[#表紙(表紙.jpg)] 自由殺人 大石 圭 目 次  プロローグ  第一章 12/21 WED.  第二章 12/22 THU.  第三章 12/23 FRI.  第四章 12/24 SAT.  最終章  エピローグ  あとがき [#改ページ]              あなたがたによく言っておく。       裁きの日には、ソドム、ゴモラの地のほうが、            その町よりは耐えやすいであろう。                 『マタイによる福音書』 [#改ページ]   プロローグ  宅配便のドライバーが台車に乗せたダンボール箱を室内まで運んでくれた。  荷物を台車から下ろしながら、若いドライバーは「重いですから、気をつけてくださいね」と言って爽《さわ》やかな笑顔を見せた。荷物には『精密機器・持ち運び注意!』と書かれた紙が張ってあるが、もちろん、ドライバーはその中身が本当は何であるかを知らない。  宅配便のドライバーが出て行ってからダンボール箱を開ける。中には繭玉《まゆだま》を思わせる白いクッションがぎっしりと詰められ、それらに囲まれるようにして金属製のアタッシェケースがふたつ並んでいる。  ずっしりと重いアタッシェケースを、ひとつずつ慎重に取り出す。多少のショックには耐えられるとわかっているはずなのに、さすがに手が震える。そっと床に置く。黒光りするフローリングの床にはすでに、別の宅配便業者によって届けられた同じようなアタッシェケースが4つ置いてある。  金というのは不思議なものだ。金さえあれば、この世で手に入らないものはほとんどない。50万円あれば若い女を本当に殺す場面を撮影したビデオを手に入れることができるし、200万円あれば誰もが知っている人気女優と一晩ベッドを共にすることができる。一般の人ならひとりにつき300万円で殺しを依頼することができるし、400〜500万円あれば金髪で青い目をした白人の女の子を奴隷として買うこともできる。1000万円あれば後腐れなく日本人のSM嬢を自宅で殺すことができるし、人間の剥製《はくせい》は1体につき3000万円から手に入る。1億円あれば自分でライフル銃を持って人間をハンティングするツアーに参加することさえできる。そして——100万ドルあれば、このアタッシェケースを、こうしてひとつ購入することができる。  床の上で鈍く光る6つのアタッシェケースをぼんやりと眺める。  ここに届けられるまで、それらのアタッシェケースがどんな道のりをたどって来たのかは知らない。地下の秘密工場からターバンを巻いた男たちがリヤカーまで運んだことがあったかもしれないし、ラクダやロバの背に揺られたことがあったかもしれない。車輪の擦り減った自家用飛行機に積まれたことがあったかもしれないし、ワラを積み上げた馬車の荷台に隠されたことがあったかもしれない。日本海で操業するイカ採り漁船の二重になった船底に押し込まれたこともあったかもしれない。もしかしたらそのために、何人かの人間が命さえ落としたかもしれない。  だが、そんなことはどうでもいい。大切なのは、1個につき100万ドルの代償として、それらが今、ここにこうしてあるということだ。  その時、また呼び鈴が鳴る。別の宅配便がさらにふたつのアタッシェケースを届けに来たに違いない。  玄関に向かいながら、ふと、それらがこれから引き起こすことを考える。その日、この国を覆い尽くすはずの凄《すさ》まじい恐怖と、戦慄《せんりつ》のことを考える。  手袋をはめてから車を降り、荷台からアタッシェケースのひとつを引きずり出す。ずっしりとした重さが、わずかに足をフラつかせる。右手にそれを持って駅前の雑踏を歩く。途中で右手が痺《しび》れ、いったん地面に置いて左手に持ち替える。  夕方の駅前ロータリーはひどく混んでいる。電車が駅に到着するたびに、改札口から大勢の市民が吐き出される。家路につくサラリーマンやOL、大学生や高校生……。  ささやかな幸せを求め続ける、平凡でありきたりな小市民たち——その心の中には、いったい何があるのだろう?  改札口前の雑踏を縫い、券売機の脇に設置されたコインロッカーに向かう。コインロッカーの前でアタッシェケースを下ろし、一息つく。ポケットからメモを取り出し、扉の番号を確認し、その番号のロッカーを探す。  よかった。ちょうど、そこは空いている。もし空いてなければ、面倒でもほかの駅のコインロッカーに行かなければならないところだった。  金属製の扉を開き、その狭い空間に重いアタッシェケースを押し込む。その上にショルダーバッグから出した白い封書をポンと乗せる。  これでいい。  扉を元どおりに閉め、硬貨を投入して鍵《かぎ》を掛ける。小さな銀色の鍵をポケットに入れ、駅前ロータリーに停めた車に向かう。途中で革の手袋を取る。車の荷台には金属製のアタッシェケースが、まだあと4つ残っている。  100万ドルもする最高のクリスマス・プレゼント——。  運転席に乗り込み、辺りを見まわす。もうすぐクリスマスだ。街全体がクリスマス・ムードに包まれているのが、車の中にいても感じられる。  エンジンをかけ、次の駅に向かうために車を出す。イルミネーションに彩られた駅前ロータリーが背後に遠ざかる。 [#改ページ]   第一章 12/21 WED.      1  冬至の夜明け。海からの風が吹いている。  夜の海面を渡って来た冷たい風が、朝香葉子《あさかようこ》の火照《ほて》った顔の左半分から熱を奪っていく。規則正しく吐き出される白い息が、耳の脇を擦り抜けて夜明けの空気の中に消えていく。葉子は打ち寄せる波が届くか届かないかの場所を慎重に選んで、黒く締まった砂の上を走っている。時折、目測を誤って打ち寄せる波の裾《すそ》を踏んでしまい、使い込まれたランニングシューズに冷たい海水が染み入ってくる。  左手には夜明けの相模《さがみ》湾。右手には黒松の防砂林。平塚《ひらつか》に戻ってからほとんど毎朝、葉子はこんなふうに相模川河口から花水川河口までの海岸線を走っている。走ることが義務から楽しみへと戻った今、もはやタイムや走行距離を気にする必要はない。  300mほど前方の波打ち際を犬を連れた小柄な老人が歩いている。葉子はすぐに老人と犬に追いつき、彼らを追い越すために右に寄る。ナイキのランニングシューズが乾いた砂に深くめり込み、1歩1歩がひどく重くなる。  彼らを追い抜く時に、葉子は軽く老人に会釈をした。老人が何か言うのが聞こえたが、風の音にかき消されて聞き取ることはできなかった。老人と犬が背後に充分に離れたのを確かめてから、車が車線変更をするかのように滑らかに斜行して波打ち際に戻る。砂が締まって、また走りやすくなる。  遥《はる》か前方でサングラスをした男がこちらにカメラのレンズを向けている。夜明けの海岸線を撮影しているのだろう。三脚に乗せたカメラには長いレンズが付けてある。だが、そのほかに人影はない。冬至の朝の海岸が静かに明るさを増していく。  砂浜はやがて平塚と大磯《おおいそ》とを隔てた花水川河口に突き当たった。葉子は足を止め、膝《ひざ》に手を突いて乱れた息を整えた。流れ落ちる汗を冷たい海風が冷やしていく。松の防砂林から目を覚ました鳥たちのさえずりが聞こえる。その場で何度か深呼吸と屈伸運動を繰り返してから、いつものようにクールダウンのために林の中の小道に向かった。  防砂林の中には、まだ夜の暗さが残っている。歩を進めるたびに、靴の下で落ち葉が音をたてる。額の汗を拭《ぬぐ》って顔を上げると、重なり合った枝の向こうに冬の朝焼けが見える。  静かだった。足を止めて目を閉じると、海岸と国道とに挟まれた細長い防砂林にいるのではなく、広大な樹海をさまよっているかのような錯覚にとらわれる。適度な疲労が心地よく全身を覆っている。深呼吸を繰り返しながら小道を歩いていく。  その時——曲がりくねった小道の先に白い乗用車が停まっているのが見えた。  それほど不審に思ったわけではなかった。若い恋人たちが防砂林の中に車を停めて抱き合っている場面には、これまでも何度か出くわしたからだ。たぶん、深夜に防砂林に侵入し、そのまま眠り込んで朝を迎えたのだろう。  ほんの少し躊躇《ちゆうちよ》したが、まさか全裸で重なり合っていることはないだろうと思い、予定通り、車の脇を抜けていくことにした。近づくにつれ、車がエンジンをかけていることがわかった。今朝の気温を考えれば当然のことだろう。葉子はなるべく車内に目を向けないようにしてその脇を擦り抜けようとした。  見るつもりではなかった。しかし、それは葉子の視界の隅に、確かな≪異物≫として映った。瞬間、「あっ!」と声が出て、穏やかになり始めた心臓が跳び上がった。  車に顔を向ける。マフラーに青いビニールホースが接続され、後部の窓ガラスの隙間から車内に引き込まれている。窓やドアには茶色のガムテープで目張りがしてある。  車に駆け寄り、白煙の充満した車内をのぞき込む。 「あっ!」  再び声が出た。車内に人が——運転席には男が、助手席には女が、後部座席にはふたりの子供が倒れている。  口が乾き、膝が震えた。だが、すぐに我に返ると、車に駆け寄り、サイドウィンドウを両手でガンガンと叩《たた》き、「目を覚ましてっ! ここを開けてっ!」と声の限りに叫んだ。  運転席の男はピクリとも動かなかった。ハンドルに押し付けるようにしているので顔は見えないが、まだ30代のようだ。助手席の女はひどく痩《や》せている。男の股間《こかん》に顔を伏せ、薄手のブラウスの向こうに尖《とが》った肩や肩甲骨が浮いている。 「起きなさいっ! 早く、ここを開けなさいっ!」  車のエンジンは苦しげなアイドリングを続け、窓ガラスの内側がどんどん曇っていく。目張りをしたガムテープの隙間から刺激臭が漏れる。葉子は窓に差し込まれたビニールホースを掴《つか》むと、力を込めてそれを引き抜き、ドアの周りに貼り巡らされたガムテープを引きはがした。ドアノブに手を掛け、ガチャガチャと動かす。だが、4枚のドアはどれもしっかりとロックされ、ピクリとも動かない。 「ねえ、開けてっ! ここを開けてっ!」  後部座席にいるのは男の子と女の子だ。女の子は10歳ぐらい。男の子はそれよりいくつか下だろう。ふたりは目を閉じ、お互いの体に寄り掛かるようにしている。 「ここを開けてっ! 早く、開けてっ!」  葉子は拳《こぶし》が痛くなるほどサイドウィンドウを叩き続けた。その時、後部座席の女の子の細い手が、白いセーターに覆われたまだ膨らんでいない胸の辺りを掻《か》き毟《むし》るのが見えた。  ……生きてるっ!  女の子の小さな口が酸素を求めてパクパクと動き、細い喉《のど》がわずかに震える。 「ねえ、お願いっ! ここを開けてっ! ねえ、目を覚ましてっ!」  葉子はさらに激しく窓を叩いた。だが女の子はそれっきり、また眠り込んだかのように動かなくなってしまった。  葉子は辺りを見まわし、落ちていた拳大の石を拾い上げた。それを握り締め、助手席側の窓に叩きつけるように振り下ろした。手首に強い衝撃が走った。だが、窓ガラスは割れず、跳ね返された石が手を離れ、数m先の草むらに飛び込んだだけだった。 「誰か来てっ!」  葉子は空に向かって声の限りに叫んだ。「誰かっ! 誰か来てっ!」  もう1度辺りを見まわした。そして今度は、さっきの石よりずっと大きな、漬物石のような丸い石を見つけて抱え上げた。重たいそれを頭上に振り上げ、渾身《こんしん》の力を込めて助手席の窓ガラスに叩き下ろした。  今度はうまくいった。助手席のガラスは無数のひび割れとともに、熱に溶かされたかのようにグニャリと内側にたわんだ。葉子は石を足元に落とすと、今度はランニングシューズの靴裏でひび割れた窓を思い切り蹴《け》りつけた。1度、2度、3度……。ついにサイドウィンドウは助手席に倒れた女の骨張った背中に崩れ落ちた。  ガラス片で切れたふくら脛《はぎ》から血が流れ始めたことにも気づかず、葉子は割れたガラスの隙間に腕を差し込み、ドアロックを解除した。助手席のドアを開け、排気ガスの充満した車内に体を突っ込み、激しく咳《せ》き込みながらエンジンのスイッチを切り、ほかのすべてのロックを解除する。残りのガムテープを引きはがし、ドアを4枚とも開け放ち、後部座席から女の子の細い体を引きずり出し、続いて男の子を引きずり出す。落ち葉の上に横たわった男の子の水色のセーターの胸に耳を押し当てる。息を殺し、耳を澄ます。  男の子の胸はまだポカポカと温かい……けれど、そこからはもう何の音も聞こえなかった。もちろん呼吸もなかった。  ……死んでる。  恐怖が頬を凍らせた。だが葉子はパニックに陥ったりはしなかった。今度は男の子の脇に横たわった女の子の胸に耳を押し付けた。  ……死なないで……死なないで。  ——鼓動が聞こえた。  弱く、微かだけれど、はっきりと、耳に女の子の鼓動が届いた。けれど葉子が耳を押し付けている数秒のうちに、それはますます弱くなり、ますます微かになり、不確かで頼りなくなり……そして、停止した。 「しっかりしてっ! ねえ、しっかりするのよっ!」  叫びながら女の子の体を揺り動かし、血の気を失った頬をピシャピシャと叩く。ほんの一瞬考えてから、両手を重ねて女の子の左胸に置き、規則正しい圧迫を繰り返す。  ……お願い、目を覚まして。お願い、生き返って。  女の子の柔らかな唇に自分の唇をぴったりと合わせ、息が漏れないように注意して強く吹き込む。まるで風船が膨らむかのように女の子の肺が膨らみ、セーターの胸が持ち上がるのがわかる。  だが——どれほど人工呼吸を繰り返しても女の子が息を吹き返す兆候はない。  ぐずぐずしている時間はなかった。心臓の停止した女の子をその場に残して立ち上がると、葉子は防砂林の中を走り出した。枯れ枝に何度か躓《つまず》きながらも防砂林を駆け抜け、ハードル選手のようにガードレールを飛び越えて夢中で国道に飛び出した。走って来た大型トラックの前方に立ち塞《ふさ》がり、大声で叫びながら両手を頭上で振りまわした。  トラックのブレーキ音が頭の中に鋭く響いた。      2  勤務先の筆記具工場には警察から電話を入れた。電話を受けた係長は葉子の話に驚きながらも、「わかりました。朝香さん、こちらのことは心配しないでください」と言った。  ほかのパートタイマーの女性たちが同じような電話をしてきて『休みたい』と言っても、きっと係長は信じなかっただろう。きっと、手の込んだ言い訳をしやがると思っただけだろう。だが、彼は葉子の言葉を信じた。たぶん彼の上司である課長も、同じようにそれを信じただろう。朝香葉子は季節契約のパートタイマーのひとりに過ぎなかったが、彼女が仕事を休むために嘘をつくような人間ではないということは誰もが知っていた。  トレーニングウェアのまま警察の事情聴取を受けていた葉子は、狭くヤニ臭い部屋で警察官の口から、病院であの家族全員の死亡が確認されたという事実を聞いた。駆けつけた救命隊員が必死の救命にあたったが、彼らの心臓が再び動き出すことはなかった。  葉子は目の前の警察官の顔を呆然《ぼうぜん》と見つめながら、自分が耳を押し当てていた薄い胸の向こうで、女の子の心臓が停止した瞬間のことを思い出した。あの時、あの子は死んだんだ、と思った。  自宅まではふたりの警察官がパトカーで送ってくれた。その道すがら、警察官が葉子にあの家族のことを話してくれた。運転席にいた父親は38歳。助手席の妻は35歳。女の子は11歳で男の子は8歳。彼らは平塚の新興住宅地に暮らしていた。今年の春ごろから父親の経営する建築資材会社が経営に行き詰まり、何人もの債権者に追われていたらしい。それまで乗っていたドイツ製の高級車を売却して中古の国産車に乗り換え、妻も水商売で働くなどして借金の返済を続けていたが、先月ついに会社は倒産し、抵当に入っていた自宅もまもなく差し押さえられる予定だった。子供たちには睡眠薬が飲まされていたらしい……。 「何も子供たちまで巻き添えにしなくてもねえ……」  助手席に座った年配の警察官が、時折後部座席を振り返り、美しく整った葉子の顔を見つめて言った。  葉子はいつもそうしているように無意識に、左手の親指と中指に嵌《は》めた父と母のプラチナの結婚指輪に触れながら、無言で頷《うなず》いた。  パトカーが平塚警察署を出て南へ10分ほど走り、まもなく葉子と母親が住む古い木造アパートに着こうかという頃、それまで黙っていた運転席の警察官が、「あの……失礼ですけれど……朝香さんはあの……マラソンの朝香さんですよね?」と言った。  葉子は顔を上げ、ハンドルを握った警察官を見た。30代半ばの精悍《せいかん》な顔の男だった。 「あの……自分は以前、白バイでマラソンの先導を勤めたこともあって、それでその頃はテレビでよくマラソンを見てたんですけど……朝香さんは5、6年前、あの真冬の台風みたいな嵐の日のマラソンに勝った、あの朝香……朝香葉子さんですよね?」  隠す理由はなかった。葉子は黙って頷いた。年配の警察官が「へえ? 有名な人なんだ」と言って笑った。 「自分はあのレースをテレビで見ていたんですが、よく覚えています。あの日はものすごい雨と風で、最悪のコンディションでしたよね?」  警察官の言葉に葉子はまた黙って頷き、一瞬、あの日のことを思い出しかけた。猛烈な風とみぞれ交じりの雨、それにテレビを見ていた人にはわからなかったかもしれないが、あの日はとてつもなく寒く、まるで吹雪の中を裸で走っているような気がしたものだ。 「あのレースは確か……オリンピックの選考会を兼ねていたんですよね?……そうそう、思い出した……朝香さんはその約束のレースに勝ったのにオリンピック代表に選ばれなかった……あれはフェアじゃなかったと自分は思っています」  何と答えていいかわからず、葉子はもう1度、黙って頷いた。確かにそんなこともあった。だが、今となっては、どうでもいいことだった。 「まだ実業団で走っていらっしゃるんですか?」 「いいえ……2年前に引退しました」  それだけ答え、葉子はまた無意識に、父と母が結婚式で交換した指輪に触れた。中指にした母の指輪も親指に嵌めた父の指輪も、葉子の指には大きすぎて、触れるだけでクルクルとまわった。  アパートの前には部屋着の上に薄いコートを羽織った母が出迎えに出ていた。母はパトカーを降りた葉子に「大変だったねえ」と言いながら駆け寄って来た。風は冷たく、葉子の手を握った母の手は冷えきっていた。 「わざわざ出迎えなんかしなくていいのに」  葉子は母にそう言って、ようやく笑った。人形のように整った顔立ちだったが、笑うと目尻《めじり》に小さな皺《しわ》ができた。  ふたりの警察官はパトカーから降り、アパートに向かいかけていた葉子に「きょうは本当にお疲れさまでした」と言った。  葉子は足を止めて振り返った。 「いずれ、しかるべき筋から感謝状が出るとは思いますが……何て言うか……あの状況で朝香さんのとった行動は、適切でした」  年配の警察官は葉子の目を見つめて断言するかのように言った。「あの人たちは助からなかったけれど、朝香さんの行動は非常に正義感に溢《あふ》れていて、的確で、間違いのない措置だったと思います」  葉子は黙って頭を下げた。そして、母の冷えきった体を抱きかかえるようにして錆《さび》付いた鉄の階段を上った。  居間と客間と母の寝室を兼ねた6畳間で母とコタツに向き合って遅い昼食をとりながら、葉子は、わたしの努力はきょうも報われなかった、と思った。  海風で白く曇り始めたアパートの窓から冬至の午後の日が深く差し込み、窓と反対側にある父と姉の仏壇を照らしている。葉子と母はいつものように黙々と食事をした。ご飯と大根の味噌汁《みそしる》、納豆と漬物、海苔《のり》と佃煮《つくだに》……。親子の食事はいつものように質素なものだった。  葉子は別れ際に年配の警察官が言った言葉を思い出した。それはありがたくはあったけれど、慰めにはならなかった。結果として葉子は、あの4人のうち、ただひとりの命も助けることはできなかったのだ。  これまで1度も他人を責めたことがなかったように、葉子はあの家族が死んでしまったことで自分を責めたりはしなかった。それでも、自分が女の子の胸に耳を押し当てていたまさにその瞬間に消えていった鼓動の記憶は、彼女の心を乱すに充分だった。 「こんな時にこんなことを言うのもおかしいけど、平日にこうしてふたりでお昼を食べられるのはいいね」  味噌汁の椀《わん》を傾けていた母がしみじみとした口調で言い、葉子は「本当にそうね」と笑った。母はまだ58歳になったばかりだというのに、心筋|梗塞《こうそく》で倒れてからというもの、めっきり老け込んでしまった。母は決して『さみしい』などとは言わなかったが、おそらく毎日ぼんやりとテレビを眺めながら、ひとりきりの昼食をさみしくとっているのだろう。そう考えると不憫《ふびん》だった。  ダシの効いた味噌汁を味わいながら、葉子は常に報われることのない自分の努力について考えた。葉子の努力はいつも報われない。思いどおりになることなんて、めったにない。けれど……結果は葉子には関係のないことだった。  ——報われる、報われないにかかわらず、人は努力するべきものなのだ。努力して手にしたものだけが価値のあるものなのだ。  それは葉子の母の信条であり、おそらく、若くして他界した父の信条であり、そして葉子の信条でもあった。葉子はずっとそうやって生きてきた。30歳の今になって、それを変えることなどできなかった。  葉子はそれ以上考えるのをやめた。食事を終え、「ごちそうさま」と言って食器を持って立ち上がった。しばらく休憩をしたあとで、プールにでも行って思い切り泳いでくるつもりだった。  狭いキッチンに葉子が向かいかけた時、母が「葉子」と呼びとめた。 「なあに?」 「あたしはあんたを……とても誇りに思ってるよ」  母は葉子を見上げて笑わずに言った。 「何言ってんのよ」  葉子は思わず笑った。笑みを頬に残したままキッチンに行き、流しのボウルに張った水に汚れた食器を浸けた。擦り切れたトレーナーの袖《そで》をまくり上げて湯沸かし器のスイッチを入れ、スポンジに洗剤を付けて手早く食器を洗う。そうしているあいだもずっと、その笑みは頬に残っていた。  自室にしている4畳半に戻ると、机の上に葉子宛の郵便がいくつか置いてあった。古い石油ストーブに火を点けてから、葉子はそれらの郵便物に目を通した。スポーツクラブからのダイレクトメール、電話料金とガス料金の請求書、通信販売のカタログ、リクエストした本が用意できたという図書館からの葉書……。その中に、上質な和紙でできた白い封書がまぎれていた。細い毛筆で『朝香葉子 様』と宛名が書かれている。  裏返してみる。差出人の名前はない。中には何か堅くて小さいものが入っているようだ。  ほかの郵便物を机の上に残し、差出人名のない封書だけを持って、葉子は狭いベッドに俯《うつぶ》せに寝転んだ。封を切って逆さにしてみる。折り畳まれた上質な便箋《びんせん》と一緒に、小さな銀色の鍵《かぎ》がシーツの上に転げ出た。  ……何だろう?  鍵には薄汚れた黄色いプラスティックの札が付いていて、そこに『234』と文字が刻まれている。不審に思いながら、葉子は丁寧に三つ折りにされた便箋を開いた。そこには細い筆で書かれた美しい文字が並んでいた。  朝香葉子 様  はじめまして。  突然、こんな手紙を差し上げる失礼をお許しください。  朝香さんはわたしをご存じないと思います。けれどわたしは、ずっと以前から朝香さんを見つめていました。ずっとずっと見つめていました。  唐突な話ですが、わたしは今、朝香さんに素晴らしいクリスマス・プレゼントをお届けしたいと考えています。  薄気味悪い? そうでしょう。だけど、少しだけ時間をください。破り捨てるのは、最後まで読んでからでも遅くはありません。  これは商品のセールスや、何らかの団体等の勧誘などではありません。プレゼントを受け取るのに費用がかかることはありませんし、受け取ったからといって義務が生じるわけでも、何かを強要されるわけでもありません。  それは平塚駅北口の234番コインロッカーの中にあります。同封した鍵を使って開けてください。234という数字は朝香さんにとって特別な数字ですよね?  このプレゼントは朝香さんにとてつもなく大きな力を授けるはずです。そしてその使い方によっては、朝香さんをその辛い境遇から救い出し、未来への夢と希望を与え、これからの人生を劇的に変えることもできるはずです。  バカバカしいと思っていらっしゃいますね? そうでしょうね。朝香さんはそういう方ですよね。けれど、わたしは朝香さんと同じように、決して嘘はつきません。今、平塚駅北口のコインロッカーの中には朝香さんの人生を劇的に変える最高のクリスマス・プレゼントが入っているのです。  さあ、どうします?  平塚駅のコインロッカーに行ってそれを手に入れますか? それとも、きょうまでと同じ敗北の人生を歩き続けますか?  もしかしたら朝香さんの人生にとって、これが最後のチャンスになるかもしれません。朝香さんがこのチャンスを活かしていただくことを願っています。  それが便箋に書いてあったことのすべてだった。  確かに234という数字は葉子にとって、記念の数字だったかもしれない。だが、葉子は手紙の言葉を信じたりはしなかった。信じたいとも思わなかった。ただバカバカしいと思っただけだった。  ……いったい誰なんだろう?  234という数字を知っていることから考えて、たぶん長距離走者時代のファンのひとりだろうということは察しがついた。長距離走者としての葉子は無名に近かったが、その知名度のわりにはたくさんのファンレターが送られて来た。多くは男性からのもので、そのほとんどは葉子の容姿の美しさを讃えるものだった。  長距離走者として褒められるのは嬉《うれ》しかった。だが、容姿を褒められるのは嬉しくなかった。  葉子はこれまでに数え切れないほどたくさんの人から「綺麗《きれい》だ」と言われてきた。だが、葉子はそれを嬉しいとは思わなかった。少なくとも、思わないようにしていた。たとえ人が言うように自分が美しかったとしても、それは葉子が努力して手に入れたものではないのだから、自慢する筋合いのものではなかった。  自慢できるのは(葉子は何も自慢しなかったが)自分が努力して勝ち取ったものだけだ。——葉子はそういう女性だった。  彼女は夢のような幸運が転がり込んで来ることを祈ったり、宝くじに当たることを願ったりはしなかった。白馬に乗った王子様が迎えに来てくれることを夢想したり、うまい話に乗ったりはしなかった。葉子が求めているのはただひとつ、自分が払った犠牲にふさわしい報酬だけだった。  葉子は和紙でできた便箋と封筒を、シーツに転がっていた小さな鍵と一緒にベッド脇のゴミ箱に捨てた。銀色の鍵がゴミ箱の底で、コトリと小さな音をたてた。 「葉子、起きてる?」  朝香|愛子《あいこ》は娘の部屋の入口で小声で呼びかけた。「ちょっと針に糸を通してもらいたいんだけど」  部屋の中から応答はなかった。黄ばんだ襖《ふすま》をそっと開く。娘の葉子はくたびれたトレーナーに色褪《いろあ》せたジーパンという格好のまま、ベッドに仰向けになって眠っていた。枕元には擦り切れた英語の辞書と英字新聞が投げ出してあり、石油ストーブがついたままになっていた。  愛子は6畳の居間に戻って押し入れから自分の毛布を引っ張り出した。それを持って再び娘の部屋に行き、眠っている娘の細い体にそっと掛けた。よほど疲れているのだろう。葉子は目を覚まさなかった。化粧気のない整った顔が、少しさみしそうに見えた。  愛子は自分で針に糸を通すことにして娘の部屋を出た。      3  午後の空《す》いている時間帯を選んでバスに乗ったつもりだった。だが運悪く、バスの座席はひとつも空いていなかった。しかたなくヌルヌルする吊り革にしがみついて、猿渡哲三《さるわたりてつぞう》は自分の前に座ったスーツ姿の男を睨《にら》みつけた。  老人や妊婦や障害者のための優先席で眠ったフリをしているその男は、スーツが張り裂けそうなほどに太り、この寒さだというのに顔中に汗の玉を浮かせていた。決して目を開けなかったが、眠っているのではないことはわかっていた。猿渡がバスに乗った時、その男と確かに目が合ったのだ。  座席には制服姿の高校生の一団や、近くの専門学校の学生らしい若者もたくさん座っていた。けれど小柄な老人に席を譲ろうという者はなかった。揺れるバスに立っていると、膝《ひざ》と腰が疼《うず》くように痛んだ。「席を替わってもらえませんか? そこは年寄りのための優先席ですよ」眠ったフリをする男に、猿渡は何度かそう言おうとした。けれど前に1度、若いサラリーマンに「誰の年金を払うために俺たちが苦労してると思ってるんだ? 図々しいことを言うな」と怒鳴られたのを思い出して、言うのをやめた。  太ったサラリーマンの背後のシートでは、髪を金色に染めた少年と少女がぴったりと寄り沿うように座っている。少女は下着が見えそうに短いスカートを履き、少年は少女の細い腰を抱いている。ふたりは時折顔を近づけ、人目もはばからず唇を合わせている。  愉快な光景ではなかった。けれど、猿渡は彼らを責める気にはならなかった。もし俺が今、こいつらと同じ年頃だったら、きっと俺もこいつらと同じように振る舞っているんだろうな、と思った。  しかし何という違いだろう。俺たちがこいつらと同じ年の頃には……吊り革にぶら下がったまま猿渡は目を閉じた。そして半世紀以上も昔、遥《はる》か南の島の原生林で死んでいった若者たちのことを思い出した。  日本から1万�も離れた熱帯の密林の、猛烈な湿度と暑さ。空腹と病。化膿《かのう》した傷に群がる寄生虫。絶え間なく続く下痢。迫り来る敵兵の群れ。絶望と恐怖。生への執着と望郷の思い。その中で死んでいった無数の若者……。それがほんの少し前に、本当にあったのだ——生まれて来る時間がほんのちょっとずれていれば、今、恋人のスカートの中に手を入れているこの少年が、あの島の湿った土になっていたかもしれないのだ。  世の中は何て不公平にできていやがるんだ——猿渡哲三は思った。  駅までの10数分、スーツ姿の太った男は辛抱強く狸寝入りを続け、少年と少女は5回ばかり唇を合わせ、猿渡は必死になって吊り革にしがみつき続けた。  バスが茅《ち》ヶ崎《さき》の駅前ロータリーに停車すると同時に、優先席の男は目を開けた。そして猿渡のほうは一瞥《いちべつ》もせず、逃げるようにバスから降りていった。  ……やっぱり狸寝入りだったのか。  転ばないように注意しながらバスの急な階段を降りると、冬至の冷たい風が猿渡の薄手のジャンパーを容赦なく貫き、痩《や》せた体を芯《しん》まで凍えさせた。同じバスに乗っていた者たちがモタモタと歩く猿渡の背を追い越し、足早に駅へと向かっていく。真っ白な息を吐きながら、猿渡もそのあとについて歩いた。  ベルトに縋《すが》り付くようにしてエスカレーターを上がり、混雑する改札口の前を通り過ぎる。その先にはコインロッカーの灰色の扉が整然と並んでいる。  猿渡はコインロッカーの前に佇《たたず》み、擦り切れた革の鞄《かばん》から上質な和紙でできた白い封書を取り出した。それを逆さにし、皺《しわ》だらけの掌に転げ出た銀色の小さな鍵《かぎ》を見つめる。誰かが見ているのではないかと、キョロキョロと辺りを見まわす。だがコインロッカーの前に佇むみすぼらしい老人に注意を向けている者などいなかった。  差出人の名がないその封書は、今朝、マンションのエントランスホールにある猿渡のメイルボックスに電話料金の請求書と一緒に投げ込まれていた。誰が書いたものかはわからなかったが、手の込んだイタズラに違いなかった。それでも猿渡は行ってみることにした。小筆で書かれた手紙の文字がとても美しく丁寧だったのと、白い便箋《びんせん》に並んだ言葉がとても魅力的に感じられたからだ。  ……イタズラならイタズラでかまわないさ。どうせ暇なんだからな。  猿渡哲三は鍵に付いたプラスティック製の番号札の数字を確認し、「ええっと……120……120……」と口に出しながらズラリと並んだ数百枚の鉄の扉を見上げた。 「ええっと、ここが213だから120は……おかしいな……120……120……」  いちばん上段の扉はかなり高い位置にあり、もしそこに『120』の扉があるとすると、1m50cmに満たない猿渡には手が届きそうもなかった。「……おかしいな……ええっと、120……120……120……」  その時、「ちょっと、おじいさん」という女のきつい声が聞こえた。振り向くとベージュのトレンチコートを着た若い女が目を吊り上げて猿渡の背後に立っていた。 「あっ……はい……何か?」 「ボケっとしてないで、そこどいてくれない? そんなところに突っ立ってられると邪魔なのよねっ」  綺麗に化粧をした背の高い女はイライラとした口調で言った。 「ああ……すみません」  猿渡はそう言うと脇に逸れた。トレンチコートの若い女は真っ赤なマニキュアをした指で『269』と番号の書かれた扉に鍵を差し込んだ。扉を開いて中にあった大きな紙袋を乱暴に引っ掴《つか》み、「グズグズしないで。こっちは働いてんのよっ」と捨てぜりふを残し、ハイヒールを響かせて改札口に向かった。  猿渡は遠ざかっていく女の細い足首を見つめて舌打ちをした。一瞬、心の中で≪お前ら、いったい誰のお陰で日本がこんなに繁栄したと思ってるんだ?≫と呟《つぶや》き、すぐにその考えを打ち消した。それから再びコインロッカーの扉に目をやり、さらに1分以上の時間を費やしてようやく『120』と書かれた扉——1月20日は猿渡の誕生日だった——を見つけた。幸いなことに、それはいちばん下段だった。  手にした鍵を鍵穴に差し込む前に猿渡はまた辺りを見まわした。  ……きっとこれを送りつけたやつがどこかで見てるんだろうな。バカなジジイがノコノコやって来たと思って笑ってるんだろうな。  猿渡は鍵穴に鍵を差し込み、そっと左にまわした。確かな手ごたえとともに、ロックが解除される音がした。  ……いったい何が入ってるんだろう?  灰色の扉を恐る恐る手前に開く。  ——そこには金属製の大きなアタッシェケースが入っていた。 「何だ……これは?」  思わず口に出して猿渡は言った。  銀色に光るアタッシェケースの上には、今朝、猿渡が郵便受けに見つけたのとそっくりの白い封書が乗っていた。  ほんの一瞬ためらってから、猿渡は手を伸ばしてその封書をつまみ上げた。それをジャンパーのポケットにねじり込み、それからアタッシェケースの取っ手を掴んだ。力を込めてロッカーの中から引きずり出す。  年老いた猿渡の腕に、それはズシリと重かった。  アルバイトらしい少女から紙のカップに入ったコーヒーを受け取って、猿渡哲三はカウンターのすぐ近くの席についた。小さなテーブルの下では、たった今コインロッカーから出したばかりのアタッシェケースが鈍く光っていた。  窮屈な椅子に腰を下ろすと、猿渡は混雑したファーストフード店の中を見まわした。学生や高校生、スーツ姿のサラリーマン、着飾った若い女たち、子供を連れた主婦たち……。きっとこの中にあの手紙を書いたやつがいるんだ、と猿渡は思った。そいつが笑いをこらえて俺の様子をうかがってやがるんだ。  猿渡はカップの中に砂糖とミルクを入れ、プラスティックの小さなスティックでクルクルとかきまわした。上目づかいにもう1度辺りを見まわした。そして、熱いコーヒーを何口かすすってから、薄汚れたジャンパーのポケットに手を入れた。皺ができてしまった和紙の封書を見つめ、しばらくためらい、それからビリビリと封を切った。封筒の中には今朝の手紙と同じように、三つ折りになった白い上質な便箋が入っていた。  猿渡哲三 様  おいでくださったことを感謝します。  今、猿渡さんの足元に置いてあるそのアタッシェケースが、猿渡さんへのわたしからのクリスマス・プレゼントです。  中身が気になりますか? 当然ですよね。  お教えしましょう。そのアタッシェケースに入っているのは時限爆弾です。  猿渡は便箋から顔を上げた。やっぱりイタズラだ。そう思いながら、また辺りを見まわした。この店のどこかに、必死で笑いをこらえながら自分の様子をうかがってる人間がいるはずだった。  だが、こちらを見ている者はいない。猿渡は便箋に視線を戻した。  嘘? 冗談?  いいえ。わたしは嘘などつきませんし、冗談など言いません。そこに入っているのは、猿渡さんの住んでいらっしゃる5階建のマンションを消滅させ、相模川に掛かった東海道線の鉄橋を粉々に砕いて落下させ、電車を一両跡形もなく吹き飛ばすほどの破壊力をもった超高性能の時限爆弾です。12月24日の午後11時に爆発します。  嘘かどうか、確かめてみたければ、開けてもかまいません。ダイヤルロックのナンバーを猿渡さんのお誕生日の『120』に合わせれば開くことができます。けれど開けた瞬間に、それは大爆発を起こします。今開ければ猿渡さんを含め、その半径50mにいるほとんどの人間が死亡することになります。もし、それでもかまわないというなら、どうぞ、開けてみてください。  信じられないでしょうが、信じていただくしかありません。わたしには国のために戦った猿渡さんのような老人を騙《だま》して楽しむ趣味はありません。  わたしですか? わたしのことを知ろうとする必要はありません。わたしは猿渡さんの以前からのファンであり、約束したとおり、猿渡さんに最高のクリスマス・プレゼントを差し上げた。それだけのことです。  怖がらなくても大丈夫。予定の時が来るまでは、多少の振動や衝撃を与えても爆発はしません。安心してお持ち帰りください。そしてクリスマス・イヴの午後11時まで、それをどう使うか、ゆっくりと考えてください。  わたしを非難するのは間違いです。猿渡さんは何かを期待し、何かを求め、そのためにわざわざバスに乗ってここに来た。そして、約束の物を手に入れた。猿渡さんはもう、わたしの共犯者なのです。  さあ、その力は猿渡さんのものです。その力をどう使おうと、それは猿渡さんの自由です。バスの網棚に放置しても、お向かいのカラオケスタジオの一室に置いてきても、宅配便で嫌な人間の家に送りつけても、海の中に捨ててもかまいません。もちろん、警察に届けてもらっても結構です。  クリスマス・イヴの午後11時——忘れないでください。  猿渡哲三はその手紙を3度繰り返して読んだ。老眼鏡を外してテーブルに置き、また店内をグルリと見まわし、ぬるくなってしまった甘いコーヒーを口に含んだ。それからかすれた声で押し出すように「バカバカしい」と呟いた。      4 「……バカバカしい」  そう呟いて田島聖一《たじませいいち》は便箋《びんせん》から顔を上げた。煙草を消し、テーブルの上の冷めたコーヒーを飲み干し、伝票を掴んで立ち上がった。ほんの一瞬ためらい、足元に置いた金属製のアタッシェケースを持ち上げた。力をなくした田島の腕に、それはズシリと重かった。  ……時限爆弾だって? 何言ってやがる。  駅前のコーヒーショップを出る。外には冷気が満ちている。田島はコートのボタンを閉め、ブルッと身震いし、小さくひとつ溜《た》め息をついた。いつものようにバスターミナルに向かいかけ、ふと足を止め、またしばらくためらい、それからバスターミナルではなく、さっき出て来たばかりの駅の改札口のほうに歩を向けた。  改札口からは仕事帰りのサラリーマンやOLが絶え間なく吐き出されていた。田島はそれらの人込みを突っ切って、その先にあるコインロッカーに向かった。  田島がアタッシェケースを取り出した『1225』のロッカーはすでに≪使用中≫の表示が出ていた。しかたなく田島はその隣の『1230』の扉を開き、そこにアタッシェケースを入れた。硬貨を何枚か取り出し、投入口に落としてから鍵《かぎ》を閉めた。  いつものように駅前バスターミナルの長い行列の最後尾に並ぶ。 「田島さん、こんばんは」  近所に住む男が声をかけてくる。 「ああ、吉川さん……こんばんは」  それがきょう、田島が誰かと交わした最初の会話だった。  きょう1日、田島は誰とも喋《しやべ》らなかった。今朝はいつもと同じ時間に起き、いつものように家族の誰とも顔を合わせずに家を出、いつもと同じバスに乗り、いつもと同じ電車に乗った。けれど、蒲田《かまた》にある会社には行かなかった。  この1週間ずっとそうしているように、きょうも1日、田島は横浜の地下街にいた。喫茶店でモーニングのトーストと茹《ゆ》で卵とサラダを食べ、新聞と雑誌を何誌も眺めた。昼近くなって喫茶店を出ると本屋やCDショップをウロつき、午後1時を過ぎてからうどん屋で食事をし、それからまた喫茶店に入った。そこでコーヒーをお代わりしながら何時間も過ごし、あの手紙を取り出しては何度も読んだ。  1週間前、会社は彼に解雇を言い渡した。だがそのことは、妻の明子《あきこ》には話していなかった。何度も言おうとしたのだが、どうしても言い出せなかった。  ターミナルにバスが到着し、長い列がバスに吸い込まれていく。足を引きずるようにして田島も歩を進める。バスに乗り、吊り革にぶら下がるように掴《つか》まる。足の周りに絡み付いた冷気が、ゆっくりと這《は》い上がってくる。  葉を落とした街路樹の枝々には無数の豆電球が飾られ、絶え間なく点滅している。まもなくクリスマスだった。  クリスマスに田島は50歳になる。だが今では、いや、もう何年も前から、クリスマスは田島にとって何の関係もない行事になっていた。  バスが動き出した。イルミネーションに彩られた街が、ゆっくりと後ずさりしていくのを田島はぼんやりと眺めた。  テーブルにはカレーライスの皿が載っている。そばにはちぎったレタスに市販のドレッシングをかけただけのサラダのボウルがある。それが今夜の夕食のすべてだった。  食欲はまったくなかった。だがいつものように田島は、狭いキッチンのテーブルに座り、黙々と食事をした。隣では明子がテレビに見入りながら番茶をすすっている。 「きょうは……何か変わったことはあったか?」  妻の横顔に田島は言った。もし田島が口を開かなければ、今夜もいつものように、ふたりのあいだには一言の会話もないままだっただろう。 「……別に」  テレビに目をやったまま明子が答えた。 「純一《じゆんいち》は……部屋にいるのか?」  明子は無言だったが、それはきくまでもないことだった。この4年間、長男の純一は2階の自室に籠《こ》もったままだった。 「克美《かつみ》は……帰ってるのか?」  明子はやはり無言だった。だがそれもまた、きくまでもないことだった。まだ高校2年だというのに、どぎつく化粧し、髪を金色に染めた克美が10時前に帰宅することなどあり得なかった。一晩中戻らないことも稀《まれ》ではなかった。 「……いや……実は……」  田島はそこで言い淀《よど》んだ。明子が振り向き、「どうしたの?」と聞き返してくるのを待った。だが、明子は何も言わずにテレビのバラエティ番組を見ていた。 「おい……明子、実は……」  妻が面倒臭そうに顔を向けた。田島はその顔に思わずたじろいだ。妻の顔が、電車の中で偶然隣り合わせただけの、会ったこともない中年女に見えたからだ。  田島よりふたつ年上の明子は52歳だったが、その顔はそれよりさらに老けて、疲れ切って見えた。肉に潰《つぶ》されそうな細い目、毛穴の開いただんごっ鼻、厚くて荒れた唇、弛《ゆる》んで垂れ下がった頬、たっぷりと脂肪の溜まった顎《あご》……。かつて自分がほんのひとときでもこの女を欲したことがあった、という事実が信じられなかった。 「いや……何でもない」  田島は言うのをやめた。次の瞬間には、妻の視線はもうテレビの画面に戻っていた。  田島は無言で、レトルトに違いないカレーライスを口に運び続けた。そして、今朝、門の脇の郵便ポストに投げ込んであった手紙と、コインロッカーの中のアタッシェケースの上にあった手紙のことを考えた。  2通の手紙はともに和紙でできた上質な封筒に、綺麗《きれい》な筆文字で書かれ、中にはきちんと折り畳んだ便箋が入っていた。  ……手の込んだイタズラだ。  きょう1日、横浜の地下街の喫茶店で読み返すたびにそう思った。見ず知らずの者からのクリスマス・プレゼントだなんて、普通じゃなかった。読み終えるたびに破り捨ててしまおうと思った。けれど、なぜか田島はそうしなかった。 『……レールを踏み外してしまった田島さんを救い出し、未来への夢と希望を与え、これからの人生を劇的に変えることになるはずです……』  ……畜生……見て来たようなこと言いやがって。  カレーライスだけの食事は10分足らずで終わった。テレビを見続ける明子を残し田島は自室に向かった。  1階の奥の6畳の洋間が彼の聖域だった。田島はベッドに腰を下ろして煙草に火を点けた。自宅で喫煙できるのはこの部屋だけだった。  深く煙を吸い込み、目を閉じる。将来への不安が次々と沸き上がり、強い尿意がペニスを痺《しび》れさせた。  ……これからいったい、どうしよう?  汗ばんだ指先に火の点いた煙草を挟んだまま、田島は通勤|鞄《かばん》から2通の手紙を取り出し、白い紙に整然と並ぶ、黒い文字の羅列をじっと見つめた。 『……そのアタッシェケースは間違いなく力です。今、その巨大な力は田島さんのものなのです……』  田島は手紙を脇に投げ出し、天井に向かって煙を吐いた。ヤニで黄ばんだ天井を見つめ、ふと22年前のクリスマスの晩——田島の28歳の誕生日の晩のことを思い出した。  あれは横浜の繁華街の混雑したレストランだった。その店の片隅で、田島は婚約者である明子と向き合っていた。30歳だった明子は暖かそうなウールのスーツを着ていた。田島も新調したばかりのスーツ姿だった。  あの日、あの席で、田島は明子に腕時計をプレゼントした。明子は恥ずかしげに俯《うつむ》きながら、「こっちがお誕生日の、こっちがクリスマスのプレゼントです」と言って、田島に大小ふたつのプレゼントをくれた。田島はその場で、それを開いてみた。小さいほうの包みはドイツ製の電気|髭剃《ひげそ》りで、大きなほうは白い手編みのセーターだった。 「ありがとう」  きっと田島はそう言った。 「田島さんこそ、ありがとう」  たぶん、明子はそう答えた。  あの晩、30歳の明子は、ささやかにではあったが輝いていた。そして28歳の田島もまた、ささやかに輝いていた。きっとあの晩、ふたりは自分たちの未来について話をしたのだ。結婚式のことや、新婚旅行のこと。新居のことや、そこでの生活のこと。そして、生まれて来るはずの子供のこと……。あれはたぶん、田島の50年の人生において最高の誕生日だったし、最高のクリスマスだった。  天井から小さな足音が響いた。長男の純一が自室を出てトイレにでも向かったのだろう。田島は自分の長男の顔を、もう何週間もまともには見ていなかった。  いったい何が悪かったというのだろう? 自分はいったい、どこで道を間違えてしまったのだろう?  田島聖一は灰皿に煙草を押し潰し、両手で顔を覆った。 『……もしかしたら田島さんの人生にとって、これが最後のチャンスになるかもしれません……』  ポケットに手を入れると、コインロッカーの鍵が指先に触れた。      5 「きょうは水曜日だから……ええっと……山根《やまね》さんのところだったっけ?」  狭い玄関で窮屈に身を屈めた娘の背中に、朝香愛子はそう声をかけた。葉子は色褪《いろあ》せたジーパンの上に着古した黒いダウンジャケットを着込んでいる。 「そう。宮松町の山根さん」  葉子は振り向かず、アスリートだった頃のようにランニングシューズの紐《ひも》をきつく結びながら答えた。「山根さんね、もう60歳なのに、すごく一生懸命勉強してるのよ」 「でも、きょうはお前も疲れてるんだから、山根さんに電話して断ったらどう? 今朝、あんなことがあったんだから、事情を話せば先方だって納得してくれるんじゃない?」 「うん……でも、もう大丈夫だと思う。今朝はちょっとショックを受けてたみたいだったけど、眠って起きたら随分と元気になってたから」  葉子は他人事のようにそう言うと、ランニングシューズの紐を結び終え、顔を上げて母に笑ってみせた。「きょうは工場も休んじゃったし……頑張って稼がないとね」  葉子が玄関の安っぽいドアを開けると、冷たい空気が狭い室内に流れ込んだ。 「おお……冷える」  呟《つぶや》くように葉子が言う。 「車に気をつけるんだよ」 「わかってるって……人のことより自分の心配をしてよね。クスリの時間、忘れないでね。もし胸が苦しくなった時はすぐに、わたしの携帯か119番に電話するのよ。ちょっとでもおかしいなって思ったら、迷わず電話するのよ」 「はいはい」 「それじゃ、先に寝ててね。行ってきます」  そう言って葉子はドアを閉めた。  トントントントンとアパートの鉄の階段をリズミカルに駆け降りる娘の足音を聞きながら、愛子は、あの子はどうしてあんなに強いんだろう、と思った。  愛子が心筋|梗塞《こうそく》で倒れてから、まもなく丸1年になる。愛子は自分が働けなくなったことでこれからの人生を悲観したが、葉子はそうではなかった。愛子が退院して自宅で療養するようになるとすぐ、葉子は家計のために英語の家庭教師のアルバイトを始めた。  平日の昼間は近くの工場でパートの工員として働き、帰宅して食事を済ませると今度は家庭教師として働く。休日には昼間も家庭教師の仕事をする。楽ではないはずだ。独身の娘だというのに、自分の買いたい物も買えないし、やりたいこともできないだろう。けれど、葉子が愚痴を言うのを愛子は1度も聞いたことがなかった。  居間のコタツに戻り、ポットの湯を急須《きゆうす》に注ぐ。それから、ふと思いついたかのように仏壇に並んだ2枚の写真をじっと見つめる。生まれつき病弱で小学校に上がる前に病死した長女と、長女の死の1年後に事故死した夫——。  写真の中の夫はちょうど今の葉子と同じくらいの年だった。キラキラした大きな目が葉子にそっくりだ。  ……いったい何が葉子をあれほど強くしたんだろう?  葉子は生まれた時からおとなしくて、手のかからない子供だった。姉の京子《きようこ》が病弱だったせいで、両親は京子につきっきりで、葉子をあまりかまってやれなかった。愛子が京子の世話にかかりきりになっている時、葉子はいつもベビーベッドでひとりで遊んでいた。愛子が京子を病院に連れて行く時など、何時間でもひとりきりで留守番をしていた。食事も着替えも入浴も、何もかもが後まわしだったが、葉子は1度もすねたりしなかった。  ……あの子はどうしてあんなに強いんだろう?  愛子はまたそう思い、前にも同じように感じたことがあるのを思い出した。  あれは今から6年前の冬のことだった。今から6年前、1月中旬のあの日、愛子は巨大なすり鉢形をした陸上競技場の観客席にいた。吹きすさぶみぞれ交じりの雨がビニールのカッパの隙間から吹き込み、寒さに歯がガチガチと音をたてた。オリンピックの代表選考会を兼ねた大会だというのに、悪天候のせいでスタンドの観客の姿は驚くほど少なかった。  あの日——テレビや競技場でレースを見ていたほとんどの人の予想を裏切って、愛子の次女は競技場に2番目に戻って来た。そして、愛子が座っているスタンドのまさに目の前で、十数m先を走る外国人ランナーに追いすがった。 「葉子っ、頑張れっ!」  愛子はかつて出したことのないほどの大声で叫んだ。 「頑張れ、葉子っ! 葉子っ! 葉子っ!」  凄《すさ》まじい豪雨にすべてのものが霞《かす》んで見えた。  母の声が聞こえたのだろうか? 葉子はほんの一瞬、スタンドに視線をさまよわせた。だがすぐに向き直り、十数m前方の褐色の肌をしたランナーの背に視線を戻した。そして、正面から吹き付ける強風に挑むかのように体を前傾させ、先頭を行くケニア人ランナーの背を追いかけた。ふたりのランナーの差は少しずつ詰まっていった。 「頑張れ、葉子っ! 頑張れ、葉子っ!」  愛子は叫び続けた。  ——6年前のあの日、オリンピックの代表選考会を兼ねた競技会で、一般参加した無名のアスリートである葉子は、人類発祥の地からやって来た世界的なアスリートに徐々に詰め寄り、ゴールの150m前でついに並びかけ……そして、抜き去った。競技場のあちこちからどよめきが起き、フラッシュが無数に瞬いた。  先頭に立った葉子はそのままホームストレートを駆け抜けてゴールテープを切り、直後に、崩れ落ちるように倒れ込んだ。  コーチや係員に抱きかかえられるようにして屋根の下に消えていく葉子の姿を見て、愛子は目頭を押さえた。そして思った。  ……いったい誰が、あの子をこんなにまで強くしてしまったんだろう? どうしてあの子は、こんなにまで強くならなくてはいけなかったんだろう?  愛子は急須の茶を湯飲みに注ぎ、また仏壇の夫の写真を見つめた。「あの子が強いのは、 あたしに似たんですかね?」と口に出して言ってみた。夫の「俺に似たに決まってるだろ?」という声が聞こえそうな気がして、愛子はひとりで笑った。      6  金属製の蓋《ふた》に耳を押し当てて、猿渡哲三は息を止めた。カチカチという秒針の音が聞こえるかと思ったのだ。だが、アタッシェケースからは何の音もしなかった。  ……俺は何をしてるんだ? バカバカしい。  猿渡は机の下にアタッシェケースを押し込んだ。椅子に座って老眼鏡をかけ、電気スタンドの明かりを点ける。使い込まれたパソコンを起動させる。  そして猿渡は、いつものように目を閉じ、熱帯の戦場を思い浮かべようとした。  猿渡の住む5階建のマンションは茅ヶ崎の海岸から300mほどの場所に建っている。ちっぽけな2DKの間取りだったが、ひとりになってしまった今ではこれでも広すぎるように感じる。狭い道路を挟んだすぐ向かいには、けばけばしい3階建のカラオケスタジオがある。数年前、向かいにカラオケスタジオができると聞いた時には、これで海が見えなくなると思ってがっかりしたが、猿渡の部屋は5階なので今でもカラオケスタジオのビルの向こうに湘南《しようなん》の海を見ることができる。  きょうはなかなか集中できなかった。猿渡は目を開くと、ふと思いついたかのように机の前にかかったカーテンを広げた。のぞき見の趣味はなかったが、人々が楽しそうに歌う姿を見るのは執筆中の気晴らしにはなった。  今夜もいくつもの部屋で人々が歌っているのが見える。若者のグループや男女のカップル。家族連れらしい一団。みんな、赤や青や緑の光の中で拳《こぶし》を突き上げたり、体をくねらせたり跳びはねたりしている。  猿渡は楽しげな人々をしばらくぼんやりと見下ろしてから、再びカーテンを閉じようと手を伸ばしかけた。その時、3階の一室で歌っていた若者たちのグループの中の女のひとりが、突然、ワンピースを脱ぎ始めた。周りにいる男たちが手を叩《たた》いて喜んでいる。豹《ひよう》柄のブラジャーとショーツだけになった女は再びマイクを握ると、金髪を振り乱し、痩《や》せた体をくねらせて踊り始めた。  猿渡は呻《うめ》いた。だが、驚いているわけではなかった。そんな光景は何度も見たことがあった。いや、もっともっとすごい光景を見たこともあった。  猿渡はカーテンをぴったりと閉めた。そして、ひび割れた爪を強く噛《か》み締めた。  猿渡哲三は東京の下町で生まれ育った。台東《たいとう》区のラジオ店で働いている時に招集令状を受けて南方の戦場に行った。そして、そこで地獄を見た。  そこはまさに地獄だった。原生林におおわれた南の島でほとんどの戦友が死に、猿渡もまた生死のあいだをさまようような体験をした。だが、奇跡的に生き延びて復員することができた。  復員後は秋葉原《あきはばら》の家電販売店で働き、定年と同時に温暖な気候を求めて湘南の土地に移り住んだ。  子供はいなかった。猿渡が出征してまもなく妻に男の子が生まれたが、その子は父親である猿渡に1度も顔を見せることもなく死んでしまい、昭和20年の空襲で遺骨はもちろん、写真や位牌《いはい》までが焼けてしまった。