[#表紙(表紙.jpg)] 幼  年 大岡昇平 目 次  一 新小川町の家  二 赤十字病院前  三 氷川神社前の家  四 稲荷橋付近  五 渋谷第一小学校  六 宮益坂界隈  七 大向橋の家    あ と が き    文庫版へのあとがき [#改ページ]    一 新小川町の家  私の少年時代は主に渋谷ですごされた。生れたのは、牛込区新小川町三丁目であるが、三歳の時、赤十字病院前麻布区|笄《こうがい》町(現、南青山七丁目)に引越した。ここは通り一つ隔てて渋谷町羽根沢(現、広尾三丁目)に接している。それから大正十一年までの間に、渋谷の氷川神社付近、渋谷駅付近、宇田川町、松濤《しようとう》へ、合計七度越している。渋谷区を東南の端れから、西北の端れまで移動したことになる。  大正年間に東京郊外で育った一人の少年が何を感じ、何を思ったかを書いて行けば、その間の渋谷の変遷が現われて来るはずである。「私は」「私の」と自己を主張するのは、元来私の趣味にない。渋谷という環境に埋没させつつ、自己を語るのが目的である。  私の生れは明治四十二年三月六日、東京市(現、都)牛込区(現、新宿区、以下特に断らない限り、当時の区町名を使う)新小川町三丁目一三番地で生れた。飯田橋の北に接して、江戸川の右岸に沿った町である。その江戸川橋寄りの川の屈折部を「大曲《おおまがり》」といった。父は日曜の休みにはその下《しも》で釣りをしたという。現在では想像出来ない状況である。  父貞三郎は三十三歳、母つる二十五歳の長男であった。両親は和歌山県人、戸籍によれば前年の十一月婚姻届出となっている。五歳年上の姉文子がいたが、四十年までは庶子入籍となっていた。母は和歌山市十一番丁の芸妓で、父と馴染んで姉を挙げたのであるが、和歌山市有本町(現)の地主の家であった大岡では結婚に反対し、また母方の高村でも反対であった。  大岡は二十七町の田地を持つ、相当な地主であるが、父はその三男坊で早くから分家し、米相場、綿ネル相場で失敗していたからである。しかし母がたって父との結婚を希望し、いっしょに東京へ出た。私を妊ったことによって、正式に結婚入籍という経過だったのである。  父は当時兜町の株式仲買店徳田商店の外交員である。徳田商店については未確認であるが、何か同県人の縁故があったと思われる。明治末年は東京株式取引所(明治十一年開設)の上場株が増加した時期である。父は前述のように和歌山市でも米相場に手を出して、祖父弥膳の隠居財産(妹蔦枝、弟叢の相続分を含む)まで失っていた。三十八年御用商人として満洲に渡ったが、マラリアに罹っただけで帰って来た。東京の株式取引増加により、恥多き故郷を棄てて、上京の機をつかんだのであった。  住居を新小川町に選んだのは、付近の下宮比《しもみやび》町にすぐ上の兄哲吉が住んでいたからである。妻ゆきとの間に、洋吉(明治三十五年生れ)、信子(三十七年生れ)、健二(三十九年生れ)の三人の子があった。この伯父も分家して和歌山で絲屋をやっていたが、父と前後して、明治四十年頃上京、同じく兜町の仲買店福島商店に勤めていた(この代の老人達は全部死亡しているので、確かめる手段がない。この辺の記述は当時五歳だった信子さんの記憶によっている)。  新小川町三丁目から歩いて十五分のところにある飯田橋は元甲武鉄道(国鉄中央線)の起点であり、路面電車「外濠線」が通っていた。水道橋、お茶の水、神田橋、常盤橋を経て、呉服橋に至る。ここから日本橋を経て兜町までも徒歩十五分である。父も哲吉伯父も、通勤の便から、新小川町に家を借りたものらしい。  外濠線は当時は民間経営、市営の路面電車とは、軌道の規格も車体構造も違っていたらしい。呉服橋から先は鍛冶橋、数寄屋橋を経て、土橋に至る。そこから右折して、虎の門、溜池、赤坂見附、四谷見附、市ケ谷見附を通って飯田橋に戻って来る。皇城の外濠を一巡する路線なので、「外濠線」と呼ばれた。  私はこの電車が好きで、その頃家にいた母方の祖母くにに抱かれて、外濠線を一巡したということである。一枚の切符で一巡する者はあまりなかったろうが、毎日乗るので、車掌も顔見知りになり、なんにもいわれなかった、と伝えられている。  私にはまったく記憶がない。突然外界が動き出す驚きに似た感覚を覚えているような気がするが、それは多分後の経験がこの時期に投射されたものだろう。新小川町の家で、私の唯一の記憶は——そしてそれは私の最初の記憶になるのだが——どこかの家の庭の植込を抜けて、座敷へ近づいて行く感覚である。障子を開け放った座敷の中には、一人の少女がいて、ピアノを弾いていた。  この記憶は後で七歳年長の従兄洋吉(前述のように伯父哲吉の長男)と話したことがあり、確かめてある。これは当時付近の津久戸前町二七番地に住んでいた遠縁の親類土岐嘉平の家であり、少女とは長女の嘉子さんだった。洋吉さんは私を連れて、裏木戸から庭を廻って土岐さんの家へ遊びに行ったことがあり、嘉子さんはたしかにピアノを習っていたという。  土岐嘉平もやはり同県人で、父と同じ明治八年生れ、東大政治科卒、内務畑でかなり出世した人である。石川県知事、高知県知事を経て、関東庁事務総長、北海道庁長官、昭和三年今上の即位式の時の京都市長だった。当時は内務書記官正七位、大手町の内務省までやはり外濠線で通っていたろう。  大岡の祖母ゆうの実家である那賀郡岩出の吉村家出の清子(父には従妹に当る)がとついでいた。恐らく伯父哲吉も土岐さんの紹介で、下宮比町に借家を見付けたのであろう。  嘉平、清子、嘉子もみな死んでいるが、土岐家には後、父が渋谷区松濤に移った頃、近所の売家を、こんどは父が世話した。その頃かなり頻繁に往き来した親類である。嘉子さんの婿養子の銀次郎さんは大蔵省官吏で、中学生の私にその頃から出はじめた徳富蘇峰『日本近世国民史』を貸してくれた方である。  私の名前「昇平」は嘉平さん(私たちは土岐のおじさんと呼んでいた)につけて貰った。「平」の字を貰っただけだが、近い者には上の「嘉」を、遠い者には下の「平」を与えるのが定りで、これは折目正しい名前のつけ方だそうである。 「昇平」は「泰平」の同義語。今日ではそれを知る人は少なかろうが、当時は「昇平」の方が多く使用されていた。つまり大正末までは意味のある名前だったわけである。ただし父はその意味を忘れてしまったらしく、教えてくれなかった。  しかし私の記憶は、前に書いた、ピアノを弾く嘉子さんだけである。明治三十二年生れだから、この頃十一、二歳である。はっきりした映像は残っていない。ただ薄暗い木蔭から明るい庭の向うの座敷で、ピアノを弾く少女の方へ近づいて行く感じだけである。  その時の私の感情も思考についても何の記憶もない。しかし私の最初の記憶がこういう場面であったということは、後年、私がピアノに特別な愛着を持ったことに関連するかも知れない。中学生の時ピアノを習いたいといったが、許して貰えなかった。一九六二年、胃潰瘍をやって、三か月、運動も執筆も禁止された時、私がピアノと作曲をやることとしたのは、少年の日の充たされなかった夢を、齢五十をすぎて、実現させたということだったかも知れない。  それらをみなこの最初の記憶のせいにするのは牽強附会にすぎようが、これはその後今日までの私の生活態度、或いは私の書いたものから抜けない、なにか上品で、女性的で、きれいなものに対する憧れ、要するにスノビスムと関連があるだろう。 (画像省略)  新小川町一丁目一六番地には、昭和三十年頃から東京創元社が越している。私はなん度もそこに行き、社主の小林茂さんに「ぼくはこの近所で生れたんですよ」といったことがあるが、そこからほんのひと跨ぎのところにある三丁目一三番地に行ってみる気にはならなかった。私のナルシシスムはそれほど重症ではなかったということだが、こん度、この文章を書くために、はじめて自分の生れた場所へ行ってみた。  飯田橋の交叉点から江戸川橋の方へ向う路面電車は取りはずされている(私の生れた当時はなかった)。江戸川は残っているが、汚ない溝川と化している。「大曲」の彎曲部はもとのままだが、川面の上を首都高速道路の巨大な建造物が蔽い、あたりを圧している。新小川町はその西の蔭に入って、マンモス都市東京の繁栄からも、ビルラッシュからも取り残された、丈の低い町になっている。  飯田橋から江戸川添いのいわゆる「目白通り」を北へ約四〇〇メートル行き、二つ目の角を左へ曲る。両側にたばこ屋、食料品店などがあるあたりに、「新小川町」と標識の出たゴーストップがある。その角を右へ切れると、左右は工務店、合金工場、塗料工場などに、すし屋、喫茶店などがまじった幅員四メートルくらいの町工場街になる。これが新小川町二丁目と三丁目の境の通りである。  新小川町は江戸時代からある古い町名である。神保町の東の小川町とは大分離れているが、小川とは江戸川の古名で、その流れに貫かれた現在の三崎町、美土代町、猿楽町から小川町一帯の大きな町名であった。  元和年間、お茶の水を掘り下げて神田川を通した土で、江戸川両岸の小日向一帯と共に、新小川町を埋め立てた。また市ケ谷方面にあった沼と神田川をつなぎ、江戸城の外濠としたので、小川町と小石川、小日向、新小川町は分離された。それまで小川町に住んでいた武家の一部を移動させたので、新小川町の名が生れたのである。  明治初年、新政府が東京の町制改革をした時から、一丁目から三丁目までの区分があった。現代の区画整理の精神にも適っているから、町名変更は問題にならなかった。そして驚くべきことに、三丁目一三番地と一四番地の位置、その入り組み方まで、現在も明治四十一年の地図と同じなのである。  一四番地は大きな地番で、一三番地はその東南の角を借りたような形になっている。現在は地番の境を西に折れ曲った路地が入り込んでいて、小さな住宅に分割されているが、昔の一四番地は一つの大きな屋敷だったので、地番も不分割のまま現在に至っているのではあるまいか。  一三番地の全部は百坪ぐらいで、現在は二階半ぐらいの鉄筋の建物で占められている。「関根近次郎商店」がその名で、「トラス」というコンクリートの二次製品(埋設電線を保護するブロック)を販売している。路地の入口と、建物の裏側が一四番地になっているのは昔のままである。多分関根商店は一四番地へ少しはみ出しているに違いない。  なんの感慨もなかった。母は産婆を呼んで、家でお産をしたに違いない。私がこの地点で、この世に生み落されたことは間違いないのだが、私の意識にその記憶がない以上、その事実は私にとって存在しないと同じである。  むしろ上京一年目、長男を挙げた両親の喜び、特にそれによって妻の座を確実なものにした母の喜びが、改めて思いやられた。恐らく当時一三番地はいくつかに分割されていて、平家三間ぐらいの小さな借家だったに違いない。薄暗いランプの下で、一個の小さな肉塊、私を見守る貧しい夫婦の姿が思い浮ぶ。  私はいわゆる逆さ児で、足から出て来たそうだ。産婆がひっくり返して引っ張り出した。分娩に時間がかかったので、私はすぐうぶ声を上げなかった。産婆が両足を持って釣り上げ、胴体をぴしゃぴしゃ叩いたら、やっと泣き出したという。この世にいやいや出て来たような恰好であった。  恐らく最初の誕生日、つまり明治四十三年三月六日、姉と二人で撮った写真が残っている。頭の鉢の開いた男の子が、しぼりの赤ん坊の着物を着せられ、椅子の上で、ぼーうとしている。年次を記載してあったらしい台紙がなくなっているので、はっきりしたことはわからないが、「牛込西五軒町、河村」と写真屋の名が印刷されている。五歳年上の姉の文子は、将来母方の大叔母友枝の養女にする約束だったという。(大正元年入籍)この頃は近所の幼稚園に通っていた。リボンを結び、袴を穿き、バラの花を持って、椅子のそばに立っている。 (画像省略) 『東京名所図会』といって、明治二十年代から、神田東陽堂が出していた「風俗画報」の臨時増刊がある。二十九年から不定期に刊行されていた。明治物の小説を書くためには必ず備えなければならない文献で、このほどその合本の復刻版が出た。  その第四十一篇(明治三十七年一月二十五日発行)は牛込区の「其一」だが、新小川町について、次の記載がある。 [#この行2字下げ] 当町はもと武家の居住地たるを以て、今に至り官吏銀行員其の他の居住者多く、商家は甚だ少し。一丁目二番地に侯爵久我通久、四番地に金春八郎(中略)三丁目一一番地に滝野市次郎とて魚商あり。皆電話を有せり。  一一番地はわが生誕の地より、二〇メートル南の角だが、さすがにいまは魚屋ではない。花屋である。新小川町は無論、戦災で焼けて、一応住人は一変しているはずである。変らないのは大曲の角の観世会館と江戸川アパートぐらいなものだが、西隣の東五軒町に東販本社がある関係か、ここから江戸川上流の改代町へかけては、出版印刷関係の小工場、事務所が多い。  もとこの辺一帯は江戸川の彎曲の影響で、白鳥池という遊水池になっていたという。『東京名所図会』は二丁目一〇番地内にその名残りの池があったと伝える。  江戸川の水源は井の頭の池で、河道を整備して上水となる。関口台町に堰を設けて、水量を調節した。上水は暗渠となって小石川台に沿って東南流し、いわゆる「水道橋」の大樋となって、外濠を越えていた。江戸川は関口からの分流で、上水とほぼ並行して流れ、「大曲」から南に屈折して飯田橋で外濠に落ち、お茶の水へ向う神田上水に加わる。落ち口の船川原橋下にも堰があり、小落差があった。新小川町一丁目より小石川に渡る隆慶橋の上までかなりの水深があり、父が釣りを楽しむことができたのである。  この地区でもう一つ見のがせないのは、西南方の筑土《つくど》八幡である。新小川町の氏神だから、私のお宮詣りもここへ行ったはずである。しかしどうもわが家ではあまり神社仏閣のことを伝えない。  後に渋谷へ移ってからは、氷川神社、金王《こんのう》八幡の氏子となったが、神社は子供である私の遊び場にすぎなかった。他県よりの移住者であった両親は、氏子関係に象徴される地域社会にとけ込めなかったらしいのである。  筑土八幡は牛込台地の突端で、比高一〇メートルばかり、急な石段で上る。正面は江戸城の森に対し、左は江戸川を隔てて、小石川台、伝通院、砲兵工廠、駿河台のニコライ堂が望める、と『東京名所図会』はいう。  台上に八幡社と大明神が並び立っていたという。八幡の方が古いらしく(弘仁年間、筑紫の宇佐八幡宮の土を取って基礎としたと伝える)、大明神はもと江戸城|乾《いぬい》の守神として、田安門の近くにあったのを、天正七年城内普請の際、牛込門外の筑土山に移した。筑土生れの人間は八幡を氏神とし、田安門前の飯田町富士見町では大明神を氏神とした。 『江戸名所図会』はいう。 [#この行2字下げ] 津久戸明神は牛込筑土|銀《しろがね》町に在り、此地はもと牛込村と小日向村との境にして、当社の方は牛込に属す(つまり新小川町はもと小日向町のうちだった)、相伝ふ、天慶《てんぎよう》三年庚子、相馬将門誅せられし後、其首級を当国江戸平川の観音堂へ移し、是を斎て津久戸明神と称すとぞ。  平将門の首塚は、いま大手町国税庁分局の傍にある芝崎神社の位置が本命である。後に神田駿河台に移して神田明神とした。将門は関東では人気のある人物で、至るところにその遺骸の一部を葬ったという塚、その霊をまつったと称する神社がある。東京都内にはほかに浅草の鳥越神社がある。  私は十年ばかり前、平将門の人物に興味を持ち、伝を試みたことがある。しかしわが生誕地がその影の中にあるとは知らなかった。  二度とは来られそうもないところなので、筑土八幡の高台に上ってみた。三丁目から西へワン・ブロック移ると、ビルでいえば七階ほどの高さに神社の本殿の屋根が見えて来た。戦後の建物らしく、屋根もトタン葺きで、風情に乏しいが、尽《ことごと》く洋風となった家並の上に聳えて、異様な感じを与える。  横手の急坂から登って、裏口から入った。境内に人もなく、がらんとしている。『東京名所図会』に「北の方に火防稲荷社あり。傍に石碑を建て、二匹の猿が各桃実を枝ながら握み居るさまを刻せり。甚だめづらし」とある。この石碑はいまもあった。街の排気ガスで汚れ、陽刻の一部は欠損しているが、たしかに珍しい図柄だった。  奉献の石垣には神楽坂の料亭の名が並んでいて、信心の性質と範囲が窺われる。大明神は廃止されたらしく、その位置は子供の遊び場になっている。  前面は飯田橋から神楽坂上、牛込北町の方へ行く幹線道路である。私が生れた頃は、道はこれほど広くなかったはずだが、明治四十年に区画整理して路面電車を通した。そして最近撤去した。(私の世代の人間にとって、東京の路面電車は、生涯の中間部の約四十年を占居する、全くの歴史的存在である)  津久戸前町には厚生年金病院の巨大な建物があり、道路に沿って、ビルがひしめいている。『東京名所図会』のいう展望は望むべくもなかった。正面の石段を下りて、両側の石燈籠に新小川町の名を見て、なんとなくうれしかった。「新小川町も相当にやってるぞ」というほどの気持であった。  しかし六十年前ここに住んだ私の両親が、これら町の活動から全く疎外された移住者だったことには変りはない。付近の哲吉伯父の家には二階があり、末弟の叢叔父が寄宿して、高等文官試験の受験勉強中だった。叔母蔦枝はアメリカのバークレーで、皿洗いしながら勉強していた。  明治四十二年の日本は日露戦争後の不況の真只中にあった。和歌山での失敗から立直れず、淋しい生活だったに違いない。もっとも父は一時株を当てたことがあったらしく、叢を連れて芸者買いに行ったことがあるという。姉が幼稚園へ通っていたというのも明るい材料である。しかし母は大岡の家へ押しかけるように来てしまったことについて、父の兄弟に気兼ねしながら暮していた。 [#改ページ]    二 赤十字病院前 (画像省略)  それから渋谷町羽沢(羽根沢とも書く。現、渋谷区広尾三、四丁目)の赤十字病院の前の家へ引越したのがいつだったか、もはや確かめる手段はない。ピアノを弾いている嘉子さんの記憶が二歳の時とすると、その翌年、私が三歳になった明治四十五年の春か夏ではないだろうか。  赤十字病院の北側に沿って上る御太刀坂という坂道は、正門のある角で、首都高速三号線の下の道(もと青山六丁目と六本木をつなぐ路面電車線)から高樹町で曲り、広尾へ抜ける道にぶつかる。そこに病院の正門があるが当時の正門は敷地に沿って二〇メートルばかり西南にあった。古風な石柱があり、木の格子で閉鎖してある。その向い側を西へ向って幅四メートルばかりの細い道が入っている。  この道はゆるく左へカーブしながらやがて国学院大学前から、氷川神社裏へ抜けるその頃の幹線道路で、元の麻布区、赤坂区と下渋谷(つまり旧東京市内と豊多摩郡渋谷町)との境界になっていた。わが家はその道を三〇メートルばかり行って、右側の路地の突当り、当時麻布区|笄《こうがい》町一八〇番地(現、港区南青山七丁目一四番地)にあった。  その路地の右側は、わが家の玄関までずっと空地で、その向い側、つまり赤十字の側にまた一つ路地が入っていた。この路地の突当りからまた右へ(つまり赤十字の側へ)細い路地があるが、その左側に、やはり哲吉伯父の家があった。  ここへ引越したのも、哲吉伯父が先だったらしい。信子さんの記憶ではその少し前にゆき伯母さんが流産して、赤十字に入院した。退院後、外来へ通うのに便利なように、引越したという。私の父もそれに引きずられるように、越して来たのである。  兜町に勤めを持つ哲吉伯父と父が、この位置に住居を定めることが出来たのは、赤十字病院北側の御太刀坂を下りたところに通る路面電車のためである。この線は四谷塩町(現、四谷三丁目)から信濃町、権田原、青山一丁目、青山墓地下、霞町を経て、赤十字裏を通り、広尾に至っていた。この路線が、この頃延長されて、天現寺橋で渋谷川べりに出、古川橋、一の橋から赤羽橋まで開通したためであろう(明治四十一年度地図では、広尾止り)。  この線も今は廃止されているが、町中を走る路面電車の定石をはずれた変な線であった。四谷三丁目から信濃町までは普通の町家の間を行くけれど、そこから先は大宮御所と青山練兵場の間の淋しい道になる。青山一丁目の青山通りは、当時もやや賑やかな通りだったが、青山墓地下からまた淋しい谷間を通る。  普通の路面電車のような石畳ではなく、国鉄の線のように枕木を並べて砂利を敷いた線路になって、人家の少ない木立の中や崖の下を走る。これはこの辺から流れ出して、広尾で渋谷川に注ぐ笄川または笄堀という野川に沿った低地である。霞町と赤十字病院下の間に「笄町」という電停があって、そこに笄橋という橋がかかっていた。 『東京名所図会』によると、幅三間長さ二間の小さな橋で、江戸時代は欄干もなかったくらいだが、これが古来変に有名な橋だった。実質的には江戸府内と郡部の境で、『江戸名所図会』では米を積んだ牛が渋谷から六本木の方へ渡る様を描いている。笄町の名はこの橋から起った。 『東京名所図会』は「小田原衆領役帳」に「江戸の国府方《こうがた》」とあり、酒井某所蔵の古書にも「この字あれば採るべし」としているが、吉田東伍『大日本地名辞書』は不確かな文献に頼るものとして退けている。小貝《こうがい》郷(紫一本)或いは香貝村(江戸鹿子)といったとの説に従うべきだとしている。 『東京名所図会』はこの橋にも、平将門伝説を伝える。 [#この行2字下げ] 江戸砂子に云、大むかしは経基橋と云(ひ)しと也。此の川むかし龍川と云大河なり。天慶二年平将門、平|良望《よしもち》を殺し、下総国相馬郡石井郷に内裏を立(つ)る。六孫王経基《ろくそんおうつねもと》は武蔵の都筑郡に在り、羽書して相馬へ招く。出謀を知らんと下総に至り、帰路に龍川に掛る。越後の前司広雄と云者、興世主に与《くみ》し、龍川に関を居《かま》へて旅人をとがむ。於[#レ]爰経基、帯刀の笄を関守に下し、是後日の証なるべしと也。夫より経基橋といひならはせしを、康平六年三月源頼義其名をいやしむいはれあればとて、鉤匙橋と改められしと也。(略)其かうがい今に東福寺にありと云云。  解説は省略するけれど、関東にいる限り、こういう平将門にからんだ附会的伝説からは逃れられない。  笄町はこの橋を最低部とする、東西斜面の町名である。そして青山側の高樹町(現、南青山七丁目一帯)との境界は、赤十字病院門前の通りなのだが、笄町一八〇番地だけ、道路を越えて、高樹町へ食い込んでいたのである。  幕政時代、御太刀坂の北側からこの辺にかけて、山口筑前守の屋敷だった。明治の町制改正でも、分割するのが面倒なので、同じ笄町にしてしまったのである(一体明治の町割は旧幕時代の区画を機械的になぞっていた。新しい官僚は旧幕臣からやたらに土地屋敷を取り上げたが、処理は実にいい加減だった)。  ついでにいえば、日本赤十字社病院は佐倉の堀田備中守の屋敷跡で、玄関前に宗吾松と称する大木があったのはそのためである。病院は、国際赤十字加盟団体博愛社が、明治十八年飯田町に建てたものの後身、二十年皇室の内帑金十万円と、御料地を貸与せられ、二十三年竣工、三十五年拡張、総建坪四五〇四坪、病室八二、収容人員二五〇人で、当時日本最大の病院だった。特に看護婦の養成機関としての権威を誇っていた。  笄町一八〇番地は道路より一メートルばかり高くなっていた。家の中の様子も間取りも全然憶えていない。ただ門はなく、路地の突当りからすぐ格子戸を開けると、暗い玄関のたたきになっていたということ、それから玄関の右傍にすぐ隣家の円窓が明いていて、そこに私より二つか三つ上の女の子がいた、ということしか記憶にない。  開け放たれた円窓の額縁に収ったおかっぱの女の子と、そのそばの小さな男の子の映像だけである(お人形だったかも知れない)。多分私はその窓に頭が届かないくらい小さく、見上げるようにして、なにかいっていたに違いない。しかし映像は、映画の回転が停まった時のように、固定し、言葉もなく、動きもない。  その女の子のいる円窓の反対側、つまり路地を入って右側は、前述のように空地になり、草が生えていた。そこで姉と従姉の信子さんと、なんかして遊んでいた記憶がある(二人の記憶の最初である)。そこへ雨が降って来た。すると母が唐傘を持って来た。その傘を広げたまま地面におき、その蔭で遊び続けた。姉と信子さんは八歳、私が三歳で、みな小さかったのである。その空地の向う側にも路地が入っていて、突当りから病院側へ向う路地がある。その左側に哲吉伯父の家があったことは前に書いた。洋吉さんもいたはずだが記憶はない。ただその前面は割竹を並べた垣根になっていたような気がするだけだ。  或る日、家の前で一人で遊んでいたら、祖母ゆうがその路地から出て来た。空地に沿った路地は、その路地より一段低くなっていた。祖母は踏み石か何かに片足だけおろし、こっちをちょっとこわい顔で見て、それから何かして戻って行った(そこは溝になっていたような気がするから、台所の水でも捨てに来たのだろうか)。これが私が父方の祖母ゆうから残している唯一の記憶である。  ゆうは戸籍によれば、弘化四年(一八四七)二月十八日の生れだから、この時六十五歳。和歌山県那賀郡畑毛村(現、岩出町のうち)吉村六右衛門の長女で、元治元年(一八六四)同県海草郡四箇郷村字有本新田三四〇番地(現、和歌山市有本町)大岡弥膳の妻となり、董一、哲吉、貞三郎、蔦枝、叢の四男一女を挙げた。めったに和歌山を離れたことはなかったが、この頃伯母が病気をしていたので、上京していたらしい。大正九年八月三十日没。それまでに私は帰郷しなかったから、会う機会はなかった。  このたった一つの記憶から、何かこわいお婆さんとの印象が残ったままになった。  以上が、笄町一八〇番地から、映像として残った人達のすべてである。その中に父をはじめ男が一人も入っていないのは、われながら奇妙である。哲吉伯父も洋吉さんも残っていないのだ。ただ父については、映像ではなく、声のようなものが残っている。おどかすような、からかうような声である。 「昇平、またけむが出とるぞ」  笄町の家から残った最も鮮明なイメージは、通りの向い側の低い屋根の上に、遠く聳える煙突のイメージである。夕焼の空を背景に、くっきりと黒く、突出ていた。それはふだんはぽつんと立っているだけだが、どうかすると盛んに煙を吐く日があった。煙は風に吹かれて一方に倒れる。その方向が変ったような記憶はない。いつも右の方へ、つまり北に倒れたような気がする。「発電所」の煙突と教わっていた。「発電所」が何であるか、笄町の家には電燈が来ていたから(私にはランプの記憶はない)、その電気を作るところだと教わっていたろう。しかしとにかくこの煙突が煙を吐き出すのが、私にはこわかった。  その黒い煙突が黒い煙を吐き出すと同時に、私を取り巻く世界全体が、なにか動き出すような内部感覚が、私の中に起るらしいのである。誇張していえば、世の中がひっくり返るような感覚である。私は声をあげて泣いた。その泣いている私に、 「ほら、昇平、煙突がまたけむ吐いてるぞ」 とわざと教える父の声のようなものが、動力化されたこわい世界の中から、聞えて来たような気がする。 『新修渋谷区史』(一九六六年刊)によれば、これは当時、渋谷川の川向うの田子免にあった火力発電所であった。設立されるとすぐ煙害問題を惹き起し、水力発電が不足した時だけ、火を入れることになっていた。たまにしか煙を吐かなかったのは、そのためらしい。  父はこの後も、大抵はこのように、私を叱るか、からかう存在として記憶される。このおどかす父と、煙を吐く煙突との間に、なにか性的な関連を考える人がいるかも知れないが、そういう分析は当事者である私には出来ない。 [#改ページ]    三 氷川神社前の家  麻布笄町一八〇番地の家から残ったもう一つの記憶? は、赤十字病院へ入院したということである。しかしそれには私の乗った自動車が家の前の横道から病院の正面の方へ向う後姿のイマージを伴っている。これはあり得ないことだから、その当時、或いはもう少し経ってから見た夢が混同したものに違いない。病院がなにかいいものだ、という考え、自動車に乗りたいなあ、という願望から、そんな夢を見たのだろう。  昭和七年、京大を卒業した年の、三月から五月まで、私はパラチフスでこの病院に入院した。退院の日、車が門を出る時、この横道に目を走らせた。家の前の空地はなくなり、板塀の続いた住宅街になっていた。  この町を歩くのも、こんどがはじめてである。路地の入り口にあったはずの、二、三段の石段はなく、ゆるい傾斜の舗装路に改造されている。私の家のあった位置、路地の突当りはブロックの塀にふさがれていた(多分家は取り払われて、路地が奥まで通ったのである)。  女の子のいた円窓の位置は、門構えの家になっていた。現在は港区南青山七丁目一四番地だが、四年前までは延々として笄町一八〇番地だったらしく、笄町会の掲示板が立っている。  空地がなくなっていたので、一旦道路に出てから、一つ赤十字寄りの路地を入る。哲吉伯父の家のあった路地も、私の記憶した位置にあったが、赤十字病院前の通りまで通り抜けられるようになっていた。  新小川町の路上でと同じように、別に感慨はなかった。笄町一八〇番地では、私の精神はまだ生れていないのである。再び両親のことが思われた。  私たちがここにいた期間はよほど短かったろうと思う。私の記憶は、雨の中で姉と遊ぶなど、あたたかい時候に関するものである。この頃姉は和歌山で小学校に入っていたはずである。夏休みをすごすために上京していたのではあるまいか。  哲吉伯父は、多分ゆき伯母さんの病気が癒ったためだろう、麻布区三河台町一三番地へ移って行った。六本木交叉点から、飯倉よりの左側の横丁を入った位置で、近所には末弟の叢叔父が結婚し家を持っていた。遂に高等文官試験に合格し、(四十三年十一月)維新史料編纂事務局書記官に任官したところだった。そして祖父母が上京して同居していた。  三河台町は青山一丁目から六本本、飯倉、神谷町へ通ずる市電路線に沿い、都心へ近い位置である。ところが私の家は反対に、渋谷の奥深く、氷川神社の鳥居の前、当時下渋谷字伊藤前といった方へ越して行く。  親類から離れて、一層淋しく不便な方角へ越して行く父と母の姿が想像される。笄町の家へか、伊藤前の家へか、新小川町の商人が、掛け金を取りに追って来たという話が伝わっている。丁度居合せた母方の祖母くにが、有金を持たせて帰したという。  父の株式仲買店の外交員の本給は形ばかりのもので、主な収入は、獲得した注文の歩合で成り立っていたはずである。そして傍ら自分でも小さな相場を張る。収入は常に不安定であったろう。この頃また失敗していたのではないかと思われる。以来、何年かの間、家が貧乏だということは、子供にもよくわかった。  笄町の家の前から氷川神社へ至る道は、前述のように幅四メートルぐらい、今日では脇道になっているが、当時は東京市内と渋谷川流域を結ぶ幹線道路の一つであった。『江戸切絵図』(嘉永六年刊、安政四年改版)によると、右側は山口筑前守に続いて薩摩藩その他武家の下屋敷である(現在は常陸宮邸の長い塀が続いている)。道の左側の吸江寺は、『江戸名所図会』に記載された古い禅宗の寺である(高知にある同名の寺が有名)。  道は笄町一八〇番地前から、すぐ下りになって、イモリ川という小流を越える。これは北の方、青山学院の裏手から流れ出した小流で、あたり一帯は樹木のよく繁った窪地になっていた。鶴が降りたといい伝え、鶴沢また羽沢といわれた。これは羽沢または羽根沢の地名の起源である(今日では自動車道路になっている)。  羽沢の南側高地の百姓地に幕末の儒者松崎慊堂、服部南郭が隠棲していた。道はゆるく左にまわりながらその台地へ上って行く。右側は宮邸の長い塀が続く。左側は吸江寺の西南に接して今日国学院大学の建っているあたりも、もと大名の下屋敷で、維新後は練兵場となった。当時の地図には、陸軍衛生材料廠倉庫となっているが、多分名目的なものであったろう。私が引越して行った頃は空地で、再び練兵場に変っていた。  この辺は笄町一八〇番地と同じく赤坂青山一帯の高地からの続きで、江戸時代は、大名、旗本の下屋敷の間に百姓地が入り組んだ地域であった。維新後それら下屋敷の中で赤十字病院、感化院敷地のように公収されなかったのは、百姓地を賃借したいわゆる「抱屋敷」である。それらは維新後もとの田地に戻ったが、この頃から私たちのような新しい東京移住者、官吏、軍人等の住宅地となったのである。  練兵場の西は松、楠、椎など常緑樹の鬱蒼と茂った森となる。渋谷川流域の広尾下渋谷一帯を氏子とする氷川神社である。祭神は素盞男命、大己貴命《おおなむちのみこと》、社伝は日本武尊東征の時の勧請と伝える。本殿は練兵場に横腹を向けて南面し、横手から三層の階段が折れ曲って合せて四十段ぐらい、西方へ降りている。これが青山台地の西端で、渋谷川に面した斜面の下は、渋谷駅付近から恵比寿、広尾町方面に連なる渋谷川左岸の廻廊地帯である。  石段を降りかかって左側にだらだら坂が平行している。これがいわゆる「女坂」で、その向う側は氷川神社別当宝泉寺の境内で、参道は別についている。  石段下から石畳が西方に約三〇メートル延びている。一つの石の鳥居を出て、両側に商家の並んだ参道をさらに五〇メートル下りると、渋谷川の左岸の当時いわゆる川端通り(後の中通り)に出る。 (画像省略)  その参道東側に渋谷区役所があった(現在分所がある)。