TITLE : 死刑執行人の苦悩 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。  目 次 第一章 死刑執行に立ち会うのは誰か 第二章 東京拘置所ゼロ番区 第三章 陸《みち》奥《のく》の刑場 第四章 力ずくの処刑 第五章 死刑囚とのきずな 第六章 法の無情 第七章 言い渡しをする立場 第八章 執行人家族の涙 第九章 連載は終わったものの  あとがき 第一章 死刑執行に立ち会うのは誰か 廃止は時間の問題  刑務官の服務規定に、「死刑の執行をする」という項目はない。    死刑制度はいずれ遠からず廃絶される、といわれるようになってから久しい。  遠からずとはいったいいつ、どの程度の歳月をいうものなのか。丸山友岐子氏の『逆恨みの人生』は死刑囚孫斗八の熾《し》烈《れつ》な獄中闘争を描いたノンフィクションである。顔見知りの洋服商夫妻を殴殺し、商品や現金を奪った罪で死刑の確定した孫が、死刑囚となってからつぎつぎと国家を相手に行政訴訟を起こし、命が果つるまで闘争しつづけた真実の記録だ。  数多《 あ ま た》の裁判のうち、「文書図画閲読禁止処分に対する不服事件」で勝訴となった孫に言い渡された判決理由のなかで、裁判官は、死刑は遠からず廃止されるであろうと述べている。 「……死刑囚の心理や気持ちについて書かれたものは少なくない。だがもっともたしかなことは、死刑囚の本当の気持ちは死刑を言い渡され、決定的な瞬間まで拘禁され、そして刑場に消えていった本人が知っているだけだということではあるまいか。原告もその死刑囚の一人である。わが国は若干の文化国家におけると同様に刑罰としての死刑を是認しているが、死刑制度はこれを存立する合理的理由に乏しく、死刑の廃止はもはや日時の問題だと思われる。原告は少しばかり早く生まれ、少しばかり早く犯したがゆえに、その刑罰を背負わされたということができよう。……」  孫斗八が死刑の執行を受けたのは、昭和三十八年(一九六三)七月十七日のことだ。この裁判はそれ以前のものなのだから、四半世紀になんなんとする時間が経っている。けれども、いっこうに死刑が廃止されそうな気配はないように思える。日時の問題とか、遠からずというのは、いったいどれぐらいの時の経過をいうのだろうか。  この裁判官が言っているように、死刑囚の心理や気持ちについて書かれたものは少なくない。「死刑が廃止されるのは日時の問題だと思われる」という見解は、死刑囚全員が、その家族が、多くの死刑廃止論者が、大いに期待を持って注目しただろう。死刑囚やその家族、関係者なら当然のことだといえばたしかにそのとおりである。だが、じつは一般の人にはあるいは思いがけないかもしれないが、死刑囚と同じように期待し、希望を持ったのは刑務官たちであった。  死刑囚について書かれたものは数多い。遺書も多く活字になっているし、手紙、日記などもかなりのものがある。けれども、刑務官、とりわけ死刑囚舎房担当および死刑を執行する刑務官について、本当のことが書かれたものは、ほとんどといっていいくらいないのではないだろうか。  冒頭にも言ったように、刑務官の服務規定には、「死刑の執行をする」という項目はない。けれども、刑務官研修所を出て、刑場付設の拘置所あるいは刑務所に採用された刑務官は、死刑囚舎房担当、あるいは死刑の執行官の役が割り当てられるという不運にあう。  刑場付設の拘置所、刑務所は全国に七カ所ある。東京、名古屋、大阪、広島、福岡の拘置所、仙台、札幌の刑務所である。  法務省矯正局は、刑務官の仕事は刑務所に送られて来た受刑者を教化して社会へ復帰させることだという。  多くの若者が、犯罪者の矯正教育という、地味ではあるが、罪を犯して服役する受刑者に、真の人間性を回復させ社会へ復帰させる、という仕事に情熱を燃やして刑務官という仕事を選んだ。ところが考えてもみなかった死刑囚舎房の看守役、あるいは死刑執行の言い渡しのために独房から死刑囚を呼び出す役目の警備隊、執行そのものを果たす役割などを命じられる。  死刑囚とは、治《ち》癒《ゆ》する見込みのない病人という例えをよく聞く。いくら手当てを尽くしても、死ぬと決まっている病人の看護、治療にあたらなくてはならない医者や看護婦は、果たしたという喜びが約束されない仕事をむなしくも担うのである。死刑囚担当の刑務官がまさにそのむなしく耐え難い任務にあたるのだ。いや治癒の見込みのない病人の治療では例えが甘すぎる。こと病気に対してはまだ一種の諦《てい》観《かん》のようなものが持てるからだ。病んで死んでいくという死にかたは、人間の死亡のうちで最もパーセンテージが高く、ある意味では人は老いて病んで死ぬと納得しているといってもいいだろう。ところが、死刑囚というのは身体的にはどこといって病むところを持たないものがほとんどだ。それに、年齢的にも人生を閉じるにはちょっとあまりにも早いといいたくなるものが多い。  犯罪者の人間性回復と社会復帰ということに情熱を沸《たぎ》らせ、使命感に燃えて刑務官になってみると、いきなり死刑執行人の命が下される——。あまりにも思いがけなくて、その日以来人生観が変わってしまったというのが執行体験を持つ元刑務官の真実の気持ちであった。   黒子・刑務官  昭和六十年(一九八五)から六十一年(一九八六)にかけて、私は死刑囚のことを取材していた。死刑囚が死刑確定から刑の執行を受けるまでをどのように過ごして、どのような境地で刑場におもむくのかをドキュメントにまとめようとしたのだ。  この取材中に、多くの元刑務官の人に会った。現役の刑務官から死刑囚の話を聞くことは不可能だ。また取材対象は目下収監中の死刑囚ではなくて、すでに処刑されてしまった死刑囚のことなのだから会ったのはかなり以前に退職した人ばかりだった。それも死刑囚舎房の看守だったり、警備隊だったりと、死刑執行の体験者ばかりである。死刑囚と関わるのは刑務官のほかに、教《きよう》誨《かい》師《し》も定期的に面会する。教誨師のことは世間にもわりあい知られていて、どのような役割を果たしているのかも漠然とながら理解されていることと思う。  テレビドラマや映画などでも死刑の場面を描いたものがいくつかあった。テレビや映画でも教誨師というのはわりにくっきりと存在感を持った描きかたがされていたが、刑務官に関してはそうはいかなかったと思う。印象としてはまるで芝居の黒子のように曖《あい》昧《まい》なものでしかなかった。刑務官というものがそれだけ理解されていないということなのだろう。  かくいう私も、死刑囚の取材をするまでは、死刑に関わる刑務官という立場の人たちについて、深く考えたこともなかった。刑務官の存在そのものはさすがに知っていたが、会って話を聞くまではまったくなんの知識もなく、まして死刑囚が苦しみと死の恐怖の日々というなら、刑務官もまた苦悩の日々であるということをはじめて知った。  最近では死刑執行の数もひところに比べると少なくなり、昭和五十四年(一九七九)から五十九年(一九八四)までは年間で一人、六十年(一九八五)に三人、六十一年(八六)に二人、六十二年(八七)に二人が処刑されている。ゼロという年は戦後(昭和二十年〈一九四五〉—六十二年〈八七〉)四十三年間のうち三十九年(一九六四)と四十三年(六八)だけである。最も多いのは年間じつに三十九人が処刑されたという年が二度ある。昭和三十二年(一九五七)と三十五年(一九六〇)だ。  死刑の執行の数が少なければ、執行ゼロという拘置所、刑務所の刑務官は苦悩が少なかったかというと、決してそんなことはない。死刑囚がいる限り、死刑場がある限り、いや、死刑という制度そのものが存続する限り、刑務官の苦悩にも終わりはない。  死刑囚、そして死刑の執行に関わらなくてはならない刑務官の重苦しく憂《ゆう》鬱《うつ》な日々というものが、具体的にどのようなものであるか、私の知る限りをできるだけ多くの人に伝えたいと思う。ひとりでもたくさんの人に知ってもらって、刑務官という立場の人を理解し、死刑という制度があるために、思いがけなくも苦しみ、傷つかなくてはならない人がいることをわかってほしい。死刑というものがいかに非人間的であり残酷であるかも、このレポートを通して知ってもらえればとも期待する。   地球より重いちいさな包み  死刑執行の儀式は法務大臣が「死刑執行命令書」に押印するところからはじまる。  その準備段階として、一人の人間の死刑が確定したときから「死刑執行起案書」作成のためのもろもろの作業が行なわれる。「起案書」ができあがると関係各局のチェックを受けて、法務大臣に提出されるというわけだが、その過程を少し説明しておこう。  死刑が確定すると、その死刑囚の判決謄本および公判記録は二審裁判所に対応する検察庁に送付される。ただし一審で確定した場合は一審裁判所に対応する検察庁である。たとえば昭和四十六年(一九七一)、群馬県内で若い女性ばかりをドライブに誘ってはつぎつぎと八人も強《ごう》姦《かん》して殺し、埋めた事件の犯人大久保清の場合は、一審死刑判決のまま控訴しなかったので、前橋地方裁判所に対応する前橋地方検察庁に判決謄本、公判記録が送付された。  これを受けて検事長(地検の場合は地検検事正)は、死刑執行に関する上申書を法務大臣に提出する。死刑執行を掌握する法務省の刑事局では、検察庁から法務大臣宛の死刑執行上申書が提出されると、ただちに検察庁から死刑囚の確定記録を取り寄せて書面審査を行なう。捜査から起訴・公判・判決にいたるおびただしい記録を徹夜作業で読むのだが、この担当は順番で事件をふり当てられた刑事局付の検事である。記録の読みかたはその判決が正しいかどうかではなくて、裁判所が有罪を認定した証拠が完全に整っているかの確認である。また、刑の執行停止、非常上告、再審や恩赦の申請などの結論がでているかなどの確認が任務である。これが終わると「死刑執行起案書」が一定の書式にのっとって作成される。  できあがった「起案書」は、法務省の刑事局、矯正局、保護局内部のチェックを終えて、刑事局長から法務大臣官房にまわされる。法務大臣官房では秘書課長、官房長、法務事務次官の順に「起案書」が上げられ、それぞれの決裁を受けると秘書課長が大臣室に持参し、はじめて法務大臣に渡るわけである。  あとは、法務大臣がサイン押印、という死刑執行の儀式が待つばかりということになる。  法務大臣にサイン押印された「執行命令書」は検察庁の公用車で、死刑執行を受けるべく名指しされた死刑囚の収監されている拘置所、あるいは刑務所に届けられる。  刑事訴訟法(第四百七十六条)法務大臣が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない。    私が取材した限りでは、検察庁の公用車が拘置所、あるいは刑務所に「執行命令書」を届けてくる時間は、官庁の終わり時間近く、つまり夕方の五時近くというのが慣例だったようである。慣例だったといったのは、現在はもしかしたら変わっているかもしれないと思うからだ。私が取材したうち、最も新しい執行といえるのが昭和五十一年(一九七六)のことなので、その後は午前中だったり、あるいは午後も早い時間の場合もあるかもしれない。けれどもお役所の慣習というものはそう変わるとは考えられないので、いまだに同じやり方であろうと私は推察している。  黒塗りの公用車から降りるのは検察庁の秘書官あたりだろうと思われる。大事そうに抱えた風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みはちいさなものだが、地球より重い人間ひとりの命を破壊する威力を備えたものだ。風呂敷包みの使者は所長室に消える。  使者を迎えた瞬間から、拘置所、あるいは刑務所では所長をはじめとしたさまざまな面々の苦悩がはじまるわけである。   即日言い渡し 「言い渡し」をしなくてはならない所長は、その夜から睡眠薬に頼らなければ眠れなくなる。食事も味がしないばかりではなくて、喉《のど》を通らなくなる。まるで刑の執行を受けるのは所長自らであるというような憔《しよう》悴《すい》ぶりを呈する。 「執行命令書」が届けば、執行をしないわけにはいかない。さっそく執行の準備にとりかかるのだ。時間の猶予は実質三日間だ。刑事訴訟法に法務大臣がハンコを押した日から五日以内に刑の執行をしなければならないと定められているが、「命令書」が届けられるのが夕方であり、第一日目はないにも等しい。執行も慣例で午前十時には行なわれるので、結局、三日間であたふたと準備するわけである。もっとも、死刑囚を収監している拘置所、刑務所では、いつ執行命令が下されるかわからないので、表現はおかしいが、いつでも刑の執行が行なえるよう心がけてはいる。刑場は、執行があろうとなかろうと毎日掃除、点検を行なう。しかし、掃除や点検が怠りなくなされていても、ロープの長さの調整などは、死刑囚の体重や身長に合わせてでなくてはならない。刑壇の踏み板が外されて、地下に落下した死刑囚の足底が、床上三十センチぐらいの高さにくるように慎重に計測して調整するのだ。ロープの長さや刑場の最終点検は、執行当日の朝行なうが、それ以外にまだまだ大切な準備がさまざまにある。  東京拘置所や大阪拘置所の場合だと、死刑囚に前もって「お迎え」の「言い渡し」を行なう習わしである。大拘は三日まえ、東拘は前日だ(現在は即日言い渡し)。最後の面会に来るよう死刑囚の身内への連絡、立ち会いの教《きよう》誨《かい》師《し》の手配、関係者の人選、執行手順の確認などなど。  東拘や大拘のように、前日や前々日に「言い渡し」をすると、それによってまた果たすべきことがいろいろと出《しゆつ》来《たい》してくる。ただ「明日だ」「明後日だ」と言いっ放しというわけにはむろんいかない。  なんのために前もって「言い渡し」をするのかというと、少しでも、ほんのちょっとでも、死刑囚をより人間らしくあつかいたいからである。死刑囚の人間としての誇りを尊重したいからである。矯正とはこうした思いやりをもってしてこそ、はじめて果たし得るものなのだ。死刑囚が刑の執行を受けること自体は、拘置所側としては避けるべく術《すべ》はないが、せめて最後の瞬間まで愛情を持って接したい。こうした思想の所長に当たらなくては前日、あるいは前々日「言い渡し」というわけにはいかない。久しいあいだ前日言い渡しを慣例としていた東京拘置所も、昭和五十年(一九七五)代に入ってからは即日言い渡しになってしまったようだ。前日言い渡しの慣例をなくした理由は、「前もって知らせることによって、いたずらに死刑囚を死の恐怖で苦しめる」というのが建前。本音は、「前日言い渡すことによって仕事が増える」ということのようだ。この本音に対して、ある教《きよう》誨《かい》師《し》などは「まったく人間らしい心のかけらもない」と憤慨していた。  もっとも前日あるいは前々日の言い渡しが、すべての死刑囚に対して行なわれるというわけではない。前もって知らせるのは明らかに危険であるという懸念のある死刑囚に対しては言い渡しは即日である。  前日や前々日言い渡された死刑囚が、「言い渡し」を受けたときから、処刑される瞬間までをどのように過ごし、またその死刑囚と関わって過ごす刑務官たちがいかなる苦悩を味わうかについては、これから具体的に書くつもりでいる。   数秒で外される踏み板  死刑は密行のもとに行なわれる。裁判は公開されているが、ひとたび死刑が確定すると、死刑囚となった身は死刑囚舎房の中に閉じ込められ、現在では一般の人とは文通することも許されない。死刑囚と面会や文通ができるのは親族と弁護士だけである。親族、弁護士からもれないかぎり、決して死刑囚の日常を知ることはできない。  もっとも教《きよう》誨《かい》師《し》も定期的に死刑囚と個人面接をするが、教誨師は法務省から任命を受けて死刑囚の教誨を行なう立場である。現在収監されている死刑囚、とくに自分が教誨を受け持っている死刑囚について外部にしゃべるわけにはいかない。  東京拘置所は葛《かつ》飾《しか》区小《こ》菅《すげ》にある。地下鉄の日《ひ》比《び》谷《や》線で小菅駅に降り立つと、駅のホームからいかにもそれと察しられる風景が目に入る。方角は荒川放水路下流方向だ。いかにも拘置所と察しられると私は感じたが、それと知らずに見たら広い敷地を持つ工場とでも思うだろうか。やはりそんなことはあるまい。  二十二万平方メートルという広大な敷地の中、丑《うし》寅《とら》の一角に塀に隣接して刑場がある。吉展ちゃん誘拐殺人事件の小原保も、若い女性連続暴行殺人事件で「稀《き》代《だい》の暴行殺人鬼」といわれた大久保清もこの刑場で死刑の執行をされた。  刑場は外観だけをいうと、アイボリー色のモルタル造り平家建てで、なかなかシャレた感じの一戸建てだそうである。四十一年(一九六六)に完成したもので、アイボリー色というのも完成当時だけのことで、いまはもっとくすんだ色になっているかもしれない。それでもたたずまいなどは変わっていないのだから、木立の中にあるこの刑場は公園事務所かなにかのような印象を受けるということだ。もっともこんな印象を受けるのは刑務官や死刑囚ではむろんない。完成後まもないころ—時の法相—田中伊三次氏が新聞記者同道で小菅刑務所(当時は東京拘置所は巣《す》鴨《がも》にあった)を見学したさいの、同道した新聞記者による感想である。刑務官や死刑囚にとっては、どんなにシャレていようと、新しくきれいであろうと、呪《のろ》わしい場所以外のなにものでもあるまい。  刑場の屋内は絨《じゆう》緞《たん》からカーテンまですべて外壁と同じアイボリー色で統一されている。しかし入り口の扉は無粋な鉄扉で、それを開けて入ると三坪ほどの仏間になっており、正面に祭壇がある。ここで死刑囚は最後の儀式を終えるのである。自らの無事成仏のためと自らが殺《あや》めた被害者の冥《めい》福《ふく》を祈るために、線香を焚《た》き、教《きよう》誨《かい》師《し》の読経に合わせて唱和する。最後に言い残すことがあればここで言うのである。簡単なものなら書いてもよい。たとえば辞世の歌程度ならばである。吉展ちゃん誘拐殺人事件の小原保は、この場でこう言い残している。 「自分の成仏のためより、自分が殺《あや》めた被害者のために冥福を祈ってください。それが自分の成仏につながるのです」  小原は、死刑確定後はまるで生まれ変わったような立派な人間になって刑の執行を受けた。短歌の上達もめざましく、朝日歌壇に取りあげられるほどの才能も発揮した。こんなふうに見事に立ち直った死刑囚の処刑は、刑務官にとってはとりわけつらく、やりきれないものである。おおかたの死刑囚が、死刑確定後は犯した罪を悔い、刑の執行を従容として受け入れようという気持ちになるものだということではある。確定後、執行されるまでの何年間かを刑務官には四六時中世話になって過ごす。それに感謝する気持ちから、最後は迷惑をかけず「立派に死にます」という考えにいたるようである。  いよいよお別れということになったとき、死刑囚は目かくしと手錠が施され、隣室の刑壇へ導かれる。隣室といっても、仕切ってあるのは壁や建具ではなくて、カーテンである。死刑囚が歩く距離はそれほどあるというわけではない。せいぜい一メートルかそこらのことだ。死刑囚が一メートル四方の踏み台に立つと、待ちかまえていた三人の執行官のうちひとりが手早く絞繩を首にかける。同時にもうひとりの執行人が両脚の膝《ひざ》を縛る。そしてあらためて死刑囚を直立させ、踏み台の正しい位置に立っているかを確認して、保安課長の確認指揮を待って残りのひとりがハンドルを引く。この間に要する時間は三秒ぐらいのものである。膝を縛るのと、首に繩をかけるのと、ハンドルを引くのとほとんど同時に行なわれる。医官は保安課長の指揮と同時にストップウォッチを押す。鉄板製の踏み板は真ん中から二つに割れる仕掛けになっており、バネで両側に引き寄せるのだが、そのとき激しい音がする。轟《ごう》音《おん》と同時に死刑囚の姿は地下に消え、刑壇にはピンと張りつめたロープが残るばかりとなる。  医官が階段にまわって地下室に降りていき、死刑囚の死亡を確認するため、心臓に聴診器をあてて心音を聴き、一方手首をとる。むろん、医官は二人がかりだ。脈が止まり、つづいて間もなく心臓が停止するのを確認すると、「何時何分、執行終わりました。所要時間○○分」と報告する。死刑執行はこれで終わりだが、刑務官にはまだ任務が残っている。吊《つ》るされた死刑囚を下に降ろし、湯《ゆ》灌《かん》をした後納棺するのである。   泥酔する刑務官  死刑執行に携わるのは、まず「言い渡し」のための呼び出しに警備隊員数名、死刑囚舎房の看守長(区長と呼んでいる)、「言い渡し」そのものをしなくてはならない所長、その場に立ち会う管理部長、教育課長、保安課長はじめ何人かの警備隊員。死刑囚には大勢の人がいる、という印象となる。刑場へ導く刑務官三人。  いよいよ刑場内で、じっさい処刑に立ち会うのは、所長、管理部長、総務部長、教育課長、保安課長、検察官、検察事務官、医官二名、教《きよう》誨《かい》師《し》二名(主任教誨師のほかにもう一名手伝いの教誨師がいる)、目かくしをしたり、手錠をかけたりする保安課の刑務官二名、刑壇に待ちかまえている三名の刑務官。ざっと数えても十五名以上だ。  刑務官には執行当日の朝立ち会いを命ずる。前日に知らせるとみんな休んでしまうからだ。立ち会うのは順番である。当日の朝、保安課長に呼ばれて立ち会いを命じられるまでは、だれが順番にあたっているのか刑務官には見当もつかない。  初めて死刑執行に立ち会った刑務官は、終始無我夢中で、死刑囚の身体《からだ》が地下に落下したとき、踏み板の外れる「バタン」という大きな音も聞こえないという。  死刑の執行にあたって直接手を下す刑務官には「特殊勤務手当」(法務省ではこう表現したが人事院規則では死刑執行手当となっている)が出る。残業手当などのようにその月の俸給に加算して、俸給日に支払われるというのではなくて、即日支払いである。その額はというと、現在でせいぜい六千円かそこらのものだということだ。一万円には遠くおよばない金額。  執行後はすぐ風《ふ》呂《ろ》に入って、その日の勤務は終わり。しかし、午前中いっぱいも働かず、特別休暇というか、その日はフリーになれるからといって、それを喜ぶ気持ちになれるものではない。清めの酒としてふるまわれる(役所だから支給というべきか)二合ビンを所内で飲みつくすと、そのまま街へ出る。まっすぐ家に帰る気分になど、とうていなれるものではない。まして、特殊勤務手当として支給されたなにがしかの金を自宅に持ち帰ったり、使わずに持っていたりすることは絶対といっていいほどない。街に出て、飲み代にすっかり使い果たしてしまうのがほとんどであるという。手当で足りずに自腹を切って深夜まで飲み歩く刑務官もめずらしくない。けれども、死刑執行のことは同僚にも話せず、家族にもむろん話せない。そのような陰にこもった状態で飲む酒が美《お》味《い》しいわけはない。昼食も夕食もいっさい食事は喉《のど》を通らず、ただ苦い酒を飲むばかりだが、それで酔えるというものでもない。稀《まれ》に酔うものもいるが、そんなときはきまって悪酔いで、正体もないほどベロベロになってしまう。  東京小菅で、五、六年ほどまえの夏、こんな事件があったそうだ。つい昨年の夏に聞いた話なので、だいぶ以前のことだし真偽のほどははかりがたいことではあるが。夜も十一時に近いころ、小菅の街を酔いどれがひとり千鳥足で歩きまわっていた。酔いどれは何事かをぶつくさわめくでもなくつぶやくでもなくといった調子だったが、銭湯を認めると女湯に飛び込んだ。入浴客に大声の悲鳴をあげられると、よろける足取りながらもあわてて逃げ出した。つぎに、民家に上がりこみ、就寝中の若い女性に襲いかかるということをやってのけた。もちろん襲いかかられた女性は必死の叫びをあげる。その叫び声に驚いた家族がかけつけると、酔いどれはまたあわてて逃げ出した。通報を受けた亀《かめ》有《あり》署のパトカーが到着、まもなく酔いどれは逮捕されたが、この酔いどれ、じつは東京拘置所の刑務官だったというのである。逮捕されたあと刑務官がどのような処分を受けたかわからない。地元の、東京拘置所付近の住人の話では、その日東京拘置所で死刑の執行が行なわれたようすだったということだ。執行の日は、近くの住人にはなんとなくわかるそうだ。具体的にどうだった、こうだったという音や声を聞くわけではないのだが、長年住んでいると感じがあるという。 「刑務官の人もかわいそうだよね」  立ち会いを同情する声もある。   一度に二十三人の執行命令書にサインした大臣  死刑の立ち会いは、何度経験しても慣れて平気になるということは決してない。立ち会いの回数が多くなればなるほど、自分という人間が尋常な世間人とはかけはなれた、一種卑しい人間ででもあるような、いいようのない気分ばかりが募る。  矯正職に情熱を持って一生を過ごそうと飛び込んだところが、死刑のゆえにひずんだ、いつもうしろめたいような気持ちで日々を送ることになろうとは。いやなら立ち会いを拒否すればいいというのは、あまりにきびしすぎる。拘置所、刑務所というところは時間と規則ですべてが動くところである。刑務官もまた、規則に従わなくてはならないのだ。刑場付設の拘置所、刑務所に勤務する刑務官は、死刑の執行に立ち会う任務もあるという規則に。  昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本が敗戦した日から四十年あまりを経過した今日までに、ざっと六百人になんなんとする死刑囚が処刑された。  正確には執行された死刑囚の数は五百八十一名である。年平均は約十四人といったところ。じつに一カ月あたり一人以上が死刑執行されたことになる。  この執行を行なったのは、すべて刑務官である。  死刑囚の首にロープをかけ、あるいは踏み板が外れるハンドルを引き、息の根を止める役割を果たした刑務官の名前は決して公表されることはない。  たとえば、大久保清の死刑執行に関して比較的容易に調べられる範囲は——。大久保清が執行されたのは昭和五十二年(一九七七)一月二十二日。東京拘置所刑場においてである。  ここまで判明すれば、当時の法務大臣、東京拘置所所長、管理部長、教育課長、保安課長、医官、区長、教誨師の名前をつきとめるのは決して不可能ではない。しかし、直接手をくだした刑務官を探りあてるのは、ちょっとやそっとの苦労でできることではない。ここ一、二年の死刑執行の執行官なら、わりあい簡単に調べられる。が、十年前、二十年前、三十年前となると、大変困難であり、不可能に近いといえる。  むろん、執行が行なわれた拘置所あるいは刑務所には記録が残されているだろう。だからといって、無名のフリーライターがそんなものをのぞけるわけがない。  死刑の執行は、とくに秘密裡《り》に行なわれるからである。それというのも、死刑といえども殺人以外のなにものでもないということを、法務省はじめ死刑制度の存置を主張しつづける役人すべてがよく知り尽くしているからだと思う。  つまり、死刑という名の国家権力の殺人を、本音のところでは恥じているからである。うしろめたいから隠すのである。  これまでに、「自分はだれそれの執行命令書に印を押した」と堂々言ってのけた法務大臣がいたか。「だれの執行に立ち会って、ハンドルを引くサインを送ったのは自分だ」と名乗った保安課長がいたか。「だれそれ死刑囚に執行の言い渡しをしたのは自分である」と誇らしげに言った拘置所長がいたか。  すべて皆無である。  もっとも、戦後の歴代の法務大臣のなかにも異例ともいうべき人物がひとりだけいるにはいた。昭和四十二年(一九六七)当時法務大臣だった田中伊三次氏は、新聞記者を集めて「ただいま、二十三人の執行命令書にサインしました」と発表したのである。法務大臣退任直前の十月十六日のこと。そのうちわけは、札幌一、宮城一、小菅十一、名古屋五、大阪四、福岡一、である。この二十三人中のひとりを私は事件から確定、執行のもようにいたるまですべて追いかけ調べた。執行したという刑務官にもあった。  因《ちな》みにこの年の五月と十月に幼児誘拐殺人事件の被告の死刑が確定している。そのひとりは三十五年(一九六〇)の「雅樹ちゃん誘拐殺人事件」の被告、本山茂久である。もうひとりは三十八年(一九六三)の「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の被告、小原保である。二人とも現在の東京拘置所の刑場で、すでに執行されてしまったことはいうまでもない。  異例中の異例ともいうべき法務大臣がいたことを書くために、余談に走ってしまったが、話を戻そう。  田中伊三次氏のほかに、自発的に執行命令書にサインしたの、印を押したのと言った法務大臣はいない。そればかりではない。執行命令書にサイン、押印の話を向けると、歴代の法務大臣各氏は口をきわめてこう言う。 「サインをした、印を押したというけれど、そうするのが法務大臣の仕事なんだ。気の毒とか、かわいそうという気持ちはむろんあるけれど、大臣としての義務は果たさなけりゃならんからね」  いやいやながらやった、やらされたと言いたげなのである。つまり、法務大臣の仕事のひとつとして誇りを持って、死刑執行命令書にサインした、あるいは押印したと言うものはひとりもいない。  法務大臣という任は誇りのないものだと告白しているようなものである。  死刑判決を下す裁判官もきっとこうのたまうのだろう。 「法にのっとった判決をしたまでだ」  と。  執行の言い渡しをした拘置所長は、 「大臣の執行命令書が届いたら執行しないわけにはいかない」  と、言うのだろう。 「執行の合図を送るのは役目ですから」  保安課長は、こう言うにきまっている。  はっきり言葉に出さないだけで、死刑に誇りなどかけらも持っていないことを言外にうかがわせる。  ただ、執行官を務めた刑務官だけが、 「死刑のおかげで、誇りなど探しても見つからない、汚れた人生になりました」  と、正直な気持ちを打ち明けてくれた。  死刑が、じっさいに存置されて当然なものであれば、死刑に関わった人々はもっと堂々と死刑の話をするはずである。  密行主義を原則にする必要もなく、裁判が公開されているのと同じように、死刑も公開の場で行なわれるはずである。  国家は国民に人を殺してはならぬと法律に定め、殺人を禁じている。その国家が、死刑という名の殺人を止めようとしないのは、なんという矛盾であることか。  死刑の執行がいかに刑務官にとって惨酷な任務であるか、話をすすめていこう。 第二章 東京拘置所ゼロ番区 希望に燃えて刑務官に  東京近県の市郊外に住むAさんは、推定年齢七十歳ぐらいである。終戦を外地で迎え、復員したのは昭和二十年(一九四五)も秋の終わりごろのこと。赤紙一枚で戦争にかり出され、命からがら踏んだ祖国の土は出征以前とはすっかり変わり果てていた。生まれ育った実家は農家だが、Aさんは長男ではないため、復員してしばらくは身を寄せていられるにせよ、いずれ家を出て自立の道を選ばなくてはならなかった。分家して財産を分けてもらえるほどの大きな農家ではない。就職口はおいそれと見つかる時代ではなかった。一、二年は闇《やみ》屋《や》のようなことをやったが、もともと実直なたちのAさんの性に合うわけはない。堅い、まじめな職につきたいと思って暮らす明け暮れだった。  昭和二十四年(一九四九)に東京拘置所へ刑務官として就職できたとき、Aさんは心から安《あん》堵《ど》の思いで、復員以来はじめてぐっすり眠れた。むろん当時健在だったAさんの両親も、実家の農業を継いだ長男の兄も、親《しん》戚《せき》中も、だれもかれもが喜んでくれた。  当時の東京拘置所は、現在と同じ葛飾区小菅にあり、Aさんは拘置所の刑務官官舎に住むことになった。出勤時に合わせて起床し、官舎と拘置所を往復するという生活がはじまったのである。  ここで少し、東京拘置所の戦後の歴史についてふれておこう。  昭和二十年(一九四五)十一月、巣鴨刑務所がGHQに接収された(戦争犯罪人を収容し、巣鴨プリズンと改称)。このため小菅刑務所に拘置所も並存することになり、死刑囚たちは小菅の東京拘置所に収監された。昭和三十三年(一九五八)九月に巣鴨刑務所がGHQの接収から開放されると、拘置所は巣鴨に戻り、小菅は刑務所となった。しかし、昭和四十六年(一九七一)三月には巣鴨刑務所が廃庁となった。再び東京拘置所は小菅に移転、小菅刑務所は廃庁となり、東京拘置所として現在に至っている。建物は小菅刑務所時代、大正十二年(一九二三)の関東大震災で倒壊したのを復旧させ、昭和四年(一九二九)五月に蘇《そ》生《せい》したものである。権力の象徴としてつくられたこの建物はそのまま、小菅刑務所と呼ばれたり、東京拘置所と呼ばれたりの変遷をくり返しながら、戦災からもまぬがれ、現在なお監獄としての機能を充分に果たしつづけている。余談ながら昭和二十年(一九四五)三月の大空襲から小菅刑務所がまぬがれたのは、当時イギリス軍将校を多数収容していたからだといわれている。  Aさんが就職した二十四年(一九四九)は、巣鴨刑務所がGHQに接収されている時期で、東京拘置所は現在と同じ小菅時代だった。  焦土と化した祖国の姿にも、若いAさんはめげることなく、東京拘置所刑務官として働くことに胸をふくらませていた。