曹のリボルバーは、安全を慮《おもんぱか》って、最初の弾倉は空砲となっていたのだが……、とモンローは後で弁解することになったが、モンローがブローニングを抜いたのは、ようやく四発目が発射された時だった。先頭にいた部下のマルドナードが素早く対応してくれたが、それでも、モンローが左足の太股に、マルドナードとヤングが、それぞれ腹部に一発ずつ喰らう破目になった。修羅場と化したガードルームで、モンローは左足を押さえながら、「畜生! 畜生!」と喚《わめ》き散らした。  モーゼル中佐は十数発喰らってすでに息絶えている。  マルドナードは地面にうずくまっていた。「だから、ケブラーの防弾チョッキは気休めにしかならんと言ったんだ! 早く大佐を、ホ、ホワイトハウスへ……」 「軍曹、医者だ! 大佐、動けるか!? 俺はたとえ死体となっても、あんたをホワイトハウスへ連れてってやるからな!」 「く、くそう! ……」  ヤングは立ち上がろうとしたが無駄だった。右のポケットに手を入れると、ぐしゃぐしゃになったコンピューターが出て来た。「ええい、こいつは一五〇ドルもしたんだ!」 「おかげで助かったじゃないか」  軍曹がスカーフで、ひとまず左足を止血してくれた。「よし、行くぞ!」 「だが、腎臓にダメージを受けた! デ、ディフェンスとしては、明らかに不十分だ」 「ひとつぐらい、ぐたぐた言わんでくれ」  MPの手を借りて、シボレーに乗り込む。伍長が運転を申し込んだが、モンローは意地になってステアリングにしがみ付いた。「大佐、ホワイトハウスへ着くまで、気を失わんでくれよ」 「ああ、あんたもな……」  左足の感覚が無くなりかけていたが、まあアクセルを踏むぶんには支障あるまい。駐車場からゲートまで、モンローはアクセルを踏みっ放しだった。そこいら中の車や、植木を踏み倒してゲートに辿《たど》り着いた時は、ペンタゴンに爆弾を仕掛けて遁走《とんそう》するテロリストと間違われても、弁解のしようのない状況だった。  時速五〇マイルでゲートの鉄柵を吹っ飛ばす。ヘッドライトは砕け、後ろからはMPのハムビーがサイレンを轟かせて追って来る。  もっとも、まだモンローには、震える声で減らず口を叩くだけの余裕は残っていた。 「ふん、ペンタゴンを敵に回すのも、悪くはない!」  ホワイトハウス  アヤセはアイラを呼んでブースに下がった。 「御苦労さん。もう分析ルームへ帰っていいよ」 「私には、不思議なことがあるのよ。教授の、あの『君達は勝利した』という台詞だけど、それほど特異なものとも思えないわ」 「まったくその通り。心理学者にバレるような暗号など使うわけはない。実を言うと、あれはまったくの当てずっぽうだったんだ。あれは教授を問い詰めるための単なる切っ掛けに過ぎないわけだから、別に間違いでも構いはしないんだよ。何しろ教授は、『いや、暗号はそれじゃない』と否定してみせるわけにはいかなかったのだからね」アヤセは白々しく言ってのけた。 「呆れた! もうひとつ。未だに信じられないわ。あの聡明なジャストロゥ教授が、こんな恐ろしいことを企てるなんて……」 「愛のためさ……、ミディア・スタッグスへの」アヤセは悲しげな瞳で慨嘆した。 「そんな!? ……」 「教授はミディア夫人を、密かに愛し続けていた。大統領と夫人の仲が、年々冷え切ってゆくのを見るのは、スタッグスの友人としても辛かったに違いない。二人の仲を元通りにするには、一刻も早くスタッグスを引退させるしかない。一石二鳥という不純な動機でなく、ひとりの男への友情と、ひとりの女への愛情が、狂気の引き金を引かせてしまった……」 「そう……。思いも及ばなかったわ」  アイラは頭《かぶ》りを振って、「どうも、人生修行が足りないみたい」と呟きながらブースを出て行った。  入れ代わりに入って来たのは、マッチョマンさながらの、筋肉の盛り上った海兵隊の大佐だった。 「お呼びですかな? 将軍」 「スローカム大佐、率直に話しましょう」  アヤセはじっとスローカムの瞳を凝視した。「スタッグス大統領と、心中する覚悟はありますか?」 「穏やかじゃありませんな……。軍人としては、ノーです。何しろこの三年間、海兵隊の予算は一方的に削られて来ましたからね。しかしまあ、個人としてはイエスです。三年間、毎日のように顔を合わせて来た。法律上も、信義的にも、今さら彼を見捨てる気にはなれない」 「では、協力してもらえますね?」  スローカムは渋々といった表情で頷いた。 「手兵は何名です?」 「私の任務は、ホワイトハウスを死守することです。レベル3態勢下で、現在二個中隊三百名が上に詰めています」 「海兵隊本部には?」 「せいぜい二個大隊千五百名程度でしょうな。で、何をやるつもりです?」 「叛乱の気配があります。いざとなったら、ペンタゴンとここを、武力制圧しなければならないような事態に陥るかも知れません」 「ここはともかく、ペンタゴンとなると、将軍を二、三人説得しなければならない。まあ、海兵隊は以前フットボール略奪事件で、あなたには借りがありますがね」 「協力してもらえますね?」アヤセは有無を言わさぬ口調だった。 「条件があります。外交上の妥協は受け入れるが、アメリカの敗北はなしです。でなければ、私もお偉いさんを丸め込む自信が持てない」 「いいでしょう」  スローカム大佐が敬礼を捧げてドアを開けた刹那《せつな》、ハンレー大佐の呼び声がMICルームに轟いた。 「見付けた!」  アヤセはブースを飛び出た。戦闘情報統制《CIC》スクリーンに、躍るようにテロップが流れ出た。 ──NATO提供──  エールランド基地ヲ離陸シタ空中早期警戒管制司令機《AWACS》E‐3Bガ、フィンランド領サイマー湖上空ヲ飛行中ノ所属不明機《アンノウン》ヲ発見。  高度二〇フィート、速度マッハ〇・八。レーダー反応、大ナリ……。解析中。 ──国家安全保障局《NSA》提供──  ソビエト軍機多数ガ、フィンランド領空ヲ侵犯中。該当機ヘノ撃墜命令下令。 ──E‐3B提供──  囮《デコイ》! 七六パーセントノ確率デ、アンノウン機ハ囮ト判断セリ。 「将軍、どっちなのだ!?」  ジャービスは損失なしと弾いた。 「恐らくAGM‐86D型デコイです。これは従来の巡航ミサイルに改良を加えたものですが、発射されるとセットされた時間にレーダー反応用のアルミ箔のカーテンを展張し、ごく微弱な電子戦《ECM》を行います」 「スマッツ君、クレムリンを!」  一〇秒を経ずにクレムリンが出た。 「書記長! 今、貴方の防空部隊が追っておられる目標は、囮の可能性があります」  まるで泡を吹くようなスタッグスに、ウイッテ中将は冷静そのものの態度で応じた。 「それは私も考えております。ジャービス将軍、あれは何機のデコイを積んでいるのですか?」 「胴体下にフェライト処理されたものを四機」 「では、一機ずつ潰してゆくしかありませんな……」  ウイッテは両手を広げて、あっけらかんと呟いてみせた。     26  ミグ‐31  ミグ‐25M‐31フォックスハウンド。かれこれ十年前、かつて西側が脅威の制空戦闘機と恐れたミグ‐25フォックスバットを複座型に改良し、下方監視《ルツクダウン》・撃墜能力《シユートダウン》を持たせた巡航ミサイル迎撃用戦闘機である。  もっともウイッテ中将が西側のミリタリーアタッシェに語るところによれば、31型は、言わば実験機で、遠くない将来、引退する運命にあるということである。 「我々はミグ‐25で西側の鼻を明かしてみせたが、F‐14、F‐15の誕生を招いてしまい、その上、ミグ‐25が捕捉不可能な、低空侵入能力という新たな戦術概念を固定する破目になってしまった。そこで慌てて、君らが呼ぶところのフォックスハウンドを開発したわけだが、結局、技術レベルに対して性能を欲張り過ぎ、過渡的なしろものに終わってしまった。過去三十年の開発競争は、まあ一勝二敗というところでしょうな」  レフ・ムーディム中佐とリュードフ・ポポーヴァ中尉の座乗するミグ‐31にしても、来月にはリビアへ売却される運命にあったのである。  ムーディム中佐は、レーザー高度計を睨みながら話を続けた。 「なぜ行かない? たかが三〇分かそこいら、利いたふうな台詞を並べ立てて、少年らよ! 軍へ入り、共産主義革命の達成に尽くしたまえ! と締め括れば、わんさと花束を貰って、いい気分に浸れなくもない」 「いやなんですよ、そういう嘘っぽいというか、白々しいお喋りをするのは。私はパイロットに憧れて軍に入りはしましたがね、今時、少年が畦道で泥だらけのトラクターに出会って感動したなんていう革命美談は通用しやしませんよ」 「しかし、ピオニール少年団での定期講演は、ノルマみたいなものだ。こいつを無事こなしてくれないと、私は君を大尉に推薦できない」 「まあ、しばらく考えさせて下さい。出世して責任が増えるってのも、考えものですからね。そんなことより中佐、私はあなたの腕を疑いはしませんが、この天候の中、レーダーもなしに、高度一〇〇メートルを亜音速でぶっ飛ばそうなんてのは狂気の沙汰ですよ」 「じゃあ、高度を取るか?」 「敵味方識別装置《IFF》はしょっちゅう故障。それどころか、味方のレーダーに映った途端《とたん》、血気に逸る地上部隊からの攻撃を受けるという危険も無視できない。さっさと基地へ帰りましょう」 「早期警戒管制機《SUWACS》のレーダー波は届いているんだろう? なら、少なくとも味方機から攻撃を受ける心配はない」  調子は上々だ。ムーディムは胸の内で呟いた。ポポーヴァはいつも通りひどく冷静だし──本人に言わせると、醒めているだけの虚無主義者ということだが──、二基のツマンスキーエンジンも心地好い唸りを上げている。難を言えば、雪のせいで、殆ど視界が利かないことだが、まあ天気に文句を言ってもしょうがない。それともうひとつ、肝腎のレーダーがいかれていることだ。壊れたのはひと月前だったが、リビアヘ運ばれる寸前まで、修理はお預けということになっている。整備の連中の弁解によると、もうこの機体分のパーツのストックを使い切ってしまったからだそうである。ムーディムにしても、二ヵ月ぐらいなら、どうってことはないと思っていたのだが、思わぬ偶発事件で後悔する破目になってしまった。  しかし、とムーディムは自ら反駁《はんばく》した。こいつは案外いい作戦かも知れない。どうせ敵は、よほど接近しない限りレーダーには映らない。そして敵は、レーダー反応が出る以前に方向を変えて逃げ去ってしまうことだろう。となると、背後から音も立てずに忍び寄るこの戦法は、かなり有効なはずだ。もっとも、我々が飛行しているこのコース上に、敵が出現する可能性となると、赤の広場で、初恋の女と巡り逢う確率より桁《けた》違いに低いであろうことも事実なのだが……。  ムーディムが皮肉げな笑みをヘルメットの中で漏らした瞬間だった。突然の乱気流が機体を叩き付けた。 「わっ」  ポポーヴァが悲鳴を上げると同時に、ムーディムは操縦桿を手前へ引き、スロットルを開放した。ベルトが肩に喰い込む。機体が前方へつんのめると思った次には、今度は急激な迎え角を取り、あわや失速寸前の状態で高度が落ちてゆく。「くそっ。パワーだ!」  エンジンの反応が遅い! 異常に遅いとムーディムは呪ったが、何がしかの木の枝が機体を擦っただけで、どうにか体勢を立て直すことが出来た。ほんの数秒間の悪夢だった。 「中、中佐殿、やっぱり高度を取りましょうや。乱気流に弄《もてあそ》ばれるよりはましだ」 「違う! 違うぞ、これは!」 「何が違うんです!?」 「ただの乱気流じゃない」  ムーディムは機体を左へ傾けると、ゆっくりと横滑りさせた。 「リュードフ、この空域に極端な温度差はないか!?」 「ええと、待って下さいよ……」  ポポーヴァは外部センサーの大気温を読んだ。「中佐、もう一度、乱気流に入って下さい」  ムーディムは操縦桿を握り直すと、悪魔の息吹きを求めて、ゆっくりと機体を元のコースに戻した。僅か数秒後には、再び機体が木の葉のように弄ばれた。ムーディムはあやすように操縦桿を操った。 「周辺よりちょっと高いですね。せめて赤外線ミサイル程度の感知器《シーカー》でもあれば、もっとはっきりするんですが」 「これで十分さ。我々はいま、大型機が巻き起こす後方乱気流《ウインド・シエアー》の真っ直中にいる。後方へ指向性通信を。誰かに中継してもらって、SUWACSに、当機の前方に飛行物体がいるかどうかを訊《き》くんだ!」 「了解!」  ポポーヴァが連絡を取っている間に、ムーディムは相手のパイロットを値踏みした。恐らくコラ半島辺りに上陸して、一旦フィンランド領に抜けてから、囮ミサイルを発射したに違いない。防備の堅いレニングラードを迂回《うかい》し、モスクワを抜くつもりだろう。なかなかいい作戦だ! さすがエースパイロットだけのことはある。ブリーフィングでは確か……レイモンド・スタイガーとか言っていたな。  ビデオ・ディスプレイに、早期警戒管制機《SUWACS》からの無指向性通信が映し出された。 ──グエン・バンコク編隊宛テ──  貴下ノ半径一〇〇キロ以内ニ機影ヲ認メズ。間モナク、代替編隊離陸。 ──ペテルブルグ── 「リュードフ、目標との距離はどの程度だと思う?」 「恐らく五〇〇〇メートルと離れていないですね」 「よし、通信。ワレ、レーダー故障ナレド、前方数キロ以内ニ、大型機ノ存在ヲ認ム。判断請ウ」  返事が届くまで、ムーディムは距離を詰めることにした。スロットル・レバーを押し出す左手が、じっとりと汗ばんだ。 ──グエン・バンコク編隊宛テ──  武器ハ何カ? ──ペテルブルグ── 「リュードフ、丸裸だと言ってやれ」 ──グエン・バンコク編隊宛テ──  慎重ニ追跡セヨ ──ペテルブルグ──  ムーディムは念のため、敵味方識別装置《IFF》を切っておくことにした。指がスイッチに伸びる。 「何ッ!?」瞬間、遅かった。 「どうしました!?」 「地上部隊のバカ共め! IFFを入れやがった!」  B‐1  脅威表示システムがリアルタイムで反応した。パノラミック・フォーマットに電波発信源が位置表示され、周波数が書き加えられる。と同時に、ALQ─二〇二防衛コンピューターが、 [#1字下げ]ミグ‐31、IFF応答波。確度九五パーセント  と、弾《はじ》いた。  マスクを外していたピーターは、左手で慌てて口許を押さえた。 「敵機! 後方。七マイル以内。フォックスハウンドです!」 「なぜ攻撃してこない!? ……。そうか! 兵装がないんだな」  バスが、攻撃手席で叫んだ。「レイモンド! |SS《スロー・スタート》サイドワインダーを発射するぞ!」 「任す!」  ホワイトハウス  発見の報は、クレムリンもホワイトハウスもほぼ同時だった。クレムリンはSUWACSから。ホワイトハウスはNSAから。 ──国家安全保障局《NSA》提供──  ルメイ号発見ノ模様。レニングラード東北方面。 「ハンレー大佐! OTHレーダーに追撃機が映らないか?」  ジャービスがいささか興奮ぎみに尋ねた。 「駄目です! 高度が低過ぎるようです」  クレムリン  クレムリンの反応は、もっと劇的だった。 「グエン・バンコク編隊とはいったい何だ!? たった一機しかおらんじゃないか!? しかもレーダー、武器なしとは、どうなっているんだ!?」  首相のリトビノフが激しく非難した。 「バンコクというのは、九機撃墜の記録を持つ、ベトナム空軍のエースの名であります」  ウイッテ中将は、落ち着いた口調で説明した。「それから、奥のレーダースクリーンを見て頂けばわかりますが、残念ながら我が軍の技術は、緊急時に整然と編隊飛行を組めるほど、優れてはおりません。しかし、あの迎撃機がB‐1を発見できたのは、怪我の功名とも言えます」 「フン! 民需を優先した結果が、このザマだ」  その皮肉が誰に向けられているのかは明らかだったが、アダムはまったく無表情を通した。  ミグ‐31  仄《ほの》青い微かな光が、銀幕の向こうに射していた。 「見つけた! 見つけたぞ」  敵は上昇を始めていた。 「くそッ、こっちも見つかったようだ。リュードフ、SUWACSへ直接ミリ波通信だ。我レ、ガトリング砲ヲ試ス!」  雪がやみかけていた。機影が徐々にはっきりして来る。とその時、何かが機体から落下したように見えた。「何だ!? 核ミサイルか!?」  ムーディムは背面飛行で落下物体を視認した。しかしミグは、アッという間にそれを追い越してしまった。バックミラーに白煙が映る。 「し、信じられない!? 追って来るぞ! フレア弾発射っ。空対空ミサイルだ!」  胴体下から自由落下した後、追撃機が前方に出るまで徐行飛行するこのSSサイドワインダーは、発射前の目標のデータリンクを不要とする空中ロックオン方式を採用していたが、不幸にして、フォックスハウンドが発射した赤外線フレアにロックしてしまった。 「爆発確認!」日頃冷静なポポーヴァの声が、上擦《うわず》っていた。  クレムリン  ウイッテは、「何たる欺瞞《ぎまん》!」と叫んだ。  相互視覚通話《MIC》システムのスクリーンが直ちに結ばれた。 「ジャービス将軍! B‐1がスロースタートの空対空ミサイルを装備しているなんて、我々は聞いていない!」  ジャービスは一瞬しどろもどろに陥った。「い、いや、申し訳ない。たぶん訊《き》かれなかったからだと思うが……」 「他にどんな対空装備を!?」  ジャービスは何事かを請うような目付きでスタッグスを見|遣《や》った。 「答えたまえ、将軍」スタッグスは|ニベ≪ヽヽ≫もなかった。 「その……、パラシュート付きの、小型炸裂弾《パラグレネード》を一〇〇発積んでいる。ドップラーレーダー装備で、付近をミサイルや航空機が通ると、近接《VT》ヒューズよろしく爆発し、劣化ウランの破片をバラ撒く」  ウイッテは口をあんぐりと開いたまま、「信じられない」と呟いた。  ミグ‐31  ムーディムはドロップタンクを切り離し、スロットルをファイティング・ポジションに持ってゆく。目の前の|ヘッドアップ・ディスプレイ《HUD》を起こす。照準サークルが中央に現われた。レーダー誘導が不可能なため、サークルが固定されたままだ。ムーディムは、「ひと昔前の空中戦《ドツグ・フアイト》。俺の性に合っている!」と呟いた。  クレムリン  ウイッテはバンコク編隊の乗員名を、軍情報部《GRU》の情報バンクに問い合わせていた。  レフ・ムーディムと、リュードフ・ポポーヴァの経歴が、ホワイトハウスのそれとそっくりな戦闘情報統制《CIC》スクリーンに映し出された。ウイッテは最後の、肝腎な部分だけを流し読みした。  ムーディム中佐、党への忠誠度B、操縦技量Aランク。ポポーヴァ中尉、忠誠度C、操縦技量Bランク。 「忠誠度は、BとCか……」KGB議長のバリヤが慨嘆《がいたん》した。 「同志、今時、忠誠度Aの評価を与えられるのは、間抜けな迎合主義者か、頭のいい詐欺師ぐらいのものだよ」  クーシキン参謀総長は、冗談抜きで批評したつもりだった。「それより、操縦技量Aランクというのは期待できる」 「そう思います、参謀総長。ムーディム機との直接通信回線を!」  ウイッテは作戦を練っていたが、何も浮かんで来ないことに焦りを憶えていた。  B‐1  スタイガーは、対空戦闘の優先を決断した。 「ピーター、レーダー解除! 皆んなベルトを確かめろ。ドッグ・ファイトに入るぞ!」  ピーターはモノパルス・レーダーを作動させた。パノラミック・フォーマットに敵機が映し出される。 「左翼四〇マイルに一機、スホーイ‐24フェンサーです! 前方六〇マイルにミグ‐29フルクラム編隊」 「右はまだいい。左翼へ囮の|短距離核ミサイル《SRAM》を発射せよ!」  バスが「了解」と答える。 「ピーター、パラグレネード弾の発射を任す!」 「SRAMプログラム完了。発射三、二、一、投下!」 「やけに素早いじゃないか?」 「おいおい、私が作ったんだよ。それよりAGM‐99の発射準備をしたい。キーを用意してくれ!」 「了解。ピーター、視界が限られている。フォックスハウンドの所在を逐一教えてくれ」  スタイガーはスロットルをファイティング・ポジションに押し進めると、不敵に呟いた。「このB‐1が、大型爆撃機でありながら、一本スティックの操縦桿を採用しているわけを教えてやる!」  ミグ‐31 「同志ムーディム、こちらはウイッテ中将だ。敵機に接近し過ぎてはいけない! 敵はパラシュート付きの炸裂弾を装備している」  ムーディムは二三ミリ・ガトリング砲の一連射目を試みていた。命中と思った瞬間、敵は急上昇に移った。ムーディムが「くそッ!」と毒づくのと、ポポーヴァが「更に一発のミサイルが投下!」と叫ぶのが重なった。 「将軍、作戦は!?」ムーディムは自ら呼び掛けた。 「いいかね、敵機より水平線下に降りないことだ。パラシュートは上昇気流に煽られない限り、水平線上には留まれない!」 「了解!」  ムーディムは上昇を開始したが一瞬遅れをとっていた。爆発音と共に、機体が持ち上がる。バラバラという衝撃が、射出シートに伝わった。 「ええい! やられたのは何処だ!?」 「わかりません。燃料は大丈夫なようです」  敵は右へロールを始めていた。  今度はムーディムが「信じられない!」と叫ぶ番だった。 「何て奴だ!? 爆撃機の分際で、戦闘機相手に空中戦を仕掛けようってのか!?」  アッという間に、敵が後方へ去り、目の前を曳光弾が走り去った。  ムーディムはラダーを蹴りながらエアブレーキを開いた。「バカな! シザース戦法を取るなんて!」  ホワイトハウス  ホワイトハウスにも、国家安全保障局《NSA》のエリント衛星や無線傍受基地がキャッチしたミリ波通信が、ライブで届けられていた。  ジャービス将軍が、嬉々とした感情を無理に押し殺しながら、事務的な口調で解説した。 「ローリング・シザースです」  彼は両手の甲と掌を、テーブルの上で交差してみせた。「このように、双方が|ハサミ《シザース》の刃が交わるように交差しながら、テールポジションを奪い合います。ここでは、低速域での飛行特性と、加速性能がものをいいます。どちらかと言うと、より低速で切り返しを行った方が、相手の後ろに着けるわけです。  これまでの戦術概念では、爆撃機の飛行性能自体が低かったために、こういう事態は考慮外でしたが、B‐1Dはフライ・バイ・ワイヤーシステムを採用しております。これは操縦桿や方向舵の動きを電気信号で、各駆動部に伝えるため、より滑らかな動きを可能としました」  ミグ‐31  ムーディム中佐には、そんなことを考えている余裕は無かった。 「中佐、元々ミグは高速戦闘用なんだ。爆撃機と低速域で争っても勝ち目はない」 「黙ってろ、ひよっこは!」  ミグとB‐1は、電動ドリルよろしく、グルグル回転しながら、テールポジション争いを続けていた。ムーディムは二回目を数百メートルの至近距離で、斉射を加えた。数発が当たった。当たったはずだ! しかし、煙りひとつ吐き出さない。「何て頑丈な奴だ! 将軍、B‐1に空中戦が出来るなんて話は聞いてませんよ」  クレムリン  ウイッテは、あまりの歯痒《はがゆ》さに唇を強く噛み過ぎて血を流してしまった。ハンカチで拭った赤い血を見詰めながら、「たった一機の爆撃機に……」と呻いた。 「な、何だ!? 最接近のスホーイはどうした!? 輝点《ブリツプ》が止まったぞ」とクーシキン参謀総長。 「駄目です! 加速中にエンジントラブルを起こした模様です。離脱します」オペレーターが叫ぶ。  ミグ‐31  ムーディムは呼吸が激しくなってゆくのを感じていた。心臓が今にも与圧服から飛び出そうだった。 「応援はまだか!?」 「代替編隊は|短距離核ミサイル《SRAM》の迎撃に向かった」  クレムリン 「目標、複数に分裂しました!」 「何!? ジャービス将軍、あのSRAMはいったい何ですか!? 複数弾頭だなんて」 「くそっ、また、してやられた。SRAMの複数弾頭なんてあるわけはない。君らが追っているのは核ミサイルではない! デコイだ! 反復器《リピーター》を使って同時に一〇個以上の距離盗人《レンジ・ゲート・ステーラー》を出現させている。騙《だま》されるな!」  ミグ‐31  与圧服の中で、アドレナリンが沸騰しそうだった。旋回傾斜計がグルグル回っている。照準サークルが無意味に光っている。  ムーディムは最後の手段に訴えた。バカげているとは思ったが、機の速度を押さえるにはこれしかなかった。「脚を降ろすぞ!」  敵は下降中で加速がついている。機にほんの気持ちばかりブレーキが掛かった。 「しめた!」ミグは、B‐1の真後ろに占位した。  ムーディムは今度こそ! と念じながら、引き金を絞った。ガトリング砲がバラバラと……、手応えがない! ガトリング砲の故障ランプが点滅した。 「ええい! さっきの破片が、給弾装置の何処かに喰い込んだんだ! 畜生……」  B‐1  バスは激しい目眩を感じていた。今にも吐きそうだった。マスクが苦しい。胸ポケットからキーを取り出し、赤いカバーの付いたキーホールに差し込んだ。 「ボス、右翼のスホーイは脱落、前方の編隊はデコイへ向かってゆきました。おかしい!? 後ろの奴が撃って来ない!」 「トラブルか!? 惜しい奴だ。腕はいいのに」  スタイガーは瞬時に決断した。「現空域から離脱する! ピーター、気象レーダーを。密雲を探せ!」 「レイモンド、キーを用意してくれ! 安全装置だけでも解除して置きたい」 「コース変進三〇〇、高度一万五〇〇〇へ!」 「地上基地は?」 「オールクリアー!」  ミグ‐31  ポポーヴァはチェッと舌打ちした。 「連中は頭がいい。こっちのトラブルに気付いた!」  クレムリン  ウイッテはハンカチをクシャクシャに握り締めながら、レーダースクリーンを凝視していた。 「最接近の編隊が敵を射程内に収めるまで、どのくらい掛かる?」 「敵が回避行動をとらないものとして、約、八五秒です!」 「核ミサイルの半分を発射する余裕がある」コマロフ防空軍司令が、冷厳な事実を指摘した。 「私はご免ですよ! そんなことは出来ない!」  ウイッテは憮然《ぶぜん》として拒否した。いったい何を?  ホワイトハウス  その一部始終は、相互視覚通話《MIC》スクリーンを通じて、ホワイトハウスにも届いていた。ロシュトックが、クーシキンの後ろで怒鳴ったウイッテの唇を正確に読んだ。  クジチキン国防相がおもむろに、「では、私がその役を務めよう」と申し出た。  アヤセはハッと気付いた。「彼らは、恐らくカミカゼを命令するつもりです」  スタッグスの顔が苦悩に歪む。  クレムリン  クジチキンは回線が繋《つな》がれたのを確認すると、唇をひと舐《な》めした。 「同志ムーディム、及びポポーヴァ君。私は国防相のウラジミール・クジチキンである。遺憾ながら、応援機の到着が遅れる。その間に生起する危機は推して知るべしだ。ソビエト軍人として、世界平和を守るため、崇高なる義務を全力を挙げ、遂行したまえ。  