目次 死者の奢《おご》り 他人の足 飼育 人間の羊 不意の唖《おし》 戦いの今日 解説(江藤淳) 死者の奢《おご》り  死者たちは、濃褐色《のうかっしょく》の液に浸って、腕を絡《から》みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴《な》じみにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向って凝縮しながら、しかし執拗《しつよう》に躰《からだ》をすりつけあっている。彼らの躰は殆《ほとん》ど認めることができないほどかすかに浮《ふ》腫《しゅ》を持ち、それが彼らの瞼《まぶた》を硬く閉じた顔を豊かにしている。揮発性の臭気が激しく立ちのぼり、閉ざされた部屋の空気を濃密にする。あらゆる音の響きは、粘つく空気にまといつかれて、重おもしくなり、量感に充《み》ちる。  死者たちは、厚ぼったく重い声で囁《ささや》きつづけ、それらの数かずの声は交りあって聞きとりにくい。時どき、ひっそりして、彼らの全《すべ》てが黙りこみ、それからただちに、ざわめきが回復する。ざわめきは苛《いら》立《だ》たしい緩慢さで盛上り、低まり、また急にひっそりする。死者たちの一人が、ゆっくり躰を回転させ、肩から液の深みへ沈みこんで行く。硬直した腕だけが暫《しばら》く液の表面から差出されてい、それから再び彼は静かに浮かびあがって来る。  僕《ぼく》と女子学生は、死体処理室の管理人と医学部の大講堂の地下へ暗い階段を下りて行った。階段の磨《ま》滅《めつ》した金属枠《きんぞくわく》に濡《ぬ》れた靴底《くつぞこ》が滑り、そのたびに女子学生は短かい声をたてた。階段を降りきるとコンクリートの廊下が低い天井の下を幾たびも折れて続き、その突きあたりのドアに死体処理室と書きこんだ黒い木札がつりさげてあった。ドアの鍵穴《かぎあな》に大きい鍵を差しこんだまま、管理人は振りかえって僕と女子学生を検討するように見つめた。広いマスクをつけ、ゴムびきの黒い作業衣を着こんだ管理人は小《こ》柄《がら》でずんぐりしてい、骨格が逞《たくま》しかった。聞きとりにくい声で管理人が何かいったが、僕は頭を振り、管理人のゴム長靴をはいた頑丈《がんじょう》な両脚を見おろした。僕も長靴を履くべきだったのかもしれない。午後からは忘れないで履いて来よう。女子学生は事務室で借りた大きすぎるゴム長靴を履いて歩きにくそうだったが、額にたれた髪とマスクの間で鳥のように力強い光のある眼《め》をしていた。  開かれたドアの向うから夜明けの薄明に似た光と、濃くアルコール質の臭《にお》いのする空気が、むっと流れ出て来た。その臭いの底に、もっと濃く厚ぼったい臭い、充満した重い臭いが横たわっていた。それは僕の鼻孔の粘膜に執拗にからみついた。その臭いが僕を始めて動揺させたが、僕は白っぽい光のみちた部屋の内部を見つめたまま、顔をそむけないでいた。 「マスクをかけな」と管理人が語尾を不自然に明瞭《めいりょう》に発音していった。  僕は看護婦に着せてもらった作業衣のポケットを探り、マスクを取りだして急いでかけた。乾いたガーゼの匂《にお》いが激しくした。ドアの内側の把《とっ》手《て》を握ったまま、管理人が振りかえり僕に顎《あご》をしゃくっていった。 「今から怖《おじ》気《け》づいたのかい?」  女子学生は意地悪な眼で僕を見、僕は顔がほてるのを感じながら白いタイルを敷きつめた広い室内へ入って行った。靴が高い音をたて、それは部屋の壁に複雑に反響し、濃密な空気に鈍い切口の罅《ひび》を入れた。  壁はすっかり白い石灰質の塗料を吹きつけてあり清潔だったが、不自然に高い天井には所どころ脂色《やにいろ》の汚点があった。部屋の半分はタイルを敷きつめた床で、そこには四基の解剖台が抽象的な平板さでひっそり立っていた。僕はその一つに近づき、表面に張られた大理石が柔かい艶《つや》をもって光り汗ばんでいるのを見た。両掌をその上に置き、僕は正面の広い壁に沿って部屋の半分を占めている長い水槽《すいそう》を見つめた。それは内部を幾つかに区切られてい、一米《メートル》ほどの高さの縁《ふち》は床と同じ質のタイルで張ってあり、小さい区切りごとに揚蓋《あげぶた》が附《つ》いていたり、いなかったりした。そして濃褐色のアルコール溶液に浸って、そこには一面に彼らが浮かんでいた。  僕はそれを見つめたまま立っていた。羞恥《しゅうち》からのほてりが皮膚の奥の根深いところで、しこりのように固まり、そのまま熱くひそんでいた。僕は顔を半ば隠してしまう広いマスクの上から両頬《りょうほお》に掌を押しあててみた。息をつめて彼らを、僕の肩ごしに女子学生は見つめ、それから敏捷《びんしょう》に小さい身震いをした。 「照明が良くないな、電灯をつけるほどでもないが」と管理人がいった。「朝から電灯をつけると事務室がうるさいからね。文学部でもそうだろう?」  僕はうなずいてから高い天井の隅《すみ》の細長い天窓を見上げた。汚れたガラスの向うから、白い光が水っぽく差しこんでいた。冬の薄曇りの朝のようだ、と僕は考えた。こんな光の朝、僕はよく霧の中を歩いたものだった。動物のように口の中へしのびこみ膨れあがる霧に喉《のど》をくすぐられて笑ったり咳《せ》きこんだりしながら。僕は落着きが戻《もど》って来るのを感じて、水槽に視線をかえした。白い光の中で、死者たちはじっとしていた。僕は彼らの裸の皮膚に天窓からの光が微妙なエネルギーに満ちた弾力感をあたえているのを見た。あれは触れた指に弾んだ反撥《はんぱつ》を感じさせるだろうか。脚《かっ》気《け》の腓《ふくらはぎ》のようにぐっと窪《くぼ》むのかな。 「冬の光みたいだな」と僕はいった。  しかし天窓の向うには初夏のあざやかな光があふれてい、明るい空と澄んで明晰《めいせき》な空気があるのだ。僕は銀杏《いちょう》の茂りの下を歩いて朝の敷石道を医学部の事務室まで来た。 「年中こうなんだ」と管理人はいった。「夏でも暑くなくて、いつもひんやりしている。学生が椅子《いす》を持って涼みに来る事もある」  頬の、厚い皮膚の底でほてりが融《と》けて行くのを僕は快楽的な気持で感じていた。 「ゴム手袋を肱《ひじ》の上できつく締めつけるんだ」と管理人がいった。 「アルコール液がしみこむと作業がやりにくくなるからな」  僕は赭土色《あかつちいろ》のゴム手袋を念入りに締めつけた。ゴム手袋の内側にこびりついた水滴が掌の甲や腕首を濡らした。 「洗った後でよく乾かしておけばいいんだ。看護婦の連中が怠けやがって」と管理人は剛《こわ》い毛の生えた太い掌を、手袋に突っこみながらいった。 「でも、もっと臭うのかと思った」と女子学生がいった。 「え?」と管理人はいい女子学生を振りかえった。「今のうちはね」  僕は女子学生が掌の手袋をうまく締められないでためらっているのを見、手伝ってやった。女子学生は柔かく大きい掌をしていた。 「靴は?」と管理人がいった。 「僕は昼から取換えるつもりだけど」 「やはり長靴の方がいい。アルコール液がはねこむといつまでも匂うから」とおどかすように管理人はいった。「足指の間に入るとね、むれて厭《いや》な臭いだ」  僕は管理人の言葉が聞えないふりをして、水槽に近づいた。タイルが淡く変色している水槽の縁に両手を支えて、僕はアルコール溶液に浸っている死体の群らがりを見た。始めに医学部の事務室で仕事の説明を聞いた時、事務員はほぼ三十体だろうといっていたが、死体は水槽の表面に浮いているものだけでもその数を明らかにしのいでいるようだった。 「他の死体の下に潜っているのや、底に沈んでいるのもあるのでしょう?」と僕は訊《たず》ねた。 「浮かんでいるのは比較的、新しいものだけなんだ。古いと、どうしても底に沈むから。それに解剖の実習をやる学生は上に浮かんでいる新しい死体を持って行きたがるしね」 「古い死体というと、何年くらい前なのかしら」と女子学生がいった。 「その向うの揚蓋の下にいるのは十五年ほどたっているね」と管理人は短かい腕を伸ばしていった。「下に沈んでいるのなら、ひどく古いのがいくらでもあるよ。戦争の前からこの水槽は掃除しないでそのままなんだ」 「なぜ今度、新しい水槽に移しかえることにしたんだろう」と僕はいった。 「文部省で予算をくれたからだろう」と管理人は冷淡にいった。「移したところで、どうにもなりはしないんだ」 「何が?」 「こいつらのことさ」 「どうにもなりはしないね」と僕もいった。「全くどうにもなりはしない」 「厄介《やっかい》なだけだ」 「ひどく厄介だな、ほんとに」  しかし、僕に関する限り、この仕事は厄介なだけ、ではなかった。僕は昨日の午後、アルコール水槽に保存されている、解剖用死体を処理する仕事のアルバイターを募集している掲示を見るとすぐ、医学部の事務室へ出かけて行った。僕は、自分が文学部の学生であることを不利な条件だと考えていたが、係の事務員は極めて急いでいて、僕の学生証をはっきりあらためる事もせず、すぐ僕を死体処理室の管理人に紹介し、仕事は一日で終える予定だといった。僕が事務室を出る時、英文学の教室で度たび会った事のある女子学生がドアの外で順番を待ってい、僕らは会釈《えしゃく》しあったが、その時はまだ、彼女も同じ仕事に応募したのだとは、僕は思わなかった。 「仕事は九時から始めよう」と吹きつけた塗料の斑《まだら》が暗さに馴れた眼にはっきり見分けられる高い壁に、きっちり填《は》めこまれた時計を見上げて、管理人がいった。「その前に一服するとしよう」  解剖台の一つに腰をかけて煙草《たばこ》を喫《の》みはじめた管理人に僕はいった。「あの時計は誰《だれ》のためだろう。この部屋に運びこまれる死体のためだとしか考えられないな」 「誰だってこの部屋に始めて入った男は、むだ口をききたがる」と厚くめくれた脣《くちびる》の間で煙草をぐしょぐしょに濡らした管理人はいった。 「ところが俺《おれ》は卅《さんじゅう》年もここへつとめているんだ」  女子学生が肩をすくめて声をたてないで笑い、僕は黙りこんで部屋を見まわした。入口のドアとそれに接した壁にある隣室へのドアには内側から木札がかかってい、それには赤い正確な活字体で、立入禁止、禁煙と書きこまれていた。そして水槽にはぎっしり死体がつまって沈みかかっていたり浮かび上ったりしている。それらを見ていると言葉が喉の内側で膨れあがり、こみあげてきた。 「死体が何年間もしっかりして医学部の地下に沈んでいるというのは、なんだか定《き》まりのつかない感じだろうな、当人にとっては」 「定まりはついているよ」と管理人はいった。「定まりはついているんだ。それでも、この水槽で何年も浮かんだり沈みこんだりしているのは悪い感じではないな。躰があるというのは立派なことだよ」 「僕もこの水槽に沈むかな」 「俺がうまい具合に底の方へ押しこんでやる」 「僕は廿歳《はたち》だからそんなに早くじゃないけど」 「若いのも沢山くる」と管理人はいった。「ところが、そういうのはすぐに医学部の新入生が持って行ってしまうんだ。規則を作らなきゃいけないな」  僕は作業衣の脇《わき》の穴から腕を突っこんで、学生服のポケットから腕時計を取出した。壁の時計より五分ほど進んでいて九時だった。 「仕事は今日一日で終るかしら」と僕はいった。「表面に浮いているものだけでも、かなりかかりそうだな」 「底に沈んでいる分は附《ふ》属《ぞく》病院の雑役夫がアルコール液を流し出した後で処理する。沈んでいる古いのは使いものにならないだろうし、俺たちの仕事は解剖の教材になるものだけ、向うの水槽に移すことなんだ。底には全く何が沈んでいるか知れたものじゃない」 「深いのかしら」と女子学生が死体たちの間の濃褐色のアルコール溶液を見つめていった。「ひどく深そうね」  管理人はそれに答えないで解剖台から下り、ゴム手袋をした太い両掌を打ち合わせて、だぶだぶした奇妙な音をたてた。 「ゴム手袋はしっかり乾かしておかないとべとべとしてやりきれないな」と管理人はいい、艶のない、日焼けした皮膚で包まれた頑丈な首をうなだれて、手袋の中の指を執拗に動かし続けた。  この男と一緒に仕事するのは、そんなに不愉快ではないだろう、と僕は軽い安《あん》堵《ど》の気持で思った。管理人の短かい額は深い皺《しわ》で覆《おお》われてい、それは管理人が笑う時も、刻まれたままでびくびく痙攣《けいれん》した。五十歳あたりだろう、そして殆《ほとん》ど同じように老《ふ》けこんだ妻と、工員の息子を持ってい、官立大学の医学部につとめていることを誇りにしているのだろう。時には、さっぱりした服を着こんで場末の映画館へ出かけるのだろう。 「死体運搬車を取って来る」と管理人は煙草と唾《つば》を吐き出していった。 「私も行くわ」と女子学生がいった。 「あんたには番号札と台帳を取りに来てもらう」  そして管理人は僕を振返っていった。「向うの水槽へ行って見といてくれよ」  僕は管理人たちが出て行くと隣室へのドアを開きに行った。ドアは白い塗料の粉をこぼしながら軋《きし》らないで開いたが、それを開いたまま固定する装置はなかった。僕は廊下から紙屑《かみくず》を拾って来てそれをドアに喰《く》いこませた。ドアの向うの一周り小さい部屋に新しい水槽が作られてい、それには白濁したアルコール溶液が満たされていた。高い天窓からの光が水槽を霧のように白く光らせ、死体が全く浮かんでいないそれは、広びろとしていた。僕は新しい水槽の溶液を透して底の深みを見ようとしたが溶液は不透明な膜のように光を遮《しゃ》断《だん》した。僕は靴音が高いのを気にしながら、古い水槽の部屋へ戻って行った。  管理人たちはまだ帰って来ていなかった。僕は始めて僕一人で数知れない死者たちと向いあっていた。僕は解剖台の一つの上に掌をのせ、暫《しばら》くそのままいてから、水槽へ近づいて行った。  濃褐色の溶液に浸って死者たちはじっとしていた。僕は死者たちに性別のあること、顔を溶液に突っこんで背と尻《しり》とを空気にさらしている小柄な死体が女のそれであり、揚蓋の支えに腕をからんでいる死体が男の強く張った顎をしてい、その短かく刈った頭部に腰をすりつけている死体が不自然に高く盛上って、縮れた体毛のこびりついている女の陰《いん》阜《ぷ》を持っていることに気づいた。しかし、性別はそれらの死者を殆ど区別するものではなかった。死者たちは一様に褐色をしてい、硬く内側へ引きしまる感じを持っていた。皮膚はあらゆる艶をなくしてい、吸収性の濃密さがそれを厚ぼったくしていた。  これらの死者たちは、死後ただちに火葬された死者とはちがっている、と僕は考えた。水槽に浮かんでいる死者たちは、完全な《物》の緊密さ、独立した感じを持っていた。死んですぐに火葬される死体は、これほど完璧《かんぺき》に《物》ではないだろう、と僕は思った。あれらは物と意識との曖昧《あいまい》な中間状態をゆっくり推移しているのだ。それを急いで火葬してしまう。あれらには、すっかり物になってしまう時間がない。僕は水槽をうずめた、完全にその危険な推移を終えた《物》たちを見守った。それらは確かな感じ、固定した感じを持っていた。これらは、床や水槽や天窓のように硬くて安定した《物》だと僕は考え、小さい震えのような感動が躰を走るのを感じた。  そうとも、俺たちは《物》だ。しかも、かなり精巧にできた完全な《物》だ。死んですぐ火葬された男は《物》の量感、ずっしりした確かな感覚を知らないね。  そういう事だ、と僕は思った。死は《物》なのだ。ところが僕は死を意識の面でしか捉《とら》えはしなかった。意識が終った後で《物》としての死が始まる。うまく始められた死は、大学の建物の地下でアルコール漬《づ》けになったまま何年も耐えぬき、解剖を待っている。  僕は水槽の縁に躰を擦りつけている中年の女の死体の硬い肉附きの腿《もも》をゴム手袋をした掌で、軽く叩《たた》いてみた。それは弾性のない、しかし柔軟な抵抗感を持っていた。  私の腿は生きていた間、ずっと良い形だったけど今となっては少し長すぎるかもしれないわ。  良くできた櫂《かい》のようだと僕は思いながら、その女が軽い布地の服を着こんで鋪《ほ》道《どう》を歩く姿勢について考えた。少し前屈《まえかが》みだったかもしれないな。  長く歩くとそうなったけど、いつもは胸を張っていたわよ。  乱暴にドアを開き、女子学生が小型の書類箱を抱えて入って来るのを見て、僕はうしろめたい事をしていたように、素早く水槽から離れた。続いて管理人が白エナメルを塗った運搬車を押して入って来た。  運搬車は大柄な男を載せるのに充分なだけの広さと長さをそなえていた。それは僕が盲腸の手術をした時、載せられた車附きの台を思い出させたが、もっと剥《むき》出《だ》しで、もっと白っぽくメカニックだった。運搬車にはゴムタイアを填めた小さな車が七個ついてい、柔軟に回転して、解剖台に沿って止った。管理人は先端に黒いゴムの筒をかぶせた細い竹竿《たけざお》をかついでいた。 「それは何に使うんです」と僕は竹竿を壁に丁寧に立てかけている管理人に訊ねた。 「死体を手《て》許《もと》に引きよせるのに使うんだ。もう何年もこれを使っている。これは良くできているんだ」  僕は、一度立てかけた竹竿を取りあげ、両手に軽く支えて水槽を見つめている管理人が、技術者のように自信に充《み》ちた感じ、熟練した感じを持っているのを驚きながら認めた。この仕事に誇りを持っているのだろう、子供たちに時には特別見学許可を取ってやるかもしれない、と僕は思った。しかし人間は、いろんな事に誇りを持つことができるものだな。女子学生は書類箱を新しい水槽の部屋へ置きに行ったがその置場所に迷っている様子だった。 「始めよう」と戻って来た女子学生に竹竿を渡して管理人はいった。女子学生はそれを解剖台の上に投げだした。  仕事は極めて容易だったが、一つの死体を処理しおえるためには、かなりの時間を要した。しかし注意力を常に集中している必要はなく、僕は少しずつそれに慣れていった。  水槽のなめらかなタイル張りの縁《ふち》に運搬車を横づけにすると運搬車の死体を載せる台は水槽と同じ高さだった。僕と管理人は運搬車の両側に立ち、水槽に躰を屈めて死体を一つ選び出すと、その肩と腿の上部を両手で支え、褐色のアルコール溶液のしたたる死体を持上げる。死体は硬直してい、材木のように取りあつかいやすかった。死体を背を下にして、運搬車の上に置くと、僕らはゆっくり車を押して解剖台の間を通りぬけ、新しい水槽の部屋に入り、その水槽の縁に同じように車を密着させて死体を持上げ、白っぽいアルコール溶液の中へ滑りこませる。死体はぐっと沈んで行き、すぐに静かな速度で浮かび上った。それから、女子学生が、書類箱から取出した番号札を持って屈みこみ、死体の踝《くるぶし》をしっかり掴《つか》まえ、右足に古い木の番号札が結びつけてあるものには左足の拇指《おやゆび》に、あるいはその逆の場合には右足の拇指に、それを結びつける。番号札には焼印で記号と数字が記入されていた。そして、頭部を深く水槽に突っこんで足だけ持ちあげている死体の踝を、女子学生が軽く押しやりながら離すと、死体はすっと水槽の中央へ進んで行った。それから女子学生は台帳に古い番号と新しい番号とを柔かい鉛筆で大きく書きつけるのだ。  この単純な作業の繰返しを、僕らは黙りこんで熱心にやり続けた。古い水槽と新しい水槽との間のタイル張りの床に茶褐色の濡《ぬ》れた帯ができ、その上を時々、空滑りして軋みながら運搬車はのろのろ行ったり来たりした。時には死体の中に、ひどく重いものがあったし、極めて軽いものもあった。  中年の男の死体で信じられないほど軽いものがあった。新しい水槽で伸びのびして浮かんでいるそれを、木札を取りつけるために掴まえようとしている女子学生のとまどいを見て、僕は始めてその死者が片足であることに気づいた。運搬車の台の上で寝そべっている死体を僕は、あまり注意深くは見なかったのだ。死体はどれも似かよっていて、興味を激しく惹《ひ》く個性的なものは無かったし、マスクをかけていてもアルコールの強い臭《にお》いと、その奥に沈澱《ちんでん》している粘っこい死者の臭いは侵入して来、それは時には耐えがたいほどだったから、僕らは死体から顔をそむけながら運搬した。そのために、運搬車から突き出ている死体の腕が解剖台につかえて、運搬車が転覆しかけたりした。  腕が拡《ひろ》げられたまま硬直している若い女の死者を僕らは運搬車に積上げたが、それは球体のように不安定で、すぐに滑り落ちようとした。管理人は水槽の縁に載っている死体の腕に両手をかけて折りまげた。腕は木のような音をたてて抵抗し、それから、剥出しの下腹部の上に重ねられた。管理人は、作業衣の袖《そで》に額をこすりつけて汗をぬぐい、僕は顎《あご》をしゃくってから運搬車を押した。  その死者を新しい水槽に沈めようとした時、僕の濡れたゴム手袋から、掴んだ両腿が滑り落ち、死体はアルコール溶液をはねちらした。 「気をつけてくれ」と管理人が、むっとしていった。「見ろ、俺の長靴に少しはねこみやがった」  女子学生も、作業衣に散ったアルコール溶液をゴム手袋ではらい落しながら、僕を非難にみちた眼《め》で見た。 「とても滑りやすくて」と僕はいった。「しっかり握っていたんだけどなあ」 「比較的新しいのはよく滑るんだ」と管理人は、水槽に沈んで、なかなか浮かんで来ない死体を注意深く見はりながらいった。  それから、やっと表面に出て来た死体の踝を掴むと、女子学生から番号札を受けとり、素早くまきつけて、その死体を鷹揚《おうよう》な仕方で押しやりながら管理人はいった。「番号札がとれると後が面倒だからな。手荒くあつかうといけないんだ」 「そうだな」と僕は答えたが、手荒くという言葉はおかしい気がした。骨が軋んで折れるような音をたてるほど押しつけて腕を曲げるのは手荒なことではないとこの男は思っているのだろう。それは足の、浮《ふ》腫《しゅ》のある拇指にくくりつけた木札を決して毀《き》損《そん》したり、なくしたりしないから。 「手荒なことはしない」と僕は片手で運搬車を引きずりながら陽気な感情でいった。 「大切なことだよ」と管理人はいった。  壁の時計が正午を指した時、僕らはまだ、十人の死者を新しい水槽へ移したにすぎなかった。僕らはまのびした時報を打つ時計の音を聞きながら、小《こ》柄《がら》な、しかしがっしりした死体を運搬車へ積みあげた。 「大学の構内で、時報を打つ時計はここだけなんだ」と管理人がいった。 「不思議だな」 「え?」  僕は激しい空腹を感じていた。しかし、食事を前にすると、急に食欲を失いそうな感じでもあった。 「この男は兵隊だった」と管理人が、新しい水槽に沿って停《と》めた車の上の死者を見下していった。 「戦争の終りに、脱走しようとして衛兵に撃たれたという話だった。解剖する筈《はず》だったのに、終戦で取りやめになってね。俺《おれ》はこの男が連れこまれた時のことを、よく覚えているよ」  僕は、兵隊が、細い腕首に頑丈《がんじょう》な掌をつけているのを見た。兵隊は他の死者と同じように、ごく小さく見える頭部をしていた。死者たちの頭部は、生きている者の頭部にくらべて、ずっと小さく、重要性も軽く感じられ、胸や膨れた腹部ほど切実には関心を惹かなかった。しかし、僕は強いて想像力を働かせ、この男は生きている間、おとなしい思いつめた動物のような表情をしていたにちがいない、と考えた。この男が十年ほど前のある夜更《よふ》け、激しい決意をしたのだ。 「これを終ったら食事にしよう」と管理人がいった。「番号札をつけて来てくれ」  女子学生は一人でこの部屋に残るはめになるのをおそれて、ためらっている様子だった。 「僕がつけて行くよ」 「頼むわね」と急いで僕に硬い木質の番号札を渡し、管理人についてドアの方へ歩きながら女子学生はいった。  そして僕が既に褐色《かっしょく》にそまり始めたアルコール溶液を探り、兵隊の踝を掴もうとして苛《いら》立《だ》っていると、木札はゴム手袋の指の間をすりぬけて水槽に落ちこみ、どこに行ったのか分らなくなった。僕は左手で、兵隊の踝を握ったまま、躰を押しつけあっている死体の間を探した。兵隊は僕の掌に掴まれて、硬直していた。  脱出したいだろうな、今こそ、ほんとの監禁状態なのだから。  そうでもないよ。時々そういうことをやる者たちもいるがね。  信じないな、と僕は考えた。 「昼食はパンにしますか」と女子学生がドアの隙《すき》間《ま》から頭だけ覗《のぞ》かせていった。 「木札をなくしたから、探しているんだ。すぐ行くよ。行ってから定《き》める」  君が信じようと信じまいと、明かるい褐色の皮膚をして階段を昇って行ったやつもいる。こんな所にいると、いろんな事を思いつくのだ。しかし俺はじっとしている。  兵隊の腕と脇腹《わきばら》との間に、木札は浮かんでいた。僕《ぼく》は兵隊の腰を押しやって木札を拾いあげた。兵隊は肩をアルコール溶液にぐいと沈みこませ、浮きあがる前に、ゆっくり回転した。  戦争について、どんなにはっきりした観念を持っているやつも、俺ほどの説得力は持っていない。俺は殺されたまま、じっとここに漬かっているのだからな。  僕は兵隊の脇腹に銃創があり、そこだけ萎《しぼ》んだ花弁のような形で、周りの皮膚より黒ずんで厚ぼったく変色しているのを見た。  君は戦争の頃《ころ》、まだ子供だったろう?  成長し続けていたんだ。永い戦争の間、と僕は考えた。戦争の終ることが不幸な日常の唯一《ゆいいつ》の希望であるような時期に成長してきた。そして、その希望の兆候の氾濫《はんらん》の中で窒息し、僕は死にそうだった。戦争が終り、その死体が大人の胃のような心の中で消化され、消化不能な固型物や粘液が排泄《はいせつ》されたけれども、僕はその作業には参加しなかった。そして僕らには、とてもうやむやに希望が融《と》けてしまったものだった。  俺は全く、君たちの希望をしっかり躰中に背負っていたことになる。今度の戦争を独占するのは君たちだな。  僕は兵隊の右足首を持ちあげ、形が良かったにちがいない太い拇指に、木札を結びつけた。  僕らとは関係なしに、又そいつが始まろうとしていて、僕らは今度こそ、希望の虚《むな》しい氾濫の中で溺《でき》死《し》しそうです。  君たちは政治を嫌《きら》いなのかい? 俺たちは政治についてしか話さない。  政治?  戦争を起すのは今度は君たちだ。俺たちは評価したり判断したりする資格を持っているんだ。  僕にも評価したり判断したりする資格がむりやり押しつけられそうですよ。ところが、そんな事をしている間に僕は殺される。それらの死者の中で、この水槽《すいそう》に沈めるのは、ごく選ばれた少数でしょう?  僕は兵隊の、体操選手のように簡潔で逞《たくま》しい頭部、もじゃもじゃに縮れた髪が短かく刈りこまれている、形の良い頭部を見つめた。この男は脣《くちびる》の周りに、綿密に生えそろった不《ぶ》精髭《しょうひげ》とそれにつながる乾いた皮膚とを、兎《うさぎ》が咀嚼《そしゃく》するように動かしながら、腹の底から出す強い声で話しただろう。ところが眼には、確信がなくて、ひどく卑劣だったかもしれないな。僕はF5の番号札が、拇指の背に、ぴったり固定したのを確かめると、踝を離し、兵隊の躰《からだ》を強く水槽の奥へ押しやった。ゆるやかに、巨《おお》きい船のようにゆったりして、兵隊は小さい顎をあおむけたまま進んで行った。  管理人室では管理人だけが長《なが》椅子《いす》に寝そべってい、その横に女子学生の作業衣と手袋が置かれていた。 「あの人は?」と僕は訊《たず》ねた。 「水洗場へ手を洗いに行ったよ」  僕は作業衣と手袋をはずし、丸めて木椅子の上に置くと外へ出た。ドームの暗い石畳を走りぬけ、外光の中へ入って行くと、風景は新しい光に満ちてい、空気が爽《さわ》やかだった。仕事をした後の快活な生命の感覚が僕の躰に充満した。指や掌に風があたり、それが官能的な快感を惹きおこした。指の皮膚が空気を順調に呼吸している、と僕は思った。  僕は附《ふ》属《ぞく》病院前の濃い灰色の煉《れん》瓦《が》を敷きつめた広い坂を下って行った。法医学教室の閉じた低い窓に面して広びろした柔かな葉をつけた灌木《かんぼく》が強く輝く緑色に茂り、その下枝に肩を触れながら僕は歩いた。鋪道には附属病院の入院患者が寝着のままで、厚いスリッパをはき、ゆっくり歩いていた。それは春さきの硬い水を泳いでいる鮒《ふな》のような感じだった。僕は胸をはり、深く息を吸いこみながら、歩いた。健康さが、僕の躰の中で幾たびも快楽的な身震いを起した。僕は靴紐《くつひも》を結びなおすために躰をまげ、自分があれらの死者たちから、はるかに遠くにいる、と満足して思った。自分の躰の柔軟さが喉《のど》にこみあげてくるほど感動的で新しいのだ。紅潮した頬《ほお》の上で僕の眼は濡れた椎《しい》の実のようにつやつやと光っているだろうと僕は考えた。  坂の上からギプスを躰中にはめた少年を載せた手押車を押して、中年の看護婦が下りて来、僕を追いぬいて行った。僕はズボンの埃《ほこり》をはらってから躰を起した。僕は看護婦の肩が静かに上下するのを見、少年のよくブラシをかけた頭髪が、淡い金色に光るのを見た。僕は歩幅をひろげ、彼女たちに追いついて行った。僕は明るい音にみちた言葉で看護婦や少年に話しかけたいと思いながら、暫《しばら》く看護婦に並んで歩いた。看護婦は僕に、好意にみちた微笑をむけ、僕はそれに答えるために、微笑《ほほえ》みながら少年のギプスをいれた肩に軽く指をふれた。この少年は僕を優しかった兄のようだと考え、長い間静かなもの思いにふけるだろう。  僕はそのまま数歩あるき、少年の顔を覗きこんだ。それは、少年ではなかった。固定された頭をまっすぐ立てたまま、血管の膨れた額をした中年の男が、苛立ちと怒りにみちた眼で僕を睨《にら》んでいた。僕は男の憎《ぞう》悪《お》が暗く沈んでいる眼を、それが可能な限り右横顔に引きつけられて僕を睨みつけているのを見た。  僕はそのまま立ちどまり、明るい光のあふれる空気の中を看護婦たちは進んで行った。僕は茫然《ぼうぜん》として立ってい、僕の躰一面に、急激にものうい疲れが芽生え、育った。あれは生きている人間だ。そして生きている人間、意識をそなえている人間は躰の周りに厚い粘液質の膜を持ってい、僕を拒む、と僕は考えた。僕は死者たちの世界に足を踏みいれていたのだ。そして生きている者たちの中へ帰って来るとあらゆる事が困難になる、これが最初の躓《つまず》きだ。僕はこの仕事に自分が深く入りこみすぎ、そこからうまく出られなくなるのではないか、と不吉な感情で思った。  しかし、僕は今日の午後をずっと働いて、その報酬を受けとる必要があるのだ。僕は水洗場の方向へ駈《か》け出して行き、脇腹が痛みはじめても駈けやめなかった。女子学生は、コンクリート床の上に素足で立って、水道の蛇《じゃ》口《ぐち》からの水を足に受けていた。 「なぜ走って来たのよ」と喘《あえ》いでいる僕に女子学生がいった。 「僕は若いから時どき駈けたくなるんだ」と僕はいった。 「あなたは、ほんとに若々しいわ」と笑わないで女子学生はいった。  僕は女子学生の厚ぼったい皮膚が黄ばんでいる広い顔を見た。顔一面に注意力が弛《し》緩《かん》しているように、女子学生は疲れてだらけきった表情をしていた。僕よりきっと二つは年上なのだろう、と僕は思った。 「私、艶《つや》のない皮膚をしてるでしょう?」と女子学生が、まばたかない強い眼で僕を見かえしていった。「妊娠しているせいよ」 「え?」と僕はいった。  女子学生は平気で甲の厚い足に水を流していた。僕は靴下を脱ぎ、コンクリート床に下りて隣の蛇口をひねり、水の噴出を直接に足指や踝にあてた。 「こんな事やっていいの? それで」と僕は控え目な声でいった。 「躰に悪くないのかな?」 「知らないわ」と女子学生がいった。  僕は袖をまくりあげ、丁寧に両掌をこすりつけて洗った。女子学生はすばやく石鹸《せっけん》を僕に渡してくれ、乾いているコンクリート床の縁へ上って足を陽《ひ》に干しはじめた。 「男の子には、私の感情は分らない」と女子学生はいった。  僕は頑《かた》くなに閉じた薄い脣を掌の甲で拭《ぬぐ》っている女子学生を見つめて黙っていた。 「受胎して、見っともない恰好《かっこう》になって行く自分を見ている時の感情は分らない」 「そりゃ分らないと思うけど」と僕は当惑していった。 「妊娠するとね、厭《いや》らしい期待に日常が充満するのよ。おかげで、私の生活はぎっしり満ちていて重たいくらいね」  僕はポケットから広いハンカチーフを取りだして足を拭った。「手術することだな」 「そうよ。だから手術料をかせいでいるの」と女子学生はいった。 「うんと貰《もら》えたら、一番良い部屋に入院するといいね」 「私の友達は、手術がすむとすぐ、自転車に乗って帰って来たそうだわ」  僕らは押しころした声で笑い、医学部の建物へ向って歩き始めた。 「私がもし、このままじっとしていたら、どうなると思う?」と女子学生がいった。「十箇月私が何もしないでいたら、それだけで私は、ひどい責任を負うのよ。私は自分が生きて行くことに、こんなに曖昧《あいまい》な気持なのに、新しくその上に別の曖昧さを生み出すことになる。人殺しと同じくらいに重大なことだわ。唯《ただ》じっとして何もしないでいることで、そうなのよ」 「君は病院に行って処理することにしているのだろう? その費用のために、こんな仕事をしているんだし」と僕は自信のない声でいった。「君はじっとしている訳じゃない」 「私はその人物を抹殺《まっさつ》したという責任をまぬがれないわ。彼はレスラーみたいに巨きくなる権利を持っているのかもしれないし、その事がむだなことだと定める資格が私にあるかしらね。私はまちがった事をしようとしているのかもしれない」 「君は彼を生むつもりがないんだろう?」 「ないわ」 「それなら、簡単だ」 「男の子にとってはね」と激しく女子学生はいった。「それが殺されたり、育ちつづけたりするのは、私の下腹部の中でなのよ。私は今も、それにしつこく吸わぶられているのよ。傷みたいにそれの痕《あと》が残るのは私によ」  僕は黙って、女子学生の苛立ちが手で掴《つか》める物のように僕に向って押しよせるのを受けとめていた。僕には理解できない部分が根深く、この女子学生の意識の中に居すわっているのだろう。そして、それは僕にはどんな関係も持たない。 「私はやりきれないどんづまりに落ちこんでしまったわ。自分が無傷でそこから這《は》い出る方法はありはしないのよ。私はもう自分で気にいったやり方を選ぶ自由なんかない」 「大変だな」と僕は欠伸《あくび》をかみころして、眼がむずがゆくなるのを感じながらいった。 「大変だわ」と急に白けた声で女子学生はいった。「疲れてしまうわよ」  昼食をすまし、後かたづけをする女子学生を残して僕と管理人が死体処理室へ下りて行くと古い水槽の部屋の解剖台の周りに、二人の医学部の学生と中年の教授が立っていた。僕らが近づこうとするのを教授が制し、僕らは水槽にそって立ったまま、解剖台の上を見つめた。そこには十二歳ほどの少女の新しい死体が置かれていた。死体は僕に向って広く両肢を開き、それへ教授の指導で、学生の一人が血液を凝固させるためのホルマリン液と色素を注射していた。  死体に屈《かが》みこんでいた学生が注射器を持って躰を起すと、僕はそれまで学生の白衣の背にかくされていた少女のセクスがあけひろげに、僕の前にあるのを見た。それは張りきって、みずみずしく生命感にあふれていた。それは強靱《きょうじん》に充実してい、健康でもあった。僕はそれに惹きつけられ、愛に似た感情でそれを見まもっていた。  君は激しく勃《ぼっ》起《き》したな。  僕は恥じてそこから眼をそらし振りかえって、水槽の中の死体を見た。彼らの全《すべ》てが僕の背を執拗《しつよう》に見つめていたような気がし、僕は彼らにうしろめたかった。僕は管理人をうながして、その一つを持上げ、運搬車にやや手荒に載せた。  僕らが解剖台の間を通りぬけようとした時、僕の曲げた肱《ひじ》が学生の腰に触れた。それまで僕に全く注意をはらわなかった、そのよく肥えて白い頬をした男は僕を振りかえり、鋭い声で咎《とが》めた。 「君、注意しないか。危いじゃないか」  僕は彼の丸っこい指に注射器が握られているのを見ながら、眼をふせて黙っていた。 「おい、聞えないのか」  僕は学生の顔を見あげた。彼の顔にかすかな狼狽《ろうばい》のけはいが浮かび、すぐに消えたが、彼はもう僕を咎めなかった。そして、意識した熱心さで死体に屈みこんだ。僕は少女のクリトリスが植物の芽に似ているのを素早く見た。車を再び引きながら、なぜあの男は僕を見つめて狼狽し、僕から眼をそらしたのだろう、と僕は考えた。それは僕の根深い所で陰険な不快感と結びついた。あいつは僕を、賤《せん》民《みん》のように見た。僕は、わざわざゆっくり死体をおろし、それに新しい木札を取りつけることにも時間をかけ、管理人が苛立って、僕の手《て》許《もと》を見つめているのにかまわないで木札の紐を何度も結びなおした。あの男は僕を、賤民を見る者の不快さを感じながら見ていた。そして僕を咎める気持をなくした。その上、できるだけ早くその不快感から逃れるために死体へ屈みこんだ。それも、自分のその感情が正当であることを教授と仲間に承認を強《し》いるような、明らかな、わざとらしさで注射器をかざしながら。あれはなぜだろう。あれは、どういうことだろう。  僕は紐を、しっかり締めつけると、半白の頭髪を短かく刈った死者の小さい顔を見た。それは、ある種の両棲《りょうせい》動物に似ていた。  君のことを、あの学生は、俺《おれ》たちの同類、少なくとも俺たちの側のもの、と見たんだろう。  僕が君を、運搬車に載せて運んでいたからだろうか。  ちがうとも。むしろ、君が俺たちの同類の表情、汚点のようなものを、躰中に滲《にじ》ませているからだ。始め君が管理人に対して感じた優越を考えて見ればいい。  僕は躰中が拭いきれないほど汚れているような気がし、また躰中のあらゆる粘膜が死者の臭《にお》いのする微粒にこびりつかれて強《こ》わばっているような、いたたまれない気がした。  隣の部屋でドアを開き、出て行く靴音がした。僕は水槽《すいそう》の縁《ふち》についていた手を離し、古い水槽の部屋に戻《もど》って行った。管理人は運搬車を押して先に帰っていた。解剖台には、濡《ぬ》れた麻布が覆《おお》ってあり、その傍《そば》に教授だけが残っていた。あの布の下で、あんなに生命にみちたセクスを持つ少女が《物》に推移し始めているのだ、すぐにあの少女は、水槽の中の女たちと同じように堅固な、内側へ引きしまる褐色《かっしょく》の皮膚に包まれてしまい、そのセクスも脇腹や背の一部のように、決して特別な注意を引かなくなるだろう、と僕は考え、軽い懊悩《おうのう》が躰の底にとどこおるのを感じた。  管理人と並んで水槽を覗《のぞ》きこんでいた教授が僕を振りかえって、死体を見るような眼のまま、僕の躰中を見まわした。 「君は、新しい傭員《よういん》なのか?」 「アルバイトの学生です。死体を移す仕事の間だけ来ています」と管理人がいった。  僕は曖昧に礼をし、教授の眼に好奇心に充《み》ちた表情が浮かぶのを億劫《おっくう》な気持で見た。 「え? アルバイト」と教授は横に開いた血色の良い耳を振りたてていった。「君は、ここの学生なの?」 「ええ、文学部です」 「ドイツ語?」 「いいえ。フランス文学科にいます」 「ああ」と満足に耐えない調子で教授はいった。「卒論は誰《だれ》を書くの?」  僕はためらってから、思い切っていった。「ラシーヌです。ジャン・ラシーヌ」  教授は顔中、皺《しわ》だらけにして、子供のようにだらしなく笑った。 「ラシーヌをやる学生が死体運びとはねえ」  僕は脣《くちびる》を噛《か》んで、黙っていた。 「こんな事、何のためにやっているんだ?」と教授は、強いて真面目《まじめ》な顔になろうとしながら、しかし笑いに息を弾ませていった。「こんな仕事」 「え?」と僕は驚いていった。 「死体について、学問的な興味でもあるのかね」 「お金をほしいと思って」と僕は、率直さをよそおっていった。  そして僕の予想した通りに、教授の内部で何かが衝突し、うまく行かなかった。教授は硬い表情になっていった。 「こんな仕事をやって、君は恥かしくないか? 君たちの世代には誇りの感情がないのか?」  生きている人間と話すのは、なぜこんなに困難で、思いがけない方向にしか発展しないで、しかも徒労な感じがつきまとうのだろう、と僕は考えた。教授の躰《からだ》の周りの粘膜をつきぬけて、しっかりその脂肪に富んだ躰に手を触れることは、極めて難かしい気がした。僕は疲れが躰にあふれるのを感じながら、当惑して黙っていた。 「え? どうなんだい」  僕は眼をあげ、教授の嫌《けん》悪《お》にみち苛《いら》立《だ》っている顔を見た。その背後に立って僕を見つめている管理人の顔にも、蔑《さげす》みの表情があらわなのを見て、僕は激しい無力感にとらえられた。この手ごたえだけ重い、不可解な縺《もつ》れをとくことはできないな。生きている人間を相手にしているのでは、決してそれは、やれないな。  僕は竿《さお》を取りあげて水槽に屈みこみ、壁ぎわの揚蓋《あげぶた》の下で背を半ばこちらに向けて沈みかかっている、がっしりした首筋の男の死体を引きよせようとしたが、それは動かなかった。僕は背後に、管理人と教授の眼を感じながら、竹竿を死体の下に差しいれて、押しあげようとしたが、死体は限りなく重かった。どうしたのだろうな、どこかが、引っかかっていて思うままにならない。これは、なぜ重いのだろう。  管理人が近づいて来、僕から竹竿を取りあげると、それを死体の脇の下へ深く押しいれて、二三度、軽くよじった。死者は力なく浮きあがり、竹竿を押しかえすように躰を回した。 「君には何一つうまくできないんだな。このごろの学生は定《き》まってそうだ」と管理人がいった。  僕は頑くなに、水槽へ屈みこんだまま、死者が近づいて来るのを待ち、背や首筋に、教授の執拗な視線のまといつきを感じ続けた。死者は重い荷物をささげた男のように腕の筋肉を強《こ》わばらせ、顎《あご》を突き出して近づき、僕はアルコール溶液をはねちらしながら、そのよく肥えた肩を荒あらしく捉《とら》えた。 「もっとうまく掴まえろよ」と押しかぶせるように管理人がいった。  しかし僕は午前に比べて、作業にかなり熟練していたのだ。女子学生が戻って来、仕事が順調に運び始めると午前よりずっと、能率が上った。管理人は壁に接して沈みかけているような死体を、彼の竹竿で極めて巧みにたぐりよせ、また新しい水槽で入口の側に群がっている死体を押しやって分散し、次の死体を滑りこませる作業を容易にした。三時近くなると、躰がゴムの作業衣の下で汗ばみ始め、手袋に触れる手の甲がむずがゆかった。僕らは時どき廊下に出て、作業衣を外し、躰を拭った。しかし、どうかするはずみに、冷《ひ》んやりした空気が首筋から入って来ると、悪《お》寒《かん》で身震いするほどだった。僕は空気の底に沈澱《ちんでん》する臭いにかまわないで度たびマスクを外し、鼻孔いっぱいに空気を吸いこんだ。  仕事は快調に進行し、僕らは黙りこんで、働き続けたが、時どき、作業は手洗いへ行くために中断された。僕らは作業衣と手袋をとり、揃《そろ》って廊下に出て行く。最も時間をかけて、後れて戻って来るのは女子学生だった。廊下で手持ぶさたに待っている僕に、駈《か》けて戻って来た女子学生が低い声でいった。 「男の子は良《い》いわね」 「え?」と僕はいった。 「簡単にできるでしょ。女だと面倒で厭《いや》になるわ」  僕は曖昧にうなずき、管理人が僕らの会話へ加わろうと近づくのを避けて室内へ入って行った。女子学生は執拗に僕の耳へ口を近づけるために躰をすりよせながらいった。 「トイレで蹲《しゃが》みこんでいるとね、死んだ人たちが私の剥《む》きだしのお尻《しり》を支えに来るような気がするのよ。ぎっしり私の後に死んだ人たちがかたまって、私を見つめているみたい」  僕は女子学生の濃い隈《くま》のある瞼《まぶた》やざらざらした頬《ほお》の皮膚をまぢかに見、疲れが濡れて重い外套《がいとう》のように躰を包むのを感じた。しかし僕は低い声で笑った。 「するとね」と女子学生は自分も声だけ笑いながら粗い睫《まつげ》を伏せていった。「私のお腹の皮膚の厚みの下にいる、軟骨と粘液質の肉のかたまり、肉の紐《ひも》につながって肥《ふと》っている小さいかたまりが、この水槽の人たちと似ているように思えてくるのよ」 「君はとても疲れているんだな」と僕は女子学生をもてあましていった。 「両方とも人間にちがいないけど、意識と肉体との混合ではないでしょ? 人間ではあるけれど、肉と骨の結びつきにすぎない」  《物》であるという事だな、人間でありながら、と僕は思ったが、女子学生の言葉を理解できないふりをし、手袋と作業衣とを着け始めた。僕は女子学生が、おそらくは疲れのせいで饒舌《じょうぜつ》になり、馴《な》れなれしすぎるのを厄《やっ》介《かい》に感じていた。 「思いつきにすぎないけど」と自分も作業衣の袖《そで》に腕を差しこみながら興味をなくした声で女子学生はいった。 「思いつきさ」と僕も冷淡にいった。 「おい」と新しい水槽の部屋で管理人が叫んだ。「新規の番号札は、もうこれぽっちしかないのか。来てみてくれないか」  女子学生は大きすぎるゴム長靴《ながぐつ》をばたばた鳴らして駈け出し、アルコール液のしたたりが作った褐色の帯の下で足を滑らせ、ひどく不《ぶ》様《ざま》な恰好で倒れた。起き上った時、女子学生は脣を噛みしめ、躰中をおびえが走りまわるような表情をして黙っていた。僕の喉《のど》までこみあげて来た笑いが急激に消えた。  午後五時に、表面に浮かんでいるすべての死者を僕らは新しい水槽に移し終え、附属病院の雑役夫がアルコール溶液を流し出しに来るまで、ひとまず管理人室に上って休むことにした。