その頃の渋谷町はいまの渋谷区のように、幡ケ谷、千駄ケ谷方面は入っていなかった。東は羽沢、南は広尾、北は今日の代々木公園、西は南平台、鉢山など目黒区に接する高台に限られた区域で、氷川神社前が、ほぼその中央に当るのである。  いまの渋谷駅付近まで約一キロ、広尾町までも約一キロで、ほぼ等距離である。広尾は当時、現在の国電恵比寿の西から、港区内の天現寺橋(当時、麻布区)の方まで、約一キロ半に延びた町であった。世田谷、目黒方面の農産物の東京への搬入路に当り、渋谷川には精米水車がかかり、各種物産の卸商、小売商店が櫛比していた。  渋谷川はこの辺より川幅、水深を増し、天現寺橋、古川橋、二の橋、一の橋を経て赤羽橋に至る。川名を古川、赤羽川と変えて竹芝桟橋のあたりで東京湾に注ぐ。赤羽橋より下は、汐入となって舟運があった。  江戸府内への交通は、今日の道玄坂から渋谷駅西側を通り、宮益坂を上って青山に繋がるいわゆる大山街道が公式の街道だったが、物資搬入はこの道の方が便利だった。もとは渋谷駅、道玄坂付近と同じくらい町屋が発達して、江戸町奉行支配になっていた。幕末動乱の際、大山街道宮益坂上に関所が新設されてからは、むしろ繁栄を独占していた。  その頃渋谷といえば広尾を意味したという。明治十八年日本鉄道(現、山手線、品川─赤羽間)開通に当って、渋谷駅を渋谷橋上手の四反町に設けようとしたくらいだが、地元民が反対して、宮益坂下に繁栄を奪われる原因を作ったという。  大正元年には渋谷の中心は、すでに現在の渋谷駅道玄坂方面に移っていたが、氷川神社前はなお根強く、広尾方面に結びつけられていたといえよう。字名「伊藤前」の伊藤というのは、広尾方面に本家を持つ土地の資産家の姓で、その持地の前ということらしい。  そしてこの辺に引越した父は、色々の徴候から見て、宮益坂ではなく、広尾方面の市電を利用していた形跡がある。  四谷塩町から信濃町、青山一丁目、赤十字病院下を経て来る路線は、明治三十八年広尾、天現寺橋に達した。これは笄川の渋谷川への合流点で、天現寺橋は笄川にかかった橋である。四十二年には渋谷川の下流、赤羽橋に達していた。 「伊藤前」からの距離は、広尾方面と渋谷駅或いは青山七丁目、いずれも同じくらいだが、それからの茅場町までは、赤羽橋経由の方が短いからである。いずれにしても、一キロ以上、徒歩二十分かかり、笄町の家より、ずっと不便である。哲吉伯父が都心に近い三河台町へ引越したのに、父だけ郊外へ移ったのは、無論、家賃と物価が安かったからであろう。 「伊藤前」で最初に入った家について、実ははっきりした記憶がない。対話の記憶を伴った記憶がはじまるのは氷川神社の鳥居の前から、一〇〇メートルばかり南の、いまの渋谷東一丁目二四番地(当時、下渋谷五二一番地)の家からである。ただそこへ移る前に、宝泉寺付近の、少し高いところにある家にいたことだけ覚えている。  冬の朝だった。さんさんたる日光の中で私はただ手が冷たく、痛かった。庭のようになったところの井戸端で、母が向うむきにしゃがんで洗濯していた。その背中へ向って、私は泣きながら近づいて行った。  私は成年に達するまでは、いわゆる凍傷性《しもやけしよう》で、両手の甲は冬の外気に触れるとすぐ紫色にはれた。そんな手を濡らしたか、霜どけの土の上に転んで、泥をつけたのか。痛む手の救済を母に求めて近づいて行ったのである。  多分、母は私の手を温湯に浸して痛みを取ってくれたに違いない。これが笄町の家の前の空地へ傘を持って来てくれた母に続いて、二番目の母の記憶である。保護者、治療者としての母である。  この後も母はよく軽い傷を「なめて上げんしょ」と和歌山弁でいってなめてくれた。かすり傷、切り傷を持った指を、くわえてくれた記憶がある。  この家の建物や住居の様子の記憶は全くない。笄町の家のように、玄関先の印象の記憶もないのは、恐らくこの家にいた期間がよほど短かったからではあるまいか。事によると間借りだったかもしれない。  この時は多分大正元年—二年の冬である。三月六日生れの私が四歳の誕生を迎える前だったのではあるまいか。  そして多分大正二年のうちに氷川神社の斜面の裾の通りを一〇〇メートルばかり南へ行って右側の前記下渋谷五二一番地の家へ越した。  この家には煉瓦塀があり、引き開けの格子門があった。門を入るとひと跨ぎで玄関になってしまうが、堅牢な煉瓦塀があるのは、この辺ではうちだけだった。父が少し相場を盛り返していたとも考えられるのだが、実はわれわれはこの家の全部を占拠しているのではなかった。玄関二畳、茶の間三畳とそれに接した八畳の奥間だけで、その右手に鉤の手に出張った一翼(多分六畳一間)は人に貸していた。  家の中に、そこから先へ入ってはいけず、開けてはならない仕切りがあるというのは変なものであった。八畳の間とは縁側を隔てた右手に半間の淡藍色の襖があったが、つまみは私が開けないように取り除いてあったような気がする。  その異様な襖の映像を、私は不思議とよく覚えているが、ある時その襖が不意に開いて、母よりも若い女の人の顔がのぞいた驚きも忘れない。たしかそれは小学校の先生だった。私は見た記憶はないが、御主人がいたはずである。  母とは違い、額の広い眼の細い人で、顔を白く塗っていたような気がする。私を見つめてちょっと笑い、すぐ襖はしまった。多分私が騒ぎすぎたのではあるまいか。多分母は裏で洗濯でもしていたので、その仕切りを開け、私をたしなめたのではないかと思う。その部屋には庭へ向って窓が開いていたが、いつもカーテンが引いてあったような気がする。  この窓の反対側が煉瓦塀である。塀に沿って、アジサイが植っていた。そのアジサイを背景に、父が縁側にいる私を見上げていた。これが私にとって父の最初の映像である。なんともいえない変な顔をして私を見ているのである。それは片側に他人の家がある共通の空間に出て、てれているとも取れる表情なのであるが、これは無論私の後の解釈である。  私はこれらの記憶をいま出来るだけ正確に再現しようとしているのだが、実はこれらの記憶は、これまでに少なくとも二度、今と同じくらいの熱心さで回想されている。  最初は私が十四、五歳で、大人の世界に入ろうとしていた頃である。幼年時代が無垢な天国として回想されたのであった。そこには多分その頃知ったキリスト教の影響があったろう(「幼児のごとくならざれば天国に入ることを得じ」)。それとも未知の世界の入口での惧れとためらいがあったか。蘆花の『思出の記』、犀星の『幼年時代』『性に眼覚める頃』を読んだのもその頃だった。家は同じ渋谷でもずっと北の中渋谷七一六番地(現、松濤二丁目)にあった。幼時の記憶を仔細に想起し、この辺のもと住んでいた家を見に来たことがある。春四月だった。私はある少女に対する恋を意識し、心に悩みを抱いていた。恋を知らぬ頃はよかった、というような感想を抱き、ひとりで感傷的な散歩を試みたのであった。  氷川神社の鳥居の前から、私は右に折れ、煉瓦塀の家を目指した。左側の宝泉寺の参道の両側の桜が満開だった。石段の下にお寺さんの子供らしい、十歳ぐらいの、恋の相手として幼なすぎる和服を着た少女が立っていた。風が吹き、花が一面にその少女にふりかかった。私はその光景をなぜか堪えがたいように想い、顔をそむけて歩み去った。この時の旧居訪問で覚えているのはこれだけである。 (画像省略)  二度目に来たのは、昭和十九年の一月か二月である。当時私は神戸の川崎重工業株式会社の東京出張員だった。それに先立つ五年間神戸に住んでいたので、久振りの帰京だった。近く召集されて戦地へ送り出される予感があり、会社からの帰り、一度五二一番地の煉瓦塀を見に来たことがあった。  その年の三月、私は予定通り召集され、やがてフィリピンに送られた。ミンドロ島サンホセの駐屯地で、夜、消燈後の暗闇の中で、自分の生涯の各瞬間を、あますところなく回想した。間近い死を控えて自分が何者であったか、何をしていたかを確認しなければならないような気がしたのだが、実際は回想の楽しみそれ自体が目的だったといえよう。近く敵の上陸する公算が大きく、一個小隊の兵力では壊滅は必至だった。確実な死が先に待ってる人間とは、すでに死んだと同然である。想像上の死の裡にあって、生命は回想によって生きようとする。すでに生きたことによって確実に自分のものとなっている過去を生き直すほかはなかったといえる。  それからさらに二十七年経った今日、私はこれを書きながら、三度目にもう一度幼年を生き直していることになる。いつ来るかわからない自然死が近づいているが、私にも少しはすることがあり、回想によらないでも生きることはできる。ただ六十歳を越してもなお、私は自分で何者であるかを知らない。この或いは解決しないまま死ななければ分らない難問に、近付こうとしているのである。  サンホセの駐屯地の暗闇の中で最も楽しく思い出されたのは、一人の女の子についてであった。煉瓦塀の家の南側の隣は紺屋か染物屋であった。そこに私より一つか二つ年上の女の子がいた。表から入ると、すぐに間口一ぱいに半間の土間があり、式台を経ずに畳敷になっている家で、上り口の横に長い盤台のようなものがおいてあった。女の子がその台の向いに坐り、私が土間に立ってなにかしゃべっていた。  店の前の道の反対側に私道が入っていて、突当りに門構えの邸があった。私が染物屋の店先にいると、不意にその門のくぐり戸が開いて、二人の男の子が出て来た。どんとぶつかって、松の植った私道の両側にぱっと分れる。それからまた道の真中で、ぶつかって、つかみ合い、また分れる。そういうことを繰り返しながら、だんだんこっちへ近づいて来た。  男の子の一人は染物屋の女の子の兄さんだった。よほど大きい子に見えたが、実際は小学校三年ぐらいだったろう。私は長い間、けんかというものは、どんとぶつかってぱっと分れるものだと思っていた。  女の子はまだ学校に行っていなかったらしく、朝、寝ている私を起しに来ることがあった。枕元に坐った女の子に揺すられながら、だんだん目を覚まして行く、こういう快い感覚を私は生涯であまり味わったことがない。少なくともこの時のような甘い感覚を伴った経験はない。この女の子は私の最初の恋人だった。  或る日、その女の子と遊んで家へ帰った。母は手拭を姐さんかぶりにして台所仕事をしていた。私の家は前に書いたように玄関から入ると、すぐ三畳の茶の間が続き、その先が台所である。  母は仕事の手を休めず、下を向いたまま、 「××ちゃんと、××××してはいけませんよ」といった。  あとの方のばってんは、女陰をあらわす卑語である。私は母の口からこの言葉を聞いたのは、これが始めてで、また最後である。私はびっくりし、また気押されて、「はい」としか答えられなかった。しかし私はその女の子とその卑語で表わされるようないたずらをしたことはない。  母にこの言葉をいわせたのは、むろん私がそういういたずらをすると思われていたからである。この間の事情を説明するために少しさかのぼって語らなければならない。  それらは感傷的な回想にあっては、普通避けられる幼時の性的体験に関している。普通は抽象的暗示的に書かれるのが常である。私もそのように書いてもいいのであるが、現代日本の性過剰の風潮の中では、こういうことを露骨に書かないのは、却って変に取られる惧れがある。幼児というものが、極めて性的な存在であることはフロイト以来とっくに実証されている。この現状において、性的な体験をあるがままに書かないことは、この回想全体の率直性を疑わせることになるだろう。  私の最初の性的体験は、路傍の人の見ているところで自分の道具をいじることだったらしいのだが、ありがたいことにこれは私の記憶からは失われている。あとでそういう悪い癖があった、と大人から教えられただけである。  漠然とした記憶はある。ずっとあとになってから、小学校六年生の時だか、隣家の庭で一級下の女の子とその四歳になる弟と、遊んでいたら(その子は四歳になってもまだおしゃぶりをくわえている変な子だったが)突然前をまくって、へんな叫び声をあげ、陰部をいじり出した。 「いやあね、××ちゃん、およしなさい」 と姉はたしなめたが、弟はいっこうにやめないので、女中が呼ばれ、弟は家の中へ連れ去られた。  この時、私はその男の子に昔の自分の姿を見たのだから、その頃は漠然とした記憶が残っていたのである。そしてその男の子が、私がその姉とばかり遊ぶので、除け者にされたと思い、その不満を表現するために、そういう行為に出たことも理解した。  してみると、四歳の私が、煉瓦塀の外の溝に、両足を突込んで腰を下し、道行く人の見えるところで、そういう行為をしたのは、何かへの抗議だったのだろうか。記億にないが、フロイトの無意識の理論では、当人が記憶にないからといって、存在しないことにならないから厄介だ。  しかしこの反抗、または自己中心のナルシシスムと女の子を相手にいたずらすることとの間には距離がある。  森鴎外が女の子のあそこが、自分とちがっているのを知ったのは、『ヰタ・セクスアリス』によると十歳の時だが、私は環境のせいか少し早かった。私がそういう妙な自己愛の習慣をやめてからのことだと思う。私の家から氷川神社の方へ五〇メートルばかり行ったところに、この辺でたった一軒のよろずやがあった。野菜、乾物、たばこのほかに駄菓子も売っていて、たまに一銭、二銭の買い喰いの許される店だった。同時に近所の子供の集まる場所でもあって、奥の座敷に上ることもあった。  八畳ばかりの部屋の奥は縁側になっていて、その左手に便所があった。仲間の私と同じ年頃の女の子の一人が、その縁側で突然前をまくって、便所へ入って行った(多分着物の裾を汚さないため、便所へ入る前からまくるように教育されていたのだろう)。その前がのっぺらぼうで、何もないのを見て、へんな気がしたのを覚えている。  鴎外は「失望した」と書いているが、私は別に何も期待していなかったから失望はなかった。ただひどく変な気持がしただけである。  それから少し経って染物屋の女の子ではないが、同じ方角の家にそこを触らせる女の子がいた。私もそっちの方にいる年上の男の子にさそわれて、いたずらに参加した。染物屋の前あたりの、道の反対側の路地を入って行くと、間もなく氷川神社裏の原の崖にぶつかる。一面に笹の生えた斜面をななめに登る小径があって、めったに人が通らない。二、三人の男の子がそこへ女の子を連れて行って、みんなでかわりばんこに笹の枝を折ったのでそこをつついたのである。年上の男の子は、その行為を性交を意味する卑語で表現した。  いたずらはしかし一度か二度ですぐやんだ。その女の子が出て来なくなったからである。多分親が娘の局部に異常を認めたからである。いたずら犯人の男の子の家を歴訪して抗議したかも知れない。  その時、母がその言葉で私を注意したのは、抗議を受けていたせいだったろうと思う。しかしそれは詰問もお仕置も伴わない、変な叱り方だった。私が「はい」と答えてそれきりになったのは、むろん母は問題をそれ以上追求するのがいやだったからに違いない。  母は心配する必要はなかった。私は染物屋の女の子とはそんなことはしなかった。私にそんな度胸がなかっただけではなく、女の子は私のほんとうの恋人だったので、そんないたずらをすることなんか思いも及ばないことだった。揺り起されながら、だんだん目を醒ましていく快感だけで私には沢山だった。  この恋人の顔と髪形について全然憶えていないのも奇妙である。店先で遊んだ時のぼんやりしたおかっぱの髪の輪郭、揺り起される時、肩の辺の触感と声の感じが記憶に残っているすべてである。  しかしそのうちその女の子もうちへ遊びに来なくなってしまった。恐らく男の子と女の子を遊ばせないという申し合せが、近所の親達の間に出来た結果だろう。幼児の性的衝動は野放し状態では、気ままな現われ方をするけれど、それは浮動状態にあるものである。子供は自分の行動が大人に規制されているのをちゃんと知っていて、いけないといわれればすぐ止んでしまう。そして私はこの後、こういういたずらをする機会はなく、従ってその興味も失くしてしまう。  女の子に揺り起される感覚は、姉が来た日の記憶とつながっている。或る朝、私は突然隣の玄関が騒がしい声と物音で満たされるのを感じ目をさました。まもなく襖が開き、姉が入って来て、枕元に坐った。姉文子は私より五歳年上で、大正元年母方の大叔母(祖母くにの妹)高村友枝の養女になっているが、四年前、両親が上京する前から、高村に養われていたことは前に書いた。  この頃は小学校に上っているから、多分春休みか何かで、祖母に連れられて上京したものだったろう。その頃上方と東京の間の旅は必ず夜行だったから朝の到着となったのである。羽子板を持った振袖姿の写真が家にあったが、笄町の家の前の空地でいっしょに遊んだ頃より、ずっと美しく撮れていた。私はこんなに美しく、お金持らしい家の子供の姉がいるのを誇りに思っていた。  高村友枝は明治六年生れ、この時四十一歳、和歌山市丸内十一番丁の芸妓置屋「明月」の女主人であった。母つるがそこから内娘として出ていたこと、父と馴染んで文子を挙げたが、周囲の反対によって明治四十一年上京するまで、結婚の段取りにならなかったこともすでに書いた。  高村家は和歌山の河口に近い「湊」の材木商であったが、幕末維新の変革期に乗り切れず没落した。長女くに(慶応四年生)と友枝の間に平助という男子があったが、早世したので(ただし戸籍によれば平助は友枝の父となっており、この辺家系に混乱がある)、二人姉妹はそれぞれ芸事で身を立てることになった。くには十一番丁の「風月」という料亭の仲居となり、友枝は芸妓になった。友枝はやがて土地のガス会社の社長の保護を受けて、「明月」を持つことに成功したのである。  母つるはそこから内娘として出たのだが、芸妓の勤めを嫌って父との結婚を希望する。友枝に子がなかったので、文子を養女にすることは、結婚の条件の一つだったろう。従って母が父との貧乏暮しに甘んじていたことには、幾分花柳小説的な色合があることになる。結婚に反対されて、母が和歌浦の片男波《かたおなみ》の海岸をさまよい、警察に保護されたことがあるとあとで聞いた。しかし私の幼時の家にはこういうロマネスクを思わせるものは全くなかった。ただ貧乏だというだけだった。  氷川神社前の家にいた間に、親類が家に来た記憶は、この一度の姉の訪問だけである。三河台の哲吉叔父のところから誰かが来た記憶も、行った記憶もまったくない。もっともこれは、電車の停留所までの距離が遠く四歳の子供の徒歩範囲を越えていたせいだったかも知れない。  付合いは近所の岩崎さんという同郷人だけだった。私の家の左隣は鮫島さんというかなり大きな家だった。境の塀に沿って、砂利を敷いた道が玄関まで入っていた。その右側に小さな平家があり、そこに岩崎さん夫婦と二人の老人が住んでいた。多分これは鮫島さんの借家で、煉瓦塀の家は多分岩崎さんの紹介で借りたのであろう。  御主人は父より少し年上の感じだった。眼が大きく顎が張り、がっきりした顔立で、しょっ中腕組みをして、ひどく大きな声で話す人だった。奥さんも母より年上で、もう少しあとになってからのことだが「姉さんのようにしている」人だ、という説明を母の口から聞いたことがある。  顔立は色が黒いというだけが違いで、母と同じ細面で、子供心に似ていると思った。「姉さんのように」という表現は、子供にはわかりにくかったが、これは十一番丁で姉さん株の芸妓だったということらしい。  岩崎さんは父と同じく兜町に通う相場師だったが、そのうちに氷川神社裏の練兵場の向う側に越して行った。私の家の前の道は染物屋の方に行くと、まもなく広い通りに出る。その右の角が鍛冶屋で、そっちへ曲ると渋谷川に沿った川端通りへ出るが、左手はすぐかなり急な坂になる。それを上り切ったところが、丁度練兵場の裏に当る。  そこに岩崎さんは文房具雑貨を売る店を出した。家も座敷も新しく、珍しかったので、私はよく遊びに行った。大正四年渋谷駅付近に越し、学校へ上ってからも、休暇中泊りがけで遊びに行き、文房具を豊かに貰って帰って来るのが、楽しみだった。 『新修渋谷区史』によると、この位置はその頃の字「上智《あげち》」で、大正五年広尾尋常小学校が新設されている。岩崎さんはそれを見越して、奥さんの片手間仕事として文房具店を開いたのではあるまいか(岩崎さんがこのように広尾に近い方へ越して行ったことも、氷川神社前から都心へ出る経路が、広尾経由であったことを示している)。それは私たちがまだ氷川神社前にいた大正三年以前であったことはたしかである。  もう少し後のことになるが、父が或る雨の降る夜、相場の思惑の金を借りに行って断られ、近道をしようとして、練兵場を横切って帰る途中、兵隊が掘った塹壕に落ちて、泥まみれになって帰って来たことがあった、とあとで聞いた。  岩崎さんは大正九年父が相場を当ててからも付合いがあったが(「大岡はん、ちと儲けすぎたわ」と家へ来ていうのを聞いた覚えがある)、まもなく死んだということだった。奥さんは和歌山へ帰ったのであろう。いつの間にか話を聞かなくなった。  ただしこの辺の記述は、後日の記憶でまとめてある。当時の記憶にあるのは、その鮫島さんの邸の中の家へ行ったら爺さんと婆さんがいたということだけで、岩崎さんの御主人もその奥さんも映像として残っていない。  練兵場は前に書いたように今日国学院大学が建っている地所である。吸江寺の森が一角に喰い込んだ鉤形の地面で、塹壕はその東の端の、原が狭くなったあたりに掘ってあった。そして氷川神社側は子供達の遊び場だった。  向い側に今の常陸宮邸のある地所の白塀が長く続いていた。笄町のもとの家の方へ行く道は、よく人や荷車が通る道だったが、少し行くと道が下りになり、なんか木の多い見知らぬ土地の感じになるので、そこから先へは行かなかった。  練兵場の原で私たちがなにをして遊んだのか、よく憶えがない。兵隊ごっこのような団体遊びをしたような気がするが、多分年上の男の子のすることを見ていただけだろうと思う。あまり原の奥深く入るのは、塹壕が掘ってあるのでこわかった。  練兵場と氷川神社の間を隔てる道は、今とは違って、神社と宝泉寺の境内に沿って西へ切れ、よろず屋の角へ出る。よろず屋は、前に書いたように、子供達の集合場であると同時に、駄菓子を買う店でもあった。飴や小さな羊かんを売っていて、それを時々おやつに買った。  これは「買い喰い」といって、当時のしつけとして、させてはならないことだったが、近所の子供がみなしているので、母にせがんで三度に一度は買いに行った。小さな長い四センチぐらいの薄いヨウカンが、当時一銭で(いまの十円ぐらいに当ろうか)、それを二つがきまりであった。  或る日、小銭がなく、五銭の白銅貨を渡された。菓子は家へ帰って喰べるようにしつけられていたから、おつりは返すのであるが、その日、よほど私は腹が空いていたらしい。よろず屋と家との中間にちょっと道が曲っているところがある。そこの電信柱にもたれて、喰べてしまった。  しかも私は家へは帰らずに、よろず屋の方へ引き返したのである。もう一銭ヨウカンを買った。多分その時は家へ帰ってから、一銭余計に買ったことを、許して貰うつもりだったと思う。  ところが曲り角まで来て、家の煉瓦塀が見えて来ると、自分が大変な罪悪を犯したことに気がついた。とても許して貰えそうもないと思ってしまった(なにしろヨウカンを途中で喰べるという罪を犯した上、黙って金を使うという大罪を重ねたのである)。  私はその角の電信柱にもたれ、煉瓦塀とよろず屋の店先を見比べながら、そのヨウカンも喰べてしまった。こうなるともうやけである。私はまたよろず屋へ引き返し、あとの二銭もヨウカンを買った。よろず屋のおばさんは少し心配になったろう。 「坊や、そんなに買っていいの?」ときかれたような気がする。 「うん、いいんだ」 と私は少し不機嫌になりながら答えたろう。それからまた曲り角の電信柱にもたれて、その二つのヨウカンも喰べてしまった。それから泣きながら、家へ帰って行った。  私がこんな思い切った行動に出るとは、母は思いがけなかったろう。このあとの叱責の場面は私の記憶に落ちている。母は私を打つことはめったになく、普通上膊部をつねるのであるが、この時はお仕置の最終段階であるお灸の刑に処せられたろうと思う。  当時は灸療法が家庭に浸透していて、どこの家にも艾《もぐさ》があった。それを左人差指の腹に積まれ、線香で火をつけられる。だんだん火が大きくなって、あつくなって来てもその艾を払い落すことは許されない。泣きながら、艾を載せられた左手を長火鉢の角においていなければならないのである。私はこの刑に処せられた記憶は二度しかないが、指先が熱くなるまで、それを払い落さずにいれば、やけどにならないうちに許して貰えた。  しかしいまにして思えば、私がこういう行為に出たのも、うちのおやつの量がよその子に比べて、少なかったからだろう。買い喰いを許したのも、家計の都合で、おやつを豊富にうちにおけなかったからだと思う。それなのに五銭を使ってしまったのは家計にとっても大打撃で、この日は父が帰ってからも、またもう一度仕置に会ったはずである。しかしその記憶も私にない。前に書いたように、父の記憶はこの煉瓦塀の家では、庭から実に変な表情で、私を見上げている姿だけである。  こんどこの回想を書くために、私は三度目にこの町を訪れた。  道が狭く見えるのは、再訪の特徴である。恐らくわれわれの身長が延びたためだけではあるまい。前の二度の再訪の時よりも狭く感じたからである。記憶と想起の奇妙な相互作用によって、|その前に見た時よりも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》道幅は常に狭く、圧迫されるように感じるのである。  道は四メートルぐらいの幅で、車が一台通るのがやっとである。一方通行になっているし、車をとめるところはなさそうなので、氷川神社の鳥居の前で車をすてた。  宝泉寺の参道の桜は戦災で焼けたあとは植えられなかったらしい。本堂もタイの仏塔に似た戦後の建築にかわっている。道の両側の家々はすべて画一的な小住宅である。もっとも昔も同じような単調な通りだったろう。今と同じ東京郊外の小住宅街だったからだ。ただ大抵の家が二階家になっているという違いがある。  角のよろず屋は昔ながらの平家だった。右側でたばこを売り、中央前方に野菜を並べ、左側から後へかけての棚に、かん詰やジュースなどが並べてある。店の構え、品物の並べ方、要するに店全体の感じは、驚くべく昔のままなのである。  紺の運動帽をかぶった老人が、店先から中へ入ろうとするところだった。思わず声をかけた。 「失礼ですが、こちらの御主人ですか」 「ええ、そうですが」 「この店はずっと前から、五十年前から、ここにあったんでしょうね」 「そうですよ」 とぶっきら棒にいって、その人は中へ入る。私も続いて入った。 「あたしは五十五年、もっと前かな、丁度この先に住んでいた者ですが、大岡っていうんですが」と名刺を出した。 「大岡さん?」老人は首をかしげる。 「いえ、憶えていらっしゃらないでしょう。他所者でしてね。一年ぐらいしかいなかったんだから。鮫島さんの向うの隣の、煉瓦塀のうちでした」  鮫島という名前で、私がいい加減なことをいっているのではない、とわかったらしい。はじめて親愛の色が老人の眼に現われた。 「ぼくはおたくでしょっ中、お菓子を買ったし、上へあがって遊んだこともあるんです」といいながら、奥をのぞく。 「あっちは縁側になってて、左手の突当りは便所だったでしょう」 「この家は建て替えましたが、ええ、たしかに便所でした」 「その便所は女便所だけじゃなかったですか。ぼくも使わせてもらったんで、覚えているんですが」 「いえ、男便所もありますが——いや、前は女だけだったかな」  老人は少し薄気味悪そうに私の顔を見る。この間にカメラマンが店の下から写真をとり出した。 「実はあたしはなんかものを書く人間になっちゃいましてね。こんど昔のことを書くってんで、こっちへ来たんです。失礼ですが、根掘り葉掘りうかがっているんです」 『潮』の高橋君も名刺を出す。 「あたしはいま六十二で、当時、大正二年ごろは四つですが、あなたは……」 「七十です」 「すると八つ上だから当時十二か。小学校五、六年ですね。ちょっといっしょに遊んで貰えなかったでしょうね。妹さんがいらしたでしょう」 「いえ、兄弟は男ばかりで、妹はいません」  妹がいなくて、私は実はほっとしたのである。この家が多分昔のままだという見当はついていた。名前をいい、話を聞いてみたいと思っていた。その上で尻をまくって便所へ入って行った女の子の話を書くのは、まずいなと思っていたのである。  小沢松太郎さんがこの方の名前だった。この付近で四代続いた農家で、お父さんは荷車に野菜を積んで広尾方面に行商していたという。明治四十三年にここによろず屋を出したのであった。 「そんなら、うちは店を出したばかりだったんですね」 と小沢さんはなつかしそうにいう。兄弟は弟が二人、上の弟は早死して、下の弟は当時二歳だったはずだという。すると四歳の私に弟さんと遊んだ記憶がないのも不思議ではない。ここは近所の子供の遊び場だったから、女の子は遊びに来た子の一人だったろう。  松太郎さんが学校へ上る前は、この辺一帯、渋谷川の川っぷちまで麦畑だったという。練兵場の南側に宮内省御用の杉を植樹していた。この道の南側の角にあった鍛冶屋は「千代鶴」という江戸時代からの刀鍛冶だったという(この位置は『江戸切絵図』によると牧野備前守、渡辺備中守の下屋敷の裏に当る。牧野は戊辰戦争でよく戦った長岡藩主である)。真赤に焼けた鉄を、向う側に小僧が立って打っている状景、フイゴがあったことなど、私の記憶と一致した。  私にとってショックだったのは、私の家の右隣に「染物屋」なんかなかったということだった。 「この通りには、うちから鍛冶屋まで店はなかった。しもたやばかりでした」 「おかしいなあ、表から入るとずっと土間になってて、そこに盤台なんかあって、女の子がいて遊んだんですがね」 「店はなかったね」 「その向い側に、路地が入ってて松が植ってて突当りにお邸があったでしょう」 「ああ、それは神子島《かこしま》さんだ。しかし松はなかったよ」  私は自信を失って来た。染物屋が紺屋なら、職人もいなければならない。布を染め上げる釜とか物干場がついていなければならない。松太郎さんは当時十二歳で私より大きかっただけではなく、その後ずっとここに住んでいるのだから、この人の言葉ほど確かなものはない。 「宝泉寺の石段へ行くまでに桜はあったでしょうね」 「ああ、あそこは桜や梅が植っていた」  しかし染物屋の女の子は私の恋人で、はっきりした記憶が固定しているので、私も譲れなかった。結局そこのしもたやは洗張りかなんかを内職にしていたんだろう、ということで折れ合った。  洗張りの内職という考えは、私に一つの場面を思い出させた。私の家の右側の内側を裏まで通れるようになっていたが、或る日そこに突然長い布が張られた状景である。その下側はとがらせた竹の棒を連ねて、布はぴんと張られていた。  ことによると母はその店から洗張りの下請けを受けていたのではないだろうか。私はしもやけ性だが母はヒビ性で、指先がはじけたように割れていた。そこへ黒い練り薬のかけらをおき、焼火箸でとかし割れ目をうずめるのを、私は息を詰めて眺めた記憶がある。  しかし洗張り用の竹の棒は伸子張《しんしば》りといって、私の妻の世代でも、五、六年前まで持っていたという。その頃では嫁入道具の一つだったかも知れず、必ずしも内職の決定的な証拠ではない(一体にこの回想で、私は母や私自身をみじめなものと想像しすぎているかも知れない。回想による変形は警戒しなければならない)。  しかしとにかく五十八年前の思い出を語り合うのは、いい気持だった。松太郎さんには御子息もあり孫もあるが、みな勤人になっている。小沢商店も松太郎さん限りになるだろうという。  四歳の私にとって十二歳の松太郎さんは雲の上のような存在だったはずである。今でも多分同じだろうが、六、七歳の学校へ上っている子が兵隊の位でいえば上等兵、小学三年ぐらいが伍長とすると、六年生は軍曹か曹長である。四歳の子供は足手まといの味噌っかすで、恐らくいっしょに遊んだことはあるまい。お互いに顔を見詰め合っても、昔の俤を認めることは出来ないのである。 「じゃ、これからもとのうちをちょっと見て来ます」といって、私は腰をあげた。  私がもたれてヨウカンを食べた曲り角の電信柱はたしかにあったが、道を広くとるために路地の中へ引っ込められている。右側の山小屋風の家が、昔の鮫島さんの位置らしかったが、私の家の標識であった煉瓦塀はもはやなかった。区切りがはっきりしなくなっている。  引き返して、小沢さんに助けを求めに行った。快く出て来て下さった。モダンな山小屋風の家がやはりもとの鮫島さんの敷地だった。木が多いのは戦災の火がここで止ったためという。しかしわが家との境界は、一メートルばかりずれていた。神子島さんの路地はずっと奥まで拡げられ、両側が住宅になっている。突当りはもと練兵場の崖まで通っていて、大谷石を積んで整地してある。その上にも二階家がぎっしり建っている。  私の恋人の女の子のいた洗張屋などは無論なく、普通の小住宅になっている。千代鶴もなかった。すべては全くなくなっているのだが、しかしこの辺はまだ昔の俤が残っている方である。