黒森物語 大嶽洋子 [#表紙(表紙.jpg、横100×縦145)] もくじ   一 湖の里の章   二 楠の木のおばあの章   三 旅立ちの章   四 菜の花一族の章   五 森の章   六 洗濯女の章   七 山うばの章   八 鳥のおばばの章   九 かくれ谷の章   十 むかし語りの章  十一 放れ熊の章  十二 影法師《かげぼうし》の章  十三 夢の衆《しゆう》の章  十四 帰郷の章 [#改ページ]     一 湖の里の章  日はのぼっていました。  猟師の源太の舟は、静まりかえった山の影をかすかにゆらしながら進んでいきます。なぜか、湖にはほかの舟影が見えません。強い風が吹いてきました。うす紫のもやの中から村があらわれ、そしてまた、写し絵のようにすうっと消えていきます。  源太は舟をこぐ手をとめると、ゆだんのない目つきで、湖岸の自分の村のあるあたりをながめました。何かようすがちがいます。犬のユージンも、ひくいうなり声をあげながら鼻面を風にむけています。さっきまで背中を気持よくあたためていた朝の陽ざしも、岸に近づくと心なしか光を弱め、不思議なもやの色はあたりの光をにぶくすいこみながら、うす紫から青に、そしてうす紅《くれない》へと変わっていくのです。 「いったい、何が起こったんだ……」  遠く人里はなれた山の中で、めずらしいものにたびたび行き会っても、あまりおどろいたことのない源太ですが、見なれたなつかしい自分の村が、急にまぼろしの里のように姿を変えたのを見ると、ぞっと鳥はだの立つ思いでした。この半年のあいだ、深い森と湖でけものを追いかけて暮らした五感はするどく、どんよりとした波間を伝ってわたる風の中に、じゃこうのような強いにおいをかぎわけました。いつもなら、湖もこのあたりに来れば、村のほうから吹きつける風にまじって、木の燃えるにおいや、のんびりとした牛や鶏の鳴き声が聞こえてくるのですが、まるで人の気配がないのです。 「ユージン、おまえ何かわかるか……」  源太は不吉な胸さわぎを静めようとして、犬の耳にささやきました。犬は耳をピクッとふるわせ、うなり声を強めました。源太はもやをすかし見ながら、舟を入江のほうにむけました。枯れたアシのそばにじっとうずくまっていた水鳥が二、三羽、おどろいたように水をはねちらして場所をうつしました。船着場を手前にはずして、深い入江になった森の岸辺に舟をつなぐと、源太は、しっぽを巻いて舟の中にすくんでいるユージンに声をかけました。この奥にある自分の家まで、歩いて一|町《ちよう》ほどの道のりですが、まるで見知らぬ森の中にでもふみこんでいく気分になり、鉄砲をにぎる手にひとりでに力がはいります。  舟をおりると、じわっと濃いもやが疲れた体を包みこみました。もやは首すじから背中へ、そして傷だらけの足もとにしのびこみ、気味のわるい夢の中にでもひきずりこまれるような、深い眠気《ねむけ》さえもよおすのです。 「いかん」  いつのまにか額《ひたい》にびっしりと汗をうかせた源太は、大きく息をつくと立ちどまりました。 「お父、お父か……」  だしぬけに、かん高い少年の声が船着場のあたりから呼びかけました。 「りゅうか……」  源太の答えるよりはやく、ユージンが一声吠えるとかけだしました。  源太は、長い猟のあいだの獲物の皮の束や、薬草の包みを肩にかけなおすと、声のほうにゆっくりと歩きだしました。森の木立は、もやの中でゆうれいのように息をひそめ、むすこの声はなぜかもう聞こえません。先に立ったユージンがはげしく吠えはじめました。 「りゅう、りゅう、どこだ。どうしたんだ、いるのなら返事をしろ……」  声をすこし荒げながら、ユージンの吠えたてるほうへと足をはやめました。 〈もうかくれんぼをして遊ぶ歳でもあるまいに……〉  いつ帰ってくるかもわからない自分の舟を待って、船着場にいたらしい少年の心も考えないで、源太はただ舌うちをしたい気持でした。見おぼえのある着物を着た少年が、枯草の上にたおれていました。 「どうした、りゅう、……」  源太はあわてて荷物をおろすと、顔をふせたまま立ちあがろうとしないむすこの肩に、手をやりました。陽がぼんやりと照っているとはいえ、もうはだ寒くなったこの季節に、りゅうはまだうすい単衣《ひとえ》の着物を着て、そのうえ体は火のようにほてっているのです。血の気を失ったりゅうの顔を見ながら、源太は、何がなんだかわからなくなりました。 「ひどい熱だ……。それにしてもこのりゅうのかっこうは……いったい村の者はどうしたんだ……あれほどりゅうの世話をたのんでおいたのに……。りゅうもりゅうじゃ……家で寝てればいいものを……」  つぎに出てこようとするこごとをさすがにぐっと飲みこんで、包みを持ちかえると、源太は、りゅうを背中におぶいました。 「お父、やっぱりお父、帰ってきたんじゃな……」  熱い手でぎゅっと父親の肩をつかむと、りゅうは安心したようにぐったりと背中にもたれかかりました。たよりなげなそのしぐさに、ふと源太は、歩きはじめたばかりの小さいころのりゅうのことを思いだしました。湖をこぎわたって帰ってくる源太の舟を、櫓のきしり方からか、何からか、とにかく一度もまちがえずにあてることができると、女房のやえが得意げに話したものでした。 「あのころは……」  源太は汗のういた顔をぬぐいもせず、一歩一歩もやの中を歩きながら、ねむっているりゅうが、まるで十年も前の赤んぼうであるかのように話しかけました。 「あのころは、わしの舟が見えるか見えないうちにおまえは両手をふりながら、『とう、とう』と呼びかけたもんじゃった。一度なんぞははしゃぎすぎて、湖へ落ちこんだこともあった。おまえとユージンが大さわぎをしながら家へ帰ると……やえが風呂をわかして待っていて、やえとおまえの笑い声が家じゅうにあふれているように思えたもんじゃった。ひさしぶりにおまえと風呂にはいって……あがると酒の用意もできておった……」  源太は、りゅうの熱が自分の体にもじっとりとしみこんでくるような熱さを感じながら、やがて家の前に立ちました。  ドサリと包みを投げだすと、源太はのろのろと重い家の戸をあけました。冷たいほこりくさいにおいが顔を打ちました。        ○  源太はもう一昼夜、りゅうのそばをはなれず看病していました。いろりにはパチパチと火が燃え、薬草が、かまの中で音をたてながら煮えたぎっています。源太は薬湯をりゅうに飲ませ、そのたびに汗にぬれた体をふいてやります。部屋の中はうす暗く、ここ何日も煮たきをしたようすのないかまどの上に、だれかにもらったらしい土のついたままの芋がころがっています。柱時計は振り子がとまり、すすをかぶって黒く光っている天井には、りゅうが釣って干したらしい川魚が十数ひき、ぶらさげてあります。 「おっ母、おっ母……」 「また、うわごとか……」  源太は、うかしかけた腰をぐったりとおろすと、いろりの火をながめました。どうしても、思いは七年前に黒森へはいりこんだままになった、妻のやえのことへと、帰っていきます。 「すぐに冬じゃ……」  黒森の奥には、もうひっそりと雪がおとずれているころです。  この湖の里の背後にそびえる経《きよう》が峯《みね》と、その尾根つづきの七つ森山との奥に広がる、うっそうとしげる原始林にかこまれた山が、黒森と呼ばれておりました。周囲の山々が頂《いただき》をいつも霧の中にとざしているのとはちがって、黒森は、それらの高い山々の影をうけて黒いコウモリのようにたたずんでいて、その山のようすは、晴れた日には里のほうからも望むことができました。  黒森は、ふつうの山では見られないようなめずらしい美しい花々がさきみだれ、よく熟《う》れた木の実がたわわにみのる、ゆたかな森でもありましたが、一歩そこへ足をふみ入れた者は、どこからともなく吹いてくるはげしい風の音に方向をまどわされ、森じゅうをまよい歩いて死んでしまうのだと、むかしからいい伝えられておりました。うっかり黒森の近くまで行った腕ききの猟師の中にさえ、森の中からかすかにひびく楽《がく》の音《ね》におびえて、ほうほうのていで里へ逃げかえり、その後は半病人のように暮らしている者もいるのです。  こんなふうにむかしからいわくつきの山でしたが、そのうえ今までこの湖の村では、生まれたばかりの赤んぼうをなくした母親や、愛する人を失って身もはりさけんばかりの悲しみを持った男や女たちが、ある日とつぜん、何か美しい音が聞こえるとか、自分を呼んでいる声がすると口走り、はたの者のとめるのもふりきって、強い力にたぐりよせられるように岩をよじのぼり、黒森にはいりこんで、その後は行方《ゆくえ》知れずとなることがたび重なったために、いっそうおそれられておりました。人間の身にあまるような強い悲しみを持つ者がいると、黒森にすむ山の精《せい》が笛を吹いたり、人間の声のまねをして呼びよせるのだという迷信が、いつのまにかできあがっていたのです。そして、村の人たちは、黒森に行った人のことは、もともと村にはいなかったかのように、ふっつりとしゃべらなくなります。  源太は、ふとまぶたをとじました。目のうちには、はれやかにわらうやえの姿がまざまざとうかびます。「赤子《あかご》の声がする」と急にわらいだした、あの日のやえの顔です。そしてその顔は、おのおのの目に冷たいものをひそめて、口では残された者をなぐさめてくれた村の人の顔と入れかわって、ふっと遠ざかります。  源太は重い息をつくと、気分を変えるために新しいたきぎをとろうと戸口に立ちました。ちょうどその時、「ホウ、アカウ、カア、カア」という、とてつもなく大きいカラスの鳴き声を聞きつけました。  戸をそっと細目にあけた源太は、「シイ、シイッ」とひくくしっかりした声でカラスを追いはらう人影を見ました。カラスはとても里では見られないような大ガラスで、子どもの背たけほどもある大きな羽をバサッバサッと闇にうちふるわせながら、奇妙な鳴き声をあげています。 「なんと……床屋じゃないか……」  足が不自由なようすから、村の床屋の赤次《あかじ》らしいと見た源太は、呼びとめようとして、のどまで出かかった声をかみころしました。あたりをはばかるような床屋のようすには、何か声をかけることをためらわせるものがありました。やがて大ガラスは、人の気配をすばやく察したのか、サッと空高く舞いあがっていき、人影も闇にまぎれました。 「いったい……この里はどうなってしまったのじゃ……」  朝のうちに割っておいた大きな薪《まき》を四、五本かかえこむと、源太は、ついてきたユージンにひとりごとをつぶやきました。        ○  つぎの日もまたつぎの日も、奇妙なもやはなくなりませんでした。もやは、死んだ魚のはらのようににぶい真珠色の光を放ちながら、ぼんやりとあたりをおおっていました。  源太はどこへも出かけず、じっとりゅうの看病をしていました。もともと無口の源太は、やえが黒森へ行ってしまってからは、村人の目さえさけるようになっていましたが、それにしても解せないのは、自分が留守のあいだ、なぜ皆がりゅうのことを放っておいたのかということです。源太はぜいぜいと息苦しげなむすこの顔を見ながら、ぎりぎりとこぶしをひざに押しつけました。  村にもどってきて三日目の朝のことでした。遠慮《えんりよ》がちに草をふみしだく音がして、だれかが家の前に立ちました。  源太は、うなり声をあげるユージンをおさえると、すばやくかんぬきをはずして、戸をあけました。そこには庄屋《しようや》の国《くに》はんが、粉をふいたような青白い顔で立っていました。ものもいわずにらみつける源太の態度に、国はんは気弱く目をふせると、手に持った食べ物らしい包みをいじくりはじめました。 「そんなところにつっ立っていないで、はいったらどうじゃ……」  タローはんは、ぐいと国はんの手をひっぱりました。 「な、何をする。わしは何もしておらんぞ……何じゃ、そのいいようは!」  国はんはよろけて土間にしりもちをつくと、だれかの助けでも求めるように、きょろきょろとあたりを見まわしました。 「国、どうしたんじゃ、おしえてくれ、いったい、村に何が起こったんじゃ……」  源太のけんまくに押されてすわりなおすと、国はんは話しはじめました。  そんなにぎゅうぎゅう胸をつかむと、く、く、苦しいんじゃから……はなしてくれ……。わしにもいったい何が起こったのかようわからん。わからんけど……とにかくいろんなことが変わってしもうたのじゃ。最初は何もかも、夢の中のことのように、うまいことになったと思っとった……。  おまえが出かけてから、三月もたったころじゃったろうか……。山うばが山からおりてきて……わしの家へ来たんじゃ。く、苦しい……腕をはなしてくれ、う、うそじゃない。ほんとうに来たんじゃ。おまえだってもう、この村が、妙なぐあいになってきているのに気がついとるじゃろうが。  山うばといっても、はじめは十五、六の、牛のようにずんぐりした娘のようすで、家の柿の実をすずなりにしてみせたり、枯井戸からうまい清水をわきださせてみたり、座敷にいっぱいごちそうの膳《ぜん》をならべて酒をすすめてくれたりしたんじゃ。最初はこわがっていた村の衆《しゆう》も、山うばが、カラカラと大きな声でわらいながら体を大きゅうしたりするのを見ているうちに、何だかめずらしい、何でも願いごとを聞いてくれる大袋かなんかを、見ているような気になってのう。……わしとこの座敷に一人あがり、二人あがりこみ……その晩から十日あまり、村あげての酒びたりじゃ。  その時にのう、酒に酔っぱらった床屋の赤次が、じょうだん半分に、うたたねをしておる山うばの髪を、短《みじこ》うかりとってしもうたんじゃ。あんまり山うばの髪がむさくるしいんでの、床屋は、つい手がのびたんじゃろ。この村じゃ、みんな、盆暮《ぼんくれ》にしか床屋に行かんもんで、指先がむずむずしとったことは事実じゃが、何かこう、目に見えない、妙な力にひきこまれるような気持じゃったと、あとから床屋がいっとった。  床屋は、はじめほんの一ふさかりとったと思ったらしいが、その一ふさが山うばの体をはなれたとたんにのう、待て、……うそじゃないぞ、ほんとのことじゃから。村の者みんなが証人じゃ。まるで黒い川かなんぞのように、するすると髪がのびだしての、わしとこの座敷から縁のほうへと、流れだしたんじゃ。  ……わしらは、酒のせいで目がおかしゅうなったんかと思って、ぼんやりそのようすを見とったのじゃ。床屋は、もう何かこう、つきものでもついたような感じでの、わき目もふらず、まるで五つ六つの子どもの頭のように、山うばの髪をかりとってしもうた。……その時はのう、もうむちゃくちゃじゃ。髪はするする、するする、妙なにおいをたてながら座敷じゅうをはいまわり、わしらみな、山うばの髪の中に埋まってしもうたのじゃ。  すっかり酔いのさめてしもうたみなは、何とかしてもらおうと、ゴウゴウと大いびきをたてて寝ている山うばをたたいたり、つねったり、けったりして起こそうとしたが、びくとも動かんのじゃ。髪といってものう、大きな松葉のように、チクチクと体じゅうさすわ、重いわ、妙なあまったるいにおいはするわで、みなふらふらになってしもうたのじゃ。そのぎょうさんの髪をのう……聞けや……とにかく村の衆みなで、座敷の外へほうりだしたんじゃ。するとどうじゃ。お天道《てんとう》さまの光をあびると、髪は虹かなんかのように、ぬめぬめと光りながら色を変えて、この強いにおいのするもや[#「もや」に傍点]になってしもうた。  それからは、何ぞ山うばの髪の精のようなものが、わしらの村の空気の中に残ってしもうて、いつまでたっても、ぼんやり霧がかかったままじゃ。  かんじんの山うばは、それからまた十日ばかり、ゴウゴウと大きないびきをかいてねむっとったが、目がさめたときは、ほんまに見ものじゃった。最初はのう、体じゅう、まるで氷の中にでもつめられたようなかっこうで、ガタガタふるえだしたんじゃ。「さむい、さむい」いうてのう。そいで、しきりに自分のまわりの空気を手さぐりしては、何かを巻きつけるようなしぐさをしておったが、そのうちはっきりと目がさめたらしい。 「何をしたんじゃ、おまえらはわしの髪に何をしたんじゃ」といいながら、自分の頭に手をやると、オウオウと大声をあげて泣きだした。  床屋は、色を失ってかしこまってすわっておったが、わしが合図をすると、自分のしでかしたことを説明したんじゃ。山うばは、あのどんぐり目にピカピカといなずまのような青い炎を走らせると、口をくわっとあけて、床屋につかみかかった。それがもう、こわいのなんの……。赤い着物なぞ着ておったんじゃが……かのこしぼりの帯あげをだらりとたらしての……いつのまにやら、顔は、しわだらけのきついおばばの顔に変わってしもうて、短《みじこ》うかられた髪がまっ白で総立《そうだ》ちになっておるんじゃ。  覚悟ができとったんじゃろう、床屋は、まるで虎の牙の前にすわったようじゃったが、あいつ、見かけによらず肝《きも》っ玉があるんじゃのう。山うばにとって食われる前に一言、 「そないいうたかてな、そないいうたかてな、わしは今のあんたはんの髪型のほうが、ずっとよう似合《にお》うてはる、あんじょうかれてると思います」 と、やけくそみたいにどなって目をつぶったんじゃ。  かわいそうでも、山うばは相手にできん。わしらはみな、かたずをのんで山うばを見ていたんじゃ。中にはもう、おだいもくをとなえている者《もん》すらおったんじゃ。  山うばの態度が急に変わった。くわっと上にさけた口が、ダラッと下に落ちたように見えたが、床屋が色のない紙のような顔でヒクヒクのどぼとけを動かしているのをひょいとつかむと、自分の目の高さまで持ちあげた。そして聞いたもんじゃ。 「おまえ、ほんとうにそう思うか、わしの髪のかっこうは、ようなったか。わし、きれいになったかや」  虎が猫に変わったような感じで、山うばは床屋に聞いた。床屋は、例の青光りするような目をうっすらあけると、 「そうじゃ……その髪のほうがよっぽどええ、ずっとよろし」 と大声でいったんじゃ。そいでそのころには、こっちも事情がちょっと飲みこめてきたのでのう。村の衆みなで、 「そうじゃ、そうじゃ、そのほうがよっぽどええ」 と声に力をこめていったのじゃ。まったく女というやつは、いくつになってもかわらんもんじゃの。山うばは、そわそわと髪に手をやったりしておったが、そのうち、もう座敷じゅうのだれも目にはいらんようで、わしとこのうめ[#「うめ」に傍点]の鏡をひっぱりだすと、わらってみたり、すましてみたりして、自分の姿に見入りだしたんじゃ。むかし、ばあさまが、山うばは頭の後ろにも目がひとつあるというとったが、あれはほんとうじゃのう。山うばは手でひょいと髪をかきわけると、首ひとつ動かさずに、自分の後ろ姿に鏡をあてて見ておったからのう。それから急に、うれしそうにわらいだすと、 「ほんとじゃ、こっちのほうがずっとええ」 と鏡をほうりだしていったのじゃ。  そうしたらもう、今度は床屋のほうが、命のせとぎわで助かったというのもけろっとわすれての、ひざをのりだすと、 「山んばはん、わしの願いもひとつ聞いておくれやす」 というたんじゃ。山うばは、今までとちょっとちごうて、すましたような、ひきつったような笑顔になると、 「何でも」 と、床屋にいった。床屋は、 「わしのハサミとカミソリにちょっとまじないをかけて、だれでもわしが髪をかりまひょ、というたら、ことわれんようにしておくれやすな」 といったのじゃ。床屋は、商売があんまりひまなのを、いつもなげいておったからのう。 「お安いご用じゃ」 と山うばがいった。じゃがのう。床屋はそんなこと、たのんでもしょうがなかったのじゃ。何千年か何百年か知らんが、だいぶむかしからすこしずつのびてきた髪の中には、いろんな不思議や魔法の術がしまってあったのじゃろ。その長い髪を切りとられてしもうた山うばは、もう、山うばの力を失うてしもうたらしい。  ……それはのう、だいぶあとになってわかったんじゃが、そのとうざは、床屋はちょっとしたもので、みな先をあらそって髪を切ってもらったくらいじゃったから、だれもかれも、山うばの術を信じていたんじゃが。そのうち、いくら床屋がかりまひょといっても、わしはかりとうないといえることがわかったんじゃ。それでも妙なことに、西《にし》の屋《や》の隠居《いんきよ》や寺の坊さんなぞ、頭に一本の毛もない連中だけは、床屋がカミソリかざして人にすすめているのを見ると、妙な気になって、ない頭の毛がむずむずして、髪をかりとうて、かりとうてかなわんそうじゃ。  山うばは、今でもカエルをバッタに変えたり、蝶《ちよう》を小さな虹に変えたりぐらいのことはやってみせるが、あとはもう、何にもまともにはできんのじゃ。何かこう、わすれっぽいばあさんのようになってしもうての。今朝も、 「ほうれ、これ見ろ。庭の石でざくろ石をつくったぞ。きれいじゃろが」 といってわしらに見せたが、もうその舌の先のかわかんうちに、すももかなんかのようにパクリと食べてしもうての。それで、うちのやつに、 「何じゃ、うめ。このまずいすももは。のどのところで、魚の骨みたいにギラギラとあばれまわるわ」 と文句をいっとるんじゃ。山うばは、自分ではまだ術が使えると思うていての、それでときどき、まぐれあたりにひょいと使えたりするもんじゃから、あぶのうてしょうがない。このあいだも大工の孫が山うばの持っているあめを三つほどとったというて、あぶないところで豚に変えられるところじゃった。もし変えられたりしてみろ。もとの人間に返すまじないを山うばが思いだすまで、じっと豚でいなけりゃいかんからのう。それで、ひとりでほっとくのは、あぶのうてしょうがないので、わしとうめが交替《こうたい》で、山うばにつきっきりじゃ。ほいでも、うめは、飯のしたくやら洗濯やらとかいって、たいていはわしが山うばの守《も》りをさせられる。じゃが、りゅうが病気で、おまえが狩りから帰ってきたというんで、こうしてちょっとひまをもらって、たずねてきたんじゃ……。もう、そりゃ、山うばの世話はたいへんでのう……。  国はんは、やせこけたほおのあたりをごしごしとなで、 「それにのう、このもやのおかげで、牛は乳を出さんし、鶏もたまごひとつ産まんようになってしもうた。家畜だけじゃない、村の衆の中にも、頭がいたむの、耳なりがするのと、苦情をいうものがふえて、昼ひなかから家ん中でごろごろうたた寝ばかりするものがふえてきた……こんなようすが長《なご》うつづくと……これはもう、えらいこっちゃ……」  国はんは、大きなため息をひとつつくと、肩を落としてだまりこみました。 「そうか……そういうことじゃったのか……それにしても国、りゅうのことじゃが……。どうもただの風邪とも思えん。何か心になやむことがあるらしゅうての……。おまえ、何ぞほかに、わしにかくしとることがあるんじゃないか……」 「そ、それは……」  国はんは、ビクッと肩をふるわすと、あわてて立ちあがりました。 「えらい長居をしてしもうた。そうじゃ……わしは楠《くす》の木《き》のおばあからのことづけを持ってきておったのに、うっかりわすれるとこじゃった。おばあが、おまえが帰ってきておるようなら、はよう会いたいというておった……。山うばのことも……このもやのことも……それにりゅうのことも、楠の木のおばあなら……くわしゅう話してくれるじゃろ……ほなら……わしはこれで……」  国はんは、食べ物の包みをそっと源太のほうへ押しやると、逃げるように家をとびだしていきました。 [#改ページ]     二 楠の木のおばあの章  楠《くす》の木《き》のおばあは、この村に古くから伝わるひも結びの商《あきな》いをしていました。ひも結びの商いというのは、つぎつぎにいろんなむずかしいひもの結び方を考えたり、とき方を考えたりしてそれを売るのです。人にさわられたくない秘密を持った人は、結び方のひとつを買ってそれを習いこんだうえで、つぼなり箱なりに秘密をしまいこみ、ひもを結びます。また、人の秘密をさぐりたい人は、反対に楠の木のおばあにたのんでその結びをといてもらうのです。でも近ごろでは、実際にひもを結んだりといたりするよりは、むしろ、楠の木のおばあが長いあいだの修業《しゆぎよう》のうちに見つけた知恵と丹念《たんねん》さで、人のあいだに起こったいざこざ、もつれをといてもらうほうが多くなりました。この村はもとより、時にはうわさを伝えきいて、遠くの村からも、おばあをたよりに来る客もあるのです。  ともかく、楠の木のおばあに会ってみようと心に決めた源太は、手ぬぐいに香草《こうそう》を包みこむと、鼻をすっぽりとかくして、首の後ろで結びました。こうすれば、あのあまったるいにおいにやられることもないと考えたからです。ユージンは、主人が出かける用意をするのをじっと目で追っていましたが、「来なくてもよい」という合図をされると、ほっとしたように首をたれて、目をつむりました。たちこめたもやのせいで、犬にとっていちばんたいせつな嗅覚《きゆうかく》がどうにかなってしまうのでしょう。すこしでも外の空気をかぐと、人間以上にくたびれるらしく、その後はよだれを出してねむりこけてしまうのです。  楠の木のおばあの家には、軒先から部屋の中までも、色とりどりの布に包んだしょうのうがぶらさげてありました。暗いひんやりとした家のうちには、鼻緒《はなお》のとれたげたの片方やら、針金のまがったもの、折れたくぎなどが、所せましとばかり積みあげられています。楠の木のおばあは、いつも身なりもきちんとし、節季時《せつきどき》につくるおすしやおはぎは、村のみなが「ほっぺたが落ちるような……」と感心するくらい、料理もじょうずでしたが、ただひとつできないことは、家の中をかたづけることでした。なにしろ、楠の木のおばあにとって「ものはすてるところがない」というのが口ぐせでしたし……、また、「楠の木のおばあの家へ行けば、すてたものがかならず見つかる……」というのも、村の者なら四つや五つの子どもでも知っていることでした。村の中を歩いていて目につくごみは、ぜんぶひろって持って帰り、家の中に積みあげておくからでした。  さて、いきごんで戸口に立った源太は、のんびりと火鉢をかこんでいる楠の木のおばあの後ろ姿を見ました。  木の火鉢の中には炭の火がほのあかく、黒い網の上にはかきもちが二つ三つのっています。 「おすわり、よう帰ってきたな」  長い火ばしで炭を器用につぎたすと、楠の木のおばあは、ふり返りもせずにタローはんにいいました。 「おばあ、もちはできたか」  急に、暗闇《くらやみ》からぬっと手がのびたかと思うと、まだかたいもちのかけらをとった者がいます。源太がぎょっとして目をこらすと、暗い部屋の片隅《かたすみ》の、黒い塗りのタンスによりかかって、髪を子どものようにおかっぱにした老姿がひとり、足を投げだしてすわっています。 〈まるで森のけもののようじゃ。人の気配がない〉  源太は、わきにじっとりと汗が流れるのを感じながら、鉄砲を家に置いてきたのを、後悔《こうかい》しました。手ごわい敵を追いかけて、ふと深い森の中で見失った時のように、追っ手が追われる者に変わった時の不安と緊張が、いやおうもなくの体をしびれさせるのです。 「山んば、そのもちはまだよう焼けてないぞ」  楠の木のおばあが、のんびりといいました。 「ええよ、もう食ってしもうた」  大きいあくびをひとつすると、山うばは源太をちらっと見て、ゴロリと横になり、向こうをむいてしまいました。源太には、その声は、はじめて聞く声ではありませんでした。深い山や谷の奥で、葉ずれの音や風にまじって、ふといため息のようなこの声が歌をうたったり、話をしたりするのを、たしかに聞いたことがあると思うのです。いいや声ばかりではありません、山うばのぎらりと光ったひとみにも、たしかに見おぼえがありました。時ならぬ雨と風におどろいて見あげた高い千年杉の木末《こずえ》に、赤い星のようなひとみが、同じようにおびえて空を見あげているような気がした時もあります。どれもこれも、森の仮寝《かりね》の夢のようにおぼろげでしかありませんでしたが、今こうして、ほとんど息づかいさえ見せずに、部屋のすみにひっそりと寝ている山うばの姿を見て、源太は、それをはっきりと思いだしたのです。 「まあ、すわれ、源。山うばは、わしのついたもちがすきでのう。今も食べにきているところじゃ、べつにおまえをとって食おうというわけじゃない」  顔をこわばらせて、身がまえて立っている源に声をかけると、楠の木のおばあは、源太の手に、子どもの時からよくそうしてくれたように、ほのあまい香りのかきもちをのせてくれました。 「りゅうのあんばいはどうじゃ。四、五日前に見かけたときには、顔色がわるうて……虫でも起こしたのじゃないかと心配しておったんじゃが」  楠の木のおばあは、自分でもひとつかきもちをとると、食べるでもなし、何か思案顔《しあんがお》にながめながら、たずねました。 「わるい。何ぞ心の中に心配事があって、わるい夢ばかり見ているようじゃ。それでうわごとばかりいうての」 「かわいそうにのう。お母がおらんようになってからは、子どもなりにも苦労つづきじゃもの」  楠の木のおばあは、長い火ばしをぎゅっと灰につきさすと、源太の顔をあらたまって見ました。 「源、おまえにわざわざ来てもらったのは、ほかでもない、黒森にかかわりのあることでな……」 「黒森に……」  源太がおどろいて短く問いかえしたのと同時に、すぐそばで、まるでけもののようなうなり声が起こりました。 「ううっ」  山うばが、全身を、何か目に見えない敵と戦うかのように身がまえながら、必死に頭の上の闇をまさぐりはじめたのです。 「静かに、山うばは、時おりああやって、何かだいじなことでも思いだそうとするように苦しみだすんじゃ……それがどうやら、黒森のことなんでの……」  楠の木のおばあは、手のかきもちをそっとひざに落とすと、源太の顔を見つめました。 「黒森のこと……」  源太は、胸のうちにくぎでもさしこまれたように、低くつぶやきました。 「源、まずこれを見てくれ……」  むっつりと考えこんでしまった源太のようすにも気づかぬように、おばあは、火鉢の横に積みあげているがらくたの中から、細長い紙包みをとりだしました。 「これは、この楠の木の家にむかしから伝わる紙包みじゃが、中には一ふさの髪の毛がはいっておっての。なんでもわしのおばあのそのまたおばあのころに、この湖の里をかこむ五つの山が、見るもみごとに紅葉《こうよう》しての。そしてそれは雪ふる冬になっても消えず、春になるまで紅葉がつづいた年があったそうじゃが、その紅葉の年に、まるで大風にでも吹きよせられたみたいに、家の楠の木にぶらさがっておった髪じゃそうじゃ。その妙な年こそは、深い山奥で、山うばの身に何ぞ変わったことがあった証拠じゃと、土地の古い者たちはいいつのったそうじゃったが……。まあ、何ぞの記念にと、軽い気持で、その時のばあさまがとっておいたそうじゃがの……」  おばあは、しょうのうくさい紙の中から一束の長い髪の毛をとりだしました。その髪の毛は、複雑に入りくんで、ところどころ枝わかれしたり、白髪《しらが》もまじっています。 「そんなふうにいい伝えられて、たいせつにしまっておいたこの包みを出してみる気になったのは、どうも、このあいだの山うばの一件があってから寝つきがようない、ややもすると、この髪の束のことばかりが頭にうかぶのじゃ……。わしは、床屋が髪を切るところは見なんだが……髪を切られる前の山うばの髪を見ておる。じゃから、これは、ここにいる山うばの髪ではないのはすぐわかった。気になるのは、……ほれ、この髪にこもっておる、強いにおいじゃ……」  楠の木のおばあは、髪の束を、源太の鼻先につきだしました。 「これは……あのもやのにおいと……」 「そうじゃ、同じにおいよ。深い山のにおい、陽にあたためられたけものの汗のにおい、シダや苔や山モモや小鳥の糞《ふん》のまじったようなにおいじゃ。これは、あたりまえの女の髪のにおいじゃない……とすると、この髪のいわれから考えても、先代の山うばの髪と考えられるじゃろう。そこでの……」  ぐいとひざをすすめると、楠の木のおばあは、せきを切ったように話しはじめました。 「わしはこの、入りくんだ毛のもつれようをながめておるうちに……、ひょっとしたら、これは、先の山うばからこの湖の里への文《ふみ》ではないかと思うてみたんじゃ。わしの家は代々、ひも結びの家業《かぎよう》じゃ。先の山うばが、人に知られとうない秘密を持っていて、それでもわしらにどうしても知らせなきゃいかんことがあれば……山うばだってもともとは女じゃ、髪に思いをたくすこともあるかもしれん。そう思ってわしはやってみたんじゃ。髪の毛一本一本をひもと考えての。そうしたら、まるで目をあけて夢でも見ておるみたいに、はっきりおそろしい秘密が、髪の中にこめられてあったのじゃ……」  源太は、ごくりとなまつばを飲みこみました。 「この一束の髪がおしえるのには、どうもおまえのむすこのりゅうと、竹蔵の娘のたみを、黒森へやれということらしいのじゃ……」 「たみとりゅうを、黒森へやる?」  源太が、おどろいて楠の木のおばあの顔を見ました。 「そうじゃ、ただし、二人が行くといえばじゃが……」  そこで楠の木のおばあは、息を深くすいこみました。 「なぜ、この里へ山うばがとつぜんおりてきたのかも、どうしてりゅうとたみが、黒森へ行かなけりゃならんかも、この一束の髪がおしえてくれたのじゃ。あんまり思いがけないことじゃから、自分の頭がおかしゅうなったのじゃないかと、何度も何度もたしかめてみた……。この山うばに聞いてみても『フン、フン』とか、『ソウヤナ』とか、いっこうにらちがあかん。じゃが、たまにさっきのように、もとの力をとりもどしたように見える時があると、その時きまって山うばは、『クロモリ、クロモリイソゲ』とさわぎだす……」 「おばあ……」  源太は、楠の木のおばあの話を、強い調子でさえぎりました。 「わしに、その髪の秘密とやらを聞かせてくれ。どうして、うちのりゅうと、よりにもよって、口のきけぬたみなんじゃ、村にはほかにも若い者はいる。そのあたりの山へたきぎをとりにやるというような場合じゃないんだ。場所が黒森じゃ……いくらおばあの話でも、なっとくできんわ……」 「もっともじゃ、もっともじゃ。じゃが、悲しいかな……このわしにしても、すべてをおしえてやるわけにもいかんのじゃ。髪の一部はぼろぼろになっていたり、虫に食われていたりの……ただ、わしのわかったかぎりではの……、話は古くなるが、今からおおよそ百年もむかしの、先の山うばのころじゃ。  おまえもうすうす知ってのとおり、このあたりの山や森は、山うばに守られているのじゃが、その中でただひとつ、黒森だけは、山うばがたち入ることを禁じられていたそうじゃ。まんいち、黒森に山うばがはいりこむようなことがあると、黒森の山の力がくるい、悪を呼びよせて永遠の命を与えてしまうという、山の掟《おきて》があったのじゃ。先の山うばは、ふとしたことからその掟をやぶってしまい、そのために、一ぴきの放れ熊が生き返ったそうじゃ。その熊は、ただの熊ではない、たちのわるい不死身の熊じゃと……。  ところが、山には、山の掟のほかに、もうひとつ秘密の掟があっての、その悪を討つための方法があったのじゃ。それは、山うばの命とひきかえにしかわからんはずのもんじゃった。で、山うばは、おかしたあやまちをつぐのうために、命を投げだして、とうとうそれを見つけた。それによるとな、山うばの命ともいえるみずからの櫛《くし》を、黒森へおさめ、黒森へふみ入った罪のつぐないとする。その使いの者としては、ことばをうばわれ、まだ一度もことばによって人を傷つけたことのない口なし娘と、黒森に母をうばわれ、今も強く母の愛をもとめている母なしむすこが、選ばれる。この二人の使者が、山うばの櫛を持ち、黒森の奥深く、放れ熊と通じている死の国への穴の中に投げこめば、一度だけ、先の山うばのあとを継ぐ者に、黒森へはいるゆるしが得られ、悪と戦うことができるというものじゃ。  わしがはっきりととくことができたのは、これだけじゃ。髪の先のほうに、何やら、今の山うばのみそぎ[#「みそぎ」に傍点]がどうのこうのとあるようじゃったが、よほど気をつけてさわっていたつもりじゃのに、ぼろぼろにくずれてしもうた……。だが、おおよその見当はつく……。おおかた、先の山うばがさずけた術には、掟をおかしたもののけがれがついている。今の山うばは、髪を切ることで、このけがれをそそいでいるのかもしれんのじゃ。ま、それはとにかく、黒森の中でたいへんなことが起こっとる。それに気づいた今の山うばが、里へおりて使いとなる二人の子どもをさがそうとしたが、……さだめのとおりか、あるいは運わるう髪を切りとられて……何もかも、わすれてしもうた……。  わしはいろいろ考えてみた……そういえば、山うばが村へ来る一月ほど前に、わしの姪のよねが、妙な話をうちあけたあとで死んでしもうた……それというのが、よねの娘のたみがああなったのは、ほかでもない、五年ほど前、熱にうかされてあぶなかったとき、黒森から来た雪女が、何か玉のようなものを食べさせたからだという。それで命はとりとめたそうじゃがの。……たみが口なし娘か……わしはなおも考えた……そうじゃ、今ひとり、りゅうがいる……。ここ十年のうち、この近辺の里から黒森へはいりこんだ母を持つのは、りゅうだけじゃ……。りゅうが母なしむすこ……のう……源、これが、わしの寝ぼけ話じゃと思えるか……。それ、そこにほんとうの山うばがおって……山うばの櫛がある……」  せきこむようにそこまで話した楠の木のおばあは、ふと何かを思いだすように目をとじました。  源太は、今はもう先ほどのさわぎもおさまって、ただムシャムシャともちを食べている山うばを、魅入《みい》られたように見つめました。短くかりとられた頭の上に、何やら重たげにさされている大きな銅の櫛がにぶい光を出しています。  またおばあが口を開きました。 「何といってもいちばんおそろしいのは……わしらが知らぬまに、もうその黒森からのまがまがしい力がおよんでいるかもしれんことじゃ……のう源、おまえはこの里だけじゃない、湖のあちら側もそのとなり村にも、猟のとちゅうでたち寄ることがあるじゃろ。すみなれたこの里では気づかぬことでも、よそ者の目で見るべつの里には、何ぞ変わったことがあればすぐ気づくのではないかのう……。この近く、わしの子どものころにくらべて……畑にはつる草だけが妙にはびこるようになり……むかしはめったに里になぞ見かけんかった毒花がさくようになったと思うんじゃが……。どうも歳のせいで、すこしぐちっぽくなったのかもしれんがなあ……」  いらいらと火鉢の炭をつついていた、源太の火ばしを持つ手が、はたととまりました。そして、しばらく何ごとか考えこんでいた源太は、やおら顔を上げると、まるでおそろしいものでも見るような目つきで、楠の木のおばあの顔を見つめました。 「そういえば、この前の狩りの時じゃった。わしはイノシシを追いかけて……ある山へはいりこんだ……その山は、ついこのあいだまではただのきのこ山で、赤松やら黒松だけの山じゃった。それが、松の葉がどれもみな、血をすったように赤《あこ》う色が変わっておる。根は土からもりあがって……地をはい、枝には、黒いべとべとした寒天状《かんてんじよう》のきのこがはえておっての……霧雨のふる日じゃったが……ふみしめる足もとから、ぼこぼこと土がめりこみ……そこから得体の知れぬくさったようなにおいがするんじゃ……。わしは、イノシシを追いかける気持も失せて……その晩はその山のふもとの家に泊めてもらった。そこで聞いたんじゃが、土がめっぽうわるくなってきておるという……今おばあがいったように、その村でも、妙なかっこうの葉のツタだけがはびこってきて……そのツタがはえた土地は、もうまともな作物はいっさい育たんというておった……」  源太は重い口を開くと、そう話しました。 「なんとのう、やっぱり、よその村でもそういうことになってきておるのか……。わしは、今度ばかりはわしのときまちがいであってくれればよいと、願っていたのじゃが……」  楠の木のおばあは、火鉢のふちをぎゅっとつかむと、よろよろと立ちあがりました。そして、しばらく天井からぶらさがっているしょうのうの玉をいじくっていましたが、顔色を変えて自分を見つめている源太を見おろすと、気をとりなおしたように、背すじをのばし、きちんとすわりなおしました。 「源、話はこれだけじゃ。どうじゃ、りゅうを黒森へやってくれるか。りゅうは、おまえのたったひとりのむすこじゃのに、無理を承知での、このおばあのたのみじゃ。いや、わしひとりだけじゃない、この村の者みなにかわっての、わしの願いじゃ。たのみますぞ。なるほど、村の者はこのところりゅうに冷たくしておった……。それというのも、よねの話をぬすみ聞いただれやらが、おまえの女房のやえが、黒森からもどってきて、たみの舌をとったなどと、つまらんうわさを広めたもんで……それを聞いたりゅうは、このごろはどこの家にも寄りつかんようになってしもうた。かんじんの村の者は、山うばが来てからは、この思いがけないもやのおかげで、そんなばかげたうわさは、すっかりわすれてしもうている。ま、それはそれとしても、りゅうは黒森へ行っててがらをたて、村の者を見返してやりたいと思うのではないかの……。お母の消息もたしかめたいのとちがうじゃろか……それにの、りゅうはそのうわさがたってからは、たみに、負い目でもあるように、人のかげにかくれて何かと親切にしてやっておるようじゃ。今ではたみも、りゅうのことをしたっているようでの。たみは、ものこそいえんが、気だてのよいりっぱな娘じゃ。黒森にやるについても、たみのほうはいい。わしの姪の子でもあることだし、父親の竹蔵にしても、あの気の強い姉が、子ども二人つれて出もどってきてからは、たみのあることないこと、あげつらっていじめるのを、だまって見ているふがいない男じゃ。