復員した猿渡を迎えた妻は、子供を殺してしまったことを土下座して詫《わ》びた。けれど猿渡は妻と再び生きて会えたという事実が嬉《うれ》しかった。死んだ子には申し訳ないが、彼にはそれだけで充分だった。  茅ヶ崎の2DKのマンションは、ふたりきりの暮らしには充分だった。妻と猿渡は毎朝のように路上のゴミを拾い集めながら海岸まで散歩した。朝食のあと、猿渡は読書や植木いじりに専念し、妻は絵手紙を描き、音楽を聴いた。ふたりでよく旅行にも行った。だが、そんな暮らしの中で3年前、妻を病魔が襲った。  妻が死んだ今では猿渡を訪れる人はめったにいなかったし、電話がかかって来ることも稀《まれ》だった。近所づきあいもほとんどなくなった。  だが、それはかまわなかった。猿渡は今も身の周りのことは、たいていひとりでできた。食事は1日2回、米を炊き、味噌汁《みそしる》を作った。誰かに頼るつもりはなかった。この湘南の地でひとり静かに、生を終えていくつもりだった。  猿渡は毎朝、4時に起きる。雨が降っていなければゴミを拾い集めながら海岸まで歩く。帰りに近くの魚屋でメザシを買う。そして食事のあとは毎日、自分が行った戦場と、そこで死んでいった仲間たちのことを記録するためにパソコンに向かった。  妻が死んでから猿渡は多くの時間をそのことに費やしていた。あの南の島で死んでいったひとりひとりの顔や姿を、彼らが語った生い立ちや家族や恋人のことを、あの1日1日を、共にした食事の1回1回を、一緒に吸った煙草の1本1本を、そのすべてを、思い出せる限り記録しようとした。死んでいったひとりひとりのために、あそこで何があったのか、彼らはなぜ何のために死んでいったのか、それを記録したいと思った。  50数年という時間は老人から記憶の多くを奪っていた。記憶はひどくあやふやで、前後の関係は曖昧《あいまい》だった。それでも猿渡は思い出せることから順に記録し、それをホームページの画面に追加していった。どんな人が読むのかは定かではないが、猿渡がインターネット上に作ったホームページを訪れる人は月に200人を数えた。  猿渡は目の前のカーテンをじっと見つめた。それから急に、何の脈絡もなく、机の下のアタッシェケースのことを考えた。  ……もし万一、これが本物の時限爆弾だったら……もしそうなら……俺はこれをどう使うだろう? これで誰を殺そうとするだろう?  不謹慎な想像には違いなかった。だが……それは不快ではなかった。      7 「それじゃ、きょうの授業はここまでにしましょう。来週もまた関係代名詞の使い方をやりますから、よく復習しておいてくださいね」  葉子が言うと、向かいのソファに腰を下ろした山根|英行《ひでゆき》は「ありがとうございました」と言いながら、大きく伸びをした。ウールのセーターの腹の部分がはちきれそうだ。 「ヨーコ先生、急ぎますか?」  山根がきいた。  山根英行は60歳。藤沢で不動産会社を経営している。山根が葉子の生徒になってからもう2年近くたつが、年のせいか、なかなか上達しない。けれど、山根の一生懸命に勉強する態度に葉子は好感を抱いていた。 「ええ。母が待ってるんで……あの……何か?」 「いや、実は先生にご相談がありましてね」 「相談? 何でしょう?」  葉子は首を傾げて微笑んだ。 「前から言おうと思ってたんですが……何ていうか……そのう……先生にわたしの……秘書になってもらえないかと思ってね」 「秘書?」 「あの……最近は何だかんだで、英語を使う機会も多くて……ほら、根岸《ねぎし》に外国人専用の高級マンションも経営してるでしょ?……だから、あの……わたしが今から英語の勉強をするより、先生にうちの会社に来ていただいたほうがずっといいと思って……」 「……でもわたし、秘書の経験なんてないし……あの、どうしても秘書が必要なら派遣会社にでも頼んだらいいんじゃないでしょうか?」 「いや……わたしはヨーコ先生にわたしの秘書になってもらいたいんです」 「いったい、どんなことをするんですか?」  試しに葉子はきいてみた。 「ええっと……外国人客の応対とか……書類の翻訳とか、作成とか……わたしのスケジュール管理とか……仕事先への同行とか……それから、あの……出張への同行とか……あとは……わたしと一緒に夕食をするとか……一緒に旅行に行くとか……」 「一緒に旅行に? どういうことです?」  葉子は山根の目を見つめてわずかに語気を強めた。 「……いや……それじゃ、はっきり言うけど、あの……実は……ヨーコ先生にわたしの秘書兼愛人みたいなことをやってもらえないかなと思って……」  それまで紳士だった山根の目が急に好色な色を帯びた。 「決して悪い話じゃないと思いますよ。月給は50万円。ボーナスは100万円出します。それだけで年収800万。そのほかに、誕生日やクリスマスには先生が欲しいものを何でも買ってあげます。車でも洋服でもアクセサリーでも何でも買ってあげます。悪くない話でしょ?……もう鉛筆工場でパートしながら英語の家庭教師をするなんて、そんな惨めな暮らしはしなくて済むんですよ。どうです? 悪くない話でしょ?」  山根はぴったりとしたセーターに包まれた葉子の小さな胸を見つめ、葉子は呆然《ぼうぜん》と山根の顔を見つめた。 「わたしが英語を続けてられるのは、先生がいるからなんだ。わたしはずっと前から先生のことが好きだったんだ。どうです? わたしの秘書になってもらえませんか?」  葉子はフーっと息を吐いた。それからはっきりとした口調で「お断りします」と言った。 「断る? どうしてです?」 「わたしはそういうことはしたくないんです。それだけです。残念ですが、もう山根さんとの契約はこれで終わりにさせていただきます。失礼しました」  立ち上がりかけた葉子を山根が慌てて制した。 「ちょっと待ってください……悪かった……今の話は聞かなかったことにしてください」 「そういうわけにはいきません。山根さんがそういう目でわたしを見ていたかと思うと、とても残念です」  葉子が言うと、山根は今にも泣き出しそうな顔になった。 「……そんなこと言わないでください……ヨーコ先生と会うのはわたしの生き甲斐《がい》なんですよ……今の話はなかったことにして、これからも今までどおり、週に1度、わたしに英語を教えてください……頼みます」 「わかりました……今の話は聞かなかったことにします」  葉子はそう言うとソファから立ち上がった。  山根家を出ると、葉子はダウンジャケットのジッパーを首まで引き上げた。もうすでに夜の10時をまわっている。門の前に止めた自転車にまたがる前に、携帯電話を取り出して母に電話を入れた。 「もしもし、わたし。遅くなっちゃったけど今終わったから、これから帰るね……うん、山根さんちの門のところ……うん、大丈夫よ。心配性ね……そっちは何か変わったことはない? もうお布団に入ったの? クスリはちゃんと飲んだの?……それじゃ、すぐ戻るからね」  今夜は空気が澄んでいる。星が無数に瞬いている。海風ではないはずなのに、どこからか微かに潮の香りがする。自転車にまたがり、夜の街を走りだすと、ぴったりとしたジーパンを冷たい冬至の風が貫いた。  リズミカルにペダルを踏みながら、葉子はふと、排気ガスを車内に引き込んで無理心中した家族のことを思い出した。目を閉じた幼い男の子の額にかかった前髪のこと。自分の耳のすぐ向こうで鼓動をやめた女の子の心臓のこと……。もう彼らはこの地上のどこにもいないのだ。  ——この世の中に、自殺しなければならない理由なんてあるんだろうか?  生きる理由などわからなかった。考えることもなかった。それでも葉子は、『生きなければならない』ということを本能的に知っていた。  葉子はペダルを踏み続けた。今朝、葉子宛に届いた手紙のことなど、もはやチラリとも思い浮かべはしなかった。  冬至の夜は更けていった。 [#改ページ]   第二章 12/22 THU.      1 『繰り返されるスコールのせいで壕《ごう》の底はひどくぬかるんでいた。わたしは壕の中に身を潜め、地の底から響き続ける凄《すさ》まじい爆発音を聞いていた。  沿岸に停泊した巨大な駆逐艦から繰り出される艦砲射撃。V字型に編隊を組んだ爆撃機からバラ撒《ま》かれる爆弾の雨。それらが何日にもわたり、地形が変わるほど激しく島全体を揺るがせていた。  そして、あの日——われわれの部隊が部隊として存在した最後の日——もっとも恐れていた敵の上陸がついに始まった。  海面に降ろされた無数の上陸用舟艇が水《みず》飛沫《しぶき》を上げて島に突進し、前方の砂浜に乗り上げる。何千という敵兵が浅瀬の波を蹴《け》り、砂地を蹴ってわれわれの領域に迫り来る。敵の機関銃が立て続けに火を噴き、低空で飛ぶ戦闘機からの機銃掃射が地を一直線に駆け抜ける。炸裂《さくれつ》する砲弾が土砂を舞い上げ、草と樹木と人間の肉体が吹き飛ぶ。宙の一点に静止したヘリが壕から出た日本兵を狙い撃ちにし、火炎放射器の猛火が壕に残った兵を焼き尽くす。  それはわれわれが想像していたより遥《はる》かに緻密《ちみつ》で、入念で執拗《しつよう》で、徹底的で計画的な総攻撃だった。わたしは身を強ばらせ、なすすべもなく壕の縁にすがりついていた。死ぬ覚悟はできているはずだった。にもかかわらず、わたしはみっともないほどに震えていた。  敵の攻撃は筆舌に尽くしがたいものだった。やつらはヒステリックなまでに撃った。われわれの誰かが1発応戦すると、その付近に何千という弾丸が浴びせられた。さらにはヘリが辺りをまんべんなく機銃掃射し、手榴弾《しゆりゆうだん》が何十発も投げ込まれた。  どれくらいの時間が過ぎたのかはわからない。やがてわれわれは、散り散りになって背後に茂る原生林へと敗走した。辺りには日本兵が無数に横たわっていたが、その生死を確認することなどできなかった。  あの時、わたしは児玉という傷ついた男を背負っていた。だが、いったいどこで児玉が撃たれ、どこでどうやって彼を背負うことになったのかを、わたしは覚えていない。ただ生温かい血が背を濡《ぬ》らし、腰を伝って尻《しり》や腿《もも》に滴り落ちたことを覚えているだけだ。  ぬかるみに何度も足を取られ、転んで傷だらけになりながら、わたしは夢中で走った。途中で何度か、こちらに向けられた銃声を聞いた気がした。  敵の放つ砲弾や銃撃の音がまばらになった頃、わたしは児玉の流したおびただしい量の血にまみれて原生林の奥にいた。周囲にはほかにも十数人の仲間がいた。  わたしは湿った落ち葉の上に児玉を横たえた。まだ少年の面影を残した児玉の顔は苦痛に歪《ゆが》み、軍服が絞れるほどの血に濡れていた。首筋にはヒルが張り付き、血を吸って親指ほどの大きさに膨れあがっていた。 「畜生、このうすぎたねえクソ虫めっ!」  そばにいたひとりが児玉の首筋のヒルを払い落とし、それを踏み潰《つぶ》した。辺りに鮮血が飛び散った。その男の左目の上にもザックリとした傷が開き、溢《あふ》れた血が目の中に流れ込んでいた。  サウナにでもいるかのような猛烈な高温と、想像を絶するほどの湿度が辺りを支配していた。空気は動かず、疥癬《かいせん》で爛《ただ》れた皮膚を汗が流れ落ちた。幾重にも折り重なった木々の葉が頭上を覆い、ジャングルの中は夕暮れのように暗かった。  辺りには名も知れぬ虫がさかんに飛び交い、男たちの汗と血を吸い、皮膚の内側に卵を産みつけようとしていた。ウジに似た小さな虫が濡れた軍靴を無数に這《は》い上がってきた。 「こりゃあ、助からんな」  銚子《ちようし》で漁師をしていたという男が囁《ささや》いた。行田《ぎようだ》の畳屋の息子だという男が無言で頷《うなず》いた。  だが彼らが児玉のことを言ったのか、それとも自分たちのことを言ったのかは、わたしにはわからなかった。わたしはただ、死がいよいよ本当に、すぐそこにやって来たのだという現実にたじろいでいた。  死にたくはなかった。だが、たぶんあの時、わたしは諦《あきら》めかけていた。空腹で疲れきり、血と寄生虫にまみれて打ちひしがれていた。わたしのいる熱帯の原生林は、妻や子のいる日本から絶望的なまでに離れていた。どうやったって、そこに戻ることは不可能に思えた。 「……殺してください」  聞いたことのない老人の声が聞こえた——いや、老人などいるわけがなかった。あの日、そこにいた誰もが、悲しいほどに若かったのだから。 「殺して……ください」  老人が呻《うめ》くように児玉は繰り返し、潤んだ目でこちらを見上げた。その目の縁には無数の虫が群がり、耳には口から溢れた血が流れ込んでいた。  消毒液も鎮痛剤もなかった。援軍が来る可能性もなかった。降伏することなど、考えたこともなかった。だとしたら、瀕死《ひんし》の兵士から苦痛を取り除く方法はただひとつだった。 「猿渡、貴様が連れて来たんだ。貴様が看取ってやれ」  若い少尉が、わたしの銃を見つめて命じた。彼もまた被弾し、ゲートルを巻いた右の膝《ひざ》から下が血でどす黒く染まっていた。  わたしは少尉の目を見つめ返した。ききたいことは山ほどあった。われわれはこれからどうするのか? 起死回生のためのどのような作戦があるのか? 食料は? 武器は? 援軍は?——だが、わたしは何もきかなかった。  学卒の若い少尉は切れ長の目をしていた。しかしその目にはもはや、怒りも悲しみもなかった。敵愾心《てきがいしん》も愛国心もなかった。そこにはただ、疲れきって希望をなくした、虚ろで無力な生物の目があった。 「いや……俺がやる……それは俺の仕事だ」  少尉はわたしから目を逸らした。そして、児玉の脇に屈み、何か言い残すことはないかときいた。  わたしは今も、ある種の驚きをもって佐竹という少尉のあの時の行為を思い出す。あの完全なる絶望の中で、まだ23歳か24歳だった彼は、ヒステリックに怒鳴ることも、絶望して泣き続けることも、発狂して走り出すこともなく、死を迎えようとする部下の脇に屈み込み、その遺言を聞き届けようとしたのだ。  湿った落ち葉の上で児玉は苦しげに喘《あえ》ぎながら、東北の田舎町に暮らす両親へのわずかばかりの言葉を告げた。若い少尉は瀕死の男の口に耳を寄せてその一言一言に頷くと、ちびた鉛筆でそれを手帳に書き付けた。 「貴様らはここで、児玉貞晴のために祈れ」  少尉はそう言い残すと、そばにいた男たちに命じて児玉を離れた場所に連れて行かせ、自分もそのあとについて行った。  祈れ。そうだ。若い少尉は確かにそう言った。  やがて原生林に1発の銃声が轟《とどろ》いた。こうべを垂れ、信じたことのない神に祈りながら、わたしはそれを聞いた』  ……いや……こんなもんじゃない……こんな生やさしいもんじゃない。  猿渡哲三はパソコンの画面から顔を上げた。  こんな部屋でいくらキーボードを叩《たた》いても、あの戦場は再現できない。あそこは地獄だった。誰にも想像できないような、本物の地獄だった。  猿渡は老眼鏡を外して目の前のカーテンを開けた。一年でいちばん夜の長いこの時季、太陽は7時近くまで上らない。空のどこを見ても、微かな朝の気配すら感じられない。  老人は目を閉じた。そしてもう1度、あの戦場を思い浮かべようとした。祖国との絶望的な距離を、生命の危機を覚えるほどのあの暑さを、体内のすべての養分が枯渇し尽くすほどの飢えを、想像を絶するほどの湿度を、そしてどこにもはけ口がないあの絶対的な恐怖を——それを再現する言葉を探し出そうとした。  自分たちもまもなく死ぬ。児玉貞晴の遺言は決して祖国には届かない。あの日——それを誰もが知っていた。つまり、それが絶望ということだ。  猿渡は目を開き、再び老眼鏡をかけてキーボードに手を乗せた。そして不器用に指を動かし、パソコンの画面に無機質な文字を打ち込んでいった。 『あの日、あの場に居合わせた者の中で、わたし以外に日本に戻った者はいなかった。  児玉から遺言を聞いた佐竹優一郎という若い少尉も、「こりゃあ、助からんぞ」と呟いた遠藤次郎も、佐竹に命じられて児玉を背負った亀田治実も北田敏明も、さらにその周りにいた男たちも——誰も彼もが倒れ、虫や鳥や小動物に死体を食い荒らされ、腐って朽ち果て、誰も彼もが遥か南の島の原生林の土になってしまった……』  猿渡哲三はモニターから顔を上げた。  昨夜はどうしても執筆に集中できず、早い時間に床に入った。その代わり、夜中の3時に布団から出てパソコンに向かった。猿渡が机に座ってまもなく、ドアポストに朝刊がねじ込まれる音がした。  だが、猿渡はまだ朝刊を見ていなかった。  たぶん、それでよかったのだろう。届いた新聞をすぐに開いていたら、きっと老人は今朝も執筆などできなかっただろうから……。      2  寝静まった人々を起こしてしまうことがないように、朝香葉子は錆《さ》びた鉄の階段を忍び足で下りた。澄み切った夜空に星が瞬き、冷えた空気が耳や頬を痛いほどに痺《しび》れさせる。  アパート前の街灯の下に立つと、葉子は慣れた様子で柔軟運動を始めた。吐き出される息が顔の周りに煙のように漂っては消えていった。ペンキの剥《は》げた集合ポストには朝刊が投げ込まれていたが、別に見ようとは思わなかった。  やがて全身の強ばった筋肉がほぐれ、凍えていた体が充分に暖まると、葉子はアスファルトを蹴《け》り、いつものように海に向かって軽やかに走りだした。  葉子が海岸の手前にある公園の脇を走り抜けようとしていた時、公園の広い駐車場には数台の車が停まっていた。どの車も無人に見えたが、その中に1台だけ人の乗った車があった。  車の中で辺りの様子をうかがっていた男は、近づいて来る葉子の姿に気づいた。男は助手席のカメラを手に取り、スモークガラス越しにレンズを葉子に向けた。整った顔を紅潮させた葉子の姿がフレームいっぱいにズームされる。男は息を止め、静かにシャッターを押した。小気味よいシャッター音が、キューバ産葉巻の香る車内に響いた。      3  アラームが鳴るずっと前から、田島聖一は目を覚ましていた。  会社を解雇されてからこの1週間、ぐっすりと眠れたことなどなかった。昨夜も長女の克美が深夜に帰宅し、玄関を開ける音やシャワーを使っている音を聞いた。夜明け前に長男の純一がトイレに行った音や、朝刊が玄関に投げ込まれる音を聞いた。  枕から首をもたげる。まだ完全には明け切らない朝の光を受けた庭木の枝が、薄いカーテン越しに見える。小鳥たちがさかんにさえずるのが聞こえる。  ベッドを出て袖口《そでぐち》の擦り切れたカーディガンを羽織り、煙草に火を点ける。全身を不安と倦怠感《けんたいかん》が蝕《むしば》んでいるのがわかる。  煙草をふかしながら田島はぼんやりと、昨日のあの手紙の文面と、コインロッカーに残してきた銀色のアタッシェケースのことを思い出した。  ……もしあれが本物の時限爆弾だったら……そうしたら……。  煙草をくわえたまま立ち上がり、自室を出て玄関に向かった。  静かだった。田島は立ち止まり、無言で家の中を見まわした。  この家も、家の中のものも、ほとんどすべて田島の稼いだ金で買ったものだった。どんなささいなものも——電話も食器棚もテーブルもタンスも、テレビも冷蔵庫も電子レンジも洗濯機も、鍋《なべ》も炊飯器もフライパンもトースターも……薄汚れたスリッパも、テーブルに出しっぱなしのミルクもマーガリンも、キッチンのシンクに残った汚れた食器も——すべて、彼が労働の報酬として得た金で買ったものだった。  ……俺はいったい、誰のために働き続けたんだろう?  田島は冷たい廊下に立ち尽くして考えた。  夫婦間の愛情はとうの昔になくなっていた。いや、そんなものが最初からあったのかどうかさえ、疑わしかった。ふたりが最後に肉体的な交わりをもってから、すでに15年以上が過ぎていた。  妻だけではない。長男の純一は4年前、高校に入学した直後から登校しなくなり、20歳になる今も、トイレを使うのと深夜に風呂《ふろ》に入る以外に自室から出ることはない。そして、長女の克美もまた、いつの頃からか、田島の知らない女へと変わってしまった。妻に似て大柄で太った克美は、髪を金色に染め、派手な化粧をしていた。小遣いはたいして与えていないはずなのに、高そうなブランド物のバッグや靴やアクセサリーを持っていて、夜は遅くまで帰って来なかった。  ……いったい俺は何のために働いてきたんだろう?  そう考え続けながら玄関に向かう。履物が散乱した玄関に朝刊が投げ込まれている。横倒しになった克美のブーツを踏み付けてたたきに降り、屈み込んで新聞を拾い上げる。見るともなく一面に目をやる。  瞬間、全身を戦慄《せんりつ》が走り抜けた。 『時限爆弾の入ったアタッシェケース』 『クリスマス・イヴの午後10時に設定』 『ビルを吹き飛ばすほどの破壊力』  21日午後、横浜市内に住む風俗店勤務の女性(32)から港北署に金属製のアタッシェケースが持ち込まれた。「爆弾かもしれない」という女性の話に爆発物処理班が調べたところ、アタッシェケースの中には高性能の時限爆弾がしかけられていることがわかった。  この女性によると、21日の午前中に差出人のない手紙とプラスティックプレートの付いた鍵《かぎ》が自宅マンションに送りつけられ、新横浜駅のコインロッカーに行くように指示があったという。この女性は不審に思いながらも、同日の午後2時ごろ新横浜駅に行き、手紙に同封されていた鍵でコインロッカーを開け、そこに金属製のアタッシェケースが入っているのを見つけた。アタッシェケースの上には手紙が置いてあり、その手紙に、アタッシェケースの中身は強力な時限爆弾であり、クリスマス・イヴの夜10時に爆発すると書いてあった。怖くなった女性は警察に届け出た。  警察によると、アタッシェケースにセットされていたのは非常に強力な時限爆弾であり、小さなビルなら軽く吹き飛ばしてしまうほどの破壊力があるという。手紙にあったとおり、12月24日の午後10時に爆発するようにセットされていた。  事態を重く見た県警ではただちに特別対策本部を設置し、この女性に手紙を送った人物を捜すとともに、時限爆弾の製造過程や、同じような時限爆弾がほかにないのかの捜査を開始した。  この女性は2年ほど前から横浜駅西口の風俗店に勤務しているが、思い当たるふしはまったくないという。  時限爆弾の入っていたアタッシェケースはドイツ製で、縦45cm横60cm幅25cmのアルミニウム製。日本国内でもかなりの数が販売されている。 「……嘘……だろ?……」  田島は呻《うめ》いた。  キッチンに入り、震える手でテレビのスイッチを入れる。そこにライトグリーンのコインロッカーが映し出された。リモコンでチャンネルを変えてみる。そこにも同じコインロッカーが映っている。コインロッカーの前に立ったアナウンサーが強ばった顔で喋《しやべ》っている。  田島聖一はテレビの画面を呆然《ぼうぜん》と見つめた。      4  タイマーが≪プン≫と音を立て、テレビのスイッチが入った。眠い目をこすり、布団の中からぼんやりとテレビに目をやる。画面に映っているのはいつもの芸能ニュースではなかった。  ……あれっ? チャンネルを間違えたかな?  北村治子《きたむらはるこ》は油染みた枕に顔を埋め、再び目を閉じた。だが、そろそろ起きなければならない時間だった。きのうはマンション清掃のパートを休んでしまった。ただでさえ主任に、「休み過ぎだ」と文句を言われている。きょうは休むわけにはいかなかった。  北村治子は布団の中で顔をゴシゴシと擦り、太った体を起こしかけた。そして、そのままの姿勢で石化した。  ……何だって?  小さな目を見開き、テレビの画面に見入る。そこでは男のアナウンサーが時限爆弾の仕掛けられたアタッシェケースについて喋っている。  一瞬、夢の続きかと思って部屋の中を見まわした。剥がれかかった薄茶の壁紙や、染みのできた天井、色の変わった畳、いたるところに散乱した衣類や雑誌や紙くず……。ぼんやりとした頭がはっきりしていくにつれて心臓が高鳴り始めた。  ……まさか……嘘だろ?……まさか……あれは……本物の爆弾だったんだ!  慌てて布団を飛び出すと、寝巻にしているスウェットのままアパートを出て、すぐ近くのゴミ集積場へと走った。冷たい風が吹いていたが、寒さは感じなかった。  公園の角に作られたゴミ集積場には、ゴミの詰められたビニール袋が山のように積まれている。朝いちばんでカラスたちが引きずり出した生ゴミが、アスファルトの路上に散乱している。北村治子はそのゴミの山の一点を見つめた。  ……ない。  昨夜、積み上げられたゴミ袋の上に、確かにあのアタッシェケースを、無造作にポンと投げ捨てたはずだった。だが今、それはどこにも見当たらなかった。  ゴミのビニール袋をどかしてみる。やはり、ない。その隣のビニール袋も、さらにその下のビニール袋も、次から次へとどかしてみる。だが、やはりない。  駅に向かうサラリーマンやOLが、ゴミを漁《あさ》る中年女を不思議そうに見ている。破れた袋から滲《にじ》み出た汚水がスウェットの膝《ひざ》を汚す。けれど、そんなことは気にしていられなかった。北村治子は白髪交じりの髪を振り乱してゴミの山を漁り続けた。  ——12月24日、午後9時。  手紙の文面を思い出した。  ……畜生っ、本物だったのか……畜生っ、何てバカなことをしちまったんだっ!  朝の光の中で、北村治子はゴミ袋をどかし続けた。だが、どれほど捜してもアタッシェケースはどこにもなかった。  ……本物だとわかってたら捨てやしなかったのに……。  万馬券を外れ馬券と一緒に捨ててしまったような気分だった。畜生っ、畜生っ、と繰り返しながら、茅ヶ崎市|辻堂《つじどう》のアパートにひとりで暮らす56歳の掃除婦は冷たい路上にしゃがみ込んだ。      5  通路に置いたダンボール箱の中にうずくまって、富樫夏雄《とがしなつお》は紙袋の中身をしきりにいじっていた。  富樫のすぐ目の前を、歩いているだけで下着が見えそうなスカートを履いた女子高生たちが通り過ぎて行く。底の厚いストレッチブーツや、踵《かかと》の高いパンプスを履いた女たちが歩いて行く。いつもならダンボール箱の中に横になり、そういう女たちの脚や腿《もも》を食い入るように見つめるのだが、きょうの富樫はそんなものは見ていなかった。汚れた爪の先でダイヤルを……『363』……『364』……『365』……『366』……と、順番に、根気よく回していた。  辻堂の駅前ロータリーにはバスが次々と入って来て、大勢の人々を降ろしていった。タクシー乗り場には客待ちのタクシーが列をなして停まっていた。冷たい風とコンクリートの地面から這《は》い上がる冷気が、不健康に太った富樫の体を震わせた。  ……『379』……『380』……『381』……『382』……富樫はダイヤルを回し続けた。  周りには富樫と同じように住む場所をもたない者が10人ばかりたむろしていた。ほとんどが顔見知りで、雑談をしたり、時には一緒に酒を飲んだりした。けれど彼らの本当の名前は知らなかったし、年がいくつなのかも、どうして路上で暮らすようになったのかも知らなかった。  辺りには酸化した体臭やアルコールの臭い、小便の臭いなどが漂っていた。道行く人々は無表情に、あるいはあからさまに顔をしかめて、彼らを一瞥《いちべつ》していった。  ……『394』……『395』……『396』……『397』……。富樫は紙袋に隠したアタッシェケースのダイヤルを回し続けた。  富樫は今朝、まだ日の出前に、それを近くの公園の隅のゴミ集積所で見つけた。当然、中身は空っぽだと思った。けれど取っ手に手をかけると、それはズシリと重かった。  ……何が入ってるんだろう?  ツマミをスライドさせるとカチッという音がして留め金が上がった。だが、ダイヤルロックがされているらしく、蓋《ふた》は開かなかった。ほかのゴミ漁りの連中に見つからないように素早くそれを紙袋に隠してから、富樫はゴミ漁りを続けた。  ……『412』……『413』……『414』……『415』……。  ロックは解除されなかったが、『999』までは続けるつもりだった。こんなに集中して何かをするのは久しぶりだった。  ……何が入ってるんだろう?……こんなに苦労させて、犬や猫の死骸《しがい》とかだったらただじゃおかないぞ。  富樫は顔を上げ、筋肉をほぐすように首をまわし、辻堂の街を見渡した。もうすぐクリスマスだった。駅前には巨大なツリーが立てられ、街のいたるところからクリスマス・ソングが聞こえた。ケーキ屋の前では、アルバイトの少女たちが声を張り上げていた。目の前をバスから降りた人々が足早に通り過ぎていった。  かつては自分にも行くべき場所や、行くべき時間があったこと、自分を待っている人がいたことを富樫は思い出しかけた……けれどそれはもう、ずっとずっと昔のことだった。今の彼には、行かなければならない場所も、しなければならないこともなかった。彼を必要とする人も、彼が来るのを待っている人も、今ではどこにもいなかった。  富樫は再び視線を落とし、紙袋の中に隠したアタッシェケースのダイヤルを回し始めた。ダイヤルをひとつ回しては蓋を左右に押し開くという作業を繰り返していた。  ……金塊でも入っていたりして……いや、まさか。  埃《ほこり》っぽい風が吹き抜け、富樫夏雄はまた身を震わせた。      6  コタツの上には母が作った朝食が並んでいた。父と姉の仏壇では小さな椀《わん》に盛られたご飯が湯気を上げていた。朝のジョギングから戻った朝香葉子はシャワーを終え、短い髪をバスタオルで拭《ふ》きながら食卓に置かれた今朝の新聞に目をやった。 『時限爆弾の入ったアタッシェケース』 『クリスマス・イヴの午後10時に設定』 『ビルを吹き飛ばすほどの破壊力』  新聞の一面には大きな文字が並んでいたが、すぐには何のことだかわからなかった。だが、やがて、バラバラだったパズルが正しい位置に嵌《は》め込まれていくように、事態がゆっくりと頭の中で形になっていった。心臓が高鳴り始めたのがわかった。  朝刊を手に、葉子は無言で自室に行った。ベッド脇のゴミ箱に手を突っ込み、差出人のない葉子宛の手紙と、札に『234』という数字が付いた小さな鍵《かぎ》を拾い上げた。  急いで着替えを済ませると、湯気の上がる朝食を前にして葉子を待っていた母に、「お母さん、ごめん。ちょっと急用を思い出して……今、すぐに出かけなきゃならなくなっちゃったの」と言った。 「急用って……朝ご飯ぐらい食べて行けるんだろ?」  母が驚いた様子で葉子を見上げる。 「それがダメなの……ごめんね。悪いけど、ひとりで食べてて……ごめんね」  それだけ言うと葉子はアパートを出た。古い自転車にまたがり、平塚駅に向かった。  234番のコインロッカーはすぐに見つかった。葉子はジーパンのポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込み、水色の扉を開いた。  暗く狭い空間に金属製の物体が見えた。      7  富樫夏雄は紙袋の中のアタッシェケースのダイヤルを回し続けていた。……『707』……『708』……『709』……『710』……。  駅前ロータリーにまたバスが到着し、中からたくさんの人が降り立った。スーツ姿のサラリーマン、中年の主婦、子供や赤ん坊を連れた母親、制服姿の高校生やカジュアルな格好をした大学生、OL、老人、若い恋人たち……誰もが富樫たちがうずくまる冷たい通路を抜け、足早に駅に向かって行った。  ……『724』……『725』……『726』……『727』。  あっ、開いたっ!  富樫はアタッシェケースの蓋を左右に開いた。  ——だが、中身を認識する時間はなかった。  次の瞬間、凄《すさ》まじい≪力≫が世界を支配した。      8  朝の平塚駅は通勤の人々でごった返していた。朝香葉子はアタッシェケースの上に乗っていた封書を掴《つか》むと、その場で封を切って中身を取り出した。コインロッカーの前に立ったまま便箋《びんせん》に目を通し、素早く辺りを見まわしてから携帯電話を取り出し、110をプッシュした。電話に出た警察官に自分の名を名乗り、「今朝の新聞に載っていたアタッシェケースと、たぶん同じものを持っています」と言った。  電話の向こうの警察官がひどく驚いた声を出すのが聞こえた。      9  テレビではワイドショーの女性レポーターと軍事評論家が、新横浜のコインロッカーで見つけられたアタッシェケースについて喋《しやべ》っている。それを頭の片隅で聞きながら、小林和喜《こばやしかずき》は分厚いイベント情報誌を眺めていた。  ほんの2時間前まで、クリスマスのイベントになど関心はなかった。そんなものは、うざったいだけだった。だが今、事情が変わった。今、小林は、クリスマス・イヴの正午に誰がどこに集まっているのかが猛烈に知りたかった。  今朝のテレビであのアタッシェケースが本物の時限爆弾だったのだという事実を知った時、小林は飛び上がるほどに驚いた。すぐに、押し入れに押し込んであったアタッシェケースを引っ張り出し、大きなスポーツバッグに詰め込んで部屋を飛び出した。そして再びそれを本厚木《ほんあつぎ》駅の、最初にそれが入っていたのとは別のコインロッカーに入れた。心臓を高鳴らせながらアパートに戻る途中で、分厚いイベント情報誌を買った。  ……本物だったんだ。あれは本物の時限爆弾だったんだ。  クリスマス・イヴの正午——。  暗い欲望が体の中に心地よく広がっていくのがわかった。  小林和喜は2年ほど前から本厚木近くのアパートに住み、繁華街のイタリア料理店でウェイターのアルバイトをしていた。  小林は11年前の春、都内のデザイン専門学校に入学するために富山から上京した。そこでセンスと技術を磨き、有名なグラフィックデザイナーになるつもりだった。勉強は嫌いだったが、色彩感覚にはちょっと自信があった。  だが、有名なグラフィックデザイナーになるという小学生の頃からの夢は、東京での数カ月の暮らしの中でドライアイスのように蒸発し、跡形もなく消えてしまった。デザイン学校には明らかに小林より才能のある学生が何人も何人もいた。冷静に、客観的に考えれば、自分が有名なグラフィックデザイナーになるのは3億円の宝くじに当選するようなものだとわかった。小林は入学から半年で学校を辞めた。  それから10年2カ月——30歳になった今も、人生は思いどおりにならなかった。  夜中に音楽を聴いていれば隣の住人から「うるせえ、バカ野郎っ!」と怒鳴られる。生ゴミの袋に空き缶を入れただけで大家から文句を言われる。何をしたわけでもないのに、隣の部屋の女は小林を汚らわしいものでも見るかのような目で見る。  恋人はいなかったし、友人らしい友人もいなかった。同じレストランでバイトしている若い連中と遊びに行くこともなかった。時折、ドアフォンを鳴らすのは新聞の勧誘か、NHKの集金人か、ずっと払っていない健康保険料の徴収人ぐらいだった。  部屋は散らかり、ゴミが溢《あふ》れていた。敷きっぱなしの布団からは、体臭が強く匂った。  今年もまたクリスマスがやって来る。きのうまで、それを思うと憂鬱《ゆううつ》で憂鬱でたまらなかった。けれど、あのアタッシェケースによって、すべてが変わった。  頬を紅潮させ、胸を高鳴らせたまま小林和喜は情報誌のチェックを続けた。  ……クリスマス・イヴの正午に、あれをどこに、どうやって置こうか?  小林は人気ロックグループのコンサート会場に集まった何万人という人々の真ん中で爆弾が炸裂《さくれつ》し、若者たちが血みどろになって泣き叫んでいる様子を想像した。クリスマス・イヴのささやかな楽しみのために集まった若者たちの人生を、自分の力で目茶苦茶にすることができる。そう思うと最高だった。  ……やつらの運命は、この俺が、この手に、握り締めてるんだ。  小林自身の休日はいつも昼過ぎまで眠り、財布の中身を気にしながら近くのスーパーで買い物をし、ささやかな食事を作って食べ、ひとりきりでビデオを見るという、ただそれだけのものだった。人々が家族や恋人や友人たちと話したり笑ったりしている中に、小林はいつもひとりでいた。  ——だが今、ついに復讐《ふくしゆう》の時がやって来た。  ……人が集まるところならどこでもいい。幼稚園や小学校、中学校や高校や大学でもいい。そうだ、女子高とか女子大なんか最高だろうな。  情報誌を見つめたまま小林は、血みどろになった少女たちがのたうちまわっている光景を想像した……校庭に転がった少女の首……千切れた乳房……焼け焦げてチリチリになった髪……ルーズソックスを履いた足……皮膚の剥《は》がれ落ちた顔……あるいは、手足をなくしてイモムシのように地を這《は》う少女……。  その時、テレビのアナウンサーが「たった今、たいへんなニュースが飛び込んできました」と言うのを聞いた。 「つい先ほど、JRの辻堂駅前で大爆発が起き、多数の死傷者が出ているもようです」  小林和喜は歓喜に震えた。      10 『辻堂駅前で大爆発』 『70人以上が死傷。今なお、多数の行方不明者』 『……22日午前8時15分ごろ、神奈川県茅ヶ崎市のJR東海道線辻堂駅南口前でドーンという大音響とともに大きな爆発が起こった。この爆発で駅ビルの一部や付近の店舗などが全半壊し、近くにいた歩行者や買い物客など現在までにわかっているだけで20人が死亡、50人以上が重軽傷を負って病院に運ばれた。崩れ落ちた建物の中にまだ相当の人がいると思われるため、死傷者の数は今後もさらに増える可能性がある。負傷者の数があまりに多いため、隣接する茅ヶ崎や藤沢などからも多数の救急車が現場に駆けつけ、負傷者の搬送にあたっている……』 『……そこはまさに戦場だった。クリスマスを控えて賑《にぎ》わう街の姿はどこにもなかった。付近の建造物は原型をとどめないほど激しく損傷し、鉄骨はグニャグニャに折れ曲がり、壁は黒く焼け爛《ただ》れ、分厚いアスファルトやタイルがめくれ上がっていた。傷ついて倒れた人々や、瓦礫《がれき》の下敷きになった人々が口々に助けを求め、辺りには血と肉の臭いや蛋白質《たんぱくしつ》が焼け焦げる臭い、そしてきな臭い火薬の臭いが立ち込めていた。  爆発のあったとみられる付近には深い穴があき、人の肉片と思われるものが散乱していた。不自然に手足を曲げた死体、マニキュアをした手やブーツを履いたままの足、指輪や腕時計やブレスレットを嵌《は》めた腕、幼児のものらしい小さな手足、毛髪のついた頭皮、どす黒く色を変えた内臓、歯や骨のついた肉片……。  救急車がサイレンを鳴らしながら次々と到着し、怪我の重い人から順に病院に搬送していたが、現場にはいまだにたくさんの重症者が、もがき、苦しんでいた。担架に乗せられた老人が「水を……水を……」と呻《うめ》いていた。老人の着ている白いシャツの腹部が、絞れるほどの鮮血に染まっていた。頭から血を流した5歳ぐらいの少女が「ママ、ママはどこ?」と泣き叫んでいた。若い男性が恋人の名を叫びながら瓦礫のあいだをさまよい歩いていた。血まみれの若い母親が子供の遺体に取り付いて泣き叫んでいた。戦場——まさしくそこは、戦場だった……』      11 「あーっ、うるさいっ! うるせえんだよっ、お前らっ!」  頭から被っていた布団をはねのけて早坂《はやさか》チエミは叫んだ。瞬間、捕食者の気配を感じた草食獣のように、子供たちがビクっと身をすくめたのがわかった。  チエミは布団から飛び出すと、逃げようとする早苗《さなえ》の肩を蹴《け》り倒し、鼻水で口の周りを汚して泣いている龍太《りゆうた》の頬を張り飛ばした。コタツ板が引っ繰り返り、子供たちが食べていたコンビニの弁当が散乱した。 「お前ら、ちょっとは静かにしてられねえのかよっ!」  声の限りに怒鳴りながら、脅えて泣き叫ぶ2歳の長男の頬をもう1度殴りつけた。龍太の小さな体はその一撃でふっ飛び、鈍い音をたててタンスの角に頭を打ち付け、床に転がって動かなくなった。  けれどチエミは動じなかった。それどころかさらに激高し、「早苗っ、この野郎っ、待てっ!」と叫びながら、玄関に逃げた4歳の長女を追いかけ、その襟首を掴《つか》んで力任せに引きずり倒した。 「泣くなっ、泣いたら殺すぞっ!」  ヒステリックな母親の叫び声に、早苗は必死で嗚咽《おえつ》を堪え、脅えた顔でチエミを見上げた。チエミは早苗の頬を思い切り張ると、立ち上がって叫んだ。 「いったいママが誰のために、あんなやりたくもないことしてると思ってんだよっ! お前たちのためだろっ! わかってんのかよっ!」  叫びながら湿った布団に戻り、再び掛け布団を引っ張りあげた。龍太は声ひとつ出さず床に転がっていたが、チエミは気にしなかった。子供たちを殴った右手が痺《しび》れ、激しく動いたせいで背中の傷がまた疼《うず》き始めた。  イライラしながら掛け布団をはねのけ、ペチコートとショーツという格好のまま俯《うつぶ》せになった。消すことのないガスストーブのお陰で、部屋は裸でいても寒くないほどだった。  枕元から煙草を取ってくわえる。すぐ脇にはきのう郵送されてきた高校時代の友人からの葉書がほうり出してある。葉書の裏にはウェディングドレスを着た友人が、新郎と一緒にキャンドルに火を灯す写真が印刷されている。  ……ちえっ、よく智世みたいなブスと結婚する物好きがいたよ。  葉書を引き裂いて灰皿に突っ込み、ライターで火を点けた。火はたちまち葉書の表面に広がり、友人の顔が青白い炎に飲まれていった。  部屋の隅のゴミ箱からは弁当やカップラーメンの空き容器、スナック菓子の空き袋、汚れたティッシュや紙くずなどが溢れている。ピンクの電気カーペットには埃《ほこり》が浮き、チエミや子供たちの髪が何本も落ちている。それらをイライラと見つめながら、チエミはまた、幸福の循環と不幸の循環のことを考えた。 『世の中には幸福の循環と不幸の循環がある』  チエミはそう確信している。  それぞれの循環には入口も出口もなく、幸福な人たちは幸福の循環を、不幸な人たちは不幸の循環をそれぞれに永遠に回り続ける——チエミにとってそれは、世界を支配する絶対的な真理だった。  チエミの父は不幸の循環の人間だったし、母も同じだった。そしてシマウマの子がシマウマとして生まれるように、チエミもまた不幸の循環の子として生まれた。それはチエミの責任ではなかったが、決定的なことだった。  15歳の夏に家出して彼氏と暮らし始めた時、チエミは不幸の循環から抜け出すつもりだった。いや、いつも、新しい男たちと暮らし始める時はそのつもりでいる。けれど、不思議なことに、チエミが付き合うのはいつも不幸の循環の男ばかりだった。それどころか、チエミの周りにいるのは、誰も彼もが不幸の循環の住人だった。  だから23歳になった今も、チエミは不幸の循環にいる。グルグルグルグル、人工衛星のようにそこを回り続けている。  深く煙草を吸い込む。背中の傷がまた疼く。 「ああ、ヤダヤダっ」  吐き捨てるように言うと、早坂チエミは壁を睨《にら》みつけた。  コタツの向こうでは龍太がか細い泣き声を上げ始め、そのこちら側では早苗が嗚咽を抑えながら散乱した弁当を片付けている。チエミはテレビのスイッチを入れ、何げなく画面に目をやった。そして、次の瞬間、火のついた煙草を手にしたまま凍りついたように動かなくなった。  そこには信じられない光景が映し出されていた。  いつの間にか口の中がカラカラになっていた。煙草がすっかり燃え尽き、寝起きの頭がすっきりしていくにつれ、チエミは自分がとんでもない力を手に入れてしまったのだということに気づいた。  ……あれはイタズラじゃなかったんだ。  こうしてはいられなかった。  チエミは布団から飛び出すと、部屋の隅のゴミ箱に駆け寄った。ゴミの溢《あふ》れたゴミ箱を引っ繰り返し、クチャクチャに丸められた封書を捜し出した。さらにゴミの山を引っ掻《か》きまわし、黄色いプラスティックプレートの付いた小さな鍵《かぎ》を見つけ出した。 「ママはちょっと出かけてくるから、おとなしく留守番してるんだよ」  早苗に言いながら、慌ただしく服を着る。ブラジャーのホックを嵌める時、また背中の傷が鋭く痛んだ。  テレビでは相変わらず辻堂の爆発現場からの中継が続いている。爆発で娘を亡くした若い女がカメラの前で夫に抱えられ、狂ったように泣き叫んでいる。チエミはその女を見つめ、きっとこの女は悲しいことや辛いことに慣れてないんだ、と思った。  この女は親に大切にされ、夫に愛されて、幸福の循環の中で平和に幸せに暮らして来たんだ。いい気味だ。幸せに暮らしてきた報いだ。  着替えを済ますと、チエミは踵《かかと》の擦り減ったミュールを突っかけて外に出た。風が恐ろしく冷たかったが、そんなことはまったく気にならなかった。      12  爆発物処理班では警察に持ち込まれたアタッシェケースの分析が続けられていた。  アタッシェケースの中の主爆薬として使用されていたのはコンポジションC4と呼ばれるプラスティック爆薬であり、爆轟《ばくごう》した瞬間に熱とガスに変わって凄《すさ》まじい爆風と衝撃波を発生し、殺人的な破壊力を生み出すものだった。持ち運びの安全のために、アタッシェケースには衝撃や摩擦に対して反応が鈍く、発火装置がなければ爆発しないような特別な設計がなされていた。それは、より爆発しやすい雷管を穴を開けた補助爆薬の中に埋め込んだもので、信管が雷管を起爆させ、この雷管が小爆発を起こし、その衝撃波によって主爆薬が大爆発を起こすという構造になっていた。  それはイギリスのSAS特殊部隊が敵の公共施設や工場、指令本部、核兵器発射施設、船舶、飛行場、橋梁《きようりよう》、鉄道、補給品などを破壊するために開発したものによく似ていた。だが、押収されたアタッシェケースにはSAS特殊部隊のそれよりさらに多量の爆薬が内蔵されており、爆発物製造の専門知識をもった別のグループによって製造されたものと思われた。  それは非常に高性能な時限爆弾には違いなかった。だが、核爆発装置でさえ『10人の専門家が1年もかければ、実験室規模の施設で作れる』(元ロスアラモス研究所・核兵器開発責任者カーソン・マーク博士)と言われるこの時代である。この程度の爆弾なら、世界のブラックマーケットにはいくらでも出まわっていた。日本への持ち込みでさえ、金さえかければ方法は無数にあるものと思われた。  アタッシェケースの製造・流通経路は依然として不明だったが、辻堂での爆発からわずか1時間後に、神奈川県警は爆発事件の重要参考人と思われる人物を見つけ出した。この人物が昨夜遅くに、爆発現場から100mほど離れたゴミ集積所に金属製のアタッシェケースを捨てているのを、近所の住人が目撃していたのだ。  警察に任意同行を求められたのは、辻堂駅南口近くのアパートに暮らす北村治子という56歳の独身女性で、藤沢市内の清掃会社にパートタイマーとして勤務していた。  警察での事情聴取に、北村治子はアタッシェケースを捨てたのが自分であるという事実を認めた上で、自分はあれが爆弾だとは信じていなかった、自分はこの爆発事件にはまったく関係がないと主張した。 「気持ち悪いから捨てたんだよ。それだけだよ。時限爆弾だなんて、そんなバカバカしい話、信じられるわけがないじゃないか?」  北村治子が警察に対して行った説明は、最初にアタッシェケースを警察に届け出た風俗店勤務の32歳の女性と同様のもので、彼女たちから押収された手紙類の筆跡も同一のものだった。警察はアタッシェケースをバラ撒《ま》いたのは同一人物であると断定し、このふたりの女性の接点を見つけ出すことによって犯人を割り出そうとした。  凄まじい破壊力をもった超高性能時限爆弾が、少なくとも2個存在した。だが、もしかしたら、同様のアタッシェケースはほかにもあるのではないか? 危険なアタッシェケースを所持しているにもかかわらず、警察に届け出ていない者がいるのではないか? 誰もがそう考えた。そして、それを裏付けるかのように、金属製のアタッシェケースを持ち歩いていた男を見かけたという証言や、金属製のアタッシェケースをもってタクシーに乗った女がいるという証言が警察に入っていた。  32歳の風俗嬢と56歳の掃除婦——ふたりのあいだに接点はほとんど見つからなかった。生活範囲も異なっていたし、共通の友人もいなかった。あえて言えば、ふたりはともに離婚の経験があり、今はそれぞれ社会の底辺に近い場所で、自分は恵まれていないと感じながら、幸福に暮らす人々を羨《うらや》み、妬《ねた》んで生きていた。だが、そんな人間はいくらでもいたし、それだけでは何の手掛かりにもならなかった。  警察は捜査を続けた。  その時、捜査本部に、平塚駅のコインロッカーから、時限爆弾が内蔵されていると思われる新たなアタッシェケースが見つかった、という報告が入った。警察に通報してきたのは、平塚のアパートに母親とふたりで暮らす30歳の元長距離走者の女性だった。      13  勤め先の筆記具工場には、きょうも警察から電話をした。  迷惑をかけて申し訳ないが、もう1日警察で事情聴取を受けることになったので、あと1日だけ休ませて欲しい。そう伝えると、葉子を信頼しきっている係長は、「朝香さんも大変ですね」と言った。係長はきっと、きのうの一家4人無理心中の件だと思っただろう。隠し事をしないのが葉子の主義だったが、アタッシェケースのことは係長には言わないでおいた。  平塚駅から警察に110番通報をした葉子がコインロッカーの前で待っていると、どこからともなくパトカーのサイレンが近づいて来て、やがて制服姿の警察官が数人と、ヘルメットを被ったものものしい雰囲気の男たちの一団が駆けつけて来た。周囲にはたちまち人だかりができた。制服の警察官が大声で、「下がってくださいっ! 危険ですから下がってくださいっ!」と叫んでいた。進み出た警察官に葉子が簡単に事情を説明し、ヘルメットの男たちのひとりが緊張した面持ちでコインロッカーの扉を開けた。ロッカーの中に金属製のアタッシェケースが姿を見せた瞬間、周囲から声にならないざわめきが起きた。  署での事情聴取はきのうよりずっと長時間に及んだ。葉子に質問をする刑事や警察官の態度も尋問調で厳しいものだった。その事情聴取の最中に葉子は、JR辻堂駅付近で今朝、大きな爆発があり、非常にたくさんの死傷者が出たという事実と、警察が回収した葉子宛のアタッシェケースが強力な破壊力を持った時限爆弾であり、クリスマス・イヴの午後5時に爆発するようにセットされていたという事実を知った。  32歳の風俗嬢と56歳の掃除婦、そして30歳の元長距離ランナー——事情聴取に当たった男たちはこの3人の女たちに、何らかの接点があるはずだと考えていた。  32歳の風俗嬢と56歳の掃除婦は社会の底辺で、決して恵まれているとは言えない日々を生きていた。そして葉子も、かつては大企業の陸上部に所属する長距離走者だったとはいえ、今は古い木造アパートに病弱な母親とふたりで暮らす工場のパートタイマーに過ぎなかった。若くない風俗嬢や中年の掃除婦と同じように、葉子もまた、社会の底辺で生きていた。少なくとも、事情聴取に当たった者たちの大半がそう思った。  刑事たちは、葉子がきのう、海岸沿いの防砂林で無理心中を図った家族を助けようとしたという事実さえをも怪しんだ。彼らの質問は葉子の生い立ちからその後の経歴、交友関係や、非常にプライベートなことまで多岐に及んだ。 「会社を辞めてから2年ですか?……大きくて立派な会社なのに、どうして辞めちゃったのかな?」  刑事のひとりが馴《な》れ馴れしい口調できいた。 「わたしは陸上選手として採用された人間ですから、選手を引退したあとも会社に残ることはできません」 「会社から辞めるように強要されたとか?」 「強要されたことはありません」 「朝香さんは陸上選手としては、何ていうか……一流というわけじゃなかったみたいですけど、それはどうしてかな?」 「どうして?……質問の意味がわかりません」 「だから、朝香さんが一流の選手になれなかったのは、朝香さんを指導した監督やコーチが悪かったとか……」 「そうではないと思います。チームには一流の選手が何人もいましたから。たぶん、わたしに才能がなかったんです」 「監督やコーチが朝香さんの才能を引き出せなかったと思うことはない?」 「そんなふうに考えたことはありません」 「オリンピックの選考会に勝ったのに、おかしなことに朝香さんは代表に選ばれなかった。ひどい話だよね。そのことをどう考えてます?」 「あの時は残念に思いました。だけど、もう終わったことです」  窓のない取り調べ室はヤニ臭く、空気がよどんでいた。机の上ではテープレコーダーが回っていた。葉子は堅い椅子に姿勢よく座り、時折無意識に、左手に嵌《は》めた父母の結婚指輪に触れながら、男たちの、時には非礼でぶしつけにさえ聞こえる質問の数々に毅然《きぜん》とした態度で答え続けた。 「今は近くの工場でパートタイマーをしてるんですよね? お母さんは病気で働けないみたいだし……失礼ですけど、生活は楽じゃないでしょ?」 「楽ではありませんが、生きていくことはできます」 「工場の仕事って、大変なんでしょ?」 「確かに大変ですが、わたしは、ああいう、地道な仕事が好きなんです」 「独身だけど、恋人みたいな人はいるの?」  男たちのひとりが葉子の左手のふたつの指輪を見て言った。 「いません」 「別れたの?」 「いえ、恋人がいたことはありません」 「そんなに美人でスタイルもいいのに、どうしてかな?」  男は、ぴったりとしたジーパンにぴったりとしたセーターを着た葉子の細い体をなめるような視線で見つめた。「もしかしたら男は嫌いなの?」 「それは、どういう意味ですか?」 「だから男じゃなく、その……女の人のほうが好きとか?」 「そういうことはないと思います。ただこれまでに、好きになった男性がいなかったというだけのことです」 「好きになった男性がいない? どうしてだろう? 昔、男の人に何か、その……ひどいことをされたとか?」  質問の意味がわからず葉子は沈黙した。 「たとえば、ほら……無理やり乱暴されたとか」 「そういうことはありません」 「それじゃ、その……今までに男の人とそういうことをした経験はないの?」 「その質問に答える必要はないと思います。わたしはあなたたちの捜査に協力してるんであって、プライベートな性体験を告白しに来ているわけではありません」  葉子はわずかに語気を強めたが、男たちはそれにはおかまいなしに質問を続けた。 「ところで朝香さん、川上由美恵《かわかみゆみえ》という女の人を知らないかな? 32歳のバツイチの女で、今は横浜の風俗店で働いてるんだけど」 「……知りません」 「それじゃ、北村治子という女は? この人は56歳の掃除のオバチャンで、やっぱりバツイチ……って言っても、離婚して20年もたつんだけどね」 「記憶にありません。その女の人たちもあのアタッシェケースを持っていたんですね?」 「まあ、そうなんだけどね。記憶にないか?……そうか……朝香さん、以前に風俗店とかでアルバイトしたことはある?」 「風俗店……?」 「そう。ピンクサロンとかファッションマッサージとかソープランドとか……あっ、大丈夫。ここでの話は外には絶対に漏れないから、正直に答えてくださいね……そういうところでお小遣い稼ぎとか、したことない?」 「ありません」 「水商売のアルバイトの経験は?」 「ありません」 「隠して、あとでわかると面倒なことになるから、正直に答えてくださいね」 「隠したりはしません。人に隠さなくてはならないような人生は送ってきていないつもりですから」  そう答えて葉子は相手の目を睨《にら》むように見つめた。 「そうか? われわれはみんな、人に隠さなくちゃならないような人生を送ってきたからなあ」  年配の男がそう言って笑い、周囲の男たちも一緒に笑ったが、葉子は笑わなかった。 「いや、われわれはね、さっき話したふたりのバツイチの女性、32歳のピンクサロンの女と56歳の掃除のオバチャンね、この女たちと朝香さんとのあいだに接点を見つけ出そうとしてるんですよ……犯人が同じだということは、どこかに必ず接点があるはずなんです……別に興味本位で質問してるわけじゃないんでね。