二年後私が渋谷小学校に上るために越した田中稲荷前の家、その次の大向橋傍の家などは、渋谷駅付近の区画整理に呑み込まれて完全に消滅している。  この煉瓦塀の家に、私がいたのは、多分大正二年から三年まで一年ぐらいの間である。その次に越したのは、小沢商店の角を渋谷川の方へ曲ったところである。それから最初の角をまた右へ曲り、すぐ右側の路地の中の家、当時下渋谷五四三番地(現、東二丁目一七番地)の位置であった。  路地の入口には門があり、突当りに井戸があった。そこに表通りに面した二軒の家の台所口と、路地の中の二軒の家の玄関が開いていた。私の家は奥の右側だった。  この辺の地勢は小沢商店の前と同じく、南から北へゆるやかな下り斜面になっている。従って私の家の敷地は、路地より少し高くなっていた。玄関まで一メートル弱の段をなしていて、板が渡してあった。  この家の間取りは大体記憶に残っている。格子を開けて土間、二畳の玄関から、左手に四畳半の茶の間、奥は八畳の座敷になっていた。八畳間の奥には、形ばかりの縁側があり、その先に下部の透けた板塀まで、一間ばかりの庭があった。五二一番地の家よりは、大分格が落ちるが、こんどは同居人がなく、完全なわが家である。ただなんとなく、日の当らない暗い家という感じがあった。  これに引き替え、路地の向い側の家は、低い竹の四つ目垣で区切られた前庭を持ち、日当りのいい明るい家になる。そこは私より少し年下の兄弟がいて、いつも路地の中で遊んだ。  井戸がわれわれの遊びの中心だった。大きな土管がそのまま井戸側になっていた。つるべ井戸で、板の蓋の片側が明くようになっていた。その蓋の上へ上るのは、禁じられていたが、禁じられたことをするのが子供には面白いので、われわれはかわりばんこに、その蓋の上に登り、下へ飛び降りた。繰り返しも子供には楽しいので、なんど繰り返しても飽きないのである。  大事件は或る日、突然その蓋の一方がはずれて井戸の中へ落ちたことである。その時乗っていたのは、向いの家の男の子で、やっと井戸側の縁にしがみつくことができたのは、運というほかはない。  顔をゆがめて、泣き喚く顔が眼の底に残っている。色が白く、眼の大きな、神経質な子供だった。井戸側にひじを広げてしがみつき、仰向けた顔を、名状し難い形相に歪めて、泣くのである。  子供達はどうしていいかわからず、「お母さん」とか「お父さん」とか、喚くのが精一杯だった。どこかから大人が出て来て、男の子は無事引き揚げられた。あとは井戸の底に落ちた蓋の片方をどうして引き揚げるかが問題だった。井戸は子供にも地の底へとどくくらい深く見えたが、実際はせいぜい三メートルぐらいの深さだったろう。その蓋をのけて中をのぞき込み、暗い水面に青空とわれわれの顔がうつるのを見、なにかどなるとへんにこもった反響が返って来るのを聞くのが最初の遊びだった。その水面に、井戸蓋と男の子の下駄が浮いていた。  大人達は早速それらの落ちたものを引き上げにかかった。母はあまり有効なものを出せなかったが、向いの家から太い麻縄の先に鉄鉤のついたものを持ち出して来た(鳶職かなにかの家だったのかも知れない)。下駄は鼻緒をひっかけて引き上げたが、蓋のほうはどうにもならず、井戸屋が呼ばれて来た。  井戸屋はついでに井戸の底を掃除することになった(これは井戸替え、或いは井戸さらいといった)。腹巻きだけの裸になって刺青《いれずみ》を見せた小父さんが、井戸の中の両側に足をふんばって、段々下へ降りて行くのを、われわれは感嘆の眼で眺めた。底でなにかしたあとで、上にいる別の小父さんといっしょに濁った水を汲み出しはじめた。  長い麻縄のついたつるべを中に落して汲み上げるのである。井戸替えのあとの水は青く濁っていた。そしてねんどという土に似た匂いがした。それは近所の大きな男の子が時々持っているもので、水を混ぜてこね廻し、ハトやクマや家の形を作るものであった。その土が地面を深く掘ると出て来ることを、われわれは知っていた。  井戸替えの水は、だんだん赤い濁りに変り、適当な透明度になるまで何杯も何杯も汲み上げられる。これほど大量の水が、この井戸端で流されたことはなかった。それは盛大な水のお祭りだった。井戸のまわりに住む大人達は、水が完全に澄むまで、たしか半日ぐらい、水を汲むのを禁じられた。  下渋谷五四三番地の家での、私の生活の変化の一つは、同い年の男の子の友達ができたことである。それは私の家のある路地を出てすぐ向い側の、小さなくぐり門のある家の子で、ミッちゃんといった。丈は私より少し低く、下ぶくれで、吊り眼の、あまり顔色のよくない子だった。路地の前の道は、一〇メートル右へ行くと、幅一メートルぐらいの小路になってしまう。従って左手の下駄屋の角からは、車が入って来ないので、子供のいい遊び場だった。  遊びたくなると、門の前から、 「ミッちゃん、遊ばない」と声をかける。  お客が来てるとか、なにかやりかけでいて「いま、あとで」と返事がかえって来ることもあるが、大抵は「うん、遊ぼう」といって出て来る。  遊びの種類はあまり多くない。地面の上に直径三〇センチぐらいの円を描いておいて、じゃんけんで勝った者から、親指を円周の一点に固定させ、円の中に中指で半円を描いて「陣」を取る、次に勝つとその半円まで親指を進め、その外側に半円を描く。そうして相手のすでに取った陣地まで侵蝕して、最初描いた円周全部を取ってしまうと勝ち——たしか「陣取り」という遊びだった。  またじゃんけんできめた目標(大抵は電信柱)まで往復する遊び。ハサミで勝てば五歩、イシで勝てば十歩、カミで勝つと二十歩という差がある。従って相手にカミで勝たれるのを防ぐためには、なるべくハサミを出していなければならない。しかしそれでは勝っても五歩だが、相手にイシを出されると十歩取られてしまう。しかしイシを出すには、相手のカミで二十歩負けるおそれがあるから、めったに出せない、というあやがある。一歩でなるべく距離をかせぐため、大股に飛ぶ——これらはみんなミッちゃんから教わった遊びだった。  円くきったボール紙に、色刷りの武者絵や金太郎を刷った紙の貼りつけてあるメンコも教わった。しかし二人ともあまりうまくないので、取ったり取られたりで、大きな差はなかった。  それから直径五センチくらいのガラスの円盤「石ケリ」の遊び、——ただし足で蹴るのではなく、相手の「石ケリ」をやはり地面に描いた一定の区画からはじき出して取る遊び。「石ケリ」というのだから、元来は足で蹴るべきものであるはずだが、渋谷ではなぜかそれは女の子の遊びだった。  地面の上に、二列に六つの矩形の区画、その先に屋根のように乗った半円の「上《あが》り」を描いておく(或いはその中にさらに円を描いてあったか)。じゃんけんで勝った方から、片足で立って、一区画ずつ「石ケリ」を「上り」へ向って蹴り進める。ただし上ってから、もう一度出発点へ戻って、二列六個を貫いて、石ケリを蹴って、上りの半円に止めねばならない。それに失敗するとまた手前右側の区画から始めなければならない。  途中で失敗した場合は、競技者は交替する。再び自分の番になった時は、出発点から石ケリを蹴って、前に失敗した区画に止め、そこから始める。この遊びには「石ケリ」のやり取りはなく、勝負に手間がかかるので、男の子は手取り早い「はじき出し」の遊びをしたものらしい。  しかし私はこの女の子の遊びも好きだった。「上り」があるのは、正月に母と遊んだ双六に似ている。努力の先に目標があり、「上った」という満足が伴うからである。  われわれが「はじき出し」遊びをした道の南側の角は前に書いたように下駄屋である。氷川神社の裏手から、小沢商店の角を通り、渋谷川に沿った「中通り」へ出る道と十字に交っている。その道を越えてからは少し上り坂になっていて、左側の角にかなり大きな門構えの家があった。そこに私たちより二つぐらい上の女の子がいて、その坂道でそっちの方の女の子同士で「石ケリ」をしていた。女の子が片足をあげ、真剣な顔付で、石ケリをていねいに進めて行く恰好が、なんとなく好もしかった。  女の子たちは、十字路を越えて、平らな私たちの領分まで来て、石ケリをすることがあった。私たちも入れて貰った(私がこの遊戯に詳しいのは、そのためである)。  一度その女の子の家へあがって遊んだことがある。するとそこに私たちと同じくらいの男の子がいたのは驚異だった(ちっとも外へ出て来なかったから)。その家にはよく磨かれた広い廻り廊下があって、私たちはぐるぐる廻った。上品なおばさんがいて、飴玉をくれた。それはいまの栄太楼の「梅干飴」に似て、赤や黄色の、固くかたまった飴だった。私がはじめて口にする、おいしい飴だった。それを口に含んだまま、廊下を走り廻っているうちに転んで、飴を喉に詰らせてしまった。私は眼から涙、口からは涎を垂らしながら、もがき苦しみ、やっと飴を中廊下へ吐き出すことが出来た。それから大声をあげて泣き出した。すると不意にそばの襖があき、髭を生やしたこわいおじさんが出て来て、私はぶたれた。  おじさんとしては、子供が走る音を我慢していた末の、大さわぎなので、腹に据えかねたに違いない。しかし家ではうるさいという理由でぶたれたことはなかった。私たちはそれっきりそのうちへ行かなかった。 「あのうちには頭の悪い子がいた」 と小沢松太郎さんが教えてくれた。つまりわれわれはその子の遊び友達として、多分その姉と母親の考えで家へあげて貰ったのだが、あまり行儀が悪いので、失敗してしまったのだった。  飴についてはもう一ついやな思い出がある。小沢商店の角から二、三軒来たところの私の家の側に(つまり私の家と殆んど背中合せになる)、飴専門の店ができた。それは白くやわらかで、両側に斜めの切口を持った円筒形の飴で、いま思うと、その頃流行り出した朝鮮飴である(原料は小麦粉、終戦後われわれはこの飴に再会することになる)。  白いエプロンをかけたおばさんが店番をしていて、私は時々母にせがんで、五つくらいずつ買って貰った。おばさんはそれを小さな紙袋に入れてくれたが、それは新聞紙を切りはりしたようなそまつな袋だった。或る日、風邪で寝ていた時、私はおばさんにその袋を作ってあげようと思い立った。  この頃から私に病気の記憶がはじまる。病気になると、お刺身を取ってくれるのが楽しみだった。そのお剌身ほしさに虚病を使ったこともある。体温計を腋の下へ挿まされ、熱をはかられると、大抵ばれてしまうのだが、力いっぱい体温計をしめつけていると、六度八分ぐらいまでなら上らないこともない。  うんうん呻っている私を、母が見抜いたという笑いを浮べて、敷居際から見下している顔付を覚えているが、それでもお剌身は取ってくれた(二度目の虚病の時から取ってくれなくなったが)。病気は大抵父が出かけてからなるものにきまっていた。お刺身はひる御飯のおかずである。病気になると、ふだんより、大事にして貰えるので、私は病気は好きであった。なお私はいまでもそうだが、わりあい風邪を引き易い体質である。  そんな病気の癒りかけの日、古新聞を御飯粒で張って袋を二つか三つ作って、その飴屋へ持って行った。おばさんは「ありがとう、お利巧ね」とかなんとかいって、飴を一つくれた。  私は大人の役に立つことができるからうれしくて、次の日か次の次の日、また五つこしらえて持って行った。おばさんはこんどはなにもいわなかった。薄ら笑いを浮べながら、私の作った不細工な、どうかするとごはん粒が折り目からはみ出していたりする紙袋の一つに、飴を一つ入れて返してくれた。  この時のおばさんの薄ら笑いに私の心は凍った。私はまだ五歳だったが、それが大変きまりが悪い、いやしいことであると感じたのである。私が心の内で報酬の飴を予想していたからかも知れない。しかし同時におばさんの薄ら笑いには、そういうことを子供にさせる母に対する嘲笑を含んでいるということも理解したと思う。  一年後、渋谷駅付近の家へ越してからだが、父が夕食をはじめてから、牛肉を食いたいといい出したことがある。近所の肉屋に私が買いにやらされた。二十銭か三十銭の、ひどく少ない金額だった。私がお金を出すと、牛肉屋のおじさんがにやっと笑った。  それが大人が買いに行くにははずかしい量であることを私はすぐ理解した。同時に、おじさんの笑いが、子供を使に出す両親の見栄に対する嘲笑であることも。この時私が理解したのが、前に飴屋での経験があったからかどうか、わからない。私はこの後、父が相場を当てたので、中学に入った頃から、比較的裕福に育てられることになるのだが、幼い時の貧乏の経験は、私の心に深い刻印をきざんでいる。いわゆる貧乏性は私から抜けないのだ。  下渋谷五四三番地の家に、父がいた記憶はない。一度明るいうちに帰宅して、玄関の前の板を渡って来る姿を覚えているだけである。父は依然兜町のあまり成績のあがらない外交員で、恐らく朝は私が寝ているうちに出勤し、夜はおそく帰るのが多かったからではないかと思う。雨の夜、上智《あげち》の岩崎さんの家へ思惑の金を借りに行って断られ、帰途近道をしようとして、氷川神社裏の練兵場を突切って、兵隊の掘った壕に落ち、泥まみれで帰って来たことは、前に書いたが、それはこの家に越してからのことである。もちろん当時の私が知るはずはなく、あとで聞いた話なのだが、家が貧乏なのは子供にもよくわかった。  まだ五二一番地の家にいた頃、姉のお古の矢絣を仕立て直して着せられた。「女の着物、女の着物」と小沢商店付近の男の子にからかわれ、泣いて帰った記憶もある。  五四三番地の家での父の記憶は、夕食後、連れられて行った家についてである。路地を出て、右へ少し行くと、すぐ一メートルぐらいの狭い小路になってしまうことを前に書いた。それを抜けると宝泉寺参道だが、それを少し渋谷川の方へ下ったところの右側に、宮本さんという同郷人の家があった。  父より少し年上の感じの白髪まじりのおばさんと、その養子という若いおじさんの二人暮しだった(一体父は話好きでよく夕食後、一人で近所の家へ話をしにいった)。  父に連れられて、その狭い路地を抜ける記憶がある。宮本さんの家の茶の間の空気はうちより明るかったように覚えている。宮本さんのおばさんは少し肥った静かな人で、坐ったまま、私を保護的な眼で見ている映像しか残っていないが、或る時、巌谷小波のお伽話の合本を貸してくれた。  それは私が接したはじめてのお伽話の本だった。私は家へ帰るとすぐ、寝る前に、それを読んでくれと、母にせがんだ。『ジャックと豆の木』か『マッチ売りの少女』の話を母は読んでくれたが、母の声も表情も、妙に陰気だったのを憶えている。  その時はなぜだかわからなかったが、その理由を私はかなり早くから理解した。母は学校は小学校しか行かなかったから、ハイカラな小波お伽話などは知らなかった。桃太郎、カチカチ山などの話はきかせてくれたが、種が尽きると、次に教えてくれたのは、「先代萩」「阿波鳴門」「道成寺」など、浄瑠璃か歌舞伎の筋である。母の名はつるだから、私は巡礼おつるの話を母の経験とまちがえた。おつるが十郎兵衛に殺されるところまで来て、 「お母さんのお話じゃなかったの」 といって、父に笑われた記憶がある(これも五四三番地の家のことでなければならないが、映像としては残っていない。笄町の家で、発電所の煙突の映像と共に、父の脅かすような、からかうような声の記憶があるように、映像はなく、ただ事件の感じとして残る記憶もあるらしい)。  すると宮本さんのおばさんが小波お伽話の合本を貸してくれたのは、そういう私を憐れんだことになるが、それは母には侮蔑と取れたに違いない。その本を読むのが愉快でなかったのは当然である。  十五年後、母が死んでから、伯父叔父が集った席で、父が宮本のおばさんのことを話題にしたことがある(おばさんはずっと前に死んでいた)。 「わしとの間を、お前ら変に見てたんやないか、と思ってるが」と父はいった。  伯父たちは否定した。しかし父が自分でそう思うくらいならば、母としてはなおさら感じるものがあったに違いない。小波お伽話を読んでくれた時の母の暗い表情は、そういうこともからんでいた、と思われる。  母が笑うのを見たことがなかったことを、私はいまこの文章を書きながら、思い出している。ほほえんだ顔はいくつか憶えている。しかし母が大口をあけて、心から楽しそうに笑う顔はどうしても思い出せないのだ。  むろん人間は笑わずには生きて行かれない、幾度か笑ったことがあったに違いないのだが、私の記憶には残っていないのである。母は昭和五年四月、私が二十二歳の時四十七歳で死んだ。笑ったことはないということはないにしても、二十年育てた長男に、その記憶がないなどということがあっていいだろうか。  芸妓であった母は、大岡の家へ押しかけるようにして来てしまったため、父はむろん、親類に対して気兼ねしながら暮していた、と私は思っている。家が裕福になってから、自然親類が集まる機会が多くなっても、母は腰が低かった。私も入って花札を引いたこともある。母はあまりうまくなく、打ち方について父に文句をつけられてばかりいた。たまにでき役を作っても、母は声を出して笑うことは絶えてなかった。少なくとも、私は憶えていないのだ。  五四三番地の家で、いっしょに銭湯へ行った記憶がある。宮本さんの家の前を通り、渋谷川沿いの道へ出て、たしか少し右へ行ったところだった。むろん街燈はなく道は真暗だったので、一つ目小僧が持つような釣鐘提灯を持って行った。銭湯ののれんを分けて暗い道に出てから、母が蝋燭に火をとぼし、たたんであった提灯をのばす姿が目に浮ぶ。貧しく淋しい生活だった。  やがて私は学齢に近づき、渋谷駅付近の渋谷第一小学校へ入るために、学校に近い中渋谷一八〇番地、稲荷橋のそばの家へ越すのだが、氷川神社前の家でもう一つ憶えていることを書いておく。  ミッちゃんという同い年の遊び仲間ができたため、小沢商店に集まる年上の男の子と、氷川神社裏の原へ遊びに行くのは少なくなった。むしろ表の一の鳥居や参道の方で遊ぶことが多くなった。鳥居をまわって、追っかけっこや陣取りをして遊んだ。そしてそこらにいた年上の男の子に叱られたことがある。遊ぶうちに自然鳥居をくぐることになるのだが、お詣りする時のほか鳥居をくぐってはいけない、罰が当るぞ、とおどかされた。遊ぶ時は、必ず鳥居の外側を通らなければならない、というのである。  その子はきっと参道に家がある子で、神社に対する尊崇の念が強かったに違いない。とにかくこれは私が超自然な力による罰ということを教えられたはじめであった。むろんわれわれはかしこまって、いわれた通り鳥居もくぐらず、石畳も踏まないように気をつけた。  ところが或る日、私は一人のおばさんがなにか包みをぶら下げて、その鳥居をくぐるのを見た。そのおばさんは間もなく左手に切れ、相撲場の方へ行った。お詣りはしないで、どっかへ行ってしまったのである。  疑問が湧いた。お詣りのためでなく鳥居をくぐって、ほんとに罰が当るだろうか。男の子に注意される前に、われわれはなんども鳥居をくぐっている。なんの罰も当りはしなかったではないか。  私はもう一度鳥居をくぐってみて、罰が当るかどうか、ためして見ようと思った。こわかった。なに気なくくぐるのと、ためしとしてくぐるのでは、気の持ち方がちがう。私は息を詰め、体をこわばらせて、ゆっくり鳥居をくぐった。そして一散に家に駈けて帰って来た。幾日経っても、なんの異常も起らなかった。  その後も私はなるべく鳥居はくぐらないよう気をつけた。しかしそれはそれでも遊びに別に差しつかえないためであり、われわれに注意した男の子がこわかったというだけの理由からだった。  なんでもないことのようだが、とにかくこれらが私の智慧の始りだった。しかしこういう不信心はやはり私の家が他所者で、氏神に詣るということがなかったからだったろう。私は氷川神社付近に足掛け三年いたことになるが、石段を上って本殿にお詣りした記憶はなく、祭礼に連れて行かれたこともない。氷川神社はこの辺一帯から、広尾方面、赤十字病院前まで氏子を持つ大きな神社で、秋の大祭には参道に屋台が並び、奉納相撲もあったはずである。しかし私は連れられて行った記憶はないのだ。或いは私にあれを買ってくれ、これを買ってくれ、とせがまれるのをおそれたからだったか。結局家が貧乏だったからか。 [#改ページ]    四 稲荷橋付近  私がいまの渋谷駅前東急会館の位置にあった渋谷第一尋常高等小学校へ入学したのは、大正四年四月、早生れの私の六歳の時であるが、学校の近くの稲荷橋付近へ引越したのは、その前年の秋のはずである。近所に靴をはいて幼稚園に通っている子供がいて、羨しかったのを憶えているからだ。渋谷川に沿った道で遊んでいたら、下駄屋の前の道で石ケリをした年上の女の子が通りかかり、 「あら、この辺にお越しになったの」 とませた口調で声をかけられ、どぎまぎした記憶がある。その時はまだ学校へは上っていなかった。  それは中渋谷字並木前一八〇番地である。いまの渋谷駅南側を跨ぐ首都高速の下の道と、駅東側の通りとの交叉点の西南の角、歩道橋の降り口のところに渋谷川にかかった小さな橋がある。  これが稲荷橋で、橋を渡ると、右側の路地に屋台に毛の生えたような小さな飲食店が並んでいるだけで、道はまもなく東横線の高架の下をくぐり、国鉄用地にぶつかると、左右に分れるさびれた裏道となる。  駅付近の区画整理の残り屑の、見る影もない一画になっているが、渡って右手の飲屋横丁はもと田中稲荷の境内の参道の名残りである。十年ぐらい前まで、本殿がその北二〇メートルにあったが、首都高速下のバイパスが出来る時、取払われた。  飲屋横丁の反対側に、同じくらいの幅の小路が、東横線の高架に沿って南へ入っている。渋谷川との間の狭い地面に、橋の袂は料理店、その次に二軒の町工場が並び、次は空地となって、車の置場になっている。  ほぼこの空地の位置、いまの番地でいえば、渋谷三丁目一八番地が、もと私の家のあったところである。  渋谷川を背にした三畳、四畳半、八畳の三間の平家で、格子戸の玄関がすぐ路地に開いていた。ただしこの家は案外長持ちがして、昭和三十四年に、私が通りすがりにこの路地に入ってみた時は、傾きながらも残っていた。田中稲荷の本殿もまがりなりにもあった。境内の銀杏も幹だけは残っていた。それがいまは元参道の飲屋を除いて、完全に消滅してしまったのだから、この十年の間に、首都の変貌がどんなに急に進んだかがわかる。  私が引越した大正三年は一九一四年だから、第一次世界大戦の始った年である。漁夫の利を占めた日本に好景気が見舞った年で、渋谷駅付近は大きく変貌しようとしていた。  当時の渋谷駅は約二〇〇メートル南方、いまの貨物引込線が輻輳しているあたりにあった。都電(当時市電)が駅の北側の宮益坂下ガードの手前から南に曲り、鉄橋で渋谷川を渡って、稲荷橋の道にぶつかるところまで来ていた。  玉川電車はいまは三軒茶屋から出る世田谷線だけになってしまったが、当時は二子玉川と渋谷を繋ぐ主要な近郊線だった(第一の目的は砂利を運ぶためだが)。乗口はいまの駅前広場の南側にあったが、引込線が、稲荷橋通りの西に市電、国鉄と重ったあたりまで来て、そこにも乗口があった。つまりこの地域一帯は、すべて旧渋谷駅との関連で設計されていたのである。  山手線はもとの日本鉄道で、明治十八年、品川—赤羽間を結んで東海道線、東北線を連結した。中間駅は板橋、新宿、渋谷の三か所、当時渋谷の中心はむしろ広尾方面にあったので、四反町に駅を設けようとしたのだが、土地収用と煙害をおそれて住民が反対し、中渋谷に繁栄を奪われることになったのは前に書いた。  もっとも青山から宮益坂、道玄坂、三軒茶屋を経て、二子玉川、溝の口に至る街道は、「大山街道」という呼称の示す通り、相州大山への参道であるが、松田の先で東海道と連絡する。いわば裏街道なので、天正十八年徳川家康はこの道を通って江戸に入府し、文久三年慶喜は、横浜からフランスの傭船によって挙兵上洛しようとする過激派の計画に捲き込まれないため、この道に馬を飛ばして江戸城に入った。  従って江戸時代の繁栄は広尾方面にややまさるものがあったが、慶応年間、国情騒然の度が加わるに及び、宮益坂上に関所を設けて、人別、積荷を改めた。旅人が大山街道を避けたので広尾に繁栄が集中したにすぎない。  明治三十年代、駒場に騎兵教習所、世田谷に砲兵連隊、輜重兵連隊が出来ると、兵士の慰安及び御用商人が軍人を饗応するために、道玄坂上の花街が発達した。渋谷駅は日清、日露両役に、これら部隊の積出駅になった。列車待ちの兵士と見送りの家族のために、渋谷駅前から稲荷橋通りへかけて、旅館や料亭ができ、駅前の小繁華街を形成したのである。明治四十四年、それまで青山七丁目の車庫までだった市電が、稲荷橋通りに達した。  しかし私の記憶ではこういう消費的殷賑は、稲荷橋袂までは及んでいなかったようである。私の家のある路地の入口の向って左角は「葉茶屋」(幕末から明治初年へかけて道玄坂は狭山茶の栽培地で、東海道線の開通によって、宇治茶、静岡茶が大量に流入するまで、東京の並茶の供給を引き受けていた。この「葉茶屋」はその名残である)右側は「米屋」、その向い側、田中稲荷鳥居の左側は肉屋であった(私が二十銭の肉を買いに行って、主人に笑われたのはこの肉屋である)。  神社側の字名「大和田下」は、道玄坂中腹南側の「大和田」の下という意味である。古い地図ではいまの渋谷駅西口一帯からこの辺にかけて田圃で、それは田中稲荷の名に痕跡を止めている。渋谷駅開設と共に町屋化したのである。  路地の両側はしもた屋ばかりで、路地はいまのように突抜けてはいず、私の家の左隣の伊藤という医院で行き止りになっていた。家の向い側は一メートルばかりの石垣で、空地になっていた。そして黒い鉄道の枕木を立てて針金で編んだ垣によって、隔てられていた。現在東横線の高架になっているところを見ると、ここから渋谷駅の用地だったのではないかと思われる。  路地で遊ぶのは路地に家のある子供だけだった。或る時、枕木の垣の向うに、われわれよりずっと年上の小学校四年生ぐらいの子供が現われた。その空地の他の三方は板塀になっていたが、左手奥に一つの潜り戸が開いていた。そこから出て来たのだった。その子にはわれわれと同年配の弟がいて、やがてわれわれは枕木の垣を越え、潜り戸をくぐって、その子の家へ遊びに行った。  黒ずんだ土間に、大きな釜がおいてあり、右手は三十畳敷ぐらいの広間になっていた。敷いてあるのはわれわれの家にある畳とは違って、縁のない変な畳であった。その全体が波打ち、変な匂いがした。  土間を抜けると広い駅前広場に出た。いま思えば、この家は列車待ちの兵隊の宿舎、もしくは駅員の宿舎であった。われわれはやがてその家の子供達といっしょに、駅の構内に入って、そこらにこぼれている石墨を拾い、積荷の間で隠れん坊をした。  昭和十年頃、小林秀雄が「故郷を失つた文学」を書き、東京には故郷というようなものがなくなっていることを指摘した。たしかに美しい山や水に囲まれた環境は、大正十二年の大震災以後の東京にはなくなった。小林の論文はそういう東京の変貌の事実を踏まえた指摘である。私にも同じ実感があるが、しかし人間に故郷がまったくないということはあり得ない。中渋谷一八〇番地の路地の環境が、私にとっては故郷なのではないかと思った。  路地は東は渋谷川、北は田中稲荷、西は鉄道に取り巻かれている。路地の中と稲荷の境内が第一の遊び場だったが、駅付近は珍しさがあり、好きな遊び場であった。隠れん坊で、秣《まぐさ》の山の中に偶然開いている穴の奥深くかくれたこともある。鬼になって、近道をするために、引込線に降りたこともある。うつむいて駆けていて、音もなく近づいて来る貨車と出会って驚いた(引込線にはよくこういう風に「流れて」来る単独貨車があった。終点の停止抑柵であまり衝撃なく止まるぐらいの速度に、そっと切り離されるのである)。  あわててプラットホームに上ろうとしたがかなわず、ホームと貨車の間に、自分の小さな体の入る隙間があるような気がして(動顛して、反対側にのがれることを思い付かなかった)ホームにしがみつき、近くで新聞をたたんでいた大人に引き上げられたこともある(もしこの大人がここにいなかったら、私という存在はこの日限り地上から消滅していた)。  市電の終点の木造の待合室では雨の日でも遊べた。市電と平行した国鉄の線路との間に柵はなかった。われわれは電車が来かかると、針金をたばねて線路の上におき、それが一枚の真白な薄板になるのを楽しんだ。  当時の汽車は石炭を焚いたから、駅前には旅館のほかに石炭屋があった。その家の屋根も、線路向うに点在する小屋の屋根も、煤煙のために黒ずんでいた。私の家にも風の加減で、へんに大きい煤煙のかけらが舞い込んで来ることがあった。小林の論文を読んだ頃、たまたま山手線の車窓から、線路脇にすぎる雨に濡れたそういう小屋を見て、「こういうものがおれの故郷なんじゃないかな」と思ったことがある。  渋谷については、私とは世代が違うけれど、奥野健男氏が、その地域的特徴が彼の人格形成に関係した点を考察している(「文学における原風景」、季刊誌『すばる』連載)。奥野氏は幼時より現在まで、恵比寿駅西方の高台に住んでいた。世田谷から広尾へ入る交通路、下広尾の長く延びた町屋を見下す、欅の群生で有名な地点である。奥野氏はその欅の消滅、幼児にとって有閑公有地や屋敷跡に生れた空地、「原っぱ」の考現学的考察を進めている。  その所説には傾聴すべきものが多いが、私のように同じ渋谷で育ちながら、下渋谷から松濤の方まで転々と移住した者にとっては、氏のように一貫して同じ場所に住んでいた人に比べると、同じ土地についてもその感覚はゆれ動いている。この後私は大向、松濤など、線路の西側、つまり郊外寄りに移って、記憶は少し田園的になるのだが、人間の郷里感覚は、外界が少し明瞭な形を取りはじめる六、七歳の頃に、その根底が作られるような気がする。中渋谷一八〇番地の路地に、私は六歳から九歳まで住んでいた。私が雨に濡れた鉄道小屋に郷愁を感じるのは、そのせいだろうと思う。  田中稲荷は金王八幡の末社で、『江戸名所図会』にも見えるからかなり古い神社である。正面鳥居をくぐると左側はすぐ町屋に接して、黒塗りの格子塀で隔てられているが、約一〇メートル進むと、左側に境内が開けて、神楽堂があった。十月十三日の例祭に神楽が演ぜられるほか、臨時に踊りの大会が催されることがあった。駅付近の料亭の女中や、道玄坂の大和田横丁の遊興地から姐さんたちの参加があったかも知れない。普段の日でも、飴屋やしんこ屋が屋台を据えて、子供を呼び集めることがあった。入ってすぐ右側に川を背にして二軒ばかり掛茶屋があり、おでんの鍋が出ていた。子供には関心はなかったが、これが今日の飲屋の前身であろう。  境内には樹がよく繁って渋谷川に影を落していた。一名「川端稲荷」といい(むしろこれが通り名であったから、以後この名称を使う)、本殿の右手に大きな銀杏があり、秋にはギンナンを拾うのが楽しみだった。初夏にはその長く張り出した根の、窪んで溝になっているところへ、さいかちや蝉の幼虫を匍わした。  ここには近所の町屋の子供が集って来る。私と同年配の子供はいなかったが、年上の男の子からその頃流行っていた「カチューシャの歌」を教えて貰った。   カチューシャ可愛いや   別れの辛さ   せめて淡雪とけぬまに   神に願いを   ララかけましょか  立川文庫を読んで貰い、「アレーという女の悲鳴」という文句に、故知らず胸を躍らせたこともある。要するに私はそれまでの氷川神社前の静かな居住地区から、突然町の中に放り出されたことになる。 (画像省略)  渋谷川が近くなったことも大きな変化だった。何度も書くように、これは新宿御苑内の池、明治神宮内の池や、原宿、千駄ケ谷方面を水源に持つ野川であるが、新宿大木戸から玉川上水の余水を引いていた。末は古川橋、一の橋、二の橋、赤羽橋を経て、名を古川、赤羽川と変えて、竹橋で東京湾に注ぐ。  当時の左岸はいまのような町屋ではなく、川端通りがじかに川に沿っていた。そしてところどころ商家が川の上に建てられていた。稲荷橋付近では、橋の下《しも》一〇メートルから、私の家の線までに五、六軒、それからしばらく途切れるが、並木橋付近からは氷川神社の前あたりまで連続した河上家屋になる。  宮益橋(いまの渋谷駅北側)の上《かみ》で、代々木八幡方面に水源を持つ宇田川が合流している。道玄坂下北側の鈴井薬局、大盛堂などは宇田川の河上家屋であった。そして秋の台風シーズンにはよく浸水した。上流の家屋が破損して流されると、木材が川下の家に引っかかって被害を大きくした。大きな災害の記憶はないが、私の家はほぼ裏手の河上家屋と同じレベルにある。一度台所の土間が一面に水になって来た異様な光景を憶えている。  今日の渋谷川には玉川上水の水は入っていない。完全に護岸され、舗装された河床を、ちょろちょろ汚い水が流れているだけで、もはや「川」ではなく「下水」である。従って暗渠とされなければならないが、沿岸にはまだ河上に構築物を突き出している家があり、撤去命令を出すのは、都か区かが問題になっているという。  当時はまだはやや目高が棲めるくらい水は澄んでいた。蒲鉾板に釘を打ったものに、凧糸を結び、稲荷橋の上から落して、下流の瀬の上で躍るのを眺めるのが私の遊びとなった。糸を延ばして、河上家屋の下をくぐって、先の明るい水面まで出してみた。