どうじゃ、りゅうを黒森へやってくれぬか……」        ○  たみは、そっと血のにじんでいる手をなめました。朝ごはんのあと、手をすべらせて割った皿でつくった傷でした。 「これ、たみ、どこへ行く。赤子《あかご》の守りもせずに、またどこをほっつき歩くつもりじゃ……」  かんばしった伯母《おば》の声をあとに聞きながして、小走りに家をとびだしてきたのです。いくら空を見あげたり、ハアハアと大きく息をすって、冷たいのどを切るような風を入れても、胸のうちがおさまりません。 〈おばさんがいうように、いっそのこと、耳もわるけりゃよかった。そうすれば聞こえもせず、いえもせず、こんないやな思いをすることもなかったのに……〉  たみは先ほどの伯母とのいさかいを思いだし、つい涙が流れてきそうな目を大きくあけると、楠の木のおばあの家の、大きな楠の木に寄りかかりました。白いうすい布をかけたようなもやの向こうに、今日は、なぜか黒森の全体が見えます。 〈いっそ黒森へでも逃げこんでしまおうか。父さんが帰ってくれば、またわたしの悪口をいいつけるんだ。あげくのはてにけんかして……あの家には、わたしなぞいないほうがいいんだ……〉  たみは、今まで何度も考えた黒森行きのすじがきを、せっせと頭の中にえがきはじめました。 〈まず食べ物。それから厚い着物。ろうそく。いったん黒森へはいったら、どこか洞穴《ほらあな》でもさがして……。それから釣り糸と針もいる。それがあれば谷川で魚も釣れるし……〉  たみは、しだいに深い森の中でかって気ままに暮らしている自分の姿を思いうかべ……そして、いつものように気持をおちつけました。  ——たみがものをいえなくなってから、里をとりまく山は、たみの友だちになりました。春、かすみに白くふちどられ、ところどころ山桜やつつじの花にいろどられている山々は、ため息をつくような美しさでしたし、夕暮れごろ、せわしげに峰《みね》へ帰る鳥たちの姿も、たみの心を強くひきました。おしとわらわれて遊ぶ友もなく、とくに母親が亡くなってからは、黒森のような深い山にすむという、めずらしい動物や美しい花のことなど、自由に心の中で思いうかべながら山をながめるのが、数少ない楽しみのひとつでした。  そんなたみを見て、伯母は、 「頭までおかしゅうなった」とあざわらいました。父の竹蔵も、たみを楠の木のおばあのところにつれていき、 「おばあ、たみのやつは、ほっとけば一日じゅうでも山ばかり見ておる。ひとつ、黒森がどんなにこわいところかという話をしてやってくれ……」 とたのんだりしたのでしたが、そのときおばあは、真顔でたみにこう答えたものでした。 「人によってはな。……たみ、見たこともないものは信ずることができんといいはるような者《もん》には、たとえようもないぐらいこわいところじゃろうし、おとぎ話を信じるような者にはあんがい、おもしろいところかもしれんのじゃ……」 と、まるでたみの心のうちを見すかしたように、話してくれました。それを聞いて竹蔵は、何度も何度もたみにいいきかせたものです。 「いいか、たみ。黒森は、おばあがおもしろ半分に答えたような、いいかげんな山じゃない。むかしから何人もの赤子が、黒森からおりてきた鬼にさらわれている。おまけに黒森には、空にうかんだ黒雲のような大きな蛭《ひる》がすんでおって、人と見ると、おそいかかって、一滴残さず血をすいとってしまうんじゃぞ。いいか、まちがっても、黒森へ行こうなんぞ、思うんじゃないぞ……」  けれどもたみは、酒を飲んであばれる父親のおどかしより、黒い小さな目をキラッとかがやかせて答えてくれた、楠の木のおばあの話のほうを信じました。 〈おなかがすいたな、おばあに何か食べさせてもらおう……〉  たみはそっと戸口に立ちました。奥のほうでひくい話し声がします。 〈お客さんか……〉  たみは庭をまわって裏へ行こうとしました。その時でした。びっくりしたような大きな男の声がしました。 「たみとりゅうを、黒森へやる……!?」 「そうじゃ、ただし二人が行くといえばじゃが……」  おちついた楠の木のおばあの声が、答えています。  たみはおどろいて、思わず胸に手をやりました。 〈わたしとりゅうさんが……黒森へ……〉  急にはげしく打ちだした胸の鼓動をおさえるように、たみは、そっと戸口にすわりこみました。        ○ 「たみ、こっちへ上がってこい。おまえがそこにいるのは知ってるぞ……」  急に大きな声を出すと、楠の木のおばあはたみを呼びました。カタリと戸のあく音がして、たみが間のわるそうな顔で姿をあらわしました。  源太は、しばらく見ないうちに、すっかり娘らしく成長したたみの美しさに、目を見はりました。  たみはおずおずと部屋を横ぎると、楠の木のおばあのそばに、かくれるようにすわりました。 「たみ、おまえ、聞いていたのじゃろう。どうじゃ、おまえ行くか?」  楠の木のおばあが、おちついた調子でたずねました。たみは一瞬息をすいこんだあと、深くうなずきました。すると山うばが、急に立ちあがりました。そしてたみの目をじっとのぞきこみました。 「娘よ、行け、はよう行け。この櫛を持って、深い山路をたどるのじゃ。この櫛は、いかなる黒い闇の中でも燃え、おまえの道しるべとなろう。この櫛は、山うばの敵に会えば、かならず歌をうたっておまえに知らせよう。おまえがこの櫛を、正しいその時が来るまで手ばなさぬかぎり、おまえのほしいと思うているものを、とりもどすことさえできよう……」  急に姿の大きくなったように見える山うばが、短い髪にさしていた銅の櫛をむぞうさにぬきとると、たみにわたしました。櫛はたみの手にあたって、チカッと緑の火花を起こし、痛さでたみの顔は、すうっと青ざめました。 「娘よ、いたむか。すぐ慣れる、すぐ慣れる」  山うばは、口の中でひくい呪文のようなものをとなえながら、櫛の歯をなだめるように二、三回なでまわしました。櫛の火花はパチパチと光を消し、静かになりました。  たみは、キラキラと目を光らせながら、そっと手をのばし、山うばの櫛をうけとりました。両手にあまる、どっしりとした櫛でした。血の気を失ったくちびるをふるわせながら、たみは楠の木のおばあの顔を見ました。 〈わたしのほしいと思っているもの……が、ことばが、ことばが、とりもどせるというの?〉  問いかけるたみのまなざしに、楠の木のおばあは深くうなずき、 「たみ、失うことのないように、しっかりふところにおさめておくのじゃ」 とはげますように声をかけました。 「さて、つぎはりゅうじゃが……」  楠の木のおばあは、源太をうながすように見つめました。 「りゅうは、まだ熱を出して寝こんでおる。だいぶ薬が効いてよくなったようじゃが……まずわしは家に帰って……」  源太は、そそくさと席を立ちました。  山うばは、もう何ごともなかったように、火鉢《ひばち》の上のかきもちをとると、コリコリとかじりはじめました。 「山うば、おまえ、すこしは何か思いだしたのか。あの櫛をたみにわたしたりなぞして……」 「いいや、何もはっきりとは思いだせん。じゃが、おまえの話を聞いておるうちに、むかしどこかでだれやらが……『口なし娘に母なしむすこ、古き掟にしたがいて、めぐるは深き黒森の……』と何度も何度もわしにうたって聞かせたのを思いだしたのじゃ。わしは山の中で、風が吹けば風に吹かれ、雨がふれば雨に打たれて暮らしてきた……。郷《ごう》に入れば郷《ごう》にしたがえ。わしじゃとて、何もかもわすれ、おまけに力も失うてしまえば、ただのばばあ。この村のいちばんの知恵者のおまえにしたがうのも、ひとつの方便と思うたまでじゃ……」 「くっ、山うば、おまえ、わしにおせじまでいうてくれたの。それじゃついでに聞くが、いくらなんでも、あれら二人じゃ心もとない。どうじゃ、ひとり、男をつけてやっては。たとえとちゅうまででも……」 「そうじゃな」  山うばは、ねむそうに大きなあくびをひとつしました。そして、 「わしの髪を切った、あの男がええじゃろ。あいつが、わしのまわりでうろちょろしておるうちは、うっかり酒も飲めんし……」  楠の木のおばあは、にぎりこぶしでひざを打つと、勢いよく首をふりました。 「わしもちょうど、それを思うていたところじゃ。のう山うば、いくら酒に酔うていたとはいえ、おまえの髪の毛を切りとってしまうほどの力を持つ男は、そうざらには、おらんじゃろうが……」 「そうよ、おまえはとうに知っておるのじゃろうが……。あの男のにぎっておるカミソリやハサミは、あの男のほんとうの道具じゃない。山に暮らすものは山に帰せ。おばあ、さっそくあの男も呼んでこい……」  山うばは、なぞのようなことばをはくと、手まくらをしながら、ごろりと横になりました。  楠の木のおばあは、いそがしげに立ちあがり、部屋のすみでじっと二人のやりとりをながめていたたみを、呼びました。        ○ 「さて、わしはべんとうづくりにかかるから、おまえはそれを床屋にわたして、はよう帰ってこい。だいじな旅の前に、風邪でもひくといかんからな……」  楠の木のおばあは、たみに、新しいおろしたての綿入れのはんてんを着せると、床屋に見せる走り書きを、わたしたのです。  たみは、ちらつきはじめた雪の中を、胸をわくわくさせながら床屋の家へといそぎました。  おどるような足どりで床屋の店先にとびこんだたみは、ひどくあわてたようすで戸をしめたばかりの床屋が、床にころがっていたせっけんでドーンとひっくり返ったのを見ました。バサバサと重い翼《つばさ》のようなものが、苦しげにもがきながら、裏の戸をたたいています。  床屋はすっかりおちつきをなくしたようすで、カミソリをとりだすと、うすよごれた壁にぶらさがった革帯《かわおび》でシャッシャッと勢いよくみがきながら、たみにすわるように合図しました。  たみはだまって首をふると、さっさと裏口へ行き、巨大な羽を戸にはさまれてもがいている大ガラスを、はなしてやりました。じっと見送っているたみのそばに、床屋はそっと近づくと、申しわけなさそうにつぶやきました。 「かんにんやで、たみちゃん。べつにあんたにかくそうちゅうわけでもなかったんやが……。なにしろ、村の人の口はうるそうてな、今に、カラスの羽むしってはげ頭につける、なんてうわさされてもかなわんし、よかった、よかった。あんたは、ほかの人につげ口はせえへんしな。さて何の用事でっしゃろ……」  たみは、楠の木のおばあの走り書きを床屋にわたしました。  床屋は首をすくめてそれをうけとり、さっさと店を出ようとするたみに、大いそぎで追いすがると、薬くさいあめをむりににぎらせました。たみは、頭を下げ、急ぎ足で道をまがりました。 〈わたしのような子どもにまで、ペコペコ頭下げて、あんななさけない人を、よりにもよって、どうしてわたしたちといっしょに行かせるのかしら。それに、今まで見たこともないような、おばけガラスをかくまったりして……〉  たみは、つんとあごをそらすと、心の中に広がる不安をはらいのけようとしました。 〈りゅうさんのぐあいはどうじゃろ。りゅうさんも、ほんとうにわたしといっしょに行くかしら、そっと家をのぞいてみようかしら……〉  たみは、もやにかこまれた木立のあいだに見えるりゅうの家まで、小走りに歩いていきました。いつのまにやら、雪は小さな雨に変わっています。道ばたにすこしだけ空の色を残してさいている野菊を、一にぎりつみとりました。厚い葉にかこまれたこの小さい花は、強い野のにおいをたみの胸にまいて、小粒の雨をうけながら、すっきりと色を増したようです。  家には源太の姿はなく、りゅうひとり、静かにねむっていました。いつもより顔も青白く、心なしかやせたように見えます。まくらもとにそっと野菊の束を置くと、たみは、りゅうが額から落としたらしいてぬぐいを水にひたし、またぐあいよくのせました。  そのとき、犬の吠え声が遠くでしました。 〈ユージンだ……〉  ビクッと立ちあがったたみは、あわててりゅうの家を出ました。遠くに源太とユージンがこちらにむかって歩いてくるのが見えます。姿をかくす茂みをさがしながら、たみはかけだしました。 [#改ページ]     三 旅立ちの章  りゅうは、夢を見ていました。きれぎれにつづく夢の中で、まだ幼い自分が、赤い夕焼けの空の下を、泣きながら走りつづけていました。 「りゅう、りゅう、聞こえぬか、それ、赤子《あかご》が呼んでいる。おっ母、おっ母と呼んでいる」  ああ、おっ母がかけていく、赤子の晴れ着を胸にだいて、母さん鳥のようにはれやかな顔をして……黒森へ黒森へ飛んでいく……おっ母、待ってくれ、わしもいっしょにつれていけ……つれていけ、ああおっ母……。  りゅうは、苦しげな自分の声で目をさましました。熱にぬれた体ががんじょうな手で持ちあげられ、すっと血が落ちていくような気分です。その手は、目をとじているりゅうに、何か熱い気持のよい飲み物を飲ませてくれます。 「お父か、お父が帰ってきたのか……」  りゅうは、声にならないつぶやきを口の中でくりかえすと、また汗をかいてつぎの夢の中にはいっていきます。 「だれじゃ……だれが泣いてるんじゃ……お父か」  ……お父が泣いている……赤子が死んだんだ……小さな小さなかんおけじゃった。おばあが縫《ぬ》ってくれた白い着物を着て、まるで雪ん子みたいじゃとみながいった……春になったらいっしょに遊ぶようにと、おっ母がつくっておいたきれいなマリを、だかせてやった……わしがはこぶといってお父が泣いた……ひとりで土の下は寒かろうに……はよういいとこへ行けよと、わらしべに通した銭を入れながら、お父が泣いた……。おっ母がわらいながら首をふる。 「うそじゃあ、うそ、わたしの赤子が死んだりするものか……生まれてまだ一年もたってない……そんな赤子が死んだりするものか……うそじゃよなあ、りゅう……おまえならおっ母におしえてくれるじゃろ……赤子をどこへあずけたのか……。おっ母におしえてくれ」  りゅうは苦しげに首をふると、冷たい涙を流しているのに気がつきました。 「また夢か……」  つむった目のうちに、あえぎながら道を走る自分の姿をうかべました。  おっ母は黒森へ行ってしもうた。今でもまだおっ母は、あの赤子の晴れ着をだいて、黒森じゅうをまよい歩いているのじゃろうか。胸にあのちっこい赤子をだいてるつもりで……きれいな錦のような森の中を、おっ母は、子守歌でもうたっておるのじゃろうか……。  りゅうは、カッと熱くなった頭のうちから、まぼろしともつかぬ無数の笑い声にひきこまれ、またべつの夢を見はじめました。 「ヘッヘッヘッ鬼の子じゃ、それそこに鬼の子が通る、あぶないあぶない……それあの黒森へはいってしもうた、やえの子どもじゃ……近よるな、近よるな……」  ちがう、ちがう、おっ母は鬼になんぞなっとらん、あんなにやさしかったおっ母が……またあそこで、だれやらがわしを指さしてしゃべっておる、人、人、人、どの道もどの道も、まるで祭りの時のように人が出て、頭を寄せてしゃべっておる。クロモリ、クロモリ、黒森へ行きさえすればきっとわかる。ああ、またあの山が見えてきた……よし行くぞ。明日にでも、今日にでも、今にでも行ってたしかめてやる……。 「ワァッ」りゅうは大声をあげてはね起きました。  源太が、げっそりとやつれた顔でりゅうを見おろしていました。 「目がさめたか」  りゅうは、なぜか体じゅうの汗を洗い流したような、さっぱりとした気分でうなずきながら、父親にたずねました。 「今、何時ごろじゃ。腹がすいた……」  りゅうは、うすぼんやりした陽ざしが、茶びんの湯気を白くうかびあがらせているのを見ると、急に茶漬けが食べたくなりました。源太は、ほっとしたようにうなずくと、かまどの火をかきたてて、みそ漬けのしし肉を焼きはじめました。りゅうは、大きく息をすいこみながら、まわりを見まわしました。家の中がずいぶんと変わっていました。大がめにチョロチョロと水の流れこむ音がします。こうばしいご飯のたけるにおいもします。  上がりかまちには、山仕度の用意がしてあります。 「お父、また、狩りに行くのか」  源太は返事をせずに、すばやく黒い薬湯《やくとう》をなみなみと茶わんにつぐと、りゅうに飲ませました。それから、お膳の上にごはんを山もりについだどんぶりを置くと、しし肉のじゅうじゅうとまだ音をたてているのをその上にのせて、りゅうにすすめました。  りゅうは、まるでのどにひっつきそうに熱いごはんと肉とを、がつがつとかきこみながら、またちらっと山仕度をながめました。源太は、茶色の漬けものの菜っぱを広げ、くるくるとにぎり飯をくるんでいます。 「お父、また狩りに行くんか!」  りゅうは、また聞きました。源太はふり返ると、こわい顔でりゅうを見ました。 「わしじゃない、りゅう、おまえが行くんじゃ」 「わしが……」  源太は、りゅうのまくらもとにある、しおれた野菊の花をあごでさしました。それからぼんやりと、いつもユージンの寝ている土間のあたりを見ました。 「りゅう、たみと二人で黒森へ行け。黒森へ行って、お母のことをさがしてこい」 「……わしは、前からそうしたいと思っていた……。じゃが急に、それもどうして、たみをつれていくんじゃ……」  りゅうは、自分の心の中を見ぬかれた気持で、父親の顔をじっと見ました。源太はまだおこったような顔をしていましたが、急にくしゃくしゃと顔をゆがめると、こぶしを宙にふりあげました。 「りゅう、そうするよりほかに道があれば、何もおまえやたみをやらずとも、わしが行く……。じゃがこれは、むかしからさだめられておったことらしい……」  源太は、一息にそこまで話すと、急に思いなおしたように、ぽつりとまたつぶやきました。 「りゅう、人というのは、思いがけんことで試されることがあるもんじゃが……」  源太は、目に光っているものをかくすように、またくしゃくしゃと顔をゆがめると、りゅうが病気で寝ているあいだに楠《くす》の木《き》のおばあから聞いた話をしました。  りゅうはあっけにとられて、父親の話を聞いていました。とちゅうで何度も、まじめな顔で話す父親をちらっと見あげたりしました。 〈お父は気でもちがったのか……〉  りゅうは、ふとそんなことを思ったりもしましたが、やがて、どうしても行ってみようと今の今まで思いつめていた黒森に、そんなとほうもない役目で行くという話のほうに、すっかりひきこまれてしまいました。 「よし、行ってやる……」  りゅうは、今まで決心のつかなかったことを、思いがけないかたちで決めたところで、今度は、たみがいっしょに来るということで気が重くなりました。 「そんないい伝えなぞ、信じられるか……たみは里へ残ればいい……」  りゅうはのろのろと、わらぐつをはきはじめました。 「りゅう、すぐに出かけるのか」  おもわず足を二、三歩ふみだして、父親は、気づかうようにりゅうに問いかけました。 「りゅう……おまえに、ひとつだけ話しておきたいことがある……」  源太は、のどにつまったことばを押しだすように、ぎこちなく咳をすると、りゅうの顔を見つめました。  りゅうは、はっと父親の顔から目をそらしました。お母が行ってから、りゅうの前ではけっして見せたことがない、苦しげな顔でした。 「りゅう……わしは、だれにもいわず、黒森へ行ったことがある。……ひょっとしたら、やえを見つけて、里へつれて帰れるかと思ったのだ。  ……黒森のあたりは、ひどい風が吹いていた。……それが、どこから吹いてくるということもなく、るつぼのように吹きあがるんじゃ。……わしは、目印に選んだ何本かの大きな木と、自分の体をふとい綱でつないで、その命綱のとどくかぎり、やえをさがし歩いた。時おり、かすかに、やえがわしを呼んでいるような気がした。わしは、それに負けて、綱を切ってしまおうかと思った。……じゃが、りゅう、おまえのことを思いだした。逃げないぞ……わしは、そう思った。夢中で体に巻きつけた綱をまさぐって、黒森をはいでると、こっそり里へ帰ってきた。……おまえは冷たいと思っているかもしれんが、わしは、おまえのお母を、見すてたわけではない……」  りゅうは、話を聞いているあいだとめていた手を、またゆっくりと動かすと、ひもを結びおえました。 〈お父、そんな話するな……〉  胸のうちからあまいかなしい思いがわきあがってくるのを、りゅうはくちびるをかんで、おしころしました。 「お父、わしはひとりで黒森へ行く。たみはお父がめんどうを見てくれ、わしが黒森から帰ってくるまで」  りゅうは、まっすぐ父親の顔を見ました。源太は、まだ何かもやもやと思いまよっているようなようすでしたが、しばらくしてうなずきました。 「よし、りゅう、おまえも男じゃ、ひとりで行け。たみはわしがあずかろう」  その時です。 「いかん、いかん源。山んばの櫛《くし》を持つのは、女であるたみじゃ。口なし娘と母なしむすこじゃぞ。二人で力を合わせて、黒森へ行くんじゃ……」  戸があいて、いつのまにやらちらちらふりはじめた雪の合間から、楠の木のおばあが顔を出しました。その後ろに、すっかりしたくのできたたみが立っています。源太が、申しわけのようなことを口の中でぼそぼそとつぶやきました。何やらほんとうに、その時の楠の木のおばあの態度には、大の男源太をだまらせるような、おそろしい気魄《きはく》がこもっていました。  りゅうはゆっくりと立ちあがりました。そして父親のつくっておいた山仕度をしょいこむと、たみに合図のようにうなずき、見送る二人に頭を下げました。りゅうの体は、病気のあととは思えないくらい、しゃんとしていました。 「よし、行くぞ」  もう一度、りゅうはたみのほうを見ました。たみがはじかれたように歩きだします。源太が、ユージンの耳もとに何かささやいています。ユージンは一声うなると、りゅうたちのあとにつづきました。  りゅうは、ふり返ると父親の顔を見つめました。  源太は、大きな手でつるりと顔をなで、だまってうなずきました。 「ユージン、おまえもいっしょだな」  りゅうが強く口笛を吹きました。        ○  枯れながらも、かすかにまだ色を残している木の葉や草の上に、ちらちらふりはじめた雪が、うすく涙のように光っています。たみとりゅうとユージンは、だんだんとせまく険しくなる崖の道を、一歩一歩黒森をめざしてのぼっていました。 「黒森へは、いつのまにかはいる……」  暗い目つきで自分をながめながらおしえてくれた猟師の源太のことばが、しだいに丈の高くなった草のかげから、こだまのように胸に返ってきて、たみはふと、立ちどまりました。  ホロホロとなげくような山ばとの声がすぐそばでして、おどろいたたみはくるりと後ろをむくと、今来た道をながめました。ほの暗い道の向こうに、「鬼の子なんぞと遊んではいかん。今度こそは命までもとられてしまうかもわからん」と、酒に酔っぱらっておこる父親の竹蔵の顔がうかびました。  たみはそっと胸に手をやると、ふところにしっかりとおさめた銅の櫛にさわりました。りゅうは里を出てからは、むっつりとおしだまり、一言もたみに話しかけません。今も先のほうをながめたまま、だまってたみを待っています。 〈行こう。口がきけないからといって、いつも半人前のようにあつかわれているわたしが、またもとのように話ができるようになるかもわからないんだ。この櫛を持っていくことが、どんなに危険なことかもしれないけど、一度は行ってみたいと思っていた黒森だ……それにりゅうさんもいっしょだし。でも、りゅうさんは、わたしが行くのをまるでいやがってでもいるみたいに、口をきかない……〉  夕闇の向こうから、また山ばとの鳴き声が、暗い闇を呼びよせるようにホウホウとひとしきり鳴いて、ふと静かになりました。 「オーイ、オーイ」  かすかに呼ぶ人の声らしいものに、ユージンが耳を立て、はげしく吠えはじめました。いぶかしげにりゅうがふり返った時、ひときわ長い影をひいて、床屋の赤次《あかじ》が、ひょこひょこと角をまがってあらわれました。  ぎょっとしてながめる二人に、床屋は腰いっぱいにぶらさげたハサミやハケやらをガチャガチャと音やかましくさせて、笑いをかみころしたような顔をむけました。 「何じゃ、おっさん、どうしてまた……」  おどろいてたずねるりゅうに、床屋は大げさに手をふると、たみにむかってニヤッとわらいかけました。 「何や、たみちゃん、今にも泣きだしそうな顔をして。さっそく二人でけんかでもしたんかいな。里にいる時ゃそれでもええが、これから長いこわい旅やで……気ぃそろえて行かんと、助かる命さえすてることになる。りゅうさん、まだ聞いておらんかったのかいな。じつはわし、楠の木のおばあはんにたのまれて、あんたらお二人のお守り……」  床屋は、りゅうのキッとしたようすを目ざとく見つけると、あわてて口をおさえました。 「いや、エヘヘヘ、その、おともで黒森へ行くことになりましたんや。よろしゅうたのんまっさ。さあ、こんなところでぐずぐずしてたら日が暮れてしまう。いそぎまひょ、いそぎまひょ……」  床屋は、まるでひよこでも追いたてるようなしぐさをすると、さっさと先頭に立ちました。  りゅうは、里からだんだん遠ざかるにつれ、たみと二人の旅であることが胸に重くのしかかってきていたのでしたが、床屋が仲間にはいることがわかって、ほっとしたような、急にひどく子どもあつかいされたような、妙に入りくんだ気持でした。楠の木のおばあが、自分に床屋が来ることを話さなかったのは、父親の源太がそれなら自分が行くといいだすことをおそれたのでしょうか。しかし、よりにもよって、こんなたよりなさそうな男を……。  りゅうは、自分をじっと見つめているたみの目に会って、思わずほほえみました。たみの目つきが、ちょうど自分と同じことを考えているのに気づいたのです。 「たみ、ここから、里がちょっと見えるぞ」  りゅうは、やさしくたみに声をかけました。たみはうれしそうにふりむくと、りゅうとならんで、葉を落とした木の間ごしに見える里を見おろしました。  どんよりとくもった空の色をうつして、湖には光がなく、家々は箱庭のように静まりかえっています。 〈さて、旅がはじまった……〉  りゅうは、胸の中で自分にいいきかせるように、つぶやきました。  そのときたみが、口もとに手をやりました。りゅうが目を上げると、里の空のほうでユラリと輪をかいて、見たこともないような大ガラスが、まっすぐこちらの方向へ飛んできます。 「何や、はよう行きまひょ……」  せきたてる床屋の声に、りゅうは、大ガラスを指さそうとしました。けれども、急に陽は落ちて、また湖の里は白いもやの中に消え、大ガラスは、雲の中にはいったのか姿が見えなくなりました。        ○  床屋は、口のうちで何やらぶつぶつつぶやきながら、まるであやつり人形のように、ぎくしゃく肩で拍子をとって、りゅうたちの先を歩いていきます。あたりはすっかり夜になってしまったようです。もう黒森の中にはいったのか、おいしげった木々を通して、うす赤く見えていた空が、急になくなりました。どんと墨つぼの中にほうりこまれたような闇です。 「ひゃっ、こりゃ、まっくらや。床屋の手さぐり、屋根屋の手すべり、三途《さんず》の川の一歩手前とね。おーい、りゅうさん……、たみちゃん。……だいじょうぶでっか」  床屋が半分ふざけたような高い声をあげると、りゅうたちに呼びかけました。すがりつくように、たみがりゅうの手をにぎります。ユージンが吠えはじめました。  今までのところ黒森といっても、夕暮れの山のどの山道とも変わらない道でした。それが、木も草も、まるで夜とひとつになったようです。そしてどこからともなく、ひくい笑い声が起こりました。 「オッ、ホッホッホッ」 「オッホッホッホッ」 「なんとまあ、新しいのが三人、ここにいるではないか」 「ほんに新入りが三人、それからこのにくらし犬めが」 「ギャッ」  ユージンが、しっぽでもふまれたようにとびあがりました。 「どれどれ、ほんにこのあたりに犬がいる」  またべつの方角から、ペタペタと音をたてて、何かがりゅうたちのほうに近づいてきました。体にしみとおってくるような闇の中で、りゅうの髪は総毛立《そうけだ》ちました。 「どけ、どけ」  りゅうがやけくそのようになって、大声を出しました。 「そこか、りゅうさん」  ほっとしたように、床屋が後ろ向きにりゅうに体を寄せてきました。さっきまであれほどやかましく音をたてていた床屋のハサミの音が、ガチャともしません。床屋のひじが、りゅうの胸をつきました。ハサミの刃が冷たくりゅうの右腕にふれ、床屋がそれをにぎっているのがわかりました。りゅうも、胸のうちにかくしていた父親の源太の短刀をにぎりしめました。 「りゅうさん、わしら、闇の原にとっつかまってしもうた。こんな寒い時期だというのに、黒森のこんな方角にまで、はびこっているとは思わなんだ。やつらは、黒森じゅうを、雲のように自在に動きまわっているとは聞いてたが。しっかりとはなれんようにな。やつら、声を出したり光を出したりすると、死にものぐるいでそれをつぶそうと、のしかかってきますからな」  床屋は、りゅうの耳にラッキョウくさい息を吹きかけると、そうささやきました。 「この犬めが、この犬めが」  いつのまにか、何ものかがユージンをつまんだり、たたいたり、ハッハッと息づかいもはげしく、おそいかかっています。ユージンはおそれて鳴き声もたてません。  たみが、りゅうの手を急にふりほどくと、ユージンをさっとだきあげました。その勢いに、ユージンにおそいかかっていたものがころげ落ちたらしく、ヒイヒイとなさけない声をあげてわめきだしました。 「フワ、これは何じゃ、これは何じゃ」 「のがすな、のがすな、その犬の目をつぶせ」  ユージンの目は、闇の中でも光ります。それを知ったたみは、いそいで、ユージンの目を袖でおおいかくしました。  ふわふわと体にぶつかったり、ペチャリと頭の上をさわるものがいます。と、急にザワザワシュウシュウと、りゅうたちのまわりをとりまいていたものの音が静まりました。いくら目をこらしても見えない闇を、それでも目をはりさけんばかりに開いて見ていたりゅうは、何か、シュウと空気の流れるような気配を感じました。 「何ごとじゃ、わたしの眠りをさましたのは」  頭《かしら》らしい、美しい静かな声がたずねました。 「吉報《きつぽう》でございます。新しい血と肉と魂《たましい》が、わたしたちの闇にはいってまいりました」  さっきまで、りゅうのそばでシュウシュウといきまいていたもののひとりが、答えました。 「それはそれは、新しい命とな、ふうむ」  美しい声は静かに息をつくと、りゅうたちに話しかけました。 「ようこそ、闇の原へおこしになられたな。こなたにはいりしものは、もう光と影の区別なく、生と死の恐れもなく、喜びにも悲しみにも、心わずらわす必要もない。あるはただ平和な眠りだけ。ここには、おのれと他の区別はないのじゃ。あるは暗い永遠の闇のみじゃ。われらは、闇の一族と呼ばれる」  ことばがとぎれました。フッフッフッとねむそうな笑い声がしだいに消え、またもとの静けさと闇にもどりました。ドーンと胸を打つ夜のにおいがして、底なしの沼のようなよどんだ空気がただよいはじめました。  りゅうはおそいかかってくる眠気《ねむけ》と戦いながら、いそがしく考えはじめました。重くなった頭をふりうごかし、 「何とかしなくては。このままではどうにもならない。ねむりながら死ぬか。つぶされ、傷つけられて死ぬか」  のどもとまで出かかっている恐怖の叫びをおしころしながら、りゅうは、ギュッとたみの手をにぎりしめました。  床屋が、くるったように話しはじめました。 「ええ、お頭さまや、おじょうさまや、闇のおじょうさまや。わしは、下《しも》の里の床屋でござんすが、このたび、黒森の奥のほうにちょっと用事がありまして、子どもをつれて出かけますとちゅう、まちがってみなさまの眠りをさまたげたこと、ひらにひらにあやまりますさかいに、どうぞひとつ、わしの願いを聞いてくだはい。こんな暗いところでご不便なお暮しやさかいに、床屋にもさいさい行かはるとは思えません。わしらの血と肉をみなさんにさしあげる前に、いっぺん、みなさんの頭をからせてくれまへんか」 「おもしろいことをいうな、床屋」  美しい静かな声が答えました。 「すこしもあやまたずに、わたしの髪をそろえられるというのか。ならばやってみよ。ただし、一本たりとも切りちがえたならば、静かな眠りを待つまでもなく、わたしがおまえをとりおさえてくれようぞ」  それは、冷たくからかうような調子でした。ジュジュ、ヒイヒイと、笑い声がまき起こりました。 「さあ、やってみよ、さあ、やってみよ」 「えへ、そんなむちゃな。そうせかさんといておくれやす。声はすれども姿は見えず、美しいお声ばかりで……どのへんにいてはるのか、それすら、ようわからず……」  床屋は、しょぼしょぼと元気なく答えながら、しきりにりゅうの手をにぎり、そしてたみの手をさぐっていきました。 「どうじゃ、床屋。えらそうなことをいいおって、ほれ、ここにわしの髪があるじゃろうが」  またいちだんと強い沼のにおいが、りゅうの顔の前に、はらりと落ちかかりました。 「今やで、ほら、たみちゃん。山うばの櫛を出すんや」  床屋が、たみの手から山うばの櫛をとりました。櫛は宙にほうりなげられ、そこから、ボウッと緑の炎が燃えあがりました。  その炎に照らしだされた目、目、目。つりあがった目。うつろに開いたままの目。ギョロリと光る目。半分とじられた目。かわききった無数の目に、おどろきの色が走りました。 「ギャーッ」  高い長い悲鳴が起こりました。櫛の火の炎をうけて、キラリと床屋のハサミが光ります。それがふりあげられると、鳥のくちばしのようにせわしく闇の目をつつきました。  かん高い悲鳴とともに、なまあたたかい風が通りすぎ、黒い幕を切って落としたように、あたりは、もとのままの夕暮れの山道となりました。ただ、赤茶けた熊笹のむれに、風がザワザワと音を残しているばかりです。 「やれやれ、ほんまにえらいことやったな。もうすこしで肝《きも》ぬかれるとこやったがな。りゅうさん、たみちゃん、もうだいじょうぶやで」  床屋は、地面に落ちてまだにぶく緑に光っている櫛を、ひょこひょこ、びっこをひきながらひろいあげると、たみの手ににぎらせました。        ○ 「それにしても、腹へったな。ここらで腹ごしらえしまひょうか? まだ先は長いし、なんや肝ぬかれそうになって、胃のあたりが妙な感じやわ。そやけど、火はあきまへんで……まだぎょうさん、いろんなものがすんでますからな」  道ばたの石に、でんと腰をおろして、手のひらでキセルの先をおおうようにしてたばこに火を入れた床屋は、一服つけるとりゅうとたみに話しかけました。二人は、まだ助かったのが信じられないようなおももちで、手をしっかりにぎりあったまま立っていました。やがてたみは、うなずくと、肩にかけていた風呂敷包みをあけました。 「ひゃあ、まあ、これはけっこうなもんばっかり……楠の木のおばあはんは、わしには渋茶一ぱいしか出してくれよらんのに……。そやな、ヤマメの干したんはとっといて、そっちのおむすびと、このごぼうの煮つけと……。よろしいな、まぜご飯のおむすびやなんて……」  床屋は、パッパッとキセルをふると、それでも用心深く火種をもみつぶし、おむすびを食べはじめました。  まるで村の道かなんかでべんとうを開いているような、こともなげな床屋のようすに、りゅうもたみも、つい手を出して、おむすびをほおばりはじめました。たみは、あちこち赤むけたユージンをまだ抱いていましたが、すこしずつ食べ物を犬の口に入れてやります。 「おっさん、どうもありがとう。たみもわしも、あっさり命を落とすとこじゃった……」  りゅうが、うつむいたまま頭を下げました。たみも、口もとまで持っていったおむすびを、またもとにもどしながら、あわてていっしょに頭を下げました。 「何をまた急に。飯がのどにひっかかるやないか。そんなことよろしいから、はようおあがり。おっと、そういうたかて、このべんとうは、たみちゃんのもんやから、わしがすすめるのもおかしいな、ワハハハ」  床屋はわらいながら、さもおいしそうにべんとうを食べています。  りゅうは、床屋をまるではじめて見る人のようにながめていました。村では、男でも女でも、病人や足腰の立たない老人でないかぎり、力仕事や畑仕事、手仕事と休みなく働いています。そんな村へ、数年前、ふらりとやってきて、こわれた古い鶏小屋を建てなおしたかと思うと、「床屋」の看板をかけたのが、この男です。店の横に、ほんの申しわけていどの畑を耕してはいましたが、やせこけたネギが雑草のあいだからのぞいているという、おそまつさでした。  昼ひなかから、うすぼやけたような鏡の前で、のんきに耳の穴のそうじをしたりしているだけで、何ひとつ働こうとしない床屋を、村の人は半分あきれて見ていました。遠い町のことばのなまりがきつくて、「まるで鶏みたいなしゃべり方じゃ」などとうわさをしたり、「それで鶏小屋なんかを建てなおしたな」などとわらったりするものもいました。りゅうのような子どもにでもぺこぺこと頭を下げ、おかしくもないじょうだんをいいました。  けれどもふとりゅうは、すっかりわすれていたあることを思いだしました。いつか村に男たちがいない晩、手負いのイノシシがあばれこんだ時のことです。その時、床屋がりゅうの家の戸をたたき、父親の源太の残しておいた古い鉄砲を持ちだし、一発でイノシシをしとめたのです。おどろいた女たちに、床屋はへらへらわらいながら、「ヒャア、まぐれあたり、ああおそろしかった……」と、ちょうど今のように汗をふいて、わらいとばしたことがありました。古いなぎなたを持って、すけだちにとかけつけていた楠の木のおばあが、キラリと目を光らせて、そんな床屋の顔を見ると、「だてにびっこになりなさったわけでもないな……」と、一言ポツリといったものでした。それから、「村に一軒、床屋があるちゅうのも、ひらけているようでいいことじゃ」と、それとなく人にすすめて、床屋で髪をからせるようにし、いつのまにか床屋は、この村の人のようになってしまったのでした。 「おっさん、何で、黒森へ行こうと思うたんじゃ」  りゅうが、またたずねました。さっきのようなおそろしいことが、またつぎつぎと起こるかもしれない黒森へ、どうして、この床屋はついてくるのでしょう。 「べつにな、べつに深いわけがあるわけやないけどな。わしが山んばはんの髪切ったばっかりに、もやがわいて、あんなにのんびりしたいい村が、何やこう、おちつかん村になってしもうた。村の人は、わしに、何にもおもてだってはいわんし、わしの命が助かったことを、みなでよろこんでくれたけど……。おとぎ話ならいざ知らず……山んばはんまで村ん中うろうろするようじゃ、かなんからな。わし、ほんまにすまんと思うて、楠の木のおばあはんから、あんたら二人が山んばはんの使いで行くことを聞いたんで、ほんなら、わしもいっしょに出かけまひょ……と、それだけや。ほな、ぼちぼち行きまひょか?」  しんみりとした声の調子を、くるりと変えると、ガチャガチャとはでな音をたてながら、床屋は革のベルトをしめなおしました。  たみが器用に食べ物をしまいこむのを見ながら、床屋が、ひくい声でりゅうにささやきました。 「りゅうさん、何や、木立のあいだに火が見えるで……ありゃ、どうせろくなもんやないやろけど、一ぺんのぞいてみなあかんやろな……」 「うん、子どもの泣き声のようなのが聞こえる。あれはひょっとしたら、黒森からおりてきては子どもをさらっていくちゅう、鬼がすんでいるところじゃないじゃろうか……」 「おや、ほんまに、ええ笛の音《ね》が聞こえてきた。ありゃ、りゅうさん、どうやら、わしら感づかれたみたいやな……。この笛の音聞いてると、足がひとりでにすいつけられていくがな」  床屋は、まるで踊りをおどっているように腰をゆりうごかしながら、暗い木立の中で、ポツンとさびしげにまたたいている明りのほうに進んでいきます。  たみとりゅうも、積もった落ち葉に足をすべらせながら、かなり急な斜面を、強い綱にでもひきずられていくような気分で、笛の音にひきよせられていきました。 [#改ページ]     四 菜の花一族の章  そこは、青白い火のこぼれる、大きな洞窟でした。洞窟《どうくつ》の前では、やせた小男がひとり、ふとい短い笛を吹き鳴らしていましたが、うす闇の中を近づいてくる犬と三人を見つけると、だんだん笛の音を弱め、やがて二、三回首をふると、笛を口からはなしました。 「やけに風の吹きそうな夜でやんす」  頭をひとつ下げると、小男は、三人にむかってひくい声でいいました。  床屋は、笛の音が終わったとたん、体がばらばらになりそうにはげしく手足を動かすと、 「ハア、チョイチョイ」 と歌を一節《ひとふし》うなりました。そして、たみとりゅうがそばにいることをたしかめると、急に愛想《あいそう》のよい調子で小男に話しかけました。 「いやあ、けっこうな笛の音《ね》で。あんさんがお吹きどしたかな。わたしら旅の床屋だすけど、何ぞご用でもありますやろか……」  小男は、しばらくだまったまま、床屋とりゅうとたみの顔を、妙に光ったするどい目でながめていましたが、床屋の話をまるで聞かなかったように、また、 「寒い、気のめいる夜でやんす」 とつぶやきました。  りゅうは小男の立っている後ろの洞窟の中から、つぎつぎと小さい子どもの頭がつきでてはひっこみ、ワアワアと中で大さわぎしながら、自分たちのようすをのぞいているのに、気がつきました。 「おてまえさんがた、たしかに黒森の衆《しゆう》ではありやせん。あっしは先刻、闇《やみ》の原の叫びを聞きやした。闇の一族に会いやしたか。闇の原からは、どうやって逃げてきやしたか?」  小男は、ゆっくりゆっくり、小さな頭の中でなぞをとこうとでもするように、しゃべりはじめました。 