[#表紙(表紙.jpg)] 飼育する男 大石 圭 [#改ページ]   プロローグ  昔、昔……もう、ずっと昔……。  春のある午後、少年は森の中の小道の脇に1冊の雑誌が——雨に打たれてよれよれになり、日にさらされて色|褪《あ》せた雑誌が落ちているのを見つけた。  少年はその薄汚れた雑誌を拾い上げ、何げなくページを開いた。  瞬間、若い女性の全裸写真が視界に飛び込んで来て、思わず息をのんだ。  いや……少年が息をのんだのは写真の女性が衣服をまとっていなかったからではない。少年はまだ7歳か8歳だったけれど、そんな少年でさえ、それが普通の女性のヌードを撮影したものだったら驚いたりはしなかっただろう。  けれど、その写真の女性は普通ではなかった。ほっそりとした女性の首には幅の広い革製の首輪が嵌《は》められ、その首輪には太い金属の鎖が繋《つな》がれていたのだ。  ごつい首輪を嵌められた女性は犬のように四つん這《ば》いになり、その大きな目でじっと彼を見つめていた。女性の体は極端に痩《や》せていて、皮膚には鎖骨や肋骨《ろつこつ》や腰骨がくっきりと浮き上がっていた。それは近所でよく残飯を漁《あさ》っている野良犬の体を思わせた。  少年は指を震わせながら、よれよれになった雑誌のページをめくった。そこでは前のページと同じ全裸の女性が、四つん這いのまま床に置かれた金属の皿に犬のように顔を伏せ、ミルクだと思われる皿の中の液体を飲んでいた。ミルクの皿の隣には、ドッグフードのようなものが入れられた皿が置かれていた。  これはいったい、どういうことなのだろう?  少年はさらにページをめくった。そこにあったのは別の女性の写真だったが、その女性もまたガリガリに痩せこけて、子供のように骨張った尻《しり》をしていた。そして彼女も、前のページの女性と同じように全裸で床に這いつくばり、幅の広い黒革製の首輪を嵌められて、太い鎖に繋がれていた。その写真では、鎖の端をスーツを着た男性が握り、まるで犬を散歩させるように女性を這わせていた。  心臓を高鳴らせながら、少年は雑誌をめくり続けた。  何度も雨に濡《ぬ》れ、何度も乾いたために、ふやけてよれよれになってしまった雑誌には、そのほとんどすべてのページに、首輪や手錠や口枷《くちかせ》を嵌められた痩せた裸の女性の写真があった。  金属の狭い檻《おり》の中に閉じ込められ、男が黒い鉄格子のあいだから突き出したバナナを食べる全裸の女性。黒い目隠しをされ、後ろ手に手錠を嵌められたまま、跪《ひざまず》いて男の足の指をしゃぶっている全裸の女性。べったりと床に腹這いになり、黒い革靴を履いた男性に頭や背中を踏み付けられている全裸の女性。  そこには何人もの裸の女性たちが写っていた。女たちは誰もが一様に痩せこけていて、誰もが一様に目がギョロギョロとしていた。そして、誰もが一様に男たちに支配され、誰もが一様に家畜のように扱われていた。  ああっ、この世には女の人を飼っている男たちがいるんだ。まるで犬のように、女の人を自分のものにしている男たちがいるんだ。  幼い少年にとって、それは目が眩《くら》むほどの衝撃だった。  その雑誌はあまりに忌まわしく、あまりに不潔に思えて、自宅に持ち帰ることはできなかった。少年はそれを森の奥の大きな樹の下の窪《くぼ》みに隠して帰宅した。その夜は一晩中、その雑誌のことばかり考えていた。  翌日の午後、学校から帰宅した少年は再びこっそりと森に出掛けた。そして、胸を高鳴らせながら樹の下の窪みから雑誌を取り出すと、前日と同じように夢中になってそれを眺めた。  ベッドに大の字に縛り付けられた全裸の女性、ズボンを下ろした男の股間《こかん》に顔を埋めている全裸の女性、男に鞭《むち》で打たれて泣き叫ぶ全裸の女性、長い髪を男に鷲掴《わしづか》みにされて床の上を引きずりまわされている全裸の女性……。  自分のような子供が見てはいけないものだとはわかっていた。けれど、やめられなかった。翌日も、翌日も、そのまた翌日も……少年は森に出掛けて行った。  いったい何日そんなことを繰り返しただろう? ある日、少年が森の奥の樹の下の窪みに行くと、雑誌がなくなっていた。  風に飛ばされてしまったのだろうか? それとも誰かが見つけて、持って行ってしまったのだろうか?  あれから長い長い時間が過ぎた。  今でも彼は、森に行くたびにあの雑誌を思い出す。あの写真を見ていた時の目が眩むほどの衝撃を……ページをめくっていた指の震えと、息苦しくなるほどの胸の高鳴りを……そして、無意識のうちに、あの雑誌を探している自分に気づく。 [#改ページ]   第1章     1.  その朝も彼女は午前5時に目を覚ました。  隣で気持ち良さそうに眠っている夫を起こさないように、ダブルベッドからそっと抜け出す。部屋の片隅の小さな冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、それを手に寝室と隣りあった浴室に向かう。  ゆったりとした造りの脱衣場でパジャマを脱ぎ捨て、真っ白なバスタブに湯を張る。バスタブに湯が満ちるまでのあいだ、冷たいミネラルウォーターで水分補給をしながら、いつものように下着姿のままで入念な美容体操を行う。  首と肩の筋肉をほぐすための運動、二の腕を引き締めるための運動、ウェストと下腹部の運動、腿《もも》と脚の運動……10分ばかり美容体操に専念したあとで、木綿の下着を脱ぎ捨てて浴室に入る。  大きなバスタブに満ちた透明な湯に静かに身を沈める。住宅街の向こうに上り始めた夏の朝日を、目を細めて眺める。  自宅の3階にある浴室には、きょうも朝の光が満ちている。ブラインドを通した朝日がバスタブの底にまで差し込み、彼女の滑らかな皮膚にシマウマみたいな美しい模様を作っている。体にびっしりと付着した無数の気泡が、朝の光を受けて透明なビーズのように光っている。  目を覚ましたばかりの鳥たちの声がする。新聞配達のオートバイのエンジン音がする。犬の散歩をしているらしい老人たちの話す声も微《かす》かに聞こえる。 「あー、気持ちいい……」  目を閉じ、両足をいっぱいに伸ばして、全身を包み込む温かな湯の感触を楽しむ。それは、毎朝のように繰り返されている彼女の至福のひとときだった。  誰にも邪魔されることのない、彼女だけの朝の時間——。  早起きが好きというわけではない。結婚する前は、午前中の撮影の仕事でもない限り、昼前に目を覚ますことは稀《まれ》なくらいだった。けれど一児の母となった今では早起きは大切だった。そうでもしないと、彼女が自分だけの時間を確保するのは難しかったから。  いつものように、丁寧に歯を磨き、体を洗い、明るく染めた髪を入念に洗う。髪にトリートメントをしたあとで、もう1度バスタブでゆっくりと温まる。それから、いつもそうしているように浴室の壁の大きな鏡の前に全裸で立って、体の隅々までをチェックする。  大丈夫。今朝も下腹部はえぐれるほど引っ込んでいるし、ウェストも変わりなくくびれている。そんなに大きくないけれど、乳房は充分に尖《とが》っているし、肩には鎖骨もしっかり浮き出ている。  彼女は満足げに頷《うなず》き、バスタブの湯を抜いてから浴室を出た。  頭にタオルを巻き付け、素肌にさっぱりとしたタオル地のバスローブをまとって寝室に戻る。夫はまだ、ダブルベッドの中でぐっすりと眠っている。エアコンのおかげで部屋の空気は涼しくて乾いている。  広々とした寝室の片隅に置かれた鏡台の前に座る。そして、いつもそうしているように、夫の寝息を聞きながらたっぷりと時間をかけて入念に化粧をする。一通りの化粧が済むと、自慢の長い髪にドライヤーをかけ、アクセサリー類を身に着ける。それから、モデル時代からいつもそうしているように、鏡に向かって笑ったり、怒ったり、澄ましたり、唇を突き出してみたり、困った顔をしてみたりした。  目の脇や口元に、昔はなかったはずの小さな皺《しわ》ができる。けれど、27歳には絶対に見えない。今もファッション誌の表紙を飾っていた頃と同じように綺麗《きれい》だし、あの頃と同じようにコケティッシュで可愛らしい。 「よし、大丈夫だ!」  鏡に向かって頷くと、彼女は鏡台の前から勢いよく立ち上がった。慌ただしくバスローブを脱ぎ捨て、クロゼットから出した下着を慌ただしく着ける。柑橘《かんきつ》系のオーデコロンを全身に吹き付けたあとで、華奢《きやしや》な体に張り付くような丈の短いTシャツをまとい、ぴったりとした色の褪《あ》せたジーパンを穿《は》く。  午前7時——。  さあ。いつものように、朝の戦争の始まりだった。  いつものように、気持ちよさそうに寝息を立てている夫を起こしたあとで、2階の子供部屋に下りて行って4歳の長男に起きるように言う。  いつものように、1階に駆け降り、玄関から取って来た朝刊をリビングダイニングキッチンのテーブルに置く。湯を沸かし、テーブルにランチョンマットを敷く。食器やミルクや調味料をテーブルに並べ、コーヒーメーカーをセットし、シンクで野菜を洗う。卵をフライパンに落とし、別のフライパンではベーコンを炒《いた》め、弁当のオムレツにするための卵をステンレスのボウルでかきまわし、パンをトースターに放り込む。炊飯器を開け、炊きたてのご飯をふたつの弁当箱に詰め込み、息子の弁当に入れる冷凍のコロッケを電子レンジに放り込み、夫の弁当のおかずにする塩鮭をグリルに入れて火を点《つ》ける。  いつものように、あくびをしながらパジャマ姿で下りて来た夫と慌ただしく食事を済ませ、夫がスーツに着替えるのを手伝う。それから、いつものように、弁当を入れた鞄《かばん》を持って、出勤する夫を門の外まで見送りに行く。  夏の朝日に照らされた郊外の住宅街には、蝉たちの声がうるさいほどに響いている。白っぽい空には真っ白な入道雲が浮かび、アスファルトがギラギラと、暴力的なほどに輝いている。きょうも暑くなるのだろう。 「暑くて大変だけど、頑張ってね」  日焼けして引き締まった夫の顔を見上げて微笑む。 「ああ、行って来るよ……それにしても暑くて嫌になるなあ」  眩《まぶ》しそうに目を細めて夫が言う。額には早くも汗が滲《にじ》んでいる。  朝日に向かって大股《おおまた》で歩いていく夫の大柄な後ろ姿を見つめる。  ふと思う。  わたしたちって、幸せそうに見えるかしら? 理想的な家族に見えるかしら? みんなはわたしたちのことを羨《うらや》んでいるかしら?  大手の広告代理店に勤務する夫と、かつてはファッション誌の専属モデルだった美しくてスタイルのいい妻。私立の有名幼稚園に通う4歳のひとり息子。私鉄の駅から徒歩10分弱の、230平方メートル強の敷地に建てられた洒落《しやれ》た3階建ての家屋。庭の片隅に停められた外国製の高級四輪駆動車……自分たちは幸せに見えるのだろうか? 理想の家族に見えるのだろうか?  背筋を伸ばしてゆっくりと自宅の門に戻る。洒落た門を開き、小バラのアーチをくぐって玄関に向かう。  いつもそうしているように……いや……いつもはそんなことはしないのだけれど、きょうは……何げなく足を止め、彼女は小バラのアーチを見上げた。  柔らかく伸び出した新芽の先に、緑色をしたアブラムシが不気味なほどびっしりとたかっている。 「ああっ……やだ」  美しいバラに寄生したその忌まわしい害虫が、何となく不吉なことを象徴しているような気がして……彼女はルージュを塗った唇をそっと噛《か》み締めた。     2.  自分たちは幸せで、理想的な家族だ。水乃玲奈《みずのれな》は人からそう思われたがっていた。  生まれてからずっと、大勢の人たちから『玲奈ちゃんは可愛い』『綺麗だ』『スタイルが良くて羨ましい』と言われ続けて来たせいかもしれない。玲奈はいつも、人から羨ましがられていたかった。  理想的な家族——しかし、何もかもが完璧《かんぺき》というわけではなかった。  誰もが名前を知っている大手広告代理店に勤務しているといっても、所詮《しよせん》、夫はサラリーマンに過ぎなかった。5年前、結婚と同時に購入したこの家だって、住宅ローンがまだ30年も残っている。  夫の啓太《けいた》は末っ子だったが、姉がふたりいる長男なので、行く行くは福井から両親を呼んで同居するつもりでいるらしい。まだまだ先のことだとは思うが、その時のことを考えると、今からうんざりしてしまう。  かつて玲奈と同じファッション誌で一緒にモデルをしていた女たちの何人かは、啓太の何十倍も収入のある裕福な男と結婚し、家計のやりくりのことなど考えることもなく大邸宅で優雅な暮らしを満喫していた。何人かは誰もが知っている有名人や文化人や著名なスポーツ選手と結婚して派手な生活を楽しんでいたし、何人かは今もモデルやタレントやレポーターとしてテレビや雑誌にさかんに登場していた。何人かは女優に転身して映画やドラマに出演していたし、何人かは絵画や文筆や料理や園芸やインテリアデザインなどの分野に進出して活躍していた。それなのに、今の玲奈は……ただの専業主婦として家で家事をこなしているだけだった。  それを考えると、自分だけが取り残されてしまったような気がした。  わたしは夫を愛している。玲奈はそう思っている。けれど……製菓メーカーのコマーシャルに出演した時に知り合った8つ年上の啓太と22歳で結婚し、あっさりとモデルを辞めたという自分の選択が正しかったのか間違っていたのか——今でははっきり言って自信が持てなかった。  今でも時々、路上などで見知らぬ人から「あの……モデルの橘《たちばな》玲奈さんじゃないですか?」と声を掛けられることがある。そんな時は微《かす》かに自尊心がくすぐられる。  自分にはもっとほかの生き方があったのではないだろうか? もっとほかの可能性があったのではないだろうか?  そんなことを思いながら……玄関のたたきに踵《かかと》の高いサンダルを脱ぐ。 「翔太《しようた》。いったい何をしてるの?」  まだ子供部屋でぐずぐずしているらしい長男に、階段の下から大きな声を掛ける。「まさか、まだ寝てるわけじゃないでしょうね?」 「起きてるよ。今行くよ」  2階から長男の寝ぼけたような声が響き、玲奈は「早くしなさい」と言うとリビングダイニングキッチンに向かった。  広々としたリビングダイニングキッチンには、朝食の匂いが充満している。レースのカーテン越しに朝日が差し込み、窓辺に置かれた観葉植物の葉を強く光らせている。  いつものように玲奈は椅子に腰を下ろし、朝食の皿の並んだテーブルをぼんやりと見つめた。  ふと、両手を見る。  今も手はそんなには荒れていない。けれど、家事をしなければならない今では、モデルをしていた頃のように長く爪を伸ばすことも、鮮やかなマニキュアを塗り重ねることもできなかった。  せめてお手伝いさんがいれば、昔みたいに爪を伸ばせるのに……。  けれど、今の啓太の経済力では家政婦を雇うことは難しかった。  階段を下りて来る息子のけたたましい足音が響く。 「急がないと、ご飯の時間がなくなるわよ」  そう言いながら、息子の朝食の世話をするために玲奈は立ち上がる。  これが本当にわたしの求めていた幸せなのだろうか? 本当はわたしは、もっと幸せになれたのではないだろうか? もっと優雅に暮らせたのではないだろうか?  なぜか今朝は、そんなことばかり考えてしまう。  黒いBMWの四輪駆動車の後部座席に4歳の長男を乗せ、自宅から5キロほど離れた私立の幼稚園まで送って行く。今は夏休みだったが、きょうは登園日になっていた。  幼稚園の建物の中に息子が嬉《うれ》しそうに駆け込んで行くのを見届けてから、門のところで、顔見知りの母親たちと立ち話をする。  自分たちの子供の自慢話と夫の自慢話、そこにいない知り合いの女たちの噂話……本当は、ほかの園児の母親となんか話をしたくなかった。たいていが専業主婦である彼女たちの生きている世界はとても狭くて、玲奈と共通の話題なんてまったくなかったから。けれど、息子のためにも、ほかの母親たちと仲たがいするわけにはいかなかった。  母親たちとのうんざりするような話をようやく終えて車に戻る。ほかの母親たちはまだ、門のところで話を続けている。もしかしたら、今ごろは玲奈の噂話をしているのかもしれない。  運転席に腰を下ろし、バッグから鏡を取り出す。化粧が崩れていないか、前歯にルージュが付いていないか確かめる。ダッシュボードから出したサングラスを掛けて、大きくひとつ溜《た》め息を吐く。エンジンをかけ、すべての窓を全開にする。そして、自宅に向かって車を走らせながら、いつもそうしているようにメンソールの煙草を吸う。  いっぱいに下ろしたサイドウィンドウから、夏の朝の生ぬるい風が吹き込んで来て、シャンプーしたばかりの長いストレートヘアを気持ちよくなびかせていく。強い朝の光に、すべてのものが眩しくきらめいている。  昔から玲奈は夏の朝が好きだった。できることなら、このまましばらく当てのないドライブをしていたかった。  けれど、今の玲奈にはそんな時間はなかった。  幼稚園からまっすぐに自宅に戻ると、玲奈はいつものように慌ただしく食器を洗浄機に放り込んだ。慌ただしく洗濯乾燥機を回し、すべての部屋に慌ただしく掃除機をかける。乱れたベッドを整え、慌ただしくバスタブを洗う。それから、いつものようにアルコールランプに火を灯《とも》し、サイフォンを使って自分だけのためのコーヒーをいれた。  そう。玲奈はいつも、自分のコーヒーだけはサイフォンを使っていれた。彼女は酸味のあるコーヒーをサイフォンで濃くいれて飲むのが好きだった。  いつものようにリビングダイニングキッチンのテーブルで音楽を聴きながら、特別に濃くいれたキリマンジャロをゆっくりと飲む。手にたっぷりと保湿クリームを塗り、首をまわして凝り固まった肩や首筋の筋肉をほぐす。  ようやく朝の戦争が一段落ついた。けれど、いつまでもぐずぐずしているわけにはいかなかった。コーヒーを飲み終えたら、近くのスーパーマーケットに夕食のための買い物に行き、その足で再び幼稚園に息子を迎えに行かなくてはならなかった。そしてその後は、庭の草|毟《むし》りと水|撒《ま》きと、夕食の支度が待ち受けていた。 「あーあ。つまらない……」  無意識のうちに、そう呟《つぶや》く。  これがわたしの幸せなのだろうか? モデルだった頃の知り合いたちは、こんなわたしを見て何と思うのだろう?  ふだんはあまり、そんなことは考えない。けれど、なぜか……今朝はやけに、そんなことばかり頭に浮かぶ。  わたしはこうやって、ただ漫然と年を取っていくのだろうか? 1年後はどうしているのだろう? 3年後は、5年後は、10年後は……わたしはいったい、どうしているのだろう?  キリマンジャロを飲み干した玲奈がスーパーマーケットに行くために立ち上がりかけた時、インターフォンが鳴った。宅配便のようだった。  空のコーヒーカップをテーブルに残したまま、玲奈は玄関に向かった。  玄関のたたきにあった靴をきちんと揃え、レモンの香りのする芳香剤を辺りに軽くスプレーしてからドアを開ける。  ドアの向こう、タイル張りのポーチに立っていたのは、宅配便業者の制服をまとった背の高い男だった。 「水乃玲奈さんですね?」  小さな段ボール箱を抱えた男が言う。 「はい。そうです」 「ここにハンコかサインをお願いします」 「あっ、はい。サインでもいいかしら?」 「結構ですよ」  男がボールペンを差し出す。  随分と長くて綺麗《きれい》な指だな。ほっそりとした男の指を見て、ふと思う。  ボールペンを受け取った玲奈が伝票にサインをしようとした時だった。その瞬間——玲奈の首筋に何か尖《とが》ったものが触れた。  えっ?  何かを思う時間はなかった。  次の瞬間、凄《すさ》まじい衝撃が玲奈の首から足までを一気に貫いた。 「ああっ!」  反射的に声が出た。  けれど、玲奈には自分の出した声を聞くことはできなかった。  一瞬にして目の前が真っ暗になり、世界から音が消え、玲奈は磨き上げられた床に崩れ落ちた。     3.  猛烈な息苦しさと、全身が締め付けられるような感触に、低く呻《うめ》きながら水乃玲奈は目を開いた。  けれど、どれほど目を見開いても何も見えなかった。  えっ? 何?  反射的に顔に手を持っていこうとした。だが、手はまったく動かなかった。いや、手だけではなく、足も体もまったく自由にならなかった。  いやっ!  パニックに陥り、激しく悶《もだ》えながら悲鳴を上げた。 「うぐぐっ……うぶぶぶっ……」  声は出なかった。くぐもった呻きが耳に届き、息苦しさがさらに募っただけだった。  どうしてっ! どうしてなのっ!  津波のように押し寄せるパニックの中で、玲奈は必死で考えようとした。  やがて、玲奈は……自分がぴったりとした寝袋のようなものに詰め込まれ、両手首と両足首をがっちりと縛り付けられ、口の中に何か布のようなものを押し込まれた上に目隠しまでされて、どこか狭い場所に転がされているのだということを理解した。  拉致《らち》? そうだ。拉致されたんだ。わたしは……あの男に誘拐されたんだ。  自宅の玄関で宅配便の伝票にサインしようとして身を屈《かが》めた瞬間、肉体を貫いた凄まじい衝撃——玲奈はそれを思い出した。あの時、何かを押し当てられた首のところが、火傷《やけど》でもしたかのようにヒリヒリと疼《うず》いていた。  どうしてわたしが? いったい、どこに連れて行かれるの?  冷たい恐怖が全身に広がり、玲奈は再びくぐもった悲鳴を上げて目茶苦茶に暴れた。 「うぐぐぐうっ……うぶぶっ、ぶっ、ぶっ……うぶうっ……」  力の限りに身悶えし、腕や足を必死で動かそうとする。尿が漏れて下着が濡《ぬ》れ、ロープのようなもので縛り付けられているらしい手首や足首がズキズキと痛む。  けれど、どれほど暴れても手足の拘束は解けなかったし、声も出せなかった。相変わらず何も見えなかったし、何も聞こえなかった。  恐怖のために胃が痙攣《けいれん》し、玲奈は嘔吐《おうと》した。いや……吐くことはできなかった。食道を逆流して来た嘔吐物は口いっぱいに詰められた布のようなものにせき止められ、行き場を失って再び胃の中に戻っていった。  見えない目をいっぱいに見開き、必死で冷静になろうとする。  ここはどこなんだろう? わたしはどこに連れて行かれるんだろう?  呻くのをやめ、呼吸を整えて耳を澄ます。すると時々……遠くのほうから……ほんの微《かす》かに……人が話をする声のようなものが聞こえた。それから……窮屈に横たわった体が、わずかな揺れを感じた。  揺れている? そう。揺れている。ゆっくりと……だが、間違いなく揺れている。  上へ下へ……上へ下へ……この不規則な揺れは何なんだろう? 上へ下へ……上へ下へ……船?……そうだ。船だ。ここは船の中なんだ。  瞬間、玲奈の脳裏に浮かんだのは、自分は特殊工作員に拉致されて北朝鮮に連れて行かれる……という考えだった。  きっとそうなのだろう。今までに何人もの日本人がそうされたように、わたしもまた船で北朝鮮に運ばれているのだろう。ここは日本海で、この船に乗り組んでいるのは、全員が北朝鮮の人間なのだろう。  ああっ、どうして? よりによって、どうしてこのわたしが……ああっ、翔太っ……帰りたい……家に帰りたい……。  全身を侵食した恐怖の中で、玲奈は長男のことを思った。今朝、車から降りて嬉《うれ》しそうに幼稚園に駆け込んで行った4歳の息子の後ろ姿……あれが翔太を見る最後なのだろうか? わたしはもう永遠に、翔太に会うことはできないのだろうか?  涙が溢《あふ》れた。けれど、その涙が流れ落ちることはなかった。すべての涙は、目の部分を覆っている布のようなものに吸い込まれてしまった。  ああっ、今朝に戻ることができたら……。  その時になって玲奈は、これまでの自分がどれほど幸せだったのかに気づいた。  どれくらいの時間が過ぎたのだろう?  車のドアが開けられるような音が聞こえ、すぐ近くに誰かが来た気配がした。  車のドア?  そうだ。車だ。玲奈は今、船上の車の中にいるのだ。そして今、誰かが車に戻って来て、すぐ近くから、玲奈の様子をうかがっているのだ。 「うぶうっ……うぐぐっ……うぐうっ……」  玲奈は必死で悶え、呻いた。  そばにいる人間が自分の味方でないことはわかっていた。けれど、呻かずにはいられなかった。せめて、目隠しを取り、手足の拘束を解いてもらいたかった。それが無理なら、口の中に詰め込まれたものだけでも取り除いてもらいたかった。  けれど、そばにいる人間は玲奈の目隠しを外すことも、手足の拘束を解くことも、口に詰め込まれたものを取り除いてくれることもなかった。ただ……何枚かの布の向こうから男の手が(玲奈はそれが男だと確信していた)、彼女の臀部《でんぶ》から太腿《ふともも》にかけてをそっと撫《な》でただけだった。 「うぶっ……うぐっ、うぐうっ……」  恐怖が爆発し、玲奈はくぐもった悲鳴を上げて猛烈に呻いた。再び尿が漏れ、手首や足首が鋭く痛んだ。 「水乃さん、静かにしてください……諦《あきら》めてください」  耳元で男の声が日本語で告げた。そう。男は確かに彼女を『水乃さん』と呼んだ。  同時に、玲奈は太腿にチクリとした痛みを感じた。  注射? そうだ。何かを注射されたのだ。 「うぶぶっ……ぐっ、ぐっ……ぐっ……ぐ……」  玲奈はなおも悶え、叫んだ。けれど……やがて頭がぼんやりとしてきて、体の感覚が鈍っていき、意識が急速に薄れていった。  ああっ、わたしはこれから、どうなってしまうんだろう?  薄らいでいく意識の中で、玲奈は車のエンジンが始動する音を聞き、自分が乗せられている車が動き出したのを感じた。  車が動き出した。ということは……船はもう日本海を渡り切り、朝鮮半島に到着してしまったのだろうか?  罰が当たったんだ。あんなに幸せだったのに……不満ばかり抱えていたから……それで罰が当たったんだ。  ピアノ曲が聴こえた。  これは……ショパン?……そうだ。ショパンのピアノ曲だ。北朝鮮の人もショパンを聴くのだろうか?  響き続けるピアノを聴きながら、玲奈は再び意識を失った。     4.  朦朧《もうろう》となって目を開く。灰色のコンクリートの天井と、そこに埋め込むように取り付けられた白熱灯が見える。  反射的に横を向く。頭がズキンと鋭く痛む。  天井と同じようにコンクリートが剥《む》き出しの灰色の壁が見える。そこに掛けられたシンプルな丸い時計が見える。  見える……ということは、目隠しが外されているのだ。  喘《あえ》ぐように大きく息を吸い、何度か続けて咳《せ》き込む。喉《のど》はカラカラに渇いている。だが、口の中いっぱいに詰め込まれていた布のようなものはすべて取り除かれている。  今度は手足を動かそうとする。  けれど、それはできなかった。  玲奈は今、両手両足を大きく広げた無防備な姿勢で、幅の広い金属製のベッドに仰向けに拘束されていた。  玲奈の両手首は、白いロープでベッドの柱にしっかりと縛り付けられていた。体の上にはピンク色をした毛布が、首のところまで掛けられていた。毛布の下に大の字になった玲奈の肉体の凹凸が見え、毛布の下端のところから足首を縛られた左右の足の先がのぞいていた。  どうして縛られてるの? どうしてなの?  拘束から逃れようと必死で身悶えする。けれど、手首と足首に鋭い痛みを感じただけで、手も足もまったく自由にはならなかった。  全身に再び冷たい恐怖が蘇《よみがえ》った。吐き気と叫び声が食道を駆け上がり、喉元までやって来た。寒くはないのに、体がガタガタと震えた。  レイプされたの? わたしは……裸にされているの?  レイプされたのかどうかはわからない。だが、玲奈はどうやら裸に……Tシャツもジーパンもショーツもブラジャーも剥《は》ぎ取られて全裸にされているようだった。乳房が、下腹部が、太腿が……体に掛けられたウールの毛布の感触をじかに感じていた。  息苦しいほどの恐怖と不安に喘ぎながら、玲奈は首をもたげて辺りを見まわした。  そこは縦横5メートルほどの広さの、ほぼ真四角の空間だった。  玲奈が仰向けに、おそらく全裸で縛り付けられている大きな金属製のベッドは、その空間のほぼ中央に置かれていた。天井と壁は剥き出しのコンクリートだったけれど、床にだけは白いタイルが張られていた。  仰向けになった玲奈の左側の壁には、縦1メートル横2メートルほどの大きさのガラスが嵌《は》め込まれていた。窓なのだろうか? けれど、その窓からは外の景色はまったく見えず、ベッドに横たわった玲奈の姿を映しているだけだった。  さらに首をもたげて、足元のほうに目をやる。大きなガラスの少し右側の壁には、金属製らしい黒っぽいドアがあった。玲奈の足元のほうには白いバスタブが置かれ、その隣にはやはり白いトイレの便器が据え付けられていた。トイレのすぐ脇には洗面台のようなものがあり、洗面台の上には鏡が取り付けられていた。  今度は右側を見る。  ベッドのすぐ右脇にはサイドテーブルがあり、その上にプッシュボタンもダイヤルもない白い電話と、ティッシュペーパーの箱が載っていた。ティッシュペーパーは日本でごく普通に売られているものだった。頭のほうの部屋の隅には安っぽいビニール製のクロゼットがあり、そのすぐ隣に小さな白い冷蔵庫が置かれていた。  ここはどこなの? 北朝鮮じゃないの? どうして裸にされているの? わたし、これからどうなるの?  わからなかった。何もわからなかった。  ああっ、神様……助けてください……そうしたらわたしは、もう二度と不平不満は言いません……。  溢《あふ》れる涙で視界が滲《にじ》んだ。  どうなるんだろう? これから、どうなるんだろう?  解剖されるのを待つカエルのような恰好《かつこう》でベッドに仰向けに磔《はりつけ》にされたまま、コンクリートの壁や天井を見つめ、水乃玲奈は繰り返し思った。  壁の時計はまもなく11時を指そうとしていた。だが、窓からは外の景色が見えないので、今が昼の11時なのか夜中の11時なのかはわからなかった。  宅配便業者を装った男に玲奈が拉致《らち》されたのが8月2日の午前中……確か11時少し前だったということは覚えている。だが、それから12時間しか過ぎていないのか、24時間が過ぎたのか……はっきりしなかった。  ひどく喉が渇いていた。けれど、空腹はまったく感じなかった。  玲奈が意識を取り戻して30分ほどが過ぎた時だった。ガチャッという音とともに、左側のガラス窓(それが本当にガラス窓なのかどうかはわからなかった)の先の壁にある黒っぽいドアが開いた。 「ああっ……」  爆発しそうになる悲鳴を懸命に抑え、玲奈はドアを見つめた。  ドアから姿を現したのは、茶色のガウンをまとった痩《や》せた男だった。  あの宅配便業者を装った男? そうだ。あの男だ。  顔はよく覚えていない。だが、ほっそりとした男の長い指を見て、玲奈はそれを確信した。 「あなたは……誰なの?」  男を見つめ、玲奈は喘ぐように声を出した。  男は玲奈よりいくつか年上、たぶん……30歳前後だろう。顔色が悪く、背が高く、肌の色が白く、ガウンの上からでもとても痩せているのがわかった。  男は無言で玲奈を見つめた。血の気のない男の顔には、まったくといっていいほど表情がなかった。 「ここはどこなの? いったい、わたしを……どうするつもりなの?」  玲奈が訊《き》いたが、男は無言だった。無言のまま、無表情に玲奈を見つめ続けた。 「お願い……助けて……家に帰して……お願い……」  手首に巻き付けられたロープを握り締め、玲奈は哀願した。彼女が身悶《みもだ》えするたびに、体に掛けられた毛布にできた陰影が微妙に変化した。  玲奈を見つめたまま、男はふーっと息を吐いた。それから、彼女が拘束されたベッドのほうに、ゆっくりと近づいて来た。 「諦《あきら》めてください……」  ベッドの脇に立った男がひとりごとのように言った。その声は低く、抑揚がなく、まるで機械が喋《しやべ》っているかのようで、とても聞き取りにくかった。「水乃さん、あなたはもう、わたしの所有物になったんです。だから、もう……諦めてください」 「所有物……?」  喘ぐように玲奈は男の言葉を繰り返した。 「そうです。わたしの所有物です……水乃さんは……わたしのものになったんです」  低く呟《つぶや》くように言うと、男はそのほっそりとした指を玲奈のほうに伸ばした。そして、玲奈の体に掛けられた毛布の端を掴《つか》み、それを足元のほうに一気にまくり上げた。  次の瞬間、両手両足を大きく開いた玲奈の全裸の肉体があらわになった。赤みを帯びた白熱灯の光に、股間《こかん》の陰毛が黒々と光っていた。小豆《あずき》色をした乳首は、恐怖のために固くなって尖《とが》っていた。 「いっ……いやーっ!」  玲奈は絶叫した。そして、男の視線から体を隠そうと無我夢中で身悶えした。 「やめてっ! 見ないでっ! いやーっ!」  ベッドマットのスプリングが楽器のようにやかましく鳴り響き、ロープで縛られた手首と足首が猛烈に痛んだ。玲奈がほっそりとした体をよじるたびに、ふたつの乳房が胸の上でプリンのように震え、腕や脚や太腿《ふともも》や腹部にくっきりと筋肉が浮き上がった。  そんな玲奈の姿を、男は相変わらず無表情に見下ろしていた。 「いやっ! 見ないでっ! いやよっ! いやーっ!」  さらに数分のあいだ、玲奈は暴れ続けた。それから、がっくりとなって力を抜いた。  できることなど、何もなかった。船上に釣り上げられた魚のように、彼女はあまりに無力だった。 「水乃さん……諦めてください」  男がまた『水乃さん』と言った。そうだ。この男は彼女の名を知っているのだ。 「あなたはわたしの所有物になったんです。だから……もう諦めてください」  ベッドの脇に立ち尽くしたまま、男は玲奈を見つめ続けた。恐怖に歪《ゆが》んだ玲奈の顔を、華奢《きやしや》なネックレスが巻かれた細くて長い首を、胸の上にプリンのように並んだ形のいいふたつの乳房を、痩せてえぐれるほどに凹《へこ》んだ腹部を、その真ん中の縦長の臍《へそ》を、高く飛び出した腰骨を、股間の膨らみとそこに生えたわずかばかりの毛を……。 「これから……わたしをどうするの?」  息を弾ませながら玲奈は訊いた。「もしかしたら、わたしを……犯すの?」  男はしばらく色の悪い唇をなめていた。それから、低く、小さな声で答えた。 「はい。そのつもりです」  玲奈の全身を再び恐怖が走り抜けた。 「やめて……お願い……お願いだから……そんなことはやめて……」  拘束された肉体を悶えさせて玲奈は哀願した。  けれど、男には玲奈の願いを聞き入れる気はまったくないようだった。ベッドのすぐ脇に立った男は、細くしなやかな指で自分がまとったガウンの紐《ひも》を無造作に解き、足元にはらりとそれを脱ぎ捨てた。  男はガウンの下に何も身に付けていなかった。白く滑らかな皮膚の下にはほとんど脂肪がなく、玲奈と同じように鎖骨や肋骨《ろつこつ》がうっすらと浮き上がっていた。そして、その股間では……黒々とした男性器が上を向いて硬直し、分泌物で濡《ぬ》れた先端をぬらぬらと光らせていた。 「やめて……いやよ……お願い……お願いだから、やめてっ……」  玲奈の哀願を無視して男は玲奈の上に身を屈《かが》めた。そして、おもむろに右腕を伸ばし、細くて長いピアニストのような指で、形のいい乳房をギュッと鷲《わし》掴みにした。 「あっ……うっ……いやっ! いやーっ!」  言葉にできないほどの嫌悪感とおぞましさ、そして、胃が喉《のど》元までせり上がって来るかのような強烈な恐怖——玲奈は必死で身をよじった。 「いやっ! いやっ! いやーっ!」  叫び続ける玲奈の顔を無表情に見つめながら、まるでパン生地でもこねるかのように、男はゆっくりと乳房を揉《も》みしだき始めた。     5.  それはまさに悪夢だった。  男は玲奈に裸の体を重ね合わせると、彼女の長い髪をぐっと鷲掴みにした。そして、ほぼ同時に、大きく開かされた彼女の両足のあいだに硬直した男性器の先端を宛《あ》てがい、そのまま腰を突き出すようにして強引に挿入してきた。 「いっ……いやっ!」  肉体を貫く衝撃と激痛——だが、玲奈にできたのは、身をのけ反らして呻《うめ》きを漏らすことだけだった。  玲奈に身を重ね合わせた男は、彼女の顔を無表情に見つめながら静かに腰を引いた。そして、次の瞬間、再び強く腰を突き出した。 「あっ……うっ……」  男性器が肉体を貫き、鋭い痛みをともなった衝撃が、再び一直線に体を走り抜ける。苦痛と嫌悪に体が震え、恐怖と屈辱に涙が溢《あふ》れ出る。けれど玲奈には、流れ落ちる涙を拭《ぬぐ》うことさえできない。 「やめてっ……お願いっ……もうやめてっ……」  玲奈は涙を流して哀願した。  けれど、男が行為を中断することはなかった。まるで彼女の声が聞こえていないかのように、男は玲奈の顔を無表情に見つめながら腰を引き、次の瞬間、勢いよく前方に突き出した。何度も何度もそれを繰り返した。 「あっ……いやっ……いやっ!」  何度も、何度も……何度も、何度も……玲奈は自分が機械に犯されているかのような錯覚に陥った。  そう。男はまるで機械のようだった。意志のない機械のように、何も喋《しやべ》らず、表情も変えず、息遣いも乱れさせず、ほとんど汗をかくこともなく、ただ玲奈の上で規則正しい動きを続けた。 「いやっ……あうっ……いやっ……もう許してっ……」  男は玲奈の中に男性器を突き入れ続けた。何度も、何度も……繰り返し、繰り返し……何度も、何度も……繰り返し、繰り返し……そのたびに玲奈は、身をのけ反らせて凄絶《せいぜつ》な悲鳴を上げた。 「お願いっ……やめてっ……ああっ……いやっ……あああっ……あああああっ……」  灰色のコンクリートに囲まれた室内に、ベッドのスプリングがやかましく軋《きし》む音と、水乃玲奈の悲鳴と呻き声が果てしなく響き続けた。  行為の途中で、男は玲奈の唇に口を押し付けてきた。  玲奈は嫌々をするように顔を振った。だが、髪をがっちりと鷲掴みにされているために、その抵抗はあまりに微々たるものだった。男の舌は男性器と同じように、玲奈の唇を難なく押し開き、口の中を縦横無尽にかきまわしていった。 「うむっ……うむむうっ……うぶっ……」  男の唇は少しカサカサしていて、その口からは微《かす》かにクールミントキャンディみたいな味がした。  舌を噛《か》み切ってやる。  そんな思いがチラリと頭をよぎった。けれど……玲奈はそうしなかった。そんなことをすれば、さらにひどい目に合わされるのではないか。殺されるのではないか。そう思うとできなかった。  玲奈の上で、機械のようなピストン運動がいったい何十回繰り返されただろう?  100回? 200回? 300回?……玲奈にはもう何もわからなかった。  苦痛と屈辱に頭がぼーっとなり、もはや恐怖や嫌悪感さえ薄れ、声がかすれ、悲鳴がか細くなり始めた頃……男は玲奈の上でその筋肉質な体を細かく震わせた。そして、明るく染めた玲奈の髪をさらに強く鷲掴みにし、低く呻きながら、彼女の中に熱い体液を注ぎ込んだ。  行為を済ますと、男は玲奈の体の上から降りた。そして、玲奈が拘束されたベッドの脇に腰を下ろし、自分の全裸が映っているはずの大きなガラスを無言で見つめた。  皮下脂肪のない男の背中を見つめ、玲奈はしばらく泣いていた。女性器が疼《うず》くように痛み、そこから流れ出た精液が、尻《しり》の下を気持ち悪く濡らすのが感じられた。  理不尽だった。  何もかもがあまりに理不尽で、何もかもがあまりに理解し難かった。  男は何も言わなかった。聞こえるのは玲奈自身の息遣いと、彼女が鼻をすする音だけだった。  涙が止まるのを待って、ようやく玲奈は訊《き》いた。 「あなたは誰なの? ここは……どこなの?」  男は答えなかった。振り向きもしなかった。 「どうして……どうしてこんなひどいことをするの? これから、わたしを……どうするつもりなの?」  玲奈は再び質問した。  今度は男は身をよじるようにして振り向いた。そして、その無表情な目で、玲奈の顔をじっと見つめた。 「どうして?」 「そうよ。どうして、こんなひどいことをするの?」  男はしばらく、無表情に玲奈を見つめていた。それから、言った。 「水乃玲奈を……わたしのコレクションに加えたかったから」 「コレクション?」  呻くように玲奈が訊き返し、男は玲奈を見つめて頷《うなず》いた。 「そうです。もう水乃さんは……わたしのコレクションになってしまったんです」  玲奈は無言で首を左右に振った。また涙が込み上げた。 「どういうことなの? わからないわ……説明して……」  男は答えなかった。ただ、「諦《あきら》めてください」と呟《つぶや》くように言っただけだった。 「諦めてください。そして、この現実を……受け入れてください」  やがて男が立ち上がった。その股間《こかん》では、再び男性器が硬直を始めていた。 「何を……する気なの?」  おののきながら、玲奈は訊いた。けれど、彼女にはすでに、男のしようとしていることはわかっていた。 「いやよ……もういやっ……もうやめて……お願い……もうやめて……」  後頭部をベッドマットに擦り付けて首を左右に振り、喘《あえ》ぐように哀願する玲奈に、男は再び体を重ね合わせた。そして、さっきと同じように、彼女の中に硬直した男性器を乱暴に突き入れた。 「あっ……うっ……ああっ、いやっ……」  両手首に巻き付けられたロープを握り締め、身をよじって玲奈は呻いた。けれど、もはや彼女の中には男に抗《あらが》う力は残っていなかった。  男は彼女の上で、再び機械のように規則正しく動き始めた。     6.  男が部屋に入って来てからすでに6時間近くが過ぎていた。その6時間のあいだ、男はベッドに拘束されたままの玲奈に何度も何度も身を重ね、繰り返し繰り返し彼女の中に熱い体液を注ぎ込み続けた。  男の行為は時間の経過とともに少しずつ長くなっていった。最後の1回などは、30分近くも玲奈の上で機械のように動き続けていた。  男は疲れというものを知らないようだった。まるで電気とモーターで動いている機械のようだった。  もう玲奈は悲鳴を上げなかった。身をよじることも、呻《うめ》きを上げることもなかった。ただ、頭の中を空っぽにして苦痛と屈辱に耐えていただけだった。  いや……もうすでに、苦痛や屈辱さえ感じていなかったかもしれない。涙はとうの昔に尽きてしまったようだった。  行為と行為のあいだにはいつも、男は玲奈の脇のベッドに腰を下ろした。玲奈は男の痩《や》せた背中を見つめながら、男にいくつかの質問を繰り返した。  ここはどこなの? あなたは誰なの? あなたはどこかで、わたしと会ったことがあるの? ここにわたしをいつまで閉じ込めておくつもりなの?  けれど、男がそれらの質問に答えることはなかった。1度、男が部屋の片隅の小さな冷蔵庫からペットボトルを取り出して水を飲んでいる時に、「水乃さん、あなたも飲みますか?」と玲奈に訊いただけだった。  コンクリートの壁に掛けられた時計の針が、まもなく5時を指そうとしている頃——何回目かの射精を終えた男は玲奈の体から下りた。そして、長い時間かけて、玲奈の手足を縛ったナイロンロープを解いた。  男に助けられるようにして、骨張った体をベッドに起こす。頭が猛烈に痛み、背中や手足が痺《しび》れている。全身の筋肉が硬直したようになっていて、体のどこにも力が入らない。  自分の手首を撫《な》でる。骨張った手首は痛々しいほどに擦り剥《む》け、血が滲《にじ》んでいるが、右手首には今もネックレスとお揃いのブレスレットが嵌《は》まっていた。  今度は足首を見る。そこも手首と同じように皮が擦り剥けてピンク色になり、赤く血が滲んでいる。 「きょうは……これまでにしましょう」  床に落ちた毛布を無造作に拾い上げ、ベッドにうずくまっている玲奈の体にそれを掛けながら、抑揚のない低い声で男は言った。  それから男はガウンをまとい、無表情に部屋を見まわした。 「水乃さん、覚えておいてください。あのドアは絶対に壊すことができないし、あの窓ガラスは絶対に割れません。試してみてもかまいませんが、無駄なことです」  それだけ言うと、男は黒いドアに向かって歩き始めた。  ひとりで取り残されるわけにはいかなかった。玲奈は慌ててベッドから足を下ろし、立ち上がろうとした。けれど、体と同じように、足にもまったく力が入らなかった。 「待って……」  玲奈はタイルの床に崩れ落ち、そこにうずくまった。そして、ガウンをまとった男の背中に必死で呼びかけた。  ドアの前で男は足を止めて、振り向いた。その顔にはやはり、表情がなかった。 「今はいつなの? 何月何日なの? お願い……それだけ教えて」  男は色の悪い唇をなめた。壁に掛けられた丸い時計に視線を送り、それから言った。 「きょうは……8月3日です」 「8月3日……」 「そうです。今は8月3日の朝の5時です」  男が血の気のない顔を、ぎこちなく歪《ゆが》めた。いや……もしかしたら、微笑もうとしたのかもしれない。  男はしばらくじっと玲奈を見つめていたあとで、ドアを開けて部屋を出て行った。     7.  玲奈は床の上で毛布にくるまって、長いこと動けずにいた。  体のすべての関節が疼くように痛み、こめかみの辺りがズキズキした。長時間にわたって凌辱《りようじよく》され尽くした女性器は、完全に感覚を失って麻痺《まひ》したようになっていた。シーツに擦り付け続けられた背中は、擦り剥いたかのようにヒリヒリと痛んだ。 「8月3日の朝……」  床にうずくまったまま、力なく玲奈は呟《つぶや》いた。  今が8月3日の朝だということは……夫の啓太はとうの昔に、玲奈がいなくなったことに気づいているはずだった。  失踪《しつそう》した妻のことを、夫はどう思っているのだろう? まさか家出したと思っているわけではないだろう。だとしたら、もう警察に捜索願いは出したのだろうか? 玲奈があの家から運び出されるところを見ていた人はいなかったのだろうか? 警察はいったい、どんな捜査をしているのだろう?  啓太は玲奈の両親には連絡したのだろうか? もし、そうだとしたら、玲奈の両親はひどく心配しているに違いない。神経質な母はひどく取り乱し、パニックに陥っているかもしれない。  いつまでたっても幼稚園に迎えに来ない母親のことを、息子はどう思っただろう? 夕食は何を食べたのだろう? ゆうべは眠れたのだろうか? 