Aさんが東拘刑務官になる前年、昭電疑獄事件があった。昭和電工社長日野原節三が贈賄容疑で逮捕されたのにつづき、芦田均、西尾末広、栗《くり》栖《す》赳《たけ》夫《お》ら大物政治家が収賄容疑で逮捕され、いずれも小菅の東京拘置所に収監された。  日本全体から見ると、いくらかは復興の兆しが見えはじめたかなという感じがしなくもなかったが、それでも大変なインフレ時代で、人々は将来をどの方向にむけて生きるべきか迷うばかりという状態であった。食糧事情も主食の遅配は相変わらずで、物価ばかりが値上がりしていった。衣料不足は少しも改まらず、主婦たちは戦時中のモンペ姿のままというのが多かった。  けれども一方ではこの年の八月一日に、東京では両国の花火が十一年ぶりに復活、大阪では九月十八日には天王寺区夕陽ケ丘で、復興大博覧会が開催されるなど明るい出来事もあった。焼け跡にもバラックとはいいながら、人の住まいが建ち、生活の明りが灯され、いくらかは人間の生活と呼べるものが蘇《よみがえ》りつつあった。  ただ、犯罪だけは跡を絶たず、戦後の荒廃した世相を反映するかのように、連日凶悪事件が国内いたるところに起こっている。  先にあげた昭電疑獄事件のほかに、昭和二十三年(一九四八)に起きた大きな事件といえば、まず帝銀事件(一月二十六日)だ。徳島ラジオ商殺人事件(十一月五日)、免田事件(十二月二十九日)などの冤《えん》罪《ざい》を生んだ事件も同じ年に起きている。ほかにも朝鮮人と日本人ヤクザの抗争事件や強盗殺人事件など、血なまぐさい事件が数多《 あ ま た》に及ぶ。  美空ひばりが横浜国際劇場でデビュー(五月一日)という明るい話題もあったが、極東国際軍事法廷で、戦犯二十五人が有罪判決(十一月十二日)となり、東条英機ら七人が絞首刑に処せられた(十二月二十三日)という憂《ゆう》鬱《うつ》なニュースも伝えられた。Aさんが刑務官を志した年はこうした時代背景であった。翌《あく》る二十四年(一九四九)、GHQは国旗の自由使用を許可した。日の丸を祝祭日に家々の門々に掲げることが許されたのである。  東京近県市郊外のAさんの実家でも、何年ぶりかで、元《がん》旦《たん》の朝、日の丸を掲げた。「じつにうれしく、これでやっと我が家に戻った気がした」とAさんは述懐する。  東京からの買い出し客の恩恵で、東京近県の農家は戦中から戦後にかけて、いわゆる農村景気にとっぷり首までつかっていた。が、食糧事情が少しずつ安定してきたのと、農村に運ぶべき品物が底をついた竹の子生活者たちの事情とが相《あい》俟《ま》って、笑いが止まらない農村景気も下火になっていった。こうした時期のおりもおり、農家の次男坊のAさんは刑務官という堅い職業に就職できたのである。  まじめに勤めれば定年後は恩給もつき、悠々たる老後の生活ができる。故郷の東京近県の市郊外に小ぢんまりした家を構え、少しばかりの畑を耕作して、幼い日から馴《な》染《じ》んだ土に生きる暮らしが送れる。長い歳月を刑務官というひとつの仕事に打ち込んできて、それが終わったという安《あん》堵《ど》感《かん》と、務めを果たしたという充足感のなかに明け暮れる、静かで、安らいだ日々の定年後の余生——のはずであった。   通称ゼロ番区の一日  昭和二十九年(一九五四)から三十二年(一九五七)までの四年間がなかったら、Aさんの刑務官生活も、当初考えていたとおりのものだっただろう。Aさんは二十九年(一九五四)の四月から、三十二年(一九五七)十月に拘置所が巣鴨に移転するまでのあいだ、通称ゼロ番区の看守を努めなくてはならなかった。  ゼロ番区というのは、死刑囚舎房のことである。  現在の東京拘置所は、死刑囚が収監されているのは新四舎二階である。シニ番、つまり死に番とひそかに、しかし公然とささやかれている。昭和六十三年(一九八八)四月現在で死刑確定者十二名が、この新四舎二階で死を待つだけの明け暮れを送っている。  Aさんが死刑囚舎房の看守を勤めていた時代は、死刑囚は北舎三階一房に収監されており、この舎房はゼロ番区と呼ばれていた。死刑囚舎房に入れられた収監者たちは、称呼番号の末尾がゼロで終わる。たとえば二五○番とか、四二○番というように。これが死刑囚舎房をゼロ番区と呼ぶ所以である。また当時は一審の死刑判決以前でも、検事からどう転んでも死刑以外は考えられない、つまり死刑をまぬがれることはまずない、と推定されたものもまた末尾ゼロ番の称呼番号をちょうだいして、ゼロ番区に収監されていた。  昭和二十八、九年(一九五三、四)、時代はデフレの世相を反映して、凶悪犯罪が増加の一途をたどり、東京拘置所ゼロ番区は収監者が増えるばかりであった。昭和二十八年(一九五三)には「銀座バーメッカ殺人事件」が世の中をわかせ、二十九年(一九五四)には「カービン銃ギャング事件」がまたまた世間の話題の中心となった。いずれの犯人も当時風に表現すれば〓“美男の犯罪〓”であり、貴公子のような、宮様のような、と噂《うわさ》された。この二人とも、ゼロ番区の住人となり、Aさんは看守のひとりとして、彼らの世話をしたわけである。むろん、この二人以外にもゼロ番区収監者は数多《 あ ま た》いて、そのひとりびとりに対し、Aさんはいまなお哀《あい》悼《とう》の念を抱きつづけている。  帝銀事件の犯人とされた平沢貞通、東京拘置所脱獄事件を起こした菊地正なども、当時死刑囚としてゼロ番区にいた。  ゼロ番区は独居房である。死刑確定者あるいは未決にせよ、前にも書いたように、検事から死刑はまぬがれないと推定されたものは、ゼロ番区の独居房に収監され、拘置所(刑務所)の規則に従って一日一日を過ごす。一般有期刑受刑者のように、強制労働に従事することはない。ただ、死を待つばかりの時間消費をするのである。Aさんが死刑囚舎房、ゼロ番区担当の看守として果たすべき役割は、死刑囚たちの監視である。監視、というとただ単純に担当看守の立つ担当台に立っているだけのように考えられるかもしれないが、じっさいはそれだけではない。  ゼロ番区収監者の一日の日課はつぎのようなものである。   午前七時     起床   午前七時二十分  朝点検   午前七時三十分  朝食   午前十一時三十分 昼食   午後四時二十分  夕食   午後五時     安息時間(仮就寝)   午後九時     就寝  きわめて単純で、これ以上の簡素化は不可能な日課である。ゼロ番区に収監された死刑囚たちは、起きて点呼を受けて、朝食、昼食、夕食を授かり、あとは寝るだけという、一口にいってしまうと食って寝るだけのくり返しのように思える。鉄格子つきのちいさな窓、鉄扉のほかは裸コンクリートの壁と天井があるばかり。便器も洗面も一カ所に設置された、わずか三畳ばかりのスペースの中で、洗面、排《はい》泄《せつ》、就寝のすべてをまかない、「お迎え」の日を待つばかり。その日までを生かさず殺さずのあてがい扶持に甘んじて過ごすのみ。ゼロ番区担当の看守はただそれを監視しているだけ、という印象を受けるかもしれない。ところが、決してこの日課のようなきわめて単純なくり返しの日常が過ぎていくというわけではないのだ。一日を過ごす日課というものは規則である。そしてその規則は時間をもって定められ、起床は七時、朝の点検は七時二十分、朝食は七時三十分というあんばいに、朝になれば起床し、朝の点検を行ない、朝食を摂るということは、ゼロ番区の生活の基本である。基本はすなわち骨格である。骨格には肉づけが必要である。その肉づけが、いまあげた日課の決定時間の合い間にびっしりと入るという次第なのだ。   死刑囚と共に暮らす日々  肉づけの部分をざっとあげてみるとつぎのようなものだ。  午前六時五十分、ラジオの音楽が流れる。ラジオは各独居房にスピーカーがセットされていて、このスピーカーを通じて流される仕掛けになっている。聞きたくないものは止めることができるようにスイッチもある。朝、音楽が流れはじめたら、間もなく七時だというサインだとゼロ番区住居人たちは知る。収監者は時計の持ち込みを許されない。死刑囚が独居房で時計を持ち、時間を知ったところでどうということはないのだ。何時だからなにをしようと、自己の意志で動きまわることはできない。すべて拘置所(刑務所)側の定めた規則でがんじがらめに束縛されているのである。  午前七時、「起床!」の号令がかかる。現在は号令に代わってチャイムが鳴るようになった。Aさんが東京拘置所に刑務官として就職し、死刑囚たちを収容したゼロ番区の担当看守だったころは刑務官によって「起床!」の号令がかけられていた。この号令を聞くとゼロ番区住居人たちはただちに布団をたたんで所定の位置に重ね、歯みがき、洗顔をすませる。  午前七時二十分、「点検!」の号令。この号令は現在でもチャイムというわけにはまいらず、やはり号令で行なわれる。ゼロ番区住居人たちは独居房中央に、鉄扉に向かって正座して、自分自身と自分の房の点検を待つ。Aさんら刑務官二人が、看守長か副看守長に従って一房一房を点検するのである。まず鉄扉を開け「番号!」と、正座した独居房住居人に称呼番号をうながす。問われると「××0番」と応《こた》える。バインダーに納めたゼロ番区住居人のファイルには顔写真も添付されている。その顔写真とじっさいの収監者の顔を照合し、間違いなければドアを閉じ、次の独居房でもまた同じことを行なう。すべての独居房で同一の点検を行ない、朝の点検終了ということになる。  午前七時三十分、朝食である。「配当!」の号令につづいて朝食が各独居房に配られるのだが、これは刑務官がやるのではなくて、短期受刑者の仕事である。朝食はお茶、麦飯、みそ汁、沢庵二切れ。Aさんがゼロ番区担当看守だった時代の東京拘置所は、飯は突き飯だった。一等食から五等食までの突き型に入れて突き出した麦飯はプリン型に固まっていて、上部の平らな部分に一から五までの和数字が浮き出ている。これは飯の分量を表わす数字で、労働の量によって食事量も増減されるのである。ゼロ番区住居人の場合は懲役刑受刑者たちのように強制労働がないので、食事量は最少の五等食に決められている。だからといって決して量不足ということはない。少食のものなら残してしまうほどの分量ではある。  朝食後は買い物の時間である。といっても、独居房を出て商品のならぶ店頭であれこれ品定めをしながら選んで買うというわけではない。拘置所(刑務所)に出入りの差し入れ屋があつかいを許可された品物が買えるというだけである。したがって日用雑貨(ちり紙、石《せつ》鹸《けん》、歯みがき、タオルなど)と罐詰、袋詰めの菓子類の程度である。このとき注文した品物は午後三時ごろには届けられる。買い物のほかにこの時間には体に悪いところがあれば(風邪、頭痛、腹痛、下痢、歯痛など)申し出る。  午前九時から運動一時間。入浴の日はこの時間があてられるので運動は休みとなる。ゼロ番区の住居人の入浴は時間の制限はとくにないが(当時。現在は十五分位と限られているようである)、さりとて長湯をするものもいない。のんびりつかっていたいような雰囲気の浴場というわけではないのである。もちろんひとりずつ入る規定となっている。運動はゼロ番区住居人全員がいっしょに運動場に出される。いつも独居房にひとり黙って過ごす収監者たちにとって、運動時間はなによりも楽しみな時間である。まず外の空気を吸えるのがありがたい。  Aさんがゼロ番区担当看守時代、東京拘置所ではゼロ番区居住者全員まとめて運動場に出していた。運動場も当時は広々としていて三百平方メートルぐらいはあった。キャッチボールもできたし、走りまわることもできた。看守もいっしょになって運動時間を楽しく過ごしていた。  午前十一時三十分に昼食。配当に当たるのはやはり懲役刑の短期受刑者である。五等食の麦飯突き飯一個、副食二品である。  午後四時半に夕食、五時に夕点検を終えると九時の消灯時間まで自由時間となる。  ゼロ番区住居人にとっては一日の日課はこれで終わりということだが、刑務官のほうには終わりというのはない。ゼロ番区は拘置所(刑務所)のなかでも最も厳重な監視が行なわれるところで、消灯といっても完全に消灯になるのではなくて、日中六十ワットの螢光灯が二十ワットに減灯されるのみ。看守は常時監視をつづけるのである。むろん交代制ではあるが、昼夜同じ神経を配って監視しなくてはならないのだ。監視を四六時中つづけるというと、いかにも、〓“牢《ろう》番《ばん》〓”の印象を受けるようだが、刑務官の立場からいうと決してそうではない。  二十一歳の死刑囚  Aさんの体験をここに具体的に紹介しよう。Aさんがゼロ番区担当看守になった昭和二十九年(一九五四)の四月、東京文京区元町小学校の学童用女子便所の中で、同校二年生の女の子が暴行されたうえ、下着を口に詰めこまれて絞殺されるという事件が起きた。捕まった犯人は二十歳になったばかりの青年で、結核療養所に入寮中の患者であり、ヒロポン中毒でもあった。一年後の三十年(一九五五)四月には東京地裁で一審死刑の判決となった。青年は東京拘置所ゼロ番区に死刑囚として収監され、Aさんと少なからず関わることとなる。  青年を仮にBと呼ぶことにしよう。Bは二十歳の青年という呼びかたを新聞その他のマスコミはそろってしたが、Aさんにはとうてい青年という印象ははじめからなかった。わずか十五か六ぐらいの、少年といったほうがぴったりくる、華《きや》奢《しや》な体《たい》〓《く》で血色の悪い坊やといった感じを受けた。Bが他の死刑囚と変わっている点は、ほかにもあった。  ぜんたいに死刑囚というのはゼロ番区に収監されて当分のあいだは刑務官にとってあつかいにくいものである。まず死刑囚という身の上にふてくされ、素直な態度というにははるか遠い荒廃した、あるときは凶暴でさえあるやっかいさである。あたりまえといえばあたりまえだろう。死刑という刑罰を受ける身になるには、そこにいたるまでさまざまにつらい体験を重ねてきているのだ。犯行後逮捕され、取り調べを受け、裁判にかけられる。  何回もの公判を重ねた果てに死刑の判決を受けるころには肉親からも家族からも見はなされ、世の中のすべてのものが自分を憎んでいるのだという気持ちになる。そして三畳ほどの独居房に入れられ、起きるも寝るも、食事も排《はい》泄《せつ》もこの与えられた終《つい》の栖《すみか》の中でしなくてはならない。ドア側と窓側の両方から常に監視されつづけ、用便中といえども全身をさらしたままの情けなさである。生まれたときからいまの身になるまでのいちいちを、洗いざらいすっかり調べあげられ、人間としての誇りはかけらも残されることなく辱《はずかし》めを受ける。  こうした立場に立った者ならだれでもふてくされてしまうことだろう。  刑務官は新しい収監者が入ってくると、まず一週間は気の休まる暇がない。死刑囚の本音はたった一言で語りつくせる。「死にたくない」の一語なのである。  けれども、その言葉を吐いてしまえばいまよりさらにみじめな気持ちに陥ってしまうのだ。だから、そのかわりに荒れ狂う。ふてくされるのである。わめきちらしながら床をころげまわるものもいる。といっても大した広さはないのだが。頭を壁にぶちあてる。などなど拘置所の規則によればこれらの行為はみな罰則行為である。しかし、刑務官はいちいち反則を犯したからといって懲罰にかけることはしない。  死刑を言い渡されたものの苦しみが、己のことのようによくわかるからである。もし自分に権限が与えられるならば死刑囚の全員を死刑という刑罰から解放して助けたいと、心の底から思うのだ。刑務官は死刑囚ひとりびとりの生いたちから犯行にいたるまでのすべてを、身分帳(収容者の履歴)によって知ることができる。  どの死刑囚も、その来し方の人生、生い立った境遇を思うとかわいそうで身につまされずにはいられない。根っからの悪人はいない、と本当に心底考えるのは刑務官たちである。死刑という最高の刑罰を受ける判決が下るには、それなりの罪を犯したわけである。けれども、罪を犯すそもそもの原因というのは、ほとんどの死刑囚の場合、生まれたときから積み重なってきた境遇の不幸であるといえる。貧困のどん底に生まれ育ち、生まれたときから世間に対して拗《す》ねたり、いじけたりの人生を生きてきて、それがあるとき凶悪犯罪というかたちで暴発をしたもの。貧しくはなかったけれど、あたたかい家庭環境に恵まれず、心を傷つけながら生い立ったもの。人間というものは弱い生きものである。弱いが故に起こした凶悪犯罪。などなど、どの死刑囚も「寂しい寂しい」と全身で泣いて訴えているように刑務官には見えてならない。  ところがBときたら、拗ねてる様子もいじけてる様子もまるでない。ふてくされるわけでもなく、素直そのものである。死刑判決を受けていながら、死刑がいったいいかなるものかまるであずかり知らぬといったあんばいで、あっけらかんとしたものだった。当時流行だったマンボ・スタイルのファッションでのべつ陽気に鼻歌を歌っている。まちがってゼロ番区に迷い込んだのではないかと思いたくなるほどである。  Aさんは、Bの身分帳を反《はん》芻《すう》した。犯行の文京区元町小学校にほど近いところで生まれ育っている。両親の仲は悪く、Bが結核で療養生活に入るずっと以前から、母は家を出て新しい男と同《どう》棲《せい》していた。父はBをかわいがることはなく、というよりむしろうとましがっていたふうがある。  幼時からBは肉親がいながらその愛に飢え、寂しい孤独な精神的境遇に置かれていた。それがそもそもの原因なのか、ヒロポンに走り中毒になっている。覚《かく》醒《せい》剤《ざい》取り締りの網にかかって検挙されたとき結核に冒されていることがはじめてわかり、富士市の療養所に入院。肋《ろつ》骨《こつ》を何本も取る手術を受けた。しかし、その手術代金など二十万円あまりも支払えず、療養所の患者仲間の何人かにも借金のしっ放しであった。  事件の日は、母親に会いに行くためにだまって療養所を脱け出していた。  Bは人なつこい子供のようにAさんになついた。ゼロ番区の他の収監者たちからも幼児あつかいをされ、いつもからかわれていたが、いっこう意に介さぬふうで、だれに対してもにこにこして対していた。Aさんはちいさな子供の遊びの相手をしてやるような気持ちで、冗談を言い合ったり、時にはかなりの時間話の相手になってやった。そんなとき、陽気な表情や態度のほんのかすかな間《かん》隙《げき》をつくようにぞっとするほど寂しく痛々しい様子がもれてこぼれるのを感じた。  なんとかして助けてやる方法はないものか、もういちど人生をやり直させてやりたい。Aさんは切実にそう考えた。  自分が二十歳になったばかりのころと比較してみると、Bという人間への惻《そく》隠《いん》の情はますます募っていくばかりであった。ぜいたくな暮らしはできなかったけれど、両親は助け合い信頼し合って農業にいそしんでいた。兄弟もいて、むろん兄弟げんかははなばなしくやったけれど基本的に平和で幸福な家庭環境だった。召集令状が来ると、母親は氏神様にお百度を踏んでくれた。親《しん》戚《せき》の叔母は千人針を集めてくれた。泥沼の戦場にいるときも、ほんの瞬間さえもBのように人生を投げやりに生きる気持ちになったことはない。それもこれも両親や兄弟やの肉親に愛されているという満たされた気持ちになれたからではなかったか。  こういう言葉でその時思ってみることはなかったけれど、Bという死刑囚の孤独を感じ取ってしまったいま、Aさんはしみじみ実感するのだった。Bはまだ若い。二十一歳になったばかりだ。これから先何十年も生きていさえすれば、きっとBを得がたい大切な人と思ってくれる人間に出会えるだろう。せっかく生まれて来たというのに、両親に見捨てられ、だれからも愛されることなく死んでしまわなくてはならないのは、なんとかわいそうな人生だったことか。   「おれ、死刑になっちゃったよ」  Bの弁護士は一審判決後高裁に控訴した。半年後、控訴審判決の日となった。AさんはBが高裁から戻って来るのをいまや遅しと首を長くして待った。初犯であり、これから先の春秋の長い若年であり、生い立ちなどの情状がくまれて、なんとか無期に減刑されないものかと、Aさんはいても立ってもいられない思いで、ひたすら祈るばかりであった。  正午過ぎ、いや午後も一時近くだったろうか、Bはにこにこ顔で帰って来た。AさんはBがあまりにも晴れやかな表情を浮かべているので、あるいは念願どおりだったかと期待してたずねた。 「どうだった?」 「おれ、死刑になっちゃったよ先生」  まるで他人のことか、あるいは買った宝くじが外れだったという報告でもするように、あっけらかんとしたものだった。  これでBの死刑は確定となった。弁護士のすすめるのも、もちろんAさんがすすめるのも聞き入れず、Bは上告を断念した。断念というより、自らの生命を投げ出したというように、Aさんには思えてならなかった。あとは〓“仙台送り〓”を待つばかりである。  当時、東京拘置所には刑場がなかった。死刑確定者は法務省の命令に従って宮城刑務所へ押送され、執行命令書が出次第、刑場の露と消える運命にあった。  Bの死刑は犯罪からわずか一年半で確定した。二十歳になったばかりで罪を犯し、二十一歳の半ばで死刑が確定したのだ。AさんはBに対して言葉もない思いだった。やがて遠からず〓“仙台送り〓”の日が来ることはだれが考えても明らかなことである。人間ひとりの命を奪うという大それた結論を出すのに、たかだか一年半で充分というのだろうか。Aさんはくり返しこう考えた。  当時のマスコミでも、わずか二十一歳の青年を、極刑以外に矯正の余地がないと本当に言い切れるのかという意見が多かった。むろん、被害者側に立って考えれば、殺しても足りないほど憎いにはちがいない。しかし、殺人犯といえども、その犯人の命もまた尊いひとつの生命なのである。  やがてBは宮城刑務所へ押送される日を迎えた。楽しい旅行にでも出かけるように、機嫌よく別れのあいさつをするBに、Aさんは言うべき言葉がなかった。いったいなんと言えばいいというのだ。 「元気でな」と言うのか。死刑台に向かうものに対して、元気でな、とはとても言えない。「さよなら」とは言いたくない。毎日たくさんの限りない言葉をしゃべって暮らしているというのに、いまはたったひとつの言葉が見つからず、おろおろし、そして腹立たしかった。手錠をかけられ、腰繩を打たれて小型の護送バスに乗り込むBに対して、Aさんはついに今生の別れを惜しむ言葉をかけることができなかった。このときほど、刑務官という立場のむなしさをかみしめたことはなかった。  Aさんがゼロ番区担当看守になって、最初に死刑台へ人を送り出した日、東京は晴れだった。小菅一帯は菜の花の盛りであった。 第三章 陸《みち》奥《のく》の刑場 眼下に広がる美観  人には自分の来し方の人生から切って捨ててしまいたいと思う部分が、だれにもある。  それが恥であったり、屈辱であったり、痛みであったりはそれぞれに異なるだろう。思い出すのもつらくて、壷《つぼ》の中に閉じ込めて蓋《ふた》を閉じる。紐《ひも》をいく重にもまわしてかけ、きっちりとかたくしばって、心の奥深く最も暗いところへそっとしまって忘れたふりをしつづける。こんなことがひとつやふたつはきっとだれにもあることだと思う。 「私の人生に、あのことさえなかったら」  と、Cさんは過ごして来た人生の切って捨てたい部分について話しはじめた。  陸《みち》奥《のく》の夏のことである。  Cさんの住む町から一時間ほどの神社の境内。木陰に腰をおろす。蝉《せみ》しぐれを聞きながら眺める風景は美しい。美《お》味《い》しい魚が集まるので有名な漁港、日本三景のひとつとして名高い名所、これもまた有名な湾内の島々、島めぐりの遊覧船ののどかな姿。これらが見えがくれする美しい眺めだ。  陸奥の夏は暑い。  日中の暑さは東京よりも暑いようにさえ感じられる。絶ゆることのない蝉の生命のかぎりの合唱。急《きゆう》勾《こう》配《ばい》の何百段もの石段は息が切れる。心臓はいまにも胸を破って飛び出さんばかりの動《どう》悸《き》を打つ。それでも私は、休まず一気に上った。上りきったときは足はガクガクし、頭をガンガンと割れるような痛みが打った。  境内は鬱《うつ》蒼《そう》と樹木が繁り、夏の盛りだけにそれまでのまぶしい日光に閉ざされて、小暗い感じがする。樹木を通して渡る風はひんやりといい気持ちだ。吹き出した汗もたちまちひいてしまうような気がする。 「お待ちしていました」  七十歳格好の男性が声をかけながら近づいて来た。この地方特有のアクセントだ。Cさんである。  Cさんはらくだ色のカンカン帽をかぶって、まっ白の半《はん》袖《そで》シャツに灰色のズボンで、杖《つえ》をついている。 「すっかり足が弱くなりました」  こちらが杖に注目したのに答えてくれたのだろう。杖をついてあの何百段もの石段を上って来たのかしら、と驚く。 「あっちに、女坂がありますから。あっちからなら楽に上れるんですよ」  Cさんの指さす方角は、神社の裏側で、私の上ってきた正面の急《きゆう》勾《こう》配《ばい》の石段の正反対の側だ。地方の神社というのは小山の上にあるのが多い。この神社も、市中で最も高い森の頂に祀《まつ》られている。神さまが人々の暮らしを見おろして守るという意味なのだろうか。それとも、いちばん高いところに座していただいて、下からあがめるという気持ちから、高所に祀る習いになったものなのか。  こんなことを考えながら、一方ではCさんに切り出す言葉をあれこれ思案しつづけていた。   死出の鉄路の旅  前日、東京を発《た》つときから、ずっとその思案はつづいていた。しかし、話の順序、質問の順序、切り出し方というのは、相手に会ってからでなくては、あらかじめ決定してのぞめるものではない。  時間は午前十時だった。  この神社から三十分ほどのローカル線で着く先は仙台市である。前日は夕方近くに仙台に着いていた。  上野を午前十一時発の常磐線L特急「ひたち」19号に乗り、仙台に着いたのが十五時二十八分。東北新幹線に乗れば上野—仙台間はわずか二時間だ。  しかし、私は一度、常磐線上野—仙台を乗ってみたかった。できれば昭和三十年(一九五五)代の、急行列車「みちのく」に乗りたいと思った。常磐線急行「みちのく」は、東京で死刑が確定した死刑囚が、処刑されるために〓“仙台送り〓”として乗せられた列車である。朝九時五十分上野を発車しておよそ六時間の列車の旅は、押送される死刑囚にとって、いったいどのように受けとめられた時間だっただろうか。  現在は、当時の常磐線急行はなくなっていて、代わって特急「ひたち」が運転されている。仙台まで直行するのは、一日に午前と午後各一本ずつだ。三十年という歳月を感じる変わりようだ。  特急列車は五時間足らずで仙台に着いた。  Cさんに会ってもらえる興奮、かつて死刑囚を乗せて走ったと同じ鉄路の旅をしているのだという、言いようのない胸の疼《うず》きとで、退屈する暇もなく、あっという間に着いた気がする。列車内は冷房がきいていて、清潔で、学校が夏休み期だがお盆をはずしているせいか混雑はない。空席も多く、考えごとをするのにはおあつらえむきといったあんばいだった。  はじめて会うCさんのこと。そして話をどう切り出したものかということ。さらにはすっかり話してくれるだろうかという心配。  朝十時に自宅を出て以来、飲まず食わずで着いた仙台は夕ぐれ前の風が凪《な》いだ猛暑で窒息しそうだった。   死刑囚の集結地 「私の人生にあのことさえなかったら」  Cさんがこう切り出してくれたとき、私はじっさいにほっと息をついてしまった。  ゆうべはどこに泊まられましたか、とたずねられて、仙台市内のホテルの名を言い、日暮れまでの時間を宮城刑務所へ行って来たと話した。  それでCさんは「私の人生で——」という言葉を口にすることになったのだと思う。  Cさんもやはり復員後、宮城刑務所の刑務官の職を得たのだった。むろん復員してすぐではない。戦後は働きたくとも職はない、物もなく、食料もなくと、ないないづくしが何年間かつづいた。  東北地方の農家の五男として生まれたCさんは、生まれたときから生家を出ていく運命にあった。  戦後の新憲法では生まれた順序や男女の別で差別はされなくなったとはいうものの、長い慣習が突然変えられるはずもない。長男と三男の兄は戦死したが、次男、四男の兄たちはCさんと同様なんとか生還することができた。  生家の農家を継ぐのは次男の兄であるということは、話し合うまでもなく、慣習として当然であり、だれもがそう信じて疑わない。  Cさんのすぐ上の兄、つまり兄弟の四男は昭和二十四年(一九四九)に福島県の刑務所に刑務官として就職した。四年後の二十八年(一九五三)、Cさんはこの兄にならって刑務官の道を選んだ。  昭和二十年(一九四五)代は犯罪事件の多い年代である。戦後の混乱、ひと口にいえば生活苦からの犯罪が多かった。多かったというより、ほとんどが生きんがための犯罪であったといってもいいと思う。盗みも、強《ゆ》請《す》りも、人殺しも、放火も、はては婦女暴行、人身売買さえも、つきつめれば貧しさゆえの荒廃が生んだ犯罪であった。  犯罪人は種々雑多であった。老人から子供にいたるまで男女を問わずに悲しい罪を犯したものたちがいた。  犯罪者たちのなかで、凶悪という冠をつけられる事件を起こしたものは、当時は死刑判決を受けるのが当然のように考えられていた。  事件を起こした犯人の事情や情状が酌量されることはほとんどなかった。人を殺したものは殺してしまえ、という考え方で裁かれていたようである。  Cさんは宮城刑務所に勤めはじめてまもなく、死刑囚舎房の看守を命じられた。当時の宮城刑務所は、全国の六拘置所・刑務所(名古屋、大阪、広島、福岡、宮城、札幌)中、最も死刑囚の収監数が多く、したがって死刑執行もまた全国一であった。それもそのはず、凶悪犯罪の最も多い東京で死刑が確定した死刑囚は、すべて宮城刑務所に押送されて処刑されていたのである。最高時は六十人からの死刑囚が宮城刑務所の死刑囚舎房に犇《ひし》めいていて、ただ死を待つばかりの日々を送らされていた。  Cさんが宮城刑務所で死刑囚舎房看守になってからもたくさんの死刑囚が東京から押送されて来た。宮城刑務所には、北海道をのぞく関東以北各県の死刑囚のことごとくが押送されて来るのであった。  死刑囚は有期刑収監者とは別、別棟の拘置場内死刑囚舎房に収監されていた。Cさんはこの拘置場の看守になったのである。  どの収監者も、明日なき生命、の身の上であった。  Cさんが刑務官になった翌昭和二十九年(一九五四)は、十六名が宮城刑務所で処刑された。全国で三十二名が刑場の露と消えた年である。 囚人への情 「死刑執行を体験しなければ一人前の刑務官になれない」  Cさんたち若い新人刑務官に対して、先輩や上司はよくこう言った。 「体験しなくても、死刑囚の独居房看守になってはじめての一年間に、十六人も送り出したんですから、死刑はもうたくさんだと思いました」  大勢いる死刑囚のなかで、確定後間もないものは刑務官に反抗的だったり、死の恐怖、不安におののいていて対処に苦労する。  宮城刑務所に押送された死刑囚は、着いたその日に刑務所長から衝撃的な言い渡しをされるのが習いだった。 「いつお迎えが来てもいいように、身辺整理をきちんとしておくように」  という内容である。言い渡された死刑囚は心臓が凍る心地となってふるえあがってしまう。絶体絶命の境地に立たされ、夜も眠れるどころではない。恐《こわ》い。瞬間たりともその恐怖が去ることはない。 「いっそのこと早く殺してくれ、と泣いて訴えるんです。そんな状態が三週間も続くと、こんどは一日でも長く生きたいという気持ちに変わってくるんです」  ついきのうまでは一日も早く殺してくれ、生殺しの状態は苦しくてたまらない、と泣いて訴えていたものが、こんどは生きることへの執着に燃え、死刑囚舎房の看守に毒づく。  死刑囚の舎房はレンガ造り平屋建てである。宮城刑務所の正門からいえば右側ということだが方角は北側である。中央が二メートルばかりの廊下。その両側に三畳間足らずの独居房が十六房ずつ並んでいる。  食べるも寝るも排《はい》泄《せつ》もすべてこの中で行なうのは、いずれの拘置所、刑務所でも同じである。  Cさんの立つ担当台には、両側の独房から死刑囚の訴える哀願の声や、恐怖のための泣き声、わめき声が集まってくる。 「送られて来て一カ月以上経つと、だんだん落ちついてきて、二カ月を過ぎるころからなにかに集中して勉強をするようになっていきますね」  これには教《きよう》誨《かい》師《し》の役割も大きいし、刑務所教育課長の努力も大きいとCさんは言う。教育課長というのはほとんど宗教家で、死刑囚に対してもひとつの生命、一個の人格として対するのだ。  刑務官も、死刑囚に対しては有期刑受刑者に対するのとはちがって、人間としての慈悲の精神をもって接する。  処刑されると決まっている人間に対して、情を持たずに接することができる刑務官はいない。 「看守が順番に執行官になるのだと知ったときは、本当にショックでした」  Cさんは死刑執行は専任の執行官がいて、一般刑務官は関わることはないと考えていた。   処刑の日の重苦しい空気  当時宮城刑務所には刑務官が百人ほどいて、三名ずつ順番に執行を担当することになっていた。順番といっても、どういう順番が組まれているのかは刑務官にはまるでわからない。 「執行の朝、保安課長から自分の名前を呼ばれるまで、ぜんぜん見当もつきません」  三名というのは、首に繩をかける役と、膝《ひざ》をひもで縛る役そしてハンドルを引く役である。