「闇の原を、ぶじつきぬけられるのは、あっしら黒森にすむものと、気がくるい、心の光を失ったものだけでやんす。今しがた闇の原の悲鳴と、おてまえさんがたのあたりまえのようす。もしかすると、これは……」  小男は、たみをじっと見つめると声をかけました。 「あんさん、歳はいくつでやんす」  たみは、はずかしそうに首をふると、うつむきました。りゅうは一足ふみだすと、たみを背中にかばい、小男をにらみつけました。 「そんなことが、なぜ気になる。いらぬおせっかいじゃ、わしらをその妙な笛で呼びよせておいて……」  りゅうがおこって小男につかみかかろうとするのと、床屋がすばやくりゅうの手をおさえたのは、ほとんど一瞬のことでした。 「この娘は、口がきけまへん。歳は十一、それが何ぞ……?」 「口なしの娘……」  小男は、今度はりゅうの顔を見ました。自分につかみかかろうとしたりゅうの勢いなど、まったく気にもとめていないようすです。 「おてまえさん、あっしが闇の原のことをいいやしたら、思いあたることがあるように顔色を変えたのは、なぜでやんす……」  りゅうは、ふいに、胸の奥を冷たい刃物でなでられたようにたじろぎました。さっき小男のその話に、 〈おっ母の通っていった道じゃ……もし闇の原につかまったとしたら……今は……〉 と思ったのです。 「えらいくどくど、わたしらをつかまえて、聞かはりますけどな……。これには、長い話があります。よろしかったら、いっぺん中へ入れてもろて……」  床屋が、だまりこんで答えないりゅうのほうを見ながら、とりなすように小男にいいました。  ほんとうに、指先でちょいと押せば、谷底までもころがりおちそうな風情《ふぜい》の小男なのに、何ともいえないいばりようなのです。小男は、床屋のことばを、また何も聞かなかったような表情で聞きながすと、じっとりゅうの顔を見ています。  りゅうは、ポツリと答えました。 「わしのおっ母は、赤子《あかご》が呼んでるというて、この森へはいっていった。ちょうど、わしらが今のぼってきたのと、だいたい同じ道じゃ……」 「母なしむすこ」  ひくくつぶやいた小男のようすが、さっと変わりました。そして軽く頭を下げると、 「おてまえさんがた、お待ちしておりやした。あっしは、この洞窟の亭主。黒森に名高い人さらい、�菜の花一族�の七十八代目、キド八《はち》でやんす。さあ、中へおはいりなすって」 と、おどろく三人の顔をしりめに、洞窟の入口にかけられた厚いボロ布をさっと持ちあげました。  洞穴の中はいがいに広く、すみ心地のよい感じで、部屋のあちこちに、狩りの道具やら、かるわざに使う玉がころがっていて、今も、二人の背の高い子どもが、器用にとんぼがえりをしています。一心に狩りの道具の手入れをしている子どももいます。部屋のまん中に置かれた大きな黒塗りのたるが、祭壇のろうそくの明りをうけて光っています。部屋のすみには、すすでよごれたまっ黒な石のかまどがあり、大きな鍋がかかっています。その前には、うず高く積まれた枯木をせっせと火の中へほうりこみながら、小声で歌をうたっている少女がいましたが、キド八とはいってきた三人を見ると、ませた口調で話しかけてきました。 「この寒いのに、あわてて外へとびだしていったので、てっきり渡り鳥でもとってきてくれるかと、あたい待っていたのにさ……。何だい、また新入りかい。みなに食べさせる今日のお米もないというのにさ。今夜もまたくさりかけの山イモの汁だよ。おや、その子は女の子じゃないか。あたいのてつだいにちょうどいいねえ、もっとも、何にもやってもらうことはないけどさあ」  火にほてった顔で、まんざらでもなさそうにたみにわらいかけました。十五、六人もいる子どもたちは、火のそばの少女のことばに一瞬だまると、あらためて、はいってきた三人をじろじろとながめました。 「あっしが長いあいだ待っていた、お客人でやんす」  キド八は、あいかわらずひくい声で少女を制するようにいうと、三人を、火のすぐそばのあたたかい場所へすわらせました。 「うん、キド八、帰ってきたか。何ぞめぼしいものでも見つけてきたかや……。うまい肉のにおいがするぞ」  りゅうがもたれようとした大きな黒塗りのたるのふたが、さっと開いて、キド八によく似た、はげ頭の小さな老人が顔を出しました。 「ああ、おやじどの、お客人でやんす。おふくろが前にあっしに話してくれやした、あのお客人でやんす」 「なに、あいつの話しておった……おおキド八、胸がいたむぞ。わしにあいつのことを思いださせないでくれと、あれほど、たのんでおいたのに。……おまえ、何で死んでしもうた……」  老人は、涙をポロポロこぼすと、子どものように泣きじゃくりながら、たるの中にしずみこみました。 「ほんとうに、いいおふくろでありやした」  キド八も涙を一しずくふりはらうと、三人の目から顔をそむけました。  床屋は、いつのまにか出したキセルを所在《しよざい》なげにくわえていましたが、たみとりゅうをちらっと見ると、キド八にたずねました。 「ほんまに、気持のよいおすまいでんな。キド八はん、はじめてのおかたにこんなことをきいては、なんでおますけど、今は時分どきやと思いますが、おてつだいできることがありましたら、遠慮なくいうておくれやす」 「いや、べつに何もありやせん。あっしらは、早く、飯をすませやした」 「あれ、あんなことをいってら。ここんところあたいら、ろくにおまんまも食べてないというのにさ、たまに色の白い女の子が来ると、ああなんだから……」  火の前の女の子が、すねたように口をとがらすと、そばの枯木をボキボキと勢いよくまた折りはじめました。たみとりゅうの目が合いました。りゅうがうなずくと、たみは、自分とりゅうのべんとうの包みをそっと少女のひざにのせました。 「何さ、これ、みやげかい。あれ、何であんたものをいわないのさ、あれ、あんた」 「いかん、菜の花。娘さん、だめでやんす。これから先ひどい旅がつづきやす。食べ物を手ばなしてはいけやせん」  おどろいた少女の声に重ねて、キド八が、さけびました。たみは時おり見せるがんこな表情をあらわに、さっさと食べ物の包みを開いて、ぐるりとあたりを見まわすと、子どもたちの頭数をかぞえました。 「ほんのお口よごしだす。どうぞあんさんも食べておくれやす」  床屋はこともなげに口をそえると、たみがわけたべんとうを、わっと声を上げて群がった子どもたちにわたしはじめました。�菜の花�と呼ばれた少女は、べんとうの中身をながめて、長いため息をつきました。 「あたいだって、これくらいのごちそうはお茶の子さいさいでつくれるけどさ。ここのところ米びつはすっからかん、土に埋めておいたたくわえまで使いはたすしまつさ。ほれ、おじい、キド一《いち》じい、しし肉のみそ漬けだよ。この娘っ子がくれたんだよ。食べな……」 「なに、しし肉のみそ漬け。おお母さんや、おまえもよく、これをつくってくれたっけなあ……」  黒いたるの中から、涙にぬれた顔でキド一老人がまた顔を出しました。菜の花のさしだす食べ物を、目をかがやかせながらうけとり、しばらくもぐもぐと肉をしゃぶっていましたが、やがて片手を袖の中に入れ、小さな笛をとりだしました。  そして目顔でたみのほうをさしながら、菜の花にわたしました。 「あいよ、これ、この笛、おじいがあんたにあげるってさ。なに、べんとうの礼だよ。うけとりな……。あれ、おまえたち、食べながら歩きまわるんじゃないよ……」  菜の花はぶっきらぼうにたみの手に笛をにぎらすと、子どもたちをしかるふりをしながら、そっと食べ物の包みの前をはなれました。どっちにしろ、たみとりゅうのべんとうは、みなのおなかをいっぱいにするほどはなかったのです。  キド八は、思いがけないようなやさしい笑いを口もとにうかべると、たみに話しかけました。 「娘さん、こわがることはないでやんす。それは鳥寄せの笛でやんして、その笛を吹くと鳥を呼びよせたり、鳥のことばを聞くことができる。おやじは、笛づくりの名人で、いろんな笛をつくりやしたが、自分では一度も使ったことはありやせん」  それから、キド八の長い話がはじまりました。  わしら、この黒森ができたころからすんでおった、由緒《ゆいしよ》ある人さらいの流れをくむ一族でやんす。もちろん、今は人さらいというより、人寄せとでも呼んだほうがよいような、親なし子や家なし子をつれてきては、また人の世へ帰してやるというようなあんばいでやんす。  それでもおやじの若いころは、そこの黒いたるを背おうと、風を背にうけて山をおりる。夕暮れ、里でワアワア泣いている子どもをヒョイヒョイとつまみあげると、そのたるの中に投げこむ。よくおぼえておりやすが、おやじが、たるも割れんばかりに泣きさけぶ子どもたちを、つぎからつぎへととりだす時の得意そうな顔つき。なんでも、たるの中で泣き声がひびきあって、ワァーンワァーンと背中を刺激《しげき》するのが、おやじの神経痛によく効くということで……  よく小雨がちの夕暮れなど、おやじは里へおりていきやした。つれてきた子どもたちのめんどうを見るのは、おふくろで、おふくろは頭のいい女で、この黒森でむかしから起こったことを、ぜんぶおぼえているといううわさをたてられておりやしたが、ふとった大きなやさしい人でありやした。いつもいつも泣いている子どもをひざにだきよせ、歌をうたいながら、ねむるまでゆすってやっておりやした。  あっしには、ひとつちがいのあにさんがおりやしたが、あにさんの人さらいの方法は、一名|影法師《かげぼうし》といいやして、おやじのような、�ホレ、黒森から黒いたるしょって、おじいが来るぞ�と歌にうたわれたような、古いやつではありやせん。あにさんは、そのあたりで石けりをしている子どもを見つけると、ポンと影法師にとびのって、その影法師を本人ごと、ぐいぐいひっぱってくるんでやんす。おやじは、そんな奇妙なやり方で人さらいをはじめたあにさんを、けんのんがっておりやしたが、やっぱり……、あにさんは家をとびだし、わるい者たちと手を組んで、わるい人さらいになりやした。おどかして、金をとって、というやつでやんす。  あっしはおふくろに似て、人さらいより、さらってきた子どもたちをよろこばせるほうがじょうずでやんすから、おふくろにたよりにされていやしたが、あにさんのことを、おふくろはひどく気に病んで、とうとう死んでしまいやんした。  おふくろが死んだあと、おやじも黒いたるしょって、里へ行って、子どものかわりに子豚をいっぱい買いこんできてからは、すっかりふけこみやして……人さらいが、自分の稼業《かぎよう》をわすれて、買い物などしてくるようではおしまいでやんす。それやこれやで、あっしの代になりやした。あっしは人をさらうのはへたくそでやんすが、さっきも申しやしたように、小さい子どもらのめんどうを見て暮らしておりやす。いっぱしの猟のわざなり、かるわざの芸なりをしこんだあとは、あっしが黒森からつれだし、広い世の中へ帰してやりやす。  えっ、いえいえ、出ていったやつは帰ってきやせん。子どもたちは、黒森をぬけるうちに、すっかり黒森のことはわすれやす。子どものころの記憶といえば、菜の花畑ときれいな笛の音だけとなりやす。  ところで、これからがかんじんな話でやんす。この黒森は、むかしから、千の宝がねむるといわれておりやして、たしかにあっしの小さいころは、まだどの枝にも花がさき、くだものはたわわに、水はうまく、けだものもいろんなめずらしいものがすんでおりやした。食べ物にことを欠くことなどありやせんでした。それが、すこしずつ気づかぬうちに木が枯れはじめ、木の実が落ち、花がくさり、けだものは妙な病にかかって死ぬか、どこかへ逃げていって、肉をとろうにも一ぴきも姿を見かけなくなりやした……。おまけに、このごろでは日中ですら、ときどきいやなにおいがしやす。  わすれもしやせん、おふくろが亡くなる時でやんした。あっしに、 「キド八、おまえのあにさんは、ほんとうはわるい人じゃない。あれが、あんなふうにわるい者のほうへひきずられていったのも……もとはといえば、この胸のわるくなるような風のせいじゃ。わしのばあさまが話しておったが、これはきっと、山うばがあやまってこの黒森へはいったために生き返ったという放れ熊が、この山をほろぼそうとしているにちがいない。たった一ぴきの熊ごときが、この黒森をほろぼしたりできるものかとわしは思っていたが……そうではない。キド八、このいやなにおいは死のにおい……木も土も人も、すべて死の世界にひきずりこむような強い力を持つもののしわざにちがいない……。この黒森は、さすらい人や、くるった心の者、夢を強くしたう者、よいもわるいも、すべて同じように生きておる。じゃが、このすべてをくさらせるような風が長《なご》う吹くと、わしらはみなほろびてしまう。いいか、キド八、おまえは目をこらし、耳をすまして、人の姿、人の足音を待っているのじゃ。わしのばあさまの話では、黒森が最後をむかえるようなことがあれば、かならず、山うばの櫛を持った口なし娘と母なしむすこがあらわれ、山うばをみちびいて黒森を救ってくれるということじゃ。もしおまえが、その二人を見つけるようなことがあったら、おしむことなく力をかし、助けるのだぞ。よいかキド八……」 と、あっしの手をしっかりとにぎって、いいやした。  あっしは、あにさんのことで、おふくろの頭がおかしくなったと思いやして、深く気にもとめてはいやせんでした。ところがたしかに、来る日も来る日も、風はいやなにおいをはこんでくる、食べる物にもことを欠いてくる、だんだんおふくろの話していたとおりになってくるので……あっしはいつのまにやら、本気で、おてまえさんがたを待つようになりやした。そしてとうとう、今日、あんさんがたに会えやした。  キド八は、そこまで話すと、それがくせなのか頭をひとつ下げました。そして部屋のすみにまるめてあったうすよごれた布を手にとると、ちょっとはにかんだように額にあて、それから三人の前にそれを広げました。  布には、ところどころ雨のしみやよごれがついていて、ちらちらゆれるろうそくの明りの下に、うすい木の実の汁を使って描《か》かれたような模様がうかびあがりました。 「ほう」 と、床屋が思わず感心したように声をあげました。 「えらいもんでんな、キド八はん。これは、この黒森の地図でっしゃろ。いくらむかしからここにすんでおっても、この黒森の地図を描くというのは、容易なことじゃないやろに……」  キド八は、床屋のほめことばを手をふってさえぎると、たみとりゅうのほうを、ちらっとながめました。二人は、とぎれとぎれの線で描かれた丸やゆがんだ点線が、いったい何をあらわしているのかわからず、ただ目をまるくして、その布に見入りました。  キド八が、小さな丸を指さしました。 「これ、ここがあっしの洞穴《ほらあな》でやんす。ここに来る前に、おてまえさんがたは闇の原をくぐってきやした。これはごらんのとおり、今あんさんがおっしゃったようなりっぱな地図ではありやせん。このごろでは、あの闇の原のように、黒森にすむ者はみな、所や様を変えておりやす。たしかなことは何ひとつありやせん。そんなわけで、これからあっしがお話できるのは、おおよその見当にしかすぎやせん。……それに、この黒森では、おてまえさんがたはまだお気づきじゃござんせんでしょうが、里の時間とはちがって、時の流れがゆるやかになりやす」  キド八は、黒い小さな点の上をぐるぐると指先でなぞりながら、三人の顔をそれぞれたしかめるように見つめました。それからまた、地図の上に目をうつすと、話しはじめました。 「あっしが調べやしたところ、あのいやな風は、ほれこっち、この後ろの月《つき》が峯《みね》がちょうどかくれる、この奥の尾根のあたりから、風が吹きおりる時に強く流れてきやす。この奥の尾根の向こうには、この世のはてにまでつづく深い谷があるという、いい伝えがあって、時に、流れ星がはげしい音をたてて落ちていくことがありやす。あっしがつい先ごろひろったうわさによりやすと、どうもそのあたりに、黒い影をひく放れ熊がすんでおるようでやんす。  それでおてまえさんがたは、これから奥の尾根までの長い旅でやんすが、まずこの洞穴の上の道をななめにのぼり、桜の森へはいりやす。ここは、むかしはみごとな桜の森でありやしたが、むかしからすみついている白い大蛇の頭がくるいだしてから、一本一本、花が枯れてしまいやした。今は、森のいちばん奥にある大きな桜だけが、かろうじて花をさかせておりやすが、このごろはどうなりやしたか……。大蛇はひどく音がきらいでやんして、はげしい風の吹く夜は、桜の幹に体を巻きつけ、深くねむりこんでおりやすが、あとはひねもす、空を飛ぶ小鳥をつかまえては、歌をうたえないように殺しておりやす。なんでも、いつもどこかでだれかが、『イヤナヤツ、イヤナヤツ』とつぶやいているような気がするとかで、できるだけそれを聞かないように、いつも自分の体の血の流れる音に耳をすましておらないと、その美しい白さがたもてないといいやす。あわれなやつでやんす。  ここを通りぬけやすとすぐに、深い杉林にはいりやす。もう何十年も何百年も年を経た、大きな杉がはえていやすが、この杉たちが変わっていて、どれも自分の枝を手風琴《てふうきん》のように動かしながら、人のことばを話しやす。いつも同じところに暮らしておるので、動くものとみたら、かならず自分のそばへひきとめておきたがりやす。わすれっぽい、おこりっぽいやつらでやんす。  その杉の林を通りぬけやすと、深い険しい谷がありやす。これをわたるところには、おおぜいの洗濯女がおりやして、あちこちの大きな岩のかげにしゃがみこんで、せっせと洗濯をしていやすが、ふつうの人間の目には、谷を流れる水が見えやせん。女たちの目からは、たえまなく涙が流れておりやす。おてまえさんがたは、けっしてこの女たちには近づかないように。見えない水が一滴でも体にさわると、とたんに魂《たましい》の芯までこごえるような冷たさに会い、命を落としてしまいやす。ぜったいに涙を流している女のほうは見ないようにして、谷をわたりやすと、つぎの林の奥が、奥の尾根でやんす」  長いキド八の説明が終わると、三人は思わず顔を見あわせました。暗い闇のおそろしさから、あたたかいキド八の洞穴の中にはいり、ふと里にいるような心のゆるみが出てきたところに、この話です。  りゅうは、たみのほうをじっと見ました。村を出る時は、半分本気にしてなかったそんな古い話に、自分たちが黒森へ行くということが決められていたというのも、これではっきりしてきました。それにしても、そんなおそろしいもののすんでいるところを通りぬけるには、りゅうでさえ、命が二つあってもたりないと思うくらいです。  りゅうの考えていることを察したのか、たみがさっとほほを赤くしながら、強く首をふりました。  床屋は、火の消えたキセルをスパスパとすっていましたが、やがてそれに気がつくと、てれくさそうに頭をかきながら、りゅうとたみに声をかけました。 「いろいろためになることを聞かせてもろうた。どっちみち、山んばのいいつけや。二人はいっしょに行かなあきまへん。二人だけやあらへん、わしもユージンもおります。それにいざとなれば……まあ、それはどうでもええ……。さあ、今はもう寝かせてもろうて、明日ははよう出かけまひょ。えらそうにいうたかてわしも……そのへびだけは……」  床屋は、話の終りのほうはもごもご口の中ですませ、ひとつ大きなあくびをすると、ごろりと火のそばに横になりました。  たみは、あたたかい空気とはべつに、さめきった頭の中でひとつおぼえのように、〈わたしは行く、どうしたって行く〉と、自分の決意をくりかえしました。  わずかとはいえ、ひさしぶりにまともな食べ物をとった子どもたちの元気ないびきを聞きながら、りゅうとたみは、まだ旅ははじまったばかりなのに、もう村のことばかり思いうかべるのです。        ○  朝になりました。どんよりとくもった空の下を、三人は、キド八や子どもたちとわかれて、のろのろと旅立ちました。菜の花は、目を赤くはらして、洞穴の中からとびだしてくると、たみを力いっぱいだきしめました。 「かわいそうに、あんた。えらい役目をひきうけてしもうて。なあ、そんなことわすれて、あたいといっしょにこの洞穴ですもうよ。こんなわるい時が、いつまでもつづくはずがない。そんなおそろしいところへ行くのはよして……ここにお残りよ」  菜の花は昨夜じゅう、ひとりでそんなことを考えていたのでしょう。たみも思わず菜の花をだきしめると、涙をかくすように顔をふせ、さっとりゅうのあとにつづきました。 「帰りに、きっと寄るんだよ。ばけものなんぞに、食われちゃだめだよう」  小声でなだめるキド八の声にまじって、かん高い菜の花の声がひびき、やがてそれも聞こえなくなりました。  道は、すっかり葉を落としたブナやナラの木々のあいだをぬって、つづいていきます。時おり色のさめた朴《ほお》の葉が、風にゆれるともなく行く手にハタリと影を落としたりします。  ふと立ちどまったりゅうが、ガマズミの枝を見つけて折りとりましたが、カサカサにかわいた小さな実の表面は、あっというまにくずれ、こなごなになって風に散りました。りゅうはあきれて、ほうきのような枝先をながめていましたが、だまってそれを道ばたに投げすてると、また歩きだしました。  空にむかってのびた裸木の枝を打ちならす風は、高くひくく森をめぐってうなりの尾をひきながら、三人の耳もとを流れていきます。たみがたまりかねたように大きな息をひとつすると、ちょっと立ちどまりました。目ざとくそれを見た床屋は、自分も大きく肩で息をしながら話しかけてきました。 「何やこう、しんきくさい道やな、たみちゃん。そやけど、まだまともに道があって進めるうちは、もんくがいえまへんな。今んとこ何にも出てこんし、ええあんばいや。キド八はんに見せてもろうた地図によると、ここしばらくは似たような道がつづきまひょうな……」  床屋はちょっとことばを切ると、道のま下にはえている、扇のような形をした葉を、ひざをつきながら六、七まい根っこからひきぬきました。そしてそれを手ばやくそろえ、腰にくくりつけた袋の中に押しこみました。  ふり返ってそのようすをながめていた二人に、床屋はてれくさそうにニヤッとわらい、またたみに話しかけてきました。 「なあ、たみちゃん、わし、さっきから考えていたのやけど、きのうの夜キド一はんからもろうた鳥の笛、あれはたいせつにしとかなあきまへんで……えらいむぞうさにくれたけども、話のとおりやと、えらい力を持つ笛みたいやが……。ほんまに何でまた、あんな笛くれたんやろな……」  たみは、床屋のことばにうなずきながら、鳥の笛を入れておいた袂《たもと》をさぐってみました。  たみの手に、小さなすべすべした鳥の笛がふれました。それにもうひとつ、小さな布の包みが知らぬまにはいっています。いぶかしげにそれをとりだしたたみは、あけてみて思わず目をうるませました。包みの中身は、干したくだものでした。ユージンが、あまずっぱい香りがこぼれたのに気がついて、うれしそうにしっぽをふりました。 「いやあ、それはきっと、菜の花はんが、わかれぎわに入れといてくれたものやな……そろそろ腹がへってきて、何ぞ食べる物の心配をしておった時や。それじゃ今、それをちょっとつまんで腹をだましといて、もうすこしのぼってから、どこぞええとこ見つけて昼飯にしまひょうか……」  床屋は、さしだしたたみの手から干しなつめをとると、ゆっくりと口にほうりこみました。  りゅうもひとつ口に入れながら、ちょっとたみのほうをながめ、ひくい声で話しかけました。 「たみ、また会えるといいな……」 「会えますがな……帰りにはきっと……」  床屋が、とってつけたような陽気な調子で答えると、ピイピイと調子はずれの口笛を吹きはじめました。たみは、口の中に広がるあまずっぱい味を一口一口かみしめながら、今夜もきっと元気よくしゃべりながら、うすい山イモの汁を煮るだろう菜の花のことを、考えました。たった一晩をいっしょにすごしただけなのに、すっかり気心の知れた友だちのように思われます。 「おっさん、あれを見て……」  先頭を歩いていたりゅうが、急な斜面をのぼりきったところで立ちどまると、床屋を呼びました。まるで強い風か雷でもうけたように、一本の大きな松の木がたおれていて、そこからわずかに先のほうが見わたせます。床屋は、腰に下げたてぬぐいでゆっくりと汗をぬぐいながら、目を細めました。  高みからながめた山々は、あざやかなもみじの林をところどころはさみながら、ぼうと白っぽく光る雑木林と、黒ずんだモミや杉の林が、まだらなもようを描《えが》いています。  りゅうの指さした峰《みね》の頂《いただき》は、どす黒い雪雲におおわれて見えませんが、まわりの山とは見るからにちがって、ぶきみに静まりかえっています。そしてちょうどその時、その峰のほうから流れてきた風の中には、奇妙な、思わず顔をそむけたくなるようなにおいがこもっていました。 「あれが……あの熊のいるというあたりじゃろうか……」  りゅうは、床屋がみるみる顔つきをひきしめてするどい目つきになったようすに、ちょっとうろたえながら、小声でたずねました。 「そう……そうやろな」  床屋は、声とともにさりげない顔つきに変わると、てぬぐいをぐしゃぐしゃとまるめながら、歩きだしました。 「さあてさて、まだまだ先は長《なご》うおます。遠くの虎はこわくても、近づいて見ればただの張子、ということかて、ないともかぎらん。今から気にしててもしょうがないわ。さあ行きまひょ、今にええとこ見つけて、一服しまひょうな……」  たみは、二人に気づかれないよう、そっとため息をつきました。さっきから床屋が昼飯、昼飯と、小さな子どもをだますようにいいながら、もうだいぶたっています。昨夜菜の花のところで広げたべんとうの中身が、ちらちらと思いだされます。  床屋は、二人のようすには気づかぬげに、ひくい調子はずれの歌をうたいながら歩いていきます。尾根道にさしかかると、ときどき立ちどまって耳をそばだてたり、ちょっと舌を出して風の向きを調べたりしていましたが、何を思っているのか、ほの暗くせまくなった道を、ますますいそぐように二人に合図しました。  聞きなれぬ陰気な鳥の声が、二、三羽鳴きかわした時です。大きなモミの木が五、六本、道をへだてて立ちならんだ平らなところへ出ました。すぐ近くに水の音も聞こえます。 「いやあ……これはええところが見つかった」  床屋が、うれしそうに二人を呼びとめました。 「さあ、飯や、飯や、飯にしまひょ」  床屋は、腰につけたあの妙なかっこうの袋から、古い鍋をひっぱりだすと、りゅうにわたし、すこしはなれた草かげに流れる小さな谷に、水をくみに行かせました。たみにはたきぎを集めさせ、自分はあっというまに、そのあたりの石を組んでかまどをつくりました。そしてたみに火を燃やすようにいいながら、またごそごそと袋の中をかきまわしています。  やがて、りゅうが手の切れそうに冷たい水をくんできました。床屋は、ちょっとすえたようなにおいのする魚の干物をとりだすと、さっき道ばたでとった草といっしょに、鍋の中に入れました。たみに火の番をつづけるようにいうと、胸ぐみをしながら空をあおいでいます。  りゅうは、床屋がいちばん枝のはったモミの木の下にかまどをつくったり、何となくおちつかぬようすなのが気になりました。だまって床屋のそばにすわりこむと、りゅうも空を見ました。雲が、思いがけないはやさで流れています。 「おっさん、雨になるのか……」  問いかけたりゅうに、床屋はうなずくと、さっと立ちあがりました。 「そうやりゅうさん、どうも強い降りになりそうな気がするのや……。今のうちにたきぎを集めて、まわりをかこっておいたほうがよさそうや……」  りゅうは、床屋の指図をうけながら、油合羽《あぶらがつぱ》を広げて、頭上にはりでた枝にかけ、じょうぶな糸でしばりつけました。そのあいだに床屋は、細長いみぞをほり、雨水の逃げ道をつくっています。  二人のやりとりを注意深く聞いていたたみが、小走りに枯枝をひろい集めだしました。手がすいたりゅうと床屋もてつだって、枯れたモミの葉を囲いの中に寄せ集めたころには、ようやく煮たった鍋の中から、おいしいにおいが流れはじめました。 「さあ、もうええやろ。今度こそほんまに一服しまひょ……」  床屋は、きざみたばこを一ひねりキセルにつめこむと、かがみこんでたき火から火をつけました。キセルの先がぼうと赤らんで見えて、りゅうはあたりの思いがけない暗さにおどろき、囲いの外をのぞいてみました。  ポツリと重い雨つぶが落ちてきました。あわてて頭をひっこめたりゅうの耳に、はげしく地を打つ音がはじけて、みぞれまじりの雨が、白いしぶきを上げながらふりはじめました。床屋は気にとめたふうもなく、ひしゃげた玉じゃくしで鍋の中をかきまぜます。 「さあ、ええぐあいに汁が煮えてきた……どれ、ちょっとお毒見《どくみ》拝見《はいけん》と……ああこれでよし、と。どれ、このあいだもろうたもちも、持ってきたはずやで……」  床屋はまた袋をかきまわすと、ひびわれてかびのういた粟《あわ》もちを、鍋の中に六つ七つ、ほうりこみました。りゅうのおなかの虫が、大きな音をたてて鳴きました。  木のお椀にたっぷりもられた雑煮《ぞうに》を、やけどをしないように食べながら、たみの手が、ぶるぶるふるえます。里にいれば、ちょっと手を出しそうにない古い干し魚に、道ばたの草を煮たものなのに、とろけかかった粟《あわ》もちにくるんで食べる味は、泣きたくなるほどおいしいのです。 「どうやら、今日はここで野宿やな。この雨はしばらくつづきそうや……」  床屋はきゅうくつそうにまげた足をのばしながら、かるいあくびをしました。ユージンは気持よさそうに目をとじています。  たみは、積みあげたモミの葉を一すくいつかむと、火の上にかけました。パチパチと気持のよい音をたてて燃えます。目をとじると、ふりしきる雨の音が、まるで滝の中にでもいるようなはげしさで、ひびいてきます。 〈里を出て二日目〉  たみは、雪雲におおわれたあのおそろしい山のようすが心に重くのしかかってきて、首をふると、また一つかみモミの葉を投げいれました。        ○  雨は、つぎの朝もつづきました。 「ああえらいことや、体じゅうやら、こちこちになってしもうた。さあ、ええかいな、出かけまっせ……」  きょとんとして雨の音を聞いている二人に、床屋が声をかけました。きのうの残りの汁を飲み、油合羽のしずくをはらい、床屋はいやもおうもない調子で、二人をせきたてます。 「じっとしてても、体はぬれます。こんな冷たい雨の中、すわっててもしょうがおまへん。さあ行きまひょ。ただ、道がすべりやすうなってますから、それだけは気ぃつけてな……」  つぎからつぎへと霧がたちこめて、けむったような山道を、三人はぐっしょりと体の芯まで凍りそうになりながら、歩いていきました。床屋は二人を元気づけようと思ってか、あいかわらず調子はずれな歌をうたっています。  雨は、枯葉をたたきつけ、裸木の枝を洗い、吹きつける風といっしょに、三人の体に容赦《ようしや》なくふりつけてきます。足もとの道から下へ、小さな谷が無数にでき、白いすじをひいて流れていきます。  たみは、りゅうのあとを追おうとして、苔のはえたまるい石に足をとられました。そしてストンとしりもちをついたままのかっこうで、細く水の流れている岩はだをすべり、あっというまもなく道下の小さな滝つぼに落ちました。ぼうぜんとして立ちあがると、ひざあたりからみるみる水が赤く染まっていきます。  床屋に助けられて道にはいあがってきたたみは、ただぐっとくちびるをかみしめました。りゅうがてぬぐいをひきさいて、たみの足に巻こうとするのを、床屋がおちついてとめました。 「待て待て、りゅうはん。このぐらいの傷なら、そうあわてることはおまへん。いっぺんこの葉っぱの汁を、すりこんでみまひょ。血どめによう効くと聞いてます」  りゅうは、自分の体でたみを雨からかばいながら、床屋のいうとおり、葉をよくもんで傷口にあて、てぬぐいでしっかりとたみの足をしばりました。 「たみは、わしがおぶっていく……」  りゅうは、血の気のなくなったたみの顔を、いたましそうにながめながら、床屋にいいました。 「そうですな。わしがおぶってもええんやが、傷口にひびくとあかんしな。まあ、どこか、木のほこらか何か、雨やどりできるところを見つけるまで、そないにしまひょか……」  床屋は、りゅうの背中の荷物をひきうけると、首をふって自分で歩こうとするたみをなだめて、りゅうの肩におぶわせました。  たみは、りゅうの首におそるおそる手をまわしました。冷えきった体の中で、傷口だけが熱くズキンズキンといたみます。 〈とうとう足手まといになってしまった。まだ黒森にはいったばかりなのに……りゅうさんもおっさんも、くたびれていいかげんへとへとなのに……〉  こぼれた涙がなまあたたかくりゅうの首をぬらします。りゅうは、たみの気持が手にとるようにわかって、先を歩いていながらなぜ、すべる石に気をつけるよういわなかったのかと、くやまれてきます。床屋が、また歌をうたいだしました。二人の気をひきたたせようとする心づかいなのか、それとも少々やけっぱちになったのか、とにかくおたがいの足音すらも雨音に消されてしまう中で、ただひとつのあたたかい人の気配なのです。  雨はその日の昼すぎになってやみました。さいわい、道はひどいのぼりではなく、手ごろな休み場所もなかったので、かなりの距離を歩きつづけました。  りゅうは、きのう床屋が、自分たちをいそがせて尾根道までたどりつかせたわけがわかったような気がしました。あれだけの降りになってから、きのうのようなのぼり道を歩くことはできません。 〈それにしても、どうしておっさんは、こんなに山のことにくわしいのだろうか〉  りゅうは、床屋がつくった倒木のあいだの小さい囲いの中で、たみのそばに休みながら、不思議でした。床屋は落ち葉の山の下から、ぬれていないほだ木をひろい集めて火をおこしています。いがらっぽい黒い煙がやっと立って、火がしぶしぶ燃えはじめました。  ぬれた着物から、おもしろいほど湯気が出はじめるころには、りゅうもたみも、体を寄せあってねむってしまいました。床屋がそっと体をゆすぶってりゅうを起こしてくれた時には、あたりはすっかり暗くなり、冷えきった夜の空には、もう星が出ていました。 「ほれ、麦こがし……体があたたまりまっせ。たみちゃんはもうすこし寝かせておいて、目ぇさめたら食べさせてやりまひょ。なに、心配あらへん、明日になれば傷もふさがります」  床屋が、あたたかいお椀《わん》をにぎらせながら、ひくい声でりゅうにささやきました。  つぎの日、床屋のいったとおり、たみの足の傷はふさがり、まだすこしはれてはいましたが、りゅうのつくった大きな杖をついて、ひとりで歩けるようになりました。 「ああ、ええお仲間ができた……」  床屋はまんざらでもないといった調子でしゃべりながら、たみの歩くようすをながめています。 [#改ページ]     五 森の章  四、五日ののち、三人は、なだらかな山の道を進んでいました。たしかにキド八《はち》の話のとおり、うすぼんやりした光の中で見る黒森には、今では、千の宝がねむるとうたわれたおそろしいようなゆたかさはなく、花々はひからびて地をはい、木々はため息のような影を落として立ち、森の中は、かなしい歌をうたう鳥の鳴き声が時おり聞こえるだけです。道がすこしずつ幅をせばめてきたその時、先頭を歩いていたりゅうが、あやまって一個の小さな黒いきのこをふみつけました。 「わっ……」  ふみつぶされたきのこから、白い煙がしゅうしゅうと舞いあがりました。 「うらしまきのこでんな。けど安心、安心。髪はちっとも白うなってはいまへん」  床屋が、りゅうをからかいました。 「それにしても、えろうのぼりがつづきますな。こんなきのこがはえてるぐらいやから、そろそろ目の前が開けてきてもええのやが……」  床屋は、ちょっと立ちどまると、上のほうをすかし見ました。 「キド八はんの地図によると、もう桜の森に着くころやが。……いやまあ、着いてほしいような、わるいような」  床屋は、二人がじっと自分の顔を見つめているのに気がつくと、何気なさそうにわらって、また歩きだしました。  とつぜん、ゴオッと山鳴りのような音がしたかと思うと、かん木の茂みの上からさしこんでいたうす赤い光が灰色ににごり、所せまくさしかわした木々のあいだから、どろの滝のようなものがなだれ落ちてきました。それは、ほこりくさい土のまじった、おびただしい枯葉のかたまりでした。  三人は、はげしく顔や手を打ってまといつく木の葉で、息もつけないまま、その場に立ちすくみました。風が耳もとでするどく鳴り、床屋が、 「上へ、上へのぼるんや、こっちや、体をひくうして……」 と、とぎれとぎれにさけびながら、たみの手をひっぱりました。たみは、ただしゃにむに床屋のあとを追いました。 「うわっ」  床屋の悲鳴と、ドスンというしりもちの音を聞きながら、とつぜん、たみとりゅうもほうりだされたようにころびました。土ぼこりがもうもうとわきあがり、せきこみながら、やっとの思いで目をあけた三人の前には、すっかり葉を落とした無数の桜の枯木が、ぼうと立ちならんでいました。  白々と重なりあった木々をすかして、重苦しい空がのぞいています。ふとたみは、その空をうずめて舞う桜の花のまぼろしを見た気がして、たじろぎました。りゅうと床屋も、同じ思いなのか、顔をこわばらせたまま立ちすくんでいます。 「さっきの風は、ここから吹きおりたのだな」  迷いからさめたように、りゅうが足もとの白茶けた土をけとばしてつぶやきました。  たみが、あたりをはばかるようにゴクリとつばを飲みこみました。静まりかえった森は、なぜかどんな小さな物音でもひびくほど、はりつめた空気が流れています。 「さあ、どうにもこうにも、ここがまさしく、桜の森らしいな。……りゅうはん、へびは、どのあたりにいるんやろ。わし、はき気がしてきよった」  床屋は、ひそひそ声で、りゅうのそばににじり寄り、裸の木の森をすかし見ました。 「いよいよ、へびの森やな。さてどうしたらええやろな、りゅうはん。へびは音がきらいで、小鳥をつかまえては暮らしているということやし……あんじょう風でも吹いてくれるとええんやけどなあ」 「一本だけ、まだ花がさいているということじゃが」  りゅうは二、三歩森の中へはいると、ふり返って床屋とたみにいいました。 「わし、ちょっとどのあたりに大蛇がいるか見てくる。たぶん、花がさいている桜の木のそばにいることじゃろ」 「わしらもいっしょに行きまひょ。できるだけ音をたてんように」  床屋はあわててたみの手をとると、そっとりゅうのあとにつづきました。 「ヒャア、あれや、あれとちがうか」  床屋が、のどをつめたような声でささやきました。枯れた桜の木がつづいたその中ほどに、ひときわ大きな木があって、その枝を白くかざって、花がゆれていました。  三人が思わずあとずさりしたその時でした。まるで巻物をほどくように、大木の木の皮がはがれたように見え、白い大蛇がするすると枝をすべり、下枝にかま首をかけたかっこうで、三人のほうを、とがめるようにふり返ったのです。強い香木のようなにおいが流れました。大蛇は、口に細いすきとおった管をくわえて、その管の先から、真珠色に光る玉を、ふわりふわりと吹きだしながら風に遊ばせています。 「ヒャア、へびや、へびや、わし寝かせてもらいまっさ。目つぶりまっせ。寝たふりでっせ」  床屋は、すっと顔を妙な色に変えると、うーんとひっくり返ってしまいました。大蛇はたくみに身をくねらせながら、枯れた桜の枝から枝へとうつり、りゅうとたみの立っている、すぐそばの桜の木までやってきました。七色に光る白いうろこでかざられた胴体は、子どもの頭ほどもあろうかと思われるふとさです。大蛇は、赤みをおびた細い目で、じっとたみとりゅうを見つめました。 「さすらい人よ、そちらは何者じゃ。なぜに、わが静かなる楽しみの時をやぶるのじゃ」  りゅうは、細く赤い血すじのういてみえるへびの目に見すえられて、ものもいえず立っていました。たみは、今にもたおれそうな青い顔ながらも、ユージンが牙《きば》をむいてへびにとびかかろうとしているのを、必死におさえています。 「うん? なまいきな犬ころめが。牙をむいているのか。ほれ、これを見よ」  大蛇は、ユージンに目をとめると、細い管の先からフワリと真珠色の玉を枯枝に吹きかけました。真珠色の玉は、するすると飛び、今しも木末《こずえ》を飛びかすめた小鳥を包みこむと、鳴き声をあげてもがく姿をすきとおらせたまま、桜の木の枝にぶらさがりました。大蛇は、まんぞくげに、小鳥が膜の中で空気をもとめて苦しみもがくさまをながめています。  りゅうは、思わずこぶしをにぎりしめました。キド八がいっていたとおり、大蛇は、生き物の命をうばうことを、まるで遊びのようにしているのです。りゅうは、さっと腰をかがめました。うず高く積もった桜の枯葉のかげに、一かたまりのうらしまきのこを見つけたのです。りゅうは、大蛇をおこらせるとどうなるかと考えるよりも先に、うらしまきのこを、小鳥のはいっている玉めがけて投げつけていました。きのこは、りゅうの爪に傷つけられ、しゅうしゅうと煙をはきながら、へびのつくった玉にぶつかりました。かん高い音とともに玉がやぶれ、自由になった小鳥が、さっと空高くまいあがりました。 「うぬ、何をする、子ども。なぜじゃまをする」  桜の木が折れんばかりに、大蛇の体がゆれました。目が赤く光り、白いへびのはだがしゃくなげ色にそまりました。  犬のユージンが、たまりかねたようにたみの手をひっかくと、りゅうの前にとびだし、大蛇にむかってはげしく吠えはじめました。 「わたしにたたかいをいどもうというのか。フフ、なまいきなやつらが……」  大蛇が、しっぽではげしく地をたたきました。  