「翔太……」  息子の名を呟く。 「啓太……」  今度は夫の名を呼んでみる。  尽きてしまったと思っていた涙が、また溢《あふ》れてきた。  玲奈はさらに1時間ほど床の上で、涙を拭《ぬぐ》いながら強《こわ》ばった腕や足の筋肉を撫《な》でていた。右の太腿《ふともも》には、車の中で薬物を注射された時のものらしいアザができていた。よく見ると、左の太腿にも同じようなアザがあった。ということは、あの注射の前にも薬物を注射されていたようだった。  ああっ……どうしてわたしが……いったいどうして……。  いろいろな感情が、激しく胸に込み上げて来た。  玲奈は何とか落ち着こうとした。  そう。泣いてばかりいては何もできなかった。とにかく冷静になって、ここから脱出する方法を考えなくてはならなかった。  しばらく唇を噛《か》み締めていたあとで、玲奈は分厚い毛布を体に巻き付けたまま、ひどくふらつきながらも白いタイル張りの床に何とか立ち上がった。  男の放出したおぞましい液体が、太腿の内側を気持ち悪く流れ落ちる。反射的に体が震え、叫び声を上げそうになる。慌ててティッシュペーパーでそれを拭い取る。 「畜生っ……」  もう何年も使ったことのないそんな汚い言葉が、無意識のうちに口をつく。  立ち上がった玲奈は、ふらつきながらも何とか部屋の隅の黒いドアまでたどり着き、銀色のドアノブに両手を掛け、力を込めて左右にまわしてみた。  金属製のドアにはしっかりと鍵《かぎ》が掛けられていた。ドアの上下には補助錠まで取り付けられていた。  玲奈はしばらく、その黒いドアの前に佇《たたず》んでいた。それから……コンクリートの壁づたいに再びよろよろと歩いて、壁に埋め込まれたガラスのところまで行ってみた。  縦1メートル横2メートルほどのガラス——体に毛布を巻き付けた玲奈が映っている。それは完全な1枚ガラスで、取っ手もなければ、つなぎ目のようなものもなかった。  ガラスの表面に顔を近づけ、水族館で子供がするように、握り締めた拳《こぶし》でコンコンと叩《たた》いてみる。水族館の水槽と同じように、そのガラスはかなり厚いもののようだった。  この向こう側は、いったいどうなっているんだろう?  玲奈は睫毛《まつげ》や鼻先が触れるほどガラスに顔を近づけた。けれど、どれほど顔を近づけても、ガラスには玲奈の顔が映るだけで向こう側は見えなかった。  またしばらく、呆然《ぼうぜん》とそこに佇んでいたあとで、玲奈はガラスの前を通り過ぎた。そして、そのまま壁づたいにぐるりと歩き続けて、ドアとちょうど対角線の位置に置いてある冷蔵庫にたどり着いた。  冷蔵庫の白い扉を開ける。ホテルにあるみたいな小さな冷蔵庫の中には、ラップにくるまれたサンドイッチと、ミネラルウォーターのペットボトルが3本、それに赤と白のワインが1本ずつ入っていた。冷蔵庫の上にはソムリエナイフが無造作に置いてあった。  疼《うず》き続ける腰を屈《かが》めて、玲奈はペットボトルの1本を手に取った。男に勧められた時には飲まなかった。けれど、実はひどく喉《のど》が渇いていた。  ペットボトルに口を付け、少し噎《む》せながらミネラルウォーターを飲む。冷たい水が食道を流れ、乾き切った肉体を潤滑油のように潤していく。悲鳴を上げ続けた喉に水がピリピリと染みる。  ペットボトルの水を半分ほど飲んだあとで、玲奈は冷蔵庫のすぐ隣にあるビニール製のクロゼットを開けてみた。その中には、男が着ていたのと同じ茶色のガウンと白いタオル地のバスローブ、何枚かの大小のタオル、透明な袋に入った黒い下着、それに段ボール箱が入っていた。  段ボール箱を開けてみる。胃薬と風邪薬、目薬、擦り傷の薬、消毒薬、バンドエイド、鎮痛剤、喉|飴《あめ》、脱脂綿、包帯、毛抜き、ピンセット、体温計……生理用ナプキンとタンポンのパックまであった。  随分と用意がいいんだな。  箱の中身を見つめ、玲奈は無言で唇をなめた。  水乃玲奈を……わたしのコレクションに加えたかったから。  男が言ったことを思い出した。  きっと男はかなり前から、玲奈を誘拐し、ここに閉じ込めるための入念な計画を立てていたに違いなかった。  クロゼットの前を離れると、玲奈は再び足をふらつかせながら、さらに壁づたいに歩いた。コンクリートが打ちっぱなしの灰色の壁には、天井の照明灯のスイッチも、エアコンの温度や風量を調節するツマミもなかった。  突き当たりの角には合成樹脂製の白いバスタブが置かれていた。バスタブの真上にはシャワーのノズルがあり、周りには安っぽいビニール製のシャワーカーテンが設置されていた。高級なものではないが、シャンプーとトリートメント、ボディソープや石鹸《せつけん》なども添えられている。バスタブのすぐ脇には、やはり白い陶製のトイレの便器が据え付けられている。  そういえば、もうかなり前から、玲奈は膀胱《ぼうこう》が痺《しび》れるほどの尿意を感じていた。  おしっこ……しようかな?  玲奈は室内をぐるりと見まわした。監視カメラのようなものは見当たらなかった。  しばらくためらったあとで、玲奈は毛布で体を隠すようにして便座に腰を下ろした。便座には保温の設備はなかったが、室内の気温が高いために冷たさは感じなかった。  自分でも驚くほど大量の尿を放出したあとで、そばに据え付けられたトイレットペーパーを使って玲奈は陰部を拭った。 「痛いっ……」  長時間にわたって凌辱され続けた女性器に尿が染み、鋭く、刺すように痛んだ。  水を流して立ち上がる。わずかに目眩《めまい》がする。 「畜生っ……」  便器に流れる透明な水を見つめて、また呟く。  トイレのさらに脇には白い洗面台があった。洗面台の上には四角い鏡が嵌《は》め込まれていて、その前に白いプラスティック製のカップと、真新しいハミガキとハブラシ、それに安っぽいヘアブラシが置いてあった。  陶製の洗面台に縋《すが》り付くように立って、玲奈は鏡に顔を映してみた。  玲奈の顔は思った以上にひどいことになっていた。涙が涸《か》れるほど泣いたために瞼《まぶた》は異様に腫《は》れ上がり、流れ落ちたマスカラやアイラインで目の周りがパンダみたいに真っ黒になっていた。ファンデーションは斑《まだら》に剥《は》げ落ち、口の周りははみ出したルージュで赤くなっていた。自慢だった栗色の長い髪は、縺《もつ》れ合ってくちゃくちゃだった。  しばらく自分の顔を見つめていたあとで、玲奈は部屋の中央の大きなベッドに戻った。その部屋には椅子もなかったし、ソファもなかったから。  サイドテーブルに載った電話の受話器を持ち上げてみる。  プルルルル……プルルルル……プルルルル……プルルルル……プルルルル……。  5回の呼び出し音のあとに電話が繋《つな》がった。 「もしもし……」  受話器に向かって囁《ささや》きかける。 『どうかしましたか、水乃玲奈さん?』  低く、抑揚のない声——電話に出たのはあの男だった。 「お願い……家に帰して……お願い……」  玲奈は絞り出すように声を出した。 『諦《あきら》めてください』  低く、抑揚のない声が言った。そして、電話が切れた。  受話器を握り締めたまま、玲奈は唇を噛《か》んだ。  ああっ、これが夢だったら……今、目が覚めて、自宅の寝室のベッドにいたら……わたしの隣で啓太がいびきをかいて眠っていたら……そうしたら、どんなに嬉《うれ》しいだろう……そうしたらもう、わたしは、どんなことがあっても決して不平は言わない……。  水乃玲奈は唇を噛み締め続けた。目の奥から、また涙が込み上げて来た。 [#改ページ]   第2章     1.  ここ数日、テレビのワイドショーはその女の話題でもちきりだった。  女は1年半ほど前の晩、自宅のアパート前で見知らぬ男に誘拐され、どことも知れない密室に運ばれてそこに閉じ込められた。そして、1年半ほどのあいだ、毎日のように男から性的な暴行を加えられ、つい先日、都内の公園で解放されたと主張していた。  その証言によれば、当時22歳の大学生だった彼女は、今から1年半ほど前のバレンタインデーの深夜、恋人と別れて都内にある自分のアパートに戻って来た直後に、自分の部屋のドアの前で待ち伏せしていたらしい男に襲われ(スタンガンのようなものを首筋に押し当てられて失神させられたと彼女は言っている)、目隠しと猿轡《さるぐつわ》をされた上に全身を拘束され、車に乗せられてどこかに運ばれたのだという。  意識を取り戻した時、彼女は5メートル四方ほどの部屋に置かれたベッドに全裸で縛り付けられていた。やがて、その部屋にひとりの男が現れた。その男は30歳前後で、背が高く、とても痩《や》せていて、ひどく顔色が悪く、無表情だった。  男は全裸でベッドに縛り付けられた彼女に身を重ね、泣き叫ぶ彼女を何時間にもわたって、何度も繰り返し凌辱《りようじよく》したのだという。  彼女は泣きながら男に自分を誘拐した理由を訊《き》いた。だが、彼はそれには答えず、ただ彼女に、『あなたは自分のコレクションになったのだ』と言い、抵抗をしても無駄だから諦めるように言った。そして、その後も疲れを知らない機械のように、何度も彼女を犯し続けた。  それからも彼女はその部屋から1歩も出ることを許されず、1年半ものあいだ、そのコンクリートの密室で性的な暴行を受け続けた。何度も逃げ出そうと試みたのだが、それらの試みはいずれも失敗に終わり、そのたびに彼女は男から厳しい罰を受けた。  毎日毎日、執拗《しつよう》に繰り返される性的な暴行……それはまさしく悪夢のような日々で、彼女はしだいに生きる力を失い、考えるのをやめ、いつしかすべてを諦め、男の性の奴隷として生きるようになった。 「自分を人形なんだと思っていました」  ワイドショーの女性レポーターに、彼女は涙ながらに語った。  気が遠くなるほど長い地獄の日々が続き、自分はここで人生を終えることになるんだと彼女は考えていたという。  だが、つい数日前——突然、彼女は解放された。  薬物で意識を奪われ(太腿《ふともも》に何かを注射されたと女は証言している)、気が付いた時には都内の公園のベンチの上に横たわっていたのだという(その時、彼女は誘拐された時と同じTシャツを着せられ、誘拐された時と同じジーパンを穿《は》かされていた)。  閉じ込められている時には時間の感覚が完全に麻痺《まひ》していて、いったいどのくらいの期間が経過していたのかわからなかった。だが、解放されたあとで計算してみると、拉致《らち》されてから1年半もの時間が過ぎていたという。  まるでサスペンス映画のようなショッキングな話の内容に世間は騒然となった。  ワイドショーは連日、彼女のために多くの時間を費やしている。彼女本人も顔を隠し、名前を伏せてテレビの画面に何度か登場した。  拉致されている1年半のあいだに受けた心的外傷があまりにひどいため、彼女は今も通常の社会生活を営むことができず、医師による治療が続けられている。主治医によると、彼女のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状は非常に重いものだという。  彼女が失踪《しつそう》したあとすぐに、家族は警察に捜索願いを出していた。彼女には大勢の友人がいたし、結婚の約束をした恋人もいた。4月からは希望していたテレビ局への就職も内定していて、家出をするような理由は見当たらなかった。そのため家族は、彼女は何らかの事件や事故に巻き込まれたのではないかと考えていたようだった。けれど、その当時、警察は彼女の失踪を記録しただけで具体的な捜索は行っていなかった。  彼女が語ったところによると、彼女が閉じ込められていた5メートル四方ほどの部屋はコンクリートの壁と天井に囲まれていて、床には白いタイルが敷いてあった。壁の1カ所には大きなガラスが嵌《は》め込まれていたが、それは特殊なガラスのようで窓の向こうを見ることはできなかった。何度か割ろうとしたことがあったが、どうしても割れなかった。  部屋には時計はあったが、室内の明るさはいつも一定で、昼と夜との感覚が完全に失われてしまった。室温も一定に保たれていたようで、下着姿でいても(その部屋にはサテンの薄い下着とガウンとバスローブ以外に衣類はなかった)寒いと感じたことはなかったし、暑いと思ったこともなかったという。  その部屋には鉄製の大きなベッドのほかに、トイレと浴槽と鏡の付いた洗面台が設置され、小さな冷蔵庫と安っぽいビニール製のクロゼットがあった。冷蔵庫にはミネラルウォーターやワインのボトルが入っていた。ベッドのサイドテーブルには電話が置いてあったが、その電話にはダイヤルもプッシュボタンもなく、電話を掛けると必ず同じ男が出た。食事や着替えは1日に1度、その男が運んで来た。部屋の掃除などの細々としたことも、その男がひとりですべてしていたという。  その話に人々はひどく驚いたが、さらにショッキングだったのは、そこには、ほかにも女性が閉じ込められていたようだと彼女が語ったことだった。実際にほかの女性の姿を見たわけではなかったが、女性の声や悲鳴を何度となく聞いたと彼女は証言している。だからきっと、あそこにはほかにも部屋がいくつかあり、そこに自分のような女性が閉じ込められていたに違いない、と。  今では彼女は、あの男が言ったように自分は彼のコレクションだったのだと考えている。そして、自分のほかにも男は複数の女性をコレクションしているのだと確信している。  ほかにも女性が閉じ込められていた——彼女の証言を裏付けるかのように、テレビ局や警察には失踪した女性たちの情報が次々と寄せられていた。  現在では警察もようやく動き出した。だが、これまでのところ、彼女の証言や彼女が描いた男の似顔絵から犯人の男を特定するには至っていない。彼女が閉じ込められていたという部屋からは外の景色が見えなかったし、場所を特定する特別な音も聞こえなかったらしい。ただ、時折、遠くから、ピアノを弾いているような音と、船の汽笛のような音が聞こえ、時々、微《かす》かに、潮の香りのような匂いがしたと彼女は言っている。  公開された男の似顔絵を見る限り、犯人はなかなかの美男子だった。切れ長の目をしていて、頬がこけていて、鼻が高かった。  彼女は、犯人の男の最大の特徴として、いつも仮面を付けているかのように無表情だったこと、そして喋《しやべ》る声にまったく抑揚がなかったことを挙げている。 「何だか、ロボットかアンドロイドがいるようでした」  ワイドショーに出演した彼女は、繰り返しそう語った。  ロボット? アンドロイド?  なかなか的を射ている。  テレビの画面をじっと見つめたまま、彼は顔を歪《ゆが》めるようにして笑った。  Yさん——ワイドショーでは彼女をそう紹介している。けれど、彼は彼女の本名を知っている。  吉川友歌里《よしかわゆかり》。そうだ。それが彼女の名前だ。  曇りガラスの向こうに座っているために、一般の視聴者は吉川友歌里の容姿をはっきりと見ることができない。大学3年の時に『ミス・キャンパス』に選ばれたという経歴や、曇りガラスに透けて見えるほっそりとした姿から、彼女がなかなか美しい女性なのだろうと想像するだけだ。  けれど、もちろん、彼は吉川友歌里の容姿を知っている。おそらく誰よりもよく、知っている。  知的に整った吉川友歌里の顔を、ほっそりとした長い首を、小ぶりだが張りのある乳房を、性行為の最中に濡《ぬ》れた唇から発せられるその声を、彼女の華奢《きやしや》な肉体が伝えて来た体温を、彼の体液を飲み下す時の彼女の喉《のど》の鳴る音を……。  忘れるはずがない。彼は1年半にもわたって、全身で彼女を慈しみ続けたのだ。  本当は吉川友歌里を自分のコレクションとして、ずっとあそこに閉じ込めておきたかった。けれど、そういうわけにはいかなかった。  スペースには限りがある。そういうことだ。  これからも、新しいコレクションを手に入れようとすれば、その前に、現在所有しているコレクションを手放す必要があるだろう。だが、吉川友歌里のように解放してしまうと、今回みたいに世間が大騒ぎになってしまう。  だとしたら……どうすべきなのだろう? 庭に穴でも掘って生き埋めにしてしまうべきなのだろうか?  テレビを消して立ち上がる。大きく伸びをしながらバルコニーに向かう。窓の向こうに広がる細長い海を、目を細めて見つめる。  解放された吉川友歌里の衣服には、犬のものと思われる数本の毛が付着していたという。警察は現在、その獣毛の鑑定を進めているらしい。さらに警察は、解放された吉川友歌里が着けていた下着の購入先や、解放の直前に彼女が注射されたという薬物の種類や入手経路なども必死で調べているようだ。  似顔絵、ピアノの音、潮の香り、船の汽笛、犬の毛、ショーツとキャミソール、薬物の入手経路……いつか警察がここを突き止め、この家の中に踏み込んで来ることがあるのだろうか?  そうしたら、きっと世間は今以上の大騒ぎになるんだろうな。新聞や雑誌の記者や、ワイドショーのレポーターやカメラマンが何十人もここに押しかけて来るんだろうな。  海を行き交う船舶を眺めながら、まるで他人事のように彼は思う。     2.  暴力的なまでに照りつけていた真夏の太陽が、少し前、対岸の三浦《みうら》半島に吸い込まれるように沈んでいった。そして今、その残照がカモメたちの飛び交う空を幻想的なまでに美しく染めている。  空は刻々とその色を変えていく。明るいオレンジ色から少し青みを帯びた朱へ……赤みがかった紫へ……そして、暗く沈んだ紫色へ……ほんの一瞬、目を離した隙に、もう空にその色はなくなっている。おそらく、まったく同じ色はもう2度と地上に出現しない。  いつもそうしているように、彼はバルコニーの手摺《てすり》にもたれ、海からの風に髪をなびかせている。飛び交うカモメたちの鳴き声と岸壁に打ち寄せる波の音を聞きながら、夕暮れの空と海をぼんやりと眺めている。  そう。海だ。彼がもたれているバルコニーのすぐ向こうには、大河のようにも見える細長い海が横たわっている。その細長い海の上を、数え切れないほどたくさんの船舶が縦横に行き交っている。  漁船やタグボート、カーフェリーやモーターボートやクルーザー、タンカーや客船や貨物船、監視艇や駆逐艦……ふたつの半島に挟まれた狭い海域を、衝突しないのが不思議なほどたくさんの船舶が航行している。  いつものように、長いあいだ空と海とカモメたちとを眺めていたあとで、彼は薄暗い室内に戻った。  電気スタンドの明かりを灯《とも》す。ランプシェードを通した柔らかな光が、広々とした室内とその中央に置かれたグランドピアノとを優しく照らし出す。  いつものように、ピアノの前に座る。窓の向こうに広がる夕暮れの海と空を、またしばらく眺めていたあとで、細くて長い指を鍵盤《けんばん》に乗せ、ゆっくりと弾き始める。  夕暮れ時にピアノを弾く。それはもう何年も続いている彼の習慣だった。  広々とした部屋に美しい調べが流れる。  ショパン?  そうだ。ショパンだ。ショパンの練習曲第3番……『別れの曲』。  それにしても……彼の演奏力と、彼が向き合っているピアノとは少し不釣り合いのように見える。  演奏が極端に下手だというわけではない。ただ、ピアノが素晴らしすぎるだけだ。  そう。そのグランドピアノは、有名な交響楽団に所属している有名なピアニストが使うような素晴らしいものだ。数百万円……いや……それ以上のものだろう。  いったい誰のピアノなのだろう? こんな素人の演奏家に弾かれるのはピアノも不本意に違いない。  窓を開け放った部屋の中には、潮の香りが満ちている。時々、カモメたちの甲高い鳴き声や、低く響く船の汽笛が聞こえる。  細く長くしなやかな指で、彼はピアノを弾き続ける。今はもう窓の外は見ていない。目を閉じ、ゆっくりと体を前後に揺らしながら鍵盤を叩《たた》き続けている。  練習曲第3番を弾き終え、ポロネーズ第6番と第3番を弾き終えたところで彼は指を止めた。  顔を上げ、もうすっかり暗くなってしまった海を見つめる。  細長い海には、今も無数の船舶の光が行き交っている。海面に浮かべられたいくつものブイが、ゆっくりと上下しながら点滅を繰り返している。  ふだんはピアノを弾くと心が安らぐ。雑念が消え、頭の中が空っぽになる。けれど、今夜はそうではない。  なぜ?  理由はわかっている。それは新しいコレクションのせいだ。さっきから頭の中は、彼女のことでいっぱいなのだ。     3.  いつもそうしているように、時間をかけてゆっくりと入浴をする。  入浴を終えると、浴室の前で待ち構えていた犬たちに餌をやる。  兄のジローと、妹のフランソワーズ。地下室のコレクションを除けば、その2匹のジャーマン・シェパードだけが現在の同居人だ。  犬たちの餌が済むと、彼は素肌にタオル地のバスローブをまとってキッチンに向かい、いつもそうしているように、よく片付いた清潔なキッチンで夕食の支度をする。  今夜のメニューは、モミジオロシとアサツキとレモンを添えたオーストラリア産の生牡蠣《なまがき》。薄くスライスしたタマネギとセロリとベビーリーフを添え、オリーブオイルをたっぷりと掛けたヒラメのカルパッチョ。岩塩と黒|胡椒《こしよう》とオリーブオイルをまぶし、庭先で摘んだローズマリーと一緒にオーブンで焼いた若鶏のムネ肉。それに、ついさっき、近所のパン屋が届けてくれた焼きたての明太子フランスパンだ。  オーブンに入れた若鶏が焼き上がるあいだに、湿ったバスローブを脱ぎ捨てる。クロゼットから清潔なガウンを取り出し、それを素肌に羽織る。  今は股間《こかん》でだらりとなっている男性器に触れてみる。また、新しいコレクションのことを思い浮かべる。  やがてキッチンに素敵な香りが満ち、オーブンの若鶏がこんがりと焼き上がる。飴《あめ》色をした皮がパリパリになっていて、とてもおいしそうだ。  料理を大きなトレイに載せ、冷蔵庫からよく冷えたシャンパンを取り出す。  いつもシャンパンばかり飲んでいるわけではない。だが、今夜のような特別な晩には、取って置きのシャンパンを開ける。  そうだ。今夜は彼のコレクションが増えたお祝いなのだ。  料理とシャンパン、それに背の高いシャンパングラスの載ったトレイを持ってキッチンを出る。食事を終えた2匹の犬が彼の足元にまといつく。少し遊びたいのだろうか?  広々とした寝室に入り、その隅にある階段に向かう。  犬たちは階段のところで立ち止まる。その階段は決して下りないように、厳しくしつけられているのだ。 「いい子だ。すぐに戻るからね」  犬たちに言い残し、階段を下りて仄《ほの》暗い地下室に向かう。  地下室——そこは幅2メートル、奥行きが15メートルほどの薄暗くて、とても細長い、廊下のような空間だった。冷たく光る大理石の床の上に、ガラス板を載せたローテーブルがひとつあり、テーブルを挟んで向かい合わせに黒い革張りのソファがふたつ置かれている。ほかに家具らしいものは何もない。  その細長い空間の両側の壁には、縦1メートル横2メートルほどのガラスが3枚ずつ、合計で6枚、壁に埋め込まれるように嵌《は》まっている。それぞれのガラスからは柔らかな光が漏れて、まるで水族館の水槽のように、薄暗い廊下を照らしている。  そう。一見するとそこは、両側に巨大な水槽の並んだ小さな水族館のようだった。  水族館の分厚いガラスの向こうには、鮮やかな熱帯の魚たちが、あるいは巨大なサメやエイが、あるいは愛嬌《あいきよう》のあるペンギンやアザラシたちが泳いでいるものだ。けれど……その細長い空間の両側に並んだ分厚いガラスの向こう側にいるのは、熱帯の魚でも、巨大なサメやエイでも、愛嬌をふりまくペンギンやアザラシでもなかった。  スリッパを脱いで裸足《はだし》になる。火照った足裏に、大理石の床のひんやりとした冷たさが心地いい。  運んで来たトレイをローテーブルの上にそっと置くと、ソファの上に投げ出されていたリモコンを拾い上げて操作する。数秒後に……薄暗く細長い空間に、モーツァルトのピアノ協奏曲が低く流れ始めた。  汗をかいたシャンパンのボトルを手に取り、慣れた手つきで栓を抜く。  ポン。  乾いた小気味のいい音が、密閉された空間に響く。  重い暗緑色のボトルを慎重に傾けてシャンパンをグラスに注ぐ。外気に触れて急激に膨張した液体が、細長いグラスの縁にまで一気に上がって来る。白く滑らかな泡がグラスの縁を乗り越えて流れ落ち、細いガラスの脚を伝ってテーブルを濡《ぬ》らす。  グラスを手にソファに腰を下ろす。小さな気泡が細長いグラスの内側に無数に付着している。まずグラスを耳に近づけ、泡が弾《はじ》ける音を音楽でも聴くかのように楽しむ。  今度はグラスを鼻に近づけ、目を閉じてその爽《さわ》やかな葡萄《ぶどう》の香りをしばらく味わう。それから、そっと口に含む。  気泡が一気に弾け、口や喉《のど》にチクチクと心地よい刺激を与えてくれる。芳醇《ほうじゆん》な味と香りが口いっぱいに広がっていく。  小さく喉を鳴らして口の中のシャンパンを飲み込んだあとで、顔を上げて、目の前のガラスの向こうを見る。  壁に嵌め込まれた分厚いガラスの向こう側——灰色のコンクリートに囲まれた部屋の中央のベッドの上に——毛布にくるまったほっそりとした女がうずくまっている。  昨日の深夜からきょうの夜明けまで6時間近くにわたって、彼の下で泣き、喘《あえ》ぎ、悶《もだ》え、のけ反り、悲鳴を上げ、呻《うめ》き続けていた女——彼に繰り返し凌辱《りようじよく》されながら、「許して」「お願い」「家に帰して」と哀願し続けていた、水乃玲奈という27歳の主婦。  解放した吉川友歌里の代わりに彼のコレクションになったのが彼女だった。  水乃玲奈。ああっ、ついに……ついに彼女が自分のものになったのだ。  ここからでは顔は見えない。だがどうやら、水乃玲奈は眠っているようだった。骨張った体に巻き付けられた毛布が、規則正しい上下運動を繰り返している。毛布からはみ出した尖《とが》った肩が、時折、びくっと痙攣《けいれん》するかのように動き、そのたびに、細い首に巻かれたネックレスが光る。  どんな夢を見ているのだろう?  それは彼にはわからない。けれど、彼女が今、楽しい夢を見ているのでないことだけは想像がついた。  水乃玲奈が自宅の玄関で首筋にスタンガンを押し当てられてから、すでに30時間以上が経過している。その30時間は彼女にとって悪夢以外の何物でもなかったはずだ。  さぞ辛《つら》かっただろう。  彼は彼女の驚きを思う。この30時間に彼女に襲い掛かった吐き気を催す恐怖を、言葉にできないほどの嫌悪を、やり場のない怒りを、かつて覚えたことがないほどの屈辱感を、猛烈な苦しみや耐え難い痛みを、気が狂いそうになるほどの不安を、そして、言いようもない悲しみと、叫び出したくなるほどの悔しさを……芳醇なシャンパンを味わいながら、彼は思い浮かべてみる。  驚き、恐怖、嫌悪、怒り、屈辱、不安、悲しみ、悔しさ……それまでの27年の人生で彼女に襲い掛かった負の感情のすべてを合計しても、この30時間で彼女が味わわされた負の感情の総量には達しないだろう。  可哀想?  いや……そうは思わない。  美しい蝶《ちよう》を捕獲して殺し、標本箱に並べてコレクションする人たちが、標本にされる蝶を哀れんだりはしないように……彼は女たちを哀れまない。そんな人間には、コレクターとしての資格も資質もない。  眠り続ける女を眺めながら、シャンパンを口に含む。低く響き続けるピアノ協奏曲に耳を傾ける。  目を閉じ、水乃玲奈を思い浮かべる。硬直した男性器が突き入れられた瞬間に彼女が漏らした声や、その瞬間の彼女の体の動きや、涙を流しながら彼に哀願していた彼女の切なげな声を思い出す。  すると……ガウンの下の男性器に、またゆっくりと血液が流れ込み始める。  えっ?  体内にあったすべての精液を使ってしまったと思っていたのに……これはいったい、どうしたというのだろう?  暗緑色のボトルに手を伸ばし、グラスに新しくシャンパンを注ぐ。男性器はさらに硬直を続け、今ではガウンを強く押し上げている。  眠っているだけの女をいつまで眺めていても、しかたがない。目を覚ましてしまった欲望は、そんなことでは治まらない。  グラスを手に、彼はソファから立ち上がる。そして、テーブルの真向かいに置かれた、もうひとつのソファに移動する。  静かに顔を上げる。  それまで彼の背後にあったガラスの向こう——そこに、別の女がいるのが見える。  女は濃紺の下着姿でベッドに横たわり、立てた左腕で頭を支え、肩甲骨の浮き出た痩《や》せた背中をこちらに向けている。  疲れ果てて眠っている水乃玲奈を起こすのは忍びない。しかたがない。今度は彼女に相手をしてもらおう。  硬直した男性器をガウンの上から握り締めながら、冷たいシャンパンを口に含み……ゆっくりと飲み干す。  自分の喉がコクリと鳴った瞬間——口の中に放出された体液を女が飲み下す時の音を思い出した。  ガウンの下で、男性器がさらに強く硬直した。     4.  カラスアゲハを初めて見たのは、いつのことだったろう?  ずっと昔……今から20年以上も前……まだ小学校の4年生か5年生の頃のことだったと思う。  あの頃すでに彼は、今と同じように無口で、今と同じように感情の起伏がなく、今と同じように人見知りをする性格だった。  彼の父は町でいちばんの資産家だったから、いじめられるというようなことはなかった。けれど、彼が休み時間にクラスのみんなと校庭で遊ぶことはなかったし、放課後に公園や空き地でサッカーやソフトボールをすることもなかった。  教師からの通信簿にはいつも、『真面目で勉強はできますが、喜怒哀楽の感情表現には乏しく、社交性や協調性に欠けるようです』と書かれていた。  決して笑わず、決して怒らず、誰とも喋《しやべ》らず……それでもクラスでいちばん勉強ができて、クラスでいちばん足が速く、クラスでいちばん楽器の演奏がうまく、柔道とボクシングの道場に通っている彼のことを、クラスのみんなは『アンドロイド』と呼んでいた。  誰が言い出したのかは、もう忘れてしまった。きっと『安藤』という彼の苗字《みようじ》をもじったのだろう。  アンドロイド——彼はそのあだ名が気に入った。そして、本当にアンドロイドになってしまいたいと思ったりもした。  そんなある日、いつものように犬を連れて森の中を歩いていた彼は、頭上を横切る美しい物体に気づいた。  あっ。  それは黒くて大きな蝶だった。  黒? いや、そんな単純な色ではない。その蝶の大きな羽は、黒く輝く金属片の上に鮮やかな緑や青や赤や銀色の金属粉を振り撒《ま》いたような、とても複雑な色合いだった。羽全体が薄い金属で作られているかのように、木漏れ日を受けて信じられないほどに美しく輝いていた。  蝶を目にしたその瞬間、彼は生まれて初めての激しい感情に襲われた。  ときめき?  そうだ。あの瞬間、おそらく生まれてから初めて、彼はときめいたのだ。  気が付くと、彼は夢中で蝶を追っていた。  けれど、追いつくことはできなかった。大きく美しいその蝶は、降り注ぐ木漏れ日に羽を輝かせながら、薄暗い森の中をひらひらと縦横に飛びまわり、やがて彼の視界から消えてしまった。  美しい蝶は彼の視界から消えた。だが、その脳裏から消えることはなかった。  いったいあれは、何だったんだろう?  翌日、今度は犬は連れず、その代わり自宅の物置に放り込まれていた捕虫網を持って、彼は森に分け入った。そして、昨日、蝶と遭遇した近くの灌木《かんぼく》の茂みに身を隠した。  あの蝶に再び巡り会うことができるのだろうか?  彼は待ち続けた。いつまでも待ち続けた。  苦ではなかった。アリジゴクやクモやカマキリが待つことを苦にしないように、彼もまた待つことを苦にはしなかった。  汗ばんだ手で捕虫網の柄を握り締め、地面に厚く堆積《たいせき》した落ち葉の上にうずくまって彼は待った。葉の陰で獲物を待ち続けるカマキリのように、ほとんど身動きせずに、彼はただ待ち続けた。  静かだった。  鬱蒼《うつそう》とした初夏の森のあちらこちらで、いろいろな鳥たちが囀《さえず》っていた。時折、小さな獣が下草を踏んで駆け抜けるような音が聞こえた。聞いたことのない虫の声もした。彼が微《かす》かに身を動かすたびに、足の下で落ち葉の絨毯《じゆうたん》が湿った音をたてた。  薄暗い森の中には木漏れ日が、何本もの細い光の筋となってスポットライトのように降り注いでいた。時々、その光の筋の中を、小さな虫たちがよぎっていった。  いったいどのくらいそうしていただろう? 突然、頭上に蝶が姿を現した。  とても大きくて、とても美しい蝶——彼は夢中で立ち上がり、捕虫網の柄を握り締めた手を夢中で振り下ろした。  次の瞬間、あの美しい蝶は捕虫網の白く柔らかなガーゼの中にいた。  そう。それがすべての始まりだった。  捕獲した蝶を持ち帰った彼は、すぐに昆虫図鑑と百科事典を使って調べてみた。  蝶の種類はカラスアゲハ——東アジア全域に広く、ごく普通に分布している種のようだったが、彼がその蝶を見たのは昨日が初めてだった。  こんな美しい生き物の存在に、どうして気づかなかったんだろう?  それは本当に美しい蝶だった。それほど美しい生物が、この地上に存在していること自体が奇跡のように思われた。  百科事典によれば、森の中に暮らすカラスアゲハには、いつも決まって通る道があるということだった。昨日、犬を連れた彼はたまたまその蝶の道を横切り、カラスアゲハに遭遇したらしかった。  蝶の道——何だか、異次元の扉を見つけてしまったようでドキドキした。  これからあの森にいるすべてのカラスアゲハを捕まえて自分のものにしてやる。  そう思った瞬間、体がカッと熱くなった。まるで全力疾走したあとのように心臓が高鳴り、熱い血液が毛細血管の隅々にまで流れ込むのがわかった。  その日まで、彼には趣味などなかった。ピアノは母親から、柔道とボクシングは父親から、強制的に習わされているだけだった。将来の夢もなかったし、希望のようなものもなかった。生きていて楽しいと感じることもなかった。  けれどその日から、カラスアゲハを蒐集《しゆうしゆう》することが彼の生きる目的になった。  ひとつ手に入れると、もうひとつ欲しくなる。それを手に入れると、また次のものが欲しくなる。  それが蒐集するということだった。  その夏から秋にかけて、彼は毎日のように森に出掛けた。そして、灌木の茂みに身を隠してカラスアゲハを待ち伏せし、柔らかなガーゼの捕虫網を使って捕獲し、パラフィン紙で作った三角巾《さんかくきん》に慎重に収めてから指先で蝶《ちよう》の胸部を圧迫して殺し、自宅に持ち帰り、木製の展翅板《てんしばん》に広げて羽の形を整え、風通しのいい日陰で乾燥させ……それからガラスの蓋《ふた》の付いた標本箱に収納して、うっとりと眺めた。  たとえどれほど森が広大でも、蝶の通り道さえわかっていれば、カラスアゲハに巡り会うことはそれほど難しいことではなかった。その年の秋が深まる頃には、彼の部屋の壁をカラスアゲハの標本箱が埋め尽くすことになった。  いつもぼんやりしていた息子が何かに夢中になっているのを、彼の母は嬉《うれ》しく思っているようだった。けれど、1度、「どうして同じ蝶々ばかり集めてるの?」と、不思議そうに訊《き》いたことがある。「今度はほかの蝶々を捕まえたら?」と。  確かに母の言う通りかもしれなかった。アゲハ、キアゲハ、クロアゲハ、アオスジアゲハ、モンシロチョウ、モンキチョウ、シジミチョウ、ジャノメチョウ、タテハチョウ……美しい蝶は自宅の周りに無数に飛び交っていたから。  けれど、彼はカラスアゲハ以外の蝶には見向きもしなかった。  彼自身にも、なぜ自分がそれほどカラスアゲハに固執するのかはわからなかった。ただ森の中で、カラスアゲハが木漏れ日に照らされながら舞っているのを見るたびに、どうしても自分の所有物にしたくなってしまうのだ。  彼は手当たり次第にカラスアゲハを捕獲し、ガラスの蓋の付いた箱に収めた。  翌年の夏も、その翌年の夏も、そのまた翌年の夏も……彼はカラスアゲハの捕獲を続けた。  いつの頃からか、彼の自室の壁は何千というカラスアゲハの標本で埋まった。父も母も少し呆《あき》れていたようだったが、文句は言わなかった。  年月が過ぎ……やがて、地元でスーパーマーケットのチェーンを展開していた父が死んだ。それからさらに年月が過ぎ……数年前には母も死んだ。そして、もう自室の壁にはガラスの蓋の付いた標本箱を並べるスペースがなくなり、物置も標本箱でいっぱいになり、ある日……彼は唯一の趣味だったカラスアゲハの蒐集をやめた。     5.  華奢《きやしや》なシャンパングラスをローテーブルに慎重に置いて立ち上がる。  まっすぐに立つと、ガウンの下の男性器が一段と硬直を増しているのがわかる。  下腹部で痛みを覚えるほどに膨れ上がっていく欲望——それを鎮める方法は、ひとつしかない。そのことについては、昔からよく知っていた。  細長い空間に並んだ6枚のガラスの、それぞれの脇に並んだ6枚のドアのひとつに近づく。ガウンのポケットから鍵《かぎ》の束を取り出し、そのひとつを選んで鍵穴に差し込む。  カチャ。  密閉された空間に鍵の外れる音が響く。  ドアの上下に取り付けられたふたつの補助錠を同じように外したあとで、黒く塗られた金属製のドアを開く。  下着姿でベッドに横になっていた女がゆっくりと身を起こした。肩甲骨の浮き出た女の華奢な背中を、長くて黒い髪が、命をもっているかのように美しく流れた。 「こんばんは、早苗さん」  抑揚のない声で女に話しかけながらドアを閉める。今ではそんな必要もないだろうが、念のためにドアにしっかりと鍵を掛ける。  ベッドの上の女が、その細面の顔をゆっくりと彼のほうに向ける。切れ長の目で彼を見つめる。その顔は完全に無表情で、微笑みもなければ、嫌悪も怒りもない。  女は丈の短い濃紺のサテンのキャミソールをまとい、同じ素材と色の小さなショーツを穿《は》いている。女が身に着けているのはそれだけ。キャミソールの薄い布地の向こうに、乳首が尖《とが》っているのがわかる。  香山早苗は25歳。いや……今では26歳になったのだろうか? 彼女がここに来てから、もうすぐ3年になる。  彼女はもともとがほっそりとした体つきだった。だが、ここに来てからの3年で、さらに少し痩《や》せたように思える。皮膚にうっすらと残っていた水着の跡も、今では完全に見えなくなってしまった。  自分を見つめ続ける女の目を、彼は見つめ返す。  日本人形のような切れ長の目——どれほど見つめても、今ではそこに何の感情も読み取ることはできない。かつてそこに確かにあった驚きも、恐怖も、嫌悪も、怒りも、屈辱も、不安も、悲しみも、悔しさも……今では完全に消えてしまっている。  進化。そうだ。彼女は彼の仲間に進化したのだ。彼と同じ種に——喜怒哀楽の感情をもたない機械に、アンドロイドに進化したのだ。 「早苗さん……もう、食事は済みましたか?」  女の目を見つめ、ぎこちなく微笑みながら彼は低く尋ねる。  けれど、その質問には意味などない。彼女の食事が済んだことは、床に置かれたトレイを見ればわかるのだから。 「何をしに来たの?」  色のない薄い唇を、ほんの少し動かして女が答える。その声は彼と同じように低く、彼と同じように抑揚というものがない。  何をしに?  その質問にも意味がない。ここに来た彼が求めるものは、たったひとつしかないと彼女は知っているはずなのだから。  彼は無言で素肌にまとったガウンの紐《ひも》を解く。それを脱ぎ捨て、全裸になる。  女が彼の股間《こかん》に視線を移す。そこに直立している男性器を見つめる。だが、女の目の色が変わることはない。  女は長い髪を緩慢に掻《か》き上げ、唇をなめた。それから……細くて長い脚を鉄製のベッドから下ろして立ち上がった。  彼はゆっくりと女に近寄った。骨張った女の腰を両手で抱き寄せ、上を向いた女の顔を見つめる。その唇に、静かに唇を重ね合わせる。  女の背中に流れるまっすぐな髪を撫《な》でながら、女の口の中に深く舌を差し入れる。女の口からはほのかに、白ワインの味と香りがした。  もう随分と前、まだここに連れて来られたばかりの頃、唇を合わせている時に、彼女が彼の舌を噛《か》み切ろうとしたことを思い出す。  あの時は激しく出血して、何時間も血が止まらなかった。  だが今では、彼女もそんなことはしないだろう。つまりそれが、『しつけられる』ということなのだ。  ぴったりと唇を合わせたまま、右手で女の乳房に触れる。少女のような胸の膨らみを、薄いキャミソールの上からゆっくりと揉《も》みしだく。  女が彼の口の中に、くぐもった低い声を漏らす。ふたりの体に挟まれた男性器が、さらに硬直を増す。  唇を離し、女の目を見つめる。女が彼を見つめ返す。けれど、女の目は相変わらず人形のようで、そこからは何の感情もうかがうことができない。  彼は女がまとった丈の短いキャミソールの裾《すそ》に指をかける。それを脱がせるために、ゆっくりとまくり上げる。  いつものように、香山早苗は抵抗しない。それどころか、彼の動きを助けるかのように両手を挙げる。  女の上半身から取り除いた濃紺のキャミソールを彼は床に落とす。剥《む》き出しになった女の小さな乳房をじっと見つめる。それからまた、女の体を抱き寄せる。 「早苗さん。今夜は口で……お願いします」  女の耳元で、彼は低く囁《ささや》く。  女はしばらく無言で彼の目を見つめていた。それから、膝《ひざ》と腰を折り曲げ、ゆっくりと体を沈めていき……彼の足元に跪《ひざまず》いた。  白いタイルの上にうずくまった女が、そのほっそりとした指で男性器に触れる。目の前のものをじっと見つめ、また唇をなめる。それから女は目を閉じ、唾液《だえき》に光る唇を硬直した男性器にかぶせていった。  3年近くもこの部屋の住人として彼の相手を続けている女——香山早苗の顔が前に後へと、リズミカルに動き始める。  濡《ぬ》れた男性器が女の唇から出たり入ったりするのを、しばらくじっと見つめていたあとで、彼は静かに目を閉じた。  やはり彼の体内には、もうほとんど精液が残っていないようだった。射精するまでに30分近くもの時間がかかった。  その30分ものあいだ、女はタイルの床に膝を突き、硬直した男性器を口に含み、疲れを知らない機械のように顔を前後にリズミカルに振り続けた。  そう。香山早苗には自分のすべきことがわかっている。2匹のシェパードと同じように、彼女は非常によくしつけられているのだ。  いつもそうしているように、口の中にようやく放出されたドロドロとした液体を、香山早苗は小さく喉《のど》を鳴らして飲み下した。それから、いつもそうしているように、手の甲で無造作に口を拭《ぬぐ》い、緩慢な動作で立ち上がった。 「早苗さん……ありがとう」  キャミソールを拾い上げてベッドに腰を下ろした女に、彼は低い声で礼を言った。  女は答えなかった。無言でキャミソールをまとい、サイドテーブルに置かれていたグラスの中のワインを無言で飲んだだけだった。  足元のガウンを拾い上げ、素肌にそれを羽織りながら部屋の隅に置かれた冷蔵庫に歩み寄る。冷蔵庫の扉を開け、「1本いただいていきます」と女に断ってから、未開封の白ワインのボトルを取り出す。  ワインは普通、冷蔵庫に入れたりしないものだということは知っている。けれど彼は、白ワインも赤ワインも冷蔵庫でキンキンに冷やして飲むのが好きだった。  部屋を出る前にもう1度、ベッドの上の女の体を抱き、唇を合わせる。女は無言でそれを受け入れる。  香山早苗の口の中は少しだけヌルヌルしていて、少しだけ塩辛い。これが精液の味なのだろうか? 「おやすみなさい、早苗さん……」  それだけ言うと女から離れ、冷えたワインボトルを手に、鍵の掛かった鉄製のドアに向かう。ドアのところで振り向く。  だが、女はすでに、彼に骨張った背中を向けていた。     6.  再び水乃玲奈のいる部屋のほうを向いて黒革のソファに腰を下ろす。  分厚いガラスの向こう側——水乃玲奈は今もベッドの上で、ピンク色の毛布にくるまって眠り続けている。よほど疲れているのだろう。  テーブルの上に置いたままのシャンパンは、すでに生ぬるくなって、すっかり気が抜けてしまったようだ。  シャンパンの代わりに、香山早苗の部屋の冷蔵庫から出したばかりの冷えた白ワインをグラスに注ぐ。ベッドで眠り続ける水乃玲奈を眺めながら、生牡蠣《なまがき》やヒラメのカルパッチョや若鶏のオリーブオイル焼きを食べ、ワインのグラスを傾ける。  こちらに背中を向けているので、水乃玲奈の顔は見えない。けれど、彼女がとても美しいことはわかっている。  そうだ。水乃玲奈は彼の最高のコレクションなのだ。  ああっ……ついに手に入れた。  昔……あの薄暗い森の中の蝶《ちよう》の道で、驚くほど大きく、驚くほど美しい羽をしたカラスアゲハと遭遇した時のことを思い出す。  それまでに彼は何百匹という数のカラスアゲハを捕獲してきた。だが、それほど大きく、それほど美しいカラスアゲハを見たのは初めてだった。  彼はいつも以上に慎重に蝶を追いかけ、美しい羽を傷つけることがないように、いつも以上に慎重に捕獲した。  そのカラスアゲハは本当に大きく、本当に美しかった。大きさも美しさも彼のコレクションの中ではいちばんだった。  その晩、彼はその蝶を広げた展翅板《てんしばん》をベッドの枕元に置いた。そして、眠る直前までうっとりとなって眺めていた。いや……夜中に目を覚ますたびに、手に取っては眺めた。そしてそのたびに、夢ではなかったんだと思って安堵《あんど》した。  最高のコレクション——ベッドの上の水乃玲奈を眺めながら、彼はそんな昔のことを思い出した。  彼が食事を終え、ボトルのワインがほとんど空になった頃……ベッドで眠っていた水乃玲奈が身動きを始めた。  毛布を体に巻き付けたまま、女がそのほっそりとした上半身をベッドに起こす。  頭痛がするのだろうか? 首を左右に振っている。  彼女が何を思っているか、だいたいの想像はつく。たぶん今、彼女は、すべてが夢だったらよかったのにと思っているのだ。そして、これが夢ではないという事実におののいているのだ。  水乃玲奈はベッドの上で何度か部屋の中を見まわし、それから……彼のほうに体を向け、こちらをまっすぐに見つめた。  彼を見ている?  いや、そうではない。