諸君らの名は、その英雄的行為と共に、永久に人民の心に銘記されるであろう!」  ミグ‐31 「ハッハッハ……」  ポポーヴァは思わず哄笑した。 「気でも狂ったか? リュードフ!」 「いや、中佐。俺の戦友を名乗る奴がわんさと現われて、ピオニールで派手な作り話をして感涙にむせぶ少年少女から抱え切れない程の花束とキスの雨を捧げられるかと思うと、癪《しやく》じゃあないですか!」 「だから、さっさと行けと……、ハッハッハ!」  ムーディムも笑わずにはおれなかった。これで、あの小言を喚くしか能のない古女房とも永遠におさらばだ。反抗期のミハイル、|VOA《ボイス・オブ・アメリカ》を聞きかじって西欧風のデカダンスに浸り切ってる奴も、少しは親父を尊敬し直すに違いない。  ムーディムはスロットルを全開した。  クレムリン  クレムリンは、一瞬凍り付いたような静寂に包まれた。 「あの二人、発狂したのか?」 「だ、大丈夫だと思いますが」 「同志国防相……」 「な、何だ? 中佐」 「私の基地に、記念碑は結構ですから、もちっとまともな機体をよこして下さい」 「約束しよう!」 「それと、娘の……、娘のワレンチーナに、偶《たま》には早起きして学校に行けと」  B‐1  バスはカウントダウンに移った。「正確に、三秒間回してくれ!」  スタイガーはスロットル・レバーの後ろにあるレッドボックスにキーを差し込んだ。 「三、二、一──」 「ブレイク! ミグが突っ込んで来る! 左へブレイク!」 「……一、二、三」  バスの瞳に最期に映ったのは、発射ボタンに触れる自分の指だった。  ホワイトハウス ──統合宇宙作戦本部《CSOC》提供──  巨大爆発ヲ確認。 ──空軍提供──  カーチス・ルメイ号ハ爆発シタモノト判断。  戦闘情報統制《CIC》スクリーンの上半分に、CIA提供によるムーディム中佐とポポーヴァ中尉の経歴が映し出されていた。それは、クレムリンのスクリーンに映し出されているものとまったく同じである。即座に新たな経歴が書き加えられた。華々しい、最期の戦歴だった。 「皮肉なものだな……」  コンラッド長官が嘆じた。「まあしかし、これでパーティはお開きだ」  スタッグスは、スクリーンの向こうのアダムを見詰めていた。頬が煌《きらめ》いたように思えた。錯覚だろうか? 「親愛なる書記長閣下……」  アダムが顔を上げた。間違いなく、頬に伝わるものがあった。スタッグスは信じられなかった。彼はどうして涙を流しているのだろう。たった、たった二人の兵士のために泣いているのだろうか? 「何と、お悔やみを申し上げればよいやら……」 「結構だ!」  アダムはカッと瞳を見開いた。「教えてやるとも! 詮索好きな西側の記者共に。何でも教えてやる。中尉は子供達の憧れの的で、中佐には、夫の無事な帰りを待つ妻と、革命に尽くす父親を誇りにしている娘や息子達がいたと。教えてやるさ! 悪魔の帝国の使者がどんな生活を送り、どんな最期を遂げたか……」  グレチコ外相が右手を振って、回線の遮断を命じた。スクリーンから、映像がフェイドアウトしてゆく。サンディッカー副大統領が、フーと大きな溜息を漏らした。それが、ホワイトハウスの、おおかたの反応を代表したものだった。  危機は去った。去ったかに見えた。     27  ワシントン  モンローは、彼が後に説明した所によると、気の狂《ふ》れたMPのハムビーを引き連れて、ポトマックに掛かる十四番街橋を渡り終えた所だった。 「何て厄日なんだ!」  彼は苦々しく吐き捨てた後、マイクを取った。「アテンション! アテンション・オールハンド! こちらはマーカス・モンロー様だ! ペンタゴンからホワイトハウスへ向かっているが、いかれたMP共に追われている。付近に展開中のステーションはいないか!?」 「こちらステーション1、アイアンマン」 「アイアンマン!? グラントか!? 何処にいる!?」 「ハムビーの七〇ヤード後方だ。気になって来てみりゃあ、このていたらくだ。たまにはいい薬になるだろう」 「この野郎! フォアグラにして喰ってやるからなっ!」 「出来りゃな……」グラントのサディスティックな笑いがラジオから漏れる。 「グ、グラント! 貸し部屋から本部ビルへ移れるようスタッグスに取り入ってやる。さっさと助けろ!」 「悪くないな……」  グラントはGMサタンのバックシートを持ち上げて、インターダイナミックスのミニKG‐99サブマシンガンを取り出した。 「大丈夫ですか? ボス。腹がつっかえていますよ」ステアリングを握るアンタレスが疑わしげに呟いた。 「おいおい、今はこうでも、ベトナムじゃあ、優秀なスナイパーだったんだぞ。  いささか常軌を逸しているが、止むを得まい。ワシントンで軍とFBIがカーチェイス。歴史に残るだろうな……」  グラントはサンルーフを開けて、上半身を乗り出した。一行は十四番街を、農務省横のインデペンデンス通りと交差した。  ハムビーのサイレンが道を開けて、速度は時速七、八十マイルにも達しそうだった。  グラントは照準を後部タイヤに絞った。両方をほぼ同時にパンクさせること。  彼はそう念じて、左から斉射を加えた。パンパンとタイヤが弾ける音がしたが、さすがハムビーのタイヤだけあって、空気を完全に抜くまで、全弾を撃ち尽くさねばならなかった。  ハムビーはコンスティテューション通りに出る前に擱坐《かくざ》してくれた。反撃は無かった。  モンローのシボレーは、Eストリートを左折し、ホワイトハウス西側通用門へ向かっていた。ゲートの分厚い鉄柵はまだ閉じていた。彼は、まったくどうかしていた。右足でブレーキを踏むというごく普通の動作を、すっかり忘れ去っていた。鉄柵を閉じる中央の六つ星の支柱が、ようやく地中に埋まろうとしていた。扉が開く! シボレーは、どうにかスクラップにならずにすんだが、彼はまだ「誰か、停めてくれ!」と喚《わめ》いていた。  ゲートでモンローを待ち受けていたキムは、車内の泡を喰った表情を見て、瞬時に事態を悟った。咄嗟《とつさ》に海兵隊員のM‐16を奪うと、仁王立ちになってタイヤを狙った。シボレーはスピンの挙げ句に、何処かのリムジンに後部をぶつけて、やっと停車してくれた。  戦略空軍司令部  ネブラスカ州オファット空軍基地内の戦略空軍《SAC》地下指揮所には、通常の倍以上の警戒待機要員が詰めていた。もっとも混乱を避けるため、正規の夜勤班以外の要員は、一切の作業への参加を禁じられてはいたが、それでも、通信オペレーターのリチャード・ハリマン少佐にとっては、ひとりでも多くの要員が近くにいてくれることは心強かった。  彼はほんの数秒前、自分のディスプレイ上に突如出現したテロップに戸惑っていた。見たこともない代物だった。彼は、後ろに腰掛ける交代要員のジェフリー・マクミラン少佐の意見を求めた。 「我々は命令が専門で、一方的な通信を受けるなんてことはない。何だろうな」 「ふん……。 [#1字下げ]──最優先。WISC宛テ。〇〇四・T──〇〇七七七──。  発信者は誰だ?」  ハリマンは|警戒システム管制官《WISC》のエディ・ロジャース大佐を呼んだ。 「大佐、ひょっとしてあなたへの極秘メッセージですか?」  ロジャースはディスプレイを覗きこんだ瞬間、「おお、神よ!」と呻いた。ハリマンの左肩に置いた指が、皮膚に喰い込んだ。 「エドワーズ大将のディスプレイに回せ!」そう言うとロジャースは、ガラス張りの戦略空軍司令官室へ駆け昇って行った。 「将軍! |00《ダブル・オー》アクシデントの発生です! 情報供出暗号を打って下さい!」 「バ、バカな!」  ピム・エドワーズ戦略空軍総司令官を含めて、戦闘幕僚《バトル・スタツフ》と呼ばれる綺羅《きら》星の将軍達が一斉に肘掛け椅子から立ち上がった。 「将軍、早く!」  エドワーズは、瞳をパチクリさせながら、アイカメラに右目を突っ込んだ。アイコードの照合に三秒掛かった。ディスプレイに�確認�の文字が踊る。彼は更にもつれる指で、情報供出暗号をキーボードに叩いた。 「発射されたのは四号機です」 「AGM‐99か?」 「もちろんです。このシステムは99型から採用されたんですから」  エドワーズに代わったロジャースは、T‐〇〇七七七を戦略空軍《SAC》の攻撃コンピューターに問い合わせた。応えが返って来るのに、二秒と掛からなかった。 [#1字下げ]──T‐〇〇七七七、戦略攻撃目標 レニングラード──。  エドワーズは震える声で、ペンタゴンへ直通する金色の電話を取った。彼は、悪夢を見ていた。現実の世界で。  ホワイトハウス  オーバルテーブルの反対席で、スマッツ国務次官補が、険しい表情で頭《かぶ》りを振った。「駄目です。クレムリンは出ません」 「スマイリー、意見は?」スタッグスは弱々しく呟いた。 「向こうでも、相当の混乱があるものと判断できます。ひとまず、格式張った外交ルートで、遺憾の意を表する伝達書簡を手交すべきです。クレムリンの反応を慎重に確認してから、こちらのリアクションを見積もった方が……」  ジャクソン国務長官は、戦闘情報統制《CIC》スクリーンが新たに吐き出した情報に、唖然として言葉を失った。 ──戦略空軍《SAC》提供──  AGM‐99ノ発射ヲ確認。目標レニングラード。  誰も、即座には、その情報の意味しているところを理解できなかった。真っ先に反応したのはジャービス将軍だった。彼は肘掛け椅子を蹴倒しながら立ち上がった。 「何たる失態!」と叫んだ後、彼は苦々しく胸の内で呟いた。誤発射警報《EFA》システムの存在を忘れるなんて! 私としたことが……。 「ジャービス君、何が起こったんだ!?」 「閣下、スタイガー大佐は、ミグとの激突直前に、巡航ミサイルを一発発射することに成功したんです! それも、あのダモクレスの剣を」 「将軍、SACはどうやってそれを探知したんだね?」とローマン主席補佐官。 「EFAシステムというのがあります。この99型から導入されたものですが、正規の暗号解読方法以外の手段によって、ミサイルが発射された場合、内蔵のミリ波アンテナが、上空に向けて、自機の製造番号と、目標地点だけを高速度通信するものです。情報は国家安全保障局《NSA》のエリント衛星によって探知され、戦略空軍《SAC》の司令部に届けられます」 「じゃあ、こちらから自爆命令も出せるわけだ」 「とんでもない! このシステムの導入は、我々にとっては妥協の産物だったのです。99型の発見が極めて困難なことから、もし事故やテロに見舞われた場合の警報対策が必要となりました。しかし一方では、それはソビエトにミサイルの所在を明らかにする結果にもなります」 「では、警報即自爆でも構わんじゃないか?」 「そこが妥協点なのです。実は、核兵器のフェイルセイフ・ボックスというのは、かなり柔軟な仕組みになっています。と言うのは、戦略任務部隊は、ホワイトハウスやペンタゴンが壊滅した後も、核兵器を使用できなければならないからです。そういう場合、発射暗号の破壊が必要となります。相当の手間と技術が要りますが、そういう柔軟さも必要なのです」 「あれはもう、二度と所在を報告することはないのかね?」 「|決して《ネバー》……」 「ソビエトはまだ発見していないようだな。スマッツ君、クレムリンは出ないか?」 「駄目です。回線が切れています」 「書記局空中指揮機《クラムシエル》に伝えましょう」  アヤセが提案した。「西独のフランクフルト基地から、モスクワ上空のクラムシェルに航行警報としてAGM‐99の発射を伝えます」 「よろしい。ハンレー君、急いでくれ」  アヤセは不思議に思った。空軍のスクリーンに、OTHレーダーの映像が映っていたが、ルメイ号の消失ポイント付近には、ミグやスホーイが殺到しているにも拘わらず、何の発見の様子もなかった。彼らが交わす通信は、ひとつ残らず国家安全保障局《NSA》が拾って、リアルタイムでの翻訳解読分析がなされているのだ。AGM‐99は、完全なステルスではない。連中はルックダウン・レーダーも装備しているだろうに……。  二分間、待った。映像が完全な輪郭を結ぶ前に、ウイッテ中将が、怒りを込めた調子で喋り始めていた。 「どういうことです!? 納得のゆく説明を頂きたい」  スタッグスはジャービスに、EFAシステムの説明を命じた。 「……というわけで、ウイッテ将軍」  彼は初めて恭しく�将軍�と呼んだ。「レニングラード到着まで、せいぜい四〇分もないだろうが、何としても、そちらで発見してもらわねばならない」 「発見!? ……ああそう。発見ね……」  スクリーンの中のウイッテは、目眩に襲われたかのように、上体を震わせた。「ジャービス将軍、B‐1の撃墜ポイントに、ルックダウン能力を持った戦闘機が四方八方から押し寄せた。なのになぜ、あのダモクレスの剣は、それらのレーダーに発見されなかったのです?」  ジャービスはさすがに、両手を広げて「さあ……」と恍《とぼ》けるような真似は出来なかった。 「あ、あれは、完全ステルスだ。発見は出来ない」  男が、担架に乗せられていた、荒い息使いで、腹部から出血していた。 「マーク」後ろに、キムに支えられたモンローが従っていた。 「ご要望の男を連れて来たぜ!」 「だ、大統領閣下、このような恰好で失礼します。AGM‐99の開発を指揮した、ラムゼイ・ヤングであります」 「放せ!」  モンローはキムの腕を振り解くと、左足を引き摺りながら、ジャービスに歩み寄った。 「将軍、申し訳ないが、あんたの忠実なる副官は死んだ。不名誉な死だ。私がこの手で殺してやった!」  