りゅうは、おそいかかろうとする大蛇にむかって、きのこを目つぶしに投げつけはじめました。きのこは、しゅうしゅうと煙を吹きあげます。大蛇はむせながらも、かま首をもたげてりゅうにとびかかろうと、カッとまっ赤な舌を見せました。りゅうの手にはもう、二、三個しかきのこは残っていません。 「大蛇はあわてている。あわてているうちに勝負をつけなきゃ」  りゅうは、ぐるぐるとへびの動きに合わせて走りながら、床屋の七つ道具のはいった皮のベルトをつかみました。そして、すばやくカミソリの束をぬきとりました。 「ピー」  たみが思いついたように、人さらいのおじいにもらった笛を吹きはじめました。  小さい鳥の鳴き声が流れたとき、高い空に、点のようなものが見えはじめ、それはあっというまにたくさんの鳥となって、空中に広がりました。 「なんと……」  大蛇はおどろいて空を見あげ、りゅうをねらっていたかま首を、高く空にむけました。その一瞬のあいだに、りゅうは床屋のカミソリの束をばらばらと大蛇のそばにまきました。大蛇は、りゅうが土の上に投げたカミソリの上で体をくねらし、さっとうすい血を流しました。が、空の上でますますふえてくる小鳥たちがおどりくるうありさまに目をうばわれ、体から流れでる血に気がつきません。 「口さわがしきものは、何やらわたしのうわさをしながらおどりくるっているような。……聞こえぬ、聞こえぬ」  大蛇は、体を右に左にと大きくのばし、空に群がる小鳥の、幾百もの声を聞きわけようとして、土にのたうちはじめました。床屋のカミソリは、大蛇の体のあちこちを深く傷つけています。  りゅうは、床屋の耳に口をあてました。 「おっさん、床屋のおっさん、目をさましておくれ。逃げる時がきたら合図するから、ここをまっすぐつっ走って、向こうの森へはいるんじゃ」  床屋はかたく目をつむったまま、かすかに首を動かしました。りゅうが、ほっとしてたみを見ると、たみはいつのまにか笛を吹くのをやめて、ぼんやりと暗い空をながめています。空をおおわんばかりに群がった小鳥たちは、大蛇にむかって口々に呪いのことばを投げつけているようです。大蛇は、口からチラチラと炎のような舌を見せながら、空の小鳥たちを焼きつくそうとでもするように、桜の木の幹をのぼりはじめました。  大蛇は、かたい木のはだにさわってはじめて、自分の体の痛みに気がついたのでしょうか、はっとして血によごれた体を見おろしました。 「大蛇が死ぬ、大蛇が死ぬ。そう小鳥たちがいっているのか、おのれ、人の子めが」  のぼりかけてするりと体の向きを変えようとした瞬間、りゅうはふところの短刀をぬきだし、大蛇の首に投げつけました。 「今だ、逃げろ、おっさん」  りゅうの声と同時に、床屋がピョコンとはね起きました。そしてものもいわずにたみの手をひっぱると、向こうの森をめがけてかけおりはじめました。  りゅうは、自分も夢中で逃げながら、こわいもの見たさでさっと後ろをふり返りました。  けれどもそこには、白い大蛇の姿は見えず、小鳥たちが口々に鳴きたてながら、木の根もとのあたりにおそいかかっているのでした。そして一羽、たしかに黒森の入口で見かけた大ガラスが、黒い羽を大きく広げて小鳥たちの群れにまじっています。 〈あのカラスは……〉  りゅうは、後ろもふり返らず逃げていく床屋たちのあとにつづきながら、考えました。 〈あのカラスは、まるでわしたちのあとを追いかけてでもいるようじゃ……〉        ○  桜の森はいがいに奥深く、三人は息をつぐひまもなく、ただやみくもにかけぬけていきました。  かん高い小鳥たちのかちどきの声が、ひととき三人のあとを追いかけるように、森にひびきわたりました。りゅうはまたあとをふり返りました。大蛇のいたあたりには、血でそまったような赤い空が、木の間ごしにきれぎれに見え、小鳥たちがぐるぐると輪をかきながら、空中をおどりくるっています。 「おっさん、おっさん、大蛇は殺《や》られたようじゃ……」  りゅうは、床屋に声をかけると、立ちどまりました。桜の森は、どうやらはずれに近づいたらしく、あたりには、ミズキの白い葉がひらひらゆれ、緑の葉をつけた木々もまじってきています。 「りゅうはん、えらいことやった……」  床屋はくるっとふり返ると、はげしく肩を上下させながら、りゅうのところまでもどってきました。そして、がんじょうな手をりゅうの肩にかけて、空を舞う鳥の姿をじっと見やりました。 「鳥の笛は、やっぱりいわれたとおりの力がありましたなあ……。まあ、ぎょうさん集まって……それにしても、あの連中、やっぱり血にくるうておるみたいやな……」  床屋は、ふと顔をそむけました。 〈おっさん、へびがこわいのか〉  りゅうは、まだ顔色のわるい床屋を見ると、のどまで出かかった問いをひっこめて、きまりわるくなり、あたりを見まわしました。  ユージンが、カヤのおい茂った中にもぐりこんでいきます。ついていくと、けもの道のような細い道に出ました。  三人は、なだらかな下りになっているその道をおりました。角をまがるごとに、たけ高い杉の木にかこまれていきます。杉の木は、どれももう何百年も経てきたものばかりのようで、地面からもりあがった大きな根のいくつかは、たみの背をゆうに越えています。木のはだには、白っぽい苔がいちめんにはえていて、うっそうとした枝ごしに見あげる空は、どんどん遠くなり、深い地の底へでもおりていくような気がします。  たみはふと、人のため息のような音を聞きつけて、ほの暗い木立の中をのぞきこみました。床屋も首をかしげると、立ちどまりました。 「えらいこぶこぶだらけに、なってきたな。土が流れてしもうて、根が浮きあがったのかいな。それやとすると、この森ではうかうかねむられへんな」  ぼこぼこととびだした根っこをつかむようにうずくまった床屋は、そっと起きあがると、りゅうとたみの手をひきよせました。 「いかん、ここがあの杉の森や……。そうやった、桜の森のすぐ近くに杉の森があると、キド八はんがいうてた。……ほれ、この木やら、人間みたいに息しよる。根っこがなまあたたかい、まるで生き物みたいに動きよる」 「オウ、オウ、オウ……タレヤラ、ワシ、サワッタ」 「フウ、フウ、フウ。ワタシノアシ、フンタ」 「タレカ、ワタシノソハニ、イル」  風のひびきのように話し声が起こりました。枯れた茶色い針葉を、ばらばらと雨のように落とし、風に合わせて木の枝を幹に打ちつけながら、ひくくひくく、杉たちが、人間のことばをしゃべりはじめたのです。 「オウ、ワタシノユウコハン、フンテル」  小さなかん高い声が、りゅうのすぐそばで聞こえ、 「トレ、トレ、トレ、トレ」 と大小の木々が急に枝を寄せあったので、息もつまらんばかりに、杉の葉が厚く三人の頭に落ちてきました。 「タレカ、タレカ。ヒトリヒトリ、ナヲナノレ」 「床屋の赤次《あかじ》」 「りゅう」  二人があわててどなりました。 「ワタシタチ、ミエナイ、ケト、モウヒトリ、イルノ、ワカル。ナヲ、ナノレ」  たみのそばの、ひときわ高い杉の木が、ミシミシと体をゆすりました。枯れてとがった枝を、するどくたみにむけています。 「笛を吹けよ。人さらいのおじいにもらった笛さ」  りゅうが、たみにささやきました。 「ピー」 とすんだ小鳥の鳴き声が、たみの笛からとびだしました。  短く吹いた笛におびきよせられて、小鳥たちが五、六羽、ふらふらと遠い空にあらわれました。 「ナント、モウヒトリハ、コトリナノカ」 「イエ、トリノコトハヲ、シャヘルヒト、フシキネ」 「トウスル、コレマテ、コノモリ、ヒトコナイ、ヒト、ワタシタチヲ、キリタオス、コロス?」 「イマコロ、ナニカ、オカシ、ケタモノ、イナイ、コトリ、コナイ、ワタシタチ、サヒシ、サンニン、ココテ、ワタシ、カウ。イイネ」  木のこすれあう音が高くなり、人間の声は消え、暗い森いっぱいに、ヒュウヒュウと強い風の音が起こりました。杉たちがあまり夢中で話そうとしたせいか、もうことばにもならない、ただはげしい風のような、もとの木の話し方に変わったのです。  床屋とたみとりゅうは、へびのようににょろにょろと地をすべってきた根っこが、がっちりと輪をつくり、自分たちをとりまくのを見ました。 「何や、けったいな話し方しよるなあ。わしらをとりこにして、このぶんやとそのうち、うたえおどれとうるさいことやろ。こうなったらしかたがない。今のうちねむっておきまひょか。それにしても、腹へったな。わしらとりこにするつもりなら、飯ぐらい、食わせてくれてもよかろうに」  床屋のぶつくさいう声が聞こえたのか、三人のすぐそばの地面がぶるぶるとふるえたかと思うと、やわらかい、いいにおいのする土がもっこりとあらわれました。 「コレ、スコシ、オタヘ。オイシイ」  かわいたかすれた音が、やっと人間のことばを残したように、吹く風にきれぎれに聞こえてきました。 「ホレ、ツチヲ、タヘナハレやってさ、あほらし」  床屋は、あきらめたように目をつむりました。  ユージンは、じっと土を見ていましたが、うれしそうにその山をペチャペチャとなめはじめました。りゅうもたみと顔を見あわすと、まだふかふかと湯気の出ている土を指ですくってなめてみました。ぷーんと強いシダや苔のにおいがしますが、あまくねっとりと舌にやさしい味に、あっというまに、おなかがいっぱいになりました。  りゅうは、床屋にも手ですくったのをわたそうとしましたが、床屋はちらっとながめただけで、首をすくめました。 「キツネやタヌキだけが、泥まんじゅう食わせるのかと思ったが、……いりまへん、わしいりまへん」  いい切ったことばの終りがふるえて、ふとりゅうは、床屋は泣いているのか、それともこわがっているのかと、いぶかりました。だまってじっと見ているりゅうに、床屋はふいに顔をあげると、 「そうや、りゅうさん。わし、こわいんや。わし、むかしから、長《なご》うてにゅるにゅると地をはうもん見ると、目つむるたんびに、夢見てうなされるんや。そやさかい、いつのまにやら、そういうもんに会うと、目つむるくせがついてしもうた。気ぃくるいそうや。……何とかして……わし、さっきから持っているハサミやらで、根っこ傷つけて、逃げだしとうてたまらん。けど、そんなことしたら、またにょろにょろと地面はって、追いかけてきて、わしらしめあげてしまうやろ。そやさかい、じっとがまんしてるんや。けど、もうちょっとしか、もたへんで」  床屋は、ふるえる手でハサミを持ちかえると、それをぎゅっとひざに押しつけました。こめかみに青いすじをひきつらせているそのようすは、まるで別人のようです。たみは、朝からのつかれが出たのか、ユージンをひざに、うとうととねむりかけています。 〈お父〉  りゅうは、床屋からもたみからも顔をそむけると、そっと胸のうちでつぶやきました。のどのあたりが妙につまり、涙がじわっとにじみでます。あわてて肩をいからせると、くちびるをかみしめました。 〈泣いてどうする。いくら泣いても、だれも助けてはくれん。自分で考えなければ……おちついて、いいかりゅう……ここは里ではない、黒森じゃ。どうかな、夜にでもなれば、木たちがねむってるあいだに逃げられるかもしれんし……それとも、おっさんにはがまんしてもらって……もうすこしようすを見るか……たしかに、キド八さんのいっていたとおり、時のたつのがぐんとおそくなっているようだ。わしだって、いいかげんくたくただ。なんという日じゃ。おまけにおっさんは、子どもみたいに根っこをこわがっておるし、たみは……〉  またまた、もとの心細い思いにかえっていきながら、りゅうは何気なく、さっきから足にあたるかたい木ぎれをひろいあげ、ぎょっと息をのみました。  りゅうの手の中で、白々と光っているのは……。 〈骨だ。きっとこの木が、わしたちよりも前につかまえた動物か何かの骨だ……ぼやぼやしておると、わしらもじきに骨になってしまうぞ……〉  りゅうは、むかむかするようなはき気を感じながら、そばの二人に気づかれないよう、そっと骨を枯葉の中にかくしました。いつのまにか、床屋も苦しげな寝息をたてています。りゅうは、とほうにくれて、よろいのようにかたい木の幹を見あげました。 〈こんなにたくさんの木から、どうやって逃げだせばいいのだ。大蛇はおそろしかったが、一ぴきじゃった〉  りゅうは、赤い血のすじを何本もうかばせて自分をじっとにらみつけた、大蛇の目を思いだしました。頭をふってその目をはらうと、重苦しい枝をはりめぐらした木々を、また見あげました。つかれきった体が、はりつめた神経を、すこしずつにぶらせていきます。        ○  ふと、りゅうは、木末の向こうに半欠けの月が、どんよりとした黄色の光を投げかけているのに気がつきました。 「しまった、知らぬまにねむってしまった」  りゅうはあわてて、あたりを見まわしました。どこかで夜の鳥が鳴いています。風が杉の木末を鳴らして通りすぎていきます。たみの顔がぼうと闇の中にうかんで白く、床屋もまだねむりこんでいるようすです。りゅうの目のさめた気配に、ユージンがそっと頭をすりよせてきました。あたたかいしめった舌がりゅうの手をなめ、りゅうは思わずユージンをだきしめました。 「アカウ、カウカウ」  人恋しげなカラスの鳴き声が、夜風にのってりゅうたちのすぐそばで鳴いているように聞こえたかと思うと、また遠くのほうへ去っていきます。 「あかん、あかん……だめや……」  床屋が早口で何かつぶやき、かわいた笑い声をあげると、ごろりと寝がえりを打ちました。 「何じゃ、おっさん、夢を見ているのか……」  杉たちもねむりこんでいるようで、あの妙なことばも聞こえてきません。りゅうは、そっとユージンをひざからおろすと、立ちあがってみました。ユージンは闇の中で目を光らせ、注意深く、りゅうのすることを見ています。  りゅうは静かに腕をのばしてみました。そして、自分たちをとりまいている大きな根をとびこえられるかどうか、そっと高さをはかってみました。土の上にうかびでている根のいちばんひくいところで、ちょうどりゅうの胸の高さほどあります。この根に気づかれずにとびこえることは、身軽なりゅうはともあれ、たみにも、足の不自由な床屋にもむりなことです。りゅうは、いらいらと足ぶみをしました。ねむっているように見えた根っこがビクッとふるえ、ジワッとりゅうの体にすいついてきました。りゅうはぞっとして、思わず地面にすわりこみました。 〈木はねむってなんかいないぞ……このぶんじゃ、夜になってもだめだ……〉  不安げなカラスの鳴き声が、また遠く空の上から聞こえてきます。 〈目はないが耳はある……体じゅうが耳のようなものだから。気づかれないで逃げるためには、大風でも起こって、木が枝や葉を守るのに必死になるような時を待つのが、いちばんいいだろうが……〉  闇の中で、自分も立ちならぶ木のように目をとじ、なすすべもなく耳だけをすましていたりゅうは、かすかな音に気がつきました。たしかにツウ、ツウ、ズルと、ひくい音が、すぐそばのふとい根っこから聞こえてきます。 〈根っこが水をすいあげているんだ……うまそうに飲んでいる〉  りゅうは思わず、からからにかわいたのどをゴクリと鳴らしました。  しばらくぼんやりとそのかすかな音に耳をかたむけていましたが、ふと立ちあがりました。いつか村の祭りの時、楠《くす》の木《き》のおばあが、酒に酔ってけんかをしている男たちを見てつぶやいたことばを、思いだしたのです。 『酒を飲めば、のどがかわく。かわけばまた、酒を飲む。飲めばけんかか。気ぜわしいことよのう』 〈そうだ、けんかだ……。大風でなくても、けんかをさせればさわぎがおこる。そうなりゃ根っこも、わしらをつかまえておけないぞ〉  りゅうは、かたわらに落ちている小石をひろうと、遠くの大きな木めがけて、ヤッ、と投げつけました。そしてどきどきする胸をおさえると、十かぞえ、今度は、そのとなりの杉の木の幹をねらいました。  しんと寝しずまっていたように見えた杉の木末から、またザワザワと会話がはじまりました。 「タレタ、ワタシ、オコスノハ」 「ワタシ、クスクッタイ、イヤヨ」 「オマエ、イシナケタナ、ナセ」 「ワタシ、シナイ、シナイ」 「ケンカタ、ケンカタ、オキロ、オキロ」  杉の木たちは、ドシンドシンとものすごい音をたてて、おたがいに幹《みき》をぶつけあい、けんかをはじめました。 「なんや、何が起こったんや」  床屋が目をさまし、大声でたずねました。たみも、ねぼけたようにあたりを見まわしています。りゅうは、返事もせず、じっとなりゆきを見守っています。  広くのばした枝のあちこちが、となりの木にぶつかりあうので、たいくつなほかの木も、よろこんでとなり同士の木と戦いはじめました。根っこでりゅうたちをかこんでいた杉の木も、となりの木にさかんに枝をぶっつけています。木の先に神経を集中させたせいか、三人をかこんでいた根っこは、ゆるゆると輪を広げ、ゆれながら、戦う幹《みき》をささえることで精いっぱいです。 「うまくいった。おっさん、たみ、逃げよう」  りゅうはたみの手をひき、床屋の手をひっぱりました。 「おおきに、行きまひょ」  床屋は、ぶきみにふくらんだ根っこを見ないように、しっかり目をつむると、りゅうの手にひかれるまま、やみくもに走りはじめましたが、すぐに、ぬっとつきだした杉の枝に頭をぶっつけて、たおれました。 「オイ、オイ、オマエラ、アタマ、トコツイテル、テル」  苔むしたような古びた声が、得意そうに、けんかに夢中の杉の木たちを制しました。 「ワッワッワッ、ワタシノヒト、ニケタ、ニケタ……」  急に背の高い杉の木がさけびました。 「ア、ラ、ラ、ラ」 「サワ、サワ、タイヘン」  ほかの杉の木たちが、大さわぎをはじめました。細い枝先をあちこちにゆすりながら、また根っこは根っこで、地面をふるわせながら、りゅうたちの居場所をさがしはじめました。今、つきだした枝で床屋の頭を打った木は、この中でもだいぶ年を経ているらしく、みにくいこぶがあちこちにくっつき、苔むした枝は、ねじまがっています。そして意地わるげに、ふくみ笑いのような音をたてながら、いいました。 「ココタ、ココタ、ワシ、ミツケテイル、ワシ、ツット、オモッテイタ。アノクマトノカ、ハナシテイタ、ヒトタチ、キットコレ。タレカ、ヤッテ、クマトノニ、シラソ。イイカ、ニカスナ……」  パシパシきしる音とともに、杉の枝が、網となってたみとりゅうの上にかぶさりました。 「ハヤク、クマトノ、ヨヘ、ヨヘ」  杉の木たちは、さっきまでのけんかの興奮もさめないうちに、今度は、年老いた杉の発見にいきりたって、キイキイとつんざくような音で、歌の拍子をとりだしたものさえいます。 「たみ、だいじょうぶか? おっさん、おっさん」  りゅうは、すこしでも動くと、まだここにすきまがあったとばかり、杉の枝がぐいぐいとくいこんでくるので、ただ目だけを動かしながら、まだ足もとにころがっている床屋に呼びかけました。  たみも、両手は動かせるのですが、首と肩のあたりをしっかりと枝でおさえつけられているので、ただコクンとうなずくばかりです。  地にふせたまま、床屋がするどい声をあげました。 「ア、ホーイ、ホホホホーイ、クロー、クロバアー」  叫び声は、ざわめく杉たちのあいだをとおりぬけて、高い空の上にまでとどくかと思われました。ビューと、するどい矢が空を切るような音がしました。 「ヒャア、イタイ、ナニヤラ、オチテキタ」 「ワタシノカオツイタ、イタイ、コレ、カラス」 「カラス、キタキタ」 「わあ、またあの大ガラスじゃ」  りゅうは、針の雨のようにふる杉の葉をよけもせず、大声でさけびました。黒森の旅のあいだ、三人のあとを、見えかくれしながら追ってくるように見えたあの大ガラスが、大きなくちばしで、つぎつぎと杉の木たちを傷つけています。杉の木たちもむちゃくちゃに枝をふりまわすのですが、それがかえっておたがいを傷つけあうばかりで、大ガラスのほうは、大きな体をすばやくかわして、いっこうに疲れたようすもありません。 「それにしても、あいかわらずやな、ばあさん。わしの声聞くと、すぐすっ飛んでくるわ。あんなにはりきりよって、あとでまた背骨がいたむゆうて、コウヤクはらすことやろうに……」  いつのまにか起きあがった床屋は、けろりとしたようすで、りゅうとたみをおさえている枝を、腰につけた大きなハサミでかりとりはじめました。  もともと杉の木たちは、鳥がにがてなところに、相手が戦いじょうずな大ガラスなので、自分がいちばん先に音《ね》をあげたなどとみとめる前に、寝ていたふりをしようと思ったのかもしれません。われ先にしーんと静まりかえっていきました。けれどもさすがに、大ガラスにひどく傷つけられた木は、まだウオーン、ウオーンと、ひくい泣き声のようなものをたてています。        ○ 「オーイ、ここやでえ……」  床屋は、りゅうとたみを救いだすと、ゆっくりと杉の木のてっぺんのあたりを飛んでいる大ガラスを、呼びました。大ガラスは、床屋のそばに舞いおりました。そして、まるで目くばせでもしているような片目で、うっとりと床屋をながめると、くちばしでちょっと床屋の頭をつつきました。 「ひゃっ、くすぐったい。あかん、あかん。そんないたずらせんと、行儀《ぎようぎ》よう、行儀よう」  床屋は、大げさにとびのくと、あらたまった調子で、りゅうとたみに、話しはじめました。 「あのな、このカラスは、むかし、わしが狩りをしておったころのあいぼうで、クロバアゆうメスのカラスや。こいつ、ひなのころ、親父が山からひろってきたのやけど、へびをとるのがじょうずでな、わしは猟師の家で育ったくせして、いっぺんまむしにかまれて命を落としかけたことがあって、それからは、へびだけはどうにもがまんできん。それで親父が、わしに狩りの技術しこむと同様に、クロバアにもしこみ、いつも二人いっしょに山へ行くようにしたんや……」  床屋は、めずらしそうに大ガラスを見ているたみとりゅうをうながして、荷物をひろい集めると、さっさと歩きはじめました。ユージンは二本の足でヨタヨタとついてくる片目の大ガラスを、うさんくさげににらんでいます。床屋は歩きながら話をつづけました。何か、さっぱりと殻を投げすてたような、別人みたいにはっきりとしたしゃべりかたです。  わしとクロバアは、兄弟のようにいっしょに育った。ところが、いつもクロバアがわしのそばをはなれんもんやさかい、わしには年ごろになっても、嫁はんの来手がない。そこで親父が、クロバアをつれて狩りに行くことになった。わしからはなれることに、すこしずつ慣らそういうわけや。クロバアはいやがって、きちがいみたいにギャアギャア鳴きよったが、やっぱり親父には一目《いちもく》おいておったとみえて、いっしょに狩りについていった。  十日ぐらいたったころやった。夜中にわしは、クロバアのけたたましい鳴き声に起こされた。羽のあちこちをむしられ、すっかり弱りはて、見るもむざんなようすのクロバアが、そこにいた。クロバアは手当もうけず、わしに�ついて来い�と合図するばかりや。わしは鉄砲を持つと、クロバアと親父が野宿《のじゆく》しておるはずの山へのぼった。  おそかった。親父と仲間の猟師たちは、みな寝こみをおそわれて、殺られていた……。親父は、もとはといえば、そのころ村や里を群れを組んで荒らしまわっていたおおかみを、追いかけてたんや。ところがそのおおかみの頭《かしら》は、おそろしく頭のいいやつで、野営《やえい》している親父たちを逆襲してきよったんやな。おまけに運のわるいことに、クロバアが知らせようと声をからして鳴いても、わしを恋しがって鳴いておるように思って、ゆだんしてたんやろう。……わしは若かったし、そのありさまを見ると、カッとなって、そのままあとを追って、おおかみの群れへとびこんだ。  そしてこのとおり、クロバアは片目を、わしは片足を失《うしの》うた。  おまけに口惜《くちお》しいのは、そのおおかみの頭や。べつの一頭がわしの足にかみついておるあいだ、片足をわしの胸にかけてじっと空を見てたが……わしが足の痛みにうめき声をあげると、枯草色の目でわしの目をのぞきこみ、それから、のどの奥から笛のような音を出し、仲間を呼びよせ、静かに行ってしもうたんや。  自分の足をうばわれ、親を殺されたんや。復讐や、親のかたきやいうて、命をかけてまでも追いまわすのが、男いうもんやろうけど、親父たちの死にざまや、わしのようすを見て、おふくろの悲しむさま見たりしておるうち、なんや、こんな血なまぐさい殺しあいがいやになってな、そのころでも�カラスつきの赤次�いうたら、仲間うちではちょっとしたもんやったが……それいらい狩りをやめて、床屋に商売がえしたんや。女、子どものきげんとって、髪を切ったりひげそったりするだけで、なんとか生きていける。だれにも害のない、ええ商売や。  あんなにわしのそばをはなれることなかったのに、クロバアは親父の葬式いらい、どこかへ飛んでいってしもうたし、「鳥の心にも申しわけないと思うたんやろうか……」などと、おふくろはふびんがっていたけど、わしは内心、クロバアもやっぱりわしと同じ気持なんやなと思うておったんや。  そんなわけがあって、わしはこんな遠くの里へ来て、住むようになったんや。ところがここ十日ぐらい前に、どうして見つけたんか知らんが、ひょっこりクロバアがやってきた。片目はつぶれてしもうたけれど、体はすっかりなおってな。それでしつこく、わしをどこかへつれていこうとするんや。あの親父たちを殺し、自分の目をうばったおおかみの群れを、さがしつづけていたらしい。わしがいくら、もう狩りはやめたいうても、わかる相手やない。小さい時から、狩りだけをおしえこまれて育ったクロバアや、口がきければ、「何をあほなこというてるんや、あんた、ボヤボヤしてたら、そのええ男まえが泣きまっせ」とでもいうところやろ。  そういうわけでな、わしが黒森へ行くために山仕度したのを勘ちがいしてな。わしが、新しいあいぼうを見つけてしもうたとでも思ったんやろ。とにかくクロバアは、あきらめちゅうことを知らんでな、見えかくれについてきよった。今度も、けっきょくはクロバアの勝ちやな……。  床屋は、最後の一言はひとりごとのようにつぶやくと、あとをふりむきました。 「おおきにクロバア。わしはえらいまぬけやった……気ぃ変わったからな。わしが呼ぶまで、おまえ、空で待っててや……」  床屋は、熱心にあとをついてきたクロバアの背中を、なでてやりました。クロバアは大きな体を床屋にすりよせると、うれしそうなあまえ声を出しました。  りゅうは旅のあいだ、何となく心のすみにひっかかっていた疑問が、床屋のうちあけ話ですっかり合点がいくと、またあらためて大ガラスをながめました。どうどうとした大きな体と、何かわらっているようにも見えるつぶれた片目……。 〈こいつは、わしよりもずっと旅をしたんじゃろな……〉  りゅうは、おそるおそる手を出すと、そっと黒光りするカラスの羽をなでてみました。  たみは、大ガラスが床屋を見る目つきがおかしくて、ついうつむくと、笑いをかみころしました。  月明りの夜道が、だんだん明るくなっていくようでした。床屋の話に夢中になっていたりゅうは、ふと気がついてあたりを見まわしました。いつのまにか、空を圧していた杉の森はとぎれて、さむざむとした裸木の先に、冬の夜空が広がっています。  床屋は、そこまで一行を守るかのようについてきたカラスを、空に帰しました。そして、ふとわれにかえったようすで、二人に呼びかけました。 「さあ、えらい道草を食わされてしもうた。なんちゅう長い一日や。とにもかくにも、いそぎまひょ。日にちを決められた旅やないけども、ますますやっかいなことにならんうちに、いそいだほうがとくや。この月明りがあるうち歩いて、くたびれたところで、すこし休みまひょ」  うすぼんやりとした月の光のもとで見る森の中は、いつ何どき、またあの奇妙な話し声がささやきかけてくるかもわからない気がしておちつきません。たみとりゅうは、声もなくうなずくと、床屋が、もとどおりしっかりとした足どりで歩きだしたあとに、つづきました。  すべてが死んでしまったような森の中ですが、月光をすかして見ると、古いブナの木々にからまったさまざまな形のツタが、複雑な影をつくりだし、ふと、何かべつの生き物がそっと三人をうかがっている錯覚さえおこします。  ひゅーっと冷たい風が吹きすぎました。 「やっ、これはどうや……」  床屋が、短い叫び声をあげると、おどろいたようすで、かきわけた茂みからふり返りました。 「道があらへん、消えてしもうた。行きどまりや……」  床屋のいうとおり、細い山道はそこでとつぜん切れ、三人が立っているのは、目の下に深い谷間をのぞかせた、崖っぷちでした。  たみは、足もとから吹きあげる風に思わず身ぶるいをして、二、三歩あとずさりしました。杉の林から休みもせず歩きつづけて汗ばんだ体が、あっというまに冷えきってしまいました。 「しゃないな。明るくなってくるまで、このあたりで待ちまひょ……」  床屋は、暗い谷間をのぞきこみながらいいました。そして、何か思いわずらうことがあるように、いつもに似合わず急にだまりこくって、野宿のしたくをはじめました。  りゅうは、頭が妙にさえきって、たみのようにおとなしく床屋のそばにすわることができません。崖っぷちにすわりこむと、谷間を吹く風の音に、聞くともなしに耳をかたむけていました。  いつのまにか床屋がそばに立っていました。腕組みをしたまま、やはり暗い谷底を見やっています。  りゅうは、ふと、風の音に妙な鳴き声がまじるのに気がつきました。顔をあげると、床屋はだまって谷の中ほどを指さしました。銀色に光る翼をゆっくりと動かしながら、無数のこうもりが、姿より大きく見える影をいりまぜ舞っています。 「あれは……」  りゅうは見おろして、息を飲みました。 「何ぞ、おさがしものというところやろ」  床屋は、どこかうわの空でボソリと答えましたが、すぐわれに返ったようすでりゅうをうながし、暗い闇の中でねむるたみのほうへ、もどりました。  こうもりの一団は、谷の上空まで上がってきたらしく、ヒイヒイと鳴きかわす声はしだいに大きくさわがしくなり、りゅうたちの茂みのそばも、しばらく行きかっていましたが、やがて静かになりました。じっと耳をすませていた床屋が、りゅうにささやきました。 「もうええで、りゅうさん。一眠りしまひょ。あのこうもりは、ただのこうもりと、ようすがえろうちごうていた。……まあ、こんな森の中で夜中さわぎたて飛びまわるもんらに、声をかけるのはやめときまひょ。もしかして、ただ杉の森のさわぎにおどろかされただけのことかもしれんし……。さあ、おねむり、おねむり」  りゅうは、床屋がひとりで何かをゆっくり考えたいのではないかと、ふと思いました。冷たくこごえた手で体をこすりながら、たみを起こさないよう、そっと体の向きを変えました。 [#改ページ]     六 洗濯女の章  朝雲が東に流れ、星が、白みゆく空の中に消えていきました。険しい岩はだのわずかなさけ目に根をはいこませた灌木《かんぼく》に、夜露が凍りつき、やがて朝の光をうけてかがやきはじめました。  寒さをふせぐためあたりを行ったり来たりしていたりゅうが、岩壁に深く帯のようにほられた道を見つけました。空が明るくなるにつれ、崖沿いの道は、はっきりとだれの目にも見えるようになりました。  床屋は、ひょいと首をすくめると、りゅうの肩をたたきながらわらいました。 「死ぬまぎわでも、生きる望みをすてたらあかんということですな、りゅうはん。……それにしても、あの木の茂みやらでよう見えへんけど、ぽつぽつ穴があいてまっしゃろ。わし、あれが気にくわんなあ。……まあ、道からはだいぶ上のほうやから、何にしても、静かにおりればよろしいやろうけど……」  りゅうはもう一度目をこらすと、くねくねと下っていく岩沿いの道からはなれた岩壁に、十五、六もの、形のさだまらない穴があいているのを見ました。 「何ぞまた、あの中にすんでおるのじゃろうか……」  りゅうは、たみの耳にとどかぬよう、小声で床屋にささやき返しました。 「さあ、どうやろ。とにかく行きまひょ。……大蛇の森のつぎに杉の森、そのつぎが洗濯女とか泣き女とかの谷、ということやった……どっちみち、ここは杉の森から谷におりる道や。キド八《はち》はんのおしえてくれた道すじを、そうはなれているとも思えまへん。まあ、おりてみまひょ。たみちゃん、足もとに気ぃつけてな」  せかせかと答えて、床屋がひょいと道にとびおりました。そして手をのばすと、たみの体をささえておろしてくれました。  きりたった崖に、だれがこんな道をこしらえたのか……岩壁にはりつくような感じでそろそろとおりながら、たみは考えました。  陽がさしてきて、体がすこしあたたかくなりかけたころでした。たみの前を歩いていたユージンが、耳をキッと立てて、ひくくうなりました。あわててふり返った床屋は、ユージンの口をおさえてだまらせると、あとの二人にいそぐように合図をしました。ちょうど崖の中ほどにいる一行の頭上に、ひくい歌声が流れてきたのです。  いぶかしげに見あげた三人の目が、同時に、先ほど見た穴のひとつにとまりました。羽のあるものでもなければとてもとどきそうにないその穴の中から、歌は聞こえてくるのです。何を歌っているのかは聞きとれませんが、声の主は、年老いたしわがれ声をふりしぼるように、気味のわるい歌をうたっています。 「さあ、出てきよった。さあ、はよう、わしらが見つからんうちにおりまひょ。さわらぬ神にたたりなし、でっせ。あんなかっこうの穴にすんでおるのは、どうせろくなもんやありまへん」  床屋は、せかせかところげおちそうな勢いで道をいそぎます。  たみもうす気味わるく思いながら、つづいてうたいだした、よくとおるべつの声に気をとられて、立ちどまりました。その声はまだ若々しく、はじめは前の声に遠慮するようにおずおずとうたっていましたが、しだいに自分の声にうっとりしたようすで、声をはりあげました。そのとたん、 「うるさい、だまらんか!」 「若いもんの出る幕ではないわ……」 「この歌うたい、なまいきなやつめが!」  シュッシュッと、はげしい鼻息や怒りの声が穴の中をこだましたかと思うと、とつぜん、大小の石が穴から投げだされ、たみたちのところへ落ちてきました。  ふり返った床屋が、もっといそぐように身ぶりをします。  一瞬ひるんだように見えた歌声が、また大きくなり、どうしても最後までうたわないと気がすまないといった調子で、うたいつづけます。  穴の中の騒動は、ますますひどくなっていくもようで、ゴロゴロとひどく重いものが体を動かす音や、なまぐさいにおいが風に流れてきます。 「やめろ!」  ガーンという音とともに、たみのすぐ横を、大きな岩がすべり落ちてきました。立ちすくんだたみは、あおりをくって体の重心を失い、足を道からふみはずしました。りゅうが悲鳴をあげたとき、すばやく、床屋の口笛がひびきました。  たみは、ずるずるとすべり落ちながら、手にとどくかぎりの枯草や岩角をにぎろうとしましたが、にぎるはたから草も石もぼろぼろくずれていきます。体はしだいにはずみがついて、なすすべもありません。 〈ああ、もうだめだ〉  たみは目をとじました。その時、風を切る重い翼の音がひびき、いきなりたみの体をすくいあげました。夢中でしがみつき、気がついてみると、そこは、ひなたくさい大ガラスの背中でした。大ガラスはゆっくりと風にのって飛び、はるか下に広がる谷底が、たみの目の中でぐるぐるまわっています。  ガラガラとまた岩のくずれる音が谷間をこだまして、たみが見おろすと、まるで生き物のようにころげ落ちる大小の岩のあいだを、二人が必死におりていきます。  思わず、たみは息をのみました。見おろした穴のひとつから、ぬめっとした青いうろこを光らせた大蛇のしっぽが、大きな岩をはじき落としたのを見たのです。その岩は、りゅうがすべるようにおりたあとを追いかけて、道の一角にたたきつけられました。道はくずれ、もうもうと煙をあげながら、谷底へくだけ散りました。もう一足おそかったら……。 〈あれは、大蛇だったのだ。うたっていたのは、大蛇たちだったのだ〉  大ガラスは、床屋とりゅうが汗をぬぐっている岩かげにとまりました。たみは大ガラスの背で身を起こすと、こわごわ、もう一度あの穴を見あげてみました。歌声はいつのまにかやんでいました。  ふらつく足を道ばたにおろして、そのまましゃがみこんでしまったたみに、まだ土気色《つちけいろ》の顔をほころばせて、床屋がわらいかけました。 「えらい騒動でしたな。……たみちゃん、けがはなかったかいな。さあ、もう安心やで。もしまた、あの若いほうの歌がはじまったとしても、石はもうここまではとどかへんやろ……さあ、休みなはれ」  さいわい、たみは体のあちこちにすこしずつかすり傷をつくったていどで、たいしたことはありませんでした。  りゅうが、今は遠くになった穴を見あげると、床屋がからかうような目つきでりゅうを見ました。 「りゅうさん、あんたいったい、あの穴には、何がすんでいると思う? たみちゃんは?」  りゅうは、桜の森の大蛇がいかりくるってたてた、あのシュッシュッという音と、なまぐさいにおいを、わすれることができませんでしたが、穴の中の主を床屋にいう気にもなれなかったのです。ただ床屋にむかってニヤリとわらうと、 〈おっさん、気がついていたにしては、しっかりしておったな〉 と心の中でつぶやきました。たみは、あの青光りするしっぽを思いだして、泣きだしたいような気持になりました。  あいかわらず細い崖沿いの道でしたが、ここからはずうっと木が茂っており、今までよりはるかに歩きやすくなったようです。  床屋は、大ガラスの首をかるくたたきながら礼をいい、大ガラスはまた空へ舞いあがりました。 「昼どきやなあ」  床屋がだるそうに、まわりを見まわしました。りゅうもたみも、ここしばらく食べ物らしい食べ物を口に入れていません。急に、体の底がぬけたような感じで、その場にすわりこむと、そのまま動く気すらおこりません。  床屋はしばらく頭をごしごしかいていましたが、ふと思いついたように、例の袋から細長いくぎをとりだして、茶色っぽいツタにからみつかれた木の根もとを、せっせとつつきはじめました。  それから顔をかがやかせてりゅうを呼ぶと、いっしょにそこを掘るようにいいました。しばらくして、土の中からずるずると赤黒い根っこのようなものを、得意そうにひっぱりだし、それを、かき集めた枯葉の中に埋めると、火を燃やしはじめました。 「どっちみち、腹がすいていては何もできまへん。このあたりの岩は、えらいもろうできてるので、ひょっとしたら、岩イモちゅうのがあるかいなと思うたら、大あたりやがな。腹ふさぎにはけっこうな味やと聞いてます」  床屋はそこまでいいかけて、ニヤッとてれくさそうにわらいました。自分が猟師だったことをうちあけたのを、思いだしたのです。  湿った枯葉で蒸し焼きになった岩イモは、ちょっと舌に苦味を残すような、あまり味のない芋でしたが、ホクホクと口あたりはよく、床屋の出したごみまじりの塩をつけながら、三人はあっというまにたいらげてしまいました。 「さあ、そろそろ下りまひょ」  枯葉の燃えかすを勢いよくふみつけると、床屋が立ちあがりました。        ○  いつのまにか陽は厚い雲におおわれて、三人が下っていく道をかくすように、冷たい雨粒をふくんだ霧が、はいあがってきます。気をつけていても道はすべりやすく、たみとりゅうは、ときどき足をすべらせては、すぐかたわらの細い木につかまり、またいそいでもとの道にはいあがってきます。床屋はさすがに足もとはたしかで、不自由な足をじょうずにすべらせながら、鼻歌まじりにさっさとおりていきます。  その床屋が歩みをゆるめると、りゅうとたみのほうにふり返りました。 「ところでどうする、りゅうさん。今キド八はんの地図を思いだしていたんやが、ここをおりていくと、洗濯女の谷になると思うんや。何やうす暗《ぐろ》うなってきたし、これからその谷わたるちゅうのも……」  床屋は気楽そうな口調をあらためて、りゅうにたずねました。たみもじっとりゅうの顔を見ます。 「いや、わたろう。わたった先で野宿するにしても、そんな谷を前にしては、ねむるにねむれんし、それにすこしうす暗いほうが、洗濯女たちの顔もよくわからんだろうし……」  りゅうは、考えながら返事をしました。床屋が自分を一人まえあつかいして相談してくれたのは、心のどこかがはずみあがるようなうれしさですが……それと同時に、どうやらもうすぐ、あの大ガラスといっしょにどこかへ行ってしまうつもりの床屋が、自分をためしているようにも思えたのです。 「そうやな、たいした川幅でもないし、よし、わたってしまいまひょ……」  元気づけるような床屋のことばに、たみも大きくうなずきました。  とつぜん、谷にこだまする水のひびきが聞こえてきました。どこかうつろなその音にまじって、なげきの声、すすり泣き、ひくい呪いのつぶやきのようなものも聞こえてくるのです。へらへらと鼻歌をうたっていた床屋が、ぎょっとして歩みをゆるめました。灰色の霧が、足もとの谷からはいあがってきて、それとともに、たくさんの女たちの悲しみの声が、じわじわと三人の胸の奥にまでくいこんでくるのです。 「ええか、この声やらは、みなばけもののつくり声やさかいな。けっして気ぃとられてはあきまへんぞ。虫がけったいな声出しよる、ぐらいに思うてな。それから川の水やけど……」  床屋は急にしゃべるのをやめると、口をあんぐりとあけました。たしかに水の流れは聞こえるのに、すっかり干あがった川床には、まるで涙の玉のような石が、紫色に光っているだけです。そして大きな岩がごろごろころがっているかげに、細い線で描かれたような女たちの洗濯する姿が、点々とうかびあがってきました。  