水乃玲奈にはこの特殊なガラスの向こうを見ることはできない。彼女はただ、ガラスに映った囚《とら》われの身となった自分の姿を見つめているだけだ。  水乃玲奈……ああっ、何と美しいのだろう。何と可愛らしく、何と上品で、何と色っぽいのだろう。  香山早苗と違って、水乃玲奈はまだしつけられていない。檻《おり》に入れられた野生のクマのように、突然、襲い掛かってくるかもしれないし、牙《きば》を剥いて噛み付いてくるかもしれない。だから、充分に気を付けなくてはならない。 「時間をかけてゆっくりと、しつけをしましょうね」  ガラスの向こうの水乃玲奈に微笑む。グラスの底に残ったワインを飲み干す。 [#改ページ]   第3章     1.  男が部屋を出て行くとすぐに、香山早苗は鉄製のベッドから下りた。  いつものように、部屋の片隅のバスタブにまっすぐに向かう。いつものようにバスタブの中に立ち、どこかで見ているかもしれない男の視線を遮断するためにシャワーカーテンをぴったりと閉じる。  そう。この部屋では、この白いビニール製のシャワーカーテンの内側にしか、彼女がプライバシーを確保できる空間はなかった。  バスタブの中でサテンのキャミソールを脱ぎ、ショーツを脱ぐ。それらをシャワーカーテンの外に放り投げる。そしていつものように腰を屈《かが》め、指先を喉の奥深くまで突っ込み、舌の付け根を強く刺激する。  いつものように……今ではすべてが慣れたものだった。  やがて、いつものように胃が苦しげな痙攣《けいれん》を始め、食道を焼きながら込み上げて来た嘔吐《おうと》物が勢いよく口から溢《あふ》れ出た。  ドロドロの嘔吐物がバスタブの底で跳ね飛び、早苗の脚や足首を汚していく。嘔吐物はぐちゃぐちゃになっていて、そこに何があるのかははっきりしない。  けれど、その嘔吐物の中にはあの忌まわしい液体が——ついさっき、あの男が早苗の口の中に放出していった体液が、間違いなく混じっているのだ。  ここに連れて来られるまで、早苗は男性の体液を嚥下《えんげ》したことなどなかった。かつて恋人だった男性も幾度となく早苗に口での愛撫《あいぶ》を求めたし、幾度となく彼女の口の中に体液を放出した。けれど、彼は早苗にそれを飲めとは言わなかった。  だが、あの男は、早苗が口の中の体液を吐き出すことを許さなかった。早苗が喉を鳴らし、それを嚥下するまで、いつもじっと彼女を見つめていた。  服従の証《あか》し——たぶん、そういうことなのだろう。  30秒近く続いた胃の痙攣が治まるのを待って、早苗はシャワーの栓をいっぱいに開いた。そして、バスタブの底に広がった嘔吐物を丁寧に洗い流したあとで、いつものように痩《や》せた全身に熱い湯をくまなく浴びた。  飲まされた体液はすぐに吐き出す。男に触られたあとは、すぐに全身を洗い清める。それが今の彼女にできる唯一の反抗だった。  目に涙が滲《にじ》み、視界が霞《かす》む。けれど、その涙は悲しみのためではなく、無理に嘔吐したためだった。  そう。今ではもう、早苗が悲しむことはなかった。驚くこともなかったし、怒りに身を震わせることもなかった。  とうの昔に……そんな感情は擦り切れてしまっていた。  コンクリートの壁とコンクリートの天井。床に敷き詰められた白いタイル——香山早苗はこの約5メートル四方の密室で、たぶん……3回の誕生日を迎えた。24歳の誕生日と、25歳の誕生日と、26歳の誕生日。  たぶん……そう。たぶん。  けれど、6月20日の誕生日がいつだったのかは、早苗にはわからなかった。もう今では、きょうが何月何日なのか、早苗には見当もつかなかった。  早苗がこの密室に連れて来られたのは8月10日だった。それはわかっている。けれど、あの忌まわしい日からいったい、どのくらいの時間が過ぎたのかは、もうはっきりしなかった。今では知りたいとも思わなかった。  ここに連れて来られるまで、早苗は大手航空会社の客室乗務員として旅客機で世界中を飛びまわっていた。その仕事はとても忙しく、精神的にも肉体的にもかなりハードなものだったが、やり甲斐《がい》はあったし、充実感もあった。  そう。あの頃の早苗は毎日が充実していた。  けれど、3年前の(たぶん3年前だと思う)8月10日を境に、早苗の人生は完全に変わってしまった。  なぜこんなことになってしまったのかは、今もわからない。ここがどこで、あの男が誰なのか……それもわからない。  なぜ? なぜ? なぜ?  最初の頃はどうしても理由が知りたかった。どんなことにも必ず理由があるはずだから。この理不尽なことの理由がわかれば、もしかしたら、いくらかは気が落ち着くかもしれないと思った。  けれど……今ではもう、どうでもよかった。理由がわかっても、わからなくても、彼女の置かれた状況に変化はないのだから。  諦《あきら》め——そうだ。諦めだ。  もちろん、最初から諦めていたわけではない。早苗は簡単に諦めてしまうタイプの人間ではなかった。彼女は人並み以上に自尊心が強かったし、人並み以上に生への執着も強かった。やりたいことも、欲しいものも数え切れないほどあった。  頑張って自分の力で人生を切り開いていく。欲しいものがあれば、自分の力でそれを手に入れようと努力する。常に自分の意見を持ち、必要な時はそれをはっきりと言う。それが彼女のモットーだった。  ここに閉じ込められたばかりの頃、早苗は毎日、ほとんど1日中、必死で脱出の方法を考えていた。考えていたばかりではなく、そのほとんどを実行していた。  口に押し込まれた男性器を食い千切ろうとしたこともあったし、キスをされている途中で男の舌を噛《か》み切ろうとしたこともあった。さまざまな方法で壁に嵌《は》め込まれたガラスを叩《たた》き割ろうとしたこともあったし、ドアの鍵穴《かぎあな》にいろいろなものを突っ込んで錠を壊そうとしたこともあった。  けれど……それらのすべては失敗に終わった。そして、企てが失敗に終わるたびに、男からさまざまな手痛い罰を受けた。  反逆を企て、その罰を受ける……反逆を企て、その罰を受ける……反逆を企て、その罰を受ける……早苗の中に確かに存在した怒りと反抗心は、そのたびごとに薄れてゆき、頼りなくなっていき……やがて、それに代わって恐怖と脅《おび》え、そして諦めが全身を満たしていった。  罰を受けるのはいつでも辛《つら》いものだった。けれど、その中で最悪だったのは、肩に焼き印を押された時だった。  あの時、彼女は口の中に押し込まれた男の舌を噛み切ろうとしたのだ。男は激しく出血したが、舌を噛み切ることはできなかった。そして、その反逆に対する罰として、男は彼女をベッドに縛り付け、真っ赤になった熱い焼き印を彼女の左肩に押し付けた。  皮膚に付けられた消すことのできない烙印《らくいん》——あれが決定的だった。それ以降、彼女は反逆する気力を失った。  何をやっても無駄だ。  いつの間にか、ドロリとした虚無感が彼女の肉体の隅々までを占領していた。  早苗が反逆を企てると男は厳しい罰を与えたが、従順に振る舞うと彼は彼女を優しく扱ってくれた。  痛め付けられるより、優しくされたほうがいいに決まっている。  早苗は徐々に、男に対して従順に振る舞うようになっていった。それはサーカスの猛獣たちの心理と同じだった。  そう。サーカスの猛獣と同じように、早苗は完全にしつけられ、完全に飼い慣らされてしまったのだ。     2.  いつの頃からか……あの男が部屋に姿を現すと、香山早苗は自分を人形に変えるようになった。それが今の彼女にできるただひとつの防衛策だった。  人形は泣かないし、悲しまない。叫ばないし、苦しまない。  早苗は人形なのだから……だから、さっきのように30分にわたって口に男性器を含まされ、髪を鷲掴《わしづか》みにされ、喉《のど》の奥に乱暴に男性器を突き入れられても……早苗は泣かないし、悲しまない。時に噎《む》せて、咳《せ》き込んでしまうことはあるけれど、今ではもう屈辱に身を震わすこともない。肩の凝りや、首の筋肉の張りや、顎《あご》の疲れを訴えることもない。  かつての早苗は、口の中に放出された男の体液を飲み下すのにひどく苦労したものだった。頭ではそうしなくてはならないとわかっていても、おぞましさと嫌悪感に喉の筋肉が硬直したようになり、胃が硬直して縮こまり、どうしても飲み込むことができなかったのだ。  けれど、自分を人形に変える術《すべ》を覚えてからは、それも苦ではなくなった。今ではワインを飲むのと同じように、いとも簡単に男の体液を飲み下してしまえる。  コクリ。  そう。簡単なことだ。  早苗は心を持たない人形なのだから……できないことなど、もう何もない。  シャワーを終えると、香山早苗は素肌に白いバスローブを羽織ってベッドの端に腰を下ろした。  壁のガラスに映った自分の姿を見つめる。食事の量が少ないせいだろうか? それとも、体液を飲まされるたびに嘔吐《おうと》しているせいだろうか? ここに閉じ込められてから随分と痩《や》せた。  3キロ? 5キロ? 体重計がないのでわからないが、もしかしたら、もっと体重が落ちたかもしれない。頬からは肉がそげ落ち、鎖骨や肋骨《ろつこつ》が痛々しいほどに浮き上がり、もともと大きくなかった乳房がひとまわり小さくなり、目が落ち窪《くぼ》んでいる。  このガラスの向こうに、あの男は今もいるのだろうか? 冷たいワインを飲みながら、今もわたしを見ているのだろうか?  そのガラスは特殊なもので、どんな方法を使っても割ることはできない。そして、こちらからは部屋の外が見えないけれど、向こう側からはこの部屋の中が見える。今では早苗はそれを察していた。  けれど、たぶん……今はあの男はわたしを見ていないだろう。あの男は今、ここに新しく連れて来た女を見ているのだろう。  さっき男の足元に跪《ひざまず》いて男性器を口に含んでいる時に、香山早苗はそれを直感した。  早苗が来たばかりの頃、男は1日に2度も3度も、時にはそれ以上も、早苗の肉体を繰り返し求め、そのたびに彼女の中に大量の体液を注ぎ込んだものだった。  そう。男は信じられないほど性欲が旺盛《おうせい》だった。まるで彼の体の中には、無尽蔵に精液が存在するのではないかと思うほどだった。  その男がさっきは30分も射精しなかった。それは、たぶん、少し前に何度も性交をしたからだろう。来たばかりの頃の早苗に対してそうだったように、何時間にもわたって、何度も何度も、繰り返し繰り返し性交をしたからだろう。おそらく、それは……新しい女を相手にしたからに違いない。  早苗はそう推測していた。思えば、これまでにも、そういうことが何度かあった。  自分以外にも、ここには何人かの女たちが閉じ込められている。今では、早苗はそのことにも薄々感づいていた。耳を澄ましていると、時折、ほんの微《かす》かに、女の悲鳴や泣き声のようなものが聞こえることがあったから。  きっとごく最近になって、ここに連れて来られた女がいる。そして今、新しい玩具《がんぐ》を買い与えられた子供のように、男はその女に夢中になっている。かつて早苗にしたように、今度はその女にしつけをし、飼い慣らそうとしている。  きっとそうなのだろう。  壁のガラスに映った自分の姿をぼんやりと見つめながら、早苗は、ここに新しく連れて来られた女のことを想像してみた。  いったい、どんな女なのだろう? かつての早苗がそうだったように、きっとその女もとてつもなく驚き、とてつもなく脅えているに違いない。あの男に嫌と言うほど凌辱《りようじよく》され、今では涙は尽き、声も嗄《か》れてしまっているかもしれない。  きっとまだ諦めてはいないんだろうな。その女は今もきっと、ここから出る方法を必死になって考えているんだろうな。  早苗は、かつての自分を思い出した。あの頃の自分が感じていた恐怖と怒りを、悲しみと悔しさを、痛みと苦しみを……。  ああっ……政彦はどうしているのだろう?  早苗は急に、恋人だった男の優しい顔を思い出した。それに続けて、両親や妹や祖父母の顔や、仲の良かった友人たちの顔を思い出した。  まだわたしのことを捜しているのだろうか? それとも……もうわたしを思い出すこともなくなってしまったのだろうか? 政彦には別の恋人ができたのだろうか? その女性と結婚して家庭を築いているのかもしれない。もしかしたら、もう、子供もいるかもしれない。お父さんの病気は治っただろうか? お母さんは元気にしているのだろうか?  心の奥に封印し、意識して思い出さないようにしていたさまざまなことを、早苗は突然、思い出してしまった。  ああっ……畜生っ……どうして……どうして……。  熱い涙がほとばしるように溢《あふ》れ出た。悲しみのために涙を流すのは、本当に久しぶりのことだった。  目の縁を越えた涙は香山早苗の頬を伝い、顎の先に溜《た》まって滴り落ち、白いシーツにいくつもの小さな染みを作った。     3.  浅く、途切れ途切れの、息苦しい眠りから目覚めるたびに、水乃玲奈は目の前に立ちはだかるコンクリートの壁を力なく見つめた。  ああっ……夢じゃなかったんだ。  瞼《まぶた》が重くて、目を開き続けていることはできなかった。  しぱらくぼんやりとコンクリートの壁を見つめていたあとで、玲奈はまた、浅くて、途切れ途切れで、息苦しい眠りの中に落ちていった。  眠れるような精神状態ではないはずだった。それにもかかわらず、玲奈は眠り続けた。全身がどうしようもなくだるく、体のどこにも力が入らず、目を開いていることができなかった。  遠くから微かに、ピアノの音が聴こえるような気がした。けれど玲奈には、それが夢の中でのことなのか、実際の音なのかはわからなかった。  玲奈は何度も目覚め、何度も眠りに落ちた。かつて感じたことがないほどの恐怖と絶望の中で、それを繰り返した。  いったい、どれくらい眠っていたのだろう?  何度目かの眠りから覚めた玲奈は、体の節々の痛みに悲鳴を上げながらも鉄製のベッドに上半身を起こした。  壁に掛けられた丸い時計に目をやる。  8時半——。  ということは……8月3日の夜ということなのだろうか?  ああっ、夢じゃなかったんだ。わたしは今もこうして……どこにあるとも知れないこの部屋に閉じ込められているんだ。  壁に埋め込まれたガラスに映った自分の姿を見つめる。  これが、わたしなの?  その女は、どう見ても自分だとは思えなかった。  自慢だった栗色に染めた長い髪はくちゃくちゃになって縺《もつ》れ合い、頭の上で巨大な鳥の巣のようになっていた。顔の化粧は完全に崩れ、目の周りは真っ黒で、まるでお化けがいるかのようだった。 「あんた……いったい誰なの?」  けれど、そこにいる女は間違いなく玲奈だった。その証拠に玲奈が右手を動かすと、ガラスに映ったお化けのような女も右手を動かした。玲奈が力なく首を振ると、ガラスに映った女も首を左右に力なく振った。  玲奈は自分の手首を見た。去年の誕生日に夫の啓太がプレゼントしてくれた華奢《きやしや》なブレスレットの光る手首には、今もまだ鈍い痛みが残っていた。だが、ロープによる擦り傷は早くもカサブタになり始めていた。  どうして、こんなことになってしまったのだろう? いったいわたしが、どんな悪いことをしたというのだろう?  鈍く痛む頭で、玲奈は必死に考えようとした。  けれど、玲奈にはわからなかった。どれほど考えても、わからなかった。  玲奈にわかっていること——それは、自分はとてつもなく異常な男に拉致《らち》され、徹底的に凌辱されてしまったのだ、ということだった。  そう。あの男は玲奈の自宅に宅配便業者を装ってやって来た。そして、対応に出た玲奈の首筋にスタンガンのようなものを押し付けて失神させ、おそらく車に詰め込んでここに運んで来たのだ。  玲奈はその時の様子を想像してみた。  男はこの密室で、玲奈がまとったジェーム スパースの小さなTシャツを脱がし、ぴったりと下半身に張り付いたディーゼルのジーパンを引き下ろし、ブラジャーを外し、ショーツまで剥《は》ぎ取り(その瞬間のことを想像すると、おぞましさに体が震えた)、両手両足をいっぱいに広げた屈辱的な体勢で玲奈をベッドに磔《はりつけ》にしたのだ。そして、目を覚ました玲奈を、何度も何度も……これ以上はないというほど凌辱し尽くしたのだ。  夢じゃないんだ。これは……夢じゃないんだ。  静かだった。髪を掻《か》き毟《むし》って、大声で叫び出したくなるほどに静かだった。夢の中で微かに聞こえていたピアノの音も、今はまったく聞こえなかった。ただ、部屋の片隅の冷蔵庫のモーター音が、低く響いているだけだった。  あなたはわたしの所有物になったんです。  あの男が、低く、抑揚のない声で告げたことを思い出した。  わたしがあの男の所有物?  ということは……あの男はわたしをずっとずっと……死ぬまでここに閉じ込めておくつもりなのだろうか? 鳥カゴの中のカナリアのように、自分の所有物として永遠に幽閉しておくつもりなのだろうか? 「助けて……啓太……お願いだから……わたしを助けに来て……」  息苦しくなるほどの不安と恐怖が、玲奈の体の中でゆっくりと膨らんでいった。胃が硬直し、強い吐き気が食道を這《は》い上がって来た。  夢じゃないんだ。これは夢ではなく、現実なんだ。  これが現実で、誰も助けに来てくれないのだとしたら……だとしたら……自分の力で何とかしなくてはならない。  頭は相変わらずぼうっとしていて、意識を集中させようとするとひどく痛んだ。だが、とにかく、ここから逃げ出す方法を考えなくてはならなかった。そうしなければ、明日も明後日も……いや、生きている限り永遠に……来る日も、来る日も……あの男に凌辱《りようじよく》されるに違いなかった。 「畜生っ……そんなこと……絶対にさせてたまるか」  ガラスに映ったお化けのような女を見つめて、水乃玲奈は唇を噛《か》み締めた。  唇からは今も微《かす》かに、自宅の寝室の鏡台の前で付けたルージュの味がした。     4.  ウールの毛布を体に巻き付けたままベッドから下りる。まだひどく目眩《めまい》がするし、頭痛も治まらない。足もふらつき、無理に歩くと股関節《こかんせつ》が疼《うず》くように痛む。  だが、立ち上がらなくてはならない。泣いて嘆いているだけでは何も始まらない。  白いタイルを張った床をそろそろと歩いて、玲奈はトイレに向かった。便座に腰を下ろし、どこからか見ているかもしれない男の目を意識して、ピンク色の毛布で下半身を隠すようにして排尿を済ませた。それは、この部屋での2度目の排尿だった。  ゆっくりと立ち上がり、タンクの水を流す。便器から強い塩素の匂いが立ちのぼる。また目眩がする。  今度は、部屋の隅に置かれた冷蔵庫に向かう。冷蔵庫の扉を開き、さっき玲奈が飲み残したペットボトルのミネラルウォーターを飲み干す。それだけでは足らず、新しいペットボトルを取り出し、それを半分ほど飲む。  このミネラルウォーターはあの男が補充しに来るのだろうか? それとも、誰か別の協力者が——動物園の飼育係のような者がいるのだろうか? もし、第2の男がいるのだとしたら、その男もわたしを犯すのだろうか?  ふたりの男に代わる代わる凌辱される自分の姿を想像して、玲奈は身を震わせた。  冷蔵庫の扉を閉め、隣にあるビニール製の簡易クロゼットを開く。ひとり暮らしを始めたばかりの学生が使っているような安っぽい簡易クロゼットの中には、茶色のガウンと白いバスローブが並んでハンガーに吊《つる》されていた。少しだけ迷ったあとで、玲奈はガウンではなく、白いタオル地のバスローブのほうを手に取った。 「何だか、そっくり……」  そう。そのバスローブは、玲奈が毎朝のように湯上がりに羽織っていた白くて分厚いバスローブに瓜《うり》ふたつで……それが悲しかった。  ああっ……昨日の朝に戻ることができたなら……。  けれど、それは考えてもしかたないことだった。今はとにかく、行動を起こさなくてはならないのだ。  痛む頭を左右に振って、玲奈は現実を見つめようとした。  クロゼットの中にはサテンの黒いキャミソールと、同じ素材の黒いショーツがそれぞれ2枚、透明なセロファンの袋に入ったまま置いてあった。  玲奈はその光沢のある下着を手に取った。それは外国製の有名なブランドの物だったが、機能性よりも異性の視線を意識してデザインされたもので、玲奈の趣味ではなかった。それでも、何もないよりはマシだった。  黒く光る小さなショーツと丈の短いキャミソールを素早く身に着け、タオル地のバスローブをまとって紐《ひも》をしっかりと結ぶ。そのあとで、やはりクロゼットにあった薬の箱を開き、先の尖《とが》ったピンセットを掴《つか》んでバスローブの右のポケットに入れた。  それから再びクロゼットの隣の冷蔵庫の扉を開くと、暗緑色をした白ワインのボトルを取り出し、それをピンク色の毛布にくるむようにして隠した。ガウンの右ポケットには、冷蔵庫の上に置いてあったソムリエナイフを素早く忍ばせた。 「やっつけてやる」  そう。玲奈はあの男の隙を突いて、毛布に隠したワインボトルを振りかざし、それを力まかせに脳天に叩《たた》き付けてやるつもりだった。  あの男は背が高かったが、とても痩《や》せていて、力はそれほど強くなさそうだった。それに、どちらかといえば動きが緩慢で、俊敏さには欠けるようにも思われた。  だとしたら……隙を狙えば玲奈にもチャンスはあるかもしれない。玲奈はそう考えていた。彼女は昔から運動神経がいいほうだったし、今も週に2度はスポーツクラブでテニスや水泳やマシントレーニングをしていたから腕力には少し自信があった。  本当はもう少しじっくりと構えて、相手のことをよく観察し、時間をかけて綿密な計画を練るべきなのかもしれない。そのほうが、成功する確率はより高くなるのかもしれない。けれど、玲奈にはもう一刻だって我慢ができなかった。もう2度とあの男に触れられたくなかった。  もし、あの男に協力者がいたら? 第2の男がすぐに駆けつけて来たら?  確かに、それは大きな問題には違いなかった。だが、玲奈はそのことについては考えないようにした。  もし、第2の男がやって来たら、その男もワインボトルで殴り倒してやればいい。 「やっつけてやる……絶対に、やっつけてやる」  自分に言い聞かせるかのように、玲奈は声に出して呟《つぶや》いた。     5.  ワインボトルをくるんだ毛布を抱え、よろけながらベッドに戻る。  ベッドに乗り、頭の中でその瞬間のシミュレーションを何度か繰り返す。それから、サイドテーブルに載った電話の受話器を持ち上げる。  プルルルル……プルルルル……プルルルル……プルルルル……。  4回の呼び出し音のあとに、受話器からあの男の声が聞こえた。 『はい。水乃さん……どうかしましたか?』  男の声は相変わらず低く、抑揚がほとんどなかった。それはまるで、機械が喋《しやべ》っているかのようでさえあった。 「お腹が空《す》いたわ……何か食べるものを持って来て」  できるだけ毅然《きぜん》とした口調で玲奈は言った。 『冷蔵庫にサンドイッチがありませんでしたか?』  男がそう言った瞬間、近くに爆弾でも落ちたかと思うような物凄《ものすご》い音が受話器から響いた。  雷? いや、よくわからない。けれど、今はそんなことはどうでもいい。 「あんなサンドイッチ、とっくに食べたわ」  電話の向こうに静寂が戻るのを待って玲奈は言った。「お腹がペコペコなのよ。今すぐ、何か食べるものを持って来て」  それは嘘だった。冷蔵庫には確かにラップにくるまれたサンドイッチがあったが、それには手も触れていなかった。  食事は拉致《らち》された昨日の朝、自宅のリビングダイニングキッチンで夫と一緒に食べたのが最後だったけれど、今も空腹はまったく感じなかった。  そう。食べ物など、どうでもよかった。だが、何としても、あの男をこの部屋に今すぐおびき出す必要があった。 「今すぐ、何か食べさせて。それくらいしてくれてもいいでしょう?」  強い口調で言っているうちに、また玲奈の中に怒りが込み上げて来た。  怒り——もしかしたら、わたしはこれから、あの男を殺してしまうかもしれない。ワインボトルで殴られて気絶した男の体に馬乗りになり、先の尖ったピンセットで男の喉《のど》を目茶苦茶に突き刺し、ソムリエナイフで眼球をえぐり出してしまうかもしれない。  玲奈は男の上に馬乗りになっている自分の姿を思い浮かべた。血まみれになった男の顔や、血まみれになった自分の手を思い浮かべた。たわいもない想像だったが、それは玲奈に勇気を与えた。  大丈夫! できる! わたしはあの男をやっつけられる!  電話の向こうで、男は少し沈黙していた。それから言った。 『わたしが食事を運ぶのは1日に1回……ここではそう決めてあるんです。ですが……水乃さんはやって来たばかりだから、今夜だけは大目に見ましょう……少し待っていてください。何か持って行きますから』  男はそれだけ言うと電話を切った。 『大目に見ましょう』だって? 何を言ってるんだ? 偉そうに。  ベッドの上にうずくまり、玲奈は怒りに体を震わせた。  やっつけてやる。絶対に、やっつけてやる!  掌に滲《にじ》み出た汗をシーツに擦り付けて拭《ぬぐ》ってから、玲奈は毛布に隠した暗緑色のワインボトルを強く握り締めた。     6.  彼が地下室から上がって来ると、窓の外では雷をともなった強い雨が降っていた。それは熱帯地方に降るスコールのような猛烈な雨だった。  窓辺に立って、外の様子をうかがう。  叩《たた》きつけるような雨が木々の葉を打つ音がする。窓のすぐ向こうで、木々の枝が大きく揺れているのが見える。風雨が吹き付けるたびに木製の窓枠がやかましく鳴り、大粒の雨がガラスの向こう側を流れ落ちる。  対岸に横たわった三浦半島の真上、暗い夜空を稲妻が縦に引き裂き、その瞬間、真っ暗だった海が真昼のように明るくなる。細長い海域を航行するたくさんの船舶が、ストロボに照らされたかのようにくっきりと浮かび上がり、海面に影を刻み付ける。そして、数秒後に、耳をつんざくような凄《すさ》まじい雷鳴が轟《とどろ》き渡った。  けれど大丈夫。女たちのいる地下室では、この凄まじい雷鳴も微《かす》かにしか聞こえないはずだ。彼女たちの安眠を乱すものは何もない。  窓辺に佇《たたず》んでしばらく窓の外を眺めていたあとで、彼はキッチンに行き、そこでいつものように大きく砕いた氷とスコッチウィスキーをグラスに入れた。そして、そのグラスを手に寝室に向かった。  2匹のジャーマン・シェパードはいつものように、寝室のベッド脇の床に敷かれた毛足の長いマットの上で寄り添うようにして眠っていた。凄まじい雷鳴もまったく気にしていないようだ。兄のジローのほうが寝室に入って来た彼をチラリと見たが、妹のフランソワーズは顔も上げずに眠り続けていた。  いつものように寝室のカーテンはいっぱいに開かれている。彼はその大きな窓から、星や月や、夜空に流れる雲を眺めながら眠るのが好きだった。  もちろん、今夜は星も月も見えない。それでもカーテンを閉めようとは思わなかった。もし、明日の朝、天気が回復していれば、その窓から朝日が深く差し込み、ベッドで眠る彼を包み込むはずだった。  日の光を浴びること——それは地下室の女たちには与えられていない、彼と犬たちだけの特権だった。  そう。犬たちは彼の家族だったが、女たちはコレクションだった。  ウィスキーのグラスを手にベッドの縁に腰を下ろし、新しいコレクションとしてやって来た女のことを思いながら、暗がりを見つめる。  強い雨が吹き付け、木製の窓枠がガタガタと音を立てる。窓の外で稲妻がきらめき、真っ暗だった寝室が青白い光で美しく満たされる。数秒後に凄まじい雷鳴が轟き渡る。  グラスの縁に唇を寄せ、琥珀《こはく》色の液体を口に含む。強いアルコールが口の中をヒリヒリと焼く。  彼女をしつけるのに、どれくらいの時間がかかるのだろう? どれくらいの手間をかければ、香山早苗のように飼い慣らすことができるのだろう?  そう。数日して水乃玲奈の体力が回復したら、いよいよ本格的なしつけを開始する予定だった。  サイドテーブルに載った電気スタンドの明かりを点《つ》けてベッドに入る。  畳の部屋に換算すれば、その寝室は15畳ほどの広さがあった。真鍮《しんちゆう》製のダブルベッド、そのすぐ脇のサイドテーブル、備え付けの本棚とクロゼット、隅に置かれたライティングデスクとシステムコンポ、飲み物専用の小さな冷蔵庫、50インチのビデオモニター、背の高い真鍮製のシェード付き電気スタンド……そして壁という壁に、ほとんど隙間なくぎっしりと、蝶《ちよう》の標本の入ったガラスを嵌《は》めた箱が並んで掛けられていた。  ベッドの背もたれに寄り掛かり、よく冷えたウィスキーをなめるように飲みながら、いつものように寝室の壁を埋め尽くした標本箱を眺める。  壁が遠い上に部屋が薄暗いのではっきりとは見えないが、それぞれの標本の個体の下には小さなラベルが貼ってあり、そこにそれぞれの個体の採集日時と採集場所が記録されている。  夜、眠る前にベッドでウィスキーやワインをなめるように飲みながら、壁に並んだ蝶のコレクションを眺める——それは彼のお気に入りのひとときだった。  それらのコレクションのひとつ、北側の壁のいちばん上のいちばん左側の標本箱に目をやる。その標本箱の中に収められた6体の標本のひとつ、左上の1体が、20年ほど前に彼が最初に捕獲したカラスアゲハだった。  あの頃はまだ標本の仕方もよくわからなかったから、ピンセットでやたらといじりまわし、羽を随分と傷つけてしまった。指でじかに触れたせいで鱗粉《りんぷん》もかなり剥《は》げ落ちてしまっているし、羽の広げ方も左右バラバラだ。おまけに右の触覚と左の足の1本がなくなっている。標本としては、まったく価値がない。  けれど、彼はそのいちばん古い標本を特別に思っていた。  20年ほど前、薄暗い森の中でそのカラスアゲハと遭遇したことが、彼の人生を決定的に変えた。そう言っても過言ではなかったから——。  もしあの初夏の日、あのカラスアゲハと出会わなければ、彼が蝶の蒐集《しゆうしゆう》を始めることはなかったかもしれない。そして、何かを蒐集するということの魔力に囚《とら》われることもなかったかもしれない。  蒐集——その不思議で、抗《あらが》い難い魔力。そうだ。あの薄暗い森の中での偶然の出会いこそが、彼を蒐集に目覚めさせたのだ。  随分と長いあいだ、その最初のコレクションを眺めていたあとで、彼は電気スタンドの明かりを消した。     7.  凄まじい雨と雷鳴が続いている。  暗がりの中でグラスの底に残ったウィスキーを飲み干した時、サイドテーブルの電話が鳴った。  プルルルルルッ……プルルルルルッ……。  ベッドのすぐ脇の床で寝息を立てていた2匹のシェパードが同時に顔を上げる。  電話の『6』という番号が点滅している。6号室の住人は新しく彼のコレクションになった水乃玲奈だった。  ウィスキーに濡《ぬ》れた唇をなめ、鳴り続ける電話を取る。 「はい。水乃さん……どうかしましたか?」 『お腹が空《す》いたわ……何か食べるものを持って来て』  電話の向こうで水乃玲奈が言った。その口調は毅然《きぜん》としていて、女主人が召し使いに命じているかのようだった。 「冷蔵庫にサンドイッチがありませんでしたか?」  彼がそう訊《き》いた瞬間、また窓の向こうが真昼のように明るくなった。数秒後に凄まじい雷鳴が轟き渡り、彼を見つめていた2匹のシェパードが同時に身を震わせた。  静寂が戻るまでのあいだ、女は少し沈黙していた。それから言った。 『あんなサンドイッチ、とっくに食べたわ。お腹がペコペコなのよ。今すぐ、何か食べるものを持って来て』  どうやら水乃玲奈は怒っているようだった。まあ、それは当然のことだろう。だが、冷蔵庫のサンドイッチを食べたにもかかわらず彼女が空腹を訴えているのは疑わしかった。連れて来られて数日は、女たちの食欲は戻らないのが常だったから。 『今すぐ、何か食べさせて。それくらいしてくれてもいいでしょう?』  水乃玲奈の口調は相変わらず召し使いに命令する女主人のようだった。あるいは下臣に命令を下す女王陛下のようだった。  少しのあいだ、彼は考えていた。それから言った。 「わたしが食事を運ぶのは1日に1回……ここではそう決めてあるんです。ですが……水乃さんはやって来たばかりだから、今夜だけは大目に見ましょう……少し待っていてください。何か持って行きますから」  そう言うと、彼は電話を切った。  窓の外で一際明るく稲妻がきらめき、明かりを消したばかりの寝室が、再び青白い光で美しく満たされる。闇に沈んでいた室内のさまざまなものがくっきりと浮き上がる。数秒後に、一際凄まじい雷鳴が轟き渡った。  ベッドを出ると、彼はキッチンに向かった。長い廊下を歩きながら思った。  水乃さん、ここでは主人はあなたではなく、わたしです。早くしつけをして、それをわからせなくてはなりませんね。  だらりとしていた男性器に、またゆっくりと血液が流れ込み始めたのがわかった。     8.  電話をしてから15分ほどが過ぎた頃、コンクリートの密室にノックの音が響いた。  毛布に隠したワインボトルをさらに強く握り締め、水乃玲奈は黒いドアを見つめた。 「お待たせしました、水乃さん」  アルミ製のトレイを持って部屋に入って来た男は、玲奈の顔は見ずに低く言った。男は相変わらず茶色のガウン姿だったが、今は少しアルコールの匂いがした。  ウィスキー? たぶん、そうだろう。男がアルコールを飲んでいるのは玲奈にとって好都合だった。  ゆっくりと近づいて来る男を無言で見つめ、玲奈はチャンスをうかがった。  男が腰を屈《かが》め、ベッドのすぐ脇のサイドテーブルにトレイをゆっくりと置く。  そう。男の動作はしなやかだったが、相変わらずとても緩慢だった。  玲奈はサイドテーブルに置かれたトレイにちらりと目をやった。鈍い銀色をしたトレイの上には、黒っぽい粥《かゆ》のようなものが入ったアルミ製の器と、キャベツやニンジンやブロッコリーやカリフラワーなどの入ったスープの器、それにアルミ製のスプーンが1本載せられていた。 「雑穀粥と野菜のスープです。熱いですから、火傷《やけど》をしないようにゆっくりと召し上がってください」  そう言って男が顔を上げようとした瞬間——玲奈は毛布に隠したワインボトルを素早く振り上げた。  死ねっ!  男の頭に向かって、重いワインボトルを力まかせに振り下ろす。  けれど……男が倒れることはなかった。割れた男の頭から鮮血が噴き出すことも、暗緑色のワインボトルが砕け散ることもなかった。  それまでの緩慢さが嘘のような素早さで、男は玲奈が振り下ろしたワインボトルを右手1本で難なく受け止めた。そして、信じられないほどの力で玲奈の手から一瞬にしてワインボトルを引ったくり、ゆっくりとした動作でそれをタイルの床の上に置いた。 「無駄ですよ」  低く呟《つぶや》くように言うと、男は玲奈を見つめ、血の気のない顔を歪《ゆが》めるようにして笑った。そして、次の瞬間、握り締めた右の拳《こぶし》をバスローブに覆われた玲奈の腹部に深々と突き入れた。  いや、玲奈には男の腕の動きは見えなかった。ただ、胃を突き上げ、背骨にまで達する猛烈な苦痛に身を屈めただけだった。 「ぐふっ……ううっ……」  体をふたつに折り曲げ、ベッドに顔を押し付けて玲奈は呻《うめ》いた。息が止まり、目が眩《くら》み、胃の奥から苦い液体が込み上げて口から溢《あふ》れた。  そんな玲奈の髪を、男は鷲掴《わしづか》みにして上を向かせた。そして、苦痛に歪んだ玲奈の顔を、しばらく無表情に見つめていた。  けれど、玲奈には男の顔を見つめ返すことなどできなかった。胃は苦しげな痙攣《けいれん》を続け、滲《にじ》み出る涙で視界は完全に霞《かす》んでいた。 「無駄ですよ、水乃さん。諦《あきら》めてください……そうしないと、ひどい目に遭うことになりますよ」  抑揚のない声で言うと男は、玲奈の髪を鷲掴みにしたまま、顔が真横を向くほど強く頬を張った。  いや、今度も玲奈にはそれを見ることはできなかった。男の腕の動きは、それほどに素早かった。 「ひっ」  凄《すさ》まじい衝撃に視界がぶれ、片方の耳が聞こえなくなった。口の中に、鉄みたいな血の味が広がった。  男が掴んでいた髪を放すと同時に、玲奈は気を失いかけてベッドに倒れ込んだ。  苦しみに悶《もだ》え続ける玲奈のバスローブのポケットから、男はソムリエナイフと先の尖《とが》ったピンセットを取り出した。男にはすべてがお見通しだったのかもしれない。  男が玲奈の武装解除をしているあいだ、玲奈はベッドの上で涙と鼻水と唾液《だえき》と胃液を流し、なす術《すべ》もなく、痛みと苦しみにのたうちまわっていた。 「水乃さん、あなたのしつけを始めるのは、もう少しあとにするつもりだったのですが……どうやら、今すぐに始めなくてはならないようですね」  なおも続く痛みと苦しみに、体をよじって呻きながら……玲奈は圧倒的な敗北感の中で男の声を聞いていた。  しつけ? しつけって何なの?  玲奈がそう思った瞬間、強い力で腕が背後にねじり上げられ、体がベッドに俯《うつぶ》せに押さえ込まれた。 「いっ……いやっ……」  腕が折れるほどの激痛——玲奈は必死でもがいた。だが、どうすることもできなかった。痩《や》せて非力に見えた男は、それほどに力が強かった。  たった1本の腕で玲奈をやすやすと押さえ付けた男は、もう片方の手で玲奈がまとったバスローブの裾《すそ》をまくり上げ、ついさっき履いたばかりのサテンのショーツを力まかせに引き千切った。  これから男が何をしようとしているのか——玲奈は瞬時にそれを悟った。 「いやっ……許してっ……あっ……いっ……」  次の瞬間、背後から突き入れられた男性器が、凄まじい衝撃となって玲奈の肉体を一直線に貫いた。 「うっ……ああっ……」  ピストンに押し出されるシリンダーの中の空気のように、玲奈の口から苦しげな呻き声が漏れた。 「ああっ……いやっ……あっ……あああっ……」  どうすることもできなかった。男はあまりに強く、あまりに敏捷《びんしよう》で、あまりに賢かった。そんな男に対して、玲奈は川面を漂う木の葉のように無力だった。  男は背後から機械のように黙々と玲奈を犯し続けた。石のように硬直した男性器を突き入れ、突き入れ、突き入れ続けた。 「ああっ……やめてっ……いやっ……ああっ……」  玲奈にできることは、ただひとつ——涙と鼻水を流しながらベッドにしがみつき、身をよじって低い呻きを漏らし続けることだけだった。     9.  拷問のような性行為が、いったいどれくらい続けられただろう?  今度の性交はこれまでになく長かった。この男は永遠に果てることがないのではないか、この男は本当に機械でできたロボットなのではないか、そう思うほどだった。  玲奈の体をベッドマットに俯せに押さえ付け、男は硬直した男性器を玲奈の中に深く突き入れ続けた。時には男は背後から玲奈の乳房を乱暴に揉《も》みしだき、時には髪を鷲掴みにして力ずくで振り向かせ、苦しみに喘《あえ》ぐ玲奈の唇を貪《むさぼ》った。  がっちりと押さえ付けている、という感じではなかった。男はたった1本の腕で、いとも容易《たやす》く玲奈を押さえ付けていた。そして、やりたい放題に玲奈を凌辱《りようじよく》していた。  かつての玲奈は性行為に快楽を感じたものだった。好きな男と一体になる。それは快楽でもあったし、喜びでもあった。  けれど今、玲奈は快楽や喜びとはまったく対照的な場所にいた。  苦痛と嫌悪、そして屈辱——同じ行為をしているというのに、どうしてこれほどまでに違うのだろう。  それは地獄だった。果てしなく続く地獄の苦しみだった。  あまりの苦痛に玲奈の意識が遠のきかけ、悲鳴を上げ続けた喉《のど》が嗄《か》れて声が出なくなった頃……男は全身を細かく震わせ、低い呻きを漏らして射精した。 「もしまた逆らおうとしたら、その時はもっと厳しい罰を受けることになります。いいですね、水乃さん?」  ようやく玲奈から体を離した男が言った。  けれど玲奈は男のほうに顔を向けることができなかった。目を開いていることさえ容易ではなかった。  ぐったりとなった玲奈をベッドに残したまま、男は部屋の隅の冷蔵庫に向かった。そして、そこにあったサンドイッチの包みを取り出し、さっき運んで来た食事の載ったトレイの上に置いた。 「しばらくのあいだ、食事は抜きです。わかりましたね?」  男はそれだけ言うと、銀色のトレイを持って部屋を出て行った。いや……その姿は玲奈には見えなかった。ただ、その音を聞いただけだった。     10.  熱帯のスコールのような猛烈な雨と雷鳴が続いている。広々としたリビングルームの窓辺に佇《たたず》み、彼は長いあいだ、稲妻に照らし出される狭い海と、そこを航行する船舶を眺めていた。  ふだんなら、とうに眠っている時間だった。けれど今夜は、眠気はまったく感じなかった。眠ろうとしたところを水乃玲奈に起こされて目が冴《さ》えてしまったようだ。  しかたがない。ピアノでも弾こうか。  リビングルームの窓辺を離れると、彼はグランドピアノの前に腰を下ろした。  時折、今夜のように眠れない夜がある。そんな時にはピアノを弾く。それも彼の習慣のひとつだった。  ずっしりとしたピアノの蓋《ふた》を開き、象牙《ぞうげ》の鍵盤《けんばん》に指先で触れる。中指で鍵盤のひとつを軽く押してみる。  キン。  うっとりするほど素敵な音が部屋の中に響く。  そのピアノは彼がピアノ教室に通い始めた直後に母に買ってもらったもので、音楽大学を出たばかりの若い女教師が「こんなすごいピアノ、わたしでさえ触ったことがないわ」と目を丸くしたほど高価なものだった。  猫に小判。豚に真珠。  彼がピアノを習うことに渋い顔をしていた父は、よくそう言ったものだった。ピアノなんて、女の弾くもの。父はそう決めつけていた。  しばらく宙を見つめていたあとで、彼は象牙の鍵盤に載せた細い指を動かし始めた。  明かりのない部屋の中は暗く、自分の指さえはっきりとは見えなかったが、それは演奏には支障をきたさなかった。  ショパンのノクターン第2番。  指先で鍵盤を柔らかく叩《たた》きながら、彼は昔のことを思い出した。  昔、ピアノ教室の発表会で、まだ小学生だった彼がこの曲を演奏した時のこと。あの時、客席にいた母が嬉《うれ》しそうにピアノを弾く自分を見つめていたこと。  父は彼に、自分が創業した会社を継がせるつもりだった。だが、母は彼をプロのピアニストにしたがっていた。もしかしたら、息子が社会生活に適応できないことに、母は昔から気づいていたのかもしれない。  それにしても、プロのピアニストだなんて!  ノクターン第2番を奏でながら、彼は口元だけで笑った。  もちろん彼はプロのピアニストになることはできなかった。音楽大学にさえ合格しなかった。  それは別にかまわない。ピアニストになりたいと思ったことなどないし、なれると考えたこともない。  けれど、ピアノを習わせてくれた母には今も感謝していた。  彼はピアノを弾くのが好きだった。     11.  目を閉じて指先で象牙の鍵盤を柔らかく叩きながら、彼はふと、あの雑誌のことを思い出した。  昔、昔……森の中で見つけた色|褪《あ》せた雑誌のこと。そこに載っていた首輪を嵌《は》められ、太い鉄の鎖に繋《つな》がれた全裸の女たちのこと。そして、女を自分の所有物として飼育していた男たちのこと——。  あれから20年以上の歳月が過ぎたが、これまでにも彼はたびたびあの雑誌のことを思い出した。思い出しただけではなく、この20数年のあいだに、実際には雑誌には掲載されていなかったさまざまな場面を空想していた。  音楽大学を卒業したばかりの若いピアノの教師を誘拐して、鎖に繋いで自分のものにしたら、どんなだろう? 夏休みと冬休みに近くの別荘に両親に連れられて来る美しい少女を誘拐し、裸にして檻《おり》の中に閉じ込めたら、どんなだろう? 部屋の中にいくつもの鉄の檻を並べて、その中で何人もの裸の女たちを飼育したら、どんなだろう? 鎖に繋いだ全裸の女を連れて、庭を散歩したら、いったいどんなだろう?  それらの空想は年月の経過とともに、より過激で、より淫《みだ》らなものになっていった。そして、彼の空想の中で女たちは、より柔順で、より飼い慣らされた家畜へと変わっていった。  自分の所有する女に毎日、全身をくまなくなめさせたら、どんなだろう? 彼の所有物だという印として、牛や馬や羊に押すような焼き印を女の体に押したら、どんなだろう? 近くの別荘にやって来る美少女に、服従の証《あか》しとして、自分の尿を飲ませたら、どんなだろう? 何人もの女たちと毎日、毎日、代わる代わる性交をしたら、いったいどんなだろう?  かつて、それは、ただの空想に過ぎなかった。だが、今はそうではない。しようとさえすれば、彼は女たちに、それをさせることができるのだ。  窓の外では相変わらず、猛烈な雨と雷鳴が続いている。彼は目を閉じ、そのほっそりとした長い指で象牙の鍵盤を叩き続ける。  それにしても、森の奥の樹の窪《くぼ》みに隠してあった雑誌を、いったい誰が持って行ってしまったのだろう?  もしかしたら……今になって、彼は思う。もしかしたら、あれは母の仕業だったのかもしれない、と。  毎日、学校から戻るとすぐに、ひとりきりで森に入って行く息子に不審を抱いた母が、彼の跡をこっそりとつけたのかもしれない。そして、樹の窪みから雑誌を取り出して眺める彼の姿を目撃し、彼が立ち去ったあとで、あの薄汚れた雑誌を樹の窪みから引っ張り出して、庭の片隅にあった焼却炉に放り込んでしまったのかもしれない。  もし、そうなのだとしたら……母があの雑誌を処分したのだとしたら……あの雑誌を見て母はどう思ったのだろう?  息子の中に存在する劣情にたじろいだだろうか? 汚らわしいと思っただろうか? それとも、おとなしくて無口な息子に、普通の男の子のような一面を見て安心したのだろうか?  だが、母も、まさか息子が本当に女たちを飼育するようになるとは思わなかったに違いない。     12.  ノクターン第2番に続いて、第5番を弾いてからピアノの蓋を閉じる。  ゆっくりと立ち上がり、リビングルームを出る。長い廊下を歩いて寝室に戻る。  寝室のベッド脇に敷かれたマットの上では、犬たちが相変わらず気持ちよさそうに眠っている。