直接手を汚す、最もいやな役である。このいやな役が、死刑囚舎房担当の刑務官にはいちばん多くまわってきていたようだったとCさんは言う。 「こっちには殺す理由はなにもないのですから、そりゃあもう言葉では言えませんよ」  死刑囚たちがかつて殺人事件を起こしたのには、それぞれ動機があって人殺しをしたのだ。金が欲しい、女を犯したい、恨み、憎しみ、さまざまな動機だ。いずれもがけしからぬ理由であれ、殺すときは殺そうという気になって人殺しをしたのである。  ところが、死刑執行官を命じられた刑務官には殺人の意志はない。そればかりではない。Cさんのように死刑囚舎房の看守という立場の刑務官には、死刑囚をあわれむなどの惻《そく》隠《いん》の情が強い。  一年とか、長ければそれ以上の歳月を、休日以外は毎日つきあって暮らす間柄である。凶悪犯罪者という意識で死刑囚と対する気持ちはない。高い塀に囲われた中で、鉄扉をへだてただけの、いわば同じ環境下で春秋を送る仲だといえばいえた。  東京から押送されてきた死刑囚は、馴《な》染《じ》んでくるとCさんが知らない都会の話を聞かせてくれる。農村の生活と軍隊生活しか知らないCさんにとって、東京のまぶしいような話はめずらしいことずくめだった。  宗教心にめざめ、熱心に宗教を学ぶ死刑囚からは〓“祈る心〓”を教えられた。  わずかしか残されていない生命のかぎりをつくして学ぶ死刑囚の精進のめざましさは、Cさんがとうていおよぶところではなかった。短歌にうちこむもの、俳句にうちこむもの、仏教を学ぶもの、哲学を学ぶものとさまざまだったが、いずれの上達ぶりもすばらしく、Cさんにとって死刑囚たちは親しき人間であり、あるときは師とさえ呼びたいほどであった。  こうした馴染み親しんだ人間を、ある朝突然死刑台に送らなくてはならない。  Cさんに〓“祈りの心〓”を教えてくれた死刑囚は、迎えに来た警備隊に引き立てられながら、何度もふり返って担当台に立つCさんに無言の別れのあいさつを重ねていった。  死に赴くころは、まるで仏《ぶつ》陀《だ》の境地、いや仏陀そのものになりきっていたこの死刑囚を、Cさんは思わず合掌して見送った。  死刑台に死刑囚を送り出した日は運動も休みになる。  死刑囚は終日一歩も外へ出ることなく、独房の中で過ごさなくてはならない。処刑のない日でも雨天の日、雪の日などは運動は休みになる。そんなときはせまい独房に閉じ込められた死刑囚たちのフラストレーションは、大きな嘆息や、大声やで表現される。死刑囚舎房はふだんとちがう騒然とした雰囲気になる。  けれども、処刑の日は終日重苦しい空気が死刑囚の舎房を覆い尽くし、無気味な静寂がたちこめる。  こういうときは食事もあまり喉《のど》を通らない。ほとんどの死刑囚が食べ残す。   拒否出来ない執行命令  Cさんがはじめて執行官を命じられたのは、昭和三十年(一九五五)である。刑務官になって一年半とは経っていなかった。  拘置所や刑務所で点呼を行なうのは収監者に対してだけではない。刑務官も出勤すると朝点呼を受けるのである。拘置所・刑務所は規則だけで動くところである。他の公務員とは少し異なっているというか、自主的に判断してという行為はない。規則に従うだけだ。規則に従うのみという点では、刑務官も収監者も立場がちがうだけで同じであるといえる。自《じ》嘲《ちよう》的に刑務官自身で「通勤懲役」、あるいは「制服の囚人」と言ったりもする。  朝点呼のとき、三名の名前が呼ばれ、死刑執行官を命令される。 「きょう○○を殺《や》れ。うらみつらみもねえ人間を、命令に従って殺るのがこの世界の掟《おきて》よ。人殺しができたら、はじめておめえも一人前だ。どうだ、めでてえじゃねえか」  こんなせりふの場面をやくざ映画で見たことがある。  Cさんに、動機はない。あるのは命令だけだ。それに従うのが刑務官だと聞かされたとき、このやくざ映画のシーンが彷《ほう》彿《ふつ》した。  しかしCさんの話は映画ではない。やくざの世界でもない。公務員のあいだで、人殺しを命令する立場と命令される立場のやりとりが交わされるのだ。むろん否とは言えない。刑務官の服務規定に、死刑執行を命じられたら拒否してはならない、という一項があるわけではない。それどころか、死刑の執行をするというはっきりした項目はないのだ。しかし、いやだとは言えない。 「どうして拒否できないか、理由はいろいろあります」  まず第一に上司の命令には逆らえないということ。逆らえる雰囲気などないのである。  第二に、もしいやだといえば、それはただちに刑務官を辞めるという意思表示につながるということ。刑務官は辞めないが、死刑執行はお断りというのは通らない。刑務官の服務規定に、理由なく上司の命令を拒否してはならないと解釈できる一項がある。理由があれば断れるが、人殺しはいやだから死刑の執行はやりたくないというのでは理由にはならない。妻が妊娠しているとか、身内の不幸で喪中であるとか、こういった場合のみである。   他に仕事のあてがあれば……  その朝、名前を呼ばれたCさんは、あらためて慄《りつ》然《ぜん》となった。全身の力が抜けてしまったといったらいいか、頭の中と目の前がまっ白になった境地に瞬間襲われた。  Cさんの話を聞いていて、死刑囚と死刑執行官を命じられた刑務官は、なんだかとてもよく似た部分があるんだなあと驚いた。一方は処刑される身、そしてもう一方は処刑をやらされる身。討つと討たれるとの相反する立場でありながら、どちらも国家権力によって逃げられざる宿命に身をまかさねばならない者どうしといったらいいだろうか。  もっとも、刑務官のほうは退職を覚悟しさえすれば、死刑執行といういやな役目をご免蒙《こうむ》ることはできる。  本当にいやなら辞めてしまえばいいじゃないかと考える人も多いと思う。いやだいやだと口ではいうけれど、結局は死刑の執行をやるのは本当に心底いやじゃないからではないのか、という意見もよく聞く。  私自身も、死刑囚の取材と取り組むまではそう考えていた。  元拘置所長だったという人が死刑廃止論者だと聞くとかえって意外な気がしたものである。本当にいやならば、刑務官が団結して、自分たちは死刑執行は拒否する、となぜいえないのか、不思議でならなかった。  取材を通じていろんなことがわかり、刑務官が拒否できない立場というか、事情といったらいいか、そういったさまざまな言葉をひっくるめた、要するにいやといえないわけが理解できた。  まず、転職先がおいそれと見つからないことがある。  刑務官を辞めてしまうのは簡単なことである。しかし、辞めたあと、いったいどんな仕事につけるか。家族をかかえた一家の稼ぎ手が転職先のあてもなしに、勤め口を辞めてしまうことはそう易々とできるものではない。できるだけ生まれ育った土地にいたい、あまり遠く離れたところへ移り住みたくない、一生馴《な》染《じ》んだ土地で暮らしたいと思うのは当然の人情である。第一、遠くへ移住すればいい働き口が見つかるという保証もないのだ。こうした生活の事情でいやなこともがまんするのである。  刑務官が団結して、死刑執行はいやだというというのも、そもそもどだいからして無理な話である。  団結しようと個人であろうと、命令された仕事を拒否したという解釈になる。公務員にストライキ権はない。刑務官を辞めずに死刑執行の役まわりだけを逃れることはできない。  直接手を汚す役をやらされるのは三回か四回ほどで、あとははじめて執行する刑務官の指導の役にまわるというのが実情である。  これがまたくせものであるといわなくてはならない。死刑はむろんいやな仕事であるが、直接手を汚すのと、立ち会うだけというのでは気持ちの上に微妙な差が生じる。自分の手で人の息の根を止めたというのと息の根の止め方を指導したというのとでは、罪悪感の感じ方がちがってくる。  直接手を汚すのは一回の処刑につき三名だ。三名が団結して反乱しても、国家権力はびくともしない。代わりの三名を選び、反乱者にはもっともらしい理由をこじつけてクビにするだけのことである。  死刑執行がいやで辞めてしまった刑務官も多いと聞く。 「みんなつぎの仕事のあてがありましたから」  Cさんはうらやましそうな口調で話す。   天井から垂れ下がるロープ  執行を命令された三名の刑務官は、刑場の準備にかかる。刑務官の朝点呼は八時半だ。執行は十時に行なわれる。  刑場は毎日使用しているわけではないが、錆《さ》びついたり、汚れくさったりしてしまっているということは決してない。掃除、手入れはまめに行ない、いつでも使用可能な態勢は整えられている。  しかし、執行される死刑囚の体格は個々異なるので、身長や体重に合わせてロープの長さを調節しなくてはならない。ハンドルを引いて死刑囚の体が地下に宙吊《づ》りになったとき、床上三十センチ離れて足が止まるように調節するのである。  宮城刑務所の刑場は、Cさんが刑務官になった昭和二十八年(一九五三)から四十年(一九六五)代にかけては、死刑囚舎房から約二百メートル離れた北側にあった。レンガ造りの独立した建物である。入口は鉄扉だが、死刑囚の涙で錆びたとでもいうように、赤く腐触したただれた色をしていた。開けるときは、蝶《ちよう》番《つがい》の油が切れているのか、なんともいえない、ぞっとする泣き声をたてるのだった。  刑場内は二間にしきられていて、入ってすぐの部屋が仏間になっている。仏壇が設けられてあり、死刑囚の宗教による宗教儀式が行なわれる。教《きよう》誨《かい》師《し》の読経が流れ、線香も焚《た》かれ、生花、供物も飾ってある。キリスト教など仏教以外の宗教の死刑囚の場合は、それに応じた祭壇、飾りつけが用意される。  宗教儀式の間の奥は死刑台の部屋である。  天井から一本のロープが下がっているのがいかにも無気味だ。  ロープはふだんは保安課に保管されている。といっても、保安課の長《なが》椅《い》子《す》の下に放り込んであるだけ。執行の朝、持ち出してほこりを払い、使用するというのが現実。一個の生命をあの世に送る道具のあつかい方にしては、あまりにぞんざいな気がする(現在はロープ箱に入れてきちんと所定の場所に保管されているという)。  ロープの先端は輪になっていて、その部分は黒皮で覆われているのだが、多くの死刑囚の脂汗がしみ込んでぬらぬらとした光りを放っている。  床の中央に一メートル、一・四メートルの踏み板があり、ロープはこの真上から下がっているのである。  Cさんは緊張と恐ろしさとで、茫《ぼう》然《ぜん》となった。もちろん刑場を見たのも中に入ったのもはじめてではない。刑務官になって以来何度となく掃除などをやった。しかし、執行官という役を命じられて見る刑場内は、それまでの印象とはまるでべつものであった。  できることなら消えてなくなってしまいたい。そんな気持ちだった、といったらいいだろうか。   悟りを教えてくれた死刑囚  Cさんのはじめての執行官としての役割は、ロープを首にかける担当を命じられていた。先輩の刑務官に指導されてロープの長さを調節する。  死刑囚が宙吊《づ》りにされたとき、瞬間に意識を失うためには、ロープを首にかける際に注意しなくてはならない。顎《あご》だけに引っかけたのでは意識を失わず、執行が完《かん》璧《ぺき》に終了しないのである。死刑囚の苦しみは想像を絶するばかりで息絶えることはない。そんな失敗がないように、ロープを首にかけるのには細心の注意をせよと先輩刑務官が指導説明をする。その声が、まるで地獄の底からひびいてきているようにCさんには聞こえた。  もし失敗したら……こう思うと全身に震えが走った。歯の根がうまく合わず、先輩に返事を返すにも舌が重くもつれる。Cさんの顔色はきっと蒼《そう》白《はく》だったことだろう。 「下腹に力を入れろっ、深呼吸してみろっ。大丈夫だ。落ち着いてやれば失敗することはない」  先輩の叱《しつ》咤《た》と励ましの言葉にもかかわらず、Cさんにはうまくやれる自信がまるでなかった。自分に限って失敗するにちがいないという気がしてならなかった。 「しっかりしろ、これで一人前の刑務官になれるんだ」  先輩刑務官はCさんの肩をたたきながら、いたわるような表情を浮かべた。  いよいよ執行である。  法務大臣によって死刑の執行をせよと名指しされた死刑囚が刑場に連行されて来た。  教《きよう》誨《かい》師《し》が死刑囚に仏教の往生思想を説く声が、しきりをへだてた死刑台の間にいるCさんにも聞こえる。祭壇にはすでに灯がともされ、線香の煙も漂っている。静まりかえった刑場内に、教誨師の声だけが低く通った。  Cさんも含めた執行に関わる全員が、厳粛な気持ちにさそわれ、読経がはじまると思わず知らずのうちに合掌して一心に祈っていた。  不思議なことに、さきほどまでの緊張と恐ろしさに歯の根も合わない極限の心地が去り、平常よりもずっと静かな境地になっていく。  しきりが開かれた。目かくしをされ、手錠に腰繩を施された死刑囚が、刑務官に誘導されて、一歩、また一歩と刑台に近づいて来る。  あらかじめ知っていたが、いよいよ最後の瞬間を迎える死刑囚がだれであるかを認めるのはCさんにはつらかった。東京から押送されてきて、荒れ狂う何カ月間かを過ごした後、仏教に帰依し、すばらしい人間性に目覚め、Cさんに悟りの境地を教えてくれた死刑囚である。心の中に片寄り、こだわり、へだたりを持ってはならないと熱心に説き聞かせてくれたすばらしい人間である。短かったけれど、Cさんの心の深いところにまで迫ってきたこの死刑囚の首に、繩をかけなくてはならない因果は、惨酷であった。  死刑囚にはCさんがわからない。しかしCさんはだれの首にロープをかけるかを知らざるを得ない。  心の中で合掌し、任務を果たすことに集中した。  執行はすばやく行なわなくてはならない。Cさんが首にロープをかけるのと、べつの刑務官が膝《ひざ》をひもで縛るのと同時。間髪を入れずもうひとりの刑務官が保安課長の合図を見て、ハンドルを引く。この間、時間にしてわずか三秒ぐらいのものである。  Cさんもいっそのこと、この死刑囚といっしょに浄土とやらへいってしまいたいような、絶望的な執行後の気持ちが広がった。   立会いはごめんだ  ハンドルが引かれると、同時に死刑囚の体は地下に落下する。足下の踏み板が中央から二つに割れ、宙吊《づ》りになって絞首される仕掛けになっているのである。  宙吊りになると、医学的見地からはほとんど瞬間的に意識を失い、死刑囚に肉体的苦痛はない、とされている。処刑されてしまった死刑囚にじっさいに苦しくなかったかどうかたずねることはできない。意識を失ってほとんど苦しむことはないので、死刑は残虐ではないという理屈がまかりとおった。  憲法では残虐な刑罰を禁止している。  死刑判決を受けた被告人は弁護人とともに、この憲法をたてに、死刑は違憲であると訴える。  しかし、裁判所は、吊《つ》るされた瞬間に死刑囚は意識を失い、苦しみはほとんど知ることはない、したがって絞首刑は憲法にいうところの残虐な刑罰にはあたらないと主張する。  じっさいに意識を失ってしまって、いっさいの痛苦が皆無であったかどうか、絞首された当人にたずねることができないのはいまも言ったとおりである。  執行現場で見たとおりの話はこうだ。  宙吊りになった死刑囚はテレビドラマなどで見るように、単純にだらりと吊り下がるのではない。  いきなりズドンと宙吊りになる。このとき死刑囚が立っていた踏み板が中央から割れて下に開く。その衝撃音は読経のほかなんの音もない静寂の中にいきなり轟《とどろ》くので、心臓にこたえる感がある。たとえかたがうまくないかもしれないが、ぶ厚くて大きな鉄板を、堅いコンクリートの床に思いきり叩《たた》きつけたような音だという。  この衝撃音がバターンと轟くのと死刑囚が宙吊りになるのがほとんど同時。  宙吊りの体はキリキリとロープの限界まで回転し、次にはよりを戻すために反対方向へ回転を激しく繰り返す。大小便を失禁するのがこのときである。遠心作用によって四方にふりまかれるのを防ぐために、地下で待っていた刑務官は落下してきた死刑囚をしっかり抱いて回転を防ぐ。  間もなく死刑囚は激しいけいれんを起こす。窒息からくるけいれんである。  両手、両足をけいれんさせ動かすさまは、まるで死の淵《ふち》からもがき逃れようとしているかに見える。手と足の動きはべつべつである。  手は水中を抜き手を切って泳ぐように動かす。  足は歩いて前進しているとでもいうような力強い動かしかたをする。  やがて、強いひきつけを起こし、手足の運動は止むが、胸部は著しくふくれたりしぼんだりするのが認められる。吐くことも吸うこともかなわぬ呼吸を、胸の内部だけで行なっていると思えてならない。  頭をがくりと折り、全身が伸びきった状態になる。瞳《どう》孔《こう》が開き、眼球が突き出る。仮死状態である。  人によっては、宙吊《づ》りになって失禁するのと同時に鼻血を吹き出すこともある。そんな場合は、眼球が突出し、舌がだらりとあごの下までたれさがった顔面が、吹き出した鼻血によって、さらに目をおおわずにはいられない形相となる。  医官は死刑囚の立っている踏み板が外れるのと同時にストップウォッチを押す。つぎに仮死状態の死刑囚の胸を開き聴診器をあてる。心音の最後を聴くためである。もうひとりの医官が手首の脈をとる。脈は心音より先に止まる。心臓がすっかり停止するまでには、さらにもうしばらく聴診器をあてたままでいなくてはならない。  しかし、それも、そう長いことではない。ストップウォッチを押してから、心臓停止までの平均時間は十四分半あまりである。この十四分半あまりが、死刑執行に要した時間ということである。  死刑執行の始終を見ていて、失神した立ち会い検事もいたという。失神はまぬがれたとしても、「死刑の立ち会いはもうごめんだ」というのが感想のようだ。   回復不能な精神の疲労  Cさんは、自らが首に繩をかけて死刑を行なったあと、発狂せずにいられた自分自身が信じられなかった。  踏み板が外れたときのバターンという大きな音は、聞こえなかった。ただ夢中で、失敗せずに執行官の任務を果たしたということを知ったのも、医官の声が聞こえたあとだった。 「十四分〇三秒、執行終わりました」  医官の、感情のない声が、Cさんを現実にひき戻した。  他の刑務官たちは突然躁《そう》病《びよう》を患ったように陽気な声でしゃべりはじめた。やり場のない気持ちをまぎらわそうというのだろうか。  Cさんは、そのときほど疲れた体験は、軍隊で戦地にいたときにも味わったことがないと思った。  行軍につぐ行軍。絶望的な戦況。生きて帰れる望みもおぼつかない泥沼の戦場。  飢え。渇き。行軍中にさえ深い眠りに落ち込みそうな疲労。着ているものが重い。軍靴が重い。休みたい。休みたい。ただ、ひたすら休息を希う。  深くて、重い疲労。  全身に力はまるでない。体は綿のようだ。ふわふわ、よろよろ、希望はとうになく、絶望感さえすでにない。  ただ疲れがあるのみ。  けれども、死刑執行による疲労感は、あのいまわしい戦場の疲労より、もっと、ずっと深い、Cさんの心の奥底の、最も静かなところから発していた。  戦場の疲れは、肉体の疲れが主たるものだった。  だが、死刑執行という、自らの手によって、ひとりの人間の息の根を止めたことから発してくるのは、精神の疲労であった。  肉体の疲労は、充分な休息、充分な睡眠、そして充分な栄養補給によって、百パーセント回復することは可能である。  ところが、人を殺したという罪の意識、それもいやいやながら、自らの現在の生活保全のために手を汚した慚《ざん》愧《き》、自己嫌悪の疲労はいったいどのような回復の手段があるというのだ。  刑務所内に設備されている浴場で、Cさんは手袋を脱いだ。執行官のために支給された白い手袋である。白い手袋は少しの汚れもとどめていないようだった。  入浴して、Cさんは全身を徹底的に洗いに洗った。洗っても、洗っても、人を殺したという汚《し》染《み》は落ちたとは思えない。  湯あがりの爽《そう》快《かい》感《かん》の得られぬ入浴も、はじめての体験だった。濡《ぬ》れたままの体に衣服をまとったような、不快な気分が強かった。   満杯の死刑囚舎房  執行に立ち会ったもの全員に「身洗い酒」がふるまわれる。  所長が、 「とどこおりなく執行が終了した。ごくろうでした」  といったような内容のあいさつをするのも、決まりごとである。 「おかげさまで、一人前になることができました。ありがとうございました」  Cさんは、先輩の刑務官に教えられたとおりのあいさつをした。 「身洗い酒」としてくばられた二合びんの酒はあっという間に空になってしまった。  Cさんに限らず、執行に立ち会った全員が、飲んで明るく楽しくなれる気分ではないのだ。みな、話はする。そして笑い声もたてる。しかし全体の雰囲気はしらじらとした、冷えて重苦しいものが漂うばかり。  執行官を務めたCさんの、この日の勤務はこれで終わりである。「特殊勤務手当」(死刑執行手当)を受け取って、あとは帰宅が許される。 「特殊勤務手当」は人事院規則で定められており、昭和五十八年(一九八三)当時五千八百円支給されていた。  現在はもう少し多いかもしれない。Cさんがはじめて執行官をつとめた昭和三十年(一九五五)は、 「千、三百円か四百円だったように思います」  と言いながら、しきりと首をかしげる。  八百円だったかな、ともいい、いや千円ともうちょっとだったな、とも言う。  いずれにせよ、Cさんがこの「特殊勤務手当」を家に持ち帰ったことはない。  刑務所から目鼻の距離にある自宅を素通りして、Cさんは町に出た。  自転車に乗ろうとして、ハンドルを握ったとき、死刑場のロープの感触がまざまざと蘇《よみがえ》り、Cさんは思わず身ぶるいした。  内ポケットに入れた「特殊勤務手当」が、茨《いばら》を裸の胸に抱いたように感じられる。  歩いているうち、いつか知らず、足なみにあわせて、「おれは人を殺した、おれは人殺しだ」と心の中でくり返しているのだった。  泣くに泣けず、大声でわめきたくてもそうもいかず、ただみじめな気持ちだけがCさんをおし包んだ。  制服を着たままであることも忘れて、Cさんは安い居酒屋に入り「特殊勤務手当」をすっかり飲みつくした。酔える酒ではなかった。けれども、酔いたい気持ちは希うばかりに強かった。  重くて、悲しくて、情けない、汚れてしまった自分をひきずって、ようやく家に帰ったのは、夜もかなりふけてからだ。明日も朝が来たら起きなくてはならないのかと思うと、はじめて深いため息が出た。  明日以後も、執行はある。死刑囚は死刑囚舎房に満杯なのだ。  ああ……。   愛妻には決して話せない  Cさんの休日の過ごし方は農作業に熱中することである。実家からわけてもらう約束になっている少しばかりの畑に、野菜をつくっていた。大体週一回見まわる程度なので大したことはできない。それでも休みの朝は楽しい遠足に出かける日のような気持ちだ。暗いうちから眼がさめる。  自転車に弁当とお茶を積んで出かける。たったひとつ重苦しい気分から解放されることであった。  同僚の刑務官たちも、それぞれに趣味を持っている。清流釣り。春の山菜採り。秋のきのこ狩り。みんな、高い塀の中の日常から少しでも遠く離れたいのである。  Cさんも、春の山菜採り、秋のきのこ狩りには好んで出かける。農作業といっても、本格的なことはできない。日常の野菜類を作る程度のものである。山菜もきのこも、この地方の食生活からは切り離しては考えられないものだ。  Cさんは刑務官の職が決まると同時に結婚していた。物価統制令は昭和二十六年(一九五一)に解除されて、敗戦の傷は少しずつ癒《いや》されていると政府は判断していた。物不足、食糧不足は敗戦直後から見れば、はるかに明るくなってきていた。しかし、昭和二十八年(一九五三)に結婚した夫婦の何パーセントが新婚旅行に出かけただろうか。形ばかりの祝言を挙げて、いっしょに暮らしはじめた夫婦というのがまだまだ多かったはずである。  Cさんと同じころ出征して、いまだに生死さえわからずにいるものもいた。敗戦の傷手が回復するのには、まだまだはるかなる感があった。  はじめてCさんが妻となる女性と会ったのは結婚式のときである。親《しん》戚《せき》の世話でまとまった話だった。  花嫁は、Cさんの母親が嫁入りしたときの婚礼衣装を着た。遠《えん》戚《せき》関係の娘ということだったが、Cさんは嫁に迎えるまで、いちども話にも聞いたことのない娘だった。  刑務所の官舎ではじまった新婚の暮らしは幸福だった。新妻は気だてがよく、働きものだった。一生、仲良く生きていこうと誓い合った。  その妻に、Cさんはかくしごとを持たなくてはならなくなったとき、本当に自分は孤独であわれなやつだと思った。悲しかった。しかし、執行のことだけは、どうしても話すわけにはいかない。農家育ちの、素朴で善良な妻が、Cさんのやったことを知ったらどんなに驚き、そして苦しむかしれない。それを思うと、自分だけの苦悩として、死ぬまで黙って裡《うち》に包み込んでおかなくてはと思うのだった。  Cさんは妻を愛していた。戦争から生きて帰ることができて、そして出会う幸福にめぐまれた妻であった。人生ではじめて愛した女性でもあった。その妻を大切にしたい。苦労や心配はさせたくない。なによりも傷つけたくなかった。  久しぶりの畑は、野菜がすくすくと育ち、Cさんの訪れを待っていたと語りかけてくる。刑務所内での鬱《うつ》陶《とう》しい生活から解放されて、晴ればれとした気分になるのを感じる。  けれども、その日はいつもの休日とはちがった。  Cさんは、自分という人間が、どこか遠く人間社会からはるか離れたところへ疎外されてしまった孤立感に襲われた。  戦場で敵に銃を向けるのとは明らかな乖《かい》離《り》。殺《や》らねば殺《や》られるという必死なものもない殺人。勝つことが目的の戦争とはまるで異なる、命令に従うだけの殺し。  自分は殺人者だ。汚れた殺人者だ。  Cさんの頭の中で、この言葉が犇《ひし》めいた。 「もう自分の人生はないと思いました」  Cさんは両手をかたく握りしめて言った。  視線は遠く、海の彼方にむけられているが、はたして何を見ているのかははかりしれない。ハンカチで顔や首の汗をCさんはしきりに拭《ぬぐ》った。  暑さばかりの汗ではなさそうに思えた。   第一子誕生までの不安な日々  はじめての執行体験から何年間かのあいだに、Cさんは何度も執行官を務めた。  その間に子供も誕生している。 「家内が妊娠しているあいだじゅう、生きた心地はありませんでした」  安心して過ごせた日は一日もなかった。生まれてくる子供のことが気がかりだった。無事に生まれてくれるのだろうか。五体が満足にそろっているのだろうか。もし……と考えるとCさんは夜も眠れなかった。  はじめて親になるときは、だれもが生まれてくるわが子への期待と不安を抱く。しかし、Cさんの場合、ふつうの世間一般の親たちが抱く期待や不安とは大いにちがっていた。 「こんな仕事をしているんだから、神さまがまともな子供を授けてくれるはずがない。この考えが止んだ日は一日もありませんでした」  Cさんが罪悪感にさいなまれるのは、むろん死刑の執行で手を汚したことではある。しかし、ただ単に国家が死罪と裁いた罪人を処刑したからだといって片づけることはできない。裁判は極刑に処す以外に考えられないと決めつけた。けれども、Cさんにとって死刑囚は死刑以外に施しようのない大罪人ではなかった。  死刑が確定したのち、犯行当時の死刑囚からはおよそ想像もし得ないような、善の人に生まれ変わっている死刑囚たち。  世間の人々は、裁判で死刑が確定するところまでしか死刑囚について知ることはない。確定後の、生まれ変わった人間性を知らないのだ。それは、日本の死刑制度が密行主義の中に閉じ込められているからである。  ○○という犯罪者は死刑が確定した。ここまでが一般に公開される限界。それ以後のことは死刑囚の肉親と、担当の弁護士が面会を通して短い会話の中から、あるいは文通によって知るだけである。  宗教教《きよう》誨《かい》を受けている死刑囚ならば教誨師も知り得る。しかし、なんといっても、最もよく知っているのは、最もよく理解しているのは死刑囚舎房の看守であった。 「こんないい人間を、裁判で決まったからといって、殺してしまうのは神を冒《ぼう》涜《とく》することではないのかと、いつも恐ろしい気持ちでいましたよ」  Cさんはとくになにかの宗教に熱心というわけではない。  家の宗教はいつの代からかは知らないが日蓮宗だった。育った家には仏壇があり、毎朝お茶と仏飯を供え、線香を焚《た》いていた。戦争で兄二人が位牌になってからは、両親の朝の勤行はとくにていねいになった。しかし、Cさんにとっては、宗教は幼時のころと大して変わりのないものであった。  ところが、執行体験をしてからというもの、Cさんは急に神をおそれる気持ちに目覚めた。神といういい方に語弊があるなら、天の摂理、あるいは自然の摂理へのおそれといってもいいと思う。  とてつもない罰《ばち》当たりなことをしている自分に思えてならなかった。  神によってしか創《つく》り得ない生命を、破壊してしまうという大それた罪。その大罪を、Cさんは日々の自己の生活を守るために犯している気がした。  汚れてしまった自分。こう考えると、Cさん自身の行く手に幸福など訪れてくるわけはないと思えた。  妻の懐妊を知ったとき、喜びより不安、楽しみより恐ろしさが先に立つのだった。  月満ちて、長男が誕生した。 「手足の指もそれぞれ五本ずつ、目も鼻も口も、不自由なくついていると知って、申しわけなく思いましたよ」  五体満足で、元気な男の子と聞かされたとき、Cさんは大声で泣いてしまった。ありがとうございます、と感謝の言葉をくり返しながら。 「どんな子供が生まれても、自分の因果だからと自分では受け入れる覚悟でいました。ですが、子供自身は、私を親に選ぶわけではないので、もしふつうでなかったらすまない、なんといいわけしたらいいかと、それは悩んだですよ」  五体は満足というものの、しばらくはまだまだ不安がつづいた。  目が見えるだろうか。耳は聴こえるのだろうか。口はきけるようになるのか。足はちゃんと立って歩けるのか。  わが身にふりかかってくる災難なら天罰と思って、甘んじる覚悟でいた。しかし、わが身を通りこえて災厄が子供の上に降ってわいたら、なんといって詫《わ》びたらよいのか。Cさんの心の安まる日はなかった。   「悔しい」のひと言  死刑執行は、回数を重ねれば罪悪感も鈍磨していくというものではない。回数を重ねるだけ、自己の汚れ、自分という人間が人間としてのあさましさを深めていくばかりに思えるものだった。  死刑の判決を下す裁判官は、自分の判決によって、Cさんのように人生を暗い、みじめなものにしてしまう立場に立たされる人間がいることを、考えることがあるのだろうか。  執行命令を出す法務大臣は、執行官を務めなくてはならない刑務官のことを知っているのだろうか。  被害者の人権、人格はむろん守られなくてはならないことである。犯罪者が自己の罪を償うのは当然である。けれども、犯罪者に罪を償わせるために、Cさんのように、人間性をまったく無視された任務を命令される刑務官の人権、人格はどうなるのだ。  一生を後ろめたい思いで生きなくてはならない死刑執行官のことを、法務省は同じ役人として放っておくのか。  刑務官を志す人は、概して性格はおだやかで温厚な人が多い。従順でもある。血の気の多い、すぐかっとくるような性格の人はいないといってもいいと思う。気だてがやさしい善良な人間ばかりといっていいだろう。だから上司に反発することもない。自分の人生が台なしになったからといって大声で抗議もしない。  ひたすらがまんして生きていくのみである。  苦悩をかみ殺し、屈辱にじっと耐え、世間なみの幸福から何歩も後退したところで、ひっそり生きているのである。 「悔しい、と言ったらいいでしょうか」  Cさんは、死刑執行官をはじめて体験したとき味わった気持ちを、表現を選んで、こう言った。  せっかく九死に一生を得て戦地から復員した身であった。多くの戦友を犠牲にして生き残った生命であった。  尊いものといわなくてはならない。死んだ戦友のぶんも生きて国家のために尽くすのだとわが身に誓ってスタートした戦後だった。  それがどうだ。人にも話せない恥の人生を生きさらばえて。将来、あの世に行って再会した戦友たちに、いったいどのようにその後のおのれの人生を報告するべきなのか。  子供が成長するにつれ、Cさんにはきりなく果てしなく悩みが深まっていった。 「子供が大きくなって、父親の仕事を知ったらどう思うのだろうかと、そればかり気になりましたよ」  Cさんは、子供に勉強を強いたことはない。なにをしろ、なにはするなと一方的に命令したこともない。  人のまえで恥ずかしいと思うようなことだけはしないでくれ。親としての願いはそれだけだった。  父親と同じ刑務官の道を選びたいと言いだしたら、どう言って反対したらいいだろうか。父というものを理屈ぬきで、無条件に信頼してくれる子供に対しても、Cさんの後ろめたい、劣等意識は深まっていくのであった。  子供が成長するにつれ、父と息子のあいだに深い溝が掘られていくようだった。Cさんにはむしろそのほうがありがたいような部分もあったことは確かである。  