よく見ると、うす暗い谷底には、小さい羽虫の群れのようにゆれ動くものがあって、妙に透明な光が時おりちらっとかがやきます。  それは、見えない川の流れがつくりだした、ゆがんだ光と影の遊びのようにも見えます。息をのんでながめていた床屋が、 「えらいぎょうさん出てきよったな。いったい、何をそんなに洗うもんがあるんやろな。ええか、りゅうさん、たみちゃん、キド八はんがいってたとおり、川の水はやっぱり見えへん。けどこれは、いずれにしろ、まやかしやから、ユージンを先に立ててさっと一気にわたりまひょ。ユージンは鼻で水のにおいをかぎわけるやろ。これだけ岩が出てるんや、岩伝いにひょいひょいと越えていけば、すぐや。さあ、けっしてほかの音に気ぃとられんようにな……」  床屋は、ユージンを先に立てました。ユージンはフンフンとわきあがる霧のにおいをかぎましたが、やがてぴょんと小さな岩の上にとびおりました。そしてくるりと三人のほうへふりむくと、「ついて来い」とでもいわんばかりに、かるく「ワン」と鳴きました。 「よっしゃ、行きまひょ。たみさん、そしてりゅうさん、わしは、いちばんあとにしまひょ」  りゅうは、身軽にユージンのあとを追うたみの姿を見ながら、何か胸さわぎを感じました。それは、大蛇にも杉たちにも感じなかった不安のようなものでした。谷を埋めている洗濯女たちの泣き声の中に、幼いころ、胸のつぶれる思いで聞いた、母の泣き声がまじっているような気がしたのです。 「はよ、りゅうさん」  床屋にうながされて、りゅうもまた、たみのあとを追いかけました。ユージンはときどき足をとめ、あたりのにおいをたしかめるようにかいでいましたが、この立ちのぼる霧も、見えないけれど冷たい水のにおいも、ユージンをまどわすところまではいかないようです。  谷をほとんどわたりおえたころでした。魂をしぼりあげるような泣き声を聞かぬふりをしながら、息をつくひまもなく、ひょいひょいと、岩から岩へとうつり歩いたあとでしたから、ほほをまっ赤にして、たみが、りゅうのほうをふり返りました。 「おっ母、おっ母……」  りゅうが、まっ青な顔で、すぐ横にある大きな岩かげにうずくまる女のそばへ、とびおりるところでした。床屋とユージンが、悲鳴のような叫びをあげました。りゅうは、洗濯女のすぐそばで、何かに足をとられてすべり、そしてその拍子に二人の目に、とびちる水のしずくが刃物のように光って見えたのです。りゅうは、ひざをおさえてすわりこみ、それでもなおいざりながら、女のそばへと近づいていきます。 「たみちゃん。あかん、りゅうさん、ばけものにだまされよった。水にはまってしもうた。あんたはユージンのあとについて、じっとしといてな……」  床屋は大声でたみにどなると、一足とびに、ぎこちなくりゅうのそばの大岩にとびうつり、両手でりゅうを救いあげようとしました。そしてその拍子に、あれほどキド八に顔を見るなと制されていたのに、ひょいと洗濯女の顔をのぞいてしまいました。 「りゅうさん、これ、ほんまに、おまえのおっ母によう似とるな」  床屋は、急に、ぼんやりした夢でも見ているような調子でそういうと、女の顔に見入っています。女は、やせたやさしい顔だちで、目は半分とじられ、そこからは涙がとめどなくしたたり落ちているのです。  たみが、さっと顔色を変えました。 〈ちがう、おっさんが、りゅうさんのおっ母を知ってるはずがない、おっさんもだまされとる〉  りゅうの顔はもう紫色に変わり、くちびるはブルブルふるえながらも、必死で女に語りかけています。 「おっ母、おっ母、赤子《あかご》はどうした。見つけられんかったのかあ。そんならどうしてもどってこんかった。わしは、あんなに待っとったのに。お父もあんなに」  急に、ユージンが床屋の手を強くかみました。床屋ははっとしたようすでわれに返ると、大声でさけびはじめました。 「なんちゅうこっちゃ、なんちゅうこっちゃ、りゅうさん。あきまへん、よしなはれ、この女は魔物や。涙やら流しているけど、これはあんたのお母はんやあらへん。それよりはよう、おまえさんの手当をせんことにゃ。たみちゃん、こうなったら用心もへちまもあらへん。火ぼんぼん燃やして、りゅうさんをあたためてやるんや」  床屋は、体のわりに長いたくましい腕をのばすと、りゅうを大岩の上に救いあげました。そしてせっせと体をこすりはじめました。  たみが、ころがっている枯木を集めようと、足をふみだした時です。ユージンがひどくうなりながら、たみの袖をひっぱりました。 「そうや、たみちゃん。そこは川かもしれん。うかつに歩いちゃあかん。かならずユージンを先に立てて、気ぃつけて歩くんやで。それにしてもえらいこっちゃ。……あっ、りゅうさん、あかん」  床屋がたみのほうに一瞬気をとられたすきに、どこにそんな力が残っていたのでしょう。りゅうは、床屋の腕の中からぬけだすと岩をとびおり、泣いている女をだきしめました。 「おっ母、おっ母」  りゅうは、するどく冷えていく体の奥底から、最後の命の火をかきたてるようにさけびました。  村の人から「おまえの親は鬼になった」と気味わるがられた時にも、一度も涙を見せたことのなかったりゅうが、熱い涙を流しているのを、床屋もたみも、ただぼうぜんとながめていました。  まるで機械じかけの人形のように、かたくなに腕を動かしつづけていた女の手が、とまりました。女の目が、いぶかしげにりゅうの顔をながめました。 「おっ母……」  りゅうの涙が一すじ、また女の胸をぬらしました。青ざめたりゅうの顔から、最後の息が消えようとした時、女の涙がとまりました。 「泣いてくれた。わたしのために涙を流してくれた。ほんとうの涙を……」  かん高い女の叫び声が、谷間をこだましたように聞いたのは、床屋とたみの思いすごしだったのでしょうか。そしてその女の顔に、やさしい笑いがうかび、しあわせそうにりゅうの体をだきしめたのを見たのも。  急に高い水の音が起こりました。あっというまに、水はあらゆる楽の音《ね》よりもはれやかにピチャピチャと音をたてながら、地面からあふれだしたように見えました。あわてて岩の上から床屋が、渦まく淵の中にゆれるりゅうの手をつかみだし、たみといっしょにひきずりあげるのが、やっとのことでした。黒い渦を無数にうかべながら、谷の水はゴウゴウとあたりにこだまし、流れはじめました。さっきまでの谷とはうって変わったありさまに、床屋は汗をぬぐうまもなく、またいちだんと高い岸辺に、たみと二人で、りゅうをはこびあげました。 「ああ、えらいことやった。わしまで、うっかりばかされるとこやった。そやけどやっぱりあれは、りゅうさんのお母はんやなかったんやな、あれらは魔物の女たちや。悲しみからのがれることができんで、あんなふうに泣いておったんやろか……」  床屋は、ぐったりと岩の上に横たわっているりゅうの顔を見おろしました。 「ほれ、ほんまの人間の女たちやったら、いくら水が急にあふれたからいうても、髪の毛一本もうかびあがらんいうことはないもの……。よかったな、りゅうさん、もとどおりに体がらくになったようや。顔色ももとの色にもどったし、息もふつうでねむってるようや」  床屋が明るい声でつぶやきました。たみもうなずいて、りゅうの顔をのぞきこみました。 [#改ページ]     七 山うばの章  山うばは大きなあくびをひとつすると、はでなもようの綿入ればんてんを肩にかけなおしながら、白みゆく空をながめました。床屋がかりとった髪も、はや肩先をおおうほどになり、夜中にふとまた髪を切りとられたような気がして、はっと目がさめ、「そうそう、あの床屋のやつ、黒森へ追いはらってやったんだ」と思いだし、にが笑いをするのでした。  しばらく庄屋に寝とまりしていた山うばは、髪がのびてくるにしたがい、人間の家の空気がなまあたたかく、息苦しくなり、今はもう、こうして村の林の中に気ままに横になり、冷たくひえた大地の音を聞きながら、ねむりこみました。あいかわらず里の空をおおっているもやは、林にねむる山うばの体に、夜露とともにまといつき、何かを思いだそうとするたびに、オンオンとはげしい耳鳴りを起こすのでした。  ふと山うばは、肩にずしりと重いものを感じて、思わずよろめきました。里の朝がたでも、やはり冷たさは格別です。白みゆく東の空をあおぎ見た時、何やらかすかに自分を呼ぶ者がいるような気がして、山うばは首を湖のほうへ向けました。その瞬間、頭の先からつま先まで、キーンと琴の糸をはられたような強い痛みが走りました。髪の毛一すじ一すじに、不思議な力がみなぎりはじめたのです。 「あ、う……髪がのびる」  山うばは、よろめきながらそばの大きな松の木を、満身の力をこめてつかみました。 「これじゃ……こんな思いをしたのは……先の山うばからわしの髪に術をさずけられた時、やはり、このようにひどい痛みが体じゅうを走った。そうじゃ……思いだしたぞ……」  山うばは、けもののように吠えながら、するどい痛みとともに、わすれていたすべてを思いだしました。  すぐそばの茂みから、うめき声におどろいたように、小鳥が一声さけんで空に飛びたちました。苦痛に顔をゆがめながら、山うばは、村のほうからこちらにむかって、小さな影が小走りに近づいてくるのを見ました。 「山んば、何ぞあったのか。おまえのさけぶ声がしたが……」  気づかわしげな声が、遠くから呼びかけました。そして、すこしやつれたようすの楠《くす》の木《き》のおばあが、もやの中からあらわれました。  おばあは、年に似合わぬよく動く目で、山うばのただならぬ苦しみようを見てとると、しゃんと腰をのばして立ちどまりました。 「とうとう来たか……やれうれしやの」 「そうじゃ、おばあ、ようよう思いだしたぞや……」  山うばは口をカッとあけると、耳をもつんざく声で空にむかってさけび、見るまにのびだした白髪を、ばらばらとふり動かしました。  楠の木のおばあは、あたりにみなぎるおごそかな気配に、すっと両手を合わせると、目をとじながらいいました。 「話してくれ、山うば。あの子たちが黒森へ出かけてから、わしは一夜たりともねむっておらん。もう半月もすぎたというのに……おまえの髪もはかばかしゅうのびんし……、わしはもう途方にくれておったとこじゃった。さあ、いうてくれ、わしのといた文《ふみ》は正しかったか……あの子らは、生きてこの里へ帰ってこれるのか……いうてくれ山うば……」  山うばは、荒々しく見ひらいた目に、一瞬かなしげな色をうかべると、口もとをゆがめました。 「いいともおばあ、話してやるぞ。おまえは、わしがただのばばあになった時、もちも食わせてくれた、酒も飲ませてくれた。ええよ、話してやるぞ。じゃが、まず聞いてくれ、何ゆえわしが、山うばなぞになってしもうたかを……」  そしてはげしい息づかいの中からしぼりだすような声で、山うばは話しはじめました。楠の木のおばあは、一言も聞きもらすまいとばかりに、真剣なおももちで、山うばのそばににじりよりました。  あれは、わしが苦しい人間の生活をはなれて山へはいってから、何年もたったころのことじゃった。わしは、妙なことに気がついた。まず人の姿などを見ることもない険しい崖っぷちや、細いけもの道に、まるで今朝ぬけたばかりのような、なまなましい一にぎりの髪が落ちていたり、枝にひっかかっているのを見ることがあった。だれぞが、わしのそばにすんでおる。そういう気がしてならなかったのじゃが。  ……ある日、暗い谷底に足をすべらして、死ぬのを待つばかりになっていたわしのそばに、鳥のように身軽に飛びおりて、わしを助けてくれたばあさまがいた。わしはつい人恋しさに、あれこれ話しかけたが、ばあさまは、鷹《たか》のようなするどい目つきでわしを見るだけ、一言もしゃべりはせなんだ。じゃが、その年のひときわきびしい冬には、あたたかいばあさまの洞穴《ほらあな》にすまわせてくれたりもした。ばあさまは気まぐれで、長いあいだ姿を見せんこともあったし、気がむけば、だまって一月もわしといっしょに暮らすこともあった。そしてあの夜が来た。ひさしぶりに姿をあらわしたばあさまは、やつれ、傷つき、くたびれきっていた。それでも、わしのすくった水をほんのすこし飲むと、はじめてわしに話しかけてきた……。 「きっと、そのおひとが、先の山うばじゃろうな……」  ひときわ強い痛みにぐいっと頭をのけぞらし、話をやめた山うばを、元気づけるように、楠の木のおばあがひくい声でつぶやきました。  山うばは、またつづけました。  そうよ、とりもなおさずそのおかた! わしがそのころすんでいた月《つき》が峯《みね》をはじめ、黒森をふくむ五つの山を守る山うばじゃった。五つの山とは、月が峯、あかねがふち、風森、ひすいが池、そして黒森よの……。  先の山うばはわしに、自分のあとをつぐ山うばになれ、という。わしが返事のしようもないままにいると、五つの山にそれぞれねむる、山の命のことをおしえてくれた。ただ、黒森には山の命がなく……黒森は、世の流れのいずれにもとらわれることのない、正しきものであろうが邪《よこしま》なものであろうが、強い力を持つものを入れることのない山じゃとおしえてくれた……。そして、急に人が変わったように、闇の中で身ぶるいをすると、しずんだ声でわしに話しはじめたのじゃった……。一言もわすれもせん、先の山うばの話はこうじゃった。 「黒森は、山うばのわしでさえ立ち入ってはいかん山なのじゃ。それなのにこのわしは、その山の掟《おきて》をやぶってしまった。それというのも、ここ五、六年この五つの山を荒らしまわる、たちのわるい放れ熊がいた。やつは、腹もすいておらぬのに、生まれたばかりのけものの子をなぐさみに殺すというような、残忍なやつじゃ。そいつは、図体《ずうたい》も大きく、知恵も人間以上にわるがしこく、むろん力もあった。わしはいつもやつに逃げられてばかりおった。そいつはわしと出くわすと、どのようなことになるかは心得ておって、あと一歩というところでつかまらんのじゃ。ところが、ここ十日前にやっとやつを見つけた。きわどいところでやつの首根っこをつかまえた。ひどく風の吹く夕方じゃった。わしは青いまさかりをふりあげると、一打ちにあいつの胸をたち割った……熱い血しぶきが熊の体から吹きだし、わしはしばらく、なまぐさい血のにおいで息もつけなかった。やがて頭の上でガアガアとカラスの群れがさわぎたてる。  はずむ息をおさえてあたりを見まわすと、どうじゃ、見たこともない森の中に、わしはいる。熊のあとを追うことに夢中になって、いつのまにか、禁じられていた黒森にはいりこんでいたのじゃ。おどろいたわしは、熊の体を地に投げすてると、空を見あげた。はげしく風が吹く。あたりの杉の木がぐるぐると、はやたそがれの空をかきまわすようにゆれる。はてしなく遠く見える空に、小さな星がまたたいたように見えた時、わしの身も魂も凍るようなことが起こった。わしの足もとの地がぐらぐらとゆれたかと思うと、どこからともなく、あざわらうようなひくい笑い声が起こった。熊の血にそまった枯葉が、まき起こった風にのって、呪《のろ》いのようにわしの体を打つ。  わしはたった今、血を滝のように吹きだしたばかりの熊の胸の上に、あやしい赤い花がぶきみな音をたてながら開くのを見た。また地面がゆれ、ゴオッと黒森じゅうをうちゆるがすような一かたまりの風が吹きつけた。そして、見るもいまわしい黒い影が、熊の胸の中に飛びこんだ。遠ざかる風の音とともに、花は消え、胸苦しいにおいが、あたりによどむ。どす黒いうなり声が、もうすでに息たえたはずの熊の体から起こった。二、三度、熊の体に、強いけいれんが走った。わしは見た。すでに暮れはじめた森の中に、青白い目を光らせ、熊が、血をしたたらせながら、よろよろと起きあがったのを……。  わしが山の掟をおかしたばかりに、強い力を持つ悪が呼びよせられ、熊がよみがえったのじゃ……。そいつが望んでいるのは、すべてを死の世界に変えていくことだけだ。熊をおのれの意のままにあやつりながら、黒森を死の森とし、やがてはその手をまわりの山々へとのばしていくじゃろう。死したるものをくらい、はく息で木々を枯らし、ふみしめる足もとから、土をくさらせていく。はてしなく広がるかびのように、やがて生ある者すべてをくらいつくすじゃろう……」 ……とな。  話していくうちに山うばは、先の山うばの恐怖のありさまが、つい今しがたのできごとであったかのようにまざまざと思いだされて、しばらく体をこわばらせたまま、じっと楠の木のおばあの顔を見つめました。  楠の木のおばあもまた、涙のうかびあがった目で、山うばを見かえしたままです。やがて山うばは、またおそいかかった痛みにつきうごかされたように、話しはじめました。 「その話を聞いて、わしはおどろいた。山うばになるのはいやじゃと、のどもとまでいいかけた時、先の山うばは、いやもおうもない調子で、黒森を救うための、今ひとつの山の掟のことを話した」 「今ひとつの掟とな……」  楠の木のおばあが、ひくく口の中でくりかえしました。山うばは耳ざとくそれを聞きつけると、もののけのような荒々しい笑い声をたてました。  そうよ、今ひとつの掟……先の山うばが命にかえてとりいだしたという掟……その掟はのう、いうてやろうかおばあ。黒森をつくりたまいし山の神が、手に持っていた楓《かえで》の杖にこめておいた、山の神のおぼえの巻物の中にあったのじゃ。  もともと黒森は、その名のしめすように、死の国に通じる穴があって、そこより、もろもろのよからぬ者が出入りをしておったのじゃ。山の神が、黒森を心弱き者の山と決められたとき、死の国の長《おさ》との話し合いで、死の国からの穴をとざすかわりに、山を守る山うばも黒森にはいらぬようにと、とりきめた。……黒森は、心弱き者の山、とな。山の命すら持たぬ山、とな。  さて、掟をやぶった先の山うばは、よみがえった熊のありさまを見てのち、罪のつぐないをはかるため、黒森の水の源となっているある滝へと、いそいだ。そのときにははや、熊の血にけがれた山うばの目も耳も、弱まっていたそうじゃ。まず、みそぎのため滝に飛びこみ、山うばは祈った。どんなことがあっても、あの熊をほろぼさねばならぬ。自分の千年の命にかえても、黒森を、そしてまわりの山々を救わねばならぬ……。月が欠け、月が満ちたある夜、山うばは、ふと自分の体に飛びちる水しぶきが、不思議な光にかがやいておるのを見た。そして、今まで髪やふところに宿っていた山うばの宝が、ことごとく消えさっているのに気がついた。そこで、自分の命がもういくばくもなく、それゆえに、願いはかなえられることを知ったのじゃ。……山うばは首をたれ、はげしく流れおちる滝の音にまじって、神さびたおもおもしい声が話しかけてくるのを聞いたのじゃ。その声はいった。 「わしは木の長《おさ》。妹よ、おまえの願いはかなえられた。わしの体をさぐり、そこより山の神のおぼえをとりいだせ」と。  先の山うばは、滝の外に走りでた。まばゆい月光に満ちた空の下に、天までとどこうかと思われる巨大な楓の木が立っていた。この木こそ、かつて山の神の杖もつとめた、木の長だった。山うばは、ためらうことなく雷を呼び、楓の木をまっぷたつにたたき割った……。  いやいや、その巻物は、今は残っておらぬ。先の山うばがむさぼるように読んだその巻物は、読みすすむうちに、細い光の粒になって消えていったというのじゃ。  ……ここまで話をきいてしまったからには、わしは山うばのあとをつがざるを得んかった。術をさずかったあと、この秘密は、わしにだけ……いや、それと、山うばが最後の仕事にと、髪にたくして里に飛ばした文《ふみ》にだけ、ひきつがれたんじゃ。  山うばは、深い息をはくと、口もとに妙な笑いをうかべました。  楠の木のおばあは、祈るように、またうなずくように頭を深く下げました。 「さておばあ……先の山うばは、今ひとつの掟について話すと、最後の力をふりしぼりながら、黒森を見はるかす峰までわしをつれていき、一本の古い杉の木を指さした。もしその木が枯れてしまうようなことが起これば、かならずこの湖の里へおりていくようにとな。  湖の里では、使者となる口なし娘と母なしむすこをさがしだすだけと思うていたが……よもやわしまでが、人の手で髪を切りとられてしまおうとは……思うてもみなかった。もっとも、山の掟をおかした山うばからうけた術には、汚《けが》れがこもっており、わしがそのみそぎをせねばならん、とは聞いておったが……それがどういうことかは、先の山うばは話さなんだ……じゃがもうよい……。  なあおばあ、おまえのおかげで、ことはまちがいなくはこんだ。おまえは、みごとに山うばの文をといたのじゃ。それにしても、黒森は、魔性《ましよう》のものにみちている。あの年端《としは》もいかぬ子どもたちが、どのように危険をくぐりぬけていくのか……」  山うばは、寄せては返す強い痛みにたえながら、汗とも涙ともつかぬ、目にわきあがったしずくを通して、光る湖をながめました。するどい痛みに、目のふちが赤くふくれあがりました。 「あう、あの時と同じ痛みじゃ。先の山うばは、すべてをわしに話しおわったあとで、くれぐれも早まらぬよう、その熊との対決は、黒森にはいれるゆるしを得てからにするよう、強く念を押した……。あらたに山うばとなったわしは、守らねばならぬほかの山々をまわってから、先の山うばの指図どおり、同じ月の形の夜、また同じ場所へもどったのじゃった。枯草の上に、カラカラと小さな骨が鳴っていた。わしは先の山うばの骨をかみくだき、峰の風にむかって吹いた。風は青く光って、頭にさした櫛《くし》の歯に、はげしい音をたてて、すいこまれていったのだった……」  山うばは痛みの中で、むかしの自分と今の自分が二重うつしに苦しむのを、感じました。古い松の幹が手のうちにボロボロとくずれこみ、やがて大木が、山うばの手をはなれ、ゆっくりと朝の空に半円を描きながら、どうっと地にたおれました。  長くもとのようにのびきった髪の中に、どこからか、千年の知恵を持つ白いへびがはいりこみ、今はもうこの世にはいないといわれている、夢をうらなう鳥が巣をつくりはじめ、地をかけ走る使い者のりすが、ふところに飛びこみ、早見の鷹が風を切って肩にとまり、するどいくちばしを山うばの耳のあたりにつっこみました。すべてが前と同じ場所におさまり、そしてかつてない強い力が、山うばの体にみなぎりました。  楠の木のおばあは、山うばの変身のありさまを最後まで見とどけると、ぎゅっとこぶしをにぎりしめ、小走りに家にむかいました。 [#改ページ]     八 鳥のおばばの章  床屋は、びしょぬれになったりゅうの着物を手ばやくぬがせると、自分の荷物の中から着がえをとりだし、着せかえました。りゅうは、何か楽しい夢でも見ているらしく、時おり幸福そうなほほえみをうかべています。床屋は、たみが集めてきた枯枝で火を燃やしはじめました。 「たみちゃん、火のまわりに、りゅうさんの着物をならべてかわかしてや。それからあんたも休みなはれ。今日は、ほんまにいろんなことがあったしな。今夜はたとえりゅうさんが気がついても、これ以上は進まれへん。ここで野宿や」  たみは、せっせとりゅうの着物をかわかしながら、こっくりとうなずきました。ほんとうに長いおそろしい黒森の一日でした。たみはちょろちょろと赤くゆらめく炎をながめ、どうか今夜だけは、わたしたちに何も起こらないようにと、心の中で何度も祈りました。  床屋は、いつになっても小さくならない例の袋をガサゴソかきまわしていましたが、やがて一にぎりの米をとりだすと、ゴウゴウと流れる谷の水にひたした布で包み、たき火のそばの砂をほって埋めました。それからたき火の中の、いちばん大きな薪をとると、その上にのせ、鼻歌をうたいながら何気なくりゅうの額《ひたい》に手をあて、そっと熱をはかってみたりしています。ユージンは、寝ているりゅうの体にぴったりと寄りそい、これまでとちがって、どこか生き生きしている床屋のすることを、ぬれた目でじっと見ています。もう夜はとっぷりと暮れ、ころがる岩の音が、はげしい水の音にまじって、ものすごく夜の闇の中にひびきます。 「たみちゃん、いろいろ考えるのはよして、すこしでも休みなはれ。明日のことはまた、明日考えまひょ。りゅうさんのめんどうは、わしが見ます。明日の朝は、おいしい飯、食べさせてあげるからな」  たみは、床屋のことばにすなおにうなずくと、冷たい砂の上に横たわり、目をとじました。ひさしぶりに見た赤々としたたき火がまぶたに残って、たみに里の家を思いださせます。酔っぱらった父とかん高い伯母《おば》の声。たみは目をあけると、しばらく闇を見つめていました。 〈りゅうさんには、お母がいる。生きているか死んでいるかわからないけど……会いたい会いたいと思っているお母がいる〉  たみは寝がえりを打つと、静かなりゅうの寝顔を、妙にうらやましい気持でながめました。急に幼い子どもにもどったようなりゅうの叫びが、まだ耳に残っています。 〈わたしにはもう、そういう人がいない〉  たみはそうっと胸の櫛《くし》をだきしめると、今度こそねむろうと、かたく目をつぶりました。        ○  やがて、くたびれてふきげんな灰色の朝が、するどい寒さとともにやってきました。たみは、鼻先が凍る冷たさに身ぶるいし、目がさめました。どんよりとくもった空の下に、火はあいかわらず勢いよく燃えています。あまい香ばしいにおいも流れてきて、たみは思わず息を大きくすいこみました。たみの寝ているあいだに、床屋は谷川に釣《つ》り糸をたれていたらしく、青々とした泡が切口から吹きだしている竹のくしに、数ひきの魚がつきさされ、火のそばであわい煙をたてています。  ユージンのうれしそうな鳴き声に、むっくりと起きあがったりゅうが、目をこすりながら、あたりをながめました。 「たみ、だいじょうぶか。おっさんは?」  りゅうは、たみにわらいかけると、元気よく立ちあがりました。 「わしか、わしはここでっせ」  ふいに後ろの岩かげから、床屋が手のひらほどの石を二つ三つ持ってあらわれました。 「目ぇさめたかいな。よかった、よかった。ちょうど飯のしたくができたころや。どれ、うまいぐあいにいったかいな。ここほれワンワンと」  床屋は、まだうすい炎を出している黒い薪をのけると、きのう米を埋めた場所を、ほりかえしました。プーンとおいしいにおいとともに、布の中から、やわらかに炊けたごはんがあらわれました。ゴクッとりゅうがつばを飲みこみました。二人がたき火をかこんですわると、床屋は谷の流れを指さしながら、きのう起こったことをりゅうに話してきかせました。  りゅうは、大きな目を開いて、だまって聞いていました。おぼろな闇の中で、胸をつきさすような泣き声にひかれて、洗濯女のそばへとびおりたあの瞬間を、思いだしていました。 〈おっ母ではなかったのか……〉  ずんずんと体が冷えていったあの時でさえ、ぐっしょりとぬれた着物を通して感じられた、女のはかない感触を、そっと胸のうちでかみしめました。 〈おっ母に会えた、やっと会えたと思ったのに……〉  りゅうは、自分をじっと見つめているたみから顔をそむけながら、目をしばたたきました。 「さあ、飯にしまひょ、たみちゃん、魚をまわしてや……」  床屋は、りゅうの気持をそらすように、大きな声をあげて、たみをうながしました。  あたたかい朝のごはんが終わると、床屋はおもむろに、りゅうとたみに話しかけました。 「りゅうさん、たみちゃん、いよいよ最後の奥の尾根は、もうその林の向こうのあたりや。あとは、あんさんがたお二人で行かねばならんと、はじめに楠《くす》の木《き》のおばあはんもいっておったんやけど、わしは、最後までおともしようと思ってました。  けど、わしも黒森へはいってから、考えが変わってきた。ひさしぶりに山の空気をすったからかもしれんが、それより、りゅうさんやたみちゃんが、こわいこわいと思いつつ、ようがんばってきはったその姿見てるうち、わしは、ごたいそうな理屈つけて床屋にくらがえしたけど、ほんまは、あのおちつきはらったおおかみの頭《かしら》がこわかったんやなということが、わかってきた。わしはやっぱり、今からクロバアといっしょに、あのおおかみと決着をつけに行こうと思いますわ」  床屋はすっくと立ちあがり、指をまるめると口にあてて、するどい音を出しました。くもった空をゆるゆると輪をかいて飛んでいた大ガラスは、大きな羽音をひびかせると、床屋のすぐそばに舞いおりました。  あぜんとしていたたみとりゅうは、それでもなつかしい気持で、大ガラスをながめました。 「アカウ、アカウコウコウ」 「よっしゃ」  床屋はことばすくなく答えると、ひょいと大ガラスの背にとびのりました。 「ほな、がんばってな、さいなら」  大ガラスは、ゆらりと空にうかびました。床屋は片手をしっかりと大ガラスの背に巻きつけ、もう一方の手を、何やらいそがしく動かしていましたが、やがて、声もなく見あげているりゅうとたみの足もとに、皮のベルトにくるまれたハサミやカミソリが落ちてきました。 「オッサン、トコヤ、オーイ」  りゅうが、あわてて大声をあげて手をふると、まだほの暗い空を後ろに、黒い大きな影のように飛ぶ大ガラスの背から、床屋もはげしく手をふっています。  たみは、そっと片手を上げましたが、それもあわてておろして、ツウッとほほを流れる涙をぬぐいました。 「行ってしまった」  予感はあったものの、去りかたがあまりにとつぜんで、それも考えてみれば、いかにも床屋らしいのでした。  首がいたくなるほどあおむいて、大ガラスのゆくえを見守っていたりゅうは、やがて目の前を舞う、冷たい羽のようなものに気がつきました。 「雪じゃ。たみ、雪がふってきた」  ぼんやりと光を失った空から、雪は音もなくふりつづき、しだいに前の杉林も、白くふちどられていきます。 「たみ、火を消せ。出発じゃ。雪があまりふりつもらんうちに、尾根までのぼろう」  りゅうは、さっと立ちあがると荷物をまとめ、忘れ物はないかと、あたりを見まわしました。暗い渦をたたえた淵の面《おも》をながめた時、ふとまた胸のうちを、ゆるやかなあまずっぱい思いがよぎりました。 〈おっ母〉  りゅうはくちびるを強くかみしめると、さっと歩きだしました。  雪は谷間の石の上に、はや白い衣をかけ、さすような風とともにハタハタと二人の顔を打ちつけてきます。二人はユージンを先に立て、歩きはじめました。ひさしぶりにしっかりと食べた朝ごはんのおかげで、体のうちはあたたかでしたが、二人はおのおのべつの思いをだきながら、床屋がしめしてくれた林にはいっていきました。        ○  目の前に紗《しや》の幕を落としたようにふりしきっていた雪は、林の木々にさえぎられ、風も、頭上に音ばかり高くなりました。  たみは、重い頭をそっとふりながら、きのうのことを思いかえしてみました。�きのう……�聞きなれないことばに出会ったみたいで、とまどいました。長い長い一日なのです。きのうの朝、あの崖をすべり落ちたことなど、まるで遠い夢のように思われます。が、ひりひりといたむ手の傷あとは、まだなまなましくはれています。  床屋の調子はずれの口笛も歌もなく、二人はただ黙々と歩いていくばかりです。  だんだんたみは、口がきけないことがもどかしく思われてきました。うつむきかげんに背中をかたくしているりゅうをながめているうちに、たみは、話しかけて、りゅうの気持を楽にさせてやりたいと思うのです。  林の中には、もうはっきりとした道はなくなり、倒木の上をよじのぼったり、おい茂ったやぶのあいだをくぐったりしながら、ただ上へとのぼっていくのです。ユージンは、二人のあとになったり先になったりしながら、ときどき何やら不安げに、しだいに積もってくる地面の雪のにおいをかいでいます。 〈りゅうさんは、まだあの女の人のことを、まだ自分のお母かもしれないと思っているのかしら……もし、あの人がりゅうさんのお母だとしたら、りゅうさんのお母は、もう魔物になったということに……まさか、そんなことはない、ぜったいにない……〉 「うっ」  たみは、声にならない叫びをあげました。ふりしきる雪の中で、それはかすかな気配でしたが、りゅうがふり返りました。 「たみ、どうした。気分でもわるいのか……」 「うっ」たみは、いそいで首を横にふりました。 〈うそだ、うそだ、りゅうさんのお母はそんな人じゃない〉  りゅうは、青ざめた顔をこわばらせてしきりに首をふっているたみの顔を、じっと見つめました。 「たみ、むりをするな。今朝は早く起きたし、それからずうっと歩きづめだ。すこし休もう、それにちょっとのどもかわいた……どれ……」  りゅうは顔をあおむけると、おどけて、ふりしきる雪をひとひら、口でうけとめました。 「ウワァ」りゅうはにがい薬をなめたように、ペッと雪をはきだしました。 「何という味だ、しょうのうみたいに舌をさすぞ……」  りゅうは、腰のてぬぐいで口もとをぬぐうと、おどろいて雪をながめました。またユージンが心細げに雪のにおいをかぎ、それから急に耳を立てると、二人を見あげて、何かをうったえるように吠えはじめました。声がこだまとともに消えていったすぐあと、今まで静まりかえっていた林の中に、ゴオッとはげしい竜巻が起こりました。 「あっ」たみの体が、最初の風の一吹きで木の葉のように地面にたたきつけられました。つづいてりゅうが、ななめに体を泳がせたかと思うと、そばの大きな木の幹に思いきり体をぶっつけてたおれました。二人のひざを高く埋めるまでに積もっていた雪が、宙に吹きあげられていきます。年を経たまわりの木々がコマのように木はだをまわしながら、地面をたたき割るすさまじい音とともに、つぎつぎとたおれていきます。ユージンはひくく地にふせました。 「これは、ただの風じゃない。出がけにお父がいっておった、あの、るつぼのようになる風の吹きようじゃ」  りゅうは、ブーンブーンとぶきみに風の中でゆれはじめた大木の根もとから、ゆっくりとはなれて、たみのほうへとはっていきました。たみが救いをもとめて上げた片手から、袖が吹きちぎられ、花がさいたように舞いながら雪嵐の中へ消えていきました。カタッとかたい物がたみの胸に落ち、たみは思わずそれをにぎりしめました。 〈鳥の笛だ……あぶなく風に持っていかれるとこだった〉  たみは、いたむ体をそっとかがめると、ひざと顔のあいだに小さな空間をつくり、鳥の笛を吹きました。はげしい風の中を、矢のようなものが飛んだと見えましたが、音が出ません。 〈こわれたのかしら〉  たみは、血の凍るような思いで、もう一度笛を吹きました。笛はかすかな音も出さず、強く打ちつけた前歯からにじんでくる血が、からからにかわいたのどをうるおすばかりです。 〈だめだ〉  たみが笛を口からはずそうとした時です。 「ココダヨ、ココダヨ、コッチヘオイデ、ソラ、ソラ、カゼハイマニシカゼダカラ、イマノウチ、ハヤク、ハヤク」  かすかな幼い声が、たみの耳にひびきました。おどろいてたみは、笛をはずしました。あたりにはゴウゴウと荒れくるう風のすさまじい吠え声がひびいています。そしてもうあの声は聞こえません。  たみは上を見あげました。そばの木から一羽の小鳥が飛びたち、羽を細くせばめて、一直線に向こうの茂みの中に消えていきました。 〈そうだ、笛だ、この笛は鳥の声も聞くことができるといっていた……〉  たみはまたあわてて笛を口にあてました。 「ハヤク、ハヤク、コッチヘ。フエヲハナシチャダメダヨ」  また、あの声が耳にひびきました。そろそろと起きあがったたみの体のあちこちが、冷たい風の中で、さすようにいたみますが、積もっていた雪のおかげで、りゅうほどは体を強く打っていないのです。たおれたまま、ぼんやりと吹きすさぶ風をながめていたりゅうが、われに返ったように、たみを見ました。 「たみ、どこへ行くんじゃ」  たみは、笛を指さし、それから、小鳥の飛んでいった茂みのほうを指さすと、必死のようすで、そろそろと風の中を進んでいきます。どことなく確信ありげなその背中を見あげると、りゅうは自分も起きあがろうとしました。右肩にするどい痛みが走り、手がうごきません。 「しまった、手を折ったか……」  右腕をおさえながら、空を見あげました。どすぐろい緑色にそまっています。荒れくるう木々のあいだにいなずまがひらめき、おそろしい夢におびえた木々が、救いをもとめているふうにも見えます。  りゅうは、ふと妙なことに気がつきました。たみが、すこしずつ林を横切っていくのですが、そのまわりは、真空の輪がはめられたように、木々が幹をよじらせてたみをさけます。きらめくいなびかりにひきさかれる巨木でさえ、はげしくきしみながらも、たみからわずかでも遠いところへと、たおれていきます。りゅうは、たみの背中で生き物のようにうごめいている長い黒髪に、枯葉や枯枝がからみついているのを見ました。たみが黒森の魔物になってしまったようで、ふとおそろしくなりました。 〈何をばかなことを考えている。はやくたみのそばに行かなくては……〉  いたむ腕をかばいながら、りゅうは、たみのあとを追いかけました。森の中を、二人は身をふせて地面をはっていきました。 〈この、おびえた木のようすや、いなずまが、たみのすぐそばから起こっているように見えるのは……ひょっとすると、たみの持っている山うばの櫛のせいじゃないか〉  りゅうは、それで合点《がてん》がいく気がしました。 〈山うばの櫛が、この森に嵐を呼びおこしてしまったのじゃ。きっとそうじゃ……〉 「たみ!」  りゅうは、大声を出してたみに呼びかけました。けれども風は枝から枝へ、木末《こずえ》から空へと吠え声をあげて吹き荒れ、声は音になるよりもはやく、かき消されてしまいます。  ぶるぶるとゆれる大地の上を、たみはすこし進んではまた風に押しもどされながら、小鳥の声にしたがって、けんめいにはっていきます。が、しだいにその鳥の声はとぎれ、かぼそくなり、とうとう、風のほかには何も聞こえなくなりました。綿のようにくたびれきったたみは、もう一歩も進めません。  ユージンが体をふるわすと、動かなくなったたみのにおいをかぎ、五、六歩前へとびだしていきました。そして何を見つけたのか、かん高く吠えると、ちぎれんばかりにしっぽをふりながら、りゅうのそばにかけもどりました。  ユージンにひっぱられるようにしてりゅうが行ってみると、おぼろげながら、森は谷のほうに向かって急な斜面になり、そこには古い石でできた階段が、ところどころ雪をのせて下へつづいています。 「助かった! たみ、おりよう」  りゅうは、たみを階段のほうへとひきずっていきました。ところが、正体を失ったたみの体はいがいに重く、ずるずると雪の上をすべりだしました。あわててつかまえようとしてかなわず、りゅうもまた、雪の階段をすべり落ちていきました。ユージンが吠えたてながら二人のあとを追いました。        ○  それは、とてつもなく長い階段でした。すべり落ちたあたりは風もなく、地面は枯葉が積もっていてやわらかでした。はるか上のほうで、獲物を見失ったけものが吠えすさぶかのごとく、風の音がまだかすかに聞きとれました。 「たみ、たみ、助かったぞ」  りゅうは、片手でたみの体をはげしくゆすりました。たみが、ぼんやりとした表情で目を開きました。どろだらけのりゅうの顔をじっと見つめると、急に顔をゆがめて泣きだしました。いつのまにかユージンも、土と血によごれたたみの手をなめています。 〈あの小鳥が、あの小さい鳥が、わたしたちを助けてくれたのだ〉  たみは、風の中で見失ってしまった小鳥のことを、思いました。  村を出てから、たみがこんなに声をあげて泣きじゃくるのははじめてです。りゅうはとほうにくれてあたりを見まわしました。右腕がはげしくいたみます。  と、ユージンが、まばらにはえたイバラの茂みに向かって、ひくくうなりました。枯れた実かと見すごしていたものが、クルリとまばたきをするのを見つけ、りゅうは思わず息をのみました。 「おう、おう、ようおいでなすった。あれあれ、そんなにおどろきなさるな。わしは鳥のおばばじゃよ。おまえは、小鳥のことをあわれんで泣いていなさるのか、いやいや、その心配はご無用じゃ。ほれ、もうここに帰ってきておりますじゃ……」  鳥の鳴き声のようなくぐもった声が、ゆっくりと茂みの中からひびいてきました。  りゅうは、たみを背にかばいました。たみもこぼれ落ちる涙をあわてて手でぬぐうと、足ばやに近づいてくる人影を見ました。  小人のようにちぢんでやせた老婆でした。まっ白な髪が腰までのび、まゆ毛は目をおおいかくさんばかり、さまざまな鳥の羽を寄せあつめて織ったらしい妙な色あいの衣をまとって、肩には、あの小鳥をとまらせています。 「おうおう、たいそうくたびれなすったごようすじゃ。さあさあこっちゃ来なされ。こっちゃ、こっちゃ……」  あとは鳥が鳴くようにかん高くくりかえすと、たみの体をそっとだきおこしてくれました。たみは思わず、ぐったりとその小さな肩にもたれかかりました。  たみのそんなようすをじっとながめていたりゅうは、片手で荷物をかき集めると、のろのろと二人のあとからついていきました。老婆の、年に似合わないはずむような足どりが、思わぬ客を見つけてこおどりしているようにも見えます。それにしても、身につけた着物のにぎやかさが、逆に、すっかり羽の色もおとろえた鳥を思いおこさせるのです。 〈何となく妙なおばあだなあ……〉  りゅうは、腕の痛みに、目の前が暗くなるようなめまいにおそわれながら、おばばの小屋だというところにたどりつきました。小屋は、さっきの階段の切り石と同じようなものを積みあげて、できていました。        ○  小屋の中は、すえた、なまあたたかい空気がたちこめていて、どこか大きな鳥の巣にでもはいったような気分です。床にはひざをうずめるほどたくさんの枯葉がしきつめてあります。  鳥のおばばは、足音ひとつたてずに身軽に動きまわり、二人がほっと人心地をとりもどした時には、あたたかいたき火の前にすわり、枯れた茶色の花びらのようなものがうかんだ、こはく色の飲み物の器を、いつのまにか手ににぎらせられていました。 