彼はそんな犬たちの脇にしゃがみ込み、1匹ずつ交互に体を撫《な》でてやる。ジローは目を開いて彼を見つめたが、フランソワーズのほうは面倒臭そうに尻尾《しつぽ》を振っただけだった。  いつの間にか、雨は随分と小降りになったようだ。もう稲妻も光っていないし、雨の音もほとんど聞こえない。さっきまで木々の枝をやかましく揺らしていた風の音も、今はもうしない。  ベッドに横になり、眠れない夜にはいつもそうしているようにビデオモニターのスイッチを入れる。部屋の隅に置いた50インチの液晶モニターが光を発し、真っ暗だった部屋が明るく照らされる。  モニターに地下の部屋のひとつと、そこに暮らす女の姿が映し出される。柔らかな枕に側頭部を埋《うず》め、モニターのリモコンを握り締め、いつものように彼はそれを見つめる。  地下の部屋のひとつ——1号室の住人は入浴中のようだった。女はすらりとした裸の体をバスタブに横たえて目を閉じている。濡《ぬ》れた右肩に『R』の文字が刻まれているのが見える。バスタブのすぐ脇の床には赤ワインの入ったグラスが置かれている。少し離れたところには、白いタオル地のバスローブと深紅のサテンの下着が放り出してある。  彼はモニターに映し出された部屋の隅々までを注意深く観察する。それぞれの部屋のガラスの外にはカメラが設置してあるから、彼はあの地下室にいなくても、それぞれの部屋の様子を見ることができる。  1号室の女の名は白石慶子。とても美しく、気品のある素晴らしい女性だ。  彼女がやって来て、まもなく2年になる。彼女は、株式の売買で巨額な資産を築いた男の妻で、ふたりの娘の母親だった。先月36歳になったはずだから、彼のコレクションの中では最年長で、水乃玲奈が来るまでは唯一の出産経験者だった。  こんな時間に赤ワインを飲みながら入浴するのは、白石慶子のいつもの習慣だった。今夜も特に変わった様子はない。  かつての白石慶子は高級住宅街に建てられた大きな邸宅で、家政婦をふたりも雇って有閑マダムのような優雅な生活をしていた。夏は軽井沢《かるいざわ》や函館《はこだて》の別荘で過ごし、冬はハワイのコンドミニアムやバリ島のリゾートホテルで暮らす。家事や子供たちの世話はすべて家政婦にまかせ、自分は映画館とレストランとデパートとテニスクラブとエステティックサロンとネイルサロンとマッサージサロンで時間を潰《つぶ》す……そんな生活だ。  ここに連れて来られたばかりの頃、彼女は泣いてばかりいた。ヒステリーのようになって彼に殴り掛かって来たことも、1度や2度ではなかった。  もし、ここから出ることができるなら、彼の罪は一切問わない。それだけでなく、1億円でも2億円でも3億円でも、欲しいだけの金銭を彼に与える。だから、解放してもらいたい。そんな取引を彼に持ちかけたことも何度となくあった。  だが、この2年で彼女もここでの生活に随分と適応したようだ。最近の白石慶子はとても柔順で、面倒をかけることもなくなった。  驚いたことに、つい数日前には彼女の方から彼に電話をして来て、退屈なので自分の部屋に遊びに来るように誘ったりもした。  あの時は、白石慶子が何か企《たくら》んでいるのではないかと随分と警戒したものだ。だが、彼女には特別の企みはないようだった。ただ、本物の恋人同士のようにワインを飲みながら取り留めのない話をし、本物の恋人同士のように抱き合って性交をしただけだった。  ご褒美として、彼は彼女の部屋のワインをもう少し高価なものにしてやった。舌の肥えた彼女は、それをとても喜んだ。  ワインを飲みながら入浴する白石慶子の美しい肉体をしばらく眺めていたあとで、再びリモコンを操作し、画面を切り替える。  今度は2号室の様子がモニターに映し出される。  2号室に囚われているのは宮坂深雪。年は20歳。かつて無名のアイドルタレントだった彼女は、彼のコレクションの中では最年少で、ここに来てもうすぐ9カ月になる。そうだ。宮坂深雪はあの部屋で20歳の誕生日を迎え、成人の日を迎えたのだ。  宮坂深雪はベッドの上で眠っている。よく見ると、ピンク色のキャミソールをまとった豊満な体が静かに上下している。モニターを見る限り、その部屋にも特に変わった様子はないようだ。  彼女は今、その可愛らしい顔をこちらに向けている。口元が少し微笑んでいるようにも見える。アイドルタレントだった頃の夢でも見ているのだろうか?  若くて元気だったせいか、宮坂深雪をしつけるのにはかなりの手間がかかった。言うことをきかせるために随分と手荒なこともした。鞭《むち》も何回となく使わなくてはならなかったし、片方の肩だけではなく、両方の肩に『R』の焼き印を押さなくてはならなかった。  だが、しつけられない犬がいないように、しつけのできない女などいない。彼は辛抱強くしつけを続けた。  最近になって、宮坂深雪もようやく諦《あきら》めたようだ。今でもめそめそと泣いていることが多いけれど、彼の言い付けに逆らうこともあまりなくなった。もう少し辛抱強くしつけを続ければ、白石慶子や香山早苗のように進化するだろう。  そう。もう少し……。  アイドルタレントだった宮坂深雪の可愛らしい寝顔を、しばらくうっとりと見つめていたあとで、またリモコンを操作し、画面を3号室に切り替える。  3号室の住人はベッドの上で食事をしている。  彼が食事のトレイを運んでから、随分と時間がたっている。今では雑穀|粥《がゆ》も野菜スープも、すっかり冷めてしまっているに違いない。  ガウンをまとった上に背中をこちらに向けているので、日焼けしてそばかすの浮き出た顔や、くっきりとビキニの水着の跡が残った引き締まった肉体を見ることはできない。それが少し残念だ。それでも、ガウンの背中に流れる色|褪《あ》せた長い髪がとても美しい。  彼女の名前は武藤静香、22歳。彼女はほんの2カ月半前に、この地下室にやって来たばかりだ。  武藤静香のことは、ケーブルテレビで放送していたサーフィン大会を見ていて知った。房総《ぼうそう》半島で行われたそのサーフィン大会の女子の部で優勝したのが彼女だった。  優勝インタヴューを受ける彼女に彼は瞬時に魅了されてしまった。  美人だっただけでなく、彼女は野性的だった。黒と白のストライプのビキニをまとった体には皮下脂肪がほとんどなく、肉体のすべてが筋肉でできているかのように見えた。頭のてっぺんから足の先まで、こんがりと小麦色に日焼けしていて、口元にのぞく白い八重歯がとてもチャーミングだった。  彼はすぐに武藤静香を自分のコレクションに加える計画を立て、2カ月半前にそれを実行した。  武藤静香はまだ充分にしつけられているとは言えない。それでも、彼女は思ったよりずっと柔順だったし、ずっと素直だった。だから彼女にはまだ『R』の焼き印は押していない。今後も押さずに済むかもしれない。これからさらにきちんとしたしつけを続ければ、きっと素晴らしいコレクションに進化していくことだろう。  彼はまたリモコンでモニターの画面を切り替えた。今度は4号室の様子がモニターに映し出された。  4号室の住人も宮坂深雪と同じように睡眠中のようだ。室内に特に変わったことはない。すぐに5号室にモニターを切り替える。  5号室にいるのは、彼の最初のコレクションである香山早苗だった。香山早苗は下着姿でベッドに俯《うつぶ》せになり、文庫本を読んでいる。  今、彼女が読んでいるのは、彼女が彼にリクエストしたドストエフスキーの『罪と罰』に違いない。  コレクションの女たちには、新聞や週刊誌などのように日付が推測できるものは与えないことにしている。テレビも見せないし、ラジオも聞かせない。現実世界と女たちを隔絶させたほうが、しつけの役に立つからだ。  そうだ。自分たちの世界はここしかないのだと、彼女たちに悟らせなくてはならないのだ。  だが、昔の文芸書や画集などは希望があれば与えることもある。  香山早苗は模範囚だ。もう何年も彼に逆らったことはないし、面倒を起こしたこともない。だから、彼女にはたくさんの褒美を与えている。彼女の部屋には詩を書くためのノートや筆記用具もあるし、ゴッホやゴーギャンやセザンヌの画集もある。  寝室のベッドに横たわり、彼はモニターの中の香山早苗をじっと見つめる。ほかのコレクションの女たちに比べて特別に美しいというわけでもなければ、痩《や》せているだけで特別にスタイルがいいというわけでもない。  けれど、彼女は彼にとって特別な女性だった。  彼の最初のコレクション——あの最初のカラスアゲハと同じように、香山早苗との出会いがすべてを変えたのだ。     13.  香山早苗を初めて見たのは、今から4年と少し前、彼の母の葬儀の時だった。  あの日、母の葬儀に訪れた大勢の人々の中で、香山早苗は特別に輝いていた。少なくとも、彼はそう感じた。  喪主であったにもかかわらず、葬儀のあいだずっと、彼は香山早苗ばかりを見ていた。彼女から目を離すことができなかった。  葬儀が一段落し、人々が母の柩《ひつぎ》の中に花を入れている時、彼は彼女に歩み寄って話しかけた。覚えている限り、自分から女性に話しかけるのは初めてだった。 「こんにちは。喪主の安藤龍之介です。きょうは、ありがとうございます。ところで、あの……失礼ですが、母とはどういう関係の方ですか?」  香山早苗は国際線の旅客機の客室乗務員だった。彼の母とは都内のワイン教室で知り合ったようで、母が死の病を患って入院している時も病院に何度か見舞いに来てくれていたようだった。  香山早苗は、その時の彼との出会いを覚えていないようだ。けれど彼は、今もはっきりと思い出すことができる。あの日の香山早苗の服装を。少女のようにほっそりとしたその体つきを。彼を見つめた切れ長の目を。彼女の背中に流れていた長く黒い髪を。彼女の首元で光っていた真珠のネックレスの輝きを。滑らかでキメの細かい肌を。細く描かれた眉《まゆ》の形を。薄い唇に塗られた淡いルージュを。細く美しい声を。あの日、彼女が付けていた香水のほのかな匂いまでを……。  その日から、彼は香山早苗のことだけを考えて過ごすようになった。  性行為の時には彼女はどんな顔をするのだろう? その瞬間には、いったいどんな声を出すのだろう? あの薄い唇に男性器を含ませたら、どんなだろう? あの小さな乳房を揉《も》みしだいたら、どんなだろう?  考えるだけではなく、遠く離れた場所に暮らす彼女を見るために、彼は彼女の家の近くのホテルに何週間も続けて宿泊し、彼女が家族と暮らす家の前を何度も何度も通るようになった。  それがすでに異常な行為だということは、彼にもわかっていた。けれど、ためらうことはなかった。  あの頃の彼には、ほかにしなければならないことはなかった。父と母から多額の株券を相続し、相変わらず会社の取締役名簿に名を連ねてはいたが、父が創業したスーパーマーケットチェーンの経営に携わることはなかった。妻だった女性とは、母が死ぬ少し前に別居し、母が死んだ直後に正式に離婚していた。  国際線の客室乗務員をしていた香山早苗はとても忙しそうで、自宅にいることはほとんどないようだった。それでも何度か、彼は見た。スーツケースを引いた彼女が出勤するのや帰宅するのを見た。自宅の窓の向こうを彼女が横切るのや、庭で母親と草|毟《むし》りをしているのを見た。自宅の前まで迎えに来た若い男性の車の助手席に、嬉《うれ》しそうに乗り込むのを見た。  ああっ、彼女を自分のものにしたい。  彼のように願った時、普通の男たちならどうするのだろう? 彼女に手紙を書くのだろうか? 偶然を装って街角で声を掛けるのだろうか? あるいはただ……諦めるのだろうか?  けれど、彼はそのどの方法もとらなかった。彼はカラスアゲハの時と同じ方法で、香山早苗を自分の所有物にしようとしたのだ。  ベッドで読書をする香山早苗をしばらく眺めていたあとで、リモコンを操作して画面を切り替える。今度は6号室がモニターに映し出される。  水乃玲奈——彼女はまだ、ベッドにうずくまっていた。  連れて来たばかりだというのに、少し手荒に扱い過ぎたかもしれない。彼女の中にいったい何度体液を注ぎ込んだのか、彼でさえもう覚えていなかった。  しばらく見つめているうちに、水乃玲奈はベッドに身を起こした。  美しかった栗色の髪はくしゃくしゃになって縺《もつ》れ合い、化粧が崩れたひどい顔をしている。  けれど、大丈夫。彼女は美しいのだ。彼のコレクションの中でもっとも美しく、もっとも輝いているのだ。  モニターの中の水乃玲奈を見つめながら、彼は彼女へのしつけの方法について思いを巡らせた。 [#改ページ]   第4章     1.  枕元のアラームがけたたましく鳴る。  眩《まぶ》しい——。  いつものように、全身に降り注ぐ真夏の朝の光の中で彼は目を覚ました。  汗ばんだ体をゆっくりとベッドに起こす。高い天井に向かって大きく伸びをし、あくびを繰り返す。涙の滲《にじ》む目を擦りながら窓の外に目をやる。  昨夜の豪雨が嘘のように、今朝はいい天気だ。窓の向こうには強烈な光が満ち満ちている。鳥たちの囀《さえず》る声がいたるところから、やかましいほどに聞こえて来る。きょうは一段と蒸し暑くなるのだろう。 「眠たい……」  そう。今朝はまだ眠り足りない。だが、起きなくてはならない。  ふだんはアラームなど使わない。眠くなったら眠り、目が覚めたら起きる。犬たちと一緒に、もう何年もそういう暮らしを続けている。  けれど、きょうは特別だ。  薄いタオルケットを撥《は》ね除《の》けて、勢いよくベッドから立ち上がる。まだベッドの脇で眠っていた2匹のジャーマン・シェパードが、びくっとして顔を上げる。 「おはよう、フランソワーズ。おはよう、ジロー」  犬たちの頭を交互に撫《な》でてやってから寝室を出ると、全裸のまま長い廊下を歩いてリビングルームに向かう。いつものように犬たちは大きなあくびを繰り返したあとで、庭に出て排尿をするために彼の脇を勢いよく走り抜けて行った。  広々としたリビングルームにも朝の光がいっぱいに満ちている。大きなグランドピアノが眩しく光り、フローリングの床では庭の木々の枝の影が重なり合って揺れている。  ピアノは直射日光に当ててはいけないものよ。  生前、母はいつもピアノを日に当てないように気を遣っていた。けれど、彼は気にしない。彼はピアノが朝日に輝いているのを見るのが好きだった。  全裸のままでバルコニーに面した窓辺に立つ。強烈な朝日を受けた胸や腹や、下腹部や男性器が焼けるように熱い。  眩しさに目を細めながら、窓の向こうに広がる海を眺める。  ふたつの半島に挟まれた細い海域は、夏の朝日を受けて金色に輝いている。それは海には見えない。ドロドロに溶かした鉄を流し込んだ溶鉱炉のようだ。その金色の細長い海上を、今朝も無数の船舶が縦横に行き交っている。  しばらく目を細めて朝日に輝く海を眺めていたあとでキッチンに向かう。2匹のシェパードはすでに庭で排尿を済ませ、餌をもらおうとキッチンで待ち構えていた。  犬たちにドッグフードをやったあとで、コーヒーメーカーに中挽《ちゆうび》きにしたブルーマウンテンを入れ、ミネラルウォーターを注ぎ込む。  ふだんの彼なら全裸のままキッチンカウンターにもたれて、コーヒーメーカーをぼんやりと眺めているのだが、きょうはそうはいかない。そのまま浴室に行き、熱いシャワーを全身に浴びる。  少し伸びてきた髪を手早く洗い、ボディソープを付けたブラシでゴシゴシと体を洗う。体の泡を洗い流してから、浴室の壁の大きな鏡にシャワーを当てる。  湯気で曇っていた鏡が透き通り、そこに彼の痩《や》せて骨張った体と青白い顔が映る。  ああっ、これが俺なのか……。  鏡に映った生気のない男の顔をぼんやりと見つめる。  俺はいったい、何をしてるんだろう? これからどうなっていくのだろう?  ふだんは、そんなことは考えない。けれど、時々……きょうのような特別な日には、それを思うこともある。  鏡の中の男に向かって微笑んでみる。けれど、鏡の中の男は微笑み返さなかった。ただ、生気のない顔を歪《ゆが》めただけだった。  滝のように打ち付ける熱いシャワーの中で目を閉じる。  遠くから微《かす》かにコーヒーの香りがする。     2.  性欲——もしかしたら、それがすべての原因なのかもしれない。  時折、彼はそう考える。  もし、自分に性欲というものがなければ……たとえあったとしても、それが人並みのものであったとしたら……そうしたら、自分は普通の人々のように生きていくことができたのではないか——。  彼は性欲の奴隷だった。次から次へ、泉の水のように湧き出る性欲に支配され、その性欲に服従し、その性欲を満たすためだけに生きていた。  性欲を断つこと。それは彼にとって、死を意味するようにも思われた。  昔から彼は内向的で、無口な少年だった。一言も声を発しない日も珍しくなかった。  人間が嫌い?  そういうことなのかもしれない。  そんな彼だったが、中学生になるとすぐに、抗《あらが》い難い性の衝動に悩まされるようになった。  この自分に性欲だなんて!  自分のことを、普通の人間ではなく、機械かアンドロイドのような異端者だと思っていた彼には、それがとても意外だった。  性欲——ほとんどすべての男子生徒と同じように、彼は女性の肉体に強い関心を抱くようになった。そして、ほとんどすべての男子生徒と同じように、女性の肉体に触れてみたいと切望するようになった。  けれど実際には、学校でも彼は女子生徒とはほとんど口をきいたことはなかった。  ほとんどすべての男子生徒と同じように、彼は押し寄せる性欲を自慰行為によってなだめるしかなかった。  そんなある日、同じクラスの女子生徒のひとりから、彼は愛の告白を受けた。  わたし、安藤くんのことが好きなの。わたしと付き合ってくれない?  彼女は明るくて、優しくて、とても可愛らしい顔をした少女だった。手足がとても長く、ほっそりとしていて、背中の真ん中まで伸ばした亜麻色の髪がとても綺麗《きれい》だった。  えっ? どうして?  彼はひどく驚いた。  その少女はクラスの人気者で、男子生徒たちの多くが彼女に特別な感情を抱いていた。そんな少女が自分のような異端の者を好きになるだなんて……彼にはにわかには信じられなかった。  いいよ。付き合おう。  彼は戸惑いながらも、その女子生徒に答えた。  クラスの男子生徒たちと同じように、彼も彼女が好きだったから?  いや……そうではなかった。  彼女が可愛らしいということは彼にもわかっていた。とても健康的な美しい体つきをしているということもわかっていた。だが、決して彼女が好きだったわけではなかった。  そう。かつて彼は、誰かを好きだと感じたことはなかった。『人を好きになる』という感情自体が、彼にはよくわからないものだった。  彼は彼女を好きではなかった。ただ……彼女の肉体に興味があったのだ。  そんなふうにして、15歳のふたりは交際を始めた。そして、付き合い始めてわずか数週間後に、彼は彼女と肉体の関係を持った。  最初、少女はそれを拒んだ。  怖いわ。  少女は言った。  それは当然のことだろう。けれど、いつまでも拒み続けることはできなかった。少年はそれほどまでに激しく彼女の肉体を求めたのだ。  少年と少女は、少年の部屋で裸になり、子供のようにほっそりとした体を重ね合わせた。少女はまだためらっていたが、少年はそうではなかった。  どうすればいいのか、少年にも具体的なことは何もわからなかった。それでも、彼は本能に導かれるがまま、少女の中に入ろうとした。  少女は激痛に悲鳴を上げ、彼から逃れようとした。そんな少女の華奢《きやしや》な体をベッドに押さえ付け、悲鳴を上げ続ける少女の中に彼は力まかせに入っていった。  少女は激しく出血した。  少年にとっても少女にとっても、それは初めての体験だった。  その後も彼らはほとんど毎日のように、たいがいは彼の部屋で、時には彼女の自室で、何度も何度も体を重ね合わせた。  何度も何度も、何度も何度も……疲れ果てた少女が音を上げても、彼は少女を放さなかった。ぐったりとなった少女に身を重ね、さらに性交を繰り返した。  決して満たされることのない彼の性欲の激しさに、15歳の少女は戸惑い、彼自身もまた戸惑った。いったい、どれくらい性交を続ければ、燃え盛るその欲望の炎が消えるのだろうと思うほどだった。  ほとんど毎日のように彼は少女を自室に連れ込み、その華奢な肉体を激しく貪《むさぼ》った。毎日毎日、毎日毎日……それは中学を卒業し、別々の高校に進学してからも続いた。  このまま人生が終わってしまえばいい。  少女の肉体に硬直した男性器を深く突き入れながら、彼はいつもそう切望した。同時に、もし、彼女がいなくなったら、自分はどうなってしまうのだろうとも思った。  そんな彼らの関係は2年ほど続き、ある日、突然、終わった。  もう終わりにしたい。  そう切り出したのは彼女だった。彼には頷《うなず》くことしかできなかった。  ああっ、もし、彼女がずっとそばにいてくれたら……時々、彼はそう思う。彼女が今もそばにいてくれたなら……そうしたら、こんなことにはならなかったのではないか?  彼女の名前は?  そう思って、彼はいつも唇を噛《か》み締める。  思い出せない。毎日あれほど体を合わせていたというのに、彼には少女の名を思い出すことができない。     3.  洗い髪を大きなバスタオルで拭《ぬぐ》いながら浴室を出ると、家の中には芳ばしいコーヒーの匂いが満ちていた。  朝日に包まれたキッチンのテーブルに裸のまま腰を下ろし、いれたばかりのコーヒーをカップに注ぐ。食事を終えた犬たちはいつものようにテーブルの下にやって来て、彼の足に体の一部を触れさせて床に寝そべった。  彼女はどうしているだろう?  口の中に広がるブルーマウンテンの味と香りを楽しみながら、彼は6号室にいる水乃玲奈の姿を思い浮かべた。  まだ眠っているのだろうか? それとも、もう目を覚まし、新しい脱出の方法を考えているのだろうか?  昨夜、彼にベッドに俯《うつぶ》せに押さえ付けられ、背後から激しく犯されて呻《うめ》いていた水乃玲奈の顔や声を思い出す。ただそれだけのことで、股間《こかん》でだらりとしていた男性器がまた固くなり始めた。  できればきょうから水乃玲奈への本格的なしつけを始めたかった。彼女は思っていたより反抗的で、完全に飼い慣らすにはかなりの時間と手間がかかりそうだったから。  けれど、きょうはそんな時間はないかもしれない。だが、しかたない。きょうは特別な日なのだから。  カップの中のブルーマウンテンを飲み干し、新たに注ごうとした時、キッチンの隅にある電話が鳴った。 『2』という数字が点滅している。ということは2号室……アイドルタレントだった宮坂深雪が彼を呼んでいるのだ。  どうしたんだろう?  不審に思いながら受話器を取る。 「もしもし、深雪さん? どうしました?」  すぐに女の声は聞こえなかった。ただ、受話器から荒い息遣いが聞こえて来ただけだった。  嫌な予感がした。  彼は受話器を握り締め、宮坂深雪の可愛らしい顔や、ふっくらとした柔らかな肉体を思い浮かべた。 「深雪さん? どうしました? 深雪さん?」  やがて受話器から宮坂深雪の声が微《かす》かに聞こえた。 『わたし……手首を切ったわ』  宮坂深雪の声は震えていた。 「えっ?」  思わず声が出た。 『たった今、ワイングラスで手首を切ったの……血がどくどく出てるの……このままだと死んじゃうわ』  彼は電話を保留にすると、急いで寝室に向かった。そして、50インチ液晶モニターのスイッチを入れ、宮坂深雪のいる2号室を映し出した。  宮坂深雪の言ったことは嘘ではないようだった。  彼女は今、右手で受話器を持ってベッドの上にうずくまっていた。そこで鮮血の溢《あふ》れ出る左手首を呆然《ぼうぜん》と見つめていた。すぐそばには割れて血まみれになったワイングラスのかけらが落ちていた。  モニターを見る限りでは、傷口はかなり深そうだった。手首から大量の血液が溢れ、細い腕を伝って滴り落ち、ベッドに敷いた純白のシーツを真っ赤に染めている。宮坂深雪の様子から、彼女自身がひどく驚き、脅《おび》えて動揺しているのがわかる。このままだと、出血多量で死亡してしまうかもしれない。  だが、彼は慌てているわけではないし、驚いているわけでもない。生まれてから、驚いたことも慌てたことも1度もない。  寝室の電話を取り、保留を解除する。受話器の向こうの宮坂深雪に呼びかける。 「どういうことです、深雪さん?」 『病院に連れて行って……すごい血なの。このままだと死んじゃう……だから、お願い……すぐに病院に連れて行って……お願い……』  そう。それが宮坂深雪の狙いだったのだ。愚かなことに、彼女は破れかぶれの勝負に出たのだ。 「それはできません」  彼は低く、抑揚のない声で言った。「自分のしたことには責任を持たなくてはなりませんよ、深雪さん」 『そんな……だって、このままだと死んじゃうわ!』  宮坂深雪が叫んだ。『すごく血が出てるのよっ! 早く病院で手当をしないと死んじゃうわ! あなただって、わたしがいなくなったら困るでしょう? だから病院に連れてって! それがダメなら、せめて……せめてここに医者を連れて来てっ!』  宮坂深雪はパニックに陥り、激しく取り乱している。突然、目の前に迫って来た死の恐怖に脅えているのだ。  確かに宮坂深雪がいなくなってしまうのは残念なことだ。彼は大変な苦労をして彼女をここに連れて来たのだし、大変な苦労をしてしつけを続けて来たのだ。  けれど、しかたがない。彼女は彼が思っていた以上に愚かだった。そういうことだ。 「残念ですが……わたしには何もしてあげられません」  彼は宮坂深雪を諦《あきら》めた。待つことと同じように、諦めるということも、彼の得意なことのひとつだった。 『あなたのせいなのよっ! 何もかもが、あなたのせいなのよっ! わたしを見殺しにする気なのっ! この人殺しっ!』  2号室のベッドの上で宮坂深雪は半狂乱になって叫んでいる。けれどその声は、ほかの女たちの部屋にはほんの微かにしか聞こえないだろう。  彼は受話器を電話に戻し、モニターのスイッチを切った。唇を噛み締め、窓の外に満ちた眩《まぶ》しいほどの光を見つめた。     4.  急いで女たちの食事を用意する。と言っても、生きるか死ぬかわからない宮坂深雪の分と、ワインボトルを振りかざして反逆を企てた水乃玲奈の分はない。  きょうのメニューは、ハトムギ、トウモロコシ、黒米、玄米、黒|胡麻《ごま》、黒豆、小豆《あずき》、緑豆、アマランサス、ソバ、クコ、モチアワ、モチキビを白米に混ぜて炊いた茶碗《ちやわん》1杯の雑穀|粥《がゆ》と、自家製のフレンチドレッシングをかけたツナとキャベツとキュウリのサラダ。それにニンジンとブロッコリーとカリフラワーを入れたクリームスープだ。食後のデザートとしてグレープフルーツを1個ずつ付けることにした。  普通、女たちには1日に1回の食事を与えている。たいていは茶碗1杯の雑穀粥と栄養バランスのいい野菜のスープ類、それにサラダと果物というメニューだが、時には褒美として、菓子やケーキを与えることもある。  ミネラルウォーターの割り当ては、1日に500ミリリットルのペットボトルを2本。足りない時は水道の水を飲んでもらうことにしている。ワインの配給は週に2回、白ワインと赤ワインをボトル1本ずつだが、こちらも褒美としてさらに1本余計に与える時もあるし、ごく稀《まれ》にはシャンパンを与えることもある。  白石慶子と武藤静香は煙草を吸うので、白石慶子には1日に1箱、武藤静香には2日に1箱の煙草の差し入れをしている。そのせいで、ふたりの部屋はいつも煙草臭いが、それくらいは大目に見ている。いずれは水乃玲奈にも煙草を与えるつもりだが、昨夜の反逆の罰として当分は禁煙してもらうつもりだ。  女たちのほとんどが、食事の量が少ないと感じているらしい。だが、彼はこれ以上は量を増やすつもりはない。  空腹な動物ほど餌を利用してしつけやすい——それが第一の理由だった。  さらに、昔、森の中で拾った雑誌の影響もあるかもしれない。あの雑誌の写真の女たちは、ひとり残らずガリガリに痩《や》せて、骨張った尻《しり》と骨の浮いた体をしていた。  男に所有される女たちは、痩せているほうが似つかわしい。  もちろん、彼は地下室の女たちに首輪を嵌《は》めたりはしない。だが、彼は無意識のうちに、あの雑誌の女たちを自分の地下室に再現しようとしているのかもしれなかった。  食事の準備をしていると、何度もしつこく電話が鳴った。2号室の宮坂深雪だ。けれど、彼は電話には出なかった。大きな土鍋《どなべ》で慌ただしく雑穀粥を作り、大鍋に入ったクリームスープを温める。サラダにするための野菜を洗い、それを小さなボウルに盛り付ける。  食事が用意できると、いつものようにアルミ製のトレイに載せて女たちの部屋に運ぶ。順番は決めていないが、きょうはまず、1号室の白石慶子から。次に5号室の香山早苗。それから3号室の武藤静香……。  女たちのほうもすっかり慣れたものだ。食事を運ぶ彼に立ち向かって来る者などいない。そんなことをすればどうなるか、今では誰もが知っている。  そう。程度の差こそあれ、彼女たちは誰もしつけられ、飼い慣らされているのだ。  水乃玲奈の6号室と宮坂深雪の2号室には行かないが、廊下の窓ガラスからふたりの様子をうかがってみる。  水乃玲奈はベッドの上にいた。タオル地のバスローブをまとって横たわり、ほとんど瞬きもせずにこちらを見つめている。どうやらまだシャワーも浴びていないし、顔も洗っていないようだ。栗色に染めた長い髪はくちゃくちゃに縺《もつ》れたままだし、顔の化粧もひどいものだ。  けれど、彼は水乃玲奈を心配しているわけではない。たいていの女は最初の数日はシャワーも浴びないし、ロクに食事もとらないものなのだ。  大丈夫。ほかの部屋の女たちがそうだったように、水乃玲奈もやがてここでの生活に慣れるだろう。人間という生き物は、たいていのことには慣れてしまうものなのだから。  水乃玲奈の部屋の前を離れると、彼は2号室をのぞいた。  2号室の宮坂深雪は、凄《すさ》まじいパニックに陥っている。左腕をタオルで縛り、髪を振り乱して泣きわめきながら部屋の中を歩きまわり、ベッドに戻っては何度も電話を掛けている。床に敷かれた白いタイルに鮮血が飛び散り、左手首に巻かれた白いタオルが真っ赤に染まっている。  出血はかなりひどいようだ。可愛らしい顔が蒼白《そうはく》になっている。  窓ガラスのそばに佇《たたず》んでしばらく宮坂深雪の様子をうかがっていたあとで、彼はそこを離れて階段に向かった。  もちろん、宮坂深雪が死なないほうがいいに決まっている。彼女は彼の大切なコレクションのひとつなのだから……これから何年にもわたって、彼は彼女を慈しむつもりでいたのだから……。  だが、医学の知識のない彼にできることなど、何もない。  血が止まれば宮坂深雪は生き延びる。血が止まらなければ彼女は死ぬ。ただ、それだけのことだ。  もし宮坂深雪が死ねば、部屋がひとつ空く。ということは……そこにまた新たなコレクションを連れて来ることができる。  今度はどんな女を連れて来ようか?  地上への階段をゆっくりと上りながら、彼は思った。     5.  皺《しわ》ひとつない麻のスーツに着替えて玄関を出る。いつものように2匹のシェパードが見送りに来る。  家の外にはきょうも噎《む》せ返るほど濃く潮の香りが立ち込め、打ち寄せる波の音がすぐそこに聞こえる。カモメたちの声がやかましく響いている。  きょうも海からの風が吹いている。東京湾を渡って来た湿った熱風が彼の髪を優しくなびかせ、家の周りを囲んだ広大な雑木林の枝々をそよがせていく。コナラ、エノキ、クスノキ、ヒノキ、ケヤキ、カエデ、モミジ……枝が揺れるたびに、いくつもの葉が太陽の光を受けて鏡のように輝く。  10数メートル先には、白いペンキの塗られた木製のフェンスが張り巡らされている。その先は垂直に切り立った断崖《だんがい》絶壁だ。台風の時など、真っ白に砕けた波《なみ》飛沫《しぶき》が庭にまで上がって来る。  玄関のドアに寄り掛かって、いつものように潮の香りを胸いっぱいに吸い込む。ふたつの半島に挟まれた海や、そこに行き交う船舶や、対岸の三浦半島を眺める。  それにしても暑い。  ただ立っているだけで、全身の皮膚に汗が滲《にじ》み出て来る。犬たちも長い舌をだらんと出して、苦しそうに呼吸をしている。  これから向かう予定の三浦半島の上には、白っぽい空がけだるく広がっている。きょうは空気が湿っているせいで、いろいろなものが霞《かす》んでいる。空気が澄んでいる時にははっきりと見える観音崎《かんのんざき》の灯台も、きょうはぼんやりとしか見えない。  海って、長く見てると飽きるのよね。  生前、彼の母はよくそう言っていた。  けれど、彼はそう思わない。  幼い頃から、彼は海を見るのが好きだった。いつまで見ていても、飽きたと感じたことがなかった。  その家は房総半島の最南端付近、東京湾の出口に面した崖《がけ》の上に建っている。3万平方メートルを越える広大な敷地を有する瀟洒《しようしや》な3階建ての洋館で、母屋の付近だけは樹木が伐採されて開けた土地になっているが、その周りは鬱蒼《うつそう》とした雑木林と海に面した断崖になっている。  地元の人たちは雑木林と断崖絶壁に囲まれたこの洋館を、『スーパー御殿』、あるいは『あんたつ屋敷』と呼んでいた。  都会に比べると人口が遥《はる》かに少ないということもあるが、この町で彼の父である故安藤辰三と、この『スーパー御殿』を知らない者はいない。房総半島に20数店舗を有するスーパーマーケットチェーンを一代で築いた彼の父と、断崖絶壁に面した雑木林の中に父が建てた洋館は、この小さな町ではそれほど有名なのだ。  けれど、その有名な『スーパー御殿』に今、2匹のジャーマン・シェパードと一緒に暮らしている安藤辰三の長男のことをよく知っている人間はいない。まして、その洋館の地下室に何人もの女たちが閉じ込められているということを知っている人間など、ひとりもいない。  そう。母が死んでしばらくして、彼はひとりの大工に命じ、物置や洗濯場やワインの貯蔵庫になっていた広い地下室を改造して、そこにコンクリートの密室を作らせた。同時に、その大工に、この地下室のことは決して口外しないように強く命じた。  地下室の工事を請け負った大工は、きっと不審に思ったはずだ。海を一望できる一等地に建物があるにもかかわらず、その部屋には景色の見える窓さえなかったから。  だが、老大工は安藤辰三の長男である彼に何も質問しないまま、地下室の完成のわずか1年後に不慮の事故で死んでしまった。だから今では、その洋館の地下に秘密の部屋が存在することを知る者もいない。  しばらく玄関前で海を眺めていたあとで、彼は母屋から少し離れた場所にあるコンクリート製のガレージに向かった。犬たちは冷房の効いた家の中に早く戻りたそうだったが、いつもの習慣で彼の跡をついて来た。  ガレージの周りには、彼の母が丹精込めて育てたブーゲンビリアとハイビスカスが咲き乱れ、たくさんの蝶《ちよう》が舞っている。そこだけ見ていると、南国にいるかのような錯覚にとらわれる。  ガレージの前で立ち止まり、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、辺りをぐるりと見まわす。  宮坂深雪が死んだら……どこに埋めようか?  ふと、そんなことを考える。  小さなリモコンを操作し、ガレージのシャッターを開ける。  埃《ほこり》っぽいガレージの中には、かつて彼の父が大切にしていたEタイプジャガーの白いオープンカーと、彼が女たちを運ぶのによく使っている白い国産のワンボックスカー、それに濃紺のボルボのステーションワゴンが行儀よく並んでいる。 「それじゃあ、行って来る。留守番を頼むよ」  2匹のシェパードに言うと、彼はステーションワゴンに乗り込んだ。  地下の密室で死にかけている宮坂深雪のことを考えて、ぼんやりしていたせいかもしれない。ガレージから車を出す時に、買い替えてまだ3カ月もたっていないボルボのボディをコンクリートの門柱に派手に擦り付けてしまった。  バックミラーを見ると、車体の左側の塗料が剥《は》げ落ちて凹《へこ》み、コンクリートの粉が付着して白くなっている。門の内側で犬たちが呆《あき》れたように彼を見ている。  彼はそのままガレージを出る。もちろん、車のことなど気にしてはいない。車なんて、また買い替えればいいだけのことだ。     6.  ボルボのハンドルを握り、海岸沿いに金谷《かなや》のカーフェリー乗り場に向かっている。  宮坂深雪や、ほかの女たちのことを考えながら?  いや、そうではない。もう今は、地下室の女たちのことは考えてはいない。彼は今、これから会うことになっている少女のことを考えている。  いったい、何を話したらいいのだろう?  ダッシュボードからサングラスを出して掛ける。車のスピーカーから流れ出るパイプオルガンの調べを聴きながら、サイドウィンドウの外をぼんやりと眺める。  人口の少ない房総半島では道路が渋滞することなどほとんどない。だが、この季節だけは別だ。『品川』『横浜』『川崎』『湘南《しようなん》』、『練馬《ねりま》』『足立《あだち》』『多摩《たま》』『相模《さがみ》』などのナンバープレートを付けた海水浴客やサーファーたちの車で、海岸沿いの道はひどく混雑している。  渋滞する車のすぐ脇、熱く焼けた歩道を、水着姿の少年や少女がぞろぞろと歩いて行く。小麦色に焼けた彼らの肌が、真夏の太陽に眩《まぶ》しく光っている。  真っ白なビキニを着た少女のひとりに目をやる。まだ16〜17歳なのだろうか? すらりと背が高く、腕や脚がとても長く、ほっそりとした体つきをしている。真っ黒に焼けた肌に、別のビキニを着た時の日焼けの跡が残っている。まるで野生の黒豹《くろひよう》のようで、純白の小さなビキニがとてもよく似合っている。  少女は脱色した長い髪を夏の風になびかせながら、連れの少年としきりに話している。今は3号室の住人となっているサーファーだった武藤静香と、何となく雰囲気が似ていなくもない。だが、年がさらに若い分だけ、目の前の少女のほうが体が未成熟だ。乳房もまだ、申し訳程度にしか膨らんでいない。もしかしたら、まだ性体験をしたことがないのかもしれない。  もし宮坂深雪が死んだら、2号室であんな少女を飼ってみてもいい。  アキレス腱《けん》がくっきりと浮き出た少女の足首と、そこで光っている金色のアンクレットを見つめて、ぼんやりとそんなことを思う。  道行く女たちを眺めながら、延々とそういう想像を続けるのが彼は好きだった。  あんな少女をしつけるのはどんな気分だろう? 性行為の時にはどんな顔をし、どんな声を出すのだろう?  けれど……きょうは、それ以上の想像はできなかった。  白いビキニの少女から目を逸《そ》らし、彼はまた、これから会う少女のことを考えた。  何を話したらいいのだろう? 自然に微笑むことができるだろうか?  珍しく、彼は少し緊張していることに気づいた。  いつものようにカーフェリーで東京湾を横断し、久里浜《くりはま》で船を降りて鎌倉《かまくら》に向かう。  この季節の三浦半島の渋滞のひどさは房総半島の比ではない。ましてきょうは土曜日だ。車は這《は》うようなスピードでしか動かない。  ふだんの彼ならイライラしたかもしれない。けれど、きょうはそうではなかった。  これから会わなくてはならない少女のことを考えると、何となく気が引けて、いつまでも目的地に着きたくないと思ってしまうのだ。  月に1度、第1土曜日の午後、彼は少女と会う。そして、3〜4時間、ふたりだけで過ごす。  そう。これから会うことになっている少女の母親は離婚した彼の妻で、少女は彼の実の娘なのだ。  百合絵——それが、生まれたばかりの赤ん坊に彼が付けた名前だった。あの日、赤ん坊が生まれたという電話を受けて病院に駆けつける時、タクシーで花屋の前を通りかかったら、とても綺麗《きれい》な白い百合が咲いていたから……。  娘の百合絵は今、7歳。母親に似て肌のキメが細かく、目がとても大きくて、子リスのような顔をした可愛らしい少女だ。きっと将来は美人になるはずだ。  娘のことを思うと、緊張のために胸が高鳴る。  父親のことをどう思っているのだろう? 月に1度、父親と過ごす時間をどう感じているのだろう?  その時、電話が鳴った。  右手で車のハンドルを握りながら、左手でポケットから電話を出す。  2号室の宮坂深雪からだ。 「もしもし、深雪さん?」  電話の向こうの宮坂深雪に向かって呼びかける。 『助けて……お願い……死にたくないの……』  電話から呻《うめ》くような女の声が聞こえた。『まだ血が止まらないの……助けて……お願い……お願いだから……わたしを助けて……』  宮坂深雪の顔を思い浮かべ、彼は唇を噛《か》み締めた。 「無理です。もう、わたしにできることは何もありません」  そう告げて、電話を切り、ついでに電源も切る。前の車のテールランプをじっと見つめる。  やはり宮坂深雪は死んでしまうのだろうか? もし死んでしまったら……今度はどこに埋めたらいいだろう?  今度は?  そう。彼は以前にも女性の死体を埋めたことがあった。     7.  あれは……ちょうど、去年のこの季節だった。  ある蒸し暑い朝、いつものように女たちに食事を与えるために地下室に下りて行った彼は、ひとつの部屋の窓ガラスの向こう側にバスローブをまとった女の体がぽっかりと浮かんでいるのを見つけた。  えっ? なぜ?  驚くことなど、ほとんどない彼ではあったが、その時は少し驚いた。  慌てて鍵《かぎ》を開けて部屋の中に飛び込んだ。  ああっ。  ドアを開いた瞬間、思わず呻き声が漏れた。  彼のすぐ目の前に、白いバスローブをまとった女がぶら下がっていたのだ。  とっさには理解できなかった。それはとても不思議な光景だった。  床の上に佇《たたず》み、彼は女を見上げた。恐る恐る手を伸ばし、女の体に——はだけたバスローブからのぞく女の太腿《ふともも》に触れてみた。  女の太腿はまだ熱いほどに温かく、とても滑らかで、汗で湿ってしっとりとしていたけれど……女が死んでいることはすぐにわかった。  そう。女は死んでいた。命をもたないモノになっていた。  タイルの床に立ち尽くし、彼は死体になってしまった女を呆然《ぼうぜん》と見上げ続けた。  女の首と天井のエアコンの吹き出し口の鉄格子は、ピンと張り詰めたバスローブの紐《ひも》で繋《つな》がっていた。宙づりになった女のすぐ足元には、ベッド脇にあったはずのサイドテーブルが横倒しになっていた。  そうだ。女は自殺したのだ。この地下室で生きながらえるより、命を絶つことを選択したのだ。  女はゆっくりと前後左右に揺れていた。体が揺れるたびに背中に流れる長い髪が美しく光った。それは大きなテルテル坊主のようにも見えた。  女は目を大きく見開き、口を少し開いていた。色をなくした唇の端から、真っ赤な舌がダラリとはみ出していた。首を吊《つ》るために紐を使ってしまったため、バスローブの前はだらしなくはだけていて、そこからラベンダー色をしたサテンの下着が見えた。足の指先からポタリポタリと尿が滴り、白いタイルの床に黄色い水|溜《た》まりを作っていた。  女をみすみす自殺させてしまったことを彼は悔やんだ。よく考えれば、女が自殺したことはそれほど不思議ではなかった。  バスローブの紐で首を吊って自殺した女の名は井上奈緒美《いのうえなおみ》。あの地下室で暮らすようになって、もう少しで半年になろうとしていた。  彼と同い年の井上奈緒美は、都内の一流大学を卒業したあとアメリカに留学して経営学修士の資格を取り、帰国後は国内の大手スーパーマーケットチェーンで働いていた。5年ほど前、ヘッドハンティングで彼の父が創業したスーパーマーケットチェーンにやって来て、彼女はたちまち頭角を現した。  井上奈緒美は頭の回転が速く、非常に理論的で、とてもエネルギッシュだった。古い慣習にはいっさい囚《とら》われず、新しいことをどんどん取り入れた。少しヒステリックで攻撃的なところはあったし、徹底的なリストラを断行したせいで労組との揉《も》め事はたえなかったし、仕入れ先に苛酷《かこく》な値引きを要求し続けたために彼女を恨む者は少なくなかった。だが、ワンマン社長だった彼の父の死後すぐに赤字に転落していた会社は、彼女の経営戦略のおかげでたちまち黒字に転換した。  井上奈緒美は本当にやり手だった。彼の地下室の住人になる半年ほど前には、31歳の若さで取締役経営企画本部長の要職にまで上り詰めていた。  彼女は仕事ができただけではなく、とても美しい女性だった。背が高く、手足が長く、いつも一流ブランドのスーツをまとい、一流ブランドのパンプスを履いていた。あれだけ仕事が忙しかったというのに、伸ばした爪を毎日のように違う色のマニキュアで彩り、いつも一分の隙もなく化粧をし、少し明るく染めた長い髪をつややかに輝かせていた。  完璧《かんぺき》な女性——彼にはそう思えた。彼女にはアメリカ人の夫との離婚経験があったが、それさえも彼には勲章のように思われた。  彼は会社の筆頭株主だったし、名前だけだったとはいえ取締役のひとりだったから、取締役会議や株主総会、会社のパーティなどで何度か井上奈緒美と顔を合わせていた。  そう。地下室にいるほとんどの女たちと違い、井上奈緒美は彼の顔見知りだった。  自分では何ひとつ努力をせず、親の財産を食いつぶして生きているバカ息子——井上奈緒美のほうは、自分と同い年の彼をそう思っていたに違いない。彼女が彼に無礼なことを言ったことはなかったし、会えば必ずにこやかに微笑んではいたが、彼女の瞳《ひとみ》の奥に彼に対する蔑《さげす》みがあるのは感じられた。  人に蔑まれるのはかまわなかった。バカにされるのもかまわなかった。彼にとって、そんなことはどうでもよかった。  井上奈緒美を地下室の住人にしようと思いついたのは、彼女に対する復讐《ふくしゆう》ではない。復讐したいという欲望は彼の中には存在しない。  ただ……美しいカラスアゲハを欲した時のように、彼は彼女を欲したのだ。  何週間にもわたって入念な計画を練ったあげく、彼はついに井上奈緒美を地下室のコレクションに加えることに成功した。