父親を遠ざけるぶん、刑務官を志す可能性からも遠くなるといえた。淋《さび》しいことだったが、父と同じ職場を選んで、父と同じ屈辱の人生は生きてもらいたくなかった。   墓場まで沈黙 「執行のない世の中になってもらいたいと思うのが、たったひとつの希いだといってもいいですよ」  刑務官の立場からも、死刑囚の立場からも、死刑はなくしてほしい。Cさんは本当に心からそう希っている。  それでも、世間に向けて大きな声で、死刑の執行をさせられる刑務官の屈辱や、苦悩を訴える気持ちはない。  Cさんには、Cさんさえよければ、Cさんさえ気がすめばというわけにはいかない事情がある。長年つれ添った妻も、Cさん同様年輪を重ねた。孫の成長を楽しみにひっそりとした幸福の中で暮らしている。いまあらためてCさんの現役当時の苦痛を蘇《よみがえ》らせ、悩ませるのにはしのびない。  汚れた仕事を職とした父を持つ息子を、息子の妻はどう思うだろうか。嫁いだ娘の立場はどうなるか。そして、孫たちの人生にどんな影響をおよぼすことになるか、はかりしれない問題がつぎつぎと考えられる。 「結局、だまっているしかないのです」  自分の人生とはいいつつ、自分だけのものではないのだから、とCさんはつけ加えた。  法務省から守秘義務を負わされている死刑執行の現場の話。それを語るためにはCさん自身の人生を語らなくては語り尽くせるものではない。 「恥ずかしいことを聞いてもらいました。ありがとうございました」  急に蝉《せみ》しぐれのさわがしさが耳に入るようになった。  そうだ、現実は陸《みち》奥《のく》の漁港の神社境内にいるのだった。忘れていた暑さが押しよせてくる感じがした。  わずか数時間のことだったが、何十年もの人生を聞くということは、重く息苦しく疲れるものである。  Cさんは杖《つえ》を頼りに女坂のほうへ歩いて去って行った。  一度もふり返ることはなかった。  陸奥は正午をとうに過ぎていた。 第四章 力ずくの処刑 重病者との会見  Dさんを訪ねたのは残暑がきびしい九月はじめのこと。午後二時を少し過ぎた時刻で、窒息しそうな暑さの最高潮時であった。  何人かの紹介者を経由して、ようやく会ってくれるという返事をもらっての訪問である。体調をくずしているので、遠路申しわけないが自宅へ来てほしいということだった。遠路であろうと僻地であろうと、会ってさえもらえるのなら地球の外以外はどこへでも訪ねるつもりでいた。  Dさんは風も通らない、仏壇が飾られた部屋に病《びよう》臥《が》の状態で私を迎えてくれた。東京で想像していたよりも、はるかに重い病状であることが察せられる。強引に何度も懇願して、半ば以上押しかけのかたちで訪ねたことに、少なからぬ後ろめたさを覚えた。 「このままで失礼しますよ」  Dさんは天井を向いたまま、起き上がらない断りを言った。そういえば、私の顔には先刻一《いち》瞥《べつ》をくれただけである。仰向けの姿勢は身動きもしない。  奥さんが冷やした麦湯のコップをお盆のまま置いて、言葉もなく去って行った。  老いた夫婦は、私の訪問を迷惑しているのが明らかである。あつかましく訪ねて来てしまった自分を悔いはじめた。 「これまで会った人たちからは、どんな話を聞かれましたか」  思いがけず、Dさんのほうから執行の話が切り出された。救われた心地になった。私はそれまで会うことができた元刑務官の人たちから聞いた執行についての話を、できるだけ手短かに話した。執行体験者の話。立ち会っただけの人の話。死刑囚となんらかの関わりを持ったことのある元刑務官の何人もに会って聞いた話、などなどである。 「そうですか。みんな立派に往生した死刑囚の話ばかりしかしなかったんですか」  Dさんは目を閉じて黙ってしまった。   「死にたくない!」の叫び声  たしかに私がそれまで取材して集めた限りの死刑執行は、立派に往生した死刑囚の話ばかりであった。見事に宗教に帰依し、宗教家でさえもなかなか到達し得ないような宗教的高みに到達し、従容として死の地へ赴いた死刑囚の話ばかりであった。これほど立派に真人間に生まれ変わった人間を、なぜ刑死させなくてはならないのかとその都度思いもした。執行官を務めた元刑務官も、教《きよう》誨《かい》師《し》も口を極めて、殺してしまうには惜しい人間だった、助けられるものなら助けたかった、と語っていた。 「死刑っていうのは、そんなおごそかなものばかりではありませんよ」  Dさんはぼそりと言った。  それまでに直かに聞くことのなかったアクシデントを伴った死刑のもようをDさんは語ってくれそうだ。期待と緊張で私の身体《からだ》が強ばった。 「もっと、ずっと、恐ろしいものです」  刑罰ではあるが、人が人を殺すのだ。格調高くすばらしい儀式そのものであろうわけがないじゃありませんか、とDさんはつづけた。たしかに見事な大往生を遂げた死刑囚も多くいた。しかし、それとほとんど同じくらいの数の死刑囚が、死ぬことを恐れ、死ぬのを嫌がり、死にたくない死にたくないと叫びながら処刑されていった。Dさんの体験は、そうしたものだったという。  だからこそ、Dさんたち死刑執行に携わった刑務官は傷つき、屈辱と苦悩の人生を過ごすのだ。  いまDさん自身が病んで、死にたくない気持ちを強く抱くようになった。死にたくないと叫びながら死んでいった死刑囚たちのことのほうが、より鮮烈な印象をとどめているように思うのは、病む身の上のせいかもしれないが、ともつけ加えた。  生きている限り、生きつづけたいと願うのは自然の摂理である。明日なきいのちの死刑囚も、自然の摂理に身をまかせれば、死にたくない、生きたい、と最後の瞬間まで生に執着して当然なのだ。  生存しているものが、その生存をつづけるのは大いなる自然のまえには、ごく当たりまえの営みである。  国家の定めた法で裁かれ、生きることを止めさせられる反自然の立場に直面したら、きっとだれもが死ぬのはいやだとわめきたいのが本音ではあるまいか。法律というものは自然ではない。人間がつくったものだ。社会秩序を守るために定められた掟《おきて》である。掟を破った者に対する制裁が刑罰である。国家は人を殺してはならぬと法律に定めた。けれども国家が刑罰というかたちで殺人を犯すことは当然だとも定めた。  個人が個人を殺すのはいけないが、国家が個人を殺すことはよしとする理論である。これは大いなる矛盾といわなくてはならない。この矛盾がまかり通った結果、深く傷つき、生涯を暗い劣等感と、ぬぐい去れない罪悪意識とにさいなまれて過ごさねばならない立場の人が後を絶つことなく生まれた。  国家の定めた法律によって、死刑という刑罰に処せられる犯罪人が出る。そのためにそれからの生涯を台無しにする人を守る法律はないのか。だれも刑務官の屈辱を思いやろうとしないのはなぜなのか。羊のようにおとなしく命令に従うものに対しては、不満がないから反発しないと解釈しているのか。   孤独をなぐさめる小鳥 「人間には見栄がありますから」  Dさんは、たとえ従容として死の途についたとしても、それは心底そんな気持ちだったはずはないという。その証拠に、処刑の行なわれる日は、起床時から死刑囚舎房を包んでいる空気がちがっていた。暗く重苦しい、窒息しそうな空気が漂っている。死を予知する本能と死を拒絶する本能とが吐き出す呼吸によって、舎房全体の空気がいつもと異なるのだそうだ。 「だれの番だということまではわからんでしょうが、みんな自分じゃないのか、きっと自分の番にちがいないと思って、おびえ、ふるえあがるんです」  死刑囚舎房全体が、いつもと異なる発狂か爆発かを起こしかねない空気に包まれている。  その空気をいやというほど感じながら、ふだんと変わりない勤務姿勢でいなくてはならない刑務官もつらい。 「いっそのこと、死刑囚といっしょになって執行はいやだ、やめてくれとわめくことができたら、とさんざん思ったものです」  Dさんは三十年あまりの刑務官生活中、死刑執行をふくめて死刑囚と関わったのは四、五年間である。在職期間の一割ちょっとの歳月だ。しかし、刑務官生活というより、全人生を内面的にすっかり変えてしまった時間といわなくてはならない。  死刑囚と刑務官の関わりは、これまでにも書いたように、最も馴《な》れ親しんだ間柄である。けれども、同時にまた、死刑囚にとっては憎悪の対象であるのが刑務官である。  生かすも殺すも思うままに、死刑囚の生命を握っているのは国家である。しかし、国家というのは漠然とした、とらえどころのない相手といえないだろうか。そこで国家に雇われた公僕である刑務官こそが、死刑囚にとっては自らの生命を握った国家であると思えるのである。  これまでに何人殺ったんだ。いいねえ、人を殺して手当をもらって、一杯飲めて。といやみを言う死刑囚も当然いる。敵意をむき出しにする死刑囚もいる。くり返すようで恐縮だが、拘置所、刑務所はすべて規則で動くのである。一日の日課は時間によって定められ、どんな些《さ》細《さい》なことも規則によって処理される。刑務官個人の判断に基づいて、死刑囚の希望や願いごとを聞き入れることは許されない。規則でだめとされているものは、仮りに刑務官が個人的に大目に見たくとも許されることではない。いっさいの融通がきかないのである。  Dさんは、規則でがんじがらめのゆえに苦い体験をしたことがたびたびあった。  死刑囚には独居房の中で、小鳥を飼うとか、ちいさな植物を育てる程度のささやかな楽しみが許されていた。死刑囚の情操教育という目的で許可となったのである。  生きものを育てることを通して、生命の尊さを知る。さらに人間らしい情感を養い学ぶのに役立つという理由。教《きよう》誨《かい》師《し》会から、死刑囚の情操教育のために、と、法務省への進言によるもの。  死刑囚にとっては、結構これが楽しい同居の相手となっているようだ。独居房の中で、四六時中襲われる死の恐怖と怯えから、いくらかは救われる役目も果たしているとも聞く。小鳥や植木鉢の植物に語りかけたりすることで、孤独地獄からも、わずかながら解放される気持ちになるのだろう。  幼児誘拐殺人事件というと、決まってひきあいに出されるのが、〓“吉展ちゃん事件〓”である。昭和三十八年(一九六三)に発生したこの事件の犯人小原保も、独居房で小鳥を飼っていた。何人もの死刑囚を慰め、小原に受け継がれてきたのであった。晩年の小原は短歌に傾注した。数多《 あ ま た》の作品を遺しているが、小鳥との生活ぶりも多く詠まれている。   規則が生んだ悲劇  Dさんの語る死刑囚Eも小鳥を獄中の友として暮らしていた。やはり何人もの死刑囚とその晩年の暮らしを共にして、Eの独居房の同居者となったのであった。小鳥は文鳥であった。人によく馴《な》れていて、Eのもとに来るとすぐEに親しみを寄せた。肩にとまる。指先を突っつく。餌《えさ》をねだる。Eは文鳥と仲良く過ごすことに熱中した。文鳥に夢中になった。さながら恋仲の相手に対するように、慈しみ、大切にあつかった。Eは短歌はやらなかったが、絵の才能は結構に思われた。文鳥はEと暮らすようになって以来、格好なモデルであった。  ある朝の運動時間のこと。  Eは独居房を出るさいの身体調べで、文鳥のデッサンをかくし持っているのを見つけられた。死刑囚が独居房の外に出るときは、いちいち刑務官が身体点検を行なう。すべてのポケットを裏返す。衿の裏からズボンの折返しにいたるまで、針一本忍ばすことも不可能な調べようである。  この身体調べは運動に出るときだけではない。医務室に行くとき。面会人に会うとき。教育課長や所長、管理部長などに呼ばれたとき。とにかく、独居房を出るときはことごとくである。入浴のさいには独居房から浴場までをパンツ一枚で往復する規則となっている。厳寒時といえども、この規則は変えられない。しかも、拘置所、刑務所内は走ってはいけないというのもまた規則である。走ることは逃亡を意味する。独居房から浴場までの距離は拘置所、刑務所によって多少のちがいはあるだろう。しかし、いずれにせよ冬の裸はかなわないにちがいない。それでも走るわけにはいかない。  Eは文鳥とはいっときも離れたくない気持ちになっていた。また、房外に出し思いきり羽ばたかせてやりたいと思いもした。いかにちいさな体にせよ、くる日もくる日も三畳に満たない裸コンクリートずくめのような室内では鬱《うつ》陶《とう》しいだろうとも思う。  前日の運動のとき、文鳥を連れ出したいと言って、だめだと言われていた。この朝は代わりにデッサンに外の空気を吸わせてやろうと考えたのであった。そのデッサンはいとも簡単に見つけられた。DさんにはEの気持ちがとてもよくわかっていた。その程度のことは、許せるものなら許したかった。文鳥の代わりにデッサンに外気を吸わせて、それでEの心がもっと豊かなものになるというのなら、そのほうがすべてのためにいいのだ。  しかし規則は非情である。当然のこととしてデッサンは没収された。  おとなしく没収されるままに従っていれば問題はなかったのだが、Eは猛《たけ》り、狂ったようにあばれた。若い刑務官の胸ぐらをつかみあげる。わめきちらす。足《あし》蹴《げ》りをかける。大あばれの荒れようとなった。  他の刑務官がとりおさえて、なんとかその場はおさまったが、Eはその日から一週間懲罰房に閉じ込められた。皮手錠をかけられての一週間である。  皮手錠というのは幅十センチ、厚さが一センチ近くもある皮革製の手錠で、金属製の輪がついている。この皮手錠を手首に巻き、さらに同じ革バンドを胴に巻いて、手錠の金属輪に通す。背後で金属のネジを締めるというもの。説明がまずくて、ちょっとわかりにくいかもしれないが、要するに、手錠をはめられた両手はまっすぐに下ろした状態で、胴の脇《わき》に固定されるのである。両腕をのばして両脇にくっつけた姿勢といえばわかってもらえるだろうか。  食事も、用便も、眠るときも皮手錠を外されることはない。配当された食事は、食器の中に顔を突っ込んで食べなくてはならない。まるで犬だ。用便のさいはもっと大変である。かろうじて手首をねじまげてズボンをおろす。用を足したあと、ズボンを元の位置に戻すのは、おろすことの何倍も困難だ。手首は堅い皮革で擦れ、皮膚が破れ、肉までえぐる。にじみ出た血がようやくかわいたかと思うころ、また次の用便を催す。傷口はあらためて血を吹き出すことになる。  両の腕は痺《しび》れきって、苦痛もこれ以上のものはない。寝ても起きても自由にならない両腕は、いっそのこと切り捨ててしまいたいと思うほど苦痛の根源となる。じっさい腕を切ってくれ、とわめくものもいるという。  全身が疼《うず》き、凝り、眠ることもままならない。  この状態で一週間も過ごさなくてはならなかったE。懲罰房を出るとDさんたち刑務官に対する態度が以前とは一変してしまった。  懲罰房で皮手錠をかけられ懲罰を受けるときの様子は、Dさんの取材のときはこのとおりに説明された。しかし、その後、同じ年代に宮城刑務所に受刑者として入所中、戒具をつけて懲罰房に入れられた体験者数人から聞いた内容は少しちがっていた。  衣服はすべて脱がされ、全裸に病舎入病者が着用する白衣一枚のみ着せられ、皮手錠を施されて懲罰を受けた、というものだった。  たれ流しをするため、そうするのだということである。   悔いの残る〓“人生の選択〓”  懲罰にすっかり懲り懲りして、おとなしく従順になる死刑囚も多いが、反抗的になる死刑囚もいる。Eの場合は後者であった。せっかく文鳥を飼って、人間らしい情熱と素直な人間性を回復していたというのに。  懲罰房に入れられたことを恨み、いちいち刑務官に毒づくようになった。ふてくされをきめ込んだり、呼ばれてもすぐには返事をしない。  DさんにはEの気持ちがよくわかるのだが、どうすることもできなかった。もし、文鳥のデッサンを独居房以外に持ち出すのを黙認して、後でそれが上司に知れたら、Dさんは服務規程違反で罰せられることになる。  Eが、あわれであり、かわいそうでもあった。  いずれEにもお迎えが来るだろう。どっちみち死ぬと決まっている身である。未来永《えい》劫《ごう》Eという人間の魂は荒んだままの気持ちでいなくてはならないのか。こうした燐《れん》憫《びん》の情を抱くのもDさんの本当の心であった。  しかし、一方ではEによって耐えがたい屈辱を味わわされ、憎む気持ちを抱くのも、またいつわらざるところであった。  ことごとくに反抗的になったEは、すべての動作にいちいち緩慢の限りを尽くす。  呼ばれても一度で返事をしない。立ち上がるにも時間をかけられるだけかける。運動場への往復、浴場への往復の歩みの遅いこと。あらゆることに反抗と反感をむきだしにするのだった。  ちょっとでも注意しようものなら大変な騒ぎとなった。 「うるせえっ、牢《ろう》番《ばん》野郎っ」 「だれのおかげで給料もらって飯が食えると思ってやがるんだ。おれたちのおかげだろうが。おれたちみてえなよ、悪いことするやつがひとりもいなくなってみろ、てめえらそろっておまんまの食いあげじゃねえのか。ちったあありがたく感謝してもれえてえなあ」  こんな悪態をつぎつぎとわめきちらすのである。 「E、静かにしろ、おとなしくしないとまた懲罰房行きだぞ」  Dさんは、あるときたまりかねてこう言った。ところが、これはEの反抗をかえってあおりたてるようなものだった。 「うるせえ、てめえら懲罰房に入れるとかなんとか二言めにゃあ脅しやがるが、こちとらなあ、どのみちこれになる身なんだよ」  Eは手で喉《のど》をつかみ、吊《つ》るされるまねをしてみせてつづける。 「おれらはよ、人を殺して首をくくられるんだ。ところがどうだ、てめえら同じ殺しをやるってのに、お神《み》酒《き》をいただいて、お手当もたんまりもらってよお、さぞありがた涙がこぼれるこったろうぜ。牢《ろう》番《ばん》って商売はなんだなあ、三日やったらやめられないこったろうなあ、なあDさんよお、先生よお」  延々とつづく嫌味であった。Dさんは、こんな情けない仕事は辞めてしまいたいと思わないで過ごした日はなかった。いま、刑務官という自分の生涯は、いったいなんだったのかと、やはり思うと言う。 「親類にも刑務官や警察官が多くいて、子供じぶんから大きくなったら自分もどっちかになるんだと思い込んでいたもんで……」  天井を向いたままDさんは、いまとなってはやり直すことは明らかに不可能な人生の選択を、いかにも悔やしそうにいう。   十日に一人が執行された頃  やがて、Eにもいよいよお迎えの朝が来た。  DさんはEの執行だけはしたくないと希うような気持ちでいた。順番に当たった同僚にはすまないが、幸い執行官の役はまぬがれた。しかし、結局は、Eの最後の瞬間を見守ることになってしまった。  執行の朝、死刑囚を独房から連れ出すのは警備隊の役である。警備隊というのは、拘置所、刑務所内の特別警備にあたる刑務官である。一般的に解釈すれば刑務官としての出世の階段のひとつと考えてさしつかえない。  警備隊になるまえの階段の一段が看守である。刑場付設の拘置所、刑務所で、死刑囚舎房担当の看守になった新人刑務官が、常々つぎのように先輩たちから言われるというのはまえにも書いた。 「執行を体験しなくては一人前の刑務官とはいえない」  昭和二十年(一九四五)代から三十年(一九五五)代にかけて、執行数は聞いただけで胸が疼《うず》くような数字が残されている。  因みに少しだけ執行数を挙げてみよう。  昭和二十三年(一九四八)三十三、二十四年(一九四九)三十三、二十五年(一九五〇)三十一、二十六年(一九五一)二十四、二十七年(一九五二)十八、二十八年(一九五三)二十四、二十九年(一九五四)三十、三十年(一九五五)三十二、三十一年(一九五六)十一、三十二年(一九五七)三十九……  執行は日曜、祝日、大《おお》晦《みそ》日《か》と正月三が日は行なわない。日曜は年間五十二日あるとして、祝日が十一日、大晦日正月で四日。以上六十七日は執行がない。残る三百日足らずは毎日、いつでも法務大臣の執行命令が出れば、執行が行なわれるのである。  年間、ほぼ三十人ずつを平均して執行していた二十年(一九四五)代、三十年(一九五五)代は十日に一度の割合だ。全国七カ所の拘置所、刑務所のいずれかで、死刑囚の生命が刑場の露と消えている。  そして、その度に、何人かの刑務官が生涯癒《いや》されることのない傷を心に負ったわけである。  昭和二十年(一九四五)から昨年六十二年(一九八七)までの執行数は五百八十一名。執行官は延べ人員で千七百人以上だ。近年になって踏み板を外すための手動式ハンドル操作を、電動式押ボタンにあらためてから、執行官の数が多くなった。押ボタンを五個ならべて、五人の執行官が同時に押し、だれの押したボタンによって踏み板が外れたかわからない仕掛けになった。刑務官をいくらかでも罪悪感から救おうとの配慮からだという。しかし、現実には苦悩の人生を生きる刑務官の数を増やしただけにすぎない。  この執行を体験することが、つぎの段階へのステップなのである。   最後の抵抗  話を、Eの執行の朝に戻そう。  Dさんは看守から警備隊に配属されたばかりの時期だった。警備隊の役目に、死刑囚を独居房から刑場へ連行する、という仕事がある。Eを刑場へ引っ立てて行くことには、刑務官のだれにも、すんなりとはいかないぞ、という予感はあった。  まさにそのとおり、Eは凶暴性をむき出しにして、Dさんに飛びかかった。飛びかかられたのはDさんばかりではない。お迎えの使者としてEの独居房を訪れた警備隊に片っぱしから、めくらめっぽうの大あばれで飛びかかる。蹴《け》る。引っ掻《か》く。全身あらんかぎりの力をこめての抵抗である。 「言葉ではないのです。声、というより、吠《ほ》えるような、獰《どう》猛《もう》な動物が命懸《が》けで闘争するとき、思わずもれる、グワッ、という息の音といったらいいですか。そんなような荒息を吐き散らして向かってくるんです」  Dさんの話しかたは、静かな抑揚である。それがかえって、その場の光景をはっきりと描かせ、聞いていて冷たい汗がしたたってくる。  Eにすれば言語で表現するどころではないのだ。生死をかけた、まさに死闘そのものなのである。  結局は、多勢に無勢、Eは警備隊員らに取り押さえられ、刑場へと連れて行かれるのをまぬがれることはなかった。 「刑場まで、二百メートルほどでしょうか。自分の足では一歩も歩かんのです。体の力をすっかり脱いてしまって、ぐねぐねしたまま。それを両脇《わき》からかかえて引きずって行きました」  途中、こんどは、いきなり力をこめる。足を踏んばって、もうこれ以上はぜったいに前進しないぞというように抵抗する。 「たかだか二百メートルが、長い道のりでした」  そしてEは最後の最後まで、ありったけ抵抗して、地下室へ落下していった。むろん宗教儀式どころではない。言い残しの言葉もない。いやがるのをしゃにむに引っ立てて、首に繩をかけて吊るした。苦く、辛く、酸っぱい後味だけが何日もあとをひいて残る。 「宗教に帰依したり、短歌や絵画に熱中して、常には、覚悟している、とか、立派に死にます、と言っていたような死刑囚でも、いざそのときが来ると、ふだんの心はどこかに吹っ飛んでしまうものです。凶暴になったり、腰をぬかしたり、いろいろです。死ぬのは怖いし、死にたくないですから」  死刑囚の死が、ふつうの死と異なる点は身体的に健康であるということだ。ふつうの死は老い、病み、枯れての往生である。ところが死刑囚のほとんどは老いもしない。病んでも枯れてもいない。元気いっぱいといえる状態である。事件の被害者の場合なら死ぬ瞬間まで死ぬとは知らずに、死ぬとは考えずに死んでいくことと思う。死刑囚はいずれ遠からず殺すぞという宣告を受ける。いよいよこれからあの世へ送ってやるぞと言われる。従容として受け容れられる人間がどれだけいるだろうか。死にたくないという気持ち、いや気持ちではない。本能だ。生存の本能で大あばれするというのがごく自然ではないだろうか。 「たしかにそのとおりです。けれども、それをとりおさえて執行するのは大変です。どうしてそんな役目があるんでしょうねえ。おなじ人間なのに」   妻も初めて聞いた〓“告白〓”  Dさんは退官後、民間の会社の警備員に再就職したが、それも五年あまりで退職。その後は「大した趣味もなく、体をこわして、いまはこのざまです。罰ですかねえ」と自《じ》嘲《ちよう》のような笑いを顔に浮かべた。  強引に押しかけたような訪ねかたであったが、私はDさんに会えて本当にうれしかった。 「もう見栄もきばりもないですから、思い出すままに話しました。話が飛び飛びでうまくつながらんでしょうが、執行とはそんなものです。はじめから終わりまでを、小説のようにうまく言えるものではないですよ」  後で原稿にするとき、きっと困るだろう、と言ってくれた。いまこうしてDさんと会って聞いた話を書いているのだが、たしかに困難で、どう書いても書き切れたという気がしない。  Dさんの話は、もっと内容がずっしりと重く、大切なことばかりだったのだ。一度も私のほうへ顔を向けることはなかった。天井を向いたまま、まるで天井に一人ごとを語りかけているようだった。  思わず長居をしたことを詫《わ》びる私にはなにもこたえてくれなかった。そのかわり、おーい、おい、と奥さんを呼んだ。  私は、かまわないでください。勝手に失礼しますから、と言ってDさんの枕《まくら》元《もと》を立った。  外へ出て庭にまわってみると、奥さんの姿があった。西陽の射す縁側のまえにしゃがみこんでいる。大きなザルにさやいんげんが山のようにのっている。奥さんはいんげんの筋を取っているらしかった。声をかけるとふりむいたが、表情は茫《ぼう》としていた。  そのとき気づいたのだが、奥さんは西陽の中にわざわざしゃがんでいたのだ。その位置がDさんと私の話を聞くのに都合のいい場所だった。奥さんの茫とした表情はそのせいにちがいなかった。おそらく、はじめて執行の具体的な話を聞いたのだろう。 (Dさんの希望で、何年ごろどこの拘置所、刑務所に勤務したかについては割愛いたしました) 第五章 死刑囚とのきずな 〓“看守〓”は権力の最下位  遠い外国の、日本人観光客が訪れることの決してない辺境の地。そんなところで思いもかけず日本人どうしが出会うことがあったらどうだろう。まったくの見ず知らずの間柄であったとしても、おそらくごく親しい感情を抱くにちがいあるまい。  それは共通の文化を語り合い、なつかしみ合うことができるからだといえないだろうか。とくに、幼時や思春期に体験した遊びや、食べ物のこと、生活習慣のことなどを語り合えるのはうれしいことだ。知り合いなどまったくない環境下でなら、なおさらのことだろう。  東京など、地方出身者の多い大都会でも、同郷と知るや急に親しみを持ち、ごくうちとけた人間関係が成立するのはよくあることだ。  Fさんと死刑囚Gとの出会いも、これに似ていた。いまから三十年もまえのことである。二人が出会ったのは福岡刑務所であった。一方は看守であり、もう一方は死刑囚という立場である。果たして出会いというのがふさわしい言い方なのかどうか。しかし、人間と人間としての出会いであったことはたしかである。  昭和三十一年(一九五六)、羽仁五郎、市川房枝ら参議院有志四十六議員が、死刑廃止法案を国会に提出。そもそものきっかけは、羽仁五郎が参議院法務委員になったことによる。法務委員として、各刑務所や拘置所を視察した。このとき、死刑囚を収容している、つまり刑場付設の拘置所の刑務官らに懇願された。日本もイギリスにならって、ぜひ死刑を廃止してほしい、と。  死刑を執行しなくてはならない刑務官の苦悩を縷《る》々《る》訴えられた。羽仁五郎にとって、はじめて具体的に聞く刑務官の死刑による苦悩であった。  衝撃は深く、大きなものであった。もともと羽仁五郎自身、制度としての死刑には反対の考えを持っていた。そこへ、刑務官たちの死刑執行のための惨酷なまでに深い屈辱を知らされたわけである。  なんとしても、死刑は廃止すべきだという思いに駆られ、燃えた。そして、同じ参議院議員に呼びかけ、有志四十六議員が結束して、死刑廃止法案を国会に提出したのであった。昭和三十一年(一九五六)三月十七日のこと。  これより二カ月早い同年一月十六日に、英国下院では死刑廃止法案が可決されていた。わが日本でも死刑存廃の議論が高まっていった。前年の昭和三十年(一九五五)には、正木亮を主宰とする「刑罰と社会改良の会」が発足しており、この会の機関誌『社会改良』も発刊されていた。  死刑囚にとって、絶望の暗《くら》闇《やみ》に一条の光りが見出されたといった感があった。しかし、残念ながら、死刑廃止法案は審議未了のまま廃案となってしまった。  Fさんはまだ二十代の若い刑務官であった。死刑囚を収監した特別舎の看守であった。看守としての人生を歩きはじめて、そろそろ十年ちかい。この十年ちかい歳月のあいだに、さまざまな死刑囚との出会いと別れを体験していた。  また公務員としての立場からも、さまざまの体験をした。所長も何度か変わった。管理部長、保安課長などの役職のエライ人たちも交代した。Fさんはずっと看守のままであった。  一般の世間に階級や差別があるように、Fさんの勤務する福岡刑務所の公務員社会にも、やはり階級があり差別があった。  Fさんは十年ちかい刑務官の生活を重ねたあいだに、辞めたいと思ったことは数知れない。というより、毎日辞めたい辞めたいと思いつづけていたといったほうが正しいかもしれない。  まず、死刑囚たちに「牢《ろう》番《ばん》」と呼ばれることに、言いようのない屈辱を覚え、辞めたい虫がさわいだ。Fさんのような看守の上に舎房担当の主任看守、その上に看守部長、そして係長である副看守長、区長の看守長、そして保安課長、管理部長、刑務所長と縦型社会の権力の段階が定まっている。福岡刑務所では刑務所長が最高位であるが、法務省で見あげればさらに段階は上へ上へとのびている。所長の上に矯正管区長、矯正局長、そして法務大臣。Fさんが生涯顔を会わせる機会もないにちがいない国家権力というはるかな高みへ段階はつながっていた。  看守はこの長い長い段階の最下位である。その下にはもうなにもない。後ろにはだれもならんでいないのであった。上を見あげれば目まいが起こりそうな、途方もなく遠い果て。まさに雲の上と呼ぶにふさわしいあたりから死刑執行の命令は下されるのである。  おそらく、死刑執行の命令書に署名して押印するときの法務大臣は、Fさんのような看守の胸の裡《うち》など思いやることもないだろう。地上から雲の上を仰ぎ見ても、目がくらむばかりでなにも見えない。同じように雲の上からはるかな下界を見下ろしても、こまごまとした部分まで見ることはできないにちがいない。また雲の上にいるものは、下界にいるFさんのような立場のものまでをいちいち観察する興味など、はじめからないのかもしれなかった。  権力最下位にいる看守Fさんの相手は、重い鉄扉の中に閉じ込められている死刑囚たちである。その死刑囚たちも、また、最下位のFさんを小ばかにし、軽んずる。 「やい、牢《ろう》番《ばん》っ」  この侮辱を込めた呼び方にすべてが表現されているように、Fさんには思えてならない。   執行官が負う深《ふか》傷《で》  Fさんは十年ちかい看守暮らしのあいだに、二度の執行体験をした。  はじめて執行官を命じられたとき、Fさんはその場で刑務官を辞めようと思った。朝点呼で、保安課長がFさんの名前を呼んだ。 「執行はしたくありません。そんなことは自分にむいていないのです。どうしても執行しなくてはならないというのなら辞めます」  と、言ったはずであった。ところが現実はどうだったか。機械的に潔い返事をしていた。Fさんは自分の声を耳に聞きながら、自分でない別の人格が自分のなかに入り込んでしまったような錯覚を覚えた。  刑場で執行の準備をするとき、先輩の刑務官が言った。 「よかったなF、おまえもいよいよ一人前だ」 「先輩ははじめて執行を命じられたとき、一人前になれると思って、よろこんだのですか」  Fさんの素朴な質問であった。先輩刑務官はなにも言わずにFさんをにらみつけた。このとき以来、この先輩刑務官はなにかにつけてFさんを目の仇《かたき》のようにした。勤務態度がよくないとか、特定の死刑囚を甘やかしたなど、とるに足りないことを上司に告げ口された。そのつど、Fさんは保安課長に呼ばれて注意を受けた。言いわけも反論も許されなかった。受けた注意について抗議をしようものなら、上司に反抗的な職員だと決めつけられる。服務態度がはなはだよろしくないということになるのだった。  つきつめて考えると、結局、死刑執行を命じられ、死刑という名の人殺しの行為に、体験者はみな傷ついているのである。回復しがたい深傷を負っていた。それをできるだけ気づくまいと自らをごまかして、毎日をやり過ごしているのだった。  Fさんがはじめて執行官を務めるとき、指導にあたった先輩刑務官は、「みんな同じ思いを体験したんだよ」という気持ちだったにちがいない。 「よかったなあF、おまえもいよいよ一人前だ」  この一言に万感が込められていたのである。にもかかわらず、それに対して返したFさんの言葉は無神経にすぎた。先輩刑務官はなま傷を鋭利な刃物で思いきり抉《えぐ》られた疼《うず》きを覚えたことだろう。  三十年経ったいまのFさんには、このときの先輩刑務官の気持ちがとてもよくわかる。しかし当時、現実にいびりつづけられる日常下では、先輩の痛みまで思いやる余裕はなかった。   