「さあさあ、お飲みなされ、一息に飲みほしなされ。鳥のおばばは寒さなおしの名人じゃ。それを飲めば、体のこごえも痛みもずうっと、ずうっと、ずうっと……」  鳥のおばばはうつむくと、さもおかしそうにケ、ケ、ケ、ケとわらいました。たみとりゅうは顔を見あわせました。ユージンの前にも、小さな器が置かれ、ユージンは、ペチャペチャと音をたてながら、さもおいしそうに飲んでいます。  りゅうは思いきってこくりと頭を下げると、一息に飲み物を飲みほしました。強いしゃくやくの花のようなにおいです。  つづいてたみも器を口にし、舌を焼く強い味に、思わずむせましたが、じっと自分のほうを見ている鳥のおばばの手前はきだすこともできず、目をつぶると、残りを飲みほしました。 「よい、よい、それでよいのじゃ。それはこのおばばが、黒森の最後の花びらを集めてつくっておいた、おいしい酒じゃ。もう何カ月も寝かせておいたものじゃ。さあ、ねむりなされ、ねむりなされ、こよいはたんと夢を見ることじゃろ、じゃろ、じゃろ……」  おばばのことばははっきりと聞きとれるのに、もうたみは、目をかすかにもあけることはできませんでした。雪でしめった着物が体に気持わるくまといつくのですが、足も手もしびれたように、動きません。体がゆっくりと枯葉の中にしずんでいくようです。横でりゅうが大きないびきをかきはじめました。 「ケ、ケケケケ、うまくいったぞ、人の子は二人ともぐっすりねむったようじゃ。それ、カンタ、はようその娘っ子からあの笛をとりあげて、おばばにわたすのじゃ……」  思いがけない早口で、鳥のおばばが小鳥に呼びかけながら、ぶるぶるふるえる手でたみの着物をなでまわします。かすかな羽音がして、九官鳥がたみの耳たぶをたしかめるようにくちばしでつつきました。が、たみは身うごきひとつできません。 〈しまった、だまされた。でもどうして〉  小鳥がたみの胸の上を歩きまわります。 「ナイ、ナイ、オババ、フエナイ」 「なに、笛がないとな、はておかしいぞ、おうおうそうじゃ、おばばとしたことが……そうよ、笛はきっと階段のあたりで落としたにちがいない、なにしろひどい勢いですべり落ちてきたからな。それいそげ、カンタ、だれぞにひろわれるといかん。いそいでひろってくるのじゃ……」  のぼせあがった声でさけび、おばばが小屋を出ていったのがわかりました。たみの顔に冷たい風があたりました。あたたかい部屋のせいか、それともあの花の酒のせいか、体は燃えるように熱くほてっています。 〈笛を……あの鳥の笛のために、わたしたちをここへつれてきたのか……。あっ、どうしよう……この酒は……〉  鳥のおばばに、自分たちはこれからどうされるのだろうかと思うと、気が気ではありません。けれども、あいかわらず、まぶたひとつ持ちあげられないのです。そのまぶたのうちに青い点がぽっかりうかび、見るまにまっ青な花に変わると、ぐんぐん広がって、今度はぱっとちぎれて小さな無数の花に変わりました。たみの体も、キーンというするどい音をたてて流れていく花々のひとつとなって、落ちていくようです。〈どうしよう、どうしよう〉とまよう心さえも小さくしぼんでいきました。        ○  それからしばらくして、りゅうは、自分のすぐ近くでだれかがかなしげに泣く声で、目をさましました。 〈たみか〉  ドキドキと異常に高鳴る胸のこどうを聞きながら、あわてて体を起こそうとしました。が、深い夢の中のようにビクともうごきません。りゅうは、こんどははっきりと目ざめて、じっと聞き耳をたてました。 「ナカッタ、ナカッタ、ナカッタ。笛はもうだれかにとられてしもうた。うまくしてやったと思うたに。あの笛さえあれば、あの笛で思いどおりに黒森じゅうの鳥たちを呼び寄せ、カンタをよろこばすことができると思うたに……センナイ、センナイ、センナイ」  それからまた、何やら聞きとれないことばで泣いています。 〈泣いているのは鳥のおばばか……笛とは……たみの鳥の笛のことか……〉  りゅうは、わけがわからないまま、今度はピチャピチャと水をはね返すような音をたてながら、だれかが小屋の戸をたたくのに気がつきました。鳥のおばばもその音を聞きつけたのか、急に小屋の中がしずまりました。 「えいえい、この寝ぼすけおばばよ、さっさと出てこい、ほい、ほーい、鳥のおばばよ、たずねてきたのはわしじゃ、川のじいじゃよ。はよ出てこい、急ぎの用じゃ……やれじれったい、もどっかしい……」  年とった男の声が呼びかけてきました。そしてまた、ピチャッという冷たい水のしぶきが、りゅうのすぐそばで起こったような気がしました。  カサコソとねずみの走るような音をたて、何を思ったのか、鳥のおばばが、たみとりゅうの体にむっとするようなさまざまなにおいの枯葉や鳥の羽をふりかけ、けんめいに二人の姿をかくそうとしはじめました。 「出てこい、鳥のおばば。さもないとおまえの巣ごと、水の中へひきずりおろすぞ……」  川のじいと名のった男が、気ぜわしく呼びかけました。 「ビックリ、ヒャックリ、シャックリ、まあ、よりにもよって、こんな夜に、川のじいどのがたずねてくるとは、とは、とは……」  鳥のおばばは、ぶつぶつつぶやきながら、あわてふためいたようすで、小屋から出ていきました。 「ヘイ、ヘイ、ヘイ」  かしこまった調子で、鳥のおばばの答える声がします。 「おうおばば、今朝人の子が二人、嵐の森を通ったが、おまえは何も聞かなかったかな。ちょっとわけがあって、その二人は、わしが気にかけておるたいせつな人の子たちなのじゃが……」  川のじいが、せきこむようにたずねました。 「ヘーイ、ヒェッ、何も、何にも、おばばはこのとおり、耳も遠く、腰もまがり……目は昼間は半くらやみ……」 「ふんふん、とすればおまえのおだいじな九官鳥も、もはや歳となって……おまえの耳がわりにもならんというのか……」  川のじいが、はきすてるようにいらいらとつぶやくと、水音が高まりました。 「めっそうもない。このカンタが……とんでもない、このカンタは、だいじな一羽の一羽。どんな嵐の中でも、針一本落とした音を聞きわけられ……れ、れ、れ」  はげしい木々のざわめきと高い水音が同時に起こり、鳥のおばばのかん高い悲鳴が聞こえました。 「おろかもののばばあめが……自慢どおりの耳を持つ鳥なら、人の子の吹き鳴らす笛の音にはかならず答えたはず……いつまでもとぼけるつもりなら、話してきかそう。その二人の人の子たちは、黒森にむかしから伝わっておる、あの�口なし娘�と�母なしむすこ�よ。わしらの待っておる、黒森の救い主じゃ……さあ、いつまでもぐずぐずとわしにさかろうて知らぬふりとは、おまえもくされ熊の仲間になったのか……」  人が変わったような、きびしい川のじいの怒りの声が、ひびきました。 「メッメッソウモナイ……ヘェッ、ヘイヘイ思いだした……思いだした。そうそう、たしかに昼すぎ……カンタは外へ飛びだしていきました。わたしはもう気をもんで……気をもんで……あの嵐の中へ飛びだしていくなどと……小さな体に似合わぬ強い心……カンタは何というりこうもの……」  鳥のおばばは、いいわけとも九官鳥の自慢ともつかないことばをくどくどとつづけます。川のじいは、なぜか静まりかえって、あいづちひとつ、打ち返そうともしません。しだいに鳥のおばばのかん高い声が、ひくく弱々しくなってきました。  川のじいが、静かな声でたずねます。 「おばば、おまえ、放れ熊に会《お》うたな。放れ熊は、おまえに何をやるというたのじゃ……衣《きぬ》か、食べ物か、力か……おばば、おまえは何がほしいというたのじゃ……」 「ヒェッ、とんでもない。衣なぞと……食べ物ももうほしゅうない……ただカンタが、いつまでもいつまでもわたしのそばをはなれぬよう……そればかりを願っておりまする……」  川のじいがはげしく水をたたきつけたような音がしました。 「笛じゃ、鳥の笛じゃろう……キド一《いち》のつくった。……おろかものめが。あの人の子たちをどこへやった。娘は口なし、助けを呼ぶにはあの笛しかないのじゃ。おまえのあのさかしい九官鳥が、嵐の森のさわぎの中で、子どもたちをつれだすのはたやすいこと」  その時まで鳥のおばばは、ぶつぶつと何か聞きとれぬことをしゃべりつづけていましたが、急にするどくヒュッと音をたてて、だまりこんでしまいました。川のじいも、まるでもうそこにはいないかのように、物音ひとつ聞こえません。  りゅうは、見失った夢のあとを追いかけるもどかしさに、あえぎました。と、とつぜん、鳥のおばばが、声をあげて泣きだしました。 「ご、ご、ごめんなされて……知らなんだ、ええ知らなんだ、あの人の子たちが、そんなたいせつな子どもたちとは、知らなんだ」  鳥の叫びのように一気にそこまでいうと、おばばは、こんどは何かを思いだしたようすで声をひそめました。 「だまされた、ええだまされましたのじゃ。あの熊めが……鳥の笛というのがあって……その笛さえあれば、この森の、鳥という鳥を思うようにあやつれると……。わたしは、この森のほかの鳥など、どうでもよい。じゃが、カンタが、カンタがいつかはなれていく時のことを考えると……もう、その鳥の笛のことしか考えられんようになってしまいましたのじゃ。……それで、とうとう、今日。じゃが、笛は手にはいらず……」  それから、またさけびはじめました。 「ああどうしよう、どうしよう……あの花の酒は、あれは、わたしの最後の時のためにと、つくっておいたやつ……あの酒を飲むと、つぎからつぎへとかぎりない夢を見て、やがては苦しむこともなく命を終わる……」  鳥のおばばの声は、あとは泣き声になって聞こえません。水の音が消え、木の葉のざわめきも闇に落ち、遠くのほうでふくろうの鳴く声がしました。  りゅうは、必死になって体を動かそうとしました。生きながら土に埋められていくように、まわりの空気が重くのしかかってきます。思わず、〈助けてくれ、助けてくれ〉と、声にならない救いの声をあげた時です。 「いそいで、かくれ谷へ……眠りをさますのじゃ、最後の夢を見はてぬうちに……まだまにあうかもしれぬ……」  しずんだ調子で川のじいがつぶやきました。それから、むりに自分を元気づける調子で、話しだしました。 「ありがたや、ホイ思いだしたぞや。今朝がたまで、あの二人につきそっておった足のわるい小男がおったが、ものを知らぬとは強いことよ、わしの川へ釣り糸をたれた。わしは泣き女を追っぱらってくれたお礼のつもりで、とびきりいい魚を五、六ぴきくれてやったっけ。……わしのあの魚を食べておるかぎり、このばばあの酒の効きめは弱いはず……やれ急げ、それ急げ。……ええいどけどけばばあ、ゲッ、こいつも花の酒を飲んでしまったか。石みたいにねむりこんでおるぞ……」  それまでずっとだまりこんでいた九官鳥が、かなしげに鳴きはじめました。 「オババ、オババ、フタリデクラソウ、フタリデクラソウ」 「しかたがない、荷物にはなるが、おばばもいっしょに、かくれ谷まで運んでいくか。……あわれなやつよ、このなまいきな九官鳥とはじめて黒森へやってきたときは、あやしげな酒などつくる女じゃなかった……くるいだしたこの森の中で、だれもかれもがおかしゅうなってきた。さあいそげ、川の衆《しゆう》、もうかれこれま夜中ぞ」  川のじいが、どこかはなれたところにいる者に呼びかけているようです。やがてピタッピタッと、水のしたたる音をひきずりながら、だれやら小屋の中にはいってきて、冷たい手がりゅうの体にふれました。 [#改ページ]     九 かくれ谷の章  その夜のことか、それとも、その後何日かたってからのことか……闇の中をぐるぐるくぐりぬけていく夢を見ながら、たみとりゅうは、遠い頭上から聞こえる不思議な会話を耳にしていました。 「ようよう、起きてくだはい、木の長《おさ》どのよ。いまだ朝雲の流れもゆるき眠りの時なれど、よう木の長どの、起きてくだはれ、川のじいの急ぎの用じゃ」  ひくいおごそかな声です。古びた銀と銀をすりあわせたような、こだまをひびかせたその音が、静かに消えていったところで、間のびしたことばが答えます。 「川のじいよ、わしは、起きておるぞ。何やら、根もとより聞きなれぬ息づかいが聞こえてくる。……わしは考えておった。はてのう、虫とも小さい魚ともつかぬ。これは、あの人の子たちに命がもどってきた証であろうか……と」 「木の長どのよ、人の子たちは、もう半分がとこ死の国のほうへまがりかけておった。娘のほうは、山んばの櫛《くし》を持つおかげで、はよう気をとりなおすじゃろ。じゃが、むすこのほうは……。のう木の長よ、おまえさまは、光の中に高くそびえておるゆえ、翼あるもののたてるかすかなざわめきも聞きのがすことはあるまい。どうじゃ、われわれが山うばの徴《しるし》を待っていたのは、正しいことであったか。……まことにあの掟《おきて》は、たのむべきものであったろうか。……人の子たちは、おまえさまのいちばん若い枝よりもやわらかだ。あのような者がわれらのたのみの主とは、どうにも思えぬ。のう……」 「よーい、よい、川のじいよ。人の子らが命をとりとめれば、それでよい。すべてが動きだしておる。川のじいよ、翼あるものの知らせによれば、時は、もうまぢかにせまっておるという……。じゃが、地の奥よりじわじわとはいあがってくる死のにおいも、またたしかじゃ。ことは、いそがねばならぬのじゃが。……じいよ、待つがよい、心平らかに待つがよい」  長いため息のようなこだまが、あとに残ります。 「木の長よ、わしら待ちに待ったわ。それでどうなった、あの泣き女のおかげで、わしの頭の中はもうむちゃくちゃ、今にゴオッと体もろともくずれてしまいそうじゃわ。……おまえさまものう、くさりかけた土にかこまれて、むかしの光もかがやきも失せて、終日うとうととねむってばかりおる始末。このようなことなら、あの時、山うばの願いなどに耳をかさず、大あばれにあばれまわり、あの熊めを水の中にしずめてしまえばよかった。……のう木の長どの、わしらの力が弱ってしもうた今、やっと待ちに待った人の子たちがやってきた。それも、水のあぶくのようにはかない子どもたちがのう……ヒック、わしゃ飲みたい、酔いたい、ヒック」  川のじいの泣き声は、遠くに流れおちる滝のような音にまざって、きれぎれにひびいてきます。 「遠いむかしの話をしておるのか、川のじいよ、それともこの水の中にねむる人の子のさだめのことか。……あの掟にまちがいはおこらぬ、わしはそう信じて待っておるのじゃ。それに川のじいよ、山うばの力となる早見の鷹《たか》、夢をうらなう鳥、千年の知恵を持つへび、使い走りのりすと、わしがあずかっておった宝が、今朝がたことごとく消えうせた。……これは、つぎなる山うばの、力のよみがえりを知らせるものではないか。のう川のじい、思いだすがよい、先の山うばが、わしのふところの巻物をとりだした日のことを。雷を呼び、わしをまっぷたつにひきさき、間一髪おまえさまが、燃えあがるわしの体に水を浴びせかけたあの日のことを」 「そうよのう、あれだけの力とまことを費やして手に入れた古き掟じゃ……今しばし、今しばし、待つことにするか……」        ○  たみは、さきほこる花々の茂みをあちこちによろけながら、歩いていました。色とりどりの花々は、うすぼんやりとした光の中で、おそろしい秘密をかくし持つように、おしだまっています。風もないのにはらはらと落ちかかった花びらをひろいあげたとたん、それは小さく黄ばんでしおれました。 〈何を知ってるの、何を知ってるの〉  たみは、時おりするどくつきでてくる緑のとげに手足を傷つけられながらも、花々に問いかけていました。  フッフッフッフッフッ。急にたくさんの花たちがわらいだしました。 〈お待ち、お待ち、美しい夢をあげよう、お待ちお待ち、美しい夢をあげよう〉 〈待て〉  一本のするどいとげがたみの胸をさし、たみは花々の中にたおれました。花たちはたみの体の下で、いやなにおいをたてながらくさりはじめ、じゅくじゅくと、なまあたたかい水が顔をぬらします。 〈息がつまる!〉  たみがひくくうめき声をあげました。 「娘のほうが気がついたようでございます」  水のざわめきにまじって、静かな声が聞こえました。たみはそっと目をあけました。ヒタヒタとたみの耳たぶを、冷たい水が洗っています。 〈夢だったのか〉  霧の香りと明けがたの光がまざりあった広い池の中に、たみはぽっかりと浮いていたのです。 「むすこのほうはどうじゃ、体の傷がひどいようじゃったが……」  年をとった男の声が、深い疲れをふくんで、気づかわしげにたずねました。 「もう、三番鶏が鳴くころには、きっと……」  たみは、そっと首をあげてみました。水の表面は、立ちのぼる霧におおわれて、まるで雲の中にでも寝ているような気分です。霧の切れめから、広い池をすっぽりとおおうように、さわやかな緑の木々がゆったりと枝をたれているのが見えます。香ばしい緑の露が一つぶ、たみの額《ひたい》に落ちてきました。話し声は、水の中でかわされているらしく、うすい玻璃《はり》の戸でしきられたように、かすかにたみの耳にとどきます。 〈りゅうさんは……〉  長い自分の髪が、細い水草の葉でしっかりとたばねられているのに、たみは気がつきました。そして、すぐ横に、りゅうもまた、水草で織られた布のようなもので体じゅうを包まれ、顔をわずかにのぞかせて、浮かんでいたのです。  プクリと小さな波紋が広がりました。白い水蓮《すいれん》の花が、風に吹きよせられたようにたみのすぐそばに流れつくと、ザアッと水がもりあがり、冷たいしぶきが目にかかりました。そして黒髪を後ろに流した美しい娘が、水の中から浮かびあがりました。娘は、きよらかな瞳をすっととじると、細い美しい手を上げました。白い水のつぶが指先からこぼれ落ち、何ともいえないすがすがしい香りがあたりにただよいました。  娘は、たみのほうをちらっと見たようですが、声もかけず、りゅうの体をおおっていた緑の布をとりのけました。 「うっ、たすけて」  おそろしい夢のなごりをはきだすように、りゅうがうめき、体がはげしく水の中でもだえました。娘は手をとめると、さっと池の中に姿をかくしました。 「むすこのほうも、今一息でもとにもどりましょう……」  また玻璃の向こうから、ささやく声が、たみの耳にとどきました。 「まずはよかった。あとは手はずどおりにたのんだぞ。おばばはしばらくここへ寝かせておいてくれ」  年をとった声が、ほっとしたようにこたえました。 〈あの声は、どこかで聞いた川のじいの声。わたしたちは助かったのだ〉  たみが、水の中をのぞきこもうと体を動かした時です。下からぐいと足をひっぱるものがいて、たみはあっというまにひきずりこまれました。思わず水を飲みこんだたみは、強いぬるぬるとした手が、自分をどこか深いところへつれていくのを感じながら、また気を失ってしまいました。        ○   さやさやさやと風がわたる   波がえがくぞ 水の歌を   ゆうらりゆらり   山の端《は》に月影させば 波の上   かがやきだすよ きいらりきらり   水の衆《しゆう》よ いでませ   陸地《くがち》の闇はここまでとどきゃせぬ  何度か聞いたような澄んだ歌声が、水音とひびきあいながら、静かに消えていきます。  たみは、さわやかな風がほほをなでていくのに気がつきました。目をとじていても、明るい光の下に寝かされているのがわかります。動かした腕に、かたく山うばの櫛がさわりました。  たみは、そうっと目をあけてみました。まぶしい光があたりに満ちあふれています。さらさらとかわいた砂がしきつめられ、ほっこりと体をあたためています。 〈ここはいったい、どこだろう……池の中に浮いていたと思ったのは、夢だったのか……〉  着物はさっぱりとかわき、体もすっかりもとにもどっているようで、あのだるい感じが消えています。体を動かすと、たしかに池にただよっていたすがすがしい香りが、たきこめられてでもいるようににおい立ちます。  たみは、かたわらに、りゅうとユージンが、まだあの布をかけてねむっているのを見ました。  たみは、そっと体を起こしてみました。 〈ここは黒森の中なのか……それともぜんぜんべつの山なのか。もしかすると、ここは、あの川のじいがいっていた、かくれ谷というところなのかもしれない〉  たみは、まわりの美しい景色に目をうばわれながら、思わず両手をかるく打ちあわせました。空をおおわんばかりの緑の木々。流れにつきでた苔むした岩を包む、白い泡。水のよどみには、小さな花をちりばめた水草の群れ。そして、一本のたけ高い木の上には、数羽の極彩色《ごくさいしき》の鳥がとまっています。  たみがその木のそばに寄ると、風が吹きすぎ、ヒラリと一まい、鳥の羽が舞いおちて、たみの手にとまりました。 〈これは花びら……それじゃ、あの、鳥のように見えたのは、花だったのか……〉  虹色に光る花びらを、そっと光にすかして見ると、まるで赤い血をすったように毒々しくたみの手をそめます。胸もとで、山うばの櫛がビクッとふるえました。  なぜか、たみはおちつかない気持で、その花びらを水に投げました。 〈何だろう、あの花びらは。どうしてこんなに胸がどきどきするのだろう。……ここはこんなにきれいで、ちょうど、わたしが里で思っていた黒森そっくりなのに……。もし、ここがほんとの黒森なら、わたしはもうどこへも行きたくない、ここにずっといたい〉  小さく小石の投げこまれる音がして、流れに浮かんでいたあの虹色の花びらが、すうっと水の中にしずみました。その瞬間、花びらがとけて赤く水をそめたような気がして、たみは思わず目を見はりました。  ふりむくと、りゅうが立っていました。 「腕が、もうすっかりよくなっている。……たみ、ここはいったい、どこじゃろう。もしわしの聞いた話が夢でないのなら……」  りゅうは、あたりをゆっくりと見まわしてから、たみのそばにすわりました。そして口ばやに、夢のように聞いた不思議な会話をたみに話して聞かせました。たみは何度も何度も深くうなずいて、二人が同じ話を聞いたことを知りました。  りゅうは、澄んだ水の中に光る小石を、一にぎりすくいあげました。 「たみ、おまえもやっぱり、ここが、川のじいとかいうのがいっておった、かくれ谷だと思うか。どうしてだれもここにいないんだ。……これから、わしたちはどうなるのじゃろう」  そしていらいらと、小石を水の中に投げはじめました。 「お二人とも、ご気分はいかがですか」  静かな声が、すぐ近くからとつぜん話しかけてきました。たみとりゅうはおどろいて、まわりを見まわしました。あたりに人影はなく、どうやら声は、二人のすぐ横に水ぎわまではりだした、大きな岩のかげから呼びかけてきたようです。 「おどろかせてしまったのなら、おわびを申しあげなくては。ごめんくださりませ。わたくしは、川のじいさまの使い女でございます。この青い岩のかげに、あなたがたのお食事と、旅のしたくを整えておきました。……それから、川のじいさまよりのおことづけがございます。あなたがたの体は、もうすっかりいやされてございます。ここは、川のじいさまの使い女ほか数人のみが、おつかえのためにすむかくれ谷でござりますれば、病いえたるものは、ただちに立ち去らねばなりませぬ。なお娘ごは、鳥の笛を、おばばに置いていくようにとのことでございます。これより先は、笛の入り用な鳥に会うこともあるまいとのこと……。おばばは、あなたがたが休んでおられたすぐ近くの岩かげに、小鳥とともにねむっておりまする。……また、むすこどのには、このかくれ谷よりの道を、おおしえいたしましょう……」  二人は、ただもうぼうぜんと、なめらかな声を聞いていましたが、とつぜんその声がとぎれると、「ヒイッ」というようなおさえた悲鳴があがりました。何かただならぬ気配が感じられて、りゅうとたみは、顔を見あわせると、大きな岩をまわって走りました。  岩かげには、岩にかこまれた泉があり、水がわきでていました。水の面《おも》には、今しも消えんばかりに大きく広がった波紋の中に、白い花の群れがはげしくゆれています。そして、あの赤い花が、まるで八重ざきの花のようにかさなり、赤い花芯《かしん》を広げているのでした。  二人はその花に魅《み》せられて、動くこともできずにいました。  ひそやかに水のゆれる気配がして、水面に黒髪が水草のように広がり、すうっと、ひとりの女が浮かびあがりました。それは、たみが池の中で見た川の娘でした。川の娘は、細い指先を神経質にのどもとにあてると、見るまに数をふやしていく赤い花を、まゆをひそめてながめました。 「あればかりは、がまんがなりませぬ。あの赤い花にくらべれば、水草の根もとにひそむまむしのほうが、まだまし……」  川の娘はつぶやきました。 「ここ数日前より、あの赤い花が、谷間のいたるところにさきはじめました。ごらんのとおり、一見|極楽鳥《ごくらくちよう》のようにあでやかな花なのですが……」  白い花の群れが、つぎつぎと赤くそまっていくのに目を見はっていたりゅうは、新しい川の瀬音《せおと》が加わったように、女の話し声を聞いていました。 「花びらを風にのせて飛ばしては、谷間の木や草にとまり、あっというまにそこに大きな花をさかせます。そして木や草の汁をすいつくしてしまうまで、さきつづけるのでございます。そのうえ花粉は、風とともに谷間の空に舞いあがり、谷の水をけがしております。このかくれ谷は、川のじいさまの、最後のとりででございましたが……」  川の娘はうつむくと、目をしばたたき、岩の上をふり返りました。そこには食べ物らしい包みと、りゅうたちの荷物が置いてあります。 「さあ、おなかがすきましたろう。あなたがたは薬湯《やくとう》ばかりでここ四、五日をすごしておりましたから。このかごの中のものは、いずれもお体にさわるようなものではございません。ゆっくりめしあがってくださいませ」  うながされて、二人は岩の上に腰をおろし、かごのおおいをとってみました。そこには、干した川魚を、これも干したあんずの実と煮たもの、小さい沢ガニを香ばしく焼いたもの、水草の球根らしいもの、細い白うり、はすに何かの肉をつめて揚げたもの、すきとおっていいにおいのする寄せものなどが、笹の葉をしいた上に、手ぎわよくつめてありました。  二人はゴクッとつばを飲みこみました。りゅうがたまりかねたように手を出して、沢ガニをかじりました。 「うまい!」思わず出たため息といっしょに、顔がほころびました。  水の中に半身だけだして二人をながめていた川の娘が、はじめてやさしい笑いを口もとにうかべました。  食べ物はどれもこれも、体の中にしみとおっていくほどのおいしさです。たみは、食事のあいだも、むさぼるようにあたりの景色をながめていました。あの、雪を吹きあげながら荒れくるった森の中にいたことなど、遠いむかしの気さえします。花のほうに目をもどすと、いつのまにか白い花むらは姿を消し、赤い花だけが、さんぜんとさきほこっています。  りゅうが、黙々と食べていた手をとめると、おずおずと川の娘に話しかけました。 「あの……わしらの命を助けてくれたり、この食べ物をくれたりした川のじいは、どこにおるんじゃろうか。わしらは、どのくらいここにいたんじゃろうか。ここは、あの鳥のおばばの家から、かなりはなれたところに思えるが……もとの道に帰るのには、どうすればいいんじゃろう」  たみが、はじかれたようにりゅうの顔を見つめました。  りゅうは、自分でも思いがけないほど重い胸でしゃべっていました。あたたかい空気の中で、おいしい食べ物を食べて、ほんとうはとろとろと一眠りでもしたいくらいです。それなのに心のどこかで、〈これはわたしたちだけの旅ではない、はやく、はやく〉とせきたてる声がするのです。  川の娘は、りゅうの問いを待ちかまえていたように静かにうなずくと、水ぎわまで近づいてきました。  川の娘が岩の上に立つと、あたりがさあっとあじさい色の水でそまったような気がして、思わず二人は目をふせました。  おそるおそる顔を上げたりゅうに、川の娘は腰をかがめて軽く頭を下げ、歩きだしました。水あとも残さず、音ひとつたてずにしなやかに、すこし上流の木立の中に、二人をみちびきます。  たみとりゅうは、小走りにあとへつづいて、川の娘が立ちどまったところにならびました。  二人が目にしたものは、木々の緑にかこまれて、まるで空につきささったような高い岩壁から、耳もおどろかすばかりのはげしい音をたてて流れおちる、滝でした。そしてそのかたわらに、この谷間をすべて見はるかすことのできるような、大きな楓《かえで》の古木が一本、そびえています。茂りあった木の葉のあいだからは、不思議な色あいの光が、あたりに放たれています。ゆるやかな風がわきあがり、その風の中から、何ともいえずなつかしい、心をなだめるような香りが胸のうちに吹きこむのを、二人は感じました。 〈これが木の長だろうか〉  思いがけないものに出会った思いで、たみは、りゅうの顔を見あげました。  りゅうは、この巨大な楓の幹が、いかめしいはだをおおっている苔やツタにかくれて、細身の剣のあとほどの光のすきましか見せてはいないものの、根もと近くまでひきさかれているのを、いたましい気持でながめました。  川の娘は、そんな二人のようすに気がつかぬげに、口を開きました。はげしい滝の音の中でさえ、その声は不思議にはっきりと聞きとれます。 「ここは、かくれ谷のかくれ滝と呼ばれております。この滝のちょうど反対がわに、同じ大きさの滝があり、その滝は洗濯女の谷のほうへと流れこむ川へ、落ちています。……ここ数年、わたくしどもは、あの熊の目には死にたえたと見せかけて、このかくれ谷にすんでおりました。ここには、古くからわきでている泉がありますし、峰のあちらがわは人っ子ひとり、けものでも、かもしかぐらいしか通ることのできない絶壁です。黒森のほとんどの谷は、涸れるかけがれはてていますが、このかくれ谷の水のおかげで、どうやら森の木は生きつづけておりました……」  川の娘の話し声がふととぎれました。 「ああ、雪だ……」  りゅうが声をあげて、たみに峰のあたりを指さしました。はじめ、たみには峰のこちらがわから無数の白い鳥が空にむかって飛びあがっていくように見えたのですが、それもつかのま、峰の緑が、ぼうと白くおおわれていきました。  川の娘はぶるっと身ぶるいすると、うすい衣をかきよせ、雪を見たおどろきの表情をかくすようにして、二人に深々と頭を下げました。 「それでは、これにてわたしはおいとまいたします。道中には、ずいぶんお気をつけて……あなたがたはこの谷をそのまま下っていかれますよう。とちゅうで谷が左に大きくまがるところがあります。そこは水が浅くなっていて、大きな三角の岩が、川の中にすっぽりと小山のようにはいりこんでおります。その岩にのぼり、右手の林にはいり、そこからは、ただまっすぐつづく道を上へ上へとのぼっていかれますよう。のぼりつめた先に、熊の洞窟《どうくつ》があるとのことでございます。  それではまもなく霧が出るころでございます。道を見失うことのないよう、いそいで行かれませ」  川の娘は、かげろうのようなほほえみをちらっとうかべると、さっと滝つぼに飛びこみました。黒髪が墨《すみ》ながしに水面に広がったかと思うと、泡だつ渦の中に、姿が消えました。  二人は、ぼんやりとそのあとを見守っていましたが、やがてどちらからともなく歩きだし、さっき食事をしたところへもどりました。  りゅうが、まだねむりこんでいるユージンの首から水草の輪をとると、ユージンは気持よさそうなあくびをして、ぬれた目を開きました。  たみは、残しておいた食べ物を手ばやくまとめはじめました。ここは、まぶしいような光に満ちた平和な場所に思われたのに、今はかえってこの世のものではない、ぶきみな気さえしてきます。  たみは、長い髪をきりきりとねじると、肩の一方に流しました。鳥のような影がさっと目の前を横ぎりました。 〈また、あの花が飛んだ!〉  たみはくちびるをかみしめると、花びらが落ちた水草の上を見ました。花びらは、ゆらゆらとはかなげにゆれていましたが、やがて水草を虹色にそめ、あっと息をのむあいだに、もう赤い翼をはなやかに広げてさきほこりました。 「うん、くそっ」  りゅうがやりきれないような声をあげると、あたりの景色をながめました。峰には、雪がもう七合目あたりまでおりてきています。そしてその下は今、谷からわきたつ霧でおおわれはじめています。 「たみ、わしらはいそいだほうがいい」  りゅうが呼びかけました。 「はやく鳥のおばばを見つけよう……わしらが寝ておったあたりの、岩かげのどこかといっておったが……」  りゅうは、今しばらくこの美しい谷間に残っていたいという気持をおしころすと、わざと乱暴に荷物を背おいました。  川の娘が話したとおり、すぐ近くの岩かげに、水草におおわれて鳥のおばばがねむっていました。それがくせなのか、うすく目をあけています。前よりいっそう体がちぢこまった感じでしたが、顔つきはおだやかでした。  鳥のおばばの胸もとから、九官鳥が頭をのぞかせました。 「オババ、ネムッテル、サワルナサワルナ」  かん高い声でさわぎたて、たみは小鳥にむかってのばした手をひっこめました。 〈鳥の笛。そうだ、わたしの笛〉  たみは、うろうろと着物をさぐりながら、 〈いったいどこへ落としてしまったんだろう〉  りゅうの顔を見つめました。りゅうは、ゆっくりと自分のふところに手を入れると、たみに、あの鳥の笛をわたしました。 「たみ、おまえがあの階段のところで気を失《うしの》うたとき、この笛を落としたので、わしがあずかっておった。……どうする、たみ」 〈そうだったのか〉  さまざまな思いが、たみの心をよぎります。笛をにぎっていた手をそっと開いて、もう一度ながめると、それをおばばの胸の上に置きました。バタバタと羽を動かしさわいでいた九官鳥は、急に静かになり、鳥の笛を守ろうとするのか、まるで卵でもだくように、笛の上にうずくまりました。そして、小さな目でちらっとたみを見あげました。 〈さよなら〉  たみは九官鳥に顔を寄せ、かすかにゆれている頭をなでると、思いきって歩きだしました。 [#改ページ]     十 むかし語りの章  青色の小さな花をつけたつる草が、古いお経《きよう》の文字のように地面にしがみついているのを、たみはふみつぶさないように気をつけていきます。こんなに小さい花が、まだ赤い花に毒されずにいることに、心がわずかになごみます。  二人は、のろのろと谷を下りはじめました。だんだん遠くなっていく滝の音が、二人をせきたてているように思われ、いつのまにか、かなりのはやさで歩いていました。  足もとばかり見つめていたたみにも、もうかくれ谷を出たことはわかりました。青々としたつる草が消え、枯れた草が、ごろごろころがる岩のあいだからのぞき、あたりの空気が冷たくなってきました。そして、あのかがやいていた光もいつしかなくなり、ユージンが歩いていく先だけが明るく、まわりは、すっぽりと深い霧の道になったのです。ただ時おり聞こえるせせらぎの音で、谷ぞいの道を下っていることがわかります。  りゅうは、冷たい霧のつぶが、すぐ前のたみの体をおぼろげに包んでいくのを、じっと見つめながら、足をはこびます。行く手から、けものの遠吠えが聞こえました。 〈おおかみだ!〉  今にも目を光らせたけものが目の前に飛びだしてきそうで、ぐっとこぶしをにぎりしめました。二人は、ユージンを見失わないように、足ばやについていきました。  とつぜん、霧がはれてきたかと思うと、目の前が急に開け、広がった川はばの右寄りに、大きな三角岩がそびえています。そして、川はたしかに、左へと大きくまがっています。  二人は浅瀬をわたると、じんじんとしびれる足をぬぐって大岩によじのぼりました。岩のくぼみに身をふせて、冷たい風をよけながら、たみとりゅうは、申しあわせたように後ろをふりむいてみました。川岸は霧にすっぽりとかくれて見えず、どのあたりからぬけでてきたのか、もうわからなくなっています。  左にう回した川面《かわも》は、横長のしまもようを描きながら、川岸に積もった雪の下へと消え、水の流れる音だけが谷間をこだましていきます。カラスが五、六羽、霧の中から舞いおりると、何かえさをあらそってグアグア鳴きたてはじめました。  たみは、あの大ガラスに乗って行ってしまった床屋の赤次《あかじ》のことを思いました。 〈おっさんはもう、おおかみの群れに追いついたのだろうか。……おっさんがいてくれたらよかったのに……〉  ふとたみは、おおかみの遠吠えを聞いたような気がして、思わず身をふるわせました。  すぐ横に広がる森を注意深く見つめていたりゅうが、腰をうかすと、たみにいいました。 「いいか、たみ。この岩は、こうやってすべりおりていこう。下はシダがいっぱいはえておるようだから、けがすることもないだろう」  たみは、りゅうのすべっていくほうをしっかりと見つめました。 「よし、来い、たみ」  りゅうの呼びかける声に、たみは、岸のほうへとのびている岩の斜面を一気にすべりおりました。思っていたよりずっと勢いがついて、体はりゅうの横をぐるりと反転し、頭から先に深いシダの茂みの中に落ちこんでいきました。  顔や手にやわらかな枯葉やどろをいっぱいつけて、たみが立ちあがったとき、りゅうが、シダをかきわけて近づいてきました。シダの林はたけ高く、たみの体をほとんどかくすほどでした。  ユージンが二人の足もとでひくくうなり、二人は思わず身をかがめました。大きなクモがのそのそとそばをはっていきます。ユージンは耳を立て、鼻をピクピク動かしています。 〈だれかいる、それもすぐ近くに〉  りゅうは、胸がどきどきおどるのをたみに聞かれたくない思いで、さっと立ちあがると、まわりをゆっくりと見まわしました。うすい煙が流れてきます。 「たみ、たき火のにおいがしてくるぞ……」  りゅうはまた腰をかがめると、たみの耳もとでささやきました。息苦しくなるような強いシダのにおいにまじって、たしかに煙のにおいがします。それからどっとわらう声が……酒に酔ったような歌声も聞こえてきます。二人は顔を見あわせました。 「たみ、行ってみよう」  りゅうが先に立ちました。湿ったシダの落ち葉が、二人の足音を包みこんでくれます。りゅうが急に足をとめました。 「たみ、のぞいてみろ」  二人が、のびあがってのぞいた先は、舞台のように土地がもりあがり、シダの茂みにかこまれた空き地になっていました。たき火がちょろちょろと燃え、そこに五、六人の男が寝そべったり酒を飲んだり、思い思いにくつろいでいます。野営《やえい》でもしているらしく、いろいろな荷物がそばに散らかっています。男たちは、あたりはばかるようすもなく大声でしゃべりあっているので、話もはっきり聞きとれます。 「ちょっと、ちょっと、あっしが見つけたこのきのこをごろうじろ……色といいつやといい、見とれるばかりの毒きのこよ。どうだ、一口かじってみたいだろう。なあ……この黒森がどんなに不景気になったといっても、毒きのこだけは、どんどんふえてくるじゃないか……」  口のまわりのひげをてかてかと酒に光らせながら、座のすみにすわっていた男が、赤い大きなきのこをふりまわして、自慢をはじめました。 「どれ、ちょっと見せておくれ……」  片ひじをついてねむっているように見えた男が、起きあがると、その大きなきのこのにおいをふんふんとかぎながら、うれしそうな声をあげました。 「うん、これはめっぽう上出来のきのこだ、においだけでもう口もとがしびれてきたぞ。いったいどこで見つけてきたんだ……」  ひげの男は得意そうに立ちあがると、しゃべりだしました。 「いやあ、みなの衆《しゆう》、じつをいうと、それを聞いてもらいたいんだよ……さっき、あっしが息せき切って帰ってきたのに気がつかなかったかい。じつはよ、もうそろそろ新月のころだし、きのこをとりにいつもの場所へ行ってみたんだよ。そうしたらみなの衆、足のふみ場もないくらい、いっぱいの毒きのこがはえとるじゃないか。ほんとうにあっしがそこに立って見ておるあいだにも、女子衆《おなごしゆう》の文句みたいにつぎつぎと赤いきのこがはえてくるのよ。何だか気味がわるうなって、思わず帰りかけたとたん……闇《やみ》の衆があっしにぶつかってきた……もうまっくら……頭の上からすっぽり黒い幕を落とされたみたいで何も見えん。もうこわいの何のって……あっしは、腰にさげていた小道具の刀を夢中でふりまわしたのさ。そうしたらどうでえ、闇の衆のほうがかなきり声をあげると、あっしから飛びのいていった。『トコヤ、トコヤ』と泣きわめきながらよ……ありゃどういうことか知らないが……あっしもこれさいわい、目の前のきのこを一つかみつかむと、大いそぎでここへもどってきたのよ……」  その中では年かさらしい、頭がまるくはげあがった男が、子細《しさい》らしくうなずくと話しはじめました。 「それじゃ、やっぱりあのうわさはほんとうだな。闇の衆は、何でもこの山にはいってきた三人づれの人間に、目をやられてしもうたということじゃ。それで今は、黒い水たまりのようにあっちへよろよろ、こっちへひょろひょろと、できるだけ人目につかんように逃げあるいているということよ。はじめは黒森のすみにひっそりとすわりこんでいるだけだったのに、あの放れ熊のせいか妙にくるいはじめて、おそろしいばけものみたいになったのだからして……まあそうやって害がなくなっただけ、わしらには幸運というもんじゃが……」 「そうですかい……いやあ、あの闇の衆を、ただの里の人間がやっつけたというのは、ちょっと信じられん……あっしは今でも、思いだすとふるえがくるというのに。いったいその三人づれというのは、何者だろう。まさか、このあたりをうろついちゃいないだろうね」  毒きのこを持ちだした男は、あいづちを打つと気味わるげにあたりを見まわしました。