モンローは、ジャービスの胸倉を掴《つか》むと、鋭いボディブローを喰らわせた。「こいつは、死にそこねたフランシスの分だ!」 「な、何を!?」  次はアッパーカット。「そしてこいつは、俺の左足の分!」  しかし、急によろけてしまい、拳は空を切った。後ろへよろめいて、危うくアヤセの腕に抱き止められた。 「場所を弁《わきま》えろ!」 「礼のひと言ぐらいはあっていいだろう?」 「ジェシー、メディカル・ルームへ。大佐、完全ステルスとはどういう意味です?」 「ア、アンダーソン基地で、フェライト剤入りのボンベが盗まれた。それを、99型に塗ったはずです」 「撃墜方法は?」 「だ、駄目だ。撃墜どころか、発見は絶対に不可能だ! 晴れていれば、あるいは」  肉体の防衛本能が、意識を奪おうと機能し始めていた。白衣の男が、注射器を翳《かざ》していた。ヤングは激しく抗《あらが》った。「い、いや! まだ気を失うわけには……」 「さあ、もう君は義務を果たしたんだ。麻酔を打って、一刻も早く治療しよう」 「駄目だ」もう、声にならなかった。「電磁波《EMP》効果を! ……」急激な睡魔が、彼を虜にしてしまった。誰も、ヤングの最後の呟きを聞き取れなかった。 「ジャービス将軍!」  ウイッテが歯を剥《む》いて怒鳴った。「これはベルン協定に対する、重大なる侵犯行為だ!」  ジャービスも負けるわけにはいかなかった。「ウイッテ君、ウリヤーノフスクの西工場で大量生産している物は何だね? 君らもいざという時のフェライトボンベを配備しているではないか!?」 「ジャービス将軍、ボンベが盗まれたなんて報告は聞いとらんぞ!」  今度はスタッグスが満面朱に染めて、ジャービスを責め立てた。「君はこれまで、しばしば私への適切なアドバイスを怠って来た。これは国家に対する、重大なる反逆行為だ!」 「大統領閣下!」  ジャービスは、すっくと立ち上がると、襟を正して毅然とした態度で言った。「空軍の権益を守るのが、私の役目であります。それを反逆行為と言われるのなら仕方ない。私は元々、あなたのような臆病者《チキン》に忠誠を誓った憶えはない! 私が忠誠を捧げるのは、このアメリカ大陸と、自由という理想に対してだけです!」  ジャービスはキッとスタッグスを睨み付けると、これまた毅然とした足取りで席を辞して去った。 「大統領閣下」  リトビノフ首相が冷ややかに口を開いた。「どうやら、ジェネシスグループというのは、貴方の政府に巣喰っているのではなく、政府と軍部自体が、組織そのもののようですな」 「それは、その……」  スタッグスは言葉に窮した。アヤセが落ち着いた口ぶりで間に入った。 「首相閣下、今、貴国防空軍に助言できる人物をここに呼びます。しばらく猶予《ゆうよ》を……」  アヤセはカフを切った。「ハンレー、そこに空軍士官はいないか?」 「空軍調整官のアラン・マクシミリアン中佐がおります!」 「ここへ!」  スクリーンの向こうから、空軍中佐がヘッドセットを外しながら現われた。 「私の隣りへ」中佐はジャストロゥ教授の空席に入った。 「新型巡航ミサイルについて、どの程度の知識をお持ちです?」 「その……、私はミサイル畑の出身でして、ヤング大佐には及びませんが」  彼はまったく戸惑っていたが、スタッグスはそんなことには構わなかった。 「マクシミリアン中佐、たった今、君を空軍参謀総長に任命する。必要な助言と、指揮を執りたまえ」 「そんな無茶な!? 原隊の反感を買いますよ。私の将来はどうなるんです?」 「その前に、空軍全体の将来を考えたまえ。解体となっても、私は責任を持てん」  中佐は半べそをかきそうになりながらも、遂には諦めて、マイクの角度を調節した。 「ウイッテ将軍、晴れていれば、エンジンが発する赤外線による発見も可能でしょうが、しかしそちらの天候では無理でしょう。炭酸ガスレーザー・レーダーによる連続波ドップラー効果を利用した温度乱流計測という方法もありますが、低空を探知するためには空へ上げなければならない。第一、AGM‐99の排気温は、非常に低いのです。我々は日本から供与された温度変化の少ないファインセラミックスで、ベネチアン・ブラインド方式のエンジンを作りました。AGM‐99の写真公表がないのは、そのためです」 「そんなバカな! 日本政府は、戦略兵器への技術供与はしないと宣言していたはずだ」 「将軍、いったい何処で、技術的に戦略、戦術を区別しろと言うのです?」 「では、地形図を下さい。レニングラードへ侵入するコースさえわかれば──」 「無駄です。あれは既存のコースを飛ぶとは限らない。敵レーダー波を探知すると、アトランダムにコース変更を行う、ある種の考えるコンピューターを持っています」 「しかし……」 「ウイッテ将軍、貴方に、発見と撃墜が絶対に不可能だと悟らせるには、そう、こう言うしかない。これなら納得して下さるでしょう」  マクシミリアン中佐は、一瞬逡巡した。そして、ちらとアヤセに一瞥《いちべつ》をくれた。 「AGM‐99巡航ミサイルは、メイド・イン・ジャパンです! 核弾頭を除くすべてが、あのすさまじい技術力で、世界中の精密機械市場を席捲している日本製だと、断言して差し支えないでしょう。翼は、ベルン協定でステルス化が許された部分ですが、日本製の複合材料を使いました。エンジンは、さっきも言った通り、日本製のファインセラミックス。日本はこの分野において、セラミックスと、高温に耐えるフェライトをミックスすることに成功しました。それを更に、三十年間続いたノズルジェット・エンジンから、ブラインド方式に変えたのです。熱も漏れないし、反射率の大きい後部からレーダーを浴びせられても、クラッターはありません。ガリウム砒素素子|電界効果《FET》トランジスターアンプ。小型で高出力の電力を供給することが出来る。そしてガリウム砒素素子を利用したマイクロプロセッサーと、その高密度基板技術」 「バカな! 技術供与が始まったのは、ほんの数年前だったじゃないか!?」 「我々は、レーガン政権が再選された時点で、減衰化計画《デイミニツシヨン・プラン》というのを練り始めました。あの当時、我が国の借金財政がパンクするのは時間の問題でした。次に登場する政権が、民主党であれ共和党であれ、肥大化し過ぎた軍事予算の縮小に動くであろうことは必至だった。そこで我々は、来たるべき時に、少ない予算で、いかに優れ、いかに効率的に兵器を開発するかについて、腐心したのです。そして、早くから日本に着目しました。徹底した省力化、実験を省くためのコンピューターシミュレーション、安上がりに開発するためのモジュール化、等々。協定が成立する以前から、99型の開発は始まっていたのです」 「何てことだ! ……。貴方がたは、遂に、遂にパンドラの箱を開けてしまったのですね……」  ウイッテ中将は、打ち拉《ひし》がれた様子だった。こめかみを押さえて、「もう、おしまいだ!」と呻いた。  スクリーンが消えた。と同時に、戦闘情報統制《CIC》スクリーンに新たな情報が吐き出された。 ──国家安全保障局《NSA》提供──  ニューファウンドランド沖ニ接近中ノブラックジャック爆撃機一機ニ、核攻撃命令、下令。     28  クレムリン  クレムリンは、焦燥の中にあった。 「ウイッテ君、本当に撃墜は出来ないのか?」 「ひとつだけありますが……。二〇キロトン程度の核爆弾をレニングラード周辺で、十数個爆発させ、その爆風で叩き落とす方法です」 「ナンセンスだな」クジチキン国防相が、やんぬるかなと呟いた。 「ニューヨーク! レニングラードの引き換えにニューヨークか!?」  ボルコフ・モスクワ市党第一書記が、テーブルを拳で叩いた。「あの街は堕落した芸術家と、ユダヤ人が支配するだけの腐った林檎ではないか!? 我がソビエトの歴史を語るレニングラードと交換するには、あまりに安っぽい街だ!」 「アメリカに全面報復を仕掛けるか、あるいは降伏を要求すべきだ」  リトビノフ首相が静かに口を開いた。「我々には何の責任もないというのに……」 「降伏とは言うが、アメリカに乗り入って、軍事占領でもするというのかね? アフガンであれだけ手間取ったというのに」グレチコ外相が鋭く突いた。 「例えば、西ドイツの譲渡を要求するというのはどうかね?」 「ナンセンス! 東ドイツでさえ手に負えないというのに。それに、西ドイツが東ブロックに入ってしまえば、東西ドイツの統一に反対する合理的根拠が瓦解してしまうではないか? それこそ、爆弾を抱え込むことになる。スターリン時代の略奪が、即国益になった時代はもう去ったのだよ、同志」 「同志アルヒペンコ、あなたの意見はどうかな?」  レニングラード州党第一書記のビクトル・アルヒペンコは、泣いていた。所構わず、彼は涙を流していた。「レニングラードは、私の全てだ……。最早──」 「同志! 君には、核爆弾の熱に焼かれて息絶える数十、数百万の同志の恨みを代弁する義務もあるのだ! しっかりしたまえ!」 「同志リトビノフ、そういう煽情的なものの言い方は慎みたまえ。たとえ一千万が犠牲になっても、残りの三億が平和に生き残る道を考えるべきだ!」  グレチコは果敢にリトビノフに挑んでいたが、形勢の不利は免れなかった。  ゲオルギー・コルニエンコは、アダムを後ろから見守っていた。彼は議論には加わらず、何かメモを認めているようだった。コルニエンコは、その後ろ姿を何気なく見詰めながら、レニングラード大学にいる娘のことを思った。ひとりの父親として……。  ホワイトハウス ──空軍提供──  ブラックジャック爆撃機、核巡航ミサイル一発を発射。レーダー反応アリ。  目標、ニューヨーク。確度七三パーセント。 「ニューヨーク! ……」  スタッグス、ローマン、スターバック、そしてアヤセが、殆ど同時に呟いた。運命的な響きを伴う呟きだった。  スタッグス大統領は自らインターカムを取り、ペンタゴンのバトル・スタッフに、「断じて迎撃してはならない」と命じた。  スターバック将軍とフリードマン提督は、それぞれの副官に呼ばれて後ろへ下がった。驚いたことに、分析ルームからの螺旋《らせん》階段の陰に、ジャービス将軍がいた。 「単一統合作戦計画《SIOP》を、検討すべき段階だと思う」 「勝てる自信はあるのかね?」フリードマンが冷徹に尋ねた。 「ある。要は、先制攻撃《フアースト・ストライク》を行うことだ」 「海軍としては、態度を保留したいな。我々は報復攻撃が主任務だ」 「敵の潜水艦隊を第一撃で潰す必要がある」 「それはまあ、一般市民が死ぬわけじゃないから、出来ないことじゃないが。向こうの戦略潜水艦は一隻残らず把握しているし。だが問題は、こちらがどの程度まで報復攻撃を受けるかだ。戦略防衛構想《SDI》は先の話だし……」 「かなり防禦できると思う。F‐15に積む|対衛星ミサイル《ASAT》があるし、それから、改良型パトリオット地対空ミサイル、AIM‐120アムラーム空対空ミサイルも有効だ。数はないが、陸軍がSDI用に開発した例のフラッグ・ミサイルもある」 「ASATや空対空ミサイルで!? マッハ二〇以上、秒速一〇キロ近い速度で落ちて来る核ミサイルを墜とせると言うのかね?」 「正確に言えば、相対速度、毎秒三十数キロということになる。まだ実験したことはないが、コンピューターシミュレーションでは、成功している。これも、ガリウム砒素素子のなせる技さ。それに、大気圏内では減速する」  ジャービスは、実戦において、それを否定する百の要素を挙げることが出来たが、止めておいた。 「となると、話は違って来る」フリードマンは、思案ありげに頷いた。 「私は反対だな。極東やヨーロッパを巻き込まないわけにはいかない」 「フランスとイギリスは、結局は同調するさ。アメリカあっての西側だからな」 「いや、やはり駄目だ。私はヨーロッパにおいて、敵の中距離核戦力を潰す自信がない。その上、我々のパーシング㈼は、まったくの役立たずだ。私はあのミサイルが、まともに目標に命中した所を見たことがない。ナチのV‐㈼の方が、まだ正確だ。だいたい、七〇年代の技術で、再突入後、レーダー誘導しようなんてのは無理だったんだ」  スターバックは迷惑げに拒否した。 「極東とヨーロッパは、いざとなれば作戦から除外しよう。言っちゃあ何だが、連中の面倒を見るにも限度がある。それに、これは案外いい考えかも知れない。足手|纏《まと》いのヨーロッパ、貿易侵略に安保ただ乗りの日本」 「そういう孤立《モンロー》主義も悪くはないな」フリードマンが、ニヤリと皮肉げな笑みを零《こぼ》した。 「二人共、冷静に考えろ! 日本もヨーロッパも、我々の重要なマーケットだぞ。そういう短絡的な発想は破滅を招くだけだ」 「しかし、ソビエトが、ニューヨークだけの報復で満足するとも限らない。そうなれば徒《いたずら》にエスカレーションの梯子を昇ってゆくことになる。そっちの方が、犠牲の規模は大きいはずだ」 「じゃあこうしよう。大統領にフットボールを用意させる。その代わり、単一統合作戦計画《SIOP》の発動は、最期の、ギリギリの瞬間まで待ってくれ」 「いいだろう」  クレムリン  クジチキン国防相は、書記長秘書のコルニエンコに呼ばれて後ろのブースに下がった。  伏し目がちのコルニエンコが、一枚のメモを差し出した。書記長ジョーゼフ・アダムの筆跡だった。クジチキンは素早く視線を走らせた。驚きと、興味をそそる文章が連ねてあった。 「本当なのか? この喉頭癌というのは」  コルニエンコは当惑げに首を振った。「知りませんよ。