執行を促した死刑囚  最初の執行は、ハンドルを引く役だった。保安課長の合図に従ってハンドルを引く。それだけの行為である。しかし、Fさんの引くハンドルによって、人間ひとりが、はるかな奈《な》落《らく》の果てに滅びていく恐ろしい行為であった。  刑場の中央を仕切ったカーテンの片側は宗教儀式の場。片側が刑壇である。この様式は全国七カ所の拘置所、刑務所ともに共通のものだ。多少の寸ちがいがあるだけで、執行の方法、儀式はすべて画一である。  Fさんたち執行官が待機する刑壇側とは反対のカーテンのむこう側、つまり宗教儀式の部屋に死刑囚が連れて来られた。これより先に、賛美歌がはじまった。合唱であった。教《きよう》誨《かい》師《し》の牧師のほかに何人かが、死刑囚を送るために歌っているのだ。合唱隊は刑務官たちである。  歌われている賛美歌がなんという歌なのかキリスト教徒ではないFさんにはわからない。むなしくて、くやしい思いがつきあげてきてならなかった。  賛美歌がやむと、牧師の声が聞こえてきた。話の内容は、いかにも神に仕える身の、神の言葉を代弁する、といったものではない。ごくふつうの、ありきたりの世間話のようなものだ。いまの気分はどうだ、とか、お茶を飲みなさい。祭壇にそなえてあるまんじゅうを食べなさい、など。  大声で話しているわけではないが、ほかに物音ひとつしない刑場だ。はっきりと聞きとることができる。聞きとるというより耳に勝手に入ってくる。  聞いているFさんは意外な気がした。  執行する側のFさんが腰を抜かさんばかりの気持ちでいるというのに、たったいま死の地に赴こうとする死刑囚の屈託のなさを、どう受けとめたらいいのか。 「甘いもんには目がなかですけん、遠慮のういただきまっす」 「美《お》味《い》しかですねえ」  死刑囚がまんじゅうに舌つづみを打っているようすが伝わってくる。  突然、死刑囚のかわいた笑い声が聞こえた。 「おかしかですね。いまから死ぬちいうとに、まんじゅうがこげん美味しかとは」  死刑囚はこう言って、また大笑いした。  Fさんは、ああやっぱりこの死刑囚は、これから処刑されることを知っていたのだ、と思った。あまりの明るさ、いささかの動揺もないようすに、あるいは処刑されるとは夢にも思っていないのではないかと、Fさんは疑っていたのだった。 「さ、行きまっしょか」  執行を促しているのは牧師ではない。死刑囚自身である。  こんな死にいく姿勢もあるのかとFさんは驚いた。  死刑囚の死を受け容れる態度については、それまで先輩たちからいろいろと話に聞いてはいた。しかし、具体的なことは、だれひとりとして話してくれはしなかった。 「立派だった」、「大往生だった」、「大変だった」、「骨がおれるやつだった」など——聞かせてくれたとはいうものの、どの執行をとっても、こうだったのだろうな、と想像できるものはなかった。 「執行は体験しなくてはわからないものだ」  この一言に象徴されていた。  まんじゅうが美《お》味《い》しいのがおかしいと、いかにもこっけいそうに笑う死刑囚。その笑い声の裏側からひびいてくる、不気味なものはいったいなんなのだ。それこそが、いまから執行されようという身の、死刑囚の本当の気持ちにちがいなかった。  Fさんは身震いを覚えた。急に怯《おび》えと恐怖とに縛りあげられたようだった。全身が強ばった。カーテンが開いたのである。自分が、じっさいにハンドルを引いたのかどうか、よく覚えていない。先輩の刑務官が、いつまでもハンドルにしがみついているFさんの肩を叩《たた》いた。もう手を離してもよいと促したのである。  白い手袋は汗で湿っていた。汗は掌《てのひら》だけでなく、全身から吹き出したらしかった。べっとりと衣服がまつわりつく不快感がたまらなかった。まだ、人を殺したという実感はなかった。  死刑囚のかわいた笑い声を聞いたあと、カーテンが開いた。つぎには先輩に肩を叩かれて、体中が汗まみれになっていた。   なげやりな日々  Fさんにとって、はじめての死刑執行は、刑場の外に出るまでは大した精神的衝撃を受けるほどのものはなかったような気がしていた。  ところが、汗を流すために浴場に行って茫《ぼう》然《ぜん》となった。毎日、とくに意識することもなくやっている入浴という行為が、そのやり方がわからないのである。ふつうなら考えることもなく着衣を脱ぎ捨てて、湯槽から湯を汲《く》んで流す。たったこれだけの、日常的な行為が思い出せない。  途方に暮れてFさんは湯槽のかたわらに立ちつくしていた。 「なにやってんだ」  ふいに声がしてふり返ると先輩の刑務官だった。 「どうしたらいいかわからなくて」  心細そうに言うFさんを見て先輩は、しっかりしろ、と言って柔道の喝をくれた。  少しずつ我を取り戻すと、こんどは無意識のうちに過ぎたはずの執行の情景が、いま行なわれているようにはっきりと蘇《よみがえ》ってきた。握ったハンドルの感触が掌に戻った。力をこめてそれを引いたとたん、死刑囚の体がすっと消えたのもまざまざと見えてきた。  Fさんは頭をかかえてしゃがみ込んだ。泣いてもわめいても、取り返しのつかない大切なものを失くしてしまったような、深い悔いがわきおこった。  はじめての執行体験以来、Fさんは刑務官という職には誇りも名誉もないのだと思うようになった。やがて執行されると決まっている死刑囚たちから、牢《ろう》番《ばん》、と侮辱を込めて呼ばれるのも当然だと思う気持ちになった。すっかりいじけてしまったのである。人を殺したという罪悪意識は、それが仕事だからといって自己をごまかしても少しも薄らぐことはなかった。  勤務態度もなげやりになった。そこにつけこむように執行指導をしてくれた先輩刑務官にいびられる。上司に告げ口される。上司に注意を受けるのも再三であった。懲戒も何度か受けた。それでも気を取り直して態度をあらためる気にもならず、ただ惰性で割りふられた勤務につくといった毎日をくり返していた。  朝、目が覚めたとたん、思うことは「休みたい」ということだった。  世間なみの恋愛に似たことをやって結婚した妻も、三年目ともなると発声まで変わってしまった。とげとげしい声でFさんに起床をうながす。ようやく歩きはじめた子供をかみつくように叱《しか》り飛ばす。  Fさんのふてくされたような態度が、家中の雰囲気を殺伐としたものにしてしまったのだ。 「父ちゃん、はよ起きんね!」  このどなり声を何度聞いたら布団から出られるか。Fさんは毎朝、回数を数えながら、未練がましく布団にしがみつく。  辞めたいと思わない日は一日とてなかった。保安課長や管理部長、所長などは、大学を出たエリートである。Fさんのように旧制の中学を出ただけで刑務官になったものは、所《しよ》詮《せん》、どこまでいっても看守以上は望めない。  所内のいちばんいやな仕事、屈辱的な役は縦型社会では最下級のものに押しつけられる。死刑執行という名の人殺しも、最下位の看守がやるのが当然だとされている。だれも疑おうともしない。  Fさんはいいようもなく腹立たしかった。辞めてしまいたい、の一言のほかに見つけられる言葉はなかった。けれども、辞めて明日からどうするかといえば、まるで見当もつかない。案もない。仕方なく、しぶしぶ勤務につくというくり返しであった。  二度目の執行体験は、最初のときからそう月日を置かないうちに命じられた。  これでFさんの人間性はすっかり変わってしまったといえそうだった。人生観は根こそぎ変わり、信じられるものはなにもないような気持ちになった。  家庭もおもしろくなかった。子供はちいさいながらも両親の不和を敏感に察して、いつも大人の顔色をうかがうようすだった。わずか二歳かそこらの、言葉もろくにしゃべれぬ幼児が、険悪な雰囲気のために無邪気さを日に日に失っていくのであった。   なつかしい訛《なま》り  そんなある日。死刑囚の運動時間のこと。  死刑囚たちは屋上にあがった。屋上からは博《はか》多《た》湾や、山脈が一望できる。それを眺めるのが死刑囚たちにとってはなによりの楽しみのようだった。再び生きて戻ることのない自由社会。海も山も生きている。輝いている。毎日のことなのに、眼下に広がる風景に、みな歓声をあげるのだった。  それぞれに、自由だった過去の日を思い、おしゃべりに興じる。  Fさんは監視役でつきそっていた。他にも刑務官はむろんいた。朝の九時からが運動時間である。死刑囚を六人とか八人とかのグループにわけて運動させるということはしない時代だった。いまから考えると、かなりゆるやかな規則だったと思われる。明日という日が約束されないものへのせめてもの刑務所の思いやりだったのだろう。  死刑囚たちのおしゃべりの中に、Fさんはとてもなつかしいアクセントを聞いた。  Fさんの母親のアクセントと同じものだった。それはGという死刑囚の声である。FさんはGが他の死刑囚から少し離れたような状態を見逃さず近づいた。出身地をたずねると、やはりFさんの母親の出身地と同じであった。  急に、なつかしいような、親しいような気持ちにFさんはなった。Gの年齢はFさんとそう大して変わりない。  小学生のころ、学校の夏休みや、冬休みに過ごした母親の実家での楽しかったことが、つぎつぎと思い出された。FさんがGの生まれ育った村をよく知っているというと、Gははじめ驚いた顔をした。どうといって特徴のある村でもなく、貧しい農村にすぎない。そんなところをなぜ知っているのかいぶかるようすだった。  刑務官と死刑囚とが、同じ土地の出身だったり、知り合いだったりすることはあり得ない。そんな場合は刑務官を配置替えして、同郷の死刑囚とは接触させないように配慮する(ということだが、現実はそうでもないようだった)。事故を未然に防ぐための刑務所側の処置である。しかし、刑務官の母親の出身地と死刑囚の出身地が同じという偶然にまで思いはいたらなかったもののようであった。FさんはGにこっそりそのことを教えた。Gは「そうですかあ」といって顔を輝かせた。  この日以来、FさんとGは、少年の日の思い出を、こっそりと語り合っては、二人だけで楽しむ間柄となった。  GはFさんを心から信頼しているようだった。生いたちのことや、いま、死刑囚という身になってしまった事情などを、毎日少しずつFさんに話した。そして、いつも最後にはきまってこう言った。 「Fさんのために、最後までまじめに務めますよ。早く出世して、死刑囚なんか相手にしなくていいようになってください」  出世するにもなにも一生看守で終わりだよ、とFさんが笑って言うと、Gは真剣な顔になった。 「それでも、看守部長になれば、いや主任になれば執行はしなくてすむんでしょう」  執行される立場の死刑囚に、Fさんは執行役から逃れるために早く出世しろと励まされる始末であった。Fさんにはそれはとてもうれしいことだった。しかし、そのうれしさは、はかり知れないやりきれなさに通じていた。心から喜べないものがあった。Gを救う道がなにひとつないという自分の無力さ、Gにしてやれることがなにひとつないという無念さ。  こんないいやつが、なんで死刑囚なのだ、Fさんは歯ぎしりしたい気持ちだった。   〓“G〓”の生い立ち  Gは福岡刑務所のある福岡県の隣県の僻《へき》村《そん》に生まれ、育った。生家は貧しい農家だった。義務教育を終えるとすぐ、町の職人の家に見習いとして住み込んだ。まもなく戦争がはじまり、親方は召集されていった。やむなく、つぎの親方についたが、そこにも長くはいられなかった。職人になることをあきらめ、商店の下男、旅館の下働き、荷車引きと、つぎつぎ職を変えた。生家に戻って百姓もした。  やっと戦争が終わり、生きて帰って来るもの、帰らざるもの、食うや食わずのもの、どさくさで金もうけするものと、世の中はめまぐるしく動いた。  Gは食うや食わずの仲間だった。昭和二十六年に物価統制令が解除されて、世間には復興のきざしがうかがえたが、Gには明るい陽射しは降りそそいではこなかった。  いぜんとして、毎日を飢え、渇えて過ごしていた。  魔がさしたといったらいいか、貧しさに耐えかねたといったらいいか。強盗殺人という恐ろしい犯罪をやってのけてしまったのであった。  裁判では、検事がGを「およそ人間とは思えない」と悪鬼のようにののしった。それを聞きながらGは、自分のことだとは思えない気持ちだった。  あれよあれよという間に何年かが過ぎた。最高裁判所も、Gがこれ以上生きていくことを許さなかった。  そして、いま、福岡刑務所で、死を待つばかりの時間を消費している。強盗に入り、なりゆきで人殺しまでしてしまったが、死刑になることにまで考えはいたらなかった。夢中のうちの出来事だった。夢であってくれと何日も何十日も希いつづけたことだった。  けれども、夢ではなかった。じっさいに、人間二人の生命を殺《あや》めてしまった。その事実を認めなくてはならなかったときが、人生のなかで最もつらかったように思う。殺すつもりはなかった。殺している意識もなかった。だが殺してしまったということは、厳然たる事実であった。  FさんがGから聞いた死刑にいたるあらましはこういった内容であった。他の死刑囚たちも多かれ少なかれ、こうしたような事件である。なかには計画的に連続殺人を犯したものもいた。また、強《ごう》姦《かん》殺人犯もいた。それでも、最も多いのは戦後の混乱期を、なんとか生きのびんがための犯罪であった。   何度もふり返って刑場へ  FさんはGに感謝の気持ちを持った。もし、自分に刑務官という職が与えられなかったとしたら、Fさん自身がGと同じ身の上になっていなかったとは言い切れないと思った。それなのに、与えられた職をありがたく思う気持ちを知らずにずっと来ていた。  たしかに死刑の執行はいやだ。しかし、それ以外にも刑務官という仕事を全面的にきらっていたと思う。身分が最下位であることが不満で、上司先輩に命令され従うだけの立場が業腹でならなかった。それで無気力になり、ふてくされ、いじけた歳月を過ごしてしまっていた。 「Fさん、がんばって出世してください」  Gのこの言葉は単なる励ましだけではないものがあった。Fさんが気づかずにいた、感謝する、という心を呼び起こしてくれたのだ。  Fさんは、少しでも死刑囚の慰めになるような温かい刑務官になろうと決意した。  やがて、Gとも別れるときが来た。 「お世話になりました。おかげで子供のときにかえったように楽しかったです。Fさん、がんばって早く出世してください。執行なんかしなくていいように、えらくなってください」  GはFさんの手を堅く握って、晴ればれとした顔で別れを言った。  何度もふり返って会釈をくり返しながら、刑場へと去って行った。 「Fさん、死刑囚はみんな自分が人を殺したということがいやでたまらないんです。だから執行する役がどんなにいやな仕事かよく知っているんです。だからわざといやがらせにいろんなことをいうんです。がまんしてください。みんなもうじき死ぬんですから」 「草いちごを摘んで、笹《ささ》の葉にびっしり通して、それを何本もつくって、あとでゆっくり食べるんだ。甘くて美《お》味《い》しかったなあ」 「いまごろはハヤが釣れるなあ、つぎからつぎへと、おもしろいぐらいたくさん釣れたよなあ」 「Fさんがんばって下さい……」  Gが刑場に去ったあと、Fさんの頭の中をきりもなくGの言ったことが駆けめぐった。Fさんにとって、Gは得がたい友であった。  Fさんとは二時間ずつ三回会った。定年後は福岡を離れて、九州の中でべつの仕事に就いている。会話はすべて九州弁だったがうまく書けないのでふつうの言葉にした。  Gという死刑囚以外にも、もっとたくさん聞いたのだが、この話が最も印象深かったので紹介した。Fさん自身と死刑囚Gとが特定されないように、と厳重なる希望があったので、年齢も年月もあいまいなレポートとなった。しかし、ひとりの刑務官のひとつの体験として、内容はご理解いただけることと信じている。 第六章 法の無情 等しい命の重さ  仁徳誉れ高いシビ王が、あるとき庭を散歩していると、鷹《たか》に追われた鳩《はと》がシビ王の脇《わき》の下にかくれこんだ。  鷹はシビ王に鳩を引き渡してくれと頼む。シビ王の慈悲心と思いやり、情け深さを称《たた》えながら、鳩は自分の命の糧であるのだからどうか返してほしい、と懇願する。  シビ王は考えたうえ、鳩の命を助ける代わりに、自分の肉を鳩と同じ量だけ鷹に与える約束をした。  まず鳩を秤《はかり》にかけ、次いで自らの股《こ》部《ぶ》、臀《でん》部《ぶ》、肩部と、つぎつぎに秤台に乗せていった。けれども不思議にも鳩の重さには遠く及ばない。ついにシビ王は全身を秤に乗せた。すると、なんと鳩の重さと同じ目盛りのところで秤の針がぴたりと止まった。  つまり鳩一羽の重さも、シビ王の命も同じ重さであったというわけである。  命の重さというものの厳粛さにシビ王は深く感動した。その厳粛さを認識させてくれた鷹《たか》を礼賛し、「仏道を求めるためには、わが身命をも惜しまず」と言って、喜んで自らの命を投げ出した。  その瞬間に、鷹の姿は忽《こつ》然《ぜん》と菩《ぼ》薩《さつ》の姿に変わり、いずこかへ消え去った。  これは『菩薩本生鬘《まん》論』にある「シビ王と鷹」の物語で「生命の重さ」という説話である。  Hさんはこの説話を反《はん》芻《すう》するたびに、心底からの身震いを覚える。自らが執行官となって直接手を汚し、命を断った死刑囚。  直接手を下しはしなかったが、執行に立ち会い、執行に関わった死刑囚の数。そのひとつびとつの命を思うと、深い深い罪の意識に責められる。  罪の意識というより、逃れようのない恐ろしさに襲われるのだ。 「死刑囚はみんな、最後に行くときはわれわれに感謝の言葉を残していくんです。あの世に行ったら被害者にお詫《わ》びします、と必ず言って行きます」  ところが、Hさんは不安になる。自分が死んでからあの世に行って、はたして自分の手にかけた死刑囚たちに詫びる言葉が見つかるだろうか、と。  長い刑務官生活だったが、執行に携わっていた何年間かの衝撃的な印象ばかりが大きく重く残っている。まるで三十年あまりを死刑の執行ばかりに明け暮れていたような、そんな苦い思いに押し潰《つぶ》されそうになることが多い。 「こういうのを、老人性の鬱《うつ》病《びよう》っていうんですかねえ」  Hさんが死刑執行に関わったのは大阪拘置所である。退職後十年と少しが過ぎた。推定年齢は七十歳にまだすこし間があると思える。けれども、実際の年齢をはるか越えた、老い尽くしたような印象であった。  Hさんには、以前死刑囚教《きよう》誨《かい》師《し》を務めていた宗教家の紹介で会うことができた。この元教誨師は仏教のある宗派のお寺の住職である。Hさんとはこの住職のお寺で、元教誨師も同席という会見であった。一対一ではない会見というのははじめてのことだった。  第三者がいるために、思うように話が聞きだせないのではないかという懸念もないではなかった。しかし、訪ねる先がお寺というのはありがたかった。Hさんに会うまでに会った元刑務官の人は一人をのぞいてみんな、なぜか「自宅に来られては困る」「自分の住んでいる町では会いたくない」といった。公園、神社、駅のホームのベンチ、駅の待合室といったような場所も多かった。  夏の盛りや、残暑のきびしい時期の屋外での会見は、こちらもつらかったし、相手の方はなにしろ年輩者が多かったので心配でもあった。  その点、お寺なら安心である。元教誨師の配慮に感謝しなくてはならない。   話すことも供養  そのお寺は新幹線新大阪駅から私鉄電車に乗り替えて一時間ちかく行ったところにあった。かなり郊外に出たという感じのローカル風景を予想して行ったが、実際はそうそうのどかな景色というわけにはいかない。東京に次ぐ大都市だけに、いずこも住宅が建てこみ、人間の生活があふれている。  訪ねるお寺も、予想を大きく裏切って、思いがけないほど小ぢんまりとしたものであった。山門を入るとすぐに受け付けがあり、お寺ではなんと呼んでいるのか知らないが、受け付けの横は椅《い》子《す》テーブルが置かれたロビーになっている。このロビーも手狭で、その左手奥が祭壇のある本堂になっているようだ。熱心な信者が多いのか、合唱のように多人数の読経が聞こえてきていた。香の漂う空気は、決して淀《よど》んでいるわけではないのだろうが、ちょっとむせ返るような圧迫を覚える。きっとこちらが宗教というものに無関心なせいだろう。  仏教のお寺の内部について勝手に、そして漠然と想像していたのが、見事くつがえされた気がして、少なからず驚いた。床には絨《じゆう》緞《たん》が敷いてあり、玄関で履物を脱ぐとスリッパの用意もある。奥で読経に熱中している信者の人たちはスリッパを履いているのかしらん? とくだらないことに興味がわいてくる。  これが諸行無常というものだろうか、など宗教に一度も関わったことがないくせに、仏教的考え方をしてみる。  それまで考えていた仏教のお寺というものは、黒光りのする床板、大きな太い柱と梁《はり》、小暗いけれどおごそかな重厚さに、気おくれするような雰囲気のものだった。けれども、このお寺はちがっていた。まず明るい。そして洋式のロビー。敷きつめられた絨《じゆう》緞《たん》。香が漂って読経が聞こえてこなければ、ちょっとお寺の中にいるとは信じられない。  こうした雰囲気のおかげで、無宗教者の私も、大へん自由な気持ちになれた。住職もざっくばらんな人柄で、死刑囚教《きよう》誨《かい》師《し》のことや、自ら送った死刑囚の話を聞かせてくれた。  大阪弁で話してくれると困るな、と思っていたが、宗教家だけあって、そのへんの配慮もさすがである。アクセントをべつにすれば、ふつうの標準語で話してくれた。  住職と一時間あまり話し込んだころだろうか、遠慮がちにHさんが現れた。  このお寺にはロビーの右奥に接客室というか、六畳間かもう少し広いめの部屋がある。おそらく個人面接とか、そういうための部屋なのだろう。葬式とか法事とかの打ち合わせだってあるだろうから。  私はその部屋に通されて、住職と会っていた。ふるまわれたのはコーヒーである。  Hさんと住職の関係はお寺と檀《だん》家《か》といったものだろうか、と想像してみる。本論と関わりがないので、その質問は止めにした。  Hさんは住職とあいさつをかわし、「ちょっとお線香をあげさせてもらいます」と言って、本堂へ行った。  再び戻って来ると、さっそく話は死刑執行に入っていった。 「先生(住職のこと)に、話すことも供養だからと言ってもらいましたので」  Hさんは自ら関わった死刑の話はそれまでいっさいだれにも語ったことがない。   善人に立ち直った頃に執行  刑場付設の拘置所、刑務所に勤務体験を持つまでは、死刑は存置すべきだ、という考えを持つ刑務官も多い。  ところが、人事異動で刑場付設の拘置所、刑務所に転任して、はじめて死刑の現実と向き合うと、死刑は廃止すべきだという考えに変わる。  大学出のキャリア組で、直接死刑執行をすることのない立場のものでも、「死刑はいやだ、立ち会いはごめんだ」というのが本音である。  私が会った管理職の経歴を持つ元刑務官はこう言ったものだ。 「私は死刑に立ち会うのだけはなんとしてもいやで、一度も立ち会ったことはないんですよ。死刑がなくなれば、それだけ職員の仕事は大変になりますが、なんとかして廃止すべきだと思いますね」  こんな考えを持つのは、この人ひとりではない。  昭和二十四年(一九四九)から三十一年(一九五六)まで、大阪拘置所長を務めた故玉井策郎氏は、現役刑務官という立場から、熱心に死刑廃止を唱えた。  大阪拘置所長を務めた七年の間に、四十六人の死刑囚に死刑執行を言い渡した。そして、実際に執行に立ち会いもした。死刑の執行に立ち会うのは拘置所の長という立場上絶対の義務である。    刑事訴訟法四百七十七条 〓死刑は検察官、検察事務官及び監獄の長又はその代理者の立会の上、これを執行しなければならない。    このように法律に定められている。  玉井策郎氏は自らが立ち会って体験した死刑執行のもようと刑務官の苦悩とを一冊の書物にも著している。『死と壁——死刑はかくして執行される』(創元社昭和三十年〈一九五五〉刊)がそれである。三十年以上も前の出版であり、発行部数も大したものではなかっただろうから、現在では古書店で探しても見つけることは困難だ。しかし、死刑の現実がいかなるものであるかを知るには、ぜひこの現場からの報告を読まれるべきだと思う。玉井策郎氏が大阪拘置所長を務めていたときと、現在とには三十年以上の時間的経過がある。けれども死刑執行の様式にはいささかも変わるところはない。玉井策郎氏の著書はそのまま現在の現実の死刑のもようであるといえると思う。  内部告発ともいうべき玉井氏の衝撃の著書は、昭和三十一年(一九五六)の死刑廃止法案提出のひとつのはずみともなった。  刑務官の仕事は、受刑者を教育し、社会復帰させることである。悪の道に迷い込んでしまったものを矯正して、真の人間性を回復させる。これらの任務を果たすことに刑務官としての誇りもあり、社会への責任もあるのだ。  ところが、こと死刑囚に関しては、矯正教育をし、人間らしい人間に生まれ変わらせる刑務官が、死刑の執行もしなくてはならない。  なんという矛盾であることか。悪の道に迷い込んだ者をせっかく善の人に立ち直らせても、その同じ手で死刑の執行をするのだ。法に定められた刑罰であるにせよ、死刑が殺人であることに変わりはない。  自己の犯した罪を悔い、自由社会に暮らす一般人よりもずっと立派な人間に成長したひとつの人格をなぜ殺さなくてはならないのか。刑務官としての誇りも消し飛んでしまう。自らが汚れた人間に堕ちてしまったという苦慮にさいなまれる。死刑執行に立ち会わなくてはならない拘置所の刑務官は残りの人生の道程を罪の意識に苦しみつづけることになる。  玉井策郎氏の死刑廃止の理由はこうした考えによる。 悪人を善人にして殺すにはしのびない。それならば悪鬼のまま殺せばいいというのでは決してない。玉井策郎氏は、犯罪者はみな病気なのだと考える。愛情を持って看護すれば必ず回復する。死刑制度がある以上執行は行なわねばならないという考えをやめて、病気を治《ち》癒《ゆ》させて退院させるべきだ。いかなるかたちの殺人も廃止されなくてはならない。  このような考え、姿勢で『死と壁——死刑はかくして執行される』を著し、死刑制度というものを世に問うたのである。   思いがけない証言 「わたしらは文章もうまく書きませんし、しゃべるのも下手ですから、玉井先生のように世間にむかって死刑を廃止しろと言えませんが、気持ちはみんな同じです」  ひとしきり玉井策郎氏が話題になったあと、Hさんはこう言った。 『死と壁——死刑はかくして執行される』は、「死刑をなくす女の会」の代表である丸山友岐子氏から拝借して私は読んでいた。丸山氏から借りたのは、大阪拘置所に死刑囚として収監され、昭和三十八年(一九六三)に執行された孫斗八の遺品というものであった。そのため、頁《ページ》の中に塗り潰《つぶ》された箇所、何頁もまとめて切り取られた箇所が何箇所もある。孫斗八が存命中に丸山氏が差し入れたものだ。死刑囚孫斗八とともにゼロ番区の独居房で幾星霜を送って来た本だと思うと、いうにいわれぬ感慨がわいてくるようなしろものである。本文中にはいたるところに孫による書き込みや赤鉛筆の傍線が引かれてあった。  Hさんは玉井策郎氏の四十六人には遠くおよばないが、それでも二桁《けた》の執行体験を持つ。同席の住職はHさんの数字をちょっと上まわる。  丸山氏の著書『逆恨みの人生 死刑囚孫斗八の生涯』による、執行時のすさまじさを考えもなしに私は二人に話した。二人とも聞きながら顔をしかめた。ことにHさんはいかにも苦しそうに体をよじらせる。しゃべってしまったこちらは引っ込みもつかず、大いにぐあいの悪い思いに暮れた。 「どんな執行も、いやではない、気が楽というのはひとつもありませんが、とくに死刑囚があばれたり、気を失ったり、腰を抜かしたりというような執行はやりきれないです」  そのことにはどうかふれないでほしいと言いたそうなHさんの口ぶりである。  しかし、この取材で思いがけない衝撃的な話を聞くことになった。  いつ、なんという死刑囚ということはついに聞き出すことはできなかったが、想像を越えた恐ろしい内容であった。   絞め技でとどめ  死刑執行で直接手を汚す役は刑務官になってあまり年数を重ねない若い刑務官が命じられることが多い。刑場付設の拘置所、刑務所に勤務すると、「執行を体験しなければ一人前の刑務官になれない」と必ず言われるということは、前にも何度も書いた。  その日の執行には、首に繩をかける役を初体験者が命じられた。先輩の刑務官に指導を受けたとはいえ、落ちついた平常心でできるわけがない。あがるのは当然である。先輩の刑務官は、踏み板が落下して、死刑囚が宙吊《づ》りされたとき、ほとんど瞬間に失神するよう注意しなくてはならないと教える。ロープをどのように首に合わせるかを説明する。しかし、いざ本番となると、執行するもののほうが頭にカーッと血がのぼる。なにがなんだかわけがわからなくなる。あせる。あわてる。  絞繩は直径二センチ。全長七・五メートルの麻繩である。先端の部分が輪状になっていて二つの穴を穿《うが》った小判型の鉄《てつ》鐶《かん》で止めてある。輪状の部分を死刑囚の首にかける。鉄鐶の部分が首の後部にあたるようにかける。さらに絞繩と首の間に隙がないように密着させてギュッと締める。  ロープをかける役の刑務官の果たすべき役割は傍点の部分である。ところがこの日の初体験者はこのとおりにできず、どこかまちがった。  なにしろわずか三秒間程度の、ほとんど瞬間といってもいいような時間内にやり終えねばならないのだ。  ロープ担当の刑務官が、規定の方法でロープを死刑囚の首にかける。同時に他の刑務官が死刑囚の膝《ひざ》をひもで縛る。間髪を入れず保安課長の合図でハンドル担当者がハンドルを引く。死刑囚の立っている踏み板が落下して死刑囚が宙吊《づ》りになる。この間わずか三秒程度のものなのである。死刑囚が刑壇に立ってから一呼吸あるかないかという早業だ。  このときも死刑囚は宙吊りにはなった。アクシデントが起こったのはこの後である。  通常ならば、平均十四分あまりで心音が停止し執行終了ということになる。けれどもこのときは大いにちがっていた。  死刑囚がもがき苦しみつづける。ロープが正しく首を絞めていないのだ。革の部分から頬《ほお》を伝って、後頭部の中央あたりに鉄鐶が至っている。これでは吊るされた瞬間に失神するというわけにはいかない。意識を失うことなく、地獄の痛苦に身もだえすることになる。止むなく死刑囚の体を床に下ろし、二十四、五貫もある屈強な刑務官が柔道の絞め技でとどめをさして執行を終わらせた。  死んでこそ死刑囚という考え方があるそうだが、殺してこそ執行官とでもいうところだろうか。  とどめをさした刑務官に、後に子供が生まれた。その子供の首がいくつになってもしっかりとすわらない。父親になった刑務官は、かつての自らの行為の、因果応報だという自責と苦悩とから解放されることがないという。  生まれた子供の首がかなり成長してもしっかりとすわらないという話はまれに聞くことである。死刑執行のさい、アクシデントが起きたために柔道の絞め技を用いた刑務官の子供の場合も、因果応報ではなく、偶然のことだ。何百分の一か、何千分の一か、あるいは何万分の一かの確率に偶然適中したまでである。そんなことは当の刑務官自身にもよくわかっているのかもしれない。わかっていながらも、つい因果説に結びつけてしまう気持ちにもなるのだろう。止むことなく死刑執行の罪の意識に責められて明け暮れているのだから。   せめて安心立命の境地で  死刑囚には明日はない。生きて社会に戻る希望は皆無である。死刑が確定した瞬間から、死の恐怖と苦痛とに怯《おび》えつづける残酷さは想像をはるかに越えたものである。この苦しみに悶《もだ》えながら、生存本能に衝《つ》き動かされ狂乱したような精神のまま死刑が執行されるとしたらどうだろう。執行される死刑囚にとっても残酷極まりないことだ。また執行する刑務官にとってはさらに残酷な任務といわなくてはなるまい。  いずれにせよ、死刑制度というものがある限り、死刑の執行は行なわれる。どんなかたちであっても、残酷でない死刑執行というものはない。  けれども、せめて安心立命の境地になって、死刑囚自身が喜んで死を受容するように導きたい。それが死刑囚を収監している拘置所、刑務所の任務である。  Hさんたち刑務官はこんなふうに就任当初の訓辞を受けた。  恐ろしい死、それが次の世へあらたに生まれゆくためのものだという悟りの境地になって、死刑囚自身が喜んで死の地に赴くような指導。そのために教《きよう》誨《かい》師《し》が訪問する。仏教の教誨師であれば、死というのは生命の終わりではなく、新しい生命への旅立ちだと説く。死ぬことを往生というのは、とりもなおさず大いなる生命へ生まれ往くことだと、仏教における往生思想をくり返す。  世間ではいっさいがっさいの人間に見はなされた死刑囚も、ゼロ番区での刑務官のやさしい人間性にほだされもする。併せて教誨師による宗教教育、さらに俳句会、短歌会、お茶の会なども開かれる。死刑囚は希望の宗教を学び、希望の会に出席することができる。  再び生きて社会に戻ることのない死刑囚の、残り少ない人生へのせめてもの処遇というべきか。  