小太りの男は、口もとをゆがめるとわらいはじめました。 「ばかばかしい、どっちみちあたしらは流れ者、今は火のまわりで、うわさ話にあけくれしておるだけの、無害の者、妙な心配はするだけむだよ。せっかくのきのこの味が落ちるじゃないか……なあ、けむりどん……」  けむりどんと呼ばれた年かさの男が、手わたされた毒きのこをうまそうに一口かじると、また子細らしく首をふりました。 「その通り。この黒森がどうなろうと、あたしらの知ったことじゃないが……ちょっと気になるのは、その三人づれというのが、どうやらあのむかし語りに出てくる、口なし娘と母なしむすこらしいということで。そうなると、あとのひとりは、これはどうなる……。どうもあっしらは、むかし語りどんの話を、いつもうわの空で聞いていたからな。……どうだい、ひとつじっくりと、あのむかし話を聞いてみようぜ」 「そいつはおもしろい。ひとねむりする前に聞いてみよう。むかし語りどんを、起こさなきゃ。どこかに毒消しのきのこが残っているはず」  まつりどんは、腰の袋から紫色のきのこをとりだして、せかせかと小さく裂くと、火のそばでねむっている小柄な老人の口に、押しこみはじめました。  シダの葉かげで、それまでの会話を聞いていた二人は、思わず顔を見あわせるとため息をつきました。  山うばの櫛《くし》を持って黒森へはいっていらい、黒森のいたるところで自分たちが待たれ、自分たちのことが話されているような……。  りゅうは体をすばやく動かすと、もっとよく話が聞きとれるように、一座の者のほうへすこし進みました。        ○ 「もういらん、いらんというたら。何じゃい、せっかくいい気持で寝ていたところを……むちゃするな。こう見えても、わしはこの座の座頭《ざがしら》じゃぞ……なに、むかし話じゃと。何をまた急に、どういう風の吹きまわし……」  口のはしからきのこの切れはしをだらりとのぞかせて、めんどうくさそうに、老人が起きあがりました。さすが座頭というだけあって、寝起きでも表情にすきがなく、しわだらけの顔の中に、ぬけ目のない目だけが、暗くかがやいています。 「なに? ふん、口なし娘と母なしむすことな。ほうれ見ろ、わしが前からいっとっただろうが……むかし話というのは、ただむかしにあった話というばかりじゃない、むかしから伝えられた話ということもあるのよ。おまえは、わしをばかにしてろくに話もきかんかった。わるい……じつにわるい……」  むかし語りは、もったいぶって首をふると、みなの顔を見まわしました。そして一座の者に大いばりで説教をひとくさりすると、日ごろのうっぷんが晴れたと見え、今度はあらたまった調子で座の者に呼びかけました。 「さて、みなの衆よ」  むかし語りは、たき火の中から細長い棒を一本ひろいあげ、背すじをぐっとのばしました。一座の者はそれぞれまじめな顔つきにもどると、むかし語りが燃える棒を宙にふりながらつくる火の模様を、じっとながめました。  むかし語りは、高くかかげた棒にむかってふかぶかと一礼をすると、話しはじめました。  さあてみなの衆よ。むかし語りと名のつく者にあたえられた言霊《ことだま》が、今この座にまいもどった。気まぐれな言霊が、煙となって消えさらぬうちにみなの衆よ、望みの話をひとつ、お聞かせしよう。  これは、黒森の、いつの世のことであるのかそれはわからぬ。今わが白髪頭にやどりし言霊の気のむくままを、お話し申そう。 [#ここから1字下げ] 天地《あめつち》のはざまに憩《いこ》う黒森の 緑の木々に露やどり 流れる水は高らかに 命のうたを ことほぎぬ 命のうたを ことほぎぬ 枝もたわわにみのる実も 彩《あや》美しき花々も すがしき声の鳥たちも うましまどいを さそうとぞ 人里遠くはなれきて 黒森深くすむ人の 心いやせし時もすぎ あなおそろしや うたてしや まがまがしき熊ふみ入りて 森のしじまを ひきさきぬ 山母《やまはは》 手には斧をもち 熊が命をうばいしが ものみないやせし黒森の 古き掟《おきて》ははたらきて 熊が命は とこしえの 力をおびて よみがえる 光は消えて 木々は枯れ 花は地に落ち 水はすえ 風はことばを失いて 死の衣にぞ おおわれける 人みな今は 地に伏して まなこをとじてうつむけば 迷いの耳にいつよりか 望みの歌ははこばれぬ そは歌えり ひめやかに 閉じし心に しみるごと 口なし娘に母なしむすこ 古き掟にしたがいて めぐるは深き黒森の 山路を経《ふ》るは幾日ぞ 冷たき雪は ふりやまず あやしのほこらに入りてのち 小さき影がさししめす やみより暗き死の穴へ 口なし娘が手によりて 山母《やまはは》が櫛投げ入れば 星は流れて ひとすじの 許しの道は ひらかれん 母なしむすこのゆくてをば はばまんとする雪の道 夢の衆なるその母の たすけによりてはいりしは 熊が在処《ありど》に ほかならず 今しろがねの光満ち 熊の前にぞ 二人立つ 熊の前にぞ 二人立つ 許しをうけし山母《やまはは》が 足音高くあらわれて まがまがしき熊 なんじめが いまわの声を聞けよとて いかずちのごとさけぶとき いなずま 天をひきさきて 熊が命を うばうとぞ 今ぞ待ちし時きたれると 声は谷間にこだませり 小鳥の歌は木々に満ち 花 ねむりよりさめいでて ものみな 光にかがやけり 流れる水はいさおしを 語りつぐらん とこしえに 語りつぐらん とこしえに [#ここで字下げ終わり]  おお、みなの衆、移り気な言霊がはや、煙とともに飛びさっていく。ともあれみなの衆よ、心弱きものにも大地の幸あり、ということ信じねばならぬ、それがこの話のおわりぞよ。  むかし語りは、語りおえると、しばらく煙の流れる先をながめていましたが、やがて手の棒をぽろりと地面に落としました。しんとなって聞いていた一座の中から、けむりどんがひざをすすめてきました。 「その、口なし娘と母なしむすこというのが、闇の衆をやっつけた里の三人づれですかい、どうも親方の話じゃ、よくわからない……」  むかし語りは、遠くをながめるようなぼんやりとした目つきで、じっとけむりどんの顔を見ていましたが、 「前の親方に口づてに聞いた話は、今の話のとおり。それから黒森には、いろんなうわさ話が残っておっての。その中にも、口なし娘と母なしむすこというのが、出てくるのじゃ……どれがうそで、どれがまことやら、はっきりとしないんじゃ……しないんじゃよ……何もかも……」  口をあけて聞き入っていたまつりどんは、ものたりなげにむかし語りの口もとを見つめていましたが、やがて立ちあがると、黒こげの毒きのこをふりかざしながら、 「やれ、それ、心弱きものにも、幸いがくる」 と、妙な拍子をつけておどりだしました。つられて、二、三人の男が、口々にでたらめな歌をうたいながらおどりはじめると、それをながめていたけむりどんが、ふと思いついたように、かたわらに投げすててあった、糸の色も朽ちはてたつづみを持ちあげて、ひとつ打ちました。ブスッと皮のやぶれるうつろな音が、おどっていた男たちの顔を一瞬凍らせました。  歌声ははじまった時と同じに、急にとまって、ある者はとなりの者と顔を見あわせ、ある者は深い眠りからさめたように身ぶるいすると、いぶかしげに、まわりに散らばっている衣装のはいったつづらや道具を、ながめました。けむりどんは、用心深くあたりを見まわすと、指をそっと口にあてました。 「いいか、わしらはほんとうに正気を失っておるわけじゃないぞ。だれぞ思いだせるか。わしらがこうして毒きのこを食べて、火のそばにすわってばかりいるようになったのは、いつからじゃ。どうしてわしらは、ねむってばかりいるのじゃ。どうしてわしらは、旅に出ないのじゃ。この毒きのこなど……前にはさわってもみなかった食べ物じゃ……いったいだれが……だれがこの毒きのこを食べはじめたのじゃ……」  まつりどんは、自分のよだれにぬれた毒きのこを気味わるげにながめると、首をかしげました。そして別人のようにことばの調子を変えると、話しはじめました。 「あれはいつじゃったか……朝がたじゃった。旅に出かける朝がたじゃった。気味のわるい風が吹いてきて……妙な笑い声が聞こえてきて、それから、大きな黒い影がすうっと、ちょうどおまえが立っている後ろの、シダの茂みのあたりに落ちてきて……わしらはだれひとり、体がしびれたみたいに動けなくなった。何やらが、ささやくようにわしらに話しかけてきた。『旅になど出ぬほうがよい。おまえたちはここで、最後の肉がくさりはてるまで、ばかさわぎをつづけるのじゃ』と……。そしたらおまえじゃったかわしじゃったかの手に、いつのまにか妙なかっこうの毒きのこがにぎらせられていて……あのおそろしい影が見えなくなってから、すぐにじゃないか、わしらがくるったみたいにきのこをうばいあって食いはじめたのは……それにしても妙じゃ、わしは何度も……むかしのことを思いだそうとしたのに、今の今までぼんやり霧がかかったように思いだせなかったが……今日は、今日はまるで、何もかもきのうのことのようにはっきり思いだせるぞ……そうじゃ、いうてやろうか、あの大きな影はな、あの放れ熊にきまっておる……そうじゃろう、なあみな……」  一座の者は、まつりどんの話を熱心に聞いていましたが、それぞれ何か思いあたることがあるように、ある者は、まだ旅姿のままの自分の足もとや手もとをながめたり、もぞもぞと、自分の横に散らばる道具をかき集めたりしました。 「ハッハッハッハ、何をまた、たわけたことを……さあさあ、ねむるがいい、明日こそは旅に出るんじゃないか。みな、ようねむっておいたほうがよい……黒森にすんではおるが、世間の風にも時おりあたる、それがわしらの暮しじゃないか。……まつりどんの話はなかなかおもしろいがな。さあ食べるがよい、このうまいきのこを。……どれどれ、みなが食わぬなら、わしがそっくりいただくか。まつりどん、よこしな」  むかし語りの老人が手をひょいとつきだすのを、まつりどんがあわててふりはらうと、ゆっくりとあきらめたように、毒きのこを一口かじりました。そしてじっとむかし語りどんの顔をながめ、ぼうとつっ立っているけむりどんに毒きのこをわたすと、そのままくずれるように地面にたおれました。一座の者は、あらそってけむりどんの手からきのこを食べ、つぎつぎとねむりこんでいきます。  ただひとり、むかし語りと呼ばれた老人は、たきぎを火に投げこみ、何やら考えこみながら空を見あげています。 「来る日も来る日も、今時分になるとわしらはねむりからさめ……いつもいつも、同じ話をする……いったい何のために、こんなことをしつづけているのだろうと思ったが……今日はちがった。一座の者がひさかたぶりに正気づいた。……よいしるしか、それとも最後の近づいてきたあらわれか……ままよ、歌にいうように�何がおころと気楽な者よ、おれたちゃシダの林の道化《どうけ》の衆�か。なまじいろいろ気づかぬほうが身のためよ……」  むかし語りは、あざけるようにつぶやくと首をたれ、かるいいびきをかきはじめました。またちらちらと雪がふりだしました。        ○  すでにひっそりとしてしまった一座のほうを、ものたりなげにながめていたりゅうが、ふっと大きなため息をもらしました。 「たみ、おまえ、今の話をどう思う……あれは、わしらのことじゃろうか」  りゅうが、ひくい声で語りかけました。 「それに、あのむかし語りが語った�夢の衆なるその母�というのは、わしのおっ母のことなのか……いったいどこにいるのだろう……。あの男たちは何者だろうか。この森のほかのものと同じように、放れ熊ののろいにかかっているみたいだ。雪がこんなにふりはじめたというのに、ぐっすりねむりこんでしまった」  りゅうは、答えを待つようにたみの口もとを見つめていましたが、また一座の者のほうへ目をうつし、いらいらとあたりの枯葉をつま先でたたきました。 「たみ、ここで夜を明かそう。今度こそ、暗い山道を歩いてまよってもこまるし、……ひょっとすると、またあの男たちの話が聞けるかもしれんぞ」  りゅうは、思案げな目つきを地面にもどすと、そっと枯葉を寄せ集めはじめました。  たみは、そんなりゅうのようすを目で追っていましたが、やがて自分の荷物をおろし、枯葉を足もとに集めました。 〈たしかに妙な人たちだけど、何だかあまりこわくはない……こんな広い森の中に、たった二人だけでねむるより、あの人たちのそばにいたほうがいいかもしれない。まさかの時には、助けてくれるかもしれないし……それに、あのむかし語りの話……〉  旅の一座のいるあたりは、ふり積もる雪の中にすっかりおおわれて、姿もさだかでありません。 〈それにしてもあの人たち、毒きのこを食べて、雪の中にねむって……ほんとうに生きている人たちなのだろうか〉  たみは、ぞくっと身をふるわすと、りゅうが体のまわりに巻きつけてくれた油紙を、強くひき寄せました。ひくく身をかがめてすわると、雪は広がったシダの葉のおかげで、体をぬらすほどではありません。  たみは、葉のすきまからこぼれ落ちてくる雪が、ゆっくりと足もとの枯葉をしめらせていくのを見ていました。ひとひら、ひとひら、枯葉の上には、いつのまにか小さな白い玉が光り、やがてはらりと土の上にこぼれていきます。 〈雪がふり、雪が積もり、雪が舞い、雪が消え……〉  たみは、胸のうちで、いつのまにかうたうようにつぶやいていました。そっと手をのばすと、雪はやわらかな花のように、冷たい手のひらを飾りました。  ふと、だれかに待たれている気がして、たみはゆっくりと立ちあがりました。 〈雪がふり、雪が舞い……〉  幼子のように同じことばを口ずさみながら、雪の中を歩きだしました。 「そう、雪がふり、雪が舞い、雪が消え、わたしはかける、かける、ふり積もる雪の中を、音もなく、消えていく人のように……」  それは、うす曇りの桜の下から聞こえてきたように、ぼそりとたみの胸の中に落ちこんできました。  いつのまにかシダの茂みをぬけて、たみは、白くおおわれた雪の林に向かいあって立っていました。美しい夕映えが、空と地と林をそめています。雪をのせた裸木が紫色の影を落とし、空も地も、目にうつるものすべてがキラキラかがやいて、たみはふるえる手をそっと胸にあてました。静まりかえった林の中に、鼓動がひびきわたるような気がします。 〈だれなの、あなたは。どこに、あなたはいるの……〉  たみは、のどもとをつきあげるような息苦しい思いで、胸の中に問いかけました。 「わたしはここじゃ、娘よ。おまえのすぐ近くに……」  静かな風が雪の林を吹きぬけ、舞いあがった一にぎりの雪が、天人の衣のように夕陽にそまりました。たみは雪の木々のあいだに目をこらしました。灰色の小さな影が、ぼんやりとうかんで見えます。  あたりをそめていた夕陽の色が、紫に、深い紫に変わり、一瞬たみは、影絵の中に立っているような錯覚をおぼえました。 「おそれることはない、娘よ」  どっしりとした、けれどもどこかあざけるような調子で、またあの声が、たみの胸にひびきました。 「わたしは、魂が消えてなくなるその日まで、罪の炎に焼かれる女。こののどにいかなる深山《みやま》の水を流しこまれようとも、おかした罪のために渇きをいやすことのできぬ女。……今にして思えばつまらぬ迷いに悩み、この身にさずかったもうひとつの命が、飢えに苦しむのを見かねて、殺してしまった女なのじゃ。……母さん、あんなきれいな花にかこまれて、ああ、いい気持だ……。わたしの指でつくった小さな輪の中で、子どもがほほえんだ。ああ、何ということを」  女の影が、くずおれるようにひざまずきました。たみは、かけ寄りたい衝動にかられながらも足は一歩も動きません。やがてまた、吹く風にまじって女の声が流れてきました。 「あの時、あの時いらい、なかばくるい、なかばつき動かされて、わたしは、いつのまにかかごを編んでいた。とげの木、針の木、いらくさ。黒森にあって私の血を流させるものなら何でもよかった。……わたしはそのかごを腕にかけ、さまよいつづけた。黒森から人の世へ、人の世から黒森へと。  わたしがそばを通りすぎると、しあわせな笑みを見せている人々の眉がかげり、ゆりかごにねむる赤子が、ものにおどろいたように泣きだす。年老いて感情のにぶくなった人ですら、ふと胸をだいて火のそばににじり寄ったりする。流すなみだも傷つく心も残っていないと思っていたのに、わたしの胸はじりじりといたんだ。人のいないところへ、人の目のとどかぬところへとあらがう気持とはべつに、わたしはそんな人たちからはなれることができなかった……。  ある日、わたしは、腕のしびれるような重さに気づき、かごを見た。白い小さな玉でいっぱいになっていた。おどろいてわたしは、その玉をひとつ口にふくんだ。それは口の中でやさしくとけ、わたしの心は、今まで聞いたこともない美しい音色に包まれた。  それからは、みとる者もなく死ぬ老婆の耳に、この玉をあててやったこともある。熱に苦しむ子どもに、ふくませてやったこともある。玉は消えることもなくふえ、わたしは果てもなくさまよいつづけ、そして今、だれかに呼ばれたようにここにもどってきた。  娘よ、……わたしはどこかで、おまえに会った。おまえに玉をふくませた。この玉を見るがよい」  灰色の小さな影がふとよろめいて、無数に光る玉が、あちこちにころがりだし、それに答えるように、紫にそまった中空から、美しい音楽がひびきました。  たみは、凍りついたようにたたずみ、じっとその音に耳をかたむけていましたが、一瞬幻のような影がうすれ、そこに、白い髪を風になびかせて、なかばうなだれ、手に持ったからのかごを見つめている女の姿がうかびあがりました。  音が鳴りやむと、女は、また影のようにたみの前を横切って消えていきました。        ○ 〈どこかで会った、あの女に、どこかで……そうだ、わたしが熱にうかされて寝ていた夜、あの女がやってきた。女は、わたしの顔をのぞきこみ、わたしは、魅入《みい》られたようにあの目を見ていたが、わたしの口にあのキラキラ光る水晶のような玉をふくませた。その玉は、とてもいい香りがして、ぜいぜいとのどを鳴らしていた痰《たん》がすっと切れ、そしてのどもとから……何やらきれいな音色が無数に鳴りひびいたように思えた……そしてあとは、ひっそりとさびしい思いが胸もとに残って……それもしだいに消えていった……お母が、横できちがいのようにわたしをだきしめ、あの女に『出て行け、出ていってくれ』とさけんでいるのを聞きながら、わたしは気を失った……そして、朝目をさますと、わたしは口がきけなくなっていたのだ。……たしかに、たしかにまちがいはない、あの女だ。……あの玉は、散らばって消えたあの玉は、どうなるのだろう。あの女は、これからどこに行くのだろう〉  去りぎわにちらっと見つめた目を、たみは思いうかべていました。苦しさもさびしさもとじこめてしまったような、あの目を。  胸のあたりがあの夜のように苦しく、たみは、先ほど中空にひびいた美しい音色を、もう一度なつかしんで耳をすませました。そして、何かもどかしい思いで、「ウッ」とひくい音をもらすと、あわてて口をおさえました。  その時、またふりはじめた雪の林から、たずねるような声が近づいていきました。 「たみ、どうして、こんなところまで……」  りゅうがかけよってきて、たみは、ゆっくりと首をふりました。 [#改ページ]     十一 放れ熊の章  いつまでも暮れぬ夕方のようでもあり、けっして明けようとしない長い夜のようでもありました。たみといっしょに、またシダの林にもどってきて枯葉の中にすわりこむと、りゅうは、むかし語りのあの話に出てきた�夢の衆《しゆう》�のことを考えていました。 〈夢の衆なるその母の、たすけによりて、か。もし、あれがまことの話なら、わしはおっ母に会えるのか。おっ母は夢の衆というものの仲間になっているのか。……どこを、さがせば会えるんじゃ〉  ねむれぬまま、時おり聞こえるおおかみの遠吠えに、立ちあがってあたりをさぐってみたりしました。もうひとつりゅうの気がかりは、夕方からのたみの態度です。何かしきりに考えこんでは、ときどきため息をついたり、せきこんだりしています。たみを見つけたとき、たみは、枯れた雑木林のかなたを、だれか人でもいるように、じっと見つめていました。あれこれ思いつくままにたずねてみましたが、首をふるだけでした。 〈それなら、それでよい〉  しまいにりゅうは、すこし腹をたてて、だまりこんだのでした。  一方、たみは、あの女のことで胸がいっぱいになっていました。 〈もし、あの夜のことが夢なら、今日のあの人も、わたしの夢だろうか……。でも、あの玉は。あの音色は。……〉  冷たい夜でした。このまま二人ともこごえて死ぬのではないかと、りゅうは目をとじることもできません。 「あかんあかん、そんなことでは。明日は明日、はようねむりなはれ」  床屋がいれば、そんなふうにしかられて、それにあまえてねむることもできたでしょう。けれども、今はたみと二人。どうしても自分がしっかりしなければと、心がおちつきません。  ようやく東の空が明るんできたとき、りゅうは、たみをそっとゆり起こしました。  たみは、つらそうにうすく目をあけると、灰色にこわばったりゅうの顔を見、はっきりと目をあけました。 〈りゅうさんは、ずっとねむらなかったのか……〉  すぐ起きあがると、冷えこんでかたくなっていた足をかるくたたき、ひざにかかえていた荷物の中から、川の娘にもらった食べ物の残りを出しました。  りゅうは、カチカチに凍った魚の肉をむりにのどに押しこみながら、たみの手が紫色にふくれているのに気がつきました。体をかがめて、たみの油合羽《あぶらがつぱ》にたまった雪をはたいてやりました。昨夜からのわだかまりが、すこしずつ消えていきます。 「たみ、今度こそ最後の登りじゃ。いよいよわしらは、熊の洞窟《どうくつ》を見つけねば……」  りゅうは、話しかけながらも、そんなことがほんとうにできるのかと、胸もとから疑いがわきあがってきます。  ユージンが、二人の気持をひきたてるようにしっぽを勢いよくふると、歩きだしました。  あの旅の一座のいたあたりは、すっかり雪にかくれ、人の寝ているようすなど、影も形も残っていません。 〈あの人たちはいったい、どうしたのだろう。夜のうちに出かけてしまったのか。……それとも、あれも夢だったというのか〉  たみは目をこすりながら、あたりを見まわしてみました。ふりしきる雪の合間にも、人影が動く気配はありません。  二人はユージンにつづいて、寒さに追いたてられながら、シダの茂みから林の中にはいっていきました。  林の木々は雪にすっぽりとおおわれ、たみとりゅうとユージンのほかには、何ひとつ動くものもなく、しんと冷えきっていました。シダは白い巨大な花に変わり、音もなく雪をすいこんでいます。  道はかなり急な坂になっており、けものの足あとすら見あたりません。時おりはらはらとこぼれる雪のすきまから、熊笹の枯れた葉の色がのぞきます。  りゅうは、モミの木の根もとから、手ごろな枯枝を見つけて、杖にしました。  とつぜん、二人のすぐ横の大きな木が、身ぶるいをしながら雪をまき散らし、きしりながらたおれました。思わずとびのいた拍子に、二人は雪だまりに深く埋まってしまい、やっとの思いでそこからはいだすと、道をさえぎってしまった倒木の上に腰をおろして、からだの雪をはらいのけました。  二人は、黙々と山道をのぼりつづけました。雪でぬれたところがすこしずつ体にしみてきて、風が吹くたびにひりひりといたみます。たみは、りゅうのがんじょうな足が、雪の上にがっちりとふみあとをつけてくれるのを見ながら、足ぶみをくりかえしていました。もし一時でもとまろうものなら、そのままその場にすわりこんでしまいそうです。  どんよりとした空が日の光をふくんで赤らみ、里の昼すぎのような色が、のぼりつづける雪の道をかすかに照らしました。ほっと息をつく思いで二人は足をとめると、顔じゅうにうすい氷をはったようなおたがいの顔を見て、わらいました。  また急な登りにさしかかりました。たみが何度も足をすべらし、雪の上にたおれることが多くなり、二人の歩みはしだいにおそくなっていきました。  ふと、りゅうが立ちどまりました。たみは凍りついたまつ毛をなでながら、そっと後ろからのぞきこみました。点々と赤い血が雪面をにじませて、みだれた無数のけものの足あとといっしょに、すぐ横の林へと消えていっています。 〈おおかみかしら〉  たみは、りゅうのながめているほうに目をやって息をのみました。大きなけものの足あとが、くっきりと、血のあとを追ってついています。その足あとのまわりの雪は、焼けただれでもしたかのように黒くそまり、そこから、何ともいえないいやなにおいがただよってくるのです。 「何ぞが、けがをしたおおかみの群れを追いかけているようじゃ……」  ふるえながら、すいつけられたように足あとをながめているたみに気づいて、りゅうは自分の体でそれをさえぎり、先に行くようにうながしました。そしてあとにつづきながら、ゆだんなくあたりを見まわして、こぶしをにぎりしめました。 〈あれは、まちがいなく、話に聞いた放れ熊の足あとじゃ。里でお父がしとめてきた大熊でも、あの足あとの半分もなかった。何という大きさじゃ……。おまけに、この胸のわるくなるようなにおいときたら。熊のいるあたりに近づいたことはたしかだ。じゃが、たみが櫛《くし》を投げこむという穴は、どこじゃ。何としてでもあの熊に見つかる前に、さがしださなくては……〉  遠くのほうで、けものの、身をふるわすような苦しげな叫び声が起こり、谷間をこだまして消えました。 「けがをしていたのが、つかまったな」  りゅうは、ぎくっと立ちどまったたみの肩をたたき、あせる心をおさえて、わざと明るく話しかけました。 「たみ、もうすこしだけしんぼうしてのぼってくれ。今の声で、どうやらべつのけものはおおかみを一ぴきたおしたようじゃ。……腹がふくれれば、どんなけものでもそうあぶなくはないと、お父がいうておった。……どこか野宿にいい場所をさがしたら、火を燃して休もう」  たみはうなずきながら、ふるえているのをりゅうに気づかれぬよう、体をかたくしました。 〈あれは、放れ熊の足あとだ……。とうとうわたしたちは、熊の近くに来たんだ〉  鉛のように重い足をむりに動かして、たみはまた一歩、前に進みでました。  とつぜん、二人の前になったり後ろになったりしていたユージンが、足をとめると、耳を立て、あたりを見まわしました。たみも立ちどまると、木立のあいだを、目をこらしてながめました。  道はここに来て急にたいらに広がり、何か不思議な雰囲気です。道の奥には、ほの白く光をただよわすものがあり、よく見るとそれは大きな岩で、何百ともしれないつららがたれ下がっています。その岩の向こうは尾根になっているのか、はげしい風の音が、ゴウゴウと地面を鳴らしていきます。 「よし、この岩かげで休もう。この岩が風をふせいでくれるし、ここは雪も積もっていない。たみはユージンを抱け。そうすれば体があたたまる。わしはあまり雪がひどくならんうちに、このあたりをさぐってくる。このぶんじゃ、雪もなかなかやまんじゃろ。ひょっとしてここにふりこめられてもいいように、すこしたきぎも集めておいたほうがいいしな。なに、だいじょうぶさ。すぐひき返してくるからな。ユージン、たみのそばをはなれるな」  とめようとするたみの手をふり切ると、りゅうは安心させるようにわらいました。そして、背中の荷物の中から油合羽をとりだし、たみに着せかけました。 「ここを動くなよ。すぐ帰ってくるからな」  りゅうは、足ばやに杉の木立の中をのぼっていきました。たみは、ユージンをだきしめると、しんしんと冷えこんでくる寒さの中で、心細くりゅうのあとを見送りました。        ○  雪はあとからあとから、音もなくふりつづき、りゅうがすいこまれていった杉の木立は、まるでべつの世界へ開く門のように、白く高くそびえていました。そして時おり身を切るような風がやむと、魂を失った鳥のように、雪はたみの上にみだれ落ちてきます。 〈もう何時ごろだろう、りゅうさんが行って、どのくらいたったかしら……〉  あまりの寒さに、たみがふと立ちあがった時でした。 「ウッ」急に満身の毛をさかだてたユージンに、おどろいてたみは、もうほの暗くなった木立のあいだをながめました。 〈おおかみだ……〉  いつのまにそこに来たのか、灰色の影がいくつか、ギラリと三日月色の冷たい目を光らせて、たみを見つめています。  ユージンは、紫色の歯ぐきまでのぞかせ、するどい牙をむきだしています。  とその時、また吹きだした風に、ドーンと大杉の枝から一かたまりの雪が落ちました。ふり返ったたみは、いちだんと光を失った空の下のその木立のあいだにも、光るたくさんのおおかみの目を見つけました。たみは夢中で、りゅうの消えていったあたりを見まわしました。 〈りゅうさんが帰ってくればいいのに……どうしよう、どうしよう……〉  おそろしさと寒さとで、ガチガチと歯を鳴らしながら、たみとユージンは、じりじりとあとずさりをはじめました。冷えきった体は思うように動きません。走って逃げたところで、すぐに追いつかれてしまうでしょう。自分たちを守る武器すらなく、たみはあわてて胸をさぐると、山うばの櫛をとりだしました。どしりと重い銅の櫛を、こごえた手でつかみだすと、たみはいのるような気持で、自分たちの前にかざしました。  山うばの櫛の古い銅のはだに、ひとひらの雪があたった時でしょうか、櫛の歯は、にぶい振動をたみの手に伝えると、ブンブンうたいはじめました。 〈櫛がうたう……櫛がうたいはじめた!〉  たみはユージンをだきよせると、はげしく風のうなりのような音をあげる櫛を、高くかざしました。おおかみの群れは、ぐるりとたみとユージンをかこみ、とびかからんばかりに輪をちぢめていましたが、とつぜん悲鳴にも似た叫びをあげると、暗い杉の斜面の向こうに消えていきました。 〈助かった……でも、どうして、櫛は鳴りやまないのだろう……あっ!〉  たみはその瞬間、目をとじたくなるくらいいまわしい黒い熊が、先ほどまでおおかみの頭《かしら》がいたあたりに、立っているのを見ました。憎しみに満ちた、さすような目。毒花を思わせる、赤い舌。黒い大きい体の、そのまわりをも深く暗く闇にそめて……。 〈櫛がうたうのは……あいつのせいだ……あれあの熊だ……〉  たみは、気がくるいそうなおそろしさに、思わず櫛を落としそうになりました。熊は、吹きあれる雪と風すら凍らせるような冷たさで、話しかけました。 「人の子よ、それしきのものでわたしをたおせると思うのか。あわれな娘よ、ではおまえは、まことに古い伝え話のとおりに、あの山うばの櫛を持ってやってきたのじゃな。おろかな者めが……見よ、すでにおまえの目にもあきらかなはず、この黒森は、わしとわしの仲間の力にひざまずこうとしておるのじゃ。それ、そのようにふるえる手で、このわたしに何ができよう、フッフッフッフッ」  ひくい熊の笑いとともに黒い影がゆれるにつれて、たみの頭をしびれさせる、異様なにおいが流れはじめました。 〈りゅうさん、おばあ、おっさん、山うば!〉  たみは、知るかぎりの人の名前を胸のうちでさけびもとめながら、じりじりと、つららのたれさがる大きな岩のほうへあとずさりをしていきました。櫛は、荒々しい風のひびきを伝えながら、暗い影にいどむように、音を高めていきます。  キーンキーンと、とつぜんするどい音が宙にわきおこると、櫛の歌にこたえるように、たみとユージンの頭上にたれ下がっていたつららが、くだけはじめました。そして、透明な氷のしぶきが黒い影におそいかかったその時、するすると岩の表面が割れ、ポッカリと黒い洞窟が、たみの目の前に広がりました。たみは、思わずその洞窟の中にとびこみました。 [#改ページ]     十二 影法師《かげぼうし》の章  山うばは、風の中でにぶくうなっている髪を一ふりゆすると、だまらせました。そしてふところのりすをつかみだし、その耳に二言三言、つぶやきました。りすは尾を立て、山うばの手をさっとかくと、闇《やみ》の中にとびだしていきました。  また、風が山うばの髪から起こりました。鷹《たか》がぐるっと目玉を動かし、風に乗って空高く舞いあがりました。  山うばは、きりきりと歯がみをすると、荒々しく地面をふみならし、目の前にたたずむ黒い影のような山を、にらみつけました。 「おちつけ、山んば」  胡弓《こきゆう》のかすれたような笑い声をたてて、白へびが山うばの腕からゆっくりとかま首をもたげ、なだめました。        ○  たみがその洞窟《どうくつ》にとびこむと同時に、岩が、またすべるように後ろでしまりました。暗い闇の中で、一瞬立ちつくしたたみは、ユージンを前にそろそろと中へ進みました。耳を切る冷たい風と、おそろしい暗い影を持つ熊からのがれた今、この静けさは、ほっとするような思いをいだかせました。手の櫛《くし》はいつのまにかうたうのをやめ、ぼうと静かに手のうちで燃えています。  たみは、しっかりと櫛を持ちかえながら、どこまでもどこまでもつづいていくように見える細長い洞窟の中を、櫛の火をたよりに、あてもなく歩きはじめました。 〈りゅうさん、あありゅうさん、もしりゅうさんが帰ってきて、あたしたちがいないのを知ったら、どうするだろうか。ひょっとしてりゅうさんは、あのおおかみの群れにつかまったかもしれない。たとえおおかみからのがれたとしても、今まだ洞窟の外あたりにいる、あのおそろしい熊に出会うかもしれない。ああどうしよう、どうしてわたしたちは、こんな旅に出てきたのだろう。山うばは、山うばは、いったいわたしたちを助けてくれるのだろうか。わたしはこれから、この洞窟を、どうやってぬけていけばいいのだろう……〉  とぼとぼとユージンのあとにつづきながら、たみは、その場にすわりこんでしまいたいほどの疲れを感じました。ユージンがひくくうなりました。 「だ、だれだ、だれがこの闇の中に、火を持ちこんだのだ……」  うめくようなすすり泣きの声が、暗い岩壁をひびかせて、とつぜん足もとからおこりました。 「ああ、またおまえだな。またわしをだましにやってきたな。何をいったって、もうおまえとは手を組まん。おまえのたのむ仕事もやらねえ。十年でも百年でもこの闇の中で生きつづけて……おまえの最後を見とどけてやるからな。いいか、この影法師《かげぼうし》をあまく見るなよ。さあ行け、行けったら……」  たみは、凍りついた手で、ゆっくりと櫛の火を動かしました。炎に照らしだされて、黒い小さな影が……床につっぷしている小さな男が、うかびあがりました。  立ちすくんだたみの前に出て、ユージンが男に吠えかかりました。  男はそれにも気づかぬようすで、顔を手でおおい、まるで片時でもだまろうものなら、自分の心を変えられてしまうのではないかとおそれているように、しゃべりつづけています。 〈影法師……あっ、キド八《はち》のおにいさん……〉  たみは、ほっと緊張がとけると、陽気な菜の花や、まじめなキド八の顔を思いうかべました。  影法師は、いつまでもだまったまま立っているたみに、かえって恐れの気持が増したのでしょう。 「ちくしょう、いつまで、そうでくのぼうのように、つっ立っているんだ。何とかいったらどうでえ、殺すならさっさと殺しやがれ。てめえのそのくさい息一吹きだって、こちとら頭がくるいそうなんだからな。……あれ、おまえ今日はにおわねえな。ちぇっ、今度は何をおっぱじめたんでえ……」  影法師は、そろそろと体を起こすと、たみとユージンを見あげ、ぎょっとしてまた顔をかかえこみました。 「もうだめだ、きれいな娘っ子と犬コロ、とうとうわしの頭がおかしゅうなった、何をまよって、こんなまぼろしを見るんでえ。見たこともない娘っ子と犬コロ……ああ、ああ、ああ」  たみはひざまずくと、影法師の体にさわりました。暗い闇の中に、もうどのくらいひとりですごしていたのでしょう。影法師は、やせこけた顔に黒いひげをのばしています。ガタガタと体をふるわせながら、あきらめきったようすで泣きわめいている姿は、今にもほんとうに気でもくるいそうです。たみは、骨のとびでたかたい影法師の背中を、やさしくなでてやりました。ひくくうなっていたユージンも、たみの態度に警戒をゆるめたのか、そばでじっとしています。  影法師は、ヒクリヒクリと泣いていましたが、やがてたみのやさしいしぐさに心がおちついたのでしょう、むっくりと起きあがると、 「もういいでやんす、娘さん。まったくだらしがなくなったもんでやんす。ありがとさんで……」 と、人が変わったようにていねいに、たみの手を押し返しました。  影法師は、体つきといい、声といい、キド八そっくりです。けれども大きな目のどこかが、元気な菜の花を思わせるところがあって、ふとたみはわらいました。影法師も、たみとユージンの体からまだぽたぽたと落ちている雪のしずくや、こごえきったような体のようすをすばやく見てとると、子細《しさい》らしく首をふりました。 「見れば見るほど、きれいな娘さんでやんす。町で売れば、いい値に売れる。いっぺんにいい金になりやす、ヒッヒッヒッヒッ」  一本歯がかけた口もとから、笑い声を押しだし、神経質そうに体をゆすぶっているそのようすに、感じかけた親しみも消えて、たみはさっと立ちあがりました。 「ま、ま、待ちなすって……ああ、どうにもこうにもならないや。娘さんごめんなすって。これは、この笑い方は……あっしが人さらいをやるようになってから、身につけた笑い方でやんす。仕事用の笑い方でやんしたが……いつのまにやらちょっと気がたかぶると、ついこの笑い方が出るようになりやした。つまり、そのおまえさんは、なかなかええ娘さんだということを、人さらい流にいったわけでやんす……」  影法師は、あわててまたお愛想笑いのようなのをうかべると、苦しそうに「ヒッヒッヒッ」という声をのどの奥に押しこんでしまいました。ユージンは、うさんくさそうな顔で、影法師のにおいをかいでいます。たみは半信半疑で影法師のまわりをながめました。そまつなござが一枚と、水がすこしはいっている木の椀があるだけです。  影法師は、たみのまなざしに答えて、首をすくめました。 「そうでやんす。あんまり上等な暮しむきではありやせんが、あっしにはこれがちょうどいいんでやんす。あっしは、親を悲しみではりさけるような思いをさせたうえ、死なせてしまった男でやんす。もう、お天道《てんとう》さまもまともにあおげないやろうでやんす。あっしはわるいやつらと手を組んで、いっぱしの悪党稼業をつづけてきやした。それが今、こうして生きているのは、ひとつだけ、どうしても生きていなけりゃならんわけがあるからでやんす。それで、こんな暗い穴の中に、あっしにふさわしく生きておりやす。あっしが思うに……おまえさんは……」  影法師が、さぐるような目つきでたみを見返した時です。ユージンが、おびえたうなり声をあげはじめました。影法師がさっと立ちあがりました。 「娘さん、早く……」 「フッフッフッフッ。闇の中にとびこむとは、おろかな娘よ。闇に落ち、闇よりよみがえったわしにとって、闇は、炎のすべてを見るようにあきらかであるというのに……。さあ、早く、その櫛をわたせ……」  それはまさしく、さっきのがれてきた熊の声でした。まるで地の底からひびいてくるかと思われる笑い声をあげながら、足音が近づいてきます。岩壁に韻々とこだまするので、すぐ目の前にいるような感じです。影法師はたみの手をつかむと、洞窟の奥のほうへとかけこみました。 「さあ、こっちへ。あいつがおどしをかけているあいだはだいじょうぶ。まだこっちの居場所がわかっていないんでさあ。わかったら……もう……」  影法師は、たみをおどろかすまいと気をきかせたのでしょう、あとは口をつぐむと、こうもりのように早く、暗闇の中をかけはじめました。 「フッフッフッ、逃げてもむだだ、むだだ」  熊の笑い声に包まれた洞穴《ほらあな》の中を走りまわっているうちに、とつぜんユージンが、くるったように吠えはじめました。そしてその時になってはじめて、たみは気がついたのですが、洞窟が行きどまりになっています。氷におおわれた壁の下には、暗い穴が深い闇をたたえて口を開いているのです。 「フッフッフッ、ようこそ」 「ちくしょう、おまえ、いつのまに」  はっとふり返って歯がみする影法師の前に、高い笑い声とともに、熊があらわれました。それはもう、熊というよりは、黒い雲のようにまとまりがなく、大きく残忍な目の光だけが、暗闇の中で燃えています。たみは、影法師の手をふりきると、さっと山うばの櫛を前にかざしました。櫛は、前よりも強い調子で歌をうたいはじめました。 「アッ」 「フッフッフッ」  影法師は、はじめて櫛の歌に気がついたと見え、よろよろとひざをつくと、頭をおさえました。黒い影をひく熊は、平気なようすでまたわらいはじめましたが、二、三歩あとじさりしたのを、たみはすばやく見てとりました。 〈この櫛、この櫛さえあれば、この熊はわたしに近づけない。でも、影法師さんはどうして……〉  いぶかしげに影法師をながめるたみにむかって、熊はあざわらいました。 「おろかな娘よ。影法師はわしの腹心の部下じゃ。フフフフ、影法師よ、よくやった。わしの仕事がしやすいように、闇の中に娘をひきとめ、そしてこの奈落への穴まで、娘をよくぞつれてきてくれた。これでもう、おまえの罪をゆるし、またわが片腕としてとりたてようぞ。……フフフフ」  熊は、手に持った大きな松の枯枝をふりうごかしながら、まんぞくそうにうなずきました。  たみは青ざめると、山うばの櫛のひびきのひとつひとつに、苦しげに体をよじっている影法師を、ながめました。影法師は、熊のことばも耳にはいらぬようすで、たみをじっと見つめました。 「娘さん、どうしてそれを。それはあっしがまだガキのころに、おふくろがよくうたってくれた、子守歌の節《ふし》でやんす。