そして、ほかの女たちにしたように、その日のうちに何度も繰り返し凌辱《りようじよく》した。  井上奈緒美をしつけるのは、それまでになく大変で手がかかった。  彼女は猛烈に抵抗し、ほかのどの女たちより激しく彼に逆らった。彼に対する反逆を何度も企て、そのたびに失敗して厳しい罰を与えられた。  彼は彼女の食事の量を極端に減らして飢えさせた。食事の制限がしつけに効果があることは経験からわかっていた。さらに彼は井上奈緒美に対しては、それまではほかの女たちには使ったことのなかった革ベルトの鞭《むち》まで使った。  けれど、彼女は決して音を上げなかったし、へこたれなかった。あまり逆らい続けるので彼のほうが根負けしそうになったほどだった。  自分より遥《はる》かに劣った男に(あの地下室で彼女はしばしば彼を『ウジムシ』『寄生虫』と罵《ののし》った)しつけをされる。誇り高い彼女には、そんな屈辱はとうてい許せなかったに違いない。  けれど、彼は諦《あきら》めなかった。  彼は毎日、戦いに挑むボクサーのような気持ちで、あるいは野生の猛獣の檻《おり》に入る調教師のような気持ちで、井上奈緒美の部屋に入っていった。そして、毎日、長い時間かけて彼女へのしつけを根気よく続けた。部屋を出る時には重労働をしたあとのように疲れ切っていた。  井上奈緒美は驚くほど強かった。賢く、気高く、美しく、誇り高かった。決して飼い慣らすことができないと言われる野生のヤマネコのようだった。  だが、それでも、毎日のように徹底的に凌辱され、罰を受けて痛め付けられるたびに、石英のように尖《とが》っていた彼女も少しずつ少しずつ丸くなっていった。それはまるで、川を転がっていくたびに角の取れていく石のようだった。  絶望と諦め。それらの感情が少しずつ井上奈緒美の心を侵していったに違いない。  少しずつ……少しずつ……少しずつ……そして……拉致《らち》して半年近くが過ぎた頃には、彼女の口に男性器を含ませることにも彼は危険を感じなくなっていた。  彼女の場合にも、決定的だったのは肩に押された『R』の焼き印だったように思う。2度と消えない彼の印を肉体に刻み付けられたことで、彼女はついにすべてを諦めたのだろう。その後は、もう2度と彼に逆らうことはなくなった。  ああっ、ついにあの井上奈緒美をしつけることに成功したんだ。ついにあの井上奈緒美を飼い慣らしたんだ。  足元に跪《ひざまず》いて男性器を口に含む女を見下ろし、彼は深い満足感に浸った。  彼女が首を吊って死んだのは、その直後のことだった。  井上奈緒美が首を吊って死んだ晩、彼は園芸用のスコップを使って庭に深くて大きな穴を掘った。そこは庭のいちばん東の端、三浦半島に沈む夕日を一望できる彼のお気に入りの場所だった。  その晩も海から、強い潮の香りのする生温かい風が吹いていた。庭を囲んだ雑木林のあちこちから虫たちの声がやかましく響いていた。深夜だというのに、目の前に横たわる細長い海域には、いくつもの船舶の光がゆっくりと動いていた。1度、光を満載した巨大な客船が、海面を滑るようにして湾を出て行くのも見えた。  2匹のジャーマン・シェパードは彼のすぐそばで、地面に穴を掘る主人の様子を不思議そうに眺めていた。  1時間近くかけて人間が横たわれるほどの穴が掘り上がると、彼は地下室から井上奈緒美の死体を抱いて庭に運んだ。  彼が入念な死に化粧を施したせいで、彼女はゾッとするほどの美しさを取り戻していた。月の光に照らされた長い髪が綺麗《きれい》だった。  気温が高かったせいだろうか? ほっそりとした井上奈緒美の体は、すでに死後硬直が始まっていた。まるでマネキン人形を抱いているかのようで、それが悲しかった。  硬直した女の死体を穴の底に横たえると、彼は穴の縁にしゃがみ込み、唇を噛《か》み締めて長いあいだそれを見つめていた。2匹のシェパードも彼の脇にしゃがんで、穴の底の死体を見つめていた。  ついに彼女を飼い慣らすことはできなかった。彼女は勝ち、彼は負けたのだ。  深い穴の底に下着姿で横たわった女を、どれくらいのあいだ見つめていただろう?  彼はようやく立ち上がり、再びスコップを使って死体に湿った土を掛けた。  湿った土をスコップですくい上げて死体に掛ける。そのたびに胸が張り裂けるような気がした。  ほんの数分で井上奈緒美の体は土に埋まって見えなくなってしまった。  ああっ、彼女はいなくなってしまった。あんなに美しかったのに……あんなに賢かったのに……あんなに努力家で、あんなに野心的で、あんなに完璧だったのに……。  彼に祈る神などいなかった。けれど、彼は盛り上がった土山の前に跪き、井上奈緒美のために両手を合わせた。  彼は……井上奈緒美が好きだった。同い年の彼女が、とても好きだった。     8.  渋滞を見越して早めに家を出たのが幸いした。かつて妻だった女に指定された鎌倉のコーヒーショップに着いたのは、待ち合わせ時間の20分ほど前だった。  窓辺の席に座り、化粧の濃い若いウェイトレスにコーヒーを注文する。店内をぐるりと見まわしてから窓の外に目をやる。  古都の細い裏通りを夏服をまとったたくさんの人々が行き来している。誰もがとても暑そうだ。  汗をかいたグラスの冷たい水を一口飲んでから、彼は腕時計に目をやった。そして、また死んでしまった井上奈緒美のことを考えた。  あれは確か、今から1年半近く前……地下室に井上奈緒美を幽閉してから、15日ほどが過ぎた深夜のことだったと思う。  あの真冬の晩、あのコンクリートの地下室で——彼は右手に黒い革製のベルトを握り締めていた。  部屋の中央に据え付けられた鉄製の巨大なベッドでは、小さなサテンのショーツだけになった井上奈緒美が、水面に浮かぶアメンボウのように両手両足を大きく広げて俯《うつぶ》せになっていた。女の細い手首とアキレス腱《けん》の浮き出た足首は、白いロープでベッドの4隅の鉄柱にがっちりと縛り付けられていた。  そう。あの晩、彼はついに鞭を使うことにしたのだ。いつまでたっても逆らい続ける井上奈緒美の態度に痺《しび》れを切らし、サーカスの調教師が猛獣にするように、鞭を使ってしつけることにしたのだ。 「それじゃあ始めますよ、井上さん」  背後に立った彼が呟《つぶや》くように告げたが、井上奈緒美は振り向かなかった。筋肉質な体を、ほんの一瞬、震わせただけだった。  彼には自分の手もまた震えているのがわかった。昔、森の中で拾った雑誌の中には、裸の女を縛り付け、その体に鞭を振り下ろす男の写真が何枚かあった。だが、彼が実際に女を鞭打ったことなど1度もなかった。  手の震えを抑え、彼は腕を高々と振りかざした。そして……筋肉の張り詰めた女の背の中央を見つめ、力まかせにベルトを振り下ろした。  黒革のベルトが風を切って鋭く唸《うな》り、次の瞬間、ビシッという大きな音を立てて女の背を引き裂いた。  瞬間、ベッドにくくりつけられた女の体が弾むように跳ね上がり、骨張った指が手首に巻かれたロープを握り締めた。同時に、白く滑らかな女の背中を斜めに横切るように真っ赤な線ができた。  凄《すさ》まじい痛みが女を苛《さいな》んでいるのは明らかだった。女の腕や腿《もも》や背にはくっきりと筋肉が浮き上がり、全身が痙攣《けいれん》するかのようにブルブルと震えていた。  けれど——女の口からは、ほんのわずかな悲鳴も呻《うめ》き声も漏れなかった。  なぜ悲鳴を上げない?  そう思いながら、彼は再び腕を振り上げた。そして、今度はさっきよりさらに力を込めて、少年のように骨張った女の尻《しり》を申し訳程度に覆ったサテンのショーツにベルトを振り下ろした。  バシッ。  黒革のベルトは薄っぺらなショーツを横断するかのように、女の左の腰から右の腿にかけての皮膚に真っ赤な線を刻み付けた。瞬間、女の細い体がよじれるように悶《もだ》え、栗色に染められた美しい髪が振り乱された。  ベッドの柱に繋《つな》がれたロープがギシギシと音を立てた。けれど、やはり——女の口からは悲鳴が漏れなかった。  井上奈緒美が悲鳴を上げないことが彼には不思議だった。 「井上さん、どうして泣かないんですか? どうして叫ばないんですか?」  彼は腕を振り上げた。そして、今まで以上の力を込めてベルトを振り下ろした。  バシッ。  女の体が悶え、肩や尻がブルブルと震えた。胸の下敷きになった乳房が、空気のいっぱいに詰まったゴムボールのように歪《ゆが》んだ。  けれど、それでも、女は悲鳴を上げなかった。泣き声を漏らすことも、振り向いて許しを乞《こ》うこともなかった。  そうだ。井上奈緒美は強いのだ。賢く、気高く、美しく、誇り高いのだ。  突然、彼の中に、それまでは感じたことのなかった凶暴な衝動が湧き上がった。  それは他者を虐げることによってのみ得ることのできる、激しく、暴力的で、痺れるような欲望だった。強く、賢く、気高く、美しく、誇り高い生き物を、徹底的におとしめ、徹底的に辱めてやりたいという残虐な欲望だった。 「井上さん、あなたが許しを乞うまで、わたしは打ち続けます。あなたがわたしに許しを乞うまでです。わかりましたね?」  そう告げると、彼は何かに憑《つ》かれたようにベルトを振り上げ、渾身《こんしん》の力を込めてそれを振り下ろした。何度も何度も……女の尖《とが》った肩に、筋肉の張り詰めた背中に、引き締まった二の腕に、細くくびれたウェストに、天使の翼のような肩甲骨が浮き出た背に、骨張った小さな尻に、ほっそりとした太腿に……彼は夢中でベルトを振り下ろし続けた。  白く滑らかだった女の体は、たちまち何本もの真っ赤な線で覆われた。そのうちのいくつかは皮が擦り剥《む》けて傷になり、いくつかの傷からはプツプツと血の粒が噴き出した。  しかし、どれほど激しく打たれても女は悲鳴を上げなかった。黒革のベルトが振り下ろされるたびに体に新たな傷が刻まれ、そのたびに汗にまみれた全身が震え、よじれ、シーツに押し付けられた顔の隙間からくぐもった呻《うめ》きが漏れ聞こえたが、それだけだった。 「井上さん、どうしてもわたしに許しを乞うつもりはないんですね?」  彼はアメンボウのような姿勢でベッドにくくりつけられた女の頭のほうにまわった。つややかに光る髪を鷲掴《わしづか》みにして無理やり上を向かせた。女が失神しているのではないかと思ったのだ。  けれど井上奈緒美は失神などしてはいなかった。その目は微《かす》かに潤み、脂汗にまみれた顔は凄まじい怒りと憎しみとに歪んではいたけれど、女は泣いてはいなかったし、脅《おび》えてもいなかった。 「どうしてですか? どうしてわたしに許しを乞わないんですか?」  女の目を見つめて彼は訊《き》いた。「あなたが一言、ごめんなさいと言えば、わたしはあなたを鞭《むち》打つのをやめます」  そんな彼を下から睨《にら》みつけ、女は笑った。そうだ。井上奈緒美は泣くどころか、笑ったのだ。  脂汗にまみれてはいたが、女は相変わらず美しかった。いや、苦痛と怒りと憎しみに満ちたその顔は、今まで以上に美しかった。 「バカ言ってんじゃないよっ!」  敵意を剥き出しにして彼を見つめ、吐き捨てるように井上奈緒美が言った。「あんたみたいな男に許しを乞うぐらいなら、死んだほうがマシだよっ!」  その言葉が彼を激しく興奮させた。そうだ。あの時、彼はかつてないほど性的に興奮している自分を知った。  彼は再び女の背後にまわると、ベルトを高く振り上げた。そして、真っ赤になった女の背中に向かって、それを力の限り振り下ろした。何度も何度も……繰り返し繰り返し……腕が疲れて痛くなるまで、それを続けた。  結局、あの晩、井上奈緒美は最後まで彼に許しを乞うたりはしなかった。悲鳴を上げることも、涙を流すこともなかった。  彼に捕らえられたすべての女が泣きわめき、『助けてっ!』『許してっ!』と叫んだのとはあまりに対照的だった。  井上奈緒美は耐え続けた。そして最後には、全身を痙攣させて意識を失った。  あんたみたいな男に許しを乞うぐらいなら、死んだほうがマシだよっ!  今になって思えば……まるで格闘でもするかのように井上奈緒美をしつけていた時間は、何という至福の瞬間だっただろう。  また再び、あれほどの至福の時が訪れることがあるのだろうか?  化粧の濃いウェイトレスの運んで来たコーヒーをすする。ポケットから電話を出し、2号室の宮坂深雪を呼び出してみる。  プルルルルル……プルルルルル……プルルルルル……プルルルルル……。  宮坂深雪は電話に出なかった。  ということは……彼女はすでに死んでしまったのだろうか?  唇をなめながら店の出入り口のほうに目をやる。  ちょうどその時、かつて妻だった女が娘と一緒に店に入って来た。     9.  店に入って来たふたりに、彼はぎこちなく微笑みかけた。けれど、妻だった女は微笑まなかったし、娘も微笑まなかった。  娘の百合絵は綺麗《きれい》な小麦色に日焼けしていた。鮮やかなピンク色のワンピースをまとい、亜麻色の長い髪をポニーテールに結んでいた。1カ月前に会った時より少し大きくなったような気がした。  妻だった女は、いつものように濃く化粧をしていた。ぴったりとした色|褪《あ》せたジーパンに、やはりぴったりとした黒いタンクトップをまとい、踵《かかと》の高い華奢《きやしや》なサンダルを履いていた。タンクトップの胸の部分を豊かな乳房が高々と押し上げ、その短い裾《すそ》から細くくびれたウェストと細長い臍《へそ》がのぞいていた。臍にはいつものようにピアスが光っていた。 「待った?」  彼の向かいに腰を下ろすと、彼の目は見ずに妻だった女が訊いた。娘の百合絵はいつものように、彼の隣ではなく、母親の隣に座った。 「いや……今来たところだよ」  目の前に座ったふたりの顔ではなく、テーブルの上のコーヒーカップを見つめて彼は答えた。  彼の妻だった女はブランド物のバッグから煙草とライターを取り出すと、慣れた仕草で煙草をくわえて火を点《つ》けた。  彼はそっと視線を上げ、鮮やかにマニキュアが施された女の長い爪と、よく光るルージュが塗られた唇を見た。  彼の妻だった頃と同じように、彼女は美しく、スタイルがよく、相変わらず生意気そうだった。そして、以前より生き生きしているように見えた。  妻だった女は彼より3歳下だから、29歳になったはずだった。彼女と出会ったのは今から8年ほど前、彼が広告代理店に勤務していた時だった。  ある時、大手製菓メーカーが新製品のキャンペーンをしたことがあった。彼の所属していた部署がそのキャンペーンを扱ったのだが、その時に使った大勢のキャンペーンガールのひとりが彼女だった。  彼女は美しく、背が高くて痩《や》せていて、手足が驚くほど長かった。キャンペーンガールに応募して来た大勢の女たちの中でも一際目をひく存在だった。  この女と性交をしたい。  彼はそう欲した。そして、その欲望に従った。  15歳の時に同級生の少女と執拗《しつよう》に性交を繰り返したように、彼は彼女の肉体を激しく貪《むさぼ》った。毎日毎日、来る日も来る日も……やがて彼女は妊娠し、彼は彼女と結婚した。  それだけのことだ。  結婚式は房総半島でいちばんのホテルに200人近い人を招いて盛大に挙げた。式には地元選出の国会議員や県議会議員もやって来て、新郎新婦に祝福の言葉を贈った。  新婚旅行には、妻の希望でタヒチのボラボラ島に2週間滞在した。その2週間のあいだ、珊瑚礁《さんごしよう》の上に建てられた豪華なコテージで、彼らは発情期のライオンのように休むことなく性交を繰り返した。部屋にいる時間のほとんどを性交に費やしていた、と言ってもいいほどだった。  妻になった女のことを愛していると思ったことはなかった。けれど、彼女との性交は素晴らしかった。  今も彼は毎日のように地下室の女たちと性交を続けている。だが、地下室の女たちはいつも受動的だった。  それは当然のことだろう。彼女たちは彼にそれを強いられているのだから。  けれど、妻だった女はそうではなかった。彼女はとても能動的だった。彼が彼女の肉体を貪ったように、彼女もまた自ら求めて彼の肉体を激しく貪った。  タヒチから戻ると、彼らは都内のマンションで新婚生活を始めた。彼は妻が臨月になっても彼女の肉体を求めたし、彼女も喜んでそれに応《こた》えた。  妻の肉体は確かに素晴らしかった。けれど、性交によって新しい命が発生するということは、彼にはよく理解できないものだった。  自分の遺伝子を残したいわけではなかった。彼はただ、性欲を満たしたいと願っただけだった。  出産のために妻が長野県の実家に里帰りしている時、彼はひとりで病院に行った。そして、そこで手術を受け、今後はどれほど性交をしようとも絶対に子供が生まれない体にした。妻には内緒だった。  生まれた子供は確かに可愛かった。けれど、それだけだった。自分の子供に対して、それ以上の濃厚な思いは湧かなかった。  出産後も彼は毎日のように妻の肉体を求めた。妻もそれに応じ続けた。けれど、いつの頃からか、妻は以前ほど能動的ではなくなった。  そして、ある日、妻が別れ話を切り出した。  同級生の少女の時と同じように、彼はそれを拒否しなかった。  結婚式の2年後に、彼らは別居した。そして、彼の母が死んだ直後に離婚した。     10.  娘の隣に座った妻だった女は、15分ほどそこにいて、アイスティーを1杯飲み、メンソールの煙草を3本吸った。それから手鏡を出してルージュを塗り直し、マニキュアの光る指で額にかかった髪を掻《か》き上げ、「7時までには百合絵を必ず送り届けてね」と、いつもながらの少しきつい口調で言って立ち上がった。 「ああ、わかってる」  女の顔ではなく、タンクトップの裾からのぞく細長い臍と、細くくびれたウェストを見つめて彼は応えた。  妻だった女がいなくなると、彼はとたんに娘との会話に困ってしまった。  娘は彼の向かいに座って、ガラスの器の底に残ったアイスクリームの残骸《ざんがい》をスプーンで退屈そうに掻き混ぜていたが、やがて所在なげに窓の外に顔を向けてしまった。 「あの……百合絵……」  とにかく何か話さなければならない。そう思って彼は娘に声を掛けた。 「なあに?」  窓の外に顔を向けたまま娘が言った。まだ7歳の少女だというのに、首が長くて、鼻がツンと高く尖《とが》っていて、大人の女のようにも見えた。そして、その横顔は母親と驚くほどよく似ていた。 「百合絵……あの……そうだ……学校は面白いかい?」 「普通……」  相変わらず窓の外に顔を向けたまま娘が応える。 「そうか。あの……今は……あの……夏休みなんだろ?」 「まあね……」 「あの……ママに……どこか連れて行ってもらったかい?」 「おじいちゃんち」 「ええっと……そうだ。おじいちゃんちは、長野だったよね?」 「まあね……」 「百合絵、おじいちゃんちで……あの……何をしたの?」 「いろいろ……」 「そうか。いろいろか……おじいちゃんちは……あの……楽しかったかい?」 「まあまあ……」  娘の返事があんまり素っ気ないので、彼は困ってしまった。  娘の横顔から視線を逸《そ》らし、妻だった女が残していったアイスティーのグラスと灰皿を見つめる。アイスティーのストローにも灰皿の吸い殻にも、キラキラとしたルージュが残っていた。 「あの……百合絵、よく日焼けしてるけど……海に行ったのかい?」  何とか会話の糸口を見つけようと、娘の横顔に向かって再び質問を開始する。 「まあね……」 「どこの海に行ったの?」 「|茅ヶ崎《ちがさき》」  彼の妻だった女と娘の百合絵は、茅ヶ崎という海沿いの街のマンションに暮らしていた。もちろん、彼は呼ばれたことはなかったが、彼の支払った慰謝料で購入したというその部屋は10階にあって、窓からは湘南の海が一望できるという話だった。 「そうか。茅ヶ崎か……あの……海水浴は……楽しかったかい?」 「別に……」  娘は相変わらず窓の外に顔を向けている。 「あの……百合絵……今夜なんだけど……何か食べたいものはあるかい?」  妻だった女とそっくりな娘の横顔に向かって、いつものように彼は辛抱強く質問を続ける。月に1度しか会うことを許されていないから、父娘《おやこ》の会話はどうしても最初はぎこちなくなってしまうのだ。 「別に……」  太陽が傾いたせいだろうか? 娘の横顔は今、夏の日に明るく照らされている。美しくカールした長い睫毛《まつげ》が、目の下に影を落としている。生意気そうだが、やはりとても可愛らしい。 「百合絵……あの……お腹は空《す》いてないの?」 「空いてない」 「そうか。あの……きょうなんだけど……これから、どうしようか?」  娘は答えない。 「あの……どこか……行きたいところはないのかい?」 「行きたいところ?」 「そうだよ。どこでもいいよ。百合絵の行きたいところなら、パパはどこにでも連れて行ってあげるよ。どこに行きたい?」  窓の外を見つめたまま、娘は口を閉ざしてしまった。  きょうの娘の態度は、いつにも増して頑《かたく》なだ。いったい、どうしたものだろう?  何を言えばいいかわからなくて、彼も口をつぐんだ。カップに残ったコーヒーを飲み干し、口を尖らして窓の外を見つめる娘の横顔を眺める。  この子もやがて、母親のように、あの可愛らしい口に男性器を含むようになるのだろうか?  そんな不謹慎な想像をしてしまいそうになり、慌てて頭の中を空っぽにする。  重苦しい沈黙がどれくらい続いただろう? やがて……娘の百合絵がゆっくりと彼のほうに顔を向けた。その大きな目でじっと彼を見つめる。 「パパ、百合絵の行きたいところなら、本当にどこにでも連れてってくれるの?」 「ああ。どこにでも連れて行くよ」  娘に見つめられ、今度は彼のほうが視線を逸らした。 「本当に? どこにでも?」 「ああ。どこにでもだよ」  彼は娘に微笑みかけたが、娘は俯《うつむ》いて沈黙してしまった。何か、まずいことでも言ってしまったのだろうか?  彼は辛抱強く待った。  10秒……20秒……30秒……やがて、俯いていた娘が顔を上げて彼を見つめた。 「百合絵……パパの家に行きたい……」 「えっ?」  驚いて娘の顔を見る。 「パパの家で、ジローやフランソワーズと一緒に暮らしたい」 「パパの家で、ジローやフランソワーズと?」  娘の言葉をおうむ返しに繰り返す。 「うん……だって……茅ヶ崎の家には、百合絵のいる場所がないんだもん」  父親を見る娘の目がみるみる潤み始め、やがて……そこから大粒の涙が流れ落ちた。  彼は知らなかったが、娘の百合絵は茅ヶ崎のマンションに母親とふたりで住んでいるわけではなく、半年ほど前から母親の恋人と3人で暮らしているらしかった。  その男は彼の妻だった女より3つ年下の26歳で、もともとはサーフショップの店員だったが、今は彼の妻だった女が茅ヶ崎で経営しているアジア雑貨店の店員として働いているようだった。  サーフィンが趣味だというその男は背が高くて、よく日に焼けていて、茶色く染めた髪を長く伸ばしていて、とてもハンサムなようだったが、恋人の連れ子である百合絵とはうまくいっていないらしかった。 「あの人……百合絵、大嫌い」  彼が差し出した木綿のハンカチで涙を拭《ぬぐ》いながら娘は訴えた。  百合絵の話によると、彼の妻だった女とその男は娘の前で平気で抱き合ったり、キスをしたり、とにかく1日中いちゃいちゃしているのだという。  百合絵ははっきりとは言わなかったが、おそらくそれ以上のこともしているのだろう。彼の妻だった女とその男は一緒のベッドで寝ているし、風呂《ふろ》にも一緒に入っているようだった。 「その人、ノックもしないで百合絵の部屋に入って来ることもあるし、百合絵がいるのに家の中を裸で歩きまわったりもするのよ」 「裸で?」 「うん」 「あの……もしかしたら、その人……あの……百合絵の体に触ったりもするのか?」  娘は答えなかった。だが、しばらく無言で彼を見つめていたあとで、小さく頷《うなず》いた。その目の縁から、また大粒の涙が溢《あふ》れ出た。 「百合絵……あの……そのことを、ママには言ったのかい?」 「うん……言った」 「で、ママは何て?」 「我慢しなさいって……」 「我慢?」 「シンちゃん……ママはその人を、そう呼んでるんだけど……シンちゃんは、百合絵と仲良くしたいだけなんだって……だから我慢して、仲良くなりなさいって……」  泣いて真っ赤になった娘の目を見つめて、彼は無言で唇を噛《か》み締めた。 「ねえ、パパ。百合絵、パパと暮らしたいの。いいでしょう?」 「パパはかまわないけど……」 「それじゃあ、そうしよう。百合絵、きょうからパパのお家で暮らす」  真っ赤な目で彼を見つめて娘が断言した。 「そうだなあ……きょうからっていうのは無理だと思うけど……」 「無理なの?」  娘がすがるように彼を見つめる。 「うん。だけど……あの……そうだ……弁護士の先生に相談してみるよ」 「本当?」 「ああ。本当だよ。明日にでも弁護士の先生に相談するよ。そうして、百合絵がパパと一緒に暮らせるように考えてもらうよ」  彼は本当に弁護士に相談するつもりになっていた。 「パパ、百合絵と約束する?」 「うん。約束するよ。ほら……指きりしよう」  彼はそう言うと、右手の小指を娘の前に突き出した。  ほっそりとして長い彼の小指に、娘が小さな小指を巻き付けた。  小指と小指——それは絡み合う雌雄の蛇のようで、彼には何だか、とてもなまめかしく見えた。     11. 「百合絵、デパートに行きたい」  アイスクリームをもうひとつ食べたあとで娘がそう切り出した。 「デパート?」 「うん。パパにたくさんおねだりして、いろいろ買ってもらうの? ダメ?」  父親を見上げる娘の目は、少し媚《こび》を含んでいて、すでに大人の女のようだった。 「いいよ。何でも買ってあげるよ」  可愛らしい娘の顔を見つめて彼は頷いた。  自分に父性があるとは今も思えなかったが、それでも……娘はやはり可愛かった。  その夏の午後、彼らは藤沢《ふじさわ》のデパートに行って大量の買い物をした。娘のワンピース、ブラウス、スカート、ショートパンツ、ジーパン、Tシャツ、タンクトップ、パジャマ、サンダル、ベルト、バッグ……文房具、人形、ゲーム、DVDやCD……娘の欲しがる物は何でも、いくつでも買ってやった。あんまりたくさん買ったので、彼ひとりでは持ち切れないほどだった。  娘の欲しがる物を手当たり次第に買い与える父親を、デパートの店員たちは少し呆《あき》れたような目で見ていた。きっと、甘やかすだけでしつけのできないダメな父親だと思ったのだろう。 「家に帰ったら、ママやシンちゃんに見せびらかしてやるの」  娘は父親にそう言った。 「見せびらかす?」 「うん。百合絵がパパにいろいろ買ってもらうと、シンちゃんはきっとすごく悔しがるわ。いい気味。シンちゃんって甲斐性《かいしよう》がないのよ」  娘が言った。甲斐性だなんて、そんな言葉をどこで覚えたのだろう? 「それにママはきっと、すごく羨《うらや》ましがると思うわ。もしかしたら……またパパと結婚したいと思うかもね」 「ママは百合絵の欲しいものを買ってくれないのかい?」 「ママは貧乏なの。お店がうまくいってないみたいよ」  妻が茅ヶ崎で経営するアジア雑貨の店には行ったことがなかった。だが、その店の前は何度か車で通りかかったことがあった。そのたびに、こんな店ひとつでよく生活が成り立つものだと彼は思ったものだったが、やはり経営状態は芳しくなかったらしい。もしかしたら、彼が毎月支払っている養育費も店の資金繰りに流用されているのかもしれない。  心の空洞を満たそうとでもいうかのように、娘はあれもこれも際限なく欲しがった。娘のその姿は、尽きない性欲を満たそうともがいている自分の姿とどことなく似ているようにも思われた。  デパートの貴金属売り場で、彼は娘にブランド物の高級腕時計を買ってやろうとした。小学生には不釣り合いな高価な品物だったが、そのメーカーの腕時計を、かつて娘の母親にせがまれて買ったことがあったのを思い出したのだ。 「百合絵、この腕時計は欲しくないかい? ほらっ、この文字盤に嵌《は》まってるのは全部ダイヤモンドなんだよ」  けれど、娘は「いらないわ」と断った。 「どうして?」 「大人のものは、ママに取られちゃうから」  親の愛情を充分に注がれなかった娘は、もしかしたら金銭だけを頼りに生きるようになるのかもしれない。  父性の欠落した父と、母性の欠如した母を持った少女——そんな娘が哀れだった。  自分たちは、とんでもなく罪なことをしてしまったのだ。そう考えて、彼は暗い気持ちになった。  結局、娘はその売り場で、キャラクターの付いた子供向けの時計を選んだ。数枚の千円札で買える時計だったら、母親も取り上げたりはしないのだろう。  娘がトイレに行っている時に(娘はトイレで買ってもらったばかりの洋服に着替えたがった)、またポケットから電話を出し、2号室の宮坂深雪を呼び出してみた。  プルルルルル……プルルルルル……プルルルルル……プルルルルル……。  何度呼び出しても、宮坂深雪は電話には出なかった。  やはりもう死んでしまったのかもしれない。  一通りの買い物が済むと、ふたりはデパートの最上階にあるペットショップに行った。ペットショップのショーウィンドウには、可愛らしい子犬や子猫がたくさん並んでいて、それらの前に大勢の人だかりができていた。 「ねえ、パパ。パパと一緒に暮らすようになったら、こんな子犬を飼ってもいい?」  ポメラニアンの子犬のショーウィンドウの前で、彼を見上げて娘が言った。  娘はトイレで、買ってもらったばかりの真っ白なワンピースに着替え、やはり買ってもらったばかりの白いエナメルのサンダルに履き替えていた。手には買ってもらったばかりの白い小さなエナメルのハンドバッグを持ち、ポニーテールの髪を結んだリボンも買ってもらったばかりの白いリボンに替えていた。その姿は妖精《ようせい》みたいに見えた。 「ああ、飼っていいよ」 「ジローやフランソワーズにいじめられたりしないかな?」 「ジローもフランソワーズもそんなことはしないよ」 「わーい! 楽しみだなあ」  娘が嬉《うれ》しそうに笑った。  それを見て彼は、本当に弁護士に相談して娘を引き取ろうと決意した。  彼は無職ではあったが、財産はあった。もしかしたら、今なら娘の親権を取り返せるかもしれない。  もし、百合絵を引き取ったら、女たちのいる地下室は改造を施して、娘が地下室に入れないようにしなくてはならないだろう。いや、自分と娘の家はどこか別の場所に購入し、あの地下室にはそこから通えばいいのかもしれない。まあ、何とでもなるだろう。  彼は、娘とふたりの暮らしを思った。  その時——生まれてから初めて、心が温かくなったような気がした。     12.  藤沢のフランス料理店で食事を済ませたあとで(その店は娘の百合絵がリクエストした)、彼は娘をボルボの助手席に乗せて茅ヶ崎のマンションに送って行った。  海沿いの国道の街灯はすでに灯《とも》っていたが、夏の空はまだうっすらと明るかった。信号待ちをしていると、夕暮れの空をたくさんのコウモリが舞っているのが見えた。 「ねえ、いつからパパと暮らせるの? 9月の新学期には間に合うかな?」  フロントガラスの向こうに、自分の暮らすマンションが小さく見えて来たところで娘が訊《き》いた。 「うーん。弁護士さんと相談してみないとはっきりとはわからないけれど……でも、できるだけ早く百合絵とパパが一緒に暮らせるように頑張るよ」 「うん」  助手席に座った娘が小さく頷《うなず》いた。 「だから百合絵、もう少しだけ我慢するんだよ」 「うん」  助手席で娘がもう1度頷いた。  マンションの前には娘の母親が待っていた。女は着飾った娘と、彼が車から運び出した大量の荷物に目を丸くした。 「いったいどういうつもりなの?」  彼を睨《にら》みつけるようにして妻だった女が言った。 「別にいいだろ?」 「よくないわよ。いくらお金があるからって、そんなに何でもかんでも買い与えたらしつけにならないじゃない?」  しつけ? その言葉が女の口から出たことが、何となくおかしかった。  彼は無言のまま、妻だった女の顔ではなく、その剥《む》き出しの臍《へそ》で光るダイヤモンドみたいなピアスを見つめた。店の経営が本当に芳しくないのだとしたら、それは本物ではないのだろう。 「それじゃあ、また来月の第1土曜日に」  それだけ言うと、彼は車に戻った。 「百合絵、またね」  自分を見つめる娘に優しく微笑み、ゆっくりと車を発進させる。  バックミラーに、大量の買い物袋を抱えて佇《たたず》む女と、彼に向かって手を振る妖精のような少女の姿が映っていた。  久里浜のカーフェリー乗り場でもう1度、2号室の宮坂深雪に電話をしてみた。  プルルルルル……プルルルルル……プルルルルル……プルルルルル……。  けれどやはり、何度呼び出しても、宮坂深雪は電話には出なかった。  2号室が空いたら、今度はどんな女を連れて来よう?  今まさに港に接岸しようとしている巨大なカーフェリーを見つめて彼は思った。 [#改ページ]   第5章     1.  夏のこの時間、千葉県の房総半島から神奈川県の三浦半島に渡るカーフェリーは行楽帰りの人々で満員に近い。  けれど逆に、三浦半島から房総半島に向かうフェリーには人の姿もまばらだ。  ほかに人影のないカーフェリーの前甲板の手摺《てすり》にもたれて、彼はゆっくりと近づきつつある陸地をぼんやりと見つめている。  とうに日が暮れたというのに、空にはまだたくさんのカモメたちが舞っている。狭い海上を無数の船舶が行き来し、そのうちの何艘かはこのカーフェリーにぶつかるのではないかと思うほど近くを通り過ぎていく。時折、そんな海面から魚が飛び上がり、銀色の腹をちらりと見せて再び海中に消えていく。  今夜は湿度が高いために、夜空に浮かんだ青白い月もぼんやりと霞《かす》んでいる。海面を渡って来た夏の夜風はいつものように生暖かく、少し湿ってベトベトとしていて、顔を背けたくなるほど濃厚な潮の香りがした。  ふたつの半島を行き来するのに、彼はいつも『うみほたる』を経由する東京湾横断道路ではなく、久里浜と金谷とを結ぶこのカーフェリーを使う。都内に暮らしている時でさえ、房総半島に帰る時にはわざわざ遠まわりしてカーフェリーに乗ったほどだった。  彼は船が好きだった。  海を渡って家に帰る。彼らしくもなかったけれど、それは何となく、ロマンチックなことのように感じられた。  千葉県の房総半島は関東地方ではもっとも開発の遅れた地域のひとつである。背後に遠のきつつある三浦半島にはぎっしりと家が建ち並び、目映《まばゆ》いほどの光が満ち満ちているというのに、前方に少しずつ大きくなって行く房総半島は東南アジアの名もない島のように薄暗かった。  そう。カーフェリーで30分ほどのこの狭い海が、ふたつの半島の経済発展を決定的に分け隔てているのだ。  けれど彼は、自分が生まれ育ったその半島が気に入っていた。まるで陸の孤島のように取り残されたその土地が、自分のような人間には似つかわしい。そう考えていた。  カーフェリーの前甲板で、彼はポケットの携帯電話を取り出し、娘の親権の件で顧問弁護士に電話をかけようとした。  弁護士事務所の番号を呼び出し、発信ボタンを押そうとして……手を止める。  あっ。  突然……あることを思いつく。  白いペンキの塗られた船の手摺を無言で見つめる。心臓が高鳴り始める。  小さな電話を手に、さらにしばらく考えていたあとで、彼はそれを上着のポケットにしまった。  そんなことが果たして、うまくいくだろうか?  引っ切りなしに行き交う船舶の明かりに照らされた海面を見つめ、心臓を高鳴らせながらさらに考えを巡らす。     2.  キッチンで犬たちにドッグフードを与えたあとで、寝室の片隅にある13段の階段を下りて地下室へと向かう。心臓が高鳴り、足がわずかに震えている。  深雪さん、生きていてください。  そう。できることなら宮坂深雪に生きていてもらいたかった。次に拉致《らち》する女のことなど想像していた彼ではあったが、それでも宮坂深雪を失いたくはなかった。  壁の両側に並んだ6枚のガラスから漏れた赤みがかった光が、細長い廊下のような空間をぼんやりと照らしている。  まっすぐに2号室に向かうのが嫌で、左右に並んだ女たちの部屋の窓をひとつひとつ、手前から順番にのぞいていく。  いちばん手前、左側の6号室のベッドの上には、連れて来られたばかりの水乃玲奈がバスローブにくるまって横になっている。向こうを向いているのではっきりとはわからないが、眠っているのかもしれない。ここに来てから、ミネラルウォーター以外には何も口にしていないから、今ではとても腹を空《す》かせているに違いない。  今度はその向かい側の5号室をのぞく。5号室では香山早苗が、いつものようにベッドに俯《うつぶ》せに寝転んでドストエフスキーを読んでいた。  同じように4号室の窓ガラスの向こうの様子をうかがい、続いて3号室の武藤静香をのぞき込む。4号室にも3号室にも異常はない。  廊下の突き当たり、左側が2号室で右側が1号室だ。  先に1号室の様子をうかがう。白石慶子は下着姿でベッドに腰掛け、煙草を吸いながらピノノワール種の赤ワインを飲んでいた。  さあ、いよいよ2号室だ。  彼は何度か唇をなめる。心臓がさらに激しく高鳴る。  深雪さん、死なないでください。生きていてください。  そう願いながら振り向いて、背後にある2号室の窓ガラスの向こうを見る。  縦1メートル横2メートルのガラス窓の向こう側——宮坂深雪は2号室の鉄製のベッドの上に仰向けに横たわっていた。  死んでいる?  顔が見えないのではっきりとはわからない。だが、バスローブにくるまった女の体はピクリとも動いていなかった。  ベッドに敷かれた白いシーツや、彼女がまとった白いバスローブは赤黒い血に染まり、床に広がった大量の血液は今では変色して暗赤色になっている。  2号室の鍵《かぎ》を開け、汗でヌメる手でドアノブをまわす。 「深雪さん、入りますよ」  ゆっくりとドアを開く。ベッドの上の女は、やはりピクリとも動かない。  何度か唇をなめてから、恐る恐るベッドに近寄る。 「深雪さん……宮坂さん……」  そっと手を伸ばして、女の体に触れる。  宮坂深雪は死んでいた。     3.  今夜もすぐそこの断崖《だんがい》の下から、波の砕け散る音が聞こえる。周囲の雑木林のいたるところから、虫たちの声がやかましく響き続けている。  彼はシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になって、庭のいちばん東の端——かつて井上奈緒美の死体を埋めた場所のすぐ隣に、スコップで穴を掘っている。  死体になってしまった宮坂深雪を埋めるための深い穴——。  今朝、宮坂深雪が手首を切ったと知った時から、こうなることは覚悟していたはずだった。それにもかかわらず……彼の心は沈んでいた。  悲しみ?  どうなのだろう? 彼は普通の人間ではないのだから……ロボットやアンドロイドのように不完全な存在なのだから……彼の中に悲しみという感情が存在するのかどうかは、わからない。  彼は時折、穴を掘る手を止める。穴の中でゆっくりと腰を伸ばして、手の甲で額に噴き出た汗を拭《ぬぐ》う。乱れた息を整えながら、暗い海上を行き交う船舶の明かりや、その向こうに横たわる三浦半島の街の灯を眺める。  井上奈緒美の時と同じように、2匹のシェパードは今夜も、穴を掘る主人を不思議そうに眺めている。  井上奈緒美の死体を埋めたのも、やはりこんな季節だった。あの時も彼は汗まみれになって井上奈緒美の墓穴を掘ったものだった。  それにしても蒸し暑い夜だ。湿度が高いために噴き出した汗はまったく蒸発せず、皮下脂肪のほとんどない彼の体をいくつもの細い流れとなって滑り落ちる。空に浮かぶ霞んだ月が、汗にびっしょりと濡《ぬ》れた彼の肉体を美しく光らせている。  20メートルほど先の焼却炉の中では、宮坂深雪がまとっていた血だらけのバスローブとシーツが燃えている。細い煙突から噴き出した灰色の煙が夜の空にまっすぐ立ちのぼり、そこに溶け込んで消えていく。  1年前に埋めた井上奈緒美の死体はいったいどうなっているのだろう?  すぐ脇にある滑らかな土山を見る。井上奈緒美の死体の上に盛り上げた土山には、すでにびっしりと雑草が生え、そのいくつかは可憐《かれん》な花を咲かせている。  この土山を掘り返せば、白骨になってしまった井上奈緒美が見つかるのだろうか? 彼女が嵌《は》めていた指輪は見つかるのだろうか? その耳元で輝いていたピアスは見つかるのだろうか?  井上奈緒美の土山をしばらく見つめていたあとで、彼は首に巻いたタオルでもう1度、顔と首の汗を拭った。大きくひとつ深呼吸をする。それから再びスコップの先を穴の底に突き立てた。  右足でスコップを土の中に深く押し込み、湿った土をすくい上げ、穴の外に力強く放り出す。まるで機械のように、その動作を黙々と繰り返す。  井上奈緒美と宮坂深雪。あの地下室で死んだ女は、これでふたりになった。ふたりはともに2号室の住人だった。  そう。井上奈緒美のあとに、あの2号室に連れて来られたのが宮坂深雪だったのだ。  これから先も……女たちは死ぬのだろうか? そして彼はこれから先も、女たちの死体を庭に埋めることになるのだろうか?  太陽のように輝いていた女たちから、彼はその喜びを、その楽しみを、その希望を……その生活を、その仕事を、その恋人を、その家族を……その人生のすべてを奪い取った。彼のしているのは、そういうことだった。  自分のコレクションだった女の墓穴を掘りながら、彼は女たちの心情を思う。女たちの悲しみを、女たちの絶望を、女たちの苦悩を……。  自分のしていることを正当化できるものは何ひとつない。  そう。そんなことはわかっている。それでも……やめることはできなかった。  野生のオオカミが獲物を狩るのをやめることができないように……彼は女たちをコレクションするのをやめることはできない。  もし、やめる時が来るとしたならば、それは……彼のすべてが破滅する時だろう。  そうだ。それほど遠くない将来……その時が来る。  けれど、怖いとは思わなかった。  岸壁に打ち寄せる波の音と、辺りに漂う濃厚な潮の香りに包まれて、彼は黙々と宮坂深雪の墓穴を掘り続けた。  2号室から死体を抱いて庭に運ぶ。成人式と20歳の誕生日を地下室で迎えた宮坂深雪が地上に出るのは、ここに来てから初めてだった。  女の死体は、すでに死後硬直が始まっていた。体の下になっていた右半身には、色素の沈降による赤紫色の死斑《しはん》がびっしりと浮き出ていた。  けれど、気温が高いせいで、女の皮膚は生きている時と同じように温かかった。生きている時と同じように柔らかく、生きている時と同じように滑らかだった。  女の死体を暗い穴の底に静かに横たえる。パラパラと崩れ落ちた土の塊が、ピンク色の下着を汚す。  彼は犬たちと並んで穴の縁にしゃがみ込み、月明かりに照らし出された穴の底の死体を長いあいだ見つめていた。  空に浮かんだ月が、ちょうど今、宮坂深雪の顔を照らしていた。女の死に顔は安らかで、笑みさえ浮かんでいるように見えた。  もしかしたら最後は苦しまず、眠るように死んでいったのかもしれない。  ああっ……宮坂深雪を殺してしまった。  宮坂深雪にはたくさんの夢があったのだ。アイドルとして有名になること。テレビのバラエティ番組に出演すること。水着姿で男性雑誌のグラビアを飾ること。写真集やDVDを出すこと。歌の練習をして、CDを出すこと。コマーシャルに出ること。映画やテレビドラマや歌番組に出演すること。素敵な男性と恋に落ちること……。  けれど、彼女はそのほとんどの夢をかなえることができず、両方の肩に『R』の文字を刻み付けられた末に、あの地下室でワイングラスの破片で手首を切り、その生の時間を永遠に失ってしまった。  穴の縁で、女の死体を、どれくらいのあいだ見つめていただろう?  しゃがんだ足がビリビリと痺《しび》れ、月が移動して死体の顔に月明かりが当たらなくなった頃——彼はようやく立ち上がり、スコップで女の死体に土を掛け始めた。  許しを乞《こ》うつもりはない。宮坂深雪が自分を許すはずがないことはわかっている。  さようなら、深雪さん。  死体がすっかり土に埋まり、そこに小さな土山ができると、井上奈緒美の時にしたと同じように、彼は土山に向かって泥で汚れた両手を合わせた。  もちろん、祈りを捧《ささ》げたわけではない。  彼には祈るべき神など存在しない。     4.  浴室で全身の汗を洗い流したあとで、全裸のままキッチンに行く。冷蔵庫からシャブリのボトルを取り出し、ソムリエナイフを使ってコルクの栓を抜く。冷たいワインのボトルとグラスを持ってリビングルームに向かう。  カーテンを開け放したままのリビングルームには、今夜も月の明かりが差し込んでいる。湿った大気を通り抜けて来た柔らかな月の光が、磨き上げられた檜《ひのき》材の床や、部屋の中央に置かれたグランドピアノを優しく照らしている。  どうやら犬たちは寝室で眠っているようだった。今夜はいつにも増して家の中が静かだった。  汗をかき始めたワインのボトルと、華奢《きやしや》なグラスを手にしたまま、バルコニーに面した大きな窓辺に佇《たたず》む。いつものように、そこから窓の外をぼんやりと眺める。  庭をぐるりと取り囲んだ雑木林で揺れる木々の枝。狭い海域を行き交う無数の船舶の明かり。その向こう側に横たわる三浦半島の街の光。夜空に光る真夏の月……。  ふと、娘の百合絵とした約束のことを思う。  父性のない父親と母性のない母親とのあいだに生まれた少女……百合絵はもう眠ってしまっただろうか? それとも、茅ヶ崎のマンションの自室の窓から、外の景色を眺めているのだろうか? 彼が見ているのと同じ月を眺めながら、父親と暮らす日々を思い浮かべているのだろうか?  窓辺を離れ、グランドピアノの前の椅子に座る。滴るほどに水滴の付いたボトルを慎重に傾けて、華奢なグラスにワインを注ぐ。  目を閉じ、グラスの中から立ちのぼるシャブリ特有の香りを楽しむ。それから、グラスの縁にそっと唇を寄せる。よく冷えた液体を、舌の上で転がすようにして味わう。  グラスをピアノの端に置き、象牙《ぞうげ》の鍵盤《けんばん》に細長い指を載せる。  