私もたった今、本人から聞かされたんですから。年がら年中、くっついていたわけじゃないですし」 「つまり、アダムは、私がこの危機の回避に同調してくれれば、彼に残された時間内で、私に政権が禅譲されるよう、根回ししてくれるというわけだな?」 「まあ、そういうことでしょうな……」  クジチキンは慎重に思いを巡らせた。リトビノフ首相の反撃の度合い。レニングラードの消滅が、アダムの支配力に及ぼす影響……。不確定要素が多過ぎる。しかし、悪くはない。どの道、リトビノフが政権を手にすれば、私は奴にとって一番の政敵となる。アダムめ! 私を誘惑の対象に選ぶなど、さすがだな。 「ところで」とクジチキンは思案ありげにコルニエンコの瞳を覗き込んだ。 「君はこれからどうするつもりだね?」 「さあ、南米か、アフリカの辺境国で大使でもやりますかね。せめて日本辺りなら、暮らしもましなんですが……」 「そろそろ政治局員候補というのはどうかね?」 「!? ご、御冗談を……。あなただって、自分の子飼いを引き立ててやらなきゃならないでしょう」 「しかし、君の優秀さは誰もが認めるところだ。日本大使というのは、いかにも惜しい。それに、誰かさんがいなくなれば、当然、ピラミッドの頂点を支える多くの石が、自然に抜け落ちる。その辺境大使というのの適役が、数十名と生まれることになるだろう」  コルニエンコは力一杯抱き締めてキスを捧げたい誘惑を押し殺し、「まあ、考えさせて下さい……」と答えた。 「ところで、同志リトビノフですが、本気でしょうか?」 「アダムを追い詰めるための、奴一流の陰気なテクニックさ。開戦など頭にあるものか。もっとも奴は、いざ核戦争となれば、どういうことになるか考えられるような頭は持っとらんだろうが。それより、君はヒロフミ・アヤセに関するKGBの報告は読んだかね?」 「一応。胡散臭《うさんくさ》いのひと言に尽きます。ロシア語を理解するというだけで要注意人物ですよ。私は中国人と付き合ったことがありますがね、東洋人というのは何を考えているのか、まるで察しがつかない。それに、ベトナムでの戦歴や、その後も、国家安全保障局《NSA》の一分析官でありながら、アクション・エージェントとして、しばしば我々の行動を妨害している」 「本来なら、KGBの消去リストの筆頭に名を記すべきだが、私は、彼を信頼していいような気がするんだ。いや、むろん根拠があるわけじゃない。しかし、何かピンと来るところがある」 「あの若僧が、我々に協調を示すと?」  クジチキンは、妙に自信ありげに頷いた。  ホワイトハウス  アヤセはキムに呼ばれてブースに下がった。  キムは、「注文の品物です」と、一丁のピストルを差し出した。 「物は何だ?」 「ベレッタM‐92SB。薬室分を含めて一六連発です」 「いかにも重いなあ。コルトかブローニングはなかったのか?」 「重さはたいして変わりませんよ。愛着は理解しますがね、時代は変わってゆくものです。私はこの通り、ちょっと派手ですが、イングラムのマック‐11を」とキムは左胸を開いて見せた。 「海兵隊員は、エレベーターの出口に二人、分析ルームに二人いるだけですが、すでにスローカム大佐から命令を受けました。いざという時は、協力が得られるでしょう。あと、フットボールを持つ陸軍中佐と、海兵隊少佐が、それぞれベレッタを持っていますが、こちらは大統領に従うでしょう。それと、ジャービス将軍が、スターバック将軍とフリードマン提督を掴まえて、単一統合作戦計画《SIOP》の発動を唆《そそのか》しています」 「SIOP……」  アヤセはベレッタの安全装置を確認して左の脇腹に突っ込みながら、恨めしそうに呟いた。 「引き返すには、神の力が必要だな……」 「あなたが神を持ち出すなんて、ずいぶん弱気じゃないですか」  アヤセは激しい無力感に襲われていた。敗北と挫折。ベトナムで舐《な》めた、あの味と同じものだった。何が七面鳥撃ちの天才なものか。何ひとつ、浮かびはしないじゃないか。最早、選択の余地はないのだろうか? 万事休すか。 「ボス、ミライちゃんのことですが……」 「言うな。何もかも私の責任だ」  ドアが開いて、スタッグスが入って来た。まるで亡者のような顔だった。全身は、失望と困惑と、深い悲しみに鞭打たれ、絶望の極みにあった。 「アヤセ君……」 「閣下、SIOPを発動せざるを得ない状況に立ち至るかも知れません。クレムリンはやがて、レニングラードとニューヨークを交換することの不条理を悟るでしょう。あなたは、複数箇所の報復核攻撃を受け入れる覚悟がおありですか?」 「それで、終末戦争が回避されるなら……」  ドアがノックされた。外へ辞していたキムが、「西ドイツ駐留陸軍が、敵の攻撃を受けています!」と叫んだ。 「何だって!?」  二人は転げるようにブースを飛び出した。 ──NATO提供──  ウォルスブルグヘ展開中ノミサイル一個中隊ガ、交戦中。 「閣下、スペツナズです! あの不正規戦部隊が、我が方の強襲分断《アソールト・ブレーカー》ミサイルを襲撃中であります」 「単なるアクシデントじゃないのかね?」 「当然ですよ。しかし、スペツナズが西ドイツ領内で展開中なのは明白です。一刻も早くクレムリンに警告を発すべきです」スターバックは当然の権利を主張した。 「無視すべきです!」  アヤセは真っ向から反対した。「これ以上、エスカレーションに拍車を掛ける必要はない」 「しかし、手を打たんわけにもいかん。黙視すれば、連中を図に乗らせることになる」 「では、個人的に警告を与えましょう。ミスタースマッツ、クジチキン国防相か、クーシキン参謀総長をパーソナルブースへ!」     29  クレムリン 「先ほど、同志クジチキンが述べたことを、私はずっと考えていたのだ。つまり、東西間の戦略バランスに関して、今ならまだ間に合うと発言した部分だが」  リトビノフ首相は懸命に揺さ振り工作を展開中だった。「もし今後、通常、核戦争のいずれにおいても、永久に我々が勝利することがないとあれば、これは最後のチャンスであると考えるべきではないだろうか。我々にとって都合のいいことに、開戦の責任は百パーセント、アメリカ側にある。このチャンスを逃がすべきではない」 「地上軍の出身者として、私は賛成しかねる」  クーシキン参謀総長は、及び腰に口を開いた。「まず、準備期間が決定的に不足している。戦車師団が一日行動するのに一〇〇〇トン以上の補給物資を必要とするが、これを集めて、前線に送り出す手段がない。兵力集中準備に、せめて一週間は欲しい所だ。  今すぐ攻撃命令を出されても、我々はせいぜい、ブレーメンかウェストファーレン辺りでストップということになりかねない。  第二に、NATO軍が配備している|強襲分断ミサイル・システム《ABMS》は、恐るべき兵器だ。たった一発で、数百個の子爆弾を放り出し、ホーミング弾頭が個別に戦車の薄い上部装甲を破壊する。我々が、このミサイルを一線配備するには、まだ数年は掛かる」 「我が軍には、西側が恐れる遊撃作戦群構想《OMG》があったはずだ」 「あれでも準備は必要なのだ。それに、西側はそれに対応する縦深集中攻撃《デイープ・ストライク》を練り上げている。とにもかくにも、核兵器だけは、警報即発射態勢が確立されたが、地上軍を動かすには、相変わらず人的コストと時間が必要なのだ!」 「しかし、効果的な準備は進んでいるようだな。サボタージュにテロ、秘密作戦など……」  スクリーンに、スペツナズの活躍を伝えるテロップが吐き出された。 「バカな! 誰が命令もなしに攻撃しろと言ったか!? これでは我々の先制第一目標が何であるかを敵に教えてやるようなものではないか」  リトビノフは不敵な笑みを漏らした。特殊部隊の命令系統は政治局へ直結している。これを放って置く手はないのだ。KGB議長のバリヤはうまくやってくれた。最早、全面衝突は時間の問題だ……。  クジチキン国防相は呼ばれてブースに入った。彼にも察しはついていた。スペツナズ内で枢要な地位を占めるKGBが唆したに違いない。バリヤめ、党の軍を私兵に使いよって!  受話器を取った。 「どなたかな? ……」 「国防相閣下、安全保障問題担当補佐官のヒロフミ・アヤセであります。閣下の一部軍隊が、西ドイツ領内に侵入し、我が方の部隊と交戦中であります。直ちに撤退を命じて下さい」 「それは、何かの偶発的な事故だと思うが……」  クジチキンは、アヤセが相互視覚通話《MIC》システムのスクリーンでなく、個人的な回線を利用して、抗議を送って来たことの意味を考えた。「これ以上の突発事故がないよう、配慮しよう。しかし君達にも、あのミサイル部隊を撤退してもらいたいものだな」 「たかが、射程一〇〇キロ少々の、通常弾頭ミサイルじゃありませんか?」 「あれが通常兵器だとでも言うのかね。ワンセットで、一個戦車師団が全滅する」 「閣下、率直な意見を交換したいのですが」 「望むところだ」 「我が方では、貴国の報復攻撃が、ニューヨークに留まらないのではないかとの懸念が高まっております」 「何しろ、あの安っぽい街と、古都レニングラードをトレードオフしようと言うのだからな。私とて、ディスカレーションには同調し難い。君らの方とて、今頃|単一統合作戦計画《SIOP》の発動を検討しているところだろう?」 「貴方は、軍部を抑える自信がおありですか?」  クジチキンは、自虐的な台詞だと思った。 「ないね。いずれにせよ、責任はそちらにあるのだ」 「閣下、貴方はニュークリア・スプリット理論に同調して下さったと聞いております」 「その提唱者が、テログループのリーダーだった」 「それはしかし……。我々の信頼醸成措置《CBM》は成功したはずです。核戦争に立ち至った場合の招来する所については、貴方も十二分に御理解されているはずだ! せめて、可能な限り、エスカレーションにブレーキを掛け続けようではありませんか?」  クジチキンは、胸の内で「政治的算段……」と呟いた。リトビノフを抑えることが出来れば。レニングラードの人的被害を最小限に抑えることが出来れば。アダムが、本当に癌であれば……。可能性のベクトルが全て私に向かっているとしたら、損な賭けではない。  クジチキンは決断した。 「よかろう。私に出来る限りのことはする。アヤセ君、良き友人になりたいものだな」 「そう願っております。国防相閣下」  クジチキンは満足していた。彼にとって、最早レニングラードの歴史など、どうでもよいことだった。  ウイッテ中将は、所々血のにじんだハンカチで額の冷や汗を拭いながら、可能性への挑戦を続けていた。 「中佐、ステルス技術というのは、完璧なものではない。大出力のレーダーを近距離から浴びせ掛ければ、いかにステルス機といえども──」 「大出力、結構です。しかし航空機搭載のレーダーには、パワーに限界がある。地上はカバレッジが狭くなる。なお且つ、最も解像力に優れたミリ波レーダーは、雨や雪の中では著しく性能が低下する」  マクシミリアン中佐の返答は極めて誠意の籠もったものだったが、状況の改善には貢献し得ないようだった。 「次。地上で待ち伏せ、赤外線追尾による歩兵携帯ミサイルで迎え撃つ」 「一見、原始的ですが、盲点と言えます。だが、駄目です。我々は実験したことがあります。我々のスティンガー地対空ミサイルは、全方位攻撃能力《オールアスペクト》を持っていますが、前方からの攻撃はやはり無理でした」 「背後からは?」 「スティンガーの射程はせいぜい六キロ。速度マッハ二。一方巡航ミサイルは、高度六〇メートル以下の超低空を、亜音速で突っ込んで来る。兵士が一五キロものミサイルを始終、肩に担いで──まあ車載型でも同じことですが──且つバッテリーを常に作動させてジャイロを回転させ、肉眼で発見し、アッという間に目前を通り過ぎるミサイルをターゲットスコープに収め、ロックオンし、発射する。これだけの作業を三秒以内で行わないことには、命中の可能性はない」 「あれは、着氷で失速することはないのですか?」 「着氷はしません」 「じゃあ、ヒーターが入るわけだ」 「いえ、ヒーターは赤外線を発するので、この程度の雪では使いません。翼の中に、極めて小型のジャイロが内蔵されています。ベアリングが粗削りで、ジャイロは小刻みな震動を発振します。着氷の危険をセンサーが感知すると、ジャイロが回転を始め、その震動で、氷は片っ端からひび割れ、剥離してゆく仕掛けです」 「…………」  ウイッテは、遂に声も無く、インターカムを放り出した。  リトビノフはスクリーンが消えるのを待って、再度の挑戦を試みた。アダムを追い詰めるには、何度でも、どんな手段でも有効なのだ。 「事ここに至っては、軍に混乱が起きないうちに、前進命令を下して置くべきだと思う」 「ヨーロッパを核の墓場にするだけだ」 「そうかな、同志グレチコ。レニングラードでの地下鉄構内への避難は整然と行われている。たとえそういう事態になっても、シェルターを完備した東側は、より高い確率で人民の生存を確保することが可能なはずだ」 「シェルター……」  ウイッテが恨めしげに呟いた。「地方では有効です。しかし、レニングラードの地下鉄は、シェルターとしては役に立ちません。酸素を供給できないのです」 「フィルターも、空気冷却用のクーラーもあるじゃないか?」 「いいですか、AGM‐99の核弾頭威力は、最大二〇〇キロトン。ヒロシマ型原爆の一五倍以上です。それがレニングラードの上空で爆発するとします。地下鉄そのものは生き残るでしょう。しかし、大爆発の後に襲う猛烈な火災が、酸素を奪ってしまうのです。