糸を橋の欄干に結びつけておき(当時は木橋だった)、川沿いの道を河上家屋の切れるところまで駆けて行って、私の舟が水上で躍るのを眺めて喜んだ。  大人が網を持って、川端稲荷横の淵をさらっているのを見た。私は母に使い古しのざるに布を張った網を作って貰い、川に入ったことがある。水は上から見るほどきれいではなく、水底の石には褐色の水苔がついていて、ぬるぬるして気持が悪かった。河上家屋の下に入ると、木の朽ちた臭い、台所の臭い、便所の臭いがし、日光が落ちているところでは、水底に沈んだ飯粒が見えたりした。  渋谷川は氷川神社の前あたりから深くなって来る。氷川神社前の家では、子供が川に近づくのは禁じられていた。浅い上流へ引越したので、川に入ることが許されたのである。  向う岸の川端通りに沿った方は、大半が積石で護岸されていたが、私の家の側は河上家屋のある部分しか護岸されていなかった。それも河原に積もった土を残した部分的護岸である。その土の上へ、木組みを建てて土台とする。対岸の道路の際、恐らくは直立護岸によって、拡がった部分を一方の土台にして、河上家屋は支えられていたのである。  この河上家屋と私の家は背中合せになっている、と前に書いたけれど、その間には三メートルばかり隙間があった。この関係を私がこんなによく憶えているのは、路地の中ほどに、厳密にいえば、私の家の路地入口に近い方の隣家の角から、川の方へ廻って行く一つの小路があったからである。その北側の川岸に井戸があった。一本のたしか柳が植っていて、鋳物で作った汲上げポンプがついていた。路地の川側四軒の家の共同井戸なので、母が井戸替えにかり出されて、姐さんかぶりにタスキ掛けで、浅葱色の腰巻を出して、働いていた光景を憶えている。  そこから、丸太を三本ばかりたばねた小橋が河上家屋の裏手にかかっていて、この辺から家の裏の構造を観察することができた。そして家と家との間の、人一人やっと通れるぐらいの間隙を抜けて、河沿いの道に出られるようになっていた。  川端通りへ出た右側が古道具屋だったのを憶えている。そこに私より四、五歳上の男の子がいて、私に絵や数字を教えてくれたからである。道の向う側は太田眼科病院で、ここにも大きな男の子がいた。その並びは何屋だったか、子供のいない家は存在しないも同然だったので判然としないが、左手に大きな乾物屋があったのは、時々使いに行ったので憶えている。その隣、そこは丁度稲荷橋を渡った正面になるけれど稲荷亭という寄席だった。しかし私の越したころはあまり流行らなくなっていて、休んでいる時の方が多かった。稲荷橋付近から繁栄がだんだん去ろうとしている頃だったのである。  その向って左隣が子供相手の駄菓子とおもちゃを売る店で、そこから細い横丁が入っていた(少し行って右へ曲ると、宮益坂と平行に青山台地から降りて来る道へ出る)。その横丁から先の河向うの店屋は、再び思い出せない。一番先が文房具屋で、そこで道が少し右へ曲ったところから渋谷第一小学校の敷地になる。一帯は青山台地西辺の傾斜だから、敷地は道より少し高く、土手になっている。花崗岩の門柱の間を入ると右手に機械体操と砂場があった。校庭をコの字に囲んで、平屋の校舎、小使室、便所がある。正面の土間を抜けると二階建の校舎にかこまれた中庭になる。校舎の屋根の中央には飾りの小塔がついていた。  これらの校庭と校舎もとっくの昔に取り払われて、渋谷駅東側の広場になっている。いまの東急会館の位置が校舎の位置に当ろうか。私はこの小学校に四学年までいて、それから線路の西側、道玄坂通りの向うの大向小学校に転校した。この小学校もいまは代々木森林公園の傍に移り、その跡に建っているのは、またもや東急デパートである。つまり私が通った小学校は、二つとも東急の下になってしまったのだ。  学校へ上ってからの子供の生活の大部分は、学校で過ごされる。教室にも、校庭の樹木の一本一本にも、思い出がある。それらがきれいさっぱり存在しない私は——やはり故郷を持たない人間かも知れない。今日では地方都市の変貌も東京に負けない速度で進んでいるが、多くの町や村の小学校には、昔と同じ木が立っているだろう。地方生れの人はやはり倖せである。  川端稲荷前の路地には色んな子供がいた。奥の伊藤さんには俊一君という一つ上の子供がいた。三つぐらい上に静子さんという姉、二つぐらい下に君子さんという妹がいた。お父さんは開業医で、むろん病気になると厄介になった。  路地の入口に近い向い側に、少し年上の女の子が二人いて、静子さんと路地で石ケリをした。私も仲間に入れて貰った。学校へ上って、女の子と遊ぶことが嘲笑の的になるまで、私は男の子より女の子と遊んでいた。  右隣の家には私と同じ年頃の男の子がいた。この二軒は変にシンメトリカルに出来ていて、私の家の奥の八畳左手の窓は、隣の同型同大の窓と向い合っていた。間が一メートルしかないので、われわれはよく窓に腰かけて遊んだ。しかしこの男の子はまもなく越して行ってしまったらしく、学校ではいっしょにならなかった。  その先の、井戸の方へ曲る小路を隔てて、二軒長屋があった。まもなく同い年の男の子が越して来た。その子は恐ろしい話を知っていた。前後の脈絡を覚えていないが、兄がよその畑にかぼちゃを盗りに行った。鍬で切り取って(これは少しおかしいが、とにかくそう覚えているのである)帰って来てよく見ると、それは弟の首だったという話である。それが畑の持主の復讐だったか、もっと陰惨な背景があったか、覚えていないが、その男の子はこの話を夕闇の迫る川端稲荷の境内で、境内の裏手で実際にあった出来事のように話したので、私は震え上り、一散に逃げて帰った。この男の子もそのうちどこかへいなくなってしまったが、その頃はよそから越して来て、そういう怖い話を教える子供がいた。  そのように私もまた、渋谷のあちこちにしばらくいて、いなくなってしまう子供の一人に属していた。心はなにか希望に燃え、しかし不安で、路地に駆け込んで行く頭の大きい子の後姿が浮んで来る。  時が経っても道は公有地であるから、その位置は変らない。路地はいまも同じ幅でそこにある。共同井戸のあった小路と井戸はなくなっている。いまは車の置場となった空地に一本の木がある。しかし枝は痩せ、葉は落ちていて、なんの木とも識別できない。昔の井戸の傍にあった柳の木ではむろんない。排気ガスに汚染された一帯は、すでに人の住むところでなくなっている。そのように私の過去はもはやここには住めそうもない。  この路地へ越して来てから、私の生活に起きた重要な変化は、父が私を打つようになったことである。私が成長して、ひたすら保護される幼児から、お仕置によって鍛える必要のある年頃にさしかかったためか。或いは父になんか兜町の店で意に満たぬことが多くなったためか。  川端稲荷付近は、私の通学に便利であるだけではなく、ひと跨ぎで市電の終点だから、父にとっても通勤が楽になったはずである。当時渋谷から青山通り、赤坂見附を経て三宅坂でお濠端へ出る線があった。そこで左折すれば半蔵門、九段、神田へ行く線であるが、右折して、日比谷、銀座尾張町(四丁目)、築地へ行く「築地行」があった。電車はそこで行先掲示を「両国行」にかえ、左折して新富町、八重洲橋を経て、茅場町に至るのである。乗換えなしで勤務先の兜町に着いてしまう。  或いはそのため、帰宅が早くなり、叱る機会が多くなったのかも知れない。父は私だけではなく、母にも当った。夕方、店から帰ると、一通り留守中の家内の不始末、家具の位置や障子の汚れなどに文句をつけた。それから、私をなぐった。  父が家にいる人として、明瞭に意識されるようになったのは、稲荷橋の家からであるが、それがこのようにむやみと怒るとこわい人としてであったのは不幸であった。  私は入学に具えて、この頃から母にカナと足し算、引き算を教わりはじめていたが、帰宅した父はおさらいを命じ、私が間違えると嘲笑した。日曜日など将棋を教えてくれることがあった(私が金や銀という漢字を憶えたのは将棋を通じてであった)。しかし父のやり方は子供をいたわり導くのではなく、からかうのである。私の指し手を嘲笑し、セッチン詰といって、玉を盤の角へ追いつめて詰めるまで、勘弁してくれなかった。私は泣き出した。すると父は「雨が降った。雨が降った」とはやし立てた。  今日の私の解釈では、父は兜町での相場の損失や勤先での鬱憤を、妻と子供に晴していたのである。生れつき呑気な性質だったので、子供をなぶりものにすることが、どんなに子供を傷つけるかを察する想像力に欠けていたのである。金と勝負しか頭にない単純な性質だったというにすぎないのだが、六歳の子供にとって、これはわけのわからぬことであり、この上なく辛い悲しいことだった。  その頃の写真が二枚残っている。一つは大正二年十一月五歳(数え)と記されているもので、自然に成長した利かん坊らしく撮れている。ところが大正四年四月初登校の写真となると、同じ袴をはき、「みやげ」を取った羽織を着た姿ながら、眼は光を失い、しょんぼりした姿になってしまった。稲荷橋へ移ってからの父のお仕置の効果である(五歳の写真は青山七丁目吉川写真館で、初登校のそれは道玄坂下谷崎写真館で撮っている)。  こういう時、子供の考えることはきまっている。つまり自分は両親のほんとうの子供ではないのではないか、ということである。「糖福米福」「シンデレラ姫」など継子話から生れた空想である。  度々書いたように、姉は母方の大叔母の家へ貰われていたし、弟辰弥はこの次の年まで生れなかったので、私はずっと、一人っ子であった。家庭内に競争者はなく、ひがんでしまう理由はないのであるが、なぜこういじめられるのか、わからなかったから、自分がほんとうの子供でないと空想するのが、子供にとって最も合理的な結論となったのである。  私はこのことを母に訊いたろうか。訊いたような気もする。その訊くことが、父のお仕置をゆるめて貰うことになる、という打算が働いたような気がする。しかし結局はっきりした記憶はないので、いい出せなかったのではないか、と思う。  はっきり憶えているのは、二日間仏壇に祈ったことである。私の家には四畳半の茶の間に神棚があり、大神宮とお稲荷様が祭ってあった(多分氷川神社前の家にもあったのだが、この家から私が意識するようになった)。父はその磊落な性質に似合わず、不思議とこの二種の神を信心していて、夕食前手を洗い、神棚の下に坐って、長い間なにか口の中で唱えていた。  仏壇の方は奥の床の間の隅においてあった。私が仏壇に祈ったのは、多分神棚は父が祭っている神だから、私のいうことを聞いてくれない、と思ったからに違いない。  ただし私の祈ったのは、父が私をなぐらないように、ということではなかった。「自分を女の子にかえて下さい」ということだった。  この奇妙な祈りについて、私はこれまで誰にもいったことはない。動機はたしかに父の懲罰から脱れるためであった。自分が女の子なら、こんなに叱られずにすむのではないか、という気がしたのである。しかし直接父の気持の転換を祈らずに、女の子にして下さいという屈折した形を取ったことについては、なにか私の内部から出た動機がなければならない。  男としてこれは少しはずかしいことなので、私はひそかに他人の書いたものや、精神医学の本などに例を捜していたが、生憎これまでにうまく私の場合に該当する例の載っている本にぶつからない。本になくても、友人の精神病学者に訊いてみることは可能だが、私はこの文章を書くに当って、わざとそれをしないことにした。先入見に煩わされず、自分で回起と内省によって、一応問題を解決してみる。その上改めて専門家に相談することにしたい。  女の子になったら、父にいじめられずにすむ、という空想は根拠のあるものだろうか。その頃習慣では、女の子が弱くて、保護される性だから、ぶたれないと思う根拠は薄いようである。家に女の子はいなかったが、近所の女の子(例えば下渋谷五四三番地の向いの家の女の子)が、お仕置に会って、「ごめんなさい」と泣き叫んでいるのを聞いたことがあった。私の一番よく知っている女性は母であるが、母も帰宅した父によく叱られたことを前に書いた。  或る夜、母が氷川神社前にいた頃の知合いの岩崎さんの家へ行って、なかなか帰って来ないことがあった。私は淋しくなって泣いた。隣の床に父が寝ていて、やけに高い煙管の音をさせるのがこわかった(母は寝床を用意してから出掛けたので、特別の用だったに違いない)。「うるさい」とどなられると、私はなお泣いた。  前述のように岩崎さんの奥さんは母の芸妓時代の先輩だったから、共通の友人が上京して、招ばれたのだったかも知れない。岩崎さんは父の兜町の仲間だから、母だけ行った理由はほかに考えられない。  遂に母が帰って来たが、父の枕元へ坐らされ、煙管で膝を叩かれて、長い間叱られていた。私はこわくなり、また泣き出した。 「とにかく、昇平を寝かしてしまえ」 ということになり、母は着物のまま、私の寝床に入って来た。母の胸元の銘仙の着物と、固い帯の固くて冷い感触を覚えている。  どこから見ても、私のそれまでの経験に、女の子になれば叱られないと空想する根拠はないのである。せいぜい違った存在となれば、現状を転換できるかもしれないという程度の、ごく薄弱な可能性があるにすぎない。もともと私の内にあった女になりたいという願望が、口実を捉えたとする方が筋が通る。  私の最初の記憶が親類の女の子に関するものであり、その後の記憶にも母に関するものが多く、父は遅く登場することはこれまでに書いた。私はこの後もずっと女の子と遊ぶのが好きだった。小学校へ入ってから、同級生の牽制によって漸く止んだのである。  現在私は小説家という女性的職業に従事している。腕力はなく、中学に入ってから議論が好きになっただけで、けんかは嫌いである。胸毛とか筋肉を誇示する同性は嫌いである。フィリピンの山中で一人取り残された時、敵を殺すことを放棄してしまったのも、こういう私のおとなしい性質の結果だと思っている。  そして女の優しさ、美しさ、弱さを私は好きだった。アマゾン型の女性に憧れと圧迫を感じることはあっても、マゾヒスチックな願望を感じたことは絶えてなく(痛い思いをするのは、ごめんである)、好きにはなれなかった。ヴェルレーヌ「やわらかな手に触れるピアノ」の句や、看護婦の優しいいたわりの手が好きである。  子供の時から腰を割り、股をひろげて腰かけるのは嫌いである。あぐらもうまくかけない。「とんび坐り」といって、両足首を腿の外側に出して坐る女の子の坐り方のほうが楽で、また好きだった。思春期に達するまでそれを続けていた。  血管は細く、アレルギー体質で、風邪を引き易い。血液型はB型、顔貌が女性的でないだけで、いろいろの点でワイニンゲルのWがまさっているといえそうである。従って智慧の目覚めた六歳の頃「女になりたい」ということが独立した願望としてあり、それが父の折檻を機会に発現の機会を捉えたとする方が自然である。  私は自分の股間の付属物が消滅し、のっぺらぼうの女の子になることを仏に祈った。神仏が万能でないのは、氷川神社の鳥居で経験ずみのはずなのに、奥の間の仏壇の前に坐り、父の真似をして、手を合せて祈ったのである。一度では私の身体に望んだような変化が起らなかったので、次の日も長い間祈った。  無論なんの効き目もなく、私は今日も依然として男性であるが、奇妙なのは自分があまりがっかりしなかったことである。或いはそのように祈ること自身に快楽を見出しただけだったか。  私の変な挙動は母の眼に止った。仏壇の前に坐っている私を、茶の間から変な顔で眺めている母の眼付を覚えている。 「何をお祈りしているんですか」 と訊かれたが、私は秘密を明かさなかった。しかし私の態度にはきっと母を警戒さすものがあったのであろう。お祈りの効き目は、それからしばらく父のお仕置が緩和される形で現われた。母が何かいったのである。  私がお祈りの効き目がないのを気にしなかったのは、こういう効果があったからだろうか。それともこの結果から遡行して、自分がお仕置をのがれるために、女の子になりたいと祈った、と理由づけしたのだろうか。わからない。  後年私が父に反抗し、争いを好むようになると、 「あんなおとなしい子が、どうしてこうなったやら」と母は嘆いた。  母は二十五歳で私を生んでいるから、この頃三十一歳である。芸妓に出たての頃、地方新聞が新年附録として配った「和歌山十美人」に写真が出た、とあとから聞いた。大叔母の友枝が新聞記者に一杯飲ませた結果であることはまず間違いないが、その写真と思われるものが、家に残っている。瓜実顔の少し憂いを含んだ娘顔で、田舎の標準では一応美人ということになるかも知れない。  しかし鼻筋は東京の芸者のように通っていなかったし、色も抜けるほど白くはなかった。丹毒で鼻の下を切ってから、 「顔が曲ってしまった」 といっていた。しかし手術の跡は殆んどなかったし、それほど母が美しい、と思ったことは一度もない。  私は小学校四年生の時まで、母に連れられて、銭湯に行っていたから、母の体は何度も見ている。中肉中背の均整の取れた体だった。稲荷橋の家では、川向うの川端通りの銭湯へ行った。稲荷橋を渡って、少し氷川神社の方へ行くと左側に川上材木店というかなり大きな材木屋がある。これが多分私の家の大家で、父がタ食後時々遊びに行ったりしたが、その先から右側に河上家屋がはじまり、少し賑やかな町屋になる。その左側に銭湯があった。  大抵は母が晩飯の跡片づけをすませてから、寝る前に連れて行って貰うのだが(父は帰宅するとすぐ、行ったに違いない。父といっしょに行った記憶は全然ない)、道は明るかったので、もはや氷川神社前の家のように提灯をさげて行く必要はなかった。  或る時、脱衣場で着物を着ている母を、一人の十六、七歳の女の子が、しげしげと見ているのに気が付いた。帰り道で、そのことを母にいうと、 「きっとお母さんがきれいだからでしょう」と答えた。  母は未《ひつじ》年のおとなしい性分で、大きな声でものをいうことはなく、笑った母の記憶がないことは前にも書いた。自慢することなぞ、絶えてなかったから、この言葉は私に異様な印象を与えた(その後母から同じ言葉を聞いたことはない)。  その女の子だったか、ほかの女の子だったか、別の日——これは昼間だった——洗場でいっしょになったら、声をかけて来て、私をていねいに洗ってくれた。どんな成行だったか、母は私をその女の子に預けて先に帰った。  その女の子——といっても、私にはほとんど大人に見えたが——なおも私の体をいじり、——変なところをさわられたわけでない——もう一度湯槽につかったりして、可愛がってくれたが、上り水を使っている時、不意に額を抑えて、うずくまってしまった。ほかに客はいなかったので、私は大声をあげて、番台のおばさんを呼んだ。母も来た(私の帰りがあまりおそいので、様子を見に来たのだった)。娘さんはあまり長く湯に入っていたので、上気してしまったのだった。  母が当惑したような声で、娘さんにお礼やら詫びやらいっていた。娘さんは間もなく気分がなおり、私は無事母といっしょに帰って来た。この娘さんは少し顔色は悪かったが、顔立の整った子だった。片膝を立てて前によじり、前をかくす坐り方をしているのが、私には珍しかった。恐らく思春期の気まぐれで、小さな私を可愛がってくれただけだったろう。この後この娘さんと会うことはなかったが、なぜ私がこの小さな思い出を書くかというと、母にこのように可愛がって貰った憶えが全然なかったからである。  私が「女になりたい」という願望をいだいたことについて、精神病学者は多分マザーコンプレックスの一種として片付けるだろうと思う。母親に愛されたことのない欲求不満から出た執着である。  しかしこれまで書いて来たところでわかるように、私の渇望は、夜、母がおやすみのキスをしに子供部屋に入って来るのを、焦々して待つ「失われし時を求めて」の語り手のように強くはなかった。一体大正の母親には、子供を可愛がる暇はなかった。家事に忙しかったというだけではなく、仕えるべき夫の権威があった。そして母の場合は、恐らく父を愛情的に繋ぎとめておく必要があったから、なおさら私にかまっている暇はなかった。  或る日、茶の間で遊んでいた私は、長火鉢の向うに坐っている父と、眼を合せたことがある。それはなんとも異様な眼で、子供にはまったく理解できない眼付だったので記憶に残ったらしいのだが、大きくなってから、私はひどく悪く解釈した。 「こんな奴、生れて来なければよかったのに」  両親は私が生れることによって正式に結婚したのだが、それは周囲の反対を押し切っての結婚だった。普通の妻の実家から受ける有形無形の便宜を、父は全然得られなかった。両親の間に愛情がなかったというのではない。昭和五年母が四十七歳で死んでしまった時、父は棺に向って、いった。 「お前には苦労させた。わしも何度死のうかと思ったこともあったが、お前によって助けられたこともあるんじゃ」  しかし幼時の家の貧乏と淋しい生活を知っている私には、父が母との結婚を後悔する瞬間がなかったとは思われない。あの時の父の変な眼はそういう時の眼だったと思う。  それだけに母は愛される妻であり、よき女中であるのに、精一杯だったと思う。そして日本的キスや頬ずりの記憶のない私には、マルセルの渇望は育たなかったが、女の子、それも私より年上の女の子の記憶ばかり多い幼年を残すことになったのである。  母との接触の記憶は、母の着ていた銘仙の、ひやりとした感触がすべてなのである。やはりその銭湯へ行く途中だったか、ほかの時だったか、とにかく夜、私はなにかの工合でおくれ、駆けて母に追付いたことがある。 「お母さん」 と叫びながら、冷たい銘仙の袖につかまって歩いた。 「おや、どこの坊ちゃん」 と声が降って来た。見上げると、後姿は似ていたが、顔は母とは似ても似つかぬ、頬が豊かで、色の白いおばさんだった。  私はあわてて引き返し、河上家屋の商店で何か買物をして出て来る母とぶつかった。  川端通りの銭湯の方は、私にとって母の「方」だった。そこにある脱衣場の衣装棚の前にすらりと立った——漱石なら「あるたけの身丈を延ばして」と書くだろう——母の裸身と、冷たい銘仙の感触だけだった。  しかしこのようにマザーコンプレックスに取りつかれた私は、一つの悩みを持っていた。川端稲荷での遊び仲間の年上の子は、映画のフィルムの切れ端や、映画の筋を挿画入で物語風に書いた本を見せてくれた。その一つの場面が、不思議に忘れられなかった。  それはたしか「名金」という連続活劇の一場面で、女主人公が後手にしばられ、悪漢共にかつがれて、さらわれて行く場面である。踵まである長い服を着た外国女性の仰臥の姿勢だが、私はなぜかそこに母を感じた。女の子になりたいと思うほど、気のやさしい自分が、そういう残酷な場面が忘れられないのに私は悩んでいた。  こういうさまざまの幼い悩みを持ったまま、大正四年四月、私は渋谷第一小学校に入る。 [#改ページ]    五 渋谷第一小学校  渋谷第一小学校は何度も書くように、今日の渋谷駅東側の、ほぼ東急会館の位置にあった。私が入学した頃の番地でいえば、東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字堀ノ内四番地に当る。正式の名称は「渋谷第一尋常高等小学校」である。当時の学制は小学校尋常科六年高等科二年であった。高等科とは中学校へ進学させる余裕のない家庭の子女に、簿記、裁縫及び英語の初歩を教える課程である。通学人数も少なく、渋谷町で高等科のあるのは、第一小学校と下渋谷の臨川小学校だけであった。  第一小学校はその名の示す通り、渋谷に最初に建てられた小学校で、明治八年の創立、最初は宮益坂通りに沿った二番地にあり、宮益坂からその藁屋根が見えたという。当時の渋谷駅はいまの貨物駅の位置にあり、市電が宮益坂下から、鉄橋で渋谷川を渡って、その方まで行っていた。宮益坂下から広尾、天現寺へ行く道、いまの「中通り」は、渋谷川の東側に接した川沿いの狭い砂利道だった。 (画像省略)  渋谷川は学校の前で少し河原が広くなり、市電の鉄橋の下《しも》に、水車跡があった。『新修渋谷区史』によれば、これは「宮益水車」といって元禄からある米搗き水車だが、この頃は動力化され、綿繰り工場になっていた。  渋谷川は今日のような下水ではなく、千駄ケ谷、原宿、新宿御苑、明治神宮の水を集め、大木戸で玉川上水の余水を引いていたから、流れはかなり早かった。秋の運動会に私たちは歌った。   わが肉躍り、わが腕鳴れり   前なるかの渋谷川   進みてやまざる水の如くに   負くるも勝つも、運に任せて   ふるいはげみ戦わん。  学校の裏からすぐ青山南町七丁目へかけて上り斜面になる。校門がすでに道から二メートルばかり高く、校庭はわずかながら傾いていた。  校舎は木造、略図に示したように、コの字を二つ重ね合せた形で、奥のコの字が二階建、前面のコの字が一階建である。上学級は奥の方に、初学級は前方一階建の教室を使っていた。  私の級はどういう都合からか、男女の生徒六十人ぐらい一緒にした、いわゆる男女組で、一階校舎の向って右側のはじの教室に入った。当時の初学級の椅子は細長い板に脚をつけただけのベンチでたしか四人掛けだった。机もそれに準じて四つをつなげたもので、机板の下にすき間が作ってあって、そこへ教科書などをさし込む型のものだった(三年から一人掛け、あげ蓋式のものに変った。一年生が使ったのは旧式のものだったろう)。  受持は女の先生だった。その名前を私は忘れていたが、このほど同級生の湯川忠夫君(現、新泉興産専務)に会って、蜂須賀先生という名前であったことがわかった。男女組は暫定的な処置で、二学年からは男組、女組に分散させられた。 「男女七歳にして席を同じうせず」は当時の戒律だったから、なるべく男女組を作らない方がいいわけである。  始業は春秋は八時、冬は九時で、まず校庭に整列して、昭憲皇太后の賜った教育歌を歌う。   金剛石も、磨かずば   玉の光は そわざらん   ひとも、学びて 後にこそ   まことの徳は あらわるれ。  遅刻すると、この歌の斉唱が校庭からあがるのを聞き、「しまった」と思いながら、渋谷川沿いの道を駆けなければならない。  当時の私の家は一〇〇メートルばかり南の稲荷橋を渡ったところの路地の中にあった。橋から学校敷地の間には、河上家屋はなく、岸は大谷石で護岸されていた。その上の一個分が連続して道を縁取り欄干みたいになっていた。時間のゆとりがある時、草履袋をぶらぶらさせながら、その上を渡って行くのが、楽しみだった。  入学式は母に連れられて行ったに違いないが、その記憶はない。初登校の日は、出勤する父と一緒に家を出た。川端稲荷の境内を抜け、裏門の前で、市電終点へ行く父と別れた記憶がある。  そこから右手を降りると、渋谷川の河原である。対岸の学校の側から、河原に堆土が張り出していて、小さな木橋がかかっていた(出水の時は流されてしまうのを勘定に入れてかけた仮橋である)。この頃の父の記憶は、主に叱られる時、打たれる時なのだが、この時の父の満足したような顔を覚えている。  男女組時代の学校での記憶はあまりない。女生徒で一番出来たのは有富という子だった。一人気性の荒い子がいて、男の子と墨汁のかけっこをして、喧嘩していた光景を憶えている。この子は中通りの川|下《しも》の方の商家の娘だった。  男生徒では田中起之助というむやみに相撲の強い子がいた。相手を投げるとか、押し出すとかいう生易しいものではなく、文字通り数人を手玉に取って、次々と地面の上に積み上げて行くのである。  この子の家は宮益坂上の右側の裏通りにあった。後で青山学院で私と同級となったが、やがて田中|義人《よしひと》と改名した。父にそれをいうと、「畏れ多いことだ。どういう気でそんなことをするのか」と首を振った。  ヨシヒトは大正天皇の名である。家の奥の間正面の欄間には、大正天皇と皇后、右側に昭憲皇太后、左側に青山練兵場に行幸する明治天皇の馬車上の写真があった。多分新聞附録か何かの粗末な写真だったが、父はいった。 「われわれを平等にして下さったのは明治天皇様だ」  父は何度も書くように、和歌山市有本町(現)の地主の三男坊である。大岡家は曾祖父利兵衛の代で苗字帯刀を許された。和歌山藩に忠勤を励んでいたのだが、天保生れの祖父弥膳の代から、維新後の差別撤廃を天皇の恩として教えたに違いない。  天皇の写真はこの後、家が大向小学校(現在、東急デパート本店)付近、次に松濤《しようとう》へ越しても、常に居間の欄間にあった。当時は天皇は神であるとは教えなかったのだが、武士という特権階級をなくして下さったとの記憶が、平民の間に残っていたのである。  天長節、紀元節などいわゆる四大節には、学校で式があった。二階の上級生の教室を三つばかりぶち抜いた式場に、全校の生徒が集まり、「君が代」とその祭日の歌を歌ってから、校長が御真影を安置してある厨子から、教育勅語を取り出して読んだ。  今日では「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」「以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」という句を憶えているだけだが、無論二年生以上はみな暗記していた。「天壌無窮」という言葉は口調がよく、意味はわからぬながら、なんとなく荘厳な気持に誘われた。校長先生がそこへ来ると、声を張り上げたのを憶えている。  当時の渋谷小学校の校長は岩村|宝作《ほうさく》だが、痩せて厳しい顔付の人物で、われわれはひたすら怖れた。御真影については、何かわけがわからぬながら、畏敬すべきもの、この世のほかのものという印象を受けていた。  授業については、国語教科書が「ハタ、タコ、コマ、マメ」方式のもので、「ぽっぽっぽ、はとぽっぽ」などの唱歌を歌っていたことしか覚えていない。そしてどうやら私の成績はよほど悪かったらしいのである。  ある夜、母に連れられて、担任の蜂須賀先生の家の玄関まで行ったことがある。渋谷川の下の方の暗いしもた屋だった。上り框の向うへ出て来た先生の、逆光線の暗い顔を憶えている。母がなんか言ったのに対し先生が何か答えて、すぐ帰って来た。先生の家へ何か持って行くような余裕は家にはなかった。保護者宛の手紙を持たされて私が帰り、母が謝まりに行ったという順序だった。  私はその後もそうだが、いわゆる秀才ではなかった。小学校六年を通じて、優等になったのは六年生の時だけで、それまではやっと級の十番以内にいる程度だった。早生れだったから、入学したては殊に知能の発達がおくれていたらしい。入学するまで、両親は片カナと足し算引き算を教えることしかできなかったから、よりよい条件の下に育てられたほかの子供に劣っていた。例えば湯川君は一学年の終りに男生徒の総代となった優等生だが、初登校の日、入学人員二五三名と黒板に書いてあったのを憶えている。  通信簿に丙のついた憶えはないが、三分の一は乙だった。いまでも私はぶきっちょだが、体操と手工は六年を通じて甲になったことがなかった。父はよく「こら、乙平」と私をからかった。これは私にはこの上なく悲しいことだった。  しかし川端稲荷の境内で、上級生に石ケリで勝ったのが劣等生の自慢である。円くて平らな硝子の石ケリを投げて、地面に描いた円形の枠の中にある相手の石ケリを弾き出す遊びである。これは氷川神社の傍の家にいた時から知っていた遊びだが、川端稲荷の近所の遊び方は少し違っていた。相手の石ケリを弾き出すのに失敗し、自分の石ケリが枠外に出た時、それは「カケ」として脇にどけておく。そして、次に勝った者が、弾き出した一個と一緒に取ってしまうという点である。  自分の石ケリを「カケ」にされた者は、続いてプレイする権利がある。私はすぐこの方法の必勝法を発見した。それは相手の石ケリを弾き出すのに失敗しようとしまいと、自分の石ケリは決して枠内に残らないように、強く投げることである。そうして相手の石ケリを少しずつ枠の向うの端に動かして行き、最後に一発の止めの弱い一撃を相手の石ケリの後部に加えれば、それは枠外に出、自分の方は確実に中に残る。こうすれば、それまで何個「カケ」にされようと、結局勝った一個と共に戻って来るのである。双方外に出てしまった時は二個共「カケ」になるから、一挙に数個をせしめることになる。  私がこのプレイをするのを見た上級生の困惑した顔が思い浮ぶ(多分彼等はルールを間違えて憶えていたので、双方が出てしまった時は、投げ手が交替するのでなければならない)。たしか鳥居傍の肉屋とその向いの酒屋の息子だった。十分も経たないうちに、私は二人の上級生の石ケリを全部取ってしまった。すると二人は私をなぐった。そして勝った分も、前から持っていた分も、取り上げられ、私は泣きながらうちへ帰った。  この男の子たちは、それまで私の知らなかった「街っ子」の気風を持っていた。当時流行っていた松井須磨子の「カチューシャの歌」を教えてくれたり、立川文庫を読んでくれたり、私がこれまでに知らなかった面白いことを教えてくれたのだが、この時から私はやはり路地の中で女の子と遊ぶことにした。  同級生に「妾の子」といわれる女の子がいた。それは肉屋と市電終点の間の狭い路地の中の家の子で、丈の低いおしゃまな子供だった。一度誘われて、座敷に上り、お手玉やおはじきをして遊んだことがある。   