今夜は何を弾こうか?  少し考えてから、彼は鍵盤を優しく撫《な》でるようにして弾き始める。  ショパンの前奏曲第15番、『雨だれ』。  月明かりに照らされたリビングルームに、美しいピアノの旋律が満ちる。  彼はまた、娘のことを考える。  いつものように、女たちの部屋を順番にのぞいてまわる。2号室が空室になっているほかには変わったことはない。  最後に6号室のドアをノックする。 「入りますよ、水乃さん」  ベッドに横たわっていた水乃玲奈は、鉄のドアの開く音に上半身を起こした。反射的にバスローブの前を合わせ、真っ赤に充血した大きな目で、部屋に入って来たガウン姿の彼を見つめる。  どうやら、まだ入浴もしていないし、顔も洗っていないらしい。栗色に染められた髪は今もくちゃくちゃになって縺《もつ》れたままだし、顔の化粧も崩れたままだ。目の下には青黒い隈《くま》ができているし、顔や唇の色もひどく悪い。 「具合はいかがですか、水乃さん?」  彼は自分を見つめる水乃玲奈に近づいた。  ルージュが滲《にじ》んだ女の口が微《かす》かに動く。何か言ったようだ。けれど、彼には女の声は聞こえなかった。 「何ですか? 何て言ったんです?」  彼はさらにベッドに近づいた。水乃玲奈からは今も微かに香水の匂いが漂っていた。 「お腹が……お腹が空《す》いたの」  バスローブをまとった女が、喘《あえ》ぐように訴える。「何か……食べさせて……お願い……お腹が空いて死にそうなの……」  それは当然だろう。この地下室に連れて来られてから彼女は何も食べていないのだ。 「わたしに逆らった罰ですよ。わかっていますね?」  ファンデーションが斑《まだら》になった水乃玲奈の顔を見つめて彼は囁《ささや》く。  女は唇をそっと噛《か》み、少し顔を伏せて「ごめんなさい」と小声で言った。 「もう、あんなことはしませんか?」  彼が言い、女が無言で頷《うなず》く。  腹を減らした獣はしつけがしやすい。女を苛《さいな》んでいる空腹は、きっと耐え難いほどのものなのだろう。 「そうですか?……わかりました。それでは食事の用意をしましょう」  ベッドの上の女に彼は優しく微笑みかけた。「けれど……その前に、水乃さんにしてもらうことがあります」  彼はガウンの紐《ひも》をほどき、前を左右に開いた。その股間《こかん》では、黒光りする男性器が固く硬直していた。  そう。大切なコレクションのひとつが失われてしまったこんな晩にも、彼の性欲が衰えることはない。  ベッドにうずくまった女がわずかに身を引く。やつれた顔が恐怖と嫌悪に歪《ゆが》む。 「水乃さん、口で……お願いします……やり方はわかっていますね?」  顔を歪めたまま、女は反射的に左手を口に当てた。ほっそりと長いその薬指には、プラチナの結婚指輪が光っていた。 「さあ、始めてください。終わったら、すぐに食事にしましょう」  硬直した男性器を握り締め、その先端を女の顔に向けるようにして彼は言った。 「いやよ……いや……」  うわ言のように女が呟《つぶや》く。青ざめた顔を細かく左右に振る。縺れ合った髪が揺れ、耳元のピアスが光る。「いやよ……できないわ。そんなこと……できない……」  女は疲れ果て、やつれ切っていた。化粧は目茶苦茶に崩れ、髪は鳥の巣のように縺れ合っていた。昨夜、彼が力まかせに張り飛ばした左の頬は、今も腫《は》れて赤くなっていた。にもかかわらず、女は美しかった。かつてこの地下室に暮らしたどの女よりも美しかった。 「そうですか?……それならしかたがない。残念ですが、食事は与えられません。ここで飢え死にしてください」  彼はガウンの前を元どおりに合わせ、腰の紐をしっかりと結んだ。女のベッドから離れてドアに向かう。頑丈な鉄のドアを開け、廊下に出る。  女は彼を呼び止めなかった。     5.  6号室を出た彼は、寝室には戻らず、そのまま1号室に向かった。  死んだ女を埋めたせいだろうか? 今夜は特に、女の肌の温《ぬく》もりが欲しかった。  1号室のドアをノックし、「入りますよ、白石さん」と声を掛ける。  鉄のドアを開くと、1号室からはいつものように煙草の匂いが溢《あふ》れ出た。  36歳の白石慶子はたった今、入浴を終えたばかりのようだった。ほっそりとした体にバスローブをまとった彼女は、濡《ぬ》れた髪をタオルで拭《ぬぐ》いながら、ベッドで赤ワインを飲んでいた。 「あら……いらっしゃい」  部屋に入って来た彼を見て、白石慶子が微笑んだ。「よかったわ。ちょうど退屈していたところだったの」  女の顔は赤く上気している。風呂《ふろ》で温まったせいだろうか? それとも、赤ワインのせいだろうか? サイドテーブルにはいつものように、吸い殻の入ったアルミ製の灰皿が置かれていた。  かつて資産家の妻として、高級住宅街の邸宅で有閑マダムのような生活をしていた白石慶子——彼女が本当は何を思っているのか、もちろん彼にはわからない。けれど、女の態度は今夜も、彼の訪問を歓迎しているかのように見えた。  そう。ここに来てからの2年で白石慶子は本当に変わった。泣いたり暴れたりばかりしていた2年前の彼女とは別人のようだ。  今でも時々、彼女が泣いているのは知っている。もしかしたら、もう2年も会っていないふたりの子供のことを思い出しているのかもしれないし、豪邸での優雅な生活を思い出しているのかもしれない。けれど、もうかつてのようにヒステリーを起こすことはないし、彼に殴り掛かって来ることもない。  しつけられ、飼い慣らされた——たぶん、そういうことなのだろう。  彼は白石慶子のベッドに近づくと、その華奢な体を抱き締めた。唇を合わせ、女の舌を貪《むさぼ》るように吸う。  女の舌からは、ピノノワール種のワインと、煙草のヤニのような味がした。  唇を離し、女の目を見つめる。女が潤んだ目で彼を見つめ返す。  彼は女のバスローブに手を掛け、それをそっと剥《は》ぎ取った。  白石慶子はバスローブの下に何もまとっていなかった。     6.  彼女の口から唾液《だえき》に濡れた男性器を引き抜いたあとで、男は四つん這《ば》いになるように彼女に命じた。  命じた?  いや、男の口調はいつものように穏やかで、とても丁寧で、命令しているという感じではない。  けれど、それはやはり命令に違いなかった。彼女にはそれに逆らう権利は与えられていないのだから。  いつもそうしているように、白石慶子は全裸のままベッドマットに肘《ひじ》と膝《ひざ》を突いて四つん這いになった。そして、肛門《こうもん》が天井を向くほど背中を反らし、膝を大きく開いた。  夫だった男の前でさえ、そんな恰好《かつこう》をしたことはない。けれど、今ではもう慣れたものだった。  男がその様子を無言で見つめている。 「どう? これでいい?」  交尾されるのを待つ雌犬のような姿勢で慶子は男に訊《き》く。ベッドに這いつくばって背筋を弓なりに反らした自分の姿が、すぐ脇の窓ガラスに映っている。 「そうですね……もう少し足を大きく開いてください」  男の言葉に、慶子はさらに膝を左右に開く。 「これでどう?」 「もう少し背筋を反らして」 「こう?」 「はい。結構です」  濡れて黒光りする男性器を股間に突き立てたまま、男がゆっくりと頷《うなず》く。無表情に、だが、まじまじと慶子の全身を見つめる。  あまりにも無防備であまりにも屈辱的な姿勢——ここに連れて来られたばかりの頃の慶子は、その屈辱に耐えられなかった。けれど、今は耐えることができる。  そうだ。すべての生命体は、環境に適応するようにつくられているのだ。  幸せだけで形づくられているように思えた自分の人生を、これほどまで大きく変えてしまった男に対する怒りと憎しみは、今もまったく変わっていない。いや……それは日ごとに強くなっていくほどだ。  けれど、どうせ同じことをしなければならないならば、嫌がっているより、喜んで受け入れてしまったほうがいい。抵抗して罰を受けるより、素直に従って優しくされたほうがいい。  この2年で白石慶子はそれを学習した。  背後にまわった男が、少女のように小さな慶子の尻《しり》を両手で掴《つか》む。男性器の先端が女性器に宛てがわれる。  来る。  シーツを握り締めて慶子は身構える。  次の瞬間、男性器が彼女の中に深く突き入れられた。 「ああっ!」  喉《のど》の奥から声が漏れた。コンクリートの密室に響く自分の淫《みだ》らな声を、慶子は確かに聞いた。  最初の頃、彼女は声を出すまいとしていた。  声を出したら負けだ。かつての慶子は、そんなふうに考えていた。  けれど、今ではもう何も考えなかった。白石慶子はただ、この瞬間の快楽に身をまかせようとしていた。  慶子の尻を抱いた男が、それを引き寄せながら再び男性器を激しく突き入れる。 「あっ……あああっ!」  女性器から口に向かって衝撃が一直線に走り抜け、慶子の細い背が弓のように反る。汗ばんだ皮膚がつややかに光り、丸い果実のような乳房がブルブルとうち震える。  慶子が身をのけ反らして悶《もだ》えるのを見下ろしながら、男はゆっくりと腰を引く。それからまた激しくそれを突き出す。その行為を何度も何度も、休むことなく繰り返す。 「あうっ……あっ……いいっ……」  すぐ脇にある大きな窓ガラスに、獣のように性交するふたりの姿が映っている。シーツにしがみつき、濡れた口から淫らな声を漏らし続けながら、白石慶子をそれを見た。  窓ガラスに映った男が男性器を突き入れるたびに、ほっそりとした女の体は電気に打たれたように反り返り、濡れた洗い髪が光の中にうち乱れた。肉の擦れ合う音と、ベッドのスプリングの軋《きし》む音、そしてふたりの激しい息遣いが部屋の中に響いていた。  自分の中に体液を注ぎ込んだ男が部屋を出て行ったあとで、白石慶子はゆっくりと立ち上がった。  全裸のままタイルの床を歩いて、部屋の片隅に据え付けられた便器に向かう。  たった今、男が放出していった体液が、太腿《ふともも》の内側を一直線に流れ落ちる。  便座に座り、コンクリートの壁を見つめながら放尿する。  いつか、ここを出られる時が来るのだろうか?  いくつかの思いが……ふっと……心の中をよぎる。  ここにいると季節がわからない。だが、たぶん今は夏なのだ。夏……夏になると慶子は毎年のように子供たちと家政婦たちを連れて函館や軽井沢の別荘に行き、子供たちの夏休みが終わるまでそこで過ごした。軽井沢の別荘では、高校でテニスをしていたという家政婦のひとりと、慶子は毎日のようにテニスをしに出掛け、函館の別荘では……。  ダメだ。思い出してはいけない。  白石慶子は頭の中を空っぽにしようとした。  そうだ。何も考えてはいけないのだ。1度、考え始めたら、もう正気でいることはできなくなる。だから……絶対に考えてはいけない。  トイレットペーパーで陰部を拭《ぬぐ》って立ち上がる。今度は白ワインを飲むために、部屋の片隅の冷蔵庫に向かう。  また太腿の内側を、あの男の体液がすーっと流れ落ちていき、白石慶子は反射的に身を震わせた。     7.  明かりを消すと、寝室には月の光が満ちた。  床のマットにうずくまった2匹のシェパードに「おやすみ」を言ったあとで、いつものようにベッドの背もたれに寄り掛かり、大きく砕いた氷を浮かべたスコッチウィスキーをなめるように飲む。寝室の壁を埋め尽くしたカラスアゲハの標本をぼんやりと眺める。  けれど今、彼が考えているのはカラスアゲハのことではない。ついさっきまで彼と性交をしていた白石慶子のことでもなければ、まだ意地を張って空腹に耐えている水乃玲奈のことでもない。ワイングラスの破片で手首を切って自殺してしまった宮坂深雪のことでもないし、彼とふたりで暮らしたがっている7歳の娘の百合絵のことでもない。  彼は今、空室になっている2号室のことを——次にそこに連れて来るつもりの、新たなる女のことを考えている。  明日の朝、女たちに食事を与えたらさっそく2号室の掃除をしよう。タイルの床にクレンザーを撒《ま》いて凝固した血液をデッキブラシで丁寧に擦《こす》り落とし、専用洗剤でトイレをピカピカに磨き上げ、浴室と洗面台を掃除し、石鹸《せつけん》やシャンプーやハミガキやトイレットペーパーなどの消耗品を補充し、クロゼットに新品のバスローブと新品の下着を用意しよう。そして、できるだけ早く、2号室に新しい住人を迎え入れよう。  新たなるコレクション——。  井上奈緒美が首を吊《つ》って自殺した時はかなり動揺し、すぐにはそんなことは考えられなかった。彼女がいた2号室に次のコレクションとなった宮坂深雪を連れて来るまでには、確か……3カ月ほどの間があったはずだ。  喪に服す。  そんなつもりだったのかもしれない。  けれど今回は、宮坂深雪の埋葬をついさっき終えたばかりだというのに、もう次のコレクションのことを考えている。  もしかしたら、自分はますます人間から離れ、機械に近づいているのかもしれない。機械は悲しまないものだし、機械は喪に服したりはしないものだから……。  風がないせいだろう。今夜はとても静かだ。耳を澄ますと、虫たちの声に交じって、庭の外れの断崖《だんがい》に打ち寄せる波の音が聞こえて来る。グラスの中の氷が溶け、氷の中に閉じ込められていた気泡がウィスキーの表面に浮き上がって弾《はじ》ける音もする。時折、遠くから船の汽笛が低く響く。  呪われた2号室に誰を迎え入れるか——それはすでに決まっていた。あとはその女を、どういう方法を使ってここに連れて来るかだけだった。  グラスの中の琥珀《こはく》色をした液体をそっと口に含み、舌の上でしばらく転がしてから飲み込む。30年も前にスコットランドの片田舎で樽《たる》に詰められたウィスキーが、喉や食道を心地よく焼きながら胃に流れ落ちていく。  今度の女はいったい、どんな方法を使ったらうまくいくのだろう?  生きている人間を、自分ひとりで拉致《らち》し、誰にも知られないようにここまで運んで来る。それは、とても難しいことに違いなかった。けれど不思議なことに、彼は今まで、それに失敗したことは1度もなかった。  今回はダメだ。失敗する。  そう思ったことも何度かあった。しかし、そんな時でも、まるで奇跡が起きたかのように彼はそれをやり遂げることができた。  神が自分を手助けしている?  いや……そんなことは考えない。彼には信じるものは何もない。  カラスアゲハの標本箱を見つめ、熟成したウィスキーのコクと香りを楽しみながら、彼は頭の中で無数のシミュレーションを繰り返し続けた。  グラスのウィスキーを飲み終え、枕に側頭部を埋《うず》めて暗い壁を見つめていると……電話が鳴った。  眠っていたジローとフランソワーズが一緒に首をもたげる。 『6』という数字が点滅している。ということは……水乃玲奈だ。  かつてファッション誌の表紙を何度も飾った美しい女の顔を思い浮かべながら、彼はサイドテーブルの電話を取った。  耳に押し当てた受話器から、微《かす》かに女の息遣いが聞こえた。 『あの……食べ物が欲しいの』  手にした受話器から、囁《ささや》くような女の声がした。 「それは……決心がついた、ということですか?」  短い沈黙があった。それから、再び女が囁くように言った。 『ええ……』  瞬間、彼は自分の耳に、水乃玲奈の湿った息が吹きかけられたように感じた。  ぐんにゃりとしていた男性器に、ゆっくりと血液が流れ込み始める。 「そうですか」  手の中の受話器を握り締めたまま、口元を歪《ゆが》めるようにして彼は微笑んだ。「わかりました。それでは、すぐに食事をお持ちします」 『すぐにって……どれくらいなの?』  水乃玲奈の口調は、待ち切れない、という感じだった。きっと、それほど追い詰められているのだろう。 「そうですね……15分ほど待っていてください。それから、水乃さん……わたしが行くまでに顔を洗って、髪にブラシをかけておいてください」  それだけ言うと、彼は電話を切った。それから、降伏の白旗を掲げた水乃玲奈に食事を持って行くために……少し前まで白石慶子の肉体を貫いていた男性器を、今度は水乃玲奈の口に含ませるためにベッドを出た。     8.  水乃玲奈。彼が彼女を知ったのは、今から8年ほど前、妻となった女性と知り合ったのと同じ時期だった。  彼がのちに妻となった女と知り合うきっかけとなった大手製菓メーカーのキャンペーンが行われた時、そのテレビコマーシャルに出演したのがファッション誌のモデルをしていた水乃玲奈だった。  いや……当時は水乃ではなく、彼女は橘玲奈と名乗っていた。  なんて綺麗《きれい》な女なんだろう。  まだ19歳だった橘玲奈をテレビ局で初めて見た彼は強烈なショックを受けた。それは暗い森の中でカラスアゲハを初めて見た時に受けた衝撃とよく似ていた。  あの日、その場所には大勢の人間がいた。その中で、橘玲奈は際だっていた。まるで、灰色をしたドブネズミの群れに、ただ1匹だけ真っ白な実験用マウスが迷い込んだかのようだった。  彼女は臍《へそ》とウェストが剥《む》き出しになった丈の短い純白のタンクトップの上に、白くてフワフワとした毛皮のハーフコートを羽織っていた。骨張った下半身に張り付くようなぴったりとした白いエナメルのショートパンツを穿《は》き、恐ろしく踵《かかと》の高い白いエナメルのロングブーツを履いていた。長く美しい髪をつややかに光らせ、大きな目をクリクリさせながら、芸能プロダクションのマネージャーらしい男と笑顔で話していた。  彼は何人かの同僚と一緒に橘玲奈に挨拶《あいさつ》をし、ほかの同僚と同じように彼女に名刺を渡した。  マニキュアが塗り重ねられた長い爪で、彼女は彼の名刺を受け取り、「よろしくお願いします」と言ってペコリと頭を下げた。彼女からは甘くて素敵な匂いがした。  橘玲奈と会ったのは、その1回だけだった。けれど、忘れることはできなかった。  その後、彼は結婚し、子供ができ、会社を辞め、やがて父が経営するスーパーマーケットに勤務するようになった。だが、橘玲奈を忘れたことは1度もなかった。彼女の載ったファッション誌はバックナンバーも含めてすべて手に入れたし、彼女が1度だけ出した写真集は10冊も購入した。  5年ほど前、彼女がモデルを辞めて、彼のかつての上司の水乃啓太と結婚したと知った時はひどく驚き、彼らしくもないほど激しく嫉妬《しつと》した。  彼は妻だった女と一緒に、都内の教会で行われた彼らの結婚式に招待された(その時、妻とはすでに別居していた)。  純白のウェディングドレスに身を包んだ水乃玲奈は身震いするほどに美しかった。彼の妻だった女は自分の容姿にはいつも自信を持っていたが、水乃玲奈の輝くばかりの美しさには少しひるんでいるように見えた。  今でも毎年、彼のところには水乃啓太から年賀状が届いていた。  最初の年賀状には、ニューカレドニアに新婚旅行に行った時の水乃啓太と妻になった女が写っていた。翌年の年賀状では、水乃玲奈は赤ん坊を抱いていた。そして、その後の年賀状にはいつも幸せそうな3人の写真がプリントされていた。  水乃玲奈は相変わらず美しかった。いや……かつて以上に美しくなっていた。  この女を自分のものにしたい。自分の所有物として地下室のコレクションに加えたい。彼は強く願った。  そういうことだった。  かつての上司だった水乃啓太には恨みはない。水乃啓太は好感のもてる男だったし、彼にはそれなりに世話になった。  だが、それとこれは別のことだ。  何年も何年も……彼は水乃啓太の妻を手に入れたいと願い続け、そしてついに……彼女を手に入れた。     9.  受話器を戻すと、水乃玲奈は窓ガラスに映った自分を見つめた。  密室のベッドの上にうずくまった、悲しくなるほど無力な女の姿——。  それは……決心がついた、ということですか?  男の言葉を思い出す。  そうだ。玲奈は決心したのだ。生きながらえるために……生きて明日を迎えるために……それを決めたのだ。  苦汁の選択ではあったが、ほかの選択肢は考えつかなかった。肉体を苛《さいな》む空腹は、それほどに耐え難かった。今では生命の危険を覚えるほどだった。  深刻に考える必要はないわ。玲奈はそう思おうとした。これは、しかたのないことなのよ。わたしと同じ立場になったら、誰だって同じようにするに決まってる。だって……そうしなかったら、飢えて死んでしまうんだから。死んでしまったら、もう2度と翔太にも啓太にも会えないんだから。  生き延びること。そして、いつの日か、ここから逃げ出し、愛《いと》しい息子や夫に再会すること。  それが今の玲奈の最重要事項だった。  そのためになら、わたしはどんなことでもする。  玲奈はそう決意した。  わたしが行くまでに顔を洗って、髪にブラシをかけておいてください。  男の言ったことを思い出し、ゆっくりとベッドから下りる。足がふらつき、体の節々が疼《うず》くように鈍く痛む。肉体に残ったエネルギーが尽きかけているため、歩くことさえ容易ではない。  ようやく洗面台までたどり着き、その鏡に化粧の崩れた顔を映してみる。 「ひっどい顔ね……」  誰にともなく呟《つぶや》く。顔を歪めるようにして、無理に笑ってみる。無意識のうちに、両手で顔に触れる。左手の薬指に嵌《は》めたプラチナの結婚指輪が光る。  啓太、ごめんね。でも……しかたないの……わかってくれるでしょう? 許してくれるでしょう?……いつまでも助けに来てくれない啓太が悪いのよ。  ほっそりとした薬指に嵌まったプラチナの指輪を見つめて、玲奈は結婚式の時に教会の祭壇の前で、夫がそれを指に嵌めてくれた時のことを思い出した。  洗面台の脇にあった石鹸《せつけん》を使って丁寧に顔を洗い(その部屋にはクレンジングクリームなどなかった)、プラスティック製の安っぽいヘアブラシで縺《もつ》れ合った髪を丁寧に梳《と》かす。それから玲奈はベッドに戻り、その上にうずくまって男が来るのを待った。  あの男の顔など、2度と見たくなかった。けれど今は、あの男が食事を運んで来るのが待ち遠しかった。  男は15分と言った。それなのに、20分が過ぎても男は来なかった。  どうしたんだろう? 何をぐずぐずしているんだろう?  そう思った玲奈が壁の時計に目をやった時——ノックの音がした。  瞬間、玲奈は心の中で小さな悲鳴を上げた。  そう。待ち侘《わ》びていたにもかかわらず、それはやはり恐怖だった。  開いたドアからトレイを手にした背の高い男が姿を現した。男はいつものように茶色のガウンをまとっていた。ガウンの裾《すそ》からあまり毛の生えていないほっそりとした足首が見えた。 「こんばんは。水乃さん」  低く抑揚のない声で男が言い、玲奈の全身に鳥肌が立った。  男は猫のように足音もさせず近づいて来ると、ベッドのすぐ脇のサイドテーブルにトレイを置いた。  トレイの上には、昨夜と同じ黒っぽい粥《かゆ》が入った器と、野菜の浮いたクリームスープが入った器、それに少し黒ずんだバナナが1本載せられていた。アルミ製の器からはどちらも、白い湯気と素敵な香りが立ちのぼっていた。 「雑穀粥と野菜のクリームスープです。どちらも消化がいいものですが、よく噛《か》んでゆっくりと食べてくださいね。バナナも食べ頃ですよ」  食べたい。  玲奈は切望した。口の中に溢《あふ》れるほどの唾液《だえき》が込み上げた。  モデルだった頃の玲奈は毎日のように苛酷《かこく》なダイエットを続けていた。けれど、あの頃でさえ、今ほど強烈な食への欲望に駆られたことはなかった。 「先に……食べてもいい?」  口の端から溢れ出そうになる唾液を飲み込み、ベッド脇に立つ男に訊《き》く。「お願い……食事を先にさせて……」  けれど男は首を横に振った。 「食事をするのは、わたしとの約束を済ませてからにしてください」  抑揚のない声で低く、だが、はっきりと男が言った。  畜生っ……。  凄《すさ》まじい怒りと憎しみを込めて、玲奈は男を見つめた。  特別な美男子というわけではなかったが、男は整った顔をしていた。切れ長の目が涼しげで、鼻が高く、唇が薄かった。身長は180センチほどだろうか? 男は手足が長く、指がとても綺麗《きれい》で、体には余分な肉がまったくなく、上品で物静かな感じだった。  好きなタイプ?  そう。以前の玲奈だったら、もしかしたら彼に好意を抱いたかもしれない。  だが、今は、男が憎かった。かつて誰かに、これほどの憎悪と嫌悪を覚えたことはなかった。  けれど……目の前にある食事を放棄することはできなかった。それだけは絶対にできなかった。  ベッド脇に立った男が、そのほっそりとした指をしなやかに動かしてガウンの紐《ひも》をほどいた。そして、無造作にガウンの前を左右に広げた。     10.  凄まじい憎悪と敵愾心《てきがいしん》を剥《む》き出しにした目で、玲奈は男を見つめた。それから覚悟を決め、男の足元、白いタイルの床の上に跪《ひざまず》いた。  これは生きるためなんだ。生き延びて、翔太と啓太に再会するためなんだ。だから、考えるのはやめよう。何も考えるのはやめよう。  しばらくためらっていたあとで、玲奈はマニキュアの光る指で男性器を支え、しっかりと目を閉じ、それから……わななく唇に触れたそれを、思い切って口に含んだ。  瞬間、あまりのおぞましさに体が震えた。胃と喉《のど》が同時に激しく痙攣《けいれん》し、口の中のものを反射的に吐き出しそうになった。  けれど、玲奈は吐き出さなかった。生き延びるために……そして、いつかここから逃げ出し、息子に再会するために……玲奈は耐えた。  男のそれは巨大だった。舌を圧迫して口の中をいっぱいに満たし、息が詰まってしまうほどだった。  凄まじい屈辱感に苛まれながら……玲奈は数日前の晩、寝室で夫にしたように、ゆっくりと顔を前後に動かし始めた。  屈辱……そう。それはレイプされる以上の屈辱だった。  力ずくで犯されてしまうのは、しかたがない。女性の肉体は受動的につくられているのだから……力で押さえ付けられたら抵抗のしようがない。  けれど今、玲奈がしていることは、受動的なものではなく、能動的な行為だった。たとえ命じられているにしても、彼女は自分の意志で男の前に跪き、自分の意志で男性器を口に含み、それを食い千切ろうともせずに顔を前後に動かしているのだから。  考えちゃダメ。玲奈は自分に命じた。今は何も考えないで。  そうだ。考えてはいけない。考えたら……心が壊れてしまうから。  玲奈が心を空っぽにしようとした時、男が両手で彼女の髪をがっちりと掴《つか》んだ。同時に、頭上から男の声がした。 「水乃さん、わたしはずっとこれを夢見てたんです」  その声は、何も考えまいとしていた玲奈の心を乱暴に掻《か》き乱した。激しい嫌悪感が鳥肌となって彼女の首筋を駆け登った。  耳を塞《ふさ》ぎたい。今は何も考えたくない。玲奈は思った。 「水乃さんはどんなふうにこれをするんだろう? わたしはいつも、それを想像していたんです」  玲奈の心とは裏腹に、男は言葉を続けた。まるで彼女が心を空っぽにするのを妨害するかのように。  言わないで。お願いだから、何も言わないで。  男にそう訴えたかった。けれど、口を塞がれた玲奈に、それはできなかった。 「いつか水乃さんがわたしに、これをしているところを見たいと思ってたんです。素敵ですよ。水乃さんはこんな時でもとても素敵ですよ」  ああっ、あの男は今、真上からわたしの顔を見つめているのだろう。鼻の先を男の陰毛の繁みに埋めたわたしの顔を……男性器の根元に添えられたわたしの指を……わたしの唇から出入りする唾液に光る男性器を……瞬きするのも忘れて、じっと見つめているのだろう。 「水乃さん、わたしが思っていたよりずっと上手ですね」  玲奈の髪をがっちりと掴み、男はさらに言葉を続けた。 「うっ……むうっ……」  男性器の先端が喉を激しく捕らえ、玲奈は噎《む》せてそれを吐き出そうとした。だが、男はそれを許さなかった。  食道まで込み上げてくる激しい吐き気に玲奈は必死で耐えた。そして、全身を包むおぞましさと屈辱とに耐えながらそれを続けた。泣いたつもりはなかったのに、閉じた目から涙が溢れ、頬を流れ落ちるのがわかった。 「誰が水乃さんにこういうことを仕込んだんですか? 旦那《だんな》さんですか? それとも別の誰かですか?」  硬直した男性器が喉にぶつかるたびに、玲奈は心の堤防にひびが入っていくのを感じていた。  その忌まわしい行為がどれほど続いたのか……はっきりとは、わからない。  男性器をくわえ続けた顎《あご》が疲れきり、口の端から溢れた唾液が顎から滴り落ち、張り詰めた首の筋肉の痛みに玲奈が耐えられなくなった頃……男は低く呻《うめ》きながら、彼女の口の中におぞましい液体を放出した。 「飲み込んでください」  頭上から男が命じた。  玲奈は固く目を閉じ、体をわななかせながら、男に指示されたとおりにした。  自分の喉がコクリと鳴り、生暖かくドロドロとした液体が食道を滑り落ちていった瞬間、玲奈はついに心の堤防が決壊したのを知った。  男が部屋を出て行くとすぐに、玲奈は食事を開始した。  運ばれて来た時には湯気を上げていた雑穀粥もクリームスープも、今はすっかり冷めて生ぬるくなってしまっていたが、それでも、とてもおいしかった。玲奈は無我夢中でスプーンを動かし、食物を口に運び続けた。  ほんの2〜3分で器はどちらも空っぽになり、バナナは皮だけになってしまった。  サイドテーブルのティッシュペーパーで口の周りを拭《ぬぐ》い、ふーっと大きく息をついてから、玲奈は空になった器とバナナの皮を見つめた。  たったこれだけの食べ物のために……。  そう。たった今、玲奈が胃袋に送り込んだのは、悲しくなるほど質素で、悲しくなるほど少量の食物だった。そんなわずかな食物を手に入れるために、玲奈は信じられないほどの屈辱を受け入れたのだ。  数日前までの彼女なら、たとえ100万円もらったって、あんなことは絶対にしないはずだった。それなのに……。  餓死の恐怖は去って行った。けれど今度は、息苦しくなるほどの悲しみと絶望がやって来て、玲奈の肩をポンと叩《たた》いた。     11.  水乃玲奈の部屋から寝室に戻ると、彼は裸のままベッドに横になり、天井の暗がりをじっと見つめた。  昔のことを思い出す。  ずっと昔……夜中にテレビで古い映画を見たことがあった。  題名は……もう忘れてしまった。確か……カーレーサーが登場するフランスの恋愛映画だったと思う。  映画の内容はほとんど覚えていない。ただ……その映画の中で、主人公のカーレーサーが言っていたことは覚えている。  それは、こんな内容のことだった。  時速200キロで曲がらなければならないカーブがある。そのカーブを201キロで曲がろうとすると、コースから飛び出して死んでしまう。だが、199キロで曲がるとレースに負けてしまう。  そんなスリリングな瞬間を日常的に体験している主人公を、彼は羨《うらや》ましく思った。同時に……自分は決して、そんな瞬間を体験することはないだろうなとも思った。  201キロで曲がろうとすると死んでしまう。だが、199キロで曲がるとレースに負けてしまう。  自分とは別の世界に生きる人間——けれど、そんな予想とは反対に、彼は今、あの映画の主人公と同じようにスリリングな人生を生きていた。  スリリング。そう。スリリングだ。  明日は知らない。だが……彼には今、コレクションの女たちがいた。その人生に彼は満足していた。  たとえ今、ここで死んだとしても悔いは残らないだろう。  そっと目を閉じる。  その時、サイドテーブルの上の電話が鳴った。  眠りこけていた2匹のシェパードがまた、いっせいに首をもたげる。  水乃玲奈?  いや、そうではない。『6』ではなく、『4』という数字が点滅している。  4号室——。  彼はゆっくりとベッドに上半身を起こし、ゆっくりと受話器を取った。 『もしもし……』  4号室の女が言った。 「はい? あの……どうしました?」 『今すぐに来て……』 「今ですか?」 『そうよ。今すぐよ』  今夜はもう眠ってしまいたかった。けれど……4号室の女の申し出を断ることはできなかった。 「わかりました。すぐに行きます」  それだけ言うと、彼は電話を切った。 [#改ページ]   第6章     1.  日の出までには、まだ時間がある。けれど、星の瞬く夜空は、その東の端のほうがうっすらと赤みを帯び始めている。  目を覚ました鳥たちが夢中で囀《さえず》りを開始し、海からの湿った風が朝露に濡《ぬ》れた草のあいだを吹き抜けていく。一晩中、雌を呼び続けた夜の虫たちは疲れ切って眠りにつき、生け垣に蔓《つる》を搦《から》めた朝顔はその大きな花を静かに開き始める。  そんな夏の夜明け——薄暗いリビングルームに置かれたグランドピアノに向き合って、男はベートーベンを弾いている。  エリーゼのために。  それは、この高価なグランドピアノがこの部屋に運び込まれた日に、母が彼に弾いてくれた最初の曲だった。  あの日、白と黒の鍵盤《けんばん》の上で母の細い指が踊るように動くのを見つめて、彼はいつか自分も、あんなふうにピアノを奏でることができるのだろうか、と思った。  けれど、彼が今、考えているのは母のことではない。  しっとりとした鍵盤を撫《な》でるようにしてピアノを奏でながら、彼はその鍵盤に使われた象牙《ぞうげ》を持っていたアフリカゾウのことを考えている。こんな下手くそな男が弾くピアノの材料にされるために、ライフル銃で撃ち殺されなければならなかった野生のアフリカゾウのこと——。  開け放した窓から早朝の風が流れ込み、伸び始めた彼の髪を優しくなびかせていく。船の汽笛が海面を渡り、長く、低く響いている。  やがて、1日の最初の日の光が庭を取り囲んだ雑木林の頂を照らす。少しずつ、少しずつ、窓の外は明るさを増していく。  けれど、彼はそれに気づかない。  彼は目を閉じたまま……銃で撃たれ、アフリカの乾いた草原に倒れ伏したゾウの巨体や、少し黄ばんだ長くて立派な牙《きば》を思い浮かべながら……稚拙な演奏力でベートーベンを弾き続ける。     2.  サイドテーブルで鳴るアラームの音に、池田真弓は目を覚ました。  裸の上半身に絡み付いた男の腕を払いのけるようにして腕を伸ばし、鳴り続けるアラームを止める。 「もう起きないと……」  大きくあくびをしたあとで、隣で眠っている男に聞こえるように言う。 「ああ……わかってるよ」  年下の恋人が眠たそうな声で答える。だが、いつものように、彼には起きるつもりはまったくないようだった。  それにしても眠たい。  真弓は大きなあくびを繰り返しながら、涙が滲《にじ》み出た目を手の甲で何度も擦《こす》った。  ゆうべは近所の居酒屋で調子に乗って、少し飲み過ぎたようだ。枕から首をもたげようとすると、頭の隅がズキンと鋭く痛んだ。  遮光カーテンのあいだから真夏の朝日が差し込んでいる。その細く強い光の筋の中を、たくさんの埃《ほこり》が舞っている。  小さな埃が光の中を不規則に動きまわっている様子を、しばらくぼんやりと眺めていたあとで、「さっ、起きるわよ」と掛け声を掛け、真弓は思い切って上半身をベッドに起こそうとした。  けれど、それはできなかった。隣で寝ていた恋人が、起き上がろうとした真弓の体を引き戻したからだ。 「行くなよ……もう少し寝てようぜ」  背後から両手で真弓の華奢《きやしや》な体を抱くようにして男が言う。 「ダメよ……お店を開けなきゃ」 「もう少しだけ……な、いいだろ?」  肩甲骨がくっきりと浮き上がった真弓の背中に男が顔を擦り付ける。伸び始めた髭《ひげ》がチクチクする。  男は背後から腕をまわすと、その骨張った太い指で彼女の剥《む》き出しの乳房を掴《つか》んだ。 「あっ。ダメよ……ねえ、ダメだったら……」  男の腕を振りほどこうとして真弓は身悶《みもだ》えした。  けれど、男は豊かに張り詰めた真弓の乳房から手を放さなかった。 「何がダメなんだよ?」  男が真弓の耳のすぐ後ろで囁《ささや》きながら、グレープフルーツほどもある彼女の乳房をこねるように揉《も》みしだく。 「ダメっ……ダメだったらっ……」 「どうして?」 「だって……早くお店を開けなきゃ……ああっ……ダメっ……」  真弓の全身にゆっくりと快楽が広がっていく。こうなってしまうと、もう拒むことはできなかった。  男が真弓の尻《しり》に下半身を押し付ける。硬直した男性器がはっきりと感じられる。  年下の恋人はいつものように、せっかちで強引だった。彼は硬直した男性器の先端を背後から真弓の女性器に宛てがうと、そのまま力まかせに挿入してきた。 「あっ……痛いっ……いやっ……うっ……」  甘美な痛みが肉体を貫き、真弓は反射的に身をのけ反らした。  そんな真弓の豊かな乳房を背後から両手でこねまわしながら、男はゆっくりと前後に腰を動かし始めた。     3.  いつものように……浅く、途切れ途切れの、重苦しい眠りから、水乃玲奈は目を覚ました。  コンクリートの壁に掛けられた時計を見る。  午前9時——ということは、そろそろあの男が食事を運んで来る時間だ。  毎日1度、たいてい朝の9時から10時のあいだに、あの男がこの部屋に食事を運んで来る。  それは、いつも朝。だから午前と午後の区別はついた。  けれど、今が8月の何日なのか、玲奈にはもうはっきりとわからなくなっていた。  ここに連れて来られてから、いったいどれくらいたったのだろう?  2週間? 3週間? それとも4週間?  今では知りたいという欲望もなくなっていた。  体に掛かったピンク色の毛布を鬱陶《うつとう》しそうに払いのけ、水乃玲奈はゆっくりとベッドに上半身を起こした。  いつもそうしているように、窓ガラスに映った黒い下着姿の女をぼんやりと見つめる。ここに来てから随分と痩《や》せたようだ。きっとロクな食べ物を与えられていないせいだろう。頬がこけて影になり、目が落ち窪《くぼ》んでいる。  先にお風呂《ふろ》に入ろうか……それともお風呂は食事のあとにしようか……窓ガラスに映った女を見つめながら、いつものように取り留めもなく、そんなことを思う。  1日に1度の食事をしながらワインを飲むこと、部屋の片隅の浴槽で1日に何度か入浴をすること、それに1日に5本だけ与えられている煙草を吸うこと——それが今の玲奈の最大の楽しみだった。ほかにするべきことは、何もなかった。  食事をし、ワインを飲み、煙草を吸い、入浴をし、男の性交の相手をする……食事をし、ワインを飲み、煙草を吸い、入浴をし、男の性交の相手をする……。  繰り返し……ここでは何もかもが繰り返しだった。  やっぱり、お風呂は食事のあとにしよう。  そう決めた玲奈は、ゆっくりとベッドを下りた。  白いタイルの床を歩いて部屋の片隅に据え付けられたトイレに行く。  栄養が足りないせいなのか、運動不足のためなのか……それとも繰り返される性行為によって股関節《こかんせつ》がどうかしてしまったのか、ただ歩くだけで足がひどくふらつく。うずくまるようにして便座に座って排尿を済ます。  昼もなく、夜もなく、テレビも音楽もパソコンも本も新聞も雑誌もない、ひとりきりの部屋。  このコンクリートの密室での暮らしはあまりにも単調だった。あまりに時間のたつのが遅くて、あまりに退屈で、あまりに寂しくて、あまりに人恋しかった。  自分から人生のすべてを奪い取ったあの男のことは、相変わらず憎かった。たとえ今後、何があろうと、あの男を許すことは絶対にないだろう。  けれど今では、あの男が部屋に入って来ると、少し嬉《うれ》しいような気になることもある。それどころか、あの男が来るのを待っている自分に気が付くことさえある。  たとえどれほど憎い男であったとしても、今の玲奈には人が恋しかった。誰かが話す声を聞いていたかった。  男は自分のことは何も言わなかった。名前どころか、年齢も職業も家族のことも、何ひとつ言わなかった。玲奈もまた、自分のことは何も話さなかったから、ふたりの会話はいつも取り留めのない話題に終始した。好きな映画のこと、音楽や本のこと……ほかに話すことはなかった。  洗面台に立ち、顔を洗い、歯を磨く。鏡に映った自分の顔を、見るともなく眺める。  その顔は生気がなく、無表情で、目は虚《うつ》ろだった。そして、どことなく……あの男に似ていた。  そう。きっと、それほど遠くない将来、自分はあの男のようになってしまうのだろう。感情の浮き沈みがなく、声に抑揚がなく、動きが緩慢な、ロボットのような人間に……悲しみも喜びも怒りも憎しみも感じない人間に……ここで暮らし続けていたら、きっとそうなってしまうのだろう。  自宅の3階、寝室と隣り合った朝日の差し込む浴室が懐かしい。あの広々としたバスタブの中に体をいっぱいに伸ばし、ブラインド越しに差し込む朝日が自分の体にシマウマみたいな模様を描いていたのを見つめていたこと……それはもう、随分と昔のことのように感じられた。  けれど、玲奈は努めて、それを思い出さないようにしていた。そうしなければ、ここでの生活に耐えることなどできなかったから……。  歯を磨き終えた玲奈がベッドの上に戻った時(1日のほとんどの時間を玲奈はベッドの上で過ごしていた)、ノックが聞こえ、食事のトレイを手にした男が入って来た。 「おはようございます、水乃さん」  低く抑揚のない声で言うと、男はいつものようにサイドテーブルに食事の載ったトレイを置いた。きょうのメニューは雑穀|粥《がゆ》と大量の野菜が入った黄金色のスープ、それにオレンジが1個だった。  トレイを置いた男は、いつものように玲奈のベッドの脇に立った。そして、いつものように、そこでガウンの前を左右に広げた。  命じられなくても、今ではもう、何をするべきかわかっている。  いつもそうしているように、玲奈は頭の中を空っぽにした。そして、いつもそうしているように体を屈《かが》め、男の股間でぐんにゃりとなっている男性器を指先でつまみ、それから……いつもそうしているように、しっかりと目を閉じてそれを口に含んだ。  今から数日前、玲奈は再び男に反逆を試みた。口の中の男性器を食い千切ってやろうとしたのだ。  一か八かの賭《か》けのつもりだった。  もし、男性器を食い千切ることに成功したら、股間から血を流して悶え苦しむ男を突き飛ばして部屋を飛び出すつもりだった(もちろん、口の中の千切れた男性器はすぐに吐き出すつもりだった)。  けれど、その反逆は呆気《あつけ》なく失敗に終わった。  玲奈の企てに男がなぜ気づいたのかは、今もわからない。口の中の男性器を食い千切るために玲奈が顎《あご》に力を入れようとした瞬間、男の指が玲奈の頬にがっちりと食い込み、口を閉じることができなくなってしまったのだ。  次の瞬間、目にも止まらぬ素早さで男は玲奈を殴りつけた。そして、泣き叫び、許しを乞《こ》う玲奈をタイルの床に押さえ付け、いつも以上に徹底的に凌辱《りようじよく》したのだ。  おまけに、その後の2日間は食事は与えられず、玲奈は猛烈な空腹に苦しめられた。  逆らっても無駄だ。ひどい目に合わされるだけだ。  もちろん、今も希望は捨ててはいない。けれど、今では……重苦しい諦《あきら》めが、まるで癌細胞のように玲奈の全身を蝕《むしば》んでいた。  1秒……2秒……3秒……いつもそうしているように、ぐんにゃりとした男性器を口に含んだまま、玲奈は頭の中を空っぽにし続けた。  4秒……5秒……6秒……7秒……ありがたいことに今朝は、口の中の男性器は固くならなかった。 「よろしい」  頭上から男の満足げな声が聞こえ、玲奈はほっとして男性器から口を離した。  そんな玲奈の頭を、まるで飼い犬の頭を撫でるかのように、男は掌で優しく撫でた。  口での奉仕の代償として犬のように撫《な》でられ、口での奉仕の代償として食事を与えられる——それは屈辱には違いなかった。けれど、殴られるよりは、撫でられるほうが何倍もよかった。 「それでは、水乃さん。ゆっくりと食事を楽しんでください」  それだけ言うと、男は部屋を出て行った。  男がドアを閉めたのを確認したあとで、玲奈は手の甲で乱暴に口を拭《ぬぐ》った。  それから……1日の最大の楽しみである食事をするためにトレイの上のスプーンを手に取った。     4.  なおも毛布にくるまってぐずぐずとしている3つ年下の恋人を残して、池田真弓はベッドを出た。 「困った子ね……」  毛布にしがみついて目を閉じている男を見つめて真弓は苦笑いした。甘えん坊で、女好きで、怠け者で、浮気ばかりしているのが玉に瑕《きず》ではあったが、彼は優しくて、セクシーで、ハンサムで恰好《かつこう》がよかった。  そう。真弓は年下の彼にぞっこんだった。けれど、彼の甲斐性《かいしよう》のなさには、真弓も少しばかり辟易《へきえき》していた。  彼は驚くほど怠惰で、信じられないほどルーズだった。真弓が経営している輸入雑貨店を手伝っているとは名ばかりで、彼はほとんど戦力になっていなかった。  寝室を出ると、真弓はベビードールもガウンもまとわず(年下の恋人は体のラインがくっきりと見える透き通ったベビードールが大好きだった)、全裸のままでダイニングキッチンに向かった。形のいい大きな乳房が上下に揺れた。  家に娘がいないことはわかっている。少し前、玄関から出て行く音が聞こえた。いつものように、友達の家に遊びに行ったのだろう。  ダイニングキッチンのテーブルには、娘が朝食に使ったらしい汚れた食器やマグカップが置いたままになっていた。真弓は裸のまま椅子に腰を下ろすと、テーブルの端に置いてあったメンソールの煙草を手に取った。  窓から差し込む強い日の光が、水着の跡がくっきりと付いた真弓の皮膚をジリジリと焼く。開け放した窓から、少し湿った温かな風が流れ込んで来る。いつものように、その風からは海の香りがした。  深く煙草を吸い込みながら、目を細めて窓の外を眺める。付近にはこのマンションより高い建物がないから、視界を遮るものは何もない。  窓の向こうにはゆったりとした住宅街が広がり、その向こうには松の防砂林が黒い帯のように横たわっている。そして、防砂林の先では、強烈な真夏の朝日を受けた湘南の海が眩《まぶ》しいほどに輝いている。  こんな日には水着になって、防砂林の向こうに広がるビーチに彼とふたりで寝転んで、パラソルの下でのんびりと雑誌を眺めたり、冷たいビールを飲んだりしていたい。  けれど、そういうわけにはいかなかった。まもなく9時だった。