雨が降りはじめていた。夕暮れた空気の奥で、講堂の時計塔が霧に包まれ、城のようだった。図書館の煉《れん》瓦《が》壁《かべ》にも、半透明な霧の膜がからみつき、よく発達した黴《かび》に似ている。僕と管理人は夕食の代りの餡《あん》パンをよく食べたが、女子学生は殆《ほとん》ど食べなかった。僕らは降りつづける雨を見ながら、食後の時間を黙ってすごした。僕は自分の胃の中の消化の動きを感じていた。 「あなたには、お子さんがおありでしょう?」と不意に女子学生がいった。 「え?」と狼狽した管理人がいった。「あるよ。それがどうしたんだ」 「妊娠の初期に、精神的なショックが激しいと、良くありませんか。たとえば奇怪なものを見るとか」 「それは悪いだろうな。はっきりした事は知らないよ」と管理人は考えこんでいった。「それで?」 「いいえ」と女子学生が急いでいった。「なんという事もないけど」 「俺に子供がある事がおかしくはないだろう」と疲れて不機《ふき》嫌《げん》な声で管理人はいった。「長男は結婚して、子供もあるよ」  女子学生は、管理人の子供の話に興味を持っているふりをしていたが、それを聞いてはいなくて、自分だけの考えにふけっている様子だった。 「俺に最初の子供が生れた時には、不思議な感情だったな」と管理人がいった。「毎日死んだ人間を、何十人も見《み》廻《まわ》って歩いたり、新しいのを収容したりするのが俺の仕事だ。その俺が新しい人間を一人生むというのは不思議だな、むだなことをしているような気持だった。俺は死体をいつだって見ているのだから、いろんな事のむださが、はっきり分ってね。子供が病気になっても医者にかけなかった。ところが子供は頑丈《がんじょう》に育つ。そして、その子供が又、子供を生むとなると、俺は時どき、どうしていいか分らないな」  女子学生は黙っていた。管理人は欠伸《あくび》をし、眼《め》を涙でうるませて、ひどくがっかりした表情を僕にむけた。 「え? いろんな死んだのを見ているとね、子供の成長に熱中できないね」 「そういうものかなあ」と僕はいった。 「長男が生れた年に俺が木札をつけた死体が今でもじっと沈んでいて、それほど変色していないからね。熱中できないな」 「どちらに?」 「どちらにも熱中できないよ」と管理人はいった。「まあ、時には生きがいを感じることもあるがね。あんたみたいに若い学生が、あの部屋で働くのはどうだい? 変な気持だろう?」 「変な気持でないこともないな」 「希望を持っていても、それがぐらぐらしないか? あれを見ると」 「僕《ぼく》は希望を持っていない」と僕は低くいった。 「希望がないなら」と激して管理人がいった。「どうして学校へなんか行っているんだ。ここは競争が激しくて難かしいだろう。その学校に入って、しかもこんなアルバイトまでして、なぜ勉強しているんだ」  僕は色の悪い脣を震わせ、その両端に唾《だ》液《えき》の小さい沫《あわ》をためて僕を見つめている管理人の疲れた顔を見て、とうとう面倒な所へ入りこんでしまったな、と考えた。いつだって、こんな所へ入りこむと、こんぐらかって来る。説得する事はできない。特に、こういう男に理解させることは難かしい。それに、この男に理解させて、それがどんな効果を持つだろう。しかも、こういう男を説得しようとして、頭が歌いすぎた喉のように乾いてほてるまで議論し続けたあと、僕は自分自身に帰ってくるのだ。そして、自分がひどく曖昧で、まず自分を説得しなければならない厄介な仕事が置きっぱなしになっている事に気がついて、やりきれない、慢性の消化不良のような感情になる。損をするのは、いつも僕だ。 「え? どういう事なんだ。あんたはもう絶望したなんていっていられる年頃《としごろ》でもないじゃないか。けちな女学生みたいな事いうなよ」 「そういう事じゃなくて」と僕は自信なくいった。「希望を持つ必要がないんだ。僕はきちんとした生活をして、よく勉強しようと思っている。そして毎日なんとか充実してやっているんだ。僕は怠ける方じゃないし、学校の勉強をきちんとやれば時間もつぶれるしね。僕は毎日、睡眠不足でふらふらしているけれど勉強はよくするんだ。ところが、その生活には希望がいらない。僕は子供の時の他《ほか》は希望を持って生きた事がないし、その必要もなかったんだ」 「あんたには虚無的なところがある」 「虚無的かどうか知らないが」と僕は、女子学生が僕らに全く無関心で黙っている事に、苛《いら》立《だ》ちながらいった。「僕は一番良く勉強する学生の一人だ。僕には希望を持ったり、絶望したりしている暇がない」 「分らないな」と管理人がいった。  僕は口を噤《つぐ》み、ぐったりして椅子《いす》の背に躰《からだ》をもたせかけた。こういう事は話しようが無いな、僕に説得力のある言葉が見つからないという事でもなさそうだ、と僕は白けた気持で思った。  女子学生が急に立上り、部屋の隅《すみ》に行って、ハンカチーフの中に少し吐いた。僕は追いかけて行き、痙攣《けいれん》している女子学生の背を軽く掌でたたいた。女子学生は、背をよじってそれを避け、振りかえって、うるんだ眼で僕を見あげながらいった。 「私、どうもおかしいのよ。さっき地下室で転んだでしょ。あのせいじゃないかしら」 「え?」と僕は喉に絡《から》んだ声でいった。 「下腹のあたりが締めつけられて苦しいのよ」 「看護婦を見つけて来てくれ」と管理人がいった。  僕は管理人が女子学生を長椅子に坐らせている間に、急いで部屋の外へ出て行った。僕は医学部附《つ》きの看護婦の控室へ階段を駈けのぼった。乾いた舌が歯茎にひくひく触れ、僕は背が一面に汗ばみ始めるのを感じた。作業衣を最初に出してくれた中年の看護婦が、束にした棒雑巾《ぼうぞうきん》を床に置いて縛りなおしていた。僕は走るのを止《や》めたが、廊下の石床にゴム長が粘液質の強い音をたてるのを抑えることができなかった。僕の躰の深みに、統制できない、ぐいぐい頭を持ちあげてくる曖昧な感情があるのだ。 「アルバイトの仲間が少しおかしいんだ」と僕は看護婦の、汚点のいっぱいある、艶《つや》つやした小さな顔を見下していった。 「どうしたの、え?」と看護婦は首を突きだして、色の悪い歯茎を見せながらいった。「仲間だって、あの女の子?」 「来てください」と僕はいった。  看護婦と一緒に階段を下りながら僕は、低くいった。「妊娠しているんだそうです。今日の午後、地下室のタイルの上で転んだから、そのせいで、もしかしたら」 「ひどい事をするわね」と看護婦はいった。「厭な話だわ」  そうだな、厭な話だ、と僕は思った。こう執拗《しつよう》に絡みつかれては、やりきれないな。女子学生は小鼻の周りに小粒の、きらきらする汗をいっぱい浮かべて屈《かが》みこんだ姿勢から、躰を起した。疲れきってぼんやりした、悪い表情をしてい、僕は胸をしめつけられた。  看護婦は白っぽく乾いた、小さな掌を女子学生の額にあてながらいった。「どうなの、苦しいの?」 「ええ、なんだか」とうわずった幼ない声で女子学生がいった。 「控室へいらっしゃい。先生に来ていただくから」と看護婦は僕に向っていい、ドアにもたれて心配そうなぎこちなさで女子学生を見まもっている管理人の横をすばやくすりぬけて出て行った。 「歩けるのか」と管理人が僕にいった。  僕は頭を振り、女子学生の肩を支えてゆっくり廊下に出、すぐに屈みこもうとする女子学生の肩に回した腕に力をこめた。階段を上り始める所で、女子学生が歯を喰《く》いしばって呻《うめ》きを耐えるのを僕は感じた。僕は女子学生が屈みこむままに任かせ、女子学生はハンカチーフに胃液を少し吐いた。汚れたハンカチーフをそのまま、そこへ棄《す》てて立上り、女子学生は僕に向って口を歪《ゆが》めて見せた。 「今ね、私は赤ちゃんを生んでしまおうと思い始めていたところなのよ。あの水槽《すいそう》の中の人たちを見ているとね、なんだか赤ちゃんは死ぬにしても、一度生れて、はっきりした皮膚を持ってからでなくちゃ、収拾がつかないという気がするのよ」  全く、この女子学生は罠《わな》にひっかかってしまっている、と僕は考えた。 「君は面倒なところへ入りこんでしまったな」と僕はいった。 「おとし穴よ」と女子学生が喘《あえ》いでいった。「こんな事だと思っていたわ」  控室の横の小さな部屋の入口で、看護婦が待っていた。女子学生がそこへ連れこまれるのを僕は廊下に立って見まもり、それから、ドアを閉ざして引きかえした。  管理人室に戻《もど》って来ると病院の制服を着た雑役夫が二人来てい、長椅子に腰かけて煙草《たばこ》を喫《の》んでいた。そして、窓枠《まどわく》にもたれた管理人と、医学部の助教授らしい若い男とが話しこんでいた。アルコール溶液を流し出しに来たのだな、と僕は思ったが、雑役夫たちは手持ぶさたに煙草の煙を吐きちらしているし、助教授と管理人は苛立って議論してい、様子がおかしかった。僕は管理人たちに近づいて行った。 「事務室の手ちがいだ」と助教授が念を押すようにいった。「古い死体は全部、死体焼却場で火葬する事に定《き》まっている。それは、医学部の教授会での正式な決定なんだ。君の仕事は、今日の昼の間に、死体を整理しておいて、焼却場のトラックに引渡す事だろう? 僕は、もうすっかり準備ができたと思って、この人達に来てもらったんだ」  管理人は狼狽《ろうばい》して蒼《あお》ざめていた。「そんな事いって、新しい水槽はどうするんです。掃除して、アルコール溶液を入れかえただけで、ほっておくんですか?」 「新しい死体を収容する事になっている。考えて見たまえ。使えなくなった古い死体をだよ、新しい水槽に、わざわざ移すなんて、意味がないじゃないか」  僕は管理人が追いつめられた小動物のように、激しい絶望的な敵意にみちた眼で助教授を睨《にら》みつけるのを見た。管理人は、脣《くちびる》の周りに唾液をいっぱいためて拳《こぶし》を硬く握り、唸《うな》るような声でいった。 「古くなって使えない死体なんていうが、三十年もこの水槽を管理して来たのは、俺《おれ》なんだぞ」 「使えない、というのはね。医学的な見地からなんだ。使ってみても正確な効果を期待できない、という事です」と助教授は管理人を相手にしないで、むしろ僕の方に向きなおりながらいった。 「それに医学部では、新しい死体に困っていない。だから、この際、一応古い死体を全部処理する事にして、文部省から予算も下りたんだ」  管理人は黙りこみ、眼をふせて考えこんでいた。 「とにかく、仕事を始めようじゃないですか」と雑役夫の一人が煙草を靴で踏みにじりながらいった。「準備してない、といったところで、焼却場の予定は組まれてあるし、トラックも持って来たんだからね」 「始めて下さいよ」と助教授はいい、管理人を振りかえった。「え? 仕方がないじゃないですか。事務室はとっくに閉まったんだし、明日文部省から視察に来るんだ」  黙ったまま管理人は作業衣を取りあげ、僕らは地下室への階段を下りて行った。雑役夫は手押式の吸上げポンプとゴムホースを肩にかついでい、それが階段の手《て》摺《すり》に鈍い音をたてて、ぶつかり続けた。こういう話だと、僕らは、むだ働きした事になるな、と僕は思った。手ちがいが事務室にあるのだったら、アルバイトの報酬はやはり、はらってくれるのだろうか。面倒になりそうだな、時間の計算などで割が悪くなるかもしれない。僕は助教授に追いついて訊《たず》ねた。 「僕は今日、死体を新しい水槽に移す仕事をやったんですけど、事務室で最初、アルバイトの申込みをした時から、こんな話でしたよ」 「事務室が何をいったか知らないが、そんな仕事は、むだだろう? 今夜、死体焼却場へ運ぶという事は前から定まっていたんだ」 「でも、手ちがいは向うなんだから、報酬はきちんと、はらってくれるでしょうね」 「まるで必要のない仕事をしてかい?」と助教授は冷淡にいった。 「僕は知らないよ。管理人に聞いてみることだな」  僕は、ことさらにゆっくり降りて来る管理人を振りかえったが、管理人は黙ったまま、苛立たしげに顔をそむけた。 「ひどいものだな」と僕はいった。 「一応、死体の運び出しを手伝えよ。それから報酬のことは、君の方で事務室と交渉するんだな」と助教授がいった。 「でも、僕は始め、午後六時まで働くという約束だったんだけれど。超過した分だけ、割ましをしてくれる事はありえないし」  助教授はそれに答えないで、素早くマスクをかけると死体処理室の入口のスイッチを押した。電灯の光の下では、新しい水槽に浮かんだ死者たちの皮膚は、硬く引きしまった感じを失って、ぶよぶよし脹《は》れぼったかった。そしてそれらは、天窓からの光で見るより、ずっと醜くよそよそしかった。  水槽に近づいて行き、屈みこんで助教授がいった。「おい、これを見ろよ。新しいアルコール溶液が、すっかり変色してしまったじゃないか」  振りかえった彼の顔は怒りに斑《まだら》な紅潮を浮かべていた。そして彼は、答えないでいる管理人へ強い語調でいった。 「おい、責任は君にあるんだからな。これは君の進退問題だよ。明日までに、もう一度新しい溶液を入れかえるのが、まにあわなかったら、それは君の責任だよ。溶液の費用だって、君、安くはないんだよ」 「この分じゃ、夜明けまでに作業をすませるのは、おぼつかないな」  と雑役夫の一人がいった。 「おぼつかないなんて、いっちゃ困るよ」とそれへ押しかぶせて助教授はいった。「明日の午前中に、文部省の視察があるんだ。それまでに両方の水槽を清掃して、溶液を入れかえる事に定まっているんだ」 「責任は取りますよ」と喉《のど》の奥で圧《お》しつぶされたような低い声で管理人がいった。「取ればいいでしょう?」 「そうですか」とますます冷淡に助教授はいい、肩をそびやかした。  僕らは作業衣をつけ、ゴム手袋をはめて、死体運びを始めねばならなかった。二人ずつ組み、死体を持ちあげ、廊下へ運び出し、医学部の解剖学教室へ通じるエレヴェーターで運びあげると、その死体積出口に荷台を押しつけている、焼却場のトラックへそれを積みこむ。トラックには別の雑役夫がいて、手伝ったが、作業は困難で、すぐに息ぎれしてき、僕は躰が汗まみれになるのを感じた。しかも、雨は霧のように細かくなってはいたが、執拗に降り続き、トラックへ積みこむ時、死体積出口から乗り出した僕の首筋や頬《ほお》を濡《ぬ》らした。トラックの荷台へはうまく死体を乗せることが難かしく、雑役夫たちは手を滑らせ床の上へ死者の一人を横転させた。 「大切にあつかってくれ」と怒りにふるえる声で管理人が叫んだ。 「ぜいたくなものだな、こいつら」と雑役夫が低い声でいった。  すっかり夜になり、僕らは熱心に仕事を続けたが、仕事は捗《はかど》らなかった。管理人が、解剖台に腰かけて腕ぐみし、不機嫌に僕らの作業を見守っている助教授に、躊躇《ちゅうちょ》したあと卑屈な声でいった。 「附《ふ》属《ぞく》病院に電話して、雑役夫を何人か、よこしてもらったらどうです。余分の人数を。これだけじゃ、とてもやれません」 「君が電話してくれよ」と助教授はいった。「この部屋の作業は君の責任だろう?」  管理人は、むっとし、しかし気弱く肩をすくめて事務室への階段を上って行った。  僕は、その間助教授が僕と組んで、仕事を続ける意図を全く持っていないらしいのを見て、女子学生の寝ている部屋へ、階段を駈《か》け上った。  ドアを開くと、看護婦はいなくて、長椅子に躰を毛布に包んだ女子学生が小さく横たわってい、僕を振りかえった。 「どうだったの?」と僕はいった。 「まだ分らない。先生が皆、ごたごたで忙がしいんだって。明日、文部省から、誰《だれ》か来るせいですってさ」と女子学生は顔をしかめていった。「看護婦さんが、附属病院へ行ってくれているのよ。苦しくはなくなったけど、とても起き上れないわ」 「ずっと一人で待っていたの?」 「仕方がないでしょ」  僕は長椅子の傍《そば》へ木椅子を引きよせ、それに坐ってからいった。 「事務室がまちがっていたらしくてね、昼の間僕らがやった仕事はむだらしいんだ。病院から雑役夫が来て、死体を全部、運びだしている」 「どうするの?」 「火葬にするんだって」 「じゃ」と女子学生が弱よわしい声でいった。「私たちが、新しい水槽へ運びこんだり、番号札をつけたりしたのは、すっかり、むだな訳ね」 「変な話だよ」  女子学生が躰をよじり、小さな声をたてて笑い、それが細長い部屋の壁につきあたり、短かく反響した。僕も笑ったが、笑いは喉のあたりで粘ついて声にならなかった。僕は女子学生の躰からずり落ちた毛布を掛けなおした。僕の腕の中で、女子学生の躰は、ひくひく痙攣し、笑いが女子学生の皮膚の下を、息をひそめて駈けまわっているようだった。 「私は台帳に記入したのよ、新しい番号と古い番号とを並べて線を引きながら」  そして女子学生は新しい笑いに顔を真赤にしたが、それは声にならず、すぐに熄《や》んだ。  立ちあがって僕はいった。「トラックに積みこむ仕事が夜明けまでに済むかどうかも、分らない。僕らの報酬のことも、はっきりしないんだ」  女子学生は眉《まゆ》をひそめ、寒さにかじかんだような顔になり、そこには笑いはすっかり、影をひそめていた。 「あなたは、臭《にお》うわね」と女子学生が急にいい、顔をそむけた。「とても臭うわ」  僕は女子学生の頑《かた》くなに天井を見上げたままの、逞《たくま》しい首が少し垢《あか》じみているのを見おろし、君だって臭うよ、という言葉を噛《か》みころした。  女子学生は非常に老《ふ》けた、疲れきった表情をしてい、それは病気の鳥のような感じだった。僕自身が、こういう表情になるのは我慢できない。 「出て行ってよ、臭いが厭《いや》なのよ」と女子学生がいった。  僕は汗に濡れた躰がすっかり冷えて来るのを感じ、作業衣の襟《えり》を喉にまきつけて部屋の外へ出た。  解剖学教室の前で、僕は管理人が前屈みに急いで来るのに会った。管理人は僕に躰をすりよせて来、力のない声でいった。 「時間外で、もう雑役夫は来れないそうだ。この人数で今夜中に、仕事をやってしまうのは難かしい」 「仕方がないなあ」と僕はいった。 「あんたは、最初、事務室で仕事の説明をしたのが俺でなくて、事務の男だったことを覚えているだろう? 覚えといてくれよな」  僕は、曖昧《あいまい》にうなずき、僕の肩に置かれた管理人の重い掌を外して解剖学教室へ入り、死体積出口へ行った。  暗い窓口から、トラックの数段に重なった積台の上の、数かずの死者の足うらが白く浮きあがって見え、それらはひどくよそよそしかった。僕は眼《め》をこらして、よく見たが暗くて、死者の足の拇指《おやゆび》に結びつけた木札は見えなかった。  エレヴェーターが低い回転音をたてて、ゆっくり上って来、雑役夫たちが死体を運び出して来た。彼らは積出口から、箱をおくり出すように死体をおくり出し、灯《ひ》のあたらない暗い空間から、逞しい腕が出てそれを支え、トラックの積台の一つに押しこんだ。死者は少し身動きし、足うらを扇形に開いて安定した。 「おい、怠けるなよ」と雑役夫の一人が僕にいった。 「え?」とトラックの積台の下から腹を立てた声がした。  僕は廊下に出た。  今夜ずっと、僕は働かなければならないだろう、と僕は考えた。それは極めて困難で、億劫《おっくう》な、骨のおれる仕事だと思われた。しかも、事務室に、報酬をはらわせるためには、僕が出かけて行って交渉しなければならない。僕は勢よく階段を駈け下りたが、僕の喉へこみあげて来る、膨れきった厚ぼったい感情は、のみこむたびに執拗に押しもどして来るのだ。 (「文学界」昭和三十二年八月号) 他人の足  僕《ぼく》らは、粘液質の厚い壁の中に、おとなしく暮していた。僕らの生活は、外部から完全に遮断《しゃだん》されてい、不思議な監禁状態にいたのに、決して僕らは、脱走を企てたり、外部の情報を聞きこむことに熱中したりしなかった。僕らには外部がなかったのだといっていい。壁の中で、充実して、陽気に暮していた。  僕は、その厚い壁に触れてみたわけではない。しかし、壁はしっかり閉ざしてい、僕らを監禁していた。それは確かなことだ。僕らは、一種の強制収容所にいたのだが、決してその粘液質の透明な壁に、深い罅《ひび》をいれて逃亡しようとはしなかった。  それは、海の近い高原に建てられた、脊椎《せきつい》カリエス患者の療養所の、未成年者病棟《びょうとう》だった。十九歳の僕が最も年長で、次は十五歳の唯《ただ》一人の少女、残りの患者は五人とも十四歳だった。僕らの病棟は、個室とサンルームから成ってい、僕らは二人ずつ個室へ配られて夜を過したが、昼の間は、大きいサンルームに寝椅子《ねいす》を並べて、日光浴した。僕らは、静かな子供たちだった。ひそひそ囁《ささや》きあうとか、声を殺して笑うとかしながら、あるいは黙りこんで、僕らは褐色《かっしょく》に皮膚の灼《や》けた躰《からだ》をじっとさせていた。時々、大声で叫んで、看護婦に便器を運ばせるほかは、長く単調な時間を、僕らはじっとして生きている。  僕らは殆《ほとん》ど、歩き始める可能性を、将来に持っていなかった。院長は、おそらくその理由で、僕らを大人の病棟から広い芝生を隔てて独立している一棟《ひとむね》に集めて、特殊社会の雛《ひな》型《がた》を作りあげさせる事を意図していたのだし、それは、かなり成功していた。その時も、十四歳の少年の一人が、複雑な方法で自殺未遂し、その後サンルームの隅《すみ》で黙りこんでいた他《ほか》は、みんな快楽的に生きていたのだ。  しかも僕らは、快楽に恵まれていた。それは、僕らの係の看護婦たちが、シーツや下着を汚されることをおそれて、あるいは彼女たちの小さな好奇心から、そして殊《こと》に、今までの習慣から、僕らに手軽な快楽をあたえてくれたからだった。僕らの中には、時どき昼の間も係の看護婦に、車つきの寝椅子を押させて個室へ帰り、二十分ほどたって、頬《ほお》を紅潮させた看護婦を従えて、得意げに戻《もど》って来る者がいた。僕らは彼を忍び笑いで迎えた。  僕らはゆったりし、時間について考えず、快楽にみちて暮していた。しかし、その男が来て、凡《すべ》てが少しずつ、しかし執拗《しつよう》に変り始め、外部が頭をもたげたのだ。  ある五月の朝、その男は両脚にかさばるギプスをつけて、サンルームに現われた。皆、彼を意識的に無視して低い声での会話や忍び笑いを続けていたが、彼は気づまりな様子だった。暫《しばら》く、ためらったあと、彼は寝椅子が隣りあわせていた僕に話しかけた。  僕は大学の文学部にいましたけど、と彼は低く細い声でいった。両脚をだめにしちゃったんですよ。三週間たって、ギプスを外してみて、どうなるか定《き》まるんだけど、きっと、だめだろうと医者がいってました。  僕は冷淡にうなずいた。僕を含めて、この病棟の若い患者たちは、お互いの病状について話したり聞いたりすることに、飽きあきしていたのだ。  君はどうなの? と学生は僕を覗《のぞ》きこむように肩をあげていった。ひどいカリエスなんですか。  自分の病気の事まで覚えていられないよ、と僕はいった。僕が覚えてなくても、一生病気は僕を見棄《みす》てないからね。  辛抱強くしなければだめよ、と僕の寝椅子の背に倚《よ》りかかっていた看護婦がいった。そんな投げやりな事いわないで、辛抱強くなってよ。  僕は辛抱強くなくても、足は理想的に辛抱強いからね。  僕が君に話しかけた事、不愉快でしたか、と喉《のど》につまった声で学生がいった。  え? と驚いて僕はいった。  僕は慣れていないから。  あんたたち、仲良くしてね、と看護婦がいった。今夜から、あんたたち二人が一緒の部屋に寝てもらうわ。他の人は子供でしょ。  手で動かすことのできる大きい車輪のついた寝椅子を近づけて来た少年の一人が学生にいった。  君、僕の血液検査表を見た?  いいえ、と当惑して学生はいった。  入口のドアに張ってあるよ、と少年は考えぶかそうにいった。僕は、六種類の検査を受けたんだけど、どれも陰性だったんだ。部屋の中で、寝椅子に乗っかってるだけじゃ、性病にはならないね、と医者が、がっかりしていったよ。  その、たびたび繰返された冗談に、皆忍び笑い、看護婦は下品な声をあげて笑ったが、学生は頬を赤らめ脣《くちびる》を噛《か》みしめて黙っていた。  車椅子を動かし、仲間の方へ帰って行きながら、少年は聞えよがしにいった。  変な奴《やつ》だよ、笑わねえんだ。  そして又、低く押し殺した笑いが起り、少年は、わざわざ膨れ面《つら》をしてみせていた。  僕は学生と同じ部屋で夜をすごすことを、億劫《おっくう》に感じた。その午後、学生は黙りこんで考えてい、夕食のあと、同じ病室へ運びこまれるまで、僕は平常と同じ暮し、ぼんやりして芝生の上の陽《ひ》の翳《かげ》りを見守っている暮しを続けたが、意識の深い隅で、僕は学生を気にかけていた。  看護婦が、シーツをかけた毛布で僕を包んだ後、学生のベッドに近づいて行った。僕は、看護婦の赤茶けた頭髪の揺れ動く向うの、学生の裸の腹部の白い膨らみを見守っていた。欠伸《あくび》が、喉の奥で、小さい梨《なし》のように固まり、なかなか出て来ない。  よせ、と激しく学生がいった。よせ。  学生は羞恥《しゅうち》で顔の皮膚を厚ぼったくし、喘《あえ》いでいた。その下腹部から顔をあげ、濡《ぬ》れてぶよぶよしている脣を丸めて看護婦が意外だという感じでいった。  私は、あなたの躰を、いつも清潔にしておきたいのよ。今済ましておいた方が、下着が汚れなくていいわ。  学生は、息を弾ませ、黙って、看護婦を睨《にら》みつけていた。  ほら、ごらんなさい。ほら、と看護婦は、学生の下腹部を見おろしていった。あなたは正直じゃないわ。  シーツを掛けてくれ、と屈辱で嗄れた声で学生はいった。  そして、看護婦が金盥《かなだらい》にタウルをいれて、部屋から出て行くと、彼は声をひそめて泣き始めた。僕は小さな虫のような笑いが喉の奥からあふれ出てくるのを、注意深く押さえていた。暫くたって、曖昧《あいまい》な声で学生が、いった。  ねえ。君、起きてるんだろう?  ああ、と僕は眼《め》を開いていった。  僕は犬みたいな扱いを受ける、と学生がいった。僕は子供の時、犬を発情させて遊んだ事があるけど、今発情させられるのは僕だ。  ひどく孤独な気持なのだろうな、と僕は思い、学生の方に向きなおっていった。  君は僕に羞《は》ずかしがったりすることはないぜ。僕らは皆、看護婦にそうさせる習慣なんだ。  そんな事はいけない、と学生がいった。僕はそんな習慣には我慢できない。  そうかなあ、と僕はいった。  君たちも、あんな事を我慢してはいけないんだ、と学生は熱心にいった。明日、サンルームで皆にその事をいうよ。僕らは生活を改良して行く意志を持つべきだ。僕はサンルームの雰《ふん》囲気《いき》にも耐えられないものを感じていたんだ。  政党でも作ることだな、と僕はいった。  作るよ、と学生がいった。僕は皆と、この療養所の生活を検討したり、国際情勢を話しあったりする会を作る。そして、戦争の脅威についても話しあうだろう。  戦争だって? と僕は驚いていった。僕らは、そんなものに関係ないぜ。  関係がないなんて、と学生も驚いた声を出した。僕と同じ世代の青年が、そんなことをいうなんて考えてもみなかった。  この男は外部から来たんだ、粘液質の厚い壁の外部から、と僕は思った。そして、躰の周りに外部の空気をしっかり纏《まと》いつかせている。  僕は、この姿勢のままで何十年か生きるんだ、そして死ぬ、と僕はいった。僕の掌に、銃を押しつける奴はいないさ。戦争は、フットボールをできる青年たちの仕事だ。  そんな筈《はず》はない、と苛《いら》立《だ》って学生は僕を遮《さえぎ》った。僕らにも発言権はあるんだ。僕らも平和のために立上らねばならない。  足が動かないのさ、と僕はいった。立上りたくてもね。僕らは、この一棟に漂流して来た遭難者なんだ。海の向うのことは知らないよ。  そんな考えは無責任すぎる、と学生がいった。僕らこそ、手を繋《つな》ぎあって、一つの力になる必要がある。そして、病院の外の運動と呼応するんだ。  僕は誰《だれ》とも手を結ばない、と僕はいった。僕は立って歩ける男とは無関係だ。そして、僕と同じように歩けないで寝ている連中、彼らは僕の同類で、執拗に躰をこすりつけてくるし、僕らは同じ表情、同じ厭《いや》らしさを持っている。僕は彼らと手を繋ぐのも断わる。  同類だったら、なおさらじゃないか。僕らは結ばれているんだ。  賤民《せんみん》の団結だ、不具者の助けあいだ、と僕は怒りに喉を膨らませていった。僕はそういうみじめな事はやらないぞ。  学生は不服そうな顔をしながら、それでも僕の剣幕に押されて黙りこんだ。僕はベッドの金属枠《きんぞくわく》を外し、看護婦に秘密にしている睡眠薬を取出して素早く飲むと、眼を閉じた。胸が激しく動《どう》悸《き》を打っていた。看護婦が入って来、いつもの鳩《はと》のような含み笑いをしながら、僕の下腹部に手を入れたが、夢うつつで僕はそれを拒んだ。あいつが自分の欲望に耐えている間、僕も耐えてあいつを見張ってやる、と僕は考え、看護婦が消灯して出て行くと、柔かい粘土層へ穴をあけるように、自分の睡《ねむ》りの中へもぐりこんでいった。  翌朝から、学生は彼の運動を始めた。彼は周りの寝椅子の少年たちに、熱心に話しかけ、軽い揶揄《やゆ》のまじった冷淡さであしらわれながら、決して黙りこまなかった。彼は午前の間中、寝椅子の車輪を押して動きまわり、愛《あい》想《そ》よく話しかけていた。そして、昼食のあと、看護婦の口から、学生が昨夜、断《だん》乎《こ》として、あのありふれた日常的な小さい快楽を拒んだ話をひそひそ打ちあけられると、少年たちは、皆一しきり低い声で笑ったあと、軽い興味を学生に、持ち始めた様子だった。そして、少しずつ彼の周囲に集まり始め、夕方には、円形に寝椅子を並べて少年たちは、学生と話してい、その中には、いつも花の栽培の本だけ読んでいる少女のカリエス患者まで加わっていた。  しかし僕は学生を避けてサンルームの隅でじっと寝そべったまま、天井にある汚点が駱《らく》駝《だ》の頭部に似ているのを見つめたりしていた。僕は不思議な、孤独な感情をもてあましていたのだ。昨日までは、一日中黙っていて楽しく充実していたのに、今日は喉がほてったり、むくむく動きそうだったりする。  僕は横で、やはり学生の周囲に近づかないで、黙りこみ、吸血鬼の本を読んでいる、自殺未遂の少年に話しかけた。  吸血鬼、恐《こわ》い?  少年は眼の周りにどす黒い隈《くま》のある痩《や》せた顔をのろのろ傾け、僕を見つめてうなずいた。不断なら少年は僕の声が聞えなかったふりをして、本を読みつづける筈だった。僕は少年も、学生の周りで、おずおずした笑声をたてたり、熱心に話したりしている少年たちの集りを気にしているのだ、と思った。  あれは恐いなあ。吸われている時、自覚症状がないというのがやりきれないね。  吸血鬼伝説にも、いろいろあるから、と考えこんで、奇妙にかすれた声で少年は答えた。  吸血鬼が来るといいと思ってね、窓を開けて寝たことがある、と僕はいった。僕の萎《しな》びて赤んぼうの腕みたいな足をね、大きい吸血鬼がせっせと吸うと思うと、おかしいし、恐くて、躰《からだ》がばらばらになりそうだった。  僕は低い声で笑ったが、少年は笑わなかった。振りむくと、少年は脣を固く噛みしめていた。僕はぐったりして寝椅子の背に頭を倒し、小さい音をたてた。学生と少年たちは、たびたび笑った。そしてその笑いは、いつものくすぐったい卑《ひ》猥《わい》な笑いとは微妙に異なっているのだ。あいつは、あいつは、うまくやっていやがる、と僕は苦い感情になって考えた。  政党の具合はどうだい? と僕は、その夜個室に帰ると学生に訊《たず》ねた。  僕の話を皆、よく聞いてくれるんだ、と学生が真面目《まじめ》にいった。皆の生活が変って行くよ、きっとそうなるんだ。  選挙もやれよ、と僕はいった。スピーカーを病院の事務所で借りるのさ。  僕は君にも、グループに入ってほしいと思っている、と学生は腹を立てないでいった。  僕はベッドの中で躰を動かした。下腹と、腰の関節のすぐ下の皮膚がむずがゆく痛かった。腰や下腹をぽりぽり引《ひっ》掻《か》きながら、僕は学生の言葉を反芻《はんすう》した。しつこい奴だな、僕まで引込もうと思っている。  結局、ここで回復しなければならないのは、正常さの感覚なんだ、と学生がいった。僕らも正常な人間だという確信なんだ。そうしたら、いろんな事に異常な反応をしなくなるよ。  僕らは正常でないじゃないか、と僕はいった。  正常だと考えるだけでいいんだ。  欺《ぎ》瞞《まん》だな。  僕はそう思わない。自分が正常だと考えたら、皆に日常の誇りが帰って来るよ。そして生活がきちんとしてくると思うんだ。  看護婦が二人、便器を提げて入って来た。僕は、髪を栗色《くりいろ》に染めている大柄《おおがら》な看護婦に軽がると抱えあげられ、便器にまたがった。自分の尿の臭《にお》いがむっと来る。背の低い看護婦は、学生の剥《む》きだしの尻《しり》を短い掌で支え、注意深くその下を見守っていた。  たいした日常の誇りだよ、と僕はいった。  便器にまたがったまま、紅潮した顔をむりに振りかえって学生がいった。  そうなんだ。誇りを回復する事が必要なんだ。  厭ねえ、零《こぼ》さないでよ、と学生の看護婦がいった。  僕は、力をいれたため鼻孔をひくひく膨らませる看護婦にベッドへ戻されながら、小さい声で笑った。  翌日、自殺未遂の少年が、面会に来た両親に会うために、一般病棟へ運ばれて行ったので、僕《ぼく》は一人だけ部屋の隅に横たわり、学生の集りを見守っていた。学生は看護婦に、日刊紙を数種、買って来させ、それを彼の周りに集ったカリエスの少年たちに解説しながら読んで聞かせた。新聞より小説が面白いし、猥雑な空想がもっと面白いという理由で、僕らは新聞を読まなかった。毎日、交通事故の死亡者数の載っている新聞、それが僕らにどんな関係があったろう。しかし、今、学生の周りで少年たちは口をだらしなく開き、熱心に聞きほれている。ソヴィエトの大学制度について綿密に説明している学生の上気した声が僕を苛立たせた。この病棟にいる唯《ただ》一人の少女は、妹が優しい兄を見つめるような眼で、学生のよく動く脣を見つめ、学生の寝椅子《ねいす》に片手をかけてい、それも僕を苛立たせた。  午睡のあと、あおむけに寝たまま僕は、浅い睡りの後の奇妙に躰中が熱くて、むずがゆい感覚を、暫《しばら》く味わっていた。隣に、少年が面会から帰って来てい、看護婦が平板な調子の言葉を、執拗に繰返していた。  ねえ、勇気を出すのよ。そして手術をなさい。お母様が泣いて頼んでらしたじゃないの。ねえ、勇気を出しなさい。男でしょ?  僕は手術しない、と少年が頑《かた》くなにいった。僕は歩きたくないよ。手術がうまくいって、歩いたり走ったりできるようになっても、僕は一生チビのままなんだ。僕は手術なんか飽きあきしてるよ。  ねえ、勇気を出すのよ。病気は直さなければならないものよ。あなたは、歩かなきゃいけないのよ。人間は歩くようにできてるでしょ。ねえ、勇気を出すのよ。  僕は厭だ。手術しても直るかどうか分らないって医者がいってたじゃないか。  直ったら自転車にだって乗れるのよ。ねえ、勇気を出しなさいよ。  おい、と僕は首を挙げて、看護婦にいった。ほっといてやれよ。  看護婦は少年の寝椅子から躰を起し、疲れと敵意のこもった眼で僕を見た。少年は、僕の言葉を聞かなかったように、熱心に学生たちの集りを見守っていた。  その夜、満足した表情で学生がいった。  僕は今日、アジアの民主主義国家が、世界の動きに対して、どんな意味を持つかを中心に、説明したんだ。誰一人、毛沢東《もうたくとう》を知らないんだからなあ。僕は、僕らの会を《世界を知る会》という名にしようと思うんだ。家から、いろいろ資料を取りよせるよ。  熱心なものだな、と僕は努めて冷淡にいった。社会主義国家における、身体不具者の更生という研究でも皆でやるといいや。  あ、と学生は眼を輝かせていった。僕はそんな特集を、何かの雑誌で読んだことがある。思い出して明日、話そう。  この男は、本当にこんなに単純なのだろうか、それとも僕を厭がらせるためにわざわざ単純さをよそおっているのだろうか、と僕は考えた。しかし、どちらにしても学生は、無神経な感じにくさの甲胄《かっちゅう》で身をよろっていて、僕の言葉はそこから全部はねかえって来る。僕は自分が、一日中緊張していた後のように、深い所で疲れきっているのを感じた。  学生を中心とする集りは非常にうまく成長している様子だった。少年たちが、あまりに柔順に学生の指導をうけていることが、僕を無力感にみちた苛立ちにさそった。学生が来て一週間たつと、サンルームの空気は、以前のそれとすっかり変った。そこには、ひそひそ話や、低く押し殺した卑猥な笑いは聞えなくなった。サンルームは明るい笑顔で時どきいっぱいになった。看護婦たちもたまには、学生たちの会に参加したし、院長がその雰囲気を喜んで学生たちのために定期刊行物を数種、予約してくれたりした。そして、重要な事は、皆が、かつて看護婦から得ていた衛生的な快楽、日常的な小さい快楽を棄《す》てさったことだった。僕は看護婦のもらす言葉の端はしから、それを確かめた。そして僕自身も、それについては、少年たちと同じ生活の変化を被《こうむ》っていることを曖昧な苛立ちと一緒に気づくのだ。  その変化について、学生は、カリエス患者の少年たちが、すっかり自分たちの病棟《びょうとう》を異常な小社会と考えることになれていたのが、学生の単純な行為を通じて、自分たちも決して異常な小社会に住んでいるのではないと知ったせいだといっていた。  そして学生は人の良さそうな小さい眼をぱちぱちやりながら附《つ》けたしたものだった。  誰にだって正常な生活は魅力があるし、誇りも回復するんですよ、ね? そうでなくちゃ、社会が成立しないと思うんだ。君も僕らのグループに入ればいい。  しかし僕と自殺未遂の少年は彼の集りに入らないで、孤立を続けた。少年はサンルームの隅《すみ》でいつも学生たちを見守っているくせに、学生が呼びかけると急に冷たい、無表情な殻《から》にとじこもって聞えないふりをした。そして、終日看護婦につきまとわれ、手術することをすすめられていた。看護婦も始めの熱心さは失って、惰性的な繰返しを少年の耳もとで囁《ささや》くだけにすぎなかったが、根深い執拗《しつよう》さは彼女の声音にこもっていた。  あなただけよ、直る可能性のあるのは。ねえ、手術して歩きなさいよ。勇気を出すのよ、やってみなさいよ。損にはならないわよ。  そのうち僕は微熱が出始め、それを僕が最近、神経過敏になっているせいだと診断した院長は、昼の間も僕が個室に止《とど》まる許可をあたえた。僕は昼の間ずっと、暗い個室で幾何の問題を解いて暇つぶしをした。しかし、サンルームからの笑声が聞えるたびに、僕は証明の糸口を見失ってしまって、始めからやりなおさねばならないことに気づくのだ。  学生が病棟に来て三週間目の朝、学生は看護婦二人に別棟《べつむね》の診療室へ運ばれて行き、午後になってギプスをつけたまま個室へ帰って来た。そして学生は、僕にも看護婦にも話しかけないで黙りこんだまま、ずっとベッドに寝ていたが、睡っているわけではないらしく、時々、身じろぎしていた。僕は学生に、なにげなく話しかけたいのを、努力して我慢していた。  僕は、だめらしいんだ、と夕食の後で学生が疲れきり眼のふちに隈のできた顔でいった。僕の両脚はやはりもういけないらしいと、医者がいったんだ。  僕は黙ったまま、うなずいて窓のガラスの向う、木立の向うの、夜の空のぐったりした杳《はる》かな連なりを見た。それは豊かに水をたたえた運河のようだった。  僕はもう、一人で街を歩けない、と学生がやはり窓の向うの夜を見つめながらいった。フランス人に一生会えない。船に乗ることも泳ぐこともできない。  僕は初めて学生に対して、優しい感情が湧《わ》くのを感じていった。  思いつめることはないよ、僕らはきっと六十歳くらいまでおとなしく生きるんだ。  六十歳、と息がつまったような声で学生がいった。この不安定な、窮屈な姿勢のままで、あと四十年生きるんだ。寝椅子に寝そべったままで僕は三十歳になり、四十歳になる。  噛《か》みしめた歯の間で学生は呻《うめ》いた。  僕も四十歳になるだろう、と僕は考えた。四十歳の僕は分別くさい顔をして、いつも穏やかに微笑しているだろう。そして看護婦に抱えられて便器にまたがるのだ。僕の萎びた腿《もも》の皮膚はかさかさして脂《あぶら》がなく、汚点がいっぱいできているだろう。まったく、辛抱強くなければならないな。  空が運河みたいだろう? と僕はいった。大きい船がゆっくり航行しているようだな、暗い航跡を曳《ひ》いて。  僕には自由なんて、もうなくなった、と考えこんでいた学生がいった。  良い色をした、豊かな自由が船のように、空の運河を溯《さかのぼ》る、と僕は思った。  翌朝、僕らはお互にぎこちなかった。学生は僕に弱音を吐いたことを、非常に恥じている様子だった。そして、学生はその日から、彼のグループの活動にもっと熱中し始めた。彼は僕に、そのグループへ加わることを、もう勧めなかった。僕は相かわらず個室にじっとしていたので、学生たちの動静は分らなかったが、看護婦にそれとなく訊ねたところによると、学生たちは、新しい運動を始め、それは、原水爆禁止のための声明文を新聞に送りつける事らしかった。夜、個室へ戻ってからも、学生は僕に話しかけようとはしないで、鉛筆を細く尖《とが》らせ、せっせと短い文章を書いていたが僕は全く興味のないふりをしていた。  ある朝、サンルームが度はずれて騒がしく、感動した叫び声や、快活な笑いが聞えて来た。僕は自分を抑制するための空《むな》しい努力をした後、看護婦を呼んで、何週間ぶりに、サンルームへ寝椅子ごと運んでもらった。  学生の周りに集った脊椎《せきつい》カリエスの少年たちが、一枚の拡《ひろ》げられた新聞を覗《のぞ》きこんでは、陽気にざわめいていた。僕は、部屋の隅で相かわらず孤立している少年の横に、寝椅子を留めさせ、できるだけ平静を装って、彼らの騒ぎを見守った。数人の看護婦が、彼らの背後から、感嘆の声をあげては、その新聞を見下していた。学生が興奮した声で繰返し読みあげていたが、僕には聞えなかった。僕の横で少年は苛《いら》立《だ》ちながら耳をすましていた。  僕をサンルームへ運んで来た看護婦が、学生たちの集りの中から戻《もど》って来て、僕にせきこみながらいった。  新聞にここの事が載っかってるのよ。あの子たちの送った手紙が長く載っていてね、皆の名前まであるわ。活字で、きちんとよ。  そして看護婦は、左翼新聞の名前を、印象的に強く発音していった。  あれによ、あんな有名な新聞に、十センチも書いてあるのよ。原水爆に抗議する、脊椎カリエスの子供たち、ですって。凄《すご》いわね。  学生グループの中から、誰かが大声で少年に呼びかけた。  おい、君も来いよ。君の名前も載っかってるんだ。来いったら。  少年は、びくっと躰を震わせ、努力して上半身を起した。その寝椅子を、駈《か》けよって来た看護婦が引っぱって行った。少年の細い肩を学生が優しく叩《たた》き、皆が一斉《いっせい》に笑う声が部屋をみたした。僕は眼をそむけた。  午後になって、自殺未遂の少年は、学生たちの快活な励ましに送られて、サンルームを運び出されて行った。手術する勇気が出たのだろう、と僕は考えた。あいつたちの馬鹿《ばか》さわぎも、すっかりむだな訳ではないな。  しかし、その夜、学生が僕に控え目な声で話しかけると、すぐに僕は頑くなになるのだ。それは自分で制御できない。  皆で文集を作ってね、と学生はいった。新聞や外国大使館に送りつけるつもりだ。原水爆反対というテーマに統一してね。とにかく、僕らも外の社会と結びつけるということが、皆に分ってもらえて嬉《うれ》しい。  新聞が君たちのことを取上げて報道するのは、と僕はできるだけ冷静な口調でいった。それは、君たちが脊椎カリエスだからさ。数知れない人たちが、君たちの弱よわしいかたわの微笑を憐《あわ》れみながら、あれを読むんだ。ごらんよ、かたわもこんな事を考えるとさ、とかいいながらね。  君が皆の前でそんなことをいったら、承知しないぞ、と怒りに声を震わせて、学生がいった。  しかし、自分の言葉に、最も激しく絶望的に腹を立てていたのは僕自身なのだ。だから僕は、その夜消灯を終ったあと、看護婦が、隣室の少女を寝椅子のまま、僕らの部屋に運んで来、学生のベッドに並べて出て行った時も、睡《ねむ》ったふりをして黙っていた。  嬉しくて、睡れないのよ、と少女は低い声で学生に弁解した。今夜中、誰かと話していたいわ。私たちにも、力があるのね。  学生たちは長い間、ひそひそ話していたが、僕はできるだけ意識をそこから逸《そ》らした。しかも僕には、睡眠薬を取出すために腕を動かすこともできないので、苛立ちながらじっとしていた。夜明けがた、ギプスの音を鈍く響かせ、学生が上半身を起して少女に接吻《せっぷん》した。脣《くちびる》の触れあう、濡《ぬ》れた柔かい音がしていた。僕は優しい感情に充《み》たされていったが、その奥に、押しあげて来る怒りの感情もあるのだ。僕は朝まで睡れなかった。  翌日、朝食のあとで学生は診療室へ運ばれて行った。僕は昼近くまで浅い睡りをねむり、それから、頭の皮膚の下で虫が這《は》い続けているような、寝不足の感情のまま、サンルームに出た。学生は戻《もど》ってきていなくて、屈託ない良い表情をした少女をかこんで、少年たちが低く合唱していた。  あおむけに寝椅子に横たわった脊椎カリエスの少年たちの歌は、高い天窓のあたりへ上って行き、ふりそそいで来た。僕はそれを聞きながら、うつらうつらしていた。そして、急に歌がやみ、静けさが充満した。