西条山は霧深し   千曲の川は浪荒し と歌いながら(「荒し」をどういう加減か、渋谷の女の子は「はらし」と歌った)、三つか四つのお手玉をかわるがわる投げ上げ、受け止める。私もやってみたが、ぶきっちょの私の手に負えなかった。しかしこうして男の子と女の子が二人で遊ぶのは、周囲の嘲笑を受けねばならない。「女と男と豆炒り、炒っても炒っても炒りきれない」とからかわれる。  路地の中の女の子は、私より二つか三つ年上である。そして大勢で遊んでいれば大目に見て貰えるのである。路地を入って右側の小さな門のある家に、そういう女の子がいた。私の家の左隣、路地突当りは伊藤さんという医者で、そこに俊一君という一歳年上の男の子と、静子さんという姉、君子さんという妹がいたことは前に書いた。静子さんは路地の中の女の子の遊び仲間に属していたので、私も遊びに加えてもらった。  縄飛びは私にはまだ無理で、お手玉も見ているだけだったが、上りのある本来の石ケリ遊びや綾取りに加わった。それから天神詣りという遊び、「ここはどこの細道じゃ」「天神様の細道じゃ、ご用のない者通されぬ」「この子の七つのお祝いに云々」「通りゃんせ、通りゃんせ」と歌で問答があった後、女の子が手を組んで作ったトンネルの中をすばやくくぐらねばならないが、「行きはよいよい、帰りはこわい」で、歌と共に背中をぶたれる。  この遊びは多分、東京の下町のどこかの天神様と関係のある遊びで、組み合わされた手は鳥居、帰りに「こわい」のは境内入口の茶店女でなければならない。これがなぜ子供の遊びになったかは不明だが、ことによるとこの遊びには男の子を加える必要があって、そのため私が仲間に入れて貰えたのかも知れない。そして私はこの遊びが大好きだった。  しかしいつもこんなに女の子と遊んでばかりいたわけではない。川端稲荷近所の男の子や駅前旅館の男の子が大将になり、近所の男の子が全部駆り出されて、西郷山へ兵隊ごっこをしに行ったことがある。  稲荷橋の通りを西へ、鉄道の踏切を渡って、三〇メートルばかり行くと、十字路になる。右は道玄坂の中途の大和田横丁へつながる道、左はやがて鉄道線路に沿って、岩谷天狗という煙草成金の門の前を通って、恵比寿の方へ行く道であるが、真直ぐ進むと道は一帯の高台の中へ食い込んだ谷へ降りる。  両側は木の繁った丘陵で、処々大きく庭を取った家がある。やがて道は一つの十字路へ出るが、それは道玄坂上から一直線にこの谷へ降り、また一直線に左側の猿楽台へ上って行く広い道である。  赤土の斜面を切り開いた新道で、左手の登りつめたところに、商業学校が建ちかけていた。その十字路の左の向う側が空地で、その左手は赤土を削り取った崖になっていた(子供にはよほど高く見えたが、せいぜい五メートルぐらいだったろう)。  敵は崖上の林の中に陣取り、わが隊は手に手に棒切れを持ってその崖についている段々を一列になって登りはじめた。  敵も登攀中のわれわれを襲って崖から突き落すなどという危険で卑怯なことはせず、全員登り切ってから、疎林中の激闘となる。しかし間もなくわれわれは大将同士が戦闘をやめて「こん畜生、こん畜生」といいながら、地面を叩いているのに気が付く。そして敵味方の全員が加わっての地面叩きとなったが、やがて一条の長く延びた線となって横たわったのは一匹の蛇で、そこで兵隊ごっこは終りとなり、蛇の死骸を戦利品として引き揚げる。蛇は渋谷川流域では珍しいものになりかけていた。  この位置は今日の鉢山町一〇番地である。付近一帯の丘陵は当時「西郷山」と呼ばれていた。西郷|従道《つぐみち》の持山だったからで、どこかに別邸があったかも知れないが、私たちにはそんな建物はどうでもよかった。現在では細かく分譲されて住宅が立ち並び、谷間の道は商店街になっているが、その頃はこの十字路から先は尽く林の中の淋しい道で、家は一軒もなかった。さらに西に進むと、道は少しカーヴしながら上りになる。そして小さな滝がかかっていたのを憶えている。  滝の水はその上の稜線に石で築いた狭い水路を盛大に流れる上水から来ていた。下北沢で玉川上水から分れて来る枝上水で、農科大学(現、東大教養学部)の方から敷地の東縁を通って来る。ここから先は恵比寿ビール工場、目黒の海軍火薬工場に給水してから、三田の二本榎で終る、いわゆる「三田用水」である。  この水を私が覚えているのは、もう少し後だが、稲荷橋付近の別の大きな子に連れられて、ここまで来たことがあるからである。その子は用水で泳ぐといい出した。裸になって飛び込んだが、水勢はきついから、どんどん流されてしまう。すると岸に上って歩いて来る。また飛び込み、三〇メートルばかり流されてから、岸に上る、これを繰り返した。私は長い間、泳ぐということは、手をばたばたさせながら、そうして流されることだと思っていた。  この上水の向う側は、すぐ下り斜面であるが、松や杉をまじえた疎林で、ずっと下に田園が見えた。今日上目黒の大橋から大崎に至る環状六号線の通っている目黒川の流域である。しかしそこは渋谷の子供達にはまったくの異郷で、他の学校の生徒が出没する危険地帯である。  西郷山の中がすでに大和田分校の領域で、上級生といっしょに隊伍を組まなければ行けないところだった。当時の小学校通学区域は、子供達にとって「国」であって、他国を侵す生徒は、用捨なく苛められた。渋谷第一の当面の敵は、穏田《おんでん》、原宿方面の「穏原小学校」で、   おんばら学校、いい学校   あがってみたら、くそ学校 という囃し文句があった。向うでも「渋谷第一、いい学校」とか「大和田分校、いい学校」と同じ文句を歌い、いがみ合っていた。  従って二人ぐらいの人数で、目黒川の谷へ降りることは思いも及ばない。そうすると、木の間ごしに、陽光に霞んで見える流域が、なにか異様な表情を帯びて見えて、記憶に残っているのである。  西郷山一帯は東大教養学部、東北沢につながる「駒場丘陵」の一部である。渋谷川を挟んで青山赤坂台地と対しているが、渋谷方面がゆるやかな登りになっているのに反し、目黒川流域へは急峻な斜面となって落ちている。そして地形図によると目黒川流域は渋谷川流域より、約一〇メートル低い。これが私の目を驚かした異様な景観の原因の一つであった。  西郷山の兵隊ごっこには、隣の俊一君は加わらなかったような気がする。私より一歳年長だが、遅生れなら同級でなければならないが、私にはいっしょに渋谷小学校へ通った記憶がない。或いは青山北町の青山師範の附属小学校へ通っていたのか、それともやはり私より一級上で、なにかの都合で、渋谷第一ではなく、大和田分校に入学したのだったか。  大和田分校は、分校といっても道玄坂の左手の高台にあった通学人員千名以上の古い学校だった。もう少しあとのことだが、俊一君が昆虫採りの大きな網と、殺虫用の金の箱を買って貰ったことがある。家は路地突当りに「知命堂医院」という看板がかかっていた。私の家の倍ぐらいの庭があった。病気になると、私はお父さんの診察を受けたが、無論始終遊びに行った。台所が私の家の庭に面していて、いつも賑やかな音が聞えた。色白で丈の高いきれいなお母さんがいた。  その採集道具をもって一緒に大和田横丁の山側の崖に、カナブンか何かを取りにいったことがある(そこは大和田分校の領分だから、俊一君がその生徒でなかったら、下級生がたった二人で行くのは、あまりにも危険である。これも俊一君が大和田分校へあがっていたのではないか、と推定する根拠の一つである)。  大和田横丁には明治末から世田谷に出来た砲兵連隊、輜重兵連隊の兵隊や馬丁相手の私娼がいた。『渋谷区史』によると大正六年に廃止とあるから、この頃はまだ健在だったわけである。玉川電車のガードの手前がその区域だが、子供には関係ない。左手の斜面を少し登り、それから木が生えた崖を横切る小道へ入って行った。  そこで俊一君が採集網をふり廻し、うっかり蜂の巣に当ててしまったのである。俊一君の体は忽ちぶうぶう唸る黒い昆虫に包まれた。少しおくれて歩いていた私の方にも、二、三匹飛んで来て、頸をさされた。私は逃げ出した。下の大和田横丁まで逃げてもまだこわく、一散に稲荷橋の家まで駈けて帰った。  玄関傍の窓からのぞいていると、やがて頭をはらした俊一君が通りかかった。着物の前をはだけ、赤い斑点が沢山出来、胸を風に当てるようにしていた。のぞいている私の顔を睨みつけ、のろのろと過ぎた。しばらく私は俊一君に遊んで貰えなかった。顔を合せると横を向いた。これは私の記憶に残っている、最初の恥ずべき行為だが、私は何分、知能の発達がおくれていたのだから、許して貰いたいと思う。 「知命堂医院」は路地の中で一番裕福な家だったが、そのうちお父さんが急病で亡くなった。医院を人に譲り、本郷の奥の蓬莱町へ越して行った。一度遊びに行ったことがあるが、洋品店を開いていて、俊一君がつまらなそうな顔で店番をしていた。やがてわれわれはキャチボールをしたが、俊一君は私がヘッド・ポジションに入った瞬間、突然後向きになった。私はあわてたが、ボールはすでに手から離れていた。俊一君はその間に一回転してこっち向きになっており、ボールは正しくミットに収った。新しい土地へ越して、新しい方法を覚えた俊一君を私は羨んだが、全体としてなんとなくよそよそしい態度だったので、それっきり行かなかった。  それから少し経って私の家が宇田川町へ越してから、静子さんが一人で遊びに来たことがあった。どこかの会社に勤めていて、文学の話で気の合う社員のうわさをした。震災後市営バスが出来てからだが、君子さんが女車掌をしているバスへ乗り合せたことがある。傷ましくて声がかけられなかった。また少ししてお母さんが一人で松濤の家へ来たことがある。父はその頃相場で当て裕福になっていた。お母さんの用事は子供心に察することが出来た。  私の入学した大正四年は一九一五年で、前の年に欧州大戦がはじまっている。日露戦争後の不況と生活不安が吹っ飛び、日本全体が好景気に見舞われた年だった。私の家でもそれまでの明治末的貧乏を脱して、少しずつ暮しが楽になって行く。しかしその反面、一家の支柱が急死すると、すぐ遺族が苦労しなければならない、伊藤さんのような家もあったのである。  しかし私にはまだ貧乏の記憶が続く。この頃から麻布区三河台町の哲吉伯父の家との付合いがはじまる。市電終点が近くなり往き来が便利になったせいもあろう。  七歳年長の洋吉さんが泊りがけで遊びに来たのは、大正四年の正月だったが、三月の春休みだったか。多分府立一中へ入学がきまったところだったろう。いまの渋谷駅西口前広場の位置にあった映画館に連れて行って貰った記憶だけ残っている。渋谷館という日本映画専門館で、男女の弁士が二、三人いて、かけ合いで説明をした。上映されていたのは、尾上松之助の忍術映画「自来也」か何かだった。  入口を入るとすぐ、するめの匂いがしたのを憶えている。休憩時間になると、「おせんにキャラメル、甘納豆にアンパンにするめ」と呼びながら、それらの品物を並べた平台を首にかけた売り子が、通路に入って来る。  子供には無論これらのものを買って貰えるのが、映画館に行く楽しみの一つで、金は洋吉さんが持っていた。しかし私はキャラメルか何か買ったおつりを自分が持つといった。洋吉さんは私の母から小遣いを貰ったに違いない。私の分として別に受取ったので、止むを得ず渡してくれた。  私はその小銭を大事に手に握っていたが、スクリーンに見とれて落してしまう。洋吉さんが腰掛けの下を捜して渡してくれるのだが、いつの間にか私は再び落してしまうのである。  洋吉さんは後になってもこの時のことを話題にした。 「どうしてなんだろうね。何度しっかり握ってろ、っていっても、落しちゃうんだからね」  私としてはそんなに沢山小遣いを貰うのは珍しかったので、自分で持つといい張ったのだろう。欲張りの癖にぼっとした子供だったのである。  母に連れられて、伯父の家に行ったことがある。その頃、伯父は三河台から市兵衛町二丁目一二番地(現、六本木一丁目)に越していた。青山六丁目で乗り替えて、霞町、六本木を経て、飯倉へ行く線に乗る。飯倉片町で降りて、左へ曲り、南葵文庫の前を通って、小さなだらだら坂を降りて、また上ると、三河台の方から来て右手の東久邇宮邸の方へ行く道に出る。ちょっと左手に筋違いになって、また一つ狭い急な坂が降りている。降り切って右側の二階家がその家だった。  伯父哲吉は父と同じく兜町の仲買店の外交員だったが、うちよりずっと裕福だった。三河台の家は平家だったが、こんどの家には風呂場があり、庭も広く、池があった。伯母ゆきのほかに洋吉、信子(五歳上)、健二(三歳上)、女中の六人暮しだった。私はこの市兵衛町の家へ、暑中休暇中など泊りがけで、遊びに行くようになる。  母に連れられて行ったのは、引越しのお祝いを持って行ったのではなかったかと思うが、問題はそれではない。電車を降りようとすると、母は車掌に呼び止められた。私の分の電車賃を払えというのである。  母はこの子は大柄だけれど六歳だから、払う必要はないのだ、といった。車掌は不意に私の方を向いて「坊や、いくつだい」と訊いた。私は狼狽した。とっさにうそが吐けなかった。「七つ」とほんとうのことを答えてしまったので(当時の標準は数え年である)、母は乗客の視線の集る中で、二銭か三銭の半額の電車賃を払わされた。  下へ降り、電車が行ってしまうと、母はこわい顔をして、私の腕をつねった。そしてこのことを伯父の家へ行っても、いってはいけない、といった。  私は大きな衝撃を受けた。うそを吐いてはいけない、とは母が常々教えるところであり、学校でもそう教えられた。その母がうそを吐いたのである。そして本当のことをいった私は叱られた。  しかし子供の電車賃も節約しなければならないほど、家が貧乏なのだ、ということは理解できた。よその家の子供のように小遣いを貰えないこと、姉のお古の着物を着せられたこと、少額の肉を買いにやらされたことなど、それまでの経験で、家が貧乏なのはよく知っていた。しかし母がうそを吐き、ほんとうのことを答えた子供を叱らねばならない、伯父の家で恥をあかるみに出さないため、子供にかくすことを教えねばならないという順序が、この上なく悲しかった。  伯父の家へ泊りがけで、遊びに行くのは、大好きだった。うちのように、あれを食べてはいけない、これを食べてはいけない、そう食べすぎては体に毒だ、とはいわれなかった。夏なら、うちでは食べてはいけないことになってる氷あずきを、谷町の店へ連れて行って食べさせてくれた(市兵衛町二丁目一二番地前の道を少し行くと、また段々になっていて、その下の道はやがて今井町付近へ出る。麻布谷町にはまだ市電は通っていず、夜店が出た)。  私は長男で五歳上の姉文子は和歌山の母の実家に養女にいっていたから、この頃はまだ一人っ子だった。兄さんがいる子が羨しかった。外ではいじめっ子から庇護してくれ、家で勉強を教えてくれる兄がほしかった。七歳上の洋吉さんは、その役目の一部を受持ってくれたのだった。  大分あとになるが、私に童謡を書かせて『赤い鳥』へ投書してくれたのは洋吉さんである。私に文学を教え、夏目漱石、志賀直哉、芥川龍之介などの名を教え、本を貸してくれた。洋吉さんについては、あとで色々書くことがある。 [#改ページ]    六 宮益坂界隈  大正五年(一九一六)四月、二学年に進んだ頃から、私の生活は少し変り始める。級の組み替えがあり、私の属していた男女組は解散し、生徒はそれぞれ男組、女組に分けて配属された。教室はそれまでの教室と、前庭を隔てて向い側、北の翼の端になった。担任の先生も男になった。小野先生といって、血色も体格もよく、少し髪のちぢれた先生であった。  この組から同級生が記憶されるようになる。六人の級友とこれまでに時々接触があったが、こんどのこの回想記を書きはじめたのが機縁となって、先日、渋谷駅付近のフランス料理「二葉亭」に集った。  広田弘雄、中沢徳弥、山本哲雄、湯川忠夫、名取|阿久《あぐ》太郎、高沢信一郎君がその名である。母校が東急会館の下になって、完全に消滅したことを歎く気持は同じであった。小学校の同級生同士の感情には、上級校の同級生のそれとは違った親しさがあるらしい。お互いを繋ぐものは、それぞれの精神が柔く、未形成の日々に交された感情の記憶である。五十年経った今日でも、顔を合せればすぐたしかな感情の通路が設定されるらしいのである。  六人の級友の中で、一番親しいのは広田弘雄君で、これまでに断続して交際があった。一つの名前の中に「広」と「弘」が同居しているから、よほど「ひろい」ことが好きなお父さんなのだなと思った。昭和に入って総理大臣・広田弘毅の名が新聞に出るようになった時、世の中に似たような趣味を持った人がいるものだと思った。すぐには広田君と結びつかなかったのだが、やがて家族構成が紹介されるに及んで弘雄君がその長男であることがわかった。昭和八年頃、溜池の街頭でばったり会って立話をしたことがある。現在、国際商業会議所事務総長だが、一九六二年、私がパリに行った時は、東京銀行のパリ支店長だった。為替関係で相談に乗って貰うことができ、奥さんといっしょにパリ郊外のシャンティの城館を見に連れて行ってくれた。その後も東京のパーティなどで時々顔を合せることがあった。  広田君は小柄で端正な顔立をしたおとなしい子供だった。成績はクラスで一番、相撲が強かった。どうして広田君と親しくなったのか、記憶にないが、私は劣等生ながらどうにか級の中以上にいたらしいから、成績の上位の者で自然にグループができたのだろうと思う。  広田君の家は宮益坂を少し上ってから、左へ入る横丁を原宿の方へ行ったところにあった。青山車庫の方から降りて来る道との交叉点を少し右へ行き、さらに左へ曲ったところにあった。現在の神宮前五丁目三六番地、当時渋谷町青山北町七丁目二番地である。  宮益坂から曲った道は、青山台地の斜面を横に行くことになる。右手は少し高くなっていて、梨本宮邸の長い塀に沿っている(この邸の中にも一人同級生がいて、一度遊びに行ったことがある。黒い塗料を塗った大きな冠木門のくぐりを入ると、中は少し登り坂の石畳になっていて、右手に厩があり、その子の家は左手にあった。名前を私は忘れていたが、広田君によると於久田敏明といって宮家の別当の子だったという。四年前に死んだ)。左側国電線路の方は、道から少し下って一面の田圃で、国電の土手がよく見えた。広田君の家の方へ曲った右手は、青山通りから連続した市電の車庫の敷地だった。敷地のはずれで、やたらに木が茂っていて、池があった。青山通りの方から電車軌道が来ているのは、車掌や運転手の教習用で(現在も都交通局の敷地で、バス運転の教習所がある)時々電車が廻って来て停まる。見習車掌が、 「チン、チン、動きまあす」 と怒鳴って、また動き出す、というような場面が見られた。 (画像省略)  当時は市営路面電車が、渋谷の稲荷橋の傍まで来ていたことは何度も書いた。今日のような完全遮閉の車体(いわゆるボギー車)はまだなく、運転台と車掌台は客席のある中央部より一段低く、正面が硝子窓になっているだけで、左右は吹きさらしである。前方に人命救助用の金網がついていた。車掌が右手にぶら下った紐を引くと、それが前部の運転台までつながっていて、鈴がチンチンと鳴る。「チンチン電車」という仇名で、戦後かなり後まで、京都の北野線に残っていた。練習用車輛はむろんこの旧式の型だったから、車掌は「チン、チン」と口真似したのである。  広田君の家はその市電車庫に接して新しく開けた住宅地に建った二階家だった。道から大谷石を二個ばかり重ねて地盛りし、生垣の中から植えたての芝生が見える家だった。  静子さんという姉さんがいたと思っていたが、これは私の記憶違いで、静子さんはお母さんの名、姉さんは千代子さんだった。お父さんは私が遊びに行く時は、いつも家にいなかったので、どこか外国へ単身赴任中と思っていたが、これも思い違い、当時は外務省通商局の課長だったという。  渋谷から青山通りへつながる市電の路線は、赤坂見附から三宅坂を経て、桜田門、日比谷、築地へ向う。兜町に勤務先を持つ私の父が使っていたのはこの線だが、同様に広田君のお父さんも、青山七丁目からこの線に乗り、霞ケ関へ通っていたのである。  これらの細目は、こんど広田君と会って思い出を語り合ううちにはっきりして来たことである。広田弘毅は申すまでもなく近衛内閣の外務大臣で、戦後不法な手続きによって、A級戦犯として刑死した。私達はこのことについては一切話をしないが、広田君とはフランス語の縁でもつながっているし、文学についても話の種は尽きない。  広田君の家のあたりから道を渋谷川の方へ降りると、鬱蒼たる木立が川岸まで迫っている。宮益橋の方から見ても目立つ田園的風景だが、これは雨宮という甲州の事業家の別邸だった。渋谷川を渡ると、省線(当時は鉄道院の院を取って「院線」といった)のガードの東側で、現在の「明治通り」に出る。これは当時も現在の道筋通り、原宿、千駄ケ谷を経て青梅街道に合する古い交通路である。  中沢徳弥君の家はその明治通りへ出たところから、ちょっと左へ切れて、道傍の小流を板橋で越した田圃の縁にあった。中沢君のお父さんは報知新聞社員だった。中沢君は現在熱海の清水町で内科医院を開業している。十年前、私が胃潰瘍で吐血して虎の門病院に入院中見舞を受けた。新聞で私の消息を読み、お医者さんとして虎の門病院に所用があって来たついでに、見舞ってくれたのである。東大医学部出身であるが、戦争中は軍医だったが、戦後熱海に住みつき開業して現在に至っている。谷崎潤一郎、広津和郎、志賀直哉の熱海在住時代の主治医であったから、これらの文豪の近親の方は記憶していられると思う。  丸顔で頬の赤い明るい性格の子供だった。少し痩せただけで、その性格の特徴は今日も保持されている。私と同じ六十三歳になりながらいまだに夏には日本アルプスや八ケ岳の山々を踏破するのを楽しみにしている。趣味が広く「ロイヤル・シェイクスピア」の廊下で顔を合せたりする。  私は五学年から、大向小学校へ転校したので、これら渋谷第一の級友とは、卒業に至らずに別れることになる。中沢君とは府立一中の入学試験の時再会する。中沢君は通り、私は落ちて、また別れることになるのだが、それらについては後で書く。  湯川忠夫君とは、第一学年の男女組の時から同級で、修業式の時彼が男生徒総代だったことは前に書いた。お父さんは駒場の帝大農学部(現、教養学部敷地)の先生で、家は樹の多い構内の奥深く、運動場の近くにあった。一度遊びに行った時、その庭の垣根に烏瓜の赤い実が夥しくなっていた印象が鮮やかに残っている。私の家はその後駒場の近くへ引越したので、大向へ転校後も遊んだように覚えていたが、これは何かの勘違いだったらしい。湯川君は三学年から、その居住地区の関係から、世田谷の大橋近くの小学校に転校し、われわれとの接触は切れていたのであった。広田君と福岡旧制高校で同級となり、以来両君は交際があった。東大農学部のトラックは当時は東京で最も完備した競技場で、秋の大会は今日の国体規模の祭りだった。烏瓜の記憶はそんな日の一日、私が寄った日のことだったらしい。  山本哲雄君は現在台東区柳橋に開業している泌尿器科医で、同君とも私は二十年来、年賀状を交換していた。一度柳橋の料亭で会食し、その病院を訪ねたこともある。お父さんは病臥しておられたが、この方は日本の泌尿器科の草創期の日赤の泌尿器部員で、稲荷橋の前の横丁を、青山側に入ったところに、外科泌尿器科を開業していた。私の両親も私も診察を受けたことがあるという。私に記憶がないのは、外科であるから、頻繁に行く機会はなかったからだろう、と思う。  医者の子だけに医者について記憶はたしかで、例えば私の家の隣の伊藤俊一君のお父さんの医院名を私は「伊藤病院」と思っていたが、「知命堂医院」だと教えてくれたのは山本君である。この回想記はこのように、多くの同級生の記憶によって補正され、豊富になって行く。  名取|阿久《あぐ》太郎君は、川端通りの稲荷橋際の乾物屋の息子だった。前に私が時々使いにやらされたので憶えている、としたのは誤りで、名取君はよく私の家の前の路地に遊びに来て、私の家へ上ったことがあるという。この辺で八代続いた土地持ちの百姓で、私の住んでいた中渋谷一八〇番地も、もとは名取君の家の持地だったという。明治四十一年稲荷橋袂に乾物屋を出す、という経過は、氷川神社前の小沢松太郎商店の場合と共通している。  区画整理で東急会館の隣、現在の位置に替地を貰い、ビルを建てて、その四階の「名取不動産」の社長に納っている。この辺の土地の値段は大変なものだろう。どうやら集った七人の渋谷第一小学校大正四年入学組の中で、一番結構な身分なのは名取君らしい、ということにみなの意見は一致した。  名取君はまた現在渋谷信用金庫内にある「渋谷郷土研究会」の世話人でもある。郷土史研究家の加藤一郎氏を紹介してくれた。加藤氏は『郷土渋谷の百年百話』(昭和四十二年)の著者である。この回想記は、私のような他所者の不確かな記憶だけではなく、こういう渋谷に生れ、渋谷に生きた人達の協力によって裏付けされるはずである。  高沢信一郎君は金王八幡前に住んでいた。お父さんの家は富山県の由緒ある神社の代々の宮司で、高沢君が国学院大学卒業後、明治神宮の神官になり、現在権宮司になったのは、そういう家に生れたからだろう。三学年から猿楽小学校に転校して、やや馴染は薄くなったが、私の書くものに注意してくれていて、名取君を通じて連絡がついた。  大正初期は第一次世界大戦の影響で、日本全体が異常な景気上昇に見舞われていた。道玄坂、宮益坂界隈の人口増加も顕著だった。小学校の増設もあって、われわれ大正四年入学組は、大抵途中でどこかへ転校した。六年を通じて渋谷第一小学校に止《とどま》り、卒業したものは、中沢、名取の両君だけである。  級友の中には、すでに死亡した者もいる。前に書いた梨本宮家の別当の子於久田敏明君、宮益坂上の「大寿司」の長男大前昇太郎君、その向い側の呉服店の浅妻四郎君などがいるが、服部忠彦君の名を落すことはできない。服部君は広田君と常に首席を争った秀才で、府立四中、一高を経て東大理学部卒業、岩手県水沢の緯度観測所観測部長となった。その方の専門の方には覚えている人もいよう。  文藝春秋の鷲尾洋三君が、四中時代の同級生だったので、昭和三十年の春、講演旅行で水沢に行ったとき、一夕歓談した。渋谷小学校以来初めての対面であった。あの生真面目な服部君が酒を飲み、ダンスに興じるさばけた学者になっているのに一驚したが、広田君に聞くと、四中時代『赤い鳥』に童謡を投書したことがあり、その頃から文学に興味を持っていたという(これは私には初耳だった。水沢緯度観測所は寺田寅彦の任地だから、文人科学者の伝統はある)。昭和三十七年に急死したが、中沢君は遺族から服部君が発見した緯度変化をもとめる方程式を陽刻した文鎮を贈られたという。  このように服部君はその成績で際立った生徒だったが、宮益坂中腹の家にはお父さんが建てた相撲の稽古場があって、われわれ相撲仲間の集合所だった。宮益坂の北側、広田君の家の方へ行く横丁から、五〇メートルばかり上ったところに御嶽神社がある。氷川神社や金王八幡に比べると規模は小さいが、かなり古い神社で宮益坂の名はその門前町の意味である。  その神社の少し上の狭い路地の奥にあった(現、渋谷一丁目一三番地)。母屋は路地の突当りにあったが、それから左に折れ曲った方の庭に木造の十畳敷ほどの小屋が建っていた。  板敷の土間に墨で土俵が描いてあり、時代映画に出て来るような高窓があり、二枚に重ねた板戸を横に動かせば、縦に細長い明り取りの窓が開く仕掛けになっていた。さらにその奥は矢場になっていて、庭の北側に迫った崖を利用して的場ができていた。  服部君のお父さんは騎兵大尉だった。われわれが行くのは道場だけで、母屋へは上ったことがないが、お父さんが白い刺子《さしこ》を着て、道場へ入って来た姿を憶えている。軍人らしく真直に背筋を伸したいい姿勢だった。  当時、駒場に騎兵連隊があったから、そこの勤務だったかも知れない。青山から渋谷へかけては軍人の住居が多かった。国電線路のむこうには、駒場の騎兵連隊のほかに、三宿の砲兵連隊、輜重兵連隊があった。日清戦争以来、これらの軍人や兵隊の遊興地として、道玄坂の花街は繁栄したのである。  当時、国技館の大相撲は大錦、鳳の全盛時代だった。それらの子供の憧れのしこ名は、相撲が強い服部君、広田君が取った。私は丈が高く、釣りが得意だったので、「達の矢」という釣りより手のない小結の名を貰った。広田君も服部君も私よりずっと小兵だから、釣り易いはずなのだが、広田君の内がけがしつこくて利かなかった。  中沢君、山本君と相撲を取った記憶がないが、名取君は病身で、私より弱かった(阿久《あぐ》太郎という変った名前は、それまでに出来た子はみな弱くて生れるとすぐ死んでしまったので、逆手の意味で付けられたという。悪太郎の変え字。女の子なら阿久利《あぐり》となる)。一度校庭ではたき込みを使ったら、もろにお凸から砂利に突込んで、瘤ができて心配した記憶がある。  名取君は、私の住む川端稲荷前の路地での、石ケリ遊びを覚えていた。神社の傍の肉屋や米屋の年上の子供の名前まで覚えていた。(猿楽に精米所を持っていた朝倉米店、内藤肉屋の勝ちゃん)。それから肉屋の隣には駄菓子屋があって、その店先が子供たちの集合所であったことも。  宮益坂の坂下北側に馬肉屋があって、そこの子供も同級だった。玄関からすぐ広い階段が二階に通じているのが珍しく、赤い蹴出しを見せた姐さんが膳をささげて上って行く恰好を不思議な眺めとして憶えている。  こんな馬肉屋が付近に二、三軒あった。その一軒、八賀盛吉君の家「はち賀」が近年まで表通りに残つていたが、名取君の話では、裏通りに引込んで、今でもやっているそうである(八賀君は若死していた)。これらは道玄坂、大和田横丁の遊興地の延長である。坂下の宮益橋の袂に「魚惣」という料亭があって、箱が入ったという記録がある。宮益坂と道玄坂は、渋谷川を挟んで相対し、常に一対として考えられていた。そして宮益坂の方が東京市に近いから、町は当然宮益坂の方から開けて来たので、大正初年にはまだその痕跡が残っていたのである。  青山通りから宮益坂、道玄坂と続く道は、すでに書いたように、三軒茶屋から二子玉川、溝の口を経て、厚木、秦野へ行く、大山街道又は相模街道である。四十八あるといわれる坂の中で、宮益坂は江戸を出てから最初の坂で、旅人は西方にはじめて富士を見ることになる。一名富士見坂といわれたのもそのためで、坂の上には富士を見晴らす休み茶屋や酒店があった。元禄年間の随筆「水鳥記」に、酒飲みにとっては通りすぎにくい「難所」として出ているという。明治四十四年に電車を通したため、坂は削られて平坦になっていたが、江戸時代には御嶽神社から上は急峻で(これは道玄坂でも同じである。つまり坂の下の方は流れ落ちる土砂に埋められて、裾を引いたように平らになるが、上の方は、或いはそのために、急になっているのである)、道の真中に丸太を横に並べて登り易くしてあったという(両側は段を設けずに車道とした)。世田谷方面から野菜を江戸府内に入れる荷馬車が、駒沢、広尾方面の傍道を使ったのは、宮益坂が急なためだった。  御嶽神社の背中合せに西面して、千代田稲荷があった。千代田城紅葉台内の神社を勧請したという社伝は怪しいとしても、文久三年突然この稲荷が流行り出したことが『武江年表』にある。 [#この行2字下げ] 六月の頃より、中渋谷村(宮益坂裏)千代田稲荷はやり出し、日毎に貴賤男女歩を運びしかば、此のあたりには酒肆茶店を列ね、花を染めたる一様の暖簾をかけ、諸商人出て賑はひける。冬にいたり詣人やゝ減じたり。  文久三年(一八六三)は明治維新の五年前である。大和に「天誅組」の乱があり、江戸でも「浪士徘徊して辻斬り止まず」という状況だった。物価騰貴し、神田明神の例祭は行われず、十二月猿若町三座の顔見世狂言も取止めとなった。物情騒然たる世相を反映して、突発的な流行神が各地に出現した。千代田稲荷もその一つだったわけである。  その前年二月将軍家茂に降嫁した和宮が石の大鳥居と桜樹一本を寄進したと伝える。伏見稲荷はじめ稲荷の眷族が、木曾街道を東下する宮の行列を守護した功によるという。和宮降嫁は安政の黒船来航以来、もめ続けの日本に平安と幸福を齎らすと考えられていた。流行はこの機縁によるものか、と『郷土渋谷の百年百話』はいう。  千代田稲荷は大正十一年、道玄坂中腹に百軒店建設と共にその区画内に移したので、今日では消滅している。私が服部君の相撲場へ通った大正初年でも、子供達はその存在を意識しなかった。しかし宮益坂界隈の盛り場には幕末の千代田稲荷流行の名残りがあったろう。  もう一つ私たちの憶えているのは、その向い側の「トンボ屋」という洋風の食料品店である。バターや罐詰など洋風な食料品を売っていた。緑と鬱金色のペンキを塗った木造の建物で、店の一隅を仕切ってコーヒーや洋菓子を出したので、今日の喫茶店の走りである。アイスクリームを食べたと湯川君は憶えているが、私の憶えているのは「コーヒー角砂糖」という代物である。角砂糖の中にコーヒーの粉を閉じこめてあって、その一個を湯呑に入れて、熱湯を注ぐと、コーヒーになる仕組である。誰が考え出したものか知らないが、こんな変にハイカラなものを売る店がその頃の宮益坂にはあったのである。  坂下に「宮益坂下」という市電停留所の赤い柱が建っていて、村井銀行渋谷支店があった。