腹が立つかもしれないけど、我慢してくださいね」 「わかってます」 「それじゃあ、質問を続けますよ。あの手紙を最初に読んだ時、どう思いました?」 「バカバカしいと思いました」 「誰かを思い浮かべたりはしませんでした?」 「考えもしませんでした」 「あのアタッシェケースは平塚駅北口の234番のコインロッカーに入ってたんだけど、この234番っていう数字に心当たりはない?」 「昔、そういうゼッケンを付けて走ったことがあります」 「それはいつのこと?」 「今から6年前の1月の、オリンピックの代表選考会だったレースです。あの時のわたしのゼッケンが234でした」  男たちがいっせいに顔を見合わせた。 「朝香さん、誰かに付きまとわれてるとか、そういうことはない?」 「今はありません」 「今は? それじゃあ、昔はあったの?」 「選手だった頃はありました」 「どういうふうに付きまとわれたの?」 「ラブレターみたいな手紙を何度も送られたりとか……競技場や練習場や合宿場でしつこく写真を撮られたりとか……わたしのいる宿舎まで押しかけて来られたりとか……誕生日やクリスマスにプレゼントを贈られたりとか……」 「クリスマスにプレゼント?」  男たちがまた顔を見合わせた。「それはどんなプレゼントだった?」 「いろいろです。たいていは花束ですけど、シューズやウェアや栄養剤みたいなものを贈られたこともあります。化粧品をプレゼントされたこともあるし……受け取りませんでしたけど高価な時計やアクセサリーをプレゼントされそうになったこともあります。それから……下着やネグリジェを贈られたことも何度かありました」 「下着やネグリジェねえ……どんな下着だったの?」 「シルクやレースの下着です」 「透け透けのやつ?」 「そういうのもありました」 「朝香さん、それを身に着けたの?」  何人かの男たちがまた自分の体を見るのを葉子は感じた。 「いいえ」 「どうして?」 「機能的ではないからです」 「はっきりしてるんだね?……ところで、そういう熱心なファンっていうか、ストーカーみたいな人は大勢いた?」 「いちばん多い時で10人くらいいました」 「それは多いほうなの?」 「わたしみたいな無名の選手にしては多いほうです」 「なるほど……朝香さん、美人だからね。で、そういうファンっていうのは、いったい、どういう人たちなの?」 「たいていは20代か30代の男性でしたが、中年の男性や女性もいました。若い女の子や、お年寄りもいました。いろいろです」 「へえ? 若い女の子もいるんだ?……ちょっとその人たちのひとりひとりについて詳しく聞きたいな」  事情聴取は昼食をはさんで午後も行われ、葉子は昼に母親に電話をして簡単な事情を説明した。心配していたに違いない母は、「わかったよ」と落ち着いた声で言っただけで、それ以上は何もきかなかった。  結局、葉子が警察から解放されたのは午後4時を回っていて、街には早くも夕闇が漂い始めていた。警察官のひとりが葉子を自宅まで送り届けると申し出たが、葉子はそれを断り、バスを乗り継いで帰宅した。もう1分だって警察関係者とは一緒にいたくなかった。  自宅では母が心配顔で葉子の帰りを待っていた。 「大変だったね」  コタツに座った葉子にお茶をいれながら母が言った。「疲れただろ?」  葉子は笑顔で頷《うなず》いた。 「でも、大丈夫。心配させてごめんね」  居間のテレビには辻堂の爆発現場からの中継映像が映し出されていた。今朝の大爆発からすでに8時間が経過していたが、葉子はそのあまりの凄《すさ》まじさに息を飲んだ。  それはまるでどこか外国の戦場か、大災害に見舞われた街から送られて来た映像のようだった。収容先の病院で死亡した人や、瓦礫《がれき》の下から新たに発見された遺体を含めると、この爆発での死者の数はすでに30人を超えていた。 「それにしても、いったいどこの誰がこんなひどいことを考えたんだろうね? 時限爆弾だなんて、こんなむごいことをさ」  呻《うめ》くように母が言った。 「ねえ、お母さん。わたしが届け出たアタッシェケースのことは、もうニュースになってる?」 「お昼のニュースでやってたよ。平塚の駅はすごい騒ぎらしいよ」 「わたしの名前も出た?」 「名前は出なかったけど、平塚に住む30歳の女性で、元は陸上の長距離選手だってことは言ってたよ」 「そう? それじゃ、わかる人にはわかったね」 「気にすることないよ」 「うん」  テレビでは幼い娘を亡くした母親が半狂乱になって泣き叫んでいた。その若い母親もまた、顔のほとんどを血の滲《にじ》んだ包帯で覆っていた。  金属のアタッシェケースに仕掛けられたたった1個の爆弾が、今朝まで平穏に暮らしてきた大勢の人たちの暮らしをめちゃくちゃに破壊してしまった。そして……そして、今も信じられないことだが、それと同じものが自分宛にも贈られていた。そうだ。もし葉子がその気だったら……もっと大勢の人生をめちゃくちゃにすることができたのだ。  葉子はテレビを消した。  いったい誰が、自分にあれを贈ったのだろう? そいつはわたしが、あれをどうすると考えていたんだろう?  思い当たることはまったくなかった。      14  小林和喜はコインロッカーの鍵《かぎ》をお守りのように財布の中に忍ばせてバイト先に向かった。小林がウェイターとして勤務しているイタリア料理店は、本厚木の繁華街の中心地にあった。  きょうはいつもの出勤時間よりだいぶ早かった。クリスマス・イヴにあれをどこに仕掛けてやろう? あれでどんな連中を吹っ飛ばしてやろう? そう想像するとワクワクしていても立ってもいられず、いつもよりずっと早くアパートを出てしまったのだ。  ポケットから出した店の鍵を扉に差し込む。だが、すでに鍵は開いている。  ……あれっ? もう誰か来てるのか?  クリスマスに備えてペインティングされたガラスの扉を押し開いて小林は店に入った。店内にはオリーブオイルとニンニクの匂いが立ち込めている。照明を点ける——大きなクリスマス・ツリーの向こう側、奥のソファから人が立ち上がる気配がした。 「誰だ?」  ソファの陰にいたのは、バイト仲間の古田大輔《ふるただいすけ》だった。 「なんだ、古田か。こんな早くからいったい……」  そこまで言った時、小林は古田の背後に体を隠すようにして愛川翠《あいかわみどり》がいるのを見た。  古田は手の甲で口の周りをゴシゴシとこすりながら、突然、入って来た小林をばつが悪そうに見つめた。古田の後ろでは愛川翠が慌てた様子で着衣の乱れを直している。  瞬時に小林はすべてを理解した。足が震え、頭がボーっとした。  古田大輔と愛川翠が付き合っているというのは、店に勤務する者たちのあいだでは周知のことだった。小林だってそれは聞いていた。だが、信じてはいなかった。そんなこと信じたくなかった。 「……小林さん……きょうは随分と早いんですね」  古田がヘラヘラと笑いながら言ったが、小林は答えなかった。無言のまま厨房《ちゆうぼう》に入り、ペーパーフィルターにコーヒーを入れ、コーヒーメーカーにミネラルウォーターを入れた。カウンターの向こうから古田と翠がヒソヒソと話す声が聞こえた。小林は唇を噛《か》んだ。  愛川翠は今年の春に短大に入学したばかりの19歳だった。新しいバイトとして店にやって来た翠を見た瞬間、小林の心臓がときめいた。  翠は小林の理想の女性だった。可憐《かれん》で清楚《せいそ》で家庭的で、明るく無邪気で、かわいらしかった。手足はほっそりとしているのに、胸が大きかった。店でバイトするほかの女たちのように化粧が濃くはなかったし、乱暴で下品な言葉は使わなかった。下着が見えそうに短いスカートも踵《かかと》が15cmもあるようなサンダルも履かなかった。  翠が勤務を始めるとすぐに、バイトの誰かが『彼氏がいないらしい』という情報を仕入れてきた。バイトのリーダー格だった小林は翠の勤務時間がなるべく自分と一緒になるようにシフトを組み、親切に仕事の指導をした。翠も小林を信頼し、慕ってくれているように思えた。深夜に仕事が終わると、本厚木の駅までよく一緒に帰った。急に雨が降って、1本の傘にふたりで入って駅まで歩いたこともあった。「好きだ」とは告白していなかったが、その思いは伝わっていると思った。  あの頃、小林は毎日が楽しくてしかたなかった。翠さえいてくれれば、マイナスばかりだった人生を一気に逆転することも可能に思えた。いつ翠が訪ねて来てもいいように、小林は部屋を片付け、薄汚れたカーテンを取り替え、アダルト雑誌やビデオの類いは押し入れの奥に押し込んだ。壁にリトグラフを掛け、観葉植物と洒落《しやれ》たテーブルとソファを買った。翠と自分がこの部屋で一緒に過ごすようになるのは時間の問題だと思われた。  だが8月に古田大輔がバイトに来てからすべてが変わってしまった。サーフィンが趣味だという古田は私大の3年生で、背が高く、よく日に焼けていた。長い髪を茶に染め、耳たぶにはピアスを光らせていた。  最初、小林は古田など警戒していなかった。派手でチャラチャラとした古田に、お嬢様風の翠はどう見ても似合わなかった。だが、古田は勤務を始めるやいなや、翠にちょっかいを出し始めた。小林はふたりがなるべく一緒にならないようにバイトのスケジュールを必死で調整したが、そんなものは何の障害にもならなかった。厨房の片隅やトイレの脇で、ふたりがヒソヒソと話をしているのは小林も何度となく目にしていた。翠が古田と同じ日に休みたがっているのも薄々は感じていた。それでも、今の今まではふたりが恋人同士だとは信じなかった。翠の服装が1日ごとに派手になっていくのを見ても、ふたりがお揃いの腕時計をしているのを見ても、彼らが恋人同士だとは決して信じなかった。  厨房の隅で、小林は苦いコーヒーを飲んだ。  その時、厨房に翠が「……小林さん」と言いながら入って来た。  小林は無言で顔を上げ、潤んだ目で翠を見上げた。 「知ってたでしょ?……ごめんね」  翠が言った。  怒りと屈辱が込み上げた。同情なんてされたくなかった。古田大輔も愛川翠も、どちらも許せなかった。  翠が厨房を出て行くと小林は顔を上げ、涙に滲む目で、厨房の壁に貼られたスケジュール表を見上げた。土・日と祝日には店は昼も営業することになっていて、クリスマス・イヴの正午には古田大輔も愛川翠も店にいることになっていた。      15  陽が沈むと気温は急激に下がっていった。  冷えきった公園のベンチに腰を下ろし、コートの隙間から染み入ってくる冷たい風に身をすくめ、田島聖一は星の瞬き始めた空を見上げた。煙草をつまんだ指先が痺《しび》れるほど冷たかった。  だが、そんな寒さにもかかわらず、横浜駅近くのその小さな公園には何人もの人間がいた。  田島と同じように冷たいベンチに新聞紙を敷き、そこにうずくまっている中年男がいる。男はスウェットの上下に薄汚れたジャンパーを羽織り、闇の一点をじっと見つめている。  険しい顔でブツブツと呟《つぶや》きながら歩きまわっている女がいる。女はひどく痩《や》せていて、この寒さだというのにミニ丈のレースのドレスを着ているだけだ。今すぐパーティにでも行けそうな格好だが、その背中には大きな鉤裂《かぎざ》きがあり、そこから黒い下着が見えている。  公衆便所の庇《ひさし》の下にしゃがみ込み、ヨレヨレのスポーツ新聞を広げる初老の男がいる。その数m横には若い男がしゃがんでコミック誌を眺めている。青いビニールシートを掛けたダンボールの中にうずくまった男がいる。子供たちが遊ぶために作られたコンクリートの建造物の中に肩を寄せ合い、酒を飲んでいる中年の男と女がいる。まるで捨てられたゴミのようにピクリとも動かず、ベンチに横たわっている老人がいる……。  彼らがそこで何をしているのか、いったいいつまでそこにいるつもりなのか、田島にはわからなかった。しかし彼らが社会のレールに乗って普通に生きている者たちでないだろうことは想像がついた。  おそらく彼らは、田島と同じように『椅子取りゲーム』に負けてしまったのだ。拒絶され、不要だと言われ、あるいは笑われ、あるいは蔑《さげす》まれ、あるいは追い払われ、身を置く場所を失い、ゲームの輪から弾き出されてしまったのだ。  ……来年の誕生日、俺はいったい、どこで何をしているんだろう?  田島が生まれたのは50年前の12月25日の未明だった。 「イエス・キリストと同じ日に生まれたんだ。この子はきっと偉くなるぞ」  蒲田の町工場の旋盤工だった父親は、親戚《しんせき》や知人に嬉《うれ》しそうにそう言ったという。田島はその時の、若々しかっただろう父の顔を、苦笑とともに思い浮かべてみる。  ……畜生。いったい、どうして……?  1週間前の朝、田島は創業者の息子である社長に呼ばれた。そしてその場で、明日から出社の必要はないと言われた。1カ月分の給料は保証する。だがボーナスと退職金は出せない。それが31年8カ月に亘《わた》って勤務を続けた田島聖一に、二代目社長が言い渡したすべてだった。  俺はあんたの親父さんの代からこの会社にいるんだぞ。あんたがまだ小学生の頃から働いてきたんだぞ。会社がバブルに浮かれている時だって何の恩恵も受けず、会社が苦しいと言えば昇給は我慢し、ボーナスが減らされることにも同意し、愚痴も文句も言わず働いてきたんだぞ。それなのに、こんなバカなことがあってたまるものかっ。  田島は思った。だが、口にはできず、その一方的な通達に黙って頷《うなず》き、自分の机やロッカーを整理し、せめてもの腹いせに終業時刻より少し前に会社を出ただけだった。  短くなった煙草を足元に投げ捨てると、田島は尻《しり》の下の夕刊紙をベンチに残して歩きだした。ついさっきコンビニで買ったその夕刊紙には、辻堂の爆発の写真が紙面のほとんどを占領する大きさで掲載されていた。  公園を出て、人々の群れに合流する。どこに行こうというあてもなかったが、まだ帰宅するには早すぎた。横浜の街はクリスマス・ムードに包まれていた。どこからかジョン・レノンの歌声が聞こえた。メインストリートの両脇に並んだ街路樹には、どれも豆電球のコードがいっぱいに絡み付いていた。 「畜生っ。みんな殺してやる」  田島は口の中でそう呟いてみた。テロリストになったような気がした。      16 『……それでは亡くなった方々の中で、これまでに身元が判明した方のお名前を申し上げます。  藤沢市の主婦、コハタ・マサコさん。コハタさんの長女で幼稚園児のマユちゃん。コハタ家の長男のシュウちゃん。藤沢市の無職、キタダ・エイジロウさん。藤沢市の主婦、サカキバラ・ハルエさん。藤沢市の主婦、サカモト・トモミさん……』  猿渡哲三は薄暗い部屋で凍りついたようにテレビの前に座り、青い画面に映し出されたもうこの世にはいない人の名の羅列に見入っていた。  いつもならとっくに夕食を終えている時間だった。だが、食欲はまったくなかった。激しい震えと、込み上げる吐き気を抑えながら、猿渡はもう何時間もテレビの前で石化していた。 『……茅ヶ崎市の高校生、スナガワ・ミエさん。スナガワさんは重体でしたが、午後4時すぎに収容された藤沢共済病院で亡くなりました。藤沢市の高校生、シンドウ・ユウタさん。茅ヶ崎市の会社員、イシダ・ユミカさん。茅ヶ崎市の会社員、クロカワ・ケイジさん。横浜市|栄《さかえ》区の主婦、ムトウ・サキさん。ムトウさんはつい先程、茅ヶ崎市民病院で息を引き取られました。鎌倉《かまくら》市の主婦、バンドウ・フサさん。バンドウさんの長女で藤沢市の主婦、ムカイ・ユウコさん。ムカイさんの長女のユカリちゃん。平塚市の会社員、トミタ・マコトさん。あっ、たった今、鎌倉の山本病院に収容されていたサカイ・マリエさんが亡くなられたという情報が入りました。鎌倉の山本病院に収容され、重体だった寒川《さむかわ》町の短大生、サカイ・マリエさんが亡くなられたという情報が入りました。  ただ今、辻堂駅の爆発で亡くなられた方のうちで、これまでに身元が判明した方のお名前を読み上げています。  藤沢市の会社員、ツチダ・ルミさん。東京都|練馬《ねりま》区の会社員、マツモト・ハジメさん。マツモトさんは午後2時すぎに収容先の藤沢共済病院で亡くなりました。横浜市|戸塚《とつか》区のムラタ・カナさん。横浜市戸塚区の無職、ナイトウ・トミタロウさん。茅ヶ崎市のノナカ・アカネちゃん。茅ヶ崎市の無職、サイダ・アヤメさん。横浜市栄区のニシカワ・キョウコさんと、ニシカワさんの長女のノリカちゃん。次女のミホちゃん……』  猿渡は大きく息を吸い、目を閉じた。そのままの姿勢でしばらく深呼吸を繰り返し、それから目を開いて、まるで背後に幽霊でもいるかのように恐る恐る振り向いた。  ——そこにあの、銀色のアタッシェケースがあった。凄《すさ》まじい力を内に秘め、大爆発に向けて、刻々と時を刻んでいた。  猿渡自身は死ぬことを怖いとは感じなかった。いや、感じまいとしていた。猿渡はすでに、戦争で死んでいった仲間たちの3倍以上の時間を生きていた。それほど生きた上になお死を恐れているのでは、死んでいった者たちに対して申し訳がたたなかった。  自分が死ぬのはかまわなかった。だが、それがここで大爆発を起こせば大変なことになるのはわかっていた。おそらくマンションの大半は崩れ落ち、ここに暮らす人々の多くが犠牲になるだろう。隣の部屋に住む若い夫婦も、向かいの部屋の5人家族も、下の階のひとり暮らしの女も、大半が死に、こうしてテレビのアナウンサーに名前を呼び上げられることになるだろう。  ……俺はどうして通報しないんだ? いったい、これをどうするつもりでいるんだ?  静かな部屋にはアナウンサーの沈痛な声だけが響き続けていた。 『……鎌倉市の大学生、サカイ・ヨシジロウさん。藤沢市の主婦、ミナミ・スミコさん。茅ヶ崎市の専門学校生、トミタ・サトミさん。大磯町の高校生、ユアサ・アツオさん……』  それが本物の時限爆弾だと朝刊で知った直後から、猿渡は何度も電話に手を伸ばし、警察に通報しようとした。俺のところにも同じアタッシェケースがある。とにかく、誰かを寄越してくれ。そう言おうとした。だがそのたびに、猿渡の中の何かがそれを制止させた。  尿意を感じて立ち上がる。部屋の中が冷えきっていることに気づき、冷たい手を擦り合わせる。座り続けた膝《ひざ》が疼《うず》くように痛む。  いつのまにか外は真っ暗で、窓の向こうに街の明かりが見えた。猿渡は暖房を使わなかったから、食事の支度をしている時以外は部屋の窓ガラスが曇ることはなかった。  トイレで用を足し、テレビの明かりのチラチラするキッチンに戻る。パソコンの置かれた粗末な机に肘《ひじ》を突き、窓の向こうのカラオケスタジオに目をやる。いくつかの部屋に明かりが灯り、そこで人影が動いている。  部屋の中にはアナウンサーの声が響き続けている。 『……藤沢市の無職、タナベ・フサさん。藤沢市の主婦、エモト・チカさん。東京都|豊島《としま》区の会社員、オザワ・シノブさん……』  ……俺はいったい、このアタッシェケースをどうするつもりなんだ?  静かな恐怖に猿渡は身震いした。  死ぬのは怖くなかった。だが、人を殺すのは怖かった。      17 「それじゃ、出かけてくるね。何かあったらすぐに携帯に電話するのよ。ほんのちょっとのことでも、迷ってないですぐに電話するのよ。わかった?」  まるで子供に言い聞かせるかのように母にそう言うと、葉子は玄関を出ていった。いつものように鉄の階段を駆け降りる軽やかな靴音がし、それに続いて自転車を出しているらしい音が聞こえた。  朝香愛子はひとりになった部屋の中を見まわした。静かだった。薄い壁の向こうから隣の部屋の住人の話し声とテレビの音が聞こえた。  テレビを見る気にはなれなかった。きっとどのチャンネルも辻堂駅での爆発事件と、アタッシェケースに仕掛けられた時限爆弾の話題で持ち切りに違いない。  ……それがどうしてあの子に?  どす黒く汚れた手が娘に迫っていることを考えると息苦しくなった。  愛子はにじり寄るようにして夫と長女の仏壇の前まで行った。30歳で死んだ夫と5歳で死んだ長女の写真にチラリと目をやってから、仏壇の下の引き出しを開け、そこから分厚いスクラップブックを取り出した。  コタツに戻って老眼鏡をケースから取り出し、ポットの湯を急須《きゆうす》に注いでから擦り切れたスクラップブックを広げる。そこには天を仰ぎ、両手を広げて、今まさに勝利のゴールテープを切ろうとする瞬間の葉子を写した、大きなカラー写真があった。 『嵐を制したシンデレラ』 『234番は誰だ?』  写真の中の葉子は吹き付ける雨にずぶ濡《ぬ》れになり、『234』というゼッケンの付いた薄いランニングウェアが細い体にぴったりと張り付いている。短い髪はまるでシャワーを浴びた直後のようだ。新聞から切り抜いた粒子の粗い写真ではわからないが、剥《む》き出しの肩や腕はきっと鳥肌に覆われているに違いない。  そう。あの日は寒かった。本当に、もうどうしようもないくらいに寒かった。  愛子は老眼鏡をかけ、もう何百回となく読んだ新聞記事に目を走らせた。 『スタート時の気温、摂氏0度。風速25mを超えようかという横殴りの風。みぞれ交じりの冷たい雨が叩《たた》きつけるように降り、雨水が道路を川のように流れていた。  大会の延期はついに発表されず、レースは定刻にスタートした。足元さえおぼつかない悪条件の中、展開は最初から市民マラソンのようなペースになり、好タイムが期待できないことはすぐに明らかになった。5�すぎに数名の選手が折り重なるように転倒し、有力視されていた山北和美が肘を骨折するというアクシデントも起きた。  そんな嵐のオリンピック選考会を制したのは一般参加したまったく無名の朝香葉子(24)だった。一部の写真週刊誌や男性誌などはもっぱらその容姿から彼女に注目していたようだが、大会関係者やスポーツ紙の陸上専門の記者たちですら朝香の名を知らない者がほとんどだった。  吹きすさぶ冷たい雨のせいもあって、レースは極端なスローペースのまま続いた。有力選手の多くが互いに牽制《けんせい》しあい、自制していた。折り返し地点に差しかかった時、先頭集団には30人を超える選手が一団となっていた。オリンピック選考会となったこのレースで大切なのはタイムではなく、日本人選手の上位3人に入ることだった。だから22�地点で優勝候補の筆頭だったケニアのケテルが集団を抜け出して独走を始めた時も、日本の有力選手たちは追走しなかった。ケテルにたったひとり追いすがった日本人選手の存在を気にする者もいなかった。  だが、すぐにつぶれると思われた234番の選手は、ゼッケン「1」を付けたケテルと併走を続けた。25�地点を過ぎ、30�地点を過ぎても引き離されなかった。それどころか自ら先頭を奪い、嵐の中をケテルを背後に従えるようにして走った。われわれ記者団は手元の選手名簿に改めて目を走らせ、234番の選手名を確認しようとした。自分の社に電話を入れて「あの234番は何者なんだ?」と叫んでいる記者もいた。  大舞台での経験のない朝香は一対一での駆け引きの仕方を知らなかったのだろうか? 朝香は駆け引きしなかった。彼女は歯を食いしばり、まるでひとりきりで走っているかのように、正面だけを見つめて走った。ただの1度もケテルを振り返ることはなかった。一方、百戦錬磨のケテルは冷たい逆風を避けるために朝香の背後に張り付くように走った。37�地点の上りでケテルが前に出て朝香を引き離し始めた時には、誰もが勝負は終わったと思った。  だが、朝香は諦《あきら》めなかった。一時は50m近く開いたケテルとの差を再びジリジリと縮め、ゴールの150mほど前、ホームストレートで一気に突き放した。ケテルにもう差し返す力は残っていなかった。 「今まで経験したいちばん苦しいレースだった。このレースで問われたのは、長距離アスリートとしてではなく、ひとりの人間としての強さだった」  二位に敗れたケテルは憔悴《しようすい》しきった表情で語った。「わたしは強い人間のつもりだった。 だが、勝ったアサカはもっと強かった」  一方の朝香は、世界のケテルに競り勝ち、シンデレラガールの栄冠を勝ち得たにもかかわらず、レース後のインタヴューに短く淡々と答えただけだった。 「シンデレラ? 関係ありません……大事なのは、次のレースです」  次のレース。そう、確かにこのレースはオリンピックの代表選考の参考にはならないだろう。気象条件があまりに悪く、選手のほとんどが実力の半分も出すことができなかったからだ。有力視されていた井上、佐原、宮本は出場すること自体をとりやめ、参加した千原、小早川、洲崎はいずれも途中棄権した。優勝候補の筆頭に挙げられていた川越晴美は17�地点で脚が痙攣《けいれん》を起こしたために棄権したが、「選考会をやり直してほしい。こんな条件では世界で通用する選手を選ぶことはできない」と語った。  川越の言葉に記者も同感である。条件は平等であるとはいえ、こんなひどい条件のレースではオリンピックの舞台で戦える選手を選ぶことはできない。スポンサーやテレビ放送の都合もあったのだろうが、こんな日に開催を強行した運営委員会の責任が厳しく問われることになろう。  とはいえ、世界選手権二連覇のケテルに競り勝った朝香葉子にはそれなりの評価が与えられてしかるべきだろう。まったくノーマークだったとはいえ、ほかのすべての選手がしりごみする嵐の中、ただひとりケテルに戦いを挑んだ朝香の姿は、彼女の容姿の美しさも手伝って見る者に確かな感動を与えた。朝香自身も言っていたように、彼女が本物のシンデレラになれるかどうかは、次のレースの結果にかかっている……』  愛子は新聞の切り抜きから顔を上げ、また仏壇の夫の写真を見つめた。今はもう、悔しいとは思わなかった。すべてが終わったことだ。だが当時は悔しくて悔しくて、夜も眠れないほどだった。  結局、葉子にオリンピック出場の資格は与えられず、新たな選考会が開催されることになった。葉子は『まぐれ』『フロック』という人々の声を払拭《ふつしよく》するために万全を期してそのレースに臨んだ。そしてレースでは自己記録を更新したにもかかわらず、さしたる見せ場もなく11位に敗れ去った。オリンピックの代表にはそのレースの上位3人が選ばれた。  たぶん、それが葉子の実力だった。もし、オリンピックに出場していたとしても、上位争いをすることはできなかっただろう。  だが、やはり葉子はオリンピックの代表に選ばれるべきだったのだ。  夫の遺影を見つめて、愛子はまた思った。  たとえ当日の天候が最悪であり、優勝者である葉子のタイムが日本歴代ベスト100にすら入らなかったとしても、指定されたレースは公然と行われ、葉子はそれに勝ったのだから、葉子がオリンピックに行くべきだったのだ。もし葉子がオリンピックの舞台で最下位という結果に終わったとしても、それが公平というものなのだ。  たぶんあの大会で優勝したのが葉子ではなく別の有力選手だったとしたら、その選手はオリンピック代表に選ばれただろう。しかし、オリンピックの選考委員たちは「あのレースは参考外」と公言し、マスコミや世論もあっさりとそれに同調した。  愛子はもう1度、新聞の切り抜きに視線を落とした。そしてあの日、葉子に敗れたケテルの言葉の部分を読み直した。 『わたしは強い人間のつもりだった。だが、勝ったアサカはもっと強かった』  愛子は老眼鏡を外して小さく溜《た》め息をついた。      18  田島聖一は自室のベッドに俯《うつぶ》せになり、心臓の鼓動を聞いていた。彼は震えていた。だが、自分が何に震えているのかはわからなかった。  1度だけ明子が「晩ごはんはどうするの?」と言ってドアを開けた。田島は「いらない」とだけ答えた。明子は夫の体調を心配する様子もみせず、「きょう銀行に行ったら、いつもよりお給料が少なかった」と言った。 「ボーナスも出ないのにお給料まで減らされたら、どうやって生活していくの? あとで給与明細、見せてね」  ……いったい俺は、何を怖がっているんだ?  規則正しく響く鼓動を聞きながら田島は考えた。  ついさっきテレビのニュースが、平塚に住む30歳の女性がアタッシェケースを警察に届け出たと伝えていた。それにはやはり、高性能の時限爆弾が仕掛けられていたらしかった。届け出た元長距離走者の女性は、自分には思い当たるフシがまったくないと言い、警察の捜査に協力的だという。そのニュースを聞いた瞬間、田島の震えが始まった。  ……その女は警察に通報した。俺はどうしてそうしないんだ?  田島は自問した。  あれはとてつもなく危険なものなのだ。自分の考えひとつで、何十人もの人間の命を奪うことができるものなのだ。それなのに自分は警察に届け出ず、今もあれをコインロッカーに保管している。  ——それは、なぜだ?  田島は目を見開いて暗闇を見つめた。  ずっと昔、まだ6歳か7歳だった頃のことを思い出した。あの頃、田島はいつも、自分がいつか、とてつもなく凶悪な犯罪者になってしまうような気がして怖かった。なぜそんなふうに考えたのかはわからないが、新聞に掲載された罪人たちの写真を見るたびに、いつか自分の写真がここに載るようになるのではないかという恐怖に駆られた。そんな時、幼い田島はいつも、『大丈夫、大人になっても別の僕になってしまうわけじゃないんだ』と自分に言い聞かせた。『僕は人を殺すようになったりしない。僕は泥棒になったり、人を傷つけたりはしない』  今、田島の中に再びあの時の恐怖が蘇《よみがえ》った。何十人もの人間を一瞬にして殺すことのできる力——それは今、間違いなく、彼の手の中にあった。  ……明後日のクリスマス・イヴに、俺は人を殺すつもりでいるんだ。そうなんだ。俺はあれで誰かを殺そうと思ってるんだ。  激しい吐き気が込み上げてきた。 「大丈夫、俺は絶対に、そんなことはしない。人を殺したりはしない」  声に出して自分にそう言い聞かせた。「明日の朝になったら警察に行こう。あれを持って警察に行き、今まであったことを全部話そう。そうだ、そうしよう。大丈夫だ、もう大丈夫だ」  田島は明日、アタッシェケースを警察に届け出ることを決意した。そう決めてしまうと、震えは徐々に収まっていった。  その時、天井から微かな足音が聞こえ、直後にドアが開け閉めされる音が聞こえた。たぶん純一がトイレにでも行ったのだろう。田島の部屋の真上が純一の部屋だった。20歳になる純一はそこに1日中閉じ籠《こ》もり、何をするでもなく生きていた。  トイレの水が流される音が聞こえ、自室に戻る純一の足音が聞こえた。田島は純一の姿を思い浮かべた。もう2週間以上息子の姿を見ていなかったが、純一が今もパジャマでいるのは間違いなかった。  その時だった。その時、突然、脳裏に恐ろしい考えがひらめくように浮かんだ。田島は「うわっ!」と、悲鳴を上げた。再び、猛烈な震えが始まった。  自分が思いついたその考えを、慌てて打ち消そうとした。だが、1度浮かんだ考えは、もう消えることはなかった。  ……そんな恐ろしいことを、この俺がするわけがない。するわけがないじゃないか?  目を閉じ、布団を頭から被った。  それは息が詰まるほどに恐ろしい考えだった。だが同時に、ひどく魅力的でもあった。      19  早坂チエミはついさっきシャワーを浴び、金色の長い髪にドライヤーをかけ、ムダ毛の処理とマニキュアとペディキュアを終えたところで、今は下着姿でコタツにあぐらをかいて座っている。テレビではアナウンサーが淡々とした口調で、辻堂の爆発で死亡した人と怪我をして病院に収容された人の名を読み上げている。コタツの向かい側では子供たちがスナック菓子を食べている。  ……いったい誰を殺してやろう?  チエミはそう考えながら、紙にボールペンで人の名を書いている。  チエミがまだ幼い頃に失踪《しつそう》した父……母親らしいことは何ひとつせず、男と遊び歩いてばかりいた母……母の愛人のひとりで、小学生だったチエミにいたずらを繰り返した下川政幸……。  チエミはそれらの名前をひとりひとりリストに書き出していった。その中の、最も憎い人間をあれで殺してやるつもりだった。  ……中学の先輩で、嫌がるチエミに初めての性行為を体験させた今村伸雄……今村の友人で、チエミを強姦《ごうかん》同然に犯した大場順平と中村英秋……チエミから恋人の今村を奪った小谷冴子……バイト先のファミレスの倉庫でチエミを強姦した桑原という男……チエミに高校を退学するように迫った保坂という進路指導の教師……チエミに2度も堕胎させた金子芳彦……「あんたみたいなブスがいると店の質が落ちるんだよ」とチエミを解雇した佐山というキャバクラのマネージャー……そのキャバクラで一緒に働いているあいだ、いつもチエミに意地悪をしたエリカという女……それからセリナという女……。  あれ? あいつらの本名は何なんだろう?  それから……一緒に暮らしているあいだ毎日のようにチエミに暴力をふるった近藤真志……チエミの最初の夫で早苗の戸籍上の父親の酒井聡……もしかしたら早苗の本当の父親かもしれない林俊樹……チエミに風俗店勤めをさせて、自分はまったく働かなかった永田翔太……。  畜生っ、永田の野郎にぶん殴られて、あたしは前歯を折っちまったんだっ。  それから……2度目の夫で、龍太の父親の若杉慎吾……若杉の愛人の茅野紀華……チエミの預金全部を引き出して消えた山岡玲次……それから……3カ月前まで一緒に暮らしていた倉田英紀……。  アタッシェケースがいくつあっても足りそうもなかった。  テレビでは若い男のアナウンサーが相変わらず淡々と、死亡者と負傷者の名を読み上げ続けている。それがまるで音楽のように心地よくチエミの耳に響いた。  これでこいつらの分の幸せが、あたしのところにも少しは回ってくるかもしれない。  そう思って、チエミはほくそ笑んだ。  ——この世の中にある幸せの数は限られている。  チエミはそう信じている。世の中に存在する幸せの絶対数が限られている以上、誰かが幸せになれば別の誰かが不幸になる。逆に誰かが幸せを失うと、その幸せがそうでない者のところに流れてくる。  いったい誰が自分に時限爆弾の入ったアタッシェケースを贈ったのかはわからない。よくよく考えると恐ろしい気にもなる。だが、もう今では、そんなことはどうでもよかった。大切なのはそれが今、チエミの手にあるということだった。  壁の時計を見上げる。今夜の仕事は横浜の桜木町だったから、そろそろ出かけなければならない時間だった。仕事のことを考えると、胃が重く疼《うず》くのがわかった。 「早苗も龍太もおとなしくしてるんだよ。喧嘩《けんか》したり、騒いだりしたらただじゃおかないよっ」  子供たちにそう命じて、チエミは玄関を出た。ぴったりとした黒い超ミニ丈のワンピースに、白いフェイクファーのハーフコート。黒いストッキングにエナメルのハイヒールパンプス。  夜の道を駅に向かう。路地を吹き抜ける冷たい風がミニスカートの中に吹き込み、薄いストッキングを履いただけの脚を凍えさせる。先の尖《とが》ったパンプスが爪先を締め付け、細くて高いヒールがグラグラする。仕事道具の詰まった重いショルダーバッグが痩《や》せた肩を軋《きし》ませる。けれどタクシーには乗るつもりはなかった。そんな余分な金はなかった。  前回の仕事の時の傷は、ようやくカサブタになったばかりだった。今後、その傷の上に新たに刻みつけられるはずの傷のことを思うと気が狂いそうだった。だからチエミは頭の中を空っぽにして、あのアタッシェケースのことを考えようとした。とてつもない≪力≫をもった金属製のアタッシェケース。今ではそれだけが、チエミの支えだった。  チエミは窓辺に佇《たたず》んで、その向こうに広がる夜景を眺めていた。  ……氷川《ひかわ》丸はどこなんだろう? マリンタワーはどこなんだろう?  壁のほとんど一面を占領した大きな窓の向こうでは、巨大な観覧車が鮮やかな光を点滅させて回っている。観覧車があまりにも近くにあるため、ここからでは全容を見ることはできない。観覧車の足元にはジェットコースターの線路が寄生植物のように複雑に絡みつき、そのさらに向こう側には夜の埠頭《ふとう》や入り組んだ港が広がっている。  チエミが氷川丸やマリンタワーを見つける前に、儀式の始まりを告げるかのように男がカーテンを閉めた。チエミの下腹部を冷たい恐怖が走り抜けた。 「それにしてもちょっと痩せすぎだな、お前」  男はチエミの体をなめるように見て笑った。「それにブスだしさ。もうちょっとマシな女はいないのかよ?」  チエミはすでに下着姿だった。テラテラと光を反射する黒いエナメルのブラジャー。同じ素材のタンガショーツ。ガーターベルトとハイヒールパンプス。そして、太腿《ふともも》までの黒いナイロンストッキング。  チエミの暮らすアパートの何倍も広いスウィートルームには今、でっぷりと太った50代らしい男とチエミのふたりしかいない。 「本当ならチェンジしてもらいたいとこだけど、時間もないことだし、まあ、いいや……おい、そこに跪《ひざまず》け」  男は中学校の数学の教師らしい。クラブのオーナーが電話で言っていた。石鹸《せつけん》の香りをさせ、素肌にホテルのロゴの入ったタオル地のバスローブを羽織っている。 「おい、聞こえないのか? 四つん這《ば》いになれって言ってるだろ?」  男が冷たく繰り返した。 「……あっ、はい」  恐怖に震えながらチエミはぎごちなく跪き、カーペットを敷いた床に両手を突いて四つん這いになった。前回の仕事の時に付けられた、まだ治りきっていない傷がキリキリと痛んだ。 「そうじゃないだろ? もっと膝《ひざ》を広げて、ケツの穴が上を向くようにするんだよ。肘《ひじ》を突いて、もっと背中を反らして……もっと低く……もっと、もっと……」  男の命じるまま、チエミは床に肘を突き、両膝を左右に大きく開き、背中を弓なりに反らし、獲物を狙う猫のような低い姿勢をとった。タンガショーツの細いクロッチ部分が尻《しり》の割れ目に食い込み、尻のほとんどが剥《む》き出しになった。 「よし……それじゃあ始めるぞ」  男が鞭《むち》を鳴らした。それは空を切っただけだったが、それだけでチエミの下腹部を冷たいものが走り抜けた。チエミは目の前の薄茶色のカーペットを見つめ、頭の中を空っぽにし、銀色のアタッシェケースのことを考えようとした。  そう。銀色のアタッシェケース。あたしにはあれがある。お前は知らないだろうけど、あれを使えばお前なんて簡単にぶっ殺せるんだ。あれを使えばお前も、お前の女房も子供たちも、みんな……。  ビュッ!  風を切る鋭い音が聞こえ、次の瞬間、背骨が砕けたかと思うほどの凄《すさ》まじい痛みが体を突き抜けた。  チエミはカーペットに顔を押しつけて「ああっ!」という声をあげた。痛みに息が止まる。身悶《みもだ》えしながら、何とか息を吸おうと激しく全身を喘《あえ》がせる。だが、呼吸を再開する間もなく、立て続けに第2弾がやってきた。振り下ろされた鞭が痩せた体に赤い線を刻み付けると同時に、チエミは「あうっ!」と喘いで床に爪を立てた。 「ああっ……痛い……もうやめてっ……」  悲しいわけではないのに涙が滲《にじ》んだ。 「何言ってんだ? まだ始まったばかりじゃねえか」  真上から男の声が聞こえた。再び鞭が唸《うな》り、今度は剥き出しの尻の皮膚が引き裂かれ、口が「ああっ!」と勝手に叫び声を漏らした。 「お願い……もう少しそっとやって……お願い……」 「バカ言うな」  男が笑った。「これがお前の仕事だろ?」  鞭が唸り、太腿の内側を打ちすえた。 「あうっ! あああっ……」  悲鳴と同時に体がねじれ、腿の筋肉がブルブルと震えた。呻《うめ》き声が終わる前にまた鞭が唸り、今度は脇腹に激痛が走った。 「ひっ!……ああっ、痛いっ……ああ、もう許して……」  頭がボーっとなり、意識が遠のきかける。いつの間にか漏れた尿が、腿の内側を滑り落ちて膝の下に溜《た》まる。  男は床に這いつくばったチエミの体に容赦なく鞭を振り下ろした。  ……ヒュン……バシッ……ああっ!……ヒュン……ビジッ……あうっ、あああっ!……ヒュン……ビシッ……あっ、ああああっ!…………。  横浜港に面したホテルのスウィートルームに、鞭が風を切る音と、それが皮膚を打ちすえる音、そして、女の悲鳴が繰り返された。鞭が背に十何本目かの傷を付けた時、チエミはついに失神して俯《うつぶ》せに倒れた。背や腰や腿に縦横に付いた傷からは、どれも血の粒が滲み出していた。  だが男は執拗《しつよう》だった。男はチエミの前に屈み込み、意識を失ったチエミの髪を鷲掴《わしづか》みにして頬を張った。そして朦朧《もうろう》となって目を開けたチエミの唇に勃起《ぼつき》したペニスの先を押し当てた。  チエミは一瞬、イヤイヤをするかのように顔を振った。だが、すぐに諦《あきら》めて口を開き、それを深く含んだ。  男は床にあぐらをかいてチエミにペニスをくわえさせ、金色の髪を乱暴に掴んで顔を上下に打ち振った。喉《のど》の奥にペニスの先端が激突し、胃が激しい痙攣《けいれん》を起こした。すぼめた唇が濡《ぬ》れたペニスをこする音が聞こえ、涙と唾液《だえき》が辺りに飛んだ。  もうチエミは何も考えていなかった。ただ頭を空っぽにし、時間が過ぎていくのを待つだけだった。  何度目かにペニスが喉に激突した時、ついにチエミはペニスを吐き出して嘔吐《おうと》した。薄黄色の胃液がカーペットに染み込んでいくのが見えた。 「何してんだっ、このバカっ!」  男はそう怒鳴ると、チエミの頬を強く張った。涙と唾液と鼻水が飛び散り、チエミは悲鳴を上げて再び意識を失いかけた。朦朧となりながら、「もう許して……もう勘弁して……」と繰り返した。  だが男は許さなかった。「許して……勘弁して……」と、うわ言のように繰り返すチエミの唇を、硬直したペニスが再びこじ開けた。反射的にチエミはそれを含んだが、鼻が詰まってうまく呼吸ができなかった。 「おい、お前、こんな仕事してて、自分が惨めにならないか?」  男が、チエミの顔を上下に打ち振りながら言った。「どうせ若い頃から遊んでばかりいたんだろ? 勉強もせず、男とやることばかり考えてたんだろ? お前みたいなブスは誰もチヤホヤしてくれないんだから、ちゃんと勉強して、自分で食ってく方法を見つけなきゃいけないんだよ。そうしなかったから、こんなことになるんだよ。自業自得なんだよ」  もちろん、口を塞《ふさ》がれたチエミには答えることなどできなかった。涙がボロボロと溢《あふ》れ、尖《とが》った顎《あご》の先から滴り落ちた。  最低だ。チエミは思った。あたしの人生は最低だ。  また、銀色のアタッシェケースを思い浮かべた。 「それでは、失礼します」  ドアの前で頭を下げてチエミは言った。悲鳴のせいで、声がかすれていた。涙と涎《よだれ》でマスカラやアイラインやシャドウやファンデーションが流れ落ち、ペニスを含み続けた口からはルージュが滲み、自慢だった長い金髪はボサボサになって絡み合っていた。  男はソファに寝転んで缶ビールを飲みながらテレビのサッカー中継を見ていて、部屋を出て行くチエミのほうなど見ようともしなかった。  柔らかな間接照明に照らされた人気のないホテルの廊下を、チエミはエレベーターに向かって歩いた。数十発の鞭を受けた体は痛いのを通り越し、痺《しび》れたようになっていた。脚に力が入らず、今にもその場に崩れ落ちてしまいそうだった。何とかエレベーターまでたどりつき、ボタンを押す。その場に立ち尽くし、白い壁を呆然《ぼうぜん》と見つめる。  エレベーターの扉が開き、中から家族連れが降りてきた。赤ん坊を抱いた背の高い父親と、綺麗《きれい》な母親。母親はチエミと同じくらいの年だ。たぶん下のレストランで食事を済ませてきたのだろう。  家族連れと入れ替わりにエレベーターに乗る。ほのかに香水を漂わせた母親が、蔑《さげす》みの目でチエミを一瞥《いちべつ》する。扉が閉まり、箱の中にチエミが取り残される。エレベーターが静かに下降を始める。  その時、突然、チエミは自分が作った殺人リストには何の意味もないのだということに気づいた。そうだ。あんなリストに意味はない。あたしの憎しみの対象は、あたしと同じ不幸の循環に暮らす者たちではない。あたしの憎しみの相手は、幸せの循環に暮らしているやつらなんだ!  下降していく密室の中で、チエミはそれを確信した。  たとえば、今の家族だ。そうだ。あいつらが幸せを独占しているせいで、あたしには幸せが巡って来ないんだ。  エレベーターが1階に着いた。ハイヒールの踵《かかと》をぐらつかせてホールを歩くチエミを、ホテルのボーイがうさん臭そうな目で見ている。男に寄り添った綺麗な女が、チエミを見て男に何かをささやいている。  だが、そんなことはかまわなかった。チエミはすでに、あのアタッシェケースの使い道を決定していた。      20 「それじゃ、きょうの授業はここまでにしましょう」  葉子が日本語でそう告げると、目の前の男は嬉《うれ》しそうに微笑み、フーっと長い溜め息を漏らした。 「もう日本語でいいんですね? いやあ、1時間も英語だけだと疲れちゃいますね」  男の子供っぽい仕草がおかしくて、葉子も思わず微笑んだ。  男の名は和智《わち》サトル。サトルは聡と書いたようだが、忘れてしまった。授業ではSATORUとだけ呼んでいる。  サトルは平塚海岸に近い古い大邸宅に年老いた母や、住み込みの使用人たちと暮らしている。40歳だというが、それよりは遥《はる》かに若く見える。彼が葉子に英会話を習うようになってまもなく1年になるが、勉強熱心なので驚くほど上達が早かった。 「ヨーコ先生、すぐ帰られます? もし時間があるんなら、ケーキがあるんで、召し上がっていきませんか?」 「ケーキ?」 「そう。もらいものなんですけど、母とボクだけじゃ食べきれなくて。明日は祝日だから、工場の仕事はお休みでしょ?」  40歳だというのに、サトルはいつも自分のことを≪ボク≫と言う。だがサトルが言うと、少しも違和感がない。 「工場は休みだけど、わたしも家で母が待ってるのよ……ちょっといろいろあって疲れてるし……」 「いろいろあったんですか?」 「ええ……まあ……でも、少しならいいかな?」 「よかった。それじゃ、飲み物を作らせます」  男は本当に子供のような動作でソファから立ち上がった。 「飲み物ならわたしがやるよ」 「いいですよ、お客さんなんだから。ヨーコ先生は何がいいんです?」 「サトルと同じでいいよ」 「そう? それじゃ、紅茶にしましょう。母が紅茶にうるさい人でね、最高の紅茶がいろいろとあるんですよ」  そう言うとサトルはテーブルの上の電話で家政婦にケーキと紅茶を持って来るように命じ、自分は「ちょっとトイレに行ってきます」と言って応接室を出て行った。葉子はそのあいだに携帯から母に電話を入れ、少しだけ遅くなると言っておいた。母への電話を切り、肩の凝りをほぐしながら広々とした部屋の中を見まわす。  これまでの30年の人生で、葉子は実にたくさんの人々と知り合った。その中には何人もの金持ちがいたが、そのうちのひとりとしてこの和智家に匹敵する者はいないはずだった。ビルの賃貸を中心とした不動産事業、スーパーマーケットなどの小売業、ゴルフ場の経営、消費者金融業、ボーリング場やゲームセンターなどの経営、数十店に及ぶ飲食店の経営、警備会社の経営、印刷会社の経営、運送事業、バス会社の経営……和智家のかかわる事業は実に多岐にわたっている。  たぶんこの家にあるどんなささいな物を例にあげても、葉子が生涯手に入れることのできない物ばかりだろう。すぐ前の照明灯に照らされた日本庭園には錦鯉が泳ぐ池があり、その周りにいくつもの大きな石が配され、年数を重ねた木々が生い茂っていた。さらにその向こうには雑木林かと見間違うほどの広大な庭が広がっている。案内されたことはないが、林の中には来客用の宿泊施設や茶室や音楽室、住み込みの使用人たちの住居、ビリヤード台やジュークボックスを置いたバーなどもあるらしい。葉子が今いる洋風の応接室は質素だがとても広く、そこに置かれているソファもテーブルも、床に敷かれた中国製の緞通《だんつう》も最高級のものだということが感じられた。天井のシャンデリアは年代物のようだったが、埃《ほこり》ひとつなく磨かれていた。  クラシックホテルみたいに素敵な家だ。葉子は思った。だが、それだけだった。そこに住む和智サトルやその母親を羨《うらや》ましいとは思わなかった。  やがてサトルがトイレから軽快な足取りで戻って来て、続いて家政婦が漆の盆にケーキとカップとティーポットを乗せてやって来た。 「いやあ、ヨーコ先生と日本語で話すなんて、久しぶりですよね」  嬉しそうにそう言いながらサトルは、たった今家政婦が運んで来たケーキとカップを葉子の前に置き、カップの中に湯気の立ちのぼる紅茶を注いだ。葉子に陶磁器のことはわからなかったが、たぶんこのティーカップも驚くくらい高価なものなんだろうな、と思った。 「本当にそうね。日本語だと何だか変な感じね」 「あっ、どうぞ。召し上がってください」 「それじゃ、遠慮なくもらうわ」  いつのまにかサトルがアンプのスイッチを入れたらしい。部屋の隅に置かれた古くて大きなスピーカーから軽やかなクラシックが流れ出した。 「モーツァルト?」 「ええ。モーツァルトがアントン・シュタットラーというクラリネット奏者のために作曲した協奏曲です。素敵でしょ?」 「サトルはクラシックに詳しいの?」 「いえ、ただ、暇なんですよ」 「暇だなんて、羨ましいわね」  それは本当だった。今の葉子には音楽を楽しむ時間などなかった。 「実を言うとボク、昔、クラリネット奏者になりたかったんですよ。もうずっと昔のことですけどね」  ケーキに乗ったイチゴを銀色のフォークでつつきながらサトルが笑った。 「どうしてやめちゃったの?」 「どうしてって?……たぶん、自分に才能がないのに気づいたからでしょ?」  葉子は笑わずに頷《うなず》くと薫り高い紅茶を飲んだ。 「ヨーコ先生は何かなりたいものはなかったんですか?」  サトルが顔を上げ、葉子の目を見つめてきいた。 「わたし?……わたしは高校生の頃は英語の教師になりたかったの」 「それじゃ、自分のなりたいものになったわけですね」 「まあ、そうかもしれないけど、でも、そのあとはね……」  そこまで言って葉子は少し言いよどんだ。それから、つとめてさりげなく、「そのあとは、一流の陸上選手になろうとしてたのよ」と続けた。 「陸上っ?」  サトルが驚いたように葉子を見つめた。「ヨーコ先生って、陸上競技をしてたんですか? とてもそんなふうには見えないな」  葉子は無言で微笑んだ。 「実はボクはね、ヨーコ先生はすごく美人でスタイルがいいから、きっと芸能界を目指してたんじゃないかと想像してたんですよ」 「芸能界?」 「ええ、モデルとか、女優とか……芸能人になろうとしたことはないんですか?」 「そういうのは嫌いなのよ」  ケーキをフォークで崩しながら葉子は言った。 「嫌い? 女の人なのに珍しいですね。普通の女の子なら、そんなに綺麗《きれい》でスタイルがよかったら、歌手とかモデルとか映画女優とかを目指すものでしょ?」  葉子は無言でケーキを口に運んだ。大きなスピーカーから滲《にじ》み出るように流れる音楽が、広い部屋を満たしていた。 「もったいないなあ……今からでも遅くないから、芸能界を目指したらどうです?」  サトルがさらに言い、葉子は皿から顔を上げた。 「そういうのは本当に嫌いなのよ」  サトルの目を見つめ返し、自分自身に言い聞かせるかのように葉子は言った。「それにもし……もし仮に、わたしが本当に綺麗だったとしても、それはわたしの努力で勝ち得たものじゃないんだから、そういう偶然のものを売り物にはしたくないのよ」  向かいに座ったサトルは「へえ?」と言って笑った。「それじゃ、ボクみたいに親から相続した財産とか、結婚する相手の財産とかにはヨーコ先生は興味がないんですね」  葉子は無言で頷いた。 「それじゃ、ヨーコ先生。一流の陸上選手になるのを諦《あきら》めた今は、いったい何が人生の目標なんですか?」  男の質問に葉子は少しだけ考えた。それから言った。 「生活することかな」 「……生活すること?」 「そう。1日1日を生きていくこと」 「へえ?……」  資産家のひとり息子は葉子を見つめ、困ったように笑った。      21 「それじゃ、お先に」  そう言うと小林和喜はイタリア料理店のドアを開けた。背後から「お疲れ様でした」と言う声がいくつか聞こえた。その中には、かつて小林が恋い焦がれた愛川翠の可憐《かれん》な声も交じっていた。  ドアを閉める前に振り向いて、もう1度、翠を見た。だが翠はこちらを見てはいなかった。彼女は古田大輔に寄り添って、嬉《うれ》しそうにその顔を見上げていた。  小林はジャンパーのポケットに両手を突っ込んで夜の街を歩き出した。吹き抜ける風が一段と冷たく感じられた。  もう人通りは多くない。点々と続く街灯が乾いた街を照らしている。光の溢《あふ》れるコンビニエンスストアの前に若者たちがたむろしている。パブやクラブの前で肩や背を剥《む》き出しにした女たちが客を送り出している。大柄な中年男が小柄な外国人の女を抱いて歩いていく。酔っ払ったサラリーマンが電柱に片手を突いて嘔吐《おうと》している。  小林はペッと唾《つば》を吐いた。そして、あのふたりの命は——古田大輔と愛川翠の命は——あと何時間なんだろう、と計算してみた。  どこかで犬が吠《ほ》え始める。それに反応して、あちこちで犬が吠える。切れかかった街灯がアスファルトに小林の影をチカチカと映し出す。足の先が痺《しび》れるように冷たい。  本厚木の繁華街から少し離れた新興住宅街。そこに無数に立ち並んだ小綺麗な住宅のひとつ、アルミ製の門の前に小林は立っている。門の表札には『須藤』という文字が刻んである。辺りに人影がないのを確認すると、小林は須藤家の小さな門の内側に手を差し込んで閂《かんぬき》を上げ、サッと門の内側に身を滑り込ませた。  白い玉石の敷き詰められた通路の左側には細長い木の棚が作られていて、その上に大きな盆栽がズラリと並んでいる。小林はその盆栽群をじっと見下ろした。  盆栽の善し悪しはわからなかった。だが小林は、棚に並べられた盆栽の中でいちばん大きくて古そうな松の鉢の下にしゃがみ込んだ。根元の幹回りは、小林が両方の指を回しても届かないほど太い。八方に張り巡らされた根や、ゴツゴツと荒れた樹皮が、その盆栽の古さを物語っている。  ……たぶん、これがそうだろう。  小林は凍える指先で、肩に掛けてきたステンレス製のポットの蓋《ふた》を開けた。ポットの中にはついさっき煮立たせたばかりの熱湯が入っていた。  再び辺りを見まわしてから中腰になり、ポットをそっと傾け、四角い盆栽鉢の縁から湯が溢れないように気をつけながら松の根元に熱湯を注いだ。敷き詰められた苔《こけ》のあいだに熱湯が満ち、染み込んでいく。白い湯気が立ちのぼり、思わず頬の肉が緩む。  ……300年も生きてきたらしいが、お前の命もここまでだ。  鉢の底から湯が抜け、棚の上に広がり始めたのを確認すると、小林はひとりで頷いた。  須藤というこの家の住人と面識があるわけではなかった。もちろん、恨みがあるわけでもなかった。だが、いつだったかコンビニからの帰り道、ちょうど小林がこの家の前を通りかかった時、恰幅《かつぷく》のいい60歳前後の男が、上品に化粧をした中年の女に盆栽の自慢をしているのが聞こえた。この盆栽のうちのどれかが樹齢300年に達しているということ。売る気はないが、買えば4百万や5百万ではきかないということ。  その後もコンビニの行き帰りに、小林は何度か須藤を見かけた。須藤には体の大きな30歳前後の息子と、若くて綺麗な娘がいる。息子にはスタイルのいい妻と子供がいる。娘にも夫がいる。まだ暑い頃、彼らが庭でそろってバーベキューをしているのを見かけた。  須藤という中年男がどんなやつなのかはわからなかった。だがその男の人生がうまくいっていることだけはわかった。そして、復讐《ふくしゆう》の条件はそれだけで充分だった。  