僕は限りなく重い腰をずらし、上半身を起して広い窓ガラスの向うを見た。  診療室の開かれたドアの前の青く光る芝生の上を、臆病《おくびょう》な動物の仔《こ》のように、学生がゆっくり歩いていた。僕は胸をしめつけられた。学生は、注意深く、しっかり芝生を見つめながら三米《メートル》ほど歩き、引返した。看護婦と医師が、職業的な冷淡さでそれを見守っていた。学生は額をあげ、歩幅をひろげて歩いた。彼の胸をはった躰に陽《ひ》の光、五月の陽の光があふれていた。  拍手が起った。僕は少女を含めて、カリエスの子供たちが皆、幸福そうに拍手しているのを見た。拍手の音はガラス窓を透し、響いて行ったが、学生は決して僕らの病棟を見返らなかった。あの男は、はにかんでいる、と僕は思った。感動が喉《のど》にこみあげた。あの男は、僕らの周りの、厚い粘液質の壁に罅《ひび》を入れ、外への希望をはっきり回復したのだ、と僕は喉を燥《かわ》かせて考えた。僕の心の中で、小さいが形の良い、希望の芽が育ち始めた。  学生が、看護婦に軽く支えられて診療室へ入って行き、ドアが陽ざしの中で音をたてて閉じられると、サンルームには、溜息《ためいき》をもらすように深く呼吸する音がみち、それから、皆騒がしくしゃべり始めた。どの少年も、夢中になって高い声をたて、発作のように激しく笑った。少女は誇りにみちた固い表情をして、しきりにうなずいていた。僕は、やはり彼らから離れて孤立していたが、彼らと肩を叩きあい、声高に話しあいたい気持でいっぱいだったのだ。  僕らは待っていた。しかし学生は、なかなか帰って来なかった。看護婦が昼食を知らせに来たが、僕らの誰一人それに答えなかった。僕らは辛抱強く待ち続けた。午後二時近くなり、空腹が僕を息苦しくしたが、僕は待っていた。少年たちも話し疲れ、ぐったりした表情で寝椅子に倒れ、しかし熱心に待ち続けていた。何年の間、この待ちくたびれる辛《つら》い感情を忘れていたことだろう、と僕は思った。僕はずっと時間について無関心だったのに、今は時計を見あげることばかりしている。  そして、サンルームのドアが開き、柔かい空色のズボンをはいた学生が戻って来た。ドアの把《とっ》手《て》に手をかけたまま、立っている学生に、期待にみちた数かずの視線が集った。学生は曖昧《あいまい》な、固い表情をしていた。なにか、うまく行かない、しこりのようなものがあるのだ。こんな筈《はず》はない、と僕はせきたてられるように考えた。これはどうしたのだろう。あの男はよそよそしい。自分の足の上に立っている人間は、なぜ非人間的に見えるのだろう。こんな筈ではなかった。  学生は自分のためらいを押しきるように胸をつき出し、こわばった微笑を浮かべて、少年たちに近づいて行った。  少年の一人が、寝椅子から腕を差しのべ、おずおずした声でいった。  ね、君の足に触らせてくれないか。  初めて、安心した笑いが部屋にみちた。学生は意識した快活さで少年に躰をよせた。少年は、最初指で学生の腿にふれ、それから静かに両掌でそれを支え、こすりつけた。少年は執拗《しつよう》にその動作を繰返し、やりなおした。僕は少年が口を半ば開き、眼を瞑《つむ》って熱っぽい息を吐いているのを見た。  急に躰を引き、邪慳《じゃけん》な声で学生がいった。  よしてくれよ、よせったら。  学生と少年たちの間の不思議な均衡が破れ、粉ごなに砕けた。脊椎カリエスの少年たちと健康な青年との間の、意地悪い冷却がその後を埋めた。学生は狼狽《ろうばい》して顔を赤らめ、少年たちと共通の表情を取戻そうとつとめているようだったが、横たわっている少年たちは既にそれを受けつけなかった。学生は皆から拒まれ、自分の下肢《かし》に支えられて胸をはっていた。  タカシさん、とサンルームの入口に立った中年の女が、横柄《おうへい》に僕らを見まわして呼びかけた。タカシさん、早くいらっしゃい、タカシさん。  僕は、その女が学生とそっくりの、強靱《きょうじん》で下品な顎《あご》を持っているのを見た。学生は振返り脣を歪《ゆが》めて、そのままドアへ歩いて行った。ドアを閉ざす時、学生が僕に訴えかけるような弱よわしい視線をむけたが、僕は冷淡に顔をそむけた。  ドアが閉じられ、厚い粘液質の壁の罅は、癒《ゆ》合《ごう》した。皆、あっけにとられたように、ぼんやりして黙っていた。看護婦がひどく遅れた昼食を運んで来、僕らは全く食欲の無い人たちのやり方で、陰気な音をたてながら、それを食べた。少女は、食後、個室に引籠《ひきこも》った。午後は長かった。僕らはぐったりしていた。よく育った芝生の上を建物の影が縮んで行き、空気がさむざむしてきた。  おい、と僕は看護婦を呼んだ。おい、僕を個室へ帰してくれよ。  寝椅子に横たわったまま運ばれて、僕が廊下へ出る時、サンルームの中にあの聞きなれた、卑《ひ》猥《わい》な忍び笑いが起った。それは、何週間かの間、すっかり消え去っていた押し殺した笑いなのだ。僕の寝椅子を押している看護婦が、僕の耳に熱い息を吹きかけていった。  おしっこしたいの? 怖い顔してるのね。  結局、僕はあいつを見張っていた。そして、あいつは贋《にせ》ものだったのだ、と僕は考えた。勝利の感情が湧きおこりかけて、急に消えた。そして暗い拡がりが静かに躰を寄せて来た。脣を固くひきしめ、個室のドアの閉まる音を背後に聞いてから僕はいった。  僕を清潔にしておきたいんだろう?  え? と看護婦がいった。  下着を汚されたくないんだろう?  看護婦は当惑して僕を見つめてい、それから猥雑さと優しさの交った表情に変った。  わかったわ、と少し息を弾ませて看護婦はいった。わかったわ。近頃《ちかごろ》、皆少し変だったじゃない? 私そう思っていたのよ。  初めに、乾いて冷たい掌が、荒あらしく触れた。看護婦は満足そうに繰返していた。  なんだか変だったわよ、近頃ずっと。 (「新潮」昭和三十二年八月号) 飼育  僕《ぼく》と弟は、谷底の仮設火葬場、灌木《かんぼく》の茂みを伐《き》り開いて浅く土を掘りおこしただけの簡潔な火葬場の、脂《あぶら》と灰の臭《にお》う柔かい表面を木片でかきまわしていた。谷底はすでに、夕暮と霧、林に湧《わ》く地下水のように冷たい霧におおいつくされていたが、僕たちの住む、谷間へかたむいた山腹の、石を敷きつめた道を囲む小さい村には、葡《ぶ》萄色《どういろ》の光がなだれていた。僕は屈《かが》めていた腰を伸ばし、力のない欠伸《あくび》を口腔《こうこう》いっぱいにふくらませた。弟も立ちあがり小さい欠伸をしてから僕に微笑《ほほえ》みかけた。  僕らは《採集》をあきらめ、茂った夏草の深みへ木片を投げすて、肩を組みあって村の細道を上った。僕らは火葬場へ死者の骨の残り、胸にかざる記章に使える形の良い骨を探しに来たのだったが、村の子供たちがすっかりそれを採集しつくしていて、僕らには何ひとつ手に入らなかった。僕は小学生の仲間の誰《だれ》かを殴りつけてそれを奪わねばならないだろう。僕は二日前、その火葬場で焼かれた村の女の死者が炎の明るみのなかで、小さい丘のように腫《は》れた裸の腹をあおむけ、哀《かな》しみにみちた表情で横たわっているのを、黒ぐろと立ちならぶ大人たちの腰の間から覗《のぞ》き見たことを思い出した。僕は恐《こわ》かった。弟の細い腕をしっかり掴《つか》み僕は足を早めた。甲虫の一種が僕らの硬くなった指の腹にしめつけられてもらす粘つく分泌液《ぶんぴつえき》のような、死者の臭いが鼻孔に回復してくるようなのだ。  僕らの村で野天の火葬をしなければならなくなったのは、その夏の始まる前の長びいた梅雨、執拗《しつよう》に長い間降りつづけ洪水《こうずい》を日常的にした梅雨のためだった。僕らの村から《町》への近道の釣橋《つりばし》を山崩れが押しつぶすと、僕らの小学校の分教場は閉鎖され、郵便物は停滞し、そして僕らの村の大人たちは、やむをえない時、山の尾根づたいに細く地盤のゆるい道を歩いて《町》へたどりつくのだった。《町》の火葬場へ死者を運ぶことなどは思いもよらない。  しかし《町》からすっかり隔絶されてしまうことは僕らの村、古いが未成育な開拓村にとって切実な悩みを引きおこしはしなかった。僕ら、村の人間たちは《町》で汚ない動物のように嫌《いや》がられていたのだし、僕らにとって狭い谷間を見下す斜面にかたまっている小さな集落にあらゆる日常がすっぽりつまっていたのだ。しかも夏の始めだった、子供たちにとって分教場は閉じられている方がいい。  村の入口の敷石道の始まる所で、兎口《みつくち》が犬を胸にかかえて立っていた。僕は弟の肩を押しつけながら杏《あんず》の老木が深ぶかとおとす影のなかを走り、兎口の腕のなかの犬を覗きこみに行った。 「ほら」と兎口が腕を揺すり犬を唸《うな》らせた。「見ろよ」  僕の前に突きだされた兎口の腕には周りに血と犬の毛のこびりついた咬《か》み傷がいっぱいなのだ。兎口の胸にも、太く短い頸《くび》にも咬み傷が芽のようにふきでている。 「ほら」と兎口は重おもしくいった。 「俺《おれ》と山犬狩りに行く約束を破ったな」と僕は驚きと口惜《くや》しさに胸をつまらせていった。「一人で行ったんだろ」 「お前を呼びに行ったんだぞ」と兎口は急いでいった。「お前がいなかったから」 「咬まれたなあ」と僕は狼《おおかみ》のように狂暴な眼《め》をし鼻をふくらませる犬を指さきで軽くふれながらいった。「巣へ這《は》いこんだのか」 「喉《のど》をやられないように、皮おびをまきつけて行ったんだ」と兎口は誇りにみちていった。  僕は皮帯を喉にまいて武装した兎口が躰中《からだじゅう》を山犬に咬みつかれながら枯れた草や灌木で作られた巣穴から仔《こ》犬《いぬ》を抱えて出てくる姿勢を、暮れた紫色の山腹や敷石道にはっきり見るのだった。 「喉さえやられなきゃ」と兎口は自信の強い声でいった。「それに若い犬しか残ってない時を待ったんだ」 「あいつらが谷を駈《か》けてくるのを見たよ」と弟が熱心にいった。「親が五匹そろって」 「ああ」と兎口はいった。「いつ?」 「昼のすぐあと」 「それから俺が出かけたんだ」 「そいつ、白くていいな」と僕は羨望《せんぼう》の響きを押しころしていった。 「こいつの親は狼と交接したんだ」という意味のことを兎口は、卑《ひ》猥《わい》なしかし現実感のみちあふれた方言でいった。 「凄《すご》いなあ」と弟が夢みるようにいった。 「俺にすっかり慣れたよ」と兎口が自信を誇張していった。「山犬の仲間の所へ帰って行かない」  僕と弟は黙ったままでいた。 「ほら、見ろ」と兎口はいい、犬を敷石道におろして手を離してみせた。「ほら」  しかし僕らは犬を見おろすかわりに狭い谷間をおおう空を見上げた。そこを信じられないほど巨《おお》きい飛行機が凄《すさ》まじい速さで通りすぎたのだ。空気を波うたせ響きでみたす激しい音が短い間僕らをひたした。僕らは油に捉《とら》われた羽虫のようにその音の中で身動きもできない。 「敵の飛行機だ」と兎口が叫んだ。「敵がやって来た」  僕らは空を見あげ、声を嗄れさせて叫んだ。「敵の飛行機……」  しかし、すでに空は西日に輝いている褐色《かっしょく》の雲のほかには何ひとつ浮かべていないのだ。気がつくと兎口の犬は躰をおどらせ、鳴きたてながら敷石道を駈けているところだった。それはすぐ雑木林に跳びこんで見えなくなった。兎口は追いかけようとした姿勢のままで呆然《ぼうぜん》としていた。弟と僕は酒のように血をたぎらせて笑った。兎口も口惜しがりながら笑いを押さえきれないのだった。  僕らは兎口と別れ、昏《く》れた空気のなかで大きい獣のようにうずくまっている倉庫へ駈け戻《もど》った。父は暗い土間で僕らの食事の準備をしていた。 「飛行機を見た」と弟が父の背へ叫んだ。「大きい敵の飛行機」  父は唸るような声をあげ振りかえらなかった。僕は掃除しておくために父の重い猟銃を土間の板壁の銃架からかつぎあげ、弟と腕をからみあって暗い階段を上った。 「あの犬惜しかったな」と僕はいった。 「飛行機も」と弟がいった。  僕らは村の中央にある共同倉庫の二階の、今は使用されない狭い養蚕部屋に住んでいた。厚い板の朽ちはじめている床に筵《むしろ》と毛布を敷いて父が横たわり、養蚕用の木《き》枠《わく》に板戸を重ねて作った寝台に僕と弟が寝ると、壁紙にまだ生なましい悪臭をはなつしみを残し、天井の裸の梁《はり》に腐った桑の葉をこびりつけたまま大群になって移動して行った蚕の旧居は人間で充満するのだった。  僕らは家具を何ひとつ持っていなかった。父の猟銃が、銃身はもとより油質の艶《つや》のある銃床まで打てば手を痺《しび》れさせてはねかえす鉄に変質したように鈍く光り、僕らの貧しい住居に一つの方向をあたえるのと、剥《む》きだしの梁にたばねられてつりさがる乾燥した鼬《いたち》の毛皮と、各種の罠《わな》。父は野兎《のうさぎ》や野鳥、雪のふりつもる冬には猪《いのしし》を撃つこと、それに罠でとらえた鼬の皮を乾かして《町》の役場へ渡すことで生計を支えていたのだ。  僕と弟は油布で銃身をみがきながら、板戸の隙《すき》間《ま》の向うの暗い空を見あげていた。そこから飛行機の爆音が再び聞えてくるとでもいうように。しかし村の上の空を飛行機が通りすぎるのはごくたまのことなのだ。銃を壁の木枠にかけると僕らは寝台の上へ寝ころんで躰をおしつけあい、父が雑炊の入った鍋《なべ》を運びあげて来るのを空腹におびやかされながら待った。  僕も弟も、硬い表皮と厚い果肉にしっかり包みこまれた小さな種子、柔かく水みずしく、外光にあたるだけでひりひり慄《ふる》えながら剥かれてしまう甘皮のこびりついた青い種子なのだった。そして硬い表皮の外、屋根に上ると遠く狭く光って見える海のほとり、波だち重なる山やまの向うの都市には、長い間持ちこたえられ伝説のように壮大でぎこちなくなった戦争が澱《よど》んだ空気を吐きだしていたのだ。しかし戦争は、僕らにとって、村の若者たちの不在、時どき郵便配達夫が届けて来る戦死の通知ということにすぎなかった。戦争は硬い表皮と厚い果肉に浸透しなかった。最近になって村の上空を通過し始めた《敵》の飛行機も僕らには珍らしい鳥の一種にすぎないのだった。  夜明け近く、激しい地鳴りと凄《すさ》まじい衝撃音が僕を眼ざめさせた。僕は床に敷いた毛布の上で父が半身を起し、夜の森にひそんで獲物に跳びかかろうとする獣のように鋭く欲望にみちた眼を開いて躰をちぢめるのを見た。しかし父は跳びかかるかわりにぐったり躰を倒し、そのまま再び眠りこむ様子だった。  僕は長いあいだ耳をすまして待っていたが地鳴りはくりかえし起らなかった。僕は倉庫の高い明りとりからしのび入ってくる淡い月の光に明るまされた黴《かび》と小動物の臭いのする湿っぽい空気を静かに呼吸しながら辛抱強く待っていた。長い時がたち、僕の脇腹《わきばら》に汗ばんだ額を押しつけて眠っていた弟が弱よわしくすすり泣いた。弟もやはり僕と同じように地鳴りの再びとどろくことを待っており、そしてその期待の持続に耐えられなくなったのだろう。僕は弟の、植物の茎のように痩《や》せて繊細な首筋に掌を押しあて、力づけるために軽く揺すぶってやってから自分の腕の優しい動きになだめられて眠りこんだ。  眼ざめると朝の豊饒《ほうじょう》な光が倉庫のあらゆる羽目板の隙間からなだれこみ、すでに暑かった。父はいなかった。壁に銃もなかった。僕は弟を揺り起し、上半身は裸のままで倉庫の前の敷石道に出た。敷石道や石段に、激しく午前の光がみなぎっていた。子供たちが光の中でまぶしがりながら、ぼんやり佇《た》ったり、犬を寝ころばせて蚤《のみ》を取ったり、あるいは叫びながら駈けたりしていたが大人たちはいなかった。僕と弟は駈けて、楠《くすのき》の茂りの蔭《かげ》の、鍛冶屋《かじや》の小屋へ行ってみた。その暗い土間に、炭火が赤あかと炎を噴いてはいず、ふいごの音もせず、腹まで地下に埋めた鍛冶屋が異常に日やけし脂の乾いた腕で、赤熱した鉄を拾いあげようとしてもいなかった。午前中に、鍛冶屋が店にいない、それは僕らに始めてのことだった。僕と弟は裸の腕をからみあいながら黙りこんで敷石道を戻った。村には大人たちがすっかり不在だった。女たちは暗い家の奥ふかくひそんでいるのだろう。子供たちだけが陽《ひ》の光の氾濫《はんらん》に溺《おぼ》れている。僕は不安に胸をしめつけられた。  共同水汲《みずくみ》場《ば》へ降りる石段に寝そべっていた兎口が僕らを見つけて腕を振りながら駈けて来た。彼はものものしく力みこんで、割れた脣《くちびる》の間から粘っこい唾《だ》液《えき》の白くこまかい泡《あわ》を噴きだしていた。 「おい、知ってるのか」と兎口は僕の肩を殴りつけて叫んだ。「おい、知ってるのか」 「ああ?」と僕はあいまいにいった。 「昨日の飛行機が、夜、山へ落ちたんだ」と兎口がいった。「それに乗っかって来た敵兵を探してるのさ、大人はみんな猟銃を持って山狩りだ」 「撃つの? 敵兵を」と弟が声をたかぶらせていった。 「きっと撃たないだろ、弾が少なくなってるんだし」と兎口は親切に答えた。「それよりも捕まえるんだ」 「飛行機はどうなっただろうな」と僕はいった。 「樅《もみ》の林に突っこんでばらばらだよ」と兎口が眼を光らせて早口にいった。「郵便屋が見たんだ、あのあたり知ってるだろ」  僕は知っていた、今その林には草の穂のような樅の花が開いているはずだった。そして夏の終りには野鳥の卵の形をした毬果《きゅうか》が穂のあとに結ばれ、僕らはそれを武器にするために取りに行くのだ。僕の倉庫にも夕暮や夜明けがた、突然激しい音をたてて、その褐色の銃弾が撃ちこまれることだろう…… 「え?」と脣をひきしめ桃色に光る歯茎を剥き出して兎口がいった。 「知ってるんだろうな」 「知ってるさ」と僕も脣を硬くしていった。「行くか?」  兎口は眼の周囲にかず知れない皺《しわ》をうかべながら狡猾《こうかつ》に笑い、僕を覗きこんで黙っていた。僕は苛《いら》立《だ》った。 「行くなら俺はすぐシャツを取ってくる」と僕は兎口を睨《にら》みつけていった。「一人で出かけてもすぐ追いつくぞ」  兎口は顔をくしゃくしゃにし満足に耐えない声でいった。「だめだ、子供は山へ入って行くのをとめられている。外国兵とまちがって撃たれるぞ」  僕はうなだれて、朝の光に焼けている敷石の上の自分の裸の足、その短くて頑丈《がんじょう》な指を見つめた。失望が樹液のようにじくじく僕の躰のなかにしみとおって行き、僕の皮膚を殺したばかりの鶏の内臓のように熱くほてらせた。 「敵兵はどんな顔だろうなあ」と弟がいった。  僕は兎口と別れ、弟の肩を抱いて敷石道を帰って行った。ほんとうに敵の外国兵はどんな顔をしているのだろう、どんな姿勢で草原や林にひそんでいるのだろう。僕には谷あいの村を囲むあらゆる林と草原に、息をひそめてしのぶ外国兵がみちあふれ、その低い呼吸音にかきたてられて激しいざわめきが起ろうとしているように感じられるのだ。彼らの汗ばんだ皮膚と荒あらしい体臭が一つの季節のように谷あいをおおいつくす。 「死んでなかったらいいがなあ」と弟は夢みるようにいった。「掴まえて来てくれるといいがなあ」  豊かな陽の光の中で、喉に粘つく唾液をからませ、僕と弟は空腹にみぞおちのあたりをしめつけられていた。父が帰ってくるのはおそらく夕暮になってからだろう。僕らは自分たちのための食物を探さねばならない。僕らは倉庫の裏の釣《つる》瓶《べ》が壊れている井戸へ降りて行き、蛹《さなぎ》の腹部のように膨らんで井戸の内壁の冷たく汗ばんでいる石に両手を支えて水を飲んだ。底の浅い鉄鍋に水を汲みこんでから火を焚《た》きつけると、僕らは倉庫の奥の籾殻《もみがら》の中へ腕を突っこんで馬《ば》鈴薯《れいしょ》を盗む。馬鈴薯は僕らの掌のなかで水に洗われながら石のように固かった。  僕らが短い労働のあと始めた食事は単純だが豊富だった。両手に掴んだ馬鈴薯を幸福な獣のように満足して食べながら弟は考えこんでいった。「兵隊は樅の木に登ってるのかな。僕は、樅の枝に栗鼠《りす》がいるのを見たよ」 「樅には花が咲いていて隠れやすいからなあ」と僕はいった。 「栗鼠もすぐ隠れた」と弟は微笑《ほほえ》んでいった。  僕は草の穂のような花のいちめんに開いている樅の木の高い枝に外国兵がひそんで、細い緑の針のむらがりの葉を透し、僕の父たちを見はっているのだと考えた。兵隊の着ている厚くふくれた飛行服に樅の花がいっぱいこびりついて兵隊を冬眠前のよく肥えた一匹の栗鼠のように見せるだろう。 「木に隠れても犬が見つけて吠《ほ》える」と弟が確信にみちていった。  空腹がおさまると僕らは鍋と馬鈴薯の残り、それに一握りの塩をそのまま暗い土間に置きざりにし、倉庫の表口の石段に腰かけた。僕らはそこで長い間うつらうつらし、午後になると共同水汲場の泉へ水浴に行った。  泉では、最も広くてなめらかな台石の上に寝そべった裸の兎口が、女の子供たちに、彼の薔薇《ばら》色《いろ》のセクスを小さな人形のように可愛《かわい》がらせていた。兎口は顔を真赤にし、鳥の叫びのように笑い声をたてながら、時どき、やはり裸の女の子供のお尻《しり》を掌でひっぱたくのだった。  弟は兎口の腰の傍に坐って、その陽気な儀式を熱中して見守っていた。僕は泉の縁でぼんやり陽と水をあびている醜い子供たちにしぶきをはねちらし、それから躰を拭《ぬぐ》わないでシャツを着こむと、敷石に濡《ぬ》れた足あとを残しながら倉庫の表口の石段に帰り、また長い時間を、両膝《りょうひざ》を抱きしめてじっとして暮した。狂気のような期待、熱い酔いのような感情が皮膚の裏をぱちぱち弾《はじ》けながら駈けまわった。僕は兎口が異常な執着をしめす奇妙な遊びにふける自分を夢みた。しかし、水浴から帰る裸の子供たちのなかにまじっている、歩くたびに腰をゆらめかせる女の子、潰《つぶ》れた白桃の不安定な色が覗《のぞ》いている皺よった貧しいセクスを剥きだした女の子が僕におずおずした微笑をむけるごとに、僕は罵《ば》声《せい》と小石とを雨とふらせて彼女たちをおびえあがらせたのだった。  僕は空いちめんに野火のような色の雲があふれ飛びかう、熱情的な夕焼が僕らの谷をおおいつくすまで、そのままの姿勢で待っていたが、大人たちはなかなか戻って来なかった。僕は期待で気が狂いそうだった。  そして、夕焼が色あせてしまい、陽に新しくやけた皮膚に快い冷やかな風が谷間から吹きあげ始め、最初の宵闇《よいやみ》が物かげへ来てから、静かに音をひそめた村、不安な期待に脳を侵された村へ、吠えたてる犬と大人たちが帰ってきたのだ。僕は子供たちと群がってそれを迎えに駈けだし、大人たちに囲まれている黒い大男を見た。衝撃のような恐怖が僕を逆上させた。  大人たちは冬の猪狩の時のように重おもしく脣をひきしめて《獲物》を囲み、殆《ほとん》ど哀《かな》しげに背を屈《かが》めて歩いて来るのだった。そして《獲物》は、灰褐色の絹の飛行服を着こみ鞣《なめ》した黒い皮の飛《ひ》行靴《こうぐつ》をはくかわりに、草色の上《うわ》衣《ぎ》とズボンをつけ、足には重そうで不《ぶ》恰好《かっこう》な靴をはいていた。そして黒く光っている大きい顔を傾けて昏れのこる空をあおぎ、びっこをひきながら足をひきずって来る。《獲物》の両足首には猪罠《いのししわな》の鉄ぐさりがはめこまれていて、それが騒がしい音をたてていた。《獲物》を囲む大人たちの行列の後に続いて、僕ら子供たちはやはり黙りこんで群がりながら歩いた。行列は分教場の前の広場までゆっくり進み、静かに止った。僕は子供の群がりをかきわけて前へ進み出たが、部落長の老人が声をはりあげて僕らを追いちらすのだった。僕らは広場の隅《すみ》の杏《あんず》の樹《こ》立《だち》の下まで後退し、そこで頑強《がんきょう》に踏みとどまると、濃さをます暗がりを透して大人たちの会議を見守った。広場に面した家の土間から白い上っぱりの下で躰《からだ》を腕でしめつけた女たちが、危険な狩から《獲物》をえて帰った男たちの低い声に苛立ちながら耳をすましていた。兎口《みつくち》が背後から僕の脇腹を強くこづき、僕を子供たち仲間から引き離して楠の深ぶかした蔭へつれて行った。 「あいつ黒んぼだなあ、俺《おれ》は始めからそう思っていたんだ」と兎口は感動に震える声でいった。 「ほんとうの黒んぼだなあ」 「あいつをどうするんだろう、広場で撃ち殺すのかなあ」 「撃ち殺す?」と驚きに息を弾ませて兎口が叫んだ。「正真正銘の黒んぼを撃ち殺す」 「敵だから」と僕は自信なく主張した。 「敵、あいつが敵だって?」と兎口は僕の胸ぐらを掴み脣の割れめから唾液を僕の顔いちめんに吐きかけながら声を嗄れさせて、どなりちらした。「黒んぼだぜ、敵なもんか」 「ほら、ほら」と子供たちの群れの中から、弟の熱中した声が聞えた。 「あれを見ろ」  僕と兎口は振りかえり、当惑して見守っている大人たちから少し離れて黒人兵が肩をぐったり垂れ、放尿しているのを見つめた。黒人兵の躰は、作業服めいた草色の上衣とズボンを残して、濃さをました夕闇の中へ溶けこもうとしていた。黒人兵は頭を傾け長ながと放尿し、それを見つめている子供たちの吐息の雲が彼の背後に立ちのぼると、もの憂《う》げに腰を振るのだった。  大人たちは再び黒人兵を囲んでゆっくり引きかえし始め、僕らは間隔をおいて、その黙りこんだ行列について行った。《獲物》を囲む行列は倉庫の横側の荷物積出口の前にとまった。そして、そこには、秋の実った栗《くり》の秀《すぐ》れた粒をよりわけ二硫化炭素で硬い皮の下の幼虫を殺したあと冬をこえて貯蔵するための地下倉が黒ぐろと降り口を開いて動物の住む穴のように見えるのだった。黒人兵を囲んだまま大人たちは儀式の始まりのように荘重にそこへ沈みこんで行き、大人の腕の白い揺らめきが厚い揚蓋《あげぶた》を内側から閉ざした。  倉庫の床と地面の間に細長く露出している明りとりの小窓の向うでオレンジ色の灯《ひ》がともるのを僕らは耳を澄ましながら見まもっていた。僕らは明りとりから覗きこむ勇気をふるいたたせることができないのだった。その短く不安な待機が僕らを限りなく疲れさせた。しかし銃声は響かなかった。その代りに、降り口から半ば開いた揚蓋の間に黒っぽい顔を覗かせた部落長が、どなりたて、僕らは明りとりをへだてて遠く見守ることさえ放棄せねばならなかったが、子供たちは誰《だれ》一人失望の声をあげず、夜の時間を悪夢でみたす充実した期待に胸を膨らまして敷石道を駈けさって行くのだった。恐怖が彼らの高い足音に呼びおこされて彼らを背後からおそう。  倉庫にそった杏の樹立の暗がりにひそんで、なお大人たちと獲物の動静を監視する決心をしている兎口を残して僕と弟は倉庫の表口へ廻《まわ》り、屋根裏の僕らの住居へいつも湿っぽい手すりに躰を支えながら登って行った。僕らは《獲物》と同じ家に住んでいる、ということになるのだ。屋根裏で耳を澄ましても地下倉の叫びは決して聞えないであろうが、黒人兵が連れこまれた地下倉の上で寝台に坐っていられるのは豪華で冒険的な、僕らにとって全く信じられないほどの事実だった。僕は感情の昂揚《こうよう》、おびえと喜びに歯が音をたてて噛《か》みあうほどだったし、弟は毛布をかぶって足をちぢめ、悪性の感冒にかかったように震えていた。そして僕らは、父が重い猟銃と疲れを支えて帰って来るのを待ちながら、自分たちにふってわいたすばらしい好運に微笑みあうのだった。  僕らが餓《う》えを鎮《しず》めるためによりも、むしろ胸のなかで湯のようにたぎる心理のざわめきを、腕のあげおろしや綿密な咀嚼《そしゃく》によってまぎらすために、冷たく汗ばみ硬くなってしまった馬鈴薯の残りを食べ始めた時、僕らの期待の膜をおしあげて父が階段を上って来た。僕と弟は躰中をぞくぞくさせて、父が壁の木《き》枠《わく》に猟銃をかけ、土間に敷いた毛布の上へ腰を下すのを見つめていたが、父は黙りこんだまま、僕らの食べている馬鈴薯の鍋を見ただけだった。僕は父が、死ぬほど疲れて苛だっているのだと考えた。子供の僕らには、それをどうすることもできない。 「米は無くなったのか」と父が不精髭《ぶしょうひげ》の荒あらしく伸びひろがっている喉《のど》の皮膚を袋のように膨らませて僕を見つめながらいった。 「ああ」と僕は低い声でいった。 「麦も?」と不機《ふき》嫌《げん》に呻《うめ》くように父がいった。 「なにひとつ無い」と僕は腹を立てていった。 「飛行機は?」と弟がおずおずいった。「どうなったの」 「燃えた。山火事になるところだ」 「全部、すっかり?」と弟が溜息《ためいき》をもらしていった。 「尾翼だけ残った」 「尾翼……」とうっとりして弟はいった。 「あの兵隊の他《ほか》はどうしたの?」と僕が聞いた。「一人で乗って来たのかな」 「他に兵隊が二人死んでいた。あいつは落《らっ》下《か》傘《さん》で下りたんだ」 「落下傘……」と弟がますます夢みるような声でいった。 「どうするの、あいつ」と僕は思い切って訊《たず》ねた。 「町の考えがわかるまで飼う」 「飼う」と驚いて僕はいった。「動物みたいに?」 「あいつは獣同然だ」と重おもしく父がいった。「躰中、牛の臭《にお》いがする」 「見に行きたいなあ」と弟が父を窺《うかが》いながらいったが、父はむっと口をつぐんだまま、階段を下りて行った。  僕と弟は父が米と野菜を借りあつめて来て、僕らと父自身のために、熱く豊富な雑炊を作るのを待つために寝台の木枠に腰をかけた。僕らは疲れきって食欲もなかった。そして躰いちめんの皮膚が、発情した犬のセクスのようにひくひく動いたり痙攣《けいれん》したりして、僕らをかりたてるのだった。黒人兵を飼う、僕は躰を自分の腕でだきしめた。僕は裸になって叫びたかった。  黒人兵を獣のように飼う……  次の朝、父が僕を黙って揺り起した。夜が明けたところだった。倉庫の板壁のあらゆる隙《すき》間《ま》から濃い光と溷濁《こんだく》した灰色の霧がしのびこんでいた。僕は冷たい朝食を忙がしく呑《の》みこみながら、しだいにはっきり眼《め》をさました。父は猟銃を肩にかけ、弁当のつつみを腰にまきつけて、不眠のために黄褐色《おうかっしょく》に濁った眼で、僕が食事を終るのを見守っていた。鼬《いたち》の毛皮をぐるぐるまきにして、裂いた南京袋《なんきんぶくろ》にくるんだものが父の膝にたてかけてあるのを見て、僕は息をのみ《町》へ降りるのだ、と考えた。そして黒んぼのことを役場へ報告するのだろう。  言葉が僕の喉の奥でうずまき、食事の速度を遅らせるほどなのだが、僕は父の粗い髭におおわれた逞《たくま》しい下顎《したあご》が穀粒を咀嚼するようにたえまなく動くのを見て、父が不眠のために神経を痛めつけ苛立たせていることを知るのだ。黒人兵について訊ねることはできない。父は昨夜、食事のあと猟銃を新しい弾丸で充《じゅう》填《てん》し、夜の見はりへ出て行ったのだった。  弟は草のむれた匂《にお》いのする毛布に頭を突っこんで眠っていた。食事を終ると僕は弟を眼ざめさせないように音をたてず、爪先《つまさき》だちですばやく動きまわった。厚い布地の草色のシャツを裸の肩にまといつけ、ふだんは決して使わない布の運動靴をはきこみ、父の膝の間の包みをかつぎあげ、階段を駈けおりる。  濡れた敷石道の上を低く霧が流れ、村は靄《もや》につつまれて寝しずまっていた。鶏たちはすでに疲れて黙りこみ犬も吠えなかった。僕は倉《そう》庫《こ》脇《わき》の杏の樹《き》にもたれて銃を持った大人が頭をたれているのを見た。父はその見はりに立っている男と低い声で言葉をかわした。地下倉の明りとりが黒ぐろと傷のように開いているのを、僕は激しいおびえにとらわれながらすばやく見た。そこから黒人兵の腕が差し出され僕を掴《つか》まえに来る。僕は早く村から出て行きたかった。敷石道を足をすべらせないように注意して黙りこんだまま歩きはじめると、陽《ひ》が濃い霧の層を透かして、熱気のある強靱《きょうじん》な光を僕らに投げかけた。  尾根の村道へ出るために、柔かい土質の斜面をきりひらいた、足うらに吸いつく赤土の細道を杉林《すぎばやし》の中へ入って行くと僕らは再び暗い夜の底にいるのだった。金属の味を口腔《こうこう》にひろげる、雨のように大粒の霧がなだれかかり、僕を息苦しくし、髪を濡らし、襟《えり》が垢《あか》で黒ずみ捩《よじ》れているシャツの毛ばだちに、白く光る水玉を作った。そこで僕らは足うらに柔かい腐った落葉のすぐ下を流れる清水が布靴をとおして足指を凍えさせることよりも、荒あらしく群生した羊歯《しだ》類《るい》の鉄の茎で皮膚を鋭く傷つけられること、その執拗《しつよう》にはりつめた根の間でひっそり眼をひらいている蝮《まむし》を刺《し》戟《げき》して跳びつかれたりしないように気を配らねばならなかった。  杉林をぬけて霧が融《と》けかけ明るんでいる、背の低い雑木林にそった村道に出ると、僕《ぼく》はシャツや半ズボンの霧粒をヌスビトハギの実を落すように念入りにはらい落した。空は晴れて激しく青かった。僕らが谷間の危険な廃坑で拾う銅の鉱石の色に似た遠い山のつらなりが、僕らにおしよせる陽にてらされた黒ずんだ青の海だった。そして白っぽい一掴みのほんとうの海。  僕らの周りには野鳥が啼《な》きたてていた。高い松の梢《こずえ》が風に鳴っていた。父の長靴に踏みつけられた、うず高い落葉の間から死にものぐるいの地鼠《じねずみ》が灰色の噴水のように勢よく跳び出し、僕をごく短い間おびえさせ、紅葉している灌木《かんぼく》の茂みへ駈けこんで行った。 「町へ行って、あの黒んぼのことを話すの?」と僕は父の逞しい背へ声をかけた。 「う?」と父はいった。「ああ」 「町の駐在所から巡査が来るのかな」 「どうなるかわからん」と父は唸《うな》るようにいった。「県庁へ報告が行くまでわからん」 「ずっと村で飼っておけないかなあ」と僕はいった。「危いかな、あいつ」  父は黙りこんで僕をうけつけなかった。僕は昨夜、黒人兵が村へ連れて来られた時の驚きと恐怖が僕の躰の中で回復して来るのを感じた。あいつは今地下倉の中でどうしているだろう。黒人兵が地下倉から出て、村の人間や猟犬をみな殺しにし、家に火をつけてしまう。僕は躰が震えるほど恐《こわ》く、それについて考えたくなかった。僕は父を追いこし、降《くだ》りの長い坂道を息をあえがせながら走った。  再び平坦《へいたん》な道に出ると陽が高かった。道の両側に小さい地崩れのあるところでは剥《む》きだされた赤土が血のように生なましく、陽をうけて照りかがやいていた。僕らは激しい陽ざしに裸の額をさらして歩いた。汗が頭の皮膚にじくじく湧《わ》き出、それが短く刈った頭髪のあいだをしみ通って額から頬《ほお》へ流れおりるのだった。 《町》へ入ると僕は父の高い腰に肩を押しつけ、街路の子供たちの挑発《ちょうはつ》には眼もくれないで歩いた。父がいなかったら、それらの子供たちは僕をはやしたて石を投げつけただろう。僕は《町》の子供たちを決してなじめない形をした地虫のある種に対してのように嫌《きら》っていたし軽蔑《けいべつ》してもいた。《町》にあふれる正午の光のなかの、痩《や》せて陰険な眼をした子供たち。暗い店の奥から僕らを見守る大人たちの眼さえなかったら、僕にはそれら子供たちの誰をも殴り倒せる自信があった。  町役場は昼休だった。僕らは役場の前の広場のポンプを動かして水を飲んだあと、暑い陽ざしのさしこむ窓にそった木椅子《きいす》にかけて長いあいだ待った。昼食を終えて、やっと出て来た老吏員と父が低い声で話し、そのまま二人で町長室へ入って行くと、僕は鼬の皮を小型の計量器が並んでいる窓口まで運んだ。そこで、鼬の皮は数えられ、父の名前と一緒に帳簿へ記入されるのだ。僕はレンズの厚い近眼鏡をかけた女吏員が毛皮の枚数を書きこむのを注意ぶかく監視した。  その仕事がすむと僕には何をしていいのか全くわからなかった。父はなかなか出て来なかった。そこで僕は、廊下に裸足《はだし》の吸いつく音をたてながら、靴《くつ》を両手に持って、僕の《町》での唯一《ゆいいつ》の知りあい、村へたびたび《町》からの通知を伝えに来る男を探した。村の大人たちも子供らも、その片足の男を《書記》とよんでいるのだが、村の分教場の身体検査の時、その男は医師の助手のような仕事もした。 「おい、蛙《かえる》、来たのか」と衝立《ついたて》の向うの椅子から立ちあがった書記が大きい声でいい、僕をほんの少し憤《いきどお》らせたが、僕は書記の机へ近づいて行った。僕らが彼を書記と呼ぶように、彼が村の子供を蛙と呼んでも、それは仕方のないことだろう。彼を見つけることができて僕は嬉《うれ》しかった。 「黒人を掴まえたそうだな、蛙」と書記は事務机の下で義肢《ぎし》をがたつかせていった。 「ああ」と僕は黄色のしみのある新聞紙でくるんだ弁当の置かれている書記の机に両掌《りょうて》をのせていった。 「たいした事をやったな」  僕は書記の血色の悪い脣《くちびる》に大人のように堂どうとうなずいてみせ、黒人兵について話そうとしたが、夕暮の村へ獲物のように連れてこられた大きい黒人を説明する言葉を見つけることができない。 「あの黒んぼ、殺すの?」と僕は訊ねた。 「知らないよ」と書記は町長室へ顎をしゃくってみせていった。「これから定《き》めるんだろ」 「町へ運ぶのかなあ」と僕はいった。 「分教場が休みで嬉しそうだな」と書記は僕の大切な質問をそらしていった。「女教師が怠けもので、文句ばかりいいやがって、出かけようとしないんだ。村の子は汚れていて臭くて厭《いや》だとさ」  僕は自分の首筋が垢でひびわれていることを恥じたが、挑戦的に頭をふりたて、笑ってみせた。机の下から書記の不《ぶ》恰好《かっこう》な義肢がねじれて突き出ていた。僕は書記が丈夫な右足と義肢と、一本きりの松《まつ》葉《ば》杖《づえ》で山道を跳ねて来るのを見るのが好きだったが、椅子に坐っている書記の義肢は《町》の子供たちと同じように、きみが悪くて陰険だった。 「とにかく学校が休みだというのはいいよな」と書記はいい、もう一度義肢をがたつかせて笑った。「お前たちも汚ながられているより、教室の外で遊ぶ方がいいだろ」 「あいつらだって汚ない」と僕はいった。  ほんとうに女教師たちは、みんな醜く汚なかったのだ、書記は笑った。町長室から出て来た父が低い声で僕を呼んでいた。僕は書記に肩をたたかれ、その腕をたたきかえしてから駈《か》け出した。 「捕虜を逃がすな、蛙」と書記が僕の背に叫んだ。 「あいつをどうすることにきまった?」と僕は陽の激しくあたる《町》をひきかえしながら父にいった。 「責任のがればっかりいいやがって」と父は僕を罵《ののし》りでもするように強くいっただけだった。僕は父の不機嫌に気《け》おされて黙りこみ、《町》のいじけて醜い街路樹の影をぬいながら歩いた。《町》の樹もまた、その街路の子供たちのように陰険でなじみにくいのだ。  街はずれの橋まで来ると、その低い欄干に腰をおろし父は黙ったまま弁当の包みを開いた。僕は父に質問することを自分に禁じる努力をして、父の膝《ひざ》の上の包みへ少し汚れている指をのばした。僕らは黙ったまま、握飯を食べた。  僕らの食事の終りに、橋の上を鳥のようにすがすがしい首をした少女が歩いて来た。僕はすばやく自分の服装と容貌《ようぼう》について検討し《町》のどの子供よりも立派でしっかりしていると考えた。僕は靴をはいた両足を前に突きだして少女が僕の前を通りすぎるのをまちうけた。熱い血が耳のなかで鳴っていた。少女は僕を非常に短い時間、見つめ眉《まゆ》をひそめて駈け出して行った。僕は食欲を急になくした。僕は橋のたもとの狭い階段を下りて水を飲むために河原へ降りて行った。河原には丈の高いヨモギが群生していた。僕はそれらをなぎたおし蹴《け》りちらかして水際《みずぎわ》まで駈けて行ったが、水は暗褐色に濁って汚ないのだ。僕は自分がひどくみすぼらしく貧しいと考えた。  腓《ふくらはぎ》をこわばらせ、顔の皮膚を脂《あぶら》と汗と埃《ほこり》で厚ぼったくして僕らが尾根づたいの道から離れ杉林をぬけて村の入口まで降りて来た時、夕暮は谷間をすっかりおおっていたが、僕らの躰《からだ》には陽の熱気がとどこおりつづけていて、吹きあげて来る濃い霧が快かった。  部落長の家へ報告に行く父と別れ、僕が倉庫の二階へ上って行くと、弟は寝台の上に坐ったまま眠りこんでいるのだった。僕は腕を伸ばし弟の裸の肩の虚弱な骨を掌に感じながら揺さぶった。熱い僕の掌の下で弟の皮膚が軽く収縮し、弟の急に開かれた眼から、みなぎる疲れとおびえが融けていった。 「あいつ、どうだった?」と僕はいった。 「地下倉で寝てるだけ」と弟がいった。 「恐かったか、一人で」と僕は優しくいった。  弟は真剣な眼をして首を振った。僕は板戸を狭く開き、放尿するために窓枠《まどわく》へ上った。霧が生きもののようにおおいかぶさってき、僕の鼻孔のなかへすばやくしのびこんで来た。僕の尿は長い距離を飛び、敷石の上ではじけちり、倉庫の一階から張り出している出窓にあたるとはねかえって僕の鳥肌《とりはだ》だった腿《もも》や足の甲を暖かく濡《ぬ》らした。弟が動物の仔《こ》のように僕の脇へ頭を押しつけ、熱心に僕の放尿を覗《のぞ》きこんでいた。  僕らはそのままの姿勢で暫《しばら》くいた。小さな欠伸《あくび》がいくつも僕らの細い喉へあふれ、そのたびに僕らは透明で意味のない涙を少しずつ流すのだった。 「兎口《みつくち》は、あいつを見たか?」と僕は板戸を閉ざす手伝いをするために肩の細い筋肉をこわばらせている弟にいった。 「子供は広場へ行くと叱《しか》られる」と弟が口惜《くや》しそうにいった。「あいつを、町から連れに来るの?」 「わからない」と僕はいった。  階下へ父と雑貨屋の女とが声高に話し合いながら入ってきた。黒人兵にあたえる食事を地下倉へ運び下すことができない、と雑貨屋の女はいいはっていた。女の私にはできない、あなたの息子さんは役に立つだろう。僕は靴を脱ぐために屈《かが》めていた腰をのばした。弟の柔かい掌が僕の腰をしっかり押しつけていた。僕は脣を噛《か》んで父の声を待ちうけた。 「おい、降りて来い」と父が叫ぶのを聞くと、僕は靴を寝台の下へ投げこみ階段を駈けた。  父は胸に抱いた猟銃の台尻《だいじり》で、雑貨屋の女が土間に置いて行った食物の籠《かご》を示した。僕は父にうなずきかえすと、それをしっかり持ちあげた。僕らは黙ったまま倉庫を出て、霧がたちこめている冷えた空気の中を歩いた。足うらの下で敷石は昼のぬくみを残していた。倉庫脇には見はりの大人は誰《だれ》も立っていなかった。明りとりから淡い光がもれて来ているのを見ると、僕は躰いちめんに疲れが毒のようにぶつぶつふき出るのを感じるのだ。しかし僕は黒人を傍《そば》で見ることのできる最初の機会に歯が音をたてるほど興奮していた。  揚蓋《あげぶた》のものものしい南京錠《なんきんじょう》が水滴をしたたらすのを外し、中を窺《うかが》って父だけがまず、注意深く銃を支えて降りて行った。蹲《しゃが》みこんで待っている僕の首筋に霧粒のまじった空気がまといついて離れない。僕の頑丈《がんじょう》で褐色《かっしょく》の両脚が震えるのを僕は、背後にびっしりたちこめて僕を見つめる数しれない眼に羞《は》じていた。 「おい」と父が押し殺した声でいった。  僕は食物の籠を胸に抱えて短い階段を下りて行った。光度の低い裸電球に照しだされて、そこに《獲物》がうずくまっていた。彼の黒い足と柱を結びつける猪罠《いのししわな》の太い鎖が僕の眼をぐいぐいひきつける。 《獲物》は長い両膝を抱えこみ、顎《あご》を臑《すね》に乗せたまま充血した眼、粘ついて絡《から》んで来る眼で僕を見あげた。耳のなかへ躰中の血がほとばしりそそぎこんで僕の顔を紅潮させる。僕は眼をそらし、壁に背をもたせて銃を黒人兵に擬《ぎ》している父を見あげた。父が僕に顎をしゃくった。僕は殆《ほとん》ど眼をつむって前に進み出、黒人兵の前に食物の籠を置いた。後ずさる僕の躰のなかで、突発的な恐れに内臓が身《み》悶《もだ》えし嘔《はき》気《け》をこらえなければならない。食物の籠を黒人兵が見つめ、父が見つめ、僕が見つめた。犬が遠くで吠《ほ》えた。明りとりの向うの暗い広場はひっそりしていた。  黒人兵の注視の下にある食物籠が僕の興味を急にひき始める。僕は餓《う》えた黒人兵の眼で食物の籠を見ているのだった。大きい数個の握飯、脂の乾くまで焼いた干魚、野菜の煮込、そして切《きり》子《こ》細《ざい》工《く》の広口瓶《ひろくちびん》に入った山羊《やぎ》の乳。黒人兵は長いあいだ、僕が入って来た時のままの姿勢で食物籠を見つめつづけ、そのあげく、僕が自分自身の空腹に痛めつけられ始めるほどなのだ。そして僕は、黒人兵が僕らの提供する夕食の貧しさと僕らとを軽蔑して、決してその食物には手をつけないのではないかと考えた。羞恥《しゅうち》の感情が僕をおそった。黒人兵があくまでも食事にとりかかる意志を示さなかったら、僕の羞恥は父に感染し、父は大人の恥辱にうちひしがれ、やぶれかぶれになって暴れ始め、そして村中が恥に青ざめた大人たちの暴動でみたされるだろう。誰が黒人兵に食物をやるという悪い思いつきをしたのだろう。  しかし、黒人兵はふいに信じられないほど長い腕を伸ばし、背に剛毛の生えた太い指で広口瓶を取りあげると、手もとに引きよせて匂いをかいだ。そして広口瓶が傾けられ、黒人兵の厚いゴム質の脣が開き、白く大粒の歯が機械の内側の部品のように秩序整然と並んで剥き出され、僕は乳が黒人兵の薔薇《ばら》色《いろ》に輝く広大な口腔《こうこう》へ流しこまれるのを見た。黒人兵の咽《のど》は排水孔に水が空気粒をまじえて流入する時のような音をたて、そして濃い乳は熟れすぎた果肉を糸でくくったように痛ましくさえ見える脣の両端からあふれて剥き出した喉を伝い、はだけたシャツを濡らして胸を流れ、黒く光る強靱《きょうじん》な皮膚の上で脂のように凝縮し、ひりひり震えた。僕は山羊の乳が極めて美しい液体であることを感動に脣を乾かせて発見するのだった。  黒人兵は広口瓶を荒あらしい音をたてて籠に戻《もど》した。それからは、もう彼の動作に最初のためらいはしのびこまなかった。