坂の南側に青物市場が二軒あって、世田谷から野菜を積んで来た車は、ここで荷を降したと『新修渋谷区史』にあるが、われわれに青果市場の憶えはない。  私がはじめて富士山を見たのも、この坂からである。今日では渋谷駅の谷は、都内有数の排気ガスの溜り場になっていて、宮益坂から富士が見える日は数えるほどしかあるまいが、当時は、御嶽神社あたりまで上ると富士が見えた。行きにそれが見えないとしても、夕方、服部君の家の稽古場で相撲を取り終っての帰途、坂に出ると対面の道玄坂の上に、赤い夕焼空を背景に、黒い輪郭が浮んでいるのが見えた。画の手本で見るような富士ではなく、淋しい影絵であっても、本ものの富士山を見ることに私は満足した。むろん冬の晴れた日の雪をいただいた「真白き富士の嶺」も見たはずだが、それは憶えていない。遠い黒い影としての富士だけが、不思議と記憶に残っているのである。  私にとって大正五年の大事件は、四月二十日、弟辰弥が生れたことである。七年目の男子誕生である。それまでわが家の貧乏は口を増やすような状態になく、私はずっと一人っ子だった。しかしその頃の小市民には中絶とか妊娠調節とかいう考えはなかったはずである。母つるは結局四人の子を生んだが、姉文子と私は五つ違い、辰弥と末弟保とは四つ違いである。多産というほどではないから、自然にそういう風になったに違いない。  母の妊娠の記憶は父と臨月に近い腹を突出した母といっしょに浅草へ行ったことである。三月の彼岸の中日だったかも知れない。市電田原町電停で降りて左側の寺で、多分、松清町(現、西浅草一丁目)の東本願寺別院だったろう。私の家の宗旨は浄土真宗で、和歌山市有本町の本家の菩提寺は、松島の聞光寺である。祖父弥膳が熱心な信者で、鷺宮の東本願寺別院の檀家総代を勤めたこともあった。従って父の代の伯父叔母はいずれも正信偈と御和讃を暗記していた。東京へ移住しても、東京の総本山にお詣りすることを祖父が要請し、父達もよろこんでそれに従ったのではないか、と思う。  後に家が松濤、下北沢へ移住してからは、お寺さんは麻布十番の「麻布山善福寺」になった(父と母の命日はここに記帳されていて、昭和四十五年父の三十五回忌をやった)。しかし父が上京して新小川町に住んでいた頃は、お寺さんは浅草の東本願寺だったはずである。渋谷に移ってからも、当分はそこへ行ったのであろう。  この後も三、四度、連れて行かれた記憶がある。お詣りをしての帰途、六区の映画街で西洋ものの映画を見るか、花屋敷に入り、仲見世を通って雷門から出て来るのが、おきまりのコースであった。  両親の満足気な歩き振りを憶えている。お寺から出て来ると、通りすがりの若い男が、母の臨月の腹を見て、なにかからかうようなことをいった。これは渋谷界隈ではないことで、子供心に下町はこわいという印象を受けた。  その次の記憶は、出産の前夜、茶の間と奥の間の、しめ切りになっていた襖のイメージである。いつもは開いているその襖がしめ切られ、しんと静まり返っていた。もう夜になっていた。茶の間には長火鉢が南側の窓際においてあった。その長火鉢の向うの神棚の下に父が坐り、変な顔をしていた。長火鉢のこっち側には宮本の養子さんが坐っていた。  この人は前に書いた通り、氷川神社前の家の近所に住んでいた同郷人で、その養母は私に『小波お伽噺』を貸してくれた人である。見舞いか、手伝いに来ていたのであろう。小父さんは古ハガキで「行って来い」というものを折って、投げ上げた。部屋の隅の天井近くまで行くと、一転して小父さんの手元に戻って来る(どういう折り方だったか憶えていない。その後、このおもちゃを見たこともきいたこともない。和歌山特有の折り方だったのだろうか)。  宮本さんの養子さんはまもなく家へ来なくなり、記憶もなくなってしまうので、この機会にまとめて書いておく。この頃はよく家へ来たらしく、父と三人で、線路向うの南平台の方へ散歩に行った記憶がある。  当時は西郷山といって、近所の子供と兵隊ごっこに行ったことは前に書いた。道玄坂上から猿楽の商業学校へ通ずる直線の新道が出来たところだった。「散歩」というものが珍しいことのようにいわれだした頃で、或る日曜の午後、父が宮本の小父さんといっしょに私を連れて行ってくれた。  父は銘仙の羽織を着て、懐手していたから、春先のことに違いない。その商業学校から谷間へ降りる坂へ来ると、 「昇平、駆けよ」 と父がいうので、私は一散に駆け出した。  懐手をしたまま、父も宮本さんといっしょに、小走りに駆け出した。懸命に駆ける私の速さと同じぐらいだった。  それから大分経って、多分弟が生れてからだと思うけれど、宮本さんは結婚して、上野広小路の電車通りへ果物店を出した。ある夜、母に連れられて、挨拶に行ったことがある。万世橋の方から行って広小路の、たしか一つ手前の停留所で降りた。母はすぐそばの角店の果物店の明るい店先へ入って行って、そこにいる女の人に土産物を渡し、ぺこぺこ頭を下げながら何かいっていた。  しかしやがて同じ果物店でも、それは宮本さんの店ではなく、宮本さんの新店は電車通りの反対側であることがわかった。新婚の奥さんを母は知らず、その停留所のそばとだけ聞いていたので、早合点して、むしろ競争者である他の果物店へ入ってしまったのだった。一旦渡した土産物を取り戻すのは、体裁が悪かったに違いない。電車通りを渡って、はるかに見すぼらしい宮本さんの店を見付けた。  二階へ通されたが、電燈がなく、われわれは暫く外の灯りの照り返しで明るい窓際に坐っていた(蝋燭を持って上ったかも知れない)。やがて宮本の小父さんが下の間の電燈を梯子段を登ったところの床まで、引っ張って来た。脚光のようにまぶしい光の中で、私達はそそくさとお茶を飲み、私はリンゴをいくつか貰って帰って来た。  この家には養母の小母さんはいなかった。死んでいたのかもしれない。この記憶は私の母が、普通の家庭の主婦の役割を果すのにどんなにぶきっちょであったかを示すために記した。それらはなんとなく傷ましいような感じを、子供の心に積み重ねて行ったのである。  辰弥が生れようとしていた夜、宮本の小父さんの記憶は「行って来い」を飛ばしたことだけである。明くる日、目が覚めたら、辰弥が生れていた。私は初めて生れたての赤ん坊を見たことになる。黒い毛が額にへばりついているのを見て、なんて汚いんだろうと思った。ただ鼻の形がちゃんとできているのが、不思議のような気がした。  フロイディスムの理論によると、私は母の愛を奪うべき新しい闖入者に、嫉妬しなければならないことになるのだが、それまで一人っ子の淋しさを身に沁みて感じていた私の場合には当て嵌らない。これは私の幼時の思い出の中で、最も幸福な日の一つである。  それまで私は母といっしょに寝ていたが、その場所は弟に譲り、私はその隣に一人で寝ることになった。これも私には誇らしいことだった。  母にせがんでおぶらせてもらい、川端稲荷の境内へ行ったこともある。弟をその辺にいる年上の友達に見せるためで、「おれには弟ができたんだぞ」と胸を張るような気持だった。しかしやがて弟は泣き出し、どうしてもとまらない。家へ帰ってみると、弟の襟首に棒切れが差し込んであった。私があまり自慢するので、みなが気を悪くしたのだった。  立つようになってから、赤い着物を着た辰弥の両手を帯の間に挟み、こっちへ来い、と手招きする。奥の間の八畳の間の端から端まで歩かせて、おもちゃにしたことを憶えている。舌を口の端からちょっとのぞかせた、おどけた顔付で、よちよち歩いて来る。長目の着物の裾に足を取られて、すってんころりと転ぶのを見て、楽しむのである。どうして手を帯の間に挟んだのかわからない。手を出してやると、匍ってしまうので、その救済手段を禁じて歩かせる訓練だったのかも知れない。  弟の生れた結果、私の家に生じたもう一つの変化は、女中が来たことである。たしか「きみや」という子で、頭を束髪に結って、眼が大きく色白の、ちょっときれいな子だった。玄関の三畳で寝ていた。それからしばらく母は弟と共に、家からいなくなる。母の産後の肥立が悪く、どこかへ入院していたのではないかと思う(弟について二番目の記憶が立って歩く姿であるのは、こうして生れるとすぐ、母といっしょに入院したためかも知れない)。家にはもう一人、きみやよりはかなり年上の女の人が来て、家政を見ていた。この人も色が白くてきれいだった。  はっきり憶えはないが、父の勤先の兜町の関係の人だったと思う。父が仲間と行く料理屋の仲居か何かだったのではないか、と思う。そして私は父はこの人と関係があったのではないか、と思っている。これは後になってからの考えにすぎないが、家が裕福になってから父が妾を置き、女中によく手を出した事実と、次に記す母についての記憶からそう推理するのである。  母は退院してからも、かなり長く奥の八畳で寝ていた。その頃、私は箱庭を作ることを川端稲荷の前の子に教わっていた。小さな瀬戸物で、家とか鳥居とか、燈籠とか鶴とか蟹などになぞらえたものを、おもちゃ屋で売っていたが、それらを小さな植木鉢か木箱に土を入れた中に並べて、庭を作るのが流行っていた。鉢などうちにはなかったが、私は母にせがんでそれを買って来て、庭の小さな築山の前へ並べた。瀬戸物の中には、石碑のようなものがまじっていた。それを建てていると、うしろで不意に母の声がした。 「昇平、何をしてるのですか」  それまで聞いたことのない異様な声だった。振り向くと、寝巻姿の母が縁側に立って、怖い顔で見下していた。私がおびえて、とっさに返事ができないでいると、母は重ねていった。 「墓を建てて、お母さんを呪い殺そうって、いうんですか。早くすててしまいなさい」  私はどぎもを抜かれてしまった。私は弁解したかった。これは墓なんかではない。母に対してそんなことをする理由は全然ない。呪い殺すなんてことを知りはしない。お金を貰う時、箱庭の道具を買うといってあるはずである。  しかしこの時の母の異様な語調に押されて言葉は出て来なかった。私は、 「はい」 と答えて、その買ったばかりの箱庭の道具をまとめ、渋谷川へすてに行った。  こんな筋の通らない叱られ方をしたことはこれまでについぞなかった。その時は、母の病気がよほど悪く、機嫌が悪いのだと思ったが、今日の私の小説的推理では、留守中家政を見に来た人と関係してくるのである。  その人は母が退院すると同時に、いなくなっていた。しかし母はその人と父との関係を疑っていて、病気の自分が余計者である、というような妄想に囚われていたのではないかと思う。何か母にそう思わすものがあったのだ、と私は思っている。  母はめったに私を叱らなかったが、今思い出すと、叱られる時は、何か見栄にからんでいた。私は母といっしょに、川向うの通りの並木橋寄りにあった銭湯へ行ったが(その辺にもまた少し商店がかたまっていて、氷川神社前の家のように、提灯を持って行く必要はなかった。われわれはにぎやかな日の当る場所へ出て来ていたのである)、脱衣場でなにか私が母のいいつけ通りにしなかったことがあった。家の暗い玄関に入るとすぐ、私は二つ三つぶたれ、しばらく玄関から上げて貰えなかったことがある。私がほんとの年をいったため市電の電車賃を払わされて、叱られた経験は前に書いた。要するに母が私を叱るのには、私が人前で母に恥をかかせたということが、必要な前提なのであった。  これを母の芸妓という経歴が、条件づけたものと考えなければならないのは、悲しいことである。しかし「呪い殺すのか」と怒った時の母には、こういう見栄を張る余裕もなかったのだ。そしてこのあとにも、母の口から理不尽な叱り方をして悪かった、という弁解はきかれなかったのである。  しかしこの思い出に、少し明るい点があるとすれば、買いたての玩具を捨てさせるほど、家計にゆとりができたということであろう。第一次世界大戦に伴う好景気は、株屋であった父の収入にすぐ影響したのである。  家政を見に来ていた女の人に関連して、もう一ついやな告白をしなければならない。その人は美しい東京弁を話し、気の利いた人であったが、金の始末は少しいい加減であった。奥の間の茶の間寄りにタンスが二つおいてあったが、その小抽出しに家計の財布が無造作に入れてあった。私はその中から、小銭をくすねることを憶えてしまったのである。街の駄菓子屋には、色々子供のほしいものがあったし、家のおやつはいつも足りなかった。メンコ、石ケリで負けてしまうこともあった。使い古しのフィルムを、一コマずつ切って、紙袋に入れたものを売っていた。大抵は何が映っているのかわからぬくらい筋が入ったいわゆる「雨降りフィルム」だが、なかにどうやら人間の姿が見分けられるフィルムが入った袋が混っている。その外国の女優の大写しのフィルムか何かが当り籤で、たしか一袋一銭で引くことができた。  始めは、必要に応じて一銭、二銭と銅貨を取っていたが、そのうち五銭白銅、十銭銀貨を盗むようになった。当然おつりの始末が問題になるわけだが、家の中におくことはできない。  路地の出口の左側は朝倉米店だが、右側は茶を売る葉茶屋になっていた。そこには私よりずっと年上の、大人に近い美しい姉妹がいて、私は二、三度、二階へ上げて貰ったことがあった。その家の裏手に台所から水を落す口が開いていた。幅一〇センチばかりの箱樋で、上に小さな板片を載せて蓋をしてあった。始終台所の使い水が流れ出しているから、底には水垢がついていて汚いわけだが、ここが私にはこの上なくよい隠し場所と思われた。買い喰いの帰りにおつりの銅貨を入れておき、次の日は路地を出る時、必要な数だけ取り出すのである。  しかしこの変な金庫はまもなくその家の娘さんに見付かってしまった。或る日、使い残りをその溝に入れると、不意に台所の硝子戸ががらりと開いた。妹娘の方が立っていた。何ともいえぬへんな笑いを浮べていた。私はあわてて、金をぬるぬるした溝から集めると、一散に家へ逃げて帰った。  家政を見ていた女の人にも見付かった。外から帰ると家にだれもいない様子なので、いつもの奥の間の箪笥の小抽出しを開け、十銭銀貨を一つ取り出した途端、台所からその女の人ときみやが現われた。  叱られはしなかったが、十銭玉を取り返された。その女の人もなんともいえない変な顔で私を見ながら、「かなわない」という意味のことをきみやにいった。この人は多分、家計簿をつけて、父に見せることを要求されていたので、私がくすねた金額は、私の盗みを父にいわない以上、その人の負担になるのである。  私はこの時、自分が悪いことをしたのを実感した。そして盗みはそのままやんでしまうのだが、その後、大向の家へ越してから、母の財布を目標に復活する。この悪癖は、私の良心にとって重荷だった。なぜこれが止められないのか、と私は悩んだ。しかし家の中に人がいず、目の前にたしかに金の入っている場所があると、私の手は自然に伸びて、その抽出しをあけて、いくらかの金を引き出してしまうのである。  私が中学一年生の時、キリストの教えに従い、神を信じ、正しい生活を送ろうとした動機の一つは、この悲しむべき悪癖から生れた、自分の心の悪の自覚に基いていた。  盗癖は、私の生涯の汚点であり、成長しても私の心に重くのしかかった。従って例えば島崎藤村が幼時の盗癖について、簡単な告白をするのを読んで、慰められたのであるが、私がはじめて告白したのはフィリピンの山の中で、相手は戦友の真藤俊龍である。まもなく敵が来る、死が近いと予想される場合、兵隊は互いに女房にもいわないようなことを話し合うものだが(戦友が帰還してからも不思議な紐帯で結ばれているのはこのためである)、みながする告白の一つとして、私は真藤にこの話をした。すると彼は意外な面持で、 「お袋の財布から小遣いをちょろまかすのは、どろぼうの中に入らない。おれもやったよ」 とこともなげにいったので、私は少し安心した。してみると、それを悪いと思うか、思わないかにかかって来るのである。盗みは抗議である、という精神分析学の理論も私には快い。前に書いたように、家政を見に来た女の人に対し、私が母との関係で、なにか憎しみを持っていて、盗みはその表現としての攻撃だったということになれば便利である。  しかし三年後には、私の盗みは母自身の財布を対象として行われたので、この都合のいい理論は私の場合あてはまりそうもない。「人が山に登るのは、山がそこにあるからだ」という理論によれば、金がなければ盗みはないことになる。すべては私の家に少し余裕ができ、家計の余りが、簡単に手の届くところにあるようになったせいになる。しかし事情がどうあれ、自分の欲望をこっそり行使することには、根本的な醜さがあって、処罰されなくても、いやな感じは抜けない。  人間の性はやっぱり悪なのか。どうして七歳の子供の私が、こんなことをする気になったのかについて、少し母に辛い推論がある。母が私の年を一歳下にいうことにより、市電の電車賃をごまかそうとしたことを前に書いた。子供の半額の電車賃も節約しなければならないほど家が貧しかったからである。そしてほんとの年を車掌に告げた私は叱られた。私の受けた衝撃は大きかったのだが、このことが私に教えた教訓は、人に知られなければ少しぐらいの悪いことをしてもいい、ということだろう。  そしてそれを私に教えたのは、母ということになる。この推論は多分母を不当に非難することになるかも知れない。母としては、他人がだれでもしていることをしたにすぎないだろう。しかし私の生涯のすべてを跡づけるということになると、この関連も見落すことはできない。人間の精神の展開を、因果律によって跡付けようとすると、自然に現われる過度の関係意識であって、歴史とか伝記とかのつまらなさはここから生れる。  ついでにいえば、家政を見ていた人が私の悪癖を父に告げなかったことは、その人と父との関係がそれほど親しいものではなかったと推測さす材料である。するとすべてはあまりにも母に執着して考える私の妄想ということになってしまう。  このような悩みと恥をうちに持ちながら、渋谷第一小学校での生活は明るく楽しく続いて行く。小野先生は前述のように、丈が高く体格のいい先生で、体操がうまかった。木馬を足を揃えたまま飛び越え、しっかり直立することができた。器械体操場が校庭の南側にあって、二年生はただぶら下るだけだったが、尻上り、水車などの大わざも先生はやってみせた。秋の運動会の教員の競走でも一等になるので、私達は先生を誇りに思っていた。これまでの男女組の女先生よりもすべてが明るくて気持がよかった。運動会といえば、高等科の女生徒が「空も港も夜は晴れて」の三拍子のリズムに乗って、集団行進するのも、この上なく好もしい眺めだった。  三月の修業式は、またこれらの女生徒の卒業式でもある。われわれは「螢の光」を歌い、卒業する者は「仰げば尊し、わが師の恩」を歌う。いまはどうか知らないが、その頃は「いまこそ別れめ」の「め」をフェルマータで歌った。つまり卒業生はここで万感の思いをこめて声をはり、息の続くかぎり引き延ばすのである。  女生徒の方が声も感情も強いらしく、女声が長く残った。ソプラノが式場の天井にこだましながら、次第に消えて行くのを聞くと、少なくとも私は恍惚に近い状態に導かれた。すすり泣きがはじまることもあり、「いざさらば」と歌い収める。渋谷第一の生徒の大部分は渋谷駅付近の町屋の子供であるから、その頃、上級学校へ進む生徒は多くなかった。女生徒の大部分は、そのまま家にいて、家事を手伝い、弟妹の世話をするか、もしくは働きに出る。偶然入った食堂に昨日までの上級生が給仕になっていたり、歯医者へ行くと助手になっていたりした(容貌のいい子は丸山の花街に下地っ子に出されたろう)。  稲荷橋の近所に、二年ぐらい上の、黒っぽい着物を着ているお転婆の女の子がいた。或る日器械体操を教えてやるといわれ、放課後の校庭へ連れて行かれた。その子は私にはできない尻上りをした。すると裾がめくれて下半身がむき出しになってしまった(その頃の女の子はパンツをはいていなかった)。私はびっくりして逃げて帰った。この子も卒業するとどこかへいなくなってしまった。  校庭には人は全然いなかったから、これは夏休みのことだったかも知れない。休暇中の子供達の遊びは、渋谷川に入ってハヤやメダカをしゃくうことであるが、実際にはこの頃魚はあまりいなくなっていた。むしろ学校の前の河原で、トンボを取った。細い竹竿の先の方に、モチという粘着性の物質を薄くまき、頭の上へ飛んで来るトンボを目がけて、素速く突き出して捕えるのである。ムギワラ、シオカラなどの尻尾の色によって区別があったが、トンボの王様はなんといってもギンチョ、キンチョと呼ばれる大きな奴で、これは高く飛んでいるので、下級生には手に負えない。やがて赤トンボが取り切れなくなるほど群れをなして、河原を覆うようになると、夏休みはそろそろ終りである。  セミは主に川端稲荷のイチョウやケヤキの木にいた。これもモチで獲った。ケヤキの太い根のくぼみに、セミの幼虫やサイカチ、カブト虫を匍わすのは、季節がそれほど進まないころの遊びだったろう。川端稲荷は今日では首都高速の下になって消滅してしまっているが、当時は境内の鬱蒼たる大木が渋谷川の流れに影を落していた。本来の名は「田中稲荷」であるが、誰もそれは使わない。別名「川端稲荷」の名にふさわしい、水辺の社であった。殊に夏は涼しいから、鳥居の傍の茶店で氷を売っていて、荷車曳きや金魚売りが休んでいる姿が見られた。  ケヤキやイチョウの根元が子供たちの集合所で、頭上にやかましいセミの声を聞き、張り出した根にまたがり、幹の太さを手をつないではかり、固い樹皮の感触を楽しんだ。  父が朝顔に凝り出したのも、やはり夏休みのことである。家の南側には三メートルばかりの庭が表から裏まで通っていた。木戸を入ったところに、棚を作り、大輪の朝顔を懸崖の形に育てて、写真を撮らせたりしていた。  或る日、日がかんかん照っている時間に、不意に帰って来たことがあった。 「おまえらなにしてたんや」 と怒鳴りながら庭木戸から入ってきたが、朝顔を眺めて、ぽかんとしている。父がよく話しに行った川向うの川上という材木屋の若主人が、父の自慢の懸崖の朝顔が棚から落ちた、といたずらの電話をかけたのであった。父は話好きで、夕食後話しに行く家を持っていた。氷川神社の家にいた頃は同郷人の宮本さんの家だったが、この頃は大家の川上材木店だった。父は家では母や私をどなりつけてばかりいたが、外に向っては、人が変ったように愛想がよく、和歌山で「言いたいこと言い」と呼ぶ型の、あけっぴろげな話術を発揮していた。  川上材木店は川向うの通りの、少し並木橋寄りで、宮益坂と平行して青山七丁目の方へ登る道の曲り角にある。渋谷川のこっち側の、「知命堂医院」の裏の空地に、材木置場と製材工場を持っていて、川を越して太い針金を渡し、材木を釣り下げて運んでいた。  河原の一部も材木置場にしていて、よく「よいとまけ」工事があった。これは今は全然なくなってしまったが、主に女の土方《どかた》によって行われる杭打ちである。丸太を三本組んだ櫓の上から、鉄のタガを嵌めた大きな木槌を鎖でぶら下げる。ぶら下げた鎖のてっぺんは数本の綱に別れていて、それを櫓の四方に位置した四、五人の女の土方が持つ。そして櫓の上に登って、槌の落下を調整する男の土方の音頭に従って、一斉に綱を引いて、槌を持ち上げ、急に綱を放すことによって、槌を落下させ、杭を打ち込むのである。綱を引く時に、声を合せて「よいと、まーけ、よーいとまけ」というので、この名で呼ばれていた。  綱を放す時は「よんやこら」という。一種の節廻しがあり、はやしの合間に、櫓に登った若い衆が、高い声で別の節を歌う。なんか下《しも》がかったことをいっているのは、女達の笑い声でわかった。工事は、家の新築のあるところでも行われ、子供たちにとって、この上なく面白い観物であった。「よいとまけ」が始ったという報知が、路地の中にひろがると、みな駆け出して見に行った。そして女の土方のさらに外側を取りまいて「よんやこら」のかけ声を合唱する。  川上材木店の前の河原の「よいとまけ」を私は庭の裏手の垣根越しに見ていたことがある(毎日続くので、珍しくなくなり、川向うまで行く手間を省いたらしい)。そして声に合せて「よんやこら」とどなった。音頭取りの若い衆が、手を振るのでやめてしまったが、まもなく女の土方の一人が、稲荷橋を廻って、どなり込んで来た。片眼に星のあるこわい女の土方だった。「馬鹿にするな」というようなことだった。私は奥の間にかくれていたが、母は玄関で文字通り平身低頭して謝まっていた。  この女土方は後に私の家が大向橋のそばへ越してから、家へ来るようになった中村という仕事師の女房だったが、この時、土方のこわさをはじめて知ったのである。そばにいて労働歌に加わるのは構わないが、川向うから唱和すると、嘲笑になるのだった。  川上材木店はほぼ今日のアングラ劇場「天井桟敷」の位置である。その角を左へ曲った道は、宮益坂のいわば裏坂で、少し左に振れながら上って行き、坂上の線では、本道と三〇メートルの距離に近づく。  川上材木店の角から五〇メートルぐらい上ったところに、右へ入る袋小路がある。突当りは低い築地になっているが、始終人が越えるので、それだけの幅が凹んでいる(こんなものは今日無論消滅しているが、昭和十九年にはこの角の手前の二階家が友人今日出海の家で、私は同じ袋小路と真中の凹んだ築地を認めて、びっくりしたものである。たしかに東京の変貌は戦後急速に進んだ)。その築地を越したところは広場になっていて、あまり大きくない染井吉野がまばらに植えてあり、処々細長い板を二本の丸太の脚に載せただけの粗末なベンチがおいてある。これが金王八幡のいわば裏庭で、左手の高みに朱塗の建物が横腹を見せている。斜めの石段を上ると、本殿、神楽堂、社務所にかこまれた神殿前広場で、右手に正面石段が降りている。石段の下には溝があり、それを石橋で渡った先に、石畳の参道が続いていて、やがて鳥居をくぐって道へ出る。左へ行けば青山学院の横の青山通りに、右は坂を降りて、川端通りに繋っている。これは当時も鎌倉道と呼ばれていて、渋谷川を並木橋で越した先は、猿楽、宿山、祐天寺を経て、やがて大山街道に合する古い道である。  金王八幡の九月十五日の例祭は、川端稲荷とは段違いの賑やかさで、われわれが待ちこがれていた日であった。鳥居から本殿前まで、ぎっしり屋台が出て、しんこ細工、ほおずき、飴、かるめら焼、綿菓子などを売っている。特別にもらった五銭か十銭の小遣いをどう使おうかと苦心する日である。  神楽堂で演じられる神楽は、スサノオの大蛇退治を完全な物語として演じ、オカメ、ヒョットコの道化踊が付く。衣装も役者も川端稲荷より格が違う感じで、われわれは年に一度の演劇を見る機会を十分楽しんだ。  石段の降り口のところに、紙芝居が出ていた。幕を張りめぐらした小さな囲いになっていて、二銭ぐらい木戸銭を払わないと見られなかった。いつも「西遊記」を出していた。それは本来の紙芝居ではなく、人形を描いた五センチぐらいの紙に串がついたものを、小さな舞台の床に差すのである。絵は裏表に張り合せになっていて、例えば金角大王が裏がえって獅子に変身し口から火を吐くと、とたんに相手の八戒もひっくり返り、舌を出し武器を取り落す、惨めな姿になるという仕掛けである。紙の地は背景の幕と同じ黒であるから、人形の姿はなんとなく陰気になる。精巧な極彩色で描いてあるだけに、変な凄味がある。恐らくもとは子供のための見せ物ではなかったので、この頃映画の発達に押されて落ちて来たものだったろう。  鳴り物はじゃんじゃんいう陰気な鐘で、セリフをいう小父さんは渋谷あたりでは見かけないしまった顔付をしていた。黒っぽい着物を着て脚絆を穿いていた。  演し物は「西遊記」だけなのだから、ここで金角大王が火を吹き、猪八戒がべろを出すとわかっていながら、そのじゃーんという不吉な音を聞き、絵姿が不意に変る(串をひねるのだろう)時の、ぞっとするような感覚を味わうために、毎年二銭払い続けたのだった。  この変な紙芝居のほか、猿廻しが神殿の前に出て、お軽道行の真似をすることもあった。猿廻しはお祭りの日でなくても、川端稲荷の境内でやることもあった。私の家の前の路地に越後獅子が入って来て、とんぼを切るのを見たことがあるが、これは祭りの日ではなかったと思う。  八幡様の右隣に、東福寺という寺があった。無論八幡社の別当で、江戸時代は一つの八幡権現だったのだが、神仏分離により、この頃ではまったく他人となっていて、鎌倉道から別の石畳の参道がついていた。  或る日、八幡様へ遊びに行ったら、その石畳に露店が出ていた。八幡様の祭りとは、店の様子も売ってるものも全然違っていて、見馴れぬお閻魔様が御開帳になっていた。何か買いたくても、小遣銭がないのですぐ帰って来たが、われわれの知らない国の不意の出現は驚異だった。  石段下の溝に水はあまりなかったが、その下が神社の境内を出て細い石畳の細い道に沿うようになると、流水が音を立てるほど豊かになる。この辺の家の中にある湧泉の影響らしい。道はうねりながら川端通りまで下っている。これが裏参道で、祭日には乞食が大勢出ていた。  乞食とは心掛けの悪い怠け者がなるもので、お金をやる必要はない、と教えられていた。稲荷橋の市電終点や宮益坂下にはいつも乞食がいた。それは大抵子供を連れたお婆さんで、別に心掛けの悪い人のようにも思われず、貧乏で人にお金を貰うより仕方がないように見えた。しかし、八幡様の裏参道に祭日に出る乞食は、主に男である。それも一人ではなく、五、六人並んでいる。やはり怠け者のいけない人もいるのかな、というふうに子供は考えた。  金王八幡のある高台は、渋谷氏の居城跡で、この辺を「堀の内」というのは、その外堀の中の意味だと『渋谷区史』はいう。渋谷氏は平将門の一門良文(村岡五郎)の孫秩父将頼の裔、重国の代で渋谷荘司と称したことになっているが、各種系図は混乱していて真相は捉みにくい。『吾妻鏡』には「相模国大名」とあり、神奈川県高座郡渋谷にも、系図と遺蹟がある。  金王八幡由来の金王丸は、重国自身、或いはその弟といわれ、源義朝に扈従《こじゆう》し、平治乱後、渋谷にのがれて土着した。のち頼朝の意を受けて義経暗殺を図った土佐坊昌俊と同一人ともいわれる。歌舞伎や浄瑠璃に潤色された伝説的人物で、金王八幡社殿脇に金王桜と称するものがあったという(私が遊びに行った頃はなかった。背後空地の桜の植樹はこの因縁によるものであろう)。  伝説検討は私の任ではないが、重国に関する限り、高座郡渋谷が本地で、豊島郡の渋谷氏は同族が土着して、系図を藉りたものと見ていいだろうと思う。この頃の土豪は居住地の地名を姓とするのが普通であるが、渋谷は地名ではないようである。『新篇武蔵風土記稿』などに「谷盛《やもり》荘」の名が見え、羽根沢の湿地より発する「イモリ川」があるから、この方を古名と見ることができるであろう。  金王八幡境内は石段下の池のほかに、金王水など多くの湧泉を持っている。この一帯と渋谷川対岸の丘陵は、古墳(円形及び横穴)が集中しているから、七、八世紀より土豪が発生したことは疑いない。  氷川神社は埼玉県大宮を本郷とする国造武芝氏の産土神《うぶすながみ》であるから、恐らく金王八幡より古いであろう。氏子の数も氷川神社が広尾、麻布方面に及んで、一万を越えるのに対し、金王八幡は渋谷、宮益、大和田、青山方面で、六、七千である。八幡社はもと平氏である渋谷氏が、源氏に忠勤をはげむために鎌倉時代に勧請したもので、鎌倉道に面し、金王丸説話を作り出したのである(氷川神社も後に金王桜を植えた)。  江戸時代に大山街道に近いため隆盛に赴き、明治大正に及んだのである。川端稲荷は金王八幡の末社に組み込まれ、宮益バイパスと首都高速の建設と共に、八幡境内に移された。稲荷前の横丁に住む私にとってより親しいのは川端稲荷であったが、家は金王八幡の氏子であった。  今日の渋谷区内で私の知っているもう一つの神社は富ケ谷の奥の代々木八幡である。渋谷第一小学校の遠足は二学年の春から始ったが、最初に行ったのは、代々木八幡である。生れて初めて草鞋《わらじ》というものを履き、母が作ってくれた握飯を、風呂敷を対角にまいてくるんで、肩から斜《はす》かいに結んだ。  校門を出てから、宮益坂下の踏切を越え(何度も書くように、これは大正九年渋谷駅が現在の位置に移るまでは、ガードではなかった)道玄坂下で道が二つに分れるところを右に取って行く。これは駒場の帝国大学農学部(現、教養学部)へ行く道で「駒場通り」或いは「農大通り」(現、栄通り)と呼ばれていたが、曲るとすぐ左側に低い井戸があり、水が常に流れ出しているのが珍しい眺めであった。  道はさらに現在の東急デパートの前で二つに分れる。それを右へ取って行くと、間もなく右側に田圃が開けた。空に聞える鳥の声を「雲雀」だと教えられ、田圃いちめんに菜の花にレンゲが混り合って咲き、「絨緞を敷いたような」という教科書の形容がうそでないことを知った。  代々木八幡の丘はその通りの正面に見えた。当時はまだ小田急はなく、今日展示されている縄文土器も住居跡も掘り出されてなかったので、田舎の神社の高い樹の下で休み、弁当を食べて帰って来るだけのことだったが、これは私が田圃というものを知ったはじめだった。  三年と四年の遠足には、世田谷の松陰神社と豪徳寺へ行った。大山街道を三軒茶屋まで歩いて右に折れ、まず若林の松陰神社に詣でて、松陰の英雄的生涯を聞き、それから豪徳寺へ廻って井伊直弼の墓を拝んで帰って来る。