それは、おふくろしかうたえないような節まわしで……ああ、あっしは、何というばかだ……」  影法師は、はじめのおどろきと、心のなぞがとけたよろこびのまじりあった顔で立ちあがると、熊にむかいました。 「おとなしい娘さんだと思っていたが、口なし、か……そして、それは山んばの櫛。ハハハハ、黒い影をひく熊よ、おまえさんの最後は来たぜ……。  さあ娘さん、その櫛を、その深い闇の穴へすてるんだ。そうすりゃ、この黒森をありとあらゆる悪の巣にしようという、こいつの望みはくだかれてしまう。そうよ、わしはこの時を待っていた。この時のために、死なずに待っていたんだ。さあ娘さん、その櫛をすてろ……」  影法師のすごいけんまくに、おどろいて岩に身を寄せるたみに、黒い熊は大笑いをはじめました。 「フッフッフッフッ、上出来だぞ、影法師。おまえをこの暗闇の中にとじこめておいただけのかいがあったというものじゃ。それにしても、まだ歳のいかぬ娘に、ちと薬が効きすぎではないか……」  たみは、思わず手を頭にあてました。頭の中がガンガンと割れそうです。闇の中で、ひっしに黒い熊の味方はしないとしゃべりつづけていた影法師。たみを町へつれていけば、よい値で売れるとわらった影法師。頭がくるったと思って、泣いた影法師。いったい味方なのか、敵なのか。  ふとたみは、黒い影の熊がわらっていないのに、気がつきました。  影法師は、たみにつかみかからんばかりの勢いです。 「すてるんだ娘さん、すてるんだ」 「くどいぞ影法師、おまえがその娘にとびかかって、その櫛をとりあげて、すてればどうじゃ。わめくだけではらちがあかぬ。早くせい……」  熊の声はするどく、そしてまた、頭のどこかをしびれさすような、異様なにおいが流れはじめました。 「うるさい!! 娘さん、信じてくれ。その櫛は、おまえさんが、おまえさんのその手で投げすてた時こそ、この熊がほろびる時なんだ。その穴は、その穴は……この熊が、今は世にない、悪の使いどもを呼びよせるためにほった穴じゃ。さあ早く、早くしないと! このにおいが……このにおいが……わしらの頭をくるわしてしまうぞ……ヒッヒッヒッ」  影法師は、苦しそうにわらいはじめました。目はつりあがり、のびた髪とひげは黒々と、ものすごい形相《ぎようそう》です。たみははげしくうたう櫛をながめました。 「娘よ、きのどくじゃな。その櫛を持っていれば、おまえもあたりまえの娘のようにものもいえ、人なみのしあわせも来ようという時に。じゃが、わしは、この影法師ほどてがらをいそぎはしない。その櫛をわしにわたせ。そうすれば今、雪の林でまよっておるおまえの仲間といっしょに、この黒森から、無傷で帰らせてやろうものを……。どうじゃ、その櫛をわしにわたせ……」  洞窟の中は、ますます不思議なにおいが強くなり、まるで闇そのもののようなどす黒い声が、たみの頭に、じんじんとしみこんできます。「櫛をわたせ、わたせ」とささやく無数の声が、深い穴の中からわきあがってくるようにも思えます。 「いかん、娘さん、しっかりするんだ、だまされるな。その櫛をそいつにわたしたら最後、わしたちも、黒森も、まわりの山も、こいつらのものになってしまう……さあ投げろ、信じてくれ、投げろ!」  しっかりと山うばの櫛をにぎっていたたみの手が、ふとふるえました。ぼんやりとかすんだ頭のどこかで、かすかに、だれかがささやいているような気がしたのです。それは、うす暗い楠《くす》の木《き》のおばあの座敷で、山うばがたみにむかっていったあのことば……。 「正しいその時が来るまで……」 〈その時。今が、その正しい時なのだろうか……そしてこれが、ほんとうに影法師さんのいうとおり、この世のものでない悪を呼びよせるためにつくったという、穴なのだろうか……どうしよう、ああどうしよう、もしこれがその穴なら、わたしは一刻もむだにはできない……〉  たみは目をとじると、今一度、たみの心の中でささやきつづける声に、耳をかたむけました。 〈今が正しいその時……〉  たみは、影法師の光る目を見つめました。  一瞬、黒い影をひく熊も、影法師も、しんと静まりかえって、じっとたみのほうを見つめたように思えました。  たみは、今は山鳴りのような音をたてている山うばの櫛を、深い闇をのぞかせている穴にむかって、力強く投げこみました。 「ウオッ」という強い怒りの声が、熊ののどからほとばしり出ました。 [#改ページ]     十三 夢の衆《しゆう》の章  山うばは、黒森にくるりと背をむけました。闇《やみ》の中で巨大なけもののようにすわりこんでいる山にむかいあっていると、新しく身にそなわった力さえ、なえていく気がしてきます。山うばは、じっと耳をすませました。 〈徴《しるし》は来るか? いつ? あの子らにまちがいがあったとしたら、わしはどうなる……〉  山うばの胸に、またじりじりとあせりの気持がわいてきます。 〈えい、ままよ〉  なかばおどかしのつもりで肩をいからせ、黒森に足をふみ入れようとすると、暗い山のはざまから、無数の木々の強い意志とも思われる風が吹きつけ、山うばは、目くらましにでも会ったように、たじろぎました。  山うばは、ふといため息をつくと空をあおぎました。 〈月もなく、星もない〉  ただ黒々と広がる空は、つめたくこごえていました。 「おう、あれは……」  山うばのするどい目のはしに、黒森からふきあがる黒い炎がうつりました。 「鳥どもじゃ、黒森じゅうの鳥が、空に飛びあがっておるぞ……これは……」 「時じゃ。その時が来たぞ、山うば」  白へびが、かすれた声でささやき、夢をうらなう鳥が、あいづちを打つようにするどくくちばしを鳴らしました。高い羽音とともに、鷹《たか》が舞いおりてきました。  山うばは声もなくうなずくと、思わず胴ぶるいをしました。  グラッと黒森が大きくゆれ、今、暗い空に一すじ、緑色の星が流れました。そして山うばは見ました。その星があらわす黒森への道、緑の炎に照らされて光る道を。 「黒森へ!!」  山うばののどから、強いおたけびがほとばしり出ました。        ○  たみとユージンを大岩のかげに残し、雪のために白い門のようになってしまっている杉の林へ足を入れたとたん、りゅうは、立ちどまりました。空気が怒りにブツブツと泡だち、冷たく燃えあがったようにたえまなく動いていながら、目にうつるものは、一点のすきもない白の世界なのです。  りゅうは道をさがそうとして、目をとじました。暗い自分のひとみのうちに、さっきまでの林の地図がしまい残されてでもいるような気がして……。  どのくらい立ちどまっていたでしょう。はっと気がついてふり返り、あわててたみたちのところへもどろうとしたりゅうは、自分が完全に雪のとりこになっているのに気がつきました。雪は空からもふり、地上からも舞いあがってくるように見えました。じんじんと体をこごえさせる冷たさに、りゅうは、しゃにむに目をつむりながら、歩きだしました。声をあげてたみやユージンを呼びたいのをこらえながら。こんな吹雪の中で、もし自分の声を聞きつけたとしても、たみにもユージンにも、どうする手だてもないでしょう。 〈やっぱり、あの二人をあの岩のそばにおいてきてよかった〉  りゅうは、そのことばかりを、口の中で自分を安心させるお守りのようにとなえていました。風がゴオッと吹きつけました。りゅうは、急に強い眠気《ねむけ》を感じて、雪の上にたおれました。  風の音が消えていました。  りゅうは、白い雪の中に埋もれながら、夢ともまぼろしともわからない、いくつもの楽しげな笑い声に気がつきました。それはりゅうがまだ小さいころ、うたたねをしながら聞いた、楽しい円居《まどい》の笑い声でした。 「うんぐ、うんぐ、ぐうあ」赤子《あかご》のやわらかい声が……。 「おおよちよち、ほれ、おっぱいでちゅよ」おっ母のうれしそうなはりのある声が……。 「おっ母……」  りゅうは、そろそろと目をあけました。雪はやんで、あたりは暗くなっていました。 「おっ母……あれは、たしかにおっ母の声じゃ、またわしはまぼろしを見るのか……」  りゅうは、闇の中に残された灰色の雪の中に、今、まちがいなくはっきりと聞いた母の声をさがしました。 「おっ母、おっ母、見せてくれ。まぼろしでも夢でもいい、わしにその姿を見せてくれ……」  りゅうの心からの祈りがとどいたのでしょうか、白い雪をいただいた枯枝の林のあちこちに、ぼうと、白いもやでできたような家々があらわれました。そして、いちばん手前の小さい家の窓辺に、りゅうはなつかしい母の姿を見たのです。 「なんと、おっ母じゃ、おお赤子もいる……」  あかあかと燃えるいろりのそばに、わらで編んだかごがおいてあります。中にはまるまるとふとった赤子が、むっくりとした腕をのばし、大きなあくびをひとつしたところです。りゅうはひきつけられたように、その窓辺に近よりました。いろりにはぐつぐつと音をたてている鍋《なべ》がかかり、おいしそうなにおいが流れてきます。それは、りゅうが残してきた湖のそばの家と、そっくりでした。柱時計はカッチン、カッチンと時をきざみ、今にもお父が、ガラリと戸をあけて帰ってきそうです。りゅうは、急に目がしらいっぱいにあふれた涙で、われに返りました。  冷たい雪の中に、家々の火は、明るくあたたかく燃えています。りゅうは、涙にくもった目で、それぞれの窓辺をかざる人々の、幸福にあふれた明るい笑顔をながめました。 「おっ母、ああおっ母……」  りゅうは、かじかんだこぶしで、窓をたたきはじめました。 「おっ母、おっ母、あけてくれ」  その時でした。ばねじかけの人形のように、りゅうの母がびくりと立ちあがりました。すばやく赤子を胸にだきしめると、すっと家の明りが消えました。 「ああ待ってくれ、おっ母、おっ母」  りゅうのこぶしは、やわらかい雪のかたまりを散らし、冷たい木のはだにあたって血がにじみました。思わずしりぞく目の前に、家々のともしびが消え、静かな雪の林がつづきます。  とつぜん、闇の中に、澄んだ男の声と、高い笛の音《ね》がひびきわたりました。 「聞いてくれ、みな聞いてくれ……」  りゅうは、ぼんやりとしたざわめきが、自分のそばでわきおこるのを感じました。 「何じゃ、何ごとじゃ……」 「あのかたからの、使いのりすがやってきました。とうとう時が来ました。みな行かねばなりません。わたしたち、わたしたちみなを守るためにも……」  ひそひそと静かな話し声の輪が、りゅうのそばで高まり、やがてはじめに笛が鳴りひびいたあたりに、ぼうと白い炎がひとつ、燃えあがりました。 「ああ……」「おお」  静かな影のような人々が、おどろきの声をあげました。が、やがてつぎつぎに、細い白い手のうちに火をともすと、人々は静かな流れとなって、はじめの炎にしたがいはじめました。おどろいてながめるりゅうのそばを、まじめに口をとじたりゅうの母が、赤子を胸にしっかりとだいて、片手に、これもきよらかな火をささげ、人々について歩きはじめました。 「りゅう、おまえも行くのです」  首をすこしかたむけると、やさしいむかしのままの笑顔で、りゅうの母はうながしました。 「さあ、こんなところで立っていてはいけません。このあかりにつづいて、おまえの仲間を助けにいくのです。さあ、しっかり……」  りゅうは、夢を見ている気分で、のろのろとすきとおった光の流れにしたがって足を動かしました。        ○  山うばの櫛《くし》は、緑色の流れ星のような炎をあげながら、暗い闇の中に落ちていきました。そして櫛の落ちた衝撃《しようげき》は、いつまでも返ってこず、やがて闇の中で、ザワザワと何か聞きとれない悲鳴やら、叫びやら、のろいの声が起こり、そしてそれは、はじまった時と同じく、ざつぜんと消えていきました。  櫛の炎のあかりを失った洞窟《どうくつ》の中は、すでに太古のままの闇となり、いかりくるった熊のギラギラと光る目だけが、たみと影法師《かげぼうし》をにらみすえながら、近づいてきます。 「娘さん、よくやった、よくこの影法師を信じてくれた。さあ、あとはまかせてくれ……」  影法師は、よろよろと体を動かしながら、たみを背中にかばい、熊にむかいました。そういいながらも、ガクガクと体がはげしくふるえています。  たみはからっぽになった手を、むなしくふりました。山うばの櫛のはげしい振動が、まだ手や腕のうちで音をたてているようです。もう、自分を熊から守ってくれるものは、この影法師しかおりません。 〈いったい、わたしは何をしたのだろう、もしまちがったことをしたのなら……〉  たみはおそろしさのため、体じゅう金しばりにあった思いです。この暗闇、この頭をしびれさせる不思議なにおい。もし一歩でも足を動かせば、自分もまたあの深い闇の底に、櫛のように落ちていかねばなりません。 「おのれ、影法師、よくも……よくも……、わが念願の仕事をそこのうてくれたな。じゃが、このわしをあまく見るでないぞ。おまえはその櫛を投げたことで、山うばを呼びよせられると信じておるのだろうが。そうはいかぬぞ。どうじゃ、おしえてやろうか。山うばがこの黒森へはいれば、たちどころにその魔力を失い、命がたえることになっておるのじゃ」 「でたらめをいうな。そんなことがあるものか、うそだ、うそだ」  影法師は、熊のことばをさえぎってさけびました。  熊は、おちつきはらって話しつづけます。 「なに、うそだと……このわしが今ここにいること、それが何よりのあかしではないか。先の山うばは、わしのあとを追って、禁じられていたこの黒森へはいった。そして、わしの命をうばった。ところがどうじゃ、山うばの力よりは、この黒森がこの世の初めよりたたえていた魔力のほうが強く、この五つの山を荒らしまわっていた放れ熊さまに、めぐみをたれてしまったのじゃ。わしは生きかえり、山うばは自分のしでかしたあやまちに気づき、ほうほうのていで黒森から逃げさった。あの時の山うばのあわてぶりは、まことに心地よいものじゃった。いいか影法師、それからいく年もの冬をむかえ、春がすぎても、山うばは、影すら見せん。いつか風のたよりに、べつの山うばに代が替わったと聞いたが、今の山うばは、先代の山うばに、そのことはきつく聞かされているはず。それゆえ、こんな口のきけぬ娘などを、わしのところへよこしたのじゃ。どうじゃ、影法師。おまえのおふくろの、死ぬ前の世迷いごとなど、何の意味もないことに気がついたか。ウハハハハ、ウハハハハ。……この黒森の魔力で生きかえり、永遠の命を持つおれさまをたおそうとは、かたはらいたい。そうれ、おまえから先に、その闇の穴につき落としてやる」  熊は、思わず耳をおおいたくなるような、にくにくしげな高笑いをはじめました。そしてまたギラギラと目を光らせると、影法師の後ろにかくれるたみをのぞきこむようにしながら、話しかけました。 「それから娘、よく聞け、あわれなやつよ。だいじな櫛を落としても何ひとつ起こりはしなかった。仲間を呼ぶ道など、ほかにいくらもあるわ。影法師ごとき小悪党のことばに心を動かすとは、まったくもっておろかなやつよ。おまえも闇に、いつまでもつづく闇の中に、さまよい落としてやるぞ……」 「オイイイヤア……」  たみをかばっていた影法師が、体のどこに残っていたかと思える高いかけ声とともに、ドシンと熊にぶつかっていきました。闇の中に、チャリと刃物の落ちるかたい音がしました。 「死ね、影法師」 「おうよ死んでやるわ。だがこの影法師、ただでは死なんぞ、黒い闇をひきずって歩くおまえの影にとびのって、いっしょに地獄へ落ちてやらあ……」  影法師と熊のもみあう音と、はげしく吠えるユージンの声。たみは思わず耳をおさえました。 〈ああ、明りがほしい。わたしだって何か、影法師さんをてつだえるものを……〉  きりきりと歯がみをした時でした。冷たい風がすうっと流れこみました。そして、闇の中に白い炎があらわれ、つぎつぎとその炎はくりだされ、もみあう影法師と熊の姿を、くっきりとうかびだしました。 「たみ、ここにいたのか……」  急にぐいと腕をとられ、たみはあまりのうれしさに、気が遠くなりそうでした。炎の最後の列がみだれて、りゅうがかけよってきたのです。 「おのれ、おのれ、何者じゃ……」  熊は体をぐっとのけぞらせると、大きな口を宙にむけて吠えたてました。 「われらは、夢に生きる者たちじゃ。そなたをよみがえらせたと同じ、黒森の魔力でもって生き返り、傷ついた心をいやされた者たちじゃ。今、この身を燃やす炎でもって、そなたのすることを、とくと見せてもらおうぞ……」  白く燃えあがる炎の先頭から、澄んだ男の声がしました。 「これは、兄弟どのよ。おなじ魔力にて生まれかわりしわれら、たがいに傷つけあうことはできぬ仲なれば、よくお聞きくだされ。この者は今、このかよわき娘をさらい、この暗闇の穴につき落とそうとしているところ、あやうくわたくしが見つけまして……」  熊は、急にへりくだったようすでおじぎをすると、片手で影法師をつかみあげました。 「てやんでえ、てやんでえ」  影法師は、あまりのくやしさに、いいわけをすることも考えつかず、ただ目をつりあげ、熊をにらみつけながら、足をばたばたさせるばかりです。先ほどの声がいいました。 「さてと、娘ごよ、はよう仲間とともに、そのあわれな小男よりはなれられよ、もうそなたは救われた。われらのともす火は、どのような場所にあっても、消えることはない……」  りゅうは、たみを抱いてかばうと、そろそろと熊のそばからはなれようとしました。りゅうには、この熊が、自分たちの山行きのもとになった、あの放れ熊であることがすぐわかりました。もう百年以上もたっているはずなのに、高く腕をあげて広げた熊の胸には、まだくっきりと赤い血のあとが見えます。そのわるがしこいようすはいわずと知れて、熊は、たみがものをいえないのをいいことに、すべてを影法師のせいにして、この場をのがれようとしているのです。 「ああ何をするんだ、たみ……」  熊の動きに気をとられていたりゅうは、あわててさけびました。とつぜんりゅうの手をぱっとはらったたみが、長い黒髪をはらりとなびかせると、熊に首すじをつかまれて今にも闇の穴に落とされようとしている、影法師の体にしがみついたのです。 「どうしたのじゃ、この若い娘は、何をしようというのじゃ」  静かなおどろきに満ちて、炎の先頭の男がたずねました。 「合点がいきませぬ。たぶん、この闇とあまりのおそろしさに、気がくるうてしもうたのでしょう。いたわしや、それにしても、にっくきはこの影法師、それこやつ、今、闇の中につき落としてくれるわ……」  熊は、片手でじゃけんにたみをふりはらうと、影法師を闇の中につきだしました。  その瞬間、 「あっ、待って……」  細く高い声で、たみがさけびました。  それをおおうように、 「そうはさせぬぞ、黒い熊よ」  古い山の地鳴りを思わせる、どっしりとした声がひびきました。 「あのおかただ、あのおかたがやってこられた。さあ、道をあけるのだ、かたがたよ……」  白く燃えている炎の列が、四方に散らばりました。 「かたじけない、夢の衆よ。このばばのたのみを、よくぞ聞いておくれたの。礼はあとで申しますぞ」 「ああ山うばだ、山うばだ」  りゅうがさけびました。  里で見た時よりもたけ高く、まっ白な髪を後ろになびかせた山うばは、腕ぐみをしたまま、ずいと熊の前に立ちました。炎の群れはみだれてぱっと広がり、山うばの姿を照らして、背後にひかえました。あたりは昼のように明るく、洞窟の壁は銀《しろがね》に光っています。 「おのれ山うば、なぜ参った、なぜここへ、黒森へ参ったのじゃ。おのれ、山の掟《おきて》をわすれたのか、もうろくばばあめ……」  熊はまだ影法師をつかんだまま、ぐるぐるとその黒い腕をふりまわしました。 「そうとも、わしは来たぞよ。この娘が、先の山うばの櫛を、おまえのほった闇の穴に投げすてた時、わしは、この黒森にむかえ入れられたのじゃ。山の掟を知らぬと? 地獄よりはいあがった放れ熊めが。知らぬのはおまえのほうじゃ。先の山うばのおかした罪のけがれは、これでことごとく消えさったわ。そしてこのわしのけがれもまた、髪を切られることによって、すべてそそぎ落としたのじゃ。山の掟には、もっと古い掟があっての、古い山の掟とはな、放れ熊よ、生きながら魔力を失い、また得しものは、より強き力を持ち、黒森の力をおびやかすことなく立ち入ることができる、ということじゃ」 「うぬ、くそ、おのれ、影法師……」 「そうよ、あっぱれなのは、その影法師、よく亡き母のおしえにしたがった……それ」  山うばが、ひょいと小指を動かすのと、熊が闇の穴に影法師をつき落としたように見えたのが、同時でした。山うばの白い長い髪の毛が宙にみだれ、いく条もの白いへびとなって、熊におそいかかりました。ゴオッと風がまき起こりました。片手をあげた山うばの指先から、白いいなずまがひらめき、おどりあがった熊の目を刺しました。 「ワアッ……ウオッ!」  地獄の炎の燃えあがる時のような、はげしいおそろしい悲鳴をあげて、熊がたおれました。そしてみるみるその形は、シュルシュルと音たててちぢまり、黒いしみのように、地にすいこまれていきました。  ぼうぜんとして見守るみなの耳の奥に、おそろしい熊のいまわの声が、長いあいだ鳴りひびいていました。やがて静まりかえった洞窟の中に、遠い風のうめきともとれる、疲れきったひくい声が、地の底からひびいてきました。 「この熊の命、わしがあずかったぞ、ばばあ……」  山うばがふと首をかしげ、にやりとわらったようでした。        ○  みなは、いつのまにか、たみがりゅうとわかれた、あの大きな岩の前に立っていました。  りゅうは、さっきから何もいわないで、たみの顔を見つめていましたが、 「たみ、おまえ、いつ、ものがいえるようになったのじゃ……」 と不思議そうにたずねました。  たみが答えるよりもはやく、山うばが答えました。 「時が来たのじゃよ。たみは、影法師を助けたい一心で声を出し……自分のことばをとりもどしたのじゃ。まずはよかった」  山うばは、先ほど見せたはげしい怒りの顔をすてると、あたたかな手を、たみとりゅうの頭にのせました。 「どーれ寒かったろう、りゅうよ。よくがんばったな、たみよ」 「影法師さんは……」  たみは、まだ調子のととのわない、かん高い声で、たずねました。 「影法師か、……はて、あいつはこのあたりにいるはずじゃが。わしが熊に目つぶしをかける前に、吹きあげておいた。……おーい、影法師、出てこい」  山うばはカラカラとわらいながら、高い杉の木のあたりにむかって呼びかけました。  影法師は、顔をうつむけながら、おずおずとその杉の木の後ろから出てきました。そして、山うばをちょっとおがむと、今度はたみにむかって手を合わせました。 「娘さん、あっしの命、助けてくれやした。惜しくもない命でやんしたが……たいせつにつかわせてもらいやす。ありがとさんで。この影法師、一生、ご恩はわすれやせん」  たみはおどろいて顔を赤くすると、山うばの後ろにかくれました。 「さて夢の衆《しゆう》よ」  山うばは、静かに去りはじめた人々にむかって、呼びかけました。 「ごくろうじゃった。これより明けがたにかけて、この黒森、またもとどおりの山になること、この山うばの髪にかけて、ちかいますぞ……」 「ああ、おっ母、山うば、おっ母が行く……」  りゅうが高い声で母に呼びかけ、追いすがろうとしながら、助けをもとめるように、山うばの袖をひっぱりました。 「待て、りゅう、まだわからぬか。夢の衆は、この黒森が持つ不思議な魔力の中でのみ、生きておる人々じゃ。この世で傷つき、それでももとめて、その傷をいやすほどの強い夢の中で、生きておる者たちじゃ。おまえが呼びもどすことはできぬ。おまえのおっ母にとっては、あの腕の赤子は、りゅう、おまえでもあるんじゃぞ。世の母親というものは、多かれ少なかれ、胸の中にいつまでも赤子をだいているものじゃ。じゃが、赤子はちがう、赤子は少年になり、おとなになってしまう。いいかりゅう、おまえも、今度里へ帰ってみれば、それがどういうことか、きっとわかるじゃろう。さあ、今はもう、別れの時じゃ。おまえが雪の中で見たものを、いつまでも心の中にしまいこんで、強く生きていくんじゃ」  山うばが話しているうちにも、夢の衆の光はだんだんと小さく、やがて、谷のあちこちに散らばり消えていきました。最後の小さなあかりが、なごり惜しそうにぽっともやの中にとけこんだように見えた時、四人は、白々と明ける朝がたの、冷たい空に気がつきました。  山うばがひくく歌をうたいはじめました。足を強く地にふんばり、両手を高く、きよらかにねむる山々の峰にかざして。それは太古のむかしから、山や海をつくる時にうたわれたであろう、古い祝《ことほぎ》の歌でした。やがてはるか月《つき》が峯《みね》の頂《いただき》に、一頭の牡鹿《おじか》があらわれ、ピウイと澄んだ声で鳴きました。それが合図のように、今度は深い木々におおわれたあちこちの谷間から、小鳥たちの歌声がわきあがりました。 「めでたや、めでたや、めでたや」  山うばが、紫の細い雲をかきわけてあらわれた太陽にむかって、力強く両手を打ちました。山うばの手のひらから、きらきらと陽の光はこぼれて、かぐわしい金色の花となって地にさきはじめました。きのうまでの、暗い灰色の空は消えて、一足はやく春を思わせる、あわい水色の空が広がりました。  大きく息をすいこんでそのありさまをながめる三人に、山うばはふり返ると、まるで使いをわすれた子どもよろしく首をすくめながら、ふところに手を入れました。 「おおそうじゃった。楠《くす》の木《き》のおばあが、おまえたちに会ったら、すぐわたすようにと、ほれ、このもちをあずかってきておった……」  山うばは、ていねいに包みをほどくと、りゅう、たみ、影法師にひとつずつ、湯気の出ているもちをわたしました。そしてひとつを自分の口にほうりこみ、あとひとつを、惜しそうにユージンに投げあたえました。残りは手ばやく包みなおし、 「残りはもうわしのものじゃ、なにしろ、山にはくもりの日もあれば嵐の日もあるでの……」 と、いいわけのようにつぶやくと、またふところにしまいこんでしまいました。  あたたかいもちは、冷えきった三人の体をあたため、新しい元気をつけてくれるようでした。 「どれ、おりるか」  目を白黒させ、うまそうにもちを食べている影法師を見やって、山うばは、声をかけました。 [#改ページ]     十四 帰郷の章  帰り道は、それはとても楽しいものでした。木々はまだ雪をかぶっていましたが、草地には、たみがまだ見たこともない美しい花がさきみだれ、小鳥が楽しそうに歌をうたっています。  洗濯女たちの谷は、深い水の音をひびかせながら流れ、来る時たみたちが伝いわたった岩は、すべて水にかくれています。山うばは、谷にむかって二、三度手を打ちました。  黒い渦《うず》の中心から、高い水煙りが上がると、やせた白髪《しらが》の男が、よろよろと水の表面に浮かびあがりました。片手に、何か泡立つもののはいった器を持ち、もう一方には、長い水たばこ用のキセルを持っています。 「何じゃ、朝っぱらから酔っぱらっておるのか、川のじい」  山うばが、からかうような笑いをふくんだ声で、その男に話しかけました。 「川のじい……」  たみとりゅうは、おどろいてその男をながめました。  川のじいは、二人を一瞬やさしい目つきで見ると、かるくうなずいて、山うばに話しかけました。 「ありゃ、あねさま。わしはくどいことをいうつもりはないが……何でまた、こうもおくれてやってらっしゃった。あねさまよ、ほい、なんともまあ、あの泣きおなご衆《しゆう》のうるさかったこと。わしはもううれしゅうて、うれしゅうて。子どもたちも、ようやったではないか。ほんにわしは、ウィッヒクッ、くどいことはいうつもりはないが、もうおなご衆はこりごり、ヒック」  川のじいは、片手に持った器の中身をゴクリと飲みほすと、今度は、むさぼるように水たばこをすいはじめました。 「祝いもいいが、じいよ、体をこわすなよ、わしらはちょっとこの谷をわたらせてもらいますぞ……」  山うばは、片腕にユージンとたみ、もう一方に影法師《かげぼうし》とりゅうをかかえこみました。川のじいは、ひょいと首をすくめると、水の中にはいっていきました。あいかわらず、水たばこを飲みつづけているらしく、あぶくがプカリプカリと浮いてくるのが見えます。  山うばが拍子《ひようし》をつけて足をけると、ピュウーとりゅうたちの耳もとで風が鳴り、四人はあっというまに谷を越えていました。  おどろいてふりむく三人のすぐそばの淵に、また、川のじいがはずかしそうな顔をしてあらわれると、ついまばたきするほど前までは谷底を泳いでいたにちがいない、みごとな大きな鯉を四、五ひき、山うばの袖の中に押しこみました。 「こいつらはわしの腹のあたりをくすぐっては、ゆっくりと寝かしておいてもくれん、うるさいやつら。あねさま、どうぞ持っていってくだっしゃい」  川のじいは、またたみとりゅうをちらっと見ると、あわてて頭を下げる二人に目くばせをし、山うばがお礼をいうのも待たずに、ザブリと水の中に消えていきました。 「だれやらに似とると思ったが、そうじゃ、口うるさいおかみさんが泊りがけで寺参りに出かけたあとの、西《にし》の屋《や》の隠居《いんきよ》そっくりじゃ……」  りゅうが、だれにともなくつぶやき、思わずみなは大笑いをはじめました。  それから、あの杉の林にかかりました。あれほどおそろしかった杉の木たちも、ひさしぶりの太陽に、ゆったりと朝寝を楽しんでいるように見えました。  桜の森には、昼すぎ通りかかりました。 「ああ虹が出ている。それに、桜の花もさいている」  たみはまだ、自分の声が信じられなくて、ひとつひとつ指をさしては、声に出してたしかめずにはいられません。たみの指さすほうをながめたりゅうは、ぎょっとして息をのみました。 「山うば、あれは。大蛇は、死ななんだか?」 「死んだとも。あれは、わしがここへ来るようにいいつけておいた、べつの大蛇よ。桜の森には、どうでも一ぴきは、大蛇が入り用での、どれ会ってくるか……」  山うばは、ちょっとしりごみする三人をせきたてて、桜の森へはいっていきました。  見わたすかぎり白い泡のような桜の花びらの向こうに、七色の虹の光を出しながら、一ぴきの大蛇が、のんびりと歌をうたっています。その赤メノウのような目は、半分とじられ、うっとりと陽ざしのほうにむけられています。 「どうじゃ、歌うたい。ここは気に入ったかや」  山うばが声をかけました。 「歌うたい? ああ、あの崖の穴でうたっていた、大蛇のことかしら……」  たみが、そっとりゅうにささやいて、たしかめました。りゅうがうなずきました。  大蛇は、にんまりと口もとに笑いをうかべると、くねくねと体を動かしてみせました。すると、今まで美しい背中に休んでいた七羽の白い小鳥が、パアッと空に飛びあがりました。 「何じゃ、おまえの歌姫たちまで、つれてきたのか……」 「ばばどの」  大蛇の声は、深いよくとおる、ちょっときどった声でしたが、心配なようすで首をふると、いいました。 「七羽とも、わしとはなれるのをいやだと申します。よろしいでしょうか。なにしろ向こうの谷間では、じいさまたちがうるさくて、思いきり歌の練習もできませなんだ。ここなら心ゆくまでうたえます。何なら、いま一節《ひとふし》……」  大蛇は、勢いよくしっぽを一打ちすると、首をしゃんと立てなおしました。 「け、けっこうじゃ、わしは急ぎの用があるでの……」  山うばは、あわてて背をむけると、歩きだしました。 「あれ、ばばどの! ああ、美しき君よ」  大蛇は、帰りを急ぐ四人の背にむかって、うたいはじめました。山うばはクスッと、くすぐったそうに笑いをもらすと、 「ふん、おせじなどいいよって。よっぽどあの桜の森が気に入ったように見えるの。美しき君か……ふん」 とまんざらでもなさそうに、つぶやきました。けれど、りゅうとたみがつい後ろをふりむいたとき、大蛇は山うばではなくたみのほうをじっと見つめ、ポッと顔を赤らめていたのです。        ○  とちゅうで、山うばとりゅうたちの一行は、キド八《はち》の洞穴《ほらあな》にたち寄りました。ほの暗い洞穴の入口で、影法師が身をちぢめるようにあとずさりした時、菜の花が顔を出し、目をかがやかせながら、影法師にとびついていきました。それから大声をあげてキド八を呼ぶと、その声に、キド一《いち》老人がとびだしてきて、ものもいわずに影法師をだきしめました。  影法師は、菜の花やキド八にかこまれるようなかっこうでむかえられて、涙をポロポロこぼしました。キド一老人は、影法師のやせた体をなでさすったかと思うと、急に声を荒げて、 「こいつが……この不孝者が……わしらを心配させおって……」  などとしかりつけ、足でけるまねをしてみせたりしました。けれども、山うばが影法師のてがら話をするのを、目に涙をためて聞き、首をふっては、その話をわすれたふりをして、何度も何度も、影法師が熊と捨て身で戦ったところを聞きたがるのでした。  影法師もまた、黒い闇《やみ》の中でたみを待っていたわけを話しました。それは、影法師がたまたまあの熊にいいつけられて、闇の仲間を呼びよせるために穴をほる仕事をしていた時、疲れて見た夢の中に、母親が出てきたのだそうです。  影法師の母はきびしい顔でいいました。 「影法師よ、よう聞いておくれ、わしの胸は、おまえを思う悲しみではりさけてしもうた……わしの最期《さいご》の願いが、おまえにとどくようにと、わしは残りの命の炎をかきたてている……影法師よう……聞こえるか……わしのこの願いが、おまえの心にとどいたら、どうぞわるい仲間とは手を切って……おまえが今までおかした罪のつぐないができるその時まで……その闇の中にとどまるのじゃ。いつかきっと、山うばの櫛《くし》を持った口なし娘があらわれ、放れ熊をほろぼすしるべ[#「しるべ」に傍点]をつける。おまえは、その娘を助けるのじゃ……それは……」  影法師は、胸をかきむしられるような悲しさとせつなさで、目をさまし、しばらく冷たい闇の中で泣きました。けれどもまだ疑いの気持はすてきれず、急いで家へしのび帰ってみると、折しも「おっ母が死んだ!」と泣きさけぶ声を聞いたのでした。影法師は苦しみました。そしてけっきょく、放れ熊と縁を切り、あの闇の中にとじこもって、来るか来ないかわからぬ口なし娘を待っていた、というのです。  菜の花は、もえでたばかりの新芽をつみ、やぶかげにさきだした春のランを集め、ふたたびゆたかになった黒森の幸をつかって、おいしい夕食をつくりました。キド八は例の口もとにしわをよせた笑いをうかべながら、あざやかなほうちょうさばきで、川のじいからもらった鯉をさいてくれました。  すっかりことばをとりもどしたたみは、宴《うたげ》のあいだじゅう、菜の花とキャッキャッとわらいあってはしゃべり、それをながめるりゅうには、たみが、今までとまるでちがった人のようにまぶしくうつりました。  さて一行は、一晩を洞窟《どうくつ》で休み、次の日は朝はやく出発しました。  道々、たみは、影法師をむかえたキド八たちのよろこびようを思いだしながら、これから帰っていく里の家で、父親は、どんなふうに自分をむかえるだろうかと考えました。  ふと、寒い風に足もとをなでられた思いで、たみが立ちどまったとき、 「ここは……」りゅうが、高い声をあげました。  この旅のはじめに、たみと二人で里をふり返った場所に、一行は立っていました。  二人は、むさぼるように、なつかしい里を見おろしました。そのとき、山うばが、小さな声で一言、何かつぶやくと、ふところから白へびがかま首をにゅっともたげました。へびの目が、日の光をあおいで細くとじられたかと思ったとき、霧をふくんだ重い風が吹きつけ、気がつくともう、山うばはそこにはいませんでした。  たみとりゅうは、まるできつねにでもつままれたような気分で、おたがいの顔を見つめあっていました。晴れわたって明るい朝なのに、急に山うばが消えてしまったのです。 「山うばは、どこへ行ったんじゃろう……」 「何ぞ、用事でも思いだしたんじゃろうか……それにしても、何にもいわずに……」  りゅうも目を見はりながら、つぶやきました。 「ひょっとするとりゅうさん、わたしたちは、また山うばに会えるかもしれない……だから……」  山うばは別れのあいさつをしなかったのかもしれないと、あとは胸の中でつぶやいて、たみは青い空をながめました。あの妙にあまったるいにおいも、もやも消え、たみが物心ついていらいいつもながめてきた、なつかしい里の空です。        ○  里の道にはいると、ユージンがうれしそうに吠えたてました。  源太がとびだしてきました。庄屋《しようや》の国《くに》はんがおどろいたように畑から走りだしてきます。  せまいりゅうの家へ、村のみながやってきました。強い目つきで村人たちの顔をながめるりゅうに、国はんはわらいながら、りゅうたちが出かけたあとで、楠《くす》の木《き》のおばあは寄合《よりあい》を開き、村の人たちにりゅうの母についての根も葉もないうわさをいましめ、合わせて二人の出発のわけを、話して聞かせたのだと説明しました。そして、もったいぶった咳《せき》をひとつすると、あらたまったようすで、たみとりゅうの労をねぎらいました。  二人がもやのことにふれると、国はんは目をかがやかせながら、身ぶり手ぶりをくわえて、二人に話してくれました。(そのあいだ、村の者はそっぽをむいたり、わざとらしく鼻をかんだりしました。なにしろ、もやが消える瞬間を見ていたのは国はんだけでしたので、村の者は、もう何度もいやになるぐらい、同じ話を聞かされていたのでした。) 「それはのう、もうおどろいたのなんのって……。ピカッと青いいなずまが光ったと思ったんじゃ、すると、ゴロゴロと肝《きも》をつぶすような雷の音じゃ。黒い雲があっというまに空をおおうと、昼間じゃというのに、まっ暗になったんじゃ。そこまでならあたりまえの夕立みたいじゃろ。それがちがうんじゃよ、青い光は、まるで花火のように勢いよく、黒森のあたりからだけとびだしてくるんじゃ。わしは、泣きわめくうめにいった。おちつけ、黒森で何ぞ起こっとるぞってな……。かれこれ半刻《はんとき》もつづいたあとじゃった。とつぜん、カラカラという大きな笑い声が、空の上から里の山々にこだまして、あたりが急に明るくなった……。そして空にポツンと、点のような鳥の姿が、笑い声にさそいだされたみたいにあらわれたのじゃ……。それはのう、一羽の鷹《たか》じゃった。鷹は、陽の光をあびながら、金色の矢のように飛んでくると、里の空をおおっていたもやを、するどいくちばしで食いやぶった。もやは、まるで薄布《うすぬの》のように風の中でゆれていたが、そのうち、ふっと光にすいこまれて、消えてしもうたんじゃよ……どうじゃ……もう一回聞きたいか……いつでも話してやるからな」  国はんが思いきりわるく、口をつぐむと、村の人たちはほっとしたように、口々に、たみとりゅうの話を聞きたいとさいそくしました。そして、りゅうとたみが話すことを、目をまるくして聞き入りました。  とくに、たみが話せるのに気がつくと、村のみなはまた、よろこんだり、不思議がったりして、そのわけをたずねました。けれどもたみは、前よりもがんこに、首をふってこたえませんでした。  たみの父の竹蔵は、たみの山行きを知ったあと、酒を飲んで荒れくるいましたが、何か胸に思いあたることでもあるように、それからはおとなしく暮らし、そして一日、わるい風邪をひいたあと、ポックリと死んでしまったのでした。竹蔵の姉は、これさいわいと、残った家を売りはらい、わずかばかりの金を持ち、二人の子どもをつれて、遠い町へともどってしまっていました。  たみは、楠の木のおばあがひきとることになりました。かしこいたみに、楠の木のおばあは、ゆくゆく、自分の仕事をおしえるつもりでしょう。  床屋のことは、村のみなは何も聞きませんでした。もともと、りゅうたちといっしょであったことさえ、知らないのです。ただ、村の人たちの心づくしの祝いの席で、酒に酔った西の屋の隠居が、 「そういえばのう、あの床屋が、おまえたちがおらんまに、どっかへふっと行ってしもうた。もともと土地の者でもないしの……、どこへ行こうが、それはかってじゃが……、こういう酒を飲む席になると、さびしいのう……。あいつの酒の飲みっぷりは、それはみごとなもんじゃった……」  などと、くどくどたみに話しかけてきたぐらいのものでした。  楠の木のおばあは、りゅうをものかげに呼んで、床屋のことを聞きました。カラスといっしょに行ってしまったことを聞くと、深くうなずいて、そのあと床屋のことは何もいいませんでした。  その夜、りゅうは父親の源太に、雪の中で見た母と赤子《あかご》の話をしました。源太は、だまって聞いていましたが、やがて、 「りゅう、すると何じゃ、向こうにも、わしらの家があって、そこには、やえも赤子も、しあわせに暮らしておるということじゃな、やえは、鬼にも蛇《じや》にもなっておらんかったという……」  しばらくまただまりこんでから、源太はいいました。 「のう、りゅう、おまえもそろそろ、狩りのことをおぼえてもいい歳じゃ……」  りゅうは、小さくうなずきました。里へ帰ってりゅうのおどろいたことには、家の中がせまく思え、父親が、前よりも年老いて小さく見えるのです。りゅうは、父親の顔を見てほほえみました。  いろりの火が何かにおどろいたように、パチンとはぜて散りました。 大嶽洋子(おおたけ・ようこ) 一九四三年愛媛県西条市に生まれる。京都女子短期大学国文学科卒業。一九七〇年から三年間と一九七六年から一年間シカゴに滞在した。これまでに雑誌『子どもの館』に短篇「ぎょろむの海」、中篇「旅ぎつねの親方は」を発表。また、『母の友』に「プーテルとぼく」を連載した。 本作品は一九八九年一月、筑摩書房より刊行された。