4つ目の盆栽鉢に熱湯を注ぎ終えたところでステンレス製のポットが空になった。小林は静かに後ずさりし、門を出た。ズボンのポケットに両手を突っ込んで、深夜の住宅街を自分のアパートに向かって歩き始めた。      22  警察には、すでに数百件の情報が寄せられていた。だが、こういう事件の例に漏れず、情報にはイタズラや思い違いも多く、そのひとつひとつを捜査員が確かめて歩くことは物理的に不可能だった。  32歳の風俗嬢と56歳の掃除婦、それに30歳の元長距離走者の3人の女性から押収した手紙の分析も続けられていた。封書と便箋《びんせん》はともに高級な和紙で作られていたが、どこの文房具店にも置いてあるもので、それからは差出人を特定できそうになかった。手紙はどれも細い筆と墨汁を使って書かれており、筆跡は一致したが、それだけだった。共通の指紋は検出されなかった。  捜査は難航していた。      23  午前零時——。  田島聖一は湿ったベッドの中で蝦《えび》のように体を丸めていた。いつまでたっても足は冷たいままだった。時折、フッと意識が遠のいたが、眠れたという実感はなかった。目の裏にはいつも、夢なのか、自分の想像なのかわからない映像があった。それはクリスマス・イヴの晩にあのアタッシェケースが自宅のキッチンで大爆発を起こし、自分と明子と純一と克美が吹き飛ばされ、バラバラになって死んでいく映像だった。  小林和喜は敷きっぱなしの布団に横たわり、いったいあれを店のどこに隠したらいいんだろうと考えていた。暗い喜びが全身に広がっていくのがわかった。  早坂チエミは全裸で布団に俯《うつぶ》せになり、叩《たた》き起こした娘に背中の傷の手当をさせていた。早苗の小さな指が傷口をなぞるたびに、飛び上がるほどの痛みが走り抜けた。何度もうがいをしたはずなのに、口の中にはまだ精液が残っているような気がした。早苗に気づかれないように枕に顔を押し当てて、少しだけ泣いた。  猿渡哲三は自室でパソコンに向かい、遥《はる》か南の島の戦場と、そこで果てていった若者たちのことを思い出そうとしていた。だが、今夜はまだ1行も書いていなかった。猿渡の足元には今も、銀色に光るあのアタッシェケースがあった。      24  男は英和辞典を片手にエアメールを読んでいた。 『……あなたが学校を建て、給食の費用を援助してくれたおかげで、飢餓と戦争しか知らなかった子供たちにようやく笑顔が戻りました。これでまた、勉強をすることができます……』  男の顔に微かな笑みが浮かんだ。  広い机の上にはほかにもたくさんの郵便物が散乱している。世界自然保護基金からの高額寄付者へのお礼の手紙……ソマリアの子供たちに送った椅子と机と文具とサッカーボールの代金の請求書……国会議員からのパーティの案内状……著名な作曲家から届いた自分のコンサートの特別入場券……ケニアの国立公園から届いた寄付金のお礼……湘南の障害者施設から届いた文化祭の案内状……。  そこには『花火12発』と英文で記載された1200万ドルの領収証もあった。  男は自分がアフガニスタンに建てた学校長からのエアメールから顔を上げると、肩の凝りをほぐすかのように首をまわし、広々とした部屋を見渡した。その壁という壁に、ぎっしりと隙間なく、美しい女性長距離走者の写真が貼られていた。  男はキューバ産の葉巻に火を点け、手元のグラスにスコッチを少しだけ注いだ。それを舌に乗せて味わいながら、彼女はどうしているだろう、と考えた。      25  朝香葉子はベッドの中で天井の木目を見つめていた。無意識のうちに、左手に嵌《は》めた父と母の結婚指輪に触れていた。きのう、きょうとあまりにいろいろなことがあり過ぎて、タフな葉子もさすがに疲れを感じていた。だが、眠れそうにはなかった。  ……いったい誰があんなアタッシェケースをわたしに与えようとしたのだろう? そいつはわたしが、あれをどうすると思っていたのだろう?  娘の帰りを待っていた母は、葉子のために熱いミルクをいれてくれた。そして葉子の顔をじっと見つめ、「何も考えないで、ゆっくり眠りなさい」と優しく笑った。  その言葉は嬉《うれ》しかったが、やはり考えないわけにはいかなかった。  誰かに恨みを買うような生き方はしてきていないはずだった。だが、もしかしたらどこかで、自分でも気づかぬままに、わたしは誰かを傷つけてきたのかもしれない。誰かを踏み付けにしたり、不愉快な思いをさせてきたのかもしれない……。  そう考えると、珍しく気が滅入った。  まだ実業団で走っていた頃、練習後のロッカールームに葉子が姿を見せると、それまでザワついていた室内がいつも急に静かになったことを思い出した。 『朝香先輩って悪い人じゃないと思うけど、何だか完璧《かんぺき》主義者って感じで、ちょっと近寄りがたいよね』  後輩のひとりが別の後輩にそうささやいていたのを思い出した。自分のロッカーからいろいろな物がなくなったりしたことや、カミソリの刃や脅迫めいた手紙が送られて来たことがあったのを思い出した。葉子が挨拶《あいさつ》をしても決して挨拶を返して来ない同僚がいたことを思い出した。  ……世の中にはきっと、わたしを嫌いな人もいるんだ。わたしを憎んでいる人や蔑《さげす》んでいる人もいるんだ。  眠れないまま葉子は、暗がりに浮き上がった天井の染みを見つめ続けた。そうしていると、いろいろな思いが心をよぎった。これからの生活のこと。病気がちの母のこと。母がいなくなったあとの人生のこと……。  事情聴取の時に警察官が言ったように、確かに日々の暮らしは楽ではなかった。経済的にも、精神的にも、肉体的にも楽ではなかった。  弱音は漏らしたくなかった。誰かにすがりたくもなかった。けれど……もし……病気になって働けなくなったとしたら……母が死んでひとりきりになり、毎日の暮らしに疲れ切ってしまったとしたら……さみしくて、わびしくて、悲鳴を上げそうになった時……そんな時のことは考えたくもなかったけれど、たとえば、そんな時……そう、そんな時……たとえば、山根英行のような男に愛人にならないかと誘われたとしたら……その時、自分はそれをはねつけることができるだろうか?……たとえば、和智サトルのような資産家の息子に求婚されたとしたら……その時、自分は平然と首を横に振ることができるだろうか?  できる。そう思いたかった。けれど、それほど自信があるわけでもなかった。  選手をやめた時、テレビ局のスポーツレポーターにならないかという話があった。芸能プロダクションやタレント事務所からの誘いもあったし、テレビのコマーシャルに出演しないかという話や、スポーツ誌のライターの話もあった。ヌード写真集を出版する話や、アダルトビデオに出演する話まであった。そういう話はすべて断ってしまったけれど、本当にそれでよかったのか、と思う時もある。ふだんは決してそんなことは考えなかったけれど……こんな夜には……そんな思いが頭を駆け巡る。  もし……あの時、テレビのスポーツレポーターになっていたら……そうしたら、もっとお金があったかもしれない……もっといろいろなところに行って、いろいろな人と出会って楽しく生きていられたかもしれない……もし、あの時、芸能界に入っていたら……そうしていたら……。  葉子はそっと大きく息を吐いた。そして、くじけそうな時にいつもそうしているように、臨終の自分の姿を思い浮かべようとした。そう。今夜のようにどうしようもなく心が弱ってしまった時には、葉子はいつも≪自分が死ぬ時≫のことを考えた。  人の命は限られているのだから……だから、わたしは、納得できないことはしたくない……死ぬ瞬間に『恥ずかしいことをしてきた』とは思いたくない……わたしは、自信と誇りを抱き締めて死にたい……。  葉子は目を閉じた。そして、優しい眠りが訪れるのを待った。 [#改ページ]   第三章 12/23 FRI.      1  目を覚ました朝香葉子は、真っ暗な天井をぼんやりと見つめた。  ついさっきまで夢を見ていた。葉子が助けようとして果たせなかった11歳の少女が奇跡的に息を吹き返したと警察から連絡があり、自分が歓喜している夢だった。  ……どうして夢なの?  心の中で葉子は呟《つぶや》いた。  枕元の時計を見る。午前6時。まだカーテンの向こうに朝の気配はない。毛布の隙間から冷たい空気が入り込んで来て痩《や》せた体を凍えさせる。  布団の中でしばらく躊躇《ちゆうちよ》してから、葉子は思い切って跳ね起きた。ネルのパジャマを脱ぎ捨て、トレーニングウェアを素早く着込む。足音を忍ばせて玄関に向かう。 「せっかくの祝日なのに、もう走りに行くのかい?」  襖《ふすま》の向こうから母の声がした。 「起こしちゃった?」 「もう1時間も前から起きてるよ」 「1時間で戻って来るから、そしたら一緒に朝ごはんにしようね。今朝はわたしが作るから、お母さんは横になっててね」  玄関の縁にしゃがんで履き古したランニングシューズに足を入れる。いつものように入念に紐《ひも》を結ぶ。玄関のドアを開け、冷たい空気の中に出ていく。  葉子は悩んでもしかたのないことを悩んだりはしなかった。昨夜、珍しくクヨクヨした自分を思い出すこともなかったし、今朝の夢を思い出すこともなかった。彼女は自分の中にある強さを知っていた。どんな時でも、それは信頼に足るものだった。  準備運動が済むと葉子は、夜明け前の冬の街を、海に向かって走り出した。      2  斜めから差す冬の朝日が街のあちこちに深い影を刻み付けている。祝日なので人の姿はほとんどなく、海沿いの街は静かだった。  海岸と路上で1時間かけて拾い集めたゴミの入った袋を手にして、猿渡哲三はマンションのゴミ置き倉庫の扉を開けた。  茅ヶ崎に越して来てからずっと、妻が生きているうちはふたりで、妻が死んでからはひとりで、猿渡は朝の日課であるゴミ拾いを続けていた。彼の住むマンションから海岸までは直線距離にして300mもなかった。だが、猿渡が毎朝のように拾っているにもかかわらず、その300m足らずの路上にはいつもゴミが散乱していた。今は冬場なので砂浜はそれほどでもなかったが、それでも大きなビニール袋は毎日必ずゴミでいっぱいに膨れ上がった。海岸のにぎわう夏場には袋はひとつでは足らなかった。  空き缶や空き瓶やペットボトル、コンビニやスーパーのビニール袋、弁当やカップ麺《めん》の空き容器、ヨーグルトやアイスクリームやプリンのカップ、スナック菓子の空き袋、煙草の吸い殻や空き箱、割り箸《ばし》やプラスティックのフォークやスプーン、新聞や雑誌……どれもただひとりの人間がたった1度使うために作られたものばかりだ。  ゴミを路上に捨てていくのは若者ばかりではない。スーツ姿の男たちが弁当の容器を車の窓から平気で投げ捨てていく。中年の女がジュースの缶を草むらに無造作に放り込んでいく。菓子を食べながら歩いていた子供たちが、空き箱や空き袋を平然と路上に残していく。ゴミを拾う猿渡の目の前に捨てていく年寄りもいた。  大人も子供も老人も、誰も彼もが、自分のことと家族のこと、そして自分の属している団体のことだけを考えて生きてるように猿渡には思われた。  マンションのゴミ置き倉庫に膨れ上がった袋を捨て、5階の自室に戻ると、猿渡はそのまま東向きのバルコニーに出た。  バルコニーはそれほど広くはない。低い棚に並べられた10鉢ほどの盆栽に、冬の朝の弱々しい光が当たっている。高価な盆栽はひとつもない。どれも猿渡が種や幼苗から育てた取るに足らない小品だ。根元の土に触れ、鉢の水分を慎重に確かめる。今朝はまだ水やりの必要はなさそうだ。  部屋の中に戻ろうとした時、バルコニーの端に赤トンボの死骸《しがい》が落ちているのに気づいた。屈み込んで拾いあげる。すると、トンボの脚が微かに動いた。  ……生きてたのか。  猿渡は瀕死《ひんし》の赤トンボを手にしたまま部屋に入った。風がないぶん外よりいくらかマシだったが、暖房はしないので室内でも吐く息が白く見える。朝日の当たるテーブルにトンボを置き、味噌汁《みそしる》の鍋《なべ》に少し水を足して火を点ける。冷蔵庫からメザシを出し、網に並べて焼く。漬物の白菜を手早く刻み、小皿に盛る。冷たくなった飯を茶碗《ちやわん》に盛り、電子レンジに入れる。メザシが煙を上げ始め、慌てて換気扇を回す。沸騰した味噌汁を椀《わん》に注ぎ、メザシを手早く裏返す。焼ける魚の匂いが辺りに漂う。湯気の立つ茶碗を電子レンジから取り出す。  焼き上がったメザシを小皿に載せた時、猿渡は微かな羽音に顔を上げた。  テーブルにいたはずのトンボが、朝日の当たる窓ガラスのところにいた。いつのまに蘇生《そせい》し、あんなところまで飛んだのだろう? トンボは窓ガラスに体をぶつけるようにして羽ばたいていた。  窓辺で羽ばたくトンボを見ながら、猿渡はいつものように質素な食事をとった。ゆっくりと飯を噛《か》み、だしの効いた味噌汁を味わった。塩辛いメザシを頭からかじり、窓辺で羽ばたくトンボを見上げた。そして——もうお前の仲間はどこにもいないんだろう、と思った。仲間はみんな死んじまった……俺と同じだ。そう思った。  いつもと同じ、ひとりきりの朝の食卓だった。だが猿渡は、寂しいとは思わなかったし、わびしいとも思わなかった。いや、思うまいとしていた。  寂しくなんかない。わびしくなんかない。  それでも——それでも時に、寂しさや、わびしさが、どうしようもなく募ってくることがある。ごくまれに、そんな時がある。そんな時、老人は、死んでいった仲間たちのことを考えるようにしていた。  そう。今から50数年前、猿渡哲三は赤道直下の未開の島で、まだ人生で何ひとつなし得ていない若者たちが野良犬のように死んでいくのを見てきた。20歳そこそこの若者が擦り切れた母の写真を握り締めてボロ切れのようになって死んでいるのを見てきた。死んだ兵士のポケットに、戦闘前に支給された3粒のコンペイトウが手つかずで残っているのを見てきた。  そうだ。猿渡はそれを見てきた。そして、それを見てきた自分が——それからさらに半世紀以上も生き延びた自分が——「寂しい」などと言うわけにはいかなかった。「わびしい」などと泣き言を漏らすわけにはいかなかった。それでは、死んでいった彼らにあまりに申し訳が立たなかった。  猿渡は今では、さらに多くの悲惨な出来事があったという事実を知っていた。ある特定の人種を絶滅させるという狂気を実現させるために、『絶滅収容所』と呼ばれた場所で殺された何百万の人々がいることを知っていた。エノラ・ゲイと呼ばれた爆撃機によって夏空から投下されたたった1個の爆弾が、一瞬にしてその街に生きるすべての生命を焼き尽くしたことを知っていた。片道だけの燃料を積んだ飛行機で敵艦に体当たりするために出撃していった若者たちのことや、バンザイを繰り返しながら断崖《だんがい》から身を投じた女や子供や老人のことや、『ひめゆり』と呼ばれた少女たちのことを知っていた。学業の途中で戦場に駆り出されていった学生たちのことや、本名を名乗ることや母国語を話すことを禁じられた人々がいたことを知っていた。世界中で実に多くの人々が、恐怖と絶望と悲しみの中でその生を永久に断ち切られていったことを、猿渡哲三は知っていた。  そうだ。猿渡はそれらの事実を知っているのだ。だとしたら——この平和な日本で、80歳近くまで生き延びた自分が、「寂しい」などと言うわけにはいかなかった。「わびしい」などとは、口が裂けても呟けなかった。  猿渡は無言で飯を噛み続けた。ふと、顔を上げて窓辺を見た。  トンボはどうしても外に出たいらしい。せわしく羽音を立てながら、透き通ったガラスの表面を嘗《な》めるように上下している。  ……しばらくここにいればいいのに。明日はきょうより、もっと寒いらしいぞ。  食事が終わると猿渡はトンボがぶつかっている窓ガラスを開けてやった。最後のトンボはためらうことなく戸外に飛び出し、冬の朝の冷たい空気の中に消えていった。      3  辺りを何度も見まわしてから、田島聖一はコインロッカーの扉を開いた。金属の壁に囲まれた小さな密室で、それは爆発の時を待っていた。  心臓が高鳴り、口が乾く。また辺りを見まわし、ほんの一瞬ためらい、それから思い切ってそれを引っ張り出し、持参した大きなボストンバッグに素早く入れる。また辺りを見まわす。  祝日なので、いつもほどのラッシュではない。行楽に向かう家族連れ。老人たちの一団。待ち合わせの若者たち。お揃いの野球のユニフォームを着た者たち……。田島はアタッシェケースを入れたボストンバッグを提げ、その重さにフラつきながらプラットフォームへと向かった。  行く当てなどなかった。ただこのアタッシェケースを、自宅から少しでも離れた場所に持って行きたかった。そうしなければ、明日の晩、自分は家族を皆殺しにしてしまうだろうと思った。  やって来た電車に乗り込み、座席に腰を下ろすと、田島は足のあいだに挟み込むようにボストンバッグを置いた。      4  化粧の濃い女性アナウンサーが、ほかにも時限爆弾入りのアタッシェケースが存在する可能性があるので明日のクリスマス・イヴは外出を控えるように、と喋《しやべ》っている。  大画面のテレビを眺めながら、飯田《いいだ》マモルは口の中のトーストをミルクで飲み込んだ。マモルの通う私立中学では、いよいよきょうから冬休みだった。  テレビにはクリスマス・イヴを明日に控えた街の様子が映し出された。デパートやスーパーマーケットや商店街の小売店主や、レストランやケーキ屋の経営者や、映画館の支配人たちが口々に、クリスマスはかき入れ時だというのに迷惑な話だと語っている。いくつかの遊園地やアミューズメントパークやレジャーランドの責任者たちは、自分たちの施設は安全の確保に全力を挙げているので爆発物が持ち込まれることはあり得ない、と断言している。空港では普段よりさらに厳重に荷物のチェックが行われている。シティホテルの支配人は『お客様のお荷物をいちいち開けてチェックするわけにはいきません』と泣きそうな顔で言っている。人気ロックグループのコンサートが行われる会場の責任者は、『普段の2倍の警備員を動員して警備にあたっているので、お客様の身に危険が及ぶようなことはありません』と言い切っている。  トーストとミルクの簡単な食事を終えると、マモルは大きな窓の向こうを見下ろした。鎌倉の海が眩《まぶ》しいほどに輝いている。水平線の辺りを白い船がゆっくりと進んでいくのが見える。  父はまだ暗いうちから起き出してゴルフに行った。母は陶芸の会の友人たちと横浜に出かけていった。マモルはいつものように午後から進学塾に行く予定だった。 『いったいあのアタッシェケースはいくつあるのでしょうか?』  化粧の濃いアナウンサーが細い眉《まゆ》のあいだに皺《しわ》を寄せて深刻な顔で話している。『どこかに同様のアタッシェケースが、本当に存在するのでしょうか?』  それは誰にもわからなかった。けれど、14歳の飯田マモルは、少なくともそれがあと1個は存在することを知っていた。その1個が今どこにあり、明日の何時に爆発する予定なのかを知っていた。  マモルは手の甲で口を拭《ぬぐ》った。そして、きょうで見納めになるはずの窓からの景色をじっと見つめた。      5  三宅正夫《みやけまさお》は自宅のキッチンでテレビを見ていた。すぐ脇では妻が朝食の用意をしていた。テレビではアナウンサーと評論家たちが『まだ発見されていないアタッシェケース』について話していた。 「ねえ、朝刊を見て思ったんだけど、平塚でアタッシェケースを届け出た女の人がいたでしょ? 30歳の元長距離走者だっていう女の人」  白菜の漬物を刻んでいた妻が振り向いて言った。「その人、もしかしたら、あなたの教え子だった子じゃない? ほら何年か前、雨のオリンピック選考会で勝った女の子……あの子、名前、何ていったかしら?」 「名前か……?」  三宅はしばらく沈黙した。だが、思い出そうとしているわけではなかった。4年前に定年退職するまで、三宅は30年ほど県立高校の弱小陸上部の顧問をしていたが、その30年の中で彼女ほど強く印象に残っている生徒はいなかった。 「忘れちゃったの?……ほら、何て言ったかしら?……あの綺麗《きれい》な女の子よ」 「……朝香だよ……朝香葉子」 「そうそう、朝香さん、朝香さんだ。あなたの教え子の中ではいちばん活躍した選手だったものね……でも、どうしてこんな事件に巻き込まれちゃったのかしら?……あの子、大丈夫かしら?」  三宅はテレビの画面に目をやったまま、またしばらく沈黙した。そして、かつての教え子のことを思い出そうとした。  新入部員としてやってきた朝香葉子は素質に恵まれているようには見えなかった。中学時代の記録も平凡なものだったし、実際に走っているところを見ても、たいした選手になるとは思えなかった。  確かに長距離走者としての素質はなかったと思う。だが、それとは別に、朝香葉子の走る姿には心を動かされるものがあった。  ——あの子はまるで、獲物を追う肉食獣のように走る。  朝香葉子のことを考えるたびに思い出すのは、彼女が3年だった秋に行われた、湘南地区の高校女子駅伝の予選会だった。あの日——11月上旬の日曜日。大陸から流れ込んだ寒気のせいで11月とは思えないほどに気温が下がり、朝から激しい雨が降り続き、冷たい風が吹きすさんだ。  予選会は決行された。  三宅は最上級生の朝香にアンカーを命じた。それは陸上部の長距離走者陣の中で彼女が最も速かったから、という理由からではない。事実、三宅は当初、朝香を7人のランナーの第4走者にと考えて、そのように登録していた。けれど、当日の空を見て気が変わった。  こんな日には、あいつが強い。  三宅は当日の朝、集まった部員たちに、豪雨の中でメンバーの変更を伝えた。 「アンカーを朝香葉子に変更する」  突然の変更にも、彼女は驚かなかった。三宅の目を見つめて静かに頷《うなず》いただけだった。  豪雨の降りしきる中、予定より1時間遅れの午前11時に第1走者が競技場をスタートした。葉子はそれを、各校のよりすぐりのアンカーたちのいる最終中継地点で確認した。雨はいよいよ激しく吹き付け、車道を雨が川のように流れていた。辺りはまるで夕暮れ時のように暗く、街灯はいつまでたっても消えることがなかった。雨よけの簡易テントの下で、葉子はウィンドブレーカーをまとったまま軽い準備運動を繰り返した。冷たい雨はテントの中にまで吹き込み、じっとしていると筋肉が硬直してしまうほど寒かった。  各校のトップアスリートであるアンカーは、誰もみな、葉子よりも秀れた自己記録を持っていた。通常の状況下では自分のかなう相手ではなかった。けれど葉子は、それに怖《お》じけたりはしなかった。  こんな日には、わたしは強い。  スタートからおよそ1時間後に、最初のランナーが葉子たちアンカーの待つ最終中継地点に走り込んで来た。予想どおり、優勝候補の湘南大一高だ。全身を雨に叩《たた》かれ、冷えきり、消耗しきった湘南大一高の第6走者が、アンカーである第7走者に襷《たすき》を繋《つな》ぐ。襷を受け取ったアンカーが、雨の路上をずぶ濡《ぬ》れになって走り出す。  その様子を眺めながら葉子は、ゆっくりとウィンドブレーカーを脱ぎ、「ひとり」と呟《つぶや》いた。  やがて第2位のランナーが襷を携えて走り込んで来た。続けて第3位のランナーが。しばらくして第4位のランナーが。葉子はそのたびに「ふたり」、「3人」、「4人」と口の中で呟いた。  葉子たちの学校のランナーは出場12校中、ビリから2校目の11番目にやって来た。彼女は顔を雨と涙と鼻水とでぐしゃぐしゃにして、蒼白《そうはく》になって走り込んで来た。 「葉子、お願いっ!」  葉子は第6走者から濡れ雑巾《ぞうきん》のようになった襷を受けると、激しい雨の中に飛び出した。シャワーのように叩きつける雨がたちまち全身を包み込み、メッシュの靴が水分を吸い込んで一気に重くなった。  前にいるランナーは10人。そのいちばん後ろのランナーの背中が70〜80mほど前方に霞《かす》んで見える。葉子はその背だけを見つめ、それだけを捕らえようとして走った。ほかのものは何も見なかった。見る必要はない。見ているのは、背中だけ。前を行くランナーの、濡れ細ったその背中だけ。 『わたしの中には、とてつもなく強い生き物が住んでいる。そして、あのランナーの中にはそれがいない』  髪から流れ落ちた雨が顔の表面を洗うように流れていき、ナイロン素材の薄いランニングシャツが、同じ素材のパンツが、体にぴったりと張り付くのを感じながら葉子は走り続けた。前を行くランナーの背中、その背中だけを見つめて、その背中だけを捕らえようとして走り続けた。  今までに経験したことのない悪天候の中、第10位のランナーと第11位のランナーとの差は見る見る詰まっていった。ふたりの走者の差。それは、体の中にとてつもなく強い生き物を飼い得た者と、そうでない者との差だった。  急な登り勾配《こうばい》を描きながら左に緩やかに折れる長いカーブ。そのきつい登りのカーブを終えたところで、葉子のすぐ目の前に、前方を走っていたランナーの背が現れた。痩《や》せた体にランニングシャツを張り付かせ、冷たい雨に打たれて体温を失い、猛烈に消耗しているようだ。高校生の女子に、この環境は容易ではない。もう脚が上がっていない。  葉子はそのランナーに並びかけ、横目で彼女の様子をうかがった。口を開いて苦しそうにしている。目も虚ろだ。細い肩を鳥肌が覆っているのが見える。  もちろん葉子だって寒かった。泣き出したいほど苦しく、叫びたいほどに辛かった。そして、その苦しさと辛さが——その苦しさと辛さに耐えることが、才能に恵まれなかった者が持ち得る、ただひとつの武器だった。葉子はそれを知っていた。 『わたしは苦しみに耐えることができる』  葉子は易々とそのランナーを抜き去ると、今度はその前方を走っているはずのランナー目指して走り続けた。  一段と激しくなった雨と風の向こうに、その前を走る第9位のランナーの背中が見えた。見えないものには追いつきようがない。けれど、今、その背中が見える。見えれば追いつこうとすることができる。  ねじ伏せるように体を前傾させ、寒さと苦しみを味方にして、葉子は走り続けた。  4番目に競技場に戻って来た葉子はホームストレートでさらにひとりを追い抜き、第3位でゴールに飛び込んだ。第11位からのスタートだったから最終区だけで8人をゴボウ抜きにしたことになる。葉子の走破タイムは平凡な記録に過ぎなかったが、それでも葉子はその日の最終区の区間賞を獲得した。過去に例を見ないひどいコンディションで他校の優秀なランナーたちが大きくタイムを崩す中にあって、葉子ひとりだけが、自分の力に見合ったタイムで最終区を走り抜けたのだ。  湘南地区の女子駅伝の予選会でそんなに上位の成績を獲得したのは、葉子たちの陸上部創設以来の快挙だった。最終中継地点での11位という順位は競技場に届いていたから、まさか葉子が4番目に戻って来るとは、顧問の三宅でさえ思わなかった。  この雨。この風。この寒さ。朝香なら、きっと何人かは抜いてくれるだろう。ふたり抜ければ9位、もっとうまくいって3人抜くことができれば8位。三宅はそう思っていた。  しかし葉子は、実に7人を抜き去って雨の市営競技場に戻って来た。そして、すべてのものが霞んで見えるほどの豪雨の中、そんなに疲れているのにもかかわらず、それでもまだ、すぐ前方を走るランナーを捕らえようとしていた。  もうひとり。あと、もうひとりだけ。  県大会に進めるのは上位2校だけだったから、3位でも4位でも関係ないはずだった。それにもかかわらず、葉子は追いつこうとしていた。自分の前方を走るランナーの背中を捕らえようとしていた。  葉子は第3位のランナーを追い続け、ゴール直前でついに捕らえ、抜き去った。三宅はテントを飛び出し、気を失いかけながらゴールに倒れ込んだ葉子を、まるで恋人のように抱きかかえた。  冷えきった葉子の体を暖かなタオルにくるみながら三宅は、朝香葉子をアンカーに起用したことを後悔していた。  まさか、これほどまでに走るとは。こんなになるまで走り続けてしまうとは。  そして三宅は、朝香葉子という子はどんなふうに育ってきたのだろう、と思った。 「ねえ、朝香さんに電話してあげたら? あんな恐ろしいものが自分に送りつけられてきたら、あたしだったらとても普通じゃいられないわ」  三宅の前に湯気の立つ味噌汁《みそしる》の椀《わん》を置きながら妻が言った。  三宅正夫は壁の一点を見つめながら、あの日の葉子の顔を思い出した。それから、その6年後、やはり大荒れの天気となったオリンピック代表選考会での葉子の姿を思い出した。 「いや、あの子なら、何があっても大丈夫だ」  三宅はそう言って誰にともなく頷いた。      6  テーブルでは妻がクリスマス・ソングを口ずさみながら食後のコーヒーをいれている。すぐ脇の大きなテレビの前では娘たち——9歳のトモミと7歳になるアユミが——ビデオゲームをしながら、父親が「さあ、それじゃあデパートにでも行ってみようか?」と言うのを待っている。そして、娘たちの父親である自分は、コーヒーの香りの満ちた明るいダイニングキッチンのソファにもたれて朝刊を広げている。  3連休の始まりの朝。朝食後のくつろぎのひととき。これから買い替えたばかりの車に乗って家族4人で横浜の百貨店に行き、娘と妻にプレゼントを買うことになっている。  平凡。だけど、幸せ。  ふだんの小田豊《おだゆたか》なら、そんなささやかな幸せの喜びをしみじみと味わい、噛《か》み締めているはずだった。  だが今、小田はそれを喜んでいることなどできなかった。  ——クリスマス・イヴの午後1時。  一昨日、あの忌まわしい物を手に入れ、それが本物の時限爆弾だと知ってしまい、自分にもあれほどの大惨事を引き起こすことができるのだと考えてしまったその瞬間から、小田の心はグチャグチャになってしまった。会社でデスクに向かっていても、得意先で顧客と商談していても、同僚と冗談を言い合っていても、電車に乗っていても、家で家族と食事をしていても、ベッドで妻に体を重ねている時でさえも——小田の心はいつもあのアタッシェケースに占領されていた。  ……自分のことを毛嫌いしている課長の自宅に送りつけたらどうなるんだろう? 買い物客で賑《にぎ》わう駅ビルの食料品売り場に置いて来たらどうなるんだろう? 家族連れで満員になってるはずのファミリーレストランに置いて来たらどうなるんだろう?  ふと気がつくと、小田はそんな想像をしていた。そして、そんなことを考える自分に驚き、とてつもなく深い自己嫌悪に陥った。  それは本当に驚きだった。自分の中にそんな暗い、魔物のようなものが息づいているとは思ってみたこともなかった。  あれが辻堂駅で大爆発を起こし、何十人もが死んだと知った時、小田はすぐに警察に電話しようと思った。あるいは、あれを持って警察署に駆け込もうと思った。だが、なぜか——彼はそうしなかった。  面倒なことに巻き込まれるのはゴメンだった。警察でありもしない疑いをかけられたり、犯人との繋《つな》がりを詮索《せんさく》されたりすることを思うとうんざりだった。会社や近所の人たちにそんなことが知れたら、どんな目で見られるかわかったものではなかった。  けれど——俺が警察に届け出なかったのは、それだけが理由だったのだろうか? もしかしたら……俺はあれで、誰かを傷つけてみたいと思っているのではないだろうか?  そう考えると、まるで自分の中にもうひとり、悪魔のようなやつがいるような気がして恐ろしかった。自分で自分がわからず、頭がおかしくなってしまいそうだった。  ……トラブル続きの顧客の会社に置いて来たらどうなるんだろう? あの憎らしい隣のクソジジイの家に置いて来たらどうなるんだろう? 映画館の座席の下に置いて来たらどうなるんだろう?  小田豊は従業員200人ほどの食品メーカーに勤務する40歳のサラリーマンだった。平凡なサラリーマンの子として生まれ、平凡な大学を平凡な成績で卒業し、父と同じように平凡な会社に就職し、同じ会社の事務員だった平凡な女と結婚し、子供を作り、小さな家を買い、平凡な人生を送ってきた男だった。そうやって人生の半分の時間を過ごし、これからの半分も同じように生きていくつもりだった。それなのに——。 「何、ぼんやりしてるの?」  コーヒーのカップを差し出して妻が笑う。 「いや、別に何でもないよ」  そう言って笑い返す。顔が引きつるのがわかる。だが、妻はそれに気づかない。  なぜ、自分にあんなものが送られて来たんだろう? いったい誰の仕業なんだろう?  小田はこの2日間に1000回も考えたことを、また考えた。  誰にも恨まれていない、とは言い切れない。すべての人に良くしてきた、とも言い切れない。カッとして人を怒鳴りつけたこともあるし、逆に怒鳴られたこともある。けれど、それは普通のことではないのか?  自分が突然、手にしてしまった巨大な力に、小田の心はわななき続けた。 『なぜ俺は警察に行かないんだ? あれをどうするつもりなんだ?』  ……横浜の地下街に置いて来たらどうなるんだろう? 遊園地の観覧車の中に置いて来たらどうなるんだろう? 妻の実家に置いて来たらどうなるんだろう?  頭の芯《しん》が痺《しび》れ、口の中がカラカラになった。このままこうしていたら、自分は明日、本当にあれで人を殺してしまうだろうと思った。  考えるべき問題ではないはずだった。やるべきことは、ひとつしかないはずだった。  小田はソファから立ち上がった。無言で玄関を出ると裏庭に建てられたスチール製の物置に向かった。その片隅から重い紙袋をそっと持ち上げ、袋の底が抜けないように注意しながら慎重にガレージの車まで運んだ。それから室内に戻り、車のキーを掴《つか》み、妻に「ちょっとだけ、出て来る」と言った。 「出て来るって……どこに行くの?」  コーヒーを飲んでいた妻が驚いたように言う。「これから横浜に行くんでしょ?」 「ちょっとそこまでだ……すぐ戻る」  そう言うと小田は再びガレージに行き、車のトランクに紙袋を積み込んだ。心臓が猛烈に高鳴っていた。  エンジンをかけ、ギアをドライブに入れ、サイドブレーキを下ろす。狭いガレージから静かに車を出す。 『さあ、その力を使え。世界は今、お前の親指の下にあるんだ』  小田の知らなかった、もうひとりの自分がそう言って笑った。  12月23日の午後になって、横浜市|磯子《いそご》警察署に、近くに住む40歳のサラリーマンが「ちょっと、すみません」と言ってやって来た。男は警察署のカウンターに大きな紙袋を置き、「この中にアタッシェケースが入っています。たぶん、問題のアタッシェケースだと思います」と言った。警察署の中は一瞬にしてパニックに陥った。  ただちに爆発物処理班によって紙袋の中身の確認がなされた。中にあったアタッシェケースには、32歳の風俗嬢や30歳の元長距離走者の女性が警察に届けたものと同様の時限爆弾が仕掛けられていた。  小田豊というこのサラリーマンの供述によれば、彼が差出人のない手紙を受け取ったのが21日の午後。手紙には根岸駅のコインロッカーの鍵《かぎ》が同封されていた。彼は不審に思いながらも指定のコインロッカーに行き、そこでアタッシェケースを入手した。アタッシェケースの上には手紙が置いてあり、そこには中身が時限爆弾であり、クリスマス・イヴの午後1時に爆発すると書かれていた。最初はもちろん、信じなかった。だが、きのうの朝になって、テレビでそれが本物の時限爆弾であることを知った。  それが彼の供述のすべてだった。 「……本当はもっと早く警察に行くつもりだったんです……すぐに行くつもりだったんです……でも、何だかんだで2日もぐずぐずしてしまって……それでも……自分は誰も傷つけませんでした……誰ひとり殺しませんでした……」  彼が車で自宅を出て、わずか2�しか離れていない警察署に着くまで、実に3時間半が経過していた。その3時間半のあいだに、彼の心の中で何があったのかは、今では誰にもわからない。  それが本物の爆弾だとわかってから、百貨店や映画館やパーティ会場や、オモチャ屋やケーキ屋や近所の家の玄関に持ち込むということをチラリとも考えなかった、というわけではない。だがぼんやりと想像しただけで、自分がそれをすることはなかったと思う。  取り調べにあたった警察官に、小田はそう漏らしたという。  小田豊はごく平凡なサラリーマンだった。狭いながらも横浜の持ち家に、妻とふたりの娘と暮らしていた。社会の底辺に暮らしているわけではなかったし、社会に対して特別な憎悪を抱いたこともなかった。これといったトラブルを抱えているわけでもなかった。  にもかかわらず、そんな彼でさえ、巨大な力を手にした時、それを使うことを想像した。それで誰かを殺すこと。それで何かを破壊すること。  もちろん、彼はただ想像しただけだった。だが——。  おそらく、発見されていないアタッシェケースが、まだどこかにある。そしておそらくそれは、第2、第3、第4の小田豊によって、いや、彼よりも少しだけ自分は虐げられていると感じ、彼より少しだけ社会に対して憎悪と悪意を抱いた者によって、どこかに——クリスマスの買い物客で賑《にぎ》わう百貨店や、若い恋人たちで満員になった映画館やパーティ会場や、家族連れでごった返すオモチャ屋やファミリーレストランや遊園地やゲームセンターに持ち込まれ、クリスマス・イヴに大爆発を起こす。その可能性は低くない。  神奈川県警は警視庁に応援を要請し、さらに大規模な捜査が進められた。政府は緊急閣議を開き、国民に12月24日には人の集まる場所へは極力行かないように、という緊急の声明を発表することを決めた。それが経済活動に与える影響は計り知れなかったが、そんなことを言っている場合ではなかった。      7 『夜、猛烈なヤブ蚊の襲来を逃れて、われわれはマングローブの茂みから海岸の岩陰に這《は》い出した。見晴らしのいい海岸は敵に発見される恐れがあって危険だった。だが、もうあの島には安全な場所などありはしなかった。  海岸には風が吹き抜けていて、涼しかった。わたしは泥水でぐちゃぐちゃになった軍靴を脱いで裸足になった。乾いた砂がふやけきった足裏に心地よかった。表面はひんやりとしていたが、砂の中にはまだ昼の凶暴な熱気が潜んでいた。  これがこの世での最後の夜だ。明日の今ごろ、わたしはこの地上に存在しないのだ。  それは疑いようもないことに思われた。人数で遥《はる》かに勝る敵は、充分な装備と情報を携え、衣食足りていた。それに対してわれわれには食料も薬もなく、弾丸も底をついていた。  だがもちろん、降伏するつもりなどなかった。わたしは腰に手榴弾《しゆりゆうだん》を携えていた。最後にはこれを持って、敵の輪の中に突撃するつもりだった。  何人かが岩陰で煙草を回していた。わたしは彼らに駆け寄り、自分にも一口だけ吸わせてくれないだろうか、と頼んだ。面識のない男だったが、彼は「一口だけだぞ」と笑って、短い煙草を手渡してくれた。わたしはそれを遠慮がちに、一口だけ吸った。それは頬に鳥肌を立たせるほどうまかった。  血と泥にまみれた布で顔の半分を覆った男が、皺《しわ》だらけの写真を月明かりにかざして眺めていた。写真には赤ん坊を抱いた女が写っていた。男はわたしに、「女房と息子だ」と言って笑った。その言葉にはどこのものかわからない訛《なま》りがあった。  口に残った煙草の味を噛《か》み締めながら、わたしは空を見上げた。晴れ上がった空には無数の星が瞬いていた……』  そこまで打ち終えると猿渡哲三はモニターから顔を上げた。フーっとひとつ息を吐き、たった今書き終えた文章を自分のホームページに挿入するためにマウスの操作を始めた。それが終わるといつものように、ホームページを訪れた人々が書き残していく感想を読むことにした。  猿渡のホームページを訪れる人は、当初予想していたより遥かに多かった。やはり自分と同年代の老人が多いようだったが、若者らしき者たちもいた。ホームページを訪れた人たちのうち何人かは感想を残していってくれた。たいていは猿渡を励ましたり、勇気づけてくれるものだった。  感想欄のチェックは昨夜したばかりだった。だが、今、また新しいものが送られてきていた。  猿渡はそれを開いた。 『猿渡さんお元気ですか? いつも、猿渡さんのホームページを興味深く読ませていただいている者です。  さて、猿渡さん。わたしからのプレゼントは気にいっていただけたでしょうか?』  猿渡は息を飲んだ。 『まだ警察に届け出ていないところをみると、気に入っていただけたのですね?  猿渡さんに喜んでもらえてよかった。高い金を払った甲斐《かい》がありました』 「いったい、これは……」  猿渡は呻《うめ》き、喘《あえ》ぐように息をしてから、モニターに視線を戻した。 『わたしは猿渡さんが大好きです。以前から尊敬しています。だから猿渡さんだけに特別に、あのアタッシェケースが何個あるのかをお教えしましょう。警察さえ把握していないトップシークレットです。  あのアタッシェケースは全部で13個ありました。1個は辻堂駅前ですでに爆発し、3個は警察の手に渡ってしまいました。1個は猿渡さんがお持ちですよね? けれど、ほかの8個は今もどこかで爆発の時を待っています』 「13個だって……?」  あまりの息苦しさに猿渡は喘いだ。誰がいるわけでもないのに部屋の中を見まわした。それから再びモニターに目をやった。光を発するモニターには無機質な文字が整然と並んでいた。 『それぞれのアタッシェケースは12月24日の正午から深夜の0時まで、毎時00分に、1時間ごとに、辻堂のと同程度の爆発を引き起こします。まだ警察に届け出ていない人々は、あれをどうするつもりなんでしょうね?  当初わたしは、何人かは指定されたコインロッカーに行かず、コインロッカーでアタッシェケースを見つけた者もほとんどが警察に届け出るものと推測していました。だが、実際にはひとりを除いて全員が指定されたコインロッカーに行きました。警察に届け出たのも32歳の風俗嬢と30歳の元長距離走者の女性、それに40歳のサラリーマンだけでした……それにはわたしも驚きました』  猿渡は唇を噛んだ。全身が細かく震えていた。 『お前は誰なんだ、そうお思いですね?  お答えしましょう。わたしはあなたの代弁者です。その窓から街を見下ろし、嘆き、歯軋《はぎし》りしているあなたの代理人なんですよ。  猿渡さん、あなただって本当は、こういうことをしたいと思っていたのではありませんか?  この国と、この国に住む人間のすべてを、一掃したいと考えていたのではありませんか?  猿渡さんがあの戦場で、命さえかけて守ろうとしたのは、こんな国だったのですか? 猿渡さんはこんな国の、こんな人々を守るために、あの熱帯のジャングルで死のうとしていたのですか?  腐った枝に罪はない。だが腐った枝は切り落とさなくてはならないのです』  猿渡はモニターを凝視し続けた。まるでその文字の向こうに、それを書いた人間の顔が透けて見えるとでもいうかのように、じっとそれを見つめ続けた。 『迷う必要がどこにあります?  こんな堕落した国の人々は、彼ら自身の手で滅びてしまえばいいのです。  さあ、猿渡さん。あれを使ってください。そして、この最低の国を破滅させてしまってください。あなたは今、その力を持っているのです』  文章はそこで終わっていた。猿渡は呆然《ぼうぜん》とモニターを見つめ続けた。何かを反論しようとして口を開きかけた。だが、言葉は出なかった。  そっと足元に手を伸ばす。そこには今も、あの銀色のアタッシェケースがあった。      8  夫の部屋に入ると煙草のヤニの臭いが鼻を衝《つ》いた。込み上げる嫌悪感に田島明子は顔をしかめた。息を止めて部屋の奥まで進み、窓をいっぱいに開け放つ。北向きの窓から流れ込んだ冷たい風が、室内の空気を一掃する。  充分に空気が入れ替わってから窓を閉め、夫の机の前の椅子に腰を下ろす。机の引き出しをひとつひとつ開けて、中に入っているものを確かめる。  夫の態度になど関心はなかった。それでもさすがに、ここ数日の聖一の変化には明子も気づいていた。  ……まさかクビになったわけじゃないでしょうね?  引き出しにはたいしたものは入っていなかった。過去に送られて来た年賀状や暑中見舞い、買い置きの煙草やライター、筆記用具やスタンプ台、使い終わったビジネス手帳……。いかにも無趣味な聖一らしかった。  夫が何か悩んでいるらしいのはわかる。だが、それは明子の問題ではなく、聖一の問題だった。明子は余計なことは考えたくなかった。給料をもって帰って来るのは夫の仕事だった。だから明子は何も知りたくなかった。聖一の愚痴や悩みなど聞きたくなかった。  彼らはそういう夫婦だった。  明子がふたつ年下の聖一と結婚したのは30歳の時だった。明子の勤務する印刷会社の社長が見合いの話を持って来たのだ。その写真を見て明子は悲しくなった。そこに写っていた男があんまり貧相で、みすぼらしかったからだ。みんなが自分を、こんな男とつり合うような女だと考えているのだと思うと惨めだった。  見合いの席には双方の両親など8人が顔を合わせた。そこで見合いの相手を実際に見て、明子の中にさらに大きな失望が広がった。小柄な聖一は卑屈な目付きで人を見上げ、意味のない薄ら笑いを絶えず浮かべていた。  けれど明子は、この男と結婚しようと決めた。自分の容姿や年齢や経歴を考えれば、高望みはできないことはわかっていた。  結婚に期待などしていないつもりだった。だが、聖一との結婚生活は明子が想像した以上に空しく、寂しかった。聖一はいつまでたってもよそよそしく、心から打ち解けるということがなかった。愛を語ることも、優しい言葉をかけることも、明子の話に聞き入り、頷《うなず》いてくれることもなかった。  孤独を忘れるために明子はテレビを見た。嫌というほど見た。けれど、テレビは明子の孤独を癒《いや》しはしなかった。それは、ブラウン管のこちら側にたったひとりでいる彼女の孤独を加速させただけだった。  夫の机に肘《ひじ》を突いて、明子は溜《た》め息を漏らした。  その時、天井から純一の足音が聞こえた。たぶん、トイレに行ったのだろう。  純一はもともとが無口で引っ込み思案な子だったが、高校に入学した頃から理由も言わずに学校を休むことが多くなり、ある日を境に自室から出ようとしなくなった。それから4年以上の月日が経過し、16歳だった純一は20歳になった。  明子はもう1度、長い溜め息を漏らした。世の中と折り合っていくことのできない長男のことを考えると不憫《ふびん》でたまらなかった。 「畜生っ」と、吐き捨てるように、低く呟《つぶや》いた。      9  重たいボストンバッグを提げ、田島聖一は横浜の繁華街をさまよっていた。  祝日の繁華街は人でごった返している。携帯電話を耳に押し当てて声高に話す制服姿の女子高生。お揃いのダッフルコートを着て寄り添ったカップル。双子の赤ん坊をバギーに乗せた若い夫婦。杖《つえ》を突いた老人を支えて歩く和服姿の老婦人……。百貨店の紙袋を提げた中年女の一団が大声で笑っている。ミニスカート姿の5、6人の少女が一列に並んで、道行く人々にチラシを手渡している。中東系の男たちが台に並べたアクセサリーを売っている。ピアスを光らせた少年たちが金髪の少女のグループに話しかけている。スーツ姿の男が気難しい顔をして人々のあいだを縫っていく。  田島はそれらの人々の中を呆然と歩いた。  日差しは優しいが、風は冷たい。あちこちの店頭からクリスマス・ソングが流れ、車のクラクションが響く。  田島の手には今、巨大な≪力≫があった。道行く人々は誰も知らないが、それは間違いなく、彼の手の中にあった。おそらくそれは、田島聖一という平凡な男が、生涯でたった1度もった≪力≫だった。  背を押され、靴の踵《かかと》を踏まれ、よろけながら、田島は歩き続けた。  ブーツを履いた若い女の体を抱いて、太った中年の男が楽しげに笑っている。父親に肩車された子供が何かを指さして大声で母親に説明している。出前の自転車が立ち往生する傍らを、ディフェンダーをかわしてゴールを目指すフォワードの選手のように小学生が走り抜けていく。  田島は歩き続けた。  人々は知らなかった——50年前のクリスマスの朝に京浜工業地帯の片隅で、田島聖一という男が両親の祝福を受けて生まれたということも——小柄で無口で何の取り柄もない少年がひっそりと小学校を卒業し、誰からも好きだと言われないまま中学と高校を卒業したということも——目的も野望もないままに就職し、文句も愚痴も言わずに与えられた仕事を黙々とこなしたということも——上司から薦められた2歳年上の女と恋愛感情もないままに結婚したということも——20歳になる長男が自室に閉じ籠《こ》もりきりだということも、17歳の長女が家に戻らず遊び歩いているということも——そして、彼が今、危険な時限爆弾を手に自分のすぐ脇を歩いているのだということも——人々は何ひとつ知らなかった。 『俺はここにいるぞ』  心の中で田島は叫んだ。『みんな見てくれ。俺はここにこうして歩いているんだぞ』  重たいボストンバッグを右手から左手に持ち替えて、田島聖一は歩き続けた。背を丸め、上目づかいに周りの様子をうかがいながら、テロリストのように歩き続けた。      10  スポーツバッグを提げて人気のない店に入る。明かりを点けるとすぐに、客席の中央に置かれたクリスマス・ツリーが目に入った。  ツリーは、高さが2mほど。無数の豆電球や、モールや星やカウベルや、雪を模した脱脂綿で飾り付けられ、床まで垂れた白い布を被せた台の上に乗せられている。  小林和喜は両手で幹を掴《つか》んでずっしりと重いツリーを台から降ろし、台に被せられた布をまくり上げた。厨房《ちゆうぼう》で野菜を入れるのに使っているプラスティックの大きな籠《かご》が見えた。  震える手で持参したバッグのジッパーを開け、中から銀色に輝くアタッシェケースを取り出す。籠を持ち上げてその中にアタッシェケースを入れると、白い布を元どおりにかぶせる。重いツリーを再び持ちあげて台の上に戻す。  それが人を殺すために小林のしたことのすべてだった。金属バットで相手の脳天を殴りつけたわけでも、相手の脇腹に深くナイフを突き入れたわけでも、渾身《こんしん》の力を込めて相手の首を絞めたわけでもなかった。  殺人の道具が高度になればなるほど、人を殺すということの実感は薄らいでいく。  たとえば人間が両手で生きている人を絞め殺すのは、肉体的にも精神的にも簡単なことではない。ナイフを使って血まみれになりながら刺し殺すのも簡単ではない。だが、銃があれば、それはずっと簡単になる。ボタンひとつ押すだけだったら、おそらく、もっともっと簡単だろう。そういうことだ。  かつてB29の機上から広島の街にリトルボーイと呼ばれる原爆を投下した兵士が、ガムを噛《か》みながら片手で爆弾投下の操作をしたように——小林のしたことは殺人からあまりに遠い行為に思えて、『俺は人を殺すのだ』という実感にとぼしかった。  すべてを終わらせてから、小林は厨房に行ってコーヒーをいれ、客席に戻ってそれを飲んだ。  店の中央に聳《そび》え立つクリスマス・ツリーを眺める。心臓が高鳴っているのがわかる。  今ならまだ思い止まることができる。今、思い止まれば、犯罪者にならずに済む。人を殺さずに済む。  そうだ。やめるなら今しかない。  その時、店の扉が開いた。顔を上げる。愛川翠だった。  襟と裾《すそ》と袖口《そでぐち》に白いボアの付いたムートンのコート。ちょっと腰を屈めただけで下着が見えそうな純白のミニスカート。バービー人形のように細い脚には、コートと同じ色合いの踵の高いロングブーツを履いている。ほんの少しのあいだに、清楚《せいそ》だった翠は完全に変わった。黒かった髪は金色になったし、化粧も水商売の女のように濃くなった。 「……あっ、小林さん」  客席でコーヒーをすすっている小林を見て翠はわずかにたじろぎ、どぎついマニキュアをした指で口元を押さえた。 「ああ、愛川さん……」  おはよう、と笑いかけようとして、小林は口をつぐんだ。翠の後ろから背の高い古田大輔が入って来たからだ。 「あれっ? 小林さん、もういたんですか?……随分と早いんですね。こんな早くにいったい何してるんです?」  茶色の髪を肩まで伸ばした古田は明らかに迷惑そうな顔をした。きっとみんなが出勤してくる前に、またソファでイチャつくつもりだったのだろう。  小林は無言のまま、ふたりに追い払われるように厨房に入った。流しでコーヒーカップを洗っていると、客席のほうから愛川翠と古田大輔がヒソヒソと話す声が聞こえた。 「何だ、小林の野郎……何でこんなに早く来てるんだ? 俺たちへのイヤガラセのつもりかな?」 「やめなよ、大ちゃん。聞こえるよ」 「あの野郎、きっと毎晩、お前のこと考えながらひとりでシコシコやってんだぜ」 「えげつないこと言わないで」 「かっこつけんなよ。自分だって好きなくせに」  小林和喜は心を決めた。  ——お前ら、死ね。      11  ガラス張りの天井から注いだ冬の陽がプールを照らしている。水色の水底で白いラインが揺れている。大きなヴォリュームで『ラスト・クリスマス』が流れている。  黒い競泳用水着でプールサイドに登場した葉子の体を、高い台に腰かけていた男性監視員が驚いたように見つめた。男性監視員だけではない。その時、プールにいたほとんどすべての人の視線が、鍛え上げられ、引き締まった葉子の肉体に集まった。  もちろんそれは、葉子にもわかった。だが、そんなことには関心はなかった。軽い準備体操のあとで黒いキャップとゴーグルを付けると、葉子はプール中央の第4コースの台に向かった。  朝食のあとで都内から母の姉がやって来て、葉子にたまには気晴らしに外出するようにと言ってくれた。伯母《おば》の気遣いはありがたかった。おかげで2週間ぶりに市民プールにやって来ることができた。  台の上に姿勢よく立つ。長い腕を大きく後ろに振り、膝《ひざ》を柔らかく曲げ、両足で台を強く蹴《け》る。両腕を真っすぐに伸ばし、水の中に鋭角に飛び込む。瞬間、水が全身をギュッと締め付け、耳の鼓膜を圧迫する。水底が見る見る目前に迫ってくる。  真っすぐに手を伸ばし、プールの底を這《は》うように泳ぐ。吐き出した息がボコボコと音をたて、頬に沿って水面に昇っていく。キャップからはみ出した髪が耳の脇でたなびく。  こうしてプールの底を進んでいくのが葉子は好きだ。世の中のすべてのものから完全に切り離されて、本当に自由になれた気がするから。  25mの印のところで浮き上がり、ほんの一瞬水面に顔を出す。瞬間、『ラスト・クリスマス』が大音響となって葉子を包み込む。小さな飛沫《しぶき》を上げて息を吸うと、再びプールの底に戻る。音楽が水の中に吸い込まれて消えていく。  もう息継ぎの必要はない。あと25m、このまま潜っていける。  たったの50mではなく、プールが永遠に続けばいいのに、と思う。1�も2�も、いや、もっとどこまでも続けばいいのに……。  1度の休憩も取らずに2000m泳いだあとでプールから上がる。息を弾ませたまま、更衣室の片隅の熱いシャワーを使う。  勢いよく吹き出すシャワーに顔を打たせている時、葉子はふと、かつて自分が所属していた実業団の陸上部の監督のことを思い出した。  彼は陸上の世界ではそれなりに名の知れた男だった。もう70に近かったが、それまでの30年を超える監督生活の中で7人の教え子をオリンピックの舞台に送り出していた。当時の葉子にとって彼は神であり、葉子の夢は自分が彼の生み出す8人目のオリンピック選手になることだった。  あの日、練習後のシャワーを終えた葉子は、更衣室前の通路を通りかかった彼を呼び止めた。 「監督、ちょっとだけいいですか?」  そして、それまで何度もきこうとしてきけなかったことを、ついにきいた。 「はっきり聞かせてください。わたしは一流のランナーになれますか?」 「何だ、急に?」  