火災は一日で収まるかも知れないし、一週間続くかも知れない。どの道、線路内まで市民を収容している状況では、レニングラードがいかに運河の都といえども、あの地下鉄シェルターは、いいオーブンになるのが関の山ですよ」 「それ以上に、もし戦火が英仏に拡大するようなことになれば、モクスワとパリで核の応酬という事態を招く。果ては米ソの全面核戦争だ」  グレチコは、リトビノフをキッと見|据《す》えて、反撃の矛先を弱めようとはしなかった。クジチキンは、あるいは自分がリトビノフの敵役を務めるまでもないか、と思った。 「想像を絶する核の冬が地球上を覆い尽くす。放射能に汚染された雪が延々と降り続くのだ。いったい誰が、何処で、どうやって食糧を生産してくれるのだ? 核戦争はオール・オア・ナッシングだ。勝利が可能性の次元に留まる限り、あらゆる努力を払って、戦争を回避すべきだ」 「どうも、君らはニュークリア・スプリット理論に毒されているようだな」  リトビノフは、クジチキンが賛意を示さぬことに不安を感じ始めていた。なぜだ? なぜ私を応援してくれぬのだ? いや、まだ大丈夫だ。レニングラードが消滅しさえすれば、幸運の女神は、私に微笑んでくれるだろう。  アダムは、レニングラードでの懐かしい日々を想い出していた。リュドミラと新婚時代を過ごした、北方の麗しき花、奇跡の都を。二人で通い詰めたエルミタージュ美術館。プーシキンの詩集を抱えて歩いたネフスカヤ寺院の並木道。リュドミラの手を引き、息を切らせながら昇った聖イサク寺院……。リュドミラは去り、私の想い出も、あの典雅な都と共に、灰と化すのだろうか。  ホワイトハウス  マクシミリアン中佐は、考えごとをしていたのか、しばらく戦闘情報統制《CIC》スクリーンを眺めながら口を噤《つぐ》んでいたが、はたと膝を叩いた。 「わかりましたよ」 「何が?」とスタッグス。 「私は、なぜ大佐がステルス化した巡航ミサイルを、いつまでも機内に収めていたのか不思議に思っていたんです。あれの航続距離なら、海岸線から発射して、十分レニングラードに届きますから」 「躊躇《ためら》っていたか、発見の危険を最小限に留めるためではないのかね?」 「それもありますが、重量の増加と、飛行特性の低下による航続距離の短縮が、影響したと思われます。ステルス化するためのフェライトというのは、主成分が黄銅や鉄なのですが、これを、最低二、三ミリの厚さで磁性体のプラスチック層の下の胴体に塗布する必要があります。最低三メートル平方ということになりますが、相当な重量増です。加えて、素人が塗ると、ムラが出て、滑らかな空気の流れが損なわれるのです」 「どの道、撃墜には役立たん」 「いや、待て」とコンラッド長官。「飛行特性が損なわれれば、当然速度も落ちる。発見の可能性が僅かだが上がるんじゃないのか?」 「それはありません。長官。AGM‐99のファンジェット・エンジンは、その分の余裕を計算して設計されております。若干、燃料消費が上がるだけです」 「世の中、そううまくはいかんさ」  ローマン主席補佐官は、いつの間に持って来させたのか、葉巻ケースをテーブルで開いた。 「どうだね? 諸君も。革命前のキューバから輸入したフロル・デ・ファラチだ。ひと箱五〇〇ドルは下らん代物だよ」  コンラッド長官と、サンディッカー副大統領が、一本ずつ受け取った。 「マンションに、もう一〇箱ある。ニューヨークが消え失せる今となっては、私の全財産だ。明日はひとつ、キャピタル・ヒルでバーゲンでもやるとしよう」 「ニューヨーク! 懐かしいねえ」  サンディッカーは火を点けながら、溜息をついた。「昔を想い出すよ。ハーレムで、浄化運動に飛び回っていた頃を」 「私は、選挙運動だとばかり思っていた」 「ハッハッ、嬉しいね、コルウェル。この期に及んでもその毒舌が衰えんとは。だが、惜しいものだ。自由の女神に、メトロポリタン美術館、歌劇場、ソーホー。ニューヨークは、アメリカン・ダイナミズムの象徴だった。そう言えば、ジョン。シンディがニューヨークに住んでいるんじゃなかったか?」  スタッグスは僅かに顎を引いた。 「ハネムーンから帰ったばかりというのに、どうにかならないのか?」 「いや、いいんだ、サム」 「アヤセ君……」  スターバック将軍が肘掛け椅子を隣りのアヤセに向けた。瞳が、涙に濡れていた。「君の娘は、いくつになるんだね?」 「八つです」アヤセも椅子を、ほんの僅か回転させた。 「孫がいるんだ。今年、六つになる」 「存じております」 「ニューヨークの病院で集中治療を受けているんだが、もう三ヵ月しか持たないと宣告されている。私が、大統領に辞表を叩き付けたという噂は知っているだろう。威勢のいい連中が、START㈼に抗議してとか何とか、吹聴しているようだが、本当は違うんだ。私は自分自身の命令で、息子をエージェント・オレンジの汚染地域に送り込んだ。君に弁解するようだが、あの頃、ダイオキシンの人体への影響がこれ程深刻だとは、誰も知りうる立場に無かった。そのツケが、これだ! 私は息子を、この手で殺したようなものだ。せめて孫の最期だけは、看取《みと》ってやろうと思っていたのに……。生涯を、すべてを捧げて忠誠を誓ったというのに!」  無念の呻き声が、スターバックの唇から漏れた。 「将軍、私の娘も、ニューヨークです」 「!? ……それは……」  アヤセは椅子を元に戻して、静かに瞑目した。 「後世の歴史家は、まあ後世が存在すればの話だが、我々のことをどう書くかな」 「自業自得、とでも皮肉るでしょうね」  ミライ! 私を許してくれ。アヤセは、たまらず胸の内で叫んだ。あの時、気付くべきだったのだ。ミッションから帰る度、髪の毛がごっそり抜け落ちて、警告を発してくれたのに、私はそれを神経疲労から来るただの脱毛に過ぎないと、気軽な診断を下してしまった。せめて、パメラと結婚する時、精密検査ぐらい受けるべきだったのだ。  ミライ、私はおまえが、せめて大人になる頃には幸福になれるよう、祈りを込めて�未来�と名付けた。しかし、おまえに幸せな未来など訪れはしない。おまえはいつか、そのうち可愛い天使が、パパを両手で抱き締められるよう、きっと大きな左腕を運んで来てくれるに違いないと言ったが、おまえの左腕は、永遠に生えて来やしないのだ。天使なんか……。ベトナムに天使はいなかったよ。憎悪に満ちた悪魔が、地獄で笑っていただけだ。おまえは、辛い歩行訓練にも耐えて、人並みに歩けるようになったが、しかし、駆けっこで友達を負かせられるのは、永遠に夢の世界でだけだ。  涙が、溢《あふ》れ出そうだった。  ミライ! 無力な父を許してくれ! 私は、おまえひとり守れなかったばかりか、今や、おまえの平穏な死を願っている。予知することのない、恐怖を感じる余裕すら与えない死が、やがておまえに訪れるだろう。おまえは死を、生命の終わりを理解できないかも知れない。だが、その方がいいのだ。今度生まれ変わる時はおまえはきっと五体満足な姿で生を受けるだろう。いや、ミライ。こんな輪廻《リンネ》思想に贖罪《しよくざい》を見出そうとする父を許してくれ。私は弱い男だ。おまえの父となる資格のなかった男だ。もう、来年の夏休みを日本の故郷で過ごすことも出来なくなった……。  アヤセは、母が健在で、ミライと一緒に暮らしていた頃を想い出した。アパートには、戦後父が日本に帰った時、わざわざ買い求めて来た柱時計があって、それが午前四時を打つと、ミライは決まって目を覚まし、自分のベッドを抜け出し、不自由な体を引き摺《ず》ってはアヤセの懐に潜り込んで来るのだった。ひとりは淋しいと泣いた。夜は怖いと小さな体を震わせた。パパの体は暖かいとしがみついて来た。あの娘《こ》は、今でも夜明け前に目を覚ますのだろうか? ひとりで、大丈夫だろうか……。  アヤセは、スクリーンの片隅に映るデジタル時計を見|遣《や》った。涙に数字がにじんで、何も読めなかった。彼は、仕方なく左腕を上げたが、手首には、陽光を遮《さえぎ》ったバンドの後がくっきりと浮かんでいるだけだった。そうだ……。アイラの腕時計と交換したんだ。  今度はポケットから、アイラの古ぼけたロンジンを取り出した。午前二時を指していた。昨日合わせたというのに、まだ磁石の影響が残っているようだった。  彼は、取り敢えずネジを巻き始めた。三回巻いた所で、指が止まった。何かが、心の琴線に触れたような気がした。何だろう……。 「磁石が時計を狂わせた……」  アヤセは心の中で呟いた。「磁石、電磁石、電磁波……」  電磁波《EMP》と呟いた瞬間、僥倖《ぎようこう》がアヤセの脳裡を貫いた。彼は、鼓動の高鳴りを感じながら、喘《あえ》ぐように叫んだ。「E、EMP効果だ!」 「EMP? ……」  スタッグスは怪訝《けげん》そうに反芻《はんすう》したが、スターバックの反応は劇的だった。 「EMP! そうだ、その手が残っていた! 閣下、今すぐ、レニングラードに最も近い戦略潜水艦に、EMP攻撃を命じて下さい!」 「な、なぜ?」スタッグスは状況を理解しかねていた。 「いいですか、閣下。超高空で核爆発が起こると、大量のエックス線やガンマー線が放出され、コンプトン効果で電子雲を形成します。それが、地上に広範囲に亘って電磁波の雷を落とし、ソリッドステート型の、つまり、何と言うか、とにかくラッチアップ現象を起こしてコンピューターをショートさせるんです!」 「なぜ今まで気付かなかった? プライス中佐、フットボールをここへ! スマッツ、クレムリンを呼び出せ!」 「閣下、効果は疑問です」  マクシミリアン中佐が、逸《はや》るスタッグスを制した。 「EMP効果の利用は、最後の手段として私も考えましたが、恐らく無駄です。AGM‐99に多用されているガリウム砒素素子は、EMP効果にある程度の耐性を持っております。信号伝達はフライ・バイ・ライト、つまり光通信。加えてSS‐Nアクリロニトロル系の電磁波《EMP》遮蔽《しやへい》特殊カーテンを胴体に内張りしてあります。これは導伝性に優れると同時に、片っ端から放電してゆくという特性を持っております。すべて、日本からの技術移転によるものですが」 「実験はしたかね?」 「はい、ほぼ完璧でした」 「ほぼ?」 「半導体そのものの防禦技術は、まだ完全とは言えませんし、EMP波の電圧の立ち上がりは、一〇から二〇ナノ秒と、雷より遥かに速いのです。それに、内部回路を完全に外部から隔離することも不可能ですから」 「待てよ……」  コンラッド長官が眉根を押さえた。「君はさっき、フェライトの主成分は磁性体や鉄だと言ったね。鉄は強磁性の導体だ。EMP効果が増幅されるようなことはないのかね?」 「それは、あります。我々がステルス技術をフェライトだけに頼らない理由のひとつがそれです。しかし、否定要因がもうひとつあります。雲や雪、つまり水分によって、電磁波《EMP》が地上に届くまで、相当吸収されてしまうことです」 「閣下、命令を早く願います。戦略潜水艦が核ミサイルを発射するまで、通常一五分を要します」とフリードマン提督。 「急げば?」 「五分」 「ソビエトが自軍の核を使うことは出来ないのか?」 「駄目です。プログラムの変更に時間が掛かります。海軍の展開スクリーンをご覧下さい。あのノルウェー海に潜んでいる我がオハイオ級原潜は、EMP攻撃の任務を与えられております。それから、ニューファウンドランド沖に確認されている、ソビエトのデルタ㈿も恐らくそうです」 「なぜ黙っていた?」 「AGM‐99のEMP防禦は、完全だと聞いておりました。それに、ソビエトが受け入れるか疑問です」  クレムリンが出た。  マクシミリアン中佐は慎重に言葉を選びながら、「自信はないが、賭けてみるだけの価値はあるかも知れない」と付け加えた。  ウイッテ中将の反応は、意外なものだった。 「考えましたよ、EMP効果の利用は……。だがそのために、レニングラードからモスクワに掛けて、あらゆる通信、発電、交通、医療、その他諸々の文明の機器が壊死《えし》を余儀なくされる」 「レニングラードが助かることを思えば、安いものじゃありませんか!? こちらは、ニューヨーク上空でのEMP攻撃を受け入れる用意があります」スタッグスは自ら呼び掛けた。 「一分間、猶予を下さい」  クレムリン 「私は反対する」  スクリーンが消えた途端《とたん》、クーシキン参謀総長が拒否を宣言した。「向こうのEMP防禦技術は、我々より遥かに進んでいる。事後の優劣は目に見えている。これは我が軍の敗北を意味する」 「こういうのはどうだ? ニューヨークではなく、ドーバー海峡上空でのEMP攻撃を突き付ければ」  クジチキンはEMP効果に興味を憶えた。 「それは、ひとつの解決策と言えます」  ウイッテ空軍中将は思慮深く答えた。「西側とて、EMP効果に完全な解決策を見出したわけではありません。同程度の被害を甘受するとしたら、より旧式の兵器、──つまり半導体製品を使っていないという意味ですが──それを大量に保有し、またより兵力サイズの大きい我が軍の方が有利であると言えます」 「同志リトビノフ、反対はないかな?」クジチキンはリトビノフに同意を求めた。 「私は責任を負いかねるが、同志アダムが決断してくれれば、特に反対はない」  アダムは胸の内で、不敵な笑みを漏らした。つまり、責任は全て、私が負えというわけか。何処まで行っても、悪知恵の働く男だ。 「私は異存はない。ホワイトハウスを呼びたまえ」 「原発を緊急停止させなきゃあ、冷却水のポンプが停まって、メルトダウンを起こすぞ……」ウイッテが呟いた。  