握飯は彼の巨大な掌に丸めこまれて小さい菓子のように見えたし、干魚は頭の骨ごと黒人兵の輝く歯にかみ砕かれた。僕は父と並んで壁に背を支え、感嘆の感情におそわれながら、黒人兵の力にみちた咀嚼《そしゃく》を見守っていた。黒人兵は熱心にその食事に没頭し僕らに注意をはらわなかったから、自分の空腹をおし殺す努力をしなければならない僕は、父たちのすばらしい《獲物》を検討する、かなり息苦しい余裕をえたのだった。それは、確かになんというすばらしい《獲物》だったことだろう。  黒人兵の形の良い頭部を覆《おお》っている縮れた短い髪は小さく固って渦《うず》をつくり、それが狼《おおかみ》のそれのように切りたった耳の上で煤色《すすいろ》の炎をもえあがらせる。喉から胸へかけての皮膚は内側に黒ずんだ葡《ぶ》萄色《どういろ》の光を押しくるんでいて、彼の脂ぎって太い首が強靱な皺《しわ》を作りながらねじれるごとに僕の心を捉《とら》えてしまうのだった。そして、むっと喉へこみあげてくる嘔気のように執拗《しつよう》に充満し、腐蝕性《ふしょくせい》の毒のようにあらゆるものにしみとおってくる黒人兵の体臭、それは僕の頬《ほお》をほてらせ、狂気のような感情をきらめかせる……  黒人兵の貪婪《どんらん》なむさぼりを見ている僕の炎症をおこしたようにうるんで熱い眼には、籠のなかの粗末な食物が、芳醇《ほうじゅん》で脂っこい異国的な大盤ぶるまいの馳《ち》走《そう》に変るのだった。僕は籠を運びあげる時、そこに食物のかけらが残っていでもしたら、秘密の快楽におののく指でそれをつかみあげ、呑《の》みこんでしまっただろう。しかし黒人兵はすっかり食物をたいらげたあと、煮込のいれられていた皿《さら》を指の腹でこすり取りさえしたのだ。  父が僕の脇腹《わきばら》をこづき、僕は猥雑《わいざつ》な夢想にふけっていでもしたように、羞恥と腹だたしさにおそわれながら、黒人兵の前へ進み出、籠をとりあげた。そして、父の銃孔にまもられて黒人兵に背をむけ、階段を上ろうとした時、僕は黒人兵の低く厚ぼったいしわぶきを聞いたのだ。僕は足を踏みはずし、躰中の皮膚がおびえから鳥肌になってしまうのを感じた。  倉庫の二階へ階段を上りきったところ、柱のくぼみに歪《ゆが》んで暗い鏡が揺れている、そこへ僕が階段を上るにつれて青ざめて血の気のない脣を噛みしめた、全くとるにたりない日本人の少年が頬をひくひくさせて薄明りの中へ浮かびあがって来るのだった。僕はぐったり腕をたれて、殆ど泣き出したいような感情、うちひしがれ涙ぐましい感情に耐えながら、僕たちの部屋の、いつのまにか閉ざされている板戸を開いた。  弟は寝台の上に坐りこんで、眼を光らせていた。弟の眼は熱をおび、そして少し恐怖に乾いているのだった。 「板戸を閉めたの、お前だろ?」と僕は自分の脣の震えを気どられないように傲慢《ごうまん》に顔を歪めていった。 「ああ」と弟は自分の臆病《おくびょう》さを恥じて眼をふせた。「あいつ、どう?」 「とても臭《にお》うだけさ」と僕は疲れの湧出《ゆうしゅつ》のなかでいった。  ほんとうに僕は疲れきって貧しい感情をもてあましていた。《町》への旅、黒人兵の夕食、僕は長い一日を働き続けた後、水を大量に吸った海綿のように躰を疲れで重くしていたのだ。僕は枯れた草の葉や、多毛質の草の実のこびりついているシャツを脱ぎ、汚れた裸足《はだし》を雑巾《ぞうきん》でぬぐうために躰を屈め、弟の次の質問をうけつける意志のないことを誇示した。弟は脣をとがらせ眼を見はり、僕を心配そうに見守っていた。僕は弟の横にもぐりこみ、顔を汗と小動物の臭いのする毛布に埋めた。弟は僕の肩に膝を揃《そろ》えて押しつけて坐り、僕を見守っているだけで、質問を続けようとはしないのだった。それは僕が熱病にかかった時と同じことだった、そして僕も熱病にかかった時と同じように、ひたすら睡《ねむ》りたいのだった。  翌朝、遅く眼ざめると、倉庫脇の広場からざわめきが伝わって来ていた。弟も父も部屋にいなかった。僕は熱い瞼《まぶた》を開き壁を見あげて、そこに猟銃がないのを確かめた。ざわめきを聞き、銃架の空の木枠を見つめていると僕の胸は激しい鼓動をうちはじめる。僕は寝台から跳び出し、シャツを手に掴《つか》んで階段を駆け下りて行った。  広場には大人たちが群らがり、彼らのなかに子供たちが小さな汚れた顔を不安にこわばらせてあおむけていた。そして彼らから離れ、兎口と弟が地下倉の明りとりの傍に蹲みこんでいるのだった。あいつらは覗いていたんだ、と僕は腹を立てて考え、兎口たちに駈けよろうとして、地下倉の降り口から松葉杖で軽く身を支えた書記が顔をうなだれて出て来るのを見た。激しく暗い虚脱、なだれてくる失望が僕の躰をひたした。しかし、彼のあとに続いて黒人兵の死体が運び出されて来るかわりに僕の父が銃身に袋をかぶせたままの銃を肩にかけ、部落長と小声で話し合いながら出て来たのだった。僕は吐息をつき、脇や内股《うちまた》に、たぎる湯のように熱い汗をしたたらせた。 「覗いて見ろ」と兎口が立ったままの僕に叫んだ。「見ろよ」  僕は熱い敷石に腹ばい、地面すれすれに開いている狭い明りとりから中を覗きこんだ。暗がりの水の底で、黒人兵が打ちのめされ、叩《たた》きふせられた家畜のようにぐったりし躰を屈めて床に倒れていた。 「殴ったのか」と怒りにふるえる上体を起して僕は兎口にいった。 「足を縛られて動けないあいつを殴ったのか?」 「え?」と僕の怒りをはねかえすために、頬をこわばらせ口をとがらせて闘いの姿勢をとり兎口はいった。「殴る?」 「あいつを殴ったのか」と僕は叫んだ。 「殴るもんか」と兎口は口惜しそうにいった。「大人が入って行って、見ただけだ。見ただけで黒んぼはあの通りなんだ」  怒りがさめていった。僕は頭をあいまいに振った。弟が僕を見つめていた。 「なんでもない」と僕は弟にいった。  村の子供の一人が僕の躰の横からまわりこんで明りとりを覗こうとし、兎口に脇腹をけりつけられて悲鳴をあげた。兎口はすでに明りとりから黒人兵を覗く権利を自分の勢力の下においたのだ。そしてその権利を侵害する者たちに神経をとがらせているのだった。  僕は兎口たちから離れ、大人たちに囲まれて話し合っている書記のところへ行った。書記は僕を、洟水《はなみず》を上脣に乾かせている村の子供たちと同じように全く無視して話し続け、僕の自尊心と彼への親しみの感情を傷つけた。しかし自分の誇りや自尊心にかまってはいられない時というものがある。僕は大人たちの腰の間に頭を突っこんで、書記と部落長の話し合いを聞いた。 《町》の役場と駐在所では、黒人兵の捕虜をどう処置することもできないと書記はいうのだった。県庁まで報告し、それへの回答があるまで黒人兵を保管しておかなければならない、そしてその義務は村にある。書記の主張に部落長が反駁《はんぱく》して、村には黒人兵を捕虜として収容する力がないということをくりかえした。しかもあの遠い山道を危険な黒人兵を護送することも村の人間たちの力では難かしいだろう。長い雨期と洪水《こうずい》が何もかもを複雑にし困難にしたのだ。  しかし書記が命令的な口調、一種の下級官僚的な尊大な口調になると村の大人たちは弱よわしくそれに屈伏するのだった。県の方針が定《き》まるまで黒人兵を村においておくことがはっきりすると、不満と困惑でこわばる表情の大人たちの群らがりから離れて、僕は明りとりの前に独占的に坐っている弟と兎口のところへ駈け出して行った。僕は深い安《あん》堵《ど》と期待と、大人たちから感染したむくむく動きまわる不安に満たされていた。 「殺さないんだろ?」と勝ちほこって兎口が叫んだ。「黒んぼは敵じゃないからな」 「惜しいから」と弟も嬉《うれ》しそうにいった。そして僕と兎口と弟は額をぶっつけあって明りとりを覗きこみ、黒人兵がぐったり寝ころんだままで、胸を大きく起伏させ呼吸しているのを見て満足の溜息《ためいき》をついたのだ。地面に裏がえして伸べられ、陽《ひ》に乾く僕らの足うらのすぐそばまで進んで来た子供たちは僕らへの不満を低くつぶやくのだが、兎口がすばやく躰を起してどなりつけると、悲鳴をあげて逃げ散るのだった。  やがて僕らは寝そべったままの黒人兵を見ることにあきたが、特権的な場所は放棄しなかった。兎口が子供たちから、棗《なつめ》の実、あんず、無花果《いちじく》の実、柿《かき》など、一人一人に代償の予約をしてから明りとりを短い時間、覗かせた。子供たちは、驚きと感動に首筋まで真赤にしながら覗きこみ、埃《ほこり》に汚れた顎を掌でこすりつけながら立ちあがるのだった。倉庫の壁に背をもたせて僕は、兎口にせきたてられ小さい尻を陽に焼いて自分の生れてはじめての体験に熱中する子供らを見おろしながら、不思議な満足と充実、陽気な昂揚《こうよう》を感じた。兎口は、大人たちの群らがりから離れて来た猟犬を裸の膝《ひざ》に倒して蚤《のみ》を探し、それを飴色《あめいろ》の爪《つめ》でつぶしながら、傲慢な罵《ば》声《せい》をまじえて子供たちに号令するのだった。僕らは、書記を送って大人たちが尾根の道へ上って行った後もその奇妙な遊びを続けた。そして、時どき子供たちの怨《えん》嗟《さ》の声を背にうけて僕ら自身が長ながと覗きこむのだが、黒人兵は動こうとはしないで寝そべったままでいるのだった。激しく殴られ蹴《け》りつけられた後のように、ただ大人たちに見られただけで傷ついてしまったように。  夜になって僕は再び、猟銃を持った父につきそわれて、雑炊の入っている重い鉄鍋《てつなべ》をさげ地下倉へ下りて行った。黒人兵は縁に黄色の脂《やに》が厚くたまった眼で僕らを見あげ、それから毛の生えた指をじかに熱い鍋へ突っこんで熱心に食べた。僕は落ちついてそれを眺《なが》めることができたし、父も猟銃を黒人に擬すことを止《や》め壁にもたれて退屈そうだった。額を鍋の上へ傾けている黒人の太い首筋の細かい震えや、筋肉の突然の緊張と弛《し》緩《かん》を見おろしていると、僕には黒人兵が柔順でおとなしく、優しい動物のように感じられてくるのだった。明りとりから息をひそめて覗きこんでいる兎口と弟を見あげ、僕は彼らの黒っぽく濡《ぬ》れて光る眼に狡猾《こうかつ》ですばやい微笑を送った。黒人兵に慣れはじめていることが僕にとって実に得意な喜びの種子を生みつけ育てる。しかし、黒人兵の躰がどうかするはずみにかしぎ、その足首にからみついた猪罠の鎖が金属質の硬い音をたてると、僕は激しい勢でおびえが回復し、僕の血管のすみずみになだれこんで、あらゆる皮膚を鳥肌《とりはだ》だたせるのを感じるのだ。  翌日から、僕は既に銃を肩から離してかまえることをしない父につきそわれて、朝と夜一度ずつ黒人兵に食事を運ぶ、特権的な仕事を自分のものにした。朝早く、あるいは夕暮と夜のかわりめに、食物籠をさげた僕と父が倉庫脇にあらわれると、広場で待ちかまえている子供たちは、雲のようにひろがり空へ上って行く大きい嘆息を一斉《いっせい》にもらすのだった。僕は自分の仕事に全く興味を失ってはいるが事を運ぶに際して周到さは持ちつづける専門家のように、眉《まゆ》をひそめて広場を横ぎり子供たちを一瞥《いちべつ》もしない。弟と兎口《みつくち》は、僕《ぼく》の両側にぴったり寄りそって地下倉への降り口まで歩くことで満足していた。そして、彼らは僕と父が地下倉へ降りて行くと、すぐに駈け戻って明りとりから覗きこむのだった。もし、僕が黒人兵に食事を運ぶ仕事に飽きてしまっていたとしても、兎口を含めて、あらゆる子供たちの怨嗟にまで高まった羨望《せんぼう》の熱い吐息を背いっぱいにうけとめて歩くということの快楽だけで、僕はこの作業をやり続けただろう。  しかし僕は、午後一度だけ兎口が地下倉へ入って来ることを特に父に頼んで許してもらったのだった。それは、僕一人でなしとげるには過重な労働の一部を兎口に肩がわりさせるためだった。地下倉には、黒人兵のために古い小型の樽《たる》が柱の蔭《かげ》に置かれている。午後になると僕と兎口は樽に通した太い縄《なわ》を両側から注意深くさげて階段を上り、共同堆肥場《たいひじょう》へ黒人兵の糞《くそ》と尿のまじった、どぶどぶ音をたて悪臭をまきちらす濃い液体を棄《す》てに行くのだ。兎口はその仕事を過度な熱心さでやりとげ、時には堆肥場脇の大きい水槽《すいそう》にうつす前に樽を木片でかきまわして、黒人兵の消化、特に下痢の状態を説明し、それが雑炊の中の玉蜀黍粒《とうもろこしつぶ》に原因することなどを断定するのだった。  僕と兎口が父につきそわれ、樽をとりに地下倉へ下りて行き、黒人兵がズボンをずりさげ黒く光る尻を突き出して、殆ど交尾する犬のような姿勢で小さな樽にまたがっているのにでくわしたりすると、僕らは黒人兵の尻のうしろで暫《しばら》く待たねばならない。そういう時、兎口は畏《い》敬《けい》の念と驚きとにうたれて、夢みるような眼《め》をし、樽の両側にまわされた黒人兵の足首をつなぐ猪罠《いのししわな》がひそかな音をたてるのを聞きながら僕の腕をしっかり掴んでいるのだった。  僕ら子供たちは黒人兵にかかりきりになり、生活のあらゆる隅《すみ》ずみを黒人兵でみたしていた。黒人兵は疫病《えきびょう》のように子供たちの間にひろがり浸透していた。しかし大人たちには、その仕事がある。大人たちは子供の疫病にはかからない。町役場からの遅い指示を待ちうけてじっとしていることはできない。黒人兵の監視を引受けた僕の父さえ、猟に出はじめると、黒人兵はどんな保留条件もなしに、ただ子供たちの日常をみたすためにだけ、地下倉の中で生きはじめたのだった。  昼の間、僕と弟と兎口は、始めは規則を犯すことの誘惑的な胸の高鳴りを感じながら、そしてすぐその状態に慣れ、まるで大人たちが山や谷へ出はらっている昼間、黒人兵を監視するのが僕らに委《ゆだ》ねられた守るべき職務でもあるように平然として、黒人兵の坐っている地下倉へこもる習慣をつけた。そして、兎口と弟とが放棄した明りとりの覗き穴は、村の子供たちにさげわたされた。熱く、埃の乾いている地面に腹ばった子供たちは、僕と兎口と弟が黒人兵を囲んで坐っている光景を、羨望で喉《のど》をほてらせながら代るがわる覗きこむのだった。そして、羨望のあまりに我を忘れ、時に僕らの後について地下倉へ入って来ようとする子供がいると、彼はその反逆的な行為のつぐないに、兎口から殴りつけられ鼻血を流して地に倒れねばならない。  僕らは既に、黒人兵の《樽》を階段の降り口にまで運びあげるだけで、それ以後の、樽を共同堆肥場まで炎天の下を、悪臭になやまされて運ぶ作業は、僕らが尊大に指名する子供らに委ねていた。指名された子供らは喜びに頬《ほお》を輝かせ、樽をまっすぐに支えて、彼らにとって貴重に思える黄濁した液体を一滴もこぼさないように注意しながら運んで行くのだった。そして僕らを含めて、あらゆる子供たちが、毎朝、尾根の道から下る雑木林の間の細道を、気がかりな指令を持った書記がやって来ないことを殆ど祈りながら見あげるのだ。  黒人兵の猪罠にしめつけられた足首の皮膚が剥《む》かれ炎症を起し、そこから流れる血は足の甲に乾いた草の葉のように縮れてこびりついていた。僕らはいつもその桃色の炎症を起した傷ついた皮膚を気にしていた。樽にまたがる時、黒人兵は苦痛を耐えるために、笑う子供のように歯を剥きだすほどだった。僕らは長いあいだ、お互いの眼の底をさぐりあい、話しあったあと、黒人兵の足首から猪罠を外す決心をしたのだ。黒人兵は黒い鈍重な獣のようにいつも眼を涙か脂かはっきりしない濃い液体でうるおし、膝をかかえこんで地下倉の床に坐り黙っているのだから、猪罠を取りのぞいたところで、僕らにどんな危害を加え得よう? 一匹の黒んぼにすぎないのだから。  僕が父の道具入れから取りだしてきた鍵《かぎ》を兎口が強く握りしめて、黒人兵の膝に肩がふれるほど屈《かが》みこんで猪罠を外した時、黒人兵は急に呻《うめ》くような声をあげて立ちあがり、足をばたばたさせた。兎口は恐怖に涙を流しながら猪罠を壁に放りつけ階段を逃げ上って行ったが、僕と弟は立ちあがることさえできず、躰をしめつけあうだけなのだ。僕と弟を突然回復した黒人兵への恐怖が息もたえだえにする。しかし、黒人兵は鷲《わし》のように僕らへ掴みかかって来るかわりに、そのまま腰を下し長い膝をかかえこんで、どんよりした涙と脂に濡れた眼を壁の根に落ちている猪罠にそそいでいた。兎口が恥にうなだれて地下倉へ戻って来た時、僕と弟は彼を優しい微笑でむかえた。黒人兵は家畜のようにおとなしい……  その夜ふけ、地下倉の揚蓋《あげぶた》の巨《おお》きい南京錠《なんきんじょう》をおろしに来た父が、黒人兵の自由になった足首を見たが、不安に胸を熱くしている僕をとがめはしなかった。黒人兵が家畜のようにおとなしい、という考えは空気のように子供らも大人たちも含めて、村のあらゆる者たちの肺へしのびこみ融《と》けこんできているのだった。  翌朝、僕と弟と兎口は朝食を届けに行き、黒人兵が猪罠を膝の上でいじりまわしているのを見た。猪罠は兎口が壁に投げつけたために咬《か》みあう接合部が壊れているのだった。黒人兵は春、村へ来る罠の修繕屋のように、技術的な確固としたやりかたで罠の故障部分を点検していた。それから急に彼は黒く輝く額をあげて僕を見つめ、身ぶりで彼の要求を示した。僕は兎口と顔を見合せながら、頬をゆるめときほぐす喜びを押さえることができない。黒人兵が僕らに語りかける、家畜が僕らに語りかけるように、黒人兵が語りかける。  僕らは駈《か》けて部落長の家へ行き、村の共有財産の一つの道具箱を土間からかつぎ出して地下倉へ運んだ。その中には武器として使えるものが含まれていたが僕らはそれを黒人兵にゆだねることをためらわなかった。僕らにとって家畜のような黒人兵が、かつて戦う兵士であったということは信じられない、あらゆる空想を拒んでしまう。黒人兵は道具箱を見つめ、それから僕たちの眼を見つめた。僕らはぞくぞくする喜びに躰をほてらせて黒人兵を見守っていた。 「あいつ、人間みたいに」と兎口が低い声で僕にいった時、僕は弟の尻を突っつきながら笑いで躰をよじるほど幸福で得意な気持だった。明りとりからは子供らの驚嘆の吐息が霧のように勢よく吹きこんで来るのだった。  朝食の籠を運びかえり、僕ら自身の朝食をすましてから、僕らが再び地下倉へ戻ってみると黒人兵は道具箱からスパナーや小型のハンマーを取り出し、床にしいた南京袋の上に規則正しくならべていた。傍に坐る僕らを見て、黒人兵の黄色く汚れてきた大きい歯が剥き出され頬がゆるむと、僕らは衝撃のように黒人兵も笑うということを知ったのだった。そして僕らは黒人兵と急激に深く激しい、殆ど《人間的》なきずなで結びついたことに気づくのだった。  午後遅くなり、兎口が鍛冶屋《かじや》の女に口汚く罵《ののし》られながら連れ戻され、僕らの土間にじかに坐った腰が痛みはじめても、黒人兵は指を埃じみて古くなったグリスで汚し、猪罠の発《ば》条《ね》の接合部の咬み合いがうまく行くように、低い金属音をたててはその試みをくりかえしていた。  僕は退屈しないで、黒人兵の桃色の掌が罠の刃に圧《お》されて柔かに窪《くぼ》むのを見たり、黒人兵の汗にまみれて太い首に脂肪質の垢がよれて筋になるのを見たりした。それらは僕の心に、不快ではない嘔《はき》気《け》、欲望と結びついたかすかな反撥《はんぱつ》をよびおこすのだった。黒人兵は広い口腔《こうこう》のなかで低く歌っているように、頬の厚い肉を膨らませながら彼の仕事に熱中していた。弟は僕の膝によりかかり、黒人兵の指の動きを感嘆に眼を輝かせながら見守っていた。蠅《はえ》が僕らのまわりを群らがってとびまわり、僕の耳の底で蠅の羽音が熱気とからみあって反響し、どよみまつわりつくのだった。  ひときわ重厚で、短く喰《く》いこんで来る音をたてて罠が荒縄の束を噛《か》み、黒人兵は罠を床に丁寧に下してから、僕と弟を微笑《ほほえ》んでいる鈍重な液体のような眼で見た。彼の黒ぐろと光る頬を汗が震える玉になって流れていた。僕と弟は微笑みかえした。僕らは実に長い間、山羊《やぎ》や猟犬に対してそうするように、微笑んだまま、黒人兵のおとなしい眼を覗きこんでいた。暑かった。そして暑さが僕らと黒人兵とを結びつける共通な快楽ででもあるように僕らは暑さにひたりきって微笑みあっていた……  ある朝、書記が泥まみれになり、顎《あご》から血を流しながら運ばれて来た。林のなかで転び、短い崖《がけ》から落ちて、そのまま動けなくなっているのを山へ働きに出かける途中の、村の大人が見つけて助けあげて来たのだ。書記の義《ぎ》肢《し》の固く厚い皮を金属枠《きんぞくわく》でとめた部分が歪《ゆが》み、うまく足にはめこむことができなくなっているのを、部落長の家で手あてをうけながら書記は当惑して見つめていた。そして、《町》の指令をなかなか伝えようとしない。大人たちは苛《いら》立《だ》ち、僕らは書記が黒人兵を連れて行くために来たのなら、崖の下に倒れたまま見つけられず、餓死してくれたらよかったのにと思うのだった。しかし書記は、県からの指令が遅れて届かないことを弁解に来たのだった。僕らは喜びと元気と、書記への好意をとりかえした。そして僕らは、地下倉へ、書記の義肢と道具箱を運んで行った。  黒人兵は地下倉の汗をふきだす床に寝ころび、低く太い声で不思議に生なましく僕らをとらえる歌、嘆きと叫びが底にうずくまって僕らにおそいかかろうとする歌をうたっていた。僕らは彼に故障した義肢を示した。彼は起きあがり、暫く義肢を見つめ、そしてすばやく仕事を始めた。覗《のぞ》き穴の明りとりから子供らの喜びの声が湧《わ》きおこり、僕と兎口と弟も声をはずませて笑った。  夕方になって書記が地下倉へ入って来た時、義肢はすっかり修復されていた。書記が短い大腿《だいたい》部《ぶ》にそれをはめこみ立上ると、僕らは再び喜びの声をあげた。書記は階段を跳ねあがり、義肢の調子を試みるために広場へ出て行った。僕らは黒人兵の両腕を引っぱって彼を立たせ、それが以前からの習慣ででもあったように少しもためらわないで黒人兵と一緒に広場へ上った。  黒人兵は捕虜になってから始めての地上の空気、夏の夕方のさわやかで水みずしい空気を太い鼻孔いっぱいに吸いこみ、書記の試歩を熱心に見つめた。すべては良好だった。書記は駈けながら戻って来、ポケットから彼がイタドリの葉で作った煙草《たばこ》、煙が眼にしみると激しく痛む、殆ど野火の匂《にお》いを思わせる不《ぶ》恰好《かっこう》な煙草に火をつけて、背の高い黒人兵に渡した。黒人兵はそれを吸いこもうとし、激しく咳《せ》きこみながら喉を押さえて屈みこんだ。書記は当惑して、もの哀《がな》しそうな微笑をうかべたが僕ら子供たちは大笑いだった。黒人兵は躰《からだ》を起し、巨きい掌で涙をぬぐい、それから彼の逞《たくま》しい腰をしめつけている麻地のズボンから黒く光るパイプを取り出すと書記にさし出すのだった。  書記がその贈り物を受けとり、黒人兵が満足そうにうなずき、彼らに夕暮の葡《ぶ》萄色《どういろ》をしたかげりを作る陽ざしがあふれた。僕らは喉が痛みはじめるほど叫びたて、狂気のように笑い、彼らの周りにひしめきあうのだ。  僕らは黒人兵をたびたび地下倉からさそい出して村の敷石道を一緒に散歩しはじめた。そして大人たちもそれを咎《とが》めなかった。彼らは部落長の家の部落共有の種牛が道を来ると草むらに下りてそれを避けるように、僕ら子供たちに囲まれた黒人兵に出会うと顔をそむけて横に避けるだけなのだった。  子供たちがそれぞれの家の仕事にかりだされて忙がしく黒人兵の地下の住居を訪れない時にも、広場へ上って来て樹《こ》かげにいねむったり、敷石道をゆっくり前屈みに歩いて来たりする黒人兵を、僕ら子供たちも、大人たちも驚きの気持なしに見るのだった。黒人兵は猟犬や子供たちや樹々《きぎ》と同じように、村の生活の一つの成分になろうとしていた。  夜明けに僕の父が、板をうちつけて作った細長く不恰好な罠《わな》の中で暴れまわる、信じられないほど長い胴を丸まる太らせた鼬《いたち》を脇《わき》にかかえて帰って来る日、僕と弟はその皮《かわ》剥《は》ぎを手伝うために午前中ずっと倉庫の土間ですごさねばならない。そういう時、僕らは黒人兵が僕らの仕事を覗きこむためにやって来るのを心から待っているのだった。  黒人兵がやって来ると僕と弟は皮剥ぎ用の血に汚れ柄《え》に脂《あぶら》のこびりついたナイフを握りしめた父の両側に息をつめて膝《ひざ》をつき、反抗的で敏捷《びんしょう》な鼬の十全な死と手《て》際《ぎわ》よい《皮剥がれ》を見物客の黒人兵のために期待するのだった。鼬は死にものぐるいの最後の悪意、凄《すさ》まじい臭気をはなちながら絞め殺され、父のナイフの鈍く光る刃先で小さくはじける音をたてながら皮が剥がれると、そのあとには真珠色の光沢をおびた筋肉にかこまれた、あまりにも裸の小さく猥《みだ》らな躰が横たわる。僕と弟がその臓物をこぼさないように注意して、それを共同堆肥場へ棄てに行き、汚れた指を広い木の葉でぬぐいながら帰って来ると、すでに鼬の皮は脂肪の膜と細い血管を陽に光らせ、裏がえされて板に釘《くぎ》づけられようとしている。黒人兵は脣《くちびる》を丸め鳥のような声をたてながら、父の太い指さきで乾きやすいように脂をしごかれる皮の襞《ひだ》を見つめている。そして板壁に干された毛皮が爪のように硬く乾き、そこを血色のしみが地図の上の鉄道のように走りまわっているのを見て黒人兵が感嘆する時、僕と弟は父の《技術》をどんなに誇りに思ったことか。父さえ毛皮に水を吹きかける仕事の合間に黒人兵へ好意的な眼をむけることがあるのだった。そして、その時、父の鼬処理の技術を核にして、僕と弟と黒人兵と父とは一つの家族のように結びついた。  黒人兵は鍛冶屋の仕事場を覗きに行くことも好きだった。僕ら子供たちは、特に兎口が半裸の躰を火に輝かせて鍬《くわ》を造る手伝いをしている時など、黒人兵を囲んで鍛冶屋の小屋まで出かけるのだった。鍛冶屋がその炭の粉に汚れた掌で、赤く熱した鉄片を掴《つか》みあげ水に突っこむと、黒人兵は悲鳴のような感嘆の声をあげ、子供らはそれをはやしたてた。鍛冶屋は得意がって、たびたびその危険な方法で彼の手腕を誇示するのだった。  女たちも黒人兵を恐れなくなっていた。黒人兵は時には直接に女たちから食物をあたえられた。  夏は盛りになり、県庁からの指令は来なかった。県庁のある市が空襲で焼けたという噂《うわさ》があったがそれは僕らの村にどんな影響もあたえはしない。僕らの村には、一つの市を焼く火より熱い空気が終日たちこめていたのだ。そして、黒人兵の躰の周りには、風の吹きこまない地下倉で一緒に坐っていると、気が遠くなるほど濃密で脂っこい臭《にお》い、共同堆肥場で腐った鼬の肉のたてるような臭いがぎっしりつまってき始めていた。僕らはそれをいつも笑いのたねにして涙を流すほど大笑いするのだったが、黒人兵の皮膚が汗ばみはじめると、僕らには傍でいたたまれないほど、それは臭いたてた。  ある暑い午後、兎口が黒人兵を共同水汲《みずくみ》場《ば》の泉へつれて行くことを提案し、僕らはそれに気づかなかったことに呆《あき》れてしまいながら、黒人兵の垢《あか》で粘つく手を引っぱり、階段を上った。広場に群らがっていた子供たちが喚声をあげて僕らを囲み、僕らは陽に焼ける敷石道を駈けて行った。  僕らはみんな鳥のように裸になり、黒人兵の服を剥ぎとると、泉の中へ群らがって跳びこみ、水をはねかけあい叫びたてた。僕らは自分たちの新しい思いつきに夢中だった。裸の黒人兵は泉の深みまで行っても腰がやっと水面にかくれるほど大きいのだったが、彼は僕らが水をかけるたびに、絞め殺される鶏のように悲鳴をあげ、水の中に頭を突っこんで、喚声と一緒に水を吐きちらしながら立ちあがるまで潜り続けるのだった。水に濡《ぬ》れ、強い陽ざしを照りかえして、黒人兵の裸は黒い馬のそれのように輝き、充実して美しかった。僕らは大騒ぎし、水をはねかえして叫び、そのうちに最初は泉のまわりの樫《かし》の木のかげにかたまっていた女の子供たちも小さい裸を、大急ぎで泉の水へひたしに来るのだった。兎口は女の子の一人を掴まえて彼の猥らな儀式を始め、僕らは黒人兵を連れて行って、最も都合の良い位置から、彼に兎口の快楽の享受《きょうじゅ》を見せるのだった。陽が熱く僕らすべての硬い躰にあふれ、水はたぎるようにあわだち、きらめいていた。兎口は真赤になって笑い、女の子のしぶきに濡れて光る尻《しり》を拡《ひろ》げた掌で殴りつけては叫び声をあげた。僕らは笑いどよめき、女の子は泣いた。  それから急に僕らは、黒人兵が堂どうとして英雄的で壮大な信じられないほど美しいセクスを持っていることを発見するのだった。僕らは黒人兵の周りで裸の腰をぶつけあいながらはやしたて、黒人兵はそのセクスを握りしめると牡山羊《おやぎ》がいどむ時のような剽悍《ひょうかん》な姿勢をしてわめいた。僕らは涙を流して笑い、黒人兵のセクスに水をぶっかけた。そして、兎口が裸のまま駈け出して行き、雑貨屋の中庭から大きい牝《め》山羊をつれて戻《もど》って来ると僕らは兎口の思いつきに拍手喝采《かっさい》した。黒人兵は桃色の口腔を開いて叫ぶと、泉からおどり上り、おびえて鳴く山羊にいどみかかっていった。僕らは狂気のように笑い、兎口は力みかえって山羊の首を押さえつけ、黒人兵は陽にその黒く逞しいセクスを輝かせて悪戦苦闘したが牡山羊のようには、うまくゆかないのだ。  僕らは躰を下肢に支えることができなくなるまで笑い、そのあげく疲れきって倒れた僕らの柔かい頭に哀しみがしのびこむほどだった。僕らは黒人兵をたぐいまれなすばらしい家畜、天才的な動物だと考えるのだった。僕らがいかに黒人兵を愛していたか、あの遠く輝かしい夏の午後の水に濡れて重い皮膚の上にきらめく陽、敷石の濃い影、子供たちや黒人兵の臭い、喜びに嗄れた声、それらすべての充満と律動を、僕はどう伝えればいい?  僕らには、その光り輝く逞しい筋肉をあらわにした夏、不意に湧き出る油《ゆ》井《せい》のように喜びをまきちらし、僕らを黒い重油でまみれさせる夏、それがいつまでも終りなく続き、決して終らないように感じられてくるのだった。  僕らの古代めいた水浴の日の夕暮、夕立が激しく谷間を霧の中へとじこめ、夜がふけても降りやまなかった。翌朝、僕と弟と兎口は降り続く雨を避けて倉庫の壁ぞいに食物を運んだ。食事のあと、暗い地下倉で黒人兵は膝をかかえこみ低く歌をうたった。僕らは明りとりからはねこんで来る雨のしぶきを伸ばした指にうけながら、黒人兵の歌う声のひろがり、その海のように重おもしく荘重な歌で洗い流された。そして黒人兵が歌い終ると、もう明りとりから雨はしぶきこんでこないのだった。僕らはたえまなく笑っている黒人兵の腕を引いて広場に出た。谷あいを霧が急速に晴れて行き、樹木は雨滴を葉の茂りいっぱいに吸いこんで厚ぼったく雛《ひな》のようにふくらんでいた。風がおこると樹木は小きざみに身ぶるいして濡れた葉や雨滴をはねちらし、小さく瞬間的な虹《にじ》を作り、そこを蝉《せみ》が飛びたつ。僕らは嵐のような蝉の鳴き声と回復しはじめる暑気の中で、地下倉の降り口の台石に腰かけたまま、長い間、濡れた樹皮の匂う空気を吸った。  午後になって書記が雨具を脇にかかえて林間の道を降りて来、部落長の家へ入って行くまで、僕らはそのままの姿勢でいたのだった。僕らは立ちあがり、水滴をしたたらす杏《あんず》の老樹に躰を支えて、腕をふり合図するために書記が土間の暗がりから跳び出て来るのを待った。しかし、書記はなかなか出て来ないで、そのかわりに部落長の納屋《なや》の屋根にある半鐘が谷間や林に働きに出ている大人たちを呼び戻すために鳴り、雨に濡れた家々から女たちや子供らが敷石道にあらわれた。僕は黒人兵を振りかえり、彼の褐色《かっしょく》の艶《つや》をおびた顔から微笑が去っているのを見て、突然生れた不安に胸をしめつけられた。僕と兎口と弟とは、黒人兵を後に残して部落長の家の土間へ駈けて行った。  土間に立ったまま書記は黙りこんでい、僕らを無視した部落長は板間にあぐらをかいて考えこんでいるのだ。僕らは苛だち、虚《むな》しい予感のする期待を支える努力をしながら、大人たちの集って来るのを待った。谷間の畠《はたけ》や林から仕事着をつけ、不満に頬《ほお》をふくらませた大人たちが次第に帰って来、僕の父も、銃身に小《こ》柄《がら》な野鳥を数羽くくりつけて、土間に入って来た。  会議が始まるとすぐ、黒人兵を県に引きわたすことになったという意味のことを書記が方言で説明し、子供たちを打ちのめした。そして、軍隊が黒人兵を受取りにくる筈《はず》だったのに、軍隊の内部に行きちがいと混乱があるらしくて村の方で《町》まで運びおろしてくれといって来たのだ、と書記はいった。大人たちの迷惑は、黒人兵を運びおろすという作業によってひきおこされるものだけにすぎない。しかし、僕らは驚きと失望の底にいたのだ、黒人兵を引渡す、そのあと、村に何が残るだろう、夏が空虚な脱《ぬ》けがらになってしまう。  僕は黒人兵に注意をあたえてやるべきだった。僕は大人たちの腰のあいだをすりぬけて倉庫の前の広場に腰をおろしている黒人兵のところへ駈け戻った。黒人兵は彼の前に立ちどまって息をつく僕を、どんよりした太い眼球をゆっくり動かしながら見あげた。僕には、彼に何を伝えることもできない。僕は哀しみと苛だちにおそわれながら、彼を見つめているだけなのだ。黒人兵は膝をかかえたまま、僕の眼を覗きこもうとしていた。受胎した川魚の腹のように丸い彼の脣はゆるく開かれ、白く光る唾《だ》液《えき》が歯茎の間から流れた。僕は振りかえり、書記を先頭にした大人たちが部落長の家の暗い土間を出、倉庫に向って近づいて来るのを見た。  僕は坐っている黒人兵の肩を揺すぶり、方言で叫びたてた。僕は苛だちで貧血をおこしそうだったのだ。僕にどうすることができよう、黒人兵は黙ったまま僕の腕に揺すぶられて、太い首をぐらぐらさせているだけなのだ。僕はうなだれて彼の肩を離した。  それから急に黒人兵が立ちあがり樹のように僕の前にそびえ、僕の上膊《じょうはく》を握りしめると、殆《ほとん》ど僕を引きずるように強く彼の躰におしつけ、地下倉の階段を駈けおりた。地下倉の中で僕は短い時間、あっけにとられて、すばやく動きまわる黒人兵の引きしまった腿《もも》の動き、尻の肉の収縮などに眼をうばわれていた。黒人兵は揚蓋《あげぶた》をおろし、上側の閂《かんぬき》を支える鉄枠《てつわく》と対になって内側へ突き出ている環と壁から差し出された揚蓋の支えとを、修理されたままそこにかけてあった猪罠《いのししわな》で連結した。そして、両掌を組みあわせ、うなだれて降りて来る黒人兵の脂《やに》と充血のために泥をつめられたように表情のない眼を見て、急激に僕は、黒人兵が捕えられて来た時と同じように、理解を拒む黒い野獣、危険な毒性をもつ物質に変化していることに気づいたのだ。僕は大きい黒人兵を見あげ、揚蓋にからみついた猪罠を見、自分の小さい裸足《はだし》を見おろした。恐怖と驚愕《きょうがく》とが洪水《こうずい》のように僕の内臓をひたし渦《うず》まく。僕は黒人兵から跳びのき、壁に背をおしつけた。黒人兵はうなだれたまま地下倉の中央に立っていた。僕は脣を噛《か》みしめて下肢《かし》の震えに耐えなければならない。  揚蓋の上に大人たちが来て、始めは優しく、そして急激におそわれた鶏のように大騒ぎで、揚蓋にからんだ猪罠を揺さぶり始めた。しかし、かつて村の大人たちが黒人兵を地下倉に安心して閉じこめておくために役だった厚い樫材の蓋は、いま黒人兵のために、村の大人たち、子供ら、樹木、谷間、それらすべてを外側に閉じこめていたのだ。  明りとりから、あわてふためいた大人たちが覗きこみ、それらはすばやく、ごつごつ額をぶつけあいながらいれかわった。地上で大人たちの態度が急速に変って行くのが感じられた。彼らは始め叫びたてた。そして黙りこみ、威《い》嚇《かく》する銃身が明りとりからさしこまれた。黒人兵が、敏捷な獣のように僕に跳びかかり、彼の躰へ僕をしっかりだきしめて、銃孔から彼自身を守った時、僕は痛みに呻《うめ》いて黒人兵の腕の中でもがきながら、すべてを残酷に理解したのだった。僕は捕虜だった、そしておとりだった。黒人兵は《敵》に変身し、僕の味方は揚蓋の向うで騒いでいた。怒りと、屈辱と、裏切られた苛立たしい哀しみが僕の躰を火のように走りまわり焦《こ》げつかせた。そして何よりも、恐怖が膨れあがり渦まいて、僕の喉《のど》をつまらせ嗚《お》咽《えつ》をさそった。僕は荒あらしい黒人兵の腕のなかで、怒りに燃えながら涙を流した。黒人兵が僕を捕虜にする……  銃身が引きさげられ、大人たちの騒ぎが高まり、それから明りとりの向うで長い話合いが始まった。黒人兵は、僕《ぼく》の腕を痛みのために痺《しび》れるほど強く握りしめたまま、不意に狙《そ》撃《げき》されるおそれのない壁の隅《すみ》に入りこみ黙って坐りこんだ。僕は彼に引きずられ、彼と親しかった時そうしたと同じように、彼のむんむんする体臭の中に裸の膝をついた。大人たちは長い間、話し続けていた。時どき僕の父が明りとりから覗きこみ、おとりにされた息子へうなずいて見せるたびに僕は涙を流した。そして、始め地下倉の中に、そして明りとりの向うの広場に夕暮が汐《しお》のように満ちた。暗くなると大人たちは幾人かずつ、僕に励ましの言葉を投げて帰って行った。僕は父がそのあとも長い間、明りとりの向うを歩く足音を聞いていたが、急にあらゆる人間たちのけはいが地上に消えたのだ。そして夜が地下倉を充《み》たした。  黒人兵は僕の腕を離すと、その午前まで僕らの間にあふれていた親しい日常の感情に胸をしめつけられるように、僕を見つめた。僕は怒りにふるえて眼《め》をそらし、黒人兵が背をむけて膝の間に頭をかかえこむまで、うつむいたまま頑《かた》くなに肩をそびやかしていた。僕は孤独だった、鼬罠《いたちわな》にとらえられた鼬のように見棄てられ、孤《ひと》りぽっちで絶望しきっていた。黒人兵は闇《やみ》の中で動かなかった。  僕は立ちあがり、階段の所へ行って、猪罠に触ってみたが、それは冷たく硬く、僕の指と、形をなさない希望の芽とをはねかえした。僕はどうしていいかわからなかった。僕は自分の落ちこんだどんづまり、自分を捕えた罠が信じられないで、傷ついた足首をしめつける鉄の鋏《はさみ》を見つめている間に衰弱して死んでしまう野兎《のうさぎ》の仔《こ》だった。黒人兵を友人のように信じていたこと、それがいかに愚かしいことだったかということが僕を激しく責めたてる。しかし、あのいつも笑ってばかりいる黒くて臭う大男を疑《うたぐ》ることができるか? しかもいま、僕の前の暗闇のなかで鋭い歯音を時どきたてている男が、あの大きいセクスのばかな黒んぼうだとは思えない。  僕は悪《お》寒《かん》に震えて、歯をがちがち鳴らした。腹が痛み始めていた。僕は下腹を押さえて蹲《しゃが》みこみ、そして急にひどい当惑につきあたるのだ。僕は下痢ぎみだった。僕の躰中の神経の苛立ちがそれを促進してもいた。しかし僕は黒人兵の前でそれを果たすことはできない。僕は歯を喰《く》いしばり、額に苦い汗をにじませてそれに耐えていた。それに耐える努力が、恐怖の占めていた場所をおおうほど長いあいだ、僕は苦しみながら耐えていた。  しかし僕はやがて諦《あき》らめ、黒人兵がまたがっているのを見て笑いざわめいた樽《たる》へ歩いて行き、ズボンを下した。僕には剥《む》き出された白い尻が非常に無抵抗で弱く感じられ、屈辱が僕の喉から食道を通じ、胃の内壁まで、すべて真黒にそめてしまうようにさえ感じられるのだ。それから立ちあがり、僕は壁の隅へ帰った。僕はうちひしがれ、屈服し、すっかりどんづまりに落ちこんでいた。僕は地熱のほてりが内側から伝わって来る壁に汚れた額を押しつけ、声をひそめて長い間、すすり泣いた。夜は長かった。森で山犬の群れが吠《ほ》えていた。空気が冷たくなっていった。そして疲れが僕を重く領し、僕はくずおれて眠った。  眼ざめると僕の腕は、やはり黒人兵の掌の強い圧迫をうけて、なかば痺れているのだった。明りとりから荒あらしい霧と、大人たちの声が吹きこんで来た。そして、書記が義肢を軋《きし》ませて歩きまわる音も聞えた。やがて揚蓋を太い槌《つち》で殴りつける音がそれに交った。その重く強い音が空腹にかりたてられる僕の胃に響き、胸をうずかせた。  黒人兵が急に喚《わめ》きたて、僕の肩を掴んで立ち上らせると地下倉の中央まで引きずり出して、僕を明りとりの向うの大人たちの眼にさらした。僕には黒人兵の行為の理由がまったくわからなかった。明りとりから数かずの眼が兎のようにつりさげられている僕の恥辱を見つめた。それらの眼のなかに弟の濡《ぬ》れて黒い眼があったら、僕は恥じて舌を噛みきっただろう。しかし、覗き穴には大人たちの眼だけが蝟集《いしゅう》して僕を見つめているのだ。  槌の音がより激しくなり、黒人兵は叫びたてると、背後から僕の喉を巨《おお》きい掌で掴んだ。僕の喉の柔かい皮膚に黒人兵の爪《つめ》が食いこみ痛かったし、喉ぼとけが圧迫されて呼吸ができない。僕は手足をばたばたさせ、顔をのけぞって呻いた。明りとりの向うの大人たちの眼の前での僕の苦い屈辱、僕は躰をねじり、背に密着している黒人兵の躰から逃れようとし、踵《かかと》で黒人兵の臑《すね》を蹴《け》りつけたが、黒人兵の毛むくじゃらの太い腕は硬く重かった。そして僕の呻き声より高く、彼は喚くのだ。明りとりの向うの大人の顔が引っこみ、おそらく彼らは黒人兵の示威に負けて、揚蓋の打ちこわしを中止させに走ったのだろうと僕は思った。黒人兵の喚き声が止み、喉への岩のような圧迫が弱まった。僕は大人たちに親しみと愛とを回復した。  しかし、揚蓋を打つ音はより激しくなったのだ。明りとりから再び大人たちの顔が覗き、黒人兵が喚きながら僕の喉をしめつけた。のけぞった僕の歪《ゆが》んだ開く脣《くちびる》から、小動物の悲鳴のような、弱よわしい金切声《かなきりごえ》がもれるのをどうすることもできない。僕は大人たちからも見棄てられていた。大人たちは僕が黒人兵に絞め殺されるのを見殺しにして、揚蓋を砕く作業を続けていた。彼らは揚蓋を砕いたあと鼬のように絞殺された僕の、かじかんだ手足を見るだろう。僕は、憎しみにもえ、絶望して、のけぞったまま恥さらしに呻きたて、もがきながら涙を流して槌の音を聞いた。  数しれない車の回転音が耳をみたし、反響し、鼻血が僕の両頬に流れた。そして、揚蓋が砕かれ、指の背まで剛毛におおわれた泥まみれの裸足がなだれこみ、地下倉を狂気のようにもえた醜い大人たちがみたした。黒人兵は叫びたてながら僕の躰をしっかり抱きしめ、壁の根へにじりさがった。僕は彼の汗ばみ粘つく躰に僕の背と尻《しり》が密着し、怒りのように熱い交流が僕らをそこで結びつけるのを感じた。そして僕は交尾の状態をふいに見つけられた猫《ねこ》のように敵意を剥きだしにして恥じていた。それは階段の降り口にかたまって僕の屈辱を見まもり、じっとしている大人たちへの敵意、僕の喉に太い掌をおしつけ柔かい皮膚に爪を立てて血みどろにする黒人兵への敵意、そしてあらゆるものへのいりまじりかきたてられる敵意なのだ。黒人兵は吠えていた。それが僕の鼓膜を麻痺《まひ》させ、僕は夏の盛りに地下倉の中で、快楽の中でのように充実した無感覚へおちこもうとしていた。黒人兵の激しい呼吸が僕の首筋をおおっていた。  大人たちの塊りの中から父が鉈《なた》をさげて踏み出た。僕の父の眼が怒りにもえて犬のそれのように熱っぽいのを見た。黒人兵の爪が喉の皮膚に深く喰いこみ、僕は呻いた。父が僕らに襲いかかり、僕は鉈が振りかぶられるのを見て眼をつむった。黒人兵が僕の左の腕首を握り、それを自分の頭をふせぐためにかかげた。地下倉じゅうの人間が吠えたて、僕は自分の左掌と、黒人兵の頭《ず》蓋《がい》の打ち砕かれる音を聞いた。僕の顎《あご》の下の黒人兵の油ぎって光る皮膚の上でどろどろした血が玉になり、はじける。僕らに向って大人たちが殺到し、僕は黒人兵の腕の弛《し》緩《かん》と自分の躰を焼きつく痛みとを感じた。  ねばねばした袋の中で、僕の熱いまぶた、燃える喉、灼《や》けつく掌が僕自身を癒《ゆ》合《ごう》させ、形づくり始めた。しかし僕には、そのねばつく膜を破り、袋から脱け出ることができない。僕は早産した羊の仔のように、ねとねと指にからむ袋につつまれているのだった。僕は躰を動かすこともできない。夜だった、僕の周りで大人たちが話しあっていた。そして朝だった、僕は瞼《まぶた》の向うに光を感じていた。時どき重い掌が、僕の額をおさえ、僕は呻き声をあげてそれを振りほどこうとするのだが頭が動かない。  僕が始めてうまく眼を開いた時は再び、朝だった。僕は倉庫の自分の寝台の上にいた。板戸の前で兎口《みつくち》と弟が僕を見守っていた。僕は、はっきり眼を開き脣を動かした。兎口と弟が叫びながら階段を下りて行き、父と雑貨屋の女が上って来た。僕は空腹にかりたてられていたが、山羊《やぎ》の乳をいれた水さしを父の手が僕の脣へあてがうと、嘔《はき》気《け》が僕を揺り動かし、僕は喚きたてながら口をつぐんで、山羊の乳を喉や胸にしたたらせた。父を含めて、あらゆる大人たちが僕には我慢できないのだった。歯を剥きだし、鉈をふるって僕に襲いかかった大人たち、それは奇怪で、僕の理解を拒み、嘔気を感じさせる。僕は父たちが部屋を出て行くまで喚きつづけた。  暫《しばら》くして、弟の柔かい腕が僕の躰に静かにふれた。僕は黙って眼をつむったまま、弟の低い声を聞いた。黒人兵を火葬する薪を集めるための仕事に弟たちも加わったこと、書記が火葬を中止させる指令を持って来たこと、大人たちは、黒人兵の死体が腐敗するのを遅らせるために谷間の廃坑へそれを運びこみ、山犬よけの柵《さく》を作っていること。  僕が死んでしまったと思っていた、と弟は畏《い》敬《けい》の念のこもった声でくりかえしていった。二日間も何一つ食べないで寝ただけなのだから死んだのだと思っていた。