顔中に刻まれた深い皺《しわ》のせいで、実際の年齢よりさらに年上に見える監督は、葉子の整った顔を驚いたように見つめた。 「ずっと知りたかったんです。教えてください。わたしは世界の舞台で戦えるようなランナーになれますか? その可能性がありますか?」  男は困ったように微笑んだ。 「そんなこと、誰にもわからないよ」  笑うと目の脇に深い皺ができた。 「そんなはずはありません。監督にはわかっているはずです」  葉子は諦《あきら》めなかった。「ごまかさないで、聞かせてください」  男はシャワー後の上気した葉子の顔を見つめて、しばらく沈黙した。そして言った。 「そうだな……いつかは、はっきりさせなくちゃならないことだもんな……」  そこまで言って男はまた少し、言い淀《よど》んだ。それから一気に言った。 「それじゃ、言おう……残念だが朝香に、その可能性はないと思う……」  葉子は表情を変えなかった。いや、変えなかったはずだと思う。 「時には監督が間違えたり、選手の才能を見落としたりすることはありますか?」  葉子は男の目を見つめたまま、さらにきいた。  男は葉子から目を逸らし、床を見つめた。 「……確かに、そういうこともあるかもしれない……だが、これだけははっきり言える……君が世界の舞台で戦えるような長距離走者になる可能性はない……指導者としてこんなことを断言するのは心苦しいし……わたしは人間としての朝香がとても好きだから残念なんだが……それは間違いない……」 「絶対に?」  葉子はもう1度だけ、念を押した。 「……そう。絶対にだ」 「そうですか? それが聞けて、よかった。ありがとうございました」  葉子はそう言って頭を下げ、神だった男に背を向けた。それだけのことだ。翌日、葉子は陸上部への退部願いと会社への退職願いを同時に提出した。  シャワーの栓を止める。乾いたタオルで髪と体の水分を拭《ぬぐ》う。  そんなこともあった。だが、もう悔やんではいなかった。  葉子は悔やまなかったし、悩まなかった。自分になりたいものがあれば、そのために全力を傾けた。そして、もしそれがかなわなければ諦めた。それだけのことだった。努力せずに憧《あこが》れたり、羨《うらや》んだり、できなかったことをクヨクヨと考えたりはしなかった。  シャワー室を出る時には、葉子はもう、監督のことを忘れていた。  日焼けした頬を紅潮させて、プールのある建物を出る。まだ濡《ぬ》れたままの少年のような髪のあいだを、冷たく乾いた風が心地よく吹き抜けていく。  濡れた水着とタオルを詰めたバッグを肩に掛けて公園の片隅の駐輪場へ向かう。この平塚市総合運動公園から葉子の住むアパートまでは、自転車なら10分ほどの距離だった。  葉子が自分の古ぼけた自転車を見つけ、鍵《かぎ》を開けようとした時、ジーパンのポケットで携帯電話が鳴った。その着信音は葉子の自宅からのものではなかった。 「はい、朝香です」 『朝香葉子さんですね……始めまして』  耳元から不思議な男の声が流れ、葉子の体に緊張が走った。  そう。それは不思議な声だった。生の人間の声ではなく、明らかに何らかの装置を通して変換されたものだった。 「もしもし、どなた?」 『わたしからのクリスマス・プレゼント、朝香さんには気に入らなかったようですね』  まるで機械が喋《しやべ》っているかのような男の声が言い、とっさに葉子は辺りを見まわした。くつろぎ始めたばかりの心臓が、再び激しく高鳴り始めた。 『あれひとつで都内に新築の立派なマンションが買えるほど高価なものだったんですが、残念です』 「あなたは誰なの? 今、どこにいるの? いったい、何が望みなの?」  小さな電話を握り締めて葉子は続けざまに質問をし、さらに辺りを見まわした。  祝日の総合運動公園には家族連れや若いカップルなど、たくさんの人々がいる。柔らかな冬の光に照らされて、誰もが楽しそうにしている。  男は少しだけ笑った。それから葉子の質問には答えず、『朝香さん、あなたに新しいプレゼントがあります』と言った。 「ふざけるのはやめてっ!」  電話に向かって葉子は叫んだ。「あなた、自分のしてることがわかってるの? あなたのしていることは殺人なのよっ! たちの悪いイタズラでは済まないことなのよっ! さあ、早く自首しなさい。今、すぐに警察に出頭しなさいっ!」  近くにいた幼い子供を連れた母親が、不思議そうに葉子を見た。 『ヒステリックにならないでください。あなたにそういう態度は似合いません』  電話の男がまた笑った。 『よく聞いてください、朝香さん。そうしないと、また何十人という人が死ぬことになりますよ』 「いったい、今度は何を……」  さらに言おうとした葉子の声を男がさえぎった。 『黙って聞いてください……実は今から朝香さんと、あるゲームを楽しもうと思ってるんです……いいですか? これからわたしは朝香さんに、別のアタッシェケースのある場所をお教えします』 「別のアタッシェケースだって?」 『そうです。それは今、どこかで爆発の時を待っています。今から朝香さんをそこへご案内します。朝香さんはわたしの指示に従って行動し、それを見つけだしてください。朝香さんが大冒険の末にアタッシェケースを発見できれば、大団円。どうぞ、こないだのと同じように警察に届け出てください……それではゲームのルールを説明しましょう』 「ちょっと待ちなさい。わたしがそんなゲームをすると思ってるの?」  葉子は手の中の電話を握り締めた。 『嫌ならいいですよ』  電話の男は楽しそうだった。『朝香さんに見つけてもらわなければ、そのアタッシェケースはいずれ大爆発を起こし、辻堂と同じように大量の死人が出るだけですから。いや……今度はもっとたくさんの人が死ぬかもしれない』  葉子は唇を噛《か》んだ。 『どうしますか? ゲームに参加しますか? それともそのままお母さんのところに帰り、たくさんの人が死ぬのを待ちますか?』  葉子は大きくひとつ息を吐いた。それから「やるよ」と答えた。 『いい答えです。それではこれから朝香さんをアタッシェケースのところにご案内いたしましょう。朝香さん、今、どこにおいでですか?』 「平塚市の総合運動公園……西側のプールのところの駐輪場」 『そうですか?……それじゃ、まず、南に向かってください。海に向かって真っすぐ、海岸沿いの国道134号線に向かって走ってください。通称、湘南海岸道路です。湘南海岸道路にぶつかったら右折して大磯に向かってください。その頃、また電話します』 「いつまでふざけたら気が済むの? こんなことをして、ただで済むと思ってるの? あなたのしていることは……」 『お説教はやめてください。わたしは自分のしていることをよく知っています。さあ、お喋りはやめて、南に向かってください。ただし、自転車はダメですよ。あなたの自慢のその足で、全力で走ってください』  電話を握り締めたまま、葉子はまた辺りを見まわした。もしかしたらどこかで、そいつがこちらを見つめているかもしれない。そう思った。 『さあ、宝捜しの始まりです』  男は本当に楽しそうだった。『ひとつ忠告しておきますが、途中で朝香さんが警察に通報したり、そのほかにも何か不審な行動を取るようなら、その時点でこのゲームは終わりです。アタッシェケースは誰にも発見されないまま、どこかで大爆発を起こし、またたくさんの人が死にます』  葉子は覚悟を決めた。自転車のロックを掛け直し、自転車のカゴに水着とタオルの入ったバッグを押し込み、ちょっと考えてから、羽織っていたダウンジャケットを脱いでカゴに押し込んだ。 『さあ、ゲームの始まりです……用意はいいですか? それじゃ、スタート!』  電話の向こうで爆竹のような大きな破裂音がして、電話が切れた。  ……畜生、ふざけやがって。  葉子は心の中で呟《つぶや》いた。携帯電話をジーパンのポケットに押し込み、それからニットのセーターも脱いで自転車のカゴに無理やり押し込んだ。ランニングシューズの紐《ひも》を締め直し、立ち上がって冷たい空気を深く吸い込んだ。そして、レンガの敷かれた地面を蹴《け》って走り始めた。      12  早坂チエミは全裸でベッドに俯《うつぶ》せになり、曇った窓ガラスを見つめている。身動きするたびに背中の傷が痺《しび》れるように疼《うず》く。気をつけていたはずなのに、白いシーツには変色した血液がところどころにこびりついていた。  とても出かけられるような体調ではなかったが、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。チエミは意を決して立ち上がり、化粧と着替えを手早く済ませた。テレビを見ている子供たちに「ちょっと出掛けてくるから、おとなしくしてなさいよ」と言い残して部屋を出た。  風は冷たかったが、空はよく晴れ渡っている。錆《さ》びた鉄の階段を下り、ブーツの底で霜柱をザクザクと踏んでアパートの裏手にある防災用品の倉庫に向かう。辺りを見まわしてから防災倉庫の扉を開けると、その奥から大きな紙袋を引っ張り出す。もう1度、辺りを見まわしてから倉庫の扉を閉める。  両腕に抱えた紙袋はズシリと重かった。それは人の命の重さを象徴しているかのようだった。  チエミは重たい紙袋を荷台にしっかりとくくり付けると、自転車にまたがり、冷たく乾いた風の中を駅へと向かった。手袋をしていない手が、痛いほどに冷たかった。      13  平塚市総合運動公園から海岸沿いの国道134号線までの3�あまりを一気に南下し、男に指示された通り、それを右折する。海からの風を体の左側に受けながら、河口をまたぐ花水川橋に向かう。  白い長袖《ながそで》のTシャツを腕の付け根までまくり上げる。走るのは少しも苦にならなかったし、まだほとんど呼吸も乱れてはいなかったが、下半身を締め付けるぴったりしたジーパンは鬱陶《うつとう》しかった。  花水川橋にさしかかる。潮風が一段と強くなり、歩調がわずかに乱れる。欄干のすぐ脇をカモメが1羽、低く、グライダーのように飛んで行く。相模湾にはいつものように、ウィンドサーフィンが浮いている。  渋滞する車を横に見ながら走り続けていると、ジーパンのポケットで電話が鳴った。規則正しく脚を動かしたまま電話を耳に当てる。 「……もしもしっ」 『少しも息が乱れてませんけれど、朝香さん、今、どこにおいでです?』  電話の男は相変わらず機械のような無機質な声で言った。 「花水川橋の真ん中」 『おやおや……まだそんなところにいるんですか? そのペースじゃ、レースには勝てませんよ。遊びじゃないんですから、もう少しペースを上げてください』 「勝手なこと言わないでっ!」  電話に向かって葉子が叫ぶと、男は嬉《うれ》しそうに笑った。 『コーチに逆らってはいけませんよ、朝香さん……それじゃそのまましばらく海岸線を走ってから、大磯駅のところで国道1号線に合流してください。滄浪閣《そうろうかく》の前を通って、二宮駅に向かう道です。わかりますよね?』 「……わかるよ」 『そうだ。朝香さん、目標タイムを設定しましょう。そこから二宮の押切川に掛かる押切橋までちょうど10�です。その10�を40分で走ってください』 「そんな……今のわたしには無理よ」 『謙遜《けんそん》する必要はありません。40分後にまた電話します。その時、もし万一、朝香さんが押切川まで行ってなかったら、残念ですがそれでゲームは終わりです』  男は楽しくて楽しくてたまらないようだった。 『救世主になれるのか? それとも道化で終わるのか?……さあ、頑張ってください。あなたの走りにたくさんの人の命がかかってるんですよ』  電話が切れた。  ……畜生、バカにしやがって。  葉子は吐き捨てるように言った。歩道を歩いていた老夫婦が、ジーパン姿で疾走する葉子を不思議そうに見た。  葉子はジーパンのポケットに携帯電話を押し込み、風に立ち向かうために前傾姿勢をとった。腕に嵌《は》めたデジタル時計のストップウォッチ・ボタンを押し、10�を40分で走り切るために一気にペースを上げた。      14  もう何時間ものあいだ、猿渡哲三は電源の入っていないパソコンの前に座り、パソコンの後ろ側の薄汚れたカーテンを見つめていた。  ——わたしはあなたの代弁者です。その窓から街を見下ろし、嘆き、歯軋《はぎし》りしているあなたの代理人なんですよ。  何者かがホームページに送ってきた言葉が、頭の中をグルグルとまわった。  ——猿渡さん、あなただって本当は、こういうことをしたいと思っていたのではありませんか?  それは悪魔のささやきのように聞こえた。 「畜生……お前はいったい、誰なんだ?」  呻《うめ》くように息を吸うと、ようやく立ち上がり、フラつく足取りで隣の仏間に向かった。そこには冬の午後の光が柔らかに差し込んでいた。猿渡は仏壇の前に跪《ひざまず》き、そこに飾られた妻の写真を見つめた。最愛の妻はいつものように、こちらを見つめて微笑んでいた。  ——猿渡さんがあの戦場で、命さえかけて守ろうとしたのは、こんな国だったのですか?  猿渡は目を閉じ、何度かゆっくり深呼吸を繰り返した。いつものように、熱帯のジャングルが脳裏に蘇《よみがえ》った。  マングローブに覆われた海岸は原生林の生い茂る急斜面へと連なり、そのまま背後の切り立つような岩山へと続いていた。あの日、猿渡は山の中腹にそそり立った石灰岩の割れ目に身を潜め、擦り切れた手帳に2通の遺書を書いた。1通は両親へ、もう1通は出征前に結婚した妻に宛ててだった。  猿渡の脇には傷ついた兵士がひとり、横たわっていた。その男は少し前、書き終えた遺書を猿渡に渡したあと、猿渡に自分の体を押し付けるようにしてうずくまっていた。男の遺書は両親と、年の離れた弟に宛てたものだった。  遺書の交換をしようと提案したのは、その男のほうだった。「もし万一、俺たちのどちらかが生き延びることがあったら、それをお互いの家族に届けよう」  けれど——どちらかが生き延びる可能性など、万にひとつもないことは、ふたりとも知っていた。  この島に上陸してから受け取った郵便で、猿渡は妻が妊娠したことを知った。だが今では、自分がその子の顔を見ることがあるとは思えなかった。  猿渡は妻の顔と、まだ数えるほどしか見ていないその裸体とを思い浮かべながら、ちびた鉛筆で遺書を書いた。 『自分はこれから死んでいきます。子供と両親を頼みます。あなたがいて自分は幸せでした。どうか、自分の分も生きて、幸せになってください』  涙など出なかった。触れ合った背中からもうひとりの兵士の体温が伝わってきた。  その男とは面識がなかった。無我夢中で逃げ回っていた密林の中で、偶然出会っただけだった。男はすでに深い傷を負っていて、猿渡に自分の部隊は全滅したと言った。  鬱蒼《うつそう》とした原生林に、雨が叩《たた》きつけるように降っていた。幾層にも分かれた雨音が、音楽の調べのように響いていた。雨音の向こうから時折、銃声や爆発音が響いた。  猿渡たちの潜む岩の割れ目は暗く、狭かった。流れ込んだ雨水で靴はもちろん、下半身までがびしょ濡《ぬ》れだった。湿った岩壁にはコオロギのような黒い虫が何匹も張り付いていた。ムカデのような虫や、巨大なヒルもうごめいていた。  耐えがたい空腹が猿渡をさいなみ続けていた。いや、空腹などというなまやさしいものではなかった。最後に食べ物を口にしてから、いったいどれくらいたつのだろう? 今では体中のすべての細胞が養分を欲してさざめいていた。もしこのまま養分の補給が得られなければ、油の尽きたランプのように、生命の火が消えてしまうだろうということがはっきりと感じられた。 「なあ……もし日本に戻れたら何が食いたい?」  背後からの兵士の声に、猿渡は遺書を書く手を止めて振り向いた。  男は目を閉じていた。傷ついた腿《もも》からの出血がひどく、汚れた顔は蒼白《そうはく》だった。 「そうだな……白い飯と、味噌汁《みそしる》かな」  猿渡は答えた。 「そうか……俺もそうだ」  目を薄く開いて、喘《あえ》ぐように男は言った。「白い飯と味噌汁……それに焼いたメザシと、 白菜の漬物が食いたい」 「うまそうだな……おい……もう喋《しやべ》るな」 「……それから納豆も食いたいなあ。箸《はし》で真っ白になるまで掻《か》き混ぜた納豆と、醤油《しようゆ》を垂らした生卵を、湯気の立つ飯にかけて食いたいなあ」  男は首をわずかにもたげ、顔を歪《ゆが》めて笑った。 「いいから……もう喋るな」  猿渡は男の年を知らなかった。家族のことも、日本で何をしていたのかも知らなかった。もはや知る必要があるとも思えなかった。 「敵が来たら起こしてやる。少し休め」  数発の弾丸と2個の手榴弾《しゆりゆうだん》。それがふたりが所持していた武器のすべてだった。それでもまだ、彼らは戦うつもりだった。敵が射程圏まで近寄って来たら銃で応戦し、あわよくばこの岩の割れ目に誘い込み、手榴弾で何人かの敵を道連れにして死ぬつもりだった。 「なあ……味噌汁の具は何がいい? 日本に戻れたら、まず何の味噌汁が飲みたい?」  なおも男がきき、猿渡はしばらく考えてから「大根がいいな」と答えた。それだけで口の中に唾液《だえき》が滲《にじ》み出た。 「大根か……俺はシジミがいいな。赤だしのシジミの味噌汁が飲みたいなあ」 「……おい、もう喋るな……今は休め」 「そうする……済まないが……見張りを頼む」  傷ついた兵士はそう言うと、目を閉じ、眠りに落ちた。そして、そのまま——2度と目覚めなかった。  猿渡は静かに目を開き、妻の遺影を見つめた。  その写真は7、8年前、まだ病に蝕《むしば》まれていなかった妻とふたりで、快晴の空に小雪の舞う冬の那須《なす》塩原を旅した時のものだった。あの時はもちろん、それが遺影に使われるなどとは夢にも思わなかった。  猿渡は自分がそれを撮った時のことや、妻が「美人に写してね」と笑ったことを思い出した。  猿渡夫妻が宿泊していたのは古くひなびた温泉旅館で、猿渡は妻とそこで、今にして思えば最後の肉体的な交わりをもった。それは激しいものでも、情熱的なものでもなかったが、お互いの魂を通い合わせるかのように、確かで安堵《あんど》に満ちたひとときだった。その時のことを——その時の妻の声や表情や体の動きを、猿渡は思い出した。 「……信子《のぶこ》……俺は……明日の晩、人を殺してしまうかもしれないんだ」  呻くように猿渡は言った。そして自分がついに言ってしまった言葉の真実に震えた。      15  選手を引退して2年たった葉子に、ロードでの10�を40分というタイム設定は簡単ではなかった。男の電話の直後にピッチを上げると、すぐに呼吸が乱れ始めた。飲料水の補給がないのも辛かったし、ぴったりしたジーパンが脚にまとわりつくのも鬱陶《うつとう》しかった。多量の汗を吸い込んだ木綿のTシャツは、脱ぎ捨ててしまいたいほど重く感じられた。  それでも葉子は、1�を4分という正確なピッチを刻んで走り続けた。大磯港の付近で左に折れて国道1号線に入り、左手に旧吉田邸である滄浪閣を見て走り続けた。八坂神社……城山公園……大磯警察署……宝積《ほうしやく》院……二宮郵便局……葛川……二宮駅……。  正確な走行距離がわからないので、はっきりとしたペースはわかりようもない。それでも葉子は自分が今、1�を4分、10�を40分というペースで走っていることを確信していた。  男には無理だと言った。だが10�だけならば、たとえそれがどんなに苛酷《かこく》な条件下であっても40分で、いや、35分で走り切れる自信があった。  道行く人々や、車の中の人々の多くが、ジーパンに長袖《ながそで》のTシャツという格好で、汗まみれになって東海道を疾走する女を不思議そうに見つめている。流れ落ちる汗が目に染みる。濡れたTシャツが体に張り付き、色褪《いろあ》せたジーパンは汗の染みでまだらになっている。  等覚院……宝厳寺……薬師堂……。男の最後の電話から36分が経過した時、葉子はついに押切川に差しかかった。葉子が川をまたぐ橋を渡り始めた時、下半身を締め付けたジーパンのポケットで携帯電話が鳴った。 『やればできるじゃないですか? たいしたものです。現役の頃から少しも衰えていませんね』  機械のような男の声が楽しげに言った。 「……もしもし……どこにいるの?……どこから見張ってるの?……」  ヌメる手で電話を握り締め、息を弾ませて葉子は言った。どこかで男が自分を見つめていることは間違いなさそうだった。 『その様子なら、まだまだ走れそうですね。救世主になれる可能性が出てきましたよ』  男は葉子の質問には答えずに笑った。『それじゃ、そのまま小田原を抜けて箱根湯本に向かってください。そこから箱根湯本駅までは15�ぐらいですから、1時間で走ってください。朝香さんなら簡単でしょ? 1時間後に電話を入れます……念を押しますが、くれぐれも変な気は起こさないように。もし朝香さんが警察に電話するようなことがあれば、わたしは必ず気づきますから』 「ちょっと待ちなさい」  喘ぐように葉子が言った。だがもう、電話からはプーっという音がするだけだった。  ……畜生っ!  葉子はTシャツの袖口で額の汗を拭《ぬぐ》い、口の中のネバついた唾液をペッと路上に吐き出した。      16  小田原市を分断するかのように流れた酒匂《さかわ》川が、相模湾に広大な中洲を広げている。混雑する国道1号線をノロノロと進んでいた車が、その中洲をまたぐ巨大な鉄橋に差しかかった時、車のフロントガラスの向こうに、路肩を走るほっそりとした女の姿が見えた。  キューバ産の葉巻の香りを充満させた車は、少しずつ女との差を縮めていく。スモークシールドを施した助手席のウィンドウを開けて手を伸ばせば届くほどの場所を、細い体を前傾させた彼女が走っている。  窓を開けて声を掛けたいという衝動を必死になって抑えながら、男はハンドルを握り締め、疾走する女を、まるで網膜に焼き付けるかのように見つめた。  女は口を開き、美しい顔を苦しげに歪ませ、喘ぐような呼吸を繰り返しながらも、強い視線で前方を見つめて走り続けている。褐色の首筋や剥《む》き出しの腕が、オイルを塗ったかのように艶《つや》やかに光っている。  全身から噴き出す多量の汗で、まるで雨の中を走ってきたかのように着ているものがびしょびしょになっている。真っ白だったはずのTシャツは、今では埃《ほこり》にまみれて体に張り付き、その下の白いスポーツタイプのブラジャーや、うっすらと浮き出た肋骨《ろつこつ》を透けさせている。女の胸は少女のように小さく、尻《しり》や腰は少年のように骨張っている。色褪せたジーパンは汗に濡《ぬ》れ、膝《ひざ》の辺りまで濃いブルーに変色している。  こんな華奢《きやしや》な筋肉のどこに、これほどの意志が潜んでいるのだろう? もちろん意志が脳に宿るということは知識としては知っている。だが、疾走する女を見ていると、彼女の意志はもっと別の場所に息づいているのではないかとさえ思う。そう。たとえば、その張り詰めた腿《もも》の筋肉繊維の中に。あるいは皮下脂肪をまったくもたない腕の内側に……。  男は疾走する朝香葉子を見つめ続けた。それは1匹の野生の獣のようだった。獲物を追うことと、それを食すること以外は何ひとつ考えない、野生の肉食獣——。  少し疲れているように見えるが、まだまだ大丈夫だろう。彼女はどんなレースでもそうだった。これから先、本当に疲れ果ててからが、彼女の本領だ。  朝香葉子は肉体ではなく、精神で走る。細い筋肉繊維に宿った意志で走る。  そうだ。もっともっと限界まで走らせてやらなくてはならない。その時こそ、彼女は輝き始めるのだ。  車はゆっくりとだが女よりは早いスピードで動き続け、やがて彼女の姿はバックミラーにしか映らなくなった。ミラーの中で彼女は少しずつ小さくなり、やがてほかの車に隠れて見えなくなった。      17  東京湾に突き出した桟橋に停泊した『ホワイト・フラワー号』のパーティラウンジで、井上裕太《いのうえゆうた》は煙草をふかしていた。たった今、バイトの連中と一緒に床のモップ掛けを終え、椅子やテーブルを元の位置に戻し、それぞれのテーブルに床まで届く純白のテーブルクロスを掛け終えたところだった。 『ホワイト・フラワー号』はイベント専用の中型客船だった。東京湾で行われる花火大会の時や、パーティやイベントなどにも使われたが、いちばんの収入源は結婚式だった。船内には小さな教会が作られていた。  東京湾をクルーズしながらロマンティックな結婚式を——。  それが『ホワイト・フラワー号』のパンフレットに書かれたコピーだった。祝日のきょうも1件の結婚式を終えたところだったし、明日のクリスマス・イヴにも午前中に1件、午後に1件の結婚式が入っていた。  井上裕太はテーブルの上の灰皿に煙草を押しつぶした。バイトたちはすでに甲板での仕事にとりかかっており、パーティラウンジにいるのは彼だけだった。井上裕太は脚を組み、テーブルに置いてあった夕刊紙を広げた。 『血のクリスマス・イヴ』——夕刊紙は興味本位の論調でそう書いていた。警察は大量の捜査員を動員して残りのアタッシェケースの捜索を続けているらしかったが、新たなアタッシェケースはまだ発見されていなかった。それが本当にまだあるかどうかさえ不明のままだった。政府や警察は明日のクリスマス・イヴの外出はできるだけ控えるように呼びかけていた。消防署では職員を増員して救急車や消防車の出動態勢を整えていた。いくつかのスーパーや百貨店、映画館やレストランなどは明日の営業の自粛を発表していた。営業を行う施設でも、ふだんの何倍もの警備員を配備して万一の時に備えていた。 『ホワイト・フラワー号』の配膳《はいぜん》スタッフのチーフ・マネージャーである井上裕太も今朝の朝礼の時、船長の時田や社長の宮本から、客の持ち込む荷物にはくれぐれも注意するようにという訓示を受けた。大きな荷物はひとつひとつチェックするように。怪しい人物がいたらすぐに報告するように——。  井上裕太はあくびをひとつしてから、新しい煙草に火を点けた。夕刊紙をテーブルの上に戻し、誰もいないパーティラウンジを見まわした。そっと身を屈め、テーブルに掛けられた純白のテーブルクロスをまくってみた。  そこには彼が置いたばかりの銀色のアタッシェケースがあった。      18  すでに30�近くを走ってきた肉体の疲労はピークに達していた。特に喉《のど》の渇きは切実で、途中の路上にあった自動販売機でウーロン茶を買って飲んだほどだった。  箱根湯本はどうにか制限時間内に通過することができた。その直後にポケットの携帯電話が鳴った。男がどこからか自分を見ているのは、もはや疑う余地はなかった。 『どうやら間に合ったみたいですね』  相変わらず楽しげな男の声が言った。『さあ、これからがゲームの佳境です。朝香さん、 覚悟はできていますね? それではそこから、駅伝の大学生たちがやるように芦《あし》ノ湖まで箱根の山を一気に駆け登ってください。函嶺洞門《かんれいどうもん》を潜り、宮ノ下、小湧谷《こわくだに》を抜け、恵明学園前を通る、あの箱根駅伝の山登りのコースです』 「ふざけるのもいい加減にしてっ!」  激しく息を喘《あえ》がせて葉子は言った。今では電話を握っていることさえ楽ではなかった。 『ふざけてなんていません。アップダウンの厳しいコースは朝香さんの得意とするところじゃないですか? 朝香さんはコースが厳しければ厳しいほど、気象条件が悪ければ悪いほど、力を発揮するランナーだったじゃないですか?』 「いったいあなた、いつからわたしを……」 『ずっと昔からです。ずっとずっと昔から、わたしはあなたを見つめていました……』 「畜生っ、山登りなんてできるわけがないじゃないかっ!」  激しく喘ぎながら葉子は怒鳴った。  男の声が笑った。 『いいですよ。それじゃあ、もう救世主を目指すのはやめましょうか? 朝香さん、結局、あなたは間に合わないんです。あの松林で無理心中した家族の誰ひとりとして救えなかったように、あなたはきょうも誰も救うことができないんです』 「どうしてそんなことまで……」 『言ったでしょ? 朝香さんのことは何でも知ってるんですよ』 「畜生っ……芦ノ湖畔までの制限時間は?」 『おやっ、やる気になったんですか? そうこなくっちゃ。そうそう、制限時間ですね。そこから芦ノ湖畔まで学生でも1時間はかかりませんよね。ですから、本当は60分と言いたいところなんですがね……平塚から30�も走ってきて朝香さんも相当にお疲れの様子ですから、少しだけご褒美をあげましょう。そうですね……70分でどうです? そこから芦ノ湖畔まで70分で走ってください』 「ちょっと待って。70分は絶対に無理。80分にして」  言いたくはなかったが、葉子は言った。この状態で芦ノ湖畔まで70分で走りきれる自信はなかった。 『ダメです。70分以内に走り切ってください』  男は機械のような声で嬉《うれ》しそうに笑った。 「畜生っ……」  葉子は自分から電話を切った。負けるわけにはいかなかった。  疲れ切った肉体に箱根の急坂は苛酷《かこく》すぎた。もはやどれほど体を前傾させ、どれほどしゃにむに腕を振っても、乳酸の蓄積した脚は思うようには動かなかった。脇を走る車の排気ガスが荒れた喉を刺激し、葉子は走りながら激しく咳《せ》き込んだ。血液を送り出し続けた心臓は、今にも爆発してしまいそうだった。  どうやら右足の裏にできたマメが潰《つぶ》れ、ズルリと皮が剥《む》けてしまったようだった。1歩踏み出すたびに、強い痛みが足の裏全体を痺《しび》れさせた。  だが、諦《あきら》めるわけにはいかなかった。右へ左へと大きく蛇行する急な坂道を、歯を食いしばって必死で登っていった。  もはや誰かを助けるため、などとは考えていなかった。不思議なことに、もうそれはどうでもいいことのような気がした。  冬の太陽はすでに大きく傾き、気温が急激に下がっていった。それだけが葉子にとって救いだった。  負けるわけにはいかなかった。汗と埃《ほこり》にまみれ、端整な顔を苦痛に歪《ゆが》めて、葉子は急な上り坂を芦ノ湖畔に向かってノロノロと走り続けた。      19 「……ただいま」  田島聖一は玄関のドアを開けた。いつものようにキッチンからテレビの音が聞こえただけで返事はなかった。克美のミュールやサンダルの脇に踵《かかと》の擦り減った革靴を脱ぎ捨て、夢遊病者のように自室へ向かった。  ……戻って来ちまった。これを持って戻って来ちまった。  田島の右手には今も、古いボストンバッグがあった。  自室に入るとボストンバッグを床に置き、今朝、田島が起きた時のままに寝乱れた冷たいベッドに倒れ込んだ。  ボストンバッグに収められた銀色のアタッシェケースの中では、今も時限装置がデッドエンドへ向けての時を確実に刻んでいる。田島は湿った布団に顔を埋め、乱れたシーツを握り締めて震えた。  きょう1日、田島は重いボストンバッグを下げて横浜の街を当てもなく歩きまわった。どこでもいい。どこか自宅から離れた場所に、その危険なバッグを置いて来るつもりだった。そうしなければ自分は明日の晩、家族を道連れに死んでしまうだろうと思った。  横浜、関内《かんない》、桜木町……。田島はさまよい続けた。安物のスーツの上にくたびれたコートを羽織り、休日を楽しむカップルや家族連れに揉《も》みくちゃにされながら街の雑踏を歩き続けた。  ただ置いてくるだけでいい。そんな場所はいくらでもあるように思われた。だが——田島には、その場所を見つけることはできなかった。1度は関内の公園のベンチの下にボストンバッグを置き去りにして歩きかけた。ベンチから30mほど離れたところで振り向くと、小学生らしい男の子がふたり、それをベンチの下から引っ張り出そうとしていた。田島は慌てて駆け戻ると、男の子たちからボストンバッグを取り返した。それを持って再び歩き続け、捨て場所を見つけられないまま電車に乗り、最後は網棚に放置したまま電車から降りようとした。だが、それはどうしてもできなかった。  正義感というのではない。人類愛などというおおげさなものとは、もちろん違う。だが田島には、何の罪もない人々を巻き添えにすることなどできなかった。  冷たいベッドに俯《うつぶ》せになり、田島はコートを着たまま震えていた。天井から時折、純一の歩く音がした。キッチンからは明子の見るテレビの音が聞こえた。  ……俺は明日の晩、家族を皆殺しにしちまうんだ。明子や純一や克美を道連れにして、この世界から消えちまうんだ。  顔の下が涙で濡《ぬ》れた。      20  冬の太陽はすでに大きく傾いていた。  ペースが落ち続けているのはわかっていた。このままでは80分で芦ノ湖畔にたどり着くことは、とうてい不可能だった。だが、葉子にはどうすることもできなかった。足裏の皮が剥けた右足は、最初は痺れるように痛かった。やがて痛みは少しずつ激しくなり、恵明学園前を通り過ぎる頃には突き抜けるような激痛に変わっていた。  痛いのは足の裏だけではなかった。今では右足をかばい続けた左足も、膝《ひざ》から腿《もも》にかけてが疼《うず》くように痛んだ。時折、猛烈な吐き気が込み上げ、1度だけ路肩に立ち止まって嘔吐《おうと》した。空っぽの胃から黄色い胃液が流れ、目には涙が滲《にじ》んだ。  だが、諦めるつもりはなかった。永遠に続くかと思われるようなきつい上り坂の連続を、足を引きずり、身悶《みもだ》えするように走り続けた。 『わたしの中には、とてつもなく強い生き物が住んでいる』  高校駅伝の湘南地区予選の時もそうだった。あの嵐のオリンピック選考会の時もそうだった。大丈夫。わたしは苦しさを味方にすることができる。わたしはいつだって、そうやって走って来たんだ。  もう制限時間のことは考えなかった。時限爆弾の仕掛けられたアタッシェケースのことも考えなかった。  移動すること。前へ進むこと。葉子はそれだけを考えていた。  前へ。前へ。前へ。前へ。  まるで、それ自体が目的であるかのように、翼の折れた渡り鳥がたとえ歩いてでも南へ向かおうとするかのように、葉子は山の向こう側にあるはずの芦ノ湖に向かって走り続けた。  前へ。前へ。前へ。前へ。  永遠に思われる苦しみの末に、ついにきつい上り坂は終わり、曲がりくねった道の向こうに、オレンジ色の夕日に光る芦ノ湖が姿を現した。  あとはただ、駆け降りていくだけだった。  芦ノ湖畔に広がる繁華街が目前に迫った時、ジーパンのポケットで電話が鳴った。 『タイム・オーバーです。たった今、70分が経過しました』  電話の男が冷たく言った。『朝香さん。やっぱりあなたは間に合わない』  葉子は足を止めた。全身の力が一気に抜け、思わず膝を突いてしまいそうになった。 「タイム・オーバーだなんて……そんな」  息を喘《あえ》がせながら葉子は呻《うめ》いた。 『あなたは救世主にはなれない……それでは、さようなら。お元気で』  それだけ言うと、電話は切れた。  瞬間、膝から下の感覚がなくなり、葉子は倒れるかのようにその場にうずくまり、体を屈めてまた黄色い胃液を吐いた。  ——わたしの努力はいつも報われない。  アスファルトの上に滲んでいく胃液を見つめていると、言いようもない敗北感が体に広がっていった。  その時、まだ手に握り締めていた電話が鳴った。 『そんなところにしゃがんでいると風邪をひきますよ』  あの男の声だった。 「……もしもしっ」  葉子は顔を上げて叫んだ。 『よく考えてみると、朝香さんは何の準備もなしに平塚から50�近くも走って来たんですから、これで終わりというのはちょっとかわいそうな気もします……きょうはわたしが情けをかけてあげましょう。もう1度だけ、朝香さんにチャンスを差し上げます』  葉子は無言で電話を握り締め、男の言葉を待った。 『右手の湖畔にレストランが見えますね? そこに向かってください。そのまま、電話は切らないでください』  葉子は電話を耳に押しあてたままヨロヨロと立ち上がった。よくここまで走って来たと自分でも驚くほど、今では体のどこにも力が入らなかった。体に張り付いたTシャツやジーパンが急速に冷やされ、鳥肌が立つほど不快に感じられた。  男の言うとおり、右のほうに湖畔にテラスを突き出したレストランが見えた。これから何かのパーティでもあるのだろうか? ガラス張りの店内では、着飾った人々がうごめいている。店の前にも何人かの人がいる。葉子は耳に電話を押しつけたまま、そのレストランに足を引きずって歩いた。 『そのレストランでは今、名もない男と女の結婚披露パーティが行われているんです。いいですか、朝香さん? 最後のチャンスです。よく、聞いてください。あのアタッシェケースは今、あのレストランの中の新郎新婦のテーブルの下にあります。今から3分以内にそれを持って、店の前に出て来てください』  葉子は呻いた。 『あれは遠隔操作で、いつでも爆破することができるんです。3分です。それ以上かかった時は、爆破します。さあ、走ってくださいっ!』  男の言葉が終わらないうちに葉子は走り出した。店の前にいる着飾った女たちの脇を擦り抜け、出入口に向かった。ドアのところにいた若い男が「ちょっと、何ですか? ちょっと、あなたっ!」と叫ぶのが聞こえた。  店内には眩《まぶ》しいほどの光が溢《あふ》れている。白い布の掛けられたテーブルの周りで、大勢の人々がグラスを手に談笑している。葉子はその輪の中に無言で突っ込んでいった。人々の視線がいっせいに葉子に集まった。 「おい、あんた、いったい、何なんだ!」  誰かが、汗と埃《ほこり》にまみれた葉子に向かって叫んだ。 「結婚式の最中なんだぞ。どういうつもりなんだっ!」  店の従業員のひとりが汗でヌメる葉子の手首を握り締めた。 「放してっ!」  葉子は男の手を振りほどいて叫んだ。「ここにあのアタッシェケースがあるのよっ! 時限爆弾入りのあのアタッシェケースが、そのテーブルの下にあるのよっ!」  店内から声にならないざわめきと、女たちの悲鳴が上がった。 「そこをどいてっ! 早くどきなさいっ! 早くしないと爆発するわよっ!」  叫び続けながら葉子は人込みをかき分け、新郎新婦が座ったテーブルに突進した。 「おいっ、ふざけるなっ!」  誰かの声が聞こえたが、葉子は立ち止まらなかった。真っ白なウェディングドレスを着た新婦が悲鳴を上げて飛びのき、タキシード姿の新郎が目を丸くして葉子を見つめる。葉子は新郎新婦のテーブルに真っすぐに向かうと、それを覆った純白のテーブルクロスをサッとまくり上げた。そこに薄茶色のダンボール箱があった。  無言でテーブルの下に屈み込み、ダンボール箱に張られたガムテープをビリビリと剥《は》がす。蓋《ふた》を開く。中に金属の物体が入っているのが見える。周囲の人々が悲鳴を上げて飛びのく。店の中が一瞬にしてパニック状態に陥り、人々が出口の扉に殺到する。 「そこをどいてっ! 爆発するわっ! 早くどいてっ!」  叫びながら葉子はダンボール箱の中にあったアタッシェケースの取っ手を掴《つか》み、ズシリと重いそれを引きずるようにして人込みを抜け、人々の背中に体当たりするようにして出入口を抜けた。店を出ると、その前の路上で、どこからか自分を見つめているはずの男に向けてアタッシェケースを高々と掲げた。 「見つけたわっ! わかるっ? 見つけたのよっ!」  夕暮れの湖畔に葉子の声が高く響いた。      21  照明の大半が消された百貨店の売り場を、吾妻英次《あずまえいじ》はいつものように、同僚の大場とふたりでゆっくりと巡回した。  明日はいよいよクリスマス・イヴだった。彼らが警備員として勤務する横浜の百貨店でもきのう、警察官や警備会社の責任者を招いて緊急役員会議が開かれた。クリスマス・イヴの営業を自粛するかどうかの討論を重ねた結果、百貨店の経営陣は警察の要請を退け、≪24日は厳重な警備態勢を敷いた上で、通常どおりの営業を行う≫という結論を出した。長引く不況の影響で百貨店の経営は行き詰まっていた。かき入れ時であるクリスマス・イヴの営業を中止するわけにはいかなかった。  6階のインテリア用品売り場を巡回したあとで、吾妻と大場は階段を使って5階のオモチャ売り場に向かった。クリスマスを控えたオモチャ売り場はいつもより一段と派手に飾り付けられていた。 「おい、大場、お前はあっち側からまわれ。俺はこっちから見てまわる」 「ああ、わかった」  同僚の大場と別れると、吾妻英次は全警備員に配布されたマニュアルを思い出しながら、売り場やトイレはもちろん、柱の陰やテーブルやレジカウンターの下、ゴミ箱の中、階段付近の喫煙所や休憩所などを丹念に見てまわった。  明日は朝から、いつもの倍の人数の警備員が店内の警備にあたることになっていた。店の入口には百貨店の店員たちが動員され、不審な客がいないかどうかチェックする手筈《てはず》だった。  吾妻はぐるりと周囲を見まわした。向こう側の通路を、自分と同じ制服を着た大場が歩いているのが見えた。吾妻のすぐ右手にはゲームソフトが陳列されたガラスケースがあった。そのガラスケースの下の狭い空間に、いくつものダンボール箱が押し込まれていた。  吾妻はその箱のひとつをじっと見つめた。そして、その中にあるはずの銀色のアタッシェケースを思った。      22 「お母さん、ただいま」  そう言ってドアを開けた娘の姿に朝香愛子は驚いた。顔は蒼白《そうはく》で、目の下にはどす黒い隈《くま》ができていた。短い髪はペットリと頭に張り付いていた。 「……お前……大丈夫かい?」 「大丈夫。ちょっと走って、くたびれただけ」  葉子はそう言って母親に微笑みかけた。その体からは饐《す》えた汗の匂いがした。 「ごはん、食べられるかい?」 「食べられそうもないの……ごめんね。お風呂《ふろ》だけ入って、寝ることにするわ」 「そうかい? それじゃ、そうしなさい」  愛子は浴室に向かう娘の、細い後ろ姿をじっと見つめた。  浴室の狭い脱衣所で白い木綿のソックスの裏を見ると、両足の親指の付け根のところに乾いて茶褐色になった血が広がっていた。案の定、両足の裏の皮がズルリと剥《む》け、ソックスの裏側にこびりついているらしい。鋭い痛みをこらえながら、そっとソックスを脱ぐ。 「たったあれっぽっち走っただけなのに……情けない」  葉子は誰にともなく呟《つぶや》き、汗と埃でゴワゴワになったTシャツとジーパンを脱いだ。体に張り付いたスポーツ用のブラジャーとショーツを、皮膚から剥がすようにして脱ぎ捨て、Tシャツやジーパンと一緒に洗濯機の中に放り込む。血まみれのソックスは捨ててしまうことにした。  湯船に身を沈めると、全身の毛穴から熱い湯が染み込んでくるような気がした。足の裏がビリビリと痛んだ。  警察での取り調べは非常に長時間に及んだ。もはや葉子はこの事件にたまたま巻き込まれた市井の人間のひとりではなかった。犯人は明らかに、葉子に執着をもっていた。  葉子からの通報を受けて芦ノ湖に駆けつけた警察は、付近の道路をただちに封鎖し、7カ所で厳重な検問を行った。だが、犯人らしき人物を発見することはできなかった。警察はまだ芦ノ湖付近に犯人が潜伏している可能性もあると考え、湖畔の宿泊施設などを中心に捜索を続けていた。  葉子が芦ノ湖畔のレストランで見つけた金属製のアタッシェケースには、その他のアタッシェケースと同様の強力な時限爆弾が仕掛けられていた。それは12月24日の午後7時に爆発するようにセットされていた。だが、それが入ったダンボール箱を犯人がいつ、どのようにして店内に運び込んだのかは不明だった。当日、結婚披露宴の行われた湖畔のレストランには花屋や配膳《はいぜん》会社の人間など多数の人物が自由に出入りしていた。  犯人の使った電話も解明できないままだった。おそらく、正規ではないルートから入手した携帯電話が使われたものと推定された。  警察は犯人を葉子と過去に何らかの繋《つな》がりのある人物だと断定していた。刑事たちの葉子への質問も、もっぱらそのことに限定された。葉子が取り調べ室で質問を受けているあいだに、何人かの警察官が葉子のアパートに行き、葉子が長距離走者だった頃に送られたファンレターや葉子のアドレス帳、ファンや友人たちと写った写真などを押収した。 「どうです、朝香さん? どんなささいなことでもいいんです。何か思い出してください」「誰か思い当たる人物はいませんか?」「走っている途中で、不審な人や車を見かけませんでしたか?」「その男が喋《しやべ》った言葉のイントネーションなどに聞き覚えはありませんか?」  だが葉子には首を傾げることしかできなかった。  警察は葉子への質問を続けるかたわら、過去に葉子を執拗《しつよう》に追いまわしたことのある数人のファンをピックアップし、捜し出した。毎月、決まった日に葉子に大きな花束を贈り続けた56歳の実業家……葉子の誕生日に毎年、セクシーな下着や水着やレオタードなどを送りつけた44歳の銀行員……インターネット上に葉子のホームページを開設している32歳の会社員と、やはりインターネットで葉子の生写真や自分が沿道から撮影したビデオテープなどを販売している29歳の塗装工……葉子の私設ファンクラブの会長だという79歳の老人……葉子に80通に及ぶファンレターを書き送った28歳のOL……かつて何度も葉子に、タレントのヌードと葉子の顔を合成した写真を送りつけた25歳の会社員……公務員を辞めて葉子の練習風景の撮影を続け、合宿先や試合会場には必ず姿を見せた38歳の男……葉子のファンだった恋人に嫉妬《しつと》し、葉子の宿舎に5回にわたってカミソリを送ったことのある30歳の女……男性誌で葉子にヌードになるようにしきりに口説いた40歳の雑誌編集者……自分との交際を迫る手紙を送り続け、葉子がそれを無視すると今度は脅迫状めいた手紙を数回にわたって送りつけた33歳の無職の男……。だが、それらの人々の中に犯人らしき人物はいないようだった。この事件の犯人であるためには何より、莫大《ばくだい》な資金が必要だったからだ。  葉子がようやく警察から解放されたのは午後11時を過ぎていた。だが今も、葉子の住むアパートの付近には私服姿の複数の警察官が警戒にあたっているはずだったし、家の電話や葉子の携帯電話は今も警察官が聞いているはずだった。もし明日、葉子が出かければ、その十数m後ろから複数の警察官がついて来ることになっていた。それは本意ではなかったが、事件解決のためと言われれば同意するしかなかった。  葉子は湯船に映る天井の明かりをじっと見つめた。疲れてはいたが、それは嫌な疲労ではなく、何かとても懐かしいものだった。 「平塚の総合運動公園から芦ノ湖畔まで、調べさせたら47�もあったよ」  葉子は年配の刑事のひとりが言ったことを思い出した。「47�だよ。それもただの道じゃなく、あの急な箱根の山を登ったんだもんね。朝香さん、あんた、たいしたものだよ。あんたのおかげで、何十人の人の命が助かったんだよ」  それは葉子が、ここ何年か聞いた中でいちばん嬉《うれ》しい言葉だった。      23  キューバ産の葉巻をガラスの灰皿に置くと、男はソファの上で静かに首をまわした。車の運転を長時間にわたってしたせいで、今夜は肩が凝っていた。  部屋の明かりはすべて消えている。分厚いカーテンも締め切ったままだ。だが、暗くはない。映画館のスクリーンのように巨大な液晶カラーディスプレイの光が、広く静かな部屋を優しく満たしている。  テーブルの上のグラスを掴《つか》み、そっと唇を付ける。スコッチの芳醇《ほうじゆん》な味と香りが口の中に心地よく広がる。再び香りの強いキューバ産葉巻をくわえ、目の前の、音の消されたディスプレイに視線を戻す。  縦210cm、横360cmの超大型ディスプレイには、陸上競技場の赤茶色のアンツーカーを疾走する若い女が映っている。映像が不鮮明に思えるのはビデオテープが痛んでいるせいではない。撮影した人間の腕が悪かったわけでも、撮影機材に不都合があったわけでもない。ただ、風速30mを超える突風と、冷たい雨が視界を妨げているに過ぎない。  競技場を縦横に荒れ狂う雨と風が、そこを走るふたりの女を打ちのめしている。女たちはどちらも細い体を前傾させ、歯を食いしばり、顔を苦痛に歪《ゆが》めている。凄《すさ》まじい冬の嵐の中、すでに42�近くを走って来た女たちが消耗しきっているのは明白だ。  だが、ふたりの女の目は対照的だった。  ゼッケン『234』番を付けた女の目は、獲物を追う肉食獣を思わせた。一方、ゼッケン『1』の女は虚ろな目をしていた。  すり鉢形の陸上競技場に入った時に20mあった1位と2位との差は、少しずつ、少しずつ詰まっていき、バックストレートに入った時にはふたりのランナーの差は3mほどになっていた。トップを走る外国の女は、1度だけ後方を振り向いた。瞬間、虚ろだった女の目に脅えの色が浮かんだ。  そう。逃げる女は草食獣のように、捕食者の影に脅えていた。  最終コーナーでふたりの差はさらに詰まり、ホームストレートの少し手前で、追いかける女は逃げる女に並びかけた。逃げていた女の目が諦《あきら》めの色を帯び、その時点で勝負は終わった。『234』番の女は、『1』番の女を難なく突き放し、そのままゴールに走り込み、駆け寄って来た男の腕の中に崩れ落ちた……。  男はディスプレイから視線を逸らし、テーブルに手を伸ばしてグラスを取った。グラスを満たした褐色の液体を口に含み、静かに部屋の中を見まわした。  40畳はあろうかという広い部屋の隅には男の座っているソファと、低いテーブルがあった。部屋の中央にはスポーツクラブにあるような大きなランニングマシンが置かれていた。そして、壁という壁にはある女性長距離走者の写真が、ほとんど隙間もないほどびっしりと張り巡らされていた。  陸上競技専門誌のグラビアだったらしい写真。写真週刊誌の拡大コピー。畳1枚分はあろうかという大きさに引き伸ばされた何枚もの写真。新聞写真から拡大コピーした写真……。陸上競技場を走っている女。沿道の声援を受けて走る女。前を行く走者に追いすがろうとする女。走り終えてゴールにうずくまる女……。  広い部屋のあちこちにはマネキン人形が置いてあって、それらの一体一体が、かつて彼女が実際に着たランニングウェアやトレーニングウェアを着、かつて彼女が実際に履いたランニングシューズを履いていた。彼女がそこから水分の補給をしたことのあるプラスティック製のボトルや、彼女がレースで掛けたことのあるサングラスもあった。  静かだった。時折、遠くから車のエンジン音が聞こえた。  しばらく壁の写真を見つめたあとで、男はまたテーブルに腕を伸ばした。そして、1枚の紙を手に取った。  『12‥00 小林和喜   13‥00 小田豊 ×   14‥00 飯田マモル   15‥00 井上裕太   16‥00 早坂チエミ   17‥00 朝香葉子 ×   18‥00 吾妻英次   19‥00 芦ノ湖のレストラン ×   20‥00 田島聖一   21‥00 北村治子(辻堂駅前ですでに爆発)   22‥00 川上由美恵 ×   23‥00 猿渡哲三   0‥00 ソドムの家』  男は紙片から目を上げた。その時、テーブルに置いたデジタル時計が23‥59から0‥00に変わった。 [#改ページ]   第四章 12/24 SAT.      1  空は晴れ渡り、冷たく乾いた風が吹いている。ほとんど眠っていないせいで、眼球が染みるように痛む。猿渡哲三は歩道に落ちたゴミを拾いながら、上ったばかりの朝日の中を海岸に向かって歩き始めた。海岸まではわずか数百mだったが、あまりに多くのゴミが落ちているために、海に着くまで30分以上かかるのが常だった。  ——ついに、この日が来てしまった。  今朝の新聞によれば、辻堂であった爆発で昨夜、さらにふたりが病院で死亡したらしい。ひとりは4歳の女の子で、もうひとりは猿渡と同年配の老婦人だった。  あと5時間もすれば、どこかで最初の爆発が起きる。そしてまた、何の罪もない大勢の人間が死んだり傷ついたり、愛する者を失って泣かなければならない。  ……何の罪もない?  足元に転がっていたペットボトルを拾い上げ、蓋《ふた》を開けて中に残った液体を街路樹の根元に撒《ま》きながら猿渡は思った。 『猿渡さんがあの戦場で、命さえかけて守ろうとしたのは、こんな国だったのですか?』  ゴミをビニール袋に放り込みながら猿渡は、カラオケスタジオの個室で裸で踊っていた若者のことや、ゴミを拾う自分の目の前に火のついた煙草を投げ捨てていく者のことを考えた。老人にバスの座席を譲ろうともしない者のことや、病院の待ち合い室で騒ぐ子供を注意しようともしない若い母親のことや、人前で唇を重ねる若者のことや、排気ガスを撒き散らしながら車の中で居眠りしている者のことを考えた。  ……何の罪もない?  公金を使い込む官僚や公務員。不祥事をひた隠しにする企業や警察や自衛隊。アメリカに対しては何ひとつ言えず、自らの既得権益を守ることだけを考え続ける政治家……ナイフを持って小学校に乱入する男。教師を刺殺する中学生。女子中高生の体を買いあさる男たち。何年にもわたって少女を拉致《らち》・監禁していた男。保険金のために人を殺し続ける女……年金を払いたくないと言う若者と、年金制度が破綻《はたん》しかかっていると知りながら年金を減らされたくないと言う老人……子供を死ぬまで虐待する親たちや、妻を半殺しにする夫たち……キャンプ場や登山道に大量のゴミと汚物を残していく者たち。子供たちのために地球環境を守りたいと言いながら、真冬でもノースリーブでいられるほど部屋を暖め、大量の紙オムツと大量の合成洗剤を消費し続ける主婦たち。河原にオフロード車を乗り入れ、そこをメチャクチャにしていくアウトドア愛好者たち……二酸化炭素排出規制に反対する経済団体。会社の存続のためにリストラを続ける企業……。 『……猿渡さん、あなただって本当は、こういうことをしたいと思っていたのではありませんか?……この国と、この国に住む人間のすべてを、一掃したいと考えていたのではありませんか……?』  街路樹の下に大量のゴミが散乱している。大きなゴミ袋に入れられた家庭ゴミだった。たぶん近くに住む誰かが、夜中にこっそりと捨てていったのだろう。薄いビニール袋はカラスたちに食い破られ、丸められたティッシュや塩ビのトレイやプリンのカップや、使い終わった紙オムツや野菜の切れ端や、トマトソースにまみれたスパゲティや卵の殻や焼き魚や骨が歩道に散乱している。 「……ひでえことしやがる」  悪臭を放つゴミ山の前で猿渡は呆然《ぼうぜん》と立ち尽くした。いったいどこから手を付けていいかわからなかった。  その時、すぐ背後から子供の声が聞こえた。振り向くと、そこには5、6人の子供たちが立っていた。寒さにみんな、頬を赤くしている。 「……あの……おはようございます」  ほかの子供たちに押し出されるようにして猿渡の前に立った子供のひとりが、猿渡の顔も見ずに恥ずかしげに言った。ほかの子供たちも照れ臭そうに自分の足元を見つめている。  猿渡は子供たちを見まわし、大きな声で「おはよう」と答えた。 「……あのう……おじいさん……あのう……実は……学級会議で道路のゴミを拾うことに決まって……」  猿渡に挨拶《あいさつ》した子がモジモジしながら言いわけのように話し始め、それにつられるかのようにほかの子供たちも口々に、「……僕たち……東海岸小学校の3年1組で……」とか、 「……あのう……誰かが、毎朝ゴミを拾ってるおじいさんがいるって先生に言って……」とか、「……そうしたら先生が学級会で……」とか、「……みんなで話し合って、休みの日の朝にできるだけ……」とか、「……手の空いてる人だけで……」とか言い出した。  猿渡は辺りを見まわした。さっきは気づかなかったが、道路の向かいの歩道にも大きなゴミ袋を手にした7、8人の少女がいて、笑ったりふざけたりしながら空き缶や紙くずを拾い集めている。  不覚にも猿渡は泣き出しそうになった。涙を見られないように素早くしゃがみ込むと、「それじゃ、一緒にゴミ拾いしよう」と言った。顔を上げずに、歩道に散乱したゴミを拾い始めた。  子供たちは「きったねえなあ」とか、「くっせー」とか、「何で決められた場所に捨てないんだ?」