ホワイトハウス  ナタリー・プライス陸軍中佐は、オーバルテーブルに近付いて、地面に落とすことを瞬時たりとも許されないという意味から�フットボール�と俗称されるアタッシュケースをスタッグスの目の前に置いた。その中には、単一統合作戦計画《SIOP》の具体的オプションと、核兵器発射権限について述べた大統領決定要綱《デシジヨン・ブツク》、そして最も重要な大統領核発射暗号《ゴールド・コード》が収められている。  彼女は、自分の究極的任務がこの瞬間だけで終わってくれることをひたすら願いながら、ゴールド・コードだけをテーブルに残して、アタッシュケースを閉じた。ただし、キーは掛けずに。  クレムリンが出た。 「大統領閣下、ニューヨークでは駄目です。ドーバー海峡上空を要求します」  喋《しやべ》ったのは書記長のアダム自身だった。唯一反論の権利を持つスタッグスは、即座に了解した。 「直ちに、ミサイル発射を命じます。そちらも任意に」  スクリーンが跡切れた。 「閣下、事実上、NATO軍は、全滅を余儀なくされます」  スターバックが一応軍人としての反論を唱えた。 「君の軍人としての反論は記憶しておこう。多くの人命が損なわれることを思えば、選択の余地なしだ」  スタッグスはナタリーの説明を聞きながら、決然たる態度でスターバックの忠告を退けた。     30  ノルウェー沖  ノルウェー海、深度一五〇メートルを潜行中だったオハイオ級原潜二番艦ミシガン(一万八〇〇〇トン)に、命令が発せられた。  艦内では、整然と所定の行動が取られた。まず戦務長のジミー・ブラウン中佐によって暗号が解読され、次に艦長のハリー・パッカード大佐が「戦闘配置」を命令。すでに、権限者四名の士官は、キーを首からぶら下げていた。 「一番ミサイルを三号指令で発射する」 「それだと、被害はレニングラードに集中します。モスクワはいいんでしょうか?」  発射管制士官のブライアン・マッキー大尉が疑義を挟んだ。 「私の任務要綱に違反するが」と艦長は発射命令に付随して届けられた指令書を見せた。 「こちらの巡航ミサイルが!?」 「艦長、よろしいですか?」  代理発射管制士官のウィリアム・ジンメル大尉が、自分に課せられた任務の遂行を申し出た。「発射命令、及び艦長指令を検証しました。疑義はありません。すべての命令が正確妥当なものであると判断します」 「よろしい」 「異議なし」と航海長のピート・リー中佐。  続いてブラウン戦務長が「異議なし」  マッキー大尉が「同意します」  インターカムを通じて、兵器管制士官のロルフ・バーンズ少佐が「急ぎましょうや」と間の抜けた声で賛成した。 「深度二〇、水平航行に移ります!」パイロットが報告した。 「ロルフ、準備は?」 「指令コード挿入終了。現在チューブを加圧中」 「よろしい。キーを出せ」  マッキー大尉が発射管制室へ降りてゆくまで、しばらく待たねばならなかった。 「我々は、意思と決断の組織だ」パッカードは鷹揚《おうよう》に呟いた。 「これが最後であることを祈りたいですな」とリー。 「艦長、オールレディ!」バーンズが報告した。 「一番ハッチ開け! 投票を行う!」  艦長のパッカード大佐、兵器管制士官のバーンズ少佐が、発令所と発射管制室で、それぞれ操作パネルにキーを差し込んだ。航海長のリー中佐は、パッカードから数メートル離れたパネルで、ひと足先にキーを回し、二人の発射キーを作動させるためのレバーに指を掛けた。  発射管制士官のマッキー大尉も、バーンズの反対側で、|引き金《トリガー》と呼ばれる大きなグリップを、パネルから取り出した。 �四人一組《フオーマン》ルール�による投票である。 「間隔は最大一・五秒です。これを過ぎると、回路は遮断されます」とジンメル大尉。 「規定通り、一秒間隔で行う。ジミー、秒読みを始めてくれ」 「了解」  ブラウン戦務長は、インターカムを持ちながら、パネルのデジタル表示を睨んだ。 「一〇、九、八、七、六、五、四、三、二、一、〇!」  まずリー航海長がレバーを回す。 「一!」  パッカード艦長とバーンズ少佐が、作動可能のブルーのランプを確認してキーを九〇度、同時に右へ回す。 「二!」  マッキー大尉は胸にグリップを抱き寄せたまま、祈るような仕草でトリガーを引いた。 「三、四、五、六、七、八!」すべての回路が五秒間通電した。  発射チューブに収められた射程五〇〇〇カイリ、四七五キロトンの爆発威力を持つ八個の核弾頭を装備したトライデント㈼、D‐5ミサイルの尾部ロケットが点火された。噴射熱がチューブ底の海水を急激に沸騰させ、その蒸気圧がミサイルを防護カバーを破って海中へと押し出すのである。  そして、矢は放たれた。  ホワイトハウス  ミシガン艦内で緊張した作業が続けられていた頃、オーバルテーブルも各国首脳へのメッセージ伝達に忙殺されていた。 「ええと、スターバック将軍はブリュッセルのNATO本部へ。スマイリーはダウニング街、アヤセ君はドイツ語も喋れたな?」 「トラベル用語程度でして」アヤセは謙遜して答えた。 「構わんさ。ドイツ首相府へ頼む。エリゼ宮は、私が出ないと治まらんだろうな。英語は喋らずとも、理解はするだろう。全員、改めて合衆国大統領が正式謝罪すると伝えてくれ。原子力発電所の緊急停止と、飛行中の航空機への警報を忘れんように」  レニングラード  レニングラードの街並みを一望する聖イサク寺院の高さ一〇〇メートルの金色のドームの展望台に辿り着いたレオニード・ケレンスキー上級大将は、通信兵から差し出された受話器を掴《つか》んだまま、激しく息をついた。 「こ、こんなことなら、無理をしてでもヘリで降ろしてもらうんだった……。ここの階段は、無限に続くのかと思ったよ。こ、こちらレニングラード軍管区司令のケレンスキー上級大将だ。そちらは誰か!?」 「レオニード、クーシキンだ。間もなく、大量の電磁波がレニングラードを襲う」 「EMP効果ですか!? 最後の手段というわけですな。しかし、私はどうやってあなたと連絡を取ればいいのです?」 「私は海軍総司令官のアムール提督です。今、ネバ川河口を、潜水艦一隻が遡っている最中です。そちらに何か発光源はありますか?」 「今、サーチライトを上げさせる」 「あれは駄目だ。どうせ発電機がやられる。懐中電灯で結構です。もし墜落を確認できたら、モールス信号を岸方向へ送って下さい。潜望鏡で発見して、モスクワへ中継します」 「了解、了解」 ──統合宇宙作戦本部《CSOC》提供──  トライデント㈼ミサイルノ発射ヲ確認。  SS‐20発射ヲ確認。 「目標上空到達まで、三分ほど掛かります」  フリードマン提督が説明した。「通常は、高度一〇〇〇キロまで上昇しますが、これは三〇〇キロまで上昇すると、ポストブーストを経ずに中間段階《ミツド》に移り、コーンが分離して弾頭が姿を現わします。すでに加速は終えておりますので、レーダーチャフと、赤外線|欺瞞《ぎまん》用のエアロゾルを撒きながら慣性飛行します。そして最終段階《ターミナル》。弾頭は、二個ずつ、四方向へバスから放出されます。本当は、半数の四発がモスクワ上空へ向かうのですが、この場合、ペアを組んで数キロ間隔で四角形を作りながら、白海東岸のアルハンゲリスク上空へ向かいます。四発が同時に爆発し、ペアの片方は、爆発に巻き込まれて消滅します」  戦闘情報統制《CIC》スクリーンに、D‐5弾頭が辿《たど》る放物線がゆるやかに描き出された。 「あるいは、影響を受けそうな部分があります」  マクシミリアン中佐がおもむろに口を開いた。「弾頭との接触ユニットは、従来からのシリコン基板が用いられております。これだけは純粋なメイド・イン・USAです。一応シールドはされていますが……」 「中佐、私はさっきも疑問に思ったのだが、ガリウム砒素素子が多用されていると言ったね? なぜ、全てを性能のいいガリウム砒素素子に交換しない?」 「コンラッド長官。理由は主に二つあります。ひとつは、この際あなたにも十二分に理解して頂きたいのですが……」  核爆発が起こった。いくつかの衛星が、機能を停止した。 「第一に、あのガリウム砒素素子は、実は技術移転を受けたものではなく、汎性品と偽って日本から直接輸入したものです。そして困ったことに日本政府は、ガリウム砒素素子のこの方面におけるあまりの利用価値に当惑し、輸出を渋っております。何しろ、日本からガリウム砒素素子や、それをベースにしたHEMT素子などを大量輸入できれば、戦略、戦術概念に、画期的な革命をもたらすことになりますから」 「それなのだよ。カリフォルニア産業界を代表して言わせてもらうが、そもそもガリウム砒素素子を最初に開発したのは、我が国だったはずだ。なぜ、メイド・イン・USAではいかんのだ?」 「問題はそこです。我が国の産業界は、残念ながら素子《エレメント》の大量生産技術に欠けております。その最大の原因は、品質管理という概念を経営者がまるで持っていないからです」 「耳の痛い話だな」 「恨めしい雪だな……。モスクワの連中は、なぜ消雪措置を取らなかったのだ?」 「あのドライアイスや沃化銀の種物質を事前に撒いて、予《あらかじ》め洗い浚《ざら》い雪を降らせて雲を消す作戦ですか? あれは最低四時間前に行う必要があります。それにモスクワの連中としては、革命記念日用の奴を使いたくはなかったのでしょう」  副官のニコライ・ペタンスキー少佐が、嘲けるように答えた。  と、突然、東の空が眩しく輝いた。まるで真夏の太陽が、二、三個集団で出現したような煌きだった。 「あれが人工太陽なら、我が国ももう少しは豊かになろうというのだがな」 「無線器、故障しました」  ケレンスキーは双眼鏡を構えた。 「しかし、皮肉だとは思わんか? 見えない爆撃機に見えないミサイル。発見するには、昔ながらの人間の双つの眼に頼るしかないとくる。一方では、たった一発の核で、営々と築いて来た都市機能を、いっさい外観を損なわずに瞬時にして麻痺させることが出来るというのに……。貴様はアインシュタインを知っておるか?」 「はあ、物理の歴史で習った程度ですが」 「わしは米国に駐在していた頃、一度だけ遠目に見掛けたことがある。彼は言っておったよ。人間は第三次世界大戦を闘うことは出来るが、その次は棍棒で殴り合う破目になるだろうとな。兵器が発達し過ぎて、随所に壮大な矛盾が発生した。冗談でなく、そのうち我々は、最新鋭の監視機器が見守る中、石器時代さながらに、棍棒で戦争を繰り広げる、そういう時代が来るやも知れん。敵のミサイルは、何処から来るんだろうな?」 「最終侵入はオールアスペクトですから、三百六十度警戒するしかありませんね。しかし最後はわかっております。都市攻撃の最適高度である一〇〇〇メートルにポップアップ上昇をかけるはずです」 「その瞬間を狙い撃ち出来んのか?」 「いえ、無理です。提供された情報では、直前にアフターバーナーに点火し、翼を切り離してマッハ三に加速するそうです。点火から爆発までせいぜい五秒。とても間に合いません」 「巡航ミサイルの分際でアフターバーナーか。まあ、案ずることはあるまい、九〇〇日に及ぶナチの封鎖に耐えた街だ。必ず生き残るとも、必ずな……」  一分、二分。まんじりともせず、時が過ぎてゆく。ペタンスキー少佐は、西側製のデジタル腕時計を何度か見遣った。すでに止まっているというのに、彼は何度も覗き込んだ。 「この分じゃ、給湯、暖房システムもいかれて、凍死者続出という事態に陥りますよ」 「なに、凶と出れば、焼死者続出だ」  ペタンスキーはエルミタージュ美術館からネバ川を挟んだ対岸のペトロパーブロスク要塞を眺望した。淡雪の中に、一二二メートルの教会塔が霞んでいた。頂きに輝く天使の十字架は、彼の何よりの誇りだった。鳶《とび》職人だった彼の父は、長年、あの足場ひとつない尖鋭的な塔の補修に携わったことで、レーニン勲章を授与されていたのである。  あの、親父以外触れたことのない十字架が消え失せるなんて。ペタンスキーの脳裡に、十字架に辿《たど》り着くまでの苦労と恐怖を、ウオッカを傾けながら熱っぽく語ってくれた生前の父の顔がよぎった。アメリカめ! たとえこの身が骨の髄まで焼き尽くされようと、この恨みは必ず晴らしてやる! ペタンスキーが胸の内で唸るように呟いた瞬間、 「あそこだッ!」と通信兵が叫んだ。 「モスクワ駅上空です!」 「回転しているぞ!」  まるで十字架だった。天空に舞い上がった十字架が、重力に抗し切れずに、引き戻されている哀れな姿だった。 「失速です! ポップアップした後、起爆装置が働かず、燃料切れで失速したんですよ。きっと」  ネフスカヤ通りの向こうへ墜落してゆく。 「ネフスカヤ寺院に落下する模様です!」  数瞬後、小さな火の手が上がり、すぐ消えた。核爆発は、なかった。  AGM‐99、ダモクレスの剣は、チャイコフスキーの墓石に激突して、使命を果たすことなく、遂に息絶えたのだった。  ホワイトハウス  EMP効果の後、猛烈な磁気嵐がヨーロッパを覆っていた。 「ヨーロッパと連絡を取る方法はないのかね?」  スタッグスは苛立たしげに尋ねた。 「もうしばらくすれば相互視覚通話《MIC》システムだけは回復するでしょう。それから、NATO軍司令部には、防禦シールドを施した通信システムがあります。あと五分間、レニングラードでの核爆発が探知されなければ、作戦は成功と判断していいでしょう」  スターバック将軍はかなり自信ありげだった。  アヤセは、空軍スクリーンを凝視していた。