僕は死のように強く誘い、深く引きこむ眠りの中へ弟の掌の下で入って行った。  僕は昼すぎに眼ざめ、自分の砕けた掌に布がまきつけられているのを始めて見た。自分のものとは思えない腫《は》れあがった腕を胸の上に見ながら、僕はじっとそのままで長い間、眼を開いていた。部屋には誰《だれ》もいなかった。厭《いや》な臭《にお》いが窓からしのび込んできていた。僕にはその臭いの意味がわかったが哀しみは湧《わ》かなかった。  部屋が昏《くら》くなり空気が冷えてから、僕は寝台の上に躰を起し、長いためらいのあと砕けた左掌にまいた布の両端を結んで首にかけ、開かれた窓へよりかかって《村》を見おろした。敷石道の上にも建物にも、それを支える谷にも黒人兵の重い死体の激しく噴きあげる臭い、悪夢の中でのように僕らの躰をめぐり頭上に押しひろがり限りなく膨脹《ぼうちょう》する黒人兵の死体の、耳に聞えない叫び、それが充満していた。夕暮れていた。空はオレンジ色を内にはらんだ涙ぐましい灰色をして、狭く低く谷あいを覆《おお》っていた。  時どき、大人たちが黙りこみ、胸を張って急ぎ足に谷へ下りて行った。僕は大人たちが僕に嘔気を感じさせ、僕をおびえさせるのを感じて、そのたびに頭を窓の中へ引いた。大人たちが、僕の寝ているあいだに、すっかり別の怪物に変ってしまったようだった。そして僕の躰はすみずみまで濡れた砂がつまっているように重く、ぐったりしていた。  僕は悪寒に身震いし、かさかさに乾いた脣を噛みしめながら、敷石道の一つ一つの石が、はじめ淡い金色の影をおびて柔かにふくらみ、そして輪郭がすっかりふやけて一面に胸のせまる葡《ぶ》萄色《どういろ》になり、それから不透明な紫色の弱い光の中へ沈みこんでしまうのを見つめていた。ひびわれた脣を時どき塩辛い涙が湿らせ、ひりひり痛ませた。  倉庫の裏から子供らの喚声が黒人兵の死体の臭いを貫いて激しく湧き起った。僕は長い病気の後のように、震える足を注意深く踏みしめながら暗い階段を下り、人気のなくなった敷石道を歩いて、子供らの叫びに近づいて行った。  子供らは、谷の底の小川への草の茂った斜面に群らがって叫びたて、彼らの犬も駈《か》けまわりながら吠えていた。大人たちは斜面の下の灌木《かんぼく》が茂っている谷底で、黒人兵の死体を保存してある廃坑に山犬よけの頑丈《がんじょう》な柵を、なお作りつづけていた。そこからは杙《くい》をうつ重い響が上って来た。大人たちは黙りこんで彼らの作業を続けていたが、子供らは気が狂ったように陽気に叫びたてながら駈けまわっている。  僕は古い桐《きり》の幹にもたれて子供らの遊びを見守った。彼らは、墜落した黒人兵の飛行機の尾翼を橇《そり》にして、草原を滑降しているのだった。彼らは稜角《りょうかく》の鋭い、すばらしい軽快さの橇にまたがって、草原の上を若い獣のように滑降して行く。草原にところどころ突出する黒い岩に橇がぶつかりそうになると少年の裸の足が草原を蹴りつけて橇に方向転換させるのだ。子供の一人が橇を引きずりあげて来る時にはもう下りの橇の通ったあとの押しひしがれた草がゆっくり起きあがって勇敢な少年の航跡をあいまいにしてしまう。それほど子供らと橇は軽いのだ。子供らは叫びたてながら滑降し、犬が吠えたててそれを追い、そして子供らは再び橇を引きずりあげて来る。押しつぶしようのない、むくむく動く情念が子供らの躰を魔法使の前ぶれの火の粉のようにぱちぱち弾《はじ》けて駈けまわっているのだ。  子供らの塊りの中から、草の茎を歯の間に噛みしめた兎口が僕の方へ駈けあがって来、鹿《しか》の足に似た樫《かし》の幹によりかかって僕の顔を覗《のぞ》きこんだ。僕は兎口から顔をそむけ、橇あそびに熱中しているふりをしていた。兎口は興味ぶかく、しげしげと僕の首につった腕を見つめ鼻を鳴らした。 「臭うなあ」と兎口はいった。「お前のぐしゃぐしゃになった掌、ひどく臭うなあ」  僕は兎口の闘争心にきらめいている眼を見かえしたが、兎口が僕の攻撃にそなえて、足を開き、戦いの体勢を整えたのも無視して、彼の喉へ跳びかかってはゆかなかった。 「あれは僕の臭いじゃない」と僕は力のない嗄れた声でいった。「黒んぼの臭いだ」  兎口はあっけにとられて僕を見守っていた。僕は脣を噛みしめて兎口から眼をそらし、兎口の裸の踝《くるぶし》を埋めている、小さく細かい草の葉の泡《あわ》だちを見おろした。兎口は軽蔑《けいべつ》をあらわにして肩を揺り、勢よく唾《つば》を吐きとばすと、喚きたてながら橇の仲間へ駈け戻って行った。  僕はもう子供ではない、という考えが啓示のように僕をみたした。兎口との血まみれの戦、月夜の小鳥狩り、橇あそび、山犬の仔《こ》、それらすべては子供のためのものなのだ。僕はその種の、世界との結びつき方とは無縁になってしまっている。  僕は疲れきって悪寒に震えながら、まだ日中の温もりの残っている地面に腰を下した。僕が躰を低くすると谷底の大人たちの黙りこんだ作業は、荒あらしく伸びた夏草の蔭《かげ》にかくれ、そのかわりに橇あそびの子供たちが急激に黒ぐろと牧神のようにそびえたってくる。そして洪水《こうずい》に逃げまどう難民のように走りまわる年若い牧神と犬たちの間で、夜の空気がしだいに色を濃くし、緊密になり、清らかになって行くのだった。 「おい、元気を取戻《とりもど》したか、蛙《かえる》」  僕は背後から、乾いた熱い掌で頭を押しつけられたが、振りむいて立上ろうとはしなかった。僕は斜面の子供らの遊びに顔を向けたまま、眼だけで僕の裸の臑の横にしっかり立っている書記の黒い義肢《ぎし》を窺《うかが》った。書記さえ、ただ傍に来るだけで僕の喉を乾かせる。 「橇あそびをやらないのか、蛙」と書記はいった。「お前が考え出したんだと思っていたがなあ」  僕は頑《かた》くなに黙っていた。書記は義肢をがちがち鳴らして坐りこむと上《うわ》衣《ぎ》から黒人兵が彼に献じたパイプを取り出し、彼の煙草《たばこ》をつめた。鼻孔の柔かい粘膜にいがらっぽい刺《し》戟《げき》と動物的な情念を炎《も》えあがらせる強い匂《にお》い、雑木林を焼く野火の香りがそこから立ちのぼり、僕と書記を同じ淡青いろの靄《もや》に閉じこめた。 「戦争も、こうなるとひどいものだな。子供の指まで叩《たた》きつぶす」と書記がいった。  僕は息を深く吸いこみ黙っていた。戦争、血まみれの大規模な長い闘い、それが続いているはずだった。遠い国で、羊の群や、刈りこまれた芝生を押し流す洪水のように、それは決して僕らの村へは届いてこない筈《はず》の戦争。ところが、それが僕の指と掌をぐしゃぐしゃに叩きつぶしに来る、父が鉈をふるって戦争の血に躰《からだ》を酔わせながら。そして、急に村は戦争におおいつくされ、その雑沓《ざっとう》の中で僕は息もつけない。 「そのあげく終りが近いようだがな」と書記は大人同士が話し合う時のように重おもしくいった。「市の軍隊に連絡しても混乱していて通じない、どうしていいかわからない」  谷底から槌の音が響き続けていた。谷間にうっそうと覆いかぶさっている眼には見えない樹木の巨大な下枝のように、死んだ外国兵の臭いはそのまま固着しようとしていた。 「まだ熱心に働いている」と書記は槌の音に耳をそばだてていった。「お前の親父たちも、あれをどうしていいかわからないから、ぐずぐず杙をうったりしているんだろう」  僕らは黙りこんで、子供らの叫びと笑いの間隙《かんげき》をぬって聞えて来る重い槌音を聞いた。書記はやがて慣れた指さきで、その義肢を外しはじめた。僕はそれを見つめていた。 「おおい」と書記が子供らに叫んだ。「俺《おれ》の所へ橇を運んでくれ」  子供たちは騒ぎたてながら橇を引きずりあげて来た。書記が片足で跳ねながら橇を囲む子供らの中へわりこんで行くと、僕は書記の外した義肢を抱えあげて、草原を駈けおりて行った。義肢は非常に重く、それを片腕に抱えることは困難で腹だたしかった。  茂った草は露を含みはじめて、僕の裸の足を濡らし、そこへ枯れた草の葉がはりついてむずかゆかった。僕は草原の傾斜の下で義肢を抱えて立ったまま待ちうけていた。すでに夜だった。草原の高みの子供らの声だけが、濃さをまして殆《ほとん》ど不透明な暗い空気の膜を揺り動かした。  ひときわ高い叫びと笑い、そして軽く草をなぐ音、しかし、橇は粘つく空気を押しわけて僕の前へ滑りおりて来なかった。僕は鈍い衝撃音を聞いたように思ったが、そのままの姿勢で昏い空気を見つめていた。短い静けさのあと、くるくる回転しながら、人の乗っていない飛行機の尾翼が滑りおりてくるのを、やがて僕は見た。義肢を投げ出し、僕は湿った草原を駈けあがって行った。  草に囲まれて黒ぐろと露に濡れた岩肌《いわはだ》が剥《む》き出ている横に、両手をぐったり開いた書記があおむけに横たわって微笑《ほほえ》んでいた。僕は屈《かが》みこみ、書記の微笑んだ顔の、鼻孔と耳から、どろどろした濃い血が流れ出ているのを見た。子供らが暗い草原を駈けて来るざわめきが、谷から吹きあげる風にさからって高まって来た。  僕は子供たちに囲まれることを避けて、書記の死体を見すて、草原に立ちあがった。僕は唐突な死、死者の表情、ある時には哀《かな》しみのそれ、ある時には微笑み、それらに急速に慣れてきていた、村の大人たちがそれらに慣れているように。黒人兵を焼くために集められた薪で、書記は火葬されるだろう。僕は昏《く》れのこっている狭く白い空を涙のたまった眼で見あげ弟を捜すために草原をおりて行った。 (「文学界」昭和三十三年一月号) 人間の羊  冬のはじめだった、夜ふけの鋪《ほ》道《どう》に立っていると霧粒が硬い粉のように頬《ほお》や耳たぶにふれた。家庭教師に使ったフランス語の初等文典を外套《がいとう》のポケットに押しいれて、僕《ぼく》は寒さに躰《からだ》を屈《かが》めながら終発の郊外へ走るバスが霧のなかを船のように揺らめいて近づくのを待っていた。  車掌はたくましい首すじに兎《うさぎ》のセクスのような、桃色の優しく女らしい吹出物をもっていた。彼女は僕にバスの後部座席の隅《すみ》の空席を指した。僕はそこへ歩いて行く途中で、膝《ひざ》の上に小学生の答案の束をひろげている、若い教員風の男のレインコートの垂れた端を踏みつけてよろめいた。僕は疲れきっていて睡《ねむ》く、躰の安定を保ちにくくなっていた。あいまいに頭をさげて、僕は郊外のキャンプへ帰る酔った外国兵たちの占めている後部座席の狭いすきまへ腰をおろしに行った。僕の腿《もも》がよく肥えて固い外国兵の尻《しり》にふれた。バスの内部の水っぽく暖かい空気に顔の皮膚がほぐされると、疲れた弱よわしい安《あん》堵《ど》がまじりあった。僕は小さい欠伸《あくび》をして甲虫の体液のように白い涙を流した。  僕を座席の隅に押しつめている外国兵たちは酒に酔って陽気だった。彼らは殆《ほとん》どみんな牛のようにうるんで大きい眼《め》と短い額とを持って若かった。太く脂肪の赤い頸《くび》を黄褐色《おうかっしょく》のシャツでしめつけた兵隊が、背の低い、顔の大きい女を膝にのせていて、他の兵隊たちにはやしたてられながら、女の木ぎれのように艶《つや》のない耳へ熱心にささやいていた。  やはり酔っている女は、兵隊の水みずしくふくらんだ脣《くちびる》をうるさがって肩を動かしたり頭をふりたてたりしていた。それを見て兵隊たちは狂気の血にかりたてられるように笑いわめいた。日本人の乗客たちは両側の窓にそった長い座席に坐って兵隊たちの騒ぎから眼をそむけていた。外国兵の膝の上にいる女は暫《しばら》くまえからその外国兵と口争いをしている様子だった。僕は硬いシートの背に躰をもたせかけ、頭が硝子《ガラス》窓《まど》にぶつかるのを避けてうなだれた。バスが走りはじめると再び寒さが静かにバスの内部の空気をひたしていった。僕はゆっくり自分の中へ閉じこもった。  急にけたたましい声で笑うと、女が外国兵の膝から立上り、彼らに罵《ののし》りの言葉をあびせながら、倒れるように僕の肩によりかかって来た。  あたいはさ、東洋人だからね、なによ、あんた。しつこいわね、と女はそのぶよぶよする躰を僕におしつけて日本語で叫んだ。甘くみんなよ。  女を膝の上に乗せていた外国兵は空になった長い膝を猿《さる》のように両脇《りょうわき》へひらき、むしろ当惑の表情をあらわにして、僕と女とを見まもっていた。  こんちくしょう、人まえであたいに何をするのさ、と女は黙っている外国兵たちに苛《いら》立《だ》って叫び、首をふりたてた。  あたいの頸になにをすんのさ、穢《きたな》いよ。  車掌が頬をこわばらせて顔をそむけた。  あんたたちの裸は、背中までひげもじゃでさ、と女はしつこく叫んでいた。あたいは、このぼうやと寝たいわよ。  車の前部にいる日本人の乗客たち、皮ジャンパーの青年や、中年の土工風の男や、勤人たちが僕と女とを見つめていた。僕は躰をちぢめ、レインコートの襟《えり》を立てた教員に、被害者のほほえみ、弱よわしく軽い微笑をおくろうとしたが、教員は非難にみちた眼で僕を見かえすのだ。僕はまた、外国兵たちも、女よりむしろ僕に注意を集中しはじめているのに気がつき、当惑と羞《は》ずかしさで躰をほてらせた。  ねえ、あたいはこの子と寝たいわよ。  僕は女の躰をさけて立ちあがろうとしたが、女のかさかさに乾いた冷たい腕が僕の肩にからみついて離れなかった。そして女は、柿色《かきいろ》の歯茎を剥《む》きだして、僕の顔いちめんに酒の臭《にお》いのする唾《つば》の小さい沫《あわ》を吐きちらしながら叫びたてた。  あんたたち、牛のお尻にでも乗っかりなよ、あたいはこのぼうやと、ほら。  僕が腰をあげ、女の腕を振りはらった時、バスが激しく傾き、僕には躰を倒れることからふせぐために窓ガラスの横軸につかまる短い余裕しかなかった。その結果、女は僕の肩に手をかけたままの姿勢で振りまわされ、叫びたてながら床にあおむけに転がって、細く短い両脚をばたばたさせた。靴下《くつした》どめの上の不自然にふくらんだ腿が寒さに鳥肌《とりはだ》だち、青ぐろく変色しているのを僕は見たが、どうすることもできない。それは肉屋のタイル張りの台におかれている、水に濡《ぬ》れた裸の鶏の不意の身《み》悶《もだ》えに似ていた。  外国兵の一人がすばやく立ちあがり、女をたすけ起した。そしてその兵隊は、急激に血の気を失い、寒さにこわばる脣を噛《か》みしめて喘《あえ》いでいる女の肩を支えたまま、僕を睨《にら》みつけた。僕は謝りの言葉をさがしたが、数かずの外国兵の眼に見つめられると、それは喉《のど》にこびりついてうまく出てこない。僕は、頭をふり、腰を座席におちつけようとした。その肩を外国兵のがっしりした腕が掴《つか》まえ、ひきあげる。僕は躰をのけぞり、外国兵の栗色《くりいろ》の眼が怒りと酔いに小さな花火のようなきらめきを湧《わ》きたたせるのを見た。  外国兵が何か叫んだ。しかし僕には、その歯音の多い、すさまじい言葉のおそいかかりを理解できなかった。外国兵は一瞬黙りこんで僕をのぞきこみ、それからもっと荒あらしく叫んだ。  僕は狼狽《ろうばい》しきって、外国兵の逞《たくま》しい首の揺れ動きや、喉の皮膚の突然のふくらみを見まもっていた。僕には彼の言葉の単語一つ理解することができなかった。  外国兵は僕の胸ぐらを掴んで揺さぶりながら喚《わめ》き、学生服のカラーが喉の皮膚に食いこんで痛むのを僕は耐えた。外国兵の金色の荒い毛が密生した腕を胸から外させることができないで、あおむいたままぐらぐらしている僕の顔いちめんに小さい唾を吐きかけながら外国兵は狂気のように叫び続けるのだ。それから急に僕は突きはなされ、ガラス窓に頭をうちつけて後部座席へ倒れこんだ。そのまま僕は小動物のように躰を縮めた。  高い声で命令するように外国兵が叫びたて、急速にざわめきが静まって、エンジンの回転音だけがあたりをみたした。倒れたまま首をねじって振りむいた僕は若わかしい外国兵が右手に強靱《きょうじん》に光るナイフをしっかり握っているのを見た。僕はのろのろ躰を起し、武器を腰のあたりでこきざみに動かしている外国兵とその横で貧弱な顔をこわばらせている女とに向きなおった。日本人の乗客たちも、他の外国兵たちもみんな黙りこんで僕らを見守っていた。  外国兵がゆっくり音節をくぎって言葉をくりかえしたが、僕は耳へ内側から血がたぎってくる音しか聞くことができない。僕は頭を振ってみせた。外国兵が苛立って硬すぎるほど明確な発音を再びくりかえし、僕は言葉の意味を理解して急激な恐怖に内臓を揺さぶられた。うしろを向け、うしろを向け。しかしどうすることができよう、僕は外国兵の命令にしたがってうしろを向いた。後部の広いガラス窓の向うを霧が航跡のようにうずまき、あおりたてられて流れていた。外国兵がしっかりした声で叫んだが、僕には言葉の意味がわからない。外国兵がその卑《ひ》猥《わい》な語感のする俗語をくりかえして叫ぶと僕の躰の周りの外国兵たちが発作のように激しく笑いどよめいた。  僕は首だけ背後にねじって外国兵と女とを見た。女は生きいきして猥《みだ》らな表情をとり戻《もど》しはじめていた。そして外国兵は大げさに威《い》嚇《かく》の身ぶりを見せ、自分の思いつきに熱中する子供のように喚いた。僕は恐怖がさめて行くのをあっけにとられて感じていたが、外国兵の思いつきは僕に伝わってこないのだった。僕はゆっくり頭をふって外国兵から顔をそむけた。彼は僕に悪ふざけしているにすぎないのだろう、僕はどうしていいかわからないが、少くとも危険ではないだろう、と僕は窓ガラスの向うの霧の流れをみつめて考えた。僕はこのまま立っていればいい、そして彼らは僕を解放するだろう。  しかし外国兵の逞しい腕が僕の肩をしっかり掴むと動物の毛皮を剥《は》ぐように僕の外套をむしりとったのだ。そして僕は数人の外国兵が笑いざわめきながら僕の躰へ腕をかけるのをどうすることもできない。彼らは僕のズボンのベルトをゆるめ荒あらしくズボンと下ばきとをひきはいだ。僕はずり落ちるズボンを支えるために両膝を外側へひろげた姿勢のまま手首を両側からひきつけられ、力強い腕が僕の首筋を押しつけた。僕は四足の獣のように背を折り曲げ、裸の尻を外国兵たちの喚声にさらしてうなだれていた。僕は躰をもがいたが両手首と首筋はがっしり押さえられ、その上、両足にはズボンがまつわりついて動きの自由をうばっていた。  尻が冷たかった。僕は外国兵の眼のまえへつき出されている僕の尻の皮膚が鳥肌だち、灰青色に変化して行くのを感じた。尾《び》�骨《ていこつ》の上に硬い鉄が軽くふれて、バスの震動のたびに痛みのけいれんを背いちめんにひろげた。ナイフの背をそこに押しあてている若い外国兵の表情が僕にはわかった。  僕は圧《お》しつけられ、捩《ね》じまげられた額のすぐ前で、自分のセクスが寒さにかじかむのを見た。狼狽のあとから、焼けつく羞恥《しゅうち》が僕をひたしていった。そして僕は腹を立てていた、子供の時のように、やるせない苛立たしい腹だちがもりあがってきた。しかし僕がもがいて外国兵の腕からのがれようとするたびに、僕の尻はひくひく動くだけなのだ。  外国兵が突然歌いはじめた。そして急に僕の耳は彼らのざわめきの向うで、日本人の乗客がくすくす笑っているのを聞いた。僕はうちのめされ圧しひしがれた。手首と首筋の圧迫がゆるめられたとき、僕は躰を起す気力さえうしなっていた。そして僕の鼻の両脇を、粘りつく涙が少しずつ流れた。  兵隊たちは童謡のように単純な歌をくりかえし歌っていた。そして拍子をとるためのように、寒さで無感覚になり始めた僕の尻をひたひた叩《たた》き、笑いたてるのだ。  羊撃ち、羊撃ち、パン パン  と彼らは熱心にくりかえして訛《なま》りのある外国語で歌っていた。  羊撃ち、羊撃ち、パン パン  ナイフを持った外国兵がバスの前部へ移って行った。そして他の外国兵が数人、彼を応援に行った。そこで日本人の乗客たちのおずおずした動揺が起り、外国兵が叫んだ。彼らは行列を整理する警官のように権威をもって長い間叫びつづけた。屈んでいる僕にも彼らのやっている作業は分った。僕が首筋を掴まえられて正面へ向きなおされた時、バスの中央の通路には、震動に耐えるために足を拡《ひろ》げてふんばり、裸の尻を剥きだして背を屈めた《羊たち》が並んでいた。僕は彼らの列の最後に連なる《羊》だった。外国兵たちは熱狂して歌いどよめいた。  羊撃ち、羊撃ち、パン パン  そしてバスが揺れるたびに僕の額は、すぐ眼の前の、褐色のしみのある痩《や》せた尻、勤人の寒さに硬い尻へごつごつぶつかるのだ。バスが急に左へ廻《まわ》りこみ停車した。僕は筋肉のこわばりが靴下どめを押しあげている勤人のふくらはぎへ頭をのめらせた。  ドアを急いで開く音がし、車掌が子供のような透きとおって響く悲鳴をあげながら暗い夜の霧の中へ走り逃れて行った。僕は躰を屈めたまま、その幼く甲高い叫びの遠ざかって行くのを聞いた。誰《だれ》もそれを追わなかった。  あんた、もう止《よ》しなよ、と僕の背に手をかけて外国兵の女が低い声でいった。  僕は犬のように首を振って彼女の白けた表情を見あげ、またうつむいて僕の前に列《つら》なる《羊たち》と同じ姿勢を続けた。女は破れかぶれのように声をはりあげて外国兵たちの歌に合唱しはじめた。  羊撃ち、羊撃ち、パン パン  やがて、運転手が白い軍手を脱ぎ、うんざりした顔でズボンをずり落して、丸まる肥《ふと》った大きい尻を剥き出した。  自動車が何台も僕らのバスの横をすりぬけて行った。霧にとざされた窓ガラスを覗《のぞ》きこもうとしながら行く自転車の男たちもいた。それはきわめて日常的な冬の夜ふけにすぎなかった。ただ、僕らはその冷たい空気の中へ裸の尻をさらしていたのだ。僕らは実に長い間、そのままの姿勢でいた。そして急に、歌いつかれた外国兵たちが、女を連れてバスから降りて行ったのだ。嵐《あらし》が倒れた裸木を残すように、僕ら、尻を剥き出した者たちを置きざりにして。僕らはゆっくり背を伸ばした。それは腰と背の痛みに耐える努力をともなっていた。それほど長く僕らは《羊》だったのだ。  僕は床に泥まみれの小動物のように落ちている僕の古い外套を見つめながらズボンをずりあげベルトをしめた。そしてのろのろ外套をひろい、汚れをはらい落すとうなだれたまま後部座席へ戻った。ズボンの中で僕の痛めつけられた尻は熱かった。僕は外套を着こむことを億劫《おっくう》にさえ感じるほど疲れていた。 《羊》にされた人間たちは、みんなのろのろとズボンをずりあげ、ベルトをしめて座席に戻った。《羊たち》はうなだれ、血色の悪くなった脣を噛んで身震いしていた。そして《羊》にされなかった者たちは、逆に上気した頬を指でふれたりしながら《羊たち》を見まもった。みんな黙りこんでいた。  僕の横へ坐った勤人はズボンの裾《すそ》の汚れをはらっていた。それから彼は神経質に震える指で眼鏡をぬぐった。《羊たち》は殆ど後部座席にかたまって坐っていた。そして、教員たち、被害を受けなかった者たちはバスの前半分に、興奮した顔をむらがらせて僕らを見ていた。運転手も僕らと並んで後部座席に坐っていた。そのまま暫《しばら》く僕らは黙りこんで待っていた。しかし何もおこりはしない。車掌の少女も帰ってこなかった。僕らには何もすることがなかった。  そして運転手が軍手をはめて、運転台へ帰って行き、バスが発車すると、バスの前半分に活気が戻ってきた。彼ら、前半分の乗客たちは小声でささやきあい、僕ら被害者を見つめた。僕はとくに教員が熱をおびた眼で僕らを見つめ、脣を震わせているのに気がついていた。僕は座席に躰をうずめ、彼らの眼からのがれるためにうなだれて眼をつむった。僕の躰の底で、屈辱が石のようにかたまり、ぶつぶつ毒の芽をあたりかまわずふきだし始めていた。  教員が立ちあがり、後部座席まで歩いてきた。僕は顔をふせたままでいた。教員はガラス窓の横軸にしっかり躰を支えて屈みこみ勤人に話しかけた。  あいつらひどいことをやりますねえ、と教員は感情の高ぶりに熱っぽい声でいった。彼はバスの前部の客たち、被害をうけなかった者たちの意見を代表しているように堂どうとして熱情的だった。  人間に対してすることじゃない。  勤人は黙りこんだまま、うつむいて教員のレインコートの裾を見つめていた。  僕は黙って見ていたことを、はずかしいと思っているんです、と教員は優しくいった。どこか痛みませんか。  勤人の色の悪い喉がひくひく動いた。それはこういっていた、俺《おれ》の躰が痛むわけはないよ、尻《しり》を裸にされるくらいで、俺をほっておいてくれないか。しかし勤人の脣は硬く噛みしめられたままだった。  あいつらは、なぜあんなに熱中していたんだか僕にはわからないんです、と教員はいった。日本人を獣あつかいにして楽しむのは正常だとは思えない。  バスの前部の席から被害を受けなかった客の一人が立って来て教員の横にならび、僕らをやはり堂どうとして熱情的な眼でのぞきこんだ。それから、前部のあらゆる席から興奮に頬《ほお》をあかくした男たちがやって来て教員たちとならび、彼らは躰を押しつけあい、むらがって僕ら《羊たち》を見おろした。  ああいうことは、このバスでたびたび起るんですか、と客の一人がいった。  新聞にも出ないからわからないけれど、と教員が答えた。始めてではないでしょう。慣れているようなやり方だったな。  女の尻をまくるのなら話はわかるが、と道路工夫のように頑丈《がんじょう》な靴をはいた男が真面目《まじめ》に腹をたてた声でいった。男にズボンを脱がせてどうするつもりなんだろう。  厭《いや》なやつらだった。  ああいうことを黙って見逃す手はないですよ、と道路工夫らしい男はいった。黙っていたら増長して癖になる。  僕らを、兎狩《うさぎが》りで兎を追いつめる犬たちのように囲んで、立った客たちは怒りにみちた声をあげ話しあった。そして僕ら《羊たち》は柔順にうなだれ、坐りこみ、黙って彼らの言葉を浴びていた。  警官に事情を話すべきですよ、と教員が僕らに呼びかけるように、ひときわ高い声でいった。あの兵隊のいるキャンプはすぐにわかるでしょう。警察が動かなかったら、被害者が集って世論に働きかけることができると思うんです。きっと今までも、被害者が黙って屈伏したから表面化しなかっただけだと僕は思う。そういう例はほかにもあります。  教員の周りで被害を受けなかった客たちが賛同の力強いざわめきを起した。しかし坐っている僕らは黙ったままうなだれていた。  警察へ届けましょう、僕は証人になります、と教員が勤人の肩に掌をふれると活気のある声でいった。彼は他の客たちの意志を躰じゅうで代表していた。  俺も証言する、と他の一人がいった。  やりましょう、と教員はいった。ねえ、あんた達、唖《おし》みたいに黙りこんでいないで立上って下さい。  唖、不意の唖に僕ら《羊たち》はなってしまっていたのだ。そして僕らの誰一人、口を開く努力をしようとはしなかった。僕の喉は長く歌ったあとのように乾いて、声は生まれる前に融《と》けさってしまう。そして躰の底ふかく、屈辱が鉛のように重くかたまって、僕に身動きすることさえ億劫にしていた。  黙って耐えていることはいけないと僕《ぼく》は思うんです、と教員がうなだれたままの僕らに苛《いら》立《だ》っていた。僕らが黙って見ていたことも非常にいけなかった。無気力にうけいれてしまう態度は棄《す》てるべきです。  あいつらにも思いしらせてやらなきゃ、と教員の言葉にうなずきながら別の客がいった。我われも応援しますよ。  しかし坐っている《羊》の誰も、彼らの励ましに答えようとはしなかった。彼らの声が透明な壁にさえぎられて聞えないように、みんな黙ってうつむいていた。  恥をかかされたもの、はずかしめを受けた者は、団結しなければいけません。  急激な怒りに躰《からだ》を震わせて僕は教員を見あげた。《羊たち》が動揺し、それから赤い皮ジャンパーを着こんで隅《すみ》にうずくまっていた《羊》が立ちあがると、青ざめて硬い顔をまっすぐに保ったまま教員につっかかっていった。彼は教員の胸ぐらを掴み、狭く開いた脣《くちびる》のあいだから唾《つば》を吐きとばしながら教員を睨みつけたが、彼も言葉を発することができない。教員は無抵抗に両腕をたれ驚きにみちた表情をしていた。周囲の客たちも驚きに黙りこんで男を制しようとはしなかった。男は罵《ののし》りの言葉をあきらめるように首を振ると教員の顎《あご》を激しく殴りつけた。  しかし勤人と、他の《羊》の一人が、倒れた教員へ跳びかかって行こうとする男の肩をだきとめると、男は急速に躰から力をぬき、ぐったりして席に戻《もど》った。黙ったまま勤人たちが坐ると、再び《羊たち》はみんな疲れきった小動物のようにひっそりうなだれてしまうのだ。立っていた客たちも、あいまいに黙りこんで前部の座席へ戻って行った。彼らの間でも感情の昂揚《こうよう》がたちまち冷却して行き、そのあとにざらざらして居心地の悪い滓《かす》がたまりはじめているようだった。床に倒れた教員は立ちあがると僕らをいくぶん哀《かな》しそうな眼でみつめ、それから丁寧にレインコートをはたいた。彼はもう誰にも話しかけようとはしなかったが、時どき紅潮がまだらに残っている顔をふりむいて僕らを見た。僕は殴りつけられて倒れた教員を見ることで自分の屈辱をほんの少しまぎらせようとしたことを醜いと考えたが、それが深く僕を苦しめるには、僕の躰があまりに疲れすぎていた。それに寒かった。バスの小刻みになった震動に躰をまかせながら僕は脣を噛《か》みしめて睡《ねむ》りから耐えた。  バスは市の入口のガソリンスタンドの前でとまり、そこで勤人と僕とをのぞくすべての《羊たち》と他の乗客とが降りた。運転手が車掌のかわりに切符をうけとろうとはしないので、幾人かは小さく薄い切符を車掌の席に丸めて棄てて、降りて行った。  バスが再び走りはじめた時、僕は教員の執《しつ》拗《よう》にまといつく視線が僕にむけられているのに気がつき小さなおびえにとらえられた。教員はあきらかに僕に話しかけたがっていると感じられるのだ。そして、それをどうはぐらかしていいか僕にはわからない。僕は教員から顔をそむけ、躰をねじって後部の広いガラス窓から外を覗こうとしたが、それは霧のこまかい粒でぎっしりおおわれていて、暗い鏡のように車内のすべてをぼんやり写している。そのなかに僕は、やはり熱心に僕を見つめている教員の顔を見てやりきれない苛だちにおそわれた。  次の停留所で、僕は殆《ほとん》ど駈《か》けるようにしてバスを降りた。教員の前を通りぬける時、僕は首を危険な伝染を避けるためのように捩《ねじ》って教員のすがりついて来る視線を振りきらねばならなかった。鋪《ほ》道《どう》に霧はよどんで空気は淡い密度の水のようだった。僕は外套《がいとう》の襟《えり》を喉《のど》にまきつけて寒さをふせぎながら、バスが霧のゆるやかなうずをまきおこして遠ざかるのを見おくり、みじめな安《あん》堵《ど》の感情を育てた。ガラスを掌でぬぐって、勤人が僕を見ようとしているのが白っぽくバスの後尾にうかんでいた。僕は、肉親と別れるような動揺を感じた、おなじ空気のなかへ裸の尻をさらした仲間。しかし僕はその賤《いや》しい親近感を恥じて、ガラス窓から眼《め》をそらした。家の暖かい居間で僕を待っているはずの母親や妹たちの前へ帰って行くために僕は自分をたてなおさなければならなかった。僕は彼女たちから、僕の躰の奥の屈辱をかぎとられてはならない、と考えた。僕は明るい心をもった子供のように意味もなく駈けだすことにきめて外套をかたく躰にまといつけた。  ねえ、君、と僕の背後にひそんだ声がいった。ねえ、待ってくれよ。  その声が、僕から急速に去って行こうとしていた厭《いと》わしい《被害》を再び正面までひき戻した。僕はぐったりして肩をたれた。その声がレインコートの教員のそれであることは振りかえるまでもなくわかった。  待ってくれよ、と教員は寒さに乾いた脣を湿すために舌を覗かせてから、過度に優しい声でくりかえした。  この男から逃れることはむつかしい、という予感が僕をみたし、無気力に彼の言葉の続きを待たせた。教員は僕をすっぽりくるんでしまう奇妙な威圧感を躰にみなぎらせて微笑していた。  君はあのことを黙ったまま耐えしのぶつもりじゃないだろう? と教員は注意深くいった。他の連中はみんなだめだけど、君だけは泣寝入りしないで戦うだろう?  戦う? 僕は驚いて、うすい皮膚の下に再び燃えあがろうとしはじめた情念をひそめている教員の顔を見つめた。それは僕をなかば慰撫《いぶ》し、なかば強制していた。  君の戦いには僕が協力しますよ、と一歩踏み出して教員はいった。僕がどこにでも出て証言する。  あいまいに頭を振って彼の申出をこばみ、歩き出そうとする僕の右脇《みぎわき》へ教員の励ましにみちた腕がさしこまれた。  警察に行って話そう、遅くならない方がいい。交番はすぐそこなんだ。  僕のとまどった抵抗をおしきり、しっかりした歩調で僕をひきずるように歩きながら、教員は短く笑ってつけくわえた。あすこは暖かくていいよ、僕の下宿には火の気もないんだ。  僕らは、僕の心のなかの苛だたしい反撥《はんぱつ》にもかかわらず、親しい友人同士のように見える腕のくみかたで、鋪道を横切り、狭い光の枠《わく》を霧の中へうかびあがらせている交番へ入って行った。  交番には若い警官が太い書体の埋めているノートに屈《かが》みこんでいた。彼の若わかしいうなじを赤熱したストーヴがほてらせていた。  こんばんは、と教員がいった。  警官が頭をあげ、僕を見つめた。僕は当惑して教員を見あげたが、彼はむしろ交番から僕が逃げだすのをふせぐためのように立ちふさがり僕を見つめていた。警官は充血して睡そうな眼を僕から教員にむけて固定した。それから再び僕を見かえした時警官の眼は緊張していた。彼は教員から信号をうけとったようだった。  え? と警官が僕を見つめたまま、教員にうながした。  どうかしましたか?  キャンプの外国兵との問題なんです、と教員が警官の反応をためすためにゆっくりいった。被害者はこの人です。  キャンプの? と警官は緊張していった。  この人たちが外国兵に暴行されたんです。  警官の眼が硬くひきしまり僕の躰じゅうをすばやく見まわした。僕は彼が、打撲傷や切傷を僕の皮膚の上に探そうとしているのがわかったが、それらはむしろ僕の皮膚の下にとどこおっているのだ。そしてそれらを僕は他人の指でかきまわされたくなかった。  待って下さいよ、僕一人ではわからないから、と急に不安にとりつかれたように若い警官はいって立上った。キャンプとの問題は慎重にやりたいんです。  警官が籐《とう》をあんだ仕切の奥へ入って行くと、教員は腕を伸ばして僕の肩にふれた。  僕らも慎重にやろう。  僕はうつむいてストーヴからのほてりが、寒さでこわばっていた顔の皮膚をむずがゆく融かすのを感じて黙っていた。  中年の警官は若い警官につづいて入って来る時、眼をこすりつけて眠りから脱け出る努力をしていた。それから彼は疲れた肉がたるんでいる首をふりむけて僕と教員を見つめ、椅子《いす》をすすめた。僕はそれを無視して坐らなかった。教員は一度坐った椅子から、僕を監視するためのように、あわててまた立上った。警官たちが坐ると訊問《じんもん》の空気がかもしだされた。  キャンプの兵隊に殴られたんだって? と中年の警官がいった。  いいえ、殴られはしません、と皮ジャンパーの男に殴りつけられたあとが青黒いしみになっている自分の顎をひいて教員はいった。もっと悪質の暴行です。  どういうことなんだい、と中年の警官がいった。暴行といったところで。  教員が僕を励ます眼で見つめたが、僕は黙っていた。  え?  バスの中で酒に酔った外国兵が、この人たちのズボンを脱がせたんです、と教員が強い調子でいった。そして裸の尻を。  羞恥《しゅうち》が熱病の発作のように僕を揺り動かした。外套のポケットの中で震えはじめた指を僕は握りしめた。  裸の尻を? と若い警官が当惑をあらわにしていった。  教員は僕を見つめてためらった。  傷でもつけたんですか。  指でぱたぱた叩《たた》いたんです、と教員は思いきっていった。  若い警官が笑いを耐えるために頬の筋肉をひりひりさせた。  どういうことなんだろうな、と中年の警官が好奇心にみちた眼で僕をのぞきこみながらいった。ふざけているわけじゃないでしょう?  え? 僕らが。  裸の尻をぱたぱた叩いたといっても、と教員をさえぎって中年の警官はいった。死ぬわけでもないだろうし。  死にはしません、と教員が激しくいった。しかし混雑しているバスの中で裸の尻を剥《む》き出して犬のように屈まされたんだ。  警官たちが教員の語勢にけおされるのが、羞恥に躰を熱くしてうつむいている僕にもわかった。  脅迫されたんですか、と若い警官が教員をなだめるようにいった。  大きいナイフで、と教員がいった。  キャンプの外国兵だということは確かなのですね、と熱をおびてきた声で若い警官がいった。詳しく話してみてください。  そして教員はバスの中での事件を詳細に話した。僕はそれをうなだれて聞いていた。僕は警官たちの好奇心にみちた眼のなかで、僕が再びズボンと下ばきをずりさげられ、鳥のそれのように毛穴のぶつぶつふき出た裸の尻をささげ屈みこまされるのを感じた。  ひどいことをやられたもんだなあ、と猥《みだ》らな笑いをすでにおしかくそうとさえしないで、黄色の歯茎を剥いた中年の警官はいった。それを他の連中は黙って見ていたんだろう?  僕は、と噛みしめた歯の間から呻《うめ》くように声を嗄らせて教員がいった。平静な気持でそれを見ていたわけじゃない。  顎を殴られていますね、と若い警官が僕から教員へ眼をうつしていった。  いいえ、外国兵にじゃありません、と教員は不機《ふき》嫌《げん》にいった。  被害届を一応出してもらうことにしようか、と中年の警官がいった。それから、こういう事件のあつかいは丁寧に検討しないと厄介《やっかい》で。  厄介なというような問題じゃないでしょう、と教員がいった。はっきり暴力ではずかしめられたんだ。泣寝入りするわけにはいかないんです。  法律上、どういうことになるか、と中年の警官は教員をさえぎっていった。君の住所と名前を聞きます。  僕は、と教員がいった。  あんたよりさきに、被害を受けた当人のを。  僕は驚いて激しく首を振った。  え? と若い警官が額に短い皺《しわ》をよせていった。  頑強《がんきょう》に自分の名前をかくしとおさねばならない、と僕は考えた。なぜ僕は、教員にしたがって交番へ入って来たりしたのだろう。このまま疲れにおしひしがれて無気力に教員の意志のままになっていたら、僕は自分のうけた屈辱をあたりいちめんに広告し宣伝することになるだろう。  君の住所と名前をいえよ、と教員が僕の肩に腕をまわしていった。そして告訴するんだ。  僕は教員の腕から躰をさけたが、彼に自分が告訴する意志をもたないことを説明するためにはどうしていいかわからなかった。僕は不意の唖《おし》だった。脣を硬く噛んだまま僕はストーヴの臭《にお》いに軽い嘔《はき》気《け》を感じ、これらすべてが早く終ればいいと苛だたしく願っていた。  この学生だけが被害者じゃないんだから、と教員が思いなおしたようにいった。僕が証人になってこの事件を報告するという形でもいいでしょう?  被害をうけた当人が黙っているのに、こんなあいまいな話を取りあげることはできないよ。新聞だって相手にするはずはないね、と中年の警官はいった。殺人とか傷害とかいうのじゃないんだ。裸の尻《しり》をぱたぱた叩く、そして歌う。  若い警官がいそいで僕から顔をそむけ、笑いをかみころした。  ねえ、君、どうしたんだ、と苛だって教員がいった。なぜ君は黙ってるんだ。  僕は顔をうつむけたまま交番から出て行こうとしたが、教員が僕の通路へまわりこみ、しっかり足をふんばって僕をさえぎった。  ねえ、君、と彼は訴えかけるように切実な声でいった。誰《だれ》か一人が、あの事件のために犠牲になる必要があるんだ。君は黙って忘れたいだろうけど、思いきって犠牲的な役割をはたしてくれ。犠牲の羊になってくれ。  羊になる、僕は教員に腹だたしさをかりたてられたが、彼は熱心に僕の眼をのぞきこもうと努めていた。そして懇願するような、善良な表情をうかべている。僕はますますかたくなに口をつぐんだ。  君が黙っているんじゃ、僕の立場がないよ。ねえ、どうしたんだ。  明日にでも、と中年の警官が、睨《にら》みあって沈黙した僕らを見つめながら立ちあがっていった。あんたたちの間で、はっきり話がついてから来て下さい。そうしたところで、キャンプの兵隊を起訴することになるかどうかはわからないけれどね。  教員は警官に反撥してなにかいいかけたが、警官は僕と教員の肩にぶあつい掌をおき、親しい客を送るように外へ押し出した。  明日でも遅くないだろう? その時には、もっと用意をととのえておいてもらう。  僕は今夜、と教員があわてていった。  今夜は一通り話を聞いたじゃないか、と警官はやや感情的な声を出した。それに直接の被害者は訴える気持を持ってないんだろ?  僕と教員とは交番を出た。交番からの光は濃くなって光沢をおびた霧に狭く囲われていた。  君は泣寝入りするつもりなのか? と教員が口惜《くや》しそうにいった。  僕は黙ったまま霧の囲いの外、冷たく暗い夜のなかへ入って行った。僕は疲れきっていたし睡かった。僕は家へ帰り、妹たちと黙りこんで遅い食事をし、自分の屈辱を胸にかかえこむように背をまるめ蒲《ふ》団《とん》をかぶって寝るだろう、そして夜明けには、少しは回復してもいるだろう……  しかし、教員が僕から離れないでついて来るのだ。僕は足を早めた。教員の力のこもった靴音《くつおと》が僕の背のすぐ後で早くなる。僕はふりかえり、教員と短い時間、顔を見つめあった。教員は熱っぽく苛だたしい眼をしていた。霧粒が彼の眉《まゆ》にこびりついて光っていた。  君はなぜ警察で黙っていたんだ、あの外国兵どもをなぜ告発しなかったんだ、と教員がいった。黙って忘れることができるのか?  僕は教員から眼をそらし、前屈みに急いで歩きはじめた。僕は背後からついて来る教員を無視する決心をしていた。僕は顔をこわばらせる冷たい霧粒をはらいのけようともしないで歩いた。鋪道の両側のあらゆる商店が灯《ひ》を消し扉《とびら》をとざしていた。僕と教員の靴音だけが霧にうもれて人通りのない町にひびいた。僕の家のある路地へ入るために鋪道を離れる時、僕はすばやく教員を振りかえった。  黙って誰からも自分の恥をかくしおおすつもりなら、君は卑怯《ひきょう》だ、と振りかえる僕を待ちかまえていたように教員はいった。そういう態度は外国兵にすっかり屈伏してしまうことだ。  僕は教員の言葉を聞く意志を持たないことを誇示して路地へ駈《か》けこんだが、教員は急ぎ足に僕の背へついて来るのだ。彼は僕の家にまで入りこんで僕の名前をつきとめようとするつもりかもしれない。僕は自分の家の門灯の明るみを横眼に見て、その前を通りすぎた。路地のつきあたりを曲って、再び鋪道へ出ると教員も歩調をゆるめながら僕に続いた。  君の名前と住所だけでもおしえてくれ、と教員が僕に背後から声をかけた。後から今後の戦いの方針を連絡するから。  僕は苛だちと怒りにおそわれた。しかし僕にどうすることができよう。僕の外套の肩は霧に濡《ぬ》れて重くなり、首すじに冷たくそれはふれた。身震いしながら僕は黙りこんで歩いた、長い間そのまま僕らは歩いた。  市の盛り場近くまで来ると、暗がりから獣のように首を伸ばして街娼《がいしょう》が僕らを待ちかまえているのが見えた。僕は街娼をさけるために車道へ踏み出し、そのまま車道を向う側の歩道へ渡った。寒かった、僕は下腹の激しいしこりをもてあましていた。ためらったあと、僕はコンクリート塀《べい》の隅《すみ》で放尿した。教員は僕と並んで自分も放尿しながら僕によびかけた。  おい、名前だけでもいってくれよ。僕らはあれを闇《やみ》にほうむることはできないんだ。  霧を透して街娼が僕らを見まもっていた。僕は外套のボタンをかけ、黙ったままひきかえしはじめた。教員が僕と肩をならべた時、街娼は僕らに簡潔で卑《ひ》猥《わい》な言葉をなげかけた。霧に刺《し》戟《げき》された鼻孔の粘膜が痛み悪《お》寒《かん》がした。僕は疲れと寒さにうちひしがれていた。腓《ふくらはぎ》がこわばり、靴の中でふくれた足が痛んだ。  僕は教員をなじり、あるいは腕力にかけてもその理ふじんな追跡を拒まねばならなかったのだ。しかし僕は唖のように言葉を失い、疲れきっていた。躰をならべて歩きつづける教員にただ絶望的に腹を立てていた。  僕らが再び、僕の家への路地の前へさしかかった時、夜はすっかり更《ふ》けていた。僕は蒲団にたおれふして睡りに身をまかせたい、激しい願いにとらえられた。そこを僕は通りすぎたが、それ以上遠くへ歩き離れていくことには耐えられなかった。急に湧《わ》きあふれる情念が僕をぐいぐいとらえた。  僕は脣《くちびる》を噛みしめ、ふいに教員をつきとばすと、暗く細い路地へ駈けこんだ。両側の垣《かき》の中で犬が激しく吠《ほ》えたてた。僕は息をあえがせ、顎《あご》をつきだし、悲鳴のような音を喉からもらしながら駈けつづけた。横腹が痛みはじめたが僕はそこを押しつけて走った。  しかし、街灯が淡く霧を光らせている路地の曲りかどで、僕は背後から逞《たくま》しい腕に肩を掴《つか》まえられたのだ。僕を抱きこむように躰をよせ教員は荒い息を吐いていた。そして僕も白く霧にとけこむ息を開いた口と鼻孔から吐き出した。  今夜ずっと、この男につきまとわれて、冷たい町を歩きつづけねばならないだろう、と僕は疲れきって考えた。躰を重く無力感がみたし、その底から苛だたしい哀《かな》しみがひろがってきた。僕は最後の力をふりしぼって、教員の腕をはらいおとした。しかし教員はがっしりして大きい躰を僕の前にそびえさせて、僕の逃走の意志をうけつけない。僕は教員と睨みあったまま絶望しきっていた。敗北感と哀しみが表情にあらわれてくるのをふせぐためにどうしていいかわからないのだ。  