こうしたことによって、少しずつ人間らしい心を取り戻す。  ついには、われわれ一般人のおよびもつかない立派な人間へと生まれ変わっていく死刑囚も多い。 「死刑囚には単純な人が多いというのが私の印象でした。カーッとしやすい。思い込んだらそれしか眼中になくなる。それで殺人に突っ走ってしまうことになるんじゃないでしょうか。こういう単純な人間の教誨はふつうの人よりやりやすいんですよ。信じ込んだらとことん信じますから」  同席の教《きよう》誨《かい》師《し》がこう言った。死刑囚が通常ではとうてい到達し得ないような宗教的高みまで到達することがあるというのはよく聞く。  これも限られた人生、明日なき生命のせいばかりではなく、集中しやすい性格のせいかもしれない。   「どうせ死ぬんだ」 「最後の最後まで素直にもならず、善良に目覚めることもなく終わる命もありますね」  Hさんが言った。こうした死刑囚を送るのは刑務官としては、ことさらつらいのだ。けれども、最後の、死が目前というときになって、眠りからはっと目覚めるように、人間らしい心を回復する死刑囚もいる。Hさんもこういう体験を持つ。  その死刑囚はIといった。三十代半ばであった。世間からはむろん肉親からも見放されて、まったくの一人ぼっちというおおかたの死刑囚にくらべれば、Iはまだ恵まれているほうだった。妹が面会や差し入れに来ていた。遠くに住む姉からもたまにではあるが手紙や差し入れ品が送られて来る。  死刑囚にとって、最もつらく過酷な季節である冬にも、Iは比較的過ごしやすかったのではないかと思われた。というのは姉と妹とが綿入れのどてらや、毛糸のセーター、ズボン下、靴下などを手づくりして差し入れて来たのだ。  それでもIは不満らしかった。Iには感謝というものがまるでない。せっかく面会に来た妹に悪態をつく。貧しい生活の中からようやく工面した差し入れ品に文句をつける。面会に来た妹が泣かずに帰ることはなかった。   「どうせ死ぬんだ」  こう言うのがIの口ぐせであった。  教《きよう》誨《かい》をすすめても、 「信仰で命が助かるんならやるよ。だがよう、どのみち死ぬんじゃ、神も仏もあったもんじゃあるめえ」  こう言って、いっさいの宗教教誨を拒否した。  刑務官にはいちいち食ってかかる。ある冬の朝、Hさんは入浴中のIにいきなり冷水を浴びせられたりもした。入浴の順番を故意にあとまわしにしたという、まったくの言いがかりがその理由であった。なにかにつけて、ことごとくに牙《きば》をむき、凶暴性をむき出しにする、手のつけられない死刑囚だった。  死刑囚の神経は、ちょっとふつうでは考えられないくらい敏感に研ぎ澄まされている。靴音を聞いただけでなんという刑務官かを言い当てる程度のことはきわめて当たり前のことである。遠く離れた廊下の鍵《かぎ》の音を聞いて、だれであるかを当てられるのだ。それも、死刑囚となって三カ月も経たないうちに、そうなるのである。   わがままを詫《わ》びての旅立ち  こうした鋭敏な神経は、自らの執行の日をも事前に察知してしまうことすら、まれではあるがあるという。Iがそのまれなる例であった。法務大臣の執行命令書が届けられた翌日のこと。いつになく、しんみりとした口調でIはHさんに語りかけてきた。 「先生よう、今日か明日か、妹が訪ねて来るような気がするんだ。さきおとつい来たばかりだけんど。おれ、もうじきだな」 「なにをばかなこと言ってるんだ」  Hさんはギクリとしたが、とぼけて通そうとした。執行の言い渡しは所長が正式に行なう。それ以前に看守が死刑囚に知らせることは決してない。 「おれ、死ぬのはいいんだ。だけんど、おれは四人も殺したからなあ。四人の命を、おれひとりの命で償えるのかなあ」  鉄扉越しでなければ、このとき、HさんはIを思いきり抱きしめてやりたいと思った。どうせ死ぬのだという捨て鉢の気持ちが、これまでIを素直にさせず、刑務官をてこずらせていたのだ。本当はIだって、素直に周囲の愛情を受け入れたかったのにちがいない。 「Iよ、おまえはいいやつだなあ」  Hさんは心からそう言った。 「先生、本当にそう思ってくれるのか」 「本当だとも」 「そうか、そいつはよかった。憎まれていたんじゃ、心残りでしょうがないもんなあ」  Iは晴ればれとした顔になった。  大阪拘置所では三日前に執行の言い渡しをするが、Iの場合はふだんの生活態度から即日言い渡しであった。  最後には、大声で泣きながら、長年のわがままを詫《わ》びて旅立って行った。  四つの命をひとつの命で償えるだろうか、というIの言い残した言葉が、Hさんの胸にいまも重くのしかかる。Hさんこそ、執行した死刑囚の何人もの命を、ひとつの命で償えるのだろうかとだれかに訴えたいのだ。  Hさんとは住職のはからいで、午前から夕方五時ちかくまで話し込んでしまった。Hさんが現役当時の旧大阪拘置所のこと、そこに暮らす死刑囚、刑務官のことなど、くわしく聞かせていただいた。   完全遮断の内と外  Hさんが死刑執行を体験したのは現在の大阪拘置所ではない。大阪市北区若松町にあった旧大阪拘置所においてである。現在は都《みやこ》島《じま》区に移転している。場所は変わったというものの、日本の監獄は明治以来いささかも変わるところはない。収監者の人格を無視し、人間性のかけらもない待遇というのが現実のようである。  旧大阪拘置所もまた、現在のどこの拘置所とも変わりない高いコンクリート塀にめぐらされていた。外からは内部をうかがうことはむろんできない。社会とは隔絶した存在であった。  何カ所かある門は鉄扉で固く閉ざされており、正面の門には刑務官が監視に立っている。門の出入りはこの監視人の許可なしには不可能だ。拘置所内に収監されている収監者に面会する目的のものはむろんのこと、取り引きのある商人にしても同様である。いっさい例外はない。これは現在もまったく変わりはない規則である。  収監者はコンクリート塀に囲まれた拘置所内の、保安区域に収容されている。拘置所に収監されている収監者は、まだ刑が確定していない、いわゆる未決勾《こう》留《りゆう》の身である。しかし、ほんのわずか、刑が確定した収監者たちもいる。それが死刑囚である。死刑囚たちはゼロ番区と呼ばれている死刑囚舎房に収監されている。  第一審の裁判で死刑の判決を受けた被告も、死刑確定者と同じ死刑囚舎房、ゼロ番区に収監される。ゼロ番区は、拘置所の保安区域の中で、死刑執行の行なわれる刑場から、できるだけ遠い位置が選ばれている。  死刑囚以外の被告、いわゆる未決勾留者は刑が確定すれば、それぞれいずれかの刑務所で懲役として強制労働に従事する。つまり、刑が確定すると同時に拘置所から出て行くのである。しかし、死刑囚は拘置所から出されるということはない。ゼロ番区の独居房が生涯の終《つい》の栖《す》まいということになる。  死刑囚は死刑の執行そのものが受刑である。したがって執行されるまでは被告としての待遇を受ける。未決と同じというわけである。  面会、差し入れ、文通は自由である。また、自分の所持金があれば、拘置所の制限範囲の買い物もできる。読書も自由だし、許される範囲のアルバイトをして小遣いを稼ぐことも可能である。服装も自前のものを着ていられる。  この部分は現在の死刑囚の待遇とはかなり異なる。現在では死刑が確定すると、親族と弁護士以外は面会できない。文通もこの限りである。親族が面会に来てくれない死刑囚は、外部との交流は弁護士と教《きよう》誨《かい》師《し》のみということになる。もし、教誨を受けないとすれば弁護士のみである。再審請求あるいは恩赦請願のいずれをもしなければ、弁護士の面会もめったにないという、まったくの孤立の身の上という次第となる。   死を待つ者への思いやり  Hさんが勤務していた当時の大阪拘置所は、かなり思いやりといたわりのある処遇を死刑囚にしていた。他の拘置所も、現在に比較すれば、はるかに心ある処遇を死刑囚に対してはしていた。しかし、大阪拘置所には遠くおよばなかったのではあるまいか。  独居房の様式やスペースはいまも変わっていない。三畳足らずの裸コンクリートの壁と天井。床は二畳分が畳敷き。残る一畳分は板張りで、ここに洗面用便兼用の水場がある。洗面用便兼用というと便器で顔を洗うような印象に聞こえるかもしれない。そうではない。流しがあって蓋《ふた》を閉じると机になる。一方、便器の蓋をすると椅《い》子《す》になる。流し、便器で机と椅子として使用するようになっている。  窓には鉄格子。廊下側のドア、つまり出入り口はのぞき穴と食器出し入れ口のついた鉄扉。  閉じ込められている状況は現在と変わるところはない。しかし、死刑囚への思いやりというものは現在とはまるでちがっていた。死刑囚に明日はない。再び生きて社会に戻ることはない。残されたわずかな時間を、可能な限りよりよく生きられるように、という思いやりがあった。  法で裁かれ、死刑を言い渡されたものへの、拘置所でできるせめてもの人間愛を注ごうという姿勢である。  死刑という極刑を言い渡されたものの一日一日は、地獄という以外いいようのない恐ろしい時間である。いつ訪れるともしれない己の死への恐怖。生きとし生けるものの持つ本能としての生存欲が、心を狂乱させる。  こうした状態のままで刑の執行を受けさせるのはあまりに残酷にすぎる。  死刑という制度がある限りは、拘置所側は送られてきた死刑囚を法務大臣の命令に従って処刑しなくてはならない。  せめて、少しでも人間らしい心で、自己の死を受容する気持ちになって、刑の執行を受けさせてやりたい。当時の大阪拘置所の考えはとくにこうした思いが強かった。言いかたはおかしいが、できる限り残酷でない死刑の執行、ということである。  そのために、死刑囚に対しては、拘置所の中で特別な処遇をした。  精神修養という表現はちょっと現代的ではないかもしれない。が、そういった意味で宗教、あるいは俳句、短歌、茶の湯、生花などの指導を行なう。一方、慰安を与えるという意味で、毎月映画、演芸などの観賞会も催される。  俳句、短歌、茶の湯、生花は、それぞれその道を極めた人が指導にあたる。死刑囚は希望するものを選べる。月に何回か(ほぼ週に一回ぐらいの割合)のこの時間は、死刑囚にとってとても楽しみなものである。指導してくれる師匠と死刑囚ひとりというのではなくて、同好者がいっしょに出席できる。独居房で暮らす死刑囚にとって、同じ身の上の仲間と同じ趣味の時間が持てるのは、心の安らぎを得ることでもある。  さらに、興味を持ってはじめた俳句、短歌、あるいは茶の湯、生花を通じて、自然の生命に対し、その尊さを学ぶ結果にもなる。  自然の中のありとあらゆるものが、それぞれひとつがひとつの生命を持っていることを知る。ひとつ以上でもなく、ひとつ以下でもない。ひとつ限りの生命。ひとりの人間のひとつの生命。一本の草のひとつの生命。ひとつの動物のひとつの生命。こうしたひとつびとつの生命があつまって自然界というものを構成しているのだということも知る。そして、生命というものがいかに尊く大切なものであるかをも知るのである。それぞれの死刑囚が、はじめは趣味だとか、楽しみだとかのつもりで選んだつもりが、じつは真の人間性の回復に通じるのだ。ひとつの道を極め、その真髄に迫ったとき、死刑囚はわれわれ一般のおよびもつかないような、見事に立派な人格に生まれ変わる。あまりめずらしくもない、死刑囚のなかにはよくあり得ることだという。   外に洩《も》らせば厳重注意  宗教指導には毎日二十名以上の教《きよう》誨《かい》師《し》が拘置所を訪れる。死刑囚と直接会って精神の高揚へ導く。精神の高揚などという堅苦しい表現はちょっとふさわしくない。慈愛をもって死刑囚と対し、人間らしい心を回復させようというものである。  この役割を長年務めたのが、この寺の住職である。拘置所での宗教教誨は、本人が希望する宗教を選ぶことができる。住職のほかにも仏教の教誨師はたくさんいた。宗派ごとに本山が推薦、法務省が任命するのである。法務省任命のさい、拘置所内での出来事のいっさいを口外しないという誓約もとられる。したがって、死刑囚のプライベートに関わることは話してはならないという次第である。死刑囚の実名、執行の年月日、執行時のもようなど、いっさいがっさいについて口を封じられている。これは教誨師ばかりではない。刑務官全員が同じように守秘義務を負わされている。任を辞した後も同様である。刑務官退職後、あるいは死刑囚教誨師辞任後ともに、法務省から堅く口止めを通達される。  元刑務官のだれそれが、死刑の執行について口外したということが知れると、法務省から厳重注意を受ける。元来小心でまじめな性格の元刑務官は、それに恐れ入る。目立たず、にらまれず、ひっそりと生きていたいと元刑務官たちは願う。同時に、自らの行為に対する恐れ、悔い、慚《ざん》愧《き》と苦悩のため、語ることを好まない。  一方、教誨師のほうには教誨師会を通じて法務省から厳重注意が来る。教誨師個人のひとりびとりは法務省の注意などくそくらえと考えているかもしれない。しかし、その行為が自己の属する宗派に迷惑をおよぼすとなると、問題はまたべつである。不本意にせよ黙さざるを得ない。  こうした事情のなかで、あえて死刑の赤裸々な実態を話してくれる人は少ない。しかし、少ないながらも、これまで紹介したように、自らの体験を語ってくれた人がいたことも事実である。ただし、さまざまの条件つきで語ってくれたので、私としても聞いたことをそのまま書くわけにはまいらない。語ってくれた人、死刑囚が、特定されないように神経をくだいているつもりではある。  Hさんと同席した住職も、教誨師として体験した死刑囚と死刑の執行について語ってくれた。とてもいい話であり、心に深くつきささってくるような内容でもあった。せっかくだから一部分だけでも紹介したいと思う。   楽しみは訪問者  住職が教《きよう》誨《かい》師《し》を務めていた当時は、死刑囚の独居房を訪ねて一対一の対機説法を行なっていた。死刑囚全員を教誨堂に集めての教誨もあったが、個別の教誨はとくに人間としての信頼関係もできる。死刑囚は自分の独居房に教誨師を招じ入れるのを喜んだ。現在は残念ながら、教誨師が死刑囚の独居房を訪れることはない。対機説法も死刑囚を教誨堂に呼び出して行なうのである。 「死刑囚にとって、自分の城ともいうべき独居房に客を招き入れることができるのはうれしいことだったのです。拘置所の職員ではない外部の人間で、独居房を訪ねてくれるのは教誨師だけでしたから。とても楽しみにして待っていました」  歓待する気持ちの表れは着衣などにもうかがえた。ふだんは、夏などランニングシャツとステテコという格好でいる。しかし、教誨師が訪ねる日は、きちんとシャツを着、ズボンをはいて待っている。大切なお客さまをお迎えする、歓迎するという心の表現である。  むろん、死刑確定の直後からこうした態度ではない。はじめのうちは、自分の人生にはもう死以外なにもないという絶望感からやけくそになっている。教《きよう》誨《かい》師《し》の話をまともに聞こうとはしない。そればかりか、こばかにしてからかったり、話をまぜ返したり、食ってかかったりもする。出て消《う》せろ、と大声でわめきもする。  教誨師はこうした死刑囚の荒れる姿に、むしろ憐《れん》憫《びん》を強める。あきらめず屈することなく訪《おとな》いつづける。  回を重ねるにしたがって、死刑囚も次第にうちとけてくる。教誨師が訪ねて来るのを心待ちにするようになる。雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も、欠かさず決まった訪問を守る。孤独と絶望と死の恐怖に苦しむ死刑囚にとって、教誨師が自分のためにわざわざ通いつづけてくれることに、思うこともなかった幸福を感じるようになる。  凶悪事件を犯して以来、世間からはののしられ、肉親からさえも見捨てられたものが死刑囚には多い。面会に来てくれるものもなく、自分の味方に立ってくれるものは世間にはひとりもいない。味方にならないだけではない。悪魔だ、鬼だ、人でなしだと罵《ば》詈《り》のかぎりを尽くされる。己のやったことを反省すれば世間からどう言われても、まったくそのとおりでいたしかたない。けれども、極刑を言い渡されてみると、親身になってくれる人間が社会の中にひとりもいないのは切ない。死ぬのは怖い。死にたくない。どんな状況に追い込まれてもいいから生きていたい。いつ殺されるかわからず、今日か明日かと脅えることなしに、生きていたいと希う。この希いがかなえられることは決してないということは、死刑囚はわかりすぎるほどよくわかる。   胸にすがりつき号泣  地獄の苦しみでさえも、死刑囚の苦悩から見れば軽いのではないだろうか。死刑囚にとって、執行そのものよりも、死刑が確定した瞬間からはじまるこの苦しみのほうがはるかに耐えがたいものである。  死刑囚のこうした苦しみを、いくらかでもやわらげ、やがては死そのものを至福の境地として受け入れるように導くのが教《きよう》誨《かい》師《し》の役割である。  雨の日も、風の日も、雪の降り積もった酷寒のときも、たがわず通いつづける教誨師。  雪の積もった寒い日のこと。  午前中は降り止んでいたが、午後にはまた降りはじめた。それもちらちら舞う程度ではない。大粒のボタン雪が降りしきり、見通しもおぼつかない悪天候となった。気象庁は大阪地方に大雪注意報を発令。  住職は雪にまみれてまっ白の、さながら雪ダルマのような姿で拘置所にたどりついた。現在のように気軽にタクシーに乗るようなぜいたくはしない時代のことだ。  拘置所では教育課長、管理部長が恐縮して住職を迎えた。拘置所を訪れた教誨師は住職ひとりではなかったが、それにしても篤志で死刑囚のために吹きしきる雪の中をとは、だれもが頭の下がる思いをするにちがいない。  しかし、最も驚き、恐縮したのは、住職の訪問を独居房に受けた死刑囚である。  Jという死刑囚であった。  Jは確定後まだ間がなく、住職の話などに耳を貸す気などさらさらないといった態度だった。 「よく降る日だねえ」  住職はいつものように屈託のない笑顔を向けてJの独居房に入った。 「…………」  Jは茫《ぼう》然《ぜん》としたまま、住職を見つめた。 「どうだ、元気か。変わりないか」  住職は、来る道中が雪で大変だったとか、寒くて傘を持つ手がかじかんだなどとは一言も言わない。大変な思いでたどりついたなど、そぶりにも出さなかった。 「先生……先生……」  突然Jが住職の胸に抱きつき、大声をあげて泣きだした。三十過ぎの男である。それが、子供のように泣き声をたて、涙をあふれさせる。 「おれのために、おれみたいなやつのために、先生、来てくれたのかよう」  Jは泣きながら、切れぎれにいった。 「おまえに会いたいから来たんや。わしはおまえのために来てやったんやない。わしがおまえに会いとうて来たんや。どや、わしに会えんとき、ちっとは会いたいと思うてくれたか」  住職はJの顔をのぞき込んでたずねた。  Jは素直にうなずいた。 「おれ、こんなに親切にされたのは、生まれてはじめてだよ」  Jはいつまでも泣きつづけた。  それからというものは、Jはひたむきに魂を磨くことに専心した。残された限りある短い時間を、ただ生きるのではなく、よりよく生きようと努めた。  住職の差し入れる半紙や筆で、仏画を描く勉強にも打ち込んだ。仏画は日に日に上達していった。Jの描いた作品が、現在も住職のもとに遺品として多く遺されている。   夢に見た母親  どんなに修養を積んでも、心に残るなにかがある人間は、常に仏を信じ感謝して明け暮れるというわけにはいかない。  素直で、まじめで、拘置所側を困らせない模範死刑囚のひとりになっていたJが、ちょっとようすがおかしくなった。  雪の日から三カ月、あるいはもうちょっと、半年ぐらい過ぎたころだったろうか。住職はいつものように拘置所を訪れた。Jが口をきかない、と教育課長がいう。三日も口をきかず、食事も残すというのだ。  住職はとにかくJの独居房をたずねた。 「どや、元気か」  いつもと同じ声をかけたが、いつもとはちがって返事がない。 「どうした。めしも残す、口もきかんいうて、先生方が困っとったぞ」  Jは黙ってうなだれた姿勢でいる。  住職は一週間会わなかったあいだの、Jの生活の報告を聞くのを楽しみにしていた。 「どないしたんや、J」  うなだれて黙り込んでいるJの膝《ひざ》の前に、ぽたぽたと雫《しずく》が落ちた。 「泣いとるんか」  Jは声も立てず涙をしたたらせている。  泣きたいときは泣くがいいさ、と住職は無理にJの涙の理由を聞かなかった。人間はいつもいつも上機嫌でいられるものではない。いや、人間ばかりではない。生きとし生けるもののすべてが、いつも機嫌よく暮らせるわけではないのだ。 「先生、おれ……」  しばらく泣きつづけていたJがやっと口を開いた。 「うん?」 「先生、おれはだめな人間だ」 「そうか」 「おれ、死んだら地獄に落ちるなあ」 「そう思うか」  Jがここ三日ばかり、食欲もはかばかしくなく、だれとも口をきかない理由は、母親のことであった。四日前の夜、Jは母親の夢を見た。悲しそうにJを見つめるだけで、夢の中に現れた母親はなにも言わない。Jが必死に呼びかけるのに、ただ悲しみをたたえた顔を向けるばかり。  目覚めてJは母に会いたいと思った。  母はどこにどのように暮らしているのだろうか。元気なのだろうか。Jのために肩身のせまい思いをしながら生きていることだろう。母にすまないとJは思った。  生まれてはじめて、心の底からJは母親に詫《わ》びたい気持ちを持った。  事件から逮捕、取り調べ、第一審の裁判という順に裁きの道を進んだ。母親はJの第一審判決の出る前に、永年住みなれた土地を出た。そして、それ以来、行方がわからない。  Jに面会に来ることもない。生きてはいてくれるだろうとJは思う。生きていてほしいと希う。   家族も憎悪される社会  Jの犯罪は強盗強《ごう》姦《かん》殺人である。  生まれ育った土地の中で犯行に走ってしまった。強盗に押し入った家とはJが生まれたときから親しんだ間柄だった。幼いときは可《か》愛《わい》がられもした。  Jが犯した罪は、Jひとりが裁かれ刑に服すればすむというものではない。  大都会とちがって、ひとつの地域単位で、地域ぐるみが共存しているといえる地方の集落。そうした土地で、その中で凶悪犯罪を犯したとなると、犯罪者だけの罪として片づけられるわけにはいかない。一家眷《けん》属《ぞく》が肩身のせまい思いをする。肩身のせまい思いだけにとどまればまだいい。ひどい場合は村八分ということになる。口をきいてくれるものもない。  聞こえよがしに非難をする。家族のものが村にとどまって暮らしつづけることが、まるで罪悪であるかのような罵《ば》詈《り》が聞こえてくる。  かなり気丈でなくては同じ生活をつづけることはつらい。地域内の店はものを売ってくれないこともある。  外を出歩くのもはばかられる思いの身にはかなりこたえる。まるで犯罪人といっしょ、凶悪犯罪を犯したかのような境地になる。地域ぐるみで、犯罪人とひっくるめて、その家族をも憎悪するのである。  Jが事件を起こしたのは昭和三十年(一九五五)代初頭のことだった。  当時、農村部では機械化農業など考えもおよばなかった。地域ごとに協同で作業を行なうことも多い。  地域全体から白眼視されている身には、協同作業に参加するのも後ろめたい気がする。Jの家は母親と、Jのきょうだいが二人。農家というにはほんのささやかな耕作面積しかない。母親は年間を通して近所の農作業の手伝いで日雇賃金を稼いだ。その仕事にあぶれる事態になった。  もともと貧しい一家だ。日雇賃金が収入の主だった一家は、さっそく生活に困窮する。あまつさえ地域ぐるみの冷たい態度である。  思いあまって住みなれた土地を捨ててしまったのも当然といえばいえた。それ以来、Jのもとには面会はむろんのこと便りもない。 「わしが、おっかさんを探したる。必ず会わせたる」  住職はJに約束した。きっと母親に会わせてやるから、しっかり精進しろと肩をたたいた。  貧しいがゆえに、みじめな思いをして成長したというJの話には住職は心から涙した。そんな生活の中でもめげずに運動会で一等賞をとった話には、住職は大いに喜んだ。  こうしたJと同じ立場に立って、まるでわがことのように一喜一憂する住職に、Jは心底信頼を寄せた。   母との最期の別れ  住職はJの母親探しに打ち込んだ。ほどなく母親を探し出すことに成功。ひっそりかくれ住むように暮らしているところへ訪ねて行った。Jの近況、母親に会いたがっていることを伝えた。確定後だいぶ経っているので、どうか早く会いに行ってやって欲しいとたのむように説得した。  Jの母親は涙を流して住職に感謝して言った。 「あの子を忘れなかった日は一日もありません。あんなことをしでかしたのも、みんな親の私が悪いのです。ちいさいときから貧乏をさせて、いい思いをさせてやったことはなにひとつありませんでした」  Jにすまないといつも心で詫《わ》びつづけていた、と母親は泣いて住職に訴えた。  数日後、Jのもとに母親から葉書が届いた。稚拙な文字ではあったが、息子を思う母親の気持ちがにじむ文面である。Jは何度も読み返し、母親の肖像画ででもあるかのように独居房に飾った。思えば、生まれてはじめて受け取った母親からの便りである。  それ以来、月に一度か二度、葉書は来るが母親は面会に来ない。住職は再び母親を訪問した。わが子に会いたくない道理はない。なぜ会いに行かないのだろう。住職は理解できない気持ちでいた。  事情を聞いてみると、言いにくそうに、旅費が不如意であるという。住職は往復の旅費と弁当代を喜《き》捨《しや》して辞した。皮肉というべきか、どういったらいいか。住職の訪問の翌々日、Jの執行命令書が拘置所に届けられた。母親の面会はJとの最期の別れとなった。  教育課長と教《きよう》誨《かい》師《し》である住職とがJと母親との面会に立ち会った。  母親はJの体中を数《じゆ》珠《ず》でさすりながら、Jにひたすら詫《わ》びつづけた。おまえをこんな目に会わせてすまない。みんな母が悪かった。許しておくれ。  落ちつき払ったJは、母親に、泣くことはない、悲しむことはない。自分は大いなる生命に生まれ往くのだから。と説くように、諭すように言う。  仏教の真髄を極めたともいうべきJの精進ぶりは、確定から執行まで短い月日しか許されなかったことを、むしろ感謝するほどになっていた。  住職は宗教家の自分自身よりも、Jのほうがすでに崇高な人格を備えたと思った。  思わず合掌したくなるような見事さであった。  執行には、Hさんも関わった。ロープ担当でも、ハンドル担当でもなかったが、仏間からカーテンのむこう、死刑台へJの手を取っていざなう役であった。  目かくしをされているためHさんとは知らぬJが、Hさんにしきりと感謝の言葉を言う。 「極楽への道案内に感謝いたします」  手錠の両手で合掌した。  なんという法の無情。  こんな立派な人間を殺してしまうとは。Hさんは死刑制度に腹が立つというより、悲しみのほうが先に立った。  法の無情への悲しみであった。 第七章 言い渡しをする立場 傲《ごう》慢《まん》な法律 「執行命令書を、そのまま読みあげることは、ちょっと、とてもできませんでした」  拘置所長体験のKさんは言う。  死刑執行の「言い渡し」は拘置所長の役割である。Kさんは大阪拘置所、東京拘置所で、昭和四十年(一九六五)代初頭拘置所長を務めた。三十年間の矯正職をふり返ると、死刑囚とともに過ごしたわずか三年間が、他の三十年あまりの日々よりも、異質な重みを持っているのを思い知ると言う。決して風化することのない重く苦しい体験の三年間であったそうだ。  Kさんは死刑廃止を強く希っている。退官以来十年あまりが過ぎた。いまも死刑囚のこと、死刑執行のことが頭をかすめると不眠症に陥る。Kさんの不眠症は大阪拘置所長として着任後、最初の執行命令書を受け取って以来つづいている。執行の言い渡しをしなくてはならない立場。執行に立ち会って見届けなくてはならない立場。なんという残酷な任務。矯正職員としての誇りがいちじるしく傷つく思いに苦しんだ。いや、自らの立場や誇りなどどうでもよかった。死刑囚の日常生活の態度、人間としての立派さを見るにつけ、なぜあのすばらしい人を殺さなくてはならないのか、と苦悩にさいなまれた。 「生命は尊貴である。ひとりの生命は全地球より重い」  昭和二十三年(一九四八)三月十二日。最高裁大法廷において、一被告の上告を棄却したさいの冒頭の言葉である。この被告の罪名は殺人、および死体遺棄。幼いとき父親を失い、貧しい家庭に育った被告は、就職しようにも仕事が見つからないまま、貧困の家庭に徒食していた。  戦後の混乱から立ちなおろうと躍起の世の中であった。日本がかつて経験したこともない超インフレの時代でもあった。  帝銀事件はこの年の一月二十六日に起きた。昭電疑獄事件、徳島ラジオ商殺人事件など、戦後事件史に残る大きな事件が起きた年でもある。  働かずぶらぶら暮らす被告の生活態度を母親と妹がなじった。それにカッと逆上した被告は、母親と妹を殴殺、死体を古井戸に投げ込んだ。一審、二審とも死刑判決。上告も棄却となった。 「ひとりの生命は地球より重い」というのなら、死刑囚の生命もまた全地球より重いではないか、とKさんは思う。死刑囚も人間である。たしかに人の生命を殺《あや》めた殺人者ではある。全地球よりも重い尊貴な生命を殺めた罪で、もうひとつの尊貴なる生命を国家権力によって破壊するというのはどういうことか。死刑囚の尊貴なる生命を破壊する国家権力は、どのように罰せられるのか。  生命が尊いということと、一個の生命に死刑を宣告する矛盾。Kさんはいまもこの矛盾を抱いたままでいる。 「一日も早く廃止してほしいと希っています。生命を破壊するなんていう傲《ごう》慢《まん》な法律は改めるべきですよ」  Kさんの語り口は静かで、大へんおだやかなものである。それだけにずっしりとした生命への思いが伝わってくる。   眠れぬ夜はいまも  Kさんのお宅を訪ねたのは六月半ばであった。いかにも梅雨らしい雨が終日降りつづいた鬱《うつ》陶《とう》しい天候の午後。東京近県の、都内から私鉄の急行で四十分も乗っただろうか。駅からタクシーで五分とはかからなかったと思う。道順は前もってくわしく教えてもらっていたので、迷うことはなかった。昨今の住宅事情は駅近辺だけでなく、かつては見わたすかぎり畑であったろう地帯をすっかり街に変《へん》貌《ぼう》させていた。広い道路。路線バス。車、車、車。商店。ちょっとしたビル。ガソリンスタンド。などなど、東京近県というよりも都内そのものの街並みである。それでも、ときおりキャベツや、菜っ葉の畑も狭いながら見られる。それがせめて東京ではないと証しているのか。  応接間に通されて驚いたことに、なんとガスストーブが焚《た》かれている。 「きょうは寒いですね」  待つ間もなく現れたKさんは、厚地のセーターにやはり厚地のカーデガンを重ね着していた。たしかに梅雨寒というのか、冷んやりした日ではあった。しかし、厚着してストーブを焚くほどに寒いとは感じていなかった私は返事に戸惑った。応接間はのぼせるほど暑い。 「どうもとしを取ると若い人のように熱が高くなくて」  言いながらKさんは、私に近い方のガスだけは消してくれた。 「電話でも話しましたように、立場上お話できる範囲でしかお答えできませんので。わざわざこんな遠くまで雨の中をおいでいただいたのに申しわけありませんが」  Kさんは守秘義務については電話でも言っていた。私はKさんから個別の死刑囚についての執行時のもようを聞くつもりはなかった。拘置所長という立場にいて、法務大臣の執行命令書を受け取ったときの気持ち。執行の言い渡しをどのようにするのか。執行に立ち会って、拘置所長の果たすべき役割は具体的にどういうことなのか。などなど拘置所の最高責任者と死刑囚、死刑執行について聞きたかったのである。  正直にいうと、Kさんに会うまでの私は、拘置所長という立場の人について少なからぬ偏見を持っていた。拘置所長の次は矯正局でさらに上のポストに着く。つまり法務省のキャリア組。出世コースを歩く役人である。エリートに死刑囚の生命を尊ぶ心などありはすまいと考えていた。国家権力の現場における代行者が拘置所長といえるのではないかとも思っていた。  ところが、拘置所長もまた、死刑ということに苦悩し、死刑囚ひとりびとりの生命を、なんとか助けたいと心を砕き、眠れぬ夜を重ねている現実があった。 「お調べになってすでにご存知と思いますが、大臣の執行命令書が出たら、五日以内に執行しなくてはなりません」  いやも応もなく、やらざるを得ないのだ。Kさんはその夜からさっそく睡眠薬を飲まなくてはならなかった。そのまえ、命令書が届いたときから心臓が平常ならざる鼓動を打ちはじめる。狭心症の発作を就寝中に起こしたのは再三再四、いや数えきれないといってさしつかえない。退官して十年あまり経ついまも、狭心症と不眠症とは持病としてKさんを苦しめつづけている。 「とくに死刑問題について話をしたり、考えたりするといけません」  医者からも死刑に関することを考えたり、会合に出席したり、その種の原稿執筆など、いっさいを禁じられているという。   