ニューヨークへ接近中の巡航ミサイルが、あれを墜とさない限りは、すべては御破算なのだ。  クレムリン  クレムリンは、奇妙な静けさの中にあった。  リトビノフは再度のチャンスを窺い、クジチキンは空気の流れを慎重に計っていた。そしてアダムは、ひたすら疲労と闘っていた。 「大丈夫ですか? 同志」コルニエンコが背後からそっと囁いた。 「君はもう、何処かへ転職したかと思ったよ……」 「とんでもない! 私は何処までもあなたと一緒ですよ」  嘘だとわかっていてもありがたかった。  スクリーンの向こうで、誰かが叫んだ。 「モールスを確認した模様です! 超長波通信が送られて来ます!」 「何と言っている!?」アムール提督が怒鳴り返す。 「敵、ミサイルノ墜落ヲ、確認。我ガ、レニングラードハ、不死身ナリ! ケレンスキー上級大将」  溜息と、どよめきと、「万歳《ウラー》!」の歓声が、瞬時にクレムリンを包み込んだ。  興奮したコルニエンコがアダムの肩を叩く。感極まったアルヒペンコ・レニングラード州党第一書記は、全身を震わせながら、「そうとも! レニングラードは不死身だ!」と叫んだ。  クジチキンは自分の勝利を確認し、リトビノフは苦虫を噛み潰《つぶ》したような表情を示す。 「同志バリヤ、レニングラードとの通信が跡絶えたことで、疑心暗鬼に陥った連中が、早まった行動に出はしないだろうね? 核ミサイルの発射ボタンは、KGBが握っている」 「さっきの西ドイツ領内でのフライングを言っているのなら、責任は私よりも君にあるのだよ。スペツナズは、そもそもGRUの管理下にある」  バリヤめ、さっそくの取り繕《つくろ》いか……。貴様は駐日大使が分相応だ。  クジチキンは、大いに満足だった。  ホワイトハウス 「どうやら、国家安全保障局《NSA》の無線傍受基地も影響を受けているようです。今、大西洋上にあるエリント衛星が接近中です」 「早期警戒衛星は健在だ。爆発がないのだから、作戦は成功と見ていいんじゃないかね? 将軍」 「同感です、副大統領閣下」 「相互視覚通話《MIC》システム、回復します!」  スクリーンに映像が浮かび上がった。ひどい雨が縦横に降っていた。フィルターが掛けられ、いく分見やすくはなったが、テーブルの向こうの表情は、まだぼやけていた。ただ、アダムが首を項垂《うなだ》れ、ひどく疲れた様子で椅子に深々と体を沈めていることだけは窺《うかが》うことが出来た。  グレチコ外相が、何事かを必死に喋っていた。跡切れ跡切れに英語が聞こえて来る。 「閣下……、成功……、成功です。作戦は成功です!」  スターバックがインターカムを取るなり、「撃墜せよ! ニューヨークへ接近中の敵巡航ミサイルを直ちに撃墜せよ!」と命じた。 「AGM‐99の墜落を確認しました。レニングラードは救われ、核の応酬という最悪の事態は回避されたのです!」 「あ……」  スタッグスは、返すべき言葉を失っていた。「何と……、謝罪すべきか……。とにかく、この極めて遺憾な事件に、貴国政府が誠意と、忍耐をもって対処されたことを、合衆国政府及びアメリカ市民を代表して、深く感謝するものであります。アダム書記長閣下……、閣下? ……」  アダムはまるで微動だにしなかった。後ろのコルニエンコが、耳元で囁いた。  アダムは、ほんの僅かばかり、顔を上げた。 「書記長閣下……、貴国が払われた莫大なる犠牲に対し、心からのお悔やみを申し上げます」 「あ、ああ……」  アダムは呂律《ろれつ》が回らなかった。「お互い、多くのものを失いましたな……。し、しかし、守るべきものは守った。そう、守るべきもの、何よりも、平和だ!」 「閣下、改めて、謝罪を申し出たいと思います。事後の収拾に当たりませんと……」 「そうですな。本日は、ひとまずこれで……」 「個人的に、書記長、並びに党書記の皆様の御健康と御活躍を、心から祈るしだいであります。さようなら。さようなら……」  スクリーンから映像がフェイドアウトしてゆく。戦闘情報統制《CIC》スクリーンに、新たな、そして最後のテロップが映し出された。 ──空軍提供──  敵巡航ミサイルヲ撃墜。ブラックジャック爆撃機ハ、コースヲ変更、帰還ニ着イタ模様。  スタッグスは、友を失い、国民の信頼を失い、すべてを失った。平和と引き換えに、彼は、あらゆる犠牲を払い、後悔と、罪過を得たのだった。 「ジョン……。君は誇りある義務を見事に遂行したのだよ。胸を張りたまえ」  ローマンが、打ち拉《ひし》がれたスタッグスの肩を抱いた。 「そうだな……」  スタッグスは虚ろに呟いた。「さっそく今日の昼食に、議会関係者を招いて、START㈼批准の説得工作を続けることにしよう……」  長く辛苦な闘いは終わり、また新たな闘いが始まるのである。  クレムリン  アダムは、コルニエンコに支えられて立ち上がった。肩を貸そうとするコルニエンコを留めて、彼はひとりでエレベーターへと歩いた。スーベル中佐が待っていた。 「このまま、お帰りになりますか?」 「いや、部屋で仮眠を取る」  エレベーターに入る。ドアが閉まると、アダムは壁に寄り掛かった。 「中佐……。私と一緒にクリミア辺りにでも、療養に行かんかね? 私は、あまり長くは付き合えんがね。君のことは、コルニエンコや同志クジチキンに頼んである。心配はいらん。家族も一緒でいい……。子供の名は何と言ったかな?」 「ありふれた名ですが、ミハイルとリュドミラであります」 「リュドミラ……。そう、いい名だ。きっといい娘に育つだろう」  ドアが開いた。アダムはスーベルを従えて歩き出した。最初弱々しく、やがて力強く。彼もまた、残された時間を終わりなき闘いに費やすべく、新たな戦場へと帰ってゆくのだった。 エピローグ  アヤセは、アイラと共に地上へ出た。  誰もいないワインレッドの絨毯《じゆうたん》の廊下を、正面玄関へと歩いた。やがて窓辺に佇むと、朝陽に映えるワシントン・モニュメントがあった。二人は、しばらく黙って、それを眺めた。アヤセは、アイラの肩をそっと抱き寄せる。 「この街は、味も素っ気もない、ただの政治マシーンだと思っていたけど、文明の有り難さを実感しちゃうわね」 「うん、すべては君のおかげだ……」 「あら、私何か、お役に立てたかしら? 記憶にないけど」 「君は、以下の三点において、国家の安全と世界平和の維持に貢献してくれた」  アヤセは、いささかしゃちほこ張った調子で喋った。 「まず、モンローが、頭文字の情報を持って来た時だ。例のSという」 「ああ、結局でたらめだったわね」 「いや、本当だったのさ。あの時君は、『|国 務 長 官《セクレタリー・オブ・ステイツ》』と答えただろう? SはSでも、名前の頭文字ではなく、�長官《セクレタリー》�、|国 防 長 官《セクレタリー・オブ・デイフエンス》のSだったのさ。蓋《ふた》を開けてしまえば、我々の単純な思い込みだったというわけだがね……。第二点は、この君の時計」  アヤセは、アイラのロンジンを取り出した。 「この狂った時計が、EMP効果の利用を示唆してくれた。そして最後に、何より君は、僕のそばにいてくれた」  アイラの額に、感謝のキスを捧げる。 「待って!」  アイラはアヤセの唇を人差し指で押さえた。 「あの、最期の最期という時、私はあなたが何を考えていたかわかってよ。あなたは、ニューヨークの壊滅を、無理にも自分に受け入れさせようとしていた。ミライちゃんがどうなるかを、十分に承知した上で……」 「わかったよ。君にはもう何も隠しはしない」 「いいえ、明日は一番に起きて教会へお出掛けなさい。そして懺悔するのよ。それともうひとつ。私への御褒美《ごほうび》」 「何が欲しい?」 「取り敢えず、眠りたい」 「よし。じゃあAEHにねじ込んで、リンカーン・ベッドルームを使わせてもらおう」  アヤセはヒョイとアイラを抱き上げると、軽やかな足取りで歩き出した。 「ところで、僕は午後からニューヨークへ出掛けるんだ。オザワがイスラエル・フィルを率いて、マーラーを振るのを聴きにね」 「ふーん、いいわねえ」  腕の中のアイラは、早や寝惚けまなこだった。 「どうだろう? ベニハナか、イロハ辺りで日本料理でも食べて、その……、実はチケットが三枚あってね……。ミライも、きっと喜ぶと思うんだ。親の僕が言うのも何だけど、性格のいい子で、君も、その、きっと気に入ってくれるはずだよ」  微かな寝息を立てるアイラは、もう何も答えはしなかった。  アヤセにとっても、また新たな闘いが始まったのである。  それも、彼が最も苦手とするフィールドにおいて……。 [#改ページ]  あとがき  筆者のデビュー作である本書の奥付を先日確認したら、昭和六十一年八月とあった。かれこれ六年前のことであろうか。私が二十五歳、レーガン政権の二期目がスタートした直後であった。  本書のために、二年間の準備と、一年間の執筆期間を要した。年数冊の発表を強いられている現在からすると、夢のような仕事だった。  冷戦がピークに達した時代だった。果たして、当時の世界情勢を、我々はどの程度記憶しているだろうか? ゴルバチョフが若造呼ばわりされながら登場したのは、前年のことであった。結局物別れに終わった米ソのレイキャビク会談が行われたのは、この年の十月だった。  八〇年代を通じて、人類が全面核戦争の瀬戸際にいたかというと、必ずしもそうではなかったが、東西関係が最も緊張した十年であったであろうことには論を待たないであろう。  偶発核戦争が起こる危険性は常にあった。ブレジネフ以降のクレムリンの政権は、どれを取っても脆弱極まりなく、それにしてはあまりに不釣り合いなほどソヴィエトの軍事力は強大であった。  一方のアメリカは、技術を過信し過ぎ、宇宙兵器や、公衆電話より当てにならない、恐ろしく高価な通信システムで安全保障を達成できると信じていた。  あの当時、すでにカレール・ダンコース女史のように、ソヴィエト帝国の崩壊を予言していた人間がいないではなかった。しかしながら、これほどまでにドラスティックな形で、ソヴィエトが崩壊することを誰が想像しただろうか?  ソヴィエトの脅威が影薄くなった今日、防衛庁は、「十年前、今日の状況を予測できなかったように、十年後の予測が当たる保障はない」との方針で防衛力整備を進めるそうである。戦後の四十数年が、それほど激動に満ちた時代であったこともまた事実である。  本書の執筆準備に入ってから、そろそろ十年を経るわけだが、その間の軍事科学の流行はどうだったろうか? 本書の主要テーマであるステルス技術は、九〇年代軍事技術の最大関心事ではあるが、現状では、成功していないというのが冷静な見方であろう。B‐1爆撃機の後継機であるB‐2爆撃機のステルス能力は、かなりあやふやなものであるとの情報が流れている。アメリカの次期主力戦闘機の選定では、格闘戦能力を犠牲にしてステルス性を高めたYF‐23が、ステルス性を犠牲にして格闘戦能力を高めたYF‐22に敗れた。戦闘機においては、ステルス性と運動性は、完全に相反するのだが、その時、当局者は、躊躇《ためら》わずに運動性を優先する。これには、逃げ隠れする技術よりも、発見するためのセンサー技術の方が数段優っているという軍事科学の現状がある。ソヴィエトの新鋭機は、いずれも機首部分に不格好な赤外線センサーを装備しているが、これなどは、自機のステルス性を犠牲にしても、ステルス機を探し出せる自信のほどを示していると言えよう。  先の湾岸戦争においてもそれは証明された。空中戦においては、昔から、ファースト・ルック、ファースト・キルということが言われていた。先に見つけた方が必ず勝つのである。湾岸戦争においては、それは陸上の戦車戦においても証明されたのである。砂漠の砂嵐の中で、優秀なセンサーを装備していた米軍のM‐1戦車の前に、イラク軍のT‐72の反転はまるで歯が立たなかった。  それと関連して、日本のFSX次期支援戦闘機計画に関して述べたい。政治的国際的状況を抜きにしても、その設計概念の古めかしさから、計画を白紙還元すべきだとの声が、防衛庁やメーカーにもあるそうだが、私もさっさと中止すべきだと考える人間である。しかし、一度始めたものは、なかなか止められないというのが、日本の役所事情である。そこで、私の政治思想はさておき、一熱狂的飛行機ファンとして提案したい。機体が、ほとんど七〇年代の戦闘機の形状概念で作られる以上、外枠にたいしたものは望めない。超音速での巡航飛行が出来るわけでもなければ、ステルス性があるわけでもない。  湾岸戦争で飛行部隊を悩ましたものの最大要因は、天気だった。全作戦の四分の一が、天候の制約を受けてキャンセルされたという報告がある。戦争は、今でも雨の日はお休みというのがお決まりである。そこで、格闘戦闘機としての開発はアメリカ側にそこそこのものを委ねることで諦め、センサーやレーダーの開発に全力を傾注してはどうか? 数千億もの税金を投じて開発した飛行機が、単にメーカーの生産ラインを維持するためだけのものであっては、納税者は浮かばれない。  今となっては、幻のようであったあの重苦しい冷戦は、その崩壊によって、実はこれからボディ・ブローのように、じわじわと人類社会に悪影響を及ぼしてくるような気がするのだが、そう考えるのは心配性に過ぎるだろうか? ……   一九九一年十二月初旬 本書単行本は、一九八六年小社より刊。講談社ノベルズ版は一九九二年刊。 この電子文庫版は、講談社文庫「B‐1爆撃機を追え」(一九九三年三月刊)を底本としています。