お前は、と教員が疲れに嗄れた声を出した。どうしても名前をかくすつもりなんだな。  僕は黙ったまま教員を睨みつけているだけで躰じゅうのあらゆる意志と力をつかっていた。  俺《おれ》はお前の名前をつきとめてやる、と教員は感情の高ぶりに震える声でいい、急に涙を両方の怒りにみちた眼からあふれさせた。お前の名前も、お前の受けた屈辱もみんな明るみに出してやる。そして兵隊にも、お前たちにも死ぬほど恥をかかせてやる。お前の名前をつきとめるまで、俺は決してお前から離れないぞ。 (「新潮」昭和三十三年二月号) 不意の唖《おし》  外国兵をのせた一台のジープが夜明けの霧のなかを走ってくる。罠《わな》にかかった小鳥の翼を針金につらぬいてまるめたものを肩にかけ、谷間のはずれの自分の猟場をまわっていた少年がそれを見つけ、しばらくは息をつめてそれを見まもっていた。  ジープが台地をぬけ、窪《くぼ》みへ入りこんで、再び台地へあらわれ谷間の村へ入ってくるまでには時間がある。少年は息せききって村へ戻《もど》って来た。かれの父がその小さな集落の部落長をしている、その父が耕作に出る支度をととのえている所へ少年が青ざめて帰って来た。  半鐘をならして、谷間のすべての人々を、谷を見おろす中腹にある父親の家の前へ招集する。若い女たちは山の尾根の炭焼小屋へ待避する、男たちは武器と見あやまられるおそれのあるものを畑の小屋へ運んでおく。そして決してかれらと争うな。これらの訓辞は、いくたびもくりかえして予行練習されたものだった。ただ、なかなか外国兵が谷間の村までやって来なかったのだ。  子供たちは昂奮《こうふん》して谷間の短い村道を歩きまわり大人たちも耕作や蜜蜂《みつばち》の管理や、家畜のための飼料つくりがはかどらなかった。そして陽《ひ》がかなり高くなってからジープはじつに静かにすばらしい速度で谷間の村へ入って来た。  それは夏のあいだ閉ざされている分教場前の広場へとまり、五人の外国兵と一人の日本人通訳がそれから降りたった。かれらは広場のポンプを動かして常に白濁している水を飲み体をぬぐった。かれらを村の大人たちや子供たちが遠まきにとりまいて見守った。女たちは年老いた者らさえ暗く狭い土間にうずくまって決して外に出ようとしなかった。  体をぬぐい終った外国兵たちが再びジープのまわりにひきかえしてくると村の大人たち、子供らの輪がひろがった。かれらは、初めてやって来た外国の兵士たちを見てすっかり動揺していた。  通訳がきびしい表情のまま、大声で叫んだのが、その朝の最初の言葉だった。 「部落長はどこにいる? 呼んで来てくれ」  村人たちの間にまじって外国兵の到着を見まもっていた少年の父親が輪からすすみ出た。少年は父親が堂どうと胸をはって通訳へこたえようとしているのを感動にみちて見つめた。 「おれだ」とかれの父親はいった。 「今日の夕方、涼しくなるまでこの村で休むことにしている。迷惑はかけない。この方たちは食事の習慣がちがうから接待する必要はない、やってもむだになる。いいな」 「その分教場へあがって休んでもいい」と父親は寛大にいった。 「大人は仕事に戻ってくれ、こちらも休養をとりたいんだ」と通訳がいった。  そのかれへ褐色《かっしょく》の頭をした外国兵が脣《くちびる》をよせてなにかささやいた。 「出むかえてもらってありがとう、といっている」と通訳がいった。  褐色の頭の外国兵は嬉《うれ》しそうに微笑していた。大人たちは通訳の言葉にもかかわらず、外国兵を見るためになかなかひきあげて行こうとしなかった。かれらも子供らも嘆声をあげて外国兵を見つめていた。 「大人は仕事に戻ってくれ」と通訳がくりかえした。 「みんな、仕事に帰ろう」と少年の父親がいった。  そこでやっと大人たちはみれんがましくふりかえりながら散っていった。しかしかれらは小さな機会でもあればもう一度やってきたそうにしていた。そして通訳にたいして、良い感情をもたない様子だった。子供たちだけがあとに残ると、かれらはやはり外国兵の存在におびえてしまう。そしてジープから少しうしろずさって外国兵たちを見まもった。  外国兵たちの一人が井戸からくみあげた水をジープの車体にあびせて洗いはじめた。他の一人は分教場の窓枠《まどわく》のまえへ行って髪を、陽にもえたつ金髪をなでつけていた。銃の手いれをする者もいた。子供らは息をつめてそれをながめつづけた。  通訳はわざわざ少年たちの傍まで歩いてきて、にこりともしないで四方を見まわしたりしたあと、ジープの運転台へ入ってしまった。そこでかれらは、なんの気がねもなしに、この遠来の客を見まもることができるというわけだった。外国兵たちはおとなしく礼儀正しい感じだった。そして背が高く肩幅がひろく立派だった。子供たちは少しずつ輪をせばめて、もっと良く見るために兵隊たちへ近づいて行った。あまり恐《こわ》くなかった。  正午がすぎ暑くなってから、外国兵たちは谷川へおりていった。そこには所どころ泳ぐことのできる深みがある。子供らは、裸になった外国兵の体を驚嘆して見つめた。兵隊たちはまっ白な皮膚と陽に輝やく金色の体毛とをもっていた。かれらは水をぶっかけあい、けたたましい声で叫びかわした。  子供らは全身をぐっしょり汗で濡《ぬ》らし、それでもおとなしく岸にすわって外国兵たちを見まもっていた。そこへ通訳がおりて来て、かれも裸になったが、かれの皮膚は黄褐色をして、しかも体毛はまったく無く、全身がつるつるして穢《きた》ならしい感じだった。かれは外国兵たちとちがって、下腹部をしっかりおさえて水にひたりに行くのだ。子供らは通訳のやり方をいくぶん軽蔑《けいべつ》して声をあげて笑った。外国兵たちもほとんど通訳をあいてにしない様子だった。ただ通訳の方で、水をぶっかけに行ったりすると、たちまち数人の外国兵の包囲にあって悲鳴をあげながら退却する、そういうくらいなものだった。  外国兵が裸の体を奇声をあげながら拭《ぬぐ》って上《うわ》衣《ぎ》とズボンをつけ、駈《か》けて分教場へ戻るのを子供らが追ったとき、通訳は一緒でなかった。そして暫《しばら》くして、あわてふためいた通訳がはだしで帰って来た。かれは熱い石道をもてあましてやって来たので外国兵も子供らも一緒に笑い声をあげて、そのへっぴり腰の通訳をむかえた。  しかし通訳は笑うどころのさわぎではない真剣な表情をしていた。そして外国兵たちに事情を説明している様子だった。再び、その話を聞いた外国兵が笑い声をけたたましくひびかせ、それにつれて子供らも喉《のど》をいっぱいにあけて幸福に笑った。  通訳が、笑っている子供らに近づいて来た。かれは一《ひと》眼《め》でそれとわかる不機《ふき》嫌《げん》さなのだ。かれは子供らを叱《しか》りつけるような調子でいった。 「お前ら、おれの靴《くつ》を知らないか」とかれは足をはだしのままばたつかせた。「おれの靴がなくなったんだ」  子供らは陽気に笑った。黒っぽく小さな顔を不快そうにしかめている通訳はいい見ものだった。 「笑うな」と通訳がいたけだかになって叫んだ。「お前らのうちで、いたずらをした者はいないか、おい、どうなんだ」  村の子供らは笑いやめ唾《つば》をのみこんで、通訳を見あげた。通訳はうちのめされたようなおももちで子供らに話しかけてくるのだ。 「なあ、誰《だれ》か見かけなかったか?」  誰一人こたえなかった。そしてみんなの眼が通訳の細長く白いはだしの足を見まもった。それは決して靴をはいたりしない村の人間の足とちがって弱よわしく、そして幾分いやらしく見えた。 「知らないのか、お前ら」と腹をたてた声で通訳はいった。「役に立たないやつらだ」  外国兵たちは暑い日射しをさけて分教場の屋根の下へ入りこみ、そこから通訳と子供らの応対を見まもっていた。かれらは、黒い服とはだしの奇妙な対照を示している通訳を楽しんでいるようだった。 「部落長をよんで来い、すぐに来いといえ」と通訳がきわめて高圧的にいった。  部落長の息子の少年は仲間から離れ、坂の急な石道を林をぬけて駈けあがった。父親は暗い土間に坐って母親と一緒に乾燥した竹の皮をよりわけて小さい束にする仕事をしていた。それはがんじょうな肩と太い首をもった父親には似つかわしくない仕事だった。しかし少年の村ではつねに男らしい仕事だけをしていることは不可能というべきなのだ。そして逆に、時には女たちが男らしい仕事をしなければならない事もある。 「あ?」と嗄れた声で父親が、少年の呼びかけにこたえた。 「通訳の靴がなくなって困ってる」と少年はいった。「それで来てくれっていっている」 「知るものか」と父親は不機嫌にいった。「あの穢ない男の靴なんか知るものか」  しかし父親は立ちあがり少年につづいて陽のまぶしい戸外へ眼をほそめながら出て来た。かれらは谷間へおりて行った。  広場のジープのまわりには村の大人たちが集まって来て通訳の靴に関する説明を聞いていた。部落長が汗を額にうかべてたどりついたのへ通訳は雄弁にくりかえした。 「泳いでいる間に靴をぬすまれた、あんたの村のことはあんたに責任がある。靴をとりもどしてくれ」  少年の父親は回答するまえに村の大人たちをふりかえった。父親はそれからゆっくり通訳へむきなおって頭をふった。 「なんだ?」と通訳がいった。 「おれはそのことに関係がない」と父親はいった。 「あんたの村で盗まれた」と通訳は固執した。「責任はあんたの村にある」 「盗まれたのかどうかわからない」と父親はいった。「流れたのかもしれない」 「おれは砂の上に服といっしょに脱いでおいた、それは確かだ。流れるわけがない」  父親はもういちど振りかえり子供らと大人たちすべてにいった。 「お前ら、靴をぬすんだ奴《やつ》がいるか?」そしてかれは通訳にいった。「居ないらしい」 「子供だましをするな」と通訳がいきりたっていった。かれの薄い脣はきわめてこまかく震えていた。「おれをなめるな」  父親は黙っていた。通訳がそれへおっかぶせてきた。 「あの靴は軍のものだ、軍の備品を盗んだり隠匿《いんとく》したりする奴がどういうことになるかわかっているのか」  通訳がふりかえって腕をあげると、それに応じて背のすばらしく高い金髪や栗色髪《くりいろがみ》の男たちが分教場から出て来て通訳と父親とをとりまいた。父親は外国兵の広く高い肩のあいだへすっかりかくれてしまう。外国兵たちは今さらながら、短くがっしりした銃をその銃床が腰へごつごつぶつかるような具合に肩へかけていた。  外国兵たちの輪がほどけ、そこから父親が顔を出して大声でいった。 「一応、川のあたりを探してみることにする、手伝ってくれ」  そして通訳と父親を先頭にし、外国兵たち、村の大人たち子供らが谷川へむかって歩いた。子供らは昂奮して、羊歯《しだ》の茂みへがむしゃらに足をふみこんだりしながらついて行った。短い川岸を探すことはごく簡単な作業にすぎなかった。そして、通訳のほかは誰もその作業に身をいれようとしなかった。  外国兵のうち、きわめて若い雀斑《そばかす》のある男が、銃を腰にかまえて桐《きり》の梢《こずえ》を狙《ねら》った。梢には腹をまるくふくらませた灰色の鳥が向う岸から移ってきたところだった。鳥はじっとしていたが外国兵は撃たなかった。かれが銃身をおろし、川べりを靴をさがすための眼で見まわしはじめた時、村の大人も子供も、みんな熱い息をついた。村の人間たちは、みんな外国兵にたいして緊張をときはなたれたような感情になっているのだった。  しかし、通訳が川岸よりかなり離れた草むらから、かれの靴の紐《ひも》を拾いあげ、それが鋭利な刃もので切りとられていることを示して怒りの声をあげると、村の人間たちのあいだへ、再びおびえのまじったぎこちない気分が回復した。子供らは、笹《ささ》や雑草、それに羊歯類の生いしげった中へ後ずさった。  通訳が大きい声で外国語を叫ぶと、褐色の頭をした胸の厚い兵隊がかれへ大股《おおまた》に近づいて行った。通訳は紐の切れた部分や、川岸からの距離を指で示して説明した。その間、父親は不機嫌に眉《まゆ》をしかめてそれを聞いていたが、外国語を理解しないかれは別のもの思いにふけっているのにすぎない。兵隊がゆっくりうなずき村の大人たちを見まわした。それから通訳が父親をどなりつける勢いでしゃべり始めた。 「お前の村の人間に盗人《ぬすっと》がいるんだ、それは誰かお前には分っているだろう? そいつに白状させてくれ」 「おれには分らない」と父親はいった。「この村で盗みを働いたものはいない」 「嘘《うそ》をつけ、おれが騙《だま》されるとでも思うのか」と口穢なく通訳はいった。「軍の備品を盗んだ奴は銃殺されても仕方がないぞ、それでいいのか?」  父親は反応を示さなかった。通訳は険しく眉をひきつらせてかれを見つめていた。その通訳へ褐色の頭の外国兵がごく普通の声でなにかいった。通訳が不機嫌なままうなずきかえした。そこでかれらは分教場前の広場へひきあげて行ったが、陽に焼けた道をはだしの足で歩く通訳のかっこうはかなり滑稽《こっけい》なものだった。通訳は跳びはねるように歩きながら、しきりに首筋の汚れた汗をぬぐった。  分教場前の広場で、通訳は褐色の頭をした兵隊に身ぶりいりでしゃべったあと、あきらかに村の大人たちすべての胸をゆさぶる効果をねらっている調子でいった。 「お前たちの家を強制的に捜索する用意がある」とかれは力をこめてそれをいうのだ。「靴を隠匿している者は逮捕される。しかし、今、自発的に靴を提出して謝罪する意志があれば、不問にふすことにする」  村の人間たちはまったく動揺しなかった。通訳はますます苛《いら》だっていった。 「おい、子供たち、お前たちのなかで誰か靴をかくす奴を見たものはいないか? もしいたらおれにいいつけに来い。褒《ほう》美《び》をやる」  子供たちは黙っていた。通訳は再び外国兵と激しい身ぶりで話し合った。外国兵があきらめたようにうなずき、分教場へひきこんでしまうと、汗まみれの頭をふりたてて通訳はいった。「すべての家屋を捜索する、軍の備品を盗んで匿《かく》したまま黙っていた奴は処罰する」そしてかれは命令した。「おれについて来い。全員立ちあいの上で北のはしから捜索する。品物が発見されるまで、独立行動は許さないことにする」  村の大人たちは誰一人動こうとしなかった。通訳が声をはりあげた。 「なにをぐずぐずしている」とかれは村人たちへつっかかる勢いで叫んでいた。「おれについて来いといってるんだ、協力しないつもりか」  かれの声はむなしく炎天へすいこまれてゆき、村の男たちは汗のぶつぶつふき出た腕をこまねいてじっとしていた。通訳は怒りのあまり身もだえせんばかりで、熱っぽい眼を見ひらき四方を睨《にら》みつけて体を震わせた。 「おれについて来い、一軒ずつ捜索するんだ」 「行こう、立合うことにしよう」と父親がいった。  そこで村の男たちは谷間の北側へ通訳にしたがって歩いて行った。谷間へ陽がもっとも激しくあたる時間だった。怒りくるっているはだしの通訳は滑稽な歩き方で道にしいた石の熱さに耐えながらしゃにむに歩いていったので、それを見送る子供らに笑いをまきおこした。外国兵たちも当惑しきったような笑い声をたてた。そこで子供たちは外国兵への親しみを急速に回復した。  通訳の捜索がおこなわれるあいだ出発できない外国兵たちはジープのまわりを手持ぶさたに歩きまわったり、分教場へひきこもったりしていた。子供らはその外国兵たちを見まもって楽しい時をすごした。外国兵の方では着物を着た小さな女の子をめずらしがって、写真をとったり手帖《てちょう》に書きとめたりした。しかしあまりに捜索が長びくのでかれらはそれにもあきてしまうほどだった。  通訳はじつに執拗《しつよう》に捜索をつづけていた。外国兵たちは分教場の板ばりの床へ土足であがりこんで寝そべったり腰をかけたりして待っていた。かれらは途方にくれている様子だった。なかにはたえまなくあごを動かしている若い兵隊もいて、かれは時おり陽に乾ききって埃《ほこり》をあげる地面へ桃色の唾を吐いた。  大人たちは通訳にしたがって家々の捜索に立ちあったが、子供たちは分教場の広場にむらがってジープを見たり、うんざりしている兵隊たちを見たりしていた。かれらはあきることなく熱心に見つめていた。若い兵隊が、かれの噛《か》んでいる紙包装の菓子を投げてよこした。子供たちは微笑を顔いちめんにうかべ嬉しさでわくわくしながらそれを食べたが歯にねばねばこびりつき、皮のように噛みきれない感じだった。子供たちはみんなそれを吐き出したが、すっかり満足していた。  ふいに陽がかげり谷間をかこむ山肌《やまはだ》が黒ずみ、風が起って栗の林の下草を揺がせた。夕暮だった。そこでとうとう疲れきった通訳は村の大人たちをひきつれ、むっと不機嫌に黙りこんで広場へ戻《もど》って来た。かれのはだしの足は汗と埃に汚れて黒っぽい布でつつまれているようだったし、なによりも大きく醜かった。  かれは分教場に入りこんでいる外国兵たちに事情を説明している様子だった。もう外国兵たちのあいだに笑声はおこらなかった。外国兵たちも待ちくたびれて腹だたしい表情をしていた。外国兵たちが銃を腕に広場へ出てくると、それを背後の支えにして通訳は村の大人たちへ向きなおった。 「協力してくれ」とかれは哀願するような声になっていった。「おれに協力することは進駐軍に協力することだ。日本人は、これから進駐軍に協力することなしには生きてゆくことができない。お前たちは負けた国の人間じゃないか。勝った国の人間に虐殺《ぎゃくさつ》されても不平をいえない立場だ。協力しないでいることは気違いざたじゃないか」  大人たちは黙って通訳をみつめていた。通訳は苛だって少年の父親へ指をつきつけながら、もとの圧《お》しつけがましい声に戻って叫んだ。 「おれの盗まれた品物が返るまで、おれたちはこの村を出ないぞ。おれが兵隊たちに、この村には反抗的な人間が武器をもってひそんでいるというだけで、兵隊はこの村にとどまってとりしらべを始めるだろう。兵隊が腰をすえたら、お前らが今、山へやっている女房《にょうぼう》や娘もただではすまなくなるぞ」  通訳は村人たちの動揺をたしかめるためのように重おもしく脣《くちびる》をひきしめて睨みまわした。 「なあ、協力しないつもりか」 「誰もあんたの靴を知らないといってる。川へ流したのじゃないかといってる」と少年の父親が忍耐づよくいった。「協力するもしないもない」 「この野郎」と通訳は歯をむいて叫び、やにわに父親の顔を正面から殴りつけた。  父親はがんじょうなあごをしっかり支えたままびくともしなかったが、脣が切れて血のしずくがしたたり始めていた。そしてその陽にやけた頬《ほお》にゆっくり赤みがさしはじめるのをその息子の少年は胸をしめつける不安にとりつかれて見あげた。 「この野郎」と通訳は息をはずませていった。「お前は部落長だ、責任がある。お前が盗人の名をいわないなら、お前のことを盗人だと兵隊にいってやる。そしてお前をつかまえさせて進駐軍の憲兵にひきわたさせてやる」  少年の父親はゆっくりむきをかえ、通訳に背をむけて歩きはじめた。少年は父親がすっかり腹をたててしまったのを感じた。通訳が大声で呼びもどそうとしたが、父親はそれに反応を示さずぐんぐん歩いていった。 「とまれ、泥棒、逃げるな」と通訳が叫んだ。そしてかれは外国語をそれにつづけて絶叫した。  若い兵隊が銃を腰にかまえてとびだし、やはり外国語でどなった。父親がふりかえり、そして急に恐慌《きょうこう》におそわれたように駈《か》け出した。通訳が叫び、若い外国兵の銃が号音をひびかせ、父親が両腕をひろげて空へ跳びはねるように体をうかせ、そのまま地面へたおれた。村の人間が駈けより、それよりもさきに息子の少年がたおれた父親にとびついていった。父親は眼と鼻、それに耳からも血をあふれださせて死んでいた。少年が嗚《お》咽《えつ》にゆりうごかされながら父親の熱に燃えあがりそうな背に顔を埋めた。かれ一人で父親を所有してしまっていた。そこで他の村人たちはふりかえり夕暮の濃い空気をとおして、ぼうぜんと立っている通訳と外国兵とを見つめた。外国兵から離れ、二三歩ふみ出した通訳が逆上した声をかけてよこしたが、村の大人たち、子供たちの誰一人こたえなかった。みんな黙りこんで通訳を見つめているだけだった。  夜がふけて、少年とその母親だけが、床に横たわっているがんじょうな死体の傍にいた。母親は男のように尻《しり》をつき膝《ひざ》を両腕にかかえこんで身動き一つしないでいた。少年は谷に面した窓から下を見つめて、これも身動き一つせず黙りこんでいた。  谷間の底の谷川から濃い霧が湧《わ》きあがっている。少年は眼をこらし、村からの石道を大人たちがのぼってきているのを、そしてかれらを追って霧が上方へゆっくり移動しているのを見つけた。大人たちは黙りこんでゆっくりのぼって来た。重い荷をせおっているようにかれらは足を十分にふみしめてのぼってくるのだ。少年は脣をかみしめ動《どう》悸《き》をたかまらせて、それを見つめていた。それはじつにゆっくり、しかし着実にのぼって来た。少年は気が遠くなりそうだった。それから急に母親がいざりよってきて窓をのぞいた。かれは母親が大人たちを見つけたのを感じた。母親がかれの肩に腕をまわした。少年は母親の腕のなかで体をかたくした。  大人たちが樫《かし》の木《こ》立《だち》にかくれたと思うと、すぐかれらは少年の家の土間へ通じる板戸を声もかけずに押しひらき、そのままそこへむらがって黙ったまま少年を見つめた。少年はかれを抱きしめている母親が震えはじめるのを感じ、たちまちそれに感染されて自分も身ぶるいを始めた。  しかしかれは母親の腕を自分の体からほどき立ちあがった。そして土間へはだしのまま降りて行き、大人たちに囲まれて歩きはじめた。大人たちは霧にぬれた傾斜の急な道をどんどんくだり、少年はおびえと霧の寒さに身ぶるいをつづけながら小走りについて行った。  道が石灰岩をとるために開かれた小さな採石場の前の平坦《へいたん》な場所で二股にわかれる。土橋をわたると谷川の深みへ降りる石段へ通じる。そこで大人たちの不精鬚《ぶしょうひげ》におおわれた、貧しく陰険な顔が緊張にゆがみながら少年を見おろした。かれらは黙りこんだまま少年を見つめていた。  少年は震えをおさえるために自分の体をだきしめ、大人たちに背後から見つめられるのを感じながら分教場前の広場へ向って一人で駈けた。ジープが柔らかい月の光をうけて静かにとまっていた。その前へ少年はいって立ちどまった。兵隊たちは分教場の中で寝ているはずだった。少年はねばっこい唾《つば》を口腔《こうこう》いっぱいにためてジープを見つめていた。  運転台のなかで人影がむっくり起きあがった。それはドアをひらき半身を乗り出した。 「誰だ」と通訳の声がいった。「何をしに来たんだ」  少年は黙っていた。そして通訳の黒っぽい頭を見あげた。 「おれの靴をかくしてある所を知ってるのか?」と通訳がいった。「それをおれにいって褒美をもらいたいのか」  少年は頬をこわばらせ力のすべてをつかって顔をあおむけていた。そして黙っていた。通訳が快活な身のこなしでとびおりて来た。かれは少年の肩をどんと叩《たた》きつけた。 「お前はいいやつだ、さあつれていってくれ。心配することはない、大人には黙っていてやる」  少年と通訳は体をごつごつぶつけあいながらひきかえした。少年は震えをけどられないように意志の限りをつくしていた。 「褒美は何をやろうか」と通訳は饒舌《じょうぜつ》にしゃべっていた。「おい何がほしい? 兵隊に菓子をもらってやろうか、外国の絵葉書を見たことがあるか? 外国人の読む雑誌をやってもいいぞ」  少年は黙ったまま息をつめて歩いた。はだしの足裏に礫《こいし》が痛かった。それは通訳にとってはなおさらのことらしかった。かれは陽気にしゃべりながらひょいひょい跳んでついて来た。 「お前は唖《おし》か?」と通訳はいった。「唖でももの分りがいいな。お前の村の大人ときたら頭がどうかしてるよ」  かれらは採石場の前へ出た。土橋をわたり、霧にぬれてすべっこくなっている石段をおりる。土橋の下の暗がりから、ふいに腕が出て通訳の口をおさえた。そして剛毛がいちめんに生え筋肉が石のようにかたくもりあがっている数人の大人の体が萎縮《いしゅく》したセクスをあらわにして通訳をかこんだ。通訳は身動き一つできないまま数人の裸にだきつかれ、水のなかへゆっくり沈みこまされていった。呼吸の苦しくなった者が通訳の体からはなれ水面へ顔をつきだして一呼吸すると再びもぐってゆき、通訳の体をだきしめる。長いあいだ、かわるがわるその作業を大人たちはくりかえし、それから通訳だけ水の深みへのこして石段へあがって来た。かれらはみんな寒さに震えていた。そして体をぶるぶる震わせて水をきるとそのまま服を着こむのだ。大人たちは坂道のはじまりまで少年を送って来た。それから黙ったままひきかえすかれらの足音においたてられるように少年は夜明けの林を駈けあがった。  扉《とびら》をあけると柔らかい青灰色の夜明けの霧が開かれたままの扉からあふれこみ、黒い背を土間へむけてじっとしている母親を咳《せ》きこませた。かれもやはり咳きこみながら土間に立っていた。母親がじつに険しい眼でかれを見かえった。かれは黙ったまま板の間へあがり、父親の大きい体が半ばしめている茣蓙《ござ》のすみに寒さに鳥肌だった体を横たえた。母親の視線がかれの狭い背や細い首筋をはいまわっていた。かれは声をたてずにむせび泣いた。かれは疲れきり無力感と哀《かな》しみ、そして何よりも激烈なおびえにとらえられていた。母親の手がかれのうなじにふれた。かれは狂気のように荒あらしくそれをふりはらい脣を噛みしめた。涙が流れた。家の背部にすぐ連なる栗《くり》をふくむ雑木の林から旺《さか》んな小鳥の声が湧きおこった。  朝、外国兵の一人が谷川の深みにうかんでいるまっ白な足をそろえてつきだした通訳を見つけた。かれは仲間をよびおこしそれをつたえた。かれらは通訳を川からひろいあげるために村の人間を使おうとした。しかし、かれらのまわりに子供らは決して近づいてもこなければ遠くからかれらを見まもっている様子もなかった。  大人たちは、耕作したり、蜜蜂《みつばち》の箱をなおしたり草を刈ったりしていた。外国兵たちが身ぶりでその意志をしめしても大人の村人たちはまったく反応を示さなかった。そして外国兵たちを樹木か鋪石のように見て、仕事のつづきにとりかかる。みんな黙りこんで働いていた。外国兵が村に入っていることを忘れてしまっているようだった。  ついに外国兵の一人が裸になって川へ入り、溺《でき》死《し》体《たい》をひきよせ、それはジープに運びこまれた。昼まえのあいだずっと、ジープのまわりで外国兵があるいは腰をおろしたり、あるいは歩きまわったりしていた。かれらは死ぬほど苛いらしている様子だった。  それから、ふいにジープがむきをかえると村へ入って来た道をひきかえして行った。村の人間は子供もふくめて誰一人それに注意をはらわず、ごく日常的な動作をしていた。道が村を出はずれるところで、女の子供が犬の耳をなでてやっていた。外国兵のなかでいちばん澄んだ青い色の眼をした男が菓子の包みを投げてやったが、女の子供も犬も身うごき一つしないでその遊びをつづけた。 (「新潮」昭和三十三年九月号) 戦いの今日  夏、かれと弟は汗にまみれ脣《くちびる》をひびわれさせて暑い鋪《ほ》道《どう》に立っていた。皮膚のうちがわをくすぐったくして熱の玉がはしっていた。そしてそれにかかわらず悪《お》寒《かん》が体のおくそこを揺りうごかしにきた。  かれは始め自分だけが震えているのだと考えて羞《は》じていたが、弟もまた噛《か》みしめた歯をときどき鋭くきしらせていることを知って、心をいくぶん安らかにした。しかし暑さと悪寒の厭《いや》らしい混淆《こんこう》は身うごきするたびに、胸へむっとこみあげて唾《つば》をたまらせた。それにはかわりがなかった。かれらは震えながら長い時間、見はっていた。  汗に濡《ぬ》れた裸の腕をくみあって黒人の兵士が、ゆっくりやってきた。弟が問いかける眼《め》をむけるのへかれは首をふった。兵士たちは通りすぎて行った。黒人兵のなかにかなり高度の教育をうけた者がいることは、いくつかの予備調査の結果あきらかになっている。しかしその率はあまりに低いのだ。そして黒人兵たちが、おなじ有色人種の日本人の青年にたいして示す疑惑はいったんそれに火をつけて敵意にまでもえあがらせると始末におえないことがある。黒人兵に働きかけることは賢明でない。黒人兵らよりも、不安や恐怖、そして柔らかい希望の芽におかされやすい敏感な情念をもつ者ら、素直で甘えんぼうな心をもつ者らを狙《ねら》わなければうまくゆかないだろう。それは知識階級に属する若い白人を探せということだ。  もう一人、こんどは焦慮のあまりに病気になったような眼を頬《ほお》からとび出させている大急ぎの黒人兵。その太く脂色の艶《つや》のある首は空色のシャツの衿《えり》にしめつけられて汗の玉を肉のひだひだのあいだに数《じゅ》珠《ず》つながりにうかべている。そしてその体からはむっと臭《にお》いがやってきた。暑かった、風もなかった。そこで黒人兵の体臭は水のなかでふくらみ重くなった粉のようにじつにのろのろ拡散し、そのあげく見まもっているかれらのまわりで動きをうしない、そこへとどまってしまう。かれらは少し移動して待った。  せかせかと前屈《まえかが》みにいそいで行く日本人傭《よう》員《いん》、これはいうまでもなく問題にならない。これらの貧しい制服をつけた人間たちは、むしろ敵なのだ。かれは頭をたれて腕時計を見た。時間がたち、仕事はうまくゆかず、暑さと悪寒だけがくりかえしてかれらを痛めつけていた。  弟が短い口笛をならした。かれは頭をあげ、燃えあがる金髪を激しい陽《ひ》の光にさらしてやって来る白人の兵士、きわめて子供っぽい兵士を見た。胸のおくで血が流れをとめたようだった。かれは指の腹の脂《あぶら》を上《うわ》衣《ぎ》の裾《すそ》でぬぐいとり、内ポケットからパンフレットをぬき出して一歩前へ出た。背後からかれの肩を弟の掌がつかまえ、引き戻《もど》す。かれの前をわきめもふらずに兵士は通りすぎて行った。  かれは弟をふりかえって唸《うな》り声をあげた。かれはくやしがっていた。弟は黙りこんだまま、強い力でかれの肩をおさえつづけていた。かれの肩は弟の指の一本いっぽんの下でたちまち汗ばみ、その汗は十分にしめった下着からうけつけられないで、じっとり背のくぼみのあいだへ流れおりて行った。  かれは弟の掌をはずすために肩をかしげ、そのままの姿勢で白く光る鋪道の正面を見た。キャンプの通用門のまえ、照りかえしの激しい砂利の上に銃をかけた肩をぐったりたれている日本人傭員と外国兵とが立っていた。そしてかれと弟とを見まもっていた。 「あせることはない」と弟が眼を優しくほそめていった。 「ああ」とかれはがっかりして全身に新しい汗をふきだしながらいった。 「あせらないで、よく選んだほうがいい」と弟はくりかえした。「一人にわたしたらすぐ別の場所に移るんだから、いいかげんな奴《やつ》にわたすのは惜しい」 「早く終ったほうがいい」とかれは内ポケットの中でかさばっているパンフレットを胸におもくるしく感じながらいった。かれはそれらのパンフレットに腹を立てていた。こんちくしょう、こんちくしょう、これを持っていなかったら、この暑いのに誰《だれ》が上衣なんか着てくるものか。 「それに今は危険だった、キャンプの連中がぼくらを見ていたんだ」と弟はまぶしそうに眼をふせていった。かれに弁解するように弟はそれをいっていた。 「知らなかった」とかれは早口にいって弟の、女のそれのようにすべすべして広い上瞼《うわまぶた》の柔らかい皮膚に陽の光がまるみをおびた影をつけているのを見つめた。こいつは汗をほとんど流さないな、おれときたらシャツは水びたしだし獣のように臭いのに。  しかし弟にしても汗を清潔な毛穴のあいだにじくじくにじみ出させていることは確かなのだ。ちがうのは弟が外から見えるかぎり、じつにきちんとしているということだった。 「でも、あのままわたして成功だったかもしれない」と弟がいった。  こいつときたら、酸《す》っぱい臭いさえたてないで反省してるというわけだ、おれは汗にゆだって豚のように汚ないのに。しかしかれはつぎの瞬間に、ふきげんな考えをふきとばして再び前進する姿勢をととのえていた。短い額の上に栗色《くりいろ》の髪をちぢれさせた若い兵士が口笛をふきながらやって来たのだ。 「いいよ」と弟がかれの汗にぬれて敏感になった首筋と背においかけるようにいっていた。「向うもいいよ」  そしてかれはそこらいちめんに建ちならんでいる急造の酒場の客引がやるように、その外国兵の歩調にあわせて追いすがり、パンフレットを差し出した。兵士はほとんど反応をしめさない眼、青灰色の単純な眼でかれを見つめ、口腔《こうこう》のなかでぶつぶついいながら大股《おおまた》にかれをひきはなして行った。かれは立ちどまり、なにげなく、そしてすばやくふりかえって鉄条網の向うを見た。かれを見はる眼はなかった。かれは荒い呼吸をおさえつけるために顔を充血させるほど力みかえりながらひきかえした。  弟はかれにわたされたパンフレットを指にはさんで歩いて行く外国兵を、かたく脣をむすんで見おくっていた。その形の良い下肢《かし》は一つの準備、兵士がパンフレットを棄《す》てたときただちに回収するために駈《か》け出す準備をしていた。兵士はどんどん大股に歩いて行き、角をまがるまでパンフレットを棄てなかった。あいつはもうあれを不用意にはあつかわないだろう。 「うまくいった」とやはり昂奮《こうふん》のために青ざめて弟がいった。 「場所をうつろう」とかれは答えた。 「ここでもう一人、やれるかもしれない」 「他《ほか》へうつって早いとこやってしまおう」とかれは固執した。「あいつが裏切らないともかぎらないんだ」  かれらはキャンプの鉄条網にそってしばらく歩き、あらゆる窓に網戸を閉ざして休んでいるガソリンスタンドの横の路地を入った。よく整理された芝生をはさんでつらなる丸っこい兵舎の列、白いペンキをぬった柵《さく》、薔薇《ばら》、それらに背をむけて歩いて行くことがかれらの心から悪寒をひきおこす重圧を少しずつ取りのぞいた。むしろ陽気にふくれはじめる感情が厄介《やっかい》なくらいだった。そして弟もすでに歯をならさなかった。  かれらは駅のある通りへぬけるために、まだ扉《とびら》をとざしている酒場のごたごたした看板のあいだをくぐりぬけて行った。 「あいつがパンフレットを読んで憲兵にとどけたとして、それが裏切りということになるかなあ」と弟が考えこみながらいった。  こういうぐあいにいちいち考えこむ奴なんだ、暑さにもめげないで、とかれは思った。そしてむっと黙っていた。 「裏切るという言葉だけど、ぼくには」 「おれたちを捕まえさせる奴は」とかれはさえぎっていった。「おれたちを裏切ったことになる、そういう意味さ」  弟がとまどったような人懐《ひとなつ》っこい眼でかれをのぞきこみ、その眼の底に信頼にみちた微笑をわかせるのを見てかれは自分もまたとまどってしまうのを感じた。 「兄さんのそういう考え方は逞《たくま》しくて、ぴったり似合ってる」と弟がいった。 「あ?」と少しばかにしたような声をかれはたてた。「今の今、おれたちがフランスの人間を裏切っているというような考え方は厭だというだけなんだ、狭く区切るだけさ」 「狭く区切る」と弟は笑いだしながらいった。 「他にやり方がないからな」  かれらが入りこんだ路地はしだいにすぼまって、とどのつまりは袋小路なのだった。駅のある通りのざわめきがかれらの前に立ちふさがるバラック建築の背部の向うから土埃《つちぼこり》といっしょにまいおりて来た。かれらは引きかえした。  路地の途中の狭いぬけ道へ入ろうとしたとき、かれらは立ちどまった。陽がさえぎられていくぶん暗い右側の家々の庇《ひさし》の下に若い兵士と娼婦《しょうふ》たちが話しあったり愛《あい》撫《ぶ》しあったりしているのだ。弟がいたずらっぽい眼でかれを見あげ、かれはうなずいた。弟がパンフレットを指にはさんでひらひらさせながら、三十歳ほどの娼婦の膝《ひざ》に片手をのせて地面に腰をおろしている小《こ》柄《がら》な兵士に近づいていくのをかれは立ちどまったまま見おくっていた。  かれの背後へふいにしっかりした靴音《くつおと》があらわれ、たちどまった。かれはふりかえり身ぶるいにおそわれた。頑強《がんきょう》な首をした憲兵がしっかり足をふんばってそこに立っていた。かれはほとんど絶望的に逃げ道をさがしたが、憲兵の広い腰は路地いっぱいにふくれあがって行くようなのだ。  憲兵が鋭い張りのある眼でかれを見つめ、圧《お》しつけてくる声でなにかいったが、かれには意味がつかめなかった。かれは口をひらこうとし無力感におそわれた。おれがなにをいえばいいというのだろう、人ちがいだとでもいうのか。人ちがいでしょう、とかれは英語でいった。がっしりして逞しい腕がかれの右肩にどすんと落ちてきた。かれはおびえて黙った。かれの体から汗がすっかりひいていった。 「おれについて来い、ちょっと来てくれ」とその外国兵は腹をたてもどかしがっているように首をふって、発音の下品な英語でいった。  かれはふりかえり、弟が娼婦と外国の若い兵士の傍にたたずんでぼうぜんとかれを見つめているのを見た。あいつパンフレットを指にはさんだままひらひらさせている、なんというやつだとかれは考えた。しかし弟の眼は病気の仔《こ》牛《うし》の眼のようにやるせない悲しみをうかべているのだ。かれの腕を背後から憲兵の大きい手がぎゅっと握った。 「ああ」とかれは呻《うめ》き、いまおれは逃げようとしたんだな、と急速に現実から遠ざかって行くような感情のなかでのろのろ考えた。そしてそのまま、憲兵について歩きはじめた。あとにじっとして残っている弟がちょっとだけうらめしかった。そのあとへすぐ恐慌《きょうこう》がおしよせてそれにとってかわった。かれは震えをおさえることができなかった。  暑い日盛りだった、路地をぬけてもとの鋪道に出るとそれがなおさらはっきりした。体じゅうに汗をかいた黒人兵が日本人の女の腰をだいて歩いていた。キャンプへ将校をむかえにくる家族の乗った大型車が塩っぱい埃をあげて走って行き、その開かれた窓からぐったりして貧しい頭をした犬が外を見ていた。犬は捕えられたかれを見ていた。他の犬が鋪道のすみの狭い陽かげにうずくまって暑さに苦しんでいるのをも見ていた。鉄条網の向うで金髪の子供たちが狂気のようにわめいて猫《ねこ》を追いたてていた。かれは自分のおちこんだ困難な状況をうまく理解できなくなっているのを感じた。かれはぼうぜんとして新しい汗を流しながら歩いた。  かれと、かれの肩をしっかりかかえて外国兵らしいねばっこい汗の臭いをたてている男のまわりを、捕われても捕えてもいない、正常な人間たちが歩いていた。きわめて日常的な平穏な午《ひる》さがりだった。しかしおれたちはひどく無謀なことをやっていたのだ、捕まるのがあたりまえのずさんなやり方でああいう危険なことをやっていたのだ。そして捕まってしまった、どん底へおちこんでしまった。  かれの上衣の内ポケットにあるパンフレットが腹のあたりまでずり下りてきて暑いしこりになっていた。それを始末することさえできないことに気づいてかれは非常な狼狽《ろうばい》におそわれた。かれはそのパンフレットをかれの内ポケットからひき出して読むはずの憲兵たちの怒りについて考えた。おれの鼻はひとたまりもなく殴りつぶされるだろう。パンフレットは朝鮮戦争に出かけて行く若い知識人の兵隊によびかける言葉でうずめられていた。それは戦争の肉体的な厭《いや》らしさを強調してもいた。最後のページは頭をはんぶんにくだかれた子供っぽい外国兵の死体の写真をいちめんに印刷していた。それは始めて見たとき、かれに絶望的な嘔《はき》気《け》をおこさせたしろものだった。朝鮮における兵士の死亡数、その死体処理のドキュメント、朝鮮人のゲリラは君たちの腹を八つに裂けた竹で刺しつらぬく。君たちは大学でキーツを読んでいることだってできたではないか。  To-morrow, for the young, the walks by the lake,  the winter of perfect communion, but to-day  the struggle.  朝鮮人のために死ぬことをこばめ、戦争で犬のように殺される屈辱を朝鮮人のためにひきうけるのはおろかしい。われわれ日本の青年は、勇気をもって戦線から離脱する、君ら海の向うからの同学に腕をさしのべる用意がある。  オーデンを不完全に引用することで同学《・・》か、そのためにおれは半殺しだろう、何というへまをおれはやってしまったことか。かれは身もだえした。肩にまわされた白人の憲兵の巨大な腕にぐっと力がこもり、かれは痛みに呻いてぐったりした。そしてそのまま、かれは色ガラスをはめこんだドアで入口をかざった安っぽい酒場へつれこまれたのだ。かれはほとんど恐怖にちかいとまどいにとらえられて暗がりのなかで眼《め》をしばたたいていた。 「こいつのいうことを通訳してくれ」と憲兵が急に親しみのこもった声でかれにいった。「この酔っぱらい女のいうことを通訳してくれ」  暗がりになれたかれの眼に、髪をくしゃくしゃにした中年の日本人娼婦がうかびあがって来た。彼女は古めかしい肱《ひじ》かけ椅子に腰をおろしてテーブルに顔をのせていた。そしてかれを怒りくるって見あげていた。 「この女のいうことをおれに聞かせてくれ、手におえないんだ」と憲兵が心配そうに眉《まゆ》をひそめてくりかえした。  "You speak English,……ah?"  かれは全身の力をうしなって床に膝をついた。汗がたちまち体じゅうにみなぎり喉《のど》がかわいた。そしてそのひりひりする喉をふるわせて神経的な痙攣《けいれん》をともなう厭な笑いがとめどなくこみあがってきた。 「なに笑うのさ、小僧」と女がいった。  かれは笑いをおし殺すために涙がうかぶほど歯をかみしめた。ああ、ああ、おれは何というばかなんだろう。そしてかれは立ちあがり、ズボンの膝をはらい余裕をとりもどして女のいい分を聞き、憲兵につたえた。  女は昨夜、前金をとることを忘れて兵士と寝たのだった。兵士は朝、ふいに下痢をうったえて便所を探しまわりはじめた。ところがその娼婦の部屋には外国風のやり方の便器がない、そこで外国兵はズボンを脱がんばかりのかっこうで街路にとび出し、帰ってこない。あんたも憲兵ならありとある西洋式便所のドアをノックしてまわってくれ。 「下痢ぎみの男が一晩中、あたいの冷たいお尻《しり》をだいてたのよ、お尻にしがみついてうんうんやってたのよ、非常識ね」と女が軽蔑《けいべつ》にたえない口調でつけたしたとき、かれはすっかり落着きをとりもどしていた。  "He has no common sense."  とかれは不自然に省略していった。 「どういう男だったか聞いてくれ、名前はわかるか」と兵隊はいった。 「黒んぼで臭くて大きいのよ」  "Niggers ……"  憲兵はたちまち興味をなくして頭をふりたてながらつぶやくと、かれの肩に再び腕をまわした。かれらは女を残してそのまま光と暑気の戸外へ出た。女は悪態をつき歯がみしてくやしがっているのだったが、憲兵はもう彼女に注意をはらわなかった。 「あの酔っぱらいと寝て下痢をしているアメリカ・インディアンと一杯やりたいね」とうちとけて憲兵はいった。「それより、おれと麦酒《ビール》を飲まないか」  "That's a fine idea."  かれはおぼつかない英語で、しかしあいそよくいった。 「しかし残念なことに忙しいんです」  眼もくらむほどの光と暑さ、たえまない汗、かれは心のこりな顔をしている憲兵と握手し、別れてひきかえした。狂気じみたくすくす笑いがかれの内臓を震えさせ揺りうごかした。かれは涙がにじむほど笑いながらひきかえして行った。なにもかもがひどく滑稽《こっけい》におもわれた。パンフレットを知識階級の兵士に手わたす仕事、それも滑稽な感じにかわっていた。何というむなしいばか騒ぎ、とかれは上機嫌《じょうきげん》で考えた。死ぬほど思いつめて、歯をくいしばっての空騒ぎ。ほんとうにおれたちの日常には何も異常な事件はおこらないのだ。おれたちは切実な限界状況からまったく隔絶されている。おれたちは完全な保育設備のなかで育つ赤ちゃん同然、どちらへころんでもかすり傷一つおわない。その考えはつねにかれを苦しめ、かりたてる苦い考えだったが今は幸福な虚脱感と一緒にそれがやって来ていた。かれは立ちどまり、激しい陽《ひ》の光を吸収するためのようにそこへ開いている暗渠《あんきょ》の露出部を見おろした。暗い溝から流れ出た野《や》菜屑《さいくず》をふくむ汚水がごくゆるやかな速度で別の穴へ流れこんでいた。かれは内ポケットから汗に濡《ぬ》れて柔らかく重くなったパンフレットをとり出し暗渠へ投げこんだ。あわてふためいたドブ鼠《ねずみ》が濡れた鼻に水玉をきらめかして跳び出し、また逃げこんで行った。かれは喉をほてらして笑い、しばらくのあいだそこに立ったままでいた。  かれはそのパンフレットを企画し、文案をつくり印刷した者らを知らなかった。そしてその特殊な運動に意識的に参加しているわけでもなかった。一昨日、かれの友人から、かれは冗談まじりで紙包みをうけとったというだけにすぎないのだ。かれはそれをキャンプの兵隊にわたすために弟をつれてやって来た。かれにもかれの友人にもはっきりとわかっているわけではない、ある団体が新《あら》手《て》の闘争手段としてかれらの大学の文学部の学生に働きかけ協力をもとめてきているのだった。ふだんは勉強に熱中しているが、時どき政治的な関心に熱病のようにとりつかれる者ら、しかも政治活動へ入ってゆくには分別のありすぎる、そしてそれを羞《は》じてもいる者ら。