その瞬間、堅く目を閉ざして 「二十人ほどの死刑囚に執行の言い渡しをして、その執行に立ち会いましたから、自業自得といえばいえるでしょう」  ドクターストップがかかっている身でありながら、話せる限りのことを話してくれようとするKさんに対して、ちょっと後ろめたい気持ちになった。 「言い渡しといっても、私の場合は、『残念だが、お別れだよ』と言うのがやっとでした」  意外であった。法務大臣が署名押印した執行命令書を律《りち》儀《ぎ》に読みあげるものだとばかり思い込んでいたのだ。Kさんに会うまえに何人もの教《きよう》誨《かい》師《し》、元刑務官に会って聞いた限りでは命令書を所長が読みあげた、ということだった。ある死刑囚の遺書にも、読みあげたという一文があった。この死刑囚は十八歳になったばかりで事件を起こした。警察官をライフル銃で撃ち死に至らしめたものである。三審とも矯正の余地がないので、死刑以外考えられないという判決。二十五歳で処刑されてしまった。前日言い渡しの習慣があった時代の東京拘置所において、罪を悔い、仏教に帰依したこの死刑囚は言い渡しを前日受けた。その夜、ほとんど寝ずに遺言を認《したた》めている。そのなかに「なんじ死刑に処すと読みあげた。……つまり言い渡しである。——」  という一行があった。 「読みあげる人もいるでしょうが、私にはとてもそんなことはできませんでした」  Kさんは寂しい笑いを浮かべた。どの死刑囚も必ず決まってこの瞬間には、顔面の筋肉をひきつらせたという。しかし、大阪で前々日、東京で前日の言い渡しを受ける死刑囚は、死刑囚としては模範死刑囚である。宗教に帰依し、苦悩から解放され永遠を目指す境地になっている死刑囚ばかりである。崇高といえるわれわれ一般のものがおよびもつかないような立派な人間ばかりである。 「こんないいやつを、どうして生かしていてはいけないんだ、と、いつも悩みました。苦しかったですよ」  たとえ立派な人間に生まれ変わっていないにしても、殺してしまうことはないではないか、とKさんはいう。真の人間性に目覚めずにいる死刑囚がいたら、それは死刑囚が悪いのではなく、目覚めさせられない側の責任であるのだともKさんは考える。 「いよいよ執行のとき、『お世話になりました。ありがとうございました』と言って握手を求めてくるんです」  さしのべられた手を握り返しながら、Kさんは身の置きどころのない思いに暮れた。言ってやる言葉がない。  拘置所長であるKさん、検察官、検察事務官、その他拘置所職員らが立ち会って、宗教儀式を終えた死刑囚が死刑台へ導かれていく。  Kさんは死刑囚が死刑台に立ったと認められた瞬間に、堅く目を閉じる。合掌して、その後につづく数秒間をやり過ごした。死刑囚の首にロープがかけられる様子、奈《な》落《らく》に吊《つ》るされる瞬間をまともに見たことは一度もない。  それでも夢《ゆめ》枕《まくら》に現れる死刑囚は宙吊りになってきりきり舞いをしている。宙を泳ぐように足が空をむなしく探っている。こんな夢を見る夜は、決まって狭心症の発作に苦しんだ。   恥ずかしい制度  拘置所長という立場は、死刑囚舎房担当の刑務官のように、日常的に死刑囚と馴《な》れ親しむことはない。死刑囚と直接相対することはきわめて稀《まれ》である。死刑囚の側から「所長面接願い書」が提出された場合のみだ。それも、面接する必要を拘置所側が認めた場合に限ってである。けれども、日常的に親しくなかったからといって、人間ひとりの生命を破壊するのだ。国家権力が認めた合法的殺人である。立ち会う面々、執行官はむろんのこと、いっさいのだれにも殺人の動機はない。いや、動機がないばかりではない。殺人はいやなのだ。いま殺されようとしている死刑囚を、なんとか助けたいと立ち会っているだれもが希っている。不本意でありながら、おごそかな儀式でも行なうように法という名のもとに殺人が遂行される。 「人間として、こんな恥ずかしい制度はないと思いますね」  Kさんは、シュバイツアー博士の表現をいつも意識している。〓“生命への畏《い》敬《けい》〓”という表現だ。尊厳ではない。畏《おそ》れ敬うのである。どんな生命も、自然の摂理が創造し給うた生命である。人間の都合や勝手で破壊する不《ふ》遜《そん》は許されるべきでない、と考える。  この世に存在する生きとし生けるすべての生命は等しく尊い。人間の生命だけが特別ではなく、生命はすべて同じである。同等に生命である。自然によって生み出された生命を畏れるべきだ。敬うべきだ。雑草といって踏みにじってはいけない。生命が宿っているのだから。虫けらといってつまみ殺してはならない。尊い生命なのだから。まして、人間が人間を殺すことにおいてをや、である。Kさんはこう主張する。  ならば殺人者はどうすればいいのか。殺されたものの遺族の無念をどのように晴らすというのだ、という意見が多いだろう。  これまで、いや現在も日本に死刑制度が存置されているのは、懲らしめの意味と、凶悪犯罪防止のための見せしめの意味、そしてなによりも報復、つまり仇《かたき》討《う》ちの精神が生きつづけているためである。しかし、よく考えれば、こうした理由で死刑という刑罰を存続させるのは、人間として誤りではないのか。  たしかに死刑囚は尊い人の生命を殺《あや》めた。だからといって、さらにもうひとつの尊い生命を殺してしまってよいものか。死刑囚の生命もまた尊い生命なのである。   処刑された男が肩をたたいた  Kさんは在職中におびただしい回数の転勤を体験した。各地の刑務所や少年院に勤務したのだ。そのおかげで、奥さんは引越し荷造りはプロなみになったと笑っていた。現在のように引越会社などなく、すべて自分で運送会社の手配から荷造り、荷解き、大きな重いものの移動も行なった。 「いざとなったら運送会社で働けます」  奥さん自身も笑って話す。明るく屈託なさそうな、いかにも健康的な奥さんだ。この奥さんによって死刑執行からくるKさんの苦悩はずいぶんやわらげられたことと思う。  直接手を汚す役を命じられ、執行をする刑務官とちがって、死刑の現実を夫婦間で語り合えたぶん、いくらかは救われているのではないだろうか。少なくとも、死刑執行を体験した元刑務官の人たちの持つ、いい知れない暗い表情はKさんにはうかがえない。  それでも、Kさん自身が「言い渡し」をして、執行され死地へ赴いて行った死刑囚たちの顔を、いまもって忘れてはいないという。かれこれ二十年になんなんとする以前の三年間のなかの出来事である。それほど、他の歳月、日常とは異なった、重苦しい体験だったのである。 「執行を直接する刑務官の人も、終了したあと、遺体を担当する刑務官も気の毒です。ノイローゼに陥った人もいると聞いています」  じっさい「自分が執行した死刑囚が背後から肩をたたいた」とか、「空の独房に、執行された死刑囚がいた」と、顔面蒼《そう》白《はく》にして訴える刑務官がいくらもいたという話は他からも何度も聞いた。死刑囚の亡霊にとりつかれて、ついに職場を去っていった刑務官もいたとも。  Kさんもきっと、こうしたノイローゼに陥った刑務官が辞めて去って行くのを何度か送ったのではあるまいか。  退官後しばらく経って、やはり定年退官して何年かを経た元刑務官に誘いをかけて集合した。死刑執行を体験した刑務官ばかりに声をかけた。死刑と死刑執行について、体験談やその後の苦悩の現実を語り合おうと呼びかけたのだ。  けれども、集まった執行体験者の元刑務官たちは、執行の話は黙して語らない。 「具体的に話すのはいやなんですね、みんな」  Kさんは執行をさせられる刑務官の立場、苦悩について語り合い、具体的に死刑廃止へのひとつの道づけができればと考えた。しかし、死刑は廃止してもらいたいが、自己の苦悩を赤裸々に語ることははばかられる、というのが執行体験を持った元刑務官の本音であるらしい。  元刑務官には、それぞれ個人生活を守らねばならない事情がある。自己ひとりだけの身ではない。家族、ひいては一家眷《けん》属《ぞく》のことを思うと、自らが死刑執行をしたとは公にしたくない。なによりも、自らの行なった死刑執行について語ること自体が怖《おじ》気《け》をふるう。できるかぎりふれずにいたい。願わくば、記憶の中から削除したい。話したからといっていまさらどうなるというのだ。現実に後ろめたい暗い劣等意識と、罪の意識とにさいなまれる日々から解放されるというわけではない。恥の人生であったと悔いているその恥を世間に公表する気になどならない。  こういった気持ちもあるだろう。だが、それよりなにより、いっさい語りたくない。ふれたくない。理由は、いやなのだ。  この〓“いや〓”ということに万感が込められていると思う。   三島由紀夫の訪問  Kさんには執行体験者の〓“いや〓”だという気持ちがよくわかる。  Kさんが所長を務めた東京拘置所は巣鴨時代である。現在は副都心池袋の名所となっているサンシャインビルになっている。  当時、作家の三島由紀夫がKさんを訪ねてきた。旧時代(市ケ谷刑務所)の施設や監房の構造、思想犯の処遇などの取材が目的であった。当時、三島は雑誌『新潮』に「奔馬」を連載中であった。テロで逮捕された青年が、市ケ谷刑務所に収容されるという部分がこの作品にある。その部分のために必要な取材だったようだ。  目的の取材を終えた後、三島はKさんに死刑囚がどのような心境で最期を迎えるのか、とたずねた。  Kさんは自らの体験したいくつかの例をあげながら質問に答えた。宗教に帰依した死刑囚たちが、苦悩から解放され、永遠をめざす極限の心境にたち至って、見事な大往生を遂げるのだ、と。  そして、Kさん個人の考えとして、死刑廃止論をつけ加えるのを忘れなかった。しかし、三島は死刑廃止論については黙したままであった。最後に「立派に死なせてやってください」と言っただけで。  Kさんは、日本の死刑制度も緩慢とではあるが廃止の方向へ進んでいると考えている。かつては殺人を犯したものは必ずといってよいほど判決は死刑であった。しかし、現在では、殺人者は必ず死刑、ということはなくなった。執行数も昭和三十年(一九五五)代、四十年(一九六五)代に比較するとぐんぐん減少している。因みに、過去五年間の執行数をあげると、  昭和五十八年(一九八三)  一名  昭和五十九年(一九八四)  一名  昭和六十年(一九八五)   三名  昭和六十一年(一九八六)  二名  昭和六十二年(一九八七)  二名  という数字である。  これが昭和三、四十年(一九五五、六五)代には二ケタの数字で、しかも昭和三十年(一九五五)には三十二名。三十一年(一九五六)には十一名。三十二年(一九五七)には三十九名。と、ちょっと文化国家とはいいがたい死刑執行の数字である。四十年(一九六五)代でもやはり、最高の四十五年(一九七〇)には二十六名が執行されており、この中の一名は戦後最初の女性死刑囚の執行である。  こうした数字に比較すると、五十年(一九七五)代に入って以後、ぐっと執行数は少なくなっている。五十年(一九七五)が十七名。五十一年(一九七六)が十二名。以後は、ずっと一桁《けた》で五十二年(一九七七)が四名。あとは一名の年が多く、このままいくと執行停止になりそうな気配という気がしなくもなかった。  理由は死刑確定数が以前に比較して減少しているからだということになるようだ。確定者が減ればなるほど執行数は少なくなるだろう。  ところが、今年(六十二年〈一九八七〉)になって、大阪であきれかえった申し合わせをした。「どうも大阪は求刑が甘すぎるようだから、これからはもっときびしい求刑をしよう」という内容である。  これに挑発されたというわけではないだろうが、今年はすでに六名の死刑が確定した。幼児誘拐殺人罪で一審死刑判決を受けていた須田房雄が一月十九日控訴を取り下げ、死刑が確定。連続企業爆破事件の犯人大道寺将司、益永利明が三月二十四日上告を棄却されて死刑が確定。三月三十一日に保険金殺人事件の井田正道が最高裁に上告せず確定。誘拐殺人罪の木村修治は上告を棄却され、七月九日に死刑確定。強盗殺人罪の秋山芳光もやはり上告棄却で七月十七日死刑確定。  七カ月のあいだに六名が確定したのは衝撃である(この後も死刑確定者は増えつづけた。それだけでなく、一審、二審で死刑判決が下されることも目立つようになってきた)。   法務大臣もいやがる署名  さきの大阪の求刑をきびしくしようという申し合わせについて、Kさんも電話で、 「とんでもないことを言いだして、困ったものです」  と、言っていた。  Kさんが死刑に反対なのは、生命の畏《い》敬《けい》ともうひとつ、死刑執行を命じられる刑務官の苦悩を思いやる気持ちからである。 「やらされる立場はむろんたまらないと思います。やれと命令する立場もまたたまらないのですよ。命令する立場といったって、命令しなくてはならないのですから」  つまり、命令させられるのである。  法務大臣の執行命令書によって、死刑の執行の「言い渡し」をさせられる立場。  死刑の執行をせよと命じさせられる立場。  死刑の執行をやらされる立場。  まるで水が低いところへ流れ落ちるように最高位からつぎつぎと命令が下っていく。  こう書くと法務大臣が、そもそもの根源のような印象である。ところが、法務大臣自身も、死刑執行書に署名押印するのは、とてもいやな仕事だという。藤沢市で若い女性殺しで死刑になった死刑囚の執行命令書に印を押した法務大臣に、あるパーティで会った。ちょうどすでに処刑された死刑囚の取材をしている最中だった。辞めぎわに執行命令書に印を押す大臣が多いけれど、どういうわけかたずねてみた。 「あれはいやなもんでねえ。できるだけやりたくないもんなんだよ」  できれば印を押さずじまいでいたい。しかし、書類がたまったまま辞めたのでは大臣としての任務を果たさなかったことになる。印を押すのは法務大臣の義務だから、ということであった。  個人個人の本音は死刑廃止論を支持なのだが、大声でそれを言うわけにいかないらしい。それならば、去る七月二十一日(六十二年〈一九八七〉)の参議院予算委員会における公明党矢原秀男議員の質問に対する中曾根首相の答弁も、本音ではないのだろうか。    矢原氏 東ドイツは死刑廃止を決定したが、死刑の存廃問題について、どのように考えているのか。  首 相 死刑問題については国民の関心も高い。世論調査によると、死刑廃止に賛成が一三%。反対七〇%であり、国民も存続を認めている。国家社会の正義を維持する観点からも、死刑は存続してしかるべきと考えている。    死刑の存廃問題についての、公明党矢原秀男議員と中曾根首相の質疑応答はざっとこんな内容であった。   死刑は誰もがたまりません  国民も存続を認めているというけれど、それは死刑が秘密裡《り》に行なわれているからではないのか。密行主義をやめて、いっさいを公開して死刑を行なったら、世論調査の数字も大きく変わってくると思う。  死刑囚の、確定後から執行までの人間としての姿を,ありのままに国民に知らしめたら、それでも死刑にしろという人はあまりいないのではないだろうか。  死刑の執行を直接行なう刑務官も、もっと堂々と、死刑はいやだ、と言えるような自由が与えられたらどうなのだろう。 「ま、当分は無理でしょうね」  Kさんは、とても残念そうに言う。 「どの死刑囚も助けてやりたかった気持ちに変わりはありませんが、本当に助けてやりたいと心底希った死刑囚も何人かいました」  獄中歌人となり、人間としても心をうたれる立派な死刑囚。最後まで静かで清らかな笑顔を絶やさず、「すべては神のみ心のまま」と悟りの境地にいた死刑囚。どの死刑囚も、犯罪にいたるまでの、誕生から生いたちを知ると、抱きしめていっしょに泣いてやりたい気持ちだった。 「同じ境遇でも全員が犯罪者や殺人者にはならないじゃないか、というのはちがうと思いますよ」  同じ親から生まれた兄弟でも、生まれた順序で待遇もちがうし、感受性がそれぞれちがう。Kさんが助けたいと心底希ったある死刑囚のひとりは、被害者の遺族から助命嘆願まで出されていた。 「執行された死刑囚。執行に怯《おび》えながら生きた心地もなく、さながら生き地獄の日々を過ごす死刑囚。死刑というのはたまりませんなあ」  Kさんは嘆息した。  雨が勢いよく降りつづける夕方になって、ようやく私は腰を上げた。  一時間ほどで失礼しますから、と約束していたのだが、結局半日も居すわっていたことになる。  玄関までKさんご夫妻に送られて辞去したが、拘置所長という立場に対する偏見はすっかりなくなっていた。  しかし、現在の全国の拘置所長が、Kさんのように人間として情の深い人間ばかりかどうか、それはわからない。 第八章 執行人家族の涙 少女時代からの夢 「小学生のころ、夜半に父がうなされる声でよく目を覚ましました」  せまい官舎暮らしとはいえ、小学生が目を覚ますのだから、よほどのうなされ方だったのだろう。 「母が、『父ちゃん、父ちゃん、起きんね、父ちゃん』と、父を揺すって起こしていました」  Lさんが生まれたとき、父親はすでに拘置所の看守だった。Lさんは父親の仕事を牢《ろう》番《ばん》だと思って大きくなった。だれかから教わったというのではない。幼時、子供どうしで集まって遊ぶようになったころから、いつの間にか知ることになった。  Lさんはいまでは四十代半ばを過ぎた年齢である。職業は農業。四歳上の夫との二人の生活が結婚以来つづいていたが、近年になって元刑務官の父親も同居するようになった。  Lさんに会うそもそものきっかけは、元刑務官のLさんの父親に面会を申し入れたことにあった。  老いた父に、古傷をえぐるような思いをさせないでほしい。そのかわり、娘の自分でよければ、取材の目的は果たせないと思うが、会って話をするのはやぶさかでない。  こんな返事をもらって、Lさんに会いに行ったのは七月はじめ。  上野駅から東北新幹線を利用すれば、二時間かそこいらでLさんの農園に着く。高原地帯で、野菜が美《お》味《い》しい。  七月に入って東京はうんざりする暑さつづきであったが、さすが高原だけあってさわやかな風が渡っている。  教えられたバス停に降りると、五十格好のおばさんが声をかけてきた。Lさんであった。家には元刑務官の父親がいて、話をするのがはばかられる、ということのようだ。案内されたのはLさん夫妻の自慢の野菜畑。  トマト、キュウリ、キャベツ、ピーマン、とうもろこし。なんでも作付けしているという。Lさんは赤い熟れたトマトをもいできた。 「お茶がわりにどうぞ」  こちらにとまどうすきを与えず、農薬を使用しない自然栽培だから安心して食べてよいとLさんは差し出しながら言った。 「汚くはないんですが、ま、都会の人は神経質だから」  こう言って、差し出したトマトを前かけで拭《ぬぐ》って、あらためてすすめてくれる。  午前十時を少し過ぎていた。夏の日射しはさすがに強いが、それでも高原の木陰は涼しく、申し分のない心地である。トマトにかじりつくと、みずみずしい香りが口中に広がる。思わず歓声をあげてしまった。 「野菜を作っていちばんうれしいのは、食べた人の感激の声を聞いたときですよ」  Lさんが農家の三男の夫と結婚したのは、二十年以上まえのこと。 「人に命令されないで、自分で思ったとおりの仕事をして生きていくのが少女時代からの夢でした」   父からのプレゼント  Lさんは刑務官の子供として、苦く傷ついて過ごした少女時代をふり返るように語りはじめた。 「父の仕事がいやで、情けなくて、悲しくて、死にたいと思ったことも何度もあったんですよ」  中学生のとき、噂《うわさ》が立ちはじめた。Lさんの父親は拘置所で死刑囚の牢《ろう》番《ばん》をしている。死刑を執行する役もやるそうだ。首切り役人だそうだ。などなど、思い出すのも屈辱で身震いを覚える時代。  Lさんが生まれ育ったのは広島県下。拘置所の官舎に移り住んだのは昭和二十四、五年(一九四九、五〇)ごろ。父と母と妹がひとり。四人家族の住宅としては決して充分といえる広さではないが、安月給の公務員にとってはありがたいものではあった。同じ官舎住まいの男の子たちは、坊主頭の散髪に、拘置所内の床屋に行っていた。町の床屋が百円ぐらいだったころ、拘置所の床屋なら十円でやってもらえた。女の子も女区の床屋(美容院というべきか)に行こうと思えば行けたのだろうが、Lさんは行ったことがない。母親が行かせたくなかったのだと思う、とLさんは言う。  床屋といっても、拘置所の床屋は、懲役刑の服役者が強制労働として働いているものである。同じく懲役刑の収容者や、未決勾《こう》留《りゆう》中の収容者の散髪のための床屋と、官床と通称で呼ばれている職員用の床屋とがある。  現在のような豊かなぜいたくな時代とはちがって、百円の散髪代が十円ですむものなら、できれば拘置所内の床屋ですませたいのが人情だろう。  父親がうなされる声、母親が父親を目覚めさせようと呼びかける声で、夜半に目を覚ますようになったのは、小学校も高学年になったころ。  Lさんと妹は、両親から細かく聞かされたというわけではないが、生活の苦しさを理解していた。欲しいと思うものがあっても、ねだって親を困らせるようなことはしなかった。はじめから諦《あきら》めていたのかもしれない。また、いつも疲れた顔の父親、生活のやりくりに追われている母親に、無理をいう気にはとうていなれなかったのも事実だ。  それでも、五年生になって家庭科の授業が加わると、裁縫箱を買ってもらわなくてはならなかった。ゴム製のしゃれたデザインの雨靴が登場して、クラス中の女の子が履いていれば、やはり欲しくなった。クレパスという油性の写生用カラー二十四色が流行しはじめると、Lさんも図工の時間にはそれを使って絵を描きたいと思う。敗戦の灰色の世の中は年々歳々復興していき、それに伴って新しい欲しくてたまらないものが出現する。  同級生をはじめ、地域の女の子のほとんどが所有している流行のものを、自分は持っていないというみじめさを味わう。  欲しい、買ってくれという言葉は使わないが、持っていないのは自分だけだという現実を思わず母親に訴えてしまった。  母親はLさんの気持ちを察して、父親にそのことを話す。  むろん、同年輩の女の子だれもかれもが、新しいもの、流行のものを持ったり、身につけていたりしていたわけではない。貧しい薄給生活と思っていたことは事実だったとしても、世の中にはもっと貧困のどん底にあえいでいたものも多かった時代だ。しかし、ぜいたく度の比較は、自分以下のものとはしないのがふつうの人間である。  Lさんもまた自分より富めるものを羨《せん》望《ぼう》した。ふつうの女の子ならあたりまえのことといえるだろう。  ある日の夕食のこと、父親が言った。 「もう二、三日待ってろ」  数日後、午後も早い時刻に帰宅した父親が、Lさんと妹の雨靴を買ってきてくれていた。  欲しくてならなかった雨靴である。  Lさんと妹は躍りあがって喜んだ。家の中で雨靴を履いて歩きまわった。雨の日が待ち遠しかった。  裁縫箱も、クレパスも、 「もう少し待ってろ」  父親は必ず買ってきてくれた。いつという日の約束はなかったけれど、いつかはきっと買ってもらえた。   初めてのずる休み  これらの代金の出所を、Lさんが察したのは何年も経ってからのことである。  中学生になって、父親が拘置所でどのような役割を果たしているのか、つまり、どんな任務を負わされているのかを知った。  弁当を食べ終えて、水飲み場でハンカチを洗っているときだった。忘れもしない中学二年の七月のはじめ。  隣のクラスの女の子が寄って来た。Lさんの近くに立って、なにげないふうに話しかける。 「Lちゃんの父さん、人殺しで死刑になる人を殺す仕事なんだって?」  Lさんはぎょっとして聞き返した。 「だれが言ったの?」 「みんなの噂《うわさ》よ。きたない仕事だって」  この女の子は少し知能の遅れた子だった。それだけに言葉はストレートで、Lさんの心を抉《えぐ》った。 「そのとき、はじめてはっきり知ったのです」  Lさんはもうひとつのトマトを前かけでこすって、私に差し出しながら話をつづけた。 「食べてください。食べながら聞いてもらったほうが、話がしやすいんです。なにもしないで、ただ話だけ聞かれると、話せなくなりそう」  私は素直に二つめのトマトにかじりついた。けれども、味わいは感激を呼ぶことはなかった。Lさんの話のほうに熱中していたからだ。 「きょうと同じ、七月のはじめで、暑かったんだけど、その子の話を聞いたとたんから、わなわな震えが起こって、寒くてしようがなかった」  さっき食べたばかりのお昼の弁当が逆流しそうだった。しそうだったのではなく、本当に逆流してきた。便所に駆け込んで、なにもかも吐き出してしまった。  それでも、ちっともすっきりした気分には回復しない。  人殺しで死刑になる人を殺す仕事。きたない仕事。みんなが噂《うわさ》している。  こうした言葉が、吐いても吐いてもLさんの裡《うち》に残り、渦巻くようにくり返し聞こえてきた。  それまでLさんは不快な体験をたびたびしている。何人かのグループが集まって、ひそひそ話をしているところへ、Lさんが近づくといっせいにみんなが散った。あるいは急に話をやめて黙り込み、顔を見合わせてうなずきあう。  こういうことのすべては、Lさんの父親の職業についての中傷だったのか。  期末試験の直前だった。その翌々日からLさんは三日間学校を休んだ。 「ずる休みをしたのははじめてのことでした」  母親には頭が痛いと嘘《うそ》をいった。いや、嘘ではなくて、じっさい頭がガンガンと痛かった。布団をひっかぶって、眠ろうとつとめた。二度と目覚めたくないと思った。  同学年の知能の遅れた女の子は、あのあともうひと言を発したのだった。 「死刑囚を殺すと手当がもらえるんだって、とくべつの」  Lさんの衝撃にとどめをさすにあまりある言葉であった。   泥まみれのプレゼント  学校を三日間休んだ第一日めは、これらの言葉が頭の中を駆けめぐりつづけた。  父が夜半にうなされるわけ。ちょっと待ってろ、といってしばらく経って、月給日でもないのにLさんが欲しがったものを買ってきてくれたわけ。いつもふさぎ込んでいるような陰気な父。  これらのわけが、霧が晴れたように、はっきりと理解された。  第二日目。  朝から雨が降る日だった。  Lさんは、父親が〓“きたない仕事〓”で得た手当で買ってくれた品々を、雨に濡《ぬ》れた庭に投げ捨てた。生まれてはじめて持った自分の裁縫箱。いまから思うと物資の乏しい時代のものとしてはぜいたくなものだ。木の箱に美しい千代紙を貼《は》った、現在ではちょっと買えないと思う裁縫箱だった。セルロイドの筆箱。絵画用の画板。アルバム。額縁。などなど。  これらの品々を買ってもらえたときの喜びが思い出された。ほんとうにうれしかったから、その日まで大切に大切にしてきた。雨靴などは、雨の日がうれしい気持ちと、雨に汚すのが惜しい気持ちとが攻め合った。大事に履いたつもりでも、当時のゴムは粗悪だった。あちこちに裂け目があった。その度Lさんは町の自転車屋でゴムノリを塗って継ぎを当ててもらった。自分の足が大きくなって、とうとう履けなくなるまで大事に履いていた。  無邪気に喜んでいた自分がいまいましかった。  雨の庭に投げ捨てたところで、心に受けた衝撃と痛手は癒《い》えるものではない。  第三日目。  雨あがりの濡《ぬ》れ縁に、きのうLさんが投げ捨てた品々を母親が黙って広げていた。黙っている母親の背中は、悲しみに暮れているように思えた。 「母ちゃん」  Lさんは思わず呼びかけた。とても母親に悪いことをしたような気がしたから。しかし母親は返答しない。雨と泥とで汚れた裁縫箱や画板などを、ていねいにていねいにぞうきんで拭《ぬぐ》っている。  母親の動作は、背後から見ると、声をたてずに泣いているように見えた。じっさい泣いていたのかもしれない。Lさんはいらいらした。 「母ちゃん、そんなもんは、いらんよっ」  Lさんは母親の背に怒声を浴びせた。 「そんなこと言うもんじゃないよ。父ちゃんが買ってくれたもんを」 「いらん、いらん、そんなもんいらん」  Lさんは言いながら、泣いて母親の背にかじりついた。  こみあげてくる激情のために、きちんとした言葉にならない。それでも、Lさんは言わずにいられない感情を押しとどめることはできなかった。父親がどんな仕事をしているか知っているのか。世間の人にきたない仕事と蔑《さげす》まれるようなことをして、その手当で買ってもらったきたないものなんかいらない、と。  もう学校にも行きたくない。こんな家になんかいたくない。死にたい、死んでやる。学校中に噂《うわさ》されて、学校に行くのが恥ずかしい、とも言った。  言い出しはじめたら止まらなくなってしまったのだ。母親は黙って、泥汚れを拭《ぬぐ》いつづけている。  やがて、ぽつんといった。 「そんなこと、いうもんじゃないよ。父ちゃんがかわいそうだから」  Lさんには、もう言葉がなかった。 「母にはすまなかったと思います」  Lさんはこの日のことを思い出すと、母親にどう詫《わ》びても詫びきれない気持ちでいっぱいになる。 「とうとう、ごめんとも言わないままでした」  このときから、Lさんの心の中には、死刑制度に対する憎しみのような感情が宿ったままだ。   誰にも命令されない人生  Lさんの父親は気のちいさい、ごく善良な人間である。上司にさからうことなど夢にもできない。どんなことも命令されれば従わざるを得ないのだ。死刑の執行官をやらされたために、夜ごとうなされつづけようとも、つぎに命じられればまた従うだけである。  近所に、九州の八幡製鉄に父親が働きに行っていて、母子だけが細々暮らしている家族があった。あそこの家よりいい、とLさんの母親は言う。親子そろって暮らせるのだから、と。  父親の仕事のことは、やがて妹も知るときがきた。一歳ちがいの妹である。同じ中学に通っているのだ。知らずにすむわけはなかった。  泣いて帰った妹と、Lさんは抱き合って泣いた。 「だれからも命令を受けない、自分の考えだけでできる仕事で生きていきたい。このころから、そんなふうに考えていました」  しかし、自分の考えだけで、自由に働いて生きていける仕事に、いったいどんなものがあるか具体的には思い浮かばなかった。  高校を卒業と同時に大阪のメーカーに就職した。理想に反して、命令に従って働き、給料をもらう仕事に就いたのである。それでも、広島を離れることができただけでもほっとする思いだった。工場勤務の仕事は単調で、中卒の集団就職の社員と同じ寮生活である。  この職場で現在の夫Mさんと出会った。  東京近県の農家の三男坊。農業の話はLさんにはとても新鮮で、楽しかった。Mさんは本当は農業をやりたかったのだが、なにしろ三男坊なので家を出ざるを得なかったと話した。農業というのはやり甲《が》斐《い》のある仕事だ。いまの会社の仕事みたいに、ある部分だけに関わって、いったいなにができあがるのかわからない仕事は性に合わない。そこへいくと農業は自然を相手に、自分で考えてはじめから終わりまで自分の力でやるのだ。だれに命令されることもない。自分の思いどおりにできるのだ。  LさんはMさんの話に夢中になった。興奮して聞いた。農業こそ漠然と探し求めていた仕事ではないのか、と思った。  どうすれば農業をやれるのだろうか。なにかいい方法はないだろうか。Lさんは毎日Mさんに農業をやりたい、農地がなくても農業をやる方法はないものか、と言いつづけた。  まだこの時点では、LさんとMさんははっきりした恋愛感情は持ってはいなかった。恋だとか愛だとかいう前に、いっしょに農業をやりたい気持ちになってしまっていた。恋をしたというなら農業に対してであったといえる。藪《やぶ》を耕して畑にするなら土地を貸してやろう、とMさんの親類が言ってくれた。  飛びつくように二人はMさんの故郷を目指した。  牛を買うどころではなかった。二人が寝起きする小屋を建てるのにあり金をはたいた。収穫の喜びは、意外に早く味わうことができた。藪《やぶ》を焼いてざっと耕した焼畑に、そば、さつま芋を植えたのだ。   ずっしりと重いみやげ  それ以来二十余年。いまではLさんはすっかりたくましい農家のおばさんだ。化学肥料を買うお金がなくて、堆《たい》肥《ひ》を積んで有機肥料をつくった。山羊を飼って山羊乳を飲んだ。いまも同じ生活。自給自足に近い。 「おかしいですね。いまはうちの野菜ひっぱりだこなんですよ。東京からわざわざ買いに来る人もいるんですよ」  夏は避暑地として有名な場所がほんの近くにある。東京から暑さを逃れてやってくる別荘族が、Lさんの野菜を買いに来る。  藪を耕す農業は、はじめは朝は朝星、夜は夜星という生活が何年もつづいた。くたくたに疲れて、すいとんをすすりながら箸《はし》を握ったまま眠ってしまったことも数えきれない。  結婚して三年目に、Lさんははじめて父親の仕事のことを夫に話した。 「死刑は、だれが首に繩をかけるかを、もっと真剣に考えるべきだな。反抗できない弱い人間につけ込むなんてけしからんよ」  夫は、執行官の苦悩、屈辱に対して、Lさんと同じように怒ってくれた。うれしかった。 「死刑は、なくなってもらいたいです。死刑があるために傷つく人は多いのです。死刑になる死刑囚の家族、執行するものの家族も、暗いみじめな人生になってしまうのです。執行官が同じ人の子であることをわすれないでもらいたい、そう思っています」  Lさんの話しぶりは静かで、とてもおだやかで、ふつうの世間話をしているような調子だった。  それだけによけい、叫びとしてこちらにはこたえた。 