とか言いながらゴミを拾い始めた。風が吹き抜けるたびに「ひっ、さみー」と叫び、遊び半分、ふざけ半分で、真剣な様子ではない。だが——猿渡は嬉《うれ》しかった。信子が生きてればどんなに喜んだか、と思った。  鳥がさえずる声がする。朝の光がゴミを拾う小学生たちを斜めから照らしている。犬を連れた女が子供たちに「偉いわねえ」と声をかけていく。  ……それでもお前は、あれを使おうというのか?  無言でゴミを拾い集めながら、猿渡哲三は自分にきいた。      2  キッチンからの物音に、田島明子は目を覚ました。夫が出かける用意をしているらしかった。だが夫のことなどどうでもよかった。  ベージュのカーテンの向こうに、目映《まばゆ》いほどの朝の光が注いでいる。エアコンのスイッチを入れる。壁に掛かった時計を見るともなしに見る。今朝は随分と早く目が覚めた。  トーストやインスタントコーヒーの匂いが、ドアの隙間から忍び込んで来る。夫はいつものようにキッチンで朝食をとりながら、テレビでニュースを見ているらしい。アナウンサーの声が低く聞こえて来る。土曜日だというのに、会社に行くつもりなのだろうか?  今では明子の自室のようになっているが、この8畳ほどの洋間にはかつてはベッドがふたつ並べられていた。当時は月に1度、あるいは2度、夫は明子のベッドに潜り込んで来ては不器用に体を求めたものだった。だが、そんな時でも明子がときめきを感じたことなどなかった。我を忘れて淫《みだ》らに乱れたことも、無我夢中で夫の背を抱き締めたこともなかった。もう何年も前に夫は明子を求めなくなり、物置だった北側の部屋にベッドのひとつを移動させていた。  柔らかな枕に頭を埋めて明子は耳を澄ました。アナウンサーの声が聞こえた。 ≪……どこかにまだ発見されていないアタッシェケースがある可能性があります。危険なのできょうは外出を控えてください。もし不審な物が置いてあるのを見かけたり、不審な物を持っている人物を見かけた方は……≫  ……本当にそんなものが、まだどこかにあるんだろうか?  寝起きのぼんやりした頭で明子は思う。もし本当にどこかにあるんなら、爆発してしまえばいい。そうすればしばらくは、退屈なテレビ番組が面白くなるはずだから。  テレビの音が消えた。上着やコートを羽織る音がする。明子はベッドを出た。そっと寝室のドアを開け、廊下をのぞく。  くたびれたコートを羽織った小柄な男が靴を履いているのが見えた。その姿はうんざりするほど惨めで、みすぼらしかった。  ……どうしてあんな男があたしの夫なんだろう?  夫の右手にはいつもの通勤用の鞄《かばん》ではなく、大きなボストンバッグがあった。だが明子は、それを別に不思議とも思わなかった。      3  屋根を歩く鳥たちの音に葉子は目を覚ました。体を起こそうとすると、筋肉が悲鳴を上げた。だが、それは不快な痛みではなく、逆にとても懐かしいものに感じられた。  薄いカーテンの向こうで朝の光が揺れている。何度か伸びとあくびを繰り返してからベッドを出る。皮の剥《む》けた両足の裏がビリビリと痛む。 「おはよう。お母さん、まだ寝てる?」  そう言いながら、居間と客間を兼ねた隣の母の寝室をのぞく。母はコタツでお茶を飲みながら、音のしないテレビを見ていた。 「おはよう。ぐっすり眠れたかい?」 「朝までぐっすりよ」 「そりゃあ、よかった」  葉子はパジャマのまま母の向かいに座り、コタツの中に足を伸ばした。足の指が、母の膝《ひざ》に微かに触れた。 「そのテレビ、どうして音がしないの?」 「お前がよく眠れるようにと思ってさ」  母は葉子を見つめて笑い、葉子は「気にしなくていいのに」と答えながら笑い返した。  音のしないテレビでは堅い表情のアナウンサーが喋《しやべ》っている。  いよいよ、この日が来てしまった。この1日が終わるまでに、いったい何人の人が死ぬことになるのだろう? 「朝ごはん、食べられるだろ?」 「お母さんもまだなの?」 「ごはんは炊けてるんだけど、あんたと一緒に食べようと思ってさ」 「それじゃ、わたしがお味噌汁《みそしる》でも作ろうか?」 「あたしがやるから、あんたはゆっくりしてなさい。あんなに遠くまで走って疲れてるんだから……本当にタフな子だよ」 「じゃあ、そうさせてもらうね。ありがとう」  音のしないテレビを見つめながら、葉子はあの電話の男のことを思い出した。男の声に聞き覚えがあるはずもなかった。あれは明らかに何らかの装置を通して変えられた音声だった。だけど……きのう、総合運動公園の自転車置き場で、最初にあの男の電話を受けた瞬間、葉子の脳裏に何かが浮かび上がりそうになった。  何か?——。  芦ノ湖に向かって走っているあいだ、男から電話がかかってくるたびに、葉子はそれが何なのかを思い出そうとしていた。しかし、機械のような男の声を聞けば聞くほど、脳裏にぼんやりと浮かんでいた≪何か≫はかすれていき、やがて完全に消えてしまった。  ……何なんだろう? いったいわたしは何を思い浮かべそうになったんだろう? 「その足だけど、包帯しなくて大丈夫なのかい? 靴や靴下が血だらけだったよ」  狭い台所で朝食の用意をしながら母が言った。 「もう大丈夫。ただ、マメが潰《つぶ》れただけだから」 「消毒はちゃんとしたの?」 「うん、したよ」 「化膿《かのう》するといけないからね……お味噌汁の具は大根とワカメのどっちがいい?」 「……大根がいいかな?」 「大根だと時間がかかるけど、いいのね?」 「うん」  葉子はテレビの画面を見つめ、また≪何か≫を思い出そうとしてみた。  ……何なんだろう? 何なんだろう?  どれほど考えても、それが何だったかを思い出すことはできそうもなかったけれど、葉子はひとつだけ確信していた。 ≪わたしは以前どこかで、そいつに会って、話したことがあるに違いない≫ 「目玉焼きはいくつ?」 「そうね……ふたつ」  コタツの暖かさを楽しみながら葉子は答える。何だか子供の頃に戻ったような気がする。 「キャベツは生のままでいい?」 「ええっと……炒めてもらうと嬉《うれ》しいんだけど」 「炒めるのかい? 面倒くさいね」 「あんまりしょっぱくしないでね」 「わかってるよ……糠漬《ぬかづ》けは食べるかい?」 「食べたい」 「はいはい」  母の声を背中に聞きながら、葉子はこんな朝の時間がずっと続けばいいと思う。これから毎日こんな朝を迎えることができるなら……そうしたらもう、わたしは何も望まない。      4  田島聖一は純一や克美が通った小学校の校庭にいた。日だまりに作られた花壇の縁に腰を下ろし、サッカーボールを奪い合う子供たちを見つめていた。  いい天気だった。  今朝は電車には乗らなかった。駅まで行き、どこに向かおうかと路線図を見上げたが、それを持って行くべき場所など思いつかなかった。しかたなく、重いボストンバッグを手にしたまま駅の付近を当てもなくさまよった。自動販売機で買った缶コーヒーを飲み、何本も煙草を吸い、新興住宅街の入り組んだ道をフラフラと歩き続けた。  子供たちの声や、サッカーボールを蹴《け》る音が聞こえる。花壇に雀たちが舞い下りて地面を一心に掘り返している。風が煙草の煙をなびかせていく。かつては純一や克美もここで遊んでいたのだろう。明子が授業参観に来たこともあっただろう。  だが、もういい。もうすべてが終わったことだ。 『もう1度、人生をやり直したいか?』ときかれたら、たぶん≪NO≫と答えるだろう。『お前の時間を30年戻してやる』と提案されても断っただろう。たとえもう1度やり直したとしても、うまくやれるとは思えなかった。  もう充分だった。面倒なことも、辛いことも充分だった。  ……人生の最後の1日だ。  本当に穏やかな、いい天気だった。田島にはそれが、何もしてくれなかった神が自分にくれた最後のクリスマス・プレゼントであるかのような気がした。      5  イタリア料理店の真向かいのコンビニで、小林和喜はアダルト雑誌を眺めている。雑誌のグラビアではビキニの跡の残る女が全裸で四つん這《ば》いになって男に犯されている。前のページではスーツ姿の高慢そうな女が髪を鷲掴《わしづか》みにされて男の性器を口に押し込まれていたし、その前のページではあどけない顔をした少女が顔に精液を掛けられていた。  だが今、小林はそんなものは見ていなかった。雑誌を眺めるフリをしながら、ガラスの向こうにあるイタリア料理店を見つめていた。心臓が高鳴り、足が震えた。  店の中では従業員が忙しげに動いている。ユニフォーム姿の愛川翠が店の中央に置かれたクリスマス・ツリーの前を横切るのや、窓際で古田大輔がテーブルに白い布を掛けているのが見える。ついさっき、古田が店の外に出てドアの札を裏返し≪OPEN≫に変えた。古田は顔を上げ、こちらをチラリと見たが、小林には気づかなかった。  ……あばよ、古田。地獄へ落ちな。  イタリア料理店とコンビニのあいだの道を、腕を組んだ若いカップルが歩いて行く。ミニスカートの少女たちが携帯電話を耳に当てて行き過ぎる。小林はベタつく掌をジーパンの尻《しり》で拭《ぬぐ》った。  その時、視界の片隅に見覚えのある人影が映り、小林は「あっ」と小さく声を漏らした。  何という偶然だろう。小林の隣の部屋に暮らす女が、恋人らしい男に肩を抱かれて歩いて来る。そうだ、間違いない。アパートの通路ですれ違うたびに、小林のことを汚物でも見るかのように睨《にら》みつけるあの女だ。  女は恋人の肩にもたれ、その顔をいとおしそうに見上げている。黒いコートに、踵《かかと》の高いロングブーツ。コートの深いスリットからミニスカートを履いた細い脚が見え隠れしている。  小林はふたりが目の前のイタリア料理店に入ることを祈った。神様、お願いします。そう祈った。  奇跡が起きた。小林の前を通り過ぎたふたりが、≪OPEN≫の表示になったばかりのイタリア料理店に入っていったのだ。  ……やった!  ふたりから視線を逸らし、壁に掛かった時計を見た。11時50分だった。      6  窓からの柔らかな光の中で、男は箱根の山を駆け登るきのうの朝香葉子の写真を見つめていた。車のハンドルを握りながら、すれ違いざまに撮ったものだったが、写りは悪くなかった。  女の整った顔は限界を超えた疲労と苦痛に歪《ゆが》んでいる。半開きになった口の端からは涎《よだれ》が溢《あふ》れ、形のいい鼻からは鼻水が流れ落ち、汗と埃《ほこり》にまみれたTシャツが痩《や》せた体に張り付いている。汗染みができたジーパンの足元がフラついているのが写真からでもはっきりとわかる。だが、それでも、女の目は死んでいなかった。それは凄《すさ》まじいまでの意志と決意を秘めて、前方を見つめていた。  ……たいしたものだ。  男は口に出さずに呟《つぶや》いた。それから、ふと思いついて、腕に嵌《は》めたロレックスを見た。  シードゥエラーの文字盤では、長針と短針が、今まさに重なり合おうとしていた。      7  小林和喜は飲料水棚の上の時計を見つめた。口は乾ききり、全身のすべての筋肉が震えている。あと10秒。あと9秒。8……7……6……5……。  振り向いてイタリア料理店を見る。小林の隣の部屋に住む女とその恋人は窓際の席に向かい合い、テーブルの上でお互いの手に触れ合っている。その脇に一瞬、ユニフォーム姿の愛川翠が見える。心の中で秒読みを続ける。……4……3……2……1……死ね。  ………………………。  爆発は起きない。新たな客が——幼い子供を連れた若い夫婦が——店の中に入っていく。小林の隣に暮らす女のテーブルで愛川翠が注文を取り始める。目の前の通りを制服姿の女子高生たちが歩いて行く。  ……なぜだ? なぜ爆発しない?  再び振り返って時計を見る。すでに秒針は10の数字のところまで来ている。やっぱりデタラメだったのか? あれは時限爆弾なんかじゃなかったのか?  激しい失望にとらわれながらイタリア料理店に視線を戻した、その瞬間——  時間の流れが  まるで100分の1のスピードで  コマ送りした映像のように遅くなり  世界から  音が  完全に  消えた。  ストロボが焚《た》かれたかのように店内が真っ白になり、店の中のすべてのものが歪んだ。同時に、表通りに面したすべての窓ガラスがカゴに押し込められた風船のように外側に膨らんだ。  小林はそれを見た。  いっぱいに膨らんだ窓ガラスは音をたてぬままアルミの窓枠や壁を押し破って弾け散り、店内にあったさまざまなものと一緒に外に向かって吹き飛ばされ、道路を隔てたコンビニのほうに、ゆっくりと広がる波のように押し寄せて来た。  それを小林は見た。  黒いミニスカートの下半身と、白いセーターの上半身が別々に舞い上がる。ウェストで切断された下半身のスカートがまくれ上がり、鮮やかなオレンジ色のショーツが丸見えになっている。上半身には頭が付いているが、そこには目も鼻も頭髪もなく、ドロドロとした赤い肉の塊になっている。首のない男の体や、人間の腕みたいな形をした物体が宙に舞っている。両腕をなくした男が血まみれになって道路でバウンドしている。引きちぎられた人間の体やガラスや壁の破片と一緒に、フォークやナイフやスプーンや皿やパスタやステーキが押し寄せて来る。  それを小林は見た。  静かだった。音もたてぬまま、爆発の波は小林のいるコンビニの大きなガラスをぐっと内側にたわませた。ガラスっていうのはこんなにも弾力のあるものだったのか? そう思わせるほどいっぱいに膨らんだあとで、それは一気に砕け散り、鋭いガラス片が小林の全身を襲い、その時になってようやく音が聞こえた。天井に飛行機が墜落したかと思うような凄まじい音だった。  顔を背けることも、両手で顔を覆うこともできなかった。小林は無数のガラス片を体中に打ち込まれ、化粧品やハブラシやコットンが並ぶ背後の棚に叩《たた》きつけられ、大波に巻き込まれたサーファーのように揉《も》みくちゃにされた。高く持ち上げられ、凄まじい力で叩きつけられ、また持ち上げられ、叩きつけられた。  たぶん、すべてが一瞬のことだった。時間の流れが元に戻った時、自分がどこにいて、自分の体がどうなっているのかが小林にはわからなかった。喉《のど》の奥から何かが噴き出し、息をすることができなかった。右目はまったく見えず、左目で見た世界もひどく歪んでいて暗かった。  呻《うめ》きとともに喉に詰まったものを吐き出した。それは大きな血の塊だった。見えないほうの目を拭おうとし、その時になって初めて小林は、自分の右腕が付け根からなくなっているのに気づいた。  恐怖が来る前に、意識が遠のいていった。暗くなっていく視界の隅に、小林は空き地のようなものを見た。  その空き地が、そこにあったイタリア料理店が跡形もなく消えた痕跡《こんせき》だとは気づかぬまま、小林和喜は30年の人生を終えた。      8  遅い朝食を済ませた葉子は、コタツに足を突っ込んでまどろみかけていた。向かいには母親がいて、さっきからやはりうとうとしていた。その心地よいまどろみの中で葉子は、アナウンサーが『たった今、大変なニュースが入ってきました』と言うのを聞いた。  慌てて目を見開いて画面を凝視する。スタジオがひどくざわついているのがわかる。誰かがアナウンサーに紙片を渡し、アナウンサーが強ばった顔でそれを読み上げる。 『つい先程、神奈川県厚木市の本厚木付近の繁華街で非常に大きな爆発がありました。この爆発によって多数の死傷者がでている模様です……』  葉子は瞬きもせずテレビの画面を見つめた。顔から血の気が引いていく。 「何てことを……」  呻くように言った母の声が聞こえた。      9  テレビの前で呆然《ぼうぜん》としていた猿渡哲三はフラフラと立ち上がり、さまようように仏間に入った。簡素な仏壇の前に正座し、遺影の中で微笑む妻の顔をじっと見つめた。静かに息を吐き、目を閉じた。その時だった——。  あの戦争で日本は降伏するべきではなかったんだ。  その時、何の脈絡もなく、老人は突然、そう思った。そして、そう思った自分に驚いた。  猿渡は特別な愛国心を持っていたわけではなかった。軍国主義者でもナショナリストでもなかった。もし、日本が降伏しなければ、この国はもっともっと悲惨な状況になっていただろうし、たぶん、妻も自分も生き延びることはなかっただろう。それはわかっていた。にもかかわらず、猿渡はやはり、『日本は降伏するべきではなかった』と思った。降伏するという行為は、死んでいった者たちへの裏切りにほかならない。そう思った。  そう。あの頃、この国の政府は、日本人が最後のひとりになるまで戦うと宣言していたではないか? 本土決戦を叫び、一億総玉砕を叫んでいたではないか? そうだ。すべての日本人が死に絶えるまで戦うというのは国と国民との約束だったのだ。  君たちだけを行かせるわけではない。われわれも必ずあとに続く——そういう約束を信じ、若者たちは戦場に散っていったのだ。日本は決して降伏などしないという国の言葉を信じて、沖縄を初めとする住民たちは敵に立ち向かい、猛烈な空襲に耐えたのだ。  それなのにこの国は約束を破って降伏し、生き残った国民は現在の繁栄を手に入れた。それはフェアなことだと言えるだろうか?  一方は虫けらのように殺されていき、一方は腹いっぱいに食い、大声で笑い、安心して眠り、淫《みだ》らに交わり、かつての敵を憎むこともなく、その文化を受け入れて喜んでいる。この事実を知ったら、死んでいった者たちはどう思うだろう? 『裏切られた』『騙《だま》された』『損をした』そう思うのが普通ではないだろうか? 「日本は降伏するべきではなかったんだ。約束どおり、全国民が死ぬまで戦うべきだったんだ。それが公平だったんだ」  猿渡は目を開き、今度は声に出して呟いた。そしてそのあとで、俺は狂ってしまったんだろうか、と考えた。  脇に手を伸ばす。そこには、風呂敷《ふろしき》で幾重にもくるまれたアタッシェケースが——今夜11時に爆発する時限爆弾があった。  猿渡は意を決して立ち上がった。風呂敷にくるんだアタッシェケースを買い物用のバギーに乗せ、もう1度、妻の遺影を見つめ、ふと思いついてそれを手に取った。 「信子……ついて来てくれるだろ?」  小さな額縁に入った妻の遺影を胸に抱き、バギーを引いて部屋を出た。  マンションの廊下には人影がなかった。ただ蛍光灯が、白い壁に無機質な光を投げかけているだけだった。  静まり返った廊下にバギーの音が、ガラガラと大きく響く。両側には鉄の扉がずらりと並んでいる。猿渡はその分厚い扉の向こう側で恐怖におののき、息をひそめている人々を思った。 「いい気になるなよ……お前らを殺すことなんて、簡単なんだぞ」  エレベーターでエントランスホールに下り、自動ドアを抜けて外に出る。歩いている人の姿はほとんどない。潮の匂いのする風が痩《や》せた体を凍えさせる。 「みんな死んじまえばいいんだ」  猿渡はバギーを引いて歩き出した。      10  正午ちょうどに本厚木で凄《すさ》まじい爆発があったというニュースは、瞬く間に日本列島を駆け抜けた。それは辻堂であった爆発にもひけをとらない大爆発で、その破壊力があまりにも凄まじく、あまりにも何もかもが壊滅的に吹き飛ばされてしまったため、いったい何十人が犠牲になり何十人が怪我をし、何十人が行方不明になっているのかさえわからなかった。  爆心と思われるイタリア料理店は影も形もなくなっていた。隣接した建物もほとんどが崩れ落ち、辺りは瓦礫《がれき》の山と化していた。爆発と同時に大規模な火災が発生し、北西の乾いた風に煽《あお》られて広がっていた。現場には救急車や消防車、パトカーなどが駆けつけ、負傷者を次々と運び出していた。  ——発見されていないアタッシェケースは、やはり存在したのだ。そして間違いなく、ほかにも存在するのだ。  辻堂で22日に爆発したアタッシェケースは本来ならきょうの午後9時に爆発するはずだった。40歳のサラリーマンが警察に持ち込んだアタッシェケースは午後1時にセットされていたし、32歳の風俗嬢が届け出たアタッシェケースの爆発時刻は午後10時だった。平塚に住む元長距離走者の女性のアタッシェケースは午後5時だったし、彼女が芦ノ湖畔のレストランで発見したアタッシェケースの爆発予定時刻は午後7時だった。  おそらく——あの時限爆弾は、24日の正午から1時間ごとに爆発を繰り返すのだ。もはやそれは、疑いようもなかった。  正午の爆弾は本厚木で爆発した。午後1時の爆弾は40歳のサラリーマンが警察に持ち込んだ。だとしたら……次の爆発は午後2時。  ——午後2時にはいったいどこで、次のアタッシェケースが爆発するのか?  誰もがそれを考えた。      11  飯田マモルは、鎌倉の高層マンションの4階の自室でテレビを見ていた。居間のほうからは父と母の話し声が聞こえた。  マモルは壁の時計にチラリと目をやり、目を閉じた。自分の心臓の音が聞こえた。目を閉じたまま乾いた唇をなめ、震える手を握り合わせた。  マモルはまだ、たった14年しか生きていなかった。だがすでに、未来はバラ色ではないということを知っていた。  14年の人生に面白いことなど、何ひとつなかった。そしてたぶん——いや、間違いなく、10年後の自分は今の自分よりもっと辛いさまざまなことを抱えているのだろう。20年後、30年後の自分は今よりもっと面倒なことの中で生きているのだろう。  時々、これからの人生を考えることがある。未来に横たわるその時間をぼんやりと思い浮かべる。たったそれだけのことで、息苦しいほど憂鬱《ゆううつ》になった。上の学校に通うこと。卒業して会社に通うこと。そこでする仕事のこと。家や車を買うこと。結婚することや、自分の妻になる女との暮らしや、自分の子供の教育のこと。年をとった両親のこと……。考え続けると吐き気がしてくる。  何のために人は生きていかなくてはならないのかが、マモルにはわからなかった。そんなことは誰も教えてくれなかった。  ……畜生。何のための人生なんだ?  考える時間はもうなかった。  飯田マモルは壁の時計を見上げた。大きく息を吐いて立ち上がり、クロゼットから厚手のジャンパーを出して羽織った。机の上にあった財布をジーパンのポケットに押し込み、シマリスの入ったカゴを持って自室を出た。 「マモル、どこに行くの?」  玄関に屈んで靴を履いていた時、背後から母の声が聞こえた。息子が有名大学に進学し、父のような大企業に就職することを切望している母の声。 「ちょっと、そこまで」  振り返らずにマモルは答えた。 「すぐに戻るんでしょ? 今夜は御馳走《ごちそう》だからね」  玄関の扉を開けながら振り向くと、薄手のブラウスを着た母の細い背中が見えた。      12 「おい、あと3分で2時になるぞ。本当に2時に次の爆発があるのかな?」  チェストの上の時計を見つめて初老の男が言った。時計の脇には、去年夫婦でオランダに行った時にチューリップ畑を背景にして撮った写真と、正月に娘夫婦や孫や息子たちと一緒に撮影した写真などがズラリと並んでいる。 「どうなんでしょう?……怖いわねえ」  夫の隣のソファに腰を下ろした妻が答えた。  本当はきょうは夫婦で横浜に出かけて華やいだ街の様子を見て歩き、ケーキや御馳走を買いたかったのだけれど、こんな物騒な日に電車に乗ったり繁華街を歩きまわったりする気にはなれなかった。幸い、冷蔵庫には買い置きのワインがある。夫は「鮨《すし》でも取ろうじゃないか」と言っているし、娘は「ケーキを作る」と言っている。  鎌倉の海辺に立つ11階建の高級分譲マンションの5階の一室。海を見下ろす広くて明るいリビングルーム。壁には引っ越し祝いに息子たちから送られた大きなリトグラフが掛かっている。窓辺に置いた鉢では洋ランが花を咲かせている。1階のボイラー室から送られてくるスチームのおかげで、部屋の中は春のように暖かい。 「しかし、いったい、誰がこんなひどいことを考えついたんだろう?」  まるで空襲された外国の都市のようなテレビの映像を見つめながら、夫が言った。 「そのアタッシェケースをバラ撒《ま》いた人もひどいけど、それをあんな繁華街のレストランに置いた人もどうかしてるわ」 「俺には理解できないよ」 「純香たちを外出させなくてよかった……幸夫と健次は大丈夫かしら?」  夫は65歳。妻は61歳。長女夫婦と5歳と7歳の孫娘と6人でここに暮らしている。娘夫婦はディズニーランドに行く予定だったが、きょうの外出を断念して自分たちの部屋にいる。孫たちはぐずって泣いたが、こんな日に出かけさせるわけにはいかない。  夫は大手家電メーカーを課長で定年退職したあと子会社で2年働き、さらにその関連会社で3年働き、先月そこを退職したばかりだった。これからは思う存分に旅行を楽しむつもりで、来月には3週間の予定でスペインとポルトガルに行くことになっている。  この5LDKのマンションは彼らが代金の5分の3を、長女夫婦が5分の2を負担して購入した。ちょっと贅沢《ぜいたく》すぎるかなとは思ったが、老後を鎌倉でというのが昔からの夫婦の夢だった。潮風が少し鬱陶《うつとう》しいが、日当たりと眺望は最高だ。郵便物もクリーニングも写真の現像もちょっとした買い物も、すべてマンション内で済むのがありがたい。プールやサウナもあるし、1階には内科の医院もある。 「コーヒーでも飲みますか?」  妻がきき、「そうだな」と夫が答えた。  妻は夫がここでコーヒーを飲んでいるのを見るのが好きだ。夫の人生は働きづめだった。役員になれるほど出世したわけではないけれど、若い頃は休日も返上して家族のために働いた。そして今、ようやく安らかな時間が訪れようとしている。無言でコーヒーをすする夫を見ていると、たまらないいとおしさが込み上げてくる。いろいろあったけど、この人と一緒になってよかった。  キッチンに向かうために妻は立ち上がった。 「純香たちにも声をかけてやれよ」  妻の背中に向かって夫が言った。 「もちろんそのつもりよ……カステラとクッキーがあるけど、どっちがいい?」 「そうだな……カステラがいいかな」  ——それが夫婦の最後の会話になった。  次の瞬間、かつて誰も聞いたことのないほどの轟音《ごうおん》が建物全体を揺るがせ、床が——夏は涼しく冬は暖かいという触れ込みの最高級コルク材の床が——部屋の中央の部分でまっぷたつに割れて、山のように盛り上がった。      13  テレビの時報が午後2時を告げると同時に、鎌倉の海辺に立つ高級分譲マンションから凄《すさ》まじい爆発音が轟《とどろ》いた。11階建マンションの4階付近で起きた爆発は、建物の4階から上をこっぱみじんに吹き飛ばし、1〜3階部分をザックリと深くえぐり取った。直後に、木材や鉄骨やプラスティックやガラス片やコンクリートなどの巨大な物体が、ものすごい音を響かせて地上に降り注いだ。  大量の落下物は土砂崩れか雪崩のように街路樹の枝をへし折り、電線を引きちぎって電柱をなぎ倒し、駐車している車を押し潰《つぶ》し、道行く人々の命を一瞬にして奪い去った。残った建物からは猛烈な火が噴き出し、真っ黒な煙と、舞い上がった多量の土砂が瞬く間に冬晴れの空を覆った。  物が燃える臭い。土や埃《ほこり》の臭い。タンパク質の焦げる臭い……それに生の血や肉の臭いが辺りを覆っている。  巨大なコンクリートの塊が、まるで前衛的な彫刻のようにいたるところに突き刺さっている。芝生の上に浴槽が転がっている。その隣には仏壇らしきものが、半ば土に埋まるようにして落ちている。ソファやタンスや椅子やテーブルがある。テレビらしい物体がテラスの植木鉢を叩《たた》き潰し、万力で圧し潰されたようにグチャグチャになっている。自転車、CDプレイヤー、子供の人形やオモチャ……食器、鍋《なべ》やヤカンやフライパン、肉や魚や野菜や果物、本や雑誌……まるでゴミの埋め立て地のようだ……トイレの便器、ベビーベッド、衣類や靴、ドアや襖《ふすま》、電子レンジ、電話、炊飯器、クリスマス・ツリー……それに人間の体の一部。  そう。瓦礫《がれき》の山のあちこちに人体の一部と思われる肉片が散乱している。引き裂かれたベッドの上に腕と足が転がっている。アスファルトに叩きつけられた上半身はたぶん若い女のものだろう。長い髪がプラチナグレイに染めてある。その隣にある肉の塊はおそらく幼い子供のものだ。  壊れた茶ダンスに男が縋《すが》り付いている。その体には下半身がない。その隣には太った女が俯《うつぶ》せになっている。女の背中からは太い鉄骨が突き出している。芝生の上に血まみれの頭が転がっている。それは毛髪を失い、ただの肉の塊になって、もはや男のものだか女のものだかわからない。  被害はマンションを中心にして半径数百mに及んでいる。杖《つえ》を突いて歩道を歩いていた老人は頭にコンクリート塊の直撃を受け、首を肩にめり込ませるようにして死んだ。自宅の窓辺でテレビを見ていた女は爆風で砕けた窓ガラスに頸動脈《けいどうみやく》を切断されて、辺りを血の海にしてのたうちまわった。屋根と天井を突き抜けて来た冷蔵庫に潰された母親と赤ん坊もいた。  多くの民家の屋根に大きな穴が空いている。太い鉄骨が天井を突き破って居間に落ちて来た家もあるし、洗濯機みたいな物体や、元は電子レンジだったような物体が落ちて来た家もある。畳が庭のフェンスをなぎ倒し、巨大な金庫が犬小屋を叩き潰している。  ——人々がなぜ死んだのか。自分はなぜ生きているのか。それは誰にもわからない。生き残った者はただ、その信じられない光景を呆然《ぼうぜん》と見つめるだけだった。  かつて経験したことのない恐怖が人々をパニックに陥れた。もはや安全な場所などあり得なかった。たとえどこにいようと、一瞬ののちにはそこは地獄に変わっているかもしれないのだ。時計の針が3時を指した瞬間に、壁の向こうから死が突如、自分に襲い掛かってくるかもしれないのだ。  人々は、素知らぬ顔をして隣に潜む恐ろしく凶暴な悪意を見た。  政府からは非常事態宣言が発令されていたが、それは単に恐怖をあおり立てただけだった。各地で行われる予定だったクリスマスの催しは次々と中止され、都市はその機能を停止しつつあった。  次の——おそらく午後3時の——爆発予定時刻が迫っていた。人々は自分のすぐ隣に潜んでいるかもしれない死に脅え、必死で辺りを見まわした。      14  夏には海水浴場として賑《にぎ》わう茅ヶ崎の海岸を、冬の午後の太陽が照らしている。人の姿はまったくなく、打ち寄せる波の音だけが不規則に響いている。さざめく海が光を反射し、冷たい風が砂を舞い上げる。車輪が砂に埋まってうまく走らないバギーを引きずるようにして、猿渡哲三はその砂浜を歩いた。  海岸の外れには朽ちかけた木造の小屋があった。夏にはボートハウスとなる小屋の脇には10艘《そう》ほどのボートが放置され、細かい砂に埋もれていた。猿渡はその小屋に向かった。  海岸のゴミを拾うため、猿渡は毎日のようにここを歩いている。だから、その小屋の扉の鍵《かぎ》が壊れていることは知っていた。  錆《さ》びたドアノブを力の限り引く。安っぽい木製の扉は、その足元の砂をブルドーザーのように押しのけて少しだけ開いた。細い扉の隙間から体を入れ、そのあとで引きずって来たバギーを小屋の中に引っ張り込んだ。  小屋の中には潮の香りが充満している。湿った木の匂いと、微かなカビの匂いもする。  小屋の真ん中にたたずみ、辺りを見まわす。安っぽい合板のテーブルがひとつと、同じように安っぽい不揃いな椅子が3脚置いてある。秋になってボートハウスが営業しなくなってから、誰かが入ったことがあるらしい。うっすらと砂の浮いた床にはカップメンの容器やスナック菓子の袋、コーラの空き缶などが散らばり、隅のほうには変色して丸められたティッシュペーパーと使い終わったゴム製の避妊具が投げ捨ててあった。  猿渡は砂をかぶった椅子のひとつに腰を下ろし、掌でテーブルの上の砂を拭《ぬぐ》った。バギーから妻の遺影を取り出し、それをテーブルの上に置いた。      15  出航の時間は過ぎていたが、『ホワイト・フラワー号』はまだ桟橋に停泊したままだった。これから船上で行われる結婚式に参加する予定者が、まだふたり到着していないらしかった。  井上裕太は、デッキの窓からメインパーティラウンジに目をやった。広々としたラウンジはすでに色とりどりの花で飾り付けられ、テーブルには美しい食器が並んでいた。華やかなドレスで着飾った女たちや、礼服を着た男たちがグラスを手に談笑していた。小さな子供を連れた夫婦や赤ん坊を抱いた女、新郎新婦の祖父母らしい老人もいた。  井上裕太はそんな人々を、まるで死んだ昆虫の周りに群れる蟻でも見るかのように見た。 「井上さん。準備万端、異常なしです」  フォアマストのほうから歩いて来た遠藤が井上に告げた。 「ああ、御苦労様」 「井上さん……ここだけの話ですけど、クリスマス・イヴに結婚式を挙げるなんて、迷惑な話だと思いませんか?」 「そうなのかな?」 「そうですよ。みんな恋人や家族と一緒に過ごしたいだろうに……バイトの連中もブツブツ言ってましたよ。そんな自分勝手な夫婦は絶対に別れるに決まってるって」  井上はさっきチラリと見た新婦の姿を思い浮かべた。とても綺麗《きれい》で気の強そうな、スタイルのいい女だった。 「井上さんは知らないと思うけど、去年のクリスマス・イヴにこの船で式を挙げたカップルがいたんですよ。そいつら、どうなったと思います?」 「どうなったんだ?」 「成田で離婚したんですよ」  遠藤の言葉に笑って頷《うなず》き、いくつか簡単な指示を出したあとで、井上裕太は午後の太陽に輝く東京湾を眺めながらデッキの後方に向かって歩いた。途中で立ち止まり、胸ポケットから携帯電話を取り出した。 「もしもし……ああ、俺だよ……何だって!」  井上裕太が叫び、まだすぐそばにいた遠藤が、「どうしたんだろう?」という顔でそちらを見た。 「本当なのか?……それでオフクロの具合はどうなんだ?……そうか。わかった。すぐ行く……ああ、大丈夫だ……」  井上裕太は電話を切るフリをしてから、困惑した顔で遠藤を見つめた。 「どうかしたんですか?」 「実はオフクロが倒れて病院に運び込まれたらしいんだ」 「本当ですか! それで具合はどうなんです?」 「よくわからんが、これから手術らしいんだ……畜生、困ったな……すまんが、遠藤、帰らしてもらってもいいかな?」 「もちろんです。すぐに駆けつけたほうがいいですよ。あとは自分たちが何とかしますから」 「悪いな」 「何言ってるんです? こんな時はお互い様ですよ……みんなには俺が言っておきますから、井上さんは早く行ってください」 「それじゃ、すまんが、あとのことを頼む」  それだけ言うと井上裕太はデッキを駆け出した。  船のタラップを降りかけた時、遅れて来た招待客とすれ違った。ひとりはブルーのロングドレスを着た女で、もうひとりの女はピンクのミニ丈のドレスを着ていた。  ……いい女だ。殺しちまうのはもったいないな。  パンプスの高い踵《かかと》にぐらつきながらタラップを上っていく女たちの背中を見上げながら井上裕太は思った。その時、出航を告げる汽笛が長く響いた。      16  葉子はコタツの中で両手を握り締めて、本厚木の爆発現場から送られて来るテレビの映像を見つめていた。頭が混乱して、まるで夢を見ているような気がしていた。 『……本厚木の繁華街で起きた爆発では、これまでに少なくとも40人が死亡。100人以上が重軽傷を負って病院に運ばれた模様です。また、これとは別につい先程、鎌倉のマンションで非常に大きな爆発があった模様です。こちらの爆発の詳細は現在までのところ不明ですが、入りしだいお伝えいたします……あっ、たった今、鎌倉の現場と繋《つな》がりました』  ……どういう人たちなんだろう? いったい、どういう人たちなんだろう?  葉子はさっきから、ずっとそれを考えていた。  時限爆弾をバラ撒《ま》いた男が狂気に侵されていることは明白だった。世の中には時に信じられないようなことを考え、それを実行してしまう人間が存在する。まったく共感などできないが、それは葉子にも理解できた。だが、問題なのはそのあとだった。本当に問題なのは、この爆破事件には媒体としてもうひとりの人間が、まるで犯人を補助するかのように存在することだった。  たとえ狂った男がいて、そいつが恐ろしい時限爆弾をバラ撒いたとしても、それを手に入れた人間が警察に届け出ればこんな爆発は起きなかったのだ。せめてその人間があのアタッシェケースを山奥にでも捨ててしまえば、こんな悲惨なことにはならなかったのだ。  だが、実際には正午と午後2時に2度の爆発が起きてしまった。それらの爆発には媒体として働いた第三の人間が、間違いなく存在したのだ。ついさっきまでは一般市民として平凡に暮らしていた第三の人間が——。  ……いったいどんな顔をした人たちなんだろう? その人たちは、きのうまでどこに住み、どんな仕事をし、どんな暮らしをしていたんだろう?  テレビの映像はいつのまにかスタジオに切り替わり、さっきとは別の女のアナウンサーが喋《しやべ》っている。 『……午後3時にまた次の爆発があるものと推測されます。その爆発がどこで起きるのかはまったくわかりませんが、人の集まる場所は特に危険性が高いものと考えられます。出来る限り繁華街や娯楽施設、スポーツ会場やイベント会場などを離れ……』  アナウンサーの強ばった声を聞きながら葉子はコタツから足を抜いた。 「どこか行くのかい?」  立ち上がりかけた葉子を見上げて母が言った。 「授業があるの……すぐ近くだけど」 「休むわけにはいかないのかい? こんな日じゃ、先方も勉強に身が入らないだろ?」 「でも……先方からキャンセルしたいっていう連絡も来ないし……仕事だから、やっぱり行くわ」 「そう? それじゃ、気をつけるんだよ」 「うん」 「終わったら寄り道しないでまっすぐ戻っておいでよ」  葉子は居間を出ると自室で素早く着替えを済ませ、少年のような短い髪を手早く整えた。それから刑事のひとりの携帯に電話を入れ、家庭教師の仕事で出かける、と伝えた。  刑事は葉子の告げた訪問先をメモしたあとで、「こんな日にも行かなきゃならないんですか?」と言った。 「ええ、仕事ですから」 「大変ですね。ところで、その後、例の男からの接触はありませんね」 「電話を傍受してるんでしょ?」 「ええ、まあ、一応、念のために確認したまでです。お出かけになる朝香さんを刑事が尾行します。朝香さんの携帯は引き続き傍受させていただきます」  電話を切り、居間にいる母に「それじゃ、行って来るね」と声を掛けて玄関に向かう。いつものようにランニングシューズに足を入れる。  厚くテーピングした足裏が微かに痛んだ。      17  壁の一面を占領した巨大なスクリーンが本厚木の爆発現場を映している。男はキューバ産の香りの強い葉巻をくゆらせながら、それを見つめている。  本厚木と鎌倉で起きたふたつの爆発による死傷者数は時間の経過とともに増加していき、現在までに死者は100人に達し、重軽傷者は300人を数えた。鎌倉のマンションは今もなお炎上しており、救助隊によって瓦礫《がれき》がどけられるたびに新たな犠牲者が見つかっていた。  映像が爆発現場から総合病院の待ち合い室のような場所へと切り替わる。負傷者が運び込まれている病院ではベッドや病室が足りないため、応急処置の終わった人や怪我の程度の比較的軽い人たちが待ち合い室に収容されている。体のいたるところに包帯を巻いた人。衣服をズタズタに引き裂かれた人。髪を焦がし、顔を真っ黒にした人。腕に点滴のチューブを付けたままの人。  泣き声や叫び声が響き渡っている。ソファに座ったり、床にうずくまった患者のあいだを、血のついた白衣を着た医師や看護婦が走りまわっている。「道を空けてください。重傷者が通ります。道を空けてください」救命隊員が叫び、血まみれの重傷者を乗せたベッドが手術室へと向かっていく。  爆撃を受けた都市では、きっとこんな様子なんだろうな。男はぼんやりと思う。  妻と幼い娘を亡くしたという父親が、「どうしてこんな目に会わなきゃならないんだ?いったい俺たちが何をしたっていうんだ?」と泣きわめいている。自分も頭を包帯でグルグル巻きにされ、そこに血が滲《にじ》み出ている。顔や腕や脚に包帯を巻いた人がソファの上でぐったりとしている。顔は見えないが、若い女なのだろう。ぴったりとしたセーターに包まれた胸が膨らんでいる。看護婦に付き添われて病室から出て来た幼い女の子が、「痛いよう、痛いよう」と泣いている。女の子は上半身裸で、首から肩、胸にかけてが包帯で覆われている。顔は真っ黒で、焼けた髪が縮れている。「ママ、ママ」と繰り返しているが、 母親らしき女の姿はない。そのすぐ脇では肘《ひじ》や膝《ひざ》に包帯をした幼い男の子が、床にしゃがんで呆然《ぼうぜん》としている。テレビ局のレポーターらしき男が「お父さんやお母さんは?」ときくが、男の子は無言で遠くを見つめている……。  そこに映っている映像がとてつもなく悲惨なものであるということは、男にも理解できた。何の罪もない人々が突然、何の脈絡もなく幸福を断ち切られ、個人では受け入れがたいほどの絶望に面しているのだということは、頭では理解できた。だが——それだけだった。男はその映像をまるで、ずっと昔、遠い外国のどこかで起きた出来事を見るかのように見ていた。  ステーキを食べる人が、食われるために育てられ、殺された牛のことを考えることがないように。フライドチキンに齧《かじ》り付く人が、殺されて毛を毟《むし》られるニワトリのことを考えることがないように——男は、爆発で死んだ人々の人生を考えたりはしなかった。  リモコンを操作して音声を切る。そして男は、本厚木のイタリア料理店にアタッシェケースを置き去りにした人間のことを思い出そうとした。  ……小林? そうだ。最初に爆発するアタッシェケースは、本厚木のイタリア料理店でバイトをしていた小林という男に贈ったんだ。あのイタリア料理店には何度か行ったことがある。小林という男はちょっと卑屈な感じだったが、悪いやつには見えなかった。こいつはたぶん、すぐに警察に届け出ると予想した。それなのに……。  小林という30歳の男にどんな理由があったのかは知らない。わかっているのは、きのうまでは普通の市民として暮らしていた小林という男が、巨大な≪力≫を手にしたとたんに豹変《ひようへん》し、その≪力≫を行使したということだけだ。いや、豹変したわけではないのだろう。小林という男の心の奥には、たぶん最初から深い闇があったのだ。かつて他人が1度も見たことのない、もしかしたら本人さえ知らなかった、深い闇があったのだ。与えられた≪力≫は、その闇を解き放っただけに過ぎない。  葉巻を吸い続けながらテレビモニターから視線を動かし、壁に貼った無数の写真の中の1枚——何年か前に望遠レンズを使って撮影した、疲れ切ってグラウンドにへたり込んだ女の写真を見つめる。その写真はレースでのものではなく、彼女が所属していた実業団の陸上部の練習グラウンドでのものだった。あれは真夏のとても暑い日で、女は乾いた土の上に両手両膝を突いて、こちらに骨張った背中を向けている。ヨレヨレになった練習用のTシャツが噴き出した汗で背中にぺったりと張り付き、天使の翼のような肩甲骨や、スポーツ用のブラジャーのラインをくっきりと浮き上がらせている。  脂肪のまったくない女の背中を見つめながら男は、今度は2時に爆発するアタッシェケースを所持していた少年のことを思い出そうとした。午後2時は飯田……飯田マモルといった。飯田マモルは、かつて男が在籍した有名私立中学の2学年に在学する14歳だった。  そうだ。かつて彼が着ていたのと同じ中学校の制服を着た飯田マモルは、何カ月か前、夜の電車で老人に座席を譲っていた。たぶん進学塾の帰りだったのだろう。色白で、小柄で、小学生のようにも見えた。跡をつけてみたら、鎌倉の海辺の大きなマンションに帰って行った。  飯田マモルは、とても素直そうで、礼儀正しそうな少年だった。しかし——彼の中学の後輩にあたる飯田マモルもまた、男の予想を裏切った。  ……あの子も死んだのかな? それとも、自分だけは逃げ出したかな?  煙を上げる葉巻をガラスの灰皿に置き、天井を仰いで目を閉じる。そして3時に爆発するアタッシェケースを与えられた男——井上裕太という35歳のイベント客船の配膳《はいぜん》係のことを考えた。  ……次の爆発はどこだ? それで今度は何人が犠牲になるのだ?  それは男にもわからなかった。      18  時計の針が午後3時を指すと同時に、東京湾をクルーズしていたイベント&セレモニー客船の船内を、凄《すさ》まじい閃光《せんこう》と強烈な爆風が貫いた。海面に巨大な火柱が上がり、全長38mの船は轟音《ごうおん》とともに真っ二つに割れ、引きずり込まれるかのように一瞬にして海中に消えた。  船は十数分前に桟橋を離れたばかりで、船内ではこれから都内の大学病院に医師として勤務する37歳の新郎と、大手広告代理店に勤務する28歳の新婦の結婚披露パーティが行われるはずだった。しかし、100人の招待客のグラスに乾杯のシャンパンがいきわたる前に船は消滅し、新郎新婦や招待客はもちろん、28人いたスタッフと乗組員のすべての命が消滅した。  船が消えたあとの海面には黒い油が渦を巻き、その波間をさまざまなものが漂っていた。『ホワイト・フラワー』と書かれた救命用の浮輪、無数の板、椅子やテーブル、ユリやバラやランなどの花びら、現金の包まれた祝儀袋、テーブルに置かれていたらしい名札、パンやクラッカーや果物、チューブに半分ほど残ったマヨネーズ、奇跡的に破壊をまぬがれた缶ビール、金色のラメに彩られたハイヒールパンプス、美しい包装紙に包まれたたくさんの小箱、白い毛皮でできた小さな化粧ポーチ、ルイ・ヴィトンの財布、ミルクの残った哺乳瓶《ほにゆうびん》、犬の顔の付いたステッキ、テディベアのヌイグルミ、新婦の被っていた白いレースのベール……そしてもはや、誰のものともわからぬ腕や足や胴体が、黒い油にまみれて漂っていた。      19  ラジオのアナウンサーが、たった今、東京湾をクルーズ中の客船で大きな爆発があったと告げた。  猿渡は低く呻《うめ》いて薄いカード型ラジオのスイッチを切り、イアフォンを耳から外した。  潮で曇りガラスのようになった窓の外には、早くも夕暮れの気配がうかがえた。隙間だらけの小屋のあちこちから冷たい風が吹き込み、猿渡の小さな体を凍えさせた。  猿渡はテーブルに置いた妻の遺影をじっと見つめた。  ……この国の人間はいったい、どうなっちまったんだ?  妻の遺影に語りかけるかのように呟《つぶや》いた。  時限爆弾の入ったアタッシェケースをバラ撒《ま》いた人間はもちろん許せなかった。だが、それと同じくらい、いや、それ以上に、それらの時限爆弾を使った人間を許せなかった。  ……いったい、この国の人間はどうなっちまったんだ?  妻の遺影に再びささやきかけた時、どこからか、『ならば、お前は非難できるのか?』という声が聞こえた。  猿渡は心のどこかが発したその声を黙殺しようとした。  だが、声は猿渡が無視することを許さなかった。  ——まさか忘れてしまったわけではないだろうな? あの島でお前が何をしたのか。お前が何を食べて生き延びたのか。それを忘れてしまったわけではないだろうな?  瞬間、猿渡の全身から力が消えた。思考が停止し、呼吸が止まった。血液さえもが流れを止めたように感じられた。  ——お前が何を食べて生き延びたのか?  猿渡はボートハウスの低い天井を見上げ、喘《あえ》ぐように息を吸った。脳の中心で痺《しび》れが発生し、それが徐々に頭全体に広がっていった。  ——お前が何を食べて生き延びたのか?  胃が硬直し、吐き気が食道を上ってきた。  記憶——心の奥に閉じ込めていた記憶が、まるで密林に潜んだ虎のように静かに、その凶暴な姿を現すのがわかった。猿渡は、その記憶を必死で封印しようとした。今までどおり檻《おり》の中に閉じ込め、上から黒いベールで覆ってしまおうとした。だが——もはやそれは不可能だった。目を覚ました記憶は低い唸《うな》りを上げ、血に染まった牙《きば》を剥《む》いて猿渡に襲いかかった。  ——お前が何を食べて生き延びたのか?  ついに胃が痙攣《けいれん》を始めた。猿渡は慌てて立ち上がり、再び砂に閉ざされ始めていたボートハウスの扉を力ずくで押し開いて外に出た。フラつく足取りで波打ち際までさまよい、そこに屈み込んで嘔吐《おうと》した。胃はいつまでも苦しげな痙攣を続け、黄色く苦い泡が湿った砂の上に流れ落ちた。  手の甲で口を拭《ぬぐ》って顔を上げると涙で水平線が滲《にじ》んでいた。打ち寄せる波が、砂浜に飛び散った嘔吐物を勢いよく流し去っていった。だが——あの忌まわしい記憶は流れてはいかなかった。  何度目かに打ち寄せた波が靴を濡《ぬ》らし、猿渡は我に返って立ち上がった。海に背中を向け、砂浜に残った自分の足跡を踏み締めてボートハウスに戻り、傾きかけた椅子にすがりつくように座った。テーブルに置いた妻の遺影を見つめ、顔を両手でゴシゴシと擦った。 「……そうなんだ……俺は……最低の人間だったんだ」  そして猿渡は、最愛の妻にさえ言ったことのなかったことを——この50数年、1度も思い出したことのなかったことを、いや、思い出すまいとしていたことを——思い出す覚悟を決めた。      20  冬の太陽は早くも西に大きく傾き、海からの生臭い風が吹いている。かつては競輪場の駐車場だった広大な敷地に、サーカスの巨大なテントが立てられている。女は6歳と4歳の孫を連れてそのテントに向かっている。もちろん女には固有の名前があり、固有の生活と固有の人生がある。だが今は、サーカスを見に来た数千人の観客のひとりにすぎない。  海に向かって広がる河口の脇に、尖《とが》った屋根をしたサーカスのテントが張られている。とてつもなく大きなテントは何百本という鉄柱で支えられ、黄色い星の入った赤いシートで覆われている。辺りは照明灯で真昼のように明るく照らされ、賑《にぎ》やかな音楽が大音量で流れ、空に張り巡らされたロープで無数の万国旗がはためいている。  テントの周りはものすごい混雑だ。大勢の警備員や係員が人々の荷物をチェックしている。子供を肩車して空中ブランコの話をしている若い父親がいる。ひとりを抱き、ひとりの手を引きながら、もうひとりの子供を叱り付けている母親がいる。自分と同じように孫を連れた老夫婦がいる。ぴったりと寄り添った若いカップルがいる。  ……ここは本当に安全なんだろうか?  辺りを見まわして女は思う。あんなことがあったというのに、みんなはどうしてこんなに普通でいられるのだろう?  サーカステントの周りには無数の屋台が立ち並び、いくつもの発電機のエンジンが響いている。人込みの中をライオンとパンダの着ぐるみが歩きまわっている。レオタードを着た小柄な女や、プードルを連れたピエロや、ぴったりとしたウェアに身を包んだ綱渡りの少女や、瘤《こぶ》のように盛り上がった筋肉をした大男や、裾《すそ》のヒラヒラとしたミニスカートの女たちが、人込みの中でパンフレットを売っている。オリンピックの体操選手のような体つきの男が、連続空中回転をしてみせている。 「いいかい。もしどこかではぐれたら、あの13番って書いたゲートの下にいるんだよ。わかったかい? 13番だよ」  ポップコーンを頬張りながら珍しそうに辺りを見まわしている孫に女が言う。 「わかってるよ、おばあちゃんはしつこいな。そんなに何回も言わなくても大丈夫だよ」  6歳のタクヤは最近とても生意気だ。だが、それさえもが女には可愛く感じられる。 「そんなこと言ってタクヤはいつも何もわかってないじゃないか。こんな人込みを捜しまわるのは、おばあちゃんは御免だからね」 「ねえ、おばあちゃん、ホットドッグ買ってよ」  女の手を握り締めた4歳のナオミが可愛らしい声で言う。 「はいはい、あとで買ってあげるからね」  ものすごい数の人に揉《も》まれながらやっとのことでテントの中に入り、警備員から荷物のチェックを受ける。隣で荷物のチェックを受けている子連れの女が年配の警備員に大声で怒鳴っている。 「さっき外に大きな荷物をもった男がウロついてたわよ」 「えっ、どこですか?」 「すぐそこよ。ちゃんと見て来てよ」 「……はあ」 「こんなにたくさんの子供が来てるのよっ。ちゃんと警備してよねっ」  小学校の体育館の何倍もあるテントの中は暑いほどだ。座席はすでに8割ほどが埋まり、子供たちの声が甲高く響いている。女はチケットに記入された番号を睨《にら》みつけ、係員に説明を求め、ようやく自分たちの席を見つけた。正面、3列目。ステージのすぐそばだ。 「すごい。こんなに近くだよ!」  タクヤが飛び上がって喜ぶ。ナオミもはしゃいでいる。それを見ると女も嬉《うれ》しくなる。  ステージでは猛獣使いや、ふたり組のピエロや、フラフープを抱えた女たちや、大きな熊を連れた男が観客から料金を取って交替でポラロイド写真を撮っている。熊は人気があり、そこには長い行列ができている。 「僕も熊と一緒に写真撮りたいな。おばあちゃん、いいでしょ? みんなに見せたいんだ。いいでしょ?」 「いいけど、終わったらちゃんとここに戻ってくるんだよ」 「わかってるよ。ナオミも行く?」 「あたしはいい。ねえ、おばあちゃん、ホットドッグが食べたいよ」 「なんだ、ナオミ、怖いんだろ? いいよ、ひとりで行ってくる」  タクヤはそう言うと祖母から紙幣を受け取り、熊と一緒に写真を撮るために長い行列の最後尾に並んだ。 「ねえ、おばあちゃん、ホットドッグ」 「わかった、わかった」  女は辺りを見まわし、ホットドッグを売る少年がいるのを見つけ、「ちょっと、おにいさん」と声をかけた。  大きなホットドッグに齧《かじ》りつく4歳の孫と、熊と写真を撮るために行列に並んだ6歳の孫を交互に眺めながら、62歳の女は穏やかな幸せに包まれていた。いろんなことがあった。辛いこともあったし、悲しいこともあった。人には言えないような恥ずかしいこともしてきた。だが、今となっては、すべてが夢の中のできごとのようだ。  ナオミがトマトケチャップで口の周りを赤く汚している。タクヤがステージの前からこちらにVサインを送っている。女は脱いだコートを畳んで膝《ひざ》に乗せる。 『まもなく開演のお時間となります』  場内アナウンスが告げた。客席はほぼ満席になっている。女は腕時計を見た。それは4時10分前を指していた。      21  早坂チエミはキャミソールにショーツという格好でコタツに足を突っ込み、リモコンでチャンネルを次々と替えながらテレビを見ている。  本厚木。鎌倉。東京湾。どのチャンネルも爆発現場からの映像や、怪我人が運び込まれた病院や、肉親や恋人や友人を失って泣き崩れる人々を映し出している。  ……いったいどんなやつがあれを仕掛けたんだろう?  自分と同じような人間が3人もいたことに驚きながらも、チエミは喜んでいる。誰かが幸福の循環から弾き出されて不幸になると、何だかとても嬉しくなる。  部屋の中は相変わらず散らかり放題に散らかっている。コタツの上には子供たちが食べ残したコンビニの弁当や、ビールやチューハイの空き缶や、ヨーグルトやプリンのカップなどがだらしなく散乱している。チエミの隣では龍太が汚れたコタツ布団に体を入れて眠り、その向こうでは早苗が広告の裏にクレヨンで絵を描いている。その絵は、棒の上を女の子が歩いているようにも見える。 「早苗、それはなあに?」  珍しく、優しい母親のような口調でチエミはきいた。 「……サーカスの綱渡り」 「早苗、サーカスに行きたかったの?」  また怒られるのではないかと少し身を引きながら、早苗は小さく頷《うなず》いた。「ナオミちゃんが、きょうおばあちゃんにサーカスに連れてってもらうって言ってた」 「平塚のサーカス?」 「うん」 「だったら行かなくてよかったよ」  テレビには鎌倉のマンションが映っている。高層マンションの上の部分が吹き飛ばされて消滅し、残った部分から黒い煙が噴き出している。