かれらを一日協力させることは、かれらの良心に一日の休暇、喜びに充実した休暇をあたえることであり、政治団体にとっては当局から注視されていない活動員を一日傭《やと》い入れることだった。かれはそれに参加し、いまそれを滑稽に感じているところだった。  路地に弟はいなかった。娼婦たちも兵士たちも姿をけしていた。かれは路地のつきあたりまで行き、そこに立ちどまって胸の奥へ腕をさし入れ、ごしごし汗をぬぐって弟の行方について考えた。  それからかれはふいに自分を見つめている若い外国兵と年《とし》増《ま》の娼婦がいるのに気づいた。彼女たちは戸をあけはなった、かなりいかがわしいコオフィ店の内側から不審そうにかれを見つめた。かれは意味もなくあわてふためいてあとずさった。 「あんたと一緒にいた子を探してるの?」と娼婦が土間から一歩ふみ出して光のなかへ荒れた皮膚をあらわしながらいった。 「ええ」とかれは用心ぶかくいった。 「あんたがつれてかれるとき、涙ぐんで震えながら見おくってたわよ。死にものぐるいであんたを取りかえすためにとびかかって行きそうだったわ」と娼婦は眉をしかめて苦しそうに息を吐きながらいった。「でも、ああいう時は足が前へ出ないのね、いうことをきかないのね」  かれはかれを裏切り見すてたと信じこんで恥辱にみちて泣いている弟を優しい気持で考えた。かれは弟を誰《だれ》よりも愛していた。 「その小さい道を奥へぬけた方へ行ったわよ」と女はいった。「心配だからこの人と行ってみたら桑畑へしゃがみこんで泣きべそかいてたわ」 「ああ」と意味のあいまいな声を外国兵はたてていた。「ああ、ああ」  かれは酒場とコオフィ店のこみあっている極度に狭い道をぬけ、その裏がわにすぐつらなっている古風で貧しい農家の湿っぽい下肥《しもごえ》の臭《にお》う庭へ出た。仰天した鶏が啼《な》きたてて逃げまどった。庭の低い生垣《いけがき》の向うに青あおとつらなる広い桑畑。かれは歩きまわり弟を探した。弟は見つからなかった。かれは長いあいだ探しまわり、そのあげく疲れはてて腹を立て桑畑の畦《あぜ》の敷藁《しきわら》に寝ころんで空を見上げた。空は晴れわたって輝き、ばかばかしかった。かれの体には笑いのなごりが執拗《しつよう》にいのこりつづけていた。空がかげり、急激に夕暮が来た。桑畑は青っぽい霧を清水のように清《せい》冽《れつ》にとめどなく湧《わ》かせはじめた。  かれは立ちあがり畑のあいだの細道をたどって引きかえそうとし、桑畑の柔らかい土に腰をおろして泣きじゃくっている弟を見つけた。弟は頭を膝《ひざ》のあいだにたれて泣いていた。ここへ来さえしなかったら、と思って泣いているのだろうとかれは考えた。そして足音をたててどんどん近づいて行った。  弟が顔をあげたが、それは明るい西空を背にしてまっ黒にかげり眼だけぎらぎらしていた。弟の顔がどんな表情をうかべているのかわからなかったが、そのぎらぎら光る白っぽい眼はかれを傷つけた。かれはうしろめたい感情におそわれて立ちどまった。 「ああ」と弟が呻くようにいうのをかれは聞いた。「お兄さん」  かれは弟に見つめられながら、弟がかれの体のすみずみに屈辱のあとを探し出そうとしているのを感じた。かれはそれを押しきって弟に近づいていった。 「つまんない話なんだ」とかれはいった。 「あ?」と弟は嗄れて弱よわしい声でいった。「どういうわけ」 「淫売《いんばい》の酔っぱらいの通訳をつとめて来たんだ」  かれは弟とならんで畑のあいだの草の茂って踝《くるぶし》をかくす道を歩いていった。弟はまったくとまどって羞じている様子だった。 「ぼくは卑怯《ひきょう》だ、いざとなると卑怯なんだ」と弟が恥のあまりに腹を立てたような声をたてた。  卑怯かどうかしらないが、暗い畑で一人泣いているなんぞは男らしい人間のやることじゃないな、ここはスコットランドじゃない、とかれは考えた。 「ぼくを頼りにならない奴《やつ》だと思うだろ?」と弟は黙っているかれに怨恨《えんこん》にみちたいどみかかる調子でいった。「ぼくを本気で大人あつかいするのは危ないと思うだろ」  かれは黙ったまま弟の痙攣する肩に腕をまわした。かれは弟が傷ついてしまっていることをかなり滑稽な感情におそわれながら理解していた。しかしかれは弟に救いの腕をさしのべるためには疲れすぎているようだった。鶏みたいにしゃべらないでいてくれないか、この野郎。 「この仕事はつまらない、厭な仕事だ」と弟はきっぱりいった。「しかしぼくにはそれさえうまくできないんだ」 「もうよせ」とかれは腹をたてていった。  弟は脣《くちびる》を硬くかみしめ、まっすぐ前をむいて歩いた。 「おおげさなことをいうな」とかれは怒ったことをすぐに後悔しながらいった。「たいしたことがおこったわけじゃない」  見おぼえのある農家の中庭をぬけようとするとそこに農耕からかえってきた牛がいて、かれらをとまどわせた。かれらは細くじめじめした窪地、夏のあいだもずっと乾かない正体不明の汚物のまきちらされた窪《くぼ》地《ち》を通りぬけて農家の向う側に出た。 「ねえ、学生さん」と暗い静まりの奥から嗄れてはいるが熱っぽい女の声が呼びかけた。  かれらは立ちどまり体を危険におそわれた獣のようによせあった。そしてかれは昼間より肌《はだ》をより多くおおってはいるが、なお裸どうぜんの娼婦《しょうふ》が暗がりの中から立ちあがるのを見た。そしてその白く丸っこい指にかれらのパンフレットがつままれているのを見て胸をしめつけられた。弟がかれの前に出た。弟はいまかれを守ろうとしていた。 「ねえ、話があるのよ」 「君は」と弟がほっとしたような力のぬき方で肩をおとしながらいった。「ぼくらのパンフレットを読んだのか」 「読んだから話があるのよ」と女はいった。「待ってたの、こちらへ入って来てよ」 「そのパンフレットだれから手にいれたんだ、ぼくらが配ってることなぜ知ってる」と弟はきおいこんでいった。 「あんたたちのやってること、みんな知ってるわ」と娼婦はいった。 「パンフレットは私が友達からもらって来たのよ」  弟が赤面してふりかえるのへかれはにっと笑ってみせた。他《ほか》にどういう表情をとればいいか。そしてかれと弟は柔順に娼婦のまねきに応じて入って行った。それはキャンプの設置とともに森の樹木ほども作られて金もうけへの狂奔の場所となる、ある種の建物、外側はペンキとベニヤ板でごまかしてはあるものの、いったん内側に入ると家畜の臭いのしみこんだ裸の梁《はり》が湿っぽい土間の上にかかっている、ふしぎな建物の一つだった。そして粗製の木椅子《きいす》数脚。  女がかれらの入るのを見届けて狭くぎくしゃくした窓から離れると、そこから夕暮の弾力にみちた光がさしこみ、貧しい屋内をあかるませた。そして光は土間の隅《すみ》のつみかさねられた藁を照らしだした。 「坐ってよ、話したいことがある」と娼婦はかれらを見つめてゆっくりいった。 「あ?」と弟がいった。「この椅子」  娼婦は弟がその背に腕をかけたままためらって当惑をあらわしている椅子を見た。 「こわれてるわね、黒い兵隊が乱暴するのよ」と娼婦は余裕にみちていった。「藁のうえに坐ってよ。あたしたちはいそがしいとき、藁のうえで寝ることもあるのよ」  弟は膝をかかえて藁の金色のつやをおびた柔らかいくぼみに腰をおろした。弟は居心地よさそうに体をゆりうごかして埃《ほこり》をたてていた。かれは娼婦の横坐りにすわった椅子の前へ、壁ぎわから丈夫そうな木椅子をひきずって腰をおろした。そしてかれと弟は娼婦を見つめた。娼婦は自分を十分に検討させるためのように寛大に眼をふせてかれと弟の視線のなかで黙っていた。そして皺《しわ》になったパンフレットを暗い光にすかして見ているのだった。彼女はかれらが話しはじめるのを待つのか考えをまとめるのかどちらかをしていた。 「ああ」とかれは娼婦の中年ぶとりしはじめた胸から頸《くび》を見きわめることができるまで暗がりになれてからいった。「あなたは、さっきおれにこいつがいる場所をおしえてくれた人でしょう」 「見つかってよかったわね」と娼婦はいった。 「ぼくを?」と弟が羞恥《しゅうち》のために嗄れた声でいった。 「あなたに私の友達がこれをもらっているとき」と娼婦はいった。「この人が捕まったんじゃないのさ、私は窓の奥で男と見てたわよ」  あの路地は、外国兵のための娼婦のたまり場なんだな、おれたちのやりくちを娼婦や欲望に眼を血ばしらせた兵隊どもが陽《ひ》よけのかげからなぐさみに見はっていたというわけだ、とかれはがっかりして考えた。 「それで、どうしたんだ」とかれはつっかかる勢いでいった。  娼婦は丸く広い額のまわりの髪がうすくなりはじめている形の良い頭をかれの方へむけた。かれは娼婦の黒ずんでいる瞼《まぶた》の下で眼がきらきらするのを見た。 「それで話があるのよ」と女はいった。  おれたちを警戒することもないだろう、とかれはなかなかつづけない娼婦に苛《いら》立《だ》って考えた。 「どういうことなんです」と弟がいった。 「あんたたちの配ってあるくのを読むと」と女はふいに真剣な稚《おさな》い表情になってパンフレットをめくりながらいった。「兵隊がキャンプから逃げだすのをすすめているみたいだけど、そうなの?」 「すすめている」とかれはばかばかしくなって陽気にいった。「探しているくらいなんだ、そういう勇敢な男を」 「逃げ出したがっている兵隊がいるのよ」と娼婦は熱っぽく緊張した声を回復していった。「あんたたちがその子をかくまってくれるなら、連れてくるわ」  かれは衝撃をうけて黙ったままでいた。陽気さはあとかたなくふっとんでしまっていた。かれは自分が否《いや》おうなしに組みこまれるときの不快な圧迫感におそわれるのをしだいに感じた。 「私をオンリーにしてる子が逃げだしたがって一月も前から半狂乱なのよ、どうしようもなくなってるわ。ひきうけてくれる?」 「ああ」とかれは狼狽《ろうばい》していった。「逃げだしたいって、どういうことなんだ」 「気の優しい良い子なのよ、朝鮮へ行くのが恐《こわ》くなって逃げたがってるの」と娼婦はいった。「そして今は、日本にいることさえ恐がってるわ」 「どんな兵隊なんです」ときおいこんで弟がいった。  この野郎、とかれは考えた。この野郎、むちゅうになっていやがる。そしてかれは娼婦が弟へこたえるあいだ、娼婦の膝の上にひろげられたパンフレットの写真を見ていた。上《じょう》腿《たい》を砲弾でぎざぎざにちぎりとられて死にひんしている若い外国兵が、それでもカメラにむかって顔をむけるために首をねじっているのだ。この野郎、とかれは考えた。 「どんな兵隊といって、ごくふつうの兵隊よ」と女は説明していた。「カンサスシティから、どこか他の町の大学に入ったところで兵隊に志願したといってるわ。金髪で十九歳と二箇月」  かれは弟を探していたとき、娼婦がかれに弟の行方をおしえてくれる傍で手持ぶさたに立っていた男が痩《や》せて金髪だったことを思いだした。 「昼間、あんたのそばにいた男か」とかれはいった。 「昼間、あんな所へ出てくるはずがないじゃないのよ」と娼婦はいった。「恐がってるのよ」 「でもあんたは金髪の兵隊と一緒にいたぜ」とかれは固執した。 「いたわよ、寝てたところよ」と娼婦は広くて男好きのする口の端をひくひく痙攣《けいれん》させていった。「私が商売して悪いとでもいうの。いまんところアシュレイはお金をくれないし、誰が食べさせてくれるのよ」 「そのアシュレイは、このキャンプにいるんですね」と弟がいった。 「あの子をひきうけてくれるの?」と女は弟の熱心な質問を相手にしないでいった。「ねえ、どうなのよ」 「おれたちは」とかれは追いつめられていった。これはどういうことなんだ、おれは自分の腕の中へ脱走した兵隊がとびこんでくるなんて思ってみもしなかった。しかしおれたちが配ったパンフレットは兵隊を脱走させるためにそのすべての機能をつかっているというべきではないか。そしていま、外国兵の一人がおれたちの思う壺《つぼ》にはいりこんだとき、おれたちは当惑している。 「え?」と娼婦はいった。「厭《いや》なの、できないの?」 「引きうけよう」と弟が力をこめていった。「ぼくらがアシュレイを引きうけよう」 「パンフレットを作ったやつらに相談してみる必要がある。おれたちだけで単独にきめるのはまずい」とかれは、はやる弟を押えるためにいったが、パンフレットを作った者たちと直接のつながりをかれがもっているというわけではなかった。 「アシュレイは一月も前から脱走したがってるんだからあんたたちのパンフレットに責任があるといっていはしないのよ」と女はいった。 「責任とかなんとかいうことでなしに、ぼくらがひきうけます」と弟がいった。 「ひきうけたら、おれたちに責任がからみついて来る」とかれがいった。「受けいれるまえに検討してみないと、はっきりしたことはいえないじゃないか。脱走兵に手をかすことは」 「このパンフレットは、始めから脱走兵に手をかしているさ」と弟が激しくいった。「いまそれをどうのこうのいうことはないじゃないか、朝鮮で若い人間が殺したり殺されたりするのをふせぐことになることなら。ぼくらはそれをやろうとしていたんだ」 「おれたちにその能力があるか?」とかれは感情のたかぶりのために青ざめてかたくなになっている弟の顔を濃くなった夕闇《ゆうやみ》をとおして睨《にら》みつけていった。「おれたちに脱走兵をかかえこんでやってゆける見通しがあるのか」 「ぼくらはやり始めているんだ」と弟は手のつけられない頑《がん》固《こ》さで脣をかたくひきしめながらいった。「ここで後へひくのは卑怯《ひきょう》だと思う。そんな考え方でパンフレットを配るのは無責任すぎる」  娼婦はかれと弟を等分にながめて黙っていた。そして彼女はかれら兄弟のまえで、外部の他人として殆《ほとん》ど無関心な態度をたもっていた。かれと弟との睨みあった沈黙にまったく関係がないように娼婦は耳から頸にかけてのよく肥えた皮膚に無数の皺をつくってうなだれていた。  かれは弟のかれを睨みつけている眼《め》に昂奮《こうふん》のあまり涙がにじみ出てくるのを見た。弟は意地になって名誉回復をこころみていた。昼間、兄が憲兵につれさられるのをじっとして見おくっていたことへの屈辱感を、いまはらしたいと考えていた。それがかれにわかった。 「ぼくはアシュレイを見棄《みす》てない」と弟が涙ぐんでいる声でいった。  お前は、おれを見棄てたじゃないか、そしていまおれをめんどうなところへひきずりこもうとしているというわけだ、とかれは考えた。 「いいよ」とかれは腹を立てていった。「おおげさないい方をするな、おれたちにできることはたいしたことじゃない」  そしてかれはうなだれ黙りこんだ。弟も娼婦も黙っていた。娼婦の膝からパンフレットがすべり落ちて床にひろがったままかすかな風に音をたてていた。かれはオーデンの詩の引用について考えますます腹を立てた。 「その金髪の男はいつ逃げ出すんだ」とかれはいった。  弟がびくんと肩をふるわせてかれを見つめた。 「引きうけてくれるの?」と娼婦はうたがいぶかくいった。 「おれたちが大喜びでそれをやるとでも考えたら」とかれは娼婦にたいしてというよりもおそらく細い鼻梁《びりょう》と狭くくっつきあった陰険な眼、うすくて赤い脣をもった金髪の外国兵にむかっていった。「まちがいだぜ」 「あんたたちの住所をおしえてよ」と女はいった。「あとから連絡してアシュレイをつれて行く手はずをきめるわ」  弟が手帖《てちょう》をとりだし、かれと弟で借りている倉庫の二階のありかを小さな鉛筆で書きこむのをかれは見つめていた。今のいまからその外国兵をかかえこまなければならないというよりはいい、とかれは考えた。まったくおれは気がすすまないことをやろうとしている。 「私は住所がはっきりしないけど」と女は弟からわたされた紙片に鼻をこすりつけるようにしていちおう読んでみてから寝巻のような上《うわ》衣《ぎ》のポケットにそれをはさみこみながらいった。 「キャンプのまわりにいる女に菊《きく》栄《え》といってもらえばわかるわ、菊と栄えるよ」 「密告するぞ」とかれがいった。  女は顔じゅうの皮膚をひきつらせ歯茎をあらわにしてかれを睨みつけた。 「ふざけただけさ」とかれは自分自身にもぎこちなく感じられる笑いで頬《ほお》をくずしながらいった。「つまらない冗談さ」  娼婦《しょうふ》は粗い呼吸をしていた。かれは椅子から立って戸外の濃い霧のなかへ出た。路地の両側の粗製の酒場に灯《ひ》がともって、そのなかから椅子をかたづけたり床をはいたりする音が聞えてきた。やがてそこへ外国兵たちが入りこんで酒に皮膚をほてらせ、女と寝るだろう。しかしいまは静かだった。かれはひどくあっけなく事がきまってしまったのを感じていた。それはひょうしぬけな感じなのだ。  娼婦に念をおしこまかな注意をとりかわしていた弟が出てくるとかれらは肩をならべて歩き出した。 「ぼくらにうまくやれるだろうか」と弟が昂奮のさめてくる、あの不快で居心地の悪い冷却におかされた声でいった。 「おれたちはパンフレットをくばりに来ただけなんだからな」とかれはいった。「おれは知らないよ」 「やりがいのある仕事なんだから」と弟は不自然なほど昂然《こうぜん》といった。「パンフレットを作った人たちとうまく連絡をつけさえすればいい」  かれらの足音を聞きつけて急ぎ足に出てきた一目でそれとわかる娼婦が、かれらを日本人の青年だと知るとまったく空気でも見るように冷淡に一べつしてひきかえして行った。かれは暗い部屋の黒人兵に壊された椅子にかけてかれらの住所の書きこまれた紙片を見つめているはずのすでに若くはない善良そうな日本人の娼婦について考えた。暑かった日中の疲れがかれの全身をぐったりと重くしていた。一つの事件、かれと弟を身動きできなくしてしまうかもしれない一つの事件がはじまったところだった。かれはそれについて考えることをひどくおっくうに感じた。しかし、それは重くるしい切迫感をともなって、かれの疲れて苛だたしい体のなかでしっかり居すわりはじめているようなのだった。  翌日、かれは大学の構内をあるきまわって、かれにパンフレットをわたした友人を探した。正門から大講堂への広い敷石道の下水道を修理している工事場でかれはその学生を見つけた。友人は暑さをものともせず、暗渠《あんきょ》のあばかれた内側をのぞきこんでいた。 「おい」とかれは友人にいった。「話があるんだ」  友人は首筋から胸へ腕をさしこんで汗をぬぐいながらかれについて工事場を離れた。 「パンフレットをくばった結果なんだ」とかれは注意ぶかくいった。 「ああ」と友人はいった。 「滑稽《こっけい》なことだけど」とかれはますます注意ぶかくいった。「脱走したがっている兵隊がいて連絡をつけてきたんだ」 「パンフレットを読んで?」と友人が無責任な興味のひかれ方を示していった。 「そうなんだ」とかれは話を単純にするためにいった。 「スパイにつかまって試されているのじゃないだろうな」と友人は真剣になっていった。「私大の学生に一人そういうのがいた。約束の場所で黒人の脱走志願者をまっていたら、白人の憲兵が二十人もやってきたんだ」 「そういうことはないだろうと思う」とかれは疑懼《ぎく》をおしきっていった。「その兵隊の情婦と連絡をとることになっている」 「連絡をとるといっても」と友人がいった。「あのパンフレットは若い知識人の兵隊を攪《かく》乱《らん》することだけが目的なんだ。あれにまともにひっかかって脱走してくる奴《やつ》があるなんて考えにいれてもいない」 「しかし責任はあるだろう」 「それで、まじめにその兵隊をうけいれるつもりなのか」と鳩尾《みぞおち》のあたりの汗をぬぐっていた友人は濡《ぬ》れてじっとり重くなったハンカチーフをつかみだしながらいった。 「ほかにどうしようもないだろう」 「連絡がきてもほっておけ、あいつらの頭に連絡する思いつきをうえこんだだけで成功というものなんだ」 「ほっておくことはできない」とかれはいった。「おれにはできないよ」  友人がかれを見つめ、かれは友人の眼を見かえしながら、友人が身をひくきっかけを探しているのに気づいた。友人はかかりあいになることをおそれている様子だった。 「明日」と友人はいった。「正門脇《わき》で二時頃《ごろ》待っていてくれないか、おれにはそのことについて回答する権利がないんだ。それに、おれはそれほど深入りしているわけでもない、なあそうだろ」  その日は土曜だったので、次の日曜の二時にかれはわざわざ大学へ出かけて行った。十分遅れて昨日の友人が黒く厚い布地のシャツを袖《そで》まくりした頑強そうな男と二人でやって来た。かれはその男をデモ行進のときリーダーの列のなかに見たことがあった。かれにはその男がなぜ一眼でおぼえこまれてしまうような服装をしているのかわからなかった。電車道を横切ったところにあるコオフィ店でかれは男にできるだけくわしく事情を話した。男は黙りこんでかれの話のおわるのを待っていた。 「わかったけど」と男はかれが口をつぐむやいなやおっかぶせるようにいった。「今の運動の段階ではね、脱走してくる兵隊をかくまうようなことはできない」 「できようができまいが、むこうは脱走する決心をしたんだから、責任があるでしょう」とかれはいった。 「勝手に脱走させとくさ」と男はいった。「その兵隊はしごく甘い男だろうな」 「それは君の意見というより、あのパンフレットをつくった集団の考えか」とかれは忍耐していった。 「そうだ」と男はいった。「いまの運動の基本の線とずれていることには協力できない」  かれはうなずき、立ちあがってその店を出た。勘定はかれをその男にひきあわせた友人があいそよくはらった。戸外は暑かった。かれは弟の昂奮した表情について考え、こん畜生と口に出していった。脱走してくる兵隊を受けいれることができないむねあの女に伝言しなければいけないな、厄介《やっかい》な厭な話だ。かれはすっかり腹をたてていた。しかし一方では事件が未成立のまま立消えになりそうなことを安《あん》堵《ど》をもってみとめている恥しらずな感情もあるので、かれはますます腹を立てていた。  郊外をぬけ避暑地へ通じる私鉄の一つの駅でかれは電車を降りた。北口を降りると住宅地だったが、かれは新しく畑を宅地につくりかえている南側の遠いはずれにある古い穀物倉庫を改造して弟と住んでいた。玄関を入るとすぐの食堂で弟がかれを待ちうけていた。 「速達がきたんだ」と弟はきおいこんで立ちあがってきた。「今夜あの女とアシュレイがやってくる」  この通りだ、とかれはうらめしい感情になって考えた。どうすることもできない。かれは黙ったまま弟のさしだした速達を読んだ。そこには稚拙な文字できわめて簡明な文章が書きこまれていた。 「連絡したの? あの人たちと」と弟がいった。 「誰《だれ》と?」かれはうんざりしていった。 「パンフレットをつくった人たちと」 「あいつらは責任をもたないそうだ」  弟がたちまち顔いちめんを紅潮させてかれを見つめた。弟の眼の水晶体の部分まで赤くなってくるのをかれは沈滞した感情で見まもっていた。 「おれたちでかくまってやるさ、ほかにやり方がないだろう」とかれはいった。 「ああ、ああ」と弟がうわずった声をたてた。弟は武者ぶるいせんばかりだった。 「お前がかかりあいになりたくなかったら、他の場所へ下宿してもいいよ」とかれは意地わるくいった。 「ぼくはやりたい」と弟は幼い声でいった。「ぼくにも責任がある」 「責任なんかあるものか、誰一人、責任なんかあるものか」とかれは弟にからんでいった。かれはむしゃくしゃしていた。「朝鮮に送られて行くのが恐《こわ》くなって逃げた兵隊がいるというだけだ、それだけだ。おれたちはその男について何もしらない。下宿させてやるだけということにしよう」  かれは靴《くつ》をぬいだまま玄関のたたきに裸足《はだし》で立っている自分に気がつき、かれを熱っぽい眼《まな》ざしで見つめている弟を押しのけて階段をのぼった。かれは混乱しきり、自分の考えをまとめてみる必要があった。脱走する途中で兵士が発見され射殺されることを、夕暮までの長い時間、かれはそれを自分に恥じながら、しかし激しくねがっていた。夕暮になるとすでに時間の余裕がなかった。かれと弟はむやみに昂奮して黙りこんだまま夕食をすませ、速達に指定された私鉄の乗換駅まで電車に乗った。おれたちのやっていることはまったく正気のさたではない、とかれは考えた。弟はそのあいだもずっと悪《お》寒《かん》におそわれでもしたように震えつづけているのだ。 「あいつをむかえに行くのを止《よ》してもいいんだ」とかれは弟にささやくようにいった。「それよりあいつを密告するか」 「ぼくはだんじてそういうことをしない」と弟がむきになっていった。「ぼく一人でもアシュレイをむかえに行く」 「お前は遊《ゆ》山《さん》きぶんだ」とかれは弟へのふいの怒りにとらえられて熱っぽくかすれる声でいった。  かれと弟はコンクリートの階段をわざわざゆっくり降りて行った。それから街路樹のうわっている広い鋪《ほ》道《どう》を体育館の建物のある方向へ歩いた。アシュレイはその通りでかれらと会うはずだった。かれらは体育館の前の砂利道のはじまりまで歩いて行き、ひきかえした。アシュレイも菊栄もあらわれなかった。再びコンクリートの階段までたどりついたときかれと弟はそろって熱い嘆息をついた。時間は正しかった。かれらはくりかえし体育館へむかって歩いた。砂利道のはじまりの所で、破きとられたビラの残りのはためいている体育館の壁が植えこみの向うへ暗くかげってつらなって行くのをかれと弟はしばらく見つめた。その奥にかれらを待っている者たちがいそうだった。かれらは黙ったまま肩をよせあって体育館を一周するために暗がりへ入って行った。そしてそこにかれらを待つ者たちがいた。 「遅かったのね」と暗がりから眼を大きく見ひらいた娼婦があらわれていった。「あんたたちが行ったりきたりするのを見はってたのよ」 「アシュレイは?」とかれは声のふるえを恥じながらいった。  娼婦が柔らかくぶあつい掌でかれの腕くびを握りしめた。そしてかれらは歩いて行った。建物が別の小さい増築された建物と接する狭くいちだんと濃い暗がりに向うむきになった長身の男が立って泣きじゃくっていた。かれは衝撃をうけて立ちどまった。弟もまた立ちどまっていた。男はもっと狭くもっと暗いすきまへ頭をもぐりこませようとして骨をおるようなかっこうをしながらむせび泣いていた。  菊栄とかれと弟が近づくと、男は激しくふりかえり短い額によせた皺《しわ》が暗さのために傷のようにみえる頭をさげて猛然とたちむかってきた。男の体は汗と汚水の臭《にお》いがした。 「私よ、アシュレイ」と極度におさえた声で菊栄がいった。  かれと弟がアシュレイを抱きとめた。アシュレイはかれらの腕のなかで死にものぐるいの身もだえをしたがかれと弟は腕をゆるめなかった。かれの頭にこすりつくほどちかくでアシュレイの顔は逃れるためにそりかえっていた。かれは若い外国人の鳶色《とびいろ》の眼が痙攣《けいれん》しながら強く見ひらかれ、その瞳孔《どうこう》は上瞼《うわまぶた》の下に食いこんでいるので何も見ていないことをたしかめた。 「アシュレイ、ああアシュレイ、気ちがいにならないで」と菊栄が哀訴するように正確な発音の英語でいった。「あばれないで」  "Not your enemy, friends …… your friends."  弟が息をはずませながら、これはあぶなっかしいやり方でいった。そしてそれが効果をもったのだ。アシュレイは再びあえぐように泣きはじめ、かれらの腕のなかでぐったり力をぬき地面に膝《ひざ》をついた。その時になって塀《へい》の向うから猛《たけ》だけしい犬の吠《ほ》え声がおこった。それは逆のがわの体育館の広大な壁に反響してすさまじく拡大された。その声はずっとまえから聞えていたのかもしれなかったがその時はじめてかれらの意識にしのびこみ、そこをかきみだした。かれと弟は菊栄をアシュレイのそばにのこし、暗く暑い砂利道を歩いてタクシーをつかまえにひきかえした。  かれらはむやみに昂奮《こうふん》していた。とくに弟が獲物を確保した喜びと重荷をかかえこんだ不安に揺りうごかされていた。 「ひどく手こずらせたなあ」とかれは弟にいった。「おれの腕に咬《か》みつきやがった」 「あいつは立派な顔をしてる。良い頸《くび》、良い額だ」と弟は上気した声でいった。「あいつはすばらしく均斉のとれた頭をしてる」 「おれも、もっと厭《いや》な顔をした奴だと思いこんでた」 「あいつはかなり高度の教育をうけてるとぼくは思う」と弟がいった。「カンサスシティかどこかしらないけど」  弟はヒステリックになり声をたてて笑わんばかりだった。タクシーが砂利道まで後退して入りこんで来たのへ弟と菊栄とで手荷物をはこびいれた。かれはアシュレイのいまは柔順になった肩をかかえて自動車にのせた。乗りこむときアシュレイは意識して平静な呼吸にかえる努力をしている様子だった。それがかれに友情に似た柔らかい感情をおこさせた。  助手席に乗った菊栄がふりかえって唐突にいった。「水が飲みたいわ、喉《のど》が砂っぽくてざらざらするほどよ」  菊栄は厚い喉の皮膚をびくびくひきつらせてみせた。彼女は優しく疲れきった良い顔をしていた。そしてアシュレイを力づけようとしていた。しかし走りだした車の中で、子供っぽい布のジャンパーを着たアシュレイは、汗と体臭のまじりあったねばりついてくる激しい臭いをたてながらこきざみに身ぶるいして、じっとうつむいているだけだった。そしてそれはかれらにも感染してゆき、自動車のなかでかれらはおたがいにむっと黙りこみ、アシュレイを軸にする居心地の悪い重くるしい緊張をつづけた。  かれらの家から数百米《メートル》はなれた場所で自動車を降り、黙ったまま歩く。そして暗くしたままの玄関を入り階段をのぼる。かれらの寝室の隣りの部屋に外側への窓をすっかりしめきりカーテンをおろしたまま、かれらは入っていった。  菊栄がアシュレイを長《なが》椅子《いす》にかけさせ、かれらにふりかえって頭をふった。かれと弟は部屋を出て階段を降りた。そしてふいにかれらを焦燥がとらえた。かれらは多くのことをやるべきだったが、何をやることからはじめればいいのか見当がつかなかった。かれらは何よりも憲兵の到来を極度におそれていた。弟が食堂のすみのラジオでFEN放送を注意して聞きはじめると、かれは靴をはきなおして戸外へ出ようとした。弟がかれを激しく非難するような眼でみたがそれをかれは押しきった。  家の周囲、鋪道をかれはゆっくり歩きまわった。憲兵のやって来ているけはいはなかった。駅前の夕刊売場で買った新聞をすみからすみまで丹念に眼をはしらせる。そこにアシュレイの逃亡に関する記事はなかった。かれは小さな安堵と明朝の新聞への激しいおそれに同時にとらえられた。かれは眼のまえに腰をおろしている老人の夕刊売りが自分とはまったくちがうことに気がつく。かれはしばらくのあいだ、その《アシュレイをかかえこんでいない》老人をめずらしい動物を見るように羨望《せんぼう》の念に胸を灼《や》かれながら見つめた。  アシュレイはたったいまかれの皮膚の内側にできた眼にみえない腫瘍《しゅよう》のような存在だった。その腫瘍がかれをひっきりなしに不機《ふき》嫌《げん》にし苛《いら》だたせ眼もくらむほど不安にした。  かれが長いあいだ家の周辺を歩きまわったあと帰ってくると弟はまだFEN放送に聴きいっていて、かれのたてた物音にぎくっとしてふりかえるのだ。かれは疲れきっており、弟と話したくなかった。そこでまっすぐ二階へ上ってゆこうとすると、裸のアシュレイが長椅子の上にむこうむきになってうずくまり、広い白い背に汗を流しているのがみえた。そしてその傍につきそって体を洗ってやっている菊栄がすばやい看視の眼をかれにむけてきた。  おれは外国人に部屋を貸した単なる家主にすぎない、こいつらの運命にかかわりはない、とかれは自分たちのベッドのある部屋に入りながら考えたが、隣りで便器をもちあげる音がきこえたりするたびにちぢみあがってしまうほどなのだ。  殆《ほとん》ど夜明けちかくなって、ベッドにねころんだまま眼をさましていたかれのところへ弟があがって来た。弟は昂奮にうわずっていた。 「ラジオはアシュレイのことを報道しない。何ひとつそれにふれない」と弟はいった。「大丈夫かもしれないな」 「黙って寝ろ」とかれは不機嫌にいった。  翌朝かれらは隣りの部屋から壁を叩《たた》く音で眼《め》ざめた。ドアを開くと菊栄が化粧をしていない、きわめてふけこんだ顔で立っていた。 「アシュレイに散髪してやりたいんだけど、頭のかたちを変えたいからね」と女はいった。「道具を工面できないかしら」 「探して来てやる」と安堵と腹立ちにおそわれてかれはいった。「古いのがあるから」  かれは朝食の準備を弟と菊栄がしているあいだに納屋《なや》からバリカン他《ほか》をとり出してきて簡単に手入れをした。そして朝刊を買いに行ったが、やはりそれにもアシュレイについては一行の記事もなかった。  朝食のテーブルを一緒にかこむと菊栄とアシュレイはじつに平然とかれらへとけこんでくるようなのだ。昨夜泣きむせんだことについてアシュレイはまったく忘れたようだった。食事のあいだ弟がおずおずと英語の会話をアシュレイにむかってこころみるとアシュレイはきわめてはっきりそれにこたえた。菊栄にいたっては小さい声で笑いさえするのだ。  そのなかでかれだけが不機嫌な焦燥にとらえられていた。かれらにアシュレイの受入れ策がまったくないことをいわねばならぬはずだったし、アシュレイたちから今後の身のふりかたについて聞きだす必要がある。  しかしアシュレイと菊栄は、その脱走についても憲兵の追求の可能性についても一語もいいだそうとはしないので、かれ自身、黙りこんでやきもきしているしかなかった。  食事がおわったあと、食卓をかたづけてアシュレイを椅子にかけさせシーツを首にまきつけさせて菊栄が鋏《はさみ》を握った。かれらは、アシュレイの頭がみるみる清潔に刈りこまれて行くのを見ていた。それから菊栄はアシュレイの衿《えり》もとを剃《そ》るために石鹸《せっけん》を水にといた。弟がそれを手つだった。 「うまいなあ」と弟は手つだいながら菊栄の手なみを感嘆していった。「あなたはうまくやれるんだなあ」 「私が日本人相手に商売をしていたとき、床屋の職人がなじみだったのよ」と菊栄は昂然としていった。「その人から、じつにいろんなことをおそわったわ」  アシュレイは刈りそろえられた金髪の頭をたれ、菊栄のいくぶん荒あらしい手に耳のうしろをシャボンだらけにされていた。菊栄の屈《かが》められた背に、贅肉《ぜいにく》がぶるぶるふるえて、菊栄がいかに作業に熱中しているかを示していた。 「なぜ髪を刈ることにしたのかなあ」と弟がいった。「アシュレイの頭は長くのびた髪のせいで立派なのにな、似合っているのにな」 「あ?」とアシュレイがいった。  弟は英語でくりかえした。 「暑いだろ」とアシュレイは単純にいった。 「私の手に剃刀《かみそり》があるときは黙っていてほしいわね」と菊栄がいった。「耳を切りおとされたくないでしょ」  アシュレイが痛みに呻《うめ》いた。 「ほら、ほら血が出てきたわ」と菊栄は平気でいった。「皮膚がパンの皮くらいの柔らかさなのね、白人は」  菊栄の熱心な強制によって散髪がおわったとき、アシュレイの首は剃刀傷だらけだったので、アシュレイは頭から湯をあびせられながら長ながと悲鳴をあげる始末だった。 「あなたは、ほんとに模範的な大学生という感じだなあ」と新しいシャツをつけて小ざっぱりしたアシュレイに弟はいった。「オクスフォードから夏休のあいだ旅行にきた学生と英語のクラブで討論したけど、あなたと似てたな」 「ああ、ああ」とアシュレイは満足そうにいった。 「ほんとに兵隊とは見えない」と菊栄はいった。「誰《だれ》だってあんたを、あのアシュレイだとは思わないわ」 「そうか、本当にそうか」とアシュレイがふいに真剣になっていった。「そうだったら、おれは外出してもいいはずだ」  菊栄が当惑しきって頬《ほお》を赤らめた。アシュレイは子供っぽく刈った頭を新しいシャツの上にのせて、熱心に菊栄の答えをまっていた。これは兵隊じゃない、とかれは二人を見つめながら考えた。 「むりなことをいわないで我慢してね」と菊栄が気をとりなおしていった。「今から外出なんてむりよ、もうすぐの辛抱よ」  こんどはかれと弟がぎくっとして菊栄たちを見つめた。 「朝鮮が休戦にきまったら、あんたは堂どうと外出できるわ、市民にかえれるわ。そして私をつれてひきあげるはずでしょ?」 「ああ」とアシュレイはいった。「戦争が終ったら、菊栄と結婚してニューヨークへわたろう」 「それまでの辛抱よ」とアシュレイを抱きしめながら菊栄はいった。「疲れたでしょ、少し眠るといいわ」  菊栄たちが階上へあがって行くと、急に昨夜来のぎこちなさがかれと弟とのあいだにみちた。かれも弟も顔をそむけたまま黙っていた。 「あいつら、しゃあしゃあとしてるなあ」と長い沈黙のあとでかれがいった。「おれたちのことをどう思ってるんだろう」 「ああ」と弟がうなだれて床のうえの金髪のかたまりを見つめながら気ぬけしたようにいった。「どう思ってるのかなあ」 「憲兵がここへふみこんで来るかもしれないということを考えてもみないらしいな」 「あれはぼくらの前でだけなんだ」と弟がいった。「今朝早く、あの二人が話しあっているのを聞いたけどアシュレイは泣かんばかりに菊栄をかきくどいていた」 「おれたちに黙ってあいつらだけで話しあうというわけか」 「ぼくらも、あの二人に深くはたちいらないということだったろ? いいじゃないか」と弟がむきになっていった。「それでいいよ」  かれは弟のふいに紅潮した顔を見つめた。 「あいつたちは休戦協定ができたら、ぶじに本国へ帰れるつもりらしい」 「そうだよ」と弟はかれの苦笑をうけつけないでいった。「アシュレイの直属上官とアシュレイは約束をかわしているらしい」 「そういうことをお前は信じられるか」とかれはいった。 「信じられなくても」と弟は真剣にいった。「他に考えることがないんだ。アシュレイがどうにかなるとしたら、そう考えるほかに楽しい考えはないんだ」 「あいつはつかまりしだい軍法会議だ。休戦だろうとなんだろうと」 「兄さんはそれを望んでいるのか」 「泣きごとをいうな」とかれは弟をさえぎっていった。「あいつと一緒になってめそめそするのはやめてくれ」 「ぼくはアシュレイの希望がこなごなにならないように、いつまでも李承晩《りしょうばん》が休戦協定のぶっこわしをやってくれたらいいと思うんだ」と弟はうなだれていった。  アシュレイをふくむ共同生活がこういうなしくずしの形でなめらかに進行しはじめてから、菊栄がキャンプの周辺へ様子を見にいった。彼女はその夜帰ってこず、かれと弟とを恐慌《きょうこう》におとしいれたが、アシュレイはそれほど気にかけない様子だった。翌朝、菊栄はアシュレイのための夏服や、眼鏡などをもって帰って来た。眼鏡はアシュレイを変装させるための思いつきなのだった。 「妹に聞いたんだけど、アシュレイを探すために憲兵が十日ほどあるきまわっていたそうだわ」と菊栄は報告した。「今は平気」 「あなたの妹さんもキャンプの傍にいるんですか」と弟がたずねた。 「妹といっても、もう二十五よ」と菊栄はいった。「あの子は私とちがって、好きでこの商売に入ったのよ。外国人としかやらないわ、はじめんときからそうだって」 「ああ」と弟は当惑しきってうなずいていた。「ごめんなさい」 「私が時どき出かけて様子を見るわね」と菊栄は気にかけないで英雄的にいった。 「あんたがキャンプの近くへ行くのはどうかなあ」とかれがいった。 「私だって商売をよしたわけじゃないのよ」と菊栄はいった。「アシュレイと一緒にむこうへ行くまでにつくらなければいけないお金もあるわ」  かれと弟は病菌が感染するのをおそれて菊栄がふれた食器は再び水洗いするとかのめだたない努力をした。しかしアシュレイは菊栄が娼婦《しょうふ》としての生活のために時どきキャンプへ出かけてゆくことについて平気だった。それはかれのみならず、アシュレイに対して寛大な弟にさえ腹を立てさせた。外泊から帰った朝、菊栄が眼もあてられないほど老《ふ》けた顔を青ざめさせて長椅子に横たわっているのを見るたびに弟はアシュレイへ不機嫌なうけ答えをした。しかし、それにもかかわらず、弟が菊栄よりアシュレイを愛していることは確かなのだった。  夏休のなかばの出校日に、学校へ出かけていった弟が英字新聞を買ってかえって来た。その夜菊栄は、《商売》に出ていたので、かれらはアシュレイを囲んでその英字新聞を丹念に読んだ。朝鮮で連合軍は極度の停滞におちこんでいた。三十八度線よりはるか南で泥まみれの戦いが行なわれていた。アシュレイはあまりにもあきらかに失意の底へおちこんでしまい、弟の慰めに耳をかそうともしなかった。 「マッカアサーがサボタージュしているんだ」とアシュレイは憤然としていっていた。「そうでないならこういうことになるわけがない」 「北鮮のゲリラが強化されたということがある」と弟が解説記事を読んだ。 「朝鮮人にまともな戦争をやれるはずがない」とアシュレイが冷笑していった。 「現に北鮮はおしかえしているじゃないか」とかれはむっとしていった。 「マックのサボタージュさ」とアシュレイは固執した。 「こいつは脱走するし大将はサボるし、たいへんだよな」とかれは弟に日本語でいった。「文句だけいっぱしのことをいいやがる」 「英語でいってくれ」とアシュレイがいった。 「休戦の望みが遠ざかったとしても勇気をおとさないでくれ、といったんです」と弟がアシュレイに説明した。 「休戦協定の原稿さえ発表されたこともあるのに」とアシュレイは弟の言葉にひきずられていった。「これでは見通しもつかない」 「休戦協定が結ばれないとしたらどうする?」とかれは残酷にいった。 「ああ、どうしていいかわからない」とアシュレイはおどおどしていった。 「おれたちがこの男を死ぬまでかかえこんでいなくちゃならないとしたら」とかれは日本語でいった。 「英語でいってくれ」とアシュレイはくりかえした。 「ああ、どうしていいかわからない」とかれはアシュレイの抑揚をまねていった。  翌日の午後になって、かれが食堂の長《なが》椅子《いす》にかけて本を読んでいるところへ元気にみちた菊《きく》栄《え》が帰ってきた。彼女は喜びいさんで妹が婚約したという話をすると、まだ寝ているアシュレイの部屋へかけあがって行った。  短い話しあいが聞え、アシュレイの罵《ば》声《せい》と肉を打つ音、菊栄の悲鳴がそれにつづいた。それからうちしおれた菊栄が階下へ降りて来た。かれは菊栄を無視して本を読みつづけたが菊栄はむりやりかれに話しかけてくるのだ。 「私の妹の婚約者が黒人だからといって」と菊栄は泣かんばかりにいった。「あの人はがまんできないというのよ。妹に取りけさせろというのよ」 「アシュレイの知ったことじゃないだろ」とかれはいった。 「あの人は自分の身内に黒が入りこむのを厭《いや》がってるのよ」と菊栄はいった。「でも、私には自分の幸福のために妹を踏んづけにすることはできないわ」 「あんたの幸福?」とかれはびっくりしていった。「本当にあいつと結婚するつもりなのか」 「休戦にさえなったら、あの人は自首して出て除隊されるのよ。それから私が働いてあの人を大学に入れるわ」 「あんたはいくつなんだ、アシュレイは十九だぜ」とかれは腹を立てていった。「あんたはどうかしてるよ」  かれはアシュレイを殴りつけたいくらいだった。菊栄はまったくかれをうけつけようともしないで考えこんでいるのだった。  ふいに秋が来た。その朝、身ぶるいするほどの肌寒《はだざむ》さから眼《め》ざめると窓の向うの樹木に静かに雨が降っていた。雨滴が茂った葉をしみとおって樹幹を黒褐色《こっかっしょく》に濡《ぬ》らしていた。それが樹木を中心にする風景を重おもしく沈みこませ遠景の灰色の空をおし出していた。秋がきて雨が降っている、とかれは考えた。そしておれは外国人をかかえこんで困惑しきっている。その上、その状態に慣れてしまっている。かれは自分が長い病気のための恒常的な疲れにおかされているような感情になりながら眠りのなかへ再び戻《もど》っていった。  午《ひる》まえに菊栄の昂奮《こうふん》した声がかれを眼ざめさせた。かれは上《うわ》衣《ぎ》を体にまきつけて食堂へおりて行った。弟とアシュレイを前にして、髪を雨滴に濡らした菊栄がしゃべっていた。彼女は昨夜からその職業のためにとまりこんでいていま帰ってきたところなのだった。 「妹に会ったんだけど」と菊栄はかれのためにくりかえした。「キャンプの兵隊がすっかりいれかわってしまったというのよ。あのキャンプにいた隊の連中が一人のこらず移動してしまったんだって」 「どこへ行ったんだ」とかれはいった。 「本国か、朝鮮かどちらかよ」  アシュレイと弟をとらえていたもの思いにみちた沈黙がかれをまきこもうとした。 「とにかく、アシュレイの仲間たちはどこかへ行ってしまったのよ。もう日本にアシュレイをおぼえている兵隊は居なくなったということなのね」  かれはアシュレイの眼が危険なひらめきをそだてながらかれへむけられるのを見かえした。この男はいま後悔のあまりに兇暴《きょうぼう》になろうとしている。 「本国へ帰った目算が大きいようね」と菊栄は追いうちをかけた。「朝鮮かしらねえ」 「もう外出しても平気だな」とかれはアシュレイの紅潮してくる頬を見つめていった。 「おれはジュディの映画を見に行きたいんだ、どんなに古い映画でもいいから」とアシュレイは照れたような調子でいったが声は嗄れていた。「ジュディ・ガアランド」  弟がきびしい非難の眼で見つめるのをはねかえしてかれは立ちあがった。 「ガアランドの映画をやってる、見に行くことにしよう」  菊栄を残し、かれと弟はアシュレイを中にはさんで雨の降っている町へ出た。電車の駅へ歩くあいだ、かれらは石のようにかたくなって周囲に目を光らせていた。しかし何も起らなかった。