できれば10時に、たとえどんなに遅くなっても、11時には輸入雑貨店のシャッターを開けたかった。  唇をすぼめて煙を吹き出す。生あくびを何度となく繰り返す。テーブルの上の娘のマグカップを手に取り、中に残っていた薄茶色の液体を飲む。  それはコーヒーではなく、甘ったるいココアだった。カップの底にザラザラした砂糖が残っていた。  今は夏休みだったが、娘は昼までは戻って来ない。それはわかっていた。  娘は一緒に暮らしている彼女の恋人のことを毛嫌いしている。それで毎朝、真弓たちが起きる前に出掛けてしまうし、真弓たちが店に出勤するまでは帰宅しない。夜も真弓たちが戻って来る前に、コンビニで買ったパンや弁当などで勝手に食事を済ませて、自分の部屋に閉じこもってしまう。彼がスキンシップをはかろうとして少しでも娘の体に触れると、娘は痴漢にでも遭ったかのように大騒ぎする。  真弓としては、自分の恋人と娘に仲良くやってもらいたいのだが、どうしたらいいかわからない。自分に懐かない娘のことを、今では彼も鬱陶《うつとう》しく感じているようだった。 「あーあ。いろんなことが面倒だなあ」  真弓が手にした煙草を灰皿に押し潰《つぶ》し、天井に向かって大きく伸びをした時——ダイニングキッチンの片隅の電話がけたたましく鳴った。     5.  電話には『公衆電話』という表示が出ている。  公衆電話? ということは、娘に違いなかった。 「もしもし、百合絵なの?」 『もしもし……』  受話器から聞こえたのは娘の声ではなく、かつて真弓の夫だった男の声だった。 「ああ、あなたなの? どうしたの?」  真弓は素っ気なく言うと、電話の子機を手にしたままベランダに出て、そこに置かれたビニール製のビーチチェアに座った。全裸のままだったが、ここはマンションの10階なので誰かにのぞかれる心配はなかった。  夫だった男が電話をして来るのは珍しいことではなかった。真弓にとって彼はすでに他人だったが、娘にとってはいまだに父親だった。 『いや……たまには真弓とふたりきりでデートができないかと思って……』  夫だった男が意外なことを言った。 「デートって……今さら何を言ってるのよ?」  真弓は鼻先で冷ややかに笑った。  かつての夫に対する愛情は、もはやまったくなかった。いや……夫への愛情なんてものが、かつて1度でもあったかどうかもわからなかった。 『やっぱりダメか?』 「当たり前じゃない」  いつものように真弓は冷たく言った。 『それは残念だなあ。真弓にも、少しお小遣いをあげようと思ったんだけど……』  いつものように低く、抑揚に乏しい声で男が言った。 「えっ、お小遣い?」  その言葉に真弓は敏感に反応し、急に声をひそめた。「あの……わたしにもお小遣いをくれるの?」  つい先日、父親と会った娘が、羨《うらや》ましくなるほどたくさんの洋服やバッグや靴や、玩具《おもちや》や文房具や腕時計を買ってもらっていたことを、真弓は思い出したのだ。おまけに娘は父親から信じられないほどたくさんの小遣いをもらい(子供に大金を持たせるのはよくないので、みんな取り上げてしまったが)、父親とふたりで藤沢の高級フランス料理店でディナーまでして来たらしかった。 『ああ、そうだよ。真弓もお小遣い欲しくないかい?』 「そりゃ、欲しいけど……わたしにも百合絵みたいに洋服やバッグや靴やアクセサリーを買ってくれる?」 『ああ。何でも買ってあげるよ。だから……百合絵や同居している彼には内緒で、ちょっと出て来られないかい?』  真弓は首をもたげて部屋の中をのぞき込んだ。どうやら、年下の恋人はまだベッドの中のようだった。 「会って、何をするの?」 『食事をしたり、話をしたり……いろいろだよ……』 「あなた、わたしと……寝たいんでしょ?」  ベランダのビーチチェアに全裸で横たわり、朝日に照らされた豊かな乳房や、えぐれるほどに凹《へこ》んだ下腹部や、臍《へそ》で輝くピアスや、美容外科で脱毛して今ではほんの少ししか残っていない陰毛や、筋肉の浮き出た太腿《ふともも》を眺めながら真弓は小声で訊《き》いた。 『ああ。そうだよ』  低く囁《ささや》くように……だが、はっきりと男が言った。 「相変わらずの変態ね」  真弓は言った。だが、その口調はとげとげしいものではなく、恋人に囁くかのように甘く淫靡《いんび》なものだった。 『ああ。相変わらずの変態だよ』 「で……いつ会いたいの?」  真弓はさらに声をひそめた。 『きょうはどうだい?』 「きょう? そうね……いいわよ」  真弓は答えた。いつものように、店はどうせ暇なはずだから、年下の恋人ひとりでも店番ぐらいはできるだろう。 『それじゃあ……どこかで待ち合わせよう。どこがいいかな? ええっと……そうだな……藤沢辺りまで出て来られるかい?』 「ええ。大丈夫よ……でも、これから出掛ける支度をしなきゃならないから、そうね……2時頃はどうかしら?」 『いいよ。それじゃあ、藤沢駅の南口のロータリーで2時に待ってるよ』 「わかったわ。ええっと……大きな引っ掻《か》き傷のあるボルボに乗って来るのよね」  先日、娘を連れて行った三浦半島の喫茶店の駐車場に停まっていた濃紺のステーションワゴンのボディの傷を思い出し、彼女は小さく笑いながら言った。 『ああ、あの傷ね……相変わらず運転が下手くそなんだよ』  男も少しだけ笑った。『綺麗《きれい》にお化粧をして、素敵な下着を着けておいで』 「ええ。もちろんよ」  そう言った自分の声が媚《こび》を含んでいるのを真弓は聞いた。  切れた電話を握り締めたまま、真弓は朝日に照らされた肉体や、股間《こかん》で光るわずかばかりの毛を見つめ続けた。今夜、そこをまさぐるに違いない男の細長く、しなやかな指を想像した。そして、少し欲情した。  夫だった男を愛したことはなかったかもしれない。けれど彼女は今では、離婚したことを少しばかり後悔していた。  彼とは気が合うところはほとんどなかった。生まれ育った環境も、人生観も食べ物の好みも趣味も、何もかもが違い過ぎていた。彼は無口で、喜怒哀楽がなく、非社交的で、ほとんど笑わず、冗談も言わず、愛の言葉も囁かず、一緒にいても楽しいと感じることはほとんどなかった。  けれど……セックスの相性だけは抜群によかったのかもしれない。  真弓は今、つくづくそれを感じている。  わずか2年ほどの結婚生活のあいだ(正式に離婚したのはもっとあとだったが)、夫と自分はいつも性交をしていたような気がする。ふたりで話をしていた時間よりも、裸で体を重ねていた時間のほうが遥《はる》かに長いかと思われるほどだった。  ベッドでの彼はいつも、激しく、貪欲《どんよく》で、執拗《しつよう》で、疲れるということを知らなかった。まるで性交のためだけに作られたロボットのようだった。そして、真弓はそんな彼を頼もしく思った。  セックスに関しては、今の恋人よりもかつての夫のほうが相性がよかった。それに、もうひとつ……今の恋人よりもかつての夫のほうが、何千倍も……もしかしたら何万倍も金持ちだった。  お金は人生のすべてではない。  夫だった男と暮らしている時はいつもそう思っていた。けれど、お金がないよりは、あったほうがいいに決まっていた。最近の彼女はそれを痛感していた。  なおもしばらくベランダのビーチチェアに横たわって、朝日に照らされた自分の体を眺めていたあとで、池田真弓は静かに立ち上がった。  いつもは忙しくて、朝から入浴している時間はない。けれど、きょうは特別だった。真弓はこれから、ゆっくりと風呂《ふろ》に入るつもりだった。年下の恋人には商工会の会合に行くとでも言っておけばいいだろう。     6.  藤沢駅南口のロータリーの一角に佇《たたず》み、池田真弓は百貨店のショーウィンドウに映った自分の姿をうっとりとして眺めた。  肩と臍とウェストが剥《む》き出しになった真っ白なホルダーネックのタンクトップ。ほんの少し腰を屈《かが》めるだけで下着が見えてしまうほど短い色|褪《あ》せたデニムのスカート。ピンヒールの高さが12センチもある華奢《きやしや》なストラップサンダル……細くくびれたウェストとは対照的に、タンクトップの胸は挑戦的なほど大きく前方に突き出していて、アメリカンコミックスのヒロインのようだった。  今朝、入浴を終えるとすぐに、真弓は鏡に向かって一分の隙もなく化粧を施し、明るく染めたセミロングの髪の毛先をヘアアイロンで柔らかくカールさせた。そして、かつて夫だった男から誕生日にプレゼントされたダイヤモンドの嵌《は》まった十字架型のピアスをし、首にはピアスとお揃いのダイヤモンドの十字架型が付いたペンダントを巻き、手首にもお揃いのブレスレットを嵌め、足首にもやはりお揃いのアンクレットを付けた。臍のピアスはジルコニアだったが、きっと本物のダイヤモンドに見えるだろう。  10代の小娘みたいね……少し頑張りすぎかしら? でも、悪くないわね。7歳の娘がいるようには絶対に見えないわ。ほらっ……みんながわたしを見てるわ。  何人もの男たちの強い視線を感じる。欲望を剥き出しにした視線。真弓よりずっと年下の男たちさえもが、タンクトップの胸を突き上げた真弓の乳房や、きゅっとくびれたウェストや、マイクロミニ丈のスカートから突き出したほっそりとした長い脚を、ジロジロと不躾《ぶしつけ》に見つめていく。  そう。彼女は綺麗なのだ。彼女の肉体は男たちの欲望を煽《あお》るのだ。  ショーウィンドウに映った化粧の濃い女を見つめ、真弓はそっと微笑んだ。こんな彼女を見たら、あの男は間違いなく欲情するに違いなかった。  何を買ってもらおうかな?  男がやって来るのを待ちながら、真弓はふたりの結婚生活を思い出した。  今になって思えば、男との暮らしはそんなに悪いものではなかった。真弓は毎日、眠りたいだけ眠り、行きたいところに出掛け、欲しいものをみんな買い、着たい服をまとい、したいことをし、食べたいものを食べ、それなりに優雅に快適に暮らしていた。  夫だった男を憎いと思ったことはなかった。彼は本当にロボットのようだった。あるいは機械のようだった。  心を持たないロボットや機械を憎む人がいないように、真弓も彼を憎んだことはない。ただ、彼と一緒にいても面白くなかったというだけのことだ。  それにしても暑い。日陰にいるというのに、全身の毛穴から汗が噴き出す。  真弓はバッグからハンカチを出し、化粧が崩れないように注意しながら、そっと額の汗を拭《ぬぐ》った。  ハンカチをバッグに戻し、代わりに濃いサングラスを取り出して掛ける。煙草を吸おうとして、やめた。  かつて彼女の夫だった男は、煙草の臭いが好きではなかった。  やがて、駅前ロータリーにボディに大きな引っ掻き傷のある濃紺のボルボが姿を現した。下ろしたサイドウィンドウの向こうから、かつて夫だった男がこちらを見つめている。  若い娘たちが恋人にするように、真弓は満面の笑みで夫だった男に手を振った。骨張った手首に緩く巻いたブレスレットが、するすると肘《ひじ》のところまで滑り落ちて揺れた。  車の中は外に比べると随分と暗く、ひんやりと涼しくて、モーツァルトのピアノが低く流れていた。それを聞いて真弓は、かつて男がよく、あの家のリビングルームにあったグランドピアノを弾いていたのを思い出した。  男の演奏はそんなにうまくはなかった。けれど、真弓は彼が弾くピアノを聴いているのが好きだった。  車に乗り込んだ真弓が革のシートに腰を沈めると、ただでさえ短いスカートがさらにせり上がり、引き締まった腿《もも》のほとんどが剥き出しになった。瞬間、運転席の男が彼女の腿の付け根付近にチラリと視線を送った。  変わらないわね。  真弓は心の中でそっと微笑んだ。それから、マニキュアの光る指先でせり上がったスカートの股間をそっと抑え、すらりとした長い脚をゆっくりと組んだ。 「今、パンツ、見たでしょ?」 「いや……見てないよ」  男が慌てて視線を逸《そ》らし、前方に顔を向けて車を出した。そんな男の様子が、真弓には何となくおかしかった。 「百合絵や彼氏には内緒にして来たかい?」  いつものように、低く抑揚のない声で男が訊《き》いた。 「もちろんよ……あなたとわたしが会ってることは誰も知らないわ」  そう言って微笑むと、真弓はサイドウィンドウの外に視線をやった。  湘南の街は今も、眩《まぶ》しいほどに輝いていた。     7.  この時期、湘南の道路は海水浴客でどこもひどく渋滞している。真弓の夫だった男がたとえどれほど金持ちであろうと、湘南地区を車で移動する限り、その殺人的な渋滞から免れる術《すべ》はなかった。  けれど、ハンドルを握った男はのんびりとした様子だったし、助手席に座った真弓もゆったりとくつろいでいた。  モーツァルトの流れるステーションワゴンの中はとても広くて、シートはゆったりとしていて、静かで涼しくて、飛行機のファーストクラスのように快適だった。真弓は液晶モニターに映し出される野生のペンギンやアザラシたちのビデオの映像を眺めながら、彼に勧められるがまま、小さな車載の冷蔵庫からシャンパンの小ビンを出し、グラスに注いで飲んだ。 「おいしい……」  口いっぱいに広がったふくよかな味と香りが、彼女にかつての優雅な暮らしを思い出させた。  それは彼のお気に入りの銘柄のシャンパンで、本当においしかった。かつては彼女もそれを毎日のように飲んでいた。 「あなたも飲む?」 「飲みたいけど……運転中だから……」 「そう? こんなにおいしいのに、残念ね」  そのシャンパンがとても高価だということは知っている。けれど、それがどんなに高価なものでも、この男にとっては水道の水のように安く感じるのだろう。かつての彼女がそう感じていたように——。  お金は人生のすべてではない。だが、お金がないよりは、あったほうがいいに決まっている。  真弓が脚を組み替えるたびに、男は条件反射のようにチラリ、チラリと彼女の腿の付け根に視線を送った。真弓にはそれが、おかしかった。  この人、わたしと寝たくてたまらないんだ。  真弓はそれを確信していた。  彼と再婚したらどうだろう? 彼はまたかつてのように、毎日毎日、わたしの体を求めるのだろうか? わたしはまたかつてのように、お金の心配をまったくせずに——毎月の生活費のことや、輸入雑貨店の資金繰りのことや、銀行との交渉のことや、娘の教育費のことや、税務署への申告のことを考えずに暮らすことができるのだろうか? またかつてのように、年に何度も海外へバカンスに出掛け、そのたびに飛行機はファーストクラスを使い、ホテルでは常にスウィートルームに宿泊することができるのだろうか?  海岸沿いの道を車はのろのろと進んで行く。道路のすぐ右側に広がる砂浜にはカラフルなビーチパラソルが無数に林立し、そのあいだで色とりどりの水着をまとった人々がうごめいている。  ビーチを埋め尽くした人々を眺めながら、真弓はまた冷たいシャンパンを口に含んだ。庶民の生活を視察する女王陛下になったような気分だった。  海岸沿いをのろのろと進んでいたステーションワゴンが、葉山《はやま》の狭いトンネルの中で止まった。 「あなた、誰か好きな人がいるの?」  前の車のテールランプに赤く照らされた男の横顔を見つめ、暗がりの中で男の太腿にそっと手を乗せ、真弓は囁《ささや》きかけるように訊いた。 「好きな人? いないよ」  前を向いたまま男が小声で答える。  真弓はそれを本当だろうと思った。この男は人を好きになったりはしないのだ。かつて彼の妻だった真弓には、それがよくわかっていた。 「ねえ……どうしてわたしを誘ったの?」  身を乗り出して男の耳元に囁きながら、真弓は彼の太腿に乗せた手を愛撫《あいぶ》するかのように動かした。  この男は愛情を求めたりはしない。彼が求めているのは性的な快楽だけなのだ。 「もしかしたら、あなた……わたしと縒《よ》りを戻したいの?」  ああ、そうだよ。  もし、彼がそう答えたら、わたしはどういう態度を取ったらいいのだろう? 真弓は思う。あっさりと受け入れていいのだろうか? それとも、少し考えるフリをしたほうがいいのだろうか?  男はハンドルから手を放し、真弓のほうに顔を向けた。 「真弓と縒りを戻す?」 「あなた……そのつもりじゃないの?」 「そうじゃないよ」  無表情だった顔を歪《ゆが》めるようにして男は笑った。「ただ……真弓をコレクションに加えたいだけだよ」 「コレクション?……なあに、それ?」  そう言って真弓が微笑んだ瞬間、暗がりの中で男の右手が素早く動いた。  えっ? 何?  真弓には何も見えなかった。  直後に、首筋から侵入した凄《すさ》まじい衝撃が、真弓の華奢《きやしや》な肉体を貫いた。     8.  全身を包む息苦しさとけだるさの中で、池田真弓は朦朧《もうろう》となって目を開いた。  真弓の目の前には見慣れた自宅の天井ではなく、灰色をした剥《む》き出しのコンクリートがあった。  えっ? どこなの? どこにいるの?  真弓はとっさに手足を動かそうとした。けれど、それはできなかった。バンザイでもするかのように上げられた真弓の腕の先、両手首には白いロープが幾重にも巻かれ、金属製のベッドの支柱にきつく縛り付けられていた。  えっ? どういうこと?  必死に首をもたげて自分の体を見る。  驚いたことに——真弓は今、両手両足を大きく広げた姿勢で、大きなベッドにロープで仰向けに拘束されていた。  短いタンクトップの裾《すそ》がまくれ上がって、ピアスを嵌《は》めた臍《へそ》が剥き出しになっている。両足を大きく開かされているためにスカートがせり上がり、裾から純白の下着がのぞいていた。  いったい……誰が、こんなことを?  骨張った真弓の足首には手首と同じように白いロープが何重にも巻き付けられ、手首と同じようにベッドの支柱にしっかりと縛り付けられていた。いつの間にか裸足になっていて、ネイルサロンで塗ってもらったばかりの濃いペディキュアに彩られた爪が見えた。  あいつだ。あいつにやられたんだっ。  そう。真弓は思い出した。自分がかつての夫の運転するステーションワゴンの助手席に座っていたこと。そして、葉山のトンネルの中で、首に凄まじい衝撃を受けて意識を失ったこと。  あいつだ……畜生っ……あいつがやったんだ。  真弓は激しく身悶《みもだ》えした。細い体をがむしゃらにねじり、腕や脚を夢中でよじる。薄い胸に載った大きな乳房が揺れ、手首と足首に強い痛みが走る。けれど、どれほどもがいても手足の拘束は解けそうになかった。  畜生っ……畜生っ……。  かつては、夫だった男に怒りを覚えたことも、憎しみの感情を抱いたこともなかった。けれど今、真弓の中では、それらの感情が爆発しそうなまでに膨れ上がっていた。  あの男……いったい、どういうつもりなんだ?  真弓は必死で首をもたげて辺りを見まわした。  そこは縦横5メートルほどの広さの空間で、真弓が縛り付けられている大きな金属製のベッドは、その部屋の真ん中に置かれていた。真弓の左側の壁には縦1メートル横2メートルほどのガラスが嵌め込まれ、そこにベッドに仰向けに拘束された真弓の姿が映っていた。  ここはどこなんだろう? あの男……わたしをどうするつもりなんだろう?  男の誘いに簡単に乗ってしまったことを猛烈に悔やみながら、真弓は猛烈な怒りと憎しみにほっそりとした体を震わせた。  その時——ガチャッという音とともに、左側のガラス窓の先の壁にある黒っぽい色のドアが開いた。  あいつだっ!  手首に巻き付けられたナイロンロープを握り締め、怒りと憎しみに顔を歪めて真弓はドアを見つめた。  真弓の想像どおり、ドアから姿を現したのは、彼女のかつての夫だった。     9.  なぜ、もっと早く、こうすることに気づかなかったんだろう?  これから解剖されるのを待つカエルのように無防備な恰好《かつこう》でベッドに磔《はりつけ》にされた女を、彼は満足げに見下ろした。  女は彼の妻だった頃と同じように痩《や》せていて、手足がほっそりとしていて、気が強そうで、したたかそうで……彼の妻だった頃と同じように美しくて煽情《せんじよう》的だった。 「いったい、どういうつもりなの?」  筋肉の浮き出た両手両足を『大』の字に広げ、その整った顔を怒りに歪め、全身を震わせながら、妻だった女が強い口調で言った。  彼は答えなかった。ただ、女の顔と、顔の周りにクジャクの羽のように広がった美しい髪を見つめただけだった。  女は汗をかいているようだった。きっと手足のロープを解こうとして暴れたのだろう。白い百合の花を思わせる甘い香水の香りに混じって、女が分泌した汗の臭《にお》いがした。 「答えなさいっ! わたしを、どうするつもりっ!」  血管の浮き出た細い首をもたげ、手首に巻き付けられたロープを握り締め、女がヒステリックに繰り返した。 「どうするだって? やることは、ひとつしかないだろう?」  彼は穏やかな口調で答えると、無造作に腕を伸ばした。そして、ぴったりとしたタンクトップの上から、グレープフルーツほどもある女の乳房をぐっと鷲掴《わしづか》みにした。 「うっ……いやっ!」  女の乳房は驚くほど弾力があり、驚くほど形がよかった。体はほっそりとしているのに、乳房だけがとても大きくて、彼の手からはみ出てしまうほどだった。 「随分と胸が大きくなったみたいじゃないか? まだ成長期なのかい?」  アイラインで縁取られた女の目をじっと見つめながら、ブラジャーの下の豊かな乳房をゆっくりと揉《も》みしだく。 「いやっ!……やめてっ!」  女が必死の形相で体をねじる。色|褪《あ》せたデニムのミニスカートがよじれて帯のように細くなり、くびれたウェストの辺りにまでせり上がり、セクシーな形をした白いストリングスショーツが完全に見えるようになった。  女の乳房から手を放すと、彼はズボンのポケットに手を入れた。 「さて……それじゃあ、始めようか?」  ひとりごとのように言うと、彼はズボンのポケットから小さな折り畳み式のナイフを取り出した。  パチンと音をさせてナイフを開く。銀色の刃が鋭くきらめく。 「どうするつもり?」  ナイフを目にした瞬間、女の顔に恐怖の色が浮かんだ。「まさか……わたしを……殺す気なの?」  彼女の脅《おび》えた顔を見るのは初めてだった。 「殺す? そう思うかい?」  小さなナイフを両手で弄《もてあそ》びながら彼は低く言った。「そうだな。真弓がいなくなったら、都合がいいだろうなあ」  彼は手をゆっくりと下ろし、ナイフの刃を女の目の前で静かに動かした。 「やめて……殺さないで……」  女が目をいっぱいに見開く。拘束された全身が恐怖にわななく。 「百合絵は父親と暮らしたがっている。知ってるだろ?」  彼が訊《き》き、女がさらに大きく目を開く。 「母親がいなくなれば、百合絵は必然的に父親と暮らすことになる。そうだろ?」  そう言って笑うと、彼は女の白い喉《のど》にナイフの刃を押し当てた。     10. 「いやっ……やめて……」  ナイフの刃を喉に押し当てられた女が声を喘《あえ》がせた。「殺さないで……何でもする……百合絵の親権はあなたにあげる。だから、お願い……殺さないで……」  女の顔を見つめて、彼は静かに微笑んだ。  女の喉に押し当てたナイフの刃を、ゆっくりとずらしていく。首の後ろで結ばれたタンクトップの紐《ひも》に刃先を当て、それを切る。  タンクトップの紐が切れた瞬間、女が息を呑《の》む音が聞こえた。 「やめて……お願い……やめて……」  妻だった女に何かをお願いされるのは気持ちのいいものだった。 「大丈夫だ。殺したりはしないよ。わたしはただ、真弓をコレクションに加えたいだけなんだから」 「コレクションって……どういうことなの?」  呻《うめ》くように女が訊いたが、彼は答えなかった。その代わりに、左手で女のタンクトップの襟元を掴むと、右手に握ったナイフでそれを上から下に一直線に切り開いた。 「あっ……いやっ!」  切り裂かれたタンクトップが左右に大きくはだけ、張り詰めた乳房を覆った純白のブラジャーがあらわになる。女はストラップのないブラジャーをしていた。 「お願いだから教えて……これからわたしを……どうするつもりなの?」 豊かな胸を激しく喘がせて女が訊いた。乳房があまりに大きいために、その多くの部分がブラジャーのカップからはみ出していた。 「これから……真弓にしつけをするんだよ」 「しつけ?」 「ああ。昔はできなかったからね。だから、これから厳しくしつけるんだよ」  そう言うと彼は、女の胸を覆った白いブラジャーのカップとカップのあいだの細い部分にナイフの刃を当てた。 「ああっ……」  女がまた息を呑み、同時に、鋭利なナイフの刃がそれを簡単に切断した。  乳房にかぶさったブラジャーのカップをそっと取り除く。ハリウッドの女優たちのように豊かな乳房と、小豆《あずき》色をした乳首が剥《む》き出しになる。仰向けに横たわっているにもかかわらず、女の乳房は不自然なほど完全な形を保っていた。 「やめて……お願い……お願い……」  女がうわ言のように呟《つぶや》く。腹部が激しく上下に動き、そのたびに臍《へそ》のピアスがキラキラと光る。  そこに横たわった女の体を、すでに彼は知り尽くしているはずだった。それにもかかわらず、彼は今また彼女の肉体に欲情していた。  かつてしつけることのできなかった女を、今、しつける——それは、とても素敵なアイディアに思われた。  なおも身をよじって無駄な抵抗を続ける女の体から、デニムのミニスカートをナイフで切り裂いて取り除く。最後に、女の股間《こかん》を申し訳程度に覆った純白の小さなショーツの横紐を切断して、その薄い半透明の布を取り除く。  ショーツの向こうに透けていた、わずかばかりの陰毛があらわになる。股間を覆った毛が少ない上に足を大きく開いているため、女性器が剥き出しになっている。 「いやっ! 見ないでっ!」  かつて妻だった女が身悶《みもだ》えして叫び、彼は心の中でそっと笑った。  これまでに彼は、何人もの女たちをベッドに縛り付けて裸にしてきた。女たちの年齢や職業や生い立ちや性格はまちまちだった。それにもかかわらず、全裸にされた瞬間、女たちはみんな同じセリフを叫んだ。それが何となく、おかしかった。 「やめてっ! 見ないでっ! いやっ! いやっ!」  ヒステリックに叫ぶ女の声を無視して、彼は全裸になった娘の母親の全身をまじまじと見下ろした。  娘の百合絵は母親が貧乏だと言っていた。だが、自分の体にはそれなりの金をかけているようだった。頭髪と睫毛《まつげ》と眉毛《まゆげ》と、ほんの少しの陰毛を残し、女は全身を完全に脱毛していた。睫毛にはパーマが掛かっているようだったし、手と足の爪のエナメルも自分で塗ったものではなさそうだった。それに、その不自然なほどに豊かな乳房……。 「その胸はいつ手術をしたんだい?」  ベッドの上で悶え続ける女に彼は訊いた。「いったいその中には、どんなものが入ってるんだい?」  そう。彼と暮らしていた頃の女は胸が小さいことにコンプレックスを抱き、いつもカップの厚いブラジャーをしていた。  あの頃、女は彼に何度か豊胸手術を受けたいと訴えた。妻の申し出はたいてい無条件で受け入れて来た彼だったが、それだけは許さなかった。 「大きな胸は好きじゃなかった。だけど……なかなか似合ってるよ」  そう言うと彼は、妻だった女の豊かな乳房をゆっくりと撫《な》でた。「すごく弾力があるんだな……ゴムボールみたいだ」 「いやっ! 触らないでっ! いやっ!」  妻だった女が、彼のほかのコレクションの女たちと同じように叫んだ。  自宅のマンションのすぐ前に広がっている茅ヶ崎のビーチで、毎週のように日光浴をしているのだろうか? それとも日焼けサロンに通っているのだろうか? 女はこんがりと綺麗《きれい》に日焼けしていた。小麦色をした体に小さなビキニの跡がくっきりと残っていて、全裸になった今も白い水着をまとっているかのようだった。 「こんなことをして、ただで済むと思ってるの?」  なおも執拗《しつよう》に身をよじって悶えながら女が言った。女が身悶えするたびに、胸に載った大きな乳房がゼリーかプリンのように揺れた。  それはかつて毎日、飽きるほど眺めた女だった。けれど今、ベッドに磔《はりつけ》になった女の肉体は、初めて見るもののように感じられた。  彼は無言で唇をなめると、着ていたものをすべて脱ぎ捨てた。そして、かつてしつけることのできなかった女にしつけをするために、女の上に裸の体を重ね合わせた。 「ああっ、いやっ! やめてーっ!」  身をのけ反らして女が絶叫し、臍のピアスが彼の腹部を刺激した。張り詰めた豊かな乳房が彼の胸を強く圧迫した。その感触が彼にはとても新鮮だった。     11.  人生に失いたくないものなど、何もない。  長いあいだ、そう思ってきた。  たとえ今、自分の犯行が発覚し、すべてを失うことになってもかまわない。  きょうまでは、ずっとそう考えてきた。  けれど……これからは、そうはいかないかもしれない。  かつて何百回も性交を繰り返した女の中に、今また男性器を深く突き入れながら、彼はぼんやりと思った。  母親である真弓が失踪《しつそう》したとなれば、娘の百合絵は父親である彼と暮らすことになるだろう。家庭裁判所も、今度はそれを認めるだろう。  まもなく娘がやって来る——。  自分で計画したにもかかわらず、彼はその事実にひるんでいた。  自分が普通でないことはわかっていた。とてつもなく異常な男なのだということはわかっていた。  できるのだろうか? 自分のような人間に子供を育てることなど可能なのだろうか? 「いやっ……やめて……もう、いやっ……ああっ……いやっ……いやっ……」  自分の下でうわ言のように繰り返す女の声を聞きながら、彼は体を動かし続ける。  できるのだろうか? 自分のような者に娘を幸せにできるのだろうか?  だが、もう始めてしまったことだった。今さら後戻りすることはできなかった。 「もう、いやっ……お願い……お願いだから、もうやめて……ああっ、いやっ……」  かつて自分の妻だった女の体の奥深くに、彼は男性器を突き入れ続ける。  深く、深く、さらに深く——。  失うものが多ければ多いほど、人は臆病《おくびよう》になる。守ろうとするものが多ければ多いほど、人は卑怯《ひきよう》になる。たぶん……そういうことなのだろう。  きょうまで彼は、『怖い』と感じたことは1度もなかった。けれど、娘と暮らすようになったら、彼も怖がるようになるのかもしれない。ほかの人間たちと同じように臆病になり、ほかの人間たちと同じように卑怯になるのかもしれない。  波のように押し寄せる快楽の中で、ぼんやりと彼はそう感じていた。 「あっ……いやっ……ああっ……いやっ……いやっ……」  娘の母親は美しい髪を振り乱して、彼の下で苦しげに喘《あえ》ぎ続けている。そんな女の髪を両手で強く鷲掴《わしづか》みにして、彼は女の中に男性器を深く突き入れ続けた。  性交と性交の合間に、ベッドに縛り付けられたままの女に彼は説明してやった。  これからは彼女は彼の元妻でも、彼の娘の母親でもなく、彼のコレクションなのだということ。これからは永久に、彼女はこの部屋の中で彼のコレクションとして暮らすのだということ。もし彼に逆らえば、殴られるかもしれないし、鞭《むち》で打たれるかもしれないし、体に熱い焼き印を押されるかもしれないということ。  まるで狂人でも見るかのような目で、女は彼を見つめた。  妻だった女の体内に3度続けて体液を注ぎ入れたあとで、彼は女の手足を縛り付けたロープを解いてやった。骨張った女の手首と足首は擦り剥けて血が滲《にじ》んでいた。  手足の拘束が解かれると、女はビキニの跡が残った小麦色の体をゆっくりとベッドに起こした。凄《すさ》まじい形相で彼を睨《にら》みつけ、手の甲で乱暴に口を拭《ぬぐ》う。唇を鮮やかに彩っていたルージュが滲み、女の口の周りを赤く染めた。 「狂ってる……あんた、どうかしてる」  吐き捨てるように女が言った。ベッドにうずくまった全裸の女は、彼の娘と本当によく似た顔立ちをしていた。  女の顔は怒りに歪《ゆが》み、全身の筋肉が震え、今にも掴み掛かって来そうな様子だった。  けれど、女は掴み掛かって来たりはしなかった。  もうそんな力が残っていないのだろうか? それとも、かつて彼の妻だった経験から、肉体と肉体の勝負では勝ち目がないとわかっているのだろうか? 「どうかしてる……こんなことが、いつまでも続けられるとでも思ってるの?」  ベッドにうずくまったまま、怒りに顔を震わせて女が言う。  けれど、彼は答えなかった。どう答えていいか、わからなかった。 「さっきも言ったように、飲み物と食べ物は、あの冷蔵庫の中に入ってる。ゆっくりと食べるといい」  それだけ言うと、彼はタイルの床に散らばった自分の衣類を無言で拾い上げ、裸のまま部屋の片隅の鉄製のドアに向かった。 「ちょっと待って! 待ちなさいっ!」  ベッドの上で女が叫んだが、彼は振り向かずに部屋を出た。     12.  地下室にいると気づかなかったが、いつの間にか夏の日はもうすっかり暮れて、家の中には薄い闇が広がっていた。  リビングルームのソファに身を預けると、彼は闇に沈んだグランドピアノをぼんやりと見つめた。  こんなことが、いつまでも続けられるとでも思ってるの?  妻だった女の言葉を思い出す。  瞬間——下腹部を、どす黒く、冷たい物が通り過ぎて行ったような気がして、彼は思わず身を震わせた。  恐怖?  そうなのかもしれない。もしかしたら、人はこれを恐怖と呼ぶのかもしれない。自分も普通の人々のように、恐怖を感じるようになったのかもしれない。  果たして……こんな暮らしを、いつまで続けていられるのだろう?  ソファに投げ出してあった携帯電話が鳴った。  妻だった女の自宅の電話番号が表示されている。ということは……。 『もしもし、パパ?』  思った通り、電話からは娘の声が聞こえた。 「ああ。パパだよ。百合絵、どうかしたのかい?」  闇に沈んだグランドピアノを見つめて訊《き》く。けれど、娘が何を訴えようとしているのかは、わかっている。 『ママが帰って来ないの』 「ママが?」 『うん。シンちゃんには商工会の集まりに行くって言ったみたいなんだけど……いつまでたっても帰って来ないし、連絡も取れないの』  百合絵は心細そうだった。当然だろう。しっかりしているように見えても、まだたった7歳なのだ。 「そうか……困ったな」 『シンちゃんがあちこちに電話したんだけど、商工会の集まりなんてなかったみたいだし……パパ、どうしよう?』 「そうだな……とりあえず、今夜1日だけ様子をみて、もし明日になっても連絡がつかなかったらパパが百合絵のところに行くよ」 『パパがここに来てくれるの?』 「うん。それまで、ひとりでいられるかい?」 『うん。いられる』  闇に沈んだグランドピアノを見つめたまま、彼は娘の可愛らしい顔を思い浮かべた。 「それじゃあ、今夜1日だけ様子をみよう。いいね?」 『うん。わかった』 「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。ママは子供じゃないんだから」 『わかってるよ、パパ。百合絵は平気だよ』 「そうだな。それじゃあ、明日の朝にでもまた電話するよ」 『うん。待ってる』  娘との通話を終え、携帯電話をソファの上に投げ出す。ふうっと大きく息を吐いた時、また電話が鳴った。  今度は携帯ではなく、部屋の片隅に置かれた電話だった。 『4』という数字が点滅している。  彼はのろのろとソファから立ち上がると、溜《た》め息をつきながら電話に歩み寄り、ゆっくりと受話器を持ち上げた。 『もしもし、龍之介くん、ちょっと来て』  4号室の女が言った。 「いったい、どうしたんですか?」  彼はうんざりした声を出した。今はひとりでいたかった。 『何となく体がだるいから、いつもみたいに龍之介くんにオイルマッサージをしてもらいたいのよ』  4号室の女が言い、彼はそっと溜め息を漏らした。  オイルマッサージだって?  けれど、断ることはできなかった。 「わかりました。すぐに行きます」  それだけ言うと、彼は電話を切った。     13.  庭で遊んでいた2匹のシェパードを家の中に呼んでドッグフードを与える。  それから彼はマッサージ用のオイルを持って、重い足取りで地下室に向かった。  廊下の左側、水乃玲奈のいる6号室と彼の元妻のいる2号室とに挟まれた真ん中の部屋——そこが4号室だった。  彼は窓から4号室の室内をのぞいた。  女はダークブラウンの小さなショーツを穿《は》いただけの姿でベッドにうずくまり、部屋の片隅のテレビを眺めながら煙草をふかしていた。  そう。ほかの部屋とは違い、その部屋にはテレビがあった。  テレビだけではない。その部屋には音楽を聴くためのシステムコンポもあったし、テレビに接続されたビデオゲームやDVDプレイヤーもあった。電子レンジもあったし、本や雑誌や新聞やCDもあった。冷蔵庫には自動製氷機が装備されていたし、その中にはワインやシャンパンがぎっしりと詰まっていた。床には分厚いカーペットまで敷かれていた。  4号室の女——木村京子。彼女は特別だった。  彼女はこの地下室のいちばん古くからの住人だった。彼女が来たのは、香山早苗が来る半年以上も前——今から3年半も昔のことだった。  いちばん古いコレクション?  いや、そうではない。彼は彼女を自分のコレクションだとは思っていなかった。彼女はただの厄介者だった。  今から3年半以上前、母が死んだ直後に建設を開始した地下室が完成したばかりの頃、彼はこれからそこに連れて来る女たちのことを思い巡らせながら暮らしていた。  あの地下室にいったい、誰を連れて来よう? どんな方法で連れて来よう? そこでどんなことをしよう?  それは、わくわくと胸の高鳴る毎日だった。  街を歩けば美しい女たちはいくらでもいた。けれど、当時の彼にはそんな女たちを誘拐することは、とてつもなく難しいことに思われた。いや……コレクションのための地下室を作ってはみたものの、実際にそこに生きた女たちを連れて来るなんていうことは、どうしたって不可能なようにも思えた。  そんなある日——彼は館山《たてやま》の街で偶然、木村京子と出会った。  木村京子の存在は以前から知っていた。けれど、実際に顔を見たのは1度きり、父の安藤辰三の葬儀の時だけだった。  あの葬儀の日、木村京子は葬儀場の受け付けで入場を巡って揉《も》めていた。喪服に身を包み、厳粛な顔をした参列の人々を前に、「入れろ」「入れない」の押し問答を繰り広げていたのだ。  そう。木村京子は彼の父の長年の愛人だった。父は死ぬ3年ほど前からは自宅には戻らず、愛妾《あいしよう》である木村京子に買ってやった館山のマンションで寝起きしていた。 「こんにちは、龍之介くん」  あの日、声を掛けて来たのは木村京子のほうだった。「わたしのこと、覚えてる?」  女は黒いミニ丈のワンピースの上に、真っ白な毛皮のハーフコートをまとい、踵《かかと》の高い黒いパンプスを履いていた。 「はい……あの……覚えています……」  目の前の中年の女を見つめ、しどろもどろになって彼は答えた。 「お母さん、亡くなったんですってね?」  女はどぎついほどに化粧した顔を歪《ゆが》めるようにして彼に微笑みかけた。笑うと目元や口元の小皺《こじわ》が目立った。 「ええ……あの……そうなんです」 「ご愁傷様。ところで龍之介くん、今、時間ある?」 「ええ。あの……あります」 「だったら、少し付き合わない?」  3年半前のあの日、彼は館山の喫茶店のテーブルに向き合って、出勤前だった木村京子とコーヒーを飲んだ。  当時、木村京子は50歳だった。彼の父の援助を得て始めた館山市内のクラブを、その時もまだ経営していたようだった。  自分より20歳以上も年上の女と話すことなどなかった。けれど、女はなかなか彼を解放してくれなかった。 「あの人、いつも龍之介くんのことばかり話してたから、わたしも昔から龍之介くんのことをよく知ってるような気がするのよね」  女はそう言って笑った。  彼は上目遣いに女の顔を何度か見た。  年齢より若く見えるのか、老けて見えるのかはわからない。けれど、女はなかなか綺麗《きれい》だった。顔や鼻や口が小さく、目がとても大きかった。小柄ではあったけれど、ほっそりとした華奢《きやしや》な体つきをしていて、首がとても長かった。明るい色に染めた長い髪の先を、美しくカールさせていた。  これが父の愛した女なのだ。  そう思った瞬間、電流に打たれたかのように体が震えた。  ——父の愛人だった女をコレクションにする。  その背徳的な思いつきに、彼は身を震わせた。     14.  実はあなたに渡すよう、父から頼まれていた物があるんです。  そう言って彼は木村京子を自宅の地下に誘い込んだ。そして、そこに監禁することに難なく成功した。  そう。木村京子を監禁するのは容易《たやす》いことだった。着ているものを剥《は》ぎ取って裸にするのも、小柄な肉体をベッドに押さえ付けて凌辱《りようじよく》するのも容易いことだった。それから数日にわたって、彼は自分より20歳以上も年上の女を徹底的に凌辱した。  けれど、彼女をしつけるのは難しかった。地下室に女を監禁するのはそれが初めてで、当時はまだ、何もかもが手探りだったから。  彼女との経験はその後、ほかの女たちをしつけるのには役立った。だが、木村京子をしつけることはついにできなかった。  最初に厳しくしつけなければ、しつけはうまくいかない。それは犬たちをしつけるのと同じだった。  もちろん、今後も永久に地下室から解放するつもりはない。だが、彼は木村京子に求められるがまま、彼女のいる4号室にテレビを設置し、システムコンポを設置した。ビデオゲームやDVDプレイヤーを設置し、電子レンジを運び込み、新聞や雑誌を運び、床に分厚いカーペットを敷いた。食事だって、彼女には自分と同じものを用意している。  その部屋から出ることができないという不自由を別にすれば、木村京子はやりたい放題だった。今では、どちらが主人でどちらが下僕《しもべ》なのか、わからないほどだった。  本当は吉川友歌里を解放したように、木村京子を解放してしまいたかった。けれど、それはできなかった。彼女は彼を知っていた。解放されたら警察に駆け込むことは間違いなかった。  殺して、庭に埋めてしまう?  そう。それは何度も想像した。  けれど、自殺したふたりの女を埋葬した今でも、自分の手で人を殺すことはできそうになかった。  4号室のドアをノックする。 「入ります」  そう言ってドアを開く。いつものように、木村京子の部屋には煙草の臭いが立ち込め、テレビにはバカバカしいバラエティ番組が映っていた。 「遅かったのね」  ショーツ1枚でベッドにしゃがんだ小柄な中年女が咎《とが》めるように言う。 「あっ……すみません」  反射的に彼は謝る。いつものことだ。 「それじゃあ、始めてちょうだい」  そう言うと、女は煙草を灰皿に押し潰《つぶ》し、いつものようにベッドに俯《うつぶ》せになった。  彼はそんな女に近寄ると、いつものようにマッサージ用オイルを掌に取り、それを女の背中にまんべんなく塗り広げていった。  決して太っているというわけではない。ほかのコレクションの女たちと同じように、木村京子の脇腹には肋骨が透けて見えているし、天使の翼のような形をした肩甲骨もくっきりと浮き上がっている。けれど、ほかのコレクションとは違い、50歳を過ぎた木村京子の皮膚には張りがなく、少し乾いてカサついていた。 「龍之介くん、あんた、自分では完璧《かんぺき》にやってるつもりかもしれないけど、いろいろと物証が残ってるみたいよ」  柔らかな枕に顔を押し付けたまま女が言った。 「物証?」 「そう。犯人の足跡とか、指紋とか、髪の毛とか……龍之介くん、血液型はBなんじゃない?」 「ええ。そうですが……」 「やっぱりね。あっ、そうそう。それから、龍之介くん、あんた、シェパードを飼ってるでしょう?」 「えっ……あの……どうして知ってるんですか?」 「毛が見つかったのよ」  女が嬉《うれ》しそうに笑い、彼の手の下の骨張った体が上下に揺れた。「ここから解放された女が着ていた服に、動物の毛みたいなものが付着してたらしいのよ。で、警察が鑑定したら、その毛はシェパードのものだったんだって」 「そうなんですか?」  彼は少しだけ驚き、女の背中にオイルを塗り広げていた手の動きが止まった。吉川友歌里の衣服に付着していたという犬の毛のことは初耳だったのだ。 「日本にいるシェパードは、全部で3000頭から4000頭なんだって。警察ではこれから、その1頭1頭すべてをDNA鑑定するつもりみたいね」  そう。女は1日中テレビを見ているので、世間の情報には詳しいのだ。 「日本にいるすべてのシェパードのDNA鑑定をするんですか? それは警察も大変ですね」 「あら、龍之介くん、余裕なのね」 「別にそういうわけじゃないですが……」  再びゆっくりと女の背中にオイルを塗り広げ始める。彼の指が木村京子の痩《や》せた脇腹に触れ、女がくすぐったそうに身をよじる。 「ここに警察がやって来るのも時間の問題かもね。覚悟しておいたほうがいいわよ」 「そうですね。覚悟しておきます」  彼は言った。  女の背中に両手でオイルを塗り広げ続ける。やがて……カサついていた女の皮膚が、ピアノのように美しく光り始めた。     15.  彼に馬乗りになって激しい上下運動を繰り返しながら、中年の女が声を上げている。彼の上で、トランポリンに乗っているかのように弾《はず》んでいる。時には後方に手を突いて大きくのけ反り、時には前かがみになって、狂った獣のような声を上げ続けている。  そう。マッサージのあとでは、木村京子はいつも性交を求めた。 「ああっ……いいっ……龍之介くん……ああっ……」  オイルを塗り込められた女の体がつややかに光る。あまり艶《つや》のない長い髪が光の中に舞い飛ぶ。張りを失い始めた乳房が、女の動きに合わせて激しく上下に揺れる。脂肪の付き始めた女の顎《あご》の先から滴った汗が、彼の胸に流れ落ちる。  彼は手を伸ばして下から女の乳房を支える。  ふと思う。父が触れていた頃は、この乳房はもっと張り詰めていたのだろうか? 父もこんな体位でこの女と交わったことがあるのだろうか?  その背徳的な考えが、萎《な》えかけていた欲望を少しだけ高める。 