勤王志士の墓と、彼を殺した幕府の大老の墓とは随分妙な取り合せだが、当時の教育では、国を開いて国運隆盛を齎らす基を作った人はみんな善い偉い人なのであった。とにかく身を立て名を挙げ、「偉人」になりさえすればいいのであった。 [#改ページ]    七 大向橋の家  大正七年は富山県に始った米騒動の年であるが、依然第一次大戦の影響による好景気が続いていた。大正五年に生れた弟辰弥のために、稲荷前の路地の奥の三|間《ま》の家の、玄関の間に一時女中と子守がいっしょに寝ていたことがある。  もう少し広い家へ越そうということになったらしく、駒場通りのいまの東急デパート本館(当時大向小学校、二年後私はここに転校することになる)の手前を右に入ったところに、少し広い借家を見付けて引越した。  この辺は宮益橋の上《かみ》で渋谷川に合流する宇田川の流域である。横丁はだらだら下りになっているが、一つの小さな十字路を左に曲り、すぐ右にカーヴを描いて「大向橋」というコンクリートの橋で、宇田川を越している。その橋の手前右側、中渋谷八九六番地(現、宇田川町三〇番地)がそれである。  横丁は十字路を真直に下ってすぐ宇田川の岸に出てしまう。この三方を道に囲まれた川に面した地所に、同じような新築の借家が二軒あった。その右側は「頼」という、父と同じ兜町の仲間だったので、多分その紹介で見付けた借家だったろう。  家は一間増えただけだったが、前庭が板塀で仕切られ、門があった。粗末な開き門で、斜めに三メートル入ると、すぐ玄関の格子戸になってしまうのだが、それまで氷川前の家、稲荷前の家と、道からすぐ玄関になる家に住んでいた私には、ひどく大きな家に入ったような気がした。  家の前、横手の十字路に立って、人が駒場通りから曲って来るのを待っている。人が近づくと、五、六歩前に歩き出し、すっと門に入って見せる。 「俺は門のある家の子供だぞ」 という気持で、玄関のところで振り返る。通行人が私の顔を見て、 「ほほう、あれがこの家の子供か」 という顔をしてくれるのを期待しているのだが、大人はさっぱり関心がないらしく、黙って前方を向いたまま通りすぎてしまう。三度まで同じことを繰り返したような気がするが、誰もこっちを見てくれないのでやめてしまった。  今日私は作家ということになって、成上り者のような生活をしているが、もし幼時に基本的な心的傾向が形成されるとするなら私には貧乏性が染みついている。それが今日の弱気と優柔不断な性格を作り上げているといえよう。或いはその裏返されたものとしての攻撃性と奇妙に早い諦めとなって現われているに違いない。 (画像省略)  家の間取りは、玄関の土間から右へ上って二畳の玄関、その右に接して八畳の奥の間、正面は六畳の中の間である。その先に奥の間とは鉤形になって突出た四畳半の茶の間と台所が続く。川端稲荷前の家と比べて、六畳ひと間増えただけであるが、庭は広かった。  縁先から川岸まで、木は一本もなかったが、約一〇メートルあった。そこへ父は盆栽の棚を三筋ぐらい作って、ボケや五葉の松などの鉢を並べた。私としては級友の広田君の家のように芝生にしてほしかったが、この後も父は盆栽との関係で芝生を作ったことはなかった。  木は奥の間と板塀との間の前庭に、ヒマラヤシーダーが二本植っていたのが珍しかった。玄関の左手は曲り角まで板塀だったが、そこから先は粗末な要垣《かなめがき》だった。その中の横手はじめじめした細長い庭で、ドングリの木があった。私はこの空間にブランコを作ってくれ、と父にせがんだが、これもかなえられなかった。  父は子供のいうことをかなえてやらないのが、家長の威厳を保つ所以である、と考えていた気味があり、これは子供の心に不満を積らせて、やがて反抗を誘うことになるのである。  しかしこの頃からうちは少し豊かな感じになって来る。父が私を打つことも少なくなった。門構えの借家に入って、父もやっと家を持ったような気になったかどうか知らないが、それまで郷里の和歌山市郊外においてあった本籍(海草郡四箇郷村字有本三五四番地)をここへ移した。その日付は大正七年五月一日だが、実際に引越したのは一月か二月だったような気がする。渋谷第一小学校へは、道玄坂下の繁華街を抜け、踏切を渡って通うことになるが、はじめは混み合う表通りを避け、川向うの裏道から、明治通り(その頃は練兵場通り)へ出る道を使っていた。  或る雪上りの朝、足駄を穿いて、その道を行った私は、ぬかるみで転び、着物と袴を汚した。遅刻するこわさ、叱られるこわさから、自分で始末してしまおうと思った。道傍の掃き溜めの雪を取って、手を清めようとしたが、手は少しもきれいにならないばかりか、雪の冷気で刺すように痛んで来た。私は泣きながら、家に帰った。  私はいまでもそうだが、ひどいしもやけ性で、冬は手の甲、指の甲にしもやけを作っていた。それだけに雪は痛かったのである。しかし私は意外にも叱られず、母は私の手を温湯に浸けて洗い、よそ行きの着物に着がえさせ、遅刻の理由を書いた手紙を持たせておくり出した。  この時が越してから、あまり経ってないような気がするから、私は引越しは正月か二月だったと思っているわけである。  この家でもう一つ珍しかったのは井戸である。共通の通用路が隣家との境になっていたが、私の家の庭へ入るところに格子門がおいてある先に、両方の敷地に跨がる形に掘られてあった。井戸側は低く、水が縁まで溢れて、川の側に取りつけたブリキの口から流れ出していた。これは道玄坂下から駒場通りに曲ってすぐ左側の代々木屋という酒屋の店先にあるのと同じ方式の井戸で、恐らく道玄坂台地の地下水の湧出である。砂を敷いた水底がすぐそこに見えるくらい浅かった。水は冬はなまぬるく、夏は冷たかったが、少し鉄気《かなけ》を含んでいて、ブリキの流出口は赤く銹びていた。私と違ってひび性の母はまた手を荒してしまって、夜、茶の間の長火鉢の前で、焼いた火箸でとかした黒い薬を(これは「熊の膏」というねり薬だった)、指先のひび割れに埋めていた。  庭土は赤土だった。これもこれまでの家と違っているところで、何だかひどく田舎へ来たような気がした。  大向橋は幅は約三メートル、長さも多分同じくらいの橋で、水面までは子供には、よほど高く見えたが、五メートルぐらいだったろう。橋の手前、私の家と道を隔てて西側はかなり大きな二階家が川に臨んでいたが、その先は木の茂った崖になり、さらに三〇メートル上《かみ》に堰があった。その高さは橋の平面より少し高く、落口のすぐ下から三〇度ぐらい勾配の板が敷いてあって、水が滑り落ちるようになっていた。これはこれまで私の見たことのない景観で、私は橋の欄干の上から、堰に向って、高々と放尿した。水音はそれほど高くないわけだが、それでも一日中空中に音があり、殊に夜、あたりが寝静まった後では枕元に響いた。 「山家へ来たような気がする」 と母はいった。まだ山の中に行ったことのなかった私には、あまりぴんと来なかったが、そういう母のさびしそうな顔だけは憶えている。堰は『新修渋谷区史』によると、伊勢万という米屋の水車の跡だった。水車は廃されていたが堰は残っていたのである。  堰から橋までの水面は少し広く、対岸は三メートルばかり低くなっていた。そこには石井という家が一軒あるだけで、川岸まで広い庭が降りていた。橋を渡った先の道は、多分土を盛ったのであろう、こっち岸と同じ高さで、二〇メートルばかりで少し広い道とT字形に交る。  この道の右側、つまりわが家の対岸は、また低く落ち込んでいるが、そこには川に沿って細長い小屋があった。硝子ビンを作っていたらしく、時たま工員が川岸に並んでビンを洗うことがあった。何ともいえないいやな薬品の臭いが、私の家の方までにおって来た。全体は五百坪ぐらいの広い地所で、右手に大きな二階建の住居があった。  橋を渡って行く道の突当りは、たしか船越という花崗岩の門柱を持った邸で、裏は木の繁った斜面になっている。これは今日のNHKや代々木公園、当時は代々木練兵場のあった台地の端れで、道は斜面の裾に沿って左右に通じている。右へ行くのは、雪上りの朝、私が転んだ道で、斜面の裾をなぞって、だんだん左へ曲って行き、約二〇メートルで、今日の西武デパートの角で明治通りに出る。  この通りは道玄坂通りから北へ切れ、宇田川橋を渡って来る道で、宇田川橋通りとも呼ばれたが、当時は台地上の練兵場の南口に通じているために「練兵場通り」と呼ばれた。そして私の家の対岸斜面の裾を伝う道は「宇田川横丁」である。左へ行くと今のNHK放送センター(これがもとの代々木練兵場の西南の角に当る)の前を通り、代々木八幡から山谷の方へ通ずる。今は幹線道路となったが、当時は幅三メートルぐらいの裏道だった。  斜面は高級住宅地で山路愛山、五島慶太などが住んでいたことを、『渋谷区史』によって知ることができる。大向橋の線から西も右側はずっと屋敷町で、処々練兵場通りへ通ずる坂が上っている。その一つの西側、坂上の線に陸軍刑務所、当時衛戌監獄の塀が見えた。敷地は道まで降りて来ていて、青黒く塗った木の門があり、中の畠で、青い囚人服を着た丸坊主の囚人が作業していることがあった。  それから先は、左は空地、右側に少し町屋が混り、牛乳牧場があったりするが、約五〇メートルで、十字路に出る。これが代々木練兵場の西南の角で、直進すれば練兵場の草の崖に沿って代々木八幡の方へ行く。右も練兵場に沿った坂で、上に衛戌監獄の灰色の塀が見えた。  練兵場へは十字路の角から自然にできた道から上る。そこはゆるやかな草の斜面で、兵隊が掘った塹壕があったりする。左手は松の疎林、右手、衛戌監獄の塀と同じ高さに(というのは斜面を上り切ったところということだが)なまこ山という小山があった。高さ一〇メートルばかりの小丘で、『渋谷区史』によれば古墳である。付近で埴輪のかけらを拾うことがあったという。今日では整理されて完全に消滅しているが、そこに上れば、北東対角の方向の明治神宮の森まで、一望草のない赤土の原が見渡せる。  大向橋の家で、豊かな井戸から溢れる水と橋の上《かみ》の堰の次に新しいものは、この練兵場のあげる土埃りであった。原は常に兵隊が掘り返し、馬がかけ廻るから、草の生えるひまがなく、赤土が七センチくらいの厚さで原全体を蔽っている。風の強い日には、それが空が一面に黄色くなるくらい高く舞い上り、付近一帯の人家に降りかかる。原はもと百姓地だったが、明治四十年、青山練兵場(今日の神宮外苑)が、明治五十年に予定された万国博覧会敷地に指定されると共に、陸軍省に買上げられ、代替練兵場となった。以来十年の兵隊の汗と馬糞の臭いのついた関東ロームの細粒が、閉め切った戸の隙間を通して入り込み、廊下をざらざらにしてしまう。  風向きの工合で、道玄坂付近の町屋に降りかかることがあるので、住民は廃止を請願することを考えた。昭和二年、渋谷公友会が撤廃決議を行うところまで行ったが、やがて満洲事変が始り、太平洋戦争に突入するに及んでうやむやになってしまった。敗戦後占領軍の居住地区ワシントン・ハイツとなって整地され、続いてオリンピック会場、選手村となり、現在では代々木公園となって、砂塵はやっと収ったのである。 「大向」の地名は道玄坂方面から宇田川流域の低地を隔てて「向い側」の意味と考えてよいだろうか、道玄坂中途にあった富士御水講の吉田氏には別の所伝がある。この方面は吉田家の埋葬地で、衛戌監獄下の深町の田圃で施餓鬼供養を行った。その時使った蓮台の用材で、葬列の通る大向橋を修理したという。田圃一帯を「お迎え田圃」といい、橋を「お迎え橋」といったという。  この所伝の当否は別問題として、道玄坂御水講は、徳川中期より隆盛に赴いた富士講の江戸の惣講の一つ、あとでまた触れる機会があるが、道玄坂一帯に信者を持ち、地主でもあったので、吉田家には大正中期までの住民名簿が残っている。当時の宮益坂、道玄坂の人口と生業の変遷を知るための貴重な資料である。  大向橋の家へ越してから、間もない頃の、もう一つの記憶は、弟の辰弥が赤痢をわずらったことである。当時も法定伝染病だったはずだが、どういう加減か入院せずに奥の八畳の間で寝ていた。或る日、不意に母の泣き声がその部屋から起ったので、急いで行ってみると、枕元で母がおも湯のさじを手に持ったまま泣いている。辰弥がどうしても、そのひと匙を飲まないので泣き出してしまったのである。  その時だったか、もう少し経ってからだったか、母が辰弥が笑わないと歎くので、私は寝床のそばで、裸になって踊った。だれから教わったのだったか、 「はだか踊りでござりて候」 とどなりながら、手を振り足をあげ、ちんぼこを出して、でたらめに踊るのだが、すっかり痩せてしまった弟が寝床から私を見上げて歯を出して、にやっと笑った顔をいまでも憶えている。  弟は私と七つ違うから、あんまりいっしょに遊んだ覚えはなく、喧嘩の記憶もない。むしろ同じ年の遊び友達と、どうすれば纒わりつく弟を撤いて、どっかへ行ってしまえるか、ということばかり考えていた。  弟のために何かしてやった記憶は、この裸踊りと練兵場近くの牛乳屋「生民軒」へ行ってしぼり立ての牛乳を買って来てやったことだけだが、その癖これが何か大層恩を着せたことになり、弟は一生私に頭が上らないような気がしているのだから、兄貴というものは横暴である。  もう一つ大向橋の家が川端稲荷付近とちがったのは、夜更けに支那蕎麦屋の屋台がちゃるめらを吹いて廻って来たことである。大抵は大向橋の向うから、家の前を通って、駒場通りの方へ抜けて行く。この笛を弟はなぜかこわがったので、母が、 「早く寝なさい、あの人がお臍を取りに来ますよ」 とか何とかいって、寝かしつけるきっかけにする。  家には門はあっても風呂場はなかったから、宇田川横丁を少し左へ行ったところの「月の湯」という銭湯へ行った。夜、父といっしょに行っての帰り、大向橋の向うから、この笛の口真似をしながら帰って来る。家の前をわざと通り越し、少し経ってから、黙って玄関を入る。  弟は二、三度は欺されたが、やがて、 「あれはあんちゃんだ」 というようになった。家に入って奥の間をのぞくと、弟が大きな眼を明けていて、私の顔を見ると、ぺろりと舌を出した。しかしこれはもう少しあとのことかも知れない。  川端稲荷前の路地に支那蕎麦の屋台が廻って来たことはなかった。山家のような水音を聞きながらも、大向橋の家が道玄坂の繁華街に接していた結果である。そして私は学校の往復に今日の渋谷駅前広場を通ることによって、この辺の繁栄と変遷の目撃者になることになる。  何度も書くように、今日の渋谷駅の北のガードはなく、踏切になっていた。当時の渋谷駅は、稲荷橋の南、今の貨物駅の付近にあったから、今日のハチ公広場もなかった。線路脇に材木とか砂利がおいてあるところを少し入ると、玉川電車の終点だった。駅の建物もなく、切符は市電と同じく車内売りだった。 (画像省略)  渋谷駅は大正九年、稲荷橋の辺りから高架にして、現在の位置に移った。地面を掘り下げる工事と、線路を高架で上げる工事とが協同して、ガードを通すことができたのである。宮益坂下の傾斜の取り方に誤算があったらしく、その頃の網付電車は坂下の平地にかかるところで、車体前方につけた金網(これはうかつに電車の前面に接触する通行人をすくい上げる仕掛だったらしい。創業当時の速度ではそんなことが考えられたらしいのだが、私はこの網のために助かった人の話を聞いたことがない)が、地面につっかえた。車掌がひとり坂の下に立っていて、電車が降りて来ると、昇降台に飛び乗って、鉄の鈎で、この網を持ち上げる恰好がおかしかった。まもなく電車は全部金網なしのボギー車になったので、このお役目は解消になった。  市電はガードをくぐると左へ曲り、新設の駅の正面が終点になる。同時に玉電も駅を建てた。国電の駅の対面に、新しく開店した明治製菓(二階喫茶室)と共に、市電の終点を三方から囲む形になった。これが今日の駅前広場の原型である。  無論広さは今日の半分以下で、道玄坂通りへ出る角は「甘栗太郎」だった。中国産の小粒の栗を、やはり中国風に大粒の砂の中で焼いた「甘栗」が、朝鮮飴と共に、その頃東京市民に東洋風の味覚を提供した。  甘栗太郎の隣は谷崎写真館だった。これは当時渋谷駅周辺にあった唯一の写真屋で、私の入学記念写真や受験用写真はみんなここで撮っている。谷崎写真館の角を曲る細い道は、やがて玉川電車の踏切を渡り、駅構内に西側に沿って稲荷橋通りへ繋がる。  曲ってすぐ左側に「渋谷館」というこれも渋谷で唯一の映画館があった(当時の言葉でいうと「活動小屋」、収容人員六〇四人)。川端稲荷の家にいた頃、従兄の洋吉に連れられて、時代映画を見に行ったことは前に書いたが、尾上松之助という人気俳優主演の「忠臣蔵」「荒木又右衛門」や自来也、猿飛佐助などの活躍する忍術映画、新派俳優の演ずる「不如帰」「己が罪」などをやっていた。無論無声映画だから、男女の弁士が三人ぐらい薄暗い舞台の袖に出て、かけ合いでセリフをいう。  チャップリンの喜劇やパール・ホワイトの連続活劇など、「西洋物」を見るには、宮益坂を上って青山六丁目(現、五丁目)の「青山館」まで行かなければだめだった。そこの弁士も男女の掛け合いで、男の弁士の独演は浅草の電気館専属の生駒雷遊と溜池の葵館の徳川夢声ぐらいしかいなかった。  立川文庫の愛読者であった私が一番好きなのは忍術映画だった。「えい」と印を結ぶと、自来也の姿がぱっと消え、ドロドロドロと下座の太鼓が鳴って、ガマが現われる。胸がわくわくする場景だが、私にとって一番羨しかったのは、自分の姿を消すことができることだった。映画館の入口でぱっと姿を消し、切符を買わずに木戸を通ることができたら、どんなにいいだろう、と思った。  当時、子供の視聴覚の快楽は映画と紙芝居しかなかったが、映画は教育上悪いとされていた。ことに忍術映画には必ず泥棒とか悪党が出て来るから、月に一度ぐらいしか連れて行って貰えなかった。従って学校の帰りに映画館の看板を見てくるのも親には内緒だった。従ってそこで忍術を使って「見えざる人」となって、木戸を通過できればいい、というのが子供の夢となったのである(最近の理論によれば、ポルノ映画の直接の影響とは、性交を行いたくなることではなく、別のポルノ映画を見たくなることだそうだが、それは私の幼時の映画体験からも実感されることである。そういえば小説だって、面白い小説を読むと、すぐにもう一つ読みたくなる。すべて想像力の楽しみは同じ傾向を持っているようで、この頃から私が次第にのめり込んで行った小説濫読の習慣に、ほかに原因は考えられない)。  谷崎写真館とこの横丁を隔てて西側の角店は、『渋谷区史』によれば「梅原園茶舗」であるが、子供に馴染のない店なので、私の記憶にはない。そこから道玄坂下の分れ道までは、今日と同じく色々な物品を扱う商店が並んでいた。  反対側は、線路際からすぐ商店が始っていたはずだが、どんな店があったか、これもよく憶えていない。谷崎写真館の対面から練兵場通り(現、明治通り)が発しているが、その線路側の角が鈴井薬局という大きな薬屋だったのはたしかである。そこの鈴井茂という子供が渋谷第一の同級生で、二、三度、店の二階へ上って遊んだことがある。  南側一面が窓になっている明るい部屋だった。窓の外に看板の裏側が迫っているのが珍しい眺めだったが、多分奉公人の寝部屋だったのだろう、十二畳ぐらいのだだっ広い部屋で、畳が焼けて日向くさかった。片隅に蒲団が積み上げられているほかには何もない殺風景な部屋だったが、子供にはこの広さが貴重で、相撲を取ったり、鬼ごっこをしたりして遊んだ。  鈴井薬局の前面は道から少し退いて板張りになっていて、下駄で歩くとボコボコ音がした。店の土間も同じように板張りだった。つまりこの部分の下は、宮益橋の上で渋谷川に合流する宇田川になっているのである。  練兵場通りへ渡る橋は石橋になっていたろうが、欄干はなく、道と同じ平面に埋れて、その存在は意識されなかった。  その西側の角は、大盛堂という本屋だった(この本屋は現在は明治通りを少し入ったところに、九階の本のデパートというものを建てたが、四、五年前までは、同じ位置にあった)。店全体が川をまたいでいて、鈴井薬局の前の板張りの分だけ、張り出したような形になっていたと記憶する。板張りの土間が音がするのは同じである。その隣はたしか箪笥屋で、その他様々の商店が、約五〇メートル先の道玄坂下で、駒場通りと二股に分れるところまで続いている。  要するに道玄坂通りの北側は、渋谷川の稲荷橋の下と同じく、宇田川の河上家屋になっていたのである。そして秋の台風のシーズンには、よく水に浸った。宮益橋の上の渋谷川との合流点に近いこのあたりは、一層滞水の度合が大きかったわけで、流された木材や家具などが、渋谷川本流の上の河上家屋に引っかかって、被害を大きくしたりした。  そしてこの辺りが、今日でもそうだが道玄坂通りの中で一番賑やかなところである。いまでは一括して道玄坂通りと呼ばれているが、本来は線路から坂下の分れ道までは「宇田川通り」で、坂は単に「道玄坂」である。そして坂は当時はもっと急だったし、人は必要がないと坂をのぼらない。それに坂の右側には郵便局、風呂屋、左側に憲兵分隊があって、町屋ばかりではなくなって来る。  宇田川通りで印象的なのは、泥濘である。雨が降ると道一面に、しるこのような泥がひろがって、足駄の歯がすっぽり浸ってしまうくらい深かった。そしてこの道は、世田谷の奥から東京市内の糞便を汲み取りに来る馬車、牛車、いわゆる「おわい車」の通路だし、三宿方面の砲兵連隊、輜重兵連隊、騎兵連隊の牽引車や乗馬が馬糞を落して行く。それらの重量車が掘り起した土と馬糞と、そして「おわい車」がこぼして行く糞尿が混り合って、なんとも変な臭いのする土汁が、道一杯に拡がるのである。  当時の道路修理は泥が深くなると砂利を敷き車や人が踏み固めるに任せるやり方だったから、自然、道の真中が高くなる。従って泥濘は自然、両側の店先に溜る。すると両側の店の小僧が、棒の先に幅の広い板を打ちつけたものを持ち出して来て、懸命に泥を道の中央に押し返す。泥は少し経つと店先に戻って来る。するとまた小僧が現われて、同じ作業を繰り返す。  道玄坂の泥も自然、坂下に溜ることになるので、こんなに泥濘が深かったに違いない。雨の日や雪解けの日は、私は通るのを避けた。私が大向橋の家に引越したての頃、裏道の宇田川横丁で転んだのは、この配慮から生じたことだった。  駒場通りに曲るところの右側は「常槃木」という和菓子屋で、その先に路地があった。二、三間だらだら下りにさがるとすぐ宇田川べりに出る。両側には商店の土台の木組が露出して、河上家屋の仕組がよく見える。腐った木や台所用水の臭いのする中を、小さな木橋で宇田川を渡る。先は宇田川横丁に通じているが、橋を渡った左手に空地があって、春秋の気候のいい時節にドサ廻りの芝居や曲馬団が小屋懸けをした。  芝居の方は見ることを禁じられていたが、曲馬団はむしろお子さん向きである。ジンタの吹鳴らす「天然の美」や「ドナウ川の漣」が、表通りまで聞えて来ると、矢も楯もたまらず、入口まで駈けて行く。木戸のところにはあき番の道化師や、タイツを穿いた綱渡りの娘などが坐って、呼込みをつとめていた。時々その後の幕がさっと左右に引き分けられ、後足で立ち上った馬が見える瞬間、幕はもとに戻る——というような仕掛で、曲馬団は毎年同じ、曲芸も同じなのだが、母にせがんで必ず見に行った。  粗い足場のような木組の上に天幕を張り渡しただけの小屋で、傾いた板張りの座席に荒莚が敷いてある。天井からぶら下った灯はアセチレンではなく、電気だったような気がするが、花やかさの中に、うらぶれた感じがあった。 「曲馬団の少女」の薄倖な運命は少年少女小説の好題目だった。もっとも大根足、出っちりで、金歯を入れた少女——というよりは、べったり塗った白粉の下に、笑うと皺の線が出る年増のねえさん——に、少女小説のヒロインの俤を見るのは、大変むずかしかったが。  その頃曲馬団と西洋大魔術は見世物として下り坂だったと思われるが、私が中原中也と知り合った昭和三年にも、まだこの空地に曲馬団がかかって、いっしょに見に行った記憶がある。もっとも彼はその前に「サーカス」を書いていたのだが。——   観客様はみな鰯   咽喉《のんど》が鳴ります牡蠣殻と  この嘲笑的な詩句は、きたない莚の上に、新聞紙でくるんだ下駄を尻の下に敷いて坐り、高い天井から垂れたブランコの上の曲芸師を見上げる多くの仰向いた顔の印象である。  道玄坂でもう一つ印象的なのは、夜店である。坂へかかると少し賑やかさが減じると前に書いたが、それだけに夜は店をしめてしまう店が増えるわけで、憲兵分隊の塀の前とか郵便局の前などにアセチレン燈をとぼした(これもまもなく電気になった)玩具、古道具、植木、金物などを売る夜店が出る。毎晩、甘栗太郎の方まで連続して、店が出たと記憶する。  その上限は大体いまの東宝映画劇場の少し上、大和田横丁までである。もとはここから先は坂がもっくりお凸のように盛り上って、昇りが急になり、ぶらぶら歩きに適さなかった。そこに出ているのがバナナのたたき売りで、若い男がねじり鉢巻で、卑猥な冗談を交えながら、一房二円からはじめて、二十銭までまけてしまう。  その向い側、「角喜」という酒屋の前は、少し低く広くなっていた。紋付袴の艶歌師が「熱海の海岸散歩する」貫一お宮や「ラッパ節」をヴァイオリンを弾きながら唱っていた。或いは角帽をかぶった書生風の男が、ガマの油の膏薬や記憶術の本を売っていた。  この酒屋の店の横から狭い横丁が、斜め下に向って入っている。駄菓子屋や鋳掛師、指物師など職人の店の並んだ裏通りで、その上手が御水講屋敷だったので「御水横丁」と呼ばれた。横丁はやがて駒場通りへ出る。その対面が丁度私の家へ曲る横丁である。  要するに北側は宇田川横丁から練兵場通りを経て、宇田川通りへ出る線、南側は道玄坂の中途まで登って、御水横丁を曲り、駒場通りへ戻って来る線で限られた空間が、大向橋畔中渋谷八九六番地へ引越してからの私の行動範囲であった。  道玄坂の大和田横丁から上は前述のように、勾配が急だった。右側には後に整地分譲されて「百軒|店《だな》」というショッピングセンターとなった中川伯爵邸があった。そこから上は再び店屋が多くなって来るのだが、これは坂上の両側を占める円山の遊興地の付属商店街で、横丁を曲れば、すぐ戸口に屋号を染め出した暖簾を下げ盛塩をした家が軒を並べている。  これは世田谷の奥に兵営ができてから、高級将校が御用商人の接待を受け、兵隊が休日の歓楽を買う花街である。むろん子供が足を向けるのを禁じられている地区だが、日曜の午後なぞ、ごぼう剣を吊った兵隊が、これらの横丁を出たり入ったりするのが見えた。  大和田横丁も、円山花街より品が落ちるが、やはり兵隊や馬丁相手の私娼のいたところである。横丁は二〇メートルばかりで、玉川電車のガードをくぐるが、それから先の両側に日清戦争後、東京市内の岡場所から私娼が移って来た。芥川龍之介の「白銅の銭に身を売る夜寒かな」の句は、ここの私娼を詠んだものといわれる(「渋谷の土娼に賃五銭なるものある由」との詞書がある)。大正六年廃止になったから、私がこの辺を歩くようになった時はなくなっていたが、横丁を入ってすぐの両側には、料亭や食料品店が並んで、繁栄の跡は残っていた。  大和田横丁の名は明治三十四年、与謝野鉄幹、晶子が最初の愛の巣を営んだ「新詩社」の所在地として、文学史に残っている。当時の中渋谷二七二番地、横丁入口の向って左の角の裏側で、憲兵分隊との間に表通りからも入る路地があったという。  旅順包囲戦が始った三十七年九月、晶子が「君死に給ふことなかれ」と歌ったのもここである。「乱臣賊子」と罵った大町桂月に対して晶子は答えた。 [#この行2字下げ] 桂月様は弟御様はおありなさらぬかも存ぜず候へども、弟御様は無くとも、新橋渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大声に「万歳」と申し候こと、御目と御耳に必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーションにては、巡査も神主様も村長様も宅の光までも斯く申し候。かく申し候は悪ろく候や。  当時稲荷付近にあった渋谷駅は、新橋と共に、東京の二つの軍隊積出し駅であった。駅前の客待ち茶屋に、多人数の人員を収容する部屋があったことはすでに書いた。新橋が近衛師団や、第一師団の歩兵や師団長の積出し駅であったのに対し、渋谷は世田谷の砲兵と輜重兵と馬の積出し駅だった。  家出娘の晶子は、郷里堺で跡を取っている弟に向って「死ぬな」といったのだが、その感情には渋谷駅の家族歓送の光景と大和田横丁をうろうろする二等兵や馬丁の印象の裏打ちがあったのである。  私自身、物心ついた頃から渋谷道玄坂周辺に育って、代々木練兵場に向う兵隊の列や、うろうろする日曜外出の兵隊を見ているので、軍隊の忠誠と勇気について、いくら教科書で教えられようと、あまり軍人を尊敬する気になれなかった。カーキ色の軍服は、傍へ寄ると馬糞の匂いがするような気がして、避けて通った。これは主に渋谷周辺に出る兵隊が、砲兵、騎兵、輜重兵など、馬を扱う兵種だったために違いない。  道玄坂通りでは、よく奔馬の事故があった。町中の何かの音に驚いて馬が突然走り出すのである。私は一度目撃しただけだが、人々の叫び声で気が付いた時は、兵隊が手綱をつかんで引きずられていた。両足を揃えたいい形で、黙って引きずられて行く、諦めたような大人の姿が眼に残っている。  坂下の大盛堂の前あたりの出来事で、馬は道玄坂の方へ駆けて行った。どう片付いたか記憶にないのは、多分登校の途中で、後を追って駆け出すひまがなかったからだろう。坂にかかって、自然に止ったのではなかろうか。輜重輸卒の経験のある水上勉にきくと、こういう場合、肩の関節がはずれても、兵隊は手綱を放すことは許されないのだという。放せば「放馬」となり、重営倉である。  坂が急になる角喜酒店のあたりで、おわい車を引いた馬が、よくへたばっている光景が見られた。横倒しになって、大きな腹を波打たせている馬が、馬方に鞭打たれると、奇蹟的に起き上り、がらがら音を立てて、急な勾配を駆けるように昇り出すのも痛ましいが、いくら鞭打たれても遂に起き上れない馬もある。すると馬方は一層怒り出し、力をこめて打ち続ける。見兼ねて何かいう通行人に喰ってかかる。  あとでドストエフスキイの『罪と罰』で、ラスコルニコフの夢の中の、鞭打たれる馬の描写を読んだ時、私は道玄坂の中途で倒れた馬を思い出した。ドストエフスキイは地面に横たわった馬の静かな眼を描いている。私自身も馬と眼を合せたことがあるような気がするが、多分これは傑作が喚起した贋の記憶であろう。  最後の力をふりしぼり、哀れな動物は、前肢を立てて立ち上ろうとするが、その力は重い腹を持ち上げるに足りない。崩れるようにまた脚を折って、もとの横臥の姿勢に戻ってしまう。すると馬方は一きわ罵声をはり上げて、打ち続ける。それまで怖い大人の筆頭は土方だったが、馬方というもっと怖い人がいるのを、私は大向橋の傍に越してから知ったのである。  荷車を引く人間がへばってしまうのもここである。従って道玄坂下には、よれよれの着物に縄の帯をした立ちん坊が立っていて、荷車の後押しをして、駄賃を稼いだと『渋谷区史』にある。しかし私にはその記憶はない。  これらの道玄坂に関するとりとめのない記憶は、この辺の生れの藤田佳世さんの話によって確かめることができた。藤田さんは昭和三十六年に『渋谷道玄坂』(弥生書房)といういい本を出した方である。大正元年大和田横丁の生れ、坂下の商家に嫁がれたが、今は駒場通りから少し右へ入ったところ、つまり私の家があったあたりに「こけし屋」という、お好み焼屋を出しておられる。古い渋谷をなつかしむ気持が私と共通していて、この文章を書くについて、これまで幾度かお会いしている。  私と違って町中に育たれたので、道玄坂について、私より身近な詳しい記憶を持っておられる。大正五年、道玄坂の街角に初めてガス燈がついた頃、日暮れになると、長い棒を持ったガス屋がどこからともなく現われて、街燈に火を入れて歩く光景も記憶しておられる。大和田横丁の角に「奥吉」という牛肉を売る肉屋があったことを、私に思い出させてくれたのも、藤田さんだった。 「こん夜は奥吉の肉にしよう」 と父がいう、その声音まで思い出した。  渋谷の夜店で売っていた品目についても、よく憶えておられる。ボタン屋、ローソク屋、大正琴や尺八を売る店、よりどり十銭の櫛屋、かんざし屋、真綿のような電気アメ、煎りたての塩豌豆、焼とうもろこし、金魚、虫売り、廻りどうろう、風鈴屋、七色とうがらし、鼈甲《べつこう》飴、しん粉細工なぞ、すべて町中に住む女の子の欲望と好奇心の対象として、鮮明に憶えておられるのである。  林芙美子が無名時代、ここで夜店を出す話を書いているのも知っておられた。彼女は坂下の横丁の親分に店割りを貰いに行くのであるが、明治四十一年渋谷の夜店が始った頃は、夜店は客足を引くと考えられていた。通りの店屋では自分の家の前に出る夜店に一晩五銭の燈油代を払ったという。  道玄坂には江戸時代から町屋があって、江戸町奉行の支配に入っていたのだが、それは坂の下の方だけだった。円山には茶畑があり、いまの駅前広場のあたりは「六反田」といって、道の両側は田圃であった。