電車に乗り、三つ目の駅で派手なジャンパーを着こんだ外国兵たちがどやどや乗りこんで来たとき、かれらはますます体をちぢめ息をころしたが、外国兵たちはアシュレイにまったく注意をはらわなかった。  アシュレイとこれらの兵隊たちはまったく離れきりおたがいに隔絶されてしまっている、とかれは考えた。この兵隊たちには一週間あと朝鮮での戦いがまちうけている、そこでの命がけの殺しあいがある。それだけでアシュレイと別の人間になるということだ。おれたちとはまったくちがう、こいつらは人殺しで償いの羊というわけだ。アシュレイは頭をたれ背をちぢめてじっとしていた。しかしかれにはアシュレイの体の中で安《あん》堵《ど》の芽が急速にふくれあがりはじめていることがわかっていた。そして、その安堵の芽がナイーヴな育ち方をしているわけではないこともわかっているのだった。  電車を降り、通行人の多い通りを歩きはじめてからもかれらの周りに行きかう外国兵たちはアシュレイにまったく無関心だった。そこで急速に慣れがかれらをとらえた。 「ぼくらは無鉄砲すぎると思うがなあ」  と弟が嘆息まじりにいったとき、かれにはむしろ弟の安堵の方が表面にうきあがって聞えるほどだった。 「しるものか、おれがしるものか」とかれはいった。 「おれもしらないよ」とアシュレイは余裕を見せていった。「神様にまかせてあるんだ」  秋らしい雨が新しく勢いをましておこり、かれらはそれを避けて駈《か》けた。人々がそれぞれ雨を避けて右往左往していた。背の低い女を引きずるようにして駈けてきた外国兵がアシュレイにぶつかり、そのまま謝りもしないで駈け去って行った。雑踏する群集の中で、兵士たちだけが他の者たちと別の次元、別のもっと濃密な次元に生きているようだった。それらの制服を着た傍若無人の外国人たちは戦いの天使がかりに地上へあらわれたとでもいうふうだった。  そしてアシュレイはもうそれらの人々を一様にとらえる精気をもたず弱よわしく肩をせばめて雨のなかを駈ける一人の民間人、一人の地上の人間にすぎなかった。そのアシュレイを逮捕しても、再び戦いの天使の精気をふきこむことがどうして可能だろう。弟の背に屈《かが》めた体をおしつけるようにして駈ける、こざっぱりして清潔なアシュレイは弱よわしくせんさいでいくぶん厭らしかった。  しかし映画館の入口の鮭色《さけいろ》のじゅうたんの上でかれらが髪や肩にこびりついてじっとりしみこみはじめている雨滴をぬぐったとき、かれにはやはりアシュレイから外国人を感じないではいられない。勝ちほこっている猛《たけ》だけしい外国人とは別のうちのめされ追いつめられた外国人。アシュレイが自分の体をぬぐったあとわたしてくれた幅びろのハンカチーフでかれは首筋をぬぐったが、それはアシュレイの力強くしつこい外国人の体臭をこびりつかせていて、かれの首筋の皮膚に嫌《けん》悪《お》の小さい身ぶるいをおこさせ反撥《はんぱつ》させるのだ。  おれは外国人の青年の脇《わき》の下や股《また》のたてる臭《にお》いにけっしてなじむことができない、とかれは考え、そしてそれにもかかわらずアシュレイの体の臭いからきわめて生理的な情欲、情念の身ぶるいを誘発されていることにも気づいているのだった。それはすでに、かれとアシュレイとの共同生活のなかで一つの力点となり、かれがそれを意識して牽制《けんせい》することから人間的な日常がたもたれているのだと思えてきさえする。  かれは雨に濡れている耳のうしろからあごへの柔らかい皮膚をぬぐうことをやめてハンカチーフをアシュレイへかえした。アシュレイの臭いのする布で自分のせんさいな皮膚をぬぐうことが、めだたないがやっかいな情念をひきおこしかねないということだ。 「あ?」と弟がかれのしかめっつらを覗《のぞ》きこんで、ハンカチーフをアシュレイのかわりにうけとりながらいった。  かれはあいまいに頭をふり、弟が平気でそのハンカチーフを胸や喉《のど》にごしごしこすりつけ皮膚を紅潮させるのを見守っていた。弟はかれに見つめられて、あいまいにきまり悪そうな上気した眼をそらした。  かれらはニュース映画がはじまって暗いドアの向うへ入っていった。かれと弟のあいだにかけたアシュレイの体は雨に濡れ駈けてきたために熱をおびて、身動きするたびにむんむん臭いをたてていた。おれには男色家としての素質、その種の偏向はないはずだろう、とかれは眼をつむり座席にふかぶかと腰をうずめて考えた。おれは地方の健康な中流家庭に育ち、ほとんど心理的な外傷をうけないで本郷の大学へ入学した。そしていま眼だたないごくふつうの大学生だ。おれがアシュレイから情欲的なものをうけとるのは、おれが弱いアシュレイを庇護《ひご》する強者という立場になれてしまいはじめた証拠だろう。男と男とのあいだの従属関係、外国人と日本人とのあいだにある親密なそれは、時々正常でない性欲とむすびついて感じられるときもあるのだろう。そしていま、日本人のおれに従属しているのが外国人のアシュレイだ、とかれは満足して考え、眼をひらいた。  ニュース映画は気《き》泡《ほう》と油脂で汚れた模様をつけられている暗い河《かわ》面《も》をうつしだしていた。そしてどっしりした古風な橋とその上にあつまって河をのぞきこんでいる群集の黒い頭。背景に明るい街並とそそりたつコンクリート建築がのしかかってきて、前景の群集のクローズアップを滑稽《こっけい》なみすぼらしさに見せていた。画面を水に濡れて腿《もも》にはりつく服を着た警官があいまいに笑顔をみせて通っていった。その警官はいく人かの黒人兵のかたまりの前でわざわざ迂《う》回《かい》して画面から消えた。そのあいだも雄弁な男の声がうんざりするほど説明をくりかえしているのだった。 「どうしたんだ」とアシュレイが、かれの頭へ自分の金髪の頭をすりよせてたずねた。「ドウシタンダ、オイ、アレハドウシタンダ」 「君のかつての同輩が、日本人を河のなかに投げこんで溺《でき》死《し》させたんだ、ドブ川へやにわにほうりこんで、日本人がじたばたやるのを楽しんで見たというわけだろ」 「他の日本人が助けに来て、その兵隊をリンチしなかったか」 「黙って見ていた」とかれはいった。「その兵隊が楽しんで立ちさるまで黙って同胞の死ぬくるしみを見ていたというわけだ。そのあげくドブ泥に足をとられた男は手おくれなんだ。ひどいもんだろ」  アシュレイは無感動に黙っていた。かれはふいにむっとしてアシュレイの耳に近づけていた顔を画面に戻した。それは外国映画社の特約によるニュースにかわっていた。水着をつけた女たち、水上スキー、冬景色の北国でおこなわれているドッグレース、そして突然それは朝鮮戦争の速報特集をはじめた。  秋の朝鮮とそこで行なわれている戦争をそれはうつした。柔らかなカーヴをもつ灰褐色の山々のあいだをやはり濃い灰褐色の男たちが歩いて行く。山肌には砲弾が穴をあけているがその穴は長年の雨かぜによるそれのようにおだやかな輪郭を黒くぽっかりあけているのだ。民家が破壊され、東洋人の顔をした女がやはりあまりにも東洋人のその娘に乳をふくませている。その乳房にも灰褐色のかげりが深くきざまれている。戦車が数台ならんでとまっている野原の中央の道を朝鮮人の捕虜たちが腕を頭のうしろにくんで、無気力に頭をたれたまま群をなしてやってくる。かれらの一人がきゅうくつそうに背を屈めて放尿するのをぶあいそうな外国兵がつきそって見はっている。観客席の低くぶあつい笑い声。  そしてすばらしく緊張した横顔をつらねて若わかしく生気にみちた外国兵の一隊が行進して来た。かれはアシュレイの体がふいにびくんとこわばるのを感じ、こんどは自分がまったく無感動にとどまっているのを余裕にみちて感じていた。発射するバズーカ砲、いちめんに風景をおおう土煙りと駈けてゆく兵士たち。兵士たちのこわばった頬に汗がながれそこへ土埃《つちぼこり》がまといついてゆくのさえ画面は拡大してうつしていた。 「ああ」とアシュレイが呻《うめ》いた。  かれはおどろいてアシュレイをうかがい、明るくなった画面、砲弾の炸裂《さくれつ》した山腹を白っぽく光らせてうつしている画面からの照りかえしにアシュレイの均斉のとれた感じの良い横顔が歪《ゆが》んでうかびあがるのを見た。アシュレイは歯をくいしばり嗚《お》咽《えつ》をこらえていた。そして体をふるわせながら画面を睨《にら》みつけていた。  かれは衝撃をうけた視線をおとして、アシュレイのくみあわされ痙攣《けいれん》している手を見つめた。アシュレイの金色の生《うぶ》毛《げ》のある指はきつく握りしめられ泣きさけんでいるようだった。そこへ弟のおずおずした手が慰めるためにさしのべられ、たちまち邪慳《じゃけん》にはねのけられた。弟の手はこりずに再びのばされてき、アシュレイの震える手が苛《いら》だってそれをはらいおとした。かれは眼をそむけ弟とアシュレイから意識をそらすために、始まろうとしているジュディ・ガアランドの古めかしい映画に熱中する努力をした。映画はよくできていたし、ガアランドは愛らしかった。しかしかれは映画が終ったとき、アシュレイのがわのあらゆる皮膚が、頬から脇腹のそれにいたるまですっかりこわばりかたくなっているのを感じた。かれが黙ったまま立ちあがると、アシュレイと弟も黙りこんでかれにつづいた。  映画館を出ると夕暮れて水っぽい風が吹いていた。かれらは黙ったまま雑踏をぬってあるき、黙ったまま混《こ》みあっている電車に乗った。ほかにうまいやり方がなかった。そしてかれらのあいだにしこりがかたまり、かれらに喉をかわかさせた。 「麦酒《ビール》を飲んで行こう」と駅を出はずれたところでかれは弟とアシュレイにおっかぶせるようにいった。「喉がかわいてやりきれないんだ」 「ぼくもそうなんだ」と弟が奇妙にうわずった声でいった。「いいだろ、アシュレイ」 「ああ」とアシュレイも、よそよそしくいった。  かれらは屋台で黙ったまま、一人で飲むときのように自分だけにひきこもって麦酒を飲んだ。空腹がかれらを不機《ふき》嫌《げん》な苛だちへみちびこうとしていた。かれらは狭い間口の居酒屋へ移り、血の味のする豚の内臓の煮こみを食べ、悪質の酔いにすぐつながってゆくのがわかるような種類の、激しく臭う沖縄《おきなわ》の酒を飲んだ。そしてふいにかれらはお互いに不自然なほど多弁になっているのだった。 「ジュディが男でなかったことは、ブロードウエイにとって凄《すご》く残念なことなんだ」とアシュレイは熱情をこめてくりかえしていた。「ニューヨークの劇評家が一致してそういっていた時がある」 「いつそういってたの、マーロン・ブランドはどうなんだ」と弟がいった。 「いつってずいぶん昔さ、おれたちがポプコーンだけ食べてた頃《ころ》さ」 「ああ、アシュレイはポプコーン食べて劇評読んでたの」と弟が嬉《うれ》しそうにいった。 「この外人、何をしゃべっているんです?」と新しい酒を厚いコップにつぎながら女がいった。「私も英語なら分るんだけどさあ」 「ラテン語をしゃべってるわけじゃないよ、ちゃんとした英語だよ」とかれはつっけんどんにいった。「なまりもべつにないね」 「まあ、まあ」と女はとりすましていった。「それにしてもさあ、何をしゃべってんのよ」 「ジュディ・ガアランドのことさ」とかれはいった。「それにニューヨークの劇評家のこともいってるね」 「ガアランド、まあ古い女優さんのことをいってるわねえ」と女は勢いをえていった。 「アメリカでは田舎まで映画がまわってくるまでに十年もたってしまうんだ」 「ガアランドはお酒を飲みすぎて夫婦別れしたというじゃないの、中毒してさ」 「おれが知るものか」とかれはいった。 「それは一種の賭《か》けなんだ、誰《だれ》一人賭金を倍にすることはない賭け、みんなが損をする賭けなんだ」とアシュレイがいっていた。 「賭けるためにあなたは軍隊に志願したというわけなの」と弟が考えぶかそうにいった。 「そうなんだ、おれは賭けたんだ」とアシュレイはシャツの衿《えり》をはだけて胸毛のはえた桜色の肌《はだ》をあらわにしながらいった。日灼《ひや》けしていないそこは酔いのためにつやつや光るほど色をかえていた。 「あなたは賭けたんですね、アシュレイ」と弟はいい、体をおりまげて床におちたアシュレイのネクタイをひろいあげてやった。 「西欧の青年はつねに賭けている、とくにドイツの青年は賭けている」とアシュレイはいった。「アデナウワーにさえ賭けているんだからな、あいつらは。そしてニューヨークの青年は決して賭けない。だからおれは賭けたんだ」 「ああ、ああ」と弟は眼を酔いにうるませてにこにこしながらいっていた。弟は話のつづきぐあいがわからなくなって、むしろ睡《ねむ》気《け》におそわれている様子だった。 「日本人の青年も決して賭けない」とふいにかれへむきなおってアシュレイがからみつくやり方でいった。「朝鮮の奴《やつ》らほどにも賭けない」 「あんたのいうことはあいまいでわからないよ、アシュレイ」とかれはいった。「あんたが志願したのと西独の独裁者と、李承晩《りしょうばん》とでは関係があいまいすぎるよ」 「おまえたちが賭けないといってるんだ」とアシュレイはけわしい眼をしていった。 「日本の青年は昭和のはじめにそういう議論をしたんだ、もう時代遅れだ」とかれは問題にしないでいった。「あんたの大学の文学部の講義の程度が思いやられるよ」 「何をいってんの、ガアランドのことなの?」と女が険悪になってきたかれとアシュレイのあいだへ髪をひっつめた丸くてみだらな頭をつきだしながらいった。「喧《けん》嘩《か》しないでね、外人の喧嘩は後をひくから厭《いや》なのよ」 「プリンストン大学の仏文の教室の男を、おれは知っていたからね」とかれは女にいった。「だから学問の程度についていったんだ、その男ときたらお尻《しり》にまで毛が生えてたとおれの女友達はいってたよ」 「あんたの女友達は淫売《いんばい》なの?」と女が興味をひかれていった。 「社会学の学生で小説を書いてるんだ」とかれは笑いに身もだえしながらいった。 「あんたは悪酔いしてるわ」と女が鼻白んでいった。「社会学ってこれでしょ」  女はわいせつな形を白く肥《ふと》った指でつくり加えて腰をゆすっているらしかったが、それはスタンドの向うのことなのでわからなかった。かれは涙を流して笑い、酔いにすっかり体をつかまえられるのを感じた。 「賭けよう」とアシュレイが弟にいっていた。「だから賭けよう」 「そういうことより、あなたが市民の服装をして外出することができたっていうことがぼくには嬉しいんです」と弟が優しくいっていた。「たびたび外出することは感心しないけれど、アシュレイは自信をもっていい。いまのアシュレイはすっかりかわったんだから」 「賭けよう、おれと賭けよう」とアシュレイはしつこくいっていた。「おまえは何をまずい英語でいってるんだ」 「賭けるよりぶん殴ってやれ」とかれは弟にいった。 「賭けるよ」と弟はやはり日本語でかれにいいかえした。「ぶん殴るより賭けるほうが穏当だ、ねえ、穏当だろ」  弟は酔って無邪気に笑っていた、アシュレイは妙にこだわっていた。女が運んできたダイスをつかってアシュレイと弟が勝負をはじめるのをかれはスタンドに頬をついて見ていた。こぼれた酒が乾きかけてねばついていた。弟が勝つとアシュレイが弟の命令に一つだけ服する、というような賭けだった。はじめ弟がたてつづけに勝っていた。アシュレイは弟の命令にしたがって小鳥のように腕をばたばたさせたり、犬の吠《ほ》え声をまねたりした。アシュレイが勝つと、こんどは弟が小鳥になって狭い土間をひとまわりした。女は死ぬほど笑って涙をこぼしていた。  弟が再び勝ち、腰に拳銃《けんじゅう》をかまえる身ぶりをして炸裂音をまねるために脣《くちびる》をすぼめて唾《つば》をはねちらした。アシュレイは呻き声をあげ木椅子《きいす》の上で背をのけぞらせるとそのままあおむけにひっくりかえった。地ひびきをたててアシュレイは床に倒れ、こんどは痛みのためにほんとうに呻いた。そして埃をはらいながら立ちあがったときアシュレイは青ざめて脣をひきつらせていた。 「もうよしなよ、つまらない」と苦しがって笑いながら女はいった。「悪ふざけする人はあの溝に棄《す》てちゃうわよ」  女は丸っこく短い指で店の横を流れている幅二米《メートル》ほどの下水路をさして叫んでいた。かれとアシュレイと弟が、店の光をかすかにてりかえしているよどんだ水のごくわずかな流れを見た。 「賭けをつづけよう」ときびしい声でアシュレイはいい、その手からダイスをとりあげようとする女の指をはらいのけた。 「痛いじゃないか、アメ公」と女が腹を立てていった。「しつこいわよ」 「賭けをつづけよう」とアシュレイがためらっている弟にくりかえした。  アシュレイと弟は賭け、弟が敗《ま》けた。アシュレイは弟を余裕のある冷たい眼で、ごく短い時間見つめていた。 「鳥のまねをやらせるのか?」と弟がいった。「何度やれば気がすむの」 「黙ってろ、敗けたやつは黙ってろ」とアシュレイはいった。  弟の頬《ほお》から微笑が消え、その底からこわばりがうきあがってきた。アシュレイと弟はおたがいに見つめあっていた。 「立って店から出ろ」とアシュレイはいった。「そちらじゃない、下水路の方へ出ろ」  弟は肩をすくめてアシュレイに抗弁しようとし、アシュレイがその肩をつかまえて引きたてた。弟はたいしてさからわずにアシュレイに引きずられながら店の横の黒っぽい土のむき出た下水路の縁まで行った。女は緊張して黙りこんでいた。かれはアシュレイと弟をとめるために立ちあがろうとした。 「おれたちに近づくな」とアシュレイがほとんど絶叫するような声でいった。  アシュレイの右腕は太い柄《え》のジャック・ナイフを握りしめ胸の前にかまえていた。短い沈黙があり、女が熱っぽく長い息をついてスタンドの向うに坐りこんだ。 「跳べ、溝のなかへ跳びおりろ」とアシュレイがいった。  弟は真剣な顔でアシュレイを見かえし、跳ばなかった。 「跳べ」とアシュレイが怒りくるって叫んだ。「賭けに負けたんだ、跳ばないか」  弟はのろのろした動作で体のむきをかえ、ごく短い時間ためらっていた。弟はなお、その場のなりゆきを冗談に解消するきっかけを狙《ねら》っているようだった。   "Jap ……"  アシュレイが呻くように叫び、弟の腰をけりつけた。弟は体をたてなおすために、むなしく腕と脚をばたつかせながら下水路のなかへ頭からおちこんで行った。鈍い水音がし、黒っぽいしぶきがはねあがって来た。アシュレイは仁王立ちになってヒステリックに笑っていた。そして弟が頭からすっかり汚水に濡《ぬ》れて立ちあがりアシュレイを見あげたときも体をゆすって笑っていた。アシュレイはおかしさのあまりに苦しがって笑っていた。アシュレイの膝《ひざ》のあたりに黒く汚れた頭をあおむけている弟の表情がかれにはつかめなかった。かれは弟がアシュレイの足をつかまえて引きずりこもうとしているのだと考えた。しかし弟はふいに嗚《お》咽《えつ》の声をあげると、しゃにむに下水路を駈《か》け、反対側の草地へあがる石段をのぼって暗闇《くらやみ》の中へ駈けこんで行った。 「おい」とかれは笑いつづけているアシュレイにいった。怒りがかれの胸のなかで荒れくるい息をつまらせた。 「おい、アシュレイ、帰ろう」とかれはいった。 「おまえは黙って見ていた」と笑いのための涙を下瞼《したまぶた》にきらきらさせてアシュレイはかれに近づいて来た。「おまえは、他の日本人がそうしたように、兄弟がドブ川へつきこまれるのを黙って見ていた。おまえの弟も、おれのいいなりになってドブだらけだ。おい、大きい顔をするのはよせ」 「帰ろう」とかれは噛《か》みしめた脣のあいだから呻くような声を出しアシュレイの腕をつかんだ。「おれと一緒に帰ろう」  アシュレイはかれにすっかりよりかかって歩きはじめながら睡そうな上機嫌の声でくりかえした。 「おい、大きい顔をするのはよせ、ドブ鼠《ねずみ》のくせに一人前の口をきくのはよせ。お前はまったくおとなしいドブ鼠だよ、他のやつらと同じだ。なんておとなしい人間なんだ」 「黙って歩いてくれ」とかれは屈辱に嗄れた声でいった。 「おれは酔ってはいないよ」とアシュレイはいった。「酔ってはいないが、小便をしたいね」  アシュレイはふらつく体をかれに支えられて放尿し、そのあいだじっとかれはアシュレイの重い肩の下にいた。かれは脣を噛みしめ血のしずくをあごにたらしていた。 「おれの放蕩《ほうとう》息子をしまいこんでくれ」とアシュレイがいった。「なあ、おれの同胞」  かれはアシュレイの前にまわってそれをおこない、そのあいだずっとアシュレイはくすぐったがって気ちがいのように短くとぎれる笑いをわらっていた。そしてかれらの住居へかえりつくまで、発作のようにアシュレイがその笑いにとりつかれて身もだえしたので、そのたびごとにかれはアシュレイが歩きはじめる力をとりもどすのを辛抱づよくまたねばならなかった。  かれらが玄関に入ったとき、台所から多量の水を流す音が聞えてきた。そして水につかっていたためまっ赤になった肉の厚い掌を握りあわせながら菊《きく》栄《え》がとびだして来た。 「ああ良かったわ、良かったわ」と彼女はうわずった声でいった。「死ぬほど心配してたのよ、出してやってから死ぬほど後悔してたのよ」 「あ?」と軽蔑《けいべつ》にたえないようにアシュレイはいった。「あいつ洗っているな」 「ぼうやが酔っぱらってたいへんなのよ、ドブだらけなの。洗ってやってから夕食にするわね、ああ忙しいわ」 「ごしごし洗ってやってくれ」と菊栄の台所へかえってゆくよく肥えた背へ追いかけてアシュレイが叫んだ。「おまえが股《また》ぐらをごしごしやるときのように、汚ないあいつを洗ってやってくれ」  かれは嫌《けん》悪《お》にみちた甲高さで菊栄をののしりつづけるアシュレイを、かぎりなく重くのしかかってくる十九歳の外国人を支えながら階段をのぼって行った。アシュレイはひっきりなしに喉《のど》のおくで小さい唸《うな》り声をたてていた。部屋へ入り、ドアに錠をおろしているかれをアシュレイがのぞきこんだ。 「あ?」とアシュレイはいった。 「眼鏡をはずしてベッドの上に投げろ、アシュレイ」とかれはいった。そしてかれの体は急激に抑制をとかれた怒りのために熱くほてり震えはじめた。 「前へ出ろ、アシュレイ」とかれは嗄れた声でいった。 「ああ」とアシュレイは子供っぽく当惑をあらわにして口ごもった。 「この野郎、この白人野郎」とかれは怒りのあまりに唸るようにいい、アシュレイの鼻を殴りつけた。  アシュレイは裂けた上脣から血をしたたらせ呻《うめ》きながら驚愕《きょうがく》のあらわな大きい眼でかれを見つめ踏みこたえた。その下腹をかれはゆっくり狙いをつけて殴りつけた。アシュレイは背を屈《かが》め腹をだきこんで倒れ、かれの足がその後頭部を蹴りつけた。かれの足ゆびがくだけ血をふきだした。 「この野郎」とかれはベッドの下へ登《と》山靴《ざんぐつ》をひきずり出すために屈みこみながら叫んだ。「おれたちを甘く見やがって、この汚ならしい兵隊野郎」  アシュレイはおびえきって倒れたまま部屋の隅《すみ》にいざりさがり、かれが靴をはき紐《ひも》をしめるのを見つめていた。そしてアシュレイは神様が、神様がとでもいう言葉をつぶやいているのだ。かれにはそれがほんとうに神をよびもとめているのか、神というよりむしろこの淫売とでもいうののしりの言葉なのかわからなかった。かれはベッドから腰をあげ、重く大きくなった足で床をふみ、上半身をおこしたまま、まったく無抵抗にあえいでいるアシュレイに近づいていった。 「ああ、ああ」とアシュレイが悲鳴のような声をあげて後頭部と背とを壁にすりつけた。「ああ、ああ」 「こん畜生」とかれはわめき、アシュレイの胸を蹴りつけた。  アシュレイは呻き体をよじってかれの靴に大量の酒や豚の臓物、それに血のまじった唾を嘔《は》きかけた。かれは苦しみながら嘔いているアシュレイの首や肩を力をこめて蹴りつづけた。そしてそのたびごとにアシュレイは呻いたり子供じみた泣き声をたてたりしたがかれの攻撃を避けるために逃げ出す気力はないのだ。 「この野郎」とかれはアシュレイに規則正しい攻撃を加えながら日本語でいった。「お前をおれたちはかくまってやるが、いい気になるな。おれたちはお前を厭らしいと考えて、しかしかくまってやっているんだ。この野郎。おれたちみんな黙ってドブ川に跳びこむと思っているのか。お前のようなけちな男が、おれたちを汚ならしいと考えているのは、おれにはがまんができないんだ、この野郎」  ドアを外側から叩《たた》いていた、そして菊栄が泣き声をあげてわめいていた。それがかれの耳へ切れぎれにとびこんできた。アシュレイを殺してしまう、あの人はアシュレイを殺してしまう、とその声は叫んでいた。ああ、ああ、アシュレイを殺さないで、アシュレイを不具にしないで、傷《いた》めつけないでくれ、ああ、ああ、こんなひどいことってあるものか。 「こんなひどいことってあるものか」とかれも依然としてアシュレイを蹴りつけながらいった。「おれたちは、お前のような外国人が朝鮮で殺されようとどうしようとなんでもないんだ。それがお前の臆病《おくびょう》な脱走に頭をつっこんでじたばたしているんだ。こんなつまらない話があるものか、アシュレイ。お前のようなけちな野郎に甘くみられてたまるものか」  アシュレイは頭や首筋に血をにじませぐったりして低い唸り声をたてるだけになっていた。そしてかれの加える打撃にも体をがくがく揺さぶるだけで反応を示さなかった。そのうえアシュレイは眠ったようにかたく瞼をとじてむしろ快楽にひたってでもいるようなのだ。ドアの外で菊栄が叫びつかれすすり泣いていた。かれの胸を熱くしていたものがたちまち冷えていった。かれはドアまでアシュレイの昏倒《こんとう》した体をひきずって行き、錠をはずしてドアを開いた。暗い階段におびえきった菊栄と無表情な弟とが立っていた。かれはアシュレイを押し出し、かたくなな頬に涙のつぶをこびりつかせた弟がアシュレイをたすけ起すために体を屈めるまえにドアを再び閉ざした。アシュレイがくずおれていた壁ぎわにアシュレイの吐《と》瀉物《しゃぶつ》と血、それに尿がたまって悪臭をたてていた。かれは酔いにうちひしがれて膝をつき少し嘔いた。涙が流れた。おれはあいつをかかえこんで身うごきもとれない、とかれは絶望して考えた。朝鮮戦争はどんづまりにおちこんでいつまでも解決の見とおしがつきそうにない、そして戦争が終ったとしてもおれはアシュレイを憎みながら、しかもいつまでもあいつと一緒にくらしていかなければならないだろう。おれたちは泥沼でもがいている、そして汚ならしくむすびついて離れることができない。下等な犬が交尾を終っても体をひき離すことができないで無気力にたちつくしているように、おれたちは恥部をすりつけあってぼうぜんとしている。かれは疲れきり酔いに体のすみずみまでおかされていた。そしてベッドにたおれこみ、血に汚れた靴を脱ごうとして背をまるめたまま嗚咽と睡《ねむ》りに頭の奥そこをおかされていった。  夢のなかでもかれはアシュレイを殴りつけていた。アシュレイは硬く小さい尻《しり》と金色の生《うぶ》毛《げ》におおわれたなめらかな背をもっていて、かれに殴られるたびに裸の体をなみうたせてすすり泣くのだった。それから、やはり裸のかれがアシュレイの体をかかえあげ、いくたびもベッドの上へ投げおとすと、アシュレイは欲望に眼《め》をきらきらさせて笑っていた。それは黒くよどんだ川へ無抵抗な人間を投げおろすことと結局はおなじことで、アシュレイはベッドにおちるたびに溺《でき》死《し》するみぶりをしてはもがくのだ。かれとアシュレイは結婚したばかりで、その儀式はカンサスシティの婚礼にもちいられるものだということや、かれがアシュレイを死ぬほど愛していることなどもわかってきた。こまかくとぎれる狂気のような笑い声をあげてアシュレイをだきしめると、かれの勃《ぼっ》起《き》したセクスはアシュレイの硬く小さな尻にごつごつぶつかってかれを恥じいらせた。かれとアシュレイは快楽にみぶるいしながら汗と精液の匂《にお》う甘美なドブ川にひたっていて、暗い橋の上から沈黙した群集がかれらの愛を見守っているのだ。  かれは叫び声をたてて眼ざめ、喉のかわきにいためつけられているのに気づいたが起きあがる努力をするまえに睡りに再びひきこまれた。かれは力のない欠伸《あくび》をくりかえし、おれはまったくどん底にいると考え、それから完全に暗い無意識へおちこんでいった。  体をおこして、かれはベッドの上に眠っているあいだに脱いだ靴が載っているのを見た。午《ひる》まえの陽《ひ》が窓からそそぎこんでかれの悪酔いのなごりの残っている頭を痛くしていた。それは猛烈な勢いで痛んだ。かれは呻き、靴を床にはらいおとした。喉が激しくかわいて、それはもう取りかえしがつかないような感じだった。かれはベッドをおり裸足《はだし》のままドアをあけて階段をおりて行った。  食堂に弟と菊栄がむかいあってかけていた。そしてかれに注意をむけようとしない。かれは入口にとまって弟たちを眉《まゆ》をしかめて見つめた。菊栄は食卓にのせた金盥《かなだらい》の水で手を念いりに洗い、弟は暗い横顔をかたくなに動かさないでいた。 「お早う」とかれは嗄れた重い声でいい、ふいに菊栄の手が両方とも脣《くちびる》のような傷口をあけていて、そこから脂《あぶら》と血のにごったものが水に洗いおとされて金盥の底へたまろうとしているのを見た。かれは胸をゆさぶられた。 「どうしたんだ」とかれはいった。「その傷どうしたんだ」  菊栄は黙ったまま水のしたたる手をさし出し弟がそれをガーゼで念入りにぬぐった。菊栄たちは固執して黙ったままそれをやった。菊栄も弟もかれにたいしてむっと敵意をかたまらせているのだ。 「アシュレイは寝ているのか」とかれはあきらめていった。 「あの子は出ていったわ」と激しく頭をねじってふりかえった菊栄が怨恨《えんこん》にみちていった。「あんたがひどいことをしたせいよ」  そういうことか、とかれは考えた。そういう解決法もあったのか、アシュレイがおれたちの家から出て行く、ああ、そういうことなのか。かれは椅子《いす》に腰をおろし熱い息をはいた。それから狼狽《ろうばい》がかれをおそった。アシュレイはつかまえられておれたちの協力をばらすだろう。 「あいつが出て行くのを黙って見ていたのか」とかれは詰問《きつもん》するやりかたでいった。「あいつを見棄《みす》てたと同じだ」  弟と菊栄がいっせいにかれを見つめた。弟たちは暗くうっくつする怒りをもえあがらせるまぎわできびしく忍耐していた。 「おい、どうしたんだ」とかれはくりかえした。「あいつが出てゆきたいといった時、おまえたちは外套《がいとう》かけまであいつを送って着せかけてやりでもしたのか」 「あんたをひっぱたいてやりたいよ」と血ばしった眼で菊栄はかれを見すえながらいった。 「ああ」とかれは狼狽のあまりに身もだえした。 「あの子は気がちがったように私をつきとばして夜明けの町へ出て行ったわ。私はあの子の腕にすがりつこうとして泣きさけびながら、あの子のつきだすジャック・ナイフの刃先を握りしめていたというわけよ。そのほか、私の裸がふためとみられない生傷だらけのこともあんたに見せてやりたいね」 「ぼくはアシュレイを追いかけて行ったんだ」と弟が菊栄の傷口をしっかりくるみながら、うわのそらでのように奇妙にかすれた声でいった。「アシュレイは電話をかけてた。でもうまく連絡できないようだった。それからふいにタクシーをとめて乗って行ってしまったんだ、とめようがなかった」 「あの子は出発した大隊を追いかけたのよ」と菊栄はいった。「逆上してるわ」 「逆上してる」と弟がいった。「大隊が本国へ帰ったか朝鮮へ行ったかつきとめて、もう一度もぐりこみたがっている」 「あいつを探そう」とかれは急激な焦燥にみちた昂奮《こうふん》にとらえられていった。「あいつが向うに捕えられるまえにおれたちでつかまえて無鉄砲な考えをやめさせよう。でないとおれたちまで捕まってしまう」  かれもまた逆上していた。そしてそれが菊栄と弟にもつたわっていった。はじめにかれらは家じゅうのあらゆる場所からアシュレイに関するものを探しだして風呂場《ふろば》で焼きすてた。暑かった、意味のない大量の湯がたぎった。  厳しく戸締りをしたあと、かれらは追いたてられるように外へ出て、アシュレイの仲間のオンリーだった女たちの下宿や、アシュレイが行きつけだった酒場などへあいまいな電話をかけた。しかしアシュレイはかれらの思いつくあらゆる場所に何ひとつ手がかりを残していなかった。  しだいにつのって来る苛《いら》立《だ》たしい絶望感がかれらを向う見ずにした。かれらはキャンプのある町へ乗りこんで行き、そこでアシュレイを探すために狂奔した。夕暮が来て、かれらは疲れきりアシュレイを見つけだすことができなかった。かれらはキャンプ周辺の酒場のなかでもっともGIの来ることの多い酒場、めぬきの通りの丁字路に面している酒場へはりこんで夜ふけまでがんばることにした。  すでに菊栄はかれら兄弟に話しかけようとせず不機嫌に黙りこんでいた。そして腹だちにみちた眼を時どきかれらにむけながら酒を飲み急速に酔っていった。かれらはそれを痛い傷口が血《ち》膿《うみ》を流しながらそこに開いているように感じるのだ。そして何ひとつ菊栄に注意する気力もなしに奥のシートに坐りこんで疲れきった眼を入口にむけているしかない。 「アシュレイが見つからないことは、始めからわかりきっていたんだ」と弟がかれをはっとさせるほど反抗的な調子で低くいった。 「ああ」とかれは反撥《はんぱつ》し腹を立てていった。「それにしても、じっと家に坐って憲兵が来るのを待っているよりはいいだろ? それがおれたちを走りまわらせた理由だ」 「逃げ出したということだ、卑怯《ひきょう》だ。アシュレイのことを考えてるんじゃない」 「めそめそいうな」とかれはいった。  弟が憤然とくってかかってこようとした。かれは弟の疲れと埃《ほこり》に汚れている青い顔がひりひり痙攣《けいれん》するのをおっくうな気持で見ていた。憲兵が二人店に入ってきてかれらをたちまち黙りこませた。かれらは不安に喉をしめつけられた。  憲兵たちは怪《け》訝《げん》そうに口笛を鳴らしかれらをしばらく見つめていたが、平気で酒を飲みつづける菊栄がその緊張をといたらしかった。それに憲兵たちは酒を飲むことの他《ほか》に目的をもっていないようなのだ。そして陽気に飲みはじめ、時どき日本人のかれらを執拗《しつよう》にからみつく眼で見つめては厭《いや》がらせをした。 「ああ、背の低い日本人」と憲兵の一人が聞えよがしにいっていた。  酔ってしまっている菊栄がそれに口ごたえしようとした。かれは菊栄の膝《ひざ》をおさえつけていった。 「ここを出るまで黙っていてくれ」 「よしてよ」と菊栄はかれの手をふりはらっていまいましそうにかれを見つめながらいった。菊栄とかれとのあいだのきまずい感情はしこりになってかたまってきていた。 「子供みたいに小さい日本人が飲んでる」 「子供じゃない」と菊栄がいった。 「一緒に飲まないか、大人の日本人」と最初の憲兵がいった。「おれたちは気がめいっているんだ」 「出よう」とかれがいうのを無視して菊栄が立ちあがり酔いのためにふらつく足をふみしめて憲兵たちに近づいていった。 「わたしも気がめいっているのよ」と彼女はいい、たちまち憲兵たちの間の席へひきずりあげられた。 「おれたちは人殺しをしたところなんだ」と憲兵はいった。 「撃ち殺したの?」と菊栄がいった。 「撃ち殺したんだ」と別の憲兵が菊栄に酒をついでやりながらいった。 「脱走兵が自首しなかった?」と菊栄がいった。「人殺しの話よりそれを聞きたいわ」 「自首したよ」と憲兵が二人そろっていった。「新聞に出てたろ」  菊栄の体とかれらの体が硬直した。かれは弟があえぎはじめるのを聞きながら自分もあえいでいた。 「いったん自首して、逃げ出そうとしたんだから変ってるだろ」と憲兵はいった。 「それでうしろからズドンさ」と別の憲兵はいった。「おれが撃ったんだ」 「ああ」と酒の入ったコップを握りしめたまま菊栄が呻《うめ》いた。「ああ」 「そいつはふいに現れて、なにもいわないままふいに逃げたんだ。それをうしろからズドンさ」 「前にきた兵隊もそういってたわよ、新聞読んで嘘《うそ》いってるんでしょう」と酒場の女がいった。 「そいつをうしろからズドンとやれなかったから気がめいっているんだ」と憲兵はいった。「運が悪いよ」  弟が急激に立ちあがると嗚《お》咽《えつ》をおしころしながら酒場を駈《か》け出ていった。憲兵たちがびっくりしてそれを見送った。かれはぼうぜんとしていた。憲兵たちが後に残ったかれをうさんくさそうにじろじろ見つめはじめても、かれはまったくぼうぜんとしてじっとしていた。 「その男をつかみ出してよ」と菊栄がふいに発作のように頭をふりたてかれをふりかえって叫んだ。そして彼女はテーブルにうつぶせて肩を震わせながら泣きはじめ、それを兵隊が二人がかりでむりやり起させようとした。兵隊たちはその突然の怒りの対象が誰《だれ》なのかわからなくてはじめうろうろしていた。 「ああ、その人殺しを放り出してよ」 「出て行け、ジャップ」と気がついた一人がいった。 「ああ、ああ」と菊栄はほとんど狂ったように泣きわめいていた。「そのジャップの人殺しを外へつまみ出しておくれ」  憲兵たちはかれへ人懐《ひとなつ》っこい眼で愛《あい》想《そ》よく笑いかけながら声だけきびしくいった。 「出てゆけ、人殺しのジャップ、お前はおれたちの同胞じゃない」  かれはふいに自分が解放感にみちた、奥ふかい虚脱へおちこんでゆくのを感じた。かれの腕から限りない重荷がすべりおち、かれはまったく解放されていた。そしてかれは自分の体がすっかり泥まみれなのも感じているのだった。かれはふわふわする足をふみしめて立ちあがった。泣きながら口笛でもふきたいような気分だった。酒場の女は、勘定をはらおうとするかれに、菊栄を二人がかりで抱きしめている憲兵たちをあごで指し、手をふって優しくいった。 「出てゆけ、人殺しのジャップ、お前はおれたちの同胞じゃない」 (「中央公論」昭和三十三年九月号) 解説 江藤 淳   大江健三郎という作家をはじめて識《し》ったのは、一九五七年の六月頃《ごろ》である。ちょうどそのころ、「文学界」に批評を書きはじめていた私は、ある日、文芸春秋社の地下にある文春クラブで、焦茶《こげちゃ》の背広をややぎごちなく身につけた色白の少年を見かけた。ついぞ見たことのない特徴のある顔立だったが、彼はやがて編集者に軽く会釈《えしゃく》すると、こちらには見むきもせず、ひどく癖のある足どりで外に出ていった。あれは誰《だれ》だときくと、東大新聞の懸賞小説で一等になった大江健三郎という学生だという。大江はそのとき眼鏡をかけていなかった。 「死者の奢《おご》り」はその翌月、「文学界」の八月号に発表された。これは大江の文壇的処女作である。今読み返すと、処女作の通例にもれず、ここにこの作家のほとんどすべての主題の萌《ほう》芽《が》がかくされていることにおどろかざるをえない。だが、当時、大江はある時評家が評したように、もっぱら思想を表現しうる文体を持った新人と目されていた。ここでいう「思想」とはサルトル流の実存主義のことであって、「思想を表現しうる文体」を持つとは実存主義的認識をてぎわよく小説化した、というほどの意味である。しかし、私はそのことに感動したのではなかった。たとえば、「水槽《すいそう》に浮かんでいる死者たち」が、「完全な《物》の緊密さ、独立した感じ」をもっているということには格別の発見はない。作家は誰か《・・》の思想を小説化することなどできはしない。ただ、作者が兵士の屍《し》骸《がい》に託している屈折した抒情《じょじょう》、屍体処理のアルバイトが不可解な手ちがいから徒労におわるという背理にかくされた抒情は、かつてないすぐれた資質の出現を示していたのである。  このような抒情家の系譜には、たとえば安岡章太郎がいるし、川端康成がいる。事実、「死者の奢り」には、やや篤学《とくがく》な安岡章太郎をみるおもむきがなくもなかった。だが、大江の抒情は、周囲をとりまく悪意にみちた世界に屈伏せず、かえってそれに激しくつきあたろうとしている点で、過去のどの抒情家のそれとも異質であった。このような抒情は新しい文体を要求する。大江の文体が論理的な骨格と動的なうねりをもつのは、このような事情によっている。 「他人の足」は同じ月の「新潮」に掲載された。観念的な饒舌《じょうぜつ》がないだけに、この作品は短篇《たんぺん》小説としてかえって「死者の奢り」よりすぐれているといえるかも知れない。とにかく、大江健三郎はこの二作によってまれにみる才能の持主であることを立証し、「パニック」によって注目されていた開高健とともに、久しく沈滞していた文壇に新風をもたらす存在であることを認められたのである。いわばこの二人を中心にして新人の時代がはじまったかのようであった。この新人の時代は、一年後に大江が「飼育」によって芥川賞をもらうまで、つづいたといえる。 「飼育」については個人的な記憶がある。その年の暮、座談会の速記に目を通すために文芸春秋社にでかけた私は、かなり長い小説の校正刷を示された。なにげなく二、三頁《ページ》をくるうちに、そこにくりひろげられている豊饒なイメイジや奔出してつきることを知らぬ才能にひきいれられ、私はついにそれを持ち帰って熟読するにいたったのである。それが「飼育」であって、大江の才能はこの作品によってはじめて完全に開花したということができるだろう。ここには「死者の奢り」の観念的なわく組み《・・・・》がなく、そのかわりにたとえばピエル・ガスカールをたくみに転調したみごとな文体がある。このような残酷な話を、かくも豪奢《ごうしゃ》な美のなかに展開させることのできる作家はどのような人間であろうか、と私はいぶからずにはいなかった。というのは、これは、空から降りて来た黒人兵を牛のように飼い、彼との間に牧歌的な関係を結んでいた少年が、突然兵士の囚《とりこ》にされ、愛する《牛》を自分の手とともに父の鉈《なた》でたたきつぶされるという話だからである。主人公は、最初次のようにいう少年である。 《僕《ぼく》も弟も、硬い表皮と厚い果肉にしっかり包みこまれた小さな種子、柔かく水みずしく、外光にあたるだけでひりひり慄《ふる》えながら剥かれてしまう甘皮のこびりついた青い種子なのだった。そして硬い表皮の外、屋根に上ると遠く狭く光って見える海のほとり、波だち重なる山やまの向うの都市には、長い間持ちこたえられ伝説のように壮大でぎこちなくなった戦争が澱《よど》んだ空気を吐きだしていたのだ。しかし戦争は、僕らにとって、村の若者たちの不在、時どき郵便配達夫が届けて来る戦死の通知ということにすぎなかった。戦争は硬い表皮と厚い果肉に浸透しなかった。最近になって村の上空を通過し始めた《敵》の飛行機も僕らには珍らしい鳥の一種にすぎないのだった。》  しかし、すべてが終ったのち、彼は、 《僕はもう子供ではない、という考えが啓示のように僕をみたした。兎口との血まみれの戦、月夜の小鳥狩り、橇あそび、山犬の仔《こ》、それらすべては子供のためのものなのだ。僕はその種の、世界との結びつき方とは無縁になってしまっている。》  というのである。いわばこの作品のなかで「戦争」と主人公の内的な成長がフーガを奏していて、それが父の鉈の一閃《いっせん》で合致したということもできるだろう。倫理的にいうなら、黒人兵を屠《と》殺《さつ》し、「僕」の指を砕いた鉈は、作者のアンファンテリスムからの訣別《けつべつ》の意志の象徴をなしているのである。 「飼育」は「文学界」の一九五八年一月号に発表されたが、以後半年の間は大江にとって「歌の季節」のようなものであった。彼は、「人間の羊」(「新潮」二月号)、「鳩《はと》」(「文学界」三月号)を書き、「群像」六月号にははじめての長篇「芽むしり 仔撃ち」を試みて、ほとんどあらゆる流派の批評家の讃《さん》辞《じ》をほしいままにした。そのころ出版された第一作品集『死者の奢り』の跋文《ばつぶん》によれば、これらの作品を通じての一貫した主題は、「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考えること」であったという。ここでいう「監禁状態」とは、時代的にいえば一種の閉塞《へいそく》状態であり、存在論的にいえば「社会的正義」の仮構をみぬいたものの一種の断絶感である。この二つが二重写しになっているところに、いわば大江健三郎の作品の独創性があるので、このような作者がのちに若い世代の代弁者の役割をひきうけざるをえなくなったのもあながち無理ではなかったのである。 「人間の羊」はこのことを端的に示した作品であって、主人公のアルバイト学生は、社会正義を楯《たて》にとって、彼がバスの中で米兵からうけた屈辱を公開するように迫る教員と決定的に対立している。この対立の鮮明さは、寓《ぐう》話《わ》的な印象をこの作品にあたえているが、これをたとえば原爆の被爆者と原水爆禁止運動との関係にひきなおして考えてみることも可能だろう。この佳作をつらぬいているのは、作者の傍観者に対する嫌《けん》悪《お》と侮《ぶ》蔑《べつ》である。 「芽むしり 仔撃ち」は大江の第一期の創作活動にかがやかしい終止符をうつ作品であった。これと同じ月に書かれた「見るまえに跳べ」(「文学界」)以後、彼は一層今日的な主題を追って現在にいたっている。「不意の唖」(「新潮」五八年九月号)、「戦いの今日」(「中央公論」九月号)は、「喝采《かっさい》」(「文学界」九月号)とともに、芥川賞受賞の翌月に発表された。この月、大江健三郎はまさに若冠よく文壇を席巻《せっけん》しつくすといういきおいであった。しかし、同時に、彼はこのときからいつおわるともない作家生活に進んで身を投じたのである。文春クラブでかいまみた少年作家は、「もう子供ではなかった」のである。 一九五九年八月 志賀高原にて