「ああっ……龍之介くん……あっ……乳首吸って……」  女が求め、彼は腹筋運動をするように体を起こす。そして、自分より20歳以上も年上の女の乳首を口に含み、それを強く吸う。 「あっ……いいっ……あああっ!」  女が一際甲高く叫ぶ。 「それじゃあ、京子さん、おやすみなさい」  そう言って4号室を出る。  女はすでに彼に裸の背中を向けて、テレビを見ながら煙草を吸っていた。  地上に戻る前に、順番に女たちの部屋をのぞく。  2号室に連れて来られた彼の妻だった女は、ガウンをまとった背中をこちらに向けてベッドにしゃがんでいた。  いったい何を考えているのだろう? ほっそりとした肩が静かに上下している。  おやすみ、真弓。今夜は楽しかったよ。明日から、また仲良くやろうな。  妻だった女に心の中でそう言うと、彼は地上に戻るために階段に向かった。  木村京子の言ったシェパードの話が気にならないわけではない。ジローもフランソワーズも正式な登録はしていないし、家の敷地の外に出ることはないから、近所のほとんどの人はこの家に2匹のジャーマン・シェパードがいることは知らないはずだ。  けれど、ジローとフランソワーズを購入したペットショップには彼の記録が残っているはずだし、掛かり付けの獣医師や、かつて2匹を訓練に出した訓練所にも間違いなくジローとフランソワーズの記録が残されているだろう。  もし、警察が本当に日本で飼われているすべてのジャーマン・シェパードのDNA鑑定を実施する気なら、いつかはジローとフランソワーズに行き着くことになるだろう。そして、その時が彼の破滅の時だった。  破滅の時が、もうすぐそこまで来ている……。  けれど、くよくよしてもしかたがなかった。彼はそれ以上は考えるのをやめた。     16.  ベッドに仰向けに横たわり、天井の暗がりを見つめる。  いつものように窓の外からは虫たちの声が聞こえ、ベッドの脇の床では2匹のシェパードが小さな寝息を立てている。  あなた……牢屋《ろうや》で死ぬことになるみたいよ。  昔、背中に刺青《いれずみ》のある占い師の女にそう言われたことがあった。  なぜか、ふと、それを思い出した。  あれは娘の百合絵が生まれたばかりの頃で、彼の妻は赤ん坊を連れて長野に里帰りをしていた。  あの頃、まだ都内のマンションに暮らしていた彼は、ある晩、食事をするために街に出た。そして、街角に小さな机と椅子を置いて占いをしていたその女に出会った。  占いなどに関心はなかった。けれど、その女は彼の興味をひいた。  年は当時の彼より少し上だったのだろうか? 机に置かれたロウソクの炎に照らされた女は、体に張り付くようなぴったりとした黒いワンピースをまとっていた。真っ黒な髪を腰まで伸ばしていて、とても痩せていて、とても化粧が濃かった。 「未来を占ってくれないか?」  彼は占い師の女の向かいの椅子に腰掛けると、そう言った。 「未来って……いつのことを知りたいの?」  どぎつく塗られた薄い唇を動かして女が訊《き》き、彼はしばらく考えたあとで、「どこで死ぬことになるのか……それを教えてくれないか?」と言った。  真っ黒なアイラインに縁取られた切れ長の目で、彼をじっと見つめていたあとで、「それじゃあ、目を閉じて」と女が命じた。  彼は女に言われたとおりにした。直後に、ひんやりとした女の手が彼の額に触れた。  女の手は本当に冷たかった。彼は自分の額の体温が女の手の中にどんどん吸い込まれていくのを感じた。  3分ほど女は無言で彼の額に手を当てていた。それから言った。 「驚かないでね。あなた……牢屋で死ぬことになるみたいよ」  もちろん、彼は驚きはしなかった。  その晩、彼は占い料の何十倍かの金を支払って占い師の女を自分のマンションの部屋に連れ帰った。そして、それまで妻と何百回と性交を繰り返したベッドの上で、女がまとった黒いワンピースを脱がせた。  女はその骨張った背中全体に鮮やかな刺青《いれずみ》をしていた。稚拙なタトゥーではなく、和彫りと呼ばれる本物の刺青だ。 「青龍にまたがって、転法輪印を結んでいる観世音なのよ」  女が説明した。  たぶん、名のある彫り師の手によるものなのだろう。それは本当に鮮やかで、本当に素晴らしい刺青だった。青龍も観世音も動き出しそうな感じだった。 「ヤクザだった前の旦那《だんな》に無理やり入れさせられたの。これのせいで、背中が開いた服は着られないし、温泉にもサウナにもエステにも行けない。水着にもなれないのよ」  女は言った。けれど、水着になれないことや、温泉やサウナに行けないことを残念に思っているような口調ではなかった。 「痛くなかったかい?」  ほっそりとした女の背中を覆い尽くした刺青を、まじまじと見つめて彼は訊いた。 「すごく痛かったわよ。でも、わたし……痛いのが嫌いじゃないのよ」  そう言って女は笑った。  その晩、彼はその青龍にまたがって転法輪印を結んでいる観世音の刺青を見つめながら、女を背後から抱きかかえて犯した。何度も、何度も……繰り返し、繰り返し……何度も、何度も……繰り返し、繰り返し……朝が来るまでほとんど一睡もせずに、彼は女の小さな尻《しり》を背後から抱き抱え、女の小さな乳房を背後から揉《も》みしだき、骨の浮き出た女の背中全体を覆《おお》った刺青を見つめて女を犯し続けた。あるいは、女を俯《うつぶ》せにさせて、その背中を見つめながら、女の薄い唇に男性器を含ませ続けた。  女の背中で、生きているかのようにのたうちまわる観世音や青い龍の刺青——それはなかなか刺激的な体験だった。  あなた……牢屋で死ぬことになるみたいよ。  当時はバカバカしいと思った。けれど、今では、そうは思わない。  きっとそうなのだろう。きっと自分は獄死することになるのだろう。コンクリートの壁と錆《さ》びた鉄格子に囲まれた狭い部屋で、ひっそりと人生を終えることになるのだろう。  それは別にかまわなかった。どうせ短い人生だ。どこで、どんなふうに死ぬことになろうと、そんなことはどうでもよかった。  あの朝、自宅の玄関を出て行った占い師の女と彼が再び出会うことはなかった。もう1度、観世音と青龍を見つめながら性交がしたくて、その後、何度も同じ時間にあの街角を通ったが、2度と見かけなかった。  あの女はどうしているのだろう? 今もどこかの街角で占いを続けているのだろうか? 女は少しは年を取ったのだろうか? 背中に彫り込まれた青龍や観世音の刺青は、あの時のままなのだろうか?  あの頃はまだ都内にいたから、この家の地下には秘密の部屋などなかった。けれど、もし、また彼女に出会うことがあったら、その時はあの女と刺青を——青龍にまたがって転法輪印を結んでいる観世音の刺青とあの女を——地下室のコレクションに加えるつもりだった。そして、毎日のように、あのなまめかしくて、生き生きとした刺青を見つめながら、背後から女の尻を抱いて犯すつもりだった。  目を閉じ、ふわふわとした柔らかな毛布を引っ張りあげる。  あなた……牢屋で死ぬことになるみたいよ。  刺青の女の声をまた思い出した。背骨や肩甲骨の浮き上がった、細くてしなやかな女の背中や……そこでなまめかしくのたうちまわっていた観世音と青龍の刺青や……男性器を口に深々と含んだ女の口元や……感極まった瞬間の女の恍惚《こうこつ》とした表情を思い出した。  どういうわけか、あの晩、彼は観世音や青龍を犯しているような気がしたものだった。 [#改ページ]   最終章     1.  枕元でアラームが鳴る。  午前7時——。  彼は慌ててベッドに身を起こす。ベッドのすぐ脇の床で眠っていた2匹のジャーマン・シェパードが、彼と一緒に跳び起きる。 「おはよう、フランソワーズ。おはよう、ジロー」  犬たちの頭を交互に撫《な》でてやったあとで、今朝は妹のほうのシェパードに「フランソワーズ、百合絵を起こしておいで」と命じる。  仕事を命じられたフランソワーズが、大喜びで部屋を飛び出して行く。兄のジローが恨めしげに彼を見上げる。  かつての彼は自然に目が覚めるまでベッドの中にいた。けれど、今はそういうわけにはいかなかった。  ベッドを出ると、大急ぎでパジャマを脱ぎ捨て、洋服に着替える。小便と洗顔を済ませたあとで、急いでダイニングキッチンに向かう。朝の仕事を妹に奪われたジローが彼の跡をついて来る。  ジローと並んで台所に立ち、娘と自分の朝食の支度を始める。犬たちに餌をやるのは娘の仕事だ。  水を入れた鍋《なべ》をガス台に載せ、炊き上がったばかりの炊飯器のご飯をシャモジでかき立てる。塩鮭とメザシをロースターに放り込み、煮立った鍋の湯の中に頭と腹部を取り除いたニボシを入れる。まな板で豆腐とワカメとネギを切り、糠漬《ぬかづ》けのキュウリを刻む。  いつもトーストやシリアルの朝食だったせいか、娘の百合絵は毎朝、ご飯を食べ、味噌汁《みそしる》を飲みたがった。それで彼は毎朝、必ず白米を炊き、味噌汁を作ることになった。  もちろん、不満ではない。彼も和食は大好きだ。 「フランソワーズ、うるさい! もう、あっち行って!」  子供部屋のほうから娘の甲高い声が聞こえる。「もう起きてるでしょ? お願いだから、あっち行ってよ!」  顔をなめて娘を起こそうとしているフランソワーズの姿と、掛け布団に乗った自分より遥《はる》かに重たい犬を撥《は》ね除《の》けようとする娘の姿を思い浮かべる。  知らぬ間に頬が緩んでいる。  百合絵は本当に寝起きの悪い娘だ。けれど、大丈夫。フランソワーズもジローも、百合絵がベッドを出るまでは決して諦《あきら》めない。  鍋の中のニボシを目の細かい網で丁寧にすくい取り、料理酒を入れ、再沸騰させたあとで豆腐とワカメとネギを入れる。いったん火を消して、2種類の味噌を鍋の中に丁寧に溶き入れる。かぐわしい味噌の香りと炊きたてのご飯の匂い、それに焼き上がった塩鮭とメザシの香ばしい匂いが室内に満ちる。  ジローが甘えて、彼の足に体を擦り付ける。そんな犬の頭を撫でてやったあとで、顔を上げ、窓の外に目をやる。  ダイニングキッチンの大きな窓の向こうには海が広がっている。秋の朝日が、海面を美しく照らしている。  今朝は空気が澄んでいる。もしかしたら房総半島は、この秋、いちばんの冷え込みになったのかもしれない。  ここから見える太平洋は、自宅の窓から見える細長い海とは違って広大だ。視界を遮る陸地は見えず、どこまでも海が果てしなく広がっている。微《かす》かなカーブを描く水平線の近くを、朝日に照らされた船舶がゆっくりと進んでいくのが見える。  少し前、彼は房総半島の最南端に建つ12階建てマンションの、最上階にあるこの部屋を購入した。そしてここで、母親が家出をして(警察ではそう推測しているようだ)ひとりきりになってしまった娘と、2匹のシェパードと一緒に暮らし始めた。  それは彼が想像していたより、ずっと素敵な生活だった。 「おはよう、パパ」  可愛らしいパジャマをまとった百合絵が目を擦《こす》りながら、ダイニングキッチンに入って来る。とても眠たそうだ。自分の仕事を果たした妹のフランソワーズが、娘の周りを踊るような足取りでついて来る。 「おはよう、百合絵。ご飯ができてるけど、先にフランソワーズとジローに餌をやっておくれ」 「言われなくても、わかってるよ」  娘が口を尖《とが》らして彼を睨《にら》みつける。いつものように、寝起きは機嫌が悪いのだ。その生意気そうな顔は、今も毎日のようにあの地下室の2号室で、厳しいしつけを続けられている彼女の母親にそっくりだ。  ひとりで微笑みながら、彼はふたつの茶碗《ちやわん》に熱いご飯を盛る。湯気の立つ味噌汁をおたまですくい、椀《わん》に入れる。     2.  いつものように……浅く、途切れ途切れの、重苦しい眠りから、水乃玲奈は目を覚ました。  午前9時——ということは、まだ食事には少し間がある。  少し前まで男は9時から10時のあいだに食事を運んで来た。だが、最近は11時過ぎにならないと男はやって来なかった。  体に掛かった毛布を鬱陶《うつとう》しげに払いのけ、ベッドにゆっくりと体を起こす。窓ガラスに映った下着姿の女が嫌でも目に入る。  あの男の性の奴隷として生き続ける、惨めな女の姿——。  もう夏はとっくに終わってしまったんだろうな。今年の秋はどんな服が流行《はや》ってるんだろう?  ぼんやりと思う。  翔太はどうしてるんだろう? まだ、わたしのことを覚えているかしら? 幼稚園には誰が送り迎えをしているのかしら?  息子のことを思うと、今も強烈な悲しみに体が震えた。  けれど、もう涙は出なかった。最近の玲奈はめったに泣かなかった。おそらくもう、一生分の涙を使い果たしてしまったのだろう。  いつもそうしているように服従の証明の儀式として、きょうもあの男は食事の前に玲奈の口に男性器を含ませるのだろう。そして、もしその気になったら(何度かに1度は男はその気になった)、そのまま玲奈をベッドに押さえ付け、硬直した男性器を彼女の中に突き入れるのだろう。  何もかもが、もう慣れっこだった。  人はどんなことにも慣れてしまうんだ。どんな辛《つら》いことにも、どんな悲しいことにも、やがて慣れてしまうんだ。  たぶん2週間ほど前にした反逆を最後に(3週間前かもしれない)、玲奈はあの男に逆らうのをやめていた。そんなことをしても、ひどい目に合わされるだけだった。  前回の罰のことを思い出すと、今も恐怖に体が竦《すく》む。  玲奈は自分の右の肩を見つめた。そこには縦横2センチ弱の大きさの『R』の形をした火傷《やけど》が、今もくっきりと残っていた。  そう。前回、玲奈が最後の反逆をした時(玲奈はあの時、口の中に押し込まれた男の舌を噛《か》み切ろうとして失敗した。いつだったか男性器を食い千切ろうとした時と同じように、なぜか男はそれを事前に察知したのだ)、その罰として、男は玲奈をベッドに俯《うつぶ》せに縛り付け、彼女の右肩に真っ赤になった焼き印を押し付けたのだ。  あれは今までに受けた罰の中でもいちばん辛い経験だった。熱せられて真っ赤になった焼き印が右の肩に触れた瞬間、あまりの激痛に玲奈は失神しただけでなく、高熱を出して何日も苦しみ続けることになった。 『R』の形をした右肩の火傷は、永久に消すことができないだろう。もし、ここから出ることができたとしても、玲奈は2度と肩を剥《む》き出しにした服をまとうことができないだろう。温泉に行くことも、エステティックサロンに行くことも、水着になることもできないだろう。  無駄なんだ……何をしても無駄なんだ……。 『R』の形をした右肩の火傷を見つめて、玲奈は唇を噛み締めた。  そう。今では確かに、玲奈は諦めかけていた。反逆するたびに手ひどい罰を受け、徹底的に打ち砕かれ、反逆する気力をなくしかけていた。  けれど……完全に希望を捨ててしまった、というわけではなかった。  数日前、こうしてぼんやりと窓ガラスに映った自分を見つめていた時に、玲奈はあの男に対する新たな反逆を思いついた。  今度の作戦はなかなか素晴らしいものに思われた。  今度こそ、うまくいくだろうか? 今度こそ、あの憎らしい男をやっつけることができるだろうか?  ここ何日もずっと頭の中で繰り返しているように、玲奈はまた、その新しい作戦を頭の中でシミュレーションしてみた。自分が男を見事にやっつけるシーンを思い浮かべると、興奮に体が熱くなった。  けれど……もしまた失敗したら、今度はどんな罰を受けることになるのだろう? 今までに何度もされたようにベッドに俯せに縛り付けられ、革のベルトで気絶するほど叩《たた》かれるのだろうか? あるいは絶食だろうか? それとも……また体のどこかに……今度は左肩に……あるいは腰や背中や尻《しり》や太腿《ふともも》に……『R』の形をした焼き印を押されるのだろうか?  それを考えると、踏ん切りがつかず、玲奈は作戦の決行を1日延ばしにしていた。  大丈夫だろうか? 今度は本当にうまくいくだろうか?  それでも、玲奈はその作戦を実行するつもりだった。このままこの密室で、1度限りの大切な人生を終えてしまうわけにはいかなかった。愛する息子と再会するために、何が何でもここから逃げ出さなくてはならなかった。  うまくいくだろうか? いや……今度こそ、絶対にうまくいかせなくてはならない。そして、何としても、ここから脱出しなくてはならない。 「翔太、待っててね……ママは絶対、翔太のところに戻るからね」  窓ガラスに映った囚《とら》われの女を見つめ、玲奈は深く頷《うなず》いた。     3.  娘を学校に送り出し、部屋の掃除と洗濯を済ませたあとで、彼はいつものようにリビングルームのソファに腰を下ろして熱いコーヒーを飲んだ。  いつもなら犬たちと一緒に車で家に戻り、地下室の女たちに食事を運ぶ時間だが……今朝はもう少し、ここでテレビを見ているつもりだった。  大きな液晶画面には今、かつて彼の上司だった水乃啓太が映っている。ワイドショーの女性レポーターに、2カ月近く前に失踪《しつそう》した妻の玲奈のことを話している。  あの結婚式以来、水乃啓太は1度も彼に会っていないはずだった。けれど、彼のほうは水乃啓太の姿を車の中から何度も盗み見ていた。妻に見送られて自宅を出る水乃啓太。妻や息子と公園で遊ぶ水乃啓太。休日に妻と息子の3人で買い物をしたり、ファミリーレストランで食事をしている水乃啓太。自宅の芝生の庭に出したテーブルで妻と向き合ってビールを飲んでいる水乃啓太……。  水乃啓太に恨みはない。彼のことは本当に可哀想だと思う。けれど、しかたない。水乃玲奈を手放すわけにはいかない。  そのワイドショーには水乃啓太だけではなく、3号室の武藤静香の両親と5号室の香山早苗の母親が出演していた。それだけではない。ほかにも娘が失踪したという3組の家族が出演して、その時の状況をレポーターに説明していた。  あの地下室から生還した吉川友歌里が、自分のほかにも拉致《らち》されていた女たちがいたと証言した。それを聞いた彼らは、自分たちの妻や娘もその男に拉致されたのではないかと考えているようだった。  水乃玲奈と武藤静香、それに香山早苗は彼のコレクションだ。それは正しい。けれど、ほかの3人の女には思い当たる節がなかった。  3人はただ家出しただけなのだろうか? それとも、何らかの事件や事故に巻き込まれたのだろうか? いや、それとも……彼のように女をコレクションしている男が、ほかにもいるということなのだろうか?  木村京子が教えてくれたとおり、警察は日本にいるすべてのジャーマン・シェパードのDNA鑑定をしようと本気で考えているようだった。けれど、その作業はまだ始まったばかりのようだった。おまけにその警察でさえ、日本にいったい何頭のジャーマン・シェパードが飼育されているのかを把握しかねているらしかった。  果たして本当に、警察がジローとフランソワーズの血液検査に来ることがあるのだろうか?  警察が来る前に2匹のシェパードを処分してしまう——それを1度も考えたことがないと言ったら嘘になる。けれど、やはり、犬たちを処分する気にはなれなかった。  地下室にいる女たちは彼のコレクションだったが、ジローとフランソワーズは彼の家族だった。  いつまでもこうしてテレビを見ているわけにはいかなかった。腹を空《す》かせた女たちが、あの地下室で彼を待っているのだ。 「フランソワーズ。ジロー。出掛けるぞ」  足元に寝そべっている2匹のシェパードに声を掛ける。テレビを消し、立ち上がる。     4.  玲奈がベッドの上で新しい脱出の作戦に思いを巡らせていると、食事のトレイを手にした男が部屋に入って来た。  きょうはいつもより、さらに30分以上も遅かった。 「おはようございます、水乃さん。遅くなってすみません」  サイドテーブルの上に食事の載ったトレイを置くと、男はいつものようにガウンの前を無造作に広げた。もちろん、ガウンの下には何も着ていなかった。  いつものように玲奈は頭の中を空っぽにした。それから、いつものようにしっかりと目を閉じて、だらりとした男性器を口に含んだ。  毎朝のように繰り返される服従の証明の儀式——1分ほど男性器を口に含み続けていたが、ありがたいことに今朝は、玲奈の口の中の男性器は固くならなかった。 「はい。いいですよ」  頭上から男の声が聞こえるのを待って、いつものように玲奈は顔を上げた。そんな玲奈の頭を、男はいつものように優しく撫《な》でた。 「それでは、ゆっくりと食事を楽しんでください」  そう言うと、いつものように男は部屋を出て行った。  アルミ製の器の中の雑穀|粥《がゆ》と野菜のコンソメスープを夢中で平らげ、デザートのキウイフルーツをスプーンですくって食べたあとで、玲奈はライターで煙草に火を点《つ》けた。  唇をすぼめて煙を吹き出しながら、手の中のライターを見つめる。  そう。いよいよこれから、玲奈はその安っぽいガスライターを使って、ここから脱出するための作戦を開始するつもりだった。ちょうど昨夜、男がこの部屋に新品のトイレットペーパーを補給してくれていたから。  うまくいくだろうか? 大丈夫だろうか?  心臓が激しく高鳴り、掌にじっとりと汗が滲《にじ》み出す。  けれど、玲奈は努めて、失敗した時のことを考えないようにした。  成功のイメージをもたなくてはならない。決して失敗した時のことをイメージしてはいけない。  高校生の頃、テニス部の監督が言っていたことを思い出した。  心臓を高鳴らせながら、ベッドマットの脇を探り、ソムリエナイフで作った小さな裂け目に押し込んであった小ビンを引っ張り出す。それは乳液のビンだったが、中に入っているのは乳液ではなくてブランデーだった。  そう。時々、何かの褒美としてグラス1杯のブランデーが与えられることがある。 「ナイトキャップに最高ですよ」  男は言った。  だが、玲奈はその強い酒をいつも飲まず、ゴミ箱に投げ込んであった乳液の空きビンに注いではベッドマットの中に隠した。  今ではブランデーがその小ビンにいっぱいになっていた。いよいよきょう、その出番がやって来たのだ。  ブランデーの入った小ビンをサイドテーブルに置くと、意を決して玲奈はベッドから立ち上がった。  まず洗面台に向かい、丁寧に顔を洗ってから、乳液をたっぷりと付ける。そのあとでヘアブラシを使って明るく染めた髪を入念に梳《と》かす。  ここではもちろん美容室には行けなかったから、今では髪が随分と伸びてしまって、根元の黒い部分が目立っていた。その髪の伸び具合から推測すると、玲奈がここに連れて来られて、すでに2カ月ほどがたっているように思われた。  この部屋にはハンドクリームやリップクリームや乳液のようなものしかなかったから、化粧をすることはできなかった。だが、鏡に映った顔は悪くなかった。  元がいいから、お化粧なんてしなくても充分に綺麗《きれい》ね。  鏡の中の女を見つめて微笑む。鏡の中の女が微笑み返す。  これなら、外で人に会っても恥ずかしくないだろう。  外で?  そうだ。いよいよ、きょう、わたしはここから出るんだ!  そう考えると、体が熱くなった。  ここはどこなんだろう? 都会なのだろうか? それとも田舎なのだろうか? いったい、どういうところなんだろう? マンションみたいな建物なのだろうか? それとも一戸建てなのだろうか? 外に出たらすぐに人がいるんだろうか?  期待と緊張に全身が汗ばむ。  洗面台を離れると、今度はビニール製のクロゼットに向かう。そこで素早く黒いサテンのキャミソールとショーツを脱ぎ捨て、クロゼットの中に畳まれていた洗濯済みのキャミソールとショーツに着替える。その上に茶色のガウンをまとい、ガウンの紐《ひも》をしっかりと結ぶ。  ガウン姿で誰かに会うのは恥ずかしかった。だが、ほかにはタオル地のバスローブしかないのだから、しかたなかった。  裸足《はだし》で外を走ったら怪我するかな? せめてスリッパでもあればいいのに。  だが、その部屋には足に履くものは何もなかった。  身支度が済むと、玲奈は今度はバスタブの隣の便器に向かい、そこに添え付けられた新品のトイレットペーパーを手に取った。  今度こそ、うまくいきますように。  ベッドに戻り、ウールの毛布を床に落とす。乳液の小ビンに入ったブランデーの半分をシーツの上に慎重に、まんべんなく撒《ま》く。アルコールの強い香りが立ちのぼる。そのあとで、ブランデーに濡《ぬ》れたシーツの上に次から次へとトイレットペーパーを繰り出し、サイドテーブルのティッシュペーパーの中身もすべてシーツの上にぶちまける。たちまちにしてベッドの上は、真っ白な紙でいっぱいになった。  大丈夫だろうか? うまくいくだろうか?  サイドテーブルに置きっ放しにしてあったソムリエナイフを、ガウンの右のポケットに忍ばせる。壁際にさりげなく置いたワインのボトルを見つめる。  もし、あの男が出掛けてしまっていたら……もし、あの男が何らかの方法でこの様子を見ていたら……。  男がどこからか見ているというのは、充分に考えられることだった。この部屋には監視カメラのようなものは見当たらなかったが、きっとあの窓ガラスの外にはカメラがあるのだろう。  玲奈はそう推測していた。  大丈夫だろうか? また失敗して、ひどい目に合わされるのではないだろうか? またベッドに裸で縛り付けられて、気絶するほどひどく革のベルトで叩《たた》かれるのではないだろうか? 今度はあの焼き印を左の肩に押されるのではないだろうか?  真っ赤になった焼き印を右肩に押し当てられた瞬間の、目が眩《くら》むほどの激痛が脳裏に蘇《よみがえ》り、恐怖のために体が竦《すく》んだ。  だが、玲奈は考えるのをやめた。そうだ。成功のイメージをもたなくてはならないのだ。決して失敗した時のことを考えてはいけないのだ。  神様、お願いします。わたしの味方をしてください。  玲奈はサイドテーブルのライターを手に取った。     5.  ベッドの上がめらめらと燃え上がり、狭い室内にたちまち焦げ臭い臭いが充満した。  炎は一瞬にしてコンクリートの天井にまで届いてそこを真っ黒に変え、燃えたトイレットペーパーとティッシュペーパーが大きな灰になって辺りの床に飛び散った。  予想以上の火の勢いにたじろぎながらも、玲奈はサイドテーブルの上の電話に手を伸ばした。  お願い、電話に出て。  そう祈りながら、受話器を持ち上げる。  プルルルルル……プルルルルル……プルルルルル……プルルルルル……。 『はい。水乃さん、どうかしましたか?』  受話器から低く抑揚のない男の声が聞こえた。  玲奈は大きく深呼吸をした。それから、昔、芸能プロダクションで演技の練習をしていた頃のことを思い出しながら絶叫した。 「火事よっ! ベッドが燃えてるのっ! 助けてっ! 早く来てっ!」  電話の向こうで、男が驚いたような声を出した。  覚えている限り、男の驚く声を聞くのは初めてだった。  数秒の間があった。それから受話器から、『ああっ』という男の声がした。  そうだ。男はびっくりしているのだ。不測の事態に驚いているのだ。 『すぐ行きます』  それだけ言うと、男が電話を切った。  来る。あいつが、来る。  燃え上がるベッドが頬を焼くのを感じながら、玲奈は黒い鉄のドアを見つめた。息苦しいほどに心臓が高鳴り、立っていられないほど激しく足が震えた。  来る。あいつが、来る。  ガウンのポケットに忍ばせたブランデーの小ビンを握り締める。  やがて、黒い鉄のドアが開き、男が勢いよく飛び込んで来た。 「大丈夫ですか、水乃さん?」  男はまだガウン姿だった。 「助けてっ!」  叫びながら、男に駆け寄る。開いたままのドアのほうをチラリと見る。  男が素早く辺りを見まわし、床に落ちていたウールの毛布を拾い上げる。それを両手で大きく広げ、燃え上がるベッドに被《かぶ》せようとする。その隙に玲奈は、壁際に置いてあったワインのボトルを素早く掴《つか》んだ。  自分でも驚くほど、何もかもが玲奈がシミュレーションした通りだった。 「いやーっ、助けてっ!」  なおも芝居がかった悲鳴を上げ続けながら、男の脇に寄る。ガウンのポケットからブランデーの小ビンを取り出し、その中身のすべてを男の体に振りかける。  次の瞬間、男のガウンに炎が燃え移った。 「うわっ」  男が声を上げた。  今だった。  玲奈は手にしたワインボトルを素早く振り上げ、体に燃え移った火を消そうとしている男の頭のてっぺんに力まかせに振り下ろした。  ズン。  鈍い手ごたえがあった。 「うっ」  男は低く呻《うめ》くと、そのままゆっくりと、まるでスローモーションの画像のように床に崩れ落ちた。  ああっ、この光景を、いったい何度思い描いたことだろう。  やった!  心の中で玲奈は勝利の雄叫《おたけ》びを上げた。  ついにやったのだ! ついにあの男をやっつけたのだ!  男のガウンからはまだ炎が上がり続けている。だが、玲奈のシミュレーションとは違って、床に倒れた男は早くも身動きを始めた。 「ううっ……うううっ……」  低く呻き続けながら男が顔を上げる。額から一筋の鮮血が流れ落ちる。殴られた頭に手をやりながら、切れ長の目で玲奈を見上げる。  玲奈のシミュレーションではここで男に止《とど》めを刺すつもりだった。少なくとも、もう1度、ワインボトルでしたたかに殴りつけてやるつもりだった。  だがもう、ぐずぐずしているわけにはいかなかった。男は今にも立ち上がろうとしていた。 「いやーっ!」  今度は芝居ではなく、本当の叫び声を上げると、玲奈は開いたままになっていたドアから飛び出した。     6.  初めて見るドアの外は、細長くて薄暗い廊下のような空間だった。  こんなふうになっていたのか。  廊下の両側には大きなガラスが何枚も嵌《は》まっていて、それぞれのガラスから光が漏れていた。たった今まで玲奈が閉じ込められていた部屋のすぐ向かい側のガラスの向こうには、玲奈がいたのと同じような部屋があり、そこに置かれたベッドの上に髪の長い痩《や》せた女性が濃紺の下着姿で座っていた。  やっぱりいたんだ! ここにはわたしのような女がほかにもいたんだ!  廊下の両側の壁には3枚ずつ、合計で6枚のガラスが嵌まっている。もしかしたら、そのガラスの向こう側にはどれも女性が閉じ込められているのかもしれなかった。  だが、確かめている時間はなかった。  玲奈は素早く左右を見まわした。  すぐ右側に上に向かう階段があった。左側は行き止まりのように見えた。  反射的に玲奈は、右側の階段に向かって走り始めた。ほかの部屋の女性たちのことは気にかかったが、今は自分が逃げることが先決だった。  階段を上り切ると、そこには目が眩むほどの強い光が満ちていた。  光——そう。そこに満ちていたのは、2カ月ぶりに見る自然光だった。  眩《まぶ》しさに目を瞬かせながらも、玲奈は辺りを見まわした。  そこは寝室のようだった。壁際に古くて大きなベッドが置いてあった。  そうだったのか。あの男はここで寝起きしていたのか。  広々とした部屋の壁には、隙間がないほどぎっしりと、何百という数の標本箱が並んでいた。標本箱の中にはどれも、黒くて大きな蝶《ちよう》が6匹ずつ入っていた。  部屋にはカーテンの開け放たれた洋風の窓がいくつもあって、そのすべてから光り輝く海と、そこを行き交うたくさんの船、そして、その対岸の陸地が見えた。  えっ? 海? ここはどこなの?  ぐずぐずしているわけにはいかなかった。まもなく男が追いかけて来るはずだった。  玲奈は窓のひとつに駆け寄ると、両開きになった木製の窓枠を思い切り押し開けた。  開いた窓から身を乗り出す。すぐそこに、草に覆われた地面が見える。正面は海だが、辺りは鬱蒼《うつそう》とした森のように見えた。  玲奈は夢中で窓によじ登り、ガウンの裾《すそ》がまくれ上がるのもかまわず、そこから飛び下りた。  ズン。  裸足《はだし》の足裏が湿った土に沈む。無機質なタイルの上ばかり歩いて来た足裏に、それがあまりに新鮮だった。  辺りには噎《む》せ返るほど濃厚な潮の香りが立ち込めていた。すぐ近くから甲高いカモメの鳴き声や、船のエンジンのような音が聞こえた。空気はひんやりと澄んでいて、空がとても青かった。  ああっ、ついに外に出たんだ!  湿った土や雑草を踏み締めて、玲奈は夢中で走りだした。  途中で振り返る。  玲奈の背後には、青い瓦《かわら》屋根と白い外壁をもった巨大な洋館が聳《そび》えていた。  正面は海だった。玲奈はとりあえず、そこに駆け寄った。ふたつの陸地に挟まれた細長い海には、たくさんの船舶が縦横に航行していた。  あれは三浦半島なの? ということは……ここは房総半島なの?  おそらくそうなのだろう。何年か前の春先に、夫と息子と3人で、房総半島に花を摘みに来たことがあった。あの時、今と同じような光景が見えたことを玲奈は覚えていた。  白いペンキが塗られた木製のフェンスのところまで走り寄り、その向こう側をのぞきこむ。フェンスの向こうは海から垂直に切り立った断崖《だんがい》絶壁になっていた。  そこから飛び下りるという選択肢はなかった。  どっちに行ったらいいんだろう?  周りはすべて鬱蒼とした雑木林になっていて、青い瓦屋根の洋館以外には建物が見えなかった。  だが、立ち止まっているわけにはいかなかった。玲奈は無我夢中で走り続けた。走り続けてさえいれば、ここから出られるに違いなかった。  会えるんだ! もうすぐ翔太に会えるんだ! 啓太に会えるんだ!  啓太に?  夫のことを思うと、疼《うず》くように心が痛んだ。  わたしを見たら、啓太はどう思うだろう? こんなわたしを、また受け入れてくれるのだろうか?  玲奈はもう、2カ月前の彼女ではなかった。  玲奈には何の落ち度もない。だが、毎日のようにあの男に凌辱《りようじよく》され、唇を貪《むさぼ》られ、男性器を口に含まされ、体液を飲まされ、殴られ、鞭《むち》で打たれ、2度と消せない焼き印を肩に押されてしまった今では……もう以前の自分に戻ることは不可能に思えた。  そう。たとえ逃げ帰っても、元に戻ることはできないだろう。砕けてしまったワイングラスを元どおりにすることが絶対にできないように、以前の暮らしを取り戻すことは決してできないだろう。  玲奈には、それがはっきりとわかった。  わたしは変わってしまったんだ。あの男に変えられてしまったんだ。  けれど……今は思い悩んでいる時ではなく、走り続けるべき時だった。  鬱蒼とした雑木林の中を、水乃玲奈は夢中で走り続けた。やがて、木々の向こうに別の家の屋根が見えてきた。 [#改ページ]   エピローグ  ベッドからはまだ小さな炎が上がり、真っ黒な煙がくすぶっている。床にはたくさんの灰が飛び散り、部屋の中には息苦しいほどに煙が充満している。  だが、まもなく火は自然に消えるだろう。  痛む頭を抱えて、彼は立ち上がった。わずかに足がふらつき、目眩《めまい》がした。 「水乃さん、やってくれましたね」  誰にともなく呟《つぶや》く。何度か続けて咳《せ》き込み、目に流れ込んだ血を手の甲で拭《ぬぐ》う。それから、少し微笑む。  女を憎む気にはならなかった。それどころか、たいしたものだと感心していた。  逃げ出した女を憎むのはお門違いだった。悪いのは油断をした彼であって、水乃玲奈は自分のするべきことをしただけだった。  そう。あれほど厳しい調教を受けたにもかかわらず、水乃玲奈はまだ飼い慣らされていなかったのだ。彼女はまだ野生の獣のままだったのだ。  足をふらつかせたまま、煙の充満した6号室を出る。もちろん、そこに水乃玲奈の姿はない。だが、ほかの部屋には異常はないようだった。  水乃玲奈はほかの部屋の女たちに気づいたのだろうか?  今となっては、そんなことはどちらでもよかった。彼は負け、彼女が勝ったのだ。  灰の付いた裸足の足跡が階段に向かって続いている。彼は急な階段を手摺《てすり》に縋《すが》り付くようにして上り、今は誰も寝起きすることのなくなった寝室に出た。  観音開きになった窓のひとつが開いている。おそらく、水乃玲奈はそこから外に飛び出したのだろう。  窓から身を乗り出し、地面を見る。そこに、水乃玲奈のものらしい足跡が残っている。その向こう、3万平方メートルにも及ぶ広大な敷地を見渡す。もちろん、茶色のガウンをまとった水乃玲奈の姿はどこにも見えなかった。  この町ではいちばん広い……といっても、敷地は永遠に続いているわけではない。女がどちらに向かったとしても、いずれは雑木林を突き抜けて道路に行き着くはずだった。  水乃玲奈はもうすでに公道に出て、走って来た車の前に両手を上げて飛び出し、その車に乗せてもらったのかもしれない。あるいは、近くの民家に駆け込んでしまったのかもしれない。  それならそれで、しかたがない。いよいよその時が来た、ということなのだろう。  窓辺に佇《たたず》み、彼は自分のガウンを見た。たぶんブランデーを浴びせられたのだろう。アルコールの匂いの立ちのぼる茶色のガウンは、ところどころが焼けて、いくつかの穴が空いていた。  終わったんだ。何もかもが、終わってしまったんだ。  勝った者がすべてを独占し、敗れ去ったものは何ひとつ取ることができない。昔から、それは決まっているのだ。  覚悟はできていた。ただ……一緒に暮らし始めたばかりの娘のことを思うと、少し心が重くなった。  もう百合絵の顔を見ることもないかもしれない。こんなことになるのなら、百合絵と暮らし始めるんじゃなかった。  ゆっくりと玄関にまわり、素足にサンダルを履いて外に出る。  逃げた女の跡を追うつもりではない。  この海を見るのもこれが最後かもしれない。だから、海を見よう。  そう考えただけだった。  辺りにはきょうも噎せ返るほど濃厚な潮の香りが立ち込めている。いつものように、すぐ近くから甲高いカモメの鳴き声や、船のエンジンのような音が聞こえる。きょうは空気がひんやりと澄んでいて、空がとても高い。  終わったんだ。何もかもが、終わったんだ。  木製のフェンスのところまで歩み寄り、そこからふたつの半島に挟まれた細長い海を眺める。外国の国旗を掲げた大きな貨物船が、外洋に出ようとしているのが見える。その甲板で人々が忙しそうに動いているのも見える。  終わったんだ。終わったんだ。  そう思った彼が唇を噛《か》み締めた時……どこからか、犬たちの声が聞こえた。  えっ?  どうやら2匹のジャーマン・シェパードが、彼を呼んでいるようだった。  もしかしたら……。  彼は犬たちの声に向かって走った。  雑木林の木立のあいだから、最初に犬たちの姿が見えた。それから……地面に横たわった女の姿が見えた。  水乃玲奈?  そう。犬たちに囲まれて地面にうずくまっていたのは、茶色のガウンをまとった水乃玲奈だった。彼女は逃げている途中で、雑木林で遊んでいたジローとフランソワーズに捕らえられてしまったのだ。 「水乃さん、こんなところにいらしたんですね?」  紅潮した水乃玲奈の顔に、落胆と絶望が広がるのを彼は見た。  彼女の心中は痛いほどにわかる。彼女は勝利を九分九厘手にしたはずだったのに、最後の最後に落とし穴に嵌《は》まってしまったのだ。  どうやら、水乃玲奈は怪我をしているようだった。腕や足から鮮血が流れている。  2匹のシェパードは、不法侵入者に対しては攻撃するように訓練を受けてはいるが、相手が抵抗をやめれば、それ以上は攻撃しない。きっと、水乃玲奈はかなりの抵抗を繰り広げたのだろう。少し離れたところには見慣れたソムリエナイフが落ちているし、ジローの右目の脇からは少し血が流れている。  けれど、たとえ水乃玲奈がどれほど抵抗しようと、自分と同じくらいの体重の2匹の犬に勝てるはずはなかった。 「ジロー、フランソワーズ、やめろ」  水乃玲奈に向かって、なおも低い唸《うな》り声を上げ続ける犬たちに命じる。 「よし、よくやった」  犬たちの頭を交互に撫《な》でてやってから、地面にうずくまったままの水乃玲奈にゆっくりと近づく。 「やめて……来ないで……お願い……もう許して……」  恐怖に顔を歪《ゆが》めながら、ガウンの尻《しり》を地面に擦り付けて女が後ずさる。 「さあ、戻って傷の手当をしましょう」  彼は女に向かって手を差し出し、静かに微笑む。  リビングルームのテーブルに置いてあった携帯電話が点滅している。  手に取って見ると、娘の百合絵からメールが届いていた。 『きょうはトンカツが食べたい』  彼は娘の可愛らしい顔を思い浮かべた。そのメールを送っている娘の小さな指を思い浮かべた。  トンカツか。それなら、帰りに肉屋に立ち寄らなくてはならない。トンカツにはキャベツの千切りが不可欠だから、八百屋でキャベツも買わなくてはならない。 『OK。パパは4時には戻るから、百合絵はお風呂《ふろ》を沸かしておくように』  娘の携帯電話にメールを返してから、グランドピアノの前の椅子に座る。しばらく迷ったあとで、象牙《ぞうげ》の鍵盤《けんばん》に指を置き、ショパンの『幻想即興曲』を弾き始める。  犬たちに襲われた水乃玲奈の傷は、思ったほど深くはなかった。たぶん1週間ほどで完治するだろう。相手が華奢《きやしや》な体つきの女なので、犬たちも手加減したに違いない。  つい先程、掃除を済ませたばかりの6号室に、水乃玲奈を元のように幽閉したところだった。室内はまだ煙っぽかったが、彼女が自分でしでかしたことなのだから我慢してもらわなくてはならない。  燃えてしまったベッドを6号室から運び出すのは、なかなか骨の折れる作業だった。代わりに彼のベッドか、彼の母が使っていたベッドを6号室に運び入れてもよかったのだが、当分は床に布団を敷いて寝かせることにした。  それが最初の罰だ。  いずれ傷が完治したら、水乃玲奈には本格的な罰を——今後は決して彼に刃向かおうと思えなくなるほどの厳しい罰を与えるつもりだった。  秋の太陽に輝く海を眺めながら、彼はショパンを弾き続ける。  きょうは本当にいい天気だ。船舶の行き交う狭い海に、真っ青な空が映っている。空気が澄んでいるので、対岸の三浦半島の町並がはっきりと見える。  彼はショパンを弾き続ける。  きょうは運よく破滅を免れた。2匹のシェパードが彼を救ってくれた。  けれど、こんな幸運は長く続きはしないだろう。遅かれ早かれ、破滅の時が来るのだろう。  だが、それ以上は考えない。彼はショパンを弾き続ける。  トンカツというのは、どうやって作ればいいのだろう? 肉屋と八百屋に寄るついでに、本屋で料理の本を買えばわかるだろうか? それとも……2号室に行って、娘の母親に尋ねたほうが早いだろうか?  ぼんやりと、そんなことを思う。  足に何か温かなものが触れ、彼は手を止めた。  足元に目をやる。  そこで2匹のジャーマン・シェパードが、代わる代わる彼の足をなめていた。 [#改ページ]   あとがき  僕の心には、邪悪な生き物が棲《す》みついている。  そのことに気づいたのは、まだとても幼い頃だったと思う。  僕の心に棲みついた生き物——そいつは邪悪なだけでなく、凶暴で、陰険で、いやらしく、ひねくれた……まるで人間の負の感情のすべてを集めてつくられたかのような生き物だった。  そいつはしばしば、とんでもなく忌まわしいことを思いついた。それは、真っ当に暮らしている人なら決して考えつかないような、暗く、おぞましいことだった。  ——こんなことをしたら、大勢の人を嘆き悲しませることができるぞ。  ——そんなふうにすれば、誰にも知られずにこんなに悪いことができるぞ。  しかもそいつは、そういうことを思いつくだけではなく、それを僕に、実際にやらせようとしたのだ。  そいつの思いつきが忌まわしいということは、わかっていた。決して実行すべきではないということも、わかっていた。だが、忌まわしいと思うと同時に、僕にはそれがとても魅力的にも感じられた。  そう。僕はやりたかったのだ。そいつの思いついた暗く、おぞましいことを、実際にやってみたかったのだ。  ああ、きっといつか、僕はそれを本当にやってしまうだろう。きっといつか、僕は犯罪者になってしまうだろう。  幼い僕は毎日のように、凶悪な犯罪者としてマスコミに報道される自分を想像した。そして、その想像に脅《おび》えた。  いつか必ず、僕はやってしまう。いつか必ず、犯罪者になってしまう。そして必ず、生涯を牢獄《ろうごく》で過ごすことになる。もしかしたら、死刑にされるかもしれない。  そんなある日、僕はひとつのことを思いついた。それは、その生き物が考えた邪悪なことを、鉛筆で紙に書いてみるということだった。  それは効果的だった。紙に書き付けることによって、『実行に移したい』という欲望が僕の中から煙のように消えていったのだ。  見ず知らずの人々を無差別に絞め殺すこと。混雑したプラットフォームから人を突き落とすこと。スーパーマーケットで食品に針を刺すこと。かつて思いを寄せた人の家に忍び込み、その人のベッドの下に身を潜めること。人間の肉を食べること。女の赤ん坊を誘拐《ゆうかい》し、自分好みの女性に育て上げること。命をなくした女性と交わること……。  自分の中の生き物が考えた邪悪なことを、僕は文章にし続けた。そうすることによって、何とかきょうまでは犯罪者にならずに生きて来られた。  女性を誘拐し、密室に閉じ込めて、ペットのように飼育する——今回も、僕の心に棲む生き物はそれを思いついた。そして、僕に実行してみろと迫った。  たとえば、街で擦れ違った美しい女性を……たとえば、近所に暮らす可愛らしい少女を……あるいは、顔見知りの女性を……こっそりと誘拐し、動物用の大きな檻《おり》を買って来てその中に監禁し、丈夫な首輪と太い鎖を付け、餌と水を与え、サーカスの調教師がするようにしつけをしてみろ、と。  僕は今回もその欲望を、この本の主人公の男に実行させることによって解消させた。そうすることによって、今回も犯罪者になることを免れた。  文章を書く——僕にとってそれは、満たすことを許されぬ欲望を解放する手段にほかならない。  映画のノベライズも含めると、この本は僕の20作目の長編ということになる。そのほとんどの作品において、鋭く的確な助言を僕に与え、書くことへのモチベーションを高めてくれた角川書店の佐藤秀樹氏に、ここで改めて感謝を捧《ささ》げたい。  佐藤氏はいつも、僕の最高の共犯者である。   二〇〇六年六月 [#地付き]大 石  圭   角川ホラー文庫『飼育する男』平成18年7月10日初版発行               平成19年3月10日4版発行