右側は宇田川の水が溜って沼になっていたといわれる。  繁栄は宮益坂に遙かに及ばなかったのだが、世田谷に兵営ができてから御用商人の地位を目当てに店が集って来た。軍人や官吏の住居が大和田横丁の上に建って、それらの家の消費財を商う店も増えた。  道玄坂の地名の起源について、『新編江戸志』はいう。「渋谷より世田谷へ行道也、(略)道玄寺といふ寺あり、道玄は大和田氏なり、和田義盛が一族なり、建暦三年五月叛逆ありて和田一族ほろぶ、その残党この処の岩屋にかくれて山賊をなす」 『吾妻鏡』に和田一族として大和田氏の名が見え、「道玄物見松」というものが目黒の宿山にあったという(『町方書上』文政年間)。「宿山」は今日でも「宿山橋」の名で残っている目黒川流域の字名、金王八幡前に繋がる鎌倉道が猿楽の北で目黒川流域へ降りる地点に当る(なお大山街道の大坂上に物見松の所在を伝えるのは謬説)。鎌倉武士の一族がこの地にのがれて、鎌倉方面を偵察しつつ野武士化した、そのかなり鮮やかなイメージである。ただし、中野区の和田にも和田氏があり、同じく鎌倉の和田義盛の残党と称する。地名を姓とした室町以後の地侍が、鎌倉の名門の名を借りた可能性がある。  なお一説に家康入府に際して、「大和田道玄」と称する者が先導して、この地一帯の地割りをしたと伝える。「物見松」はその時の地形を展望した地点という。これは『天正日記』にある説だが、この本は偽書の疑いが濃く、取るに足りない。結局、「町方書上」の次の記述が最も公正穏当といえよう。 [#この行2字下げ] 往古大永年中(一五二一—二八)道玄太郎と申もの、当町内坂の辺に住居仕候申、郷士にも可[#レ]有[#レ]之哉に申伝候、右唱に寄、町名にも相唱来候様に奉[#レ]存候得共、書留め等無[#二]御座[#一]候間、委細之儀は相知不[#レ]申候。  要するに渋谷は、古代中世を通じて、街道筋より離れた谷地で、土地狭隘、湿潤不毛の地であった。従ってこの地に拠った武士、地侍については、すべては明らかでない、といわねばならない。  江戸開府以来は旗本の所領、或いは幕府直轄の代官支配となり、百姓は六公四民の収奪を受けた。江戸中期以後は、秦野たばこの伝送路、大山講、富士講など庶民の信仰と観光の中継地であった。幕末動乱の時期には伝馬については品川代官の支配を受けて、東海道の交通にかり出された。  道玄坂上は約五〇〇メートル平坦であるが、すぐ大坂となって目黒川流域に降りる。そこからは広い世田谷の原の先に、富士、大山の展望が得られる。道玄坂上から右に切れると、弘法湯の鉱泉がある。この道は下北沢の淡島神社を経て、仙川で甲州街道に合する脇道である(現、淡島通り。今日では大坂の降り口から右折しているが、もとは弘法湯の前を通るのが本道であった)。富士の吉田登山口を目指す富士講信者の交通路であるから、古くから道玄坂中腹に「御水講」があり、維新後坂上に「扶桑教本部」が移って来たのである。  明治以後、世田谷の兵営設置、国電開通と共に、補給交通の中心を形づくり、繁栄に赴いた。しかしそれが今日のように副都心の一つに成長するには、大正十二年の大震災による東京都心部の潰滅、市民の居住地域の目黒、世田谷への拡散が必要だった。  藤田佳世さんが新しく出したお好み焼屋は、もとの私の家のあった辺りであることは前に書いた。一日お訪ねして、お話を伺ったが、無論あたりは一変している。駒場通りは現在「栄通り」と名を変えている。横丁が少しだらだら下りになっているところに、昔の面影を残しているだけで、私の家の前での二度の屈折は真直にされ、宇田川は舗装の下に埋没し、従って大向橋も消滅している。 「こないだまでは、大向橋跡という標識があったんですがね。どこかへ行ってしまいました」  私は戦後、二度ばかり、この場所へ来たことがある。こういう場合、目標になるのは銭湯である。風呂屋は一種の公共性を持っているから、何キロ平方にいくつと基準がきまっている。営業権が発生しているので、その位置は変らない。建物は焼けても、煙突は残る。変貌した町に、昔の道を探すのに、最もいい目標である。  私の場合、これは「月の湯」である。大向橋を渡って宇田川横丁にT字形にぶつかってから左へ行く道は、わずかに北に振れている。その地点から真直に西に入るもう一本の狭い路地があって、T字点左側の角は三角の地形になっている(この地形は、現在の派出所の位置にその名残をとどめている)。それに続く家並は、玄関を宇田川横丁に、裏をこの路地に向けることになる。たしか三軒目の家に、あとで竹久夢二が越して来た。愛人お葉さんがモデル衣装の振袖姿で裏側の窓に立っている姿を、裏手の路地から見た憶えがある。 「月の湯」も同じように路地に裏口を向けていた。そこの子供がやがて私の遊び友達になって、一度裏口から入って、暗い焚口でむっとするような湯気と湿気のまじった異様な空気をかいだことがある。 「月の湯」は十年前にはトルコ風呂になっていた。現在はサウナである。一帯は駅前の「恋文横丁」から続く、歓楽飲食街の中に嵌り込んでしまっているのだ。まわりはバー、キャバレー、食堂、喫茶店ばかりである。  大向橋と標識が立っていたところは、有料駐車場となっていた。もと水車の持主「伊勢万」の持地で、その家の方が住んでいるという。 「私の住んでいた八九六番地は、伊勢万さんの借家だったかも知れませんね」 と私はいった。  伊勢万の水車がどこにあったかが、次の私の疑問なのだが、これについては、文学の方に証言がある。明治二十九年十一月十一日、田山花袋が衛戌監獄下に隠棲している国木田独歩を訪ねた時の記述が『東京の三十年』にある。  花袋は渋谷停車場を降り、大和田横丁を通って道玄坂の中途を出たらしい。百軒店の前あたりに下宿していた宮崎湖処子を訪ねたが、留守だったので、独歩の家へ寄る気になった。 [#この行2字下げ] 渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲つてゐて、(角喜酒店の横から入る御水横丁を抜けたらしい)向うに野川のうねうねと田圃の中を流れてゐるのが見え、その此方《こつち》の下流には、水車がかゝつて頻りに動いてゐるのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持つた低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍の土橋を渡つて、茶畑や大根畑に添つて歩いた。  この文章を読んだとき、花袋は私の家の前を通り、大向橋を渡って行ったのだな、となつかしく思った。花袋は堰のことを書いていないが、水車は堰の下の対岸、石井太郎の家の敷地にあったのだろうと想像した。  ところがほかの文献を見ると、水車はどうやら私の家の位置にあったらしい。加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』に、明治二十一年版『東京府農商工要覧』の渋谷川、宇田川にかかっている水車の詳細が転載されているのだが、それによればこの水車は、正にわが家の番地を持っている。 [#この行2字下げ] 位置、中渋谷八九六番地、所有者深川亮蔵、米麦搗男二人、一年間の働き、一、四四〇石、取上げ代価、一八〇円。  深川亮蔵は道玄坂下の乾物商伊勢万の主人、ほかに並木橋の下に、能力五、〇四〇石の水車を持っていた。八九六番地は堰とは少し離れすぎているし、その住居の番地である可能性もないでもないが、東京府の統計は営業許可の記載に基づいているだろうから、水車の位置はまず絶対である。  元来わが家の前を通って大向橋を渡る道は、字「宇田川」と「大向」の境界で、明治十三年の測量図にも載っている古い道である(ついでにいえば、その頃は道玄坂下で分れる「農大通り」はなく、御水横丁から斜面の高い処を円山を迂廻して行くのが本道だった)。  私の家のレベルが高いのがこの仮説の難点だが、それは水車廃止後、地盛りして、借家を建てたと考えれば解決する。庭の土の赤土だったことも地盛りを考えさせる材料である。  一九七二年九月一日から十三日まで、東急百貨店の六階で、「渋谷五十年の歩み」の回顧展が催されたのを機会に、私は「渋谷郷土研究会」の加藤さん(『郷土渋谷の百年百話』の著者)の紹介で、関口茂氏にお目にかかることができた。  氏のお父さんの繁次郎さんは道玄坂の中途、続いて駒場通りの、いまの「北陸銀行」の近くに移って、土管など建築材料の販売、工事請負いをしておられた。私の父が後に松濤の家を増築した時、仕事に来られたことがあるそうで、私は何年ぶりかで、私の父を憶えている人に会ったのだった。  関口氏は私たちが八九六番地にいたことは知っておられなかったが、八九六番地が大向橋のレベルより低く、水車の頭が道の高さだったことを憶えておられた。水は堰の上から右岸を溝で引いていたという。ただし大向橋は小さな木橋だった。鉄管を渡してコンクリートにしたのは多分大正二年頃だったという。当時としては珍しい架橋法だったので、「ハイカラ橋」といわれたという。 「橋から上は、ずっと畠だったんです」  水車が廃止されたのは明治四十一年だという。この年の秋の台風は例年にない激しさで、宇田川、渋谷川の水が氾濫し、十一の水車が全滅した。ただ水車小屋は大正二年頃まで残っていたという。  ここに水車が建設されたのは、松濤の方から流れて来て、大向小学校の裏を通り、堰の上五〇メートルで宇田川に合流する野川が、三田上水から取水してからだった。今日の松濤町一帯は、もと紀州藩の下屋敷だったが、明治五年鍋島藩が払い下げを受けて、大々的に狭山茶を栽培した。その時富ケ谷の三田用水(下北沢で玉川上水より取水、東北沢、駒場、代官山を経て、目黒、二本榎に至る。目黒川、渋谷川の灌漑用水であるが、やがてエビスビール、目黒の海軍火薬廠に給水したので水は豊富であった)から水を引いて、茶を育てた。「松濤園」はその茶園の名で、後東海道線開通によって、静岡茶、宇治茶が大量に東京に供給されるまでは、東京の銘茶の一つであった。  大向小学校裏を流れる野川は、今日の松濤公園の湧水池から発し、神泉谷から流出する水を合せた小流だったが、三田上水の水を取ってから、有馬水車、永田水車(能力それぞれ年間七二〇石、所有主三井八郎右衛門)を廻した。大向橋の水車は、その余水が宇田川へ流れ込んだから成立したものだが、こういう不自然な水量増加はやがて、秋の洪水、道玄坂の河上家屋浸水の原因となる。  渋谷川本流の水車もまた大木戸から玉川上水の余水を取った結果である。渋谷川が本流、宇田川が支流の形になっているが、宮益坂付近の河床の堆土は、渋谷川の方が幅は広いが、厚さは宇田川の方が厚いという(『渋谷区史』)。宇田川本流は深町から上のいわゆる西原八十八谷、代々木八幡、大山公園、山谷方面の水を集めている。上流の流域は渋谷川本流より広く、代々木八幡には縄文時代の遺跡も見つかっていて、古代には宇田川が本流であった可能性は大きいのである。  水の系譜は谷の多い渋谷の生活を規制している。しかし、太古の自然地理は、近世の治水工事、特に玉川上水の建設以来、宇田川、渋谷川流域の住民の生活に、あまり影響しなくなった。レオナルドの比喩によれば、山と岩石を大地の骨とすれば、水はその血である。しかし近世以降のその循環は人工的に促進されている。少なくとも、渋谷に関する限り、人間は玉川上水、三田上水の人工の水によって支配されていた。  宇田川の渋谷川との合流点の手前、今の駅前広場の位置は湿潤の地で、六反田という田圃だったといわれる。道玄坂下のあたりは沼になっていたという。恐らく大向橋の上の堰までは、合流点の手前の遊水地帯だったろう。八九六番地も水車が廻っていた頃は、対岸と同じレベルだったのである。  わが家の隣家頼さんの家の南側は大谷石の石垣になっていて、それに沿って、宇田川べりに降りる道がある。そこはほとんど水面すれすれで、右折して川に沿って下り、約五〇メートルで再び駒場通りに上る。その対面は溢れる井戸のある代々木屋だが、現在でもそこから狭い路地が入って、すぐ道玄坂の途中に出る。坂下の分岐点を三角に切る形になっているのだが、これが駒場通りが出来るまで、道玄坂下と大向橋の水車を結ぶ古い野道だったと思われる(「伊勢万」はこの小路の道玄坂と駒場通りの間にあった)。  この道の宇田川沿いの部分のほぼ中間に、欄干のない小橋があった。対岸は少し高いので、橋はわずかに登りになる。渡った先は真直に宇田川横丁に出てしまうが、その左側に馬車屋があった。そこの家の子供が私より二級下で、私は時々遊びに行った。  馬車屋の名前は、関口さんにうかがうと、有田だったが、十五、六歳の兄さんがいて、馬車を曳いて家業の手伝いをしていた。兄さんの曳く馬車と、道玄坂や宮益橋の方で会うことがあった。有田の子供は「兄さん」ではなく「あんちゃん」と呼んでいたので、私も「あんちゃん」と声をかけた。  或る時家の前で遊んでいたら、この兄さんの馬車が通りかかった。私はいつものように「あんちゃん」と声をかけた。すると意外にも兄さんの顔色が変った。馬車をとめ、二つ三つなぐられた。それは父の折檻の時とは違い、とても痛いなぐり方だった。私は忽ち泣き出した。  丁度母が辰弥を背負って家の前に出ていた。私が何も悪いことをしていないのを見ていたので、 「何をなさるんですか」 と抗議をした。兄さんが早口にいい返した言葉を憶えていないが、多分子供のしつけに気をつけろ、というようなことだったろうと思う。母はその権幕に辟易して「すみません」とあやまった。馬車屋は世田谷の兵隊屋敷の増加により、運送請負として隆盛に赴いた業種の一つで、馬方の気風は荒かった。よその子が「あんちゃん」というのは蔑称に聞えたらしい。  この回想で、私は自分をあまり淋しく侘しく描きすぎている、と級友の広田君はいう。名取君は私が頭でっかちのいたずらっ子だったといっている。稲荷橋付近の家でも、私はよいとまけの女土方をからかって、どなり込まれている。私の心にはいつも悲哀があったのであるが、他人に対しては、おっちょこちょいとなって現われる今日の悲しい性格は、その頃からあったのだった。  大向橋の傍の家へ越してからも、私は広田君や服部君のグループに属し、宮益坂の途中の服部君の家の相撲場を遊び場にしていたが、三学年から一人の新しい顔が増えた。それは柴田淳夫君といって、家は練兵場通りから宇田川横丁へ入ってすぐ右側にあった。大谷石で築いた崖の上の御影石の門柱のある大きな邸の子で、道から門までの傾斜に砂利が敷いてあった。庭は広い芝生になっていたので、我々はそこで相撲を取った。  天文学者の山本一清や、詩人野尻抱影が、子供向きの天文学の本を出し始めた頃だった(黄色い表紙に、太陽に住むという三本足のカラスが描いてあった本を柴田君が持っていた)。われわれは太陽に行く宇宙船を設計すると称して、柴田君の家に集った。計画は結局ボール紙の切り張りの箱を一つ作っただけで、うやむやに終ってしまったが、多分後に物理学者になった服部忠彦君の発案だったろう、と広田君はいう。  柴田君は自分の部屋を持っていた。小柄な上品なお母さんがいて、おやつに西洋菓子を出してくれた。新しい転入生なので、早く友達ができるようにという、心遣いだったに違いない。  少し円顔の整った顔立で、成績もよかった。しかし服部君、広田君に次いで三番にランクされたのは、「ひいき」ということになっていた。お父さんは銀行の頭取か何かだった。広田君の判断によれば、仲間で借家ではなく自分の家に住んでいたのは、柴田君だけだった。  当時中渋谷九七一番地の位置で、宇田川町の中だから、やがて私といっしょに大向小学校へ転校することになった。四年の三学期の終りから、われわれは男女組のクラスを一つ作って、一年生の時入った平屋建校舎の右手の端れの教室に移った。  柴田君の黄色い上質の紙に書いた書き方が、教室の後の壁に張り出された。私は掃除当番の時、その前のベンチの上をバケツをぶらさげて渡ろうとして転び、柴田君の書き方にざぶりと水をかけてしまった。  担任の関根先生という新しい先生に報告し、あくる日私は柴田君にあやまったのだが、柴田君と私との仲を知らない関根先生は、ちゃんと頭を下げてあやまれという。私は止むを得ず、もう一度あやまった。柴田君の困ったような顔を憶えている。私は口惜しくなって泣き出してしまった。  柴田君は結局大向小学校には来ないで渋谷第一に残った。あまり度々転校することになるので、お母さんが学校に運動をしたのだろう、とみな思っていた。それほど柴田君はわれわれの中で唯一人お金持の子供という印象が強かった。  今日広田君、湯川君、名取君などと連絡ができ、時々集ったりしているが、柴田君の消息はわからない。確認できないが、その後なんか家に思わしくないことがあったのではないかと思う。大正末期から昭和へかけては、大戦中の好景気の反動と、関東大震災の影響で、銀行は破産や統合が行われた時期である。  高等学校へ入ってからだから、大分あとになるが、私は一度駅前で柴田君に会ったことがある。着物の前の裾を左手につまんで歩いていた。これは当時、やくざか不良少年でなければしないことである。その頃、駅はむろん現在の位置に移り、繁華の度合は増していた。宇田川横丁の柴田君の家はその影響を受け易くなっている。そこへ複雑な家庭の事情がからんで来れば、お坊ちゃんの柴田君が駅付近の変なグループに入るのは無理もないような気がした。  私はこれらをうろ憶えの記憶によって書いている。柴田君或いは家族の方に失礼に当ることを書いているかも知れないのだが、その時はお許し願いたい。もしこの文章が目に留ることがあったら、私に連絡していただきたい。それは広田君や中沢君の希望でもあるのだから。  中沢徳弥君の記憶では、柴田君のお父さんは「極人」という名で、平凡社美術全集(旧版)の中に、玉環の所蔵者として名が出ているのを見たという。  なお柴田君が三年生の時転校して来たというのは私の記憶の誤りで、二年生の二学期か三学期だった。中沢君の家が近い関係でその頃からよく遊びに行き、誕生日に招ばれたことがあるという。小野先生も来て、おべっかを使うので、いやな気がしたという。「ひいき」で柴田君は三年から目立つ生徒になったので、私が意識したという順序だった。私が柴田君の家に集るグループに入ったのは、家が大向橋へ引越してからだったろう。  柴田君の思い出にからんで、少し話はそれるが一つ書きとめておきたいことがある。柴田君の家は前述のように宇田川横丁を曲って右側だが(今日の西武百貨店西側)、家の手前を右へ曲る狭い小路があった。少し行くとすぐ練兵場通りに出てしまう。そして表通りとこの裏道に区切られた先細りの地所に竹屋があった。柴田君の家の石垣に面した裏側にも、長い竿が盛大に立てかけてあって、その間に小さい裏口が開いていた。  竹屋といっても今日のように、籠や花立のような小さな細工物は売っていない。当時の竹は主要な建材で、垣根にもする。物干竿として生活必需品である。竹だけ載せた荷車を曳いて来て、見本に一本だけ担いで、 「竿やあ、竿竹。物干竿はいかが」 と呼びながら、横丁まで入って来ることがあった。専門の竹屋があって、表には材木屋のように、木組を作って竿竹を立てかけておく。  後で小説を読むようになってから、宇野浩二の『苦の世界』で渋谷の練兵場に近い竹屋の裏座敷に、ヒステリイ女と同棲する話を読んで、私はすぐこの竹屋を想い出した。  一九七〇年水上勉が『宇野浩二伝』を書き始めた。彼は「續軍港行進曲」の叙述や生前の宇野自身の暗示に従い、道玄坂上や三宿方面にこの竹屋を探したのだが、遂にそれは発見できなかった。私はそれについて、当時感想文を書いたことがある。要旨は宇野の小説では、この竹屋が色街の近くにあって、表を着かざった芸者やお酌が通る。すると元芸者の愛人がいら立ち、やがて宇野に別れ話を持ち出して、横須賀から芸者に出るということになっている。しかし現実の竹屋は練兵場通りにあり、裏は柴田君の家に代表される高級住宅地に接していて、近所に色街なぞないのである。それをそういう風に作ったのは、私小説通弊の「私」一人いい子になるためのうそで、実際は宇野がすすめて芸者にしてしまったのではないか、という疑問を提出しておいた。女は前借金の大部分を宇野に渡し、「いい小説を書いてね」といって出て行ったことになっている。  竹屋の裏座敷には宇野の母親が同居していた。この母親は水上の調査によれば、北河内で水商売をしていたことがある。旦那持ちの芸者を大学生の息子に会わせる段取りなんかつけている。私は母方の大叔母が和歌山で置屋をしていたので、関西の花柳界の気質は少しは知っている。女はむしろ宇野母子によって売り飛ばされたのではないかというのが、私の意見であった。 『續軍港行進曲』によると、宇野はこの竹屋の裏座敷から、代々木練兵場に近い家へ越したことになっている。そこは大きな二階家で、前は陸軍大将、隣は下町の商店主の別宅だったという。宇野の記述を信じるなら、それは当時字豊沢中渋谷一三五番地の位置で、現神南一丁目一四—一七番地、当時教育総監一戸大将がいた。近くに北谷稲荷があり、池があり、台風が来るとよく氾濫した。西側の練兵場通りの対面一三六番地は衛戌監獄で、朝夕のラッパも聞えたはずである。ところが宇野の記述は台風の描写はあっても、この池の洪水の話はない。二階から影富士が見えると書いても、監獄のことは書いてない。 (国木田独歩が住んでいた一五〇番地は、この監獄の西側に接していた。明治二十九年そこを訪ねた花袋の記録には、近所の牛乳屋のことは書いてあるが、監獄のことは書いてない。書く必要がなく、書きたくなければ書かなくてもいいことで、住居を自ら「監獄署の裏」と註したのは荷風だけである)  それにいくら家賃が安いとはいえ、これは独立家屋である。宇野は竹屋の裏座敷の家賃も溜めていたに違いないので、金が入らなければ越せなかったはずである。この家には宇野は一か月しか住まなかったので、結局敷金を取り戻して(或いは前家賃だったか)九段下の下宿生活に逆戻りしている。そして女はそこから横須賀へ売られて行く。  私はこの文章を書くための調査の段階で、この竹屋が「竹種」という店であることを知った。『渋谷道玄坂』の著者藤田佳世さんの配慮で、その女主人がまだ存命で、東北沢の方に住んでいることも知った。一九七一年、藤田さんと同道でその家を訪ねた。  横山志まさんがその名で、御主人は死亡、娘さんに婿を取って、自動車の部分品を商っていられる。宇野浩二と同い年で当時七十九歳、中風で少し話が聞き取りにくく、記憶に怪しいところもあったが、同年ということもあり、宇野のことをよく覚えていた。昭和三十六年宇野が死んだのを新聞で知って、葬式にも行ったという。女が洗濯がきらいで、よごれ物をまとめて、渋谷川へ捨てに行ったというようなことを憶えていた。そして自分の家にいた時、新しい奥さんが来た、とはっきりいったのである。  当時接触があった出版社出入の「女友」から手紙が来て、愛人がヒステリイを起す記事が『苦の世界』にある。この女はそれきり出て来ないし、水上の調査はこの「女友」に及んでないが、志まさんの証言が事実とすれば、新しい奥さんとはこの「女友」ではなかろうか。  要するに女は九段下の下宿からではなく、「竹種」にいる間に芸者になって出て行ったのである。監獄前の家へ越したのが事実としても、女の身代金を敷金として、新しい女と共に移ったのでなければならない(小説ではどこかから二十五円工面して来ることになっている)。  水上勉は私とは成城で隣組なので、私はこの情報をすぐ伝えた。志まさんの話の録音テープも聞かせた。彼も宇野の書き方のあいまいさに気付いていて、私の意見に半ば賛成だったが、『宇野浩二伝』を単行本にする時も結局この証言を取り入れなかった。彼としては恩師について書くに忍びなかったに違いないので、これは伝記を書くに当っての一つの態度といえる。しかし第三者である私としては、一応書きとめておく方がいいかも知れないので、私自身の回想を書く途中で知った一つの可能性として記しておく。  志まさんの話はしかしこの頃の渋谷の変遷について示唆に富む内容を含んでいた。彼女の家は三宿の方の農家だったが、渋谷駅界隈が第一次大戦の影響で賑やかになりかけた大正五年、中渋谷九七〇番地に竹屋を出したのであった。自分達は店の三畳に住み、奥の八畳を宇野浩二に貸したといっている。夫婦はやっと店を出したところで、この家は借家だった。間借人に飯を焚いて出すことによって家賃を捻出し、店の基礎を作ろうとしたのであった。  志まさんは宇野さんはめったにものもいわない、おとなしいいい人だったといっている。 「なんといっても、みんな若かったもんな」  なお『苦の世界』によれば宇野は変名で借りたことになっているが、志まさんはそんなことはなかった、最初から宇野さんだったといっている。  柴田家のことも覚えていた。銀行屋さんだったこと、美しい奥さんがいたことも覚えていた。門のところにお地蔵様があったという。そういわれて見ると、斜めにあがる大谷石の石垣の下に、はめ込みみたいになって、お地蔵様があったような気がして来た。しかしこれはわれわれの想起の戯れで、中沢君が、 「いや、家の裏手に狭い石段を上る社があったよ」 というとわれわれは、 「そうだった、なんか暗くてこわい社だった」 といい出した。もっともこれははっきり「神社」だったから、「地蔵」とは違う。地蔵は多分渋谷郷土史関係諸文献にある「宇田川地蔵」で、やはり柴田君の家の「竹種」対面の崖下のどこかにあったろう。多分柴田君の家が建った時、移したものだったろう。 「竹種」の裏道から練兵場通りへ出たところの対面には、一つの道が斜めに入っている。これは国電のガードをくぐり、原宿の方へ行く、今日の「明治通り」だが「竹種」の裏道とほぼ連続している。つまりこれは代々木練兵場へ行く道が、兵馬や行幸の馬車を通すために拡張された時、切断された旧道なので、もとは柴田君の家の位置が、宇田川横丁とこの道との追分だったろう。だから、お地蔵様があったのである。  練兵場通りはやがて練兵場の南から原に入る。原を貫いて、今日の参宮橋の通りで、山谷につながる。原宿の明治神宮側から練兵場へ入って来る道は、この道と原の中央で十字に交り、西側の今日とほぼ同じ位置で、富ケ谷、深町の谷へ降りる。  その降り口の辺は欅の大木が林立しているのが印象的な地域だったが、その右側の、道路より少し上ったところに、一軒の家があった。われわれは普通このような位置にある家を「原番」と呼んでいた。練兵場の敷地の中だから、多分退役軍人だったろう。その家の子も同級生で、二、三度遊びに行ったことがある。  姓は有馬、名は思い出せない。痩せぎすな細面で、顎が少ししゃくれた上品な顔立をしていた。成績も優秀で、特に習字がうまかった。ただし書初めは、規定より細い筆で書いて来た。担任の小野先生の詰問に対して、父がこの大きさの字は、細筆で書くべきだといったからだと答えた。小野先生のこの時の激昂ぶりは私達に異様な印象を与えた。先生はその書初めに採点せず、別格として張り出した。  この頃、大正六、七年は小学校の教育方針に転換があった年である。大正七年『赤い鳥』が創刊され、私はやがて従兄の洋吉の指導で、童謡を投書して、自己顕彰欲を満足さすことになるのだが、『赤い鳥』の童心主義はこの頃から始ったいわゆる「自由教育」と関連がありそうである。  私の記憶では、渋谷第一小学校で画が手本と並行して写生を採用し、綴方が課題作文だけではなく自由作文を混ぜるようになったのは、三年生の時で、つまり大正六年である。私は生れつき不器用で、図画、手工、体操は甲を取れなかったのだが、図画が写生になった時、校舎の塔を描いてはじめて張り出された。自分では塔が少しかしいでいて、失敗したと思っていたのだが、それが却ってよかったらしく、始めて甲上を貰ったのだった。  担任の小野先生が病気で欠勤した時、他のクラスの先生が交替で教えに来た。綴方の時間に上級担当の女の先生が来て、自由作文を命じた。私は因幡の白兎の話を書き替えて提出した。それが優秀と認められ、私は読み上げることを命ぜられた。  こういう時、生徒をみんな知っている担任の先生なら、大抵は広田君とか服部君とか優等生が選ばれるにきまっているのである。ところが何も知らない他の組の先生が来ると、私が選ばれたのである。このことはほんとうは自分が一番うまいのだ、という自信を私に与えた。写生画、自由作文の採用によって、私は自分に才能らしいものを見付け、自信のある方角へ自分を推し進めることになるのである。  大正八年、五年生の一学期から私達宇田川町、上渋谷など、国鉄線路の西側に住居のある者は、大向小学校に転校させられた。前に書いたように四年の三学期から選抜された男女組を作っていた。『赤い鳥』に「赤リボン」という私の投書した童謡が掲載されたのは、大正八年七月号である。発行は六月末だったはずだから、四月か五月に投書したことになる。ただし肩書は「渋谷小学校五年」となっている。  私の記憶では大向小学校への転校は、校舎の完成がおくれて、一学期の始業式には間に合わなかった。しかしおくれは大したことはなく、タンポポの咲いている頃に移ったはずである。理科の時間に、大向小学校の裏の松濤園の地所にタンポポを掘りに行き、その根が長くて掘りにくかったことを報告した記憶があるからである。『赤い鳥』に「渋谷小学校五年」とあるのは、それが四月末か五月初めだった指標といえよう。  大向小学校の裏はまだ一面の田圃だった。駒場通りは円山の側だけ商店の並んだ片側道で、教室の窓から人や車が通るのがよく見えた。遠くに一つの堰があり、滝が落ちていた(これが多分前に書いた有馬水車の跡である)。ここは夏は螢の名所で、母に連れられて螢狩りにいったことがある(大向橋の家にも時々螢がまぎれ込んで来た)。  学校に接した一部だけ住宅地として埋め立てられていた(むろん大向小学校も埋め立てて建てたものだろう)。転校後最初の図画の時間に、窓外に見える赤土と菜の花の黄色のある田園風景を写生したのを覚えている。 [#地付き]〈了〉 [#改ページ]    あ と が き 『潮』別冊第二十号(一九七一年一月)から、同誌の後身『日本の将来』一〜五号(一九七一年五月〜一九七二年十一月)まで連載したものです。「わが生涯を紀行する」が連載中の題で、毎回、取材現場の写真と、下高原健二画伯の挿画が入っていました。  私にはこれまで「父」「母」(いずれも一九五一年)など、両親や自分の幼時の回想を書いた短篇がありますが、私自身を中心に、自叙伝の形で書いたのははじめてです。自己の経験の確認が目的だったのですが、本文中にも書いたように、「私は」「私の」と繰返すのは私の趣味にはないので、私の育った環境である大正初年の渋谷の風物に、自己を埋没させて語るのを旨としました。  当時の渋谷区は山谷や幡ケ谷を含んでいず、東京府下豊多摩郡渋谷町でした。渋谷駅付近と広尾へ来ていた二本の東京市営路面電車と、国電(当時は院線といった)山手線で都心に繋がっている場末町でしたが、大正初年から人口が増え、大正十二年(一九二三)の関東大震災以来、今日の副都心に成長して行きました。その無放図な膨張と私自身の成長とが、より合わされているような工合です。私自身の再確認と共に、渋谷という環境の再確認の意味もあって、読者には迷惑かも知れませんが、煩雑を恐れずに、渋谷町の歴史について知り得た限りを記しました。  足掛け三年にわたって書き続ける間に、渋谷第一小学校の級友、広田弘雄、湯川忠夫、中沢徳弥、山本哲雄、名取阿久太郎、高沢信一郎の諸君と連絡ができ、昔話をする機会ができたのはよろこびでした。「渋谷郷土研究会」の加藤一郎氏、『渋谷道玄坂』の著者藤田佳世さんに有益な御教示を得ました。その加藤氏はもうこの世の人ではありません。また取材中に再会した氷川神社前の万屋の御主人小沢松太郎氏も昨年亡くなられました。  私自身も老い先短い身の上ですが、やっと自分が何者であったかを検討する気持になったのは不思議です。四十七歳で死んだ母つるよりは、十七年も長生きしていることになるので幼時の記憶に残る母は、むしろ自分の娘のように感じます。この本はやはり亡き母に捧げるのが、適当なような気がします。 『日本の将来』に連載中、取材に協力してくれた『潮』編集部の高橋康雄君にお礼を申さねばなりません。こんな形で自叙伝を書くことになったのは、高橋君のすすめによるものですが、それが私にとって倖せになるか、不倖せになるか、もう少し書き続けてみなければわかりません。   一九七三年四月 [#地付き]著 者  [#改ページ]    文庫版へのあとがき  著者は本書を書き終った後、季刊誌「文芸展望」にこの続きに当る「少年」を連載した(一九七三年四月——七五年七月)。その間に判明した情報により、細部に訂正を加えて来た。中央公論社発行の全集第九巻(一九七四年八月)の本文には初版とはかなりの異同がある。本文庫に収録するに当っても、二、三の訂正がある。  最も重大な発見は、笄町一八〇番地の家からは、渋谷川対岸の発電所の煙突は見えない、ということである。この記憶の誤りの意味は大きいが、本書のテクストにそれを書き替えることはできなかった。興味のある方は、筑摩書房刊の「少年」を購って下されば幸甚である。   一九七五年夏 [#地付き]著 者  〈底 本〉文春文庫 昭和五十年十二月二十五日刊