死傷者数はいまだに不明だが、10人や20人ではきかないようだ。  ……これまでにいったい何人が幸せの循環から弾き出されたんだろう? これからさらに何人が弾き出されるんだろう?  チエミは胸をときめかせて手を握り締めた。  2週間ほど前に居酒屋で知り合った警備会社に勤める男が、平塚のサーカスの警備をすると言っていた。それできのうの朝、チエミは男に電話してサーカスのテントを見せてほしいと頼んでみた。男は喜んで了承した。サーカスは昨夜が初日だったが、その前にチエミはテントの中を見せてもらった。顔写真入りのIDカードと警備主任のバッジをしたその男が一緒だったので、誰にも怪しまれずにテントに入ることができた。男はチエミの持ったショッピングバッグを見たはずなのに怪しみもせず、「案内できなくて、ごめん。あとで控室に寄ってよ」と言い残してバイトたちに指示するために持ち場に戻って行った。チエミはひとりで巨大なテントの中を自由にウロついたあげく、鉄骨と板とビニールシートで作られたステージの下に潜り込み、そこにショッピングバッグを置いた。帰りにまた男に会ったが、男はチエミのショッピングバッグがなくなっていることに気づきもせず、「明日の晩、仕事のあとで会えないか?」ときいた。チエミは男にウインクし、「朝までずっと、くわえてあげる」と耳元で囁《ささや》いた。男は好色な目つきでチエミの体を眺めまわしたが、もちろんチエミはもうその男と寝る気はなかった。そんなことは不可能なのだ。男は明日の午後4時に死んでしまうのだから。 「サーカスになんて行かなくてよかったよ」  チエミは呟《つぶや》くように繰り返した。 「どうして?」  早苗が不思議そうにきいた。 「今にわかるよ」  チエミはテレビの上の時計をチラリと見た。時刻が3‥59から4‥00に変わった。今、幸せの循環が破滅する。そう思った。      22 「あんたはどうしてそうノロマなの? どうしてそんなにグズなの?」  会ってからずっと妻は彼をなじり続けている。いや、1年半前に離婚したから、もう彼の妻ではない。今は彼よりいくらかは経済力のある新しい夫と暮らしている。 「あんたって、ホントにいつもそうなのよ。計画性がなくて、行き当たりばったりで、いつだって大事なものに間に合わないのよ」  母親に引き取られて新しい父親と暮らす5歳と6歳の息子たちは、「間に合うかな?」「もう始まっちゃったかな?」と心配そうに窓の外を見ている。今では姓は変わってしまったが、それでもこの子たちは今も彼の息子だ。その証拠にクリスマス・イヴのきょう、父親とサーカスに行くために平塚までやって来てくれた。息子たちは新しい父親とではなく、彼とサーカスに行きたがったのだ。電話でそれを聞いて、彼は思わず涙ぐんだ。  バスは河川敷きのサーカス会場に向かっている。ほかにも何人かの家族連れが乗っている。誰もが楽しげで、ヒステリックな彼の元妻の声に迷惑そうだ。何人かは興味津々でこちらをうかがっている。  息子たちとの待ち合わせに彼は1時間も遅れてしまった。こんな日に限って腕時計が故障していたのだ。まったくツイてない。……だけど妻だった女の言うとおり、そのことが彼のすべてを象徴しているようにも思える。  彼の35年の人生は散々だった。勉強も、仕事も、投資も、女も、賭《か》け事も……何もかもが最低だった。うまくいくことなど、何ひとつなかった。何をしても、全部が悪いほうへ悪いほうへと転がっていった。特に経済的なことは無茶苦茶で、今では月に2万円の家賃の支払いにも困るほどだった。 「……もう慰謝料は諦《あきら》めるけど、子供たちの養育費だけはちゃんと払ってね。ツトムも来年は小学校なんだからね。年明けからはホントに払ってね……」  妻だった女はまだくどくどと言っている。約束の慰謝料はまだ1円も払っていない。子供たちの養育費も8カ月も滞納している。 「あんたがどこで何しようと勝手だけど、お願いだからあたしたちが幸せになる邪魔だけはしないでねっ!」  ……いいことなんて、ひとつもねえや。  窓の外を眺めながら彼は思った。サーカスが終わったら子供たちとどこかで食事をしたかったが、その金さえも今の彼にはなかった。どうしてこんなふうになってしまったのかは全然わからない。とにかく惨めで、情けなくて、バスの床にしゃがみ込んで泣きたい気分だった。  バスが停車した。バスから降りた人々がサーカスの巨大なテントに向かっていっせいに走り出す。バスの後方に乗っていた彼らはいちばん最後になってしまった。そのことで妻だった女はまた彼に文句を言っている。  彼ら家族がようやくバスを降り、サーカスのテントに向かって歩き出そうとした、その時だった。  三角形のテントが風船のように丸く膨らんだ。  それは不思議な光景だった。一瞬、それもサーカスでの出し物のひとつなのかと思った。  いっぱいに膨らんだテントは次の瞬間、風船が割れるように弾け飛び、目が眩《くら》むほどの光と、鼓膜が破れるかと思うほどの轟音《ごうおん》が彼らに襲い掛かった。嵐のような爆風と一緒にさまざまなものが——パイプ椅子や音響装置の破片やベニヤ板や鉄筋や、フラフープや大きなゴムボールや太鼓やトランペットや、血まみれになった人間や動物が——まるで津波のように押し寄せた。バスから降りてテントに向かっていた人々が爆風になぎ倒され、ピンポンボールのように吹き飛ばされていった。  そしてその時——彼は見た。生と死を分ける一本の線が、自分の足元に引かれているのを見た。ほんの一瞬だったが、確かに見た。彼ら家族は生の側に立っており、そのほかの人々は死の側にいた。  それは彼の人生における最大の幸運だった。今までのすべての不運と不幸を、全部帳消しにしてなお余るほどの巨大な幸運だった。      23  瓦《かわら》の乗った大きな木造の門のところでインターフォンを押す。振り向くと、30mほど後ろに刑事らしき男が精一杯の何げなさを装って煙草を吸っているのが見える。 「はい、どちら様でしょう?」  いつもの家政婦ではない歯切れのいい男の声が答えた。 「あれっ、サトルなの? 朝香です。ヨーコです」 「ああ、ヨーコ先生……お待ちしてました。きょうは母もいないし、家政婦たちも誰もいないんですよ……すみませんが門は開いてますから、そのまま入って来てください」  葉子は言われるがままに分厚い木製の門扉を開き、さらにその数m先にある華奢《きやしや》な格子戸を開いた。門の内側の公園のような広い空間には、齢を重ねた古い樹木が鬱蒼《うつそう》と生い茂り、そのあいだに御影石を敷いた小道が続いていた。白い小道は池にぶつかってふたつに別れ、一方は4人家族が楽に暮らせるほど大きなガレージに、そしてもう一方は母屋の巨大な玄関に向かっていた。落ち葉の浮いた池の底に丸々と太った錦鯉が何匹も身を寄せあっているのが見えた。  玄関の呼び鈴を押す。しばらく待つと、曇りガラスになった引き戸の向こうに人影が現れた。 「やあ、ヨーコ先生、いらっしゃい」 「こんにちは」  葉子は、玄関の引き戸を開けた和智サトルを見上げていつものように微笑んだ。  ——その時だった。  目の前に立った和智サトルが自分に微笑み返したその瞬間、まるで喉《のど》から突き刺された槍《やり》が胃や腸を貫いて性器から突き抜けたかのような肉体的な感触とともに、全身を冷たい戦慄《せんりつ》が走り抜けた。  それはたぶん、カワセミにくわえられた瞬間に魚が感じるような、生命の危機に関する圧倒的な戦慄だった。  体が先に理解した。そして数秒後に、ようやく頭が理解した。ふとしたはずみで推理小説の犯人がわかった時のように、葉子はすべてのことがらを、その瞬間、完全に理解した。  和智サトルの周りにはいつも、ある香りが漂っていた。それが何の香りなのかはわからなかったが、自分が平塚市の総合運動公園で男から電話を受けたあの時——何かの装置で変換された男の声を聞いたあの時——自分の脳裏を横切った≪何か≫が、この香りだったのだということを葉子は理解した。  そうだ。間違いない。あの恐ろしいアタッシェケースをバラ撒《ま》いたのは、この男だったのだ。この明るく陽気で礼儀正しく、ちょっと世間知らずにさえ見える40歳の男が、あの恐ろしいアタッシェケースを自分に贈り、いたるところにバラ撒いたのだ。  ……でも、なぜ? いったい、なぜ? 「どうかしました?」 「いいえ……何でもないの」  葉子は男を見上げ、反射的に微笑んだ。全身のすべての筋肉が今すぐに踵《きびす》を返して走り出そうとしているのがわかった。今すぐ男に背を向け、この家から逃げ出そうとしているのがわかった。  だが葉子はそうしなかった。  この男は自分を生け贄《にえ》として欲しがっている。自分が生け贄にならなければ、この物語は終わらない。ほんの数秒のあいだに、葉子はそれを悟った。 「きょうはいつもの応接室じゃなく、ボクの部屋で授業をしてもらえませんか? 実はね、ヨーコ先生に見てもらいたいものがあるんですよ」  男がいつもの軽やかな口調で言い、葉子は無言で頷《うなず》いた。胃の中の冷たい塊が、ゆっくりと喉までせり上がってくるのがわかった。      24  もう訪れることがないと思った朝が来た。  猿渡の脇には、命をなくした兵士が横たわっていた。  男は死の間際に、低い呻《うめ》き声をたてた。まどろみかけていた猿渡は慌てて懐中電灯で男の顔を照らした。男はすでに死んでいた。  特別な思いはなかった。ただ、死んだな、と思っただけだった。  岩の割れ目から這《は》い出すと、猿渡は辺りを見まわした。瞬間、射すような便意が下腹部を襲った。猿渡は苔《こけ》に覆われた樹の幹にすがりつくようにしゃがんで、水のような大便をした。  用を済ませると猿渡は倒木の湿った幹に腰を下ろした。鬱蒼と頭上を覆った樹木からの木漏れ日が、煙った空気の中に差し込んでいた。猿渡はポケットを探った。そこには死んだ男の遺書があった。  ……せめて火葬してやろう。  よろめきながら岩の割れ目に戻ると、猿渡は男の死体をそこから引きずり出そうとした。男の体には無数の蠅がたかり、うるさいほどに羽音を響かせていた。猿渡が死体の足を掴《つか》むと、それがいっせいに舞い上がった。  しかし、たやすく思えたその行為は実は大変な重労働だった。猿渡の体はそれほどまでに弱っていた。力を入れるたびに水のような下痢便が肛門《こうもん》から漏れた。  何度も休みながら死体をようやく引っ張り出すと、それをズルズルと引きずって灌木《かんぼく》のない窪地《くぼち》のような場所へと運んだ。また長い時間を費やして枯れ木や落ち葉をかき集めて積み上げ、密封した缶の中に大切にしまっておいたマッチで火を点けた。枯れ木や落ち葉は湿っていてなかなか燃え上がらなかったけれど、猿渡はその行為に熱中した。  不思議なことに悲愴《ひそう》感も絶望感もなかった。それどころか奇妙な解放感に包まれ、何だか遊んでいるかのような気分だった。  湿った落ち葉から煙が立ちのぼり、チロチロと火が燃えだし、やがて積み重ねた枯れ木に燃え移って大きな焚《た》き火ができた。猿渡はシラミを殺すために上着を脱ぎ、海苔《のり》を焼くようにまんべんなく火にあぶった。この火を見つけた敵兵が現れ、自分を撃ち殺せばいいと思った。  だが敵は現れなかった。猿渡は渾身《こんしん》の力を込めて死んだ兵士を抱き上げ、燃え上がる火の上に乗せた。瞬時に死体の頭髪がチリチリになって燃え上がり、蛋白質《たんぱくしつ》の焼ける臭いが辺りに充満した。皮膚が縮れてひきつり、熱湯につけたトマトのように顔の皮がベロリと剥《は》がれるのが見えた。死体の鼻からは小さな甲虫が這い出してきた。  その死体と自分とのあいだに、たいした違いがあるようには思えなかった。死は今、猿渡のすぐ背後に立って彼の肩をがっちりと掴んでいた。止まらない下痢便と一緒に、生命が流れ出て行くのが猿渡にははっきりと感じられた。  目を閉じると肉の焼ける匂いがした。染み出た肉汁が火の中に滴る音がした。  その時だった。その時、突然、猿渡の体のどこかが悲鳴を上げた。 『嫌だっ! 死にたくない!』  悲鳴——そう。それは悲鳴だった。猿渡の遺伝子が上げた悲鳴だった。  猿渡に死ぬ覚悟はできていた。だが、遺伝子はそうではなかった。  遺伝子は生きようとしていた。生き続け、自らの遺伝情報を次の世代へと伝達しようとしていた。 『死ぬなっ! 生きろっ!』  遺伝子の指令はすべてに優先した。瞬間、人間としての猿渡は消滅し、代わりに野生の獣が——とてもシンプルで敏感で、恐怖や欲望に忠実な野生の獣が猿渡を支配した。  猿渡は弾かれたように立ち上がった。血走った目を見開き、銃剣の先で死体の腿《もも》の辺りを突き刺し、その一部を毟《むし》り取った。そして——血の滴る肉の塊を口に入れた。数十時間ぶりに取り込まれた栄養素に、遺伝子は歓喜した。  食べるということへの猛烈で、原始的で、根源的な欲望——それが、そのほかのすべての欲望に打ち勝った。脳は考えることを停止し、目は開いているだけで何も見てはいなかった。何の音も聞こえなかったし、匂いもしなかった。味覚さえも麻痺《まひ》していた。  50数年前、あの熱帯のジャングルで——猿渡は死んだ兵士の肉を食った。兵士の肉を夢中で咀嚼《そしやく》し、夢中で飲み下した。それを繰り返した……。  明かりのないボートハウスを夕闇が支配し始めていた。  猿渡はテーブルの上の妻の遺影を見つめた。 「信子……驚いただろ?……俺は人を食ったことがあるんだよ……」  猿渡の足元では今夜11時に爆発する金属製のアタッシェケースが、白く細かい砂に埋もれ始めていた。  その時—— 『こっちにいらっしゃい』  という、妻の声が聞こえたような気がした。  猿渡はその言葉にすがりつくように頷いた。      25 「散らかってますが、どうぞ、お入りください」  サトルが扉を開いた。瞬間、葉子の下半身がすくんだ。  そこは畳に換算すれば40畳はあろうかというほどの板張りの部屋だった。その広い部屋の壁を埋め尽くすかのように、大小さまざまな葉子の写真が貼られていた。部屋の隅には等身大のマネキン人形が7、8体たたずんでいて、それぞれが葉子の見覚えのあるランニングウェアやトレーニングウェアを着ていた。 「どうです? 驚いたでしょ?」  耳元でサトルの嬉《うれ》しそうな声がした。「さあ、入ってください」  男の手が背に触れ、全身が恐怖と嫌悪に震えた。葉子は押し出されるように部屋に足を踏み入れた。そこには、あの香りが充満していた。  葉子は口を開くことができなかった。ただ、込み上げる吐き気を抑えながら、壁に貼られた写真の数々を見つめるだけだった。いくつかの写真には見覚えがあった。たぶん新聞社や雑誌社のカメラマンが撮影したものだろう。だが、写真の多くは初めて見るものだった。そこには平塚の海岸線を走っている自分の姿もあったし、家の近くの住宅街を走っている姿もあった。 「そんなところに立ってないで、そこのソファに座ってください」  男が言い、葉子はよろめくようにしてそれに従った。葉子が腰を下ろしたソファの正面には映画のスクリーンのような超大型モニターがあり、そこに川を背景にした広大な空き地が映っていた。 「音は消してありますけど、それはテレビの映像なんですよ」  葉子の向かいに座った男が穏やかな口調で言った。「あれは平塚の河川敷きです。ヨーコ先生のご自宅のすぐ近くですよ……ついさっきまで、あそこにサーカスのテントが張られてたんです」  男に言われるまでもなかった。毎朝のランニングの時、相模川の河川敷きにサーカスの巨大なテントが見えたのを葉子は覚えていた。  そうなのだ。ほんの少し前まで、そこにはあの巨大なサーカステントがあったのだ。賑《にぎ》やかな音楽が流れ、父母や祖父母に連れられた子供たちの歓声が響いていたのだ。だとしたら——その子供たちはどこに行ってしまったのだ? 子供たちの母親や父親や、祖母や祖父はどこに行ってしまったのだ?  葉子は無言のままスクリーンを見つめた。もちろん、今も怖くはあった。だがその恐怖をかき消すほどの怒りが、下腹部で急激に膨れ上がっていった。  テレビカメラはサーカスのテント跡をさまよい、実にさまざまなものを映し出した。パイプ椅子やベニヤ板やビニールシートの切れ端。ロープや楽器やピエロの衣装。そして——丸太のように転がった無数の死体……。  爆発の凄《すさ》まじさと、その後に起きた火災の激しさを物語るかのように、死体のいくつかは無残に引き裂かれ、焼け焦げて真っ黒になっている。顔の形すらわからないものがほとんどだ。だがそれでも、大きさと体つき、わずかに残った衣類などから、それが大人のものなのか子供のものなのか、男なのか女なのかはわかる。  体のねじれた幼い女の子、首から上を失った男の子、下半身に血まみれのスカートをまとった女、半ズボンの男の子、白いセーターの腹部を血に染めた男、顔を血だらけにして横たわる男の子、ベビー服の赤ん坊、細い体を地に投げ出して横たわる女、赤いワンピースの女の子、同じワンピースのもう少し小さな女の子、不自然に体を折り曲げた男の子……。目を開けたままの死体がある。体からまだ煙を立ち上らせている死体もあるし、バラバラの肉の塊になってしまった死体もある。 「すごいですね……まさに戦場だ」  ささやくような声で男が言った。「だけど少なくとも、次の午後5時の爆発はありません。7時の爆発もありません……ヨーコ先生のおかげですよ。先生の正義感がふたつの爆発を阻止したんです」 「サトル。あんた……いったい、どういうつもりなの?……いったい、どんな理由があって……」  爆発しそうな怒りを抑えるために、葉子は拳《こぶし》をぎゅっと握り締めた。自分が今すぐにでも男に襲い掛かり、その青白い頬を殴りつけようとしているのがわかった。 「言いなさい……こんなことをした理由を言いなさい」  声が震えていた。だがそれは恐怖のためではなかった。凄まじい怒りが、今では恐怖を完全に打ち負かしていた。 「理由ですか?」  男は向かいに座った女の顔は見ず、テーブルの上の葉巻に手を伸ばした。ライターで火を点け、何度かふかす。独特の香りが立ちのぼり、周囲の空間を支配した。 「理由は……ただの暇つぶしですよ」  呟《つぶや》くように男が言った。 「暇つぶし?」  あまりの怒りに再び声が震えた。そんな自分の声を聞くのは初めてだった。 「金と時間を持て余した人間は、強烈な刺激を求めるものなんですよ」  葉子は口をつぐみ、込み上げる怒りに全身を震わせながらも、何とか感情をコントロールしようとした。唇を噛《か》み締め、意識して深い呼吸を繰り返した。ここで理性を失ってしまうのは得策ではなかった。  男は言葉を続けた。 「ボクは見てみたかった。それだけです……平和を謳歌《おうか》しているように見えるこの国の小市民が、彼らに不相応な力を手に入れてしまった時、それをどうするのか……いったい彼らがどんな反応をするのか……ボクはただ、それを試してみたかっただけです」  乱れそうになる呼吸を整えながら、葉子は目の前にいる男を見つめた。 「いやあ、しかし、驚きました。この国の人間がこれほどまでに病んでいるとは」  男はそう言って、少し笑った。「ボクは何も反社会的な考えを持った人間を選んであれを配ったわけじゃない。ヨーコ先生のように何人かの例外はありますが、ボクはあのアタッシェケースをボクの人生のどこかで、ほんの一瞬すれ違っただけの人々に、できるだけ無差別に配ったつもりなんです。それなのに……」 「……そんな権利が……罪のない人を殺す権利が、あんたにあるとでも思ってるの?」  葉子は吐き捨てるように、ようやくそれだけ言った。  サトルは葉子に顔を向けた。怒りと憎しみに歪《ゆが》んだ女の顔を見つめ、「言い掛かりはやめてください……殺したのは、ボクではありませんよ」と静かに言った。 「殺したのは、ボクじゃない。ボクはただサンタクロースのように、クリスマス・プレゼントを配っただけです……殺したのは、ボクではない。実際にあのアタッシェケースで人を殺したのは、この国で同じように暮らす同じような人間なんです。自分の内部で反乱を起こした癌細胞に人が殺されるように、この国に生まれ育った悪意が、この国に生まれ育った人間を殺したんです」  葉子は口をつぐんだ。部屋の中はとても静かだった。 「わたしに……何をして欲しいの?」  十数秒の沈黙のあとに葉子がきいた。堅く強ばった口調だった。  言いたいことは山ほどあった。だが、午後6時になれば、またどこかで次のアタッシェケースが爆発するはずだった。狂気に侵された男と不毛な議論をしている暇などなかった。 「あんたはわたしを生け贄《にえ》として欲しがってるんでしょ?……だったら、わたしがどうすれば、これをやめさせることができるの?」 「生け贄?」  まるで恋人にささやくように、男が言った。「そうですね……まったく、その通りです。 ボクは先生を生け贄として欲しがってる……」 「あんたは残りのアタッシェケースを誰が持っているか知ってるんでしょ? わたしがどうすれば、それを教えてくれるの?」  今度は男が沈黙した。天井に向かって煙を吐き出し、宙の一点を睨《にら》みつけた。 「いいでしょう。もうボクは充分に楽しみましたから……どんな映画を見るより、ずっとずっと楽しみましたから……先生しだいでは、もうやめにしてもいい……」  男は何かを思い巡らすかのように広い部屋をグルリと見まわした。それから葉子の顔に視線を戻し、挑発するかのように笑った。 「先生、男性器を口に含んだことがありますか?」  一瞬、何を言われているかがわからず、葉子は男の顔を見つめ返した。 「フェラチオをしたことがあるか……と、きいているんですよ」  男が繰り返し、葉子は顔を強ばらせて、「ないよ」と短く答えた。嘘ではなかった。 「そうですか?……それじゃ、もし今ここで、ボクがそれをしろと命令したら、ヨーコ先生はしてくれますか?」  葉子の顔色をうかがいながら、男は楽しそうに言葉を繋《つな》いだ。「ボクの足元に犬のように這《は》いつくばり、ボクの股間《こかん》に顔を伏せ、膨張した男性器を口に含んでくれますか?」  葉子は男を見つめ返した。 「ボクの性器を口に含んだまま、コップの水を飲む鳥の置物みたいに何十分ものあいだ顔を上下に動かしてくれますか? ボクが先生の口の中に放出した液体を、喉《のど》を鳴らしておいしそうに飲んでくれますか?」  葉子はフーっと長く息を吐いた。  彼女は強かった。そして何がいちばん大切なことなのかを知っていた。葉子は言った。 「もし、残りのアタッシェケースをどこの誰に贈ったのかを教えてくれるなら……もし、サトルがその条件を飲むなら……絶対にその約束を守るなら……してもいいよ」 「ボクはフェラチオしている先生の髪を抜けるほど強く掴《つか》みますよ。先生が嘔吐《おうと》するほど乱暴に、喉の奥を突きますよ……それでもいいんですね?」  男が言い、葉子は顔を強ばらせたまま無言で頷《うなず》いた。 「そうですか? それは嬉《うれ》しいな」  男は本当に嬉しそうに笑った。その無邪気な笑顔は葉子がよく知っている和智サトルのものだった。 「それじゃあ、始めよう。時間がないんだから……」  葉子は男の笑顔を見つめたまま、羽織っていたダウンジャケットを脱いで脇に置いた。自分の頬がヒクヒクと痙攣《けいれん》するのがわかった。 「……さあ、出しなよ。くわえてあげるよ」  そう言って、乾ききった唇を舌の先で少しだけ嘗《な》めた。 「待ってください……せっかちなのはヨーコ先生の数少ない欠点のひとつですよ」  男がまた笑った。 「ボクをその程度の男だと思ってたんですか? 残念だなあ……フェラチオの話は冗談です。ボクがヨーコ先生にしてもらいたいのは、そんなどこの女にでもできるような、簡単でつまらないことじゃないんですよ……ボクはね、先生の走っている姿を見たいんです」 「わたしの走る姿?」 「そうです。先生が勝ったあの嵐のオリンピック選考会みたいに、ボクは先生が苦しみに耐え、その美しい顔を苦痛に歪め、歯を食いしばって走っているのを見たいんです」  葉子は答えなかった。ただ狂気に侵された男の顔を見つめるだけだった。 「たとえば……こういう条件はどうでしょう? ほら、あそこにランニングマシンがありますよね?」  男が指さした部屋の中央には、スポーツクラブに置いてあるようなベルトコンベア式の本格的なランニングマシンがあった。 「今からあれに乗ってヨーコ先生に時速15�で走ってもらいます。先生がランニングマシンの上で1時間走り続けて5時半になったら、6時に爆発するアタッシェケースを誰が持っているのかをお教えしましょう。さらにそのまま2時間走り続けてもらって、7時半になったら、今度は8時のアタッシェケースを持っている人間をお教えします。きのうあれだけ走ったあとでお疲れだとは思いますが、風もないし、平らだから、45�を3時間で走るのはそんなに難しいことじゃないでしょ?……どうです?」  葉子は男を見つめたまま小さく頷いた。 「9時と10時には爆発はありませんから、7時半まで走ったら先生に2時間の休憩をプレゼントします。そして9時半になったら、またランニングマシンに乗って走り始めてもらって、10時半に11時に爆発するアタッシェケースを持っている人間を、そして11時半には最後の、午前0時に爆発するアタッシェケースのありかをお教えしましょう。どうです?……合計5時間のランニングで75�……ヨーコ先生になら可能でしょ? それとも、きつ過ぎますか?」 「わからないけど……それ以外に選択肢がないなら、やるしかないじゃないか?」  1日に75�を走ったことは現役時代でさえなかった。だが葉子はやるつもりだった。 「さすがヨーコ先生です。あのランニングマシンを買ったかいがありました……うまくいけば先生の力で、今後に起きるすべての爆発を阻止できるかもしれませんよ」 「わかった……だけどその前に母に電話させて。わたしの帰りを待ってると思うの」  葉子はそう言ってジーパンのポケットから携帯電話を取り出した。それを見て男が、微笑むように優しく笑った。本当に優しい笑顔だった。 「どうせその電話は警察が聞いていて、何か特別な暗号があるんでしょ?」  葉巻を灰皿の底に擦り付けて消しながら男は微笑み続けた。「そうなんでしょ?……いいですよ……先生がその暗号を使って警察をここに踏み込ませるのはかまいません。けれど、ボクは殺されても何も喋《しやべ》らないから、今夜中に残りのアタッシェケースはすべて爆発することになります」  男の言うとおりだった。いざという時のために、警察と葉子とのあいだには秘密の暗号がいくつか用意されていた。たとえば犯人が何らかの形で葉子に接触してきた時には≪洗濯物を取り込むのを忘れた≫。たとえばすぐ近くに犯人がいる場合は≪新しい靴を出しておいて≫。あるいは警察に保護してもらいたい時には≪あしたの朝はコーンスープが飲みたい≫……。  葉子は自宅の短縮番号をプッシュした。直後に呼び出し音が鳴り始めた。 『はい、朝香です』  電話の向こうで母が言った。 「お母さん? わたしよ」  つとめて平静な声で葉子は言った。「今、和智さんの家にいるんだけど、今夜は少し遅くなるわ。ごめんね。先に寝てて……それから……」 『それから……』 「……ううん。何でもないの」  ……あしたの朝は久しぶりにコーンスープが飲みたいな。  喉まで出かかったその言葉を、葉子は息を止めて飲み込んだ。  ……そうそう。急いでたんで、洗濯物を取り込むのを忘れちゃったの。悪いんだけど、お母さん、取り込んでおいてくれない?……下駄箱に買ったばかりの新しい靴があるの。あしたの朝、履くから、出しておいてもらえる?……。  警察との暗号であるそれらの言葉を、どれほど口にしたかったかわからない。その言葉を口にさえすれば、今すぐにでも、外で待機しているはずの警察官たちがここに踏み込んで来るはずだった。それらの言葉さえ言ってしまいさえすれば、葉子は救い出され、男は逮捕されるはずだった。けれど…………葉子はそれらの暗号を口にしなかった。  もし葉子の通報によって逮捕されたとしても、男は何も言わないだろう。たとえ死ぬほど拷問されても口を割ることはないだろう。だとしたら男の言うとおり、そんなことをしても、残りのアタッシェケースが爆発するのを阻止することはできない。 『それじゃあ、ゆっくりしておいで。何か変わったことはないかい?』 「うん。何もないよ。心配しないで……あしたは一緒にクリスマスのお祝いをしようね」 『そうだね。実は吉田さんにシャンパンを頼んであるんだよ』  吉田さん、というのは近くの酒屋のことだった。 「ホント。嬉しいな……それじゃ、暖かくして先に寝ててね」 『お前こそ、気を付けて帰って来るんだよ』 「わかった……それから、お母さん……」 『……何だい?』 「あの……おやすみなさい」  外界との連絡の道は閉ざされた。  葉子が電話を終えたのを見て、男が古ぼけたランニングシューズを差し出した。もちろん葉子は、その靴を覚えていた。 「懐かしいでしょ? あのオリンピック選考会で先生が履いていた靴です。マニアが持っていたのを、やっとのことで手に入れたんです」  別に懐かしいとは思わなかった。それは何十足とあったランニングシューズのひとつに過ぎなかった。葉子は男から手渡された靴に無言で足を入れ、体を屈めてその紐《ひも》をしっかりと締めた。ぴったりとしたセーターを脱いでダウンジャケットの上に置き、立ち上がって何度か屈伸運動を繰り返し、それから……ゆっくりとランニングマシンに歩み寄った。男はすでにランニングマシンの傍らに立ち、あちこちのスイッチを操作していた。 「ちょっと待って。ハサミかカッターを貸して」  男は無言で頷くと部屋の隅の机の引き出しを開き、そこからラシャ切りバサミを取り出し、微笑みながら葉子に手渡した。  葉子は受け取った洋裁用のハサミを握り締め、その先端を男に向けた。今、これでこいつの胸を刺すことができればどんなにすっきりするだろう、と思った。だがもちろん、そんなことはしなかった。  葉子はハサミを自分の白い長袖《ながそで》のTシャツの肩に宛てがい、袖の部分をえぐるように切り取ってランニングシャツのようにした。反対側の袖も同じようにしたあとで、今度はジーパンの裾《すそ》からハサミを入れて腿《もも》の付け根のところでグルリと切り取り、もう片方も同じようにしてショートパンツのように変えた。さらにTシャツの裾も肋骨《ろつこつ》のいちばん下の辺りで切断して短くした。男はそんな葉子の様子を目を丸くして見つめていた。 「さて……ちょうど4時半です。それじゃ始めましょう」  男が腕時計を見て言い、葉子は無言のままランニングマシンのベルトの上に立った。直後にベルトがゆっくり後方に流れ始めた。      26  自宅から2�ばかり離れた商店街にある蕎麦《そば》屋の片隅で、田島聖一は小さなテレビを見上げていた。ほかに客の姿はなく、初老の店主とその妻らしい割烹着《かつぽうぎ》姿の女が空いた席に座って所在なげにテレビを見ていた。  田島の目の前には、グラスに入ったビールとエビ天の乗った天重が置いてあった。それが最後の晩餐《ばんさん》のつもりだった。だが田島は、それらにはほとんど手をつけていなかった。  すでに午後5時を10分ばかり回っている。テレビには正午から次々と起きた爆発の現場からの映像が流されている。 『……サーカスのテントがなぜ爆発したのかはまだ不明ですが、警察はアタッシェケースに入れられた時限爆弾によるものとほぼ断定し、現場検証にあたっています。それでは再び平塚の爆発現場からの中継です……』  テーブルの下で田島は両手を握り締めた。足元には古ぼけたボストンバッグがあり、さらにその中では高性能の時限爆弾が午後8時の爆発に向けて時を刻み続けていた。  田島はボストンバッグを持って立ち上がった。ぎごちなくレジまで歩き、「ごちそうさま」と言った。  テレビを見上げていた初老の店主が慌ててやって来て、ほとんど手のつけられていない天重に目をやり、「お口に合いませんでしたか?」ときいた。 「いえ……ちょっと心配なことがあって……」  田島が答えると店主はまたテレビに目をやり、「あのことですか?」と言った。 「ええ……まあ……」  田島は口ごもった。 「怖いですね……次の爆発は6時だっていうじゃないですか? 今度はいったい、どこで爆発するんでしょうね」  代金を支払うと田島は蕎麦屋を出た。クリスマス・イヴだというのに街は静まり返っていた。商店街のあちこちにけばけばしく飾りつけられた電球が、蛍のような点滅を繰り返していた。  重いボストンバッグを下げて、田島は冷たい風の中を歩き始めた。自分が家族を殺してしまうのではないかという考えに脅え、家族の命を守るために、意識して自宅とは反対の方向に歩いた。  このボストンバッグを抱き締めて、彼は死ぬつもりだった。できることなら誰も巻き添えにせず、ひっそりと、ひとりきりで死にたかった。何ひとつ思いどおりにはならなかったが、もう充分だった。 「俺はいったい……何のために生まれてきたんだ」  もう答えを探す時間はなさそうだった。      27  時速15�で流れ続けるベルトの上を、葉子は快調に走り続けていた。首筋にはうっすらと汗が滲《にじ》み始めていたが、息はまったく乱れていなかった。 「今、10�を過ぎました」  葉子のすぐ脇で相変わらず優しく微笑みながら、男が楽しそうに言った。「あと5�走ったら、約束どおり、6時に爆発するアタッシェケースを持っているはずの人間をお教えしましょう」  男は葉子の全身を凝視していた。伸び縮みする太腿の筋肉繊維の1本1本を、引き締まって筋肉の浮き出た腹部を、汗を光らせる二の腕を、規則正しく息を吐き出す口元を、頭上で上下に揺れる短い髪を、まるで網膜に焼き付けようとでもいうかのようにじっと見つめていた。 「さすがですね。この調子ならひょっとすると、75�を無事に走り切り、残りのすべてのアタッシェケースの爆発を阻止できるかもしれませんね」  ランニングマシンで走るのは初めてだったが、男の言ったように平坦《へいたん》で風もないので、思っていたよりはずっと楽だった。規則正しく脚を動かし続けながら、葉子には部屋の中をじっくりと観察する余裕さえあった。  言うまでもなく、その部屋は、その所有者の異常さを如実に表していた。そこにあるほとんどすべてのものが、たったひとりの女への凄《すさ》まじい執着を示していた。試しに葉子は壁に貼られている自分の写真の数を数えてみようとした。だが200枚まで数えたところでやめてしまった。 「ねえ、サトル、いったいあんたは、いつからわたしを見ていたの? いつからわたしにつきまとっていたの?」  葉子の声は安静にしている時とほとんど変わらなかった。 「ずっと昔からですよ」  男は高い天井の片隅に目をやった。 「ずっと昔?」 「ええ、ずっとずっと昔……冷たい雨と風が吹き荒れた冬のある日……高校女子駅伝の湘南地区の予選会がこのすぐ近くであったんです」  走り続ける葉子のほうは見ず、壁の一点を見つめて男は言った。 「あの日……ボクはたまたま道路に面した喫茶店のソファでコーヒーを飲んでいたんですが、ボクの見ているまさにその目の前で、地元の県立高校のユニフォームを着た女の子が前を走る女の子を抜こうとしていました……あの日は本当に寒くって、女の子たちはふたりともびしょ濡《ぬ》れでした……前を行く女の子の目は虚ろで、水浸しの道路をさまよっているように見えました。それが当たり前ですよ。あんな冷たい雨の中を、あんな格好で走ってきたんですから……けれど、追いかけている女の子のほうはそうではありませんでした。その子はまるで獲物を追うヒョウのように、前を行く子の背中を睨《にら》みつけていました。とてつもない強さを秘めた目で、前を走る子の背中のゼッケンを見つめていました……ほら、それがその時に、喫茶店の窓からボクが撮った写真です……」  規則正しい呼吸を繰り返しながら、葉子は男が指さしたところを見た。そこには雨の中を走るふたりの少女が写っていた。 「そういうことです」  男の声が聞こえた。「ボクは先生のいちばん古くからのファンなんです」  葉子は無言のまま脚を動かし続けた。筋肉の張り詰めた腹の中央を、一筋の汗が流れ落ちるのがわかった。 「今、12�を通過しました」  男の声が聞こえた。      28  波の音がした。もう窓の外は真っ暗だった。薄いジャンパーの袖には、いつのまにかうっすらと砂が積もっていた。  朽ちかけたボートハウスの片隅に座り、猿渡哲三は足元のアタッシェケースを撫《な》でていた。猿渡の中にはもうひとりの自分がいて、さっきからしきりと話しかけてきた。  ——いやあ、いい気味だ。楽しいよ。  猿渡の中にいるもうひとりの老人が笑った。  ……楽しいだって? バカなことを言うな。  ——お前だって本当は楽しがっているくせに、かっこつけるんじゃないよ。  ……嘘だ。俺は楽しんでなんていない。  猿渡はもうひとりの自分に反論した。  ——ホントかな? 俺は楽しいよ。本当にいい気味だ。日本のやつらはみんな浮かれ過ぎてたんだ。浮かれて、いい気になってたんだ。だから少しひどい目に会えばいいんだ。そうすれば少しはフェアになるんだ。  ……フェアだって?……フェアって、いったい、どういうことだ?  ——考えてみろ。あの戦争では信じられないほど多くの人間が、信じられないほど悲惨な死に方をしたんだ。そうだろ? それなのにお前は生きて戻り、飯を食い、酒を飲み、女を抱き、そんな老人になった今もこうして生き続けている。それはフェアじゃない。違うか?  猿渡は沈黙した。  ——覚えてるだろ? あそこには文学の勉強を続けたがっていた学生や、絵画や音楽で身を成そうとしていた学生がいた。病気の母親や、ほんの1度抱き締めただけの恋人や、結婚したばかりの妻や、生まれてまもない子を祖国に残して来た男がいた。スポーツ選手として将来を嘱望されていた者や、社会の第一線で働いていた者……ほかにも、もう無数の若者たちがいた。そういうたくさんの若い人間たちが、あの島で虫けらのように死んだんだ。  ……ああ。そうだな。  ——ほんの50数年前、街を焼き尽くす炎の中で幼い子供を抱いた母親が死んだ。乳の出ない母親の乳房にしがみついていた赤ん坊が死んだ。家や身寄りを失った幼い子供たちが路上で死んだ。鍋《なべ》で雑草を煮て食っていた老人が死んだ。生まれたばかりのお前の子も、祖父母も父も母も姉も、姉の子供たちもみんな死んだ。それなのに、今、この国に暮らす者たちは何をしてる? 世界には今も餓死しようとしている子供が無数にいる。それなのに、この国の人間たちは何をしている? お前はいったい何をしている? フェアではない。これは断じてフェアではない。  ……だからって……。  ——だからこれは、いいことなんだよ。これで少しはフェアになるんだよ。  もうひとりの老人は嬉《うれ》しそうに笑った。  俺は狂ってしまったのかもしれない。猿渡はそう思って頭を抱えた。ジャンパーの袖《そで》をそっとまくり、左腕にした時計を見た。  もう残された時間はほんのわずかだった。      29 「15�を過ぎました。約束どおり、6時に爆発するアタッシェケースを持っている人間をお教えしましょう」  男が言った。「……午後6時に爆発するアタッシェケースを持っているのは吾妻英次。横浜の百貨店の警備員をしています」 「その男の住所と電話番号を教えて。今すぐ警察に通報するわ」  走り続けながら葉子は言った。 「先生に電話させるわけにはいきません。ボクが電話します」  男はそう言うとテーブルの上にあった携帯電話を手に取った。 「先生と同じように、ボクも約束は守る主義です。ヨーコ先生は安心して走り続けてください。まだまだ先は長いんですから」  男が携帯電話のボタンをプッシュした。 「もしもし。警察ですね? これから大切なことを言いますからメモをしてください……午後6時に爆発するアタッシェケースの持ち主をお教えします……ボク? ボクの名なんてどうでもいいことです……メモの用意はできましたか?……午後6時に爆発するアタッシェケースを持っているのは吾妻英次。横浜の百貨店で警備員をしています……」  男は小さな電話を耳に押し当て、吾妻英次の住所と電話番号を相手に告げた。 「どうしてボクの名にそんなにこだわるんです?……吾妻の住所と電話番号はちゃんとメモしたんですか?……爆発まであと30分しかありません。早く誰かを吾妻英次のところに向かわせたほうがいいですよ………」  男は電話を切った。 「そんな言い方じゃ、警察は信じるわけないじゃないか?」  電話をテーブルに置いた男に葉子は強い口調で抗議した。「イタズラだと思うに決まってるじゃないか?」 「信じようと信じまいと、それは警察の勝手です……ヨーコ先生はそんなことは心配せず、今度は午後8時に爆発するアタッシェケースの所有者を聞き出すために頑張って走ってください」  葉子は心の中で歯軋《はぎし》りしたが、どうすることもできなかった。今はただ、警察が今の電話を信じ、次の爆発を阻止してくれることを祈るだけだった。 「ひとつだけ教えて」  息を弾ませて葉子がきいた。「サトル、あんたとその吾妻という男とはどういう関係なの? あんたはどうしてその男にあのアタッシェケースを渡したの?」  男はまた葉巻に火を点けた。その香りが葉子の顔まで漂ってきた。 「和智家は吾妻の勤務する警備会社の筆頭株主なんです。こう見えても一応、ボクも取締役に名を連ねてるんです……この吾妻という男は優秀なやつでね、2年ほど前、彼が警備していた倉庫での不審火を2度も見つけて鎮火して、警察から表彰を受けたことがあるんです。もちろん、会社も彼を表彰して特別ボーナスを出し、昇進もさせました。もし彼が見つけていなければ大火事になって、会社は信用を失うところだったんですからね」 「……そんな人にどうして?」 「実はその後、匿名の人物から、あの不審火は2度とも吾妻が自分で放火して自分で消火したんだっていうタレコミがありましてね」 「その男が自分で倉庫に火を点けたの?」 「いや……真相は藪《やぶ》の中です……会社もそんなスキャンダルはゴメンですからね。調べたりはしませんでした」  男はそこまで言うと口をつぐんだ。葉子もそれ以上はきかなかった。今さらきく必要もなかった。 「吾妻はあれをどうしたのかなあ?」  男がひとごとのように言った。      30  午後5時半。警察に匿名の男性から電話が入った。  ——横浜の百貨店の警備員が午後6時に爆発するアタッシェケースを持っている。  電話に出た警察官に男性は、その男の住所と電話番号を告げ、誰かを大至急そこに向かわせるように言った。  電話の男の声は軽やかで聞き取りやすかった。 「何を根拠にあなたはそう言うんですか? いったい、あなたは誰なんです?」  吾妻という男の住所と電話番号をメモした警察官がそう問い直した時、電話が切れた。  警察官は男の言葉を信じていなかった。同じような電話やFAXはこれまでにも無数に入っていた。それらはほとんどがイタズラだった。そうでないものもただの勘違いや思い過ごしだった。  警察官の脇では今も電話が鳴り続けていた。FAXからは匿名の人物からの怪しげな情報が流され続けていた。警察官はたった今書いたばかりのメモ用紙を机の隅に押しやった。そして、鳴り続ける別の電話に対応するために受話器を持ち上げた。      31  午後6時。横浜の百貨店の5階のオモチャ売り場で凄《すさ》まじい爆発が起きた。  すでに買い物客のピークは過ぎていたが、それでもクリスマス・イヴの店内にはまだたくさんの家族連れや若者たちが残っていた。  この爆発と、その直後に発生した火災、さらには地上に降り注いだガラスやコンクリート片により、40人を超える人間が死亡し、100人以上の人々が重軽傷を負って病院に運び込まれた。死亡者の半分は子供だった。      32 「25�を過ぎました」  男の声がすぐ脇で聞こえたが、葉子はそちらを見なかった。いや、首を動かすことが辛かったのだ。  調子のいい日には5�も走ればアドレナリンがどんどん分泌され、ランナーズハイの状態が訪れる。そうなると気分が高揚して体も軽くなり、走ることが少しも苦ではなくなる。だがきょうはいくら走ってもランナーズハイは訪れなかった。それどころか、1時間を過ぎた頃から強い疲労に囚われ始めた。きのう芦ノ湖まで走った疲れが筋肉組織に堆積《たいせき》しているのだろう。疲れは1歩ごとに激しくなり、呼吸は荒くなっていった。今では体を前傾させなければベルトの流れについていけないほどだった。もう部屋の中を見まわす余裕も、壁のモニターの映像を見る余裕もなくなっていた。 「ヨーコ先生、きょうは何だか辛そうですね」  葉子の全身を凝視しながら男が言った。「すごい息遣いですよ。それに汗もすごいし……これだったらフェラチオを初体験していたほうがよっぽど楽だったでしょうね」  葉子は男の声を聞いてはいなかった。今はただ後ろに流れるベルトを必死で蹴《け》り続け、とりあえず残りの20�を走り切ってしまうことだけを考えていた。 「ああ、先生……ダメでした。6時のアタッシェケースは爆発してしまいました」  男の言葉に葉子はモニターを見上げた。そこには強ばった顔をした若い男性アナウンサーが映っていて、その下に≪午後6時に横浜のデパートで大きな爆発≫という文字が並んでいた。  瞬間、葉子の全身から力が抜けた。体が後方に流され、あやうく回転を続けるベルトの端から落ちてしまいそうになった。だが、危機一髪のところで何とか転落を免れた。 「あの時と同じですね……ほら、防砂林の中で無理心中した一家を助けようとした、あの時と同じですよ」  男の声が聞こえた。  どうして知ってるの?  葉子はそう言ったつもりだった。だがそれは、激しい息遣いにかき消されて言葉にはならなかった。口の中のネバついた唾液《だえき》を無理やり飲み込み、今度は吠《ほ》えるように、「どうしてっ、それをっ、知ってるのっ!」と叫んだ。 「ヨーコ先生のことなら、ボクはみんな知ってるんです」  男が微笑んだ。「ボクは先生の朝のジョギングにはほとんど同行していますからね」 「それじゃあ……あの朝も、近くに、いたのっ?……林の中で、わたしが、助けを、呼んだ時も、近くに、いたのっ?」 「ええ、ほんの数十mのところにいました。太い松の幹の陰から先生の大活躍を見守っていました……いやあ、ボクもあの女の子みたいに、先生にマウストゥーマウスの人工呼吸をしてもらいたかったな」 「それなのに……そんな近くに、いたのに……あなたは、あの家族を、見殺しに、したのねっ? そうなのねっ?」 「死にたがっている人間を助ける必要はありませんよ」 「畜生っ……」  葉子が呻《うめ》き、男はそれを嬉《うれ》しそうに見つめた。瞬間、葉子は、自分が押し当てていた少女の胸の向こうで、心臓の鼓動が止まった時のことを思い出した。あとほんの少しで助けられたかもしれないのに……どうして死んでしまったの……そう思った。 「先生の努力は報われない……悲しいけど、そういうことになってるんですよ……もう諦《あきら》めたらどうです?」  葉子は少女のことを頭から打ち消し、歯を食いしばった。腕で額の汗を拭《ぬぐ》い、「畜生っ!」と、もう1度、吠えるように叫んだ。そしてさらに体を前傾させ、ベルトの動きに負けまいとしゃにむに脚を動かし続けた。  諦めるつもりなどなかった。      33  テレビは今も各地の爆発現場や、大量の負傷者が運び込まれている病院や、肉親や恋人を失って泣き叫ぶ人々の映像を流し続けている。日本に暮らすほとんどの人が、それらの映像を見つめ、次の爆発はどこであるのだろう、と思う。  人々はテレビを見ていた。それは確かにテレビの中のことで、そこで怪我をしたり死んだりしているのは自分ではなかった。けれど午後8時には、本厚木の繁華街や鎌倉のマンションや東京湾をクルーズ中の客船や平塚のサーカステントや横浜のデパートであったような大爆発が、自分が今いる部屋の壁の向こう側で起きるかもしれないのだ。午後8時には、テレビを見ているこの自分が、今度はテレビの映像の中で担架に乗せられているかもしれないのだ。あるいは、もうこの世にはいなくなっているかもしれないのだ。  誰ひとり、傍観者でいることなどできなかった。  犯人はいったいどんなやつなのだろう?  犯人? 『犯人』とは誰のことだ?  たくさんの人が死んだ。だが、それにもかかわらず、『犯人』は実は誰も殺していなかった。  殺したのはアタッシェケースをバラ撒《ま》いた人間ではなかった。そいつは確かに時限爆弾入りの邪悪なアタッシェケースをコインロッカーに入れ、ほかの誰かにそれを与えた。だが——そいつがしたのはそれだけだった。それを繁華街のイタリア料理店や、家族連れで賑《にぎ》わうサーカス会場や、結婚披露宴が行われている客船や、分譲マンションの一室に置き去りにしたのはそいつではなかった。  きのうまで自分の隣で笑顔を見せて市民生活を送っていた者が——どこにでもいる、ごくありふれた人間が——アタッシェケースを手にしたとたん、邪悪な殺人鬼に変わったのだ。いや、どこにでもいる、ごくありふれた人々の中に——隣の部屋に暮らす主婦や、毎朝道ですれ違う犬を連れた老人や、電車の吊り革に掴《つか》まるサラリーマンやOLや学生や、会社の同僚や取引先の人々の中に——邪悪な殺人鬼は当たり前のように潜んでいるのだ。  警察や報道機関には、今もデタラメな匿名の情報が送られ続けていた。あのアタッシェケースをスーパーに置いて来たという電話や、アタッシェケースを持っている人間を知っているという電話、『これは傲慢《ごうまん》なる日本人に神が与えた試練なのだ』とうそぶくEメール……。そういった怪情報は数百、いや、数千に及んでいた。それらの人間たちは明らかに楽しんでいた。  いったい誰があんなアタッシェケースをバラ撒いたのだろう?  いったいどんなやつが、それを使って人を傷つけようとしたんだろう?  そして——もしそのアタッシェケースを渡されたのが自分だとしたら、自分はそれをどうしただろう?  テレビの前の人々は、自分たちの日常に潜むとてつもなく暗く、邪悪な闇を見た。あるいは自分自身の心の奥に隠れた、恐ろしく深い悪意を見た。  次の爆発の時刻が迫っていた。      34  最初の15�くらいまでは風がなくて走りやすいと感じた。だがその後、葉子は自分の考えが完全に間違っていたことに気づいた。  密閉された室内では汗がうまく蒸発せず、体温は上昇していく一方だった。木綿のTシャツやジーパンは噴き出した汗をことごとく吸い込み、今ではずっしりと重くなっていた。  30�を過ぎてからの道のりはまさに地獄だった。走ることをこれほど辛いと感じたことは、かつてなかった。和智サトルに頼み事をするなどもってのほかだったが、33�地点で葉子はついに男に給水を求めた。男は「もっと早く言ってくれればよかったのに」と笑い、クロゼットの中の冷蔵庫から500ml入りのミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、走り続ける葉子に手渡した。憎むべき男にほどこしを受けることに強い屈辱を覚えながらも葉子はペットボトルを受け取り、冷たいそれを夢中で飲み、残りを頭からシャワーのようにジャブジャブと掛けた。ランニングマシンの黒いゴムのベルトが水浸しになった。  38�まで来た時、疲労のために右足が痙攣《けいれん》を起こした。葉子は拳《こぶし》で右の腿《もも》を叩《たた》きながらしばらく走ったが、どうしても我慢しきれず、男に「脚が、痙攣を、起こしたの……お願い……少しだけ、スピードを、落として」と頼んだ。それは給水を求める以上の屈辱だったが、そうしなければ後方に流れ続けるベルトから今にも転げ落ちてしまいそうだった。  葉子の言葉に男は驚いた声を出した。 「へえ? ヨーコ先生が泣き言を漏らすなんて意外ですね」 「脚が、もう、動かない……5分だけで、いいから、スピードを、落としてっ……」 「スピードを落とすのは簡単です……ですが、そうしたらボクから8時のアタッシェケースを持っている人間の名を聞き出せなくなりますよ。それでもいいんですか?……酷なようですが、時速15�で3時間走り続けるというのがボクたちの契約ですからね」 「……畜生っ!……もう、頼まないっ」  葉子は男に嘆願した自分を責め、痙攣を続ける右の腿を拳でガシガシと殴りつけた。  最後の5�はまるで短距離走をしているようで、今にも心臓が爆発してしまいそうだった。荒い呼吸を繰り返すたびに、喉《のど》と肺が焼けつくように痛んだ。汗と水を吸った木綿のTシャツの重さにどうしても耐えられず、葉子はついに濡《ぬ》れ雑巾《ぞうきん》のようになったTシャツを脱ぎ捨てた。白いスポーツ用のブラジャーだけの姿になった葉子を見て、男が「わおっ!」と嬉《うれ》しそうな声を出した。 「セクシーですね、ヨーコ先生。最高にセクシーです」  男は葉子が脱ぎ捨てたTシャツを大事そうに拾いあげた。 「ブラの向こうで乳首が尖《とが》っているのが、はっきりと見えますよ……もしそのジーパンも脱いでしまいたいというなら遠慮なくおっしゃってください。先生がストリップをしているあいだだけ、特別にマシンはストップしてあげますからね」  葉子の全身を眺めまわして男が言ったが、そんな言葉を気にしている余裕は葉子にはまったくなかった。 「8時に爆発するアタッシェケースは、いったい誰が持ってるんでしょうね?」  荒い呼吸音のかなたから男の声が微かに聞こえた。「もしかしたらそれは、ヨーコ先生のアパートの真下に住む男が持っているかもしれません……あるいは、先生が神のように慕った陸上部の監督の隣人が持っているかもしれません」  だが葉子はもはや誰かを救うために、などとは考えてはいなかった。そんなことを考える余裕はなかった。今はただ、強い引力で体を後方へ引きずろうとするベルトの流れに逆らって、止まりそうになる脚を動かし続けることだけを考えていた。  もうダメだ……とても最後まではもたない……だけど、あと1分……あと1分だけ……そうしたら諦《あきら》めよう……あと1分……あと1分だけ……。  葉子はそんな諦めと決意を何度も何度も繰り返しながら全力疾走を続けた。 「45�通過。そこまでです」  男の声が聞こえた瞬間に脚が止まった。葉子の体はそのままベルトに運ばれ、ノックアウトされたボクサーのように後方に投げ出された。 「さすがですね。ヨーコ先生」  床に転がって猛烈に喘《あえ》ぐ葉子に、男がペットボトルを差し出した。葉子はそれを男からひったくるようにして奪い取り、貪《むさぼ》るように飲み、残りをまた頭から浴びた。 「あなたほど強い人は見たことがない」  男の声が遠くでそう言った。      35  午後7時半。警察に匿名の男からの電話が入った。 『午後8時に爆発するアタッシェケースは、横浜市栄区に住む田島聖一という50歳の男が持っている』  電話を受けた若い警察官に、抑制された声が、田島聖一という50歳の男の住所と電話番号を告げた。 「もしもし……あなたは誰なんです? なぜ、そんなことを知ってるんです?」  電話の男は警察官の質問には答えず、『もう時間がない。早くしたほうがいい』とだけ言って電話を切った。  もちろん、ただのイタズラである可能性が高かった。しかし、若い警察官は不思議な直感に動かされ、すぐに誰かを田島という男の家に向かわせるための手続きを取った。  20分後に警察官たちが新興住宅街の一角にある田島聖一の家に駆けつけた時、家には田島の妻と長男がいた。ずんぐりと太った田島の妻は、突然、押しかけた警察官の姿に驚き、夫は会社に行ったはずだと言った。  ただちに会社に連絡が取られた。しかし田島という男は10日も前に会社から解雇を言い渡されていた。