「私だって、ふつうの家の娘だったら、こんな苦労の人生を求めたりはしなかったですよ」  せまいきたない家だが、ちょっと寄ってお茶でも飲んでいくようにとLさんはすすめてくれた。東京から野菜を買いに来る人がちょくちょく寄るから、父親は見ず知らずの客を不審に思うことはないという。夫は野菜をあちこち配達して、午後まで帰って来ない、ということだった。  父親に会うと、執行のことを聞きそうな気がする。残念だが、寄らずに失礼した。  Lさんはとうもろこしとトマト、キュウリを、おみやげに山のように持たしてくれた。  傷ついたLさんの思春期以降の心のように、ずっしりと重いおみやげだった。   大量の死刑確定者  最終回のこの原稿を書いている最中に、この年五人目の最高裁での上告棄却による死刑確定者のニュースが入った。その少し前、去る九月三十日に大阪拘置所で死刑の執行があったという報せも聞いた。執行は国会の解散や内閣改造の直前に行なわれることが多い。法務大臣が辞めぎわに執行命令書に印を押すことが多いからだ。だから死刑確定者は国会の解散や内閣改造に極めて神経質になるものだと聞いている。死刑囚にとっては、毎日が死の恐怖との戦いである。いつ「お迎え」が来るかと怯《おび》える時の連続。たとえ眠っていてもそれは休むときがない。  絵を描いたり、短歌の創作に励んだり、と、なにかに熱中することで、かろうじて発狂しそうな神経をおさえている、というのがじっさいである。  大阪拘置所に収容されていた死刑囚は六人であった。九月三十日の朝までは。そのうちの一人が、その朝か、あるいは三日前かに「言い渡し」を受け、処刑されたのである。昭和五十四年(一九七九)四月に死刑が確定して以来、八年五カ月間を死刑確定者として過ごしてきた。八年五カ月という歳月が、この死刑囚にとってどのような日々であったかは想像にあまりある思いがする。第一審裁判の大阪地裁尼崎支部では無期懲役の判決であったものが、検察側の控訴によって第二審、大阪高裁で死刑の判決、最高裁もこれを支持して確定していた。事件は五十一年(一九七六)の十二月、芦屋で起こった一家殺人である。享年は四十代前半。  残る五人の大阪拘置所の死刑囚の精神的動揺はまだおさまっていないことと思われる。  今年(六十二年〈一九八七〉)は近年になく最高裁での死刑確定者が多い。すでに五人が確定したが、まだ年内に何人かの確定が決まる雲行きだと聞いている。四月に帝銀事件の平沢死刑囚が、四十年間無実を叫びつづけながら、ついに獄死というかたちの人生の閉じかたをした。このときの衝撃は、法務大臣に執行命令の押印をはばからせるだろうと考えられるほどのものがあった。けれども、夏を過ぎ、秋を迎えると執行は行なわれてしまった。執行官を命じられた刑務官の人たちも、まさか今年は執行があろうとは考えていなかったのではあるまいか。秋の彼岸を過ぎたばかりの時期、刑壇に死刑囚を導くのはやりきれなかったことと思う。  こうした鬱《うつ》陶《とう》しいことがつづいたこの年、ひとつだけ、救われるような気持ちになるニュースもあった。島田事件の犯人とされて、死刑判決を受けていた赤堀政夫死刑囚の再審が三十年ぶりに開かれることになった。もし、すでに処刑されていたとしたら、犯人という汚名を着たままであったはずだ。  本稿では一度も書かなかったけれど、無実を叫ぶ死刑囚の執行は、とくにとくにやりきれない、と聞いた。  もし本人が言うとおり無実であったら、と考えると恐ろしくて、気が狂いそうな気持ちになる。たとえ無実でなくても、死刑の執行以外になにか方法がありそうだ。いったい矯正の余地がない人間というものが、本当にいるものなのでしょうか、と老いた元刑務官たちは一様に言っていた。  被害者の立場からいえば、憎くて殺してもあまりあるという気持ちが真実だろう。しかし、犯人が死刑の執行を受けたと聞いて、それですべてすっきりと終わったという気持ちになれるものではあるまい。事件として、裁判として、刑罰としてはケリがついたことになるのだろうが、人間の心というものは、そんなものではかたづくものではない。  長いあいだ連載をさせていただいた。不出来なレポートをお読みいただいた。死刑というものがあるために、そのかげで思うこともなかった人たちが傷つき、苦しんでいる実態を少しでも理解していただけただろうか。書いても書いても書き切れない思いで、つづけてきた十カ月間であった。ほんの少しでも刑務官の人たちの、執行官を命じられる人たちの苦悩をわかっていただけたらと思う。 第九章 連載は終わったものの 一通のパンフレット  連載が終わり、やっと死刑から開放されたやれやれと、ほっとひと息ついていた正月二十四日のことである。  この日、午後一時に私は文京区民センターに行っていた。というのは、救援連絡センターの菊池さよ子氏に、かねてから「死刑執行官の話をしてほしい」と依頼されていて、ついに断りきれずにこの日を迎えてしまったのだった。  菊池氏には、死刑の取材のときさんざんお世話になった。大切な資料を貸していただいたり、取材先の紹介をしていただいたり、困ったり行きづまったりのたびごと菊池氏を頼っていった。いつ行っても、こころよく、とても親切に人の紹介や資料のコピーをいただいた。  こんなわけで、菊池氏の依頼とあれば、断る理由が私のほうにはまったくない。けれども、得意なことはなにひとつなく、なにもかも不得意だらけの私であるが、人の前で話をするというのは苦手中の最上位である。 「私、商売はライターですけれどネ、文章はとってもへたなのよ。それでも、私の全能力中もっともうまいというか、なんとかやっていけることなので、やっているんです。でもごぞんじのとおりのざまですよ。それよりずっとずっと不得手な、人前で話をするなんて、ちょっと、困り果てますねえ」  と、くどくど言いわけをしたのだが、結局、どうにでもなりやがれ、という投げやり半分の気持ちで引き受けてしまった。  会場には、死刑確定囚のお母さん、死刑判決を受け上告中の被告人のお母さんなどの姿もあった。お二人とも、思っていたよりずっとお元気そうで、 「息子さんはお元気ですか」  と、たずねると、 「はい、おかげさまで」  と、にこやかに答えてくれた。  刑務官が、どんな心で、どんな態度で死刑囚と接しているのか、死刑囚の母親にとっては、大変気がかりなことと思う。私が会って話を聞いた人たちは、かなり以前の刑務官である。みんな心やさしい人ばかりだった。それが現在の刑務官にそのまま受け継がれているかどうか、それはわからない。しかし、刑務官も人の子である。人間である。人間であるからには、やはり人間らしい心を持ち、死刑囚という身の上の収容者の人たちに惻《そく》隠《いん》の情を持って接しているであろうことを信じたい。死刑囚もひとりの人格であることを尊重して接していると信じたい。  この席上で、「死刑囚処遇の実態」というパンフレットが配布された。副題に『「死刑執行人の苦悩と現実」に思う』とあった。書いたのは、ある死刑確定囚である。  その内容の一部をここに紹介させていただこうと思う。    死刑確定囚の感想  〈「創」といえば3月号から続いていた大塚さんの連載『死刑執行人の苦悩と現実』が遂に終わりました。死刑廃止を獄中から訴え、死刑制度ととりわけ死刑執行の実態を一人でも多くの人に知って貰《もら》いたいと希い続けてきたぼくらはこの10ヶ月間、この連載に熱いまなざしを注ぎ続けてきた訳ですが、そのテーマにつきまとうものの重さを思う時、何よりもまず大塚さんの御努力に敬意を表さねばと思います。そしてぼくらの期待した通りの大きな反響・支持の得られた事実を素直に喜ぶとともに新しい企画での更なる成功を希わずにいられません。   このレポートを読んで何よりも強く感じたのは隔世の感を禁じ得なかったということでした。それは単に書かれていることが古いという意味でなく、監獄という一つの社会とそこに住む人々の有り様という点についての思いです。はっきりいえば、今の監獄と刑務官からは大塚さんのレポートに語られている人間的思いやり、あるいは悪の道に迷いこんだ者を矯正して真の人間性を回復させるという刑務官としての誇り、責任といったものなど全く見えてこないし、感覚することもできないということです。  〓『死刑囚』の生きる望み   いつ〓“お迎え〓”がくるかも知れないという状況は昔も今も変わりませんが、死刑囚を包む日常は確実にしかも限り無く悪化しているのです。現在の死刑囚処遇に貫かれているのは、〓“死刑囚を少しでも早く処刑し易い状況に追込もう〓”ということでしかありません。見せない・会わせない・知らせない——社会との窓口を可能な限り遮断して死刑囚を孤立させる、生きる望みを持たせないようにして、処刑を早めたいのです。そこには、  〓“せめて、少しでも人間らしい心で、自己の死を受容する気持ちになって刑の執行を受けさせてやりたい〓”   という思いはありません。あるのは唯、執行する側の都合だけです。   といっても、現場の刑務官達がぼくらを殺したがっているということでないのは勿《もち》論《ろん》であり、そうした要請は上層部・権力者からのものです。権力を待つ者にとっては、それがたとえ無実の死刑囚であったとしても死刑判決の確定した死刑囚に生きる望みを持たれたり、無実や再審、死刑廃止などを訴えられたりしては困る。シャバに未練を残すことなくおとなしく死んでくれないと困るのです。無実を主張しながら執行されていった死刑囚は数えきれないほど沢山います。が、そうした事実も権力にとっては問題じゃないでしょう。彼らにとって問題というのは、免田さん・谷口さん・斎藤さん達のような『エン罪死刑囚』の存在が白日のもとにさらされることなのであり、従ってそうさせない政策こそが必要ということなのでしょう。そこにこそ死刑囚処遇劣悪化の要請が在るわけだし、過去の歴史もそれを証明しています。   死刑囚処遇は、監獄法9条に規定されているように刑事被告人と同様であることを基本とし、更に死を待つのみというその地位に鑑《かんが》みて優遇されてきました。   —政府おかかえの法学者であった故・小野清一郎氏でさえ、  「刑死を待つ者に対する人情を無視することは出来ず、また理論上も死刑確定者はその執行を待つだけであるから、拘置監に拘禁し、その処遇も原則として比較的自由な刑事被告人のそれに準ずる」  「刑死を待つものに対する立法上の抑止しがたい人情にもとづく『法の涙』による。それが死刑確定者に在監者中いわば最も高い法律的地位を認め、比較的自由な処遇を与えている趣旨であると思われる」(「監獄法」—小野清一郎氏・末川博氏編集—有斐閣)と書いています。   だから例えば居房内で小鳥を飼育したり、遮《しや》蔽《へい》物《ぶつ》のない部屋で時間制限も回数制限もなく面会できたりしていたのです。それが一九六三年に法務省矯正局長名で出された『死刑確定者の接見及び親書の発受について』(後掲)という一つの通達によって様相を一変させることになります。この通達は「死刑囚の心情の安定」を前面に押出すことによってそれまでの処遇に大幅な制限を加え、死刑囚を心身両面に於《お》いて孤立させ、再審や死刑廃止を求める死刑囚の声を封じこめようとするとともに執行を早めようとの意図のもとになされたもので、法の精神を無視し、政策目的に合せるべく曲解しているあたりにその露骨さが顕著です。   そうした状況を生じさせた背景としてあったのは一九五○年代に相次いだ死刑囚の闘い、即ち免田さんや平沢さん、谷口さんらの再審請求や孫斗八さん、松下今朝敏さんらの獄中訴訟、更に死刑廃止法案の国会提出など、様々な動きに触発されて盛上がりをみせた死刑廃止運動の高まりであり、それに対する権力の危機感でありました。   いずれにしろ、この通達によって死刑囚はその生活圏の縮小を余儀なくされてきたわけですが、この通達は20年間も公表されることなく密《ひそ》かに処遇実態として強化され続けてきたのです。そればかりか、今も尚死刑確定囚の生ずる都度、その網は狭められ続けています。だから例えば「島田事件」の赤堀さんのように、一日5回、一回2人ずつ、つまり一日10人の人間と面会できていた(静岡移送前の宮城時代。これも以前より制限されての状況)人もいれば85年に確定したKさんのように養子縁組した養父母らとの面会さえ認められていない死刑囚もいるのです。  〓『社会意識』を反映させられた刑務官   今、世界の各地で死刑廃止国が生れ国内でも死刑廃止運動が再度の高揚をみせる時、前記『通達』の延長線上にその意図の帰着点として監獄二法の改悪がある訳ですが、  〓“法案の提出されるとき、現場では大きく先行されているのが日本の実態である〓”  と言われるごとく、前国会でも継続審議となった「刑事施設法案」の中の『死刑囚処遇』では先取りされている数多くの実態を追認するばかりでなく、更なる強化がなされているようです。 -------------------------------------------------------------------------------   ビンセン3枚半(約42字×54行)スミ塗り -------------------------------------------------------------------------------   多くの監獄を知っている(救援連絡センターの)Kさんが以前、  「昔の刑務官は、もっと厳しくても人情味があったと言われます。又、同じ監獄でも東拘(東京拘置所)のように規模の大きなところほど刑務官を含む全てが事務的・官僚的になり、小さな刑務所・拘置所で感じられる人情味は消滅してしまうようです」   と言っていましたが、管理化が進むにつれ獄中者に人間として接する面が弱くなったということでしょうか。私情というか人間的思いを職務にさしはさむ余地はない。というよりも、人間的に向き合おうとすれば疲れてしまう。だから差別・抑圧せざるを得ないのでしょう。それでいて囚人を抑圧することに罪悪感、いや、もっと自然な人間としての当然の恥ずかしささえ自覚できない……。自覚していながら日常の厳しさに圧迫されて、よく考えるだけの余裕を持てないのかも知れません。あるいは自分一人の非力に絶望しているのかも……。動物を扱うような叱《しつ》責《せき》や管理という非人間的行為が、それを強いられる側だけでなく強いる側の人間性も蝕んでいくのは当然すぎることでしょう。   新人看守の配置される時期、M君が、  「横柄な態度の刑務官が多く喧《けん》嘩《か》ばかりしているよ」   といっていましたが、確かに新人看守は一味も二味も違います。見ていると実によく分るのですが、現場に配置されたばかりの彼らの獄中者に対する視線は、人間を見る普通のそれとは明らかに違うのです。一応の刑務官教育は受けているのでしょうが、自分たちと同じ「人間」というのではなく、自分たちとは全く違う「犯罪者」なんだ、といった意識が強いのでしょう、斜に構えてしまうのですね。そうした視線・表情が時の経過とともに軟らかくなっていくのを見るとホッとするのですが、残念ながら、そして恐ろしいことに中には、全く変わらない人もいるのですね。変わることを許さないものが監獄に根付いているのかも知れませんが、それはやはり刑務官になるまでの生き方と体験によるもの、つまり、それこそが偽らざる社会意識なのであり、少数弱者とくに異端者である囚人への抑圧と偏見の極めて強い日本の文化性なのだと思います。   刑務官の中には好感の持てる人も少なくありません。が、時として、そうした人達の中にさえ言葉や表情の肌ざわりの上でも別人のような隔たりのあることを発見し、職業というものの生じさせる恐ろしい自己防衛本能(監獄の場合特に強いのでしょうが)について、考えさせられることがあります。それでもまだ、そういう人達は良い方です。中には掃夫(受刑者=彼らは絶対服従です)には当たり散らし、獄中者に対しては常に蔑《べつ》視《し》的・敵対的な言動をとる(建前をかなぐり捨てて本音で接しているにすぎない! と言うべきでしょうか?)刑務官もいて、ぼくは〓“この人は自分の家庭でもこうなのだろうか〓”〓“これで果たして気持ちの安らぐ時があるのだろうか〓”と見ていて心配する程です。  (大塚さんのレポートで彼らの持つ苦悩の存在を知ったことによって彼らの日常すべてに対する視野の拡がりを確実に自覚してはいるのですが、それでも尚こうした思いを抱かざるを得ない)   そうした中の一人とぼくは何度も衝突したことがあります。昨年の2月12日にもそういうことがありましてね。そのとき彼は「こちらにも考えがある。おぼえていろ」と言ったので、なにかやられるかも知れないなと予測していたところ、会計課の職員である彼に、郵送されてきたパンフ類の告知を部分的に手抜きされました。郵送されてきた旨の告知を受けて初めて交付申請のとれるシステムになっている以上、告知をストップされたんじゃ全くのお手あげですからね、ひどい話です。そういう事態の予測は出来ていたし、告知を止められているパンフの見当もついていたのですが、口頭弁論を控えた忙しい時期でもあり、ほっておいたのですが3月19日(口弁の日)に、はち合わせしたエレベーターの中で再び衝突しましてね。で、腹が立って仕様がないので上の職員に事情を説明したところ、一時間もたたないうちに、告知洩《も》れになっていた(既に一ヶ月以上)パンフ類を持参した本人が来室しその存在を初めて知らされました。  (告知を忘れられたことは過去にも3度あった。1・2回目は僕から直接の指摘、3回目は不審に思ったぼくが問い合わせの手紙を救援センターに発信したことから発覚したのですが、2・3回目ははっきり謝罪したものの、1回目など自分たちのミスは棚に上げて、開き直る程の傍若無人ぶりでしてね。差入れ物のあった事実を獄中者に伝え忘れるということがどれほど重大な失態なのかさえ理解できてないような刑務官のオソマツさに呆《あき》れたものでした)   獄中者に差入れられたものを差入れられた事実を隠すことによって、事実上交付しないということがとんでもない行為であることは言うまでもありませんが、こうした行為が単に刑務官の人間性から生じているとは思えませんね。幸いなことに、その後彼とは親しくなったというのではないけれど、お互いが笑顔で接するようになっています。   79〜84年までの6年間に毎年1名だった死刑執行数が85年に『3名』に増えた時、その3枚の執行命令書にサインした当時の法務大臣嶋崎均について参議院議員で法務委員会のメンバーでもあったNさんの語った、  「職務に対して、とても真《ま》面《じ》目《め》な人なんです」   という言葉が妙に心に残っているのですが、仕事に忠実であることが人を殺したり抑圧することになる……それが結果的なことであるとはいえ、おかしな話です。   権力というのは、それがたとえ小さなものであったとしてもそれを持つ人間の心を変え易いものです。強者の論理に貫かれている現社会の価値観や、力こそ正義・現実こそ正しいといういわゆる〓“長いものには巻かれろ〓”といったこの国の民族性もあります。  (少数弱者どころか下請け業界労働者という圧倒的多数弱者もお上から弾圧されるほど従順になるという不気味な国民性からすれば、今日本が国際経済力で世界一であることは当り前です!)   力のあるものこそ善である—との思想から形成される社会は、能率や効率を重視する差別・選別社会でしかなく、その構造の中に自分の身を処せられる人にとっての生き易い社会でしかありません。   そうした構造に最も確実に、そして苛《か》烈《れつ》に貫かれているのが監獄であり、しかもそれが剥《む》き出しであるだけに、そこに生きねばならない刑務官の日常は大変であろうと思います。圧し寄せてくる厳しい重圧と、職務を遂行することが自己の人間性を傷つけたり喪失することになるといった自覚(人によって強弱はあろうが)とのはざまの中で、体制のパーツとして安住するのか、あるいは自己破壊かの選択を迫られ、人間として苦悩し(ていると信じたい)、揺れ動きながらも結局は前者の生き方を選ぶ、選ばざるを得ないというのが刑務官の現状なのではないかとぼくは思います〉  たいへん長い紹介をしたが、この文章で現在の死刑囚のおかれている立場が、たいへんよく理解いただけると思う。そしてまた、刑務官が、上意下達によって服務しなくてはならないのだということも、おわかりになることだろう。  死刑囚の処遇をきびしくするということは、刑務官に人間らしい心を持つことは禁じていることになりはしないか。  とても残念なことである。      引用文中に、一九六三年(昭和三十八)に法務省矯正局長名で出された「通達」が、死刑囚処遇の様相を一変させた、とある。    この「通達」は、監獄法第九条の「準用規定」に対する法務省=国側の「解釈」を示したものである。第九条では、死刑の言い渡しを受けた者の取扱いも定められている。国が、死刑確定囚をどう扱おうとしているのか、そして、法を正しく読みこなしているのか、読みにくい文章だが全文掲載しておくので、読者各々が判断していただきたい。      監獄法第九条(準用規定)    本法中別段の規定あるものを除く外刑事被告人に適用す可き規定は拘禁許可状、仮拘禁許可状又は拘禁状に依り監獄に拘禁したる者、引致状に依り監獄に留置したる者、監置に処せられたる者及び死刑の言渡を受けたる者に之を準用し懲役囚に適用す可き規定は労役場留置の言渡を受けたるものに之を準用す但第三十五条の規定は監置に処せられたる者に之を準用せず(注・ゴシック編集部)    同第九章第四十五条(接見)    〓在監者に接見せんことを請う者あるときは之を許す    〓受刑者及び監置に処せられたる者には其親族に非ざる者と接見を為さしむることを得ず但特に必要ありと認むる場合は此限りに在らず      第四十六条(信書の発受)    〓在監者には信書を発し又は之を受くることを許す    〓受刑者及び監置に処せられたる者には其親族に非ざる者と信書の発受を為さしむることを得ず但特に必要ありと認める場合は此限りに在らず     [法務省矯正甲第九六号]昭和三十八年(一九六三)三月十五日    死刑確定者の接見及び信書の発受について    接見および信書に関する監獄法第九章の規定は、在監者一般につき、接見及び信書の発受の許されることを認めているが、これは在監者の接見及び信書の発受を無制限に許すことを認めた趣旨ではなく、条理上各種の在監者につきそれぞれその拘禁の目的に応じてその制限の行われるべきことを基本的な趣旨としているものと解すべきである。    ところで、死刑確定者には監獄法上被告人に関する特別の規定が存する場合、その準用があるものとされているものの、接見又は信書の発受については、同法上被告人に関する特別の規定は存在せず、かつこの点に関する限り、刑事訴訟法上当事者たる地位を有する被告人とは全くその性格を異にするものというべきであるから、その制限は専らこれを監獄に拘置する目的に照らして行われるべきものと考えられる。    いうまでもなく、死刑確定者は死刑判決の確定力の効果として、その執行を確保するために拘置され、一般社会とは厳に隔離されるべきものであり、拘置所等における身柄の確保及び社会不安の防止等の見地からする交通の制約は、その当然に受忍すべき義務であるとしなければならない。更に拘置中、死刑確定者が罪を自覚し、精神の安定裡《り》に死刑の執行を受けることとなるよう配慮さるべきことは刑政上当然の要請であるから、その処遇に当たり、心情の安定を害するおそれのある交通も、また、制約されなければならないところである。    よって、死刑確定者の接見及び信書の発受につきその許否を判断するに当たって、左記に該当する場合は、概ね許可を与えないことが相当と思料されるので、右趣旨に則り自今その取扱いに遺《い》憾《かん》なきを期せられたい。    右命によって通達する。        記   一、本人の身柄の確保を阻害し又は社会一般に不安の念を抱かせるおそれのある場合   二、本人の心情の安定を害するおそれのある場合   三、その他施設の管理運営上支障を生ずる場合 あとがき  一九七六(昭和五一)年六月十五日。私はこの日を忘れられない。この日から死刑の実態を知ろうとして、苦労の道へ踏みこんだのである。当時私は三十四歳で、いくつになっても肉体は疲労したり困《こん》憊《ぱい》したりなどしないものだと思っていた。  この年の六月十五日は、小学校六年のとき、私と同じクラスにいた男の子が、北九州の飯塚市で一家四人を刺殺したとして逮捕された日である。  その男の子とは私は口をきいたことはなかった。いつからどこに住んで、なにが家業で、ということもいっさい知らなかった。  ただ、ちいさい体格であること、妹だか弟だかをおんぶして学校に来たこと、母親の薬をもらいに学校近くの医院によく行っていたことぐらいは知っていた。  私の家は大分県のちいさな町に終戦後は落ち着いたので、その男の子と出会ったのも、やはりそのちいさな町であった。  ちいさな町だけに、戦争の痛手というものもあまり感じられず(とはいえ戦死者や寺の鐘がなくなったのは他と同じ)、一九五三、五四(昭和二八、二九)年には、復興のようすが見られたと思う。  ところが、そのちいさな男の子には、復興のよろこびが伴わなかった。気の毒な子、という印象を受けていた。  やがて一年が過ぎ、卒業というときになって、男の子が私のところへやって来て、 「大塚 さん、サインをしてくれませんか」  という。見ればサイン帳を広げて、私がサインすべき場所をあけてある。私はサインはしたのだが、何か言葉を書いたかどうか覚えていない。  それから何十年ぶりかで、ニュースで見るまで、その子のことはすっかり忘れていた。そして日本に死刑という刑罰が、まだあったことさえ知らずにいた。  午後のニュースで見た限りでは、六月十四日に起した事件らしく、現場風景と下着姿でつかまった男は、まさしくあの気の毒な男の子であった。  結局、あんな事件を起すところまで行きついてしまったのか、という思いと、小学校卒業以来ずっと幸福とは縁がなかったのだろうな、という思いとがせわしく私の裡《うち》で交錯しあった。  事件の内容は、復縁話のこじれを恨み、内縁の妻の実家におしかけて、家人四人を刺殺したとテレビのニュースは伝えた。  それから私は、週刊誌等雑誌の仕事をやめ、単行本のゴーストをやったり、テレビドラマの取材をしたりして、時間をつくって死刑を追いかけはじめた。  どっちを向いて走ったらいいのか、皆目見当がつかない。死刑に関する本は何冊かは出ていたが、私が知りたいことについては、なにひとつ答えてはくれない。要するに役に立たないものばかりだった。  読売新聞社(大阪)の司法記者だった澤田東洋男さんに何度も電話をし、いろいろとお世話になった。そして、なにも恩返しも出来ないうちに不帰の人となられた。澤田さんに紹介していただいた元刑務官の多くの方たちも鬼籍に入られ、大げさではなく、ひとつの時代が終った感じがする。  私の同級生は、いま福岡拘置所で最高裁に上告中だが、おそらく他の、四人以上殺した人たちと同じになるのだろう。  一九八九年に、国連で死刑廃止条約が採決され、日本はこれに批准しなかった。が、批准国は国連の定める十カ国になり、九一年七月十一日をもって、国連の条約として、死刑廃止条約は発効となった。  四年になんなんとする歳月を、死刑の執行がなかったからといってなんとはなしに死刑執行はもうないという気持ちになっていた私には、一九九三年三月二十六日(金曜)の大阪拘置所で二人、仙台拘置支所で一人の計三人が執行されたという報せは冷水を浴びせられたような驚きと、衝撃で、しばらくは言葉が出て来ないほどだった。  報せは夜十時ごろ電話で入って来た。大阪の新聞社からだった。このときは仙台拘置支所の数は入ってなかったが、それでも二名もの生命は刑場の露となり、何人もの刑務官の人たちはこれから先の人生を、思いがけない汚れた暗いものにして生きるだろう。  法務大臣の仕事は、死刑執行命令書に印を押すことだとは、だれも思っていないのではないか。  後藤田法務大臣は、死刑を執行した二、三日後に参議院法務委員会で、 「法務大臣が個人的な思想、信条で(死刑執行命令を)しないとなれば、初めから大臣就任が間違い。裁判所に重い役割を担わせ、行政側の法相が執行しなくては法秩序、国家の基が揺らぐ。(執行命令の起案書は)詳細に精査して、私のところに上がってくる。私も精査のうえに精査し、間違いないとなれば裁決(署名)するのが職務だ」(朝日新聞)  と自らの見解を明らかにした。テレビのニュースでも放送したので、私は夜と朝との二度も耳にし読んだわけだ。過去三年四か月の間、法務大臣が死刑執行命令書に印を押さなかった(長谷川信、梶山静六、左藤恵、田原隆)。けれども、そうでしょうとも、という気にはなれない。  精査の上にも精査して、間違いないとなったら裁決する、というのでは政治家である必要はないのではないか。  真の政治家というのは、個人的な思想、信条をつらぬく人のことをいうのではないのか。私は、左藤恵さんのように、自らの思想、信条をつらぬいた人こそ法務大臣にふさわしい人物だと思った。もし、それがいけないというのなら、総理大臣が在任中にでも法務大臣にふさわしくないといって、代りを立てるべきだったと思う。 「総理府の世論調査では国民の大部分が死刑制度を存置するという考え方だ。国民には応報的な考えが多く、被害者の立場をどう考えるかが多くの人の常識として残っているのではないかと考える」  法務大臣は参議院法務委員会でこうも答弁している。  しかし、この総理府のアンケートというものは、お気の毒ながら法務大臣としては認識不足というべきだと思う。まずアンケートをとった時期が悪い。これは、たしか宮崎勤事件の直後に行なわれたもので、例えば現在(一九九三年五月)のようにとくに凶悪と呼ばれる事件のない時であれば、答えはグンとちがってくるはずである。それと同時に設問のまずさ。こういう答えがほしいという、回答のための設問では意味をなさない。  こんなアンケートを信じて法務を行なうのであれば、たとえ殺人犯であったとしても、そのしてきた事を素直に認める気にはならないのではあるまいか。  交通事故で何人殺そうと、「あいつを死刑にしろ〓」と叫ばないのはなぜなのか。  殺意がなかったからではない、交通事故では死刑にならないと知っているからである。それには賠償金という大きな役割もある。殺人事件にも交通事故なみに賠償金が支払われたら、もっと死刑に対しての考え方がちがってくるのではないのか、と思う。日本は金持ちだと世界中からいわれ、事実その通りであり、それもこれも国民が汗と油にまみれての結果である。死刑囚を終身囚とか無期囚とか、名前はどうであれ、生命を助けるために賠償制度の見直しをする余裕はあるはずである。交通事故の方法にならってでも、なんとか方法が考えられないものか。  一九八八年にはマリエッタ・イエガーさんが、そして一九九二年はドロシア・モアフィールドさんという二人のアメリカ人女性が日本を訪れた。  二人とも肉親を誘拐され殺された被害者である。わが子を殺された母親が、死刑をなくそうと世界中に呼びかけ、講演して歩いているのである。  マリエッタ・イエガーさんには、日本アムネスティの依頼で講演の翌日直接お会いして、対談をした。  心にやきついている印象は、 「くる日もくる日も悲しみと犯人を憎む気持でいっぱいだった。だが、ある時ふっと思ったんです。娘がこの悲嘆に暮れ、憎悪にもえる私の姿を見てよろこぶだろうか。決してよろこびはすまい、いつも嘆いている私よりも、明るく幸福な私のほうをきっと娘は見たいはずだ……」  こう気がついて、心を入れかえました。といった一言は、あれから五年に近い年月とともにますます美しく、光り輝き、人間というものはこうありたいものだと思う。  マリエッタ・イエガーさんの末娘が誘拐されたのは七歳だった。可愛い盛りだったろうと思う。それでも、イエガーさんは考えかたをあらため、犯人が自分の娘を誘拐し、殺さなければならなかった事情を理解する。そしてさらに、助命嘆願書を州警察、合衆国警察などに出して、ついに死刑から終身刑へと犯人の生命をつなぐ。が、犯人は自らの罪を恥じ、獄中自殺をとげてしまう。  この話の間中、イエガーさんは、何度も、生きてほしい、生きてほしかったから、といった。  生命というものは、本当に尊いものだ。  どんな生命も、生きている限り生きるべきだと思う。 一九九三年五月二十五日本書は、一九八八年六月に創出版より単行本として刊行されました。 死《し》刑《けい》執《しつ》行《こう》人《にん》の苦《く》悩《のう》  大《おお》塚《つか》公《きみ》子《こ》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年11月9日 発行 発行者 角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Kimiko OTSUKA 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『死刑執行人の苦悩』平成 5年 7月10日初版発行               平成 9年 4月 1 日16版発行