もちろん、それ以降は1度も出社などしていなかった。  当惑する妻を尻目《しりめ》に家宅捜査が行われ、男の自室の机の引き出しから2通の封書が発見された。それは32歳の風俗嬢や40歳のサラリーマンや30歳の元長距離走者の女性に送られた手紙と同一のものだった。  ——クリスマス・イヴの午後8時。  田島聖一という男が問題のアタッシェケースを受け取ったことは、ほぼ間違いなかった。しかし、男の自宅のどこを探してもアタッシェケースは見つからなかった。戸主である田島聖一の所在もわからなかった。  爆発の時刻は迫っていた。      36 「その男を選んだのはなぜなの?」  床にうずくまったまま、葉子がきいた。ようやく呼吸は元に戻り始めてはいたが、いまだに体を動かすことはできなかった。皮膚は相変わらず多量の汗を噴き出し、まるで雷雨の中を走って来たかのようだった。 「ああ……この田島聖一という男のことですか?」  男はどこからか取り出した大きなスポーツタオルを、葉子の剥《む》き出しの背に掛けた。葉子はそのタオルで全身の汗を拭《ぬぐ》い、その時になってようやく、自分の上半身がブラジャーだけであることに思い至った。 「今から20数年前、ハワイのホテルでこの田島という男に会ったことがあるんです」  男が静かに言った。 「……20数年前?」  葉子は驚いて男を見上げた。 「ええ。その頃、ボクは暇を持て余して世界中をフラついていたんですが、ちょうどオアフ島のホテルに滞在していた時、そこに日本からの団体客がやって来たんです。その中に田島聖一がいました。彼らの新婚旅行だったんですよ……そのツアーは新婚客ばかりの団体旅行で、3泊5日の慌ただしいものでした。彼らは毎朝、全員でホテルのロビーに集合してバスに乗り込み、観光や買い物に出かけ、夜はまた全員でホテルのレストランに集合して同じような物を食べていました」  男は壁の一点を見つめ、淡々とした口調で話した。 「彼らのツアーが到着した最初の日、ボクがエレベーターに乗った時、そこにたまたま田島と彼の新妻がいました。何か口論していたのか、少し気まずい雰囲気でした。日本から来たほかの新婚の客たちが、何ていうか、イチャイチャしていたのに、彼らだけが少し違った、他人行儀な様子でした……田島という男はひどく小柄で、貧相で、色が白くて、いつもおどおどした感じでした。誰かに話しかけられるたびに、意味もなく笑っていました。妻のほうは大柄で、夫より体も大きくて、いくつか年上に見えました。実際、ふたつ年上だったんですがね……旅行中には何度か自由時間があって、田島と妻は1度だけビーチで水着になっていました。田島は少しだけ海に入りましたが、妻のほうはローブにくるまってビーチパラソルの下でぼんやりとしていました。どちらもあまり楽しそうには見えませんでした……3泊5日の旅行は瞬く間に終わり、彼らはまたロビーに集合し、スーツケースやたくさんの土産物を抱えて、来た時と同じように慌ただしくバスに乗り込んで空港に向かっていきました。それで彼らのスウィートハネムーンツアーはおしまいなわけです。最上階のVIPスウィートに1カ月前から宿泊していたボクにとっては、本当に、あっと言う間のことに思えました……勘違いしないでもらいたいんですが、ボクは決して彼らの人生をバカにしたり、蔑《さげす》んだりしているわけではないんです。ただ、10代だったボクはあの時、この男はいったいこれからどんな人生を送るんだろうと思ったんです……この田島聖一という、平凡で、ありきたりな男の人生を、ずっとずっと見つめてみたい……そう思ったんです」  葉子は信じられないというふうに首を振った。 「それからずっと、ボクは田島夫妻を見つめてきました。ずっとずっと、見つめてきました……きっとボクは田島聖一と妻の明子について、世の中の誰よりも知っています……たぶん妻が夫を知るよりも知っています」  葉子には男の言うことが理解できなかった。ただ「どうかしてる……あんたは狂ってる」と言っただけだった。      37  住宅街の外れに小川や沼や雑木林をそのまま残した自然公園がある。春にはカエルが鳴き、山菜が芽吹き、タケノコが生え、山桜が咲き乱れる。夏には蛍が舞い、蝉しぐれが響き、トンボが飛び交う。秋は紅葉が美しく、休日には家族連れで賑《にぎ》わう。  その公園の雑木林の太いクスノキの根元にうずくまり、田島聖一はボストンバッグを抱き締めていた。公園のあちこちに設置された街灯もこの林の中までは届かない。重なり合った枝のあいだから差し込む月明かりが、わずかに周囲を照らしている。冷たい風が林を吹き抜け、木々の触れ合う音がする。  雑木林に足を踏み入れた時はほとんど何も見えず、横たわる倒木につまずいたり、枯れ枝にズボンの裾《すそ》を引っかけたりした。だが今では随分と目が慣れた。古い樹木の幹に苔《こけ》がむしている。葉を落とした灌木《かんぼく》が小さな実を無数につけている。  この公園に来るのは何年ぶりだろう? まだ純一が小学生の頃に弁当を持って家族で来た。それ以来だから、10年以上が過ぎている。  10年以上前のあの日、たぶん初夏の日曜日——30代後半だった田島は子供たちと沼でザリガニを捕った。子供たちは夢中になり、田島もまた夢中になった。あの日はみんなが笑っていた。40歳になろうとしていた明子も笑っていた。  ——それは田島の数少ない幸福な記憶のひとつだった。  腕時計を見る。安物のクォーツの針は、まもなく午後8時を指そうとしている。  今ならまだ間に合う。このボストンバッグをここに放置し、素知らぬ顔をして雑木林を出ることもできる。田島が林を出て公園の外れにたどり着いた頃に、きっとこれは爆発するだろう。凄《すさ》まじい音が響き渡り、何本もの樹木がなぎ倒され、驚いた鳥たちが夜空にいっせいに飛び立つだろう。そうだ、今ならまだ間に合う。  間に合う? いったい何に間に合う?……失業を家族に隠し、職安に通う不安で屈辱的な日々。あと18年も残っている住宅ローンや、3年以上残っている車のローン。それらが待っているだけではないか……汚れて散らかった自宅と、そこでテレビを見続ける怠惰な妻。4年ものあいだ自室から出ようとしない息子や、自堕落で目先の快楽しか考えようとしない娘。その家族を養うためにかかる月々の生活費。それらが待ち構えているだけではないか……袖《そで》がほころび始めたスーツや、使い古したネクタイの数々。一様に踵《かかと》の擦り減った安物の革靴。水の完全に止まらない浴室の蛇口。鍋《なべ》の底がすぐ黒くなるガス台。錆《さび》が浮き、今すぐにでも塗り直す必要がある屋根やベランダ。黄ばんで擦り切れてしまった畳。調子の悪い冷蔵庫や、うまく脱水ができない洗濯機。夏には室内に水滴がしたたり落ちるエアコン。スプリングのへたったベッド。それらが待っているだけではないか……痴呆《ちほう》の始まった父親と、会うたびに田島との同居を訴える母親。夫婦仲の悪い田島の姉たち。田島のことをバカにしきった明子の親戚《しんせき》たち……年金や保険の支払い。車検や自動車税や固定資産税……治しても治してもすぐに悪くなる虫歯。季節の変わり目には必ず痛む腰。薄くなって地肌が剥き出しの頭。毎食後の胸焼け。近くを見る時の目の霞《かす》み……いったいそれらのどこに、生きる希望を見いだせというのだ?  這《は》い上がる寒さが体を震わせる。だが、怖くはなかった。死がすぐそこに佇《たたず》んで、こちらをじっと見つめているというのに、不思議なほどに怖いとは感じなかった。  希望などなかった。今ではどれほど目をこらしても、未来の時間のどこにも希望の火は見えなかった。  ——つまりそれが、絶望ということだった。  完全な絶望を手にした人間は、もはや恐怖することはない。田島はボストンバッグにまわした腕に力を込めた。  多くを望んだわけではない。彼はただ人並みの幸せを手に入れようと、与えられた義務を黙々とこなしてきただけだった。誰かを陥れようと策略を練ったことも、踏み付けにしたことも、裏切ったこともなかった。自分の考えを声高に語ったり、愛をわかりやすく示したりするのは苦手だったけれど、それだってそんなに責められるべきことでもないはずだった。それなのに——。  ……みんなはどこで幸せになる方法を学んだんだ? いったい誰からそれを教えられたんだ?  もう考える時間はなかった。田島は奥歯を食いしばり、誰か愛しい人の顔を思い浮かべようとした。田島を愛し、必要とし、そばにいてほしいと言ってくれる人の顔。せめて、その人の顔や声を思い浮かべながら死のうと思った。  網膜に浮かんだのは妻の顔ではなかった。子供たちの顔でも、父や母の顔でもなかった。それはずっとずっと昔、田島が保育園に通っていた頃の担任の保母の顔だった。  今思えばまだ20代だったに違いない保母は、田島がどんな失敗をしても決して叱らなかった。何かいいことをすると、たとえどんなにささいなことでも、「聖一くん、偉いよ」と褒めてくれた。 ≪聖一くん、すごいよ≫≪聖一くん、よくやったね≫  そうだ。あの人は俺を褒めてくれた……。  しかし——その保母の顔すら、今はぼんやりとしていて、はっきりとした像を結ぶことはなかった。  その時、近くで物音がした。田島は耳を澄ました。  また物音がした。立ち上がってクスノキの太い幹の裏側にまわってみる。腰を屈めて根元にできたウロをのぞき込む。  そこに犬がいた。わずかな月明かりに照らされて、白っぽい母犬と何匹かの子犬がひとかたまりになってうずくまっていた。田島の姿を認めた母犬が警戒して低く唸《うな》った。 「よりによってこんなところに……」  反射的に腕時計を見る。時計の針は今、まさに8時を指そうとしている。  ボストンバッグを抱えて、田島は走り出した。何度もつまずきながら、そのクスノキから離れるために走った。たかがノラ犬の命のために、彼は走った。  やっとの思いで林を抜け、真っ暗な雑木林を振り返る。 「間に合った」  そう思った瞬間、田島聖一の世界が消滅した。      38  ——午後8時に横浜市郊外の自然公園で大きな爆発が起きた。この爆発による死傷者は現在まで確認されていない。  壁のスクリーンに大写しになったアナウンサーがそう告げ、床の上でスポーツタオルにくるまっていた葉子は微かな安堵《あんど》の溜《た》め息を漏らした。男がリモコンでアンプを操作し、再び音声が消えた。葉子の耳に、ようやく静かになった自分の呼吸が聞こえた。  葉子は、8時に爆発したアタッシェケースを所持していた田島聖一という男のことを考えた。そして、誰も殺さなかったその男に少しだけ好感を抱いた。またしても葉子は間に合わなかった。だが、田島聖一という50歳のサラリーマンは誰も殺さなかった。  もう11時まで爆発はないはずだった。 「残りのアタッシェケースはあとふたつだけです……9時半になったら、ヨーコ先生はまた走らなくてはなりませんが、その前にシャワーでも浴びますか?」  男がきき、葉子は無言で首を左右に振った。もはや口を開くのさえ億劫《おつくう》だった。それでも聞きたいという強い欲求には勝てなかった。 「ねえ……4時に平塚のサーカス会場で爆発したアタッシェケースは、いったいどんな人が持っていたの?」  ソファで葉巻に火を点けた男に葉子はきいた。 「4時のアタッシェケースは23歳の女が持っていました」 「……そんなに若い女が?」 「ええ……2歳と4歳の子供を抱えてSMクラブで働いている女です」 「その女とサトルとは、いったいどんな関係があるの?」 「前に1度だけ、その女をここに呼んだことがあるんです」 「……」 「その時、その女が面白いことを言ったんです……この世の中には幸福の循環と不幸の循環があって、人はみんなどちらかの循環に住んでいる、みたいな話です」  男が笑った。 「それぞれの循環には入口も出口もないから、幸福の循環に生まれた人は一生幸福の循環で暮らし、不幸の循環に生まれた人もやはりずっと不幸の循環に暮らすことになる……そんな話です。面白いでしょ?」  葉子は無言で首を振った。 「3時のアタッシェケースを持っていた男についても教えてあげましょう……3時は……ああ、そうだ。3時のアタッシェケースを持っていたのは、あのクルーズ客船を所有する会社に勤務する35歳の、妻も子もある男です……この男はボクの友人でね。友人といっても実際に会ったことはないんですが」 「……会ったことのない友人?」 「ええ、インターネットの出会いのサイトで知り合ったんです。もっとも彼はボクのことを若い女だと思っていますがね」  葉子は資産家の子として生まれ育った和智サトルという40歳の男の顔を見つめた。「というのは、全部、嘘。何もかも冗談ですよ」と言って男が笑えば、すぐにでも信じられそうな柔和な顔だった。 「そいつはどこにでもいるような、ごく普通の男で、あんなアタッシェケースを手に入れたら青くなって真っ先に警察に届け出るような男なんです。少なくとも、ボクはそう思いました……だけど、それはボクの思い違いだったようです……人が何を考えてるかなんて、他人には本当にわからないものです」  部屋の中は相変わらず静かだった。音のしない巨大なスクリーンに、きょうの午後、いたるところで起きた爆発の様子や、それによって傷ついた人々が映し出されていた。 「午後2時のアタッシェケースは誰に渡したの?」  葉子がきいた。      39  人気のない海岸に建てられた傾きかけたボートハウスの中で、猿渡哲三は暗闇を見つめていた。ついさっき、ごく短い眠りが訪れ、夢を見た。なんとも嬉《うれ》しいことに、それは最愛の妻の夢だった。 「信子……もうすぐそっちに行くぞ」  声に出して、低く呟《つぶや》いた。 [#改ページ]   最終章      1 「間もなく9時半になります。走る用意をしてください」  ソファに腰掛けた和智サトルが、床にうずくまったままの葉子に告げた。「それとも、もう……終わりにしますか?」 「……やるよ」  葉子はフラフラと立ち上がった。自分でマッサージを続けたお陰で右足の痙攣《けいれん》は収まっていた。だが今では体のすべての筋肉が重く硬直していた。これからさらにあのスピードで30�を走り抜く自信はまったくなかった。  あれほど辛い思いをして走ったというのに、午後6時のアタッシェケースも8時のアタッシェケースも、葉子の力で爆発を阻止することはできなかった。たぶん……11時や午前0時の爆発を阻止することもできないかもしれない。いつものように、葉子の努力は空まわりするだけかもしれない。  だが、それでも、葉子は走るつもりだった。 「悪いけど、エアコンは止めてくれない?」 「この真冬にですか?」  男はいつものように、おどけた顔をしてみせた。「いいでしょう。正義のために走る先生へのボーナスとして、特別にエアコンを切りましょう」  男がそう言ってエアコンを消した。  体が弱れば心も弱る。昔、誰かがそう言っていたのを聞いたことがある。その時、葉子は、「そんなものかな」、と思っただけだった。だが、今はそれをつくづく実感していた。他人のことなんて、もう知らない。もうやめたい。そんな考えが何度も何度も心を支配しそうになった。  やめてしまえればどんなにいいだろう。投げ出してしまえばどんなに楽だろう……。  葉子はそんな迷いを打ち消すかのように激しく首を振った。羽織っていたスポーツタオルを床に投げ捨て、両手で太腿《ふともも》をパンパンと勢いよく叩《たた》いた。左手に嵌《は》めた両親の結婚指輪に右手でほんのちょっと触れ、それからランニングマシンに向かった。  祈りたい気分だった。けれど、誰に祈っていいのかわからなかった。葉子には祈るべき神など存在しなかった。      2  腕時計の針が10時を指すと同時に猿渡哲三は立ち上がり、足元のアタッシェケースを持ってボートハウスを出た。  小屋の脇には塗装の剥《は》げかかったボートがいくつか放置してあった。猿渡はそのひとつの中にアタッシェケースをそっと入れ、小屋に立て掛けてあった2本のオールを放り込んだ。それから杭《くい》に繋《つな》がれたロープをほどき、ボートを波打ち際まで押そうとした。  それは老人にはきつい作業だった。ボートは合成樹脂製だったが、思ったよりずっと重く、深い砂に船底が潜り込んでなかなか前に進まなかった。力を入れるたびに足は砂にめり込み、肩や腰や膝《ひざ》が疼《うず》くように痛んだ。けれど猿渡は諦《あきら》めなかった。渾身《こんしん》の力を振り絞り、身悶《みもだ》えするようにしてボートを押し続けた。  沖で作られたうねりのような波は岸に近づくにつれて鋭角にそそり立ち、やがてその先端部分を白く変色させながら崩れ落ち、最後は真っ白な泡の塊となって海岸に打ち寄せた。猿渡はボートを押し続けた。汗が噴き出し、荒い息が白く曇った。  やがて打ち寄せる波が船底に届き、さらに押し続けると急に手応えがなくなってボートが浮いた。冷たい海水にズボンが濡《ぬ》れるのもかまわず、水面が太腿に達するまで押し続け、それからボートに転がるように乗り込んだ。オールをセットし、舳先《へさき》を沖に向け、月に光る海面を進み始めた。 「よかったな、お前ら」  少しずつ離れていく陸地に向かって猿渡は叫んだ。「助けてやるぞっ……殺さないでやるぞっ」  白髪が風に乱れ、舳先で砕けた波の飛沫《しぶき》が痩《や》せた背中に降りかかった。全身びしょ濡れだったが、不思議なことに、寒いとも冷たいとも感じなかった。      3  ランニングマシンが動き始めて5分としないうちに肉体が悲鳴を上げた。水の中で限界を超えて息を止めている時に肺が酸素を求めて悶え、震えるように、限界を超えて酷使された筋肉は猛烈に休息を求めていた。『走れ』という命令を1秒ごとに送り続けなければ、 足や腕はその動きを止めてしまいそうだった。 「もうやめましょう、ヨーコ先生……もう限界です」  自分の激しい息遣いの向こうに、葉子は男の声を聞いた。 「見ず知らずの人のために、なぜそんなにまで頑張るんです? いったい、なぜです? こんな国の人間があと100人や200人死んだってどうってことはありませんよ……それなのに、なぜそんなにまでしようと思うんです? 正義感ですか? それとも誰かに、よくやったと褒められたいんですか?」  だが葉子は走るのをやめようとはしなかった。いや、葉子ではなく、葉子の中に住む、とてつもなく強い生き物が葉子の肉体を支配し、それを動かし続けていた。  葉子は、いや、葉子の中に住む強い生き物は——思い出していた。あの冬の冷たい雨と風が吹き荒れたオリンピック代表選考レースのことを思い出していた。  あれは確かにオリンピックの女子マラソンの日本代表選手を選考するレースだった。だが、葉子の中に住む強い生き物にとって、そんなことはどうでもいいことだった。そう。そいつには、名誉とか栄光とかはまったく関係のないことだった。誰かに喜ばれるとか褒められるとかは、いっさい関係ないことだった。  そいつは強かった。そして、その強さだけが、そいつの存在理由のすべてだった。  風車に戦いを挑んだドン・キホーテのように、そいつはいつでも、勝てる見込みのない相手に挑もうとした。不可能な夢を見続けようとし、耐えられないような悲しみに立ち向かおうとした。どんな勇者も尻込《しりご》みする場所に、そいつはあえて向かおうとした。それがどんなに絶望的に見えても、どんな遠くにあったとしても、そいつはそれを目指した——。  そいつが、いつから、どんな理由で、葉子の中に住み着いたのかは誰も知らない。葉子自身にもわからない。だが、そいつは間違いなく葉子の中に存在し、今また葉子をとてつもなく遠いところに向かわせようとしていた。  もう男は何も言わなかった。葉子はもはや口のきける状態ではなかった。ただ、葉子の中に住む、とてつもなく強い生き物だけが——まるで自分の影を追いかける狂人のように——ボロボロになった肉体を全力疾走させていた。  永遠にも思われた地獄の苦しみの中で、男が「10時半になりました」と言った。 「……猿渡哲三という老人です。50数年前、玉砕の島から奇跡的に生きて戻ったこの老人が、アタッシェケースのひとつを持っています」 「早く……警察に……電話をっ!」  激しい呼吸の合間に葉子は叫んだ。いや、それは叫びというより、今、まさに死のうとする人間が発する断末魔の呻《うめ》きのように聞こえた。 「もちろん約束ですから警察には電話します」  淡々と、呟《つぶや》くように男が言った。「だけどたぶん、そんな必要はないと思います。この老人はきっと、あのアタッシェケースを抱き締めて、ひとりきりで死ぬつもりです」      4  いったいどれくらい漕《こ》いだのだろう? 腰や背中がズキズキと痛み、尻や腿の付け根が痺《しび》れるように疼いた。マメの潰《つぶ》れた両手は氷のように冷たくなり、今では感覚がなくなっていた。  茅ヶ崎の街の明かりはまだ見えた。だが、すでに陸地からは充分に離れているように思われた。猿渡はオールを離し、揺れ続けるボートの上で皮の剥《む》けた両手をそっと擦りあわせた。  静かだった。ボートの側面に当たる波の音が聞こえた。吹き抜ける風が濡れた体を急激に冷やしていった。空には驚くほどたくさんの星が瞬き、傾き始めた月がボートの中に深い影を刻んでいた。  猿渡は船底に手を伸ばし、銀色に輝くアタッシェケースに触れた。ずっしりと重いそれを膝の上に引っ張り上げてから腕時計を見た。  時計の針はあと15分ほどで11時を指そうとしていた。  海面を吹き抜ける風に歯がガチガチと鳴った。ボートが一際大きく揺れ、舞い上がった飛沫が体に降りかかり、船底に冷たい海水が流れ込んだ。だが、もはや、体を暖める必要などなかったし、風邪をひく心配をする必要もなかった。  寒さに震えながら猿渡は、人生の最後の15分間に昔の友人を思い出そうとした。  ……大竹信次。そう大竹信次だ……中学の同級生だった大竹信次は、50数年前、海軍の特別攻撃隊の一員として沖縄の海上に果てた。  いつも明るくて、冗談ばかり言っていた大竹は、どんよりと曇った5月の朝、片道分の燃料と500kg爆弾を積んだ爆装零戦《ばくそうれいせん》に乗り込み、敵艦に体当たりして死ぬために、雑草に覆われた鹿児島の飛行場から沖縄へと出撃していった。  果たして大竹が体当たりに成功したのか、それともその前に撃墜されてしまったのか、今となっては誰にもわからない。残された日米両軍の記録から推測すると、後者である可能性が高いように思われる。当日、大竹機を含め28機の爆装零戦が鹿児島県の鹿屋《かのや》基地から沖縄沖に出撃したが、そのうち19機は米軍の迎撃戦闘機によって撃墜され、6機は対空砲火の餌食《えじき》になった。2機の消息は不明だが、敵空母エンタープライズへの突入に成功したのは、28機のうち、わずか1機に過ぎなかった。  おそらく大竹の操縦するゼロ戦は敵艦に体当たりする前に迎撃機の機銃掃射を浴び、キリ揉《も》み状になって海面に突入していったのだ。あるいは対空砲火の雨にさらされ、爆発して粉々になってしまったのだ。  いったい、どんな最期だったのだろう?  いや——そんなことは、どうでもいい。結局、彼は死んでしまったのだから。恋人だった女性と結婚することも、自分の子供の顔を見ることもなく死んでしまったのだから。  猿渡は月に照らされた海面を見つめた。そして、23歳だった大竹が、昭和20年5月14日の日の出前、出撃の直前に飲んだという濃いコーヒーの苦さを想像した。彼が日の丸のついた鉢巻きを締めて操縦席に乗り込み、帽子を振って見送る者たちに敬礼した姿や、目的を果たせず墜落していく彼の目前に迫り来る沖縄の海の青さを想像した。  絶え間なく揺れるボートの中で、猿渡は大きくひとつ深呼吸をした。海面を見つめたまま、かじかんだ両手を擦り合わせ、腕を交差させて自分の両肩を抱いた。  人生の残り時間は10分になろうとしていた。      5 「……猿渡哲三はボクの伯父《おじ》……死んだ父の兄にあたる人の遺書と、小さな骨のかけらを日本に持ち帰った人です。戦争が終わって5年もたった頃、猿渡哲三はたった1度だけこの家を訪れて、ボクの祖父母に伯父の遺書と遺骨を手渡し、伯父の仏壇の前に正座して手を合わせていったそうです。もちろんボクは生まれていませんでしたが、幼い頃にそれを父から聞きました。伯父の遺骨は、遺体を低温で焼いたために黒ずんでしまっていたそうです。ボクの祖父母は猿渡哲三に感謝し、その後も連絡を取ろうとしたらしいのですが、2度と連絡がつかなかったと聞いています……やがて祖父母は亡くなり、父も死んで、もう猿渡哲三や死んだ伯父を思い出す人はいなくなりました……だけどボクは忘れなかった。そしてついに、猿渡哲三を捜し出した……猿渡哲三は小柄で皺《しわ》だらけの老人になって、茅ヶ崎のマンションに妻とふたりで暮らしていました。ボクは彼らの住む隣の部屋に半年ばかり暮らしてみたことがあるんです……彼らの暮らしは穏やかで質素なものでしたが、やがて彼の妻が病に冒され、ほどなくしてこの世を去りました。ボクはその通夜に行きました。そして妻を失った老人のために泣きました。涙を流すなんて幼い子供の頃以来だったし、たぶんこれからもないと思います……」  部屋の中には男の声が響き続けていたが、自分の激しい呼吸音にかき消され、葉子にはそれを聞き取ることはできなかった。      6  父上様、母上様、喜んでください。いい立派な死に場所を得ました……皇國の興廃、この一戦にあり。大君の御盾となって潔く死に就き、宿敵を撃滅せん。男子の本懐、これにすぐるものがまたとありましょうか……二十三年間の幾星霜、よく育ててくださいました。今度がその御恩返しです。よくも立派に皇國のために死んでくれたと、褒めてやってください……ああ、我ら、特別自爆隊。向かうところは、敵空母へ急降下……。      7  シンプルな腕時計が11時を指した。瞬間、猿渡哲三は、「信子」と、妻の名を呼んだ。息を止めて、目を閉じた。これが最期だ。これがこの世の最期の瞬間だ。そう思った。 「あわっ……あわわわっ……」  凄《すさ》まじい死の恐怖に体が勝手に反応し、思わずボートから飛び出しかけた。わずかに尿が漏れ、下着が濡《ぬ》れた。  アタッシェケースはまだ爆発しない。 「……あううっ……あうううっ……」  呻きながら猿渡は目を開いた。もう1度、腕時計を見ようとした。だが腕が激しく震えていて、すぐには時間がわからなかった。ボートの縁を必死に握り締め、血走った目を見開き、「……あわわっ……わわわっ……」と声を漏らしながら時刻を見た。  時計の針はすでに午後11時を1分ほど過ぎている。だが、アタッシェケースはまだ爆発しない。  安い時計だったが、時刻は正確なはずだった。「……いいっ……いいいいっ……」と呻き続け、尿を漏らし続けながら猿渡は腕時計を見つめた。銀色に光る秒針が、刻々と時を刻み続けていた。  ……なぜだ、なぜ爆発しない?  冷たい風が吹き抜け、ボートが大きく揺れ、波の飛沫《しぶき》が降りかかった。口は相変わらず、「……あいいっ……いいいいっ……いいっ……」と声を漏らし続けていた。 「……どうしてだっ!」  裏返った声で猿渡は叫んだ。「どうして爆発しないんだっ!」  アタッシェケースは爆発しなかった。それは今も船底で銀色に輝いていた。猿渡はまた腕時計を見た。時計の針は11時3分を示している。  老人は時計が11時5分を指すまで、じっと文字盤を見つめていた。それから、足元のアタッシェケースに恐る恐る手を伸ばし、猛烈に震える指先でダイヤルロックをまわした。何度も失敗しながらようやく数字を『120』に合わせ、パチッと留め金を開け、もう1度腕時計を見た。  11時7分。  猿渡は息を止め、思い切ってアタッシェケースを開いた。  ——巨大な貝のように口を開いたアタッシェケースから、乾いた砂が溢《あふ》れ出した。  砂はサラサラ、サラサラとこぼれ続け、濡れた船底に小山を作った。老人はそれを呆然《ぼうぜん》と見つめた。 「……何ていうことだ?」  全身から力が消滅し、猿渡は船縁にがっくりと寄り掛かった。 「……どういうことなんだ?」  呟《つぶや》きながら、星の瞬く夜空を仰ぎ見た。風が吹き抜け、自分の体が冷えきっていることを思い出し、ブルルと身震いした。 「畜生……騙《だま》しやがって」  老人はすっかり軽くなったアタッシェケースを船縁に乗せた。乱れた呼吸を整えながらしばらくそれを見つめたあとで、ここ数日間、自分を悩ませ続けたアタッシェケースをボチャンと海に落とした。  金属製のアタッシェケースはほんの一瞬、海面を漂い、それからゆっくりと沈み始めた。大きな空気の塊をブクリと水面に吐き出し、夜の水中で魚の腹のように青白くきらめき——そのまま見えなくなった。 「……俺はまた生き残っちまった」  猿渡哲三はオールを掴《つか》んだ。足元の砂の山に右足の先が埋まっていた。 「おい、信子……俺はまた生き残っちまったよ」  猿渡は大声でそう言うと、マメのできた掌がヒリヒリと痛むのを楽しむかのように、陸地に向かってゆっくりとオールを動かし始めた。  彼は老人だった。だがまるで、たった今生まれたばかりの赤ん坊のような気分だった。      8  男は葉子のすぐ脇に立ち、喘《あえ》ぐように走る女の姿をじっと見つめていた。 「喜んでください。11時には誰も死にませんでしたよ」  女は答えなかった。  女は完全に疲れきっていて、意識が朦朧《もうろう》となっているように見えた。走っている姿はひどくぎごちなく、およそプロのランナーのようではなかった。にもかかわらず——男は女の姿をつくづく美しいと思った。  少年のように短い髪はくちゃくちゃに乱れてもつれ合い、髪の束が日焼けした額にべっとりと張り付いていた。整った顔は苦痛に歪《ゆが》み、端から唾液《だえき》の流れる唇は酸素を求めて激しく開閉を繰り返していた。  もちろんそれは苦しみの表情だった。だがそれは、性的な快楽に溺れる女のそれのようにも見えた。  皮下脂肪のない褐色の皮膚の下ではまるで精密機械のように、すべての筋肉繊維が規則正しい伸縮を繰り返していた。噴き出した汗が筋肉の割れ目に沿っていくつもの小さな川を作り、色褪《いろあ》せた洗いざらしのジーパンのウェストに流れ込んでいた。小さな乳房を被ったスポーツ用のブラジャーは汗と水を吸って皮膚に張り付き、その形を完全にあらわにしていた。太腿《ふともも》の付け根で切断されたジーパンもやはり水分を多量に吸い込み、絞ればいくらでも水が出そうだった。  そして女の息遣い——もはやそれは長距離走者の息遣いではなく、性的な興奮の中で女の吐き出すそれそのものだった。  これなのだ。男は思った。ボクが見たかったのは、ボクが聞きたかったのは、まさにこれなのだ。 「残りのアタッシェケースはあとひとつだけです。どうですか、ヨーコ先生? 最後まで走り切れそうですか?」  女は答えなかった。  通算して70�を走り抜いた今、たぶんもう答える力が残っていないのだろう。今はただ、残りの5�を走り抜くことだけにすべての神経を注いでいるのだろう。だが彼は女の声が聞きたかった。今、すぐに聞きたかった。 「ロードレースにはアップダウンがつきものです。ちょっと傾斜をつけてみましょう」  そう言うと男はリモコンを操作して、ランニングマシンのベルトの前方を持ち上げてみた。それはほんのわずかな傾斜に過ぎなかったが、とたんに女の足の動きがガクンと鈍り、まるで後ろから引っ張られてでもいるかのようにベルトの上を後退していった。 「……ああっ……ずるいっ」  女が呻《うめ》くような声を出した。「……約束が……違う……じゃないかっ!……」  男は歓喜し、さらにベルトの傾斜を強くした。女の呼吸が一段と激しく乱れた。 「やめてっ!……落ちちゃう……」  女が悲鳴にも似た声を上げた。ベルトを蹴《け》った足が今にもランニングマシンから落ちてしまいそうだった。  いい気分だった。女を——いつも完全で、強く、毅然《きぜん》としていて、誰にも付け入る隙を見せないあの朝香葉子を——ロープでベッドに四つん這《ば》いに縛り付け、背後からヴァイブレーターで犯し、淫《みだ》らに乱れさせているような、そんな気分だった。 「ああっ、ダメっ……やめてっ……元に戻してっ!……」 「ラストスパートです。頑張ってください」 「……畜生っ……覚えてろっ……」  静かな部屋に響く女の激しい息遣いをしばらく聞いてから、男は満足してベルトの傾斜を元に戻した。それから償いのつもりで、ほんの少し、今度は下りの傾斜をつけてやった。息も絶え絶えになっていた女が、たちまち息を吹き返したのがわかった。 「ヨーコ先生、頑張ってください。最後のアタッシェケースは先生にとってすごく大切ですよ。それは先生と関係がある場所にあるんですから」  その言葉に女は喘ぎながら振り向き、男の目を強く見つめた。その目にはまた、いつもの強さが戻っていた。 「それは……どういう、ことなのっ!」  荒く激しい呼吸の合間に女が叫んだ。「まさか……まさか……本当に、わたしのアパートに……あれがあるわけじゃ……ないでしょうねっ……」 「さあ? どうですかね」 「……どうなの?……答えなさいっ!……どうなのよっ!」  男は答えなかった。ただ、愛する女の引き締まった腹筋が、必死に喘ぐのを見つめるだけだった。  本当は女の姿をビデオテープや写真に残しておきたかった。喘ぎながら発せられる声をデジタルディスクに録音しておきたかった。だがそんなことには、今は何の意味もなかった。たとえそれをしたとしても、自分がそれを見たり聞いたりすることはもうできないのだから。  ——至福の時間はまもなく終わる。まもなく、永遠に終わる。  男子中学生がアイドルの水着写真を——まるでビキニの水着の向こう側に隠されたものを透視できるとばかりに凝視するように——男は疾走する女の全身を凝視した。  もう思い残すことはなかった。      9 「ヨーコ先生、いよいよラストです……あと100m…………………………あと50m…………あと30m……20m……10m……終わりです」  その声を聞いた瞬間、全身の筋肉が一気に弛緩《しかん》した。葉子はバランスを失ってランニングマシンの後方に投げ出され、床の上にぶざまな姿で転がった。精神の呪縛《じゆばく》から解き放たれた肉体が猛烈な痛みと苦しみをあらわにし、呻き、喘ぎ、悶え苦しみながら床をのたうちまわった。何とか立ち上がろうと俯《うつぶ》せになったが、それ以上の力は入らず、そのまま車に轢《ひ》かれたカエルのような格好で力尽きた。同時に、意識が急速に遠のいていった。  ぼんやりとした意識の中で男の腕が背後から自分を抱き起こし、そっと仰向けにするのがわかったが、葉子は激しく喘ぐばかりで抗うすべがなかった。やがて葉巻の匂いのする息が近づき、自分の口がほかの人間の口で塞《ふさ》がれた。同時に他人の柔らかな舌が口の中に深く押し入って来た。 「……うむむっ……ぶぶぶっ……」  葉子にはどうすることもできなかった。ただ呼吸を確保するために鼻孔を膨らませただけだった。  男の舌が口から出ていき、その腕が自分を床に戻すのを感じながら、葉子の意識は再び薄れていった。火照った体の熱が冷たい床にどんどん吸収されていった。それがたまらなく心地よかった。ほんの一瞬、意識が完全に消えた。けれど——眠ってしまうわけにはいかなかった。  そう。眠ってしまうわけにはいかなかった。  葉子は目を開いた。激しく喘ぎながら、目の前に立ち尽くす男に「アタッシェケースは……どこにある?」ときいた。そのあとで思い出したかのように手の甲で唇を拭《ぬぐ》った。  男は優しく微笑んだ。それから、こちらに背を向けて広い部屋の隅に向かい、いくつも並んだクロゼットのひとつを開いた。  葉子は汗の流れる首をもたげた。  そこに、あの銀色のアタッシェケースがあった。 「これが午前0時に爆発する最後のアタッシェケースです」  静かな口調で男が言った。 「……なっ……何だって?」  火照った頬が一気に冷たくなっていくのを覚えながら葉子は叫んだ。 「ヨーコ先生は一刻も早く起き上がって、この家から逃げ出してください」  男は腕に嵌《は》めた時計を見た。「爆発まで、あと10分たらずです」  葉子は体を起こそうとした。まるで肉体が自分のものではないかのような感じだった。だが何とかそれに成功し、フラフラと立ち上がった。瞬間、目の前が真っ暗になったが、膝《ひざ》に両手を突いて必死で持ちこたえた。 「サトル……あんたはどうするつもり……?」  喘《あえ》ぎながら葉子がきいた。立っているのが精一杯だった。 「ボクを気遣ってくれるんですか? 嬉《うれ》しいな。だけどお気遣いは無用です。どうぞ、ボクのことは放っておいてください……早くしないとあれが爆発してしまいますよ」  葉子は男の顔を見つめた。 「あんた……ここで……死ぬつもりなの?」  男はとても子供っぽい顔つきをしていた。目鼻立ちはそれなりに整っていたが、冷たい感じではなく、どちらかと言えば甘えん坊の子供のようだった。 「あんた……自殺するつもりでいるの?」  葉子が繰り返し、男は無言で頷《うなず》いた。  瞬間、怒りが、まるで電気が走ったかのように蘇《よみがえ》った。怒り——そう。それはかつて感じたことのないほどの、猛烈で、凄《すさ》まじい怒りだった。  怒りは、消耗しきった肉体の細胞を突き動かした。 「ふざけるなっ!」  葉子が叫び、男がビクッとして後ずさった。 「あんた、自分のしたことがわかってるのっ! 死ねばそれで済むと思ってるのっ! バカ野郎っ! ふざけんじゃないよっ!」  葉子は自分でも信じられないほどのしっかりとした足取りで男に近づき、渾身《こんしん》の力を込めてその鳩尾《みぞおち》に拳《こぶし》を突き入れた。低く呻いて体を折った男の腕を鷲掴《わしづか》みにし、「一緒に来いっ!」と叫びながら部屋の出入口に突き飛ばした。立ち尽くす男を一瞥《いちべつ》し、足をもつれさせながらソファの上にあった自分のダウンジャケットに駆け寄り、汗で濡《ぬ》れた体にじかに羽織った。自分に歩み寄ろうとする男に「動くなっ、バカ野郎っ!」と怒鳴り、まるで猫の子を掴むように男の背中を掴んだ。 「さっさと歩けっ!」 「ちょっと待ってください、ヨーコ先生。少し冷静になって……」 「うるさいっ、黙れっ!」 「……でも」 「黙れったら黙れっ! このイカレ野郎っ! そんな簡単に死んでもらうわけにはいかないんだよっ! あんたにはこれから苦しみ抜いてもらわなきゃならないんだよっ!」  葉子は男の後ろから背を突き飛ばしながら部屋を出、黒光りする長い廊下を歩き、広々とした階段を下りた。 「この家に今、ほかに誰がいる?」 「……誰もいません」 「お母さんや家政婦さんたちはどこにいるの?」 「母は旅行に出ています。住み込みの者たちもみんな外出させました……今、家にいるのは先生とボクだけです」 「嘘じゃないだろうな?」 「嘘じゃありません……ねえ、ヨーコ先生、ボクはここで死ぬと決めて……」 「黙って歩けっ!」  そう怒鳴った瞬間、男の手が葉子の腕を振り払った。葉子がよろけた隙に、男は今来た廊下を引き返しかけた。 「待てっ! 逃げるなっ!」  葉子は慌てて男の腰にしがみついた。 「離してください!」  男は叫びながら、腰にまわされた腕を振りほどこうともがいた。瞬間、後ろに振られた男の肘《ひじ》が葉子の顎《あご》を直撃した。  目が眩《くら》んだ。舌を噛《か》み、口の中に血の味が広がった。朦朧《もうろう》となってよろめいた時、今度は左目に男の拳が、バキッという凄まじい音をたててめり込んだ。目の前が真っ暗になり、半ば気を失いながらのけ反る。髪が鷲掴みにされる。同時に、腹部に深々と拳が突き入れられ、背骨にまで達する衝撃が葉子の全身を貫く。 「……ううっ」  思わず葉子は体を折った。口から胃液が溢《あふ》れ、下半身から力が抜けた。だが葉子は倒れなかった。そのまま男の胸に飛び込むようにしてすがりつき、なおも葉子から逃れようともがく男の股間《こかん》を、膝で思い切り蹴《け》り上げた。 「ひっ!」  男が呻《うめ》いて床に跪《ひざまず》いた瞬間、葉子は俯いた男の顎の先端を、ランニングシューズの爪先で力の限りに蹴り上げた。ボクシングのアッパーカットをくらったかのように顔が天井を向き、男はそのまま後ろ向きにもんどり打って倒れ込んだ。  格闘技の経験はなかった。だが不思議なことに、葉子にはどうすればいいかがわかっていた。廊下に横たわり、呻きながら両手で顔を覆う男の腹部を、葉子は床も踏み抜くほどの力で踏み付けた。 「うっ……げっ」  顔から手を離して腹を押さえる男の顔を——その鼻の辺りを——ゴールマウスに向かってサッカーボールを蹴るストライカーのように、渾身《こんしん》の力で蹴飛ばした。  首の骨が乾いた音をたて、男は床の上で悶《もだ》えた。鼻と口から鮮血が溢《あふ》れ始めていた。 「畜生っ……手間取らせやがってっ!」  吐き出すように言った自分の口からも血が溢れていた。葉子は腕時計を見た。殴られた左目は焦点を結ばなかったが、時計の針が11時57分を指しているのはわかった。 「ああっ……もう時間がない」  男をここに残し、ひとりで走ればまだ間に合うはずだった。そうだ、ひとりで逃げよう。今なら間に合う。今、逃げれば生きてお母さんに会える。こんな男はここで死んでしまえばいいんだ。こんな男のために死にたくない。お母さんに会いたい。死にたくない。お母さんに会いたい。  葉子は決意した。それに要した時間は3秒か4秒だった。 「……畜生っ」  そう呻いて、葉子は朦朧としている男の襟元を鷲掴みにした。「おいっ、歩けっ!」血の混じった唾《つば》を飛ばして怒鳴った。  たとえどれほどの悪人であろうと、人を見殺しにすることはできない。それが葉子の下した結論だった。  磨き上げられた廊下に男をずるずると引きずるようにして、葉子は無我夢中で玄関に向かった。玄関のたたきに落ちた瞬間、男は低く呻いて意識を取り戻したが、もはや抵抗する素振りはみせなかった。 「爆発するぞっ! 早く歩けっ!」  葉子は男の体を必死に引きずって花崗岩《かこうがん》の小道を歩き、寺の山門のような大きな門に向かった。だが、葉子と男が門にたどり着く前に、古く巨大な家の内側で凄まじい爆発が起きた。      10  夜の闇を真昼のような光が覆った。耳の穴の中で爆竹が破裂したかのような轟音《ごうおん》が響き渡り、地面が激しく打ち震えた。直後に猛烈な熱風が、なぎ倒された樹木とともに押し寄せ、葉子は紙くずのように吹き飛ばされ、ぐるぐると回転しながら古い木の門に叩《たた》きつけられた。  体を貫く激痛に呻きつつも、必死に目を開く。門柱にしがみついて、声にならない声を上げる。根こそぎにされた巨大な松の樹がすぐ脇の白壁に叩きつけられ、古い壁を押し倒す。それよりはいくらか小さな樹木が、やはり根こそぎになって門の遥《はる》か上を飛び越えて行く。地を転がった男が門柱に押し付けられて顔を歪《ゆが》めている。目の前にあった家の2階部分が完全になくなり、バラバラになった無数の木材が火柱に吹き上げられて夜空に舞っている。何か巨大な物体が池に飛び込んで水柱を上げ、太い柱が葉子たちのいる門の真上に落下してそれを叩き潰《つぶ》す。多量の土砂が、門の屋根から落ちた瓦《かわら》と一緒になって周りに降り注ぐ。葉子は門柱の根元に必死でしがみつき、わけのわからない声を上げるばかりだった。  最初の大きな爆発のあと、さらに小さな爆発が2度ほど起こり、やがてそこから一気に炎が噴き上がった。公園のように広い敷地をもった和智家は瓦礫《がれき》の山と化した。 「ヨーコ先生……大丈夫ですか?」  サトルの声がした。  葉子は門柱にしがみついたまま男のほうに顔を向け、必死で頷《うなず》いた。男は泥だらけになって、無数の樹木の枝と一緒に塀の下に転がっていた。 「怪我はありませんか?」  再び男の声がしたが、葉子には自分の体がどうなっているのかがわからなかった。首を動かすと襟元から土砂や木片が流れ込んできた。いつのまにか、口の中にもたくさんの土が入っていた。目が猛烈に痛み、涙が溢れた。  葉子は血の混じった唾液《だえき》と一緒に口の中の土を吐き出した。恐る恐る自分の手足を見る。門柱に叩きつけられた体が鈍い痛みを発し、剥《む》き出しの膝頭《ひざがしら》からは血が流れていたが、大きな怪我をしている様子はない。 「……大丈夫……みたい。そっちはどうなの?」 「ボクも大丈夫そうです……」  何本もの柱が突き出した池からは湯気のような煙が立ちのぼり、ショックで死んだ錦鯉が水面に何匹も浮いている。 「誰か巻き添えになった人はいないかしら?」 「さあ……どうでしょう?」  男がよろめきながら立ち上がると、体にまとった土砂がザラザラと落ちた。おぼつかない足取りで葉子に近づき、手を差し出す。葉子はその手にすがりつくようにして立ち上がった。全身の筋肉が悲鳴を上げた。 「皮肉なものですね」  泥で汚れた葉子の顔を見つめて男が笑った。「結局、ヨーコ先生はボクの命だけを救ったんですよ」  葉子は答えなかった。ただ巨大な炎を上げる家の残骸《ざんがい》を見つめただけだった。  頬が燃えそうに熱かった。 [#改ページ]   エピローグ  時限爆弾を内蔵した12個のアタッシェケースのうち、12月22日に辻堂駅前で1個が爆発し、7個がクリスマス・イヴに爆発を起こした。  辻堂の爆発では44人が死亡し、110人が重軽傷を負った。クリスマス・イヴの正午にあった本厚木のイタリア料理店の爆発では、爆発とそれにともなう火災によって52人が死亡し、104人が重軽傷を負った。午後2時の鎌倉のマンションの爆発では、マンションの居住者や付近の住民、さらに近くを通行中の人など、あわせて84人が死亡し、224人が負傷した。4人はいまだに不明のままだった。東京湾をクルーズ中の客船で午後3時に起きた爆発では誰ひとり助からず、乗船していた乗客と乗員130人全員が死亡したと推測された。午後4時に平塚のサーカスで起こった爆発では観客やサーカス団員、会場関係者など889人もの人が死亡し、3046人が重軽傷を負い、12人が行方不明になっている。午後6時に横浜のデパートのオモチャ売り場であった爆発では、買い物客や店員など49人が死亡し、121人が負傷し、3人の行方がいまだにわからない。午後8時にあった横浜郊外の自然公園の爆発では男性ひとりが死亡したが、午前0時に平塚の住宅で起きた爆発では死んだのは池の錦鯉と、その家に飼われていた3匹の猫だけだった。  アタッシェケースをバラ撒《ま》いた男は12月25日の未明に朝香葉子によって警察に突き出された。最後に爆発のあった平塚の大邸宅に住む40歳の男で、警察の取り調べに対し男は、犯行の動機を「ただの暇つぶし」とだけ答え、その後は黙秘を続けている。男は湘南地区では有数の資産家のひとり息子で、有名私立中学を卒業後は進学はせず、いくつもの会社の経営陣に名を連ねてはいるものの実際の仕事に就いたことはなかった。  警察は男を殺人罪に問う意欲を見せているが、弁護団は男には殺意はなく、殺意を持っていたのはアタッシェケースを現場に放置した人間だとして徹底的に争う構えをみせている。もし殺人罪を裁判官が認めれば男を死刑にすることも可能だが、そうでなければどれほど複数の罪名を重ねても男はいずれ刑務所から出て来ることになる。一緒に暮らしていた男の母親は、事件のあと、海外に移住してしまった。問題のアタッシェケースの製造元や入手経路は依然として不明のままである。  警察はこの男の取り調べを続けると同時に、この男がいったい誰に時限爆弾の入ったアタッシェケースを贈りつけ、いったい誰がそれを爆発現場に残していったのかの捜査を開始した。しかし、男は黙秘を続け、証拠物件の宝庫だったはずの男の家は跡形もなく吹き飛ばされてしまった。有力な目撃情報もなく、捜査は難航するかに思われた。だが、男の話を記憶していた朝香葉子の証言によって、アタッシェケースを受け取った人間の所在は次々に明らかになっていった。  事件から3日後の27日には鎌倉の高級マンションに住んでいた14歳の男子中学生が逮捕された。この中学生は新宿をウロついていた時に家出人としてすでに保護されていたが、警察の取り調べに対して、自分が自宅の押し入れにあのアタッシェケースを放置したことを認めた上で、「地球のためには人間なんて滅びてしまったほうがいいんだ」と言った。爆発で父も母も死んでしまったが、涙を見せるようなことはなく、食欲もあるという。  翌日の28日には、本厚木で爆発したアタッシェケースを受け取った飲食店店員の名が浮上した。だが、彼は本厚木の爆発ですでに死亡が確認されていた。同日、横浜市郊外の自然公園でバラバラの死体となって発見された男性が、アタッシェケースを受け取った50歳の元サラリーマンだったことが判明した。警察では、会社を解雇されたこの男性が人生を悲観し、アタッシェケースを使って自殺したとみている。  さらに翌日の29日にはクルーズ客船の船内にアタッシェケースを置き去りにしたとして、この船を経営する会社に勤務する35歳の男が逮捕され、その翌日の30日には平塚のサーカス会場にアタッシェケースを放置した容疑で横浜市に住む23歳の出張SMクラブの従業員が逮捕された。このSM嬢は、「あたしは不幸の循環の代表として幸福の循環を破壊しただけだ。あたしにはその権利があるんだ」と、うそぶいているという。  大《おお》晦日《みそか》の午前中には横浜のデパートのオモチャ売り場にアタッシェケースを放置した警備員が逮捕され、事件に関係したと思われるすべての人物が年内に明らかになった。  翌年も、その翌年も、さらにその翌年もクリスマスはやって来た。だが、クリスマスの繁華街がきらびやかなイルミネーションに彩られることはなくなったし、街のいたるところからクリスマス・ソングが流れているというようなこともなくなった。若い恋人たちが豪華なプレゼントを交換し合い、洒落《しやれ》たレストランで慣れない食事をし、シティホテルで一夜を過ごすということもめっきりと少なくなった。かつてプレゼントに使われたような商品の売上は激減し、クリスマス・ケーキの売上も大きく落ち込んだ。クリスマスだからといって親が子供に高価な物を買い与えるという習慣もなくなり、クリスマス商戦という言葉は死語になりつつあった。当然のことだろう。この日は、多くの人々の命日になってしまったのだから……。 『隣人愛』という言葉は、この日に死んだ——そう評論する人たちがいた。  それが決して大袈裟《おおげさ》に聞こえないぐらい、あの事件は人々に大きな衝撃を与えた。なぜなら……あの事件はひとりのおかしな人間が引き起こした事件ではなく、善良な、ごくありふれた、どこにでもいる隣人たちが引き起こした事件だったのだから。  毎日のように通勤電車に乗り合わす人々。顔を合わせるたびに挨拶《あいさつ》を交わし合う隣人たち。職場や学校でともに過ごす人々。そういうありふれた人々の中に、平気な顔をしてどす黒い悪意が息づいている。  悪意は自分のすぐ隣で笑っている——人々はそれを知ってしまった。  知恵の木の実を食べてしまった人類がもはや後戻りはできないように、知ってしまったことを知らなくなることはできない。  かつて敗戦の焼け野原から立ち上がった日本人は、今回は立ち直ることができないかもしれない。ある意味で、あの12個のアタッシェケースは、かつて都市を襲ったB29の大編隊や広島や長崎に投下された原子力爆弾以上の衝撃を、この国の人々に与えたのだ。  もはや誰も信じることができなくなった人々にとって、唯一の救いは朝香葉子という女性の存在だったかもしれない。  犯人逮捕とその後の警察の捜査に大きな貢献をした朝香葉子は警視総監賞の授与を打診されたが、それを辞退した。彼女は1度だけ記者会見を開いてマスコミの質問に応じた。それは非常に簡潔で素っ気ないものであり、それ以降はどんな団体からの、いかなる質問にも応じていない。  その後、いくつかのタレント事務所が高額の契約料を引っ提げて彼女の獲得に乗り出したが、いずれも成功していない。複数の出版社や新聞社が手記を依頼したが、彼女はそれも断った。政権政党を含むいくつもの政党が出馬の要請をしたが、それにも応じなかった。講演会の依頼もかなりの数にのぼっているが、朝香葉子がどこかで講演したという事実もない。  彼女は今も平塚のアパートに母親と暮らし、近くの工場でパートタイムの工員として働きながら英会話を教えている。早朝にはほとんどいつも、平塚海岸を走る彼女の姿が見られるという。  それから何年もの年月が過ぎたが、クリスマスが訪れるたびに人々は、あの忌まわしい事件を思い出した。そして同時に、あの日、見知らぬ人の命を救うために歯を食いしばって疾走を続けた女性がいたということを思い出した。 [#改ページ]   あとがき 『絶望的なハッピーエンド』  いつだったか、友人のひとりが僕の小説について、そう言ったことがあった。  おかしな言葉だが、僕はその言葉の響きが気に入った。  僕の書く小説には救いがないとよく言われる。どうしようもなく陰鬱《いんうつ》で、せつないと言われる。ある意味ではそのとおりなのかもしれない。確かに、僕の小説のラストシーンではたいがい、主人公の目の前に月のない夜の荒野が広がっている。物語はそこで終わってしまうが、作品の中の主人公はたぶん、これから、その荒野をたったひとりで、水もテントも食料も持たずに歩き続けるのだ。数百�先、あるいは数千�のかなたを目指して歩き続けるのだ。その姿はある意味で、ハッピーエンドとは対極に位置している。  彼らがどうなるのかは、著者である僕にもわからない。ただ僕は、主人公たちがこれから、その果てしない荒野を歩き続けるという意志を持っていることを知っている。絶望だけが広がる荒野を歩き通すという決意を抱いていることを知っている。処女作である『履き忘れたもう片方の靴』のヒカルもそうだったし、『僕たちはすぐに、いなくなる』のヒロミチも、『いつかあなたは森に眠る』の≪わたし≫も、『出生率0』のジュンもそうだった。『死者の体温』の連続殺人鬼・安田裕二も、『処刑列車』の比呂美も、『アンダー・ユア・ベッド』のストーカーの青年・三井直人も、『殺人勤務医』の中絶専門医・古河亮もそうだった。そして、この本の主人公である朝香葉子や猿渡哲三もまた、意志だけを頼りに真っ暗な荒野を歩き通そうとしているのだ。  ——絶望的なハッピーエンド。  希望など、どこにも、絶対にない。方向を示す星も見えなければ、辺りを照らすわずかな月明かりさえ見えない。けれど、人はどっちみち最初からたったひとりで生まれてきたのだし、たったひとりで死んでいくのだ。いったい何を恐れる必要がある?  真っ暗な夜の荒野を、誰の手も借りず、助けも求めず、たったひとりで歩き通そうとする人間の中には、その人間にしかわからない幸福が存在する。間違いなく、存在する。とても小さく、脆《もろ》く、はかなく、微かではあるが、僕はその幸福の存在の確かさを書き続けたい。  太平洋戦争と呼ばれる戦争では、2525人の海軍兵士と1388人の陸軍兵士が特別攻撃隊員として死亡した。作品中に登場する23歳の特攻隊員の遺書は実在するが、かなり以前にテレビのドキュメンタリー番組で流れたものを書き写したものなので、正確さに欠ける可能性がある。無断で使わせていただいたが、どなたが書いたものなのかもわからない。もし知っている方がいたら、教えていただければ幸いである。  この小説は二〇〇一年九月十一日以前に書かれたものであるが、世界を震撼《しんかん》させた同時多発テロ事件によって発表の場を失っていた。  今回、発表にこぎつけたのは、角川書店の佐藤秀樹氏と本田武市氏のご尽力によるところが大きい。両氏には心よりの感謝を捧げたい。   二〇〇二年七月 [#地付き]大 石  圭   角川ホラー文庫『自由殺人』平成14年9月10日初版発行